[#表紙(表紙1.jpg)] [#表紙(表紙2.jpg)] 森 博嗣 少し変わった子あります 目 次  少し変わった子あります  もう少し変わった子あります  ほんの少し変わった子あります  また少し変わった子あります  さらに少し変わった子あります  ただ少し変わった子あります  あと少し変わった子あります  少し変わった子終わりました [#改ページ]   少し変わった子あります      1  もともとは後輩の荒木《あらき》から聞いた話である。掴《つか》みどころのない内容で、つまり短いフレーズでは容易に還元できない情報だったためか、流れるままに引っ掛かるものもなく、記憶の海の浅瀬にも留まらず、ずいぶんと深みにまで沈んでいたようだ。だから、荒木が行方不明だと聞かされるまで、私はすっかりそのことを忘れていた。  一年半ほどまえ、荒木がドイツへ在外研究員として短期留学する直前に、私は彼と会った。場所はしっかりとは覚えていないが、最初に食事をした料亭からタクシーに乗って繁華街へ出て、ビルの地下にあるパブに入ったように記憶している。いつもそうなのだが、荒木が知っている店らしかった。そのときに、たしかにその話を彼から聞いた。  固有名詞は出なかったように思う。おかしな店がある。否《いな》、店という実体はなく、場所はそのつど借りているらしく、方々を転々と移っているという。接客に現れるのは三十代の女将《おかみ》が一人だけ。何の店なのか、と尋ねると、よくわからない、と荒木は答えるのである。ただ、料理を食べ、酒を飲むことはできるらしい。 「まあ、強《し》いて言うならば、静けさが売りものですかね。たった一人でゆっくりと食事ができる。他の客と顔を合わせることもない」  なんだ、つまりは高級料亭の類《たぐい》か、と私は思った。しかし、問題は料理以外のことだという。 「食べ終わって茶を飲んでいると、女将が挨拶にやってくる。今日の料理はいかがでしたか、と尋ねられるから、うん、美味《うま》かったよ、と答えるのですが、それでは話が終わってしまう」荒木は、そこで変な笑い方をした。知らない人が見たら、呼吸器系の具合でも悪いのか、と勘違いするだろう。しかし、それが彼の笑い方なのだ。 「終わったら、いかんのかね?」私は尋ねた。 「まあ、なんというのか、すっきりとした美人でしてね」 「その女将が?」 「ええ」彼は口を斜めにして頷《うなず》く。 「よく、話がわからんが」 「こういうときには、どういったらいいのか、客にも客の技というものがあります」 「技?」 「そう。いろいろな技がありますが、まあ、一番肝心な客としての心得は、常に注文をつけること」 「なるほど。しかし、注文ならば、食べるまえにすることだろう?」 「いやいや、それが素人なのです」  普通、客は素人である。しかし、荒木の話はまだまだ続く。 「コツを教えましょう。具体的な注文をしてはいけない。それでは、すぐに対処されてしまうし、そのうちこちらもネタが尽きてしまう。そうではなく、もっと抽象的で、自分自身でさえ、いったい何を自分は求めているのかわからない、ただ、今食べたこの料理、今現在のこの持て成しは、僕が求めている本当のものに非常に近いような気がするものの、しかし、やはりなにかがたしかに違うのだ、という具合にですね、こう、難しい顔をして、首を横にふるのですよ」  荒木という男は、そんなわざとらしいことが自然にできる人物なのである。後輩ながら、こいつにはかなわない、と日頃から感じるところが多かった。 「面白いのは、まだこれからです。そういう我《わ》が儘《まま》を、そうですね、四、五回繰り返していたところが、ある日、女将にこう言われてしまった」荒木は、そこでにやりと笑うのである。「先生がお求めになっているものは、どうやら料理ではございませんね」  急に真面目な顔で、眉毛を一瞬持ち上げ、荒木は私を斜めに睨んだ。  非常に馬鹿馬鹿しい話であるが、このときは荒木はもちろん、私だって適度に酔っている。どうやら料理ではない、というそれは、いったい何なのだ、と考えて、仄《ほの》かな緊張を禁じ得なかった。 「で、どうなったんだね?」私はしびれを切らして尋ねた。 「おそらく、僕自身もそうではないか、と疑っていたところだよ、と話してやったのです」艶《つや》の良い皮膚に皺《しわ》を寄せて、荒木は笑う。「しかしながら、言葉ではどうしても言い表せない。近いことは感覚的にわかるのだけれど、自分は何を欲しいのだろう? そう言ってやったのです」 「まあ、君の言いそうなことだ」私は少し呆《あき》れてしまった。 「ところが、ここからが、その店の凄《すご》いところなのです」荒木は片目を少しだけ細くする。顔の半分が社会主義体制のため、痒《かゆ》くても掻《か》くわけにいかない、といった表情であった。「では、今度いらっしゃったときには、先生のお食事におつき合いする者を、ここへ呼ばれてはいかがでしょうか、と女将は言う」 「なんだ」私は数センチ顔を後退させる。「そんなことか」 「まあまあ」荒木は片手を広げた。「僕も、それなりに、その方面の経験は積んできたつもりだから、そんなことで驚いたりはしない。つき合いといって、どういうつき合い方をするのか、なにか新しさ、あるいは珍しさがあるかもしれないじゃないですか。まあ、こういうときにはですね、黙って……、うんと無言で頷く、それが旦那というものだと」 「君は旦那なのか?」私は少し吹き出した。 「自覚はしていますよ」口の片方をぐっと持ち上げる荒木である。「それで、またその次に、同じ店へ行ったときです。約束どおり、一人出てきました」 「若い女性だろう?」 「そのとおり。期待どおりで申し訳ありません」 「老婆とかだったら、面白かったのにな」私は言ってやった。「いちいち横から、料理の食べ方なんかを講釈されたらうんざりする。しかし、なかなかの一興ではないか?」 「そう、そういったのもね、実は予測していました。引退した爺さんの板前さんがやってきて、食材について細々《こまごま》とした解説をたれるのではないかって」 「で、どんな子だったね?」 「うーん、それがまあ、なんというのか、普通のどこにでもいる女の子ですよ。そう、研究室にいる連中と同じくらいの年頃かな、特に特徴もなくて、まあ、それはそれで、自然な感じで、悪くはないのです」 「大学生か? そんなに若かったのかね?」 「わからない。女の歳というのは、十の単位でさえ怪しいものです。とにかく、その子と一緒に食事をすることになりました。で、何の話をするのかと待っていたら、黙々と食べ続けるだけで、なにもしゃべらない」 「ほう……」私は唸った。「それは面白いな」 「面白い? そうかな。まあ、たしかに、この、食べ方というか、箸を持つ手や、茶碗を持つ手が、なかなか見応えがありましたけれど」 「なんだ、それは?」私はまた身を乗り出した。「何を観察しているのだ、君は? わからんな。なにかの研究テーマか? そんな対象に興味を持っているのかね?」 「いやいや、全然」荒木は面白そうな顔で首をふった。 「どんな話をした?」 「二、三言葉を交わしただけかな。こちらも、面白いから黙っていた。だいたい、黙って静かに食べるのが、僕は好きな方だから……。そのときの場所は、竹林の庭に面した部屋だったな。そうそう、筍《たけのこ》の料理だった。うーん、三月頃か」 「しかし、単に食うだけでは、料理が二人分必要になる。つまりは、そういうシステムで金を余分に取ろうという商売かね?」 「そう、二人分を請求されます。いや待て、よくわからない。すべてをまとめて請求してくるから」 「いくらくらい?」 「いや、そんなにべらぼうに高くはない。うーん、そのときどきで、食べたものによっても料金は様々だし。その子の取り分がいくらなのかもわからない。ただ、そうやって人を呼んで、二人で食べるようになって、確実に料金は高くなった」 「なんだ……。君はもう何度もそれをしたのかい? その子が、そんなに気に入ったってわけだ」 「違うんですよ。だって、毎回、違う子が来る。二度と同じ子は来ないのです」 「ほう……」 「それは、もう最初からそうで、絶対的な崩しがたい条件らしい」 「何故?」 「さあ……」荒木は首を捻《ひね》った。「まあ、そんなことは向こうの勝手だし。僕には理由はわからない。うん、たとえば、つまり、旬《しゆん》は一度だけ、ということではないでしょうか」 「何を言いだすんだ? え? 料理を一緒に食べるだけではないのかね?」 「そちらこそ、何を考えているんです?」荒木はまた不敵に笑った。「なにもないですよ。本当に本当に、まったくない。皆無。ただ、黙々と料理を一緒に食べるだけです。わりと話をする子もいれば、ほとんど話さない子もいる」 「わからんなあ。君の言っていることが、どうも私には理解できないよ」 「僕も、わけがわからなかった。何なのだ、これは、と考えましたね。二人分の料金を支払って、別にフィズィカルな変化はなにももたらされない。相手に触れることさえないのです」 「何故、断らなかった?」私は尋ねた。「どうして、そんな無駄を何度も?」  おそらく荒木はなにかを隠しているのだろう。でなければ、どう考えてもメリットがあるとは思えない。若い女性と話をしたり、一緒に食事をするくらいの機会ならば、いくらでも他にあるだろう。極端な話をするならば、我々の職場には、若者が沢山いる。牧場に牛がいるのと同じくらい沢山いるのだ。講座で指導している学生の半数は女性である。一緒に食事をする機会だって珍しいことではないはず。大勢ならば飲みにいくことも日常茶飯事。指導のとき、個室で二人だけになる、などごく普通のことだ。こういった方向へ考えること自体おかしな話だが、すなわち、それほど平生の状態と変わったところがない、という比較例である。 「うーん、それはつまり……」荒木は目を細め、くしゃくしゃの銀紙のような掠《かす》れた笑みを浮かべた。「これこれこういう理由です、と言葉では表現できない。逆に、そこに価値がある。そこに核心があるのだ、というしかないと」 「ふうん」私は少し笑ったと思う。「眺めているだけで心が和《なご》むほどの絶世の美女だったら、わからないでもないが」 「違う違う」荒木は首をふった。「そんな俗っぽい趣向ではないのですよ。そう、それでは全然方向性が違う。もっと、なんというのかなあ、アートなのですよ」 「アート? それはまた驚きだね。アートというならば、つまりは、絶世の美女じゃないのか」 「違う違う。小山《こやま》さんはそうなのかもしれないけれど、僕は違う。まあ、一度でいいから、ためしに行ってみればいい。紹介しましょう」 「そうだね、では、一度連れていってもらうことにしようか」 「ああ、すみません。連れていくのはできないのです。その、客は一人でなくては駄目で、二人ではいけない」 「へえ、そういう決まりなわけ?」 「そうです」  そんな会話をしたのが一年半まえのこと。その後、荒木はドイツへ渡り、私はこの変わった店のことを思い出す機会もなかった。荒木とは、メールのやり取りを一カ月に一、二度の割合でしていたが、それらは大学の雑用の類のものばかりで、彼もあちらでどんな暮らしをしているのか、ほとんど語らなかったのである。  約一年後に荒木は帰国した。大学内で一度見かけたが、会議の席上だったため、お互いに片手を上げて遠くから挨拶をし合った程度。そして、その後は姿を見かけなくなった。きっと溜まっていた仕事に忙殺されているのだろう、と気を遣って、こちらから連絡をして誘うこともあえてしなかった。ところが、本当に姿を見ないことが気になり始めた。学内でも、彼が出てきていないことが話題になる。病気かもしれない、という噂も流れた。荒木は独り身であり、自宅への電話もつながらないと事務の者は話す。  おそらく、誰かが調べたのだろう。ついに、行方が知れないという状況が公になり、警察にも通報されたらしい。それがまだ一カ月ほどまえのことである。警察の人間は私のところへもやってきた。もちろん私はなにも知らない。ただ、彼らと話しているうちに、荒木から聞いた店のことを思い出したのである。  ただし、これは警察には黙っていた。そして、警察が帰っていったあと、私はコンピュータのメールボックスを捜し、荒木から届いた古いメールを調べた。彼が通っていたその店の電話番号を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。      2  大学の教官という職業は、世間が考えているほど暇ではない。研究や教育、授業や学生の指導に忙しいわけではなく、学術以外の雑事が多すぎるのである。三日ほど、落ち着いて電話をかける暇もなかった。会議が終わった木曜日の夕方、研究室で一息つき、私は煙草に火をつけて時計を見た。七時少しまえだった。窓の外は真っ暗だが、夜はまだ浅い。電話をかけてみることにした。  問題の古いメールをディスプレィに表示させ、それを見ながら、ナンバを押した。数回のコールで、相手が出た。 「はい、どちら様でしょうか?」上品な発声の女性だった。 「もしもし、あの、初めて電話をするんですが、私は、そちらのことを荒木という男から聞きまして……」 「ありがとうございます。失礼ですが、お名前をお伺いできますでしょうか」 「あ、小山です」 「はい、小山様ですね、たしかに荒木先生から、承っております」 「え? それ、いつのことですか?」 「はい、もう、そうですね、一年、いえ、もっとになりますでしょうか」 「荒木君、そちらへは最近行ってませんか?」 「ええ、残念ですが、ずっと、おいでいただいておりません」 「そうですか……。あ、あの、一度、私もそちらへ行こうか、と思っていたのですが、いつ頃ならば、あいていますか?」 「ご都合の良いときに、是非お出かけになって下さい。こちらはいつでもけっこうでございます」 「たとえば、今夜でも?」 「はい、もちろんでございます」 「ああ、そうなんですか……」私は少し驚いた。しかし、平日である。こんなものかもしれない。「それじゃあ、一時間後くらいに行きましょう。あ、そうか……、えっと、場所を知らないんですよ。どこですか? 遠くだったら、一時間じゃ行けない」 「先生は、今、大学ですか?」 「あ、ええ」 「そちらから、車で十五分くらいのところでございます。お車を手配いたしますので、どれくらいあとがよろしいでしょうか?」 「私のいる建物が、わかりますか?」 「はい、大丈夫です。伺っております」 「えっと、では、三十分後に」 「承知いたしました。正面のロータリィに車を待たせておきます」 「どうもありがとう。あ、そうそう、えっと、カードは使えますか? あまり現金の持ち合わせがないので」 「はい、ご利用いただけます」 「じゃあ、お願いします」 「お待ちしております」  受話器を置き、私は煙草を吸った。  荒木は、私の名前を出したようだ。しかし、客が紹介した人物の名前を覚えているものだろうか? そもそも、一年半もまえのことなのに、荒木の名前を記憶していたことも驚きである。よほど贔屓《ひいき》にしていたということか。  時間が来るのが待ち遠しかった。二十五分後に部屋を出て、研究棟の階段を下りていった。建物はひっそりと静まり返っている。照明が灯った事務室の前を通り過ぎ、ホールから出ていくと、ロータリィに黒いタクシーが待っていた。  車に乗り込み、運転手に行き先を尋ねた。町名は聞いたことがある。たしかに遠くではない。  静かにメインストリートを南下した。運転手は無口だった。しばらく町中を走ったのち、山手の住宅地に入る。そういえば、荒木の自宅もこの近辺だ。店で彼のことをもう一度尋ねてみよう。なにか情報が得られるかもしれない。もしかして、女将は彼のことを知っているのではないか。  私は、店のことをいろいろと想像した。どんなものを出すのだろう。それに、荒木が話していた掴みどころのない話も大いに気になった。一緒に料理を食べる女たちのことだ。もちろん、今夜はそれはない。それはオプションだろう。  明かりが遠くなり、しばらく細い道を入っていく。タクシーが停まった。 「ここ?」 「ここです」運転手はドアを開けた。私が財布の用意をする。「いえ、料金はいただいております」  私は車から降りた。板塀が左右に延び、目の前にはこぢんまりとした門があった。看板などはなく、僅《わず》かな明かりが奥に見えるだけだ。門の小さな木戸を押すと軽く開く。インターフォンの類はない。入っていって良いものか、多少|躊躇《ちゆうちよ》したけれど、ほかに選択肢はないように思えた。庭石が敷かれているのが見えるほど、目が慣れてくる。門をくぐり、私は明かりの方へ近づいた。一段高いところに玄関が見えてくる。その戸が、ゆっくりと開き、白っぽい和服姿の女が敷居を跨《また》いだ。 「いらっしゃいませ」ゆっくりと頭を下げた。 「どうも、小山です」私は名乗る。  靴を脱いで、狭い通路を奥へ案内される。襖《ふすま》を開けた部屋は八畳間の座敷だった。反対側は縁、そしてガラス戸。外は暗くて見えない。部屋はぼんやりとした照度。中央に艶《つや》やかなテーブル。鶯《うぐいす》色の座布団が二つだけ敷かれていた。私はその一方に座り、振り返って床の間の水墨画を眺めた。女将は、入口の近くに座して、改めて挨拶をする。 「なにか、お召し上がりになりにくいものがございますでしょうか?」彼女は最後にそうきいた。 「ああ、いえ、なにも」私は首をふる。  女将が部屋から出ていき、私は一人残された。テーブルには、手拭きと茶が出ていた。一口飲んでみたが、上等ではあるものの、ごく普通の煎茶だった。  非常に静かで、もの音は何一つ聞こえない。他の部屋に客はいるのだろうか。調理場はどこなのだろう。この部屋へ案内される途中には、それほど部屋数があるようには思えなかった。普通よりも多少大きな民家といって良い。通路も狭く、店舗として作られた建築物でないことは明らかだ。そもそも、この店の名は何というのだろうか。荒木も、それは言わなかった。  数分すると、女将がまた現れ、テーブルに箸や皿を並べる。漬けものが多かった。びっくりするような料理ではまったくない。 「店のことをきいても良いですか?」私は尋ねた。 「はい」正座をし、膝に手をのせ、小首を傾《かし》げて彼女は私を見る。このときようやく、この女の顔を観察することができた。おそらく三十代後半であろう。特に特徴のない、整った顔立ちである。 「この店の名は何というのですか?」 「はい、それをよくお尋ねいただくのですが、店の名はございません」 「うん、やはりそうか。なにか、案内というのか、パンフレットというのか、そういったものはありませんか?」 「ええ、申し訳ございませんが、なにも……」 「場所は、どこですか? いつも、ここ、というわけでもないのですね?」 「はい、さようでございます。こことはかぎりません。方々でそのつど営業させていただいております」 「それじゃあ、案内も作れないわけだ。名前がないのでは、看板も出せない。ああ、ということは、店の許可も取れない?」 「はい、実はそのとおりです」女将は困った顔をする。 「おお、そうか」私は吹き出した。「それは、困った問題だね。いやしかし、私はいっこうに気にならない。変なことをきいて失礼した。気を悪くしないでもらいたい」 「いえいえ、そんな」女将は恐縮した様子で頭を下げた。「お客様にご迷惑をかけるようなことは、絶対にございませんので、どうかご安心いただきたいと存じます」  私は頷いた。 「では、もうしばらく、お待ち下さい。ただ今、支度をしております」 「ああ、ちょっと……」腰を浮かせて、立ち去ろうとする女将を、私は呼び止めた。 「はい」彼女はもう一度、同じ場所に座り直す。 「実は、荒木君のことを尋ねたいのだが……」 「はい、どういったことでしょうか?」 「彼の行方を捜しているのです」 「え? といいますと?」 「いや、どこにいるのか、みんなが捜している。行方知れずでね」 「まあ、そうなのですか?」片手を口もとに当て、女将は目を丸くする。「あの、ドイツからは、お戻りになられましたでしょうか?」 「そう、帰国はしている。そのあとだ」 「荒木先生にこちらへ最後にお越しいただいたのは、一年半もまえのことで、そのときは、これからドイツへいらっしゃるので、しばらくはここへはお越しいただけない、というお話でございました。小山先生をご紹介いただいたのも、そのときでございます」 「帰国後は、一度も来ていないのだね?」 「はい」 「店でなくても、彼を見かけたことはないかな?」私は尋ねた。この質問は、実のところ、口にすることに抵抗があった。「彼の家は、この近くだと思う」 「いいえ、ございません」女将はゆっくりと首をふった。「お店以外で、お客様とお会いするようなことはございませんので」 「うん、そうか、なにか知っていることがあれば、と思って尋ねたのだが、やはり、駄目か……」 「はい、残念ですが」 「失礼ついでに、もう一つだけききたいのだが……。ああ、どうか気を悪くしないでほしい。私は、ただ友人の行方を捜しているだけで、他意はない。もちろん、この店へ来たのは、それが目的ではない。荒木君がドイツへ渡る以前から、ここの噂を聞いていて、是非一度来てみたいと考えていたのだからね」 「はい、それはもう……」 「その、彼の話によると、ここでは、食事のときに、一人ではなく、その、部屋へ店の人が来て、二人で食べるのだとか……」 「ああ、はい」女将は頷き、嬉しそうな表情になる。「ええ、それは、荒木先生のご指摘で考案した新しいメニューでございます」 「メニュー?」 「さようでございます」 「今夜は、それはできないの?」 「いえ、ご用意いたしましょうか?」 「ああ、では是非」私はすぐに頷いた。 「承知いたしました。なにか、お好みがございますでしょうか?」 「え? うーん、どうかな」私は意識して表情を硬くした。「いや、特にその……、うん、苦手もないし。だいいち、私は、よく、そのメニューとやらの意味がわからなくてね。それは、何というメニューなんです?」 「名称はございません」女将は優しい表情で目を細くする。 「そうか、なかなかに名付けがたい代物というわけだね?」 「お察しのとおりでございます」 「とにかく、お任せしよう」私はそう言うと、深呼吸をするようにゆっくりと呼吸を一度した。「いやね、私が言いたかったのは、荒木君と会ったことのある人のうち、誰かが、彼の行方を知らないかな、ということだったのだが……」 「いえ、それも……」彼女は首をふった。「お客様と、お店以外で会うことは、うちでは絶対にありえないことでございます」 「そういう決まりなんだね?」 「はい」 「しかし、こう言ってはなんだが、その決まりを破って、内緒で会っている、という可能性はないだろうか?」 「ございません」にこにこと微笑みながら、女将は答えた。  そう言われると、それ以上に追及することは憚《はばか》られた。女将はお辞儀をして出ていった。  一度会って意気投合し、その後個人的につき合いのある人間がいないともかぎらない。もちろん、そういった詮索をすることは私の趣味ではないが、彼の行方について手がかりが掴めるかもしれない、と思った。だが、別の私はもっと冷静である。荒木の行方を捜して、いったい何になるというのか。犯罪に巻き込まれたわけでもなかろう。彼は彼の判断で行動をしているにちがいない。友人といえども、いろいろ探り出して追跡することは、逆に彼の願わない状況とも思えるのである。人に説明できることならば、ちゃんと話しているはずで、それができない理由がある、ということではないか。  襖が開いて、女将が盆に椀を二つのせて現れた。そして、通路にもう一人女性が立っている。色|褪《あ》せた細いジーンズを穿《は》いた普段着の若者だった。どこにでもいる大学生、といった感じである。  女将は部屋に入り、テーブルに椀を並べる。若い彼女も、部屋に入り、膝をついて襖を閉めた。女将は、彼女の横に座り、改めてお辞儀をする。 「こちらが、本日ご一緒させていただきます者でございます」女将は紹介する。 「よろしくお願いいたします」ジーンズの彼女も頭を下げた。      3  私は蓋を除き、椀を手に取った。しかし、目はテーブルの向かい側に座っている彼女を捉えている。正座し、畏《かしこ》まった姿勢で下を向いていた。 「ああ、どうぞ、食べて下さい」私は言った。 「はい、それでは、いただきます」彼女は頭を下げ、箸に手を伸ばす。 「名前は、きいても良いのかな?」 「いえ、名前はありません」彼女は緊張した表情で答える。か細い震えるような発声だった。 「そうか。それは失礼した。すると、年齢も含めて、プライベートなことは一切不問なのだね?」 「申し訳ありません」下を向いたまま、彼女は話す。 「いやいや、こちらも、ここのルールが今一つ飲み込めなくてね。今日が初めてだから」 「私も初めてです」 「うーん、そうか」  その後も、料理が次々に運ばれてきた。主として魚をメインとした純和風の食事で、上品で美味《おい》しいことは明らかなのだが、これが最上級と絶賛するほどのものではない。そもそも、私は料理というものに対して、かつて一度も絶賛したことがない男なのである。したがって、この点ではいたしかたない。  目の前の彼女は、こちらの質問にはちゃんと答えるものの、自分から話し始めることは一度もなかった。それも、そういったルールが存在するのかもしれない。  一見、よく見かけるタイプの女子学生風。調理場で皿洗いのバイトでもしていたのかもしれない。客の相手をするならば、もう少し気の利いた服装があるだろう。いかにも、急遽《きゆうきよ》間に合わせて出てきた、という格好にも思える。ただ、もちろんこれも、そういった演出と考えられなくもない。  ただ、しばらくして気づいたことが一点ある。それは、彼女の食事のし方に関してだった。箸の使い方、茶碗の持ち方を含め、その仕草が実に様になっている。非常に洗練されている、とでもいうのか。仕事柄、近頃の若者を多く観察しているため、その差は歴然だと感心した。つまり、彼女は、この上なく上品な仕草で、食事をしているのだ。それに気づかされたあとは、ずっと、その一つ一つの動作に見入ってしまい、そのいずれもに、頷かせるものがあることを発見した。初めてだ、などと話していたが、そんなはずはないだろう。こうして、見知らぬ客の前で食事をすることに慣れているのか、それとも、徹底的な訓練を受けた結果なのか、あるいは、たまたま今回の彼女が育ちの良い令嬢なのか。  なるほど、これは気持ちの良いものだな、と私は感じた。こういった美しい仕草を身近に見られることは、一人分の食事代を上回る価値であるにちがいない。そうか、こういうことだったのか、と少し考える。  しかし……、  はたしてこの程度のことで、何度も店に通おうとするだろうか。食べる様を眺めるだけで楽しめる人間がそんなに大勢いるとは思えないし、商売として成立するとは、とうてい考えられない。  幾つか言葉を交わすうちに、デザートが運ばれてきた。茶を飲みながら、その淡い甘さを楽しみつつ、私は彼女にきいてみた。 「なにか、君の方から話したいことは、ないのかい?」 「はい、そうですね……」両手で湯飲みを持ちながら、彼女は多少斜めに視線を上げる。「とりとめもないお話でも、よろしいでしょうか?」 「ああ、もちろん」私は微笑んだ。 「では、思い切って、先生にお話ししようと思います」このとき、初めて彼女は顔を真っ直ぐに私の方へ向けた。  それは、たしかにそのとおり、とりとめもなく、たわいもない、昨夜彼女が見た夢の話だった。  夢の中で、彼女はある特定の遊園地へいつも出かける。それは現実には心当たりのない場所で、大きなテーマパークだという。各種のパビリオンが建ち並び、そこでしか手に入らないような商品を扱う小さな店も多い。しかし、このテーマパークの一番の呼びものは、そこにゴジラが現れる、というイベントだった。 「ぬいぐるみのゴジラが?」 「いえ、違うんです。大きな本もののゴジラがやってくるんです。それで、建物を実際に壊したりして、大暴れをするんですよ。遠くから、こちらへ向かってのそのそ歩いてくるのを眺めているだけで、もうとっても恐くて、どきどきしてしまいます」 「そりゃあ、恐いな」私は頷いた。「しかし、それが見せものなんだろう?」 「そうなんです。つまり、上映されているのと同じで、誰も逃げません。きゃあきゃあと悲鳴を上げてはいますが、みんな競って、よく見える場所へ詰めかけて、ゴジラを見上げているんです」 「ふうん。君も、それを見ているのだね? ゴジラが好きなんだ」 「いえ、私は、正直に言うと、少し恐いから、あまり近づかないようにしています。だって、いつ裏切って、人に襲いかからないともかぎりませんから」 「まあ、そうだね」 「ですから、すぐに地下へ逃げ込める場所で、怖々《こわごわ》眺めているんです。でも、だいたいは、何事もなく終わって、ゴジラは次の出演場所へ行ってしまいます。熱心なマニアの人たちは、それを追いかけて大移動するんです」 「なるほど、それは、わりと現実的な夢だなあ。いつも、同じ場所で、同じイベントがあるんだね?」 「そうです。でも、少しずつは違います。壊す建物が違っていたり、他の怪獣を連れてきたり。ああ、一度は、ゴジラが来ないで、代理でキングコングが来たことがあります。近くまで来たとき、観客からブーイングが起こったくらいです」  彼女は、真面目な表情で話した。しかし、特に熱心にというふうでもない。本当に、ちょっと見てきた話、くらいのフィーリングだった。  そこへ女将が現れ、お開きになった。時計を見ると、ここへ来て二時間が経過している。  女将が座ってお辞儀をした。ゴジラの話をした彼女は、私に挨拶をして、部屋から出ていった。あっさりとしたものだ。まるで、食べ終わった皿を片づけるような手際である。 「いかがでしたでしょうか?」女将はきいた。 「うん、美味しかった。ごちそうさま」そう答えたものの、私は、荒木の言葉を思い出していた。「でも……、そう、もう少し、何だろうなあ、うーん、ああ、いや、どう説明していいのかわからないけれど、うん、そうですね、また来ましょう」  女将もくすっと笑う。 「是非、またお越し下さいませ」  門を出るとタクシーが待っていた。来たときとは違う車だった。私はそれに乗り込んで、自宅まで帰った。  なんのことはない、特に変わってもいない。しかし、どことなく楽しかったような気がする。そんな小さな印象が残った。  これは何だろう? 何が違うのだろうか。  彼女のゴジラの話は面白かったが、これも特別な刺激でもない。酒場でたまたま隣に居合わせた他人から聞いた話と変わりはないだろう。多少酒が入っているから楽しめたものの、素面《しらふ》だったら、面白くもない話にちがいない。もう一度、是非とも彼女に会いたいという感情もわかなかった。それくらいあっさりとしている。この評価は、そのまま料理にもいえることだった。非常に上品だが、印象は薄く、どうしてもまた食べにいきたい、というほどのものではない。  不思議である。  何故、荒木はあの店に通ったのだろう?  私は、どうしようか?  もう一度くらいは、行ってみようか。  たまたま今日は外れだったのかもしれない。別の子を見てみたい気もする。  その夜は、いつもよりも早く床に就き、気持ち良く眠ることができた。  翌朝目を覚ましたとき、私は見ていた夢を思い出すことができた。夢を思い出せるのは、久しぶりのことだ。  ゴジラが出てくる遊園地の夢だった。  彼女から聞いていたおかげで、私はそれほど恐がらずに、落ち着いてゴジラを眺めることができた。