[#表紙(表紙.jpg)] 斎藤道三 桑田忠親 著  目 次  第一部 燃える野心   一 坊主から油屋に   二 行商から武家奉公へ  第二部 国を盗る   一 権謀術策   二 蝮《まむし》の道三  第三部 骨肉あい討つ   一 娘婿、織田信長   二 激烈、親子戦争   三 道三の最期  第四部 道三以後   一 動乱の美濃   二 道三と信長  あとがき  文庫本刊行に際してのあとがき [#改ページ]   第一部 燃える野心 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 坊主から油屋に [#1段階大きい文字](一)斎藤道三の素姓と生いたち  室町末期の明応三年(一四九四)というと、花の都のどまんなかで十一年間も大戦争がつづけられた応仁・文明の大乱が勃発した応仁元年(一四六七)から三十年もたったころだ。南北朝の動乱をきっかけとしてはじまった下剋上の風潮がようやく盛んになり、日本の全国にわたって間断なく争乱がまきおこりつつあった、いわゆる戦国動乱時代の初期である。たとえば、その前年の明応二年(一四九三)には、室町幕府の管領《かんれい》細川政元が、足利十代将軍|義稙《よしたね》を廃して、足利義澄を十一代将軍にしている。将軍廃立の権力を、その配下の管領が握ることになったのである。  また、ちょうどそのころ、駿河の守護大名今川家の食客をしていた素浪人の伊勢新九郎長氏が、それより二年前の延徳三年(一四九一)のこと、わずか数百の兵士をもって伊豆の国を斬り従えて、いわゆる槍ひとすじで一国一城のあるじに成り上がり、のち、伊豆の地名からとって、北条早雲庵|宗瑞《そうずい》と改名したのである。しかも、明応四年(一四九五)には、相模の小田原城を急襲して、城主大森藤頼を追放し、小田原城の乗っ取りに成功し、小田原北条氏五代関東制覇の基《もとい》を開いたのである。  この明応三年(一四九四)という年に、山城の国|乙訓郡《おとくにごおり》西岡《にしのおか》(現在、京都市)の松浪左近将監基宗という北面の武士の家に、男児が生まれた。これが成人した暁に、美濃の国の戦国大名として蝮《まむし》とさえアダ名された斎藤|道三《どうさん》となるのだ。道三は、『堂洞軍記』によれば、京都の町の賤しい傘張《かさはり》職人の子に生まれたというし、また、『江濃記』には、山城の国の西岡から浪人して美濃に流れてきた、と記されているから、先祖の毛並みはともかく、道三の父松浪基宗の時は、おそらく、失業者に近い貧乏侍であって、アルバイトに傘張りなどをやって、かろうじて生活していたのではなかろうか、と推測する。  信長の旧臣として名高い太田牛一の書きとめた『大かうさまぐんきのうち』と題する慶長年間の古記録にも、「美濃の国斎藤山城道三は、がんらい、五畿内、山城の国西岡の松浪と申す一僕《いちぼく》の者《もの》なり」と記しているから、松浪基宗なる人物は、一僕といわれるほど身分の低い侍だったらしい。一僕とは、一介《いつかい》の下僕《げぼく》という意味であって、天正十年(一五八二)の山崎戦勝、清洲《きよす》会議の直後に、信長の三男|神戸《かんべ》信孝の家老に送った羽柴秀吉の書状に、秀吉が亡君信長の恩恵によって立身出世したことを、「小者《こもの》一僕《いちぼく》の者《もの》召し上げられ、国を下され候て、人並みを仕り候事は、上様(信長公)の御芳情、須弥山《しゆみせん》よりも重く存じ奉る」と記されているから、一僕とは、小者と同格の最下級武士で、戦場にでては走卒、足軽のたぐいだったことが立証される。そうすると、道三の父親は、まず、秀吉の父親木下弥右衛門と同様、下僕・走卒のたぐいだったことがわかる。北面の武士だったというのは、おそらく、先祖に関するむかしがたりなのであろう。かりに、道三の父松浪左近将監基宗なる男が、毛並みが相当によかったとしたならば、後年、美濃の守護大名土岐氏の家中に仕えることになっても、松浪氏を名のるか、自分の先祖が藤原氏で、代々北面の武士をつとめた家柄であることを吹聴《ふいちよう》しそうなものである。しかし、道三が自分の毛並みや家柄に一言も触れていないところから推理すると、かれの父松浪基宗は、やはり、一介の下僕とさげすまれるほどの最下級の貧乏武士であったことがわかるのである。  だから、斎藤道三は、だいたいにおいて、北条早雲、松永久秀、豊臣秀吉などと同様に、最低の地位から奮起し、裸《はだか》一貫、槍ひとすじで大名に成り上がった、今日でいえば、立志伝中の人物なのだ。立身出世するのにもっとも悪い条件に生まれた人間が、衆人を凌《しの》いで頭角をあらわすためには、条件が三つほどいる。第一に、時代が乱世か変動期でなければならぬ。年功序列を重んずる太平の世のなかではだめだ。第二に、その人物に智恵と才覚と実行力を必要とする。第三に、運がよくなければならぬ。尾張の守護代の家老の家柄からでて尾濃両国を平らげ、上洛して天下の政権を握った織田信長のことを、俗に尾張の風雲児とよぶのも、かれが実力はもとよりだが、幸運に乗じて天下をとったからである。  道三の父松浪基宗は、その子道三を峰丸《みねまる》と名づけたが、峰丸は、幼いころから、玉を欺くような美貌のうえに、すばらしい才智のひらめきがあったので、その将来に期待をかけた。これは、男児にたいする父親の期待としては、当然のことと思われる。ただし、一説によれば、峰丸は、基宗の正妻の子ではなくて、妾腹の子、つまり庶子であったというが、最下級武士の基宗が側室を抱えていたとも考えられないから、おそらく、どこかの身分の低い家の娘にでも産ませた子であったのだろう。しかし、私生児には、案外、秀才が多いものらしい。  ところで、松浪基宗という男は、下級武士でありながら、法華宗《ほつけしゆう》(日蓮宗)の信者であった。そこで峰丸が十一歳になると、京都の妙覚寺という法華宗の名刹の住職日善上人に頼み、峰丸を弟子にしてほしいという希望を述べている。一説によると、基宗は、峰丸の性格に危険性のあるのを感知し、まず、寺に入れて坊主にでもしておけば安心だろう、と考慮したすえのことだった、といわれている。親としてわが子の安全を願うのは、いまもむかしも同様で、これが本能的な親ごころというものであろう。  しかし、そのころは、戦国乱世だといっても、子供、とくに男児の教育には、案外に熱心であった。これは、かならずしも将軍や大名の若君、インテリ階級の令息とは限らず、小地主、自作農、下級武士のむすこのばあいも同様であった。幼少時に近くの寺院に入れて修行させることが、学問や信仰や教養を身につけ、将来、人並みの社会人となるのに、もっとも便宜な方法だったのである。  そのころの寺院は、江戸時代の寺小屋、明治以後の小学校の役目を果たしていたのである。尾張の中村の土百姓で、織田信秀の足軽をアルバイトにしていた木下弥右衛門夫婦も、幼時から手に負えない腕白者の秀吉を、もてあましたすえに、光明寺の小僧にしたといわれているが、斎藤道三の幼時、峰丸時代のようすも、これと似かよった事情で、妙覚寺に入れたのではあるまいか。ただ、秀吉と違うところは、秀吉が入れられた光明寺が時宗《じしゆう》の寺院であったのにたいして、峰丸が小僧となった妙覚寺は、日実上人を開山とする法華宗の本山の一つであったことである。同じ鎌倉時代に創始された新仏教の宗派ではあっても、日蓮上人のはじめた法華宗は、日本の仏教諸宗派のうち、他宗|折伏《しやくぶく》をもって聞こえた、もっとも烈しい仏法であることは、万人周知のことである。松浪基宗が法華宗を信仰していたのは、おそらく、先祖の毛並みのよさにひきかえて、わが身の現在の不遇にたいするコンプレックスを充足するためではなかったか。今日でもおちぶれた老人の悩みを救うのは、新興宗教しかない。その熱烈な法華信者である父基宗の後押しで、峰丸は十一歳で法華宗の名刹妙覚寺の住職日善の法弟となったのである。 [#1段階大きい文字](二)妙覚寺の小坊主・法蓮房  妙覚寺は、法華宗の一本山で、具足山と号する。いわゆる三具足山の一つである。鎌倉末期の永和四年(一三七八)に竜華院日実上人が、衣棚押小路にはじめたもので、桃山時代の天正十九年(一五九一)に、豊臣秀吉の命令で、今日の地、上京区下清蔵口町新町頭に移されたのである。  天文五年(一五三六)というと、斎藤道三が美濃の守護代斎藤氏や執権長井氏に代わって美濃の実権を獲得したころだが、この年の七月、些細な宗教討論のもつれから、多勢をたのんだ比叡山の僧徒が二十一ヵ寺にわたる法華宗の寺院を総攻撃し、洛中の大半を焼亡させた事変が勃発した。これを天文法華の乱といっている。『天文法乱松本問答記』によると、同年の三月三日から、比叡山西塔北尾の花王房という天台僧が、京都一条烏丸の観音堂で説法をはじめたところ、十一日のこと、上総の国|藻原《もばら》の妙光寺という法華宗の寺院の檀那《だんな》、松本久吉という男が、その場に行きあわせ、天台密教のことについて質疑をし、問答のすえに、花王房を折伏《しやくぶく》してしまった。これを聞いた山門の僧徒は烈火のように怒り、敗論した花王房を追放したうえに、武器をとって洛中の法華寺院を攻めた。討論で負けた腹いせに武力を行使するというのでは、もちろん、現代社会の常識からすれば、山門僧徒のほうがなっていないわけだが、当時は、比叡山の伝統的権勢のほうが強く、武力を用いて生意気な新興宗教団体を討伐した結果となった。しかし、それだけに、征服者の不合理な勝利に反発する法華宗徒の折伏精神は、昂進の一途をたどるばかりであった。  そうした烈しい宗派の火の玉のような信者であった貧乏侍のむすこ松浪峰丸は、父の志をうけて法華宗の一本山妙覚寺に弟子入りすることによって、折伏の教理を学ぶとともに、折伏のはかなさをも悟り、目的のためには手段も選ばぬという実行型の戦国びととして、火の玉が燃えさかるように烈しく成長していったのであろう。ともかく、峰丸が妙覚寺にはいったことは、この少年の生涯の方向を決定する動機となり、将来、蝮の道三とよばれる怪人物を出現させる結果となるのである。  峰丸は、やがて日善上人について剃髪し、法蓮房《ほうれんぼう》と改めたが、『美濃国諸旧記』によれば、内典(仏書)、外典《げてん》(儒書)をよく学び、顕密《けんみつ》の奥義を究めたが、とくに、弁舌の達者なことは、釈迦の弟子のうちで弁論第一といわれた富楼那《ふるな》にも劣らぬといわれ、師の坊のおぼえもめでたかった。  ところが、同じ寺に、この法蓮房を尊敬し、かつ慕っていたおとうと弟子《でし》に、日護房《にちごぼう》というのがいた。かれは、法蓮房よりも二つばかり年下だったが、なかなかの秀才であった。しかし、あに弟子の法蓮房を心から敬愛していたから、二人の仲は非常によく、人もうらやむほどであった。『美濃国諸旧記』は、「その間、断金《だんきん》の交わりにして、殊に睦まじかりける」と記している。しかし、これによって両者の関係を衆道《しゆどう》(男色)と見るのは、法蓮房がゆで玉子をむいたような美少年であったところから推測した想像ではなかろうか。  この時代の寺院の風紀がいかに乱れていたにせよ、上人や住職級の僧侶の衆道は見のがされていたが、修行中の若僧同士のそれは厳禁されていたようだ。これは、妙覚寺のような法華宗の本山とても例外ではない。だから、衆道関係があっただろうというような想像はゆるされない。  ところで、この二少年は、秀才同士であることによって結ばれ、仲よしだったが、結局、まったく別な方向に進んでいったのである。これは、両人の境遇が違っていたせいでもあるが、性格も根本的に異なっていたからだ。  法蓮房は、たびたび説明したとおり、下級武士の小せがれだ。その日暮らしの貧乏人で、将来の安定性がない。これにくらべて、日護房のほうは、親の毛並みもよく、前途の生活も保証されていた。かれは、美濃の国の守護大名土岐家の執権をつとめる長井豊後守利隆の弟であって、京都留学を終えたら郷里に帰り、兄の領内厚見郡今泉の名刹|鷲林山《しゆうりんざん》常在寺の住職になることにきまっていたのである。ところが、法蓮房のほうはどうか。将来の出世が保証されていないだけに、精神状態が不安定であると同時に、夢も多い。劣等感がある代わりに、自分の智恵と努力しだいで、なんにでもなれるという自由があった。この自由は、今日のような近代社会の自由とは違って、籠から飛び出した小鳥のような、危険性のある自由だった。  ある朝、二人が将来の夢を寝ざめの床のなかで語りあったとき、日護房は、——拙僧は、このお寺で一所懸命に学問と修行を積み、行くすえは、ひとかどの高僧になりたい——と述べたのにたいして、法蓮房は、——いや、出家となって、一生、死んでからあとのことを研究するよりは、この世に生きているうちに、なんでも、思う存分のことをしてみたいものだ——と、つぶやいたということである。つまり、法蓮房は、このころから、法華宗の僧侶として一生を終える気はなかったのである。  そのうちに、兄の長井利隆の勧めで日護房が美濃に帰って常在寺の住職となると、法蓮房も、まもなく妙覚寺をでて、山城の国西岡の生家にもどり、還俗《げんぞく》して松浪庄五郎と改めている。一説には「庄九郎」ともあるが、『美濃明細記』や『常在寺記録』に「庄五郎」とあるから、かりに、庄五郎としておく。「庄五郎」とか「庄九郎」とか記した古文書は、あいにく、一通も現存しないし、「五」の字と「九」の字は、行書体も草書体も酷似しているから、どちらが正しいとも断定しがたいのである。  還俗して、貧乏|地侍《じざむらい》の庶子松浪庄五郎にもどった道三は、胸中になにをたくらんでいたか。 [#1段階大きい文字](三)奈良屋の入り婿となる  西岡の生家に帰り、武士の子として復帰した庄五郎は、急に、騎射、兵法《ひようほう》(剣技)など、武芸の修錬に励んだ。来世のための学問や修行から、現世で人にうち勝つ修業へと、完全に切り換えたのである。この変わり身の速さには、親父の松浪基宗も驚きの目を見はらざるをえなかった。同時に、その将来性に一抹の危惧をおぼえたことであろう。なぜかというに、驚くほど才能のひらめきのあるわが子が、人々を済度する道から、人々を虫けらのように殺害する道へと、急転換したからだ。——この子が、妙覚寺の法蓮房として明哲な高知識へと進んでくれたならば、安心したのに——と、愚痴の一つもいってみたが、無気力な貧乏親父の泣き言に耳を貸すような庄五郎ではなかった。ところが、さらに松浪基宗を驚かすようなことがおこったのである。  ある日のこと、外出先からもどってきた庄五郎はとつぜん、——これから、奈良屋の婿《むこ》になる——と言いだした。奈良屋というのは、同じ西岡にある灯油の問屋であって、主人の名を又兵衛といった。庄五郎の告白によると、奈良屋又兵衛のひとりむすめにほれこみ、彼女をものにし、又兵衛を口説いたあげく、むすめと婚約までとりかわしてきた、というのである。  これを聞いた基宗は、事後報告であるだけに、親の面目をふみにじられたような気がして、激怒した。——商家へ婿入りなど、もってのほかだ——と叱りつけたが、庄五郎は、すでに父親など眼中にない。——貧乏侍は、父上でたくさんでしょう。父上も、だからこそ、せがれを坊主にしようとなされたのではありませぬか——と、さかねじを食わすしまつである。  ——おまえのようなやつは、寺にはいって、ひとかどの坊主になるのが一番安全なのだ——と、基宗は自論を吐いてみたものの、武士のむすこが生涯坊主で満足できるわけもないし、そうかといって、下級武士の貧乏暮らしは、父親を見て飽きあきしているに相違ない。とすれば、商家の入り婿となって、金儲《かねもう》けしたいのも無理はないと、内心考えてみた。だから、それ以上、反対もしなかった。  ところが、奈良屋又兵衛宅に婿入りした庄五郎は、こんどは山崎屋と屋号を変え、灯油の行商人に転向したのである。山崎屋という屋号から推測すると、山城の国西岡からほど近いところにある大山崎の油座の座人となり、山崎屋という屋号をもらい、荏胡麻《えごま》からしぼってつくった灯油を売り歩く行商人となったのであろう。つまり、奈良屋の出店である。  今日、京都から大阪行きの国鉄に乗ると、まもなく山崎の小駅に着くが、そこで下車し、南に向かって少し歩くと、大山崎の離宮八幡宮という神社の前にでる。電灯万能時代の現今、この八幡宮は見る影もなく、社殿も荒れ果て、宇治方面に向かうバスやタクシーの排気ガスと土ぼこりを浴びて、同情の念を禁じえないが、三百八十年前の戦国のそのむかし、男山《おとこやま》の石清水《いわしみず》八幡宮の別宮に属するこの離宮八幡宮の神人《じんにん》たちは、本社の権威のもとに、その保護をうけ、油座と称する独占排他的な商業組合をつくり、京都、奈良、大坂、堺の諸寺社はもちろん、瀬戸内海に面した山陽道の国々、伊勢、尾張、美濃地方まで、隊伍を組んで行商の旅をつづけていたのである。神人というのは、中世期において神社の雑役に奉仕した隷属民のことである。  しかし、大山崎の油座に属する行商人ともなると、士農工商というように身分制度で差別され、その言動が拘束された江戸時代の商人とは、まったく違う。神人であると同時に、この地方の地侍として、応仁・文明の大乱以来、しばしば戦闘にも参加し、臣従した守護大名から軍功にたいする感状さえもらっている。つまり、神人か行商人か武士か、明らかでないというよりも、すべての性格を多分に兼備した性格をもっているのだ。だから、庄五郎もそうした大山崎の行商人の性格をよく見ぬいたうえで、そのような立場に立って、商人としてひと財産を築くと同時に、それを資本にして豪族か大名に取りいり、ひと旗あげようと計画していたのではなかろうか。  かりにそうだとすれば、山崎屋庄五郎は、すこぶる多角経営的で、はなはだ今日的な性格の人物だったといえる。同時に、平和な時代には悪党として毛嫌いされるが、乱世では成功できるタイプの人間だ。しかも、同じ戦国乱世に生まれても、庄五郎は、槍ひとすじで一国一城のあるじとなった羽柴秀吉や加藤清正、榊原康政のような純粋の武将とは異なる。やはり、北条早雲や松永久秀タイプの人物だが、さらにもっと今日的な人間の要素を具備している。かの太平洋戦争敗戦以来、現代の日本にも、変動期に処してわが身を守るため、発展させるために、さまざまな多角的な生き方を実行した人々があらわれた。たとえば、闇物資購入禁止の法律を忠実に守って餓死した裁判官がいた反面に、闇物資の横流しでひと財産を築き、その金で先輩を買収して社会的名士に成り上がった男もいた。終戦と同時に日本精神を唯物史観に切り換えてひと旗上げた学者もいたようである。  一介の貧乏侍のむすこ松浪庄五郎を、今日的な多角経営に踏み切らせたのは、法華坊主として修行した他宗折伏的な強烈な信念が心底につちかわれていたからでもあるが、坊主稼業に見切りをつけ、還俗して武芸の修錬に励んだくせに、ただちに武家奉公もせず、油売りの行商人を志したのは、情報通になるためでもあった。奈良屋又兵衛のひとりむすめに目をつけ、そこに婿入りしたのも、ひとかどの情報通になるための手段にすぎなかったとも考えられる。そうして、この情報通たることに満足し、これを生活の智恵とする方法こそ、もっとも現実的な人間の生き方といえるのではなかろうか。  現実的な生き方を求めた山崎屋庄五郎は、やがて十数|駄《だ》の灯油を仕入れ、妻や手伝いの若者たちを指揮して、駄馬に荷をひかせ、途中の村里で行商をしながら、伊勢路から尾張を経て、永正の末年から大永の初年にかけて(一五二〇年ごろ)、美濃の国に到着したのであった。  行商人庄五郎は、なぜ美濃へ志したか。それは、いうまでもなく、かつて妙覚寺の法華坊主時代のおとうと弟子の日護房が、美濃厚見郡今泉の常在寺の住職として納まっていたからだ。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 行商から武家奉公へ [#1段階大きい文字](一)戦国動乱期の美濃  むかしから使いふるした俗語だが、「おのぼりさん」「おくだりさん」という言葉がある。しかし、この二つの言葉も、老人と青年のばあいでは、その意味にかなりの相違があるようだ。いや、まったく反対の意味を表わすといってよかろう。老人のばあいだと、おのぼりさんは田舎者の都《みやこ》見物にすぎないし、おくだりさんは都で志を得なかった人生の落伍者が生まれ故郷に隠退することをいう。しかし、青少年のばあいは、都の空にあこがれ、志を立てて郷関をでることをおのぼりさんといい、その反対に不毛の地を開拓する望みを抱いて都をあとにすることをおくだりさんといい、希望にあふれた点では、差別が見られぬ。かくいう筆者なども、東京の大学を卒業したとき、東京の二倍のサラリーで招かれても、地方の学校などへ奉職するのは、都落ちと称して、いやがったものだ。これは、たとえ半分の月給でも東京でガンバラなければ、本格的な学問の研究はできないと思いこんでいたからだ。しかし、中学時代の筆者の友人に、中学をでるとすぐに南米に移住して農場経営を志した男がいた。ずいぶんものずきなやつがいるものだと、大学もでずに異国の果てに都落ちするかれの前途を哀れんだものだが、これは、青年時代の筆者に開拓精神が皆無だったからだ。その友人は、いまでは、親子孫三代、南米で大農場の主として巨億の産を成したとのことである。  戦国のそのむかしの例を引いても、同様なことがいえる。青雲の大志を抱いて上洛を夢みた若者は、どれだけ存在したことか。天下取りを志した上杉謙信・今川義元・武田信玄・織田信長などはいうまでもないが、名僧高知識たらんとして都にのぼった青少年は数知れない。しかし、その反対に、若者のくせに都落ちして、諸国を流浪したあげく、なにかうまい汁を吸えないものかと探して歩き、その果てに地方のどこかに納まり、一国一城のあるじになった男もいる。木下藤吉郎が生国尾張の中村をでて、武家奉公を志し、三河・遠江《とおとうみ》へと流浪の旅をつづけた本当の目的は、海道一の旗がしらといわれた駿河の守護大名今川義元に仕官するにあった。しかし、その途中、曳馬《ひくま》(浜松)の川辺で、今川家臣で遠江|久能《くのう》の城主松下|之綱《ゆきつな》にたまたま出あったばかりに、之綱に仕えた。しかし、先見の明があった藤吉郎は、陪臣《ばいしん》(又家来《またげらい》)の地位に甘んぜず、松下家からいとまをもらって尾張に帰り、改めて成長株の清洲城主織田信長を主君に選び直した。だから、信長のあとをとって、天下に号令を下すような地位に成りあがれたのである。  むかしもいまも、毛並みのよくない男は、それ相応の苦労をする。出世できたとしても、波瀾曲折のジグザグ行進である。秀吉ももちろんその一人だが、北条早雲にしても、斎藤道三にしても、その点、類似点が多い。ただ、早雲や道三が三好長慶や織田信長と根本的に違うのは、おのぼりさんではなくて、おくだりさんであるという点であった。花の都で一旗あげるよりも、むしろ進んで都落ちして、不毛の原野に荒鍬《あらぐわ》を立てたいという開拓精神に満ちみちた青年であったのだ。  それならば、後の斎藤道三の山崎屋庄五郎の情報網にキャッチされた戦国動乱時代の美濃の国のありさまは、どうであったか。  そこで、庄五郎が油売りの行商をしながらやってきた永正末年(一五二〇年ごろ)の美濃の国の形勢を概略説明してみると、つぎのとおりである。  そのころ、応仁・文明の大乱(一四六七〜七七年)の余波がまだおさまらないために、美濃の国内は騒然としていた。この国の守護は、代々、土岐氏であり、他の多くの国々と同様に、守護が大名化し、守護大名として権威を保っていた。ところが、応仁の大乱のおこる十一年前の康正二年(一四五六)に、土岐|持益《もちます》の子|持兼《もちかね》が早死すると、土岐氏の家督相続をめぐり、家中に内訌がおこった。つまり、持兼の子|亀寿丸《かめじゆまる》を擁立する揖斐《いび》・長江・山岸の諸氏と、守護大名の相続人として新たに一色義遠《いつしきよしとお》の子|成頼《なりより》を迎えようとたくらむ美濃の守護代斎藤|利永《としなが》とが対立して、両派に分かれ、争いをつづけた。が、結局、斎藤利永のほうが勝利を得て、一色成頼が土岐家を継ぎ、土岐成頼と称し、美濃の守護大名となったのである。そのために、土岐亀寿丸がオミットされ、土岐氏の実権は、守護代である斎藤氏の手に移り、利永の子の斎藤妙春・利藤《としふじ》兄弟が、美濃の国政を牛耳ることになった。  そのうちに、応仁の大乱が勃発すると、土岐成頼は西軍の山名宗全(持豊《もちとよ》)方に属し、成頼や斎藤利藤も上洛して、東軍と決戦を交じえることとなる。その間、利藤の兄の斎藤妙春は、美濃に残留して、国内の動揺を押さえていた。  ところが、そのつぎには、西軍に味方した土岐氏の執権斎藤妙春と利藤が兄弟争いをはじめたから、事態はさらに複雑怪奇をきわめた。文明九年(一四七七)に、十一年間もつづけられた応仁・文明の大乱が終局を告げ、土岐成頼が、足利|義視《よしみ》(八代将軍義政の弟)を奉じて美濃に帰ると、前将軍義政(当時は九代将軍義尚の時代)は、斎藤利藤を味方にひき入れて、土岐家の内部攪乱を企てた。花の都を荒野原と化した大戦争もおわったというのに、争乱は、美濃の守護大名土岐家中に、そのまま持ちこまれたのである。大乱が鎮まり、国々の守護大名が、守護代や土豪たちの反抗を押さえ、反逆者を討伐し、自国内の統一に成功するようになっても、美濃の国だけは、まだ紛争と動揺がやまなかった。  その後、十七年も過ぎた明応三年(一四九四)になると、土岐成頼の跡目《あとめ》相続問題をめぐって、成頼の長男|政房《まさふさ》を推す斎藤|利国《としくに》と成頼の末子|元頼《もとより》を擁する斎藤家臣|石丸利光《いしまるとしみつ》との争いが生じ、国中が争乱のルツボと化した。  さらに、山崎屋庄五郎が美濃に入国する直前の永正十四年(一五一七)ごろにも、守護大名家の相続争いに勝利を得た土岐政房の長男|盛頼《もりより》と次男の頼芸《よりなり》の家督争いをめぐって、守護代の斎藤|利良《としなが》と執権の長井豊後守|利隆《としたか》が対立し、なお、これに、越前の国主大名朝倉氏、江北の土豪浅井氏、江南の守護大名六角氏らが、それぞれの利害関係をもとに、微妙にからみあっていたのである。下剋上の風潮は、この国にも弥漫《びまん》し、無力化した守護大名土岐氏は、実力ある守護代・執権などの重臣たちの意のままに動かされていた。そうして、それらの重臣たちもまた、自己に利益をあたえる人物を土岐家の後継者たらしめようとして、たがいに争いあっていたのである。  このように、動乱絶えることのない美濃の国を目ざして、油売りの行商をしながら、山崎屋庄五郎、すなわち、後の斎藤道三がやってきたのは、はたして偶然であろうか。たんに、かつて京都の妙覚寺で親交のあった日護房が、同国厚見郡今泉の常在寺(現在、金華山麓、岐阜公園の近くにある)の住職となっているということだけを頼りとして、この国に流れてきたのであろうか。筆者は、そうは思わない。  庄五郎は、前にも述べたように、情報キャッチにたけていた。だから、内紛絶えることなき守護大名土岐氏を中心とする美濃の国の実情を耳にし、そんな国ならばドサクサまぎれにひと旗あげられる可能性があると値踏みした結果、美濃への道をとったように勘ぐられてならない。だから、常在寺の日護房を頼ったのは、かつてのおとうと弟子を利用し、踏み台にしたにすぎない。ちょうど、北条早雲が、青年時代に伊勢新九郎長氏と称し、生国伊勢から東海道を下り、駿河の守護大名今川義忠の内室となっていた自分の妹(一説に姉)の北川殿を頼って、一時、今川家の食客となったやり方に似ている。  長氏も、都をあとに開拓精神をフルに発揮した結果、義忠を殺害した駿河の土一揆を鎮定し、義忠の子今川氏親を補佐した功労で、一躍、駿河の興国寺城主となり、さらに伊豆の堀越公方《ほりこしくぼう》家の内紛に乗じ、伊豆一国を奪い取り、早雲庵宗瑞と称して、韮山《にらやま》の城主となった。それが、戦国時代開幕の延徳三年(一四九一)のことだが、それから二十数年後に、土岐家の内訌に着目して美濃入りした山崎屋庄五郎、すなわち、後の斎藤道三は、伊勢長氏の先例に意識的に学んだわけでもなかろうが、裸一貫の開拓方針は、偶然にも酷似しているように思われる。  しかし、斎藤道三のばあいは、これと反対の考え方ができなくもない。貧乏侍の子と生まれ、少時、坊主にさせられたが、人間万事|金《かね》の世のなかと悟り、油売り商人に転向し、行商をしているうちに、小坊主時代のおとうと弟子日護房のことを思い出して美濃に下向し、日護房の紹介で土岐氏にとりいり、大儲けして一財産を作ろうという考えであったが、美濃へきてみて土岐家の内訌を知ると、元来の武士に逆もどりし、武将・大名として、ひと旗あげる気になったのかもしれない。  かりにそうだとすると、京都の妙覚寺における日護房との偶然のであいが、あに弟子法蓮房の一生を狂わせたといえなくもない。もし、法蓮房が日護房と妙覚寺で出あわなかったとするならば、法蓮房は、たとえ法華坊主がいやになって還俗したところで、油問屋奈良屋又兵衛のむすめ婿で一生をおわり、油売りの行商人となったとて美濃へは行かず、巨万の富を貯えたとしても、一国一城のあるじとなれたかどうかは疑問であろう。だから、偶然のチャンスが、一個の人間の運命をよかれあしかれ、狂わせ、人間の歴史を左か右かへ進ませたり退かせたりする可能性が、大いにあり得ることを、わたくしたちは思い知らされずにはいられない。 [#1段階大きい文字](二)守護大名の執権長井長弘に仕える  さて、灯油行商人の山崎屋庄五郎、すなわち後の斎藤道三が、伊勢・尾張を経て、初めて動乱期の美濃の国にやってきたのは、何年ごろであったか。これについては、『美濃国諸旧記』には、大永のころとある。それを、かりに大永元年(一五二一)とすれば、庄五郎は二十八歳であったことになる。つまり、道三が、弘治二年(一五五六)四月二十日、長子義竜(豊太丸)との戦いに敗れて討死したときを、六十三歳としているので、それから逆算すれば大永元年(一五二一)には二十八歳だったのである。  しかし、守護土岐氏の執権長井氏が土岐家中で権勢をほしいままにしたのは、それまで守護代として政権を握っていた斎藤利国・利為父子が六角定頼の軍勢と戦って近江で敗死した永正十四年(一五一七)以後でなければならないから、庄五郎が今泉の常在寺の日護房の紹介で長井氏に近づいたのは、少なくともそれ以後、永正十五年(一五一八)ごろであろう。かりに、それを永正十五年と仮定すれば、庄五郎の美濃入りは二十五歳のとき、ということになる。  美濃入りした山崎屋庄五郎がまず訪ねていったのは、厚見郡今泉の常在寺の住職となっている、かつてのおとうと弟子日護房であった。日護房は、かねてからの希望どおり常在寺住持として納まり、日運上人とよばれていた。京都で別れて以来の再会ではあるが、その後も両人の間にしばしば書信のうえの交誼がつづき、庄五郎は、あるいは日運上人の通信によって、美濃の守護大名土岐家の情報を手に入れていたかもしれないのである。そう解釈したほうが、むしろ自然であろう。  庄五郎は、常在寺の日運上人の斡旋《あつせん》によって今泉に油屋の店を開いたが、店のほうは妻や手代の若者にまかせ、庄五郎自身は、長井藤左衛門尉長弘の居城稲葉山(岐阜市外の金華山)、土岐盛頼の居城|川手《かわで》(稲葉山の十キロ南、中山道の南)、盛頼の弟土岐頼芸の居城|鷺山《さぎやま》(稲葉山から北方で、間近い長良川の対岸四キロ余の地点にある小丘)などの各城下町へ、灯油を売りにでかけた。  山崎屋庄五郎は、美男子であるうえに、かれ独特の一風変わった方法で油の計り売りを行ない、主婦連の人気を集めていた。町の辻々で、弁舌さわやかに大山崎の灯油の質の良さとその効能を述べたてて人々を集めるだけでなく、ときどき特別サービスをしてみせた。——さあさあ、皆の衆、今日は、日ごろのごひいきの御礼に、おもしろい手品をしてみしょうぜ——と、朗々と口上を述べたてたすえに、ジョウゴを使わず、一文銭《いちもんせん》の孔《あな》を通して油をたらし、下の油壺に落とし入れてみせた。そうして、——もし、一滴でも、油が一文銭の孔の縁《ふち》にかかったならば、お代《だい》はいらぬ——と付け加えたが、その言葉どおりに、たらしこむ油がみごとに一文銭の小さな孔をくぐり抜けるから、見物する人々はヤンヤと拍手喝采し、われもわれもと、先を争って油壺をさしだした。この油売りの名人芸のうわさが、パッとひろがり、えらい評判になった。  しかし、庄五郎にとって、この油売りの工夫をこらし、銭を儲けることは、たんなる方便となり、しだいに他の目的に向かって突進していった。それは、各居城の地形、要所要所の施設、城内の警備、兵力などを調べることであった。 『斎藤軍記』や『斎藤由来記』などによると、そのころ、稲葉山城主長井長弘の家来に、矢野五左衛門という武士がいた。五左衛門は、油売りの山崎屋庄五郎のうわさを聞き、好奇心を動かし、庄五郎を自宅によんで油を計らせてみた。すると、うわさに違わず一文銭の孔の縁には一滴の油もかからない。——いや、じつにあざやかなものじゃ——と感嘆したが、——これだけの手並みを武技に用いれば、ひとかどの武士になれるものを、じつにもったいない——と、残念そうな顔つきをしてみせた。  この言葉を聞いた庄五郎は、内心、——しめた——と思い、ほくそ笑んだ。そして、ただちに油売り商売を廃業し、武芸の修錬に励む決意を固めたというから、ずいぶん変わり身の速い男であった。山崎屋の看板もいつの間にかはずし、油荷とともに妻や手代に運ばせ、山城の西岡《にしのおか》に帰らせた。  独り身となった庄五郎は、三間半の長柄《ながえ》の竹槍をこしらえ、先端をとがらせ、木の枝につるした一文銭の孔をめがけて、いっぺんでこれを突き抜く稽古をはじめた。紐につるした一文銭はゆれ動くから、いくどか失敗したが、もともと妙覚寺を出て還俗すると同時に武技の鍛錬にうき身をやつした庄五郎のことだ。商売のことも、女のことも忘れ、朝から晩まで毎日、一心不乱にやっているうちに、やがて百発百中の腕前になった。  そこで、改めて矢野五左衛門の宅に参上し、得意の妙技を披露してみせた。  すでに油たらしの妙技に魅せられていた五左衛門は、長槍の腕前にも感服し、ただちに、庄五郎を弓・槍・鉄砲の名人と称して、あるじの長井藤左衛門尉長弘に推薦した。庄五郎の通称だけでは武士らしくないので、松浪庄五郎利政と名のらせた。  稲葉山城主の長井長弘は、松浪庄五郎利政の武芸と才能を試したうえで、これを家来として召し抱えた。  この長槍の妙技が長井長弘に認められた話は、すべて、『美濃国諸旧記』によって伝えられた若き日の斎藤道三の出世話のひとくさりであるが、この逸話をまったく架空の作り話として否定する証拠は一つもない。道三は、智謀の士ではあったが、武技の徒ではなかった——とする見方もあるけれど、その両方を兼備していた万能型の男と仮定したとて、いっこうにさしつかえない。そのどちらかにきめてかかることこそ、偏頗《へんぱ》な考え方ではなかろうか。  たとえば、秀吉の木下藤吉郎時代以前の逸話をみても、おもしろいことがたくさんにある。矢作《やはぎ》の橋の上で野盗のかしらの蜂須賀小六にあい、少年のくせに度胸のあるのを認められ、その子分にされたという逸話なども、そのころの矢作川は渡し舟で渡ったもので、橋はまだなかったことが、江戸初期の古記録で実証されたが、橋の上でなくとも、そのころどこかで秀吉が小六とであって、一時子分にされていたくらいなことは、あったに相違ない。そのことまで否定できる文献史料は一つもないのである。  それから、秀吉が尾張中村の生家をでたとき、実父の形見の永楽銭一貫文を母からもらい、それで清洲の町で木綿|布子《ぬのこ》を縫う大きな針を買い調《ととの》え、鳴海《なるみ》に行くと、そこで針を売って食費に換え、また草鞋《わらじ》も針と交換してはきかえ、遠江《とおとうみ》の曳馬《ひくま》(浜松)にたどりついたという逸話が、『太閤素生記』に書いてあるが、これも、武家奉公の目的をとげるための手段として、針商《はりあきな》いをしたことであって、斎藤道三の青年時代の松浪庄五郎が、動乱期の美濃の国で武家奉公しようと志し、油売りをして歩いた才覚と、少しも変わっていない。むしろ、ありそうな史実といってよかろう。木下藤吉郎が上島《うわじま》主水《もんど》と、信長公の面前で足軽五十人ずつに長短の槍試合をやらせてみせた話なども、『絵本太閤記』の作者の作り話として、従来の歴史学者には一笑に付せられているけれども、才智にたけた秀吉のやりそうなことではある。  ただ、その果てに、藤吉郎と槍術指南役の上島主水が個人試合をやって、主水の眼がくらんで惨敗するところは、作り話に相違ない。しかし、秀吉が、かれの書状で、「秀吉は人を斬りぬくことが嫌いにて候」と書いたところで、それは、かれの巧みな宣伝文であって、秀吉は戦場で人を殺したことなどなかろう、武芸の修錬などという小細工は眼中になく、ただ智謀ひとすじで天下をとった男だ、などと考えるのも間違っている。戦場で一人も敵を殺したことのないような男を、あの蛮勇で鳴らした信長が、足軽から一国一城のあるじに登用するはずもないではないか。近頃はやりの、思いつきの変わった意見や批判は、一時は人を納得させても、長つづきはしないものである。  油売りの行商人から一国一城のあるじに成り上がった斎藤道三のばあいにも、同じことがいえるだろう。道三は、庄五郎と称した青年時代から、智謀の人であると同時に武芸の練達者であったと、筆者は推測する。現実はきびしい。いまの社会でも、付け焼刃《やきば》の触れこみだけでは、すぐ化けの皮が剥げてしまう。いわんや、殺すか殺されるか、生き残るか死に果てるかの、きびしい戦国動乱の世においてをや、であろう。  なお、山崎屋庄五郎が油売りをやめて武芸の修錬に専念したことについては、異論も存在する。庄五郎がなにもそのような小細工や苦心をして稲葉山城主の長井長弘に認められなくとも、かつての親友である常在寺の日運上人が兄の長弘に庄五郎のことを推挙すれば事が足りた。かつてあに弟子の法蓮房を尊敬していた日護房の日運上人のことだから、庄五郎の頼みを承知して、かならず兄に推挙しているはずだ。だから、『美濃国諸旧記』の逸話は、作り話に類するというのである。  しかし、長井長弘は日運上人の兄ではない。日運上人の兄は、前にも述べたように、同じ長井氏でも、長井豊後守利隆(妙全)のほうである。この利隆は、同じ美濃の守護代斎藤利国(妙純)のむすこであるが、長井氏の嫡流の養嗣子となり、沓井《くつい》城主となって、川手城主の守護大名土岐本家(盛頼)の後見役をつとめていたのである。  日運上人は、この長井利隆(妙全)の弟だから、守護代斎藤利国(妙純)の五人むすこのうちの末子であろう。だから、少年時代から法華坊主にする目的で京都の妙覚寺で修行を積ませ、今泉の常在寺の住職となったことと推測される。  美濃の守護代斎藤氏は、利国(妙純)の父利藤(利永の嗣子)のときから法華宗に帰依し、みずから川手に持是院を建てて、妙椿と号した。