明智光秀 桑田忠親 著  [#表紙(表紙.jpg、横180×縦252)] 目 次  第一部 青春流浪   一 若き日の光秀    (一)光秀の素姓    (二)光秀の諸国遍歴    (三)朝倉義景に仕える   二 朝倉館のめぐりあい    (一)将軍義輝の横死    (二)足利義秋の越前亡命    (三)細川藤孝と光秀    (四)足利義秋に臣事する    (五)朝倉家を去る  第二部 義昭と信長と光秀   一 足利義昭の上洛と光秀    (一)信長に仕える    (二)足利義昭の上洛に扈従《こじゆう》    (三)義昭の任将軍と光秀の立場   二 義昭と光秀の訣別    (一)京畿の二重政治    (二)義昭の近臣としての武功    (三)二重政治の仲介者    (四)義昭と信長の不和    (五)信長の悪戦苦闘と光秀    (六)光秀の足利家臣辞任  第三部 信長と光秀   一 信長の部将としての光秀    (一)将軍義昭の謀略    (二)将軍義昭の没落と光秀    (三)信長の越前平定と光秀    (四)信長の本願寺門徒討伐と光秀    (五)信長の本願寺攻略と光秀    (六)光秀の丹波経略   二 世紀の叛逆    (一)丹波平定以後の光秀    (二)本願寺討伐後の論功賞罰と光秀    (三)信長の馬揃えと光秀    (四)信長の武田討滅と光秀    (五)信長の西国出陣と光秀    (六)光秀の叛意    (七)本能寺の急変    (八)怨恨による叛逆    (九)天下取りの野望による叛逆    (十)前途の絶望による叛逆    (十一)武道の面目を立てるための叛逆   第四部 明智の三日天下   一 山崎の敗戦    (一)毛利方に密書を送る    (二)徳川家康を襲わせる    (三)近江を平定する    (四)津田信澄の自害    (五)京都を統治する    (六)細川藤孝父子を誘う    (七)筒井順慶を誘う    (八)山崎の決戦   二 光秀の人物と明智一族    (一)光秀と連歌    (二)光秀と茶の湯    (三)光秀の人物    (四)悲運の明智一族  あとがき  文庫本刊行に際してのあとがき [#改ページ]   第一部 青春流浪 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 若き日の光秀 [#1段階大きい文字](一)光秀の素姓  明智光秀というと、本能寺の変をおこして主君織田信長を自害させたことで名高く、また、光秀の逆意を暗示したものとしては、本能寺の変の四日前の天正十年(一五八二)の五月二十八日に、愛宕山《あたごやま》の西坊で催した百韻の連歌会における光秀の発句に、——時は今|天《あめ》が下《した》しる五月哉《さつきかな》——とあるのが、世に知られている。  一般的解釈にしたがえば、この発句の「時」は「土岐《とき》」に通じ、光秀自身をさす。かれの父祖の明智氏は美濃の守護土岐氏の支族だったといわれるので、光秀も、それを信じていたからだという。しかも、「天が下しる」という句は、天下を知行するの意を示したものだ、というのである。  光秀が敗死してのち、この連歌会に参加し、後見的立場にあった連歌師の里村紹巴《さとむらしようは》が、光秀の発句のことで、秀吉に詰問されたとき、その直前に、連歌の懐紙《かいし》に書きしるしてあった光秀の句の「天が下し[#「し」に傍点]る」の「し」の字を故意に抹消し、あらためて、「し」の字を書き込み、秀吉に向かって、はじめは「天が下な[#「な」に傍点]る」とあったのを、何びとかが紹巴をおとしいれるために、「天が下し[#「し」に傍点]る」と書きなおしたのだ、とのべて弁解し、事なきをえた、という。また、一説によれば、光秀の発句を聞いて、その逆意をただちに紹巴が看破し——花落つる流れの末をせきとめて——という第三句で、暗に光秀をいさめ、逆意を思いとどまらせようとしたが、力およばなかった、と弁解したともつたえている。  しかし、筆者に言わせてもらえば、光秀のこのときの発句は、最初から、——時は今天が下な[#「な」に傍点]る五月哉——だったのではあるまいか。それを何びとかが、後日、光秀の逆心の伏在を強調するために、書きあらためたのではなかろうかと、推測する。しかも、その何びとかが案外、秀吉その人であり、光秀の野望の証拠をつくるため、紹巴に命じて、「天が下な[#「な」に傍点]る」を「天が下し[#「し」に傍点]る」と書きなおさせたのではあるまいか。  なぜかといえば、いくら光秀が動揺していたとしても、紹巴のような連歌師に、本能寺夜襲といった大事の計画を見やぶられるようなへま[#「へま」に傍点]なことはしなかっただろう、と信ずるからだ。本能寺の変の前夜、丹波の亀山城を出発する前に、荷駄をわざと西国方面に輸送させたり、全軍を在京中の信長公の検閲にそなえるといった主旨を配下の物頭《ものがしら》にだけつたえ、いよいよ京都に乱入する直前に、腹心の家臣五人にだけ真意を打ち明けたりするような細心慎重な光秀が、連歌師や愛宕山の社僧に感づかれるような不用意なまねを、するわけがない。万が一、かれらの口から、事前に大事がもれたら、そのほかの慎重な秘密防止の工作は、すべて水泡に帰するからである。  さらに言わせてもらえば、「時は今」の「時」を、明智氏の本姓「土岐」を暗示させたと解釈するのも、後世の何びとかのこじつけ[#「こじつけ」に傍点]ではなかろうかと、椎測する。しかし、このこじつけ[#「こじつけ」に傍点]のために、じつは光秀が土岐家の支族明智氏の子孫だということが、評判になったのである。そして後世につくられた『土岐系図』(続群書類従本)、『明智系図』(鈴木叢書本)、『系図纂要』などにはみな、光秀の父親の名前を明記して、それぞれ、『土岐系図』は明智|監物助《けんもつのすけ》光国[#「光国」に傍点]、『明智系図』は明智玄蕃頭光隆[#「光隆」に傍点]、『系図纂要』は、明智安芸守光綱[#「光綱」に傍点]としている。なお、『明智氏一族宮城家相伝系図書』という系図には、光秀の父を玄蕃頭光綱[#「光綱」に傍点]としている。『系図纂要』と同じく光綱ではあるが、安芸守[#「安芸守」に傍点]とは書いていない。また、系図ではないが、光秀の伝記書としてもっとも古く、江戸前期の元禄年間に書かれた『明智軍記』には、光秀の父を土岐の支流明智下野守|頼兼《よりかね》八代の後胤光綱[#「光綱」に傍点]と説明している。その点、『系図纂要』や『明智氏一族宮城家相伝系図書』と同様である。 『明智軍記』の説明によると、光秀の父にあたる明智光綱[#「光綱」に傍点]が早死したため、光綱の弟の兵庫助光安[#「光安」に傍点]が美濃の恵那郡の明智に在城し、土岐家が没落してからは、土岐家をほろぼしこれにかわって美濃の国主大名に成り上がった有名な斎藤道三に臣従していた。ところが、光安は、道三の長子斎藤義竜が父の道三を討ちとったことを怒り、明智城にひきこもってしまった。  すると、光安の態度をとがめた義竜が、弘治二年(一五五六)の八月五日、重臣の長井|隼人佐《はやとのすけ》を将とする三千余の軍勢を、討っ手として明智城にさし向けた。明智光安[#「光安」に傍点]もこれを予期していたので、数度も城外に討って出て防戦につとめた。しかし、城兵がわずか三百八十人だったため、しだいに討ちとられて、残り少なくなってしまった。それでも、九月二十六日まで城を持ちこたえたが、ついに力が尽き、光安は弟の光久とともに、はなばなしく討ち死をとげたのである。このとき、光安の甥《おい》(兄光綱の子)の十兵衛尉光秀も、死をともにしようとしたが、光安に制止され、光安の子の弥平次光春と甥の次郎光忠の将来、そして明智家の再興を依頼された。そこで光秀も納得して、明智城を脱出し、美濃の郡上郡《ぐじようごおり》を経て、越前にのがれた、というのである。  しかし、『系図纂要』『明智氏一族宮城家相伝系図書』『明智軍記』はいずれも、光秀の父を明智光綱と記しているのに、これらにくらべて製作年代の古い『土岐系図』『明智系図』などでは、あるいは光国[#「光国」に傍点]、あるいは光隆[#「光隆」に傍点]と記して、光綱と明記してないところを見ると、光秀の父を光綱と断定するのは、いささか軽率であるように思われる。しかも、光国、光隆、あるいは光綱にしても、このような名前をもつ人物の実在性が、確実な文献史料である古文書によって立証されるわけでもない。つまり、そういう姓名を明記した書状類は、いまのところ一通も発見されていない。したがって、光秀の父親は、明智氏の一族であるにしても、その名前さえ明らかでない、という結論に達せざるをえないのである。  ところで、『籾井家《もみいけ》日記』という古記録を見ると、——天正三年のころ、信長は、日々に威勢がついてきたため、まず、丹波の国を手に入れようと工夫し、明智十兵衛という族姓も知らぬものを、武辺者《ぶへんもの》と称して、しだいにとりたて、惟任《これとう》日向守と名のらせ、大将分として、大分《たいぶん》の旗頭をもくわえ、丹波をうかがってみよ、と申しつけた——とある。これによれば、光秀は、「族姓も知らぬもの」だったが、武辺者であるから、信長に抜擢されたのである。  なお、『明智氏一族宮城家相伝系図書』に、光秀は、進士信周《しんじのぶちか》の次男として、享禄元年(一五二八)八月十七日|石津郡《いしづごおり》多羅《たら》で生まれたとあるから、天正十年(一五八二)に死んだときは五十五歳だった勘定になる。また、『明智系図』にも、光秀は濃州多羅城の生まれで、母を武田|義統《よしむね》の妹と記している。武田義統は若狭の守護大名である。また光秀の幼名は彦太郎とある。ちなみに、この系図は光秀の末子の内治麻呂《うじまろ》が、光秀の五十回忌に編纂したといういわれのあるもので、光秀が幼時、斎藤道三に、万人の将となるべき人相だといわれ、文武両道の達人であったことなどを述べているが、やはり、異説というほかあるまい。  さらに、『若州観跡録』は、光秀の素姓について、つぎのような異説をとなえている。——明智光秀は、若州|小浜《おばま》の鍛冶《かじ》冬広の次男であったが、幼少のときから、鍛冶職をきらい、兵法をこのみ、近江におもむいて佐々木(六角)家につかえ、明智十兵衛と名のった。あるとき、佐々木家の使者となって尾張の織田家に参上すると、信長が、光秀の立居振舞いがみごとで言語が分明なのをみて、佐々木家に所望して、家人《けにん》とし、しだいに大禄をあたえ、明智日向守といわせた。しかし、光秀の素姓を知るものとていなかった。光秀が丹波の亀山を領したとき、若狭小浜の鍛冶冬広をまねき、多くの太刀をつくらせ、家人にあたえたので、丹波に冬広作の太刀が、いまに多くつたわっているが、この冬広は、光秀の甥《おい》にあたる。光秀の助力によって受領《ずりよう》し、若狭|大掾《だいじよう》藤原冬広と名のったが、代々、五郎左衛門、または五郎右衛門と名づけた。元来、相州鎌倉鍛冶の明広から出ている——というのである。これによれば、光秀は、若狭の小浜の刀《かたな》鍛冶《かじ》の次男坊ということになり、美濃の土豪明智氏の一族だという定説は、根底からくつがえされる。  しかし、天野信景の随筆集『塩尻』によると、——いま(元禄元年、一六八八)から百三十年以前(永禄元年、一五五八)に、濃州の明智から御門《みかど》重兵衛という者が、使者として参上したが、なかなかの器量人で、諸事について賢明につとめたため、その評判が高くなったのを、信長が聞いて、さっそく召しいだし、明智重兵衛と名のらせ、侍役《さむらいやく》を命じたところが、追々に立身出世し、ほどなく信長の執権役となり、日向守に任じ、羽柴筑前守秀吉の相役を命ぜられ、昼夜怠りなく勤務した——という。これによれば、美濃の明智の出身だが、本姓は御門《みかど》といい、のちに明智氏にあらためたわけで、はやくから信長につかえたように説明している。つまり、越前の朝倉義景につかえたことは、抹殺されたのである。  また、『武功雑記』にも、つぎのような異説をのべている。——日向守(明智光秀)が渡り奉公をしているうちに、三河|牛久保《うしくぼ》の城主牧野右近大夫につかえたとき、知行は百石ほどであったが、あるとき、朋輩の中野某に向かって語るには、侍《さむらい》のゆく末は、どうなるか、たがいにわからぬものだ。もし、この光秀が一城のあるじとなったならば、被官《ひかん》人(下役)もほしくなるだろう。貴殿は頼もしいお人だから、そのときは、光秀のもとによびよせ、城代にしてつかわそう。しかし貴殿がもし立身出世した場合は、この光秀が貴殿の被官人となってもよい、と約束した。ところが、光秀が後年、丹波一国を信長から拝領したので、さっそく、中野某を取り立てて、亀山の城代とさだめた——というのである。ここには、光秀が渡り奉公したことを述べ、三河牛久保城主の牧野右近大夫につかえて、百石を知行したと、言明している。光秀の素姓にはふれていないが、信長に仕官する以前に越前の朝倉家につかえたことをいわずに、三河の牧野氏をもって、これにかえている。仕官の経歴を述べるうえの異説、といってよかろう。  以上の諸説・異説・奇説を参酌して、光秀の素姓について考えてみると、要するに、光秀は、美濃の守護土岐氏の庶流に属する明智氏の子孫であるにしても、八代の後胤明智光綱の息子である、などとは断定できない。明智氏を称してはいるが、その父親の名前さえもはっきりしないほどの、低い身分の武士だったことが、史実として推測される。美濃出身の武士であるにしても、名族明智氏の直系とは実証しがたい。しかし、光秀自身が頭脳明敏で、教養を身に備え、高度な特殊技能も身につけていたため、それが信長に認められ、下級武士から近畿・山陰七十五万石の大名に抜擢されたのであろう。  美濃の名族明智氏の出であるからとか、内室|濃姫《のうひめ》のゆかりの者であるから、といったような、縁故や情実で部下の将士を引き立てる信長ではなかったということを、まず、念頭におきたい。  信長に抜擢登用された武将大名には、滝川|一益《いちます》や羽柴秀吉のような、成り上がり者が目だつ。明智光秀などもその好例にすぎないのである。信長の天下布武の統一政策の実施にあたって、役に立たないもの、信用のできないものは、伯父であろうが、織田家譜代の重臣であろうが、家老であろうが、これを殺害し、処罰し、追放するのに、決して容赦も遠慮もしなかった。それに比べ、光秀は、素姓は明らかでないが、有能の士だったから、信長に重く用いられたのであろう。 [#1段階大きい文字](二)光秀の諸国遍歴  さて、『明智軍記』によれば、光秀は、弘治二年(一五五六)九月、二十九歳のとき、美濃を出て越前大野郡の穴馬《あなま》に行きついたが、いったん上洛し、妻子を某寺にあずけ、永禄三年(一五六〇)三十三歳の年から同五年、三十五歳の年までの二年間に、北は奥州の盛岡から南は九州の薩摩のはてまで、日本六十余州をくまなく遍歴し、諸国各地に割拠する大名たちの城がまえや民政の情況などを、いちいち視察した、というのである。しかし、これに似かよった話が、他の武将や英雄の伝記書にも出てくるから、面白い。  たとえば、源為朝の『椿説弓張月《ちんせつゆみはりづき》』、源義経の『義経記』、豊臣秀吉の『太閤記』などが、これである。 『椿説弓張月』は、江戸時代の後期に曲亭馬琴《きよくていばきん》によって書かれ、為朝の生涯をテーマとした伝奇小説だ。『保元物語』によって強調された為朝の怪傑ぶりに取材し、中国の演義小説の手法にならい、奇想天外の脚色を加えたものである。  それによると、為朝は、八郎と称した幼少のころから不敵な腕白坊主で、兄たちにたいしても遠慮をするどころか、傍若無人で、粗暴の振舞いが多かった。やや長ずると、大力無双、剛勇無頼の評判が高くなる。特に、左手《ゆんで》の腕が右手《めて》の腕よりも四寸も長いためか、強弓をもって知られ、矢束《やつか》ばやの手利《てき》きといわれた。しかし、乱暴きわまる行状が、ついに父為義の怒りを爆発させ、十三歳のとき勘当され九州に追放されたという。それから、為朝の九州放浪の旅が始まる。  九州に渡った為朝は、まず豊後に行き、尾張|権守家遠《ごんのかみいえとお》を頼って、そこに落ちつくが、八町礫《はつちようつぶて》紀平治という石投げの名人を家来にしている。それから肥後におもむき、阿蘇の土豪|阿曽《あそ》忠景の子忠国の婿《むこ》となり、忠国の娘の白縫姫《しらぬいひめ》を妻とする。元気百倍した為朝は、みずから九州|総追捕使《そうついぶし》と称して、近隣の土豪討伐にとりかかり、肥後の菊池・原田諸氏の城塞《じようさい》を攻略したという。しかし、鎌倉時代の話ならばともかく、菊池や原田は、そのころ源氏の与党だったから、なにも為朝が討伐する必要はなかったはずである。  これだけでも、あてにならぬ流浪談といえるが、為朝が十三歳の三月から十五歳の十月にいたるまでのわずか三年間に、城塞を攻め落とすこと数十ヵ所、ついに九州全土を手に入れ、鎮西《ちんぜい》八郎とよばれた、というのである。少年の働きとしては、ずいぶんと、だいそれたものであり、信じがたい。おそらく、為朝の武勇を誇大化するための、作者の文筆的作為と椎測される。要は、為朝が十三、四、五の少年時代から、こんなに強かった、と思わせたかったからであろう。 『義経記』の場合も、義経の少年時代を、同様に漂流奇譚化させている。鞍馬寺の別当東光坊|阿闍梨《あじやり》蓮忍のもとにあずけられた牛若丸は、遮那王《しやなおう》とよばれたが、源氏の家系と現在の悲運を知り、奥州の金売《かねう》り吉次《きちじ》の手びきによって、鞍馬山を脱出する。  当時、奥州は、矢羽・絹布・馬・黄金などの特産物を産出していたから、京都と奥州の間には、これらの品物をはこぶ商人が、ひんぱんに往来していた。吉次もその一人だったが、京にのぼると、かならず鞍馬寺に参詣する吉次に、遮那王が目をつけていた、というのである。  遮那王は、金売り吉次に連れられて、奥州の平泉に行き、豪族藤原|秀衡《ひでひら》のもとに身をよせようと考えていた。奥州の豪族藤原氏は、八幡太郎義家以来、源氏と因縁浅からぬ関係にあったし、当時の奥州が京都の朝廷の勢力圏外にあり、当然、平家の威勢に押される心配のなかったことなどが、遮那王の奥州下向希望の理由だったという。遮那王は、奥州下向の途中、近江の鏡《かがみ》の宿《しゆく》で、元服して、源九郎義経と名のる。史実では、平泉に着くと、秀衡の歓迎をうけ、約五年間ここに滞在するわけだが、『義経記』では、秀衡と対面すると、すぐにまた京都にひき返し、鬼一法眼《きいちほうげん》について兵書を学び、また、武蔵坊弁慶を家来にしたという。しかし、これは、ありそうもないことだ。おそらく、弁慶との出会いの場面をつくるために作為されたものらしいが、それにしても、姿をくらますために奥州の平泉まで下向したはずの義経が、すぐにまた上京するなど、不合理といわざるをえない。  少年時代の義経が奥州の豪族藤原氏を頼って平泉に下向したことは事実であろうが、史実的に不明な部分を面白く脚色し、義経の少年時代を波瀾曲折化したきらいが、十分にみとめられる。  つぎに、『太閤記』の場合は、前の二つの例とは少しちがい、放浪の旅といっても、そう遠方には行っていない。日吉丸は、八歳のとき、尾張中村の光明寺に入れられるが、いくさごっこに熱中し、寺役を怠り、本尊の如来像をぶちこわしたりして、いたずらが余りにもはげしいので、寺を追いだされる。ついで、あきない奉公にだされたり、鍛冶屋に弟子入りしたりするが、どこでも長つづきしない。商家の子守りをさせられるが、そこも、いやになり、赤ん坊を井筒のわくにくくりつけたまま、三河をさして出奔する。それから、日吉丸の放浪生活がはじまる。  これは秀吉が、僧侶や商人になるのをきらい、武家奉公を志望していたからだ。その点、亡父弥右衛門の遺志を継ごうと考えていたらしい。父は、織田信秀の足軽で一生をおえたが、自分はもっと出世したいと思っていたのであろう。土百姓のむすこでも、槍一筋で一国一城のあるじとなれる世の中だったからだ。秀吉は、日吉丸といった少年時代から、時世の動きにはなはだ敏感だった、ということになる。 『太閤素生記』によると、秀吉は、尾張の中村出発にさいし、実父の形見の永楽銭一貫文をたずさえ、途中、清洲《きよす》で木綿布子《もめんぬのこ》を縫《ぬ》う大きな針を買いととのえ、行くさきざきで品物にかえて、道中を食いつなぐ考えで、まず、鳴海《なるみ》に出て、針をだして食料にかえ、また、草鞋《わらじ》を針で交易して、路用の足しにした、というが、ちょうど、斎藤道三が灯油の行商をしながら美濃に入り、武家奉公をしたのと似ていて、これは史実と思われる。しかし、その途中、三河の矢作《やはぎ》の橋の上で蜂須賀小六(正勝)という盗賊のかしらとめぐりあう話は、特に名高く、面白いが、『絵本太閤記』の作りごとらしい。史実としては、そのころ矢作川には橋がなくて、渡し舟で川を渡していたようである。ただし、蜂須賀小六は実在の人物であり、尾州蜂須賀郷の土豪で、はやくから信長に属し、秀吉に臣事している。  秀吉は、三河をすぎると、遠江《とおとうみ》に行き、曳馬《ひくま》(浜松市)で、同国|久能《くのう》の城主松下加兵衛(之綱《ゆきつな》)に行きあい、はじめて武家奉公をすることになる。松下は、今川幕下の武将であった。秀吉は、松下家で十五から十八の歳まで足かけ四年、正味三年たらずのあいだ奉公にはげみ、納戸役《なんどやく》をつとめることになったが、新参者《しんざんもの》の悲しさで、朋輩に嫉視され、無実の罪を着せられる。これを気の毒に思った松下加兵衛は、秀吉を説得して、いとまを与え、尾張に帰らせる、というのが、史実らしいが、『太閤記』では、主人の松下加兵衛が秀吉に、桶皮胴《おけがわどう》にかえて尾張に胴丸という新しい具足があるので、それを調えてくるようにと命じ、黄金五両をあずけた。秀吉はそれを費用として尾張に帰り、これを着服して、身仕度を調え、信長に奉公した、と説明している。  しかし、この話はどうも作りごとらしく、信用できない。ともかく秀吉の場合は、史実に沿って、尾張・三河・遠江といった範囲の流浪であり、ただ、その間に面白い、つくりごとのエピソードをはさんだ程度にとどまっている。が、この少年時代の放浪談があるので、秀吉の一代記は生彩を増すのであろう。  さて、もう一つの実例は、現代作家によって書かれた時代小説を原拠としたテレビドラマである。それは、ずいぶん前になるが、NHKの大型テレビドラマで放映された『天と地と』(編集注 一九六八年放映)の、きわめてロマンティックな一場面である。つまり、テレビ俳優石坂浩二が扮するところの、若き日の上杉謙信、すなわち長尾景虎が、高松英郎が扮するところの金津新兵衛ら供の者をひきつれて、ともに六十六部すがたに身をやつし、諸国を遍歴する一場面である。  六十六部すがたの景虎一行は、まず、越後|柏崎《かしわざき》の琵琶島城主宇佐美駿河守定行のもとを出て、春日《かすが》山城《やまじよう》に向かう。その途中、昭田《しようだ》常陸介の勢力圏内の三条を通過し、関所で、身分を知られそうになる。それにつけても、同じ越後の国内でありながら、他国を通過するのと同様な、みじめさを味わった景虎は、せめて越後一国を完全に統一できたならば、このようなこともあるまいにと、統一の理想に想いを馳せざるをえなかった。  また、その道すがら、春日山城主の兄、山本耕一が扮するところの長尾晴景の乱行の風評が、単なるうわさではなくて、事実であるのをつきとめ、憂鬱にとざされる。その晴景を春日山城に訪問した景虎は、情痴の世界におぼれきっている兄晴景の心のさびしさにうたれる。晴景は、虚勢をはって、弟の景虎をしかりとばすが、ひと皮むけば、小心者にすぎなかった。景虎は、ついでに兄の愛妾、藤村志保が扮するところの藤紫《ふじむらさき》にまみえ、男女の愛欲のけがらわしさを痛感するが、その藤紫も、京都の公家のむすめでありながら、長門裕之が扮するところの服部玄鬼に買われ、越後まで流れおちてきた、あわれな女なのであった。  やがて、春日山城を出た景虎一行は、しばらく越後近辺の国々をめぐり歩いてみることにした。一行五人は、宿泊をかさね、越中の栴檀野《せんだんの》にたどりつく。そこは、亡父、滝沢修が扮するところの長尾|為景《ためかげ》戦没の地であった。景虎にとって、つめたい父親ではあったが、墓所で亡父の菩提をとむらう景虎の目には、涙さえ光っていた。一行は、そこを通りかかった百姓に戦場の跡をたずねたことから、一向宗徒にねらわれるが、どうやら、その難をさけて、飛騨の国に入るが、山中の古寺で、はからずも亡父為景の愛妾、有馬稲子が扮するところの松江《まつえ》と再会する。  一行は、松江の好意にあまえ、五日もその古寺に滞在するが、やがて信濃に入り、川中島に向かうが、行くさきざきで、武田晴信のうわさを耳にする。信濃の大半は、もはや、武田の勢力圏内にはいっていた。そこで、晴信という英雄の存在と威力が、景虎を圧迫する。  景虎は、しばしば足をとめて、川中島付近の地形を観察し、金津新兵衛に向かい、——将来は、きっと、ここで決戦がおこなわれるだろう——と、予言する。それから甲斐の国に入り、甲府が近づくにつれて、武田晴信の人となりが、土地の人びとの口から、だんだんと明らかにされてゆく。しかし、晴信の勢力を目のあたりに見るにつけて、景虎は、越後の現状を憂慮せざるをえない。晴信の信濃侵略がおわれば、つぎにねらわれるのは、越後である。そうして晴信との宿命的な対決の予感に、身をおののかせる。  こんなわけで、景虎一行は甲府近くになって、晴信の愛妾、中村玉緒が扮するところの諏訪御料人《すわごりようにん》を見かけたり、また、馬上の晴信と目が合ったりするが、やがて怪しまれた景虎一行は、峠道《とうげみち》からすがたを消し、草むらのなかを走って逃げる。そうして、つぎは相模の小田原に行き、北条氏康の居城のようすを視察し、武蔵、上野におもむき、はては陸奥の白河を経て、会津をまわり、ようやくの思いで、越後に帰国するのであった。この回国の旅の行程は、延べ千三百キロにのぼるという。  しかし、このようなことが、史実として、はたして、ありえたであろうか。  そこで筆者は、ある出版社の主催で、テレビドラマ『天と地と』の原作者である海音寺潮五郎氏と、『戦国乱世』と称する課題で対談をおこなったあとで、一杯やって、少しくつろいだとき、そのことについて問いただすと、海音寺氏は、——どうも、学者というものは、面白くて、小説のタネになるような話は、みんな、ウソだといって、否定する。がっかりするね。しかし、こんな話が本当だったという証拠もないが、ウソだという証拠もない——と、言った。  たしかに、海音寺氏の仰せのとおりだ。そういう理屈でいけば、長尾景虎の千三百キロの回国の旅だって、実施されなかったという証拠は少しもない。いや、実施されたってよさそうなことなのだ。しかし、だからといって、これをそのまま史実とみとめることは、もちろん、できない、と思うのである。  筆者が、海音寺氏への非礼をもかえりみず、少々言わせてもらいたいのは、この旅のコースや、旅行中における景虎の言動が、あまりにもうまくできすぎていることである。小説やドラマとしては、いかにも面白く、そうあっても結構だが、史実としては不自然だ。たとえば、越中から飛騨を経て信濃に出たのはいいとしても、甲斐まで行って、武田氏の情況をさぐり、しかも、馬上の晴信と顔をあわせて、怪しまれたりするのは、どんなものか。いくら六十六部すがたに身をやつしたとはいえ、一国の主ともなるべき長尾景虎が、はたして、そのような軽率な行動をあえてしただろうか。また、それに景虎の重臣たちが賛同し、随行しただろうか。なお、晴信に怪しまれた景虎が、いちはやくそれと察し、一行とともに駿河方面に逃げのびる場面は、たしかに、スリル満点だが、史実としては、どうも、いただきかねる。  だいたい、史上の英雄・武将の伝記を書くにあたって、史実的に概して不明な青少年時代のことを、その人物が成長した暁への伏線として、経歴豊かに、面白おかしく作りあげることは、伝記作家の自由であり、そうした作為があってこそ、はじめて英雄伝・武将伝は、すぐれた歴史文学たり得るのであろう。しかし、その文学的作為も、史実たりうる可能性が豊富でなければなるまいと筆者は思う。それを、かりに史実に直した場合、あまり不合理でも、不自然でも、困る。したがって、明智光秀伝の場合でも、やはり、同様なことがいえるのではないか。  光秀は、美濃の恵那郡明智の出身らしいが、稲葉山城主斎藤義竜のために明智城が陥落し、一族が離散してから、美濃を出奔して越前におもむき、一乗谷《いちじようがたに》城主の朝倉義景につかえる。それまでの間の史実が、全く明らかでない。そこで、後世に書かれた光秀の伝記書『明智軍記』などで、その間の光秀の行動を、諸国巡遊、見学修行といった常套手段にもっていったらしい。つまり、光秀が日本全国を遍歴し、大名たちの人物、その領国の地理・風俗・人情などの実際を見聞し、かつ、大名らの居城、軍備施設の長短までを、事こまかに偵察し、すぐれた戦略家としての素地をつくりあげたと説明する。  これは、ここに挙げた為朝や義経の伝記書からの影響もあることと思うが、また、光秀が早くから天下とりの大望をもっていたということを、この伝記書『明智軍記』の読者に納得させるための、著者の伏線でもあった、と考えられる。ただし、永禄三年(一五六〇)の五月に桶狭間で戦死したはずの今川義元が、同年の末ごろまで生存していたり、伊達政宗がそのころ、陸奥の大崎にいたり、毛利元就が安芸の広島にいたりするのも、全く時代錯誤の記述である。  現代人の場合でも、たいした学歴がなくて大臣になったり、給仕からたたきあげて会社の社長になったり、流行作家になったりすると、若いときから、さぞかし、世界一周旅行でもして、見聞を広めてきたにちがいない、などと、空想もするが、本人に聞いてみると、生まれてからまだ北海道へいったこともないと、つぶやいたりする。現実は、そんなものなのだ。 [#1段階大きい文字](三)朝倉義景に仕える  さて、二年間にわたる流浪生活のはてに、ふたたび越前にもどった明智十兵衛尉光秀は、永禄五年(一五六二)、三十五歳のとき、一乗谷(福井市の郊外)の朝倉義景の城下にやってきた。  一説によれば、はじめ、越前坂井郡長崎村(丸岡町)の称念寺という時宗《じしゆう》の念仏道場の庫裏《くり》の一隅を借り、そこで妻子と住まいながら、僧侶や百姓の子供らに読み書きを教えて、露命をつなぎ、やがて称念寺の園阿《えんあ》上人の推薦で、朝倉義景につかえ、五百貫文の知行をあたえられた、というが、いくら光秀が学識にすぐれ、鉄砲の名人、城攻めの戦略家であったとしても、一介の浪人者が、いきなり五百貫文もの知行で大名に召しかかえられることは、まず、あり得ない。たとい、高僧の推挙があったとしても、無理だ。不自然な話である。 『明智軍記』によれば、永禄五年のこと、朝倉義景が加賀の本願寺一揆と戦ったとき、義景のむすめを摂津の石山本願寺|新門主《しんもんす》の教如《きようによ》上人(光寿《こうじゆ》)にとつがせるといった条件つきで、和議が成立したけれども、加賀の一揆は、なおも、朝倉方の部将|青蓮華景基《しようれんげかげもと》を攻めた。朝倉家に仕官した光秀は、このとき景基の部下に配属されていたが、一族の三宅《みやけ》(明智)弥平次光春(秀満)、明智次右衛門光忠らと力をあわせて、一揆軍を撃退し、手柄をたてたというが、五百貫文の知行は、おそらく、その際の戦功にたいする恩賞だった、と考えられる。  そのころ、光秀が朝倉家に仕官したことを聞きつたえ、斎藤|義竜《よしたつ》にほろぼされた明智氏一門の人びとが、光秀のもとにあつまってきた。光春と光忠のほかに、藤田伝五郎、溝尾勝兵衛《みぞおしようべえ》、奥田|宮内《くない》など、みな後年、光秀の謀叛にもくみした、腹心の家来たちである。  ついでだが、かれら明智一族を路頭に迷わせた張本人の斎藤義竜は、すでに永禄四年(一五六一)の五月十一日、三十五歳の若さで病死している。義竜は、身長六尺四、五寸の巨漢であったが、難病《なんびよう》にかかり、それがもとで早死にしたともいわれているが、太田和泉守牛一のメモした『大かうさまぐんきのうち』を見ると、義竜の病気はむしろ、奇病だったらしい。それも、妻の一条氏とむすことの三人に、憑《つ》き物《もの》が憑いて、奇病をわずらい、百座・千座・万座の護摩《ごま》をたかせて、いろいろと祈祷をさせたが、そのかいもなく、ついに父妻子とも三人が、同時に死去した、とあるから、単なる難病でなかったことは確かであろう。太田牛一が、「天道おそろしき事」と評したのは、父親の斎藤道三や義弟二人を殺害した天罰が義竜にあたった、という意味に相違ない。  それはともかく、明智光秀は、朝倉義景に仕えた翌年(永禄六年)、義景の面前において、鉄砲射撃の妙技を披露して、名人のほまれをとり、寄子《よりこ》百人をあずけられたという。一説によると、一乗谷の安養寺の敷地内の西の馬場で、二十五間へだてた向こうに一尺四寸四分の的《まと》を立て、二時間に百発の鉄砲玉を撃ち放ったところが、そのうち六十八発が的の黒星に命中し、残りの三十二発も的からはずれなかったので、その妙技が、義景にみとめられ、光秀は百人の銃手の頭となったというが、かれが、鉄砲隊の隊長になったかどうかは、実証のよすがもない。  その後、光秀が信長に仕えて、客員部将として実戦に参加してからも、鉄砲隊の隊員となったとか、射撃の妙技によって手がらをたてたとかいう史実が見あたらないから、光秀を万能の器量人とするための作為かもしれない。天下とりを志すほどの者は、万能の人物であらせたかった、物語作者の夢といえよう。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 朝倉館のめぐりあい [#1段階大きい文字](一)将軍義輝の横死  光秀が越前一乗谷城主の朝倉義景に仕えてから三年めの夏、永禄八年(一五六五)の五月十九日、花のみやこの京都で、足利十三代将軍|義輝《よしてる》が殺害されるといった大椿事《だいちんじ》が勃発した。  将軍がみやこから追放されるのはともかく、殺害されるというのは、六代将軍|義教《よしのり》が播磨の守護大名赤松|満祐《みつすけ》に殺されて以来のことだった。義教の場合は酒宴に招いた席上での謀殺だったが、義輝のときは、夜陰に乗じての将軍|館《やかた》襲撃であった。  足利将軍も十三代義輝のころになると、将軍政治の中心地である京都でも下剋上的行動が最高潮に達し、将軍廃立の実権が、室町幕府の管領の細川氏から、その執事の三好長慶へ、さらに、三好の家老の松永久秀へとうつり、また、諸氏相互の権力あらそいや内紛もたえることがなかった。  十二代将軍義晴の長男として生まれた義輝は、幼時、父の義晴とともに、細川氏の同族あらそいの乱をさけて、近江にのがれたが、十一歳で元服すると同時に、十三代将軍となり、一時的に帰京し、従四位下・参議・左中将に任ぜられた。しかし、まもなく三好氏の争乱にあい、細川晴元に擁せられて、ふたたび近江の東坂本にのがれ、ついで、穴太《あのう》にうつったが、父義晴の病死と同時に、家督を相続し、宝泉寺に移住した。その後、三好長慶と講和して帰洛することができたが、細川晴元が、またもや、長慶とあらそったため、将軍義輝の地位はつねに安定しなかった。  そのうちに、かれの地位をおびやかす存在であった実力者の長慶が病死したため、安堵の息をついたが、長慶の弟|十河存保《そごうまさやす》の子三好|義継《よしつぐ》が跡目をつぐと、主君の幼少なのに乗じて、三好氏の家老松永久秀が権勢をほしいままにした。そこで義輝は、足利将軍の権威の復活をはかり、かつて六代将軍義教がとったような強引な手段を講じ、打倒松永の態度を表明した。  この形勢を観てとった松永久秀は、長慶の一族の三好三人衆(三好|長逸《ながやす》・同政康・岩成友通《いわなりともみち》)とともに、義輝謀殺の密議をこらした。とかく独裁的で、扱いにくい義輝を廃し、松永・三好らの育てた阿波公方《あわくぼう》足利|義栄《よしひで》を十四代将軍に立てたい、と考えたのである。  そのころ、将軍義輝は、室町御所から新造の二条館にうつっていたが、正門の扉や周囲の濠、土手などが、まだできあがっていない。松永らは、その虚をつき、清水寺参詣と触れて、五月十九日の夕刻から、総勢二千人をもって新館《しんやかた》を包囲した。そうして折りを見て、三好方の訴人と称して、館に入り、訴状を提出し、義輝の近習に取次がせて、時をかせいだ。そのうち夜陰に乗じ、しだいしだいに兵士を館内に潜入させおわると、鬨《とき》の声をあげたとみるまに、一挙に襲撃にうつったのである。新館の警固のために詰めていた義輝の家人《けにん》らは、日没とともに家に帰り、残っているのは、宿直《とのい》の郎党・女中衆など六十数人にすぎない。  将軍の御機嫌うかがいにやってきた地方の大名をもてなす酒宴の座に着いていた義輝は、時ならぬ鬨の声に不審の思いをなし、室外の様子をうかがわせると、三好・松永党の叛逆と知った。  少時、高名な剣客、塚原|卜伝《ぼくでん》から新当流《しんとうりゆう》の免許を得、近くは上泉《こういずみ》伊勢守を室町御所に迎え、新陰流の剣技を見学したという義輝は、将軍ながらも、腕におぼえがあったので、少しも騒がず、近習の持ってきた重代《じゆうだい》の鎧《よろい》を身につけ、防戦の指揮をとった。  やがて殿中や庭内に侵入してきた敵の兵士にたいしては、床に突きたてさせた十数振りの打ち刀を次々に振りかざし、縦横無尽に乱闘し、十数人の敵兵を斬りふせた末、力つきて壮烈な最期をとげた。時に、義輝は三十歳。生母|慶寿院《けいじゆいん》も火中に身を投じて、わが子の死に殉じている。 [#1段階大きい文字](二)足利義秋の越前亡命  将軍義輝には弟が二人いたが、二人とも仏門に入り、僧籍にあった。義輝を自害させた三好・松永らは、つぎに、この二人のいのちをねらった。二人に還俗《げんぞく》して兄の仇を討たれるのを恐れたからだ。三好・松永らは、まず、義輝の末弟で相国寺|鹿苑《ろくおん》院にいた周《しゆうこう》を誘殺し、つぎに、次弟の奈良一乗院|門跡《もんぜき》の覚慶《かくけい》をとらえ、これを興福寺に幽閉した。さすがの松永久秀も、一乗院の門跡を殺害することは、はばかったらしい。  しかし、覚慶が幽閉されたことを知って、覚慶の救出について食指を動かしたのは、意外にも、越前一乗谷の朝倉義景であった。義景の重臣山崎吉家らが、同年の六月十八日付で、越後春日山城主の上杉輝虎(謙信)の家老直江|実綱《さねつな》に送った書状を見ると、その一節に、——京都の事変は遺憾千万だが、将軍家の御舎弟の覚慶どのが御無事なのは、たがいに喜ばしいことだ——と、のべている。  また、江南の守護大名|六角承禎《ろつかくじようてい》(義賢)の一族六角宗房が、六月二十四日付で直江実綱らに届けた書状を見ると、京都の変事を報告し、将軍義輝公のとむらい合戦をする決意を伝えたうえで、——輝虎どのが上洛すれば、天下の再興も可能だ。南方は、六角一族が平定する。越前・若狭・尾張を始め、諸国の大名には、大覚寺義俊から協力依頼する——と、のべている。つまり、覚慶を興福寺から救出し、これを奉戴して、三好・松永討伐の兵を起こそうと、六角氏などが計画し、上杉輝虎の上洛を促そうとし、朝倉氏なども、これに同調していたようすがわかる。  しかし、この一乗院覚慶の救出に直接尽力したのは、洛西長岡の青竜寺城にいた将軍義輝の近臣細川藤孝であった。  義輝が二条の新館で夜襲されたとき、藤孝は、ただちに二十八騎の武士を引きつれ、義輝の危急に馳せ参じようとしたが、その場の間にあわなかった。  しかし、その後まもなく、一乗院覚慶からも急報があったので、藤孝は、せめて、将軍の舎弟にあたる覚慶だけでも救出しようと決意し、大和の越智《おち》氏の一族、米田求政《よねだもとまさ》とはからい、奈良の興福寺にいそいだ。まず、覚慶に仮病《けびよう》をよそおわせ、医者にばけて寺内にはいりこんだ求政が、覚慶に衣服をきせて、医者に変装させ、首尾よく寺外につれ出させた。七月二十八日の夜のことである。  覚慶は、細川藤孝らを案内役として、奈良から伊賀の上柘植《かみつげ》を経て、近江甲賀郡の豪族和田|惟政《これまさ》の和田館《わだやかた》に到着した。そこへ将軍の御供衆の一色藤長《いつしきふじなが》、御部屋衆の杉原長盛などが参集した。  そこで覚慶は、八月五日付で、越後の上杉輝虎に書状を送り、——こんど京都での事件は、どうにも、しかたがない次第である。そのため、近江の和田に脱出することになった。この覚慶の進退は、貴殿にまかせるから、さっそく無念を晴らしてほしい——とのべて、輝虎の上洛を促した。このとき、覚慶の書状をたずさえて、越後の春日山まで使いにいったのは、大覚寺門跡の義俊であった。「一乗院覚慶」と署名した書状で、今日につたわっているのは、この一通だけである。  ついで覚慶は、九月二十八日付で甲斐の武田信玄にも書状を送って、出兵をもとめたが、遠隔を理由に、信玄に体よくことわられたため、さらに十月四日、ふたたび上杉輝虎を諭《さと》し、小田原北条氏と和睦して上洛するように、すすめた。しかし、輝虎も容易に動こうとはしない。輝虎は、信玄との五度にもわたる川中島の戦いが終わったものの、やはり、信玄が健在である以上、背後をおそわれる懸念があったからであろう。  ともかく、永禄八年(一五六五)当時において、京洛地方にまで強豪として武名が鳴りひびいていたのは、越後の上杉輝虎と、甲斐の武田信玄とであって、そのつぎに、成り上がりの、あばれものとして知られていたのが、尾張を平定して、当時美濃を攻略しつつあった織田信長だった。伝統的地盤を守ろうとする足利将軍家や朝廷が、かれら地方大名の軍事力に期待するところは、苦しいときの神だのみ以上のものであったに相違ない。  この三雄のうち、信玄はまだいちども上洛を果たせないが、輝虎は、天文二十二年(一五五三)と永禄二年(一五五九)の二回、信長は、永禄元年(一五五八)に一回入京し、いずれも足利十三代将軍義輝に拝謁している。したがって、義輝配下の幕臣または公家衆で、この両雄の英姿に接した者も多いので、反三好・松永派の人びとや近畿の大名・豪族たちが、両雄の武力を借りて、将軍義輝のとむらい合戦がおこなわれることを期待したのも、当然と思われる。  同年(永禄八年)の十一月末、覚慶ら一行は、甲賀郡の和田館から、野洲郡《やすのこおり》の矢島の少林寺にうつった。いまの滋賀県守山町(編集注 現・守山市)だ。かれらは、少林寺の東南境内にある矢島館に迎えられ、六角氏の配下にあった矢島の豪族矢島越中守一族郎党の保護を受けることになった。ここが、琵琶湖南岸の木浜津《このはまつ》にも近く、湖上交通の便に恵まれた地点だったからであろう。  そこで、観音寺山城にいた六角承禎は、十二月二日付で、越後の上杉輝虎に書状を送り、——公方様《くぼうさま》(覚慶)の御内書《ごないしよ》を使者の大館《おおだて》藤安に持たせて、越後に下向させるから、御内書の旨に従い、公方様が御帰洛できるように尽力されたし——と、指示している。ここではじめて、一乗院門跡覚慶のことを公方様、つまり、将軍様とよんでいる。承禎は、上杉輝虎さえ越後の精鋭を率いて西上してくれれば、その軍事力を利用し、覚慶を奉じて入京し、三好・松永軍を追討するつもりでいたのであろう。  覚慶は、矢島館で、永禄九年(一五六六)の正月を迎えたが、二月末には、いよいよ還俗《げんぞく》して、足利|義秋《よしあき》(のちに義昭《よしあき》)と名のった。そうして三月十日付で、上杉輝虎の養子長尾喜平次|顕景《あきかげ》(のちの上杉景勝)にあてて、御内書をくだし、——相模の北条氏康と和睦して、一日もはやく輝虎が参洛するように奔走してほしい——と依頼したが、義秋は、同日付で、また九ヵ条の覚書をしたためている。その内容を要約すると、つぎのようである。  ——上杉輝虎が足利義秋の入洛援助を承諾したこと——  ——諸国調略に、油断してはなるまい——  ——この義秋は、越前や若狭には下向しない。京洛に近い近江の矢島に、当分の間、逗留する覚悟でいる——  ——入洛の方策については、輝虎の意見を聞きたい——  ——義秋の側近にいる者どもは、みな、若輩だから、心もとない——  ——輝虎の参洛が遅延しては、諸国の人びとの期待がはずれ、気の毒でもあるから、いそいでほしい——  ——義秋に身近く仕えている者どもは、すでに、上洛の覚悟をきめている——  ——三好・松永の暴挙は、ぜひもないが、天道が存在する以上、かれらの自滅は当然であろう——  ——使者として智光院(頼慶)を当方に在留させるとのこと。比類なき存分である。用件があれば、申しつけ、貴方につかわすことにいたそう——  要するに、上杉輝虎の上洛を切に促し、そのために、京都にほど近い近江の矢島に当分逗留することを言明している。若狭や越前におもむいたのでは、入洛に不便だからであろう。天道が存在するならば、三好・松永は自滅するだろう、といっているのも、面白い。今日でいえば、天罰があたって滅亡するのを待っている、というわけだ。この天道思想は、現今でも、日本人の思想の底に根づよく浸透している。  ところで、義秋は、なおも相州小田原城主の北条氏康に御内書をくだし、——上杉輝虎を召し上げるから、上杉・北条・武田の三氏が和睦するように——と命じたとみえて、八月二十五日付で氏康の子北条氏政が、義秋の側近にいる細川藤孝に答えた書状を見ると、——信玄に下知して頂くのが先決でありましょう——と述べている。  