それでも、実物の迫力はもの凄かった。こんなに面白い夢も珍しい。起きてから、しばらく、夢の中の出来事を思い出そうとしていた。  そう……、  地下へ下りていく階段があった。  そこを入っていくと、小さな店が沢山あって、玩具や菓子や古本など、懐かしい品々を店先に並べていた。  階段の下に、彼女が一人立っていて、出口の方を見上げている。私もそこで振り返った。  空が見えて、煙が見えた。  ときどき、ゴジラが顔を出す。  トリミングされているので、まるで映画のようだ。  もう一度振り向くと、彼女はいなかった。あたりを捜してみたけれど、どこにもいない。覚えているのは、ジーンズの色と形ばかりで、その子がどんな顔だったか、私は思い出せない。 [#改ページ]   もう少し変わった子あります      1  人がものを食べているときの様というのは、眺めていて気持ちの良いものではない。極端な言い方をするならば、それは殺生《せつしよう》の動機に出会うようなものだ。消化という、つまりは究極の破壊行為の予備段階である。したがって、日頃上品ぶっている人間でも、食事のときになるとつい下品さを露《あら》わにすることが多い。そこまでいかなくても、些細《ささい》な本質が垣間《かいま》見えて、幻滅を感じることにもなろう。だから、できれば避けたいところだ。汚いものを見たくはない、という心理に近い。こうした理由によって、食事のマナーというものが成立したと理解できる。  そうかといって、私は自分の食事のし方が上品だというつもりは毛頭ない。自分でもそんなふうには思っていない。それどころか、ついぞ気にしたことさえないのだ。私は、平均的で庶民的な普通の家に育った。決して上流階級ではない。そういった世界は書物や映画の中でしか知らない身分である。ただ、この歳になると、ときどきはなにかの間違いから、ハイソサイエティの空気に触れる機会もあって、そのたびに、自身に対する仄《ほの》かな恥ずかしさとともに、身につかないまでも、できるかぎりはその種のものを真似て、死ぬまでには多少の落ち着きを得たいものだ、とは願っている。  それだから、若い頃に比べれば、多少はましな食事のし方ができるようになっているのでは、といったくらいの自負はあった。誇れるレベルのものではないが、恥ずかしくない程度に、という意味である。恥ずかしくないように生きることは、なかなかに難しく、またそれこそが人の生《せい》の本道とも思えるのだ。子供のときには、相当に腕白な少年だった私が、このような穏やかな人間になれた理由は、今考えると、とにかく世の中、恥ずかしいことが多すぎる、という一点に帰着《きちやく》しているように思えてしかたがない。  さて、大学院の入試の仕事が一段落した頃、私はまた例のあの店へ足を運ぶことになった。例のあの店、などという仄めかしたような言い方をしなければならないのも、この店に名前がないためである。「名前のない店」という名称で呼ぶのが一番妥当かもしれない。名前どころか、場所さえも決まっていない。連絡するための電話番号があるだけだ。そういえば、あの女将《おかみ》の名前も知らない。おそらく、きいても教えてはもらえないだろう。そんな気がする。 「もしもし、小山《こやま》ですが……」 「あ、はい、先生、どうもお世話になっております」 「えっと、明日なんですが、お邪魔をしようかと思って電話をしました。都合がつきますか?」 「はい、けっこうでございます。何時頃がよろしいでしょうか?」 「まえと同じ時刻で」 「承知しました。では、夕方の七時半に、そちらの正面のロータリィで」 「車が来るんですね?」 「はい、さようでございます。あの、小山先生、なにかご注文がございますでしょうか?」 「うん、いや……、まあ、まえと同じようにしてもらえば……。えっと、その、料理はお任せしますよ」 「承知いたしました」 「それじゃ、お願いします」 「お待ちしております」  残念ながら、電話では彼女に名前を尋ねることはできなかった。考えてみたらこれは非常に難しい。普通、料亭の女将に名前などきいたりしない。どうやって切りだせば良いだろう。これは、今後の課題ということにしておこう。  翌日は、朝の目覚めも良く、体調も良好、仕事もてきぱきとこなすことができた。躰《からだ》に新しい潤滑油でも注入したみたいだった。これは俗にいう、うきうきしている、という状況かもしれない。このところ、うきうきするような事態などまったくといって良いほどなかったから、この感覚自体を忘れていたようだ。  夕方の六時頃には雑用もすっかり片づけてしまい、私は時間を持て余して、ついに机の上の整理を始めた。それが終わっても時間があったので、不要になった書類を紐《ひも》でしばって廃品回収の場所まで運んでいったところ、生協の食堂から戻ってきたのだろう、うちの講座の助手に見つかって、「どうされたんですか?」などと言われてしまった。他人から見ても、普段と様子が違うと判明するようでは、少々まずいだろう。これを教訓に、今後は慎重にならねば、と気を引き締め、残りの時間はデスクで学会誌を読んで静かに過ごすことにした。  約束の時刻にロータリィへ下りていく。既にタクシーが待っていた。私がシートに乗り込むと、運転手は軽く頭を下げて、すぐに走りだした。キャンパスを出たところで、行き先を尋ねようか、とも思ったけれど、どうせ到着すればわかることではあるので、黙っていることにする。  日は暮れていた。ぼんやりと風景を眺めながら、私は荒木《あらき》のことを少しだけ考えた。彼はまだ行方不明である。学内でもときどき問題にはなっている。しかし、どうすることもできない。このままの状態が長く続けば、教室としてなんらかの手を打たねばならないが、しかし、過去にも、こういった事例はあった。特に珍しいことではない。極端な例では、二十年間も大学に一度も来なかったという職員もいたくらいだ。この頃では、そんな悠長なことはいっていられないだろうが、しかし、まだまだ一般の会社に比べれば変な職場である。  私には、明日にも荒木がひょっこり現れるのではないか、という楽観が何故かあった。彼はそういう男なのだ。なにかの探求のため、辺鄙《へんぴ》なところに籠《こ》もっているのだろう。否《いな》、それはおそらくは名目であって、きっと一人で籠もっているのではない、誰かと二人で……、というのが、順当な予測である。  予想していたよりも早く、到着した。 「ここ?」私は外を見ながら尋ねた。 「はい、こちらのビルの地下です」運転手は答える。  繁華街である。私もよく知っている町だ。表通りに面したビル群。正面のビルの一階はシャッタが下りていた。その横に階段がある。奥にはエレベータも見えた。歩道は人通りが多かったが、この時刻に営業しているような店はなさそうだ。その手の商売はすべて裏通りである。看板を探したが、それらしいものはない。薄暗い階段は踊り場の先が折れ曲がっていて見えなかった。知らない者は絶対に下りていかないだろう。後ろにタクシーが走り去る音を聞きながら、私は階段を下りた。      2  暗い通路の先に、ほんのりと黄色い明かりが灯っていた。近づくと、格子の引き戸があり、そこからも淡い明かりが漏れている。手前には小さな草木が植えられていて、竹もあった。明かりが落ちたところはコンクリートではなく、いつの間にか四角い石と白い砂利で、いずれも細やかに光を反射している。水を張ったばかりのようだった。戸口に、白い和服姿の女将が立っている。彼女は優雅な仕草でお辞儀をした。 「お待ちしておりました。どうか、お足許にお気をつけ下さい」  玄関を入り、私は靴を脱ぐ。室内は明るく、驚いたことに、通路を進むと中庭が現れた。地下なのだから、完全に人工的な造園であろうが、しかし夜の風景としてはまったく自然に見えた。その中庭に面した座敷に案内された。八畳間である。奥に床の間があって、笹と黄色い細かい花が飾られていた。空気がしんと静まりかえっている。 「ああ、凄《すご》いね。こんな場所があるのか」私は座布団に座りながら言った。「もともと、料亭があったのかな?」 「ええ、つい先日、閉店したばかりの店ですが」 「こんな場所で、こんな品の良いものをやっても、商売は成り立たなかっただろうなあ」 「そのようでございます」女将は、私の前に湯飲みと手拭きを置いた。  潰《つぶ》れた料亭の場所を借りて営業をしている、ということだろう。考えてみたら、なかなか上手《うま》いやり方かもしれない、と私は想像する。店を構えるよりも、こういった場所を借りて、上客だけを相手にする商売の方がリスクがないだろう。ただ、食材を仕入れ、料理を作る、といった手間は変わらない。そのあたりがどのようになっているものか、興味がわくところである。一度、厨房《ちゆうぼう》を覗《のぞ》いてみたいものだ。  女将は、テーブルに二つの茶を用意した。私の向かいの席にはどんな女が来るのか、それを考え、私は深呼吸をしたくなったが、ぐっと我慢をする。こういったときに、人間の本性が現れるものだ。注意しなければならない。  女将は相変わらずの涼しげな表情で、実に整った顔立ちをしているのだが、まじまじと観察しても、どこにも特徴を見つけられない。事実、こうして会って初めて、ああこの人だったな、と思い出せる。そういう顔なのである。他の場所で見かけても、気づかない可能性が高い。  料理について、幾つか好みをきかれたが、いずれも私には主張するところがなかった。そもそも、メニューといったものが、ここにはないのである。女将が下がろうとして襖《ふすま》を開けると、いつの間に来たものか、通路に若い女が立っていた。白いブラウスに茶色の地味なスカートで、まったくの普段着である。髪は長く、銀縁のメガネをかけていた。色白で化粧が薄い。とても接客の仕事をしているとは思えない大人しさだ。女将の手招きに応じて部屋に入ってくると、座って頭を下げた。その仕草は申し分ない。 「よろしくお願いいたします」 「ああ、どうも、こちらこそ」私は明るく答える。  女将ももう一度お辞儀をしてから、通路を戻っていった。若い女は、私の対面に座った。顔を下へ向けている。私は彼女をじっと観察した。いくつくらいだろう。二十代の後半か。このまえの女よりは少し歳上の印象である。 「どうぞ、まあ、お茶でも飲んで」私は言った。 「恐れ入ります」彼女は頭を下げる。 「今日は、いつこちらへ?」私は変な質問を思いついた。「突然、呼び出されたわけですか?」 「はい」彼女は頷《うなず》く。しかし、それっきり言葉はなかった。  私が電話をしたのが、昨日だから、そのあと指名されたのだろう。どうやってこういった人材を確保しているのか。商売のシステムが想像できない。不思議な店である。 「まあ、そんなに硬くならず、なにか、面白い話でもありませんか?」 「いえ、特には」女は顔を上げて、苦笑した。 「たとえば、今日は何をしていました?」 「私ですか? いえ、特になにも……。はい、家にずっといました。掃除をしたり、本を読んだり……」 「仕事はしていない?」 「いえ、掃除は、仕事です」 「あ、まあ、そうだね」私は吹き出した。そのとおりである。「どんなものを読むのですか?」 「特にその……。読書といっても、雑誌をぱらぱらと捲《めく》っていただけです」 「変なことをきくけれど……」私は思い切って質問してみた。「女将の名前は何ていうのか、知らない?」 「あ、いえ……」彼女は首を傾《かし》げる。「私は知りません」  本当に知らないという顔だった。自分の名前も知らない、と言いそうだ。本人の名前は、きいても教えてもらえない、というルールは前回で学習済みである。しかし、名前がないというのは、どうにも落ち着かないものだ。 「じゃあね、君は、僕のことをどれくらい知っているのかな?」 「小山先生ですよね?」 「うん」 「それだけです」彼女は少し微笑んだ。片手を上げて、指先でメガネを直した。 「たとえば、歳とか、聞いてこなかった?」 「はい、なにも」 「いくつに見える?」 「はい」彼女は顔を上げて、私をじっと見た。視線は意外にも力強い。「五十代ですか?」 「うん、ぎりぎり……。勤め先とかは?」 「いいえ、存じません」 「そうか……」 「お互いに、個人のデータを交換することで、人間関係が築かれる、とお考えでしょうか?」 「いやいや、そんなことはないよ」私は思わず笑いそうになった。彼女の質問が急に違う角度から飛んできた球のように思えたからだ。理屈っぽいことが好きなのかもしれない。 「では、もう一つ質問をしよう。君が今、自分に対して抱いている問題点があったら、聞かせてほしい。その問題の解決に、いくらか役に立てるかもしれない」 「はい」彼女は姿勢を正して、座り直す。考えている様子である。  しかし、そこで通路から足音が聞こえ、やがて襖が開いた。女将が料理を運んできたのである。二人の会話はここで中断してしまった。私は少し残念だった。料理を食べにきているのに、既に、見知らぬ女との会話に気を取られている自分に気づく。      3  前菜と汁物に箸をつけた。彼女は黙ってそれを食べたが、予想していたとおりの上品な箸使いで、椀を持つ腕の形も良かった。しばらくはそれを眺めているだけで私は満足し、会話は再開しなかった。料理について二、三の言葉を交わした程度である。女将が現れたときにも世間話をしたが、その場限りのものだった。  そもそも会話というものは、すべてその場限りのものである。相手の人間性やバックグラウンドの情報が蓄積しているように錯覚しがちだが、ちょっとした印象でその程度の蓄積は一変してしまうのだから、結局は日々別々の人間に会って、とりとめもない話をしていることと紙一重といえる。  魚の刺身が盛られた舟も運ばれてきた。なかなかに美味《うま》い。どこで捕れたものかはききそびれてしまった。だいたい、私は魚の種類の判別も覚束《おぼつか》ない。美味《おい》しいのであれば、それで良いではないか。名前を知っても、その美味しさが増すわけでもない。  なるほど、同じだ。  つまり、この店や女将や、そして目の前の彼女も……。  なにかしらの発想を掴《つか》んだような気がした。つまり、名前に価値があるのではない。言葉に価値があるのではない。これまで、本質からは外れた情報ばかりを求めてきたように思える。 「あの、私の問題点を、お話ししても良いでしょうか?」彼女の方から話しかけてきた。 「ええ、もちろん」私は待っていたとばかりに頷いた。「どんなこと?」 「はい……」彼女は箸を置き、両手を膝の上で合わせた。姿勢良く私を真っ直ぐに見据えている。「よく言われるのです。お前は、ものごとを具体的にしか見ない。具体的な話しかしない、と。もっと何事も抽象的に捉えなければならないのだ、と、そう言われるのですが、でも、それがどういうことなのか、私には、その、よくわからないのです。つまり具体的に私はどうすれば良いのかが、思いつかないのです」 「ああ、なるほど……」私は頷いた。そして、またも思わず微笑んでしまった。面白い、と感じたからである。「それは、なかなか具体的な問題だね」 「そうでしょうか?」 「そういう指摘があった、という事例を挙げた点が具体的だよ」 「どうすれば、抽象的になりますか?」 「しかし、誰から指摘があったのか、どんな場面でそんな指摘を受けたのか、また、何故、君がその指摘に対して自分に問題があると判断したのか、という点の説明を省略していることは、それなりに抽象的だと思えるけれど」 「あ、では、既に抽象的なのですね?」 「僕には、君が具体的な話しかしない人には見えない。たとえば、どんなことを話したときに、そう言われたのかな?」 「そうですね、嫌いなことは何か、許せないことは何か、と尋ねられたので、アイスクリームのカップに付いてくる木でできたスプーンが嫌いだ、と答えました。あれを舌と前歯でしごくときの感じは、思い浮かべるだけでぞっとします」  彼女は眉を顰《しか》め、首を竦《すく》めるようにして、その嫌悪感を示した。本当に嫌いなようだ。 「なるほどね、それは、たしかに具体的だなあ」 「ですけど、嫌いなものも、好きなものも、すべて具体的なものではありませんか?」 「いやいや、具体的なものだと、私も思うよ」 「どうして抽象的にしなければならないのでしょう? そもそも抽象的にする意味は何ですか?」 「そう、ただね、あまりに具体的だと、相手がびっくりしてしまう、というだけのことではないだろうか。抽象的にして、そのものずばりではなく、わざとぼかして話をすることが、上品だとされているわけだ」 「ああ、そうか、なるほど、驚かしてしまうわけですね」彼女は唇を噛んで頷いた。「それは本意ではありません」 「一種の優しさみたいなものだろうね」 「ええ、わかります」 「しかし、具体性が必要なときもある。具体的な例を挙げなければ、説明できない概念もある」 「私の場合は、そちらの方が多いと思えるんです。ですから、抽象化が難しい、それができない、と感じるんです。そこに問題があるのでしょうか?」  次の料理が運ばれてきたので、会話はそこで途切れた。アカデミックな話題ではないか、と思えたけれど、この種の話は、私にしてみれば特に変わったものではない。同僚などとも、一度は話したことのあるテーマではないか。むしろ無駄話の範疇《はんちゆう》だ。だがしかし、この年頃の女性が食事中に、しかも初対面の人間を相手にして持ち出す話題としては、いささか違和感は拭《ぬぐ》えない。つまりは、そこに、微妙にスリリングな空気が感じられる、というのがその場における私の分析だった。  食事はおおかた終わり、次はデザートが来るのだろうと思った頃である。テーブルの向こうの彼女が、また自分から話を始めた。 「お食事のときに、話題にするようなことではないと承知しているのですけれど、どうしても、先生に聞いていただきたいことがあります」 「ああ、もちろん良いよ、どんな話でも」 「網戸《あみど》の隙間《すきま》を通るような、とても小さな虫がいることをご存じでしょうか? 羽根があって、飛びます。もの凄く小さいんです」 「ああ、いるね。生物の分野には疎《うと》いのでよくは知らないが。明かりの周りなんかに集まるやつでしょう?」 「そうです」彼女は笑顔で頷いた。「あれは、すばしっこそうですが、寿命が短くて、もう死にかけているのか、テーブルの上などを這《は》っているところへ指を出しても、逃げません。実に簡単に潰されてしまうんです」  彼女は私の顔を窺《うかが》った。 「すみません、不愉快ですね? こういった話題は」 「いや、どういった話題なのか、まだわからないよ」 「別に大したことではありません」神妙な顔つきで、メガネ越しに上目遣いに私を見据えている。「それに、特に、その、ここでお話しするようなことでは……」 「その小さな虫がどうかしたの?」私は話の先を促した。 「はい」彼女は小さく頷く。またも上目遣いに私を見つめて、判断に迷っている様子である。「その、私の部屋は二階なんですけれど、すぐそばに大きな銀杏《いちよう》の樹があって、たぶん、その樹のどこかで、その小さな虫が沢山湧いて出るのだと思います。いえ、実害はなにもないのです。ただ、部屋の中の明かりに誘われて、沢山迷い込んできます。ときどき机の上にもやってきて、私が本を読んでいると、そのページの上にも乗ったりするんです。だから、つい、その、追い払おうと指を出してしまいます。すると、逃げることもなく、あっけなく潰されてしまうのです。そういう生命力のない虫なんです。明かりの周りにも沢山死んでいます。掃除機で吸い取っているんですが……」  彼女はそこで言葉を切った。私は茶を飲んだ。不快な思いはしなかった。また別に、その話が面白いとも思わなかった。この場に相応《ふさわ》しくない話題という気も起こらなかった。彼女はおっとりとした話し方だが、今までの口のきき方の中では一番熱が籠もっているように思えた。 「それで?」私は少し微笑んで尋ねた。「気にすることはない、話したいことを話せば良い」 「はい……、その、指で潰して、そのあとは、ティッシュで指を拭き取ります。でも、わざわざ手を洗いにいくことはしませんでした。二階には手洗いがないので、面倒だからです。ところが、そんなことを忘れてしまい、つい、その指を口に持っていくことがあります。その、ええ……、指を噛む癖が私にはあるんです。すいません、汚い話で……」 「うん、誰にもあるだろう、それくらいの癖は」 「それで、苦《にが》いな、と最初は思いました。指が苦かったんです。その味で、虫のことを思い出しました。もちろん、ほんの少しでした。とても少しなんですけれど、でも苦いし、微《かす》かに香りがしました。それがきっと、その潰された小さな虫の味、そして匂いなんだと思います」 「うん、まあ、虫を潰して粉にして、煎《せん》じて飲む、といったことは、漢方といわず、どこでもあることだと思うよ」 「あ、そうなんですか。やっぱり、そうですよね。ええ、生きものなんですから、それは魚のお刺身を食べるみたいなものだと、私も考えました。あの……、それから、何度か、私はその味を試すことになったんです。それくらい日常的に、その虫は私に潰されているんです。私の方もすっかり慣れっこになってしまって、ああ、また私の指、虫の味がする、と思う程度になってしまったんです。独特の、少し苦くて、そして奇妙な匂いがします。子供のときに一度だけ、祖父から仁丹《じんたん》というものをもらって口に入れたことがあるのですが、あれに似ていると思います。私、そのときは泣きだしてしまって、それを口から吐き出したんですけれど」 「ああ、仁丹ね。あれは、まあ薬の一種だから」 「そうなんです、薬って、虫の味がすると思います。どうして、あんなに苦いものを口に入れるのだろうって、不思議に思っていましたけれど、大人になると、その苦さが、逆に躰に効きそうに思えて、心強いっていうか……。そう、煙草だって、苦いものでしょう?」 「ああ、苦いね。なんだろう、つまり、苦くて不味《まず》いものは、自分の躰の中にいる悪い奴らにも苦いはずだから、その苦さで、そいつらを追い払ってくれる効果がある、という考えなんだろうね」 「でも、煙草は苦いのに、それを吸い続ける人が多いわけですから、なにか、その苦さに魅力が生まれるということはないでしょうか?」 「常習性というやつかな」 「はい、私も、その、知らず知らずのうちに、その虫の味に慣れてしまったというか、どうも指を噛んだときに、その味がしないと、少しもの足りないって感じるようになってしまったんです」 「なるほど、それは、ちょっと困った問題だなあ」 「やっぱりそうですか?」 「まさか、その虫の味がしないと、落ち着かない、ということはないだろうね?」 「うーん」彼女は目を細め、視線を逸《そ》らした。  どうやら、そのレベルにはもう達している、ということらしい。返事に窮《きゆう》している様子である。  女将がまたやってきた。デザートは果物だった。黄色の瓜《うり》と、あとは梨《なし》が添えられている。私たちが話の途中だったのを察知したのか、女将はなにも言わず、静かに頭を下げて出ていった。襖が閉まり、通路を歩く音が遠ざかる。ここがビルの地下だということを私は思い出した。あまりにも静かすぎることの不自然さのためである。  瓜は新鮮で美味しかったが、これは昆虫が好きな味ではないか、と想像する。子供の頃の虫籠《むしかご》の匂いが思い出された。明らかに、さきほどまでの話題のせいだ。 「それで、君は、私にどんな相談がしたかったのかな」彼女が黙っていたので、私の方から尋ねた。口に出してから、その言い方は厳しくはないか、突き放しているように思われはしないか、と私は少し心配になった。 「いえ、その……」一度視線を上げて私を一瞥《いちべつ》し、すぐに彼女はまた下を向いてしまう。 「たとえば、今お話しした、こういう私の状態を説明するとき、どんなふうにすれば、抽象的になるでしょうか? 話が具体的過ぎるということは理解できますけれど、だからといって、どんなふうに言い換えれば、具体性を抑えて、しかも正確に状況を伝えることができるのか、私はそれが知りたかったのです」  彼女のその返答に、私は驚いた。  非常に理にかなった疑問だ。私は即座にそう評価した。正直に言うと、彼女がここまで理路整然とした思考をしているとは認識していなかったのである。だから、感心するとともに、少なからず焦《あせ》りを感じた。目の前の女性は、間違いなく才女だ。むしろ、計算し尽くしているとさえ思えてきた。客の私を試しているのかもしれない。飛躍しているようで、実に筋の通った論旨《ろんし》であり、そんなトリックで私を翻弄しようとしているのではないか。考えるほど、そして、目の前の彼女の白い顔を眺めるほど、その疑いは確信へと変わっていくように思えた。 「それは、たしかに難しい問題だね」私は余裕を見せるためにそこで微笑んだ。私がこの数十年間で身につけたことといえば、冷静さを装う技術だけである。「時と場合による。そもそも、君が何故、その問題を相手に伝えたいのか、伝えることによって何を得ようと求めているのか、を示す必要があるだろう。その期待の度合いによって、要求される抽象性が異なったものになるからだ」 「いえ、私はなにも得たいとは考えていません。ただ、多くの場合、人はコミュニケーションを求めます。そうすることで一時の安心が得られるからでしょう。コミュニケーションの目的の大半は、その行為が成立する場にあると思います。そんな中で、相手がいろいろと私に尋ねてくるのです。それで、なんとなく、自分の内側を少しは公開しなければならないのか、という気持ちになる。不安はあります。でも、なにも打ち明けないで話をすることの方が罪悪感を覚えるのです。そんなことはありませんか?」 「いや、わかるよ。よくあることだ。一般的な心理といって良いだろう。自分だけが知っていることを相手に伝えることで、親しみを持ちえたと感じることができる。相手も、秘密を打ち明けてくれた、その行為に関して親しみを抱くだろう。秘密を共有するという連帯感から発しているものだ」 「そうなると、より具体的に話さなければ、秘密の秘密たる価値は薄れてしまいますよね?」 「そのとおりだ」 「すると、結局、抽象的にものごとを表現することは、情報をベールに包むことですから、相手から距離を置こうとする、よそよそしさを感じさせてしまうんじゃありませんか? 抽象性は相手に対する優しさだ、と先生はおっしゃいましたが、どちらが本当でしょうか」 「どちらも、本当だ。それは、会話だけでなく、人間関係の極めて本質的な問題といえる。ここだ、というところに答はない。常にそのバランスを取らなくてはならない。そういうものではないかな。どちらかが真というものではないと思うね」 「今の先生の発言は、とても抽象的でした。私に対する優しさを表現されたのですか?」 「そんなに、具体的な意志を持って話したのではないよ」私は微笑んだ。これは誤魔化すために笑った、といった方が近いだろう。「いや、しかし、そうかもしれない。うん、たしかに君のいうとおりだ」 「ありがとうございます」彼女は頭を下げた。  なんという素早い理解だろう。  私は素直に感心してしまい、しばらく次の言葉が出なかった。なにも考えない数秒間が持続し、私はただ、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めることしかできなかった。  彼女は、なにかを得ただろうか。  そんなことはない。  私には、与えるものなどなにもない。  ふと視線を逸らし、私の目は、彼女の指を探していた。しかし、それはテーブルに隠れて、今は見えない。  白い細い指だ。  その指を彼女は口にくわえる。  苦い味がする指。  会話はそこで途切れ、静けさがまたしーんと部屋の中に広がっていた。やがて、通路の足音が近づき、襖が開けられる。女将が現れ、にこやかな表情で私の前に座ってお辞儀をした。 「いかがでしたでしょうか?」女将は小首を傾げてきいた。  私はまず、テーブルの向かい側の女の顔を見た。彼女は下を向き、さきほどまでの真摯《しんし》な眼差しはもうすっかりと消えていた。だが、女将の質問は料理に関してだろう、と急に思い至り、私は何を食べたかを必死に思い出そうとした。 「うん、とても良かったよ」そう言いながら、まだ料理の半分も思い浮かべることができない。「ごちそうさま」 「ありがとうございます」 「また、来るよ」      4  翌日は市内の某所で講演会だった。婦人会が主催したものだったので、参加者はほぼ女性。私は、久しぶりにスーツにネクタイといった大人しいファッションで出かけていった。OHPを何枚か見せ、当たり障りのない、一般的で、しかも身近ではない話題に終始した。わざとである。あまり、具体的で身近な話をすると、聴いている人間の誰か一人には利害がぶつかってしまい、極めて個人的で質《たち》の悪い質問を受ける羽目になる。これもやはり、抽象性による優しさを利用した手法であるが、考えてみれば、この優しさとは、相手に向けたものではなく、単に私自身が穏便《おんびん》に過ごしたいだけの道理ではないか、と気づいた。  振り返ってみると、ほとんどの優しさが、実は我が身の可愛さに根ざしているように感じられる。まったく、お優しいことだ。こういったことを考えること自体が、あまり良い傾向ではない、と判断できる。  講演の最中も、そして質問を受けている間も、私の方をじっと見ている沢山の女性たちの顔をスキャンしなければならなかった。これは意外に面倒なものだ。どこか一カ所に視線を固定することが許されない。大学の講義も同様である。ある学生の顔をじっと見たりすると、あとで変な噂が立つ。最近は、学生アンケートというシステムがあって、講義の満足度や問題点を学生が好き勝手に書けるようになっているのだ。現にそういった指摘が問題になったことがあり、注意はしているのだが、だからといって、あらぬ方向を見ていたり、また、あまりに素早くきょろきょろと視線を移動することも印象が悪いはず。ときどき数秒間止まり、次へ移る、という適度な視線の移動を心がける必要がある。この頃は、なにも考えなくても目がそう動くようになったので、多少は楽になったけれど、それでも、気を抜くと、誰かの顔をじっと見つめていたりする。  そういうときは、その人の顔に興味があるわけではなく、全然別のことを考えているだけで、むしろ、その顔とは関係のないことを頭に思い浮かべていることが多い。ようするに雑念である。疲れているときほど、目は現実を見ていない。  しかし、このときは、並んだ沢山の顔ではなく、最前列の人々の膝の上の手を幾度か見た。また、髪を直すために上がった手、質問のために挙げた手を、私の目は捉えた。  白い手の、白い指を見る。  あの指は、苦いだろうか。  そう考えている自分が、  どこか後ろの方にいるような、  そんな気がした。  壁にもたれかかり、立っている自分。  そして、  その私は、指を口にくわえているのである。 [#改ページ]   ほんの少し変わった子あります      1  世知辛《せちがら》い世の中になった、と皆口を揃えて言うけれど、どう考えても私が子供の頃の方が貧しかったし、それに比例して人々は荒《すさ》んでいたと思える。この頃、大学で若者たちに接して感じることは、とにかくみんな良い子だ、ということ。それに尽きる。女性は皆お嬢様だし、男性は皆お坊ちゃんだ。お人好しでのんびり、なにごとに対しても悠然としている。彼らを眺めていると、本当に日本は豊かになったものだな、と思わずにはいられない。