したがって、利藤の嗣子の利国も妙純、利国の四男の利隆も妙全と号し、五男の日護房だけが出家して、常在寺の住職日運上人となったのである。これは、斎藤道三が討死をとげるに臨んで、十一歳の末子勘九郎に書き送った遺書に、「その方《ほう》事、堅約のごとく、京の妙覚寺へのぼらせ、もっともに候。一子出家すれば、九族天に生ずといえり」とあるとおり、乱世に生まれ、戦闘と殺戮《さつりく》に明け暮れた大名や武将たちの、罪障消滅、安楽往生のための自己満足法であり、せめてもの方便として、こうした方法が慣例とされていたのであろう。  多くのばあい、末子を出家させることによって九族の罪障消滅をはかるのは、じつは末っ子はかわいいから、戦場に出して非業の最期をとげさせたくなかったからでもあろう。そこに、一抹の人間性がうかがわれなくもない。これは、庶子の峰丸を妙覚寺に入れて法華坊主たらしめようとした道三の父松浪基宗のばあいもそうであったであろうが、同じことが、末子を妙覚寺で修行させて今泉の常在寺の住職日運上人としておわらせた、美濃の守護代斎藤利国のばあいにもいえるのである。  それはともかく、油売りの行商人として美濃にやってきた山崎屋庄五郎を、日運上人が初めから無条件で兄の長井豊後守利隆(妙全)に推挙すれば、庄五郎も、わざわざ稲葉山下に住んでいる長井藤左衛門尉長弘の家来の矢野五左衛門の手を経て、長弘に推薦してもらう必要もないわけだ。第一、長井長弘が、当時稲葉山の城主であったかどうかも判然としない。美濃関係の古記録や諸家の系譜などで調べてみると、長弘は、初め弥七郎直安といい、池田郡白樫の城主であったが、後に藤左衛門尉長弘と改めて稲葉山下に住し、大永七年(一五二七)ごろ、越中守と称したもののようである。稲葉山城主とは記していない。  おそらく、常在寺の日運上人は、山崎屋庄五郎の意中を見ぬき、庄五郎をただちに兄の長井豊後守利隆に推挙しなかったのではあるまいか。どうもそんなふうに推測されてならないのである。庄五郎は、土岐家中の武士として頭角をあらわすにつれて、守護大名の土岐盛頼に看破されたように、日運上人にも危険人物視されていったに相違ない。これは、むしろ、土岐家中としては当然なことであり、最初に庄五郎を危険視して遠ざけようとしたのが、案外、常在寺の日運上人であったかもしれないのである。 [#1段階大きい文字](三)土岐|頼芸《よりなり》に近づく  山城西岡出身の武士にもどった松浪庄五郎利政の武技と才能にほれこんだ長井藤左衛門尉長弘は、しだいに利政を重用していったが、ちょうどそのころ、長弘の家臣西村三郎左衛門尉が病死し、後継者がなかったので、長弘は、松浪利政に西村家を継がせた。そこで、庄五郎は、四たび名を変えて西村勘九郎正利と称し、土岐氏の執権長井家一族の家臣に加わることに成功したのであった。転身の速さとイメージ・チェンジの鮮やかさが、かれの身上だったといえる。  ところで、美濃の守護大名の土岐家では、永正十四年(一五一七)の家督相続争いの後、土岐政房の長男盛頼が家督を継いで川手城に居り、次男の頼芸《よりなり》が鷺山城主となっていたが、守護代斎藤氏の一族で土岐家の執権である長井藤左衛門尉長弘は、さっそく、新規召し抱えの西村勘九郎正利(松浪庄五郎)を、守護大名の土岐盛頼と、その弟の頼芸に目通りさせた。ところが、二人の反応は、まったく反対であった。  盛頼は、——あの男の面魂《つらだましい》は尋常でない。かならずや、大事をひきおこす曲者《くせもの》と見うける。君子の近づける人物ではない——と評して、接近を許さなかった。  しかし、頼芸は、勘九郎正利の才智と能弁を高く評価した。それに、頼芸はあらゆる遊芸の素養があったので、勘九郎の多芸に心をひかれた。また、なんでもよく気がついて人の気をそらさないので、側近になくてはならぬ男だと、頼もしく思い、長井長弘に頼み、ついに直臣にしてしまったのである。 『論語』に、孔子の言葉として、「巧言令色《こうげんれいしよく》、鮮仁《すくなしじん》」というのがあるが、盛頼のほうは、さすがにその名言を自戒として忘れず、巧言令色そのものと思われる西村正利を側近から遠ざけたのである。それにくらべて、弟の頼芸は人間のできばえが甘かったらしい。  西村勘九郎正利は、鷺山城主の土岐頼芸の信頼に乗じて、盛んに頼芸にとり入り、深芳野《みよしの》という絶世の美女を周旋し、その寵愛を失わぬようにつとめた。 『六韜《りくとう》』という中国の兵書をひもとくと、敵国の内部を攪乱させる戦略として十二項を挙げているが、その四に、——敵将に美女や珠玉を贈り、淫蕩《いんとう》その極に達せしめて、奸謀をたくましくすること——とあるが、後に斎藤道三と号して美濃の国盗《くにと》り大名となる西村勘九郎正利は、この『六韜』の戦略どおり、美女を餌《えさ》にして相手を釣ったのだ。  もっとも、この国盗り道三に限らず、智謀と機略で天下を取った豊臣秀吉などは、『六韜』の戦略十二項のうち、その二、その三、その五、その八の四項まで実施しているから、やはり、上には上があるものだ。ついでに紹介しておくが、その二は、——敵の重臣をだきこむこと——。その三は、——敵将、およびその左右の家臣を買収すること——。その五は、——敵の使者を懐柔し、敵を欺くための奸策をめぐらすこと——。その八は、——裏切りが成功したあとで高禄をあたえると約束して、相手を釣ること——というのである。その数だけでくらべると、道三よりも秀吉のほうが、悪智恵にかけてはより天才のように思われる。そこが、美濃の国盗りと、天下取りとの違いであるかもしれない。  なお、美女深芳野を中心とする西村勘九郎と土岐頼芸との両者の関係については、はなはだお色気のある話だけに、さまざまな異説が伝わっていて、史実的に明瞭でない点が多い。第一、深芳野というのが、どういう素姓の女か(丹後の名族一色右京大夫のむすめともいう)、はっきりしないし、一説によると、深芳野を愛妾に世話してもらった頼芸は、彼女に惑溺するにつれて、ますます、勘九郎に感謝し、これを信任するようになったが、ついに勘九郎を信頼し、これを自分にひきつけておきたいばかりに、せっかく手に入れた彼女を勘九郎に譲りあたえることになった。  これが大永六年(一五二六)、勘九郎が三十三歳のときのことであったという。寵臣に愛妾のお古を下げ渡すという例は、日本にも中国にも、古代からたくさんあるから、別に不思議ではないが、このばあい、主君がその愛妾に飽きがきた例が多い。側室が多すぎてもて余しているとか、他に、もっと若い、気に入った美女を手に入れたときが、多いようである。  ところが、『堂洞軍記』には、勘九郎のほうが深芳野を欲しくなり、頼芸を強迫して奪い取った、と述べている。しかも、勘九郎が深芳野を頼芸から奪ったのは、十六年後の天文十一年(一五四二)に、大桑《おおが》城にいた頼芸を襲って、これを美濃から追放したときのことと説明している。ときに、勘九郎は、さらに何度か改名したあげく、斎藤山城入道道三と号し、四十九歳に達していたのである。  ところで、道三の長男|豊太丸《とよたまる》(後の新九郎義竜)は、道三が深芳野を愛妾とした翌年に誕生しているが、この豊太丸は、ほんとうは土岐頼芸の実子であり、深芳野は、道三の愛妾となったとき、すでに頼芸の子胤《こだね》を宿していたともいう。これが事実とすれば、こういう異常な父子関係が、最後までスムーズにゆくはずはなく、弘治二年(一五五六)の正月、ついに、前代未聞の親子戦争となって発展する。そうして、親父のほうが六十三歳で敗死するのであるが、そのとき、豊太丸の義竜が何歳であったかを調べれば、道三が深芳野を愛妾にした年が、大永六年(一五二六)、道三が三十三歳の年のことであったか、天文十一年(一五四二)、道三が四十九歳のことであったか、そのどちらかが、大略、明らかになるわけであろう。  ところで、美濃の寺院関係の古記録によると、斎藤義竜は、父道三の敗死後、永禄四年(一五六一)の五月十一日、三十五歳の若さで病死したとあるから、大永七年(一五二七)に生まれたことが、大略、明らかとなる。だから、後説が誤りで、前説が正しいことが、実証される。つまり、道三が深芳野を愛妾にしたのは、かれが西村勘九郎正利と名のっていた大永六年(一五二六)、三十三歳のときのことであって、豊太丸の誕生は、その翌年(大永七年)のことだったということになる。 『美濃国諸旧記』によると、西村勘九郎が深芳野を土岐頼芸から下げ渡されたのが、大永六年の十二月のことであり、深芳野が豊太丸(義竜)を生んだのが、翌年の六月十日のことだったという。これが事実とすれば、豊太丸は七ヵ月ぎりぎりで勘九郎(道三)の子として生まれたということになる。むかしから、七ヵ月の早産児は放っておいても育つといわれているくらいだから、豊太丸は勘九郎の実子であったかもしれない。七ヵ月の早産児とすれば、実子の可能性はある。  しかし、かりに早産児でなかったとすれば、つまり、普通の赤ん坊どおりに、十ヵ月で生まれた子供であったと仮定すれば、豊太丸は、勘九郎が深芳野を愛妾とする三ヵ月以前に、すでに深芳野の腹のなかに宿っていた子供であって、勘九郎の実子ではないことになる。とすれば、土岐頼芸の胤《たね》であって、豊太丸の実父は、勘九郎ではなくて、頼芸だったと推測されるだろう。七ヵ月の早産児で、ひよわで、育つまいと思ったが、意外に体がたくましく、泣き声も大きかった、という説もある。専制君主が、すでに身ごもった女を家来や下男に下げ渡す実例もたくさんある。つまり、これを御落胤という。平清盛、足利義満、豊臣秀吉などの英雄・偉人には、天皇の御落胤説がつきまとっている。もっとも、秀吉のばあいは、かれ自身の宣伝がもとになっているようだ。  しかし、もう一つ、つぎのような考え方も通用しなくもない。さきにも紹介したように、『堂洞軍記』によれば、西村勘九郎は、深芳野を土岐頼芸から、半ば強迫的に奪い取ったという。そういう説があるとすれば、勘九郎は、彼女を頼芸から下げ渡されるか奪い取るかする、その以前に、すでに肉体的関係をつけていたのではなかろうか、という憶測も可能であろう。そうとすれば、豊太丸は、やはり、勘九郎の実子であったとみても、さしつかえあるまい。ここのところの判別は、なにさま、男女関係のことだから、すこぶるややこしい。それに、この美女深芳野をとりまく二人の男が、土岐頼芸と西村勘九郎である。どちらも、そうとうの美男子で、女好きで、女にだらしがなく、手が速いときている。どっちがどうとも、いえないのではなかろうか。どちらかといえば、豊太丸を土岐頼芸の落とし胤としたほうが、父子関係が憎しみから殺しあいにまで発展してゆく過程を説明するのに便利であるし、自然性もある。だから、作家は、好んでこの説のほうを採用しているようだ。しかし、考えようによっては、義竜を道三の実子としたほうが、実の父子の相剋の悲劇として、凄惨さにおいて、より深刻ではなかろうか。  ところで、筆者は、結論的には、豊太丸(義竜)を西村勘九郎(斎藤道三)の実子とは見るものの、生母を深芳野のような京美人とは認めない。比較的やせ型の美男子と楚々たる美女の仲に、常在寺の画像に見られるような、また、美濃関係の古記録や『翁草』で説明しているような、身長六尺四、五寸の容貌魁偉な巨漢が、生まれ出るはずもなかろう。義竜の生母は、道三の正妻稲葉氏と筆者は推測する。彼女は巨体の豪傑稲葉一鉄の姉で、六尺ゆたかな大女であったといわれる。ただし、この件については、後章にゆずりたい。 [#改ページ]   第二部 国を盗る [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 権謀術策 [#1段階大きい文字](一)土岐盛頼を追放する  美濃の守護大名で川手城主の土岐|盛頼《もりより》と、その弟の鷺山城主の土岐|頼芸《よりなり》とは、兄弟でもまったく性格が違っていたようだ。こういう兄弟は、今日の世のなかでもザラにある実例で、どちらかが父親似、どちらかが母親似、つまり、父母の性格の相違が原因であろうと考えられる。しかし、この兄弟の性格の相違にもとづく不調和を、両者の確執《かくしつ》にまで盛り上げ、その分裂的な弱点に乗じて、守護大名家を乗っとろうというのが、執権長井藤左衛門尉長弘の推挙によって土岐頼芸の直臣となった新参者西村勘九郎正利(松浪庄五郎)の策謀だった。  西村勘九郎は、最初、どうせ近づくのなら、守護大名の当主土岐盛頼のほうが手っとり早いと考えた。ところが、盛頼が勘九郎を危険視し、これを遠ざけたので、仕方がなくて、自分の才能を高く評価してくれる弟の頼芸の直臣となった。しかし、肝心の守護大名の盛頼が自分を危険視し、警戒していることは、勘九郎としても警戒すべきことであった。いつなんどき、自分が除かれるかわからない。食うか食われるかの世のなかだ。勘九郎は、自分の生命と、努力してようやくかちとった土岐家における自分の地位を防衛するためには、土岐盛頼を消すほかなかったのである。  そこで、西村勘九郎は、先年の家督相続争いに敗れ、兄の盛頼にたいして不満を抱いている土岐頼芸の弱味につけ入り、——このさい、いっそのこと、盛頼公を討ち滅ぼして、美濃一国の領主となられませ——と、言葉巧みに煽動した。日ごろからよく気が利いて重宝《ちようほう》な男であるうえに、かつて深芳野という絶世の美女まで世話してくれた勘九郎におだてられ、頼芸は、——よくぞいってくれた——と、勘九郎の甘言に酔い、うっとりとして目を細めるのであった。——しかし、もしも、こんなことが兄じゃにバレてしまったら、どうしよう——と、奸臣にも美女にも甘い男だけに、不安にかられたものか、なさけなげな顔つきをしてみせた。勘九郎は、——いや、万が一、この計画が失敗したばあいには、頼芸公はなんにも知らなかったことに致し申す。責任は、すべてこの勘九郎が負いますゆえ、ご安心のほどを——と、答えた。そこまで自分の身を気づかい、かばってくれるのかと、頼芸は、勘九郎を無二の忠臣と思いこみ、心から頼もしく思った。どこまでもおめでたくできている男であった。  西村勘九郎の本心は、別なところにあった。守護大名家の家督相続争いに負けた土岐頼芸が、その遺恨を晴らすために兄の盛頼を討つ——といった戦いの名目が立ったからには、その戦争に勝てばよかった。勝てば、どんな名目でも通る世のなかだった。しかし、土岐盛頼との戦いに勝ちぬくためには、頼芸のようなおめでたい大将の指揮をうけたのでは、かえって危険だ。こんな男のさしずで行動すれば、勝てる戦争も負ける、と値踏みしていた。灯油商売の経験があるだけに、値踏みに狂いはない。勘九郎は、このさい、思う存分の働きをし、その結果の功績をひとり占めにしたい、と考えた。それだけ、実力もあるし、自信もあったが、これから美濃の国を乗っとるための最初の賭けでもあり、運だめしでもあったのである。  西村勘九郎正利は、極秘に、しかも着々と、戦備をととのえていた。そうして、ついに、大永七年(一五二七)、三十四歳の年の八月、五千五百の軍勢を率いて、いきなり川手城に夜討ちをしかけた。『美濃国諸旧記』によれば、鷺山城から攻めよせた将士は、西村勘九郎をはじめとし、小弾正太郎左衛門、衣斐修理亮、船木大学頭、土居左門、本庄駿河守、郡家刑部丞、曽我屋弾正、石谷対馬守、村山越後守、国島将監、則武主膳正、仙石又之丞、羽生善助、西江五郎、春近新八郎、彦坂九八郎、高橋但馬守、樫原藤馬之助、汲川源之助、林左近、岩利善左衛門、鎌倉吉左衛門、小柿主水正、深尾下野守、竹中丹波守、曽井八郎、国枝太郎、道家清十郎、石原清左衛門、岩手彦八郎、牧村彦太郎などであったという。  不意を衝かれた川手城では、びっくり仰天し、ありあわせの城兵をかき集めて防戦した。急なことなので遠方の家来が駈けつけるひまもなく、安藤太郎左衛門、蜂屋主馬助、猪子源助、多治見蔵人、岩田茂兵衛、高桑才左衛門など二千余人が持ち口に馳せつけ、矢を放って寄せ手を撃退しようとつとめた。このとき、西村勘九郎は、葦毛《あしげ》の馬に乗り、大《おお》母衣《ほろ》を背負い、鎧《よろい》の袖をかざして、まっ先に猛進し、馬から下りると、難なく城の塀を乗り越えて、城内に乱入した、というから、信長や秀吉と同様に、智謀だけでなく、命知らずの勇敢な一面もあったわけだ。  そのため、川手城内の将士らも、土岐盛頼に向かい、再討伐を期し、ひとまず城を落ちのびることを勧めたので、盛頼も仕方なく、主従わずかの人数で川手城を脱出し、越前の国に遁走し、同国の国主大名朝倉孝景を頼り、その居城の一乗谷(福井市の郊外)に蟄居することになった。  そこで、鷺山城主の土岐頼芸は、手も濡らさず、兄盛頼に代わって土岐家の惣領職となり、美濃の守護大名として、西村勘九郎に迎えられて、盛頼の居城であった川手城にはいった。勘九郎は、新参者ながら、この一戦の功労によって、さらに頼芸の信任を得、土岐家の執権となった。つまり、前の主人の長井藤左衛門尉長弘と同格の地位にのし上がった。そして、頼芸から本巣《もとす》郡の祐向山《ゆうこうざん》城をあたえられたので、同年(大永七年)の九月、それまでいた軽海《かるみ》城(稲葉山の二十キロ西方)を出て、新城に移った。 [#1段階大きい文字](二)恩人・長井長弘を上意討ちにする  西村勘九郎は、守護大名土岐家の執権に成り上がったものの、同じ執権でも、もと勘九郎の主人であった長井藤左衛門尉長弘には、頭があがらない。だから、長弘の存在は、目の上のタンコブだった。『斎藤系譜』によると、長弘は、大永七年(一五二七)、越中守と改めていた。  勘九郎は、なんとかしてこのタンコブを除去したいと思った。しかし、それには、除去するだけの理由を立てねばならない。そこで、当時、川手城からさらに山県郡の大桑《おおが》城に移っていた土岐頼芸に向かい、ひそかに長井越中守長弘のことをざん言した。——越中守どのは、盛頼公と内密に連絡をとり、川手城の奪還をはかっていられる。いまのうちになんとかせねば——と、耳もとに口を寄せ、ささやきかけた。なお、頼芸が大桑城へ移ったのは、天文三年(一五三四)の秋、長良川が氾濫して大洪水となり、頼芸がその二年前に長良に新築した枝広館《えだひろやかた》が流されたため、一時、鷺山に避難したが、再度の洪水を恐れ、はるか北方の大桑山の頂上に築城し、ここに移ってしまったのである。  もしも、このとき、長井長弘が西村勘九郎の恩人であったことを頼芸が思いおこせば、勘九郎のささやきが、長弘をおとしいれるためのざん言ではあるまいか、と疑ったに相違ない。しかし、頼芸は、自分にやさしくしてくれ、芸ごとの相手や美女の周旋のみならず、なんにもしないで兄盛頼にかわって美濃の守護大名にしてくれた西村勘九郎の恩義に感じ、勘九郎の手腕にゾッコンほれこみ、なにもかも信用する気になっていた。頼芸は、勘九郎という人形師に操られているデク人形にすぎない。  頼芸の許可を得た勘九郎は、かつての恩人の長井長弘をこの世から永遠に消すための手段について考えた。すると、至極便利な方法を思いついた。それは、上意討ちと称する殺人法である。  武力の行使権を武家の棟梁《とうりよう》である将軍や大名が独占していた日本の、いわゆる封建時代、つまり鎌倉以降江戸幕末までは、手討ちとか上意討ちなどという、今日の日本国家の法律や社会の常識から考えると、はなはだ無法きわまることが、当然のごとくに行なわれていたのである。  手討ちとは、いうまでもなく、主君の命令に従わない家来を主君自身の手で成敗《せいばい》することであって、このばあい、家来のほうは、むしろ、直接主君の手にかかるのを光栄であるかのように考えさせられて死んでゆくし、斬られた家族の者も文句はいえない。まして、主君を恨むなどは、もってのほかとされていた。領地や子孫さえ安全なら、それであきらめていたのである。  この手討ちとくらべて、上意討ちというのは、主君が、罪を犯した家来に直接手をくださず、同じ家来のうちの何者かに命じ、主君の命令だと称して、間接的に殺させる方法である。つまり、主君である将軍や大名の上意によって討ちとることなのだ。だから、このばあいは、直接的でないせいもあって、さまざまな見苦しい事態が起こりかねない。  上意討ちでもっとも有名なのは、阿部一族全滅の事件であろう。これは、江戸初期は徳川三代将軍家光のときに勃発したできごとであって、明治の文豪森鴎外によって、『阿部一族』と題する中篇歴史小説に創作されたため、世に知られている。しかし、これは、江戸幕藩体制下の、士農工商といった身分と職業がまったく分化し固定化された、徳川封建時代の武家社会における異常なできごとであって、江戸時代の武士道の立場からいえば、赤穂浪士のばあいと同様に、処罰さるべき犯罪事件であったが、武士本来の意地や面目を重んずる見地からみれば、ともに同情さるべき悲劇であったといえよう。  これら江戸時代の武士の不自然きわまる言動と比較すれば、それ以前の、いわゆる戦国動乱期における武士たちの言動は、はなはだ自由であった。人に殺される危険もあったかわりに、人を殺す自由もあった。ある程度の名目さえ立てば、それを楯に、どんなことでもできた。戦国武士道というのは、江戸時代の武士道とはまるで主旨が違っていた。武士の意地をつらぬき、面目を立てるためには、主君に反逆を企て、暗殺さえもしたのである。  たとえば、明智光秀が信長を本能寺に襲ったのも、別に天下取りの野望があったからではなくて、主君のために武士としての面目を傷つけられたからであるし、後藤又兵衛基次が主君黒田長政と口論し、隊伍を組み、鉄砲をぶっ放しながら筑前の福岡城下を退去して浪人となったのも、武士の意地をつらぬくのが目的であった。有名な坂崎出羽守と千姫の事件も同様であった。江戸初期には、まだ血なまぐさい戦国武士道の名残りが温存されていたのである。紀州九度山に閑居していた真田幸村が、大坂城に入城し、徳川の大軍を相手に最後まで奮戦したのも、必ずしも勝ったばあいの恩賞をあてにしていたのではない。やはり、武将としての面目を飾るためであった。  しかし、西村勘九郎正利が、かつての恩人でもあり、主人でもあった長井越中守長弘を、上意討ちにしようと考えたのは、新たな主君土岐頼芸を美濃の守護大名に仕立て上げてやったことに恩を着せ、上意討ちという主君の命令権を利用し、国盗りプランを実施するについて、邪魔者の長井長弘を消そうとしたにすぎない。  武士の意地や面目を立て通すというよりも、美濃一国を乗っとるための、手っとり早い方法にすぎなかったのである。意地も面目もあったものではない。邪魔者は消してしまえ——といったような、きわめて現実的でドライな、即物的な、ある意味では、今日的な、目的のためには手段を選ばないといった行動であった。西村勘九郎は、国盗りの目的をとげるための一つの手段として、たまたま、上意討ちの方法を利用したにすぎないのである。その点、かれの婿となった尾張の風雲児織田信長の天下取りの方法のお手本となったといえなくもない。  この無法な上意討ちが実施され、長井越中守長弘がこの世から姿を消してしまったのは、『斎藤系譜』によれば、天文二年(一五三三)の二月二日のことだというし、例の今泉の常在寺の住職日運上人の兄にあたる長井豊後守利隆という人物もまた、同年の四月一日に病死したといわれているが、余り当てにならない。  なお、一説によれば、西村勘九郎は、長井長弘を上意討ちにしたのではなくて、酒宴を勧め、乱酒と遊興に惑溺させ、守護大名土岐氏の執権としての政務を怠らせ、人々の評判を悪くさせ、長弘の不行跡を理由に、これを襲って殺害し、長井家を横領した。そのため、長井・斎藤の一族が激怒し、西村勘九郎の殺戮を謀った。その勢いに驚いた勘九郎は、稲葉山の館を脱出し、土岐頼芸のいる大桑城に隠れた。長井一族は、頼芸に勘九郎の引き渡しを迫った。すると、この騒ぎを知った今泉の常在寺の日運上人が、さっそく大桑城にやってきて、頼芸に会い、かつての親友西村勘九郎の助命を乞い、長井・斎藤一族と勘九郎との間を調停した。土岐頼芸も、寵臣の西村勘九郎をかばい、将来のことを考えて、近江の守護大名佐々木氏のもとに使者を遣わして、和睦の斡旋を依頼し、ようやく事なきを得たという。  西村勘九郎は、窮地を脱したものの、一介の成り上がり者が大望をとげるためには、強力な後楯が必要であることを悟り、そのころ東美濃の名族として知られていた明智|光継《みつつぐ》の長女をめとることにした。仲人《なこうど》は土岐頼芸に依頼している。もっとも、そのころ、勘九郎の正妻稲葉氏(義竜の生母)は、病死していたらしい。 [#1段階大きい文字](三)長井新九郎|規秀《のりひで》と改める  長井長弘という目の上のタンコブを除去し、かつ、守護大名土岐頼芸の絶対的信任を得た西村勘九郎にとって、美濃の国には、もう恐るべき人物が一人もいなくなった。そこで勘九郎は、長井長弘の遺児に家督相続をさせずに、かれ自身が、長弘の名跡を譲り受け、長井新九郎|規秀《のりひで》と名を改めたということである。  美濃の『長滝寺文書』を見ると、つぎのような寺領安堵の連署状が収めてある。 [#ここから2字下げ] 当寺法度の儀に就いて、去る永正十四年承隆寺殿様御判之物、并《ならび》に当所年寄共に進じ置き候|書物《かきもの》、何《いずれ》も以て、存知仕り候。先例を守られ、仰せ付けらるべく候。若し違背の輩《ともがら》あらば、交名《きようみよう》を注し、仰せを蒙り、申し届くべきの状、件《くだん》の如し   天文弐年十一月廿六日 [#地付き]長井新九郎      [#地付き]   規秀(花押)  [#地付き]長井藤左衛門尉    [#地付き]   景弘(花押)     長滝寺      衆徒へ御中 [#ここで字下げ終わり]  天文二年(一五三三)の十一月二十六日といえば、西村勘九郎が長井長弘を上意討ちにした十ヵ月後にあたるが、その間に、勘九郎が、例の得意のイメージ・チェンジを行なうために、長井新九郎規秀と名を改めたことが、一等文献史料であるこの古文書によって立証される。  今日でも、芸能人、つまり、俳優や流行歌手などは、さかんに整形手術までして容貌を変え、芸名も改め、観客のイメージをチェンジすることによって、自分を新鮮によみがえらせ、マスコミに売りこもうとする。整形手術はともかく、芸名を改めることによって俄然一流の映画俳優にのしあがった実例は、戦前にもある。筆者の小学校時代の同窓の岡譲二君がこれだ。デビュー当初の芸名がなんといったかは忘れてしまったが、岡譲二と改名することによって、元来、容貌も立派で才能もあるかれは、俄然、超一流の映画俳優として、スクリーンにあらわれた。昭和初年のことである。ただし、改名したりイメージ・チェンジしたとて、マイナスになる例だってある。かならずしも成功するとは限らない。その実例は、読者諸氏もテレビなどをごらんになって、十分お気づきのことと思う。筆者が親愛する国盗りの斎藤道三など、四百年もむかしに改名によるイメージ・チェンジをさかんに実施し、それが効果をあげていったらしいから、驚嘆に値する。かれは、アイディアマンとしても、超時代的な斬新さをもっていたのである。  ただ、疑問に思うのは、この西村勘九郎がイメージ・チェンジした長井新九郎規秀と連署している、長井藤左衛門尉景弘という人物のことである。長井藤左衛門尉長弘がすでにこの十ヵ月前に上意討ちにあって斬り殺されているのを史実とすれば、これは、長弘とは別人である。 『美濃国諸旧記』などによると、長井藤左衛門尉長弘を上意討ちにした西村勘九郎は、長弘の遺児に家督相続を許さず、自分が長弘の跡目を譲り受けたというが、この『長滝寺文書』の寺領安堵の連署状をみると、自分よりも長井藤左衛門尉景弘という人物の署名を上位に書かせている。古文書の書式では、日付の真下に署名したほうが下位なのだ。だから、おそらく、この長井藤左衛門尉景弘というのは、長弘の遺子であり、表面上は、遺子の景弘に跡目を継がせ、自分は景弘の後見人として、その名も長井新九郎規秀と改め、守護大名家の執権長井氏の実権だけを奪ったのではあるまいかと推測する。そうでないと、この天文二年十一月二十六日付の連署状の解釈が不可能となるからだ。  つまり、執権長井藤左衛門尉長弘の遺子藤左衛門尉景弘と、西村勘九郎を改名した長井新九郎規秀とが、連名連署で、美濃の長滝寺の衆徒にあてて、寺規や寺領にかんする安堵状をあたえたのである。父親長弘の通称藤左衛門尉をむすこの景弘が踏襲するのは当然のことで、その実例はすこぶる多い。道三の長男義竜が新九郎と称したのも、父の道三が前に長井新九郎規秀と称していたからだ。  この安堵状の文中に「当寺法度」とあるのは、長滝寺の法規のこと。「去る永正十四年承隆寺殿様御判之物」というのは、永正十四年(一五一七)に守護大名土岐政房があたえた判物(書判《かきはん》、つまり花押《かおう》を押して定めた寺規)のことである。土岐政房は成頼の長子だが、成頼は末子の元頼の愛に溺れ、政房をうとんじた。しかし、船田の乱にあい、家督を政房に譲らざるをえなくなった。その美濃守政房が永正十四年(一五一七)に隠居すると、その跡目相続をめぐって、長男の盛頼と次男の頼芸が相剋するにいたったのだ。「承隆寺殿様」というのは、政房の法名である。 「当所年寄共」とは、長滝寺衆徒中の古老であろう。「進じ置き候|書物《かきもの》」というのは、その古老にあたえた証文・証拠書類のこと。「書物」とは、書籍のことではない。そして、——土岐政房公のときに定めた先例に違反する者があったならば、その名を一々記し、申し届けたがよい——というのである。  ともかく、ここに掲げた天文二年(一五三三)十一月二十六日付の「長井新九郎規秀」他一名の連署状をもって、斎藤道三文書の初見とすべきであろう。それ以前の文書、たとえば、西村勘九郎正利などと署名した文書は、まだ発見されていない。だから、歴史学上の立場から厳密にいえば、それ以前、つまり四十歳以前の斎藤道三の経歴については、実証性に乏しく、どこまでが史実か、作り話か、判明しがたいのである。  しかし、古文書や古日記というような一等文献史料が存在しなければ、なんにもわからないというのでは、歴史の研究方法も、あまりに単純で、機械的、即物的すぎる。古文書や古日記を出版しさえすれば、歴史の研究方法が進歩し、史実の真相も究明できるというものでもあるまい。それでは、たんに基礎的な準備作業が整備された、つまり、研究所や図書館の設備が完備したというだけのことであって、その準備作業をもととして、さらに歴史学者とか歴史家とか称する人間が脳味噌をしぼり、石あたまをもっと柔軟にし、学術的な推理力、作家的な表現力をたくましく発揮しなくては、歴史の研究方法が発達し、史実や人物の真相が究明されたことにはならない、と筆者は思うのである。  しかし、信長殺しは光秀ではないとか、上杉謙信は女であるとか、義経はジンギスカンであるとか、明智光秀は天海僧正であるとか、大谷刑部が江戸時代まで生きながらえていたとかいうのは、作家的な空想力の自由ではあっても、歴史の研究には、そのようなデタラメな空想や推理は、非学問的なものとして、まったく許されないのである。そこのケジメを、読者諸氏も、よく理解していただきたいのである。  つぎに、道三の長井新九郎規秀時代の文書として紹介したいのは、美濃の揖斐《いび》郡の『華厳寺文書』所収の、次の禁制である。 [#ここから2字下げ]    禁制    谷汲山華厳寺 [#ここから2字下げ] 一、甲乙人《たれかれ》濫妨狼藉《らんぼうろうぜき》の事。 一、山林の竹木を伐採《ばつさい》する事。 一、寺内において諸勢陣を取る事。 一、新儀の諸役の事。 一、郡司入る事、先規の如し。 一、境内において殺生《せつしよう》の事。 一、其の身の科《とが》に依って、罪科に及ぶといえども、跡職《あとしき》・家財などは、本尊へ寄附せしむる処を、違乱の事。 一、寺領などにおいて、違乱せしむる事。  右条々、若し違犯の輩《ともがら》においては、厳科に処すべきものなり。仍《よ》って、定め置くところの状、件《くだん》の如し。   天文三年九月 日 [#地付き]藤原規秀(花押)  [#ここで字下げ終わり]  これは、前掲の連署状を長滝寺にあたえた翌年(天文三年)の九月づけで、長井規秀が谷汲山華厳寺《こくきゆうざんけごんじ》にあたえた禁制である。「新九郎」という通称を省略し、「藤原」の姓を書いているが、花押の形状は、前の連署状の花押と同様である。「藤原」の姓を用いたのは、長井氏の姓が藤原だからであろう。  こうした内容の禁制は、戦国・安土桃山時代の大名が、諸寺社の要求を容れて、しきりに発布したものであり、要するに、寺社の境内で乱暴狼藉をしたり、竹木を伐採したり、軍勢が陣取ったり、殺生をしたり、寺領を違乱したりすることを厳禁したものである。しかも、このばあいは、——この禁制を犯した者は、罪科に処し、知行や家財などは、これを没収して、華厳寺の本尊に寄附させる——というのである。  その少し後の天文五年(一五三六)には、守護大名土岐宗芸の禁制が、二月二十六日づけで、揖斐郡の竜徳寺に発布されているが、その内容は長井新九郎規秀のものと大差ない。「宗芸」というのは、「頼芸」の晩年の法号であるが、頼芸も、道三にならって、イメージ・チェンジを考えたのかもしれない。寵臣のまねをするようでは、もともとたいした人物でなかったといわれても、仕方があるまい。  つぎに、天文六年(一五三七)というと、日本史上一流の英雄豊臣秀吉が生まれた年だが(ちなみに、秀吉の誕生を天文五年正月元旦とするのは、小瀬甫庵の『太閤記』以来の俗説であり、史実的には誤謬である)、美濃の『毛利文書』(羽島市桑原町毛利広之氏所蔵)には、同年と推定される八月六日づけで、毛利小三郎という地侍にあたえた織田弾正忠信秀の書状が掲載されている。その内容は「八朔の祝儀《しゆうぎ》として、二十疋送り給わり候。目出度、祝着の至に候。委細、春日《かすが》申すべく候」といった単純なものである。  織田弾正忠信秀、つまり、有名な信長の父親にあたる人物の文書は、尾張の『妙興寺文書』所収の天文二年(一五三三)十二月二十六日づけの妙興寺宛の寺領安堵状をもって初見とし、その翌年(天文三年)には、吉法師、つまり、信長が那古野城で生まれている。だから、この『毛利文書』所収の天文六年(一五三七)八月六日づけの信秀書状は、織田信秀が三十歳(信秀は天文十八年に四十二歳で病死している)、信長が四つの年の文書である。  ところが、やはり、『毛利文書』をみてゆくと、八月十七日づけで、同じく毛利小三郎にあたえた揖斐《いび》光親の書状が載っている。  この揖斐光親というのは、『土岐氏系図』によれば、美濃の守護大名土岐美濃守政房の五男で、例の盛頼(頼純)や頼芸の舎弟にあたる人物だが、揖斐家へ養子にいったので、揖斐五郎光親と称していたのである。この光親の書状を見ると、その一節に「殊に、今度、尾州衆出勢の刻、出陣すべきの由、尤もに候」とあって、尾州衆、つまり織田信秀の率いる尾張の軍勢が、美濃に侵入してくるというので、毛利小三郎の出陣を促しているのだ。この揖斐光親の書状を、大略、天文六年ごろのものと推測すれば、小三郎は、美濃の地侍でありながら、織田と土岐との両方から味方に誘われていたものとみえる。ともかく、織田信秀の美濃経略が、すでに天文六年ごろからはじめられていたことがわかる。 [#1段階大きい文字](四)守護代斎藤氏の家名を継ぐ  さて、つぎに、美濃の『阿願寺《あがんじ》文書』に、九月十四日づけで、倉居島の内百姓中にあたえた斎藤利茂の寺領安堵状が載っている。これは天文七年(一五三八)の文書と推定されるが、この斎藤利茂というのは、『斎藤系譜』によれば、前に述べた美濃の守護代斎藤利良の弟である長井利隆(妙全)のむすこにあたる人物である。父の利隆が天文二年(一五三三)の四月一日に死去したため、その跡目を継ぎ、堂洞の城主だったらしい。  ところが、同年(天文七年)の九月一日に守護代の斎藤利良が病死して、嗣子がなかったので、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)は、絶好のチャンスのがすべからずと決意し、鼻の下の長い守護大名土岐頼芸を口説いて、守護代斎藤宗家の名跡を強引に相続し、ここに、長井新九郎規秀を改めて、斎藤新九郎利政と称したのである。これについては、おそらく疑義があろう。斎藤左近大夫利政と改称したというのが通説となっているようだ。しかし、美濃の郡上郡高鷲の鷲見敏氏所蔵の『鷲見文書』に、つぎのような利政の書状があるが、その切封上書《きりふううわがき》に「斎藤新九郎利政」と署名している。 [#ここから2字下げ]  (切封上書)   「              斎藤新九郎                 利政       鷲見藤兵衛尉殿           御返報  」 [#ここから2字下げ] 国家無事の儀に付いて、委曲、示しに預かり候。本望の至《いたり》に候。去々月下旬、大桑へ出頭申し候。時宜においては、御心安かるべく候。随って、蓑《みの》大小、御意に懸けられ候。畏《かしこ》まり入り候。御懇切の次第に候。尚《なお》、宗慶演説あるべく候。恐々謹言。   九月三日 [#地付き]利政(花押)   鷲見藤兵衛尉殿        御返報 [#ここで字下げ終わり]  これによって、斎藤利政は、美濃の守護代斎藤氏の名跡を継ぎ、「左近大夫」と改称する前に、長井規秀当時の「新九郎」という通称をなお使用したことが明らかになり、この九月三日づけ鷲見宛の書状が、天文七年(一五三八)のものであることが、ほぼ推定されるのである。  美濃関係の諸記録では、守護代の斎藤利良が天文七年の九月一日に病死すると同時に、その名跡を相続したように単純に記述しているが、この九月三日(天文七年)の利政の書状によると、「去々月下旬、大桑へ出頭申し候」とあるように、九月三日の去々月下旬、つまり、七月下旬に守護土岐頼芸の居城大桑に出頭して、守護代斎藤家の跡目を継ぎたいと申し出て、その交渉をはじめていたのである。もちろん、斎藤利良の病死を見越してのことであろう。さすがに国盗り物語の主人公だけあって、人の死ぬのを待っていられなかったとみえる。それから、さらに、「新九郎」の通称を「左近大夫」と改め、ここにいよいよ、斎藤左近大夫利政と改名することになったのである。そうして、かれは、守護代として、土岐頼芸に代わって美濃の政治の実権を握ることに成功している。  美濃の『美江寺文書』所収の左の禁制は、長井新九郎規秀が、斎藤左近大夫利政と称してからの最初の文書として、注目に値する。 [#ここから2字下げ]    禁制    美江寺 [#ここから2字下げ] 一、甲乙人等《たれかれなど》、宿《やど》を執《と》る事。附《つけたり》、軍勢陣を執る事。 一、寺領・祠堂物《しどうぶつ》などの煩《わずら》い、并《ならび》に、先例の寺法を破る事。 一、寺領・坊領売買、并《ならび》に諸寄進、檀那《だんな》の子孫違乱の事。 一、諸役免許の処、事を左右に寄せ、寺家《じけ》衆に謂《い》われなき子細《しさい》申し懸くる事。 一、国中徳政法式の儀に付いて、当寺中、惣並《そうな》みに混《こん》ずべき旨《むね》、申す族《やから》の事。 [#ここから3字下げ] 右の条々、違犯の輩《ともがら》においては、速《すみ》やかに罪科に処せらるべきの由《よし》に候なり。