[#表紙(表紙.jpg)] 大都会 森村誠一 目 次  白馬岳|不帰《かえらず》の嶮  東京——二ヵ月後  名古屋——二ヵ月後  大阪——二ヵ月後  冷たい真空管  破片《かけら》の人間  生存条件  エリートの巣  ビジネスの笑い  種馬の復讐  非常空間  水の砂城  薬と蛆《うじ》と肉と  鳶《とんび》と油揚げ  宿泊確認書  牝《めす》 商《しよう》  サヤ稼ぎ  錆びた管  黒い陽炎《かげろう》  旧き山仲間の唄  駄獣の涙  樹冠炎  コルサコフ症状群  安曇野《あずみの》  死魚の眼  老巨怪  虚《うつろ》な花嫁  商法第三百四十三条  絶対的必要受け応え事項  赤いピッケル  虚無への招待主 [#改ページ]  白馬岳|不帰《かえらず》の嶮  昭和三十×年二月十四日、北アルプス、白馬岳、不帰《かえらず》第二峰の頂に三人の登山者の姿が立った。  二月といえば北アルプスは厳冬期である。黒部渓谷の深淵から吹き上げる烈風は、三人の立つ雪と氷の尖峰をけずり、抜けるように研ぎすまされた空の蒼さの中に、白い炎のような雪煙を巻き上げていた。  長い困難な径を辛抱強くピッケルを振り、ザイルという山仲間の友情の結晶に結ばれて、ようやく立った蒼空の中の小さな一点は、三人が辛うじて身を置けるだけのわずかな空間であり、息もつけぬような烈風の吹き荒ぶ舞台であったが、雪煙の合間にかいま見える氷雪に鎧われた中部山岳の連峰は、彼らの忍苦と費消された青春のエネルギーに充分、値するだけの壮麗なパノラマをくり広げてくれた。  三人——の若者は、もはやこれ以上登るべき傾斜がないのを知ると、初めてそこが頂上であることに気がついたように、アルピニストのすべてが登頂の瞬間に示す、ややとまどったような表情で互いの顔を見合った。  次に三人が為すべきことは、ザイルも解かず、垂直の氷壁との苦闘に息も絶え絶えになった身体を、ひとまず頂稜の岩角にもたせかけ、しばらく呼吸を調えることであった。  悦びはその後に突き上げるようにきた。  彼らは、仲間の一人がアノラックのポケットから取り出したくしゃくしゃのピースを廻し喫《の》みし、それからゆっくりとザイルを解いた。  氷壁に彼らの生命のきざはしを刻んでくれた三本のピッケルは、一束にまとめられて岩角によせられた。 「とうとう来たな」  若者の一人が呟いた。痩せているが、針金のように鋭く強じんな感じのする青年であった。 「四年越しの夢だった」  もう一人の仲間が答えた。これはやや小柄で、丸々とした顔をしているが、眼の色がいやに熱っぽい若者である。 「しかし、一番大物がまだ残っている」  三人目がつけ加えた。丁度、前の二人の中間をいくくらいの背格好と、肉づきであるが、瞳と唇の薄いのが特徴である。  彼らは発言順に岩村元信、渋谷夏雄、花岡進、いずれも東京、帝都大学山岳部員であり、日本山岳界でも尖鋭をもって知られる名うての若手クライマーであった。  彼らが今、身を寄せ合っている風雪の中の虚空の一角は、北アルプスと通称される中部山岳国立公園の山群の中でも、長野、富山北部の県境を屏風のように仕切る後立山連峰の盟主、白馬岳の一隅である。正確には白馬岳と五竜岳の中間に位する不帰の嶮と呼ばれる、黒雲母花崗岩よりなる尖峰群の一つであった。  名前からも容易に想像されるように、その凄絶さは北アルプスでも有数のものである。逆層の脆い岩と、冬期も雪をつけないような|かぶり《オーバーハング》気味の岩壁は、精強なパーティの挑戦を幾度も斥け、現に彼らが踏破して来た第二峰東壁も、初|登攀《とうはん》であった。  彼ら三人は中学時代より山にとり憑かれ、山に登りたいがために、伝統ある山岳部をもつ帝都大学へ入った。そして在学中の四年間、彼らの青春の舞台として、未踏の岩壁や、ルートをいくつか残す不帰の嶮の尖峰群を選んだのであった。  初登攀はアルピニストの見果てぬ夢である。未だ人の足跡のないルートや岩壁を攀じて、蒼い虚空の一角に初めてのケルンを築く。  高燥な大気や横なぐりの風雪、あるいは肌を灼く陽の光に身体を晒しながら、生命の危険を賭しても、未知の空間に自分の身体を運んで行く。  血を吐くほどの苦闘と、息も絶え絶えになるほどの作業の後に辿り着くべき空間は、およそ人間の生存に適さない荒涼の世界なのだ。  しかし、それでもその魅力に憑かれた若者達は雪渓を渡り、ハイマツを泳ぎ、霧に噎《むせ》び、風雪に晒され、氷壁を攀じてやって来る。  不帰の嶮をめぐる尖峰群は、帝都大学山岳部の課題の山域であり、これらのバリエイションルートのほとんどすべては、彼ら山岳部の夏、冬期合宿において登られてしまったのである。  不帰をめぐる主要な峰は一峰、二峰、三峰と名づけられ、彼ら三人が今踏みしめた山頂こそ、最大高距三百メートル、日本の岩場でも第一級にランクされる、岩壁に鎧われた第二峰である。  正確には不帰第二峰東壁、この垂直の岩壁こそ彼らが青春の舞台として選んだルートであり、卒業を目前にして遂にその初登攀を為し遂げたのであった。  彼らの周囲には、彼らが青春の情熱を傾けて踏破した中部山岳の山脈が広がっている。遠く槍穂高の稜線から続く、針木、鹿島槍、五竜岳の連嶺、眼前には黒部渓谷を隔てて、剣立山の鋸歯状のスカイライン、そして手の届くばかりの身の周囲には、自ら誇らかにパイオニアたることを自負しながら指呼できる、不帰尖峰群の無数の壁やルンゼ——。  いずれも雪と氷に冷たく武装された氷塔のような山塊が、雪煙の合間に陽の光をうけてきらめくのだ。  しかし、彼らの眼前にはあと一つ、彼らが立つ頂よりもう一歩高く嶮しい岩峰が、高距四百メートルのほとんど登攀不可能と目されるような、嶮絶極まりない垂壁に鎧われて傲然と聳え立っていた。  豪快な雪壁は、上部においてヒマラヤひだを作り、絶え間なく雪崩《なだれ》を落としている。特に頂上直下が悪く、逆層のオーバーハングは雪もつけず、陰惨な黒い岩肌を露出した岩壁は、落石と岩なだれの巣となっている。  それこそ、帝都大をはじめとする幾多の、優秀なパーティの挑戦を頑として拒《は》ねつけ、依然として人の踏み跡を許さない不帰第一峰、北壁である。  もちろん、彼ら三人も、この壁の初登攀に胸を熱くした。しかし、遂に北壁は陥ちなかった。  彼らばかりでなく、他のいかなるアルピニストに対しても、頑にその登路を閉し、稀に頂に迫まる者があれば、容赦なく雪崩と落石を浴びせて、純白の雪壁を若者の血の色で染めた。度重なる犠牲者に、地元の長野県では不帰第一峰北壁の登山禁止条例を県会に提出したほどであった。  この条例は登山を法律で禁止するのは行き過ぎであるとする岳界の、総すかんにあって遂に通過しなかったが、不帰一峰の悪名は、そのためにかえって日本中に喧伝され、犠牲者の数は条例発議以前よりも増大するという皮肉な結果になってしまった。  ——しかし、一番大物がまだ残っている——  と花岡進が言ったのは正にその第一北壁のことであり、彼らの青春の情熱のすべてを傾け尽くしても尚、至ることの出来ぬ天空の一角に寄せる限りなき愛惜といつの日か必ずおのれらの力でもって登ってみせるという、若者特有の熱い執念がこめられていた。 「この山行きを最後に俺たちの学生生活は終る」  岩村がふたたび口を開いた。 「山を下れば岩村は東京に、花岡は大阪へ、そしてこの俺は名古屋へ行く。今解いたザイルはいつの日にふたたび結ぶことができるかな?」  渋谷がやや感傷的に言った。 「なに、その日はすぐに来るさ。申し合わせて休暇を取り、今度は一峰をやるんだ」  花岡が力強く言った。 「四年間……」  岩村が感慨深そうに言った。 「俺達三人は常に一緒だった。今、登った第二峰東壁も、鹿島槍北壁中央ルンゼも、穂高滝谷の各ルートもいつもザイルを結び合った。俺達の誰か一人欠けても、心細くて登れないほどに、息の合ったパーティだったな」 「そのザイルをこの頂で解いて、俺達は各々の就職先がある三つの都市に向かって三方に下る。山で出逢った山仲間が山で別れる。それが山仲間にふさわしい別れ方だと思ったからだ」  と花岡。 「明日からは全く別の世界が俺達を待っている。身分までが変ってしまう。しかし、俺達がどんな世界に下りて行き、どんな生活を送ろうと、俺達が帝都大山岳部でつちかった友情は忘れまいな」  渋谷が一語一語区切るように言った。 「忘れるものか」  岩村と花岡が声を合わせて、 「実社会がどんなに酷《きび》しい所であろうと、俺達がアルプスで命を賭して分かち合った青春を蝕むことはできない。だてや酔狂でザイルを組んで氷壁を登ったわけじゃねえからな」  三人はがしっと手を握り合った。荒れてザラザラとした男の握手だった。  これら三人の山仲間は学生生活最後の想い出を残すために、不帰第二峰東壁の積雪期初登攀を志し、今、首尾よく宿願を達成した瞬間であった。  山頂でザイルを解き、各々の就職先が待つ三つの大都会に向かって三方に別れ下る。  若者にありがちな感傷とロマンティシズムをこめた別離であったが、彼らはそれをアルピニストにふさわしい別れであると信じていた。  いったん晴れ間をみせた空がふたたびガスを巻き始めた。身を刺す寒風が足もとから小さな雪煙を吹き上げ、山肌にあたってさらに大きな雪煙を誘ってゆく。  そろそろ下らなければならない時間である。名残りは尽きなくとも、寒気と天候は容赦なく三人を駆り立てている。 「そろそろ行くか」 「じゃあ、気をつけてな」 「おたがいにな」  三人はもう一度手を握り合い、たがいの目をじっと覗きこんだ。いずれも男らしく窶《やつ》れたアルピニストの顔だ。 「今度ザイルを結ぶ時は第一峰だ」 「その日まで元気でな」 「じゃあ、行くぜ」  三人は思い切りよく手を離した。三人の間にできた空間をさらに大きくするように風がうなりをたてて通り過ぎた。  三人の山仲間は別れた。  それは彼らがすごした豊麗な青春と清らかな友情への訣別であると同時に、これから独力で生活の資を得なければならない実社会へのスタートでもあった。  東京、大阪、名古屋——雪煙と強風の山頂から三つの大都会へ向かって別れ下る三人のアルピニスト。雪煙の合間に遠望されるサファイア色の遠い平原の彼方に、三人の新しい生活があるはずであった。  それがどんなものか、彼らは全く知らなかったが、過去幾多の峰に自ら求めて、悪絶なルートをきり拓《ひら》いた彼らは、青春の野放図さから、むしろ生き生きとして三つの大都会へ下り立つためのステップを切るのであった。 [#改ページ]  東京——二ヵ月後 「どうだ? 少しはよさそうなのが漁《と》れたか?」  広壮な社長室のソファーにゆったりと腰を下した盛川達之介は、葉巻の灰を銀製の灰皿の中に落としながら言った。 「は、指定校から推薦された学生達だけに受験資格を与え、学力、面接試験共に、一定以上の点数を取った者ばかりを四十人ほど。例年通りでございます」  人事部長の磯原が小腰をかがめながら答えた。 「四十人か……去年より少し多いな」  盛川は上瞼の重そうな目を磯原に向けた。 「はい、本年は家電事業部を拡張いたしますので、その補充の意味もございます」  磯原が揉手をした。新入社員を例年より多く採ったことを咎められたと思ったらしい。もともと、新規採用の人数は盛川が決めたことで、磯原が独断でやったのではないのだが、盛川はよく自分の出した命令を忘れるくせがあったのである。  尊大なワンマン社長によくあるように、すべての命令を自分が発し、その結果が自分の意図したものに超近似値的[#「超近似値的」に傍点]に一致していなければ気にくわなかった。  自分から出した命令でありながら、結果が自分の意図と異なる時は、実に都合よく自分が発令者であったことを忘れ、本気になって怒る。  大企業の社長にあるまじき悪癖であったが、盛川の場合はそれで通った。電気産業界の雄、菱井電業の今日の大は、盛川のこのあく[#「あく」に傍点]の強さと強引な商法に負うところが大きかったからである。  今も、—— 〈誰がそんなに大勢、採れと言ったか!?〉  と怒鳴りつけられるのではないかと磯原人事部長はヒヤリとしたものだ。  しかし、今日の盛川は、自分の命令を忘れていなかった。 「よし、そのうちから五人、いつものように適当に[#「適当に」に傍点]選び出して、今週の日曜日、儂《わし》の邸へこさせろ」 「はっ、かしこまりました」  磯原部長は最敬礼をした。  千代田区竹平町のパレスサイドにある菱井電業株式会社、本社屋の社長室でのあるひと時の会話である。  田園調布の高級住宅街の日曜の午さがりは、町全体が午睡をしているようなものうい静けさに包まれていた。  五月晴れの眩しい空に、風も死んで、すでに夏の陽差しを思わせる強い光が溢れる空間に、鯉幟《こいのぼり》も眠ったように垂れ下がっていた。  遠くで犬の吠えているのがよけい眠気をそそるようである。  しかし、この静かな町に、全く別の世界のような生き生きとした一角があった。  広壮な邸宅群の中でも、ひときわ見事な、樹木というよりは、森に囲まれたといった方が正確な大邸宅の応接室に、若い五人の青年が彼らの若さを象徴するような、生きのいい話題を弾ませていた。  緋のペルシャ絨毯の上のマホガニーの円卓を囲んで五つの深々としたソファー、庭の緑に点々と映えるのは、紅がほのかに混じる豊麗な白牡丹の簇《むら》がりである。  打ち水の爽かな庭石を踏んで表に廻れば、大理石の大きな表札には、盛川達之介と彫《ほ》られてあるはずであった。  言うまでもなく五人は、盛川社長の指示により、磯原部長から選ばれた青年であった。 「四十人の学卒新入社員の中で、俺達五人だけが選ばれて、今日社長邸に招ばれた。この意味が分っているか?」  F大出身の早川修造が興奮したおももちで言った。 「そんなこと、菱井電業の�基礎知識�じゃないか」  努めて感情を圧し殺すような口調で答えたのは、M学院から来た佐藤文男である。だが、彼の顔も選ばれた者の喜悦を隠しきれなかった。 「俺は嬉しい」  卒直に自分の感情を表白したのが、K大出の野沢明だ。 「俺の家は東北の水呑み百姓だ。喰うや喰わずの生活の中から、俺を大学へやってくれたのは、一日も早く一流会社に就職して出世してもらいたかったからだ。君ら都会者には分らんだろうが、俺のような田舎者には一家のいや、一村の期待と夢が賭けられている。アルバイトに明け暮れながらも必死に勉強して、優秀な学業成績を得ようとしたのも、一流会社の入社試験受験資格を得たかったからさ。おかげで俺は首尾よく、一流企業と自他共に目される菱井電業に入社できた。そして、今、また、将来の幹部候補生の条件としてすでに慣習化されている、新入社員の社長邸招待の栄誉に浴したんだ。俺は本当に嬉しい」  いかにも、東北出身者らしい丸々とした頬に少年のような喜びの紅潮がある。  単純で、人の善い男らしい。 「いずれにせよ、俺達五人は幹部候補として選ばれたわけだ。これからはあらゆる面で他の新入社員とは区別される。ジェラシーや反感も相当なもんだぞ。これからは五人ガッチリとスクラム組んで行こうぜ」  分別顔で言ったのはM大から来た淡島英二である。口では協力しようと言いながらも、いかにも小廻りがきき、切れ味がよさそうな、唇のやけに薄く、赤いこの男は、心の中では四人に対して、猛烈なライバル意識を燃やしているにちがいなかった。  早川、佐藤、野沢の三人が淡島の呼びかけに同調するようにうなずいた。 「な、そうだろう?」  淡島は先刻から口をつぐんだままの岩村元信の顔を覗きこんだ。 「あ、うん」  岩村は否定とも肯定ともとれる返事をした。 「俺達は選ばれた仲間なんだからな」  淡島が曖昧な岩村の態度を、自分の都合のよいほうへ解釈した。 「さあ、どうだか?」  淡島はじめ、他の三人は自分の耳を疑った。岩村の言葉が解《げ》せなかったからだ。 「さあ、どうだかと言ったんだ」 「それはどういう意味だ?」  淡島が詰《なじ》るように言った。他の三人も心持ち岩村の方に詰め寄るようにした。 「俺達が選ばれた五人だということがさ」 「それじゃあ、岩村君、君は我々が選ばれた人間とはかぎらないと言うつもりなのか?」  今度は野沢が口を開いた。彼の頬はますます紅くなっていた。 「ま、そういったわけだ」  岩村は素気なく言った。 「しかし、新入社員の中から特に選ばれて社長邸に招待されたのは幹部候補生として認められたことなんだ。このことは菱井電業の不文律のようなもんじゃないか。現に今井家電部長にしたって、家石販売部長にしたって、皆、新入社員時代に特に選ばれて招待された方々だという」  佐藤が唇を尖らした。もともと色の白いうらなりひょうたんのようなこの男は、口を尖らすとキツネのような顔になった。 「さ、そこのところさ」  岩村は他の四人がいきり立つほど、口調を鎮めて、 「俺は何も幹部候補になったことまで否定しちゃいないさ。俺がな、疑問に思うのは特に選ばれて[#「特に選ばれて」に傍点]ということさ。本当に俺達、特に選ばれたのかな?」 「……?」 「おそらく学卒新入者の四十何人かは入社試験の成績順に採ったんだろう。そこまではいいさ。しかし、この五人、入社試験の成績を基準にしてトップから五番目まで、選んだとはどうしても思えない。何故なら、俺は試験でベスト5に入ったと信じるほどうぬぼれてはいないからな。みんなはどうだ? 我こそはベスト5に入ったから選ばれたんだと自信を持って言える奴はいるか?」  四人は顔を見合わせた。 「それにだ、入社試験はとにかくとして、将来の幹部を、屁にもならない学力だけで決めるわけにはいくまい。とすれば、我々五人は何か別の基準で選び出されたことになる」 「別の基準?」  早川が瞳をくるくるさせた。 「そうさ、別の基準さ、コネ、けなみ、健康、容姿、ファイト、経歴、その他にも人間の価値判断の基準はゴマンとある。一体、何だと思う?」 「それらすべてを選考した上でのことだろう」  とふたたび淡島。 「それらすべて? ふん、お笑い草さ」 「それじゃあ一体、何を基準にしたというんだ?」  淡島がいらいらした口調を隠さずに訊いた。利口ぶってはいてもこの男が一番激しやすく、冷めやすいヒステリー性格らしい。 「基準なんて別になかったのさ、誰だってよかったんだ」 「誰だってよかったって!?」 「まあ聞け」  金切り声を上げる淡島を制して、 「企業が何で大学出を採りたがるか知っているか? それはな……学卒者の方が人材に当たる確率がいいからさ。大勢の学卒入社志望者を大ふるいにかけるために、一応入社試験をするが、会社の方だって試験の成績のいい奴が人材だとは思っていないさ。学力なんか企業の中の腕比べにおいてほとんど役に立たない。ただ、確率がいいだけさ、書類選考でざっとふるいにかけ、次に入社試験で中ぶるいにかける。最後に残った何十人かの新入社員の中から、|適 当《アツトランダム》に何人か引っこぬく。他の学卒者には気の毒だが、これが一番能率的なやり方なんだ。企業が大きくなり、人間を歯車の一コマ一コマとして使おうとすれば、人間はどいつもこいつも似たり寄ったりの規格品になる。どいつも同じような人間なら、その人間のレッテルで中身を判断しなければならなくなる。卒業証書はレッテルの一つさ。  次にレッテルが同じだったら、その中からアットランダムに選び出して、最後に自分が真に欲しがる本当の優秀品を掘り当てる。  人間一人一人の個性を尊重して、あらゆる面から多角的に考察して選び出す方が親切であり、外された奴も諦められるだろう。しかし、そんなことをやったら手間が大変だ。企業では人間の選択ですら能率がものをいうのさ。要するに欲しいのは人材で、結果が同じであればらくな手段を選ぶ。別に俺達は特に選ばれたわけじゃあない、他の誰だってよかったのさ。たまたま、クジに当たっただけだ。おめでたいかぎりさ」  岩村は語尾に嘲笑を加えた。彼らの単純さがおかしくてたまらないといったふうに。—— 「何! 俺達をおめでたいだと! 岩村君、もう一度言ってみろ」  淡島と佐藤がいきり立った。 「おう、何度でも言うぞ。君らは揃いも揃っておめでたい連中だよ」 「くそ!」  淡島と佐藤の二人が、社長邸であることも忘れて立ち上がった。 「ま、待て、待ってくれ!」  野沢がおろおろ声を出した。早川はただ蒼い顔をして唇を噛みしめているばかりであった。険悪な空気が一座に張りつめた。  その時、扉にノックがあり、こちらの返事も待たずに扉が開けられた。  そこには、——庭の牡丹をそのまま移し変えたような美しくも、豊かな若い娘が、銀盆にコーヒーカップをのせて立っていた。 「まあ、恐いお顔!」  娘はおどけたように入口に立ちすくんでみせた。  細形で背はあまり高くないのに、何と形よく発達した肢体であろう。明るい大きな瞳は青春の喜びと若々しい知性にあふれ、唇はいちごのように赤く小さく、それでいて豊かだった。  岩村はきっと馬鹿のように口をポカンと開けていたにちがいない。そして、他の四人も。  岩村は後になってからその時の自分の様子を想像して(俺としたことが、たかが一人の女に)とくやしさに唇をかむのである。  とにかく、五人は闖入《ちんにゆう》して来たその娘に完全に魅せられた。その時点における娘への心の傾斜は五人共、純粋であったといえる。  五人は瞬時にしてその娘が何者であるか悟った。そうすることにより彼らの心はさらに強く娘に牽引されて行ったのである。  娘の名は盛川美奈子、盛川達之介が目に入れても痛くないほどに可愛がっている末娘にちがいない。  過去、�招待者�の中からさらに選ばれたエリートへ盛川の娘が�降嫁�した前例があるだけに、五人の若者の美奈子に傾きかけた心には、いち早く、打算が忍び入っていた。  となれば娘一人に婿五人、いや、美奈子の対象はあながち彼らだけとはかぎらない。前期の、いや前々期の、そして来年入社して来る�招待者達�も婿の候補に入るかもしれない。  しかし、いずれにせよ、前例に照らして可能性はあるのだ。大菱井電業の幹部としての栄光の座と共に、この美しい�女�にありつけるかもしれぬ候補者の一人として選ばれたことは事実なのだ。  選択の基準がどうあれ、とにかく候補者となった事実に変りはない。  四人は、いや、岩村も含めた五人はたった今の激論も忘れて、銀盆をかかえて立つ盛川美奈子の臈たけた顔を、化石したように見つめていた。 「単純な奴ばかりだな」  盛川達之介はそう言ってから、もういいというふうに手を振った。  はっとかしこまって、テープレコーダーのスイッチを切ったのは磯原部長である。場所は数時間前まで、五人の若者が美奈子としゃべっていた盛川邸の応接室であった。室内にはまだ五人の若者達の熱気が残っているようである。装飾用に仕切られた壁付暖炉の上の置時計そのものが精巧なテープレコーダーになっていた。  盛川が聴き入っていたのは、それが録音した�選ばれたる者�達の会話の一部始終であった。 「だんだん、小粒になりおる」  盛川は不満そうにつぶやいた。 「はっ、申しわけありません」  磯原は自分の人選の不手際を指摘されたと思って恐縮した。しかし、適当に選べと言いつけたのは盛川なのである。 「お前の責任だとは言っておらん、どいつを選んでも変りはないのさ」  盛川はつぶやいてから、同じせりふがテープの中にあったことを思い起こした。 「そうだ、岩村という男、あいつは少し面白そうだ。磯原」 「はっ」 「岩村という新入りに注目しておけ、あるいはものになるかもしれん」  彼は磯原に言い捨てるとそのまま後も見ずに応接間から出て行った。  同時刻、都心の高台にある一流ホテルのダブルルームのベッドでからみ合っている一組の男女があった。 「どう、私のおしえた通りになさった?」  女は男の胸毛を玩びながら、だるそうに言った。 「うん、おかげさまでな」  男も同様にだるそうに答えた。 「あのお爺さん、今頃、磯原部長と一緒にテープを再生している頃だわ」 「君がおしえてくれなかったら、俺も危く罠にかかるところだったな」 「お礼は高いわよ」  女が悪女めいた笑みを浮かべた。長い髪が豊かな胸のあたりまでまつわっている。一見、痩せた肢体だったが、躰の要所要所は驚くほど肉付きがよい。 「だから、こうやってつきあってる」 「ふん、最初はそちらから接近したくせに。私の躰の中で眠っていた狼を起こしたのは誰なのよ。憎い人」  女は男の躰の一部分を思い切りつねった。 「痛い!」  男は大仰な悲鳴をあげた。本当に痛かったらしい。 「私を社長秘書と知って近づいて来たあなたは、最初からそんな打算があったのね」  女は憎らしそうに言ったが、目は笑っていた。 「でも、打算でも何でもいいの。私はあなたが好き! あなたなしではいられないわ。あなたの欲しい 情《インホメ》 報《ーシヨン》 は何でも上げるから、私を捨てないでちょうだい! 結婚してなんて言わないわ。二号でも三号でもいい、いつまでも貴方のそばにおいて」  女は狂おしく叫ぶと、ふたたび男の躰にしがみついていった。男は女の挑発を逞しく受け止めると、引き裂くような凄じさで女の躰を開いていった。  ベッドカバーをまくり上げ、室内灯《ルームライト》を皓々とつけた中で、無惨なまでに開き切った女体に、男は盛川美奈子の躰をオーバーラップさせていた。  男は岩村元信である。女は竹内悦代、社長秘書であった。 [#改ページ]  名古屋——二ヵ月後 「今日もまた、遅くなってしまった」  渋谷夏雄は窓外に散る名古屋市街の多彩なイルミネーションを見下しながらつぶやいた。  室内にはボール盤、ふいご、巻線機や、標準音叉発振器、容量測定器、標準信号発信器などの各種材料や、標準器、試験器が所せましと置かれている。とうてい、東洋一の豪華大ホテル、ホテルナゴヤの一室とは思えなかった。  それもそのはず、そこは星川電機研究所の本社でもあれば研究室でもあったからだ。  星川社長をはじめとする旧軍部の技術者が寄り集まって設立した星川電機研究所、いわゆる星電研はまだ社屋もない。星川社長の軍時代からの知己のよしみで、大口出資してくれたホテルナゴヤ社長、内野恵美子の好意で、彼女の経営するホテルの|続き《コネクテイング》 部屋《ルーム》の一つに、会社ぐるみ居候していたのである。  会社自体がうぶ声を上げたばかりで、製品には別にこれといって見るべきものはなかった。  しかし、それでも、現在開発中のTA—2型真空管電圧計や、TL—3型電子音響器などをみても、この会社が平凡な技術者の集団でないことが分った。  特にTA—2は未完成だというのに、性能の優秀性を買われて早くもある官庁筋から二百台も発注されていた。  ホテル業界の女怪といわれている内野恵美子が、この海のものとも、山のものとも分らぬ星電研に大口出資して、しかもなお、ホテル経営の常識では考えられぬ、研究室用に客室を貸し与えているのも、単なる星川社長との個人的つながりによるものばかりではなく、星電研の将来性を敏感に読み取ったからにちがいない。  ともあれ、渋谷夏雄は、ホテルの客室からベッドやソファーを取り除き、代りに実験器具を搬入した何とも珍妙な�研究室�で大あくびをすると、遠い郊外に借りた下宿の一室に帰るために、立ち上がったのである。  ここ連日、研究に熱が入り過ぎて身体が相当に疲れている。一人者の気安さ、カーペットだけは残した研究室の上にごろ寝をして夜を明かしたこともある。 「とにかく、今日は帰らなけりゃ」  研究室の周囲は清潔でふかふかしたベッドを備えたホテルの客室であったが、渋谷はどうもこのベッドと言うやつが気に入らなかった。  あまりに柔らかすぎて、身体ごとクッションの中に沈みこむようで寝返りも満足に打てない。不潔な万年床ではあっても、彼には下宿の破れ畳みの上のカビくさい寝床が性に合っていた。第一、遅くなる都度、ホテルへ泊まっていたのではたちまち破産してしまう。 「さてと」  渋谷は宝石を砕いたような窓外の夜景に、背を向けた。その時、入口扉にコールサインが聞こえた。 「はて?」  彼は腕時計を見た。十一時近い。訪問客の来る時間ではない。かといって、会社の人間が飲みすごして、終電車を逃がして舞い戻って来る時間には少々早すぎる。  渋谷がとまどっている間にふたたびコールサインが鳴った。チロンホロンと優雅な韻律が深夜の客室に響いた。さすが、内野社長がノック音が無粋だからといってあらゆるホテルに先がけて全客室に装備させただけのことはある。こんな時間にがんがんノックされたらたいてい神経に障るところだが、柔らかなコールサインは、深夜の訪問客に甘いイメージさえ寄せさせる。  渋谷は扉口に歩み寄った。ドアチェーンはかけてないからワンタッチで開けられる。  彼はそこに思いがけない人の姿を見た。 「社長!」 「今晩は。ご迷惑かしら?」  社長といっても星川社長ではない。ホテルナゴヤの社長であり、星電研の大株主でもある内野恵美子が、昼間の経営者としての厳しい姿とは打って変った、紬の和服姿でしとやかに笑いかけているではないか。 「こ、これはまた!?」  渋谷は少々慌てた。時折り、一階のロビイで姿をチラホラ見かけることはあっても、とうてい、親しく口をきける人間ではなかった。  女手一つで東洋一と称されるホテルナゴヤを建設しその他、中京地区の日本旅館、料亭、バス、レジャーセンターなど手広く経営している日本実業界の女怪であり、中京地区で毎年五指に数えられる高額所得者なのだ。  しかも渋谷の場合は、彼の社そのものが彼女の本拠に寄生しているのである。いわば女王と陪臣のそのまた陪臣の関係といってよかった。 「あなたが渋谷さん、星川社長から噂は聞いているわ」  恵美子は化石したように佇《たたず》む渋谷の前に悪びれずに進んだ。 「そんなにかたくならないでちょうだいよ、いつも星川社長がね、あなたの自慢ばかりしているのでどんな方か一度お目にかかりたいと思っていたのよ」  彼女は艶然と笑った。女怪とか中性的化け物とか様々に酷評されているが、渋谷が今眼前に相対している恵美子は、色香の充分に残れるふくよかな中年の女性であった。 「まあまあ、この部屋には満足に坐れる椅子もないのね、どう、私の部屋にいらっしゃらない? 何か美味しいものをご馳走してあげるわよ。今夜は私、もう別に予定はないし、それに株主の一人として、星電研の将来を背負う若手技師ナンバーワンのあなたから、いろいろと製品のお話しをうかがいたいわ」  恵美子はカーペットの上に散乱した機器の間を、泥濘の中を歩くように裾をつまんで歩いた。  形のいい脛が充血した渋谷の目に痛いように白く映った。しかし、それを挑発ととるには渋谷はあまりにも純真であった。  開発中の製品以外は頭にない技術の虫のようなこの男は、内野恵美子の誘いを単純に馳走への招待とうけとったのである。事実腹をへらしていた。 「どう? 感じのいい部屋でしょう」  内野恵美子に誘われてのこのこと尾いて行った彼女の居室は、ホテルナゴヤ最上階にある貴賓室であった。  室の名前は|菊 の 間《クリサンスマムルーム》、 「一泊十万円もするのよ」  恵美子はその時女王のような笑いを見せた。十万円といえば渋谷の約二ヵ月分の給料に相当する。それをこの女はただ一晩の、それも眠るだけの費用として投じている。  資本家であると同時に経営者としての彼女は、経理の公私を厳しく区別して、たとえ自分が出資し経営するホテルであろうと、自分が私室として使用している菊の間の料金は、きちんと支払っているのであった。  もちろん、他の重役や幹部に対する牽制の意味もあったが、それにしても、一泊十万円とは渋谷の生活の常識からは外れていた。 「何を召しあがる。何でもおっしゃってちょうだい、ルームサービスですぐに取り寄せるから。それよりもまず一杯いかが?」  恵美子は寝室の手前の応接室の壁にあしらったホームバーを指した。 「ホワイトホース、ジョニイウォーカー、デウォーア、何でもあるわよ」 「僕だったらどんなにお金ができても、一泊十万円もする部屋には泊まらないですね」  渋谷は恵美子の問とは的外れのことを言った。 「十万円くらい何よ、あなただってお金ができればきっと費《つか》うわよ。お金ができるとね、ただ高いという理由だけで買うものなのよ。買って得たものは問題ではないの」 「そういうものですかねえ」  渋谷にはおよそ理解しがたい富者の倫理であった。 「そんなことより飲みましょうよ、ね、スコッチのブレンドはいかが? 私、バーテンダーとしても立派に食べていけるだけの腕前なのよ」  恵美子はグラスのへりに赤いキュラソーづけのチェリーをあしらいながら言った。  渋谷は恵美子が手際よくブレンドしてくれたスコッチのカクテルを一気にのどに流しこんだ。  特有の薫臭と共に空き腹に熱湯を注ぎこんだような感覚が、のどから食道、胃へと流れ落ちる。 「いかが?」 「申し分ないですね」 「もう一杯いかが?」 「いただきましょう」  渋谷は進められるままに何杯かグラスを重ねた。空き腹だけに廻りも早い。恵美子も適当に流しこんだらしく、眼瞼がほのかに紅潮してきた。 「渋谷さん」  恵美子が呼んだ。 「は?」  グラスから上げた渋谷の目に、恵美子の薄紅く染まった大柄な顔が大輪の花のように揺れた。  正に爛熟した美しさである。その時、渋谷は急速に廻る酔いの中で、これは早いこと退散しないと面倒なことになるなという微かな予感を抱いた。しかし、あえて彼が腰を上げなかったのは、それだけ室内が豪華で居心地がよく、そして、単純な空腹感を覚えていたからである。  もう今からではどんなに急いでも終電に間に合わない。どうせ遅くなりついでに、恵美子がこれからふるまってくれるというご馳走をいただいてから帰ろう。——そんな意地の汚なさからついに腰を落ちつけてしまったのである。しかし、恵美子は一向にルームサービスを呼ばない。まさかこちらから言い出すわけにもいかないので、つい手前にあるグラスを重ねてしまうことになる。 「渋谷さん」と呼びかけられた時は、相当に酔いが廻っていることが自分でも分った。 「もし、ただだったら泊まる?」 「え?」  恵美子の言葉の意味が掴めなかった渋谷は聞き返した。 「あなたはどんなにお金があっても、眠るだけに十万円は払えないとおっしゃったわ。それなら、ただだったらどうなさる?」 「ただ?」 「そうよ、よかったらここへ泊めてあげるわよ。今夜は大分遅いし、帰ったところで別に待っている人はいないんでしょ?」 「そ、そんな」 「いいのよ、この菊の間は寝室が二つあるの、たまには貴族になったつもりでお寝みなさい。第一、ここなら出勤に二分とかからないわ。明日の朝お寝坊ができるわよ」  寝坊ができるという恵美子の言葉が強く渋谷の心をとらえた。これから渋谷の下宿までタクシーで約千円、電車で約四十分。朝めしぬきにしても七時半には起きなければ間に合わない。  どうせ、明日の朝、また、出て来るのだから今夜泊まってしまってもいいではないか。一晩くらい王侯の気分を味わうのも悪くないだろう。それに月給日間近い今、タクシーの千円は痛い。  渋谷は胸算用しながらも、何よりも怒濤のように押し寄せた猛烈な眠気の前に、心の奥底で帰った方が無難だと主張し続ける声から耳をそむけてしまった。  空腹に廻ったスコッチと連日の疲労がどっと出て、理屈ぬきで眠りたかったのである。 「まあまあげんきんな坊やだこと。ただだと聞いたらとたんに上瞼と下瞼が仲良くなったのね」  恵美子の笑みを含んだ声も、すでに夢うつつであった。  渋谷夏雄には恋人がいた。といっても渋谷一人が勝手に決めた全く一方的な恋人である。しかし、渋谷はその娘以外のいかなる女とも結婚する意志はなかった。あの娘と一緒になれなければ一生独身を通す。——と一途な彼は思い詰めるほどにその娘に恋していた。  しかし、相手の娘は、渋谷がそれほどまで熱烈に自分に心を傾けていることを知らない。いや、もしかしたら、渋谷夏雄の存在自体すら、空気や水のように心得ているかもしれなかったのである。  娘の名前は星川はるみ、細面で清楚な処女であった。星川社長が、目に入れても痛くないほどに愛している一人娘である。渋谷ははるみのことを心の中で〈アリサ〉と呼んでいた。アンドレ・ジイドの〈狭き門〉に登場する、純潔の象徴のようなヒロインの名前である。ということは、同時にはるみをアリサのように終生純潔の高嶺の花として偶像化していたのだ。  だが、とうとう、渋谷ははるみと接触する機会をもった。久しぶりに早目に退社した渋谷は、ホテルロビイでばったりとはるみに出逢った。  星川社長に何か用事があっての帰りらしい。はるみも父の下に働く技師の一人として渋谷の顔を覚えていてくれた。  何となく連れ立って外へ出た形の二人の前に、心の浮き立つような小豆色の晩春の黄昏が広がっていた。 「城址公園へ行ってみませんか」  文字通り、清水の舞台から飛び降りるような気持になって、渋谷ははるみを誘ってみた。どうせ断わられるであろう、断わられてももともとと、半ば自棄的にかけた誘いであったが、はるみは明るく受けてくれたのである。  あまりにも簡単に自分の不作法で無器用な誘いを受け入れられて、渋谷は最初かえってとまどい、次に狂喜した。  春の城址に新緑が燃えていた。西空の落日の余光を追うようにして彷徨《さまよ》った二人が、本丸をめぐる森のしげみに来た頃は、夕映は完全に消えていた。花の香りが微かに流れてくる木の下闇で二人はふと抱き合ってしまった。  渋谷の烈しく傾斜した心にほだされたのか、それとも、春の甘い夜風に理性を忘れたのか、数時間前までは口もきかなかった二人の若者が激しく抱き合い、強く互いの唇を吸い合ったのである。  渋谷の積極的なことはうなずけるが、それにしても、それを受けるはるみの何という燃え方。  渋谷は思いもかけぬはるみの反応にさらに大胆になった。常の彼ならば考えられないような行為へ彼は移ったのである。  自分の腕の中に完全に預けられているはるみの躰を徐々に青草の上に押し倒し、そしておずおずとスカートの裾に手を廻した。さすがにそこでいったん止まった彼の手は、女の拒絶が感じられないのをいいことに、さらにおずおずと、しかし、確実な速度で、女の躰の中心に向かって指を這い進めて行ったのだ。  それから先がどうなったか、彼は定かに記憶していない。とにかくそれから数分後には二個の男女の躰はある部分を接点にして激しく上下に動いていた。  女の躰とは何と熱く柔らかいのであろう。渋谷は次第に融けそうになる自分の躰を必死に抑えながら、思いがけなく手に入れた恋の果実を貪婪《どんらん》に貪るのであった。  沸騰点は次第に近づいてきた。 「ああ」  女が耐え切れなくなってうめいた。  それははるみの声ではない。渋谷は愕然として目を覚ました。何とそこには全裸に近い恵美子が、自分の躰の上にひたと重なり、唇をかみしめながら必死に快美のうめきを殺しているではないか! しかも、渋谷の躰が、渋谷の意志とは別に、まるで不随意筋が動くように恵美子の躰と動きを共にしていたのである。  このままいけば躰が溶ける。それはそのまま、はるみに対する冒涜になる。しかし、それにしても、この快美な感覚は! 躰の中心を燃え上がるような熱く柔らかい肉に包まれて、烈しい蕩揺《ゆりかえし》のうちに耐えに耐えた緊張を、すさまじいエネルギーの放出をもって解消したがっている。  それはもはや理屈ではなかった。とにかく、行き着く所まで行かなければ若い躰が承知しなかった。  しかし、渋谷は後一歩の所でそれを耐えた。ギリギリと歯を喰いしばりながら、脳髄の中枢に微かに目覚めていた理性を奮い起こし、本能の奔流の中に旋回する身体に急制動をかけたのである。  絶頂の近くでの不自然な努力、渋谷の目は血走り、全身が震えた。恵美子はそれを渋谷の合図[#「合図」に傍点]だと感ちがいして動作に一層の拍車を加えた。  どんなに耐えても、女にかくも絶妙に動かれては男は耐えきれない。  もはや、渋谷に為せることはただ一つしかなかった。 「ううっ」  渋谷は動物のようなうなりを発すると、渾身の力をこめて自分の上に重なった恵美子の躰を拒《は》ねのけた。密着した二つの躰が離れた瞬間、耐えに耐えてきた渋谷の躰から堰《せき》を切ったように体液がほとばしり出た。  それはベッドカバーを越えて、カーペットの上にまで跳んだ。  急速な弛緩状態の中で渋谷は——よかった——と思った。  少なくともそれ[#「それ」に傍点]は恵美子の躰内に入ることはなかったのだ。ぎりぎりのところで恵美子との交わりはカットできたといえる。  ベッドから仰向けざまに落ちた恵美子は、思うさま両脚を開いたままのあられもない姿でカーペットの上にひっくりかえった。  頂上の近くで突き放された彼女は、それでもなお、自分の躰に加えられた渋谷のおよそ�非協力的な力�を信じられないらしく、そのままの姿でしばらく床の上に横たわっていた。  恵美子の躰の中心を被う豊かな繁みが、ルームライトの中に黒々と濡れて光った。  ようやく自分の状態を悟った恵美子は、次の瞬間に激怒した。今まで、女王の誇りをこのような形で無惨に蹂躙《じゆうりん》した男はいない。  あまりにも激しい怒りで彼女はしばらくは口もきけず、ただ全身でわなわなと震えた。  渋谷はその様子に冷たい一べつを投げると、素早く衣服をまとい、恵美子の前につかつかと進んだ。  恵美子がようやく罵りの言葉を唇から出そうとしたとき、渋谷の右手が信じられないような早さで上がり、左右に一振りずつ、火の出るような痛打を彼女の両頬に浴びせて、そして部屋を出て行った。  恵美子が何を言うひまもなかった。  渋谷の気配が完全に消えた頃になって、恵美子の両眼に涙が噴き出した。くやし涙である。 「ちくしょう、畜生!」  女王にあるまじき汚ない言葉を吐き散らしながら、恵美子は声を上げて泣いた。それは爆発寸前で吐け口を失った欲望が、ヒステリックに感情のバランスを突きくずしたのでもあった。  思うさま泣いた後、彼女は涙に赤くはれた目をきっと上げた。 「この復讐はきっとしなければならないわ」  星電研がホテルナゴヤから追い立てをくったのは、実にその翌日のことであった。  星川社長は明らかにその理由を知りながら、渋谷に対して叱責めいたことは一言も言わなかった。  とりあえず、移転した中区栄町の裏通りの仮事務所でも、渋谷を見る目は常と変らぬ穏やかな光に充ちていた。 [#改ページ]  大阪——二ヵ月後 「接吻はいやよ」  新婚の褥《しとね》の中でおよそ新妻が吐くべからざる言葉を順子は平然と吐いた。南紀白浜の初夜の宿の一室は、灯を消しても海面の水光がたゆとうような、海に張り出したこの宿随一の眺望を誇る特別室である。  新大阪ホテルで関西財界人のほとんどすべてを招いての豪奢な結婚披露宴の後、花岡進と順子は南紀一周の新婚旅行《ハネムーン》に出発して、今夜は初夜であった。  披露宴の絢爛に比べて二泊三日の新婚旅行は、あまりにも短か過ぎるようであったが、新婦の父、花岡俊一郎がなるべく早く帰ってこいという厳命を下したので止むを得なかった。  妻の父の命に易々として従わねばならぬのが、これからの花岡進の宿命であった。  同じ花岡姓を名乗ってはいても、関西財界にどっしりと根を下した、花岡俊一郎=協和電機株式会社社長を当主とする花岡家は、花岡進の属する東京の花岡家の総本家にあたる家筋で、現在では、両家の間にほとんど血のつながりはないといってよかった。  ところが、花岡俊一郎には順子という一人娘しかいない。妾腹の子もない。そこで花岡の�純なる血液�を伝えるための種馬が必要となったわけである。  だが、種馬であるからには馬自身が純血《サラブレツド》の所有者でなければならない。八方手を尽くした婿探しの結果、花岡進に白羽の矢が立ったという次第であった。進ならば頭もいいし、第一身許がしっかりしている。それに血縁とはいえ、現在ではほとんど血のつながりは薄れ、優生学上も全く問題がない。  進の父は総本家から持ち込まれたけっこうな話に一も二もなかった。進自身は婿養子ということに少々ひっかかるものを覚えたが、花岡家の名声と資産と、あわよくば手に入るかもしれぬ花岡俊一郎の後継者としての椅子とそして何よりも順子の冷たい美貌に、むしろ浮々として承諾した。  美しい女と富と名声、野心のある男ならば絶対に拒ねのけることのできぬ誘惑が、三拍子揃って花岡進の前に現われたのである。婿という身分ぐらいには耐えなければならぬ。何、それも俊一郎が�隠居�するまでのわずかな時期を我慢すれば、三つ共、名実共に自分のものとなるのだ。  花岡は心の中でソロバンを弾くと、満々たる野心を秘めて大阪へ下った。  しかし、すべての手続きを終えて、新褥の中で新妻の躰を初めて開く時に至り、進は自分に課せられた種馬という宿命の酷しさを、改めて思い知らされたのである。  順子は最初から進より一段上の所に構えていた。進の妻となった身分でありながら、決して不必要な身体の接触を許さなかった。  なるほど、生殖の行為に接吻はいらない。肉体のある一部の部分的接触だけで、充分目的は達せられる。愛情も技巧もムードもいっさい不要だ。  順子はその点でまことに稀有な女であった。女である前に、純血を伝えるただ一人の人間として徹していた。 「接吻はいやよ」  夫として絶対に許せぬ言葉を甘受しながら、それならばそのように扱ってやろうと、進はすべての愛戯を省略して、驕慢な妻の躰の中に乱暴に分け入って行った。  疼痛を必死に耐えているのは分ったが、進は容赦しなかった。  向うが俺を夫として認めないのであれば、こちらもこの女を富と名を得るための媒体として扱ってやる。最初からそのように割切ってしまえば、女がどんな態度をとろうと、それはそれなりに欲望の排泄口としての効用はある。  花岡は水の光のかがよう褥の中で、順子の躰を苛《さいな》んだ。  二つの男女の躰はその奥深くを合わせながら、無機的な律動を伝え合っているにすぎなかった。 [#改ページ]  冷たい真空管  星川電機研究所の技師、渋谷夏雄は自分の研究が行き詰まる都度、二年前の入社式の席上で、 「諸君は売れる物を創《つく》ろうとしなくともよい。星電研が諸君に要求することは、�本当によい物�を創ること、それだけだ」  と新入技師団に語った星川社長の熱っぽい言葉を思い出すのであった。  