けれど振り返ってみれば、いったい誰が豊かにしたのだろうか。そちらへと思いを巡らせると、競争精神を剥《む》き出しにして、あくせく働いてきた人間たちの後ろ姿が見えてくる。彼らは英雄だったろうか、それとも犠牲者だったろうか。少なくとも私はといえば、そういった世間の荒波に揉《も》まれることもなく、幸いにして常にマイペースでここまで生きてこられた。特にこれといった苦労もなく、身近で大きな不幸にも出会わなかった。なんとなく自然に結婚をして家庭を持ち、なんとなく就職し、そのまま順調に昇進した。私は自分のことを根が誠実な人間だと分析している。他人と比較しても、たぶん真面目な部類だろうと思う。真面目とは、つまり穏やかさを指向する性質のことだ。その結果として得られるものは、穏やかな人生。つまり、平凡さなのだ。  それでも、人間というものは高望みの身勝手さを誰でもが持っている、やはり自分にないものを常に求める傾向にあるようだ。たとえば私くらいの年齢になれば、手に届くような小さな希望に関しては、数々のものがほぼ達成される。したがって、簡単に手に入る楽しみはもはや残っていない。割の良い楽しみは既に消費されているからだ。すなわち、これまで避けてきたもの、ずっと手が出せなかったエリアにしか、もう残されていない状況に至っているのである。 「これまで我慢してきたのだから」と自分に言い聞かせながら、未踏《みとう》の地へ恐る恐る足を踏み出していくしかない。そんな情景がことあるごとに見えてくる。友人の中には新しいものに手を出して失敗した連中も多い。だが、大きくて深刻な失敗はあまり聞こえてこない。それはそうだろう、他人に話せる類《たぐい》のものではないからだ。微笑ましい小さな失敗ばかりが伝わってくる。そうすると、自分だけ相変わらず真面目一本槍で通していることが、取り残されているようで、どことなく虚《むな》しくて、まるで損をしているような、おかしな感覚に囚われることになる。ここまで分析して、理屈がちゃんとわかっているにもかかわらず、しばしば無性に新しいことをしたくなる。「せめて死ぬまでに一度は経験しておきたいものだ」などという言葉を独り、溜息代わりに呟いたりもするのである。  ようするに、若い頃は「あれもしたい、これもしたい」と願っていたことが、この頃では、「あれもできなかった、これもしていない」という後ろ向きになる。電車の進行方向へ顔を向けて風景を眺めていたのが若い頃、今は、過ぎ去っていく後方の風景を、遠ざかっていく風景を、後ろ向きにぼんやりと眺めているようなものだ。この視点の差が、人間を大きく二分するもののような気がする。男女の差よりも大きな違いではないだろうか。  ゼミの間、私はそんなことを考えていた。  表面的には、学生たちの発表に耳を傾け、それが終わる頃には、問題点を発見し、質問をし、アドバイスをした。私としては、もちろん軽く流しているジョブといえる。全力を傾けてはいない。全力を傾けるほどのことではない。少なくとも、その場にいる学生たちも皆、気の抜けたような眠そうな顔をしている。頭脳は完全に眠っている奴もいる。それに比べれば、私の方がはるかに誠実な態度でゼミに参加しているといえるだろう。しかし、二十代の頃の私であれば、もっと真剣に議論をしただろうし、相手の口から出る言葉に集中し、まるで穴から飛び出してくる狐を待つ猟犬のように、いつもなにかを捕らえてやろうと待ち構えていたのだ。今の私には明らかにそれがない。構えたところで、狐など出てこないことを、もう知ってしまったからだろうか。  時間が過ぎ、予定の時刻が近づくと、学生たちは壁の時計をちらちらと見始める。私も時計を何度か見た。ゼミは予定時刻に終了し、来週の予定を決めてから、解散になる。急に部屋が明るくなったかのように、学生たちは笑顔になり、立ち上がり、弾んだ声で話をしながら出ていった。一応、ドアの手前で私の方を向いて「失礼します」と言う。それはいうなれば、ドアノブを回す行為と等しい手順だろう。そのくらいの価値といえる。  一人になると、私はデスクに戻って、煙草に火をつける。煙を吐き、それからもう一度壁の時計を見た。ゼミがこの時刻に終わったら、電話をしようと決めていた。それを考えたのは、午後の教室会議のときだった。この会議があと三時間、そのあとはゼミが二時間。あと五時間だけ辛抱したら、電話をしよう、と思ったのである。今日は金曜日だ。明日は勤務がない。金曜日の夜が解放的に感じられるようになったのは、つい五年ほどまえのことである。若い頃には想像もしなかった感覚だ。  受話器を手に取る。電話番号は既に記憶していた。  コールが三回。相手が出る。 「はい、どちら様でしょうか?」ここは、向こうからは名乗らないのである。 「もしもし、小山《こやま》ですが」 「あ、はい、先生、どうもいつもお世話になっております」 「えっと、無理かと思ってかけたのですが、今夜は駄目かな? あ、無理だったら、来週お邪魔をしようかと思ってね」 「いえ、はい、ご用意できます」 「え、都合がつきますか?」 「少々お時間をいただければ、はい、大丈夫です」 「どれくらい?」 「そうですね、一時間半ほどあとでしたら」  時計を見るまでもなく、現在時刻は六時半である。 「それは嬉しいなあ。では、八時に」 「はい、承知いたしました。八時に、そちらのロータリィでよろしいですか?」 「お願いします。すみませんね、急なお願いをして」 「いえいえ、そんな……、どうもありがとうございます。先生に来ていただけるのを、本当に楽しみにしております」 「いつものコースでお願いできますね?」 「はい、もちろん、承知いたしております」  女将《おかみ》の声も口調もいつものとおりだった。この電話の短いやりとりだけで、もう今夜は充分だ、と思えてしまうほどである。私としては、今夜は彼女に断られ、月曜日くらいの予約を取りつけて店へ行く、というスケジュールを予想していたのだが、良い方に裏切られた。  それにしても、不思議な店である。これで三度めになるが、一度も断られたことはない。客は多くはないはずだ。一晩に一人、あるいは二晩に一人といった程度がせいぜいではないだろうか。女将と、料理人が一人、それに部屋へやってくる人間が一人、合計三人が、この商売で生計を立てている、と考えると、私が支払っている料金はけっして充分な額とはいえない。なにか別方面の稼ぎがあるのだろうか。おそらくそうだろう。それ以外に考えられない。普通の店を営んでいて、その片手間に、この趣味的な店を試しているのかもしれない。  灰皿の上で煙草を叩き、私は脚を組み、椅子に深く座り直した。時計をもう一度見る。静かな期待が、躰中《からだじゆう》に徐々に浸透していくのがわかる。料理が楽しみなのではない。当然ながら、今夜出会える新しい人物が期待の対象である。今夜だけ会える人物だ。その人物のぼんやりとした印象を想像した。なんの手掛かりもないのだから、具体的に思い浮かべることはできない。ただ、前例二人から類推するに、おそらくは物静かで、どことなく上品で、それでいて微《かす》かに突飛な、そんなとうてい表現しがたい雰囲気だろう。抽象的には容易に想像ができる。不思議なものだ。正体も知れず、また、掴《つか》みどころもない。それなのに、確実にそこに存在し、そして、こんなにも期待ができるなんて。その店自体が、まさにそんな仕組みなのである。      2  タクシーは坂道を上りきったところで停まった。辺りは暗く、樹木が多い。ところどころにしか明かりが灯っていなかった。古風な木造の門をくぐり、庭を奥へ入っていくと、玄関の明かりが近づいてきた。個人の住宅ではない。小規模な旅館のような建物である。だが、いつもどおり看板の類は見当たらない。私が近づくよりも早く玄関の引き戸が開き、白い着物姿の女が現れた。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」女将が頭を下げる。 「どうも……」私も軽く頭を下げた。  女将の顔をちらりと見てから玄関に入る。ああ、こんな顔だったな、と会って眺めれば思い出す。しかし、少し目を逸《そ》らせれば、もうしっかりとは思い出せない、そんな顔である。整いすぎていて、特徴がない。人形のように滑らかで、つまりは、引っかかりどころのない造形といえる。  廊下を進み、部屋まで案内されるまで黙っていた。座敷に座布団が二つ。その一方に腰を下ろし、溜息をついた。 「ここもまた、静かなところだね」 「はい」 「何の建物だったのかな?」 「さあ、残念ながら、詳しくは存じませんけれど、焼き物を作る工芸家が持ち主と聞いております」 「ふうん、なるほど」  大勢の人間を招き入れられるよう作られている。廊下の片側はガラス戸だったけれど、外は暗くてよく見えなかった。敷地の大きさから想像して、立派な庭園があるのだろうか。しかし、そういった方面に対して私はそれほど興味がない。自分のいる、ごく一部分、自分を中心とした半径五メートルほどだけが、私にとって心地良く、そして豊かな空間であれば、それで充分、なにも言うことはない、と常々考えている人間である。 「今日は、どんな料理ですか?」私は煙草に火をつけてから、女将に尋ねた。 「本日は、豆腐を中心といたしましたごく質素なお料理でございます」 「ああ、いいね」 「では、さっそく支度をいたしますので」  女将は頭を下げ、部屋から出ていった。襖《ふすま》が閉まったので、私は部屋に一人きりになる。座敷は八畳間だ。振り返ると、床の間に掛け軸。黒い魚の絵が描かれていた。鯉《こい》なのか鮒《ふな》なのか、よくわからない。  静かである。  自分が立てる音以外、なにも聞こえてこない。  しかし、やがて足音がゆっくりと近づいてきた。明らかに、女将の歩き方ではない。もっとゆったりとして堂々とした足取りだった。それが部屋の前で止まり、少し遅れて襖が開いた。廊下で膝をついている人物が頭を下げる。 「ああ、どうぞ」私は言う。  黒いセータに黒いジーンズ。髪が短い。長身でボーイッシュな女性だった。  襖を閉めてから、再び膝を折り、手をついてお辞儀をする。 「はじめまして。よろしくお願いいたします」彼女は囁《ささや》くような小声で言った。 「こちらこそ」  私の向かい側の座布団に彼女は座った。じっと黙っている。いつも、初めはこんなふうだ。向こうから積極的に話しかけてくるようなことは珍しい。そこがいかにも素人臭く、たとえ演技であったとしても、新鮮に感じられるところである。おそらくそういった指導をしているのだろう。  私はまだ煙草を吸っていた。だからというわけでもないが、しばらく黙っていた。もう三度めなので、多少は慣れたのかもしれない。慌てて話すこともないだろう。気を遣うのも馬鹿げている。だから、じっくりと目の前の人物を観察することに専念した。テーブルから上の上半身は、かなり細い。腰も腕も。顎がつんと尖《とが》っている。肌は滑らか。目は細く、少しつり上がっている。前髪は短く、横も耳は隠れていない。化粧もほとんど目立たない。二十代だろうか。少なくとも前半。まだ幼さを残した、あっさりとした風貌である。  女将が現れ、お茶と前菜をのせた細長い皿をテーブルに置いた。もちろん、二人分である。この見知らぬ若い女性に、私は食事を奢《おご》る。そういうシステムが、この店の特別コースなのである。  私は箸を取り、料理に手をつけた。そして、じっと動かなかった彼女にも料理を食べるようにすすめた。軽く頭を下げ、彼女は箸を手に取る。そのとき持ち上がった彼女の手の形に、私は目を引かれた。実に綺麗な手だった。その手が箸を掴《つか》み、指先がそっと添えられる。彼女は顔を上げない。目は私を向いていない。テーブルの上を見ている視線だった。  私は料理を食べる。貝の佃煮、練りもの、蕗《ふき》、小さな鮒寿司。そして、隙《すき》を見ては、彼女を覗《のぞ》き見た。右手の箸使い、それに添えられる左手の形。手首の角度、指の運び。それらの動きが、皿から口へ料理を運ぶ短い間に観察できる。口は小さく、唇は薄い。そこへ静かに箸の先が含まれる。  これまでにも感じたことだが、非常に美しい仕草だった。作法に適《かな》っているという意味ではない。動きが美しいのである。これほどまで綺麗にものを食べる若者を、私は他の場所で見たことがない。この店へ通い、彼女が三人目であるが、食事中の洗練された動作は三人に共通するものだ。なかでも、今夜の彼女が一番上品だと私は思った。優雅な音楽が聞こえてきそうな錯覚もある。眺めているだけで、溜息が出るほどだった。  また、女将が現れた。別の椀を運んできたようだ。袂《たもと》を気にしながら、それをテーブルの上に並べる。彼女の動きも一流のものである。 「いかがでしょうか?」座り直すと、女将がきいた。 「大変けっこうです」私は即答する。 「それはどうもありがとうございます」女将は頭を下げる。しかし、顔を上げるとにっこりと微笑み、小首を傾《かし》げる。「あの、先生、どちらが、でしょうか?」  けっこうなのは、料理なのか、それとも彼女の方か、という意味の質問だろう。 「料理は、まだろくに食べていないよ」私は笑って答える。  そのとおりだった。しかし、一方の彼女にしても、まだろくに話もしていない。挨拶を除けば、一言もしゃべっていないではないか。  私の返事を聞いて女将は目を細め、えくぼをつくるほど口の両端を持ち上げる。可笑《おか》しい、という顔だろう。何が可笑しいのかはよくわからなかったが、まあその顔を見ただけで私としても楽しくなった。女将は頭を下げ、黙ってまた部屋から出ていった。  椀の蓋を開けると、とろりとした汁に丸い豆腐が沈んでいた。熱そうである。それを箸で触りながら、私は視線を上げる。彼女はまだ椀には手をつけていない。手はテーブルの下。姿勢良く座っていた。視線はやはりテーブルに落としたまま。少し大人し過ぎる、といっても良いかもしれない。だが、そんなふうに考えている自分がまた不思議と可笑しい。実に楽しい。どうやら自分がこの上なく上機嫌であることがわかった。酒もそれほど飲んでいないのに酔ったかのようである。 「あまり、しゃべらない方ですか?」私はきいてみた。最初の質問にしては、いかにも不躾《ぶしつけ》な台詞ではないか。口にしてから、多少後悔した。 「はい」彼女は頷《うなず》く。一瞬だけ視線を持ち上げ、僅《わず》かな粘性《ねんせい》で私を捉えた。けれど、すぐにまた元の形に戻ってしまう。 「まあ、別に無理に話すこともないけれどね」私は少し微笑んだ。なんとなく、このままずっと話さなくても良いのではないか、と思えてきたのだ。  その後も、私は食事をしながら、彼女の様子をたびたび窺《うかが》った。彼女は相変わらず淡々と、とても静かに食事を続けている。けっして早すぎず、かといってのんびりとしているふうでもない。会話もせず、かといってあたりをきょろきょろと眺めるわけでもない。視線は私の方へは滅多に向けられない。じっと大人しく、上品に料理を味わっている様子である。無駄なことをなにもしていない。  しんと静まりかえった部屋には、しかし、しらけた雰囲気は微塵《みじん》も感じられなかった。微妙なバランスが奇跡的に保たれているような気がする。もちろん私自身が、この店の、この奇妙なシステムに慣れたせいもあるだろう。それともあるいは、この女性に備わった機能なのかもしれない。考えてみたら不思議である。  音楽を聴いているときに似ているだろうか。単に音が耳から入るだけで、なにもない空間、なにもない時間が、人を落ち着かせ、心を和ませる作用を呈する、それに類似した機能が、彼女の振る舞いに潜んでいるのではないか、と思えたのだ。  次に女将が運んできたのは、皿と竹の籠《かご》。しかし、その頃にはもう、テーブルの向こうの若い彼女に、私はすっかり心を奪われていたらしい。皿や籠の上にのっているものにも関心を示すことがなかった。女将も説明らしいことは言わない。そもそも最初から、この店では料理の説明をほとんどしない。それも、私が気に入っている点の一つだ。料理について、材料や製法などの説明をあれこれ受けることは、非常に退屈だと私は常々考えていたからだ。そんなことはどうだって良い。何故なら、一口食べればすべてがわかる。それ以外に料理の価値があろうはずもないではないか。  女将が部屋から出ていったとき、私はふと気がついた。人間に対しても、同じことがいえるかもしれないと。つまり、あれこれ説明を受ける必要などない。どんな名前で、年齢はいくつで、出身はどこで、どんな身分で、どんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、そういった説明的な情報によって、その人間の味わいが変わるだろうか。それが、人の本当の価値だろうか。そんな情報は、いくらでも捏造《ねつぞう》することができる。そういった情報に、普段どれだけ私たちは惑わされているだろう。  ただこうして、じっとその人間がものを食べる仕草を眺めているだけで、その人間の生き方がもっと見えてくるような気がした。きっと、他の場面よりも、食事中の様子が最もその人物を表すだろう。だからこそ、こうして静かに上品に食べられると、もうそれだけで、この人のことを好ましく感じてしまうのである。言葉の情報は簡単に作れても、この食べる仕草は簡単に身につくものではない。私にはそう思えるのだ。少なくとも、そう思えるように演出されたものであることはまちがいない。  しかし、私は二人分の料金を支払っているのである。彼女をこの部屋へ呼び、二人で料理を食べるという趣向に対して金を出しているのだ。普通ならば、なんらかの会話を楽しむだろう。それがおおかたの目的といえる。一言もしゃべらない、といった状況が成立するとは考えられない。それでは単に見ず知らずの人間に奢ったのと同じ結果といえる。否、もしかして、その心理こそ、目的だろうか? そういったケースでも、人に奢りたがる人間がいるような気もする。しかし、ごちそうさまでしたと頭を下げられるだけで満足できる人間は少数だろう。たいていは、食事中に話の相手をさせる。自慢話や苦労話をしたい、気持ち良く聞いてくれる相手が必要なのである。その労賃として食事を奢るわけだ。酒の相手などは、ほとんどこの類だろう。酒という飲みものや、それが自分の躰に及ぼす効果だけが好ましいならば、独りで飲めば良い。そうではなく、酔う者は皆、なにかを話したがっている、聞き手を求めているのだ。  ところが、この少し変わった店の場合は、明らかにその種の指向ではない。何故ならば、聞き手は一度きり、同じ人間が二度と来ないからだ。それはつまり、馴染みになりえない相手である。他人のままの相手なのだ。酒を飲んで話を聞いてもらいたい対象とは明確にずれている。  私自身、人に聞いてもらいたい話は特にない。しゃべりたいとは考えていない。以前の二人の場合も、どちらかというと私の方が聞き手だったのではないか。私にとっては、それがむしろ新鮮で望ましいものに感じられた。そして三度めの今夜、この無口な女性を前にして、一つわかったように思えた。どうやら、この店の趣向は若い女性と会話を楽しむことにあるのではない、と理解できたのである。もっと単純だ。話などしなくても良い。一緒に食事をする、ただそれだけの意味なのだ。  私は彼女が食べるところを見ている。私も彼女に見られているだろう。控えめではあるものの、きっと見られている。視線をこちらへ直接向けなくてもわかるものだ。私は、彼女を意識して、彼女がすぐ近くに存在することを意識して、食事を楽しんでいる。一人で食べるのに比べれば、それ相応の緊張をしているはず。この実に微妙な緊張感を作り出すために、彼女の存在は不可欠なのだ。  それから、私の思考は加速した。  周囲が白く明るく感じられるようになり、逆に音はますます遠のいた。私は小さなトンネルの中にいるようだった。白いパイプかもしれない。曲面状の内壁は白く輝いている。そのトンネルの先に、彼女が座っていた。こちら側には私、向こう側に彼女。私と彼女は、同じテーブルに並んだ料理を食べている。距離は近づくこともなく、離れることもない。聞こえるのは、箸が食器に触れるほんの微かな音だけ。綺麗な音色だけだった。箸は、食器から離れ、やがて彼女の形の良い口へ運ばれる。唇はそのときだけ小さく開き、箸の先を誘い入れる。そして、箸が抜き去られたあとは、ゆっくりと一定のリズムで躍動するのである。ときどき、彼女の歯が、食べものを刻む音が聞こえた。気のせいかもしれない。私の頭脳が創作した擬音《ぎおん》だろうか。自分の口の中の音の方がずっと大きいけれど、ときどきそれを止めて、彼女の噛む音を聞こうとした。微かに届く弱々しい音だ、まるで宇宙から届いた電波のように。私は耳を澄ませ、神経を集中させている。もちろん、視線は彼女の口の運動を捉えていた。その動きに合わせて届く音を探しているのである。      3  ついに食事が終わるまで、私たちは言葉を交わさなかった。目が合うことは数回。私は幾度か微笑み、彼女は少し恥ずかしそうに微笑み返す。そして、潔《いさぎよ》く視線を逸らせてしまうのだった。なにかを話さなくてはならないといった焦《あせ》りを私はまったく感じなかった。これは珍しいことだ。初めのうちは、それが自分自身の慣れによるものだと考えていたのだが、やはり、これこそが彼女の機能ではないか、と結論した。ほかの者ではこうはいかない。必ず、言葉を交わすことになるだろう。一つの部屋の中で二人が食事をしている、そんなシチュエーションで、話をしないでいられるようなことが、はたしてあるだろうか。食堂やレストランでたまたま相席になった場合ならば、無言で過ごすことがあるかもしれない。出張のとき新幹線の車中で食事をすることがあるが、隣の見知らぬ客と話をすることはまずない。間近で相手も食事をしていることがあるけれど、会話はない。それはしかし、ほかにも大勢が周囲にいる環境の場合だ。今はそうではない。ゆったりとした空間でくつろいでいる。周囲を壁と襖で閉ざされ、邪魔なものは何一つない。しかも、私の目の前にいる人物は、私が呼んだからそこにいるのである。彼女の食事代も私が支払っている。この条件下において会話をしないでいられることは、非常に特殊な状況といわなければならないだろう。  おそらく、私が話しかけ、私が問いかければ、彼女はあっさりと答えるにちがいない。それはしなくてもわかる。そういった拒絶の構えは微塵もないのである。彼女は緊張しているかもしれないが、しかしぎこちない仕草はまったく表れていない。少しも観察できない。どちらかといえば、ゆったりとゆっくりと静かに食事をしているだけだ。そして、それを眺めている私も、そのままで良い、なにも話しかけなくてもこのまま静かに彼女を眺めているだけで良いではないか、という気持ちになった。まちがいなく、これは彼女の能力によるものだ。  会話をしなくても、充分に間を持たせることができる。これはしかし、茶道などにも通じる感覚かもしれない。おしゃべりをする必要がない。無駄なコミュニケーションを排除し、時間と空間をもっと本質的なもので埋めようとする手法である。あるいはまた、絵画などの芸術においても同様の機能が見出される。美術館でおしゃべりなどしない。やはり、コミュニケーションを排除した静謐《せいひつ》さで空間が満たされているからだ。なにもない時間を消費させることが芸術鑑賞の主たる機能なのである。  なるほど、これは芸術かもしれないな、と私は思い至った。芸術が成立する条件とは、第一に、それが人間が成したものであること。第二に、無駄な消費であること。これが私の定義である。まさに、今日のこの部屋の沈黙こそが、芸術そのものではないだろうか。ただ問題は、彼女自身がそれをどのように認識し、どこまで意識して振る舞っているのか、という点である。  その興味は、私の中でだんだんと大きく膨らんだ。もし、またもう一度彼女と会うことができるならば、私はなんの躊躇《ためら》いもなく沈黙を貫くことを選択しただろう。今夜という時間だけでも、この素晴らしく純粋な芸術作品に傷をつけたくなかったからだ。しかし、この店の絶対的なルールがある。ここで会うことはただの一度しか許されない。つまり、食事が終わり、彼女がこの部屋から出ていったら、もう私は二度と彼女に会うことができないのだ。そうなると、大きく膨張した疑問の答を得ることは永遠にないだろう。  女将がデザートと新しいお茶を運んできた。これが最後だ。もう後がない。このまま、礼だけを言って、挨拶一つで美しく別れるか、あるいは彼女に質問を投げかけるか。どうしたものだろう。  しかし、いったいどんな質問ができるというのか?  貴女《あなた》は自分が黙っていることで、なにかが得られることを知っているのですか? 沈黙を楽しむことを私に気づかせようとしましたか? それは意識的なことですか? そういった自分の技法についてどのように考えていますか? 何故そうしようと思ったのですか?  幾つかのフレーズを頭に思い浮かべたものの、いずれも私の疑問をまるで言い表していなかった。駄目だ。こんな言葉では全然伝わらない。それどころか、単なる泣き言か、恨めしさから出た愚痴に聞こえてしまうだろう。口にすることさえ恥ずかしい。  言葉というものが、こんなにも不器用で、しかも恥ずかしく、みっともないものだと感じたのは初めてのことだった。  これでは、文字どおり話にならない。  質問などとてもできない。  貴女の名前を教えてほしい。生まれはどこですか? 君はいくつ? どんな家庭環境でしたか? 子供の頃はどんなふうだった? なにか好きなことは? 最近どんなことに興味を持っていますか? 今一番欲しいものは何?  そういった無駄な質問と大差がない。私が尋ねようとしていることは、それらと同じレベルだ。  馬鹿馬鹿しい。実に愚かしい。  考えるだけで腹立たしくなる。  デザートの果物もなくなった。お茶ももう熱くはない。時間は流れる。着実に。そして、やはりこのままか。なにもないままで良いのか……。  私は、じっと彼女を見た。既に、彼女の姿は仏像のように神々《こうごう》しく感じられた。綺麗だと思う。もちろん、それはセクシャルだという意味ではない。たとえば、そこに座っているのが男性であっても、ほぼ同じように美しく感じただろう。したがって、そういう意味での美しさである。人間として清《きよ》い、というニュアンスに近い。  久しぶりにまた目が合った。彼女は今までで一番長く私を見つめた。今にもその口から、言葉が飛び出してきそうな、そんな表情ではあった。そしてその期待だけで、私の躰は温まる。私は微笑んだ。とても楽しい。素晴らしい。こんなに素敵な感覚があったのか、と考える。息を吸い込み、静かに吐いた。 「ああ、美味《おい》しかった」私は小声で囁いていた。  自分の声に驚いたほどだ。  久しぶりに聞くような気がした。  すると、テーブルの向こうの彼女が頭を下げる。お辞儀をするのかと思ったら、彼女はそのまま立ち上がった。  どうするのだろう?  もう、帰ってしまうのだろうか。  立ち上がった彼女は、いかにも軽そうだった。歩く音も聞こえない。畳も撓《たわ》まない。すっと襖を開けて、廊下へ出る。さらに、廊下のガラス戸の鍵を回して外し、引き開けた。  彼女はこちらを向く。  冷たい空気が私のところへ遅れて届いた。  何だろう?  私も立ち上がり、そちらへ出ていった。  庭は暗く、背の低い樹木が近くにある。それだけしかわからない。隣家の明かりもなく、部屋の明かりが届かない領域は暗闇だった。周囲は森林に覆われているのだろうか。  しかし、見上げると、高いところにだけ、僅かに明るい夜空が見えた。しかも、うっすらとした樹木のシルエットの間に、小さく白い光がある。  月だ。  私は、頭を左右に移動させて、月がよく見える角度を探した。 「ああ、綺麗だね」私は呟いた。 「綺麗ですね」彼女は自然に言葉を発した。  なんと滑らかに出る声だろう、と感心した。  それだけである。  沈黙。  空気は冷たい。  一分ほど黙って月を眺めていたが、私が大きく溜息をもらしたのを機会に、彼女がそっと戸を閉めた。  私は部屋へ戻り、自分の場所に腰を下ろした。そちらの方が幾分暖かかった。それから、まだ廊下に立っていた彼女を眺めることにした。  左右に顔を動かしたくなる。  そうやって、彼女の姿がよく見える位置を探すのだ。  彼女は、部屋の中へは入ってこなかった。私の視線を受け止めると、その後は伏し目がちに少しだけ微笑み、次に、膝を折って廊下に座った。何をするのか、と思っていると、両手を前につき、お辞儀をする。 「本日は、ご馳走になりました。大変楽しゅうございました。これで失礼いたします。どうもありがとうございました」 「僕も……、楽しかった。どうもありがとう」私は答えた。  もう一度、お辞儀をしてから、彼女は襖を閉めようとする。私は、もう少し彼女の姿を眺めていたかったけれど、我慢して黙っていた。ところが、女将がそこへやってきたため、襖は結局閉められなかった。  女将が挨拶をするために膝をつく。  若い彼女の方は立ち上がり、そのまま廊下を去っていった。  その後ろ姿を、私の視線は最後まで追った。 「いかがでしたでしょうか?」女将がにこやかに尋ねる。 「うん」私は頷いた。「ああ」次に溜息が出た。息を吐き、それから天井を見上げる。「また、近いうちに来ますよ」 「ありがとうございます」      4  帰りのタクシーの中で、私はずっとドアのガラスに顔を寄せて、空に月を探していた。残念ながら、樹木や建物などの障害物に遮《さえぎ》られて、すぐに見えなくなってしまう。  しかし、  それにしても、  なんという暖かさだろう。  言葉がなくても、そこにいるというだけで。  あるいは……、  自分も言葉を発しなかったこと、その我慢ができたこと、それが素直に嬉しい。自分を褒《ほ》めてやりたかった。いっそのこと、本当に一言も交わさなければ、もっと楽しかったかもしれない。どんな声なのか、どんなアクセントなのか、すべて未知の方が、素敵だったかもしれない。ただ、ときどき垣間《かいま》見える月のように、ずっと遠くにあるにもかかわらず、人の心を温めることが可能なものがある。半径五メートルに拘《こだわ》ることもないか、と私は自戒した。  正直なところ、彼女に今一度会えるならば、と考えないではなかったけれど、しかし、それこそ野暮というもの。今夜の月は、きっと今夜だけのものなのだ。今頃、彼女も同じ月を見ているかもしれない。その想像にこそ価値がある、とようやくこの歳になってわかったしだいである。 [#改ページ]   また少し変わった子あります      1  私の研究室は、灯籠《とうろう》のように古びた鉄筋コンクリート造の四階にある。窓は中庭に面しているものの、あまり日は当たらない。もっとも、常時ブラインドを下げたままだ。日光を求めるような習慣が私にはない。それに、この建物では、居室も廊下も昼間から蛍光灯を灯しているのが実状である。また、私は窓も滅多に開けることがない。開けるとすれば、小雨のときくらいだろうか。晴れている日の空気は、どうも埃《ほこり》っぽい感じがして、すすんで取り入れようとは思わないのだ。暖房はセントラルヒーティングと足許に置いた小さなファンヒータを併用している。夏はクーラが一応は効くが、扇風機を使っている。毎日、私はこのような閉ざされた箱の中にいる。このシステムによって、季節や社会から隔離されているわけだ。まるで胎内のような環境に浸っている、と思えることがときどきあって、それは、どちらかというと良いニュアンスである。