仍《よ》って執達《しつたつ》、件《くだん》の如し。   天文八年十二月 日 [#地付き]左近大夫(花押)  [#ここで字下げ終わり] 「甲乙人《たれかれ》」というのは、「軍勢甲乙人」と書くのが、禁制のきまり語句だが、その下の附《つけたり》のところに「軍勢陣を執る事」とあるから、「軍勢」の二字を省略したのである。要するに、斎藤左近大夫が美江寺の請願を容れて、美江寺を軍隊の陣所とすることを禁止したのである。また、寺領や祠堂物に関して、先例の寺法を破ることを禁じた。 「祠堂物」というのは、死者の冥福を祈るために、祠堂の修理を名目として寺院に寄進した物品のことで、これを銅銭で納めるばあいは、祠堂銭《しどうせん》と称した。当時、寺院によっては、祠堂銭を人に貸しつけ、金融機関として利益をあげ、その寺の重要な財源としていたのである。祠堂銭を借用した者は、かなりの利子をつけられても、仏罰を恐れて返済したし、幕府も大名もその債権を保護したため、寺院も安全に利殖をはかることができた。もちろん、幕府や大名も祠堂銭の債権を保護することによって、それらの寺院からなんらかの進物を得ていたのである。  大名の武力によって保護された高利貸、これを土倉《どそう》(質屋)か酒屋ならまだしも、寺院がやっていたのだから、あきれるほかない。一番の被害者は、やはり、いつも、一般の貧乏人であった。  それから、寺領・坊領を売買したり、寺への寄進や檀那(施主《せしゆ》)の子孫を違乱することを禁じている。また、——諸役(さまざまな労役)を免許しているのに、勝手な理由をつけて、寺家《じけ》の人々に迷惑するようなことをいってきてはならぬ——というのである。  以上は、美濃および近隣の土豪たちの違法を対象にして、禁止しているのだ。末文には、——美濃の国中に徳政法式(借銭帳消しの法令)が実施されたとしても、美江寺だけは例外とする——というわけである。  天文八年(一五三九)の十二月に、美江寺という有力な寺院にたいして、これだけの内容をもった禁制を公布させられるということは、斎藤左近大夫利政が、美濃の国の守護代として、いかに軍事力と政権を掌握するにいたったかを実証する。  守護代になったから急にこのような権力を得たというよりも、むしろ、名ばかりの守護土岐頼芸を自由に操れる実力者と成り上がっていたればこそ、守護代斎藤氏の名跡を継ぐことができた。それで、だれも表面的に文句をいう者がいなくなったのである。 『美濃明細記』によれば、当時、守護代斎藤左近大夫利政は、上加納城から稲葉山に移り、城主として納まっていたが、守護の土岐頼芸も、なお、大桑城主として健在であった。かれは、当時、川手城から大桑城に移っていた。美濃の『阿願寺文書』によれば、頼芸は、翌天文九年(一五四〇)の十月十六日づけで、つぎの寺領安堵状を阿願寺にあたえている。 [#ここから2字下げ] 倉居島《くらいしま》の阿願寺の事、先年、周豊蔵主《しゆうほうぞうす》、寺領・被官《ひかん》已下、領知すべきの由《よし》、申し候い了《おわ》んぬ。前々の如く領掌、相違あるべからざるの状、件《くだん》の如し。   天文九年十月十六日 [#地付き](土岐頼芸花押)    麟蔵主《りんぞうす》 [#ここで字下げ終わり]  ——美濃の倉居島の阿願寺は、先年、周豊蔵主が、寺領や被官《ひかん》(寺の下役人)などを領知すべきだと申し遣わしておいたから、前例のとおり、相違なく領掌せよ——というのである。宛名の「麟蔵主」は、周豊蔵主の後継者であろう。  また、『阿願寺文書』を見ると、同年(天文九年)の十月十六日づけで、例の武儀郡小野の堂洞城主斎藤利茂(利隆の子)が、「斎藤|帯刀《たてわき》左衛門尉利茂」と署名署判して、阿願寺の麟蔵主に宛てて書状をだしている。  その文中に、「阿願寺の儀、承隆寺殿(土岐政房)并《なら》びに御屋形様(土岐頼芸)御判之筋目申し上げ候処、御意得《おんこころえ》なされ、かさねて相続の御判つかわされ候。目出度候」とあるのは、同月日づけで出された前掲の土岐頼芸の寺領安堵状にたいして、守護代斎藤家の一族、つまり、前守護代斎藤利良の同族として、添え状をだしたのである。この前年(天文八年)に守護代斎藤氏の宗家《そうけ》を相続した成り上がり者の斎藤左近大夫利政のことなど、眼中になかったことを裏づけする。これは、むしろ、当然のことであろう。  つぎに、『大垣市立図書館所蔵文書』のなかに、岩手四郎という美濃の土豪にあたえた土岐頼芸の書状が二通あり、どちらも天文十年(一五四一)ごろのものと推測されるが、そのうちの一通は八月九日づけである。 [#ここから2字下げ] 菩提山《ぼだいさん》の儀、申し出《い》ずるの処、即時、入城せしむるの由《よし》、注進候。尤も神妙に候。江南北へ堅約せしむるの条、切に候時は、彼方《かなた》へ申し談ずべく候。斎藤左近大夫かたへも、堅く申し付け候。要害の事、|由《〈油〉》断なく申し付くべく候儀、|管《〈肝〉》要候。猶《なお》、稲葉右京より申すべく候。恐恐謹言。   八月九日 [#地付き]頼芸(花押)     岩手四郎殿 [#ここで字下げ終わり]  頼芸の指令に従って、岩手四郎が菩提山《ぼだいさん》に即時に入城したことをほめ、近江の南北、つまり江南の六角氏や江北の浅井氏へ、かねての約束どおりに和議を結ぶように談判すべきことを命じているが、「斎藤左近大夫かたへも、堅く申し付候」とあるのに、注意せねばならぬ。つまり、この天文十年の八月九日当時は、まだ、土岐頼芸は、美濃の守護大名として、守護代に就任したばかりの斎藤左近大夫利政に命令を下していたことがわかる。つぎに、同年十月十九日づけの、やはり、岩手四郎宛の頼芸の書状を紹介しておく。 [#ここから2字下げ] 疎略なきの段、申すの趣、神妙に候。然らば、忠節せしむべきの由、其の意を得候。同名の者、相談し、粉骨を抽《ぬきん》ずべきのこと、専要に候。猶《なお》、伊藤筑後入道・稲葉彦四郎申すべく候。恐々謹言。   十月十九日 [#地付き]頼芸(花押)     岩手四郎殿 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 蝮《まむし》の道三 [#1段階大きい文字](一)土岐頼芸を追放し国主大名となる  さて、『美濃明細記』によると、美濃の守護代となった斎藤左近大夫利政は、ついで、土岐頼芸の弟七郎頼満と同八郎頼香を婿《むこ》として、いよいよ権勢を張ったが、天文十年(一五四一)、頼満を毒殺したという。これは、おそらく、頼満が利政の野望を看破し、これを危険人物視し、あわよくば、守護大名土岐頼芸の側近から遠ざけようと計画し、それが未然に利政の耳にはいったからであろう。  また、一説によれば、頼芸の弟に揖斐《いび》城主の揖斐五郎|光親《みつちか》という人物がおり、斎藤利政の日ごろの行ないを悪《にく》み、目のかたきにしていた。利政のほうでも、それを知り、なんとかして光親を除こうと考えていた。  そのころ、また、利政は土岐頼芸の長男|法師丸《ほうしまる》とも仲が悪かった。そこで法師丸は、ある日、利政の隙をうかがい、いきなり斬りつけたが、そこは剣技にたけた利政のこととて、難なく身をかわし、その場を去った。しかし、身の危険を悟った利政は、あるとき法師丸と揖斐光親のことを頼芸にざん言し、——御舎弟揖斐五郎どのは、御曹司様《おんぞうしさま》へ、内々|謀叛《むほん》を勧められ、軍勢を催されていられるよし——と告げた。これを聞いた頼芸が驚いていると、こんどは揖斐光親がやってきて頼芸に向かい、——斎藤左近大夫利政のほしいままなふるまいは、太守《たいしゆ》(頼芸)の寵愛がはなはだしいためと存ずる。左近大夫が、卑賤の身分を忘れ、守護家御一族の方々にたいし無道の働きをなすことは、放置できませぬ。このうえは、法師丸の命《いのち》も危いゆえ、早々にこの五郎にお預けあれ——と言って諫めた。しかし、なおも斎藤利政のことを信用しきっている土岐頼芸は、かえって法師丸と光親のことを疑い、このことを近臣の林正道や明智光康に相談し、意見を求めた。そこで林と明智らも、利政のことを非難したが、なおも頼芸が利政の肩をもつので、近臣らはやむをえず法師丸を連れ去ったという。  が、結局は、利政に毒殺された土岐頼満(頼芸の弟)の家来加藤主水と塚本主膳が、一部始終を頼芸に訴え、ねんごろに意見を加えたため、頼芸も初めて目の醒める思いをし、——兄の盛頼(頼純)を追放させ、弟の頼満を殺させ、長男法師丸を遁走させたのも、みな、この頼芸の愚昧の致すところで、いまさら後悔したとて、追いつくことでもない、このうえは、越前の朝倉氏に助勢を乞い、兄の盛頼(頼純)と協力して、斎藤利政を討ち取るほかあるまい——と述べ、その準備に着手した。  これを耳に入れた斎藤左近大夫利政は、——頼芸公は、美濃の守護大名に仕立てて貰った利政の恩義を忘れ、そのような企てをするとは、もってのほかだ——と激怒し、天文十一年(一五四二)八月二十一日の早暁、数千騎の軍勢を指揮して稲葉山を出馬した。そうして、二十二日の朝、土岐頼芸のたてこもる大桑城を包囲し、猛攻撃を開始した。  城内には、頼芸をはじめとし、村山出羽守、彦坂|蔵人《くらんど》、稲葉|宮内《くない》、鷲見|美作《みまさか》、松景《まつかげ》右京、旧井《ふるい》将監、松市太郎左衛門、梶原手九郎、宇佐見左衛門尉、国枝三河守、下村丹後、片桐|縫殿《ぬいどの》、中島藤左衛門、山本数馬、広瀬|隼人《はやと》、不破《ふわ》小二郎などの家臣がこれに従い、土岐氏の一族では、外山、根尾、遠山、各務《かがみ》、揖斐、鷲巣《わしのす》のほかには、集まる人々も意外に少なくて、防戦は不可能と見えた。そこで頼芸は、近臣の諫言を容れ、大桑城をのがれでて、尾張の熱田の一向寺に赴き、尾張下四郡の大名織田備後守信秀の援助を乞うことになる。  越前の朝倉孝景は、斎藤利政が大桑城に土岐頼芸を攻めたのを聞くと、徳山と根尾の方面から軍勢を率いて南下してきたけれども、斎藤軍との間にたがいに勝敗があっただけで、決定的な勝負は行なわれなかった。  つぎに、揖斐郡の『竜徳寺文書』を見ると、天文十三年(一五四四)六月日づけの斎藤利政の禁制が載っている。 [#ここから2字下げ] 当寺|濫妨《らんぼう》狼藉・放火等の事、堅く停止《ちようじ》せしめ訖《おわ》んぬ。若し違犯の族《やから》においては、交名《きようみよう》を注進あるべし。罪科に処せらるべきの状、件《くだん》の如し。   天文十三      六月 日 [#地付き]利政(花押)      竜徳寺 [#ここで字下げ終わり]  これによって、斎藤左近大夫利政が、いよいよ、守護大名の土岐頼芸に代わって、美濃の国内で支配権をもちつつあったことがわかる。  なお、『竜徳寺文書』には、八月二十六日づけで、土岐旧臣の稲葉八郎次郎良弘が養源院(新徳寺納所禅師)にあたえた書状があるが、文中に「当寺の儀、左近大夫別して外護申すことに候の条、異儀あるべからず候」という文句がみえる。これは、新たに美濃の国主大名となった斎藤利政が、養源院を保護することを告げたものと思われる。  つぎに、美濃の『鷲見文書』に、左の斎藤左近大夫利政の書状が収めてある。 [#ここから2字下げ] 年頭の御慶、これより申し入るべきの処、遮《さえぎ》って、示しに預かり候。殊更、蓑《みの》、御意に懸けられ候。過当の至に候。遠路と申し、毎度御懇切に候。誠に書紙に尽し難く候。随って、太刀一腰・包丁《ほうちよう》二枚、これを進ぜしめ候。万端、後信を期《ご》し、省略候。恐々謹言。   二月九日 [#地付き]利政(花押)     鷲見藤右兵衛尉殿           御返報 [#ここで字下げ終わり]  これは、美濃の土豪鷲見藤右兵衛尉から年頭の祝儀として蓑《みの》を贈られたことに謝意を述べたもので、天文十四年(一五四五)の書状と推測される。  つぎに、『阿願寺文書』に、(天文十四年)卯月九日づけで、阿願寺の住職に送った斎藤左近大夫利政の書状が載っている。 [#ここから2字下げ] 当寺門前御家来|門並役《かどなみやく》の事、相除き候。并《ならび》に、下々猥《しもじもみだ》りの儀申し懸くる族《やから》候わば、承り、申し付くべく候。疎意《そい》あるべからず候。恐惶敬白。    卯月九日 [#地付き]斎藤左近大夫     [#地付き]   利政(花押)      阿願寺        玉床下 [#ここで字下げ終わり]  また、東京大学史料編纂所本の『美濃の岸文書』に、九月二十二日づけで、岸孫四郎にあたえた斎藤左近大夫利政の書状が載っているが、これも天文十四年(一五四五)ごろのものであろう。 [#ここから2字下げ] (折紙上書《おりがみうわがき》)   「               左近大夫                 利政      岸孫四郎殿            進覧之候  」 今日廿二、加納口《かのうぐち》において合戦、織田新十郎を討捕《うちと》らるるの条、粉骨の至、是非に及ばず候。連々、疎意あるべからず候。恐々謹言。     九月廿二日 [#地付き]利政        岸孫四郎殿            進覧之候 [#ここで字下げ終わり]  これは、尾張の織田勢が稲葉山城の加納口《かのうぐち》まで攻め寄せてきたとき、岸孫四郎という家臣が織田新十郎を討ち取った戦功をほめた感状といってよかろう。  なお、美濃の『阿願寺文書』所収の臈月《ろうげつ》廿四日(十二月二十四日)づけで、阿願寺侍者中にあたえた斎藤左近大夫利政のつぎの書状も、同年(天文十四年)ごろのものと推定される。 [#ここから2字下げ] 当寺において御越年あるべきの旨《むね》、尤もに候。御不弁《ごふべん》、察し存じ候。連々、疎意あるべからず候。猶、其の沙汰を致し、伝達あるべく候。恐々敬白。   臈月廿四日 [#地付き]斎藤左近大夫      [#地付き]    利政(花押)     阿願寺        侍者御中 [#ここで字下げ終わり] 「臈月」は十二月、「御不弁」は「御不便」のあて字である。  なお、美濃関係の諸記録には、斎藤利政は、近江の守護大名佐々木義秀の一字をあたえられて、さらに「秀竜《ひでたつ》」と改名したというが、「斎藤秀竜」と署名した古文書が唯の一通も発見されない現在は、この改名は、真否いずれか、立証しかねる。  しかし、斎藤左近大夫利政が、その後いつしか山城守に任ぜられたことは、確かである。「山城守」と署名した文書が一通現存するからだ。それから、やがて入道して、「山城入道道三」と号している。これは、道三の遺言状に「斎藤山城入道道三」とあるから、確かだ。  ところがまもなく、斎藤利政にとって厄介な事件がつぎつぎとおこってきた。それは、利政に追われて越前の一乗谷《いちじようだに》の朝倉孝景のもとに亡命していた美濃の前々の守護大名土岐盛頼(頼芸の兄)が、名を頼純《よりずみ》と改めていて、反対の方向の尾張の下《しも》半国(下四郡)の大名織田信秀のもとに亡命していた美濃の前守護大名土岐頼芸(頼純の弟)と連絡をとり、兄弟が旧怨《きゆうえん》を捨てて、手を握り、朝倉・織田両氏の後援を得て、守護大名の政権奪還を企て、美濃侵攻を開始しようとしたからである。そうして、天文十三年(一五四四)の八月と同十六年(一五四七)の九月との両度にわたって、朝倉・織田両氏の援軍が美濃に乱入してきたのであった。 『信長公記』や『美濃明細記』によれば、天文十六年(一五四七)、織田信秀が尾張から美濃へ出馬し、九月二十二日、斎藤利政がたてこもる稲葉山の麓の町屋を焼き払い、夕刻に撤兵した。利政はこれを急追し、織田方の将兵五千余人を討ち取ったという。現在、岐阜市の円徳寺の織田塚は、村民がその時の戦死者を葬った塚だといわれる。利政は、また、前に尾張から美濃の大垣城に進出してきた織田播磨守を討つため、十一月、大垣城に押し寄せ一戦を交じえた。ついで、信秀が西美濃に乱入し、竹鼻《たけがはな》城に押し寄せた。そこで利政は、兵を退けて稲葉山城(井ノ口城)を守った。この十一月十七日に土岐頼純(盛頼)が病死している。  利政は、大桑城を攻めて、美濃にまいもどってきた土岐頼芸を追い払った。二月になって、利政は、さらに長屋景興を大野郡相羽城に攻めて、これを滅ぼした。景興は垂井城主長屋景教の長男であって、土岐頼芸が退去したときも、竹腰長門守とともに、道三に従わなかったので、十二月十一日、利政に攻められて、子の景直と一緒に討死をとげたという。  斎藤利政は、このようによく防戦し、朝倉・織田両軍を撃退はしたものの、つねにその地位と政権をおびやかされ、閉口していた。ことに、前守護大名の土岐頼芸は、その後も執拗に失地の奪還につとめ、織田勢の後援のもとに美濃に侵入してきた。そのため、美濃は、またもや、動乱のルツボと化した。  しかし、さすがに斎藤利政である。さっそく、織田信秀に和議を申し入れ、土岐頼芸を大桑城に迎え入れ、かつ、利政のむすめ濃姫《のうひめ》を信秀の嗣子織田三郎信長に嫁がせるといった条件で、両者の間に講和が成立したのであった。当時、織田信秀は、尾張の下《しも》半国(下四郡)を支配していたが、東方には海道一の旗頭《はたがしら》といわれた駿河・遠江の守護大名今川義元、北方には美濃の新興大名斎藤利政を控え、両方の強敵と対抗し、戦闘に明け暮れていた。だから、信秀は、東方から尾張下半国(下四郡)へしばしば圧迫を加えてくる今川義元にたいする防衛力を強化するためにも、北方の斎藤利政と和議を結ぶ必要に迫られていたのである。両面作戦が不利であるのは、兵学の原則といってよい。  斎藤・織田両氏の講和が締結されたのは、天文十七年(一五四八)であるし、濃姫《のうひめ》と信長との政略結婚も、同時に成立したのであった。ときに、濃姫は十四歳、信長十五歳。ままごと遊び同様の夫婦だった。と同時に、利政も、恭順の意を表するために、常在寺で剃髪し、ここに初めて斎藤山城入道道三と号したのである。  つぎに紹介するのは、岐阜県山県郡高富の村山清臣氏所蔵の『村山文書』に収められた、土岐氏の重臣の不破光治・氏家《うじいえ》直元・伊賀|守就《もりなり》・稲葉良通の連署状の写しであって、斎藤山城入道道三が和議を申し入れてきた結果、土岐頼芸を大桑城へ迎え入れることなどを条件として、尾張の織田信秀との間に和議が成立したことを、不破光治らが、尾張の熱田に亡命していた土岐左京大夫頼芸に報告したものである。 [#ここから2字下げ] 山城《やましろ》和与《わよ》の儀、上意を加えられ候条、同事に、去る五日、使者をもって申し入れ候。償《つぐない》の処、道三《どうさん》所行《しよぎよう》前代|未聞《みもん》に候。無道、且《かつ》は、侍《さむらい》の義理を知らず、且は、都鄙《とひ》の嘲哢《ちようろう》を顧《かえり》みざる次第、是非なき事に候。御心底の程、遺恨更に休《や》むべからず候。向後別儀あるべからざるの旨《むね》、誓約《せいやく》をもって申し入れ候条、早速御領掌然るべくと存じ候。委細、此の三人の口上に申し含め候。恐惶謹言。    三月九日 [#地付き]稲葉伊予守      [#地付き]   良通(花押)  [#地付き]伊賀伊賀守      [#地付き]   守就(花押)  [#地付き]氏家常陸介      [#地付き]   直元(花押)  [#地付き]不破河内守      [#地付き]   光治(花押)    土岐左京大夫殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、三月九日という日づけがあるし、前後の関係などから推測して、おそらく、天文十七年(一五四八)の文書であろうと思う。宛名の「土岐左京大夫」とは頼芸のこと。文中に「山城《やましろ》」とは「斎藤山城入道」のこと。「和与」は和議。「上意」は土岐頼芸の上意。「償《つぐない》」は斎藤道三の罪のつぐない。「道三|所行《しよぎよう》」は道三の行為。「都鄙の嘲哢《ちようろう》」は都や地方の人々の非難の声。「誓約」は道三のほうから申し出た誓約の条件。「御領掌」は土岐頼芸が承認することを意味する。  ところで、美濃関係の諸記録によると、道三と信秀との講和の条件について、土岐頼芸は、元来、美濃の守護大名土岐頼純(盛頼)の弟であったから、一応、大野郡の揖斐山《いびさん》に入城し、兄の頼純のほうを大桑城に入れることにしたらしい。ところが、土岐頼純は大桑に入城するとまもなく、天文十六年(一五四七)の十一月十七日に病死したため、かわって、弟の頼芸が美濃の守護大名として大桑城に迎え入れられた。しかし、頼純の死は、病死ではなくて、斎藤道三の毒殺によるものであったという。道三は、このくらいなことは朝飯前にやれる男だったらしいから、おそらく、彼によって毒殺が行なわれたのであろう。  なぜかといえば、土岐頼純は、盛頼と名のっていた当初から、西村勘九郎と称していた道三のことを危険人物視していた。道三にとって頼純は苦手な人物であった。だから、頼純を闇に葬って、そのかわりに、鼻の下も長く、かつて恩を着せたことのある頼芸のほうを大桑城に入れ、一時的にも美濃の守護大名に奉戴し直したのであろう。  しかし、斎藤道三の和議と土岐兄弟迎え入れの工作は、かれ自身の窮地を脱するための一時的な謀略にすぎなかった。敵と和解し、相手の要求をすなおに受け容れ、恭順さを見せることによって、敵を一時的に欺き、安心させ、油断させるためであった。こういうのを講和戦略という。講和することが目的ではなく、戦いに究極的に勝つための巧妙な戦略にすぎない。今日の平和攻勢に相当する。平和のためと称して、相手を油断させ、安心させ、弱体化させ、機を見て平和の仮面をかなぐり捨てて、攻勢に転ずるという戦略なのだ。平和を念願する小民族や小国家ほど、この戦略にひっかかりやすい。道三は、成り上がり者の小国家の新興支配者でありながら、巧妙な講和戦略を用いて、越前の朝倉、尾張の織田という北南両方の強国大名を手玉にとり、一時的なまやかし条件を誓約して、講和締結に成功し、窮地を脱出したのだから、たいした腕前といわねばなるまい。  信長が摂津の石山本願寺を攻略したとき、やはり、中途で、この講和戦略を用いて勝利に導いたのも、おそらく、かれの舅《しゆうと》にあたるこの斎藤道三の戦法をまねたものであろうし、また、家康が豊臣秀頼の大坂城を攻略したさいに、中間で、講和戦略を用いて大坂落城を早めたのも、信長の石山本願寺攻めの先例に学んだものであろう。今日の世界情勢も、すべての民族や国家が一様に平和にあこがれているが、強国が原爆や戦備を放棄しない限りは、小国家の人々こそ、平和攻勢と称する強国の戦略にひっかかる可能性が多く、危険性が大きいということを、つねに念頭におき、巧妙な謀略の餌食とならぬように用心すべきであろう。  斎藤道三の講和の締結、土岐氏の迎え入れが、敵を欺くための一時的な戦略にすぎなかったという証拠は、果たせるかな、天文十七年(一五四八)の十月ごろに尾張の織田信秀が病いに罹《かか》ってから、その虚に乗じて馬脚《ばきやく》をあらわしたらしい。それについては、美濃の『村山文書』に左の織田|寛近《ひろちか》の書状の写しが載っている。 [#ここから2字下げ] 美濃守殿御儀、不慮の仕合《しあわせ》、是非なき儀に候。御身上の儀、相違あるまじく候|由《よし》、道三申し候。委細、稲葉伊予守の差図に任せらるるものなり。備後守病中故、我等方より、かくの如くに候。恐惶謹言。    十一月五日 [#地付き]織田与十郎      [#地付き]   寛近(花押)      土岐小次郎殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、織田備後守信秀の一族織田与十郎寛近が、土岐頼芸の次男の小次郎頼次に宛てて、土岐美濃守頼純の病死を慰め、頼次の身上のことについては、斎藤道三が相違なき旨を通告しているにつき、委細は稲葉伊予守良通(一鉄)の指図に任せるように勧めたものである。文中に「美濃守」とあるのは土岐頼純。「備後守病中故」とは、織田備後守信秀が病気中であるという意味である。  ちなみに、織田信秀が病死したのは、天文十八年(一五四九)の三月三日のことだから、この書状の十一月五日という日付から推定して、この織田寛近の書信が、その前年(天文十七年)のものであることは明らかである。だから、信秀が疫病に罹って急死したという説は、誤伝にすぎない。  なお、『美濃明細記』や『土岐累代記』によると、斎藤道三がふたたび大桑城を襲い、土岐頼芸を美濃の国外に追放したのを、天文二十一年(一五五二)のこととしているが、右の織田寛近の書状によって、その四年前の天文十七年(一五四八)のことと立証される。  ただ、道三の再度の大桑城攻めの模様については、『美濃明細記』と『土岐累代記』の記述がもっともくわしく、それによると、斎藤道三は、武井肥後守を先鋒とし、村橋伊豆を第二陣に配し、前回の大桑攻撃に参加した経験者の面々を出動させている。先陣を深瀬口から二隊に分け、赤尾、伊左美に陣を構え、搦《から》め手に向かった軍勢は、岩佐・富永の辺に陣をとり、後陣の兵馬は、鳥羽川・佐賀・粟野あたりに布陣している。  土岐頼芸の居城大桑には、いまや、頼みとする直臣もいないし、斎藤道三の武威を恐れてか、馳せ集まる者も少ない。ただ、城際近くで、石井遠江守義行と田中藤三郎利重との、はなばなしい一騎打ちがあっただけである。また、早矢仕《はやし》新助道俊の派手な戦闘も行なわれたが、ほどなく、大桑城の櫓《やぐら》から火の手があがった。さては城内に返り忠の者がでたのかと、土岐方の軍兵はあわてふためき、さすがの頼芸も、いまはこれまで、と自害しようとした。  しかし、近臣たちが、——いま一度、越前に落ちのび、朝倉|教景《のりかげ》を頼んで、会稽《かいけい》の恥《はじ》を雪《そそ》ぐべきである——と進言したため、頼芸も自害を思いとどまり、次男頼次と四男頼元ほか、主従わずか七人で、大桑城の東北の間道を越えて脱出した。山本数馬、不破小二郎、斎藤刑部、一柳《ひとつやなぎ》左仲、高橋左馬、山内四郎兵衛助などが、頼芸の亡命行に従っている。  まず、大桑城を落ちた頼芸一行は、家臣山本数馬の領地である大野郡|岐礼《きれ》に立ち寄ったが、そこで、北方の朝倉教景の頼みがたいことを知り、越前行きという最初の目的を変更したという。それは、ちょうどそのころ、加賀の本願寺一揆の、能登・越中・越前への攻勢が烈しく、加賀の守護大名|富樫《とがし》氏の一族などは朝倉氏のもとに亡命するといったありさまで、教景が一向一揆の討伐に手を焼いていたからであろう。  しかし、美濃の北隣の飛騨の国でも本願寺教団の勢いが強大をきわめ、国司大名の姉小路氏、守護京極氏の被官で在地的勢力を誇っていた三木氏も、一向一揆の攻勢に悩まされ、頼芸ら一行は、頼るべきあてもないので、甲斐に赴いて、武田信玄を頼ったが、そこにも落ちつかれず、関東は上総《かずさ》の国へと落ちゆき、土岐氏の一族|真里谷《まりや》の上総介《かずさのすけ》頼尚《よりひさ》を頼って、そこに仮館《かりやかた》を構え、長く閑居することになった。頼芸はやがて剃髪し、宗芸《そうげい》と号した。  天正十年(一五八二)、というと、その六月二日に京都で本能寺の変があり、織田信長が明智光秀に襲われて自害した年だが、その夏のころというから、本能寺の変の少し前のころであろうが、土岐家の旧臣として名高い稲葉伊予入道|一鉄《いつてつ》が、宗芸を、改めて美濃の大野郡|岐礼《きれ》に迎えた。そのころ、一鉄は信長に属し、美濃の曽根城主として納まっていたからであろう。しかし、一鉄は、旧主土岐氏の恩を忘れず、関東の上総から、わざわざ宗芸を岐礼に招いたらしい。  しかし、かえって、長途の旅の疲れが禍いしたものか、宗芸は、同年(天正十年)の十二月四日、美濃の岐礼で病死している。時に、八十二の高齢であった。それにしても、ずいぶんと長生きしたものだが、この宗芸の死によって、美濃の守護大名として鳴らした土岐氏も、完全に滅亡してしまったのであった。  なお、土岐頼芸の次男の小次郎頼次は、大和に赴き、多聞山城主の松永久秀に頼ったといわれるし、その四男の頼元は、甲斐にとどまって武田信玄に仕えたが、その後、秀吉に見いだされて、名家の子なるがゆえに、大和の古市郡の内で五百石をあたえられた。しかし、関ケ原の乱には、徳川氏に属したため、旧領を安堵され、慶長十三年(一六〇八)の十月十九日に病死している。  ともかく、有為転変は世のならいとはいうものの、人間の運命くらい不可思議なものはあるまい。土岐宗芸、いや、かつての美濃の守護大名土岐頼芸が死去した天正十年(一五八二)の十二月四日といえば、この頼芸を巧みに操って美濃の守護代から国主《こくしゆ》大名(戦国大名)に成り上がった梟雄《きようゆう》斎藤道三が、その長子|義竜《よしたつ》と戦って敗死した弘治二年(一五五六)から数えて二十六年後のことであり、また、父道三を討ち果たした斎藤義竜が病いで死した永禄四年(一五六一)からも二十一年たっている。さらに、その斎藤義竜と戦い、義竜の病死後、その嗣子|竜興《たつおき》を敗北させて、斎藤氏が三代にわたって支配した美濃の国を征服した、道三の女婿《じよせい》である織田信長が、天正十年の六月二日、四十九歳を一期《いちご》として本能寺で横死してからも、|七ヵ月(底本ママ)後のことなのだ。まったく驚くほかないのである。  毛並みが良くても実力のない戦国乱世の敗残者——。しかも、その敗残者が、その地位と領国までも奪われ、飼い主のない野良犬同様に諸国をさまよい歩いていても、なお生きながらえて、天寿を全うした実例は、この土岐頼芸のほかにも、なくはないのである。  たとえば、駿河・遠江の国主大名今川義元の嗣子|氏真《うじざね》、備前の国主大名宇喜多直家の子秀家などが、挙げられる。今川氏真は、父の義元が上洛の途中、尾張の桶狭間《おけはざま》で信長に討たれても、そのとむらい合戦を試みる勇気さえなく、蹴鞠《けまり》などにうち興じていたので、今川の幕下であった徳川家康にも見放され、家康と武田信玄に領国を侵略され、相模の北条氏を頼って小田原に逃亡したりしたが、諸国放浪の後、上洛して、京都の四条でうらぶれた生活をしていた。それを憐れんだ秀吉が、衣食料として四百石を支給した。秀吉の死後は、徳川氏に仕え、江戸の品川に住んでいたが、慶長十九年(一六一四)の十二月二十八日、七十七歳で往生をとげている。  また、宇喜多秀家は、幼少のころ、秀吉の養子にもらわれ、羽柴八郎とよばれて秀吉に寵愛され、同じく秀吉の養女となっていた前田利家のむすめ豪姫《ごうひめ》とめあわされ、成長するとともに、秀吉の天下統一戦や朝鮮出兵にも大将格で参加し、備前中納言とよばれ、秀吉の晩年には豊臣家五大老の一に列している。秀吉の死後、関ケ原の戦いには、西軍の副総帥となって決戦の主役をつとめたため、敗戦の結果、薩摩にのがれたが、結局は捕えられて伏見に護送され、駿河の久能山《くのうざん》に預けられた。島津|忠恒《ただつね》(義弘の子)や秀家夫人前田氏の懇願によって、死罪は免れたが、慶長十一年(一六〇六)の四月、八丈島に流され、在島およそ五十年の後、明暦元年(一六五五)の十一月二十日になって、配所で病死している。病死といっても餓死に近い状態であったという。時に八十三歳。当時、名を休復、ついで久福と改めていた。福徳の久しきを祈っての改名らしい。  なお、甲斐の国主大名武田|信虎《のぶとら》も、嗣子信玄に追われて駿河の今川氏の客分となっていたが、信玄の病死に一年おくれて、天正二年(一五七四)の三月五日、八十一歳で、京都で病死している。そして、自分を追放したわが子信玄の病気を見舞い、京都の名医を三河の鳳来寺に療養中の信玄のもとに派遣させたといわれている。  人間の運命というものは、このように不可思議なものである。以上のように敗残武将が、勝利者の死をいくつか尻目にかけて、自殺もせずに生き抜き、天寿を全うしたということは、それだけでもたいしたことである。生への執着とはまた別に、土岐頼芸や今川氏真のように、芸能や趣味の方面に生きがいを求めて、長生きをなしとげたとも考えられる。  これらの敗将たちにくらべて、武田信玄・上杉謙信・織田信長のように、遠大な理想を掲げ、一つの目的のために突進し、その日、その日を精いっぱいに生き抜き、中途で力つきて倒れていった武将たちの生涯は、たとえ天寿を全うしなくとも、それだけで、人間としてこの世に生まれでた生きがいを感じ、安らかに瞑目していったことと推測される。  最近、筆者は、出勤途中の電車のなかで、退職金の計算について話し合っているサラリーマンの会話を耳にしたが、それが、定年近くの初老の男ではなくて、若々しい容貌の新入社員らしいのを知って、驚歎した。こんな青年が、十数年もたって中年に達すれば、その子供たちから、——パパもママも、おじいさんやおばあさんのように、長生きしないでね——などといわれて、ショックをうけ、恍惚《こうこつ》の人となることに恐怖をおぼえ、この世をはかなむにいたる。こういうのを敗残ノイローゼ、または亡国の思考と称すべきであろう。七十、八十になったならばともかく、四十代から敗残ノイローゼに悩むようでは、日本民族もおしまいではなかろうか。八十になっても、子供や孫を叱りとばすような気魄がなくては、民族の前途も心細いといわざるをえないのである。現代は、——雨にも負けず、風にも負けず——なんていうものではない。——公害にも負けず、原爆にも負けず——くらいの気概がなければ、生き抜けぬ時代となりつつある。 [#1段階大きい文字](二)道三の書状  ともかく、斎藤道三が美濃の守護大名であった土岐頼芸を大桑の居城から追放し、土岐氏にかわって、美濃の国主大名に成り上がったのは、道三がまだ斎藤左近大夫利政と名のっていた天文十一年(一五四二)八月以降のことであって、時に四十九歳であった。油売りの行商人として美濃に入国してから二十有余年目のことである。  その後、周囲の情勢に対処するために、一時、土岐頼芸を大桑城に復帰させたのは、敵を欺くためのカラクリにすぎなく、道三の国主大名としての第一歩は、天文十一年(一五四二)、四十九歳の年に踏み出されたといってよかろう。それは、天文十一年以後に発布された斎藤左近大夫利政署判の、美濃の土豪や諸寺院にあたえた文書をみても推測できることである。ともかく、そのテンポの速さは、驚くべきものがある。  ところで、ここで少し説明しておきたいことがある。それは、守護大名と国主大名との違いである。美濃の国のばあい、土岐氏が、鎌倉時代以来守護職をつとめ、南北朝時代には足利尊氏に味方したため、一時、美濃・伊勢・尾張三ヵ国の守護を兼ねたことがある。しかし、その後一時内乱がおこって、勢力を弱められたが、室町初期、足利三代将軍|義満《よしみつ》によく臣従し、のちに、美濃の守護大名となった土岐頼益は、室町幕府七頭の一に列し、山名・一色・赤松・京極・上杉・伊勢の諸氏と並ぶ名家として重んぜられ、国内の乱も鎮定された。  守護大名とは、守護の権力が拡大化され、地頭や在地の土豪を臣従させ、大名化したものをいう。鎌倉末期から南北朝の動乱期を経て、諸国の守護は、その大部分が大名化し、守護大名となった。そして、室町幕府の足利将軍の政権も、これら守護大名たちの要求を容れ、管領・四職などの役目に任じて、協力することによって、成立していたのである。美濃の土岐氏のばあい、伊勢は国司大名の北畠《きたばたけ》氏に、尾張は斯波《しば》氏に奪われたが、美濃を本領として、室町中期には完全に守護大名として独立していたのである。それが、油売りの山崎屋庄五郎が入国してくるころは、頼益から、持益・成頼・政房を経て、政房の長子盛頼(頼純)へと、受け継がれていたのである。  さらに、守護の代理役に守護代というのがあるが、この役目は、斎藤越前守利政(利永の父)が、守護土岐頼益の執権となってから、守護代と称するようになった。南北朝の動乱以来、下剋上の風潮が色濃くなってくると、国によっては、守護代の勢力が守護大名を凌《しの》ぐにいたるばあいも多かった。ことに、室町中期の応仁・文明の大乱には、諸国の守護大名が、それぞれ将兵を率いて上洛し、東西両軍のいずれかに属して、十一年間も戦闘を繰り返したが、大乱がおわって国もとに帰ってみると、留守居をし、守護大名の代理に政治を執っていた守護代のほうが、在地の土豪や名主を臣従させ、大名化していた、という例が多い。  美濃の国のばあい、油売りの山崎屋庄五郎が入国したころは、守護代斎藤氏の勢いが衰え、斎藤氏の一族の執権長井氏の勢力が、これに代わっていたのである。そうした美濃の国情の欠陥を衝いて、山崎屋庄五郎がイメージ・チェンジして、長井家臣西村勘九郎となって、国盗りの荒作業を開始したのである。そうして、家名が断絶しそうになっていた守護代斎藤氏の跡目を形式的に継ぎ、守護代斎藤左近大夫利政の名において、有名無実化された守護大名土岐盛頼・頼芸兄弟を国外に追放し、それに代わって守護大名に成り上がったのではなくて、国主大名に成り上がったのである。  つまり、室町末期の戦国動乱期においては、守護大名と限らず、いや、むしろ、それよりも下位にあった守護代、守護代の家老、地頭、土豪、流れ者の素浪人などで実力のある者が、それまで守護大名、まれには国司大名(三国司)などが支配していた一国、または数ヵ国を、これにかわって支配するようになってきた。守護大名のばあいは、まだその領国が室町幕府や荘園領主である中央貴族の支配下から解放されず、守護地頭組織や荘園制度が残存しており、一国なり数国なりを完全に領有することができなかった。それが、実力のある守護大名なり、国司大名、守護代、守護代の家老、地頭、土豪、素浪人などが、幕府の定めた守護地頭制や中央貴族の所有する荘園制を完全に衝き崩し、具体的にいえば、守護|職《しき》、地頭|職《しき》、荘司|職《しき》、案主職《あんじゆしき》などという諸職《しよしき》を兼併(諸種の得分を横領)することによって、一円(一国)進止(支配)すると、かれらは、国主《こくしゆ》大名(国持《くにもち》大名)となることができた。この国主大名のことを、俗に戦国大名とよぶのである。  だから、斎藤道三のばあいは、流れ者の素浪人、いや、油売りの行商人でありながら、智謀と武略によって、美濃入国以来二十有余年で、国主大名斎藤左近大夫利政へと転身し、美濃十八郡三十七万石を支配することとなったのである。  しかし、いいかえると、そんなことになるだけ、美濃の国自体に弱みと欠陥があったともいえる。つまり、守護大名の土岐氏さえしっかりしていれば、甲斐の守護大名の武田氏が信玄の父信虎のときから、そのまま国主大名に移行したように、国主大名に転身することが可能だったはずである。また、かりに守護大名の土岐氏が衰えても、そのかわりに、守護代の斎藤氏なり、執権の長井氏なりに実力がありさえすれば、越前の守護代の朝倉氏が守護大名の斯波氏を凌いで越前の国主大名になったように、斎藤氏か長井氏かが、美濃の国主大名になれたはずである。  それが、みな、なれずに、流れ者の山崎屋庄五郎などに国を盗《と》られたのは、かれら、つまり、土岐・斎藤・長井の諸氏が、たがいに内訌と紛争を事とし、国事、つまり、国の政治を顧みなかったからである。