[#表紙(表紙.jpg)] 夢の原色 森村誠一 目 次  姦《おか》された星  天からの贈り物  屈辱の誓い  人生の原色  性奴の変質  先着した死  必死の悦楽  屈折した発火《フアイア》  説教《ノリト》なき戦力  ワンセットの性戯《プレイ》  揺ぎかけた覇権  殺意の底流《ベース》  物怪《もののけ》の宴《うたげ》  女神の鎖  過保護のシステム  高層の官能  交換された慰安母  逆転した輪姦《りんかん》  夜這《よば》いした殺意  一期一会の獲物  符合した臭い  自浄の捻転《スクリユー》  変態の蜜  禁じられた聖域  性《セツクス》のメニュー  闇《やみ》のラブハント  治にいて乱を忘れず  性体離脱  セクソンのイニシャル  男の尾  長い復讐《ふくしゆう》  推理の合体《ドツキング》  性と罪の森《ジヤングル》  動いた標的《ターゲツト》  荒野の源流  現れた過去  |愛ゆえの鎖《トウルー・ラブ・チエーン》 [#改ページ]  姦《おか》された星  堀川康子《ほりかわやすこ》はその少年を一目見たとき、ぽーっとなってしまった。  近所に開店した|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》の息子に一目惚《ひとめぼ》れしてしまったのである。  製菓店の息子は十五、六歳の少年で、目許《めもと》が涼しく鼻筋が通り、気品のある凜々《りり》しい面立ちをしている。  まるで少女漫画に登場する美少年そのままに、目許や頭上に星が輝いているように見えた。  康子は完全に少年の虜《とりこ》となって、一日に何回もケーキを買いに少年の店へ行った。  店へ行くだけでは足りず、電話でケーキを注文しては、少年に届けさせた。  少年がケーキを届けに来ると、なにやかや話しかけては手を引っ張るようにして家の中へ上げ、コーヒーを勧めたりした。  少年を身近に見る度に、康子の熱は上がった。  康子は四十代後半、夫は一流会社の幹部で、ほとんど家にいない。夜は接待で遅くなる。たまの休日はゴルフである。  二人の子供はすでに独立して、別居している。  経済的にはなんの不足もない。栄養が行き届き、贅肉《ぜいにく》をたっぷりと蓄えている。  有閑夫人仲間とテニスをしたり、ホストクラブへ行ったりしたが、あり余る時間と欲求不満をもてあましている。  女の四十代後半は、昔ならばお褥《しとね》ご辞退の年齢であるが、現代では女盛りである。  身体が熟れ切ったところで、夫は仕事に疲れ切って妻を見向きもしない。浮気をしたくとも適当なパートナーが見つからない。  同世代の男はすでに仕事にくたびれていて、若い男は危険である。  なまじ夫の地位と世間的に恵まれた家庭があるので、危険は冒したくない。火遊びはしたいが、火傷《やけど》は負いたくない。  熟れた身体があり余る時間をもてあまして悶々《もんもん》としている時期に、その少年に出会った。  康子はその少年の面影が瞼《まぶた》に張りつき、なにも手につかなくなった。  そう何度もケーキを買いに行くわけにもいかず、昼は少年の店の近くを徘徊《はいかい》し、夜は少年の夢を見て、よく眠れなくなった。  彼女は、年甲斐《としがい》もなく、少年に恋煩いをしていた。  とうとう康子は少年に対する想いを、自分独りの胸の内にたたんでおくことができず、有閑夫人仲間の仙石春枝《せんごくはるえ》と江口規子《えぐちのりこ》に打ち明けた。  春枝の夫は不動産業で、現在、別居している。  春枝は自分名義のマンションと駐車場を持っていて、その上がりで遊んで暮らしている。  規子は数年前に金満家の夫と死別して、その莫大《ばくだい》な遺産を相続した。  三人共に同じ齢まわりで、あるテニスクラブで親しくなった。 「そんな可愛い坊やがいるなら、ぜひ私たちにも拝ませてよ」 「横奪《よこど》りしてはいやよ」  康子が言うと、規子がくすりと笑って、 「なに言ってんのよ。十五、六の坊やだったら、息子よりも若いじゃない。私はあなたのように正太《シヨタ》コンじゃないわよ」 「ショタコンって、なあに」 「女性のロリコンのことよ。なんでも劇画の主人公に正太郎というのがいて、それから出たらしいわよ」  規子が解説してくれた。 「初めて聞いたわ。正太コンでもなんでもいいの。あの坊やのことをおもうと、夜も眠れないのよ」  康子は熱いため息を吐いた。 「これはいよいよ本物だわね」  春枝と規子が顔を見合わせた。 「とにかく康子さんの星の王子様に拝謁させていただきたいわ」  二人に促されて、康子は春枝と規子を少年の親が近所へ開店した|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》へ連れていった。二人も、店を手伝う少年を見ると、陶然となった。 「どうおもう」  康子は後で二人の印象を尋ねた。 「凄《すご》いわ、あんな美少年、見たことがないわ」 「私も。最高よ」  二人は年甲斐もなく、酔ったようにうっとりとなっている。 「でしょう。一度でいいから、あの子が自由にできたら、私、死んでもいいわ」  二人の賛同者を得て、康子の熱はますます高くなったらしい。 「ねえねえ、そんなにおもいつめているんなら、自由にしてしまえばいいじゃないの」  そそのかすように言った春枝の目が脂ぎっている。 「そんなことできないわよ。自分の息子よりも若い子に、いい齢をして言い寄れないわ」 「私たちが協力してあげる」  かたわらから規子が口を添えた。 「協力してくださるって?」 「そのかわり、私たちも一口乗せて」 「それ、どういうこと?」 「三人寄れば文殊の知恵と言うでしょう。耳を貸して」  三人以外に立ち聞く者もないのに、春枝は声をひそめた。 「えっ、まさか」  春枝からなにごとかをささやかれた康子は、びっくりした目を向けた。 「いまさら驚くことないでしょう。あなたもカマトトねえ」  春枝はにんまりと笑った。 「そんな話、聞いただけで、身体の芯《しん》が疼《うず》いてきちゃうわ」  規子が早くも上気したような表情をしている。 「異議がなければ�善は急げ�だわ。さっそく実行しましょうよ」  春枝に音頭を取られて、康子もその気になった。一人ではとても実行する気になれないが、三人集まれば怖くない。幸い夫はここ数日、九州方面に出張中である。  翌日午後、三人の悪女は、康子の家に集まった。綿密に打ち合わせをすると、康子が少年の店に電話した。 「堀川ですけれど、ピーチタルトと、バナナマロンパイと、イチゴのムースと、レアチーズケーキを五つずつ届けていただけない」  康子は胸に一物を秘めて、電話口に応答した少年に注文した。 「堀川さんですね。毎度有り難うございます。すぐお届けいたします」  悪女たちの悪巧《わるだく》みを知らぬ少年は、電話口で殊勝に答えた。 「さあ、来るわよ」  受話器を置いた康子は武者震いのようなものをおぼえた。いよいよ夢にまで見た憧《あこが》れの少年を自分のものにできるとおもうと、身体の芯から震えが突き上げてきて止まらない。女として熟練しているはずでありながら、こんな感情は初めてである。  計画の発案者である春枝も規子も、興奮しているようである。  間もなく玄関のチャイムが鳴った。 (来た)  三人は顔を見合わせた。いよいよ鴨がネギならぬケーキを持って来たのである。  康子が立って玄関のドアを開くと、少年がケーキの箱を持って立っていた。 「毎度有り難うございます。ご注文のケーキをお届けにあがりました」  少年はにこやかに言って、ケーキの箱を差し出した。 「どうもご苦労さま。お忙しいのに悪いわね」  康子は胸に秘めた悪巧みをおくびにも表わさず、少年をねぎらった。そのにおうような美しさに、康子の背後で春枝と規子がうっとりとなっている気配がわかる。 「ちょうどお紅茶を淹《い》れたのよ。ちょっと上がって、召し上がっていらっしゃらない」  康子はさりげなく勧めた。 「でも、悪いですから」  少年はもじもじした。 「悪いことなんかなにもないわよ。さあ、紅茶一杯召し上がるだけだったら、そんなに時間はかからないわ。少し休んでいらっしゃいよ」  有閑夫人堀川康子らの密《ひそ》かな計画も知らず、注文のケーキを届けに来た美少年は、家の中へと誘われた。 「フォーションのお紅茶は、おたくのケーキにとても合うのよ」  少年を応接室のソファーに座らせた康子は、あらかじめ用意しておいた紅茶を少年に勧めた。  三人の熟女に取り囲まれた少年は、おどおどしながら紅茶カップを取り上げた。  ほんの一口、形だけ口をつけてカップを置くと、すかさず春枝が、 「若い人にはお紅茶よりもジュースの方がいいかもね」  と言って、オレンジジュースを入れたグラスを差し出した。  少年は喉《のど》が渇いていたとみえて、今度はオレンジジュースを一気に飲み干した。  三人の熟女から熱い視線を集められて、少年は上気してしまったようである。 「どうもご馳走《ちそう》さまでした」  オレンジジュースを飲んだ少年は、礼を言って立ち上がろうとした。 「そんなに急いで帰らなくともいいじゃない。私たちと一緒にお店のケーキを召し上がっていらっしゃらない」  今度は規子が勧めた。 「いいえ、それはお届けしたものですから。それでは失礼します」  少年がきっぱりと言って、ソファーから立ち上がったとき、足がもつれた。 「あら、大丈夫?」  すかさず康子が言って、少年の上体を支えた。 「大丈夫です」  少年は言って歩こうとしたが、足許《あしもと》が頼りない。 「少し休んでいらっしゃいな」  春枝が少年の耳許にささやいたとき、彼はすでに正体を失っていた。 「やったわね」  三人の悪女は顔を見合わせた。  紅茶とオレンジジュースに仕掛けた睡眠薬が功を奏して、正体のない少年を三人は堀川夫婦の寝室へ運び込んだ。  薬効で意識が朦朧《もうろう》としていても、若い男の機能は残っている。  男を知り尽くした三人の悪女は、少年を全裸に剥《は》ぐと、交互に犯した。  少年は童貞らしい。  一人の女が満足して引き下がると、次の女が来た。  夫婦のベッドの側壁にはワードローブの鏡がある。三人は少年を犯す自分たちの鏡像を眺めては興奮を促され、劣欲をかき立てられた。  夫とも取ったことのないような体位を少年に強制して構成しながら、自分本位の刺激をかき立てる。  一巡すると、最初の女が欲望をよみがえらせている。貪欲《どんよく》な熟女に飽和はなかった。少年は抵抗したくとも薬の効果で身体がままならない。たとえ薬を飲まされていなくとも、三対一では適《かな》わないだろう。人数と年齢と経験が、男女の攻守を逆転させている。  三人に弄《もてあそ》ばれた少年は、数時間後、ようやく解放された。そのころ薬効は消えていたが、飽くことを知らぬ三人の女に貪《むさぼ》り尽くされて、少年の腰が抜けていた。 「坊や、有り難う。とても楽しかったわ。今日のことは黙っているのよ。これは私たちの気持ち」  少年を解放する際、康子は彼に五万円あたえた。少年は這《は》うようにして店へ帰って来た。  注文の品を届けに出たまま数時間も帰らぬ少年を案じていた両親は、ようやく帰って来た息子のただならぬ様子に不審を抱いた。当初、少年は頑《かたく》なに口を閉ざしていたが、両親に問いつめられて、ぽつりぽつり話し出した。両親は、息子の口を割らせて引き出した話の内容に仰天した。大人の女が三人共謀して、無垢《むく》な少年をおびき出し、睡眠薬入りの飲物を飲ませて玩弄《がんろう》したとは悪質である。  激怒した両親は、警察へ届け出た。被害届を出された警察も、当惑した。  刑法一七七条に強姦罪《ごうかんざい》は、「暴行または脅迫をもって十三歳以上の婦女を姦淫《かんいん》したる者は強姦の罪と為《な》し」と規定し、男が女を犯すことを犯罪の構成要件としている。したがって、女が男を犯しても強姦に該当しない。 「冗談じゃない。うちの息子は汚れを知らない童貞です。それが三人の有閑|性悪女《しようわるおんな》のおもちゃにされて、黙って引っ込めというのですか」  両親は頭に血が上った。 「と言われましてもねえ、男にその気がなければ性交はできません。その点、女性が拒否していても可能な強姦とはちがいます。性交が行なわれたということは、被害者の方にも許容の意志があったということで、合意の上と見なされても仕方がありませんよ」  と届けを受けた警察の担当者は言った。 「男は小便が溜《た》まっても可能になります。ましてベテランの年増三人に寄ってたかってもみくちゃにされたら、意志がなくても可能になりますよ」 「そう言われましてもねえ、現在の刑法では、男が女を犯した場合のみを規定していて、その逆は該当しません。加害者の誘いに乗って相手の家へ出かけて行ったご子息にも、多少その意志があったと見るべきではありませんか」  警察の答えはあくまで素っ気ない。  注文されたケーキを届けに行って、堀川康子ら有閑夫人三人に犯された美少年の両親の怒りはおさまらなかった。 「薬を仕掛けたジュースを飲まされ意識朦朧となったところを、三人から代わる代わる犯されたのです。これでも相手を訴える法律がないのですか」  両親は粘った。 「それでは風紀の方へ行ってみてください。私の方から事案の概略は伝えておきます」  所轄署の受付担当官は激怒した両親をもてあましたように言った。  女が男を犯したという被害届をたらいまわしされた警視庁防犯部保安一課の新開征記《しんかいせいき》は、まず訴えてきた被害者の両親に会った。両親から被害の模様を詳しく聞いた新開は、被害者に会ってみることにした。  新開の所属する保安一課は、部内では通称マンボー(マン暴)、猥褻《わいせつ》等風俗犯罪関係の捜査を担当する。防犯部に所属する保安一課は、さらに第一、第二係に分かれるが、新開のマンボーは性犯罪に関連して発生する強行犯(殺人、傷害、強盗、強姦、放火、誘拐等)の捜査も、捜査一課と共同して行なう庁内の特殊なセクションである。新開は被害者の少年にも会った。彼は少年から詳しく被害の模様を聞き出した。  新開がマンボーへ来てから、女性が男を輪姦《りんかん》したという訴えは初めてのケースである。  女が強くなっている今日、強姦罪が男が女を犯すものとしてつくられているのは法の不備といえる。本来はその法律で充分だったものが、時代環境が変わってきたというべきであろう。とりあえず加害者に適用すべき罪名としては、刑法第一七六条の強制猥褻罪がある。  これは「十三歳以上の男女に対し、暴行または脅迫をもって猥褻の行為を為したる者は六月以上七年以下の懲役に処す」と規定するもので、十三歳未満の男女が被害者の場合は、暴行、脅迫の手段を必要としない。被害者は十六歳に達しているので、暴行または脅迫という手段が必要になるが、睡眠薬を飲ませて抵抗不能に陥れたことが、暴行、脅迫に当たるかどうか疑問である。  むしろこの場合は一七八条の、「人の心身喪失もしくは抗拒《こうきよ》不能に乗じ、(中略)猥褻の行為を為し、または姦淫したる者は」と規定する準強制猥褻罪に該当するであろう。睡眠中の強姦は抗拒不能とされ、深夜、夢うつつで恋人と誤信しているのに乗じて情交したのは、抗拒不能に乗じたとする判例がある。だが、女が男に睡眠薬を飲ませて抗拒不能に陥れ、姦淫(輪姦)したという前例はない。性犯罪、特に室内での強姦は、犯罪の立証がきわめて難しい。被害者にとっては屈辱的な場面が情け容赦もなく露出され、プライバシーの悉《ことごと》くを剥ぎ取られた上に、結局、加害者に対して有利な判断が下ることが多い。まして女が男を犯したというケースでは、被害者がますます不利になることは予測できる。  わずか十五、六の美少年が堀川康子ら三人の有閑夫人に犯されたというこの事件は、|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》を営む少年の両親の話によると、女たちが少年に睡眠薬を飲ませて抵抗不能に陥れたということであるが、事後になっては、睡眠薬の使用を証明することは難しい。  性犯罪のほとんどすべては、幼児を除いて加害者は男、被害者は女と相場が決まっている。  準強制猥褻罪は「抗拒不能に乗じ」と規定しているが、新開には暇と金をもてあました牝《めす》ブタが、この相場に乗じて純真な少年を玩《もてあそ》んだとおもえた。 (牝ブタどもは高をくくっている。あいつらをギャッと言わせてやらなければならない)  新開は義憤を感じた。 「きみは被害にあった後、身体に異常をおぼえなかったか」  新開は被害者の少年に尋ねた。 「しばらく腰がふらふらになって、足が地につかないようでした」 「それは間もなく治ったんだろう。たとえば病気をうつされたというようなことはないかね」  性病でもうつされていれば、傷害罪が成立する。 「それはないとおもいます」 「どこか怪我《けが》をさせられなかったか」 「怪我はべつにしませんでしたけれど……」  少年の歯切れが悪くなった。 「どうしたんだ。怪我以外になにかしたのかね」  少年はもじもじしている。新開はピンときた。 「きみ、もしかして」  新開に問いつめられて、少年は恥ずかしげにうなずいた。  新開は少年の年齢からして、彼がまだ包茎であることを考えたのだ。  包茎が三人のアダルト女性に代わる代わる輪姦されてはたまらない。  少年の包茎は無理に反転させられ、いわゆる嵌頓《かんとん》状態(反転して元に戻らなくなった状態)になっていた。  三人の加害者は傷害罪と準強制猥褻罪で逮捕された。 [#改ページ]  天からの贈り物  新開征記は棚川貴代子《たながわきよこ》に会った。  ここのところ新開が忙しく、三週間ぶりのデートである。 「お会いしたかったわ」  貴代子が燃えるような目をして新開を見た。 「約束を破ってすまなかった。事件は予告をしないのでね」  新開は詫《わ》びた。  今日のデートまで、二度、約束をたがえている。  約束の直前に事件が発生して、会えなくなってしまったのである。 「仕方がないわよ。お仕事ですもの」  貴代子は美しい歯並みを見せて笑った。艶《えん》を含んだ笑顔の底に、怨《うら》みとあきらめの色が薄く刷《は》かれている。  一見高級OL風、目許《めもと》の涼しい気品のある顔立ちは、彼女の正体のよいカモフラージュとなっている。上等な生地を使ったボディコンシャスのスーツを着こなし、さりげないアクセサリーにまで優れた感性と細やかな神経が行き届いている。  その人間の内から発する天性の輝きを、周囲に気づかれぬように抑制をかけている慎ましさが、むしろ間接照明のような効果を身辺に及ぼして、かえって衆目を集めてしまう。  そんな雰囲気と存在感を貴代子は持っている。彼女の外見から、その正体を高級コールガールと当てられる者はあるまい。  マンボーの捜査員とコールガールという天敵同士のようなカップルが、この二年間つづいている。  新開は貴代子と二年前、新宿を根拠地とする組織暴力団が経営する大がかりな売春組織を摘発したときに知り合った。 「紳士・淑女クラブ」と称するその売春組織は、政、財界の大物ともつながり、海外から国賓級のVIPや、大口バイヤーが来日したとき、その接待の女性を斡旋《あつせん》する国際的な売春組織であった。  売春は現場を押さえない限り摘発できない。女の客待ち現行犯に加えて、客の証言が必要である。だが客は関わり合いになるのを恐れて、非協力的である。管理売春の立証はさらに難しくなる。  一年にわたる地道な内偵捜査の結果、ついに「紳士・淑女クラブ」を摘発した。その際、進んで証言してくれたのが貴代子であった。  貴代子はその後、売春から足を洗って、昼の勤めに変わったと言っているが、彼女が「紳士・淑女クラブ」時代に開拓した人脈を使って、客と直談(直接交渉)の売春を密《ひそ》かにつづけていると新開は睨《にら》んでいる。いまや貴代子は新開にとって重要なレポ(情報提供者)である。 「今度またいつ会えるかわからないもの。今夜はたっぷり補給してもらわなくちゃ」  貴代子は甘えたように新開の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「それはおたがいさまだよ」  新開は男の欲望が身体の深部から充実してくるのをおぼえた。 「今夜は眠らせないわよ。覚悟してちょうだいね」  貴代子は新開のやる気満々の表情を軽く睨んだ。その目が発情したように光っている。  二人は都心のホテルのダイニングルームで情事の前の夕食を、向かい合って摂《と》っていた。  テーブルに灯《とも》されたキャンドルの周囲がほの暗い空間に沈み、向かい合ったたがいの顔がほのかに浮かんでいる。周囲にもキャンドルが点々と灯り、幸せなカップルがそれぞれ二人だけの世界をつくっている。これは一つの島宇宙に浮かぶ愛の惑星である。  今夜の情事のためにホテルの一室が予約されている。食事を終えて、その部屋へ行くのが待ち遠しい。待ち遠しいおもいに耐えて、食事をゆっくりと楽しむのもマゾヒスティックな快感を煽《あお》る。 「私、どうしよう」  アントレが出されたとき、貴代子が切なげに胸を押さえた。 「どうしたんだ」  新開が問いかけると、 「私、身体が火照って、ああ、困ったわ。どうしよう」  貴代子はむしろ身悶《みもだ》えするように上体をよじった。 「もう少しの辛抱だよ。きみの願いはもうすぐに叶《かな》えられる」  新開がからかうように言うと、 「嘘《うそ》ばっかし」  貴代子が怨むように流し目を送った。 「今夜はどんなパンティを穿《は》いているんだい」 「当ててごらんなさい」 「そうだな、まず白か、黒か、それとも紫かな」 「さあ……うふふ」  貴代子がいたずらを含んだように笑った。 「ちょっと見せてごらん」 「馬鹿ねえ。こんなところで見せられるはずがないじゃないの」  貴代子が呆《あき》れたような声を出した。 「そんなことはないさ。だれもぼくたちに注意している者はいない。みんな自分のパートナーしか見ていないよ。二人だけのルームサービスもいいけれど、ダイニングできみの身体を見るのは、スリルがあってよけい楽しい」 「あなたって悪趣味だわ」 「人目のある中できみの身体を眺めると、凄《すご》い優越感をおぼえるんだよ。きみを独占したようでね」 「独占しているじゃないの」 「二人だけでいるとき独占するのよりも、大勢の中での独占が、たしかにきみがぼくだけのものだという実感をおぼえるんだよ。部屋の中に二人だけで閉じこもっても、無人島に二人でいるのと変わりない。独占するのは当たり前だ。さあ、ちょっとでいいから見せてくれよ」 「だから悪趣味だと言うのよ」  と口先だけで抗《あらが》いながらも、貴代子も新開の要請に興奮している。  ホテルのダイニングルームで人目を憚《はばか》りながら自分の身体を見せる。それは二人だけの密室の中での破廉恥で大胆な体位よりも刺激的で、猥褻である。 「困ったわ。私……」  貴代子は当惑したように頬《ほお》を押さえた。  ワインの酔いだけではなく、耳の根元まで薄く紅潮している。 「どうしたんだ」  新開に顔を覗き込まれて、 「私、スカートの下にパンティストッキングだけよ」  と貴代子はささやくように言った。  新開は喜んだ。それが彼女の新開を喜ばせるための今夜の演出であることがわかっている。 「だったら、どうしても見たい。ほんのちらりでいいから見せてくれよ」 「駄目よ」  貴代子は新開の求めを予測して下半身を無防備にしてきながら、焦《じ》らしている。  これも彼女の演出の一つである。  衆目の中で、二人はすでに交わっていた。 「あなたの位置からでは見えないわよ」  貴代子の言葉はすでに新開の要求を踏まえている。 「斜め差し向かいになれば見えるよ」 「そんなことをしたら目立っちゃうわよ」  テーブルのセッティングは差し向かいになっている。 「見たら、すぐ元の位置へ戻るさ」 「本当に、もう」  貴代子は呆れながらも、新開のリクエストに興奮させられている。 「きみが見せてくれない限り、いつまでたっても部屋へ行かないぞ」 「意地悪なんだから、もう」  貴代子は新開を軽く打つ振りをして、 「それでは、ほんのちょっとだけよ」  ウェイターが視野にないのを確かめた上で、テーブルの下で足を開いた。  新開の視野にしか入らない空間を工夫して、彼のためだけにおもいきって淫猥《いんわい》で放恣《ほうし》な体位を展開した。  周囲のだれもが気がつかない豪勢な構図であり、どんな卑猥なセックスショーも及ばぬ、新開一人のために演じられた手作りのプライベートステージである。新開がはっと目を凝らしたとき、貴代子はすでにスカートを閉じ、なに食わぬ顔でナイフとフォークを操っていた。  夜空を一瞬染め上げた華麗な花火のように、彼女のスカートの内側に構成されたエロチックな空間が、無限の謎《なぞ》を湛《たた》えているように新開の瞼《まぶた》の裏に残った。それはほの暗い空間でありながら、あでやかな夢の原色が渦を巻いているように感じられた。 「もっとよく見せてくれよ」 「駄目。こういうものはちらりがいいの。もっとよく見たかったら、お部屋へ早く行きましょう」  貴代子が挑発するように流し目を送った。  二人は、互いに言葉で刺激し合いながら、ゆっくりと時間をかけて食事を終えた。悦楽の時間を一寸刻みに引き延ばしているのが、また期待をそそる。  新開がゆっくりとデザートを味わっているのを見て、貴代子は、 「ああ、私、もう我慢できないわ」  と、ほとんど苦悶《くもん》するように身をよじった。 「場所を変えて、ラウンジでコーヒーを飲んで行こうよ」 「うんもう、本当に意地悪なんだから」  貴代子はすねたように新開を睨んだ。  彼女の焦れる様を新開は楽しんでいる。二人はようやく食事を終えて部屋へ移った。 「シャワー浴びるわね」  貴代子の口調に余裕がない。  ようやく悦楽の密室に二人きりになれて、その時間が待ちきれない。  この部屋へたどり着くまでに、二人は多数の他人の中ですでに交わっている。二人だけにわかる卑猥《ひわい》な言葉を交わしながら、実際の交わりよりも淫靡《いんび》で濃厚な交接をしていた。  人目のある公共の場所ということが、彼らの刺激と興奮を一層に促している。シャワーを浴びた貴代子が浴室から出て来た。  湯をまぶした肌のにおいが、新開の鼻腔《びこう》を柔らかくくすぐる。 「あなたも早くシャワーを使って」  貴代子が促した。  新開がシャワーを使っている間に、貴代子はふたたびドレスアップしている。貴代子に衣服を着けさせたままセックスの手順をスタートする方が、刺激を高めるのである。  二人の間でムードが熟していた。  貴代子は室内の照明を適度に絞っている。明るすぎてもいけないし、暗すぎてもいけない。ほのかに柔らかな照明、視覚から受ける刺激は官能を促す。  特に想像力が官能的悦楽の大きな比重を占めている男は、女体をまず視覚で楽しみたがる。  けっこうな料理をまず、形や色やにおいで楽しむのに似ている。  その場合、女体を包む衣服が料理を盛りつける食器の役割を果たす。  剥《む》き出しの裸体よりも、あでやかな着物やこざっぱりした浴衣に包まれた女体の方に色気を感ずるのである。  湯の香をまぶした新鮮な肌をさりげなく包んだ浴衣もよいが、一分の隙《すき》もなくドレスアップした正装も男の意欲をかき立てる。  その正装が自分のために施されたのだと知る男は、女の武装を解除できるのも自分一人だと自認して、優越感をかき立てられる。  女の正装がつけ込む隙もないほど完璧《かんぺき》であれば、それだけ女が男に示した許容の大きさとなる。  その許容を確かめられるのも、ほのかに柔らかな照明のおかげである。  想像力に頼らず、物理的な感覚だけで官能の満足を得られる女性は、自分本位の羞恥《しゆうち》を闇《やみ》の底に塗り込めて、男から目で味わう楽しみを奪ってしまう。  貴代子は新開の心理を知っていて、彼がシャワーを使っている間に、彼の好みのお膳《ぜんだ》立てをしていた。 「ねえ、キスして」  貴代子は新開に催促した。  貴代子はディープキスを好まない。軽く唇を触れ合わせ、舌の先で上の歯並びと上唇の間を軽く撫《な》でるようなキスをしてやると、全身が震えるように感じると言う。 「ああ、美味《おい》しいわ」  貴代子は喘《あえ》ぐように言った。  キスをされただけで達しかけるような敏感な身体に、新開によって開発されている。  貴代子はベッドの上に腰を下ろし、右足を伸ばして左足を内側へよじるように高く上げた。  新開の好きな体位である。スカートが捲《ま》くれて、いつの間に着けたのか白いスキャンティが、彼女の微妙な部分をわずかに、しかし完全に覆っている。  肌にぴったりと食い込み、男の食欲をそそる膨らみを見せている。  ほのかな明るさの中で、スキャンティの白が際立った。 「その、パンティ、色っぽいね」  新開が言った。 「あなたのために穿《は》いたのよ」 「有り難う」 「あなたのお好みでしょう」 「よく知っているね」 「それは鍛えられたもの」  貴代子が淫靡な笑みを含んだ。  新開はリボンや飾りがついたり、シースルーの下着を好まない。  男を刺激するように工夫されたいわゆるランジェリーは、むしろ男から想像力による楽しみを奪ってしまう。  新開は食い込みのよい、布面積の小さい平凡な白のスキャンティを好む。  わずかな布面積によって完全に覆い隠された女の秘所は、無駄な装飾やシースルーによる視覚の妨害がない。また不自然なカラーによって、せっかくの美しい女の肌に歪《ゆが》んだ先入観を植えつけない。  その部分に限定された白い下着は、女の肌に調和して、見えそうで絶対に見えない秘所に対する男の想像力を凝縮する。  その肌に食い込んだ微妙な膨らみは、女の謎を一点に煮つめたかのように、男の憧憬《しようけい》の象徴として柔らかく盛り上がっている。  下穿きの遮蔽《しやへい》を取られて、ダイニングルームのほの暗い空間の中で闇と曖昧《あいまい》に同化していた部位が、目にも鮮やかな白い小さな布を押し当てられて隠されてみると、かえって男の卑猥な想像力をかき立てるものである。  貴代子は新開に見られていると意識することで、興奮を促されている。羞恥を自分本位の闇の底へ隠すかわりに、男にその羞恥を公開することによって、自らの興奮と官能の刺激をかき立てるのは、女としてそれだけ熟練している証拠である。息の合ったパートナーと官能を共有すると、自分本位であった悦楽の追求が一心同体となって、女の羞恥も男の強制も融合してしまう。 「脱がせて」  貴代子が新開の耳許《みみもと》にささやいた。 「足をもっと高く上げて、よく見せてくれ」  新開が要求した。 「いやよ。もう充分見せてあげたでしょう」 「もっとよく見たい」 「だったら、脱がせてよ」 「脱がす前のきみをよく見ておきたい」 「あなたって、どうしてそんなにいやらしいの」 「きみに対しては限りもなくいやらしくなるのさ。脱がせる前に想像するのが好きなんだ。よく知っているつもりでも、なまじ隠されていると無限の謎《なぞ》が秘められているようでね」 「もうなにも残っていないほど耕してしまったくせに」 「とんでもない。きみは汲《く》めども尽きぬ泉だよ。汲めば汲むほど滾々《こんこん》と湧《わ》き出し、掘れば掘るほど無限の鉱脈が拡《ひろ》がる」 「泉を早く汲んで。もっともっと鉱脈を掘って」  貴代子はせがむように言った。  新開の手が貴代子のスキャンティにかかった。貴代子がそれを除《と》り外しやすいように、少し腰を浮かして協力する。スキャンティを除ったものの、スリップとスカートが彼女の内陣の暗がりをわずかに覆い隠している。新開は視野の最後の妨げを楽しんでいる。 「服も脱がせて」  貴代子はせがんだ。 「ドレスアップしたきみが裾《すそ》を乱して、しどけない姿をしているのを見るのはたまらないね。劣情をそそられる」 「もう犯されてしまったみたい」 「これからゆっくりと犯してやるよ。服を脱がすのがもったいないくらいだ」 「本当に悪趣味なのね。衣服を着けたままのセックスのパターンはあるけれど、あなたは脱がす前にこだわるのね」 「包装も中身のうちだよ。贈り物の包装を解くとき、中身はなにかなと期待をそそられるあのときの気持ちによく似ている」 「私は贈り物なの」 「天からのね。できるだけ時間をかけてゆっくりと開いて楽しみたい」 「包装がよいからって、中身が上等とは限らないわよ。早く中身を確かめてちょうだい」 「確かめるまでもなく、中身の上等なのは先刻承知さ。だから包装を楽しむんだ」 「変なの。中身がわかりきっているので、包装を楽しんでいるみたい」 「いやいや、同じきみでも、開く度に中身が異なっている。だから包装を開くのが楽しいのさ」 「もう開かれているわよ」  貴代子は大胆に身体を開角して、新開の目にさらした。  貴代子の挑発に乗せられて、新開がようやく剥奪《はくだつ》の速度を速めた。皮を剥かれた新鮮な果物のように、ベッドの上に横たえられた貴代子の裸身は、もはや想像力の介入も許さぬ、なんのごまかしもない実体となって置かれている。  それはそれで男の視覚に息を呑《の》むように新鮮で、刺激的な存在となっていた。  一片の装飾も遮蔽物もない貴代子の裸身は、新開の異性に対する憧憬の具体的存在となって、文字通り肉薄してきた。 「あなたが欲しいわ。早く抱いて」  貴代子が甘い鼻声でせがんだ。  その肉体から雄を惹《ひ》きつけるフェロモンが吹きつけてくる。いかなる男もその誘惑に逆らう力を持っていない。新開にとって見馴《みな》れているはずの肉体でありながら、そのつど新たな発見のある新鮮な光景である。 「もう我慢できないよ。きみの身体の中に入ってもいいか」  新開は言った。 「来て。来て、早く来てちょうだい」  貴代子は全身を開放して、新開を差し招いた。  身体の芯《しん》から発情しているうちに、その全身が桜色に火照り、声がかすれている。 「いま、きみの身体の中に入る。先端が門口に触れている。いま入りつつある」 「早く入って来て。でないと、私、待ちきれないで死んじゃうわ」 「いま、少しずつ奥へ向かって入っている。奥まで入っていいかな」 「早く、奥まで入ってちょうだい。私を一ミリの隙間《すきま》もなく埋め立ててちょうだい」 「いま、きみの身体の奥まで入り終った。もうこれ以上入れない。きっちりと入った」  貴代子があっと呻《うめ》いた。 「歌を歌え」  新開が命じた。 「どんぐりころころ、どんぶりこ」  貴代子が歌い出した。 「お池にはまってさあ大変」  新開が歌った。 「坊ちゃん、一緒に遊びましょ」  二人が合唱した。  つづいて、 「もしもしかめよ、かめさんよ、世界のうちで……」  新開が先導した。 「いい気持ち」  貴代子が従った。 「歩みののろい」  新開がつづけた。 「いい気持ち」  貴代子が補った。 「どちらが先に」 「行き着くか」 「二人で一緒にいい気持ち」  二人は最終節を合唱した。  合唱が終ったとき、貴代子は達していた。  新開は貴代子を悦楽の頂点へと追い詰めている間、言葉を発しているのみで、貴代子の身体に一指も触れていない。  新開は彼女を言葉だけで、官能の沸点へ導いてしまったのである。  新開と貴代子は一度も肉体を交えていない。  それでいながら、どんな相性のよいセックスパートナーにも負けない呼吸の合ったセックスペアであり、深く愛し合っている。  プラトニックラブというのでもなさそうである。新開と貴代子は言葉をもって交わり、肉体的な官能の味奥《みおう》に達していた。  不特定多数の男に身体を売って、身体|隈《くま》なく開発されてしまったはずのプロの娼婦《しようふ》が、言葉というメンタルな刺激を受けて、女の肉体の奥深くに埋蔵されていた官能の鉱脈を掘り当てられてしまったのである。  むしろ肉体を切り売りする娼婦であったがゆえに、心の伴わない身体の交わりが積み重ねた虚《むな》しさを新開の言葉が突き崩し、その奥に眠っていた官能の油田に火を点《つ》けたのであろう。  しょせん愛の伴わない肉体の交わりは、耳の穴を掃除するような表皮的な快感でしかない。  だが、いったん特定の異性を愛し始めたとき、不特定の異性に開放(共有)した性の悦楽は、そのまま虚しさの堆積《たいせき》となる。  貴代子はもともと言葉に鋭敏な感性を持っていた。そこを新開の言葉によって衝《つ》かれたのである。  貴代子の成熟した身体の中を通り過ぎて行った夥《おびただ》しい男たちは、彼女の身体を開くことだけに夢中で、言葉を忘れていた。  男女間の最高の連絡回路《チヤンネル》はセックスと固く信じ込んだ男たちは、彼女の身体の中で筋肉の律動を繰り返しただけで満足して、立ち去って行った。彼女も同じように満足したと、彼らは勘ちがいしていた。  だが、身体を結び合わせただけでは貴代子との間に真のコミュニケーションは成立しない。そのことに気づいたのは新開である。  彼は彼女の身体を開く前に言葉を用いて心に窓を穿《うが》ち、秘蔵されていた官能の宝庫の扉まで開いてしまった。  だが、男女の真のチャンネルは、肉体と言葉が伴って成立する。言葉だけで貴代子とのチャンネルを保とうとする新開は、やはり異常である。  貴代子がたまたま言葉に鋭敏なアンテナを備えていたので達せられたものの、言葉に鈍感な女性や、外国人であったなら、新開の神通力はたちまち失われてしまう。  その意味からも、二人の間だけに成立するセックスパターンであり、彼ら以外の組み合わせは考えられないセックスパートナーと言えた。 「今度はいつ逢《あ》ってもらえるの」  新開との交接なき性によって官能の極みへと導かれた貴代子は、別れ際に問うた。 「さあ、わからない」 「なるべく早くお会いしたいわ」 「暇ができたら連絡するよ」 「本当に愛していたら、暇がなくとも会ってくださるはずよ」 「無理を言うなよ。おれ自身、自分の身体を自由にできないんだよ」 「ごめんなさい。それはよくわかっているつもりでも、つい我がままを言ってみたくなるのよ」 「すまないとおもう。恋人同士だったら、一カ月も二カ月も放りっぱなしにしておかないだろう」 「私たち、恋人同士じゃないの」 「きみは恋人同士とおもっているのか」 「おもっているわ。あなた以外に恋人はいないわ」  貴代子は新開によって、自分の身体が改造されてしまったことを悟った。これまで夥しい男たちが彼女の身体の中を通り抜けて行ったが、新開のように彼女の深部に入り込んだ男はいない。  彼女の身体は敏感である。全身が性感帯であると言ってもよいくらいである。身体を結び合わせる前に、指を軽く握られたり、耳の脇《わき》や鬢《びん》やうなじに柔らかく息を吹きかけられただけで、身体が潤ってしまう。彼女の打てば響くような反応に、男たちは喜んだ。そして、自分が彼女を満足させたにちがいないと信じた。事実、貴代子は男たちに会うつど、満足させられていた。だが、それが新開に会ってから、束《つか》の間の局所的な満足であったのを悟った。  貴代子は新開によって、自分の全身の細胞に男の精気を吹き込まれ、オーケストラがフルバンドで演奏するように、これまで休眠していた自分のすべての感覚や器官が一斉に立ち上がって、犇《ひし》めき合うような感覚をおぼえた。  貴代子は自分自身が不思議であった。これまでセックスとは触覚的なものだとおもいこんでいた。見たり、聞いたり、においを嗅《か》いだりしても、それが刺激を高めることはあっても、しょせん男女の身体を結び合わせないことには、セックスは絵に描いた餅《もち》のようなものだとおもいこんでいた。だが、新開の言葉によって達せられた官能の極致は、これまでのいかなる男たちとの身体の結び合いよりも、深く長い。  当初は言葉をかけるだけで、貴代子に一指も触れようとしない新開を怨《うら》んだ。だが、彼の言葉は柔らかな泡が次第に身体の深所に滲《し》み渡って行くように、彼女の全身から深奥を浸し、全身隈なく行き渡った。触覚だけでは決して達せられないメンタルな核《コア》に浸透し、霊肉一致した核爆発のような無量の快感を引き出してしまったのである。  貴代子は新開によって、不特定多数の男たちとの交わりによって心身に沈澱《ちんでん》してきた澱《おり》が、強風下のスモッグのように吹き払われるのを感じた。  新開と会った後は、心身の澱が洗い流され、リフレッシュされる。まるで処女に返ったかのように、純白になった自分を感ずる。  新開とのデートは女の喜びだけではなく、貴代子にとって一種の浄化作用となった。一種の錯覚か、性倒錯かもしれないが、彼女はその倒錯の虜《とりこ》になっていた。  新開と貴代子の関係はホモやレズやSMやフェティシズム(異物崇拝症)などのように、変態性愛や性倒錯、あるいは性の傾向であったのである。 [#改ページ]  屈辱の誓い  新開はなぜそのような性傾向の持ち主になったのか。  新開は不能ではない。変態性愛や特殊な性傾向の持ち主でもない。  だが貴代子に対してだけは精神を交える�精交�だけで、肉体的な交わりはできない。意あれども身体が拒んでしまうのである。  彼女を深く愛すれば愛するほど、身体が拒否反応を起こす。  新開にはその理由がわかっている。  貴代子に対してだけ陥る肉体的不能を、新開は言葉を用いて埋めた。  彼にとっての代償作用が、貴代子が生来備えていたアンテナに受信されて、本行為以上の効果を現わしたのである。  これは新開にとっても意外な発見であり、驚くべき結果であった。  新開自身が代償作用によって、本行為以上の深い官能的達成を得たのである。  貴代子に会った後ほかの女に会っても、貴代子から得たほどの満足と達成は得られなくなった。  それが性倒錯の一種なのか、あるいは究極の男女の交わりによる達成とは本来そのようなものであるのか、新開にはまだわからない。  新開が貴代子に対してのみ陥った特定異性不能症は、たまたま彼女がある女性に瓜二《うりふた》つであったことに起因する。  いまから十八年前、小学校六年、十二歳のとき、新開はその後の人生の債務として、終生背負いつづけなければならないような経験をした。  幼い日のその経験が、新開のその後の人生を方向づけたと言ってもよい。  当時十二歳の新開はひ弱な少年であった。すべてに引っ込み思案で、野外で身体を動かして遊ぶよりも、家の中に閉じこもって本を読んだり、空想に耽《ふけ》るのが好きだった。  小学校六年にもなって、いまだに一人で登校できない。家の前を一人でも登校する小学生の姿が見えると、遅れたと泣きべそをかいてしまう。  母親はそんな新開のために、近所の小学生たちにわずかな駄賃をやっては、新開と一緒に登校してくれるように頼んだ。  そんな彼は恰好《かつこう》のいじめの対象にされた。  当時の全校の番長は熊木数雄《くまきかずお》という六年生であった。彼は小学校六年生でありながら、身体は中学生ほどに大きく、近隣の中学校の番長すら制圧して、地域の番長として君臨していた。  各校の番長が熊木の勇名を聞いて挑戦してきたが、小学生と侮ってかかった彼らは、悉《ことごと》く熊木に叩《たた》き伏せられた。  熊木の父親は暴力団の組長である。  幼いころから親の切った張ったを目の前に見ながら育った熊木は、生来の圧倒的な体力に実戦経験を積んで、度胸と腕力を磨き、親の威光も背負って、大人たちからも恐れられる存在になっていた。この熊木が新開に目をつけて、ことごとにいびった。  新開の父親が町の暴力団追放運動の旗を担いでいたことが、熊木に睨《にら》まれた大きな理由である。  新開にとって最も屈辱的ないじめは、便所当番であった。  熊木はぎりぎりまで寝ていて登校してくるために、用便は学校のトイレで行なった。熊木の専用トイレットを他の生徒は使用しない。  熊木のトイレットを掃除するのが新開の役目であった。  自分の家のトイレットさえ掃除させられたことのない新開が、熊木の専用トイレットを掃除しなければならない屈辱は、堪え難いものであった。  特に冬季は、熊木が使用する前に新開が座って便座を温めておかなければならない。  熊木の使用前には、彼の子分である小熊利明《こぐまとしあき》、石本成一《いしもとせいいち》、重岡良作《しげおかりようさく》の三人が点検に来る。  小学生ではあるが、いずれも高校生並みの体格で、いっぱしの悪ばかりである。  特に小熊は熊木と共に、大熊、小熊と並び称され、底意地が悪い。  小熊は悪智恵が発達していて陰の番長と噂《うわさ》されている。  便所の点検に来た小熊は、新開が清掃した後に小さなゴミを故意に落とし、 「きれいに掃除しただろうな」  と念を押す。新開が、はいと答えると、 「舐《な》めるようにきれいか」  と問う。新開がうなずくと、小熊は密《ひそ》かに落としたゴミをつまみ上げて、 「これはなんだ」  と新開の鼻先に突きつける。新開が青ざめて、 「こんなゴミはありませんでした」  と必死に抗弁すると、 「それじゃあ、おれが落としたとでも言うのか。てめえ、おれに因縁をつけるつもりか」  と胸ぐらをつかんだ。 「いいえ、そんなつもりはありません。ぼくはただ……」 「ただ、なんだ。てめえ、いま甜めるほどきれいだと言ったな。その言葉に嘘《うそ》がなければ舐めてみろ」  小熊はつめ寄った。 「そんな……」 「まさかおれたちに嘘をついたんじゃねえだろうな。舐めろと言っているんだ」  ここで言われた通りにしなければ、もっとひどい目にあわされるのがわかっている。新開は目をつむって便器を舐めた。その様を見て、小熊と石本成一と重岡良作の三人が、 「はは、便所虫が便器を舐めやがった」  と手を打って笑った。そこへ熊木が悠然と入って来る。新開にとっての救いは、熊木のいじめの対象が新開一人に絞られていなかったことである。  新開と同学年の奥野信司《おくのしんじ》、中田久也《なかたきゆうや》、布川寛之《ぬのかわひろゆき》の三人が便所当番にさせられていた。  奥野の父親は熊木の父親の暴力団が入居しているビルのオーナーで、ビルから事務所を撤去するように要請していた。  中田の父親は弁護士で、暴力団被害者の会の顧問をしている。  また布川の母親は未亡人で、市内でクラブを経営しているが、みかじめと称する暴力団に対する用心棒代の支払いを拒んでいた。  四人ともにいじめの原因は親がらみである。  新開以下四人の少年はいずれもひ弱で、内向的であった。  彼らは順番に熊木の便所当番を担当した上に、さまざまな雑用を命じられた。  雑用は熊木だけではなく、三人の子分からも命じられた。拒むことは許されない。  さらに熊木以下四人に、常に貢ぎ物を献じなければならない。  新開らの親は、息子たちが熊木らからそのようないじめにあっている事実を知らなかった。 「一言でも先公《センコウ》や親に言いつけてみろ。てめえらの命はねえぞ」  と熊木らは脅かした。  そんな恫喝《どうかつ》を受けなくとも、便器を舐めさせられた屈辱は、口が裂けても言えない。  四人のいじめられっ子は、いつの間にか寄り合ってたがいの傷を舐め合った。  絶対に勝てない熊木四人組に対して新開らができることは、寄り集まって心身に受けた屈辱を分け合うだけである。  共有した屈辱を共通項として、彼らは強い連帯で結ばれた。 「もう少しの辛抱だよ。小学校を卒業すれば、あいつらとはおさらばだ」  新開たちはそう言って、卒業の日をひたすら待ち望んだ。  いじめられっ子の新開らと番長の熊木らのグループとは、卒業すればばらばらになる。まさか中学校まで追いかけては来ないだろう。  新開たちは成績がよく、熊木らは劣等グループである。そのこともいじめを促している。  新開たちの志望する中学校に熊木らの学力ではとうてい進学できない。とにかく卒業まで歯を食いしばって我慢すれば、熊木らの奴隷の身分から逃れられる。彼らはダウン直前までめためたに打ちのめされながら、ゴングに逃れようとするボクサーのような心境になっていた。六年生の夏、小学校最後の夏休みにある事件が起きなければ、彼らは小学校を卒業して熊木らの奴隷の鎖を断ち切れたはずであった。  全校のアイドルに川島洋子《かわしまようこ》という美少女がいた。洋子の家は町の老舗《しにせ》旅館で、父親は市会議員を務めている。洋子は単なる臈《ろう》たけた美少女ではなく、常にクラスの首席を維持している優等生である。学校のイベントのつど、右総代として答辞や挨拶《あいさつ》を述べるのも彼女の役目である。新開たちの少年グループは、川島洋子の熱烈な信奉者であった。といっても、全校のアイドルに畏《おそ》れ多くて足許《あしもと》にも近づけない。彼らの女神として遠方から憧憬《しようけい》のまなざしを送っているだけである。川島洋子の存在が、新開たちの連帯感のもう一つの基礎になっていた。  本来ならばライバルになる彼らが、及びもつかぬ高嶺《たかね》の花を片想いの対象として共通にすることによって、さらに強い連帯感を促されている。八月初めのある日、新開たちのグループは誘い合わせて市の郊外にある水無《みずなし》山へ遊びに行った。  水無山はその名前に反して、豊かな森林に覆われている丘陵地帯で自然公園となっており、市民の憩いの地である。夏休みは熊木の便所当番からも解放され、熊木グループのいじめにもあわない新開たちにとっては、文字通り鬼のいぬ間の洗濯をする期間であった。これが小学校時代最後の夏休みとなる。そして来年の春卒業すれば、熊木グループの奴隷の身分から晴れて自由の身となれる。  水無山はクワガタやカブトの宝庫でもある。四人はそれぞれに虫籠《むしかご》を携えて森の奥深くへ分け入った。森林の中にはハイキングコースが四通八達しているはずであるが、森の奥へ分け入るほどに行楽の人々は散開して、山気が深く、人気が希薄になる。  梢《こずえ》をかすめる風の音の背後に、森に棲息《せいそく》する小動物の気配が立ち上ってくる。 「いま、女の声がしなかったかい」  布川が突然立ち止まって言った。 「女の声だって? そんな声は聞かなかったよ」  新開が答えた。 「そうかなあ、たしかに聞こえたとおもったんだけれど」  布川は耳を澄ましている。三人も布川につられて足を止めて、耳に神経を集めた。  森の中には蝉《せみ》の声が他の音や気配を圧している。百種は超えると言われる野鳥のさえずりが束《つか》の間絶えて、風のささやきの合間から水の音が這《は》い寄ってくる。 「助けて」  突然、女の甲高い声が蝉の声を押し退けて迸《ほとばし》った。  新開ら四人の少年は顔を見合わせた。 「聞いたろう」 「聞いた」  少年たちは顔を見合わせると、悲鳴のきた方角へ向かって走った。  走るほどにただならぬ気配がはっきりと迫ってきた。複数が争っている気配である。  悲鳴のきた方角に倒壊寸前の無人小屋が建っていた。以前は樵《きこり》か猟師の仮泊所に当てられていた小屋が、使用する者もなくなって荒れ果ててしまったらしい。  気配はその小屋の中から生じていた。  少年たちは壊れた窓から恐る恐る小屋の中を覗《のぞ》き込んだ。  ショッキングな光景が少年たちの視野に飛び込んできた。  川島洋子を番長の熊木ら四人組が押さえ込んでいる。  仰向けに横たえた洋子の両腕を、万歳するような形で小熊が押さえつけ、石本が左足を、重岡が右足を大きく開いて押さえ込んでいる。洋子はタオルで目隠しをされていた。  そして洋子の股間《こかん》に、下半身を剥《む》き出しにした熊木がのしかかっている。熊木の手がなにか異物を握っている。洋子の下半身は熊木の身体の陰に隠れて見えない。熊木は手の異物を用いて洋子の身体にいたずらを加えているようである。  だが新開以下四人の少年たちは、そこでなにが進行しているかはっきりと悟った。  小学生ではあるが、それを理解するだけの知識と情報量をあたえられている。  小学生が小学生をレイプすることが可能であるかどうか、新開たちにはわからなかったが、洋子にのしかかった熊木の裸身は、すでに青年のように逞《たくま》しく充実していた。  新開たち四人は固唾《かたず》を呑《の》んで顔を見合わせた。  川島洋子が熊木グループに乱暴されている。熊木らは新開たちの女神を冒涜《ぼうとく》しているのである。  だが、新開四人組が束になってかかっても、熊木一人に適《かな》わない。  ましてその場には、熊木四人組が勢《せい》揃ぞろいしている。へたに飛び出せば、新開たちが袋叩《ふくろだた》きにされてしまうだろう。 (どうする)  新開が三人の顔を見まわした。 (どうするって、どうにもできないだろう) (このまま洋子を見殺しにするのか) (ぼくたちの手に負える相手じゃないよ) (それじゃあ、どうする) (警察へ報《しら》せよう) (そんなことをしている余裕はないよ)  彼らは目顔で問い合った。  その間にも洋子は犯されつづけている。  全校のマドンナ洋子がどうして一人でこの森の奥深くへ来たのかわからない。だが、番長の熊木らのグループに捕らえられ、無人小屋に引きずり込まれて凌辱《りようじよく》されていることは確かである。  熊木の次に小熊が代わった。つづいて石本、重岡の順に乱暴がつづいた。  その間、新開たち四人は歯を食いしばって彼らの女神が蹂躪《じゆうりん》される様を見守っていた。  熊木グループは美しい蝶を貪《むさぼ》るカマキリのように、代わる代わるに洋子に乱暴した。  洋子を充分に貪り玩《もてあそ》んだ後、熊木グループは新開たちに覗かれているとも知らず、間もなく立ち去って行った。小屋の中には洋子が一人取り残された。死んだようになったまま動かない。  熊木グループが立ち去ったのを確かめた後、新開たちは恐る恐る小屋の中へ入って行った。 「川島君、川島君、大丈夫ですか」  目隠しのタオルを除りはずされた後、新開たちに問いかけられた洋子は、ぎょっとしたように身体を引き起こすと、憎しみを厚く塗ったまなざしを新開たちに向けて、 「近寄らないで。あっちへ行って」  と叫んだ。 「怪我《けが》をしていたら、医者を呼んでくるけど」  新開がおずおずと言うと、 「もし人に報せたら、あなたたちを決して許さないから」  洋子は睨《にら》んだ。その目は彼らを卑怯者《ひきようもの》となじっている。  新開たちは洋子の身が気がかりであったが、すごすごと引き下がらざるを得なかった。  洋子の危難を目の前にしながら、彼女を救うために一指も上げなかった自分たちが、熊木グループ以上に卑怯であることを認めている。  適わぬまでも、なぜ四人が力を合わせて洋子を救うために戦わなかったのか。  熊木らが立ち去った後にのこのこと出て行っても、洋子の屈辱を抉《えぐ》るだけで、彼女にとってなんの救いにもならない。  責められるべきは加害者の熊木グループ以上に自分たちである。そのことが新開以下四人の少年たちを打ちのめしていた。  彼らの憧憬の女神が不良少年の獲物にされたこともショッキングであったが、それ以上に自分たちの卑怯さかげんに、四人は呆《あき》れ果て、自責していた。  もはやカブトやクワガタを追う気になれなくなっていた。  彼らは呆然《ぼうぜん》として森の中をさまよった。  いつの間にか渓谷の上へ出た。森林公園の中央を水無川が流れ、その両岸が小規模の崖《がけ》になっている。これが水無渓谷と呼ばれている。  崖の上へ出た少年たちは、崖下をなにげなく見て、はっと息を呑んだ。  崖下の岸辺に番長の熊木が一人うずくまって水を飲んでいる。三人の子分の姿は見当たらない。  新開たち四人は顔を見合わせた。咄嗟《とつさ》に共謀の意志が成った。  彼らのかたわらに、大人の頭ほどの岩石がごろごろ転がっていた。  四人はそれを一個ずつ取り上げると、狙《ねら》い定めて熊木に投げ下ろした。  水を飲むのに夢中で、まったく無防備になっていた熊木の頭上に、新開グループの投げ落とした岩石がうなりを立てて落下した。  熊木が異常な気配を悟って振り向いたときは遅かった。  だれの投げた岩石か、最初に落下した岩石が、振り向いた熊木の顔面に命中し、つづいて第二の岩石が頭部に当たった。  凶暴な熊木が悲鳴も上げずに倒れた。距離があったが、熊木の顔面から血が噴き出しているのが認められた。  水際に倒れた熊木は、ぴくりともしていない。  投げ落とした四個の岩石のうち、少なくとも二個は命中している。  だれの投げた岩が当たったかわからない。だが、四人が共謀して投げ落とした岩石が命中したことは疑いない。  四人は急に恐怖に襲われて、その場から逃げ出した。  熊木の死体は翌日の朝、渓谷に釣りに来た人によって発見された。  死因は落下した岩石を頭部に受けての脳挫傷《のうざしよう》と報道された。  警察では崖の上の岩石が、前日の雨で地盤が緩み、落下したものと見ているようである。  川島洋子の被害は秘匿された。新開グループは口を閉ざし、主犯の熊木は死んだ。三人の共犯者も黙秘した。  もちろん洋子自身も狂犬に噛《か》まれた傷を隠して、語らない。  だが洋子の新開たちに向けるまなざしには、はっきりと侮蔑《ぶべつ》と憎しみの色があった。  事件が報道された後、新開たちは密《ひそ》かに集まった。 「熊木のことはぼくたち四人の共通の秘密だ。絶対にだれにも言うなよ」  新開は三人の仲間の顔を見まわした。 「だれにも言うはずがないだろう」  布川が言った。 「熊木のことだけではなく、川島洋子のことも秘密だぞ」 「もちろんだ」  奥野がうなずいた。  洋子の秘密を口外することは、自らの卑怯を公開するのと同じである。 「それでは、誓いを立てよう」  新開の言葉に、四人は次々に誓った。 「でも、川島洋子に乱暴した三人が残っている」  奥野が言った。  新開ら三人が奥野に視線を集めた。 「油断を衝《つ》けば熊木でも倒せた。ぼくはあとの三人も許せない。これから卒業しても、四人で力を合わせて、残った三人に復讐《ふくしゆう》してやりたい」  奥野が提案した。  小熊、石本、重岡の三人は、番長の熊木数雄と共に、全校のマドンナ川島洋子を冒涜《ぼうとく》した共犯である。  と同時に、新開グループに深い屈辱を刻みつけた宿敵である。  彼らへの復讐であると同時に、幼い信仰の対象である絶対神に向ける贖罪《しよくざい》でもあった。 「これから一生かけて小熊と石本と重岡に復讐しよう。そのことを約束しようよ」 「約束する」 「約束する」  ここに幼い誓いと約束が成立した。  彼らを閉じこめた卑怯、未練の牢獄《ろうごく》から脱出するためにも、その約束の履行が必要だと四人はおもいこんだ。  事件後、新開たちは卒業してばらばらになった。  卒業後、新開たち四人は連絡を取り合わず、それぞれべつの学校へ進学すると、社会の異なる方位へ別れて行った。  終生の屈辱の共有者として、彼らはたがいに会うことを避けていた。  小熊、石本、重岡の三人の消息も途絶えた。  川島洋子はその後、結婚したと風の便りに聞いたが、詳しいことはわからなかった。  だが、彼女をおもい起こすつど、胸に深く穿《うが》たれた屈辱をかきむしられた。  歳月によっても、その傷は決して風化することがない。  おそらく事情は他の三人も同じであろう。  幼い日の女神は、彼らを終生閉じこめる牢獄の看守となったのである。  彼女の許しがない限り、新開たちは卑怯者という名の牢獄の終身犯であった。  そして、刑事になった新開は、棚川貴代子と出会ったのである。  貴代子に会った瞬間、新開は川島洋子かとおもった。  幼いころの面影を美しく残して成長した彼女は、幼い憧憬《しようけい》の対象が成熟した肉体を持った女として彼の前に現われた。  足許にも近づけない高嶺《たかね》の花が、プロの女として生来の美貌《びぼう》に男を蕩《とろ》かすための職業的なテクニックを身につけて、十数年を一気にタイムスリップして新開の前に再生した。  新開は愕然《がくぜん》とした。  だが、すぐに彼女が川島洋子とは別人であることがわかった。  洋子に似ているが、なんの関係もないべつの女であった。 [#改ページ]  人生の原色  棚川貴代子は新開征記に会ったときから、特別な親近感を見せた。  それはかつて川島洋子が彼に対して向けた侮蔑《ぶべつ》と憎しみに満ちたまなざしとは異質の、柔らかく友好的な雰囲気であった。  貴代子が川島洋子とはべつの女であることがわかっていても、新開は貴代子の友好的な態度に、洋子から幼い日の卑怯《ひきよう》を許されたような気がした。  新開と貴代子は刑事と娼婦《しようふ》という身分を忘れて、急速に親しくなった。  だが貴代子からすべてを許容されたとき、新開は自分の男の機能が麻痺《まひ》していることを悟った。  意欲はあるが、身体が金縛りにあったように言うことをきかない。  新開を迎え入れるために貴代子が全身を開放して協力すればするほど、新開の身体は絶望的な状況に陥った。  貴代子に洋子の面影が重なり、幼い心の祭壇に祀《まつ》った女神が、 「あなたは卑怯よ」  と難詰してくる。  そして、その卑怯をいまだに償っていない。  貴代子と洋子は別人だといくら自分に言い聞かせても、麻痺した機能はぴくりとも反応しなかった。  新開は山海の珍味を満載した宴《うたげ》のテーブルの前で、歯を失ってしまったような惨めさをおぼえた。  美しい獲物が早く牙《きば》を突き立てられたがって、切なげに身体をよじっている。新開は牙を失った獣であった。  その惨めさをせめて少しでも救うために、彼は言葉を投げた。  その言葉に貴代子は驚くような反応を示したのである。  そのときから新開と貴代子の間に、言葉に媒介された性的関係が成立した。  新開にとっては、それは怪我《けが》の功名のような性倒錯(あるいは性傾向)であったが、貴代子はその倒錯によって心身を浄化していたのである。  棚川貴代子と知り合って、新開は幼い日の約束をおもいだした。  決して忘れていたわけではなかった。  終生の心の債務として、意識の隅に常に引っかかっていた。  小熊利明、石本成一、重岡良作、この三人に復讐《ふくしゆう》を果たさない限り、川島洋子によって閉じこめられた終身刑の牢獄《ろうごく》から自由の身になれない。  布川、奥野、中田の三人も同じであろう。  彼らも洋子から貼《は》りつけられた卑怯のレッテルを背負って生きているはずである。  復讐は禁止されている。幼い日の約束が、そのままの形でいまも生きているとはおもえない。  幼い日の信仰が成長に伴って消え失せていれば、彼らを閉じこめた終身刑の牢獄も消滅しているであろう。  だが、当時の信仰が成長の過程に形を変えたとしても生き残っていれば、牢獄も約束も彼らの意識の中に生きているはずである。  新開征記たち四人は、あの日マドンナ川島洋子が犯されたことを秘密にすると約束した仲間であると同時に、その首謀者である熊木数雄を投石によって殺した共犯者でもある。  たとえ幼い日の信仰が消え失せたとしても、熊木を殺した事実は忘れていないはずである。それは彼らの心を今日もなんらかの形で圧迫しているであろう。  貴代子と知り合って、十八年の間に意識の片隅へ追いやっていた約束をおもい起こすと同時に、連絡の絶えた三人の仲間のその後の消息を追ってみたくなった。布川、奥野、中田、彼らはいま、どこで、なにをしているのか。昔の約束をまだおぼえているだろうか。  番長グループだった小熊、石本、重岡の三人の行方も追ってみたい。  川島洋子は結婚したと風の便りに聞いたが、幸せに暮らしているであろうか。  貴代子は新開の心の中の川島洋子の存在をうすうす気づいているようである。 「あなたはだれを見ているの」  貴代子は時どき問うた。 「きみを見ているんじゃないか」 「嘘《うそ》。私を見ていても、私を通り越して、だれかほかの女の人を見ているようだわ」 「そんなことはないよ。おれはいつもきみだけを見ている」  新開は心の奥の狼狽《ろうばい》をさりげなく隠して言った。 「きっと私は、あなたが愛している人に似ているのね。あなたはきっとその人を深く愛していて、あなたの偶像になっているのでしょう。あなたはその人に指一本も触れていないかもしれない。だから私の身体にも触れようともしない。でも、私はそれでいいの。あなたにそのような愛され方をして、女の身体の深い喜びを知ったの。欲を言うなら、あなたの偶像の人に一目会ってみたいとおもうわ」 「そんな偶像はいない」  新開は否定しながらも、洋子には再会しない方がよいのだと自分に言い聞かせた。  幼い日の女神は、いまはごく平凡な女に還元してしまっているだろう。偶像を無理に破壊することはない。  だが、洋子が偶像として生きている限り、新開の終身刑も終らないのである。  新開の言葉によって達することをおぼえた貴代子は、新開に会えないときは、電話をかけてきた。 「お願い。補給が切れてしまったの。ちょうだい」 「電話では、おれが駄目なんだよ」  新開が言った。 「どうして」 「きみを目で見ないと言葉が出てこない」 「そんな意地悪言わないで、いつものように私の中へ入って来てちょうだい」 「だから、きみの身体に触れられる距離で、きみの身体をこの目で確かめ、きみのにおいを嗅《か》ぎ、きみの雰囲気を全身に感じないと、言葉が出てこない」 「私は電話でも大丈夫だわ」 「そこが男と女のちがいさ。電話では想像力を刺激されない」 「電話の方がおたがいの姿が見えないので想像が刺激されるんじゃないの」 「おれは耳からだけではなく、視覚や嗅覚《きゆうかく》や触覚が一体となって刺激されるんだよ」 「私のビデオを送るわ。ビデオを見れば刺激を受けるんじゃないかしら」 「きみの生の身体のようなわけにはいかないとおもうが、まあないよりはましだろう」  間もなく、貴代子の裸身を録画したビデオが送られてきた。  ビデオカメラをセットして、その前で新開の好きな体位をさまざまに工夫、自演している。  下着も白から始まり、黒、紺、ピンク、赤などを着け替え、最後に生まれた姿に返っている。  下着のデザインも新開の好む食い込みのよい最小限の布片を用いて、秘所を完全に隠せるシンプルなものを着けている。  新開を刺激するために、ビデオカメラの前で体位を工夫し、精一杯自演している貴代子の姿は、むしろいじらしかった。  いじらしさが先に立ち、刺激が薄れた。  貴代子が精一杯努めれば努めるほどに、想像が萎《しぼ》んでくる。  しょせん絵に描《か》いた餅《もち》から受ける刺激は、空腹の足しにはならない。  飢餓感を刺激すれば食欲が増進するはずであるが、いじらしさの先立つ映像が新開の意欲を点火させないのである。 「ごめんよ、ビデオでは駄目だ」  新開は貴代子に謝った。  新宿歌舞伎町のラブホテル「ベルサイユホテル」でホテトル嬢が殺害されるという事件が発生した。  十月一日午後十一時ごろ、歌舞伎町一丁目のホテトル「モナミ」に客から電話があって、たまたま出勤してきた丸井恵利子《まるいえりこ》は、客が入室していたベルサイユホテルへ出張《でば》った。  十一時十分ごろ、同女から客の部屋へ着いたという電話連絡が入った後、午前一時四十分を過ぎても連絡がないので、店の者がベルサイユホテルに電話したところ、客はすでに帰ったという返事であった。  客に侍《はべ》る時間は一時間三十分が一単位である。ダブルに延長希望の場合は、必ず女性から連絡がある。ホテルから客に呼ばれた場合は、女性は必ず店へいったん帰ってくる。  中にはルーズな女性がいて、客に侍った後なんの連絡もせずに家へ直帰してしまう者もいるが、丸井恵利子にはそんな前例はなかった。  不審を抱いたモナミの者がベルサイユホテルへ出かけて行って、客室の中で索条《ひも》で首を絞められて殺されている同女を発見した。  ホテトル嬢やデートガールは、その日出会ったばかりの客と一対一でホテルの密室の中に入るので、危険が大きい。  