なお、義秋は、尾張の織田信長と美濃の斎藤竜興(義竜の子)との講和を策し、信長の上洛を促しさえした。信長は、これを承諾はしたが、現実的には不可能だったらしい。  いっぽう、上杉輝虎は五月九日付で、——武田信玄を討伐し、北条氏と和睦してのち、上洛を敢行し、三好・松永ら逆徒の首をはね、京都|公方《くぼう》と鎌倉(古河《こが》)公方を取りたてたい——と、神仏に祈願している。輝虎の理想は素晴らしかったが、やはり、現実的には、宿敵武田信玄の存在を無視することができないので、上洛の実現もほど遠い、といわざるをえなかったのである。  四月になって、足利義秋は、神祇大副《じんぎたいふく》吉田|兼右《かねみぎ》の内密交渉によって、従五位下・左馬頭に叙任されたが、義輝を倒した三好・松永らが、かれらの息のかかった阿波公方《あわくぼう》足利|義栄《よしひで》を十四代将軍に任官させようと工作していたため、朝廷も、義秋にそれ以上の昇進はゆるさなかったらしい。  しかし、義秋が上洛のための奔走をはじめたことが知れわたると、六角方にも三好氏に内通する者が出たとみえて、八月三日、三千余の三好勢が近江の坂本まで進撃してきた。  これは、義秋に味方した土豪が追い払ったけれども、そのうちに、六角承禎の子の義弼《よしすけ》が三好氏に内通していることが歴然としてきたので、義秋は、細川藤孝・一色藤長・三淵藤英《みぶちふじひで》など数人の供の者をつれ、夜陰を利して琵琶湖を押し渡り、かれの妹聟《いもうとむこ》の武田|義統《よしむね》をたより、若狭におもむいた。義統が若狭の守護大名だったからだ。  義統は、義秋の命令で上杉輝虎が上洛するときには、一族の武田信景に命じて、輝虎に加勢させる、という約束を、輝虎とかわしてはいた。しかし、そのころ義統は、その子の元次《もとつぐ》と争っていたため、足利義秋の上洛を援助する余裕などなかった。そこで義秋は、朝倉義景に依頼し、九月にはいってから、義景のあっせんで、越前敦賀の金ケ崎にうつった。九月八日のことである。  義秋は、金ケ崎から、九月十三日付で上杉輝虎に御内書をくだし、——大覚寺義俊を関東に派遣し、北条・上杉の和睦をはからせるから、ぜひ西上の軍をおこしてほしい。この義秋の身の上は、輝虎に一任する——と言明している。なお、義秋は、同行の智光院|頼慶《らいけい》にたいして、越後に下向したい意志をさえもらしている。輝虎の武威と人物をよほど信頼していたものとみえる。  十一月も末になって、義秋は、ついに、一行三十余人をしたがえ、一乗谷《いちじようがたに》(福井市郊外)の朝倉館におもむき、義景の出兵をうながした。  越前の国主大名朝倉義景は、天文十七年(一五四八)、十六歳で家督をつぎ、はじめ孫次郎|延景《のぶかげ》と称したが、のちに足利十三代将軍義輝の一字をたまわって、義景とあらためた。年少にして、加賀の一向一揆の軍勢をやぶり、武名をあげたが、祖父貞景以来三代の久しきにわたって朝倉家中に重きをなした一族の朝倉|宗滴《そうてき》が加賀の陣中に没してからは、義景の私生活もようやく文弱にながれ、武備をおこたるようになってきた、といわれている。 『朝倉始末記』によれば、義景の最初の妻は、細川|右京亮《うきようのすけ》のむすめだが、女子一人を産んで早世した。二番めの妻は、近衛家の出で、容色もすぐれていたが、子がないために、離別している。三番めは鞍谷刑部《くらたにぎようぶの》少輔《しよう》のむすめで、小宰相局《こさいしようのつぼね》といい、三人の子女をもうけた。長女は早世し、次女は、のちに石山本願寺|新門主《しんもんす》教如上人(光寿)の北の方となった。もう一人は男子で、阿君丸《あきみまる》と名づけた。はじめて世嗣を得た義景は、ひどくよろこび、阿君丸を掌中の珠《たま》のように鍾愛《しようあい》した。  そのころ、義景は、小宰相局のほかに、美濃衆斎藤兵部少輔のむすめを側室としていた。この側室が朝倉館にあがったときは、十五歳だったというが、天性の美貌と媚態は、義景の心をとろけさすのに十分であった。正妻の小宰相局が子女の愛らしさに心をうばわれているのをいいことにして、義景は、いつも、側室斎藤氏を宴席にはべらせ、遊興にふけっていた。  それでも、阿君丸が、母親の手にひかれて、若君らしい気品のある容姿を義景の居間にあらわすうちは、まだ、よかった。義景にも前途に希望がもて、安心感があり、その安心感の上にあぐらをかいていられた。しかし、その阿君丸が、かりそめの病がもとで、七歳で早死すると、義景は茫然自失した。あらためて、わが子の得がたさを痛感し、悔恨の情にひたり、数ヵ月ばかりは、居間にとじこもり、うつうつと日をすごしていた。が、いちど死んだものは二度と帰らないと悟りきると、ふたたび斎藤氏の匂《にお》わしい肢体《したい》のとりことなっていた。こんどは、前途の希望を失っただけに、徹底的におぼれた。正妻の小宰相局の存在を無視し、朝倉館の三町ほど南に諏訪館《すわやかた》という別第《べつてい》を新たに造り、斎藤氏をそこに住まわせ、小少将《こしようしよう》とよばせた。  諏訪館の庭園は、朝倉館のそれにも増して、構想に善美をつくした。築山《つきやま》は枯滝《かれたき》に工夫し、高さ一丈余の巨岩を用い、流れをはさむ岩々の配置も、巨岩の一点に従うように統一させている。この巨岩は、小少将の故郷の美濃の深山からはるばる曳《ひ》かせてきたもので、これに従う岩々の数だけ、かの女が男児をもうけることを、期待したからであった。  そのような状態にあった義景にとって、足利義秋の越前亡命は、痛し、かゆしであった。これから京のみやこに旗あげしようとする将軍の弟に頼られることは誇らしいが、実際問題となると、大きな負担であった。義景は、一乗谷城外の安養寺《あんようじ》を義秋の居館《いやかた》と定めた。 [#1段階大きい文字](三)細川藤孝と光秀  年あらたまって、永禄十年(一五六七)の春、朝倉義景は、足利義秋を慰安するため、南陽寺で酒宴を催した。 『朝倉始末記』によれば、南陽寺は、朝倉館の東北方二町余のところにある。蓬莱《ほうらい》手法の石組みで構成されたその庭園は、京都|北山《きたやま》の金閣寺のそれをまねたというが、風光佳絶の庭内には糸桜《いとざくら》がいまを盛りと咲きほこっていた。その下に緋毛氈《ひもうせん》をのべ、酒席をこしらえさせた義景は、義秋を主賓とし、細川藤孝らとともに、歌会にうち興じた。  義景のかたわらには、愛妾の小少将が、糸桜模様を白く染めぬいた紫の小袖を着て、艶然たる微笑を義秋に投げかけた。  しかし、征夷大将軍に任ぜられたいという欲望の執念に燃えている三十歳の足利義秋に、警戒すべきは女色であることを告げたのは、いまや、かれの股肱《ここう》の臣ともなっていた細川藤孝である。義秋は、さりげなく、取り澄ましていた。  饗宴のたけなわに、天下一の大《おお》太刀《だち》使いといわれた朝倉|重代《じゆうだい》の家臣|真柄《まがら》重郎左衛門が、九尺五寸のわざものを抜きはなって、乱舞をまい、満座の喝采《かつさい》を博した。この大太刀は、下僕八人の力でようやくかつぎ出せるほどの重さがあったといわれる。  義景は、ほこらしげにうち笑み、義秋と藤孝らも嘆息をもらしたが、酒宴の末席にあった明智光秀は、口辺に、やや皮肉な微笑をただよわせていた。  加賀の一向一揆討伐の手がらで五百貫文の知行をもらい、鉄砲の妙技をみとめられ、寄子《よりこ》百人をあずけられた光秀は、ここで、はからずも、日本の最高権威者である足利将軍の有力候補に推されている義秋という人物にめぐりあえたのである。偶然の幸運というほかあるまい。  かりに、三好・松永らの二条の新館夜襲といった椿事が勃発しなかったとしたならば、越前の朝倉家の新参者にすぎない光秀は、将軍へは、もちろんのこと、将軍の舎弟にも、目通りなど、ゆるされるはずもないからだ。そう考えるにつけても、光秀は、足利義秋の亡命に懸命の尽力をし朝倉館まで亡命の旅のお供をしてきた細川藤孝のことを、尊敬しないわけにはいかないのである。  藤孝は、学識が深く、まれに見る教養人だが、何よりも、足利幕臣のなかで忠節無比の武人といってよかった。計略をもって義秋を興福寺から救いだしたのも藤孝だし、近江から若狭へ、若狭から越前へと、義秋を案内し、労苦をともにしてきたのも藤孝だった。 『寛政重修諸家譜』によると、細川藤孝は、天文三年(一五三四)の四月二十二日、京都東山の麓《ふもと》の岡崎で、室町幕臣|三淵《みぶち》大和守|晴員《はるかず》の次男に生まれたというが、一説によれば、足利十二代将軍義晴の四男であるともいわれる。つまり、義晴は、はじめ清原宣賢《きよはらのぶかた》のむすめを側室とし、その側室が懐妊したが、後奈良天皇の勅命により、近衛尚道《このえひさみち》のむすめを正室とすることになったため、懐妊中の宣賢のむすめを、そのころ和泉松崎城主であった三淵晴員にさげあたえ、生まれてくる子供が、もし男子であったならば、三淵家の後嗣とせよといって、家来の沼田光兼と築山貞俊とをつけてやった、ということである。  この一説の真偽のほどはともかく、細川藤孝の生涯を見てゆくと、足利将軍家との因縁や交渉の深かったところに、興味深いものがある。藤孝は、幼名を万吉という。天文七年(一五三八)六月、五歳ではじめて将軍義晴に拝謁し、翌年、六歳のとき義晴の命令によって、細川播磨守元常の養嗣となっている。  これは、実父の三淵晴員が、将軍義晴に向かって、——それがしは、小身者《しようしんもの》で、この万吉を養うのに適しませぬゆえ、しかるべき家の世嗣《よつぎ》とさせたく思います——と言ったからだというが、細川氏は、室町幕府の管領の家筋であるばかりか、三淵晴員は、細川元有の子であり、すなわち、元常の実弟にあたるからでもあった。つまり、実兄細川元常の世嗣とさせたのである。  藤孝は、万吉といった幼少の頃は、母方の舟橋氏に養われた。舟橋氏は、清原|外記《げき》の家であって、外祖父の宣賢は、環翠軒《かんすいけん》と号し、当代の碩学《せきがく》であった。藤孝が、戦国動乱の世に生まれ、武将として名高いうえに、幽斎と号して、文学や芸能の道にも造詣が深かったのは、こういう環境によるものと思われる。  天文十五年(一五四六)の十二月、将軍義晴の子義藤(義輝の初名)が、十一歳で、近江の国坂本の日吉神社において元服し、征夷大将軍に任ぜられた。藤孝は、この時まで万吉とよばれていたが、将軍の諱《いみな》を頂戴して、ここに、細川与一郎藤孝と称することになった。時に歳十三。藤孝は、新将軍(足利十三代将軍)義藤の側近に侍《はべ》って、申次《もうしつぎ》の役をつとめたという。  数年もひきつづいて前将軍義晴をなやませていた管領細川氏の執事三好長慶は、義輝が十三代将軍となってからも、しばしば京都をおそい、義晴を近江の坂本に脱走させたが、天文十八年(一五四九)の六月、またもや、長慶の軍勢が細川氏綱を将として、京都に乱入してきた。このとき細川藤孝は、十六歳で初陣の戦功をたてたという。もっとも、『細川家記』によると、藤孝はすでに、これ以前にも、養父の細川元常とともに、将軍義晴にしたがって、三好氏との戦いにのぞんだようである。しかし、ともかく十七歳のときには、一人前の武人として戦場を馳せめぐり、相当のはたらきをしていたようである。たとえば、天文十九年の十一月、またもや、細川氏綱らが京都に攻めのぼってきたときには、同月二十三日、藤孝は、大津の松本において、これと対陣している。  この三好の乱のときは、足利将軍家は、つねに劣勢で、またしても近江にのがれ、京都における政治の実権は、むしろ、三好氏が牛耳っていたので、将軍の権威も全く地に堕ちた感が深い。しかし、その将軍家の苦境にさいし、細川藤孝は、まだ若年で戦場の経験が浅かったとはいえ、大いに忠勤をはげむところがあったようである。ことに、この乱の最中に、近江に避難していた前将軍義晴が病死したとき、藤孝は、その遺骸を守護する任務をおび、また、新将軍義輝(義藤)にたいしても、その間、身命を惜しまず、これを擁護する役をはたし、天文二十一年(一五五二)に三好長慶との和議が成立して、帰洛するまで、日夜、義輝の側近にあって忠節をつくしたのである。  帰洛した翌年(天文二十二年)の四月、藤孝は、その功績によって、従五位下・兵部大輔に叙任された。しかし、同年の八月には、またもや三好長慶が京都に侵入してきたため、将軍義輝はまた、近江の朽木《くつき》に難をさけた。このときも、もちろん、藤孝は、義輝のお供をして、近江へ走っている。近江の朽木には、その後、永禄元年(一五五八)までの五年間いたようだが、この間、天文二十三年に、藤孝の養父細川元常が病死したので、藤孝は、細川の家督を相続している。  足利将軍家と三好氏とのあらそいは、その後、権勢家三好長慶の病死によって、しばらく事なきをえたが、ほどなく、三好の家老松永久秀が、長慶にかわって権力をほしいままにするにいたったため、将軍義輝は、これを除こうと策し、久秀に先手を越されて、二条の新館を夜襲されたのである。  将軍の危急を救えなかった細川藤孝の無念は、前代将軍義晴の時から都落ちの亡命将軍と労苦をともにした身として、やる方なかったに相違ない。しかし、足利将軍家の前途を憂慮する藤孝の執念は、義輝の弟、一乗院覚慶の救出運動となり、その目的が徐々に遂げられつつあるのだ。せめて、生き残りの弟を将軍職につけたい、といった執念のあらわれと思えた。  光秀は、足利将軍の側近にあって長年のあいだ将軍と労苦をともにしてきた細川藤孝という武人に接し、いろいろと苦心談を聞かされるにつけても、数年前の二条新館夜襲、将軍義輝謀殺事件が、いかに卑劣な行動であり、かつ、それだけに、すこぶる効果的であったかを、思い知らされたらしい。三好・松永の徒輩は、猛勇将軍として知られた足利義輝と堂々と対戦することの不利をさとり、ついに、あのような、武将として恥ずべき、卑怯千万な戦法をえらんだに相違ない。しかし、強い相手をほふるには、もっとも巧妙、かつ有効な手段であった。光秀は、感情的には松永らを軽蔑し、知能的には、かれらの手段の巧妙さを肯定した。そうして、藤孝の苦衷には、敬服すると同時に、同情を禁じえなかったのである。  細川藤孝と明智光秀、この二人の武人は偶然な邂逅《かいこう》を契機として、しだいに深くむすばれていったのである。 『細川家記』によれば、細川藤孝が足利義秋(義昭)のお供をして、越前の一乗谷に滞在していたとき、朝倉家臣であった明智光秀のほうから、進んで藤孝に近づき、これと深い交わりをかわした。  あるとき、藤孝が、足利将軍家の衰微をなげき、義秋が諸所に漂泊してきた一部始終を語り告げた。すると、光秀は、——いま、義秋公の眤近衆《じつきんしゆう》のうちで、強敵を退けて、義秋公を帰洛させることのできるのは、足下一人とお見うけする。しかし、この越前の国にとどまり、朝倉家をたのんで、功をとげようとしても、それは困難でありましょう。朝倉義景公にくらべて、おそらく当代随一の勇将と思われるのは、織田信長であろう。信長は、すでに尾張を統一し、美濃・近江をも、まさに併呑しようとしている。拙者は、信長の内室と縁故があるので、しばしば家臣にと招かれたが、大禄をあたえるといわれたので、かえって、ためらっている。貴下は、ひそかに岐阜におもむき、義秋公帰洛のことを信長に依頼されるがよい——と、すすめたということである。  光秀が信長の内室と縁故がある、というのは、信長の内室|濃姫《のうひめ》(帰蝶《きちよう》)の生母|小見《おみ》の方《かた》(斎藤道三の後妻)が、美濃の国|恵那《えな》郡明智城主明智駿河守光継のむすめにあたるというつたえにもとづくかもしれぬ。前にも紹介した『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば、明智光継には、光綱・光安・光久・光広・光廉の五男のほかに、女子が五人あったが、そのうちの第三女が斎藤道三の内室となった小見の方であった。そうして、長男|玄蕃頭《げんばのかみ》の子が十兵衛尉光秀であるから、小見の方は、光秀の叔母にあたるわけだ。もっとも、この系図が後世に手ぎわよく製作されたものにすぎないことは、前に説明したとおりで、小見の方が光秀の叔母にあたるかどうかは、史実として、言明できない。しかし何らかの血縁があったことは、みとめてもよかろう、と思うのである。  しかし、光秀が朝倉義景に仕える以前、つまり、越前に旅だつ以前に、しばしば信長から大禄をもって招かれたというのは、おそらく、細川藤孝を前にしての、光秀の自己宣伝ではなかったかとも、推測される。それはともかく、朝倉家を見かぎって信長にのりかえることを、光秀が藤孝にすすめたというのは、光秀自身もすでに朝倉家に見切りをつけていた事実を裏書きするものではなかろうか。そうして、光秀のこのような切りかえは、おそらく、永禄十年(一五六七)の八月、信長が美濃の稲葉山城を陥落させ、城主斎藤竜興を国外に追放して、稲葉山を岐阜とあらため、ここに居をうつすにいたってからではあるまいか。そうした信長の実績によって、光秀は、越前の一乗谷にいながらも、朝倉一辺倒の考えを切りかえたのではなかろうか。 [#1段階大きい文字](四)足利義秋に臣事する  ところで、このころというと、やはり、永禄十年の八月以後と考えられるが、光秀は、いよいよ親交を加えてきた細川藤孝の推薦で、足利義秋に臣事することになったらしい。藤孝のすすめもあっただろうが、光秀のほうから、藤孝にあっせんを依頼したかもしれない。  その動機は、光秀が、義秋の将来性を見ぬき、つまり、近い将来に義秋が足利将軍職をつぐであろうということを予測したうえで、どうせ臣事するなら、無能力な田舎大名の朝倉義景などに仕えるよりも、ずっと有効だと考えたからであろう。  しかし、そうした打算をもって義秋に臣事するからには、なんとしても、細川藤孝とも協力して、義秋の上洛をはからねばならない。それには、まず、強大な武力をもつ気鋭な大名を利用せねばならぬ。そうなってくると、無力で優柔不断な朝倉義景などよりも、尾張と美濃を平らげて上洛行動の拠点を岐阜に定めたという織田信長のほうが、はるかに有望であった。  したがって、光秀は、信長の美濃平定の事実をたしかめて、ほどなく、朝倉義景を足利義秋にのりかえようと決意したらしい。朝倉家をやめて信長に仕えるのではなくて、未来の足利将軍たるべき義秋に仕えたのである。このことは、その後の光秀の朝倉家辞任、美濃帰国、信長への仕官、立身出世、異常な栄達、さらに信長への叛逆のナゾを解く鍵であると、筆者は思うのである。  ただ、朝倉義景に仕えて五百貫文の知行をもらい、寄子《よりこ》百人をあずけられた光秀が、そのままの状態で足利義秋にも臣事し、また、朝倉家を辞任してから、さらに、義秋の近臣のままで信長に仕えた、ということは、幕藩体制下にあった江戸時代の武家社会の常識から考えれば、理解に苦しむ。こんな無茶が通用するわけがないと思うのが、あたりまえだ。しかし、戦国乱世にあっては、このような二重の主従関係も、案外、通用したらしい。いや、便宜上、是認されていたらしいのである。  忠臣は二君にまみえず——などという金言は、戦国時代には通用しなかった。忠臣は二君にまみえる——どころか、同時に二君に仕えてもよかった——のである。  ことに、明智光秀の場合などは、あらためて臣事した足利義秋が、将軍の有力候補者であるというよりも、未来の足利将軍であった。将軍の前には、地方大名などみな、臣下である。朝倉義景、上杉輝虎、織田信長、みな、しかりだ。かれら強豪が義秋の御内書をおしいただき、義秋の命令にたいして服従の意志を表明し、丁重に応答するのも、かれらが、ひとしく、将軍の臣下だからである。  したがって、光秀が、あらたに細川藤孝の推薦で足利義秋に臣事すると、光秀は義秋の近臣となったのだから、光秀は、朝倉家臣でありながら、足利家臣でもある、ということになる。しかし、朝倉義景も、間接的な広い意味では、やはり足利家臣なのだから、この主従関係は、理論的にも両立し得るのである。朝倉家臣でありながら同時に織田家臣である、というのとは、根本的に意味がちがうからだ。  したがって、光秀も、信長に仕えるためには、朝倉家を辞去せねばならなかったが、義秋の直臣となった光秀が、足利将軍家の配下にあるはずの信長に仕官したとしても、いっこうにさしつかえなかったのであろう。  ただ、光秀が足利義秋に臣事するにあたって、細川藤孝の組下といった名目で臣事したのではなかろうかと、推測する。その傍証としては、光秀がもと藤孝の組下であったということをつたえた記録さえ存する。それは、『校合雑記《きようごうざつき》』という江戸時代に書かれた文献ではあるが、それに、「此光秀は、もとは、細川幽斎(藤孝)の徒《かち》之もの也。かの家を出て、信長へも徒の者にすみけり。御意に入り、頓《やが》て知行を下されて、疲馬《ひば》一疋の主となりて、次第/\にとり立られ」と、見えている。が、徒《かち》の者《もの》とは、歩卒のことだから、これはあたらない。  光秀は、朝倉家臣として五百貫文の知行をもらい、百人の寄子もあずけられていたのだから、いくら生まれつき身分がひくかったといっても、朝倉家臣としては、侍分《さむらいぶん》であって、歩卒とはいえない。また、信長に仕えたときも、やはり、五百貫文の知行をあたえられたというから、侍待遇である。『校合雑記』の記事は、その点、少しまちがってはいる。しかし、光秀が、信長につかえる以前には、細川藤孝組下の足利家臣だったというのは、史実のままを伝えた記事だと称してよかろうと思うのである。  つまり、光秀は、越前一乗谷の朝倉家に亡命中の足利義秋に、義秋の側近衆細川藤孝の組下の士として、臣事したらしい。しかし、光秀は、まもなく朝倉家を辞去することになる。 [#1段階大きい文字](五)朝倉家を去る  光秀が越前の朝倉家を辞去した理由については、つぎのようなことがあげられている。 『細川家記』によると、そのころ、鞍谷《くらたに》という者が、光秀のことを朝倉義景に讒言《ざんげん》したのを、義景が信用し、光秀にいとまをあたえた、ということである。  鞍谷というのは、鞍谷|刑部《ぎようぶ》のことらしい。刑部は、義景の三度めの内室|小宰相局《こさいしようのつぼね》の父親である。讒言の内容については、明らかでないが、やはり、光秀が細川藤孝に取り入って足利義秋の近臣になったことを嫉視したためかと、推測される。嫉視した結果、光秀が油断のならぬ人物であるなどといって、中傷したのであろう。大名の閨門に勢力を張っている内室の父親のやることなど、たいてい、そんなことと、相場がきまっている。  ところが、『明智軍記』には、かなり違った理由をあげている。光秀は、朝倉義景の信任を得ていたが、そのころ、信長に美濃を追われた斎藤竜興が、越前の一乗谷に逃げてきて、義景に頼ったため、不愉快になった光秀は、朝倉を去って、竜興とは逆に、美濃に帰国した。時に、永禄九年(一五六六)の十月九日、光秀が三十九歳の冬だった、というのである。  斎藤竜興は、明智城を攻めおとして明智一族を討ちほろぼした義竜の嗣子だから、それと同居するのをきらった光秀の気持は、理解できなくもないが、竜興が永禄九年の十月九日に越前の朝倉家に逃げてきて、光秀と邂逅しそうになったというのは、年代的に少々早すぎる感がありはしないだろうか。  太田牛一の書いた『信長公記』によれば、信長は、永禄十年の八月朔日、稲葉山の城下町に放火し、井ノ口城をはだか城にしてしまったが、翌日、はやくも城の改築に着手し、四方に鹿垣《ししがき》を結いまわし、普請場をつくっていた。そこへ、かの西美濃三人衆がやってきて、おそるおそる、降服許可の礼を申しのべた。国主の斎藤竜興は、八月十五日になって、ついに降参し、井ノ口城を明けわたし、木曽川を舟でくだって、伊勢の長島へと退去した。その後の竜興の消息について、くわしいことは分明しないが、『常在寺記』や『美濃明細記』などによると、伊勢の長島から摂津におもむき、三好三人衆を頼り、一向一揆とともに、反信長戦線の一翼をにない、また、近江の浅井氏を経て、越前の朝倉義景の客分となった。そして、天正元年(一五七三)の八月、義景が信長と最後の決戦を交じえたとき、竜興は朝倉軍に属し、越前|刀禰山《とねやま》の戦いに参加し、同月十四日、二十六歳の若さで敗死したという。だから、斎藤竜興が朝倉義景を頼って越前の一乗谷におもむいたのは、少なくとも、永禄十年八月十五日以後でなければならない。したがって、その前年の永禄九年の十月九日に竜興が朝倉義景のもとに逃げてきたというのは、まったく不合理であって、『明智軍記』のこの記事は、信用できない。  光秀が、朝倉家を辞去したのは、宿敵のむすこにあたる斎藤竜興が越前の一乗谷に来たためではなくて、やはり、鞍谷刑部の讒言によって、朝倉義景が光秀に辞職を促したからではなかろうか、と考えられるが、あるいは、細川藤孝としめしあわせたうえで、足利義秋の内命を受けて、信長に仕官し、信長の上洛を促すために、朝倉家を辞去したのではあるまいか。そのように推測するほうが、史実に近いのではなかろうか。  ともかく、光秀は、足利義秋の近臣といった地位で、信長に仕えた。信長も、光秀を通じて義秋を利用するために、光秀の仕官をゆるし、これを客員部将として待遇したのであった。しかし、こうした、ややこしい主従関係というものは、それほど長つづきしなかった。それは、むしろ、当然のことといえた。 [#改ページ]   第二部 義昭と信長と光秀 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 足利義昭の上洛と光秀 [#1段階大きい文字](一)信長に仕える  越前の朝倉家を辞去した光秀は、ほどなく、生まれ故郷の美濃に帰国し、当時、同国を征服し、斎藤氏にかわって国主大名となり、岐阜を居城としていた織田信長に仕えたのだが、その年月日については、明らかでない。 『明智軍記』には、光秀が越前を去って岐阜におもむいたのを、永禄九年の十月九日としているが、そのころは、まだ、稲葉山も落城せず、信長が斎藤竜興と激戦を交じえていたときだから、少なくとも、一年はやすぎる感がある。  光秀は、おそらく、永禄十年の八月に信長が斎藤氏を討ちほろぼし、美濃を征服したのを見とどけ、その結果として、生涯の主君と定めた足利義秋の上洛運動を支援させる使命をおびて、信長のもとにおもむいたのではなかろうか。  だとすれば、光秀の美濃帰国、信長仕官は、少なくとも、永禄十年八月以後であって、しかも、それからほど遠くない時期ではなかったか、と推理する。これよりはやくてはいけないし、あまりおそすぎても不合理なのだ。  なぜかといえば、細川藤孝と相談して、足利義秋を信長に奉戴させる任務をおびて信長に仕えた光秀が、信長のもとに移って、信長を説得する役目をはたすのは、少なくとも義昭(義秋)が越前を去って、美濃の立政寺《りゆうしようじ》ではじめて信長と会見する永禄十一年の七月二十七日以前でなければならないからだ。その間、少なくとも、半年以上の時間のゆとりがないと、不自然であろう。  ところで、朝倉家を去って美濃に帰国した光秀が、信長に仕えるにあたって、あっせんの労をとった者が、いたか、いなかったかというと、『明智軍記』には、猪子兵助《いのこひようすけ》のあっせんで、信長につかえることになり、信長から、美濃の安八郡で、欠所《けつしよ》の地、四千二百貫文をあたえられた、としるしている。  猪子兵助は、『信長公記』によれば、斎藤道三の近臣であり、かつて、道三が富田《とだ》の正徳寺で信長と、舅《しゆうと》と聟《むこ》の初対面をおわった直後、道三に向かって、信長のことを、「たわけもの」と批判し、道三にたしなめられた男である。この兵助も、道三がその長子義竜と戦って敗死したときは、どこかに姿をかくし、その後、信長が義竜の子竜興を攻めたとき、信長方に馳せ参じ、信長の近臣となったとみえる。猪子兵助と光秀とは、おそらく、旧知の間柄だったのであろう。  なお、信長からあたえられた光秀の知行については、前にものべたように、『細川家記』には、安八郡の欠所五百貫文とある。つまり、朝倉家につかえたときと同高なのだ。『明智軍記』に四千二百貫文とあるのは、かなり多すぎるように思われる。上洛以前の信長のことだし、とくに、光秀の利用価値を考えたうえの召しかかえだから、朝倉家のときと同高ということもなかろうと思われるが、『細川家記』は、当時、光秀と親交のあった藤孝の子孫の細川家で編集した正確な文献であり、それに、五百貫文と明記しているから、このほうを信用するほかあるまい。  弘治二年(一五五六)の九月、光秀が弱冠二十九歳で、明智一族の滅亡をあとに見て、郷国美濃を出てから、すでに十年の歳月がすぎさり、光秀も、いまや四十歳の分別ざかりになっていた。  その間、美濃の国主は、斎藤義竜からその子の竜興へ、竜興から織田信長へと転換され、美濃衆のおもだった者は、競って信長に臣従している。信長の意向に逆らう者は、あるいは討ちほろぼされ、あるいは国外に逃亡し、残る者は、絶対服従を余儀なくされたのである。  光秀が国外に流浪したのは、斎藤道三の属臣として、道三を討ちとった斎藤義竜に反撥したからであって、決して、信長に反感をもったためではない。だから、旧主斎藤道三のむすめむことして美濃の国を道三からゆずりわたされた信長が、しゅうと道三のかたき義竜と戦い、義竜病死ののちにあとをついだ竜興を討ちほろぼして、美濃の国主となった現在、美濃に帰国して、新国主の信長に仕えることは、少しもはずかしくない。  ことに、光秀は、朝倉家に仕えたときのような、一介の浪人者というのではない。新将軍となるべき足利義秋の侍臣なのである。主君の義秋を上洛させるという使命をおび、そのことを信長に依頼し、信長の上洛を催促するために、岐阜にやってきたのだ。信長も、光秀のそうした立場を理解したうえで、光秀を臣下に加えたのであろう。  足利義秋の家臣となり、重大使命をおびて美濃に帰ってきたことでも、光秀は故郷に錦を飾ったといえるのである。  したがって、光秀の目標は、明智家再興といったような低いところにないことは、もちろん、戦国大名としてもっとも優良株と思われる織田信長に仕えることでもなかった。信長に仕え、信長の軍事力を利用して、足利義秋の上洛をはたし、将軍職につかせるにあったのである。義秋にその目的をとげさせるため、便宜上、信長にも仕えたのである。 [#1段階大きい文字](二)足利義昭の上洛に扈従《こじゆう》  さて、光秀が朝倉家を辞去したあと、足利義秋は、細川藤孝らに護られて、安養寺の館で安穏な日々を過ごしていた。そうして、永禄十一年(一五六八)の四月、一乗谷城内で元服し、ここに義昭《よしあき》と改名したのである。時に、三十一歳であった。『言継卿記《ときつぐきようき》』によれば、故実家の山科言継《やましなときつぐ》などが、前々から、義秋の「秋」の字を不吉だと評していたせいであろう。元服式には、前《さきの》関白二条|晴良《はるよし》が招かれて、京都から下向している。  元服式を終えて改名した足利義昭は、もはや、将軍気どりで、京都の相国寺応徳軒に寺領安堵状をあたえたり、本能寺に禁制を掲げさせたりしている。しかし、何よりも気になるのは、上洛の一件であった。  義昭は、朝倉義景が頼りにならないので、焦躁にかられた末に、またもや、越後の上杉輝虎にも出兵の督促をしてみた。しかし、輝虎はそのころ、宿敵武田信玄の謀略による上杉の属将本庄繁長の反乱さわぎのために、上洛など思いもよらなかったらしい。  細川藤孝は、あせる義昭をなだめ、使命をおびて美濃に帰国した光秀の返報を待つほかないと、説得につとめた。だから、やがて光秀が首尾よく信長に召し抱えられたことを知った義昭と藤孝の喜びは、格別であった。もう、朝倉や上杉をあてにする必要もない。ひたすら、光秀からの吉報を待てばよいのだ。  義昭が待ちに待った光秀からの吉報が一乗谷にとどいたのは、おそらく、同年(永禄十一年)の六月に入ってからであろうと、推測する。それは、義昭が、六月二十日付で、紀州|粉河《こかわ》寺に御内書を下達し、——近日入洛するから、畠山高政と相談し、寺中の者みな、忠功をはげむように——と命じているからだ。そうして、義昭は、七月十二日付で、上杉輝虎にも御内書を送り、——入洛の儀について、信長が計画を立て、まず、美濃の岐阜まで御座を移してほしいというので、近日、越前を発足する。これについて、朝倉義景も別に感情を害してはおらぬ——と、通告している。  ところが、その近日というのが、意外にはやく、七月十三日だった。ちょうど、その直前に——義昭公は、まず美濃に御移座ありたし。入洛のことは、さっそく実行したし——としたためた信長の書状を手にした織田家の使者、和田惟政・村井貞勝・不破《ふわ》光治・島田秀満の四人が、一乗谷に到着したため、義昭は、藤孝と相談して、ついに美濃入りを決意し、朝倉義景にたいしては、——将来とも、決して義景を見すてない——といった意味の誓書をしたためて、これをあたえ、義昭の美濃行きのことを承諾させている。 『細川家記』などによると、七月十日に、細川藤孝は、光秀とひそかに示しあわせ、光秀の家人《けにん》の溝尾勝兵衛・三宅藤兵衛に人数二十余をそえて、阿波ケ口に待機させたが、信長からの迎えの使者不破河内守・村井民部・島田所之助も、五百余の人数をひきいて、近江と越前の国境までむかえにいった。そこで、足利義昭は、七月十三日に越前の一乗谷を出発することになった。  朝倉義景は、一族の朝倉|景恒《かげつね》・前波景定《まえばかげさだ》らに命じて、義昭一行を近江の国境まで見送らせた。途中、十六日には、信長の妹むこにあたる浅井長政の居城近江の小谷山に立ちより、長政らの饗応をうけた。  それからは、浅井長政と不破河内守らが供奉し、義昭ら一行は、大野郡から阿波谷にのぞみ、穴間《あなま》の谷を経、若子橋から仏《ほとけ》ケ原《はら》にでた。ここで、光秀が五百余人で義昭ら一行をむかえ、二十二日に、美濃西庄の立政寺に到着している。二十七日、信長は、立政寺におもむいて、義昭とはじめて会見し、鳥目《ちようもく》一千貫文と太刀《たち》・馬などを献上し、丁重に義昭を饗応した。義昭は、ひどく感激した、ということである。  足利義昭を立政寺にむかえることのできた信長は、それから、さっそく、上洛の準備行動に着手した。江北《ごうほく》小谷山城主の浅井長政とはすでに攻守同盟をむすんでいるから、問題は、観音寺山城主の六角承禎《ろつかくじようてい》であった。八月七日、信長は、江南の佐和山まででかけて、承禎をさそい、上洛の援助をもとめたが、承禎は、これを拒絶した。そこで、ひとまず岐阜にもどった。そうして、こんどは、あらためて、朝倉・浅井両氏の出兵をうながした。浅井長政は、もちろん、これに応じたが、越前の朝倉義景は、これに応じない。  信長の佐和山訪問を知った京洛の人心は動揺した。三好三人衆は、六角承禎を誘って、信長の上洛を阻止しようとくわだてたが、三好義継(長慶の嗣子)と松永久秀・久通父子は、はやくも信長に内通し、身の安全をはかろうとした。  九月七日、尾濃両国六万の大兵をひきいて岐阜を進発した信長は、九日、近江の高宮に着陣し、十一日、愛智川《えちがわ》近辺に野陣をはり、十一日には六角氏の支城|箕作《みのつくり》をぬき、十三日、六角承禎・義弼《よしすけ》父子の居城観音寺山を攻めたてた。承禎父子は、力およばず、伊賀方面に敗走している。  信長は、このほか六角氏の支城十あまりを一気に陥落させた。蒲生《がもう》郡|日野《ひの》の城主蒲生|賢秀《かたひで》も、その子鶴千代を人質として、信長に降参する。鶴千代は、のちの蒲生|氏郷《うじさと》である。  信長の上洛を知った朝廷では、喜ぶいっぽうに、はなはだ不安にかられたとみえて、九月十四日付で、正親町《おおぎまち》天皇の綸旨《りんじ》を信長にくだし、禁裏御所《きんりごしよ》の警固を命じている。天皇は、内侍所《ないしどころ》で、天下静謐の祈祷をおこなわせ、また、警備の武士が増員された。  信長は、九月十三日に江南の観音寺山城を落とすと同時に、時機よしとみて、使者を美濃の立政寺につかわし、足利義昭の上洛をうながした。義昭は、細川藤孝らに護衛されて、二十一日に立政寺を出発し、二十二日、江南の桑実寺《くわのみでら》に到着し、信長にむかえられたのである。  九月二十六日、信長は、義昭を奉じて上洛し、東寺に陣取り、義昭を清水寺に置いた。また、細川藤孝に命じて、禁裏御所を警備させたが、いっぽう、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成《もりよしなり》・坂井政尚らに命じて、三好三人衆の一人である岩成友通のこもる勝竜寺城を攻めさせた。『細川家記』によると、細川藤孝が、——この城は、父祖伝来の城だから、我が一手で攻めさせていただきたい——と申し出た。そこで、信長は、——それならば、我が手の者も加えてつかわそう——といった。しかし藤孝は、これを辞退した。すると、光秀は、——信長公の御旗本をわずらわすにもおよぶまい。この光秀が後援いたそう——といった。これに対して、藤孝は、——いや、貴下の出馬にもおよぶまい——と答えたので、光秀は、家来の三宅藤兵衛ら百五十の兵士を藤孝のもとにつかわした。  藤孝は、細川勢百二十に、明智勢百五十を加え、岩成《いわなり》勢と桂川の西で戦い、大いにこれをやぶった。岩成友通は、淀城ににげこみ、藤孝は勝竜寺城をとりかえすことができたのである。  信長の強大な武力によって、三好勢はわずか数日のあいだに京坂地区から撃退された。三好党のかついだ十四代将軍足利|義栄《よしひで》は、三好の残党に護衛されて、船で四国の阿波にのがれたが、まもなく病死している。  小瀬甫庵《おぜほあん》の書いた『信長記』によると、信長が足利義昭を奉じて上洛し、東寺に着陣したとき、洛中の諸芸人が、ごきげんうかがいに、あつまってきて、さまざまな品物を献上した。そのさいに、連歌師の里村紹巴が、末広がりの扇《おうぎ》を二本、台にすえて、たてまつり、——二本手に入るけふのよろこび——と、発句《ほつく》を吟ずると、信長は、即座に、——舞ひあそぶ千代よろづ代の扇にて——と、脇句《わきく》をつけた。このことを聞きつけた洛中の老若男女は、寿永《じゆえい》のそのむかし、木曽義仲が上洛したときのように、落花狼藉の暴行がいたるところで演ぜられるにちがいないと予測し、おじおそれ、おののきふるえていたが、これはまた、案に相違し、——優にやさしい、たしなみのふかい武将もあったものだ——といって、信長のことを頼もしく思ったという。  しかし、京都の町々で兵卒の乱暴狼藉がおこなわれなかったのは、信長に風雅のたしなみがあったせいでは、けっしてない。信長の軍規が、木曽義仲のそれよりも、はるかにきびしかったからだ。  また、信長自身の素行も、義仲のように、みやこの美女の色香におぼれることがなかったらしい。同じ田舎そだちの武人でも、木曽の山の中と、清洲《きよす》や那古野《なごや》の町とでは、だいぶんちがうし、その妹にお市《いち》姫のような天下一の美人をもつ信長は、みやこの不健康な美女に、それほど魅力をおぼえなかったかもしれない。  信長上洛のうわさを耳にした洛中洛外の人びとは、七日も前から、上を下への大さわぎをしていた。応仁・文明の大乱の前例もあるからだ。町のなかで戦闘がおこなわれなくとも、数万の大兵が駐屯するだけでも、たいへんなことだ。被害をおそれて、近郷へ疎開の用意をするものも多かった。くわしいことは、『言継卿記』にしるしている。  しかし、信長は、菅屋長頼に命じて、兵士の乱暴狼藉を禁止し、これを厳重に監視させている。そのために、京都の町々の治安は維持され、事故も少なく、町人たちも安堵の胸をなでおろし、信長の武力の強大さと、軍規の厳正さに、感服したということである。  ただし、信長の軍規がきびしくて、評判がよかったのは、兵士たちが善良であったせいではない。軍規をみだせば、厳罰に処せられる恐怖があったからだ。信長がこわいから軍律を厳守したのだと、いえなくもない。かれらは、それほど絶対的に、服従を強要されていたのである。 [#1段階大きい文字](三)義昭の任将軍と光秀の立場  同じ年(永禄十一年)の十月十八日、信長の奏請によって、足利義昭は征夷大将軍に任ぜられた。去る九月阿波で病死した十四代将軍義栄のあとをうけて、十五代将軍となったのだ。義昭の越前亡命いらいの宿望がここに達せられ、同時に、義昭を奉戴して上洛することによって天下の政権をうばいとろうという信長の野望もかなえられた。が、同時に、また細川藤孝とともに、足利将軍家の再興をはかろうとする明智光秀の希望も、ようやく達せられたのだ。  こう説明すると、読者諸氏は、奇妙に思われるかもしれない。というのは、光秀は、信長などと同様に、青年時代から明智の家名をあげるとともに、天下を我がものにしたいという野心をもっていた、という説が、近ごろ、この時代の歴史の見方として、幅をきかせているからだ。事実、近年、高名な歴史学者や作家で、このような光秀観をもつ人々が案外多いのである。なかには、光秀の天下とりの野望をさして、光秀自身の口で、だれでも持っている戦国の虫だ、と言わせた作家さえいた。しかし、筆者は、このような、一見、もっともらしくて、しかも、すこぶる感傷的な、あまったるい観念論には、どうしても反対せざるをえないのである。  光秀の希望は、細川藤孝と同様に、足利将軍家と室町幕府の再興にあったので、かれ自身が将軍や信長らをしのいで、天下をとろうというような野心は、もともと持っていなかったと、結論したいのである。  いったいに、わが戦国時代の武将の理想や心理状態について、つぎのように説明する人が、案外に多い。——この時代は、槍ひとすじで一国一城のあるじとなれる世の中だったから、武将や大名たるもの、だれでも、天下を我がものにしたいという野望を持っていて、つねにそのチャンスをねらっていた。たとえば、斎藤道三、明智光秀、石田三成、伊達政宗、黒田|孝高《よしたか》などみな、そうだ——と、いうのである。  しかし、この考え方について、筆者には、異論がある。たしかに、一国一城のあるじになるには、槍ひとすじで足りたかもしれない。道三も、光秀も、政宗も、もちろん、そうだ。が、だからといって、果たして、だれでもが天下とりの野望をいだき、つねにその計画をすすめ、チャンスをねらっていただろうか。筆者は、そうは思わないのである。  たとえば、今川義元、武田信玄、上杉謙信、織田信長、徳川家康らのような、第一流の大名ならばともかく、道三、光秀、三成、孝高などという、二、三流の大名や武将たちが、それほどの自信をもって天下取りの計画をしていたとは、到底、考えられないからだ。というのは、いくら弱肉強食の戦国時代でも、野蛮人の部落とはちがって、文化的伝統の長い、日本の武家社会のことだ。ただ、武力だけで、天下は取れなかった。武家社会の棟梁《とうりよう》として十数代もの伝統的権威をほこる足利将軍家にかわって天下に政令をくだし、諸国に割拠する群雄を心服させることは、容易なわざではない。たとい、天下を一時、我がものとした場合を夢想することがあったとしても、はじめから、そのような、だいそれた計画を立てて、チャンスをつねにうかがっているような男は、一国一城、または、数ヵ国のあるじといえども、案外、少なかったのではあるまいか。  たとえば、第一流級の武将にしても、上杉謙信などは、かれ自身が天下をとるというのではなく、関東|公方《くぼう》足利氏と京都公方(足利将軍家)の再興をはかり、その後見役となることを、生涯の理想としていた。  徳川家康にしても、盟友織田信長が逆臣明智光秀に殺害されたからといって、ただちに信長にかわって中央政権を掌握しようとまでは、考えなかった。秀吉の天下になりかけてから、尾州長久手の一戦で秀吉の先鋒をやぶって大勝したとき、上洛の計画を立てたけれども、信長の次男織田|信雄《のぶかつ》を天下のぬしとして、秀吉にかわらせようと、考えていたのである。家康が天下とりの決意をかためたのは、秀吉の死後であった、と見るのが正しい。  秀吉だって、天下とりの野心を胸にいだいたのは、明智退治の決意をかためて播州姫路の城を出発する前夜のことだったし、ほんとうに天下とりの自信をもったのは、山崎の一戦で光秀をやぶった直後ではなくて、その一年後に強敵柴田勝家を越前|北荘《きたのしよう》の居城に討ちほろぼした一ヵ月後のことなのだ。  まして、明智なんかが、若いころから大志をいだき、信長に仕えてからも、つねに、天下とりの野望にもえ、信長の虚をねらっていた、などと説くのは、あまりにも観念的な思いすごしで、ひいきのひき倒し、ともいえるのである。  伊達政宗だって、黒田孝高だって、そうである。地理的関係もあって、政宗は小田原陣のとき、孝高は関ケ原合戦にさいして、どうにも手が出なかった。だから、あたら大志をいだいて、それをとげることができなかった、などと、講談師や大衆作家は説明するが、これまた、ひいきのひき倒しにすぎない。  石田三成の関ケ原の合戦だって、家康の天下とりにたいする、豊臣家の忠臣としての防衛戦であって、家康と天下をあらそったわけでは、けっしてない。賤ケ岳の戦いにおける柴田勝家の立場と同様であろう。  ここのところ、NHKテレビ放映の『国盗り物語』(編集注 一九七三年放映)は、斎藤道三や明智光秀に、——天下がほしい——とか、——天下を取ってやる——などと、しきりに独白させているが、これもまた、ひいきのひき倒しであって、史実ではない。