そのため、在地の土豪・地主・農民などが、悪政の被害をこうむり、また、内乱頻発のために社会的秩序が乱れ、生活の安全がおびやかされていたせいである。今日の会社でいえば、会長と社長が対立し、社長と副社長も対立し、専務と常務が勢力争いをやめないために、会社の生産力が低下し、ロクな給料も払えないので、ストライキやサボタージュが長びき、銀行の差し押さえ、倒産、閉鎖という顛落《てんらく》の瀬戸際にきた。こうなると、あとは中堅社員が結束して立ち上がり、思い切った会社建て直しの大改革を断行せざるをえない。そして、大改革を断行するには、かならず、実力のある指導者を必要とする。戦国時代の美濃の国も、これと同じ理窟であって、強力な政治改革者・指導者を要望する声が庶民の間に高まっていた。この要望に答えて、新参の下級武士から進出してきたのが、斎藤左近大夫利政、すなわち後の道三なのだ。今日の会社のばあいと同様に、たとえ、もと係長だった男が、一躍、社長になったとしても、会社の生産力が上昇し、組織が公正化され、社員一人びとりの給料が上がり、生活が安定さえすれば、それでよいのだ。道三も、そんなことで、智謀と武略を買われて、すばやいテンポで国主大名にのし上がり、美濃の内乱を鎮定し、人々の生活の安定をはかることに、ひとまず成功したのであった。 『江濃記』という記録をみると、斎藤道三のことを、つぎのように評価している。——そのころ、美濃の国の大桑城主土岐頼芸は、斎藤道三の威勢がつのり、一国を併呑していたが、土岐|屋形《やかた》の威光が衰えたことを怒り、道三を滅ぼして国を治めようと謀り、たちまち道三と不和になり、合戦数度に及んだ。ところが、道三は、合戦の道においては近国無双の大将であったから、これに勝つべくもなく、ついに土岐頼芸が惨敗し、尾張の国へ亡命した。かくて、五、六年は、美濃の国も治まり、諸人|安堵《あんど》の思いをなしたが、美濃の国の人々がことごとく斎藤道三に屈伏し、土岐屋形に背くことになった——というのである。ともかく、五、六年の間は、美濃の国が平穏に治まり、人々は安堵の胸をなでおろしたらしいのである。  道三という号の出てくる文書は、前に述べたように、(天文十七年)三月九日づけ、土岐左京大夫(頼芸)宛の不破河内守光治外三名の連署状をもって、現存文書の初見とするが、つぎに、「斎藤左近大夫道三」と自署する道三自身の書状類を少し紹介しておこう。まず、美濃の『西円寺文書』所収の七月二十四日づけ、西円寺宛の道三書状である。 [#ここから2字下げ] 帰国の|義《〈儀〉》条々、懇望候。其の心を得候。今より已後《いご》、穏便《おんびん》の覚悟あるにおいては、疎意あるべからず候。なお、宮川吉左衛門尉申すべく候。恐々謹言。    七月廿四日 [#地付き]左近大夫      [#地付き]  道三(花押)      西円寺        机下 [#ここで字下げ終わり]  これは、西円寺の僧侶が帰国のことについて、ある条件をつけて懇望してきたのを承諾し、今後|穏便《おんびん》を守る覚悟があるならば疎略に扱わない旨を通告したもの。西円寺の僧侶がなにか道三の内密事項を他に洩らしたので、美濃の国外に追放したのを、その懇願によって赦免したときのものらしい。  この「帰国の義条々」というのは、あるいは土岐頼芸の帰国と関係があるかもしれないが、ともかく、天文十七年(一五四八)前後の道三書状と推定される。「左近大夫」の通称を用いていることに注目したい。  つぎは、美濃の『汾陽寺《ふんようじ》文書』所収の道三書状である。 [#ここから2字下げ] 在陣の儀に就いて御尋ね、快然に候。殊に、枝柿五十・抹茶拝受、御懇情の至りに候。猶《なお》、武井申すべく候。恐惶敬白。    五月廿一日 [#地付き]斎藤左近大夫     [#地付き]   道三(花押)      拝進 汾陽寺           尊答 [#ここで字下げ終わり]  これは、汾陽寺の住職が、道三の陣中見舞として美濃の枝柿五十個と抹茶を贈ってきたのにたいして、返礼をしたためたもの。「武井」というのは、道三の近臣武井肥後守であろう。ここで、道三が稲葉山城を出て、どこに在陣していたかが問題となる。あるいは、天文十七年以前、天文十五、六年ごろ、尾張の織田信秀の軍勢と対陣していたときの書状かもしれない。かりにそうだとすると、斎藤左近大夫利政が剃髪して道三と号したのは、天文十五、六年ごろのことであって、講和条件として剃髪し、敵方に誠意を示したなどというのは、後世の諸記録のコジツケであるかもしれない。なお、これを、道三の長男新九郎義竜との対陣の時と推定するのは、当たらない。そのころは、道三も、「左近大夫」という通称をやめ、「山城守」あるいは「山城入道」と署名していただろうからである。  なお、この道三書状で注目すべきは、道三が、美濃の枝柿のほかに、「抹茶」をもらって、返礼していることである。これは、少なくとも道三が、当時、茶の湯を嗜《たしな》んでいたことが実証され、あとで、「蝮の道三とその裏面」の節で紹介する「斎藤道三桜花の茶庭」とも関係をもってくる語句といわねばなるまい。  つぎは、岐阜県安八郡神戸の『瑞雲寺文書』所収の道三書状である。 [#ここから2字下げ] 中村かたへ御折紙、拝披《はいひ》申し候。在陣について御尋ね、殊に、松茸《まつたけ》一籠《ひとかご》拝受候。此の表、無事の姿《すがた》に候。帰陣候わば、申し述ぶべきの旨《むね》、御意を得べく候。恐惶謹言。     九月廿一日 [#地付き]斎藤左近大夫      [#地付き]    道三(花押)       拝進 慈恩寺            侍者禅師 [#ここで字下げ終わり]  これも、陣中見舞として松茸一籠を慈恩寺の住職が贈ったのに答えた道三の礼状である。慈恩寺は瑞雲寺の旧称。これも、前掲の『汾陽寺文書』と同じく、天文十五、六年のものかと推測される。  つぎは、岐阜県本巣郡直正の『安藤鉦司氏所蔵文書』所収の道三の書状である。 [#ここから2字下げ] (包紙上書)   「天文十八年|酉《とり》年五月廿二日      道三様御折紙本紙 壱通」 上秋《かみあき》の内、高屋《たかや》上下より当郷へ、井水《せいすい》取るべきの由《よし》、其の心を得候。自然、下々《したした》申す事これあるにおいては、此の折紙をもって、相断るべく候なり。    天〔    〕     五月廿二日 [#地付き]道三(花押)     真桑 名主百姓中 [#ここで字下げ終わり]  この書状の包紙《つつみがみ》の上書《うわがき》をみると、天文十八年の文書らしく考えられるが、上書の筆蹟が江戸中期以降のものであると、『岐阜県史』の編集委員によって判定されているようだから、天文十八年のものとは確認できないが、月日の右上に、「天〔    〕」と書いているから、天文何年かの書状であることに間違いはない。しかし、署名に「左近大夫」の通称がなく、ただ「道三」とだけ書いているから、やはり天文十八年(一五四九)か、それ以降の書状ではあるまいかと推測する。  これは、真桑《まくわ》郷の名主百姓にあたえたもので、道三の民政の一端をうかがうことができる。——上秋の内、高屋上下から当郷(真桑)へ、井水《せいすい》を取りにくるとのこと、納得した。自然と、下々《したした》で文句をいう者があったならば、この道三の折紙を見せて、井水の引き渡しを拒絶するがよい——というのである。農民の水争いを裁いているらしい。  つぎも同じく、『安藤鉦司氏所蔵文書』所収の道三書状である。 [#ここから2字下げ] 春近《はるちか》の内をもって、八木《はちぼく》弐十俵、扶助せしめ候。知行すべく候。恐々謹言。   「天文十三」     八月十一日 [#地付き]道三(花押)    井上才八殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、美濃の土豪井上才八にあたえた道三の知行|宛行《あてがい》状であり、米二十俵を春近の内で扶助している。 「天文十三」は、おそらく、後人の追筆であろう。「道三」の署名があるうえに、「左近大夫」の通称も書いてないから、少なくとも、天文十八年(一五四九)か、それ以後の書状と推測される。  つぎに、今泉の常在寺所蔵の『常在寺文書』所収で、「天文十九年三月日」と明記した道三の禁制の写しを掲げる。 [#ここから2字下げ]    禁制 [#地付き]常在寺    [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 一、甲乙人等《たれかれなど》、濫妨狼藉《らんぼうろうぜき》の事。 一、竹木を伐採《ばつさい》し、境内で牛馬を放ち飼《が》いするの事。 一、当寺境内で殺生の事。    年貢諸役以下無沙汰の事。 一、諸人の寄進地|并《ならび》に祠堂方《しどうかた》の事。    買得の田畠等、違乱、煩《わずら》いの事。 [#ここから3字下げ] 右の条々、違犯の輩《ともがら》においては、則ち厳科に処すべきものなり。仍《よ》って下知《げじ》、件《くだん》の如し。 [#ここから2字下げ]   天文十九年三月日 [#地付き]左近大夫      [#地付き]  道三(花押)  [#ここで字下げ終わり]  この禁制の内容は、だいたい、きまり文句だが、天文十九年(一五五〇)に、なお、「左近大夫」の通称を署していることに、注目したい。  つぎも、『常在寺文書』所収の寺領寄進状だが、「天文廿年九月朔日」と明記している。 [#ここから2字下げ]    寄進 常在寺領の事 合、五百貫文 [#地付き]日野村内     [#地付き]   竹腰領   [#地付き]芥見村の内    [#地付き]   清水領   [#地付き]領下村の内    [#地付き]   正法寺領  右者、現世、後生《ごしよう》のため、永代常在寺に寄進せしむる所なり。若し、此の地において、本主地頭《ほんしゆじとう》と称し、違乱を致すの類《たぐい》においては、急度《きつと》厳科に処すべきものなり。   天文廿年九月朔日 [#地付き]左近大夫      [#地付き]  道三(花押)  [#ここで字下げ終わり]  美濃の国主大名としての斎藤道三の政治の安定性がうかがえるような寺領寄進状である。常在寺に、日野村など三村の内で合計五百貫文の寺領を寄進し、現世と後生の安穏を祈らせたもので、同寺の住職は、いうまでもなく幼なじみの親友、日運上人であった。天文二十年(一五五一)九月にも、まだ「左近大夫」の通称を用いていたのである。  つぎは、美濃大垣の『西円寺文書』所収のやはり、「左近大夫道三」署判の寺領安堵状である。 [#ここから2字下げ] 草道嶋の内、其の方《ほう》名田方《みようでんかた》并に所々買得分の事、前々の如く還附《かんぷ》候。別儀あるべからず候。 恐々謹言。   「天文廿一」     正月十四日 [#地付き]左近大夫      [#地付き]  道三(花押)       西円寺 [#ここで字下げ終わり]  ——草道嶋の内における、貴寺の名田《みようでん》(古くから由緒のある田地)と、所々に買得した田地を、以前どおりに還附《かんぷ》するが、異議のないことと思う——というのである。「正月十四日」とある日づけの右上の「天文廿一」という年号は、異筆であると、『岐阜県史』の編集者も判定する。しかし、だいたい天文二十一年(一五五二)のものではあるまいか、と臆測される。  つぎも、『汾陽寺文書』所収の道三書状である。 [#ここから2字下げ] 柿|一籠《ひとかご》、過当の至りに候。仍《よ》って、当寺の儀、疎意なく候。自然|下々猥《したしたみだ》りの族《やから》は、示しに預かり、堅く申し付くべく候。御意を得べく候。恐惶敬白。   九月三日 [#地付き]斎藤左近大夫   [#地付き]    道三      汾陽寺       尊答 [#ここで字下げ終わり]  柿一籠を汾陽寺の和尚が贈ってくれたことにたいする道三の礼状だが、同寺を粗末に扱わないこと、寺規を乱す者どもを堅く取り締まる旨を通告したものである。「斎藤」の姓を書いている点に注目したい。これは、道三の文書としても珍しい。「九月三日」とだけあるが、やはり、天文二十年(一五五一)前後の書状と思われる。  つぎは、美濃の大森の『浄安寺文書』所収の天文二十三年(一五五四)二月二十二日づけで井之口《いのくち》道場にあたえた道三の寄進状の写しである。 [#ここから2字下げ] 当道場へ、仏餉料《ぶつげりよう》として、新田の内、火田壱反歩を寄進せしめ了《おわ》んぬ。末代において異|儀《〈議〉》すべからざるものなり。依って、件《くだん》の如し。   天文廿三    二月廿二日 [#地付き]道三 花押       井之口         道場へ [#ここで字下げ終わり]  これは、稲葉山下の井之口にある道場にたいして、仏餉料として、新田の内の畑一反歩を末代にわたって寄進することを通告したもので、文中に「火田」とあるのは畑のこと。これは写しだから、「花押」の二字を書いているだけで、実際の花押はない。  つぎは、道三の文書ではないが、『村山文書』所収の三月十一日づけで土岐頼芸の次男小次郎頼次にあててだした斎藤家の三老臣の連署状の写しであって、珍しい。 [#ここから2字下げ] 御本知の儀、相違あるべからざるの旨、道三申し候。我等ども判形《はんぎよう》を加うるのうえは、聊《いささ》かも疎意あるべからず候。若し違乱の儀候わば、早速御注進あるべく候。其のため、かくの如くに候。恐惶謹言。    三月十一日 [#地付き]稲葉伊予守     [#地付き]   良通 在判  [#地付き]氏家常陸介     [#地付き]   直元 在判  [#地付き]伊賀伊賀守     [#地付き]   守就 在判      土岐小次郎殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、前掲の、『村山文書』所収の十一月五日(天文十七年)づけ土岐小次郎あての織田与十郎寛近書状の内容から推定すると、あるいは、天文十八年(一五四九)の文書ではなかろうかとも考えられる。この、道三によって安堵された「御本知」、つまり、もとの知行地というのが、どのくらいであったか明らかでないが、前にも述べたように、小次郎頼次は、父の土岐頼芸とも行を共にせず、いつしか大和に赴き、多聞山城主の松永久秀の懸人《かかりゆうど》となったといわれるが、その事情の詳細は明らかでない。  ともかく、ここに連署した斎藤家の三家老というのは、後に美濃三人衆といわれた人物で、元来は、土岐家臣であったが、いまは斎藤道三に仕えているのだ。このうち稲葉伊予守良通は、後の伊予入道一鉄であり、とくにその名が知られている。氏家常陸介直元は、美濃の大垣城主で、後に卜全《ぼくぜん》と号した。伊賀伊賀守守就は、美濃の北方城主で、後に一時、安東の姓に改め、道足と号する。  この美濃三人衆は、道三以来、美濃の国主大名斎藤家の重臣となっていたが、道三の孫斎藤竜興のとき、有名な竹中半兵衛重治などとともに、主家を裏切り、二度、主君を乗りかえて、敵将織田信長に味方し、斎藤家の滅亡を促進させたのである。やはり、旧主斎藤道三のみごとな転身に学んだものとみえる。  戦国武士道は、武士の面目と意地をつらぬけばいいのであって、主君を裏切ってもよかった。江戸武士道との相違点は、ここにある。  つぎに、美濃安八郡神戸の『性顕寺文書』所収の六月二十二日づけで性顕寺にあたえた道三の書状を紹介する。 [#ここから2字下げ] 林かたへの御状、披閲《ひえつ》せしめ候。瓜《うり》二|籠《かご》送り給わり候。祝著《しゆうちやく》の至りに候。毎々御懇慮に候。猶《なお》、面展《めんてん》を期《ご》し候。恐々謹言。   六月廿二日 [#地付き]山城守         [#地付き]    道三(花押)     性顕寺       几下 [#ここで字下げ終わり]  これは、瓜二籠の贈り物に陳謝した礼状だが、「山城守」と署したのが、珍しい。しかも「道三」とある。だから、道三と号したからといって、すぐに「山城入道」と称したとは断言できまい。  そうして、この山城守道三の書状は、大略、天文末年のものと推測されるが、これ以後と推定できる道三の文書は、まだ他にみあたらない。現存の道三文書として、もっとも年次の新しいものではあるまいかと考えられる。そうして、天文二十三年(一五五四)三月十日づけの斎藤新九郎利尚(義竜)の文書が出現すると、それ以後、道三の文書は影をひそめるから、この天文二十三年の二月二十二日と三月十日の間に、道三は、家督を長男の新九郎利尚に譲って、隠居することになったのではなかろうか。古文書のうえから、そんなことも推測されるのである。 [#1段階大きい文字](三)蝮の道三とその裏面  油売りの行商人から二十有余年で美濃の国主大名に成り上がった斎藤道三は、たしかに、智謀と武略に優れていただけではなく、目的のためには手段を選ばないといった非情さがあり、その非情さが、国盗りのテンポを速めたのだが、時人の人物評価としては、蝮の道三といわれていた。近ごろでは、梟雄《きようゆう》というのが、道三を表現するにもっとも適した言葉として使用されている。これは、三十年ほど前に、当時、文壇の鬼才といわれた坂口安吾さんが、斎藤道三を主人公として『梟雄』と題する短篇歴史小説を『文藝春秋』(昭和二十八年六月号)に発表して、好評を博してからだと、筆者は思っている。蝮も、強烈な毒を持つ蛇で、これに食いつかれたら命がないと、むかしから人々に恐れられ、忌み嫌われているが、梟《ふくろう》という鳥は、昼間は森林のなかにひそみ隠れているが、夜になるとでてきて、目の利かなくなった小鳥や鼠などを捕えて食う。成長すれば、自分の親でも、遠慮せずに、喉ぼとけから食いちぎってしまうというから、凶悪な鳥として、やはり忌み嫌われている。この梟という悪鳥は、一見、とぼけたような、かわいらしげな面《つら》つきをしている。そのくせ、じつは、非情無残な性格をもつ。  道三も、容貌は、道三のむすめ濃姫が寄進したという常在寺の画像をみてもわかるように、女ずきのしそうな、立派な風貌をしている。だから、奈良屋又兵衛のむすめもだまされて利用されたし、油売りになっても、美濃の各城下町の主婦連にもてた。主君の土岐頼芸に斡旋した美女|深芳野《みよしの》を横取りして妾《めかけ》にすることもできたのである。しかし、その行動においては、一国を乗っ取るだけの英雄であると同時に、梟のような獰猛《どうもう》さがあった。だから、梟雄という言葉が、道三の人物的印象にピッタリなのだ。さすがは坂口安吾さんで、いい題名をつけたものだと、敬服している。  今日の社会でも、これに似た人物は、案外、いなくもないようだ。女性かと見間違えるような美男子で、口がうまく、人の機嫌とりが上手である。いつも笑みを含み、愛嬌満点だ。そのくせ内心は、非情で、残忍性に富み、女をだましてもてあそび、あきがくれば、タバコの空箱のようにポンと捨てるくらい朝飯前である。そうして、自分の地位を向上させるため、金を儲けるためには、方法と手段を選ばない。人を犠牲にしてもヘイチャラだ。こういう種類の人間にたいしては、陰では、太鼓持ちだとか、ナフタリンだとか、悪口を吐きながらも、その人間が結果として、ある程度に成功すると、いまいましいと思いながらも、その反面、その男の要領のうまさとドライに徹した行動ぶりに、驚異の眼を見はり、羨望の念さえ湧いてくるものである。  斎藤道三なども、裸一貫で一国一城のあるじとなったことが、北条早雲などとともに、乱世の成功者の一人として、当時の青少年のあこがれの的とされていたかもしれないのである。  それにしても、道三の評判がはなはだよくなかったことだけは、事実である。たとえば、信長・秀吉に歴仕した中流武士太田牛一の書き留めた『信長公記』をみると、斎藤山城道三悪逆の経歴を述べ、土岐頼芸を大桑城から追い出し、尾張へ亡命させた一部始終を説明したあとに、そのころ、何者かがしたためた落書《らくしよ》を紹介しているが、——主《しゆう》を斬り聟《むこ》をころすは身のおわり昔はおさだいまは山しろ——とあり、この落書を記した木札が、七曲《ななまがり》の道辻《みちつじ》に立てかけてあったというのである。「恩を蒙《こうむ》り恩を知らず、樹鳥枝《じゆちようえだ》を枯らすに似たり」と評し、道三の忘恩ぶりを非難している。木札の落書は、狂歌だから、落首《らくしゆ》というべきだ。この落首の第三句の「身のおわり」の「おわり」は、「尾張」にかけている。「おさだ」は、長田荘司忠致《おさだのしようじただむね》を指す。源平時代のそのむかし、平治の乱で平清盛と戦って敗れた源|義朝《よしとも》(頼朝の父)が尾張の野間《のま》に落ち、源氏の郎党長田忠致に迎えられたが、清盛に内通した忠致のために、湯殿《ゆどの》で暗殺された。その故事を引いて、「いまは山しろ」の第五句で、長田と同様に、旧主長井長弘を斬り、自分の聟にした土岐七郎を毒殺した山城守道三の悪行を非難したのである。  しかも、この落首のことを紹介したついでに、なお、『信長公記』の著者太田牛一は、道三の政治をも批判し、「山城道三は、小科《しようか》の輩《ともがら》をも牛裂《うしざき》にし、或いは、釜を居《す》え置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、人を煎殺《いりころ》し候事、すさまじき成敗なり」と述べている。  なお、太田牛一は、これとまったく同様な批判を、その著『大かうさまぐんきのうち』にも書き記しているから、よほどあたまにきたらしいが、牛裂《うしざき》・釜煎《かまいり》などというのは、刑罰の方法がもっとも残酷だった戦国時代にあっても、酷刑中の酷刑だったであろう。  牛裂というのは、罪人の両脚の一本ずつを、二頭の牛にそれぞれ縛りつけ、反対な方向に引かせ、股を裂かせる方法である。また、釜煎とは、大きな湯釜に熱湯を沸かし、そのなかに罪人を入れて煎り殺す方法をいう。  釜煎の刑については、秀吉が有名な大盗賊石川五右衛門に行なった模様が、岡田玉山画・竹内確斎作の『絵本太閤記』に記述してある。それは既に、浄瑠璃作者の近松門左衛門によって、いわゆる義賊の最期のありさまとして脚色され、歌舞伎劇ともなって舞台で演出され、人口に膾炙《かいしや》しているのであるが、この酷刑を実施した元祖が斎藤道三であったとは、この太田牛一の文筆的功績によって初めて明らかとなったのである。  しかし、その釜煎の方法が、釜の湯を非人《ひにん》などにたかせるのではなくて、釜のなかに入れられている罪人の妻子や親兄弟に命じてたかせ、徐々に煎り殺させるというのだから、いよいよ蝮の道三の面目を躍如たらしめている、といってよかろう。「すさまじき成敗なり」と、太田牛一は評しているが、すさまじいのを通り越して、ふきだしたくさえなってくる。あまりにもやり方があくどく、念が入りすぎていて、凄惨な実感が湧いてこないせいであろうか。  戦国大名の政治と、一概にいってみても、食うか食われるか、殺すか殺されるかの乱世にあっては、刑罰の方法と実施にもっとも重きがおかれたのは、死刑廃止論絶対優勢の近代国家社会の刑法と違って、やむをえない実情であったともいえる。人を殺しても他国に逃げれば絶対につかまらず、殺し得であり、殺されたほうは、殺され損である。  こういう時代には、仇討ち、リンチなど朝飯前のことであったから、刑法を定める以上は、みせしめのためを目的とし、つかまったら、あんなヒドイ目にあわされるという事実を公開して見物させる必要がある。しかも、どうせ見物させるなら、棒たたきや打ち首などより、鋸《のこぎり》びき、松葉いぶし、蛇責めのほうが効果がある、といった考えから、刑罰の方法が自然とエスカレートし、道三の牛裂や釜煎になったものとみえる。  しかし、これをもって日本人は残酷だなどと評するのは、世界史的視野からみて、軽率すぎるように思うのである。同じ民族にあたえた刑罰よりも、異民族に試みた刑罰のほうが、残忍性においてはるかにまさっているということは、世界史の常識であろう。たとえば、信長の行なった多量虐殺法は、これまで日本史上にみられなかったもので、鉄砲やキリスト教とともに渡来した西洋文明の影響であるともいえる。信長の残虐さは、舅《しゆうと》の斎藤道三をまねたなどというのは、見当違いもはなはだしい。道三は、わずかばかりの極悪非道な犯罪者を、民衆のみせしめのために、極刑に処したにすぎない。鉄砲の研究はしたにせよ、何千人を一度に惨殺するというような刑法については、無知であったといえる。  牛裂や釜煎のことばかりをとりあげると、道三は、いかにも極悪政治家のようにうけとられるが、裸一貫から才覚と武略で一国一城のあるじになっただけあって、斎藤道三にも、時代より数歩も進んだ発明や改革があったのである。  まず、美濃の稲葉山城を奪い取って居城とすると同時に、新時代的な築城術を用いてこれを改築して井ノ口城と名づけ、山城《やまじろ》ながら、その麓の加納《かのう》市場などを合わせて、城下町の建設を行ない、付近の寺院を移建させて寺町を造ったり、市場の増設をも試み、商工業の発展を促している。  稲葉山は、初め、今日と同様に、金華山《きんかざん》(海抜三百二十九メートル)とよばれていたらしいが、一名、一石山、破鏡山などともいわれていた。全山が美しい原生林におおわれ、北は断崖の下方に長良川《ながらがわ》が流れ、西と東に絶壁と急坂が多く、南方だけが瑞竜山、権現山などの山脈につらなり、濃尾平野を一眸《いちぼう》のもとに収めうる要害の山である。金華山に初めて域を築いたのは鎌倉初期の武将二階堂行政だが、伊賀守藤原朝光の子の光資《みつすけ》が稲葉氏と改めたため、稲葉山城と俗称されたという。室町初期の応永十九年(一四一二)、美濃の守護代斎藤利永が、稲葉山城を修築し、壕を深くし、要害の構えをさせ、堀水に舟を浮かべ、庵室にもはいれたという。  しかし、この城の壕をひろくし、水を深め、城壁を高く堅固にしたのは、梟雄斎藤道三が入城してからである。その後、斎藤氏を滅ぼした織田信長が入城すると、徹底的な改築を行ない、宣教師フロイスの書翰にみられるような大城郭となったのである。  また、前にも述べたことだが、道三は、三間半柄の長槍を作らせて、その操法を工夫し、足軽の長槍隊を組織したり、鉄砲の仕入れや使用法についても、婿の信長に先がけて、大いに心を用いた。  なお、道三個人としては、これもすでに触れたことだが、遊芸に通じていたらしい。一説によると、曲舞、謡曲、乱舞にも通達していたというが、確証はない。この遊芸に事よせて、土岐頼芸に近づき、これを魅了したのだが、具体的な一例を挙げると、道三は、そのころ武家社会に流行していた、茶の湯の嗜《たしな》みがあったようだ。  それについては、抹茶を贈られて陳謝したかれの礼状をすでに紹介したが、この茶の湯の嗜み、茶会の催しに関連して、道三が造った「桜花の茶庭」と称する庭園の絵図が、『古今茶道全書』や『諸国茶庭名跡図会』という江戸時代に刊行された茶書に掲載されている。この絵図には、「斎藤道三入道露地数寄屋之図」という題名が右上の余白に書いてあり、左上方の木戸《きど》の門をはいると、外露地《そとろじ》が桜花の山となっており、その山の裾を通って、飛び石づたいに中潜《なかくぐり》をはいって、右下の内露地《うちろじ》に進み、草葺《くさぶき》屋根の数寄屋の躙口《にじりぐち》に通ずる、という仕組みに造られている。しかも、外露地の左端には下腹雪隠《したばらせつちん》があり、内露地には荘雪隠《かざりせつちん》の設備まであり、なお、中潜の左側には、「一宿」と称する建物がある。これはおそらく、遠方より招いた客を一泊させる宿舎と考えられる。また、『茶事秘録』にも、この「道三の桜露地」の絵図を載せ、「美濃国斎藤山城守道三入道モ、茶ヲ好ミシカ、熱田ノ岡部又左衛門ト談合シテ、桜一色ノ盧路《ろじ》ノ庭アリ」と説明している。  この茶庭の仕組みは、なかなかおもしろく、露地に桜花の山をかさねた趣向など、いかにも中世風な茶庭の好みであり、戦国時代の地方大名の茶趣味がどのようなものであったかが偲ばれるが、この絵図にみられる茶庭の構造は、千利休の晩年、つまり、桃山時代に完成された二重露地の形式を示すものであり、ことに、下腹雪隠と荘雪隠の設備など、むしろ、江戸初期の仕組みである。したがって、これは、少なくとも江戸中期ごろの茶人が作った想像絵図にすぎなく、かりに、斎藤道三の屋敷内の一部に「桜花の茶庭」と称するものがあったにせよ、このような、外内に区分された二重露地式の茶庭ではなかったと断言する。しかし、道三に茶の湯の嗜《たしな》みと茶事を催す趣味のあったことは、否定できないし、むしろ肯定しうる史実ではないかと思うのである。 [#改ページ]   第三部 骨肉あい討つ [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 娘婿、織田信長 [#1段階大きい文字](一)斎藤道三とその家族  斎藤道三の父は、すでに述べたように、山城の国|西岡《にしのおか》に住む下級武士で法華宗信者の松浪基宗《まつなみもとむね》だが、道三はその庶子だというから、生母のことは明らかでない。基宗の側室というほどの者ではなく、近在の娘と野合の結果、生まれたのであろう。兄弟についても、不明である。兄弟がいたか、いなかったのか、記録や物語にさえ出てこない。  道三の最初の妻は、西岡近辺の灯油問屋奈良屋又兵衛のむすめであり、これを道三が見そめて、ものにしたのかどうかは明らかでないが、京都の妙覚寺を出て還俗して松浪庄五郎と名のると、ほどなく、所望して奈良屋の入り婿《むこ》となった。美濃の今泉の常在寺に現存し、かれのむすめの濃姫《のうひめ》が寄進したという道三の画像をよくみると、かれはそうとうの美男子であったらしい。平たい面貌で、あごがつき出ているが、額が広く、眉毛が長く、頬骨は高く、両眼がくぼんでいて、智恵と才覚に富んだ、秀才型の男性である。奈良屋のひとりむすめも、まんざらではなかったであろう。  だから、庄五郎が山崎屋と号して油売りの行商人となると、奈良屋のむすめは、その荷車を馬でひいて、美濃くんだりまでついてきた。しかし、庄五郎が土岐家の執権長井長弘に仕え、ふたたび武家奉公を志し、武芸の修錬に励みだすと、御用済みというわけで、奈良屋のむすめは、西岡に送り返されたか、あるいは、武技に熱中する庄五郎にアイソをつかして、逃げ帰ったものか、彼女のその後の消息は杳《よう》として知られていない。もちろん、その名も不明である。この二人の間に子供があったかどうかもわからない。  つぎに、道三の前に出現する女性は、俗説では、西村勘九郎と改称した庄五郎が操っていた土岐|頼芸《よりなり》の愛妾|深芳野《みよしの》だといわれている。彼女は、頼芸の妾ではなくて本妻だったという説もある。丹後の名族一色右京大夫の姫君で、気品も高かったというから、本妻らしくも考えられるが、実際は、やはり愛妾だったであろう。しかし、その美人の深芳野を、西村勘九郎が頼芸に周旋したのはいいとしても、頼芸が、勘九郎を信頼するあまりに、彼女を呉れてやったというのは、変な話だ。勘九郎が、深芳野を見そめて、頼芸から強奪したと書いた記録もあるが、このほうがまだ、真実性があるような気がする。勘九郎のやりそうなことだ。しかし、勘九郎は、深芳野を、本妻とせずに、愛妾としたらしい。しかし史実としては、深芳野が道三の愛妾となって、道三の三男喜平次を産むのは、もっとあとのことであろうと、筆者は考える。  その後、斎藤利政と改めた勘九郎は、後妻として、美濃の可児郡明智の城主明智十兵衛光継のむすめを正式に迎えたらしい。これは、美濃の有力な土豪を味方とするための政略結婚だったといわれている。明智光継のむすめは、利政に嫁し、小見《おみ》の方《かた》と称したが、天文二十年(一五五一)三月、三十九歳で病死したという。しかし、この小見の方明智氏は、おそらく、道三の三度目の妻であって、道三の次男孫四郎の生母と推測される。  ところで、斎藤利政時代の道三が、もと土岐家臣で、新たに利政に臣従した美濃三人衆の一人の稲葉伊予守良通(一鉄)の妹を妻としたという説がある。これは、六尺ばかりの大おんなだが、絶世の美人だったと、『翁草』は記している。さらに、この大おんなこそ深芳野だったという異説もあって、なにがなんだか、あたまが混乱してくるが、史実としては、この大おんなの稲葉氏こそ、道三の二度目の妻であって、しかも道三の長男義竜の生母であると推定したい。  つぎは、道三の子供の側から調べてゆくと、斎藤氏関係の古記録を総合すれば、男子が四人いたことがわかる。長男は豊太丸《とよたまる》で後の新九郎義竜、次男は右京亮、三男は玄蕃。四男は出家して日覚、としている。しかし、次男を孫四郎(竜重)、三男を喜平次(竜定)とする説が、一般的である。太田牛一の『信長公記』には、「一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次とて、兄弟三人これあり」とだけ記している。  なお、末子の日覚は、道三が最後に遺言状をあたえた「児《ちご》」であり、その当時、勘九郎と称して、十一歳だったといわれる。  道三のむすめ濃姫は、三度めの妻小見の方明智氏が天文四年(一五三五)に産んだといわれる。道三が四十二歳の年である。道三と小見の方との婚姻は、その二年前の天文二年、道三が四十歳のときで、小見の方は二十一歳だったといわれる。道三の長男義竜は、永禄四年(一五六一)に三十五歳で病死しているから、大永七年(一五二七)に生まれたことになる。したがって、道三のむすめ濃姫が誕生した天文四年に、義竜は九つになっているから、濃姫は、少なくとも義竜の妹だったことがわかる。この濃姫が、天文十七年(一五四八)、つまり十四歳で、十五歳の織田三郎信長に嫁ぐわけだ。  濃姫は、濃姫《こいひめ》と読むべきだという説もあるが、美濃からきた姫、つまり美濃姫《みのひめ》というのを省略して濃姫《のうひめ》とよんだ、と考えるのが正しかろう。たとえば、武田信玄は、信濃の豪族諏訪頼重を討滅して、そのむすめを愛妾としたが、これを諏訪姫とよばせている。「由布姫《ゆうひめ》」というのは、作家井上靖氏の創作であって、上杉謙信の生母|虎御前《とらごぜん》のことを海音寺潮五郎氏が「袈裟《けさ》」と創作したたぐいである。ちなみに、この袈裟という名前は、海音寺氏の告白によれば、佐渡おけさ[#「おけさ」に傍点]のけさ[#「けさ」に傍点]から採用したものだそうだ。袈裟の墓はできなかったが、由布姫の墓は現地に建っている。『金色夜叉《こんじきやしや》』の主人公、貫一《かんいち》とお宮《みや》の墓が、熱海《あたみ》の海岸に建立されているようなものだ。  斎藤道三のむすめのばあい、美濃からきたから、尾張の織田家中で濃姫《のうひめ》とよんだわけで、本名はなんといったか。『美濃国諸旧記』には、帰蝶《きちよう》といったとある。他に確証が見あたらないかぎり、これを信ずるほかあるまい。  ところで、この帰蝶がいつ死んだかという問題だが、信長の正妻として、天正十年(一五八二)の本能寺の変まで生存していたともいう。しかも、信長を殺害に至らしめたのは、明智光秀の血縁にあたるこの帰蝶のしわざだ、などと書いたものを読んだ記憶がある。  しかし、信長の長男信忠を産んだのが信長の正室生駒氏であったことは、『織田家雑録』に明記してあり、その姉の徳姫は、信忠・信雄《のぶかつ》とともに、生駒氏の同腹の子供であったから、三人が鼎立《ていりつ》して、五徳《ごとく》の脚のようであったので、五徳と命名した、と説明している。この徳姫は、『源流綜貫』によれば、永禄十年(一五六七)、九歳で徳川家康の長男信康に嫁いだというから、生まれたのは永禄二年(一五五九)である。信長の長男信忠が天正十年(一五八二)の本能寺の変のさい二条城で自害をとげたとき、二十六歳であったというから、信長の正妻生駒氏が信忠を産んだのは、弘治三年(一五五七)のこととなる。つまり、生駒氏は、弘治三年に長男の信忠を産み、その後二年目の永禄二年に徳姫を産んでいる。だから、徳姫は信忠の二つ下の妹であって、姉ではない。『織田家雑録』や『織田家系図』に信忠の姉のように記しているのは誤りだ。  ともかく、信長の正室で、信長の長男、長女、次男の三人を産んでいる生駒氏が、少なくとも信忠を産んだ弘治三年には正妻として存生していたのに、斎藤道三のむすめ帰蝶が、信長の正妻として本能寺の変の天正十年まで信長の側近にいたというのは、矛盾もはなはだしい。だから、筆者は、かつて見た何かの記録に、帰蝶は、信長に嫁してほどなく病死したという説があったが、それを採用したいのである。信長と帰蝶との間に子供が生まれたかどうかは判明しないが、ともかく帰蝶は、天文十七年(一五四八)、十四歳で信長に嫁ぎ、正妻の座にあったが、少なくとも、つぎに信長がめとった後妻の生駒氏が弘治三年(一五五七)に信長の長男信忠を産む以前に、病死したのではなかろうかと推測する。  そうだとすれば、天文十七年に十四歳で信長に嫁いだ帰蝶は、弘治三年まで生存していたと仮定しても、二十三歳にすぎないから、おそらく、その少し前、二十歳くらいで病死したのではあるまいか。道三のむすめ帰蝶は、やはり、その兄の斎藤義竜や、義竜に暗殺されたという二人の弟ら(孫四郎、喜平次)とともに、薄幸な若者であったといえよう。  つぎに、道三の長男の義竜に問題をしぼると、義竜がはたしてだれの子で、生みの母がだれであったかということが、一番重要な問題となってくる。義竜が成長してからの、父道三との関係については、次章に譲るが、ここでは、まず、義竜が、はたして道三の実子であったか、土岐頼芸の落胤《らくいん》であったか、生母がだれであったかについて、一応、考察してみねばなるまいと思うのである。  まず、『美濃国諸旧記』によると、土岐頼芸が西村勘九郎のことを寵愛し、かつ信任し、愛妾の深芳野を下げ渡したのが大永六年(一五二六)十二月、勘九郎が三十三歳のときであった。そうして、深芳野は、その翌年(大永七年)六月十日、男子を産んだ。勘九郎は、これを豊太丸《とよたまる》と名づけ、わが子として育てたという。この豊太丸が成長して、道三の長男斎藤新九郎義竜となるのだという。しかし、この俗説で、ただ一つ信用できるのは、義竜の生まれた年が大永七年(一五二七)であり、そのとき道三(西村勘九郎)が三十四歳だった、ということだけである。これは、前にも証明したとおり、義竜と道三が死亡した年と、そのときの年齢から逆算すれば、明らかな史実とみなさねばなるまい。  しかし、義竜の生母が深芳野であったかどうかは、明らかでなく、異説もある。たとい、生母が深芳野であったとしても、その実父が斎藤道三であるかどうかも明らかでない。土岐頼芸の落胤だという説もある。これについては、すでに一応の考察も試みたが、ここで、もう少し突っこんだ推理を行なってみたいと思うのである。  