客が変態性愛者であったり、ナマ(コンドームを使用しない)の情交を要求したりして、女性との間でトラブルが発生することがある。  殺されないまでも、サド傾向の客や、酔った客から暴力を振るわれる女性は少なくない。今回のケースでは、被害者が殺害前後に剃毛《ていもう》された痕跡《こんせき》があり、下着を盗まれているので、変態性欲者の犯行と目された。  所轄署に捜査本部が置かれ、性犯罪専門捜査員の新開にも応援が求められた。  ベルサイユホテルの話によると、犯人と目される男は三十歳前後の一見|真面目《まじめ》なサラリーマン風で、午後十時過ぎ、二時間八千円の四〇一号室に休憩した。同ホテルでは初めての客であったという。間もなく丸井恵利子が同じ部屋へ入った。午前零時過ぎ、客からさらに二時間の延長申し入れがあって、間もなく客が一人で下りて来た。彼は追加料金を支払うと、連れはまだ部屋に寝ていると言って、出て行ったそうである。  性犯罪と一口に言っても、多様な種類がある。性犯罪の代表的なものは、警察用語でツッコミと呼ばれるレイプである。  暴力や脅迫などの不法な手段によって女性を犯すのがレイプであるが、初めは合意の上で情交を始めたのが、途中で喧嘩《けんか》をしたり、男が女性の合意の範囲を超えて、女性のいやがるセックスパターンを強制したりしてレイプに転ずるケースもある。  レイプと和姦《わかん》の境界は微妙である。結婚は継続的な性交の合意と見なされているが、夫婦の間にもレイプを認めたアメリカの判例がある。レイプが最悪の形に発展すると殺人となるが、殺人が先行して死体を犯す者や、死姦が目的で殺害する変態性欲者もいる。  SM愛好者が合意の上でSMプレイに耽《ふけ》っていたのが、興奮してパートナーの死を招くことがある。このタイプは加害者に殺意はなく、過失致死の一種となるが、SMプレイが高じて相手を殺害することによって性欲の満足をおぼえるタイプがある。  これのバリエーションタイプが異性の身体を傷つけたり、その身体を食して性的満足をおぼえるのである。これらの犯罪類型が刑法上の刑罰の対象となるが、売春や猥褻《わいせつ》行為は風紀違反行為として取り締まられる。  猥褻行為を警察は犯罪手口分類基準によって、次の六種類に分けている。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、婦女切り——女性の身体、頭髪、衣服等を刃物を用いて折損する。  二、婦女汚し——毒物、汚物、精液等で女性の身体や衣服を傷害あるいは汚損する。  三、婦女追随——公共の場所や乗り物において女性をつけまわし、いやがらせをする。  四、覗《のぞ》き  五、陰部露出  六、色情盗——女性の下着や衣類、所持品等を窃取、蒐集《しゆうしゆう》する。 [#ここで字下げ終わり]  おおむね性的犯罪における加害者は男である。女性の性的犯罪者もいることはいるが、男に比べて少ない。  これは男の性欲が女性よりもはるかに強く、衝動的なせいかもしれない。  神は人間を男と女に分けた。  この地上が同性だけによって満たされたならば、どんなに殺伐とし、荒廃したいやらしいだけの世界となり、人生はなんの彩りもない乾燥したものになるだろう。  人類はとうに絶滅して、地球は無人の惑星に還元していたにちがいない。  人間の歴史は男と女が愛し合い、睦《むつ》み合ってつくり上げてきた。  子孫の増加も、文化の発展も、人間の幸福も男女が協力して築き上げてきた。  換言すれば、男と女が愛し合って協力し合わなければ、人類の存在はあり得ない。  神は男と女を愛し合う存在として創造した。それにもかかわらず、人間は正常な愛し合い方から逸脱して、さまざまな性倒錯や変態性愛に陥った。  新開はそれを悲しいことだとおもう。  人間は男と女という愛のパートナーをあたえられていながら、そのパートナーを対象にした性犯罪というおぞましい罪を犯すようになった。 「なにも殺すことはあるまい。せっかくの花の盛りを殺してしまうなんて、むごいことだ」  現場検証にあたっていた新宿署の牛尾《うしお》刑事が、面を曇らせた。 「初めから殺すつもりで呼び出したのかもしれません」  新開が言った。 「どうして殺すつもりとわかるのですか」  新宿署の青柳《あおやぎ》刑事が問うた。 「死体には情交の痕跡がありません。ホテトルから女性を呼んだのであれば、客は時間を無駄にしませんよ。まず情交をします。ところが、この死体はシャワーも使っていない。バスルームは使用した痕跡がまったくありません。被害者が部屋へ入って来ると同時に、犯人は毛を要求し、被害者に断られたために殺害し、死体から毛を切り取ったのではないかとおもいます」 「被害者はすでに毛を剃《そ》っていたということは考えられませんか」  捜査一課から捜査本部に参加した棟居《むねすえ》刑事が口を挟んだ。 「生前に剃毛したのであれば、多少とも伸びているはずです。本人が剃ったのであれば、もっと綺麗《きれい》に剃るでしょう。剃り痕《あと》にばらつきがある上に、毛の断端が尖《とが》っています。それに剃り落とした毛が数本、現場から採取されています」 「すると、犯人は毛が欲しくて犯行に及んだのでしょうか」  新宿署の恋塚《こいづか》刑事が問いかけてきた。 「フェティシストの犯行かもしれません」 「フェティシストというと」 「異物愛好者とでもいいましょうか、女性の身体の一部、たとえば髪や爪《つめ》、また女性が身体に着けている下着や靴やアクセサリーや化粧品などに異常に執着することです。本来、女性の身体の一部や、女性が身に着けている物品を本人が得られないために代用として愛していたのが、その代用物そのものが異性の象徴となり、性的行為の対象となってしまうことをフェティシズムと言います。この犯人は女性の陰毛に対してしか性的満足を得られない、変態性欲者の可能性がありますね」  新開はあえて言及しなかったが、フェティシズムの対象は異性の痰《たん》や尿や糞便《ふんべん》にまで及ぶことがある。  フェティシストが異性の髪を美容師や理髪店からもらったり、身に着けているものを相手の承諾の下に分けてもらったりしている間は問題ない。だが、正当な方法で物品を手に入れられないとき、不当な手段によって入手しようとすると犯罪となる。それが最悪の形を取ったのではあるまいか。 「女を買っていながら、女の身体には指一本触れず、毛を取るために殺してしまうとは、変態も極まれりだな」  牛尾がやり切れないといった表情でつぶやいた。 「男と女は、なぜ素直に愛し合えないのでしょうね」  青柳が新開の表情を探るように言った。青柳自身、離婚経験がある。 「性器はだれとでも適合するのに、男と女は無差別に交わることはできません。その辺が人間の難しいところでしょう」  新開自身が屈折した性愛の持ち主でありながら、性犯罪の捜査に携わっていると、人間の性愛というものの複雑さや難しさに唖然《あぜん》とさせられることがある。  まず男女の愛の性質が異なる上に、道徳は一夫一婦の交わりを求め、性器はどんな異性とでも適合する。人間のセックスが愛の上に立って無差別な交わりを拒んでいるくせに、肉体の構造は乱交が可能である。異性を求めても得られない場合や、正常な性的関係では満足できなくなった者が、さまざまな変態性愛や性倒錯を生んだ。  愛し合うべき存在としてこの世に造形された男女が、憎み合い、嫉妬《しつと》し、傷つけ合い、時には殺し合うのは矛盾であろう。その矛盾がさまざまな性犯罪という形で発生する。  新開は性犯罪の捜査を担当するつど、男と女の関係の複雑さと、人間の業の深さをおぼえるのである。  神がアダムとイブをこの世に送り出したとき、果たして一組の男と女が多様な性倒錯や変態性愛、性《セツクス》産業および性犯罪を生み出す母体になろうとは予測したであろうか。  ベルサイユホテル四〇一号室から丸井恵利子を呼んだ客は、新井《あらい》と名乗ったという。  たぶん偽名であろうが、初めての客であった。  即席カップルの間に発生した性犯罪は、事前の人間関係がないために、捜査の常道である被害者の人脈から犯人を追跡することができない。  犯人と被害者はその日出会ったばかりである。  捜査は立ち上がりから難航の兆しを見せた。  犯人が女性の毛を狙《ねら》うフェティシストであれば、また同じ犯行を繰り返す虞《おそれ》がある。  新開は貴代子の身が心配になった。  彼女は新開に隠してはいるが、密《ひそ》かに客を取っている模様である。  ホテトルやエスコートクラブには所属せず、「紳士・淑女クラブ」時代の人脈を利用して、上流の客と直談している模様であるが、丸井恵利子を殺した犯人が貴代子の人脈に連なっていないという保証はない。  新開は貴代子にそれとなく注意を促した。彼女が客を取っている確証はないので、あからさまには注意できない。 「いやあねえ、私があなた以外のだれと会うというのよ」  案の定、貴代子は怒ったように問い返した。 「万一のための注意だよ。狼がきみをどこから狙っているかわからない」 「私は大丈夫よ。そんな危険なところへは出かけて行かないもの。それより、私のことが心配なら、早く会ってちょうだい」  電話を通しての注意には、誠意と説得力が足りない。  新開はフェティシストの犯行と睨《にら》んで、都内のブルセラショップを当たっていた。  ブルセラショップとは、使用ブルマー、セーラー服、その他ブラジャー、スリップ、パンティなどを売っている専門店である。  女子高生の制服愛好者は多い。都内、特に名門女子高生の多い渋谷や高田馬場|界隈《かいわい》には、この手のブルセラショップが増えている。  事件現場が新宿であるところから、犯人が界隈のブルセラショップに出入りしている公算は大きい。  この手の店は店舗を構える必要もなく、マンションの一室でも営業できる。  新開が聞き込みに当たっている間も、女子高生らしい女の子が下着を売りに来た。  百円程度のパンティを、ちょっと穿《は》いて千円で売る。これに女の子の写真を付けて、三千円から五千円で客に売りつける。ハキパン(使用パンティ)は一日三十から五十、また制服は週に二、三着|捌《は》けるという。  女の子にとっても、ちょっと下着を身に着けるだけで五倍から十倍前後の値段で売れるのであるから、割のいいアルバイトである。  使用度が長ければ長いほど高値で売れる。  売手も口コミで増えて、ハキパン、ホカブラ、ナマウニ(使用制服)を売りに来る女の子は跡を絶たないという。  店内に入ると、狭い空間に各女子高校の制服がぎっしりと吊《つ》り下がっている。  女子高生の制服に混じって、看護婦やスチュワーデスや、ファミリーレストランのウェートレスの制服もある。  陳列棚にはラップに包まれた女の子の写真付きのハキパンやホカブラが山盛りになっている。  洗ってないハキパン、ホカブラ、女子高生、看護婦、OL、スチュワーデス、人妻、小中学生、各種豊富取り揃《そろ》えと書いてある。  店内には生臭い、一種の妖気《ようき》が漂っているようである。  数人居合わせた客は、普通の学生やサラリーマン風の若い男ばかりである。  フェティシストの多い中高年は、ブルセラショップの客には意外に少ない。  新開が素性を明かすと、店の者は一様に顔色を改めた。  女性の使用下着の売買をしても、べつに違法ではない。だが、彼らは警察に対してある種の後ろめたさを抱えている。  新開は殺人事件の捜査であることを告げて、女性の髪や陰毛、爪などを買いに来る客はないかと尋ねた。 「うちはそんなものは売っていませんよ。衣服だけです」  店の者は憤然として答えた。 「そういうリクエストを受けたことはありませんか。客の中には下着だけではなく、女性の身体の一部や、中には排泄物《はいせつぶつ》などを欲しがる客がいるはずだが」 「たまにはそういう人も来ますが、私どもは相手にしません。私どものお客さんにそんな変態はいませんからね」  店に言わせれば、ハキパンやナマウニを買って行く客はあくまで正常なのである。 「それでは女性の靴やストッキングなどを欲しがる客はいませんか」  フェティシズムの対象として靴が多い。これに次いでナイロンの靴下は、フェティシストの垂涎《すいぜん》の的となっている。 「靴や靴下はよく出ますよ。一日に十足から二十足前後出ますが、供給が追いつきません。ハキパンほどの供給がありませんのでね」  一日に十足ないし二十足の需要があるのでは、容疑者を絞り込めない。  ブルセラショップでは殺人事件の捜査と知って協力的になったが、いずれも毛髪や爪等は売っていないと答えた。  だが、新開はそれらの需要がある以上、取り扱っていないはずはないと睨んだ。  陰毛や汚物は売買の対象にはならない。社会通念上、合法的な取引きとは見なされないので、隠しているのであろう。  だが、フェティシズムの対象ではなくとも、現実に有名スターや歌手の痰や洟《はな》が、「お痰さま」「お洟さま」としてファンの間に高価に売られている。  ブルセラショップは法的には古物商の範疇《はんちゆう》に入り都内に約二十数店があるといわれている。  衣料店の看板の下に営業しているブルセラショップが多い。  新開が手がかりを追ったのは、このブルセラショップの奥で女性の毛髪や身体の付属物を密かに売っている店である。  だが、彼らは固く口を閉ざして語らなかった。猥褻物頒布罪《わいせつぶつはんぷざい》に引っかかるおそれがあるからである。  刑法一七五条の猥褻物として判例は「秘所」の写真、性交の擬態を表現した録音テープ、ストリップショーの人体などを猥褻物とした。  女性の恥毛のイミテーションは否定された。  新開はそのような店の有無すらつかめなかった。  事件発生後第一期(二十日間)はまたたく間に過ぎた。第一期の間に解決の端緒がつかめないと、捜査は長びく傾向がある。  事件発生三週間後のある日、新大久保駅近くのマンション内にあるブルセラショップに聞き込みに行ったとき、ちょうど女子高生らしい女の子が下着を売りに来た。  さすがにセーラー服を私服に着替えて化粧を施していたが、童顔を隠しきれない。  新開はふとおもいついて、店の外で彼女が出て来るのを待っていた。  間もなく出て来た少女に、新開はさりげなく、 「女の子の髪や爪が欲しいんだが、きみは売ったことがあるかい」  と問いかけた。  店の外で待ち伏せて、女の子と直談をする常連客がいるという話をおもいだしたからである。  一瞬、少女は警戒した様子であったが、新開を客とおもったらしく、 「おじさん、髪の毛や爪が欲しいの」  と問い返した。 「ぼくじゃないが、ぼくの友達が欲しがっているんだよ。きみは売ってくれるのかい」  新開はさりげなく調子を合わせた。 「私は売らないけど、毛や爪を買う店があるということを聞いたことがあるよ」 「この店ではないのかい」 「この店はハキパン専門だよ」 「その店をおしえてくれないかな」 「渋谷の道玄坂《どうげんざか》のLビルというビルの中に店を出していると聞いたな。私は行ったことがないけどさ」 「道玄坂のLビルだね」 「けっこううちの(同校の生徒)が売りに行ってるそうだよ」  少女はあどけない顔をして笑った。  少女からおしえられた新開は、道玄坂の中腹にあるLビルを探し当てた。  Lビルは道玄坂二丁目の雑居ビルで、目指す店はそのビルの一室で営業していた。  看板やショーウィンドゥはない。  店の名は「ギャルパック渋谷」とある。  扉を押して入ると、これまでまわってきたブルセラショップと同様に、女子高生の制服が狭い空間をぎっしりと埋めている。  陳列棚にハキパンやホカブラがディスプレイされているのも同じである。  店内に客と女の子の姿は見えない。店の奥に、制服や下着に埋もれるようにして店主らしい男の顔が見えた。  新開は素性を隠して、「お宅は毛や爪は扱っていますか」と問うた。  店長が客の品定めをするような目を向けた。店長の顔に驚愕《きようがく》の色が塗られて、 「きみは新開じゃないか」  と声をかけてきた。 「きみは奥野」  同時に新開も相手を識別した。 「まさか、こんなところできみに会うとはおもわなかったよ」 「ぼくもだ。奇遇だなあ」  二人は手を取り合っていた。小学校のクラスメート奥野信司である。  単なるクラスメートではない。番長熊木数雄の便所当番として屈辱を分け合い、崖《がけ》の上からの密《ひそ》かな投石によって彼を殺した共犯者である。  二人は一瞬の間に十数年の時間を跳躍して、小学生時代へ返っていた。 「まさかきみが、こんなところでブルセラショップを開いているとはおもわなかった」 「おれも、きみがおれの店へ買いに来るとはおもっていなかったよ」  奥野は新開が客として来たとおもっているようである。 「きみが東京へ出ていたとは知らなかった」 「あれからいろいろあってね、いまではこんな商売をしているよ」  奥野は少し面目なげな表情をした。  新開は現在の職業を打ち明けないわけにはいかなくなった。 「そうか、きみは刑事になったのか。少しも知らなかったよ。郷里とは没交渉になっていたからね」  奥野は言った。 「それでは卒業後の中田や布川の消息についても知らないだろうな」 「全然知らない。きみは知っているのか」 「ぼくも上京してから故郷《くに》へ帰っていないのでね。風の便りで川島洋子が結婚したということは聞いたが」 「川島洋子が結婚? 相手はだれだい」 「そこまでは知らない。まあ良家の坊ちゃんであることはまちがいないだろうな」 「そうか、おれたちの女神も結婚したか」  奥野が遠くを見るような目をした。  彼の目は十数年前に遡《さかのぼ》り、女神から投げつけられた卑怯《ひきよう》という文字を読んでいる。そして新開も同じ文字を読み取っていた。 「ところで、きみは結婚したのか」 「いや、まだだよ。おまえは」 「おれもまだだ」  あのとき交わした幼い約束はまだ果たしていない。当時は必ず履行しようという意志をもって交わした約束であったが、成長するに伴い、その約束を果たすことは不可能であることがわかった。不可能ではあっても、心の債務として依然として生きている。  彼らが結婚しないのは、不履行のまま背負っている約束のせいかもしれない。  二人はあえて、遠い日の約束について口に出さなかった。たがいにまだ独身を維持していることを知って、女神から捺《お》された卑怯の烙印《らくいん》が結婚の障害となっている気配を嗅《か》ぎ取ったのである。  と同時に、彼らは少年の日の女神の呪縛《じゆばく》から逃れきっていないのであろう。  彼らの少年期は屈辱に満ちていた。  だが、いまになって振り返れば、その屈辱の深さが、彼らが共有した女神に向ける讃仰《さんぎよう》の厚さを示すものであった。  そして少年たちは社会の四方へ別れて、十八年が経過した。その後の彼らの半生は、十二歳の少年期最後の夏休みの体験から、決して逃れきることはできなかった。  四人の仲間のうち二人がいま再会して、その事実をはっきりと悟った。  新開は川島洋子に閉じこめられた檻《おり》の終身犯を自称していたが、奥野に再会して、あの夏の日の体験によって強烈に染め上げられた少年期の心を、いまだに脱色できないのを悟ったのである。それは彼らの人生を染めた原色とも言えた。 「それで、まさか刑事のきみがハキパンやナマウニを買いに来たわけではないだろうな」  奥野は商人の表情に戻って問うた。 「実は事件の捜査で聞き歩いているんだ」  新開は奥野に事件の概略を伝えた。 「女の毛を剃《そ》り取って行ったのか。時どき女の毛が欲しいと言って来る客はいるが、ほとんど常連で、身許《みもと》は確かだよ」 「どんな連中が買って行くんだね」 「真面目《まじめ》な人間ばかりだよ。大学教授や、一流会社の幹部や、弁護士などもいる。しかし毛は供給量が少なくて、順番待ちになっているよ。客は、自分の趣味を秘匿しているので素性も隠している。常連になると、電話で注文してきたりするので、なんとなく素性がわかってくるが、ほとんど偽名を使っているね」 「それじゃあ住所なんかはわからないな」 「常連になると電話で注文して、宅配便で送るからね、住所がわかる」 「フェティシストはどんなことをしてもフェティシズムの対象物を手に入れたがる。合法的な手段で手に入れられないものが、ついに女を殺して、目的のものを得ようとしたかもしれない。都内に毛を扱っている業者は、きみ以外にいるか」 「それはいるだろう。ブルセラ屋は陰でたいてい異物を売っている。うちは汚物は取り扱わないがね」 「一応異物を欲しがる客のリストを見せてくれないか」 「弱ったな」 「頼むよ。きみに迷惑はかけない。客のプライバシーは守る。これは殺人事件の捜査なんだ。協力してくれ」  新開は、偶然にもブルセラショップの経営者として再会した小学校時代の同級生奥野の前に深々と頭を下げた。  奥野からフェティシストのリストをもらっても、容疑者を絞り込むことはできない。ただ事件発生現場が新宿であるところから、犯人が異物を求めるとすれば、その近くの店である可能性も考えられる。 「きみの追っている犯人がうちへ来るとは限らないが、怪しげなやつが来たら連絡するよ」  奥野は協力を約束してくれた。だが、結局事件は迷宮入りの様相を呈したのだった。 [#改ページ]  性奴の変質  棚川貴代子は馴染《なじ》み客の吉本《よしもと》から、奇妙な客を紹介された。 「ぼくの友人なんだがね、レイプするという形を取らないと満足できない男がいるんだ。ひとつつき合ってやってくれないか」  吉本から頼まれて、貴代子は、 「変態だったらいやだわ」  と婉曲《えんきよく》に断りかけると、 「べつに|S《サド》ではないんだ。手荒い真似《まね》はしないが、女性が形だけでも抵抗する振りをすると満足するんだそうだよ。相手の人物はぼくが保証する。危険なことはなにもない。三十万払うと言っているんだが、行ってやってくれないか」  一度のつき合いで三十万円なら、効率のよい仕事である。  吉本とは「紳士・淑女クラブ」時代からのつき合いである。芸能プロダクション関係の仕事をしているらしいが、詳しいことは知らない。気前がよく、女の扱いに馴《な》れていて、貴代子にとってよい客である。  吉本に頼み込まれて、貴代子は行ってみる気になった。 「つき合ってくれるか。おかげでぼくの顔も立つ」  吉本は喜んだ。  吉本から指示された都心のホテルに約束の時間に赴くと、貴代子の名前で部屋が予約されてあった。  高層階のデラックスダブルルームである。部屋にはまだだれも来ていない。  貴代子が入室すると、待ち構えていたように、部屋の電話が鳴った。  貴代子が受話器を取り上げると、 「きよこさんだね」  と受話器から問いかけた。 「そうです」  と答えると、 「電話機の載っているテーブルの引き出しにアイマスクが入っている。それを目に付けて待っていなさい」  と電話の声は指示した。  以前、どこかで聞いたような声であるが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。  言われた通りテーブルの引き出しを引くと、アイマスクが入っていた。  貴代子はそれを目に付けた。たちまち視野が閉ざされた。  貴代子の客にはVIPが多い。彼らが例外なく求めるのは、安全性である。その社会的地位や身分から、へたな女とはつき合えない。  下半身の問題は彼らにとって深刻であった。  貴代子の常連に上流階級が多いのは、彼女の口の堅さが客の信頼を得ていたからである。  吉本が紹介した客は、よほど臆病《おくびよう》と見える。  彼女を信頼しきれず、アイマスクを付けるように要求したのであろう。それとも、それも彼のセックスのパターンなのであろうか。  とにかくこれも三十万円のうちと、貴代子は自分に言い聞かせた。  貴代子がアイマスクを付け終ると、ほとんど間をおかずドアの方角に気配があって、だれかが入って来た。彼もキーを持っている様子である。入室と同時に客はルームライトを消した。よほど用心深い客らしい。 「きよこさんだね」  電話で聞いた声が念を押した。 「そうです」  貴代子は声の方角に答えた。 「今夜はよく来てくれた。これは約束の三十万円だ。数える必要はないよ。私を信じてもらいたい」  相手は言って、分厚い封筒を彼女に手渡した。  その感触から、相手の言葉を信用できることがわかった。 「シャワーを使ってきます」  貴代子が言うと、 「その必要はない」  いきなり抱きすくめられた。 「あっ、待ってください」  貴代子が抗《あらが》うと、強い力でたちまち身体の自由を奪われ、ベッドに押し倒された。  そのときになって、吉本の「レイプの形を取らないと満足できない」という言葉がおもい起こされた。 (これはプレイなんだわ)  そうおもったとき、客が耳許《みみもと》で、 「もっと抵抗しろ。悲鳴を上げろ。殺されるとおもって抵抗するんだ」  と言った。  客の身体は筋肉質で逞《たくま》しい。身体を押さえ込む力は強い。  貴代子は客の要求に応じて身体を硬く閉じ、抵抗した。  悲鳴を上げかけると、いきなり口の中にタオルを押し込まれた。 「騒ぐな。騒ぐと、この綺麗《きれい》なお面に傷がつくぞ」  貴代子は頬《ほお》に冷たい金属の感触をおぼえた。  客はその金属で貴代子の頬をぴたぴたと叩《たた》いた。  プレイとわかっていても、背筋が冷たくなった。  ホテルの密室で、素性の知れぬ客と二人だけである。このまま殺されて死体を隠されてしまえば、殺されたことすらわからないだろう。  そのとき新開が言っていた、新宿のラブホテル内でのホテトル嬢殺人が想起された。  新開はくれぐれも注意するように言っていた。彼は貴代子がいまでも客を取っていることを察知しているのである。  もしかすると、この客が犯人かもしれない。本物の恐怖が貴代子に目覚めた。  アイマスクを取り除こうとした手をがっちりと押さえ込まれた。強い力だった。  レイプに馴れているのか、女の身体のつぼを押さえ込んで身動きさせない。  貴代子はいつの間にか服を剥奪《はくだつ》されパンティまで剥《は》ぎ取られていた。女を剥ぐのに馴れた手つきである。 「泣け、わめけ。この部屋の壁は厚い。気配は外には漏れない。どんなに泣いても叫んでも、だれも駆けつけて来ないよ。あんたはおれの獲物だ。これからゆっくりと料理してやる」  客は貴代子の耳にささやくと、両手を頭の上に浴衣の腰紐《こしひも》で縛った。  つづいてルームライトが点じられたのがわかった。アイマスク越しに明るい光が浸透してくる。 「あんた、いい身体をしているね」  客はルームライトにさらされた貴代子の身体を、じっくりと鑑賞しているらしい。  身体をよじって光から身体を背けようとしても、強い力でぐいと引き戻され、股間《こかん》をこじ開けられた。  そのまままじまじと観察しているらしい。破廉恥な体位も動物的な姿勢も、男女が組み合って構成するときは、たがいの身体が蓋《ふた》の役目を果たして羞恥《しゆうち》をおぼえない。  仮に羞恥が残っていたとしても、カップルで共有している。  だが、このように明るい光の下で身体の自由を奪われ、一方的に男の観察の対象にされていると、歴戦のはずの貴代子にも羞恥が蘇《よみがえ》る。  彼女はこれまで、このような形で自分の下半身を客の観察に委《ゆだ》ねたことはない。  それは男の欲情をそそるために彼女が工夫した体位ではなく、相手に暴力的に強制された屈辱的な姿勢である。 (やめて。お願い)  と訴えたが、タオルを口に詰め込まれて言葉にならない。  そのとき彼女は局部に奇妙な感触をおぼえた。  頬に当てられた金属と同じ感触が局部に当てられて、秘所の下草を剃《そ》っている。  貴代子はぎょっとした。 「動くな。動くと大切なところに怪我《けが》をするぞ」  客が言った。  殺されたホテトル嬢は下毛を剃られていたと、新開が言っていた。  やっぱりあの犯人だ。  貴代子の全身の血が凍りついた。だが客は、ごく一部を剃毛《ていもう》しただけであった。  恐怖の時間の後、彼女は客の身体によってぴたりと閉塞《へいそく》された。  それはこれまでの荒々しさと異なって、別人のように優しく、優雅な律動をもって彼女の身体を満たし、官能の頂上へと誘導した。  経験を積んだ貴代子の身体が、完全に相手の主導の下に官能の海を漂流している。  波頭の直下まで突き上げられたところで巧みに引き戻され、焦《じ》らされる。  夥《おびただ》しい男たちと渡り合って年季を積んだ貴代子の身体が、相手のおもうがままに翻弄《ほんろう》されている。  先刻の恐怖が忘れ去られ、彼女は完全な発情体になっていた。  長い時間が経過したようであるが、実際はそれほど長くなかったかもしれない。何度も何度も波頭直下に突き上げられては引き戻され、焦らしに焦らされたあげく、二人は一体となって達成した。  ようやく終った後、貴代子は全身|悉《ことごと》く開放させられ、男の版図に組み込まれている自分を悟った。客は彼女の緩やかな下降を共有し、追従し、快美な余韻を長引かせるために奉仕した。  たいていの客は終った後、自分の極めるまでの情熱的な行為を嫌悪するかのように背中を向け、煙草を吸ったり、シャワー室へ駆け込んだり、そそくさと身支度をしたがるのに対して、この客は女体の構造と女の心理を知り尽くしているかのように、じっくりと彼女の余韻につき合った。  レイプの形に始まった彼の行為は、女体への奉仕に終った。  暴力と奉仕、強制と追従のコントラストがシャープであり、その配分が巧妙であった。  余韻が放物線を描いて終息すると、ようやく彼は口に詰めたタオルを除《と》ってくれた。 「どうだった」  客が優しく問いかけたが、貴代子にはしばらく答えられない。まだ身体の芯《しん》が痺《しび》れていて、言葉にならない。 「とてもよかったよ」  客は言うと、さらに数枚の札を彼女の手に押しつけた。感触からして一万円札のようである。 「これはぼくの気持ちだ」 「あら、もう充分にいただいております」  ようやく言葉が出た。 「いいから、取っておきたまえ。毛のお礼だよ」  客に言われて、貴代子はわずかに剃毛されたことをおもいだした。 「アイマスクはぼくが部屋から出るまで外してはいけない。また近いうちに吉本から連絡させるから、都合をつけてもらいたい」  客は身支度をすると、部屋から出て行った。  客の足音が立ち去ってから、貴代子はアイマスクを外した。立ち上がろうとしたが、下半身が抜けたようになっている。  これまで多くの客に接したが、このようにさせられたのは初めてである。難攻不落と自負していた城が、一兵残らず討ち取られ、完全に落城したような感じである。  新開には心の奥の自閉の垣根まで開かされたが、いまの客には彼女の肉体の隅々まで明け渡してしまったように感じた。  初見の客で、貴代子をこのように開放した手練は尋常ではない。  よほど女を扱い馴《な》れているのか。あるいはたまたま貴代子と相性がよかったのか。  前半の恐怖も、後半の官能の海の漂流も、事後の奉仕と追従も、貴代子にとって性的なカルチャーショックであった。  たったいま味わったばかりの全身の血が凍るような恐怖を忘れて、貴代子はいまの客からの連絡が待ち遠しいような気分にさせられていた。  客が残していった封筒には三十万円、その後、気持ちだと言って五万円追加していた。  金額的にも上等の部類の客であった。  奇妙な客に侍《はべ》った後、貴代子は猛烈に新開に会いたくなった。  あの客は彼女の全身に凄《すさ》まじい官能の花火を埋め込んで、爆発させて行った。  花火が華やかな色光となって炸裂《さくれつ》した後、硝煙を残すように、客によって全身に火を点《つ》けられた後、澱《おり》が身体に澱《よど》んだ。  これを洗い清めてくれる者は新開以外にはいない。  その後、ホテトル嬢殺害事件の迷宮入りになったこともあって、新開の身体が空いていた。  いつものようにホテルで食事をしながら、新開のリクエストに応じて衆目の中、テーブルの下に密《ひそ》かにつくりだした二人だけの空間に、プライベートな体位を演出する。  そうすることによって彼らの興奮が促され、パブリックの場所で交わっている。 「今夜のきみはちょっとちがって見えるな」  新開が貴代子の顔を覗《のぞ》き込むようにして言った。  貴代子は新開に、先夜、客を取った事実を悟られたようにおもって、内心ぎょっとした。 「どういう風にちがうの」  心の狼狽《ろうばい》を隠して、貴代子はさりげなく聞いた。 「いつも綺麗だが、今夜は特に綺麗だよ」 「それはあなたに久し振りに会うんですもの」 「ただ美しいだけではない。身体の奥から光が発しているような、そうだね、他人《ひと》には見えない光がぼくには見えるんだよ」  新開の言葉に、貴代子はふたたびぎょっとした。  もしかすると、先夜の客に点けられた官能の火が、埋《うず》み火《び》となって身体の奥に残っているのかもしれない。 「久し振りにあなたに会ったので、身体が燃えているのよ。この火を消せるのはあなたしかいないわ」  貴代子は挑むように新開を見た。  そのときふと、新開と先夜の客が一体化して自分に迫ったとき、一体どうなるだろうかと空恐ろしくなった。  先夜の客は彼女の肉体の砦《とりで》を完全に陥《お》としたが、言葉はほとんど用いず、暴力と強制で押しまくった。新開の言葉にあの暴力が伴ったならば、おそらく自分は破滅するだろう。  新開の言葉の魔術がそろそろ効いてきている。  早く部屋へ行って、二人だけになりたい。そして、先夜の客が開けなかった自閉の垣根を開き、その奥で新開と一体になりたい。  そうすることによってのみ、貴代子は霊肉一致した官能の極点に達せられるのだ。 「今夜はお願いがあるの」  貴代子は前夜から胸に温めておいたリクエストをした。 「お願いって、なんだい」 「うふふ、それはお部屋へ行ってから」  貴代子の妖《あや》しい艶《えん》を帯びた声に、新開は期待を促されたらしい。 「お願いって、なんだい」  部屋で二人だけになると、新開は同じ質問を重ねた。 「今夜は私をレイプしてほしいの」 「レイプだって?」  新開が驚いた表情をした。  彼女がそんなリクエストをするのは初めてである。 「ふとおもいついたんだけれど、目隠しをしたら、もっと深くあなたの言葉に感じるんじゃないかしら」 「目隠し!?」  新開ははっとしたようである。  彼女は新開の言葉に敏感に反応する。それならば、目を閉じ、神経を耳に集めた方がより効率よく反応するかもしれない。  新開はそのことにおもい当たった様子である。 「私、目隠しをするわ」  貴代子は先夜の客で用いたアイマスクを目に付けた。 「お願い。両手を縛って」  貴代子はさらに要求した。  新開は驚きながらも、貴代子が求める通りにした。  一瞬、剃毛された秘所の部分を新開に察知されたかと緊張したが、剃毛部分はごくわずかであったので、彼に悟られなかったようである。 「いつものように言葉をかけてちょうだい。できるだけ汚い、猥褻《わいせつ》な言葉をかけて、私を犯して。乱暴にして。明るい光の下で私を見てちょうだい」  貴代子はせがみつづけた。  先夜の客から受けた仕打ちが記憶に蘇《よみがえ》り、羞恥《しゆうち》と興奮が促されている。  いつもと攻守所を変えた感じである。  新開は貴代子が変わったのを感じた。変質するほどの大きな変化ではないが、男から性的な影響を受けたらしい。  女の身体はカセットテープやビデオテープに似ている。新たな録音や録画によって、前の録音や録画が消されてしまう。  女にとって強烈な体験ほど、その身体に刻み込まれる影響は深い。  それを消すためには、自分がより強烈な、新たな影響を刻みつけなければならない。  これまで貴代子の性を言葉によって支配しながら、彼女の視覚については忘れていた。  忘れるというよりは、男の心理で考えていた。  男は性交に際して、単に性器を結び合わせるだけではなく、それに付随する性的行為から大きな剌激を受ける。  目で女体の存在やその美しさを確かめ、においを嗅《か》ぎ、猥褻な言葉を交え、女体を幾重にも包装する衣服を剥《は》ぎ取り、形式的な、あるいは意志的な抵抗を取り除きながら、究極のゴールに到達する。  女性の協力の有無にかかわらず、男の性行為は多少なりとも暴力的である。暴力による強制が演出された方が、両性の性的刺激を高める。男にとっては性器の結合プラス、それらの付随行為すべてを含めたものが性行為なのである。  本来は性交のアクセサリーにすぎない付随行為が目的となったのが性倒錯、あるいは変態性愛となる。そんなことはよくわかっているつもりでありながら、それが男本位の性的行為であることを忘れていた。  女性の場合、一点集中的なセックスが可能である。むしろその方により大きな満足をおぼえる女性が多い。  真《ま》っ暗闇《くらやみ》の中での情交でも深く達せられるのは、女性の特技である。  行為の間、話しかけられたり見られたりすると興が削《そ》がれる女性が多いのも、女性の一点集中的性傾向を物語るものである。  男女の愛し方がもともとちがっている上に、二人一体となって共通の快楽を分け合いながら、セックスの生理が異なっている。  女性は事前のムードや環境などを重視するが、これはセックスの前段行為であり、性的行為に入ってからは、付随行為はむしろ彼女の性感の集中を妨げやすい。新開はつい、そのことを忘れるともなく忘れていた。  ただし、女の身体は弾力性に富んだセックスの素材である。男の鋳型の中で、どのようなパターンにでも造形できる。  女性は男に比べてセックスに対してきわめて許容性が広い。  貴代子はもともとそのような素質があったのかもしれないが、言葉に対して鋭敏な性感を引き出したのは新開であり、貴代子の許容性が新開の鋳型に彼女を合わせたのである。  いま貴代子から求められて、新開はアイマスクという新兵器が、自分の言葉の神通力をさらに強めることに気がついた。  アイマスクは新開の性の鋳型にマッチする小道具であった。  アイマスクを付けた貴代子の反応は、これまでにないものであった。 「凄《すご》い、凄い、こんなの初めて」  と連発し、何度も突き上げられては心身共に虚脱したようになった。 「おい、大丈夫か」  新開が心配して問いかけたほどである。 「わからないわ。自分が自分でなくなってしまったみたい」  貴代子はかすれた声で答えた。 「驚いたなあ。アイマスクがこれほど効果があるなんて」 「セックスって深いのね。掘り下げれば掘り下げるほど底なし沼のように限りがないわ」 「それでもまだ底に達していないのかい」  新開は呆《あき》れた。 「底がないのよ。自分でもどうなっちゃうのかわからないわ」  新開はそのとき、ふと危険な予感をおぼえた。  底がないということは、彼女がまだ完全な満足に達していないということである。  新開の言葉によって達成された満足も、彼女の底なしの官能の一段階にすぎないのかもしれない。  彼女はアイマスクによって、さらに深い達成をおぼえた。  だが、それはしょせん、肉体の伴わないメンタルな官能である。  アイマスクによって視覚を閉ざし、官能の集中を求めた貴代子は、より深く、より凝縮された性感を追求して、新開の肉体を求めるようになるかもしれない。  これまでにも、知り合った初期に新開の身体を求めた。  だが、彼の言葉が予想以上に彼女に作用して、肉体的官能よりも深い精神的満足を引き出した。  それは一時的にまぎらされていたのかもしれない。  ほかの男によってより強い肉体的満足をおぼえれば、新開の神通力が薄れる。  新開の男の機能は貴代子に対して麻痺《まひ》している。  幼いころの女神川島洋子の呪縛《じゆばく》から依然として逃れられないのである。  貴代子が霊肉一致した性的満足を求めるようになる前に、洋子の呪縛の鎖から自由になっていなければならない。  貴代子はまだ言葉に出して要求はしていないが、他の男の影響によって、新開の言葉だけではなだめきれない彼女の底なしの官能が目覚めつつある予感をおぼえたのである。  新開は貴代子に対する予感を、おののきをもって見つめていた。  貴代子に対する新開の神通力が失われつつある。いや、他の男の影響に彼の神通力が加わって、より大きな官能の油田に火が点《つ》きかけている。  それから間もなく、二人が会ったとき、新開がシャワーを使っている間、束《つか》の間の空白時間を埋めるために、貴代子はテレビのスイッチを入れた。  サスペンス・ドラマらしい。貴代子はリモコンスイッチを使ってチャンネルを切り換えようとした。  ドラマはストーリーに引き込まれるので、わずかな空白時間を埋めるのに適さない。  チャンネルを切り換えようとした貴代子の手が、ふと宙に止まった。テレビ画面に進行しているドラマに記憶があった。  ベッドに若い女が横たえられている。彼女はアイマスクを付け、両手を頭の上で縛られている。そこへ男がのしかかってきた。三十前後の筋肉質の逞《たくま》しい男である。  女は必死に抵抗したが、両手を縛られている上に、男の圧倒的な力の下に凌辱《りようじよく》されてしまう。  必死の悲鳴をあげた口にはタオルが押し込まれ、衣服は容赦なく剥奪《はくだつ》された。  少し前に貴代子自身が体験した場面が、そのままテレビ画面に映し出されている。  暴漢役を務める男優は、最近、陰影のあるソフトなマスクと、抑えた演技力でめきめき人気が出てきた朝丘豊作《あさおかほうさく》である。  歌も歌えて、歌えるスターとして目下売り出し中である。 「あっ、あの人」  貴代子は画面の朝丘に視線を固定して、おもわず叫んだ。  アイマスクを付けていたが、その声に聞きおぼえがある。あのとき、どこかで聞いたような声だとおもったが、朝丘の声であった。  あの夜、貴代子にアイマスクを付けさせ、レイププレイをした客は朝丘であった。  視野を奪われていたので確かめられなかったが、いま朝丘が画面で展開している凌辱のシーンは、貴代子に対して行なったレイププレイを忠実になぞるものである。  朝丘はテレビドラマの練習台として、貴代子にレイププレイを行なったのか。あのときすでにドラマが完成していれば、ドラマの場面を実地に行ないたくなったのかもしれない。 「あの人とは、だれのことだい」  そのとき新開がバスルームから出て来た。  新開は貴代子が見ていたテレビ画面の方に視線を向けて、 「なかなか激しいのをやっているな」  と苦笑した。 「あれ、この男、重岡じゃないかな」  新開が驚いたようにつぶやいた。 「重岡って、だれのこと」  貴代子が問うた。 「同じ小学校の同期だがね、当時と様子が変わっているので確かなことは言えないが、重岡によく似ているなあ」 「この人、最近人気が出てきた朝丘豊作よ。朝丘豊作と小学校の友達だったら、凄いわ」  貴代子が目を輝かした。  だが、彼女の目の輝きの底には、朝丘と共有したかもしれない体験が含まれていることを新開は知らない。 「こいつは友達なんかじゃない。ただ、小学校の同期というだけだ」  新開はやや強い声を発した。彼にとって、重岡は憎むべき敵の一人である。  小学校六年の時、重岡、小熊、石本の三人に復讐《ふくしゆう》を誓った四人の便所当番の約束は、終生の心の債務としていまでも生きている。 「どうしたの。急に怒ったように言って」  貴代子が驚いたように問い返した。 「べつに怒ってなんかいないさ。朝丘豊作というのはそんなに有名なのかい」  新開は最初の驚きを鎮めて聞いた。 「最近、急に出てきたのよ。いま若い女性には好感度ナンバーワンね」 「重岡がそんな人気者になっていたとは知らなかったね。テレビなどめったに見ないからなあ」  新開は改めてテレビ画面に目を凝らした。凌辱場面はクライマックスに入りつつある。 「あれ」  新開は目を見開いた。朝丘が剃刀《かみそり》の刃で女の頬《ほお》をぴたぴたと叩《たた》き、恐怖のあまり萎縮《いしゆく》した彼女の下半身にうずくまった。  恐怖と羞恥《しゆうち》で身体を硬くしている女の下半身を剃毛《ていもう》している場面に、新開は新宿のホテルで殺害されたホテトル嬢の死体を重ね合わせた。  だが、それはあくまでもテレビドラマの中の場面である。 「まさか」  と新開は頭を振った。剃毛された女性は、次第に協力的になってきている。恐怖と羞恥が薄れて、加害者のテクニックに女の官能を呼び覚まされたらしい。  ふと気がつくと、貴代子が熱っぽい目つきをしてテレビを見ている。  新開がかたわらにいるのに、まったく彼の存在を忘れてしまったかのようにテレビに吸いつけられている。  こんなことは、これまでに一度もなかった。  これまでなら、新開がバスルームから出るのを待ちきれないように飢えている。彼が汗を拭《ぬぐ》う間もなく求めてくる。  それを焦《じ》らし、故意に引き延ばすことによって性感を蓄え、刺激を高めていくのである。  それが今日は、テレビを見るのが本命目的のように、貴代子は完全にテレビの虜《とりこ》になっている。いや、テレビではなく、朝丘の虜となっている。 「きみは重岡、いや、朝丘を知っているのか」  新開は問うた。 「それは知っているわよ。人気者ですもの」 「そういう意味ではなく、個人的に知っているのかい」 「私が個人的に知っているはずがないじゃないの」  答えた貴代子の口調に、心なし狼狽《ろうばい》が感じられた。 「どうしてそんなことを聞くの」  貴代子はその狼狽を隠すように問い返した。 「なんとなく、そんな気がしたのさ」  そのとき新開は、貴代子が朝丘を知っていると確信した。  どういう関係かは知らないが、朝丘は貴代子の人脈に連なっている。  そして、朝丘豊作は重岡良作であろう。  別れてから十八年経過しているが、テレビを見れば見るほど、幼い日のいじめっ子の顔が再生されてくる。  新開は朝丘豊作が重岡良作であることを碓信した。  その日のデートは盛り上がらなかった。朝丘豊作の介入によって、新開も貴代子も、彼の方へ意識が逸《そ》れてしまったのである。  貴代子と知り合って、これも初めての経験である。  貴代子は変質しかけている。  新開とのデートで初めてアイマスクを付けたとき、彼は彼女の変質の兆しに気づいた。  これまで完全に新開の性奴であった貴代子が、他の男の影響を受け始めている。  新開のメンタルな性的支配が彼女の肉体にまで及んでいたのが、精神と肉体が分離して、肉体が精神に反乱を起こし始めている。  その端緒がアイマスクである。彼女にアイマスクをあたえた男が、変質の原因である。  そして新開は、その男と朝丘を重ね合わせていた。  新開は朝丘のテレビの映像に向けていた貴代子の熱っぽいまなざしが気になっている。  あれは新たな性の主人に向けるまなざしである。  貴代子の変質は目つきだけではなかった。身体もこれまでとはちがっていた。  どこがどうちがったのかはっきりと指摘はできなかったが、たしかにどこかがちがっている。  そのちがいは目で見分けられるものであったが、はっきりと指摘できないのがもどかしい。  ちょうど時期を同じくして、奥野から電話が入った。 [#改ページ]  先着した死 「やあ、きみか、そのうちにゆっくり会いたいとおもっていたが、雑用に追われてね」  新開征記《しんかいせいき》は奥野に協力を求めながら、事件が迷宮入りになったまま連絡しなかったことを詫《わ》びた。 「おたがいさまだよ。それよりちょっと驚いたニュースがあったので、きみに報《しら》せたいとおもってね。たぶんもうきみは知っているとおもうが」 「ニュースとはなんだ」 「重岡良作だが、あいつ、このごろ芸能界の人気者になっているぜ」 「朝丘豊作のことか。重岡と朝丘は同一人物だったんだな」 「やっぱり知っていたか。おれもテレビで見てね、どうも似ているなあとおもって、所属プロダクションに問い合わせてみたんだよ。年齢、生地も合っている。本名は重岡だったよ」 「実はおれも少し前に知ったばかりなんだよ。テレビドラマなんてめったに見ないからなあ」 「おれもドラマはあまり見ないんだが、店へ来るモニターの子が置いて行った芸能誌に重岡の写真が載っていたので、びっくりして、プロダクションに問い合わせたんだ」 「モニターってなんだい」 「品物《ブツ》を売りに来る常連の女の子のことだ」  新開は奥野と話し合っている間に、はっとなった。奥野との会話に触発されて、貴代子の身体の変化した部分がわかったのである。  いまおもい起こせば、貴代子の秘所が微妙に変形していた。それを見たときは微妙な形の変化に気づかなかった。  だが、たしかに前回会ったときと異なっていた。その変化は下毛の形によって生じていた。  貴代子の秘所はわずかにその下毛を刈り取られて、形を変えていた。わずかな変化を視認しながら、あまりに微妙であったために見分けられなかったのである。  下毛を刈り取った者は彼女にアイマスクをあたえた男にちがいない。そしてその男は……。新開の意識の中で、アイマスクをあたえた男と重岡と丸井恵利子を殺害した犯人が重なった。 「どうかしたか」  受話器から奥野が問いかけてきた。 「いや、なんでもない」 「急に黙り込んでしまったので、どうかしたのかとおもったよ」 「ところで、これまで重岡がきみの店へ行ったことはないか」 「重岡が? 来ていればわかるよ。どうしてそんなことを聞くんだ」 「もしかすると重岡はフェティシストかもしれない。女の下毛を求めてきみの店へ現われるかもしれないぞ」 「重岡がフェティシスト。どうしてそんなことを知っているんだ」 「推測だがね、たまたま彼が出演しているドラマを見たんだが、その中で彼が女の下毛を剃《そ》る場面があったんだよ」 「それはドラマの中の役ではないのか」 「かもしれないが、あるいは地でいっているのかもしれない」  奥野には貴代子にアイマスクをあたえた男として重岡を疑っていることは告げない。  貴代子との関係は新開の極秘のプライバシーである。 「もし重岡がきみの店へ現われたら、連絡してくれないか」 「わかった。必ず連絡するよ。連絡はするけれど、まさかあの約束を実行するわけではあるまいな」 「約束、きみもあの約束をおぼえているのか」 「誓ったじゃないか。重岡を含めてあと三人、必ず復讐《ふくしゆう》してやると」 「あの約束は忘れていない。しかし、十二歳だから誓えた約束だった」  今日では、復讐は非合法である。  重岡と小熊と石本の三人を殺《や》るのであれば、熊木を殺した直後、間をおかず殺るべきであった。  死刑、懲役、または禁固に当たる罪の事件について、十六歳未満の少年の事件の場合は、地検に送られて刑事処分を受けることはない。  犯行当時、彼らは十二歳であった。もしそのとき犯行が彼らの仕業として露見すれば、家庭裁判所の審判に付すべき少年として少年鑑別所へ送られ、その結果、保護観察に付されるか少年院に送致されるかしたであろう。  だが、彼らの犯行は露見しなかった。偶然を利して、非力な四人が凶悪な熊木を葬り去ったのであるが、それが彼らにとっては精一杯であった。あのとき余勢を駆って熊木の子分の三人に追撃をかけたとしたら、返り討ちにあってしまったであろう。  だが、それから十八年経過して、新開は刑事になっていた。熊木の�残党�が不法な行為を行なえば、新開はこれを晴れて取り締まれる位置にいる。  法の名の下にプライベートな復讐が果たせるのだ。  もし重岡が丸井恵利子殺しの犯人であれば、新開は捜査を担当している。奇《く》しき再会というべきであろう。  重岡を犯人と決めつけるべき証拠はなにもない。  たまたま重岡が出演したテレビドラマにおいて、丸井恵利子殺しの手口と同じ手口を重岡が用いていただけである。  それはあくまでもドラマ中の役としてであり、現実の犯罪とはなんの関係もない。  だが新開を染めた先入観の色は、深く染みついていた。  その先入観には十八年前の土台がある。その土台を踏まえて、重岡を犯人として捕まえたがっている。法の名を借りて、重岡に復讐したがっているのである。しかも、新開は重岡に対して嫉妬《しつと》をおぼえていた。  彼の忠実な性奴であった貴代子を、重岡が横奪《よこど》りしつつある。報復の意図と嫉妬が新開の先入観を合成していた。  公私を混同してはならないと自分を戒めるのであるが、重岡との意外な�再会�が新開に先入観を植えつけ、動かし難いものにしていた。  年がかわって一月末、吉本からふたたび貴代子に連絡があった。 「この間の客がとてもきみが気に入ってね、また会いたいと言うんだ。明日の夜十一時、例のホテルにきみの名前で部屋を取っておくから、都合をつけてくれないか」  吉本は言った。  心待ちにしていただけに、貴代子の胸は躍った。幸いに明日の夜はなんの先約もない。  新開から連絡がきそうな気がしたが、目先の誘惑に堪えられない。先夜、アイマスクを付けてレイプ(プレイ)された記憶が強烈な刺激となってよみがえってきた。 「行きます」  貴代子は二つ返事で答えた。 「大変きみが気に入ったらしい。さらに十万円上積みしようと言っているよ」 「そんなにいただけません。この間ももらいすぎです」 「いいじゃないか。せっかく相手がくれると言っているんだ。もらっておきたまえ。もっともあまり気前がよいのがいると、今度ぼくがきみを呼ぶとき困るがね」  吉本は電話口で苦笑したようである。 「それじゃあ頼んだよ。相手は忙しい人間だ。過密なスケジュールの中から無理算段してひねりだした時間だから、絶対に時間に遅れないようにね」  吉本は念を押した。  吉本は貴代子が客の正体を察知していることに気がつかないらしい。貴代子もあえて言わなかった。  売り出し中の人気タレントがコールガールを呼んでレイププレイに耽《ふけ》っていることを芸能マスコミに嗅《か》ぎつけられては、せっかくの人気に水をかけるであろう。  貴代子は客の正体に気づかない振りをしている方がよいと、咄嗟《とつさ》に判断した。  翌日の夜、前回と同じホテルに指定された時間に出かけて行った。  フロントで名前を告げると、フロント係がなにも言わずにキーを差し出した。  先日と同じように、すべてお膳立《ぜんだ》てが整っているようである。  キーを受け取った貴代子は、部屋へ直行した。  高速で高層階へ駆け昇るエレベーターが、のろのろ運転の車のようにもどかしく感じられる。  貴代子は身体の奥が潤っている自分を感じた。  客に呼ばれて、事前に身体がこんなに弾んでいるのは珍しい経験である。  アイマスクを付けられ、暗黒の中で刺し貫かれた異様な体験が暗い興奮となって盛り上がってくる。  彼女は仕事であることを忘れていた。  ようやく目指すフロアへ着いて、長い廊下を伝う。廊下の途中で一人の男とすれちがった。  先夜の客の部屋の方角から来たが、どの部屋から来たのかわからない。  男はすれちがうとき貴代子から顔をそむけるようにしていた。  キーに示されたナンバーの部屋の前に立って、貴代子は心を落ちつけるために深呼吸をした。  キーを差し込んで室内に入る。  先夜より一段とデラックスなスイートルームである。  入ったところが居室になっていて、ティーテーブルを囲んでソファーが置かれている。寝室はコネクティングドアの奥にあるらしい。  貴代子はソファーに腰を下ろして、電話を待った。  先夜は彼女が部屋へ着くのとほとんど同時に彼から電話がかかってきて、アイマスクを付けるように指示された。  今度はどこにアイマスクが置いてあるのかと、貴代子はソファーに座った位置から室内を詮索《せんさく》した。  隣室との隔壁に沿ってライティングデスクが置かれ、その上に電話機が載っている。アイマスクが入れてあるとすれば、ライティングデスクの引き出しの中であろう。  彼女は立ち上がってライティングデスクのそばへ行くと、引き出しを引いてみた。  案の定、そこに先夜と同じ形のアイマスクが入っていた。  だが、まだ電話がこない。 「どうしたのかしら」  貴代子は腕時計を見た。入室してからすでに五分経過している。  過日は入室するのを待ち構えていたように電話がかかってきた。 「今日は遅いわね」  しかし、まだ五分である。  その五分が待ちきれないおもいなのは、いかに先夜の経験が強烈であったかを物語るものである。  十分が経過した。貴代子は首をかしげた。  過密のスケジュールの中から無理算段して時間をひねりだす、と言った吉本の言葉がおもいだされた。  そんなに忙しい人間が四十万も出して買った女を、ホテルで虚《むな》しく遊ばせておくだろうか。  先夜の電話は携帯電話らしかった。それならば手近に電話機がないということは考えられない。  貴代子の胸に不審が兆した。  さらに十分が経過した。いまや相手の身になにか不都合な事情が起きたことは確定的である。  相手は人気急上昇中の朝丘豊作である。どんな急な用事が突発しても不思議はない。  もしかしたら、芸能マスコミに嗅ぎつけられて、それをまくのに必死になっているのかもしれない。 「いらいらしても仕方がないわ。バスでも使っていようかしら」  とおもったが、バスを使っている最中に来るかもしれないし、先夜、彼は貴代子にバスを使わせなかった。湯の香りのする女の身体では、レイプする気分が損なわれるのであろう。そうおもうとバスも使えない。  貴代子は手持ち無沙汰《ぶさた》のまま、コネクティングドアを押してみた。  寝室はゆったりしたダブルベッドルームである。室内は暗い。居間から漏れる照明を受けて、ベッドの上が人形《ひとがた》に盛り上がっているのが見えた。そのとき貴代子は甘酸っぱいようなにおいを嗅いだ。 (なんだ、いらしていたんだわ)  きっと貴代子が来るのを待っている間に眠り込んでしまったらしい。 (余裕だわね)  口中につぶやいて声をかけようとした貴代子は、喉《のど》の奥に言葉を呑《の》み込んだ。  驚愕《きようがく》が束《つか》の間彼女の声帯を麻痺《まひ》させ、音声を出せない。  ベッドの上の人形の盛り上がりはピクリとも動いていない。ということは、ベッドに横たわっている人物が呼吸をしていないということである。  貴代子は自分が重大な場面に立ち会っていることを悟ったが、頭の中が白くなって思考力が失われていた。  それが束の間、彼女に恐怖を忘れさせている。思考力を失ったままふらふらとベッドサイドへ近づいた貴代子の視野に、ベッドの上の人物の顔が入った。  隣室からコネクティングドアを通して漏れてくる照明を受けて、その顔は明らかに異常を訴えていた。よみがえった恐怖が貴代子の声帯を震わせて、悲鳴を迸《ほとばし》らせた。  その後、貴代子はどのようにして部屋から逃げ出して来たか記憶にない。  ともかくフロントへ駆け降りてきた貴代子は、 「死んでいる。お部屋で死んでいます」  と喘《あえ》ぎ喘ぎ訴えた。 「死んでいる? 何号室で、どなたが亡くなったのですか」  愕然《がくぜん》としたフロント係に問い返されても、貴代子には答えられない。  キーは部屋に残してきてしまったし、ルームナンバーはおぼえていない。もちろんその部屋の主の名前も知らない。 「お客様、しっかりしてください。何号室ですか」  フロント係がしきりに問いかけたが、ただ口をぱくぱくと動かすだけである。 「お客様のお名前は」  フロント係に問われて、ようやく自分の名前を答えた。部屋は吉本が貴代子の名義で取ってある。  フロント係が部屋へ急行して、異変を確認した。  一月三十日午後十一時三十分、新宿区西新宿二丁目の帝都プラザホテルから至近距離にある新宿署へ、同ホテル四一二三号室で男が死んでいるという通報が寄せられた。  当夜たまたま当直で署に詰めていた牛尾、青柳、大上《おおがみ》、恋塚らは押っ取り刀で臨場した。  死者が発見された四一二三号室は、同ホテル四十一階に位置しているスイートルームで、棚川貴代子という女性が宿泊している。  ホテルのレジスターカードには、同女他一名と記入されている。  死者は彼女の同行者らしいが、部屋の名義人は死者の名前を知らなかった。捜査員はピンときた。一夜の即席カップルであろう。  棚川貴代子は同行者が同女名義で予約しておいてくれた部屋へ来て、死体を発見したという。  つまり、同行者が棚川貴代子より先着して、彼女の到着を待っている間に死んだものである。レジスターカードも彼が記入していた。  フロントから同行者と彼女にキーが二本渡されていたことになる。  この辺の事情は、後でじっくりとホテル側から聴取することになる。  死体の後頭部に鈍器による打撲傷が認められた。これが脳内部に深刻な影響をあたえて、死因となったものと見られた。自分で殴れる部位ではない。  室内には傷に見合うような鈍器は発見されない。  現場に格闘の痕跡《こんせき》は認められない。  犯人は被害者の油断を衝《つ》いて後頭部を隠し持った鈍器で殴りつけ、死に至らせたものと推定される。死後、死体をベッドの上に運び込んだのであろう。 「やあ、この死体《ホトケ》は最近、人気の出てきた朝丘豊作じゃないか」  恋塚が言った。  恋塚のほかにも、捜査員の中に死者の顔を知っている者がいた。  さっそく朝丘の所属するプロダクションに連絡された。  被害者が同ホテルにチェックインしたのは午後九時三十分ごろである。  それ以後、棚川貴代子が到着する十一時までの一時間三十分の間に殺害されたものと見られる。  被害者が犯人を室内に迎え入れているところから、顔見知りの犯行と見られた。  検視による推定死亡時間は、午後九時三十分から約一時間とされた。  事件は殺人事件と認定されて、警視庁捜査一課に連絡された。  現場検証と並行して、発見者およびホテルに事情が聴かれた。  捜査陣は人気上昇中の朝丘豊作が人目をしのんで情事を楽しむために、女の名義で部屋を取ったと推測した。  事件の第一発見者がとりあえず容疑の対象である。これは女性にも可能な犯行である。 「あなたは午後十一時ごろホテルにチェックインしてから二十分ほど後、死体を発見したとフロントに訴え出てきたそうですが、その間、なにをしていたのですか」  牛尾は貴代子に訊《たず》ねた。 「電話がくるのを待っていたのです」 「電話とは、だれからの」 「あのう……たぶん朝丘さんからです」 「たぶんとは」 「朝丘さんかもしれないとおおかた推測しておりましたが、確かめたわけではありませんので」 「ホテルの部屋で一対一で会っているのに、相手の素性をはっきり知らなかったのですか」 「すみません。お会いしたのは二度目なのです。二度目にあんなことになってしまって、自分でもなにがなんだかよくわからないのです」 「最初に会ったとき、朝丘さんだとはわからなかったのですか」 「それが、その……」 「それがどうかしましたか」 「目隠しをしていたものですから」 「目隠しをして会ったのですか」 「アイマスクを付けるように言われて、ずっと付けていたので、朝丘さんと確かめたわけではありません」 「それではどうして朝丘さんらしいと推測したのですか」 「テレビを見ていて、朝丘さんがアイマスクを付けた女性とからむ場面がそっくりでしたので、朝丘さんかもしれないとおもったのです。アイマスク越しでしたが、身体の特徴もよく似ていました」 「最初の質問に戻りますが、電話を待っていたということですが、朝丘さんが先着していたのではないのですか」 「前にお会いしたとき、私が先に部屋に着いて、間もなく朝丘さんから電話があって、アイマスクを付けて待っているようにと指示されたのです」 「それで部屋で待っていた」 「はい。それが電話もなく、なかなかお見えにならないので、ふと隣りのベッドルームを覗《のぞ》いてみたら、男の人が死んでいたので、びっくりしてフロントに報《しら》せたのです」 「あなたがフロントに報せたのは十一時二十分を過ぎていたそうですが、その間、隣りの寝室を覗かなかったのですか」 「覗きませんでした。先に到着されて、寝室にいらっしゃるなどとは夢にもおもっていませんでしたから」 「あなたが朝丘さんに会ったのは二度目ということですが、それ以外に会ったことはありませんか」 「ございません」 「朝丘さんとはどのようにして連絡したのですか」 「ある人から紹介されたのです」 「ある人とは……」 「それは……」 「朝丘さんは殺されたのですよ。朝丘さんをあなたに紹介した人はだれですか」 「あのう、ご迷惑をかけることにならないでしょうか」 「これは殺人事件の捜査です。朝丘さんが殺されたのですから、あなたと朝丘さんの橋渡しをした人も無関係とは言えませんね」  牛尾に押されて、貴代子はようやく吉本という名前を漏らした。吉本は朝丘が所属する芸能プロダクションの幹部であった。  ホテルの予約も吉本がしていた。  吉本は呼ばれるまでもなく、プロダクションの社員と共にホテルへ飛んで来た。  死体は吉本によって朝丘であることが確認された。吉本から詳しく事情が聴かれて、朝丘と棚川貴代子との関係が明らかになった。  吉本が紹介する以前、両人の間にはなんのつながりもない。ここに貴代子は容疑圏外に去った。  死体は解剖に付された。  その結果、死因は金槌様《かなづちよう》の鈍器を用いての後頭部打撲に伴う脳挫傷《のうざしよう》。  推定死亡時間は一月三十日午後九時三十分より一時間。  薬毒物の服用は認められず、生前、死後の情交痕跡認められず。  というものである。  ここに新宿署に捜査本部が設けられて、本格的な捜査が始まった。  朝丘つまり重岡良作が殺害されたというニュースは、新開征記に深刻な衝撃をあたえた。  新開は重岡を新宿のホテトル嬢殺害事件の有力容疑者として、個人的にマークしていた。  なんの確証もないが、彼は自分の先入観を信じて、重岡の容疑性を掘り下げようとしていた。  その矢先に、重岡を殺されてしまったのである。しかも死体の発見者が貴代子であった。  当初、貴代子が疑われたらしいが、事件以前に被害者となんのつながりもないことがわかって、容疑を外された。  新開はニュースに接したとき、朝丘すなわち重岡殺しがホテトル嬢殺人事件と関連があるのではないかと考えた。  だが重岡をマークしたのは、新開のおもいこみである。  重岡は目下、芸能界の寵児《ちようじ》であるから、どこでどんな怨《うら》みをかっているかもしれない。  捜査本部もまずその方面に動機を追っている模様である。  新宿署に開設された捜査本部には、警視庁捜査一課の那須班《なすはん》が参加した。  今回の事件は性犯罪ではないので、新開の出る幕はない。  新開はホテトル嬢殺人事件の捜査で一緒になった那須班の棟居刑事に会って、捜査の状況を聞いてみることにした。 「やあ、過日はお世話になりましたね」  棟居は精悍《せいかん》な面に、懐かしげな笑みを浮かべて新開を迎えた。 「お世話になったのはこちらの方です。尻《しり》すぼみになって面目ないおもいです」  性犯罪の専門家である新開が出かけて行っていまだ解決していない事件だけに、徒労感が強い。 「あきらめたわけではありません。いまでも犯人の笑い声がどこからか聞こえてくるような気がします」  棟居も無念の表情を見せた。 「ところで、朝丘豊作が殺された事件ですが、実は彼は私の小学校の同期生なのです」 「朝丘が新開さんの小学校の同期生……それは知りませんでした」  棟居が驚きの色を浮かべた。 「それで捜査の状況が気になりましてね。なにか有力な手がかりがつかめましたか」  新開はさりげなく質問した。 「まだ暗中模索の段階です。芸能界の人気者ですから、複雑な人間関係があった模様です。事件の第一発見者は本人が呼んだプロの女性でしたが、ことほどさように本人はなかなか発展していた模様です。同業者の妬《ねた》みもあったようですし、ファンとの関係も見過ごせません。