最初は渋谷もその社長訓示を、どこの入社式でも聞かれる美辞麗句であると思った。  利潤の追求を絶対かつ唯一の目標とする営利会社にあって、国家社会に対する奉仕を最優先させるはずはない。  星川社長も口ではうまいことを言っても、社会のために会社がつぶれてもいいなどとは思っていないだろうと、内心かなり反発を感じたものである。  ところが、入社して現実に星電研の技師の一員として働くうちに、社長の言葉がうそでないことがよく分ってきた。  一応、株式会社の看板を掲げてはいても、もともと、社長をはじめとする四、五人の星電研の首脳陣が旧日本軍の兵器技術者で、自分達の意志に反して人間殺戮の研究をさせられていたのを、敗戦を機に今度こそ自分達の技術と頭脳を人間の幸福のために役立てたいと願って設立したものが星電研であった。  それだけに、設立の趣旨そのものが、営利の追求よりも、これら技師団が軍部によって長い間抑えられていた本当に創りたい物に対する欲求不満の解消にあった。  であるから、星電研は営利企業体というよりは、技術者集団と呼んだ方がよかった。製品も金を儲けるために創るのではなく、創りたいから創るのである。彼らとその家族が喰えるだけの利益を得られればよいのだ。  星電研の設立趣意書の冒頭にもこの方針ははっきりと謳《うた》われている。即ち、 「不当ナル利益ノ追求ヲ廃シ、アクマデ内容ノ充実、真ニ優秀ナル製品ノ開発生産ヲ主タル目的トシ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ワナイ」  技術者にとってこんないい働き場所はなかった。そして渋谷夏雄にとっても。——  その夜、渋谷は同僚というよりは彼のよき助手、立花和彦と遅くまで研究室に居残った。�残業�は何もその夜だけではなく、ある研究に没頭していた二人は、ここのところ連日研究室に居残っていた。  時刻はそろそろ午後八時を廻る。二人の胃袋は痛いほど空っぽになっていたが、彼らは憑かれたように研究を続けていた。 「おい、見ろ!」  突然、渋谷の興奮した声が起きた。 「何ですか?」 「いいか、今、もう一度交流信号を入れる。よく見ていろよ」  渋谷は複雑に入り組んだ実験装置のある一点を操作した。かたずをのんだ立花。そして、 「こ、これは!」 「な、内信号が増幅されて出てくるだろう」 「これは一体、どういうわけですか?」  立花は驚愕のあまり、声をのどに詰まらせた。 「見るようにゲルマニウムn型の半導体結晶にタングステンの二本の針を立てた。二本の針とゲルマニウムを電極とし、針の一本を正電位《プラス》、もう一本を負電位《マイナス》になるようにしてそれぞれ、プラス一ボルト、マイナス五十ボルト位の電圧を加えたんだ。そして、プラスの針とゲルマニウムの間の電気回路に、交流信号を入れると、マイナスの針とゲルマニウムの間にその信号が増幅されて出てくる」 「増幅! 真空管も使わずに」 「そうだ、しかもより精密にな」 「渋谷さん、これはどえらいことになるぞ」  二人の技師の熱に浮かされたような声が研究室の中で次第に高まっていった。  渋谷と立花は従来のラジオ、通信機、レーダー装置、電子計算機などの一連の電子機器に広く用いられている電子管(真空管)が、フィラメント加熱方式で放熱装置を必要とするため、どうしても大型化、重量化する点に注目し、電子管に代るべき増幅作用や、整流作用を営むものを開発しようとしていた。  研究の主眼目は従来の電子管より小型軽量であり、電力消費が少なく、寿命を長くすることにあった。  たまたま渋谷が学生時代から進めていた半導体の研究により、思いついた半導体の結晶を使っても真空管と同じような純電子的増幅作用を営むことができるのではあるまいかというヒントに基づき、星電研入社後、彼の研究に興味を持った次期入社の立花と共に様々の工夫をこらしてきたのである。  同じ頃に米国でも同様の研究が進められているらしかったが、文献や資料がほとんど入手できず、ただ一つ分ったことは、彼らがその�新電子管�をトランジスターと呼んでいるらしいことだった。  渋谷はあとうかぎりトランジスターに関する資料を蒐《あつ》めた。そしてどうやら海外の研究がほぼ完全に自分の目指すものと一致していることを知った。それが渋谷の卒業の頃である。  彼は星電研入社にあたって星川社長にトランジスターのことを熱心に説いた。 「そんなものが企業として成り立つかな?」  まだトランジスターのトの字も知られていない頃のことである。重役の中には一介の青年の口から飛び出す、得体の知れない新語に明らかに疑惑の色を浮かべる者が多かった。  渋谷を技術者にありがちな誇大妄想的な発明狂と思ったのである。  その中で星川社長のみ終始熱心に彼の話に耳を傾けてくれた。そして、 「熱を出さない真空管——トランジスターか、……よろしい、やってみたまえ」  と力強く言ってくれたのである。  ここに渋谷の才能を買ってくれた人物が現われたのだ。  渋谷は星電研に入社と同時に研究室に回虫のように棲みついた。星川社長の期待に報いるためばかりではなく、彼は急がなければならなかった。  途中から半導体整流器を研究していた立花が彼の研究に参加してくれた。そして、今日までの二年間、血の滲むような研究が続けられてきたのである。  そして、遂に、——  今夜、半導体結晶表面の電気的性質を研究していた渋谷が、この現象を発見したのだ。 「渋谷さん、とうとうやりましたね」 「うん、お前のおかげだよ」  二人は回路に増幅されて出てくる交流信号を、我が子の産ぶ声を聴き入る父親のような顔で見入りながらかたく手を握り合った。  技術者ならではの恍惚の一瞬である。  渋谷は立花と手を握り合いながら、遠い日に誰か他の友とどこかで同じような握手をしたことを思い出した。  それは記憶錯誤の状態において、自己の現状はすべて過去のある時期に体験したような気がする既視感《デジヤビユー》とは異なり、確実に記憶の中に深く刻み込まれている、生々とした触覚であった。  そうだ! あれは今は東京と大阪に離れている、かつての山仲間、岩村と花岡と交わした山頂の握手であった。  ある時は肌の焦げるような熾烈な陽の光の下に、また、ある時は息もつけぬような風雪の中で、がしっと握り合った掌はたがいにザラザラと荒れていた。  今、交わした立花との握手は、どちらの掌も手脂や機械油でしめっていた。しかし、いずれも共に扶《たす》け合い、大きなことを為し遂げた後の友情と相互信頼に充ちた男の握手だった。  薬品と機械油の異臭が混然とした薄暗い実験室の中で、渋谷はかつての日の山頂をあたかも昨日のことのように鮮明に思い出したのである。  その時、扉に忍びやかなノックの音が聞こえた。  二人はそれに気づかなかった。ノックは静かに続けられた。  最初にそれを聞きとがめたのは立花である。 「渋谷さん、誰か来たらしい」 「誰だ? こんな時間に」  渋谷は腹立たしそうに言った。技術者の恍惚の瞬間を第三者のために損われたくなかったのである。 「誰ですか!?」  気持は同じ立花が憤然として怒鳴った。  答えはなく依然としてノックだけが静かに、しかししつように続く。  遂に立花が根負けしたように、 「鍵はかかっていない。用があったら入って下さい」  と怒鳴るように言った。  油の切れた蝶《ちよう》 番《つがい》の軋りと共に、扉は静かに開けられた。二人はそこにたたずむ意外な人の姿を見出した。 「社長!」  そこには星電研社長、星川徳蔵の鶴のような姿があった。 「一体、こんな時間にまた、どうして?」  二人の問に星川は静かな微笑を哲人のような彫りの深い細面に浮かべながら、右手にぶら下げた小さな風呂敷包みを二人の前に掲げて、軽く左右に振ってみせた。 「何ですか? それは」  渋谷が訊いた。 「にぎりめしだ、二人共、まだめし前だろ。そう思ったから女房と娘に握らせてきたんだ」 「社長!」 「研究熱心もいいが、身体をこわしては何にもならん。めしも喰わずにというのは感心せんよ」  星川はそう言いながら、包みを開いた。握り立てを大急ぎで持って来たとみえて、めしからは湯気が立っている。 「熱いお茶も魔法瓶に入れてきた。さ、冷めないうちにやれ、渋谷、お前はオカカが好きだったな。立花、お前はタラコだったな。両方共たっぷりあるぞ」  二人は顔を見合わせた。この人の善い町工場の親方的感覚! しかし、同じように気の善い二人の若い技術者は、星川社長のなにわ節に完全にまいってしまった。 「社長、す、すみません……私達は今、どえらいものを発見したんです」  鼻をつまらせながら渋谷がたった今為しとげたばかりの実験成果を報告しようとするのを、星川は手を上げて軽くさえぎり、 「そのことは明日の朝、詳しく聞こう。今、君達が為すべきことはこの目の前にある食糧を少しも早く胃の腑に収めることだ。さ、喰え! これは社長命令だぞ」  二人を眺める老社長の眼は慈父のような優しさにあふれていた。  渋谷はにぎりめしをのどにひっかけた。めしのぬくもりがはるみの手のぬくもりのように感じられたからである。  星川はるみが正式に渋谷はるみとなったのはそれから約一年後であった。  彼らの結婚が星電研全社員の祝福をうけたことはいうまでもない。 [#改ページ]  破片《かけら》の人間 「あなたって、本当にいいお友達をお持ちになっていらっしゃるのね」  はるみはまだ披露宴の興奮さめやらぬ、やや上気した顔で言った。 「そりゃあ」  渋谷は得意そうに言いかけて黙った。  あのアルプスでつちかわれた連帯は、とうてい、口で説明できるものではないと思ったからである。  急行「たかやま」は暗黒の濃尾平野をたった今、誕生したばかりのカップルを乗せて、今宵の宿、高山へ向かってまっしぐらに走っていた。  渋谷夏雄と星川はるみの二人は、星電研のほとんど全社員が出席した名古屋国際ホテルの披露宴の会場から、新婚旅行へと送り出されたばかりなのである。  新婦の北陸路を巡りたいという希望を容れて、まず初夜の宿、高山へ向かう車中で、盛大であった披露宴、捧げられた無数の人々の祝福を思い出して感激をあらたにしていた。  今日の披露宴のために、東京からは岩村、大阪からは花岡が、それぞれ多忙な時間を割いて駆けつけてくれた。  岩村、花岡の音頭の下に参席者全員が合唱してくれた雪山讃歌、そして、二人が心をこめて寄せてくれた祝辞、最初は面映ゆさから心重く臨んだ披露宴であったが、友情と人々の善意を確認していくにつれて、幸福感が高まってきた。  祝辞も結婚披露宴につきもののきまり文句の讃辞ではない。みな心のこもった、善意にあふれたものばかりであった。結ばれるべくして結ばれた二人を、皆|言祝《ことほ》いでくれたのである。快い列車の震動に身を任せて彼らはまだ夢見心地だった。 「花岡さんと岩村さんが私達のために朗読してくれた詩はすてきだったわ」  はるみは瞳を夢見るようにうるませた。花岡と岩村が二人のためにつくり、席上で即興詩的に朗読してくれた詩のことを言っているのである。 「ここにメモがあります」 「まあ、あなたがとりましたの?」 「岩村がメモしたのをそっとくれたんですよ、何よりの贈り物です」  二人にはまだ夫婦になったという実感がわかないために、時々他人行儀の口調が出る。 「ちょっと見せて下さらない?」 「どうぞ」  渋谷は神宮前駅まで見送りに来てくれた岩村が、車窓からそっと手渡してくれた詩片のメモをはるみに渡した。  鉛筆のはしり書きであったが、友の情がそこから光を放っているように一字一字が浮き立ってみえた。  はるみは詩文を小さく口ずさんだ。   渋谷、結婚おめでとう。   白雲の一刷毛が桃色にそまる夏の夕方   君が何処へ旅発ったか   俺達は知っている。   アルプスの夕焼がどんなか   夕焼の中に神々《こうごう》しい巨神達が   どのようなサームで   自然の美と安らぎを唄ったか   俺達は知っている。   暗い谷間ばかりを   うろつき廻っていた俺達を   「なあ、岩村。なあ、花岡」   ……と君はその荘厳な式次第に   「すばらしいんだぜ」   と誘ってくれた。   無二の友よ。   そのお礼に俺達はこの花を君に捧げよう。   深山《みやま》にかぐわしく   ふくよかに咲いた白い花だ。   未知の山を   食糧の重荷と   憧憬の不安におののきながら   ただ一人訪ね来る若者を待ちわびて   しじまの中に散り残った花。   この花はささやく   岩角に立ち   この花は微笑む   立ちすくんだ若者の   見開かれた瞳の中で   あのおもかげのように。   おずおずと彼は呼びかける   「永遠《とわ》のいのちよ」   その花を折ろう、その花を贈ろう。   得がたい友のために   友の新妻の   みどりの黒髪をかざるために。—— 「すばらしいわあ」  はるみは読み終ってから目を閉じた。その長いまつげ、その下に隠された黒い大きな瞳、ふくよかなおとがい、ぐみのような唇、それらすべてが今宵自分のものになろうとしている。  友の贈ってくれた詩片は、白くすがすがしい花となって俺達の新褥を飾ってくれるだろう。 「有難う」  遠い灯を点滅させて走り去る暗い窓外に、渋谷はそっとつぶやいた。   岩村元信の日記  四月十×日、晴  今日は渋谷の結婚式だ。久しぶりに竹内悦代とのデートの日の、しかも夕方に挙《あ》げなくてもよさそうなものを。花岡も出席するとなればサボるわけにはいくまい。まあ、全日空で往復すれば三時間で帰ってこられるであろう。名古屋まで行かねばならないと思うと朝から憂うつである。  羽田まで悦代が送ってくる。社長出張旅行のお伴でしばらく逢わずにいた間に、腰や胸の肉づきがよくなったようだ。欲望でズボンの前ボタンが外れそうになって困る。  うるんだ目で早く帰って来てと言う。可愛い奴だ。今夜たっぷり可愛がってやるからおとなしく待っていろ。名古屋まで飛行機で四十分、披露宴約一時間半とみて、十時頃までには帰ってくる。  いつものホテルで待っていてくれ。  退屈な披露宴なり。だが、花嫁はなかなか美しい。社長の娘とか、渋谷もなかなかすみにおけない。時間ばかりが気になる。47便を逃がすと汽車で帰らねばならなくなる。おそらく悦代は怒って先に帰ってしまうだろう。早く終れ! 早く終ってくれ!! フルコースの何と遅いこと。  少しでもスピーチの時間を少なくするために往路の飛行機内で作った詩を、花岡と一緒に朗読してやった。新郎新婦、感激のおももち。  我ながら、デキのいい詩である。  ようやく披露宴終る。やれやれ。だが、まだ解放されない。皆が駅まで送るというのだ。俺だけ先に帰るわけにはいくまい。列車が出るまでの長かったこと。悦代の待つ東京へ一直線。帰心矢のごとし、花岡とはろくに口もきかなかった。  久しぶりの逢う瀬に悦代は燃えた。アクメの時の声が凄いので室外に気を使うことおびただしい。シーツに盛大なシミをつけてしまったので|出 発《チエツクアウト》しにくい。渋谷達、今頃、どうしているか? 処女と童貞でさぞや�難航�していることだろう。披露宴の時、自分のとった冷たい態度がちょっと気になる。しかし、しかたがないさ。生きる世界がちがえば人間は変ってくるのだ。   花岡進の日記  四月十×日、晴  朝、出勤すると、同時に販促会議に出席。この頃家電の競争が激しいので連日のように販促会議が開かれる。そろそろ、テレビに伸びなやみが見られてきたので、何かうまみのある分野を見つけ出さなくてはならない。  ブレスト《ブレインストーミング》の結果ストーブというのがあった。こいつはいけるような気がする。  電気ストーブは電気代がかさむし、それにあまりあたたかくない。ガスはあたたかいが、空気はにごるし、第一、ガス代がベラボーに高くつく。しかし、石油ストーブにしたらどうだ? こいつはまだ中小メーカーの分野だが、案外、家電の盲点かもしれない。カンカンガクガクでいささか疲れる。昼は大阪グランドホテルで犢《こうし》のカツレツとトマトジュース。  午後、宣伝課が撮ったPR用映画を鑑賞、色彩はよし、コマーシャルにもう一工夫欲しいところ。来客二組。  三時、今日が渋谷の結婚式であったことを思い出す。披露宴は五時半からである。どうしようかと思ったが、特急を利用すれば充分間に合うことが分ったので一応出席することにする。  岩村も東京からくるだろう。距離的にはいくらか近い大阪から行かないとまずいからな。  それにしても、よりによってこの忙しい時期に結婚しなくともよさそうなものを。  四時の「こだま」に乗り、会場に危うく滑りこみセーフ。ストーブのことで頭がいっぱいなので、スピーチの番が廻って来ても何をしゃべったかよく覚えていない。少し、用意をしてくればよかった。  岩村が誘ったので一緒に詩を朗読。学校を出てから三年にもなるのに、よくもまあ、あんな甘い詩が作れたものだ。  朗読の間、てれくさくてしかたがなし。  新夫妻を神宮前駅まで送ってからまっすぐ帰阪。岩村とはほとんど言葉を交さず。  三年の間にたがいの心は遠く離れてしまった。それだけ酷しい世界に生きてきたからかもしれぬ。  軽く手を挙げて別れを告げ、それぞれが属する組織へ帰るのだ。しかし、その組織すら全身を預けているわけではない。人は様々の組織に大小の差はあれ、自分の破片《かけら》を預けているにすぎない。  岩村も俺も、そして渋谷もみんな、人間の破片なのだ。今の世の中では人間と人間の全体のふれ合いなんて持てない。かけら同士がふとめぐり逢い、人生のたまゆらの時間を部分的に接触していく。  気ちがいみたいに山へ登ったあの頃も、今にしておもえば、かけらだったかもしれない。ただ、そのかけらの部分が大きかったから、たまには懐しく思えるのだろう。大阪着午後十一時、タクシーで吹田の自宅に帰ったのが十一時二十分、風呂へ入ってすぐベッドへもぐりこんだ。疲れていたので夢も見ずに眠る。 [#改ページ]  生存条件 「秘書も遠ざけた。今、この部屋にいるのは儂とお前の二人だけだ」  社長専用のソファにゆったりと身を任せた花岡俊一郎は、恐る恐る社長室に人って来た花岡進の方に向かうと重々しく言った。  進は炯《けい》々たる彼の眼光に射すくめられたように頭を下げる。いつものことながら義父の前に立つと身体を圧縮されるような威圧感を覚える。——だらしない! 自分の妻の父ではないか、もっと毅然としろ! 毅然と。——我と我が心を叱りつけるのであるが、もって生まれた貫禄のちがいというのか、器の大きさのちがいというか、とにかく、彼の前に立つと自分でもどうすることもできない萎縮感に、心身がとらわれてしまう。  進はそんな自分が情けなく、くやしかった。  今も、——花岡俊一郎の前で進は気むずかしい主人の前にひれ伏して、顔色をうかがっている飼い犬のような自分を認めないわけにはいかなかった。  場所は大阪北浜のビル街でもひときわ偉容を誇る協和電機株式会社本社屋の九階にある社長室。協電社長花岡俊一郎は何事を語るつもりか、人払いした上で一人娘の婿である進を呼んだのである。 「お前も知っての通り、我が協電は現在資本金八百億、系列会社十数社、重電では業界のトップクラスにランクする」  何を今さらこと改めて新入社員|教本《テキスト》にあるようなことをと言いたげに面を上げた進に、押しかぶせるように俊一郎は、 「その重電系の協電で軽電系のこの儂がどうして社長の椅子に坐れたか? お前は知っているか?」 「はっ」  説明調の言葉尻がいきなり疑問文に切りかえられて進はちょっと返答に窮した。しかし、俊一郎は別に進の答えを期待していたわけではなかった。 「それはな、重電部門のドル箱ともいえる電源開発が昭和三十六年をさかいに次第に先細りになってきたところへ、儂がテレビを中心とした家庭電器をもって一挙になぐりこみをかけたからだ。常顧客たる鉄鋼会社が金融引締めや不況で重電部門の不振に輪をかけたところを狙って、従来は副業的に細々と営まれていた家電部門が、世間の電化ブームに乗って花々しく台頭した。業績面も重電部門の不振を家電部門がカバーしたので大して問題にならなかった。いわば、家電はお家の大事を救った形になったわけだ」  分るか——と言うように、俊一郎は進の目をのぞきこんだ。 「ところが、家電の我が世の春も長くは続かなかった。この頃はテレビや洗濯機の普及率も高まり、伸長率も頭打ちとなった。それに各社とも製品が酷似してきて競争が一段と激しくなった。家電界は作れば売れた殿様商売から、喰い潰し合いの戦国時代に入ったのだ。しかも、東京の菱井と比べた場合、業績の低下率はお話しにならない」  確かに俊一郎の言う通り、東京の家電専門メーカーであると同時に、家電業界では協和にとって最大の強敵と自他共に目されている菱井電業と比較した場合、収益率において、大きく水を開けられてしまったのである。  もちろん、業績が上がらないのは協電ばかりではない。ライバルたる菱井電業をはじめ、軒なみ不振である。東京M電機などは数年前進出したばかりの家電部門を、さっさと店じまいしてしまったくらいである。それほどまでにはいかなくとも、家電の名門を誇るF電機やY電産なども赤字無配に転落している。  彼らに比べれば協電の不振などはまだまだ軽い方といえた。 「しかし、それでも困るのだ。M電やF電ほどのやけどを負っていないにしても、家電の不振は軽電系の儂には大いに困る。もともと重電系の協和で軽電の儂が社長の椅子に坐っていられたのも、家電の日の出の勢いがあったからだ。ところがそれに少しでも斜陽のかげがさしたとなれば、たちまち、重電系のまき返しにあう。それでなくとも重電系は結束が強い。森口、森内、森のいわゆる重電|三森《みつもり》常務は儂の失脚を虎視たんたんとして狙っているのだ」  同じ一社の中で奇妙な話ではあるが、協電には創立期より重電、軽電の両部門があり、イニシャティブは重電が握っていた。  それだけに、重電部門の優越感、軽電の劣等感が底深い対立意識となって、協電の社風の中に暗い底流を作っていたのである。  それが花岡俊一郎によって、協和創立以来の伝統ともいえる重電優先主義がはじめて破られた。  彼は軽電出身の初めての社長になったのだ。大体、協和の社員は軽電にまわされるのを嫌う。電気ガマや足温機の係になるよりも、原子力発電やプラント輸出の一翼を担った方が男らしく格好いいという理由ばかりではなく、軽電ではほとんど陽の当たる場所に出られなかったからだ。  その原則というよりも鉄則を、花岡俊一郎が重電部門の一時的不振と家電ブームに乗じたとはいえ、とにかく、初めて破った。軽電出身の初代社長、——今まで、重電に対するコンプレックスに悩まされ続けて来た軽電が奮い立ったことはいうまでもない。  それだけに重電の花岡俊一郎に対する反発は強く、重電系の頂点に立つ森口英彦常務を中心とする森内啓悦、森道行のいわゆる三森常務と呼ばれる重電三首脳の反動は脅威ですらあった。 「だがな、やっと手に入れたこの王座だ。そう易々と明け渡すわけにはいかない。しかも、儂がこの椅子に坐っていることは儂個人の利益ばかりではなく、軽電全体の幸福にもつながるのだ」  彼は目を宙に据えたまま話し続けた。進に向かって話しかけているはずなのに、進などはまるで眼中にないかのような話しぶりであった。顔が滲み出た脂でてらてらと光った。 「だから、我々は重電に対して毛ほどの弱味も見せてはならない。しかし、今年下半期の業績はどう粉飾のしようもないほどに悪い。もちろん、我が社だけじゃあない。家電は軒なみダウンだ。このまま行けば枕を並べて討死しなけりゃあならん。原因は色々ある。作れば売れた時代から、宣伝すれば売れた時代に移行し、それからさらに今の宣伝しても売れない時代に入った。この下半期は上半期より二割強も広告費を増やしながら、売り上げはかえって落ちた。これは重電にとってまき返しのための絶好の足がかりとなるだろう。原因はさらに考えられる。金融引き締め、世間全般の不況、電化製品の高普及、……しかし、それだけではない、決してそれだけではないのだ。進、お前にはそれが分るか?」  俊一郎は今まで宙に据えていた眸をひたと進のそれに重ねた。 「分るか?」俊一郎はふたたび言った。 「は」 「どんなに宣伝しても、売りあしが伸びないその理由が」  今度は先刻と異なり、俊一郎は進の答えを待っていた。何とか答えなければならない。かといって見当外れの答えをしようものなら、たちまち雷が落ちる。進は脇の下にじっとりと汗が湧き上がるのを覚えながらふと心に浮かんだ一つの思いつきを口に出した。 「名古屋の星電研……」 「そうだ、その通りだ!」  おっかなびっくりに出した答えだったが、意外にそれが�正解�であったと見えて、俊一郎は深くうなずいた。  星電研とは昭和三十×年八月名古屋のホテルナゴヤの一室に戦時中の兵器技術者の生き残りが集まり、店開きをした星電研、すなわち星川電機研究所のことである。三十×年のポケットサイズのトランジスターラジオの発明を皮切りに、完全自動式洗濯機、組立式電気冷蔵庫、ポータブルルームクーラー、などの日本で初めてどころか、世界でも初めての一連の家庭電化製品を矢継早に市場に送り出し、ここ五年ほどの間に家電業界で驚異的な躍進を遂げた新興会社である。  現在では第二部ながら東京、大阪に株も上場され、弱電関係が軒なみに相場を下げているのを、せせら笑うように堅調、一割五分の高率配当を続けている。しかも売り上げ高は伸びる一方である。理由は簡単である。製品が優秀なのだ。  それも生半可な優秀さではない。大企業の金にものをいわせた研究開発が足許にも及ばぬような、ずば抜けた優秀さなのである。 「あのように次から次に画期的な製品を作り出されたのでは競争も何もあったものではない。ウチをはじめとして、家電が軒並み業績不振の津波を浴びたのは星電研の製品に、市場をめちゃめちゃに荒されたからだ」 「…………」 「優秀な経営者の下に腕のいい技術者が集まったことは事実だ。しかし、腕のいい技術屋ならウチの中堅にもゴマンといる。儂の頭も、まだそれほどなまってはいない。星電研が短期間にあれほどに伸びたのは、一人の男のおかげなんだ、そしてお前はその男を知っているな」  進にひたと当てられた俊一郎の眼光はますます強められた。 「渋谷夏雄……ですか」  進が気おされたように言うと、 「そうだ、星電研の伸長は渋谷が入社してから始まった。渋谷夏雄……日本のエジソンともいえる男、こいつが次々に家電の化け物を作り出さなかったら、日本の家電界はこうも惨めに打ちのめされなかったろう」 「しかし」 「そうだ、決して奴一人の力ではなかった。だが、奴がいなかったら絶対に今日の星電はなかった。そして、儂の地位がこうも速やかにぐらつくようなことはなかったのだ」  俊一郎は語尾をほとんど怒鳴るように言った。こういう時は下手に言葉を差しはさまない方がいいことを長年の婿養子の経験で知っていた進は、黙然と立ちつくしていた。 「ここまで言えば儂が人払いしてまでお前を呼んだ理由は分っただろう。渋谷を抜け! 幸い、彼はお前の同窓だ。青春の友情というやつにものをいわせて彼をこの協和へ引き抜いてこい!」  俊一郎の怒号が突然、自分に対する命令、それも途方もない命令という形で結論とされたので進は愕然とした。 「そ、それは無理です。同窓とはいえ、すでに卒業してから何年もたっている。まして、彼は現在、星川社長の一人娘と結婚し、星電研の中堅主任技師です。引き抜くなんてとうてい……」 「むずかしいのはよく分っている。お前に頼む前に専門の商務工作員を使い、金、女、贈り物、利権、ありとあらゆる餌で釣ってみたが、びくともしなかった。  ごっそりと現金を詰めた菓子折りは突き返される。出入りの八百屋や魚屋を使っての女房を攻める搦手戦術も通じない。粒よりのホステスの色仕掛にも落ちない。あんなかたぶつはおらん。しかし、何としてでも渋谷を引き抜かなければならん。おそらく、奴はここ数ヵ月の間にマイクロカラーテレビを完成するだろう。そうなったらどうなるか?  厖大な研究費を投じてやっと試作に成功したばかりの我が社の6型カラーテレビなどたちまちポンコツとなってしまう。そうなったら儂ばかりではない、弱電部門は永久に沈むぞ。下手をすれば、M電のように弱電の店じまいということにもなりかねない。わしの後継者をもって自他共に目されているお前自身、渋谷なくしては生きていけないのだぞ。いいか、金に糸目はつけない、何としても渋谷を引き抜け。それも奴がマイクロカラーテレビを完成する前にだ。渋谷だけが儂達が生き残るための唯一の条件だということを忘れるな!」  俊一郎は口をへの字に結んだ。進はその精悍な脂切った顔に、かつての山仲間渋谷夏雄の面影をオーバーラップさせた。それは遠い日の山の熾烈な日の光に灼かれた、俊一郎以上に精悍で、共に攀じた氷壁よりも近寄り難い、技術者としての頑固さで鎧った表情であった。  しかし、彼を協電に引き抜いてくることが生き残るための唯一の条件と分ってみれば、それがどんな酷しさに鎧われていようと、挑まなければならなかった。頼むは遠い日の友情のみ、渋谷の場合、金がどれほどの誘因にもならないことを進はよく知っていた。 [#改ページ]  エリートの巣  千代田区竹平町のパレスサイドにある菱井電業ビルは、五月の朝の光をうけて銀色に輝いていた。地上十二階、地下五階、全長二百米の巨体は、菱井電業の隆盛を示すように、松の緑豊かなお堀端にその偉容を誇っている。  このビルの出現により、この近辺の景色は全く変わってしまったのである。  ビルの中の最高階の最もゆったりとスペースを取った部分、——即ち、社長室に二人の男が対座していた。  二人は盛川達之介と岩村元信であった。 「お前、今、何処に住んでおる?」  最初に口を開いたのは盛川であった。出勤して間もなく、社長室から呼びつけられて、何事かととるものもとりあえず馳けつけて来た岩村は、いきなり、住所をきかれてちょっと面喰らったような顔をした。 「は?」 「住んでいる所じゃよ」 「狛江寮ですが……それが……」 「よし、お前、来月から紀尾井寮へ移れ」  盛川は一人うなずいて言った。 「えっ、紀尾井寮へ!?」  岩村の顔がみるみる紅潮した。自分でも頬が熱くなってくるのが分った。そんな自分を情けないと思いながらも、どうすることもできない。  紀尾井寮とは千代田区紀尾井町の高台にある、菱井電業の社寮で、選ばれたる者のみに入寮が許される、いわば、�エリートの巣�であった。  紀尾井寮に入れることは、そのまま、彼が菱井電業の幹部として選ばれたことを示すものである。人呼んで�近衛寮�——岩村の頬が熱くなるのも無理はなかった。 「お前のことは美奈子からもよく聞いておる。儂とて人の親だ。娘の意中の男には特別に目をかけたい。本日付をもって家電事業部テレビ課長代理を命ずる」  盛川の重々しい声を受けながら岩村は感激のあまり声も出なかった。年功序列の厳しい菱電で二十八歳をもって、テレビ課長代理、異例の抜擢である。  しかし、それ以上に彼の声を奪ったものがあった。盛川は確かに「娘の意中の男」と言った。どんなに想いつめてみても、所詮及ばぬ高嶺の花と、岩村は諦めていたのである。  女の美しさを一身に集めて生まれて来たような美奈子を、たとえ一度でも抱くことができれば、そのために自分のすべての野望を捨ててもよいとまで想いつめた女の好意を、その女に対して強大な発言力を有する盛川達之介の口から聞いたのである。 「美奈子はな、何処でお前を見染めたのか知らんが、どうやら、お前に首ったけらしい。道理でこの頃、大した用事もないのに会社へちょくちょく、現われると思ったよ。お前は仕事の方の腕もかなりいいらしいが、女の腕もなかなかたつと見えるな」  盛川はそう言って初めて笑顔を見せた。頬の肉がゆるむと、日頃見馴れた厳しい表情が消えて、意外なほどの好々爺となる。岩村もついつられて微笑んだ。達之介の人の善さそうな笑顔に、やはりこの鉄の経営者も人の親だったかという安堵感を覚えたのである。 「ただしだ」  盛川の次の声は生来の厳しいものにたちかえっていた。岩村の微笑は途中半ばにして凍りついた。経営者というものは笑いまでが短い。 「お前も知っての通り、紀尾井寮には選ばれた者しか入れん」 「よく承知しております」 「いくら儂が親馬鹿で、また、社長の座にあっても、娘のご機嫌を取るためだけにお前を紀尾井寮へ入れるわけにはいかんのだ」  岩村は唇をかんだ。最初の感激がさめてみれば、次に屈辱感とくやしさが胸をかんだ。  美奈子の好意を知ったことは確かに嬉しかった。しかし、彼女の好意だけにすがりついて紀尾井寮へ入るのは、サラリーマンにとって屈辱以外の何物でもないではないか!  自分が今まで社に尽くした貢献は、一切評価されることなく、単に社長令嬢のヒキだけで、ピックアップされる。  自分は決してそんな能無しではない。美奈子のヒキがなくとも立派に入寮資格はあるのだ。男としての評価を受けた上で、美奈子のヒキがプラスアルファされるのであれば、こんなけっこうな話はない。しかし今の盛川の口ぶりからは、美奈子のヒキだけで選ばれたというふうに感じられた。  岩村元信は社長令嬢という強大なヒキの前には、サラリーマンとしての心身を傾け尽くしての�滅私奉公�など物の数ではない卑小感に、打ちのめされたのである。  盛川達之介の冷たい声は、追い打ちをかけるようにさらに続いた。 「正直言ってお前位の力を持っている社員は社内にゴマンといる。その中から特にお前を選ぶからには、他の社員に文句を言わせないだけの働きをしてもらいたいのだ。その働きをしてはじめてお前は他よりぬきん出た社員として自他共に許され、紀尾井入寮許可も、客観公正なものであったということになる。今の紀尾井寮の住人のすべても、そういう働きをした連中だ」 「それでは具体的に何をすれば?」  岩村は立ち直っていた。それこそ、彼の望むところである。いかに美奈子が欲しくとも、彼女のヒキだけで入寮するのは彼のプライドが許さなかった。  過去数年、彼の為した貢献が全く認められなかったのであれば、これから認められるべき何かを為せばよい。しかも、今度為すべき何かは、過去彼が機械と厖大な人の群の間で、寂しく為してきた何かと異なり、盛川が注目してくれている。  大組織に働く人間にとって重要なのは、彼が何を為すかということではなく、彼が為すことを誰が見ているか[#「彼が為すことを誰が見ているか」に傍点]ということである。  男としてどんなに評価されるべきことをしても、�大物�が見ていてくれなければ何も為さなかったのと同じである。  岩村が今まで、心身を傾けて為してきたことは、機械と、精々、課長ずれの小物《ちんぴら》の目の前で寂しく為されてきたにすぎず、盛川の目にとまることはなかった。  だから、岩村自身、紀尾井寮へ入る資格は充分にあると、いくら、一人で気張っても、盛川が彼をピックアップしたのは美奈子のヒキ以外の何物でもなかったのである。  しかし、今度は違う。岩村が為せと命ぜられるべきことはトップの直命である。成否いずれにしても、大物が見ている。今度得るべき評価が岩村の本当の評価である。  彼はむしろ目を輝かして盛川の次の言葉を待った。 「星電研の渋谷、知っているか?」 「しぶや?」 「お前の山仲間、遠い青春の友じゃよ」 「あ、あの渋谷ですか、知っているどころか」 「親友だろう、君らの仲はよく調べてある」  盛川は薄く笑った。先刻の好々爺の笑いとは全く異質のぶきみな笑いであった。経営者ともなれば笑いまでを使い分ける。 「彼を我が社に引き抜いて欲しいのだ。是が非でもな」  そして、それから二人の間に三十分ばかり密談が続いた。  秘書がブザーに呼ばれて社長室の扉を開けた時、次のような会話の断片が彼の耳に入ってきた。 「この工作が成功したら代理ではなく、本物にしてやろう。それまでは肩書きがなくては何かとやりにくいだろうから代理でがまんしろ。それに美奈子とのことも考えてやる」  ここまで言った盛川は秘書の姿を認めると、岩村に向かってもう帰ってもいいと合図した。そして、岩村の姿が部屋の外へ消えるのを確認してから、秘書に、 「通信器機課の淡島を呼べ」  と低い声で命じた。  こうして、その日、岩村、淡島、早川、佐藤、野沢の順で一人ずつ、社長室へ呼ばれたことをたがいに知らぬまま、盛川から、何事か言い含められたのであった。  盛川が五人の青年の�引見�を終った頃には正午が近くなっていた。  盛川は最後の野沢の姿が社長室の外へ消えるのを待ってから、椅子の上で大きく伸びを打った。 「やれやれ、若い奴らには何かと気を労《つか》うわ」  彼は一人ごちながら、デスクから気に入りのハバナを一本つまみ、時間をかけて火をつけた。  一服深く吸いこんでから、紫の芳煙をゆっくりと吐き出して、 「あの中ではやはり、岩村が一番すじがいい。いずれにせよ、美奈子と紀尾井寮の餌であいつら死に物狂いになって働くだろう。彼らの誰かを好きになるか、嫌いになるかは全く美奈子の個人的問題で、親の儂の知ったことではないが、まあ、娘も虫がつかないうちに精々、利用せにゃあな」  と一人ごちたのを今度は秘書も聞いていなかった。 [#改ページ]  ビジネスの笑い 「どうだ、その後、山は?」 「さっぱりご無沙汰だ。行きたくも暇がない」 「おたがい様だな、現役の頃は下界より山にいる時間の方が多かったのにな」 「それだけ実社会の風は酷しいというわけだ」 「全く」 「ところで、花岡とは会うことあるか?」 「結婚式以来一度も会っていない、その点お前と同じだったよ」 「あいつも忙しいんだろうなあ、何せ、奴は大協電社長の養子だから忙しさも俺のような一介のサラリーマンとは桁ちがいだろう」 「そう言うお前も盛川社長の娘とよろしくやっているというもっぱらの噂だぞ、けっこういいセン行ってるんじゃないのか」 「しかし、こっちはまだ何といっても満期が大分先の手形みたいなもんだ。第一、落ちるか、どうかも分らないし、不渡りになったところでどこにも文句を持って行く所もない」 「ははは、ぼやくな、二十代で菱井電業家電事業部、テレビ課長代理、いいセン行ってることに変わりはない」 「そういうお前も星電研技師長、矢継早の新発明で日本家電業界に一大旋風を巻き起こし、日本のエジソンと言われている」 「おい、よせ! 星電研なんて株も第二市場へやっと上場されたばかりの吹けば飛ぶような会社だよ、町工場にちょっと毛が生えたようなもんだ」 「いや、お前がいるかぎり、星電研は近い将来、必ず日本の家電界を支配するぞ」 「さあ、どうだか?」 「いや必ず握る」 「おい、岩村、俺達久し振りに会ったというのに仕事の話ばかりじゃないか。数年前の俺達だったら、山以外は話題にのぼらなかったはずだ。今夜は久しぶりなんだ。これからもそうしょっちゅう会えるというもんでもない。世智辛い話は止めにして、山の話でもしようじゃないか。まあ、飲め」  渋谷は岩村の半分空になったグラスにビールを注いだ。ここはホテルナゴヤの屋上バー、タヒチ。南太平洋の美しい島の名前にちなんだこのバーは、展望と雰囲気がよいので、渋谷はよく利用する。  今日は岩村が出張の途中にひょっこり訪ねて来てくれたのである。 「とにかく、よく寄ってくれた。友アリ、遠方ヨリ来ルアリ、又、楽シカラズヤだ、今夜は飲み明かそうぜ」  渋谷は心から嬉しそうに言った。たとえ、それが自分の選んだ道であっても、研究に明け研究に暮れる日々の中にふとめぐり会った遠い日の旧《ふる》い友は、やはりオアシスのようなうるおいを与えるのであろう。  しかし、そのオアシスもここ数年、大都会の酷しい生存競争に晒されている間に大分変わってしまった。大都会の風化作用といってもよい。今の会話で二人はそれを認めざるを得なかった。それだけ二人の歩んで来た道は嶮しく困難であったわけだ。それぞれに、嶮しさと困難が異質のものであったとしても、平坦な道ではなかったという点で一致していた。  しかし、今の渋谷は旧い友にその風化を認めたくなかった。彼らの結びつきは分かちあった青春の一時期の余韻である。それがどんなに懐しく、純粋な友情による連帯であろうと、要するに過去のものであり、現在を生きるために、たがいの存在は切実なものではない。  何の利害関係も持たぬ、たがいに空気のような存在なのだ。それ故にこそ、若き日の友は永続きし、実社会の生存競争の中にあっても、何の武装もせずに虚心に交わりあえるのである。  ビジネスの世界に友情は育たない、友情とはそれぞれ、異次元の世界に住む者同士の間にはじめて開く、人間のロマンティシズムの花なのだ。——それが渋谷の友情の倫理であった。  だから彼はその夜めぐり逢った旧き友の変貌を認めざるを得なかったが、強いてそれに目をつむろうとした。岩村元信は旧き山仲間である、それだけでよく、それ以外であってはならなかった。 「渋谷」  岩村が渋谷の充たしてくれたグラスを脇によけながら言った。何となく改まった口調である。窓に背を向けて坐った形の岩村は、窓外の名古屋市街のイルミネーションを背負ってシルエットになっていた。それほどに室内の照度は低い。逆光の中に岩村の目だけがキラキラと光ったように見えた。 「何だ?」  渋谷が訊いた。 「俺がお前とただ、�旧きよき山�の想い出話をするためにだけ名古屋にやって来たと思っているのか?」 「何だ、また改まって」  渋谷は目を伏せた。ひたと彼の目に重ねた岩村の視線が眩しく感じられたのである。 「想い出話だけじゃないのか?」 「はっきり言おう。実は俺は社命でお前に会いに来たのだ」 「社命で?」 「お前を星電研からスカウトしてこいという社長命令を受けてな」 「おいおい冗談言うなよ」 「冗談ではない。本気なんだ。ビジネスに冗談はない」 「おい、よせよ。せっかくの酒がまずくなるよ」 「まあ、聞いてくれ。お前の新発明のおかげでうちの家電市場はめちゃめちゃだ。花岡の協電にしたって、いや、日本中の家電業者がコテンパンにやられている。それほどに星電研の、いやお前の製品はすばらしいのだ。そこでだ」 「待て!」  渋谷は手を上げて制した。伏せた瞳を上げて、まともに岩村の顔を見た。二つの視線はがっちりとからみ合った。 「お前の意図は分った。しかし、俺もはっきりと言っておく。俺は星電研を移る意志は毛頭ないとな」 「お前はそう言うだろうと思ったよ。しかし、ここのところをよく聞いてくれ。星電研がいくら優秀な技術陣をかかえていようと、要するに弱小資本だ。さっきお前が言ったように町工場に毛が生えたようなもんだ。そんな所でどれほどの研究ができる? そこへいくと菱井は業界でトップクラスだ、設備も万全だし、研究費も惜しみなくおりる。星電研のような貧弱な設備と資本の下でもあれだけのことをやってのけたお前のことだ。大企業のバックアップの下にやったらもっとどえらいことができると思うがな。お前の才能は星電研のおかげで大分|抑圧《チエツク》されているのだ、お前がやりたいことは�創る�ということであって、お前の製品にどこの商標《ブランド》がついても、それはお前の知ったことじゃあないんだろう。どうだ、ここは一つよく考えてくれないか? お前にとっても才能をもっともっと伸ばせるチャンスなんだぜ。それにそういっちゃあなんだが、今の星電研じゃ、待遇も大したことはないだろう。菱電に移れば」 「止めろ!」  突然、渋谷はテーブルを叩いて怒鳴った。  静かなBGMの流れの中で周囲の人の視線を集めるほどに彼の怒声は響いた。 「いや、大きな声を出して悪かった。だがな、岩村、星電研はな、世間が俺にはなもひっかけなかった頃に俺の才能を買ってくれた所なんだ。確かに、お前の言う通り、最初はブランドなどどこでもよかった。俺はただ、製品を発表したかった。どんなに作りたがってもスポンサーがいなければ研究は進まない。そんな時、海のものとも山のものとも分らない俺の才能を認め、投資してくれたのが星電研だ。男が男の才能を認めて買う。お前はなにわ節だと笑うかもしれないが、俺にとっては大したことなんだ。才能なんて最初に拾ってくれる人がいなければ屑みたいなもんさ。どんな異才も最初にプロデューサーが推進力を与えてくれたからこそ無限の成長をするのだ。確かに、星電研の設備は貧弱さ。研究費も乏しい。しかし、俺の製品には星電研のブランドがつけられなければならないのだ」 「渋谷、感情に走るなよ。今のお前は星電研の渋谷ではない。日本の、いや、世界の渋谷なのだ。それだったら、それにふさわしい所で働いたらどうだ。ビジネスに感情は禁物だよ」 「お前、おかしなことを言うな。それなら何故、俺が菱井に行かなければならんのだ。大手は菱井だけじゃない。協和でも、古川でも、松下、日立、東芝、どこだっていいはずだ」 「渋谷、お前、俺達が命の危険《リスク》を分かち合ったザイルパートナーだということを忘れてはいまいな? 俺達が四年間、岩と雪と風の中で分かち合った青春は、俺達の間に全く何の意味も残さなかったと言うのか?」 「岩村、友情とビジネスを混同するなよ。今の俺達の話はビジネスなんだ。俺達が山でザイルを結び合ったことと今の話とは何の関係もない」 「しかし」 「いいか、ビジネスに感情は禁物だと言ったのはお前だぞ。そのお前が甘い青春の友情に訴えて俺を星電研から引き抜こうとしている。おかしいじゃないか」 「…………」 「もう一度言う。俺は星電研を移る意志はない。今も、そして将来もだ。そして今日のことは、俺達の友情とは全く何の関係もない。俺とお前とは依然として�旧き山仲間�なのだ。ビールの気がすっかり抜けてしまったじゃないか、河岸を変えて飲み直すか」  渋谷は努めて明るく笑った。岩村も同調した。しかし、二人の笑いからは友の間に見られる健康な屈託のなさは失なわれていた。それはすでに�ビジネスの笑い�であった。  ホテル専属の黒人女の歌手が唄い始めた。豊かな声量で胸に沁み通るような声だったが、何故か二人にはそれが偽わりの声のように虚しく聞こえた。それもビジネスの歌声であったからか、ミラーボールがめまぐるしく回転していた。  渋谷夏雄がもう一人の山仲間、花岡進の五年ぶりの訪問をうけたのはその翌日である。  