なお、『堂洞軍記』では、道三は、深芳野を土岐頼芸から下げ渡されたのではなく、強奪したのだといい、その時期を、道三が頼芸を第一回目に美濃から追放した天文十一年(一五四二)と説明しているが、これでは、豊太丸(義竜)の誕生が同十二年(一五四三)ということになり、義竜が永禄四年(一五六一)に病死したときは、十九歳だったということになり、父の道三と戦ってこれを敗死させた弘治二年(一五五六)には、十四歳にすぎなかったことになるから、この説は、いただきかねる。だから、豊太丸の大永七年(一五二七)六月十日誕生説は、動かしがたいと思う。  ところが、豊太丸は、深芳野が産んだ子供ではなくて、もと土岐家臣で、ついで斎藤道三の家来となった稲葉伊予守良通の妹であって、道三の妻となった女丈夫が産んだ子供であるという説が、『砕玉話』・『翁草』などに見える。この女丈夫は、稲葉伊予守良通(一鉄)の妹だけあって、身の丈《たけ》六尺ばかりで、しかも絶世の美女であった、という。  だから、その女丈夫を母として生まれてきた義竜は、身長六尺四、五寸、膝《ひざ》の厚さが一尺二寸で、扇子の立てた高さよりも、拳《こぶし》一にぎりだけ高いというスーパーマンだった、というのである。  これは、はなはだ耳よりな説である。深芳野のような楚々たる京美人から、義竜のようなスーパーマンが生まれてくるよしもないからだ。ただ、道三がこの女丈夫を妻としたのがいつのことか、はっきりしないのが残念である。筆者の考えでは、豊太丸が大永七年(一五二七)に生まれた事実は、その享年から逆算して動かしがたいから、道三は、西村勘九郎と称した大永六年(一五二六)ごろに、当時は土岐氏の家臣であった稲葉良通から、その妹ではなくて、姉をもらって二度めの正妻としたのではなかろうか。なぜ、妹でなくて、姉であるかというと、稲葉良通は、天正十六年(一五八八)に七十四歳で死去しているから、永正十三年(一五一六)の生まれであり、大永六年(一五二六)には十二歳である。その妹では、十一歳以下の少女にすぎなかったことになる。だから、稲葉良通の妹というのは誤記であって、姉ではなかったか、と推測する。姉ならば、十八でも二十でもいいわけだ。そうすれば、この女丈夫は、稲葉通則(良通の父)のむすめということになり、西村勘九郎は、土岐家累代の重臣稲葉通則のむすめを正妻に迎え入れたことになるわけである。しかし、この道三の長男義竜を産んだ稲葉良通の姉は、まもなく死亡したのではなかろうか、と臆測する。  したがって、大永六年(一五二六)、道三が|四十九歳(底本ママ)で美女深芳野を土岐頼芸から強奪して妾としたときと、稲葉氏を正妻として迎えたときとは、ほぼかさなりあうのである。だから、道三は、深芳野を妻として扱わず、愛妾として囲っておいたわけであろう。そうして、そのなかにもうけたのが、道三の三男喜平次であった、と推測する。この美女深芳野は、京の名家一色右京大夫のむすめであっただろう。なぜかといえば、道三は、後に三男の喜平次を一色右兵衛大輔と改称させたからだ。  なお、前にも述べたように、道三は、明智光継のむすめ小見の方を、政略の方便から、妻にもらいうけ、天文四年(一五三五)に義竜の妹にあたる濃姫(帰蝶)を産ませたが、小見の方は、天文二十年(一五五一)、三十九歳で病死している。このとき、道三は五十八歳であったという勘定になる。  このように推理してくると、道三の男子四人、女子一人のうちで、長男の義竜は、二度目の妻稲葉氏の腹にもうけた子供であり、義竜の妹の濃姫は、後妻明智氏の産んだ子供であったことがわかる。あとの三人の男子のうちの次男の孫四郎は、濃姫と同腹、つまり、三度目の妻小見の方明智氏が産んだ子供であり、三男の喜平次以下は深芳野一色氏との間にもうけた子供たちではなかったか、と推測する。  ところが、なお、道三と正妻と義竜との関係について説明したものに、耳よりな伝えがある。それは、道三が美濃入りし、油売り商人を廃業し武士に復活してから、初めて得た正妻は、やはり稲葉良通の姉(美人の大女)であったが、彼女は、初め土岐頼芸の妻であったのを、道三が、やはり強奪したものだという。そうして、七ヵ月目の月たらずで生まれたのが、豊太丸であり、それが、まるまると肥え、泣き声の大きい赤ん坊だったため、土岐頼芸の実子とうわさされた。そうして、この大おんなの稲葉氏の死後、道三が後妻としてめとったのが、明智光継のむすめ小見の方であり、義竜の妹濃姫や弟たちは、みな、小見の方との間にもうけた子女であるというのだ。  こうなると、一色右京大夫のむすめで京都生まれの深芳野というのは、まったく架空の美女であるように思われるが、そうではなくて、深芳野一色氏も実在の美女であるが、これも、後に、道三が土岐頼芸から奪ったものであり、道三は、深芳野を初め妾としたが、小見の方明智氏の死後は、これを正妻に直したらしく、この美女との間にもうけたのが三男喜平次と四男勘九郎であろう。しかし、道三が稲葉氏を土岐頼芸から強奪したというのは、深芳野を強奪したことと混同したのであり、誤伝にすぎなく、稲葉氏は、やはり、彼女の父の稲葉通則から正式に貰い受けたものと筆者は推測する。  そうすると、道三という男は、妻を二度かえ、妾は深芳野一人という、戦国大名としては比較的マジメな人物になってしまうが、表面は柔らかそうで、シンの堅い男が、成功者に多いことは事実である。最初に稲葉良通の姉を通則から貰い受けたのも、堂々たる美丈夫を後嗣としてもうけたいという道三の打算からではなかったか。道三の性格や、やり口から見て、そんなことも考えられそうである。  以上試みた筆者の推理は、スーパーマン斎藤義竜(道三の長男)を女丈夫稲葉氏の産んだ男児(豊太丸)と仮定する線から出発し、道三の他の子女たちの母親を類推していったのである。美濃関係の古記録・戦記類、あるいは系図の年代を、勝手に無視したり活かしたりしてみたのは、年代の記述に関係しては、古文書・古日記以外の古記録・系譜・戦記物くらい、あてにならぬものはないからだ。古日記や古文書の年記を否定しないかぎり、史実の把握にあたっては、自由な推理と奔放な臆測が許されないことはない、と信ずるからである。  しかし、筆者は、結局、道三の長男義竜を、土岐頼芸の落胤とせずに、道三の実子と認定する。それは、太田牛一の『信長公記』にも、「山城《やましろ》(道三)子息、一男新九郎(義竜)、二男孫四郎、三男喜平次とて、兄弟三人これあり」と記し、長男の新九郎義竜をも実子のように扱い、一男、二男、三男というように、同等に列記しているからだ。斎藤道三と信長にかんする文献史料に限って、純粋の日記というものは現存しないから、道三自筆の遺言状のような関係古文書のつぎには、この『信長公記』を、日記に準ずる、もっとも古い記録として活用すべきであろう。 [#1段階大きい文字](二)道三と信長との会見  天文十一年(一五四二)に土岐頼芸を尾張に追放して、名実ともに美濃の国主大名に成り上がった斎藤道三が、その後、同十三年の八月と同十六年の九月の二回にわたって、頼芸とその兄の土岐頼純(盛頼)の後援と称する越前の朝倉孝景と尾張の織田信秀の軍勢の攻撃に悩まされ、ついに信秀に和議を申し入れ、一時、頼芸を大桑城主に復帰させるとともに、道三のむすめ濃姫(帰蝶)を信秀の嗣子三郎信長に嫁がせることとし、その政略結婚が天文十七年(一五四八)に実施され、両家の間に和議が成立したことについては、前章に述べたとおりである。  ところが、その翌年(天文十八年)の三月三日、織田信秀は、享年四十二で病死してしまった。そうして、道三のむすめ婿《むこ》にあたる三郎信長が、信秀の跡目を相続して、尾張|下《しも》半国(下《しも》四郡)を支配することになったのである。  道三は、斎藤・織田両家の講和使節としてしばしば美濃の稲葉山にやってきた織田家の老臣で、しかも信長の守役《もりやく》でもあった平手監物丞《ひらでけんもつのじよう》政秀から、信長の評判をいろいろと聞いていた。いや、信長のもとに嫁《よめ》にやった濃姫にもスパイの役目をいいつけたという噂《うわさ》さえあったほどである。年をとっても、道三は、相変わらずの情報通で押しとおしていたらしい。  ともかく、信長は、吉法師《きつぽうし》と名づけられた幼児のうちから、常人と変わっていたようである。癇癖《かんぺき》が非常につよくて、乳母《うば》の乳首《ちくび》を何度も噛みやぶるので、みな悲鳴をあげ、乳母が幾人も変わった。しまいには、乳の飲ませ手がなくなった。ところが、摂津の国池田の豪族で織田家に仕えた池田紀伊守|恒利《つねとし》の妻が乳母に懇望され、乳をやったところが、不思議に、その若妻の乳首ばかりは噛みやぶらなかったという。  吉法師は、天文十五年(一五四六)、十三歳のとき、尾張の古渡《ふるわたり》城内で元服し、三郎信長と名のったが、その翌年(天文十六年)、十四歳で、駿河・遠江の国主大名今川義元の支配下にあった三河の吉良《きら》に向かって初陣《ういじん》し、大浜まで進撃し、諸所に放火し、その夜は野陣を張り、翌日、平然として那古野《なごや》城に凱旋したという。このときの後見役も、平手政秀がつとめている。  清洲《きよす》町の長崎|※一《かんいち》氏の所蔵品だったものに、『信長元服の図』と称する武者絵がある。前髪を切った初《う》いういしい若武者が、美しい縅《おど》しの鎧《よろい》を着こなし、左手に弓をもち、兜《かぶと》を下におき、黒塗りの鎧櫃《よろいびつ》に腰かけている出陣の晴れすがたを写した、見るからにすがすがしい絵である。これは、一名、『信長初陣の図』ともいわれている。上のほうの余白に、寛永十六年(一六三九)づけで、林羅山《はやしらざん》が賛文《さんぶん》を書いているから、おそらく、江戸初期の某画家に依頼して描かせた想像図であろう。羅山は、徳川幕府の御用学者といわれている。たしかにそういわれる一面もあるにはあるが、その反面、藤原惺窩《ふじわらせいか》の高弟だけあって、独自な見識と批判をもつ学者であった。  だから、『豊臣秀吉譜』など、秀吉の功業を礼賛した著述も書いている。羅山は、また、慶長十六年(一六一一)に、加賀藩の儒医|小瀬甫庵《おぜほあん》が『信長記』十五巻を著わしたときにも、その序文を書いてやった。そんな因縁もあったので、この図にも賛文を記したものとみえる。  さて、信長が初陣をしたころ、父の織田備後守信秀は、尾張の平定を志し、東は駿河の今川義元、北は美濃の斎藤道三と対決し、連年のように戦闘を繰り返していた。  いっぽう、元服式と初陣をすませてからの信長は、濃姫をめとったとはいうものの、新婚の夢を楽しむどころか、武技の鍛錬に余念がない。朝夕は乗馬の稽古。三月から九月にかけては、那古野近くの川に跳びこんで、水泳の練習に励み、河童《かつぱ》から胡瓜《きゆうり》を進上されるほどの上達ぶりを示した。そうして、河からあがると、河原を戦場に見たてて、若侍たちに竹槍合戦をやらせ、みずから指揮をとったり、勝負の審判をやったりした。その結果、槍の短いのは、どうしても不利であることに気がつき、三間|柄《え》、または三間半柄の長槍に改めさせたという。  信長の行儀は、はなはだよくない。胴衣の袖をはずし、半袴《はんばかま》をはいた腰には火打袋《ひうちぶくろ》をたくさんぶらさげ、髪を茶筅《ちやせん》に結い、紅《くれない》の糸や萌黄《もえぎ》の糸で巻きたて、朱鞘《しゆざや》の太刀《たち》をはき、従えた家来たちも、ことごとく朱武者《しゆむしや》の服装をさせた。  なお、市川|大介《だいすけ》について弓の稽古を励み、橋本|一巴《いつぱ》を師匠として鉄砲の操作《そうさ》をならい、平田|三位《さんみ》を常に召しよせ、兵法を学んだりしている。鷹狩りにも熱中したが、その往復の途中、那古野の町辻を通るとき、人目《ひとめ》をもはばからずに、栗・柿・瓜《うり》などをかぶり食いにし、町のまんなかで、立ちながら餅《もち》を頬《ほお》ばり、人のからだに寄りかかり、人の肩にぶらさがって歩いていた。  そのころは、世間の人々が正気《しようき》にたちかえっていたので、この行儀のたいへんわるい若殿《わかとの》のことを、「大うつけ」といいあったという。「大うつけ」とは、大馬鹿者という意味だが、もちろん陰口《かげぐち》にすぎない。  大うつけ[#「大うつけ」に傍点]の父親の信秀は、古渡《ふるわたり》の城を破却し、末森山に新城を築かせ、ここに移ったが、まもなく病いにかかり、四十二歳で果てた。それが、天文十八年(一五四九)の三月三日のことだ。疫病にかかって急死したともいうが、前章に掲げた古文書によれば、その前年から患っていたのである。  信秀は、かねてから、織田家の菩提所として万松寺という寺院を那古野に建てていたので、そこで盛大な葬礼が行なわれたのである。銭施行《ぜにせぎよう》という方法で、尾張の国中の僧侶たちを集めたが、おりから関東からのぼりくだりする多くの会下僧《えげそう》をも加えて、三百ほどの人数となった。  三郎信長を喪主《もしゆ》とし、林佐渡守通勝・平手監物丞政秀・青山与三右衛門・内藤勝介など、織田信秀の家老衆と、それに、信長の舎弟織田勘十郎信行、その家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・長谷川橋介・山田七郎五郎などが、この葬儀に参列した。ことに、勘十郎信行は、折目高《おりめだか》の肩衣《かたぎぬ》を着て、袴をはき、儼然としてさし控えていた。  ところが、喪主の信長が、その日の朝から鷹狩りにでかけたが、なかなか帰ってこない。一同、気をもんでいると、坊主がやむなく読経をはじめだした最中に、ようやく馬で万松寺に駈けつけたが、信長の身なりは、いつものように、長束《ながつか》の太刀を標縄《しめなわ》で腰に巻きつけ、髪を茶筅巻きにし、袴もはいていない。かれは、その服装のまま葬儀の式場にはいり、亡父の位牌につかつかと進み、抹香《まつこう》をクワッとつかみ取り、霊前に向かって投げつけた。  そのありさまをながめた多くの人々は、あとで、——あの、大うつけ者めが——と、陰口をききあっていた。「大うつけ」とは、もちろん、尾張弁で大馬鹿という意味である。しかし、大勢の坊主のなかで、はるばる筑紫の果てからやってきたという一人の客僧だけが、——あれこそ、乱世に国を保つお方じゃよ——と、批評したという。  しかし、若殿|不行跡《ふぎようせき》の責任を痛感した守役の平手監物丞政秀は、ほどなく割腹して果てた。死をもって信長を諫《いさ》めたらしい。これには、さすが大うつけの信長も、少し閉口したかに見えたが、かれの行状はその後もそれほど改まっていない。  しかし、父信秀の病死と守役平手政秀の諫死によって、信長も、いよいよ一人立ちせざるをえなくなった。清洲の織田本家はだいぶん衰微してきたが、まだ健在だし、尾張上半国(上四郡)を領する岩倉の織田家の勢力も、なお、あなどりがたいものがあった。織田信秀は、尾張の下半国の守護代である清洲の織田家の家老でありながら、その主家や、上半国の守護代である岩倉の織田家を圧倒して、国主大名に成り上がりつつあったため、その跡目を相続した若い信長の前途には、尾張国内を平定し統一するだけでも、なお幾多の困難が横たわっていたのであった。  ところで、蝮《まむし》の斎藤道三も、かなり年をとってきたせいか、愛《まな》むすめの婿《むこ》でもあるし、この一人だちした信長の人物を、ちょいとテストしてみたくなった。大うつけの評判が、美濃の稲葉山まで鳴りひびいていたからでもあった。そこで、濃尾《のうび》の境目《さかいめ》にほどちかい尾州中島郡富田の正徳寺で、舅《しゆうと》と婿の初対面を交わしたいと申し込んだ。信長は、すぐにこれを承諾した。ともかく、美しくて賢いことでは気に入っている濃姫の親父で、蝮の道三といわれるほど悪名の高い男を、いちどこの目で確かめたいと思ったからであろう。  道三は、愛むすめの婿ではあるものの、尾張の大うつけといわれる若者の度胆《どぎも》を抜き、これを思うさま嘲笑してやりたいとも考えていた。元来、非情で、残忍性に富んだ男だから、仕方がない。  そこで、まず、古老の斎藤家臣七、八百人をかり集め、かれらに、お揃いの折目高《おりめだか》の肩衣《かたぎぬ》を着せ、袴をはかせ、正式の服装で富田の正徳寺の本堂の廊下に粛然と並ばせ、その前を信長に通らせるように仕組んだ。相手の度胸をためすつもりだったらしい。しかも、道三自身は、町はずれの小屋にかくれて、信長の様子をうかがっていたというから、この男のやることも、たしかに変わっていた。  しかし、やがて富田に乗りこんできた婿殿のいでたちを見ると、さすがの道三も驚いた。馬上の信長は、髪を茶筅にむすび、萌黄《もえぎ》の平打《ひらうち》でそれを巻きたて、湯帷《ゆかたびら》の袖をだらりとはずし、熨斗《のし》つきの太刀と脇差の束《つか》を縄で巻き、太い苧縄《おなわ》を腕抜きとし、しかも腰のまわりには、猿使いのように、火打袋と瓢箪を七つ八つつけ、虎と豹の革を張りあわせた半袴をはいている。  信長のあとには、七、八百人の供の者が従っていた。みな鎧《よろい》を着し、三間半の長柄の朱槍を五百本ほどたずさえている。つぎには、弓組と鉄砲組がつづく。鉄砲の数は五百挺もある。一行は、威風堂々と、あたりをはらって、正徳寺に到着した。  この前後の情景は、例の太田牛一の『信長公記』に、活きいきと描写されている。そのとき、信長は十六歳、舅《しゆうと》の斎藤道三は五十六歳であった。五十六歳といえば、人生七十年と称する今日では、まだ、男の働き盛りで、かくいう筆者などは、銀座と新宿と渋谷を飲み歩き、深更におよぶまで、五次会をかさねたものだが、「人生五十年、夢幻《ゆめまぼろし》の如し」などと信長に謡わせた戦国末期には、すでに老齢期に達していたわけである。  さて、正徳寺に到着した信長は、坊舎の一間《ひとま》にはいり、屏風《びようぶ》をひきまわし、そこで髪を結い直し、衣裳《いしよう》も改め、長袴をはき、小刀をたばさんで出てきた。これをながめた道三の家来たちは、——さては、いつもの大うつけ[#「大うつけ」に傍点]は、敵を欺くためであったか——といって、肝を消す思いをしたという。  しかし、この道三の家来たちの信長観は的《まと》はずれだ。信長の大うつけ[#「大うつけ」に傍点]ぶりは、偽装でもなんでもない。正真正銘の無軌道ぶりな性格が、そのまま行動に表現されたにすぎない。正徳寺に着いてから、坊舎で服装を正したのは、舅道三と会見するための礼儀であって、いつもの信長としては、精いっぱいの心づかいであったに相違ない。その証拠には、信長の無軌道ぶりは、その後も、いっこうに改まっていないではないか。  信長は、改めた服装で正徳寺の本堂にするするとのぼり、廊下を通った。そこへ、道三の家来の春日丹後と堀田道空が近づいて、——お早い御入来で——とあいさつしても、そしらぬ顔で、斎藤家臣が居ならんだ前を、するすると通り抜け、縁側の柱にもたれていた。  じつに傍若無人。七、八百人もの古老の武士たちを、頭から無視してかかっているのだ。  正徳寺にもどって、本堂の隅の屏風の陰にかくれて、なおも信長のようすをうかがっていた道三は、たまりかね、屏風を押しのけて出てきた。それでも信長が知らぬ顔をしていると、堀田道空が近づいて、——これこそ山城殿《やましろどの》でござる——と紹介すると、——で、あるか——と、信長は初めて口をきき、本堂の敷居から内にはいり、道三に一礼して、そのまま座敷に居直った。  そこで、道空が、湯漬《ゆづけ》を運ばせ、舅と婿の両者が、たがいに盃《さかずき》を応酬し、この対面は上々の首尾で終わった。  信長は、——やがてまた、参会すべし——と言い、正徳寺を退出していった。  道三は、ちょうど帰り道にあたるので、二十町ばかり信長一行を送っていった。  そのとき、よく眺めるにつけても、道三の士卒の槍の柄《え》が短くて、信長の士卒の槍のほうが長かったので、不興げな顔つきをしていた。  すると、その途中、茜部《あかなべ》というところで、斎藤家臣の猪子兵介《いのこひようすけ》が、「何を見申し候ても、上総介《かずさのすけ》はたわけ[#「たわけ」に傍点]にて候」と言って、道三の気をひいてみたが、道三は、「されば、無念なる事に候。山城《やましろ》が子供、たわけ[#「たわけ」に傍点]が門外に馬をつなぐべき事、案の内にて候」と答えている。  ここで、「上総介」とは織田上総介信長のこと。「山城」とは斎藤山城入道道三のことである。  さすがの道三も、——残念ながら、この道三のむすこたちも、あの、たわけ者[#「たわけ者」に傍点]の家来となるに相違ない——と、慨歎したわけだ。  この正徳寺の会見以来、斎藤家臣たちも、信長のことを、「大うつけ」とも、「たわけ」とも言わなくなった。と同時に、この忌まわしい道三の予言も、やがて的中することになったのである。  このように、信長は、天文十八年(一五四九)、十六歳で、舅《しゆうと》の斎藤道三から、頼りがいのある娘婿として太鼓判を押されたのであった。  さすがの蝮も、尾張の大うつけ者には、逆に圧迫されてしまった。油売り商人を廃業し、武士に転身してから、初めてお目にかかった図太い若者だった。 [#1段階大きい文字](三)信長、尾張|下《しも》半国を平定する  尾張統一のための信長の活動は、それから三年後の天文二十一年(一五五二)、十九歳の年からはじまっている。  その年の四月に、尾張|鳴海《なるみ》の城主山口左馬助・同九郎二郎父子が背いた。山口父子は、二十年来織田信秀に臣従していたが、信秀が亡くなったため、いつしか駿河の今川義元に内通し、今川勢を尾張の下《しも》郡に導き入れた。そこで信長は、八百騎の精兵を率いてこれに猛攻を加え、鳴海の北方の赤塚で激戦を交じえている。  八月になると、尾張下半国の守護代である織田彦五郎信友の家来の小守護代の坂井大膳と河尻与一(秀隆)、織田三位などが、松葉城主の織田伊賀守を人質にとり、信長に敵対してきたので、信長は十六日の払暁に那古野を出馬し、清洲城および松葉・深田・海津の支城を攻めたてた。この辺のくわしい情況も、『信長公記』に記述されているが、省略する。  天文二十四年(一五五五)は、十月二十三日になって弘治と改元されるが、この年は、正月早々から、駿河の今川軍が三河まで侵入してくるし、また、清洲の織田勢も那古野に攻めかけてきた。二十二歳になったばかりの信長は、さすがに苦戦し、舅斎藤道三の助勢を求めている。  そこで道三は、安東伊賀守|守就《もりなり》を将として、数千の軍勢を尾張にさしむけ、那古野付近の志賀・田幡に陣取らせた。信長は、斎藤軍陣取の見舞として、那古野からでかけていって、安東守就に一礼したという。戦況は、信長にとってしだいに有利に展開していった。  清洲の守護代織田彦五郎信友は、連年にわたって那古野城主の信長と交戦したが、坂井甚介以下の重臣がことごとく戦死し、小守護代の坂井大膳一人ではどうにもならなくなってきた。そこで大膳は、信長の伯父にあたる守山城主織田孫三郎信光を味方に引き入れ、織田彦五郎と二人して、両守護代と称して、清洲城を守らせようとした。  信光はこれを承諾し、坂井大膳に起請文《きしようもん》を提出し、清洲城の南櫓《みなみやぐら》に移った。しかし、内々は、甥《おい》の信長としめしあわせ、清洲城を乗っ取る計画であった。成功した暁には、尾張下四郡の内の二郡を信長からもらう約束をしていた。そこで、大膳が南櫓まで謝礼のあいさつをしにやってきたならば、これを殺害する計略をたて、ひそかに軍勢を伏せておいた。ところが大膳は、はやくもわが身の危険を予覚し、駿河に逃亡してしまった。これが、同年(天文二十四年)の四月二十日のことである。  織田信光は、ただちに守護代の織田彦五郎を攻めてこれを切腹させ、清洲の城を乗っ取り、これを信長の手に渡し、信長と入れかわりに那古野城に移ることになった。  こんなわけで、信長は、謀略をもって清洲の織田本家(守護代)を滅ぼし、尾張下半国(下四郡)を平らげ、清洲の城主となったのである。  しかし、那古野城に移った織田信光も、十一月二十六日になって、家臣坂井孫八郎の手にかかって殺害された。『信長公記』の著者太田牛一は、「其年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来《しゆつたい》して、孫三郎殿|御遷化《ごせんげ》。誓紙をゆるがせにするの御罰、天道おそろしきかな、とこそ申し触らし候いき。併せて、上総介《かずさのすけ》(信長)政道御果報の故なり」と書き、信光が殺害された事情については明記しないで、信長の幸運を謳歌しているが、これは、筆者の太田牛一が信長の直臣であって、その恩顧に感謝する立場にあった人物だったからであろう。  が、信長の伯父織田孫三郎信光の不慮の死は、おそらく信長が、信光の家臣坂井孫八郎を買収し、信光を殺させたらしい。信長は、この伯父を信用せず、禍根を未然に断とうとしたのではなかろうか。  信長の、目的のためには手段を選ばないといった非情なやり口は、どこか、斎藤道三のそれと似かよったところがありはしまいか。まさか、舅のやり口を、さっそく真似したわけでもあるまいが……。  ところで、その翌々年、弘治三年(一五五七)というと、斎藤道三がその長男義竜に討たれた翌年のことだが、信長の弟勘十郎信行も、竜泉寺の居城にあって、尾張上半国(上四郡)の守護代織田伊勢守と内通したため、清洲城で信長に討ちとられている。  伯父でも弟でも、自分に背く恐れのある者は、容赦なくこれを討ち滅ぼした。戦国動乱の世にはありがちのことで、これは、なにも信長に限ったことではない。領国の政権を確立させるには、ドライな人物でなければ、適格者とはいえなかったのである。  そのころの信長の人生観は、ただ、力づよく生き抜くことに徹底していたらしい。  天沢という天台宗の坊主がいた。あるとき、関東地方を遍歴し、甲斐の府中に赴き、武田信玄と会見した。すると、信玄が、天沢に向かって、——織田上総介(信長)という男は、平生、なにが好きか——と問うと、——舞いと小唄が好きでござる——と答えた。——それならば、幸若大夫《こうわかだゆう》が教えにやってくるのか——と信玄がたずねた。すると、天沢は、——いや、清洲の町人に友閑《ゆうかん》と申す者がいるので、ときどき、これを招いて、舞いの稽古を致す。それが、いつも敦盛《あつもり》の曲を一番舞い、上総介みずから、死のうは一定《いちじよう》、しのび草にはなにをしよぞ。一定かたりおこすよの、というのを唄いまする——と、告げたという。  敦盛の舞いの一曲は、『倶舎論《ぐしやろん》』にある、——人間の五十年は四王天の一日一夜にあたる——という語句からでている。四王天というのは、いわゆる天部のうちで、六欲天のもっとも下層にある天だから、下天《げてん》というのである。  信長が、平生、好んで小鼓《こつづみ》をもてあそび、とくにこの一曲を愛誦したことから、かれが人生を五十年と割り切って考え、死生の境を超脱していたようすがうかがわれる。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 激烈、親子戦争 [#1段階大きい文字](一)道三と義竜の相剋  斎藤道三とその長男義竜との関係については、美濃関係の諸記録やその他の文献にさまざまな伝えが記述されていて、なにがなんだか、あたまが混乱して、わからなくなってくる。それについては、すでに前章で諸説を紹介し、最後に筆者の推理的結論を述べた次第だが、要するに、道三が稲葉良通からその姉を正妻として貰いうけ、それを、道三が土岐家臣となってからの初めての妻とし、この夫婦の間に生まれた七ヵ月の早産児が、豊太丸、すなわち義竜なのである。しかし、この稲葉氏と称する女性は、俗説にいう一色右京大夫のむすめなどという楚々たる京美人ではない。土岐家臣稲葉良通(一鉄)の姉にあたる美女である。美女といっても、楚々たる京美人ではなく、美濃の土豪のむすめだし、身長六尺ばかりの大おんなである。  義竜は、そのような女丈夫の腹に宿った男児なので、七ヵ月の早産児でも、まるまると肥えて泣き声も大きかった。しかし、この早産児であったということが、おそらく、道三のむすこではなかろうという疑いを人から持たれる原因となったのであろう。  七ヵ月の産児は捨てても育つ——という俗信仰が、いつから民間に広まったかは明らかでないが、七ヵ月の早産児にしてはあまりにも発育ぶりがいいので、道三の子供ではなく、頼芸のおみやげだという噂がたった。それが頼芸の耳にはいったためか、頼芸自身もそのように信じたらしく、道三の妻稲葉氏の男児出産祝いに、土岐家重代の左文字の名刀を贈ったというが、頼芸のほうが、道三よりもずっとおめでたい、哀れな男だったといえよう。しかし頼芸は、稲葉氏が道三の正妻となる前に、この美しい大おんなに手をつけていたかもしれないとも考えられる。  それにしても、自分のおんなが、たとえ最愛の妻であっても、愛妾であっても、彼女が産んだ子供がだれの子であるかというようなことは、赤ん坊のあいだは、父親としてなかなか判定できないものらしい。母親のほうでも、同時に二人の男と通じているばあいはもちろんだが、そうでなくても、稲葉氏が、かりに土岐頼芸のおんなであったのを、道三の妻にされて、豊太丸のような七ヵ月の早産児を産んだとしても、頼芸の子か道三の子か、稲葉氏も、思い迷うことであろう。まして父親の道三としても、疑うのが当然かもしれない。たとい道三の子供でなくても、頼芸のおみやげであるといった世間の噂が耳にはいるし、頼芸からも、いかにも自分の落とし胤であることを知りきっているかのように、生まれたばかりの豊太丸に土岐家重代の宝刀まで祝ってくれたとすれば、なみたいていの男性ならば、頭にきてカッとなるか、ノイローゼにおちいって、想い悩むところであろう。深芳野の場合ならば、美女だけになおさらのことであろう。  この場合、さすがの道三も、おそらく、豊太丸がはたして自分の実子であるか、頼芸からのおみやげであるか、判定しえなかったであろう。しかし、かれは、なみたいていの男が、カッとなるか、ノイローゼになるかするのにひきかえて、道三にとってもっともいまわしい世間のこの噂を利用して、土岐頼芸から奪い取ったばかりの美濃の国を巧みに支配しようと考えたから、たいしたものである。さすがは、蝮《まむし》の道三であり、国盗《くにと》り物語の主人公であった。  すでに述べたように、道三は、天文十七年(一五四八)、いちど尾張に追放した土岐頼芸を、ふたたび美濃に迎え入れて大桑《おおが》城主とし、かつ、愛娘《まなむすめ》帰蝶《きちよう》(濃姫)を信長に嫁がせることを条件に、尾張の強敵織田信秀と和議を結んだ。しかも、これまでの罪障消滅のためと称して、例の今泉の常在寺で髪を剃り、山城《やましろ》入道道三と号し、ひたすら謹慎の意を表した。ところが、道三のそのような弱みに乗じて、土岐頼芸をふたたび美濃の守護大名に押し立て、織田信秀の後援のもとに、斎藤道三を除こうとする動きが、土岐家臣や美濃の土豪たちの間におこってきたため、道三は、ただちに大桑城を急襲し、頼芸を永久に美濃の国外に追い払ってしまったのである。  しかし、道三は、ややもすれば自分に背こうとする土岐家の旧臣や美濃の土豪たちを自分にひきつけ、苦心惨憺の末に国主大名に成り上がった自分の地位を安全にし、美濃一国を完全に支配するためには、もうひと芝居うつ必要があると考えた。それは、土岐頼芸の落とし胤とさえ噂されている長男の義竜に家督を相続させ、自分は隠退し、法皇となって院政を行ない、義竜天皇を意のままに操ることであった。  そこで道三は、ただちに国内向けの重大放送を行なった。——わが子斎藤新九郎義竜は、じつはこの道三の実子ではない。再三、美濃の守護大名として、この道三が奉戴した土岐頼芸公の御落胤なのだ。頼芸公がふたたび退位されたうえは、その御実子の義竜どのを守護大名と定めるのが、理の当然。よって、道三は隠退する——というのである。  例の得意のイメージ・チェンジであり、土岐家臣であった美濃の国人《こくにん》たちの意表を衝いた猿芝居、ではなくて、蝮《まむし》踊りの一さしだったのである。ときに道三は五十五、義竜は二十二歳。しかし、そのとき道三が、義竜以下の子息を稲葉山に残し、自分だけが長良川をへだてて三里ばかり西北方にある鷺山城に隠居したということが、美濃関係のたいていの古記録に書いてあるが、もっとも文献的価値の高い太田牛一の『信長公記』には、「父子四人共に稲葉山に居城なり」とあるから、道三ひとりが鷺山に移ったというのは、誤伝らしい。  一説によると、道三が腹違いのむすこたち三人を稲葉山に残して、鷺山に隠居したのが失敗のもとで、そのために義竜が弟二人を謀殺するといった事件がおこったというが、『信長公記』によると、さすがに用心深い道三のこととて、そんなヘマはしていない。同じ稲葉山にいて、むすこたち三人を監視していたらしい。ただ、道三は歳老いたため、冬になると、稲葉山の山上よりもずっと温かい「山下《さんげ》の私宅」に降り、春がくるまで避寒していた。その機会をとらえて、義竜が事をおこしたのである。  さて、道三のほうは、いま述べたように、義竜が自分の実子であるかどうか、半信半疑でいるくせに、世間の評判を逆に利用し、義竜を自分が永久に美濃から追放してしまった守護大名土岐頼芸公の御落胤であると宣伝し、その義竜を押し立てて、美濃一国の人心を統一しようとはかった。  しかし、義竜としては、父道三の重大放送宣言を信用しないわけにはいかない。なぜかといえば、自分がほんとうに道三の実子であったとすれば、実父の道三が自分のことを土岐頼芸の落胤だなどと宣言するはずがない、と考えるのが当然だからだ。  そこで、義竜が思いあたるのは、自分にたいする父道三の態度であった。弟の孫四郎や喜平次にたいするのと、態度がだいぶん違うように感ぜられる。道三は、とくに喜平次をかわいがっているようだ。喜平次を見る道三の目の色が違っている。末っ子ほどかわいいというのが親ごころだとは、義竜も耳に聞きながらも、少年のころからあまり心地よくはなかった。次弟の孫四郎のことも、少なくとも義竜よりは愛しているらしい。それにくらべて、義竜にたいする道三の態度は、いかにもよそよそしく、視線の合うのを避けるようにさえしている。  そう考えるにつれて、義竜は、自分の実父は斎藤道三ではない、と信ずるようになってきた。そこへもってきて、道三が重大宣言をしてからというものは、そのほとんどが土岐家の旧臣である斎藤家臣たちの、義竜を見る目つきが違ってきた。態度もじつにうやうやしく、臣下の礼をとりはじめた。  こうなると、斎藤義竜も、自分が実父土岐頼芸の跡をとって美濃の守護大名になったことを確認し、おおいに自信を高めると同時に、実父の頼芸を二度までも国外に追放した斎藤道三のことを憎悪するようになってきた。そうして、その憎悪の念は、やがて復讐の鬼と化する危険性をはらんでいた。  いっぽう、道三としては、長男の義竜を自分と正室稲葉氏とのなかにもうけた実子と仮定し、後妻|小見《おみ》の方《かた》明智氏との間に生まれた次男の孫四郎、愛妾深芳野一色氏とのなかにもうけた三男の喜平次と比較してみると、義竜は、体躯は巨大だが、総領の甚六と言おうか、大男|総身《そうみ》に智恵が回りかねるといおうか、どうも、ぬうぼう[#「ぬうぼう」に傍点]としていて、頼りない。  それにひきかえ、弟二人のほうは利巧者《りこうもの》にみえた。とくに三男の喜平次をかわいく、かつ、頼もしく思い、溺愛し、これに母方の実家一色氏を名のらせ、右兵衛大輔に任官させた。そのため、他の弟たちも、兄の新九郎義竜を軽蔑するようすがみえた。それで、義竜も外聞が悪いので、無念に思ったと、『信長公記』は説明している。ついでだから、その本文を引用してみよう。 「さるほどに、一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次とて、兄弟三人これあり。そうべち(総別)、人の総領たるものは、かならずしも、心がゆうゆう(悠々)として、穏当《おんとう》なる物に候。道三は、智慧《ちえ》のかがみもくもり、新九郎はずれものとばかり心得、おとうと(弟)二人を、こざかしく利巧ものかなと、そうぎょう(想形)して、三男喜平次を一色《いつしき》右兵衛大輔になし、いながら官をすすめ、これによって、おとと(弟)も、かつ(勝)にのって、おごり、新九郎を、ないがしろに、もてあつかい候。よその聞こえ、無念にぞんじ……」とある。  なかなか簡明で素朴な文章だ。これでみると、今日でも世間によくあるように、父親が兄をうとんじ弟を溺愛する、いわゆる子供にたいする親のえこひいきが原因で、道三と義竜の仲がわるくなっていったらしい。道三が義竜のことを土岐頼芸のおみやげ子と確認して、これを憎みだしたわけでもないらしい。  しかし、ただそれだけならば、つめたい親子喧嘩くらいですむはずだ。それを親子戦争にまでもっていったのは、なんといっても、道三が美濃の人心を統一するための手段として、なんの証拠とてない義竜のことを、土岐頼芸の落胤であると宣言したことにあったとみてよかろうと思うのである。  ところで、一等文献史料としての古文書のほうを調べてみると、斎藤道三の文書は、美濃の大桑の『浄安寺文書』所収の、天文二十三年(一五五四)二月二十二日づけの井之口道場宛の道三寄進状写しをもって終見とするが、長男義竜の文書は、その|翌年(底本ママ)にあたる、やはり『浄安寺文書』所収の、天文二十三年三月十日づけの井口|寄合所《よりあいじよ》道場宛の斎藤新九郎利尚の、つぎの制禁状をもって初見とする。 [#ここから2字下げ] 当道場において宿を借りること、当所は寄合所たるによって、相除かるるの旨、その意を得候、異儀有るべからざるの状、件《くだん》の如し。   天文廿参     三月十日 [#地付き]新九郎      [#地付き] 利尚(花押)       井口寄合所         道場 [#ここで字下げ終わり]  これは、稲葉山城下にあった井口寄合所の道場にたいして、他所の者がこれを宿所とすることを制禁したものであるが、義竜のことを「新九郎利尚」と自署しているのは、注目に値する。「新九郎」は、もちろん義竜の通称だが、「利尚」というのは、義竜の初名である。「義竜」という署名は、弘治二年(一五五六)日づけから、古文書の上にあらわれる。それらの古文書は、後に紹介する。  義竜が初めに「新九郎利尚」と名のったのは、道三の「新九郎利政」によったものと思われる。古文書の初見としては、天文二十三年(一五五四)だが、当時、利尚は二十八歳であり、当然この初名はそれ以前と推測される。おそらく、元服して幼名の豊太丸を改め、新九郎利尚と名のったのではなかろうか。もしも、そうと仮定すれば、これは、もちろん道三の命名によるものと考えられる。  なお、美濃の安八郡の『瑞雲寺文書』所収の新九郎利尚の書状があるから、左に掲載しよう。 [#ここから2字下げ] 当寺の事、此方へ出入りの儀に候。自然、誰々違乱候とも、異儀あるべからず候。寺領已下、前々の如く寺納たるべく候。恐々謹言。   十二月廿六日 [#地付き]新九郎      [#地付き] 利尚(花押)     平野八条      瑞雲寺        納所 [#ここで字下げ終わり]  これは、平野八条の瑞雲寺|納所《なつしよ》にあてて、寺領を前々のように安堵させたもので、天文二十三年(一五五四)の安堵状と推定できる。 [#1段階大きい文字](二)義竜、二人の弟を謀殺  さて、道三の長男新九郎義竜(利尚)が、父斎藤山城入道道三の息子たちにたいするえこひいきを不満とし、かなりの自信をもって反逆に踏み切ったのは、『信長公記』によれば、天文二十四年(一五五五)の十月十三日のことらしい。天文は、同年十月二十三日に弘治と改元される。  父親の道三が、「心が悠々として、穏当なるもの」だから、「はずれものとばかり心得」ていた身長六尺四、五寸、膝の厚さ一尺二寸有余の巨漢は、少なくとも穏当な人物ではなかった。  義竜は、その十月十三日から、仮病をよそおい、稲葉山城の奥の間にひきこもり、床に臥した。  翌月(十一月)の二十二日になると、道三は、例年どおり、寒を避けて稲葉山下の私宅に降りていった。そこで、義竜は、叔父にあたる長井|隼人佑《はやとのすけ》と密談を交わした結果、二人の弟をよびよせて、だまし討ちにすることにきめたのである。  まず、——この兄も、病《やまい》がいよいよ重くなり、死を待つばかりにあいなったゆえ、二人の弟に対面し、一言、申し遺したいことがある。おでかけありたい——と、代筆で申し送った。  長井隼人も、計略をめぐらしたすえに、わざわざ稲葉山城内の二人の弟の第宅に赴き、——御兄弟たちが、行くすえのことを相談されるのは、この折りしかないから、新九郎どのの病気お見舞いをなされるのがよろしかろう——と説得したため、孫四郎と喜平次も納得し、二人そろって兄新九郎義竜の私宅に参上したのである。  案内役の長井隼人が、まず、刀を腰からはずして次の間に置いたので、これを見た孫四郎と喜平次も、同じように次の間に刀を置いた。それから、奥の座敷にはいると、ことさらに盃をすすめ、食膳をだした。そのとき、日根野備中守(弘就《ひろなり》)が、物斬りの太刀《ふとがたな》として有名な作《さく》出坊兼常《でぼうかねつね》の銘刀《めいとう》を抜き放ち、上座にいた孫四郎を斬り伏せ、ついで一色右兵衛大輔と称している喜平次をも斬り殺した。義竜は、このようにして、年来の鬱憤を晴らしたのである。  そうして、このことを稲葉山下の私宅に避寒している道三のもとに通告したのであった。  一部始終を聞き知った道三は、さすがにびっくり仰天し、さっそく螺貝《ほらがい》を吹かせて軍勢を寄せ集め、稲葉山の城下町を、四方から放火して焼き払わせ、稲葉山城を裸城《はだかじろ》にし、道三自身は、長良川を越えて、北方の山県《やまがた》という山中に退去したのであった。 [#1段階大きい文字](三)骨肉あい討つ戦い  蝮の道三としては、たしかに一世一代の不覚といえた。それは、道三が折りをみて新九郎義竜(利尚)を暗殺し、その跡目《あとめ》を最愛の三男喜平次改め一色右兵衛大輔に譲り、これを美濃の国主大名にまつりあげようと、内々謀略をめぐらせていたからであった。新九郎義竜に、その陰謀の先を越されたのである。 「悠々として穏当なるもの」と新九郎を信じこんでいたのが、見そこないであり、油断でもあった。  これが、蝮とはずれ者[#「はずれ者」に傍点]の巨漢との、親子戦争のはじまりだが、このばあい、例の道三の重大放送宣言が、かえって裏目《うらめ》にでた。 「国中に知行《ちぎよう》所持のめんめん等《など》、みな、新九郎義竜かたへ、はせあつまり、山城道三《やましろどうさん》人数しだいしだいに、手うすになるなり」と、『信長公記』には記述されている。  親子戦争がはじまったとなると、道三の重大放送を聞いて、斎藤新九郎義竜のことを、本来の守護大名であり旧主君でもあった土岐頼芸公の実子と知った美濃衆は、みな、新天皇に信頼感を寄せ、院政を行なっている道三法皇のことなど、油売りの行商人からの成り上がり者と軽蔑していたから、その大半が義竜天皇方に参集し、油売りの道三法皇のほうは、しだいに手薄となったのである。『美濃国諸旧記』によると、義竜方に集まるもの一万七千五百余人、道三方に味方するものわずか二千七百余、とある。  ところで、美濃の『美江寺文書』をみると、同年(弘治元年)十二月日づけで、斎藤義竜(利尚)は、つぎのような禁制を美江寺にあたえている。 [#ここから2字下げ] (包紙上書《つつみがみうわがき》)   「義竜公」    禁制       美江寺 [#ここから2字下げ] 一、甲乙人《たれかれ》等宿を執ること。附《つけたり》、軍勢陣を執ること。 一、寺領・祠堂物《しどうもの》等の煩《わずらい》、并《ならびに》、先例の寺法を破ること。 一、寺領・坊領売買の地、諸寄進、并《ならびに》新堂地・坊地の年貢、山林寄進の上は、違乱に及ぶ  こと。 一、諸役免許の処、事を左右に寄せ、寺家衆の仁、謂われなき子細申し懸くること。 一、国中徳政法式の儀に付いて、当寺中、惣並《そうなみ》に混ずべきの旨、申す族《やから》のこと。 [#ここから2字下げ] 右の条々、違犯の輩《ともがら》においては、速《すみやか》に罪科に処すべきの状、件《くだん》の如し。   弘治元年十二月 日 [#地付き]范可《はんか》(花押)  [#ここで字下げ終わり]  この斎藤義竜(利尚)のあたえた禁制の内容は、前に紹介した斎藤道三や土岐頼芸などの禁制のそれと大差ないが、要するに、美江寺に軍隊が宿泊したり、陣をとったりすること。寺領や祠堂物に不安をあたえたり、先例の寺法を破ること。寺領・坊領を売買した土地、諸種の寄進、新堂地や坊地の年貢、寄進された山林などを掠《かす》め取ったりすること。諸種の理由をつけて寺家衆に諸役を課すること。徳政が国中に行なわれたばあいに当寺も惣並《そうな》みに扱いたいと申し出ること。以上の事項を禁止し、これに違犯する者はただちに罪科に処する——というのである。ただし、義竜(利尚)が「范可《はんか》」と自署しているのは、注目に値する。  この「范可」については、『信長公記』の首巻に、「合戦に討勝《うちかち》て頸《くび》実検の所へ、道三が頸|持来《もちきた》る。この時、身より出だせる罪なりと、得道《とくどう》をこそしたりけり。是より後、新九郎はんか[#「はんか」に傍点]と名乗る。|古《〈故〉》事あり。昔、唐《もろこし》にはんか[#「はんか」に傍点]と云う者、親の頸《くび》を切る。夫《それ》は父の頸を切て孝と為《なる》なり。今の新九郎義竜は、不孝、重罪、恥辱となるなり」とある。  この「范可」という人物にかんする故事の出典については、諸橋轍次著『大漢和辞典』を調べても明らかでないが、要するに、中国のむかしにそういう名前の人物がいて、父親の首を斬ったが、結果的にはそれが親孝行となったというのである。それにひきかえ、この新九郎義竜は、父親の首を斬ったことが、不孝で、しかも重罪で、身の恥辱とさえなった、とある。この『信長公記』の説明では、新九郎義竜が范可と名のったのは、父道三の首を斬らせた弘治二年(一五五六)の四月二十日、道三の戦死直後のことであるという。  しかし、この「范可」という署名のある禁制は、その半年前の弘治元年(一五五五)十二月のものだから、『信長公記』の説明は、年代的に少し間違っているといわねばならぬ。  つまり、新九郎義竜は、父道三と決戦を交じえる覚悟をきめると同時に、中国の故事になぞらえ、「范可」と号したことがわかる。養父にあたる斎藤道三の首を斬ることが、実父土岐頼芸の仇を討つことになり、実父にたいして孝行だ、と理解した結果であったと思われる。  道三と義竜との骨肉あい打つ親子戦争の情況についてもっともくわしく記述したものは、美濃関係の古記録よりは、むしろ、太田牛一の『信長公記』と『大かうさまぐんきのうち』の両書である。この両書の記述は、著者が同一人だから、ほとんど同文に近い。  しかし、よく調べると、『大かうさまぐんきのうち』のほうが少々くわしいから、それによると、道三は、明くる年、つまり弘治二年(一五五六)の四月十八日、稲葉山の三里西北にある鶴山《つるやま》という高山《こうざん》に登り、四方を見くだして、陣を据えたという。  この鶴山というのは、五万分の一の地図で探しても、現地に行ってたずねて歩いても、わかるわけがない。これは、稲葉山から西北へ三里とあるからには、長良川の対岸の同地点に存する鷺山《さぎやま》に相違ない。『大かうさまぐんきのうち』の著者太田牛一は、『信長公記』を書いたときも、みな、「鷺山」を「鶴山」と書き間違えたのである。太田牛一ともあろうものが、そんな誤りをするはずがない——などと弁護する人があるならば、筆者は、『信長公記』などよりもっと史料的価値の高い古文書や古日記にも、まれには、書き落とし、書き誤りがあるということを、お知らせしたいのである。  鷺山は、もと土岐頼芸の居城だったところである。長良川の西北対岸一里余の地点にある小丘だが、『信長公記』には、「稲葉山の三里いぬいに、鶴山とて、こう山これあり」と説明している。「いぬい」は西北だから間違いないが、小丘を「高山」と称したのは、そのむかしの鷺山と今日の鷺山との外観上の相違だし、一里余を「三里」と書いたのも、現代人の測量と太田牛一の目測の違いであろう。鷺山を「鶴山」と書き間違えるくらいだから、このくらいの差違は仕方あるまい。 『大かうさまぐんきのうち』の著者は、おそらく、現地へ足を入れたことがなかったのではあるまいか。それに、太田牛一がこの覚書をまとめたのは八十四歳のときで、「渋眼《じゆうがん》をぬぐいぬぐい、灯下のもとにしたたむ」といった奥書がついているから、このことも、考慮に入れる必要があるだろう。ともかく、蝮の道三が、実の長男斎藤義竜(范可)を相手の、骨肉あいはむ死闘の最後の拠点としたこの鷺山には、今日、わずかに城址のしるしとして、その頂上に小さな祠《ほこら》が建っているだけである。  この凄まじい親子戦争のしらせを道三からうけた織田信長は、道三の婿として、傍観するわけにはいかないので、ただちに道三への応援のため、木曽川と飛騨川の大河を越え、茜部口《あかなべぐち》にさしかかり、大良《おおら》の戸島《とじま》東蔵坊の構えにいたり、陣を据えた。  ところが、そのとき、世にも不思議な現象がおこった。それは、東蔵坊の屋敷の内堀や垣根のあたりまでも、銭亀《ぜにがめ》をたくさん掘り出し、ここもかしこも、銭を布《し》いたようであったという。銭亀というのは、水亀《みずがめ》(海亀に対して、川や堀に棲む亀)の子亀のことである。水亀は卵を水辺の砂中に産む。その卵の孵化した銭亀が、あちらこちらから掘り出したようにでてきて、まるで銭を布いたようだというのである。  しかし、『太田牛一雑記』と題する江戸中期の書写にかかる記録をみると、「屋敷堀、クネマデ、銭瓶《ゼニガメ》余多《アマタ》ホリ出シ、銭ヲツナガセ御覧ニ候」となっている。これは、おそらく、太田牛一の原本を書写した人が、原文を勝手に作りかえたらしい。——屋敷の堀や垣根まで、銭瓶(銭のはいった瓶)をたくさん掘り出したので、そのなかからでてきた銭をつながせて、信長公が御覧なされた——というのである。これは、「銭亀」を掘り出したというのでは意味がわからなかったため、強引に「銭瓶」を掘り出したと説明したのであろう。  しかし、この説明の誤りであることは、「銭瓶」を掘り出したということが、それだけで、めでたいことになるからだ。ところが、それが、「銭亀」、つまり水亀の子亀ということになると、それらが多数に砂中から外にはいでてくる季節だからいいようなものの、「ここに希代《きたい》(稀代)の事あり」と、『大かうさまぐんきのうち』で評しているのは、おそらく反対に凶事のきざしだからであろう。ただし、『信長公記』には、「ここに希代の事あり」の語句を欠いている。省略したものとみられる。  ともかく、そうした凶事のきざしが婿の信長のほうにあらわれたころ、新九郎義竜のほうでは、稲葉山の居城から西北方にあたる道三が居陣する鷺山(鶴山)の方向に向かって、軍勢を出動させた。そこで道三も、鷺山からでて、長良川の北岸まで馳せつけ、在所《ざいしよ》々々に放火した。  ところが、義竜方からは、竹腰道塵《たけごしどうじん》が六百ほどの人数を指揮し、まんまるに固まって川を越え、道三の旗本へ斬ってかかった。これに対して道三も、応戦し、難なく竹腰勢を切り崩し、大将の道塵を討ち取ったので、牀机《しようぎ》に腰をかけ、背負った母衣《ほろ》をゆすって、満足げなようすをしていた。  すると、二番隊として、新九郎義竜が大軍を率いて、どっと長良川を越え、道三と戦いを交じえた。親と子の決戦である。ところが、このドタン場にきて、さすがの蝮親父《まむしおやじ》の道三も弱音《よわね》を吐きはじめた。『大かうさまぐんきのうち』には、「さるほどに、哀れなる事あり。ただいまの鎗《やり》まえに、道三、かたきの新九郎を、ほめられ候。ぜい(勢)のつかい(使)よう、武者《むしや》くばり、人数のたてよう、残るところなきはたらきなり。さすが、道三の子にて候。美濃の国|治《おさ》むべきものなり。とかく、われら、あやまりたるよ、と申され候。これを聞くもの、よろい(鎧)の袖をぬらさずというものなし」と、記している。ただし、この道三弱音の文句は、どういうわけか、同じ著者太田牛一でも、『信長公記』には、省略されている。  道三は、敵の大将わが子斎藤新九郎義竜の戦法をほめたのである。——軍勢の使い方といい、武者の配置といい、人数の立てようといい、どれも、申しぶんのない働きだ。さすがは、この道三のむすこである。美濃の国を統治すべき人物だ。ともかく、この親父の仕打ちは間違っていた——と、悔悟の言葉を述べた。そこで、それを聞いている人たちは、鎧の袖をぬらさない者とてなかったという。これが、「さるほどに、哀れなる事あり」と評されているのである。もちろん、その親子の悲劇を聞き伝えた著者太田牛一の批評であろう。いや、一種の史観といってもよい。  ただ、この道三の独白文句に徴しても、長男の新九郎義竜が道三の実子だった事実が判明する。「さすが、道三の子にて候」と断言しているからだ。したがって、『美濃国諸旧記』などに書かれた京美人の深芳野に孕ませた土岐頼芸の落とし胤だなどという俗説が、いかにデタラメなものであるかがわかるのである。いまわのきわになって、義竜の武者使いと武将としての器量を絶賛し、これまでの自分のえこひいきな仕打ちを悔悟したところは、道三もさすがに人の子だと言いたい。しかし、義竜の実力を実際にテストして初めて、やはり、自分の実子と悟ったところは、実力主義者としての道三の面目を躍如たらしめている。  いっぽう、むすこ新九郎義竜のほうは、どんな気持ちでいたか。これについては、『大かうさまぐんきのうち』にも、『信長公記』にも、なんらの記事もみあたらないが、『翁草《おきなぐさ》』には、つぎのような記述がある。  義竜は、侍臣に向かって、——父の道三にこの自分を殺害する心さえなければ、自分は、どうして、父にたいして挑戦する気があろうか。あるわけもない。ただ、和順を希《ねが》うのみ——と述べたが、道三の鬱憤は解けず、ついに義竜を討つことにきめた。そこで義竜も、やむをえず城外にでて兵を備え、道三の挑戦を受けて立つことになった、というわけである。  義竜としては、ただ、父道三のえこひいきを憎み、このままでは廃嫡され、喜平次にとって代えられると思いこみ、孫四郎と喜平次を謀殺したわけであって、初めから父と戦うつもりはなかった。しかし、道三としては、最愛の喜平次はもちろん、孫四郎まで殺害した長男義竜の仕打ちを怒り、これと一戦を交じえる覚悟をきめて、長良川の北岸まで討ってでた。それで義竜も、これを受けて立ったとはいうものの、実際には、義竜の先陣を承った竹腰道塵が、長良川を越えて道三と戦い、これが負けると、義竜も大軍を率いて渡河しているから、この義竜の弁解は成り立たない。自分のほうが攻勢にでているからだ。  なお、親子決戦の状況については、『翁草』は、『大かうさまぐんきのうち』よりも、少々具体的に記述している。  道三は、二千余の兵をもって、義竜の一陣、二陣を切り崩したが、義竜の中備《なかぞなえ》・後備《うしろぞなえ》・左右の旗本が、みな少しも列を乱さず、旗旌《きせい》をととのえて静かに進むのを眺めて、——義竜は、まだ軍旅に熟練していないので、先手《さきて》が敗北すれば、足並みが乱れるだろうと思っていたが、義竜の軍立《いくさだて》は、老巧の者も及びがたい。結局、この道三は、ここで討死することになるだろう。しかしながら、この義竜の軍立を見れば、自分の死後にも、隣国から義竜を侵す者とてなく、美濃の国はすえながく斎藤家のものとなるであろう。死しても本懐《ほんかい》である。このような将器《しようき》のある義竜を、不器であるとして、庶子(喜平次は愛妾深芳野の子)を家督にたてようとしたのは、自分の不明の致すところであった——と、歎息しているところへ、義竜が、攻撃に出て、初めに敗走した一陣、二陣もまた盛り返してきたため、道三の軍勢はたちまち潰乱した、というのである。  これでみると、道三は、子供たちにえこひいきをし、義竜を冷遇したことだけでなく、その人物を見あやまったことを後悔し、歎息しているのだ。義竜と戦ってみて、初めてその武将としての実力に感心し、自分が義竜のために敗死したとて、美濃の国も斎藤の家も、義竜がいるから安心だ、と悟っている。じつに合理的な悟りというべきであろう。  斎藤義竜の画像は、その子の竜興の寄進にかかるもので、やはり、美濃の常在寺に伝わっているが、肥満体で、下《しも》ぶくれの魁偉な容貌をしており、父の道三とはあまり似ていない。しかし、この魁偉な容貌からしても、母親が楚々たる京美人とは思えない。むしろ、六尺余の堂々たる美女・稲葉良通(一鉄)の姉の風貌に近くはあるまいか。京都市花園妙心寺町の智勝院に稲葉一鉄の画像があるが、堂々として、たくましい風貌は、義竜の容貌になにか通ずるものがあるように思う。義竜と一鉄とは甥と叔父(母の弟)との間柄だから、これは当然な現象というべきである。ついでながら、男の子供は、父親よりも、むしろ母親や母親の兄弟に似るものであることも、考慮に入れてほしい。  再三いうが、義竜は、道三とその妻稲葉氏とのなかに生まれた実子であるが、七ヵ月の早産児であり、しかも母親似で、まるまると肥え、そのうえその母親が早死したばかりに、さまざまな、ありもしない噂を流され、その噂を父の道三が政略的に利用し、義竜がそれを信じたばかりに、骨肉あい打つ死闘の悲劇を実演することとなったのである。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]三 道三の最期 [#1段階大きい文字](一)道三の敗死  さて、道三と義竜(范可《はんか》)との親子戦争も、いよいよ、終末に近づいた。  義竜の備えのなかから、武者が一騎、進み出た。長屋甚右衛門という者であった。これを見て、道三の軍勢のなかから、柴田|角内《かくない》という者が走り出て、両軍の備えのまんなかで、一騎打ちの、たたき合いを演じ、その結果、柴田が長屋を押し伏せ、首をかき切り、晴れがましい功名をあげた。  そのうちに、両軍が、双方からどっとかかりあい、槍を打ち合わせ、黒煙りをたてて、しのぎをけずり、鍔《つば》を割り、火花を散らしあって戦い、ここかしこで、思い思いの働きをし、手柄をたてた。  そのうちに、義竜方の長井忠左衛門という者が、道三に向かってきて、道三の打とうとする太刀《たち》を押し上げ、むずと抱きつき、生捕《いけど》りにしようとする。そこへ、また、義竜方の小牧源太という者が走ってきて、道三のすね[#「すね」に傍点]を薙《な》ぎ斬って押し伏せ、首を取った。そこで、道三を生捕りにしようとした長井忠左衛門は、後の証拠のためにといって、道三の鼻をそいで、その場を退去した。ときに、道三は六十三歳であったという。この辺の詳細の描写は、『大かうさまぐんきのうち』も、『信長公記』も、同様である。  ところが、『翁草』では、さらに、尾にヒレをつけた説明を試みている。  それ以前、両軍がまだ交戦に及ばないときに、義竜が部下の士卒に向かい、——おまえたちは、今日、父の道三に見参したならば、どうするか——と問うた。諸士が即答に窮していると、永井忠右衛門という剛《ごう》の者で、異名を杉先《すぎさき》といわれる士が進み出て、——道三公に敵対つかまつることは、臣下として忍びがたい。恐れながら、それと見奉ったならば、生捕りにいたしましょう。不肖《ふしよう》なれども、この拙者めが、御父子の御和睦をとり結びまする。道三公がご隠居あり、義竜公が跡を継がせ給わば、禍いが転じて福となりましょうぞ——と答えると、義竜は、欣然として喜んでいた。  ところが、いよいよ軍《いくさ》がはじまって、道三が本陣に控えていたところへ、杉先が、会釈《えしやく》もなくつっと近寄って、——われらめは、さらに害心はござりませぬ。いざ、義竜のご陣所に伴い奉り、御和睦をこそなされたし——と言上したが、道三は、終わりまで言わせず、いきなり鎌槍《かまやり》を突っかけてきた。しかし、杉先は、その下をかいくぐり、すでに生捕ったところを、小牧源太という者が、うしろから走ってきて道三の両肢を斬り落とし、杉先を押しのけて、道三の首を取った。  そこで、杉先も、仕方がなくて、道三の鼻を切り取って持ち帰ったが、義竜の前にでて、首をうなだれていた。やがてそこへ、小牧源太がやってきて、道三の首を義竜に献上した。そこで義竜も驚いて、——これは、どうしたことか——と問う。すると、杉先が涙を流し、一部始終を述べ、——せめての印《しるし》のために、御鼻を切りて参る——といって、義竜の前に置き、——これとても、その罪はのがれがたくござるが、武士は、言葉を違えるのを恥《はじ》とするによって、その証拠に献上いたしてござる——といった。そして、やがて、杉先は、髪を剃《そ》って、高野山に登り、亡君道三の菩提をとむらった、というのである。  以上は、『翁草』の著者の伝えるところだが、いっぽう、『大かうさまぐんきのうち』のほうは、もっと簡潔な記述ぶりである。  新九郎義竜が、道三との合戦にうち勝って、敵の将士の首実検をしているところへ、小牧源太が、道三の首をもってきた。すると、義竜は、「身より出だせる科《とが》なり」といって、得道《とくどう》をし、それから後は、范可《はんか》と名のったという、と情況の説明をし、そのあとに、著者太田牛一の、道三・義竜父子の行動にたいする批判の言葉を述べている。それを、紹介すると、「むかし、唐土《もろこし》に、はんか(范可)というもの、親の首を斬る。それは、父の首を斬って、孝となるなり。今の新九郎義竜は、親の首を斬って恥辱、不孝となるなり。道三は、名人のように申し候えども、慈悲心なく、五常をそむき、不道《ふどう》さかんなるゆえ、諸天の冥加《みようが》にそむき、子に故郷をおいだされ、子に鼻をそがれ、子に首をきられ、前代未聞のことどもなり。天道おそろしき事」というのである。  ここで注意すべきは、義竜が父道三の首をみて、——自分の身からだした科《とが》である。その結果、父親の首を斬らせたのを実検することになった——といって、悟りをひらいて、それから後は中国の故事の父の首を斬ったという范可に自分をなぞらえて、范可と名のって、せめてもの罪滅ぼしをした、というのであるが、前章にも紹介したとおり、義竜(利尚)が「范可」と自署した禁制が、すでに、この前年(弘治元年)の十二月に美濃の美江寺にあたえられている。  だから、義竜は、道三の首実検をしてから、自分の行ないを悔やみ、罪障消滅のために「范可」と名のったという太田牛一の説明は誤りであって、義竜は、すでに、道三と親子戦争を行なう決意をしたときに、「范可」と名のったことが実証されるのである。そうすると、そのときの義竜の心境が果たしてどうであったかが、問題となる。やはり、牛一の説くように、罪滅ぼしの気持ちで范可と自称したのであろうか。どっちみち、父親と戦わねばならないはめになったので、——どうせ、おれは范可なのだ——と、居直ったようにも感じ取れる。  しかし、義竜が范可と名のったことについて、太田牛一は、——たとえ、義竜が自分のことを唐土《もろこし》の范可になぞらえたとて、范可と義竜とでは、まるっきり相違する。范可は、父を斬ったことが、結果として、かえって親孝行となったといわれるけれども、義竜のばあいは、父道三を斬らせたことが、身の恥辱となり、親不孝となったにすぎないのだ——と、比較評論した結果、義竜の行為を范可にたとえた思い上がりを、非難している。  しかも、牛一は、義竜の行為を咎めるばかりでなく、道三の日ごろの所行をも非難し、——慈悲心がなく、人間の履《ふ》むべき五常の道に背き、不道《ふどう》の行ないがはなはだしかったため、諸天の冥加《みようが》も得られず、自分の子供に故郷の稲葉山を追われ、子供のために鼻をそがれ、首を斬られたのは、前代未聞のことである——と、父子の両方を批判し、「天道おそろしき事」という文句で全文を結んでいる。太田牛一の歴史観は、儒教的な道徳史観ではないが、天道史観と因果応報史観をもってつらぬかれている。  なお、一説によると、新九郎義竜は、道三に劣らぬ非情な人物であって、父道三の首級の実検をすますと、その首を足蹴《あしげ》にし、それを稲葉山の井ノ口にさらしたというが、実際は、道三を討ち取り、その首を斬った小牧源太が、義竜の許可を得て、その首を付近の竹林のなかに手あつく埋葬した。それが、現在、鷺山城址にほど近い岐阜刑務所付近にある道三の首塚であるという。  義竜という男は、父親と戦い、これを打ち殺したため、人非人のようにいわれているが、はたして、道三に輪をかけた冷酷無慙な人物であったのであろうか。その結果は、後章に譲ることにし、つぎに、道三が末子の勘九郎にあたえたという遺言を原文通りに紹介してみたいと思うのである。 [#1段階大きい文字](二)末子にあたえた道三の遺書 [#ここから2字下げ] 態申《わざと》送候|意趣《いしゆ》者、於二美濃之国大桑一、終《つい》には織田上総介可レ任二存分一之条、譲状、対二信長一渡遣、為二其節一下口出勢眼前也。其方事、如二|堅約《けんやく》之一、京之妙覚寺へ被《のぼ》レ登尤《られもつとも》候。一子《いつし》出家九族生レ天といへり。如レ此《かくの》調候一筆|泪計《なみだばかり》にて候。それも夢、斎藤山城、至二于|法花妙躰《ほつけみようてい》之内一、生老《しようろう》病死之苦を去、修羅場《しゆらば》にをゐて得二仏果一、嬉哉《うれしきかな》。既《すでに》明日及二一戦一、五躰不具《ごたいふぐ》之成仏不レ可レ有レ疑候。げにや捨てだに此世のほかはなき物を、いづくかつゐのすみかなりけん  弘治二年四月十九日 [#地付き]斎藤山城入道   [#地付き]    道三       児《ちご》 まいる [#ここで字下げ終わり]  これは、弘治二年(一五五六)の四月十九日、というと、道三討死の前日、末子の勘九郎という十一歳の少年にあててしたためた遺言状であり、花押がないが、道三の自筆にかかり、現在、京都妙覚寺の所蔵品となっている。全文を口訳すると、つぎのとおりである。 [#ここから2字下げ] わざと、この遺言状を書き送るわけは、美濃の国の大桑《おおが》において、ついには織田上総介(信長)の思いのままにまかせるほかはないので、譲り状を信長に渡しつかわしたしだいである。その節は、下口《しもぐち》に織田軍が出勢してくることは間違いない。さて、そなたは、かねての約束どおり、京都の妙覚寺へのぼるがよい。一子《いつし》が出家すれば、九族が天に生まれかわるとさえいわれている。だから、このように、涙ながらに一筆したためたわけである。しかし、これも、夢のようにはかない。かならずや、この斎藤山城入道道三は、法華妙躰の中にあって、生老病死の苦しみを去り、修羅場(戦場)においても、仏陀の果報を得るであろうことを、嬉しく思っている。もはや、明日は一戦に及び、たとえ五体が不具になっても、成仏《じようぶつ》することは疑いない。まことに、いのちを捨ててさえ、この世のほかに生きる世とてないのに、いったい、どこが終わりの住家なのだろうか。それとて、さっぱりわからないでいる。  弘治二年四月十九日 [#地付き]斎藤山城入道   [#地付き]    道三         児《ちご》 まいる [#ここで字下げ終わり]  いよいよ明日出陣というときに、最愛の末子勘九郎にあたえて、書き遺したものである。この勘九郎は、道三の四男であって、三男の喜平次の弟にあたる者で、ともに、道三が土岐頼芸から奪った京美人深芳野の腹に生まれた子供たちであって、勘九郎は、当時、十一歳であったといわれる。だから、宛名に「児《ちご》」と書いたのであろう。  この道三の遺言状によれば、これまでかれが支配してきた美濃一国を、愛娘《まなむすめ》帰蝶(濃姫)の婿である織田上総介信長に一任することにきめ、譲り状まで送りつかわしたとあるから、道三のその譲り状というのは、信長のもとに届いたに相違ない。したがって、この譲り状の主旨にもとづいて、信長は、道三の死後、舅の道三に譲られた美濃の国の支配権を獲得するために、それを名分として美濃攻略に着手し、義竜と戦い、義竜の死後はその遺嗣竜興を攻め、ついに稲葉山を占領し、道三の築いた井ノ口城を改築して岐阜城と改め、ここに移り、上洛の拠点としたわけである。その譲り状は現存しないが、内容がどのようなものであったかは、ほぼ推測できるのである。  ——そなたは、かねての約束どおり、京都の妙覚寺にのぼり出家せよ。一子が出家すれば、九族が天に生まれかわる、とさえいわれている。だから、このように、一筆したためたのだ——とあるのは、いかにも道三らしい理論で、一応、筋が通っている。つまり、末子の勘九郎に、かねてから、上洛して妙覚寺にはいって僧侶となるように、言い含めておいたものとみえる。一子が出家すれば、九族が天に生まれかわる——というのは、そのころ、つまり、戦国乱世の武将たちの信念であったと思われる。大勢の子供のなかで、一人だけでも出家となれば、その果報によって、戦いの犠牲にして多くの人々のいのちを奪った武将の一族が、罪障消滅の結果、地獄へは落ちずに、天上で生まれかわってくる、というのである。  この時代の大名や武将たちの家系図をみると、多くの子供のうち、どれか一人、あるいは二人が僧侶となっている。たとえば、甲斐《かい》の武田信玄など、七男七女の子福者であるが、七男のうち、次男の竜芳は、幼時から盲目のせいもあって、甲斐の古府中に住み、半僧半俗の生活をしていたため、聖道様《しようどうさま》とよばれていたし、七男(末子)の信清は、永禄六年(一五六三)に生まれ、幼名を大勝といったが、同十年、五歳のとき、甲斐の加賀美の法善寺の徒弟となって出家し、玄竜と号したというが、これはおそらく、信玄が、斎藤道三が述べたのと同様な理由で、強いて出家させたものと推測される。というのは、玄竜は、信玄の死後五年目の天正六年(一五七八)に還俗《げんぞく》して、安田三郎信清と名のり、信玄の嗣子武田勝頼から信濃《しなの》の海野《うんの》の地をもらっているからだ。  それはともかく、道三が末子の勘九郎を出家させるについて、京都の妙覚寺を選ばせたことが、じつに奇縁といおうか、浮世のめぐりあわせといおうか、人間の意志の限界といったものを感じさせられる。妙覚寺といえば、もちろん、法華宗の一本山だが、道三が峰丸とよばれた幼少のころ、父の松浪基宗の意志によって出家させられた名刹である。峰丸は、そのために仏門にはいって、法蓮房と称したが、もちろん自分の希望で出家したわけではないから、後に還俗して、松浪庄五郎と名のったわけである。それならば、峰丸の父松浪基宗が峰丸を妙覚寺に入れて出家させた理由がなんであったかを考えてみると、基宗が法華宗の信者であり、妙覚寺の和尚とも知己の間柄だったせいであろうが、そういうことは、峰丸を出家させるについて妙覚寺を選んだという理由にはなるが、とくに峰丸を僧侶にしたという理由にはならない。  これにも、だいたい両説があり、一説では、松浪基宗が、峰丸が貧乏侍の庶子だから、将来出世するためには法華坊主からたたき上げて妙覚寺の住職にでもなるのがいちばん堅実な方法だと考えたからだというが、もう一説によれば、峰丸に普通の子供と違って、将来、なにをしでかすかわからない危険な性格があるのを認めたので、出家させたほうが無難で安全だという親ごころから妙覚寺に入れたのだというのである。どちらにせよ、基宗の親ごころから、坊主にしたらしいが、本人としては、坊主や油売り商人で満足しなかったことは、道三の青壮年期の武人としての活動ぶりの凄まじさをみれば、わかることだ。  ところで、この道三の遺書には、その後半に、道三自身の人生観といおうか、死生観といおうか、それがはなはだ明白に表現されている。このようにして、遺書を一筆したためたこと自体も、夢のなかのできごとにすぎない。この道三は、法華妙躰の中に、生老病死の苦しみからも離脱しているから、明日、修羅場にひとしい戦場に臨んでも、仏の果報を得られるほどの心境に到達していることを嬉しく思っている。決戦のすえに、かりに五体不具の身となったとて、成仏すること疑いない、と確信をもち、悟りを開き、最後に、辞世の和歌一首を添えている。  ——この世のほかに生きる世とてないのに、どこが終わりの住み家なのだろうか。それとて、さっぱりわからないでいる。この世を去り、あの世に往ったならば、もう、なにもあるまい——と達観したものであって、さすがに、若いときから妙覚寺で法華の妙躰を究め、しかも現実主義者に徹することによって、人生のなかに悟りを開いた蝮の道三だけあると、感慨無量なるものをおぼえさせられる。  ただ、この道三の遺書が、義竜との親子決戦の前日に書かれたところに、問題がある。もっとも、遺書とか遺言状とかいうものは、重態の病床や、討死直前における戦場で、急にしたためられるものではない。現代の凡人のばあいはとにかく、かりそめにも、戦国時代の大名とか武将とか、人に名を知られた人物のそれは、つねに死を覚悟し、死を予感したさいに、堂々と書き遺されるものなのだ。死後も永遠に遺存し、なんぴとに読まれるかわからないということを意識に入れたうえで、できるかぎりの達筆でしたためられるのが通例である。  だから、かつてNHKが大河歴史ドラマで吉川英治原作の『太閤記』を放映したとき、秀吉が臨終の病床で、あおむけになったまま筆を執って、辞世の和歌をしたためている場面を見て、——しまった——と思ったが、前もって筆者が読まされた台本のなかには、そのような説明がはいってなかったので、時代考証を依頼された筆者も、そこまでは責任がもてなかった。歴史ドラマの演出には、そういう間違いがかなりあることを、このさい、忠告したい。  それはともかく、道三のばあい、明日決戦場にでるので、死を覚悟して前日したためたものだから、もちろん、文章も立派で、筆蹟も堂々としている。ただ、この遺書の文章のなかに、女婿《じよせい》の信長だけを頼りとし、美濃の国を委託する譲り状をすでに信長に送ったことを告白しているということは、長男の義竜の人物にたいして、なお、正当な評価をしえなかったからであろう。もっとも、明日勝敗を決する相手のことだから、好感をもてるはずがないのは、当然といえる。  それにしても、道三は、最後の敗北にいたるまでは、義竜のことを軽視し、たとえ道三の数倍の大軍を動員してきたとて、総領の甚六で、大男総身に智恵が回りかねる「はずれもの」と、あなどっていたのではなかろうか。それが、太田牛一にいわせれば、道三の「智恵のかがみも曇った」ことになるのである。  ところが、いよいよとなると、総領の甚六であるはずの義竜の「勢《ぜい》の使いよう、武者《むしや》くばり、人数の立てよう」が、「残るところなき働き」と感じられたので、道三も、すっかり、大男の総身に智恵が回りすぎているのに仰天《ぎようてん》し、「はずれもの」どころか、「さすが、道三の子にて候。美濃の国|治《おさ》むべき者なり。とかく、われら誤りたるよ」と、後悔する心境に急変する。その実力にぶつかってみて、初めて相手の価値を確認するといったところは、いかにも現実主義者としての道三らしく、蝮の面目躍如たるものがある。  そうして、「とかく、われら誤りたるよ」と歎息した、その言外には、この前日の遺書に書き遺したように、美濃の国を女婿の信長に譲り渡したことをも、後悔している気持ちが、にじみでているようだ。「さすが、道三の子にて候」と認識を新たにした義竜を、「美濃の国治むべき者なり」と再評価し、その義竜に国を譲らなかったことを、後悔しているのである。  ——鳥のまさに死なんとするや、その声かなし——という諺《ことわざ》があるが、まして、人間たるもの、死に臨んで、本心にたちかえり、わが実の子の実力を誤認していたことを歎き、悔やんでいるのである。  ここまでくると、道三は、信長などに美濃を譲りたくはなくなっていたのである。信長と富田の正徳寺で初対面をしたとき、その放胆な若者の行動に圧迫され、「されば、無念なる事に候。山城《やましろ》が子供、たわけ[#「たわけ」に傍点]が門外に馬をつなぐべき事、案の内にて候」と長歎息したことが、『信長公記』に記述されているが、その「たわけ」の信長に国を譲り渡すなど、不吉な予感はありながらも、思いもかけなかったことであろう。  しかし、このばあい、道三が義竜の大軍を相手に決戦を交じえるにあたって、頼みとしていた女婿信長が、助勢に馳せつけなかったこと、道三の急場に間に合わなかったことも、信長への評価を急に低めたゆえんではなかろうか。  ただ、このさいにおける信長の周辺も調べてみる必要があろう。 [#1段階大きい文字](三)道三を救えなかった信長  道三が義竜に討ち取られたときの信長の動静について如実に説明したものは、やはり、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』と『信長公記』の両書しかないようだ。しかし、この両書をくらべると、その記事に少々前後の相違がある。  まず、『大かうさまぐんきのうち』によると、信長は、美濃一国の譲り状を道三から送ってもらった関係もあって、親子の決戦が行なわれると聞いて、さっそく若干の兵士を率い、道三が本陣を据えたという美濃の大良口《おおらぐち》へと出陣したけれども、先手のようすが判明せず、道三が討死したことも知らずにいたところへ、尾張の上郡《かみごおり》の岩倉城にいた織田伊勢守信賢が、反旗をひるがえし、信長の居城|清洲《きよす》の町口《まちぐち》にまで攻めよせ、下《しも》の郷《ごう》というところに放火したという注進が、しきりに届いた。これは、信長の美濃出馬を知った斎藤義竜が、さっそく織田伊勢守に清洲を衝かせ、信長を牽制《けんせい》する作戦をたてたからで、さすがに義竜は、最後に道三を感服させただけの軍《いくさ》上手であった。  信長は、長良川を北に越え、大良に本陣を据えたが、織田信賢|謀反《むほん》の急報に接し、軍勢の一部を清洲にもどそうとして、長良川を南に越えたところへ、こんどは義竜の軍勢が大良口に攻めかかってきた。そこで、信長の軍勢も、大良の本陣から二十町ほど駈け出し、河原で両軍が衝突し、一戦におよび、信長方は、槍をふるって、山口|取手介《とつてのすけ》・土方《ひじかた》彦三郎などを討ち取った。