現場の状況から、行きずりの犯行とはおもえませんので、初期捜査の方針を動機関係に絞って洗っております」  よどみなく、棟居は捜査本部の現状を説明した。新開に親近感を持っているようだ。 「つかぬことをうかがいますが、丸井恵利子殺しとの関連は疑っていませんか」 「丸井恵利子、例の新宿のラブホテルで殺されたホテトル嬢ですね。現在、丸井殺しとの関連は考えておりませんが、新開さんにはなにか」  棟居が新開の顔色を探った。 「私の個人的おもいこみですが、ちょっと気になることがありましてね」 「気になることとおっしゃいますと」 「丸井恵利子は下毛を剃《そ》られておりましたね」 「それでフェティシストの犯行と疑われて、新開さんの応援を頼んだのですが」 「朝丘にも女性の剃毛癖《ていもうへき》があったようです」 「なんですって」  棟居の声が愕然《がくぜん》とした。 「確かめたわけではありませんが、事件の第一発見者にこの点を確認していただけませんか」  貴代子との関係は棟居にはとりあえず秘匿した。  新開が貴代子に問いただしても、本当のことは言わないだろう。  新開にしても、貴代子の秘所の形状に変化を感じただけで、自信があるわけではない。 「新開さんは朝丘に剃毛癖があるらしいことを、どうして知ったのですか」  棟居が驚きを鎮めて問うた。 「私の知り合いの女から聞いたのです」 「それは風俗関係の女性ですね」  新開はうなずいた。  いずれは棟居に貴代子との関係を打ち明けるつもりである。  棟居はそれで納得した。新開の専門から、風俗営業関係の女性に顔が広いとおもったようである。 「さっそく捜査会議に報告して、第一発見者に確かめてみましょう」 「しかし、朝丘に剃毛癖があるとすると、むしろ犯人サイドの人間になりますが」  棟居は臭跡から獲物の種類を嗅《か》ぎ分けようとしている。  たしかに棟居の指摘する通り、剃毛癖があるのは犯人サイドであって、被害者サイドではない。  犯人サイドに位置する朝丘が殺されたということは、攻守所を変えた形である。 「女性の剃毛癖があるのは、必ずしも朝丘一人には限られません。しかし、朝丘もホテルに風俗女性を呼んでいました。片や客から呼ばれたホテトル嬢が殺されて下毛を剃毛された。そして朝丘もコールガールを呼んでいて殺された。もし朝丘が彼女を剃毛していたらと考えると、相前後して発生した二つの事件がどうも気になるのです」  新開は自らの疑問を一気に言葉に発した。 「お話を聞いている間に、私も気になってきました。ともかく第一発見者にこの点を確かめてみましょう」  棟居は言った。 [#改ページ]  必死の悦楽  新開征記が棟居に会って帰って来ると、奥野から電話が入った。 「やあ、何度か電話を入れたんだよ」 「メッセージを残しておいてくれれば、こちらから連絡したのに」 「いや、忙しいから悪いとおもったんだ」 「遠慮は無用だよ。ところで、何度も電話をくれたところを見ると、急用らしいな」 「重岡が殺されたね」 「もう耳に入っていたのか。早耳だね」 「なにが早耳なもんか。ニュースであれだけ派手に報道すれば、日本中知らない者はない」  奥野は電話口で苦笑したようである。  芸能界の寵児《ちようじ》が殺されたとあって、マスコミは大々的に報道している。 「おれも驚いているんだよ」 「それで、犯人はだれなんだ」 「まだ捜査は始まったばかりだ。そんなことはわからない」 「そのことについて、気になったことがあって、きみに電話したんだ」 「気になったことってなんだ」 「例の約束だよ。忘れたわけではあるまい」 「例の約束……まさか」 「まさかきみが復讐《ふくしゆう》したわけではないだろうな」 「おい、よせよ。おれは刑事だぜ」 「刑事だが、四人で交わした約束は忘れていないだろう」 「それなら同じことがきみについても言えるぞ。きみが約束を果たしたのか」 「約束は忘れていないが、おれはもうそれほどロマンティストではないよ」 「すると、残りの二人が約束を履行したというのか」 「そうおもってもおかしくはあるまい。もし彼らが約束をおぼえていたとしたら、重岡は最近有名になったんだ。布川も中田も十八年振りに重岡の消息を知ったはずだ」 「十八年振りに重岡の消息を知って、約束を果たすために復讐したというのか」 「彼らがあの当時のままのロマンティストであれば、約束を実行したかもしれない」  奥野に示唆されて、重岡殺しの犯人として新開グループ四人組の線があったことに気がついた。熊木グループから刻みつけられた屈辱の記憶は、いまでもおもい起こすと心身がたぎり立つようである。  他の三人の仲間にしても同様であろう。  その点、奥野も容疑から外せない。彼らのだれかが、あるいは何人かが共同して、十八年後にその消息を聞いた重岡に報復したとは考えられないだろうか。  歳月の経過によっても、少しも風化されることのない自分の屈辱の深さを考えるとき、その可能性は充分にある。  奥野は「それほどロマンティストではない」と言ったが、新開にしても、もし刑事でなかったなら、重岡の消息に接して冷静ではいられないだろう。  いや刑事であっても、心は煮えている。職業が枷《かせ》になって行動を起こさないだけである。奥野が示唆した昔の仲間の線だとすると、重岡殺しはまったくべつの様相を帯びてくる。  重岡殺しはホテトル嬢殺人事件から切り離されてしまう。奥野に示唆されて、新開は小学校六年の時の同級生布川と中田の消息を知りたいと思った。  彼らはいま、どこで、なにをしているか。 (重岡殺しが彼らの犯行であれば……)  新開はその仮説から派生するべつの可能性におもい当たって、凝然となった。  誓った約束は、小熊と石本の二人に報復するまでは完全に履行したことにならない。  重岡を殺して旧怨《きゆうえん》に火を点《つ》けられた犯人が、残る二人に報復の鉾先《ほこさき》を向けないだろうか。この際、小熊と石本の消息も確かめたい。  二人の消息が簡単につかめるようであれば、彼らも危ない。いや、危ないのは自分自身である。  奥野から示唆されて、新開は自分の旧《ふる》い怨《うら》みに新たな火を点けられたようにおもった。  小熊と石本の消息を知るのが怖い。彼らの消息を知って、果たして冷静でいられるか。  新開もその意味では危険なロマンティストであった。  新開から示唆された棟居は、牛尾刑事に相談して、改めて棚川貴代子を問いただした。 「あなたは前回、朝丘と会ったとき、身体の一部になにか変更を加えられませんでしたか」  牛尾から遠まわしに聴かれた貴代子は、頬《ほお》を薄く染めた。プロの女性にしては純真な反応である。牛尾と棟居は心証を得た。 「いかがですか。なにかされませんでしたか」  牛尾にさらに問いつめられて、 「べつになにもされません」  貴代子はうつむいたまま答えた。 「本当ですか。これは大変重要なことです。朝丘さんが殺された四カ月前に、新宿歌舞伎町のラブホテルで女性が殺されています。その女性の下毛が剃《そ》られていたのですが、あなたも朝丘さんに同じことをされませんでしたか」  貴代子はうつむいたまま黙した。 「どうですか。剃られたんでしょう」  問いつめられて、貴代子はうなずいた。 「やっぱり」  牛尾と棟居は顔を見合わせた。 「でも、ほんの少しでした。剃られたのかどうか気がつかないくらいです」  貴代子は言葉を追加した。 「しかし、剃られたことは事実なのですね」 「はい」 「なぜ最初にそのことをおっしゃってくれなかったのですか」 「恥ずかしくて。それに、それほど重要なことではないとおもったのです」 「重要か重要でないかは我々が判断します。そのほか、朝丘さんからなにかされたことはありませんか」 「べつにありません」 「アイマスクを付けさせられて剃毛《ていもう》され、そして情交したのですね」 「二度目に会ったときはなにもしません。朝丘さんはすでに死んでいたのではないのですか」 「最初に会ったときのことを聴いています」 「それでしたら、すでに申し上げております」 「あなたは剃毛されたことを言わなかった。ほかにもなにかまだ言ってないこと、あるいは忘れていることはありませんか」 「ありません」  貴代子を再糾問して、朝丘に剃毛癖があった事実がわかった。  牛尾と棟居はこの事実を捜査会議で披露した。捜査本部はこれを重視した。  剃毛された被害者と、剃毛癖のある被害者が同じ新宿区内で間隔《インターバル》をおいて殺された。そこになんらかの関連があるのではないかと、捜査本部は睨《にら》んだ。  とはいえ、前のホテトル嬢殺人事件の捜査は迷宮入り寸前で、捜査本部は間引きされている。那須班の棟居らも間引きされて重岡殺しの捜査にまわされてきた。  それがなぜいまごろと、ホテトル嬢殺しとの関連を疑問視する声も部内にはあった。  だが、一つの新たな視点ではある。  捜査本部は改めて朝丘豊作と丸井恵利子、および棚川貴代子との関係の有無を調べた。  だが、この三者にはなんのつながりも発見されなかった。  朝丘豊作の死は貴代子に激烈なショックをあたえた。  自分を呼んだ客が殺害され、しかも彼女が死体の発見者となったのである。  彼女はその後、当分の間、ベッドの中から彼女を睨んだ朝丘の死相が瞼《まぶた》に焼きつけられて、うなされた。  だが、彼女のショックはそれだけにとどまらなかった。警察はどうやら彼女を容疑者の一人に数えているらしい。  冗談じゃないわ。殺されそうなおもいをしたのはこちらじゃないの。初めて朝丘に会ったとき、アイマスクを付けさせられ、刃物を身体に当てられて殺されそうな恐怖に痺《しび》れた。  あのとき丸井恵利子同様に、殺されてしまったとしても仕方のない状況にあった。  もし朝丘がプレイではなく、丸井殺しの犯人であったとしたら、貴代子は第二の被害者となっていたところである。  朝丘は貴代子の身体に深い後遺症を植えつけていった。  その後、貴代子の身体はアイマスクを付けないと感じなくなってしまった。客は貴代子の新趣向を喜んだ。  だがアイマスクだけではなく、彼女は犯されるパターンを好むようになった。それも凶器を用いて強制される体位を好むようになった。  彼女はいまでも視野を奪われ、冷たい凶器の肌で頬をピクピクと叩《たた》かれながら犯されたときの恐怖と官能が交錯しながら達した感覚が忘れられない。  恐怖に身体が麻痺《まひ》したようになりながら、一方では感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていた。  交尾が終われば牝《めす》に食い殺されることを予感しながらも交わりつづける牡《おす》(立場は逆であるが)、死の予感を伴った交接ほど刹那《せつな》的な官能が極まるものはないだろう。  それは一期一会の交わりに伴う必死の悦楽である。貴代子はその必死の悦楽の味が忘れられなくなった。  新開によって引き出されたメンタルな深い官能が、死の予感に裏打ちされたらもっと凄《すご》いことになるだろう。だが、新開との交わりは愛と信頼に満ちており、死の予感はない。もし死の予感を伴っていたら、精神の深所からあの官能の喜悦は引き出されなかったであろう。  新開と朝丘は貴代子の官能の両極端の位置にいた。信頼と不信、安全と危険、再会の期待と一期一会、既知と未知、合意と強制、和姦《わかん》と強姦、両極端なセックスのパターンに、貴代子の身体に内蔵されていた官能の両極が点火され、延焼の版図を拡げた。  もう一度、あの生死の堺界を漂流するような危険な交わりをしてみたい。  殺されるかもしれないという予感に怯《おび》えながら追求する悦楽。危険な情事のパートナーは自分の命を奪うかもしれない。そのパートナーは貴代子に危険な火種を植えつけたまま殺されてしまった。その火種は貴代子の身体の中でブスブスとくすぶっている。  もし炎を発すれば、心身を焼き滅ぼしてしまうかもしれないことを予感しながら、完全燃焼を求めて止《や》まない。  このくすぶりは新開をもっても鎮められないことがわかっている。むしろ新開に会えば、不完全燃焼が促されるだけであろう。新開が気づいた貴代子の本質を、彼女自身が察知して困惑していた。  生来眠っていたM傾向を朝丘に引き出された形であるが、一方では新開によって彼女のメンタルな官能を支配されている。  味覚が成長に伴って複雑な味をおぼえてくるように、貴代子のセックスの態様も高度にデリケートな発達をしていた。  朝丘にもう一度会いたい。もう一度会って、彼によって中途半端に点《つ》けられた炎の行方を見極めたい。たとえその炎が全身を焼き尽くすものであっても、炎の行方にある味奥を確かめたい。朝丘によって剃り取られた下毛は、元の形に返っていた。  朝丘が殺されてからしばらく経って、貴代子は一人の客に呼ばれた。  初めての客であったが、彼は貴代子の常連である医者の名前を紹介者として挙げた。  貴代子の居宅の電話番号は限られた人間しか知らない。  彼が貴代子に直電(直接電話)してきたということは、常連の紹介があったことを示すものである。  貴代子はその日の午後九時、客が指定したホテルへ行った。  指示された通り、フロントで名乗ると、キーを渡してくれた。  なにやら朝丘に初めて呼ばれたときと同じような気配がした。  用意されていた部屋はデラックスダブルである。  まずはほっとした。  これがスイートだと恐ろしくて隣室を覗《のぞ》き込めない。  部屋にはだれも待っていなかった。もちろんベッドの上に死体などない。  貴代子が部屋へ入るのを待っていたように、電話のベルが鳴った。  彼女はぎょっとなった。  恐る恐る受話器を取り上げると、直電の客の声が、 「やあ、来てくれましたね。本当に来てくれるかどうか、心配でしたよ。いまロビーです。これからすぐに行きますから、待っていてください」  と言った。  おそらくロビーのどこからか彼女の姿を見ていたのであろう。  アイマスクを付けるようにと指示はしなかった。  ほっとすると同時に、少し落胆した。  待つ間もなく、チャイムが鳴った。  貴代子はドアの外に朝丘が立っているような錯覚をおぼえた。  深呼吸してドアを開くと、三十前後と見える目の小さい小肥《こぶと》りの男が立っていた。  皮膚は青白いが、脂ぎっていて、細い目が貴代子の身体を衣服越しに詮索《せんさく》している。  朝丘とは似ても似つかない。  髪が薄くなって老けて見えるが、実際の年齢はもっと若いのかもしれない。  貴代子は少し落胆したが、心の奥で安堵《あんど》していた。  死の予感を伴う情事を頻繁に行なっていては、それこそ本当に寿命が縮まってしまうだろう。 「なるほど。予想した以上だね」  客は満足そうにうなずいた。  彼の全身から欲望が陽炎《かげろう》のように燃え立っているのがわかる。  獲物を狙《ねら》う動物の目のように細い目がキラリと光った。視線を貴代子の身体にからませたまま、客が一歩近づいた。 「シャワーを使いますわ」  衣服の上から撫《な》でまわされる客の視線に堪えられなくなった貴代子は、バスルームへひとまず逃れようとした。 「その必要はないよ」  客は言った。 「でも」 「私がそのように頼んでいるんだ。私が服を脱がしてあげよう」 「ちょっと待ってください。いくらなんでも」  貴代子は驚いて後退《あとじさ》った。 「どうせすることは同じだろう。きみをレイプしたい。おれはレイプしないと興奮しないんだよ」  客の目がギラギラ光っている。 「せめて灯《あかり》を暗くしてください」 「これを付ければいいだろう」  客がにやりと笑って、ポケットからアイマスクを取り出した。 「あなたは……」  貴代子は息を呑《の》んだ。 「なにもそんなに驚くことはあるまい。女に目隠しをしてレイプするのは珍しいことじゃないよ」 「あなたは朝丘豊作さんのお知り合いですか」 「だれだね、その朝丘というのは」  客の面《おもて》に特に反応は表われない。だが、彼が朝丘のセックスパターンを踏襲していることは明らかである。貴代子は客に壁際に追いつめられた。生臭い口臭が迫った。 「さあ、きみはおれの獲物だ。もう逃れられない。精一杯抵抗しろ。泣け。わめけ。部屋の壁は厚い。どんなに泣き騒いでも助けに来てくれる者はいないぞ」  客は貴代子を抱きすくめると、形ばかりの抵抗をした彼女にアイマスクをかけた。たちまち彼女の視野は奪われた。  貴代子をベッドに押し倒した客は、馴《な》れた手つきで衣服を剥奪《はくだつ》した。女を剥《は》ぐのに熟練した手つきである。 「見事な身体つきだ。女の旬《しゆん》だよ。肉は実り、脂が乗り切っている。うん、うまそうだ」  貴代子を剥ぎ終った客は、明るい照明下で彼女の身体を観察しているらしい。  羞恥《しゆうち》が先立って身体を閉じかけると、 「開け。もっと足を開け」  と両足をつかまれて、ぐいとこじ開けられた。強い力だった。ねっとりとからみつくような感触が足の爪先《つまさき》に伝わった。客は彼女の足の爪先を犬のように舐《な》めている。爪先を一本一本、丁寧に舐めた客は、その舌先を徐々に下肢から上体部へ進めてくる。  舌先にどのような魔力を秘めているのか、最初は不気味だった感触が、次第に皮膚の下から快感を掘り出してくる。彼の舌先が貴代子の微妙な箇所《かしよ》へ迫ってきたとき、彼女は無意識のうちに声をあげていた。  これまでにも舌を使う客はいたが、これほどオーラルテクニックに長《た》けた客は初めてである。  声をあげた瞬間、アイマスク越しに灯の消えたのがわかった。  貴代子の視野は一抹の光も見えない暗黒の底に沈んだ。  なにごとかと身構えようとしたとき、ぽっと光の輪が浮いた。 「おれがいまなにをしているかわかるか」  客が問いかけてきた。  貴代子が首を振ると、 「きみを見ている。ライトを点《つ》けて、きみの部分をじっくりと観察している。虫眼鏡でな」 「やめて」  貴代子は本気で哀願した。  全体像の観察ならともかく、灯を消し、その部分のみライトを照らしクローズアップして観察するのは悪趣味である。  いかに自分の容姿に自信を持っている女性でも、部分の拡大に堪えられる者はマゾヒストか露出マニアであろう。 「お願い、やめて」  貴代子は身体を閉ざそうとした。  だが、男の強い力にこじ開けられたまま身動きできない。 「おれはいま、きみをじっくりと観察している。きみはいま、自分の最もいやらしい部分を見られているんだ」  客が言った。 「それだけは許して」 「いや、許さない。恥ずかしいだろう。もっと恥ずかしがれ。恥ずかしいと言え」 「恥ずかしい」 「そうだ、その調子だ。もっと言え」 「恥ずかしいからやめて」 「駄目だ。もっと見ろと言え。恥ずかしいけど、もっと見てと言え」 「もう駄目」 「言うんだ。言わなければライトを押し込むぞ」  客の声が凄味《すごみ》を帯びてきた。 「見て」  貴代子はやむを得ず言った。  それを言うことによって恥じらいが消えて、静かな興奮が盛り上がってくるようである。 「恥ずかしいけど、もっと見てと言うんだ。さあ、言え」 「恥ずかしいけど、もっと見て」  あられもない体位を暗黒の中でクローズアップされて見つめられているということが、相手の巧みな誘導によって羞恥の抑制を取り外し、徐々に興奮を引っ張り出している。  それは、今まで知らなかった感覚であった。  貴代子は見られることの快感をおぼえ始めていた。  自分自身ですら覗《のぞ》いたことのない恥部を他人に見られている。  性的行為はすべて猥褻《わいせつ》である。  性交は最も淫猥《いんわい》なプライバシーである。  だが身体の交わりは、しょせん皮膚感覚的なものである。その官能の喜びは男女が共有したとき極まる。  いま貴代子は客の視線を身体の恥部に打ち込まれている。  自分の身体の未知の部分を無遠慮に覗き込まれ、ふだんは幾重もの遮蔽《しやへい》によって隠されている部分を、手術室での患部のように明るいライトで照らし出されている。  それが心の暗部に光を当てられたような狼狽《ろうばい》と、それを許容している自分にマゾヒスティックな興奮をおぼえさせるのである。 「そうだ。もっと開け。まだまだ開ける」  客は容赦なく命じた。  含羞《がんしゆう》の盃《さかずき》を底まで舐めれば、もはや恥じらいはない。  貴代子は文字通り開き直った。そして開き直りの底から、自虐的な興奮が立ち上がってきた。  そのとき貴代子は秘部に記憶のある感触をおぼえた。  冷たい金属の肌が当てられ、秘部の一部を剃《そ》り取られている。  貴代子の背筋に冷たいものが走り、全身が鳥肌立った。 (この人は、朝丘豊作に輪をかけている……)  ふ、ふ、ふと客が含み笑いをして、 「動くな。動くとあんたの大切な商売道具が傷つくぞ。怖がれ。もっと怖がれ。このままえぐり取るかもしれないぞ」  客は含み笑いをつづけながら、凶器の先で貴代子の肌をチクリと突いた。 「どうだ、怖いか。全身が鳥肌立っているな。これからあんたをゆっくりと切り刻んでやる。女の細切れだ。さすがドイツ製の剃刀《かみそり》だけあってよく切れる。毛を剃るだけではもったいないからな」  凶器の先端でチクリと刺された貴代子は、ヒッと悲鳴を喉《のど》の奥であげた。  すかさず彼女が脱いだ下ばきが口中に押し込まれた。  恐怖のあまり、彼女は危うく失禁しそうになった。  恐怖の極限に達したとき、部屋の照明が戻り、アイマスクを外された。  入室したときは気がつかなかったが、ベッドサイドの壁に鏡が仕掛けられていて、カバーが取りのけられている。 「よく見ろ。あんた自身の恥ずかしい姿を」  客に耳許《みみもと》でささやかれて、おもわず鏡面に目を向けた貴代子は、全身がカッと熱くなった。  自分のあられもない姿が鏡面になんの遮蔽もなく拡大されている。  おもわず目をそむけようとしたとき、貴代子の胎内に客が荒々しく侵入してきた。彼女は客の身体によってしたたかに貫かれていた。  死の予感を伴った交接に、彼女が深く達しかけた直前、客は身体を引き抜いた。貴代子が沸騰点の直前まで達しかけたということは、客も彼女と同じ高さまで駆け上ったということである。  そこで堪えたのは、なみなみならぬ抑制である。 「やめないで。つづけて」  貴代子は無意識のうちに口走っていた。  客はせせら笑って、貴代子の悶《もだ》える様を楽しんでいる。さんざん焦《じ》らされたところで、また突き上げられた。直下に達しかけたところで、ふたたび身体を引き抜かれる。  それは朝丘よりも巧妙であり、猫が獲物を弄《もてあそ》ぶように残酷で執拗《しつよう》であった。  結局、客は貴代子を存分に弄んだ後で、中途半端なまま放り出し、貴代子の悶々《もんもん》とする様を横目に眺めながら、自らの手を用いて満足した。 「なにかの小説に、最高の贅沢《ぜいたく》は列車やバスが最も美しい景色の中を通りかかったところで昼寝をすることだと書いてあった。だが、おれに言わせれば、そんなのは大した贅沢ではない。最も素晴らしい女がいる前で、女を焦らすだけ焦らした後、自分で満足することだよ」  客はにんまりと笑った。 「あなたってずいぶん屈折しているのね」  貴代子は身体にくすぶっている不完全燃焼をもてあましながら言うと、 「ちがうね」  客は言った。 「どうちがうの」 「男は女の身体の中に放出すると、その女は当分、男にとってゴムと同じになる。あれほど衝動的に、情熱的に求めた女性をゴムにしてしまうなんて、もったいないではないか。最後の一口を残すことによって、憧《あこが》れの女性をそのままに留《とど》めておきたいのさ」 「それはロマンティストなのかしら」 「贅沢なんだよ。一番|美味《おい》しいところを食べずに残しておく。満腹どきスーパーに入っても、なにも楽しいことはない。おれは空腹時にスーパーに入ると、溢《あふ》れるような食物にとても幸福な気持ちになれる。女の身体の中に放出しないのは、女性に対していつも空腹でいたいからさ」  客は貴代子に二十五万円くれた。五万円は剃り落とした下毛の代金だと言った。その部分はわずかであり、朝丘が剃り取ったのと同じ程度であった。 「また会いたいな」  別れ際に客は言った。  呆然《ぼうぜん》としていた貴代子は、客の名前を聞き損なってしまった。もっとも聞いたところで、正直に答える客はいない。  またへたに詮索《せんさく》すると嫌われる。何度か馴染《なじ》みを重ねるうちに、素性がおのずからわかってくるものである。  その客が紹介者として挙げていた知人に問い合わせてみたが、そのような人物の心当たりはないということであった。  おそらくこの客は跡を引くだろうと、貴代子はこれまでの経験から予感した。彼女自身も跡を引きそうである。  今宵の客は朝丘豊作よりも一段とパワーアップされていた。  これまで数多くの客に接してきたが、今夜の客ほどいやらしく執拗で、異常な刺激を彼女の身体に植えつけていった者はない。  異常な客や変態の客はいた。だが、死の予感を伴った異常な客は、朝丘と彼だけである。  そして朝丘は彼女の中で達したが、彼は貴代子に終止符を打たずに放り出した。  つまり彼女を生殺しの状態に放り出して、自らを慰めたのである。  貴代子の体内にくすぶった不完全燃焼は、時間が経過しても一向に鎮まらない。  むしろ時がたてばたつほど、強くくすぶってくるようである。  朝丘の余韻が綺麗《きれい》に消えて、その上により深く濃い客の烙印《らくいん》が押されていた。  体内にくすぶった欲求不満をもてあました貴代子は、新開に会いたいとおもった。  新開ならばこのくすぶりを鎮めてくれるだろう。いや、新開以外に鎮められる者はいない。  新開に連絡を取ると、珍しいことに彼の身体が空いていた。 「しばらく連絡がないので、どうしているかとおもったよ」  新開は懐かしげに言った。 [#改ページ]  屈折した発火《フアイア》  二日後彼らはいつものホテルで会った。  二人は奇妙な関係である。一度も身体の交わりがないのに、どんな熟練した夫婦も及ばないほどに、心身の隅々まで馴染《なじ》み合っている。  新開によって開発されたメンタルな官能は、深い愛情と相互信頼の上に築かれて、危険性の気配もない。  それだけに死の予感を伴った痺《しび》れるような情事の味を忘れかねている。まことにわがままなセックスパターンであり、貪欲《どんよく》な女体である。  食事の後、二人はもつれ合うようにして客室へ入った。 「どうしたんだ。いつものきみらしくないよ」  新開は言った。 「当たり前よ。しばらくほったらかしにされていたんですもの。あなたに飢えているわ」  貴代子は怨《えん》じた。 「飢えているのはおたがいさまだ。今夜に始まったことではないよ。飢えているのはもちろんだが、今日のきみはいつもとちがう」 「どこがどうちがっているの」  脛《すね》に傷持つ貴代子は、新開に客に刻みつけられた痕跡《こんせき》を気づかれたのかとおもった。 「よくわからないが、きみの中になにかべつの生き物が棲《す》みついたような気がする」 「なんだかエイリアンに取り憑《つ》かれたみたいね」  貴代子は苦笑したが、胸の内でうろたえていた。身体の奥でくすぶっている埋《うず》み火《び》は、たしかにべつの男によって植えつけられた生き物と言えないことはない。 「たしかに私の中にべつの生き物を飼っているわ。その生き物がお腹《なか》を空かして、あなたからもらう餌《えさ》を待ち望んでいるの。早く餌をちょうだい。さもないと飢え死にしちゃうわ」 「ぼくの餌で満足してくれるかな」 「どうしてそんなことをおっしゃるの。あなたの餌でなければ、決して満足できないわ。あなたのくださる餌しか食べられないのよ」 「よし、どのくらい腹を空かしているか検査してやる。ショーツを取って逆立ちをしろ」 「そんなことできないわよ」 「するんだ。きみの身体に棲みついた生き物を引きずり出してやる」  貴代子は言葉で抗《あらが》いながらも、下ばきを取り去ると、壁際に倒立した。スカートの裾《すそ》が引力に引かれて萎《しお》れた花びらのように垂れ下がり、下半身が剥《む》き出しになった。 「これからきみを犯す。生き物に止めを刺してやる」 「早く止めを刺して。頭に血が下りて苦しいわ」  貴代子は苦痛を訴えた。だが、新開はそのままの体位を維持させながら、貴代子の苦しむ様を凝視している。新開の目が光った。彼の目が驚きの色に塗られている。 「もう駄目」  貴代子が呻《うめ》いてくずおれた。 「きみの身体はどうしたんだ」  喘《あえ》いでいる貴代子に、新開が問いかけた。 「どうしたって、なにが」  貴代子は問い返した。 「きみの形が変わっているよ」 「私の形? なんの形が」 「一部が剃《そ》り取られている」  貴代子ははっとおもいあたった。  目で見分けられないほどわずかな部分であったが、新開に悟られたようである。  貴代子はこの場はとぼけ通すことにした。 「そんなはずはないわよ。そんなところをだれが剃るものですか」  貴代子は言い張った。 「ぼくの目はごまかせない。先端がわずかに剃られている。剃られたばかりの毛の断端は尖《とが》っているのですぐわかる。まだ剃って間もない。まさか自分自身で剃ったのではあるまい」  剃毛《ていもう》直後に情交すると感触でわかるが、先端のわずかな部分の剃毛を見破られるとはおもわなかった。 「貴代子、だれに剃られたんだ」  新開は問いただした。 「だれにも剃られたりなんかしていないわ」  貴代子は言い張った。 「嘘《うそ》をついてもわかる。きみが重岡……いや朝丘豊作に剃られたことはわかっている。この剃り取った形は朝丘とそっくりなんだよ。朝丘は殺された。きみの身体を朝丘と同じように剃った人間を無視できない」  新開の言葉に、貴代子ははっとなった。  新開は貴代子が朝丘を客として取ったことを知っている。  もっとも、新宿署の刑事たちにその事実を認めたのであるから、新開に筒抜けになったとしても不思議はない。 「貴代子、これは大変重大なことだ。最近、きみの身体を剃毛したのはだれなんだ」  新開は完全に刑事の顔になって詰問した。  もはやデートの雰囲気ではなくなっている。 「ごめんなさい、べつに隠しているつもりはなかったけれど、あなたがそんなに気にするとはおもわなかったの」 「殺された朝丘が剃ったのとそっくり同じ形にきみを剃ったのが気になるんだ。きみ自身が剃ったのでなければ、だれが剃ったんだ」 「それが朝丘豊作が殺された事件と関係があるの」 「あるかもしれないし、ないかもしれない。だれが剃ったのかおしえてくれないか」 「一昨日の夜会った人よ」 「だれなんだね、それは」 「それが……わからないの」 「わからない。どこのだれともわからない人間に剃らせたのか」 「許して。私も生活をしなければならないのよ」  貴代子は詫《わ》びた。 「そのことできみを責めているのではない。本当にどこのだれともわからないのか」  新開の表情は深刻である。 「ある知人に紹介されたと言っていたけれど、その人に問い合わせたら、知らないと言っていたわ」  貴代子の言葉は真実である。  だが貴代子自身が、その客と朝丘との間になんらかのつながりがありそうな気配を悟っている。  剃毛しただけではなく、セックスのパターンが朝丘と似ている。朝丘よりも強烈であるが、明らかに朝丘のパターンを踏まえている。  だからこそ、死の予感を伴ったレイププレイに強烈な興奮をおぼえたのである。 「話しにくいだろうが、その人物の特徴、癖、きみにしたことなどを細大漏らさず話してくれ。どんな些細《ささい》なことでもいい。おぼえていることをすべて、おもいだして話してくれ」  貴代子は新開のリクエストに、羞恥《しゆうち》に堪えながら、客との経験の一部始終を語った。 「すると、きみはその客に、もしかすると殺されるかもしれないという恐怖に怯《おび》えながら、相手を務めたというのか」 「自分自身がよくわからなくなっちゃったの。アイマスクをかけられ、暗闇《くらやみ》の中で凶器を当てられたときはぞっとしたわ」 「それが朝丘のやり方と同じだったというのだね」 「剃る前に全身|舐《な》めまわして、部屋の照明を消して、ライトで私の身体を覗《のぞ》いたり、さんざん私を弄《もてあそ》んだ後で、自分の手で満足したわ」 「朝丘はきみの身体の中で達したのだな」  貴代子は仕方なさそうにうなずいた。 「その客にもう一度会えば見分けられるかい」 「たぶん見分けられるとおもうわ」  貴代子の告白を聞いた新開は、その客が朝丘となんらかのつながりを持っているにちがいないと確信した。  二人の共通項は、レイプという形を取らないと女性に対して興奮しないことである。  女性を凶器を用いて脅かし、恐怖する様を見て楽しむサディズムの傾向、女体の剃毛癖等である。  素性不明の客に限られた性的傾向は、ライトで女体を観察する、オーラルセックス、女性の前で手淫《しゆいん》を好む等である。  だが、朝丘も貴代子に対しては用いなかっただけで、そのような性的傾向や特癖を持っていたかもしれない。  新開は朝丘が殺されたとき、丸井恵利子殺しとの関連を考えた。  いまここに、貴代子の第二の客が現われるに及んで、彼を丸井殺しの犯人の位置に置こうとしている自分に気づいて、はっとした。  貴代子が無事であったのは、たまたま彼女に朝丘の下地があって、第二の客のリクエストに素直に応じたからではないのか。  もし彼女が拒んだら、丸井と同じ運命をたどったかもしれない。 「その客は別れ際に、またきみと会いたいと言わなかったか」  質問が捜査員の口調になった。 「言ったわ」 「もしその客から連絡があったら、ぼくにおしえてくれないか」 「そのお客が怪しいの」 「なんとも言えない。しかし、朝丘と性的傾向が似ているのは見過ごせないね」 「怖いわ。もしまた連絡があったら、どうしようかしら」 「さりげなく会うんだ。ぼくがついているから心配ない」 「でも、その人、もしかしたら朝丘豊作を殺した犯人なんでしょう」  貴代子は怯えた振りをしているが、第二の客に会った時点で、すでに朝丘との関連を疑っていたようである。  殺されそうな予感に怯えながら、客のリクエストに応じた。  その強烈な刺激を忘れかねて、客からの連絡を心待ちにしているのであろう。  新開は性犯罪の専門捜査員になってから、さまざまな性犯罪を見てきた。  性犯罪の代表的なものはレイプであるが、SMや変態性愛、あるいは変態性的傾向から犯罪に発展したケースも少なくない。  SとMの男女が恋人のカップルや夫婦になれば問題はないが、どちらか一方がSMであると、悲劇となる。  SMのプレイも多様であり、縛ったり、火で責めたり、刃物や鞭《むち》を使用したり、薬品(催眠剤や浣腸《かんちよう》など)を使う類型がある。  納得ずくで始められたSMプレイが、度が過ぎて殺傷事件を惹《ひ》き起こすこともある。  正常なセックスからは喜びを得られなくなった男女が、発見あるいは発明した変態性愛が犯罪に発展するのは悲劇である。  変態性愛には生来的なものと後天的なタイプがある。生まれつき正常なセックスには興味が持てず、SMやフェティシズムや性的倒錯に走る者と、異性が得られず、あるいは異性に失望したり、あるいは近づけない内気な者が性倒錯に陥る。  性犯罪が多発するときは世の中が豊かなときである。特に食物が豊かで、栄養過剰な時代に性犯罪が頻発する。  戦時中、極端な食物欠乏期には性犯罪はほとんど影を潜めた。  とりあえず生存を脅かす敵がいなくなって、食物が充分に供給されると、俄然《がぜん》、性犯罪は目覚めてくる。  時代は今、特にそうなっている。  新開はそうおもった。そして、豊かな時代に生まれた自分の小学校時代のあのいまわしい輪姦《りんかん》事件をおもい、犯人グループの一人だった朝丘の顔を思い浮かべた。  新開は自分の担当する性犯罪の捜査に、豊かな社会の病蝕《びようしよく》を見るおもいがした。  豊かさを培養土として発生する性犯罪、そこに人間の複雑な歪《ゆが》みが見られる。  正常な男女として向かい合うだけで充分な満足を得られるのに、あえて歪んだセックスや性倒錯に走る人たち。  彼らが豊かさの申し子であるなら、豊かさそのものが人間性を歪めるのであろう。  貧しさは人間の肉体を歪め、豊かさは人間の精神を歪めるのか。  いや、貧しさも人間の精神を歪める。豊かさはむしろ人間の欲望を歪める。  食欲を満たされた人間が、性欲を歪められた。  新開は自分自身、屈折したセックスパターンの持ち主であるがゆえに、性犯罪者が他人事《ひとごと》ではなかった。  自分自身の影を追っているような気にさせられるのである。  彼が追っている犯罪者は、一歩まちがえば自分自身の投影である。  貴代子を問いつめて、第二の客の存在を探り出した新開は、しきりに胡散臭《うさんくさ》いにおいを嗅《か》ぎ取った。  似たようなセックスパターンの男はいるであろう。  共通項としては、女にアイマスクを付けさせ、レイププレイを好み、剃毛趣味があるだけである。この程度の共通項は異とするに足りない。  だが、嗅覚《きゆうかく》にしきりににおうきな臭さはどこからくるのか。  新開にはそのにおいに記憶があった。いつか、どこかで嗅いだようなにおいである。それがおもいだせない。  深海の底に沈んだ小箱の中に閉じこめられた記憶、その記憶を掘り出すためには息を詰めて深海へ潜らなければならない。  もう少しのところで呼吸がつづかない。もどかしく、いらだたしかった。  単に埋もれた記憶を掘り出せないだけでなく、重大な見落としがあるような気がしてならない。  なにを見落としているのか。  新開一人の憶測であるだけに、まだだれにも話せない。  新開は貴代子からの連絡を待つことにした。第二の客は日ならずして、必ず彼女を呼ぶだろう。  彼女を売春容疑で引っ張る。客は参考人として事情を聴く。  そのとき、必ずボロを引っ張り出してやる。  新開は心に期した。  この間、奇妙な事件が起きた。  世田谷《せたがや》区|代沢《だいざわ》三丁目のあるアパートの一室から小火《ぼや》が発生した。  二階の棟末の部屋から濛々《もうもう》と煙が噴き出て、室内から女のうめき声が聞こえてきたので、驚いた隣人たちがドアを叩《たた》き破って室内に入ると、その部屋の入居者|飯沼敏夫《いいぬまとしお》の妻|弘子《ひろこ》が下着姿で、手足をロープで縛られ、猿ぐつわをかまされ、畳の上に転がっていた。  彼女のかたわらでは座布団がくすぶり始めていた。  隣人たちは窒息寸前の彼女を、室外に運び出すと、くすぶっている座布団に、手近にあった金魚鉢の水をかけて消した。  幸いに発見が早かったので大事には至らなかった。  だが隣人が居合わせなかったら、どんなことになったかわからない。  きわどいところで救出された弘子は、煙を吸い込み、声帯が爛《ただ》れて声が出ない。  弘子には全身に鞭で打たれたようなみみず腫《ば》れが認められた。  弘子の夫飯沼敏夫は会社に出勤していて留守であった。  座布団を調べたところ、煙草の吸殻が発見された。  夫が妻を殺すための計画的な放火と睨《にら》んだ管轄署は、警視庁のマン暴に応援を要請した。  職場に出勤していた飯沼敏夫に任意同行が求められ、新開が事情を聴いた。  飯沼夫婦は結婚して一年である。夫婦の間に子供はない。  危うく焼死しかけた弘子は、二十二歳の色白の肉感的な女性であった。  夫婦の間になにがあったかわからないが、妻を縛り上げて身体の自由を拘束し、焼き殺そうとしたのであれば、稀《まれ》にみる凶悪な犯罪である。  新開から取調べを受けた飯沼は、顔色を変えて弁明した。 「妻を焼き殺すなんて、とんでもない。私たちは愛し合っています。火事になりかけたのは事故だったのです」  飯沼は必死だった。  新開は注意深く飯沼の表情を観察しながら言葉を続けた。 「奥さんを縛り上げて、火の点《つ》いた煙草を座布団の上に放置していったのが事故だというのですか。奥さんは猿ぐつわをかまされていた。幸いにも猿ぐつわが外れたので救いを求められたが、猿ぐつわが外れなかったら発見が遅れて、危なかったかもしれない」  反面、猿ぐつわが外れて悲鳴を上げたために大量の煙を吸い込んで、喉《のど》が爛れてしまったのである。  弘子の声が出ない分、飯沼への疑いは強まった。 「妻はマゾなのです。手足を縛り、鞭で叩いたり尖《とが》ったものでチクチク身体を刺したりしながら汚い言葉をかけると、凄《すご》く感じるのです。私はべつにサドではありませんが、そうしてやらないと妻が感じないので、仕方なく調子を合わせております。  それというのも、彼女をマゾにしたのは私に責任があるからなのです。高校の同窓会に出席した彼女が、昔の恋人に再会して外泊したのを怒った私がロープで縛り上げ、鞭で叩いた後、嫉妬《しつと》に駆られて身動きできない妻をレイプしたのですが、妻はそのときの強烈な刺激が忘れられなくなって、マゾになってしまったのです。  今朝も出勤前に妻から身体を縛るように求められました。私は気が進まなかったのですが、もし縛らなければ留守中、浮気をしてやると脅かされて、仕方なく言われた通りにして出勤しました。  そのとき吸いかけの煙草を灰皿に置き忘れて行ったのが、座布団の上に落ちたのだとおもいます。私は妻を愛しています。殺すなどと、とんでもないことです」  飯沼は必死に訴えた。 「それを証明できますか」 「弘子に聞いてください。妻が証人になってくれるでしょう」 「奥さんは極度の興奮状態の上、煙で喉が爛れて言葉を話せなくなっています」 「そんな」  飯沼は泣き出しそうな表情になった。  弘子をMとは知らないアパートの隣人たちも、飯沼夫婦がよく罵《ののし》り合い、夫が妻を打擲《ちようちやく》しているような気配を聞いたと、飯沼に不利な証言をした。また弘子が首筋や露出した皮膚にみみず腫れや痣《あざ》をつけているのを、隣人たちは見ている。  だが、弘子の回復を待たずに、飯沼の無実が証明された。  現場を再検証した新開は、座布団に煙草の吸殻が落ちた箇所《かしよ》と、座布団の焼け焦げが微妙にずれていることに気づいた。  煙草の吸殻が火元になったのであれば、焼け焦げは吸殻の位置から発するはずである。  ところが吸殻があった箇所は、座布団のカバーがわずかに焦げているだけで、綿に達していない。ということは、吸殻の火は綿に燃え移る前に消えてしまったことを意味する。  すると、座布団の火はなにから発したのか。新開の目は室内にあった金魚鉢に向けられた。駆け込んで来た隣人が、咄嗟《とつさ》に金魚鉢の水を座布団にかけて消し止めたので、金魚鉢は空になっている。  その中に飼われていた数匹の金魚は、突然の出火の犠牲になってしまった。 「火事を発見したとき金魚鉢はどこにありましたか」 「いま置かれている位置にありました」  消火した隣人が証言した。 「あなたが玄関のドアを叩き破って室内に入ったとき、窓のカーテンはどうなっていましたか」  新開は隣人に訊《たず》ねた。 「朝でしたので、開かれていました」 「事件が起きた朝はたしかいいお天気でしたね」 「朝からよく晴れていました」  煙が噴き出したのは午前十時ごろである。  新開はふとおもいついたことがあって、金魚鉢に水を満たして元の位置に置いた。座布団も事件発生時の位置に置く。  そして翌日、午前九時から現場で待機した。幸いに事件発生日と同じく、よい天気である。午前十時が近づいた。  窓から射《さ》し込んだ朝日が、金魚鉢を通して座布団に照射している。  間もなく座布団がくすぶり始めた。  窓と座布団のちょうど中間に置かれた金魚鉢が、凸レンズの役を果たし、折から窓から射し入ってきた朝の光線を座布団の一点に集めて発火させたのである。  座布団の発火点と煙草の吸殻の落ちた位置の微妙なずれが、新開の目を金魚鉢に向けて、飯沼の無実を証明したのであった。 [#改ページ]  説教《ノリト》なき戦力 「おじさんは説教《ノリト》をあげないから好きだよ」  事が終ると、少女は馴《な》れた手つきで煙草をふかしながら言った。  十四歳の中学生であるが、身体の要所要所は充分な丸みを帯びている。十七、八歳といっても通りそうな早熟な身体に騙《だま》されて、けっこう客が引っかかるらしい。  派手な衣装を着け、濃い化粧を施してせいぜい大人ぶっているが、時どき覗《のぞ》く幼い表情が本当の年齢を物語ってしまう。 「ノリトしたら、できなくなってしまうじゃないか」  奥野信司は苦笑した。 「そんなことはねえよ。オジンはみんな、いっぱしのノリトをあげた後で、することはちゃんとするよ」 「することはするかい」 「するよ。みんな、払った金の分だけはしなきゃあ損だと、せっせと励むよ」 「どんなノリトをあげるんだい」 「みんな決まってるよ。きみのような若い子がそんなことをしていてはいけない。だったら、てめえがいけないことをやめればいいじゃねえかと言ってやるんだ」 「そう言うと、どうする?」 「たいていギクッとした顔をするけれど、やめたオジンはいねえよ」 「そうだろうな。一時間三万円、決して安い金ではないからな」 「安くもねえけど、高くもねえとおもうよ。自分の娘のような女を三万円で買えるんだ。やることはちゃんとやらせてやってるよ」  少女はしゃらっとした表情で言った。 「あんたの身体だ。いくら売《ばい》してもあんたの自由だが、病気だけはもらわないようにしてくれよな。これはノリトじゃないよ。おたがいの幸せな関係をつづけるための忠告だ」 「わかってるよ」 「今日のお礼だよ」  奥野は少女に五枚の一万円札をつかませた。 「こんなにもらっちゃ悪いよ」 「いいんだよ。おれはきみのお客じゃない。恋人のつもりだ。恋人にプレゼントをするのは当たり前だろう。これできみの欲しいものを買ってくれ。それがおれのプレゼントだ」 「それじゃあ、もらっとくね。また呼んでね」  少女は身支度をすると、部屋から出て行った。奥野はそのままの姿勢で、少女の体温が残っているベッドに横たわっていた。  少女の体臭がシーツに沁《し》みついている。刺激的なにおいである。奥野はそのにおいを嗅《か》いでいる間に、ふたたび体力が充実してくるのをおぼえた。 (少し早く帰しすぎたかな)  奥野は少女を帰らせたことを悔やんだ。  電話をかければ女はいくらでも飛んでくる。しかし、どこのホテトルも十四歳の少女は揃《そろ》えていない。奥野は自分の身体を呪《のろ》った。彼の身体は少女でなければ機能しない。少女に対してだけ男として機能する。  十三歳未満の少女に対しては、たとえ相手の合意を得ていても強姦《ごうかん》罪が成立する。  彼のパートナーの少女は十四歳である。辛うじて強姦罪は免れるが、それも少女の言葉を鵜呑《うの》みにしているだけで、果たして十四歳かどうかわからない。  いまの少女とつき合えるのも、あとせいぜい一、二年である。彼女が十五、六歳になれば、少女から脱皮して大人《アダルト》の女に近づく。  少女を脱皮した女には、もはや用はない。彼女が少女でいる間に、次の少女を確保しておかなければならない。いまのパートナーは早熟なせいか、脱皮が早そうである。すでに大人に近づきつつある。次の少女の手当てを急がなければならない。  ようやく少女の体温が消えたベッドから、奥野はのろのろと身体を起こした。軽くシャワーを使って身支度をする。欲望を少女の身体の中に排泄《はいせつ》した後の下半身が軽い。  ホテルをチェックアウトして街へ出る。宵の口の週末の街は賑《にぎ》やかである。楽しげな若いカップルの姿が目立つ。  奥野は彼らを羨《うらや》ましいとおもった。女と連れ立っている男たちは、それなりに人生の荷物を背負っているのであろうが少なくとも奥野のような荷物を抱えてはいないだろう。彼らはいずれも安定した女にありついている。  若い女もいずれは老いる。だが、女と歩調を揃えて男も老いていく。年齢差はいつまでたっても変わらない。その意味で、彼らの、パートナーは不変である。  だが奥野のパートナーはちがう。奥野の場合、パートナーだけがどんどん年を取っていく。奥野のパートナーたりうるのは、せいぜい二年である。 (おれの人生は一体なんなのだろうか)  奥野は時どき自分に問いかける。  狩猟民族のように彼の人生は、ただ少女を狩ることだけにある。それ以外の一切は付随行為にすぎない。  身過ぎ世過ぎのためにブルセラショップを経営し、変態性愛の目的物を売買しているが、これも少女狩りの付随行為である。  せっかく人間に生まれて、一度限りの人生を少女を狩ることだけに費やしてしまうのは、あまりにも虚《むな》しいのではないか。  ホテルを出た奥野の足は、無意識のうちにセンター街へ向かった。この界隈《かいわい》には渋カジ族に混じって家出少女が屯《たむろ》している。  だが、十三歳未満の少女には手を出せない。彼女らは今夜の宿にありつくためだけに、その幼い身体を提供する。  いかに喉《のど》が渇いていても、彼女らは飲めない海水のような存在である。  彼女らはたいてい年齢を偽っている。早熟な身体と大人びたうわべに騙されて手を出すと、たちまちレイプで引っ張られる。  十三歳以上でも、条例のある地方で表沙汰《おもてざた》になれば淫行《いんこう》勧誘罪に引っかかる。  いずれにしてもロリコン趣味は危険を伴っている。  奥野のロリコンは川島洋子の呪縛《じゆばく》によるものである。幼い日の女神であった洋子が、番長の熊木グループに蹂躪《じゆうりん》されている場面を目前にしながら、彼女を救うために指一本上げることができなかった。  あのときの光景が、いまでも決して薄れることのない残像となって瞼《まぶた》に刻みつけられている。  その残像と、洋子から貼《は》られた卑怯《ひきよう》というレッテルが、彼を大人の女性に機能しない身体にしてしまった。  アダルトの女性にまみえると、心身が萎縮《いしゆく》してしまう。一種の原体験として幼年期の後遺症がいまでもつづいているわけである。  それは忌むべき原体験であると同時に、強烈な幼年期でもあった。  小学生で殺人の経験をもっている者はあるまい。小学生が殺人罪で起訴されることはない。  十四歳未満の少年は責任能力がない。だが、責任能力がなくても、殺人そのものの凶悪性が失われるわけではない。  奥野はいまでも、熊木目がけて石を投げ落とした瞬間の暗い興奮を忘れることができない。  罪の意識などひとかけらもない。あのときと同じ場面に出会えば、何度でも同じことをするであろう。  熊木は何度殺しても殺したりない屈辱を、奥野の心に刻みつけたのである。  殺したりない欲求不満が、あのときの幼い約束として小熊、石本、重岡の三人に延長している。  奥野はいまでもあの小学生最後の夏休みを想起するつど、魂が痺《しび》れるような興奮をおぼえる。暗い病的な興奮であるが、少女狩りに憂き身をやつしている現在に比べて、まぎれもなく生きている感触があった。  いまつき合っている少女は、ナマパン(ハキパンを店で脱いで売る)を売りに来たモニターの中から選んだ子である。  だが、モニターはほとんどが高校生で、中学生は少ない。稀《まれ》に中学生がいても高学年で、すでにアダルトのにおいを発散している。  十三歳を超え、アダルト(のにおいを発する)以前の子となると、極めて少なくなる。  途中からスペイン坂の方面へ折れたとき、突然人込みの中から一人の少女が飛び出して来た。彼女はぼんやり歩いていた奥野に突き当たると、 「助けて」  と言った。  少女の顔色が変わっている。少女が走って来た方角に数人の追いかけて来る気配がする。咄嗟《とつさ》に奥野は少女の手を引っ張ると、走り出した。路地から路地を伝って走ると、背後の追跡の気配は消えた。 「おじさん、有り難う」  少女は息を切らしながら礼を言った。  一見、十三、四歳、顔は幼いがミニスカートから覗《のぞ》く太股《ふともも》が張り切って眩《まぶ》しい。  手に小さな鞄《かばん》を提げている。家出少女かもしれない。 「どうしたんだい」  奥野ははからずも懐に飛び込んで来た形の少女を品定めしながら、問うた。 「からまれたの。つき合えって言われて、怖くなって逃げて来たの」  からまれた理由は言わない。 「一人でこの辺を歩いていると危ないよ」  奥野はそれとなく注意した。 「気をつけます」  少女は素直に答えた。色白ぽっちゃりの、身体つきはまだ幼いが近い将来の実りを予感させる素質を感じさせる体型である。 「きみ、いくつ」 「十二歳です」  十二歳では手を出せない。奥野は失望した。 「でも、あと一カ月で十三歳になります」  少女は奥野の胸の内を見透かしたように言葉を追加した。 「一カ月で十三歳か」  奥野は改めて少女に目を向けた。 「きみ、どこへ行くつもりなの」  奥野は下心を隠して問うた。 「べつにどこへ行くあてもありません」 「行くあてもないって、家はどこなの」 「茨城県です」 「これから茨城へ帰るのかい」 「家には帰りません」 「家に帰らない? それじゃあ東京の親戚《しんせき》か友人の家に泊まるつもりなの」 「親戚や友達はいません」 「きみのような女の子一人をホテルは泊めてくれないよ。どこへ泊まるつもりなの」 「よくわかりません」 「よくわからないって、きみ、お金は持っているの」 「おじさん、私を買ってくれない」 「大人をからかうもんじゃないよ。十二歳の女の子を買ったら強姦《ごうかん》になっちゃうよ」 「私が売りたいんです」 「たとえ本人の同意があっても、十三歳未満では強姦になるんだよ」 「困ったわ。私、どうしよう」  少女は途方に暮れたように立ちすくんだ。  推測の通り、どうやら金も持たずに家を飛び出して来たらしい。奥野の胸に野心が消えて、同情が湧《わ》いた。しかし、下手に保護すれば、誘拐の疑いをかけられるかもしれない。 「東京が危険なことはよくわかっただろう。夜行の列車に乗って家へ帰りなさい」 「お金を持っていないのです」 「家に帰る汽車賃ぐらい、おじさんがあげるよ」 「お金をもらっても家には帰りません」 「困ったな。家ではご両親が心配して、きみの行方を探しているよ」 「私の行方なんか絶対に探さないわ。いなくなってほっとしているわ」 「娘が家出してほっとする親なんかいないよ」 「本当の親じゃないもの」 「なにか事情がありそうだね。警察へ行った方がいいよ」 「警察なんか絶対に行かない」  奥野は厄介なことに関わり合ったとおもった。  当初は懐に飛び込んで来た形の好みのタイプの少女に野心が動いたが、十二歳の家出少女となると下手に手は出せない。  かといって、このまま放り出すわけにもいかない。奥野自身が狼の一匹であるが、このまま少女を放置するのは、飢えた狼の群の中に仔羊《こひつじ》を放すようなものである。群よりは一匹の方がましだろう。  奥野は乗りかかった船だとおもった。とりあえず一夜の宿を提供して、明日のことはまた明日になってから考えればよい。 「よかったら、おじさんの家に来ないか。もっともおじさんを信用してくれればの話だがね」  奥野は言った。  奥野の申し出に少女はほっとしたように、 「有り難う。今夜は公園のベンチで野宿しようかとおもっていたんです」  と言った。  いま会ったばかりの奥野を信じ切っているようである。そのあまりな素直さに、奥野はますます少女を見捨てられなくなった。  少女は北野《きたの》ひろみと名乗った。  ひろみがぽつりぽつり語ったところによると、幼いころ両親を失い、茨城の北端の町に住んでいるおじ夫婦に引き取られたが、学校へもろくに行かされずに、おじの経営するスナックバーでホステス代わりに働かされるのがいやで、飛び出して来てしまったという。  奥野はひろみを一晩泊めてやって、翌日、ひろみの家に連絡を取った。  ひろみのおじが電話口に出た。奥野がひろみを保護している旨を伝えると、相手は礼も言わず、すぐに送り帰してくれと言った。 「しかし、本人は絶対に帰らないと言っているのですが。所持金もありません」  奥野が言うと、 「いま手が離せないので、迎えに行けません。すみませんが連れて来てもらえませんか。旅費はあとでお支払いします」  おじは保護した以上、家まで連れて来るのが当然というような口調で言った。 「しかし、本人が絶対に帰らないと言い張っているのですが」  奥野は電話口で当惑した。首に縄をつけて無理に引っ張って行くわけにもいかない。 「それでは仕方がありません。そのうちに私が迎えに行きますから、すみませんが、それまでお宅で預かっていてもらえませんか」  おじは図々《ずうずう》しいことを言った。  だが、奥野にしてみれば渡りに船の申し出である。ひろみを一夜手許に置いて、手放し難い気持ちになっている。おじの依頼を受ければ、誘拐にはならない。奥野とひろみの奇妙な同居生活が始まった。その後、おじからはなにも言ってこなかった。  ひろみは奥野の店を甲斐甲斐《かいがい》しく手伝い、 「おじさん、ナマハキパンやホカブラを外から買うことはないよ。私がいくらでもつくってあげる」  と言って、商品を�生産�してくれた。ひろみが来て、店の客が増えた。客はひろみの使用下着を喜んだ。 「写真よりも本人がいた方が信用できるよ。生写真が付いていても、本当に写真の主のものかどうかわからない」  ひろみは常連客には着用している下着を客の前で脱いでサービスした。ひろみのナマパン、ホカブラは客に圧倒的な人気があった。 「ひろみちゃんのナマパンは神棚に供えて、毎朝|柏手《かしわで》を打っているよ」 「うちでは仏壇に供えて念仏を唱える。ご先祖様のいい供養になるよ」 「おれなんか、ひろみちゃんのナマパンを穿《は》いているよ。交通事故のお守りになる」  客は半ば真顔で言った。  ひろみの使用下着は順番待ちをするほどである。いまやひろみは奥野の店にとって欠かせない戦力になった。 [#改ページ]  ワンセットの性戯《プレイ》  新開征記は棚川貴代子からの連絡を待った。貴代子の感触では必ず再度のコールがあるという。  変態性愛の持ち主は、セックスパターンの合うパートナーを探し求めている。  彼にとって貴代子は得難いパートナーであったはずである。そのようなパートナーはめったに得られるものではない。  十日後、貴代子から連絡があった。 「来たわよ。明日の夜九時、Nホテル、この前と同じだわ」 「悟られないように行ってくれ。現場を押さえたい」 「現場を押さえるって、いやだわ」  貴代子は客とのセックスシーンを想像したらしい。 「客と部屋で合流したところを押さえたい」 「部屋で落ち合ったら、すぐ来てちょうだいね。恥ずかしいわ」 「なにが恥ずかしいんだい」 「意地悪」  貴代子は怨《えん》を含んだ声で言った。  新開のために売春の現行犯を演じようとしている。そのためには自分の正体を恋人の目の前にさらさなければならない。その辛《つら》さと恥ずかしさをわかってほしいと貴代子の声は訴えていた。  だが貴代子が堪えなければならないものはそれだけではない。もし相手が丸井恵利子殺しや重岡殺しに連なっていれば、生命のリスクを懸けなければならない。新開にとっても、それは危険な賭《か》けである。  ホテルに当たったところ、貴代子名義の予約は男の声で、電話でなされたという。  翌日午後九時、貴代子は指定された時間にNホテルへ赴いた。  フロントで名前を告げると、キーを渡された。キーを受け取って部屋へ赴く。  貴代子は用意されていた客室へ入った。客はまだ着いていない。  電話を待っていると、ドアにノックがあった。開いてみると、先日の客が立っていた。 「やあ、よく来てくれたね。会いたくてたまらなかったよ」  客は脂ぎった目で貴代子を眺めた。その目はすでに貴代子の裸身を知っている目である。彼女の身体のツボを衣服越しに探っている。貴代子もその無遠慮な視線を許している。夫婦や恋人同士ではないが、一度でも肌を交えた男と女の間には、一種の親密なコミュニケーションが成立している。  身体の切り売りをしていても、握手だけでは達せられない親近感である。共犯者の親近感に一脈通ずるものがある。 「さあ、またこれを付けたまえ」  客は一切の前置きを省いて、アイマスクを差し出した。  合意のなった男女の間では、合意以前の段階《ステージ》に戻る必要がない。  アイマスクを付けさせられ、ベッドに押し倒されてからでは、新開に最も見せたくない場面を展開してしまう。 (早く来て。なにをしているの)  貴代子は口中で新開を呼んだ。だが、まだ新開の気配はない。 「さあ、なにをしているんだ。早くアイマスクを付けなさい」  客が促した。  やむを得ず貴代子はアイマスクを付けた。ほとんど同時に彼女の首に紐《ひも》がかけられた。 「あっ、なにをするの」  と言ったつもりの言葉が声にならない。  紐は喉仏《のどぼとけ》の辺りで交差され、強く絞められた。声帯が圧迫された。 「今日は新しい趣向でプレイする。どうだ、苦しいだろう。息がつまる。きみは窒息しかけている。このまま紐を絞めつづければ、きみは確実に死ぬ。きみは死にながら犯される。いや、犯されながら死ぬのだ。生と死にまたがるセックスだ。この世からあの世へセックスのブリッジを架けてやる。こんな橋を渡ってみたいとおもわないか。達したときに死ぬんだ」  客の言葉を耳許《みみもと》に聞きながら、貴代子の意識は消失しかけた。  そのときはるか遠方にドアのチャイムが聞こえた。貴代子は朦朧《もうろう》とした意識の底から、ドアの方角に見おぼえのある新開のシルエットを見て取った。  貴代子の部屋に客が入ったのを確かめた新開は、五分待ってから部屋のチャイムを押した。  売春の摘発はもっぱら女を的にする。客はあくまで参考人である。だが新開の本命の的は客の方にある。  何度か虚《むな》しくチャイムを押し、ノックをしたところで中から男の声が誰何《すいか》した。 「警察の者ですが、少々おうかがいしたいことがあります」  新開はドアアイに手帳をかざした。  室内に身構えたような気配が感じ取れて、ドアが渋々と開かれた。ドア口には新開と同年輩と見える目の小さい小肥りの男が立っていた。以前、どこかで見かけたような顔であったが、咄嗟《とつさ》にはおもいだせない。  素早く室内に目を向けると、アイマスクを付けた貴代子がベッドに横たわっていた。その姿勢に異常をおぼえた新開は、客を押し退けるとベッドサイドへ走り寄った。 「貴代子、大丈夫か」  声をかけたがぐったりとしたまま応答がない。喉に紐が巻きついていた。 「貴代子、しっかりしろ」  新開が貴代子の上体を抱き上げて声をかけると、ようやく意識が戻った様子である。 「これはどうしたことですか」  新開は客の方に姿勢を向けた。返答次第によっては許さないという構えである。 「きみこそなんなんだ。他人《ひと》の部屋へいきなり押し入って来て」 「女性の首に紐をかけて絞めていたとは、穏やかではありませんね」 「プレイだよ、プレイ。その人も了解の上だ」 「この女性とあなたはどのようなご関係ですか」 「そんなことをいちいちきみに話す筋合いはない。警察といえども他人の部屋に勝手に侵入していいという法はない。住居侵入で訴えるぞ」  客は開き直った。 「どうぞ。訴えると、あなたの方が困るのではありませんか」  新開に指摘されて、客はぎょっとなったようである。 「おれはなにも困ったりなんかしないぞ」  客は肩をそびやかした。その瞬間、新開は彼の素性をおもいだした。同時に相手も新開に気づいたらしい。 「あんたは石本」 「おまえは便所虫の新開」  二人は異口同音に言った。  客は仇敵《きゆうてき》の一人石本成一であった。  意外な場面で石本に再会した。だが新開の意識の中で意外であっただけで、論理的には意外ではないかもしれない。石本ならば、重岡とつながりがあって当然である。  石本はその場から参考人として任意同行を求められた。売春の参考人であると同時に、殺人未遂の容疑があった。  石本は殺意を否認し、あくまでもプレイであると言い張った。  だが、貴代子の殺されるかもしれないとおもったという証言が、石本の立場を深刻にしていた。  丸井恵利子は絞殺されたのである。 「丸井恵利子などという女は、名前も知らなければ会ったこともない。重岡とは卒業以来音信不通だ」  と石本は主張した。  石本は現在、自由が丘で不動産仲介業「石本オールディスカウント」経営の看板を掲げているが、裏へまわると暴力団と手を組んで、手形のパクリや不良債権の取り立てなどをしているらしい。前科はない。  貴代子のことは取引先から話を聞いて呼んだという。さらに丸井恵利子が殺された夜については、仕事で広島に行っていたことがわかり、明確なアリバイが成立した。  丸井殺しの嫌疑が晴れてみれば、貴代子についての殺人未遂の認定は無理になる。  ホテルの客室にプロの女性を呼んで、首に紐を巻きつけていただけでは、プレイと言い張られればそれまでである。  貴代子とはすでに前に一回会っており、それを踏まえてのセカンドコールとなった。  石本は叩《たた》けば埃《ほこり》の出そうな身体であったが、これ以上引き止めておくべき理由はなかった。  石本成一と再会したことは、新開の心の傷の瘡蓋《かさぶた》を引き剥《は》がした。石本は新開を認識すると、便所虫と罵《ののし》った。  十二歳のときの屈辱の傷は十九年しても少しも癒《いや》されることなく、胸の深所で血を流しつづけていた。 「あんたが刑事になっていたとは知らなかったよ。便所掃除をしている方が似合うんじゃねえのか」  石本は捨て台詞《ぜりふ》を投げつけて帰って行った。  その後、石本は頻繁に貴代子を呼ぶようになった。  石本は屈折したセックスパターンの持ち主であった。S傾向もあったが、セックスのあらゆる傾向とテクニックに通じている。女体のツボを知り尽くし、女を翻弄《ほんろう》した後で女を放り出し、身悶《みもだ》えする女の前で自らを慰めた。  どうやら石本は新開が疑った朝丘殺しや、ホテトル嬢殺しとは関係なさそうである。また事件の関係の有無とはかかわらず、貴代子が石本のセックスパターンに傾斜してきていた。  石本が技術と経験を駆使して、彼女の身体を導き、オルガスムスの直前で放り出されることにマゾヒスティックな快感をおぼえるようになっていた。 「本当のセックスの味は達することではない。堪えることなんだ。達すれば、あとは下りるだけでなにもない。堪えろ。辛抱しろ。苦しいほどに辛抱して、欲求不満の炎に焙《あぶ》られろ。その炎にじりじりと焦がされる苦痛が本当のセックスの味なんだよ」  と石本は言った。  貴代子には堪えることが本当のセックスの味かどうかはわからなかったが、石本によって煽《あお》り立てられた欲求不満の炎を、新開によって鎮められることに最高の悦楽をおぼえた。  つまり、彼女の性の愉悦は、新開と石本がワンセットになって達せられるようになったのである。  新開と石本は古い知り合いらしいが、二人の間にはなにかわだかまりがあるようである。新開が入って来たとき、石本は彼を便所虫と呼んだ。  首を絞められ、意識は朦朧としていたが、そのとき新開のシルエットから殺意が陽炎《かげろう》のように立ちのぼったのをおぼえている。  二人はそのわだかまりについて、深く語ろうとはしなかった。貴代子も詮索《せんさく》しなかった。客を詮索しないということが貴代子の方針である。  石本は貴代子に新開との関係について問うたが、マン暴の刑事で、以前から目をつけられていたと答えると、それ以上は詮索しなかった。 「ずいぶんいろんな女と遊んだが、あんたはおれのオーダーメイドのような女だよ」  と石本は言った。セックスパートナーとして貴代子が気に入ったらしい。  貴代子にとっても石本は単なる客を超えて、新開と合わせて重要なワンセットになっている。  