旧きよき日のアルトハイデルベルク時代の想い出に花を咲かせた渋谷は、結局、花岡の目的も青春の懐古談にはなかったことを知って、今日と同様の落胆を重ねなければならなかった。 [#改ページ]  種馬の復讐 「渋谷のスカウトは無理だな」  花岡進の面目なさそうな報告を聞いた花岡俊一郎は案外、淡々とした口調でいった。どんなに激しい罵声を浴びせられることかと、戦々兢々としていた進は、意外に穏やかな俊一郎にかえってとまどった。 「どうせお前には無理な工作だと思った」  しかし、その後に続けられた俊一郎の言葉に、進はおずおずと上げかけた視線をふたたび伏せた。この方が激しい叱責よりもよほどこたえる。  静かな口調の裏に隠された自分の無能への嘲り、進は唇をかみしめた。そんな彼の心を見すかしたように俊一郎は、 「そんなにくやしそうな顔をせんでもよい、誰がやっても無理な仕事だった」  と慰め顔につけ足した。 「それでは、最初から、結果をごぞんじだったのですか?」  それなら何故、そんな無理な命令を出したのか? やや憤然として言う進へ、 「怒るな、なるべくなら穏やかな方法でやりたかったのだ」 「穏やかな?」  とすると、次には穏やかではない工作が用意されてあるというのか? 「そうだ、自分にとって不利益なものを取り除く最も端的な方法は、それを抹殺することだ。しかし、この法治社会でそんな直線的なことができるはずがない。とすれば、次には敵を自分の味方に変えるちえとなる。ちえとしては最上だが、これは簡単なことではない。まず第一工作は失敗というわけだ。しかしよく考えてみろ。今度の失敗は渋谷だけに関することだ」  俊一郎は妙なことを言った。渋谷のスカウトに失敗すればそれは完全な失敗ではないか。  渋谷が欲しいからこそ彼を抜こうとした。それに失敗したからにはそれ以上の失敗はない。 「渋谷がどんなにえらそうなことを言っても、所詮、奴はサラリーマンだ。星電研に雇われているにすぎない。たまたま、その雇用関係がなにわ節と結婚によって一般サラリーマンのものよりも強い連帯に結ばれていたから、彼はスカウトに応じなかった。とすれば、こいつはそのまま逆用できる。どう逆用できるか、分るか?」 「……?」 「お前には分るまい。一晩、家でゆっくり考えてみろ」  俊一郎は口を結ぶとインターホーンのスイッチを押した。 「山路君を通したまえ」  秘書のかしこまった返答を待たずにスイッチを切った俊一郎は、進に目くばせした。  それはもう用はすんだから出て行けという合図である。  扉のところで秘書に案内された一人の来客とすれちがった。たった今、俊一郎がインターホーンで呼び入れた山路という男である。進はその男を知っていた。協電の幹事証券会社たる井口証券の株式部長、山路紫朗であった。  微光の一筋も射さぬ暗黒の中で進は妻の躰から降りた[#「降りた」に傍点]。いつものことながら、いったい、今自分は何を為し終ったのだろうかと思わずにはいられない索漠たる空しさが胸に湧いた。  この妻の躰は女の肉体ではない。肉づきもよく、女盛りのしっとりとぬめった彼女の肌は、唯物的には上物であった。  求めれば決して拒まぬ従順さで進の前に開く順子の躰には、確かに妻だけが持つ確実さがあった。しかしただそれだけのことである。  性を交えることは決して異質な肉の結合だけではない。たがいに或る一点に向かって同時に至るために震え、悶え、たがいの汗を吸い合い、狂おしく噛み合うことだ。肉と骨がどろどろに溶けるような感覚に溺れこんで、一人だけでも、また、第三者の前でも決してとることのない恥知らずの痴態を、たがいの目の前に晒しながら、たがいの肉を露骨に貪り合わなければならない。  この何ともなま臭く、淫靡で、原始的な二つの性の協同作業が緋のように彩られるのは、少なくともその瞬間、たがいに相手方を自分の快感の媒体として自分自身が、日頃の慎みも身分も地位も打算も、その他、人間が社会生活上身にまとうもろもろの�飾り�をかなぐり捨てて、動物そのものの姿に還って狂気するからである。  セックスが辛うじて美しいのは人間が人の目の前の一切の虚飾をかなぐり捨て、肉欲と快感のために狂うからだ。  単に躰を開き、男の体液を生殖のために体の奥へ蓄えるだけであったら、それは生殖とは呼べても、性を交えたとは言えない。  進と順子の行為がそれであった。順子は進のために躰を開いても、決して同調はしなかった。閨房の中でどんな微細な灯をつけることも許さなかった。どんなに進が性のテクニックを尽くしても、呻き声一つもらさず、肉の襞《ひだ》の一片も震わさなかった。漆のような暗黒の中で男の躰を辛うじて受け入れる程度の角度に下半身を開き、男の波が高まり、至り、そして退いて行くのを静かに待っているだけである。  暗いので分らなかったが、進は女の躰の上の単調作業を繰り返しながら、暗黒の中からひたと自分に注がれている妻の冷たい視線を痛いほどに感じるのであった。従って、彼も妻と行為する時には常に目を開いていた。  たがいに目を開いたままのセックス、——自分は順子の躰に流れる花岡家の純血を絶やさぬために雇い入れられた種馬である。  日本財界の名門、花岡家の一人娘として生まれた順子は、その名家の血液を伝える人間にふさわしく、すべての人間が狂うべき性交すら子孫に純血を伝える神聖な行事として見ている。  いや、この気位の高い女にとって性はそれ以外の何物であってもならなかった。  彼女にとって夫は種馬にすぎない。自分はその男の体液を受け止めさえすればよい。  進は行為の都度、妻の躰が水道の蛇口の前に置かれたプラスチックの容器のように思われてくるのだ。  行為が終った後も順子はその姿勢を崩さなかった。  順子にとって男の体液は貴重なものであった。一滴でも雫《こぼ》すようなことがあってはならない。しばらくの間はそのままの姿勢で受け止めたばかりの男の粘っこい体液を、芳醇な酒を醸《かも》すように体の奥深い所で暖めなければならなかった。 「馬鹿めが!」  闇の中に妻のそんな姿勢を想像して、進は彼女に聞こえないようにつぶやいた。  順子は知らぬ。進がひそかに、精管《パイプ》切断《カツト》の手術を施していることを。進の体液の中には順子の欲する、いや、花岡家の欲する精子《たね》はなかった。  パイプカットは二年位の間ならば復元できる。そのうちに不妊の原因を医師を買収して順子のせいにすれば、純血を伝えることに熱心な、この見識の高い愚かな女は、妻としての屈辱を耐えて自ら進に妾を持てと薦《すす》めるであろう。そうすることにより生物的な純血は途絶えても、名門花岡家の人脈は続くことになる。  そうなれば天下晴れて�公認�の好みの女に、切断した精管を復元して自分本来の精子を仕込む。やがて、天下の名門、花岡家はこの俺の血が完全に乗っ取ることになる。進はほくそ笑んだ。  それが種馬として彼を雇った妻と花岡家に対する痛烈な復讐であった。 「馬鹿め!」  進は闇の中で笑った。彼は妻の姿に、いくら抱いても孵化することのない、瀬戸の疑似卵を必死に暖めている哀れで滑稽なめんどりを見たのである。順子の躰を抱くことは、そのまま進の復讐であった。  順子の躰から降りた進は、昼間の俊一郎の謎めいた言葉を思い出した。  俊一郎は言った。渋谷と星電研の雇用関係が強ければ、それを逆用してやると。それは一体どういう意味か? 「灯、つけてもいいわよ」  酒を暖め[#「酒を暖め」に傍点]終った順子が言った。「このままでいい」  進は素気なく答えた。答えながらハッとなった。灯があればこそ様々の物が見える。様々の色彩も、塗料が光の一定のスペクトルを吸収することによって生じる。光がなくなればどんなに美しい、どんなに強烈な色も見えなくなる。  渋谷夏雄は一つの色だ。それがどんなに強烈なものであろうと、星電研という光によって見えるのである。ならば、渋谷という色彩を消すためには星電研そのものを消せばよい。  ここにおいて、彼と星電研の強い連帯がものをいう。彼にとって必要なことは星電研という組織の中で働くことであって、星電研そのものがさらに上部組織に吸収されても彼の知ったことではない、——はずであった。  星電研の吸収。そうだ、それにちがいない。進は闇の中でひとり、相槌を打った。  彼は昼間、社長室ですれちがった一人の男を思い出した。目の鋭い痩せた男、平凡なサラリーマンからはとうてい感じられない勝負師の気魄を放射していた。井口証券株式部長の肩書きを持つ山路紫朗が、俊一郎を訪れていた理由もはじめてうなずける。  しかし、それには厖大な資本力がいる。  花岡家がいかに名門であろうと、それほどの資本があろうとは思われない。また、当主の俊一郎が協電の社長の地位にあり、協電がいかに大資本であろうと、公金をたかが一社の買い占めのために動かすほどの専断ができようとは思われぬ。  第一、渋谷個人にそれだけの価値があるか? 一人の男を得るために、その男の属する組織そのものを吸収しようとする。  何と雄大で、かつ、無謀なる計画だ。ただ、一人の男のために、——  進はベッドの中で転々とした。俊一郎の大体の目論見は分ったものの、まだまだ残されたいくつかの疑問点が彼の目を冴えかえらせたのである。  かたわらから妻の健康な寝息がもれてきた。おそらく、進の躰を受け入れたままのしどけない姿勢で眠りに落ちたのであろう。彼はその時、妻に対して殺意に近い憎悪を覚えた。 [#改ページ]  非常空間  翌朝、進を呼び寄せた花岡俊一郎は、秘書が退がると同時に、 「どうだ、分ったか?」  と訊いた。 「はい、大体」 「言ってみろ」 「星電研の吸収では?」 「ほほう」  俊一郎はのどの奥からもらすような声を出した。 「その通りだ、お前にしては上できだ」  種馬にしては上できだ、と言ったのと同じである。進は屈辱感を、この頃は持ちまえのものになったポーカーフェイスの下に押しこめながら、 「しかし、まだ腑に落ちないことが二つあります」 「何が?」 「まず、第一に星電研は東京、大阪の第二部市場に上場されているとはいえ、資本金一億二千の過少資本で浮動株が少ない。株の過半数は星川社長をはじめとする星電研創立者の一族や安定株主によってかためられております」 「当然の疑問だな」  俊一郎はうなずいた。  株式会社の経営を支配する最も手取早い方法は株の買い占めである。最も多く持てる者が勝つという資本主義の非情なる原則は、株式保有率において最も端的に表現される。  どの程度の株を集めればその会社を握れるかはその株式の分布図により一律には言えないが、経営支配権を握るためには五割以上を必要とすることは素人にも分る。  しかし、この種の買い占めは、株式の大部分が投機的で浮動性の強い個人株主の間に分散している場合は資金さえあれば容易なのであるが、星電研のように典型的な過少資本で、個人的色彩の強い会社ではきわめてむずかしいのである。  進はそのことを言ったのだ。 「お前の言う通り、資本金一億二千万円、総発行株式二百四十万株のうち、約六十万株は星川社長をはじめとする創立者群によって保有されている。その他、名京銀行が十五万株、ホテルナゴヤが三十万株、中京証券が十五万株で総計百二十万株、その他にも創立以来の安定株主も相当いるはずだ。とすれば、市場に出廻っている株はせいぜい三割、下手をすれば、少数株主権すら確保できなくなる」  発行株数の二割五分、即ち四分の一を抑えると、商法による少数株主に対する保護が与えられるようになり、会社側は買い占め派を制するための勝手な真似ができなくなる。  二割五分をおさえるのは買い占めを狙った場合、買い占め派がとにもかくにも辿り着かなければならない第一橋頭堡であった。 「ま、それに答える前にお前の第二の疑問とやらを聞こうか?」  俊一郎は顎をしゃくった。 「発行株式の半数をおさえるとして、百二十万株、時価三百六十八円、買い占めによる高騰を含んで平均買入価五百円として計算すれば買い占めに必要な資金は六億円になります」 「分った。それだけの資金をどう捻出するかというのだろう?」 「はっ」 「いかに儂が協電の社長でも、取締役会にかけずにそれだけの資金を動かすことはできない。また、よしんば取締役会にかけても重電の強硬な反対にあうことは目に見えている。そこでだ」  俊一郎はテーブルの上にやや身体を乗り出した。進もつられて身体を前かがみにした。 「お前、儂が協電の株をどれ位持っているか知っているか?」 「……?」 「十万株だ、その他に花岡一族の保有株が合せて十万株ほどある。それ以外にも儂の指示でどうにでも動くものが百三十万株ある。総計、百五十万株——資本金八百億円、発行株式総数十六億株の一%にも充たない微々たるものだ」  それが星電研の買い占めにどんな関係があるのだと言いたそうな進の顔色を無視して、 「ここのところ、弱電、重電両部門の不振で、配当はどうにか一割を保っているとはいうものの、時価、百二十六円、全部、叩き売ったところで一億八千九百万円、とうてい、星電研買い占め資金には足りない。  それに社長たるものが自社株を売り払ったとなれば穏やかではない。重電側が巻き返すための絶好の材料とされる。しかしだ、……こいつを誰にも知られないように売り、誰にも気づかれないうちに買い戻したらどうだ?」 「そんなことができますか?」 「できるさ。つまりだ、名義書換停止中にやるのだ。我が社の決算は五月。六月一日から七月二十五日の株主総会までは株主名義の書き換えが停止される。この期間を狙って、今試作中のマイクロカラーテレビが近々完成と流す。星電研より一歩先がけての好材料に株価は当然、上がる。高値になったところで売り抜け、七月二十五日までに今度は逆の悪材料を流して一気に反落させる。いいかげん底をついたところで買い戻せば、書き換え停止中に株は馬鹿な買手の間を往復しただけで本来の名義人の所にちゃんと戻っている。ちょっと外出しただけで、外出の証拠すら帳簿には残らない。残るのは厖大な利ザヤだけというわけだ。  まず、売り高値が五百円位、買い戻し値が百円として、一株平均四百円のサヤだ。操作可能株数が百五十万株あるんだから、このちょっとした工作でいくらの金がひねり出せると思う」  花岡俊一郎はニヤリと笑った。ふだん、めったに笑わない俊一郎の笑顔は、斃《たお》した敵の死体を貪る食屍鬼《グール》のように陰惨であった。進は権力の座を悪用したむしろ壮大ともいえる�資金繰り�に声も出なかった。 「ここでお前の第一の疑問に答えてやろう、好材料と悪材料でドデンを打てば当然、会社の信用が傷つく。だから、書き換え停止が解けたら、ふたたび、好材料を打ち出して、株主のご機嫌を取り結ばなければならん。そいつに、星電研のポケットカラーテレビをはめこむのだよ」  進は俊一郎のあくどさに舌を巻いた。手持ち株を社長の座を悪用工作して、厖大な利ザヤを稼ぎ出し、それを資金に星電研を乗っ取る。そして乗っ取った会社の商品をもって株価工作で喪った信用を回復しようとする。  権力と商法の盲点を縦横に駆使した正に一石三鳥の布石であった。進は俊一郎の姿に資本主義社会の妖怪を見る思いがした。 「しかし、買い占め資金ができたとしても、星電研株の買い占めには依然として難点が残りますが」  進はようやく発言の機会をつかんだ。協電の株価工作と、星電研株主の結束とは何の関連もないのだ。いくら資金があっても、株主が株を手放さないかぎりお話しにならない。 「ふぁっふぁっ」  俊一郎は肩をゆすって笑った。 「お前は儂を相当にあくどい人間だと思っているだろう、いや、いいのだ、隠さなくとも。儂自身、自分があくどい人間だと思っている。しかし、本当の儂はお前が考えているより遥かにあくどい人間なのだ。資本金八百億、系列会社十数社、関連会社や下請けを入れたならこの協電のおかげでめしを喰っている人間は数もはかれん。そういう厖大な組織の頂上に座し、内にあっては反主流派を抑え、外にあっては血で血を洗う資本競争に生き残っていかねばならん。冷酷と蔑まれようと、非情と罵られようと、それに徹せられない人間にはこの椅子に坐る資格はない。  いいか、儂が今、坐っている椅子をただの椅子だと思うなよ。この椅子は何千何万の人間の生活がかかり何千人のエリートの血みどろの競争が収斂《しゆうれん》されたものであり、そして絶えず血潮を流さなければ保持していけないものなのだ。その血潮の一滴が今度の星電研なのさ。星電研株主の堅いことは百も承知、しかしだ、創立者や安定株主といったところで人間の欲に変わりはない。株価が下がれば何とか高値のうちに売り抜けようと焦るだろう」 「しかし、今の星電研は相次ぐ新製品の発表で業績は好調、一割五分の高配当を続け、株価も堅いですよ」 「だからそれが崩れるような悪材料を流せばよいではないか」  俊一郎はこともなげに言った。 「悪材料? そんなもの何もないじゃありませんか」 「造るんだよ。なければ造るまでだ。現在星電研で開発しているポケットサイズカラーテレビはインチキである。三原色を分解する三色受像管《トライカラーチユーブ》が、ポケットサイズに縮小できるはずがない。これは星電研の業績を粉飾するための悪質な工作であるとでもな」 「しかし、そんなことをすれば業務妨害罪で訴えられます。星電研のカラーテレビが本物であることは社長もご存知のはずではありませんか」 「知っておるとも。いやしくも、渋谷が開発しているものだ。インチキのはずがない。しかしな、本物、必ずしも本物でない場合があるぞ」 「……とおっしゃいますと?」 「我々の謀略で作為した悪材料を流せば、星電研はいやでも試作品の発表を急がねばならなくなる。公開する試作品は、ただの一台、どんな工作でもできようというものじゃないか。こんな日もくるだろうと思って渋谷の助手につけた杉田技師は、儂が学生時代から面倒を見ていた男なんだ。  儂の命令一下、杉田は積年の恩顧に報いんものと発表直前に試作品の部品《パーツ》のすげ替えをやってくれるだろう。全国のマスコミ関係者が固唾をのんで見ている前で、スイッチをひねられたテレビには白黒の映像しか映らん。こいつはマスコミを狂喜させるだろう。それまでに流した悪材料に半信半疑で横這いをしていた株価は一気に崩れる。その機を外さず買って買って買いまくる。おそらく、浮動株はこの時に全部抑えられるだろう。いいか、買い占めのチャンスは杉田がどの程度のテレビ工作ができるかにかかっている。簡単には修理不能の工作が施せればそれだけ我々の株は増える。渋谷がテレビを再生して今度こそ本物のカラーテレビを公開するまでのわずかの間が勝負だ。この間に星電研株の過半数を制さなければならない。  お前はその間、あらゆる策略をつかって渋谷の再公開を妨げるのだ。星電研内にあってお前と呼応して妨害工作を施すべく杉田以外に数人の男を入りこませてある。皆、儂が学費を出して大学を出してやった奴らばかりだ」 「それではすでに学生時代から協電のスパイを養成しておられたのですか」 「スパイ? 人聞きの悪いことを言うな。匿名社員と言って欲しいな。一度入社させた社員は企業謀略担当スタッフにはなかなか仕立てられない。社籍にのってしまうからな。退職届を出したところでライバル会社は信用せん。しかし、どこの社でも新卒には心を許す。まさか純真な新入社員がライバル社のヒモ付きだとは思わない。それどころか、自社の将来の幹部候補生として採用するおめでたさだ。だから、儂はもの[#「もの」に傍点]になりそうな学生には、学生時代からコネをつけておいた。今でも一流名門校に三十人位は我が社の匿名社員がおるわ。彼らが将来、ライバル会社の幹部候補として潜りこみ、どんな働きをしてくれるか。それを思えば安い投資じゃないか。  お前の役目はさし当たり彼らを使い、渋谷の再公開をできるだけ遅らせる。それから、大株主のうちの一人か二人を落とせ。実験再公開前の星電株など額面を割りかねないボロ株に堕ちる。買い占めによる品薄値上がりも大したことじゃあない。先様が買い占めと気がついた頃には、儂の手許に過半数の星電株が集められているという寸法だ。要するに、過半数さえ制すれば渋谷のみならず、彼が心血を注いで開発した新製品のパテントはそっくりそのまま、協電のもの、いや正確には儂のものになる。儂は星電研を吸収した余勢をもって一気に強電を押しまくる。それでなくとも大得意先の鉄鋼業界をゆさぶる大不況のあおりを受けて青息吐息の強電は、星電研の製品で一気に市場シェアを拡大した弱電に、完全にとどめを刺される。強電の協和を弱電の協和に体質を変える。  そのためには手段を選ばない。死にたい奴は勝手に死ね。自分が生き残るためには感傷や情けなど一片も持てないのだ。いいか、今度こそうまくやれ。単に渋谷という人間一人が欲しいための乗っ取りではない。彼を含む星電研の吸収が我々の生き残るための唯一の手段であることを胆に銘じておけ」  進の胸に俊一郎の執念といってもよい気魄がひしひしと沁みた。  秘書室を前衛にした完全防音、完全空調、空気浄化装置のほどこされた社内で最も豪華な空間、緋の絨毯を敷きつめた上に九点と五点セットの二組、バストイレのほかに電気冷蔵庫まで備えつけられてある。そしてその豪華な設備と装飾の中央には、マホガニーの机を控えた総皮張りの社長の椅子。俊一郎はそれを冷酷非情なる者のみが坐る資格があると言い、無数のエリートの血みどろの競争が収斂《しゆうれん》されたものであると断じた。  そして、その座は分秒たりともそれを保持するための努力を怠るならば、たちどころに奪取されるという酷烈の場所であるとつけ加えた。  ソファにたゆたゆした豊かな体躯をゆったりと任せている俊一郎は、一見、我が世の春を楽しむ大社長の風情だったが、それはかつての日、進が立った目もあけられぬ風雪の吹き荒ぶ山頂以上に酷しい場所に毅然として耐えている姿であった。  しかし、そこがどんなに酷しい場所であろうと、サラリーマンとなったからにはいつかは必らず到達しなければならぬ場所であった。  そこだけが組織の中で去勢された男らしさを回復するべき唯一の空間であったからだ。  進は深く一礼すると扉に向かって静かに歩み始めた。秘書室を通り廊下へ出る。社長室を挟んで副社長、専務、常務の役員室が並んでいる。広々とした廊下には同様の緋の絨毯が敷きつめられ、人影一つ見当らなかった。企業の謀略と資本戦争の総司令部とはとうてい信じられない深海の底のような静寂の中に沈んでいる。  彼には絨毯の燃え上がるような緋の色彩が、野望にとり憑かれて這い登って来た無数の男達の滴々としてしたたらせた血の痕のように思えた。 [#改ページ]  水の砂城  昭和四十×年七月十三日。——  ホテルナゴヤ二十二階にある中宴会場、雲海の間に早朝から百人あまりの人間が詰めかけた。  人の数は九時を廻る頃からますます、増えた。  ホテル側では約百名という予約で雲海の間一室をおさえていたが、押しかけてくる人々をとうてい収容し切れないと判断し、急遽、隣室の日輪の間を開放した。  定刻十時には約二百名近い報道関係者で二つの部屋はごったがえしていた。  今日は星電研の渋谷技師による話題のマイクロカラーテレビ初の公開実験の日であった。  詰めかけた報道陣や業界関係筋は、定刻が近づくのを固唾をのんで待ち構えていた。 「ポケットサイズのカラーテレビなんて本当にできるのかな?」 「もしこれが本物ならトランジスター、マイクロテレビにつぐ電子工業界第三の革命ということになる」 「とにかく、日本のエジソンといわれる渋谷技師のイニシャティブの下に星電研技術陣が総力をあげて開発したものだ、インチキではないだろう」 「しかし、この頃の黒い噂はどうだ、白黒テレビより遥かに複雑な構造内容を持ったカラーテレビを、現代の電子技術でポケットサイズに縮小できるはずがない、明らかなまやかし物だという」 「そうだ、一部の消息筋では子供だましだと嗤《わら》っているそうだ」 「完全自動洗濯機や永久バッテリーで鰻のぼりだった株価もここのところ横這いだ。今までの星電研の業績から悪材料に気迷っているらしい」 「本物となれば一気に値を飛ばすし、インチキとなればいっぺんに崩れる」 「このなかにも株屋さんが大勢混じってるんじゃないかな」 「いずれにせよ、あと三十分ほどで分ることだよ」  記者連はてんでに勝手なことを言いながら定刻になるのを待ちかねていた。  その頃、大阪の井口証券では—— 「村田証券、菅野証券、すべて手配したな」 「はい、すべてご指示の通りに」 「星電研は今日から四日間ほど、連日ストップ安をつける。もう少し待てば額面を割るところまで行くかもしれないが、四日以上は待てない。実験を再公開されたら今度は逆にストップ高だからな。百円を割ったところで一気に買え。いいか、一株も逃がすな。星電研の浮動株はこの機に全部拾うんだ」  部下に指示しているのは山路紫朗であった。  ある株式に好悪の大きな材料が出た場合、株価は大暴騰や大暴落をして、利回り採算など全く無視した投機的な空気が濃くなり、市場は大混乱に落ち入る。  この混乱を防ぐために一日の株価の上下に制限をつけたものを、ストップ高、安という。  この値幅制限は二百円以下のものは五十円、二百円をこえて五百円までは八十円となっているから、時価三百四十二円の星電株は二百円台を割るまでは一日に八十円以上は下がらないことになる。  とすれば、百円の大台を割るのは四日目ということになる。その時を待って一気に買い集めようという作戦である。  従って、その間どんなことがあっても渋谷の再発表を妨げねばならない。株式市場と実験妨害工作との水ももらさぬ有機的連係によって、この作戦は成功するのだ。  しかも、買い占めが協電花岡社長の手によるものということは絶対に伏せねばならない。ライバル会社の株の買い集めは、独占禁止法によっても禁止されているのだ。井口証券は協電の幹事証券である。井口が先頭に立って買い進めばたちまち協電との糸を知られてしまう。ここに大阪は菅野証券、東京は村田証券という井口の友好店を使って買う理由がある。  この友好店は他の大手証券ともつながっており、彼らを矢面に立てれば容易に友好店——井口証券——協電というつながりはたぐられない。  ここに戦闘準備完了、あとは公開実験の結果を待つばかりとなった。  午前十時、定刻である。星川社長、高井副社長、長崎専務等、星電研首脳陣に護られるようにして、渋谷主任技師が雲海の間に入室した。  続いて星電研の技師団、境のシャッターを取り払った雲海、日輪の両室に詰めかけていた関係者のざわめきが、一瞬、水を打ったように静まる。  星川社長が中央にしつらえられた壇にのぼった。 「皆様、本日はわざわざご足労いただき有難うございました。ただ今から我が社が研究開発いたしました、我が国最初のマイクロカラーテレビ|MLT《ムルト》—3の公開実験をさせていただきます。まず、最初に渋谷主任技師より、製品についての簡単な説明をさせていただきます」  星川社長の挨拶と共に渋谷が立ち上がった。  室内に小波のようなざわめきが広がった。 「あれが日本のエジソンといわれている……」 「渋谷か」 「星電研のドル箱だ」 「それにしても若いな」 「そんな大それた人物にはとうてい、見えないね」  初めて渋谷を見る関係者は彼の若さに驚いた様子である。  ざわめきは渋谷が話し始めると同時に静まった。 「渋谷です。ちょっと機械について説明させていただきます。カラーテレビの基本原理は従来の白黒テレビと変わりませんが、構造技術的に様々の難点があります。まず、被写体を赤黄青の三原色に分解して、三本の電子銃により三つの映像信号をつくる。これを三つの伝送管を通して三色受像《トライカラー》 管《チユーブ》に送り、ここで三原色像を光学的に重ね合わせるのがカラーテレビの原理です。従って白黒テレビの約三倍のメカニズムが要求されます。ただでさえも大型化し易いカラーテレビを、ポケットサイズに縮小することはほとんど実現不可能と諦められておりました。  我々は従来三本の電子銃をもった三色受像管を一本に集約できる可能性を考えました。  我々技術陣がこのヒントに基づき研究開発したものが、ただ今から公開実験いたします試作品MLT—3でございます。まだ試作の段階で技術的に改良すべき点が多々ありますが、遅くとも本年中には量産体制に入れる見通しをもっております。それではただ今から実験に入ります」  満場に盛大な拍手がまきおこった。星電研の運命が、いや、電子工業界の第三の革命が正に幕を開けようとしている。  ホテル二十四階にある赤電話という赤電話は、マスコミ関係者と業界筋の手の者により、完全におさえられた。実験結果が判明すると同時に、彼らの本拠へ直ちに報告できるように、それぞれの手の者が送受器に意味もない無駄話をしながら�その瞬間�を待ち構えている。  特に証券会社の場合、成否いずれにしても、連絡の遅速に莫大な金がからんでいた。成功ならば買い、失敗ならば売り、分秒の遅れで天文学的利権のからむバスに乗り遅れるのである。  抜目ない関係者はホテルのボーイを買収して、ホテルの業務連絡用電話を抑えていた。  渋谷技師が立花技師に合図をした。雲海の間中央にしつらえられた会議用デスクの上に小さな桐箱が置かれた。心もち震える手で内容物を取り出す。問題のMLT—3である。二百数十の欲望と好奇に充ちた視線が立花の手許の一個の物体に集中した。一見、何の変哲もない黒い鋼鉄の小箱、しかし、その前面の猫の額ほどの受像管蛍光面には、今まさに驚異の色彩が現出しようとしている。  立花はコードを電源に接続した。そして、——スイッチをONにした。  一座の人間すべてが呼吸を止めたかのような異常な静寂が落ちた。誰かが生唾を呑みこむ音が異様に大きく聞こえた。  ……蛍光面に映像が上下に流れた。立花技師が慌てて垂直同期つまみを調整する。続いて輝度調整、コントラスト調整、……遂にはっきりした映像が現われた。白黒である!  立花は慌てずにチャンネルを切り換えた。  白黒放送であったらしい。次のチャンネルも白黒、さらに次も。立花は切り換え速度を速めた。カチッカチッという選局切り換え音が耳に痛いばかりに響く。そして、ふたたび、最初のチャンネルへ戻ってきた。  おかしい? と言わんばかりに、立花は首をひねった。まだ当惑の表情には至っていない。この時間帯全部が白黒番組かもしれない。  しかし、そうとすればずい分と不注意な話である。カラーテレビの公開実験をするのにカラー番組のない時間帯を選ぶとは!  立花はもう一回り選局スイッチを回転してみた。結果は同じである。ようやく彼は当惑の表情を浮かべて、救いを求めるように渋谷の顔を見た。しかし、渋谷にも原因は分らなかった。公開実験の日時は星電研の営業企画室が決めたものである。渋谷としてはまさか、彼らがカラーテレビの公開実験を、白黒番組オンリイの時間帯に入れようとは思ってもいなかった。  婦人向けの座談会らしく、受像管には美しく着飾った女達が楽しそうに語り合っている。  渋谷は彼女らの屈託なさそうな笑顔に憎悪感を覚えた。関係者の間にざわめきが湧いた。しかし、まだ誰も電話に走ろうとする者はいなかった。 「テレビ番組表を、急いで!」  高井副社長が傍の秘書に小声で命じた。彼もこの失態は営業企画にあると信じたのである。  日本のエジソン、——渋谷夏雄が世界に誇る星電研技術陣を率いて開発したMLT—3がまやかし物であるはずがない。彼のみならず、星電研関係者が渋谷に寄せる信頼は絶対であった。それだからこそ、この失態に直面しても、割合に落ち着いていられたのである。  しかし、秘書は立ち上がる必要がなかった。  彼が副社長の命令を果たすために腰を浮かしかけた時、映像の下方に無惨なほど鮮明に〈カラー〉と字幕が映ったのである。営業企画の過失ではなかった。  一瞬、星電研関係者の顔面から血の色がすっと消えた。愕然として息を呑んだ次の瞬間には、悽愴なまでの緊張が収拾のつかない混乱によって置き換えられた。 「インチキだ!」 「連絡を急げ」 「売れ! 売れ!! 売って売って売り抜けろ」  彼らは争って出口へ殺到した。奔流が堤防の小さな決壊口に殺到するように、二百人余の人間が一分一秒も早くこの情報を外界に伝えるために、たかだか三、四人も並べば塞《ふさ》がってしまう出口に向かって犇《ひし》めいた。  押し合い、へし合い、こづき合い、ラッシュ時の通勤電車どころではないもみ合いが、二米足らずの空間を通りぬけるためにくり広げられた。資本主義社会の戦いがこの瞬間この一点に集中されたかのような凄じさで人々は争った。  たまたま、入口付近に居合わせた不幸なボーイは人間の奔流に弾き飛ばされ、彼が運んで来た銀盆の上のジュースやコーラは絨毯に吸われ、徒らに人々の靴の底をしめらせただけだった。  弾き飛ばされたものはボーイだけではなかった。中央デスクの上のMLT—3は人々の渦の中に巻き込まれ、渋谷と立花がとめるひまもない間にデスクもろ共、床の上に押し倒され、無情な人間の土足にかけられてしまった。  哀れな一個の物体[#「物体」に傍点]はサッカーボールのように人々の土足に玩ばれ、蹴り廻され、転がされた。人々の中には憎しみを叩きつけるように故意に踏みつける者もいた。足から足へパスされている間に渋谷夏雄の精魂を傾けた、星電研の期待を一身にになったMLT—3は哀れな屑鉄と化してしまった。  アンテナはへし折られ、受像管は粉砕され、破壊された断面から複雑な内容物を、内臓を露出した動物の死体のようにはみ出していた。 「これは一体、どうしたことだ?」  星川社長の誰にともない空ろな呟きが暴動のような混乱の中で渋谷の耳に痛いばかりに届いた。  しかし、今の渋谷にできることは、呆然と立ちすくんで人々の奔流が退くのを待つことだけであった。  三百四十二円の高値のまま横這いを続けていた星電研は、売りが殺到してその日のうちにストップ安をつけた。  ここにおいて花岡俊一郎がかねて流しておいた星電研の黒い噂が素晴しい効果を現わした。今までの同社の画期的な製品群の�余光�に悪材料がすぐには信じられず気迷っていた大衆投資家は、インチキカラーテレビの報にひとたまりもなく崩れた。  今、売らなければ高値づかみになる。市場は売り、売り、売り、売り注文ばかりが殺到した。こうなればもう燎原の火である。浮動株についた火は地元の星電研創立以来の安定株主にまで延びてきた。  星電研が営々として築き上げてきた栄光が、水を浴びせられた砂城のように、みるみるうちに崩れ落ちていくのである。  前場四十円安をつけた星電株は、後場にも投げ売りが続き、遂にストップ安をつけた。  その情報をほくそ笑みながら聞いていたのは花岡俊一郎と山路紫朗であった。 [#改ページ]  薬と蛆《うじ》と肉と 「何! 大井が睡眠薬を服《の》んだと」  渋谷は受話器を握ったまま愕然としてよろめいた。 「駄目だ」  渋谷夏雄は絶望的な目を上げた。血走った目、痛々しいばかりにこけ落ちた頬、油気のないパサパサの髪、えり垢と機械油で真黒に汚れたワイシャツと、その上にじかに纏《まと》った作業衣、彼がどんな三日間を持ったかその様子だけで分った。  公開実験が無惨な失敗に終ってから三日目の朝、星電研中央研究所では技師団の不眠不休のMLT—3再製作業が続けられていた。  星川社長は一言も叱責がましいことは言わなかった。渋谷の腕をかたく信頼していたのである。  再公開さえできれば喪われた信用など直ちに回復できる。今は責任の追及や、事故原因の究明よりも、再公開に向かって総力を結集しなければならなかった。  もっとも、事故の原因はすぐに分った。群衆に蹂躙されてポンコツと化したMLT—3を渋谷が分解した結果、マイクロトライカラーチューブが、従来のポータブル白黒テレビ用の受像機とすげ替えられていたのである。これでは色が出ないのは当然であった。  最終的点検は公開実験日の前夜半、渋谷自身が行ない、何の異常もないことを確かめていた。翌朝、研究所からホテルナゴヤの会場へ運ばれて実験が開始されるまでの時間は、大勢の人目に晒されていたから、すげ替えは渋谷らが研究室から引き取ってから朝までの精々、四、五時間の間に行なわれたものと推定できる。  しかし、研究室には部内者以外は入れない。またよしんば入れたとしても、複雑な部分品のすげ替えは相当高度な電子工学の知識をもっている者でなければできない。否、単なる電子工学の知識に加えてMLT—3に精通している者でなければこの短時間にすげ替えはできない。  とすれば、犯人は部内者、それも渋谷の周囲のごく少数の技師ということになる。  しかし、今の渋谷は犯人の追及を後廻しにしなければならなかった。今はあらゆることにましてMLT—3の再製を優先させなければならない。  しかし、それはもう簡単には再製できないのだ。  まず、従来の白黒型の部品で代用できるかぎりのものは代用する。しかし、天然色《カラー》受像管《キネスコープ》だけは代用できない。  従来の三色受像管《トライカラーチユーブ》は約六十万個の三原色を蛍光体に点状に配置し、三個の電子銃から原色各成分で変化する三本のビームを同時に走査するものであったが、渋谷の開発したものはこれを一本のビームで三原色を制御しようというものであった。  それだけにメカニズムは複雑をきわめる。  ところが、自分の手足たる技師達が実験の翌日から一人欠け、二人欠け、三日目の今朝は一人も出てこない。  もちろん、研究室には他の技師達もいるが、MLT—3の専従技師は自分を含めて四人なのである。 「立花、杉田、大井、何故出てこない!? 俺一人ではできないのだ」  渋谷は絶望と憤怒をこめて呟いた。彼一人でできないことはなかった。しかし、それはたっぷりと時間をかけてのことである。今は急がねばならなかった。遅れれば遅れるだけ星電研の信用はおち、せっかくこれまで、血の滲むようにしてきり拓《ひら》いてきた市場は他社に喰い荒される。  しかし、彼はまだ連日ストップ安をつけている株価のことは知らない。底をつく日を充分に手許に引き寄せてから狙い撃ちしようと、手ぐすねひいて待ち構えている狙撃兵のような買い占めの魔手を知らない。  従って、会社の危急存亡の秋《とき》に出社してこない技師達が、それぞれに単なる怠慢によるものではない理由があるにしても、えりにえってこのピンチにとくやしく思うのである。  立花は実験日翌日から一人息子がインフルエンザから併発した急性肺炎で危篤ということで子供に付きっきりである。杉田は翌々日の夜、こともあろうに赤痢という病名を貼られて強制隔離入院させられ、そして今また、同日の夜、大井が睡眠薬を服みすぎて重態という報を受け取ったのである。 「帰すのではなかった」  渋谷は痛切に悔んだ。実験が失敗に終った日から二日間徹夜したために、翌々日は家に帰りたいという彼らの希望を容れてやったのがいけなかった。  会社が浮くか沈むかの瀬戸際に二日や三日の徹夜が何だ。再公開実験までは研究室に泊まりこんで不眠不休の努力を傾けるべきだ。二晩続いての徹夜に情けをかけたのがいけなかった。 「子供の風邪ぐらいが何だ」  思わず怒鳴ってしまった渋谷も様子を見に行って来た社員から、立花の一人息子が四十度の高熱で血たんすら喀《は》いているという報告を受けて沈黙した。立花の子煩悩は渋谷も知っている。一人息子が死にかけているとなれば立花ならずとも。——  翌日は杉田の赤痢である。町の鮨屋で喰ったすしがいけなかったらしく、悪寒と猛烈な赤痢症状に医師の診察をうけ、赤痢の疑いありとしてその場から有無も言わせず隔離されてしまった。渋谷がどんなに地団太踏んでも、法的な隔離にはどうすることもできない。  同じ夜、追い討ちをかけるように大井が睡眠薬を服んだ。本人が昏睡しているためにはっきりした理由は分らなかったが、どうやら、MLT—3の管理責任を感じてのことらしい。回復までに最短三十六時間かかるという報告を受けては、渋谷はもはや何を言う気力も喪ってしまった。  彼ら三人は終始自分を扶《たす》けてカラーテレビを開発した手足である。その手足をもがれた渋谷は、これからの気の遠くなるような再製作業を一人でやらなければならぬことを知った。  渋谷が地団太踏んだ前の日、即ち、公開実験の二日後の午後、名古屋駅前のコーヒーショップ、カルネドールで二人の男が話し合っていた。 「これがあんたの精密健康診断書だ。どこにも悪いところはない。特に心臓はアベベなみだそうだ。肝臓や腎臓は鉄のようだとさ。ちっとやそっとの睡眠薬の服みすぎではびくともせんだろう。意を安んじてたっぷりと服んでくれ」 「本当に大丈夫でしょうな?」  話しかけた方が氷のように冷静そのものなのに、話しかけられた方は落ち着きがなく、何かにおびえているようである。 「あんたも臆病だな。これはあんた自身が大阪のH大病院で名前を変えて診てもらった健康診断書じゃないか、そんなにびくびくしなさんな。バルビタールをちょっとよけいに服んでくれればそれでいいんだ。催眠作用が深く持続時間が長いから、ぐっすりといい気持で眠れるよ。四十時間も眠ればきれいさっぱり、小便になって出てしまう。それだけ眠ってくれればこっちの用は充分に果たせる。  あんたはそれだけのことで五十万円のボーナスが入る。きっと、爽快な目覚めだろうぜ」  話し手は薄く笑って、白い錠剤の入った小さな薬ビンをテーブルに置いた。  話しかけられた男はこわごわと眺めていたが、やがて、意を決したようにそれを取り上げてポケットにしまいこんだ。 「五十万はお目覚めになってから差し上げる。自殺をする人間が大金を持っていてはちょっと具合が悪いからな。あんたは渋谷の親衛隊だ。あんたがクスリを服んだらMLT—3の失敗の責任を一身に背負って自殺を企てたと、世間はあんたの責任感の強さを賞讃するだろう。五十万のボーナスは入るし、こんなボロイ話しはないだろうが? 薬が廻った頃に偶然、発見したような顔をして病院へ運んでやるから、分量を少し位、まちがえても構わんぜ、胃洗滌とあんたの鉄の内臓があれば、死のうたって死ぬもんか。じゃあ、話はついたから私は行く。これからあと二人[#「二人」に傍点]、会わなければならん人間があるんでねえ。じゃあ、ぐっすりお寝み[#「ぐっすりお寝み」に傍点]」  男は伝票をテーブルから取って立ち上がった。二人は花岡進と、星電研技師、大井忠であった。  それから一時間後のこと、——  名古屋の繁華街の一つ広小路通りの裏にそのものずばりの�ワンタッチ�という名前のおさわりバーがある。  薄暗い照明の下で欲望をむき出しにした男達と、すけるようなネグリジェや申し訳程度のショートパンツのホステス達が、淫猥な会話と触感を楽しみながら腐乱死体に湧いた蛆《うじ》のように蠢《うごめ》いている。  そういう蛆の群に混って、自らも虫の一匹となって楽しみながら謎めいた会話を交している二人の男があった。 「法定伝染病とはいえ、赤痢は最も軽い。ちょっと下腹が渋るだけだ。それでも神経質なドクターは隔離してくれる。ま、クレゾール臭いのをがまんすればこんないい保養はない」 「いや、そうおっしゃいますがね、私の身にもなって下さいよ。赤痢菌を故意に服んで避病院行きですわ。あまりぞっとする話じゃない」 「何もコレラやペストになるわけじゃあない。クロマイの二、三粒も服めばすぐ癒る病気だ。それだけの手間であんたは百万入る。星電研でいくら貰っているか知らないが、割の悪い話ではないはずだ。それにあんたは協電の匿名社員なのだ。一円も特別賞与《ボーナス》が出なくとも社命は遂行しなければならないはずだよ」 「分りましたよ。……しかし、赤痢とはね」 「赤痢が一番いいのだ。いかに星電研や渋谷があんたを必要としても、まさか隔離病院まで追ってはこられまい。最少限十八日間、——国家があんたを保護[#「保護」に傍点]してくれるからな」 「えっ、十八日間も!」 「すぐ経つさ。いったん陰性になっても六日経つと再陽転する危険性があるんだ。しかも三回もな。従って十八日間は何がなんでも隔離される。有難いじゃないか」 「そんなら、何故、渋谷に服ませないんですか?」 「案外、馬鹿だな、あんたは。渋谷がタイミングよく赤痢になったらいかに星電研がおっとりしていても、企業の謀略だと正面きって騒ぎ出す。  渋谷が�生き残って�いればこそ謀略の匂いを嗅ぎ取っても、その追及は後廻しにして実験再公開に全力を挙げる。こちらは何も実験を不可能にしなくてもよいのだ、ただほんの四、五日、株価がこちらの�予算�に合うように安くなるまで、遅れるだけでよい。だから渋谷の手足たるあんたに服んでもらうわけだ」 「…………」 「この小ビンの中にはある大学病院で特別培養された赤痢菌が入っている。特製だからよく効くよ。あんたはこれから栄町の花ずしというすし屋に行く。そこですしを鱈腹喰ってから、この特効薬を服むという寸法だ。そのすし屋は明日から営業停止になるだろうが、ちゃんとそれ相応の補償はしてあるから、安心して感染源に店の名前を出してよい。  今、七時三十分、花ずしに行くのが八時半、腹が痛くなるのは明日の朝の予定だ。あんたのアパートのすぐ傍には名古屋中央病院がある。この季節にすしを喰って腹が痛くなったと言えば、どんなヤブでもまず赤痢を疑うよ。明日の十時頃にはあんたはまちがいなく、法定伝染病患者として、国家から強制的に入院隔離されているよ」  男は薄く笑った。故意にルックスを下げた暗い照明の下で、彼の瞳が猫の目のようにきらめいた。  その時、ネグリジェ姿の二人のホステスが、彼らのボックスに嬌声をたてながらやって来た。 「ああら、こちらのお兄さん方、えらい難かしそうな顔しはってどないなお話してはるの?」  男はホステスの席を作るために、身体をずらしながら、 「ビジネスの話だよ、さあ、こっちへ寄った寄った。こちらの方は明日から遠い外国へ出かける。今夜が日本の最後の夜というわけだ。一つ想い出のために大和撫子の躰をたっぷりと触らせてやってくれたまえ」  彼はそう言いながら、素早く自分の指を脇に坐ったホステスのネグリジェの裾にさし入れた。 「いやあん」  ホステスは大仰な悲鳴をたてながらも、男の胸にもたれかかって来た。もう一人の男はその様子を苦々しげに見やりながらグラスを呷《あお》った。二人の男は花岡進と星電研技師杉田明であった。  杉田明と別れた花岡進はバーの前からタクシーを拾い、名古屋国際ホテルに向かった。 