織田方の森三左衛門|可成《よしなり》と斎藤方の千石又一とが馬上で斬り合ったが、可成のほうが膝《ひざ》の口を斬られて引き退いた。それからは、斎藤軍も人数を備えるだけで、攻めてこない。  しかし、信長が道三の敗死を知り、——もはや、これまで——と、長良川を越して引き揚げようとすると、斎藤方の足軽が少々追いかけてきた。そこで信長は、全部隊を長良川の南岸に渡り終わらせると、舟一隻だけを川中に残し、信長と織田|酒造丞《みきのじよう》信辰《のぶたつ》の二人だけが、その舟にとどまって、しんがりをつとめ、追いすがる斎藤方の足軽隊にさんざん銃丸をあびせかけたうえ、悠々として尾張に引き揚げ、それから、またただちに織田信賢の居城岩倉へ進撃し、近辺に放火し、信賢と交戦をはじめている。  要するに、信長は、斎藤義竜と織田信賢に両面作戦を強いられ、舅の道三を救助することに失敗したのであった。  道三から美濃一国の譲り状まであたえられた信長が、どうして道三を救うことができなかったか。以上の理由で失敗したといえば、それまでだが、実際的には、当時二十三歳の信長にとって、尾張を平定し統一するだけで、精いっぱいではなかったか。美濃の親子戦争がどうなるかということよりも、足もとに火がつくほうを放置しておけなかったのである。  なお、一説によると、道三は、はなはだ疑い深い男で、信長に嫁がせた愛娘《まなむすめ》帰蝶(濃姫)にひそかに命じて、つねに信長の言動を監視させ、情報をいちいち密告させていた。これに気がついた信長は、そ知らぬ顔をして、道三の身辺に不安を抱かせるような虚構の事柄を、帰蝶に伝えていた。そのために、道三は、帰蝶が伝えてくる虚報を信じ、股肱《ここう》にもひとしい直臣のことを疑い、かれらを道三から離反させたり、失脚させたりして、道三がみずから手足をもぎ取る結果となったという。  もちろん、これは、後世の臆説であって、どこまでが史実か明らかでないが、信長もなかなかの謀略家であったから、道三と義竜との親子戦争がはじまるのを知っていて、そのために斎藤氏の美濃支配力が弱体化するのを、内心、期待し、歓迎していたかもしれないのである。 [#1段階大きい文字](四)二代目義竜の短い生涯  さて、道三の長男新九郎義竜(利尚)は、みずから「范可《はんか》」と号して、父道三の挑戦に応じ、これを長良川の北岸で討ち取らせ、鼻のない首の実検をしたが、それから三日後の弘治二年(一五五六)の四月二十三日づけで、もと美濃の守護大名であった土岐頼芸の次子の土岐小次郎にあてて、つぎのような書状をあたえている。その書状の写しが、美濃の『村山文書』に収めてあるから、ここに引用してみよう。 [#ここから2字下げ] この度、火急の|義《〈儀〉》、申し談じ候処、早速御同心、味方勝利を得、祝着せしめ候。御本知、いずれも前々の如く、相違あるまじく候。向後、まったく疎意に存ずべからず候。恐々謹言。  四月廿三日 [#地付き]一色左京大夫     [#地付き]   義竜(花押)     土岐小次郎殿 [#ここで字下げ終わり]  これは、義竜が父道三との決戦にさいし、土岐小次郎を味方に誘ったところが、さっそく同意し、その結果、義竜が戦いに勝利を得たので、その行賞として、小次郎の本知を安堵したことを告げ、今後の親睦をも期待したものである。「四月廿三日」という日づけから見て、弘治二年四月二十日、義竜が道三を討ち取った三日後の書状と推定する。  義竜は、半信半疑ながらも、道三の重大放送で、土岐頼芸の落胤ということを確認せざるをえなくなった。道三の重大放送を信じた土岐家累代の家臣らが、道三から離反して、義竜のもとにみな集まったため、義竜もいまさら引っ込みがつかなくなった。したがって、頼芸の次子で、義竜の弟にもあたるはずの土岐小次郎を味方に加えることによって、土岐家の旧臣たちの信望をいよいよ集めようと考えたものとみえる。  ここで、初めて、「義竜」の署名に接するのであって、その前は、「范可」だが、これは、一時的の称号であったらしい。なぜかというに、それ以後、「范可」と署した義竜の文書が一通さえも見あたらないからだ。 「范可」の前は、「新九郎利尚」と署名しているが、これもすでに紹介ずみである。  だから、これが、「義竜」と署名した文書の初見であるが、ここに、なお、「一色左京大夫」と署した意向はなにか。これが、ちょっと、問題になる。  一とおりの解釈では、義竜の生母が、稲葉良通(一鉄)の姉などではなくて、美女深芳野一色氏だったため、斎藤氏を改めて、母方の一色氏を称したのではあるまいか、と勘ぐられるが、義竜が、楚々たる京美人深芳野のむすこなどではなくて、堂々六尺ばかりの大おんな稲葉氏の産んだ男児だということは、風貌の方面から実証できることだから、この解釈は適当でない。  少々、手前味噌《てまえみそ》くさい推理ではあるが、義竜が稲葉山で謀殺した二人の弟のうち、道三の三男の喜平次こそは、深芳野一色氏の腹に生まれた男児であった。そのころ、土岐頼芸から奪い取った京美人の深芳野にうつつを抜かし、鼻の下を長くしていた道三は、深芳野生き写しの美男子の喜平次を溺愛し、深芳野にも懇望されて、喜平次を一色右兵衛大輔と名のらせたことは、前章に説明したとおりである。  そうして、義竜を廃嫡し、その一色右兵衛大輔の喜平次に家督を譲ろうと道三が計画しているという噂を信じた義竜が、次弟の孫四郎と喜平次をともに謀殺し、自己の安全をはかったのである。  しかし、その結果、道三と親子戦争をせざるをえないはめとなり、父の道三までも斬り殺させた義竜は、いまや、勝利者の悲哀を味わわずにはいられなくなってきた。そこで、義竜は、おのれの手にかけてあの世に旅立たせた亡父と亡弟の菩提をとむらうために、亡父道三がもっとも鍾愛した亡弟喜平次の里方《さとかた》一色氏を称し、「一色左京大夫義竜」と、一時的に改名してみたのではなかろうか。 「范可」の号にしても、この「一色左京大夫」の称にしても、一時的のものであり、実父と義弟を殺害した斎藤義竜が、精神的にいかに動揺をつづけていたかがわかるような気がする。  なお、義竜は、同年同月づけで、左の禁制を、斎藤家の菩提寺である今泉の常在寺にあたえている。 [#ここから2字下げ]    禁制    常在寺 [#ここから2字下げ] 一、甲乙人等《たれかれなど》、濫妨狼藉《らんぼうろうぜき》の事。 一、俗人の輩《ともがら》、宿《やど》を執ること。 一、竹林を伐採し、牛馬を放つこと。 一、当寺境内|殺生《せつしよう》のこと。 一、寺領|名主《みようしゆ》・百姓・御寺地の被官《ひかん》、年貢・諸|公事《くじ》等、無沙汰せしむること。 [#ここから3字下げ] 右の条々、堅く制止するところなり。 [#ここから2字下げ]   弘治二年四月日 [#地付き]義竜(花押)  [#ここで字下げ終わり]  これは、常在寺において、軍勢が乱暴狼藉を働くこと。俗人が宿をとること。竹木を伐採し、牛馬を放つこと。境内で殺生《せつしよう》をすること。寺領の名主《みようしゆ》・百姓・寺地の役人が、年貢・諸公事などを放置すること。以上の五ヵ条を禁止することを公布したのである。  なお、不思議なことに、義竜は、同年の九月になると、また名のりを改めている。そのことは、左の『美濃高木文書』所収の義竜の高木|直介《なおすけ》あての安堵状によって、立証される。 [#ここから2字下げ]    領中方目録 一、庭田郷 一、西駒野郷 一、羽根郷 一、鬚丸郷 一、山崎郷 一、郡戸河関   已上 六ケ所 右支配せしめ候。糺明をとげ、領知せらるべきの状、件の如し。    弘治弐      九月廿日 [#地付き]新九郎        [#地付き]   高政(花押)      高木直介殿へ [#ここで字下げ終わり]  これは、一見、義竜の文書でないように思われるが、その花押を見ると、どうしても義竜の花押である。したがって、義竜は、同年(弘治二年)の九月になって、さらに、「新九郎高政」と改名したことが知られる。「新九郎」は、元来の通称であるが、「高政」という名前は、なにによってつけたものか明らかでない。道三が、むかし、「斎藤新九郎利政」と称した時代があったので、その「利政」を少し変えて、「高政」と改名したものかもしれない。ともかく、これは、イメージ・チェンジというようなものではなくて、骨肉を分けた父や弟を殺害した罪におびえていた義竜が、罪障消滅のために、改名にいろいろと頭を悩ましたようすが偲ばれる。  この安堵状は、美濃の豪族高木|直介《なおすけ》(貞久《さだひさ》)にあたえ、その所領として、庭田以下の五郷と、郡戸河の関《せき》を安堵させたものである。  つぎに紹介するのは、やはり、『常在寺文書』所収の弘治三年(一五五七)十二月十七日づけの義竜の寺領寄進状の写しである。 [#ここから2字下げ]    寄進 常在寺え事        印食村の内 合百貫文       那波領        三宅村の内            西海寺領 右、慈性院のため、永代常在寺に寄進せしむるところなり。   弘治三年十二月十七日 [#地付き]義竜(花押)  [#ここで字下げ終わり]  ここで、また、義竜の署名にもどっている。想うに、その前年(弘治二年)中、義竜がその通称や名前をしばしば変更したのは、やはり、実父や二人の義弟を殺害した罪障消滅のために、義竜がいろいろと工夫をめぐらしたのであろう。  人間というものは、なにか罪を犯したり、処罰されたり、または不幸に見舞われたりすると、易者や姓名判断の専門家にみてもらって、やたらと名を変えてみたくなるものらしい。今日でも、往々にしてその実例に接することがある。実例を史上の他の人物にとってみても、徳川家康など、松平竹千代、元信、元康、家康、徳川家康と、なんども名を変えている。これは、駿河の大名今川氏の人質生活、またはその支配下から脱却して、自立する目的のもとに行なわれたのである。  この義竜の寺領寄進状は、印食村の内の那波領と三宅村の内の西海寺領と、合わせて百貫文を、慈性院のために、常在寺に永久的に寄進することを告げたものである。  かくて、義竜は、道三の跡を取って稲葉山の二代目の城主となり、美濃の国主大名として納まった。父の道三や義弟の孫四郎や喜平次を消したかわりに、長井隼人道利・日根野弘就・宇佐見左衛門・成吉尚光などを重く用い、また、道三との決戦のときに功労のあった毛利宮内の子の河内守長秀・武藤淡路守勝秀・井戸十所・同才介将元・原紀伊守光広・三河一正・近松光保・跡部良堅・深尾和泉守などに恩賞をあたえたのであった。  翌弘治四年(一五五八)は、二月二十八日で永禄元年になるのであるが、その二月二十六日に、義竜は、朝廷に奏請しておいた任官が許されて、治部大輔に任ぜられた。  義竜は、義弟にあたる織田信長に対抗して寸毫も譲らないばかりか、美濃国内の民政にも意を用い、領民を心服させたといわれているが、つぎに掲げたのは、『安藤鉦司氏所蔵文書』所収の永禄元年四月日づけで義竜が領内に発布した井水《せいすい》にかんする掟書《おきてがき》である。 [#ここから2字下げ]    条々 [#ここから2字下げ] 一、真桑《まくわ》七ケ井に新溝《しんこう》を立て、水を引取るに依って、先規の井水《せいすい》相|滞《とどこおる》の由、訴訟せしむるの間、糺明《きゆうめい》を遂ぐるの処、歴然たり。一向謂《ひたすらいわれ》なき題目の条、今より已後、久須川所々に至って、或は新溝をほり、或は塞《ふさ》ぎ留むるの義、これあるべからざるのこと。 一、石神東北に同じく新溝を掘り、河原を開発せしめ、水を引き取る義、停止《ちようじ》すべきのこと。 一、更地井水前々の如く、井水の口を立て、一郷へ分木《わけぎ》をもって通わすべきのこと。   右|差定《さしさだ》めるところ件《くだん》の如し。 [#ここから2字下げ]   永禄元年四月 日 [#地付き] 治部大輔(花押)  [#ここで字下げ終わり]  これは、真桑《まくわ》七ケ井に、新たに溝を造り、水を引き取ったために、先規の井水《せいすい》が停滞したということを、郷民が訴訟してきたので、領主の斎藤治部大輔義竜が、この訴訟を取り上げて、きびしく調べてみたところが、その事実が歴然と判明した。これは、じつに理由のない暴挙であるから、今後は、久須川の所々に、新たに溝を掘ったり、塞ぎ止めたりしてはならぬこと。また、石神の東北に、同じくあらたな溝を掘ったり、河原を開発したり、水を引き取ったりすることを停止すること。先規の井水は、従前どおり、井水の口を立てて、一郷へ、分木《わけぎ》をもって通《かよわ》せること。以上、三ヵ条を指し定める、というのである。  農民の井水あらそいを、領主が先規に基づいて厳正に裁決を下し、違乱を停止したのであって、義竜の民政よろしきを得た治績の一端をうかがうことができる。  なお、『安藤鉦司氏所蔵文書』には、同年(永禄元年)六月十日づけの、つぎのような、斎藤家臣・美濃六人衆の連署状を収めている。 [#ここから2字下げ] 七ケ井のこと、前々より有来《ありきたり》の如く、井下衆|罷上《まかりのぼ》り、馳走せしむべく候。油断の在所へは、井親の衆として、堅く申し触れらるべく候。其の上を違背に及ばば、御成敗あるべきの状、件《くだん》の如し。   六月十日 [#地付き]竹腰新介         [#地付き]     尚光(花押)  [#地付き]日比野下野守       [#地付き]     清実(花押)  [#地付き]長井甲斐守        [#地付き]     衛安(花押)  [#地付き]安東日向守        [#地付き]     守就(花押)  [#地付き]日禰野備中守       [#地付き]     弘就(花押)  [#地付き]桑原参河守        [#地付き]     直元(花押)     真桑七ケ井々下 [#ここで字下げ終わり]  これは、桑原参河守直元以下六名の斎藤家の奉行たちが、領主斎藤義竜の主旨をうけ、真桑の七ケ井に関係のある名主・百姓にあててだした連署の奉書である。——七ケ井のことは、以前からありきたりのように、井下衆が、まかりのぼって、奔走すべきである。それを怠っている在所《ざいしよ》へは、井下衆として、厳重に申し触れるべきだ。これ以上命令に背くばあいには、厳罰に処する——、というのである。  斎藤家の奉行六人衆といっても、元来は、守護大名土岐氏の家臣で、美濃の国人《こくにん》(土豪)でもある。それが、土岐氏滅亡の後は、成り上がり大名の斎藤道三に仕え、道三が親子戦争をはじめると、土岐頼芸の落胤だといわれた斎藤義竜の家来として納まったのである。しかも、国主大名としての斎藤家が、義竜の子の竜興のときに、織田信長に滅ぼされ、美濃一国が信長の支配下にはいると、かれら美濃衆のほとんどが信長に臣従し、信長が本能寺で横死すると、秀吉に仕える。日禰(根)野備中守弘就などは、その代表的な人物であった。有名な稲葉一鉄(良通)なども、二君どころか、三君にも四君にも仕えた人物なのだ。  忠臣は二君にまみえず——などというのは、徳川中期の武士が強《し》いられた思想であって、それ以前は、武士である自己の面目と意地さえ立ててくれれば、三君にでも四君にでも仕えたのである。明智光秀が信長に反逆したのも、武将としての面目をふみにじられた怨恨からであって、天下取りの野望を実現するために反逆したなどというのは、見当違いもはなはだしい。光秀を買いかぶりすぎている、明智びいきの作家の解釈にすぎない。  それはともかく、『安藤鉦司氏所蔵文書』には、この斎藤家の奉行六人衆の連署状が、もう一通あり、日付も「六月十日」になっているが、内容がかなり相違する。つぎに、掲載してみよう。 [#ここから2字下げ] 七ケ井之水、曽井かたへ取るべきの由申し候て、四十ケ年以前の豊※様御折帋をもって申し上げ候。又、井下衆各々存分に申し上げられ候。披露の処、御批判の趣は、去春御上使を遣わされ、見せられ候間、御制札遣わされ候上は、七ケ井の内を塞ぎ候て、曽井かたへ取るべきこと、謂われざるの由、仰せ出だされ、落着候。其意をなさるべき候の状、件《くだん》の如し。   六月十日 [#地付き]竹腰新介         [#地付き]     尚光(花押)  [#地付き]日比野下野守       [#地付き]     清実(花押)  [#地付き]長井甲斐守        [#地付き]     衛安(花押)  [#地付き]安東日向守        [#地付き]     守就(花押)  [#地付き]日禰野備中守       [#地付き]     弘就(花押)  [#地付き]桑原参河守        [#地付き]     直元(花押)     真桑七ケ井々下          名主御百姓中 [#ここで字下げ終わり]  これも、真桑七ケ井々下の名主・百姓にあてたものだが、——七ケ井の水は、曽井方で取るべきとのことで、四十年以前に定められた豊後守様(長井利隆)の御折紙の主旨を証拠として、申し上げたしだいである。また、井下衆それぞれの存分を上申し、披露したところが、義竜公が御批判なされた趣旨は、去る春、御上使を遣わされ、それを見せられたので、改めてまた、御制札を遣わされたうえは、七ケ井の内を塞いで、曽井方へ取るべきことは、いうまでもないと、仰せになり、これで、事件が落着したのである。そのつもりでいてほしい——というのである。  この連署状の包紙の上書《うわがき》を見ると、「永禄元年六月十日 井水の儀 御折紙本紙 壱通」とあり、前に掲げた、やはり六月十日づけの、六人衆連署状の包紙の上書にも、「永禄己未年六月十日 井水申し付け相背き候はば急度仰付《きつとおおせつ》けらるべき御証文」とあるのと同様で、この両通とも、永禄元年(一五五八)の六月十日の義竜関係の文書と推定される。  ただし、あとのばあいは、文章の内容がかなり違うが、それだけに、同日づけで、前書の内容を補足したものと考えられる。したがって、後書には、長井豊後守利隆が四十年前にだした折紙の主旨を、前例として指摘している。  長井利隆については、まえにも説明したように、沓井《くつい》城主であって、川手城にいた守護大名の土岐氏を補佐していた執権である。と同時に、常在寺の住職日運上人(日護房)の兄でもあった。四十年前というと、大略、永正年間(一五〇四〜一五二一)だが、井水にかんする長井利隆の折紙は、現存しないようだ。ずっと前章に紹介した長井利隆の文書に、永正五年のと八年のとがあるが、みな、寺院にあたえた禁制である。「御批判」とは、義竜の批判。「御上使」は、義竜の使者。「御制札」は、さきに紹介した永禄元年四月日づけの治部大輔義竜の井水掟書のことであろう。  つぎに、美濃の『立政寺文書』所収の十二月十日づけ、立政寺|納所《なつしよ》あての斎藤家臣桑原三河守直元以下六人衆の連署状を紹介する。 [#ここから2字下げ] 当寺門前|荷池《はすいけ》において鵜《う》を飼い、綱を引き、一切《いつさい》殺生《せつしよう》のこと、堅く停止候。若し猥《みだり》の族《やから》これあらば、厳科に処せらるべきの状、件の如し。   十二月十日 [#地付き]甲斐守        [#地付き]   衛安(花押)  [#地付き]下野守        [#地付き]   清実(花押)  [#地付き]日向守        [#地付き]   守就(花押)  [#地付き]備中守        [#地付き]   弘就(花押)  [#地付き]摂津守        [#地付き]   尚光(花押)  [#地付き]参河守        [#地付き]   直元(花押)      立政寺        納所几下《なつしよきか》 [#ここで字下げ終わり]  これは、永禄二年(一五五九)の十二月十日、斎藤義竜の奉行、桑原三河守直元・竹腰摂津守尚光・日根野備中守弘就・安東日向守守就・日比野下野守清実・長井甲斐守衛安の六名が、立政寺の納所にあたえて、当寺の門前の荷池《はすいけ》で鵜《う》を飼い、綱を引いたりして、殺生《せつしよう》を行なうことを厳禁し、万一、寺規を乱すやからがいたならば、その者を厳科に処すべき旨を伝えたものである。  義竜は、このように、寺規をも保護し、それを乱す者どもを処罰したのである。道三のような牛裂《うしざき》、釜煎《かまいり》などの酷刑は行なわなかったらしいが、乱世の支配者は、社会的秩序の取り締まりになまぬるいようでは、支配者として失格である。  このころ、斎藤と織田両氏の間の雲行きが荒くなっていた。義竜が道三を討ち滅ぼし、そのとむらい合戦に信長が失敗して以来、信長の領国尾張は、美濃と三河の両面に敵を作ることになったため、反信長派の勢力が盛り返し、これを掃討するために忙殺された信長は、美濃攻略どころではない。そんな余裕はなかったのである。ところが、永禄三年(一五六〇)の五月、上洛の大志をたてて尾張に大挙侵入してきた駿河・遠江の国主大名今川義元を桶狭間の一戦に討ち破り、その余勢をかって尾張統一の自信を得た信長は、ただちに兵を西美濃にだして、斎藤義竜に戦いを挑んだ。しかし、多芸《たぎ》の丸毛氏・池田の市橋氏などが、織田勢を迎え討ち、大垣の長井甲斐守もまた出兵して、丸毛・池田軍に協力したため、信長も、一時、尾張に兵を収めている。  ところが、そのころ、美濃に、別伝《べちでん》の乱というのがおこった。  実父の道三と、その道三が鍾愛していた二人の義弟を殺害した義竜は、罪障の消滅につとめ、妙心寺派の禅僧|別伝《べちでん》に帰依《きえ》していた。そのため、美濃の厚見郡早田に少林山|伝灯《でんとう》護国寺という禅寺を建て、別伝を開山《かいざん》とした。ところが、この別伝という坊主は、なかなか悪だくみにたけていた。そこで、帰依者の義竜に願い、美濃の国中の禅宗の寺院を、すべて伝灯護国寺に所属させ、別伝自身は、その僧録司《そうろくし》になろうと企てたのである。僧録司というのは、僧侶の功績を本山に推挙し、これを出世させる実権をもつ役僧のことをいう。  永禄三年(一五六〇)十二月二十四日のこと、義竜は、伝灯護国寺にたいして、——美濃の国の禅寺は、みな、伝灯護国寺に帰付し、四節の礼儀・臨時の公事など、ことごとく拒絶すべきだ。もし、他人をもって奏達したならば、容赦せぬ——と、通告したのである。別伝は、さっそく義竜の通告を美濃国内の諸禅寺に申し触れた。  そこで、妙心寺の四派の禅僧の間に、論議が沸騰し、禅宗全派の興廃にもかかわる一大事と認め、崇福寺の快川紹喜禅師をはじめ、国中の長老に通達し、翌年(永禄四年)の正月五日、瑞竜寺に集会し、訴状を義竜に捧げ、二月八日には、快川以下の長老が国外に出奔している。  この騒ぎに驚いた義竜は、宇佐見左衛門尉・上田加賀守らを派遣し、諸長老を説諭して帰国を命じた。そこで古老たちも帰国したが、やはり、瑞竜寺に集合し、書を京都花園の妙心寺に提出して、別伝の悪行《あくぎよう》五ヵ条をあばきたてた。  そこで、別伝の評判が悪くなるのを心配した義竜は、別伝のことを弁護するために、書状を足利十三代将軍義輝に送り、和議の斡旋を依頼したりしている。しかし、妙心寺や全国の禅僧はみな、快川たちに同情を寄せていた。ところが、たまたま、同年(永禄四年)の五月十一日に義竜が病死したため、形勢が一変した。  その翌々日、つまり五月十三日になると、織田信長が、さっそく美濃に侵入し、井ノ口城に迫った。そのとき、別伝は、放火した悪党を伝灯護国寺にかくまったことが発覚し、同類とともに織田勢に殺害されたといわれるが、じつは、身をもって同寺から遁走し、ゆくえ知れずとなり、翌年(永禄五年)の三月、伝灯護国寺は焼亡し、いわゆる別伝の乱はおさまったのである。  要するに、斎藤義竜は、永禄四年(一五六一)の五月十一日、三十五歳の若さで病死している。その最期は、いかにもあっけなかったが、一説によると、義竜は、六尺四、五寸の巨漢であるが、業病《ごうびよう》にかかっており、それがもとで早死したといわれる。  それが、もし、事実だとしたならば、道三が義竜を嫌い、これを廃嫡しようとしたのも、無理はないという臆測も成り立つが、それならば、それを知っていた道三が、美濃衆の人心を収攬《しゆうらん》するために、義竜のことを土岐頼芸の落胤と声明したり、また、義竜の戦術の巧みさに感服し、これを廃嫡しようと企てたことを後悔するわけもないのである。  そこで、『大かうさまぐんきのうち』をみると、義竜父子病死について、つぎのような記事がある。「さるほどに、斎藤新九郎義竜、妻女は、一条殿御むすめ、そく御ぞうしとて、これあり。ある時、やがてつき候て、奇異のわずらいあり。百座のごま・千座のごま・万座のごまをたかせ、さま/″\きとう候えども、ついに平癒なく、父子三人病死。天道おそろしき事」というのである。  これを見ると、義竜の病気は、業病というよりもむしろ奇病だったらしい。それも、妻の一条氏、むすこ、義竜の三人が、あるとき、憑《つ》き物《もの》がついて、奇病を患い、百座・千座・万座の護摩《ごま》をたかせて、いろいろと祈祷をしたけれど、ついに平癒せず、父母子三人とも同時に病死した。天道は恐ろしいことだ、というのである。父母子の三人が同時に死去するというような奇病だったのである。  太田牛一が、「天道おそろしき事」と評したのは、もちろん、父親の道三を殺害した天罰があたった、という意味であろう。しかし、道三のような親にして義竜のような子が生まれた、と評すべきであって、かりに、義竜が道三の実子ではなくて、土岐頼芸の落胤であったとしたならば、かえって、親子戦争などひきおこさなかったのではあるまいか、とも思われる。  ちなみに、義竜の辞世の偈《げ》と伝えているものに、「三十余年、守護人天、刹那一句、仏祖不伝」というのがある。なお、義竜の法名は、雲峯玄竜居士という。 [#改ページ]   第四部 道三以後 [#改ページ] [#1段階大きい文字]一 動乱の美濃 [#1段階大きい文字](一)信長の尾張平定  弘治二年(一五五六)の四月、舅《しゆうと》斎藤道三の危急を救おうとして美濃の大良《おおら》に出馬した織田信長は、尾張上半国(上四郡)の守護代で岩倉城主の織田伊勢守信賢と連絡しての斎藤義竜の牽制作戦にかかり、やむなく、清洲城に退去したが、それ以来、尾張の平定と統一のために、反信長勢力の掃討に専念し、美濃攻略の余裕がもてなかったのである。  たとえば、同年の八月には、尾張の那古野城を守る織田家の宿老林通勝が、末森城主で信長の弟の織田勘十郎信行を擁立しようとして、反逆したので、信長はこれを鎮圧した。ところが、また、信長の庶兄津田信広が、美濃の斎藤義竜と結んで、清洲城を奪おうとした。  弘治三年(一五五七)の十一月には、弟の勘十郎信行が、岩倉城主の織田伊勢守信賢らと謀反の密議をこらしたことを、柴田勝家の密告で知り、信長は詐病を構え、信行を私宅に招き、責任をとらせて自害させている。この信長のやり方は、斎藤義竜が義弟の孫四郎と喜平次を仮病をつかって誘殺したのと類似している。  永禄元年(一五五八)になると、駿河・遠江の国主大名今川義元が、西上の志をたてて、しばしば三河に侵入したため、信長は、これと対抗し、三月には、松平家次を尾張の品野城に攻めたが、敗北している。五月には、また岩倉城主の織田伊勢守信賢が斎藤義竜と連絡し、信長に挑戦しようとした。そこで信長は、これに反撃を加え、七月になると、信賢を岩倉城に攻め、これに大打撃をあたえた。そのため、岩倉の織田氏は滅亡寸前に追いこまれた。  永禄二年(一五五九)早々、信長は、岩倉城を攻め落として織田伊勢守信賢を追放し、尾張の上半国を平定することができた。そうして、その二月に、信長は初めて上洛している。『信長公記』によると、八十人ばかりの供の者を連れ、熨斗付《のしつき》の晴れ装束で、足利十三代将軍義輝に拝謁し、ついで、京都・奈良・堺の町々を見物する予定でいた。  ところが、そのころ、美濃の稲葉山城主の斎藤義竜は、家来の美濃衆に命じて、信長の暗殺を謀った。義竜の指令を受けた美濃衆六人は、鉄砲を用意し、信長のあとを追って上洛してきた。現今でいう殺し屋である。  ところで、この六人の殺し屋が、偶然、京都の小川|表《おもて》で信長と鉢《はち》合わせをした。すると、信長は、——上総介《かずさのすけ》(信長)の討っ手としてのぼってきたのは、汝《なんじ》らか。汝らの分際《ぶんざい》で、この上総介に敵対しようとは。蟷螂《とうろう》の斧《おの》とは、このことだ。やってみるか、どうじゃ——と、睨《ね》め据えたため、六人の殺し屋は、鉄砲をもったまま、震えあがってしまったという。現今のライフル銃とは違うから、とっさのばあい、信長を撃てなかったとみえる。  しかし、信長も、殺し屋にたいして虚勢を張ってはみたものの、身の危険を悟ったとみえて、五、六日すぎて、近江の守山までくだり、その翌日の払暁に宿をたち、二十七里の道程を一気に駈け抜け、その日の寅《とら》の刻《こく》(午前五時前)に尾張の清洲に帰城している。さすがに信長だけあって、神出鬼没というべきだ。  このとき、信長が上洛して将軍義輝に拝謁したのは、おそらく、尾張の国を大略統一して、那古野から清洲に居城を移したことを足利将軍家に報告したかったからであろう。信長の父織田備後守信秀も早くから大志を抱いており、生前、しばしば、皇居修理の費用として、朝廷に献金などをしていた。そこで信長も、亡父にならって、足利将軍や天皇に近づきたかったのであろう。そのため、後に、その宿志がかなえられ、信長も、皇室の御領地を回復し、朝儀の復興につとめている。  これをもって、むかしの歴史家は、信長の勤王の事蹟と称して、賛美しているけれども、信長や秀吉の尊王思想は、それほど純粋なものではない。それは、中央政権を掌握するための、一つの手段にすぎなかったとみるほうが、むしろ、史実に近かろう。  同年(永禄二年)の七月、信長は、残存部隊のいる岩倉城を包囲し、二、三ヵ月もかかって、ようやくこれを抜いたが、その後ほどなく、岩倉城を破却している。しかし、まだ、下四郡も完全に信長に服属しないし、また知多郡は、今川氏の勢力範囲にあった。『信長公記』に「よろず御不如意《ごふによい》千万也」と記しているとおり、なかなか若い信長の思いどおりにはいかなかった。いかにして今川義元の勢力が西に及んでくるのを食い止めるかに、苦心していたのである。ときに、信長は二十六歳であった。  信長の対外関係は、たしかに、父信秀のときよりも悪化していた。ことに、北隣の美濃が、八年間も織田氏の同盟国であったのに、信長の舅斎藤道三の嫡男義竜が、道三を討ち果たしたため、ふたたび敵側にまわることになった。それから、三年目だ。領国として統一すべきはずの尾張も、まだ完全に平定されていない。  このような悪条件のもとでは、たいていの武将はへこたれたに相違ない。まして、天下取りを夢みるどころではなかったであろう。  しかし信長は、東と北にひきうけた強敵にたいして、強引な両面作戦を練っていた。今川義元と斎藤義竜をなんとかさばいて、まず、尾張を平定し、統一し、美濃を討ち従え、上洛への道を強引に開こうと考えていた。さすが、蝮の道三が一目置いた尾張の「大うつけ者」だけあったのである。  ところが、その翌年(永禄三年)になると、北はともかく、東からの圧迫が急に烈しくなってきた。いうまでもなく、今川義元がいよいよ、大挙して西上を企てたからだ。二万五千の大軍を有する義元の眼中には、信長の存在など、米一粒《こめひとつぶ》にひとしい。  信長は、いまや、運命の神から重大な決意を促されていた。  二十七歳になったばかりの若者・信長の考えは、たしかに常軌を逸していた。しかし、常軌を逸しなければ、自滅するほかない。  そこで信長は、いっそのこと、今川義元が大挙して西上するのを待ち、そのチャンスをとらえ、一気に義元を討ち取り、その余勢をかって尾張一国を平定し、統一し、進んで美濃の攻略に着手しようと決意した。まず、東から迫ってくる大敵を一刀両断にせねばならない。  チャンスがいつか偶然にやってくるのを待ち受けるのではなくて、チャンスを強引に作り上げるというのが、信長の選んだ方法だった。しかし、これが、当時の信長にとって、もっとも危険なようでいて、じつはもっとも合理的で安全な作戦だったのである。  ところで、今川義元のほうは、永禄元年(一五五八)以来、尾張にたいする侵略作戦を開始し、愛知郡の笠寺《かさでら》・鳴海《なるみ》に砦《とりで》を築き、品野《しなの》・大高の諸城に兵を入れ、徐々に信長の本拠清洲に迫っていった。鳴海の城主山口左馬助父子も、すでに今川方に内通していた。  これにたいして信長は、鳴海付近の数ヵ所に砦を築き、また鷲津・丸根の諸城に守備隊を入れ、厳重な警戒網を張り、今川勢の侵略に備えた。  今川軍の先鋒は松平元康(後の徳川家康)であった。元康は、三河の土豪松平|宗家《そうけ》の総領で、岡崎の城主となるべき身分でありながら、なお、独立を許されずに、今川軍の属将として、義元の尾張侵略の手先に使われていた。永禄元年(一五五八)、十七歳で、三河の寺部城主鈴木重教をはじめ、織田方に内通する諸将士を降伏させたが、今川義元からの恩賞としては、刀一腰と、松平氏の旧領のうち山中《やまなか》三百貫文の地を還付されたにすぎない。しかし、同二年(一五五九)五月には、尾張の大高城に兵粮を入れる大役を果たしている。  永禄三年(一五六〇)の五月十二日、今川義元は、二万五千の大軍を率いて駿河の府中(いまの静岡市)を出陣した。ときに、義元は四十二歳の男ざかり。赤地《あかじ》の錦《にしき》の直垂《ひたたれ》、胸白《むなじろ》の具足をつけ、八竜打った五枚しころのかぶとをかしらに頂き、今川家|重代《じゆうだい》の松倉|郷《ごう》の刀、大|左文字《さもんじ》の太刀《たち》を佩《はい》して馬を進めたといわれる。  五月十八日、義元は、鵜殿《うどの》長持に大高城を、岡部元信に鳴海城を守らせ、松平元康(家康)に二千五百の兵をあたえて丸根の砦を攻めさせ、朝比奈泰能ら二千には鷲津の砦の攻撃を命じ、三浦備後守ら三千を援隊にあてると、みずから本隊を率い、境川を渡り、沓掛《くつかけ》城にはいった。  今川義元の本隊五千がすでに尾張の沓掛まで侵入し、明日は丸根・鷲津の砦を総攻撃するらしいとの情報が、信長の居城清洲に伝達されたのは、五月十八日の夜のことだ。  当年とって二十七歳の若大将信長は、前線基地からの敗報を、つぎつぎとききとりながらも、ひそかに義元の本陣を奇襲するための作戦を練っていたらしい。 『信長公記』によれば、その前夜、織田家の重臣たちが集会したが、信長は、軍評定《いくさひようじよう》もせずに、とりとめもない世間ばなしを交わしたあげく、深更に及んで、一同に退去を命じたため、重臣たちも顔を見あわせ、——殿《との》の智恵の鏡も曇ってきたわい——と、ささやきながら長歎息し、その場をひきあげたということである。  しかし、夜半すぎて、信長は寝床《ねどこ》を蹴って起き上がった。そして、よろいや具足をすばやく身につけ、馬に鞍を置かせ、湯漬《ゆづけ》をたべ、牀几《しようぎ》に腰かけたままで、小鼓《こつづみ》をとりよせた。それから、東のほうに向かい、——人間五十年、下天《げてん》のうちをくらぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》のごとくなり。ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか——と謡いながら、三度も舞った。そうして、舞い終わるやいなや、小姓衆七、八騎だけを従え、城門を開いて出馬した。  信長が清洲の城を出馬したとき、大手門の入り口に、三百人ほどの兵士が控えていただけだったが、かれが先頭にたって熱田神宮に参拝するころには、軍勢もぞくぞくと馳せ集まり、千八百人ほどになっていた。  信長の軍勢が熱田を南に進み、上知我麻祠《かみちかまほら》の前にさしかかったころ、はるかに、鷲津・丸根の方角に、黒煙のたちのぼるのがみえた。山崎を過ぎるころ、丸根の砦を守る佐久間盛重が悲壮な討死をとげたことが伝えられた。しかし、織田軍将兵の士気はかえってあがり、善照寺において勢揃《せいぞろ》いした。  ちょうどこのとき、信長は、敵将義元が沓掛をでて西の大高方面に向かって移動をはじめた、という情報をキャッチした。そこで相原付近を前進していると、梁田《やなだ》政綱があらかじめ沓掛方面に放っておいた忍びの者が、また新たな情報を伝えてきた。それによると、義元の本隊は、なぜか、少し南の桶狭間のほうに向きを変え、その途中の田楽狭間《でんがくはざま》で小休止をしているとのことであった。  田楽狭間といえば、その名のごとく、狭い窪地である。五千に余る義元の本隊は、どうしても縦に伸びざるをえない。そこで、縦に伸びたところを、旗本めがけて斬りこめば、義元を討ち取ることができなくもない。  二千の主従が一丸《いちがん》となり、信長は馬の首を立て直し、田楽狭間めざして疾走した。 『桶狭間合戦記』によると、「桶狭間の山の中間、田楽狭間」とあるから、それで、田楽狭間の戦いのことを、桶狭間の戦いというらしい。ここは、周囲を丘陵でかこまれた、広さ一町あまりの盆地といった地勢である。休息するにはもってこいの地帯だ。  今川義元も、海道一の弓取りといわれた武将である。かれは、おそらく、織田軍の襲撃を予想し、これを巧みに避けようとして、沓掛から大高の城へ直行するとみせかけ、わざと道を変更し、桶狭間の間道《かんどう》を迂回《うかい》したのかもしれないのである。どちらにせよ、その道を変えた場所が、地の利の悪い、狭間だったところに、信長のつけ入るすきがあり、義元の武運の尽きるところがあったのだ。  奇襲作戦は、敵の不意を衝くのを目的とするから、敵軍の動きを、ひそかに、しかも、的確に捉えるための情報網を張りめぐらす必要がある。桶狭間奇襲作戦の成功は、信長の敵情キャッチのすばやさによるところが大きい。その点、忍者の活躍が戦況を左右したともいえる。  今川義元の動向をキャッチした信長は、相原の中間地点で馬から下り、旗さし物もうち捨て、二千の将兵と一丸になり、田楽狭間の背後にあたる太子《たいし》ケ嶺《みね》に登った。  太子ケ嶺の樹々の繁みから見ると、義元の本陣は真《ま》っ下《した》にあった。物見《ものみ》の報告によれば、今川勢は、信長の潜入したことなど夢にも知らず、さらに動くけはいがない。義元は、たびかさなる勝利に、身も心も浮きたち、近在の神主《かんぬし》らが持参した祝い酒に、ほろ酔い機嫌でいた。  ちょうど、そのとき、天空がにわかに黒雲に覆われ、下界が霧の底の海のように暗くなったかとみるまに、石氷を投げつけるかのごとき大粒の雨が降り出した。おりから弁当をつかっていた今川勢は、大雨を避けて、われ先に、ここの軒下、かしこの木陰へと、散らばった。  その大雨が少しおさまりかけたとき、信長はただちに突撃の命令をくだし、二千の軍勢が一つの黒いかたまりとなって、太子ケ嶺を駈け下り、義元の旗本めがけてまっしぐらに襲いかかった。  不意を衝かれた今川軍が右往左往しているうちに、信長の近臣服部小平太が、義元に肉薄していった。小平太は、義元のために膝を斬られた。が、同時に、毛利|新介《しんすけ》が義元を斬り伏せ、その首級をあげた。