石本がホテトル嬢殺しとどうやら無関係とわかって、彼と会うことに死の予感は薄れたが、石本の駆使するセックステクニックの虜《とりこ》となり、新開と合わせて彼女のオルガスムスを極めるためのワンセットとしたことは、新開に対する秘密となった。  新開に秘密を持ったことが、同時に彼女のオルガスムスを高めている。奇妙な女心と身体の成り行きである。  いわば石本が地ならしをして、新開が仕上げを施す形となった。  石本と知り合って二カ月ほど後、石本から裏ビデオの秘密映写会に行かないかと誘われた。 「裏ビデオなんか興味ないわ」  貴代子は断った。  石本がそんなものに興味を持つのが不思議であった。  貴代子にとってはセックスは二人だけの密室の中で組み立てるべきプライバシーで、他人のからみ合う映像を覗《のぞ》いても嫌らしいだけである。  またセックスパートナーを持たない人間がそんなものを見せられても、欲求不満を促されるだけの絵に描いた餅《もち》ではないか。 「それが、ただの裏ビデオではない」  石本がにやにや笑いながら言った。 「ただの裏ビデオではないというと」  貴代子は石本の笑いに含まれた底を探った。  貴代子はよほど過激な裏ビデオなのだろうとおもった。どんなに過激であっても、絵に描いた餅であることには変わりない。 「実はね、その鑑賞会にはおれの取引先を招いているんだよ」 「だったら、どうして私を誘うの」 「きみが来なければ、だれも来ないよ」 「それ、どういうこと」 「その鑑賞会には特別な趣向があるんだ。きみがその趣向だよ」  石本の含み笑いにはなにかの意図が隠されているようである。 「なんだか気味が悪いわ」 「べつに気味が悪いことはない。鑑賞会には五人の客が集まる。いずれもおれにとっては大切な取引先だ。一人十万円出すと言っている。おれを加えて六人で六十万円、決して悪くない話だとおもうがね」 「鑑賞会に来るのに、どうして私にお金を払うの」 「きみが目玉だからさ」 「まさか私を写すんじゃないでしょうね」 「心配することはないさ。みんな遊び尽くした連中だ。女の身体を撮って喜ぶようなタマではない」 「それではなおさらのこと、私なんかが行っても仕方がないでしょう」 「きみの協力がぜひ欲しい」  石本は貴代子の耳に口を近づけて、なにごとかささやいた。貴代子の顔が赤くなって、 「いやだわ、そんなこと」  とにべもなく言った。 「そう言わずに頼むよ。もうきみが来ると言って、客を呼んであるんだよ」 「ひどいわ。そんなことを勝手に決めちゃって」 「そう言わずに頼む。この通りだ」  石本は貴代子の前に土下座せんばかりにして言った。  貴代子はあまり気が進まなかったが、ついに石本に拝み倒された。  それに石本の謝礼を加えて、一晩六十万円の報酬は魅力的である。  会場は都心のホテルのスイートルームが用意されてあった。  当夜、指定の時間に会場へ赴くと、石本ほか五人の客がすでに先着して待っていた。いずれも四十代後半から五十代と見える金と栄養の行き届いたような男たちばかりである。  彼らは一様に脂ぎった目で貴代子の身体を衣服越しに観察した。いずれも女を見馴《みな》れた目で、年季が入っている。  一見、無表情を装っているが、貴代子が入って行ったとき、男たちの欲望がざわめき立つ気配が感じ取れた。  尋常の手段では興奮しない悪達者な欲望が、石本が用意した新趣向の下で犇《ひし》めき立っている。  ティーテーブルの上にはウィスキーやアイスキューブを入れたアイスペールや、軽いつまみものが出されている。  石本が貴代子を一同に紹介した。だれかが拍手をして、一同がならった。彼らは貴代子に満足した気配である。  室内の照明が絞られ、裏ビデオの再生が始まった。  狭い部屋に四人の若い男と一人の女が屯《たむろ》している。酒盛りをしているようである。女は男たちの一人のパートナーらしい。  映像は不鮮明で音声が聴き取りにくい。出演者はいずれも素人らしい。それがかえって盗撮しているような画面に生々しいリアリティをあたえた。  間もなく画面が暗くなった。画面の中でさらにビデオを鑑賞している様子である。  劇中劇の形となった画面の中のビデオは小さくて映像が見にくいが、男と女がからみ合っているようである。  画面の中でさらに裏ビデオを鑑賞しているのである。  画面の中のカップルが興奮してからみ始めた。  ビデオに興奮し、パートナーから刺激を受けた女は陶然となって、パートナーのなすがままに任せている。  他の三人の男たちが、いつの間にか女を取り囲んでいた。  絵に描いた餅を見せられて食欲を促された男たちが、目の前でこれ見よがしに男女のからみ合いを演じられて、我慢できなくなったらしく、次々に女の身体に手を出した。  女のパートナーが驚いて阻止しようとしたが、衆寡敵せず、女は輪姦《りんかん》されてしまった。  女自身がビデオとパートナーの二重の刺激を受けて、白い泥のように崩れ、抵抗の姿勢を捨てている。  女はパートナーの見ている前で、三人の男たちによって代わる代わる輪姦された。  ビデオを鑑賞している間、貴代子にピタリと寄り添った石本が、彼女の身体を弄《もてあそ》んだ。  石本の演技とわかっていながら、貴代子はいつの間にか興奮していた。  部屋のそれぞれの位置を占めてビデオを見ていた五人の男たちが、ドラマの進行と共に、いつの間にか貴代子のまわりに集まって来ていた。  ビデオの中で女が輪姦されると、貴代子の周囲の男たちの間から手が出てきた。  貴代子が振り払っても振り払っても、男たちの手は執拗《しつよう》に出てくる。 「おい、おれの連れになにをするんだ」  石本が咎《とが》めた。だが、男たちは石本の抗議を黙殺して、貴代子に対する干渉の度合いを強めている。 「やめろ。この人はおれの連れだ」  石本が強く制止した。 「石本さん、そんなケツの穴の狭いことを言わないで、我々にもお裾分《すそわ》けしてくださいよ」 「そうだそうだ、使われて減るものじゃない」 「おれたちはどうせ一つ穴のムジナさ」 「ムジナとはなんだね。義兄弟と言ってほしいね」  五人の客は卑しげに笑った。  石本の制止にもかかわらず、貴代子は五人の客に輪姦された。  あらかじめ書かれていた通りの筋書きであったが、再生中のビデオドラマと同時進行の形を取ったプレイに、貴代子は演技を忘れて熱中した。 「いや、とても面白かったよ」 「こんな趣向は初めてだ。さすがは石本さんだね」 「近いうちにまた同じ趣向で遊びたいね」  終わった後、五人の客はいずれも満足した面持ちで、貴代子に約束通りの報酬を支払ってくれた。  悪達者な客は裏ビデオを地でいった趣向に、自分たちが裏ビデオに出演したような気になって楽しんだ。  石本も大いに満足していた。 「いやあ、大成功だったよ。おれも恋人を犯されているような気になって、本気であんたを守ろうとしたんだが、衆寡敵せずだった」 「私も本当に輪姦されているような気がしたわ」 「まわされたことにはちがいない」 「あらかじめ打ち合わせていたにしては真に迫っていたわよ。それにしても奇抜な趣向を考え出したわね。奇抜というよりは悪趣味というのかな。石本さん、以前に輪姦した経験があるみたい」  貴代子のなにげない言葉に、石本成一はぎょっとしたように、 「そんなことはない」  と否定した。 [#改ページ]  揺ぎかけた覇権  朝丘豊作《あさおかほうさく》殺害事件の捜査は膠着《こうちやく》していた。  最も有力視されていた芸能界方面の捜査も行きづまった。  朝丘は芸能界の寵児《ちようじ》として人気がうなぎ登りであったが、同業者の間では、なんの芸もない成り上がりが、一時的な時流に乗って舞い上がっていると見られていた。 「まあ、夏の花火のようなものですね。才能もないし、努力もしていない。いつまでつづくか見ものだね」  と消息通は冷笑した。  一見、いかにも人気沸騰しているようであるが、人気の底が浅い。一時的な人気に溺《おぼ》れて天下を取ったように舞い上がっている朝丘を、同業者は嘲笑《ちようしよう》していた。  チョウジはチョウジでも、嘲児である。  どうやら芸能界の捜査が空振りに終った捜査本部は、芸能界デビュー以前の彼の経歴を洗い始めた。だが上京後、芸能界入りするまでの経歴が皆目不明である。  丸井恵利子《まるいえりこ》との関連も疑ったが、なんのつながりも発見されない。当初、犯人の検挙は時間の問題と見られていたが、捜査は早くも難航の様相を呈していた。  新開征記《しんかいせいき》は棚川貴代子《たながわきよこ》が急速に自分から離れつつある気配を感じ取っていた。  貴代子とはいままで通り、新開の都合に合わせて会っている。常に新開の一方的都合に合わせ、彼の身体が空けば、貴代子はすべての予定を変えて駆けつけて来る。  彼女の生活の中で新開が最優先されていることはまったく変わっていない。  会えば、新開によってオルガスムスに達し、心身を浄化させることも同じである。  だが、これまで新開の完全な領土であった貴代子の中に他人が侵入している。新開の王国を侵略し、いつの間にか乗っ取ってしまった。  新開の許へ来るときの貴代子は、全身|隈《くま》なく侵略者に耕された身体を、新開の仕上げによって表皮の彩色を施されるだけである。  下地にはすべて侵略者の鍬《くわ》が行き渡っている。  以前はそうではなかった。客に身体を切り売りしても、新開の王国の覇権は、こ揺るぎもしなかった。  いまは見せかけだけの王国である。新開は実権のない王のように、象徴としておし戴《いただ》かれているだけである。  貴代子を最初に変質させたのは重岡《しげおか》であり、次いで石本《いしもと》が乗っ取ったのである。  貴代子自身が乗っ取られたことに気がついていない。自分は依然として新開の忠実な性奴だとおもいこんでいる。  貴代子は新開にとって公私共に便利な奴隷であった。  新開の忠実なレポとして、価値のある情報をくわえてきてくれた。  また貴代子ほど新開の屈折した性傾向にぴたりと対応してくれる女はいない。貴代子以前にもいなかったし、貴代子の後にも現われないであろう。新開は貴代子を失った場面を想像して、愕然《がくぜん》となった。  これまで彼女を便利な性の道具ぐらいにしか考えていなかった。べつの女ならば、新開は男として立派に機能する。貴代子に対してだけ肉体的に麻痺《まひ》してしまう。  それの代償として言葉を用いたのであるが、貴代子と知り合ってから、新開自身が生来の性的傾向を促され、肉体的交わりに興味を失ってきていた。  貴代子と手を取り合って(言葉を交わして)達したメンタルなオルガスムスは、肉体のオルガスムスに比べるべくもない。  貴代子という無二のパートナーを失えば、新開はもはや他の女へ帰って行けなくなっている自分を知った。  麻痺した肉体の代償として用いたメンタルな性交が、本来の性交を圧迫し、その位置を乗っ取ってしまった。  新開の達したオルガスムスの高みは、貴代子と共に築き上げ、貴代子との共有によって成り立つものである。  現在もその高みを貴代子と共有している事実には変わりない。だが、その高みを支える広大な裾野《すその》があの男に侵略されてしまった。  高みが高ければ高いほど、侵略された領域が広い。  新開は十九年前の輪廻《りんね》を感じた。  十九年前、彼の女神を犯した重岡と石本が再来して、ふたたび新開の王国を侵奪しようとしている。  新開はいま危機をおぼえていた。このまま放置すれば貴代子を失う。新開にとって貴代子の喪失はすべての女の喪失を意味している。  もうほかの女には戻れない。なんとかしなければならないが、どうにもならない。  貴代子は新開に対して秘密を持ち始めている。頂上の高みには依然として新開が君臨しているが、彼の支配が及ばなくなった裾野において、新開に隠れてなにかをしている。  これまでも新開は貴代子のプライバシーに関しては一切干渉しなかった。それは王国の支配が完全であったので、貴代子にその経営を任せていたようなものである。  新開の目の届かぬところで貴代子がなにをしているか新開は知らなかったし、知ろうともしなかった。  だが、知ろうとおもえば彼女の生活のディテールについてはおおかた推測がつけられた。  それがいまはちがう。貴代子は自分のプライバシーを積極的に新開から秘匿しようとしている。そういうことは以前にはなかった。 「私のことを少しも詮索《せんさく》しないのね」  貴代子はむしろ新開の冷淡さを怨《うら》んでいた。 「詮索して欲しいのかい」  新開が問うと、 「なんにも詮索しないということは、無関心ということだわ。私のことを知りたいとおもわないの」 「それは知りたいさ。しかし、井戸の水を全部|汲《く》み出すことはできない」 「私は井戸なの」 「そうだよ、汲んでも汲んでも涸《か》れない井戸だ。きみのことを知ろうとしたら、きりがなくなる」 「そんなことを言ってごまかして。私にまるで関心がないんじゃないの」 「関心がなければこうやって会わない」 「あまり根掘り葉掘り聞かれても困るけれど、少しは私にも興味を持ってくださいな」 「興味を持つのが怖いのさ」 「まるで私が化け物でも飼っているみたい」  こんな調子に新開の放任を怨んだ貴代子が、いまは新開から詮索されるのを恐れている。  新開から委任されていた王国に衝立《ついた》てを立て始めている。  重岡、石本が現われてから、貴代子は侵略された。  彼らは一体、貴代子に対してなにをしたのか。  新開同様、言葉を用いたのではないことはわかる。貴代子は新開の言葉に対してのみ感応するのである。  複数の男たちの言葉に感応するようになれば、もはや言葉の神通力は失われる。  言葉でなければなにか。  肉体を用いたのであれば、彼女が身体を切り売りした他の客たちとなんら変わるところはない。  二人は新開の計り知れぬなにかを用いて貴代子の身体を侵略したのである。  貴代子を完全に失う前に、石本の侵略を阻止し、彼女の身体から彼を追放しなければならない。  新開には十九年前の亡霊が立ち上がって、彼の新たな女神を蝕《むしば》み始めているようにおもえた。  七月の下旬、貴代子から新開は、もし都合がつけば熱海の花火へ連れて行ってくれないかという誘いを受けた。 「凄《すご》いのよ。海から打ち上げた花火が頭の真上に炸裂《さくれつ》するの。それこそヘルメットでも被《かぶ》って見たいくらいよ。遠くの方から人の頭越しに歩きながら見物する隅田川の花火なんか、熱海を見たら子供|騙《だま》しよ」 「そんなに凄いのかい」 「論より証拠、自分の目で確かめるといいわ。あなたと一緒にぜひ見たいの。ねえ、連れて行って」  貴代子は甘い声でせがんだ。  ちょうど当夜は非番である。突発の事件がなければ身体は空いている。 「行ってみようか」 「嬉《うれ》しいわ。前からあなたと一緒に熱海の花火を見たいとおもっていたの」  新開の色好《いろよ》い返事に、貴代子は小躍りせんばかりに喜んだ。以前はだれと一緒に見たんだと問いかけたいところを、喉元《のどもと》で堪《こら》えた。それを聞く権利は彼にはない。  当日は天候も安定し、夕方になって陸地から海へ向けて風が出た。花火には絶好の条件である。これがどんなによい天気でも、風がないと煙がたまって、煙越しのぼけた花火となってしまう。  貴代子は海岸通りのホテルに部屋を取っておいた。  部屋の窓からも見物できるが、海岸で見る方が迫力があるという貴代子の言葉に誘われて、新開は彼女と連れ立ってホテルを出た。  湯上がりの肌を、こざっぱりした浴衣に包んだ貴代子の姿は、これまで見馴《みな》れている彼女とはべつの、粋《いき》なつやっぽさを訴えている。  新幹線で一時間足らずであるが、東京から切り離してくれる。無粋なポケベルもここまでは追いかけてこないだろう。  貴代子と一緒に花火を見物し、その後につづく濃密な一夜をおもうだけで心身は寛《くつろ》ぎ、日常の鎖から解放される。  夏の間、五、六回開かれるという熱海の花火の中で、今夜が最も大仕掛けということで人出も多い。  海岸通りの目ぼしい場所は、見物の人波で埋まっている。これでは頭越しの隅田川とあまり変わりはないと少し落胆しかけたとき、貴代子が、 「穴場があるのよ。そこだったら、どんなに混《こ》んでも寝そべって見物できる一等席なの」  とささやいた。 「そんな穴場があるのかい」  自信たっぷりの貴代子に半信半疑で従《つ》いて行くと、海岸通りから海水浴場の砂浜へ入って行った。  これは熱海市が千葉県君津市の海岸から、数千トンの砂を運んで造設した人工海水浴場である。  海岸通りに沿って長さ約四百メートル、奥行き四、五十メートルの砂浜が、花火見物客によってびっしりと埋まっている。  とうてい寝そべって見物できるような余地はなさそうである。  だが、貴代子は馴れた足取りで波打ち際の方へ歩いて行く。海へ近づくほどに砂浜にスペースが生じた。 「この辺が一等席よ」  貴代子は波打ち際から十メートルほどの砂の盛り上がった箇所《かしよ》に腰を下ろした。 「ここならば潮が満ちてきても大丈夫なの」  貴代子は自信のある口調で言った。どうやら彼女は何度も来ているらしい。  花火は七時三十分から始まる。海上はとっぷりと暮れ、背後の斜面に並び建つ夥《おびただ》しいホテル、旅館群は万楼に灯をともして、無数のホタル籠《かご》を積み重ねたようである。  待つ間もなく定刻になった。  豪快なスターマインが開幕を告げ、沖の防波堤に設けられた五基の打上げ台から、一時間に約六千発が息継ぐ間もなく打ち上げられる。  スターマインを中軸に十号玉、十二号玉など、都心では規制されて見られない超大型花火が豪快な音と共に、夜空に巨大な光の輪を描く。  至近距離の打上げ台から次々に打ち上げられる光の大輪、小輪は、まさに頭上に炸裂して、光の粉が見物客の頭上に降りかかってくるようである。  熱海の花火の魅力は、貴代子がヘルメットを被りたいと言ったほどの至近距離での見物に加えて、豪快な音がある。  背後が山になっているので、炸裂音が山に当たって乱反響し、一発が数発にも増幅して聞こえる。  多彩な光輪が夜空を染めて炸裂するつど、観覧客から上がる歓声を、一拍遅れてつづく豪快な音響が圧倒していく。  貴代子に引っ張られて出て来た新開も、初めて目にするスケールの大きな光の競演に息を呑《の》み、目を見張った。 「どう、凄いでしょう」  貴代子が耳許《みみもと》でささやいた。 「うん、うん」  答えている間も、五基の打上げ台から連射された火柱が夜空を染め上げている。 「抱いて」  貴代子が熱っぽい声で言うと、ぴたりと寄り添って来た。その身体も熱っぽくなっているようである。 「見て。みんなカップルばかりよ」  貴代子が誘うように言った。  いつの間にか新開の周辺のスペースは二人連れによって埋まっている。  寝そべって女に膝枕《ひざまくら》をしている男や、女を膝の上に抱きかかえるようにしている男や、たがいの腰に手をまわして、花火はそっちのけで二人だけの世界に浸っているカップルもいる。 「あの二人、やっているわよ」  貴代子がかすれたような声でつぶやいた。  視線を向けると、新開たちの近くにいる浴衣がけのカップルの男が、女を膝の上に乗せている。  いわゆる子供を抱っこした形で、一見、仲良く花火を見物しているようであるが、密着した男の膝と女の腰の辺《あた》りが微妙に律動している。 「なんだか変な気分になっちゃったわ」  見物客の視線は上空に集まっているとはいえ、それこそ人間で埋め尽くされた砂浜で、人もなげな大胆な行為である。 「あんなの見せられてはたまらないわ。ねえ、私にもして」  貴代子が訴えて、かたわらのカップルと同じような体位で、新開の膝の上に火照った身体を乗せてきた。  その瞬間、頭上にひときわ豪快な炸裂音がして、彼らの身辺に天の上方から霰《あられ》のようにパラパラと降りかかってきたものがある。 「あら、なにかしら」  貴代子が驚いた声を上げた。 「花火の破片だろう」  新開が推測した。  貴代子がかたわらに落ちた木の葉の破片のようなものを拾い上げた。  それは引き裂かれた段ボール紙の断片のようである。 「これが花火のかけらかしら」 「火薬を包んだ外紙かもしれないよ」 「あの美しい光の輪が、こんなものでできているのね」  貴代子はがっかりしたようである。  突然、夜空全体が白昼のように明るくなった。  全打上げ台から一斉に発射された光の柱が上空に交錯し、炸裂し、光の滝を大観衆の頭上にかけた。この夜のフィナーレのナイアガラである。  隣りのカップルの律動が止まって、貴代子の関心も空に吸い上げられた。 [#改ページ]  殺意の底流《ベース》  七月二十九日午前九時、山根昭二《やまねしようじ》は自由が丘三丁目のマンションに住んでいる石本|成一《せいいち》を迎えに行った。  今日は埼玉県の方に売りに出た不動産物件を下見に行く予定である。  山根は石本のアシスタント兼運転手を務めている。石本の居室は三〇四号室、三階の棟末にある。四階建の小型マンションで、エレベーターはない。  階段を駆け上った山根は、三〇四号室のチャイムを押した。だが、室内は静まり返ったままである。  山根は再度チャイムを押して、室内の様子をうかがった。だが、依然としてなんの気配も生じない。 「社長、まだ寝ているのかな」  山根昭二は小首を傾《かし》げて、ドアをノックした。  石本は時間にうるさい。渋滞に引っかかって迎えが遅れても怒鳴られる。  まして今日は重要な物件の下見なので、遅れられない。いつもの石本ならば待ちかねたようにドアを開けるはずである。  山根はノックしながら、試みにドアを引いてみた。ドアはなんの抵抗もなく開いた。ロックされていなかったのである。 「なんだ、開いていたのか」  山根はつぶやくと、ドアの間から首を差し込んで、 「社長、お迎えにあがりました」  と中へ声をかけた。  だが応答はない。山根は不安になった。  余裕をもって迎えに来ているが、まだ出発の支度ができていないとなると、時間が苦しくなる。 「社長、どうなさったんですか。そろそろ出かけないと」  山根は声をかけながら、勝手知った屋内へ入った。  内部は3DKである。  玄関の上がり口からつづく廊下を挟んで、右手がユニットのバスとトイレット、左手が六畳の洋室、廊下はダイニングキチンへつづき、その奥にバルコニーに面して六畳の居間と寝室が並んでいる。  まず廊下右手のバス、トイレットを覗《のぞ》いてみたがいない。左手の洋室は物置になっている。  ダイニングキチンを経て居間へ入った山根は、ぎょっとなって立ちすくんだ。  居間のほぼ中央に石本が倒れていた。サマーセーターにふだん着のゆったりしたズボンを穿《は》いて、床の上に仰向けに横たわっている。  窓にカーテンが引かれているので、室内は薄暗い。  山根は、石本がなにか病的な発作を起こして倒れたのかとおもった。 「社長」  愕然《がくぜん》として石本を抱き起こそうとした山根は、石本の後頭部が接している床の位置にどろりと溜《た》まっている粘液に気づいた。  髪に隠されてよく見えないが、後頭部にあるらしい傷口からの出血が床の上に澱《よど》んで固まったようである。  石本が横たわっている近くには、倒れた弾みに頭を打ちつけて傷つけるような固い物体は見当たらない。  山根はようやく、石本が病的な発作で倒れたのではないことを悟った。 「大変だ」  と言ったつもりが、声にならない。  彼は室内に電話があるのも忘れて、車の中に置いてある携帯電話を取りに走った。  自由が丘三丁目のマンションの一室に男の変死体を発見したという一一〇番経由の通報を受けた碑文谷《ひもんや》署の水島《みずしま》刑事は、相棒の日下部《くさかべ》と共に臨場した。  死者は後頭部を鈍器で殴られ、それが脳内部に深刻な打撃をあたえて死因となったものと見られた。  室内には格闘や物色の痕跡《こんせき》は認められない。犯人は被害者の隙《すき》を狙《ねら》って、隠し持っていた凶器で被害者の後頭部を殴打したものであろう。  被害者が室内に迎え入れているところから、犯人は顔見知りの者と推測された。  検視の第一所見によると、犯行時刻は午前零時ごろから今朝未明にかけてと見られた。  被害者は石本成一、三十一歳、自由が丘駅の近くで不動産仲介業「石本オールディスカウント」を経営している。  発見者は社員の山根昭二である。社員といっても、山根のほかに事務の女の子が一人いるだけである。  事件は殺人事件と断定されて、警視庁捜査一課に連絡された。  被害者の住んでいるマンションには十六所帯が入居しているが、相互に交際はない。  石本の入居は二年前、中古で売りに出たものを購入したものである。  石本は独身で、時どき不特定の女性が訪ねて来ていた模様である。 「三十一歳、独身で不動産会社経営か。叩《たた》けば埃《ほこり》が出そうだね」  水島が言った。 「部屋の中の家具や調度を見ても、金まわりがよさそうですね」  日下部がうなずいた。  中古ではあるが、独り暮らしには充分なスペースがあり、機能的な間取りになっている。  それぞれの位置に工夫して置かれた家具や調度品は、いずれも高級品であることが見て取れる。  男の独り暮らしにしては室内は清潔で、小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》されている。  ワードローブの中には上等な衣服がぎっしりと詰まっている。  居間のテーブルの引き出しに、約八十万円の現金が無造作に放り込まれていた。  少し物色すればわかる位置に放り込まれていた現金が手つかずに放置されていたことから、物盗《ものと》りの犯行ではなさそうである。 「おや、これはなんだ」  現場観察にあたっていた水島が、床の上に指を伸ばしてなにかを拾い上げた。 「なにかありましたか」  日下部が水島の手許《てもと》に視線を向けた。 「こんなものが落っこっていたよ」  水島がつまみ上げたものは、茶褐色のボール紙の断片のようなものである。紙は引き裂かれたようにちぎれ、焼け焦げがついている。水島は断片を鼻に近づけて、においを嗅《か》いだ。 「火薬のようなにおいがするな」  日下部も鼻を近づけた。 「そうですね。たしかにそんなにおいがします」  日下部が同調した。 「室内に火薬はなかったな」 「そんなものはありませんでした」 「すると、どうしてこんなものが床に落ちていたんだろう」  水島と日下部は目を見合わせた。  現場に火薬がなく、被害者が持ち込んだものでなければ、その断片を運び込んだ者は犯人の可能性が生じてくる。水島は事件の発見者の山根に断片を見せて、訊《たず》ねた。 「さあ、こんなものは初めて見ました」  山根はまったく心当たりがないようである。 「石本さんの身辺に火薬のようなものはありませんか」 「火薬ですか、いいえ、そんなものは置いていません」 「それでは石本さんの関係者で、火薬を取り扱っている人はいますか」 「おもいあたりませんね。火薬なんかまったく関係ありません」  山根は断言した。  石本は綺麗好きで、こまめに掃除をしている。こんなゴミのような異物の断片が居室に落ちていたら、必ず取り片づけていたにちがいない。  異物の断片の正体は不明であったが、証拠資料として保存された。  石本の死体は解剖のために搬出され、その日の午後、碑文谷署に捜査本部が開設された。  石本成一が殺害されたニュースに、新開征記は愕然となった。 「やられた」  新開は呻《うめ》いた。心の片隅にそんな予感がないではなかった。だが、まさかというおもいがあった。  重岡良作《しげおかりようさく》が殺されたとき、少年時の三人の仲間が約束を履行したのではないかと疑った。十二歳の少年の日の約束が、十九年の歳月の風化と、それぞれの成長に堪えて元の形のまま生きつづけていることの無理をおもって、新開は胸に兆した疑惑を自ら打ち消した。  だが、ここに石本の死体が並んだ。熊木《くまき》から数えれば第三の死体である。  いまや新開の幼い日の仲間が、あの日の約束を実行に移した可能性が大きい。  それにしても、あの日から十九年、あの屈辱を胸の奥に温めつづけてきた執念は尋常ではない。  三人の仲間のうち、奥野信司《おくのしんじ》の消息はわかっている。  中田久也《なかたきゆうや》と布川寛之《ぬのかわひろゆき》とは卒業以来、音信不通になっている。  奥野も容疑から外せないが、女のハキパンやナマウニを商っている奥野に、当時の女神に誓った約束が純粋な形で保たれているとはおもえない。  怪しいのは布川と中田である。彼ら二人が協力して約束を果たしたとしたら、なぜ新開と奥野にも呼びかけてこなかったのか。  現在の消息を追う方法ならば、いくらでもあったはずである。  仲間を探すのが煩わしく、自分一人で約束を実行したのであろうか。四人共通の約束であると同時に、それは自分自身に対する誓いでもあった。  心の債務として背負いつづけてきたものを、重岡良作の消息によって新たによみがえらせて返済した。  重岡から石本へと、その後の消息を手繰った。とすると、あと一人、小熊利明《こぐまとしあき》が残されている。  小熊に対して報復しなければ、約束は完全に果たしたことにならない。  石本が殺されたニュースに推理の糸を追っていると、奥野から電話がかかってきた。 「おい、石本が殺されたな」  奥野の声が上ずっている。 「きみに連絡しようとおもっていたところだ」 「布川と中田が約束を実行したんじゃないだろうか」  奥野も同じ推測をしていたようである。 「まさかとはおもうが、もしかしたらというおもいを捨てきれない」 「おれも同じだよ。だから連絡したんだ」 「二人の消息を追ってみたい。二人がいま、どこで、なにをしているか。郷里にはまだ生家があるだろう。ご両親や親戚《しんせき》が健在かもしれない。そこから追ってみよう」 「逮捕するつもりか」 「おれは担当ではない。ただ、確かめたいだけだ」 「確かめてどうするつもりだ」 「約束を守れなかったことを二人に謝りたい気持ちだよ」 「実生活で約束を磨滅させたことを、二人に対して後ろめたくおもっているんだな」 「きみも後ろめたくおもっているんだろう」 「図星だ。磨滅はしたが、約束は約束として生きている」 「だが、まだ約束を完全に果たしたことにはならない」 「小熊を狙っているというのか」 「小熊の消息も追ってみるつもりだ」 「消息を追って小熊を守ってやるつもりか」 「守る必要はなくなっているかもしれない」 「新開……まさか」 「彼らはとうに約束を完全に果たしているかもしれない。小熊の消息が知れないのは、彼らが約束をとうに果たしてしまった証拠じゃないのかな」  新開は奥野と話し合っている間に、ふとおもいあたった。あの日から十九年して、なぜいまという疑問に対して、重岡が有名になって、その消息が公になったのがきっかけになったと解釈していたが、十九年も待たなかったかもしれない。  まず小熊に報復の鉾先《ほこさき》を向け、次いで消息が明らかになった重岡を葬った……と考えられないこともない。  刑事ともあろう新開が、重岡、石本殺しについて、他の動機にはほとんど目を配っていない。それはそれだけ新開の先入観が強く、約束に執着している証拠である。  それほどに女神の呪縛《じゆばく》は強く、星霜の風化をはね返している。 「念のためにきみのアリバイを聞いておきたい。二十八日の深夜から二十九日未明にかけて、どこでなにをしていた」 「おれを疑っているのか」 「この事件に関しては、おれたち四人は共通の容疑者だよ」 「家にいて寝ていたよ」 「それを証明することができるか」 「店の女の子がいる」 「店の子が深夜から未明にかけて、きみと一緒にいたのか」 「住み込みで同居しているんだ」 「同棲《どうせい》しているのか」 「よせよ、そんな関係じゃない。同居しているだけだ。だから信憑性《しんぴようせい》はあるとおもう」 「わかった。きみの言葉を信じよう」 「きみのアリバイもおれと同じくらいに必要だぜ」 「わかっている。おれは当夜、当直で、本庁にいた」 「鉄壁のアリバイだが、きみの言葉だけだ。まあ刑事だから信じるとするか」  新開と奥野は電話口で苦笑を交わした。  石本成一殺害のニュースは新宿署にも波紋を及ぼした。  石本は丸井恵利子殺しとのつながりの容疑で、新開が参考人として呼んだという報告を受けている。  新開の報告によると、石本は重岡と新開の小学校の同級で、新開は重岡殺しとの関連も疑っていたようである。  結局、石本と丸井との間にはなんのつながりも発見されず、丸井殺しについてはアリバイが成立して、とりあえず容疑圏外に去った。  その後、石本が殺されてしまったのである。 「小学校の同級といっても、十九年も前のことです。新開さんからの報告によると、重岡と石本は卒業以来、没交渉になっていたということです。べつの線の殺しではありませんか」  青柳《あおやぎ》が言った。 「たぶんそうだとおもう。それにしても重岡が殺されて、間もなく石本が殺されたというのが気になるね」  牛尾《うしお》の目が宙を探っている。 「石本は重岡の死体を発見した棚川貴代子の客でもありますが」  捜査一課から応援に来た棟居《むねすえ》が言葉をはさんだ。  捜査本部が開設された場合、捜査一課がイニシアチブを握るが、世界有数の大歓楽街歌舞伎町を管下に擁する一騎当千の新宿署の刑事たちに、捜査一課の面々も一目も二目も置いている。  また那須《なす》班の刑事たちは、過去の捜査で何度も新宿署とチームを組んでいるので、たがいに気心が知れている。 「つまり、二重の共通項があるというわけだ」  牛尾の目が光った。 「牛《モー》さんは、石本殺しが重岡殺しに関連があると考えますか」  青柳が問いかけた。 「まだなんとも言えない。しかし、一応碑文谷署に連絡をつけておいた方がよいかもしれない」  牛尾は慎重な言いまわしをした。  新開征記が郷里の布川と中田の生家に、二人の消息を問い合わせたのと交差するように、一通の手紙が新開の許《もと》に届けられた。  差出人名を見ると、布川寛之となっている。  新開は封を切る手ももどかしく、幼時の友からの手紙を読んだ。 「きみが刑事になったという噂《うわさ》は、きみの生家から聞いていた。突然の便りにさぞ驚いたこととおもうが、ぜひともきみの意見を聞きたいことがあって、生家からきみの現住所を聞いて手紙を出すことにした。  きみもとうに知っていることとおもうが、石本成一が殺された。石本が殺される約半年前、重岡良作も新宿のホテルで殺された。重岡が殺されたときはさほどのことにもおもわず聞き過ごしていたが、石本が殺されるに及んで、ただごとではないとおもった。  きみはいまでも十九年前の小学校最後の夏休みの水無山での約束をおぼえているだろうか。私はいまでもよくおぼえている。あの屈辱は終生、胸に刻まれた烙印《らくいん》であった。  あの日から十九年、重岡につづいて石本が殺されたニュースを耳にして、私ははっとなった。我々の仲間のだれかが、あの日の約束を実行したのではあるまいか。  幼時の約束が星霜と成長に伴って夢の中の約束のように現実味が乏しくなっても、四人のだれかの中にあの日の約束が少しも形を変えずに生きていたとしたら。自分自身の心の中に刻まれた烙印の深さとおもい合わせると、そういう仲間がいても不思議はないとおもう。  熊木、重岡、石本の三人が死んで、残るは小熊一人になった。きみは笑うかもしれないが、重岡と石本の死が十九年前の夏の日の秘密に連なっているような気がしてならない。  私はいま、郷里の町で小さな喫茶店を経営している。中田は弁護士となって、父親の法律事務所を継いでいる。  同じ町に住んでいながら、中田とは卒業以来、一度も会っていない。十九年前の秘密が私たちの心に重くのしかかって、たがいに会うのを敬遠したのかもしれない。  石本のニュースを聞いて、十八年(卒業後)ぶりに中田と連絡を取り合った。  中田は、この件に関しては四人が共通の嫌疑者だが、四人がもし約束を実行するとすれば、事前に仲間に必ずなんらかの連絡があってしかるべきだ、仲間にも報《しら》せず、十九年たってから突然、約束を履行したというのは解せないと言っている。  中田自身も約束を忘れてはいないが、復讐《ふくしゆう》は法律で禁じられているし、仮に自分が約束を実行したとすれば、必ず三人の仲間に連絡をする、卒業後、たがいに音信不通になっているが、探せばわかるはずだ、というのが中田の意見だった。私も彼と同意見だ。  そこで、きみと奥野の消息を追い、私がきみにペンを取った次第だ。奥野の生家はすでに移転していて、その後の消息が追えなかった。  もしきみが約束を果たしたのでなければ、残るは奥野ということになる。  きみがあの約束の一片でもおぼえていてくれたら、重岡、石本がつづいて殺された事件について、きみの専門家としての意見を聞きたい。  いまの私の心はとても複雑だ。二人の死が私たちの仲間のだれかの仕業であるとすれば、約束を果たさなかった自責と、昔の仲間にこれ以上罪を重ねさせたくないという気持ちと、さらに仇《かたき》の最後の一人ともいうべき小熊に報復することによって、約束を完遂したいという願望が同居している。  ともあれ石本の死をきっかけに、昔の仲間が久し振りに寄り集まるのも無意味ではないとおもう。  多忙の身体とはおもうが、時間、場所等はきみの都合に合わせる。中田も合わせると言っている。奥野の消息が不明なので、三人の同窓会を開かないか。きみの都合を報せてほしい」  以上が布川からの手紙の大要であった。  新開は布川の手紙を持って、奥野の店へ行った。 「布川と中田はおれたちを疑っているようだな。おれたちがあの二人を疑ったように」  手紙を読んだ奥野は言った。 「布川、中田の仕業ではないと言っている。おれたちでもないとすると、重岡と石本を殺《や》ったのはやはりべつの線か」  新開は自らに問うように言った。 「布川の手紙に書いてあるように、約束を交わしたということは、四人で共同してやるということだ。仲間が心変わりしたのであれば一人で実行するかもしれないが、その場合でも、事前に仲間の心を確かめるはずだよ」 「おれもそうおもうよ。布川の手紙によると、約束はいまでも布川と中田の胸の内に生きているらしい。彼らの仕業ではないとしても、意志はあることになる。それはおれたちも同じだ。幼い日の取るに足りない感傷では決してない」 「すると結局、どういうことになるんだ」 「とにかく久し振りに四人の同窓会を開いてみよう。それぞれが自分は殺っていないというだけで、容疑が晴れたわけではない」 「べつに容疑を晴らしたいともおもわないがね」  奥野信司が少し皮肉っぽい含み笑いをした。  布川が複雑な気持ちだと書いていたが、四人のだれかが約束を果たしたとすれば、先を越されたおもいが強い。  約束は原型のまま生きつづけている。心に焼きつけられた烙印の深さが、彼らの約束の鋳型となっているのである。 [#改ページ]  物怪《もののけ》の宴《うたげ》  棚川貴代子は馴染《なじ》み客の西山《にしやま》から、スワップパーティへの同伴を依頼された。  西山は宝石商とかで、金まわりがよい。会うつど、貴代子に高価な宝飾品やアクセサリーをプレゼントしてくれる。  スワップパーティへの同行はあまり気が進まなかったが、西山の頼みなのでむげにも断れない。 「頼むよ。スワップといっても、内容は業者の接待なんだ。まさか女房を連れて行くわけにもいかないのでね」  西山は貴代子に頭を下げた。 「変な人なんかはまぎれ込まないでしょうね」 「それは絶対に保証するよ。素性の確かな上流階級の人ばかりだ。それだけにめったなパートナーを同伴できない」  なにをもって上流の基準とするのかわからない。  だが、結局、貴代子は西山の依頼を引き受けることにした。  スワップやOG(乱交)パーティといっても、内実はほとんど演出設定されたものである。  有料のものもあれば、時には主催者側が設定しての接待もある。 「当夜は参加者は皆マスクを付ける。だから相手がだれだかわからないよ」  西山は言った。  マスクからアイマスクを連想して、貴代子の胸は騒いだ。  会場は南青山のとあるマンションに設定されていた。  午後八時、近くの喫茶店で西山と落ち合った貴代子は、西山の案内で青山墓地に近い閑静な住宅街の中のマンションに連れ込まれた。  スパニッシュスタイルの瀟洒《しようしや》な外観のマンションで、住人の裕福さがうかがわれる。  受付で渡されたマスクを付けて、十数畳ほどある洋室へ通されると、すでに三組の先客が待っていた。  室内には毛脚の長いベージュ色の絨毯《じゆうたん》が敷きつめられ、窓は厚ぼったいカーテンで塞《ふさ》がれている。  部屋の各所に小型のティーテーブルが配され、ビール、ウィスキー、コーラ、ジュースなどとつまみ物、おむすび、サンドイッチなどの軽食が載せられている。  部屋のどこからかスローのムードミュージックが流れてくる。  先客たちはいずれも男性が四十代以上の中高年と見えるのに対して、女が若い。  先客たちは初対面らしい。緊張した様子でカップルごとにそれぞれの位置にうずくまっている。  スワップといってもいくつか種類がある。  最初からスワップはせずに、同じ部屋でレギュラーパートナーとセックスするだけで、相互観賞をするのがある。  これが進むとパートナーを交換し、別室へ入り、さらには交換パートナーと同時に、あるいは時間をずらして性交する。馴《な》れたところで同室でのスワップに進む。  この後、不特定多数による同室でのOGパーティへとステップアップしていく。  突然、OGパーティに参加すると、不能になる者が多かったり、あるいは特定の女性に男が殺到して、強姦《ごうかん》まがいになったりする。  その場になって拒む女性も現われるので、女性の数が少し多い方がいい。  だが、パーティが進行するほどに男性が消耗してくるので、途中から攻守所を変え、男性軍が多い方がうまくいく。  照明はグラデーションのスタンドが最微光に絞られている。  いずれも押し黙って飲み物を口に運んだり、食べ物をつまんだりしている。  これから始まるパーティに寄せる期待と好奇心が、厚ぼったい空気の中に重苦しく澱《よど》んでいる。  彼らの到着後、さらに二組のカップルが入って来た。  最後に和服を着たあだっぽい年増を同伴した四十代後半から五十前後と見える、厚みのある身体をスーツで辛うじて押さえ込んでいるような男が入室して来た。  彼が幹事役らしい。  彼は部屋の中央に立つと、 「皆さん、今夜はようこそいらっしゃいました。ここにお集まりいただいた方々はすべて、安心できる紳士、淑女でいらっしゃいます。  また相互にお知り合いの方は一人もおられません。今夜は安心してお寛《くつろ》ぎください。  皆さんはいずれもスワップの経験者でございますので、今宵は新趣向を用意してあります」  幹事はおもわせぶりに言った。  新趣向と聞いて、一同の間にさざ波のようなざわめきが生じた。  いずれも金があり、遊びという遊びを尽くした悪達者な連中ばかりである。ちょっとやそっとの趣向では驚かない。幹事があえて新趣向と言うからには、よほど面白い企画が用意してあるのだろう。  幹事は参加者の興味を充分に引きつけたところで、言葉を継いだ。 「会場には軽い飲み物と食べ物がご用意してあります。改めて申し上げるまでもございませんが、アルコール類はあまり過ごされませんように。  それではこれより、殿方、ご婦人別にシャワーを使っていただきます。シャワーの後、当方備えつけのバスローブにお召し替えください。マスクはそのままお付けください」  幹事の指示の後、男女二組に分かれて、男性軍は幹事に、女性軍は彼の同伴者の和服の女に一人ずつ案内されて、二カ所ある浴室へ赴いた。シャワーを使った後、バスローブに着替えて、改めて大広間に勢《せい》揃ぞろいする。  幹事組を加えて七組のカップルがいた。 「それでは皆さんお揃いのところで、今宵の楽しいパーティのために乾杯しましょう」  幹事が言って、それぞれのグラスにビールやウィスキーが満たされた。 「乾杯」  幹事の発声によって一同が乾杯した。  女性の湯上がりの肌の香りが室内に漂い、雰囲気が盛り上がっている。 「それでは、今夜の新趣向をご説明します。皆さまはこれからお配りするアイマスクをマスクの上にさらに付けてください」  幹事からアイマスクが一人ずつに渡された。アイマスクを付けると、視野がまったく閉ざされる。 「皆さん、アイマスクをお付けくださいましたか。私がいいと言うまでは絶対にアイマスクを取り外さないでください。それが今夜の趣向のルールです。よろしいですね」  幹事に念を押されて、一同がうなずいた。 「それではこれから殿方とご婦人方が向かい合って二列に並んでいただきます。それぞれの位置は私どもがご案内します」  幹事が言って、西山と貴代子は幹事と和服の女に手を引かれて、新たな位置へ移動した。  カップルはたがいのパートナーと引き離されて、ペアがどこの位置にいるのか知らない。 「皆さん、それぞれの位置にお着きになりました。それでは下着を着けておられる方は、下着をすべてお取りください。殿方もご婦人方も一切身に着けず、生まれたままの姿に返ってください。皆さん、お脱ぎになりましたか。アイマスクを付けておられるので、恥ずかしがることはありません。  ご婦人方は床の上に仰向けに横たわってください。殿方は横たわったご婦人方にお一人ずつ身体を合わせていただきます。そしてご自分のパートナーを当ててください」  参加者からどよめきが生じた。 「ご出席者は六組です。殿方はご自分のパートナーに出会うまでご婦人に身体を合わせていただきます。出会ったところでストップして申告してください。その際、ご婦人と言葉を交わしても、ご婦人の身体に手を触れてもいけません。それぞれの身体の部分だけ接触させて、ご自分のパートナーを当てていただきます。  パートナーを当て損なった殿方は、その場で失格となってプレイから外されます。  パートナーを当てるのは殿方に限ります。  当て損なうとパートナーを他の参加者の中に置き去りにすることになります。また、お相手側の数が増えてきますので、残った方が当てるのが難しくなってまいります。当てられた方もプレイから抜けていただきます。パートナーを早く当てれば当てるほど、たがいのパートナーを不特定多数から守ることができます。当たったときは『命中』、外れたときは『残念でした』と言ってください。それでは慎重に当ててください。  早めに放出してしまうと、後のご婦人に身体を合わせることができなくなります。  私たちはプレイに加わらず、皆さんのご案内役を務めます。それでは、接して漏らさず。それぞれのパートナーを当ててください」  幹事の言葉と共に、向かい合った新カップルが身体を合わせ始めた。  つづいて順次パートナーを替える。これは新趣向の�貝合わせ�であった。  遊び馴れた参加者も、視野を完全に閉ざされて、局所の感覚のみでパートナーを当てるプレイに興奮している。 「私のパートナーだ」  さっそく名乗りが上がった。 「一番乗りですね。それではいま名乗られた方だけがアイマスクを取ってください」  幹事に促されて、名乗りを上げた男がアイマスクを取った。  相手はマスクを付けていても、身体の特徴からパートナーを見分けられる。 「残念でした」  男の面目なさそうな声と共に、一座がどっと沸いた。 「残念でしたね。パートナーを当て損なった殿方は失格となります。ご婦人はそのまま列の中にお残りください」  幹事が言い渡した。  つづいて声があがった。 「私のパートナーです」 「それではアイマスクを外してください」  アイマスクを外した参加者は、 「命中」  と言った。 「おめでとうございます」  幹事が言った。  つづいて当て損ない、プレイに加わっている男の数が次第に減っていった。  貴代子と西山はなかなか組み合わなかった。その分、貴代子の身体の上を複数の男性が通り過ぎて行く。  何人目かの男が貴代子の身体に身体を合わせた。二人は同時に声を発した。たがいの身体の感触に記憶があったのである。  多数の男性に切り売りしていても、馴染《なじ》みの客の感覚は身体に刻みつけられている。アイマスクを取るまでもなかった。 「命中」 「おめでとうございます」 「命中しても後になって当てたのでは、得をしたのか損をしたのかよくわからないな」  西山が苦笑した。すかさず幹事が、 「それだけ多数のご婦人方のお身体を試すことができたのですから、得をしたのですよ」  と言った。 「女性は損をするわ」  貴代子が異議を唱えた。  たとえテストであっても、商品としての身体を不特定多数の男性に無料で提供したことになる。 「そんなことはございません。このパーティにご出席された方々は、なるべく多数の方に接したいという願望を持っていらっしゃいます」  幹事に同伴した和服の女が幹事の言葉を補った。  貝合わせが終って、雰囲気がだいぶ盛り上がってきた。  接して漏らさぬ束《つか》の間の貝合わせであったが、それだけに強い刺激を全員に植えつけた。  しかもテストした相手がだれかわからないところが、たがいに謎《なぞ》と余韻を残し、今後の発展の期待をそそる。  貝合わせの後、くじ引きで組み合わせを決める。最初の組み合わせの後は自由にパートナーをチェンジできる。  別室が四室あり、別室に消えていくペアもあれば、大広間に留《とど》まる者もある。  別室に移った者も大広間に戻って来ると、羞恥心《しゆうちしん》が薄れてOGパーティに加わる。  室内はエアコンディションがほどよく利いているが、男女の性臭で生臭かった。  それは都会の闇《やみ》の底に跳梁《ちようりよう》する物怪《もののけ》の宴《うたげ》のようであった。  宴がたけなわになるほどに、組み合わせが乱れてきた。いまやたがいに相手がだれかわからなくなっている。  貴代子はパートナーとして新開を同行して来なかったことを悔やんだ。  この場に新開を投入すれば、不特定多数のカモフラージュの中に、彼と肉体的交わりも可能となるかもしれない。  不特定多数に開放(無償で)した自分の身体を、新開一人の独占に供したいとおもった。 [#改ページ]  女神の鎖  八月半ばのある日、新開征記ら四人組は十八年(卒業後)ぶりに再会した。新開が東京を離れられないので、布川と中田が上京して来た。  新開が用意した静かなレストランで再会した四人は、それぞれの中に幼いころの面影を見いだした。 「こんな風に再会するとはおもわなかったよ」  布川が言った。 「おれもだ。もう一生、会うこともあるまいとおもっていた」  中田が布川の言葉に追随して、新開と奥野がうなずいた。  その言葉と同意は、彼らが共有した秘密をそれぞれの胸にたたみ込んで、秘匿する意志を示している。  交わした約束を現実の生活に圧迫されて破棄したことを、暗黙のうちに語っている。 「重岡と石本が殺されなければ、こうして会うこともなかっただろうな」  奥野が言った。 「本当におれたちのだれの仕業でもなかったのか」  新開が三人の顔を見渡した。 「そういうきみはどうなんだ」  布川が問うた。 「おれはやっていないよ。あの日の約束を果たすためなら、必ずきみたちに声をかける」 「おれたちもだ」  新開につづいて、三人が異口同音に言った。 「すると、重岡と石本はだれが殺《や》ったんだ」  布川が問うた。 「重岡も石本も卒業してから十八年経って殺されたんだ。その間に殺されるような怨《うら》みを買ったとしても不思議はない」  中田が言った。 「警察の捜査はどうなっているんだね」  布川が問うた。 「おれは担当ではないが、親しい刑事から聞いたところによると、仕事と女性関係を洗っているらしい」 「おれたちに目を向けた者はいないのか」  中田が聞いた。 「警察がどうしておれたちに目を向けるんだ。おれたちの約束を知っている者は、ここにいる四人だけだ。おれがそんなことを話すはずもない」  新開が言った。 「仮に警察がおれたちの約束を知ったとしても、笑殺するだろう。少年期の夢のような約束だ」  奥野が言った。 「いや、そうとは限らない。熊木のことを知ればな」  中田の目が光った。  中田の言葉は四人の心の傷口をぐさりと突き刺すものであった。古い傷であったが、傷口は塞《ふさ》がっていない。  十二歳の少年の行為は罰せられない。十四歳未満の少年は責任能力がない。  当時十二歳だった新開らは罰せられない。だが、それは法律的な責任であって、彼らそれぞれの胸の内に深い傷を抉《えぐ》り、いまでも出血している。終生忘れることのできない秘密であり、決して癒《い》えることのない傷口である。  秘密の共有者に再会すれば、傷口のかさぶたをかきむしられ、傷口が開くことがわかっている。それが恐ろしくて、今日までたがいに敬遠していたのである。  同じ傷を舐《な》め合った忘れ難い仲間であると同時に、たがいの弱味を知悉《ちしつ》している忌むべき友であった。 「川島洋子《かわしまようこ》の消息を知っているか」  新開が話題を変えた。 「結婚したという噂《うわさ》だが、確かめたわけではない。きみらが上京して間もなく、川島家も移転してしまったんだ。戸籍を追えば移転先もわかるかもしれないが、そこまでする興味がなかった」  中田が言った。 「ふと考えたんだがね、刑事の発想だと笑わないでくれ」  新開は三人の顔を見まわして言った。 「なにを考えついたんだ」  布川が代表して問うた。 「熊木グループに怨みを含んでいる者はおれたちだけではないだろう」  新開はこの意味がわかるかと問うように、三人の顔を見まわした。 「すると、川島洋子が……」  中田がはっとしたように言った。 「熊木グループを最も怨んでいる者は川島洋子だ。もっともその怨みをあれからずっと、執念深く抱えていればのことだがね」 「すると、きみは川島洋子が重岡と石本に復讐《ふくしゆう》をしたというのか」  布川が言った。 「おれたちが約束を履行したのでなければ、川島洋子も容疑者の一人に数えてもいいのではないかな」 「あれから十九年もしてから、昔の怨みをおもいだしたというのか」  奥野が言った。 「重岡が有名になって、その消息を知った。重岡の消息に古い怨みを呼び覚まされ、重岡につづいて石本に復讐した。もっともまだ小熊が残っているがね。あくまでも可能性としての話だ」 「突飛な可能性だが、川島洋子の行方は気になるな」  布川が言った。 「そうだよ。おれたちの女神のその後は大いに気になる。この際、殺人の容疑者としてではなく、おれたちの女神の行方を探してみるのも悪くはないな」  奥野が言った。 「それがあんたの本音だろう」  布川が茶化したので、一座がどっと沸いた。ようやく同窓会らしい雰囲気になってきた。  女神の行方を追うということは、新開らに刻みつけられた屈辱の烙印《らくいん》を確かめることでもある。  おそらく川島洋子は、彼女自らの手で四人に押した烙印を忘れているであろう。だが四人は忘れていない。洋子が忘れても、四人は決して忘れない。 「川島洋子の行方も気になるが、小熊利明の行方はもっと気になるなあ」  奥野が言った。 「小熊の消息はわかっているよ」  中田が言った。 「わかっているのか」 「彼はいま、我が県の県会議員だよ。次の総選挙には衆議院に打って出るために地盤培養をしている」 「小熊が衆議院に」 「知らなかったのか。山喜《やまき》の娘と結婚して、その後押しで県会議員に当選した。さしもの山喜も寄る年波で、この任期を限りに引退を決意し、その地盤を継ぐことになったんだ」  山喜こと山本喜三郎《やまもときさぶろう》は郷里の大地主で、当選十回、閣僚経験もある政治家である。  小熊は、その山喜の引退後の地盤を継いで次の総選挙に出馬するという。 「小熊が山喜の女婿になっていたとは……知らなかったな」  新開と奥野は驚いた顔を見合わせた。 「要領もいいが運もいい。山喜の娘に見初められて、そのコネで山喜の秘書となり、山喜の老いに乗じて彼の地盤を継ぐまでになった。他人《ひと》の噂では、山喜に取り入るために娘を色仕掛けでたぶらかしたということだよ」  中田が忌ま忌ましげに言った。 「小熊ならそのくらいのことはやりかねない。陰の番長は小熊だというもっぱらの噂だったからな」  当時、大番長として熊木が君臨していたが、熊木は凶暴なだけで、熊木を陰で操っているのは小熊だという噂があった。 「山喜の地盤なら当選は固いだろう」 「閣僚経験もあり、郷里に美味《おい》しい仕事を分捕ってくる山喜に対する地元の支持は絶対だ。その地盤を引き継ぐ小熊は当選確実だよ」 「もし約束を履行するとすれば、陰の番長の小熊が最初に狙《ねら》われるべきだな」  新開が三人の仲間の顔色を探った。 「陰の番長を一番後まわしにするという手もあるよ」  中田がからかうように言った。 「小熊が事件を耳にしていれば、戦々恐々としているだろうね」  布川が言った。 「さあ、それはどうかな。小熊はおれたちの約束を知らない。重岡、石本の死を熊木の事件に結びつけてはいないだろう。なんともおもっていないかもしれないよ」  新開が意見を言った。 「重岡、石本が約半年の間に前後して殺されたことを不審におもわないだろうか」  奥野が問うた。 「小学校の同級生が相前後して死んだところで、べつになんの不思議も持たないだろう。もっとも現在、三人の間に交渉があればべつだが」  中田が奥野の問いに答える形で言った。 「三人の間に交渉があったかな」  新開の目が宙を探った。その言葉がなにかを含んでいるようである。 「なにか心当たりでもあるのかい」  布川が聞いた。新開は、重岡と石本が棚川貴代子を呼んだことを三人に話した。 「同じコールガールを呼んだからといって、重岡と石本の間に連絡があったとは言えないだろう」  布川が言った。 「その通りだが、有名になった重岡に石本が連絡を取り、棚川貴代子を紹介された可能性がある」  新開は二人、特に重岡が丸井恵利子殺しとの関連を疑われたこと、及び彼と石本が同じ性傾向を持っていたことを秘匿した。  これは捜査の過程で浮かび上がってきたことで、確認されたわけではなく、一般に公開されていない捜査事項である。 「三人の間に交渉があったとすれば、重岡、石本の死は小熊になんらかの影響をあたえているかもしれないね」  奥野が中田と新開の言葉を踏まえて言った。 「それにしても、おれたちが約束を履行したのではないとすると、重岡と石本はだれが殺《や》ったんだろう」  四人は改めて元の話題へ返った。今日の同窓会は、単に旧交を温めるために集まったのではないことを知っている。  重岡、石本の死因について、たがいに疑い合っている。疑いながら、もし仲間の仕業だとすれば、先を越されたことに悔しさと後ろめたさをおぼえている。  一抹の疑惑は残しながらも、四人は再会して、彼らのいずれもがまだ約束を果たしていないことを悟った。それが約束不履行に対する悔しさと後ろめたさの裏返しとして、彼らをほっと安堵《あんど》させている。  同時に、互いに顔を見合わせながら便所虫時代の屈辱を新たにした。屈辱の深さが彼らをつなぐ強い連帯となっていることを知った。  あの夏の日から十九年経過しているにもかかわらず、屈辱の深さが一気にタイムスリップして、過去へ遡行《そこう》してしまう。顧みたくない過去であるが、忘れられない過去でもある。  星霜のかさぶたの底にいまでも疼《うず》いている傷口に、熊木|数雄《かずお》の死体が横たわり、川島洋子がたたずんでいる。  熊木は依然として彼らの屈辱の原点であり、洋子は彼らの女神《アイドル》であった。 「もう一度、川島洋子に会いたいな」  布川が期せずして四人の気持ちを漏らした。 「いまごろは子供を二、三人産んで、ごく平凡な母親になっているかもしれないよ」  中田が言った。 「みんな嫁さんはもらったのかい」  布川が三人の顔色を測った。 「きみはどうなんだ」  奥野に問い返されて、布川は、 「残念ながら、まだそれだけの甲斐性《かいしよう》がない」  と頭をかいた。 「実はおれもまだなんだ」 「なかなか来てくれる人がいなくてね」 「三Aの刑事の嫁になろうなんていう奇特な女性はいないよ」 「サンエイってなんだ」 「危ない、いつも家にいないアブセント、アブノーマル(異常)だとさ」  新開は少し自嘲《じちよう》気味に説明した。 「それでは結局、みんな独り者か」  四人は改めて安心したように顔を見合わせた。だが、彼らが独身を保っているのは、いまだに川島洋子の呪縛《じゆばく》の鎖から解き放されていないことを示すものでもある。 「いまさら彼女に会わない方がいいかもしれないな」 「そうだな。会って、女神《アイドル》を破壊することもあるまい」 「彼女にとっても、我々は最も会いたくない人間だろう」 「会わない方が、武士の情けというものだよ」  少年期の偶像に会いたい。吹きつけるような郷愁と同時に会うのが怖い。四人の気持ちは複雑であった。  彼らはいくら語っても語り尽きることがなかった。話題は共有した女神と屈辱に限られていたが、同じ話題を繰り返すことに、傷口を舐《な》め合うような安堵をおぼえていた。  中田と布川は、新開が用意したホテルに泊まることになっている。レストランからホテルのバーへ場所を移した彼らは、バーの看板まで粘った後、ようやく散会することにした。  中田と布川がそれぞれの部屋へ引き上げ、新開と奥野が少し居残った。充分に語り合ったはずだが、まだ語り足りないおもいが残っている。バーの灯が消えて従業員が椅子《いす》を片づけ始めた。これ以上粘ることはできない。 「おれたちもそろそろ引き上げよう」  奥野が言った。 「そうだな」  新開も重い腰を上げた。酔いが全身に重く澱《よど》んでいるが、まだ飲み足りない不満がくすぶっている。  だが、これ以上、奥野と古傷を舐め合っても傷が癒《い》えるわけでもない。  閑散としたロビーを横切り、玄関へ向かいかけた新開は、玄関口から入って来た一人の若い男とすれちがった。 「おや」  新開はふと小首を傾《かし》げて、すれちがった男を振り返った。 「どうかしたのか」  奥野が問うた。 「いや、いますれちがった男、どこかで会ったような気がするんだが」  新開が言ったとき、若い男はエレベーターに乗り込んだ。 「先へ帰ってくれ。どうも気になる」  新開は奥野に言って、引き返した。  エレベーターホールへ着いたとき、すでに扉は閉まり、搬器《ケージ》は動き出していた。  新開は階数表示《インジケーター》を目で追った。インジケーターは十六階までノンストップで上り、そこで停止した。十六階は中田の部屋がある階である。新開の胸に予感が走った。  このまま帰ろうかとおもったが、胸に引っかかったものが違和感を増している。  新開はおもいきって停止している搬器に乗り込むと、十六階のボタンを押した。  中田の部屋の前にたたずんだ新開は、しばらく室内の様子をうかがった。  室内はしんと静まり返り、人の気配は漏れてこない。だが、まだ眠っているはずはない。その静けさがむしろ異様な気配となって新開に迫ってくる。  新開はおもいきってチャイムを押した。依然として静まり返ったままである。  ベッドに入ったとしても、このチャイムが聞こえぬはずはない。新開ははっきりと異常を感じ取った。  チャイムを押しながらノックをした。  ようやく室内に気配が生じて、中田の声が、だれと問うた。 「新開だ。おもいだした用事がある。すまないが開けてくれないか」  室内ではっと息を呑《の》む気配が感じ取れた。  だが新開と聞いて、ドアを開けぬわけにはいかない。  ようやくドアが細めに開かれた。 「どうしたんだ」  中田が迷惑げな声で問うた。 「変わったことはないか」  新開は尋ねた。 「べつになにもないよ。一体どうしたんだ」 「それならばいい。邪魔をしてすまなかった」  新開は詫《わ》びて、ドアを閉めようとした。  一瞬、バスルームの中でカタリと音がした。中田一人のはずの部屋にだれかがいる。  久し振りの上京に女を呼んだとしても不思議はない。これ以上の詮索《せんさく》は野暮《やぼ》というものである。  新開は浴室の中の主が気になったが、そのままドアを閉めた。  中田の部屋の前から数歩あるきかけて、先刻ロビーですれちがった若い男の素性をおもいだした。  大人びた服装をしていたので気がつかなかったが、性悪有閑女三人に輪姦《りんかん》された|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》の少年だった。  あの少年が遅い時間、中田の泊まっている部屋のフロアに一人で上り、そして一人で泊まっているはずの中田の部屋にべつの人間の気配がした。  新開の意識におぞましい想像が脹《ふく》れ上がった。まさかとおもったが、否定しきれない。  新開自身、屈折した性傾向の持ち主である。その屈折の源が川島洋子にあることは確かである。  洋子の共通の信者として、中田の性傾向も屈折している可能性は充分に考えられる。  奥野も洋子の呪縛の鎖につながれてロリコンに陥っている。  布川については不明であるが、|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》の少年が偶然この場へ来合わせたとはおもえない。  新開の意識の中で、中田と|製 菓 店《コンフエクシヨナリー》の少年が重なりかけていた。  新開の想像が当たっていると仮定して、中田と少年がどこで結びついたのであろうか。  中田は川島洋子を熊木グループに汚されたのが原因で、性倒錯に陥った。  |製 菓 店《コンフエクシヨナリー》の少年も、性悪有閑女たちに輪姦されて、女性を忌み嫌うようになった。  この両者がどこかで出会ったとすれば、結びつく下地はあったと言える。  新開のせっかくの酔いが醒《さ》めかけていた。  今日、ホモセクシャルは市民権を獲得しつつある。ホモ志向のない者にはおぞましい性倒錯であるが、ホモセクシャルにとっては倒錯ではなく、性の傾向だと主張している。  中田の原点のわかる新開には、女性に興味を持てない中田の心の痛みが伝わってくるように感じた。  十八年ぶりの新開四人組の同窓会は、中田の意外なプライバシーを明らかにしてしまった。  石本殺し、重岡殺しについての同窓生にかけた疑惑は完全に晴れたわけではなかったが、再会して話し合っているうちに、嫌疑はかなり薄れてきた。  十九年も経過すれば、べつの線からの殺人の動機が培われても不思議はない。 [#改ページ]  過保護のシステム  石本成一が殺害されたのとほぼ同じ時期に、棚川貴代子に奇妙な依頼があった。  田沢《たざわ》という彼女の馴染《なじ》み客の一人から、 「きみにぜひ紹介したい客がいるんだが、行ってくれないかな」  と言われた。  貴代子の客層は、客の口コミによって広がっていく。  客の紹介は素性が確かなので安全であり、気前もいい。 「田沢さんのご紹介なら、歓迎するわ」  貴代子は言った。  田沢は四谷で歯科医を開業している。「紳士・淑女クラブ」時代からの馴染みである。 「私の特診患者なんだがね、筆下ろしを頼まれたんだ」 「筆下ろし?」 「ある大会社の重役なんだが、その息子さんが成人式を迎えるのに童貞で、女を知らせてやりたいというんだよ」 「まあ」  筆下ろしの依頼は彼女のような女性にとって珍しい依頼ではないが、貴代子は初めてである。 「筆下ろしならソープへ行ってもいいし、ホテトルから呼んでもいいんだが、素性の知れない女では病気が怖いのでね。特に最近はエイズが流行《はや》っているので、絶対安全な女性を紹介して欲しいと言うんだ」 「私でよろしければ、お引き受けするわ」 「有り難う。