そんな静けさを私は願っているのだろう。何故なら、静けさが単純に生理的に好きだから、としかいいようがない。静けさとは、すなわち「無関係さ」の蓄積であって、数々の影響を丹念に一つずつ遮断《しやだん》してようやく最後に得られる「孤立」である。そこに自分だけが残るからこそ、静けさを感じることができる。それが私の安定を支えるメカニズムといっても良く、つまり、この安定によって、社会に定着しているのだから、遮断によって関係性を保持する、いかにも矛盾したシステムといわざるをえない。いずれにしても、無関係であることに価値を求める理由を、まったく論理的に説明できないのである。  そもそも、私はけっして人づき合いが悪い人間ではない。少なくともそう自覚している。だが、大勢の仲間の内にいるときの楽しさよりも、一人だけでいる時間の方がより好ましい。どちらかを選べといわれれば、迷わず一人でいる方を選ぶ。そう感じる理由を考えたことが幾度かあるのだが、それは、どちらの料理が美味《おい》しいか、何故美味しいと感じるのか、という理由を考察するような行為に等しい。確かなことは、揺《ゆ》らがない結論の存在だけである。  したがって、一日、研究室に籠《こ》もっていられる日は、この上ない「幸せ日」といえる。スケジュール手帳にも、燦然《さんぜん》と輝く空白である。そんな日は一カ月に一日か二日しかない。休日よりもはるかに素晴らしく、近づくのが待ち遠しくてしかたない。なにしろ、余分なものを注意して排除しているつもりでも、思いのほか多くのイベントが泡のように出現し、私の周りに押し寄せる。そのための準備や打合せに明け暮れ、会議と会議に会議を重ねる毎日になりがちなのだ。だから、泡のない澄んだ清水は、まさに発見された宝物のようなもの。本当に嬉しい。忙しいのがすなわち仕事なのだから、しかたがないではないか、ととうに諦めてはいるものの、ときどきは神様がご褒美《ほうび》を下さるのだな、と思えるのである。それくらい、なにも予定がない一日が、砂漠のオアシスのように決定的な価値を持つ、私のこの頃である。  さて、そんな特別な一日。朝から一人分の熱いお茶を淹《い》れ、のんびりと学術雑誌を広げたりする。たいそう良い感じである。新しい発想とは、こうした静かな余裕の時間から生まれるものだということが、どうしても理解できない連中が世の中にはいて、そういう奴らにかぎって、やいのやいのと周囲の人々を急《せ》き立てることばかりしか頭にない。やはり、新しく価値あるものを発想した経験がない連中なのだから、発想の意味や価値の意味さえ想像できないのだろう。これもまたしかたがないところである。  ところが、こういう静かな日にかぎって誰か訪ねてくるものだ。たとえば、卒業生だったり、保険の勧誘員だったり、それとも、同業者だったり。  この日は、私よりも十ほど若い、同じ分野の研究者が私の部屋を訪れた。あまり目立った研究業績を上げている人物ではないが、女性であることが珍しく、そのため印象に残り、名前も覚えていた。学会の委員会でも幾度か同席し、話をしたことがあった。近くへ出張する用事があったのだ、と彼女は語ったが、普通の出張ならば事前に予定がわかっているはずであり、アポを取るメールくらい寄こしても良さそうなものである。おそらく、年度末で余った旅費を消化するための急な出張、といったところではないか、と想像されたので、こちらもそれ以上はきかなかった。彼女が私の研究室を訪れたのは、これが初めてのことである。  外はいつの間にか雨らしく、彼女は、ドアの外に傘を置いてから、部屋に入ってきた。 「どうも突然で、本当に申し訳ありません」私がお茶を出すと、彼女はもう一度頭を下げて謝った。 「いやあ、突然の方が嬉しいこともありますよ」私は社交辞令で微笑んだ。微笑むことなど、お茶を淹れるよりも手間はいらない。「それに、今日はたまたま、少しのんびりしていたところなんですよ」 「すみません。お忙しい先生のことですから、もうすぐに退散いたしますので」 「もし時間があれば、大学の博物館がオープンしているし、あと、そうですね、中央図書を見ていかれると良いかもしれない。生憎《あいにく》ご案内をしている時間はないのですが」私は、こういったとき、絶対に相手の謙遜や遠慮を否定しないことにしている。これが、どうも取っつきにくい人物だという印象を与えるらしい。私の印象がこうして形成されているのだとすると、これは明らかに安全側であるので、改めるつもりは毛頭ない。  研究領域がかなり重なっているので、最近の動向、学会の委員会の動き、他の研究者の成果などを話し合った。ただ、お互いに関わることについては、社交辞令しか言わない。まあ、研究者といえども、それくらいのマナーは弁《わきま》えている。  その次は、大学の話になり、「変革」という名の下《もと》に行われている「鈍化」について、おきまりの愚痴《ぐち》を言い合った。 「よくも、これほどの頭脳集団を見殺しにできるものだと思います」と彼女は言った。 「見殺しというのは、いささか当たっていない気もします。見殺しにすれば、それはそれで本当の改革になる。少なくとも変革は成し遂げられるでしょう。それが自分の身に振りかかるのが恐い。見殺しにはされたくない、だから、みんなこんなに必死になって、おかしな方向へ間違った方向へ、それと知りながらも、自分たちを無理に変えようとしてきたのではないか、そう思いますけどね」 「ああ、それでは、飼い殺し、と言った方が良いですね」 「うん、しかも、その飼い殺しを、自分たち自身から手を挙げて、我さきに争ってやろうとしている、という図式だね。自分たちの立場を守りたい、死ぬまでちゃんと飼っていてほしい、という懇願《こんがん》を、あの手この手で形を変え、名前を変え、文部科学省に申請しているのですよ」 「ああ、本当に……」彼女は溜息をついた。「大学って、こんなところだったでしょうか。私が教官になった頃は、それはもう本当に大学の先生に憧れてなったものです。ようやく自分も研究者になれた。これから一所懸命頑張って一人前になるぞって、そう誓ったものですのに、なんだかこの頃は、皆さん疲れた顔をしていらして、学生が憧れるような魅力ある先生なんて、周囲を見回しても、もう一人もいらっしゃらないような気がします」 「まあ、それは、みんな歳をとったのですよ」私は笑った。「良いではないですか、憧れはどこかには存在する。その対象が大学や研究者でなければならない理由もない。駄目になれば、駄目になったで、一度|潰《つぶ》れて、また新しいものが作られるのでは?」  そんな、なんでもない話をした。二十分ほどだっただろう。 「それでは、もう……」と彼女は立ち上がり、私も、「じゃあ、また、いつかゆっくりと」などと口を合わせて、この短い歓談をお開きにすることになった。ところが、ドアを開けて、立てかけてあった傘を手に取ったところで、彼女は振り返った。 「実は、私、結婚をしまして……」 「あ、そうなんですか」私は多少驚いた。 「それで、今、新婚旅行中なのです。あちこち、その、国内ですけれど、主人と二人で廻っているところなんです」 「そうですか、それはまた優雅な」 「ええ、優雅といえるのかどうか……。いえ、どうも、すみませんでした。本当に……。それでは、失礼いたします」  彼女はもう一度笑顔で頭を下げ、ドアを閉めた。  私が驚いたのは、彼女が結婚をした、ということに対してではない。そういった方面の興味を私はほとんど持っていない。未婚であることさえ知らなかった。年齢からして、もちろん早い結婚ではない。あるいは再婚かもしれない。そんなことはどちらでも良く、また、研究者としての彼女、つまり私にとっての彼女の存在理由にはまったく影響しないだろう。そうではなく、彼女が結婚したことを私に打ち明けた、という事実が驚きなのである。それを話したのは、その点に私の関心がある、あるいは、話題としての価値がある、と彼女が推定した結果といえる。そういうふうに考える人間だということに、私は驚いたのだ。  どうも、正体のわからないものを見た、という感じに近い。  これをどう分類するのか、どこのファイルへ仕舞おうか、という落ち着かない感覚が残った。  煙草に火をつける。時間もあることなので、少しその点について考えてみようと思った。別れ際まで、それを口にしなかったのだから、メインの話題ではない……。否《いな》、そうともかぎらない。もし、こちらへ来た目的を私がもう一歩踏み込んで尋ねたら、実はこれこれ、と話すつもりだったのかもしれない。考えてみれば、訪れて開口一番切りだす話題としては、いささか滑稽《こつけい》である。結婚のことを自ら口にすることで、少なからず彼女の研究者としてのイメージを貶《おとし》める結果になるのでは、と彼女が想像しても不思議ではない。その理解は順当だ。しかし、それを押して最後には口から出てしまった、ということか。それほど、結婚という新しい状況に彼女は酔っているのだろうか、たとえば、幸せのあまり神経が麻痺しているという状況も可能性がないとはいえない。  煙を吐き出し、その流動状況を私は見上げる。考えが落ち着くところは、そのくらいだった。  こんなどうでも良いことをあれこれ考えているうちに、どういった連鎖か不明であるけれど、また例のあの店へ行きたくなってしまった。そして、その発想は、良いものだと感じられた。  この連想は、自分が異性とのコミュニケーションを無意識に求めているせいかもしれないな、と疑ったりもしたものの、どうもそんなに単純なことではなさそうである。事務員も、学生も、周りに若い女性は多いが、コミュニケーションに楽しみを見出したことなどない。  ついつい考え込む悪い癖が私にはある。深く考えるよりも、まずはデータを少しでも多く収集することが調査の基本的なアプローチといえよう。      2  今回の店の場所は、郊外へ向かう幹線道路から一本脇に逸《そ》れた道路に面した建物だった。一階は洋風のレストランである。タクシーを降り、電話で指示されたとおり、階段を探した。この階段がまたわかりにくい。薄暗い照明が、いかにも人を拒んでいるようだった。客商売がこの奥でなされているとはおよそ思えない。住み込みの従業員だけのためにあるような雰囲気なのだ。そして、やはり普通のアパートのように、無愛想な鉄の扉が並んでいる通路を歩き、突き当たりまで行き着いた。最後のそのドアも他のものと変わりはない。もちろん看板も出ていない。部屋の号数だけが頼りである。電話で聞いた番号と一致していることを確かめ、私はポケットから小さな勇気を出して、インターフォンのボタンを押した。  聞き慣れた女将《おかみ》の声が聞こえてきたときは、多少ほっとした。もう、今日の目的の半分はこれで達成された、と感じたほどである。  室内もけっして明るくはなかったが、空気は一転する。玄関は、洗い出しのコンクリートの感触で僅《わず》かに湿っている。床も壁も、そして天井も、艶《つや》のある木材が張られていた。靴を脱いで上がると、磨き上げられた木肌の感触が伝わってくる。案内された部屋は十メートルほど奥だった。襖《ふすま》を模した引き戸を開けて座敷に入った。住居を改造したのだろう。窓はあるが、磨《す》りガラスのため外の風景は見えなかった。もしかしたら、外壁ではなく単なる装飾の窓かもしれない。もし本当の窓であったとしても、隣のビルの壁が迫っているはずである。  女将は相変わらずだ。とにかく、なにもかもが整っている、という印象の人物である。着物も同じようなものに見えたけれど、しかし、おそらくは違うだろう。彼女自身も、同じように見えて、実は毎回別人かもしれないな、とおかしなことを私は考えたことがある。見るごとに、ああこの顔だったか、と思い出すのに、しかし目を瞑《つむ》るとしっかりと思い描けない。整いすぎているあまり、どこにも特徴が見出せないのである。  すべてお任せなので、注文は一切ない。彼女も、料理の内容については、一言も触れなかった。女将はお辞儀をして部屋から出ていった。  静かである。  この静寂さは、いつも変わらない。  遮断という点では同じシステムだが、何故か、研究室とはまた違うメカニズムで造形された静けさに感じられた。たとえばここでは、学術雑誌を読みたいとは思わない。実質的に静けさが作用する方向が、内外逆なのかもしれない、と私は発想する。静けさによって膨らむか、縮むかの違いだ。そのため、結果的に自分自身が裏返しになったかのごとく感じる。良い発想ではないか。  僅かな気配ののち、静かに引き戸が開く。  私は、少しだけタイムラグを意識し、遅れて顔を上げた。  盆を持っている女性が一人。お茶をのせているようだ。髪は長く小柄。グレィのワンピースで、襟と袖口が白い。大人しいファッションといえる。もしかして、料理を運ぶだけの役目の人間か、とも思えたが、しかし、やはりそうではない。部屋の中で膝をつき手を前に出し、挨拶をした。 「よろしくお願いいたします」落ち着いた発声だった。 「ああ、どうも」私は軽い返事をする。  彼女は、テーブルにお茶を置き、盆を部屋の隅へ下げると、姿勢良く座り直し、私をじっと見た。 「楽にして下さい」私は微笑んで言った。  テーブルの対面に彼女は座った。色白で丸い顔。小さく艶《つや》やかな唇が愛嬌のある形で、最も印象的な部分だった。これまで逢った中では、一番歳が上だろうか。三十を越えているかもしれない。 「よくいらっしゃるのですか?」彼女は小首を傾《かし》げて尋ねた。 「いやあ、まだ、えっと、四回めかな。貴女《あなた》は?」  質問の意味がわからなかったのだろう、首の角度が心持ち深くなる。 「つまり、その、このお店で働いて、もうどれくらいですか、という意味」 「はい。働いている、という感覚はありませんけれど、ええ、もう、そうですね、十年ほどになりましょうか。ずっとというわけではありません。ときどき、お世話になっております」 「女将さんとは、じゃあ、もう長いわけですね」 「ええ」 「よく話をする?」 「いいえ」微笑みながら、彼女は首をふった。「あの方とは、なにも……。そういう決まりになっているのです」  片手が持ち上がり、髪を肩の後ろへ整えた。その手がまた白い。 「先生、今日は、なにか楽しいことがあったのでしょうか?」彼女が話題を変えた。 「え、どうして? そんなふうに見えますか?」 「はい、なんとなく、そんなふうに……」 「うん、いや、僕はいつもこんなふうなんですよ。そう、別に、ないなあ。今日は、なにもなかったはず……。いや、この頃ね、今日は楽しかった、なんて思うことはまずないから」 「でも、忙しい毎日の中にも、ほっとできるような時間が見つかること、ございませんか? 先生は、どのようなふうに、そんな時間を過ごされるのですか?」 「そんな時間といって……、うーん、暇な時間のこと? あまりないなあ、そんな、ほっとできるような」 「お忙しいのですね」 「まあ、自分で自分を忙しくしているんだけどね、なんだか、暇になっちゃあいけないような、そんな一種、強迫観念みたいなものかもしれない」 「まあ……」彼女はそこでくすっと笑った。何が可笑《おか》しかったのだろう。 「貴女は、どんなふうに、暇な時間を過ごすんです?」 「私は、いつも、常に暇なんです」 「ああ、それは良いな。うん、最高だ」 「朝起きて、主人を送り出して、あとは、もう、ええ、なんにもすることがありません」彼女は、話し始めた。  私は、表情を変えずに聞いていたが、彼女が既婚者であることを知って、多少のショックを感じていた。この理由は不明である。そもそも、見た感じからして、独身には見えなかった。年齢からいっても、また、落ち着いた雰囲気からも、そちらの方がしっくりとくるだろう。したがって、特に不思議もないし、違和感もない。それに、彼女が結婚していようがいまいが、私には無関係、さらに、今日のこの場にも影響は皆無。それなのに、「主人」という一言は、たしかに、彼女の人格、彼女の生活、彼女の存在に関わっているであろう多くの要因の中でも、同レベルではない重みがあるように思われた。現に今、彼女の口から流れ出ている他の沢山の言葉のように聞き流せない、そんな引っかかりがあった。これは実に不思議なことである。  なるほど、昼間に感じた引っかかりもこれか、と私は思い至ったのである。正体は見極められないものの、とりあえずは掴《つか》み取ったという気がした。  そんなことをぼんやり考えている間も、彼女は自分の一日について、しゃべり続けている。昼寝をする、テレビを見る、本を読む、お菓子を食べる、散歩に出かける、近所の人とおしゃべりをする、電話をかける、友達を誘ってコーヒーを飲みにいく、ショッピングセンタを歩く、新しくできたケーキ屋を覗いてみる、そこでまた友達に会う、また立ち話になる、というようなだらだらとしたストーリィなのだが、しかし実に楽しそうだった。私は、にこにこした顔を維持しながらそれを聞き流し、話を続ける彼女を観察していた。  女将が途中で一度現れ、前菜の皿と、汁ものの椀を運んできた。それをテーブルへ並べるのを手伝う間だけ、彼女の話は中断した。そして、女将が部屋から出ていくと、また話が始まった。午後の部の後半で、夕方には何をしていたか、という内容である。今までのところ、掃除や洗濯などの家事は一切出てこない。また、子供も登場しなかった。特に変わったこともなく、なんの変哲もないことばかりであったけれど、しかし、話は面白かった。彼女の口調が面白いためだろう。 「で、そろそろ主人が帰ってくる時間だ、と意識すると、こう、なんていうのでしょう、躰《からだ》がきゅっと小さく緊張して、さあ、仕事だ、というモードになるんです」 「うん、なるほど」私はお椀を手に持ちながら、楽しい話を聞いている。「切り換えるわけだ」 「ええ、そうです。ですから、朝の一時間と、夜の四時間くらいが、私の勤務時間ということになります」 「一番リラックスできるのは、昼間ということ?」 「はい」彼女はにっこりと頷《うなず》いた。 「何が一番楽しい?」 「好きな本を読むことが一番の楽しみですね。本当は、そう、もっとあちらこちら出かけていきたいところですけれど、残念ながら、そんな時間もお金もありません。でも、本ならば、その場にいながら、自由な世界へ飛翔することができますもの」 「飛翔ね」私は吹き出した。 「可笑しいですか?」 「いやいや、失礼。あまり、その、聞き慣れない言葉だったので」  そうでもない。概算要求の前文などで、抽象的かつ理想的な文句が掲げられるものだが、そこでは常套句《じようとうく》である。それだけに、よけい可笑しかったのかもしれない。 「ただですね、先生……」彼女は急にしんみりとした表情になる。料理にはほとんどまだ手をつけていない。ずっとしゃべりづめだったからだ。「あ……、いけない、こんなことまで、私、話してしまって……、すみません」彼女は頭を下げた。ようやくテーブルの箸を取り、料理を食べようとする。「ここへ来ると、見ず知らずの方だからと、ついついおしゃべりになってしまうんです。本来の私、というか、普段の私は、ほとんど話したりしません」真面目な顔になって首をふった。「大人しい女で通しているんです」 「ほう……、ご主人の前でも?」 「もちろんですよ。普段の私というのは、つまり、主人の前の私、という意味です」 「どうして、そんなふうにしているわけ?」私は尋ねた。 「さあ、どうしてでしょう」彼女はふふふと笑って小首を傾げた。 「まあ、そう言われてみれば、誰だって、自分一人のときと、誰かと一緒のときでは、いろいろな面で違っているかもしれない」私は言った。「僕なんかは、研究室にいるときが、一番リラックスしているんじゃないかな」 「やっぱり、その、最初に会ったときに、この人の前ではこんなふうな自分でいようって、役柄を決めてしまうんだと思うんです」 「役柄か……、うん、そうだね」私は頷いた。 「ところが、だんだん、その役がこなせなくなってきたりするんですよね、無理をしているから」 「無理をしなければ良いのでは?」 「ええ、でも、そうもいきません。見込み違いっていうのでしょうか」 「最初は無理だと思っていない、と?」 「そうです」彼女は真面目な顔で頷いた。「でも、逆に、その役に徹しようと思って、努力することもあるんじゃないでしょうか。そうやって多少無理をしているうちに、立派になっていく人もいます」 「ああ、いるね、うん、そのとおりだ」 「ですから、良い奥様というのは、ご主人に少し無理をさせて、立派になるように仕向ける、そういう役柄だと私は思うんです。そうなると、自分も多少のことは無理をして、てきぱきしていなくてはいけないんじゃありませんか? そんな、ソファにぐったり横たわって本ばかり読んでいる、ぐうたらな奥様ではいけないわけですよ。本当は、それが素顔の自分であって、ナチュラルな私なんですけれど、お互いがナチュラルでいたのでは、切磋琢磨《せつさたくま》がありません。それでは動物と同じですからね」 「いやぁ、動物のことは知らないからなあ」私はまた笑った。切磋琢磨が可笑しかったからだ。しかし、彼女の意見の妥当性については感心するばかりである。 「あ、そうでした、うちに犬が二匹いるんですけれど、そういえば、年寄りの方の犬は、若い子の前では強がってますよ。明らかに見栄を張っている感じなんです。人間だけじゃないんですね」 「まあ、一種の防衛だと思うなあ」 「防衛、ですか? うーん、難しい」彼女は天井を見上げる。「ああ、なるほど。私の場合もそうですね、私が役柄を演じることで、主人にも立派な男としての役柄を演じ続けさせて、その結果として、家庭がつつがなく存続することを見込んでいるわけですから、結局のところ自己防衛ってことになるのかしら」 「うん、人間だけに、読みが深いね」 「ですけど、いったいいつまで演じれば良いのでしょうね、あぁ……」彼女は急に溜息をついた。「そんなふうに考えること、先生は、ありませんか?」 「うーん、いや、どうかな。そもそもが、あまり演じているという感覚もなくてね」 「それは、幸せなことですね」しみじみとした口調で彼女は言う。そして、また溜息をついた。さきほどまでの明るい表情から一転して、しんみりと考え込んでしまったふうだった。      3  女将が料理を運んできた。魚料理である。茄子《なす》の揚げものが添えられていた。女将が皿を並べている間、私は黙っていた。テーブルの前の彼女も大人しくしている。その顔を眺め、これもきっと演じられているものなのだな、と私は思った。どこまでが、彼女の本質なのだろうか。  女将が部屋から出ていき、新しい料理をしばらく楽しんだ。彼女も静かに箸を口へ運ぶ。  静かになった。  箸が皿に触れる音が聞こえる。  彼女の箸が、彼女の口の中に入り、そこで、瞳だけがこちらを向いた。私と目が合い、彼女の口もとが緩む。しかし、言葉は出てこなかった。もう別の人格を演じようとしているみたいだ。何故、切り換えたのだろう。  だいたい、人間というものは、常になんらかの役柄を演じている。幾つもの役柄をレパートリィとして持っていて、時と場合によってそれを適宜使い分ける。同じ場所、同じ相手に対しても、切り換えることがあるだろう。雰囲気や状況、あるいは認識が変われば変更になる。無意識に切り換えをしている。矛盾がないように、そのギャップを取り繕うこともしばしばである。 「どうしました? 急に大人しくなって」私は言葉をかけた。 「いえ……」彼女はにっこりと笑い、小さく首をふった。  しかし、言葉は出てこない。返答はなかった。  私は料理に専念し、彼女も食事を続ける。  箸と皿の接触音、座り直すときの摩擦音、口を動かす音、呼吸、空調のものらしき遠いファンの音、そんな微《かす》かな音が気になった。 「静かですね」テーブルの上の料理をあらかた食べたところで、私は言った。久しぶりに言葉を発したような気がした。 「すみません」彼女は申し訳なさそうに小さく頭を下げる。「なんだか、恥ずかしくなってしまって……」 「いや、でも、面白かったですよ」 「ますます恥ずかしいです」  女将が現れて、デザートがテーブルに並ぶ。お茶も新しいものに交換された。  湯飲みを差し出すとき、着物の袖口から出る女将の白い腕を、私はぼうっと見ていた。この女性は結婚をしているのだろうか。就職をすることと、結婚をすることは、非常に似ている、と私は認識していた。しかし、女性にとっては、それは違うものだろうか。よくわからない。  研究室を訪ねてきた彼女が、何故、最後に結婚したと打ち明けたのか、会ってすぐでもなく、会話の途中でもなく、別れ際に言いだしたのは何故だったのか、その敷居を越える、あるいは、役柄を切り換えたきっかけは何だったのだろう?  女将が出ていき、お茶を飲みながら、また二人だけの静かな時間が流れた。彼女はときどき髪を払い、伏し目がちに私を幾度か見た。  短い会話はあった。着ているものの話と、たった今食べた料理の話、それから、何だっただろう、思い出せないが、少しだけ話したように思う。なにしろ前半の彼女の愉快な日常に比べると、記憶に残るものは少ない。ただ、この時間の俯《うつむ》き加減の彼女の様子が、私には一番印象に残った。それが最も彼女らしいように思えたからだ。  もう一度女将がやってきたとき、私は帰る決心をした。  どうもいけない。なんとなく消化不良だった。否、もちろん料理のことではない。今回の彼女が、彼女との歓談が、消化不良なのである。落ち着くところがない、どこへどう仕舞っておけば良いのかがわからないのだ。  これまでの女性たちに比べると、特に変わったところは少ない。ごく普通の、どこにでもいそうな主婦が、たまたまアルバイトでやってきた、そんな印象である。しかし、これでは、彼女に食事を奢《おご》ったことが、多少元が取れない気がして、ますます私は落ち着かなくなった。当然ながら、文句を言える筋合いではない。それはそうだろう、どんなものにでも当たりはずれはある。料理だって、常に最高のものが食べられるわけではない。また、出す方が吟味していても、客との相性というものがあるだろう。どちらの問題でもなく、偶然のタイミングにも左右されるにちがいない。自分に対してそういった説得を、私はし始めていた。      4  勘定をするために女将がやってきて、また部屋から出ていった。そして、大人しくなってしまった彼女も、テーブルの横に進み出て、私に頭を下げ、辞去することを告げた。 「ああ、どうも、とても面白かったよ」私は社交辞令で言った。 「どうも大変失礼をいたしました」彼女はもう一度頭を下げる。それから、小さな顔を上げ、一呼吸置くと、にっこりと微笑む。「実は、結婚しているように申し上げましたのは、すべて作り話でございます。嘘を申しました。どうかお許し下さい」 「え?」 「お話が盛り上がるのではと考えまして、浅はかながら無理にお話をしたしだいです。途中でそれが自分でも息苦しくなってしまい、最後まで続けることができませんでした。まだまだ力不足です。不調法なところをお見せして、本当に申し訳ありませんでした。どうかご勘弁下さい」 「ああ、そう……」私はとりあえず頷いたが、なんと言葉を返せば良いのかわからなかった。  彼女は、立ち上がり、そっと部屋から出ていった。  私の中に、彼女の余韻が残った。  仕舞った煙草をポケットから取り出し、火をつける。  お茶に手を伸ばしたが、もうそれもなかった。  しばらくすると、女将が戻ってきて、領収書とおつりを私に手渡す。 「すまないけれど、もう一杯、お茶をお願いできないかな」私は言った。 「はい、かしこまりました」驚きもせず、彼女は即答する。  部屋に一人残された。  というよりも、私が選んだ状況である。  煙を吹き、壁や天井をぼんやりと眺めながら、私はひたすら考えた。心の中で私のなにかが、端の方だけ溶け出した気がする。どうしてだろう。熱のためか? その熱は、どこから伝わってきたものだろう。  突然、いなくなった友人、荒木《あらき》のことが思い浮かぶ。  こんな夜ならば、  どこかへ消えたい、と思うかもしれない。  仕舞いきれない思いが、  自分自身も仕舞えなくさせるのか。  その予感というか、  ほんの少しの部品の欠片《かけら》が落ちている。  それを拾うために膝を折る自分が見えるのだ。  否、明らかに幻想。  たとえば、昼間の彼女が、実は荒木と結婚をしていた、という想像を私はした。荒木が、私の様子を見てくるよう、妻に命じたのではないか。  どうして、こんな馬鹿げたことを考えているのだろう。  私は、自分の中に小さな狂気を発見した気がした。  なんとも、輝かしい。  しかし、妄想のきっかけは何だ?  昼間の彼女といい、今の彼女といい、何故、あんなふうに去っていくのだ?  不思議だ。  その演出は、女性に特有のものだろうか。  残されたところに、どんな気持ちが生まれるのか、彼女たちは知っているのだろうか。 「うん」私は声を出して頷いていた。  たしかに、そうかもしれない。  この反転。  これが女の強みか。  怪盗が最後に翻《ひるがえ》すマントのように。 [#改ページ]   さらに少し変わった子あります      1  夜の雨は、孤独を確認するにはうってつけのシステムである。まるで雑踏の中にいるようなざわめきに取り囲まれ、しかし自分の周囲、つまり室内には夜も雨もない。その外側では、蠢《うごめ》きの微動がはてしなく続く。小刻みな揺《ゆ》らぎが重なり集合して、全体では酷《ひど》く平坦になる音。ホワイトノイズ。そんな白い音に取り囲まれているのである。夜と雨で混合されたマテリアルで固められたシールドは、分厚い断熱材のように作用して、一つの孤独が冷めないように優しく包んでいる。  まるで胎内のように。  私一人がここにいて、ここからどの方向へも抜け出すことができない。魔法瓶の中に入れられた自分を想像することができる。魔法瓶の内側は鏡のように中身を歪《ゆが》めて映し出すだろう。だが、歪んでいるのは現実の方かもしれないではないか。どちらが正しい姿なのか判断ができない状態、すなわち単一の視点、それが孤独というものの中心である。その中心からは、どちらを観ても、歪んだ自分しか見えない。なにをどちらへ考えても、結局は自分のところへくるりと捩《ねじ》れて跳《は》ね返《かえ》ってくる。そういう反射現象が、孤独というものの機能であって、正直に言えば、私はそれが嫌いではない。否《いな》、愛しているといっても良いくらいだ。  そうだ、この話は荒木《あらき》としたことがあった。奴も、孤独を愛する男だった、と思い出す。 「まあ、そうは言っても、結局のところ、孤独を感じるためには、孤独ではない状況を知らなければならない。そうじゃありませんか? その対比があってこそ、孤独だと感じるわけです。生まれたばかりの赤ん坊が荒野に放り出され、母にも会えず、誰にも会わず、ただ一人で育ったとすれば、彼は一生の間、孤独を理解することはないと思いますよ」  彼の言うとおりである。あまり考えたことがなかった。すると、一人だけでいられる淋しい時間を私が好むのは、つまりは、そうではない大勢で賑やかな時間に対する嫌悪だ、ということになるのだろうか。 「失ったものを無意識に求めている、しかし、どうせ同じものは二度と手に入らない。追い求めても、違うものを掴《つか》まされて、そのことで反対に、大切な思い出が傷つくことにもなるだろう。それを恐れている……、そういうのもありませんかね?」荒木は、そう言って、いつもの斜めの視線を私へ向けた。どことなく笑っているように見える目だ。  