「小原だが、妻《ワイフ》が先に来ているはずだが」  フロントであらかじめ女と打ち合わせておいた偽名を告げると、フロントクラークは|客 名 板《インホメーシヨンラツク》を調べて一個の室番号《ルームナンバー》を教えてくれた。  エレベーターで八階にのぼり、海の底のように静まりかえった廊下を目指す部屋に向かう。クラークの教えてくれた部屋の前で立ち止まった花岡はコールボタンを押した。  部屋の奥でチャイムの音が遠い音楽のように鳴り、微かに人の近づく気配が扉越しに感じられた。  その足音の主こそ�小原の妻�として今夜の情事の相手を勤めるべく、ホテルに先着して花岡を待っている女のはずであった。いや、単なる情事の相手方としてだけではなく、重要な�商談�の相手をも兼ねている。 「どなた?」 「俺だ」  やがてドアチェーンの外される音がして扉が開かれた。と同時に女の厚ぼったい身体が、まるで一かたまりの綿が投げ込まれたように、ドサッと花岡の胸に飛びこんで来た。 「遅かったじゃない」  女の怨む声と共に花岡は強烈に唇を吸われた。 「おいおい、せめて中へ入れてくれよ」  花岡は辟易しながらも、満更でもなさそうな顔つきで女の熱い躰を優しく押しやった。 「ひどい人、私がどんなに時間をやりくりして脱け出して来たかご存知のくせに」  胸も腰も豊か過ぎるほど豊かでありながら、決して肥満を感じさせない、まことに女盛りという形容がぴったりの女だった。  花岡はまつわりつく女をひとまず払いのけてから、 「それで坊やの容態はどうだ?」  と訊いた。 「そんなことどうでもいいじゃないの」 「よくはないさ。坊やの容態いかんで立花の行動がきまる」 「それだったらご心配なく、いい具合に肺炎を併発したわ。立花はつきっきりよ、そのなかから脱け出して来るのがどんなにしんどかったか、解ってくれるわね」  女はまた、身体をすり寄せようとした。 「ま、待て、まさか死にはせんだろうな?」 「そんなこと知らないわ、もし死んだら貴方が殺したも同じことよ」 「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。君が立花の後妻におさまってからも、相変らず立花が、先妻の遺した一人息子に夢中なのを妬《ねた》んだのは、君じゃなかったか?  何とかしてくれと泣きついたから、俺はちょっと、立花をいじめてやる方法を教えたまでさ。  今、名古屋地区で流行《はや》っている流行性感冒ウイルスAを、二週間位前から子供にちょっとしこむ。小児の場合は抵抗が少ないから感染後三日—五日位で発病する。案の定、一昨日から発病したから子煩悩の立花は半狂乱だ。君がそばにいて子供の風邪がこじれるように工作したから、立花が気がついた時は気管支炎を併発していた。立花は子供のそばにつきっきりだろう。おかげで君は日頃の怨みをはらせるばかりでなく、こうやってたまの逢う瀬を楽しむ時間ができた。何しろ、人妻が夜、脱け出すとなると穏やかではないからな」 「何言ってんのよ、あなたが昼間、逢って下さったら、こんなあくどいまねをしなくもすんだのに」 「あくどい? よせよ。罪もない子供を苛めて苛めて、苛めぬいて、それでもあき足らず、病気にでもしてやりたいと言ったのはどこの誰だっけな」 「あなたには後妻の気持が分るはずないわ。常に先妻と比べてしか見られない女の憎悪がどんなものか」 「いやあ、すまんすまん。しかし、子供は大丈夫だろうな?」 「大丈夫よ、中央病院で院長先生じきじきの治療だわ。それより、ねえ、早くう、私、あまりゆっくりできないのよ。何しろ子供が病気なんですからねえ」  女は鼻をならした。花岡はソファから立ち上がると女の躰に近づき、いきなり和服の裾に手を入れた。女は自分から下半身を開きながら、ベッドに倒れこんだ。女の躰は花岡が先刻、指の先でさんざん玩んで来たワンタッチのホステスのように、しとどに濡れていた。根性は汚なくとも、躰のでき具合は申し分ない女の典型であった。  まず身体を重ねてから帯を解く。この性急で粗暴な交合が二人を異常に興奮させるのであった。  重なり、律動を続けながら次第に女を剥いでいった花岡は、女が早くも快感に眉根を寄せ始めたのを眺めてちょうど、今頃、杉田が中央病院に馳けこみ、大井が眠りかけた頃だと思った。  女は渋谷の右腕といわれる星電研技師立花の後妻、緋佐子であった。 [#改ページ]  鳶《とんび》と油揚げ 「部長、とうとう百円の大台を割りましたよ。この分だと今日中に安値顔合わせしますよ」  場の気配を取っていた寺田が言った。 「よし、買え!」  山路は長い間ためていた息を吐き出すように言った。 「えっ?」  寺田が信じられないような顔をした。 「買え、買えと言ったんだ」 「しかし、まだまだ下りますよ」 「いや、もうこれ以上待てない、売り物は全部さらえ、いよいよ出動だ」  星電研カイ、矢は弦を離れた。今日まで、落ち続ける星電研をじっと睨みながらこらえにこらえていた。  インチキカラーテレビが協電側の工作であるから、実験再公開されればあっという間に反騰する。  それだけに連日ストップ安をつける�獲物�を目の前にしてじっと手を拱ねいているのは、苦痛ですらあった。  しかし、今こそチャンスだ。待てばもう少し下がるかもしれない。しかし、それだけ再公開の危険性も高くなる。星電研側では見通しがつき次第、再公開日を発表するにちがいないのだ。  今日までその発表がないのは花岡進の妨害工作が効いている証拠だ。しかし、花岡俊一郎から受けた指令は五日目の朝を期して一斉にカイを入れろというものである。  今こそそのときであり、しかも獲物は充分射程距離に入った。 「九十八円ヤリ二万八千株、九十五円ヤリ五万、九十二円ヤリが七万」 「もっと下を見ろ」 「あっ、九十円ヤリが出ました」 「よし、みんな買え!」  井口証券株式部に悽愴な活気が漲《みなぎ》った。誰も見向きもしないボロ株に大量のカイを入れたのである。下手をすれば額面を割りかねないボロ株に。——  事情を知らない社員は山路紫朗が狂気したのかと思った。  その日の大引けまで八十八円まで買い漁り、何と二十二万三千株を集めてしまった。発行株数の一割弱、しかも、�予算�はまだ三十分の一も費っていない。山路は花岡俊一郎の満足そうな顔を思ってほくそ笑んだ。もちろん、このたびの取引は協電と井口証券のものではない。あくまでも花岡と山路の個人的つながりにおいて打った芝居だ。それだけに山路の懐中へ入る金も莫大な額になるはずであった。  しかし、その金額も花岡俊一郎が掴むものに比べれば微々たるものである。 「金儲けをしたかったら上場会社の社長になることだな。自社株を自由自在に工作して売り抜けたり、買い戻したりしているうちに莫大な利ザヤを稼げる」  株式会社という巨人の操縦者達は、資本主義社会という利潤追求の戦国時代の中にあって自らが手にした巨人を自由自在に操りながら、一時的に信託された巨大な力を利用して、天文学的な利権を玩ぶ。自分はその利権のかすりを喰って生きて行く寄生虫のようなものかもしれない。  好調な買い占めのスタートと共に山路は自嘲めいた苦笑をもらした。  翌々日の午後二時頃、協電社長室に一本の電話が入った。重大用件だということで秘書室から廻されたコールに、花岡は何事かと眉を顰めながら出た。  たいていの電話は秘書室で消化《こな》して、俊一郎が直々に受け答えする電話は一日に何本もない。 「ああ君か、何だ? 急に」  電話は山路からであった。 「社長、へんなんです」  場電の慌しい気配をそのまま伝える受話器の彼方から、山路の声が性急に話しかけてきた。 「何がへんなんだ?」 「買う奴が現われたんです。しかも大量に」 「何!?」  俊一郎は吠えるように言った。買うとは言うまでもなく星電株のことだ。買い占めを狙ってのカイだから多少の雷同《ちようちん》買いは覚悟していた。  しかし、大量のカイとなると穏やかではない。しかも、まだカイ出動してから三日目である。星電側の防戦買にしては早過ぎるし、菅野と村田証券を使って買い進んでいるのであるから、こちら側の意図が第三者の機関投資家や、大手の買い占め屋に見破られたとは思えない。  まだまだ資金に余裕はあったが、なるべくならできるだけ安く拾い集めたい。三日目にして大量カイの対抗馬が現われたとなると、せっかく、工作して崩した値が飛ぶことになる。 「それで誰が買ったんだ」  俊一郎は努めて平静を装いながら訊いた。 「東京の宮崎証券です。九十五円まで十六万株ほどさらわれました」 「何、十六万だと!」  俊一郎は唸った。何たること、苦心惨憺してやっと値を崩したところを、さっと横から拾われては、全く鳶に油揚げをさらわれたようなものだ。 「一体、誰が宮崎証券を動かしているのだ? まさか宮崎が独自の思わくで買っているわけではあるまい」  彼はつき上げるような憤怒を必死に怺《こら》えて言った。 「宮崎が独自に買っているとは思えません。内幕を知らないかぎり、今の星電株は株屋の常識からは敬遠しますからね。しかし、宮崎を動かす黒幕となるとちょっとさぐるのは難しいですね」 「探せ、どんなに難しくともだ」  おそらく、宮崎証券はある黒幕の指令を受けて買ってきたのであろう。俊一郎が井口証券の友好店である菅野、村田二証券を手先に使っているのと同じように、背景の黒幕の主をたぐり出すのは難しかった。 「申しわけありません。こんな大手のカイが出ようとは思ってもいませんでしたから。昨日九十四円まで買いまくったから、今日は少し冷やそうと様子を見ていたのがいけなかったのです」  山路は面目なさそうに言った。昨日九十四円カイが入ったからというので九十五円以上のウリが出ても、しばらく買注文を入れなければまた下がる。市場は今のところ一方的な買手市場であるから、買い占めが進んで品薄になるまでは、買っては冷やす操作が何回か効く。その間に九十五円までの売り物を宮崎証券にさっと横からさらわれてしまったのであった。  同じ時刻、東京千代田区竹橋の菱井電業社長室に一本の電話が入った。重大用件だということで秘書室から廻されて来たコールに、盛川達之介は待ちかねたように出た。  盛川は朝から一本の電話を待ちうけていた。案の定そのコールは彼が待ちかねていたものだった。 「どうだ、うまいこと拾えたか?」 「はっ、九十五円まで、合計十六万株拾えました」 「よし、テキさん、今頃慌てふためいているだろう。どんどん買ってくれ」 「かしこまりました」  電話はそれだけのやりとりで切れた。  盛川達之介は送受器を置くとソファに深く身を沈めた。崩落した星電株を村田証券と大阪の菅野証券が買っているという情報を耳にしてから盛川は早速、幹事証券を通して星電株の買注文を出した。  大阪の買い占めの主は定かには分らないながらも、家電市場のシェアを激しくせり合っている協電か古川か住吉のどれかであろう。  昨日だけで二十二万株の浮動株が買われた。  これだけの資金を動かせる相手はいずれにせよ大物である。とすれば買っておいて損はない。——と頭の中で忙しくソロバンを弾いた盛川は、翌日の午前中にはカイの指令を幹事証券を通して宮崎証券に出していたのである。 「さて、これからどう転ぶか?」  盛川はマホガニーのデスクからハバナ葉のシガーを一本取った。 [#改ページ]  宿泊確認書 「社長、こういう方がお会いしたいそうですが」  秘書の成瀬幹夫が一枚の名刺を取り継いできた。協和電機株式会社家電第一営業課長、花岡進とある。 「用件は?」  ホテルナゴヤ社長、内野恵美子は短く訊いた。 「社長、直々でないと申上げられないとか申しておりますが」 「追い返してちょうだい、そういう人にかぎってどうせろくな用事ではないわ」  恵美子はきっぱりと言った。名古屋駅前に二十四階建、客室総数千五百の大ホテルを女手一つで建て、日本ホテル業界の女王と呼ばれるだけあって、見識も高い。  身許が確かで、しかも確実な推薦状を持たぬ人間には一切会わないことにしていた。  まだ四十前の脂の乗り切った女盛りの躰は、夜毎、男なしでは眠られぬ旺盛な欲望を示したが、昼間は一切の欲望がビジネスに切り換えられ、金儲けの権化のように冷たい女になり切った。  秘書の成瀬も昨夜の痴戯の相手である。しかし、オフィスでの彼女はよくこうも変れるものとあきれるほど見事に変身した。昨夜成瀬と躰を絡め合わせて快感にのたうち廻ったことなどおくびにも出さず、あくまでも自分の手中の一コマとして動かす冷酷な主人の面貌があるばかりであった。昼は昼、夜は夜、チャンネルの切り換えに巧みでなければ女王の座は勤まらない。少しでも、それを混同しようものなら、女王から夜の寵愛を受けたというだけでこの�男妾�共はたちまち増長する。  成瀬は社長室から立ち去ったが、いくばくもしないうちにふたたび困惑した表情で戻って来た。件《くだん》の名刺を相変らずたずさえている。 「何か、協電の代理店招待のことで直接お会いして特にお話ししたいことがあるそうで」  大手の会社では年二回ほど、全国の得意先や販売代理店を旅行招待してご機嫌を取り結ぶ。市場シェアの確保と拡大のために得意先招待は、各社共欠かせぬ年中行事であった。招待客数も大手になればなるほど多い。販売競争の激化と共に招待旅行は年々デラックス化する傾向にあった。宿舎も日本旅館や観光地の温泉を利用していたものから、徐々に大都市の一流ホテルを使うようになってきた。  地方人の多い販売代理店にホテル招待は評判がよかった。その社の一年の売り上げが伸びるか、伸びないかはひとえに代理店の意志にかかっていた。一年の売り上げが招待旅行にかかっていると言っても過言ではない。  それだけに各社共、ただ単に泊めるだけではなく、金に糸目をつけない大宴会や演芸大会を張り、代理店のご機嫌を必死に取り結ぶ。  大手筋から招待旅行宿舎として選ばれた場合の、ホテルへ落ちる金は莫大である。  花岡進がほのめかしたのはその招待のことらしいので、成瀬もむげに断われなかったわけである。しかし恵美子は、 「私は会わないと言ったはずよ。そういうお話は一切支配人にお任せ」  とニベもなく言った。もはや、脈がない。みすみす協電の招待旅行が取れるかもしれないチャンスをもったいないと思いながらも、成瀬はそれ以上押すことを諦めて社長室から出た。  日本交通公社に斡旋手数料を支払うのが惜しくて、敢然と交通公社とのホテル契約を蹴っとばしたほどの女傑である。  天下の協電もこの女怪の前には通用しなかったわけだ。  あれが昨夜、自分の躰の下でのたうち廻り、啜り泣いた同じ女か? 男女の交わりというものを時間の経過に従ってかくも見事に割り切れるものか? 成瀬は改めて内野恵美子の女怪ぶりを思い知った。  ホテルナゴヤ、第四期学卒新入社員、大山晴夫は初の夜勤《ナイト》シフトについた。彼の配属はフロントデスク、日本旅館の帳場にあたる部署であり、お客の予約や希望に応じて部屋を|割り振る《アサイン》、いわばホテルのかなめの場所であった。  といっても、最初からフロントで最も重要な部屋《ルーム》 |割 り《アサインメント》は任せられない。蜜蜂の巣のようなキイボックスの前に立っての鍵の受け渡しが、まず彼に与えられた仕事であった。  これは簡単なようでなかなか難しい仕事だった。ホテルの客は外出する場合に、必ず自室のキイをフロントに残していく建て前になっている。キイボックスにキイがあるかないかによってフロントクラークは客が在室か外出かを知る。  従って、客から室番号を告げられて、キイを求められた場合、確かにその客の部屋であるかを確認しなければならない。何しろ、客室総数千五百もある大ホテルである。とうてい、何号室には誰というふうに室番号と顔を結びつけて覚え切れない。泊まってもいない外来客に番号を言われてそのまま渡したり、室番号を誤って記憶した客にちがう部屋のキイを渡してしまう危険性が多分にあった。これを防ぐ意味でたいていのホテルでは客が到着《チエツクイン》して|宿帳を記入《レジスター》する際にルームナンバーと客名と部屋の値段を記入した宿泊確認書《アイデーカード》を発行している。  外出先から帰館してフロントでキイを求める場合、クラークは必ずこの確認書のルームナンバーを確かめた上で、キイを渡すことになっている。  大山晴夫もフロントへ配属前、研修でそのことを古参クラークからくどいほど教えこまれた。しかし、胸に見習社員のバッジをつけて現場へ立ってみるとなかなか、教えられた通りにいかないことを知った。  何故なら、客はキイを渡しやすいように一人一人帰って来てはくれない。一度に二十人も三十人もフロントカウンターの前に群がり、同時にそれぞれのナンバーを求めるのである。  もちろん、英語もあればフランス語もスペイン語も混じる。一々、確認書との照合などとうていできることではなかった。第一、確認書など持ってこない者が多い。大部分はそれほど重要なものとは知らず、部屋へ残して来たり、紛失してしまっていた。  それでも、大山は最初のうちは教えられた原則を忠実に守っていた。しかし、一度確認書も部屋番号も忘れた国賓に断固としてキイ渡しを拒み、大問題になり、先輩にあれはあくまでも原則だ、臨機応変にやれと言われてから原則を崩した。  大分慣れたところで、夜《ナイト》に廻された。その夜が初めての夜勤というわけである。シフトについてから一時間ほど後、九州方面からの団体客が、五十人ばかりいっぺんに、外出から帰って来た。  たちまち騒然としたフロントカウンターで大山は、例の臨機応変のキイ渡しを始めた。客の告げる番号の通りにほいほいと調子よく渡す。この方がはるかに能率よく、客を待たせない。しかし、思えば乱暴な話である。  客の言葉だけを信用して、大げさにいえば客の生命と財産を護るべきキイを渡すのである。  客がナンバーをまちがえて告げればアウトだ。妙齢の婦人の部屋に、むくつけき山男を導くということも起こり得る。  だが、よくしたもので大山が先輩から教わった臨機応変法を採用してからそういう|間違い《ミス》はまだ一度も出なかった。 「おい、見習の旦那、××番くれ」 「俺は××番だ」 「××番、早いとこ頼んまっせ」  今夜の団体客は相当にがらが悪い。折悪しく二十人ほど、アメリカからの団体《ツアー》の帰館が重なった。  大山はキイを渡すだけで精一杯だった。  キイボックスの前で、コマ鼠のように動き廻りながら、彼は社長、内野恵美子が居室としている菊の間のルームキイをいつの間にか持ち去られていたことに気がつかなかった。 [#改ページ]  牝《めす》 商《しよう》  内野恵美子が居室としている2456号室はホテル最上階にある国賓用のスイートで、二つのツインベッドルームの他に応接室、会議室、侍従室、浴室などが組みこまれてある、一泊十万円の豪華室である。  恵美子は千種区の高級住宅地に豪奢な邸宅を持っていたが、一泊十万もするスイートに泊まる客はめったにないところから、ほとんどこの部屋に生活の本拠を置いていた。しかし、キイはフロントへ預けっぱなしで出入の都度、ボーイ長やメード頭がパスキイで恭々《うやうや》しく開《ドアオ》 扉《ープン》をした。  見識の高い恵美子にとって、自らドアオープンするなどとんでもないことであった。  彼女にはこんな逸話がある。  たまたま、恵美子が自邸に帰った夜、ホテルが超満員となり、予約のある新婚客を収容できなくなった。困惑したフロントクラークは、たまたま当夜空いていた内野社長の居室をその新婚に提供してしまった。  ところが、深夜に至り、急に用事を思い出した恵美子は、突然、ホテルに帰り、自室が他客に提供されていることを知ってカンカンに怒った。そして何がなんでもその客を追い出せと、厳命を下したのである。  しかし、追い出せと言われても、当夜は満室、それに深夜である。その新婚客も初夜の夢の最中のはずである。いくら、社長だからといってそんな無理難題の通るはずがなかった。  それを、恵美子はとうとう、自分の横車を押し通してしまったのだ。甘くまどやかな新褥《にいどこ》から追い出された新婚客は、初夜から温泉マークの一室(それもホテル側が必死に探した)ですごさねばならなくなった。  当然、それは大きな苦情《コンプレインツ》になった。恵美子はホテル幹部が客にひたすら、陳謝しているのを冷然と横目に見ながら、 「このホテルでは私より偉い者はいないわ。私に無断で私の部屋に侵《はい》る者は誰であろうと許さない」  とせせら笑ったそうである。  それほどの女であるから二十四階のメードキャプテンは心の休まるひまがなかった。二十四階は貴賓室ばかりである。重要客《ヴイアイピー》ばかりが滞在しているところで、内野恵美子がいかなるVIPよりも優先されなければご機嫌が悪かった。  少なくとも、ホテルナゴヤにおいては一国の元首や皇族よりも内野恵美子の方が偉大であったのだ。  その夜、恵美子はやや早目に自室に引き取った。あるテレビ番組に見たいものがあったからである。しかし、それは彼女が期待した内容のものとはかけ離れていた。  失望してカラーテレビのスイッチを切ると恵美子は浴室へ立った。金粉を塗《まぶ》したガラスタイルの仕切戸の奥の浴槽《バスタブ》にのびのびと身を沈めながら、彼女は自分自身の躰に見惚れるのだ。  女盛りの躰は美食と順調な事業の発展と、そして適度な異性交渉のおかげで弾み切っている。透明な湯の中で様々な姿態をとりながら、自分の躰を観察している間に、彼女は欲情がたかぶってくるのを感じた。  昨夜の今日なので成瀬を帰したことがくやまれてならなかった。恵美子はとりあえず、火照った身体をシャワーを浴びて鎮《しず》めようと思った。どの男を呼ぶべきかはそれから先の問題である。  肌が痛くなるほどに強く出した冷水の中に躰を入れて恵美子は眉を顰《しか》めた。火照った躰に何と強烈な刺戟であろう。  ——これはどうでも誰かを呼ばなければならなくなりそうだわ——  恵美子はシャワーによって鎮められるはずの炎が躰の芯にあって、燃え盛ってくるのを感じた。 「だあれ?」  その時、彼女は浴室の外に人の気配を感じたように思って声をかけた。  ルームサービスを運んで来たメードであろうか、きっと、シャワーの音に消されてコールサインが聞こえなかったのであろう。彼女は気にも止めずにシャワーを浴び続けた。  やがて、バスタオルをまとって浴室から出た恵美子は、依然として隣室の応接室に人の気配が残るのを感じて少々ぎょっとした。ルームサービスがこんなにも長くいるはずがない。  それとも成瀬が気を利かして来たのであろうか? いや、そんなはずはない。あの�飼い犬�は呼ばなければ絶対にこない。 「誰!?」  彼女は声にやや嶮を加えた。女王の部屋に無断で入るとは何たる不心得か! きつく糺明してやらなければならない。  返事はなかった。  恵美子の声にいらだちと不安が加わった。浴室の外は寝室となり、寝室から応接室へ続いている。何者とも知れぬ人の気配は、寝室と応接室の境の半開きになった扉のかげにあった。  恵美子は非常ベルを押そうとした。その瞬間、扉が微かに軋み、応接室からの逆光の中に男のシルエットが浮かび上がった。 「非常ベルを押すのはちょっとお待ち下さい。私は怪しい者ではありません」  恵美子にとって全く未知の声が図々しいことを言った。人の居室に無断で、しかも、女の身がバスタオル一枚まとったきりの裸身でいる時に、正体不明の男が闖入して来たのである。  これが怪しくなくて何であろう。  しかし、恵美子が辛うじて非常ベルにかけた指を止めたのは日頃女王として習練した度胸と、男の声の紳士的な柔らかさのおかげであった。  それでも胸のあたりで合わせたバスタオルにかけた手の力が、無意識のうちに強くなったのはやはり、恵美子が女である証拠であった。 「あなたは?」 「初めまして、協和電機の花岡と申します。昼間社長室の方へおうかがいして門前払いを喰わされました」 「そのあなたが何故無断で!?」 「昼間のお話しが決して社長の不利益にならないと信じましたので」 「私は申し上げたはずよ、そういうお話は一切支配人が承りますと。そういうことのために私は彼を雇っているのですから」 「雇人に話せる内容ではありません。私の話は支配人如きの雇われ者にできる話ではないので」 「お引き取りいただくわ。ここは私の私室です。ビジネスのお話をする場所ではありません。さもないと家宅侵入罪で警察に引き渡すわよ」  恵美子の声に一歩の妥協も認められなかった。彼女は本気で怒っていたのである。いまだかつて、この女王蜂の巣へこのような形で侵入した者はいなかった。それをこの野放図な男は平然と侵した。まるでロビイや公園へ入るような無頓着さで、彼女の�聖域�を侵したのである。 「家宅侵入罪とはひどいですな。たしかあの条文は、刑法百三十条、故ナク人ノ住居ニ侵入シタル者ハとある。私は堂々とフロントでこの室のキイをもらい、しかも、故なく入ったわけではない。それ相当の用件をもって入ったのです」 「屁理屈言うわね、とにかく、出て行ってちょうだい。今のうちなら許してあげるわ」 「貴女の商魂の逞しさは実業界では評判ですが、どうやら看板に偽わりらしいですな、せっかく、三千万円ほどの商談を持ちこんだというのに」 「三千万? それはどういうこと?」  恵美子は開き直った。三千万は彼女でも聞き流せる金額ではなかった。 「いくらか興味が湧きましたか?」  花岡は意地悪そうに笑った。 「ま、話してごらんなさい。でも、興味を失ったらすぐ出て行っていただきますからね」  恵美子はバスタオル姿のまま、ソファに腰をおろした。進の眼前で平然と脚を組む。バスタオルの合わせ目が割れて、むっちりした内股の白さとほの暗い奥が男の目に痛いばかりに映るのを、花岡進は視線をそらさずに、まるで無機質でも見るような目で見つめていた。  ——この男は一体まあ、何という男だろう——  自分の躰に絶大の自信を持つ恵美子は、それだけで重大な侮辱を加えられたように感じた。  花岡は別に進められもしないうちに、恵美子の前のソファに向かい合う形で腰をおろした。  そうすることにより、彼女の躰の奥の眺めはますます良くなったはずであるのに、花岡は一切の感情を喪失したような|能面づら《ポーカーフエイス》で話し始めた。 「協電弱電部の販売代理店は、全国に約五千店あります。そのなかから成績の優秀なのを二千店ほどよりすぐり、約四千名、二班に分けて慰労と販売網強化のために年二回、旅行招待しております」 「その位のことはどこの大手でもやっているわよ。第一、二千名の団体に泊まられたら他の顧客を逃がしてしまうわ。そんな団体をとらなくとも私のホテルは充分やっていけるのよ」 「それは春秋のハイシーズンのことでしょうが。それを我が社は夏冬のオフシーズンにやるとしたらどうですか?」 「オフシーズンに?」  恵美子の瞳がキラッと輝いた。ビジネスに反応するシャープな商人の目である。  ホテルの種類により多少の差はあっても、大体、ホテルのかき入れは四月と十月の観光シーズンである。夏と冬、特に七、八月と一、二月はホテルにとって厄月である。  最近は国際会議や株主総会の誘致、オフシーズン割引などの閑散期《オフシーズン》対策がある程度効を奏してきたとはいえ、巨大な設備投資と人件費の圧力にどこのホテルでも青息吐息であった。  しかし、うまくいかないもので、団体旅行が動くのも、専らハイシーズンにかぎられる。オフシーズンには気紛れの観光客や、商用客などの個人《バラ》客がまばらに動くだけだった。そういうバラ客はあまりホテル内で食事を摂らない。これではホテル収入は上がったりである。  この時期に団体が入ってくれたら、ホテルにとって救いの神となる。おまけに団体には必ず食事がつきまとう。客室収入と飲食収入が切り離されているホテルでは、素泊まり客だけの客室収入では商売にならない。泊まってめしを喰ってくれる客が、一番有難いのである。  オフシーズンに二千人の団体、朝夕食をつけるとして、客室料共に莫大な売り上げとなる。ホテル経営者としては絶対に逃がせない話であった。  恵美子は組んでいた脚をそっと外した。花岡の話が事実とすればこれは大変な客《かも》である。  彼女は急に自分の裸身にひけ目を感じた。しかし、今さら、ドレスアップするのは彼女の自尊心が許さない。 「春秋の観光シーズンは我々家電屋にとってもかき入れ時です。折角、招待しても集まりが悪い。高い金を費っての招待だからできるだけ効果的にやらなければならない。そこで夏冬のオフシーズンに避暑避寒をかねての招待旅行となった。今年は関東以北の千店は名古屋に、中部以西の千店は東京の一流ホテルに招待し、それぞれ、そこを本拠に三日間ばかり、周辺の観光地巡りをさせようというプランになりました」 「そうすると三日間、ホテルに連泊というわけ?」  恵美子は声を呑んだ。ただの一泊でも大きな収益につながるところを、三泊もするとなれば、飲食量も宴会数もそれだけ増える。それだけでなく、お客が個々に落とす金も莫大な額に上る。 「そのように考えております。招待客は中年以上のどちらかといえば老人が多い。三日間、宿から宿へ転々とさせるのよりは、設備の調《ととの》った一流ホテルに滞在させ、ゆったりとしたスケジュールで観光や、観劇をさせてやった方が喜ばれるのです。地方の代理店主だから、最初のうちはホテルは固苦しくていやだという苦情もありますが、招待旅行が終ってからの印象が日本旅館よりも格段によい。結局、ふだん泊まりつけない所へ泊めてやり、食べつけない洋食ぜめにする方が印象も強烈で、思い出に残るのです。今年は招待状の受け通知が千八百名、二人部屋が八百、一人部屋が二百室必要です。その他、協電側の幹事連が約五十名付き添いますから五十シングル。食事は朝食を三回、夕食を三回ホテルでとります。それから到着した日の夜は盛大な慰労パーティを張りたいと考えております」  ツインは一室あたり|税抜き《ネツト》で四千五百円、シングルは三千円。食事は朝夕食それぞれ五百円と千五百円、これに千八百五十名をかけて、さらに三泊分として三倍する。その他の飲料代宴会料を加えれば、 (三日間で大体、ネット三千万円の売り上げになるわ)  胸の中で弾いたソロバンの示す莫大な額に恵美子は上気した。一口に三千万円というが、オフシーズンにこれだけの収益は全く有難い。 「もし、この冬がうまくいけば来期の夏にまた、持ってきますよ」  花岡は誘うように笑った。 「でも、名古屋にホテルはうちだけじゃないし、昼間あれだけ冷たくあしらわれたのにもかかわらず、何故わざわざ私の所へ持ってきたの?」  恵美子は先刻から抱いていた疑問を口に出した。協電とホテルナゴヤは別に資本のつながりもなければ、商歴もない。これだけの美味い話を明らかに家宅侵入罪に問われるような行為を犯してまでも、恵美子のところへ持ってくる義理など一片もないはずであった。  収容設備にしても、これだけの団体をこなせるホテルは他にもあった。 「ここでなければならないのですよ」  彼はニヤリと笑った。 「どうして? 丸栄でも、国際でも喜んで受けるわよ」 「実はお願いがあるのです。いや、条件といってもよい」 「やはりね、これだけおいしい話を、なまのままくれるはずがないと思ったわ」  恵美子は肩をすぼめて、急に興味を失った顔になった。 「そうげんきんにおざ[#「おざ」に傍点]が冷めたような顔をしないで下さいよ。条件と言いましたが、この条件、決して悪い話じゃない」 「言ってごらんなさい。ことのついでだわ」 「ついでとは熱意ないですね」 「いいこと、私はまだあなたの家宅侵入を許したわけじゃあなくってよ。そのつもりで口をきいてちょうだいね」 「分ってます。……それでは申し上げます。実は星電研です」 「セイデンケン?」 「インチキカラーテレビで株が暴落しましたね。実は我々はある理由からその株が欲しいのです。社長は三十万株を保有する大株主だ。それをぜひ譲って欲しいのですよ」  内野恵美子は花岡の顔を凝視した。花岡も恵美子の視線をがっちり受け止めた。二つの視線は重なり合ったまま、どちらからも外そうとしなかった。  ややあって恵美子は花岡と視線をからませたまま薄笑いした。 「分ったわ。ここのところ星電研株が反騰《はんとう》してきたと思っていたけど、あなた方が陰で動いていたのね。好材料が何もないのに値上がり……おかしいなと思っていたら協電が買い集めていたのね。何故あんなボロ株を買いたがるの? カラーテレビはインチキだったし、星電研のドル箱といわれた渋谷技師は大山師じゃないの」 「とにかく、譲って下さい。カラーテレビや渋谷技師はインチキでも、我々は星電研の過去のパテントが欲しいのですよ」 「それだけ?」 「それだけです」 「駄目よ、私にビジネスのごまかしは効きません。本当のことをおっしゃいな。そうすれば考えてあげてもいいわ」 「…………」 「言えないのね」 「社長、三十万株、時価百五十円ですからシメて四千五百万円、放っておけば額面を割りかねないボロ株にそれだけの金を出そうというのです。しかも千八百名の団体を見返りにして。理由などどうでもいいじゃありませんか。聞くところによれば社長は星電研とけんかをして、創立時ここを事務所にしていた彼らを追い出したそうですね。別に株を後生大事にかかえ込んでおく義理などないでしょう」  確かに花岡の言う通りであった。創立時、事務所としてホテル客室を貸してやったよしみで大株主の一人になっていたが、利ザヤを稼ぐチャンスを棒に振ってまで抱えておく義理などさらさらなかった。  まして、渋谷夏雄には決して忘れることのできない怨みがある。あの男は女王のプライドを土足で踏みにじった。あの屈辱はいつかは必ず復讐してやらなければならない。女王の名誉にかけても許してはおけないのだ。  恵美子はあの折、渋谷に思い切り叩かれた火の出るような痛覚が、たった今の出来事のように頬に生々とよみがえった。 (そうだわ、理由なんかどうでもいいわ。要するにあの男に復讐できればいいんだわ。あの男が死ぬほど愛している星電研を、他社に乗っ取らせるために株を売り払う。思えば小気味よい復讐じゃないの)  恵美子はふたたび顔を上げた。 「いいわ」 「えっ」 「売ってあげるわよ。ただし、時価ではいやよ。放っておけば買い占めでまだまだ上がる株よ。一株、二百円、これ以上|鐚《びた》一文欠けてもだめよ」  恵美子は挑戦するように言った。 (足許を見やがって、この女狐め!)  花岡はその時、この女というよりは女怪に殺意に似た憎悪を覚えたが、それをおくびにも現わさず、 「止むを得ません、手を打ちましょう。それでは二百円で三十万株、六千万円の小切手を切ります。名義の書き換えは」 「待って。取引は明日午後一時、社長室でしましょう。あなたはその時現金と団体の契約書を持ってきてちょうだい。株券はその時に引き渡すわ」  今ここで取引きしてしまえば団体契約をぼかされるおそれがある。株券と引き換えに招待旅行受入れに関する契約も固めておこうという肚であった。さすがホテル界の女王、どこまでも抜目がなかった。 「結構です。では明日午後一時に。今夜はこれで失礼します。長い間お邪魔いたしました。家宅侵入罪で突き出される前に退散することにします」  花岡はソファから立ち上がると軽く一礼した。寝室からパーラーへ、パーラーから会議室へ、そしてそこから廊下に面する扉へと靴の埋まりそうなカーペットの上を歩いて行った。  出口扉のノッブへ手をかけた時、 「待って!」  恵美子の命令するような声が後ろから追ってきた。 「は?」 「この取引、どうももう一つ底がありそうだわ。儲けて笑うのはあなたのような気がするのよ。でもいいわ。儲けられるのを覚悟で取引きするわ。でもね、それだったら儲ける方が儲けられる側のお客に景品を置いていくべきだと思うけどな」 「景品?」 「そうよ」  恵美子は蓮っ葉に笑うと素足のままカーペットの上を歩み、花岡の目の前へ近づいた。……そして胸元で合わせていたバスタオルを、はらりと床の上に落とした。間接照明の柔らかい光が彼女の豊満な裸身を妖しい生き物のように浮き立たせた。 「あなたも私と同じ姿になってちょうだい! すぐ! 今すぐよ。そして、私の命ずる通りの姿勢で私を抱くのよ。それが私の言う景品よ。どう、できて?」  大きく脂ぎった豊饒な女体が勝ち誇ったように笑っていた。情欲をむき出しにした牝は逃がれようもなくしっかと捕えた獲物をねぶるように舌なめずりをしている。 「できるさ」  花岡は短く言うと、女体に凶暴に跳びかかった。女を組み敷きながら服を脱ぎ捨てる。  カーペットの上を転々と転がりながら花岡は完全な獣に変身して行った。こうなると、どちらが獲物か分らない。二人は負けず劣らずの逞しさで相手の肉を貪りながら、少しでも相手より多く、自分の情欲を充たそうと互いの躰をせめ合った。  ルームサービスの銀器《シルバー》を下げに来たキャプテンは完全防音の扉からもれて来る、あられもない社長の呻き声に足を竦めてしまった。  翌朝午前十時、何喰わぬ顔をして社長室へ下りて来た恵美子を一人の来客が待っていた。 「こういう方が、先刻からお待ちになっておられますが」  成瀬は一枚の名刺を乗せた銀製の名刺受けを差し出した。  菱井電業株式会社家電第一事業部テレビ課長代理、岩村元信とある。 「支配人へ通そうとしたのですが、どうしても社長にお会いしたいそうで」  成瀬は恐る恐るつけ加えた。昨日の花岡のことがあったからである。 「会うわ、お通しして」 「は?」  成瀬は面喰ったように顔を上げた。多分、断わられるだろうと予測していたからである。  やがて、成瀬に導かれて来た岩村は、人払いされた社長室で内野恵美子と二人だけで何事か一時間ほど語り合っていた。  何の 約《アポイン》 束《トメント》 もないフリの客と一時間も話しこむとはよほど、興味のある話題にちがいない。  そろそろ、役員との午餐会の時間なのだがと、成瀬がやきもきしかけた頃に、社長室からインターホーンブザーが鳴った。  慌てて立ち上がった成瀬が秘書室を通り抜ける前に社長室の扉が開き、客が送り出されて来た。内野恵美子が直々に送り出したのである!  恐縮して扉を開いた成瀬の耳に、 「それでは今夜八時、2456号室でお待ちしてますわ」  恵美子が送りしなに客にかけた声が入って来た。ビジネスから離れた、彼女の妙に浮き浮きしたつやのある声調《トーン》に成瀬は覚えがあった。成瀬自身、過去幾度か社長からそういう声をかけられたことがあった。  自分自身、恵美子の�ハレム�の中の不甲斐ない一人にすぎないことは、分りすぎるほどに分っていながら、成瀬は嫉妬に胸を熱くした。 「812号室に泊まっている花岡という人を呼んで、今日午後一時の約束は、明日の一時に変更と伝えてちょうだい」  一瞬、職務を忘れて呆としていた成瀬に、恵美子の冷酷な命令が下りて来た。それは先刻、岩村にかけた口調とは別人のような厳しさにあふれていた。成瀬はそれをくやしいと思う間もなく内線のダイヤルを回さなければならなかった。  翌々日、午後一時、ホテルナゴヤの社長室で内野恵美子と相対した花岡は憤然として叫んだ。 「それじゃあ話がちがうじゃありませんか」 「ごめんなさいね、でも事情が変ってきたのよ。あなたが帰った後、菱井電業の岩村という人が見えてね、星電研を二百二十円で売ってくれと言うのよ。少しでも高い方へ売るのが商売の常道じゃないかしら」 「しかし、我が社は千八百の団体を送る」 「それも同じなのよ。オフシーズンに販売代理店招待千三百名、あなたより五百名ほど少ないけど、四泊よ、それに」 「それに何ですか?」 「あなたと同様に景品までくれてったわ」  花岡は呻いた。山でザイルを結んだ山仲間が、資本主義社会の酷風の中で敵味方になるのはいたし方ないとしても、まさかこのような形の恥ずべき共通項[#「共通項」に傍点]を持とうとは思わなかった。 「もっとも、この方はどちらも同じ位に優秀だったけど」  恵美子はニンマリと思い出し笑いをした。 「止めてください!」  やはり、獲物にされたのは自分の方であった、 「怒ることないわよ。私、全部、菱電に売るとは言ってないのよ。仲良く半分ずつ、売って上げた方が両方共幸福になれるし、第一家電業界の東西両横綱からお引立ていただけるもの」  花岡は自分がこの女怪に完全に振り廻されていることを知った。恵美子は、昨夜二百円で手を打った株価を二百二十円に釣り上げ、しかも、見返りとして協電、菱電両社の団体旅行を喰わえこもうとしている。さらに、その上に自分と岩村の山で鍛え上げた躰をいいように貪ったのだ。  しかし、それでもなお、恵美子から星電株は買わなければならなかった。もし、インチキカラーテレビが協電の工作であると知れば、この女狐はもっともっと吹っかけるにちがいない。花岡は眼前に笑う毒の花のような恵美子の大柄な顔を張りとばしたい衝動を耐えるのに必死であった。 「でもね、それではあなたが余りに可哀想、何事にも先着順ということがあるから、二百二十円ということで二十万株あなたに売るわ。菱電には十万株、これなら文句ないでしょ」  内野恵美子は頬づえを突いて言った。豊かな頬が口を動かす都度、二重にくびれてたゆたゆと震えた。 [#改ページ]  サヤ稼ぎ  ポケットカラーテレビの実験失敗で三百四十二円の高値から、連日ストップ安をつけた星電研は、四日目からカイが殺到して実験再公開しないうちから反騰をはじめ、八日目には早くも公開実験時の値段に戻していた。  星電研という、ただ一人の技術者の腕にその存立が賭けられている弱小会社の、肝じんのドル箱ともいうべき渋谷のカラーテレビがインチキと判明した今、そんな株は紙屑のはずであった。それなのに売り物が切れるほどに買いまくられているのである。  買い占めるにしても、そんなインチキ会社株を買い占めて何になるのか? およそ、常識では理解できない何かが星電研を買わせている。  ただ事ではない。人々はとまどいながらも現実にぐんぐんと値を飛ばしていく星電研に、じっとしていられなくなり、提灯《ちようちん》をつけるのである。  もともと、総資本一億二千万の過少資本株である。株はたちまち品薄になった。利ザヤ稼ぎの買い占めではなかったから、売り物はいくらでも拾われた。  こうなるとサヤ目当ての提灯筋もなかなか手放さなくなる。売り物は極度に薄くなった。  七月三十日、午後五時、盛川達之介は秘書に一個の電話番号を告げた。秘書は忠実に社長室専用の直通電話をダイヤルして、先方が受話器に出たのを確かめてから、盛川の卓上電話に切り換えた。 「盛川だが、どの位拾えた?」 「今日の後場に三万六千株、合計、四十万株集まりました」  店頭の気配をそのままに伝える送受器の向うから、中年男のさびの利いた声が答えた。 「今日はいくらで終った?」 「五百九十六円です」 「とすると平均三百円ほどで拾えたわけだな」 「はっ」 「ふうん……、よし、明日処理しよう」 「とおっしゃいますと?」 「売ってくれ、全部だ」 「全部!?」 「そうだ、この買い占めは単なるサヤ稼ぎではない。売り物は出るだけ買われる、しかもこちらの指し値でな。しかし、それもテキの手持が過半数に達するまでだ。星電研や銀行筋の不動株が百万株ほどあろう。儂の手許に約四十万株、テキさんがどの程度集めたか知らんが、まだ九十万株は越えていないはずだ。とすれば、過半数をおさえるためには儂の四十万株は是が非でも欲しいところだ。六百円から十円ずつの幅で、十万株ずつ、明日売りに出してくれ」 「かしこまりました」  送受器の向こうで忠実な声があった。電話はそれだけのやりとりで切られた。  盛川は送受器を秘書の手に渡すと、大きく息を吐いた。  買入れ平均コストが三百十五円、明日の売り平均値が六百十五円だから、一株あたり三百円のサヤで、四十万株、約一億二千万円の儲けとなる。  それがわずか二週間の稼ぎであるから悪くなかった。それにこのサヤは会社帳簿に載らない、盛川個人の儲けである。  盛川達之介はかつて岩村元信を気味悪がらせた薄笑いを洩らした。  しかし、彼を薄く笑わせた源は、一億二千万のサヤだけではなかった。  翌日、盛川の目算通り、四十万株は前場のうちに売り値でそっくり拾われてしまった。 「やはりな」  盛川はほくそ笑んだ。これは並大抵の相手ではない。もし、テキに資力がなかったら、四十万も売りあびせれば星電研は暴落してしまっただろう。しかし、テキは平然と買い上がって行った。  盛川にはこの強大な資力をかかえたテキの意図がおおよそ読めてきたのである。買い占めの相手は協電か古川か、住吉のどれかに決まった。そして、それならば思う様、高値で掴ませて、その後で打つ手がある。彼は薄笑いを止められなかった。 [#改ページ]  錆びた管  年が代わった。——  花岡進は星電研買収時の�戦功�を賞されて家電事業部の部長に抜擢された。  強電の協電から弱電の協電へと花岡俊一郎社長の音頭の下に、強力な推進運動が展開され、それがかなりの成果を示している現在、弱電部門の最大事業部たる家電部長のポストを与えられたことは、進が協電の次期最高首脳たることを約束されたようなものであった。  電気洗濯機、扇風機、空気清浄装置、電気掃除機、ミキサー、ミシン、冷蔵庫、アイロン、電熱器、テレビ、ステレオ、ラジオ、照明器具等の家電各課を一手に管掌し、生産から販売まで一貫した権限を与えられた部長は、自主的な経営単位の長であり、一国一城の主であった。  しかも、その責任の内容たるや、財務、購買、製造、販売といった形の機能別事業部が収益責任や費用責任しか与えられないのに対して、製品別事業部はこの両方を包括した利益責任、即ち、企業の究極目標たる利益への直接的な責任が与えられるのである。  従って、同じ社内であろうと、他の事業部は利益実現の過程においては全く他社と異なるところがない。社外により安く、優秀な原材や部品を求められる場合は、たとえ、社内他事業部で同じ物を扱っていても、容赦なくそれを忌避できる、いわゆる、忌避宣言権が与えられていた。  花岡進がこの強大な権限を与えられて勇み立ったことは言うまでもない。  ここ数年の資本主義の酷風に晒されている間に進は変身した。