先方も喜ぶだろう。相手は二浪中の予備校生でね、親はなんとしても三浪はさせたくないとおもっている」 「それでは、女なんか知ったら、勉強が手につかなくなるじゃないの」 「ところが欲望が鬱積《うつせき》して、妄想が頭につまり、受験勉強に影響しているというんだね。溜《た》まった欲望をすっきりさせて、受験勉強に打ち込ませたいという親心なんだ」 「凄《すご》い過保護ね」  さまざまな客に接する貴代子であるが、その親馬鹿ぶりにはさすがに呆《あき》れた。 「親にしてみれば真剣なんだよ。息子の部屋から大量のビニ本やアダルトビデオが出てきて、受験勉強と称して、実はそんなものに耽《ふけ》っていたことがわかったらしい。このままでは三浪は免れない。安全な女性をつけて息子の妄想を追い払い、勉強に専念させたいという親心だ」 「逆効果にならなければいいけれど」 「それがきみの腕だよ。どうだね、人助けとおもってやってくれないか」  これまでゴルフの景品、温泉旅行の同伴、不能老人の添い寝、スワップパーティの妻役、乱交パーティ、レイププレイなどにアテンドしたことはあるが、受験生の筆下ろしは、貴代子にとって初めての経験である。 「よかった。恩に着るよ。本当のところを言うと、きみに断られたらどうしようかとおもっていたんだ。大切な患者のご子息なので、めったな女は紹介できないしね」  田沢は貴代子が引き受けてくれたので、ほっとしたらしい。  だが、それからが大変であった。  先方の両親が、まず貴代子に面接したいというのである。  面接試験をして、両親の眼鏡に適《かな》って初めて当の本人にまみえるという|仕組み《システム》である。  これも過保護のシステムであった。  翌日、貴代子は指定された時間に、指定された都心のホテルで両親と面接した。上品な中高年の夫婦である。 「これは確かめるまでもないことですけれど、ご健康でしょうね」  まず夫人がおずおずと尋ねてきた。 「健康でなければお引き受けしません」  貴代子は毅然《きぜん》とした口調で言った。  検診の後、客に接していれば、医師の証明書や健康診断書などは無意味である。  またエイズや梅毒などは潜伏期間が長い。  貴代子の自信のある口調に、両親は安心したらしい。 「秘密は守っていただけますね」  夫人が念を押した。 「お客様の秘密は、私の秘密でもあります。どんなことがあっても口外いたしません」 「それを聞いて安心したわ。息子は身体は大きいけれど、心はまるっきり子供なのです。女性の扱い方はもちろん、口のきき方も知りません。どうかよろしく指導してやってくださいね」  夫人はハンドバッグの中にあらかじめ用意しておいた封筒を差し出した。その厚みから、かなりの金額が入っていることがうかがわれた。 「これではいただき過ぎですわ」  封筒の厚さから推測した貴代子は、封筒を押し戻した。 「どうぞ受け取ってください。セックスだけではなく、女性との会話の方法、女性と一緒にお食事をする作法などもおしえていただけたら嬉《うれ》しいわ」  夫人が言った。  その間、夫は黙したまま貴代子を観察している。  貴代子は彼の目が好奇の色に塗られているのを敏感に悟った。  父親自身が彼女の身体に関心を抱いている。  封筒の中には、驚いたことに五十万円入っていた。  これはある商社の依頼で、外国のVIPに一夜|侍《はべ》ったときの謝礼と同額である。  一夜の筆下ろし料としては破格であった。  両親の眼鏡に適った貴代子は、その日の夕方午後六時、同じホテルの指定された部屋に赴いた。  百戦錬磨の彼女が、いつもと勝手がちがうのでややとまどっている。  彼女がこれまで侍ってきた客は上流の客のせいで、ほとんどアダルトから熟年である。  若い客には彼女を購《あがな》う資力がない。  いまどき二十歳の童貞とは珍しいようであるが、必ずしもそうではない。  昔のように公許の遊廓《ゆうかく》はなく、若者の性意識が革命(覚醒《かくせい》?)された後、要領のいい者は一人で複数の異性を抱えているが、要領の悪い者はまったく異性にありつけない。  エイズの世界的|蔓延《まんえん》によって、フリーセックスからレギュラーパートナー間のセックスに戻りつつある。  エイズは乱れた性風俗に対する歯止めとなっている。  二十歳の童貞は決して珍しくないし、結婚まで童貞を保つ者はむしろ増えつつある。  指定された部屋の前に立ってコールボタンを押すと、ドアが内側からおずおずと開かれた。 「どうぞ」  という若い男の声がしたが、顔は覗《のぞ》かせない。 「失礼しまーす」  明るい声で言って、室内に入った貴代子は、立ちすくんだ。  目の前に筋骨隆々とした若者が、全裸のまま立ちはだかっていた。  まさかそのような形で待っていようとは予期していなかった貴代子は、度肝を抜かれてしまった。  御曹司《おんぞうし》はものも言わずに彼女に躍りかかってきた。 「ちょっと、ちょっと待ってください」  このように性急にしかけられようとは予想もしていなかった貴代子は、狼狽《ろうばい》した。  そのために購われてきた身ではあるが、ベッドインするまでの多少の手つづきがある。経験豊富な彼女であるが、客が全裸で待ち構えていた前例はない。  貴代子ともあろう者が完全に立ち遅れていた。  御曹司は彼女のささやかな抵抗を若い男の膂力《りよりよく》で抑圧しながら、彼女をベッドに押し倒した。 「そんなに慌てなくとも、時間をかけてゆっくりと楽しみな……」  言葉半ばに唇を塞《ふさ》がれた。  荒々しい粗野な動きであるが、馴《な》れていない。  貴代子の衣服を脱がそうと焦っているが、女の剥奪《はくだつ》は初めての経験のようである。  御曹司に組み敷かれながらも、貴代子は次第に立ち直ってきていた。 「痛いわ。慌てなくとも、私は逃げないわよ」  ぎごちない動きに唇が外れた弾みに、貴代子は御曹司の耳許《みみもと》に優しくささやいた。キスの仕方も知らないらしく、唇が痺《しび》れたようになっている。  彼女の言葉が御曹司に鎮静効果をあたえたようである。 「おばさん、ぼく、どうしていいかわからない」  御曹司が言った。一見、筋骨隆々として逞《たくま》しいが、顔も声も少年である。 「大丈夫。私が全部おしえてあげるわ。なにも心配することも慌てることもないのよ」  貴代子の言葉に御曹司はようやく落ち着いてきた。 「いくらなんでも最初から裸では恥ずかしいわ。ホテルの浴衣を着て。私も浴衣に着替えますから」  貴代子は御曹司を諭すように言った。  彼は素直にこくりとうなずいたが、備え付けの浴衣がどこにあるのか知らないらしい。  ワードローブを開いて御曹司の手に浴衣を渡しかけた貴代子は、彼の股間《こかん》に目を向けて、おもわず頬《ほお》を赤らめた。 「まあ、もうこんなになってしまって、お元気なのね」  貴代子は目のやり場に困った。  アダルトや熟年の客ばかり相手にしているので、このような生きのいい道具に久しく出会ったことがない。生き生きとして形がよく、色つやも素晴らしい。それは男のエネルギーの象徴のように逞しく、若さを凝縮したように溌剌《はつらつ》としていた。  貴代子の体内は潤っていた。ミイラ取り(指南役)がミイラになりかけている。  貴代子はシャワーを使わないことにした。せっかく潤った身体を洗い流すことはない。指南役でも楽しむ権利はある。むしろ楽しんでの指南の方がよい指南ができるであろう。 「坊や、お名前はなんとおっしゃるの」  ようやく浴衣を着た御曹司に、貴代子は問うた。 「かつゆきといいます。勝利に幸福です。おばさんの名前はなんというのですか」 「私はきよこよ。初めまして、よろしくね」 「よろしく」 「坊や、来てもいいわよ」 「あのう、その坊やと言うのはやめてくださいませんか」 「あら、ごめんなさいね。お爺《じい》ちゃんばかり見ているもんだから。でも、あなたもおばさんと言うのはやめて」 「ごめんなさい。でも、なんと呼んだらいいですか」 「そうね、お姉さんと呼んで。少し図々しいかしら」 「お姉さんはとても綺麗《きれい》です」 「まあ、お上手。でも、嬉しいわ」  二人の間の雰囲気がだいぶ柔らかくなった。 「あら、震えているのね。なにも緊張することはないのよ。リラックスして、私の言う通りにすればいいの」  貴代子は勝幸を柔らかく抱擁して、唇を軽く吸ってやった。 「キスはね、噛《か》みつくようにしては駄目。最初は柔らかく触れ合うようにして、おたがいの唇に馴れてきてから舌の先を少し出して、相手の舌の先と軽く触れ合うようにするの。ディープキスはまだ駄目よ。女性によってはキスを好まない人もいるから、注意しなさいね。プロの女性には、自分の方から決してキスをしかけてはいけないわよ。たとえキスを許されても、舌を使っては駄目。少し馴れてきたら、相手の唇を軽く噛んであげるのもいいわね。ただし、これも相手を見てしなければ駄目よ」  貴代子は勝幸を徐々に誘導していった。 「いらっしゃい。まず、女の身体の位置をよくおぼえるのよ。そこは下すぎるわ。もっと上、あっ、上すぎるわ。そこよ。そこ。ゆっくりと。男の人は押すときよりも引くときに、より敏感に感じるのよ。勝幸さんのように若いと、静止しているだけで堪えられなくなるわ。激しすぎても静かすぎても駄目。適当なリズムで動かしている方が、より長く堪えられるものよ」  貴代子は指南しながら、自分の方が高まっていくのを感じた。  だが、彼女が達する前に勝幸が爆発した。  そこで早すぎるなどと言ってはいけない。初体験の男は、初めての女性次第で自信を喪失することがある。  体内でなにかが弾《はじ》けたような強烈なインパクトを感じたが、まだ女の官能の撃針と触れ合っていない感じである。 「そのまま。そのままにしていらして。すぐに回復するわ」  圧倒的なエネルギーをもてあましていたような若い身体から、急速に気合が抜けたように彼女の身体の上でぐったりした勝幸に、貴代子はささやいた。  勝幸は彼女に言われた通りにしていた。  二、三分のうちに、勝幸の身体はふたたび充実してきた。  若さとはいえ、驚くべき復活力である。 「あらまあ、あらまあ」  貴代子は不覚にも喘《あえ》いだ。  一度放精しているので、今度は勝幸は逞《たくま》しい持久力を示した。 「凄《すご》いわ。凄いわよ」  貴代子は喘ぎつづけた。  指南役のつもりが、完全に攻守所を変えている。  二度目は彼女の撃針に触れた。  体内深く、核爆発でも生じたかのように、貴代子は二人の一致した爆発に、通常の達成を超えた官能の高みへ吹き飛ばされた。  官能の波頭が崩れる直前で、身体を溶接《ようせつ》させたまま男女一体となっての漂流感は、熟練した性の醍醐味《だいごみ》であるが、なんの抑制もかけず圧倒的な爆発に身体を委《ゆだ》ねるのも、若い豊饒《ほうじよう》な性の特権である。  無尽蔵の精力を出し惜しみせず、豪勢に蕩尽《とうじん》する。  アダルトのような緻密《ちみつ》な微調整はないが、性急でダイナミックな行為は、性行為の原型が男女の和合ではなく、闘争であり、対決であることをおもい起こさせるようである。 「壊れちゃいそう」  棚川貴代子は久し振りに本心から言った。  この破壊的な官能の喜悦は、新開の言葉では決して達せられないものであった。  肉体の破壊的な達成に、精神が完全に取り残されている。  ただ一度の伝授で要領をおぼえた勝幸は、二度目の爆発の後も貴代子の体内に留《とど》まっていた。  数分後、貴代子に休息の間もあたえず、勝幸が再度よみがえってきた。  よみがえるたびにより逞しくなってくる。  回を重ねるごとに持久力と破壊力を増していく。よみがえる間隔が驚異的に短い。 「お願い、少し休ませてちょうだい」  貴代子はついに悲鳴をあげた。  勝幸の体力は無尽蔵であり、鬱積《うつせき》していた欲望の油田に火が点じられ、激しい燃焼をつづけている。 「あなたは本当に初めてなの」  ようやく一息ついたところで、貴代子は問うた。 「初めてです」 「初めてでこれでは、末恐ろしいわね」  貴代子は驚嘆した。 「お姉さんは素敵です。これからもお会いしたいとおもいます」  勝幸は言った。 「駄目よ。あなたの本分は勉強することでしょ。いまはしっかり勉強して、試験に合格することだけを考えるのよ」 「ぼくはべつに大学へ行かなくともいいのです。両親ががっかりするので、仕方なく予備校へ行っていますが、本当は勉強なんか好きじゃないのです」 「そんなことを言っては駄目よ。あなたはいま、だれでも一度は通り抜けなければならない関門にさしかかっているのよ。私がまた欲しかったら、試験に合格することね。合格したら、またあなたに会ってあげてもいいわ」 「お姉さん、本当ですか」 「嘘《うそ》は言わないわ。だから、しっかり勉強すると約束してちょうだい」 「約束します」 「それでは指切りげんまん」  二人は幼い約束の儀式を交わした。  貴代子はこれ以上勝幸に会うと、彼を駄目にしてしまうとおもった。  馬に人参をあたえすぎると走らなくなる。貴代子は馬の鼻面に吊《つ》るした人参のようなものである。  人参を食おうとして、馬は走りつづけるであろう。  若く溌剌として衰えを知らぬ体力は、彼女がこれまで味わったことのないものである。  熟練したアダルトの性技は、体内奥深くの襞《ひだ》の隅々まで柔らかな泡のように行き渡るが、破壊的なエネルギーは感じられない。  女と同調して、女を喜ばせるために奉仕する性奴のような男たちに馴《な》れた身には、自分本位の荒々しい欲望を直接ぶつけてくる勝幸に、ショックをおぼえた。  それは一種のセクシャル・ショックであった。貴代子は、彼女が欲しければ試験に通れと諭したが、それは自分自身を諭す言葉でもあった。勝幸が女に溺《おぼ》れる前に、自分が勝幸の虜《とりこ》になりそうな気がしたのである。  新開によってメンタルな官能の油田に放火され、朝丘や石本に生死を弄《もてあそ》ぶ危険な情事の味をおしえられ、いま勝幸に会って、無限に蓄積された若い体力による連射を受けた。  それぞれが異なるセックスパターンであるが、異種格闘技によって強くなっていく選手のように、貴代子も性の闘士として鍛えられていった。  勝幸にアテンドして四、五日後、貴代子の住居に一本の電話がかかってきた。 「先日は息子がたいそうお世話になりました。息子が大変喜んでおりましたよ」  受話器から話しかけてきた声に聞きおぼえがあったが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。 「勝幸がまたお会いしたがっております」  と言われて、電話の相手の素性をおもいだした。 「これ以上お会いすると、かえって受験勉強に手がつかなくなるとおもいますわ」  貴代子は答えた。 「勝幸も言ってました。あなたから、また会いたければ試験に合格しなさいと言われたと」 「私のために不合格になっては申し訳ありませんわ」 「あなたの言葉が励みになったとみえて、前とは別人のように勉強するようになりましたよ」 「それはようございましたわ」 「実はひとつお願いがあるのですが」 「なんでしょうか」 「私と会っていただきたいのです」  貴代子は電話口で言葉に詰まった。 「あなたに初めてお会いしたとき、ぜひ二人だけで会いたいとおもいました。いかがでしょうか、今度は私と会っていただけませんか」  貴代子の沈黙を自分に都合よく解釈したらしく、勝幸の父親の口調がねっとりと粘りけを帯びてきた。 「それはできませんわ。いくらなんでも」 「勝幸に内緒にしておけばよろしいでしょう。べつに不倫をするわけではないし」 「でも、親子と……そんなことできませんわ」  これが不倫でなければ、なんというのであろうか。俗に親子丼《おやこどんぶり》という言葉がある。それは男が母娘双方と通ずることを言うようであるが、女性が父子双方と通ずることも意味するのであろうか。 「お礼は充分にさせていただきますよ」  父親は金さえ払えば文句はあるまいと言うように、言葉を追加した。 「お断りします」  貴代子は強い口調できっぱりと断った。もともと切り売りをしている身体である。不倫や不道徳を口にする資格はない。ただ、気味が悪かったのである。  父子双方と通ずる気色の悪さと、子供の妄想を断ち切るために、子供にコールガールをあてがってやった親馬鹿が、同じコールガールを呼ぼうとする神経に、救いようのない歪《ゆが》みを感じた。  親があてがってくれたコールガールを、珍しいおもちゃを買ってもらったかのように嬉々《きき》として遊ぶ息子と、息子のために購《あがな》ったコールガールをなんのためらいもなく自分のために呼ぼうとする父親に、現代の病蝕《びようしよく》の深さをおぼえた。自分自身が病菌のような存在であるが、せめて父子双方に共通の病菌をばら蒔《ま》くことは自制したい。 「謝礼はあなたのお望みのままに差し上げるが」 「そんな問題ではありません」  貴代子は一方的に電話を切った。 [#改ページ]  高層の官能  石本成一が殺されたニュースは、貴代子を愕然《がくぜん》とさせた。  朝丘が殺され、つづいて石本が殺された。いずれも貴代子が関わった客であり、同じ性傾向の持ち主である。もしかすると同一犯人による犯行かもしれない。  貴代子は背筋に冷たいものをおぼえた。  新開は朝丘と石本と小学校の同窓だと言っていた。貴代子の客であり、新開の同窓の二人が相次いで殺された。  新開は丸井恵利子殺しの犯人として石本を疑っていたらしい。もし石本殺しが恵利子殺しの延長にあるとするなら、犯人はべつにいる。  朝丘と石本はなぜ殺されたのか。二人は丸井恵利子に関わっていて殺されたのか。  貴代子は恵利子とは直接の関係はない。だが、朝丘と石本が恵利子に関わっていたとすれば、間接的な関連を持っていたことになる。  季節は盛夏にもかかわらず、貴代子は身辺をうそ寒い風に取り囲まれているような気がした。  新開は碑文谷《ひもんや》署に連絡を取った。  碑文谷署の水島と日下部は顔馴染《かおなじ》みである。  二人に会って、事件の概略を聞いた新開は、犯行現場から採取されたという茶褐色のボール紙の断片のような物質を見せられて、記憶に刺激を受けた。  以前どこかで見たような記憶があるが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。 「火薬のようなにおいがします」  水島に言われて、物質に鼻を近づけた新開は、記憶がよみがえった。  ビニールに包まれているが、かすかに火薬のにおいが漏れてくる。  貴代子と一緒に熱海へ花火見物に行ったとき、上空から霰《あられ》のようにぱらぱらと降りかかってきた花火玉の破片があった。  貴代子がなにげなく拾い上げた破片と、指先につまみ上げた物質が重なり合った。 「なにかお心当たりがありそうですね」  水島が新開の表情の反応を探っている。 「これは花火のかけらではありませんか」 「花火のかけら?」 「以前、花火見物をしたとき、炸裂《さくれつ》した花火のかけらが近くに落ちてきたことがあります。それとそっくりですよ」 「なるほど、そう言われてみれば、花火のかけらかもしれませんね」  そうだとしても、なぜ花火のかけらが犯行現場に落ちていたのか。  水島と日下部の表情がその意味を探っている。  そのとき、新開の脳裡《のうり》でスパークしたものがあった。  石本は貴代子の客である。石本の部屋に貴代子が来た可能性はある。  コールガールであるから、客の家に呼ばれても不思議はない。  だが、その客が殺されたとなると、犯行現場に出入した彼女は無色の立場ではいられなくなる。  だが、新開のおもわくを水島と日下部に話すのは、まだ早計である。  その前に貴代子に直接確かめてみたい。  新開から貴代子に会いたいと連絡がきた。 「いつでもいいわよ。最優先するわ」  貴代子は甘い鼻声で答えた。  貴代子の期待を叩《たた》きつぶすように、 「仕事でちょっと聞きたいことがあるんだ」  と新開が言った。 「仕事でもなんでも、あなたに会えるのなら嬉《うれ》しいわ」  予備校生の指南役で肉体が完全燃焼しているにもかかわらず、精神が欲求不満のまま取り残されている。なんとも奇妙な不満感である。  貴代子の職性から、肉体的満足をあたえてくれる客は多いが、精神的に満たしてくれる者は新開一人である。  精神の官能の味奥《みおう》を知った貴代子にとっては、肉体の交わりは表皮的な快感でしかなくなっている。  肉体が燃えれば燃えるほど、炎の燃焼に伴って煙が出るように、体内に澱《おり》が澱《よど》む。その澱を新開が吹き払ってくれるのである。  予備校生の指南は、その若い無尽蔵の体力によって貴代子の肉体を蕩尽《とうじん》させ、彼女の体内に大量の煤《すす》を残した。新開にこの煤払いをしてもらわなければならない。  花火以来初めて新開に会った貴代子は、彼が仕事と断っているにもかかわらず、期待で全身を弾ませていた。  新開が指定した場所は、いつものホテルではなく、あるターミナル駅前の喫茶店である。  そのことに少し不満をおぼえながらも、貴代子はいそいそと指定の場所へ赴いた。  新開は先に来て待っていた。  その深刻な表情を見て、貴代子はいつもと様子がちがうのを悟った。  彼は向かい合うなり、貴代子がオーダーするのも待たず、 「石本が殺されたことは知っているだろう」  と問いかけてきた。 「テレビでニュースを見たわ」 「そのことできみにちょっと聞きたいんだが、石本が殺される前、彼に会っていないか」  と新開は一直線に問うてきた。貴代子が返答に窮していると、 「どうなんだ。ぼくには本当のことを言ってくれないか」  と新開は言葉を追加した。 「そのことが事件になにか関係があるの」  貴代子が問い返すと、 「これがね、石本が殺された現場に残っていたんだよ」  新開はビニールに包まれた茶褐色の段ボール紙の断片のようなものを見せた。  これ、なにと目で問いかけた貴代子に、 「きみにはおぼえがあるはずだ。熱海に花火見物に行ったとき、上空から落ち葉のように落ちてきた花火の断片だよ。石本が殺されたのがその二日後の夜。きみはもしかしたら花火見物の後、石本の部屋へ行ったのではないのか」  黙したまま答えない貴代子に、 「どうなんだ。熱海の花火大会から石本が殺されるまでの間に、この近郊で大きな花火大会は開かれていない。仮にどこかで花火大会があったとしても、石本の身辺にとりあえず花火のかけらを運んで行くような人間は、きみ以外に見当たらない。きみは深刻な立場に陥っている。本当のことを言ってくれないか」 「私を疑っているのね」 「石本は殺されたんだよ。もしかすると、丸井恵利子や重岡良作の殺しと関連があるかもしれない」 「私は石本さんを殺してなんかいないわ」 「だれもきみが殺したとは言っていない。石本の生前、彼の部屋へ行ったかどうかと聞いているんだ」 「行ったわ。七月二十八日の夜十時ごろ、石本さんに呼ばれて、石本さんの自由が丘のマンションへ行ったわ。花火の破片は面白いので拾い取ってバッグに入れておいたのが、石本さんの部屋でお化粧を直したとき落としたんだとおもうわ。午前零時ごろ帰って来たんだけれど、石本さんはぴんぴんしていたわよ」 「石本が殺されたと推定される時間帯は、午前零時から未明にかけてだ。すると、犯人はきみとすれちがいに現場へ来たことになるな」 「怖いわ」  貴代子は身をすくめた。 「石本の部屋に先客や、きみがいる間、訪ねて来た人間はなかったか」 「そういう人はいなかったわ」 「よくおもいだすんだ。きみは犯人を見ていなくとも、犯人の方できみを見ているかもしれない。犯人はべつの部屋に隠れていたかもしれないよ」 「石本さんのほかには、だれもいた気配はなかったとおもうわ」  女と一緒に過ごすプライベートな時間に、ほかの人間を呼ぶ者はいないだろう。  犯人が貴代子でなければ、犯人は貴代子が帰った後に来たことになる。  それは石本の顔見知りの人間にちがいない。 「当分、身辺に注意した方がいい。きみは気がつかなくとも、犯人の方できみを認識しているかもしれない」 「それ、どういう意味」 「こういう仕事をしているのでね、つい考えすぎてしまう。まあ、大事を取るに越したことはないからね。素性の知れない人間には近づかない方がいい」  新開は暗に貴代子が客を取ることを戒めている。 「今日はデートをしてくれないの」  貴代子は不満げに訴えた。 「近いうちに時間をつくる」 「ほんのちょっとでもいいわ」 「そういうわけにはいかないよ」 「本当にちょっとでもいいのよ」 「きみとぼくがちょっとではすまないことを知っているだろう」 「私、もう駄目。補給してもらわないとどうにかなっちゃいそう」  貴代子の身体が焦《じ》れていた。 「しょうがないなあ」  と言いながらも、新開の表情が貴代子の訴えを受け入れていた。 「時間が少ししかない。あのホテルへ行こう」  新開は駅前に屹立《きつりつ》している超高層ホテルを指さした。 「ごめんね、無理を言って」  貴代子は謝りながらも、期待で全身を火照らせている。  二人はもつれ合うようにしてホテルに入った。  正面玄関から入り、ロビーを横切ってエレベーターホールへ進む。  ホテルの最高層は展望ラウンジになっている。  ホールからラウンジまで直行のエレベーターが連絡している。  ラウンジ行きエレベーターの前に数人の客が待っていた。 「あら、お部屋を取らなくては……」  不審顔の貴代子に、新開は、いいんだと目で合図した。  そこへドアが開いて、搬器《ケージ》から降りて来た客が出てきた。 「すみません、警察です。次のエレベーターをご利用ください」  搬器に乗り込もうとした他の客を新開は制止すると、貴代子の腕を取って乗り込んだ。  他の客が立ち止まった前で、搬器のドアが閉まった。  この搬器は五十二階の最高層までノンストップで駆け昇る。分速三百メートル、最高層まで三十三、四秒である。 「一体どういうつもりな……」  と問いかけた貴代子を、新開は荒々しく抱き寄せると、 「いまなら可能だ。早く」  と促した。貴代子には咄嗟《とつさ》にその意味がわからない。  新開は時間を無駄にせず、貴代子の下半身の剥奪《はくだつ》にかかった。 「ちょっと、ちょっと」  仰天した貴代子に新開は答えず、剥奪の手を進めた。  貴代子は驚愕《きようがく》しながらも、新開の意図を了解した。  五十二階の最高層まで、あたえられた時間は数十秒しかない。エレベーターという異常な環境と、限定された時間が二人の興奮を高めている。  衣服の部分的な剥奪によって身体の一部を露出した二人は、一切の前置きを省いて身体を結び合わせた。  無理な体位が互いの官能の刺激を高めている。  根元まで貴代子の体内に埋没した新開は、隙間《すきま》なく埋め立てられた充足感を味わう間もなく、根幹から抜去した。  一瞬の感覚、それゆえに強烈な刺激を残して二人の身体は離れた。  無理な離脱と抑制のせいで、新開と貴代子の全身は痙攣《けいれん》した。  一瞬の結合と分離によって、まだ両者の身体の間には粘液が糸を引いているようである。 「辛《つら》いわ」  貴代子は呻《うめ》いたが、行為を追完する時間はない。二人が身仕舞いを終ったとき、搬器《ケージ》は最高層に達して、ドアがするすると開いた。二人はラウンジになにごともなかったかのように降り立った。  だが、二人の体内深く、強烈な光を射込まれた網膜のように、官能の残像が濃く焼きつけられている。一瞬の結合であったが、どんなに長い癒着よりも、それは深い両性の溶接《ようせつ》であった。瞬間であるがゆえに、激烈な刺激と強い欲求不満を植えつけた。  まるで砂漠で渇いていた旅人が、口一杯冷たい水を頬張《ほおば》った後で、ただの一滴も飲み込まずに吐き出したような感じである。  全身の細胞がたがいを求めてざわめき立ったところで、引き抜かれた。 「辛いわ。気が狂いそうだわ」 「ぼくもだよ。しかし今日は時間がないんだ」 「あなたって残酷だわ」 「愛は残酷なものだよ。愛し合うということはどこかで傷つけ合わずにはいられない」 「今日はこのままお別れしようというの。よくそんなことが平気でできるわね」 「平気なはずがないだろう。ぼくだって辛い」 「私たち、今日初めて、本当の意味で結ばれたのよ。でも、あまりにも短くて信じられない」 「まぎれもなく事実だよ。ぼく自身がきみと結ばれたことに驚いている」 「ねえ、十分でいいわ。それが駄目なら五分でも。一分足らずであれだけのことができたんですもの。五分あればなんとかなるわよ」  貴代子は全身でねだった。 「ぼくをあまり困らさないでくれ。部屋を取って五分ですむはずがないだろう。もう本当に時間がないんだ。これからすぐ帰らなければならない」 「駄目よ。このままあなたを帰すなんて、とてもできないわ。そんなことしたら、私、本当に気が狂っちゃうわよ」  貴代子は幼児がだだをこねるようにいやいやをした。  そのとき新開のポケットベルが鳴った。 「ほら、さっそくポケベルのお呼びだ。近いうちに必ず時間をつくる。今日は勘弁してくれ」 「それでは下りのエレベーターの中でもう一度、いいでしょ」  最初は新開の大胆不敵な行動に驚愕した貴代子であったが、早くも新開以上に大胆になっている。だが下降エレベーターの搬器には、すでに先客が乗り込んでいた。警察を楯《たて》に取って先客を追い出すことはできない。  新開征記自身にもエレベーターの中での棚川貴代子との一瞬の交接が信じられなかった。これまで貴代子とは言葉を用いてのみの交わりであったが、今日初めて肉体で交わった。  一瞬の交合であったが、どんな交わりよりも深く、劇的な交わりであった。  新開は貴代子に対して、男として機能した事実に驚いていた。貴代子に可能になったということは、川島洋子の呪縛《じゆばく》から逃れたということであろうか。  そうではないとおもった。  川島洋子の鎖には依然としてつながれている。貴代子と川島洋子が分離したのだ。  それだけ貴代子が新開に接近し、洋子が彼から遠ざかったことを意味する。  この事実を喜ぶべきか、あるいは警戒すべきか、新開にはわからない。  だが言葉をもってのみ交わっていた貴代子と肉体的に結ばれたことは、二人の歴史の新たなスタートになることは確かである。 [#改ページ]  交換された慰安母  丸井恵利子殺し、重岡殺し、石本殺しの捜査がいずれも膠着《こうちやく》している間、新開は彼の理解を超える事件に遭遇した。  九月十五日、新開は息子が誘拐されたという訴えを受けた。訴えてきたのは内村桂子《うちむらけいこ》という三十代後半から四十前後の裕福そうな婦人である。居合わせた新開が訴えを受けたが、どうも要領を得ない。 「誘拐されたご子息は何歳ですか」 「十七歳です」 「犯人から身代金の要求でもありましたか」 「ありません」 「どうして誘拐されたとわかったのですか」 「それはもう、あの女の仕業に決まっています」 「あの女の仕業というと、犯人は女なのですね」 「そうです」 「どうして犯人がわかったのですか」 「あの女以外に犯人は考えられません」 「あの女とはだれですか」  問いつめられて、訴えてきた婦人は黙した。  新開はなにか事情がありそうだとおもった。 「どうか奥さん、落ち着いて詳しく事情を話してください」  新開は言った。  裕福な家庭の主婦らしい。身なりもよく、身体の隅々まで栄養が行き届いているような女性である。まだ充分|艶色《えんしよく》を含んだ姥桜《うばざくら》というところであろう。 「犯人は近所に住んでいた北見《きたみ》さんの奥さんです。北見さんがうちの正彦《まさひこ》を連れ出したに決まっています」 「北見さんがなぜあなたのご子息を連れ出したのですか」 「それは……」  ふたたび内村桂子は言葉に詰まった。 「ご子息は監禁されているのですか」 「いいえ、べつに監禁されていませんわ」 「それではご子息の意志で北見さんのところに留《とど》まっているのではありませんか」 「北見さんに騙《だま》されているのです」 「奥さん、誘拐されたとおっしゃいますが、誘拐は騙すか、誘惑して連れ出すことです。また暴行、あるいは脅迫して連れ出せば略取罪となります。奥さんはお子さんが騙されるか、あるいは誘惑されるか、または暴行、脅迫されて連れ去られるところを目撃したのですか」  新開に問われても、内村夫人は答えない。答えられないようである。 「奥さんがご子息を北見さんという女性に誘拐されたとおっしゃる根拠をうかがいたいのです」 「それは……北見さんが正彦を誘惑したからです」 「なるほど。誘惑して連れ出せば、誘拐になりますね。奥さんはどうして北見さんがご子息を誘惑したことを知っているのですか」 「それは……」  また内村夫人は言葉に詰まった。 「北見さんの居場所はわかっているのですか」  新開は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「わかっています」 「北見さんはどちらにいるのですか」 「盛岡です」 「なぜご自身で連れ戻しに行かないのですか」 「正彦が帰らないと言い張るのです」 「どうもよくわかりませんね。誘拐されたご子息が帰らないというのはどういうことですか」 「正彦は北見さんに騙されているのです。親子ほど年齢差があるのに、正彦をそのようにのぼせ上がらせたのは、北見さんが誘惑したからです」 「北見さんという女性は、奥さんと同じ年配なのですね」 「同年配です」 「そして以前、奥さんのお宅の近くに住んでいたのが、盛岡へ移転して行ったのですね」  内村夫人がうなずいた。 「北見さんは移転先にご子息を連れて行ったのですか」 「北見さんが引っ越した後、正彦を呼び寄せたのにちがいありません」 「しかし、奥さんがご子息を連れ戻そうとしても帰らないということは、ご子息の意志で北見さんのところに留まっているということですね」 「正彦は十七歳です。充分な判断力なんかありません。北見さんに騙されているのです」 「北見さんは盛岡へ移転する前、奥さんの家のご近所に住んでいたそうですが、奥さんとはどんなご関係だったのですか」  新開は内村夫人の口ぶりから、彼女と北見との間になんらかのつながりがあると睨《にら》んだ。 「高校のPTAの役員をしていました」 「高校のPTAといいますと、北見さんにもお子さんがいたのですね」 「正彦と同じ高校の同級生でした」  内村夫人は仕方なさそうに言った。 「ご子息と同級生という北見さんのお子さんは男の子ですか、お嬢さんですか」  内村夫人がふたたび黙した。 「男の子ですか、お嬢さんですか」  新開はさらに問うた。 「男のお子さんです」  内村夫人はしぶしぶといった体で答えた。  新開はべつに隠す必要もないことを答え渋った内村夫人に不審をおぼえた。内村、北見両家にはなにか秘密が隠されている。 「奥さんは北見さんがご子息を誘拐、あるいは拉致《らち》する現場を確かめたのですか」 「確かめたわけではありませんが、北見さんが誘拐したに決まっています」 「とにかくご子息の居場所がわかっているのですから、帰って来るように説得をつづけてはいかがですか」 「説得しても帰って来ないので、警察に頼んでいるのです」 「身代金の要求もなく、結婚、あるいは猥褻《わいせつ》目的も証明されず、ご子息を監禁している様子もなく、暴行、脅迫、あるいは欺罔《きもう》、誘惑も確認されないのでは、略取誘拐と断定できません。我々からも北見さんに連絡を取ってみましょう」 「連絡ではなく警察の力で正彦を連れ戻していただきたいのです」  内村桂子が狼狽《ろうばい》した口調になった。  新開はひとまず内村夫人に引き取ってもらって、盛岡の北見家に連絡を取った。  電話口に北見夫人が出て、 「困っているのは私どもです。正彦さんが移転後、私たちを追いかけて来て、いくら説得しても帰らないので、ほとほと困っております」  と困惑しきっている体であった。 「どうして正彦さんは帰らないのですか」 「どうしてと言われても……」 「内村さんから聞いたところによると、正彦さんは奥さんに誘惑されて後を従《つ》いて行ったということですが」 「誘惑だなんて……、おたがいさまですわ」 「おたがいさまというと、どういうことですか」  新開は北見夫人の言葉尻《ことばじり》を捉《とら》えた。 「そ、それは……べつになんでもありませんわ」 「なんでもないということはないでしょう。おたがいさまとおっしゃるところを見ると、奥さんのご子息も内村夫人に誘惑されたということですか」  北見夫人は黙した。  新開の心証が次第に形成されつつある。 「同じ高校のPTAの役員を務め、同級生のご子息を誘惑し合ったとは穏やかではありませんね」 「誘惑したわけではありません。みんなやっていることです」 「みんなやっていることとは、なにをやっているのですか」 「このことは秘密にしてくださいますか」 「正彦君を親許へ連れ戻せればいいので、それ以外のことを詮索《せんさく》するつもりはありません」 「うちの息子の弘《ひろし》も正彦君も来年受験です。受験勉強に専念しなければならない大切な時期に、思春期、発情期になって、勉強に身が入らないと困るので、母親同士が話し合い、交換して子供たちの欲望を処理してあげていたのです。主人も納得ずくでした。でも移転した後までも交換するつもりはありません。ところが正彦さんが私の後を追いかけて来てしまったので、困っているのです。正彦さんが追いかけてくれば、うちの弘も内村さんの奥さんのところへ行ってしまうかもしれません。そんなことになっては大変困ります。私がいくら説得しても帰ろうとしないので、警察に頼もうとおもっていた矢先でした」  事情を聞いているうちに、新開は唖然《あぜん》となった。  受験期の息子の性欲を解消してやるために、母親たちが契約して、息子たちを交換慰安したという。戦時中の慰安婦が国際問題になっているが、これは親馬鹿による慰安母とでもいうべきか。  交換慰安母が契約通り行われていれば、秘密は保たれたはずであった。  ところが片方の一家が移転して、交換慰安母契約が自動的に解消になってしまった。  慰安母を失った息子が悶々《もんもん》の情に堪えかねて、移転した慰安母を追いかけて行ったために、警察の知るところとなってしまった。  だが彼らはそれほど馬鹿なことをしたという意識はなさそうである。  近親相姦《きんしんそうかん》をしたわけでもなく、納得ずくで受験期にかかった息子の性欲を解消してやり、受験勉強に専念させ、併せて性教育も施せれば、一石三鳥となる。  彼女らが交換契約をエンジョイしていたとすれば、実に一石四鳥である。  そのようにして受験勉強に励み、一流大学に入学して、将来、どんな社会人になるのだろうかとおもうと、新開はうそ寒くなった。 [#改ページ]  逆転した輪姦《りんかん》  それほど酔っていないとおもっていたのが、店を出て歩き始めると、急速に酔いがまわり、足許《あしもと》が頼りなくなった。  所用があって久し振りに上京し、日ごろ溜《た》まっていたストレスが捌《は》け口を求めて一気に噴き出してきた感があった。  湯本康夫《ゆもとやすお》は千鳥足に任せて歩いた。  湯本康夫はいつの間にか新宿歌舞伎町の裏通りへ迷い込んでいた。暴力バーが軒を連ね、怪しげな|客引き《ポーター》や、けばけばしい若い女が通行人の袖《そで》を引いている。  きな臭い気配の漂う街角も、酔いのおかげで気にならない。かえって遊び心がアルコールにかき立てられている。このままホテルへ帰って、膝《ひざ》を抱えて眠る気にはなれない。  木か石でつくったような、なんの面白みもない妻から解放された久々の東京である。  新宿へ行けば、いくらでも女にありつけるという予備知識を得て、歌舞伎町へ繰り出して来たが、女を呼ぶ前に景気づけに飲んだ酒が、少し度を過ごしたようである。 「馬鹿野郎、気をつけろ」  湯本はいきなり罵声《ばせい》を浴びせられて、突き飛ばされた。通行人に突き当たってしまったらしい。路上に尻餅《しりもち》をついたが、身体が重くてなかなか立ち上がれない。 「おじさん、手を貸してあげようか」  突然耳許で若い女の声がした。  朦朧《もうろう》とした視線を向けると、花柄模様のミニスカートに赤いブラウスを着た髪の長い女の子が笑いかけていた。彼女がリーダー株らしい。彼女のかたわらに、ストライプのシャツとブラックジーンズ、袖なしの黒いワンピースを着た二人の女が立っている。  いずれも濃い化粧を施してせいぜい大人ぶっているが、十六、七歳であろう。  ツッパリ女子高生が大人の真似《まね》をして夜の街へ冒険に出て来たのかもしれない。 「おじさん、大丈夫」  ミニスカートの女の子が湯本の手を取って立ち上がらせてくれた。 「有り難う。大丈夫だよ」  言った途端に、湯本の足許がよろめいた。 「ちっとも大丈夫じゃないじゃないのよう。おじさん、どこへ行くの。私たちが送ってあげるわよ」  少女は親切に言って、ワンピースとブラックジーンズに目配せすると、二人が湯本を両脇《りようわき》から支えた。精一杯ツッパッているが、表情にあどけなさが残っている。湯本は抱いていた一抹の警戒心を捨てた。 「きみたちはどこへ行くんだね」 「私たち? おじさんの行くところならどこへでも行くわよ」  ミニスカートの少女が挑発するような目つきをして言った。  表情には幼さが残っているが、身体の要所要所は充分に発達し、膝上二十センチ以上もありそうなミニスカートから覗《のぞ》くはち切れそうな股間《こかん》は、男をそそってやまない蠱惑《こわく》をはらんでいる。他の二人の少女も男を充分に受け入れるだけの成熟に達しているようである。  そろそろ若い女に縁がなくなりつつある湯本は、三人の魅力的な少女に取り囲まれていい気分になった。酔いも手伝って、そこが危険な地域であることも忘れた。  三人の少女に手を引かれるようにして、湯本康夫は裏通りの奥のラブホテルに連れ込まれた。  フロントで部屋の前金を払い、キーを受け取るとき、湯本の財布に向けた少女たちの目が光ったことに、彼は気がつかない。  部屋へ入るとミニスカートの少女が、 「おじさん、私たちが今夜出会った記念に、乾杯しない」  と言った。 「そうだ、乾杯しよう」  湯本がうなずくと、ワンピースの少女が冷蔵庫を開けてビールを取り出した。  ブラックジーンズの少女が栓を開けて、四個のグラスにビールを満たす。 「乾杯」  ミニスカートの少女の音頭で、四人はグラスを合わせた。 「もう一杯」  少女たちに勧められるまま、湯本はビールを重ねた。 「今夜はあたいたちの記念すべきパーティだよ。なんだか暑いなあ、おじさん、裸になんなよ。あたいたちも裸になるからさあ」  ミニスカートの少女が言うと、湯本の目の前で、果物の皮でも剥《む》くようにくるくるとブラウスとミニスカートを脱ぎ捨てた。 「あたいたちも裸になろうっと」  二人の少女がリーダーを見倣った。  Tバックに近いパンティで、わずかに秘所を隠しただけの若い裸女に囲まれて、湯本は頭に血が上った。  これまでこんないいおもいをしたことはない。妻はいても、女の用をなさない。  他人からは美人の奥さんを持って幸せだと羨《うらや》ましがられるが、それは置き物か|人工の妻《ダツチワイフ》にすぎない。血が通っていない妻であり、感情を全く喪失した女であった。いや、女ではなく、女類である。  いま、湯本を取り巻いているのは、まぎれもなく女であった。瑞々《みずみず》しい肉体と、溌剌《はつらつ》たる色気を全身に弾ませて湯本に挑んでいる。  この凄《すご》いチャンスを見送るようであれば、男をやめた方がましである。 「よし、おれも裸になるぞ」  すでに湯本の理性は完全に痺《しび》れていた。  彼は衣服をかなぐり捨てると、生まれたままの姿に返った。少女たちは秘所を覆うわずかな布片を身体につけ残していたが、湯本は騎虎《きこ》の勢いで完全な裸になった。 「わあ、おじさん、凄いじゃん」  少女たちが一斉に歓声をあげた。 「きみたちも脱ぎ惜しみをせず、おじさんと同じようになれよ」 「そうするか」  リーダーの少女が率先してパンティを取り除いた。二人の少女が倣う。少女たちの股間に大人の徴《しるし》を認めたのを最後に、電灯が消えたように湯本の意識は消えた。  どのくらい意識を失っていたかわからない。  うそ寒さに目覚めると、湯本康夫は全裸のまま床に横たわっていた。  束《つか》の間、自分がどこにいるのかわからない。  室内の空気が妙に生臭い。若い女の妖《あや》しい体臭が漂っているようである。  湯本ははっとした。記憶がよみがえった。ここは街で出会った三人の少女と入ったラブホテルの一室である。  少女たちの姿が見えない。花柄のミニスカート、黒のワンピース、ブラックジーンズの少女たちの姿が消えている。  彼女らの残り香だけが妖しく漂っている。 「きみたち、いるのか」  湯本は室内の全方位に漠然と呼びかけたが、応答はない。  起き上がろうとして、頭を押さえた。頭の芯《しん》が鉛を詰め込まれたように重い。  顔が汗ばんで脂ぎっている。目尻に目やにがたまっている。悪酔いともちがう気分である。  朦朧とした意識の底で、湯本ははっとした。  意識を失う前に、少女たちとビールで乾杯した。ビールの中になにか仕掛けられていたのではあるまいか。  愕然《がくぜん》として意識がはっきりしてきた。  湯本は慌てて室内を探した。脱ぎ捨てた衣服が床の上に散らばっている。  彼の目の前に脱ぎ捨てられたはずの少女たちの衣服が見当たらない。  彼はポケットを探った。 「やられた」  湯本は呻《うめ》いた。  内ポケットに入れておいたはずの財布が消えている。財布の中にはカードと共に数十万円の現金が入っている。  彼はどんよりした頭を振りながら、よろめく足を踏みしめて、なおも室内を探しまわった。  だが室内のどこにも財布はなかった。  少女たちは妖しい残り香だけを留《とど》めて、姿を消していた。少女たちと共に湯本の財布が消えていた。  新宿歌舞伎町のラブホテル「ピロートーク」から三人組の少女に、客が所持金を奪われたという届け出を受けた新開が、現場へ駆けつけてみると、同ホテル五一一号室で、湯本康夫と名乗る中年の紳士が悄然《しようぜん》としていた。  湯本は名古屋市で陶器《セラミツク》会社を経営しているという。  湯本から事情を聴くと、 「仕事で上京中、街で三人連れの若い女に声をかけられた。ホテルへ連れ込まれたところで睡眠薬を仕掛けたビールを飲まされ、昏睡《こんすい》している間に財布を盗まれてしまった」  ということである。  新開がホテル側に事情を聴くと、フロント係が、 「午後八時ごろ、三人の若い女が被害者を支えるように入って来て、連れが悪酔いをしてしまったので少し休ませてくれと言うので、五一一号室に通したところ、一時間ほどして部屋から電話があって、タクシーを呼んでくれと頼まれました。間もなく三人連れの女がフロントへ降りて来て、連れが寝込んでしまったので、先へ帰ると言いました。前金ももらってあることだし、親しげに連れ立って来たので、会社の仲間かとおもっていました。三人ともとても大人びて見えたので、チェックインするときにべつに不審は持ちませんでした。二時間ほどしてから、お客さんから財布を盗《と》られたと電話がかかってきたので、びっくりしました」  と答えた。  さっそくホテルが呼んだタクシー会社に問い合わせがいった。タクシー会社から三人の少女を乗せたククシーが判明した。無線で連絡を取ったところ、三人が六本木のゲームセンターの前で降りたことがわかった。  六本木へ飛んだ新開は、ゲームセンターで遊んでいた三人の少女を発見した。  連行して事情を聴くと、 「もうあったまってきたな(頭へきた)。警察《マツポ》は寝ぼけてんじゃねえのかよ。お縄にするなら、あのおじんをしなよ」  と花柄のミニスカートを穿《は》いたリーダー株の少女が逆に食ってかかった。 「きみたちが財布を盗ったと訴えているぞ。ホテルの従業員も、きみたちが被害者と一緒にチェックインしたことを証言している」 「おれたち、なにも盗ってなんかねえよ。慰謝料《マンキン》だよ」 「慰謝料だって?」 「被害者はおれたちだよ。あのおじんにホテルへ連れ込まれて、逆《さかさ》まわしにかけられたんだ(男一人が複数の女性をつづけて犯す)」 「逆まわしだって?」  新開は唖然《あぜん》となった。 「そうだよ。おれたち三人、あのおじんにキリマンじゃられちゃったんだ(初体験)。お縄にするなら、あのフラットピース(助平男)をお縄にしなよ」  少女が怪気炎をあげた。 「ふざけるんじゃない。おまえたちが酔った被害者を介抱する振りをして、ホテルへ連れ込んだことはわかっているんだ」 「話が入れ歯だね(かみ合わない)。これだからおじんと話しているとほげれった(疲れるよ)。こんな乳くるしい(愛くるしい)女を三人も逆まわしにかけて、ただ乗りしようなんて太《ふて》え了見だよ。あのおじんはローマでバカキとかカバキとかいうやつがハーレクイーン(男を軟派)に行った馬鹿女子大生を逆まわしにかけたのと同じだよ。おれたちは馬鹿じゃねえからね、慰謝料をもらったんだ」  彼女らの反訴を受けて、改めて湯本康夫を問いただしたところ、 「意識はなかったが、夢うつつのうちに女に犯されたような気がする」  と供述した。 「彼女らとホテルへ入ったのは、下心があったからだろう」  新開は追及した。彼女らはいずれも十八歳未満であった。東京都には淫行《いんこう》条例はないが、条例のあるところによっては、十八歳未満の少女に対する性的行為は淫行勧誘となる。  睡眠薬を飲ませて抵抗不能に陥れての姦淫《かんいん》は準強制|猥褻《わいせつ》罪に該当するが、このケースは未成年の少女が中年の男性に睡眠薬を飲ませて、昏睡したところを玩弄《がんろう》したというケースである。攻守がまったく逆転している。  少女らが初犯ではないと睨《にら》んだ新開が、彼女らの身上を調べたところ、花柄ミニスカートを穿いたリーダー少女は小峰道子《こみねみちこ》、ブラックジーンズが三沢繁美《みさわしげみ》、黒いワンピースが岩谷静子《いわたにしずこ》、いずれも十七歳の世田谷《せたがや》区内の私立女子高校生と判明した。  彼女らはこれまで恐喝や不純異性交遊で何度か補導された経歴の持ち主であった。  遊ぶ金に困って、道子が金を持っていそうな大人に近づいてホテルへ誘い込み、睡眠薬を飲ませて金を奪おうという計画を立て、繁美と静子が従《つ》いてきたものである。  少女たちはいずれも十六歳を超えているので、昏睡強盗被疑事件として立件され、地検から家庭裁判所に送致された後、刑事処分相当として地検に逆送された。 「大人顔負けの悪が逆まわしにかけられて処女を奪われ、慰謝料を取ったとは恐れ入った」  立件後、新開はつぶやいた。彼女らは逆まわしにかけられたと言ったが、まさに逆の輪姦《りんかん》である。ただし女性が男性を輪姦し、少女が大人の男を犯し、加害者と被害者の位置が逆転し、被害者が慰謝料を取られた。  すべてが逆転した性的事件に、屈折した現代の性が象徴されている。  湯本康夫のその後の供述によると、彼と妻の間は完全に冷え、所用で上京しては女を買うことを無上の喜びとしていたそうである。  そこを十七歳の少女グループにつけ込まれたのであった。 [#改ページ]  夜這《よば》いした殺意  重岡良作殺しと、石本成一殺しの捜査は難航していた。  新開《しんかい》から重岡と石本が小学校の同級である上に、棚川貴代子《たながわきよこ》の客であったという二重の共通項の報告を受けて、いったん色めき立ったものの、その線の捜査から目ぼしい成果は得られていない。  新宿署と碑文谷《ひもんや》署は密接な連携を保ちながら捜査をつづけていたが、成果は上がらない。両人の生前の人間関係を洗ったが、悉《ことごと》く漂白《つぶ》された。  当初、重岡は芸能界に身をおき、石本は暴力団と手を組んでいるところから、犯人逮捕は時間の問題と見られたが、その方面から捜査線上に浮かび上がった者はいなかった。  重岡、石本と丸井恵利子との間のつながりも、依然として発見されていない。  新宿署と碑文谷署では、二件(丸井殺しを含めると三件)の殺人は、それぞれ無関係の別件ではないかという意見が有力になってきている。  だが新宿署の牛尾、青柳、捜査一課から捜査本部に参加した棟居刑事、碑文谷署の水島、日下部刑事などは三件を関連事件と見立てている少数派である。  三件の事件をつなぐキーパースンは棚川貴代子である。だが貴代子はたまたま二人を客に取っただけで、事前のつながりはなにもないと供述した。  重岡、石本も小学校卒業以後、没交渉であったようである。重岡のマネージャーであった吉本《よしもと》に聞いても、重岡の最近の人間関係の中に石本成一という名前は見当たらないということであった。  江崎光次《えざきこうじ》は最近、夜這いマンションという新手の風俗営業が生まれたという情報を聞きつけて興味を持った。  江崎は都会の夜のあだ花のように次々と生まれるあの手この手の風俗営業を探訪しては、そのレポート記事を週刊誌や芸能誌に売りつけている夜の世界の風俗レポーターである。肩書は一応風俗評論家となっている。  夜這いとはずいぶんオールドファッションであるが、男の原始的な野性をそそるものがある。  目当ての女の家に夜間|密《ひそ》かに忍び込み、就眠中の女を犯してしまう。  今日では女性の住居に不法侵入してのレイプで、現行犯で捕まれば言い逃れはきかないが、昔は男のプロポーズの一種として慣習化されていた。 『源氏物語』では「懸想人《けそうびと》はよに隠れたるをこそよばひとは言ひけれ」、また『浮世草子』に「雲に架け橋とは、昔、天へも夜這ひ人ありや」と記述されているように、夜這いは若者の特権として婚約前の私通と認められているようなところがあった。  夜這いという言葉には、男の夢をそそるロマンティックな響きがある。  風俗レポーターたる者、これを探訪しないという手はない。  江崎はさっそく情報を集めて、高田馬場の方にあるという夜這いマンションへ取材に行くことにした。  まず高田馬場駅近くの雑居ビルにある事務所へ�申し込み�に出かけた。  事務所には若い男が一人いて、江崎にプレイの仕組みを|簡単に説明《ブリーフイング》した。 「今夜午後十一時ちょうどに、この住所のマンションの五〇三号室へ行ってください。寝室のベッドに女性が寝ています。部屋の電灯《あかり》は消えています。電灯は絶対に点《つ》けないこと。女性に対して本番以外はなにをしてもけっこうです。ただし女性の同意を得れば、私どもは干渉しません。ここに鍵《かぎ》があります。持ち時間はマンションに入ってから一時間二十分です。以後三十分超過するごとに五千円お支払いください。紹介料として二万円いただきます」  若い男はてきぱき説明すると、地図と住所を記入したスリップと、一本のキーを渡した。  江崎は本番抜きで一時間二十分二万円は高いとおもったが、これも取材のためとおもって要求された通りの金額を支払った。  地図とキーを受け取った江崎は、三十分ほど時間があったので、駅の近くの中華料理店で腹ごしらえをした。  時間が迫ったので、地図を見ながら件《くだん》のマンションを探した。地図によると歩いて行ける距離である。  マンションは早稲田通りから横町へ折れた裏通りにあった。  六階建ての瀟洒《しようしや》なマンションである。管理人はいないようだ。  エレベーターで五階へ降り立つと、人影のない廊下に沿って、ドアが貝の蓋《ふた》のように閉じている。マンションは無人のように静まり返っている。  風俗レポーターとしてかなり怪しげな風俗最先端を取材してまわっている江崎であるが、胸の鼓動が速くなった。  彼にしても夜這いは初めての経験である。演出された営業としての夜這いとはわかっていても、これから向かうマンションの一室に眠っている若い女の姿を想像して、つい胸が躍ってしまう。  指示された五〇三号室の前に立った江崎は、深呼吸してから渡されたキーをキーホールに差し込んだ。  軽い手応えがして、ロックが回った。だがドアを押しても引いても開かない。  江崎は一瞬、騙《だま》されたかとおもった。念のためにもう一度キーを回転してドアを押してみると、難なく開いた。なんのことはない、初めからドアはロックされていなかったのである。  屋内の灯《あか》りはすべて消えている。  ブリーフィングによると、女は奥の寝室に寝ていることになっている。後ろ手にドアを閉めて、江崎は暗闇《くらやみ》の中を手探りでそろそろと進んだ。  玄関上がり口から廊下を伝い、奥の部屋が寝室になっているはずである。境の襖《ふすま》をそろそろと開くと、暗闇の中にぼんやりベッドが見え、人の形に盛り上がっている。  若い女の部屋らしく、空気のにおいがなんとなく艶《なま》めかしい。  ベッドの上で女はたぬき寝入りをしているらしい。  江崎は本当に夜這いをかけるような気持ちにさせられていた。この辺が演出の巧妙なところであろう。 (これはけっこう繁盛するかもしれないな)  職業意識が目覚めたのはさすがである。  江崎はそろりとベッドのそばへ歩み寄った。枕元《まくらもと》に髪が乱れているのが暗がりの中でおぼろげにわかる。顔は掛け蒲団《ぶとん》の下に隠れて見えない。  江崎はそっと手を伸ばして掛け蒲団をはぐった。若い女の甘酸っぱい体臭が芳しく彼の鼻孔を刺激した。  女は彼に背を向けた形でベッドに横たわっているので、掛け蒲団を取っても顔は死角に入っている。本番以外はなにをやってもよいと事務所の若い男が言った。  交渉次第では本番もオーケーのようである。  江崎は掛け蒲団をはぐった手を進めて、女の身体に手をかけた。薄いネグリジェをまとっているようである。  江崎が女体に手を触れても、女は凝《じ》っとしている。彼は手にやや力をこめて背中を向けている女体を彼の方へ向け替えようとした。ベッドは窓際に置かれているので、反対側へまわり込むことができない。  抵抗しているわけではないが、ずしりと重い手応えが伝わってくる。抵抗もしなければ協力もしない。  柔らかい感触であるが、重い。 (少しは協力してくれてもいいだろう。二万円も払っているんだ)  江崎は女の非協力的な態度に少しいら立ってきた。事務所の男は本番以外はなにをしてもいいと言ったが、これではまるでゴム人形ではないか。  江崎はさらに手に力をこめて、寝ている女の向きを替えようとした。そのとき女の身体がぴくりと震えた。  江崎がはっとすると、女ががばと上体を起こして、凄《すさ》まじい悲鳴と共に、 「人殺し」  と叫んだ。  江崎は仰天した。 「ち、ちがう。ぼくは夜這い……いや、そのキーをもらって……」  と江崎がしどろもどろに言いかけたのに耳も貸さず、 「人殺し人殺し、だれか助けて」  と女は悲鳴をあげつづけた。  そのとき玄関の方角でドアがバタンと開閉する音が聞こえた。  女の悲鳴を聞きつけて、近所の者が駆けつけて来たらしい。こんな場面を捕まったら言い逃れがきかない。  すでに退路を塞《ふさ》がれてしまったかもしれない。だが逃げ道は玄関しかない。  江崎は逃げ出した。玄関にはだれもいなかった。  エレベーターホールまで逃げて来ると、あいにくインジケーターが下降を指して、ランプが㈪から㈰へ移動している。  江崎はエレベーターホールのかたわらに目についた非常口から、非常階段を駆け降りた。  ようやく安全圏へ逃れ出た江崎は、驚きから冷めると、怒りが突き上げてきた。  金を取っておいて人殺しはないだろう。これはもしかすると新手の詐欺かもしれない。  だが夜這いを買うということは、社会通念上、有効な契約とは見なされないだろう。  警察へ訴え出たところで、相手にされまい。むしろ公序良俗に反する契約の一方当事者として罰せられるかもしれない。  怒りの持って行き場がない江崎は、夜這いの事務所へ電話した。ところが江崎が苦情を訴える前に、先方から怒鳴りつけられた。 「あんたか、女の首を絞めたのは。女は危うく殺されかけたぞ。いま警察に通報したところだ。あんた、どこにいるんだ。女が言うことを聞かないからと、首を絞めるとは太《ふて》え野郎だ」 「なんだと、だれが首を絞めたというんだ。ぼくが入って行ったら、女がいきなり人殺しと叫び出した。二万円も取っておいて、人殺しはないだろう。金を返してもらいたいね」 「盗人猛々《ぬすつとたけだけ》しいとはきさまのことだ。女を殺しかけながら金を返せとは、よく言えたもんだ。あんたの面相《ツラ》はおぼえているからな。警察に言って捕まえてやる」  相手は凄まじい剣幕で怒鳴り返した。  電話で怒鳴り合っても埒《らち》が明かないので、江崎は腹立ちまぎれに受話器を置いた。  腹の虫はおさまらなかったが、事務所へ行く気はしない。どうせおどかしとはおもうが、警察に通報したというのが気にかかる。  警察が出て来れば、江崎の方が絶対的に分が悪い。  この報復は必ずしてやるぞ。夜這いマンションは|真っ赤なインチキ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だと書き立ててやる。  九月二十九日午前零時近く、新宿区高田馬場三丁目、リビエラマンション五〇三号室で女性が殺されかけたという通報を受けた所轄の戸塚署は、性的犯罪のにおい濃厚として、防犯部保安一課、通称マンボーに応援を要請した。  当夜宿直で署内に居合わせた新開征記は、事件発生地の住所を聞いて愕然《がくぜん》とした。  それは棚川貴代子の居住するマンションであった。  現場に急行する途上、不吉な胸騒ぎがしきりにした。到着して、新開は不吉な予感が的中したことを悟った。  被害者の居宅五〇三号室は、貴代子の居宅五〇一号室の隣りであった。五〇二号室は廊下の向かい側になっている。  被害者の尾沢保子《おざわやすこ》の訴えによると、就眠中、暴漢が侵入して、突然首を絞めたという。必死にもがいていると、喉《のど》にかけられた暴漢の手が緩んでだれかが逃げ出して行った気配がした。しばらくして気がつくと、逃げたとおもっていた、暴漢が顔を覗《のぞ》き込んでいたそうである。  喉には指の痕《あと》がくっきりと残っていた。 「悲鳴をあげて、人殺しと叫ぶと、暴漢は玄関から逃げ出しました。もう少しのところで殺されるところでした」  と被害者は訴えた。  首を絞められただけで乱暴はされていない。すると犯人は、被害者を殺すつもりで侵入して騒がれ、未遂のまま逃走したことになる。どうも不審な状況があるので、新開はさらに問うた。 「あなたがお休み中、犯人は侵入して来たということですが、玄関ドアに鍵《かぎ》をかけていなかったのですか」 「うっかりかけ忘れて寝てしまったようです」 「一一〇番に通報してきたのは男の人でしたが、その人はだれですか」 「お友達です。怖くて怖くてうろたえていましたので、まずお友達に電話しました」 「だれかに怨《うら》みを買われた心当たりがありますか」 「それがまったくありません」 「このマンションにはいつ入居されたのですか」 「五日前です」 「五日前? すると犯人は五日前に入居したあなたを狙《ねら》って侵入して来たことになりますが、ここへ五日前に入居したことをご存じの方は限られているのではありませんか」  新開は道理で生活の痕跡《こんせき》が薄いとおもった。ベッド、スタンド、冷蔵庫、テレビ、電話など、一応の家具調度は揃《そろ》っているが、生活のにおいがまったくしないのである。 「私がこのマンションに入居したことを知っている人は、事務所の若林《わかばやし》さんと私の二人だけです」 「事務所の若林さんとはだれですか」  すかさず問われて、被害者ははっとした表情になった。新開はピンときた。これでドアをロックしていなかったわけもうなずける。これはホテトルかマンヘルの類《たぐい》であろう。  手ごろなマンションを週決めか月決めでレンタルし、女を置いて客を取らせる。  となると、犯人は客の一人ということになる。女と客の間でなにかトラブルが生じて、喧嘩《けんか》になり、客が女の首を絞めたものであろう。  すると女は客の顔を見ている。 「犯人はどんな特徴をしていましたか。言葉を交わしましたか。言葉を交わしたとすれば、訛《なま》りはありませんでしたか。肉体的な特徴をおぼえていますか」  新開は問うたが、被害者は困ったように首を振るばかりである。 「暗かったので、よくわかりません」 「正直に話してもらわないと困るよ。あなたは殺されかけたんだ。五日前に入居したあなたを、突然侵入して来た犯人が、なんの理由もなく殺そうとするはずがない。あなたは犯人を部屋へ迎え入れたのではないのかね」  新開は詰問した。被害者は黙秘してしまった。 「どうなんだね。あなたが話しづらければ、事務所の若林さんに聞いてみようか」 「申し訳ありませんでした。私、この部屋でアルバイトをしていたのです」 「なんのアルバイトだね」 「夜這《よば》いです」 「夜のバイトという意味かね」 「いいえ、夜這いの相手をしていたのです」 「夜這いというと、夜、密《ひそ》かに女性のところへ忍び込んで来るというあの夜這いのことかね」 「そうです。このことはどうか学校には内緒にしておいてください。もし学校に知られると退学処分にされます」  尾沢保子は泣かんばかりにして訴えた。彼女は都内のある私立女子大生であった。  友人から口コミで聞いて、夜這いのアルバイトを始めたという。  女子大生が風俗化した今日、風俗産業は彼女らにとってお得意様であったが、夜這いのアルバイトとは新開も初めて聞く。  どうやら夜這いの客に首を絞められた状況であるが、犯人に殺意があったかどうかは不明である。  新開は通報してきた若林という男から、さらに事情を聴いた。彼が夜這いの営業化を考えついた人間である。 「これは売春ではありません。マンションバーの一種です。普通のバーでは面白くないというお客に、夜這いの形式でお酒を飲んでもらうために考えつきました。お客には地図とキーを渡して、女性の待っているバーへ行ってもらうのです」 「若い女が眠っているマンションへキーをもらって忍び込めば、客の劣情を刺激するのではないのかね」 「そこまでは私どもは干渉しません。あくまでも新趣向のバーです。劣情を刺激するというなら、ピンキャバも同じですよ」  若林は反駁《はんばく》した。 「客が女の部屋に入って、寝ている女の姿に劣情を催し、女に襲いかかったところ、彼女が抵抗したので首を絞めたのではないのかね」 「彼女は突然襲いかかってきたと言っています」 「あんたがキーを渡した客の特徴をおぼえているかね」 「おぼえています。テレビで何度か見かけた顔でしたから」 「テレビで何度か見かけたって?」 「風俗番組に評論家として何度か出ていたので顔はおぼえています。たぶん取材に来たのではないでしょうか」 「彼の前に客は来たかね」 「昨日は暇で、その客が一人だけでした」  テレビに出演したことのある人間であれば、身許《みもと》は容易に割り出せる。 「その客が出演していたテレビの番組をおぼえているかね」 「おぼえています」  警察から任意同行を求められた江崎は、来るものが来たとおもった。  雑誌に署名原稿を発表し、テレビにも何度か出演したことがあるので、逃れられないとはおもっていたが、昨夜の今日、刑事がやって来たのはさすがであった。江崎は管轄の戸塚署に呼ばれて、取調べを受けた。  だが江崎は、むしろ自分が被害者の立場であることを強く訴えた。 「夜這いのマンションがあると聞きつけて取材に行ったのです。そうしたら、いきなり女が人殺しとわめき出して、慌てて逃げ出して来ましたが、あれは新手の詐欺ではありませんか」  改めて昨夜の鬱憤《うつぷん》がよみがえってきた。 