あれは、いつ、そしてどこだったか、季節も場所も思い出せない。少なくとも昼間ではない。深夜、何軒目かに辿《たど》り着《つ》いた暗い小さな店で、珍しく音楽も店員も大人しく静かだった。そういう状況だけを覚えている。  自分のことが見透かされているような気がした。その思いも鮮明に記憶している。何故そう感じたのかは、残念ながら思い出せない。思い当たることがないわけでもないけれど、忘れたい気持ちが働いて、そちらの方へは考えを向けないようにしている。それだから、いつも荒木のあの奇妙な視線、暗闇に口だけを残して消えていく猫のようなあの笑顔を思い出したところで、私は標識に気づいたかのごとく立ち止まり、記憶の道をもうこれ以上奥へ進むことを諦める。そこで引き返してくる。何度、Uターンしたことだろう。特にこんな雨の夜にかぎっては、そこへ到達することさえ予感できるほどだ。  仕事をしていれば、たとえそれが没頭できるような創造的な作業でなくても、とりあえずは他事《たじ》を考えないで時間が流れる。時間にはそもそも色も形の美しさもない。水のように低い方へ流れるだけだ。大事な用事があるため、その時間までに仕事を片づけなければならない場合など、私は自分でも驚くほどの処理能力を発揮して、制限時間よりも必ず早くことを済ませてしまう質《たち》である。そして、ゆっくりと残りの時間を消費しつつ待つことにしている。こうして捏造《ねつぞう》された見かけの自由な時間が、なによりも好きだからだ。ところが、フリーな時間に浸って煙草を燻《くゆ》らせていると、やはりさきほどのUターンのポジションまで、自然に思考が行き着いてしまう。まるで、その標識がまだ立っていることを怖々《こわごわ》確かめにいくように。  今夜の大事な用事とはほかでもない。私はまた例の店に予約を入れていた。それだから、余計に荒木のことに考えが及んだのかもしれない。そもそも、あの店を紹介してくれたのは彼だったからだ。また、これは最近になって発想したことだが、どうもあの店は、私にとって「孤独増幅器」のように働きかけるようだ。店を出れば二度と会うことのない相手と、短い時間、二人だけで食事をする、たわいもない会話をする、当てもない想像をする。さてそのあとに何が残るのか、といえば、それは一人だけの自分であり、ふと気がつけば、鏡の前に一人立って、己の顔をじっと見つめている、そんな覚醒《かくせい》にほかならない。我に返った瞬間に、ぞっと背筋が寒くなるほど、その孤独は尖《とが》っている。剃刀《かみそり》のように輝いている。最初は瞬時に目を逸《そ》らし、深呼吸をしたものだが、今ではしかたなく、私はその美しさにじっと見惚《みと》れるに任せている。それが最も実害がない。こうするしかないのだ。  なるほど、これが孤独というものの作用か。  自分の中へ切り込んでくるような力強さと、その刃先が全身を突き通すときのなんともいえない不思議な爽快さ。さっと風を切る一瞬のような清々《すがすが》しさ。慣れないうちは恐怖で目を瞑《つむ》ってしまったけれど、一度無害だと慣れてしまえば、こんなに心地良いものはない。その刃が身を貫くたびに、私の躰《からだ》が純粋に近づくような幻覚さえある。  そして、だんだんに、より美しい切れ味を求めてしまう。  もっと鋭い孤独はないものか、と……。  不思議なことに、孤独は自分の力で育てることができない。荒木が言ったように、他人との関係によって生じるものだからだ。  つまりは、孤独を増幅させたい人間が、あの店に通う道理なのかもしれない、と私は考えた。他人の存在との対比によって顕《あらわ》れるものだとする荒木の仮説を裏づける、あるいはそれを実証する実験装置ではないだろうか。  想像するに、こういった特殊なセンスを持っている人間は少数だろう。もし大勢が私と同様であるならば、あのような店が、こっそりと誰にも知られずに存在するはずがない。私の場合はたまたま、荒木という友人のおかげで巡り逢ったけれど、そうでなければ、どうやって行き着くことができただろう。まったく、想像もできない。そういう意味では、私は実に幸運だった。  ただ、誤解しないでもらいたい。私は、あの店によって、救われたわけではない。出逢っていなければ自殺していた、といった状況ではけっしてない。もう一度繰り返すけれど、私にとって、孤独は深刻なものではなく、むしろ破滅から最も遠いところにある概念である。孤独を知っていれば自殺などしない、と私は考えているのだ。  さてしかし、荒木はどのようにしてあの店のことを知ったのだろうか? 私と同じように、おそらく誰かから聞いたのだろう。偶然に発見する可能性は極めて少ない。看板を出しているわけでもなく、普通の店が当たり前にやっている客寄せの活動を、あの店は一切していない。だいいち、店の名前がないのだ。電話帳にも載せられない。そういった、偶然のアクセスを初めから拒絶しているのは明らかだ。たぶん、会員制のようなシステムで、知り合いの紹介によって新しい客が訪れるのだろう。もちろん、どんな客でも、というわけではない。一度か二度訪れれば、合う合わないはわかる。荒木や私のような人間だけが、価値を見出し、通い続ける、という具合なのだ。  しかし、荒木に紹介した人間が誰だったのか、是非とも、いつか女将《おかみ》にきいてみたいものだ、と私は思った。だが、きっと手応えのない返答を聞くことになるだろう。いつもの調子で躱《かわ》されるにちがいない。そう想像して、私は独りでくすっと吹き出した。      2  その店を訪れるのは、今夜で五回めである。つまり、五人めということになる。肩まで伸びた髪の痩せた女性で、若い割には静かな物腰だ、というのが最初の印象だった。どちらかといえば地味な造形の顔で、押し殺したような小さな声でものを言う。初めは緊張しているのだろう、と私は感じた。しかし、話をするうちに、彼女が本来持っている静けさ、あるいは淋しさが、彼女の全身をすっかり覆っているように思えてきた。まるで苔《こけ》のようにこびりついている。もうとても切り離せない一体のもののようなのだ。  話題は、彼女の母親が三カ月まえに死んだときのこと。急に具合が悪くなり入院をした。その一週間後までは、いつものとおり話ができた。ところが、医者から危篤の知らせがあって、病院へ駆けつけると、もう心拍が止まろうとしているところだった、という内容である。 「もともと、私と母は馬が合わない、仲の良くない親子だったと思います。というのも、彼女は私の顔を見れば、いつもいつももう愚痴《ぐち》ばかり。父の悪口や、近所への不満や、それに私のことだって、もう細かいことばかり、いくらでも愚痴を続けられる人だったんです。しゃべりだしたら止まらない、というのでしょうか……。いえ、私も、そんな母のことを小さいときからずっと見てきましたから、自分はああはなりたくないな、と思っていましたし、そういう意味では、適切な教育を受けたといえるかもしれません」 「歳をとるほど、愚痴は細かく、そして長くなるものですよ」私は軽く受け流した。 「ええ、その、私の母の場合は、多少それが度を越していたと思うんです。私が病院へ行ったときも、やはり、三時間あまりも母は愚痴を続けました。とても病人とは思えない体力だと感心したくらいなんです。もちろん、いつもよりも、少しだけ声に張りがなくて、文字どおり力のない感じだったから、もう母さん、そんなに無理にしゃべらない方が良いよ、治る病気も治らなくなるから、なんて窘《たしな》めたんですけれど……」彼女は眉を顰《ひそ》め、首を左右にふった。「ですから、私も、少しですけれど、なんていうのか、そう、きっと腹が立ってしまったんでしょう……、これだっていつものことなんですけれど、そんなふうに人を恨んじゃいけない、もっと周りのみんなに感謝するのが本当だし、ありがとうって言うことで、自分も楽になれるものなんだよって、そう最後には言い聞かせて、その日は帰ってきたんです」そこで、彼女は無理に笑おうとした。苦笑というには、あまりにも淋しげな笑顔だった。「それが、その次の日には、もう危篤になって、あっという間に死んでしまったんですよ。それで、その、何日かあとになってですけれど、父から聞いたんです。その亡くなる日の朝に、母は父に、ありがとうって言ったらしくて……、つまり、ええ、父はそれを自慢げに話すんです。うーん、もちろん、それは自分が感謝される存在だった、という意味での自慢ではなくて、単に、母さんは最後まで偉かった、と言いたかったのだと思いますけれど……。でも、私は、ああ、私が言ったことで、母はそうしたんだって……。私は、単にその場の勢いで、なんていうのかしら、綺麗事を言っただけで、心の底からそう思っていたわけではありません。だけど、結果的には、自分が母にそう言わせてしまったのかなって……。ええ、でも、それが父には救いになったとは思いました。だったら、それで母も救われたかもしれないし、父にとっても良かったかもしれません。そういうふうに良い方へ解釈することもできるでしょうか。うーん、どうかな……。いえ、私には、自分の偽善に対する後悔が、やっぱり残ったと思います。何故、あの日もっと母の愚痴を聞いてやれなかったのかって……。私はそれを聞きたくなかったから、もううんざりだったから、綺麗事で蓋《ふた》をしてしまったんです」  彼女は、顔を歪《ゆが》めて悲しそうな表情をつくるでもなく、むしろ、他人事のように淡々と話した。しかしそれでも、彼女の躰に染みついている絶対的な悲愴感が滲《にじ》み出て、じわじわと畳を伝い、座布団をも通して、私の躰まで立ち上ってくるように感じられた。  これは堪《たま》らないな、と私は真剣に思った。誰だって、そう考えるにちがいない。金を払って食事をしにきているのだ。この彼女の分も支払って、サービスを受けている立場なのだ。いくらなんでもこれでは酷い。問題ではないか、と考えてもおかしくはないだろう。黙って席を立つか、あるいは、彼女に出ていくようにお願いすることも可能だ。その権利は当然ある。  けれども、私は、冷静に彼女の話を聞くことを選んだ。別に、湿っぽい話で料理まで不味《まず》くなるわけではない。そういったことに味覚が影響を受けると考えるほど、私は過敏な人間ではない。それに、この彼女とは今夜だけの、ただこの数時間のつき合いなのである。将来にわたってこんなふうなことが繰り返されては困る、と二人の今後の関係を心配する必要はないし、また、そんなことは彼女の方だって充分に理解しているはず。加えて、店の女将が人選した、という事実もある。すなわち、なにかしらのスペシャリティがある、ということだ。それならば、得られるものがあるのではないか、と積極性を持った目で見ようではないか、と私は自分に言い聞かせた。高級料亭が出す皿に箸をつけるときには、やはりそういった前向きの気持ちがあるものだ。一口食べて多少の苦みを感じても、この味こそ珍しい、なにかしら懐かしい、少なからず刺激的だ、などと価値を見出そうとする。それに類似した姿勢といえる。  メインの肉料理がテーブルに並んだ頃には、彼女の母親が死んだ一カ月ほどのちの話に移っていた。休む間もなく今度は父親が入院をしたらしい。彼女は三人姉妹の末娘だが、二人の姉がいずれも遠くへ嫁いでいるうえ、ともに幼子を抱えているため、実家へ身軽には戻れない。両親の近くにいる三女の彼女が、看病や見舞いに一人身を砕いている、といった状況のようだ。また、そんな時期に、飼っていた老犬が突然倒れ、二日後には死んでしまった、と彼女は話す。 「母が亡くなったときよりも、正直に言って、私にはショックでした。中学生のときから、もう本当にずっと一緒だったのです」彼女はか細い声を僅《わず》かに震わせて話した。「入院中の父は、急にぼけてしまったというのでしょうか、ぼんやりとした表情で、おかしなことを言い始めるし……、見舞いにいくと、帰りたい帰りたいって、子供みたいに私の手を取って……。それをなんとか宥《なだ》めて、疲れ果てて帰ると、台所で次郎が倒れていたんです」  犬の名前らしい。私は、もう口を挟むこともなく、静かに聞くだけになっていた。目の前にある料理はいつものとおり美味だ。こちらは申し分ない。それを舌で楽しみつつ、何故か深刻な話を聞いている。彼女の話す不幸の物語に耳を傾けているのである。実に不思議なバランス感覚が要求されているような気がした。これまでの人生で、これに類似する経験はなかっただろうか、とも考えた。  人から打ち明け話を聞かされる立場になったことは幾度かある。仕事柄、学生たちから受ける人生相談、悩み相談の類《たぐい》も多い。学業が続けられなくなって退学を申し出てくる学生、就職の世話をしてやったのに会社を辞めてしまった、あるいは、結婚式で主賓《しゆひん》の挨拶までしてやったのに、たちまち離婚することになった卒業生たち。そんな彼ら彼女らと何度か研究室のソファで向き合った。にこやかに語る者、淡々と話す者、涙ながらに打ち明ける者。その顔を見ながら、そしていろいろな想像をしながら、短い不幸の物語を聞いたように思う。  しかし、今のこの状況は、それらとはまるで違う。  まず第一に、彼女は悲愴な表情はしているものの、涙を流しているわけでもなく、泣いてもいない、言葉に詰まる様子もなく、逆に無理に笑うこともない。実に滑らかに語っているのだ。こちらは、まるでラジオドラマでも聴いているかのような気分である。それだからこそ、私は食事をしながら聞いていられる。すなわち、ぎりぎりの線まで稀釈《きしやく》され、現実味がわかない味付けがなされていることは明らかだ。これはたぶん、自分の気持ちをわかってほしいという押しつけがない、ということだろう。私はこの点にまず気づいた。涙ながらに語る人を前にしていたら、リラックスして料理を食べているわけにはいかない。人生相談や離婚話であれば、適切な意見を言わなければならない。そういった緊張も今の私にはなかった。  そして第二に、我が身の不幸を語っているこの人物は、私には無関係の人間である、ということ。私は彼女の名前さえ知らない。ようするに、本当にあったことなのか、まったくの作り話なのか、判断がつかない。真実性を主張するものがまったくない、ということだ。一人芝居のような完全な創作だという可能性は低くないだろう。以前にここで会った女性がそうだった。二度と会わないのだから、この場かぎりの嘘を語るくらい容易《たやす》い。演じられるプロだからこそこの店に雇われている、と考えることも自然ではないだろうか。  だが、私はここで、ふと連想する。  そもそも人間関係とは、多かれ少なかれ、このような虚構の上に成り立っているものではないか。どんなに近しい人であっても、その人が語ることのすべてが、どうしてまったくの真実だといえよう。話す本人さえ勘違いしていることだってある。完全に意図された作り話と、無意識のうちに歪曲《わいきよく》され、都合良く解釈されたストーリィと、どこに境界があるだろう。受け手にとってみれば、いずれもそれは真実ではない。  待てよ。では……、真実とは何か?  自分に関わらない他人の人生における「私の真実」とは何だろうか?  私が信じるか信じないか、というだけの問題だろうか。  つまるところ私は、フィクションとノンフィクションの違いを考えようとしているようだ。その議論は、若いときから幾度か友人たちと繰り返してきたものだ。これは事実です、と謳《うた》うことの効果についてである。かつては、その文句が有効だったかもしれない。しかし現代において、その言葉は限りなく虚飾のキャッチフレーズに近づいているだろう。  しかし一方で、自分の身近にいる人間の口から出た言葉に対しては、まだ私たちは真実を求めようとする。人は基本的に真実を欲しがっているのかもしれない。愛する恋人の言葉にさえ、そんなものは存在しないのに……。むしろ、近しい者、親しい者、気を遣う必要がある関係の方が、真実は現れにくいだろう。  たとえ自分からの距離が遠いものであっても、それが意図的に作られたものではないという保証が何故か欲しい。その約束を大勢の人間が望んでいるのだ。  大衆が事実を渇望しているのは確かである。たとえば、ニュースを見て戦争や災害、そして事故や事件の悲惨な状況に頷《うなず》きたい。不幸であれ幸せであれ、そこにあるものは、自分と同じ世界にある事実という絶対的な存在、誰も捩《ね》じ曲《ま》げることができない真実。その確かさに触れたいのだ。それは裏返せば、自分の周囲にあるものの不確かさに起因しているだろう。飾られたもの、作られたものに取り囲まれ生きているのだから。  なるほど、幸せの副作用ともいえる症状かもしれない、と私は考えた。まったく贅沢なことではないか。  今の私のこの状態が如実《によじつ》にそれを象徴しているだろう。美味しい料理に舌を鳴らし、彼女の不幸をちらちらと観察している。山葵《わさび》のように、それは都合良く適度に私を刺激し、自分の置かれている状況の心地良さを際立たせるのである。  これはスパイスか。  私は心の中で膝を打った。  そういう趣向であったか、と解釈した。  実のところはわからない。自分本位に、それこそまったくのご都合主義で、良い方へ良い方へ、すべてを捏造しているかにも思われる。がしかし、やはりこれは仕組まれたものだろう。私の中ではほとんど確信となっていた。      3  彼女の話はとても具体的で、数々のエピソードから構成されていたが、基本的に、身近な人や動物との死別に関連するものだった。ことあるごとにそれを思い出す、という回想が中心である。けれど、微妙に変化が観察されるとすれば、単なる悲しみに終始するのではなく、最後にはそこから自分がなにかを学んだ、という言葉を彼女が幾度か使ったことだった。亡くなった母親から、一人になり衰えていく父親から、そして、死ぬ間際まで彼女の支えだった愛犬から、自分の生き方を教えてもらった、と彼女は語る。  綺麗な話である。この点に関しては、いかにも出来すぎではないか、と私は内心感じたものの、もちろんそれを表情や言葉には出さないようにした。抑揚の少ない口調で滑らかに話す彼女は、やはり涙を見せることもなく、言葉に詰まることもなく、かといって、押しつけがましい視線を私に投げかけることもなく、静かに物語を続けた。だから、私もこの静かな流れに、じっと身をあずけてみよう、と考えたのかもしれない。けれど、そんなリラックスした感情とは裏腹に、私の思考は忙しく方々へ駆け巡っていた。  私の両親のことも思い浮かぶ。私にも、このような悲しみの期間が何度かあったはずだ。そのときの自分はどうだったか、と記憶を引き出す。それは、私がまだ小さな子供だった頃、そして、両親が歳をとり、私が彼らを養う立場になったあとのこと。幾つかのシーンが蘇《よみがえ》る。不思議なことに、その両者の中間では、記憶があまり見つからなかった。  ふと気がつくと、私の前では見知らぬ女が俯《うつむ》き気味に話している。瞬時に、現実のこの時間に意識を戻さなくてはならない、と私は姿勢を正す。  相手の女性の顔を見ている時間が、これまでで一番長いのではないだろうか、と私は思った。こちらが言葉を発する機会もほとんどなく、ただ聞いている。その間ずっと彼女の顔を眺めている。彼女は、顔を上げて私を見ることは滅多にない。視線は常に私よりは下方へ向けられていた。  こんなに長く見続けている彼女の顔なのに、ときどき気がつくと、そこに見知らぬ人間がいることに、私は驚いた。印象が薄い顔なのか、あるいは、私の側に問題があるのだろう。記憶に留めていないことは明らかだ。まるで、彼女の話が隠れ蓑《みの》のように作用しているみたいだった。  デザートを食べ終わり、コーヒーを飲む頃になると、彼女の話は少しだけペースダウンした。 「先生、こんな一方的なお話、ご迷惑ではなかったでしょうか?」と尋ねられたが、私は、微笑んで軽く首をふった。  これまでに味わったことのない、微《かす》かに清々しい気持ちが、私の躰のどこかで生まれ、それが少しずつ躰の全体に浸透しつつあった。熱いコーヒーが喉を通り、溜息をついたとき、それがはっきりと認識された。  ああ、確かに、癒《いや》されている。  どこにでもある少しだけ不幸な身内話。それをただ聞いていただけの退屈な時間。対照的に、食事はいつものとおり絶品で、洗練されている。世間から隔離された静かで穏やかな時間が流れ、私は、何度か自分の過去を顧みた。さらに、人間のこと、人間どうしのことを考えた。何だったのだろうか、この時間は。  一つだけ言えるとすれば、非常に抽象的な時間である。  掴みどころのないぼんやりとしたものに、自分が温かく包まれている気がした。  女将が部屋に入ってきて、いつものとおり挨拶をした。私は、いつものとおり感謝の言葉を返した。  今まで話をしていた彼女も、上品に頭を下げ、最後に奇跡的な微笑を私に一瞬だけ見せたかと思うと、引っかかるものもなく、実にあっけなく部屋から出ていった。否、笑顔に見えたという認識こそが、もしかしたら、私が望んだ幻想だったかもしれない。      4  その次の日の夜も雨だった。  仕事が片づき、私は研究室のデスクで最後の煙草に火をつけた。仕事の最中に吸う煙草と、こうして一瞬の空白を発見し、さて何を考えようか、と頭を始動しながら火をつける一本は、明らかに別ものである。  昨夜は、帰宅してすぐに眠ってしまったが、あの店で会った彼女のことを、もう一度ゆっくりと考えてみようと思い出した。ところが、どういうわけか、彼女が話した物語の具体的なディテールは思い浮かばない。彼女の悲しげな表情も、どんなふうに悲しげだったのか、まるで具体的な記憶がなかった。話も彼女の外見も、悲しげだったという抽象的な印象だけが、私に残留したようだ。  まるで夢のようだ。  はたして、昨日、あの店に私は本当に行ったのだろうか?  足を運んだことは事実だ、と主張したい。けれど、いったい何がそれを証明してくれるだろう。証拠はない。そもそも、それが事実だと訴えることに、どれほどの価値があるだろうか?  事実などというものは、本来その程度のものかもしれない。  夢の経験との違いはどこにあるのかといえば、多少シリーズものになっている、多少長く連続して見られる、多少|辻褄《つじつま》が合っている、という程度のこと。たとえるならば、夢は突飛な短編小説、現実はわかりやすく描かれた長編小説。しかしいずれも、私が認識した時点では、それらの違いは僅かだ。  そんなことを、煙とともにぼんやりと考えた。  堂々巡りといって良い思考だ。しかし、局所的なところから全体へフィードバックするような法則性を探り当てる手法は、多くの学問分野で常套的《じようとうてき》に採用されている。  なるほど、あの店のメカニズムが、今さらながら少しだけ理解できた気がした。現実という長編物語の縮小模型なのではないか。通常の店は、現実の延長、あるいは補完として存在しているが、あそこにはそれはない。現実との関わりを断ち切り、そうすることで、現実の仕組みを映す。  そんなふうに考えること自体が普通ではない、という発想もあった。私だけが勝手に考えていること。しかし、世の中のすべては、私だけが勝手に考えていることかもしれない。そうではない証拠は、少なくとも私の中には存在しないのだ。  煙草の煙を吐きながら、私はくすっと吹き出した。  愉快である。  なんとも仄《ほの》かに楽しい。  適切な言葉にはならないけれど、この攪乱《かくらん》された自分の思考過程が、実に興味深い。二種類の塗料を混ぜ合わせるシーンが思い浮かんだ。早く均質に混じるようにやっきになって掻《か》き混ぜている。二つの色が新しい一色になる、と信じて手を動かしている。それを期待して確かめようとしているのは目だ。しかし、実際には、細かい粒子がそれぞれの間に入り込むだけのこと。そこにあるものは、なにも変化していない。位置が変わるだけで、物質は同じである。私が無理に考えようとしていることは、新しい物質が生まれると期待して、力任せに掻き混ぜる行為に似ている。  良質の諦めとともに煙草の火を消し、私は帰る支度をすることにした。といっても、デスクの上のものを少し整列させるだけの儀式である。  通路に出て鍵をかけ、室内の照明を消した。ぼんやりと暗い通路を進み、さらに暗い階段を下りていく。ロビィには、学生たちが大勢いて、床に新聞紙などを広げ、立て看板の絵を描いていた。こちらを見て私に頭を下げる学生もいる。そろそろ大学祭なのだ、と私は思い出す。  玄関から出て、傘を広げた。ロータリィの緩やかなスロープを下っていくと 前を歩いていた女性が振り返り立ち止まった。白いスカートが建物からの明かりを受けて浮かび上がっている。蛍《ほたる》のようだ。 「先生、お帰りですか?」彼女が話しかけてくる。 「ああ、うん」私は返事をしてから、彼女の顔を見た。  見覚えのある顔だったものの、名前は思い浮かばない。私の授業を受けている一人だろうか。同じ学部にはちがいない。見たところ、新入生とは思えない。この時刻に学内に残っているのは、学祭の準備をしていたか、あるいはサークル活動だろう。となると、二年生か三年生か。四年生になれば講座に配属されるし、多少は顔と名前が一致するものである。 「そこまでご一緒してよろしいですか?」彼女がまたきいた。  ご一緒する、という言い回しは今時の学生にしては上品だが、しかし意味がわからない。 「どこへ行くの?」私はきき返した。 「講堂まで」 「ああ、そういうことか」  校門の方角だから、数百メートルは同じ方向だ。そこまで一緒に歩いても良いかという意味らしい。こんなことを尋ねること自体が不思議であるが、若者流の礼儀なのかもしれない。 「なにかの準備?」黙っているよりは良いかと感じて質問してみた。 「ええ、演劇部なんです。今から練習なんですよ」 「ああ、なるほど」  演劇部か。しかし、それ以上になにも想像できなかった。どんな劇なのか、などと尋ねたら、興味があると思われてしまう。観にきてくれ、などと言われかねない。相手に期待を持たせるような言葉は、私の性に合わない。したがって、初めから口にしないことにしている。  そこでまた会話が途切れた。黙って、数十メートルを歩く。  雨が降っているせいで、学生たちは外で作業ができない。どの建物にも、雨を凌《しの》げるピロティや、ロビィの中に、大勢の姿が見えた。  私は黙って歩いている。そのすぐ隣を若い女子学生が、傘が触れそうな距離を保ちつつ、やはり歩いている。何故、相手の歩調を気にして同じ速度で歩くのか、不思議だ。だが、彼女はそれを私に提案し、私はそれを承諾したのだから、文句を言える筋合いではない。 「先生って、結婚されているんですか?」突然彼女が言った。  その質問の意味が理解されてすぐ、私は鼻から息をもらした。可笑《おか》しかったのだろう。何が可笑しいのか。おそらく、ドラマなどでよく観られる、あまりにわざとらしい台詞回しだったためと思われる。一瞬考えたのは、彼女が演劇のために台詞の練習をしているのだ、という発想だった。はっきりとした爽《さわ》やかな発声だったし、それくらい非現実的なものに感じられた。 「どう思う?」しかし、私は普通に応える。 「うーん」そう唸りながら、彼女は私をまじまじと見た。笑っているようだ。私は彼女の顔にはピントを合わせないようにしていたので、よくはわからない。「どちらでも、私には関係がないことですよね」  関係がない? 「では、どうして、尋ねたんだい?」 「それはですね。先生がどうお答えになるのか、ということが、私の興味対象だったわけですよ」 「ああ、なるほど」私はとりあえず頷いた。「つまり、四種類の場合が考えられるね。結婚しているから結婚していると答える。未婚だから未婚だと答える。それに、結婚しているのに未婚だと言う。あるいは、逆に未婚なのに結婚していると言う」 「実はどうなのか、ということは、私には無関係なんですよ」彼女は楽しそうに声を弾ませる。「そうですよね? だけど、先生が、お答えとしてどちらを選ばれるのか、という点は、この場における現実として、私には意味があるものです」 「そうかな」私は無理に微笑んでみせた。 「そうですよう」彼女は口を尖らせ頷いてみせたが、次ににっこりと微笑んだ。「あ、じゃあ、ここで失礼しまぁす」  分かれ道の少し手前で、彼女は早足に去っていった。私は、落ちてくる雨で、いくつもの円形が出現するアスファルトをしばらく眺めて歩いた。  私と別れた瞬間に、彼女の中で私の印象は消えただろう。そうした印象だけが現実である。今、ここに残っている私は、彼女の現実から解き放たれた存在だ。  雨が落ちてくる。  私の傘も音を立てている。  消えてしまわない私のせいで、足許にだけ平穏なエリアが保たれ、私とともに移動していた。 [#改ページ]   ただ少し変わった子あります      1  私はそれほど酒を飲む方ではない。しかし、飲まないわけでもない。むしろ自然に、茶や水と同様に飲んでいることがある。食事のときも飲んだり飲まなかったり、その日の気分次第。そして、あとになって、あの日は何を食べたのかは覚えていても、はたして酒を飲んだのか、飲んだとしたら何を飲んだのか、と思い出せないことが少なくない。それくらい、私にとって酒は希薄な存在なのである。泥酔するほど飲むようなことはないし、また、少々飲んだくらいでは、まったく気分に変化がない。もしかして、既に私の躰《からだ》が退化し鈍感になったせいでアルコールの作用が現れない、とも考えられるほどだ。  これまで酒を飲んだ人間を数多く観察してきたなかでわかったことがある。酒を飲むことによって、つまり酔うことによって、人の持つ魅力が増すことはない、という点だ。少なくとも男性に関しては、私はこの法則の例外に出会ったことがない。女性の場合は、僅《わず》かに、そして軽度の例外があったように思えるのだが、けれどそれは、どうやら女性に対する私の観察眼に問題があったといえなくもないだろう。恥ずかしいことなのかもしれないが、私はそれほど異性に対して熱心ではなかったようだ。この頃、周囲の男たちを見て、自身との比較によりそれに気づいた。みんな冗談で口にしていると考えていたのだ。まさか本音だとは思わなかったのだ。  そんな本性を易々と垣間《かいま》見せる人間たちを眺めている方が、私には正直言って面白い。だから酒を飲むと、私はだいたいの場合、聞き手になって、酔った男たちの話を聞くことになる。そして、彼らの話の内容そのものよりも、何故、今、彼らはそれを話したがっているのか、という理由を考える。これがとても愉快なのだ。  酔ったときの人間は価値が下がる、と断言したものの、実は、そうとばかりもいえない。たとえば、若い場合は、酔うことによって表面化する人格が幼い子供を連想させて、ある意味で微笑ましい。したがって、若者が酒を飲み、友と意気投合する現象は、お互いにその幼さに対して懐かしさを覚えるためであろう。ところが、年輩者の場合には、その好ましさがない。彼らは、若い頃に経験した懐かしさを今も酒に求めているようだが、残念ながら既にそれは遠すぎる。ぎりぎりと絞ったところで、自己顕示あるいは欺瞞《ぎまん》がどす黒いオイルのように染み出すだけで、そこに観察されるものは、惨めさと醜さ、そして悲しみだけだといえる。だから、その種の淋しい姿を眺めることは、おきまりのメロドラマを鑑賞する行為に等しい。  どんな人間でも、一とおりのドラマくらい持っているものだ。それを語りたがる者と、語らない者がいる。大袈裟に語る者と、慎ましく語る者がいるだけのことだ。一夜の余興としてそれらに耳を傾けるのは、不謹慎だが愉快ではある。