これを現代社会のわれわれにあてはめてみても、個人企業の社長か、サラリーマン社長か、または、大学の学長か、高等学校の校長ならばともかく、一国に一人しかいない総理大臣になってやろうと考えて、そのつもりで、つねにチャンスをねらっている人が、はたして何人いることか。  ただし、若いときには、そんなことをふと夢みて、口にもらす男がいないでもない。筆者の中学時代のセーム・クラスに、そんなのがいた。——男子と生まれて宰相たらずんば、死して閻羅大王《えんらだいおう》とならん——と、大まじめな顔で、かれは壮語していたものだ。そうして、なんどか浪人しながら、がむしゃらに、エリート・コースを驀進《ばくしん》したが、ついに、大学の学長にさえなれずにおわった。もちろん、閻羅大王にもなれずに、老残の身をもてあましながら、まだ、ほそぼそと生きながらえている。そういう筆者は、アンチ・エリートのほうだから、もちろん、文部大臣になろうなんていうことも、少年のころから、夢にさえ考えたことがないのである。  ところで、現代のわれわれが、総理大臣になりたいと考えたり、計画したりするのと、戦国時代の明智光秀や黒田孝高程度の武将が、将軍や天下とりの権力者になりたいと考えたり、計画したりするのとは、その成功の可能性において、格段、いや、雲泥の相違がある、と思うのである。それは、代議士に立候補して、何回か当選し、一つの政党の幹部クラスに入れば、大臣としての可能性が出てくる、といったような、知性本位の、文化的工作で始末できるものではない。ある程度の個人的な腕力や武技も度胸も必要だし、軍事力を背景とする諸種の謀略、部下や領民にたいする統制力などがものをいうので、生命の危険性や、一族子孫の浮沈などを考慮すれば、初志貫徹に、現代人では想像もつかないほどの困難をともなうのである。  戦国乱世に生きるものこそ、かえって、天下とりの困難さと危険性にたいして敏感であり、それだけに、その実現について慎重であったと、いえるのではなかろうか。  光秀の叛逆の原因や理由については、本能寺の変がはじまる段階において、くわしく論述したいと思うが、ここでは、その前提として、光秀の理想が、いわゆる天下とりにはなくて、細川藤孝と同じく、足利将軍家の復興と室町幕府のたてなおしにあった、ということを強調しておきたいのである。  この藤孝や光秀にくらべて、信長は、尾張を平定し美濃を征服すると同時に、「天下布武」の印章を使用し、日本全国にかれの武断政治を執行しようという野望をもち、足利義昭を将軍にすることを表面上の名義として、上洛を敢行したのである。その目標は、いうまでもなく、天下とりにあった。しかし、いよいよ上洛に成功すると、まず、義昭を足利十五代将軍とし、信長は表面上、将軍義昭の補佐役、または、後見役といった立場で、京都や五畿内の政治に参与したのである。 『信長公記』によると、十月二十三日(永禄十一年)、足利義昭は、京都|本圀寺《ほんこくじ》の館に信長をまねき、饗宴を催し、能楽の興行を見物させた。弓八幡《ゆみやわた》以下十三番の予定であった。ところが、信長は、まだ五畿内がすっかり鎮定したというわけでもないのに、大業すぎる、といって、五番につづめさせたという。  つぎに、『重編|応仁記《おうにんき》』によると、将軍義昭が、信長に向かって、——このたびの大忠、武略、智謀、ともに比類なき次第だから、恩賞として、退治したところの近江・山城以下五ヵ国の内、望み次第に領知するように——と、しばしば沙汰をした。ところが、信長は、——五畿内平定のことは、自分の武功のためではなくて、ひとえに将軍家の御威が然らしめたのだから、その必要に及ばぬ——といって、これを固く辞退し、それらの国郡を、みな義昭の忠臣らに分けあたえ、また、前からの領地を安堵させ、信長自身は一分一寸の土地をも知行せずに、ただ、和泉の堺と、近江の大津と草津に代官を置くことにした。そこで義昭は、仕方がないので、三通の御内書をしたため、これを信長に下賜した。しかし、三通のうちで、三管領の筆頭の斯波《しば》家のあとを相続させるとある義昭自筆の補任状《ふにんじよう》にたいしては、——陪臣《ばいしん》の家からでた身として、冥加《みようが》につきる——といって、これを返上し、他の二通は拝受して、清水寺の宿舎にもどった。二通の感状に、「御父」とか、「殿」とかいう文字が添えてあるのは、稀有《けう》の文章であると思われた、ということである。  他の二通とは、初代将軍足利尊氏が朝廷から拝領した桐の紋と、下野《しもつけ》の豪族足利氏以来の家紋である引両筋《ひきりようすじ》の紋とをつかわすという意味の一通と、それから、信長が諸国の凶徒を、ことごとく、すみやかに退治した武功をほめたたえ、足利将軍家の再興と国家の安治を依頼した一通である。  ところで、太田牛一の『信長公記』を見ると、この三通の文書のうち、信長の武功をほめた感状と、家紋を授けた文書との、二通を引用しているが、あて書きの「織田弾正忠殿」の上に、「御父」の二字を添えている。そこで、足利義昭が、信長の武功に感謝し、信長のことを「御父」とよんだということが、有名な史実として、つたえられたのである。  しかし、『信長公記』という記録は、信長の旧臣太田牛一が、主君信長一代の功業を顕彰しようとする意図のもとに書いたものであるから、これは、ことさら潤飾した語句であって、この二通の文書の原本には、『古今消息集』や『細川両家記』その他の古文書集や古記録に収めた写本のように、「御父」の二字は、おそらく記していなかったに相違ない。当時、信長は三十五、義昭は三十二歳である。三つ年上の人物を「御父」とよぶなど、どう考えても、奇妙ではないか。  ところで、この『重編応仁記』の記事を読むと、信長はいかにも謙虚な武人であって、天下をとるなどという野心はもっていなかったかのように思われる。しかし、『重編応仁記』は、『足利季世記』などという記録と同様に、江戸時代に書かれた史書である。だから、やはり、小瀬甫庵の『信長記』や『太閤記』に表現されているような儒教的道徳観で史実や史上の人物を評論しすぎるきらいがある。信長が謙譲の美徳を徹底させ、五畿内の全部を将軍義昭にあたえてしまったのでは、天下は信長の手にはいらなかったであろう。これは、将軍義昭にたいする信長の一時的なゼスチュアをそのまま無批判に受けとり、それを謙譲の美徳とはきちがえたにすぎない。  足利義昭は、信長の強大な武力を利用して上洛に成功し、十五代将軍となる宿望を果たしたけれども、武威をほこる信長の存在が、なんとなく無気味である。しかし、——お前の役目は、これですんだから、もう岐阜にひきさがってくれ——とも、いまさら、いえない。そこで、信長を副将軍か管領にでもしてやって、きげんをとり、臣従させておけば、安心だし、何かにつけて便利であろうと、割りきって考え、就任を勧告し、辞令までくだした。それから、感状をあたえて、信長の武勲を賛美し、足利家の家紋まで下賜したのである。  しかし、信長としては、副将軍や管領にされたんでは、かえって迷惑である。足利将軍義昭にたいして生涯あたまがあがらなくなる。天下とりの野望に燃えていても、信長は、副将軍や管領に就任した以上、将軍に叛くことの不利を知っていた。副将軍や管領が将軍に叛いたのでは、大義名分が立たない。大義名分を無視して叛逆をくわだてた賊徒、というレッテルを押されかねない。将軍義輝を謀殺した三好・松永は、賊徒とみなされ、現に信長の討伐をうけている。信長はいまさら、三好・松永の二の舞いを踏みたくない。だから、補任状《ふにんじよう》だけは、義昭に返還したのであろう。  感状や足利家紋の下賜も、信長にとって、それほどありがたいものでもなかった。内心、くすぐったくもあるし、ばかばかしくもあったにちがいない。——仕方がないから、もらっておこう——くらいな気持だったに相違ない。だから、そんなことには頓着なく、しかし、副将軍を返還したかわりと称して、堺・大津・草津などの港町に信長の代官を置くことを願い、義昭の許可を得たというのである。  これは、この三つの港町が水陸交通の要衝にあたり、しかも、きわめて富裕の地であったから、ここに信長の代官をおくということは、この港町を信長の直接支配地とすることであった。  商業経済の中心地である都市の重要性に着眼したところは、信長がさすがに新時代の政治家であったことを立証する。家柄だとか、家紋だとか、官職など、形式的なことを後生大事に考えていた足利将軍義昭とは、その時代感覚と見識において、格段の差があったのである。  今日でも、先祖の毛なみ、親父の威光、育ち、学歴、叙位任官などを重大視するような人間は、使いものにはならない。社会の荒浪をのりきれずに、生存競争の敗残者となるか、病弱で早死にするかの、どちらかであろう。役人でも、教員でも、机の序列を重大視したり、出身校を鼻にかけたりする人間は、最低の人種と知るべし。まして、旧軍隊時代の階級を今日にもち出すなど、社会の敗残者のたわごとと悟るべきだ。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 義昭と光秀の訣別 [#1段階大きい文字](一)京畿の二重政治  信長は、足利義昭を奉じて上洛し、将兵に命じて、京都の治安維持にあたらせると、ほとんど同時に、義昭の将軍政治を補佐するといった口実で、京都を中心とする五畿内の政治改革に着手している。  そのため、表面上は足利将軍のおこなう幕府政治だが、裏面では信長がこれを監督し、かつ、指揮するといった二重政治が、事実上、おこなわれた。  これは、信長の強大な軍事力によって護られた軍政であったから、やむをえなかったけれども、明智光秀としては、表面上は将軍義昭の近臣であり、室町幕臣ではあるが、裏面では、信長の客員部将、あるいは奉行人として、信長の指図にしたがいながら、幕府政治に従事するといった、はなはだすっきりしない立場に立たせられることになった。そこに、足利将軍に仕えて忠臣たらんとする光秀元来の理想と、信長の部将として昇進するといった現実との矛盾が、伏在したのである。  義昭と信長によっておこなわれた京畿の二重政治とは、たとえば、つぎのような様式を持つものであった。  義昭は、将軍に任ぜられる直前の永禄十一年の十月九日、山城の仁和寺《にんなじ》にたいして、つぎのような意味の寺領|安堵《あんど》状をあたえている。——当|御門跡《ごもんぜき》領で所々に散在するもの、および境内などのことは、当知行のむねにまかせて、いよいよ全く領知せらるべきの由を、仰せ出だされた——  日付は、永禄十一年十月九日。その下に、松田|秀雄《ひでかつ》・同頼隆という室町幕府の奉行人が署判し、宛名は、御室《おむろ》御門跡雑掌。  これは、足利義昭の配下に属する二名の奉行人が仁和寺(御室御所)の院主(門跡)にあたえた寺領安堵状である。  ところが、この安堵状にたいして、織田弾正忠信長が、同日付で、——当御門跡領で所々に散在するもの、および境内などのことは、足利義昭公の御下知のむねにまかせ、相違なく領知すべし——といった意味の添状《そえじよう》を出している。添状には、「天下布武」の朱印が押してある。  また、十月二十日というと、足利義昭が将軍になった翌々日のことだが、時の正親町《おおぎまち》天皇が、将軍義昭と信長に綸旨《りんじ》をくだし、山科|言継《ときつぐ》の旧領の還付を命ぜられたが、そのまた翌日(十月二十一日)、義昭も、京都の町人にたいして、——皇室御料地の諸役を怠りなくつとめるように——との命令を伝達している。やはり、幕府の奉行人の松田頼隆と諏訪俊郷《すわとしさと》が連署し、奉書の形式で発行し、宛書きは「上下《かみしも》京中」としている。ところが、この奉行人の奉書にたいして、信長が、また、「諸本所《しよほんしよ》雑掌中」といった宛書きで、つぎのような添状を出しているのだ。——禁裏御料所の諸役などの二つは、先規のように、御当知行のむねにまかせ、御直務として仰せつけられたし——というのである。日付は、永禄十一年十月二十一日。日付の下には、織田弾正忠信長と署名し、やはり、朱印を押している。本所とは、荘園の領主のこと。  また、同年(永禄十一年)の十二月、将軍義昭は、京都の妙顕寺にたいして、永寄宿と課役を免除したが、このときも、信長は、——当寺に永く寄宿すること、および、非分の寺役を課することなどを免除すると、公方様《くぼうさま》が御下知をくだされたからには、別儀があってはならぬ——といった文言の添状を、妙顕寺同境内あてにあたえている。これも、「天下布武」の朱印状だ。「公方様」とは、いうまでもなく、将軍義昭のこと。「御下知」というのは、幕府の奉行人が、将軍の主旨を承って下達する下知状のことである。  信長は、京都および五畿内の政務を執行するにあたって、当分のあいだ、このような方法と形式を採用していた。つまり、将軍義昭の主旨を承けて発行する幕府の奉行人の奉書や下知状にたいして、幕府の執権、幕府政治の後見役といった立場で、信長が、それらの公文書に添状を付加していた。つまり、信長の許可ならびに検閲なしには、将軍や幕府は、一通の御内書や下知状も発行することができないしくみがつくられたのである。  しかも、信長は、翌年(永禄十二年)の正月十四日付で、「殿中御|掟《おきて》」という掟書《おきてがき》まで作製して、足利将軍や幕府の奉行人の権力行使の限界を定め、その自由活動を拘束しさえしている。 「殿中御掟」は、全文がつぎの九ヵ条よりなりたっている。  ——将軍が殿中で、ふだん召し使う者どもは、御部屋衆(将軍の居間の雑用係)、定詰《じようづめ》衆(殿中に常に詰めている警備係)、同朋《どうぼう》(将軍のお相手役)以下、前例の通りをよしとする——  ——公家《くげ》衆・御供衆は、申次《もうしつぎ》の者が将軍の御用をつたえしだい、殿中に参勤すべきだ——  ——惣番衆の人々は、よばれなくとも、殿中に祗候せねばならぬ——  ——それぞれ、召使いの者どもが殿中の御縁《ごえん》がわにのぼることは、当番衆の責任で、これを禁止する。さっそく、御縁がわをまかりくだるように、固く命ずべきである。もし、それを見のがしておくようであったならば、当番衆が責任を問われる覚悟でおるべきである——  ——公事《くじ》(訴訟)について、朝廷に内々で奏上することは、禁止する——  ——幕府の奉行衆が意見を問われているからには、将軍として是非の御沙汰をしてはなるまい——  ——公事(訴訟)をお聞きになる規定は、前例通りでよろしい——  ——申次の当番衆をさしおき、毎事、別人に披露してはならぬこと——  ——諸門跡・坊官(本願寺の役僧)・山門衆(比叡山の僧徒)・医陰(医者と陰陽師《おんようし》)に従うともがらは、みだりに殿中に祗候してはならぬ。なお、御足軽・猿楽師《さるごうし》などは、召しにしたがって、殿中に参上すべきこと——  この掟書には、日付の下に、弾正忠と署して、信長の書判(花押)を押し、信長が定めたことを明らかにしているが、冒頭に、将軍義昭に袖判を書かせ、掟の内容の九ヵ条のことがらについて、承認させている。  これは、足利将軍館における義昭の自由行動を牽制し、拘束し、その権力を削減するのが、信長のねらいであった。しかし、これにたいして義昭は、反対することもできず、不承不承《ふしようぶしよう》に承認のしるしを書かされてしまった。無念ではあったが、将軍になるまでのあいだ、何から何まで援助してくれた信長に逆らうことは不可能だった。  しかも、この「殿中御掟」は、それから二日後の正月十六日、さらに七ヵ条の追加を見た。  ——寺社の本所領や、信長の新たに定めた知行地などを、いわれもなく押領《おうりよう》することは、かたく禁止する——  ——みだりに他所の領地を受け取ることは、まかりならぬ——  ——喧嘩口論は禁止する。もし、これに従わぬ者があれば、法度《はつと》の主旨にまかせ、成敗《せいばい》を加えたし。なお、合力人《ごうりきにん》(合力を乞う者)も同罪とすべきである——  ——殿中に無理にはいってきて、借金の催促などすることは、かたく禁止する——  ——将軍に直訴することは、禁止する——  ——訴訟する者があれば、幕府の奉行人を通して、その主旨を言上させること——  ——信長の定めた知行地においては、請文《うけぶみ》を出させた上で、下知なさるべきこと——  このような細則を、いちいち定められたのでは、足利将軍も、幕府の奉行人も、手も足も出せない。従来の権威は、かたなしとなるばかりであった。  しかし、信長としては、この七ヵ条の掟書を追加することによって、さらに足利将軍の自由行動を束縛し、これを自家薬籠中のものとすることができたのであった。  将軍義昭と信長との、生涯を賭けての執拗な抗争は、すでに、このころから、ここに端を発していたのである。  義昭の近臣として、将軍の申次(取次ぎ役)、または、幕府の奉行人としての役目も果たしていた光秀は、その半面に、信長の客員部将として、信長の指示をも受けねばならなかった。その立場は、いよいよ微妙、かつ困難なものとなってきたのである。 [#1段階大きい文字](二)義昭の近臣としての武功  さて、同年(永禄十二年)の正月五日のことだが、義昭の上洛にあたり、信長の武力によって、たちまち京都に撃退された三好三人衆の軍勢は、信長が岐阜に帰ったあとで、いきおいを盛りかえし、ふたたび京都に乱入し、足利将軍となった義昭を、本圀寺の陣屋に包囲したのであった。『信長公記』によれば、そのとき、将軍の近臣の細川藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・同助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智十兵衛(光秀)・赤弥五八・内藤備中守、および、若狭衆の山懸源内・宇野孫七らが、城中から斬って出た。また、本圀寺の後巻《あとまき》として、伊丹《いたみ》・荒木・茨木《いばらき》衆・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫(義継)などが馳せむかい、桂川の付近で一戦におよび、大勝利を得たのである。  ここで、上洛後における足利義昭の近臣としての光秀武功の事蹟が、はじめて見えるのだが、三好勢の奇襲攻撃にたいして、光秀は、細川藤賢・津田左近らの幕臣とともに、防戦につとめたのである。 『細川家記』にも、このとき、細川藤賢・野村越中守・三淵藤英・明智光秀らが協力して防戦につとめ、細川藤孝は勝竜寺の居城にいたが、すぐに本圀寺に馳せつけて防戦に協力し、三好勢を撃退した、と記している。  このような騒ぎがあったせいか、同年の二月から、ふたたび岐阜から上洛した信長によって、京都二条城の普請が大々的に開始されたのである。  これは、十三代将軍義輝の二条|館《やかた》を改築したものであった。『言継卿記』によれば、新城の工事に着手したのは二月二日のことで、普請総奉行は、信長が買って出た。大工奉行には、京都奉行の村井貞勝と島田所之助が任ぜられた。石蔵《いしくら》づくりの大城郭をつくろうというので、大工事となった。しかし、毎日、数千人の人夫が交替で工事に参加したというから、大へんなものだ。三月七日には石垣工事が終わり、十一日には南門の櫓《やぐら》、二十八日には西門の櫓ができあがり、四月十四日に、義昭が、ここに移った。  そこで、義昭の近臣の明智光秀も、ここに移り、申次《もうしつぎ》の役などをつとめていたことと推測される。 [#1段階大きい文字](三)二重政治の仲介者  将軍義昭の近臣として二条城に移った光秀は、義昭の将軍政治と信長の武断政治とが表裏する、いわゆる京畿二重政治の仲介者として、庶務の執行にあたっていたらしい。  その証拠としてあげたいのは、永禄十二年の四月十四日付で、賀茂荘中にあてた木下秀吉と明智光秀との連署状である。その内容は、——賀茂の荘の内で、以前に没収した田畠は、少しではあるが、御下知のむねにまかせ、賀茂の売買|桝《ます》で、毎年四百石ずつ運上し、また、軍役として、百人ずつ陣詰めとせよ——とある。ここに、御下知というのは、将軍義昭の出した下知状、という意味である。そうして、この下知状というのは、この秀吉と光秀の連署状より四日前の四月十日付で、諏訪俊郷と飯尾|貞遥《さだとら》という幕府の奉行人が、賀茂荘宛てに出した連署状のことを意味するようである。——賀茂社として現に知行している田畠や山村などは、以前の通りに相違なく知行せよ。没収された田畠は、毎年、四百石ずつ運上すべし。軍役としては、百人ずつ陣詰めとして働かせよ。これは、以前に公方様が承認された通りの条件である——と、のべているからだ。  そうすると、秀吉と光秀は、信長の意向を代表して連署状を出したことになり、この場合、光秀は、将軍義昭の近臣でも幕府の奉行人でもない、ということになる。  しかも、それから四日めの四月十四日付で、光秀はまた、秀吉と連署し、信長の代理人として、連署状を賀茂荘中に宛てて出しているが、連署状の内容は、やはり、同様なものであるから、省略する。  光秀は、以上のような、京畿の寺社領に関する庶務だけではなく、禁裏御料所のことにも関係していたようである。その一例として、永禄十二年の四月十六日、木下秀吉・丹羽長秀・中川重政と連署して、禁裏|御蔵《おくら》の御用人の立入宗継《たていりむねつぐ》に宛てて、奉書を出している。その内容は、宇津頼重という者が、禁裏御料所である丹波の山国荘を押領していたのを、万里小路惟房《までのこうじこれふさ》らが信長に訴えたので、信長が明智光秀などに命じて、押領の違乱を止めさせた。そのときの信長の朱印状に添えた信長の京都奉行の連署状である。  これによって、光秀が、将軍義昭の近臣としてよりも、しだいに信長の京都奉行としての性格を明らかにし、京畿の寺社領、門跡や公家の荘園のことだけでなく、皇室御領のことにもタッチしてきたことがわかるのである。  なお、信長の京都奉行について考える場合、光秀の相棒《あいぼう》として、出雲出身の法華僧、朝山日乗《ちようざんにちじよう》の存在を無視してはなるまい。  日乗は、天文法華《てんもんほつけ》の乱で寺家が滅亡してから、単身で上洛し、荒れはてた禁裏御所を修理するための経費を募集する念願をおこし、このことを上奏したため、後奈良天皇から、日乗上人の号を賜わっている。信長が上洛すると間もなく、信長に接近して登用され、なおも皇居造営のことに尽力し、伊勢の内で若干の知行をあたえられたという。  この日乗と光秀が二人であつかった事件で注目すべきは、永禄十二年の七月、一条|内基《うちもと》と日野輝資が、公家同士で所領あらそいをしたとき、信長の京都奉行の朝山日乗と明智光秀が、その論争の裁決にあたったことが、山科言継の日記として有名な『言継卿記』に見えている。なお、同書の元亀元年(一五七〇)の三月六日の条を見ると、信長が日乗と光秀に命じ、山科言継らの公家衆に所領の石高を書き上げさせている。つまり、公家たちの所領がどれだけあるか、調査させたのである。  ところが、元亀二年の七月五日付で上野秀政《うえのひでまさ》と明智光秀に宛てた信長の書状を見ると、——山城の国|大住荘《おおすみのしよう》の年貢などについては、納入すべき百姓らが、本所である曇華院《どんげいん》に直納すること、また、同院の境内において不法行為がないようにという足利将軍の下知状の主旨が明白であるのに、住職が女性であるのをいいことにして、不法行為を敢えてするのは、外聞上よろしくないから、義昭公のお耳に入れて、善処せよ——と、のべている。この場合、光秀は、室町幕臣の上野秀政とともに、寺院の所有する荘園の年貢米の納入、および、境内における不法行為の禁止などに関する事務に関係していたことがわかる。信長から将軍義昭への申次《もうしつぎ》(取次ぎ)の役目を果たしていたことがわかるが、これは、光秀が、元来、義昭の近臣だったからであろう。  つぎに信長は、元亀二年の九月十五日から二十日までの間に、洛中洛外の田畠にたいして、一段に一升の段別米を課したのを、京都の妙顕寺に納入させた。これは、皇室と室町幕府の財政をたて直すためであった。このとき、光秀は、島田秀満・塙直政《ばんなおまさ》・松田秀雄などという幕府の奉行人と連署し、信長の命令を諸寺社に発送しているが、『言継卿記』の同年十月九日の条を見ると、この連署状が、五、六百通も発送されたことがわかる。この場合、光秀は、信長の京都奉行でありながら、幕府の奉行人と連署し、しかも、信長の命令を京畿の諸寺社に伝えているのである。  なお、信長が洛中洛外からかきあつめた米五百二十石を、京都の町々に貸しつけ、その利子を禁裏の用途の一部に充《あ》てさせることに定めたとき、光秀は、やはり、幕府の奉行人の島田・塙・松田の三氏と連署し、元亀二年の十月十五日付で、その指令を立売《たちうり》組中あてに発布している。立売は、立入宗継を指す。  以上の実例によって見ても、光秀は、ある場合は信長の京都奉行として、織田家臣や寺社奉行の朝山日乗などと連署し、また、あるときは将軍義昭の近臣として、幕府の奉行人と連署するといった、微妙な立場に立って、足利義昭と織田信長とがおこなう京畿地域の二重政治に協力していたことがわかるであろう。しかも、こうした状態は、光秀が義昭の近臣たることを辞退し、信長の奉行人、または、部将としての態度を明瞭にするにいたっても、なお、数年の間、一種の惰性として、継続していたらしい。ともかく、光秀の織田家臣、信長の部将としての性格は、きわめて曖昧な点が多く、はじめは足利義昭係、および京都奉行として、のちには近畿管領として、信長から、しだいに重く用いられていったのである。それは、光秀の政治的手腕と武略が、信長に高く買われたからであり、一つに、実力の然らしめたところといってよい。 [#1段階大きい文字](四)義昭と信長の不和  足利義昭は、信長の奏上によって十五代将軍に任ぜられ、京畿地域の幕府政治を復活することになったけれども、将軍命令を受けて幕府の奉行人が京都の寺社や、門跡、公家、あるいは禁裏御所の役人に交付する下知状に、いちいち、信長の添状、または信長に直属する京都奉行の奉書まで添えられ、その言動措置を監視され、検閲された。そのうえ、将軍館である二条城の「殿中御掟」まで規定されて、将軍の政治活動だけでなく、日常の行動の自由さえも拘束されたのである。ところが、なお、地方諸国の大名や豪族につかわす将軍の御内書にも、いちいち信長の書状を添えられることになり、手も足も出せない窮地に追いこまれたのである。  義昭が諸国の大名たちに送った御内書については、前にもしばしば紹介したとおり、義昭の上洛以前、将軍就任以前にも見られたが、それ以後に送られたものとしては、たとえば、永禄十二年(一五六九)の正月十三日付で、安芸の毛利氏の部将|吉川元春《きつかわもとはる》(元就《もとなり》の次男)に宛てたものがある。  ——上洛以後、本圀寺の居城に、逆徒が馳せのぼってきたが、これと一戦におよび、ことごとく討ちはたし、天下がいよいよ、思いのままになった。ついては、四国方面に逃げていった敵が少々いるようだから、この際、かならず退治するように、毛利元就と輝元に申しつかわした。ともに相談し、戦功をたてることが肝要である。使者として、柳沢元政《やなぎさわもとまさ》を貴方にさしくだした。くわしいことは、聖護院道澄《しようごいんどうちよう》が説明するはずだし、近臣の上野|信恵《のぶえ》・一色藤長からも連署の依頼状が届くだろう——  足利将軍としての面目を存分に発揮し、亡命時代の義昭にもまして、堂々たる文言を披露している。つまり、安芸の毛利氏にたいして、四国の阿波に遁走した三好の残党を討伐することを命じたものだが、義昭自身の武功を誇張宣伝し、信長の「信」の字にも言及していないところに、注目すべき点がある。  つぎに、義昭は、同年の二月八日付で、智光院頼慶を使者として、越後の上杉輝虎に御内書を送り、甲斐の武田信玄との和親をはからせているが、そのときの御内書には、——こんど凶徒が蜂起したところが、織田弾正忠(信長)が馳せ参じ、そのため、すべてが思いのままになり、いまなお在洛している次第である。それにつけても、越後と甲斐が、この時節に和睦し、天下の争乱を鎮定させるための方策を、信長と相談することが、肝要であろう——とあり、信長の武功を称賛している。しかしこの義昭の御内書には、つぎのような信長の添状が添えられたのである。——越後と甲斐が和睦することについて、将軍義昭公が御内書を出されたから、この際、御内書の意向を受納せられ、公儀のために奔走されることが肝要である。義昭公への取次ぎは、この信長が快く受諾しよう——  ただし、この信長の署判のある添状の宛名は、上杉の家老直江大和守景綱になっている。  なお、信長は同年(永禄十二年)の卯月七日付で、直江景綱あてに、つぎのような内容の書状を送っている。  ——上杉と武田の間柄のことについて、去々月、足利将軍家から御内書をつかわされたところが、その使者が、いまだに帰らないので、かさねて、飛脚をもって御内書をさしつかわされた。了解も済まないうちに、勝手に信濃に出兵などされては、迷惑である。何分にも、御考慮願いたい——  ともかく、将軍義昭が諸国の大名に送る御内書にたいしても、信長は、このように、いちいち、かれの添状を送っていたのである。それにもかかわらず、義昭と信長との間は、無事にいっていた。これは、両者がたがいに、相手にたいして遠慮していたからであろう。  しかし、日を経、月がたつにつれて、義昭に不満の念が昂《こう》じてきた。いちいち信長の検閲を経なければ、御内書も、奉行人の奉書も、下知状も出せないような将軍など、はたして、存在するであろうか。こんな自由意思と独立行動の認められない将軍の存在は、ゆるされるであろうか。このように自問自答するにつれて、信長の僭越な言動にたいする義昭の忿懣は、増大するばかりであった。  しかし、いまさら信長に抗議したとて始まらないと悟った義昭は、ついに信長には内証で、地方大名に御内書を出すようになってきたらしい。こうなると、密書に近い。たとえば、さきに紹介した卯月七日(永禄十二年)付で、直江大和守(景綱)にあてた信長の書状に、——去々月将軍家の御内書を持っていった使者が、いまだに戻って来ない——などというのは、怪しむべき文句といえた。上杉輝虎からもらってきた返事を、信長に見せたくないための策略だったかもしれない。そうだとしたら、義昭のそうした行為は、かなり早くからおこなわれていたと見るべきであろう。越後の上杉氏との間に、何か隠密のとりきめが交わされていたかもしれないのである。  そういう事実をかぎつけると、信長としても面白くない。義昭の行動を、何かにつけて、疑惑の目をもって見るようになってくる。義昭も、疑われたと知ると、身の危険を感ずるので、自分の立場を護るため、さらに、信長以外の何ものかに頼ろうとし、陰謀をたくらまざるを得なくなってくる。  しかし、こうした立場に置かれた足利義昭のことを、陰謀将軍とよぶのは、あたらない。陰謀をめぐらして将軍の座を奪おうとたくらんだのは、むしろ、信長のほうである。信長こそ天下|盗《と》りの陰謀大名、と呼ばねばなるまい。信長との戦いに敗れたという結果から見て、義昭のことを軽視してはならぬ。それは、史上の人物にたいする正しい批判とはいえないのだ。  ともかく、以上述べたようないきさつで、両者のあいだが面白くなくなってきたのは、同年(永禄十二年)の十月ごろのことと推測されるのである。信長は、その十月十六日、久しぶりで岐阜に帰った。  しかし、信長としても、このまま引きさがったのでは、せっかくの苦労も水の泡というものだ。京畿の政権を掌握し、将軍の名を借りて天下に号令をくだすには、どうしても、義昭を信長の意のままに動かせるように工夫せねばならぬ。そこで信長は、翌年(永禄十三年)の正月二十三日付で、つぎのような誓書をしたため、これを義昭に承認させたのであった。 [#ここから1字下げ] 一、諸国の大名へ御内書を通達される必要があった場合には、いちいち、信長に報告され、信長の書状を添えるようにしたい。 一、これまで諸大名にいろいろと下知なされたことは、これを、いちおう無効にされたうえで、改めて、また思案なされて、その内容を定められたい。 一、将軍家にたいして忠節を尽くした者どもに、恩賞や褒美をやりたくても、領地などがない場合には、信長の分国《ぶんこく》の内で、御意次第に、都合をつけることにしよう。 一、天下の政治を、何事につけても、この信長に一任されていられる以上は、信長としても、たれたれと限らず、将軍の上意を待たずに、信長の分別しだいで、成敗を加える。 一、天下が泰平に赴いたからには、宮中に関する儀式などのことは、常に油断なくおこなってほしい。 [#ここで字下げ終わり]  冒頭には、印文「義昭宝」という義昭の袖印《そでいん》を押している。そして、日付の下には、「天下布武」という楕円形の黒印を押しているが、宛名が、日乗上人と明智十兵衛尉になっていることに注意したい。  日乗については、前にものべたが、この日乗と光秀は、朝廷や将軍を中心とする京都関係の庶務を掌《つかさど》る、いわば信長の京都奉行であり、また、禁裏・寺社奉行ともいえた。特に光秀は、将軍義昭の近臣でもあったから、この二人を通して、この五ヵ条の条件を義昭に承諾させたのである。義昭としても、これを承諾せざるをえなかった。だから、その証拠として、袖印を押したものとみえる。  ともかく、この誓約書に調印した以上、義昭は、今後、諸国の大名たちに御内書をくだすにあたって、いちいち、信長の許可を得、信長の書状を添えねばならなくなった。それに、これまで大名たちに下知したこと、約束したことなどを、一応、取り消し、よく思案したうえで、改めてやりなおせ、というのである。それから、行刑権も信長の裁断にまかせることになった。将軍義昭にいちいち断わらなくとも、信長の分別次第で自由に成敗ができる。軍事権・政権・経済権を握られてしまった以上、刑罰の行使権を渡されないのは当然であろうが、義昭は、無念だった。将軍は朝廷の御守役にすぎない。朝廷の儀式だけは抜かりなく施行せよというのが、信長の真意であった。この誓約書に袖印を押しながら、おそらく、義昭は、切歯扼腕したに相違ない。  将軍義昭の近臣明智光秀も、信長の京都奉行として、微妙な立場に立たせられたのである。 [#1段階大きい文字](五)信長の悪戦苦闘と光秀  将軍義昭と信長との間に全文五ヵ条から成る厳しい誓約書が交わされたとき、信長は、岐阜城にいた。そして八方の形勢に注意しながら、二月二十五日(永禄十三年)、上洛の途に就いた。  三月五日、信長は上洛し、四月十四日、二条城作事の竣工を祝い、猿楽の能を七番興行させた。表面は、このように何ごともなくすぎていったが、このころすでに、一触即発の危機が、京都と北陸とのあいだに孕《はら》んでいたのだ。  信長は、早くから、将軍義昭と越前の大名朝倉義景とのあいだを疑っていた。格別、証拠をつかんだわけではないが、さまざまな風聞を耳に入れていた。  信長の武威と権勢に圧迫されている義昭が、その圧迫からのがれるために、だれかに頼るとすれば、近畿十数ヵ国が信長の支配下にある以上、それ以外の地域で、もっとも近いところといえば、越前の朝倉氏のほかにはないわけである。それに、義昭は、信長に奉戴される以前、数年のあいだ、義景の居城一乗谷に、朝倉家の食客として、庇護されていた。義昭が奈良の興福寺を脱出して以来、いちばん長く厄介になったのが、越前の朝倉館だ。義昭と義景とのあいだに密書がとりかわされたという噂を耳にしたとき、信長は、——わざわいは未然に防ぐに限る。火事はボヤのうちに消すにかぎる——と、思ったに相違ない。  越前の朝倉が怖いのではない。将軍義昭の密令によって、第二、第三の朝倉が出てくるのが厄介なのだ。こうなると、もう放っておけないのが、信長の性分である。  しかし、信長は、越前出兵にふみきる前に、四月十四日の殿中祝言の猿楽能興行を機会に、朝倉義景の上洛、将軍家|出仕《しゆつし》を命じた。義景がこれに応じて、上洛すれば、義昭との密書交換の件について詰問し、その次第によっては、義景を人質として拘禁する。もしも上洛を拒否すれば、将軍命令に違犯したという理由で、直ちに朝倉を征伐する。つまり、和戦両様のかまえでいた。  その日、義景はついに上洛しなかった。祝言の猿楽能を見物しながら、信長は、あたまのなかで越前発向の作戦を練っていたに相違ない。いや、出陣の手はずは、すでにととのっていたのであろう。  永禄十三年(一五七〇)は、四月二十三日で、元亀と改元されたが、それに先だつ四月二十日のこと、信長は、突如、大兵をひきいて若狭に侵攻した。幕府の命令に背いた武藤上野《むとうこうずけ》を討つのを口実とした。しかし、四月二十五日には、若狭から越前の敦賀に殺到し、在々所々に火を放ち、朝倉方の部将寺田|采女正《うねめのかみ》の守る天筒山《てづつやま》城を猛攻し、城兵千三百七十人を討ちとり、城を陥落させた。ついで信長は、朝倉義景の一族|景恒《かげつね》のこもる金ケ崎城を攻めたが、これを遠巻きにし、恩賞をもって城将を誘ったため、二十六日になって景恒は、籠城を断念して、城を明け渡し、府中にのがれた。  しかし、このとき、江北|小谷山《おだにやま》城主の浅井長政が、信長の妹むこであるにもかかわらず、江南の六角承禎と呼応して兵を挙げたので、さすがの信長も、おどろき、ただちに軍勢をまとめ、二十八日の夜、越前の金ケ崎を撤退し、若狭を経て、近江の朽木谷《くつきだに》の難を越え、晦日《みそか》、無事に入京している。  信長は、浅井長政へのことわりなくして朝倉氏を攻めないという長政との誓約を反古《ほご》にしておきながら、長政の叛逆を大いに怒り、これを徹底的に討ちこらしめる決意を固めると、五月二十一日、岐阜に帰った。  喜んだのは、足利将軍義昭だ。——夷《い》を制するに夷をもってする——といった孫呉の兵法にある謀略が、みごと、図にあたったからだ。しかし、義昭は将軍だから、これは陰謀ではない。正々堂々たる謀略である。  六月十九日、信長は大兵をひきいて江北に進み、二十一日、浅井長政の居城小谷山に迫ったが、一気にこれを攻めることの不利を悟り、南方の虎御前山《とらごぜやま》に夜陣を張り、在々所々に火を放った。  二十四日、信長が、越前から江北に通ずる要所にあたる横山城を攻めると、浅井長政は、小谷山をおりて、越前から赴援した朝倉|景健《かげたけ》の大軍と合体しようとして、大寄山《おおよりやま》に陣取った。そこで信長も、本陣を竜《たつ》ケ鼻《はな》に移し、浅井・朝倉の連合陣と対峙した。こうして、六月二十八日、姉川を挟んで激戦が展開された。これが有名な姉川の合戦である。この合戦の結果、信長は大勝利をおさめた。  信長は、浅井長政の本拠小谷山城をおとしいれることはできなかったが、姉川で大勝した結果、横山城を手に入れ、木下秀吉を将として、ここを守らせ、越前への通路をおさえることに成功した。  京都二条城にいた足利義昭は、姉川合戦の結果を知り、身の不安をおぼえたとみえ、三好の残党や石山本願寺に檄《げき》を飛ばせ、救援をもとめた。  将軍義昭から信長追討の密書をもらった三好の残党は、摂津の野田・福島に陣をすえ、京都に迫ろうとした。また、石山本願寺は、朝倉氏と姻戚関係にあったため、義昭の密書を待つまでもなく、近畿と北陸の門徒に指令をくだし、信長と抗争させた。  この形勢を見てとった信長は、同年(元亀元年)の八月二十日、三万余の大兵をひきいて岐阜を出発し、二十三日に上洛し、二十五日、河内の枚方《ひらかた》に着陣し、野田・福島にいる三好勢を攻めたが、九月に入ると、摂津の天満に陣を進め、本願寺門徒軍と激戦を交じえた。  この情況を見てとった浅井長政と朝倉義景は、三万余の連合軍を編成して南下し、織田方の属城|宇佐山《うさやま》に猛攻を加えた。城将の織田信治と森可成は、防戦の末、討ち死にをとげている。  信長は、ただちに野田・福島の囲みを解いて上洛したが、まもなく、兵を比叡山下の坂本に進めた。これにたいして、浅井・朝倉の連合軍は、兵を分け、その一部が比叡山にのぼって陣をかまえ、東上してくる織田軍の主力をむかえ討とうとした。  これには、さすがの信長も閉口し、山門の僧衆を招き、寺領の還付を条件として、内応を促し、万が一、これを拒否するときは、全山を焼却する、といって威嚇した。しかし、僧衆がこれに応じないので、激怒した信長は、比叡山を包囲し、谷々を焼き払い、山門に総攻撃を加えようとした。王城鎮護の霊場など、信長の眼中になかった、と言いたいところだが、さすがの信長も、少しは躊躇《ちゆうちよ》したらしい。  これを知った浅井・朝倉の連合軍は、密使を越前に飛ばせ、朝倉義景の来援をもとめた。そこで、義景は、さらに二万の大兵をひきいて、十月十六日、比叡山麓に押しよせた。  信長は、宇佐山城に拠り、ただちに朝倉軍と決戦を試みようとした。しかし、義景は、満を持して動かない。そのうちに本願寺門徒軍が山城の山崎に陣し、御牧《みまき》城を抜いたため、浅井・朝倉の連合軍も、これに呼応して比叡山を降り、一乗寺付近に火を放った。ついで、江南の観音寺山城の六角承禎も、信長にたいして攻勢に出てきた。  形勢わるしと見てとった信長は、姉川の合戦のときと同様に、三河の徳川家康からの援兵を得て、形勢をやや有利に展開させたが、この苦境を切りぬけるには、一時、足利将軍義昭を逆に利用し、朝廷に奏請させて、浅井・朝倉と和睦するほかない、と考えたのである。——こんどの動乱は、天下の不祥事というべきだ。将軍たるもの、宜しく、天皇の綸旨を奏請して、講和をはかるべきである——と、信長は、義昭を暗に威嚇した。  義昭としては、こんどの謀略が露顕し、それについて信長から詰問されるのを恐れていたため、案に相違した信長の書状を見て、ほっと一息ついた。  足利将軍の奏請によって、同年の十二月十三日付で、正親町天皇の綸旨が降った。——天下安穏のために、和融を勧告する——とあった。信長も、浅井長政と朝倉義景も、もちろん、かたじけなく、これを拝受した。  信長の、義昭を利用しての講和戦略は、見ごとに成功した。信長は、浅井・朝倉と人質を交換し、岐阜に帰った。これを志賀の陣といい、信長がもっとも苦境に追いこまれた戦いであった。  この、信長の若狭・越前進攻作戦、江北姉川の合戦、志賀の陣といった元亀元年(一五七〇)一年間にわたる戦乱を通じて、光秀が果たした役目は、なんであったかというと、まず、信長の命令で、丹羽長秀とともに、若狭に入り、信長に降服した武藤上野から、人質を取っている。姉川の合戦には参加していないが、信長が三好の残党を攻めて、野田・福島に迫り、ついで摂津の天王寺に陣したときは、光秀も、それに従っていたらしい。浅井・朝倉の連合軍のために江南の宇佐山城(志賀城)を抜かれたときには、村井貞勝や柴田勝家らとともに、義昭の居城である二条城の警備にあたっていた。志賀の陣には、少しばかり参加したが、まもなく一色藤長・上野家成・三淵弥四郎ら幕府の奉行人といっしょに、京都に戻っている。  信長の客員部将としても、光秀は、何らの戦功もたてていない。むしろ、信長の京都奉行として、幕府の奉行人とともに、在京して政務を執行している時間のほうが多かったようである。  しかし、それにもかかわらず、光秀は、その翌年(元亀二年)の七月、信長から、近江の滋賀郡と宇佐山の志賀城をあたえられたが、九月に信長の比叡山焼き討ちが行なわれ、十二月になって山麓の焼けあとに坂本城を新築するにいたるのである。知行も、それまで三千貫文だったのが、一躍、五万石ほどの大名に昇格したのである。これによって光秀が、いかに信長の奉行として有能であったかが、わかるではないか。  光秀は、足利将軍義昭の近臣であるという地位を信長に利用され、信長上洛後は、信長の京都奉行として重用されたが、それは、光秀が学識にすぐれ、教養ゆたかな文化人であるだけでなく、理財の道にも明るく、対人関係もソツがなく、京畿管領ともいうべき枢要な職掌を果たすのに適当な人物であったからではなかろうか。 [#1段階大きい文字](六)光秀の足利家臣辞任  明智光秀は、足利家臣細川藤孝の推薦で、越前亡命中の足利義昭に仕え、義昭を十五代将軍とし、幕府政治を復活させるための方便として、織田信長にも仕官した。しかし、義昭が信長に奉戴されて上洛を果たし、将軍職に就いてからも、なお義昭の近臣として、東寺八幡宮領の山城の下久世荘《しもくぜのしよう》を所領として、義昭からあたえられていたらしい。『東寺百合文書』によれば、元亀元年(一五七〇)の四月ごろ、東寺の僧|禅識《ぜんしき》から、幕府の奉行人松田秀雄と飯尾昭連《いいおあきつら》に宛てて、明智光秀が東寺八幡宮領の下久世荘を押領し、年貢や公事物《くじもつ》を寺納しないと、訴え出ており、これにたいして、光秀が、下久世荘は公方様(将軍義昭)から頂戴したものだと、弁解しているからである。  信長から三千貫文の知行をもらっているうえに、将軍義昭からも、義昭の取次ぎ役、世話役として、下久世荘からあがる年貢米や公事物をあたえられていた。しかし、これは東寺八幡宮領であったのを、将軍命令で、光秀が押領していたようだ。というのは、義昭は、信長が京畿の政権を掌握するための方便として奉戴された、傀儡《かいらい》将軍だったからだ。有名無実の将軍だったから、軍事力もないと同時に、経済力の基盤となる所領さえ乏しかった。