「被害者の喉頸《のどくび》には手で絞められた痕が赤く残っていた。あんた、彼女に拒まれて、かっとなって首を絞めたんじゃないのかね」  刑事は江崎を犯人として疑っているようである。 「首を絞めるなんて、とんでもない。私は取材に行っただけです。そんなことをしたら取材ができなくなります。第一、そんな余裕はありませんでした。部屋へ入るなり、いきなり人殺しとわめかれたのですから」 「女に乱暴しようとしてわめかれ、我を忘れて女の首を絞めたんじゃないのか」 「冗談じゃありませんよ。風俗レポーターが女にわめかれるたびに首を絞めていたのでは、この仕事は務まりません。彼女はなにかに怯《おび》えていたのではありませんか。そういえば、私の前にだれかが来ていたようでした」 「事務所に聞いたが、昨夜はあんた以外に客はいなかったそうだよ」 「そんなはずはありません。女が人殺しと叫んだとき、玄関のドアを開けて、だれかが出て行く気配がしました」  江崎は改めておもいだした。  五〇三号室から逃げ出して、エレベーターの前に行くと、インジケーターが下降を示していて、ランプが]㈪と㈰の間を移動していた。  やむを得ず彼は非常階段を伝って逃げたのである。あのときエレベーターに乗っていた者は、五〇三号室から逃げ出した先客にちがいない。 「私がどうして彼女を殺さなければならないのですか。私はただ取材に行っただけです。それ以外のなんの目的も抱いておりません」 「女を抱くことも取材目的の中に含まれているのではないのかね。それを拒否されて喧嘩になった……」 「ちがいます。受付で本番をしてはいけないと言われていましたから、最初からそんなつもりはありません」 「当人同士で合意に達すれば、受付は干渉しないと言っていたよ」  刑事の目が疑惑の光を浮かべている。実際は確認をしたわけではないが、風俗ギャルの常識である。 「合意もなにも、そんな話し合いをする前に、人殺しとわめかれて逃げ出したのです。昨夜、客は私一人ということですが、記録が残っているのですか。そんな記録などないんじゃありませんか。だったら、受付が嘘《うそ》を言っているかもしれません。夜這い料を二万円取って客を送り込み、女が人殺しと悲鳴をあげれば、たいていの客はびっくりして逃げ出しますよ」 「それではなぜ逃げ出した後、届け出なかったのかね」 「夜這いの客が詐欺にあったなんて、届け出られますか」  江崎は切り返した。  供述を聞いている間に、刑事の目に浮かんだ疑惑の光はだいぶ薄れてきたようである。 「あなたは女から人殺しとわめかれて、慌てて逃げ出したということだが、そのとき室内になにか異常な気配は感じ取らなかったかね」  刑事の口調が少し改まっている。 「異常な気配というと?」 「あんたの前にだれかが来ていたようだと言ったが、先客と女が室内で争った痕跡とか、罵《ののし》り合う声とか、先客の残り香とか、そんなものを感じ取らなかったかね」 「特に異常な気配は感じませんでしたが、そう言われてみると、部屋のドアがロックされていませんでした」 「ドアが開いていたのかね」 「いえ、ドアは閉まっていました。当然ロックされているとおもって、渡されたキーを差し込んでまわしましたところ、ドアが開きません。最初から外れていた錠を鍵《かぎ》を差し込んで掛けてしまったのです」 「つまり先客が鍵を開けて部屋に入っていたというわけだね」 「そうおもいます」  刑事は江崎の言葉の内容を測っているようである。ここで助け船が現われた。  被害者に面通しされた江崎を、尾沢保子が、 「首を絞めたのはこの人ではない」  と言ったのである。 「突然首を絞められて、意識を失って、ふと我に返ると、だれかが覗《のぞ》き込んでいたので、悲鳴をあげてしまいましたけれど、犯人はこの人ではないとおもいます。はっきりと顔を見たわけではありませんが、もっと身体の大きかった人だとおもいます」  と証言した。  江崎を取り調べた後、新開は若林から再度事情を聴いた。  だが若林は、改めて昨夜、江崎以外には客がなかったことを申し立てた。 「客を送る前にはあらかじめ女性に電話をしておきます。昨夜十時半ごろ、彼女に電話をしたときは、元気に電話口に出ました」 「彼女が事務所に内緒で客を取るということはないかね」 「それはあり得ませんね。あの娘《こ》は夜這いのバイトなんかやっていますけれど、とても純情です。自分で客を引っ張り込むほど悪達者ではありません。それに、そんなことをしたら事務所から送り込む客と鉢合わせをしてしまいますよ」 「客との間に商談が成立すれば、本番もオーケーなんだろう」  新開は誘導|訊問《じんもん》をかけた。 「あの娘は本番をしません。そのことで客に信用があったのです」 「妙な信用だね」 「エイズが流行していますのでね。本番をさせない娘はちゃんとした客の信用があるのです」 「夜這いの客にもちゃんとした客がいるのか」  新開の口調が皮肉になった。 「皆さん、ちゃんとしていますよ。お客さんの中には大学の先生や弁護士もいらっしゃいます。素性を隠しているけれど、警官もいるとおもいます」  今度は若林の口調が皮肉っぽくなった。  被害者、江崎、若林の三名を訊問して、新開は江崎シロの心証を得た。  江崎は加害者ではない。  となると、犯人はだれか。その目的はなにか。  被害者の供述によると、突然忍び込んで来た犯人は、問答無用で彼女の首を絞めたという。  客には一応キーを渡してあるが、ドアはロックしていない。そこにつけ込まれて侵入されたのである。  すると犯人は最初から彼女を殺すつもりで侵入したことになる。  犯行の途中、江崎が入って来たので、犯人は犯行を中止して逃げ出したのであろう。  新開には三人から事情を聴いている間に、徐々に形成されてきた心証があった。  それは最初から彼の心のフレームに引っかかっていた凝《しこ》りであったが、それが事件を調べている間に、その容積を大きくしてきたのである。 [#改ページ]  一期一会の獲物  被害者と棚川貴代子の部屋は隣り合っている。  このことが事件の性格に関わっていないか。  つまり、犯人は貴代子を狙《ねら》って、誤って隣室へ入り込んでしまったのではあるまいか。  隣室に寝ていた被害者を貴代子と勘ちがいして、殺害しようとした。その犯行の途中に江崎が入って来たために、未遂に終ってしまったのではあるまいか。  もしそうだとすれば、犯人はなぜ貴代子を狙ったのか。推測を追ってきた新開征記は、連想の導火線を伝う火花が照らし出した事件の構図に凝然となった。  丸井恵利子、重岡良作、石本成一、三人の事件と関連性はないか。  尾沢保子が殺人未遂被害にあったリビエラマンションは、月あるいは週単位の家具付きレンタルマンションで、若林が週決めで借りていたものである。保子が夜這《よば》いのアルバイトを始めて五日目、その間に問答無用で殺されるような動機を培ったとは考えられない。  新開は改めて貴代子の五〇一号室と、保子がいた五〇三号室を見比べた。  各ドアのかたわらにはルームナンバーと表札が掲示されているが、それぞれのドアの左脇《ひだりわき》に掲示場所があって、その位置が各ドアのちょうど中間に当たる。  一見した限りでは、隣室のナンバーと表札に見えないこともない。  非常にまぎらわしい位置に表札とルームナンバーが掲示されている。  第三者が誤認する可能性は充分に考えられる。だが郵便物や新聞などは一階の集合メールボックスに配達されるので、誤配はないのであろう。  貴代子は事件の聞き込みで訪ねて来た新開に驚いた模様である。  新開は貴代子の家を訪問したことはない。貴代子から誘われたことはあったが、彼女のプライベートな生活空間を覗《のぞ》くのを遠慮していた。  もちろん貴代子は隣室で発生した事件を知っていたが、新開の恐ろしい推測については気づいていない。  それを報《しら》せると貴代子を怯《おび》えさせるので、新開は当面黙っていた。 「事件が起きたとき、隣室でなにか異常な気配を聞きつけなかったかい」  新開は他人行儀の表情で問うた。 「さあ、特に気がつかなかったけれど」 「きみは夜寝るとき、必ずドアをロックするか」 「もちろんよ。夜だけでなく、昼でもロックしているわ」  貴代子は訝《いぶか》しげな表情で答えた。 「その方がいい。近ごろ物騒だからね」  新開は言葉を濁した。  貴代子が常時ドアをロックしていれば、彼女を狙って来たかもしれない犯人は、どうやってドアの関門を突破するつもりだったのであろうか。  夜間、女性の居宅を訪問すれば、警戒されてなかなかドアを開けてもらえないはずである。 「昨夜、だれか訪問する予定はなかったかい」 「いいえ、べつに。どうしてそんなことを聞くの」  貴代子が問い返した。 「いや、だれかと約束《アポイントメント》があって、ブザーにきみが不用意にドアを開くと危険だとおもってね」 「べつにだれも訪ねて来る予定はなかったわ」  貴代子は答えて、 「せっかくだから、ちょっとお寄りになって。美味《おい》しいコーヒーがあるのよ」  と新開だけにわかる誘いのまなざしを向けた。 「いまは仕事中なんだよ」  新開は貴代子につけ込む隙《すき》をあたえないように、つれなく言った。  新開が帰った後、貴代子は彼に嘘《うそ》を見破られたような気がした。  昨夜、彼女は馴染《なじ》みの客を自宅へ呼んでいた。地方の名士で、上京するつど彼女を呼んでくれる。  貴代子は自宅にはめったに客を呼ばない。昨夜は客に同行グループがあって、同じホテルへは呼ぶことができず、他のホテルは空き室がないということで、やむを得ず彼女の居宅で会うことになっていた。  ところが客に急用が生じたらしく、約束の時間に現われず、今日になってから詫《わ》びの電話がかかってきた。  貴代子は客が来なくてよかったとおもった。もし予定通り来ていれば、新開に露見してしまったところである。  新開は貴代子が客を取っているのを知っている。だが、新開を愛している彼女は、なるべくならば新開に客と一緒にいる現場を見られたくない。  また地方名士である客にしても、コールガールと一緒にいる現場を警察に見られては都合が悪いであろう。貴代子はほっとしていた。  貴代子は新開とのエレベーターの中での経験を忘れかねている。  最高階に駆け昇るまでのほんの数十秒の間に身体を合わせた感覚が、火を押し当てたように身体の中心深くに焼きつけられている。  それが官能の癒《い》えることのない傷痕《きずあと》となって疼《うず》く。時間が経過すればするほど傷痕は疼き、かさぶたの下で官能の血がざわめく。これを鎮められる者は新開以外にない。いまや新開は貴代子にとってオールマイティの存在となった。  これまで新開は貴代子に言葉をかけるのみで、彼女の官能を支配し、沸騰させた。貴代子に指一本触れることなく、彼女を達成させた。貴代子もそれで充分に満足していた。  だが新開はあの日、エレベーターの中で、言葉だけではなく身体を用いて頂きへ導けることを実証してしまった。  霊肉両輪による達成を知った身体は、もはや二度と一輪だけの達成に戻ることはできなくなる。  彼女はまだ新開と共に心身両輪によって達したわけではない。達する間もなく引き抜かれ、中途半端のまま放り出されてしまった。残酷な放置であり、危険な未遂である。  だが新開から蛇の生殺しのように放り出されたことが、追完された場合の達成の凄《すご》さを想像させて、貴代子は身悶《みもだ》えした。  新開が残していった埋《うず》み火《び》は、どんなに巧者な客によっても消し止められない。 (あなたはひどい人よ)  新開が隣人の事件の捜査で聞き込みに訪れたとき、貴代子は目顔で訴えたが、新開は素知らぬ顔をして立ち去って行った。  このまま放置されれば、新開が残した埋み火は心身の奥深く燃え上がり、自分をぼろぼろにしてしまうと貴代子がおもったとき、新開から連絡がきた。 「至急会いたい。都合をつけてくれないか」  新開の声は切羽つまっていた。 「どこへでも飛んで行くわ」  貴代子は早くも声を弾ませた。新開の声を聞いただけで、身体が潤ってくる。  新開は渋谷のホテルを指定した。二人がこれまで利用したことのないホテルである。 「ぼくの名前で部屋が取ってある。部屋で待っていてくれ」  新開は言った。その口ぶりに余裕がない。  部屋で待てという指示も、これまでにはないことである。そこに新開らしくない性急さが感じられる。  貴代子は新開もエレベーターでの経験を忘れかねて、悶々《もんもん》としているのであろうとおもった。  その夜、指定されたホテルに約束の時間に行って待っていると、間もなく新開が現われた。 「よく来てくれたね」 「あなたに会うためなら、親が死にかけていても来るわ」 「ご両親はまだお元気なのか」  新開に問われて、まだ二人はたがいの身の上についてほとんど語り合っていないことに気づいた。  新開は一切、貴代子の身の上について詮索《せんさく》しなかったし、彼女も新開に聞かなかった。  興味がないわけではない。いや、興味は大いにあったが、新開が自分のプライベートヒストリーに触れられるのを嫌うような気配が見えたので、聞かなかった。  貴代子にしても、新開に過去を詮索されるのは辛《つら》いところがある。 「両親とも健在よ」 「だったら、心配をかけてはいけないなあ」  新開らしくない言葉であったが、説教臭は感じられない。  後日になって、新開がその言葉をべつの意味で言ったことにおもい当たった。 「ここへ来るまでの間、だれにもつけられた様子はなかったかい」  新開がまた妙なことを聞いた。 「だれもつけてないわよ。どうしてそんなことを聞くの」 「べつになんでもない」  新開は言葉尻《ことばじり》を濁した。 「変なの。今夜のあなたは、なんだかいつもとちがうわ」 「もちろんちがっているさ。きみが恋しくて、気が変になりそうなんだ」 「私も」  言うなり、貴代子は新開の胸に飛び込んだ。  新開のたくましい胸が貴代子の火照った柔らかい身体をがっちりと受け止めた。  唇を合わせて、同時に相互の剥奪《はくだつ》を始める。もはや言葉は不要である。  二人は長い間獲物にありつけなかった肉食獣のように飢えていた。  言葉によって果て、果てさせられた二人が、言葉が不要になっている。生来の肉食獣が肉食に目覚めた形である。  たがいに剥《は》ぎ合った二人は、ベッドへ行く間も惜しんで、カーペットの上で折り重なった。  貴代子は貫かれた感覚と同時に達した。  達しながら痙攣《けいれん》して、新開を捕らえて離さない。新開も貴代子の持続にたくましく応じている。 「こんなの初めてよ」 「ぼくもだ」  ようやく二人の間に言葉が交わされた。  二人は大海を漂う小舟の中に取り残された一対の男と女のように、官能の海を漂流した。  男と女の究極の行為はそれしかないことを実証するように、延々と行為を持続し、反復した。  餓死の直前まで飢えた獣が獲物にありつくと、止まるところを知らず貪《むさぼ》りつづけるという。  もはや胃袋がはち切れそうになっても、食って食って食いつづける。飽食しても飢餓体験が恐怖となって刻みつけられ、次の飢餓に備えて食いつづけるのである。  次はいつ獲物にありつけるかわからない。  一期一会の獲物であればこそ、食って食って食いまくるのである。  二人は長い時間をかけて貪り合い、どちらからもやめようとはしなかった。  新開と貴代子はほとんど同時に体力を使い果たして、折り重なったまま昏睡《こんすい》した。目を覚ましたのもほとんど同時である。身体にはふたたび新たな力が充実していた。ここでまた新たな飽食を始めればきりがなくなる。  自制した新開は、貴代子からの吹きつけるような誘惑に堪えて、 「きみに頼みたいことがあるんだが」  彼らしくないおずおずとした口調で言った。 「あなたの頼みならば、なんでも聞くわよ」  貴代子は喘《あえ》ぐように言った。 「しばらくきみと一緒に住みたいんだ」 「私と一緒に?」 「そうだよ。先のことはともかく、きみと同じ屋根の下に住みたい」 「あなた、本気で言っているの」 「こんなことを冗談では言わない。どうだろう、一緒に住んでくれないかな。もちろんきみの自由に干渉するつもりはない。ただ、一緒に住むというだけで、きみはこれまで通り自由にすればいい。幸いにぼくがいま住んでいるところは一人暮らしには広すぎる」 「嬉《うれ》しいわ。あなたと一緒に住めるなんて、夢みたい。でも……」 「でも、どうしたんだ」  新開が貴代子の面を覗《のぞ》き込んだ。 「あなたと同居したら、あなたが迷惑するわ」  警察官がコールガールと同棲《どうせい》したら、昇進の道を閉ざされるであろう。 「ぼくのことは考える必要はない。きみと一緒に住みたいんだよ。きみの自由は尊重する。返事を聞かせてくれ」 「夢みたいで信じられないわ」 「それでは承知してくれるんだね」 「承知するもなにもないわよ。すぐにでも押しかけて行きたいくらいだわ」 「すぐにでも来てもらいたい。できれば今夜からでも。荷物は後から人に取りに行かせればいい」  新開のリクエストは性急であった。  新開はこれまで通り自由にしていていいとは言ってくれたが、新開と同居すれば、コールガールの仕事にかなり支障を来たすことは明らかである。客を自分の部屋へ呼ぶことは不可能となる。  しかし、新開と同じ屋根の下に暮らせるという幸福が、太陽の下の蝋燭《ろうそく》のように、多少の不都合を消してしまった。  警察官がコールガールと同居することは明らかに不利である。それを承知で貴代子に一緒に住もうと誘ってくれた新開に、実意を感じた。  新開の将来を考えるならば、貴代子は断るべきであった。  だが幸せに酔った貴代子は、そこまで考えが及ばなかった。そして新開の誘いの底に隠されていた真意を見過ごしてしまったのである。  新開は貴代子の生命が危険にさらされている不安を感じた。  なんの証拠も裏づけもあるわけではない。彼の憶測だけである。  貴代子が現在の住居に一人で暮らしているのは危険である。新開は自分の不安を信じた。  移転をしても、危険がなくなるわけではない。犯人が彼女の移転先を知っていれば、なんにもならない。  犯人に極秘で移転することはほとんど不可能であろう。となると、新開が彼女を守ってやらなければならない。  新開としても、四六時中彼女の身辺に張りついているわけにはいかない。  この際、彼女と同居することが、彼女のためになし得る最大の安全保障である。  同居したからといって、貴代子の危険が完全に去ったわけではない。だが、警察官の新開が貴代子と同居していれば、貴代子を狙う犯人に対する大きな牽制《けんせい》になるだろう。  同居の第一目的は、彼女の安全を確保することにあるが、新開自身が貴代子を愛している。  愛していなければ警察官の将来を棒に振ってまで、貴代子と同居しようという気にはなれない。 「私、あなたにふさわしい女になるわ」  貴代子が言った。  それは彼女が新開の示した誠意に応えて、コールガールをやめるという意志表示かもしれない。  貴代子の言葉を聞いたとき、新開の胸の底から、貴代子に対する愛《いと》しさがこみ上げてきた。  彼はそのとき、川島洋子の鎖から解き放された自分を感じた。  貴代子と洋子は別人である。もはや二人の面影は重なり合わない。  洋子の鎖から解き放された新開は、速やかに貴代子の肉体の中に没入した。言葉は不要となった。いや、不要というのではなく、いまのところ言葉を用いる必要がない。  肉体だけで貴代子は充分に達し、満足した。 「いまはなにも言わないで。あなたになにか言われると、私、どうなっちゃうかわからない」  貴代子は官能の沸騰の中で身悶《みもだ》えしながら、新開の口を押さえた。  女の城を破壊力抜群の攻城砲で砲撃されているようなところに、さらに悪魔的な神通力をもった言葉を用いられたら、心身共にどうなってしまうかわからない。  貴代子はむしろ恐れていた。 [#改ページ]  符合した臭い  江崎光次《えざきこうじ》は業腹でならなかった。夜這《よば》いマンションの取材に行って、危うく殺人未遂の嫌疑をかけられるところであった。  しかも二万円、ただ取りされている。その怒りの持っていき場所がない。  数日後、江崎は高田馬場の事務所へ行ってみた。  金を返してもらえるとはおもっていないが、胸に溜《た》まった憤懣《ふんまん》をぶつけてやりたい。もしまだ夜這いマンションの営業をつづけているのであれば、中途半端に終った取材をつづけてみたいとおもった。  このあたりは風俗レポーターの根性である。  もしかすると事務所も閉鎖しているかもしれないとおもいながら行ってみると、若林《わかばやし》がいた。  若林は江崎の顔を見て、一瞬ぎくりとしたようである。 「なんだ、あんたか」  と言った。 「なんだじゃねえだろう。おかげでひどい目にあったぞ」  江崎は溜まっていた鬱憤《うつぷん》をぶちまけた。 「あんたがやったんじゃなかったのか」 「おれがそんなことをするはずがねえだろう。第一、おれが犯人なら、こんなに自由に歩きまわれるはずがない」 「それもそうだね。だとすると、だれが彼女の首を絞めたんだ」 「そんなことおれが知るもんか。二万円、返してもらおうじゃないか」 「夜這いはしたんだから、いいだろう」 「あれが夜這いなもんか。部屋に入った途端、人殺しとわめかれて逃げ出したら、刑事が追いかけて来て、危うく殺人犯にされるところだった。夜這いマンションをやっているんだったら、もう一度キーを貸しな」 「夜這いマンションはやめたよ。警察から警告されてね」 「おれは風俗レポーターだから、あんたに騙《だま》されたことをしっかり書いてやるぞ」 「騙されたなんて、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。埋め合わせにと言ってはなんだが、痴漢電車に乗ってみませんか」  若林は少し言葉遣いを改めた。 「痴漢電車って、なんだね」 「朝のラッシュアワーに、通勤電車に乗って痴漢をするんですよ。痴漢料二万五千円ですが、お客さんなら五千円にまけておきます」  これで若林は二万円の夜這い代を償ったつもりなのであろう。 「痴漢をしかけたところで、また役者《タマ》がわめき立てるんじゃねえだろうな」 「そんなことはしません。今度は素人じゃない、ちゃんとした役者です。それに本番をしてもかまいませんよ」 「本番だって」  江崎は驚いた。  ラッシュの通勤電車内で被害者を演ずる役者《タマ》に痴漢行為をしかけさせて金を取るという手口は聞いたことがあるが、本番もオーケーというのは初耳である。 「どうです。一口乗ってみませんか。いい役者を揃《そろ》えていますよ」  江崎の顔色を敏感に読み取った若林が誘いをかけてきた。 「一口というと、ほかにも客がいるのかね」 「お客さんには正直に言います。いまのところ三人に売れてます。もうこれ以上は売りませんよ。いい役者ですよ。後はお客さんの腕次第だ。通勤電車の中の本番なんて、刺激的じゃありませんか」  江崎の職業意識がむくむくと頭をもたげてきた。 「役者は痴漢客をどうやって見分けるんだ」 「あらかじめ私がお客の特徴を役者に伝えておきます」  これまで通勤電車を模した屋内での痴漢行為を売り物にしている風俗営業があったが、本物の電車の中での痴漢行為に参加するのは初めてである。  下手をすれば公然|猥褻《わいせつ》行為で引っ張られる。  夜這いで殺人未遂の嫌疑をかけられた直後だけに、危険が大きい。  それだけに江崎の好奇心がかき立てられた。  江崎は結局、痴漢電車の客となった。  若林から指示された電車は、小田急線新百合ケ丘発七時十九分の急行新宿行き上り電車である。  前から三両目。  進行方向最前部右側のシルバーシートの前に立っている紺のミニスカートにピンクのセーターを着たワンレングスの女が役者《タマ》だという。  若林の言葉によると、嘘《うそ》か真《まこと》か、江崎を含めて四人の客がいるそうである。  通勤車内で本番ができるものかどうか、江崎自身、痴漢行為に加わらなくとも、他の三人の客がどのように痴漢行為を働くか、風俗レポーターの興味をかき立てるテーマである。  翌朝、江崎は眠いのを我慢して、小田急線新百合ケ丘駅から指定された電車に乗り込んだ。  この時間帯の電車がラッシュのピークにかかる。  新百合ケ丘駅ですでに乗車率百パーセントを超える状況であった。  前から三両目。進行方向最前部右側の隅の指定された位置に、ピンクのセーターを着たワンレングスの女が立っていた。  彼女が役者《タマ》である。  車内で痴漢行為をしかけやすい場所は、乗降口の近くである。被害者に騒がれても逃げやすい。  したがって痴漢行為はホームに着いたときや、発車間際に行なわれやすい。被害者の身体に触りまくって発車間際に降りてしまう。  役者が立っている指定位置がこれに次ぐ。痴漢の身体で被害者を車内の隅に追いつめ、同時に一般乗客の目を塞《ふさ》げるからである。  通路はよほど熟練した痴漢でないと難しい場所である。  痴漢にも種類があり、女性の身体に触るだけで満足するタイプと、猥褻な行為をしかける者と、自分の身体を女性に露出して見せたがる者に大別される。  四番目は覗《のぞ》き、五番目は下着や女性の身体に触れたもの、あるいは女性の身体の一部を盗む泥棒である。  この中で多数派は一である。これに二と三が次ぐ。  年齢別には、痴漢には意外に若者が少ない。中高年、会社では中堅幹部といったところが多い。  若い女にまともにアプローチできない気の弱い者が痴漢人口のマジョリティを占める。  痴漢の年季が入ってくると、痴漢行為のみに性的満足を得るようになる。これも一種の性的倒錯である。  痴漢電車の乗客は、痴漢行為を働くほどの度胸もなく、しかも痴漢行為に憧《あこが》れている中途半端な者である。面白半分の者も少なくない。  本物の痴漢は風俗営業として設定された痴漢電車などには見向きもしない。安全が保障された役者《タマ》相手の痴漢では、なんら性的刺激を得られないのである。  痴漢によって電車を好む者もあれば、バスや映画館、劇場などを得意とする者もある。  また公共の交通機関や場所ではなく、個人の家を覗いたり、女性の下着を盗んだりする痴漢もいる。  電車に乗り込んだ江崎は、満員の乗客をかき分けるようにして、女のそばへ近づいた。  ふっくらした顔つきで、目が大きい。身体つきはぽっちゃりしていて、いかにも柔らかそうである。  きらめくような美人ではないが、可愛くて優しげな表情をしている。セミロングの癖のない髪は面立ちを柔らかく烟《けむ》らせて、男を誘っているようである。  要所要所がよく実ったぽっちゃりした身体つきは、男がいかにも手を出したくなるような蠱惑的《こわくてき》な曲線を描いている。  若林がいい役者《タマ》を用意してあると自慢しただけのことはある。  江崎はようやく女のそばへ到達した。  車両の隅に押しつけられた形の女を取り囲むようにして、三人の男の乗客が立っている。彼らが先客かもしれない。  いずれも三十代後半から四十代と見えるサラリーマン体の男である。  二人が眼鏡をかけ、新聞を読んでいる振りをしている。  一人はさりげなく、窓の外に目を泳がせている。  役者《タマ》を囲んで立っている三人の乗客は、江崎に見られているとも知らず、痴漢行為をしかけていた。  役者は泣きそうな表情をつくって痴漢から逃れようとしているが、すでに三人に取り囲まれているので身動きできない。  役者のうつむいて困ったような表情が演技とはわかっていても、痴漢客をつけ上がらせている。  役者と対面に立った客は、彼女との間に新聞紙を立て、その陰から胸を触っている。  左右を囲んだ第二、第三の客は、身体を密着させてスカートの下に手を入れていた。  江崎には割り込む余地がない。  他の乗客は気づいていない。江崎はまたしても騙されたとおもった。  三人の痴漢客から七万五千円、江崎から五千円を取り、八万円のうちいくら役者にやるのかわからないが、かなりの額をピンハネするのであろう。  本番代を含んでの料金であるが、通勤車内の四人の客の相乗りとあっては、本番行為は難しい。  だが、三人の先客はあきらめていないらしい。たがいに牽制《けんせい》し合いながらも協力して、スカートの下のショーツをずり下ろそうとしている。  パンティストッキングは着けていない。  役者《タマ》はうつむいたまま呼吸を少し弾ませている。途中駅に停《と》まるつど通勤客を乗せて、車内はますます混雑してきている。  もはや立錐《りつすい》の余地もないほどに詰め込まれた車内で、役者と先客たちがどこまで進行しているか見届けられない。  だが先客たちが決してあきらめていないことは、彼らが占めた位置を絶対に譲ろうとしないところからうかがえる。  江崎は舌を巻いた。彼らはこの困難な状況下で、いずれも本番を遂行しようとしている。  演出された痴漢行為であるが、払った金額だけは楽しもうとする根性は見事である。  そのとき江崎はなぜか夜這《よば》いマンションに忍び込んだ場面を連想した。  なぜ、いま夜這いマンションをおもいだしたのか。  江崎ははっとした。 (あのにおいだ)  キーを若林から受け取って夜這いマンションに忍び込んだとき、室内に妙に官能的なにおいが漂っていた。いま同じにおいが彼の鼻孔を刺激している。  それを江崎は夜這いパートナーを演じた役者《タマ》の体臭かとおもったが、あるいは夜這いのタマを殺そうとした先客の体臭であったかもしれない。  そのにおいは江崎の前に立ちはだかっている三人の先客たちか、あるいは彼らに取り囲まれた役者から発しているようである。  満員すし詰めの車内では、多数の体臭や汗や香水や整髪料のにおいが渾然《こんぜん》となって、だれの体臭か嗅《か》ぎ分け難いが、夜這いマンションで嗅いだにおいが、役者と三人の先客たちの方角から漂ってくることは確かであった。 (このにおいはなんだろう)  四人のうちのだれかが、夜這いマンションで嗅いだにおいと同じ体臭を持っているらしい。  役者は夜這いのパートナーとはべつの女である。  すると、三人の先客のだれかが、同じ体臭の持ち主ということになる。  彼らのだれかが夜這いマンションの先客だったのであろうか。  似たような体臭はあるから、彼らのだれかが夜這いマンションの先客と断定することはできない。  たまたま同じ体臭の持ち主が痴漢電車の客として参加したのかもしれない。  まして通勤車内では純然たるにおいではなく、多数の体臭や香料と入り混じったにおいである。  江崎がにおいの源を探っておもわくをめぐらしている間に、電車は新宿に着いた。  結局、江崎には三人の先客が通勤車内での本番という目的を達成したかどうか確かめられなかった。 [#改ページ]  自浄の捻転《スクリユー》  棚川貴代子《たながわきよこ》が新開征記《しんかいせいき》との同棲《どうせい》を決心したとき、意外な邪魔が入った。  新開の住居に移転する直前、スワップパーティに同伴した西山《にしやま》から電話がかかってきた。  会いたいというリクエストに、貴代子が、もうこの仕事から下《お》りると答えると、 「突然やめるなんて、無責任だよ。きみを当てにしている客が大勢いるんだからな」  と西山が言った。 「いつまでもこの仕事をつづけていられないわ。そろそろ潮時だとおもうの」 「結婚するのかい」 「そういうわけではないけれど」  貴代子の歯切れが悪くなった。  はっきりと新開と結婚の約束をしたわけではない。  また警察官の彼と結婚できるとはおもっていない。  とりあえず同棲を求められているだけにすぎない。 「どうやらいい人ができたらしいね」  受話器の向こうの西山が貴代子の口調から気をまわした。  貴代子が答えずにいると、西山が、 「相手はきみの素性を知っているのか」  と問うた。 「それ、どういう意味?」 「べつに意味はないよ。きみがこういう仕事をしていたことを知らなかったら、それを知ったとき、相手はショックだろうとおもってね」  貴代子は西山の言葉にぎくりとした。  もちろん新開は貴代子の素性を知っている。貴代子の仕事を踏まえて二人は知り合った。  だが、前身がコールガールの女と警察官が同棲している事実が周囲に知られれば、新開にとって確実に不利となる。  新開からの同棲申込みに有頂天になっていたが、西山の言葉は彼女の急所を突き刺した。 「きみの恩恵を蒙《こうむ》っている男たちは多いはずだ。きみに突然やめられるとパニックを起こすかもしれないよ」  西山は恫喝《どうかつ》した。 「そ、そんな。私は自由よ。だれにも束縛されないわ」  貴代子は�自由業�のつもりである。 「きみは自由のつもりかもしれないがね、きみの虜《とりこ》になっている男たちは多いよ。女王様の鎖からいきなり解き放されて、さあ、どこへでも行きなさいと言われても、途方に暮れるばかりだろう。きみの大勢の虜がきみを放さないとおもう」 「そんな、困るわ」 「困るのはぼくたちだよ」  西山の電話の後、今度は吉本《よしもと》から電話がきた。 「そうか、やめるのか。残念だな」  吉本は西山よりはさっぱりした口調で言った。 「吉本さんにはいろいろとお世話になりました」 「いやいや、世話になったのはぼくの方だよ。きみのようないい女にはもう二度と会えないだろうね」 「お上手おっしゃって。私もそろそろ、お褥《しとね》ご辞退よ」  吉本の淡白な口調につられて、つい軽口が出た。 「お褥ご辞退どころか、いい人に専属するんじゃないのかね」  吉本が探りを入れてきた。  貴代子がやめるといえば、男はだれでも結婚を考えるらしい。貴代子は笑って答えなかった。 「よけいなことを聞いてしまったね。幸せを祈っているよ」 「有り難うございます」 「今度どこかで出会ったら、たがいに赤の他人だよ」  吉本の電話を切ってから、彼の最後の言葉がじわじわと気になってきた。  吉本は好意から言ってくれたのであるが、再会したとき、赤の他人を装うということは、別れる前の人間関係が漂白しなければならない後ろめたい色に塗られているということである。  貴代子は純白の身体とは言い難い。純白どころか夥《おびただ》しい男たちの精液にまみれている。  新開との同居と同時に仕事をやめたとしても、汚れた身体が真っ白に戻るわけではない。  貴代子の経歴は新開の将来を塞《ふさ》ぐにちがいない。  新開と共に暮らせる喜びに有頂天になっていたが、彼の身になって少しも考えていなかった。  貴代子自身は幸せになれるであろう。だが、それは真の幸せではない。社会に自分一人だけの幸せというものはあり得ない。  幸福は愛する者や家族や友人たちと分かち合うことによって、真の幸福となる。  新開に求められるまま彼と共に暮らしても、それは独りよがりの幸せの中に自閉するだけであって、新開を決して幸福にはしない。  新開が不幸になるということは、貴代子の不幸でもある。  貴代子は新開の真意も知らず、彼の同居の要請を考え直すことにした。  貴代子から、同居については少し考え直したいと言われた新開は、当惑した。  新開の誘いに貴代子はすぐにも飛んで来るようなことを言っていたが、やはり簡単には足を洗えないのであろう。  貴代子の安全のために強く勧めたいところであるが、貴代子の危険というものは新開の憶測から発したことにすぎない。それを裏づけるものはなにもない。  たまたま貴代子の隣室の女性が殺されかかったので、貴代子とまちがえたのではないかと新開が憶測しただけである。  なんの裏づけも根拠もなく、彼女に幻の危険を告げて同居を強制することも、彼女を脅かすこともできない。  貴代子は新開の真意を知らなかったが、新開も貴代子の気遣いを察知できなかった。  二人のおもいやりはすれちがっていた。 [#改ページ]  変態の蜜  一人息子の正彦《まさひこ》が北見《きたみ》夫人を追いかけて行ったときは、誘拐されたとおもったものであるが、内村桂子《うちむらけいこ》自身、北見一家の移転後、火照った身体をもてあますようになった。  桂子は仲のよかった北見夫人と密《ひそ》かに契約し、息子を交換して性の悩みを解消してやっていた。  親馬鹿の骨頂であるが、当人同士は真剣であった。  ところが、子供たちの性の悩みの解消のつもりが、桂子の熟れ切った身体に再点火し、北見夫人の息子を忘れかねている。  夫は仕事でよれよれになって、毎日深夜帰宅すると、風呂《ふろ》にも入らずに寝床へ転がり込んでしまう。  日曜日は終日寝ている。  夫から放り出された熟れた肉体をもてあましていたところに持ち上がった息子の交換契約であった。  疲れを知らぬパワフルな若い肉体は、充分に開発されたまま放置されていた桂子を得て、飢えた狼が肉叢《ししむら》も豊かな美味《おい》しい獲物をあたえられたように、倦《あ》くことなく貪《むさぼ》った。  獲物が貪られるのを喜んでいる。まさにミイラ取りがミイラになった。  このままいけば、おたがいにまことにハッピーな関係であったが、北見家の突然の移転が、釣り合っていた需要と供給を一挙に切断してしまった。  正彦が北見夫人を追いかけて行った気持ちがわかる。桂子自身が北見|弘《ひろし》を追って行きたい。  夫はもはや男としてものの役に立たない。夫はすでに夫であって男ではなかった。  悶々《もんもん》の情に堪えかねて、一人で慰めたが、後がかえって苦しくなった。  渇いた人間が海の水を飲んだように、自ら慰めた後は前よりも激しい飢渇をおぼえる。 「奥さん、お仕事をする気はありませんか。わりのいいパートがあるのですが」  鬱積《うつせき》した気持ちをまぎらすために街へ出た桂子に、声をかけてきた男があった。  視線を向けると、三十前後のスリムなハンサムである。桂子の好みのタイプである。 「私はこういう者です」  興味を持った桂子に、男はすかさず名刺を差し出した。  おもわず名刺を受け取った桂子は、男にそれだけ接近を許している。  名刺には東京企画代表取締役若林|昇《のぼる》と刷られ、会社の所在地は銀座六丁目となっている。  桂子は銀座の会社の社長であれば、怪しい人間ではあるまいと単純におもった。  桂子が足を止めたので、男は手応えありと見たらしく、かたわらに並んだ。  一見連れ立っているようである。 「奥さんだったら時給二、三万は軽く稼げますよ」  男は桂子の横に並んで、歩きながら言った。 「時給二、三万ですって。そんなにくれるところがあるの」  桂子は驚いた。  夫は世間的に名の知れた会社に勤めてはいるが、うだつが上がらない。  正彦が進学すれば金はかかる一方である。 「私が保証しますよ。奥さんほどの器量の人が遊んでいるなんて、もったいない」  いま会ったばかりの得体の知れない男が馴《な》れ馴れしくささやいた。  桂子ははっとした。 「それ、変なことではないでしょうね」  桂子は男に身体の火照りを悟られたのではないかとおもった。  男は桂子の心の隙間《すきま》に乗じて近づいて来たのかもしれない。  まともな仕事で時給二、三万もくれるはずがない。 「まあ、変といえば変ですが、奥さんにとっては廃物利用ですよ。どうせ棄てるものがいい値で売れるのです」  男はおもわせぶりに言った。桂子は興味をかき立てられた。 「その廃物利用って、なんなの」 「ここで立ち話もなんですから、お茶でも飲みながら話しませんか」  若林は誘った。  桂子は若林の後に従《つ》いて、路傍の喫茶店へ入って行った。  彼女はすでに若林の網の中に捕らえられている。  喫茶店で桂子と向かい合った若林は、 「私どもの条件は、秘密を守ってくださること。それだけです。奥さんをお見うけしたところ、この方ならば大丈夫とおもいました。社会的地位のある方ばかりが入会していらっしゃいますので」 「入会というと、クラブのようなものですか」  桂子は問うた。売春の秘密クラブかとおもった。それにしては、廃物利用とはひどい言い方ではないか。夫から放置されて廃物になった妻という意味なのであろうか。  夫はすでに廃物であるが、自分は廃物になった意識はない。まだ充分に女の生臭い脂が残っている。 「上流階級の人々にはこの世の遊びという遊びをし尽くして、普通の遊びでは満足できなくなった方がいらっしゃいます」 「変態のお相手はいやよ」 「まあ、最後までお聞きください。変態といいましても、マゾやサドや女性の身体を傷つけるような変態ではありません。女性の廃物をいただいて喜んでいるという、しごく罪のない変態です」 「それはどういうことなのですか」 「フェティシズムというのをご存じですか」 「そういう言葉を聞いたことはありますが、詳しくは知りません」 「女性の身体には満足しなくなって、女性が身に着けた品、たとえば下着や靴下、靴、あるいは女性の身体の一部、髪や爪《つめ》などを愛するようになることです。このような人たちをフェティシストと言いますが、会員の中に変わったフェティシストがいらっしゃいまして、女性の廃物を欲しがっているのです。それも変わったやり方で……」 「一体なにが欲しいのですか」  興味を充分にかき立てられた桂子は、若林のまわりくどい言い方がもどかしくなった。 「奥さんが承知してくだされば、お礼は前払いで差し上げます。会員は一回五万円支払うと言っています」 「五万円……」  桂子は目を見張った。廃物というからには、桂子にとってなんの価値もないものであろう。それに五万円も出そうというのは気前がよいのか、あるいはそれだけ変態というべきか。  桂子が五万円稼ぐためには、一週間以上毎日フルタイムで働かなければならないだろう。  廃物に五万円もくれるのであれば、変態でもなんでもよいとおもった。  桂子の興味を充分に引きつけたところで、若林は周囲を憚《はばか》るように、桂子の耳にささやいた。桂子は驚いた。 「えっ、まさか」 「廃物の提供者はだれでもよいというわけではありません。奥さんのような上流の家庭の、上品で美しい成熟した女性でなければなりません」  上流で上品かどうかはわからないが、桂子は持ち上げられて悪い気はしなかった。  若林が持ちかけた話は少し気味が悪いが、我慢できないことではない。好奇心もある。  なんといっても五万円が魅力である。 「そのお話、お引き受けしてもよろしいわ」 「引き受けてくださいますか」  若林の顔が輝いた。 「前払いというのは本当でしょうね」 「本当です。証拠としてただいま手付金を一万円差し上げます」 「あとはどうすればいいのですか」 「私の方から日時と場所をご連絡します」 「住所をおしえなければいけないのですか」  今日会ったばかりの素性の知れない男に住所をおしえることにためらいをおぼえた。本能的な警戒心が湧《わ》いた。 「電話番号だけでけっこうです。電話番号からご住所を知ることはできません。それも駄目とあれば、このお話はなかったことにいたします。私も今日出会ったばかりの奥さんを信用して一万円の手付金を差し上げるのです。奥さんも私を信用していただきたい」  若林はきっぱりした口調で言った。  桂子は偽りの電話番号を告げて、一万円せしめることもできる。その危険をあえて冒して、若林は一万円、前払いしようと申し出ている。この機会を逸すれば、廃物を五万円で売れるチャンスを失ってしまう。  しかもそれは一度だけではない。桂子の廃物に大勢のニーズがあるらしい。  こんなけっこうな話はめったに転がっているものではない。  夫は深夜に帰宅するし、家にいても電話に出ることはない。妻にかかってくる電話にはまったく関心がない。  桂子は自宅の電話番号を若林におしえた。  二日後、若林から連絡があった。  明日午後三時、都心のあるホテルに若林の名義で部屋を取ってあるので、そこで待つように。残金四万円は客からもらうようにという指示である。  若林の電話を受けたとき、桂子は全身が小刻みに震えた。一種の武者震いである。  翌日、指定された時間にホテルへ赴いた。フロントで若林の名前を告げると、 「お連れ様はご到着になっていらっしゃいます」  とフロント係から告げられて、ルームナンバーをおしえられた。  フロントでおしえられた部屋の前に立った桂子の胸の動悸《どうき》は高くなった。 (これはべつに売春でも不倫でもないんだわ)  と自分に言い聞かせても、動悸は鎮まらない。  彼女はむしろ自分の身体が売春や不倫の方を望んでいることに気づいた。  夫から放り出され、北見弘の若いパワフルな身体から切り離された成熟した女体が、報酬を伴ったなにやら怪しげなアバンチュールにざわめき立っているようである。  部屋のブザーを押すと、待ちかねたようにドアが開かれた。そこに五十前後の身なりのよい気品のある紳士が立っていた。  夫とほぼ同じ年頃《としごろ》らしいが、ゴルフかスポーツで鍛えているらしく、日焼けした皮膚と引き締まった身体を持っている。髪も黒々としている。  夫のやや薄くなった頭と、下腹が突き出た弛緩《しかん》した身体とでは雲泥のちがいである。 「大村恵子《おおむらけいこ》さんですね。お待ちしておりました」  紳士は桂子が若林に告げた変名で呼びかけると、渋い笑顔を見せた。桂子はぞくりとするものをおぼえた。 「なにかお飲み物を召し上がりますか」  紳士は如才なく言って、部屋に備えつけの冷蔵庫を開いた。 「それではジュースをいただきますわ」  桂子は言った。 「申し遅れましたが、私は永山《ながやま》と申します」  紳士は名乗って、桂子のためにジュースをグラスに注いでくれた。  緊張のためか喉《のど》が渇いている。 「これは些少《さしよう》ですが、お受け取りください」  永山が封筒を差し出した。 「いただきます」  桂子は謝礼とジュースの両方にかけて言った。ジュースを飲み干してから封筒の中身を調べると、一万円札が五枚入っていた。 「あのー、一枚多いようですけれど」 「ぼくの気持ちです。受け取っておいてください」  永山はさりげない口調で言った。若林が言った通り、前払いである。  金をもらって、桂子の警戒心が薄れた。 「それでは、シャワーをお使いになりませんか」  永山が柔らかく促した。  はっと我に返った桂子は、本来の仕事をおもいだした。彼女にとってそれは五万円、前払いされた仕事である。  シャワーをざっと浴び、備えつけの浴衣をまとって浴室から出ると、室内にはカーテンが引かれ、スタンドの灯《あか》りが絞られていた。永山も浴衣に着替えてベッドに入っている。 「なにも心配することはありません。こちらへいらっしゃい」  永山が桂子の緊張を解きほぐすように優しく呼びかけた。  桂子がおずおずとベッドの上に横たわると、永山は上体を起こして、高級な商品の包装紙でも剥《は》ぐような恭しい手つきで桂子の浴衣を剥いだ。 「奥さんは美しい。実に美しい身体をしている」  永山は感嘆したように言った。  薹《とう》が立った身体であるが、熱いシャワーに温められ、羞恥《しゆうち》に紅潮して、ほの暗い照明にカモフラージュされると、まだ男の鑑賞に充分堪えられるようである。 「あまり見つめないでください」  桂子は身体をすくめるようにした。 「恥ずかしがってはいけません。女は三十代後半から四十代にかけてが花盛りです。体調も安定して、一番味がいい。女盛りにお褥《しとね》ご遠慮とは社会的な損失です」  永山は勝手な能書きをたれながら、桂子の股間《こかん》にうずくまり、両足を押し開いた。  桂子が本能的に足を閉じようとすると、男の力でぐいとこじ開けられた。  あらかじめ若林から言い含められていたことであるが、いざその場面に直面すると、本能的に身体を閉じようとしてしまう。  それを情け容赦もなくこじ開けられた桂子は、その部分を強く吸い上げられていた。それは彼女がこれまで経験したことのない感覚であった。永山は桂子の腰を両手で抱え込んで固定すると、股間に口をつけて強く吸いつづけている。 (やめて)  と言ったつもりが声にならない。  永山に吸われている間に、最初はなかった尿意をおぼえてきた。堪《こら》えようとしても永山の強い吸引力に負けてしまう。  桂子は歯を食いしばって堪えていたが、ついに永山の吸引力に負けた。  永山はそれをミルクでも飲むかのように、うまそうに吸っている。  胸が悪くなるような変態であったが、その共犯者となった桂子は、いつの間にかこれまで決して味わったことのなかった変態の感覚の中に溺《おぼ》れ込んでいた。  共犯者として変態行為を共有している間に、変態とはおもわなくなってしまう。  永山に激しく吸われつづけている間に、桂子はその部分から官能の油田に火を点《つ》けられ、次第に燃え広がっていくように感じた。  男に刺し貫かれたわけでもない。男の身体と溶接もしていない。全身に内蔵した女の喜びをその部分に吸い集められ、吸い取られてしまうかのような自虐的な快感である。  といっても、永山はサディスティックな行為を加えているわけではない。  突きも刺しも縛りも殴りも絞めもせず、ただ吸っているだけである。  永山は彼女の廃物を赤子が乳を吸うように吸い、そのことに性的満足をおぼえている。このときになって、桂子は最初、永山から飲み物を勧められた意味がわかった。  長い時間が経過したようにおもえたが、せいぜい十分ぐらいである。  永山がようやく満足して離れると、桂子は下半身が痺《しび》れたようになっていた。その感覚がまた快い。病みつきになりそうである。いや、すでに病みつきになっているかもしれない。  彼女にとっての廃物が永山を満足させ、しかも初体験の快感を彼女の身体の深部に植えつけた。そして六万円も報酬をもらった。まさに一石二鳥、いや三鳥、四鳥である。  永山はすっかり満足した表情で、桂子のかたわらに横たわった。  彼の関心は彼女の廃物だけにあり、それ以外の一切に興味がないらしい。 「とても美味《おい》しかったよ。これからも時どき会ってもらいたい」  永山は言った。  言葉遣いが馴《な》れ馴れしくなっている。  最初は気味が悪かったが、桂子はそんな永山が乳をねだる乳児のように可愛らしく感じられた。 「私も楽しかったわ」  桂子はお世辞でなく言った。 「それを聞いて安心した。この趣味はなかなか女性に理解してもらえなくてね。パートナーを見つけるのに苦労するんだ」 「それはびっくりするわよ。私も若林さんからお話を持ちかけられたとき、正気の沙汰《さた》かとおもったわ」 「当人にしてみれば、セックスの嗜好《しこう》なんだ。酒やコーヒーや煙草のように、私は女性のあれが大好きなんだよ」 「でも、珍しい嗜好ね」 「一度この味をおぼえるとやめられなくなる。人間はなぜ排泄物《はいせつぶつ》を汚らわしいとおもうか。それは人間が汚らわしいと決めているからにすぎない。兎などは自分の排泄物を食べる。しかし、人間は兎ではないのでね、残念ながら私の嗜好は表沙汰にはできない。こんな嗜好が表沙汰にされたら、社会的地位を失ってしまうかもしれない。  当人の勝手な嗜好でも、それが法律で禁じられていたり、反社会的であったり、他人を傷つけたりするものであれば、我慢しなければならないだろう。  私の嗜好は禁じられているわけでもないし、だれも傷つけない。ただ汚らわしいとおもわれているだけだよ。私にしてみれば、手を洗わずにレストランでパンを千切って食べたり、大勢で一つの鍋《なべ》に箸《はし》を突っ込んだり、満員電車の中で咳《せき》やくしゃみをする方がよっぽど汚らわしい」  内村桂子を共犯者と見て鎧《よろい》を脱いだせいか、永山は能弁になった。  永山の言葉を聞いている間に、彼をそれほど変態とはおもえなくなった。それだけ彼女が変態の仲間入りをしたのかもしれない。 「どうして奥様からいただかないの」  桂子は尋ねた。 「家内は身内だ。異性ではない。家内のものをもらっても、フェティシズムの対象にはならない。異性のものでなければね」  桂子は納得した。  他人性の強い方に異性を感ずる。彼女が夫に異性を感じなくなったのと同様である。 「ぼくの友人には、女性の毛を愛している者もいるよ」 「女性の毛ですって。いやだわ」 「そうだろう。毛は廃物ではない。そんなところの毛を削《そ》ぎ取られたら、形は悪くなるし、第一、旦那《だんな》に悟られてしまう。ぼくの嗜好はどんなに吸い取っても、どうせ排泄してしまうものだから、旦那に気づかれることはあるまい」  永山はほくそ笑んだ。 [#改ページ]  禁じられた聖域  夜這《よば》いのアルバイト学生を狙《ねら》った犯人の本命目的が棚川貴代子にあったとすれば、犯人はまだ目的を達していない。貴代子を狙ってふたたびやって来るかもしれない。  貴代子との同居は新開が考え出したベストの護衛方法であったが、いったん承諾した貴代子は断ってきた。強制はできない。  せいぜい貴代子に身辺に注意するようにと遠まわしに警告するくらいである。  その後、三件の殺人事件の捜査は膠着《こうちやく》したまま、新たな進展はなかった。  十月下旬のある日、新開はある事件の捜査で、都心のホテルへ聞き込みに行った。  エレベーターを待っていると、ドアが開いて、一組の男女が降りて来た。  新開とカップルの女性が真正面から顔を合わせた。新開には見おぼえのある顔であった。 「あら」  女性も反応を示した。避けも躱《かわ》しもできない出会いである。  エレベーターが降りて来た上層階にはレストランや展望室もない。二人が客室から降りて来たことは確かである。  一瞬の反応を浮かべた女性は、気まずそうに面をうつむけた。  そのとき新開の記憶がよみがえった。 「奥さん、ご子息はその後、勉強していますか」  新開は意地が悪いとおもったが、声をかけた。女性は内村桂子である。 「あの節はお世話になりました」  桂子は仕方なく答えた。  連れの男は素知らぬ顔をして玄関の方へ向かった。 「あのー、べつに変な関係ではないのです」  新開がなにも聞かないうちに、桂子がうろたえた口調になって弁解した。  だが男と連れ立ってホテルの客室から出て来たとなると、勘繰られても仕方がない。  新開は苦笑して、 「私には関係ないことです」  と言った。 「それでは失礼します」  桂子は逃げるように新開の前から立ち去った。  永山は桂子の身体に強烈な刺激を刻みつけた。日を経るにしたがって、身体の精髄を吸い尽くされるような感覚が激しい後遺症となって尾を引いた。  永山と別れた後二、三日の間は下半身が痺《しび》れたようになって、呆然《ぼうぜん》と過ごした。  夫から、どこか具合が悪いのではないかと案じられたほどである。  皮肉な一致であるが、永山と会って帰った夜、久し振りに夫から求められた。  桂子はあまり気が進まなかったが、拒否すると怪しまれそうな気がして夫の求めに応じた。  下半身が痺れたようになっていながら、妙にあの部分だけ敏感になっていて、夫を喜ばせた。  桂子にしてみれば、永山の後では表皮をくすぐられたようでもどかしい限りであったが、夫は独り相撲に満足して、事が終わると背中を向けて心地よさそうな寝息を立てた。  北見|弘《ひろし》を忘れかねていた桂子は、今度は永山の二度目の誘いを待ちかねるようになっていた。五万円の報酬は魅力であったが、あの強烈な刺激をおぼえた後では、無償でも提供したい。  四、五日後、若林から連絡がきた。 「永山さん、ひどく奥さんが気に入りましてねえ。またお会いしたいと言ってます。明日午後三時、都合をつけていただけませんか」  飛び立つおもいで若林の電話を受けた桂子は、二つ返事で引き受けた。  なにをおいても駆けつけて行くつもりである。  また先日と同じホテルが指定された。  不倫でも売春でもないが、それ以上に後ろめたい背徳のにおいが桂子の秘密の悦楽をかき立てた。 「やあ、奥さん。待ちかねたよ。翌日すぐにでも会いたかったんだが、都合がつかなくてね。完全にあなたの虜《とりこ》になってしまった」  永山は言った。 「私も」  永山に会うためにホテルへ向かう途中から身体が疼《うず》いた。 「この嗜好《しこう》に取り憑《つ》かれて数年になるが、あなたのように美味《おい》しい身体は、初めてだよ」 「私もただ一度お会いしたきりなのに、身体が疼いて困るわ」  二人は完全な秘密の悦楽の共犯者となっている。  男と女として出会いながら、その廃物を共有して、性的な達成を果たしている。不幸な男女であったが、二人はそれを少しも不幸とはおもっていない。  むしろめぐり合えたことを喜び、歪《ゆが》んだ悦楽の穴を協力してさらに深く掘り下げようとしていた。  正常なカップルにとっては忌むべき汚らわしい廃物(異物)が、二人にとっては汲《く》めども尽きぬ官能の油井《ゆせい》であった。  ようやく満足した永山は、 「そうそう、すっかり忘れてしまった」  と言って封筒を差し出した。  前払いのはずの謝礼が後払いになってしまった。  桂子もその事実を忘れていたほどに溺《おぼ》れている。 「なんだかいただくのが悪いみたい」  それは桂子の偽らざる心情である。  こんなに美味しいおもいをさせられて、謝礼を受け取るのは罪悪感をおぼえるほどである。  もともと罪のにおいの濃厚な行為に、真面目《まじめ》に働いたのではとうてい得ることのできない報酬を受け取ることに、二重の罪の意識をおぼえる。 「これからも会ってくれたまえ。もうきみなしではいられない」 「私もよ。必ず呼んでね」  永山から受けた刺激は、下半身から全身に拡大している。  しばらく全身が痺れて立ち上がれないほどである。 「あなたを見込んで、ひとつ頼みたいことがあるんだが」  封筒を渡した後、永山はふとおもいだしたように言った。 「どんなこと?」 「前にもちょっと話したようにぼくの友人に毛を集めている男がいるんだよ」 「毛ですって?」 「だれの毛でもいいというわけではない。好みのタイプの女性の毛を集めているんだが」 「いやだわ、毛を取られるなんて」 「ほんの少しでいいんだが、取らせてもらえないかと言うんだ」 「毛なんか集めてもしょうがないでしょうに。おかしな人もいらっしゃるのね」  と言いながら、自分たちの嗜好は毛以上におかしいことにおもい当たって、桂子は苦笑した。 「あなたなら絶対に気に入る。一度だけでいいから、会ってやってくれないかな」 「そんなに欲しいのなら、永山さんが持って行ってあげたら」  永山になら少しは取らせてやってもよいとおもった。 「それが本人から直接もらわないと、コレクションの対象にならないんだ。間接にもらったのでは、どんな女の毛かもわからないしね。数本分けてもらうだけで十万円出すと言っているんだが」  数本の毛で十万円なら、永山の二倍である。悪い取引きではない。 「本当に毛だけで十万円くださるの」 「付随行為があるかもしれない。しかし、ぼくに吸い取られた後では、なにをされても滓《かす》のようなもんじゃないかな」  永山が自信のある口調で言った。  永山の方が歪んでいる。歪んでいることが彼の自信となっている。つまり、それだけ桂子も歪んでしまったわけである。  桂子は永山の紹介で、彼の友人に性毛《ヘア》を売ることにした。  少し気味が悪かったが、なんといっても十万円は魅力である。  わずかな性毛の代償に十万円もらえれば、家計がずいぶん助かる。正彦の進学に備えて、金はいくらあっても足りない。  永山が言った付随行為というのが気になったが、十万円もらえれば、多少の付随行為は我慢しなければなるまい。 「ちょっと奇妙な趣味を持っている男だから、驚かないように」  永山は言った。 「永山さんより変な趣味を持っているの」 「そうだね。ぼくの趣味もかなりおかしいな」  永山が自嘲《じちよう》するように笑った。 「でも、どんな趣味なの」 「会ってもらえばわかるさ。最初、ちょっと驚くかもしれないけれど、馴《な》れればいい客だよ。ぼくが保証する」 「永山さんの保証では当てにならないわね」  ともかく十万円の魅力と好奇心にそそのかされて、桂子はその客に会ってみることにした。  数日後永山を介して、ある都心のホテルに午後八時に来るようにと指示された。  夫には友人の集まりに出席すると取り繕って、桂子は、その夜、約束の時間に指定されたホテルに出かけた。  永山経由の指示によると、その客はホテルに小谷《こたに》という名前で部屋を取っているそうである。  フロントで小谷の名前を告げると、内線電話で呼び出してくれた。  桂子がフロントから渡された受話器に恐る恐る話しかけると、 「大村恵子さんですね。お待ちしていました。一一二四号室へお越しください」  と未知の声が告げた。  一一二四号室に赴いてチャイムを押すと、待っていたようにドアが開かれた。  小谷の風体を見た桂子は、一瞬、部屋の入口に棒立ちになった。 「どうぞ入ってください」  小谷は言うと、桂子の手を取って有無を言わさず部屋の中へ引きずり込み、ドアを閉めた。  そのとき桂子の鼻孔を甘酸っぱいにおいがくすぐった。小谷の体臭であろうか。  小谷は秘密結社の会員が被《かぶ》るような目の部分だけ開けた三角の覆面をすっぽりと被っていた。 「驚いたでしょう。事情があって顔を見せることができません。悪しからず」  小谷は言った。紳士的な口調であったので、桂子は少しほっとした。  きっと相手は名も地位もある男なのであろう。彼は自分の趣味を恥じているのだ。  桂子は小谷の様子から、どうやら自分が気に入られたらしいことを悟った。  覆面をしているので面体はわからないが、声や身体つきは若々しい。  大柄な筋肉質の身体はいかにもスタミナが溢《あふ》れているようである。  年齢は不詳だが、桂子は三十代と踏んだ。芸能人かスポーツ選手かもしれないとおもった。 「今日はようこそいらっしゃってくださいました。これはお約束のものです」  小谷は言って、封筒を差し出した。約束の十万円であろう。  数えるまでもなく、その手触りから永山の言葉の通りの報酬であることがわかった。 「有り難うございます」  桂子が礼を言って、封筒をハンドバッグの中にしまいこむと、小谷は、 「中身を改めなくともよろしいのですか」  と問うた。 「信用しています」 「今夜初めて会ったのに、嬉《うれ》しいですね」  甘酸っぱい体臭がますます濃く漂う。腋臭《わきが》の一種なのであろうか。官能的なにおいである。 「それではお願いします」  小谷が言った。 「あのう、どうすればよろしいのかしら」  性毛《ヘア》を売るのは初めてなので、勝手がわからない。 「服を脱いでください」 「服を……全部ですか」 「全部です」  小谷は容赦なく言った。 「恥ずかしいわ」  桂子は処女のように身体をよじった。  男にまじまじと見られながら自らを剥《は》ぐのは、女の羞恥《しゆうち》を促す。初めから全裸になってまみえる方が羞恥が薄い。  鎧《よろい》で武装した姿から、一枚ずつ武装解除しながら裸身に移行していくグラデーションが恥ずかしいのである。  同時に灯《あか》りが消えた。窓にはカーテンが引かれていて、室内は闇《やみ》に塗りつぶされた。 「これならよろしいでしょう。安心して衣服を脱いでください」  小谷が闇の奥から言葉をかけた。  桂子は小谷が意外に淡泊なような気がした。  男は女が衣服を脱ぐ場面を見たがるものである。女が次第に剥がれていく場面に欲情を刺激される。男にとっては美味《おい》しい場面である。  それを一瞬のスイッチによって暗黒に塗りつぶしてしまった小谷は、視覚からは感じない性質《たち》なのかもしれない。 「用意はできましたか」  脱ぎ終った桂子に、小谷が声をかけた。 「はい」  返答すると同時に灯りがよみがえった。  だが室内灯ではない。灯りの方角を見た桂子はぎょっとなった。  小谷が炭坑作業員のようなヘッドランプを三角の覆面の上に付けていたからである。  目の部分だけ開いた覆面の頭部に、ヘッドランプの一つ目が輝いている。  それはSF小説に登場してくるBEM《ビッグ・アイ・モンスター》のように見えた。 「ベッドに横たわりなさい」  小谷が命じた。  桂子は驚愕《きようがく》から立ち直って、言われるままにおずおずとベッドに横たわった。  小谷は暗黒の奥からヘッドランプの光を桂子の秘所に当てた。局所がスポットライトを浴びた形になった。  小谷はまじまじと凝視しているらしい。 (これも十万円のうちだわ)  桂子は恥ずかしさに堪えて、胸中に呟《つぶや》いた。  桂子はふと局所に異物感をおぼえた。最初、性毛を切り取られているのかとおもった。  性毛をカットするのであれば、表皮的な感覚のはずである。  その異物感は彼女の身体の内奥に達している。  男が進入して来た異物感でもない。小谷は桂子の局所にスポットライトを当てたまま、同じ姿勢を保っている。 「そのまま凝《じ》っとしていて。動くと大切なところを傷つけるかもしれない」  小谷が言った。桂子は初め、その意味がよくわからなかった。  異物感が子宮に達しそうになって、桂子ははっと悟った。  小谷は彼女の秘所に箸《はし》を差し込んで、スポットライトの中で仔細《しさい》に観察しているのである。 「いや」  桂子はおもわず抗議の声をあげた。  突然異物感が去って、箸は引き抜かれていた。だが、箸の代わりに新たな異物感をおぼえた。箸よりも危険な気配が伝わってくる。 「動かないで、動くと危ないぞ」  小谷が覆面の下から押し殺した声で言った。 「やめて」  承諾してのことであるが、桂子は急に恐くなった。 「大丈夫。そんなには剃《そ》り取らないよ。今夜の記念品だ」 「困るわ、そんなに剃られては」 「旦那《だんな》にわからないように剃ってある。それとも毎回、旦那が検査するのかね」  小谷は含み笑いをした。  動くと危険なので動くに動けない。  性毛を剃り取られた後、彼女は小谷の固くたくましい身体で充填《じゆうてん》された。否も応もなかった。これが付随行為だとすれば、十万円は当然だとおもった。  だが、すぐに彼女は小谷のたくましい身体によって嵐の海を漂流する小舟のように揉《も》み立てられ、突き上げられて、報酬などはどうでもよくなっていた。  嵐が去ると全身が虚脱してしばらく動けない。  小谷は満足したようである。  永山に吸引された後も全身が痺《しび》れたようになったが、小谷から箸を差し込まれて身体の内奥を覗《のぞ》き込まれた刺激も異常であった。  桂子は内臓の奥を覗かれたような気がした。  そんな奥まで夫にすら覗かせたことはなかった。  もちろん自分自身も覗いたことはない。そこは自分にも許したことのない禁じられた聖域である。  そこへ小谷はずかずかと踏み込んで来たのだ。その土足の痕《あと》を消すために、行為を追完した。  ずるいやり方だとおもった。 「大変楽しかった。これは私の気持ちです」  すべて終った後、小谷はさらに二枚の一万円札を差し出した。 「また会ってもらえないかな。永山さんから連絡する」  小谷は別れ際に言った。最後まで三角の覆面は取らなかった。  内村桂子は永山に会ったら、大変な付随行為だったと言ってやろうとおもった。  小谷と別れた後も、依然として下半身にスポットライトを当てられ、覆面の奥の目に覗き込まれているような気がした。  初めて処女に訣別《けつべつ》したとき、しばらく股間《こかん》に異物がはさまっているような違和感をおぼえたものであるが、小谷からあたえられた違和感は、自分の聖域を窃視されつづけているような感じである。  内臓にすきま風が吹き込んで来るようである。  なんとも心もとなく、衆人環視の中で下着を剥ぎ取られたような身の置き所もない羞恥をそそられる。  彼女はこれまで、これほど徹底的に覗かれたことはない。 「十二万円では安すぎたかもしれないわ」  今度会ったら、もっと吹っかけてやろうかとおもった。 [#改ページ]  性《セツクス》のメニュー  尾沢保子《おざわやすこ》はその男と廊下ですれちがったとき、記憶に刺激を受けた。  ルームサービスを届けに行ったすぐ隣りの部屋から、その男は出て来た。  保子の見知らぬ顔である。  男は保子の方に目もくれず、廊下をエレベーターホールの方へ歩いて行った。上背のある筋肉質の身体をしている。  保子はそのとき、廊下にかすかに残る甘酸っぱいようなにおいを嗅《か》いだ。いますれちがった男の体臭であろう。  保子ははっとして、廊下に棒立ちになった。 「私を殺そうとした犯人だわ」  恐怖の記憶が急速によみがえった。  男が残した体臭が、彼女の記憶を呼び覚ましたのである。  暗い中で首を絞められ、失いかけた意識の底から見た犯人であったが、いま廊下で嗅いだ男の体臭は、あのときの犯人のものであった。恐怖の極限で沁《し》みついてしまったにおいだけに、まちがいはない。背恰好《せかつこう》も似ている。  先方は保子にまったく反応しない。  もっとも保子も夜這《よば》いのアルバイトをしていたときとは様子が変わっている。  友人からの口コミで、割のいいアルバイト代と、好奇心半分から始めた夜這いのアルバイトであったが、あの夜の恐怖体験を境に、風俗関係のアルバイトはふっつりとやめた。いまはパートのルームサービス係としてホテルで働いている。  ホテルのルームサービス係のアルバイト代は、風俗関係のそれよりはるかに安いが、生命の危険はない。  風俗関係のアルバイトで女の身体は金になることを知ったが、それを売りつづけていると、心身をすり減らしてしまうことも学んだ。  風俗のアルバイト代金は高いようでいて割が悪いことに気がついた。  ホテルで働くようになって今日で一週間目である。  男はまったく彼女をおぼえていないようである。  だが、殺されかけた保子には、犯人の印象が恐怖体験となって刻みつけられている。  特徴を口ではうまく表現できないが、心証として心に深く刻まれている。加害者と被害者のちがいであろう。  犯人がなぜ自分を殺そうとしたのか、まったく心当たりがない。だが、殺されかけたことは事実である。保子は自分の心証を信じた。  あの男が出て来た部屋は一一二四号室であった。保子は男の後を追ってフロントへ下りた。料金はすでに前払いしてあったのか、フロント周辺に男の姿は見えない。  キーはカード式なので、客が替わるつど発行する。すでに清算してあれば、客はフロントに立ち寄らずに|出 発《チエツクアウト》してしまう。 「尾沢さん、なにか用かい」  フロントにいた山岡《やまおか》が声をかけた。  山岡は彼女がアルバイトの初日に社員食堂で一緒になって、声をかけられた。彼女に好意を持っているらしく、ホテル内で顔が合うと、なにかと声をかけてくる。 「一一二四号室のお客様の名前を知りたいのですけど」 「きみの知っている人?」 「さっきエレベーターに乗り込む後ろ姿をちらりと見かけたのだけれど、知っている人によく似ていたのよ」  知っているという意味では嘘《うそ》ではない。 「お客の名前はおしえない建前だが、尾沢さんのことだから特別に調べてあげよう」  山岡はコンピューターのキーを叩《たた》いて、 「小谷|繁夫《しげお》さんとなっているよ。時どきお見えになるお客さんだ」  と答えた。 「こたにしげお」 「小さい谷、繁盛《はんじよう》の繁に夫と書く」 「住所も書いてありますか」 「知っている人ではなかったのかい」 「だいぶ前の知り合いなので、住所が変わっているかもしれないのよ」 「お安くない知り合いのようだね」  山岡はにやにや笑いながら、 「しかし、名前も住所もどうせでたらめだとおもうよ」  と言った。 「あら、どうして」 「これだよ」  山岡は右手の小指を立てて見せた。尾沢保子もおおむね事情を了解した。  小谷は女性と会うためだけにホテルを利用しているのであろう。その女性も一夜限りのプロか、行きずりであろう。  その種のホテル利用客はフロントに本当の名前や住所をレジスターしない。  保子の落胆した顔色を察したらしく、 「しかし、また来るとおもうよ」 「予約が入っているの」 「いや、まだ予約はないが、月に一、二回は女を連れて来るから、近いうちにまた来るだろう」 「姿を現わしたら、おしえていただけないかしら」 「ますますお安くなさそうだね。きみのことだから、特別に内緒でおしえてあげるよ」  山岡は軽くウインクした。  どうやら彼は勘ちがいしているらしい。その勘ちがいを利用して、保子は自分を殺そうとした犯人の正体を突き止めようとおもった。  彼女にまったく心当たりがないのに、どこの何者とも知れぬ者が自分の命を狙《ねら》った。動機が不明なのは不気味である。  犯人はたまたまその場に来合わせた風俗レポーターの気配に驚いて逃げ出したが、もしレポーターが来てくれなかったら、彼女は確実に殺されたはずである。  犯人は目的を達していない。すると、ふたたび彼女を狙う可能性がある。  犯人に再度襲われる前に、犯人を捕らえるのが最上の防衛である。だが、保子はまだ警察に通報するだけの自信が持てなかった。  犯人にちがいないという心証はあっても、自分の勘だけである。早計に警察に通報して、もし人ちがいであったら、人権侵害ものである。  もう一度犯人に会って、自分の心証を確かめたい。それまでは警察に通報するのは保留しようとおもった。  尾沢保子は、パートのルームサービス係を務めている間に、児玉《こだま》という客と親しくなった。  ホテルに長期滞在していて、芸能プロダクション関係の仕事をしているという。  なにやら得体の知れない雰囲気を帯びている男である。  だが、物腰はソフトで、保子に気前よくチップを弾んでくれた。  児玉は職業柄、その種の嗅覚《きゆうかく》が鋭いらしく、保子が風俗関係で働いていたことを察知した様子である。 「ホテルでルームサービスなんかしていてもいくらにもなるまい。きみだったらAVに出れば、まちがいなくあっという間にスターになれるよ」  児玉はおだてるように言った。 「AVなんていやだわ」 「どうしてだい。マリリン・モンローもマドンナもポルノ映画出身だというよ。いまをときめいている大女優にもAV出身者がいる。きみにその気があれば、AVを足がかりに芸能界に羽ばたけるよ」  感触ありと見たらしい児玉は、ますますそそのかすように言った。 「私なんか、そんな柄ではないわ」 「そんなことがあるもんか。ぼくの目に狂いはない。そこでちょっと服を脱いでごらん」  児玉はなんでもないことのように言った。 「服を?」  保子は唖然《あぜん》となった。  児玉は続けた。 「そうだよ。衣服越しでも大体わかるが、自分の目でしっかりと確かめてみたい」  その口調にいやらしさはなく、目に欲望の色はない。まるで医者が患者を診察するような口調と目をしている。 「さあ、早く脱ぎたまえ」  たじろいだ保子に、すかさず児玉は追い打ちをかけた。保子は催眠術にかけられたように衣服を脱いだ。 「パンティも除《と》って」  児玉は容赦なく命じた。 「えっ、ショーツも脱ぐのですか」 「当たり前だろう」  児玉は当然のことのように言った。  全裸になった保子に、 「右足を椅子《いす》の上にあげて、股《また》を踏ん張るようにしてごらん」 「そんな恰好《かつこう》、恥ずかしいわ」 「なにを恥ずかしがっているんだね。そんなことではAVに出られないぞ。次は床の上に腰を下ろして、右の膝《ひざ》の上に左の足の踵《かかと》を乗せてごらん。次はその逆だ」  児玉は保子に次々に破廉恥な体位を取らせた。児玉の言葉には不思議な圧力があって、保子はいつの間にか蛇に見込まれた蛙のように抵抗できなくなっている。  それというのも児玉に少しも欲望の気配がなく、あくまでも医者が患者に接するように冷静そのものだったからである。 「おもった通りだよ。素晴らしい身体をしている。ベッドの上に来なさい」 「はっ?」 「ベッドに寝なさい」  児玉はあくまで冷静な口調で命じた。  保子は診察台に横たわるような気持ちで、児玉の言うがままに従った。  児玉がさっさと自分の衣服を脱いだ。 「どうするつもりですか」  保子が問うと、 「身体は申し分ない。中身をちょっとテストしてみたい」 「テストって?」 「すぐにすむ。そのままそこに横たわっていなさい」  児玉は衣服を脱ぎ終わると、彼女の身体を押し開いた。保子はなにがなんだかよくわからないうちに、児玉に犯されていた。  それはまことに奇妙な交接であった。女にメイクラブする新たな手口なのであろうが、保子には騙《だま》されたとか、犯されたという意識はまったくない。  それだけ児玉の手口が巧妙と言えるが、児玉も女体を味わうのではなく、性科学の実験にでも従事しているような真摯《しんし》な姿勢を維持していた。  児玉の巧みな誘導に乗せられて、保子は彼と性を交えているのではなく、二人で共同して崇高な実験に従事しているような錯覚にとらわれてしまったのである。  児玉は行為の間中、保子を相手にさまざまな体位を試みた。 「この形とこの姿勢ではどちらが感じるか。右足を上げろ。左足を伸ばせ。上半身を起こせ。腰を浮かせろ。立て。バックスタイルになれ」  などと好き勝手なことを命じた。  彼の言葉に唯々諾々《いいだくだく》と従いながら、 「きみの身体のツボはここにある。感じやすい体位はこれだ。きみはいわゆる寝美人だから、寝るときは髪を長く下ろした方がいい」  などと、自分でもこれまで気がつかなかった性の急所を言い当て、適切なインストラクションをあたえてくれた。  まさに児玉に手取り足取りされて、性のコーチを受けているようであった。  セックスは男と女がただ身体を合わせればいいというものではない。それぞれのカップルに見合ったメニューに応じて行なえば、より充実したセックスが味わえる。 「AVも、ただ男女のからみ合いを見せるだけでは客は唸《うな》らない。客にも応用できるような素晴らしいメニューを見せてやらなければ駄目だよ」 「セックスのメニューって。初めて聞いたわ」 「セックスこそメニューが必要なんだ。オードブルから始まってデザートまで。フルコースもいいが、時には胃の腑《ふ》の調子に応じて魚を抜いたりアントレを省く。またバリエーションのメニューもいい。それぞれのカップルの個性と、そのときの環境や調子に応じてメニューを組み立てるんだよ。メニューのないセックスは生理的な行為にすぎない」 「生理的な行為ではないセックスとは、どういう意味ですか」 「楽しむためのセックスだよ。楽しむためだけのセックスと言ってもいい。だからメニューが必要になるんだ。食べ物でも、ただ腹を脹《ふく》らませるためだけなら、そこにある食物を手当たり次第に頬張《ほおば》るだけでいい。だが、どういう順序で、どういう種類の食物をどんな器に盛ってどんな環境で食べれば、食事を最も楽しめるか。そこでメニューが必要になってくる。セックスは排泄《はいせつ》ではないからね。人間の行為の中で最も技巧的なものと言ってもいい」  保子には児玉の言葉の意味がよくわからなかったが、身体が彼の言わんとすることをなんとなく感じ取ったようである。  このことがあって以後、児玉は保子をルームサービスにかこつけては呼び寄せて、セックスのコーチを施した。  児玉がつくったメニューは、彼女の身体の中に埋もれていた官能を引っ張り出した。 「やはりぼくがおもった通りだ。きみの身体はどんどん開発されていく。きみは素晴らしい器を持っているよ。男を狂わせる器だな」  児玉は自分の作品を見るような目をして、保子の身体を称賛した。  尾沢保子が児玉からセックスのコーチを受けるようになって間もなく、 「実はきみに折入って頼みがあるんだが」  と改まった口調で児玉が言った。 「頼みって、どんなこと」 「二十三日、このホテルでパーティがある。それにぼくの同伴者として出席してもらいたいのだ」 「どんなパーティなの」 「秘密のパーティだよ。約束していた同伴者が急に来られなくなってね。出席者は必ずカップルということになっている。パートナーがいなくて困っていたんだ」 「秘密のパーティだなんて、気味が悪いわ」 「大丈夫だよ。出席者は上流の紳士、淑女ばかりだ。ぼくが保証する」  児玉の保証では当てにならないが、保子はコーチに逆らえないような意識になっていた。 「パーティは午後九時から始まる。きみはパートだから、その時間にはフリーになっているだろう。是非同伴してくれたまえ。これは少ないがお礼だ」  児玉は保子に十万円渡した。  これまでのコーチでは一度も金をくれたことがない。また保子も金をもらおうという意識にならなかった。 「まあ、こんなにいただいては悪いわ」 「いいから取っておきたまえ。ぼくの気持ちだよ」  児玉は鷹揚《おうよう》に言って、金を保子の手に押しつけた。  結局、はっきりした返事をあたえないうちに、同伴を承諾した形になってしまった。  この場合、ホテルの正社員であると、職場であるホテルの一室の秘密パーティに、客に同伴して出席することなど言語道断であるが、その点、パートのアルバイトは気が楽である。 [#改ページ]  闇《やみ》のラブハント  師走《しわす》に入ると、永山経由で小谷から連絡があった。  永山も桂子の身体に異常な刺激を植えつけたが、小谷から刻みつけられた刺激はマゾヒスティックであった。  桂子はいまでも暗黒の中で、局所にスポットライトを当てられて、箸《はし》で開かれ、視姦《しかん》された感覚を忘れることができない。  視姦とは普通、表皮的なものである。だが、小谷は彼女の深部まで視姦した。  小谷との場面をおもいだすと、いまでも全身がかっと熱くなり、顔に血が上るのをおぼえる。  彼女はこれまで男からあんな風に覗《のぞ》かれたことはない。 「どうだい、彼はおかしな趣味の持ち主だったろう」  永山はにやにやしながら言った。 「おかしななんてものじゃないわ。どうかしているわよ」  内村桂子は怒った顔を見せた。 「実はぼくも正確なところは知らないんだがね、彼は一体どんなことをあなたにしたんだね」  永山の面が好奇の色に塗られている。 「まあ、よく知らないで、あの人を紹介したの」 「残念ながら、我々の趣味には市民権があたえられているとは言い難い。だから、それぞれの趣味に後ろめたさを持っている者同士が、類は友を呼ぶでなんとなく集まっているが、それぞれの趣味を詳しく話し合っているわけではない」 「市民権があたえられたら大変だわ」 「小谷氏はきみが気に入ったようだよ。また会いたいと言ってきている」 「困ったわ」  桂子は箸で開かれた場面を想起して、頬《ほお》を赤らめた。 「それほど困っているようにも見えないがね」  永山が彼女の顔を意地悪く覗き込んで、 「前回、どんなことをしたか知らないが、今度はごくオーソドックスに会いたいと言っている」 「オーソドックスに?」 「パーティにきみに同行してもらいたいそうだ」 「パーティ、どんなパーティなの?」  桂子には永山の言葉に意味深長な含みがあるように聞こえた。 「カップルでないと参加できないそうだよ」 「だったら、奥さんを連れて行けばいいのに」 「そんなパーティに女房を連れて行けないよ。もっとも名目は夫婦で参加ということになっているがね」  永山がにやにやしている。 「変なパーティではないでしょうね」 「ごく普通の夫婦交際パーティだよ」 「夫婦の交際?」 「つまり、夫婦ぐるみの交際さ。気に入ったカップルとパートナーチェンジをしたりする」 「それじゃあ、夫婦交際ではなく、交換じゃないの。いやだわ、そんなの」 「参加して、気に入った相手がいなければ拒む権利はあるよ。小谷氏は前回と同じだけ謝礼すると言っている。なにごとも経験だよ。きっと面白いとおもうよ」 「夫婦交換が普通のパーティなの」  桂子は永山の感覚に呆《あき》れたが、吸引や箸のプレイに比べれば普通なのかもしれないとおもい直した。  参加してもよいという気になっている。  棚川貴代子は西山からふたたびパーティへの同行を誘われた。彼には�営業�再開を知らせてある。 「頼むよ。きみ以外に頼める人がいないんだ」  西山は拝むように言った。 「また例の覆面パーティでしょ。もういやだわ」 「そんなこと言わないで頼むよ。今回はまたべつの趣向なんだ」 「どんな趣向なの」  貴代子は好奇心を動かされた。  前回のマスクを付けての貝合わせには淫《みだ》らな刺激をかき立てられた。  貝合わせの後、全員、マスクを付けたまま乱交に進んだ。  貴代子は乱交に加わらなかったが、それ以前に貝合わせで、すでに不特定多数の男から身体を合わせられている。  未知の相手との束《つか》の間の接触であり、いずれも未完の行為であったので、ストレスが身体に内向して、淫らな刺激をかき立てられた。  あの夜とはべつの趣向を用意しているとは、今度はどんな手を工夫しているのであろうか。  貴代子の好奇心を敏感に察したらしく、 「それはぼくにもわからないよ。だが、悪達者な客ばかりを招いているから、よほどの趣向でないと満足してもらえない。あっと言わせるような新趣向を工夫しているにちがいない。きっと楽しいとおもうよ」  と誘った。  結局、好奇心半分、また半分は西山から拝み倒された形で、貴代子はパーティへの同行を承諾した。  十二月二十三日、クリスマスイブの前夜、パーティは前回のマンションとはべつの都内のホテルで開かれた。  会場としてスイートルームが用意されてあった。  午後八時、会場に到着すると、入口でマスクを渡された。これは前回と同じ趣向であるが、たがいに顔を隠すためらしい。  会場に当てられた広間にはすでに数組のカップルが先着していた。  だが参加者の顔ぶれは前回とは異なるようである。  マスクの下の顔は隠されて見えないが、男はいずれも女より年嵩《としかさ》のようである。  金と栄養をたっぷり蓄えた遊び達者な連中が、より淫らな刺激を求めて集まって来たらしい。  西山に言わせると悪達者な連中が、新趣向に対する期待で緊張しているようである。  今夜出会ったばかりの未知の男女が、いずれ乱交に進むことを予期しながら、紹介もし合わず、会場のそれぞれの位置で手持ち無沙汰《ぶさた》に向かい合っているのは、奇妙な光景である。  これまでの人生においてなんの関わりもなかった人間たちが、今宵初めて出会って乱交する。  セックスを完全に遊戯化しなければできない行為である。  これを企画、主催する者は、単に遊戯化だけではなく、商品化を狙《ねら》っている。  それに疑問を持ったり罪悪視したりする者は、最初から加わらない。  セックスを本来の目的である生殖から切り離し、悦楽の道具とした人間は、個人性の強い性の世界を不特定多数の共有に開放してしまった。  だが本来、性とは男女が一対一の密室で組み立てるべき世界である。  貴代子のように不特定多数の客に肉体を切り売りするプロであっても、同一の場所で不特定多数の異性と同時進行の性交をすることには抵抗がある。  だが、その抵抗をねじ伏せながら、プライベートな性の花園を不特定多数に開放《オープン》することに暗い興奮と刺激をおぼえるのも否定できない。  一対一の密室のセックスはプライバシーを保証すると同時に、二人の間に馴《な》れ合いを生じて、速やかに倦怠《けんたい》を生む。  自分のレギュラーパートナーを他の異性に提供(開放)することによって、猛烈な対抗心を(特に男は)かき立てられる。  我がパートナーが他の男に侵略されている。自分が完全に支配していたと安んじていたパートナーが、他の異性と交わって、彼あるいは彼女に対してすら示したことのないような激しい反応を見せ、官能の喜悦にのたうったなら、レギュラーパートナーに倦《あ》きかけていた者も冷静ではいられないであろう。  パートナーを新たな目で見つめ直し、それに対する主権を取り戻そうと焦るにちがいない。  あるいはそれまで気がつかなかったパートナーの新たな魅力を発見するかもしれない。  いずれにしても、自分の性のテリトリーに他の者が侵入してしたい放題のことをされると、休眠していた刺激をかき立てられることは事実である。  だが、性のプライバシーを開放して遊戯化、商品化する者は、レギュラーパートナーは提供せず、金で買ったパートナーを連れて来る。  レギュラーパートナーの同意を得られない者や、レギュラーは温存して乱交のゲームだけを楽しもうとする者や、あるいはもはやレギュラーパートナーを開放してもなんの刺激もおぼえない者などが、演出されたパーティに集まって来る。  時刻が迫り、参加者が集まった。  前回より多い十組のカップルである。主催者のカップルだけが前回と同じである。  主催者は前回と同じように挨拶《あいさつ》すると、出席者にシャワーを使うように要請した。  男女別にそれぞれシャワーを使い、ホテル備え付けの浴衣をまとってふたたび広間に集合すると、主催者が、 「今夜はグルメの皆様方に美味《おい》しい闇汁《やみじる》をご用意してあります。今宵お集まりいただいた紳士・淑女は、いずれも安心できる方々ばかりでございます。  第一回の闇汁は二十分間、五分前、二分前、一分前に声をかけますので、その間に最初の位置にお戻りください。  それでは女性は窓に向かって右側の壁、男性は左側の壁に沿ってお並びください」  主催者の声に導かれて、出席者は左右の壁を背にして、男女向かい合う形で並んだ。  いずれもこれから始まる闇汁に向ける期待で胸を弾ませている。 「それでは、これから闇汁を始めます。用意はよろしいですね。いち、に、さん、はい」  主催者のかけ声と同時に、室内灯が消えた。  窓には厚いカーテンが引かれていて、室内は漆黒の闇に閉ざされた。まさに鼻をつままれてもわからないような闇である。  闇の中から主催者の声が聞こえた。 「皆様、室内を自由に動いてください。声を出してはいけません。ご自分のパートナーを探すもよし、触れ合った方と意気投合するもよし、殿方同士、ご婦人同士でお楽しみいただいても当方は一切関知いたしません。  おいやな方はお部屋の隅、ソファー、どこでもけっこうですから身体を縮めていてください。ただし、この室内から外へは出られません。またお相手の同意が得られない場合は無理強いをなさらないでください。それがこの闇汁のルールです。  二十分経過したら十分間点灯して休憩します。十分のインターバルの後、ふたたび灯《あか》りを消します。ワンゲーム二十分単位で三ゲーム行ないます。ワンゲームでお疲れになった方は休憩中に別室へお引き取りください。ただし、三ゲーム終るまではカップルで申し合わせて退場することはできません。  退場はそれぞれお一人の意志によって行なってください。したがって退場された後は、パートナーが闇汁会場に取り残されることになります。それではどうぞ存分に闇汁を味わってください」  主催者の言葉が終ると、闇の底を参加者が動き始めた。初めの間は男性軍が目星をつけた女性の方角へ進んで行く気配である。  だが女性軍も動くので、最初の位置に目当ての女性がいるとは限らない。  すべての光を遮断してあるので、目が闇に馴れるということはない。  完全な闇の底でのラブハントゲームは、参加者に原始的な本能を呼び覚ましたようである。  闇の中で参加者たちが接触し始めている。声を出すことは禁じられているが、男の呻《うめ》き声や女性の嬌声《きようせい》がさざ波のように室内に揺れている。  探り当てた相手がだれかわからない。前回の貝合わせと異なり、相手を当てるのが目的ではない。  次々に相手を取り替えていく気配や、ようやく探り当てた相手に拒まれた気配が感じ取れる。  闇汁ゲームが始まって十分もすると、混戦模様になってきた。 「十五分経過しました。あと五分です」  室内の一隅から主催者の声があがった。彼もゲームに参加しているらしい。 「あと二分です。それぞれお相手から離れてください」  主催者が言った。 「あと一分です。よろしいですか。点灯したときに触れ合っている方は失格で、次のゲームへ進めません。三十秒からカウントします」  主催者がさらに注意した。男女が離れて行く気配がする。 「あと三十秒です」  主催者がファイナルカウントを始めた。  光が戻った。男女、最初の位置に戻っていたが、いずれも闇汁の異様な興奮から冷めていない。闇の底で同行パートナーと遭遇した者もいるらしいが、確信は持てない。  たがいの位置から、闇の底で交わった相手はだれかと探り合っている。  十組の男女はいずれも十人の相手と可能性がある。同性同士の組み合わせもあったとすれば、闇汁の中身はますます混乱してくる。混乱が出席者の興奮にアクセルをかけている。 「退場される方は申し出てください」  主催者が言ったが、だれも申し出ない。いずれも第二ゲームに向けて意欲満々である。  最初のゲームではたがいにまだ遠慮が働いていて、闇汁を充分に味わっていない模様である。女性軍の中には部屋の隅に身を縮めたまま動かなかった者もいるようだ。  だが、それは同時に追う者と追われる者となって、ゲームの興奮を高めている。セックスゲームの隠れんぼうである。  第二ゲームが始まった。  貴代子は第一ゲームの間、男たちを巧妙に躱《かわ》しつづけた。一寸先も見えない闇の中であったが、敵の気配はわかる。  商品としての身体であるから、西山以外の男に提供する気はない。  だが、貴代子はこのセックスの隠れんぼうに異常な興奮をおぼえていた。男の鬼から逃げまわるのが面白い。どこまで逃げきれるものか、それを試してみたくなっている。  だから彼女は第一インターバルで退場しなかった。またゲームに参加中の彼女のコール料は西山に支払われているので、ゲーム中、ほかの男は拒めても中途退場はできない。  彼女は第三ゲームが終るまで、いかにして男の鬼たちの網から逃れるか、面白くなってきていた。  内村桂子は小谷に同行してパーティに参加した。  なにやら怪しげなパーティであることは予感がした。  半ば好奇心から、半ば報酬目当てである。  会場は都内のホテルである。高層階の広いスイートが用意されていて、入口でマスクを渡された。  なにやら秘密めいた雰囲気が彼女の好奇心をますますくすぐった。  二十畳ほどのカーペットを敷きつめた洋室には、すでに数組のカップルが先着していた。  時刻が迫って、幹事役らしい男が立ち、パーティの趣向として闇汁が用意してあると言った。  闇汁なるものがどんなものかよくわからなかったが、なにやら怪しい気配がした。  男女別に左右に分かれて、壁を背に向かい合ったところでルームライトが消された。  桂子は幹事役が説明した闇汁の内容に仰天した。  だが、いまさら逃げ出すことはできない。  闇の中で、小谷がどの辺にいるのかもわからなかった。 [#改ページ]  治にいて乱を忘れず  二十三日約束の時間に、保子は児玉と一緒にパーティ会場のスイートへ行った。  室内にはソファーも椅子《いす》もテーブルもなく、だだっ広い中に先客が手持ち無沙汰《ぶさた》に腰を下ろしていた。彼らの様子から、いずれも初対面であることがわかった。  パーティらしい雰囲気はまったくない。  間もなく十組、二十人の男女が集まり、幹事らしい男が立って、出席者にシャワーを使うように言った。  風俗営業で働いていた保子にはピンときた。だが、いまさら逃げ出せないし、逃げる気もない。  児玉のコーチを受けてかなり開発された彼女は、これから始まるパーティに好奇心をかき立てられていた。  シャワー後、保子は幹事がブリーフィングした闇汁《やみじる》に、ますます好奇心を促された。  児玉のコーチが今夜の実践でどの程度役に立つか。  あるいは児玉は実習のつもりで彼女をパーティに同伴したのかもしれない。  幹事の合図と共に室内の灯が消された。いよいよ闇汁が始まった。  児玉と組んだのではコーチの成果を確かめられない。今宵はコーチを受けた後の初めての他流試合である。  闇の底を男たちが伝って来る気配がした。自分に目星をつけて来る男がいるかもしれない。  彼女は男たちの近づいて来る気配を感じながら、身体を移動した。  闇の中ですでに何組かの男女が遭遇しているようである。  声を立てるのはルール違反なので、探り合っている気配である。  文字通りの暗中模索の中で、男女の醸し出す淫蕩《いんとう》な気配が盛り上がっている。  女の忍び笑いが聞こえ、早くも喘《あえ》ぎ声が漏れている。  保子は闇の中を移動しつづけた。男を探すためではなく、しばらくは彼らを躱《かわ》すためである。  充分に焦《じ》らしておいてから彼らの欲しがっているものをあたえる。  それも一ぺんにではなく、小出しにあたえるつもりである。  それが今夜の彼女のメニューである。メニューに従えない男は忌避するつもりだ。  さすが秘密パーティに参加する男たちだけあって、悪達者な者が多い。慌てず、じっくりと女を探している気配である。  OGパーティの場合、男は急いではならない。急ぐと消耗が早く、せっかく豊饒《ほうじよう》な花園に踏み入りながら、充分に花蜜を吸えなくなってしまうことを知っている。  また男が早く消耗しすぎると、男女のバランスが保てなくなる。  一抹の光も入らぬように工夫されているらしく、目が闇に馴《な》れるということはないが、おおむね見当がついてくる。  相手方のいる方角がなんとなくわかるようになる。  人間の心理で、闇の中では壁を伝って歩こうとする。  保子はその心理に逆らって、壁から離れて部屋の中央へ歩み出した。  部屋のほぼ中央で最初の男と触れ合った。感触から児玉でないことがわかった。  保子は手先に拒絶の意志を伝えた。相手も無理強いはしなかった。  第一ラウンドはまたたく間に終わり、室内灯が点《つ》いた。  第二ラウンドでは児玉と出会った。児玉は保子に軽く接触すると、離れて行った。  それで保子の気合が削《そ》がれた。男とちがってつづけてべつの異性を受け入れる気にならない。  保子は第三ラウンドにつなぐことにした。  このころになると、出席者が馴れ合ってきている。  インターバルの間に闇の中で交わったパートナーを探している。  交わった異性がだれかわからぬまま、闇の中の記憶を頼りにマスクの陰から探り合うのは淫《みだ》らな連想を促し、第三ラウンドへの期待を増幅する。  出席異性十人と交わったわけではないのに、そこにいる異性すべてと交わった可能性があることは、一対一の性交の刺激を十倍に増幅することになる。  一人の異性との性交が、十人の異性との性交に通ずるのである。  休憩時間の探り合いは淫蕩な気配と、次のラウンドへの期待を盛り上げていく。しかもラウンドを重ねるごとに交わった異性の数は増え、淫乱の気配は濃厚になっていく。  第一、第二ラウンドを空振りに終った保子は、身体にストレスが溜《た》まってきている。  第三ラウンドに入ると、男たちは消耗して数が減ってきている。  これまで抑制していた男も、これがラストラウンドなので出会った女性に終止符を打とうとしている。  保子は第三ラウンドの半ばごろまで時間を空費した。  第一、第二ラウンドでは次々に群れ集まって来た男たちが、どうしたわけかこのラウンドでは寄りつかない。  寄りつかないというよりは、消耗して戦列から離れてしまったようである。  終止符を打たれた女たちもそれぞれ満足して、壁際にうずくまっているらしい。  保子は少し焦ってきた。これではコーチの成果を確かめられない。  残り時間が少なくなったとき、保子は突然、背後から羽交い締めにされた。  はっとした瞬間、口を分厚い手で押さえられ、床に組み敷かれた。  これまで拒んできた男たちとちがって、有無を言わせぬ荒々しい力であり、一方的な蹂躪《じゆうりん》であった。  抗議する間もあらばこそ、彼女は闇の底で否応なく男に押し開かれ、刺し貫かれていた。  相手が児玉でないことは確かである。  男のしたたかな放精と共に官能が沸騰した。  全身の血が凍りついたのはほとんど同時である。  保子は確かに記憶のある甘酸っぱいにおいを鼻孔に嗅《か》いだ。  闇に塗り込められて男の顔も身体の輪郭も見えないが、体臭が保子の恐怖の記憶を呼び覚ました。  いま自分に放精した男は、夜這《よば》いアルバイトをしていたとき、彼女を殺しかけた犯人である。沁《し》みついた恐怖体験が、その男が犯人にまちがいないことをおしえている。  おもわず悲鳴をあげかけた保子の口を男の手が塞《ふさ》いだ。脂っぽい手である。  男の手が喉《のど》にかかった。強く圧迫されて、気道が閉鎖された。声が出なくなった。もがこうとしたが、男の重い身体に押さえ込まれて身動きできない。  意識が急速に薄れていく。  遠方から幹事があと一分と告げる声が聞こえてきた。喉頸《のどくび》を押さえていた強い力が外れて、ふたたび呼吸ができるようになった。室内に灯《あか》りが戻ったときは、男は保子の身体の上から立ち去っていた。  彼女を殺そうとした犯人は、児玉以外の九人の中にまぎれ込んでいる。だが、いずれもマスクを付け、なに食わぬ顔をしている。  たとえマスクを外しても、犯人を見分けることはできないであろう。  犯人独特の体臭は、十組の男女の醸し出した性臭の中にまぎれ込んでしまっている。  保子が首を絞められたと騒ぎ立てても、性技の一つと笑われてしまいそうである。  SMプレイでは絞めたり噛《か》んだり、叩《たた》いたり緊縛したりするのは常套《じようとう》手段である。あるいはSMの気を持った者が参加したのかもしれない。  だが、過去、殺されかけた保子は、闇の底で首を絞めた男が犯人にちがいないことを確信していた。  幹事役が闇汁会《やみじるかい》のお開きを宣言している。保子はそのとき、指先に軽い異物感をおぼえた。ふと見ると、毛髪が二、三本からまっている。明らかに保子の毛髪ではない。  犯人に首を絞められたとき、苦しまぎれにもがいた指先が、犯人の毛髪をむしり取ったのであろう。保子はそれを犯人の証拠として大切に保存することにした。  貴代子は闇の中を逃げまわっていた。貴代子にとって自分の身体は商品である。  同伴者の西山には提供するが、闇汁パーティで不特定多数の客に無料で提供するわけにはいかない。  西山からもらった報酬にはパーティ客用の分も含まれているが、相手は少ないに越したことはない。闇汁に参加するような客は馴れていると見えて、拒めば無理強いはしない。  途中の休憩時に退場してもいいが、最後まで居残った西山の手前もあって、貴代子は第三ラウンドまで居残った。  途中、退場した参加者が一人もいなかったのはさすがである。  男はそれだけ悪達者であり、女はプロということになるだろう。  パーティは第三ラウンドに入った。男性軍はだいぶ消耗して戦列から離れているが、好奇心から会場に残っている。  さすがに第三ラウンドに入ると、第一、第二のように男性軍が次から次にしかけてくるようなことはない。  貴代子は部屋の一隅にうずくまって、時間が経過するのを待っていた。西山はどの辺にいるのかわからない。  彼も貴代子以外の女性にあらかた消耗してしまって、戦列から離れているらしい。  第三ラウンドもほぼ半ばを経過したとき、彼女はふと鼻孔に甘酸っぱいにおいを嗅いだ。においの源はすぐ近くにあるらしい。  彼女の近くで一組のカップルがもつれ合っているようである。  その辺り、闇がひときわ濃くわだかまっている。闇の底が妖《あや》しげに揺れている。  調和した振動ではなく、どうも拒んでいる女に男が無理強いをしているようである。  女がもがいている気配である。  貴代子は以前どこかで同じようなにおいを嗅いだような気がしたが、おもいだせない。  貴代子の胸に半ばいたずら心、半ば義侠心《ぎきようしん》が湧《わ》いた。  彼女は気配を頼りに闇の底を這《は》って行くと、もつれ合っているカップルの男と目星をつけた方角を力いっぱい突いた。  手応えがあって、男の体勢が崩れたようである。ほとんど同時に幹事の声が、あと一分と告げた。  いやがる女性に無理強いをしていた男は、気勢を削がれてしまったらしい。  そのとき貴代子の指先に、床に落ちていた小さな物体が触れた。貴代子はなにげなくそれをつかんだ。いまの男が落としたものらしい。  間もなく第三ラウンドが終わって、ルームライトが点灯された。  貴代子が介入したカップルはわからない。  彼女が闇の底からつまみ取った物体はライターであった。イニシャルがT・Kと刻まれている。 「このライターを拾ったのですけれど、どなたのものでしょうか」  貴代子は指先にライターをつまんで、参加者に示した。だれからも返答はない。  一見して男物のライターであるが、男性軍からも名乗り出る者はいない。  結局、ライターは宙に浮いてしまった。  幹事に渡そうとすると、 「あなたからホテルへ届けてください」  と言われた。  闇汁パーティは終った。 「とても怖かったわ。殺されそうになったの」  パーティの後、尾沢保子は児玉に訴えた。 「どうしたんだね」 「出席者の一人から首を絞められたのよ。もう少しで窒息しそうになったとき、幹事が声をかけたので助かったの」 「きみのおもいすごしだよ。Sっ気のあるやつがちょっとからかったんだろう」  児玉は気にもとめていないようである。 「以前にも同じ人に殺されかけたのよ。犯人がパーティにまぎれ込んでいたんだわ」 「以前にもだって」  児玉が少し顔色を改めた。保子は夜這いのアルバイトのことは伏せて、就寝中、痴漢に侵入されて首を絞められたと話した。 「もしその痴漢がパーティに入り込んで、またきみの首を絞めたとすれば穏やかではないね。主催者に話しておいてやろう」 「主催者は出席者の身許《みもと》を知っているんでしょう」 「たぶん知らないだろう。紹介や口コミで集まって来るからね。主催者は商売でやっているだけだ」  保子は指にからみついていた犯人の毛髪については黙っていた。  犯人の身許がわかった場合、これが有無を言わせぬ証拠となるだろう。  児玉は犯人ではないが、彼も身許不確かな怪しげな人間である。  芸能プロダクション関係と言っているが、本当かどうかわからない。金まわりはよさそうだが、悪い金かもしれない。  小谷に同行して、闇汁のパーティに出席した内村桂子は、またまた身体に異常な刺激を打ち込まれてしまった。  彼女は三ラウンドの間に三人の男と闇の底で交わった。彼らがどこのだれかわからない。永山にしても小谷にしても素性は不明であるが、情事のパートナーとしてその姿と実体を確認している。  だが、闇の底で交わった未知のパートナーは、最後までその姿を見届けられなかった。休憩時に十人の男性軍と対面したが、そのうちのだれが交わったパートナーかわからない。  小谷とは当たらなかったので、九人のうちの三人であることは確かである。三十パーセントの確率である。  事情は男性軍も同じである。  彼らも自分の交わった相手を確かめられない。確かめられないまま別れて行く。  それは夢の中で交わったような、奇妙な余韻を残す情事であった。だが夢の中と異なって、身体は実感としておぼえている。  身体に情事の痕跡《こんせき》も残っている。それでいながら、相手が幻影のように霞《かす》んでいる。  桂子がこういう情事をしたのは初めての経験であった。 「どうだった」  帰途、小谷が問うた。 「いやらしいパーティだわ」  桂子は頬《ほお》を薄く染めた。 「けっこういやらしさを楽しんでいたんじゃないのか」  小谷が顔を覗《のぞ》き込んだ。  前回のデートでは三角の覆面を付けていた代わりに、今日は濃いサングラスをかけている。  サングラスの奥の目の表情はわからないが、年齢は三十代、細面のなかなかのハンサムと見た。 「あなたが一番いやらしかったんじゃないの」  桂子は切り返した。 「もう一度誘われたら来るかな」 「さあ、どうしようかしら」 「そのときは頼むよ」  小谷もまんざらではなかったようである。 「小谷さん、まさかパーティで変なことはしなかったでしょうね」  桂子はおもいだして問うた。 「変なことって」  小谷の表情がとぼけている。 「初めて会ったとき、私にしたようなことよ」 「はは、まさか。真っ暗な中で箸《はし》を入れても、少しも面白いことはないよ」 「箸だけではないでしょう」 「暗闇《くらやみ》では危ない」  サングラスの奥の目は見えないが、口許《くちもと》が苦笑したように見えた。表情をごまかそうとしてか、小谷は煙草を取り出した。  つづいてライターを探しているようであったが、 「やっぱりな」  とつぶやいた。 「どうなさったの」 「いや、ライターを落としてきたらしい。さっき参加者の女性がライターを落とした者はいないかと呼びかけていたね」 「どうしてそのとき名乗り出なかったの」 「自分のライターかどうか自信がなかったんだ。闇汁パーティにライター持ち込みはルール違反だからね」 「違反を承知で持ち込んだの」 「治にいて乱を忘れずということさ」 「とんだ治だわね。そのためのライターだったのね」 「また近いうちに会いたいな」 「連絡してくだされば、きっと都合をつけるわ」 「なかなか出てこられないのでね」 「お仕事、忙しそうなのね」 「うん、まあね」  小谷の口調から、桂子はよけいなことを聞いたと悔やんだ。  二人は途中で別れた。 [#改ページ]  性体離脱  闇汁《やみじる》パーティに出席した後、棚川貴代子は新開征記としばらく会わなかった。  時どき新開から連絡があったが、彼も歳末で忙《せわ》しいらしくなかなか会う時間をつくれないようである。  新開からは、くれぐれも身辺に注意するようにと連絡のあるつど言われている。  闇汁パーティに出席したことなどを知られたら、きっと怒られるだろう。  経験豊富な貴代子ではあるが、闇汁は初めてであった。  貴代子は都会の闇の底に棲《す》む物怪《もののけ》たちの宴《うたげ》に参加したような気分がした。  年がかわって、歯科医の田沢《たざわ》から連絡があった。  田沢は予備校生の御曹司《おんぞうし》を紹介してくれた男である。 「実はまた君に折入って頼みがあるんだが」  田沢はおずおずと切り出した。 「また予備校生?」 「いや、今度はそんなんじゃないよ。やはりぼくの特診患者の一人なんだがね。実は高齢のVIPがいるんだ」 「高齢って、おいくつ」 「今年八十六歳だ」 「えっ、八十六歳でできるの」  貴代子は驚いた。  これまで熟年の客に侍《はべ》ったことはあるが、八十六歳は初めてである。 「ただ、若い女と一緒にいたいだけなんだそうだ。若い女と話をしたり食事をしたり、身体を眺めたりするだけで気持ちが若返るんだそうだよ」 「お爺《じい》ちゃんのお相手ね。敬老のためにお引き受けしましょうか」 「実はこれがただの爺さんじゃない」  田沢の口調が含みを持った。 「ただの爺さんではないというと?」 「大物政治家でね、秘密を守ってくれないと困る」 「お食事をしたりお話し相手になったりするだけで、守らなければならない秘密になるの」 「政敵が多いからね。誤解を招きたくないんだそうだ」 「なんだか大袈裟《おおげさ》だわ」 「絶対に他言無用だよ」 「どんなVIPでも普通のお客様でも、しゃべったりなんかはしないわ」 「きみの口の固いのを見込んで頼んでいるんだ。それじゃあ、頼むよ」  田沢の口利きで、貴代子はその大物老人に会うことになった。  一月十日、日曜日、出会いの場所として都心のホテルが指定された。  約束の時間に赴いて、フロントで田沢の名前を告げると、最上階のルームナンバーを書かれた紙片を渡された。  田沢から事前に三十万円の謝礼を受け取っている。わずか数時間、老人にアテンドするだけで三十万円は、悪くない仕事である。 「先方はきみが満足させてくれれば五十万円払ってもいいと言っている」 「どうすれば満足してくれるのかしら」 「それはぼくにもわからない。ただ、あらゆる遊びをし尽くした人だからね。どんな奇妙なリクエストをされても聞いてやってくれないか」  貴代子は田沢から事前に言われていた。きっといやらしい老人なのであろう。  一緒に食事をしたり茶飲み話の相手をしたりするくらいで、五十万円払うはずがない。  貴代子は覚悟を定《き》めて、指定された部屋の前に立った。  どんな狒々爺《ひひじじ》いが出て来るかと全身が緊張する。  室内に気配があって、ドアが細めに開かれた。品のよい老人が顔を覗《のぞ》かせて、 「お入りなさい」  と言った。 「失礼します」  貴代子は軽く頭を下げて室内に入った。  スイートルームである。この部屋だけでも一泊二十万円ぐらいは取られるであろう。  美しく老いた老人の形容として「鶴のような」という言葉がある。  貴代子は鶴のような老人が実際にどんなものか知らないが、彼女を待っていた老人こそ、その形容がぴたりと当てはまるような気がした。  ただ一粒の胡麻《ごま》も混じっていない見事な白髪、穏やかな目、痩《や》せた顔には深い皺《しわ》が刻まれているが、老人性のシミはあまり浮き上がっていない。  たぶん入れ歯であろうが、それほど不自然ではない。知的な風格のある風貌《ふうぼう》をしている。  上背があり、田沢は大物政治家と言ったが、これなら国際会議に出席しても見劣りしないであろう。  ゴルフでもしているのか、露出した皮膚はよく陽《ひ》に焼けている。 「あなたが棚川貴代子さんかな。お待ちしておった」  老人は穏やかな声音で言うと、ソファーを指さした。  ソファーの前のティーテーブルには軽い飲み物が用意してある。 「美しい人じゃ。若さがにおい立つようだ。若い女性はいい。そのそばにいるだけで若返る」  老人は目を細めた。どうやら貴代子を気に入ったらしい。  老人に勧められるまま、ソファーに腰を下ろしたものの、貴代子はとまどっていた。  これまで彼女が客に呼ばれて行ったときは、目的がはっきりしていた。  だが、この老人の場合はそれがはっきりしない。  一応、食事を共にし、話し相手をするということになっているが、�成功報酬�五十万円はそれだけではないことを暗示している。  一体どんなことをリクエストされるのかとおもうと、経験豊富な貴代子もつい緊張してしまう。  またそれが老人の目には初々しく好ましく映るらしい。 「あのう、シャワーを使わせていただけますか」  貴代子は手持ち無沙汰《ぶさた》をまぎらすために言った。 「シャワーを? なぜそんなものを使うんだね」  老人が怪《け》訝げんそうに聞いた。 「ええ、でも……」  貴代子は当惑した。 「そんな陽気ともおもわれぬが、来る途中、汗でもかいたのかな」  老人がとぼけた口調で問うた。なにもかも承知の上でとぼけているのかもしれない。 「シャワーよりは食事をしましょう。あなたはどんなものを召し上がりたいかな。ルームサービスでなんでも取り寄せよう」  老人がルームサービスメニューを渡した。 「私はなんでもけっこうです」 「まあ、そう言わず、好きなものをオーダーしなさい。和洋中なんでもある。またわしが特注すれば、メニューに載ってないものも運んでくれます」  老人は言った。 「お任せしますわ」 「わしの好みで注文してもよろしいかの」 「どうぞお願いします」 「齢《とし》を取るとあっさりしたものが好きになっての、若い人向きではないが」 「私もあっさりしたものの方が好きなのです」  八十六歳の老人相手に一人だけ濃厚なものを食べたいとはおもわない。 「それでは懐石弁当はどうかの。ホテルで弁当は芸がないが、一応の料理が手軽く揃《そろ》っておる」 「大変けっこうですわ」  老人が電話で注文して、間もなく料理が運ばれて来た。酒やビール、カクテルも添えられてある。 「まずはビールで乾杯しましょう」 「私がいたしますわ」  貴代子は老人が取り上げようとしたビールの瓶を取って、グラスに注いだ。 「乾杯」  老人がグラスを掲げて、うまそうに飲み干した。貴代子も相伴した。室内に暖房が程よく行き渡っていて、冷えたビールがうまい。 「懐石に合うカクテルを調合してもらいました。口当たりがとてもいい。召し上がってください」  老人は貴代子に勧めて、自分もカクテルグラスを取り上げた。老人の言う通り、懐石に合うソフトな口当たりのカクテルである。 「煙草を吸ってもよろしいかの」  老人が断った。 「どうぞ」  貴代子がうなずくと、煙草を一本、指先につまみ取ってポケットを探った。ライターを探しているらしい。  貴代子がたまたま持ち合わせていたライターを差し出すと、老人は火を点《つ》けてから、そのライターに目を止めて、 「おや、そのライターはあなたのものですか」  と聞いた。  貴代子ははっとした。過日、闇汁《やみじる》パーティで拾ったライターを、使いやすいままに持ち歩いていたのである。 「実は、拾ったのです。落とし主がわからないままに、つい持ち歩いていました」 「ちょっと拝見」  老人がライターを手に取って凝《じ》っと見つめた。 「そのライターの主にお心当たりがおありですか」 「いや、知人のライターにちょっと似ていたのだが、やはりべつのライターだった」  老人は貴代子の手にライターを返した。  だがそのとき、貴代子は老人がライターの主を知っているような気がした。知っていながら黙秘している。  そういえばパーティ会場でライターを拾ったとき、男性軍に持ち主はいないかと問いかけたが、だれも応えなかった。しかし、持ち主はあの出席者の中にいたはずである。  男持ちのライターであるが、女性参加者が持っていたものかもしれない。  持ち主がいながら名乗り出なかったのは、その場でライターの主であることを知られたくなかったからであろう。  なぜ知られたくなかったのか。  そして老人も、ライターの持ち主に心当たりがありそうでいながら、知らない振りをした。 「さあ、召し上がれ」  老人が勧めた。  いつの間にか彼女の前の盃《さかずき》にも酒が満たされている。 「これはなかなかいい酒だ。あなたもどうかの」  老人は料理をつつきながら盃を口に運んだ。  年齢に似合わず健啖家《けんたんか》のようである。酒も強そうだった。  貴代子も老人に勧められるままに、料理と盃に手を伸ばした。  貴代子が盃を空けると、すかさず新たな酒を満たす。 「あなたのような美しい方と一緒に食事をすると、つい過ごしてしまう。同じ料理や酒でもまったく味がちがいます」  老人は楽しげに言った。  いやらしい気配は、まったく感じられない。  この調子では、本当に食事と酒の相手をするだけで五十万円くれそうである。  貴代子はいつの間にかほんのりとよい気分になってきた。  まだそれほど過ごしていないはずであるが、勧め上手の老人に乗せられて、酔いが全身にまわってきた。  緊張が解けて、なんとなく無気力になったようにおもえた。  老人がなにかしきりに話しかけていたが、その声が次第に遠のいて行く。  五十万円の話し相手である。気を引き締めようとしたが、その努力とは裏腹に、全身が気だるくなってきた。 「棚川さん、よい気分になられたようじゃの。どうかな、少しベッドで休まれては」  老人の声を遠方に聞いたようにおもったのが最後であった。  彼女はそのまま深い眠りに落ち込んだ。  どのくらい眠っていたかわからない。はっと目覚めてみると、自分の身体がいつの間にかベッドに入っていた。  ただ、入っていただけではなく、衣類をすべて剥《は》ぎ取られている。  ぎょっとして起き上がろうとしたが、全身がだるい。全身の骨が溶けてしまったように身体がぐにゃぐにゃして、力が入らない。 「そのままゆっくり休んでいなさい。間もなく眠気が覚める」  かたわらから老人の声がした。  老人は彼女に添い寝する形で同衾《どうきん》していた。老人も一片の衣類も身に着けていなかった。  腕にはめ残された時計を見ると、あれから三時間も眠っている。 「私、どうしたのかしら。あの程度のお酒で酔いつぶれることはないのですけれど」  貴代子は老人に謝った。これでは五十万円もらって、ただ眠りに来たようなものである。 「いやいや、あなたは素晴らしい。大満足じゃ。これは約束のお礼じゃ。そして、こちらは私の気持ちだ。受け取ってもらいたい」  老人は分厚い封筒を二つ差し出した。  目分量で一万円札が十枚と二十枚入っていることがわかった。  老人は酔いつぶれた彼女のそばで三時間、添い寝をしていたのである。その報酬として前渡し分も含めて六十万円もくれた。 「こんなにいただけませんわ」  彼女は封筒を一つ押し戻した。 「迷惑でなかったら受け取ってもらいたい。あなたは私を充分に満足させてくれたのじゃからの」  老人は鷹揚《おうよう》に言って、封筒を貴代子の手に押しつけた。 「シャワーを使わせていただきますわ」  貴代子は言った。 「まだ少し早いのではないかな」  老人が案じた。貴代子はその言葉を、まだ酔いから覚めきっていないと解釈した。  だが、身体がなんとなくぬめぬめしていて気持ちが悪い。  無理にベッドから起き上がった貴代子は、だるい身体を引きずるようにしてバスルームへ行った。  そのとき足が少しふらついた。酔いによるふらつきとはちがって、足許《あしもと》が床に張りつくような奇妙な感触であった。  貴代子ははっとした。もしかすると、老人からなにか盛られたのではあるまいか。  そういえば、老人はしきりに飲食物を勧めた。もしかすると、懐石弁当か、ビールや酒かカクテルの中になにか仕掛けられていたのかもしれない。  そうだわ。一服盛られたんだわ。胸に生じた疑惑はたちまち確信となって凝固した。  そうでなければ、三時間の添い寝に六十万円もくれるはずがない。  老人は貴代子に睡眠薬を飲ませ、正体を失った彼女の身体をおもちゃにしたのである。  なにをしたのかわからないが、およそいやらしいことのすべてを無抵抗な彼女の身体に加えたのであろう。  以前、そんな小説を読んだ記憶があった。  若い女に薬を飲ませて眠らせ、その身体を弄《もてあそ》ぶことによって老人が回春を図るという小説である。だが小説では女が合意の上である。  貴代子は全身が恥辱でかっと熱くなった。  切り売りをしている身体であるが、あくまで自分の意志に基づいての上である。  なにをし、なにをされるかは了解の上である。  切り売りといっても、客と女が協力して成立する売買である。  ところがこの老人は、貴代子の意志を眠らせて、自分の一方的な意志を遂行した。貴代子は意志まで売ったおぼえはない。  だが、証拠はなにもなかった。病院へ行って検査をしてもらえば、あるいは証拠がつかめるかもしれないが、そこまでする気持ちはない。  ただ、意志を失った自分の身体を、老人の一方的|玩弄《がんろう》に委《ゆだ》ねたのが悔しく恥ずかしい。  それも六十万円の報酬の内に含まれているのである。  火傷《やけど》しそうな熱いシャワーを浴びると、だいぶすっきりしてきた。  シャワーから上がると、手まわしよくルームサービスのコーヒーが届けられていた。 「コーヒーを飲みなさい。酔いが早く覚めるじゃろう」  老人はとぼけ通していた。貴代子は問いを発する機会さえ失っていた。 [#改ページ]  セクソンのイニシャル  一月の下旬になって、新開征記と会う機会があった。 「私、このごろあなたに会うとおかしくなってしまいそうだわ」  貴代子は言った。 「それはおたがいさまだよ」  新開が答えた。  これまで言葉だけで達していた貴代子が、新開と肉体的な達成を持てるようになった。  新開は言葉が不要になってからも、依然として言葉を用いている。貴代子も新開の言葉を欲している。  言葉によって、二人の達成感はより深く、高度なものになっている。 「達し方が二重なのよ。あなたに言葉をかけられると身体が沸騰した上に、身体の奥にもう一つツボがあって、そこでしっくりと結び合うような気がするの」 「二重に結び合っているということだな。それはぼくも感じている」  霊肉一致の達成感とよく言われる。だが、その感覚ともちょっとちがうようである。  霊肉一致とは、愛情の伴った官能の完全燃焼を言う。  二人の間に愛は最初から存在する。つまり貴代子の言う二重の達成とは、愛を加えれば三重の達成ということになる。  貴代子にしてみれば、依然として感覚の主体は言葉である。これまで言葉に新開の肉体が伴わなかった。  それでも彼女は充分満足していたのである。  肉体的な充填《じゆうてん》は客が務めてくれる。そのことによって、体内に澱《よど》んだ澱《おり》を新開が吹き払ってくれた。  だが、新開の肉体が随伴するようになってから、澱は発生すると同時に吹き払われた。  風の強い夜の花火のように、それは豪快で豪勢な達成であった。  花火の重要な要素は、音と光である。  これまで新開の音(言葉)によってのみ達していた貴代子は、音と光が一体となった豪勢な性の饗宴《きようえん》に、身体を燃焼させた。  花火は色彩を目で楽しみ、音響を体感する。  貴代子は身体に性器が二カ所あって、同時に交わっているような感覚をおぼえていた。それをそんな風に表現したのである。  言葉は性交の刺激を高める重要な要素である。  だが貴代子の場合、すでに言葉が性器の一つとなっている。  そして、言葉と肉体が彼女の身体に備えられた二つの性器であるとすれば、言葉が主要な性器であり、肉体が副次的な性器となっている。その点が一般の性交における言葉の役割とは異なっている。  むしろ新開の肉体が随伴するようになってから、言葉の意味がさらに重要になってきている。肉体という新たな性器の参入によって、本来の性器である言葉がますますその本領を発揮してきている。  彼女はいま、性の探究者となって、その味奥《みおう》に限りもなくのめり込んで行くようにおもえた。性の美味求真である。  最近、二人は彼らの間で「セクソン」と称する新しいセックスパターンを発明していた。セックスマラソンの略称である。  達成を故意に引き延ばし、情事の合間にインターバルをはさむ。  達成を求めて全身の細胞がざわめき立つのを無理に抑えて、インターバルにテレビを見たり食事をしたりする。  そのつど、欲求不満が体内に鬱積《うつせき》して、次のラウンドに強い期待をつなぎ、刺激を高めていく。  インターバルに二人は、全裸のまま有料のアダルトビデオを見たり、あるいはふたたび衣類を着けて食事をしたりする。  二人がどんなにタフでも、特に男の方が早期の放精は体力を速やかに消耗し、欲望と味覚が衰えてくるのを防げない。  一杯目のビールよりも二杯目、二杯目よりも三杯目の味が速やかに下降していくのと同じ理である。この性の限界効用逓減の法則を防ぐために、二人はセクソンを発明した。  時にはインターバルにドレスアップして、ホテルのラウンジにコーヒーを飲みに行く。  その際、貴代子の正装の下には下着を着けさせない。  情事のにおいを全身にまぶしながら、パブリックな場所で二人、なに食わぬ顔をして啜《すす》るコーヒーの味は格別である。  そんなとき、 「早くお部屋へ帰りましょう」  と促すのは、たいてい貴代子の方である。 「あら、このお爺《じい》ちゃん、知っているわ」  セクソンのインターバルのとき、二人で一緒に見ていたテレビ画面に貴代子が反応した。  ワイドショー番組の一場面である。 「きみは山喜《やまき》を知っているのかい」  新開が貴代子の顔を覗《のぞ》いた。 「このお爺ちゃん、やまきというの?」 「なんだ、名前を知らないのか」 「顔だけ知っているのよ」 「民友党の副総裁だよ。閣僚経験が何度もあり、党内に隠然たる勢力を張っている。陰の総理とも呼ばれているよ。もっとも高齢で引退が噂《うわさ》されているがね」 「そんな偉い人だったの」  貴代子が先日|侍《はべ》った老人がテレビに登場している。角界の有名親方が死去して、その葬儀に会葬しているらしい。 「山喜ならマスコミによく登場しているから、顔は知っているだろう」 「いいえ、このお爺ちゃんとお食事を一緒にしたことがあるのよ」  貴代子は言った。しかし、一服盛られて身体に怪しい行為をしかけられたことは秘匿していた。 「山喜と一緒に食事をしたとは、大したもんだね」  新開の表情が驚いている。 「頼まれて、お食事だけをしたの」 「そうか。大した爺さんだよ。何回も総理になり損なっている。いまの総理などは、彼の前では洟垂《はなた》れ小僧扱いだ」 「そんなに偉い人だったの。ただのお爺ちゃんではないとおもったけれど」 「まだ充分に生ぐさい。なにかいやらしいことをしかけなかったか」  新開は食事の後なにが起きたか、おおかた察しをつけているような目をした。 「まさか。お食事だけして別れたわ。そうそう、そのときお爺ちゃんが私の持っていたライターに興味を示したのよ」 「きみのライターだって?」 「正確には私のライターではないの。コンサートに行ったホールのロビーで拾ったのよ。使いやすいので、ついそのまま使っていたの。横領になるのかしら」  貴代子はホテルを劇場に脚色した。 「厳密に言えば、専有離脱物横領ということになるだろうね」 「いやだわ。いまからでも劇場へ届けようかしら」 「山喜が興味を示したライターとは、どんなライターなんだい」 「ちょうどいま持っているわ。このライターよ」  貴代子が差し出したライターに、新開は視線を向けた。 「T・Kとイニシャルが入っているね」 「なにか心当たりがあるの」  貴代子は新開の顔色を測りながら言った。 「知り合いのライターに似ているんだよ。イニシャルも合っている」 「だったら、その人のものかもしれないわ」 「このライター、ちょっと貸してもらえないかな」 「いいわよ。どうせ私のものではないもの」  貴代子はライターを新開に預けた。  貴代子が持っていたライターは新開を驚かせた。  ダンヒルのライターにT・Kのイニシャルが刻まれている。  貴代子はそのライターを拾ったと言った。そして会食した民友党の副総裁|山本喜三郎《やまもときさぶろう》が、彼女が持ち合わせていたライターに興味を示したそうである。  山本喜三郎と関わりのある人間で、T・Kのイニシャルを持っている男。……といえば、新開の脳裡《のうり》に浮かび上がる名前は一つしかない。  小熊利明《こぐまとしあき》。  記憶の底にこびりついて忘れることのできない仇敵《きゆうてき》の名前である。  熊木《くまき》、重岡《しげおか》、石本《いしもと》の三人はすでに死に、小熊一人が生き残っている。  中田から聞いた情報によれば、小熊は山本喜三郎の女婿となり、現在、郷里の県会議員を務めている。  山喜の高齢による引退後、山喜の地盤を引き継いで、次期総選挙には中央政界に打って出るという。 [#改ページ]  男の尾  山本喜三郎がライターに興味を示したということは、それが小熊の愛用品であることを知っていたからであろう。  だが、ダンヒルのライターはいくらでも出まわっている。同じイニシャルを持つ者は多い。それだけで小熊のライターと決めつけるのは早計に過ぎる。同じ理由から、山喜も断定できなかったとおもわれる。  貴代子はライターを拾ったと言った。果たしてそうなのか。もし彼女が嘘《うそ》をついていれば、彼女と小熊はどこかで接触していることになる。そこのところが気になった。  だが、それを詳しく詮索《せんさく》することは、彼女のプライバシーに立ち入らざるを得なくなる。  そんな権限は新開にはない。これまでたがいのプライバシーを詮索し合わなかったことが、二人の関係を長つづきさせているのである。だが、小熊と断定できないものの、新開はすでに先入観に染められている。  もし小熊が貴代子に出会っていれば、川島洋子《かわしまようこ》の面影を伝える彼女に、必ずなんらかの反応を示したはずである。  小熊は貴代子に出会って、さぞ驚いたにちがいない。新開が驚いたように、川島洋子の再現とおもったかもしれない。  山喜の秘書として小熊は東京に常駐したこともあったであろうし、県会議員になってからも上京する機会は多いであろう。  秘書時代は単身赴任ということも考えられる。小熊と貴代子が接触する機会はある。  まだ確かめられていないが、意外な方角から小熊の消息が聞こえてきそうであった。  二月に入って、田沢に会ったとき、 「先日紹介したVIPのご老体が、えらくあなたのことを気に入ったようで、また是非会いたいと言うんだが」 「せっかくですけど、お断りします」  貴代子はきっぱりと言った。 「なぜだね。食事をして話し相手をするだけで五十万円もらえれば、いい客だとおもうが」 「あの人、私に一服盛ったのよ」 「一服盛った?」 「田沢さんも承知の上のことでしょう。一緒にお食事をしている間に猛烈に眠くなってしまって、三時間ほど前後不覚に眠ってしまったの。目が覚めた後も全身がだるくて……。飲み物か料理になにかしかけたにちがいないわ」 「まさか……」  田沢は半信半疑の体である。 「とにかくあのお爺《じい》ちゃん、気味が悪いわ。女を眠らせて、なにをしようというのかしら」 「きみの勘ちがいじゃないのかい。たしかに薬を飲まされたという証拠でもあるのかね」 「証拠はないわ。でも、お酒を飲んだくらいで三時間も前後不覚に眠り込むはずがないわ」 「とにかく先方は大変なご執心で、是非また会いたいと言うんだよ。もし気味が悪ければ、飲み物や食べ物に一切口をつけなければいいだろう」 「一緒にお食事をするというのに、飲み物やお料理に口をつけないというわけにはいかないわ」 「そのことをはっきりと相手に言ったらどうかね。実は三十万円預かってきているんだよ。きみに断られたらぼくの立場がない。とにかく、会うだけ会ってやってくれないかな」  田沢はすがりつくように言った。 「田沢さん、私がお爺ちゃんの正体を知らないとでもおもっているの」 「きみ……」  田沢がどきりとした表情をした。 「ご心配なく。お客様がどんな素性であれ、私には関係ないことだわ。でもねえ、私がお客様に対してすることは、私の意志でやっているのよ。意志まで売ったおぼえはないわ」 「わかるよ。だから会うだけ会って、そのことも言えばいいじゃないか」  田沢は粘った。  貴代子は断りながらも、老人との体験に奇妙な執着をおぼえていた。  自分の意志が眠っている間に、他人からなにかされるということは不気味である。  不気味であると同時に、意識を失っている間にべつの自分が夢遊しているような奇妙な感覚が残っている。  自分の中にもう一人べつの自分が棲《す》んでいて、薬が効いている間、自分から離脱して夢遊している。  生きている間に魂が肉体から離れて、勝手に遊んでいるような感じである。  心霊学で幽体離脱という現象があると聞いたが、それと似たようなものかもしれない。  ともあれ老人は奇妙な後遺症を彼女の身体に植えつけた。  新開との交わりに肉体が随伴するようになってから、二重に交わるような深い達成を得るようになったが、老人との交わり(交わったかどうか不明)は、べつの自分が自分から離脱して夢遊中に交わったような、なんとも曖昧《あいまい》な感覚であった。  意識が眠っている間に官能をくすぐられている。それは貴代子にとって決して不愉快な感覚ではなかった。  べつの自分の夢遊中の出来事として、目覚めている自分が確かめられないだけにもどかしさとなって、身体と意識に欲求不満を蓄えている。  そのために貴代子は田沢に対して毅然《きぜん》たる態度が取れなかった。  田沢はそこに乗ずべき隙《すき》があると見たらしく、執拗《しつよう》にすがりついてきた。 「頼む。この通りだよ」  田沢は貴代子を伏し拝んだ。 「仕方がないわねえ。それでは、今度一度きりよ」  ついに貴代子は承諾してしまった。  貴代子は指定された日、また同じホテルで老人に会った。  老人の喜びようは大変なものであった。 「よく来てくれましたの。