かつて遠い日、ただより高く、よりおおらかな未知の遠望を得たいがために、アルプスの雪や岩や風の間をさすらった、甘いロマンティシズムの影もなかった。  遠い青春の日(時間的には決してそれほど遠いものではなかったが)が時たま懐しく記憶のひだによみがえることはあっても、|お伽話《メルヘン》の世界のような幼稚さを覚えることの方が多かった。  製品に家電の多い星電研は事実上、進の支配下に入った。  彼は家電部長に就任してから徐々にその辣腕を伸ばしていった。この重職の椅子が閨閥によるものと誰にも言わせないために、進は何かを為さねばならなかった。その何かの手初めが星電研の整理であった。  要するに、星電研の効用価値は渋谷一人である。彼以外のすべての人間は全く不要なのだ。  しかし、進は俊一郎に進言して星電研の星川社長を協電の副社長に据えさせた。それだけではない、星川子飼いの星電研幹部のほとんどすべてをそのまま、協電幹部として横すべりさせたのである。  もちろん、常務会で強電側の強硬な反対にあったが、俊一郎はそれを強引に押し切ってしまった。  こうして、星電研の幹部は協電に吸収されたことによって、社会的地位はかえって高められたような外観を呈したのである。  世間はこの思い切った、というよりは常識外れの温情人事にむしろ呆れた。  しかし、人々は美談のかげで、旧星電研の�その他大勢�の従業員が花岡進によって徐々に整理されていることを知らなかった。それも一度に大量の整理をするのではなく、組合幹部の骨のありそうな連中だけ厚遇をもって協電に引き抜き、労組を骨ぬきにした後、少しずつ、草を刈るように刈りとっていくのだ。  刈り残しの中にうるさ型が残っていた場合は、関連会社に好条件ではめ込む。それでもうなずかない場合は、協電専用の商務工作員を使って、彼の公私にわたる生活を徹底的に調べ上げ、鵜《う》の毛で突いたほどの瑕疵《かし》を見つけ出して脅しにかけた。 「天下の協電からにらまれてみろ。これから先、君はあらゆる企業からシャットアウトを喰うぞ」  たいていのうるさ型はこれで落ちた。  美談のかげの�草刈り�があらかた終ると、今度は星電研の社屋と工場の整理にとりかかった。渋谷のいる中央研究所だけは手つけずにおいた。  さして広くもない工場は二、三日のうちに解体され、社屋はあるスーパーマーケットに買い取られた。協電の設備や材料として利用価値のあるものはすべて大阪へ移された。  つい、一ヵ月ほど前まで、星のマークの社旗の下で約五百名の従業員が生々と働いていた星電研は、文字通り地上から抹殺されてしまったのである。 「進の奴、なかなか、やりおるわ」  花岡俊一郎は進のやり方に内心舌を巻いた。この種馬、案外と拾いものであった。星川を協電副社長、それも単なるロボットではなく、代表権のある副社長にと強硬に主張したのが進である。最初は俊一郎もこの途方もない人事に驚いた。しかし、買い占めの目的が渋谷一人にあり、渋谷と星川との個人的連帯が強いものであればあるほど、星川の協電における地位を優遇すれば、それだけ渋谷は協電になつく。  気むずかしい飼い犬を手なずけるには、その飼い犬がよく馴れた飼い主そのものを飼いならすにしくはない。——と主張する進の意見は尤もであった。  彼の意見を容れて、星川はじめ、旧星電研の創立者群をそのまま、協電の幹部に迎えたところ、案の定、単純な渋谷は花も実もある協電の温情に感激して、より以上の忠勤を「協電に対して」捧げるようになった。  もちろん、すべての命令は星川を経由して渋谷に下達されるようになっている。  協電第二中央研究所——それが名古屋に残された星電中研の新名称であった。�中研�という呼称も、渋谷と彼をめぐる旧星電研の技師団のプライドを損わないように特に配慮したものであった。  こうして、渋谷は吸収前と同じ場所、同じ組織体系の中で(星川旧社長の指揮下にあって)、しかも以前に倍する給料でもって、協電、正確には花岡進のために製品を開発することになったのである。 「この温情人事はあくまでも人心をつなぎとめるための工作です。渋谷を飼いならしたら星川達は一挙に整理してしまう。敗れた敵にいつまでも甘い餌をやることはありません」  進は瞳を細めてむしろ、楽しそうに俊一郎へ言った。  ——全く、ひろいものの種馬だった。——  花岡俊一郎は何度もうなずかざるを得なかった。  かかる事情の下に、渋谷の開発したMLT—3は大阪ロイヤルホテルにおいて協電の名の下に花々しく公開されたのである。  わずか、新書版大の蛍光面に現出する鮮かな色彩に世間は湧きに湧いた。  かくて、電子工業界第三の革命は協和電機株式会社の名によって為し遂げられたのであった。  協電の株はその日のうちにストップ高をつけた。株価のみならず、MLT—3の成功により、花岡俊一郎の率いる弱電は強電側に完全にとどめを刺したのである。  同時に、花岡進の眼の前に栄光の王座に至る大《ロイヤル》 道《ルート》が開けたのであった。  進の社内的地位が確立されると、彼の家庭における鼻息も荒くなった。  もはや、単なる種馬ではない。弱電派出身の第二代目の社長の椅子がほぼ約束されている身分である。しかも、その大部分は自分のかけひきと才能によってかち取られたものなのだ。最初の起動力は妻のヒキによって与えられたかもしれない。しかし、その後の峻嶮な径を登る登坂力は正に自分の力だけであった。  いつまでも、順子に種馬として仕えている義務はないのだ。  公開実験が成功した夜遅く、さすがに興奮醒めやらぬまま帰宅した進は出迎えの女中に、 「順子は?」 「もうとうにお寝《やす》みでございます」 「何!? 亭主が夜遅くまで死物狂いになって働いているというのに、先に寝るとは何事だ! 叩き起こしてこい」  と怒鳴った。 「でも……」  女中は途方に暮れて立ち竦んだ。順子が先に寝むのは何も今夜にかぎったことではない。  もっと早い時間でも、常に女中が出迎え、そして進もそれを当然のことのように黙認していたではないか。それが今夜にかぎって、どうしたことか?  ただ事ではない進の権幕に、女中は立ち竦んだのである。 「お前に起こせなければ、俺が起こしてやる。こい!」  進は女中を押しのけて寝室の方へ進んだ。 「でも、奥様は今日はお具合が悪くて朝からずうっと臥《ふせ》りきりなのです」  女中は吃り吃り言った。彼女の言葉は嘘ではなかった。  順子は数日来の風邪が抜けず、その日は軽い悪寒を覚えたので、進を送り出してから寝室に閉じこもっていたのである。 「いくら具合が悪くても、亭主が帰って来たんだ。玄関ぐらい迎えに出られるだろう」  進はわめいた。おそらく、順子は自分の今のわめき声を眉をひそめて聞いているだろう。獣のように野蛮な人間とベッドの中で軽蔑しているかもしれない。  自分の声は確かに順子の耳に届いているはずだ。それなのに、寝室の扉は貝のように閉されたままだった。その事実がよけい進を怒らせた。 「お高くとまりやがって、子供一人生めぬ石女《うまずめ》ではないか!」  進はあらかじめ用意しておいたセリフを吐いた。順子は進が不妊手術を受けていることを知らない。不妊の責任の五〇%は自分にあるのかもしれないと秘かに胸を痛めているだろう。  今の毒の言葉は純血の誇り高き彼女の胸をぐさりと刺し貫いたにちがいない。  ——ざまあ見やがれ!——  進はいくらか溜飲が下がった。女中もあまりの権幕に怖れて近寄らない。 「おい、順子、起きろ!」  寝室の扉を乱暴に開いた進は、さらに声を張り上げた。 「何ですか! みっともない。お時間を考えて下さい」  順子の水のように澄んだ冷たい声がかえってきた。 「けっ、何を言やがる!」  進はやくざのような言葉を吐いた。自分自身、初めて口にするような雑言である。  見れば順子はベッドの上に上体を起こして、美しいが、感情を殺した例の能面のような表情で進を見すえていた。ベッドサイドランプのオレンジ色の斜光を受けて、女には珍しい彫りの深い顔がよけいノーブルに見える。寝衣が胸元できちっと合わされ、今まで病で臥っていた人間とは思えない。寝衣姿ながら一分のすきもなかった。  しかし、それが進の癇に障った。  女が夫に対してすきを見せないということは、とりもなおさず、夫を愛していない証拠である。妻として夫にまみえる時、女はすきだらけでよい、否、そうあらねばならないのだ。  夫に命じられるままに、どんなしどけない姿にも、どんなあられもない格好にもならねばならない。それ故にこそ、戦いに疲れ帰った男達は家庭に安らぎを求められる。  硬玉のように硬い女は、たとえ澄んだ美しさを湛えていても、妻としての資格はない。  夫に対して武装をし、そのことにより反射的に男に�妻に対しての武装�をさせるような女は最初から人妻になるべきではなかった。  性愛のため、また、生殖のために求める男であれば、それはそれなりの求め方もあろう。  少なくとも、彼女らは家庭に入りこんではならない。それが彼女ら(もし、彼らに対して女という呼称が許されるならば)に課せられた最小限のタブーではないか。  花岡進は順子の姿に、むしろ、中性的な化け物が妻という形を藉《か》りて家庭に侵《はい》りこんだように感じた。  その時、衝動が進の躰に湧いた。 「あ、何をなさるの!?」  彼は順子のそばへずかずかと歩み寄ると、いきなり彼女の胸ぐらを掴み、カーペットの上に引きずり出した。  順子は必死に抵抗したが、山で鍛え上げた進の腕力に抗すべくもなかった。 「夫を獣を見るような目で見つめる前に、迎えに出たらどうなんだ?」 「今、何時だと思っているのです!?」 「うるさい! つべこべ言うな」  進は順子の胸ぐらを掴んでいた手を放すと、思う様彼女の両頬を張った。 「あっ」  深窓に育った身に生まれて初めて振われた暴力に、順子は声を失った。しかし、気の強い女らしく、瞳に冷たい光を集めて進を必死に睨みかえした。そうする間にも、乱れた裾を素早く直すことを忘れない。 「お前は今まで、一度でも、妻らしい態度を俺にとったことがあるか! 何だ、その目は」  殴られても、かつ、乱れない順子の姿勢に進はますます猛《たけ》り立った。進は文字通り、獣のように順子の躰に襲いかかった。 「あ、止めて、いやよ、いやっ」  順子の全身の抵抗をせせら笑いながら、進は男の力で彼女の下のものを剥ぎ取っていった。  順子がどんなにあらがっても、寝室の中の、しかも、すでに薄い寝衣に着替えている躰である。進の凶暴な力の前に下穿きはむしり取られた。帯は外され、寝衣はずたずたに裂かれた。  見るも無惨な姿になった順子をニヤリと見下した進は、折り重なりながら、巧みに自分のズボンを外し、妻の躰の中に荒々しく割って入った。  躰を割られながらも順子は抵抗を止めなかった。下半身を結合した男女が、上半身において激しく相争っている。 「けだもの、けだもの!」  順子は激しく罵った。 「何がけだものだ、この化け物め」  妻の躰を苛みながら、進も応酬した。しかし、憎み争いながらも、男女の躰の造化の妙は互いの肉に官能を高めつつあった。  順子の抵抗は徐々に減ってきた。二人はあえぎながら、闘争のために激しく動かしていた躰を、いつの間にか、ちがう目的のために動かしていた。  ——順子が同調している!——  進は組み敷いた妻の躰が、自分の動きに合わせて律動しているのを知って驚いた。  これは結婚以来、初めてのことである。おそらく、彼女も争いの続きのつもりで躰を動かしているのだろう。よし、それならばそのように扱ってやれ!  進は次第に高まる官能の波を、自らの意志でひとまず止めると、折り敷いた順子の躰に手をかけて腹這わせた。  そして、相手に咎める隙も与えず、女を犬のように這わせて、しとどと濡れた彼女の秘奥に、自らも犬のようになって入って行ったのである。  寝室の中には男女の体液のなま臭い臭いがこもった。憎み合いながらも、行き着く所まで行かなければ鎮められない、本能の火に焦がされた二人の、いずれ劣らぬ獣のようなあえぎが高まっていった。  翌朝、進は別人のように澄ましかえった順子に向かって、 「お前、今日医者に診てもらえ」 「どうして?」 「結婚して五年にもなるのに俺達の間にまだ子供ができないじゃないか。俺に悪いところがなければ、お前のどこかが悪いのだ。俺も一緒に行って診てもらう。これからすぐに行くから支度をしろ」 「そんなこと急に言われても困るわ」  順子は心持ち面を染めて言った。きっと、あられもない姿態を取らされて内診を受ける自分を想像したのであろう。気位の高いこの女が、婦人科の内診台に上がった姿を想像するだけで愉快だった。 「何を言う! 子供が生まれなくて困るのはお前の方だろう」 「でも、私に悪いとこなんかあるはずありません。あるとすればあなたの方です」 「そんなことがどうして分る? 俺は別に悪遊びもしとらんし、病気に罹《かか》ったこともない。絶対に健康だという自信があるんだが、一人ではお前が行き辛かろうと思って、一緒につきあってやろうと言ってるんだ。俺も子供が欲しいからな。さ、こい」  進はいやがる順子を無理矢理に引き立てた。これから行くべき病院で、彼によって買収された医師が彼女に永久不妊の烙印を捺すはずであった。  順子は昨夜から別人のように変ってしまった進に、恐怖感に近いものを覚えながら、従わざるを得なかった。  純血を伝えるべく雇われた種馬は、今、強大な権力を得て雇い主を蹴落とそうとしているのである。  二日ほど後の夜、順子は寝室の中で表情を引き締めて言った。 「あなたにお話がありますの」 「何だ改まって?」  進は順子がこれから語るべき話の内容をよく知っていたが、わざと空とぼけた。 「私、不妊症なんですって」 「…………」 「卵巣機能不全の上に卵管が悪いんですって」 「…………」 「手術をしても、妊娠率は一〇%くらいなんですって。それも、子宮外妊娠や、早期妊娠中絶の頻度がきわめて高いとか」  順子は別人のように悄然としてうなだれた。 「それで、俺にどうしろと言うんだ?」  心の中で秘かに快哉を叫んだ進は、冷たく先をうながした。 「でも、花岡の家は絶やすわけにはいかないわ」  順子は頭を上げた。烈しい光が瞳によみがえっている。 「幸い、あなたは健康だわ」 「だから?」  進はわざと聞いた。 「だから、あなたに生んで欲しいのよ。あなたのお気に入りの女のお腹を借りて、花岡の家の後継者を。でも、これだけはお願いしておくわ。その女を妊娠させる前に、必ず私の前に連れてきて! いやしくも、花岡家の後継者を生む女です。いくらあなたが気に入っても、血筋が正しく、頭もよくなければなりませんわ」  順子は純血の女王の誇りを取り戻していた。さすがの進も、この尊厳に充ちた彼女の態度に反駁できなかった。  二人はツインベッドに、離れた心を抱いて別々に入った。  誰を選ぶべきかと、心に浮かぶ何人かの女の面影を浮き浮きと追っていた進は、闇の中で順子の頬をひそかに流れ落ちた涙の粒を知らなかった。  翌朝、出勤した進を待ちかねたように一本の電話が入ってきた。 「花岡さんですか、利根です。今、電話よろしいか?」  利根というのは買収した例の医師であった。進がよいと答えると、 「花岡さん、奥様のことですがね、実は心配する必要は全くなかったのですよ」 「……?」 「奥様は正真正銘の不妊症だったのです」 「え!?」  進は思わず送受器を握る手に力をこめた。 「大体、不妊症というのは医学的には『夫婦が正常な結婚生活を送り、子供を希望しているのにもかかわらず、満二、三年たっても妊娠しない状態』を言います。女性側の不妊原因には、結核性疾患、性病、人工妊娠中絶、耳下腺炎などの既往歴によるもの、膣、頸管に欠陥のある場合、子宮、卵管、卵巣を因子とするものなどがあります」 「そんなことはどうでもいいから、早く要点だけ言って下さい」  進はいらいらした。今さら、医学の講義を受けてもはじまらない。 「すみません、つい、患者に説明するくせが出てしまって」  どうやら、利根は送受器に頭を下げたらしい。 「奥様の場合、卵管閉塞症の上に骨盤に結核の既往症があるのです。この閉塞症は治療困難な点で不妊因の中で重要な位置を占めております。もちろん、様々な治療法はありますが、いずれも満足するような成績を上げるに至りません。手術後の妊娠率は、せいぜい一〇〜二五%くらい、それも異常妊娠率が高いので、手術は骨盤内に結核の既往歴がなく、卵管閉塞以外に不妊原因が認められない場合にかぎられるのです」 「要するに、手術しても妊娠の可能性がほとんどないのですか」 「そうです。最初から真正の不妊症です。診断を作為する必要は全くありませんでした」  利根の言葉を聞き終った進は、長い息を吐いた。順子の奴、みかけはいい躰をしているが、中身はポンコツだった。  何のことはない。不妊手術などする必要は全くなかったのだ。次に大きな喜びがこみ上げてきた。  今度こそおおっぴらに好きな女を抱ける。しかも、その女に生ませた我が子に花岡家の莫大な財産を相続させることができる。  妻公認の妾、しかも濡れ手に粟の財産と地位、こんな男冥利に尽きることがあるか。進は喜びにともすれば震えかかる声を、圧し殺すのに苦労しながら、利根との会話を打ち切った。  次に彼が為すべき急務は、結紮《けつさつ》した精管を復元することであった。彼は出勤したばかりで、未決の業務書類がデスクに山積しているのを無視して立ち上がった。復元手術を受けるためである。  数時間後、花岡進は医師から彼の精管が復元不可能になっていることを告げられた。  彼はもっと早く復元手術を受けるべきであった。パイプはすっかり錆びついてしまったのである。 [#改ページ]  黒い陽炎《かげろう》  その頃、岩村元信の姿が菱電社長室にあった。 「お前も知っての通り、星電研は協電に買収された。協電の資本に星電研の技術が結びついたのだ。今まではウチの方がやや優位だった市場シェアが、今度は逆に大きく水をあけられるぞ」 「申しわけありません」  岩村は深く頭をたれるばかりであった。渋谷のスカウトに失敗したばかりか、ホテルナゴヤの内野攻略戦においても、花岡に敗れたのである。 「詫びてすむことではない。責任を取ることだな」  盛川はあくまで冷たく言った。 「覚悟はいたしております」  岩村は蒼ざめた顔に、太々しい笑みを浮かべて、内懐から一通の封書を取り出した。 「何だ、これは?」  盛川が上瞼を上げた。 「はっ、辞表でございます」 「馬鹿っ」  厚い扉を越えて秘書室にまで届く大声であった。辞めるとなれば、社長もへちまもないとふてくされ気味だった岩村も、思わず、首を竦めた。やはり、貫禄のちがいである。社長と社員という、主従に似た関係は一片の紙きれで断ち切れるものではなかった。  雇用契約を解除して、互いに対等の人間にたち戻ったつもりでいても、長い時間に培われた、上位と下位の職位体系は、サラリーマンの骨の髄にまでしみこんでいる。上位者はあくまでも上位者らしく、下位者はどこまでも下位者の如く、持って生まれた体質のようについて廻るのである。 「お前は辞めさえすれば社に与えた損害を取り戻せるとでも思っているのか!? たかが、十万株を買うために六千万も費いおって」  内野恵美子から株を取得するために結んだ団体契約のことを言っているのだ。 「何たる身勝手な奴だ」  盛川は本当に怒っていた。彼は腹を切ればすむと考える武士道的感覚を嫌悪していた。  自分さえ死ねばいいとする、最も安易にして、低能な解決方法。何かといえば広大なる世界とか、祖国とか、世の人々のためとか、要するに、自分より大きいものとの比較において自己の卑小感を作り出し、犠牲という幼稚なヒロイズムの中に自己の死を高めようとする。  世界がどんなに広大であろうと、宇宙がどんなに高遠であろうと、人は自己を媒体としなければそれら広大なもの、高遠なものに触れることはできない。  要するに、自分が世界の、宇宙の中心なのだ。  そのように堅く信じている達之介にとって最も嫌悪すべきタイプは「すぐ腹を切りたがる人間」であった。  岩村の場合は犠牲としてではなかったが、安易に腹を切ろうとしている事実に変りはなかった。それが盛川を憤怒させたのである。  その憤怒の中に彼は、岩村が別に会社に損害を与えていないことを忘れてしまった。  代理店招待はどうせやらなければならない年中行事であったし、岩村が内野恵美子から二百二十円で買ってきた星電株は一株あたり約四百円のプレミアムをつけて捌《さば》けたのである。  しかし、岩村はその事実を知らない。盛川が星電を買ったのは、協電の買い占めを見破り、対抗したのだと思っている。買い占め合戦に破れれば、三千万を越える団体契約の見返りにホテルナゴヤから買った、十万株は全く無用のものとなる。  あまつさえ、本来の目的たる渋谷スカウトにはものの見事に失敗している。  当然の如く受理されるであろうと思って提出した辞表だっただけに、岩村はかえってとまどった。 「お前は馬鹿な奴だ」  盛川はやや怒りを鎮《しず》めてふたたび言った。 「しかし、今の私には辞める以外に何もできません。折角、近衛寮、いや、紀尾井寮へ入れていただきながら、私はご期待を裏切ってしまったのです。私にはとうてい、資格はなかったのです」  岩村は語りながら、ふと胸がつまった。なまじ、エリートとして選ばれたがために、大切に使えば停年まであと二十五年もあるサラリーマンの寿命を縮めなければならない羽目になった。九時から五時までの定められた勤務時間だけ、可もなく不可もなく働いていれば、平凡、単調ではあっても、ささやかな平安と幸福は確保される。  サラリーマン人生とは正にそのようなものではないだろうか?  エリートとして会社から選ばれた瞬間から、血と汗と涙に滲んだ苦闘の日々が始まる。それに打ちかてば栄光と権力を与えられるが、もし、敗れれば今の自分のような惨めな負け犬となる。  何処へ行っても、もはや、今の職場と同クラスの所に、自分を迎え容れてくれるべき空間はないだろう。  一度、職を過ったサラリーマンは常に下へ下へと流れて止まないのだ。 「もう一度、チャンスをやろう」  盛川は言った。 「え?」 「星電研は協電に系列化された。あの買い占めのお目当ては渋谷一人にあったのだ。さすがの儂もあの莫大な資本投下をしての買い占め目的が一人の人間にあるとは気がつかなかった。うかつだったよ。確かに、渋谷にはそれだけの価値がある。しかし、それならばだ、もし、渋谷がいなくなったらどうだ?」 「……?」 「そうさ、渋谷がいなければ星電研など紙屑ほどの価値もない。彼がこれまでに開発した数々のパテント、現在開発中のポケットカラーテレビ、将来開発するであろう無数の製品、それらすべてに対して、数億の資金を注ぎこんで強引に買収したのだ。もし、ここで渋谷という人間が消えてなくなれば、買収に費った巨額の資金はドブへ捨てたことになる」  盛川達之介の目は笑っていた。笑いながら氷のような冷気が岩村に向かって一直線に放射されてくるようであった。  岩村にも盛川の意図するところがようやく掴めかけてきた。しかし、それを口にすることは怖しかった。 「分ったな」  盛川はうながした。岩村は何か言わなければならなくなった。 「しかし、渋谷を星電研(協電の下の)から引き離すことは不可能です」 「そうかな?」  盛川はニヤリとした。 「人間と人間、あるいは人間と会社の連帯を断ち切るのは何もスカウトだけとはかぎらない。交通事故に遭うこともあろうし、山や海で遭難することもあるだろう。天変地災ということだってある」 「社長!」 「はっは、冗談だよ。しかしな、お前には美奈子という娘がいることを忘れるなよ。美奈子と、そして彼女に随伴するさまざまなメリットをお前の腕に掴み取るか、否かは、ひとえにお前がこれからどういう形で責任をとるかにかかっているのだ」  盛川達之介は大きく身体をゆすって笑った。ゆったりした社長の椅子すら狭そうに見える盛川の突き出した腹は、彼が笑う都度、波のように揺れた。  岩村はふと達之介の下腹に、ホテルナゴヤのスイートで景品として抱いた内野恵美子の下半身をダブらせた。そして、自分が進むべき道は、たとえそれがどんなに苦しく血の滲むものであろうと、エリートとしての急峻で狭い道以外にないのだと思った。  それに立ち塞がる者は、たとえ、肉親といえど、友といえど容赦するわけにはいかない。岩村は社長室の一枚ガラスの窓を越して、眼路のかぎりに広がる東京の街々を見た。それは初夏の眩しい陽炎の中でゆらゆらと燃えるように揺れていた。岩村にはそれが大都会に棲息する無数の人間の欲望が、燃え上がっているように映った。 [#改ページ]  旧き山仲間の唄  盛川達之介は岩村の前に遂に仮面を脱いだ。渋谷を協電から除け、そのためには手段を選ぶなと彼はほのめかした。 「交通事故に遭うこともあろうし、山や海で遭難することもあるだろう。天変地災ということだってある」  と言った彼は岩村に殺人を教唆しているのだ。否、教唆というよりは、強制的な命令と呼んだ方がいいだろう。  一個の平凡なサラリーマンとして、人生の最も脂の乗った時期を甘んじて費消できる人間はよい。  団地や社宅のささやかな平安と幸福は、別にきわ立った働きをしなくとも、大して悪いことさえしないで人並みにやっていれば、まずは保障されるのである。  しかし、岩村元信は選ばれたる人間であった。菱井電業の厖大な有象無象の間から、盛川達之介、即ち菱電という巨人の王から、特に選び出された人間であった。そのようなエリートはサラリーマンとは別種の人間である。  王の命ずるところに従い、魂を売り、地獄の炎をくぐってはじめてエリートの名に値し、その座は約束される。  殺人という、あらゆる犯罪の中で最も凶悪なものすら、盛川が命ずるかぎり拒絶できない。  いや、拒絶できないことはなかった。ふたたび厖大な有象無象の仲間入りをして、誰にも認められない一個の卑小な歯車として寂しく一生を廻り続けることができれば。  しかし、ここまで登りつめてきた岩村にとって引き返すことはもはや、不可能であった。一度でも陽の当たる場所に出た人間が、ふたたび、日陰の場所に戻されるのは死よりも惨めなことだった。  非人間化された人間の典型として、何の興味もない帳簿をくり、電話をうけ、小商人と会う。どいつもこいつも同じような面つきをした�背広細民�の自らもその一人となって昨日と同じような今日を送り、今日と同じような明日を迎える。  それはそのようにして、停年の日まで変ることもなく、猫の額のような一職場単位の中の陰湿な人間関係と不平不満の中に隠花植物のような�一生�を終える。  よほどのバカでないかぎり、十年、二十年先の己の未来図が、高《ハイ》精度《フアイ》に読みとれる生活というよりは、単なる生存の状態から生き甲斐を見出すのはむずかしい。  今の岩村は、平社員の分際で仕事だけが生き甲斐だなどと言う奴に出逢うと憎悪を覚えた。  人間としてよりは単なる労働力としてとらえられる平凡なサラリーマンの仕事が、それほど面白いはずがない。  それも最初から背広細民としての道が定まっていたのであれば、無知の功徳(知らぬが仏)でがまんもできよう。  しかし、いったん、権力の栄光をエリートとしてちらつかされた後では、後戻りはできなかった。  まして、後戻りは岩村が軽蔑する背広細民の地位すら危うくするかもしれないのだ。前へ進めば、たとえ殺人という大罪を犯しても、その彼方は巨人の王という権力の座が、めくるめくばかりの栄光に包まれて彼を手招いている。  そうだ、あの栄光の座を俺は是が非でも手に入れなければならない。そのためには、——  突然、岩村の目ぶたに、盛川が下腹を突き出して坐っていた、絹のような総皮張りの社長の椅子と、近頃とみに脂の乗ってきた盛川美奈子の姿態が重なって映った。  その二つ共、決して可能性のないものではない。いや、盛川の命ずる通り、協電から渋谷を取り除けば確実といってよい精度で自分の手に入る。  ——渋谷、許せ——  この時、岩村の意志は定まったのである。  岩村は挑戦するように眼を上げた。オフィスの窓越しに東京には珍しい夕焼け空が広がっていた。西の空に雲が乱れ、それが折りからの夕陽を乱反射して、東京の町が一斉に燃え上がったような朱と茜の炎を西の天末から天心にかけて流している。   ソレハ遠イ日   見残シタ夢ノ破片カ   落石ノ音、シキリナル岩壁ニ   辛クモカチ取ッテイッタぴっちノ数々   紺碧ヲ貫ク尖峰ニ   旧キ山仲間ハざいるヲ解イタ。   至上ノ憩、——   視野ノ限リノ夕焼ケ雲ニ包マレテ。  夕焼け雲の彼方から、岩村の耳に遠い詩が届いてきた。それはかつての日、アルプスの峰々で渋谷、花岡と共に好んで口遊《くちずさ》んだ詩《うた》だった。  誰がいつ作ったものか分らない詩だったが、彼らはこの�旧き山仲間の唄�と題する詩が好きだった。  ハーケンの唄う岩壁のテラスで、目も開けられぬ風雪の山頂で、大いなる夏の縦走路で、またある時は今のような落日の華やかな山稜のお花畑で何度となく口遊んだものだった。  その都度、彼らの連帯は深まり、青春の友情の素晴しさを確認したものである。  ——その仲間の一人を俺は除こうとしている——  岩村の胸を鋭く苛むものがあった。 「素晴しい夕焼けね」  耳許で若い女の声がした。いつの間に来たのか、竹内悦代が岩村に寄り添うように立って夕焼けを眺めていた。悦代の横顔も夕焼けに赫く染まっている。きっと、自分の面も彼女のそれのように赫くなっていることだろう。  悦代は岩村の注視を何かと誤解したらしい。彼の方に向き直り、 「今晩どう?」  と囁いてから、彼にだけ分る笑いを送った。 「うん」  岩村はうなずいて、 (渋谷、許せ、俺はそれでもお前を除かなければならない。俺が悪いんじゃない。あの夕焼けよりも華やかな栄光が世の中にあるからいけないのだ)  と心の中につぶやいた。それから三ヵ月あまり、岩村の思考のすべては�渋谷排除計画�に集中したのである。 [#改ページ]  駄獣の涙  渋谷夏雄はどうしても�排除�しなければならない。そのことだけが自分がこれから生き残っていくための条件である。  しかし、この法治社会では人を排除すれば自分も排除される。それが死刑とか、終身刑とかの致命的なものではないとしても、少なくとも刑法による制裁を受けなくてはならない。  渋谷を除くために非合法な手段をとっても、あくまでも表面は�健全なる社会人�として生き残っていかねばならない。  国家の制裁を受けては渋谷を除く意味がない。  一人の人間を抹殺し、自分は平穏無事に生き残る。戦国時代ならばいざ知らず、この治安の確立された社会でそんなうまいことができるだろうか?  完全犯罪は犯罪者や犯罪予備者達の見果てぬ夢である。しかし、彼らのほとんどすべては、いや全きすべては完備した警察組織と自分達の思わざるミスにより敗れ去っていった。  岩村元信は思考のすべてを、渋谷排除計画に集中した。当然のことながら、人を抹殺するという仕事は彼にとって初めての経験である。  まず、最初にできるだけ多くの犯罪記録を読み漁り�先人�達が遺した�貴い教訓�を学び取ろうとした。  もちろん、公的な記録は失敗の記録である。しかし衝動的犯罪——今ははっきりと殺人と呼ぼう——殺人を除いて、最初から捕まるつもりで計画を立てた者はいない。みなそれぞれに生き残るための必死の工夫を凝らしたのであるが、彼らが見落していた微細なミス、あるいは大きな手ぬかりによって、完全犯罪が不完全犯罪へと転落していった。  だが、失敗の記録を徹底的に分析研究することによって先人達の轍を踏むことは避けられる。  彼らが見落していた発覚の端緒を丹念に拾い集めることにより、これから行なうべき自分の�行為�をより完璧なものに仕立て上げることができるのだ。ましてや、今日は先人達の時代よりもはるかに科学捜査が進んでいる。顕微鏡的なミスも許されない。  一人の人間の消滅と自分の行為の間の因果関係は、いかなる科学捜査をもってしても追及《トレース》できないように切断してしまわなければならない。  失敗の記録を手に入るかぎり漁り尽くした岩村は、今度は完全な記録を研究し始めた。といっても、完全犯罪の公的記録が手に入るはずはない。この方は人間の想像が生んだフィクションの犯罪でがまんしなければならない。  彼は古今東西の推理小説を読み漁った。そしてそれらのいずれもが、理論的には可能であっても、現実にはなかなか適用できないことを知った。要するに、現実性に乏しいのだ。  彼らは機械的トリックや、心理の錯覚を駆使して実に見事な完全犯罪パターンを展開してみせてくれたが、さて現実に人を殺すとなると、銃火器や、有刃器を使っての原始的方法に頼る以外なさそうであった。  しかし、そんなことは絶対にできない。渋谷を抹殺することは白昼のように明らかに決定してはいても、友が友をその手で直接殺戮する悲惨は避けなければならない。  殺すという事実は同じであっても、友の血で手を汚すような殺し方はできない。  毒物や爆発物はどうだろう? 生物学的な血潮が流れないというだけのことで、友の身体に直接手をかけることに何の変りもない。  誰かを雇うか? それは駄目だ。共犯はそれだけ危険性を高める。  最も安全と考えられる方法は過失を装う方法だ。人を殺そうとする故意(殺意)は人間の心の中のもので外からは見えない。現実に殺意があったとしても、それを認定するに足る証拠がないかぎり、過失とされる。  結果において、一個の死体が作り出される[#「作り出される」に傍点]という事実には何の変りもないのに、故意犯と過失犯の法定刑は天地の相異である。殺すつもりで殺すのと、不注意で死に至らしめたのとでは犯人の反社会性が天地ほどにもちがうというわけだ。  しかし、岩村の場合、過失犯にすらなれないのである。岩村はいやしくも天下に誇るべき�菱井マン�だ。過失犯として処罰されるだけで菱井マンに値しなくなる。  だから、彼の故意は過失の衣で蔽い隠すことすらできない。もとより、共犯は使えない。  自分で直接手を下すこともできない。過失も装えない。  考えに考えあぐねた岩村に盛川達之介の一言が閃めいた。 (天変地災ということもある) 「そうだ!」  岩村は思わず声を出して叫んだ。天変地異の中に渋谷を巻き込む。暴風でもいい、地震でもいい。また、津波でもよい、そういう自然現象的な災禍の中に渋谷を放りこむのだ。誰がそのような災難の中の死を殺人と疑うだろうか?  問題はいかにしてそのような天災を人為的に作り出すかということにかかる。しかし、これは金さえかければできないことではない。何しろ、後には菱電がいるのだ。  ダムの決壊による人工的洪水、大火災、公害を装った有機リン酸中毒や一酸化炭素中毒、多重衝突による交通事故、航空機事故、放射能雨。  また、天災ならずとも、不可抗力的な�人災�を利用してもよい。例えば警官隊とデモ隊の衝突を利用しての殺人、�同時犯�として警官と群衆が犯人になってくれる。これの応用形としてけんかのそばづえをくわせてもよい。  たとえ、そのためにその他大勢の何の関わりもない人々の生命を殺傷することになっても、止むを得ない。  何十人、何百人の人々の血潮を流しても、自分の手が渋谷の血によって染まることよりもはるかによいのだ。  しかし、人災利用法となるとやはり共犯の手を借りねばなるまい。とするとやはり天災か。  他に何か手はあるまいか、海はどうだ? いや、それよりも山がいい。山! そうだ、山こそ自分の舞台ではないか。それに渋谷にとっても。山好きの男が山で死ぬ。それは必ず遭難死として片づけられる。渋谷の死体が置かれて何の疑惑も持たれない場所こそ、山ではないか。そこは雪崩、落石、滑落、凍死、疲労死、墜死、餓死等あらゆる�理想的危険�に充ちた空間なのだ。第一、山ならば渋谷をきわめて自然に誘い出せる。  岩村はようやく安全な殺人方法を見つけ出した。  彼はほっと吐息を吐いた。これで自分の生き残る道が見つかった。長い計画思考の後に遂に導き出した結論に彼は満足した。  岩村が愕然としたのはその直後である。 (俺は渋谷を殺すことに喜びを感じている)  この競争社会において、人間は獣にならなければ生き残れないのであろうか? 生き残ることが生物必然の本能として止むを得ないものとしても、自分が淘汰されないために仲間を殺すことに、せめて哀しみを感じられないのか?  獣となっても生きなければならない。それはそれでよい。しかし、少なくともそれ以前は人間であった証拠に、そのような生き残り方に哀しみを覚えてもよいのではないか。  それを、今の自分は哀しむどころか、喜んですらいる。自分の精神は粉々に砕かれ、一匹の駄獣以下になり下がっているのだ。 (よおし、こい!)  かつて碧瑠璃の空を仰ぐ岩壁で磐石の確保《ジツヘル》をしてくれた渋谷の声が、岩村の耳によみがえった。  突然、慟哭が彼をおそった。それは渋谷を殺すことに対して哭《な》いたのではない。渋谷を殺すことを何とも思わない自分自身に対して涙が流れたのだ。 (俺は獣だ)  岩村は哭けば哭くほどに自分が人間から遠ざかって行くように感じた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  前略、  その後どうだ? 十月五日より六日間の予定で東京へ出張することになった。久しぶりに会いたいと思うが都合はどうだ? 宿はまだ決めていないが、上京後連絡する。ではまた、いずれ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]草 々    岩村が渋谷から以上の簡単な文面の葉書を貰ったのは九月の末のことである。 [#改ページ]  樹冠炎 「やあ」  岩村は軽く手を上げると、人なつっこい微笑をたたえて歩み寄って来た。 「久しぶりだな、奥さんとは、もう三年になりますかな? や、この坊やが雄一君ですか、ずい分大きくなったもんだなあ」  岩村は渋谷一家の前に立つと家族三人の顔をこもごも見比べながら大げさに言った。 「まあ、坐れよ」  渋谷にうながされて岩村は腰を下しながら、 「しかし、奥さんやお子さんも一緒とは知らなかったな。で、いつ出てきたんだ?」 「一昨日だよ。急な社命でな」 「一昨日? 手紙では昨日のはずだったぞ。何故もっと早く知らせないんだ?」  岩村がやや詰《なじ》るような口調で言うのへ、 「いや、少し予定変更になってな、一昨日は大分遅く着いたし、昨日は一日中、とび廻っていたもんだから」 「まあいい、それで宿は?」 「このホテルに取ったよ」 「ますますもってけしからんな。東京には俺の家があるんだぞ、大して広くもないが、このホテルよりずっと心のこもったもてなしはできる。お前、いつからそんなに水臭くなったんだ?」 「いやあ、すまんすまん、別に水臭くしたわけじゃあない。今度はコブ付きで出てきたし、それにお前にはこの前のことで大分迷惑をかけたようだから、何となく敷居が高くなってしまったんだ」  渋谷は岩村を通しての菱井電業からの誘いを断ったことを言ったのである。 「あんなことは忘れろ。あれは企業人としてのことだ。私人としての俺達のつきあいには何の関係もないことだ。困るなあ、そんなことをいまだに言ってるようじゃあ」 「いやあ、お前にそう言われると俺も救われるよ。しかし、花岡との板ばさみになって俺は本当に苦しかった」 「もうそれを言うな、今夜は久しぶりに旧い山仲間《ザイルパートナー》が再会したんだ。昔の山の話を思い切り語ろう。奥さんもいることだし」 「お前、本当に気にしてないのか?」 「くどいなあ、そらそら、奥さんがアクビをしておられる。すみませんねえ、こんな話題になってしまって」  岩村はおどけた身振りでペコリと頭を下げた。 「いやですわ、アクビだなんて。私、ちっとも退屈なんかしてませんことよ」  渋谷はるみは軽くにらんだ。ちょうどその折、ホテル専属のバンドが、演奏を始めた。曲目は山のロザンナ。——  ここは、東京赤坂の高台にある日本最初の超高層建築を誇るホテル大東京三十六階にある回転展望台�ブルースカイサロン�である。  渋谷一家と岩村元信はその一隅に席を占めて久しぶりの再会に話をはずませていた。  新幹線でわずか一時間半の東京と名古屋にいながら渋谷が協和電機の第二中央研究所に閉じこもっての研究三昧、岩村の方も大阪へはよく出張するが、名古屋へ途中下車《ストツプオーバー》することはめったにないために二人はあのスカウト勧誘以来会っていない。  今度の渋谷の出張も社用とはいうものの、慰労の性格が濃いものである。研究所浸りの渋谷の身体を星川副社長が心配して、社命でなければ研究所から容易に出ようとしない渋谷のために、ほんの口実の軽い社用に結びつけて一週間ほどゆっくり遊んでこいと送り出したものだった。  几帳面な渋谷はそれを昨日一日がかりで片づけ、やっと今日旧友の岩村にお呼び出しがかかったという次第である。 「山へもしばらく行ってないな」  蒼茫たる黄昏を重畳たる山脈の彼方から呼んでくるような山のロザンナの調べに、渋谷は遠い眸をした。  折りしも、一時間に一回転する展望台は山手方面にめぐり、眼路のかぎりのビルと甍《いらか》の波の彼方に奥多摩や丹沢の山塊が、青い雲の影のように流れている。 「もう山には新雪がきているかもな」  岩村が言った。彼が言った山とは彼らの青春の舞台であった不帰岳を指していることは言うまでもない。 「ああ行きてえな」  この時ばかりは渋谷の技術者としての冷たい光りを湛えた眸にも、かつての日のアルピニストの熱い輝きがよみがえっていた。 「どうだ、久しぶりに一緒に行ってみないか? 二、三日の暇ぐらいどうにでもなるんだろう?」  岩村が急に思いついたように言った。 「山へか? しかし、今度は女房子供を連れているし」 「奥さんも行けるところにすればよい」 「でもなあ」 「秩父の前衛に外秩父高原と呼ぶ五、六百米の低山帯がある。低山とはいっても人造湖だが湖もあるし、森も深い。尾根筋からは関東平野がよく見渡せる」 「外秩父か」  渋谷は悪くないなと思った。熾烈な日の光と高燥な大気に身を晒して絶え間ない緊張を強いられる高山は、今の自分には時間的にも体力的にも文字通り高嶺の花だ。それよりも湖や森に囲まれた優しい草山、初秋の広々とした風景の中に、麦藁《むぎわら》色の穏やかな陽光を浴びて自分自身、その風景のように空しくなりたかった。 「今度、うちの社で外秩父のアマメクボ山という小さな山を一つ買ったんだ。社員厚生施設の一つとして菱井電業専用のキャンプ場にする予定だ。来春店開きなんだがもうほとんどでき上がっている。中腹まで車で上がれるから頂上へ奥さんでも行けるよ」 「山を買った!? さすがに大企業となるとやることが派手だな」  渋谷は驚いた。社員の厚生施設として山を買うなどとは、とても彼の旧社では考えられないことだったからだ。 「アマメクボ山、行ってみたいわ」  渋谷の妻が目を輝かした。 「車から降りて頂上までこの子でも登れるかしら?」  それでも少し心配顔で質《たず》ねるのを、岩村は押しかぶせるように、 「大丈夫ですとも、地元の幼稚園が遠足に行く所です。何だったら、バンガローに泊まれるように手配しておきますから」 「わあ、キャンプもできるのですか? ねえあなた、行きましょうよ。あなたはいつも私に山の話を聞かせるばかりで連れて行って下さったことは一度もないじゃない。こんないい機会はないわ」  彼女は女学生のように目を輝かせた。 「そうだな」  渋谷はうなずきながら、ふと、遠い日、岩村と大阪にいる花岡と三人で冬山行の足馴らしに、秋草をふみ分けて歩いた奥多摩辺の茫々たるカヤト(草原)の尾根を想い出した。 「うわあ、きれいだぞう、ママア、パパア早く上がっておいでよ」  展望台の上から雄一が大はしゃぎに叫んだ。 「雄ちゃん、あんまりはしゃぐと落っこちるわよ」  はるみが下から心配そうに言った。しばらく後、展望台の上で顔を揃えた親子三人の幸福なさんざめきが山の静かな空気を震わせた。  山頂はササを混えた一握りの明るいカヤトであり、その上に火の見|櫓《やぐら》のような展望台が急造されてある。  標高六百米弱の低山でありながら、山頂近くまでびっしりと生い茂った、秩父特有の密度の濃い樹林は、展望台のおかげでさしたる展望の障害にならない。  傾きかけた初秋の午後の光の中に外秩父の柔かな山脈が幾重にもたたなわっている。その彼方に奥秩父の濃く鮮かな稜線、さらにはるかには日光、赤城、上信越の山群が薄青い煙のように流れている。そして頭をめぐらせば青くけむった関東平野と銀蛇のようにきらめきながら流れ去る荒川の流れ。 「なるほど、これは素晴しいな」  山馴れしているはずの渋谷も嘆声を洩らした。 「来てよかったわ、本当に」  はるみも目を細めた。 「今夜はどうせバンガロー泊まり、ここでゆっくり遊んでいきましょうね」  彼女はすっかり童心に帰って言った。 「しかし、炊事の支度を岩村ばかりに任せておいていいかな?」 「いいでしょ、私達、今日はお客様だもの」 「いや、そういう意味ではなくて、あいつに任せておくと何を喰わされるか分らないからさ」 「あらっ、それは大変」 「あのおじちゃん、そんなに下手なの?」 「ああ、下手だよ。パパの学生時代、仲間で一番下手だった。おかげで彼はいつも炊事当番から外されていたんだよ」 「いやだなあ、僕そんなまずいもの」 「はっは、大丈夫、大丈夫。パパもママもついている。雄坊の口に合うものをすぐ作ってやるよ」  三人は秋の山の陽を全身で受け止めながら笑った。久しぶりの、本当に久しぶりの親子水いらずの団らんであった。  外秩父、アマメクボ山、岩村に誘われた渋谷一家は岩村の運転するセドリックで東京を朝ゆっくり発ち、暮れるに早い秋の陽がまだ大分高いうちにその山頂に立っていた。  車は中腹の扇平というススキの穂波の美しい草原まで入り、そこから小一時間ほどの樹林帯のゆるやかな登りの後、この頂きに立てるのである。  キャンプ場は扇平にある。頂上までの道は一本道で迷う心配もないところから、岩村は炊事当番ということでそこに居残った。さすが、大菱電が買い取った山だけにキャンプ場の設備も申し分ない。バンガローといっても下手な一戸建の家よりずっと立派なものだった。 