光秀も、こういう無力な主君に仕えて、なまじっか所領などもらったから、訴えられたりしたのだ。しかし、光秀も、越前の一乗谷で高遠な理想をもって義昭に仕官して以来の名目もあるから、細川藤孝と同様に、そう簡単に、これまでの主従関係の因縁を断ち切ることができなかった。  しかし、傀儡将軍としての地位にあきたらず、名実兼備の足利将軍になろうとして、打倒信長の謀略をめぐらし、信長を苦境のどん底におとしいれたかのようにみえた義昭が、容易に信長を打倒できないことを見てとり、逆にその信長から、京都奉行としての才腕を買われ、これというほどの武功もないのに、姉川の合戦・志賀の陣の翌年(元亀二年)、近江の滋賀郡五万石を賞賜され、さらに坂本の城主とさえなると、光秀の心境も、いささか動揺してきたらしい。弱冠十八歳から信長に仕えて千軍万馬の間を往来し、武勲赫々たる武将木下藤吉郎秀吉でさえも、まだ一郡一城のあるじとなっていないのに比べて、光秀の待遇は、破格の抜擢《ばつてき》といってよかった。できればこの際、将来性の乏しい足利義昭との主従関係を解消し、前途洋々たる織田信長の家臣一本槍で押し通したいと考えるようになってくるのも、人情の自然であろう。ところで、光秀のそうした心境の一端を吐露した、かれの自筆消息が、現在、熱海美術館の所蔵品として伝わっているから、それを読みくだしにして、左に紹介したい。 [#ここから1字下げ]  見ぐるしく候て、憚《はばか》り入り候えども、御志ばかりに候。 唯今は御目にかかり、快然、此の事に候。 これに就いて、我等進退の儀、御暇《おいとま》申し上げ候ところ、種々御懇志の儀ども、過分、かたじけなく存じ候。とにかくに、ゆくすえ成り難き身上の事に候間、直《すぐ》に御暇を下され、かしらをも、こそげ候ように、御取り成し、頼み入り存じ候。次に、此のくら、作《さく》にて候由に候て、然るべきかたより給わり置き候間、進め入り候。御乗習いに御用にたてられ候わば、畏《かしこ》み入て存じ候。かしく。 [#地付き]明十兵     [#地付き]光秀     曽兵公      人々御中 [#ここで字下げ終わり]  この光秀の消息は、日付が記してないが、足利義昭の家来で、しかも、室町幕府の御詰衆でもある曽我兵庫頭|助乗《すけのり》にあてて、——拙者の今後のことについては、一応、おいとまを賜わるようにお願いいたしましたところが、いろいろと御丁重なお言葉を頂き、身に余ることと、かたじけなく存じております。とにかく、将来、この上、どうにも見こみのない身の上のことですから、すぐに、おいとまを下され、頭髪をも剃《そ》るように、御前で、お取りなし下さるように、頼み入ります——というのが、文面の大要である。行くすえ見こみのない家来だから、はやく首にしてほしいと、曽我助乗を通じて、足利義昭に申し出ているのだ。相手が足利将軍だから、敬意をはらい、きわめて謙虚で慇懃《いんぎん》な言辞を弄しているけれども、要は、はやくやめさせてほしい、と願い出たのである。光秀自身に将来性がないというような言いまわしをしているが、率直にいえば、将来性のない主君を、一日もはやく見限りたい、というわけである。数年前、生涯の夢を義昭に託していた光秀も、いまや、信長と比べて余りにも無力な義昭に、幻滅の悲哀をおぼえたことであろう。  これは、元亀二年(一五七一)の十二月ごろの消息と推定される。なぜかというと、光秀は、同年の十二月二十日、曽我助乗に下京の壺底分《こていぶん》の地子銭《じしせん》二十一貫二百文を、義昭と光秀の間に立って、暇乞《いとまご》いについて奔走してくれたことにたいする謝礼として、与えているからだ。光秀は、莫大な礼銭をあたえてまで、義昭のもとを辞去したかったのであろう。賢明な光秀は、このころすでに、将軍義昭の前途を見越していたらしい。 [#改ページ]   第三部 信長と光秀 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 信長の部将としての光秀 [#1段階大きい文字](一)将軍義昭の謀略  前に述べたように、元亀元年(一五七〇)の十二月、志賀の陣のとき、信長が、将軍義昭を促して、信長と浅井・朝倉両氏との講和勧告の綸旨を朝廷に奏請できたのは、信長がまだ、義昭と、表面上、敵対関係になっていなかったせいである。信長は腹のなかでは、義昭の策謀を洞察してはいたが、表面は何くわぬふうをよそおっていた。義昭のほうでも、この際、信長の要請を拒絶すれば、これまでおこなってきた謀略を摘発され、その罪を糺明される恐れがあるから、渋々、綸旨の奏請を承諾したのである。ほんとうは、しらばくれた顔をしたなりで、諸国大名らに打倒信長の御内書を送り、信長包囲作戦をやらせているほうが、安全であり、効果的でもあった。  したがって、つぎの年(元亀二年)の一月、信長が、江北の姉川河口から江南の朝妻の港にいたる間の琵琶湖の水路を封鎖させると、それをきっかけとして、講和がやぶれ、義昭の密令を受けた北陸地方の本願寺門徒、比叡山の僧徒、伊勢の長島一揆、浅井・朝倉軍などが、ふたたび立ちあがり、打倒信長の動きが、八方からおこる。  しかし、信長は、万難を排して、敵対するものを討ち平らげ、京都に復帰したかった。岐阜に追いかえされたまま、ひっこんでいる男ではない。  同年(元亀二年)の五月になると、前に降参して信長に臣従していたはずの大和|信貴山《しぎさん》城主松永久秀が、信長に反旗をひるがえした。久秀は、八方ふさがりとなった信長の前途を見かぎった。その強引な武略に不安を抱いたものとみえる。  同時に、伊勢の長島一揆が蜂起した。そこで信長は、五月十二日、尾張の津島に出馬し、三方から長島を攻めたて、一揆軍に潰滅的な打撃をあたえた。  八月にはいって、信長はまた、江北の小谷山を攻めたが、九月十二日、突如として比叡山に侵攻し、延暦寺の根本中堂をはじめ、山王二十一社、東塔の坊舎をことごとく焼き払い、老若の僧徒千数百人を殺戮した。前年度の僧兵の反抗に報い、その跋扈《ばつこ》を膺懲《ようちよう》したのである。  伝教大師このかた、殺生禁断・国家鎮護の霊場にたいして、このような暴挙に出たことは、前代未聞の不祥事といえた。しかし、かの白河法皇でさえも、——賀茂川の水と山法師と双六《すごろく》の賽《さい》の目は、意のままにならぬ——と、歎かれたが、信長は、その山門の荒法師どもの度胆《どぎも》も徹底的に抜いたのであった。  この風聞に接して五畿内諸寺院の坊主どもは、わがこととばかりに、ふるえあがった。と同時に、信長のことを、仏敵として憎悪するのであった。そして、後年、信長が本能寺で横死をとげたとき、比叡満山の僧侶は、——仏罰|覿面《てきめん》——と叫んで、洪笑したといわれる。  明けて、元亀三年(一五七二)、三十九の歳をむかえた信長は、岐阜城において、三男の三七郎のために、元服式を挙げ、信孝と名のらせた。分国内の諸将士・大名はみな、岐阜に祗候し、これを慶賀した。信長は、その宴席を利用し、江越並びに摂津石山本願寺討伐の軍議を開いている。  三月五日、信長は、五万の大兵を指揮して、江北の小谷山城を攻囲したが、長政が挑戦に応じないため、虎御前山に砦《とりで》を築き、長囲の陣を張った。  このとき、小谷山城攻めに加わったのは、佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・木下秀吉・蜂屋頼隆らの諸将であったが、明智光秀は、中川重政らとともに、江西方面の押えとなっていた。  七月にはいって信長は、初陣の嫡子信忠をしたがえ、虎御前山の本陣とならんだ雲雀山《ひばりやま》にも要塞を築くと同時に、木下秀吉に命じ、阿閉貞征《あべさだゆき》のたてこもる山本山城を攻めさせたが、ついで、草野谷に放火し、浅井方の尖兵を大吉寺に追いあげて、これを扼殺させている。  それを知った朝倉|景鏡《かげあきら》が五千、義景が一万五千、あわせて二万の大軍が越前から南下してきた。信長は、これと小谷山麓で対峙した。  兵力の上から見れば、なお、信長のほうが優勢である。それに織田軍は、これと似かよった布陣で、姉川の合戦に大勝した経験をもっている。士気の揚がらぬわけはない。  しかし、こんどの戦いが姉川の合戦とちがう点は、徳川家康の援兵が一騎も参加していないということである。そのころ、遠江の浜松城にいた家康は、事の重大性を察し、全軍を浜松付近に集結させていたのだ。事態は、信長の気づかぬうちに、悪化していたのである。  打倒信長の策謀の根源地は、やはり、京都二条城の足利将軍義昭であった。義昭は、信長の捲土重来に先だち、一大包囲作戦を画策していた。かれは、石山本願寺、浅井・朝倉軍との共同作戦に、甲斐の猛将武田信玄をひき入れることに成功したのである。  信玄は、将軍義昭から打倒信長の密書を受けとると、十月三日、甲府を出馬し、遠江に侵入した。北条氏政の援兵を加えて、二万七千の大軍である。浜松城を抜いて、家康を討ちとり、信長の本拠岐阜城を衝き、信長を打倒したうえで、上洛しようというのであった。  信玄の作戦は、その強引さにおいて、たしかに、かつての今川義元と似ていた。しかし、ちがっている点は、浅井・朝倉両氏や本願寺門徒と連絡のとれていることであった。これは、武田軍の士気をいやがうえにも高めたかわりに、織田軍のそれを消沈させる可能性をもっていた。信玄は、浅井長政と朝倉義景に、遠江侵攻の情報を伝え、かれらと、信長挟撃作戦を策したのである。  この情報を得た長政と義景は、信玄の対徳川作戦と呼応して、信長を江北に釘づけとし、家康との連絡を断ち切らせようと策し、信長の築いた姉川の大堤防の突破を試みた。そのころ、また、本願寺の指令をうけた伊勢の長島一揆が、先年の復讐を策し、西方から美濃に侵入し、岐阜を衝こうとした。  敵の共同包囲作戦が、このまま順調にすすめば、信長は、袋のなかの鼠も同然だ。家康とともに、滅亡するほかないのである。しかし、運命の神様は、一万五千の大兵を指揮する朝倉義景という大将を、よほど馬鹿に作ってくれていた。  岐阜城あやうしと知って、小谷山にたいする防備を厳重にした信長が、横山城をも放棄し、十二月二日、江北戦線を撤収すると、ほとんど同時に、義景は、何を考えたものか、あっさりと、越前にひきあげてしまったのである。  さすがの信玄も、茫然自失した。あれほどまでも義景と固く約束していたのにと、あきれかえって、おそらく、ものもいえなかったであろう。  信長は、九死に一生を得た。  こうなると、信玄も焼けくそになり、猛攻に猛攻を加え、十二月十九日、遠江の二俣《ふたまた》城を抜き、三方ケ原に出た。これにたいして、家康は、信長からの援軍をも加え、一万一千で、三方ケ原に撃って出て、大合戦を敢行したが、さんざんに敗れて、浜松城にのがれた。  信玄は、一気に浜松城を落としいれようとしたが、武田方の軍師|高坂信昌《こうさかのぶまさ》の意見を容れて、そのまま西進し、三河の刑部《おさかべ》に陣して、年を越した。  明けて、元亀四年(一五七三)の正月、信玄は、進んで三河の野田城を攻囲し、これを陥落させたが、宿痾《しゆくあ》の|癆※[#「病だれ<亥」、unicode75ce]《ろうがい》が昂じ、三河の鳳来寺で療養した。しかし、病状が思わしくないので、いったん甲府に帰ろうとしたが、その途中、信濃の駒場《こまんば》で死去した。それは四月十二日のことであったが、武田方では、三年のあいだ信玄の喪を秘したので、その死去がすぐには知られなかった。  ともかく、年があらたまっても、信長の状態が少しもよくならず、反信長戦線が活況を呈するばかりなので、京都では将軍義昭がいよいよ信長追討の兵をおこす、というような噂さえ、諸国にひろがっていた。そこで信長は、二月になると、義昭にたいして、十七ヵ条にわたる意見状を送り、義昭の意向をたしかめようとした。  その全文を紹介するのは、煩わしいので、省略するが、たとえば、将軍のくせに宮中に参内する恒例の儀式を怠っているとか、諸国の大名に単独に御内書を出され、馬など所望されているのは、みっともないとか、家来にたいする論功行賞に依怙ひいきが多いとか、足利将軍家伝来の宝物を売却されたことが評判になっているが、二条城からどこかへ移転されるために、そんなことをされるのかとか、寺社領から年貢米を掠め取っているのは怪《け》しからんとか、殿中の奉公人や女中衆にあたり散らしていられるのはどうしたことかとか、人からの預かり物を質に入れたとか、他国から将軍家に献上する金銀をかくしだてして、政治の費用に使わないのはどうしたことかとか、京都奉行の明智光秀が町びとから地子銭《じしせん》(宅地税)を徴収し、貢物のかわりに渡しておいたのを、山門領だと称して、僧徒に預けられたと聞くが、これを如何に処理されるかとか、二条城にある兵粮米を売って金銀に替えられたと聞くが、公方様が商売をされるとは、古今未曽有の珍事と思うとか、欲が深くて、ものの道理も世間体もかまわぬ悪将軍といった噂がたっているが、困ったことだとか。いやはや、信長も短気な半面に、なかなか、こまかい、うるさ型の男だった、ということが、これでよくわかる。じつに手きびしい詰問状のようでいて、また、ねちねちとした意見状でもあった。  この意見状に目を通した将軍義昭は、自分の至らなさを反省するかわりに、信長にたいして、いよいよ憎悪の執念を燃やし、武田信玄が三河の野田城を抜いたという情報を得たのを好機とし、三好の余党や伊賀・甲賀の土豪たちを配下に収め、近江の今堅田《いまかただ》・石山の砦《とりで》に拠って、兵を挙げたのである。 [#1段階大きい文字](二)将軍義昭の没落と光秀  将軍義昭の挙兵を知った信長は、ただちに、部将柴田勝家に命じて石山の砦を攻略させた。同年(元亀四年)の二月二十日のことである。そのころ、近江坂本の居城にいた明智光秀は、信長から緊急指令を受け、今堅田の砦を攻め、これを落としいれた。同月二十九日のことである。  なお、『信長公記』によると、このあたりの事情が、少しちがうようである。  信長は、京都奉行の朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを、将軍義昭のいる二条城につかわし、人質と誓書を差し出し、講和を結ぼうとした。しかし、義昭は、これを拒否し、光浄院|暹慶《せんけい》や磯貝新左衛門に命じ、伊賀・甲賀の者を招集し、今堅田に兵を入れ、石山に砦《とりで》をかまえさせた。そこで信長も、やむなく、柴田勝家・明智光秀・蜂屋頼隆・丹羽長秀の四人に命じ、二月二十四日に石山を攻めて、二十六日にこれを降し、二十九日に今堅田に攻めかけた。このとき光秀は、囲い舟をこしらえ、舟手の方を東から西へ向かって攻め、長秀と頼隆は、辰巳《たつみ》(東南)の角から戌亥《いぬい》(西北)へ向かって攻め、ついに、午の刻(十二時)に、光秀の攻め口から乗りやぶり、滋賀郡を過半平定し、光秀は坂本城に留まり、長秀・勝家・頼隆は帰陣した、という。  ここにおいて、はじめて光秀は、信長の一部将として、将軍義昭に敵対したのである。  しかし、同年(元亀四年)の二月十九日付で、朝倉方に宛てた義昭の書状を見ると、——明智(光秀)はまるで、正体《しようたい》なしだ。そのことを義景殿にも伝えてほしい。ただし、兵を五、六千ほどでいいから、早々、山本の在所までよこしてほしい——と、負け惜しみを言っているが、結局、敗れて、京都に逃げ帰っている。  どちらにしても、信長も、義昭も、ともにまだ、武田信玄の死を予測していなかったのである。  信長はこの際、将軍義昭を京都から追放するほかないと決心し、三月二十五日、手兵をひきいて、岐阜から上洛し、知恩院に陣し、まもなく二条城にせまろうとした。  かなわぬと悟った義昭は、朝廷に奏請し、和議勧告の綸旨を賜わった。そこで信長もやむなく、勅命にしたがい、義昭と和睦して、岐阜に帰った。四月七日のことである。  信長は、やがて信玄の病死を確認し、安堵の息をついたが、五月二十二日、近江の佐和山城主丹羽長秀に命じ、十数艘の軍船を急造させ、義昭の挙兵に備えた。それが出来あがったのが、七月初めであった。  将軍義昭は、やがて信玄死去の風聞を耳にしたが、まことと信じられなかった。風聞は信長方のデマ戦略にすぎなく、信玄が死ぬわけはない。ひとまず甲府にひきあげたにすぎない、と信じた。先の挟撃作戦は失敗したが、こんどこそ、なんとかなる。やるならば、信玄の健在なうちだ。早いに限る。  義昭は、信玄の入洛を夢み、その健闘を願った。その半面に、信長の存在にたいする憎悪にかられ、七月四日、義昭は、ふたたび、二条城で兵を挙げた。もちろん、武田・浅井・朝倉あてに、信長追討の指令をくだし、連絡の緊密を期した。それでも不安にかられた義昭は、かつて信長に征服された伊勢の大名北畠|具教《とものり》までをも味方に加えた。摂津の石山本願寺、越後の上杉輝虎にも、あらためて御内書を発した。利用できそうなものは、路傍にころがっている石でもよかった。  義昭は、近臣三淵藤英・伊勢伊勢守らに命じて、二条城の守備を厳重にさせ、自らは、宇治の支城|槇島《まきのしま》に籠城した。守将は、義昭の家老槇島昭光である。  義昭挙兵のしらせを受けた信長は、七月六日、かねて用意させておいた軍船に乗って、琵琶湖を渡って坂本に上陸し、その翌日、突如として上洛し、二条城をかこみ、十六日には槇島に陣し、義昭を攻めたてた。  あわてたのは、義昭だ。かれは、いつもの奥の手で禁裏御所に使者をやり、天皇から信長と和睦の綸旨を下賜されようとしたが、それを知った信長が、御所への道すじの町々を焼き払ったため、それが果たせない。  さすがの義昭も、こんどこそ完全に手をあげざるをえなかった。しかし、いのちは、やはり、惜しい。そこで、わずか二歳になったばかりのむすこを、人質として、信長に提出し、降服したのである。  義昭は、河内の普賢寺《ふげんじ》に護送され、そこで、頭髪を剃り、入道して、昌山道休《しようざんどうきゆう》と号し、謹慎の意を表した。  ここで、足利十五代将軍であった義昭は、完全に亡命し、信長の命令で、さらに河内の若江城に移された。若江は、信長の上洛と同時に降参した三好義継の居城である。義昭護送の任にあたったのは、木下秀吉であった。  ところで、この義昭と信長との最後の戦いで、義昭が惨敗し、信長に降服し、京都から追放されてゆく過程における、かつての義昭の近臣、細川藤孝と明智光秀の変身ぶりを観察してみると、元亀四年(天正元年)の二月、将軍義昭が、石山本願寺、浅井・朝倉・武田信玄らと謀って、信長を追討しようとして、まず、光浄院|暹慶《せんけい》に命じて、西近江で挙兵させ、暹慶が一向宗徒をあつめて、石山と今堅田の砦にたてこもらせたとき、『兼見卿記《かねみきようき》』によれば、明智光秀は、信長の指令により、坂本城から出陣して、二十九日に今堅田を攻めて、これを落としいれている。しかし義昭にたいして、直接、挑戦したわけではない。また、『信長公記』によると、二月二十四日、光秀は、柴田・丹羽・蜂屋の諸将とともに、石山を攻め、二十六日にこれを降服させている。これも光秀が、直接、義昭に敵対したわけでもない。 『兼見卿記』によれば、義昭と信長との最後の和議交渉が、このころ行なわれ、幕府の奉行人の島田秀満が、信長の意向を受けて二条城におもむき、義昭と話しあったが、不調となった。そのため、信長から義昭にさし出すつもりだった人質の女性が不用になったが、『細川家記』によれば、このとき信長の意向を受けて、義昭と交渉したのが、光秀であったという。  いよいよ、両者の間が、三月八日に決裂し、信長が岐阜から上洛して、二十九日、知恩院に陣どると、光秀も信長の命令で、坂本を出馬して、賀茂に陣した。これが、光秀が直接、義昭に敵対行動をおこしたはじめであろう。  細川藤孝が、将軍義昭から離れて、信長に属したのも、この頃のことと思われる。もっとも、義昭と藤孝のあいだが面白くなくなってきたのは、『細川家記』によれば、これより四年も前、永禄十二年(一五六九)の二月、信長が、将軍義昭のために、京都に二条城を築かせたときのことだという。この作事のとき、幕府の奉行人上野清信の足軽と荒川輝宗の足軽が喧嘩をしたが、細川藤孝の足軽が、荒川の足軽を援《たす》けたことがあった。そこで、上野が細川のことを、義昭に讒言したため、義昭が、細川藤孝をうとんずるようになったが、このときは、信長が義昭を諫めたため、藤孝も事なきを得た、というのである。しかし、義昭と藤孝とのあいだが離反したのは、そのような些細なことが原因ではなくて、やはり、藤孝が没落してゆく義昭を、発展してゆく信長に乗りかえたためであろう。  元亀四年(一五七三)の三月二十九日に信長が上洛したとき、『信長公記』によれば、当日、細川藤孝と荒木村重が、逢坂《おうさか》まで出迎えたので、信長は大いによろこび、藤孝に貞宗の脇差、村重には大郷《だいごう》の腰の物をあたえたという。信長は、四月四日、等持院に陣して、義昭を二条城にかこんだが、『元亀四年筆記』によれば、このとき、藤孝と光秀が、信長方の両大将となって、下賀茂から京の町々を焼きたてたという。 [#1段階大きい文字](三)信長の越前平定と光秀  さて、打倒信長戦略の中心人物として活動した足利将軍義昭を京都から追放し、いったん、岐阜に帰った信長は、いよいよ、江北の浅井長政討伐に本腰を入れようと決意した。元亀四年(一五七三)は、七月二十八日で、天正と改元された。元亀の年号が縁起がわるいので、改元したいという信長の希望が、朝廷への奏請によって叶えられたといわれる。しかも、この改元は、足利将軍の追放を動機におこなわれた観もある。縁起などかつぐことが、元来、嫌いであり、そんなことを迷信として軽蔑した信長が、あえて縁起をかついだということは、何を意味するか。つまり、さすがの信長も、将軍義昭の謀略には四苦八苦だったことを裏書きする。しかし、改元の結果として選ばれた天正という新しい年号も、結局、信長にとって、十年めの本能寺の変という最凶事をよびよせた、もっとも忌むべき年号だったのである。  しかし、ちょうど天正と改元されるころ、江北の山本山城主|阿閉貞征《あべさだゆき》が、横山城主木下秀吉の勧告により、信長に降参した。山本城は、信長方の手にはいった。  天正元年の八月八日、信長は意気揚々として、江北に出馬し、虎御前山に陣どった。嫡子信忠を同伴している。  急報に接した越前の朝倉義景は、またもや、二万の大兵をひきいて南下し、賤《しず》ケ岳《たけ》のふもとの木《き》の本《もと》あたりに野陣を張った。ところが、朝倉家譜代の家臣前波長俊や富田彦右衛門などが、織田軍に寝がえりを打ったのをきっかけとして、朝倉軍のあいだに流言|蜚語《ひご》がひろがったため、義景は、おじけがついたものか、八月十二日の夜、大風雨にまぎれて、越前にひきあげようとした。  その気配を察した信長は、自ら一騎駆けの戦法で、朝倉勢に追い討ちをかけ、敦賀街道の刀禰山《とねやま》のふもとで、逃げおくれた敵兵三千余人を斬った。そのなかに、前の美濃の守護大名斎藤竜興の首があったという。  義景は、総くずれとなった朝倉勢とともに、越前に逃げかえった。日ごろから、義景のことを軽蔑していた一族の朝倉景鏡・景健などが、みな、続々と信長に降服し、家臣も支離滅裂となって逃亡した。わずかな近臣にともなわれて一乗谷城にたどりついた義景は、ひとまず、大野郡の山田荘の洞雲寺に落ちのび、平泉寺の僧徒に書を送り、救援をもとめた。  しかし、『朝倉始末記』によれば、利にさとい僧徒は、多年の恩顧をふみにじって、信長に味方し、裏ぎり者の朝倉景鏡とともに、一乗谷におしよせ、城に火を放った。紅蓮《ぐれん》の炎はたちまち山谷をなめ、夜空を焦がし、黒烟が三日にわたって一乗谷を覆い、朝倉家五代栄華のあとも、灰燼《かいじん》に帰したのである。義景は、八月二十二日、一乗谷郊外の賢松寺《けんしようじ》で、四十一歳を一期として自害して果てたが、今わのきわまで、景鏡のことを極道人呼ばわりして、恨み骨髄に徹したかのようであったという。  義景の死後、かれの生母高徳院、最愛の妻小少将、四歳になる一子愛王丸の三人は、賢松寺で捕えられ、織田方の部将丹羽長秀の兵に警固されて、岐阜に送られていったが、信長の指令によって、その途中、越前南端の今庄の、ある辻堂の内に追いこめられ、生きながらに焼き殺されたとのことである。  信長は、朝倉方の降将前波長俊を越前の守護代と定め、いそいで虎御前山にもどり、小谷山城攻撃の指揮をとった。その迅速果敢な行動は、さながら、鬼神のごとくであったという。  小谷山城は、孤立無援となった。信長は、義弟の浅井長政に降服を勧告し、義兄である自分に忠節を尽くせば大和一国をあてがうと、言い伝えたが、長政は、先に誓約をやぶって朝倉を攻めた信長の言葉を信用せず、二十八日、寄せ手の軍勢にたいして最後の攻撃を試み、力戦苦闘の末、城内で割腹して果てた。ときに二十九歳。父の久政も、城と運命をともにしている。  しかし、信長は、長年の鬱憤が容易に晴れない。もし、義弟の浅井長政が、徳川家康のように、どこまでも自分の片腕となって協力してくれたなら、こんなにも犠牲を払わずに済んだのにと思うと、憎悪の念が、残り火のように胸中に燃えくすぶっていた。  八月二十九日、信長は、浅井父子の首を京都に送り、越前から届いた朝倉義景の首級と一緒にし、町中をひきまわした末、これを獄門にさらしている。そのうえ、九月十九日には、浅井久政の内室|小野《おの》殿をとらえ、十本の指を数日かかって切りおとし、これを惨殺している。さらに、十月十七日には、長政の長男万福丸を越前敦賀のかくれ場所から探し出し、木《き》の本《もと》で、串刺《くしざし》の惨刑に処した。後年の報復を恐れ、男子は根絶やす必要があったとはいえ、十歳の少年を串刺とは、天道を恐れぬ振舞いといえる。ことに、なんのかかわりもない長政の生母小野殿を総指切りの酷刑に処するとは、悪鬼の所行というほかあるまい。  信長の悪鬼の所行は、さらに続いた。それは、三年前の元亀元年(一五七〇)の五月十九日に信長が近江の日野から千草《ちぐさ》越えをして岐阜に帰ろうとしたところを、六角承禎に頼まれて、山中から信長をねらい撃ちにして、目的をはたせなかった鉄砲の名手、杉谷善住坊《すぎたにぜんじぼう》が、このころ鯰江《なまずえ》香竹をたのみ、近江の高島にかくれていたのを、磯野丹波守が捕えて、九月十日(天正元年)に岐阜に連れてくると、信長は、奉行人の菅屋九右衛門と祝弥三郎《ほうりやさぶろう》に吟味させた末、善住坊を生きながら土中に立て埋めにし、首を竹鋸《たけのこ》で挽かせて、日ごろの鬱憤を晴らしたという。このことを、『信長公記』の著者太田牛一は、「上下一同の満足これに過ぐべからず」と評しているが、どんなものか。それに、この善住坊に信長狙撃を依頼した六角承禎は、それから間もなく信長に降参し、いのちを助けられているのである。信長の酷刑は、よわい者いじめといわれても仕方があるまい。  さて、光秀は、信長の浅井・朝倉討滅戦には直接、部将として参加しなかったらしい。そして信長が朝倉氏をほろぼした直後、同年(天正元年)の八月二十五日に、信長が越前北荘(福井市)の橘屋《たちばなや》三郎五郎の軽物座《かるものざ》を安堵するという朱印状を出すと、九月五日になって、光秀は、滝川一益と連署し、北荘三ケ村の軽物商人中にあてて、軽物座長を橘屋三郎右衛門に命じたことを知らせている。  また、信長によって任ぜられた越前の守護代前波長俊が、同年の九月七日、光秀と滝川一益に書状を送り、大野郡宝慶寺の寺領を安堵するという信長の朱印状の下付を依頼している。  したがって、光秀は、このころ、滝川一益とともに、信長が占領した朝倉氏の旧領地の越前における政務を、信長の代官として、執行していたことがわかる。  当時、光秀は、越前北荘の旧朝倉|館《やかた》を代官所として、ここに駐在していたようである。 [#1段階大きい文字](四)信長の本願寺門徒討伐と光秀  天正二年(一五七四)正月、信長は四十一歳、光秀は四十七歳に達した。 『信長公記』によると、信長は、年賀のため岐阜城に参見した諸国の公家・大名や、信長の部将たちに酒を振舞ったが、その肴《さかな》に、浅井長政と朝倉義景の首級を黄金の箔濃《はくだみ》にしたのを出した。黄金の箔濃とは、漆塗《うるしぬり》にしたものに金粉を施したものをいう。  これを謹んで拝見した公家のなかには、色を失った者もいたというが、このような信長の残酷趣味に眉をひそめたものは、謹直なインテリ武将明智光秀一人と限らなかったことであろう。  ところで、信長のこのような残酷趣味に反撥するかのように、正月十九日に、越前で一向一揆の騒動が勃発した。そのきっかけとなったのは、朝倉氏滅亡のあと、信長によって越前の守護代に任ぜられ、一乗谷の朝倉旧館にいて越前の政治を執行していた前波長俊が、同じ朝倉方の降将で府中(武生市)城主の富田長秀のひきいる数万の一揆軍におそわれ、殺害された事件である。前波と富田は、信長の越前侵攻と同時に降参した朝倉家の重臣であるが、前波が守護代となったのに比べ、富田は余り取りたてられなかった。そのうえ、前波は、守護代になると、その権力を笠に着て、富田の所領を掠め取った。それを恨んだ富田長秀は、兵をあつめ、突如、一乗谷に押しよせると、新守護代の課する重税に苦しんでいた付近土民や武士らが、これに加わり、大挙して一乗谷に押しよせたのである。  富田らは、前波長俊を殺害してから、北荘の代官所をおそおうとした。そこで、代官の明智光秀らは、籠城を覚悟していたが、先に信長に降服した朝倉氏の一族の景健と景胤が調停役をつとめ、富田を説得して、光秀らを無事に近江にひきあげさせた。しかし、この一向一揆騒動をきっかけとして、越前の国が、他の北陸諸国と同様に、本願寺門徒の支配するところとなり、摂津の石山本願寺からは、坊官の下間《しもつま》筑後・和泉などの法橋《ほつきよう》が越前に下向して、国政を執りおこなうことになった。そのため、富田長秀ら朝倉の旧臣も一揆軍に討たれ、平泉寺にのがれた朝倉|景鏡《かげあきら》も、同年(天正二年)の四月、寺を焼かれたうえに、斬殺されている。景鏡が義景を裏切って自害させたのを、義景のむすめを内室にしている本願寺の新門主《しんもんす》教如上人が憎んだからであった。  しかし、信長は、この越前の門徒退治を翌年(天正三年)に延期し、一向一揆の根拠である摂津の石山本願寺門徒、および伊勢の長島一揆の討伐に乗り出したのであった。  信長は、三月に上洛し、従三位・参議に叙任されたが、ついで、天皇に奏請して、東大寺正倉院|御物《ごもつ》の拝観を許され、奈良に下向し、御物の名香、蘭奢待《らんじやたい》を一寸八分ほど切り取ったのを拝領したが、その前日、三月二十七日、多聞山城《たもんやまじよう》にはいった。  これは、前々年(元亀三年)に松永久秀から没収した同城に、守将として明智光秀を入れておいたので、その様子を監視する必要があったからであろう。ところが、この信長の行動が、石山本願寺の門徒衆に刺激をあたえたらしい。信長が、それから道を転じて本願寺を急襲するのではないかと、疑ったからである。  本願寺がわでは、あわてふためき、川口・大津・難波《なんば》・福島などの砦《とりで》を固めただけでなく、さらに先制攻撃に出て、四月二日に、織田方の属城、中島《なかのしま》・岸和田を奪取している。すると、三好康長や、畠山の家老|遊佐信教《ゆさのぶのり》もまた、河内の高屋城《たかやじよう》に拠り、本願寺と呼応して、信長に挑戦した。  この報告に接した信長は、奈良から入洛していたが、ただちに細川藤孝と筒井順慶に命じて高屋城を攻めさせ、また、荒木村重・高山重友に令し、大坂の中島を西方から攻撃させている。  信長は、元来、僧徒の武力行使を憎んでいた。坊主のくせに、弓・薙刀・鉄砲などを手にし、大名に敵対するとは何事か。けしからぬ振舞いだと、憎んでいた。山門の僧徒にたいしては、先年(元亀二年)、比叡山をまる焼きにして、溜飲をさげたが、本願寺の門徒はなかなか手に負えない。摂津の石山城に鎮座する顕如《けんによ》上人の命令一下、近畿一帯の末寺の僧徒・土民・武士などが、武器を取って、いっせいに立ちあがる仕組みになっている。かれらは、信長が苦戦している虚を衝いて、ゲリラ戦法で立ち向かってくるだけに、始末がわるい。かれらは、信長を仏敵と信じこまされている。仏敵と戦うためには、死をも恐れない。信長の軍勢と戦って死ねば極楽浄土へ旅立てる、といった信念をもっている。全く手がつけられない。信長は、これまで散々に苦杯をなめさせられただけに、かれら門徒を憎む気持が激しかった。  信長は、前に武田信玄が西上してくるといった騒ぎに乗じ、信長の喉《のど》もと岐阜にまで肉薄してきた伊勢の長島一揆を、まず徹底的に討伐しようと決意した。だから、七月にはいって、数万の大兵をひきい、伊勢に侵入した。  門徒衆は、松木・小木江に拠って抵抗したが、たちまちこれを撃破し、進んで、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の五|塁《るい》に迫った。そうして、九鬼嘉隆《くきよしたか》に命じ、伊勢湾の海賊船をもって、海上からも砲撃させた。  信長の長島討伐は、その分国の尾張・美濃にほど近いだけに、きわめて順調に進み、さすがの門徒衆も、数万の織田軍に包囲され、苦境に陥った。  八月にはいって、信長は、門徒衆の本拠長島を包囲した。門徒衆は、援けを甲斐の武田勝頼にもとめたが、勝頼は遠江に出陣し徳川家康と長期間対陣した疲労のため、これに応じられなかった。そこで門徒衆も、九月二十九日になって、ついに信長に降服し、長島城を明け渡して退去した。ところが信長は、伏兵を置いて、門徒の残党を徹底的に掃蕩した。その所行は、老若男女の差別なく、すこぶる残虐をきわめた。『信長公記』によれば、八月二日の夜、風雨にまぎれて大鳥居城から逃げ出した男女を千人ほど斬り捨てたし、九月二十九日には、中江・屋長島の両城に男女二万人ばかりを拘禁したのを、四方から放火して焼き殺したというが、悪鬼のしわざというほかあるまい。  こうして長年のあいだ、北伊勢に蟠踞《ばんきよ》して信長の軍事行動を牽制していた長島門徒も、ついに殲滅《せんめつ》されたのである。  その直前の七月、信長は、権大納言、右近衛大将に進められている。長島門徒殲滅の戦功を嘉賞されたわけでもあるまい。  明けて天正三年(一五七五)の二月、信長は、一向一揆の本拠である石山本願寺を討つため、細川藤孝に命じ、丹波の兵士を集め、戦備をととのえさせた。このころになると、藤孝も、信長の忠節な部将となっていた。  三月になると、本願寺門徒は、摂津の大和田に砦を築き、渡辺・神崎などの要地を占拠したので、荒木村重の先発隊が、これを攻めたが、たちまち敗北した。村重は激怒し、ただちに出陣して、門徒衆を十三渡にやぶり、ついで、大和田・天満の砦を抜き、尼尾・花隈《はなくま》の要所を固めた。  荒木村重は、初め摂津の池田城主池田勝政に属していたが、永禄十一年(一五六八)、同国の茨木城を奪って、ここを根拠とし、三好氏に頼った。しかし、天正元年(一五七三)の三月、足利将軍義昭を攻めるために信長が西上したとき、村重は、信長を近江の大津に迎え、降服の意を表し、宇治の槇島攻めにも参加し、手柄を立てた。それ以来、摂津の経営をまかせられ、同二年の三月、伊丹《いたみ》城に移り、主家の池田氏にかわって、勢威を張ったのである。  さて、信長は、同年(天正三年)の四月六日、河内の若江に進み、三好康長を高屋城に攻めたが、ついで摂津に入り、天王寺に陣営をかまえた。そこへ畿内の軍勢が続々と参着し、住吉・遠里・小野付近に陣取り、総勢十余万といわれたのである。  信長は、同月十七日、さらに兵を和泉の堺に進め、本願寺の余党である十河《そごう》因幡守と香西《かさい》越後守を新堀城に攻め、これらを討ち果たしている。また、このころ、高屋城の三好康長が力つきて降参したので、信長はこれを赦し、河内の国の城々を破却させた。  城割《しろわり》と関所の撤廃は、天下統一のために信長がおこなった重要政策の二つとして知られている。これは、群雄割拠の戦国時代を清算させるのが目的だった。  伊勢・河内・和泉の外輪部隊を失った石山本願寺は、孤立状態に陥った。それを見とどけた信長は、四月二十一日、兵を京都に納めている。  ところが、それから程なく、甲斐の武田勝頼が大兵をひきいて、三河の長篠城を攻囲した。長篠城は、徳川家康の支城で、三河侵入を防禦するための要衝であった。信長の本願寺攻略の虚を衝き、一挙に三河に入って家康を討ちとり、亡父信玄西上の遺志を貫徹しようというのが、勝頼の意図であるが、もちろん、そのころ備後の鞆《とも》(福山市)に亡命中の足利義昭と、それから、石山本願寺からの西上の要請に応えたものであった。  信長は、ただちに岐阜に帰って、戦備をととのえ、三河に進軍し、家康と力をあわせ、五月二十一日、長篠城外の設楽《しだら》ケ原《はら》で、武田軍と決戦を交じえ、鉄砲隊の三段構えの一斉射撃法を活用する新戦法を用い、敵の将兵をさんざんに射殺し、武田軍に壊滅的な打撃をあたえている。  信長は、ついで、越前の本願寺門徒の掃蕩に力を入れた。前にも述べたように、朝倉氏討伐直後に越前に置いた守護代前波長俊が一向一揆に殺害されてから、越前が本願寺の坊官や門徒衆によって支配されていたからである。  八月十四日、信長は、三万余の大兵をひきいて越前の敦賀に着陣し、翌日、先手が篠尾・杉浦の両城を抜き、部将の羽柴秀吉と明智光秀は府中城を攻め、本願寺の坊官|下間《しもつま》和泉・門徒|侍《さむらい》の若林長門など二千余人を討ち取った。  秀吉と光秀が同列で織田軍の先頭に立ったのは、これがはじめであろう。『信長公記』によれば、両将は、敦賀から船に乗って北陸海岸に着くと、秀吉は河野浦、光秀は杉津浦に上陸し、たがいに門徒衆の防衛線を突破し、八月十五日の夜、府中の竜門寺城を落としいれ、加賀・越前両国の一向一揆二千余騎を斬り捨てたという。  このときは、光秀も、秀吉とともに、時のはずみとはいえ、信長の大量|殺戮《さつりく》に協力したらしい。門徒衆は惨敗した。  十六日、信長は敦賀を発向し、木目峠《このめとうげ》を越えて府中に入り、さらに大量殺戮を続行させた。そのため、坊官の下間筑後法橋も、反対派である専修寺派称名寺門徒衆のために殺害されてしまった。『信長公記』によると、八月十五日から十九日にいたる五日間に、一万二千二百五十人の門徒衆を誅戮《ちゆうりく》した。生け捕りを合わせて、三、四万にも達したという。  八月十七日付で京都奉行村井長門守貞勝にあてた信長の朱印状を見ると、——府中は死骸ばかりで、すき間さえない。その様子を見せたい——などといい、また、——今日は、山々谷々を、くまなく探し、一人も残らず討ちはたすつもりだ——とも述べている。  ここで、明智光秀のことを「惟任《これとう》日向守」と書いているのは、同年(天正三年)の七月三日、光秀が、九州の名族、惟任の名字を与えられ、日向守に任官せられたからである。  八月二十三日、信長は、一乗谷に陣した。秀吉と光秀は、さらに加賀に乱入し、江沼・能美の二郡を手中に収めている。そこで、檜屋《ひのきや》と大聖寺に城を築かせ、別喜《べつき》右近と佐々権左衛門尉をここに置いた。  加賀の国も、久しく本願寺の領国であったが、ここで、この二郡が新たに信長の分国中に加えられたのである。  信長は、八月二十八日、越前の豊原に移り、戦功のあった部将に恩賞をあたえ、九月十四日に北荘にもどり、二十六日、岐阜に凱旋《がいせん》している。  信長は、北荘滞在中に越前一ヵ国の知行割りを定め、越前八郡を部将柴田勝家に、大野郡の内、三分の二を金森長近に、三分の一を原彦次郎に、他の二郡を不破彦三・佐々成政・前田利家の三人に分与した。柴田勝家には、とくに、九月日付で、全文九ヵ条にわたる執政上の掟書《おきてがき》をあたえたが、その最後の条に、——今さら、いうまでもないことだが、何ごとにつけても、信長の指図しだいと覚悟せよ。そうかといって、無理非法のたくらみを心に持ちながら、うわべだけで、巧言を弄してはならぬ。しかし、それも、何か計画あってのことならば、道理正しく弁解せよ。事によっては、聞き届け、その意見に従ってもよい。ともかく、この信長を崇敬して、陰でも疎《おろそ》かに思ってはならぬ。信長のいるほうへは足も向けないほどの心がけでありたい。そのような心がけでいれば、侍の冥加《みようが》に叶い、武運の長久は間違いなかろう。よくよく分別せよ——とある。  これで推察すると、光秀も仕えた信長という人物は、かなり神経のこまかな男であったことがわかる。たんに、豪放闊達な男性とはいえない。こういう主君の目がねに叶うのは、大変なことだったに相違ない。さすがの鬼柴田といえども、手も足も出なかったであろう。  このとき越前八郡を賞賜され、北荘の城主として納まった柴田勝家は、信長に教訓されたとおりに、主君信長のいる方向へは足も向けなかったことだろう。勝家の忠誠の志は、信長の死後も、かれの行動によって実証された。ほんとうに織田家のために戦って、いのちを惜しまなかったのは、信長の家臣中、勝家一人であったといえる。光秀は、信長の生存中、叛逆してこれを倒したし、秀吉は、信長の死後、その遺志を無視して、織田家の天下を奪ったし、滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政・池田恒興らは、みな、秀吉に降った。織田家の天下をねらう秀吉と戦って敗死したのは、柴田勝家だけである。  さて、このようなわけで、信長は越前・加賀の門徒衆を徹底的に討伐し、また、河内の三好康長も信長に降参したし、伊勢の長島一揆も殲滅されたため、さすがの石山本願寺も閉口し、三好康長と松井友閑に依頼し、信長に誓書を提出し、和睦をもとめてきた。そこで信長も、その願いを容れて誓書を渡し、両者の間に講和が成立した。同年(天正三年)の十月二十一日のことだ。 [#1段階大きい文字](五)信長の本願寺攻略と光秀  信長は、天正三年(一五七五)の五月に三河の設楽《しだら》ケ原《はら》で武田勝頼をやぶると、その翌月から、丹波の経略に着眼した。そうして、代理の部将として明智光秀を派遣することになった。  光秀は、同年十一月、丹波に入り、氷上郡《ひがみごおり》の黒井城を攻めた。このころ丹波の国衆は、過半、光秀に属したので、多紀郡の八上《やがみ》城主の波多野秀治も、光秀に味方して、黒井城攻めに参加していた。ところが、翌年(天正四年)の正月になって、光秀に叛いた。そのため、光秀は敗北し、一時、近江坂本の居城に帰った。が、まもなく、また丹波に出陣している。  丹波の守護は、丹後と同じく、元来、一色氏であったが、このころ、一色義有は、守護代の内藤氏に権勢を奪われ、丹後の某地に閉居されていた。しかし、その守護代の内藤氏も、豪族の波多野氏に権勢を奪われ、わずかに丹波の亀山城を保っていた。これに比べて、波多野氏は、同国の八上城を根城として、その一族が多く栄えていた。そして、その波多野氏のほかには、赤井氏(萩野氏)がいたが、波多野一族とは仲よくしていた。したがって、この波多野氏の謀叛は、光秀にとって、はなはだ痛手であった。  天正四年(一五七六)の二月になると、江南の安土の築城も終わり、信長は、ここに移ったが、四月に入って、荒木村重・原田直政・細川藤孝・明智光秀に命じて、石山本願寺にたいして、先制攻撃をかけさせた。これは、先に結ばれた講和締結の誓約を無視しての信長の奇襲戦法であったが、亡命将軍足利義昭によって企てられた本願寺・武田・上杉の打倒信長の共同作戦に加わった安芸の毛利輝元が、大坂湾から本能寺に糧食を搬入しようとしたからであった。  信長の指令によって、荒木村重は摂津の尼崎《あまがさき》から海を渡って大坂の北方の野田に進み、砦《とりで》を三ヵ所に設け、川手の通路を断った。明智光秀と細川藤孝は、大坂の東南方の森口と森河内に築塁し、原田直政は、同じく南方の天王寺に要害を築いて、陸路を扼した。  これにたいして、本願寺は、大坂の西南方の楼岸《ろうぎし》・木津《きつ》の両|砦《さい》を固守し、難波口から海上への通路を開いていた。そこで、織田軍では、まず、木津口占領の作戦を立て、大将格の原田直政が三津寺を攻め、光秀と佐久間|信栄《のぶひで》(信盛の子)は、直政にかわって、天王寺に移った。  五月三日の早暁、原田直政は、三好康長と根来《ねごろ》・和泉衆を先頭に立てて、三津寺に迫ったが、これを察した楼岸の門徒が一万余の大兵を繰り出して、原田勢を包囲し、数千梃の鉄砲で猛攻を加えたため、直政以下多数の死傷者を出した。勝ち誇った門徒衆は、進んで天王寺の砦を包囲したので、危機に瀕した。  五月五日、急報に接した信長は、ただちに手兵をひきいて京都を発向し、六日、河内の若江で陣容を整え、七日、住吉口から天王寺に迫った。門徒衆一万五千余にたいして、信長の軍勢はわずか三千だった。それでも、八日に、悪戦苦闘の末、ようやく天王寺の味方と合体することができた。  信長は、天王寺の砦を根拠とし、兵を二段に分けて、猛攻に転じた。そのため門徒衆もしだいにたじろぎ、退却しはじめた。織田軍は、これを本願寺の木戸口に追いつめ、門徒衆二千七百余を討ちとっている。これに恐れた門徒衆は、寺内に籠城した。  信長は、兵を天王寺に納め、ついで、大坂の四方十ヵ所に砦を築かせた。そうして、天王寺砦の定番を佐久間信盛・信栄父子と松永久秀に命じ、住吉砦には真鍋|七三兵衛《なさびようえ》と沼野伝内を置き、海陸の警備にあたらせた。これが、本願寺を兵粮ぜめにするための持久作戦であった。