けれども、同じドラマの再放送を何度も観ようとは思わない。すなわち、こういった語る酒酔い人とは、一度きりのつき合いにしなければならない道理になる。飲み友達になってしまっては、それこそ悲劇というものだろう。  必然的に、私には飲み友達が少ない。私が純粋に自分の時間を大事に考えるようになって以来、多くの関係が自然に淘汰されたためである。片手で数えるほどしか顔を思いつかないほどだ。そんな数少ないうちの筆頭が荒木《あらき》だったし、また、指折り数えていけば最後に「ああ、そういえば」と思いつくのが、磯部《いそべ》という男である。  磯部は、同じ職場の後輩だったが、数年まえに県内の私立大学へ栄転して教授になった。エリートで新進気鋭を絵に描いたような人格であったので、十年ほどまえ知り合った頃には、私はどちらかというと、彼のことを敬遠していた。二カ月か三カ月に一度くらいの割合で、二人で飲みにいっただろうか。もちろん、いずれのときも彼の方から誘いがあり、三度に二度は断ったその残りの機会だった。  会って話をしても特に棘《とげ》があるわけでもなく、つまらないことを言うでもなく、嫌な思いをすることもなかった。だから、それなりに続いたのだと思える。そのうちに、この男のどこかに、自分の若い頃に似た要素を見出すようになった。共通点があるな、と感じたのである。しかし考えてみれば、どんな人間にだって、多かれ少なかれ似ているところはあるだろう。長くつき合っていれば、そうしたものを無意識に探し求め、見つければ安心するといった心理とも分析できる。  ただ、近頃の彼は、最初の頃の印象とはずいぶん違っていた。どちらかというと、物静かな厭世家《えんせいか》に近づいているように私には感じられた。彼が歳を重ねただけのことなのか、もともと内に持っていたものだったのか、それはわからない。あるいは、私に会っているときだけ私に合わせて装っているのかもしれないし、もっと楽観的に、私とつき合ううちに影響された結果とも分析できる。私は、そんなことで責任を感じることはないけれど、周囲の声をときどき聞けば、「磯部はこの頃やる気がない」などと揶揄《やゆ》されているのは確かで、それは本人も充分に承知しているところのようだった。 「そういう人たちが、やる気と呼んでいるものって、つまりは自分の家来が立身出世のために見せるスタンドプレィのことなんですよ」磯部はシートに斜めに座り、壁にもたれかかっていた。片手の指は、テーブルの上のグラスに触れている。「こちらとしても、ときどきは、あんたの思いどおりにはいかない人間もいるんですよ、と知ってもらいたいわけで、まあある種そんな、お節介な優しさを持ちたいわけですね」 「気にすることはないさ。やる気なんてものは、誠実な仕事にはまったく邪魔な存在だよ」私は言った。「どんなにやる気があったって、人間は数メートルしかジャンプできない。人を月まで送ったのは、そんな単純でいい加減な意志ではなかったはずだ」 「実は、お恥ずかしい話なんですが……」磯部は急に姿勢を正し、座り直した。「誰にも話してないことなんですけど、半年ほどまえから、妻と別居しているんです。たぶん、このまま離婚になると思います」 「そう」私は頷《うなず》いた。表情は変わらなかったと思う。 「いえ、特にこれといって大騒ぎするような事件があったわけでもないんですが、なんとなく、うーん、なりゆきでそうなってしまって……。しかしまあ、僕としては、その、良かったと考えています。今はもうすっかり気持ちの整理もついて、変な話ですけど、清々《すがすが》しいっていうか、気持ち良いくらいです。自分のこれからの人生が、今までになく自由に考えられて、大きな可能性を感じますね」 「ああ、それは良かった」 「今思うと、やはり、家庭を持つこと自体が、僕には重荷だったんだと……。重いものを持って飛んでいるから、ばたばたと必死に翼を動かさなくちゃいけない。それを傍《はた》から観れば、あいつはよく頑張ってる、なんてなるわけです。それが今は……」磯部はそこでにっこりと微笑むのだった。「軽くなった分、優雅に翼を動かしていられるわけですよね。それで、やる気がない、なんて言われてしまう。でも、ちゃんと同じ高さを飛んでいられるし、いざとなれば、ずっと高くまですぐに上がることだってできる。どこへだって飛んでいけます」 「羨ましいな」私も微笑んだ。 「え?」 「いや、その状況がというよりは、そんなふうに自分を客観的に分析できることが、評価されるべき価値のある状況だと思うね」 「自己の立場を自己から離れて考える行為は、生理的に余裕がなければできません」 「うん、そのとおり」 「必死で羽ばたいてやっと宙に浮かんでいても、しかし、飛んでいる状態に価値があるわけではなかったんです。飛ぶこと自体に価値があるわけではない。飛ぶことによって得られるもの、なにかが見える、どこかへ行ける、ということが本来の価値なんですからね。生きることに価値があるのではなくて、生きることで何ができるか、そこに価値を見出すことを忘れないようにしないと、とは思うんですけど」 「ああ、良いね、若い言葉だ」私は吹き出した。「君にやる気がないなんて評価した連中は、どこに目をつけていたのかな」 「妻と別れたことで得られたのも、まあ、そのことですよ。僕の人生は、誰か他人に評価してもらおう、という人生でした。ずっとそうだったと思います。でも、今は自分で評価できます」  その店を出たのが、まだ十一時頃だったかと記憶している。いつもならば、もう一軒、静かなシートを探して歩くところだが、もう帰ると彼が言ったので、地下鉄の駅の方向へ二人で向かうことになった。 「先生は帰られたら、何をなさるんです?」 「うーん、この時間なら、まあ、少しは本が読めるかな」 「ですよね」嬉しそうに彼は頷いた。「僕も、そう考えていました。お酒はこれくらいにして、時間を作らないと」 「全然関係のない本を読んでいてもね、こういうときには、思わぬインスピレーションがある。そういった拾いものをするためには、昼間の書類や会議に追いかけ回されている時間では絶望的だ。重い荷物を背負って先を急いでいる人間には、地面に埋まりかけている宝石はけっして見つけられない」  その言葉は、口から出したものか、それとも考えただけだったのか、今思い出してみても判然としない。それよりも、キップを買いながら、私はふと、あの店のことを彼に教えたくなった。どんな連想でそれを話したのかも、よく覚えていないのだが。 「実は、ちょっと変わった店があってね。いや、今からというわけじゃない。だいたいそこは、二人では入れないんだ」 「え、店が、ですか? 珍しいですね。いえいえ、小山《こやま》さんのおすすめの店なんて、前代未聞ですよ」 「まあ、気に入るかどうかは、ちょっとわからない。うん、でも、一度は行ってみると良いかもしれない。それでもし駄目ならば、そこで終わり。なかったことにして忘れてもらえば良い」 「どこらへんですか?」 「いや、それもね……、うーん、説明が難しいなあ」私は笑った。すでに二人ともキップを手にして、改札へ向かって歩きだしている。「今度、詳しく話そう」 「忘れませんよ。じゃあ、また近いうちに」 「そうだね、じゃあ」私は改札を抜けてから、彼に向かって片手を上げた。 「失礼します。お疲れさまでした」彼はお辞儀をしてから、反対側のホームへ階段を下りていった。      2  二日後の夜、私は例の店に電話をかけ、いつもの手はずで迎えにきたタクシーに乗った。車は郊外へ向かう国道を走った。車内では、ラジオの野球中継が聞き取れないほど控えめに流れていた。  一昨日の夜、店を紹介すると磯部に話したことについて、私は、昨日も今日も幾度か考えた。それが頭を過《よ》ぎるからだ。まだ具体的に説明したわけではない。しかし、もう存在を明かしてしまったことは確かである。はたして良かっただろうか。秘密にしておくべきだったのではないか。少なくとも、店の女将《おかみ》に相談をし、許可を得てからの方が良いかもしれない。そう考えると、早く女将に会って、そのことを相談したくなった。磯部と顔を合わせ、彼がその店のことを尋ねてくるまえに。  それから、荒木が私に店のことを話したのが、彼の自由意志によるものだったか、についても考えた。あの男がわざわざ店の女将の許可を得るとは思えない。ただ少なくとも、初めて電話をかけたとき女将は私の名前を知っていた。荒木が話したからだ。私が店へやってくることを予想し話しておいたのだろうか。  その荒木は今も行方不明だ。彼がいなくなってずいぶんになるけれど、周囲はまったく変化していない。まるで彼という人間がずっと以前からいなかったように。  どうも、そんな意味もない領域へと思考が迷い込み、最後は同じところで堂々巡りをするのだった。  こんなふうに悩ましいのは、そもそも、客が友をつれては行けない、というあの店の不思議なルールのせいである。食事をするための店なのに、複数の客を断るところがほかにあるだろうか。二人で行けるのならば、磯部に紹介することは容易《たやす》いし、自然だろう。  何故、客が一人でなければならないのか。実に不思議である。そのことについて、説得力のある理由を、私はまだ思いつかない。たしかに、女が一人現れ、その彼女と一対一で話をする、という趣向のためには、複数の客は無粋《ぶすい》かもしれない。だがその場合は、たとえば部屋を二つ用意して、相手をする女も二人用意すれば解決する問題ではないか。料理を作る手間などを考慮しても、大きな障害とは思えない。逆に店の利益を考えれば、明らかに有利なはず。  しかし、知った者がともに訪れる、というシチュエーションが元来あの店には馴染まない、相容れないファクタである、という感覚はたしかにあった。  車は森林の中へ入り坂道を上っている。ときどき明かりがあるものの、それは電信柱の電灯で、住宅は見当たらない。登り切ったところで脇道へ逸《そ》れ、今度は急カーブを下った。道はさらに細くなり、対向車があってもすれ違えないほどだ。ヘッドライトが照らし出すものは、両側の鬱蒼《うつそう》とした樹々のごく表面。このあたりならば死体を捨てても、きっと長く見つからないにちがいない、と思えた。  やがて、ほんのりと灯った黄色のライトが見えてくる。タクシーが停止した頃には、暗闇に小さな窓が二つ浮かんでいた。しかし、その建物の背後だろうか、裏手がほんのりと明るい。そちらだけ森林がぼんやりと照らし出されていたため、建物のアウトラインが不鮮明ながら見える。それほど大きな規模のものではなかった。道路からコンクリートの曲がった階段を上った先にドアがあり、その上で黄色い光を放っているのは、ガラスに覆われた本ものの炎のようだ。その光が届く範囲で判断すれば、建物はコンクリートの打ち放しで、細い鋼製の手摺《てすり》などの造形はアンバランスなほどクラシカルだった。  私が階段を上がろうとしたとき、上でドアが開き、白い光が降りかかるように漏れ出た。 「小山先生、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」いつもの声だ。  私は階段を上りきったところであたりを見回した。白っぽい闇の中に、タクシーの赤いライトが遠ざかっていくだけで、それ以外にはなにも見えない。重要なものはここにはない、と主張しているようだ。 「これはまた、静かなところだね」私は女将に言った。「よくもこんな場所に家を建てたものだ。店ではないね、住宅のようだが」 「はい」女将はにっこりと微笑んだ。 「おそらく、芸術家だろうね」私は女将が話すまえに言う。 「ええ、そう聞いております」 「絵描きか、それとも、あ、陶芸家かな?」 「五年ほどまえにお亡くなりになったそうです。ここで、お一人で暮らしていらっしゃったそうですよ。あ、先生、どうぞお足許にお気をつけ下さい」  私は玄関で靴を脱いだ。そこには、履きものは一つもなかった。私が脱いだ靴だけが残る。女将の草履が、その横に並ぶ様を私は期待して眺めていた。 「奥が半地下になっておりまして、そこがアトリエだったようです。絵と彫刻をされていた、その筋では名の通った方だったと聞きましたけれど、私は、その方面に暗くて、お名前を聞いても……」彼女は微笑みながら首をふった。 「芸術家の名前なんて、作品を買う者だけに通っていれば良いものだからね」私もつられて笑った。「しかし、学者の名よりは、価値があるだろう、少なくとも」  リビングの奥に、ガラスに囲まれた場所があった。おそらくサンルームであろう。銀色に塗装された細い骨組が作り出した長方形に例外なくガラスが填《は》め込まれ、また、それらの内側に、細いワイヤが斜めに張られていた。ガラスは透明だが、外は真っ暗闇である。三方の壁と、傾斜した天井のガラス面は室内の光を反射するしかない。多少曇った鏡と、少々|歪《ひず》んだ鏡に囲まれている空間といえる。一段下がった床は、石質のタイルで覆われていた。その中央に、曲線を描く黒い脚に支えられ、天板が黄色っぽいガラスのテーブルが置かれている。さらにそのサブセットとして類似した造形の椅子が二脚左右に。その背もたれの紋様は植物の枝と葉だったが、写実的ではまったくない。  女将が引いた椅子に私は腰掛けた。溜息をつき、もう一度天井を見上げる。傾斜しているため、幸い、自分の姿を真上に見ることはなかった。視線を下げ、周囲の壁も確かめる。大きな観葉植物が数鉢あるおかげで、やはり私の姿の反射が妨げられていた。計算されて置かれているものだろう。だから私は、ガラスに反射した女将の姿を見ることにした。いつものとおり、白っぽい和服姿であったけれど、不思議にこの洋風のインテリアにも似合っていた。もう一面のガラスへ視線を移せば、別の角度からも彼女の姿を眺めることができた。 「寒くありませんか?」女将が首を傾《かし》げてきいた。 「いや、ちょうど良いです」私は答える。  女将の顔を直接見た。椅子に座ることが珍しく、このような視点で彼女の顔を間近に見ることも初めてかもしれない。ああそう、この顔だったか、と見るたびに思い出して安心する、そんな整いすぎて特徴のない人形のような顔である。 「では、すぐに支度をいたしますので、しばらくお待ち下さいませ」  彼女はお辞儀をして、リビングの通路の方へ消えた。来る途中にいくつかドアがあったが、そのどれかが厨房《ちゆうぼう》だろう。どんな人物が料理を作っているものか、まさか狐か狸でもあるまい、そんなことを想像しながら、私はまたガラスの面に視線を戻した。  まず、お茶を運んでくるはずだ。そのときに女将に尋ねてみよう。そう考えるだけで僅かに緊張した。この歳になると、ちょっとした緊張でさえ新鮮である。  ぼんやりと眺めていたガラスの中に、白いものが突然浮かび上がった。部屋の中にいるものだと思い、私は咄嗟《とつさ》に振り返り室内を探した。しかし変化はない。もう一度見直すと、それはガラスの向こう側、すなわち屋外だった。  近づくとたちまち鮮明になり、白い服装の女性が私の視線を受け止める。彼女が片手を差し出してガラスに触れると、小さな音が鳴った。気づかなかったが、そこがドアになっていたのだ。外側へ開き、そこからその女性は入ってきた。  彼女はテーブルに近づき、首をやや傾けながらお辞儀をした。顔を上げるとき、片手で長い髪を整えた。ほんのりと微笑む唇がこの反射板に囲まれた部屋の光を集めたように鮮やかで、私はそれを数秒間見つめてしまった。 「こんばんは」私はとりあえず言葉を探す。「外には、何があるんですか?」 「あちらに」彼女は振り返る。髪が滑らかに動いた。「古い温室があります。今はもう荒れてしまって、恐いくらいでしたけれど」 「どうして、そんなところに?」 「ええ、廃墟が好きなんです」  ハイキョという音が、少しの間、私の頭の中で往復した。 「この家も、もうほとんどハイキョですね」私は言った。「あ、どうぞ、座って下さい」 「失礼いたします」椅子を引き、彼女は優雅な動作で対面の椅子に腰掛けた。そして、背筋を伸ばした姿勢で正面の私へ真っ直ぐに顔を向ける。「ここにまた来られるなんて、奇跡だと思いました」 「ここに?」私は首を傾げる。「この家のことですか?」 「はい」彼女は頷く。それから、顔を上げ、周囲の高い位置へ視線を向けた。「ここには、懐かしい空気が集まっていますから」 「以前にも、こちらに?」 「いえ、そういうわけではありません。むしろその逆です」 「逆というと?」 「ここにいる空気たちが、ずっと昔は、私の周りにいました」  ここで私は少し微笑んだ。意味がよくわからない、という苦笑のつもりだった。 「あら、先生にも、そういったことがあったのですか?」 「いやいや、そんなふうに考えたことはないですよ」  彼女が先生と呼んだことで、少なくとも、私の話を聞いていることはわかった。女将がつれて現れるいつものパターンとは異なっていたものの、この人物が、今夜の食事の相手であることはまちがいない。もしかして、たまたまここに居合わせたまったく無関係の人間かと、少し疑っていたのである。否《いな》、いずれにしても、無関係であることにはちがいはないのだが……。      3  この女性の劇的な登場もあって、その後、女将への尋ねごとも機を逸してしまった。料理はこの場所に合わせたのか、和風とも洋風ともいえないエキセントリックなもので、器は和風であったし、盛りつけも和風なのだが、香りがずっと遠くの地を連想させ、味はさらに驚きの新しさだった。  テーブルの対面の彼女もまた、話をするほどに異国の香りを漂わせた。気がつけば、その髪も黒くはない。肌も透き通るように白い。もちろん、尋ねるわけにはいかなかったが、他国民族の血があるいは混ざっているのかもしれない、と私は考えた。  いろいろな町の話を彼女はした。「町」と彼女自身が言った。しかし、それらは農村や漁村、あるいは渓谷の道に沿って民家が並んだだけの山村の情景を私に連想させた。彼女がそれらの地に住んでいた、といった話ではない。友人を訪ねていったら、たまたま電車を降りてみたら、美味しい魚が食べられるかもしれないと思って、などと彼女はそこへ行き着いた偶然性をこともなげに語った。最初は普通に聞いていたのだが、次から次へ、別の村の話になる。よほど旅行が好きなのだろうか。そういった仕事をしているのだろうか。一度も地名は登場しなかった。しかし、どの話を聞いても、私の頭に思い浮かぶイメージは、例外なく異国の地、最果ての地だった。そういった空気を彼女が伴っているせいだ、と私は密かに考えた。 「港の市場で買いつけた魚を木箱に入れて、それを引きずって、坂道を上がっていくのです」彼女は静かな口調で語る。「どうして車輪のついた荷車みたいなものを使わないのかって不思議に思ったんですけれど、でも、石畳はごつごつしていますし、ところどころは泥濘《ぬかるみ》です。車輪なんて役に立たないんでしょうね。ほかにも同じことをしている人がいます。みんな引きずっているんです。躰を斜めにして……」彼女はそこでくすっと息を吐いた。「ですけど、いつ立ち止まって、一息ついても、荷物は坂を下っていかないのです。考えてみたら、私たちの生き方って、荷車のように便利になったのでしょうけれど、立ち止まって少しでも力を抜くと、すっと浚《さら》われるように、すべてが逆戻りしてしまう、手を離したらたちまち自分から離れていってしまう、そんな気がしませんか?」  また、別の町では、祭で賑やかな表通りから一本逸れた裏道に、薄汚れた服装の老人が座り込んでいたという。 「頭にも着ているものと同じ布を巻いているんです。顔は日焼けして、もう皺《しわ》がいっぱい。じっとこちらを睨《にら》むようにして見つめてくるので、どうしたのですか、と尋ねましたら、しくじったって言うんです。何をしくじったのですか、ときいてみたら、首を横にふって、もう気をつけなきゃならん、それがわかったって、そう言ってにやりと笑うんですよ。そして、骨と皮だけのような手をぎゅっと握り締めて、ああ、しくじった、とまた呟くのです。いったい彼は何をしくじったというのでしょうか?」  この話を聞いたとき、私もそんな老人を見たことがある、と思いついた。どこだったかまでは思い出せない。あるいは、それは私自身であったかもしれない。  そう言われてみれば、なにもかもが、そんな失敗の連続、つまり後悔の繰り返しだったように思えてくる。人生のどこを探しても、大きなもの小さなもの、色とりどりの沢山の失敗がちりばめられ、一つずつ後悔という金具で留められているだろう。ああ、しくじったな、と毎晩の子守歌のように自分の声を聞いた。すべての原因は、きまって自分自身にある。偶然や他人の干渉によってもたらされた不幸など、天災と同じで、反発こそすれ落ち込むような事態には至らない。自分の思い込み、思い上がり、思い違いに発した不運こそが、重くそして灰色にいつまでも存在し続けるのである。  そう考えているうちに、彼女はまた別の町の話を始めている。草原が広がった荒野。風が波のように見えるその中に、一本の道が丘を緩《ゆる》やかに登っている。トラックの助手席に乗って、汚れたフロントガラスと、ボンネットの端で捲《めく》れ上がった錆びついた鉄板の振動が気になった。運転手の男の顔を私は知っている、と彼女は話す。ずっと昔から知っているように思える顔だったのかもしれないと。時間がスライドした感覚。空の左半分が明るく、右半分が暗い。この道を逆に下って走れば、その左右が反対になる。それと同じように、時間だって過去を振り返れば、未来が背後になるだろう。 「道ががたごとで、本当に座席から飛び上がるくらいなんです。運転手のおじさんは、一言もしゃべりませんでした。私が小さいときに一度、父と一緒に会ったことがある、と車が動きだすまえに私の方から話しました。私は何故かそれを思い出したのです。でも、彼は私のことを覚えていないみたいでした。お酒が好きだから、飲むと今日あったことも綺麗に忘れてしまう、と言いました。あとはただずっと前を向いたまま、一度も私の方へ顔を向けません。人間って不思議ですよね。混み合った電車に乗ったときも、もの凄《すご》く他人と接近するのに、お互いに知らん顔をするんです。声をかけたりしたら失礼だと思われる。息を殺して、自分だけの世界に集中する。まるで周りにいる人間たちが皆、植物みたいに思い込めるんです。ですけど、本当はきっとどこかで意識をしている。むしろ敏感になっているときもあって、見ないようにしましょう、知らない振りをしましょうって、力を入れてがんばるときも、ありますよね?」  話題の多い女性だな、と私は感心した。語る口調が滑らかで、まるでエッセィの朗読を聴いているかのようだった。そして、それが彼女の体験談なのか、それとも彼女が伝える誰か別人の経験なのか、それとも、私自身の古い記憶なのか、その境界が曖昧になりつつあった。  漁村の坂道で荷物を引きずっているのは老いた私ではなかったろうか。ときどき立ち止まって、背骨を伸ばして深呼吸をしたような気がする。路地に座り込んで、後悔の言葉を吐き捨てているのは、あのときの私ではなかっただろうか。失敗したことを認めるのは容易い。二度と同じ過ちはしない、と誓いながらも、同じ状況の再来は絶対にないことを予感している。それだからこそ、後悔という虚《むな》しさを演じ、自分を誤魔化《ごまか》すしかないのだ。いつだったか、別れると決まった女を車で駅まで送ったことがあった。たぶん、一言も話さなかっただろう。もうその気持ちを再生することは私にはできない。けっして美しい感情ではなかったはずなのに、イメージされる色彩は不思議に輝かしい。  そうしているうちに、さらに連想を重ね、私はいくつも記憶を引き出した。これまですっかり忘れていたものばかりで、多くの印象は風化して色|褪《あ》せている。それでも、正面の彼女の白い顔を見つめながら、もはや彼女の声も届かない世界を眺めようと目を凝らしていたのだ。言葉に還元すれば簡単である。飼っていた犬のことや、子供のときに事故で死んだ姉のことや、酔っぱらった親類の老人たちのことや、田舎の祭のときに作る酸っぱい料理の味や、仲直りができたときの涙や、それができなくて別れたときの喉の渇きや……、いずれも、脈絡もなくふいに現れ、また一瞬で消えていく。思い出すことによって、より深く忘れようとしているのだろうか。きっとそうだ。しっかりと蓋《ふた》をするために、たしかに封印するために、もう一度だけ中身を取り出し、綺麗に折り畳んでいる作業。きっとそうだ。  いつの間にか、料理も終わっていた。デザートの皿も片づけられ、九谷焼と思われる丸いカップが目の前に置かれていた。黒い液面で小さく光っているのは、天井の白い照明。三日月形に歪《ゆが》んで微《かす》かに揺れている。そのコーヒーを口へ運ぶ。見れば、彼女もカップを手に取って、こちらを見つめながら、ゆっくりとそれを飲む。  目が少し笑っていた。見透かされたような気がしたけれど、できれば、私の考えていることを見通してほしい、とこのときは感じた。 「失礼かもしれませんけれど、よろしいでしょうか?」彼女はそのままの姿勢で、一段と声を落とし、囁《ささや》くようにきいた。 「何が?」私は表面上は普段の形、すなわち仮面をかぶった表情。とても素顔を見せる勇気はない。 「もし差し支えなければ、今夜、お食事のあとで、会っていただけませんか?」 「え?」私は驚いた。  彼女はカップを静かに置き、姿勢良く座っていた上半身を前傾させ、テーブルの上に片手をのせて、さらに私の方へゆっくりと差し出した。細い手首が白い毛糸の袖から現れ、白い指はなにかを求めるような形で、差し伸べられた。  私もカップを置く。  彼女の手に触れたい、と思った。  そう思うのが、既に致命的に遅かったかもしれない。  恐る恐る片手を持ち上げた、テーブルの上に。  触れる。  一瞬。  私はすぐに自分の手を引っ込めた。  彼女も遅れて姿勢を戻し、その手をテーブルの下へ。  微笑んだ。  形の良い唇から、白い前歯が僅かに。  笑われたのかもしれない。  悪戯《いたずら》だったのか。  弄《もてあそ》んだのか。  私は息を止めていただろう。そして、まちがいなく後悔していた。言葉は出てこない。視線を一度落とす。彼女を見続けることが、もうできなかった。  その次には、急になにもかもが滑稽《こつけい》に思えてきた。ようやく呼吸を取り戻す。笑うように。誤魔化すように。息をすることで、清算できるような気がした。でも、それは勘違いだ。違う。  見上げると、彼女は目を閉じている。  少し顎を上げて。  空気を感じるような姿勢。  それとも、見えない天使と接吻をしているような。  笑ったことを、私は恥ずかしく思った。なにも可笑《おか》しくなどない。失礼ではないか。そう。しかし、すべてはもう遅い。私は、しくじったのだ。 「しかし、それはルール違反になるのでは?」私は、なんとか冷静さを取り戻した。そう思い込もうと必死だった。  彼女は目を瞑《つむ》ったまま小さく頷き、それから目を開けると、今度は上目遣いに私を見据えた。口もとを仄《ほの》かに緩め、しかしもう、さきほどのようには微笑まなかった。  言葉もない。  沈黙が残酷に広がる。  音もない。  静寂が容赦なく降り注ぐ。  奥から女将が現れた。 「いかがでしたでしょうか?」 「ああ、うん」私は女将に頷いてみせた。笑顔をつくって。  私の前の彼女は黙って椅子から立ち上がると、優雅にお辞儀をして、リビングの通路に消えた。ガラス戸から外へ出ていくものと無意識に思い込んでいた私は、彼女が見えなくなったあと、しばらくガラスに張りついた暗闇を眺めていた。      4  不思議な店だ。  不思議な女性だ。  そして、不思議な体験だった。  帰宅してもなお、私は彼女に触れた片手の感覚を覚えていた。もう二度と会えないというだけのシンプルな出会いと別れが、剃刀《かみそり》の刃のようにさっと幕を切り裂き、隠れていた向こう側を露《あら》わにする、そんな一瞬に凝縮された鋭敏性だろうか、あるいは緊張がもたらす偶然の幻想だろうか。  私は、自分が少し若返ったように感じた。正直な気持ちである。その夜はなかなか眠ることができず、珍しく若い頃に読んだ詩集を書棚から探し出して広げた。  そして、ふと……、  空気が世界中を巡るように、人間の意識もまた、  もしかしたら、  人が考えているよりも流動的な存在かもしれない、  と発想した。  とぎれとぎれに思い出す記憶のように、転々と人から人へと、意識は渡り歩いているのではないか。その人その人になりすまし、次々に新しい町を訪ねるように。融合と隔離を繰り返し、練り混ぜて。渦巻き、淀《よど》み佇《たたず》む。  一人の人間だと思っているものは、実は社会や町のような集合なのだ。もっと細かい意識という存在が無数にあって、それらは、人から人へと自由に移動している。旅人や渡り鳥のように。  私の中に、たった今存在する意識たちが、今の私を合議によって動かしているだけのことで、実は、不変のまとまりなど存在しないのだ。  彼女に一瞬だけ触れた片手から、既に私は変化している。  もう二度と、あのときへは戻れない。  その理屈が今初めて、理解できたように思われた。 [#改ページ]   あと少し変わった子あります      1  私にとって、最も居心地の良い場所とは、まちがいなく大学の研究室である。日曜日の午前ともなれば、通路も素晴らしく薄暗く、人影も綺麗に見当たらない。この頃ではセキュリティが煩《うるさ》くなったため、玄関に鍵がかかっているが、それくらいの儀式はいたしかたがないところだろう。キーをポケットから取り出してドアを開ける。ロビィを抜けて広い階段を一人で上る。静かだ。誰もいない。私一人には広すぎる通路、高すぎる天井。そして、研究室がある一帯は中廊下になっていて、ますます暗い。どの部屋からも照明が漏れていない。私は、再び別の鍵を取り出して、自室のドアを開ける。一瞬だけ、ここにしかない匂いがする。そして、鞄をソファに投げ出し、上着を脱ぐ。デスクの上は比較的整理されている。窓にはブラインドが下りている。床には何一つ落ちていない。ゴミ箱は空っぽだ。私は、そういう性格の男である。  椅子には拘《こだわ》った。いつだったか、備品として購入する際、事務局とかなりやり合った。どうしてそんなに高い椅子が必要なのか、そんな愚問にも私は誠実に答えた。理由書を二千文字書いたのだ。嫌がらせだと思われたかもしれない。その椅子に深く腰掛けると、もう動きたくなくなるから、さきにコーヒーメーカをセットしなければならない。私の部屋には、口から入れられるものは、空気とコーヒー以外にないだろう。その機械が故障した呼吸器みたいな声を上げるまで、私は近くのソファに腰掛け、雑誌を読んで待っている。ソファの前の低いガラスのテーブルには、そのために学会誌の最新号がいつも置いてある。こんなときでもなければ、読むことはないからだ。  ついにコーヒーが入った。それをカップに注《そそ》ぎ、デスクへと歩く。そして本命の椅子に腰掛ける。さあ、ここからが私の自由の時間の始まりだ。  とりあえず、暖機運転を兼ねてメールくらいは読む。そう、デスクの片隅にノートパソコンがのっているからだ。嫌な機械である。どうして、こんなものが私の仕事に割り込んできたのか、実に不思議。不愉快でさえある。だが、これよりももっと不愉快なものが沢山割り込んでくるのが、仕事というカテゴリィであることは、もちろん承知している。今日は日曜日なのだから、メールを読むのも、さほど苦にはならない。