「頂上でゆっくり遊んでこいよ。夕飯は俺が腕をふるってやるから」  岩村はそう言って渋谷達を送り出したのである。 「そろそろ下るか」 「そうねえ、風が少し冷たくなったようね」  陽は武甲山の肩に大分近づいたようである。 「樹林帯で日が暮れると足許が危ないからな。さあ、雄一、行こう」  渋谷はまだ去りがてにしている子供の手を握った。 「お父さん、へんな匂いがするよ」  雄一は父親に手を取られながら鼻をうごめかした。 「へんな匂い、どんな?」 「きな臭いよ、何か燃えてるみたい」  渋谷はきな臭いなどという語彙《ごい》をこの幼児が知っていたことに感心しながら、 「きな臭い? 気のせいだろう。お父さんには何も匂わない」 「ほんとだよ、くさいよ、確かに」 「そうかなあ」  渋谷がつぶやいた時、妻が、 「あらっ、あの煙は何かしら」  と下山道の方を指さした。見れば薄青い煙が樹林の間から頂上のカヤトに向かって二筋三筋、霧のように流れ出している。 「へんだな」  渋谷は初めて眉を寄せた。 「山火事かしら?」 「まさか!」  妻が心配そうに言うのを押しかぶせるように否定しながらも、彼は何となく心が忙しくなるのを感じた。 「とにかく、早く下りよう」  展望台の心細い梯子から、二人を助け下ろしながら、渋谷は煙の原因を気忙しく考えた。  ——自分は煙草を吸わない。それでは、誰か他のハイカーか? しかし、今日は、誰にも出会っていない。登山道は一本道だし、不心得な猟師の焚火の不始末か?—— 「パパア、この道下れないよ」  子供の声に渋谷は愕然とした。密度の濃い樹間を縫う一本の登山道は、そのまま煙道となって、何処か分らぬ火源によって作られた大量の煙を集めて煙突のように吐き出している。 「弱ったな」  下山路は一本だけ、他に道はない。自分一人ならこのくらいの低山、道がなくとも平気だが、足弱の女子供に藪こぎはさせられない。  まして、こんな事態は予想だにしていなかっただけに、鉈《なた》や鎌の用意もない。下手に道から外れれば低山特有の藪に身体を縛られて、にっちもさっちもいかなくなる。  そうしている間にも、煙の密度と量はますます大きくなった。  ぱちぱちという粗朶《そだ》の弾ぜる音、煙の奥にはすでに赤い炎舌すらちろちろとからんでいるではないか! しかも風は下から吹き上げてくる。  この時はじめて渋谷の心に慄えが起きた。 「こっちへ来て!」  渋谷は取りあえず反対側の山腹に避難することにした。扇平から岩村らが救助に駆けつけてくるまで、何とかもちこたえればよい。  それに火が山頂に達すれば、反対側の山腹から風が吹き上がってくるから、火はなかなか、風下の山腹を下れない。いざとなれば、渋谷は道のない山腹を下るつもりであった。藪の茨や刺《とげ》で身体中を引掻かれても、バーベキューになるのよりはましである。  それにしても何という火のまわりの早さだろう。ここ数日の好天と、からからに枯れ切った落葉や下草は山火事の理想的な温床となっているにちがいない。 「パパア、怖いよ」 「あなたあ、どうしましょう」 「心配するな、岩村がすぐ駆けつけてくれる。それにこれくらいの山火事はよくあることなんだ」  おろおろする二人を渋谷は、反対側の山腹に見つけた岩かげでしっかりとかかえ、元気づけるように努めて明るく言った。  遠い山麓の村で半鐘が鳴っている。渋谷にはそれが癪にさわるほど間のびして聞こえた。  子供が大きく噎《む》せた。気まぐれな風の流れに濃い煙の帯が吹きよせられたからであった。  ——岩村、早く来てくれ!——  渋谷は祈った。まさか焼き殺されるとは思わなかったが、この凄じい火勢を見ては、ふと不吉な連想が心に忍び寄るのを振り切れなかった。 「あっ、パパ、展望台が」  雄一の叫び声に渋谷は目を上げた。頂上台地に吹きのぼった炎は、カヤトの枯れ草を一瞬に舐《な》め尽くして、展望台の脚から這いのぼり、仕掛け花火のように炎の輪郭を浮き立たせた。 「ここは危ない、もう少し、下へおりよう」  渋谷は藪を分けた。山頂に近いので煙や火の粉が時折りふりかかる。 「あっ、あなたあ、こちら側からも煙がくるわ」  妻が絶叫した。 「そんな馬鹿な!」  山頂を囲んで山麓にぐるりと放火でもしないかぎり反対側の山腹からも火がのぼるということは考えられない。それとも飛び火したのか? 「こ、これはどうしたことだ」  渋谷は呻いた。彼らがこれから下ろうとした藪の彼方からも、登山道側と同じくらいの密度で煙が吹きのぼり始めたではないか!  いつの間にか周囲に澱んだ夕闇の中で、下方が際立った明るさに映えているのも火勢の強さを物語っている。  風が起きた。 「あなた!」 「パパア!!」  二人が渋谷にしがみついた。 「がんばれ! 探すんだ、逃げ径は必ずある」  渋谷は必死に二人を励ましながらも、深い藪に手足を縛られて身体を自由に動かせなかった。  ごうという風音と共に黒い煙が三人にまともに吹きつけた。 「苦しいよう」  雄一が遂に泣き出した。頭上で何か崩れ落ちる音がした。炎に侵蝕され尽くした展望台の焼け落ちる音であった。 「がんばれ! 山火事は長続きしない」  と渋谷は言ったつもりだったが、のどが煙に爛《ただ》れてすでに声にならなかった。はるみと雄一が渋谷にしがみつき、酸素不足の金魚のように口をパクパクさせているのが、異様な鮮烈さで渋谷の網膜に焼きついた。 「岩村! 俺達を助けろ」  渋谷は最後の音声を振りしぼった。それが声になったか、ならなかったか、火流線に伴う燃焼音はその確認を妨げた。樹林を這いのぼる炎が梢に達し、樹冠から凄じい火の粉となって折りからの夕焼けの空の赫さをいやさらに濃く深く染め上げるのを、渋谷は何か信じられないものを見つめるような眼つきをして見ていた。    ハイキングの一家火傷死  ——(秩父)十月七日午後三時頃、埼玉県秩父郡東秩父村天窪、通称アマメクボ山(東京都千代田区竹平町菱井電業KK私有地)の山林より出火、同山地約〇・五ヘクタールの山林を焼いた。  たまたま同山にハイキングに来ていた渋谷夏雄さん〈名古屋市昭和区御器所町二十三、協和電機KK技師長(二九)〉一家は山頂付近で逃げ道を失い、妻、はるみさん(二五)、長男雄一君(四)の二人は焼死体となって発見された。渋谷夏雄さんは全身火傷で秩父病院に収容されたが重態。  秩父署では出火原因について調べている。——  翌十月八日午前九時半、菱井電業の社長室で盛川達之介はソファにゆったりと腰をおろして、秘書の運んできた新聞の社会面に無感動な目を通していた。 [#改ページ]  コルサコフ症状群 「何!? 渋谷が廃人になったと」  さすがの花岡俊一郎も蒼白になった。デスクの上に置いた指の先が震えている。 「生命だけは辛うじて取りとめましたが、強度の精神錯乱をおこして全くの痴呆状態になっています」  報告する進も声が上ずり、両脚が立っていられないくらいにがくがく震えている。 「一時的なものではないのか?」  俊一郎は辛うじて声を出した。 「もう少し経過を見なければ何ともいえないそうです。家族が目の前で焼け死ぬのを見たショックからだろうと医者は言っておりますが」 「癒《なお》せ、どんなことがあっても。MLT—3はようやく大量生産方式に入ったばかりだ。是が非でも彼が要る」 「はっ、しかし……」  進はこればかりは自分の力ではどうにもならないと言おうとして、その言葉をのどの奥に呑みこんでしまった。  何も俊一郎にいわれるまでもなく、渋谷を必要とすることは分りきっている。協電のためというよりは彼ら自身の保全のために必要なのである。  渋谷がいなければ俊一郎が自社株を売ってまで星電研を傘下におさめた意味がない。強電側は俊一郎が社長の座にありながら、自社株を操作したことを察知していても、勝てば官軍の結果論で、現実に星電研を系列化して破竹の勢いで進む弱電に沈黙している。が、もし、系列化の主眼目である渋谷が、利用価値を喪えば、それを絶好の足がかりにして�大反攻�に転じてくることは火を見るよりも明らかであった。  三日前、東京の岩村から渋谷遭難の報をうけてより、進のすべての時間とエネルギーは渋谷の生命を取りとめることに費されたといってよかった。  秩父から特別にチャーターしたヘリコプターで重態の渋谷を大阪に運び、H大病院の特別個室に収容して、協電の金とH大の医術のすべてが注ぎこまれたおかげで、一時は危うかった彼の生命は取りとめられた。  しかし、協電や花岡が欲しいものは渋谷の生命ではなかった。生命の包含する彼の頭脳が欲しかったのである。  頭脳の伴わない彼の生命など、そこにもここにも転がっている安サラリーマン一人にも値しない。  どうにか危機を脱した渋谷が、生まれもつかぬ痴呆になってしまっては元も子もないのである。  まして彼の頭脳に己らの生命のかかっている俊一郎や進にしてみれば、その頭脳をよみがえらすことがそのまま、自分達の生きる道につながっているのだ。  進は協電家電事業部長という重責の職務を放擲《ほうてき》してH大病院へ通いつめた。  中の島の西はずれにある広大なH大病院の最新特別病棟、888号室、これが渋谷の収容されている病室であった。  完全冷暖房、バス・トイレ、オールカーペット、バルコニーまでが付設され、専属看護婦が常|添《てん》している。一日の入院費が七万円という、豪華ホテル顔負けのデラックス個室である。  全室個室のみによって構成され、一日の入院費が最低でも三万円というこの特別病棟の中でも最高の部類の病室であった。 「今日の具合は?」  付き添い看護婦に花岡はいつもと同じような問をかけた。 「ただ今、お目覚めになったところです。食欲だけが相変らず旺盛ですわ」  看護婦は首を振りながら苦笑した。  進はベッドのそばへ歩み寄った。 「どうだ? 渋谷」  ベッドに横たわった渋谷は進に話しかけられても全く反応を示さない。口角に涎《よだれ》を流しながら、焦点の定まらない眼を宙に投げている。 「渋谷!」  進は声に力をこめた。情けない姿だ。冷たい光沢をたたえてピンと張りつめた、日本のエジソンの目は何処へ行ってしまったのだ! 「あわわ、めしはまだか?」 「さっき、お昼を召上ったばかりじゃありませんか?」 「俺は朝から何も食べていないぞ、俺をひぼしにする気なんだろ。何かおくれよ、腹がへったよお」  渋谷は唇からだらだら涎を流しながら看護婦にせがんだ。まるで幼児が母親におやつをねだっている図である。これを強電側やライバル社に見せたら踊り上がって喜ぶだろう。 「記憶力が極端に低下しておりますわ。二時間ほど前にお昼を食べたことを、もう忘れてしまっているのです」  看護婦が進へ言った。 「今日はね、楽しかったなあ。このお姉さんと一緒に町へ行って、映画を見たり、うな丼やビフテキを鱈腹食べたんだ」  渋谷はまた、おかしなことを言い出した。 「これを作話症と言います。健忘をまぎらすために、単なる思いつきをでたらめ言ってその場をとりつくろおうとしているのですわ。間もなく院長回診がはじまりますから、先生から詳しくご説明があると思います」  看護婦は突然、渋谷のデートの相手方にされて苦笑した。  間もなく回診が始まった。特別病棟は院長の保科博士が直々に診て回る。インターンや看護婦を大名行列のように従えて保科博士は廻って来た。 「はは、また、やってますな」  保科博士は渋谷の作話を聞いて磊落《らいらく》に笑った。 「一体、これはどういうことなのですか?」 「ああ、まだ説明してなかったですかな」  保科博士は進の方へ向き直った。 「はい、若い先生から簡単な説明を聞いただけで」 「渋谷さんの場合、意識の変化はほとんどないのですが、記憶力に著しい障害があります。食事をしても忘れてしまう。年月日を教えても一分も覚えていない。中央診療室まで何度も往復したことがあるのに、その道順を覚えない。渋谷さんは全く現在という一時点において平面的生活を営んでいるだけであって、過去も未来もありません。  この作話症も記憶が悪いために、時間及び空間に対する見当識が喪われ、その空虚を補うために空想的な嘘を言っているのです。我々はこれをコルサコフ症状群と呼んでおります」 「やはり、家族を喪ったショックからでしょうか?」 「そうともかぎりません。この症状は老人性痴呆や、酒毒性精神病などからも生じますが、渋谷さんの場合は遭難の際に受けた脳外傷によるものと思われています。とすれば……」 「とすれば何ですか?」  進は思わず唾を呑みこんだ。  初めて渋谷の精神異常を告げた医師はそんなことは言わなかった。 「とすれば、この症状は一過性に現われることもあります」 「一過性に!」  みるみる、進の瞳が輝いた。 「脳血腫は開頭手術により除去してあります。専門的な説明は省きますが、遺伝などによる内因性のものがなければ、患者の症状は一過性のものと考えています」 (助かった!)  進は長い息を吐いた。安堵の吐息である。  もし、渋谷の錯乱状態が保科博士の言う如く一過性のものであれば、自分の社会的生命も安泰である。しかも、それを言う保科は世界でも有数の脳外科の権威であった。  彼はしずしずと立ち去って行く�大名行列�を土下座して伏し拝みたかった。  しかし、保科博士の言葉にもかかわらず、渋谷の症状はいっこうにはかばかしくならなかった。むしろ、ますます悪化してきたといってもよい。  最近では作話症がますますひどくなり、相手の見境いもなく卑猥な言葉を口走るようになった。ぼんやり何もせず、一日中坐っていることがあるかと思うと、人前もなく泣き出したり、わめいたりする。いわゆる感情失禁が見られるようになった。  所有欲や、独占欲が強まり、見舞い客が置いていった見舞品を後生大事にしまいこみ、食物などは腐らせてしまうことが多くなった。  一度、看護婦が強制的にロッカーを調べたところ、見舞品に混って、ボタンや糸屑、また、どこから取って来たのか、女性用下着などがしまいこまれてあった。 「これはいけない」  進は暗然として頭をかかえこんだ。事故からそろそろ二ヵ月にもなろうとしているのに、渋谷の症状はますます悪化の一途を辿っている様子である。  その間、H大が現代医学の粋を尽くして治療にあたっている。さすがの保科博士もいささか、さじを投げ気味であった。 「おい、渋谷は相変らずの調子か?」  俊一郎は進の顔を見る都度、焦燥の色を露骨にあらわして聞いた。 「渋谷の異常はそういつまでも隠しおおせないぞ。強電の中にはうすうす感づいた奴もいるらしい。近いうちに病院を変えた方がいいんじゃないのか?」  その日も俊一郎は進の顔を見るなり、責めるように言った。 「私もそれを考えております」 「MLT—3の発売日は十二月二十日に決定した。それまでに何とか回復できないか?」 「今の様子ではとうてい、無理と思われます」 「医者は何と言っておる?」 「火傷と脳外傷はもう危険期を脱していますが、遭難時のショックがよほど大きかったらしく、それがいまだに精神に影響を及ぼしているらしいとのことです」 「大阪ロイヤルホテルでのMLT—3の発売記念パーティには、是が非でも、彼に出てもらわなければならん。たとえ、頭はおかしくても、一時的に第三者にそれと分らぬように仕立て上げられないか?」  ——今の状態ではとうてい無理ということは分っていたが、進は結局、そのような形をとってもその場しのぎをせざるを得ない破目になるだろうと悲しく悟った。  MLT—3の発売日には、是非とも、その生みの親、日本のエジソンの元気な姿を大衆の前に見せなければならなかった。  万、止むを得ない場合は、そうせざるを得ないだろうことは分り切っていたが、花岡進は大阪ロイヤルホテル大宴会場を埋めつくした、無数の代理店や招待客の眼前で突然、けたけたと狂気の笑いを撒き散らす渋谷夏雄の姿を彷彿させて慄然とするのであった。  しかし、そんなことをさせてはならない。  十二月二十日までには是が非でも癒さなければならない。  しかし、今の状態では? 現代医学の粋を尽くしても回復できないものを、医学のいの字の心得もない自分がどうして癒すことができよう?  結局はでく[#「でく」に傍点]のような渋谷につきっきりで記念パーティを乗り切る以外にないように思えた。だが、その後は? 渋谷の異常は水の洩れるように社の内外へ洩れるだろう。H大側には堅い箝口令《かんこうれい》をしいてあるが、そういつまでも続くものではない。  遭難以来、一度も姿を見せぬ渋谷に、強電側では不審を抱き始めた者が多いのである。 「どうですか、その後の渋谷さんの容態は?」 「いやあ、おかげで大したこともなく、発売日には元気な姿を見せるでしょう」  強電部や、社外の者のさぐりにきわめて無雑作に答えながらも、進は脂汗をじっとりとかいているのであった。 「社長」  進は思い定めたように俊一郎を呼んだ。 「何だ、改まって?」 「実は現在の状態では、発売日まで回復する可能性は全くありません」 「そんなに悪いか?」 「最悪です」  強電側の目をはばかって、俊一郎はかまえて、渋谷に近づかなかった。保科からの報告によれば彼の精神障害は一時的なもののはずであったが、どうやら、現実の容態とは大きな差がありそうである。 「発売日に一般客の目はごまかせても、強電の目は欺けません。彼らは事故の日以来、姿を見せぬ渋谷に大きな疑惑を抱いております」 「それで?」  俊一郎は大きな目をぎょろりと剥いて話の先をうながした。 「渋谷がでく[#「でく」に傍点]人形だということが分れば、強電の連中は星電研買収時の自社株売買にかみついてくるに相違ありません。その前に少しでも奴らにかみつかれる材料を少なくしておくべきではないでしょうか?」 「……?」 「つまり、星川副社長をはじめ、旧星電研の横すべり組を全部整理してしまうのです」 「そ、それは」 「まあ、お聞き下さい」  進はまるで人が変ったように話をつづけた。いつもの俊一郎と進の立場が逆になった形であった。 「発売日の前に渋谷の心証を害してはまずいとおっしゃりたいのでしょう。しかし、今の渋谷に心証なんてありません。心を喪った痴呆です。当分の間、回復の見込みもありません。いや、よしんば回復したとしても、強電にかみつかれた後では何にもならないのです。何故ならその時には我々の地位はないでしょうから。  渋谷が利用価値を喪えば、渋谷の余光で命を永らえている、しかも高禄を喰んでのうのうと生き残っている旧星電研の横すべり組などごみ[#「ごみ」に傍点]です。彼らの給与だけでも協電は毎月三百万円近い金を喪っている。これは強電側の絶好の言いがかりとなるでしょう。渋谷が半永久的痴呆化した現在、少なくとも、衆目にその姿を晒す発売日までに回復の見込みがたたないかぎりは、少しでも我々の防禦を固めておくべきではないでしょうか? ただし、渋谷そのものはどんなに痴呆化してもまだ当分の間は利用価値があります。協電に渋谷ありということはやはり大きなメリットですからね」  花岡進は品物を片付けるように無雑作に言った。確かに彼の言う通りである。俊一郎はいつの間にか自分の後継者としてのほとんどすべての条件を備えてしまった進に、逆境の中に一つの光明を見出したおもいであった。 「星川らを馘にするのはたやすいが、馘にした後、発売日の前に渋谷が回復したら困ったことになるだろうな」  さすがに俊一郎は冷静であった。星川を優遇したればこそ、渋谷は星電研と変らぬ忠勤を協電に捧げたのである。  もし、発売日前、彼が常態に復して星川社長らの追放を知ったならば、どんな態度で発売記念パーティに臨むか明らかであった。かといって、このままで行けばますます強電側に乗ずる隙を与えることになる。  いずれにせよ、星川馘首は危険な両刃の剣である。  しかし、進は俊一郎の逡巡を一言にして解決した。 「発売日の前日に切ればいいではありませんか」 「よし、決まった。お前はそれまでに渋谷回復に全力を尽くせ。金はいくらかかってもかまわん」  俊一郎はきっぱりと言った。  星川を切るまでに渋谷回復に全力を尽くす。その期間が長ければ長いほど、可能性は高くなる。しかし前日に至ってもなお回復しない場合は星川らを切る。たった一日の間に渋谷が回復する可能性はほとんどない。また、よしんば、回復したにせよ、一日くらいのことならば渋谷に知らせずにすませる。第一、その時は星川一族の馘首を取り消してもいいではないか。  渋谷の痴呆を見破った強電側は、発売パーティ後徹底的にかみついてくるであろう。  ライバル事業部とはいえ、同一社のことだ。まさか、発売パーティの席上でかみつくような真似はしないだろう。  嵐はパーティの後にくる。しかし、その時は星川らを切り捨てた後だ。たかが渋谷一人のために、無用の人間を大勢、抱えこんだとは思わせない。解雇月日はいくらでも粉飾がきく。系列化に巨額の金を注ぎこんでも社金を流用したわけではない。攻撃点は専ら自社株売買にかかる。それさえ何とか言い逃れれば、当分の地位は安泰である。  俊一郎と進は互いの腹を読みながら、以心伝心の作戦をたてたのである。 [#改ページ]  安曇野《あずみの》  列車が塩尻峠のトンネルを越えると、一気に展望が展《ひら》いた。トンネルと切り通しの単調なくりかえしの中を長い間登りつめて来た旅客は、突然、眼前に展けた錯覚のような展望に歓声をあげる者さえいた。  蒼すぎて暗い空に雪を戴いた中部山岳国立公園の連峰が銀鎖のように流れ、山麓を青霞の平原に薄みどりの夢のように溶かしている。  山にさして興味のない者もしばらくは車窓に釘付けにされる展望であった。  彼らの乗る長野行急行『第一信濃』は速力を増して、その平原—『安曇野《あずみの》』へ向かって下り始めていた。 「渋谷、わかるか? あれが穂高、あれが槍だ。ほら、常念のピラミッドも見える」  花岡は一々指呼しながら、渋谷の目をじっと見守った。 「あわわ」  渋谷はおとくいの奇妙な音声を発すると、それでも花岡の指の先に視線をやった。 (思い出してくれるか?)  彼は祈るように渋谷を見た。  発売日まであと数日、一向に回復の萌しを見せない渋谷に半ば、諦めかけた進に、ふと閃めいた考えがあった。  遠い青春の日、渋谷、岩村、花岡の三人で胸を熱くして放浪《さすら》った旧き山々を訪れてみれば、渋谷の喪われた記憶に囁きかける何物かが、よみがえるかもしれない。人間は自分にとって最も楽しい時期を忘れるものではない。一見、忘れたように見えても、心の襞の奥深く郷愁となってしまわれている。  自分にとっても、喰うか喰われるかの酷しい現在においてもあの旧き山々の日々が久遠の郷愁となって生き続けているように、渋谷の狂った脳髄のどこかにも必ず、共に分かち合った青春の断片は生き残っているにちがいない。それを引張り出すのだ。  俺達の青春の形見こそ、渋谷をよみがえらすよすがとなるかもしれない。——そんなはかない希望を抱いて、この旅に出た。 「渋谷わかるか? この道はずい分通ったものだぞ。今日はまた、よく晴れて山がよく見える。どうだ、思い出したか?」  進は幼児の記憶をゆり起こすようにゆっくりと語りかけた。 「山だね」 「そうだ、山だ」  進の目が輝いた。渋谷は�山�と言ったのだ。 「きれいだね」 「新雪が来たばかりなんだ。今年は雪が遅い」 「何か甘い菓子が欲しいな」 「え?」 「砂糖菓子が欲しいよ」  みるみる進の顔が失望に曇った。何のことはない、雪を塗《まぶ》した山体が渋谷には砂糖を塗したケーキを連想させたのである。 「菓子よりも何か他に思い出すことはないか?」  進は諦め切れなかった。 「まだ、弁当を喰っていなかった」 「渋谷!」  弁当は木曾福島で買って与えたばかりだ。渋谷はそれを驚くべき速さでしかも、二個も平げてから、まだ三十分たつか、たたないかである。 「ねえ、弁当、買ってくれよお、朝から何も食べていないんだぞ」  渋谷が痴呆化していることを知らない周囲の旅客の中でくすくす笑う者もいた。彼がつい三十分ほど前に二個の汽車弁を平げたのをおぼえていたからである。  進は腹立たしさを覚えるよりも情けなくなった。この痴呆化した男のどこに、かつて日本のエジソンといわれた天稟の才があったのか? 憧憬に胸を熱くして天に近い径を共に登りつめた、以前の山仲間の羚羊《かもしか》のような姿は何処へ行ってしまったのか?  急に周囲の旅客がざわめき始めた。第一信濃は松本に近づいたのである。  松本で大糸線に乗りかえる。重装備の連中が鋲靴の音も重々しく跨線橋を渡って行く。花岡や渋谷も何度、同じように�武装�して、胸を躍らせながらこの橋を渡ったことだろう。  今、花岡進は狂える渋谷に付き添って、スーツケース一つ持っただけの軽装でその橋を渡っている。  幾多のアルピニストの夢と想い出が沁みついているようなこの跨線橋を、よもや、このような形で渡ることがあろうとは、数年前に思ってもみなかった。  列車が信濃大町に近づくにつれて、旧い山々の展望はますます、広がってきた。安曇野の果に屏風のように立ちふさがる白馬、五竜、鹿島槍の後立山連峰は、前山の遮蔽を完全に振り切って、眉を圧するばかりに近々と車窓に迫ってきた。碧瑠璃の空を限る稜線には、新雪が巨大な銀の鞍のようにおかれ、スゲ類のくすんだ橙黄色に被われた山体に最後の微かな紅葉が花火のように映える。 「来たな」  たとえ、山登りのために訪れたのではなくとも、自分の青春の想い出がいたる所に象眼のように鏤《ちりば》められている場所に還って来て、花岡は軽い興奮を覚えないわけにはいかなかった。  大町駅前広場からは見覚えのある針ノ木が素晴しい迫力で見る者の目に迫る。猫も杓子もアルプスといわれるほどの、この十年間の登山人口の激増ぶりも、季節外れに訪れてみれば、花岡らの知る旧き良き山々と何ら変るところがなかった。  駅前から車を拾い、木崎湖の西にある丘陵地帯に向かった。ここは後立山の雄峰群を一望にする絶好の展望台である。丘陵の頂き近くまで車が入る。  丘陵に着いたときは傾くに早い初冬の陽が稜線にかかっていた。 「渋谷、着いたぞ」  花岡は渋谷の身体をゆすった。彼は何と眠っていたのである。  車が帰ると、耳を圧するような静寂が落ちた。沈み行く斜光を受けて、枯れたススキの草原が金色に光った。稜線から吹きおろす風がそれをはろばろと吹き分けていく。 「渋谷、帰って来たんだぞ」  花岡の言葉に渋谷は虚な瞳を上げた。その瞳に落日が映って、一瞬きらめいたように見えた。 「わかるか?」  渋谷の瞳に落日が燃えている。両眼に一つずつ赫《あか》い陽を宿して渋谷はうっそりと立ち続けていた。  ややあって、 「寒いな」  とただ一言つぶやいた。  周囲には二人以外に人影はなかった。この世の中から忘れ去られたような静かな一角であった。  夕陽が稜線に近づいた。逆光の巨大なシルエットとなった後立山連峰の、正に陽を呑みこもうとする稜線のあたりが血の色のように滲んだ。  雲一つない研ぎ澄まされた空は、夕映えるよりはむしろ、蒼氷のような硬い青みを帯びてきた。   ソレハハルカナ日   読ミ捨テラレタ物語リカ   密度ノ濃イ青春ヲ   忘レジノ記憶ニ刻ミツケテ   名モナキ山里ノ夕マグレ   旧キ山仲間ハ別レテ行ッタ。   蒼白キ通夜ノヨウナ   都会ノ営ミヲ生キルタメニ。——  花岡が口吟《くちずさ》んだ。かつての日、彼らが好んで口吟んだ「旧き山仲間の唄」の一節だった。別に何という意味もこめられていない、単純な青春の感傷を歌ったにすぎない詩だったが、彼らはそれが好きだった。  弱肉強食の世界を他人《ひと》を陥れることによって生きのびている今日の花岡にしても、この詩は、唇に何気なくよみがえることがあった。むしろ、そのような日々を送っているからこそ、一個の柔かい救いとして忘れられないのかもしれない。  その詩を渋谷が忘れるはずがない。今の花岡は自分の救いのためではなく、渋谷をよみがえらすために口吟んだのである。  日本のエジソンは死んでもよい。旧き山仲間よ、よみがえれ! その瞬間の花岡の心にはそんな純な願いがこめられていた。 「あは、あったかいぞ!」  突然、けたたましい笑声が周囲の静寂を破った。 「あたれ、あたれ、みんな来てあたれ、焚火だ焚火だ、あたろうよ」  後の方の言葉は節をつけて歌っている。  見れば、渋谷は草原の中央に何物かを積み重ねて燃やしている。花岡は火の周囲《まわり》を土人のように踊り廻る渋谷の異様な風体に愕然とした。  彼は自らの服を脱いでそれを燃料としていた。花岡が気づいた時はすでにズボンも�焚火に�くべられていた。 「渋谷、よせ!」  暗然として馳け寄った花岡が、制止しなかったならば、渋谷は下着や、パンツも火の中へ投げ込むところであった。  ——だめだ——  花岡は全身の力が脱けていくのを感じた。渋谷夏雄は永久に死んだ。ここにいるのは彼の形骸《むくろ》にすぎない。思考も判断も知力も、そして青春の記憶すら喪った単に人間の形をしただけのでく[#「でく」に傍点]にすぎない。  自身が宝物のように慈んでいる青春の追憶に訴えれば、或いはよみがえらすことができるかもしれないと思ったのは、文字通り、青春への甘えであった。  渋谷は諦めよう。これ以上の努力はもはや時間と労力の浪費になるだけだ。  花岡は暗い眼で渋谷の衣服から周囲の枯れ草に燃え広がりつつある炎に見入っていた。折りから落日を呑んだ稜線から、茜色の余光が金線のように天心を放射していた。  星川副社長はじめ、旧星電研幹部が一斉に解雇予告をうけたのはその翌日、即ち、発売日の二日前であった。 「渋谷は大丈夫なのだろうな?」  盛川達之介は心配そうに念を押した。 「誓って」  答えたのは岩村である。例の如く菱井電業の社長室である。壁の電気時計はすでに八時を廻っている。さしも、広大な菱電ビルにもこの時間に居残っている人間は少ない。まして、昼でも静かな社長室の一角はオフィスアワーを過ぎると、廃墟のような感じさえ受ける。 「明日はいよいよ協電のMLT—3の発売日だ、気になるな」 「社長、おまかせ下さい。渋谷を廃人にしたのはこの私です。アマメクボ以来ずっと目をつけております。協電ではMLT—3の発売にどうしても渋谷が必要なので、彼の治療にベストを尽くしました。しかし、だめだったのです。私の部下が昨日、渋谷と花岡を信濃大町まで尾けて確かめて参りました」 「昨日?」 「はい、渋谷からは片時も目を離しておりません。もし、昨日以後、回復するようであればすぐ手は打てるようになっています」 「どんな手だ?」 「それはそうなってからのお楽しみにしておきましょう」 「頼むぞ、協電と渋谷が結びつけば、絶対に太刀打ちできない。何としても彼らの仲を割くのだ」 「渋谷が生き残り、痴呆化してくれたのは、むしろもっけの幸いでした。おそらく、協電側は渋谷を正常らしく糊塗《こと》して、発売パーティを何とか乗り切ろうとするにちがいありません。  しかし、そうはさせない。買収した業界新聞や、もぐりこませた私の部下が、渋谷の正体をひん剥いてやる。協電の誇る日本のエジソンがバカであるということが知れ渡ったらどんなことになるか、こいつは面白い見物《みもの》になりますよ」 「お前も行くか?」 「今夜、JAL—129便で大阪へ飛びます。顔を知られているのでパーティには出られませんが、ロイヤルホテルに泊まりこんで�破壊工作《オペレーシヨン》�の直接指揮をとります」 「よし、思う存分やってこい。ただし、警察沙汰にはならぬようにな」 「かしこまりました」  岩村元信は深く一礼すると、社長室を出た。盛川達之介の期待を寄せた視線を背中に感じながら、一歩、ピラミッドの頂へ向かって登りつめている興奮の中に、これから行なおうとする友の破滅工作の陰惨さを忘れてしまった。  もちろん、そんな彼は、社長室の扉を閉じると同時に、盛川達之介がこぼした冷たい笑みを、知る由もなかった。 [#改ページ]  死魚の眼  大阪ロイヤルホテルは関西ホテル界の雄、新大阪ホテルが中の島の一角に建てた客室総数千室に近い、日本でも有数の豪華ホテルであり、大阪を代表するホテルであった。  十二月二十日はこのロイヤルホテルが協電一色で埋まった。  話題のMLT—3の発売パーティが朝から華やかにくり広げられたのである。  立食《ビユツフエ》ならば、三千五百名収用可能の大宴会場�大淀の間�を借切り、MLT—3を中心とした協電家電製品の展示即売会を行なう一方、宴会場各所に模擬店が開かれ、朝からつめかけた関係者で賑わっていた。 「滑り出しは好調だな」  花岡俊一郎は、後から後からひきもきらずつめかけてくる招待客に目を細めた。 「この分だと午前中に招待客の半分は顔を見せそうです」  つい一昨日、星電研幹部虐殺の大なたを振った進は殊勝な顔をしてうなずいた。 「問題は午後の製品説明会だ。こいつさえ乗り切れればな」 「手の廻せるかぎりの所は廻しました。出席者のほとんどは買収した新聞記者や、招待者ばかりですから大した質問は出ないと思います」 「とにかく、油断するな。どんな奴がまぎれこんでいるか分らんからな」  俊一郎は落ち着かぬ様子で胸の社長章をいじった。朝から何度も�社長�と記された胸花の位置を直している。彼ほどの人間も落ち着かぬらしい。  無理もなかった。発売パーティ行事の一つとして、昼食後宴会場の一つで製品の説明会を行なう。この席上のヒーローとなるのが発明者としての渋谷夏雄なのだ。  説明は代行ですむとしても、機械についての複雑な質問を受けた場合、どうしても渋谷から直接答えてもらわなければならない。  それがしきたりでもあり、劇場のこけら落としなどにスターが挨拶するのと似たアトラクションの一つとなっている。しかも、当日は大阪テレビが�電子工業界第三の革命者�として渋谷を全国に紹介することになっていた。  もちろん、アナウンサーとの一問一答《やりとり》は最小限に留めている。それも、大半の言葉は進が代弁し、渋谷にはごく単純なYESかNO以外は言わせないように手はずが調えられてあった。  うまくいけば、こんな素晴しい広告媒体はなかったが、一歩まちがえば恥を天下に晒し、俊一郎や進のみならず、弱電部門の命取りとなる。  本来ならばこのような危険なリスクは賭けたくなかったが、せっかくのテレビ、しかも全国ネットのものを断われば、まず、強電側が疑惑をもつ。  渋谷痴呆化の疑いはもっていても、同一社内のことだから強電側は自ら渋谷の皮を剥ぐような真似はしないだろう。恐しいのは第三者の質問である。  打てるかぎりの手は打った。ライバル社の者がまぎれこんでいないかぎり、説明会は渋谷を護衛《エスコート》する技師団とサクラのなれ合い万歳で目出度く終るはずであった。  しかし、説明会にライバル社の手の者がもぐりこんでいないという保証はない。それにそこまでは考えたくなかったが、強電側の手の者が第三者に化けて入りこむ可能性もあった。  いずれにせよ、決して楽観できないのである。  せり上げ舞台の上では、今人気を一身に集めている双生児の姉妹が華やかな歌声をあげている。招待客の出足はますます盛んになった。  即売会の売れ行きも予想外によい。一般宿泊客までが即売会に流れこんで買っていった。  活況のうちに午前は過ぎた。進はいよいよ、来たるべき時が迫ったと思った。説明会は午後一時から十階の中宴会場で開かれる。さして食欲もなかったが、�戦い�に備えるために進は主食堂《メンダイ》へ下りた。  舌平目のバター焼と栗のババロアで軽く腹を調えた後、九階にとってある客室へ上がった。  ここに渋谷を�隠して�あるのだ。 「どうだ?」  介添えというよりは、見張りにつけた部下に聞いたが、別に答えを期待していたわけではない。 「相変らずです」 「うん」  進はうなずいて、 「めしは鱈腹喰わせたろうな? いつもの調子を、説明会でやられたら目もあてられないからな」 「その点は大丈夫です。腹が張り裂けるほど与えました。もう、スープ一滴も入らないはずです」 「よし、そろそろ行くか、十分前だ」  いよいよ�出陣�である。人影もない廊下を進と三人の部下は渋谷を中央に挟んでエレベーターホールへ向かって歩いた。  十階、中宴会場�天満《てんま》の間�にはすでに百人近い関係者がつめかけていた。おおよその顔ぶれは進の馴染みのものだった。問題はその中に混じるほんの一握りの�見知らぬ顔�である。  人数そのものは少なかったが、この説明会の模様はOTVによって全国に放映される。進の体に武者震いが走った。やがて定刻となった。 「ここは大阪ロイヤルホテル十階、天満の間でございます。今日の『午後のひととき』は第三次電子工業の革命を為したといわれる、ポケットカラーテレビの発明者、日本のエジソン、渋谷夏雄氏をその発売説明会にお訪ねしました」  アナウンサーの柔かい導入の言葉と共に中継は始まった。台本通りの当たらずさわらずの会話が進められていく。  渋谷に口をきかせてはならない。しかし、放送が始まってみればそうもいっていられなかった。  できるかぎり、花岡や付添い人が何気ない様子で渋谷に代って答え、どうしても必要な最少限の言葉のみ渋谷に話させる。それすら薄氷を踏む思いであった。  俊一郎や進、それに事情を知っている弱電の幹部連は、渋谷が口を開く度に冷たい脂汗をかいた。  しかし、その日の渋谷は予想外にうまく振舞った。照明《ライト》をまともに浴びたせいもあったろうが例の痴呆的な虚な目も光を宿して輝き、第三者ならずとも、昔日の渋谷を見るおもいであった。アナウンサーに答える短い言葉も常人のものと全く変りない。 (癒ったのかな?)  思わず錯覚してしまうほど、その日の渋谷は見事な態度であった。 (この分なら、うまくいくかもしれない)  俊一郎も進も張りつめていた心が早くも楽観に向かって弛《ゆる》み始めた。  質問も買収したサクラからなれ合いのものばかりである。  何と驚いたことに、渋谷自身が進んで答えた問すらある。しかも正しい回答をである。 (これは本当に回復したのかもしれない)  進は信じ始めた。渋谷錯乱? の噂を敏感に掴み、疑惑の眼で出席していた強電側関係者も落ち着いた渋谷の態度に、大方の疑惑を捨てかけた。  潜りこんでいるにちがいないライバル社の手の者も沈黙している。テレビ放映中だけにへたな質問をして身許がバレたならば、赤恥をかくことになる。岩村が送りこんだ菱電の手の者も、切りこむ隙を見出せないでいた。  時間は容赦なく流れた。テレビ中継は間もなく終る。安易ムードになった。サクラは意を強くしてかなり高度の質問を重ねてきた。渋谷はそれらに立派に答えた。もはや、誰が見てもなれ合い万歳ではなかった。 (渋谷は回復したのだ!)  進は確信した。それにしても、実に際どい所で癒ってくれたものだ。やはり、技術者の根性というか、青春の追憶に訴えても癒らなかった彼の錯乱が、MLT—3を前にして苦もなく回復したのだ。 (俺はまちがっていた。奴を山へ伴うよりは研究室に閉じこめるべきだった)  進はこみ上げる喜悦をかみ殺しながらも、自分のうかつさに唇をかんだ。  渋谷が回復したとなれば至急にやらなければならぬ仕事があった。それは星川副社長らの解雇予告を至急取り消すことである。彼はその指令を下すために腹心の部下を目顔で呼んだ。  その時である。突然、渋谷が奇妙な動作を始めたのは。最初はその場に居合わせた者すべてが渋谷が何を為そうとしているのか分らなかった。  衆目の中で、しかも全国放映中のテレビカメラの前でおよそ考えられない動作であっただけに、人々はむしろ平然としてそれを見ていたのである。  彼らが愕然としたのは、渋谷がベルトを弛め、完全にズボンを脱ぎ捨てた時であった。  ダークトーンのフィンテックスの背広に上半身をかためた渋谷が、下半身だけ白いずぼん下をむき出しにした何とも珍妙な姿で、なおも奇妙な動作を続けている。あまりのことにアナウンサーも言葉を喪ってしまった。真空のような静寂の中でテレビカメラだけが無惨に廻っている。実況《ナマ》中継であるから、この珍事は何のごまかしもなく、全国の聴視者の眼の前に映し出された。  何と渋谷は下着すら脱ごうとしている。  ようやく驚愕から醒めた進が走り寄った。 「渋谷、何をするんだ!?」 「何って、糞《フン》が出たいんだ」 「フン?」 「クソだよ、もり[#「もり」に傍点]そうなんだ」  渋谷の瞳に先刻あったように見えた光はすでになかった。  死魚の目、今にも流れ出しそうな眼をしながら、渋谷はしきりに便意を訴えた。ようやく失笑が周囲に起きた。 「スイッチ、スイッチ!」  ディレクターがわめいた。照明が消えた。窓から自然光が急に白さを増して入ってきた。失笑は失笑を呼び、もはや、収拾のつかぬ混乱の渦の中に、 「狂ってる」 「渋谷夏雄は気ふれだ」  などと声高にわめく声が、ライバル社の手の者によるものであることはよく分ったが、どうすることもできなかった。 (やはり、渋谷は癒っていなかった)  進は唇を血の出るほどに噛みしめながら、今の混乱が一年半前、自らが作為してホテルナゴヤにおける星電研のMLT—3の公開実験を失敗に帰せしめた時の混乱と驚くほどに似通っていることを知った。 [#改ページ]  老巨怪  菱井銀行は日本六大市中銀行の中でも預金量第二位を誇る巨大銀行である。戦後解体された旧菱井財閥の�財閥本社�の座に坐り、資本の結合を通して菱井|企業集団《コンツエルン》を不死鳥のようによみがえらせた、菱井系独占組織の頂点に位するものである。  弱肉強食の資本主義経済機構の中に逞しく生き残っていくためには、拡大再生産を通して資本の蓄積と集中を図らねばならない。  蓄積とは儲けを企業内に蓄えることであり、集中とは強い資本が弱い資本を吸収したり、あるいは合併したりして太っていくことである。  強い者が弱い者を栄養にして太っていく。喰えば喰うほど太り、強くなっていく。この弱肉強食の法則によって生き残った企業同士が、市場を独占して儲けを一人占めにするためにさらに激烈な喰い潰し競争を展開する。コストを少しでも下げてライバル打倒を図る。猫も杓子も銀行借入金を増大してコストダウンのための設備投資に注ぎこむ。絶え間ないコストダウン競争は、ますます企業の資本需要を高めていく。こうして、銀行資本の下に産業資本が結合して、資本主義の妖怪ともいうべき、資本結合的な企業系列《コンツエルン》ができ上がる。  日本の企業の他人資本への依存率はきわめて高い。自己資本比率の低い企業群を傘下におさめて系列の�首長�たる座を維持できるものは、強大な資本力を持った都市銀行だけである。  巨大都市銀行を中核にして形成されたコンツェルンは市場支配を目指して、他の巨大金融コンツェルンと猛烈にせり合う。それは巨怪と巨怪との争闘、大国同士の戦争である。  日本中の企業がその大小を問わず、金融、生産、販売の面で結合し、巨大銀行の手先となって戦わなければならない。それに抵抗する者はたちまち融資パイプを打ち切られ、容赦なく干される。これが仲間以外にはびた一文出さない独占の仕組みである。加えて、原材料の支払条件は酷しくされる。製品の支払いは遅れに遅れる。販売、技術の援助も断ち切られてしごきにしごかれる。刀折れ矢尽きたところでいとも簡単に併呑されてしまう。もはや、一匹狼の存在は許されなくなっているのである。  こうして組成された金融コンツェルンは、循環する資本をびた一文でも外部に流出させないために、その系列内にあとうかぎり多面にわたる業種の産業を抱えこもうとする。  商品を売るためには作らなければならない。作るためには原材料を購入しなければならない。  しかし、原材料のために支出する金すらでき得るならば外部に流したくない。外へ出すということはそれだけ敵に力をつけることを意味するからだ。  要するに、何から何まで�自給自足�できるような、資本の自己循環的な経済圏の確立を目指すのである。  しかし、こういう形の独占組織は単数ではない。他にも同じ過程を経て生き残り、強大化した独占組織がある。他の独占組織よりもより強大に太り、彼らを打ち負かすためには常にうま味のある産業を開発し、競争条件を優位に保っていかなければならない。  競争相手に比べて立ち遅れている部門があれば、あとうかぎり速かにこれを補完していかなければならない。立ち遅れはそのまま敗北につながる。  従来、菱井企業|群《グループ》には重電系の資本展開が遅れていた。  系列の首長たる菱井銀行としては一日も早く有力な一匹狼《アウトサイダー》を系列化して、このウイークポイントの修正をしなければならなかった。  菱銀の本社は日本橋室町一丁目の銀行街の中心にある。巨大な銀行ビルが軒を接して林立するこの地域は現代日本のビジネス中心地《センター》としての風格と、資本主義妖怪群の本拠としてふさわしい、いっさいの情緒的《エモーシヨナル》なものを排した一種の凄絶なばかりの非情性を漂わせている。  その中でも一際目立つ菱銀ビルは、無数の人間の膏血をたっぷりと吸いこんだような灰褐色の外壁にしん[#「しん」に傍点]と鎧われて、それ自身が一つの巨怪《モンスター》のように都心の空を画している。  彼らの組織の強大さを裏書きする如く、第×代日銀総裁はここから送り出されたのである。  こここそ日本の巨人として世界に名高い、菱井グループの総司令部であった。  日本の諸産業のあらゆる部門に四通八達する菱井という巨大なタコの足を一つの意志の下に統一する頭脳にあたる個所なのである。  この菱銀ビルの奥深い一室で先刻から二人の男が密談をしていた。一人は盛川達之介である。日頃、傲岸不遜な盛川がまるで奴僕のようにかしこまって恐る恐る話しかけているというよりは�奏上�している相手の男は、鶴のように痩せた高齢者で、頭髪から眉、口髭までが銀色であった。  彼は聞いているのか、いないのか分らない仏像的な無表情で盛川達之介の言葉を受けている。彼の瞳の微妙な動き、あるともなしの表情、デスクに置かれた指先の動きにすら細心の注意を払いつつ、盛川は、�奏上�を続ける。 |空 調《エアコンデイシヨン》 のおかげで室温は暑くも寒くもないはずなのに、盛川の額はびっしょりと汗をかいている。  盛川ほどの男をこれほど恐懼《きようく》させている彼こそ菱井銀行の頭取でもあり、全菱井系列の会長である菱井|鉦三郎《しようざぶろう》その人である。  