これにたいして、本願寺がわでは、森口・飯満《いいま》・鴫野《しぎの》など五十一ヵ所に端城《はしじろ》をかまえ、長期籠城の態勢を整えた。  信長は、六月六日、京都に戻った。『兼見卿記』によると、光秀は、この戦いで辛労したせいか、陣中で病気となり、同月二十三日、上洛して、名医|曲直瀬道三《まなせどうさん》の治療を受けている。そこで、二十四日、光秀の内室|妻木《つまぎ》氏が、吉田兼見の宅を訪問し、光秀の病気平癒の祈祷を依頼したが、二十六日には、信長もまた、病気見舞いの使者を光秀のもとにつかわしている。  ところが、七月十二日になると、毛利氏に属する水軍の将、児玉|就英《なりひで》・村上元吉・乃美《のみ》宗勝らが、兵粮船六百余艘、警固船三百余艘をひきい、淡路の岩屋を出発して和泉の貝塚に着岸し、ここに雑賀《さいが》勢と結合し、十三日、木津河口に入った。河口には、信長方の水軍の将、淡輪主馬兵衛尉《たんなしゆめびようえのじよう》・沼間伊賀守などが、安宅《あたか》船の大型十艘を住吉口から繰り出し、井楼《せいろう》を構え、警固船三百余艘を副《そ》えて待機していたが、毛利軍は、雑賀勢と評議した末に、十三日から翌朝にかけて、織田軍を襲撃し、火矢を投じたため、信長方は、さんざんに討ち破られ、二千余人が討ち死をとげている。この大勝利で、毛利方は、完全に糧食を本願寺内に搬入することができたのである。  瀬戸内海には、古くから海賊が跋扈していた。なかでも、能島《のじま》・来島《くるしま》・因島《いんのしま》を根拠とした村上氏と、能美島《のみしま》を根拠とする乃美氏の勢力が圧倒的だった。このうちで、能島の村上元吉、因島の村上吉充、野島の村上吉継、能美島の乃美宗勝らが、毛利氏の支配下に入り、この一戦に参加したから、信長方の伊勢や熊野の水軍が対抗できないのも、当然といえた。  この敗報を受けたとき、信長は、近江の安土に帰り、天守閣工事の監督にあたっていた。そうして七重の天守閣が完成したのは、天正七年九月ごろであった。前後三年たらずで、古今未曽有の大城郭が、天下経営の拠点として、その威容を琵琶湖西南岸の小丘の上に誇ることになった。  ところで、この大坂城の母体ともいうべき近世的な大城郭が、落成の三年後に、明智光秀の叛乱を契機として灰燼に帰するとは、城主の信長はもちろん、叛乱の張本人の光秀でさえも、予想さえしなかったであろう。  さて、信長は、安土城にあって、七月十三日(天正四年)の大坂湾敗戦の報告に接し、出勢のことを考えたが、事がすでに終わったあとだったから、保田久六などを改めて住吉砦の定番に任命し、海上の警備をさらに厳重にさせた。  ともかく、摂津の石山本願寺が、天正四年の六月から同八年四月の開城にいたるまで、四年ものあいだ、強豪織田信長の大攻囲作戦に対抗して、頑張りつづけることのできたのは、一つに、安芸の毛利氏一族の糧食輸送の賜物であった。そして、もう一つは、愛山護法の信念に燃え、多数の鉄砲を用意して石山本願寺に馳せ集まった雑賀《さいが》一揆の徹底的抗戦がものをいったのである。  しかし、雑賀衆のなかでも太田源三大夫のような頭目《とうもく》の一人が信長に内通したし、根来寺の杉坊なども信長に気脈を通じていたので、信長は、石山本願寺を包囲しながらも、そのいっぽうに、根来・雑賀衆の根拠地の覆滅をもはかったのであった。  年あらたまって、天正五年(一五七七)の二月十三日、信長は、紀州討伐のため、京都を出馬し、十六日、和泉の香荘《こうのしよう》に攻め入った。貝塚にたてこもっていた門徒衆は、それを知ると、その夜、船に乗って退却している。  二月二十二日、信長は、佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重らとともに、山道を進み、雑賀に攻め入った。  門徒衆は、小雑賀川に柵《さく》をめぐらし、防戦につとめた。  織田軍の別隊、滝川一益・明智光秀らは、淡輪口から海上を進み、中野城を包囲した。中野城は二十八日に陥落し、在番の門徒が降伏したので、信長はこれを赦し、織田信忠に命じて、ここを守備させた。  三月一日、明智光秀は、滝川一益とともに、雑賀衆の頭目《とうもく》鈴木孫一などを攻めたてた。二日には、信長が若宮八幡社に陣を取り、堀秀政と不破光治に命じて、根来口に進攻させた。そこで、さすがの雑賀衆も力尽き、鈴木孫一をはじめとし、栗村三郎大夫・島本左衛門大夫・土橋若大夫などが、みな、信長に降服を乞うたのである。信長が、かれらを赦し、今後の忠誠を誓わせたのは、信長の寛容さからではなく、雑賀衆の軍事力を高く評価していたからである。  そのころ、天王寺砦在番中の松永久秀は、ひそかに遠く越後の上杉謙信と結び、その上洛を促していた。謙信は、備後の亡命将軍足利義昭からも御内書を頂き、西上を夢み、越中と能登を攻略し、加賀に進出した。  そこで、信長は、部将柴田勝家と羽柴秀吉に命じ、加賀の湊川《みなとがわ》で、謙信の西上を防がせたが、秀吉は、勝家と争い、信長に無断で、加賀から撤兵した。  信長は、軍規に違犯した秀吉を譴責《けんせき》したが、結局、その罪を赦し、これを天王寺の守将に配置がえさせている。  謙信の上洛を期待した松永久秀は、無断で天王寺の砦を脱出し、その子久通とともに、大和の信貴山《しぎさん》の居城にたてこもり、信長に叛旗をひるがえした。同年(天正五年)七月十七日のことである。久秀は、かつて信長に降服してから、大和一国をあたえられたが、その後の信長の強引な行動と、世評のよろしからぬのを見て、これに心服できず、打倒信長のチャンスをねらっていた。しかし、そのチャンスがなかなかやって来なかった。それが、このころになって、謙信上洛の実現を信じたのが、破滅のもとだった。十月十日、松永父子は、織田信忠・細川藤孝・同|忠興《ただおき》・明智光秀・筒井順慶のひきいる大兵に信貴山を包囲され、力尽きて、城内に火を放ち、久秀は、愛用の名物|平《ひら》蜘蛛《ぐも》の茶釜とともに、爆死している。  同月(十月)下旬、信長は、羽柴秀吉を播磨攻略の大将と定めた。一説に、西国管領に補せられたともいう。秀吉は、軍規を犯し、信長に譴責されたにもかかわらず、西国経略の大任を負わせられたため、大いに感激したというが、実際には、斬り取り次第の、不渡り手形だった。その十一月、信長は、正二位・右大臣に叙任せられている。 [#1段階大きい文字](六)光秀の丹波経略  信長の部将としての光秀の武功は、信長の将軍義昭追討、越前平定、本願寺門徒討伐、本願寺攻略などにも見られるが、これらは、概して、信長自身の軍事行動に随伴しての功績にほかならない。つまり、信長の行動に、部将として、一役買わされたにすぎないのだ。それならば、光秀が、信長の命令に従いながらも、単独行動によって武功をあらわしたのは、いつで、どこの戦いであったか、というと、秀吉の播州経略の場合と同様に、天正三年(一五七五)から同七年にいたる丹波経略であったのである。  信長が、京都の西北方につづく丹波の国の経略に着眼し、代理の部将として明智光秀を派遣することにきめたのは、前にも述べたように、天正三年の六月のことである。このことは『信長公記』にも明記しているが、なお、その史実を立証するものに、つぎの光秀書状がある。 [#ここから1字下げ] 今度召し出ださるゝに依って、御朱印を遣わされ候。御当知行分、異議すべからず候。いよいよ御忠節次第、新地等の儀、申し調うべく候。これらの趣、相|意得《こころえ》、申し入るべきの旨《むね》に候。恐々謹言。 [#地付き]明智        [#地付き]光秀(花押)     六月十九日  小畠左馬進殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、同年(天正三年)の六月十九日、丹波の何鹿郡《かじかのごおり》出身の土豪小畠左馬進にあてて、——こんど信長公に召し出されることになったので、御朱印を遣わされ、従来の知行分は、以前通りときまった。今後、忠節の次第によっては、新地も加えることにするから、そのことを心得おくがよい——と、申し伝えたものである。別に、六月十七日付で同族の小畠左馬助にあてた信長の朱印状もあるが、掲載は、省略しておく。  このようなわけで、光秀が、同年(天正三年)の十一月に丹波入りをする前から、この小畠一族のように、信長に臣従を申し出るものも多かった。つぎの光秀書状も、小畠左馬進ほか二名の丹波の土豪にあてて、用材の運搬を依頼したものである。 [#ここから1字下げ] わざと申し候。仍《よ》って、河原尻につき、御柱五本、冠木一本、其の外、|※[#「木+垂」、unicode68f0]木《たるき》以下、小道具共に、六拾本ばかりこれ在る儀に候。然らば、無心ながら、各《おのおの》のため、かの材木、かの河原尻、保津川端まで、相届けられ給うべく候。まことに、溢天といい、御帰陣といい、かれこれ以て、もだしがたき儀に候といえども、別して頼み入り候。かたがた、ふと、其の地に至り、まかり越すべく候条、面《めん》を以て申すべく候。恐々謹言。 [#地付き]日向守     [#地付き]光秀     七月四日  西蔵坊   小畠左馬進殿   中沢又五郎殿        御宿所 [#ここで字下げ終わり]  光秀が日向守に任ぜられたのが、天正三年の七月三日。この書状は、七月四日付だから、天正三年以後同七年以前のものと推定できるが、あるいは、天正三年のものかとも考えられる。  かくて、光秀は、同年(天正三年)の十一月、丹波に侵入し、氷上郡の土豪赤井直正を黒井城に攻めたときに協力してくれた多紀郡の土豪、八上《やがみ》城主の波多野秀治が、翌天正四年の正月になって、謀叛をおこしたため、光秀は、一時、近江の居城坂本に敗退したのである。  つぎの光秀の書状は、その年(天正四年)の三月十三日付で、城州西ケ岡の土豪皮島越前守|一宣《かずのり》に送ったものである。 [#ここから1字下げ]  なお以て、かくの如く申し候といえども、調略相下るにおいては、明日にも相働くべく候間、御油断あるべからず候。以上。 来たる廿七日御出勢たるべく候。其の意を得られ、其のもと人数など越し、随分御馳走あるべく候。右の日限、相違あるべからず候。此のたびの儀候条、別して御精を入れらるべきこと、簡用に候。恐々謹言。 [#地付き]日向守       [#地付き]光秀(花押)     三月十三日  越前守殿 御宿所 [#ここで字下げ終わり]  宛名の皮島越前守一宣は、くわしくいえば、山城の国西ケ岡三十六人衆の一人だが、明智光秀の家臣と縁戚関係があった。一宣の妻は、明智家臣溝尾勝兵衛の伯母にあたる。 『革島家伝覚書』によると、一宣は、新五郎と称し、祖父の泰宣以来、西ケ岡の革島の地頭であったが、永禄八年(一五六五)に三好党が謀叛をおこして、足利将軍義輝を殺害したとき、三好方に味方した鶏冠井《とりかぶらい》という者のために、革島の地を押領され、一宣は、一時、丹後に蟄居《ちつきよ》していた。しかし、元亀元年(一五七〇)に鶏冠井を夜討ちにし、革島に帰り、信長のために、本知を安堵され、同年、信長が越前の朝倉義景を討ったときに、戦功を立て、信長から感状さえあたえられている。だから、光秀の丹波経略にも協力したものとみえる。  その後、光秀は、すでに述べたように、信長の石山本願寺討伐戦や、紀州雑賀攻め、松永久秀攻めなどに参加し、席の温まるひまもなかったが、天正五年(一五七七)の十月十六日から、細川藤孝の長子|忠興《ただおき》とともに、丹波の亀山城を攻めている。『細川家記』によれば、そのころ、亀山城主の内藤定政が病死し、その子がまだ幼かった。それで、細川藤孝が書状を送って、内藤氏の家老安村次郎右衛門らに降服を勧めたが、安村らが信長を信用せず、これに応じないので、光秀と忠興が、三日三晩ぶっ通しで、亀山城を攻めぬいた。そのため、内藤一族は、ついに光秀に降参した。これを聞いた信長も、内藤氏と亀山城の処分を光秀に一任したので、光秀は、かれらの罪を赦し、これを光秀の旗本に加えることにした。そのため、並河《なみかわ》掃部《かもん》・四王天《しおうてん》但馬守・荻野彦兵衛・中沢豊後・波々《ほう》伯部権頭《かべごんのかみ》・尾石《おいし》与三・酒井孫左衛門・加治石見守などという丹波衆が続々と、光秀に臣従したのであった。そして、これらの大部分は、五年後の光秀の叛逆にも加担し、山崎の戦いに参加し、討ち死にをとげた者も多いから、光秀と家来との臣従関係がいかに緊密であったかが推察され、光秀の人となりの誠実さも偲ばれるのである。  また、『兼見卿記』によると、光秀は、十月二十九日には、多紀郡の籾井《もみい》城を攻めているが、『細川家記』によれば、そのころ、同郡の笹山《ささやま》城をも攻めたらしい。  因《ちな》みに、十月二十三日、光秀の競争相手とも考えられる羽柴秀吉が、信長の命令で、播州経略のために、京都を出馬している。  光秀は、翌天正六年(一五七八)の三月になって、居城坂本を発向して、またもや、丹波に攻め入った。攻撃の目標が丹波随一の豪族波多野秀治の居城|八上《やがみ》であったため、信長も自ら出馬したいと云いだしたが、これは中止となり、そのかわりに、滝川一益・丹羽長秀・細川藤孝の三将が、光秀を援けることにきまった。  しかし、八上城は、天然の要塞だし、防備もきわめて堅固だったから、光秀は、三将と相談した結果、部下の明智治右衛門らに命じて、竹束の仕寄《しより》をつけ、塀《へい》を二重にまわし、通路を遮断し、ひとまず帰陣することにした。が、光秀は、四月初旬には、信長の命令で、織田信忠に従い、滝川・丹羽らとともに、石山本願寺討伐に出かけ、四月十日になって、また、滝川・丹羽らを伴い、丹波に攻め入り、こんどは船井郡の園部城を囲み、水の手を断ったため、城主の荒木山城守は、城を明け渡して、降服した。  しかし、光秀は、四月の下旬には、滝川や丹羽とともに、播磨の佐用郡に出陣し、秀吉の上月《こうづき》城|後巻《あとま》きを援助することになったが、ついで織田信忠に従って、印南郡《いなみごおり》の神吉《かんき》城を包囲した。  上月城は七月六日に陥落し、神吉城も同月二十日に開城し、信忠は、八月十七日に岐阜に帰陣している。  これを見ると、光秀のおもな担当は丹波経略にあったが、これが順調に進まず、時間をかけねばならないので、信長は、その余暇に、本願寺・雑賀攻め、はては播州攻めなどに参加させ、佐久間や信忠や秀吉の担当部門まで援助させたのである。信長の人使いの荒さがうかがわれ、このような大将に追いまわされる部将や士卒が、いかに大変なものであったかが、偲ばれる。猛烈なワンマン企業家に追い使われる管理職社員の辛さが、どれほどだったか、察せられる。したがって、そこには、そのワンマン企業家に、ついていけるものと、いけないものとの、格差が出てくる。当然のことであろう。  この天正六年(一五七八)の正月元旦、信長の居城安土では、例年どおり、年賀の式が挙行され、多くの家臣や部将が参列した。その参賀者の顔ぶれを、『信長公記』によってうかがうと、信長の嫡男信忠をはじめとし、家老の武井|夕庵《せきあん》と林通勝、部将の滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・金森長近、といった序列であった。といっても、光秀が、部将中の三番めという意味にはならないらしい。しかし、このころになると、織田家臣としての光秀の地位が、ようやく安定してきたようである。  客員家臣として信長に仕えてから約十年、足利将軍義昭の近臣を辞任してから七年、丹波経略を信長から委託されてから二年余を経た。  ところで、同年(天正六年)八月、信長の命令で、光秀のむすめたま[#「たま」に傍点]が、細川藤孝の長男忠興に嫁ぐことになり、その婚礼の式が、藤孝の居城の城州|乙訓《おとくに》郡勝竜寺城で挙げられた。夫妻は、同年の十六歳だった。このたま[#「たま」に傍点]は、光秀と、その正妻妻木氏とのあいだに生まれた四女で、後のクリスチャンネームのガラシヤである。  光秀の長女は、はじめ荒木村重の長子新五郎村安に嫁した。かの女の名前や年齢も明らかでないが、たま[#「たま」に傍点]の姉であることは疑いない。なお、光秀は同年九月、また丹波に入り、小山・高山・馬堀の諸城を攻めている。  ところが、同年(天正六年)の十月になると、播州|伊丹《いたみ》(有岡)城主の荒木村重が、突然、信長に叛き、伊丹にこもった。信長は、村重の人物と力量を高く買っていたので、しばしば使者を遣わして、これを慰撫し、十一月三日には、光秀も、秀吉とともに伊丹に赴き、いろいろと説諭したが、村重は、これに応じないばかりか、秀吉の使者小寺孝高を城中に拘留さえした。 『陰徳太平記』によると、村重は、はじめ、かれが本願寺と内通したと疑われたことについて、信長に弁明するために、長子新五郎を連れて、安土におもむこうとして、城州の山崎まで行ったところが、村重の家臣荒木元清・同重堅・中川清秀・池田久左衛門・藤井加賀守・高山重友らが、信長への弁解が無駄なことを主張し、——信長は、いかに大功があっても、いちど逆鱗《げきりん》に触れた者は、機を見て、必ずそれを攻め滅ぼすか、虐殺する人である。この際、思いきって、毛利氏に頼るが賢明である——と、諫めた。そこで、村重は、その諫言を容れ、そのまま伊丹にひき返したという。  なお、『陰徳太平記』には、荒木村重の謀叛と光秀の言動について、つぎのような説明を施してさえいる。光秀は、こう考えていた。村重が近国にいて、信長に忠誠をつくしたならば、信長を殺すときに、大へん邪魔になる。だから、この機会に村重を滅ぼしておくのがいい。そこで、村重に伊丹籠城を勧めた、というのだ。しかし、この説はじつに矛盾している。光秀が信長に叛逆した場合、光秀と姻戚関係のある村重が近国にいるほうが、味方をもとめる場合、光秀にとって、かえって、はなはだ都合がいいのだ。都合がわるいという理由は、どうも成り立たぬ。それに、光秀が天正六年ごろから打倒信長の計画を立てていたとは、考えられないし、そんな証拠もあげられぬ。光秀が信長に叛逆することを思い立ったのは、少なくとも、天正九年六月以後であることが、丹波御霊神社所蔵の『明智光秀軍法』の奥書によって立証されるからだ。しかし、筆者は、それを、天正九年六月以後どころか、天正十年五月二十七日前後と推定している。その詳細については、後章に譲りたい。  ただ、光秀が荒木村重の説得につとめたとき、村重は、信長にたいする光秀の立場が困難になるだろうことを心配し、長子新五郎村安の妻を離婚して、光秀のもとに送りかえしている。この光秀の長女は、後に明智秀満(左馬助光春)と再婚している。  信長は、十一月九日(天正六年)、荒木村重討伐のため、山崎に陣取り、十四日、伊丹城を攻めたが、その前後に村重の配下にあった摂津高槻城主の高山重友と、茨木城主の中川清秀を誘降している。十二月三日、村重の属城大矢田が降服した。そこで、信長は、同月八日、堀秀政らに命じて、伊丹城を攻めさせたが、摂津の見通しが、これで、おおかた、ついたので、十一日、光秀を丹波へ、秀吉を播磨に戻し、二十五日、安土に帰っている。  そんなわけで、天正七年(一五七九)の二月ごろから、光秀はまた、丹波の諸城を攻めたが、五月には氷上郡の氷上山城を猛攻した。氷上山城主の波多野宗長・同宗貞は、城外の八幡山に出て挑戦したが、光秀は、これを破っている。  つぎに紹介する光秀の書状は、五月六日(天正七年)付で、小畠助大夫ほか二名に宛てたもので、最近、偶然に発見された新史料である。光秀の書状として、もっとも長文で、内容も、それだけに、豊かである。 [#ここから1字下げ]  些少《さしよう》ながら、初瓜一遣わし候。賞翫もっともに候。已上。 城中調略の子細候間、何時に寄らず、本丸焼け崩るゝ儀、これあるべく候。さ候とて、請取口、備えを破り、城へ取りつき候事、一切《いつさい》停止《ちようじ》たるべく候。人々請取の分、相支《あいささ》え、手前へ落ち来たり候者ばかり、首これを捕るべく候。自余《じよ》の手前へ落ち候者、脇より差合い、討ち捕り候こと、あるまじく候。たとい、城中焼け崩れ候とも、三日の中ニハ請取分の陣取を蹈《ふ》むべく候。其の内ニ敵落口見合わせ、指出で、討ち殺すべく候。さ候わずば、人数かた付け候。味方中の透間《すきま》を見合わせ、波多野兄弟、足の軽き者ども五十、三十にて、切抜き候儀、これあるべく候。段々、かの口《くち》相|蹈《ふ》むべきと申す事に候。もしまた、こぼれ出し候ニおいてハ、最前書付を遣わし候人数の手わり相励ますべき覚悟あるべく候。なおもって、城|落居《らつきよ》候とて、かの山へ上り、さしてなき乱妨《らんぼう》ニ下々相懸り候者、敵討ち洩らすべく候間、かね/″\乱妨|曲事《くせごと》たるべきの由、堅く申し触れらるべく候。もし、違背の輩《ともがら》においては、仁《じん》不肖《ふしよう》に寄らず、討ち捨てさすべく候。敵するにおいてハ、生物の類《たぐい》、ことごとく首を刎《は》ぬべく候。首によって、褒美《ほうび》の儀、申し付くべく候。右の趣、毎日、油断なく|下/\《したした》に申し聞かさるべく候。其の期に至っては、相揃わざるものニ候。其の意を得らるべく候。恐々謹言。 [#地付き]光秀(花押)     五月六日  彦介殿  田中宮内殿  小畠助大夫殿 [#ここで字下げ終わり]  宛書きの三名は丹波の土豪で、光秀に属している人々。文中に「波多野兄弟」とあるのは、丹波氷上山城主の波多野宗長と同宗貞。「彼山《かのやま》」とは、八幡山のことである。  氷上山城は、五月十九日に陥落し、波多野兄弟は自害して果てている。小瀬甫庵の『太閤記』には、これを秀吉の弟羽柴秀長の戦功にしてしまっているが、誤記と思われる。そのころ、秀長は、但馬の竹田城にいたはずである。  光秀は、さらに進んで、日下部《くさかべ》尚則の沓掛《くつかけ》城、細野尚国の細野城、野々口西蔵院の本目《ほんめ》城などを落とし、また、八上城を攻め、完全にその糧道を断った。  五月二十一日、光秀は、福住城を攻めた。城主の籾井教業《もみいのりなり》・教視《のりみ》父子は、城を焼いて、自刃している。  光秀は、本営を本目城に置いたが、八上城が容易に陥落しないので、ひどくあせり、謀略を用いることにした。つまり、信長公の目的は、波多野一族を滅ぼすことではなく、天下を統一するにある。だから、帰順の意さえ表せば、八上城兵のいのちは助け、所領も安堵する、と申し伝えた。そうして、光秀の母を人質として八上城に送った。しかし、これは、母がわりの伯母だ、という説もある。  そのころ、八上城の糧食は全く尽きはて、馬を殺し、紙を見つけて食べるほどの状態に陥っていたから、波多野秀治・秀尚兄弟は、光秀のことばを信用し、六月二日、八十余人の家来に護衛されて、本目城にやってきて、光秀に降服を申し出た。  光秀は、波多野兄弟の饗応につとめ、酒食を振舞ったが、酔いしれたところを、秀治以下十数人を捕え、これを安土に送った。信長は、六月四日、かれらを、ことごとく殺害し、その首をさらした。一説によれば、秀治は、安土に護送される途中、捕吏と格闘し、そのときの刀創がもとで死亡したという。  これに勢いを得た光秀は、七月十九日に宇津城を落とし、ついで、鬼ケ城を攻めた。城将赤井景遠は、武勇の誉れが高く、波多野秀治の妹を妻としていた。ただ、城主の赤井忠家は、景遠の甥《おい》だが、まだ幼かった。そこで、伯父の景遠が、これにかわって、政治を執っていたのである。この景遠が強く抵抗したため、光秀も鬼ケ城を抜くことができず、守兵を置いて引きあげた。しかし、八月九日には、赤井忠家の支城である黒井城を攻めて、降服させている。  八月になると、光秀の謀略を怒った八上城の将士が、人質として納めていた光秀の伯母を殺してしまった。そうして、城外に出て、明智の攻囲軍と戦ったが、みな討ち死にをとげた。そのため、丹波の豪族波多野一族は、まったく滅び去った。  光秀は、十月二十三日、さらに鬼ケ城を攻め、ついにこれを陥落させた。そのとき、城将赤井景遠は、すでに病死していた。鬼ケ城が落ちたと聞くと、付近の砦を守っていた赤井勢は、みな逃げ去り、丹波一国がここにはじめて平定された。光秀、五十二歳の初冬である。  光秀は、十月二十四日、安土に凱旋し、信長に丹波・丹後両国平定のことを報告している。丹後の領主は一色義道で、田辺を居城としていたが、細川藤孝と明智光秀の協力によって討伐、平定されたのである。丹後の土豪岡本一族に与えた某年十二月廿四日付の光秀の書状も現存する。  信長は、翌天正八年(一五八〇)の三月十七日、石山本願寺と講和を結び、その条件として、四月九日に顕如上人を紀州の鷺森《さぎのもり》に退去させ、八月三日に本願寺城(石山城)を焼き払うと、八月日付で、織田家の部将佐久間信盛・信栄父子に十九ヵ条にわたる折檻状《せつかんじよう》をあたえ、本願寺攻囲作戦中における怠慢を責めているが、その第三条に「一、丹波の国、日向守働き、天下の面目をほどこし候」と述べて、明智光秀の丹波攻略の武功を礼賛している。  ともかく、この丹波平定の成功によって、光秀は大いに面目を施した。そうして、これまでの近江の滋賀郡五万石と坂本城のほかに、丹波一国二十九万石と亀山城を信長から賞賜された。天正八年八月二日のことである。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 世紀の叛逆 [#1段階大きい文字](一)丹波平定以後の光秀  丹波平定後の光秀は、京都にもっとも近い近江の滋賀郡五万石を以前から領しているうえに、その西北地域に続く丹波一国二十九万石をこれに加え、合わせて一国一郡、およそ三十四万石の大名と成り上がったため、信長の家臣または部将として、主君信長の居城である江南の安土にもっとも近い、日本の中央部を抑える権勢的存在として、近畿管領とも称すべき地位に就くことになった。  信長にとって、元来、新参家臣であり、客員部将でもあった光秀が、かかる枢要な地位に安坐することができたのは、すでに述べたように、かれが、学識にすぐれ、教養も高く、政治や財務にたいして卓抜な才能をもち、対人関係もすこぶる円満で、主君信長の指令の強烈さをやわらげる役割をも果たしてきたことを、信長自身もみとめ、大いに光秀を抜擢登用した結果であろうと思われる。  さて、光秀が丹波を平定し、そのことを安土城におもむいて、信長に報告した天正七年(一五七九)の十月二十四日ごろ、信長を中心とする八方の形勢はどのようであったか。  昨年(天正六年)の十一月に信長が石山本願寺にたいして試みた講和戦略によって、本願寺に籠城中の坊主や門徒衆の戦闘意欲は、弾薬兵粮の欠乏とともに、次第に消沈し、それが、播磨における戦況にも強い影響をもたらしていた。  播磨の情況は、三木城の別所長治と伊丹(有岡)城の荒木村重の謀叛と、それから、毛利軍の上月《こうづき》城奪還によって、信長方の不利に傾いたけれど、姫路城を足場とする羽柴秀吉の戦略は目ざましかった。  秀吉は、信長の信頼にこたえるために、小寺孝高を参謀とし、播磨・備後の諸士の誘降に奔走し、また山名豊国を鳥取城に攻めてこれを降し、因幡一国を手に入れた。ついで、播磨に戻り、織田信忠の軍勢と協力して、毛利軍と上月城争奪戦をおこない、さらに、三木城を包囲し、しだいに優位な態勢をつくっていった。備前の宇喜多直家も、一時、毛利方に味方したが、秀吉の説得により、同年(天正七年)の十月になって、ようやく信長方に投降したのであった。  また、伊丹城にたてこもった荒木村重も、形勢の悪化に不安をおぼえたものか、九月二日の夜、ひそかに重囲を脱して、摂津の尼崎に遁走した。そのとき、明智光秀が信長に懇願した末に、尼崎と花隈の両城を明け渡せば、村重はもとより、伊丹の将兵のいのちも助ける、ということになった。そこで、村重の家老の荒木久左衛門らが、妻子を人質として信長に差し出し、十一月十九日、尼崎に行って、村重に降参を勧めたが、村重は、久左衛門に会おうともしない。  村重の態度を怒った信長は、十二月十三日、滝川一益に命じて、村重の婦女子など百二十余人を尼崎の七本松で磔《はりつけ》とし、僕婢五百余人を焼き殺し、人質として受け取った荒木の一族三十余人を京都に護送させ、十六日、これを六条河原で、ことごとく撫で斬りにさせている。見せしめのためとはいえ、狂気の沙汰といえる。  このとき、村重の一族の荒木五郎右衛門という者が、日ごろ、その妻を見捨てるのは心残りだ。妻のいのちにかわりたい、といって、明智光秀のもとに走り入って、そのことを懇願した。そこで光秀も、五郎右衛門の気持に同情し、いろいろと信長に願い出たが、信長はそれを許さずに、いっしょに処刑してしまった、ということである。  光秀は、降服したもの、直接罪もないものを死刑に処することを、好まなかったらしい。そこで、信長の苛酷な処刑にたいして、あいだに入って、赦免を願ったりしたが、容れられなかった。光秀も仕方がなく、それをあきらめていたが、内心、信長のなさけ容赦もない残忍な所行にたいして、承服しがたい、嫌悪の情を抱いていたことは、おそらく事実であろう。そこに両者のあいだに、人間的に相容れないものがあったことが、十分に推測できるのである。  さて、石山本願寺と信長のあいだも、この年(天正七年)の十二月二十五日に、勅使の庭田重保と勧修寺晴豊の両人が、講和勧告のために、本願寺に下向することによって、一段落がついた。顕如上人は、ついに勅命を受諾した。  年あけて、天正八年(一五八〇)の正月、勅使が参内して本願寺の意向を奉答し、和議が進捗《しんちよく》していた。そのうちに、播磨の三木城も糧食が尽きはて、別所長治は、城を明け渡して自刃した。秀吉は、これを受けとった。正月十七日のことである。  石山本願寺と信長との和議は、閏三月五日に成立し、講和条件の一つとして、顕如上人は、本願寺城を信長に明け渡すことにし、四月九日に城を出て、十日に紀州の鷺森に移った。  ところが、四月になると、毛利氏の将小早川隆景が備中に出陣し、備前の宇喜多直家を攻撃してきた。直家が信長のほうに寝がえりを打ったからだ。そこで、信長は、明智光秀・細川藤孝らに命じ、直家の救援におもむかせた。両軍は、備前の小島で戦ったが、隆景は、敗退して、備中川上郡の高山《こうやま》城にこもった。それを信長の命令で、羽柴秀吉が攻囲したとき、光秀は、これを援助した。このころになると、細川藤孝は、逆に、光秀の組下になっていたらしい。  光秀は、かつて越前の一乗谷で、細川藤孝を介して、足利義昭に仕えたときは、藤孝の組下となったはずだが、いまは反対に、藤孝を組下とするに至ったようである。このように上下の関係が逆転したのには、何か理由がなければならないはずだが、強いてその理由をもとめれば、光秀のほうが、少なくとも一年くらい早めに、将軍足利義昭と主従関係を断ち、信長の直臣となったからではなかろうか。そんな気がしてならない。おそらく信長は、光秀の転身の早さを認め、信長の部将として、細川藤孝の上位に配置させたのではあるまいか。とすれば、この場合、得意なのは光秀であり、失意の立場にあって面上を潰したのは細川藤孝のほうに違いない。しかし、藤孝は、さすがに、失意の境遇に堪え忍んだものとみえる。歌道の達人だけあったようである。  さて、七月(天正八年)になると、石山本願寺の新門主教如上人と信長との間に、ようやく和議が成立した。門主の顕如上人は、前にも述べたように、同年(天正八年)の四月九日に石山城を出て、紀州鷺森に退去したが、新門主の教如上人は、依然として石山に籠城していた。これにたいして、信長が種々交渉をかさねた末、七月も下旬になって、ようやく了解ができ、八月二日、城を明け渡し、紀州の雑賀に向かって退去したのであった。石山本願寺城は、八月二日の夜から三日にかけて、焼き払われた。去る明応五年(一四九六)に蓮如上人がこの地に坊舎を構えてから八十五年めに、さしもの一向宗の本山・石山本願寺城も灰燼に帰したのである。 [#1段階大きい文字](二)本願寺討伐後の論功賞罰と光秀  信長は、本願寺討伐が終了すると、部下の諸将士にたいして賞罰を行なったが、天王寺の砦の守将佐久間信盛・信栄父子にたいして、十九ヵ条にわたる長文の折檻状を与え、二人を紀州高野山に追放している。その折檻状のなかで、前にも述べたように、明智光秀の丹波での働きを武功第一とし、つぎに、羽柴秀吉の播磨その他の諸国での戦功を称賛し、また、摂津の花隈城を攻略した池田恒興のこと、ついで、柴田勝家の加賀攻めをも、ひとかどの働き、と評している。それに比べて、佐久間父子は、石山本願寺合戦に、信長の命令によって天王寺の砦を守り、石山城の押えとなっていたのに、数年のあいだ、何らの目だつ働きもなく、武道を怠り、無意味な月日を過ごしていたというので、ついに高野山に追放された。それについては、なお、連年の過怠な振舞い目に余るものがあった、というのである。その罪状をいちいち書き出した信長という大将も、なかなか細かい。親父の佐久間信盛は横着者、むすこの信栄は、おしゃれで、茶の湯に耽溺《たんでき》し、武事を疎かにした、といった理由だけで、所領を没収されたうえ、追放罪に処せられたのだ。  佐久間父子は、こうして高野山に登《のぼ》されたが、ほどなく、そこをも追われ、熊野の山奥を足にまかせて逐電《ちくてん》している。領地もなくなり、譜代の家臣にも見すてられ、素足に草履をはいて歩いてゆく有様は、人の見る目もあわれであったと、『信長公記』に記している。  信盛は、その後、ほどなく病死したが、信栄は、信長の死後、織田|信雄《のぶかつ》・羽柴秀吉・徳川秀忠などに歴仕し、不干斎《ふかんさい》正勝と改め、寛永八年(一六三一)四月二十七日、七十六歳で亡くなった。  信長は、八月十七日(天正八年)、大坂から京都に帰ると、織田家の宿老の林通勝・安藤|守就《もりなり》・尚就《ひさなり》父子、および、丹羽右近らの所領を没収し、これを追放している。林通勝は、弘治二年(一五五六)、信長の父織田信秀が死去したとき、信長をさしおき、弟の信行を跡目に立てようとした。それが怪しからん、というのだから、信長もはなはだ執念深い男だったことがわかる。安藤守就父子らは、以前、武田信玄に内通したことを理由とされた。  ところで、佐久間父子にあたえた信長の折檻状の第七条を見ると、 [#ここから1字下げ] 一、信長家中にては、進退各別に候か。三川《みかわ》にも与力《よりき》、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内にも与力、和泉にも与力。根来寺衆《ねごろじしゆう》申しつけ候えば、紀州にも与力。少分の者どもに候えども、七ヵ国の与力。其の上、自分の人数相加え、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度《おちど》を取るべからざるの事。 [#ここで字下げ終わり]  とあって、信盛は、それまで、天正八年の八月までは、信長の部将として、最高に近い地位にあったらしいのである。つまり、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の七ヵ国にわたって、地侍を与力《よりき》(組下)として、配下に入れていたのである。  ところが、信盛が所領を没収されて追放されると、これら七ヵ国の地侍はどうなったか、というと、光秀の与力となったのではないかとも考えられるが、確証はつかめない。  しかし、考えられるのは、林通勝・安藤守就・佐久間信盛らの失脚以後、つまり天正八年八月以後、光秀は、信長の家臣として、柴田勝家に次ぐ地位、滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉などと同格の地位に昇進していたらしいのである。そうして、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の池田恒興・中川清秀・高山重友らを組下に入れていたのであるまいか。しかも、直臣としては、明智秀満・溝尾勝兵衛などの一族、美濃衆、伊勢貞興・諏訪盛直・山本対馬などの旧幕臣、阿閉《あべ》貞秀などの近江衆、四王天但馬守のような丹波衆がいたのである。  さて、その後、同年(天正八年)の九月から十二月にかけて、光秀は、信長の命令で、滝川一益とともに、大和の諸寺社から寺社領の指出《さしだし》を徴収する役目を果たしていたようである。この指出は、寺社だけでなく、荘園の領主や国衆にも及んだ。そうして不正の申告をした者は、容赦なく処罰されたのである。 [#1段階大きい文字](三)信長の馬揃えと光秀  年明けて、天正九年(一五八一)になると、二月二十八日、京都|上京《かみぎよう》の内裏の東の馬場で、信長の馬揃えが挙行され、光秀は、その日の奉行をつとめた。『信長公記』によると、この日、五畿内および隣国の大名・小名・御家人を召しよせ、駿馬を集め、馬揃えをして、正親町《おおぎまち》天皇の叡覧に備えたのである。馬場入りの順序は、一番に惟住《これずみ》(丹羽)長秀、および、摂津衆、若狭衆、城州西ケ岡の河島(革島)衆。二番に蜂屋頼隆、および、河内衆・和泉衆、根来寺の内、大ケ塚・佐野衆。三番に惟任《これとう》(明智)光秀、および、大和・上山城《かみやましろ》衆。四番に村井作右衛門および、根来・上山城衆。信長の一族では、長男信忠が馬乗八十騎の美濃衆・尾張衆を従え、次男の北畠|信雄《のぶかつ》が馬乗三十騎の伊勢衆をひきい、弟の織田|信兼《のぶかね》が馬乗十騎を、三男の織田信孝が馬乗十騎を、信長の甥織田七兵衛信澄が馬乗十騎を、それぞれ従え、織田源五長益・同又十郎・同勘七郎・同中根・同竹千代・同周防・同孫十郎がこれに続いた。公家衆、馬廻小姓衆のつぎに、越前衆として、柴田勝家・同勝豊・同三左衛門・不破河内守・前田利家・金森長近・原彦次郎、弓衆百人、という順序であった。「本朝の儀は申すに及ばず、異国にも、かほどのためし、これあるべからず。貴賤群集の輩《ともがら》、かかる目出たき御代に生まれ合わせ、天下安泰にして、黎民烟戸《れいみんかまど》たたず、生前の思い出、有難き次第にて、上古・末代の見物なり」と、『信長公記』の著者・太田牛一は評している。この晴れの馬揃えに、光秀は、奉行をつとめたうえに、第三番に、大和衆と上山城《かみやましろ》衆を従えて、出場したのであった。  ついで、光秀は、同年(天正九年)の六月二日付で、全文十八ヵ条から成る軍法を定めている。それは、『明智光秀軍法』と題するもので、京都府の御霊神社の所蔵となって、伝わっている。この光秀の軍法には、おそろしく細かい注意、きびしい罰則を書き、後半には、軍役に関する細則を定めているが、最後に、——石ころのように沈淪していた身上から、信長公に召し出されたうえに、莫大の兵士を預けられた。武勇もなく、武功もない者は、国家の費《つい》えと思うので、明智家中の軍法を定めた次第である——と、記述している。  この最後の自記を見れば、そのころ、つまり、天正九年(一五八一)の六月現在では、光秀は、信長の恩恵に感謝し、これを暗殺しようなどという意図の全くなかったことが、立証されるのである。したがって、光秀が信長にたいして逆意を抱いたのは、少なくとも、それ以後のことと考えられる。  さて、馬揃えの盛儀を終えた信長は、そのころ、近江の安土城を根拠とし、『天下布武』の武断政治を徹底させていた。そうして、この年(天正九年)の四月には、堀秀政に命じて、高野山末寺の和泉の槇尾《まきのお》寺を焼却させた。これは寺領の指出に応じなかったからだ。また、八月には荒木村重の遺臣をかくし、これの逮捕に向かった信長の兵卒を殺戮した高野聖《こうやひじり》千三百余人を斬り、十月一日、神戸《かんべ》信孝と堀秀政に命じ、高野山の七口を包囲させた。さすがの僧徒も、これには驚き、防備を厳重にするとともに、朝廷に奏請して、和平のあっせんを請うている。  また、伊賀の国は、近江の甲賀郡と同じく、その地勢を利用して、土豪が各地に割拠し、勢威を張っていたので、同年の九月、北畠信雄に命じ、これを掃蕩させている。  いっぽう、西国経略の先陣を承った羽柴秀吉は、因幡《いなば》の鳥取城を攻め、城主山名豊国を降参させたが、山名家臣らが、なおも籠城して抗戦を続け、毛利氏の部将|吉川経家《きつかわつねいえ》が後巻《あとま》きとして来援したが、城兵と合体して、頑強な抵抗を繰り返した。そこで秀吉は、同年の六月、二万の大兵を動員し、二里にわたる攻囲線をめぐらして、鳥取城の糧道を断った。すると、八月になって、毛利方の将吉川元春・小早川隆景が、鳥取の後巻きに出てきた。そこで信長も、自ら出馬しようと考え、明智光秀以下、細川藤孝・池田恒興・高山重友・中川清秀らに命じて、出陣の用意をさせ、とりあえず、糧食を鳥取城攻囲中の秀吉に届けさせたのである。光秀はこのようにして、秀吉に協力している。  鳥取城は、十月に入って、城将の吉川経家が自決して、城を明け渡し、城兵たちの助命を乞うた。秀吉は、これを赦したが、飢餓に瀕した城兵の過半が、俄かな食事にありつき、頓死したといわれている。  なお、この年(天正九年)、信長は、光秀と細川藤孝に命じ、丹後の検地を実施させている。 [#1段階大きい文字](四)信長の武田討滅と光秀  明けて天正十年(一五八二)、信長は、西国出陣に先だち、甲斐の武田勝頼を討ちほろぼし、後顧の憂いを断とうと計画した。そして二月九日付で軍令十一ヵ条を発布して、配下の諸将に与えたが、それを見ると、——大和の国では、主として筒井順慶に出陣を命ずるから、用意を整えること。ただし、高野山の年寄どもだけは、少し残留させて、吉野口を警固させたい。河内衆は、すべて、烏帽子形《えぼしがた》・高野山・雑賀の押えとして、残留させる。和泉衆は、みな、紀州へ押し向ける。三好康長は、四国へ出陣せよ。摂津の国は、池田恒興を留守居とし、そのむすこ両人のひきいる人数で、甲州に出陣を命ずる。茨木城主の中川清秀も出陣せよ。多田氏にも甲州出陣を命ずる。上山城衆も油断なく出陣の用意をせよ。羽柴秀吉には、西国全体のことを委任する。長岡(細川)藤孝は、その子の忠興、および一色五郎とともに、丹後の警備にあたれ。惟任(明智)光秀も甲州出陣の用意をせよ——というわけで、光秀は、筒井順慶・中川清秀・上山城衆などとともに、甲州に出陣を命じられたのである。  信長は、三月五日、近江の安土を出馬した。『兼見卿記』によると、光秀は、四日に近江の坂本をたち、筒井順慶は、三日に大和の郡山を出発している。これらとほとんど同時に、駿河口からは徳川家康、関東口からは北条氏政、飛騨口からは金森長近、信濃の伊那口からは信長と信忠が、二手に分かれ、甲斐に侵攻した。  武田方では、人心が動揺し、離反者が続出した。穴山梅雪《あなやまばいせつ》は、信玄の甥で、勝頼の妹聟でありながら、駿河の江尻在城中、はやくから徳川家康に内通していたし、また、武田信豊も信玄の甥で、その子に勝頼の娘を配せられた間柄であるのに、仮病をつかって、軍議にも参列せず、信濃に遁走した。なお、勝頼の叔父武田|逍遥軒《しようようけん》も、勝頼の命令をきかずに、逃亡してしまった。最後まで勝頼のために尽くしたのは、弟の仁科盛信《にしなもりのぶ》くらいなものだ。盛信は、信濃の高遠城を固守して、討ち死にを遂げている。  高遠城が陥落すると、武田方は支離滅裂となった。勝頼は、新府の城をも焼き、小山田信茂の意見に従い、その居城の岩殿《いわとの》に移ろうとしたが、その途中、信茂の叛意を知り、天目山にこもろうとして、織田軍の追跡をうけ、山麓の田野《たの》で、奮戦の末、妻子と共に自害している。三月十一日のことである。  信長は、信濃の波合《なみあい》で、勝頼父子の首実検をしたが、進んで諏訪に陣し、武田氏の遺領を処分し、部将滝川一益に上野の国を与えて、厩橋《うまやばし》(前橋)に治せしめ、家康には駿河を賞賜し、木曽・穴山・河尻の諸将には甲斐と信濃を分領させ、国中の関所を停止させ、率分《そつぶん》(通行税)を禁止し、本年貢以外の非分の課税の廃止、道路の造作、訴訟の公平、直訴の許可などの掟を定めている。  かくて信長は、四月二十一日、安土に凱旋した。 [#1段階大きい文字](五)信長の西国出陣と光秀  信長は、甲斐と信濃を領国とする武田勝頼を討滅したため、その所領を、東海・近畿・北陸から、東山《とうさん》の甲信地方にまでひろげることができた。国の数で、三十ヵ国を手中に収めることに成功した。したがって、いまや、信長の「天下布武」の理想は、着々と実現しつつあったのである。残っているのは、関東・西国(中国)・四国・九州と、北陸の越後であった。そこで、これらの地域にたいしても、配下の諸将を派遣し、経略に着手させた。たとえば、関東には滝川一益、北陸には柴田勝家、西国には羽柴秀吉をさしむけたが、四国へは三男の神戸信孝と部将丹羽長秀を渡航させることにしていた。  信長は、同年の五月七日付で、信孝にあてて、四国討伐について、朱印状を与えた。もちろん、「天下布武」の朱印が押してある。内容は、——讃岐《さぬき》一国は、残らず、信孝の処分にまかせる。阿波一国は、残らず、三好山城守康長に一任する。そのほか、この両国のことについては、信長が淡路に出馬したときに、くわしく指令する。右のことを厳守し、国人《こくにん》たちの忠不忠をしらべ、そのまま立ておいてよい者は、その所領を安堵させ、追放すべき奴原は、これを追放し、政道を堅固に申しつけよ。万事について、三好康長のことを、君とも、父母とも思い、世話を焼いたなら、この信長にたいしても忠節というものだ——というのである。これを見ると、信長は淡路島まで出陣する予定でいたらしい。  