もう会ってくれないかとおもっておりました」  新開からおしえられたところによると、老人は時の与党の副総裁で、陰の総理と言われるほどの実力者だそうである。  その政界の大立者が、貴代子の前で子供のようにはしゃいでいる。 「もうお会いすまいとおもっていましたわ」  貴代子はわざと冷たく言った。 「おう、そんな悲しいことを言わんでください。あなたはこの老人を夢中にさせてしまった」  老人はおどおどしたように言った。貴代子の一顰一笑《いつぴんいつしよう》に気を遣っているようである。 「先日お会いしたとき、なにかいたずらをしたでしょう」 「いいや、なにもいたずらなんかせん」  老人の表情がとぼけた。そのとぼけ顔は、さすが海千山千の政界の怪物と言われるだけのことはある。 「私、そんなことを咎《とが》めるつもりはありません。でも、知らないうちに眠らされて、意識がまったくない間に、自分の身体になにかされるということは不気味ですわ。それならそれと最初からおっしゃってくだされば、協力のしようもありますわ」  貴代子はやんわりと言った。  五十万円の成功報酬には眠らせ料も含まれている。だが、いくら金を積んでも、事後承諾であることには変わりない。 「バーテンダーに頼んで、少し強い酒を調合してもらったんだが、効き目がありすぎたようですな。平に謝ります。でも、決してあなたを眠らせていたずらをしようとしたわけではない」  老人は平謝りに謝った。 「ですから今日は、お料理もお酒もいただきませんわ」  貴代子は未練を断ち切るようにきっぱりと言った。彼女の中にはあの夢遊感覚をもう一度味わいたいという未練が揺れている。  眠っている間にもう一人の自分が夢遊体験をするあやかしの世界、幽体離脱と言ったが、�性体離脱�と呼ぶ方がより的確かもしれない。  貴代子はあやかしの世界に向ける自分の未練が怖かった。 「もう決してカクテルは勧めません。前回は眠り姫の番をしていただけなので、今回は起きているあなたと一緒にいたいのじゃ」 「私が眠っている間、私になにをしたのですか」  貴代子は問うた。 「べつになにもしない。ただ、凝《じ》っと見ていただけじゃ」 「本当に?」 「本当に見ていただけです」 「信用できないわ」 「私の齢《とし》を信用してください。八十六歳では男の機能はとうに枯れておる。ただ、男というものはいくつになっても女性に憧《あこが》れるものじゃ。若い女性がかたわらにいるだけで、とても幸せな気分になれる。若い女性はいやらしい狒々爺《ひひじじ》いとおもうかもしれんが、年寄りにしてみれば、若さを分けてもらいたいだけじゃ。若い女性と言葉を交わし、瑞々《みずみず》しい身体を見、生命力に溢《あふ》れたにおいを嗅《か》ぎ、溌剌《はつらつ》とした肌に触れさせてもらえるだけで年寄りは満足なのです。若い女性がもてあますほど持っている若さをほんのひとかけら分けてもらえるだけで、年寄りというものは幸せになれるのです」  老人は言った。 「私の若さを分けて差し上げられるならば、お望み通りにいたします。ただし眠らずに……」  貴代子は釘《くぎ》を刺すように言った。  彼女もただ茶飲み話の相手をするだけで五十万円もらおうとはおもっていない。 「それではお願いしてよろしいかな」  老人がおずおずと言った。 「どうぞ」 「私の身体に触れてもらいたい」 「お安いご用ですわ」  老人は衣服を脱ぐと、ベッドの上に横たわった。表情はまだ充分に生ぐさかったが、裸になると、さすがに八十六歳の老衰は隠せない。貴代子の目には、ベッドにミイラが横たわっているように見えた。 「あなたも私と同じような姿になってもらいたい」  老人が言った。  貴代子は言われる通りにした。 「私の上に来てもらいたい。ご覧のように、あなたの瑞々しい身体を見ても、私の身体はなんの反応も起こさない。情けないことじゃ。寄る年波には勝てぬ。やむを得ないこととは言いながら、男として女性に反応しなくなるということは実に悲しいことじゃ。男であって男ではない。だが、男の尻尾《しつぽ》は死ぬまで残っておる。せめて男の尾をあなたの花園に触れさせてもらえないかの」  老人は謙虚に要求した。  貴代子は老人の上にまたがって、腰を下ろした。  老人が尾と呼んだように、それは悲しいほどに萎《しぼ》んで、彼女の芳しい花園を前にしても、びくりとも反応しない。  だが、老人には少しも悲観した様子はない。 「このアングルから眺める若い女性は、実にいい。美しく溌剌としている。豊かな胸、くびれた腰、逞《たくま》しい尻、そして恥じらいを含んだ表情、なにもかもいい。老人にとってはこの体位が最も安定しておる」  老人は感に堪えたように言いながら、両手をそろそろと伸ばして、貴代子の胸に当てがった。 「なんともふくよかな手触りじゃ。わしは船、あなたは帆だ。二人が組み合って広い海を漂流しているようだ」  老人は一人悦に入っていたが、貴代子にとっては虚《むな》しい体位である。  帆は満帆の状況であるが、船の方がいまにも沈みそうに頼りない。しかも帆柱と船体が連結していない。  そのとき船体に奇妙な現象が起きた。死んでいたとおもっていた老人の男の尾が、突然、活力を取り戻してきたのである。  まさかとおもって油断していた貴代子は、下半身に生じた異物感を、老人の男の尾の反応とはおもっていなかった。  老人がまた妙な道具を持ち出したのかとおもった。  だが、老人の両手は彼女の胸を下から支えている。 「あら、あら」  貴代子がつぶやいたとき、老人の両手が胸から離れて、彼女の腰にかかった。  老人とはおもえない強い力で腰を下へ引かれると同時に、枯死していたような老人の身体が下から突き上げた。  彼女はあっという間に逞しくよみがえった老人の男の尾によって、一分の隙間《すきま》もなく充填《じゆうてん》されていた。 「いやいや、驚いた。役立たずの尾だとばかりおもっていたのが、あなたによってよみがえったわい。赤玉がとうに出て、もう出るものはなにもないとおもっていたのが、久し振りの大噴火でした」  老人は大喜びであった。 「私も驚きましたわ」  貴代子も奇襲を受けたような気がした。  やはり、油断も隙もならない老人であった。  役立たずの尾どころか、壮者をも凌《しの》ぐ逞しさで彼女を翻弄《ほんろう》した。  貴代子は老人の巧妙な攻め方に、女の城を攻め落とされたとおもった。  これまでまみえた多数の客は、いずれも彼女が優位に立つか、あるいは対等に応対してきた。  新開と接したときも、達成した官能の共有感はあっても、敗れたという意識はない。  だが、この老人には貴代子は完全に敗れた。  最初からそのつもりでアテンドしていれば、決して敗れることのない相手である。  男の機能が枯れたという老人の言葉を鵜呑《うの》みにして、まったく無防備にアテンドしている間に、騙《だま》し討ちに遇《あ》った形である。  それがまた、これまで騙し討ちに遇った経験のない貴代子に、奇妙な性感を刻みつけた。  騙し討ちの性感とでも言おうか。  老人は満足して、成功報酬として二十万円くれた。そしてさらに車代として五万円上積みしてくれた。 「わしにとって今日が本当の赤玉です。こういうことはもう二度とできますまい。あなたには本当に感謝している。いい引退記念になった」  老人は語尾を独り言のように言った。それは政界の引退と掛けた言葉であろう。  老人は煙草を取り出して口にくわえた。貴代子がテーブルの上にあったホテルのマッチを擦《す》って差し出すと、火を点じた後、 「そうそう、あなたが前回持っていたT・Kというイニシャルを刻んだライターはどうしたかな」  とおもいだしたように尋ねた。 「あれは拾ったライターなので、警察へ届けました」 「それはまた律儀《りちぎ》なことじゃの。どこで拾ったのかね」  老人はさりげない体で問うた。 「サントリーホールで開かれたコンサートに行ったとき、ロビーに落ちていたのです。劇場に届けようとおもっている間に時間が迫って、届けそびれてしまって、結局、警察に渡しました」  言葉の後半は本当である。 「拾ったのはいつごろのことかね」 「昨年のクリスマスの前あたりだったとおもいます。それがなにか……」 「いや、べつに。ちょっと知り合いの持っていたライターに似ていたものだからね」  老人は貴代子の反問を躱《かわ》した。  やはり彼はあのライターに並なみならぬ関心を持っている。  老人が山本喜三郎《やまもときさぶろう》であればイニシャルが一致しない。それにしてもなぜ老人はあのライターにこだわるのであろうか。 [#改ページ]  長い復讐《ふくしゆう》  新開《しんかい》と霊肉一致のセックスを達成した貴代子は、ますます性の美味求真にのめり込んでいった。  のめり込むほどに、貴代子の意識の中で容積を大きくしてくるものがあった。  新開はなぜ急に貴代子と同居しようと言い出したのか。貴代子に新開の家へ来て、一緒に住まないかと呼びかけた。  新開の呼びかけの前提には、エレベーターの中の一瞬の接触があった。それは達成というにはほど遠いものであったが、一瞬であったがゆえにめくるめくような刺激と、強いストレスを体内深く植えつけた。  だが、エレベーターの中の経験は八月初めであり、新開から同居を呼びかけられたのは十月初めである。その間、二カ月もある。  エレベーターの経験が前提とはなっていても、きっかけではなさそうだ。  なぜ新開は急に貴代子に同居を求めたのだろう。  そのことが貴代子の意識の中で、次第に違和感を増してきた。  どう考えてみても、新開があのとき同居を求めたのは唐突である。  警察官という職業にとって、貴代子のような女と同居することは決してプラスにならないだろう。  警察官としての生命にも関わるかもしれない。  それほど貴代子を愛してくれていたのである。  だが、同居するならば、なぜあのとき? むしろエレベーターの経験の直後に要求すべきであったのではないか。  その間二カ月、熟慮したのであろうか。  恋は思案のほかという。  あのエレベーターの中での一瞬の交接は、その後の無理な分離と抑制のために、全身の細胞がざわめき立つようなストレスを蓄えた。  あのとき新開が来いと言ったなら、ためらいなく新開の家に飛んで行ったであろう。  男の欲求不満は女よりもさらに激烈で衝動的なはずである。  あのときこそまさに思案のほかの恋の炎に全身を焙《あぶ》り立てられていた。  貴代子はそこに違和感をおぼえていた。  新開が呼びかけたのは、なにかほかの契機があったはずだ。  貴代子は膨張してくる違和感を見つめた。  同居呼びかけ前になにがあったか?  貴代子ははっとした。ある事件をおもいだしたのである。  九月の末ごろ、貴代子の隣室で若い女が殺されかけた。  その事件の捜査に新開が来て、貴代子にもいろいろ質問した。  新開は事件が発生したとき、隣室でなにか異常な気配を聞きつけなかったかと他人行儀の表情で問うた。  そして夜寝るとき、ドアをロックするかと確かめた。  なぜそんなことを問うのかと、貴代子が訝《いぶか》しがると、新開は、近ごろ物騒だから気をつけるようにと言葉尻《ことばじり》を濁していた。  たしかあの事件の直後、新開が同居を求めてきたのだ。  もしかすると、隣室の女の殺人未遂が同居呼びかけのきっかけになっているかもしれない。  殺されかけた女は定住者ではなく、夜這《よば》いのアルバイトをしていた女子大生であった。  夜這いとは新手のアルバイトであるが、貴代子も同じ夜、客を待っていた。  新開からだれか訪問する予定はなかったかと問われてとぼけたが、実はレギュラーの客を自宅へ呼んでいた。  ところが客に急用が生じて、訪問がキャンセルされた。  あのとき、客が予定通り訪問していたら、客と新開が鉢合わせしたかもしれない。  隣室で殺人未遂が進行しているころが、ちょうど客の訪問予定時間であった。  貴代子ははっとした。 (もしかしたら……)  禍々《まがまが》しい想像が意識に兆した。  予定客が貴代子の部屋とまちがえて隣室に入ったのかもしれない。  客が貴代子の自宅を訪ねるのは初めてである。部屋をまちがえる可能性は充分にある。  だが、その客は彼女の常客である。女を殺しかけるような凶暴な人間ではない。社会的地位もあり、貴代子を贔屓《ひいき》にしてくれていた。  その客は前田《まえだ》という常客で、地方都市で会計事務所を経営している。  彼女にとっては上等な客であった。  前田が仮に部屋をまちがえたとしても、女を殺そうとするはずがない。  まちがいが判明した時点で、部屋から出て来るはずである。  まちがえられた方も夜這いのアルバイトをしているのであるから、前田を咎《とが》めたりしないだろう。  前田は後から電話をかけてきて、約束をキャンセルしたことを謝っていた。  前田が犯人なら、そんな余裕はないはずである。  犯人が貴代子の部屋と隣室をまちがえたとしたら、犯人は貴代子の住居を知っている人間ということになる。  ただ住居を知っているだけではなく、当夜、彼女が在宅していることを知っている者である。  貴代子は凝《じ》っと思案した。当夜の在宅を知っている者は、訪問予定していた客一人だけである。  そうだ、客がだれかに話した可能性はある。  当夜、前田が貴代子を訪問することをべらべらしゃべったとはおもえないが、特に口止めしたわけでもない。  気を許した人間に、訪問予定を急用のためにキャンセルしたことを洩《も》らしたかもしれない。  当夜、貴代子が在宅することを知った何者かが、彼女の部屋に侵入するつもりで隣りの部屋へ入ってしまった。  眠っていた(振りをしていた)女子大生を貴代子とまちがえて、問答無用で殺そうとした……?  とすると、犯人は最初から貴代子を狙《ねら》って来たことになる。  貴代子の推測は脹《ふく》らんできた。  彼女の推理を裏づけるものがある。それが事件後の新開の同居要請である。  新開もそのとき、貴代子が達したのと同じ推理に導かれて、犯人が貴代子の部屋と隣室をまちがえたと疑ったのではないだろうか。  犯人が部屋をまちがえたのであれば、まだ目的を達していない。  犯人がふたたび貴代子を襲う危険を案じて、同居という形で彼女を自分の保護の下に置こうとしたのではないのか。いまにして新開の言動が符節を合わせてくる。  貴代子は自分の推理を確かめるために、九月二十九日、隣室の女が殺されかけた夜、約束をしていた前田に問い合わせた。 「やあ、きみか。電話をもらえるなんて光栄だね。この前は約束をキャンセルして大変申し訳ない。近いうちに上京して埋め合わせするから、ぜひ都合をつけてもらいたい」  前田は電話口で愛想のよい声を出した。 「突然お電話をしてごめんなさい。ちょっとお尋ねしたいことがあったものですから」  貴代子は対話者の周囲を憚《はばか》りながら言った。 「きみの電話なら、いつでも歓迎だよ。聞きたいことって、なんだね」 「実は、昨年九月二十九日、お約束した日、だれかに私との約束を話しませんでしたか」  貴代子は心に醸成した質問を発した。 「きみに会う約束をだれかに……そんなこと話すはずがないよ」  前田は言下に否定した。 「そうですか」 「どうしてそんなことを聞くんだい」 「あの夜、前田さん以外には私が家にいることを知っている人はいないはずなのに、だれかが訪ねて来ようとしたものですから」 「私が行けなくなったのを知って、だれかが抜け駆けをしようとしたのかな」  前田が電話口で冗談めかして言った。 「だれにも話していらっしゃらなければけっこうです。変なことをお尋ねしてすみませんでした」 「なんでもいいから、時どき電話してくれたまえ。私も電話しているんだが、間《ま》が悪くて、いつも留守に当たるよ」 「すみません」 「ちょっと待ってくれたまえ。きみに聞かれておもいだしたんだが、ついうっかりきみとの約束を洩らしてしまった人間が一人いたな」  前田がおもいだしたように言った。 「やはりいらっしゃったんですか。どなたですか、その人は」  受話器を握った手におもわず力が入った。 「経理を見ている顧客《クライアント》だがね、当日、一緒に上京していたグループの一人なんだよ。でも、まさか彼が私の名前を騙《かた》って抜け駆けをしようとしたとはおもえないが」 「いいえ、べつに抜け駆けしたわけではありません。ただ、前田さんから紹介されて電話をしてきたとおっしゃってました」 「そんなことを言ったのかね。とすると、彼以外に考えられないなあ」 「どなたですか、その方は」 「小熊《こぐま》という県会議員だ。山本喜三郎という地元出身の大物政治家の女婿でね、わりあい親しくつき合っている。奥さんに頭が上がらないので、私がからかって、ついうっかりきみのことを洩らしたんだ。いつも奥さんの顔色ばかりうかがっていないで、たまには羽目を外してみてはどうかと。まさかそれを真に受けるとはおもわなかったな」 「こぐまさん、フルネームをおしえていただけますか」 「小熊|利明《としあき》だよ。まさか小熊さん、本当にきみの家に押しかけて行ったんじゃないだろうね」  前田が少し心配げな口調になって念を押した。 「いいえ、そんなことはありません。ただ、電話で問い合わせてきただけです」  こぐまとしあき、T・K、闇汁《やみじる》パーティで拾ったライターのイニシャルと一致している。  しかも小熊利明は山本喜三郎の女婿だという。  こぐまとしあきとT・Kのイニシャルの主が同一人物と確定されたわけではないが、貴代子は二重の符合に驚いていた。 [#改ページ]  推理の合体《ドツキング》  貴代子から小熊利明の名前を聞いた新開は、驚愕《きようがく》した。  ついに小熊が貴代子の身辺に姿を現わした。  貴代子が小熊にたどり着いた推理の過程にも無理がない。  おそらく小熊は前田から貴代子の居所を聞いて、彼女を殺そうとして隣室へまちがえて侵入したものであろう。  彼がなぜ貴代子を狙《ねら》ったのかまだわからないが、貴代子と小熊はつながった。  こうなると、貴代子がライターをコンサート劇場のロビーで拾ったという話も信じられなくなる。  彼女はどこかで小熊と接触して、ライターを手に入れたのかもしれない。 「T・Kとは小熊利明のイニシャルかもしれない。きみはこのライターを本当にコンサートホールのロビーで拾ったのかい」  新開は問うた。 「ごめんなさい。べつに隠すつもりはなかったんだけれど……」  貴代子は新開にライターを闇汁パーティで拾ったことを話した。 「すると、そのパーティに小熊が参加していたことになるね」 「私、そのことでちょっと心当たりがあるの」  貴代子がおもいだした表情をした。 「心当たりって、なんだい」 「パーティで独特の体臭を嗅《か》いだの。甘酸っぱいような……あれは腋臭《わきが》のにおいかもしれないわ。そのとき、以前どこかで嗅いだような気がしたのだけれど、おもいだせなかったの。でも、あなたにライターを拾った場所を聞かれておもいだしたわ」 「パーティ以前に、どこかで同じにおいを嗅いだというのか」  新開は無意識のうちに身体を乗り出していた。 「重岡《しげおか》さん、朝丘豊作《あさおかほうさく》が殺されたとき、その死体があったお部屋に同じようなにおいが残っていたわ。あのときは動転していて気がつかなかったけれど、たしかに同じにおいよ」 「重岡の殺された部屋で同じ体臭を嗅いだというのか。それは重岡の体臭ではないのかい」  犯行直後であれば死臭に変わる前の被害者の体臭が残っているかもしれない。 「いいえ、重岡さんに以前会ったときは、そんな体臭はなかったわ」 「すると、きみは犯人が残した体臭を嗅いだことになる。そして、同じ体臭の持ち主がパーティに参加していて、その会場できみはT・Kのライターを拾ったことになる」  網が小熊利明を中心に、次第に絞り込まれてくる気配である。 「でも私、小熊という人を知らないわ。彼が犯人だとしたら、なぜ私を狙うのかしら」 「きみは重岡と石本《いしもと》の殺された現場に行き合わせている。石本の方は殺される前だったが、いずれにしても犯行前後に行き合わせている。もしかすると、きみは犯人のなにか手がかりをつかんでいるのかもしれないよ」 「私が手に入れたものといえば、ライターだけだわ。でも、これは重岡さんや石本さんが殺された現場で手に入れたものではない。パーティで拾ったのよ。仮に犯人のものだったとしても、犯行にはなんの関係もないし、犯人の手がかりにはならないわ」 「犯人がきみの口を塞《ふさ》ごうとしているとすれば、ライターのせいではないね。きみはなにか犯人にとって都合の悪いものを見たか、手に入れたかしているんだ」 「そんなものはなにも見てもいなければ、手に入れてもいないわ」 「犯人がそのようにおもい込んでいるだけかもしれない。よくおもいだしてごらん。きみが重岡と石本の部屋へ行ったとき、なにか感じたことはなかったか」 「重岡さんの部屋で甘酸っぱいにおいを嗅いだほかは、べつになにも感じたことはないわ」 「なにかあるはずだ。だから犯人はきみの口を閉ざそうとして、部屋をまちがえて侵入したのかもしれない」 「それで、あなたは私を保護しようとして、あなたの家へ呼ぼうとしたのね」 「それもある」 「それもあるというと……」 「言わなくてもわかっているだろう」 「言葉にして言って」 「決まっているだろう」 「決まっていても、言葉にして言って」 「愛しているからさ」 「もう一度言って」 「愛している」 「嬉《うれ》しいわ」  貴代子は自分が陥っているかもしれない深刻な状況にもかかわらず、新開の腕の中に飛び込んで来た。 「いまはそんな場合じゃないだろう。さあ、おもいだすんだ」  さっそくねだってきた貴代子を柔らかく押し戻して、新開は促した。 「私、おもいだすことなんかなにもないわ」 「犯人がきみに見られたとおもい込んでいるだけかもしれないな」 「犯人が私に見られたんですって」  貴代子の表情が少し改まった。 「なにか心当たりでもあるのかい」 「重岡さんの部屋に行ったとき、だれもいなかったわ。ただ、廊下ですれちがった人がいるの」 「廊下ですれちがった。どんな人だい」 「ちょうどあなたと同じくらいの年配の男の人よ。すれちがうとき、顔をそむけるようにしていたのでよく見なかったけれど」 「顔をそむけるようにしていたのか。重岡の部屋から出て来たのかい」 「それは確かめなかったの。エレベーターから降りて、すぐにすれちがったから。でも、重岡さんの部屋の方角から来たわ」 「それだけでは重岡の部屋から出て来たかどうかわからないな」 「でも」 「でも、どうした」 「石本さんの自宅へ行ったとき、帰り際にマンションの入口でちょうど入って来た人がいるの。その人がどうも、重岡さんが殺されたとき、ホテルの廊下ですれちがった人のような気がするのよ」 「なんだって」 「そんなような気がするの。部屋の外ですれちがったので、いままで忘れていたのよ」 「すれちがったとき、同じ体臭がしたのかい」 「そのときは気がつかなかったのだけれども、かすかな残り香が同じ人じゃないかなとおもわせたのかもしれないわね」 「たぶんそれだな」 「それじゃあ、ホテルの廊下と石本さんのマンションの玄関ですれちがった人が小熊利明だというの」 「小熊はきみに二度見られたという意識があったのかもしれない。だから、きみの存在に脅威をおぼえたんだよ」 「でも、石本さんのマンションの玄関で私に気がついたのなら、石本さんを殺さなかったんじゃないかしら」 「石本を殺した後で、きみをおもいだしたのかもしれないよ。石本が殺されたとき、彼の部屋に先客や訪問者がいなかったかときみに尋ねただろう。そのとき、きみはおもいださなかった。同じように、犯人もマンションの玄関ですれちがったとき、きみをおもいださなかったんだ。そして石本を殺してしまった後、犯行がきっかけになってきみに二度、現場の近くですれちがったことをおもいだした。おもいだしたときは後の祭りだった。  小熊が犯人だとすれば、彼は闇汁《やみじる》パーティできみに三度出会っていることになる。きみはそのとき小熊をおもいださなかったのかい」 「参加者は皆、マスクを付けていたのよ。だから闇の底で同じ体臭を嗅《か》いだとき、以前どこかで嗅いだような気がしたの」 「きみが小熊に気づかなかったということは、小熊もきみに気がつかなかったんだろう。もし気がついていれば、闇汁パーティで殺されてしまったかもしれないよ」 「まあ、怖い」 「まあ、そこまではしないだろうけれど。パーティの参加者が殺されたとなれば、参加者全員が足止めを食って、徹底的に調べられるからね。それにしても、危険なパーティであったことには変わりない」  新開はやんわりと戒めた。 「ごめんなさい」  貴代子は素直に謝った。 「あるいは小熊はきみが参加することを知っていて、反応を探るためにパーティに出たのかもしれない」 「反応を探る?」 「そうだよ。たがいにマスクを付けていても、身体の特徴は隠せない。きみがマスクを付けた小熊に反応すれば、きみが小熊をマークしていることが確実になる。闇の中で小熊につかまらなかったか」 「だれにもつかまらなかったわ。だって、どこのだれともわからない人となんて、いやだもの。逃げまわっていたわ」  だが、新開には内緒にしているが、貝合わせのパーティのときは素性も知れぬ参加者に�商品テスト�をされている。  だが小熊(確認されていない)、正確には甘酸っぱい体臭の主が貴代子の反応を探るためにパーティに参加していたとすれば、相手は彼女が同じパーティに参加することを予知していたことになる。 「その闇汁パーティはどんなきっかけで参加したんだい」  貴代子の心を読んだように新開が問うた。 「西山《にしやま》という人に誘われたの」  貴代子は素直に話した。 「その西山が小熊とつながっていれば、きみの情報は小熊に通じていることになるね」 「西山さんに聞いてみるわ」 「いや、きみはまだなにもしない方がいい。敵を警戒させるといけないからね」  新開が制止した。 [#改ページ]  性と罪の森《ジヤングル》  貴代子のもたらした情報によって、小熊利明の影がクローズアップされてきた。  貴代子は二カ所の犯行現場の近くで小熊とすれちがったことをおもいださなかったと言っていたが、小熊の目の裏には、幼いころ犯した川島洋子《かわしまようこ》が焼きついていたはずである。  洋子の面影を伝える貴代子とすれちがったなら、強い印象を受けたにちがいない。  新開が貴代子に初めて会ったときのように、洋子の再来とおもったかもしれない。  石本の家では、犯人は犯行前に貴代子とすれちがっている。  同一犯人による犯行であれば、犯人はそこで貴代子に再会したことになる。一度目よりももっと印象は強かったはずである。  それなのになぜ、犯行を中止しなかったのか。  貴代子に対しては犯行後におもいだしたのかもしれないと言ったが、犯人が小熊であるなら、貴代子との再会におもいださないはずがない。それなのに犯行を中止しなかった。それはなぜか。  ともあれ貴代子の情報を重岡殺し、石本殺しの捜査本部に伝えることにした。  新開から連絡を受けた新宿署と碑文谷《ひもんや》署の捜査本部は驚いた。捜査本部の人員は間引かれて細々と継続している。捜査が膠着《こうちやく》して、なんの進展も見られなかったところに、耳寄りの情報が寄せられてきたのである。  だが、棚川《たながわ》貴代子は二カ所の犯行現場に出入する小熊利明を確認したわけではない。  現場近くで犯行時間の前後、小熊の特徴をもつ人物を見かけたというだけにすぎない。  新宿署の牛尾《うしお》、捜査一課から重岡殺しの捜査本部に参加した棟居《むねすえ》、碑文谷署の水島《みずしま》などは、夜這《よば》いアルバイト女子大生殺人未遂の現場が棚川貴代子の隣室であり、犯人がまちがえたのではないかという新開の意見と、重岡殺しの現場に残っていたという犯人の残り香らしい体臭と同じような体臭を、棚川貴代子が二つの犯行現場の近くですれちがった人物から嗅《か》ぎ取ったという情報を重視した。  棚川貴代子はパーティ会場で同じ体臭を嗅いだと言っている。 「小熊利明がそのパーティに参加していたかどうか確かめてはどうか」  捜査一課の棟居刑事が発案した。 「たとえ参加していたとしても、そんなパーティに素直に出ていたとは言うまい。素直に認めたとしても、小熊がパーティに参加していたことは、犯人に直接はつながらないだろう」  那須班の最古参刑事|山路《やまじ》が反駁《はんばく》した。 「直接証拠にはなりませんが、状況証拠にはなるのではありませんか」  新宿署の牛尾が棟居の掩護《えんご》射撃をした。  とはいえ、小熊から確認を取るのは難しい。  もともと破廉恥なアングラパーティに家庭のイニシアチブを妻に握られている女婿の身が、参加したと素直に認めるはずがない。  同じパーティの参加者の証言を取る以外にない。新開から小熊利明が闇汁《やみじる》パーティに参加していたかどうかを確かめてくれと頼まれた貴代子は、パーティに誘った西山に、参加者の名前を知りたいと伝えた。  西山は、どうしてそんなことを知りたがるのかと問い返した。 「あのパーティに、殺人の容疑者が参加していた疑いがあるの」 「なんだって」  西山は愕然《がくぜん》としたようである。 「パーティの性格が性格なので、できれば内密に調べたいらしいの。参加者の名前を密《ひそ》かに調べられないかしら」 「きみ、困るよ。ぼくもあのパーティに参加したことは女房に内緒なんだ」  西山がうろたえていた。 「あなたに迷惑はかけないわ。パーティの参加者のリストが欲しいの。それも容疑者に警察が調べているということを悟られないように欲しいのよ」 「まさか、ぼくが疑われているわけじゃないだろうな」 「あなたが疑われていないことは保証するわ」 「なんとか主催者から聞き出してみよう」  二日後、西山から連絡があった。 「殺人の容疑者がいると聞いて、主催者も驚いたようだったよ。ああいうパーティだから、一見《いちげん》の客は取らない。みんな身許《みもと》のしっかりした客ばかりだ。初め主催者は、客のプライバシーに関することだから、参加者の名前を報《しら》せるなんてとんでもないと断ったよ。だが断れば、警察が直接調べに来るぞと脅かして、ようやく口を割らせたよ。主催者が洩《も》らしたということは、くれぐれも内緒にして欲しいということだ」 「その点は大丈夫。参加者のプライバシーを暴くのが目的ではないわ」  貴代子を介して、闇汁パーティ出席者のリストが入手できた。  アングラパーティの参加に本名を名乗る者はいないとおもいきや、貴代子の話によると、この種のパーティは常連客の口コミによって参加者が集められるので、意外に素性が割れやすいという。  主催者はおおむね参加者の身許を知っているが、警察が直接行くと口を閉ざしてしまう虞《おそれ》があるというので、貴代子を介したのが功を奏したらしい。  もちろんリストの中には偽名の者もいるだろうし、リストに記載されていない参加者もいるだろう。  だが、とりあえずリストに基づいて当たり、その中にいない場合は主催者に当たるつもりである。  貴代子の証言によると、パーティには十組の男女が参加した。  とすると、参加者は二十名。リストには九名の名前が記入してあった。  九名がそれぞれパートナーを同伴しているので十八名、残りの二名が主催者カップルであろうか。  あまり当てにならないリストではあっても、手がかりになる情報が潜んでいる。  入手したリストを睨《にら》んだ新開|征記《せいき》は、そのうちの二名の名前に視線を固定した。  大村恵一《おおむらけいいち》と小沢安男《おざわやすお》。  新開はその二人の名前に記憶があった。新開が関わった事件の登場人物を連想させる名前が記載されている。  この二人は桂子《けいこ》と保子《やすこ》の変名にちがいないと、新開はおもった。  桂子は交換慰安母、保子は夜這いアルバイトの女子大生であった。  二人の住所はいずれも記録してある。  新開はまず内村桂子に連絡を取った。  桂子は新開から事情を聴かれて仰天した。極秘に参加した闇汁パーティが、警察の知るところとなっている。 「私、なにも知りません。人ちがいじゃありませんこと」  最初、桂子はとぼけた。 「パーティに参加しても、なにも悪いことはありませんよ。奥さんのプライバシーを詮索《せんさく》するのが目的ではありません。そのパーティにある事件の容疑者が参加していた疑いがあるので調べているのです。ご協力いただけませんか」  新開に説得されて桂子は、 「わかったわ。私が参加したということは絶対に秘密にしてくださいね」  と念を押して、新開の質問に答え始めた。  新開の質問の目的は、小熊の参加の有無を確かめることである。  まず小熊の身体の特徴を述べて、会場で甘酸っぱい体臭を嗅がなかったかと聴いた。 「それでしたら、私のパートナーの小谷《こたに》さんのようだわ。身体の特徴も似ているし」  最初から獲物の手応えが伝わってきた。小谷と小熊も一字ちがいである。 「小谷はこの男ではありませんか」  新開は中田《なかた》を介して手に入れておいた小熊の写真を桂子に示した。 「濃いサングラスをかけていたけれど、顔と身体の形は似ているわ」  桂子は写真を見て答えた。 「奥さんはその小谷という男と、どんなきっかけから、パーティに同行したのですか」 「紹介されたのよ」 「だれから紹介されたのですか」 「最初は街で声をかけられたの。その人の紹介の輪が拡がって、小谷さんと同行したの。パーティに同行したのが二度目の出会いで、私もよく知らないのよ」  ついに小熊がパーティに参加していた状況を突き止めた。パーティ会場で貴代子が拾ったT・Kのライターは小熊のものであろう。  まだ同じイニシャルの参加者の遺留品である可能性は残っているが、その確率は極めて低いだろう。  しかも、ライターに山本喜三郎は強い関心を示したという。  つまり、彼はライターに見おぼえがあったのだ。  それはライターが小熊の遺留品であることを裏づける状況である。  新開は桂子の後、尾沢《おざわ》保子に連絡した。  保子はパーティに参加した事実を素直に認めて、驚くべき証言をした。  彼女はパーティにおいて甘酸っぱい体臭を発する参加者に首を絞められたという。 「あの人は私がアルバイトをしているとき、私を殺そうとした犯人にちがいありません。同じ体臭をしていましたし、首を絞められたとき、同じ人だとわかりました」  と保子は言った。 「どうしてそのとき訴えなかったのかね」  新開が問うと、 「参加者は皆マスクを付けていて、だれだかわからなくなってしまったのです。それにこういうパーティでは首を絞められてもプレイの一つだと取り合ってもらえないとおもいました」  保子の証言は、小熊がパーティに参加し、殺人未遂の犯人である状況を裏づけるものである。  保子は供述した後、首を絞められたとき、相手からむしり取ったという毛髪を提出した。これが小熊の毛髪と同定《どうてい》されれば彼の容疑は一挙に煮つまる。  だが、その容疑は尾沢保子殺しの未遂であって、重岡、石本殺しには結びつかない。  尾沢殺しの未遂で引っくくり、本命の殺人《ころし》で調べるという方法もある。  捜査本部としては担当事件の容疑者として挙げたいところである。  新宿署と碑文谷署の両捜査本部は小熊利明を、参考人として任意出頭を求めることの是非を検討するために合同捜査会議を開いた。  新開も特別捜査員として会議に出席した。  小熊利明の容疑性として、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  ㈰ パーティに参加している。  ㈪ ㈰を裏づけるものとして山本喜三郎が関心を示したT・Kのライターをパーティ会場に遺留している。  ㈫ 内村桂子が、パーティ同行者に似ている小熊の写真を認めた。  ㈬ 尾沢保子は夜這《よば》いアルバイト中殺されかけた、犯人の体臭と同じにおいを、パートタイマーで働いていたホテル、およびパーティ会場において首を絞められかけた参加者から嗅《か》いでいる。また内村桂子は小熊に似た特徴をもつ「小谷」が甘酸っぱい体臭の持ち主だと証言している。 [#ここで字下げ終わり]  以上が尾沢保子殺人未遂の容疑性を裏づけるものである。  だが、これら四項目は直接的には重岡殺しと石本殺しには結びつかない。  女子大生殺人未遂事件と二件の殺人に橋を架けるものは、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  ㈭ 尾沢保子と棚川貴代子の居室は隣り合っていた。  ㈮ 貴代子が二件の殺人現場の近くでパーティで嗅いだ体臭と同じ体臭の持ち主とすれちがっている。  ㈯ 小熊利明は二件の殺人事件被害者と小学校の同級生である。 [#ここで字下げ終わり]  以上である。 「いずれも小熊の容疑は状況証拠に頼るだけであって、決め手がない。  殺人未遂は暗黒の中で行なわれており、被害者は犯人の顔を確かめたわけではない。非常に曖昧《あいまい》な嗅覚《きゆうかく》に頼っているにすぎない。  パーティに参加した女性が同行者の小谷に似ている小熊利明の写真を認定しているが、小熊と尾沢保子がパーティの最中、接触したという確証はない。  棚川貴代子と尾沢保子の部屋が隣り合っていて、貴代子を狙《ねら》った犯人が誤って保子の部屋に侵入したと推測するのは、捜査員の独断にすぎない。  ましてや重岡と石本と小熊が小学校の同級生であったという事実は、殺人事件にはなんら関わりのないことである。  このような曖昧な状況をもって、現県会議員、次期総選挙には中央政界に打って出ようとしている人物に、安易に任意出頭を求めることは妥当ではないとおもう」  と、山路が反対した。  いずれも正論であり、積極派の弱点を衝《つ》いていた。  新宿署の牛尾刑事が立って、 「たしかにいまのところ物的証拠はなにもありませんが、殺人未遂事件被害者(尾沢保子)が殺されかけたときを含めて三度、同じ体臭を嗅いでいるという事実は見過ごせないとおもいます。  しかも、曖昧なにおいだけではなく、姿、特徴も似通っていると証言しています。本件直接の容疑につながらないとしても、とりあえず攻め口としては見逃すべきではないとおもいますが」  と積極的な意見を述べた。  新開はもどかしかった。彼は小熊利明に対する個人的な強い心証を持っている。  小熊は幼いころ輪姦《りんかん》した川島洋子と似ている貴代子に、ある種の強迫観念をおぼえたのであろう。それが殺意につながった可能性は大きい。  だが、それを告げることは、歳月の風化を受けた新開らの古い犯罪(熊木《くまき》殺し)のかさぶたをかきむしることになる。  それは新開一人のかさぶたではない。奥野《おくの》、布川《ぬのかわ》、中田の古傷でもあった。  熊木を殺した後、四人は死ぬまでこの秘密を共有することを誓った。一人だけ誓いを破ることはできない。  小熊が貴代子を狙った理由は新開の個人的心証としてわかるが、重岡と石本を殺した動機が新開にも説明ができない。  結局、新宿署、碑文谷署両署の合同捜査会議において、小熊利明を参考人として任意出頭を求めるのは時期尚早と判断された。  小熊の足許《あしもと》まで迫りながら、最後の詰めを欠いて取り逃がしてしまった。 [#改ページ]  動いた標的《ターゲツト》  新開は内村《うちむら》桂子に面会を申し込んだ。彼女は小熊と接触している。彼女の証言から、なにか手がかりが引き出せるかもしれない。 「もうすべてを話して、なにも言うことはありません」  と、いやがる桂子をなだめて、引っぱり出した。彼女にしても警察に弱味を押さえられている。むげに断りきれないところがある。  プライバシーの詮索《せんさく》はしないと言いながら、新開は切り札を効果的に使っていた。警察権力による一種の脅迫である。 「奥さんは小谷という客と二度会っていますね。彼についてなにか気がついたことがあったら、どんな些細《ささい》なことでもけっこうですから話してください」 「どんな些細なことでもと言われても、べつにおもいだすことなんかないわ」  桂子は人の目と耳を憚《はばか》りながら答えた。 「会って、ただ食事やお茶を共にしたわけではないでしょう」  新開の言葉は彼女に圧力をかけている。桂子は言葉を返せない。 「小谷はベッドの上でなにか特別なことを要求しませんでしたか。たとえばあなたの性毛《ヘア》を剃《そ》ったとか、レイプの形を取ったとか」  新開の言葉に桂子はぎくりとしたようである。新開は敏感に彼女の反応を見て取った。  剃毛癖《ていもうへき》は重岡、石本に共通して見られたと貴代子が証言している。また丸井恵利子《まるいえりこ》も犯人によって剃毛されている。  小熊が三件の殺人事件に関わっていれば、桂子との情交に際して剃毛癖を露《あら》わしているはずである。 「奥さん、心当たりがありそうですね」  すかさず新開は桂子が見せた反応に追い打ちをかけた。  桂子は仕方なさそうにうなずいた。 「剃毛されたのですか」 「いやだったんですけれど、カミソリを当てられて……断ったら殺されそうな気がしました」 「殺されそうな気がした。ほかになにかされましたか」 「そ、それは……口では言えないようなことをされたわ」 「奥さん、これは殺人事件の捜査なのです。正直に話してください」 「小谷さんが犯人だというの」 「そんなことはまだわかりません。犯人を挙げるために捜査を進めているのです」 「私が言ったということは絶対に黙っていてね」 「もちろんですよ。警察は協力者のプライバシーを保証します」 「あの人、箸《はし》を使ったの」 「箸を使った?」  束《つか》の間、新開|征記《せいき》は内村桂子の言葉の意味がわからなかった。 「最初はなにをされているのかわからなかったわ。なにか異物感をおぼえたので目を開けてみると、あの人、箸を入れてヘッドランプで覗《のぞ》いていたの」  桂子はそのときの被虐的《マゾヒステイツク》な感覚をおもい起こしたらしく、身体をぶるっと震わせた。 「ああ」  新開は呻《うめ》いた。  桂子の言葉に、脳皮の下深く埋もれていた古い記憶がスパークした。  桂子の言葉が新開の仮死していた古い記憶を触発して、一瞬の閃光《せんこう》の中に幼い日の忌まわしい光景をまざまざと照らし出した。  熊木に率いられた小熊、重岡、石本の四人組が、新開たちの女神である川島洋子を犯していた。  小熊、重岡、石本の三人が洋子の手足を押さえつけ、熊木が洋子の股間《こかん》にうずくまってなにかをしていた。  熊木の身体の影に隠れて、熊木の行為を確認できなかったが、あのとき熊木は手になにかを持っていた。  十九年後、桂子の言葉によって、熊木が持っていた物体がはっきりとおもいだされた。  熊木は指に拾い取ってきたらしい小枝を箸のように挟んでいた。  その小枝で、洋子の秘所を弄《もてあそ》んでいたのだ。  小熊は幼い日の女神に対する冒涜《ぼうとく》を桂子の身体に忠実に踏襲していたのである。  そうだったのか。  新開にはいま初めて小熊グループの性の屈折がわかるようにおもった。  新開、奥野、布川、中田が川島洋子の呪縛《じゆばく》の鎖につながれたように、小熊、重岡、石本の三人も幼い日の洋子に対する凌辱《りようじよく》が、彼らの性傾向というより性《セツクス》そのものを歪《ゆが》めてしまったのである。 「奥さんはそのとき、殺されそうな気がしたのに、どうしてパーティに同行したのですか」  閃光の照らし出した過去の構図から現実に目を戻した新開は、質問をつづけた。 「どうしてと言われても、私にもよくわからないわ」  桂子は薄く頬《ほお》を染めた。  新開はなんとなく彼女の心理を察知した。  パートナーから殺されそうな恐怖をおぼえながらも、肉体を玩弄《がんろう》され、辱《はずかし》められた経験がマゾヒスティックな感覚として植えつけられ、忘れられなくなったのであろう。  歪んだ性は伝染する。  桂子の証言によって、新開の小熊に対する心証はますます濃くなった。  小熊は歪んでいる。そして、その歪みの源に川島洋子がうずくまっている。  小熊が犯人であるとすれば、川島洋子から発していると言ってもいいだろう。  そして、洋子自身は事件とは無関係に、どこかの空の下で平凡な人生を送っているのであろう。  加害者が被害者の意図しない長い執拗《しつよう》な復讐《ふくしゆう》を受けていたのだ。そして、その復讐の鉾先《ほこさき》がまったく無関係の第三者に及んだのかもしれない。 [#改ページ]  荒野の源流  三月中旬のある日、棚川貴代子の許《もと》に一本の電話がかかってきた。  彼女の居宅の電話番号を知っている者は限られている。 「棚川さんですか。私は前田さんから紹介を受けた者ですが」  受話器から話しかけてきた声は、彼女が初めて聞く声であった。  ねっとりとからみつくような声である。 「私は大谷というものですが、お会いしたいとおもっています。今夜の午後九時、Pホテルに大谷の名前で部屋を取っておりますので、ご足労いただけませんか」  大谷と名乗った客は丁重な口調で言った。  貴代子は前田の名を出した大谷と名乗る客に緊張した。前田が貴代子の居所を漏らした者は小熊利明である。そしてパーティリスト中の小谷は小熊である確率が高い。小谷と大谷は新開が追っている小熊利明の可能性がある。そして小熊は貴代子の推測ではあるが彼女を殺そうとした人物かもしれない。  今夜の九時といえば、もうあまり時間がない。直談はしないとか、先約があるとか言って断れる客であるが、貴代子は新開の役に立ちたいとおもった。  とりあえず大谷には承諾の返事をしておいて、新開に連絡することにした。新開の指示次第ですっぽかしてもよい。とにかく新開に連絡を取っておこうとおもって電話をしたが、つかまらない。  やむを得ず伝言を残して、前田に電話をした。彼に問い合わせて、大谷を知っているかどうか確認するつもりであった。  だが、あいにく前田にも連絡が取れない。  貴代子は新開と前田への連絡を未確認のまま、大谷に会う羽目になった。  新開が聞き込み捜査から上がってきたのは九時三十分であった。  目当ての人間がなかなかつかまらず、上がるのが遅れた。彼の帰りを貴代子からのメッセージが待っていた。 〈大谷という男に今夜九時、ホテルで会います。小谷かもしれません〉  メッセージはそれだけの文言であった。この文書だけでは大谷から小谷を連想した過程がわからない。  新開は腕時計を見た。九時半を少しまわっている。いまからどんなに急いでも、Pホテルに駆けつけるまで二十分はかかるだろう。  途中、渋滞の最も激しい地域である。  新開はPホテルに電話をしたが、大谷という客は泊まっていないという返事である。  貴代子に告げた名前と部屋の名義を変えているかもしれない。それも怪しい状況であった。  新開は、パトカーに飛び乗った。  途中、無線で新宿署と碑文谷署に連絡を入れた。  一方、貴代子は指定された時刻にPホテルに着いた。正面玄関を通ってロビーをフロントカウンターの方へ向かいかけると、 「棚川貴代子さんですか」  と声をかけられた。  サングラスをかけた年齢不詳の長身の男が立っている。 「はい」  貴代子が答えると、 「大谷です。お待ちしておりました。部屋は取ってあります」  と言った。  大谷がパーティ出席者の一人であれば、すでに出会っているはずであるが、あのときはマスクを付けていたし、大勢の中の一人であったので特徴をよくおぼえていない。二件の殺人現場ですれちがった人物は、一瞬のことでもあり、顔をそむけていたのでほとんど記憶は残っていない。  大谷は馴《な》れた足取りで先に立って歩いた。  貴代子が従《つ》いて来るのを確信しているようである。 「あのう、以前どこかでお会いしていませんか」  貴代子はおずおずと問いかけた。 「いいえ、今夜が初めてですよ」 「どうして私とわかったのですか」 「前田君から特徴を聞いておりましたのでね。それに、あなただったら一目でわかりますよ」  振り向いた大谷のサングラスの奥が少し笑ったようである。 「前田さんとはどんなご関係ですか」 「仕事の上のつき合いです。彼からあなたのことをよく聞いて、前から一度お会いしたいとおもっていました」  大谷は如才ない声で言った。  電話で聞いたときほど声に粘り気はない。  体臭に注意したが、パーティで嗅《か》いだようなにおいは嗅ぎ取れない。  大谷の足取りは遊び馴れている男のそれだ。特に女を買い馴れている男の足取りである。  自信があり、貴代子の値段をよく知っているのである。  つまり経験と経済力に裏づけられた蕩児《とうじ》の足取りである。  これが遊び馴れていない者は、客のくせにどことなく卑屈で、態度がいやらしく自信がない。  初対面にまず値段を確かめてくる。  ともすれば恐怖に圧倒されかける貴代子の心身を大谷の正体を確かめて新開の役に立ちたいという気持ちが支えている。  大谷は重岡、石本を殺し、貴代子とまちがって尾沢保子を殺しかけた犯人であるかもしれない。  そして、殺し損なった貴代子を仕留めるために、客を装って彼女に近づいて来た……。  しかし、この機会を逃せば大谷のボロを引っぱり出せないような気がした。  身体を張って大谷に近づき、手がかりをつかんで新開を喜ばせてやりたい。  新開がメッセージを見れば必ず駆けつけて来るはずである。それまで時間を稼がなければならない。  おそらく大谷は、貴代子が大谷の意図と正体を察知していることを知らないだろう。  尾沢保子を問答無用で殺しかけたときと異なり、今度は大谷は偽名ながら名乗りを上げて近づいて来ている。  尾沢保子のときのように突然襲いかかることはないだろうと楽観していた。  大谷は先に立ってエレベーターへ乗り込み、高層階の一室に案内した。ゆったりしたダブルである。 「前田さんから聞いていたが、これでいいだろうか」  入室すると、大谷は貴代子に十万円差し出した。ビジネスライクな態度である。 「けっこうですわ」  貴代子もビジネスライクに受け取った。  特に料金を設定しているわけではないが、特別なリクエストがない限り、普通の料金である。  特別なリクエストとは山喜《やまき》のような老人の相手や、外国要人の接遇や、少年の筆下ろしや、パーティのお伴やゴルフの景品や、旅行、特に外国旅行の同伴などである。  それでもホテトルやエスコートクラブに比べるといい料金である。 [#改ページ]  現れた過去 「それではシャワーを浴びてきなさい」  大谷は命じた。  貴代子がバスルームへ行きかけると、 「そこで脱いで」  と大谷が命じた。  それはべつに珍しいリクエストでもない。客の中には女性の脱衣する姿を楽しむ者も少なくない。  女性が恥じらいを含みながら一枚ずつ無防備になっていく姿はなまめかしく、男の劣情をそそるものである。  貴代子が最後の一枚を着けただけの姿になったとき、大谷が貴代子の手を押さえた。 「最後の一枚はぼくが脱がしてあげよう」 「あら」  貴代子は少し身体をすくめた。  大谷は貴代子のささやかな抵抗を抑圧して、最後の下着を剥《は》ぎ取った。  そのままベッドへ導こうとする。 「あら、まだシャワーを使っていません」 「気が変わった。シャワーを使う必要はないよ」  大谷は言って、男の力で貴代子をベッドの上に押し倒した。  たったいま貴代子から剥ぎ取った最後の下着を、馴《な》れた手つきで貴代子の口中に押し込む。同時に貴代子は例の甘酸っぱい体臭を嗅《か》いだ。  室内灯が消された。闇《やみ》の奥から大谷の声が、 「足を開け」  と命じた。  重岡と石本で体験ずみの同じ場面であったが、貴代子は全身が恐怖で麻痺《まひ》したようになった。 「足を開けと言っているんだ」  闇の奥から同じ言葉が繰り返された。だが、貴代子の身体は硬直したままである。  突然、両足首を強い力でつかまれて、ぐいとこじ開けられた。  強い光が股間《こかん》に当てられ、冷たい凶器の肌が秘所に触れた。  ひっとあげた悲鳴が声にならない。  途中、大渋滞に引っかかって、新開がPホテルに到着したときは午後十時を過ぎていた。それでもサイレンを鳴らしつづけて来たのである。  だが、当夜は満室に近く、大谷名義で取られた部屋はない。  二人部屋は約八百室、新開の推測だけでプライバシーが売り物のホテルの密室を、令状もなく立ち入って調べることはできない。  仮に踏み込んだとしても、なにができるか。二人部屋で男女が同衾《どうきん》するのは当然である。なんの権限も令状もなく客室へ踏み込めば、住居侵入罪となってしまう。  売春の参考人として引っかけようとした石本の場合とは事情がちがう。  大谷が小熊と仮定して、小熊が殺意を抱いて貴代子をホテルに誘い出したとしても、殺人の現行犯を押さえない限り立件できないだけでなく、返り討ちに遭ってしまう。  大谷はなんのために貴代子を呼び出したのか。  貴代子とまちがえて尾沢保子を殺しかけた犯人であれば、まだ目的を達していない。  捜査の網が絞られてくる気配を察知して、貴代子の口を閉ざそうとしてきたのであろうか。  だが、それは新開自身の推測に頼るだけであって、なんの裏づけもない。  大谷はただ貴代子と単純に遊ぶために彼女を呼び出したのかもしれない。  ホテルに駆けつけたものの、どの部屋に貴代子がいるのか皆目見当もつかない。  フロントに貴代子の特徴を伝えて、見かけなかったかと尋ねたが、フロント係の印象にはない。  一千室を超える客室を有し、一夜に数千人の客が出入りする巨大ホテルで、ただ一人の客の印象を求めるのは不可能である。  それにフロントを素通りして入室した可能性もある。  相前後して新宿署から牛尾や棟居、碑文谷署から水島刑事らが駆けつけて来た。  彼らも新開と同じ危惧《きぐ》を抱いている。  八百室の二人部屋のうち、家族連れ、団体、常連客、キーがフロントに戻されている部屋(不在の部屋)は消去してよい。  さらに素性の明らかな客、シングルコース(二人部屋を一人で使う)を消去して、二十六部屋が残された。  人命に関わるということで、フロントの協力を得て二十六部屋に電話を入れてもらった。 「付近で異常な気配を聞きつけたという通報が寄せられましたが、なにか異常はありませんか」  疑わしい部屋に片っ端から電話を入れた。これでもし大谷が貴代子に対して害意を抱いているとしても、牽制《けんせい》になるだろうと考えたのである。  そのうち電話に応えない部屋が六部屋あった。  これはいずれもキーがフロントに戻っていないので、館内のどこかにいるか、あるいは在室しても電話に出ない場合である。  後者はすでに眠ってしまったか、故意に応答しないか、あるいは応答したくてもできないような状況に陥っている場合である。  捜査員は手分けして六部屋へ向かった。ただし、異常な気配でもない限り、部屋の外から監視しているだけで、踏み込むことはできない。  新開がエレベーターに乗り込もうとしたとき、入れちがいに搬器《ケージ》から降りて来た男がいる。  濃いサングラスをかけ、筋肉質の背の高い男である。  すれちがいざま、新開の鼻孔を甘酸っぱいにおいがかすかに刺激した。  二十年前とは様子が変わっているが、後ろ姿に新開の記憶がよみがえった。 「小熊利明」  呼びかけた新開にすれちがった男は振り返らなかったが、背筋が少し強張《こわば》ったように見えた。 「小熊、待て」  ふたたび新開が叫ぶと同時に、サングラスの男が走り出した。  追跡した新開がタックルした。周囲に居合わせた女性客が悲鳴をあげ、なにごとかと視線が集まった。  逃げようとして抵抗した男の顔から、サングラスが吹っ飛んだ。新開の瞼《まぶた》に刻みつけられた小熊の成長した顔が覗《のぞ》いた。  騒ぎを聞きつけて、牛尾や棟居が駆けつけて来た。 「おれはなにもしてないぞ。弁護士を呼べ。おれをだれだとおもっているんだ」  取り押さえられた小熊は怒鳴った。 「疚《やま》しいところがなければ、なぜ逃げようとしたのですか」  新開に問われて、 「逃げようとしたのではない。きさまがいきなり襲いかかってきたので、身を守ろうとしたのだ」  小熊が反駁《はんばく》した。 「あなたは何号室から出て来たのですか」 「そんなことをきさまに言う必要はない」  このとき棟居が、小熊が逃げようとして抵抗した弾みにサングラスと共に落としたらしい部屋のキーを床から拾い上げた。 「このキーはあなたのものではありませんか」  キーを突きつけられた小熊は、顔色を変えて、 「そんなキーは知らない。おれのものではない」  ホテルの上層階にはレストランやバーもある。小熊はあくまでも自分のあずかり知らぬキーだと言い逃れるつもりらしい。  さっそくそのキーに該当する部屋が調べられた。  そして、その部屋のベッドで首を絞められ、虫の息になっている貴代子が発見された。  新開が応急の人工呼吸を施した。  救急車が呼ばれ、人工呼吸を続けながら貴代子は病院に運ばれた。  事件はにわかに殺人事件の様相を帯びてきた。だが、小熊はあくまでも貴代子が発見された部屋とは無関係だと主張した。  棟居は小熊がキーを落としたところを確認していない。ホテルのフロント係の印象にも残っていない。 [#改ページ]  |愛ゆえの鎖《トウルー・ラブ・チエーン》  小熊利明があくまでも無関係と言い張る以上、小熊と犯行現場を結びつけるものはなかった。  ただ、小熊は犯行時間帯に犯行現場の部屋のある上層階のエレベーターから降りて来ただけである。  捜査陣が窮地に追い込まれそうになったとき、小熊の所持品から有無を言わせぬ物証が発見された。  小熊は鋭利な刃物で剃《そ》り取ったらしい一塊の性毛を持っていた。  棚川貴代子の局所には明らかに鋭利な刃物で切り取られた性毛の痕跡《こんせき》が認められた。  厳密な対照検査にかけるまでもなく、双方の性毛が符合することは視認できた。  小熊利明はその場で緊急逮捕された。  貴代子は酸欠状態が長く続いたために、昏睡《こんすい》が続いていた。  貴代子の身体が有無を言わせぬ物証となって、小熊は犯行を自供した。  尾沢保子の指にからみついていた毛髪も小熊の頭毛と塩素、色素量などが符合して同一人物のものと鑑定された。 「棚川貴代子の口を封じようとしたのは、重岡と石本を殺した際、現場の近くで彼女とすれちがったからです。  重岡を殺して現場から逃げ出すとき、彼女と初めて会ったのですが、川島洋子かとおもいました。  洋子によく似たコールガールがいることは重岡から聞いていました。自分も呼ぼうとおもって重岡から名前と連絡先を聞いておきました。  重岡を殺したときは、貴代子と偶然出会ったとおもったのですが、石本を殺す直前にも現場の近くで貴代子と出会ってしまったのです。それで彼女は私の犯行であることを察知したのではないかと脅威をおぼえるようになりました。  貴代子の居所を偶然、友人の前田から聞き、彼女とのデートをキャンセルしたと知って、彼女が在宅していることはまちがいないとおもって、その居所へ行ったのです。前田の名前を言えばドアを開けてくれるかもしれないとおもいました。  その時点では彼女の反応を確かめたいとおもっただけで、殺そうなどとは考えていませんでした。  それがまちがえて、貴代子の隣室へ入り、ベッドで眠っていた女を揺り起こそうとすると、なにを勘ちがいしたのか突然騒ぎ出されてうろたえ、口を塞《ふさ》ごうとして喉《のど》を絞めてしまいました」 「被害者はおまえが突然侵入して来て、首を絞めたと言っているが」 「ちがいます。騒がれてうろたえ、口を閉ざそうとしただけです」  加害者の供述と被害者の訴えは噛《か》み合わず水掛け論になった。 「なぜ棚川貴代子に会おうとしたのか。わざわざ彼女の居宅へ行かなくとも、呼び出せば会えたはずではないか」 「彼女が川島洋子ではないことを確かめたかった。呼び出したのでは、素性を偽っている虞《おそれ》がある。その居所へ行って、棚川貴代子であることを確認したかった」 「犯行現場の近くで二度も姿を見かけられているのに、わざわざ相手の家へ訪ねて行けば、ことさら記憶を呼び覚まして危険ではないか」 「犯行現場で川島洋子に見かけられたのではないかという強迫観念が、自然に足を棚川貴代子の居宅に向かわせていました」 「そのとき殺すつもりがなかったのが、なぜ貴代子をホテルへ呼び出して殺そうとしたのか」 「パーティで彼女に会ったとき、マスクを付けていたがすぐにわかった。そのとき、彼女が偶然参加したのではないとおもった。彼女は私に疑いをかけて、私に近づいて来たとおもった。パーティの主催者から、彼女がパーティの参加者の名前を調べていると聞いて、彼女が私を探っていることを確信した。  パーティ参加者リストを調べている段階では、まだ私の素性を突き止めたわけではあるまい。突き止める前に彼女の口を封じなければならない。そうおもって呼び出した」 「闇汁《やみじる》パーティで参加女性の一人が首を絞められたが、あんたの仕業だろう」 「絞めたつもりはなかった。相手がなぜか悲鳴をあげかけたので口を押さえたつもりがおもわず手に力が入りすぎたのだとおもう」 「石本を殺したとき、犯行前に彼女に姿を見られているにもかかわらず、なぜ犯行を中止しなかったか」 「石本のマンションの玄関ですれちがったときは意識が犯行に集中していたために貴代子であることに気がつかなかった。  また彼女が石本の部屋から出て来たということを知らなかった。犯行後、彼女とすれちがったことに気がつき、彼女が犯行前、石本の部屋にいたことを確信した」 「棚川貴代子がどうしてあんたがパーティに出席することを知ったとおもったのかね」 「主催者が洩《も》らしたとおもった。いまにしておもえば疑心暗鬼だった」 「なぜ、重岡と石本を殺したのか」 「丸井恵利子を紹介してくれたのは重岡だ。重岡とは卒業後、ずっとつき合ってきた。重岡は私が恵利子を殺した犯人であることを察知していた」 「なぜ恵利子を殺したのか」 「彼女に性毛を要求して、手ひどく断られた上に罵《ののし》られてカッとなり、衝動的に首を絞めてしまった」 「石本はなぜ殺したのか」 「石本と重岡は連絡があった。重岡は私とつき合っていることを石本に話していたそうだ。石本に重岡殺しが私の仕業と察知されて、恐喝されていた。重岡も石本も私の将来の安泰のためには、いずれ排除しなければならない敵だった」 「なぜ排除しなければならない敵なのか。二人は小学校時代の同級ではないか」 「小学校時代、熊木|数雄《かずお》をリーダーにして悪ガキ四人組をつくっていた。六年生の最後の夏休みに、同級の女生徒川島洋子を四人で輪姦《りんかん》した。洋子はすでに性毛が生え揃《そろ》っていた……熊木のイニシアチブの下に、我々は洋子の性毛を剃《そ》り、木の枝でその身体を弄《もてあそ》んだ。そのときの経験が原因で、私と重岡は屈折した性傾向の持ち主になった。正常な状態では性行為が営めない。レイプの形を取ったり、女性の身体を剃毛《ていもう》したり、異物を用いて弄んだりしなければ満足することができなくなってしまった。  我々三人は熊木の子分になっていたが、彼の暴力と専横を憎んでいた。熊木は我々を奴隷として扱っていた。  その熊木が川島洋子をレイプした後、川へ水を飲みに行って頭に落石を受け、虫の息になって我々に救いを求めた。そのとき、三人に共同の殺意が一瞬のうちに成立した。我々は熊木を救うかわりに、河原に転がっていた石を一個ずつ熊木の頭に投げ下ろした。  落石から辛うじて命を拾った熊木に、我々三人が止めを刺した。三人は共犯者として秘密を共有した。このことはだれにも言うまいと、その場で約束を交わした。  当時十二歳の殺人は責任能力がなく、仮にあったとしても時効が完成しているが、熊木を殺したことは、その後、我々半生の共通の負担になっていた。熊木と川島洋子がその後我々の人生を拘束する枷《かせ》となった。  私は山本喜三郎の女婿となって彼の地盤を引き継ぎ、次の総選挙には出馬する予定になっていた。  責任能力のない時代の行為とはいえ、熊木を殺したことは政治家として致命的な汚点となるだろう。  立場が対等な間は共犯者の連帯は強いが、その均衡が崩れたとき、共犯者の存在は脅威となる。私は重岡と石本が次第に鬱陶《うつとう》しくなっていた。  そんな時期、出馬を控えて最も慎重に身を律しなければならないときに、重岡に誘われて丸井恵利子を呼び、衝動的に彼女を殺してしまった。これが、それまで潜在的に蓄えてきた二人に対する殺意を引き出した形になった」  小熊利明の自供によって一連の事件は一挙に解決した。  事件は二十年前の犯人の忌《い》まわしい体験に根ざしていた。  だが、犯人の自供の奥に、捜査本部も犯人自身も知らぬ事件の真相が隠されている。  犯人が熊木に重傷を負わせた落石と呼んだものは、新開ら四人組が熊木目がけて投げ落としたものであった。  落石ではなく「投石」であったことを小熊、重岡、石本の三人は知らない。  また犯人の自供によって明らかにされるまで、新開ら四人組は熊木を殺したのは自分たちとおもいこんでいた。  その秘密を共有して今日まで生きてきたのだった。  小熊は殺人の罪で起訴された。  起訴後も貴代子の昏睡《こんすい》は続いている。小熊利明ら三人組が熊木に止めを刺したように、貴代子は自分の身体を小熊を仕留める物証として用いたのである。  小熊の自供によって意外な真相が明らかになった。  新開ら四人組は、二十年前の殺人の共犯の呪縛《じゆばく》から逃れた。  だが、新開の駆けつけるのが遅れたために、貴代子を植物状態にしてしまった。回復の可能性は少なく、症状は予断を許さない。  川島洋子の鎖は依然として引きずっている。  ここに貴代子の鎖を付けられて、新開は二重の鎖を引きずることになった。  事件落着後、新開はある一事におもい当たって慄然《りつぜん》とした。  小熊、重岡、石本が共有した少年時代の秘密は、新開ら四人組が分け合ったものと同じであった。つまり、新開たちと小熊らのグループはたがいのコミュニケーションのないまま、同じ秘密を共有していたことになる。  ということは、小熊が仲間を殺した動機は、新開グループにも発生する下地があったということである。  小熊グループに起きたことは、新開グループにも起きたかもしれない。  新開らは終生の秘密としてその共有と、小熊グループに対する復讐《ふくしゆう》を誓い合った。  だが、その誓いを果たさぬうちに小熊グループは自滅した。  川島洋子に卑怯者《ひきようもの》のレッテルを貼《は》られ、いま新開は棚川貴代子を失ってしまった。  かわって得たものは二本の鎖である。その鎖を引きずって、これからの人生を歩いて行かなければならない。  おもえば長い道程《みちのり》であった。  貴代子の周辺で起こった殺人事件は、次の殺しを招き、さらなる犯行を呼んだ。  新開は捜査の過程で、幾度となく性の荒野を見た。そのかなたに幼いころの新開自身の性の源流があった。  新開は、人生の不思議と男女の果敢《はか》なさをおもった。  もう川島洋子の幻影を追うこともあるまい。そして貴代子もまた二度と帰って来ないだろう。二本の鎖は、生涯、新開を縛ることになるにちがいない。新開は、愛と屈辱の鎖を重く引きずりながら性の荒野を行く自分自身を見ていた。  事件解決後、新開は奥野、布川、中田の三人に会っていない。共有する秘密を失って、彼らの連帯も失われた。  それは少年期の喪失であると同時に、ついに果たし得なかった約束に対する訣別《けつべつ》であった。 本書は、一九九八年五月に刊行されたカドカワ・エンタテインメントを文庫化したものです。 角川文庫『夢の原色』平成13年5月25日初版発行           平成14年7月30日5版発行