盛川達之介が飼い犬のように這いつくばるのも無理はなかった。  菱井コンツェルンの中に生活のすべを求めている者がどれくらいの数にのぼるか? 直系の系列企業群から、その下請け、孫下請け、さらに販売代理店や問屋筋、社員、工員、職人、そしてその家族までも入れたら数百万人になろう。  これらの人々の生活の基盤を握る者が、彼らのはるか頭上にある巨大企業の首長達であり、さらにこれら権力の神々の生殺与奪権を一手に握った者が、この菱井鉦三郎なのであった。  いわば菱井という巨大独占組織の大神《おおみかみ》であり、それぞれが日本産業界の一方の旗頭として自他共に許される傘下企業の社長群も、彼からごく一部の権力を信託されているにすぎなかった。  一度、彼の�逆鱗�にふれんか、たちまち権力の神々の座から引きずりおろされる。それは盛川達之介といえど例外ではなかった。 「こうして、渋谷夏雄の白痴化は全国に知れ渡り、MLT—3の販売網は大打撃を受けたのです」  どうやら、盛川の奏上の内容はMLT—3の発売パーティにおける破壊工作のことらしい。  鉦三郎に一向反応が現われないので、盛川はなおも奏上を続けなければならなかった。 「狂人の開発した製品を買いたがらないのは人間当然の情です。しかし、星電研を系列化してまで開発したMLT—3が売れないとなれば、当然、社長の花岡俊一郎は責任を取らねばならなくなります。弱電出身の花岡が後退すれば、本来の強電が復活《リバイバル》することとなりましょう。そこで」 「それから先は言わずともよい」  沈黙を続けていた菱井鉦三郎が突然口を開いた。 「はっ」  と答えて、盛川がよく調教された犬のようにかしこまった。  菱井鉦三郎が口を開いた。低いが、不思議と胸にずしりとかかる声調である。彼に話しかけられて、呪縛《じゆばく》されたように面も上げられない社長もいる。 「強電部門は菱井の最も弱い所だった。  そこで儂が目をつけたのが、強電と弱電の対立意識が強い協和電機だった。同一社でありながら源平の盛衰のように主導権の奪い合いばかりしている。  ここ数年、重電のドル箱といえる電源開発の先細りや、大得意先の鉄鋼メーカーの設備抑制等にあって、弱電に天下を取られた形となっているが、強電部門としては一日も早く主導権を回復したいところだろう。  そこへもってきて、今度の花岡の擅断《せんだん》による星電研の系列化とMLT—3の失敗だ。製品そのものは素晴しくとも、売れなければ何にもならない。強電が息を吹き返すには絶好のチャンスだな。  花岡の社長就任と共に、景気悪化を理由に強電関係の設備投資は一切ストップをかけられていた。中には完成ま近い工場すらあった。この投資計画の大なたは、当時の変転めまぐるしい経済情勢に即応《マツチ》してかなりの効果をおさめたものの、強電にしてみれば怨み骨髄といったところだ。  中でも、これが完成すれば世界一の規模になるといわれる、豊中のタービン工場だ。強電にしてみれば是が非でも完成したい。  しかし、花岡が社長の座に在るかぎりはできない相談だ。まず、花岡を追い払い、タービン工場を完成させる。これが彼らの狙いだよ。だが、それには金が要る。それも百億に近い金がの。お前に花岡の破壊工作を進めさせる一方、強電の森、森口、森内のいわゆる三森常務に接近していたのはそんな下地があったからだよ、ふおっふおっ」  菱井鉦三郎は奇妙な笑い声をたてた。歯が一本残らず抜け落ちて、義歯も入れていないほこらのような口腔は、笑い声までこんなふうに変えてしまうらしい。  盛川は鉦三郎より初めて種明かしをされて目が覚めた思いであった。  所詮、自分には一社の社長としての視野しかなかった。鉦三郎より渋谷抹殺の指令を受けた時、目的は家電の市場シェア拡大とばかり思っていた。しかし、鉦三郎はやはり大神であった。渋谷を除くことにより、協電における強電勢力を強め、彼らが求めている設備投資資金を融資することにより、オール菱井の弱点である強電部門を融資系列に加えようとしている。  単に家電市場シェア拡大を目指して、渋谷抹殺を図った自分に比べて、何と天文学的ともいえるスケールをもった壮大な計画であり、視界であることか。  盛川達之介は、眼前の鉦三郎の老いさらばえた身体が、巨人のように自分の前に立ちはだかっているのを感じた。 「ともあれ、お前の役目は終った」 「は?」  盛川は目を上げかけて炯々《けいけい》たる鉦三郎の眼光がひた[#「ひた」に傍点]と自分に当てられているのを知って、慌ててまた、面を伏せた。  今の鉦三郎の言葉は自分の今度の働きを賞しているようにも受け取れるし、また、逆の意味にもとれる。それにしてもあの眼光の鋭さは!  盛川はおののきながらも、次の言葉を待つ以外になかった。 「つまりだ、お前も長いこと菱電の社長を勤めて疲れたろうから、このへんで休んでもらおうと思っとる」 「会長!」  あまりのことに盛川は後の言葉が続かなかった。寝耳に水とはこのことである。自分が一体何をしたというのか? 家電市場シェアの拡大に終始あい努め、菱電を業界でトップクラスにランクさせたのも自分が社長就任してからだ。菱井|系列《グループ》の中でも菱電を上位会社にのし上げたのもひとえに自分の働きであるといってもよい。この度のMLT—3にからむ渋谷抹殺も、指令は鉦三郎から受けたとはいえ、手を下したのは自分である。もし協電系列化が成功し、菱井コンツェルンのウイークポイントが是正されれば、自分は最大の功労者として、オール菱井から称えらるべきである。賞されればとて咎められる筋合はない。 「ふおっ、大分不満そうだの、だがの、よく胸に手を当てて考えてみい。お前は思い当たることがあるはずだ」  鉦三郎は瞳を細めた。痛いような視線が自分の伏せた面に注がれているのが盛川にはよく分った。 (もしかすると、彼はあのこと[#「あのこと」に傍点]を言っているのだろうか? いや、そんなはずはない。あのこと[#「あのこと」に傍点]によって自分は会社に一銭も損害を与えたわけではない。それどころか、かえって協電の打撃を大きくしたのだから……) 「どうだ、思い当たるところがあるだろ。それに対するお前の弁《エクス》 明《キユーズ》 も大方読めるわ。協電が星電研株を買い集めているところを対抗して買い煽り、値段を釣り上げられるだけ釣り上げたところで、そっくり肩替りさせる。  そうしておいてから、肝じんの渋谷をつぶせば協電の傷はますます大きくなるとな。  結果は確かにそうなった。しかし、あの時点ではお前は買い占め者が協電だとは知らなかったはずだ。異常な値上がりに買い手がただ者でないと悟ってちょうちんをつけたにすぎない。しかも社金を一時流用してな。お前はそれにより取得した一億二千万円の利ザヤを着服した。儂は金額の大小を言っておるのではない。菱井系列の中でも代表的な菱電の長たるお前のそんなさもしい根性が憎い。  お前の行為は立派な背任横領を構成する。  しかし、今までの働きに免じて表沙汰にすることだけは避けよう。事務引き継ぎは二月以内、三月一日をもって菱産ストアの参事を申しつける。後任は、次の社長会で発表する」  菱井鉦三郎の言葉に微塵の妥協も感じられなかった。  盛川には一瞬、周囲の空気が音をたてて凍りつき、その中に冷凍づけにされたように感じられた。  菱産ストアといえば全菱井系社員の共済会のようなもので、資本の自己循環を狙う一政策として系列内で生産された日用品や、食糧品を市価より安く社員に販売する機関であった。菱井企業群の中でも最下位にある子会社で、社員は専ら、グループの定年退職者や、公傷による身体障害者などによって占められていた。  菱電といえば系列内でも最優秀企業である。そこの長から、菱産ストアの、しかも参事とあっては実に馘首に等しい左遷であった。  幹事証券の腹心を使い、あれほど秘密裡にやったことがどうしてバレたか? おそらく、菱井鉦三郎が秘かに雇っていると伝えられる秘密商務工作員が調べ上げたものにちがいない。  徳川幕府がお庭番と称する忍者より成る秘密警察を使って、大名連の動向を探っていたように、鉦三郎も厖大なグループの首長として、各企業群の長の動きを把握するために秘密警察を養っていたのである。  盛川はその怖しさを思い知らされた。結局社長とか代表取締役などの肩書が冠せられていても、グループの帝王たる鉦三郎に体の動きの隅々まで監視されて、彼の意のままに動かされる傀儡《かいらい》にすぎないのだ。  ひとたび、帝王の逆鱗にふれて権力の座を追われるならば、もはや、ふたたび陽の当たる場所に戻ることはできない。徒らに旧きよき日の栄光と現在の屈辱を背負って、暗所にひっそりと死骸のような身を横たえていなければならない。  しかし、自分の不正は秘密警察より逐一報告されていたはずにもかかわらず、何故、もっと早く摘発しなかったのであろう? (そうだ、自分の不正にも利用価値はあったのだ。少しでも高値で星電株を協電に肩替りさせ、しかる後、渋谷を除去すれば、それだけ花岡の代表する協電弱電部門の打撃は大きい。ひいては協電系列化を容易にする。つまり、俺の不正も協電系列化に役立っていたわけだ。不正でも効用があるかぎり利用しぬき、ことが落着した後に、それをいいがかりにつぶす。きっと菱井鉦三郎は�お庭番�の報告をふおっふおっと笑って聞きながら、俺の�不正の効用�が終るのをじっくりと待っていたのにちがいない)  盛川達之介は打ちのめされて会長室を出た。  駐車係が、 「菱井電業盛川社長の運転手さん、お車を本館正面玄関前におつけ下さい」  とパーキングロットに向かってアナウンスするのさえ、自分を愚弄しているように感じられた。 (俺はもう社長ではないのだ)  盛川は尾部をピンと張った社長専用のクライスラーニューヨーカーのリアシートに乗りこみながら、この車もこれが乗りおさめになるかもしれないと悲しくうなずいたのであった。 [#改ページ]  虚《うつろ》な花嫁  岩村元信は盛川達之介の帰りを待ちかねていた。午前中に菱井銀行本店へ出かけたまま帰社予定時間が過ぎても一向に帰って来た気配がなかった。  彼が帰社すると同時に、秘書の竹内悦代が連絡してくれる手はずになっている。彼は自分を名指しの顧客筋の来客にも居留守を使ってデスクに居続けた。  しかし、一向に悦代からの連絡は入らない。  岩村が次第に苛立ってきた。今日は何がなんでも達之介に会わなければならない。会って例の噂の真偽のほどを確かめてやるのだ。  自分が命を賭けての�破壊工作�に首尾よく成功してから、�恩償の沙汰�を今日か明日かと首を長くして待っているにもかかわらず、何の音沙汰もないばかりか、二、三日前、盛川美奈子がグループ内の菱井自動車の重役の息子と婚約したという噂が、岩村の耳に入ったのである。  そんな馬鹿なはずはない。美奈子は自分への恩償として達之介が確約したのだ。とにかく、達之介に会って確かめるのが一番手取早いと思って、再三社長室の様子をうかがっているのだが、ここ二、三日、達之介はことのほか忙しく外出がちで、なかなか、会見のチャンスをつかめない。  遂に今日、午後三時から在室という情報を悦代から掴んで、朝からじりじりしながら待っていたのである。  悦代から連絡が入ったのはそろそろ退社時間の近い四時半頃であった。オペレーターに盗聴されるのを惧《おそ》れて、彼らは常に直通電話を使って連絡し合う。  ようやく鳴ったデスクの上の課長代理専用の黒塗りの直通を取った岩村の耳に、圧し殺した悦代の声が、 「帰って来たわよ、大分低気圧らしいから今日は見合わせた方がいいんじゃないかしら?」  と言った。 「低気圧? どうしてだ?」  周囲の耳を惧れて同じように声を殺した岩村に、 「知らないわ、そんなこと。何か菱銀であったらしいわ。とにかく、気をつけなさいね」  と電話は一方的に切られた。  どうやら、コンディションは良くなさそうである。岩村は送受器を握りしめたまま、どうしたものかしばらく迷っていたが、やがて思い切り良く席を立ち上がった。  低気圧だろうが、高気圧だろうが、こんな生殺しの状態のまま放置されるのは耐えられない。  会って達之介の口からはっきりと決着をつけられるまでは夜も眠れない。宙ぶらりんの状態より、|すべてか《オール・》、|または無《オア・ナツシング》の方がおよそ、さっぱりするというものである。  秘書室を通すと、今、会えないというニベもない返事だった。  岩村は無断で強引に入った。達之介はマホガニーデスクに頬づえを突いて放心したようにしていた。岩村が入って行っても気がつかない様子である。精力的な達之介を見慣れていた岩村はかえってとまどった。 「社長!」  三回声をかけて達之介はやっと気がついたように、岩村に視線を向けた。 「何だ、お前か」 「どうなさったのですか? ひどくお顔色がすぐれないようですが」 「いや、別に何でもない、少し疲れただけだ。それよりお前、誰の許しを受けて入って来た?」  達之介は目を光らせた。誰にも見せてはならないはずの自分の無防備の姿を、岩村に見られたのが癪に障ってきたのである。 「ちょっとおうかがいしたいことがございまして」 「後にしろ、儂は今、忙しいのだ」 「お手間は取らせませんから」 「後にしろと言っておる」 「実はお嬢さんのことですが、菱井自動車の重役の令息と婚約整ったという噂を聞いたのですが」  岩村は強引に質《たず》ねた。この機を逃してはチャンスはない。破壊工作作戦でここ数回、達之介と直接の接触を持ったが、本来ならば二人の間には幾重もの職階が横たわり、岩村如きは達之介の顔も拝めぬ存在となる。  まがりなりにも、こうして直接会えるのも渋谷抹殺という非常事態が起きたからだ。平常に戻れば、また、雲の上と下との無数の職階に隔てられた二人となる。まして、異常時は今、平常に復しつつある。  岩村は必死にならざるを得なかった。  彼にとって達之介のいう�後�はないかもしれなかったのである。 「そんなこと何処から聞いてきたのだ?」  達之介はようやく向き直った。 「もっぱらの噂なのです」 「噂か、ふうむ」 「社長、お聞かせ下さい。それは本当なんでしょうか? それとも根も葉もないことと聞き流していてよろしいのでしょうか? 社長!」 「うるさいな。儂は今、それどころではないのだ」  達之介は本当に苛立ってきた。実際、それどころではなかった。後継者が誰であるにせよ、二月末までに引き継ぎ事務を完了せねばならない。個人的にもやりかけの仕事が大分あった。後継者には知られたくない、引き継ぎ前に是が非でも片付けておかねばならない業務もある。  しかも、期限はあますところ、二十日間足らず、それは相当な重労働になるはずであった。渋谷抹殺のために投げた一つの餌ではあっても、よりによってこの最悪の時期にその履行を迫ってくる岩村に、盛川は憎悪すら覚えるのであった。  まして、今の盛川にとって岩村の働きなど何の役にもたっていない。菱電を追われた身に、MLT—3破壊工作が何になろう。 「帰ってくれ、帰れ」  盛川は遂に怒鳴りだした。 「社長、教えて下さい、事実を。私は渋谷抹殺に命を張りました。それぐらい知る権利はあります」 「そんなに知りたいか?」  盛川は面倒くさくなった。もう、どうなってもかまわんではないか、どうせ、俺は権力の座を追われた哀れな飼い犬なのだ。 「本当だよ、噂は事実だ。結納も滞りなくすみ、式の日取りまで決まっている」  惧れていたことを何のまやかしもなく、本人から聞いて、岩村はカーペットの上に坐りこんでしまった。 「社長、あ、あ」  あんまりだと言おうとしているのだが、声にならない。  岩村のようにさして取柄もなく、けなみも良くない人間が権力を得るためには、純血《サラブレツド》と結合する以外にない。盛川美奈子は岩村に権力と栄光の甘き汁をもたらすべき�銀の匙�であった。  それ故にこそ、自分は美奈子を得るために悪魔に魂を売ったのだ。  青春の友を裏切り、精神の最も貴重な部分までをも売り渡したのも、この報酬があったればこそである。それがこうもはっきりと、かくも無惨にただ一言で反古にされようとは。  それでは自分の今までの人生は一体何のためにあったのか?  岩村はピラミッドの頂を眼前にしながら、ステップを誤り、蒼い奈落へ向かって際限もなく落ちていく自分を感じた。 「岩村さん、何ということを! 社長がお怒りです。さ、早く出ていって下さい」  気がついた時、岩村はボディガード兼用秘書に社長室から小突き出されていた。 (ちくしょう!)  という心の底からの罵言も、長年のサラリーマンの哀しい習性でのどの奥に呑みこまなければならなかった。  翌日、盛川達之介は菱井自動車の重役から電話で一方的に縁談の解消を申し入れられた。達之介は一言も抗弁しなかった。 「理由は申し上げずともお分りでしょう」  と先方は言った。  もともと、政略の結婚が達之介の失脚によって、政略の意味がなくなれば破れるのがむしろ当然の成り行きであった。  電話が切られてからしばらく考えこんでいた達之介は、ブザーを押して秘書に岩村を呼べと命じた。  昨日の今日なので、何事かと表情をこわばらせてやって来た岩村は、達之介から思いもかけぬことを告げられて、しばらくは自分の耳を信じられぬ様子であった。  達之介は美奈子を岩村にくれるというのだ。 「お嬢さんを私に! また、どうして急に?」  岩村は吃り吃り言った。あまりの喜悦で言葉がうまく出てこない。 「考えが変ったのさ。愛し合っている者同士を一緒にさせるのが本人を最も幸福にする道であるし、また、それが親の義務だと気がついたのだよ」  達之介は久しぶりに好々爺の笑いを見せた。もはや自分は陽の当たる場所に返り咲くことはないだろう。ならば、これほど欲しがっている岩村に美奈子を与えるべきではあるまいか。  こうなった以上、誰にやっても同じことだ。まして岩村には美奈子も好意以上のものを示している。 「もらってくれるな」 「は、はい、喜んで」 「よし、決まった以上は早い方がよい。式は今週中だ」 「今週中!」  いくら何でも早過ぎるのではないか。岩村にしても故郷《くに》の両親や縁者を呼び寄せる都合がある。 「善は急げだ。準備など三日もあれば充分にできる」  岩村が美奈子自身に大分熱を上げているのは分るが、その中には多分に自分とのコネを狙うサラリーマン的打算が含まれている。  自分がもはや何の権力も持たぬことを知ったら、やはり、かなりの衝撃を与えられるであろう。そのために、美奈子への愛がまったく冷えるということはなかろうが、なるべくならそれを知らせぬうちに一緒にさせてやりたい。  グループの大幹部連を除いては、自分の失脚はまだ当分、秘密に付されているであろう。  せめて、その間に菱電社長令嬢として華々しく嫁がせてやるのだ。  自分が権力を保持している間ならば、岩村などごみ[#「ごみ」に傍点]だが、今となってみれば決して美奈子の相手として悪い相手ではない。特にあのあくの強さは若い頃の自分にそっくりだ。うまくいけば自分が極めた地位とまではいかなくとも、それに準ずる所あたりまでは登るかもしれない。  これだけの計算を心の中で素早くすると、達之介は岩村に口をはさむ隙を与えぬまま、一方的に段取りを決めてしまった。  岩村自身も喜びのあまり、達之介の性急さをただ厚意の現われとして受け取り、疑うことをしなかった。  たそがれの赤い残光がダイヤモンドヘッドの頂をいつまでも赫々と染めていた。  ちょっと視線をめぐらせば、太平洋がウルトラマリンの絨毯を敷きつめたように視野のかぎりに広がっている。海にはまだ波乗りを楽しんでいる人々の姿も見える。  さすが展望が自慢のホテルだけあって、このワイキキの浜辺のホテルからの展望は素晴しかった。  赤坂のホテルニューオータニの芙蓉の間全室を開放しての結婚披露宴は豪奢をきわめた。  しかし、それが沈みいく落日の余光を結集しての最後の輝きにも似た、盛川達之介の権力の名残りであることを知る者は少なかった。  岩村はあいつぐ知名人の自分達新夫妻を祝福する辞に酔っているだけでよかった。彼は頭上に煌めく大シャンデリアに、自分が近い将来に確実に手に入れるであろう栄光を見た。  列席を許された直近上司にあたる課長や、同僚達も、燃えるような羨望と、どうすることもできないコンプレックスに複雑な表情をしている。 (羨め、羨め、そして嫉《そね》め! お前らが規則とタイムレコーダーに縛られて気の遠くなるほど長い階段をこつこつ登って行くのを、俺は栄光に輝く雲の上からじっくりと見守っていてやる。単純な愛社精神とクソまじめだけが取柄の貴様らは、最初からビルの片隅をゴキブリのように這い廻るべく生まれついているのだ。哀れな奴ら、馬鹿な連中め! 俺は今日からお前らとは別の人種に属する)  岩村は特に直近上司として彼の異数の抜擢を心よく思わず、とかく彼に辛くあたった課長の痩せた逆三角形の顔が、敗北感に歪むのを敏感に読み取って痛快だった。  新婦も申し分なく美しかった。披露宴会場から羽田に直行して、大勢の見送りの中を晴れがましく翔びたったのが、まだほんの十時間ほど前であるのがどうしても信じられない夢見心地が続いている。 「お疲れになったでしょう?」  岩村は今宵妻になるべき美奈子に他人行儀の口をきいた。サラリーマンの習性で美奈子に対して、今から十数時間前に結婚式をすませたばかりの自分の妻としてよりは、社長令嬢としての意識が先に立ってしまうのだ。 「ううん、ちっとも」  美奈子は悪びれずに答えた。彼女は彼女で生来の社長令嬢が板につき、岩村に�かしずかれる�のを当然のように心得ている。かといって決して驕慢なわけではなく、箱入娘の天真爛漫がそうさせるのである。  完全冷房であったが窓を開けば、いくらか暑いが、からりと乾いた空気が入って来た。 「ハワイって、空気まで花の香りがするみたいだわ」  美奈子は深々と息を吸いこんだ。形の良い乳房が岩村を挑発するように彼の目の前で震えた。もう誰に遠慮することもなく、彼はそれに触れられる身分であったが、それができなかった。  岩村はそんな自分を情けないと思いながらも、おそらくベッドに入るまでは自分が美奈子に対して何もできないであろうことを知っていた。  人間は長い間渇望していたものをさて与えられてみると、容易に手が出せないものなのだ。  岩村はこれからベッドに入るまでの長い時間をどう過ごすべきか、実は途方に暮れていた。  ダイヤモンドヘッドの残光はようやく薄れたが、洋上にはまだ明るく華やかな常夏の光がかがよっている。 「ホールへフラダンスを踊りにいきませんか?」  窓から流れ入るダンスミュージックに、ふとホテル内にダンスホールがあることを思い出した岩村は美奈子を誘った。 「ふふ、私、ここの方がいいわ」  美奈子は含み笑いをすると、悪戯っぽい口調で、 「あなただって、そうでしょ?」  と言うと、何げない素振りで岩村のそばに歩み寄りざま、いきなり、その熱くふくよかな躰を岩村に投げかけてきた。そして、 「好きだったのよ、好きなのよ」  と喘《あえ》ぎながら白桃のような唇を岩村のそれに捺しつけたのである。岩村は驚きながらも逞しくそれを受けた。  処女のぎこちない唇は、岩村にリードされて舌をからめたねばっこい接吻に移行した。たがいに熱い息を吐きながら、二人は犬のようになめ合った。  思いもかけず、女の方から仕掛けられて、岩村はベッドに入るまでの時間をもてあます必要がなくなった。  蒼茫たる暮色が遠い洋上から忍び寄る頃、二人は完全な夫婦になっていた。ベッドカバーも剥がないベッドに腹這いになった二人は、たがいの身体にからめた手足を外しもせずに語り合った。 「私、嬉しいわ」 「僕もだ」 「本当いうと私、岩村さんが、あ、いけない、もうあなたって呼んでいいのね。あなたが好きで好きでたまらなかったの。結婚できて本当に嬉しいわ。それなのにあなたったらまったく他人行儀で、私、待ち切れなかったのよ。こんな私、いやになった? でも、初めてだったのよ」 「僕だって美奈子さんを、いや君を早く抱きたかった。でも何だか恥ずかしくてね、僕も嬉しい。今から僕らは本当の夫婦だ。一生仲良くやっていこうね」 「よろしく」  美奈子は小指をさし出した。小指と小指をからめての子供っぽい誓いが、今の二人に最もふさわしいように思われた。  ようやくたそがれかけた窓外から悩ましいダンス音楽に乗って、ハイビスカスの強烈な香りが漂ってきた。  その香りに二人はふたたび情欲を呼び起こされたと見えて、逞しくからみ合っていった。  二度目の導入は速やかであった。 「痛くない?………」 「ううん、ちっとも…」  男女のあえぎが次第に高まってきた。その時、冷水をかけるようにハウスホーンが鳴った。二人は気をそらされて波がいっぺんに退いた。  岩村は舌打ちしながら受話器を取った。 「Mr. Iwamura?」  現地人の流暢な英語が耳に流れた。 「We have a cable for you from Tokyo, Sir.」 (東京から電報が参っておりますが) 「Cable?……Send it up to my room, Please」 (電報?……部屋へ持ってきてくれたまえ)  岩村は命じてから、もしかすると、美奈子には見せない方がよい内容かもしれないと思い、 「Wait……All right, I'll be down to pick it up」 (フロントへ取りに行くから届けなくともよい)  と言いなおした。  フロントで受取りにサインする指が、心なしか震えた。  電報の内容にいやな予感がしたのだ。  国際電報の封筒を開く。用紙には電文がローマ字で打たれてある。 「MORIKAWA SHACHO KONGETSU MATSU NI TAININ KETTEI SHITA」  アルファベットの単なる羅列であるローマ字には、漢字のように象形文字的に視覚に訴えるものがないので、意味を追うのにちょっと手間取る。 (盛川社長、今月末に退任決定した)  発信人の署名はない。岩村は眉をひそめた。  一体これは何の意味か? 盛川社長が辞める? そんな馬鹿な! 昨日の結婚披露宴で彼の盛運を目のあたりに見たばかりではないか。きっと、自分の幸福を妬んだ誰かの悪質ないやがらせであろう。  そうだ、それにちがいない。岩村は心の片隅に湧きかけた黒雲のような不安を、むりやりに圧し殺そうとした。 「誰方《どなた》からの電報?」  部屋へ戻ると美奈子が気がかりそうに尋ねた。 「いや、友達からの祝電です」 「見せて」 「悪友からなので、見せたくないなあ」 「水臭いのね」 「そういうわけじゃありません。内容がいかがわしいのです」  岩村は努めて何気なく言った。美奈子も深く追及しなかった。二人には、電報のために中断された�行事�が残っていたのだ。 「どうかなさったの?」  行事の続きを始めたものの、先刻の烈しさと比べて人が変ったように気乗り薄になった岩村へ美奈子が尋ねた。事実、岩村の�食欲�は萎えていた。  いくら考えまいとしても、電文の内容が彼の心に重くのしかかってくるのである。心に何らかの負担を抱えながらのセックスほど味気ないものはない。まして、岩村の不安はこの結婚の目的そのものまでも覆しかねない情報に根ざしている。  全身をむち打つようにして、どうにか行為を終えると、岩村はさりげなく美奈子に尋ねた。 「社長に、いやお父さんに、何か変った様子がなかった?」 「父が? それどういう意味?」 「つまり、そのう……たとえば会社を辞めるとか」 「父が会社を辞めるんですって、ほほ」 「何がおかしいんですか?」 「だって、ほほ、あの父が会社を辞めるなんて考えられないことですもの。父には母よりも、私なんかよりも、誰よりも会社が大切なのよ。会社を心底から愛しているんだわ。日曜にどうかして家に居る時なども落ち着かなくて、月曜日になるのを待ちかねたように出勤して行くわ。父は会社と結婚したようなものよ」  岩村はほっと安堵の息を吐いた。やはり、いたずらだ。盛川社長が辞めるはずはない。そんないたずらに惑わされて、一生に一度の貴重な時間を一分一秒たりとも失ってはならない。岩村は我と我が心に言い聞かせた。  約一週間のハワイ新婚旅行を終えて帰京した岩村夫妻を待っていたものは、盛川辞任のニュースであった。誰が打ったものか分らなかったが、電報はいたずらではなかった。  キラウエア火山やマウイ島の観光をしながらも、心の隅に執拗に生き続けた疑念が、無惨なまでの現実として裏書きされてみると、岩村は呆然としてしばらくは為すすべを知らなかった。  結婚休暇後、初めて出社すると、まず社内の複雑な視線が身体に突き刺さるのを感じた。結婚までは燃えるような羨望と瞋恚《しんい》に燃えていた社員の眼が、嘲笑と優越に充ちている。 (�玉の輿�に乗ったと喜んだのも束の間、盛川社長はクビ、いい気味だよ)  ごく一部の同情の目を除いては、大半の社員の目はそう言っていた。  あれほど高嶺の花に見えた美奈子も、急速に魅力を失った。所詮、女の美しさなどたかが知れたものである。盛川の権力と栄光があればこそ、美奈子も美しく輝いた。女の美に権力の夢がからめばこそ、はじめて、男を惹くに足りる美しさになる。権力の華やかな薄衣を脱ぎ捨てた、女の裸《なま》の美しさは、もはや、野心ある男の心を惹くに足りないのだ。  女は自分より上位の世界から漁《あさ》るべきである。  そうすることによってのみ、はじめて、単なる異性が天上から舞い降りたかぐや姫のような美しい生き物に仕立て上げられる。  そして、いつの日か彼女らが天上に舞い戻る時、彼女らの美しい羽衣によりすがって自らも天上へ登る。そのような夢があればこそ、男は女を慈むことができる。  自分と同位、あるいは、下位の世界の女はたとえ、彼女らの素裸がどんなに美しくとも何の魅力もない。彼女らを愛することができる者は天上へ登る夢を捨てた、マイホーム主義のふにゃけた男達だけである。  これが岩村元信の女性観であった。そんな彼にとって、権力を剥奪された達之介の娘などもはや、実体のない虚な花嫁であった。  それだけに、社内の冷視はこたえた。それに追い打ちをかけるように、岩村にも辞令が下りた。  すなわち、三月一日付をもって菱産ストアへ転向を命ずというものであった。 [#改ページ]  商法第三百四十三条  発売パーティにおける渋谷発狂の実況がOTVにより全国に生々しく伝えられたために、MLT—3の売れ行きは惨憺《さんたん》たるものになった。  そこへもってきて、追い打ちをかけるように古川電産がMLT—3よりもさらに優秀な製品の公開実験に成功したのである。  渋谷の開発した製品は三色受像管に新工夫をこらしたものだったが、古川製品は一枚の基盤内に能動回路素子と受動回路素子を容れた�集積回路�と呼ばれる半導体装置を使った文字通り画《エポツ》 期《クメイ》 的《キング》なものである。  電子銃を単一化したMLT—3に比較してさらに縮小化できる可能性があった。 「MLT—3を上廻る製品を開発するとは一体どんな技師を古川は抱えているのだ」  花岡俊一郎はEP—3(エポックメーカー3)と名づけられた、マイクロカラーテレビ公開実験成功の報に、蒼白になって呻いた。 「日本に渋谷以上の技師がいようとは考えられませんが」 「考えられなくとも、現実にEP—3が出たではないか。あれが量産体制に入れば我々は完全にお手上げだぞ」 「どうしましょう?」 「馬鹿、儂が聞きたいわ」  俊一郎と進は暗然と顔を見合わせた。  ややあって俊一郎が言った。 「しかし、おかしい」 「何がですか?」 「これほどの大発明を古川がいきなり発表したことがだ。どんなに秘密管理を厳しくしても、これだけの材料があれば必ず、何らかの形で事前に流れるはずだ」  そう言われてみれば確かにそうだ。カラーテレビのマイクロ化は一朝一夕にして為せることではない。MLT—3にしても、渋谷の率いる星電研の優秀な技師団が、長い時間と忍耐をかけてこつこつと開発したものである。その間星電研にしても徹底した秘密管理をしていたのであるが、長い間には水の洩れるように情報が洩れていた。  それが古電の場合、全く抜き打ちの公開実験である。各社の商務工作と諜報活動が入り乱れている中で、まことに見事というべき秘密保持であった。 「それにEP—3は、MLT—3のメカニズムの応用だ。これはMLT—3に詳しい誰かが青写真を流していたにちがいない」 「しかし、社長、それにしても、MLT—3以上のものを思いつくとはただ者じゃありません」 「もしかすると」 「は?」 「そうだ、きっとそうにちがいない」  俊一郎は一人うなずき、眼を宙に据えた。 「何ですか?」 「星電研の技術団の一人が流したのだ。そうだ、それにちがいない」 「渋谷の子飼いの技師がですか?」 「そうだよ」 「それだとちょっと難しいですな。その男は協電に反感を持っているにちがいありませんから」 「スカウトなどせんよ、抹殺するのだ」 「え!?」 「別に殺すという意味ではない。役に立たなくすればいいのだ。量産体制に入る前にな」  俊一郎はこともなげに言った。自分にとって不利益なものは容赦なく除去する経営者の非情性が、あますところなく表情に露出している。 「役に立たなくする」  進が俊一郎の言葉をくりかえした。渋谷も役に立たなくなった。この偶然の一致に進ははっと胸をつかれるものがあった。渋谷を廃人にしてからEP—3を発表する! 「社長!」  進の唇がわなわなと震えた。 「渋谷を廃人化させたのは古川ではないでしょうか?」 「うっ」  俊一郎は、のどにものをつまらせたような声を出した。そのまま全身を硬直させた数秒をおいた後、 「そういうことも充分考えられるな」 「どうしますか?」 「報復手段をとらなければならないが、時間がない。明日は取締役会だ。儂にも乗り切れるかどうか自信がない。お前も覚悟しておけ」 「はい」  二人は太々しい笑みを浮かべた。ここまで追いつめられては、もはや、どうあがいてもしかたがない。  協和電機の取締役会は毎月五の日に開かれるところから「五日会」と呼ばれている。一月五日が正月休暇に続く日曜であったところから、二月五日は年が代わって初めての五日会であった。  この頃、取締役会が形式化して、企業の事実上の意志決定が常務会に移りつつある傾向の中で、協和電機では依然としてトップマネージメントの最高意志決定機関として存在していた。  経営全般の基本方針の決定から、経営結果の批判や検討まで弱電、強電の全取締役が出席して行なわれるのである。  常務会が主流派(現在は弱電)のなれ合い万歳に終りやすいのに反して、この会議は両部門から全取締役が出席して、社業の全般的な問題を審議するので、とかく荒れる。  全社的な観点から協議されるべき集まりでありながら、強弱電の対立意識は底が深い。どちらもそれぞれの部門の利益代表として一歩も退かぬため、時には国会顔負けの騒ぎとなることもあった。  議長は、会開催時の社長がつとめることになっていた。  二月五日の取締役会は最初から大荒れが予想されていた。MLT—3の失敗を足がかりに強電側の大反攻が予期されていたからである。  へたをすれば、いや、かなりの確率で、この取締役会の結果、�政権交代�ということも考えられる。  準備委員の総務課員も緊張した面持ちであった。  定刻十時、花岡俊一郎は議長席に立ち上がって開会を宣した。 「それではただ今より商法二百六十条による定時取締役会を開催いたします。参加の皆様は一部の利益代表としてではなく全社的な立場から、協電の繁栄発展のためにご発言願います」  前半はきまり文句であったが、後半のせりふは俊一郎が勝手につけ加えたものであった。  三森常務の口辺に微苦笑が浮かんだ。  滑り出しはさして差し障りのない業務執行に関する議事がしごく�平穏無事�に進められた。  会場の空気が音をたてんばかりに凍結したのは、森内常務が立ち上がって次のような発言をした時であった。 「我が社が厖大な資本投資をして開発したポケットサイズカラーテレビMLT—3が失敗したことに対して社長より直接ご説明をいただきたい。我々のみならず、全社員を納得させるに足る責任あるご説明を」  俊一郎は(いよいよ来たな)と思った。彼らはこの瞬間を手ぐすねひいて待ち構えていたにちがいない。  俊一郎は深呼吸してから立ち上がった。 「ただ今、森内常務よりMLT—3が失敗したとの発言だが、私はまだ失敗したとは思っておりません。ご承知のようにMLT—3はまだ発売後日も浅く、発売パーティのちょっとした事故で今のところ出足が伸びなやんでいますが、製品そのものの優秀性は業界の認めるところであり、宣伝次第によっては非常に将来性のある商品なのであります」  俊一郎はしゃべりながらも、こんな子供だましの説明で通れるものでないことをよく悟っていた。しかし、何かを常にしゃべっていなければならない。沈黙は敗北を意味する。  俊一郎が着席すると同時に、今度は森常務がかみつきそうな表情をして立ち上がった。 「ただ今の社長のご説明は説明になっておりません。我々がかねて疑っていた通り、渋谷技師は遭難事故により錯乱いたしておりました。彼はMLT—3の発売パーティの席上に出すべきではありませんでした。しかるに、ごく一部の人間の保身上の都合から、社運のかかっている席上にぬけぬけと狂人を出席させ、恥を天下に晒したるのみならずか、天文学的な投資をして開発した虎の子商品のイメージを台無しにしてしまった。一体、この責任はどういう形で償われるおつもりか? 納得のいくご説明をいただきたい」  火の出るような質問であった。俊一郎は臆せずに立ち上がった。 「渋谷技師の錯乱に関しましては我々も深く責任を感じております。しかし、あの事故は全く突発的なものでありまして、我々としても全く予期しなかったのでございます。彼の精神錯乱は一過性のものであります。このことに関しては医師の証明書もございます。ただ今の森常務のご発言の如く、決して一部の人間の保身上の都合から永続性狂人を出席させたのではございません。  考えてもいただきたい。新製品発売会に発明者を出席させるのは確立された慣習となっております。まして、あのパーティはOTVによって全国に紹介されることになっておりました。発明者と新製品を結びつけてのこれほど絶好のPR媒体がございましょうか? もし、仮に森常務の言われるように、渋谷技師を出席させなかったならば、あのような事故も起きなかった代りに、あの事故が起きるであろうことを知る由もない人々によって、何故渋谷技師を出席させないかと厳しく追及されたにちがいありません。我々としては万に一つも起こりようもない事故を予想して、発明者と結びつけることによって商品イメージを強く消費者に捺しつけるチャンスを逃すことは、絶対にできなかったのです。森常務の発言は徒らに結果のみを見てあげつらう、結果論のそしりを免れますまい」  白を黒と言いくるめる俊一郎得意の強引な説法である。強電側役員の間にざわめきが起きた。どうでも一波乱なくてはすみそうにない雲行きであった。  今度は森口常務が立った。三森常務の中で最も切れ味がよいという評判の男である。 「渋谷技師の錯乱が一過性のものであるか、永続性のものであるかは、専門医に診せればすぐに分ることです。しかし、そんなことは主たる争点ではありません。我々が疑問とするところは星電研を系列化してまでも開発したMLT—3が、すでに相対的に老朽化している商品であったという一事です。古川電産が公開実験したエポックメーカー3は、MLT—3を上廻る製品であります。これが量産体制に入れば我が社のMLT—3は急速にスクラップ化するでしょう。MLT—3が事実比類ない製品であれば、渋谷技師の錯乱も、発売パーティの失態も、売れ行きの不振も、すべて時が補完してくれるでしょう。しかし、EP—3が現われた現在、どんなに待ってもその可能性はなくなりました。  自社株を売買し、社長の座を乱用しての株価工作という悪辣な手段を弄してまで開発した製品が、そのようなスクラップであったとは! 一体、弱電は何をやっていたのかと言いたい。  もし、古電のEP—3がMLT—3の技術を盗んだものであるならば、秘密管理は一体どうなっていたのか!?」  さすが、森口の舌鋒は峻烈であった。静かに落ち着いた口調であったが、一語一語胸にぐさりと突き刺さる鋭さがあった。  彼はなおも追及の手をゆるめなかった。 「花岡社長は星電研系列化という重大なる営業に関する行為を自己の専断で行なっただけでなく、その資金を捻出するために、偽りの材料を流して自社株を操作した。これは単なる商法違反のみならず、刑法上の背任罪を構成するものであります。しかし、我々とて協電社員の一員であります。我々が愛する協電のために、代表取締役の恥ずべき行為を責める前に、MLT—3失敗の収拾策を考え、花岡社長におかれては、ことが公けになる前に、会社に与えた重大なる損害の責任を取っていただきたいと願うものであります」  森口が席に着くとしばらくは一座に水のような静寂が落ちた。こういう時に進がいてくれたらと俊一郎は切にくやんだ。弱電側には三森常務を相手に廻して堂々と渡り合える者は自分きりいない。もし進が出席していれば彼らを向うに廻して自分を十二分に扶《たす》けてくれるであろう。  しかし、平部長にすぎない進には出席資格がない。結局、弱電を代表して発言できる者は自分だけだ。  俊一郎は重い疲労感を覚えながら立った。 「森口常務の発言は全く言いがかりであります。  MLT—3を何をもって相対的に老朽化した商品と断じられるか? 古川のEP—3が現実にどんなに秀れたものであっても、まだ実験の域を出ておりません。量産体制に入るまでには大分時間がかかりましょう。それにEP—3の身上とするところは、専ら集積回路にあります。それにより、さらに縮小化を進められる可能性はあるにしても、トライカラーチューブを工夫したMLT—3に比較してどの程度良質の色彩像を伝送できるか? 技術的に、大いに疑問とされております。それにテレビをMLT—3以下に縮小する必要性が果たしてありましょうか?  技術的には縮小可能であるとしても、視覚的には人間そのものが縮小されないかぎり、蛍光面を三型以下に縮小することはもはや意味がないのであります」  笑声が起こった。  テレビ受像機の画面の大きさは、ブラウン管の対角線の長さをインチで示した数字をとって16型、19型などと呼んでいるが、ブラウン管が大きくなるに従い、画は実物に近くなる反面、走査線の間隔が広まって画面が粗くなる。  また、これと反対にブラウン管を小さくすればするほどに、画面は鮮明になる代りに目が疲労して長時間見るのに適さなくなる。  つまり、三型あたりが目の保健上からも縮小極限だということを主張するために、俊一郎持前の屁理屈をこねたのである。  笑声の中には強電側の失笑も大分混っていたが、俊一郎は意を強めたようにさらに声を高めた。 「また、森口常務は営業に関する重大な行為を私が独断で行なったときついお腹立ちのご様子だが、不肖、花岡俊一郎、協和電機株式会社の代表取締役である。私は内部的には業務執行を担当し、外部的には会社を代表する。加えて、星電研系列化にあたってはあくまでも会社の利益を図る目的[#「会社の利益を図る目的」に傍点]をもって自己の支配下にあった株を操作しただけであって、これがために会社に対して実質的な損害は一円も与えていない。  会社に対して莫大な損害を与えたとは一体何をとらえて言われるのか? たまたま、EP—3という、いまだ市場にとって未知数の製品が公開実験された一事をもって、我が社が誇るべきMLT—3を相対的に老朽化したなどと断じるのはあまりにも早計、かつ軽率ではあるまいか。ましてや大協電の重職にある身が、単なる臆測に基づいて公然と私を非難した。これは私にとって重大なる侮辱であり、同時に私の名誉を著しく傷つけるものである。森口常務の猛省をうながすものであります」  俊一郎が口を閉じると同時に弱電側の役員の間から拍手さえ起こった。屁理屈もここまでくれば立派なものである。森口の顔が蒼白になり、次に薄く紅潮した。冷静な彼が心中相当興奮しているしるしである。俊一郎が腰を下すか下さないうちに彼はふたたび立ち上がった。 「社長のお言葉は徒らに感情に走るのみで、全く回答になっておりません。EP—3がMLT—3よりも優秀な製品であることは、電子工学の知識を持たぬ者にとっても、もはや公知の事実であります。また、古電の設備と資力の下にそれが量産体制に入るのは焦眉の急と思って差し支えありません。それが市場に出廻れば、もはや、我がMLT—3が絶対に太刀打ちできないことは明白であります。現にEP—3の実験公開により、それまで細々とながら出ていたMLT—3が全く止まってしまったではありませんか! これを老朽化と呼ばなくて何と呼ぼう!? このまま行けば次期は減配、いや、へたをすると無配転落いたしかねません。  損害とは現実のものだけではありません。将来の確定的な損害も含まれます。ましてや、星電研系列化の際に花岡社長が行なった恥ずべき株価工作は協電の信用を著しく傷つけました。これが会社に対して与えた損害ではないとおっしゃるのであれば、一体、何になるのでしょうか? しかも、ぬけぬけと、自己の支配下にあるとの理由で大量の自社株を、社長自ら売買し、恬《てん》として恥じる様子もない。もし、社長に依然として誠意をもって責任をとられる態度が見られないとなれば、我らとしてもまことに不本意ながら臨時株主総会を招集し、花岡社長の解任を請求しなければなりません」  森口は挑戦するように花岡と彼の周囲に居流れる弱電側の役員を睨んだ。充分成算があっての挑戦である。  普通、代表取締役の選任は商法二百六十一条に基づき、取締役会の決議をもって行なう。しかし、協電の場合は商法二百三十条の二に則《のつと》り、定款でその選任権を株主総会に留保していたのである。  従って、花岡を辞めさせるためには株主総会にかけなければならない。  よしんば、それが取締役会の決議事項に含まれていたとしても、その決議だけでは彼から代表取締役の身分を剥奪できても、取締役の地位を失わせることはできないのであった。  