信長は、八方に強敵をひきうけて悪戦していたころは、四国の強豪|長宗我部元親《ちようそかべもとちか》を敵にまわしたくなかった。摂津の石山本願寺を牽制するためにも、元親と手を握る必要を感じた。そこで、明智光秀に命じ、元親との和平交渉にあたらせた。光秀の説得により、元親は恭順の意を表した。そのため信長は、元親が四国を手柄次第に斬りとることを承認し、元親のむすこ弥三郎に、信の一字をあたえ、信親と名のらせたりした。  それから数年たって、元親は、領国土佐の守護に補せられたが、これも光秀のあっせんによるものだった。  ところが、長宗我部氏の勢威がしだいに伸張し、昨年(天正九年)のころ、三好康長の所領阿波を侵したとき、信長は、これを重大事件として取りあげたのである。康長が羽柴秀吉の甥孫七郎信吉(秀次)を養子としていたからだ。康長は、西国の経略に従っていた秀吉を通じて、元親による失地回復の運動をはじめた。これに対抗して、長宗我部元親もまた、明智光秀に依頼して、斬り取った同地にたいする安堵状の下付を乞うたのである。  すると、信長は、元親と光秀の提訴をしりぞけ、長宗我部討伐の兵をおこした。信長の違約を怒った元親は、土佐一国の兵力をあげて阿波を蹂躙《じゆうりん》し、讃岐に進撃を開始した。  この場合、光秀は、秀吉の謀略と、信長の違約によって、面目を失墜したのである。  ところで、信長によって四国討伐の大将に任命された神戸三七郎信孝は、天正十年の五月十四日付で、丹後・丹波の国侍にたいして、つぎのような指令をくだしている。 [#ここから1字下げ] 丹州より馳走候|国侍《くにざむらい》組々兵粮料・馬の飼《かい》・弓矢・鉄砲・玉薬《たまぐすり》、これを下行《げこう》すべし。船は組合人数次第、中船・小船の行相《てだて》ことわり、これを請取るべし。海上の遅早は、着岸の相図を守るべく候。陸陣中場の儀、下知にまかすべく候なり。   天正十年五月十四日 [#地付き]信孝    丹州国中 [#ここで字下げ終わり]  丹後・丹波国中の諸侍に命じ、兵粮・馬飼料・武器弾薬などを持って、四国討伐に参加させようとして、兵船をも動員している。  すると、その翌日、つまり五月十五日のこと、近江の安土の居城にいた信長は、十数人の珍客を迎えることになった。それはこの三月の武田討滅戦の武勲者の一人である徳川家康が、恩賞として駿河一国を信長から与えられた謝礼を陳べるため、遠江の浜松からやってきたためである。家康は、近臣十数名のほかに、武田の降将|穴山梅雪《あなやまばいせつ》を伴い、戦勝祝いの品々を、信長に献上している。  信長は大いに喜び、その日から三日間にわたって、家康一行を饗応する役目を、明智光秀に命じた。なぜ、そのような接待役を光秀が命ぜられたかというと、そのとき、ちょうど光秀が非番であったからだ。そこで光秀は、さっそく、人を京都や堺につかわし、珍物を取りよせ、三日間を家康の饗応に専念したのである。  ところが、やはり、この十五日に、備中にあって、高松城を水ぜめにしている羽柴秀吉からの早飛脚が到着し、秀吉の危急について、逐一、報告してきたのであった。安芸の毛利輝元が、吉川・小早川の諸将とともに、大兵をひきいて、高松城の後巻きに出てきたので、信長公の御出馬を乞い願うとのことである。  この急報に接した信長は、すでに四国討伐の用意も整っていることだから、この際、毛利方の機先を制し、信長みずから出馬し、敵軍に大打撃をあたえてやろうと決意した。そこで家康への饗応をはじめた光秀にたいして、終わり次第、ただちに備中の高松へ出陣すべしと命じたのであった。 [#1段階大きい文字](六)光秀の叛意  信長から備中出陣の命令を受けた光秀は、五月十七日に家康饗応の役目を終わると、即日、近江坂本の居城に戻った。  安土では、光秀と交替して、信長の近臣長谷川秀一と菅谷九郎左衛門が、家康ら一行の接待役をつとめ、五月十九日に、安土城内で、幸若大夫の舞いと、梅若大夫の能興行が催され、二十日には大宝坊で盛大な酒宴がおこなわれた。  光秀は、五月二十六日になって、丹波の亀山に帰城している。その間、家康ら一行は、信長の勧めで、京都と堺の町の見物に出かけた。  五月二十七日、光秀は近臣数名を連れて、愛宕山に参詣した。戦勝祈願のためである。  おそらく、光秀は、この途中で、信長父子の動向を認知したに相違ない。信長は、馬廻の小姓衆や女中など七十余人をつれて上洛し、四条西洞院の本能寺に、織田信忠は二千人の旗本衆を従えて妙覚寺に、それぞれ宿泊する予定になったことを確認したらしい。しかも当時、信長の有力な部将は遠隔の地において強敵と対峙していた。つまり、柴田勝家は越中で上杉景勝と、滝川一益は上野で北条氏政と、羽柴秀吉は備中で毛利氏の大軍と、いずれも睨みあっていて、他を顧みる余裕とてなかったのである。  光秀が打倒信長の陰謀を思いついたのは、おそらく、このときであろう、と思うのである。しかし光秀は、おそらく、その計画を考えてみただけであろう。成否の予測はまだ立たない。したがって決意も容易にできぬ。  その夜、光秀は愛宕山の太郎坊に参籠した。神前で神籤《みくじ》を二度、三度と引いたというが、おそらく、決心がつかずに迷っていたからであろう。神籤の吉凶うらないに頼るほかなかったものとみえる。  翌日(二十八日)、光秀は、愛宕山の西坊で、連歌師の里村紹巴らとともに、百韻の連歌会を神前で興行した。 [#ここから1字下げ] 時は今|天《あめ》が下《した》しる五月哉《さつきかな》     光秀 水上《みなかみ》まさる庭の松山       西坊 花落つる流れの末をせきとめて  紹巴 [#ここで字下げ終わり]  これは、そのときの光秀の発句《ほつく》、西坊行祐の脇句《わきく》、里村紹巴の第三句として、世に知られている。  俗説では、このとき光秀がすでに謀叛を決意したので、その心境が自然と、この発句となって表現されたのだという。  しかし、光秀の発句は、はじめ、 [#ここから1字下げ] 時は今天が下なる五月哉 [#ここで字下げ終わり]  とあったのではなかろうか。それを、後の人が、光秀の叛逆を強調するために、「下なる」を「下しる」と第二句を改竄《かいざん》したのではなかろうかと、筆者は推理する。なぜかといえば、いくら光秀が昂奮状態にあったにせよ、大事の決行を前にひかえて、このような軽率きわまる発句を、わざと吟ずるはずがない、と思うからだ。光秀も、連歌師や僧侶ふぜいに武略の秘密を悟られるような間抜けではなかった、と思うからだ。  しかし、「時」は「土岐」に通じ、美濃の守護土岐氏の支族である光秀自身のことを指し、「天が下しる」とは、天下を統治する意味だと、普通には、解釈している。  光秀が敗死して後、紹巴は、このときの連歌の発句のことで、秀吉に詰問されたが、「し」の字を抹消して、ふたたび「し」の字を書き、はじめは「下なる」とあったのを、何びとかが、「下しる」と書き直して、紹巴をおとしいれようとたくらんだのだ、といって、その場をのがれ、事なきを得たと、いわれている。しかし、光秀の発句は、筆者の推理どおりに、最初から、「下なる」とあったのではなかろうか。それを、紹巴をおとしいれるためにではなく、光秀の叛意を強調するために、「下しる」と改竄したのであろう。 [#1段階大きい文字](七)本能寺の急変  さて、愛宕山からすぐに丹波の亀山に戻った光秀は、五月晦日から六月|朔日《ついたち》にかけて、備中出陣の用意を整え、鉄砲の玉薬・兵粮・馬糧など百荷を運送させている。ただし、この間に、腹心の一族・家人、明智左馬助秀満(光春)・同次右衛門、斎藤|利三《としみつ》、藤田伝五郎、溝尾勝兵衛などには、心中の大事をうちあけたことと思われる。  光秀が、一万三千の軍勢を三段に分け、丹波の亀山城を出発したのは、六月朔日の夜のことである。全軍は、暗黒の山野を縫い、粛々として前進を始めた。  いっぽう、信長は、五月二十九日に、七十余人の馬廻小姓衆をひきつれて、安土城を発向し、晦日に上洛し、本能寺に宿泊した。  六月朔日は、筑前博多の豪商|島井宗叱《しまいそうしつ》を正客とし、公家衆を相客として、名物びらきの茶事を催した。永禄十一年(一五六八)に信長が上洛して以来、京都・奈良・堺などで買いあつめた三十八種の名物茶道具を披露するのが目的だった。城介《じようのすけ》信忠も茶席に加わった。信忠は、信長に先だち、二千人の手兵をひきいて上洛し、二条の妙覚寺に宿を取っていた。  本能寺の名物びらきの茶事が終わると、酒宴となり、信忠は、深更におよんで、妙覚寺に戻ったというが、『寂光寺誌』や『新編坐隠談叢』によると、当時、日蓮宗の京都十六本山の一つである寂光寺の本因坊に住んでいた日海という二十五歳の僧侶が、信長に呼ばれ、当代において囲碁の名手といわれた鹿塩利賢《かじおりけん》と対局した。そして、日海が対局を終えて、本能寺を退去したのが、九つ、つまり、深夜十二時であったというから、信長も、信忠も、その名人戦を見物していたことになる。日海は、近衛町の寂光寺に帰ったが、容易に就眠できなかったというが、信忠は妙覚寺に戻り、信長は、深更にいたって就床し、熟睡したらしく思われる。  備中に向かうはずの光秀の軍勢は、三草《みくさ》越えをやめ、方向を東にかえて、老坂《おいのさか》から沓掛《くつかけ》に出て、そこで休息し、食事をした。そのとき、光秀は、全軍に指令を伝え、備中出陣の軍装を信長公の検閲に備えるため入京する、と称したというが、一人の離反者も出さないための、巧妙な謀略というべきであろう。もっとも、軍列から離反して密告する恐れのある者は、これを見つけ次第、斬って捨てるように、物頭の矢野源右衛門に命じておいたといわれる。  やがて桂川を渡った一万三千の明智軍が、水色に桔梗《ききよう》の紋を染めぬいた九本の旗指物を先頭に、奔流のように、京都四条西洞院の本能寺に殺到したのは、六月二日の早暁であった。 『信長公記』によると、明智の軍勢が、信長の御座所である本能寺を取り巻き、五方から乱入すると、信長も、小姓衆も、下々の者が当座かぎりの喧嘩でもはじめたことと、思いこんでいた。ところが、やがて、鬨《とき》の声をあげて、鉄砲玉を打ち入れたので、——これは、謀叛人のしわざであるか。如何なる者のくわだてか——と、信長が問うと、小姓の森蘭丸が、——明智の軍勢と見えまする——と言上した。すると信長は、——是非に及ばず——といったというが、さすがに、あきらめがよかったらしい。それでも、はじめは、弓を取って、敵に向かい、二つ三つ矢を放ったが、やがて弓の絃《つる》が切れた。そこで槍を手にして戦ったが、肘《ひじ》に槍疵《やりきず》をこうむり、室内にひき退いた。それまで、御用をつとめる女中衆がそばにつき添っていたのを、信長は、——女は苦しからず、いそぎ寺を出よ——といい、女中衆を追い出してから、本能寺の御座所に火をかけた。やがて、火がまわってくると、最期の姿を人に見せたくないと考えたものか、殿中の奥ふかくに入り、内から納戸《なんど》の口を引きたて、切腹して果てた、ということである。  やれるだけのことはやり終えて、従容《しようよう》として自刃し、その死体を焼いて、醜態を見せなかった、というから、さすがに信長らしい負けず嫌いなところを示したといえる。信長は、時に四十九歳であった。小姓森蘭丸以下数十人の馬廻小姓衆も、みな、信長の死に殉じている。三十八種の名物茶道具もみな、焼失してしまった。  近衛町の妙覚寺にいた織田信忠は、本能寺の急変を知ると、手兵をひきいて、本能寺の近くまで馳せつけたが、途中で逃亡兵が続出し、明智の大軍によって十重二十重《とえはたえ》に包囲された本能寺を救う手だてとてなく、残兵五百人ばかりをあつめて、二条城にたてこもった。しかし、まもなく、これまた明智勢に包囲され、信忠は防戦につとめた末に自刃している。享年二十六。京都奉行の村井貞勝以下、これに殉じた。  それならば、本能寺の急変、光秀叛逆の原因は、そもそも、なんであろうか。 [#1段階大きい文字](八)怨恨による叛逆  光秀叛逆の原因については、古来、さまざまなことがいわれている。しかし、これを大別すると、怨恨説と野望説の、だいたい、二つに分かれるようだ。  このうち、まず、怨恨説について述べると、これは、光秀が信長に恨みをいだき、その恨みを晴らすために、叛逆をくわだて、本能寺を夜襲した、というのであり、光秀叛逆の原因として、古来、もっとも有力視されてきた。  たとえば、『総見記』によると、光秀が、信長から丹波経略を命ぜられたとき、八上《やがみ》城主の波多野秀治を攻めたが、これを誘降することに成功し、波多野方と人質を交換した。しかし、信長が、光秀の意向を無視して、秀治を殺害したため、違約を怒った波多野の家臣らが、人質となって八上城にいた光秀の母を磔《はりつけ》にした。つまり、光秀の母は信長のために、間接的に殺害された、というのである。もっとも、一説によれば、これは光秀の生母ではなくて、義母であるとも、また、伯母であるともいわれている。が、光秀が信長の違約によって、母か伯母かを殺されたことを恨めしく思ったのは、当然と考えられる。しかし、史実としては、波多野秀治は、八上の城兵のいのちを助けてもらうことを条件に、城を出て、安土に伴われたのだから、信長により処刑されたとて、城将たちが、光秀にだまされたと、怒るわけもないのである。むしろ、波多野の家臣たちは、城主の秀治のいのちに代えて、八上を開城し、城兵の危急を救ったのである。  また、小瀬甫庵の『太閤記』によると、武田討伐が終わり、駿河一国を信長から与えられた家康が、安土に謝礼にやってきたとき、光秀は、家康を饗応する役目を信長から仰せつかった。そこで光秀は、多大の資材と労力を費やして、この役目を果たそうとした。ところが信長は、すぐにその役目を取りあげ、西国へ出陣を命じたため、光秀の面目がまる漬れとなったという。しかし、史実としては、すでに述べたように、光秀は三日間家康饗応の役目を果たし、それから備中へ出陣するため、坂本の居城に帰ったのだから、この俗説は間違っている。  また、光秀が用意した魚類が腐敗していると、信長が立腹し、森蘭丸に光秀の額を打って割らせ、魚類を湖水のなかに捨てさせたりして、光秀に恥辱をあたえた。それで光秀が恨みをいだき、叛逆に踏みきった、というのである。  これは、俗説のうちでももっとも有名な話であって、あまり信用できないと、筆者も考えていたが、最近、松田毅一氏によって翻訳されたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』の第十七章に、「ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川)と甲斐国の主将たちのために、饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。これらの催し事の準備について、信長は、ある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は、立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいは、このことから、明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついには、それが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもわからない。ともかく、彼は、それを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な時機をひたすら窺っていたのである」と見えるから、この俗説は、かなり史実に近いのではないかと、再考している次第である。  つまり、家康饗応の準備のことで、信長と意見が合わず、信長の怒りに触れて、公衆の面前ではないが、一、二度、足蹴にされたというのだが、これによって、武士の面目を傷つけられた光秀が叛意をいだく可能性は、十分に考えられるであろう。すると、怨恨説も、満更、根拠なしとはいえないのである。  また、『川角太閤記』によると、光秀の家来の斎藤|利三《としみつ》は、はじめ美濃三人衆の一人の稲葉一鉄の配下であった。ところが、利三は、ある事情のもとに、光秀のもとに身を寄せたのである。すると、一鉄が、このことを信長に訴えたため、信長は、利三を一鉄に返すことを光秀に命じた。しかし、光秀は、とやかく言って、その命令に従わない。そこで信長は激怒した末に、光秀のもとどりをつかみ、突きとばしたうえ、手討ちにしようとさえした。しかし、光秀がその場をのがれたため、手討ちだけは沙汰やみになったという。 『続武者物語』によると、このとき信長は、怒りにまかせ、光秀の額を敷居にこすりつけて折檻したため、月代《さかやき》から血が流れた、というのである。これでは、光秀が信長のことを怨んだのも当然であろう。足蹴にする信長のことだから、このくらいなことは、あったであろう。  だから、この種の逸話は、後世に書かれた雑書の記事だからといって、あながちに否定はできない。  なお、『義残後覚《ぎざんこうかく》』や『柏崎物語』によれば、庚申待《こうしんまち》の夜に、信長が二十人ばかりの家来をあつめて、酒盛をやった際に、光秀が途中で厠《かわや》に立ったのを、信長が槍を持って追いかけて行き、穂先を光秀の首にあて、その過怠をなじった、とある。  それから、『祖父物語』によると、甲斐の武田攻めで、信長が信州諏訪の法華寺に陣取ったとき、光秀が、——このような目出たいことはござらぬ。拙者も、年来、骨を折った甲斐がござった——と言ったのを、信長が聞き咎め、——お前は、どこで骨折って、手柄を立てたか。過言である——と言い、光秀のあたまを欄干に押しつけて、打擲《ちようちやく》した、というのである。このくらいなことは、もちろん、やったであろう。  また、『落穂雑談一言集』によれば、信長が、あるとき、近習と漁色の話に耽っていた際に、近習の一人が、——明智どのの妻女こそ、天下一の美人でござろう——と、語った。そこで信長は、家臣らの妻に朔日《ついたち》と十五日の御礼出仕を命じ、出仕してきた光秀の妻を、長廊下で待ち伏せ、これを抱きしめようとした。ところが、かの女は、相手を信長とは気づかずに、扇でしたたか打ち据え、その場をのがれた。そのことを妻から聞いた光秀は、相手が信長であることを悟り、警戒していたが、果たして信長は、このことを根にもち、公けの席上で、しばしば光秀に恥辱を与えた、というのである。  怨恨による光秀叛逆説というのは、だいたい、このような興味のある逸話を根拠として、成立している。講談本や時代小説などは、みな、これらの逸話の、どれかを取り上げ、それをもって、光秀叛逆の原因とみなしているようである。  しかし、信長が、光秀にたいして、さまざまな恥辱をあたえたとか、迫害を加えたとかという話は、前にあげたフロイスの『日本史』の記述もあることだから、すべてをウソだと否定するのは、行きすぎである。むしろ、史実にもあり得べきことと考えるのが、妥当であろう。  ところが、これらの逸話の出所である諸記録は、そのどれもが、光秀の死後数十年もたった江戸時代の初めに書かれたものだから、そのことを理由にして、怨恨説というものを、あたまから否定してかかる学者もある。  それらの学者の主張によると、——光秀が主君信長に叛逆を企てたのは、怨恨によるわけではなくて、初めから、天下を取りたいという野心を、光秀が胸にいだいていたからだ——と、いうのである。——光秀は、つね日ごろ、天下を取ろうとして、ひたすら、そのチャンスをねらっていた。そこへ、たまたま、信長が不用意にも、七十人ばかりの小姓衆とともに、本能寺に宿泊したので、日ごろの計画を実行に移したにすぎない。信長に恨みなど、少しも抱いていなかったが、天下を取りたいために、本能寺を襲い、信長を殺したのだ——と、いうのである。  そこで、つぎに、この天下取りの野望による光秀叛逆説について、筆者ながらの批判を加えてみたいと思う。 [#1段階大きい文字](九)天下取りの野望による叛逆  光秀が信長に叛逆したのは、信長の仕うちを恨み、その恨みが骨髄に徹したからではなくて、信長の天下を光秀が日ごろからねらっていたからだ、という、いわゆる光秀野望説なるものの、 根拠は何か。  まず、秀吉の御伽衆《おとぎしゆう》大村|由己《ゆうこ》の書いた『惟任退治記』を見ると、——光秀の謀叛は、当座の存念ではなくて、年来の逆意と推察される——と説き、また、竹中重門の『豊鑑《とよかがみ》』に——光秀は、主君信長を討つべき心を日ごろから隠していた——と、述べている。  この二書はたしかに、怨恨説をおもしろおかしく伝えた前掲の諸書よりは、古い記録である、といえよう。しかし、この両書ともに、豊臣の家臣、または、その遺臣が、主君豊臣秀吉の一代の功業のあとを後世に伝えようとする意図のもとに記述したものである。秀吉が天下を取った事情を、少しでも正当化させるためには、光秀を野心家あつかいにする必要に迫られた。つまり、単なる野望がもとで主君信長を殺害した光秀だから、これを討ち取った秀吉の行動は、正当化される。怨恨説を主張すれば、光秀に同情の余地を与えることになり、秀吉の天下取りを正当化するのに都合がわるいのだ。  ところで、この光秀野望説を裏づける文献史料は、ほかにもあるが、怨恨説と同様に、やはり、俗書の所説が多い。  たとえば、小幡景憲《おばたかげのり》の『甲陽軍鑑』によると、光秀は、打倒信長の陰謀をめぐらしてはいたが、それが露顕しそうになったため、本能寺を急襲した、というのである。ここで陰謀というのは、甲斐の武田勝頼と内通したことを暗示する。この内通説は、『林鐘談《りんしようだん》』という俗書にも出てくるが、細川家伝来の古記録である『細川家記』の説は、さらに、うがっている。甲州征伐の際に信長に降参した武田の一族、穴山梅雪が、家康とともに、信長の居城安土にやってきた。そこで、光秀は、かれが武田に内通していたことを、梅雪の口から信長に密告されることを恐れ、突然、叛逆を企てた、というのである。  しかし、この光秀武田内通説は、もっともうがっているようでいて、じつは、もっとも苦しい解釈だといわねばならぬ。というのは、かりに、穴山梅雪が安土にやってきて、光秀の武田内通の一件を信長に密告するのを防止するとすれば、光秀は、梅雪が安土にやってきて信長の面会する直前に信長を殺害する必要があるからだ。梅雪が安土にやってきてからでは、間にあわないのだ。  また、江村専斎《えむらせんさい》の『老人雑話』によると、光秀が、丹波の居城亀山を周山《しゆうざん》と名づけていたのを、天下取りの野望があった証拠である、と説明している。光秀は、主君信長を殷《いん》の紂王《ちゆうおう》になぞらえ、おのれはひそかに、周の武王を気どっていた、というのである。  しかし、周山というのは、古くからある丹波の亀山の雅称であって、光秀が、ことあたらしく名づけたものではない。だから、この説明は、ヘタなこじつけにすぎぬ。  また、新井白石の『紳書《しんしよ》』に、光秀が、姻戚にあたる大和の大名、井戸良弘《いどよしひろ》に向かって、——それがしの宿望が叶えられたときは、貴殿に、大国はやれないが、小国を一つ、与えよう——と語ったという。  しかし、これは本能寺の変後に、光秀が、井戸良弘を味方に誘ったとき、使者に述べさせた口上を、本能寺の変以前のことと、取りちがえたためであって、野望説の根拠にはならないのである。  このように説いてくると、光秀天下取りの野望説にも、たいした根拠のないことがわかる。戦国動乱の世においては、大名たり、武将たるもの、だれでもが、天下を我がものにしたいという野心をもち、つねにその計画をととのえ、チャンスをねらっていた、と仮定するから、光秀野望説も成り立つような気がしてくる。しかし、この仮定が誤りであることは、本書の前のほうの章節で論述したとおりである。自分勝手な、独断的な仮定よりも、まず、史実を冷静に大観してほしい。要するに、今川義元・武田信玄・上杉謙信・織田信長のような実力も十分あり、自信満々たる大名や武将ならばともかく、細川藤孝や明智光秀級の実力の乏しい武将や知識人が、それほどの抱負と自信を持っていたとは、考えられない。  槍一筋で一国一城のあるじになるということは、あるいは当時の武士の実現し得る程度の理想であり、目標であったかもしれない。しかし、群雄と戦い勝って上洛を遂げ、長い伝統をもつ足利将軍家に代わって天下に号令をくだす、ということになると、一国一城のあるじといえども、その実力と自信のないものがほとんどではなかったか。天下を我がものにすることを夢想することがあったとしても、初めから、そのような、だいそれた計画を立て、実行のチャンスをねらっているような武将は、案外、いなかったのではなかろうか。  上杉謙信の天下静謐のための軍事行動も、じつは、かれ自身が天下を取るためではなくて、関東公方と京都公方(足利将軍家)を復活させるにあったことは、史実の立証するところである。秀吉でさえも、主君信長が本能寺で倒れてから後、家康でさえも、秀吉が病死してから後、初めて天下取りの野望を抱き、その実現に努力したのである。まして、明智光秀などが、信長の存世中から天下をねらっていたなどとは、史学的常識では、到底、考えられぬところだ。  そこで筆者は、以上述べたような理由から、光秀野望説を、一応、否定したいと思う。観念的な天下取り説よりは、むしろ、怨恨説のほうが、ましだ、と言いたい。しかし、怨恨は怨恨でも、光秀の場合は、前途の不安にかられたとか、武士の面目をふみにじられたとか、そういったことに起因する恨みが原因ではないかと、推測する。 [#1段階大きい文字](十)前途の絶望による叛逆  光秀が、前途にたいする不安にかられ、その不安をなくするために、信長にたいして叛逆に踏みきったとは、いえないだろうか。  光秀の場合、前途に不安を抱き、将来に希望をもてなくなるというのは、光秀自身の才能がないとか、武略に自信が持てないとか、いうのでは、もちろんない。その原因は、主君である信長のワンマンぶり、家臣や属将にたいする苛酷さ、処刑の残忍さにあるといえる。特に、本能寺の変の二、三年以前から、それが加速度的に強化されつつあった。これは、足利将軍義昭を京都から追放し、強敵浅井・朝倉両氏を攻めほろぼし、さらに、越前・加賀・伊勢・紀伊・和泉に蜂起する一向一揆を殲滅し、門徒の根拠地である摂津の石山本願寺を攻囲する前後において、いわゆる「天下布武」のブルドーザーが、強烈な勢いで回転し、信長に敵対するもののすべてを、虫けらのように押し潰しはじめたのだ。その多量殺人ぶりは、日本史上、類例のないものであった。知識人であり、教養の高さに自信をもつ光秀の目に、信長の蒼白い面貌は、殺人魔のごとく映ったのも、当然であろう。  この、ネロ皇帝にも似た横暴な主君信長の手にかかっては、光秀といえども、いつ、林通勝や佐久間信盛の二の舞いを踏まぬとも保証できない。なるほど、本願寺征服直後の論功行賞において、光秀は、武功随一で、天下の誉れを取った、と絶賛された。それも光秀が数年かかって自力で行なった丹波の斬り取り作戦が順調に進捗し、一国の平定を見たからである。しかし、これからは、どうなるか。  光秀のよきライバルともいえる羽柴秀吉は、西国管領などといわれても、主として、山陽道の攻略に専念し、安芸を中心に西国十二ヵ国を支配する強敵毛利一族にたいして、真っ向からぶつかってゆく難工事の遂行を、信長から強いられている。そうして、この難工事の遂行を援けるために、部将丹羽長秀は、神戸信孝を戴いて讃岐に渡海し、長宗我部元親を討って四国を平らげることによって、瀬戸内海をへだてて、南方から、毛利氏を牽制することになったが、光秀は、それと反対に、領国丹波を足がかりとし、但馬を経て、出雲・石見《いわみ》を攻略することによって、北方から毛利氏を牽制することを命ぜられたのだ。  もっとも、光秀の、こんどの難工事には、斬り取り次第に、出雲と石見の二ヵ国を与える、といった賞品がついていた。しかし、その賞品つきの難工事に、いやが上にも専念させるための工作か、どうかは明らかでないが、これまで光秀が領していた近江の滋賀郡と丹波一国を召し上げる、というのである。しかも信長のこの指令は、天正十年(一五八二)の五月十五日、備中への出陣命令とほとんど同時に、光秀の上にくだされたのだ。  このことに関する文献史料としては、いまのところ、『明智軍記』の記事のほかにはないが、それによると、従来の一国一郡を没収するかわりに、未征服地の出雲・石見二ヵ国を斬り取り次第にあたえるということを、青山|与三《よさ》を上使として、光秀に申し渡したとのことである。 『明智軍記』というのは、江戸後期の文政年間の写本で十二巻本が、内閣文庫に秘蔵されているが、著者は明らかでない。ただし、江戸前期の元禄年間の著作と推定される。正確な文献史料と矛盾する、光秀びいきの創作もあるが、他書に見あたらない、一面の真実を伝えた記事もあるような気がするので、第九巻の「惟任日向守謀叛ヲ企ツル事」の条を、つぎに抜粋してみよう。 [#ここから1字下げ] 「然ル処ニ、青山与三ヲ上使トシテ、惟任日向守ニ出雲・石見ヲ賜ウトノ儀ナリ。光秀謹ミテ上意ノ趣キ承リシニ、青山申シケルハ、両国御拝領、誠ニ以テ目出度存ジ奉リ候。サリナガラ、丹波・近江ハ召上ゲラルヽノ由ヲ申シ捨テゾ帰リケル。爰《ココ》ニ於テ、光秀並ビニ家ノ子郎等共、闇夜ニ迷ウ心地シケリ。其ノ故ハ、出雲・石見ノ敵国ニ相向カイ、軍ニ取結ブ中ニ、旧領丹波・近江ヲ召上ゲラレンニ付テハ、妻子|眷属《ケンゾク》少時モ身ヲ置クベキ所ナシ。敵ハ毛利輝元、安芸・備後・備中・備前・周防・長門・豊前・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐、以上十二箇国、先祖ヨリ持チ来タレル大敵ナレバ、輙《タヤス》ク攻メ破リガタシ。丹波・近江ハ取上ゲラレ、出雲・石見ハ治メ難キニ付テ、沖ニモ出デズ、磯ヘモ寄ラザル風情ニテ、所々ニ尸《カバネ》ヲ曝サン事、口惜シキ次第ナリ。佐久間右衛門尉、林佐渡守、荒木摂津守、其ノ外ノ輩《トモガラ》、滅却セシ如ク、当家モ亡ボスベキ御所存ノ程、鏡ニ掛ケテ相見エ候。  前車ノ覆《クツガエ》ルヲ見テ後車ノ戒メトス、ト云エル通リニ候エバ、以往ヨリ其《ソノ》色立《イロダテ》コレナキ以前ニ、謀叛ノ儀、是非ニ思召立タセ給ウベシト、臣下ノ面々、忿《イカ》レル眼ニ涙ヲ浮カベテ申ケレバ、光秀、終《ツイ》ニ是ニ従イ、サアラバ、当月下旬ニハ信長・信忠諸共ニ上洛アルヨシ聞クナレバ、思イ知ラセマイラセン。急ギ坂本・亀山ニ立チ越エ、残ル股肱ノ輩トモ商議シ、謀《ハカリゴト》ヲ廻ラスベシトテ、早々安土ヲ発足シケルガ、日来好《ヒゴロスキ》ノ道トテ、心知ラヌ人ハ何トモ云ワバイエ、身ヲモ惜シマン、名ヲモ惜シマン、ト打チ詠ジテ、坂本ノ城ヘゾ帰リケル」 [#ここで字下げ終わり]  光秀が備中出陣に際して、このような指令を信長から申し渡されたということは、おそらく事実と考えられる。それは、前に掲げた天正十年五月十四日付で丹後・丹波の国侍に与えた神戸信孝の命令書によっても、裏づけられる史実といえる。つまり、五月十四日当時、すでに、丹波の国主である明智光秀の意向を無視して、四国討伐に参加すべしという指令が、丹波の国衆に発せられているからだ。おそらく、信長は、光秀から召し上げた丹波の国を、三男の信孝に与えることを、信孝に伝えたものとみえるのである。  当時の光秀の立場を冷静に考えると、これまでの一国一郡が二ヵ国になるのだから、知行の加増にはちがいないが、その新たな二ヵ国というのが、斬り取りしだいというやつで、戦勝を予測したうえの空手形《からてがた》にひとしい。かりに、もし、光秀が、毛利軍との決戦に勝てば、どうなるか。領地の加増はまちがいなかろう。しかし、中央の政界からほど遠い、僻地《へきち》の出雲と石見に追いやられることは、光秀にとってマイナスに近かったであろう。  たとえば、少し後のことにはなるが、九州陣後、秀吉のために、北陸の越中から九州の肥後に国替《くにがえ》された佐々《さつさ》成政が、土一揆蜂起のために失脚したのも、小田原陣後、徳川家康の旧領三河・遠江に転封を命ぜられた織田信雄(信長の次男)が、これを拒否したため、秀吉によって、下野の烏山《からすやま》に追放されたのも、また、伊勢の松坂から奥州の会津に国替された蒲生氏郷が、——我がこと終われり——と云って慨歎したというのも、みな遠隔の僻地への国替をきらった実例である。  しかも、光秀の場合は、かりに、毛利氏との戦いに敗れたときは、どうか。いや、敗れないまでも、出雲・石見両国の攻略が、毛利氏の抵抗によって、はかどらないときは、どうか。出雲も石見も、光秀のものとならないのは、もちろん、領国も、居城も、居屋敷も、明智一族も、光秀自身も、何もかも、信長の権力のもとに抹殺され、転落と滅亡の末路をたどるほかないのである。じつに危険きわまる賭けである。しかも、その賭けを、光秀の好むと好まざるとにかかわらず、信長から強制されているのだ。  光秀は、絶体絶命の窮地に追いこまれた。このままの状態では、前途に転落と滅亡があるのみだ。そうして、この窮地から脱出するには、暴君信長をこの世から消すほかない。それがいちばん早道である。信長殺しの本能寺の変は、光秀の必死の自己防衛対策として敢行されたと見たいのである。  かくて、成立する、前途の絶望による光秀叛逆説にも、一理あるように思える。しかし、これでは、本能寺の変が、現代の造反部課長の社長暗殺事件か、政治テロの大臣刺殺事件かに、転落する恐れがある。光秀は、単なる現代の優秀サラリーマンともちがうし、テロリストでもなかろう。いやしくも、戦国乱世を生きぬいた日本の古武士の一人だ。根性のすわった、しかも、手だれの武辺者である。自己の将来に不安と絶望をおぼえただけで、大恩ある主君信長を謀殺するはずもなかろう。そこで、信長のような、多量殺戮を好む暴君をそのままにしておいたんでは、人のため、世のためにならないから、消してしまえ、といったような大義名分にもとづく政治テロではないかと仮想できなくもないが、そう断定したのでは、少々奇説に近いし、史学的見地からいっても、非常識のそしりをまぬかれない。  そこで筆者が、光秀の叛逆説にたいする結論として、ここに主張したいのは、光秀が、武将としての面目を信長によってふみにじられた恥辱をそそぐのが、目的ではなかったか、という新説である。 [#1段階大きい文字](十一)武道の面目を立てるための叛逆  これまで、いろいろと実例を挙げて説明してきたことだが、武将明智光秀は、主君の信長からしばしば恥辱を受け、何度か迫害をこうむった。ことに、フロイスが『日本史』に書き伝えたように、家康饗応の準備のことで意見があわず、信長から一、二度、足蹴にされたことさえあった。もっとも、この場合は、人の見ているところではなかったということだから、面目失墜の度合いが、人前ほどではなかったであろう。しかし、少しのことで怒りはじめると、怒りにまかせ、重臣を足蹴にする信長のことだから、人前でも、あたまをなぐったり、突きとばすくらいのことは、しばしば、あったに相違ない。そう考えると、史学的に余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、かずかずの逸話、光秀怨恨説のところで紹介してきた光秀迫害の話も、まんざら、否定できないのだ。むしろ、あり得べきことと考えたい。  しかし、そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。罵詈雑言《ばりぞうごん》だけでなく、無言の動作や処置で、窮地に追いこまれたことも、あったであろう。  これまで挙げた実例で示せば、四国の長宗我部元親対策をめぐる信長の先約不履行である。信長は、光秀があっせんした努力を無視し、元親討伐に踏みきったからだ。そのために元親は激怒し、中間に立っていた光秀は、面目を失墜する結果となった。が、そんなことは信長の眼中になかったのである。また、降将やその一族の助命運動に奔走し、助命を歎願する光秀の立場を全く無視し、信長が降将にたいして惨刑を執行したことも、しばしばあった。その場合も、光秀の面目は、まるつぶれにされたのである。信長の横暴きわまる処置のために、光秀は居たたまれなくなり、屈辱に堪えきれなかった。そこで、その屈辱をそそぎ、面目を立て直したかったのではあるまいか。  面目というと、ヤクザの顔、一般のわれわれでいうと、面子《メンツ》である。つまらないことにこだわるな。面子など、どうでもよかろう、という、さばけた考え方もあろうが、これは言いかえると、人間としての存在価値であり、自我の主張であり、独立した人権の提唱でもある。人権を無視されたんでは、人間たるもの、だまってはいられない。だまって屈辱に堪える人間もいるだろうが、そんなのは、ただ生きてさえいればいい、金さえ儲かればいいといった、奴隷的人間であろう。明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような、気概のないピエロではなかった。足蹴にされても、知行をふやしてもらえれば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。  かの赤穂浪士の実例に見られるように、——君はずかしめらるれば、臣死す——というのは、君臣という主従関係の道徳が確立された徳川封建社会のことである。それ以前の、戦国乱世においては、武家社会でも、主従関係の道徳が絶対視されずに、むしろ、相対的なものだったから、——臣はずかしめらるれば、君を殺す——と、いえたのである。  だから、信長のように、戦略家・政治改革者としては優秀であっても、属将や家来の面目を、やたらにふみにじり、名誉を毀損《きそん》させるような主君は、むしろ、家臣から暗殺される可能性が多かったのだ。  戦国乱世には、主君が家臣に謀殺された実例は、それほど珍しくもない。徳川家康の祖父松平清康、父の松平広忠など、みな、譜代の家臣に暗殺されている。足利六代将軍義教も家来筋の赤松満祐に、十三代将軍義輝も家来の三好・松永党に、周防の守護大名大内義隆も寵臣の陶晴賢《すえはるかた》に、それぞれ、謀殺されている。主殺しは、明智光秀とかぎらないのだ。しかし、それにもかかわらず、光秀だけが主殺しの汚名を一手に着せられ、逆臣の代表者のようにみなされているのは、どうしたことか。  これは、いうまでもなく、近世武家封建社会の創始者ともいえる豊臣秀吉が、下剋上的危険思想を排除し、君臣主従関係の道徳をあらたに確立させるために、主君である信長を謀殺した明智光秀を、逆臣の標本とし、これを討ち取って君仇を晴らした秀吉自身を、忠臣の典型的存在として称揚する必要にかられたためであった、と考えられる。  ところで、武道の面目を立てるために主君信長を謀殺した光秀も、何らかのかたちで、大義名分論を提唱する必要があったとみえて、本能寺の変の直後、かれが毛利氏の将小早川隆景に送ったという密書の文言を見ると、足利将軍義昭を京都から追放した信長と、それから、義昭を後援してきた毛利氏一族を攻めている羽柴秀吉のことを、乱妨《らんぼう》と称して非難し、その信長や秀吉に対抗している毛利氏一族のことを、忠烈といって称賛し、義昭や毛利のために、信長を討ち果たした光秀自身のことを、暗に将軍へ忠義のため、と弁解している。逆臣を転じて忠臣と宣伝するための光秀の工作なのだ。しかし、これは、光秀の言いわけのための大義名分論にすぎない。じつは、光秀自身の面目を傷つけられた鬱憤を晴らしたのが、光秀叛逆の真相と見るべきであろう。こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなくて、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。 [#改ページ]   第四部 明智の三日天下 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 山崎の敗戦 [#1段階大きい文字](一)毛利方に密書を送る  本能寺の変から、山崎の合戦で明智光秀が敗れ、山城の小栗栖《おぐるす》で討ち死にするまでの期間は、天正十年(一五八二)の六月二日から十三日まで、正味十一日間だが、これを俗に明智の三日天下とよぶのは、光秀が中央の覇権を掌握していた正味の三日間を言うのか、また、余りにもはかないかれの末路を嘲笑して言うのか、憐れんで言ったものか、その、どちらかであろう。  それはともかく、この明智の三日天下ならぬ、十一日天下は、まず、光秀の不運をもって始まっている。要するに光秀は、ついていなかったのだ。  光秀は、六月二日に信長父子を討ちとると、その日、ただちに、信長の部将羽柴秀吉の攻囲する備中の高松城の後巻きに出てきた毛利の将小早川隆景に密書をつかわし、本能寺の変の顛末《てんまつ》、一部始終を報告し、東西から羽柴軍への挟撃を企てたのである。これは、当時の光秀にとって、第一の強敵となったのが秀吉だったからであろう。そのとき、隆景に送った光秀の密書の内容は、大略、つぎの通りであった。 [#ここから1字下げ] 急度《きつと》、飛檄《ひげき》をもって、言上《ごんじよう》せしめ候。こんど、羽柴筑前守秀吉こと、備中国において乱妨《らんぼう》を企て候条、将軍御旗を出だされ、三家御対陣の由《よし》、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝うべく候。然らば、光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりをいだき、遺恨、もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは、将軍御本意を遂げらるゝの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。この旨《むね》、宜しく御披露に預かるべきものなり。誠惶誠恐。   六月二日 [#地付き]惟任日向守    小早川左衛門佐殿 [#ここで字下げ終わり]  文中に「将軍」とあるのは、当時、毛利氏を頼って備後の鞆《とも》の浦(広島県福山寺)に亡命していた足利十五代将軍|昌山《しようざん》(義昭)のこと。「三家」は、毛利・吉川・小早川の三家、つまり、毛利氏一族を指す。  この密書は、内閣文庫本の『別本川角太閤記』にその写本が引用されているが、秀吉が、密使を捕え、密書の原本を焼却した際に、その文言を写し取っておいたものが、いつしか何者かの手によって写し伝えられたものであろうと、推測する。後人の偽作と断定するには、余りにも文章が見ごとである。自然味があるし、理に叶っている。そのせいか、従来、だれも偽書と主張した学者はいない。そこで、これを本物の密書の写本だと仮定すれば、「光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりをいだき、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候」という文句が問題になってくる。光秀は、やはり、筆者の主張するように、かなり以前からではなく、近年になって主君の信長に恨みをいだき、その憤りを晴らすために叛逆を企てたのである。これを単なる謳《うた》い文句にすぎないと、きめつける歴史学者もいるが、どんなものか。筆者は、やはり、これを、光秀が信長殺しの理由を、自らはっきりと言明した文句と、受け取りたいのである。  光秀は、信長殺しの理由を、このように言明すると同時に、十年ほど前に足利将軍義昭を京都から追放した信長と、それから、その後、義昭を後援しつづけてきた毛利氏一族に挑戦している羽柴秀吉のことを「乱妨」と称して非難し、信長や秀吉に敵対をつづける毛利氏一族の行動を「忠烈」といって称賛している。つまり、光秀は、足利将軍の伝統的権威を尊重し、その大義名分のもとに、信長や秀吉、また毛利氏の行動を、冷静に批判しているのだ。そうすれば、自然と、毛利は忠臣、信長と秀吉は逆臣、ということになる。そうして、その忠臣である毛利に味方して、逆臣信長を本能寺で打倒した明智光秀こそ、当然、忠臣だ、という結論に到達する。  これは、足利将軍というものを正当な存在とみなし、それを中心とした考え方であって、元来は、この考え方のほうが正統であろう。  光秀個人としても、越前の一乗谷において足利義昭に臣事した当初の目標は、義昭の上洛と将軍任官を援助し、足利将軍の近臣として奉仕するにあった。しかし、義昭を上洛させるための一時的な方便として、信長に仕え、その武力を利用して、義昭を将軍の座に据えることに成功したが、義昭と信長とのあいだが不和になり、相互の謀略戦、武力戦が展開されると、光秀は細川藤孝と同様に、しだいに義昭を見かぎり、義昭との主従関係を解消し、信長の部将として、また京畿奉行として、その才腕を買われ、近江・山城、丹波一国、都合三十四万石の大名と成り上がったのだ。しかし、本能寺で信長を打倒してからの光秀は、義昭を捨てて信長の部将と変身したことを、いまさらのように後悔していたのではなかろうか。  フロイスも『日本史』で批判しているように、光秀は、信長や秀吉などに比べると、保守主義者である。足利義昭さえ健在なれば、光秀自身が天下を取るよりは、むしろ、足利将軍家と室町幕府の復活をはかりたかったのではなかろうか。