事務局が休んでいるので、あの無駄な添付ファイルの塊ともいえる無礼なメールが来ないからだ。  なにも見ず、なにも読まない。ただ、じっと座って、私は考える。なにか特定のことを考えようとは思わない。ただただ、考えよう、頭の中に思いつく情景、風景、景色、それをじっくりと見よう、と目を凝らす。神経をだんだんと集中させていく。しばらくすると、いろいろなものが同時に私の目に飛び込んでくる。あるものは、昔の思い出、あるものは、これからの予想、そしてあるものは、まったく私とは無関係なものたちだ。映像にならないものもある。しかも、言葉でもない。もっと抽象的な概念。ぼんやりとしているようで極めて論理的に、私は思考を組み立てようと躍起になっている。身の回りを整理整頓することが好きなのだ。また、そんな自分の姿を、草原の中心に座して見守っている自分もいる。青い空と、真っ黒な星空とが同時に私の頭上に展開する。川のせせらぎが聞こえ、ブルドーザやクレーンが動く建設現場にも立っている。そうかと思うと、土の中に蟻が作るトンネルの断面図を観察している。枝から落ちる木の葉の上に乗って、ゆらゆらと短い魔法の絨毯《じゆうたん》ごっこを楽しんでいる。電信柱を結ぶ電線を高速で綱渡りしたり、U字溝のトンネルを疾走するバギィに必死で掴《つか》まっていたりする。  そのうちに、アカデミックな議論のシーンも少しずつ登場し始める。私は細胞分裂のようにみるみる多数になって、中心に立つ一人の私をやり込める。お前は何を知っているつもりなのだ? どうして自分の立場がそんなに確かなものだと信じられる? ちょっと周囲に目を配ればわかることではないか。ほら、よく見てみろ。なにもかもが虚構だ。違うか? お前が言葉にしたこと、お前の知っていること、お前が経験したと思い込んでいることの、どこに物理的な論証がある? いずれ現れると期待して、それが好ましいと予感しているだけだ。いわば、錯覚。いいか、存在を否定しない寛容さこそ、明らかに思い上がりだ。人間のエゴなのだ。そう、そのとおり。私は頷《うなず》く。けれども、このエゴこそが個人の起源ではないのか。あらゆる権力者が、すべての富を投じて、殺戮《さつりく》と搾取《さくしゆ》とを繰り返し、結局最後に手に入れたものが、人間の孤独だったように。王家の墓に眠っている莫大な財宝が長い眠りの末に証明した唯一が、個人の名前だったように。  しかしながら、そんな冒険を続けるうちに、現実のコーヒーはもう冷たくなっている。半分も飲んでいない。その遺跡のように冷たいコーヒーを一口だけ含んで、パソコンを閉じ、読まなければならない書類に目を通す。こんな処理はいつでもできる、と考えて山積みになったものたち。どうも、こういった書類を眺めると、私は不幸の手紙を連想する。私がこれに署名し捺印《なついん》して事務局へ返せば、さらに何倍かの書類となって、他所《よそ》へ送られることになるだろう。そうやって増殖を繰り返し巡っているのではないだろうか。もしそうならば、今のうちに私のところで、少しでも食い止めておこう、せめて締切のぎりぎりまで、といった仄《ほの》かな正義感さえ目覚める。  そうこうしていると、じわじわと頭の回転が遅くなっていることに気づく。もう駄目だ。ようするに疲れてくるのである。これは、やはり生物の宿命だろう。長時間同じ状態を維持することが苦手だ。そこが生きていないものとは反対である。  それだからしかたなく、私は現実の仕事に復帰する。書類のうち緊急のものを処理しようと努力する。仕事の大半とは、突き詰めれば作文である。いかに相手を納得させるような言葉を使って、もっともらしく説明するか、しかも今にも実現ができるような空前の発見であるかのごとく、相手に錯覚させねばならない。真の意味は言葉だけの解釈として潜み、偽りのニュアンスが盛大に踊り狂う劇場だ。考えてみれば、詐欺師と同じである。いろいろな申請書には、私の研究がいかに社会に不可欠な存在かを書き記す。企業宛には、この学生がいかに将来有望な人材かを表現する。そういった仕事なのだ。一粒の種を手にして、広大な農園の経営を夢見るような空想にほかならない。  学生たちが書いた文章を読み、それを添削するのも私の重要な仕事である。これは、書類よりは幾分楽しい。少なくとも、書いた本人に文句が言える。意味がわからなければ突き返すことができる。多くの事務書類の方がはるかに意味不明なのに、どこへも突き返せないことに比べれば、高等生物の行為として評価できる範囲であろう。  またコーヒーを淹《い》れた。時計を見ると、午後三時を回っている。いつの間にこんなに時間が進んだのか。しかし、仕事もかなり片づいた。日曜日には、電話や来客がないため、とても効率が良い。嫌なものでも片づくと嬉しい。これは、つまりマッサージと同じ原理ではないだろうか。痛い思いをして、そのあとにやってくる解放感を味わうのだ。  夜は予定がなかった。仕事が夜遅くまでかかるだろう、と悲観的に予測していたためだ。しかし、思いのほか早く片づいた。否《いな》、これくらいの能力は自分にあると承知はしていたが、毎回、こうして驚いて見せて、自分を褒《ほ》めてやりたいのである。自分以外に誰も褒めてはくれないし、もちろん、自分以外に褒めてもらっても全然嬉しくない。  熱いコーヒーに口をつけながら、今夜はどうしようか、と考えた。友人の顔が数名思い浮かんだものの、今日は日曜日だ、きっとそれぞれに予定があるだろう。特に家族を持つ者は無理にきまっている。そういえば、いつの間にか、同性も異性も含めて、独身の友人が減っているな、などと気づく。どんな効果があるものかと試すには、あまりにもリスクが大きい、それが結婚であろう。  その後も、若い頃の思い出を幾つか捲《めく》って、含み笑いの混じった溜息をついていたが、そういえば、と思い出したあの店へ、電話をかけてみることにした。はたして、日曜日でも営業しているだろうか、と心配と期待が交錯。しかし、簡単に予約が取れてしまった。受話器を置いてから、私はこの店を教えてくれた友人の顔や言葉を思い浮かべた。そして、ああ、彼もきっと、こんなふうに日曜日を研究室で過ごし、こんなふうに予約の電話を入れることがあったのだろうな、と想像した。      2  電話で指定されたとおり、地下鉄に乗った。市外になると電車は地上に出て高架を走る。あたりはすっかり暮れて、人家の明かりさえ次第に少なくなっていく。終点まで行けば、隣町の中心街になるのだが、この近辺は山林と田畑しかない。そんな淋しい駅で私は降りた。駅前のロータリィにバスが一台、タクシーが三台ほど待機しているが、降りた人々は、どちらにも乗らず、アスファルトの坂道を下っていった。そちらに、路上駐車している何台かの自動車が見えたので、おそらくは家族が迎えにきているのだろう。山を切り開き、宅地として開発された人工的な街があるにちがいない。この駅も、打ち放しのコンクリートでモダンな造りだ。既に閉店しているが、三軒ほど小さな店も構内にあった。それでも、夜になればこの淋しさ。この程度の開発では、空気までは暖かくならない、ということか。足早に去っていく人々の後ろ姿を眺めているうちに、私以外誰もいなくなってしまった。  新しいヘッドライトが、ロータリィの中へ入ってきた。ぐるりと回って、私の前で停車する。黒いセダンだが、タクシーではない。ドアが開いたので、私は覗き込んだ。運転手が頭を下げる。どうやら、これらしい。  車内は暖かかった。走りだすと、ふわふわと優しく揺れるだけで、もう外の淋しさも、寒さも、私とはすっかり切り離された別世界に感じられた。いったいどこへ行くのだろうか。運転手にきいてみる手もあるが、しかし知らない方が良い、きっと教えてくれないだろう、などと考える。  真っ直ぐの道路を走っていた。右も左も真っ暗だ。近くに明かりはない。ほんのときどき、遠くに光が見える。それを地面が反射することもあった。溜め池だろうか。そうかと思うと、急にトンネルのように暗くなり、窓に顔を近づけて見上げると、周囲に高い樹が立ち並んでいる。ぼんやりとした明かりが近づいてきて、珍しく人家かと思えば、歪《ゆが》んで傾斜した瓦屋根を電柱のライトが丁寧に照らしている。とても人が住めそうな感じではない。これは、けっこう凄《すご》い場所だな、と私はわくわくしてきた。  林を抜けたところで急に車は左折する。門のようなところを入った。暗くてよくわからないが、平坦で広そうな場所である。奥に木造らしき建物のシルエット。車はそこに近づき、玄関先で横を向いて停車した。運転手は無言のまま、ドアを開く。私は簡単に礼だけを言って、車から降りた。金は請求されなかった。店の料金に含まれているのだろう。  外に立つと、初めてその建物が何かわかった。学校である。たぶん小学校だろう。かなり古いもののようだ。表札などはなく、現在は使われていないように見える。  明かりが灯っている方へ私は歩いた。砂利が敷かれているので、ぎいぎいと音が煩い。私の後ろで、タイヤが砂利を弾き飛ばして、車が切り返していた。仄かな明かりは、建物の廊下の蛍光灯だった。そちらへ行くと、引き戸が開いて、白い着物を着た女性が現れた。 「どうも、先生、大変不便なところで、申し訳ございません。お寒うございましたでしょう? さあ、どうぞ中へお入り下さいませ」 「これは、小学校ですか?」建物の中に入って、私は尋ねた。 「ええ、そうです。一昨年で廃校になったと聞きましたけれど」 「それが、使えるんですか?」 「はい、世知辛《せちがら》い世の中でございますね。少しでも有効利用しようということで、一般に貸し出されているのです」 「へえ……。それで、こちらで、ずっと?」 「いえいえ。私どもは、今夜だけです、先生お一人のために、ただ一日の使用許可を取りました」 「あれ、でも、私が電話をしたのは、ついさっきですよ」 「はい、そういったことに備えまして、いつでも準備を整えております。これまでもずっと、こんなふうに営んでまいりましたので」  どうも理屈が今一つ理解できなかったが、つまり、こういうことだろうか。客から電話があってから、あらかじめ話をつけておいた場所の幾つかへ連絡をして、都合がつく場所でその日の店を開く。なにしろ、この店は二度と同じ場所では営業しないのだ。日頃から、幾つもの場所の候補を持っていなければ対処できないはずである。  白い照明の光が煙のように充満する廊下を進んだ。右手は窓が並ぶ。ガラスがくすんでいる。昼間であれば、おそらく校庭が見えるのであろう。反対側には教室のドアや窓。いずれも木製の枠で、ペンキが半分も残っていない。教室の中の照明は消えているため、さらに奥の窓ガラスの位置がわかる程度だった。懐かしいというよりは、薄気味悪い感じである。まるで、ホラー映画を観ているような気分になってきた。ただ、私はこんな場所が好きだ。仕事で、東南アジアの片田舎を訪れることが多いのだが、夜になると精霊たちが支配する森は、人間を拒み、あるいは畏《おそ》れさせ、そして、なによりも純粋さを保とうと機能している。それが、瑞々《みずみず》しい。そのような仕組みを作った人間にも興味がある。おそらく、そんな茫洋《ぼうよう》とした「畏れ」を学問のテーマにしてきた私だから、この雰囲気が面白いと感じるのだろう。否、逆かもしれない。そう感じるからこそ、こんなに研究にのめり込んでしまったのかもしれない。  明かりが灯っている部屋の前まで来た。教室ではない、宿直室だろうか。引き戸を開けて、女将《おかみ》が私に手招きをした。中へ入ると暖房が効いていて、とても暖かかった。目の前に大きなストーブがあるためだ。銀色の煙突が上へ延び、天井の手前で折れて、壁へと向かっている。 「こちらで、しばらくお待ち下さいませ。すぐに支度をいたします」彼女はそう言って頭を下げた。 「どうもありがとう」私は、コートを脱いだ。  女将は、ドアの内側にあった外套掛けのハンガに私のコートを掛けてから、廊下へ出ていった。  奥には、靴を脱いで上がる畳敷きの小部屋があった。今はガラスの引き戸が半分ほど開いていて、中央に置かれたテーブルが見える。食事はそこでするのだろう。手前のストーブの近くには木製のベンチがあった。私はまずはそこに腰掛けることにした。ストーブは、容易に近づけないほど熱を発している。ベンチで脚を組む。靴がストーブに一番近くなったので、靴底を通して熱が伝わってくるのがわかるほどだった。  溜息をついて、ベンチの背にもたれかかり、天井を見上げる姿勢になる。板張りの高い天井だ。最近、改修をした跡がわかる。ここは何に使われていたのだろう。宿直室だろうか、それとも、保健室だったかもしれない。壁際に、白い木製の戸棚が立っていた。ガラスが曇っているので、中は見えない。病院にある薬品を入れるもののようにも見えた。私は、理科室や音楽室の風景を思い出していた。けれど、自分が通った学校にそんなものがあっただろうか。もしかして、あとから得られた情報を自分の記憶だと思い込んでいるだけかもしれない。いわば、記憶の改竄《かいざん》だ。人の記憶なんてものは、そんないい加減な代物《しろもの》である。  通路の戸が開いて、若い女性が入ってきた。黒いセータに黒いスカート。黒縁のメガネをかけている。髪も真っ黒で、小さな白い顔を隠すように両側に真っ直ぐ垂れていた。 「よろしくお願いいたします」戸を閉めると、一歩だけ私に近づき、彼女は丁寧なお辞儀をした。 「あ、どうも、こちらこそ」私はベンチから立ち上がっていた。こんな場所も、またこんな二人の関係も、これまでに経験がないことである。どんな態度で接すれば良いのかまるでわからない。立ってしまった以上、そのまま座りにくくなった。「あ、じゃあ、あちらへ行きましょうか」と座敷の方へ片手を示す。  私たちは靴を脱いで、その部屋へ上がった。ガラス戸は開けたままにしておいた。座布団が二つあったので、そこに座り、テーブルを挟んで向かい合った。 「なんか、凄いところですね、ここ」 「ええ」  そんなどうでも良い言葉を口にして、改めて壁や天井を眺めたりする。もう発見できるものはないだろう。  最後には彼女に視線を戻す。落ち着いているようだ。年齢は三十代前半か。理知的に見えるのは、メガネのせいばかりでもない。私をときどき見る、そんなちょっとした仕草が控えめで、非常に抑制されているためにそう感じたのだろう。      3  女将が三度めに顔を出し、テーブルの上には、もう四品の皿が並んでいた。私の方を見て、黙って僅《わず》かに首を傾《かし》げ、少し遅れて頭を下げる。料理の説明などはない。そして、静かに部屋から出ていく。無駄なことをしない。それでいてまったく礼に欠けるところもない。  再び、二人だけになった。小学校の校舎という、大きな建物の一室にいる。この部屋だって二人で使うには大きすぎる。この空間の巨大さが、静寂を強調する働きがあるように思えてきた。 「なにか、お仕事をされていますね?」私は彼女にきいた。今までの話から、そんな雰囲気が感じられたからだった。 「はい。実は今は働いておりませんが、つい先月まで、大学に勤めておりました」 「どんな、お仕事ですか?」おそらく、事務職であろうと私は考えた。 「教員です」 「あ、そうでしたか」私は少し驚く。「では、同業者ですね」 「いえ、研究者としてはまったくの駆け出し、いえ、それも烏滸《おこ》がましいですね。助手になり、どうにか講師にはなりましたが、まだ経験不足とかで、助教授にはさせてもらえませんでした」 「先月まで、というと、お辞めになったのですか?」 「はい、退職いたしました」 「理由をおききしても、よろしいでしょうか?」私は尋ねた。そして、椀を片手に持ち、温かい汁に口をつける。 「そうですね。あまり具体的なことはお話しできませんけれど、うーん、抽象すれば、なんというのか、このままでは、自分が駄目になる、という、そう、非常にありきたりの感覚といいますか、そんな危機感からでしたでしょうか」 「なるほど。それは、いや、かえって珍しいと思えるなあ。実際に、そういうことがあるんですね」 「人間関係も、もちろん大変に良好といえるものではありませんでしたが、でも、我慢ができないほどではまったくなく……。仕事も順調でしたし……、その、個人的な、つまり研究外のトラブルや、その他、大きな障害となるような状況があったわけでもありません」 「すると、駄目になる、というのは、純粋に自分が思い描く姿ではない、という意味ですか?」私は質問をする。 「そのとおりです。現状がそうだということではなく、そうなっていく方向性を感じ、懸念を抱きました」 「ほう、それはある意味、なかなか敏感だといえる」 「そうかもしれません」彼女は頷いた。笑みを浮かべることもなく、じっと私を見つめる眼差しは鋭い。まるで、学会の研究発表で質疑応答をしている気分に私はなった。彼女は小さく溜息をつき、なにかの決心をした、とでもいうかのように話を続けた。「そもそも、教師という職業が、私には向いていませんでした。大学では、研究と教育の両方の能力が求められます。私は、研究がしたかった。その気持ちは今でも変わりありません。研究をしていく傍らで、後進のために指導を行う、これは世間では当たり前のことのように認識されています。しかし、本当にそうでしょうか? たとえば、スポーツの世界では、第一線で活躍する選手は、誰かの指導をしているでしょうか? そうではなく、普通、コーチをしているのは、選手を引退した人たちだと思います。どの分野でもそうではないでしょうか。つまり、一流の現役であれば、他者の教育などをしている暇はない。何故ならば、教育とは、後ろを振り返らなければできません。先生ならば、おわかりだと思いますけれど、研究者は、あくまでも前を見続けることが必要です。両者は本質的に相容れないファクタではありませんか?」 「だからこそ、小学校や中学校の先生たちは、研究者ではない。つまりこれが、あなたの言われる教育者なのでは?」 「大学はそうではない、と先生はお考えですか?」 「僕は、いやあ、なにも考えていません」私は、苦笑した。考えていないのは事実だった。「考えたくもない、といった方が正解かもしれないけれど」 「すみません。失礼をいたしました」彼女は頭を下げた。「このような席で、いきなり無粋な話をしてしまって……」 「いやいや、とんでもない。理由を尋ねたのは僕の方です。それに、いかなる無礼も受けていない。それよりも、もっと、今の、自分が駄目になる、という話の続きを聞かせてもらえませんか。人ごとではない、興味のあるところです」 「はい、恐縮です。あの、これは私の個人的な問題ですので、どうか、ほかの事例と比較をしたり、別のものに適用したりして、その、お気を悪くされることがないように、お願いをいたします」 「大丈夫、大丈夫」私は微笑んだ。これは、彼女の馬鹿丁寧な表現が可笑《おか》しかったからだ。  女将が部屋に入ってきた。大きな盆に、次の料理をのせている。小さな土鍋のようだった。私たちの会話は中断する。女将は、私と彼女の顔をそれぞれ窺《うかが》ってから、テーブルの上に新しい配置を築いた。 「器がお熱うございますから、お気をつけになって下さいませ」  女将が出ていくまでに、私は一度土鍋の蓋を持ち上げ、中を確認した。どうやら雑炊らしい。懐かしい香りが一瞬漂ったものの、もうしばらくあとで楽しもうと思い直して、再び蓋を閉じた。彼女もまだ手をつけようとはしない。 「つまり、教育をすることで、前進する姿勢が失われる、と感じられたのですね?」私は話を促す目的で、そう尋ねた。 「それもあります。それどころか、たとえば、論文を書く、といった行為でさえ、私には後ろ向きに思えるようになりました」 「うん、それは当然だ」 「業績を上げて、周囲に自分の能力を認めてもらわなくてはいけませんが、それらも、やはり後ろを向いた姿勢かと」 「そうだね」 「私は、常に前進したかったのです」 「しかし、大学を辞めることで、それが叶《かな》いますか?」 「はい」彼女は頷いた。それは肯定の意味ではなさそうだ。私の質問を予想していた、という返答らしい。「そう考えていましたので、これまで続けてこられた、といえると思います。けれども、最近になって、私はもう一段、深い考察をするに至ったのです」 「深い考察?」 「研究者であること自体が、アウトプットではないか、と気づいたのです」 「ああ、なるほどね」私は彼女の言おうとしていることを瞬時に理解した。おそらく、類似の発想を私も過去に持ったことがあったためだろう。「それは、もちろん間違った認識ではない。研究の課題はあくまでも社会的なものでなくてはならない。最初から社会への還元、すなわち他人へのアウトプットを目標としているものだ」 「そもそも、私が思い描いていた、こうあるべき自分とは、その研究者の役を演じているときに表に現れる自分だったのです。その自分が最も自分らしいと直感していたにすぎません。社会で生きていくために、私が妥協的に見出した、類似した姿、近似されたスタンスとでもいうのでしょうか」 「まあ、人というのは誰も、そんなふうに自分の立ち位置を決めるものかもしれないね」 「しかし、一度気づいてしまった以上、もう、ここに留まることはできません。似ているだけで違っている、単に演じているだけだ、という意識が目覚めてしまうと、もう続けること自体が苦痛になります」 「うん、わからないでもないね。しかし、苦痛から逃れることが、すなわち自分の本来の姿を追うことだ、ともいえないでしょう? それとも、あなたは、本来の姿を見つけた、というのですか?」 「ええ、先生のおっしゃるとおりです。間違っていることはわかっても、正しいものがはっきりと見えるわけではありません。私は、しかし、こうも考えました。大学を辞めれば収入もなくなり、生活にも困ります。研究を続けていく上でも障害が多い。こちらの方が、苦痛ではないでしょうか?」 「苦痛を求めて辞めた、ということかな? 自分が駄目になる、というのは、堕落という意味だったのですか?」 「今になって振り返れば、そのとおりです。教育者であることも、あるいは、研究者であることも、つまり、何者でも同じですが、自分をなにか一つの者だと認識すれば、即座にそれは堕落です。何故なら、何者かになることが、停止した状態を私にイメージさせるからです。私は、何者かになりたかったのではなく、何者かに憧れ、そちらへ向かいたい、そのために前進がしたかったのです。私が思い描いている姿とは、つまりそういうものです。常に変わりたい。止まりたくないのです」 「うん、わかった」私は頷いた。「たしかにそう考えると、常に変化を求めざるをえない。そう、それは言葉としては一応の正当性を持っていそうだし、理解できたように思います。ただね……」私はそこで少し考えた。 「何でしょうか?」心配そうな顔で彼女がきく。 「いや、ちょっと待って」私は片手を軽く上げた。「そのまえに、これをいただきましょう」  丸い目で私を見つめている彼女から視線を逸《そ》らし、私は土鍋の蓋を持ち上げた。      4  私は結局、それを彼女に話さなかった。もちろん、最初は話すつもりだった。私がそのときに思いついた道理は、彼女には多少|酷《こく》な忠告に思えたけれど、これだけの頭脳を持った才能を社会的に眠らせることに、僅かでも抵抗したいと考えたからだ。  しかし、温かい雑炊を食べているうちに、躰《からだ》は温まり、気分も良くなった。目の前の彼女も、急に可愛らしい女性に見えてきた。うん、良いではないか。己の信じるものが、その人間にはベストの道である。他人に話すことで自分の不安定さを少しでも補おうとしているのだ。その健気《けなげ》な姿こそ、大切なものである。傷をつけない方が良い。そう考えるに至った。  そのような変化を私にもたらしたものが何であったか、と考察すれば、唯一思いつくのは、その美味《おい》しい雑炊を消化したこと。それ以外にない。  だから、私は話を逸らし、近頃|巷《ちまた》で起こっているニュースや、季節のこと、そしてこの古い建物のことなどを話題にした。彼女は、むしろほっとしていたようだ。あるいは本能的に、私に指摘されることを予感し怖れていたのかもしれない。  彼女が部屋から出ていったあと、入れ代わりに女将が現れ、最後の挨拶をした。 「いかがでしたでしょうか?」女将は首を傾げてきいた。 「ごちそうさま、とても美味しかった」私は微笑みを意識して頷いた。「また、来ますよ」 「ありがとうございます」  薄暗い廊下を歩き、玄関へ向かった。歩いているのは、私と女将の二人だけである。  小学生のとき、職員室へ初めて入ったときのことを思い出した。何故、職員室へなど行く羽目になったのか、その理由は覚えていない。ただ、私は一人でそこへ行った。私にとって、教師はとても恐い存在だった。あの人たちの言うことをきかないと、きっと悪いことがあるだろう、と考えていた。  そうだ、一年生だったはず。担任の先生は、若い女性だった。自分の母親よりも若い。しかし、恐かった。みんなを楽しませようと必死になっているのが、わかる。全員が楽しまなければならないのだ。誰もが楽しい顔を返さないと、叱られるかもしれない。そんな、強迫観念が私にはあったように思える。だから、職員室なんて、近づきたくない場所だったはず。  私は、なにかを届けにその部屋に入ったのだ。そして、戸口で知らない大人に自分の組を言い、自分の先生の名前を告げた。すると、名前を呼ばれて、先生が遠くで立ち上がり、こちらへ出てきた。そのとき、先生は私に対して、本当に嬉しそうに自然に微笑んだのだ。みんなのために微笑んでいるのではない、私一人のために微笑んでいる。この先生の普通の顔を初めて見たことが転機だった。それ以来、その先生のことが恐くなくなり、否、好きになり、私は学校という場所が嫌でなくなったと思う。おそらくは、人間関係の最初のギャップを埋めた記念すべき体験だっただろう。  考えてみると、嬉しいことも、そして悲しいことも、本当にちょっとしたことなのだな、と思う。同じ笑顔なのに、同じ涙なのに、ほんの僅かに違っている。違って見えるのだ。いい加減なものだ、ともいえるだろう。  玄関を出ると、冷たい外気と、黒いセダンが待っていた。来たときと同じ車のようだった。  私は女将に礼を言い、女将は何度もお辞儀をした。  暗い田舎道を、車は駅まで私を届けてくれた。時刻はまだ九時である。しかし、都心へ向かう電車は空《す》いていて、私は長いシートの端に一人腰掛けた。今夜はほとんど飲んでいない。素面《しらふ》といっても良いだろう。だが、心地良い。家に帰るか、それとも研究室へもう一度戻るか、などと考えたほどだ。  若い頃ならば、今の時刻からでも、研究室のデスクへ向かっただろう。しかし、やはりもうそうはいかない。明日は午前中に入試関係の委員会があり、私はその委員長だ。また、午後からは教室会議がある。私は主任で、議長をしなければならない。朝から書類を整え、資料に目を通し、根回しの電話を何本もかけることになるだろう。体調を整えておかなければならない。早めに寝た方が賢明だ。  これまで、とにかくがむしゃらに仕事をしてきたように思う。否、そのときには、がむしゃらだとも感じなかった。走っているときには気持ちも良く、夢中なのだ。急に走れなくなって、立ち止まってみると、息が苦しい。そして、無理をして走っていたことにようやく気づく。けれどもそれは、けっして後悔しているのではない。すぐにもう一度走りだせない己の情けなさを嘆いているのでもない。ただ、呼吸をして、過去の自分へ酸素を供給してやろうという優しさ、そして、現在と未来のバランスをとろうとしているだけなのだ。  傍《はた》から見て、無理なことをしているようでも、本人はごく自然に走っている。きっと誰もがそうにちがいない。無理とは、すなわち、無関係な立場との比較から生じるものだ。  過去を振り返って、私は何をなしたか、と考えることはある。しかし、思いつくものは、なにかをなそうとして、その代償として失ったものばかりだ。  そうした失ったものでさえ、今は懐かしく感じる。  彼女に言ってやりたかったのは、止まることを恐れる若さと、結局は止まることなどない人間の性《さが》についてだ。常に前進したいと彼女は言った。その前進とは、何を規準にしているのか。どこから観測したとき、前進していると見なせるのか。逆に、どんな位置に立てば、人は停止していることになるのだろうか。  さらに、もう一つ。  自分が前進する者だと認識することで、その瞬間に、前進は止まるだろう。それこそが彼女の理屈であり、自らの矛盾にほかならない。おそらくは、その虚《むな》しさを彼女は予感しているのだ。ただ、知りたくない。そんな自分を見たくはない。だだをこねる子供のようなその若さが、まだ残っていることは幸いである。どうして、そんな幸せな矛盾を指摘できるだろう。  むしろ、それが確認できた今夜の私こそ、幸せである。電車に揺られながら、窓ガラスに映った自分の姿を眺め、またあの店へ行こう、と考えた。しかし、次はもうあの小学校ではない。別の場所なのだ。そして、あの女性にも二度と会えない。  私は一人微笑んだ。面白いものだなあ、人生とは……、少なくとも生きているうちは、止まることはない。戻ることも、繰り返すこともない。できないことばかりをいつも振り返って、しかたなく、前に進む仕組みなのか。 [#改ページ]   少し変わった子終わりました      1  夕暮れの空は劇的な紫だ。私は、その奇跡を眺めるのが子供のときから好きだった。たぶん、それはその時刻に、友達とも別れ、一人、家に帰るまでの時間を弄《もてあそ》んでいたせいだろう。私は鍵っ子だったから、早く家に帰ってもしかたがなかった。部屋はその時刻が一番暗い。もう少し待てば、蛍光灯の善良な白さで誤魔化《ごまか》すことができるのだ。  ところが、地上が夜に沈もうとしているのに、空は上澄みのように暗くなりたがらない。ブルーからピンクへ、そして次第にパープルへと、ゆったりと地球が傾くようにグラデーションをかける。  雲も綺麗だ。下面を照らされて、いつもとは違う風景を作る。遠くの山脈なのか、それとも洋上に浮かぶ島々なのか、見たこともない不思議な風景が展開する。蜃気楼《しんきろう》という言葉を思い出す情景だった。私はよく一人で口笛を吹いた。いつも題名も知らない外国の曲だった。  最近になってもしばしば、自宅近くの川沿いの歩道でそんな空に出逢うことがあって、数年まえにはありえなかったことだが、今はそれを眺めるためにベンチに腰掛けたりする。  なるほど、人間とは結局は子供のときからなにも変わらないものだ。成長など微塵《みじん》もしていない、と思い知るのである。  その川の両側には高層のマンションが林立している。私の自宅もその中の一つだ。まるで、蜂の巣ではないか。自分が蜜蜂に思えてくる。  東は丘陵地へ緩《ゆる》やかに上っていく。反対の西側は平坦で低く、市内にしては珍しく田園が残っていて、建物といえば、変電所くらいしかない。送電線が方々へ無数に延びているし、田畑の中に立つ鉄塔が案山子《かかし》のように見える。鴉《からす》の大群が、いつもどこかで休んでいて、ときどき空を拭《ぬぐ》うように移動する。  空が高貴な紫になると、鉄塔のシルエットは平面的な影絵のように際立つ。いつの頃からか、夕方という時間は、明日への予感とともに、鉄塔の影絵がカップリングされ、私のメモリに収まっているように思える。  こんな連想をしたのも、まさに今、その鉄塔を目差して歩いているからだ。住宅地の真っ直ぐな道である。ときどきクロスする道もまたきまって真っ直ぐ。かつてここはどんな地形だったのだろうか。