森口の言葉は花岡を経営者の座から引きずり下すのみならず、協電から追放するという意味を含んでいた。  事実をありのまま、大株主に報告されれば特別決議(発行済株総数の過半数にあたる株主が出席し、その議決権の三分の二以上にあたる多数をもって決する)によりクビにされかねない。花岡個人の保有株など全体の〇・一%にすら充たないのだ。  しかし、俊一郎にも絶対にそうはならない成算があった。彼にも、秘密の強大なバックがあったのである。これだけ強電にかみつかれながら、一歩も退かない高姿勢は、実は拠って立つ所があったからだ。  俊一郎は言った。 「森口君は私の名誉を毀損した。前言を撤回しないかぎり、名誉毀損罪として告訴します」  彼はドンとデスクを叩いた。  森口が言った。 「もはや、問答無用ですな」  続いて強電役員全員が立ち上がった。こうして、その日の取締役会は終ったのである。  大阪のビジネスセンター、中の島の一角にある古川銀行は、預金量を常に菱井銀行と争う、日本巨大市中銀行の一つである。——と同時に、その規模と伝統においても菱井企業集団と並び称される古川コンツェルンの中核であった。  総工費百六十億。  二つの円筒形サービスタワーをあしらった地上十五階の銀色に輝く鉄筋の高層ビルは、まことに日本産業界の王者としての貫禄と風格があった。  協電の取締役会が終ってから数時間ほど後、即ち、同じ日の午後三時頃、その古川銀行ビルの正面玄関から一人の老紳士が出て来た。  待ち構えていたようにロールスロイスシルバーシャドウが彼の前に滑り寄る。  リアシートに深々と身を埋めると、疲れ切ったように目を閉じる。老紳士は花岡俊一郎であった。  午前の取締役会における元気はどこにもない。死人のようにシートにもたれかかって車の震動に身を任せていた。  彼が後にして来た古川銀行の奥まった一室に五人の男が何事か密かに話し合っていた。 「それでは全員一致ですな」  頬のたるんだ口の大きな男が言った。 「我々の意見は一致しました。会長のご意見は?」  額の広い、ひややかな感じの男が言った。四人の男達の視線が彼らの前に坐っている、頬の引き締った能面のように無表情な老人の顔に集められた。老人は四人の男達へ順々に白く光る瞳を注いでから、 「儂の腹も同じだ、マイクロカラーテレビのない協電の家電などボロ屑ほどの価値もないわ。星電研買い占め時に儂が花岡にテコ入れしたのは、EP—3がまだ世に出ていなかったからだ。しかし古電がEP—3を手に入れた今、花岡は我々にとって不要な人間になりおった。おっぽり出してしまえ! それより、強電の三森に接近《アプローチ》して融資工作するのだ。奴らが天下を取れば金が要る。強電に弱い菱井が旺んに動いているらしいが、奴らにばかり甘い汁は吸わせん。総会には花岡をおろせ!」  四人の男ははっとかしこまった。その能面の老人こそ誰あろう、古川コンツェルンの総帥、古川徳太郎、通称古徳であり、四人の男達は傘下優秀会社のよりすぐりの社長連であった。  星電研買い占め資金捻出のための株操作において、花岡が動員した協電株は百五十万株、その中、花岡一族が保有していた株は約二十万株にすぎない。それ以外の百三十万株を俊一郎は「自分の指示でどうにでも動かせる株」と言った。  その百三十万株の出所が、実は古川銀行であったのだ。  協電大株主の一人として古川銀行も、星電研のMLT—3と渋谷夏雄には目をつけていた。そのために、将来、協電を古川系に系列化するための一布石として、花岡俊一郎に百三十万株を貸し与えたのである。  もちろん、俊一郎も古川銀行の魂胆など見透かしている。見透かしていながら、あえて�熱い株�を借りたのは古川に協電が系列化されてもよいと思ったからだ。弱電の協電としての体制を整えた上で古川の傘下に入れば、少なくとも、自分の社長としての地位は安泰である。それにもともと、強電には強い古川系で、弱電部門の代表として生き残れるだろう。その方が強電の協電として、強電の支配下に屈従の日々を生きるのよりもはるかによい。自分の天下がいつまで続くか保証はないのだ。  こうソロバンを弾いて、あえて古川に接近した。このソロバン、渋谷が廃人化せず、EP—3が現われなかったら決してまちがっていなかった。  ところが、事態は俊一郎のソロバンと全く逆になった。  こうなってみれば古川としても、花岡俊一郎を抱えておく必要はごうもない。否、むしろ彼と接触しているのは不利になる。何故なら強電の反感を徒らに煽り、せっかくの融資系列化のチャンスを逃すことになるからだ。  もともと、強電色の濃い協電において弱電が天下を取っていたのは、花岡のあくの強さと渋谷夏雄のおかげであった。その渋谷が失われ、花岡の影がとみに薄い今日、むしろ、花岡を思いきりよく切り捨て、強電に接近した方がずっと利口なやり口というものである。  強電が厖大な設備資金を必要とすることは分っている。この機を外さず融資をして、協電を系列に加えてしまえば、将来、傘下の古川製作所と合併させることにより、日本一の強電部門を持つことができる。  古川徳太郎は冷徹に計算した。  しかし、花岡俊一郎にしてみればそこまでは読めない。強電に本源的に強い古川が、協電の強電に色気を見せるはずがないと確信している。それだからこそ、三森常務にかみつかれても平然としていられたのである。総会においても大株主である古川銀行が支持してくれるかぎり、強電がどんなにじたばたしても自分をクビにすることはできない。  古川の変らぬバックアップの確認というよりは、取締役会の情況報告のために古川銀行へやって来た花岡俊一郎は、そこで予想外に冷たい古川コンツェルンの首脳連の態度に少なからず動揺した。彼が悄然としていたのはそのためである。  しかし、その時点においては、よもや、古川が総会において敵にまわろうとは予想もしていなかった。  だが、花岡俊一郎の首の上には、資本主義社会の鋭利なギロチンが、すでにその綱を切られていたのである。  それから約二週間後の二月二十二日、協和電機株式会社の臨時株主総会が新大阪ホテルにおいて開催された。そして花岡俊一郎は商法三百四十三条による特別決議により、代表取締役及び取締役を解任された。代わって森口英彦が代表取締役社長に就任した。 [#改ページ]  絶対的必要受け応え事項  菱産ストアの本店は新宿角筈の菱井文化会館の中にある。ここには菱産ストアの他に全菱井系社員のための厚生施設として、結婚式場、ホテル、料理、英会話、生花などの教室があり、一般にも市価より安い値段で開放されているところから、けっこう人の出入りは激しい。  岩村が転属させられたところは、電話販売課であった。  一応、主任という肩書は与えられたものの、することはヒラと全く変りない。要するに、お客からの電話注文の応接、ただそれだけを馬鹿みたいにくり返すのが彼の新しい職分であった。  彼の上には係長と課長がいた。  初出勤の日に課長デスクへ挨拶に行くと、出井というやせた中年の男は意地の悪そうな三白眼で岩村を眺めながら、 「私共は過去の履歴は参考にすることはあっても、全く問題にしておりません。評価の基準は本人の実力、ただそれだけです。  我が社は全菱井系企業を顧客として、菱井グループにおける資本循環の大ポンプとなっております。大いに誇りを持ってハッスルして下さい。特に我が課は先頃、売り上げにおいて通信販売課をぬき、店頭販売に迫りつつあります。電話一本でどんな大取引でもまとめるのが我々の勤めです。くれぐれも言葉使いには注意していただきたい。仕事の細目に関しては係長から指示を受けるように」  出井の口調は最初から高飛車であった。岩村の元の身分を知っていて、コンプレックスの反動である。もともと、この出井という男は川崎あたりのジャリ百貨店でくすぶっていた。菱産ストアの開設にあたり、ちょっとしたコネがあったところから、一躍、課長という重職? に抜擢され、もうハッスルのし放題、オール菱井の運命は我が双肩にありというような顔をして、忠勤に励んでいるという単純な男である。 「課長は特に言葉づかいにうるさいから注意して下さい」  大平《おおひら》と名乗った係長は出井よりも、もう一廻り小心そうな目を課長デスクの方にちらちらと送りながら言った。 「特に私共では電話が商売です。使う言葉一つでお客様の感情を害し、まとまるべき話もまとまらなくなります。一つ私が受け応えの見本を示しますからよく注意して聞いていて下さい」  大平は、ちょうどコールサインの入った電話を取り上げた。 「お待たせしました。お早ようございます。こちらは菱産ストア電話販売課、大平でございます。…………大平が承りました。毎度有難うございます」  ばか丁寧な言葉をごてごて重ね、最後に電話に大きく頭を下げてから、彼は送受器を置いた。それも相手方が電話を切るのを確かめてから、静々と置くのである。  彼は得意そうに岩村の方へ向き直り、 「分りましたか? 必ず言って下さい。その後に、朝ならば、お早ようございますと挨拶するのを忘れないように。そして、セクションとこちらの名前をはっきり言う。用件を承った後にもう一度、こちらの名前をお客様に告げて責任を明らかにする。そして最後に謝辞、絶対に相手より先に電話を切ってはなりません。相手が切ったのを確かめてから受話器をおくようにしてください。  以上の一つでも省いたり、ぬかしてはいけません。特に、あなたは主任という管理職だ。あなたの行動はそのまま部下が真似しますから率先して範をたれて下さい」  大平は出井の目と耳を意識しながら得々と言った。 「どんな忙しい時にもそれを全部言わなければなりませんか?」  電話の受け応えの一つ一つまで画一化する官僚的感覚に呆れながら、岩村は尋ねた。  電話というものは全体の調子《トーン》である。トーンがよければ好感を与える。第一、こんな受け応えを長々とやっていれば本題に入るまで客を待たせることになる。 「そうです、課長の決められたことです」  しかし、大平は信じて疑わぬように言った。きっとこの男は課長の命令とあらば、ためらわずに水火の中へも飛びこむだろう。この二人の虫ケラのような男が岩村の当面の直近上司であった。  電話販売課と銘打ってあるだけに、電話の量は凄じいほどであった。一本の電話に応接している間に三本位が鳴っている。職員は課長、係長、岩村以外の主任を含んで十人いたが、全員が手分けしても捌《さば》き切れなかった。電話を受けるだけではない。  注文は注文伝票に記入し、員数の確認をした上で配達課に廻さなければならない。住所が複雑であれば略図も書きこまなければならぬ。品目や員数の|間違い《ミス》は電話販売課の受付者の責任になる。  ベルがなる。「お待たせしました……毎度有難うございます」の馬鹿のようなくり返しではあったが、少しの気も許せない仕事であった。  しかも、それら殺到する電話の中の、ただの一本においても、出井の決めた�絶対的必要受け応え事項�の一つでも欠こうものなら、出井と大平が鬼の首でも取ったような顔で得々と注意する。 「岩村君、君は電話販売に向かないのではないか?」 「岩村君、よく君に菱電のテレビ課長代理が勤まったね」 「岩村君、何故、『お待たせしました』と言わないのですか? 決められたことを守れないとなるとこれは問題ですね」  彼らはことごとに岩村をいびった。  こうして、岩村元信の屈辱的な第二のサラリーマン生活は始まったのである。 [#改ページ]  赤いピッケル  花岡俊一郎の失脚と共に、進も家電部長をおろされた。代わりに用意された新しいポストは冷蔵庫課長代理であった。  部長から課長代理という左遷もさることながら、冷蔵庫というセクションそのものが弱電部門者にとっては陽の当たらない場所であった。  というのは、モートルを生命とする冷蔵庫は、家電でありながら強電勢力の強い所だったからである。  従って弱電部門の人間はあまり冷蔵庫へ行きたがらない。�家電の離島�のような部門であったのである。  冷蔵庫そのものはテレビの頭打ちにひきかえ、まだまだ普及率に余裕がある。  当然、強電部門の鼻息は荒い。家電のなわばりでありながら、課内では弱電部門者は�居候的存在�になっている。まして、花岡俊一郎の養子である進に対する風当たりは酷烈でさえあった。  致命傷は負わせないが、小さな針でちくりちくりと刺しながら、徐々に息の音を止めて行く、サラリーマン特有の陰湿で残虐なあらゆる�私刑�が用意されていた。  進は毎日、死んだような顔をして出勤し、死んだような身体になって退社した。仕事そのものよりも陰湿な人間関係にエネルギーをすりへらしてしまうのだ。  そのような陰湿さに耐えてまで、何故、続けるか? 彼の協電における生命は、すでに終ったのである。もはや、二度と返り咲くことは、絶対に不可能であるのに。——  それは惰性であった。進は何もかも面倒くさくなってしまったのだ。  千載一遇の好運を掴み、あまりにも高所へ辿り着いた後の身には、今さら、会社を変えて課長、係長クラスの顕微鏡的な出世競争などには、馬鹿馬鹿しくて加われない。よしんば、加わったところでサラリーマンの実力が規格化している現在、自分位の男はゴマンといる。彼が軽蔑する課長、係長クラスにさえなれるかどうか分らなかった。  出世昇進のための努力は、自分がトップマネージメントに加われる可能性がある場合にのみ尽くすべきである。  資本金一億円以上の会社が約三千二百社、従業員総数四百七十二万人の中、トップマネージメントはわずかに〇・七六%である。  つまり、千人のサラリーマンの中、トップの栄光に浴せるのはたった八人弱ということになる。その他の九百九十二人の有象無象のサラリーマンは、停年までのサラリーマン的寿命の間に、できるだけ階段の上の方へ登ろうと、陰険で無益で、かつ熾烈な出世競争をくり広げ、精々、ピラミッドの底辺をゴキブリのように這いまわっただけで停年を迎える。  出世とはそのようなものではない。トップか、しからずんば無である。それ以外のあらゆる職制は全く出世しなかったのと同じである。ドングリの背比べはサラリーマンの無知と単純さを示す以外の何物でもない。要するに馬鹿な奴らだ。——  花岡進にそのようなどうにでもなれといった自棄があったからこそ、あらゆる屈辱に耐えられた。  花岡進はもう死んでいたといってもよかった。死んだ人間に生きている人間の営みや毀誉褒貶《きよほうへん》が滑稽に映るのは当然である。  会社では死んでいたサラリーマンも、家庭に帰れば息を吹き返す。しかし、彼は家庭でも生き返らなかった。  順子との仲は夫婦というようなものではなかった。  進の方からけんかを売ることはない。むしろ、順子のご機嫌を取り結ぶ場合の方が多い。できるだけ親しく順子に語りかけ、和かな雰囲気を作り出そうと努めた。  それは家庭に憩を求めたからではなく、順子との争いにより、よけいなエネルギーを費いたくなかったからである。  しかし、順子の態度は相変らずかたかった。別に進に反抗することはなかったが、彼に接する態度、表情、声までが事務的であった。  夫に接するに、電話交換手や官庁の受付のような声や態度、それはもはや妻のものではなかった。  職業的に男に接する妻は、妻として失格である。  注意してみると、順子はそれを別に意識してやっているわけではない。彼女の全体を包む一種の�硬さ�は生来のものらしいのだ。  進はこの頃になってはじめて、男が女に求めるものは、彼女らの外形的な美しさや、賢さではないことを知った。男が常に飢えているものは、女だけが持つと考えられている(或いは男が勝手に造り出した、手前勝手な錯覚かもしれない)優しさであり、柔かさであった。  彼女らにそれがあればこそ、男共が熾烈な生存競争に傷だらけになって帰って来ても、また、次の日、活力を取り戻して戦場へ向かえるのである。  そういう条件を欠落した女は、女であることは許されるとしても、妻になるべきではなかった。  そういう硬さを家庭に持ちこむ女は、男の体を粉々に砕くのみならず、彼らの精神までも破壊する。マイホーム主義のふにゃけた男共は、そういう女の化け物によって破壊された男の残骸《むくろ》ではないか。  しかし、順子は容赦しなかった。近所の公団住宅に�群生�する妻の資格を喪失した�女怪�とマイホーム主義のサラリーマンを真似て、この頃は家事の分担までも要求するようになった。  もちろん、周囲を比較すればまだましな方であったが、共稼ぎの家庭ならばいざ知らず、男の分を立派に果たしている男に対して、�女の分�を手伝わせようとするのが、どんなに女として恥ずべきことであるか、気がつかない。  男女同権とは男女が各々の分を尽くすことによって成立する。  男が仕事の成果によって、社会から評価されるように、妻の評価は家事や夫の補佐によって決まる。その評価が大抵の場合、彼女らの夫であるところから、つい女の分を忘れて甘えてしまう。  しかし、そんなことをいってみても分るはずがない。女は元来、理論的にはつくられていないのだ。  進はむしろ、積極的に順子に協力した。順子のご機嫌を損ねることにより、家庭の空気をこれ以上硬くしたくなかった。  妻の硬さは死骸のような自分の身体をむち打つことになる。今はただ、微温湯のような空気に浸って呆然としていたい。  だが、家庭は彼にとって墓所としての平安すら与えてくれなかった。花岡進は次第に自分の中に閉じこもっていった。  社にも家庭にも彼の安んじていられる場所がないとなれば、こうする以外に方法がなかった。  花岡進が失脚してから一年ほど後、彼は次のような文面の手紙を受け取った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  拝啓  先輩におかれてはお元気に毎日をご活躍のことと存じます。  我らが帝都大学山岳部も創立四十周年を迎え、ますます充実した活動を行なっております。  この度、創立四十周年記念行事の一環として、来る二月十日より二週間にわたって、我が山岳部にはゆかりが深い白馬|不帰《かえらず》岳の冬期集中登山を計画しました。つきましては、先輩におかれては、この記念行事のO・Bオブザーバーとして是非ご参加下さるようお願い申し上げます。  甚だ勝手ながら、二月十二日急行ちくまの一等乗車券、寝台券、並びに見積り必要経費些少を同封させていただきました。|B・C《ベース・キヤンプ》は、信濃四谷郊外南股でございます。ではご参加を部員一同心よりお待ち申し上げております。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]帝都大学山岳部一同     花 岡  進 様  進は行ってみようという気になった。こんな時こそ過去をふりかえる絶好のチャンスだ。  山から遠ざかって何年になるだろう? そうだ、俺には山があったのだ。あの風雪と太陽と岩の中にもう一度、身体を置いてみたら、何か新たな力がよみがえってくるかもしれない。  旧い山仲間はいなくとも、旧い山々は昔通りにそこにあるだろう。  暗いまでに澄んだ空を背景に、絶え間なく雪煙を吹き上げる山稜が瞼に痛いばかりによみがえってきた。進は長い間、押し入れの隅に放りこんでおいた山の道具を久しぶりに取り出してみた。  ザイル、ハーケン、カラビナ、ハンマー、アブミ、セルフビレーピン、アイゼン、ワカン、吹雪用眼鏡《ゴツグル》、ラジウス、登山靴、みな青春の汗がしみついているものばかりだった。 「まあ、くさい!」  部屋いっぱいに散らした山用具に、順子は露骨に顔をしかめた。進は聞こえない振りをしてピッケルのブレードを被ったサックを除った。 「錆びてる!」  スイスの名工ハスラーの鍛えた業物は長い間の�冷遇�を嘆くようにまっ赤に錆を吹いていた。  昔、花岡を虚空の一角に立たせるために、蒼氷や堅雪を切った頃の鈍いが心に迫まる光は何処にもない。  ハスラーの錆はそのまま自分の心の錆であり、腐蝕であるかもしれない。これから出発日までの数日間、ピッケルの錆を落とすことが自分の最大の仕事になるだろうと進は思った。 [#改ページ]  虚無への招待主  急行「ちくま」は名古屋で中央線に乗りかえる必要がない。松本まで直通で入るからである。松本で大糸線に乗りかえる。豊科—有明—細野—大町などとアルピニストには忘れられない駅名を暁暗の車窓に確かめているうちに、列車は下車駅、信濃四谷に近づきつつあった。  神城付近から全形をあらわした白馬連峰は、折りからの朝焼けの中を車窓にまさに眉を圧するばかりの量感で迫ってきた。  雪にびっしりと鎧われた頂稜が薄紅く色づき、次第に山麓に澱む暁暗を駆逐していく。  白馬、鑓、杓子いわゆる白馬三山が今日の一日のはじめのために朝陽をうけて煌《きら》めき始めようとしている姿に、花岡は思わず長い息を吐いた。 (俺は還ってきたのだ)  彼は心の底からしみじみと感じたのである。  信濃四谷、六時××分。——列車は定時に着いた。「現役時代」よく使った�四等寝台�(座席の下へもぐりこむ)と違って、山岳部が贈ってくれたのは一等寝台だけあって、よく眠れた。気分は爽快である。重装備のザックを背負いピッケルを手にしてデッキへ向かう。久しぶりに肩にずしりとかかるあの懐しい重量である。  デッキへ立つと寒気が頬を刺した。  さすがに厳冬期だけあって降りる人は少ない。それでも、やはり山に向かうらしいものものしい姿の人影が、ちらほらと改札口に向かっている。  この季節に山へ、それも三千米級の�大物�を志すだけあって、さすがに隙のない装備である。いずれも筋金入りのアルピニストにちがいない。それに皆若い。  花岡はふと不安を覚えた。卒業以来山は全然やっていない。資本主義社会の血みどろの生存競争は続けてきたが、陽に灼かれ風雪に晒される本格的登山からは全く遠ざかっていた。八年のブランクを置いたまま、いきなり現役のパリパリの中へ入って尾いていけるだろうか?  まあ、気楽にやろう。バテたら|基 地《ベースキヤンプ》で留守番《テントキーパー》でもしながらのんびり山を見ているだけでもよい。そう思うと不安は消え、久しぶりに山へ向かう悦びが胸に突き上げるように湧いてきた。  駅前からタクシーを拾ってベースキャンプがあるはずの南股へ向かう。細野部落を過ぎると間もなく左股の谷の奥に、不帰岳の鋸歯状のスカイラインが望まれた。  二股で車を帰した花岡は、朝の白々とした風景の中に自分以外の人影の見あたらないのを知って意外そうな顔をした。O・Bが合宿に参加する場合は、後輩が少なくともこのあたりまで出迎えるのが慣例となっていたからである。  急行「ちくま」の切符を贈ってくれたのは彼らである。ならば自分が大体、この時間に二股へ到着することは分っているはずだ。大先輩がわざわざ、後輩の合宿に馳けつけたのだ。本来ならば四谷まで出迎えてもふしぎはない。 (この頃の連中はたるんでるな)  花岡は自分が現役の頃の秋霜烈日たる部の規律をおもってちょっと腹立たしかった。 「ところで、奴ら何処へB・Cを張っていやがるんだろう?」  彼は一人ごちながら、ともあれどこかに仮の休み場所を見つけるために歩き始めた。  その時、また、一台のタクシーが雪にチェーンをきしませながらやって来た。降り立ったのはやはり登山者である。 (何処へ登るつもりだろう? かなりの重装備だが、ここで降りるところを見るとやはり、不帰一、二峰が本命だが、それにしても単独とはよほど、腕に自信があるんだろうな)  花岡に見られているとも知らず、その登山者は朝の光の中に面を晒した。 「岩村!」  驚愕の叫びが花岡の唇から洩れた。  相手の男も花岡を認めて雪の中に立ち竦んだ。たがいに思いがけない相手を見出した驚きである。二人は信じられないようにそのままたがいの顔を凝視していたが、やがておたがいがまぎれもない旧き山仲間であるのを認めると、 「いったいどうしてここへ?」 「お前こそどうして?」  とほとんどおうむ返しに訊きあった。 「そうか、お前ももらったのか」  花岡が言った。岩村も母校山岳部から招待されて来たのだ。それなのに後輩らしい人影は依然として見えない。そろそろ八時に近い。いくら彼らが朝寝坊だとしても、もうテントから起き出してもよい時間である。それに行動日は�早発ち早着き�が山では鉄則なのである。 「おかしいな?」 「場所をまちがえたんじゃないか?」 「いや確かに南股とあった。それが証拠に二人仲良く[#「仲良く」に傍点]ガン首を揃えているじゃあないか」  花岡が言った。確かに、彼の言う通り二人揃ってまちがえるはずがない。 「とにかく、ここで立ち話しをしていてもしかたがない。南股の発電所の少し上に取入口小屋があるはずだ。そこまで行ってみないか? 途中で出迎えに会うかもしれない」 「よかろう」  岩村の提案に二人は肩を並べて歩き始めた。少し行ったところでスキーを履く。  二人は黙々として進んだ。久しぶりに昔の仲間が再会したというのに、二人の心はその朝の風景のように白々しかった。この八年の歳月はたがいの心をどう歩み寄りようもないほどに遠く隔ててしまったことを、二人は密かに認めないわけにはいかなかった。  途中、発電所に寄って尋ねてみると、今年は帝都大は入っていないという返事であった。彼ら自身現役時代いろいろと世話になった所である。管理人こそ変っていたが、うそを言うはずがなかった。帝都大山岳部が来ていないことは事実だ。  それではあの招待状はどう解釈する? 狐につままれたような気持で、ともあれ二人は取入口小屋を使わせてくれと頼んだ。 「先客が一人あるが、よかったらお使いなせえ」  ひげ面の人の善さそうな管理人は言ってくれた。どうやら、単独行の登山者がすでに使っているらしい。二人は礼をのべて発電所を出た。  ここからはワカンを履いて夏路《なつみち》を辿る。夏路の最後の坂をあえぎ登ると、ふくよかな雪の台地にその小屋はあった。  小屋は三坪あまりの小さなものである。小さな煙突からたちのぼる薄青い煙は、先客の登山者が焚いたものであろう。  小屋の屋根の彼方に不帰の一峰から三峰までが顔をのぞかせ、抜けるような青空の中に、雪煙を飛ばしている。風は樹林に遮られてこの台地までは届かないが、あの高所ではさぞや強風が吹き荒れていることだろう。  二人は小屋の前にしばらく立ち止まって、久しぶりに接する岳の風景に見惚れた。 「大分冷えてきた。入ろう」  岩村にうながされて二人は小屋の扉を押した。 「今日は」 「お邪魔します」  先着の登山者は土間のストーブの前にうずくまっていたが、返事をしなかった。  彼らは顔を見合わせて、ちょっとうんざりしたような顔をした。登山者の中には時たま、この先着者のように人間嫌いをむき出しにする者がいる。  彼がそういうタイプだとすれば、こいつは窮屈な小屋生活《ヒユツテレーベン》になりそうだ。二人は遠慮がちにストーブの側へ寄っていった。  先着者が顔を上げた。薄暗い小屋の中で、ストーブの炎をうけた彼の片面が赫く染まった。 「渋谷!」  岩村と花岡が同時に叫んだ。 「おうおう」  渋谷は痴呆者特有の奇妙な音声を発しながら、ストーブの側を指した。ここへ坐れということらしい。 「一体、お前どうしてここへやって来たのだ?」  花岡が立ったまま問うのへ、渋谷は一通の開封された封書を差し出した。  その中には彼らが受け取ったのと同じ内容の招待状が入っていた。渋谷もどうやら彼らと同じ招待を受けたらしい。 「一体、誰がこんな悪戯をしたのだ?」  岩村が眉をひそめた。 「まあ、いい。どうせおたがいにひまな身体だ。少しのんびりと遊んでいこうじゃないか」  花岡が皮肉たっぷりに言った。  そうだ、悪戯であれ、何であれ、こんな結構な招待はない。食糧も充分用意してきた。小屋の狭ささえ苦にならなかったら、�虚《うつろ》の都会�へ帰るのよりはるかによい。それに三人の昔の仲間が顔を揃えたのではないか。彼らが今まで所属していた強大な組織のためにおたがいに激しくせり合ってきたが、組織そのものが失われたというよりは、組織からしめ出された今となってみれば以前の山仲間に戻って何ら差しつかえのないはずである。 (しかし、それにしても、いったい誰が?)  その疑問は拭い取れなかった。 「これは星川社長の字に似てるよ」  突然、渋谷が言った。MLT—3の発売会の例にも見られるように、彼は時折り、人並みの口をきくことがある。 「星川さんがまた、どうして?」  岩村が言いかけたのを、花岡が引き取って、 「そうか、星川さんなら考えられるぞ」 「説明してくれよ」 「星川さんは渋谷の義理の親父、つまり、岳父というわけだ。自分の一人娘を渋谷へやったくらいだから、よほど、奴が可愛いにちがいない。こんな渋谷の姿を見ているのはたまらなかったのだろう。そこで考えた。旧い山仲間の俺達と共に�昔の山�へ行かせてやったらあるいは快《よ》くなるかもしれないとな。しかし、気狂いのお伴では俺達が行かない。そこで考え出した一計が例の招待状だ。どうせ、お役ご免になってひまな俺達だ。母校山岳部からの誘いに一も二もなくとびつくだろうとな」 「なるほど、それなら話はわかる。とすると、俺達は気狂いのお守《も》りに、まんまとかり出されたというわけか」 「ま、そういったわけだ」  花岡はかつて自身が一度考えついたちえだけに、そう推理して疑わなかった。 「それでだ、一つ相談がある」  花岡は岩村に視線を注いだ。 「相談? 何だ?」 「せっかくここまでやって来たんだ、渋谷のお守りだけではつまらないと思わないか?」  花岡の瞳にストーブの炎が宿って燃えた。すでにそこには協和電機家電部長、花岡進という人間はなく、アルピニスト、花岡進の身と心が置かれていた。 「そうだな……で?」 「三人が揃ったのだ。どうだ一峰北壁をやってみないか?」 「えっ、北壁を!」  岩村は目を見開いた。不帰岳一峰北壁、それこそ彼らの青春の見果てぬ夢だった。惜しくも初登攀を為し遂げぬうちに卒業となり、この数年の歳月の間に後進のいくつかのパーティによって攀じられてしまったとはいうものの、依然として彼らの胸の中に、自らの足でいつの日かはという夢が根強い残り火のように燃え続けていた。 「しかし、渋谷は使えまい」  ややあって岩村が言った。 「パアでも山へは登れるさ。それにトップは俺達がやればよい」 「そうだな」 「やろう! 三人でもう一度北壁をやるんだ」 「よかろう」  岩村の瞳にも炎が宿った。二人はがしっと手を握りあった。久しぶりにビジネスを離れた打算のない握手だった。何のことかよく分らないくせに渋谷がその上に自分の掌を重ねた。  彼の瞳も炎を映しているように見えた。  翌朝午前二時、三人はほとんど同時に目覚めた。ザイル四十、三十各一本、ハーケン、カラビナ、ハンマー、アブミ等、もしかすると岩を登ることになるかもしれないと思って用意してきた岩登り用具を再点検してザックに詰める。  ラジウスで煮た肉粥を一杯ずつ啜《すす》り、便通を整えれば出発準備完了。  午前二時四十五分、三人は行動を開始した。 「すげえ星だな」  岩村が呻くように言った。久しぶりに仰ぐ山の星の明滅は凄絶なばかりに三人の目に沁みる。寒気は酷しかった。まつげがピリッと凍りつくような寒気は今日の少なくとも午前中の好天を約束するものだ。  最初の間はスキーをつける。沢の中はデブリとクラストでスキーにはかなり辛い。  五時に一峰末端。ここでスキーデポ。煙草一本廻し喫《の》みにしただけで直ちに傾斜四十度位のガレ場に取付く。トップ花岡、続いて岩村、渋谷の順にザイルパーティを組み、コンティニュアスに登る。  快適なピッチ四十分、ガレを登り切って、オーバーハングの岩の下に出る。そこで初の大休止、東の空が白んできた。  不帰一峰頂上より不帰沢に落ちこんだ高距約四百米の壮絶な垂壁が彼らの目指す北壁であり、積雪期は豪快な氷壁となってほとんど登攀不可能な垂直の空間を作り出す。  唯一のルートとして考えられるものは不帰沢をつめて、一峰尾根最後の壁下に入る浅いルンゼから取付き、氷化した壁を百五十米、それより岩層帯を経由してヒマラヤ襞へ入る。この部分は横に広いのでルートは豊富にありそうだが、雪崩の巣となっている。平均傾斜六十〜七十度、特に稜線直下は垂直に近い。問題はそこの突破だ。  テルモスの紅茶とチョコレートで一息ついた三人はふたたび立ち上がった。ここで十二爪アイゼンをつけた。 「行くぞ」  花岡が言った。オーダーは同じである。オーバーハングを避けて急峻な雪田に入る。雪田の上部で最初のハーケンを使う。二ピッチばかりのトラヴァースを終えると陽がさしてきた。  懸念されていた渋谷が案外やる。スキップカットする手つきも確かだ。頭は狂っても、アルピニストとしての手練は残っていたのか。  次がきのこ雪と氷化した壁、雪と氷の壁にステップを刻み、じりじりとピッチを上げる。 「よし、代ろう」  外傾した不安定なテラスに出たところで岩村がトップ交代。大分高度感も出て、脚下の雪渓が白くはるかだ。  この付近から乾いた完全な岩場になる。浮石が多く落石がしきり。しかし、岩村は確かな足取りで小石一つ落さずに登る。三十米いっぱいで大ハング上のテラスに出る。ここで三人が顔を揃える。  取付より六時間かかった。ここで昼食。  食後も同じオーダーで登る。ワンピッチで岩の小リッジ、第一ピッチ予想外に悪い。ハーケンを数本消費する。続いて第二ピッチ、岩は不安定である。 「ちくしょう、ハーケンが打てねえ」  小さなハングに行きづまり、岩村が呻いた。やさしそうに見える岩も、ホールドやバンド状の個所に氷がついて難しい。 「代ろう」  突然、渋谷が言った。花岡と岩村は顔を見合わせた。渋谷の腕は彼らの知るかぎり確かであったが、頭が正常ではないのだ。 「大丈夫、やらせてくれ」  渋谷は二人の逡巡を見抜いたように重ねて言った。落ち着いた声音である。どうみても異常とは思えない。  二人は顔を見合わせてうなずいた。へたに断ってつむじを曲げられたら困る。  トップの安全を期するために四十米ザイルをダブルにする。  しかし、渋谷の腕は確かだった。  アイスバイルでホールドを刻み、露出岩にハーケンを打ちこむ。そしてそこにアブミをかけて心にくいほど鮮やかに乗り越えて行った。  ザイルは順調に伸びる。時折り、渋谷がカットした氷片がはらはらと顔にかかる。 「ようし」  渋谷の合図に二人はいつの間にかザイルに全身の重量を託していた。  渋谷を疑うにはあまりにも鮮やかな身のこなしだった。花岡ミドル、岩村ラストのオーダー。  この頃からガスが出て来た。雪もちらつき始めた。ようやく天候が崩れ始めたらしい。まだ最上部のヒマラヤ襞の難所が残っている。  渋谷はハーケンをほとんど打たない。的確なバランスクライムを素手で登っている。  渋谷がトップを代ってから三ピッチで岩場を抜けて、いよいよ、ヒマラヤ襞に入った。  早速、小さなちり雪崩が顔にかかる。雪はますます激しく、風も出てきた。吹雪模様である。  腕時計は三時を示していた。行動開始後、すでに十二時間を経過している。急がなければならなかった。  それにしても渋谷の動きは的確である。ピッケルの届くかぎりステップを刻む、アイスハーケンを打って吊り上がる。また、ステップカット、次はアイスロックハーケン、四十米のザイルが伸び切って、 「よし、こい」  の合図。ちり雪崩間断ない中を着実にピッチを稼ぐ。  突然、上方に白煙が上がった。 「くるぞ!」  渋谷の怒声にはっとふり仰いだ二人の目に、表層雪崩が特有の静かな音をたてて落ちて来た。  ザイルとピッケルを頼りに虫のように岩壁にへばりついて、行き過ぎるのを待つ以外に方法がない。 「終ったぞ」  渋谷の声にやっと顔を上げた二人に、青白い氷壁を背負うようにして笑っている渋谷の顔が映った。  今のなだれで岩村と花岡は、渋谷の確保《ジツヘル》するザイルにぶら下がった形になっていた。 「渋谷!」  ふと彼の笑顔にぞっとするような冷たさを感じて、ミドルを登る花岡が叫んだ。 「お前、なおったのか!?」  ラストの岩村も言った。渋谷の笑いは白痴の笑いではなかった。 「ははは」  渋谷はなおも笑った。そしてその笑いを中途で硬直させると、 「なおっていたさ。ずうっと以前からな」  風雪が不帰沢の方から猛烈な勢いで吹き上げて来た。バリバリと音をたてて硬直するような寒気の中で渋谷の声は確実に二人の耳に届いた。 「お前達の招待主は俺さ。何のためか分るか? 言わずとも分るだろう。罪もない俺の家族を殺戮し、俺の恩人を滅した貴様達に復讐するためだ。今日を何日だと思う? 八年前二峰に立った日だ。俺はこの日を歯を喰いしばって待っていた。一度は貴様達と青春の友情を誓い合ったこの不帰で、人間の怨みの底の深さを思い知らせてやろうとな。  岩村、貴様は自分の出世のために、俺を殺そうと図り、アマメクボで俺の妻と子を焼き殺した。俺はあの猛火の中で、貴様の意図をはっきりと読んだ。自分の眼前で妻子を焼き殺されるのを見ながら、どうすることもできなかった男の怨みがどんなものか分るか!? 俺は必ず復讐してやろうと誓った。そしてわざと廃人を装い機会を待っていたのだ。それにそうしなければお前は執念深く俺の生命を狙っただろうからな。ハワイのハネムーン先へ電報を打ったのもこの俺さ。盛川の行状をあまねく調べて失脚させたのも俺のやったことだ。  花岡、貴様は俺の技術が欲しいばかりにあらゆる汚い手段を弄してMLT—3の公開実験を失敗させた。立花の子供が死んだのを知っているか? 貴様が殺したのだ。そのようにしてまで星電研を系列化しながら、俺に利用価値がなくなるとみるや、俺の大恩人である星川社長をはじめ、旧星電研幹部をボロ屑のように放り出した。  彼らや、俺達のほんの一握りのささやかな幸福を、貴様は自分の保身のためにめちゃめちゃにしてしまった。  俺は貴様への復讐の手はじめとして、MLT—3を改良したEP—3を古川電産にくれてやった。そのために、貴様のスポンサーである花岡俊一郎は、古川徳太郎のバックアップを失い、見るも無惨に失脚した。彼の失脚は貴様の失脚につながった。  しかし、俺の怨みはそんなことくらいでははれない。  俺達は決して多くを求めていなかった。  優秀な製品を世に送り、自分や自分の家族が静かに暮らしていければよかったのだ。  貴様ら二人はそれを青春の友情の仮面をかむって、血も凍るような残酷さで、虫を踏みつぶすように踏み躙《にじ》った。貴様達は今こそその償いをしなければならない。  死んでもらうよ。俺はここでザイルを切る。おれはここから独力で頂へ出られる、しかし、貴様らは俺に確保してもらわなければ上がれない。四百米の氷壁は貴様らを殺すにはもってこいだ。途中のきばのような岩角に切り裂かれ、ひき肉のようになって、不帰沢へ墜ちろ! 真白な雪渓を貴様らの血でまっ赤に染めて、きっときれいな眺めだろうよ」  渋谷は登山ナイフをザイルにあてた。 「渋谷、待て!」  ラストの岩村が叫んだ。 「今さら、何を言う」 「そうじゃない。お前が切るのはよせ! お前がそれをすれば殺人だ。お前はお前だけの渋谷ではないぞ、日本の渋谷なんだ。俺はお前の山仲間に値しない男だった。そんな男のために殺人の罪を負うことはない、渋谷、さよなら。厚かましい言葉だが、俺を許してくれ」  岩村は、右掌に握った白く光るものをザイルにあてた。一瞬、ふり仰いだ岩村の眼がうるんだように光り、ザイルは花岡と岩村の間で切断された。岩村の身体は岩角に大きくバウンドしながら深所からの目に見えぬ力に引きずりこまれるようにガスの中に呑みこまれていった。 「岩村!」  花岡は自分の身体から下方に伸びるザイルに、もはや、人間の重量がかからないことを知った。花岡は岩村を呑みこんだ霧の海から視線を上方へ転じた。 「渋谷」  花岡は呼んだ。雪つぶてが彼の面を打った。渋谷の返事の代りに吹雪が吠えた。ちり雪崩と雪煙が数米上方の渋谷の姿すら見え隠れさせる。不帰沢から吹き上げてくる強風の力で身体が持ち上げられそうである。 「岩村と同じ理由で俺も殺す必要はない。俺は恥ずべきアルピニストだった。今さら、言ってももう遅いが、今の俺にせめてできることは、お前に俺を殺させないことだ。直接、八つ裂きにしたいだろうが、お前は殺人者になってはならん。お前にはまだやることがあるんだ。渋谷、さよならだ。せめて頂上へ行ってくれ! 俺達三人が共に登ろうと誓った不帰一峰の頂上にな」  ザイルは花岡の頭上で切断された。渋谷の掌の中で急に軽くなったザイルの下方を、花岡の身体は岩角に切り刻まれながら着実に加速度を増していった。  その姿が雪煙に呑みこまれるまでのほんの数瞬間、岩角にあたって血しぶきを上げた、落下する花岡の身体が渋谷の網膜に焼きついた。雪壁にとび散った赤いしたたりを、不帰沢の深淵から吹き上げたガスがたちまち隠してしまった。 「終った」  渋谷は言った。これで何もかも終ったのだ。もう頂上へ抜ける必要もない。かといって降りる必要もないし、第一、一人では降りられない。  このままここで夜になるのを待てばよいのだ。後は風雪と寒気が決着をつけてくれるだろう。雪崩が来たら巻きこまれたっていい。  岩村と花岡は墜ちる前に妙なことを言ったが、俺の体は俺だけのものだ。はるみも雄一も死んだ。MLT—3も、EP—3も、もはや俺のものではない。愛する星電研と愛すべき人々も、散り散りになってしまった。要するに、生きていくべきすべての理由が失われたのだ。渋谷夏雄は今日から本当に廃人になった。廃人として生きるよりは、この不帰北壁に俺の生命の決着をつけさせた方がいい。  渋谷はそのままそこへうずくまった。雪がさらさらと音を立ててヤッケに当たる。手足の感覚が急速に失われていく。あたかも彼自身が氷壁の一部のように凍りつくまでに大して時間はかからないだろう。  彼は岩の一部のようになってぶつぶつと一人言を言った。 「岩村も花岡も自分から死ぬなんて馬鹿な奴らだ。何故、俺と一緒に登らなかった。ここまで来ながら馬鹿な奴らだ」  彼はひとりつぶやきながら自分が言ってることの矛盾に気がつかなかった。もう身体は寒気を感じない。いや、感覚そのものが去りつつあるのだ。 「しかし、ここまで来ながら頂へ行かないという手はないな」  渋谷の朦朧とした意識に、花岡の言葉がよみがえった。 「せめてお前だけは頂上へ行ってくれ」  遠い青春の日の誓い、それが現実の社会では何の役にも立たなかった。しかし、ここは山だ。そしてもうみんないなくなってしまった。  雄一も、はるみも、星川社長も、星電研も、そして岩村も花岡も。今、いるのは俺だけ。  それも雪煙と強風の空間の中で虫のように死んでいこうとしている。死んでいく前ならば、遠い旧い日の夢物語りの約束を果たしてもよいのではないか。   旧キ山仲間ハ皆去ッタ   追憶ヲ追ウコトハモウ止ソウ   昔唄ッタ山ノ唄ハ   幾多ノ山仲間ニ唄イ継ガレタ。   重力ヲ拒ネノケタ磐石ノ確保《ジツヘル》ハ   旧キ山仲間ノナキ後モ   薄緑リノ模糊タル彼方ヨリ   今モ我ラヲ支エテイル。  渋谷の耳に遠い日の夢の唄が聞こえてきた。  渋谷は動き始めた。彼の肉体が動いているのではなく、彼の精神が動いているといってよかった。  風雪の声とアイゼンのきしみ。夕闇が忍び寄っていた。吹雪の煙幕の中をどこをどう登ったか記憶はない。  やがて、急に傾斜が薄れたかと思うと、渋谷はさらに大きな風圧の中へ投げ込まれた。遂に頂台地へ出たのである。しかし、渋谷には自分がどこにいるのか分らなかった。  ただ分ることは言いようのない大きな空《むな》しさであった。体中が透明になって風雪も寒気もみな体を通り抜けていく。岩村や花岡に抱いていた憎悪も、雄一やはるみへの愛惜もその空しさの中にすべて洗い流されていく。  空しさの中で渋谷はふと思った。 「もしかしたら、岩村と花岡は招待状を受けた時から俺の意図を知っていたのではないだろうか? 人生に夢を見失った彼らが、殺されるのを承知で招待を受けたのではなかったか? あいつら、あまりにも素直に死んでいった。自分達の生活を破壊した犯人は彼らではない。もっと巨大な怪物なのだ。岩村や花岡自身がその巨怪の哀れな犠牲者だった」  しかし、そんなことはもうどうでもよかった。体の中から何もかも流れ出してしまったような空しさなのである。  何でもいい。何でもいいから俺を充たしてくれるものはないか?  渋谷はその何かを手探るように数歩よろめきながら歩いた。よろめきつつハイマツに足をとられて倒れた。そしてそのまま、ハイマツの中に首をつっこんだまま動かなくなった。  強風下にもかかわらず、雪がその上に降りつもり、人の形からなだらかな円みへ、そして頂台地の一部分のように埋めこんでいった。  もう夜になっていた。吹雪は夜になっても一向に衰える気配がなかった。  それから、約三ヵ月後の五月のあるよく晴れた日、白馬岳から鹿島槍方面への一般コースの縦走を志した数人の登山者パーティは、不帰岳第一峰の頂で異様な臭気を嗅《か》いだ。  蛋白質の腐敗するような異臭にもめげず、好奇心に駆られて頂台地に臭気源を探し求めたパーティは、北壁を望むハイマツの中に渋谷の死体を発見した。  ハイマツの上だっただけに雪が早く融け、山の陽に灼かれて腐敗したらしい。頭髪はすでに脱け落ち、頭蓋骨質が露出していた。破れた衣服の下の皮膚は緑色を帯び、肋骨を露出した胸腔内にたまった黄色い水の中を無数の蛆がうごめいていた。  人の気配に蠅がわーんと飛び立つ。 「見るな、見ない方がいい」  パーティの中の女性を手で制しながら、発見した登山者自身、あやうく嘔吐しそうになっていた。  翌々日の朝、東京日本橋の菱井銀行の会長室と、大阪中の島の古川銀行の頭取室で、二人の男が秘書の運んできた新聞に目を通しながら、奇しくも同じようなことをつぶやいた。 「世の中には為すべきことが山ほどあるというのに、一円にもならない山登りで命を喪うとは何処のどいつか知らんが、馬鹿な奴がいるもんだ」  二人の男の棲《す》む巨大なビルの外では二つの大都会がすでに一日のダイナミックな活動を始めていた。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『大都会』昭和50年1月10日初版発行          昭和53年3月30日16版発行