本能寺の変が、義昭の密命に従って勃発したか、どうかは、実証するよすがもないが、本能寺の変後の光秀が、備後の鞆にいた亡命将軍義昭をかつぎ、大義名分を提唱しようと、たくらんだことだけは、この小早川隆景宛ての光秀の密書の文言によって確かめられるであろう。  この光秀の密書をたずさえた使者は、六月三日(天正十年)の深更、備中の高松に着いたが、闇夜だったため、毛利の陣所をまちがえて、秀吉の陣屋のあたりを、うろついていた。それを夜まわりの兵士が怪しみ、からめ捕って、拷問にかけると、光秀からの密使であることを白状した。そこで身体をさぐると、前記のような光秀の密書が出てきた。  これを読み解いた秀吉は、主君信長公の死を知って、心中、びっくり仰天したけれど、このことを極秘にし、ただちに密書を焼き捨て、使者の首をはねた。そうして毛利の使者で信長と秀吉に面識があった安国寺恵瓊《あんこくじえけい》をよびよせ、信長の死を秘したうえで、毛利氏とのあいだに和議をはからせた。  ともかく、この大切な密書をたずさえた光秀の使者が、毛利方に密書を渡す直前に、秀吉方の士卒に捕えられたことは、秀吉にとっては、またとない幸いであったが、光秀にとっては、運命のきわまる第一歩であったといえる。  かりに、この光秀の密書が、秀吉と毛利が和議を結ぶ以前に、毛利方の手に入ったとすれば、どうか。信長の死を知った毛利方は、秀吉と和議を結ぶどころか、むしろ、大攻勢に転じ、光秀と提携して、秀吉にあたったことであろう。そうすれば、腹背に強敵を受けた秀吉は、両面作戦を強いられる苦境にあえいだ末に、明智と毛利の両軍に東西から挟撃され、播州姫路の城を枕として、討ち死にをとげたかもしれない。そうすれば、明智の天下となるか、毛利の天下となるかは、予測できないが、あるいは、備後の鞆《とも》の浦に待機していた亡命将軍足利義昭が、明智か毛利の後援を得て、京都に復帰するかもしれないのである。  因みに、『島津家文書』には、(天正十年)十一月二日付で、薩摩の太守島津義久に与えた足利義昭の御内書を収めているが、その文中に義昭は、「今度、織田事、天命遁れがたきによって、自滅せしめ候。それに就いて、相残る輩、帰洛の儀、切々《せつせつ》申すの条、示し合わせ、急度《きつと》入洛すべく候。此の節、別して馳走、悦喜すべし」と述べている。つまり、義昭は、信長の横死をもって、天命のがれがたきによって、自滅したと批判し、将軍の帰洛運動が行なわれることを期待していたのである。しかし、信長の死後、十一日めに明智光秀を山崎の一戦に破り、信長に代わって中央の覇権を握ろうとつとめていた羽柴秀吉にとって、亡命将軍義昭の存在など、眼中になかったといってよい。したがって、義昭の期待は全くはずれたのである。  ただ、信長の横死をもって、天命のがれがたし、と評したのは、おそらく亡命将軍義昭一人だけではなかろう。信長によって迫害を受けたもの、処罰されたもののことごとくが、この批評に同感し、共鳴したに相違ないのである。 [#1段階大きい文字](二)徳川家康を襲わせる  備中高松城の後巻きをしている毛利氏一族に密書を送って、その出兵を促した光秀は、そのつぎには、亡き信長の盟友である徳川家康を襲撃させようと謀っている。  家康は、永禄五年(一五六二)に清洲攻守同盟を締結して以来、つねに信長と提携を取り、信長の東方の支えとなり、また片腕となって、天下平定の仕事にたずさわってきた。天正十年(一五八二)の三月、信長を援けて、甲斐に侵攻し、共同の敵、武田勝頼を天目山麓に滅ぼすと、家康は、信長から駿河を賞賜された。そこで、その謝礼と甲斐平定の祝辞を陳べるため、近江の安土にやってきて、信長の饗応をうけたが、ついで信長の勧めによって、京都と堺の町々を見物することにした。ところが、信長が備中総出陣のために上洛するという報告に接し、信長と会見するため、堺から上洛しようとした。家康が本能寺の急変事を知ったのは、その途中のことだ。  信長の死報に接した家康は、入洛し、知恩院で追腹をかき切ろうと決心し、また、近臣の本多忠勝は京都に討ち入り、信長公のとむらい合戦を行なおうと主張した。しかし、つき添う家臣がきわめて少なかったため、とむらい合戦どころでない、結局、ここを切り抜けて、ひとまず三河に帰国しよう、ということに衆議が一決した。  そこで、家康ら一行は、ただちに上洛すると称して、堺を出発し、宇治田原から山田を経て、信楽《しがらき》の小川で一泊し、翌六月三日、伊賀の山越えをし、伊勢の白子《しらこ》の浜から船に乗り、四日、三河の大湊《おおみなと》に着岸し、岡崎に帰城したという。これを伊賀越えの難といい、徳川家康の一生のうちで、もっとも危機であったと、いわれている。 『譜牒余録後編』所収の「山口藤左衛門書上」によると、この家康の堺遊覧からして、光秀の策略によるものだ、と説明している。家康が信長といっしょにいたのでは、事がしにくいから、信長に進言し、ご馳走に事よせて、堺を見物させた、というのである。これは、どこまで信用してよいか、不明であるが、光秀が、家康の堺見物の虚を衝いて、これを殺害しようと試みたことは、事実であろう。つまり、光秀は、伊賀路へ密使を走らせ、和泉から伊賀越えをしようとする家康を討ち取った者には、永代の恩賞をあたえると触れて、郷民に家康襲撃のことを命じた。しかし、家康は、すでに伊賀者に助けられて、難所を通過してしまったため、光秀の計画も水泡に帰してしまったという。ただし、このとき、家康に随伴してきた武田の降将穴山梅雪は、木津川沿いの草内《くさうち》で、土民のために殺害された。  いのちからがら三河に帰国した家康は、盟友信長のとむらい合戦を行なおうと決意し、六月十一日に岡崎を出馬する予定だったが、連日の降雨のため、一日、一日と延期し、十四日になって岡崎を発向し、尾張の鳴海《なるみ》に到着したが、これは、山崎合戦が行なわれ、光秀が敗死した翌日のことであった。  光秀の敗北を知った家康は、上洛を中止し、六月二十一日、兵をひきいて、遠江の浜松に帰っている。 [#1段階大きい文字](三)近江を平定する  光秀は、このように、当初において、はやくも二計画に失敗したものの、本能寺の変の翌日、つまり六月三日、明智|茂朝《しげとも》を山城の勝竜寺城に残し、近江に進軍している。信長の居城安土を占領するのが目的だった。  まず、瀬田城主の山岡景隆を誘降しようと試みたが、景隆は、光秀の招きに応じないばかりか、瀬田の大橋を焼きおとし、甲賀の山中に逃亡してしまった。そこで光秀は、近くの坂本の居城に入り、いとこの明智秀満(光春)に命じて、瀬田の大橋を修理させ、六月五日、安土に行き、信長の居城の占領を終えた。安土城の留守居役蒲生|賢秀《かたひで》は、その二日前に、信長の正室生駒氏などを伴い、居城日野に脱出していた。  光秀は、つづいて羽柴秀吉の属城長浜と、丹羽長秀の居城佐和山を手に入れた。すると、山本山城の阿閉《あべ》貞秀、山崎城の山崎堅家、上平寺城《じようへいじじよう》の京極高次など、みな、光秀の勢威に圧せられて、味方に属したので、近江を大略平定することができた。光秀は、信長の家族を保護している蒲生賢秀・賦秀《ますひで》(氏郷)父子を味方につけようとして、近江半国をもって招いたが、蒲生父子は、かたくこれをこばみ、日野城に籠り、一向一揆を煽動して、光秀にあたろうとした。  光秀は、近江の次に美濃の国をも手に入れようと、考えていたらしい。そのためか、本能寺で信長を討ち果たすと同時に、美濃の多芸郡《たぎごおり》野口の豪族、西尾小六郎光教に宛てて、つぎのような書状を送っている。 [#ここから1字下げ] 信長父子の悪虐は、天下の妨《さまた》げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まさるべく候。委細、山田喜兵衛尉申すべく候。恐々謹言。   六月二日 [#地付き]惟日《これひ》 在判    西小 御宿所 [#ここで字下げ終わり]  光教のいた野口は、大垣の一里ほど西南方にあった。当時の大垣城主は氏家《うじいえ》直通であり、その勢力は、もちろん、多芸郡の野口にも及んでいた。光秀は、この際、信長方の大垣城を西尾光教に乗っ取れと、指示したのである。信長父子のことを、「悪虐」と評し、「天下の妨げ」と、けなしているのは、やはり、足利将軍義昭を追放したこと、降人を大量に虐殺したり、比叡山や本願寺などを焼き払ったことを指しているのであろう。  さて、安土に入城した光秀は、城中にあった金銀財宝をあらため、これを家臣に分配したが、また、そのころ、ちょうど安土にいたオルガンティノという耶蘇教の宣教師に請うて、ジュスト(高山重友)を説得させ、これを味方にしようとした。しかし、結果として、これは成功しなかった。  六月六日、光秀は、近江の多賀神社に禁制を掲げ、境内における軍勢の乱暴狼藉、陣取放火などを禁じている。  なお、『歴代古案』によれば、このころ、光秀は、越後の春日山城主上杉景勝(謙信の養嗣)にも使者をつかわし、自分に味方するように求めている。  こうして光秀は、安土に留まっていたが、六月七日になると、京都から神祇大副《じんぎたいふく》の吉田|兼和《かねかず》(兼見)が、朝廷の使者となってやってきた。こんどの事変に際して、禁裏御所の所在地である京都に、何ら差し障りのないように取り計らってほしい、という勅命をもたらしたのであった。これは、兼和が光秀のことを朝廷に取りなしたためで、後に、兼和は、このことを、神戸信孝に咎められたとき、それを逆に朝廷に訴え、天皇の御取りなしで、事なきをえたのであった。  そのとき、光秀は、兼和と、安土城内で対面したが、兼和が、誠仁《さねひと》親王(正親町天皇の第一皇子)からの進物の緞子《どんす》一巻、および、兼和が持参した大房《おおぶさ》の鞦《しりがい》一かけを渡したので、光秀もあつくこれに感謝し、辱《かたじけな》く勅命を拝受している。この辺の様子は、吉田兼和の日記である『兼見卿記』に委しく記してあるが、「今度謀叛之存分、雑談《ぞうだん》也」と、兼和は書いている。つまり、光秀は、兼和に向かって、こんど光秀が信長に謀叛を企てた心境について、腹蔵なく説明したらしい。  なお、この日、光秀は、山城の賀茂・貴船《きぶね》の両社に禁制を下している。 [#1段階大きい文字](四)津田信澄の自害  安土城を占領して近江を平定したこと。禁裏御所守護の勅命を拝したこと。この二件は、あたかも、光秀叛逆の企図が有利に展開する前触れとも思えたが、そのあとには、これらと反対の、光秀にとって不利であり、不吉でもある事件が、続出したのであった。その一つとして、津田信澄自害の一件をあげることができる。  六月五日のこと、光秀の五女を妻としていた津田信澄が、二十八歳の若さで、摂津の大坂城の千貫|櫓《やぐら》において、自刃したのである。  信澄は、信長の弟織田勘十郎信行のむすこである。弘治三年(一五五七)、信行は、織田家臣に推され、信長を廃して家督を嗣ごうと企てたことが、未然に発覚し、信長のために誅戮された。その子の信澄は、幼時、織田家臣の柴田勝家に養育され、永禄七年(一五六四)、元服して津田氏を称し、天正六年(一五七八)の二月、近江の大溝《おおみぞ》城を与えられた。本能寺の変の直前、つまり、天正十年の五月、信長の命令に従い、四国討伐に参加するため、兵をひきいて大坂に着いたが、兵を城外に留め、信澄は大坂城の千貫櫓にいたのである。五月二十一日、徳川家康が遊覧のため大坂にやってきたとき、信長の命令を受け、大いに家康を饗応している。ところが、六月二日に本能寺の変が起こった。  このとき、神戸信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが、信澄と一緒に大坂に来て、四国へ渡るための兵船の用意をしていたが、六月五日になって、突然、信澄を攻めたのである。  これは、信澄の妻が光秀の五女で、つまり、信澄は光秀の婿《むこ》であったし、また、信澄自身も、その父の信行が、かつて信長に殺されたことを恨んでいたから、この際、明智光秀に味方するかもしれないという疑惑を持たれていたからであった。  一説によると、津田信澄は、光秀の指図に従って、当時、大坂にいたものであって、このとき、信澄は、神戸信孝(信長の三男)を殺害して、光秀の軍勢と合体しようと計画していたのを、信澄の与力(組下の者)が裏切って、このことを信孝にしらせたので、信孝は機先を制し、丹羽長秀とともに、突然、信澄を攻めたという。  ともかく、信澄は、部下の兵士の大部分を城外に置いていたため、わずかの近臣をもって防戦したが、叶わず、ついに千貫櫓において自害している。  光秀には、むすこが三人ほどいたらしいが、いちばん年上の十五郎《とごろう》が十三歳だったというから、信澄は光秀によって天下を譲らるべき人物だった、ともいわれている。ともかく、この光秀の女婿《じよせい》として有力な味方となるべき津田信澄の死は、叛逆直後の光秀にとって、大打撃であったといわねばなるまい。二十八歳の信澄が生きていて、光秀の味方となれば、光秀は、その力を借りて、摂津の諸城を手に入れ、いま少し頑強に秀吉に対抗しえたかもしれないのである。 [#1段階大きい文字](五)京都を統治する  安土城を占領し、近江一国を定めた光秀が、一族の明智秀満(光春)を安土に留め、ふたたび兵をかえして入洛したのは、六月九日のことであった。  勅使として安土に下向した吉田兼和は、六月八日に帰洛して、光秀のことを朝廷に復命したが、九日になって、光秀から、——本日、入洛する——という自筆の折紙《おりがみ》(書状)が届いた。そして、未《ひつじ》の刻(午後二時ごろ)になって、光秀が軍勢をひきいて上洛したので、兼和は、白川までこれを出迎えた。  このとき、京都の公家衆が、ことごとく迎えに出ようとするので、吉田兼和が、そのことを光秀に予告すると、光秀は、——この際、そのようなお出迎えは、御無用に願いたい——といって、これを辞退している。そして、兼和の私宅に至り、過日勅使として安土にやってきた労を謝し、兼和の手を通じて、銀子五百枚を禁裏に献上し、百枚ずつを五山へ、百枚を大徳寺へ喜捨し、五十枚を吉田神社の修理費として兼和に進めた。「存じ寄らざる仕合せなり」と、兼和は、その日記に書いている。  この日の夕食は、兼和が饗応し、連歌師の里村紹巴・昌叱《しようしつ》・心前《しんぜん》と、兼和が相伴したが、食事が済むと光秀は、ただちに下鳥羽に出陣した。夜に入って、兼和は、献上の銀子五百枚を持って、勧修寺晴豊とともに参内し、委細を天聴に通達させたので、正親町天皇から光秀にたいして、銀子御礼の女房奉書が下されたのである。兼和は、ただちにそれを持って、下鳥羽の陣所に赴き、光秀の手に渡した。光秀は、陳謝おくところを知らなかった。  この六月九日の上洛については、『兼見卿記』に、「向州《こうしゆう》云わく、一昨日、禁裏より御使、かたじけなし。御礼のため上洛なり」とあるから、その名義は、禁裏へ御礼のため、というにあったのである。『細川忠興軍功記』などには、このとき、光秀は具足を着したまま参内したと記し、また、『増補筒井家記』には、十日の未明に参内し、金子五百両、白帛《はくふ》百疋、綿五百把を献じたことを書き記しているが、『兼見卿記』の委しい記事を見ても、光秀が参内したことは書いてないから、おそらく誤伝であろうと思う。  京都において光秀が行なったおもなことは、禁裏御所へ献金したことのほかには、寺社に寄進したことと、洛中の地子《じし》を免除したことであろう。  寺社への寄進は、すでに述べた五山および大徳寺のほかに、御霊《ごれい》・北野・祇園などの諸社へ灯籠料、洛中洛外の諸寺諸院へ祠堂金を寄付した。それから、阿弥陀寺の面誉《めんよ》上人に、敵味方上下によらず、六月二日の本能寺の変のために討ち死にした人々には、法名を授け、過去帳にしたためて、よく弔うべしとて、砂金二包を与えた。これらのことは、すべて、光秀の後生菩提のためであったと、『明智軍記』に記している。  洛中の地子を免除したことも、『京都町家旧事記』などの諸書に見えているから、事実であろう。それにはまず、光秀が京都の地下人《じげにん》に金銀をあたえた。それにたいして、地下人が返礼をした。それをまた光秀が受けた。そのときの有様が、『義残後覚』という書物に、おもしろく書いてある。 [#ここから1字下げ] 「かくて日向守光秀は、明日西国へ出陣なれば、京町中の者ども、御礼にあがるべし。則ち、東寺の四つ塚にて請け給うべしとありしかば、かしこまり候とて、おもい/\進上をぞいたしける。あるいは、まんじゅう、粽《ちまき》、もちのたぐい、あるいは、樽、肴、菓子などをあぐるもありけり。又、一方には、いや/\、さようのたぐいは、世も静謐におさまり、たがいに上下《かみしも》などを、じんじょうにちゃくして、御館にてうけ給うときにこそは、しかるべけれ。すべて、甲冑をよろい、はたさし物にて、馬武具東西にはせちがい、くろけぶりをたてゝ、しかも、鳥羽の野はらにてうけさせ給う礼なれば、ただ、ほしいいなどこそしかるべけれとて、引飯《ひきめし》をつみあげてまいらする者もおおかりけり。さるほどに、日向守、四つ塚に牀机《しようぎ》を立させおわしまし、此の進上を見たまいて、引飯まいらせたるをば、心得たるものもあるものかなとて、殊の外よろこび給う。そののち、の給《たま》いけるは、洛中の礼を請けて、しるしなくば有べからずとて、向後、町中の地子役《じしやく》をゆるし置くとの御諚なり。各※[#二の字点、unicode303b]ありがたしとて、よろこびいさみて帰りける」 [#ここで字下げ終わり]  これを見ると、引飯の返礼として、光秀は、さらに、洛中の地子役を免じている。ともあれ、当時の上下の人々が、いかに戦禍を忌み、平和を渇望していたかがわかる。  この地子役免除のことについては、そのことが叡聞に達し、久我宰相吉通、難波中将宗豊、土御門少将通里を勅使として、叡感の旨を伝えられた、ということである。  なお、以上のごとき寄進・免除などの事務を行なうに当たって、光秀が、京都に所司代として、三宅式部大輔秀朝を置いたということが、『織田信長譜』、『増補筒井家記』、『明智軍記』などに見えている。 『増補筒井家記』によれば、このほか、勝竜寺城には城代三宅藤兵衛、淀には番頭《ばんとう》大炊介、伏見は池田織部、宇治には奥田庄大夫が在番していたらしい。  因みに、光秀が大徳寺に銀子を寄進したときの折紙は、この六月九日付で光秀が同寺に掲げた禁制とともに、いまなお、同寺に伝わっているが、光秀の自筆にかかるものである。同寺誌によれば、この銀子でもって、光秀の冥福のために、同寺に方丈と南門を建てたという。 [#1段階大きい文字](六)細川藤孝父子を誘う  禁裏御所に献金して宸襟《しんきん》を安んじ、洛中の地子を免除して人心を鎮め、寺社に寄進して冥福を祈らせた光秀が、なお、味方を募ることに汲々としていたことは、事実である。  近江において、日野の城主蒲生賢秀父子を招こうとして失敗に終わった光秀は、つぎに、丹後|弓木《ゆぎ》の城主一色善有に味方をもとめ、これは、成功した。そして、そのつぎには、丹後の宮津城主細川藤孝・忠興父子を誘った。  光秀は、前に、信長の命令で、その三女を細川忠興に嫁がせている。だから、これは成功するという自信をもって、誘ったに相違ない。ところが、案に相違して、細川父子はこれを拒絶したのであった。  このときの様子は、『細川家記』に委しく書いてある。すなわち、細川父子が、愛宕《あたご》下坊《しものぼう》幸朝僧正《こうちようそうじよう》からの飛脚によって、本能寺の変を知ったのは、六月三日のことである。備中出陣のため、忠興の居城である丹後の宮津を出発したばかりであったが、父子ともに、天を仰いで愁い悲しみ、宮津にひき返した。すると、光秀から、沼田光友が使者になって、書状を届けた。そのときの光秀の書状は、おそらく、細川父子が、あとで焼きすてたためか、いまに伝わっていないが、『細川家記』によれば、だいたい、つぎのような内容だったらしい。「信長、われに、度々面目を失わせ、わがまゝの振舞のみこれあるにつき、父子ともに討ち果たし、鬱積を散じ候。人数召し連れ、早々御上洛あって、何事をもよく計らい給うべし。摂州、幸い闕国なれば、まず御知行あるべし」と。  ところが細川忠興は、この書状を読んで、ひどく怒り、使者の光友を斬ろうとさえした。それを藤孝は、使者には罪がないからといって、忠興を制止し、光友を追い返し、同時に父子ともに髪を剃って、信長の死にたいして、哀悼の意を表した。  しかし光秀は、それにも懲りず、六月九日付で、こんどは覚え書の形式で、細川父子に書を送った。それは、いまなお、細川旧侯爵家に伝わっているが、その内容はつぎのようである。 [#ここから1字下げ]     覚 一、御父子もとゆい御払い候由、もっとも余儀なく候。一旦、我らも腹だち候えども、思案候ほどに、かようにあるべきと存じ候。然りといえども、此の上は、大身《たいしん》を出だされ候て、御入魂《ごじつこん》、希うところに候こと。 一、国のこと、内々、摂州を存じ当て候て、御のぼりを相待ち候つる。但し、若《じやく》の儀おぼしめし寄せ候わば、是れ以て、同前に候。指合《さしあ》い、きと、申しつくべく候こと。 一、我ら不慮の儀存じ立ち候こと、忠興など取り立て申すべきとての儀に候。更に別条なく候。五十日、百日の内には、近国の儀相堅むべく候間、それ以後は、十五郎、与一郎殿などに引き渡し申し候て、何事も存ずまじく候。委細、両人申さるべく候こと。 [#地付き]以上    六月九日 [#地付き]光秀(花押)   [#ここで字下げ終わり]  これを口訳すると、  ——細川御父子(藤孝・忠興)ともに、信長の死を悼んで、髻《もとどり》を切られたそうだが、しかたがないことだ。この光秀も、一度は腹が立ったが、よく考えてみると、当然だとも思った。けれども、かくなったうえは、光秀に味方してほしい。それについて、御父子に進呈すべき国として、内々、摂津をと、予算しながら、上京をお待ちしている次第だ。が、若狭の国を所望されるとならば、それもまた、お望みどおりに、進呈しよう。自分がこんど、このような思いがけない大事を敢行したのは、婿《むこ》である忠興などを引き立てたいためであって、さらに、ほかの目的があるわけではない。ここ五十日か百日のうちには、近畿を平定するから、それからは、十五郎や与一郎(忠興)などに、天下を譲り、この光秀は、何も考えずに、隠退するつもりでいる。くわしいことは、両人の使者から申し伝える——  覚え書の形式で、宛名はないが、明らかに、細川父子に宛てたものである。六月九日当時の光秀の立場を、このように弁解しているのは、味方をもとめるための手段にすぎないのであろうが、その焦燥にかられた有様が、目に見えるようだ。大事を敢行した理由を、十五郎や与一郎忠興を引き立てるためだと称している。けっして、天下を取りたいためだとは言っていない。そして、五十日か百日のうちに、近畿地方を平定したら、あとは、十五郎や与一郎忠興に譲り、隠退するつもりだと、言明している。  元来、天下取りを目標に叛逆を起こした男ならば、信長を討ちとり、天下取りが可能になった現在、こんな心ぼそいことをいう道理がないのだ。この光秀自筆の覚え書の文句によっても、光秀の叛逆が天下取りのためでなかったことが、実証されるであろう。この文句をもって、謳い文句などと評することは、絶対にできまい。もっとも、六月九日当時において、天下取りの自信がもてなくなってきたため、こんな、よわ音を吐き、言いわけを述べ出した、と解釈できなくもないが、それにしても、かりに、光秀が初めから天下取りを目標とし、その計画を立ててさえいれば、こんな、だらしのない結果にはならないはずである。これは、やはり、光秀が天下取りの計画など全くせず、信長を殺すことだけを目的としていた証拠であろう。だから、殺してからあとのことは、全然、考えていなかったらしい。そのため、このような、なさけない文句を書く結果となったのであろう。  文中に、「与一郎」とあるのは、細川忠興のこと。「両人」とあるのは、光秀の使者、明智秀満と荒木勘十郎のことらしい。ただ、ここで問題となるのは、「十五郎」という人物のことだ。これについては、「十五郎」は、「頓五郎」の略称であり、与一郎忠興の弟の細川頓五郎|興元《おきもと》のこと、と解釈されたこともあるが、弟の頓五郎のほうを、兄の与一郎よりも前に書くのはおかしい、とも考えられ、これを光秀の長男明智十五郎と推定する学者がいる。その証拠としては、『当代記』に、光秀の子を十五郎としているからだという。そして、フロイスの『日本史』の第十九章を見ると、「その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長子は十三歳であった」とあるから、これをもって、光秀の長子で、十三歳の明智十五郎と解釈する。この解釈のほうが、前の解釈よりも、いくぶん真実性がつよいようにも思われる。そうして、この十五郎こそ、『系図纂要』に見える長男光慶のことと思われる。  こんなわけで、光秀の再三の勧誘にもかかわらず、細川父子は、これを退け、書状を明智秀満につかわして、光秀と義絶したのであった。しかし、それでも足りなかったものか、細川忠興は、ほどなく、その妻たま[#「たま」に傍点]を、光秀のむすめであることを理由に、離別し、家来と侍女とを添えて、丹波の三戸野《みどの》という山中にある明智家の茶屋に幽居させている。それで、たま[#「たま」に傍点]も、父の光秀にたいして、「腹黒なる御心ゆえに、自らも忠興に捨てられ、幽なる有様なり」と、恨み言をいってやった、ということである。  光秀は、このように、自分の娘からも、その叛逆行為を非難されたらしい。  それにしても、永禄九年(一五六六)に越前の一乗谷でめぐりあって以来、十六年のあいだ、肝胆相照らし、ともに足利義昭や信長に仕え、たがいに組頭となったり、組下となったりしあったほか、風雅の友でもあった細川藤孝に見放された光秀の身の上は、哀れの一語に尽きる、というほかあるまい。  越前の朝倉家を去り、さらに足利義昭との主従関係をも断ち、新興勢力の信長に仕えるまでの身の振り方は、光秀も藤孝と同様、巧妙をきわめてきたが、その信長への叛逆に光秀が踏みきったとき、藤孝は初めて、光秀に同調することを拒んだのである。藤孝は、なまじっか、光秀のように、信長から特別に重用されなかっただけに、信長と重臣とのあいだの激烈な人間関係を冷静に観察し、時局の推移を達観する余裕をもつことができたのであろう。 [#1段階大きい文字](七)筒井順慶を誘う  光秀の境遇からいえば、その女婿である津田信澄と細川忠興が、縁戚として当然もとめられる有力な味方であったわけだが、信澄は神戸信孝らに殺害され、忠興には、全く裏ぎられてしまった。そこで光秀は、つぎに、もう一人の有力な味方を得ようとして尽力したのである。その味方とは、ほかでもない。大和を領し、郡山《こおりやま》の城主におさまっていた、筒井順慶である。  順慶は、前から光秀の恩恵をこうむっていた。それは、信長が大和を光秀に与えようとしたのを辞退し、順慶に譲ったからである。順慶には、こんどのような場合に、光秀に味方する義理があるわけだ。だから、本能寺の変を知ると、順慶は、六月四日、配下の南都衆と井戸衆に命じ、五日、近江に入って、光秀の軍と合体させたのである。そこで光秀は、大いに喜び、順慶にたいして、末子の乙寿丸を人質とし、大和に、和泉と紀伊をあわせて与えるという条件で、これを招き、なお、自ら山城の洞《ほら》ケ峠《とうげ》に野陣して、順慶の来るのを待ちかまえた。  しかし、順慶のほうでは、まず、家来を集めて相談したときに、筒井家の若侍たちは、——元来、筒井家は、織田家にたいして、君臣の約束はしていない。これまで信長のためにしばしば手柄を立てたが、何らの恩賞も受けていない。こんど、信長が光秀に殺されたのは、信長も足利将軍義昭を追放しているから、その罰である。この際、光秀に力をあわせ、恩賞として、大和・和泉・紀伊三ヵ国を領知されたならば、諸士の多年の労苦も癒やすことができよう——と、述べた。しかし、筒井の老臣松倉重信は、これに反対し、——叛逆の光秀にくみしては、その罪が免れがたい。けれども、光秀には多年のよしみもあるから、ひとまず、同心するという返事をし、山城の洞ケ峠に陣し、しばし形勢を観望しよう——と言い、島勝猛《しまかつたけ》もこの意見に賛成したので、順慶は洞ケ峠に出陣したという。  しかし、以上の話は俗説であって、三ヵ国をもって順慶を招いた光秀は、順慶に河内への出陣をもとめたのである。ところが、六月九日になると、河内へ出動する予定の順慶が、俄かに行動を中止し、しきりに米塩などを郡山の居城に入れはじめた。これは、毛利軍と備中の高松で講和した羽柴秀吉が、意外に早く破竹の勢いで東上してくるという急報に接し、その勢いにおどろき、あわてた順慶が、光秀との約束を反古《ほご》にし、中立的な立場にもどり、万が一の場合に備え、郡山に籠城する策を立てたものと思われる。  順慶は、六月十一日に、秀吉と、二心を持たないという誓約書を交換したが、十三日の山崎合戦には参加していない。日和見《ひよりみ》の態度を持していたのだ。順慶自身が洞ケ峠に陣し、羽柴・明智両軍の戦況を観望し、羽柴軍の優勢なのを知り、峠を降って明智軍を攻めた、などというのは、『太閤記』の誤伝にすぎぬ。史実としては、光秀のほうが、洞ケ峠に陣し、順慶が味方に参ずるのを待ちもうけていたのである。しかし、順慶は、郡山に帰城した。 [#1段階大きい文字](八)山崎の決戦  さて、六月十一日に摂津の尼崎に着陣した羽柴秀吉は、この日、大坂にいた神戸《かんべ》信孝・丹羽長秀、および、有岡(伊丹)城主の池田恒興・元助父子らに、このことを通告して、参陣をもとめた。  恒興は、翌日(十二日)に参会したが、信孝が来ないため、秀吉は、富田《とんだ》に滞陣した。十三日の正午ごろ、信孝が淀川を越えてやってきたので、秀吉はこれを迎え、兵を合わせて、さらに東上することになった。  秀吉は、富田に滞陣中、部下の将士を集めて、作戦会議を開いたが、その結果、羽柴秀長・小寺孝高・神子田正治《みこたまさはる》らがひきいる三千五百人を左翼(山手)に、高山重友・中川清秀・堀秀政らがひきいる四千五百人を中央(中手道筋)に、池田恒興・加勝光泰・木村|隼人《はやと》・中村一氏らの五千人を右翼(川手)に、秀吉の馬廻衆二万人、神戸信孝の旗本四千人、丹羽長秀の麾下《きか》三千人を、予備隊と定めた。合わせて約四万人に達した。『兼見卿記』には二万余と記している。ともかく、羽柴軍の兵力は、明智軍の二倍以上と見てよかろう。  羽柴軍の最先鋒を承った高山・中川隊は、山崎に進んだ。山崎は、山城の乙訓郡《おとくにごおり》にあり、男山《おとこやま》(石清水)八幡宮の高地と天王山の高地によって、山城平野と摂津平野とを区画する短い隘路《あいろ》の北部に位し、京都から西国に通ずる西国街道の要衝として知られている。  高山隊は、山崎の町に入り、その関門を占領し、一切の通行を禁止した。これにたいして、中川隊は、高山隊の後方に陣することを嫌い、山手に向かって行進し、夕刻、天王山を占拠した。そして、両隊ともに、初めて、明智軍の前哨隊と衝突している。双方の足軽隊の鉄砲の撃ちあいであろう。これに続いて、羽柴秀長以下の諸隊が、天神馬場(高槻の東北部)に陣し、明智方の行動を監視し、大将羽柴秀吉の来着を待ったのである。  いっぽう、明智光秀は六月十日になって、秀吉の東上を知ったらしく、十一日、ふたたび下鳥羽に帰陣して、淀城を修理させ、これに拠って羽柴軍にあたろうと計画した。十二日には、白川・浄土寺・聖護院の三郷の人足を使役して、城の南側の堀を普請させたが、はやくも摂津の天神馬場に到着した羽柴軍が、山崎へ足軽隊を出し、勝竜寺城の西の在所に火を放ったため、堀普請の人足どもは、驚いて、逃げ散ってしまった。  そこで、光秀は、斎藤利三らの部将と軍議を開き、東上してくる羽柴軍と決戦を交じえることにしたが、兵力の不足を悟り、本陣を下鳥羽に据え、勝竜寺城を前線拠点とし、淀城を左翼起点とし、そこから右手の円明寺川に沿って、円明寺部落、および勝竜寺の西方前面にわたって前衛線をつくった。円明寺川の前面は、沼地が多く、敵の進撃を阻むには適宜な地点だ。こうしておいて、山崎の隘路口から出てくる羽柴軍を包囲し、殲滅《せんめつ》しようという作戦を立てたのである。  しかし、光秀が、下鳥羽に本陣を据え、なお、近江の坂本・安土・佐和山・長浜にも、それぞれ兵を置いているのは、山崎での戦いに敗れた場合には、いつでも近江に遁れることができる体制を取っていたのであろうが、東上してくる秀吉の大軍にたいして、初めから逃げ口を拵えているようでもあり、また、兵力の集中を怠った嫌いがある。決戦態度がはなはだ曖昧で、必勝の決意に欠けていたともいえる。  ともかく、山崎表の先鋒部隊は、斎藤利三・柴田源左衛門・阿閉貞征を将とする近江衆五千人。山の手の先鋒部隊は、松田太郎左衛門・並河掃部を将とする丹波衆二千人。本隊の右備えは、伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧《みまき》三左衛門を将とする旧室町幕府衆二千人。本隊の左備えは、津田与三郎を将とする二千人。予備隊として、総大将光秀が五千人をひきいていた。全軍一万六千余である。  六月十三日、決戦当日は、雨天であった。梅雨が明けて間もない季節である。  光秀は、下鳥羽から進んで、御坊塚《ごぼうづか》に本陣を移し、秀吉の行動を阻止しようと計った。  御坊塚は、勝竜寺城の南々西約六百メートルの地点にあり、円明寺川の左岸に位している。前方に深田《ふけ》があって、要害の地である。  光秀の作戦としては、山崎・八幡を確守して、羽柴軍の進出を阻止する予定だったが、八幡に兵力を分けるには、味方が劣勢すぎると悟り、山崎の隘路を進む敵軍にたいして、要害に拠って敵の主力の前進を支え、その後方を攪乱し、これを包囲するか、または敵の先鋒隊が隘路から出てきたところを、明智軍の主力をもって攻撃するか、どちらかの戦法を選ぶほかに手がない状態であった。これにたいして、秀吉は、もっぱら全兵力を集結し、一挙に山崎の隘路の突破をはかろうとし、そのチャンスをうかがっていた。羽柴軍は合計約四万、それにたいして明智軍は約一万六千で、羽柴軍の二分の一弱の兵力であった。  雨天のためもあって、当日の午前中は、両軍ともに動くけはいがなかったが、午後の四時ごろになって、光秀の右翼の先鋒隊から攻撃をしかけてきた。松田太郎左衛門・並河掃部を将とする丹波衆二千人である。これは、天王山の東麓の中川隊から圧迫を受けたためだ。羽柴軍の中川隊は、これにたいして防戦し、また小寺孝高・神子田正治の諸隊が、中川隊を援けて明智軍をむかえ討った。  光秀の作戦としては、この攻撃によって、勝竜寺城の側面にたいする敵の圧迫を退け、できれば、天王山を占領し、羽柴軍の主力が山崎から先に進出するのを牽制し、しだいに包囲態勢を取り、敵軍を撃破してからの追撃をしやすくしようとまで、計画したらしい。  ところが、秀吉のほうでは、明智軍が少し動揺したチャンスをのがさず、その右翼隊をもって、明智軍の左翼、津田与三郎の二千人に向かって進撃を開始し、自然と明智全軍を包囲する態勢をとることになった。そこで秀吉は、全軍に進撃の命令を下し、総攻撃に移らせた。その結果、右翼の川手の池田隊が急速に進出し、加藤光泰隊もこれに続いた。また、これに伴って、中央の高山・堀などの諸隊も進出し、左翼の山手の羽柴秀長隊も有利に動きはじめた。そのため、明智軍は、ひた押しに押されて、ついに総敗軍となり、伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門などの諸将が相ついで討ち死にし、光秀は仕方がなく、山崎の戦場をのがれて、勝竜寺城に入った。従うものは、わずかに七百余人といわれる。ただし、『総見記』によれば、光秀は、味方の敗軍を見て、自ら第一線に討って出ようとした。そこへ、前線にいた御牧三左衛門から退却を勧める伝令が届いた。しかし、光秀は、どこまでも突進しようとした。すると、比田《ひだ》帯刀《たてわき》という近習の者が、光秀の馬のくつわに取りついて、その無謀を諫め、いったん勝竜寺に退き、夜に入って坂本城に落ちのびるように勧告したという。光秀も、名だたる武辺者だから、最期を潔くしたい、という気持もあったであろう。しかし、合理主義者の一面が、比田帯刀の諫言を容れ、退却の途を選んだものとみえる。しかし、結果としては、農民の竹槍にかかり、最期を飾ることができなかった。  さて、光秀が勝竜寺城に籠ると、秀吉は、すかさず、同城を包囲したが、そのころは総崩れとなった明智勢が、久我縄手《こがなわて》、西ケ岡、桂川、淀、鳥羽方面に向かい、算を乱して敗走していた。羽柴軍は、これを追い詰めては、討ち取った。ことに、高山・中川の両隊は、光秀の居城である丹波の亀山をさして遁走する明智勢を追い、翌十四日、亀山城を占領している。  要するに、山崎の決戦は、亡君信長の弔《とむら》い合戦をするのだと宣伝する羽柴秀吉のほうに人気があつまり、戦況は、当初から、光秀にとっては不利に展開していった。播州姫路を出発して城州山崎表に進出するまでに、秀吉は、光秀の二倍以上の大兵を集結させることに成功していた。山崎街道の後方に陣取った明智軍一万六千にたいして、羽柴軍は約四万にふくれあがっていたのである。 『太閤記』には、山崎表で光秀が敗戦した原因は、山崎街道の要害にあたる天王山を秀吉の先鋒部隊がいちはやく占領したためだと説明し、天王山という言葉が、勝敗を決定する俗語として使われてさえいるが、そんなことが光秀の敗因となったのではない。もっともいけなかったのは、光秀が、明智軍の全兵力を、決戦の舞台から遠くはなれた近江の安土や坂本に分散し、姫路から東上してくる秀吉の大軍に対応できるほどの兵力を、山崎表に集結できなかったことであろう。作戦上の失敗もさることながら、決戦の態勢をつくる光秀のテンポが、秀吉の快進撃と比較して、遅きに失したためであろうと、筆者は批判したい。  一刻(二時間)余の決戦で惨敗した光秀は、山崎の勝竜寺城を固守することの不可能なのを悟り、再起をはかるほかないと考え、夜陰にまぎれ、近江の坂本の居城を目ざして遁走した。しかし、その途中、山城の北端、山科《やましな》の小栗栖《おぐるす》の竹藪のなかで、土民の竹槍にかかり、不覚の最期を遂げた。竹中重門の『豊鑑』には、「里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきける鑓《やり》、明智光秀が脇にあたりぬ。されど、さらぬ体《てい》にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり」とあるから、かなりの深手だったとみえる。並みの者なら、突かれたとたんに落馬して、土民に止どめを刺され、物具をはがれるところだが、さすがに光秀だけあって、土民の竹槍を刀で斬り払い、痛みをこらえて、その場を走りすぎたのである。しかし光秀は、もはや歩行も叶わぬと悟り、——わが首を討て——と、付き添ってきた一人の溝尾勝兵衛に介錯《かいしやく》を命じ、その場に坐って、腹を切って果てた。  勝兵衛は、光秀を介錯すると、その首を鞍覆いに包み、藪の中の溝にかくし、坂本をさして落ちのびていった。  光秀は、『明智軍記』によれば、享年五十五。「逆順無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来《さめきたりて》帰一元《いちげんにきす》 明窓玄智禅門」というのが、辞世の偈《げ》であったという。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 光秀の人物と明智一族 [#1段階大きい文字](一)光秀と連歌  ここでは、光秀の人物を批評するのを目的とするが、それに先だち、光秀の教養について、うかがってみることにする。  光秀の素養は、城攻めの兵法、剣技、槍術、鉄砲の操法といった武道に限らず、和歌、連歌、茶の湯の道にまでおよんでいたといわれる。  武将の文芸趣味は、あながち、かれ一人に限らず、当時の一般的傾向ではあったが、光秀の親友、細川藤孝などは、号を幽斎といって、その道の嗜《たしな》みにおいては、当代随一の誉れがあった。幽斎は、——文芸の嗜みのないのは武士の恥である——と述べたが、光秀の文芸趣味にも、この幽斎の影響が少なからずあったことは、争われない事実であろう。  さて、光秀の文芸趣味は、乏しい文献史料をもってうかがうに、和歌・連歌などが、そのおもなものであったらしい。  ことに連歌は、元来、一首の短歌を上下二句に分かち、二人で合作したものだが、鎌倉時代に入って、ようやく進歩し、五吟などといって、数人以上で、もしくは五十韻、百韻などと称して、五十句、百句をもって成立させることになった。室町時代にいたっては、これが、甚だ流行し、宗祗《そうぎ》・肖柏《しようはく》、宗長《そうちよう》・兼載《けんさい》・心敬《しんけい》などの巨匠が相ついで出現している。安土桃山時代には、里村紹巴が連歌師としてもっとも著名で、当時の武将や大名で、かれの教えを受けないものは少なかった。光秀なども、もちろん、その一人と思われる。  元亀二年(一五七一)に比叡山を焼き討ちにすると、信長は、光秀に命じ、山麓の坂本に城を築き、これを居城と定めさせた。光秀が、その築城工事に着手したとき、三甫《さんぽ》という者が、 [#ここから1字下げ] 浪間よりかさねおけるや雲のみね [#ここで字下げ終わり]  と、発句《ほつく》すると、光秀は、 [#ここから1字下げ] いそ山つたへしげる杉村 [#ここで字下げ終わり]  と、脇句《わきく》をつけたという。  その後、光秀は信長の命令に従って、各地に転戦したが、兵馬|倥偬《こうそう》の間もこの道の精進を怠らなかったとみえて、天正五年(一五七七)の卯月五日には、愛宕山で、千句の賦何《ぶか》連歌を興行している。連衆は、光秀・行路・紹巴・藤孝・昌叱・兼如・祐景《ゆうけい》・宗及・心前・長純《ちようじゆん》・幸朝《こうちよう》・英帖《えいじよう》・吉源《きつげん》・行順《ぎようじゆん》・己種《きしゆ》・宥源《ゆうげん》で、そのうち、光秀の句のある部分だけを書き抜きすれば、つぎのようである。 [#ここから1字下げ]   何人 第一 咲にけりかへりまうしの花の種  光秀 山のかたへの春のゆふしで    行路 水口の近き田面《たのも》はすき初て    紹巴   初何 第六 月の内に梯《はしご》とをきいらか哉    心前 きり晴わたる山あひのみち    行順 嵐吹みねの正木《まさき》の葉は落て    光秀   何学 第十 なびきそひて陰《かげ》ふかゝれや雪の松 行祐 汀《みぎわ》にこほるおきの上かぜ     光秀 浜川のしほせに浪のただよひて  藤孝 [#ここで字下げ終わり]  この連衆のうち、紹巴は里村紹巴、心前は紹巴の門弟里村心前、藤孝は細川兵部大輔、すなわち、後の幽斎である。  なお、光秀は、『兼見卿記』によると、同年(天正五年)の九月十四日、京都において連歌会を催し、吉田兼見もこれに参加している。  光秀と連歌師里村紹巴との交誼はことに深かったが、その一端は、紹巴に宛てた光秀自筆の書状によって、うかがうことができる。 [#ここから2字下げ] 尚々、生田《いくた》にて、 ほとゝぎすいくたびもりの木間哉《このまかな》 夏は今朝《けさ》島がくれ行なのみ哉 人丸塚のあたりにて、口より出で候。時 分はやく候て、おかしく候。かしく。 出陣以来、音問《いんもん》能わず候。 [#ここから1字下げ] 一、去二日、明石に至り著陣候。洪水故、一日逗留、今日四、書写《しよしや》に至り罷り通り候。敵味方の様体《ようてい》、最前京都において承ると同前に候。如何が成り行くべく候や。御本意、程あるべからず候。 一、承り及び候生田川、同森。それより、須磨の月見松、松風村雨の一本、つき島。それより、明石がた、人丸塚、岡辺の里。存じ依らざる見物、誠に御辺《ごへん》誘引申し候わばと、事/″\に存じ出で候。 一、御在洛に付いて、其の元、にぎ/\しき御遊覧ども、察せしめ候。こんどは、西国と分け目の合戦候条、御気を詰めらるべくと、推察せしめ候。さりながら、敵陣取りでにたて籠り、合戦に及ぶべき体《てい》これなき由、申し候。藤孝御参会候や。御ゆかしく候。叱・前・徳雲《とくうん》、御ことづて申したく候。恐々謹言。 [#ここから1字下げ]    五月四日 [#地付き]光秀(花押)   [#地付き]惟日       [#地付き]光秀      臨江斎     床下 [#ここで字下げ終わり]  これは、光秀が、西国出陣の道すがら、播磨の生田・須磨・明石《あかし》のあたりをすぎたとき、その明媚な風景を眺めるにつけて、ふと、紹巴のことを偲び、なつかしさのあまりに、書き送ったもので、おそらく天正六年(一五七八)五月四日の書信と思われる。臨江斎とは紹巴の雅号、叱とあるのは里村昌叱の略称、前とは心前のこと。このように、光秀は、里村紹巴だけでなく、その弟子の昌叱や心前などとも懇意だったらしい。返し書きに見える生田にての発句は、本文の意向とあわせて、このようなときに臨んでの光秀の風雅の嗜みが、歴々と偲ばれて、興味深い。忙中おのずから閑あらしめる、といった日常生活にたいする光秀の心がまえのゆとりが、ここにもうかがえる。  