そこをブルドーザが削り、ダンプカーが土を運び、平たくして道路を通し、こんな宅地を造成したのだ。けれども、おそらくそうなる以前から、あの鉄塔はここに立っていたにちがいない。  駅の北口を出れば、正面に鉄塔が見えるから、それを目差して歩いてきて下さい、と電話で女将《おかみ》は言った。車よりもそちらが便利で早い、ということらしい。季節も厳しさを緩め、草花の香りが広がりつつある。天候も清々《すがすが》しい。のんびりとこんな時刻に歩くこと、特に美味《うま》い料理のためにそこへ近づいていく道のりは、このうえなく優雅なものに感じられた。  もちろん、空の見事な色彩を私は楽しみながら歩いた。しかし、ずっと見上げているよりは、自分を抑制し我慢をする方が良い。忘れた頃に見上げてみると、色はまた新しい。配色の変化に気づく。そんなテクニックも、子供の頃に考案したものだ。目的地はそれほど遠くはない。鉄塔はだんだん目の前に迫ってきた。  けれど、近いようで遠い、遠いようで近い。距離感が定まらない大きさなのである。既に見上げるほど高いものの、その脚部がどこにあるものかまだわからなかった。周囲には高い建物は一つもなく、二階建ての住宅ばかりが、僅《わず》かな個性とささやかな庭園を伴って、引出しの中の文房具みたいに並んでいる。  人通りも多くはない。すれ違う人は、犬の散歩をさせている老人か、あるいは新聞配達の青年か、それとも、スポーツウェアを着た中学生らしき少年たちくらいだった。  鉄塔を目差して歩けば店がわかる、と聞いてきたのだが、この道沿いに本当に店があるのだろうか、と不安になってきた。駅の前の通りから、この道へ入って以来、アパートか個人の住宅ばかりで、一軒の商店もなかったからだ。もしかして、店舗を建てることが規制されている地域かもしれない。  だが、あの店は特別である。  店らしくないところで営業するのだ。このまえは郊外の小学校だったではないか。だから、私は、今回もきっと変わった場所なのだろう、と仄《ほの》かに期待していた。けれど、この近辺にはそれほど特別な建物が存在しないのではないか、普通の住宅を借りて、今夜の営業をするつもりだろうか、とむしろごくありふれた結果になることを危惧《きぐ》しているのかもしれない。そんなことを考えると、息が鼻から漏れ、自分が笑っていることに気づくのである。  今はマンション暮らしだが、ここに沢山ひしめき合っているような一軒家というのも、結局はマンションと同じで、ただ配置が平たく、ベランダの代わりに土のある庭が付属しているにすぎない。ようするに、そういう「装置」なのだな、と感じながら、私の左右を流れる風景を認めていた。  ところが、目の前に緑の垣根が近づいてきた。一見して、そこだけがほかのどの敷地とも違うことがわかった。交差点の角の土地で、いずれの方向へも五十メートルほど垣根が続いていた。こんなに広い土地はここへ来るまで一つもなかった。どんなところにも例外はあるものだ。そして、何故そんなに広い敷地が必要なのかも、すぐに理解できた。その垣根の中から、まさに目印だった鉄塔が立ち上がっていたからである。  私は立ち止まり、鉄塔の先まで見上げようとした。空に向かって延びている複雑な骨組み。その統制の取れた幾何学模様は、その先から両側へ延びている電線の微妙なカーブよりは、理路整然としている。密かに力が集結して、その均衡によって動かない。その不動の重厚さが、地球が回っていることに気づかせてくれる。  背景の紫色はますます神懸かり的な深みを増していた。綺麗だなあ、と思った。そして、再び地上へ視線を戻すと、道の先の門のところに、白い着物姿の女性が一人立っていた。      2  敷地の中に入ると、広い庭園が一望できる。高い樹木は少なく、人工的に密集する低い草木の間に小径《こみち》が幾筋か残されていた。鉄塔の脚部の基礎構造がほぼ正面の中央にある。小径はそれを迂回する。奥には平屋の木造建物が一軒。それほど大きな規模のものではないが、広い敷地のためか、どことなくゆったりと地面に寝そべっているかのごとく佇《たたず》んでいる。築数十年という古い建物であることは一目瞭然だった。しかし、手入れが行き届いていることもまた明らかで、汚れているといった感じはまったくしない。良い風合いに古びて、まさに絵に描いたようで、それは庭全体にも共通する印象だった。  無骨ともいえる鉄塔の基礎部さえも、不思議にこの庭の風景に溶け込んでいるのである。驚異的といって良いかもしれない。たとえば、見上げなければ、そこに空を突く巨大な構造があることを忘れてしまうほどなのだ。蔦《つた》に覆われ、古い駅のホームの屋根を支える構造のように自然に馴染んでいる。 「住宅ですか? ここは」私は歩きながら、女将に尋ねた。 「はい、そう聞いております。半年ほどまえに空き家になったそうです」 「どういう関係の人でしょうね。自分の家の庭に鉄塔があるなんて」 「さあ、宅地が開発される以前からあったものでしょうか」 「それは、そうでしょうね。これがあるから土地の値段も安かったにちがいない。それでこんなに広いのかな。しかし、良いなあ、こんなところなら、住んでみたいなあ」私はそう言ってまた空を見上げた。この広い庭が良いのか、それともオブジェとしての鉄塔に憧れたのか、自分でもよくわからなかった。  鉄塔の脚の下へは入れないように柵がされている。しかし、その柵にもまた植物が密着し、一見したところ柵自体は見えないほどだった。  玄関から入り、私は靴を脱いだ。女将に案内され、応接間のような洋間に通された。八畳ほどの大きさで、大きなテーブルが中央に置かれている。椅子は二脚しかない。キャビネットが壁際に一つだけ。ほかには家具はないので、広々としている。  ガラス戸越しに庭が眺められたが、もちろん、鉄塔の脚部の僅かな部分しか見えない。バックの下半分は庭木や垣根、その上に近所の家々の屋根。テーブルの椅子に腰掛けると、紫色の空がどうにかぎりぎり構図に入る。  女将は頭を下げ、部屋を出ていった。グラスとフォークなどがテーブルに並べられている。今日は、どうやら洋食らしい。それさえもわからない店なのである。  ドアがノックされ、返事をすると、若い女性がお辞儀をしてから一人部屋に入ってきた。ドアを閉めてから、こちらを向き、彼女はもう一度頭を下げた。 「よろしくお願いいたします」 「こちらこそ」私は微笑んだ。  セータにジーンズという普通のファッションで、一般に客を相手にする装いではなかった。この家の住人の一人か、と錯覚するほどさりげない。私には、逆にそれがとても好ましく感じられた。客をリラックスさせるためだとすれば、大いに成功しているといえよう。 「あ、どうぞ、かけて下さい」私は促《うなが》した。彼女がまだ、そこに立っていたからだ。  緊張している様子である。これも、非常に好感が持てる。馴れ馴れしいのが、私は嫌いだ。どういうわけか、馴れ馴れしく親しげに振る舞うことが、人情味溢れる温かさであると勘違いしている向きが世の中には多い。そうした安っぽい礼儀を、まさにコンビニ感覚で押しつけられるのである。  彼女は椅子に腰掛け、しばらく下を向いていたが、瞳を上げ、私を一度捉え、また下を向いた。演技だとしたら、上手である。いくつくらいだろうか。二十代であることはまちがいないだろう。 「緊張していますか?」私は尋ねた。 「はい、すみません。緊張してしまう質《たち》なんです」 「いや、緊張しないより、した方がずっと良いですよ」私は話した。「学生なんかを見ていても、よくそう感じる。面接でも、緊張している方が印象は良い」 「そういうものでしょうか?」上目遣いに、彼女は私を窺《うかが》った。唇も話すまえに練習するように動いた。「ああ、どんな顔をしているか、心配です」 「自分は緊張しないと思っている人間にかぎって、本番であがってしまって失敗をするものです」 「私も、よく失敗をします。緊張することがわかっていても、でも、やっぱり駄目なんです」 「自覚さえしていれば、まったく問題はありませんよ。緊張しているかな、と思うくらいが一番良いのです」 「ああ……」彼女は姿勢を正し、肩を一度小さく上下させた。「なんとかリラックスしようと思うんですけれど、自分の気持ちを変えることって難しいですね」 「うん、難しい」 「なんともなりません。とにかく、人の前に出るのが苦手で、特に大勢の前に出ると、もうなにもできなくなってしまいます」 「でも、今は、僕一人ですよ」 「はい」彼女はようやく微笑んだ。「ですから、こんなに言葉が話せるのです。これは、私にしてはとてもリラックスしている方だと思います。先生は、人前であがったりはされないのですか?」 「いや、あがりますよ」私は答える。「でも、毎日毎日、大勢の前で話をしていると、そりゃあ、いくらかは慣れてしまいますね」 「そうですよね。学校の先生って、凄《すご》いと思います」 「なんというのか、自分が話す内容について、自分よりもよく知っている人が、その場にいるかどうか、なんです。そういう人が一人でもいると緊張しますね。だから、自分が一番知っている人になるしかない。そうすれば、どこでもあがることはないはずです」 「先生は、そうしたのですか?」 「いやいや、全然駄目」  小さなノックのあと、ドアが開いて、女将が現れた。      3  フォークとナイフを両手に持っている。見たところはまったくのフランス料理だった。だが、どこかにこの店の味が感じられる。おそらく、同じ料理人が作っているためだろう。使っている素材や調味料が異なってはいても、作り手の個性が表れるのではないか。それが、見た目ではなく、料理の本質ともいうべき味によって体現されていることは素晴らしい。どんな人物が作っているのだろうか、と私は考えた。  ところが、ふと皿から視線を上げると、そこに見知らぬ若い女性が座っている。相変わらず俯《うつむ》き気味だったものの、しかし、おどおどしていた態度とは裏腹に、彼女のマナーは完璧で、極めて上品な仕草で食事をしているのである。  料理の美味《おい》しさについて、何度か言葉を交わした。彼女は頷《うなず》き、スプーンをテーブルに置いてから話した。またしばらくして、目を向けると、ナイフやフォークに添えられた指の形、そして腕のしなやかさが美しい。ようやく私はそれに気づいたのだ。  途切れ途切れの話の合間に、幾度も私はそれを確認した。そして、いつ見ても例外なく、曇りのない滑らかな彼女の動作を目撃するのだった。そのうちに、料理人のことも、また料理の美味しさも忘れてしまい、私は小さな感動を覚えるほど、それに囚われた。こんなにも綺麗な食べ方を、私は今までに見たことがない、とさえ思った。  しかしながら、それを言葉にして彼女を褒め讃えることは思い留まった。いかにもそれは無粋である。そんなことを話題にすることさえ滑稽《こつけい》ではないか。  おそらく、彼女にとってはごく自然のことなのだろう。子供のときから、きちんとした家庭で当たり前のこととして身についたものにちがいない。大人になって学んだ浅い飾り付けでないことは明らかだ。つまりは、その自然さが素晴らしい。  良い風景を眺めていられる幸せを私は感じた。そうか、食事に相応《ふさわ》しい環境とはこういうものか。これまでの人生でついぞ思い至ることがなかった。たぶんそれは、私の周囲に群がっている頭でっかちのインテリたち、自分たちが上流だと思い込んでいる輩《やから》、見下すように他人に微笑みかける連中には、最初から欠けている素性なのだ。それは素直で、そして自然で、しかもそれゆえに美しい。  どこにでもいそうな普通の女性である。どちらかといえば、地味な感じではないだろうか。しかし、彼女とは正反対に、煌《きら》びやかな風貌であっても、食事をする段になると、その動作の端々に、下品とまではいかなくとも、世俗的な、あるいは庶民的な空気を漂わせてしまう場合が多いものだ。そんな幻滅は私だけの感覚だろうか。  私は子供の頃に、よく父親から食事のマナーについて注意を受けた。それは、食べるために動かす手や口の形から始まり、視線をどこへ向けるのか、そしてどんな表情をするのか、といった全体にまで及んだ。ただ、どうすれば良いのかは教えてもらえない。それはいけない、と指摘されただけである。そんな目をしてはいけない。そんなふうに笑ってはいけない、と静かに叱られた。子供の私には、どうすれば良いのかわからなかった。だから、周りの大人たちを見て学ぶしかなかったのである。大人といえば、両親と、祖母の三人だが、いずれも、とても静かに食事をする人たちだった。私の家では、食事は非常に厳《おごそ》かな時間だったのである。  よく言われた言葉は、動物は皆、ものを食べる、それは自分が生きるために必要な行為であるが、一方では、他の生命の殺生《せつしよう》でもある、それを忘れてはいけない、本心から感謝をしていれば、おのずと正しい食べ方になるであろう、そういった道理がわかることが、人間である、それがわからなければ、すなわち動物の食べ方になる、動物の食べ方がいかに見苦しいものであるか、そこに存在する野蛮を、人間は隠さなければならない、そうすることで、人間たりえるのだ、といった説教だった。父は実にもの静かに語ったものである。普段はけっして子供を叱るような人ではなかった。穏やかで、優しさに満ちた人だった。けれど、彼の言葉には子供を威圧するに充分な力がたしかにあった。私は、父を尊敬していたし、彼の言葉がすべて正しいと信じていた。自分も、父のようになりたいと願っていた。  けれども、大人になって、家族がいないテーブルで食事をする機会が多くなった。賑やかな食事の席を経験するようにもなった。美味しいものを美味しく食べる、そして飲む、それのどこが悪いのか? 楽しければ良いではないか、食べ方など料理の価値とは無関係だ、と理解したのだ。  幼い頃からの呪縛《じゆばく》より私はようやく解き放たれたらしい。あるいは、反動だったのかもしれない。大笑いし、大声で話す、そんな食事を良しとするようにもなっていた。  ところが、やはりそれもまた違うのではないか、とこの頃になって気づいたのである。もう一度、振り子がこちら側へ振れただけかもしれないが……。  酒を飲み、楽しい食事をともにしたと思われた人間たちは皆、歳を重ねるにつれて狡猾《こうかつ》になり、臆病にもなり、あるいは傲慢《ごうまん》にもなり、知らぬ間に顔が歪《ゆが》んでいる。そう、食べものを口の中に入れるときのその顔が、恐ろしいほど歪んでいるのだ。耐え難いほど醜い。恐いもの見たさなのか、私はしばし凝視してしまうことがある。  意気投合したと見せかけて、他人を自分の味方につけよう、自分の勢力を少しでも広げよう、この人に取り入っておけば損はない、今はとりあえず頭を下げておいてやろう、と考えているだけの笑顔だったのだ。そんな笑顔の集合を「楽しさ」だと勘違いしていたのだ。よく観察すれば、不自然な抑制が、ものを食べるときのあの顔の歪みに現れているではないか。  それだから、この頃では、ただ美味いものを自分一人で静かに楽しみたい、と私は考えるようになっていた。これもまた、反発、つまりは逃避だ。私はいつだって、なにかを避けよう、なにかから逃げようとしている。生来臆病なのか、それとも潔癖性なのだろう。  それがどうだ。今夜ここで、若い女性の仕草を見て、本当に心が洗われるような、一種のぞっとする感覚を味わったのである。  そうか……、  そういえば、子供の頃の私は、父に叱られないように、一所懸命、立派な大人になれるよう、頑張って食事をしていた。それでも、食べるものはどれも美味しかった。ごちそうさま、と手を合わせてから、父の顔を覗き見ると、微笑みこそしないものの、父は小さく頷く。私はそれで、自分が認めてもらえたように思えて、嬉しかったのである。  忘れていた。  そう、すっかり忘れていた感覚である。  食べているものも、温かく上品で、ほんのときどき刺激的で、しかしけっして過剰なこともなく、奥床《おくゆか》しいとさえ思えるような、不思議な素朴さが感じられた。一緒に食べている女性をちらりちらりと眺めながら、私はそれを味わった。ほとんど話らしい話をしなかったけれど、もう充分に元は取れたのではないか、という満たされた気持ちになりつつあった。      4  当たり障りのない言葉を交わすうちに、デザートが運ばれてきた。グラスに手をやりながら、私は彼女にきいてみた。 「個人的なことは、きいてはいけない決まりなんだよね?」 「はい、申し訳ありません」 「いや、特に、きき出そうというつもりはない。しかし、君のような人がどんな環境で育ったのか、という点については、なんというのか、研究的な面で、うーん、もう少しいえば、そうだね、データとして、いや失礼、けっして変な意味ではないのだよ、ただ、素直に知りたい、と思ったんだ。というのは、あ、理由を言った方が良いかな?」 「私の家庭の環境ですか?」 「うん、たとえば、都会で育った? 田舎で育った?」 「都会です」 「ご両親の他に、誰かいたかい? もちろん、話したくないことは、言わなくてかまわない」 「ごく普通の家庭だと思います」最初に比べれば、彼女は少し落ち着いた感じになっていた。「父と母と、それから、姉が一人」 「おじいさんか、おばあさんは?」 「いいえ」 「お父さんは、厳しい人だった?」 「そうですね、どちらかといえば」 「厳格な人だったんだ」 「はい」 「うん、お母さんは、優しい人だった?」 「はい、ええ……」彼女は微笑んだ。「そういったことが、研究的なデータになるのでしょうか? あの、失礼な言い方だったら、申し訳ありません」 「いやいや、その疑問は当然だと思う。私は、人間の習慣のようなものに、とても興味がある。人はいろいろな理想、あるいは幻想を抱いて、日々を生きている。どんな小さな行動、無意識になされる仕草にも、なんらかの理由があって、外部から伝達されたものが、その人の中で消化され、現れているものだと考えているんだ。それらのルーツを探りたい、という純粋な興味だね。まあ、さほど社会の役には立たない。そんなデータをいくら集めてみたところで、それで素晴らしい人間が作れるわけでもないし、悪い人間を減らすこともできない。ただ、納得ができるだけだ。安心ができるだけだ。でもね、美味しい料理を食べることだって、同じなんじゃないかな。別に生きていくことの役には立たない。単に、その場で納得ができる、安心ができるだけで……」 「面白いですね、そんな考え方があるなんて」 「うん、僕には面白い。でも、人にはすすめられない」 「どんな人に対しても、関心が持てるようになりますね?」 「どうかなぁ。どんな人にも、というわけでもないよ」 「よく言われるのですが、私は人見知りをして、なかなか大勢の輪の中に入っていけない……、ええ、子供の頃から、そうだったんです。姉がとても社交的な人で、いつも、彼女のあとに一緒についていたせいで、そうなったのかもしれません。ですから、一人で生きていくようになって、対人的な能力がいかに欠けているか、思い知らされたというか……」 「大丈夫、そんなことはないよ」 「自分でも直さなければならない、と思って、この仕事をしてみようと思いました」 「この仕事? ああ、今のこれのこと?」 「はい」彼女は頷いた。「あ、仕事だなんて……」 「うん、思い出した」私は笑った。「忘れていたよ」 「申し訳ありません。ついうっかり」 「いやいや、冗談です。気にしなくていい」 「すみませんでした。でも、まったく知らない方と、ちゃんと話ができる、ということは、私にとっては大きなハードルだったのです」 「じゃあ、今は、もうそれを飛び越えたわけだ」 「なんとか。大丈夫でしたでしょうか?」 「え? だって……、もうどれくらい、これをしているの?」 「いえ、今日が初めてです」彼女は頭を下げた。 「ああ、なんだ、そうなんだ。それは失礼。いや、全然そんなふうには見えなかったよ」 「とても緊張していました」 「まあ、最初は、たしかに、ほんの少しだけ、そんなふうだったかもしれないけれど」 「恥ずかしい」彼女は片手で口もとを隠す。 「恥ずかしいことではないよ。だいたい、恥ずかしいと思っていない連中の方が、ずっと恥ずかしいことをしているものだ」 「自分がこんなに、話ができるなんて、思ってもみませんでした」 「うん、いやぁ、別に無理に口数を多くする必要なんてないと思うよ」 「でも、聞いてばかりいると、たまには自分のことを話しなさいって言われます。こんなに話しているんだから、貴女《あなた》もちゃんと話してって。あれは、なんだか、話すことが、相手になにかを与えている、という感覚なんですね」 「情報を提供しているっていうことかな。実際には、大した情報でもない。自慢話や愚痴を聞かされたりするだけだね。聞いている方が、サービスを与えているといっても良いんじゃないかな」 「今日は、先生の方からいろいろ質問をしていただいたおかげです」 「場が白けなかった、ということ? いや、別に黙ったままでも、白けたなんて思わない方だから」 「話が途切れることが恐い、という方はいらっしゃいますよね」 「うん、いるね」私は頷いた。  そう、そんな連中ばかりだ。言葉を無理に交わし、わざとらしく笑い飛ばしたり、熱心に耳を傾ける振りをしたり、そうやっていないと不安になる人間ばかりなのだ。 「話の大切さは、言葉の多さではないからね」私は言った。そして、ふと聞いてみたくなった。「なにか、君の方から話したいことは、ないのかい?」 「はい、そうですね……」グラスを持ちながら、彼女は多少斜めに視線を上げる。「とりとめもないお話でも、よろしいでしょうか?」 「ああ、もちろん」私は微笑んだ。 「では、思い切って、先生にお話ししようと思います」このとき、初めて彼女は真っ直ぐに私の方へ顔を向けた。      5  それはたしかに、とりとめもなく、たわいもない話だった。昨夜彼女が見た夢のことなのだ。  夢の中で、彼女はある場所へいつも出かけていく。それは現実には心当たりのない風景で、とても大きな遊園地らしい。カラフルな建物が並び、食べるもの、あるいは土産ものを扱う小さなショップも多い。  しかし、この遊園地には、本ものの怪獣が現れる、と彼女は話した。 「怪獣って、どんな?」 「先生は、ゴジラをご存じですか?」 「もちろん」 「あれが、やってくるんです」 「遊園地に?」 「はい」 「えっと、本もの? つまり、大きいのかな」 「大きな本もののゴジラです。ですから、建物を実際に壊したりして、大暴れをするんですよ」 「へえ、面白いね」 「とても、面白いなんて思っていられません」 「まあ、そりゃあ、夢の中ではそうだろうね」 「遠くから、こちらへ向かって歩いてくるのが見えます。もう、みんな大騒ぎです。とっても恐くて、今思い出すだけでも、どきどきしてしまいます」  彼女は眉を寄せて、苦しそうな顔をした。妙に生々しい、初めての表情だった。 「なんか、そう言われると、たしかに恐いな」私は頷いた。 「でも、その遊園地には、いつもゴジラが来るんですよ。遊園地としても、それが売りものなのです」 「ああ、アトラクションってこと?」 「そうです。わざわざ、ゴジラが壊すために、建物も造られているのです」 「ライオンのショーみたいなものだね」 「そうなんです。上演されているのと同じ感覚です。入場者も誰も逃げたりはしません。きゃあきゃあと悲鳴を上げてはいますけれど、冷静になって周りを観察してみると、逃げているのではなく、みんな競って、よく見える場所へ詰めかけて、ゴジラを待っているんです」 「面白いね。いつも見るってことは、何度もその夢でゴジラを見ているわけ?」 「はい」 「となると、君自身も、ゴジラが無害なアトラクションだって、知っているわけなんだ」 「それはそうなんですけれど、でも、私は正直に言うと、少し恐くて……、あまり近くまでは行かないようにしています。だって、あんな怪獣のことですから、いつ裏切って、人に襲いかからないともかぎりませんでしょう?」 「ああ、まあ、そうかな」 「ですから、ゴジラが来たら、すぐ地下へ逃げ込める安全な場所に立って、怖々《こわごわ》眺めているんです。だいたいは、何事もなく終わって、ゴジラは去っていきますけれど」 「どこへ?」 「たぶん、次の出演場所へ行くのだと思います。熱心なマニアの人たちは、それを追いかけて大移動していますから」 「ふうん、ゴジラの追っかけがいるのか。君は、ゴジラが好きなの?」 「いえ、べつに……」彼女は首をふった。 「なんというのか、非現実的なのに、どこか現実的な夢のように思えるね」 「どうしてですか?」 「ゴジラが出てくるのは、もちろん非現実的だが、でも、襲われたりはしないわけだ。映画を観るのと同じで、単なるタレントみたいに怪獣が振る舞っている。そこが現実的だね」私は、彼女の夢を分析していた。「その遊園地では、いつも同じ場所で、同じゴジラのアトラクションがあるんだね?」 「そうです。ただ、少しずつは違います。壊す建物がそのときそのときで違っていたり、たまには別の怪獣をゴジラが連れてきたりします」 「お、それは凄いな。モスラとか?」 「はい、空を飛びます」 「そりゃあ、夢だからね、なんでも可能だ」 「そういえば一度、ゴジラが来ないで、代理でキングコングが来たことがあります。近くまでやってきたとき、観客からブーイングが起こりました」 「へえ、キングコングは、日本じゃ人気がないのか」 「ええ、遊園地は日本ですから」  彼女は、真面目な表情で話すのだ。ただし、特に熱心に語っているというわけでもない。昨日こんなことがありました、というくらいの軽い感じだった。 「こんな馬鹿な話をして、申し訳ありません」 「いや、面白いよ。もっと詳しく聞きたいくらいだ」  しかし、ノックのあとドアが開き、女将が現れた。今夜の二人だけの食事会は、こうしてお開きになったのである。  ゴジラの夢の話をした彼女は、私に頭を下げ、部屋から出ていった。夢の話の粘性とは対照的に、あっさりとしたものだ。まるで、看板の店でテーブルの上を拭う手際のように。 「いかがでしたでしょうか?」女将は尋ねた。 「とても美味しかった。ごちそうさまでした」そう答えたものの、私は、ふと友人の言葉を思い出していた。店の料理を完璧だと褒めてはいけない、という教訓である。「でも……、そう、なんというのか、うーん、難しいですね、いやあ、あとこうなったら最高なんだけれど、というものがあるようには思うんだけれど、駄目だな、とても言葉になりそうもない。まあ、ようするに、また来るしかないか、というところかな」  女将はくすっと笑った。 「是非、またお越し下さいませ」  玄関から出ると、すっかり暗くなっていた。庭の中央にある鉄塔は、脚部を常夜灯によって照らし出されていたが、見上げると、上へ向かって闇の中へ消えている。じっと立ち止まり、私はそれを確かめようとしたが、目が慣れ、ほんの微《かす》かにシルエットが確認できる程度だった。星空で明るければ、あるいはもう少し形が見えたかもしれない。ただ、さきほど見た図形を、頭の中で思い描き、想像によってそこに影を展開しているだけだった。 「冷えてまいりましたので、お車を用意させていただきました」女将が言った。 「そうですか」私は門の方を見たが、もちろん外は見えない。庭は垣根にぐるりと囲われている。  二人で、そちらへ歩いた。 「こんな鉄塔が、僕の家にも欲しいなあ」途中でそう言って、私はもう一度空を見上げた。しかし、やはり姿を現すことはなかった。私は女将に尋ねた。「もう、次はここではないのでしょう?」 「はい、いつも一度きりで、やらせていただいております」 「うん、そうですよね。でも、鉄塔が名残惜しいなぁ」 「鉄塔ならば、どこにもございましょう」 「女将さんの名前もきいてはいけないそうですね?」 「はい」女将は楽しそうに頷いた。  私は、行方不明の友人のことを彼女に尋ねたかった。けれど、その彼の名前がすぐに思い出せない。 「そうだ、彼はここへ来たこと、あったんですか?」私は尋ねた。  女将は笑顔のまま、首を傾《かし》げるだけ。誰のことだろう、と思ったのかもしれない。 「内緒ですか?」私はとうに諦めていた。 「はい」女将は小さく頷く。  門の近くまで来ると、灯りも遠く、もう彼女の表情はよく見えなくなっていた。 「お足許にお気をつけ下さい」 「是非、また来たいと思います。本当に、ありがとう」  門の外でタクシーが待っていた。来たときと同じように、私は駅まで歩くつもりでいた。むしろ歩きたかったくらいだ。しかし、断るわけにもいかないだろう。 「磯部《いそべ》先生、どうもありがとうございました」彼女はゆっくりとお辞儀をした。「またご利用下さいませ」  私は車に乗り込んだ。  そうだ、思い出した。小山《こやま》教授である。  走りだしたあとも、何度か後ろを振り返った。もちろん、鉄塔が見たかったからだ。  何故、小山はあの店に通ったのだろう?  否、そんなことは、どうだって良いではないか。  それよりも、私はどうしようか?  まだ今日で二回め。  もう一度くらいは、行ってみようか。  別の子も見てみたい。  いや……、  やはり、もうやめておいた方が良いだろう。  そう、どことなく、危険な感じがする。  まったく根拠はないが、そう思える。  思っただけで、背筋が寒くなるほどだ。  これで最後にしておけば、こんな店に行ったことがあるような気がするが、あれはどこだっただろうか、という淡い思い出のまま印象が封印できるだろう。きっと、このままの方が綺麗にちがいない。今日のあの彼女だって、もう二度と会えない。会えないからこそ、ときどきあのフォークを持った美しい手の形を私は思い出すことだろう。夕方に一度だけ見た鉄塔を、夜空に思い描けたように。  女将の顔も今ならば、思い出せるだろうか。  しばらく考えてみたものの、不思議なことに、彼女の顔をまったく思い描くことができなかった。店の名もない。一人だけ姿を見せる女将の名も知れない。まったく存在感のない不思議な店である。  誰かに話してやりたいものだが、しかし、家に帰っても一人。話す相手も今はいない。  これから、ずっと一人の人生だろうか。  大通りへ出るために、車が一旦停車したときも、私は自然に振り返っていた。もちろん、もう女将の姿など見えるはずもない。鉄塔もどこにも見当たらない。ただの真っ暗闇だ。本もののゴジラが立っていたとしても、おそらく見えなかっただろう。  初出   少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二五一号   もう少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二五三号   ほんの少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二五五号   また少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二五七号   さらに少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二五八号   ただ少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二六〇号   あと少し変わった子あります    「別册文藝春秋」第二六二号   少し変わった子終わりました    「別册文藝春秋」第二六三号  単行本 二〇〇六年八月 文藝春秋刊 〈底 本〉文藝春秋 平成十九年十一月十五日刊