光秀は、信長の命令を受けて、山陰道の経略につとめ、天正七年(一五七九)になって、丹波の亀山に城を築き、ここを居城と定めたが、同年の七月十八日、その亀山城内において、千句の賦何連歌を興行している。連衆は、紹巴・光秀・昌叱・心前であった。つぎは、その抜き書きである。 [#ここから1字下げ]   何人 第一 梅は猶《なお》行末とをき匂《にお》ひかな     紹巴 松風かすむ月のあけぼの      光秀 軒《のき》ばもる雨の音|聞《きく》雪とけて     昌叱   何垣 第三 朝な/\花によこほる山もなし   光秀 夜はとだゆる春雨のそら      紹巴 さへ帰るあらしの風に窓さして   心前   初何 第四 行方にたか里わかんほとゝぎす   心前 うへまし比《ころ》と早苗《さなえ》とる袖      昌叱 五月雨に入江の小舟さし出て    光秀   何木 第六 萩かえやをのが真袖《まそで》の花|薄《すすき》     昌叱 小鷹がりする野路《のじ》の行かひ     光秀 駒いはふ片山本は霧|籠《こめ》て      心前   白何 第七 玉すだれ身を巻取たもとかな    心前 はしゐながらにふかす夜の露    紹巴 一つらの鷹が山こへかすかにて   光秀   唐何 第九 たつにしもきほひにけりな村千鳥  光秀 鴈《かり》の啼音《なくね》のこほる中空       昌叱 吹渡る嵐の末の霜置て       紹巴   山何 第十 ふりそひていく野も近し峰の雪   光秀 外面《とのも》の竹もなびく冬草       紹巴 一村のかきほは梅にかこはせて   心前 [#ここで字下げ終わり]  これで見ると、紹巴らは、光秀に招かれて、丹波の亀山に行ったらしい。連歌に味わえる不即不離の言葉の妙味は、どこにあっても、光秀の官能を魅惑してやまなかったとみえる。  なお、連歌師紹巴に与えた光秀の自筆書状を、もう一つ、紹介しておく。 [#ここから1字下げ] 聖門様《しようもんさま》より両種拝領。誠に過当の至りに候。則ち参上仕り申し上ぐべく候といえども、丹州へ指し急ぎ候条、其の儀なく候。御取り成し仰ぐところに候。毎々かたじけなく存じ候。恐々謹言。   十月四日 [#地付き]光秀(花押)    臨江斎     床下 [#ここで字下げ終わり]  文中の聖門様は、聖護院門跡|道澄《どうちよう》のこと。丹州は丹波であろう。  天正九年(一五八一)の正月六日、光秀は、近江の坂本の居城において連歌会を催した。そのことは、『兼見卿記』によって明らかだが、なお、『津田|宗及《そうぎゆう》茶湯日記』によれば、同年の四月九日、堺の茶匠津田宗及が、光秀の居城丹波の亀山から奥郡に向かい、十日には福知山で、明智秀満の振舞いを受け、十二日の朝は、丹後の宮津で細川忠興の饗応にあずかり、茶の湯の会もあった。同日の巳《み》の刻(午前十時)には、与謝郡の九世戸《くせと》を船で見物し、天の橋立の文殊堂で振舞いがあった。このとき、光秀・細川藤孝・里村紹巴の三人で連歌会を催している。 [#ここから1字下げ] 植うるてふ松は千年《ちとせ》のさくら哉   光秀 夏山うつす水のみなかみ      藤孝 夕立のあとさりげなき月見えて   紹巴 [#ここで字下げ終わり]  なお、このとき、『源氏物語』の若紫の巻の講読がおこなわれ、光秀は、これを聴聞《ちようもん》している。おそらく、藤孝か、紹巴の講読であろう。  しかし、光秀と連歌というと、なんといっても有名なのは、天正十年(一五八二)五月二十七日、愛宕山の西坊で催された九吟百韻の興行である。このときは、光秀が十五句、紹巴十八句、昌叱が十六句、光慶《みつよし》が一句、兼如が十二句、心前が十五句、西坊行祐《にしのぼうぎようゆう》が十一句、宿源が十一句、行澄が一句を詠んでいる。 『続群書類従』の連歌部所収『天正十年明智光秀愛宕山百韻連歌』には、その全句を載せている。  まず、光秀が、 [#ここから1字下げ] 時は今|天《あめ》が下しる五月哉 [#ここで字下げ終わり]  と、発句《ほつく》すると、愛宕山西坊の行祐が、これに続けて、 [#ここから1字下げ] 水上まさる庭の松山 [#ここで字下げ終わり]  と、脇句をつけ、そして第三句は、紹巴が、 [#ここから1字下げ] 花落つる流れの末をせきとめて [#ここで字下げ終わり]  と、賦し、百韻の揚句が、光秀の長男十五郎光慶の——国々はなほ長閑《のどか》なる時——の一句であった。  六月二日の本能寺の変をさかのぼること数日のことであって、この光秀の発句は、当日の光秀の大事決行の真意を暗示したものだと、一般にはいわれているが、前にも述べたように、光秀も、この発句によって、愛宕山の社僧や連歌師などに大事の秘密を悟られるような間抜けではないから、光秀の発句は、——時は今天が下なる五月哉——とあったのを、後世の物数寄《ものずき》が、光秀の叛逆を文学的に強調するために、——天が下しる——と、改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである。  このように、連歌にたいする関心は、光秀の後半生を通じて、しばしば見うけられるが、和歌についても、おそらく同様であったと推測される。  光秀の和歌としては、某年、かれが居城近江の坂本に近い志賀の唐崎の松が、いつしか枯れたのをながめて、これを植えついだ際の和歌というのが、『常山紀談』に載っている。 [#ここから1字下げ] われならで誰かはうえむひとつ松   こゝろしてふけ志賀の浦かぜ [#ここで字下げ終わり]  古歌の影響もあらわに見られるが、優にやさしい光秀の心ばえの一端もうかがわれる。  つぎに、光秀自筆の短冊も、現在、伝わっており、その一つは、保阪潤治氏の旧蔵にかかる。 [#ここから1字下げ] 進上 九重のうちさへとをき東がた 人々御中    たびとしきかば待やこがれむ [#ここで字下げ終わり] [#地付き]光秀   もう一つは、蜂須賀旧侯爵家の所蔵にかかる。 [#ここから1字下げ] 見花《みるはな》 咲つづく花の梢《こずえ》をながむれば [#ここで字下げ終わり]    さながら雪の山かぜぞ咲 [#地付き]光秀  [#1段階大きい文字](二)光秀と茶の湯  光秀には、また、茶の湯の嗜みもあった。茶の湯は、連歌や和歌以上に、当時流行していたから、信長も武将の教養の一つとして、部下にたいして大いに奨励していた。だから、光秀がこの道に精進したのも当然といえる。  光秀の茶の湯は、堺の茶匠との交誼から始まっている。永禄十一年(一五六八)、足利義昭や信長に従って上洛すると、光秀は、京都奉行として、一切の政務にあずかっていたので、堺から上京して信長に近づいた今井|宗久《そうきゆう》や津田|宗及《そうぎゆう》との接触も、自然と度数をかさね、その間に宗及から茶の湯を学ぶことになったらしい。同年十月廿七日付で光秀に宛てた宗久の書状も最近発見された。  光秀が茶会を催すにあたっては、もちろん、信長の許可を得たものであろう。信長は、茶の湯政道ということを唱え、並みなみの武士にはこれを催すことを許さなかったからだ。光秀が茶会を催すことを信長から許されたのは、いつのことか明らかでないが、『津田宗及茶湯日記』に出てくる光秀の茶会は、天正六年(一五七八)の正月十一日をもって始めとする。秀吉が茶の湯開催を許可されたのも、天正六年のことだから、この天正六年正月十一日の光秀の茶会は、おそらく、茶の湯を免許された光秀の茶会としては、最初のものと思われる。  この日の招客は、宗及・道是《どうぜ》・宗訥《そうのう》の三人で、信長から同年の正月元旦に拝領した八角釜を披露している。光秀が八角釜を拝領したのは、その前年に松永久秀を大和の信貴山城に討ちほろぼした光秀の武功にたいする恩賞であったといわれる。座敷飾りは、床の間に牧谿《もつけい》筆|椿《つばき》の図を掛け、小板に頬当風炉《ほおあてぶろ》を置き、八角釜を鎖《くさり》で天井から釣っている。宗及が亭主役をつとめて、炭手前をやり、一同が席をたち、手水《ちようず》を使って、後座《ござ》入りする。すると床畳《とこだたみ》の前に、金襴の袋にはいった青木肩衝を四方《よほう》釜に載せて置き、棚には、上の段に堆黒《ついこく》の台に霜夜天目《しもよてんもく》を据え、下段のには砂張《さわり》の水こぼしを置いている。宗及が、亭主の光秀に代わって、濃茶《こいちや》の点前《てまえ》をする。茶事が終わり、食べものが出て、一同が退席する。それから、手水を使って、こんどは薄茶《うすちや》席に入る。床の間に掛物が取り払われ、中央に八重桜の銘のある大きな葉茶壺が、白地金襴の袋に入れて飾ってある。ここで唐物茶碗で薄茶の点前を若狭屋宗啓がやる。これも堺の富商である。炭斗《すみとり》は瓢箪《ひようたん》、火筋《ひばし》は六角である。それから振舞いとなり、本膳は綴折敷《つづりおしき》、土器に鮒膾《ふななます》、生鶴《いきづる》の汁。この鶴も信長から拝領したものだという。だから、信長も、ずいぶん、光秀に目をかけていたのである。冷遇されていたとはいえない。さて、金箔《きんぱく》を置いた上に絵のある桶にあえもの[#「あえもの」に傍点]。大土器に土筆《つくし》と独活《うど》のあえもの[#「あえもの」に傍点]を入れて、膳の上に出した。それから、鶉《うずら》の焼鳥が出る。菓子は、縁高重《ふちだかじゆう》に造花を布いて、薄皮饅頭《うすかわまんじゆう》と煎榧《いりかや》。後段《こうだん》は、白木脚付の膳に、冷やし麦麺に山椒《さんしよう》の粉《こ》と切柚《きりゆず》を添えて、添え肴に芹《せり》焼。魚肉の丸子を入れた吸物。土器にむき栗、金柑《きんかん》。食籠《じきろう》に味噌と山椒、といった具合であった。  食事が終わってから、光秀は、白綾の小袖と茶の織色《おりいろ》の小袖一重を、宗及にあたえた。信長へ年賀におもむく際の着物であるという。  茶会が終わって、宗及は、城内から御座船に乗り、安土へ行った、というから、この茶会は近江坂本の光秀の居城で行なわれたらしい。風炉に釣釜を用いたのは、天文年間の古風であるという。会席料理の献立は、特に珍品揃いで、奢侈《しやし》を尽くしている。  このころ光秀は、茶の点前にまだふなれであったとみえて、亭主のやることは、みな、津田宗及が代役しているが、その師匠格である宗及にたいする光秀の態度は、すこぶる慇懃をきわめ、茶の湯のこころに叶ったものといえる。つまり、年賀用のためであるといって、白綾の小袖や、茶の織色《おりいろ》の小袖一かさねを用意したり、御座船を仕立てて、宗及の安土参賀の便宜をはかるなど、至れり尽くせりと、いわねばなるまい。  そのつぎは、天正七年の正月七日、光秀が丹波の八上城主波多野秀治を討つために出陣することを聞き、津田宗及が送別に来た際の茶会である。これも、『津田宗及茶湯日記』によれば、六畳座敷の床《とこ》には紅《くれない》の口覆《くちおおい》をした八重桜の葉茶壺だけを飾り、茶の湯は三畳座敷で、八角釜、霜夜天目《しもよてんもく》などを用いて、催されたのである。  その翌日の朝も、ひきつづいて、六畳の座敷で茶会が催された。客は宗及と草部屋道設《くさべやどうせつ》である。炉に筋釜《すじかま》を釣り、床の間には定家《ていか》卿の小倉《おぐら》色紙——淡路島かよふ千鳥——の和歌である。茶碗は高麗《こうらい》茶碗、水こぼしは備前焼。道設の所望で、光秀は八重桜の大壺を拝見させている。  天正八年になって、正月九日の朝、茶会があった。その前年に光秀は、細川藤孝を援け、しばしば丹後に出兵し、これを平定したのである。そこで信長が媒酌して、光秀の四女が藤孝の長男細川忠興に嫁ぎ、また光秀の五女が、信長の甥の津田信澄の妻となった。それで、このとき、すでに光秀は信長の縁戚となっていたので、京都の明智屋敷に御成《おな》りの間《ま》を設け、信長の宿泊所と定められたのである。  この朝会は、光秀の京都屋敷で催されたらしく、床の間に紅梅の大枝を一つ活け、長板の上の風炉に八角釜を懸け、南蛮の芋頭《いもがしら》水指を並べ、高麗茶碗で御茶(濃茶)が点てられた。信長から拝領の嘉例の生鶴《いきづる》の吸物《すいもの》一種で、御酒が出た。菓子は麩《ふ》一種であった。  やがて昼になると、例の御成りの間に移って、料理を頂く。床に三幅対の絵を掛け、料理の本膳は菜数《さいかず》七つ、二の膳は同じく五つ、三の膳も同じく五つ。本膳にはみな、金箔を押している。そのほか、いろいろな肴が出た。  同年(天正八年)の十二月二十日の朝、光秀は筒井順慶と宗及を招いて、また、茶会を催している。床には青磁|瓢形《ふくべがた》の花瓶に水仙花を活け、炉に鍋形の釜を釣っている。炭手前が終わって、ひとまず退席し、手水を使ってふたたび座敷にはいると、床には花瓶をのけて、大燈国師《だいとうこくし》の墨蹟《ぼくせき》を掛けた。高麗茶碗・青木肩衝・落葉の大壺を持ち出し、客前で大壺の目張りの封を切った。つまり、口切りの茶会である。  この日、昼になって、次の間で釜だけを丸釜にかえて、茶を点てたが、晩景から夜にかけては、斎藤内蔵助利三のところで茶会が催された。利三は、光秀の妹婿《いもうとむこ》である。  翌二十一日(十二月)の朝、また、光秀の京都屋敷の別の部屋で茶会があった。炉に八角釜を据え、床には、備前|槌形《つちがた》の花入を卓《じよく》に置き、紅《くれない》の盆に大海《だいかい》の茶入をのせ、瀬戸天目を青貝の台にのせている。薄茶は、井戸茶碗に点てた。以上は、宗及の点前で茶を点てたのである。そのあとで、香炉、花入、水指、盆など、種々の道具を拝見した。帰りには、袷《あわせ》の小袖一かさねずつを、宗及とその子の吉松に与えている。  つぎが、天正九年(一五八一)の正月十日の朝会である。これは、津田宗及が、堺の山上宗二《やまのうえそうじ》を初めて、光秀の京都屋敷に同道したときの茶事であって、床に定家の小倉色紙を掛けているだけで、そのほかは、いつもと変わりなかった。その翌日、また、光秀の朝会があり、客は山上宗二と宗及であった。ただ、このときの茶席は、浜の座敷であって、宗及が代わって茶を点てた。茶事が終わると、津田吉松に小袖一かさねが与えられた。  同年の四月九日、光秀は、連歌師の里村紹巴を伴い、丹波の亀山城をたち、丹後の宮津に女婿の細川忠興を訪問した。光秀らが細川屋敷にはいったのが、十二日の朝であった。この日の茶会の人数は、光秀父子三人。これは、おそらく、光秀と息子二人のことであろう。この場合、光秀の息子二人というと、だれとだれとを指すか。『系図纂要』によれば、これは、おそらく、光秀の長男光慶と次男自然丸(定頼)のことではなかろうか。それから、細川藤孝父子三人。これは、細川藤孝と忠興と興元《おきもと》であろう。ついで、里村紹巴、津田宗及、山上宗二、平野屋道是であった。会席料理の本膳は七菜、二の膳は五菜、三の膳も五菜、四の膳が三菜、五の膳も三菜。引肴《ひきざかな》は二種であった。菓子は造花で、十一種でた。酒宴の最中に、細川忠興から舅《しゆうと》の明智光秀にたいして、地蔵行平《じぞうゆきひら》の太刀が進上された。巳の刻に九世度《くぜど》を見物する。一同が御座船に乗って、天の橋立に遊び、船のなかで、またいろいろの饗応があった。  天正十年(一五八二)は、本能寺の変のあった年だが、この年の正月七日の朝、光秀は、山上宗二と津田宗及を招いて、茶会を開いている。おそらく、京都の明智屋敷であろうと思うが、茶室の床の間には、信長直筆の書を掛けている。道具は、だいたい、いつもの通りだが、宗及が代わって茶を点て、光秀も一服飲んでいる。  同月二十五日にも、光秀の朝会があった。招客は、博多の富商島井|宗叱《そうしつ》と、津田宗及である。光秀は、この朝会で、信長から拝領した平釜を初めて炉に懸けている。床には例の定家の色紙。ただし、その前下に、定家所持という文台二硯《ぶんだいにけん》を飾っている。これは、どこから手に入れたか、明らかでない。  同月二十八日にも、光秀は、近江坂本の居城で朝会を催している。客は、宗訥、宗二、宗及の三人である。 『津田宗及茶湯日記』に見える光秀の茶会は、以上のようなもので、天正六年正月から同十年正月まで十回近く催している。しかし、これらは、津田宗及が招かれた会だけだから、このほかにも、光秀は、京都の明智屋敷、近江の坂本城、丹波の亀山城あたりで、しばしば茶事を催していたに相違ない。要するに、光秀は津田宗及について茶法を学び、信長から拝領の分も含めて、八重桜の葉茶壺、八角釜、青木肩衝、定家筆小倉色紙の掛物などの名物茶道具を秘蔵していたのである。信長の茶の湯政道といった一種の奨励策によって、織田家中には、茶の湯愛好の武将が多く輩出したが、明智光秀などは、そのなかで屈指の数寄者であったといえるだろう。 [#1段階大きい文字](三)光秀の人物  光秀の学識・教養・芸能の嗜みなどについて大略述べたから、あらためて、その人物論を試みたい。じつは、ここが本書の眼目《がんもく》でもあり、結論でもあると、筆者は思っている。  光秀は、まず、生来の性格からして、きわめて沈着で、冷静な、理性の勝った、いわゆるマジメ人間であったように思われる。美濃の土豪明智氏の一族にあたる武士の子として、戦国乱世の武士にありがちな、粗暴さ、荒々しさ、残忍性がなく、現代でいうと、教養を身につけているインテリ軍人である。  フロイスの『日本史』第十七章には、信長のことを絶賛し、光秀のことを酷評し、「その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた」とか、または、「彼は、裏切りや密会を好み、刑を課するに残酷で、独裁的でもあったが、これを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては、謀略を得意とし」とか、あるいは、「友人たちの間にあって、彼は、人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ、学習した、と吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略に精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい」などと述べている。  しかし、これは、進歩的で、珍奇好みの信長がキリシタンをはなはだ優遇したのに比べて、保守的で、京都の禁裏・寺社奉行として、責任者の地位にあった光秀が、寺社の僧侶や神主をかばい、キリシタンの行き過ぎを規制したからであって、外国人の観察だからといって、その所記を、頭から信じてかかるのは、間違いである。つまり、光秀は、信長と同様な合理主義者ではあったが、保守的な人物であった。だから、かれの元来の理想は、天下を盗りたいといったような、だいそれたものではない。  野心家ではあったが、せいぜい、智謀一筋で一国一城のあるじにでもなれれば、それで満足する人間だったと思われる。また、合理主義者ではあるが、信長に見られるような、放胆な革新主義者でもなかった。越前の朝倉家に仕えていた若年時代も、智謀には秀いでていたが、亡命将軍足利義昭の境遇に同情し、義昭の近臣として付き添ってきた細川藤孝の忠誠ぶりに共鳴し、その勧めによって、藤孝組下の足利家臣となり、義昭の上洛と将軍就任のために尽力することになった。  岐阜に赴いて、信長に仕えたのも、義昭を将軍にするための方便であった。だから、当時の光秀の目的は、藤孝とともに、義昭に従って上洛することであり、かれの理想は、足利将軍家の再興であった。その点、京都公方をも守り立てると宣言した上杉謙信の目標と同格であったといえよう。光秀にとって、朝倉家に仕えたことは、結果的に見て、一つの方便にすぎなかったし、信長に臣事したことも、義昭を奉じて上洛するための方便にすぎなかったのである。  しかし、上洛を遂げてからの光秀は、足利将軍義昭よりも、むしろ、革新政治家である信長に、その合理主義的な智謀と軍略を認められ、足利幕臣としてよりも、信長の部将として、大いに登用せられた。そうして、義昭と信長が不和になり、両者の間の冷たい戦争が温かく、さらに熱くなってくると、足利将軍家と室町幕府の没落と滅亡を見越した光秀は、細川藤孝よりも二年ほど早く、足利家臣から織田家臣ひとすじへと、巧みに車を乗りかえた。  そのため、光秀は、信長によって、近江滋賀郡坂本五万石の大名となり、日向守に任じ、惟任《これとう》という九州の名族の姓まで授けられた。これは信長が、将来、惟住《これずみ》(丹羽)五郎左衛門尉長秀とともに、惟任日向守を九州遠征の先鋒たらしめようと計画したからだといわれている。天下布武の印章を用いて、革新的な武断政治をもって天下統一を策した信長は、部将としての光秀の優秀性を認め、これを優遇し、丹波平定が果たされてからは、光秀に丹波一国亀山二十九万石を加増し、光秀は都合、三十四万石以上の大名と成り上がったのである。光秀は、もちろん、信長の恩恵に感謝はしていた。  しかし、織田家臣・信長の部将ひとすじに切りかえてからの光秀は、しだいに、信長の行動について行けなくなった。戦国乱世に荒鍬を立てるための革新的な武断政治の必要性は、光秀も認めるが、信長の独裁政治、とくに多量殺戮の酷刑には、疑問をもった。見せしめのためとはいえ、老若男女の差別を問わない連座の苛刑には、合理主義者だけに、また、インテリ武将だけに、付いていけないのである。  ことに、信長の根深い猜疑心と、容赦のない残虐性は、信長のために長年忠節を尽くしてきた織田家重臣の上にも及び、それが、いずれは光秀自身に及ばぬとは保証できないと考えるにつれて、光秀は、主君としての信長を全く信頼できなくなってきた。前途にたいする不安は、つのるばかりである。そのうえ、信長は、光秀にたいして、しばしば、言語に絶する屈辱をあたえた。人前を憚らぬ暴言と暴力が、肉体にも、精神にも、加えられた。武将としての面目がまるつぶれにされることが、まま、あった。光秀は、その屈辱にじいっと堪え忍んできた。しかし、忍従にも限度があった。そうして、ついに武将としての光秀が生きがいとする武辺《ぶへん》の道、侍道《さむらいどう》の筋目《すじめ》がそれを許さなくなってきた。人間としての光秀の自尊心、自我の尊厳が、それを放置しておけなくなったのである。  こうして、光秀の自由意思によって決行されたのが、本能寺の変であるが、それは、天下盗りのためのクーデターでもなければ、足利将軍家の再興運動でもなかった。自己の不安を取り除き、自己に加えられた屈辱をそそぐためでしかなかった。したがって、信長を倒してからの光秀の行動は、一向に華々しくなく、人望も日増しに落ちていった。縁族にも、組下の大名にも裏切られ、光秀の意気は日ごとに消沈していった。しかし、明智家臣団の中核をなす一族郎党の美濃・近江衆、かつて足利家臣だった幕府衆、光秀の丹波経略のときに臣従した丹波衆の有力部将たちは、山崎決戦の最後まで、光秀を裏切ることなく、悪戦苦闘の末に、討ち死にした。それは、六月十三日当日の戦死者の顔触れによって、実証できる。が、それにもかかわらず、光秀の戦略は、秀吉のそれに比べて、拙劣をきわめ、最期もいさぎよいとはいえなかった。これは光秀が、城攻めの名人ではあったが、野戦で勝てる自信に乏しかったからだ。  このことについて、かれの親友細川藤孝は、——光秀には、自分のいのちをかばう気があったからだ——と、看破している。つまり、敵の城を攻める場合は、部下の兵士を犠牲にするだけで、自分の生命に別条はないから、安心して攻めることができる。しかし、野戦の場合は、大将である自分のいのちを犠牲にし、死ぬか、生きるかの覚悟で戦わなければならぬから、自分のいのちをかばう合理主義者としての光秀には不向きである、というのだ。したがって、合理主義者としての光秀は、山崎の決戦で壮烈な討ち死にをとげるというような覚悟をきめてなかったから、夜陰にまぎれて勝竜寺城を脱出し、近江の坂本の居城に向かって遁走する途中、前述のような、不甲斐ない最期を遂げたのであった。これを卑怯未練と評するのは、間違っている。現代人に近いほど合理主義に徹した光秀は、できるだけ生きながらえて、身の安全と再起をはかりたかったのである。  光秀は、大名としても、武将としても、おそらく、信長とは反対に、領民や部下にたいして、やさしく、いたわりがあったのであろう。また、明智一家の主人公としても、理想的なあるじであったに相違ない。だからこそ、信長のワンマンぶり、暴虐行為には、ついていけなかったのだ。今日でいうと、光秀は典型的なマイホーム族ではなかったか。 [#1段階大きい文字](四)悲運の明智一族  最後に、明智光秀の一族について概略述べることとする。それには、まず、光秀が六月十三日(天正十年)、城州|小栗栖《おぐるす》であえない最期をとげてから、光秀の居城近江の坂本に残した家族がどうなったかを、説明せねばなるまい。  光秀の山崎の勝竜寺城脱出後、城兵が四散したので、山崎合戦の翌日(六月十四日)、羽柴秀吉は、勝竜寺城を占領したが、同時に、堀秀政を近江の坂本に、高山重友と中川清秀を丹波の亀山につかわし、秀吉自身は、神戸信孝とともに、上京し、亡君信長の遺骨を葬った。ついで、洛中洛外に兵士を配置し、明智軍の残兵を捕え、これを斬らせている。  いっぽう、光秀の従兄弟《いとこ》にあたる明智秀満(光春)は、近江の坂本城にいたが、六月十三日、光秀が山崎で苦戦していることを聞くと、十四日、一千余の軍勢をひきいて、光秀を援けるために西進したが、大津で、羽柴方の堀秀政の部隊と衝突した。そこで、打出《うちで》の浜で交戦したが、秀満は、敗退し、残兵をまとめて坂本城に戻った。  秀吉は、六月十四日、信孝とともに、園城寺《おんじようじ》に進出し、坂本城攻めの作戦を練った。そこへ小栗栖の土民が、光秀の首級を届けた。秀吉は、光秀を討ちとったことを八方へ布告し、首級を本能寺にさらした。  光秀の敗死を知った明智秀満は、もはやこれまでと、覚悟をきめ、坂本城に火を放ち、光秀の妻子らを刺し殺し、かれ自身も切腹して果てた。時に、四十六歳。そのとき非業の最期をとげたのは、光秀の妻(妻木|範煕《のりひろ》の娘。四十八歳)、次男の十二郎定頼(十二歳)、三男の乙寿丸《おとじゆまる》(八歳)、長女の明智秀満の妻(二十九歳)、次女の明智光忠の妻(二十七歳)、五女の津田信澄の後室(十七歳)である。光秀の従兄弟で、かつ娘婿でもある明智光忠(四十三歳)と明智|茂朝《しげとも》も、殉死している。  六月十五日になると、信長の次男北畠|信雄《のぶかつ》が近江の土山から安土に着き、十六日には、大津にいた秀吉と信孝も安土に到着したので、三者会見を遂げている。明智方に加担した武将たちは、これを知ると、ことごとく狼狽した。長浜城を占拠した妻木範賢は逃亡するし、佐和山城の荒木行重は降参し、山本山城の阿閉貞秀も、城を攻められて、降服し、山崎堅家も降る、といった有様で、近江は程なく平定された。  光秀の股肱の臣といわれた斎藤利三は、近江の堅田《かただ》で捕えられ、洛中を引きまわし、六条河原で斬られた。秀吉は、六月十八日、光秀と利三の死体に、斬った首を、それぞれ、つなぎあわせ、日ノ岡で磔《はりつけ》にしている。また、七月二日に、明智秀満の父三宅出雲守を捕え、やはり磔にした。享年六十三であった。  なお、丹波に向かった高山重友と中川清秀は、六月十四日、亀山城を陥落させ、城中にいた光秀の長男十五郎|光慶《みつよし》(十四歳)を殺害している。そのため、丹波も平定され、明智一族は全滅してしまったのである。世に明智の三日天下とよばれているが、まことに、はかない叛逆者の末路であった。  明智光秀が、逆臣の汚名を千載青史に留めたのは、一つには、山崎の決戦で光秀を討ち滅ぼした秀吉が、主君信長の仇を討った功績を言いがかりにして、かれ自身が信長の死後、織田家の天下を横取りした罪を糊塗するために、光秀を特に稀代の叛逆者として強調し、宣伝する必要に迫られたからであろう。秀吉は、光秀に謀叛人のレッテルを貼ることによって、自己の行動の正当化をはかったのである。  信長も、秀吉も、家康も、主君にたいする叛逆者であるといった点で、光秀とそれほど変わりがあるわけでもない。しかし、光秀だけが、とくに悪人扱いにされているのは、一つに、本能寺夜襲といったような、松永久秀にも似た、卑劣きわまる叛逆手段を用いたせいであろうと、筆者は推論する。  しかし、光秀の本能寺夜襲がなくては、信長は殺害されず、信長の殺害なくしては、秀吉への政権交替は行なわれず、日本全国の平定と統一も、はるかに難航したことと推測されるから、その意味において、叛逆者明智光秀の存在も、歴史の発展と進歩の上から大観すると、かならずしもマイナスではなかったように、結論される。  が、光秀のことを、叛逆の英雄あつかいにするのは、明智びいきの歴史ファンの勝手な自己満足にすぎないように思われる。光秀が小栗栖で殺されずに、生きながらえ、後に天海僧正《てんかいそうじよう》として再現したなどという説も、大衆小説の構想としては面白くなくもないが、やはり、明智びいきのなせるわざであって、史実としては全く成立しない。  しかし、明智びいきの歴史ファンには、権力者や独裁者の横暴を憎み、その没落をこころよしとする、庶民的な感情を代弁しているところがあり、何か、われわれ現代人の共感を誘うものがあるように思われる。  光秀の叛逆の根底にある主張は、はなはだ近代的、今日的なものではなかったかと、筆者は考える。それは独裁者にたいする自由解放の主張であり、また、人命尊重の提唱ではなかったか。その主張や提唱がついに無視され、蹂躙《じゆうりん》されたとき、被害者の唯一の抵抗手段として、本能寺のテロが敢行されたのだ。  武将としての面目を傷つけられ、名誉を辱《はずかし》められたということは、今日でいえば、自我の尊厳をふみにじられた、ということになるのである。 [#改ページ]   あとがき  最近、ある一流企業の入社試験で、受験者に、尊敬する人物の名を書かせたところが、ひところあったように、信長とか秀吉とかいった歴史上の英雄や偉人の名を書くものが、意外に少なかったとのこと。世代が著しく変わったとはいえ、明日の日本をしょって立つ青年の正しい心のよりどころが失われてゆくような気がして、がっかりした。しかし、その理由というのを聞いて、改めて、なるほどと、納得させられたのである。史上の人物の伝記といっても、どうせ、小説家の書いたものだから、信用できない、という受験者の意見である。今日の青年は、それほど疑い深くなっているらしいが、それは、言いかえれば、真実を確かめ、本当のことならば、すべて信頼でき、尊敬もできるといったことにもなるのであった。  ところで、歴史上に知名な人物の伝記を書くのは、意外にむつかしいことである。それは、常識としてだれでも一通り知っていることだし、だれがその史伝を書いたとて、大たい同じようなものができあがる可能性が多いからであろう。ところが、作家の書く伝記文学や歴史小説となると、話が、かなり違ってくる。かれらは、史実というものを原則的には無視し、その作家独自の主観で書く。都合のいい時だけ、史実と同じか違うかを問題とするが、都合の悪いときには、歴史家ではないと逃げをうつ。概して、書きたい放題のことを自由自在に書きまくれば、それで済む。十人|十色《といろ》という言葉があるが、十人の作家が源義経の伝記を書けば、十色の義経ができあがるのが当然とされ、同じようなものが一つでもできたのでは、盗作といわれる恐れさえ生じるから、それを用心し、ことさらに違った義経を書くように努力することになる。歴史そのままであろうが、歴史ばなれしていようが、文学作品として優れていれば、それでいいのだ。一流作家とよばれるようになると、だれでもが、いちどは、太閤記を書いてみたくなるのも、自分の独自性を創作として示す必要からきているようである。  しかし、歴史家が史上の人物伝を書くとなると、話が、かなり違うどころか、むしろ、逆になってくる。つまり、一人の完璧な信長伝を仕上げるためには、十人の専攻学者の史実研究と史論の展開を必要とせねばならぬ。したがって、歴史学者が厳正な学問的態度で批判をくだすと、たとい、文学的には優れた歴史小説であっても、史伝としては、史実考証の面からいって、不完璧な未熟な試作にすぎない、ということになってくるのである。  こんど、新人物往来社出版部の依頼で、筆者が書いた『明智光秀』は、叛逆者として有名な明智光秀の伝記だが、もちろん、筆者なりの、一つの私説にすぎない。本格的中篇歴史小説としては、故中山義秀氏の『咲庵』があり、短篇では、井上靖氏の『幽鬼』があり、いずれも定評のある秀作である。また、専門歴史学者の著述としては、故高柳光寿氏の『明智光秀』が、すでに吉川弘文館から出版されている。同書は、文献史料の考証にすぐれており、筆者も、これに負うところ甚大であった。本書『明智光秀』は、高柳氏のそれに次ぐ学究的著述として、それでも、新史料の紹介、文献の新解釈、歴史的推理の展開などの面で、さらに一歩を進めたつもりではいる。これは、後進の筆者として、当然、要望され、期待さるべきことであろうと信ずる。  本書のおもな特色といえば、光秀が信長を殺害した原因を、天下取りの野望のためと初めからきめてかかる諸氏の説に反駁を加え、それ以前に俗説としておこなわれた、さまざまな怨恨説をも飽きたらずとし、残存する稀少な文献史料に準拠して、歴史的推理を試みた結果、光秀が信長を本能寺に夜襲し、これを自害にまで追いこんだのは、狭い意味では、武将としての光秀の面目を信長によってしばしば蹂躙された、その鬱憤を晴らすため、広い意味では、信長の革命先行の、無差別大量虐殺行動にたいして、恐怖と憎悪と義憤をおぼえたため、近代的な造語でいうと、人命の尊厳と人権の独立自由を主張したかったからである。本能寺夜襲は正義のテロだったと言えなくもない。  革命家としての信長は、比叡山焼き討ちや本願寺門徒殲滅作戦に見るような、多数の人命を犠牲にすることを恐れなかったが、人道主義者としての光秀は、信長の意図と行動を憎悪し、かれの果たし得る最も有効な手段によって、信長を殺害し、自分をも含めた人命犠牲を食いとめることに成功したのである。光秀の行動は、単なる主君にたいする叛逆といったような小さなものではなかった。自分が天下を取るのが目的ではない。信長を殺しさえすれば満足だったのだ。  信長、秀吉、家康ほどの怪物は、今日の社会では、到底、発見できないが、光秀くらいなタイプの人間ならば、存在しなくもなかろう。いや、光秀こそ、史上における、最も今日的な人間だと、いえそうな気がする。本書が、幸いにして、そうした意味での、光秀びいきの歴史ファンの共感と共鳴を得れば、筆者の満足これにすぎるものはない。  終わりに、本書を完成するにあたって、新人物往来社の編集局長鎗田清太郎氏の絶えざる激励と助力にたいして、深甚の謝意を表したい。     昭和四十八年仲秋吉祥日 [#地付き]東京武蔵境桜橋豊梅庵     [#地付き]桑 田 忠 親   [#改ページ]   文庫本刊行に際してのあとがき  新人物往来社の依頼で史伝『明智光秀』を著わしてから、はやくも十年を経過した。本書執筆の動機と主旨については、新人物往来社版『明智光秀』の「あとがき」に説明した通りである。類書の稀少な戦国武将の伝記を歴史学者の立場から著述してみたいと念願してきたからである。しかし、十年ひとむかしというけれど、この間に、当然のことながら、新説と称するものが発表された。そこで、こんど、この拙著を「講談社文庫」に収めるにあたって、その新説がどんなものであるかをここに紹介し、それに対して、現在の私なりの批判を加えてみたいと思う。  明智光秀の生涯の事蹟と人物について論述するにあたって、古くから問題にされているのは、主君の織田信長に対して光秀が何故に叛逆を企てたか、なぜ、信長を本能寺に襲い、これを自害させたか、ということである。しかし、その原因と動機については、全くの謎《なぞ》とされているわけではなく、古くから、歴史学者によって諸種の学説が述べられてきた。そして、それは、大別すると、怨恨説と野望説とにわかれる。このうち、怨恨説は、興味の深い逸話が沢山あるためか、多くの小説作家によって支持されてきた。しかし、その関係史料が後世に書かれた伝説であるために、ある有力な歴史学者は、これを否認し、光秀が信長に叛逆を企てたのは、私恨を晴らすためではなく、信長に代わって天下を取りたかったからだとし、光秀野望説を主張したのである。しかし、この野望説とて、信長や光秀在世当時に書かれた一等文献史料である古文書や日記の裏づけがあるわけでもない。ただ、下剋上の思潮が普及していた戦国時代にあっては、だれでもが天下を取りたいという野望を胸に抱き、常にそのチャンスをねらっていたに相違ないと、仮定しての推論にすぎない。これは、一種の観念論であって、現実性に乏しい学説といえる。史実としては、数多くの戦国武将のなかで、天下取りの野望を抱き、その実現のチャンスを窺うような自信のあるものが、果たして幾人いたであろうか。信長とても今川義元を倒すまでは、秀吉とても信長の死後、家康とても秀吉の死後までは、その自信がなかった。それにしても、今川義元、武田信玄、上杉謙信くらいの実力者ならばまだしも、明智光秀のような三流以下の武将が、そんな、だいそれた野望の企画者であったとは考えられない。明智びいきの空想とはいえ、ひいきの引き倒しにすぎない観がある。  ところで、近年、ルイス・フロイスの『日本史』の、本能寺の変直前の記事の翻訳文が紹介されたが、そのなかから、家康饗応の役目を信長から命ぜられた光秀が、些細《ささい》なことで自己弁解をしたため、信長の激怒に触れ、人前で二度も足蹴《あしげ》にされて、武士の面目を潰され、恨み骨髄に徹したという事実が発見されたため、かつて、ある有力歴史学者によって否定された光秀怨恨説が、ここに再肯定されることになったのである。  なお、怨恨説については、これを肯定する有力な一等文献史料がある。これも、すでに拙著『明智光秀』に紹介したけれど、『別本川角太閤記』所収の六月二日(天正十年)付《づけ》、小早川左衛門佐(隆景)宛、惟任《これとう》(明智)日向守(光秀)密書の写本である。この密書の文中に「光秀こと、近年、信長にたいし、いきどおりを抱き、遺恨、もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐《そかい》を達し候」とあるのが、これだ。この密書は写本ながら、偽書とは到底考えられない現実味のある文章だから、光秀天下取りの野望説を主張した有力な歴史学者も、さすがに否認はしていないけれど、この文章を、「光秀の単なる謡《うた》い文句にすぎない」などと称して、故意に光秀怨恨説を否認しているのである。しかし、これは、苦しまぎれの詭弁にすぎない。  私は、光秀野望説を以上のような理由で否定すると同時に、光秀の叛逆は、単なる怨恨だけではなくて、彼の前途に対する不安と絶望感に起因する自己防衛手段ではなかったかと、思うのである。そして、光秀の不安と絶望感の原因として、光秀の備中出陣の直前に信長から通告された国替《くにがえ》の問題を取り上げてみた。出雲《いずも》と石見《いわみ》の二国を斬り取り次第に光秀に与える代わりに、本領の近江の志賀郡(坂本城)と丹波一国(亀山城)とを没収する、というのである。斬り取り次第で遠国《おんごく》への国替を知って、光秀が前途に不安と絶望感を抱いたのも無理ではなかったといえる。しかし、このことは、『明智軍記』という江戸前期に書かれた軍記物に書いてあるだけだから、余り当てにもならない。しかし、信長は、「斬り取り次第」という命令を羽柴秀吉や滝川一益らの部将にも出しているから、あながちに否定することもできないような気もする。それはともかく、光秀の前途に対する不安と絶望感は、このほかにもあった。それは、本能寺の変の三年ほど前から、信長に叛旗をひるがえして逃亡した信長の功臣・摂津|有岡《ありおか》城主荒木村重の一族僕婢数百人が、信長によって惨殺されたこと。信長の石山本願寺征服の直後に織田家の重臣・佐久間信盛・林通勝らの所領を没収し、追放の刑に処したことなどが、光秀に強烈なショックを与えたことは、否定できない。そのころ丹波一国を平定した光秀は、信長から武功第一と賞賛され、凡そ三十四万石の大名に成り上がっていたけれど、信長の機嫌を損ずることによって、いつなんどき、佐久間信盛らの二の舞いを踏まぬとは限らないと、考えるにつれて、光秀の前途に対する不安感はつのるばかりであった。光秀は、主君信長という人物に心服できなくなってきた。信長が怨めしいとか、憎いとかいうよりも、むしろ、怖くてたまらない。何か非常手段を用いて信長を倒さない限りは、自己の生存さえ危なかった。したがって、光秀叛逆の真因は、前途に対する彼の絶望感に起因する自己防衛手段にすぎない。堂々と戦って勝てる相手ではないから、相手の隙《すき》を窺って、集団的なテロ行動に出るほかに手がなかった。その集団的テロ行動こそ本能寺夜襲であったと、私は判断する。拙著『明智光秀』には、なお、それに、武士の面目を信長に傷つけられたこととか、信長の多量虐殺に対する人道的義憤などを、光秀叛逆の動機として附け加えてみたけれども、主殺《しゆごろ》しという彼の罪、本能寺夜襲という卑劣な彼の行為を弁護するためには、光秀なりの大義名分論を必要としたことも当然のことであり、それを実証するのが、『別本川角太閤記』所収の六月二日付の光秀密書の文句なのである。即ち、光秀は、毛利輝元の叔父にあたる小早川隆景に対して、「こんど羽柴筑前守秀吉こと、備中において乱妨《らんぼう》を企て候条、将軍(足利義昭)御旗を出だされ、三家(毛利・吉川・小早川)御対陣の由、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝うべく候」と、宣言しているのである。十年ほど以前に足利十五代将軍|義昭《よしあき》を京都から追放した信長と、その後、義昭を後援し続けてきた安芸の毛利一族に挑戦している羽柴秀吉のことを「乱妨」と称して非難し、信長や秀吉に敵対し続ける毛利一族の行動を「忠烈」といって賞賛しているのである。つまり、光秀は、足利将軍家の伝統的権威を尊重し、その大義名分のもとに、忠臣である毛利氏に味方し、逆臣信長を本能寺で打倒した、と述べているのである。したがって、本能寺の変の直後に書いた光秀のこの密書は、信長に対する私怨を述べることのほかに、大義名分論をも振りかざしているのである。  ところで、以上のような私の定着した学説に対して、最近、ある新進気鋭といわれる歴史学者によって異論が唱えられたのである。その学者は、『明智軍記』に書かれた光秀|国替《くにがえ》の事実を否定するのみか、『別本川角太閤記』所収の光秀の密書をも、写本というよりも、むしろ偽書であると断定している。しかも、光秀の叛逆は、やはり、天下取りが目的だったとして、野望説の復活を企てている。しかし、その学者の野望説の根拠は、古くからの有力学者の単純な主張とは違い、さらに斬新奇抜な原因と動機を述べ、従来の旧説を破ったと自負しているのである。  それは、本能寺の変が勃発する一ヵ月ほど前の五月六日(天正十年)のこと、信長を太政大臣か、関白か、征夷大将軍かに任命しようとする朝廷がわの動きが、信長に伝えられたというのである。これは、当時の公家の日記にも書いてあることだから、事実と認められなくはない。しかし、このことを知った光秀が、平姓の織田信長が土岐《とき》源氏の末流である明智光秀をさしおいて、征夷大将軍に任ぜられるとは、武家社会の源平交替思想の伝統を無視する異例の暴挙だと称して義憤を発し、源姓の足利将軍義昭を京都から追放した平信長を打倒し、源光秀がこれに代わって征夷大将軍に任ぜられ、天下に号令を下そうとたくらんだためだ、というのである。  しかし、この新説は、奇抜であるうえに多くの矛盾に満ちている。信長は、彼に奉戴《ほうたい》されて上洛し十五代将軍となった足利義昭が、信長を副将軍に奏請《そうせい》しようとしたのを体《てい》よく辞退し、中央政治の実権だけを獲得している。これは、信長の政治方針が、将軍による幕府政治を否認し、平清盛のおこなった公武一統《こうぶいつとう》の政策にならい、右大臣として天下統一に乗り出していたからだ。信長は、かりに本能寺で殺されずに生存していたとしても、朝廷の官位昇進の勧告に対して、必ずや、将軍任官を拒絶し、関白か、太政大臣かに任ぜられることを希望したに相違あるまい。それに、光秀は、美濃の守護土岐氏の一族と称する明智氏の直系の子孫であるかどうかも判明しないほど低い身分の浪人武士であった。そのことは、拙著『明智光秀』の「光秀の素姓」の項において諸書を博引して実証した通りである。その光秀が、土岐源氏の末流などと称して息《いき》巻くわけもあるまいと思うのである。大体、光秀を土岐氏の嫡流などと伝えたのは、叛逆直前の愛宕山《あたごやま》での光秀の連歌の発句《ほつく》「時は今|天《あめ》が下《した》な[#「な」に傍点]る」が、「下《した》し[#「し」に傍点]る」と後に改竄《かいざん》された史実を無視してかかるからであって、この点も、この際、拙著をよく読み返してほしいと希望しておく。  なお、十年もの間、戦国ファン、光秀びいきの読者の目から消えうせていた拙著『明智光秀』が、「講談社文庫」に収められることによって再現され得たのは、ひとえに講談社文芸局所属諸氏のご厚意による。ここに銘記して、深甚の謝意を申し述べたい。     昭和五十八年弥生吉祥日 [#地付き]豊梅庵 桑 田 忠 親