支離滅裂となった今川軍は、駿河に向かって潰走した。戦国時代のいくさは、今日の戦争とくらべると、単純きわまるものといえた。  信長は、桶狭間の戦勝によって今川方に再起しがたいほどの大打撃をあたえ、かつ、領国尾張の平定と統一に成功し、上洛のための足固めをすることができた。禍いを転じて福となさしめたのである。 [#1段階大きい文字](二)三国軍事同盟  信長は、桶狭間戦勝・尾張平定統一の翌年、つまり永禄四年(一五六一)から、美濃の経略に着手した。もちろん、上洛の道を開くためである。  太田牛一の『信長公記』には、なかなかおもしろい話がでてくる。  ある年のこと、というと、もちろん、信長の美濃経略以前のことであろうが、丹波の奥に住んでいたある鷹ずきの侍が、関東にくだり、鷹の逸物《いちもつ》二連を手に入れ、帰途、尾張の清洲に立ち寄り、信長に謁見を許された。そのとき、——この二連のうちで、どちらでも、お気に入ったのを一つ進上いたしましょう——と侍がいうと、信長は、——志はありがたいが、天下を取るまでは、そちの手に預けておこう——と答えて、鷹をくれるというのを断わった。このことを、丹波への帰り道に京都で人に話したところが、——国をへだてて、遠国よりの望み、実《じつ》ならず——といって、みんなが嘲笑したとある。——尾張のような遠いところにいて、田舎大名が、笑わせるな——というところであろう。  しかし、これは、大鵬《たいほう》の志を知らぬ燕雀《えんじやく》どものさえずりにすぎなかった。その後、八年ばかりたつと、信長は、美濃を完全に征服し、斎藤氏の居城稲葉山を岐阜と改め、そこを根城《ねじろ》として、旗を京都に揚げたからである。  その信長も、斎藤道三の生存中は、美濃に手をだしかねていた。道三が濃姫の父親であったばかりではない。尾張の国の地固めが不十分だったからだ。そのうちに、道三は長男の義竜と戦って敗死し、父親を討ち取って二代目の美濃の国主大名となった義竜も、永禄四年(一五六一)に病死し、義竜の長男竜興が斎藤家三代の主となった。  上洛への足がかりとして、美濃を狙っていた風雲児織田信長にとって、これはまさに絶好のチャンスであった。舅斎藤道三の仇を討つという口実が立派に立つ。竜興を討伐するのが、大義名分を笠に着ての、義戦ということになるからだ。  だから信長は、義竜が永禄四年の五月十一日に死ぬと、さっそく木曽川と長良川を越えて、西美濃に乱入し、洲股《すのまた》(墨俣)に要塞を築いた。桶狭間戦勝、尾張平定の翌年のことだ。信長二十八歳の夏である。  これにたいして斎藤竜興も、稲葉山の井ノ口城から軍勢を繰り出してきた。竜興はまだ十四歳の少年だったが、父義竜を支持してきた斎藤家臣を中心とする美濃衆に擁立されていた。ひとしきり激戦を交じえたが、戦局は織田軍にとって不利であった。信長は、ただちに洲股を引き払った。  だいたい、このような奇襲作戦は、堅固に防衛している大敵にたいしては無理である。信長が尾張の平定と統一に成功したとはいっても、尾濃両国の境目あたりは、斎藤方の属城が無数にあり、それらを美濃衆が守っていたからだ。尾張の国内でも、小牧山と並びの於久地《おくじ》と犬山までが、斎藤方の要害であった。  そこで信長は、着実な手段にもどり、まず、於久地城を攻めたが、これも失敗に終わった。  しかし、これらの作戦は、ほんの前哨戦にすぎなかった。前哨戦に大将みずから出馬するとは、少々軽率の感があるが、信長は、斎藤軍の実力の程度を自分自身の力で打診してみたかったらしい。そうして相手の実力を確かめると、全面的攻勢にでる前に、まず、八方の形勢を有利に展開させることを考えた。  つまり、たとい尾張一国をからっぽにして美濃に全兵力をつぎこんでも、後顧の憂いのないように工作しておく。と同時に、近隣の大名たちと手を握り、斎藤竜興を擁立する美濃衆を牽制する。つまり孫子《そんし》のいう遠交近攻の策である。信長は、この二つの工作を実施することに力を尽くした。  まず、後顧の憂いを断つためには、東隣に盟友をつくる必要に迫られた。永禄五年(一五六二)の正月、尾張の清洲城内で結ばれた松平元康(徳川家康)との軍事同盟がこれだ。  当時、松平元康の地位は、はなはだ微妙なものであった。元康は、桶狭間敗戦と同時に、あっさりと兵を引き揚げ、三河の岡崎城に帰った。今川氏の配下であり、義元の属将でありながら、大将義元のとむらい合戦をするでもなく、そうかといって信長に降伏するでもない。じつに無責任といえば無責任、図太いといえば図太い態度であった。つまり、今川義元の敗死をチャンスとして完全に自立し、三河の土豪松平氏本来のすがたにたちかえったのである。  そのとき、松平元康は、年わずか十九歳であったが、毅然として戦国武将の風格を備えていた。しかも、その配下には、祖父清康このかたの一騎当千の三河武士たちが、強固な家臣団を形成していたのである。  信長は、桶狭間で今川義元を討滅するのに精いっぱいであった。桶狭間から清洲に凱旋すると、戦勝の祝杯をあげると同時に、尾張の平定と統一に忙殺された。そうして、つぎに、美濃経略という新たな仕事に当面し、あたまを悩ますことになった。その間に、松平元康はしきりと西三河の諸城を攻め落とし、三河の統一に乗りだしてきた。  桶狭間戦勝の翌年(永禄四年)、信長は、水野信元の策に従い、部将滝川|一益《いちます》を使者として三河の岡崎に遣わし、松平元康の家臣石川数正を仲介に立て、織田・松平両家の和議をはからせたのである。上洛の目的をとげるためには、元康を敵とすることの愚を悟ったからである。元康も、これに賛同した。両雄が、たがいに相手の実力を見ぬいたせいであろう。  そんなわけで、永禄五年(一五六二)の正月、清洲城内で両雄が会見し、ここに、軍事同盟が結ばれたのである。軍事同盟とは、いうまでもなく、同盟を結んだ相手が敵に攻められたばあいは、たがいに相手を助けて守りあい、敵を攻めるばあいにも相手に力を貸す、といった盟約を交わすことである。  この信長・元康(家康)両雄の軍事同盟は、朝三暮四の乱世には珍しく、信長の死に至るまで、十数年間、一度として改変されずに実施された。これこそ、戦国の美談といわれるゆえんであろう。  ところで信長は、その翌々年、つまり永禄七年(一五六四)の三月、近江北三郡の国主大名で、小谷城主の浅井備前守長政と、婚姻政策によって同盟を結ぶことに成功している。  江北三郡を領する豪族で、近江の守護大名佐々木京極氏の執権職から進出し、戦国大名として覇を唱えた浅井家と同盟を結び提携することは、美濃の国主大名斎藤竜興を北から牽制するためにも、また将来、上洛への足がかりをつけるうえにも、たいへん都合がよい。  信長の妹にお市《いち》姫という美女があった。その画像が高野山の持明院に現存するが、現存の女性画像中、日本史上随一の美人といっても過言ではあるまい。この美女を浅井長政にめあわせ、小谷城に輿《こし》入れさせたのである。長政は、当年二十歳。お市姫は十七歳であった。 『浅井三代記』の説明によると、このとき、信長のほうから非常に有利な条件で同盟を申しこみ、縁者となってほしいと頼んできたということである。——もし、この同盟を承諾してくれるならば、信長と長政とは、義兄弟の酒盃を汲み交わしたうえに、ともに力をあわせ、信長が江南の大名六角氏を一蹴して上洛した暁には、天下の仕置《しおき》をば、両人でとりきめる。美濃の国がほしくば長政に進上しよう。また、越前の朝倉氏は、浅井家と代々因縁の深い間柄ときくから、決して信長の独断をもってこれを攻めるようなことはしない。そのためには誓詞も取り交わそう——などと申し出てきた。そこで浅井長政も、同盟の締結を承諾し、ここにお市姫との縁談も成立したという。  ところが、浅井長政側としては、お市姫と結婚するまでに、いろいろないきさつがあったようだ。長政は、永禄二年(一五五九)、十五歳で元服すると同時に、江南の大名六角定頼の子|義賢《よしかた》の一字をもらい、新九郎|賢政《かたまさ》と称し、ただちに義賢の老臣平井加賀守のむすめを妻として迎えることになった。これは、長政の父浅井久政の六角氏にたいする妥協的な政策にもとづく縁組だったが、父の命令だから仕方がなくて、一時、承諾したのである。しかし、そのとき、江南に出向いて、平井加賀守と父子の盃を交わしてこいと命ぜられると、——六角氏の被官人《ひかんにん》平井加賀守などのところへ、こちらからでかけて行くなどとは、もってのほかだ——といい、浅井家の老臣を介して、父の久政を説得させ、加賀守のむすめを里《さと》に帰してしまった。だから、同時に六角氏と交じわりを断ち、名を長政と改めている。そこで浅井の家臣らも、——あっぱれ、若殿よ——と、長政の気概を壮とし、その器量に心服したといわれる。父久政よりもむしろ、浅井家の存在を国主大名に押し上げた祖父|亮政《すけまさ》の気性に似ていたとみえる。  お市姫との結婚も、政略結婚には違いないが、相手の兄は、六角氏の家臣平井加賀守などとは違って、尾張一国を実力で平らげ、上洛の大志をとげようと考えている、評判の強豪織田信長だ。しかもその信長が、はなはだ有利な条件で同盟を申しこみ、縁者となることを願ってきたのだ。その申し出を受諾せざるをえなかったであろう。だから、『川角《かわすみ》太閤記』には、浅井長政の老臣磯野|伯耆守《ほうきのかみ》が、謀略をもって織田・浅井両家の縁談をまとめたと説明しているが、長政としても、妻に迎えるお市姫が天下一の美女だったから、まんざらではなかったらしい。  ともかく、このようなしだいで、松平(徳川)・織田・浅井三氏の間に、強固な三国軍事同盟が結ばれたのである。これは、その中間地域にある美濃の斎藤氏を東西から牽制する結果となり、信長の形勢はきわめて有力となり、美濃征服も時間の問題となってきたのである。  なお、信長は、同年(永禄七年)の十一月、越後の国主大名上杉輝虎(謙信)とも和議を結び、誓約書を交換している。  また、信長は、甲斐の国主大名武田信玄のもとに使者として織田|掃部《かもん》を送り、交誼を求めている。これは、信長が斎藤竜興を攻撃するさいに、その領国の美濃が、信玄の支配下にある信濃の木曽と境を接しているから、その間、たがいに誤解を生じ、争いをおこすことを恐れたからである。  そこで、信玄と親睦をはかるために、信長の妹婿《いもうとむこ》にあたる美濃の苗木《なえぎ》の城主遠山友勝のむすめを信長の養女にし、これを信玄のむすこ武田勝頼にめあわせることを申し出たのである。信玄はこれを承諾した。そこで信長は、永禄八年(一五六五)の十一月、織田掃部に命じ、信長の養女を甲府に送り届けさせた。その嫁入りの行列は美装をこらし、人目を奪った。婚礼の儀式は同月十三日に挙行された。  その後二年を経て、勝頼とのなかに男子が生まれた。これが武田信勝である。しかし、勝頼の妻遠山氏が産後まもなく病死したため、信長はさらに、信玄の六女松姫を、信長の長男信忠の妻に迎えることを約束したが、まだ両人が幼少のため、許嫁《いいなずけ》の間柄となっていたのである。  信長は、だいたい、以上のような準備工作、つまり、外交工作をととのえてから、改めて、斎藤竜興の領国美濃にたいして全面的な大攻勢を開始したのである。その点、信長の頭脳は明晰で、行動ははなはだ合理的であり、剛毅放胆な反面に、細心緻密なところのあったことがわかる。 [#1段階大きい文字](三)信長の美濃経略 『美濃明細記』・『美濃国守護伝記』によると、斎藤竜興は、天文十七年(一五四八)に義竜の長男として生まれ、幼名を喜太郎という。永禄四年(一五六一)に義竜が病死すると、十四歳で家督を相続し、稲葉山の井ノ口城に住んだが、しばしば織田信長の侵略をこうむり、国力は日ましに衰微していった。  ところが、竜興にたまたま妹があって、馬場殿《ばばどの》と称し、すこぶるつきの美少女であった。信長は、これを愛妾にしようとして、竜興に求めた。しかし竜興は、これを拒否し、——貴殿は、すでにわが祖父道三の女婿となっている。その夫人はすでに死去したが、いまさらわが妹を進呈するには、忍びがたい——と答えたため、信長は、竜興を憎み、永禄十年(一五六七)、稲葉良通以下の美濃三人衆が竜興と不和になったのに乗じ、兵を伊勢にだすと触れて、突如、竜興の居城井ノ口を攻めて、これを落去させた、というのである。  しかし、信長の美濃経略の目的は、美女を求めて拒否された鬱憤晴らしなどといった単純なものではない。上洛への足がかりとして、美濃を信長の分国《ぶんこく》となしたかったからだ。美女のでてくる話には、いったいに、小説の材料にはなるが、史実として信用しかねるものが多いし、美人のあたえた影響を誇張したばあいが目につく。信長など、数多くの戦国武将のなかでは、比較的美女に動かされなかった男の一人ではあるまいか。  つぎに、『美濃国古領侍伝』によると、斎藤竜興は、年少で国主となったため、とかく失政が多く、部下の諸将士も離反する傾向が多くなってきたという。しかも、『江濃記』によると、永禄七年(一五六四)の三月、西美濃の三人衆といわれた安東伊賀守・稲葉良通・氏家卜全(桑原三河守)らが、例の斎藤道三の遺言状にもとづいて、女婿の織田信長に、譲り状どおりに美濃の国を譲り渡すべきだと主張した。  これにたいして、日根野備中守弘就兄弟は、江北の浅井氏の軍勢を美濃に誘引して、妨害しようと企てた。しかし、日根野の企ては、江南の六角義賢の出動によって果たせなかった。  すると、やはり美濃衆の、竹中半兵衛|重治《しげはる》という軍略家が、主従わずか十八人で、稲葉山を一挙に占領するというクーデターを実行した。これにたいして信長は、道三からもらった譲り状をたてに、再三、稲葉山を譲渡するように交渉したけれども、重治はこれを拒否し、稲葉山をふたたび斎藤竜興に返還したという。  永禄七年稲葉山陥落説というのは、この小事件をもとに流布されたもので、それを実証する目的のもとに、永禄七年という年号のある偽文書さえ作製されている。しかし、信長の本腰を入れた美濃大攻勢は、その翌年(永禄八年)の東美濃経略からはじまっているのである。  永禄八年(一五六五)、信長は、居城を尾張東春日井郡の小牧山に移していた。そうして、ここを根拠地として、まず、斎藤氏の属城犬山を落とし、東美濃に兵を進めた。この方面には斎藤氏の支城がたくさんあった。それらの城々を占領しないと、稲葉山を総攻撃しても、腹背に敵勢を受ける恐れがあったからだ。  信長は、まず、尾濃の境目にある松倉城にはいった。松倉城は、坪内喜太郎利定の居城であった。『坪内系譜』によると、坪内氏は、姓は藤原。初め加賀を領し、富樫《とがし》氏と称した。藤左衛門頼定のときに流浪して、尾張にやってきたが、縁をもとめて犬山城代の織田|白巌《はくがん》に頼り、同国野武の城代坪内又五郎の家号を継いで坪内氏に改め、美濃の松倉郷を領していた。それ以来、坪内氏は、織田信秀・信長に歴仕し、利定も、永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間の戦いに、今川方の首級一つをあげている。  その居城の位置からいっても、このさい、信長が松倉城を利用しないわけがなかった。同城には、城主坪内利定のほかに、利定の祖父宗兵衛兼光・父|玄蕃允《げんばのじよう》勝定もいたため、信長は、かれら一族に東美濃侵攻の案内役を命じたのである。 『坪内系譜』によると、信長の足軽大将木下藤吉郎秀吉は、坪内利定らと相談して、美濃の川並《かわな》みの地侍《じざむらい》たちを懐柔し、織田方に味方させている。  木下秀吉は、これよりさき、天文二十三年(一五五四)、織田家の小者頭《こものがしら》一若《いちわか》という者の紹介で、十八歳で信長に仕えた。その後の事歴については、『絵本太閤記』などの稗史小説に、さまざまなおもしろいことがもっともらしく記述されているが、作り話が多く、信用できない。正確な文献史料で実証される木下秀吉の戦功としては、『坪内系譜』や『坪内文書』に見える事績をもって、初見とすべきである。  信長は、犬山の川向こうの敵城、鵜沼《うぬま》・猿啄《さるばみ》にたいして、伊木山に砦《とりで》を堅固に構築し、秀吉に地侍を貸しあたえ、これに拠らせた。ついで、秀吉を使者として鵜沼城に遣わし、城主大沢基康を誘致させている。  基康は、初めこれを拒否し、秀吉を人質として鵜沼城にとりこめたけれども、信長がまた別の使者を遣わして降伏を勧めたため、基康もついに信長に属する決心をし、大沢方の人質を秀吉に渡した。そこで秀吉は、その人質を舟にのせて松倉城に帰り、ついで、預かった人質を大沢基康にもどしている。これがかえって、基康を心服させる結果となったのである。  そんなわけで、鵜沼城は、信長の手にはいった。信長は、坪内利定の功績を認め、永禄八年(一五六五)十一月二日づけで、利定に知行をあたえた。つぎの知行目録は、木下藤吉郎秀吉の署判入りでだされているが、そのときのものであり、秀吉の文書として、もっとも古い。 [#ここから2字下げ] 参百貫文 反銭《たんせん》・小物成《こものなり》共に 下野 七拾貫文 十町名 弐拾貫文 宮田 弐百卅弐貫文 所々御台所入にて都合六百廿弐貫文 [#ここから3字下げ] 右 御判《ごはん》の表《おもて》、末代において御知行せらるべく候。 [#ここから2字下げ]     永禄八       十一月二日 [#地付き]木下藤吉郎      [#地付き]   秀吉(花押)       坪内喜太郎殿 [#ここで字下げ終わり]  文中に「御判《ごはん》の表《おもて》」というのは、信長の判形《はんぎよう》のある知行|宛行《あてがい》状のとおり——という意味である。  大沢基康誘降のことは、『絵本太閤記』や『真書太閤記』にもみえるが、年代も、前後の事情も、まったく無視して、ただ興味本位に書かれている。ことに、秀吉の手柄だけを誇張し、坪内氏一族の助力が与《あずか》って大きかったことを無視し、一時、秀吉が鵜沼城にとりこめられて苦境におちいったことなどには、少しも触れていない。 『大沢系図』によれば、大沢基康は、その後、信長から疑われ、ついに鵜沼を出奔したが、その子の主水《もんど》は、後に秀吉に仕えている。それを、『絵本太閤記』などでは、上島主水を基康の弟に仕立て、斎藤竜興方のスパイとみなし、信長の面前で長短の槍仕合《やりじあい》などをやらせている。長短の槍仕合は、『絵本太閤記』のなかでも、いちばん興味の深い場面で、もっともひろく歴史ファンに知られているが、残念ながら、『絵本太閤記』の作者竹内確斎の創作とみなすほかあるまい。確かな文献史料には、まったく見あたらぬ。  信長の東美濃経略は、この大沢氏の誘降にはじまり、ついで加治田城の佐藤紀伊守を降し、同年(永禄八年)八月には多治見修理の猿啄《さるばみ》城を落としいれ、九月、さらに堂洞《どうとう》城にのがれた修理を攻め、また、武儀郡|関《せき》城主の長井|隼人佑《はやとのすけ》と戦っている。この辺のことは、『信長公記』に少しくわしく記述されているが、年代の記載はない。 [#1段階大きい文字](四)斎藤三代目竜興の滅亡  東美濃の経略をだいたい終えると、信長は、いよいよ西美濃に出馬し、斎藤竜興の本拠である稲葉山井ノ口城の総攻撃にとりかかった。  その前に、信長は、斎藤家の重臣で美濃三人衆といわれた、例の稲葉伊予守良通・氏家卜全・安東伊賀守の誘降に成功している。この三人衆は、いうまでもなく、元来、美濃の守護大名土岐氏の家臣であったが、斎藤道三が土岐氏を国外に追放し、これに代わって美濃の国主大名に成り上がると、これら三人衆も、斎藤家臣に転向している。  しかも、道三が、その長男の義竜と親子戦争を行ない、その結果敗死すると、義竜の重臣となったけれども、その義竜も病死し、三代目の竜興の時代になって、信長に攻められ、とうてい勝ち目がないと悟ると、かれら三人衆は、いまさららしく、道三の遺言状や信長への譲り状の主旨に従い、美濃の国を信長に譲って隠退するようにと、竜興に勧めた。しかし、永禄八年(一五六五)当時、竜興は十八歳になっており、祖父の道三や父の義竜に似て、負けぬ気性の人物だったので、三人衆のいうことなど耳にも入れていない。  さて、信長が稲葉山を直接攻めるためには、大垣の東方、長良川の西岸にある洲股《すのまた》(墨俣)に堅固な砦を築き、そこを足がかりとするのが、先決問題であった。信長も、美濃経略に着手した当初、ここに砦を築いたが、それを確保できずにしまった。ここは、敵地に深入りしているし、長良川を前に控えているから、砦を築くだけでも危険きわまる難事業である。  つぎに紹介するのは、永禄九年(一五六六)閏八月十八日づけで、甲斐の武田信玄に送ったかと思われる斎藤家臣|氏家《うじいえ》常陸介《ひたちのすけ》直元以下四名の連署状であって、甲斐の『中島文書』に収めている。 [#ここから2字下げ] 一、去る廿九日、織上当国|堺目《さかいめ》へ出張候。其の時、以外に水迫り候て、河表を打渡り、河野嶋へ執り入り候。即時に竜興懸向かい候。これに依って、織上引退き、川縁に陣を居《す》え候。国の者ども、堺川を限って、陣を詰め、取り続き相寄り候。自《おのずか》ら出張の翌日、風雨洪水に付いて、自他|行《てだて》に及ばず候いき。漸《ようや》く水引き候間、取懸り相果たすべきの由、儀定せしめ候の処、去る八日未明に織上敗軍仕り候。川へ逃げ入り没し、水に溺《おぼ》れ候者ども数を知らず候。残党川際において少々討ち候。兵具|已下《いか》捨て候|躰《てい》たらく、前代未聞に候。一戦を遂げずに退散候の間、数多《あまた》討捕らざること、無念少なからず候。然りと雖《いえど》も、此方、存分にまかせるの条、御心易かるべく候。織田在陣中注進申すべく候えども、程なく落居候間、其の儀なく候。此等の通り、御伝語、畏《かしこ》み存ずべく候。尊意を得べく候。恐惶敬白。 [#ここから2字下げ]   閏八月十八日 [#地付き]伊賀平左衛門尉      [#地付き]     定治(花押)  [#地付き]延永備中守        [#地付き]     弘就(花押)  [#地付き]成吉摂津守        [#地付き]     尚光(花押)  [#地付き]氏家常陸介        [#地付き]     直元(花押)  [#ここで字下げ終わり]  この連署状は、宛名の部分が切れていて、だれにあてたものか明らかでないが、文意からみて、甲斐の武田家臣某にあてたものらしく、その某を通して、武田信玄に、「織上」、つまり織[#「織」に傍点]田上[#「上」に傍点]総介信長との戦いの模様を知らせたものと推測する。  前文が闕逸《けついつ》しているらしくも思われるが、一ヵ条としては少し長文すぎるし、前文がなくても、意味は一応通じるようである。内容は、——去る八月二十九日(永禄九年)に、織田上総介(信長)が、当美濃の国境《くにざかい》まで押し寄せ、木曽川を越えて河野島に上陸した。そこで、ただちに斎藤竜興が駈けつけたため、織田上総介は退き、川岸に陣取った。美濃衆は、境目の川を限って陣を詰め、防衛に当たった。尾張勢が押し寄せてきた翌日、風雨が烈しく、洪水となり、敵味方ともに一戦も仕かけられなかった。そのうちに、ようやく水がひいたので、攻めかけて尾張勢を討ち果たす予定でいたところが、閏八月八日の未明に、織田上総介が敗北し、川に逃げこんで、水に溺れる者が数知れなかったが、残党を川岸で少しばかり討ち取った。尾張勢は、兵具以下みな遺棄し、散々なありさまで、前代未聞の敗走ぶりである。一戦をもとげずに退散したため、たくさん討ちとることができず、はなはだ残念であった。しかし、当方の存分にまかせたから、御安心願いたい。織田勢と対陣中に御報告するはずであったが、まもなく敵が落去すると思っていたので、お知らせしなかった。これらのもようを、そのまま、信玄公にお言伝《ことづて》して頂きたい——というのである。  この四人の斎藤家臣のうち、氏家常陸介直元というのは、いわゆる美濃三人衆の一人で、後の卜全だが、永禄七年(一五六四)に斎藤竜興に背いて信長に通じたというのが誤説であることは、この連署状によって明らかである。常陸介が信長に通じたのは、少なくとも、永禄九年閏八月以後、大略、同十年ごろとみるべきで、その結果、剃髪して、卜全と号したのであろう。  卜全は、元亀二年(一五七一)五月、信長の伊勢長島一揆討伐のとき、信長の部将柴田勝家に従って出陣し、柴田勢が総退却したさいに、殿《しんがり》軍をつとめ、太田で戦死している。その子の行広と行継は秀吉に仕え、関ケ原役には西軍に属し、兄の行広などは、大坂落城のとき、豊臣秀頼の死に殉じてさえいる。  しかし、親の氏家常陸介は、この永禄九年(一五六六)閏八月十八日づけの連署状に名をつらね、信長を木曽川岸で撃退したことを武田方に報告しているから、当時なお、斎藤竜興の重臣だったことが、実証される。  ともかく、このときの戦いでは、信長も、竜興の重臣たちから嘲笑されるほど惨敗したらしい。このとき、信長は、すでに東美濃の経略を終えたため、最初のとおり、西美濃口から稲葉山に向かって攻め入ろうとした。しかし、大垣城主の長井道利らが西方から強襲したため、信長が敗北したらしい。ところが、九月になると戦局は一変し、信長が有利な地位を占めることになった。  信長は、やはり、洲股《すのまた》(墨俣)に堅固な砦《とりで》を造り、そこを稲葉山攻撃の足がかりにするほかないと考え直した。しかし、ここに砦を造っても、これを固守する者がいないかぎり、無意味である。そこで、この大仕事をひきうける者を探したが、みな二の足を踏んだので、結局、木下藤吉郎秀吉がこの難役を果たすことになった。  永禄九年(一五六六)の九月、信長は、北畠氏攻略のため、伊勢に砦を作るためと触れ、作事奉行に命じて、大小の長屋十軒、楼十、塀二千間、棚木五万本を仕立てさせ、尾張一国の軍勢を三分し、その一分をもって敵の逆襲に備え、他の二分をもって洲股築塁《すのまたちくるい》の工事にあたらせることにした。  これらの資材を、まず木曽川の上流に運び、筏《いかだ》に組んで川を下らせ、同時に、信長みずから将兵を率い、某日の未明に小牧山を出発して、洲股に到着し、部下を指揮して、筏に組んだ資材を洲股に運ばせ、一挙に築塁にとりかかった。  急報を受けた斎藤竜興は、しばしば執拗に洲股に襲撃してきたが、信長は、巧みにこれを防ぎながら、昼夜兼行、わずか二、三日で、この難工事を終え、木下藤吉郎秀吉にこの砦を守らせた。  木下秀吉は、稲田貞祐・青山秀昌・加治田景儀・蜂須賀正勝などの諸士を番手と定め、機をみて敵陣に夜襲を試み、勝利を収めた。明けて永禄十年(一五六七)の八月朔日、美濃三人衆の稲葉良通・氏家卜全・安東伊賀守が相談した結果、信長に味方するから人質を受け取ってほしいと申し出てきた。信長は、村井民部丞・島田所之助を人質受け取りのため西美濃へ遣わしたが、その人質も到着しないうちに、急に軍勢をだして稲葉山城を攻めた。  そのときも、秀吉が、まずこの城の地勢をよく調べた結果、大手の攻め口を弟の木下小一郎秀長(後の羽柴秀長)にまかせておき、自分は、蜂須賀正勝以下七人の配下を引き連れ、山の間道《かんどう》を通って、搦《から》め手に回ろうと考えた。それぞれ、腰には兵粮をつけ、大きな瓢箪に酒を入れたのを、正勝の弟又十郎に背負わせ、瑞竜寺山《ずいりゆうじやま》に登り、峰づたいに、細道を稲葉山のうしろの牧田にでた。山道のけわしさはたとえようもなく、岩石がそばだち、人路はとだえ、松柏《しようはく》おい茂って月の影を隠したが、秀吉の身の軽さは、あたかも猿のようであったと、『絵本太閤記』は書いている。  秀吉が、いかに身が軽かったといっても、尾張平野で生い育った人間が、そのような峻嶮を、ましらのように這いめぐったとは信じられない。これもおそらく、小猿とか猿とかいったニックネームにたいするコジツケであろう。  ともかく、秀吉は、いろいろと苦労しながら、裏道から稲葉山の絶頂に登ることができた。そこで、はるかに山下をみおろすと、敵の城が眼下にあるが、秀吉の推測したとおりに、搦め手は、嶮岨な地形を頼みとして、一人の番兵も置いていないようすだ。それを見とどけた主従八人は、山を降り、塀ぎわに近づき、一丈あまりの細堀を、木々を押し倒し、それを掛橋《かけはし》にして渡り、城内に忍び入り、番兵十余人を斬り殺し、具足をはぎとって斎藤方の兵士に擬装した。  それから、柴や薪を積んだなかに火を放ち、飯びつをもって攻め口へ兵粮を運ぶようすにつくろい、大手のほうに急いだが、斎藤方の軍勢は、だれ一人としてこれを怪しみとがめる者とてなかった、というから、もちろん運もよかったのである。  秀吉たちは、大手の塀ぎわに回り、かねて弟の小一郎としめしあわせておいたとおりに、酒器に使った瓢箪を竹の先に結びつけ、塀ぎわ高くさしだした。同時に、蜂須賀正勝が、——水門の樋《ひ》をひきあげ、ここから押し入って、打ち破れ——と、手をあげて味方をさし招いた。木下小一郎は、瓢箪のしるしをみると、六百余の手勢を率いて、塀ぎわに押し寄せ、正勝の案内に従って堀に飛び入り、水門から城内に侵入した。  城兵たちは、これを見て大いに驚き、鉄砲や矢石を飛ばし、防戦したけれども、おりから、秀吉が柴や薪のなかに放っておいた火が、一時に燃えあがり、黒烟天を衝き、凄まじい様相を呈した。城内は、上を下への大さわぎとなる。この大混乱に乗じ、六百余の木下勢が城内に乱入し、大門を開き、鬨《とき》の声をあげたので、城外に控えていた信長の大軍もこれに呼応して、鬨の声をあげて攻め入り、稲葉山の井ノ口城の二の丸までうち破ったから、城主の斎藤竜興もついに降参し、城を明け渡したのである。  稲葉山の落城も、このように、ひとえに木下秀吉の智謀策略によるものであった。そこで信長も、秀吉の功労を賞讃し、美濃の国の内で多くの知行をあたえたうえに、味方の合印《あいじるし》に使った酒器の瓢箪にちなみ、瓢箪を馬じるしに用いることを許可したといわれる。つまり、縁起がいいからであった。  そこで秀吉も、その後は、城攻めのたびごとに、もっぱら瓢箪の馬じるしを使い、信長の許可を得て、戦功のあるごとに、小さな瓢箪を一つずつふやしていったので、これを千成瓢箪《せんなりびようたん》とよぶようになった。この千成瓢箪の馬じるしを戦場でながめた敵勢は、一戦も交じえないうちに、——木下の軍勢だ——といって、おじけだったといわれている。  この話は、太閤秀吉の一代記のなかでもっとも名高い逸話として、世に伝わっているが、『絵本太閤記』以外の記録にはほとんどみあたらない。 『信長公記』によれば、信長は、八月朔日、城下の町に放火し、即時に稲葉山の井ノ口城を裸城《はだかじろ》にしてしまった。その日は、意外に風が強く吹いたため、見るみるうちに裸城になってしまったという。  翌日(八月二日)、信長は、はやくも井ノ口城の改築に着手し、四方に鹿垣《ししがき》を結いまわし、普請場を造っていた。そこへ、例の美濃三人衆が参向し、恐るおそる降伏許可の礼を申し述べたという。  稲葉山井ノ口城主の斎藤竜興は、八月十五日になって、ついに降参を請い、木曽川を舟で下って伊勢の長島へと退散した。  ここにいたって、道三・義竜・竜興と三代つづいた美濃の国主大名斎藤家もついに滅亡し、美濃一国は織田信長に征服され、信長の上洛制覇の足がかりとされたのである。  その後の斎藤竜興の末路について、くわしいことは分明しないが、『江濃記』・『美濃明細記』・『常在寺記録』などによると、伊勢の長島から摂津に赴いて、三好三人衆に頼り、一向一揆とともに、反信長戦線の一翼をにない、また、近江の浅井氏を経て、越前の朝倉義景に頼った。そうして、天正元年(一五七三)八月、朝倉氏が信長に追討されたとき、竜興は、朝倉軍に与《くみ》して越前の刀禰山《とねやま》の戦いに参加し、同月十四日、二十六歳の若さで敗死したという。  法名を瑞雲庵竜興居士といったといわれるが、『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとある。  つぎに、斎藤竜興の書状を一通だけ紹介しておく。 [#ここから2字下げ] 代初《だいはじめ》の儀について、太刀一腰・馬一匹、これを進ぜしめ候。寔《まこと》に祝言を表わす事に候。今より已後《いご》、他に異なり候わば、祝着《しゆうちやく》たるべく候。猶《なお》、渓雲軒申すべく候。恐々謹言。   十一月十三日 [#地付き]竜興(花押)     式部少輔殿         進之候 [#ここで字下げ終わり]  これは、竜興が足利将軍家臣一色式部少輔藤長にあてて、代初の儀について太刀一腰と馬一疋を祝言に贈り、今後の交誼を期したもので、永禄八年(一五六五)の書状と推定される。  同年五月、三好三人衆と松永久秀が足利十三代将軍義輝を殺害し、将軍職が空位となったため、三好党は四国の阿波にいて阿波公方《あわくぼう》とよばれていた足利|義栄《よしひで》を迎え、同年七月、足利の家督を相続させた。それを「代初《だいはじめ》」と称したのであろう。ちなみに、義栄の十四代将軍宣下は、同十一年(一五六八)二月八日のことである。  一色氏は、足利氏の一族で、丹後宮津の名家として知られていた。斎藤道三の愛妾深芳野の実家でもあるといわれている。したがって、道三と深芳野のなかに生まれた道三の三男喜平次も一色氏を称したのであった。一色藤長は、信長に擁立された足利十五代将軍義昭の側近衆をもつとめ、信長や明智光秀とも親しかったが、光秀の命令で細川忠興の暗殺をはかり、逆に忠興のために殺害されたといわれている。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]二 道三と信長 [#1段階大きい文字](一)蝮の道三に学んだ信長  さて、蝮の道三以来、義竜・竜興と三代にわたって強力に支配した美濃の国を、舅《しゆうと》道三の仇を討つといった大義名分のもとに、道三の孫竜興を討ち滅ぼすことによって、その支配権を道三から譲り受けた織田信長は、斎藤氏三代の本拠稲葉山を岐阜と改め、井ノ口城を岐阜城と改め、ここを拠点として上洛し、日本全国の平定と統一の覇業に着手したのである。  しかし、その覇業の中途にして家臣明智光秀の反逆によって打倒されたところは、君臣と親子の相違こそあれ、道三がその長男の義竜のために討ち果たされたのと、その末路の非業さにおいて、相通ずるものがあった。  ということは、たんに、舅であった斎藤道三のやりくちを、婿である信長が真似したために、同じような結末をみたというよりも、むしろ、美濃一国を征服するとか、天下を平定するとかいった一つの目的を仕とげるためには、手段を選ばないといった、その行動力の烈しさが、覇業の効果を加速度的にあげると同時に、他人の意向を顧《かえり》みない強引さが、人の恨みを買う原因となったという点で、両者が共通していたのである。  斎藤道三は、一介の油売りの行商人から美濃の国主大名に成り上がるのに十数年を要したが、そのような道三の裸一貫の国盗《くにと》りぶりが、道三の愛娘帰蝶(濃姫)を嫁にもらった若き日の信長に影響をあたえたことは、当然といえるだろう。  信長の父織田信秀も、そのような道三の実力に一目も二目も置いていたので、東方からの今川軍の圧迫に対処するため、美濃の斎藤道三と同盟を結んだのであって、その同盟締結のくさび[#「くさび」に傍点]としての帰蝶との結婚であった。  道三と信長と、舅と婿の初対面が、濃尾境の富田《とだ》の正徳寺で行なわれたとき、信長は、蝮の道三にたいして毫も臆した色を見せず、むしろ傍若無人ぶりを発揮したが、一応の礼儀は守ったのである。  いっぽう、道三は、信長にたいして、一目も二目も置いた恰好になった。だから、信長のことを「たわけ」といった家臣|猪子兵介《いのこひようすけ》に向かい、「されば、無念なる事に候。山城が子供、たわけ[#「たわけ」に傍点]が門外に馬をつなぐ事、案の内にて候」と答えたのである。信長にたいする道三のこのような陰の評価は、もちろん信長の耳にははいらなかったに相違ないが、道三が自分に一目置いていることは、そのときの道三の態度によって、無言のうちに信長も感得したことであろう。したがって、信長も、舅道三の期待に背かず、尾張の平定に向かって一路|邁進《まいしん》したらしい。  道三の長男義竜が、道三のえこひいきに怒り、道三の支持する次男孫四郎と三男喜平次を謀殺したのをきっかけとして、道三が義竜と決戦を交じえねばならなくなったとき、道三は、その末子勘九郎に遺書を送り、そのなかで、美濃の国を織田信長に譲渡することにきめ、譲り状を信長に送ったことを報告している。  そのころ、尾張平定のために、その一族と血をもって血を洗うような戦いを繰り返し、しかも、東から今川義元の圧迫を受けていた信長は、美濃の大良《おおら》まで出陣したが、ついに道三の危急を救うことができなかった。  しかし、道三から美濃の国の譲り状を受け取った信長は、美濃を乗っ取ってもいいという大義名分を得たのだから、その目的を遂行するために、是が非でも尾張の平定と統一を急がねばならなかった。ここに、目的のためには手段を選ばぬといった道三流の非情措置が信長によってとられた。かくて信長は、庶兄と伯父と舎弟を血祭りにあげた。  そうして、骨肉の返り血を浴びた凄まじい迫力にものいわせ、大軍を催して西上してきた今川義元を、その十分の一の兵力で強襲し、義元の首級を得ることによって大勝利を博したのである。  斎藤道三は、法華宗の信者である松浪基宗を父にもち、その父のいいつけで京都の妙覚寺にはいり、法華坊主となって仏学と修行に励んだが、その結果、日護房のような高僧|名晢《めいせき》とはならずに、他宗|折伏《しやくぶく》といった烈しい教理から学び取った信念をもって、還俗《げんぞく》後の人生行路において、とうてい不可能なことを可能ならしめようとした。その結果、一介の油売りの行商人から美濃の国主大名に成り上がった。  かれのように裸一貫で国主大名に出世したものは、戦国大名数多しといえども、北条早雲と豊臣秀吉しかほかにないのである。しかも、早雲には、かれの妹の縁者である駿河の守護大名今川家という有力な背景があったし、秀吉には、織田信長という強力な主君があった。が、斎藤道三のばあいは、京都妙覚寺時代のおとうと弟子日護房の兄長井豊後守利隆が、美濃守護大名土岐氏の執権だったという、ただそれだけのコネである。いかに道三自身の実力に比重がかかっていたかが、わかるではないか。  信長のばあい、一定の宗教について教理を学んだり、修行を積んだわけでもないし、父信秀の帰依していた妙心寺派の禅僧|沢彦《たくげん》の影響を受けたか受けないか、その点も明らかでないが、ともかく、死生一如といった、戦国武将にふさわしい人生観に徹していたことは否定できない。それは、かれがつねに愛誦し、口ずさんでいたという幸若舞『敦盛《あつもり》』の「人間五十年、下天《げてん》のうちをくらぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》のごとくなり。ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか」といった一曲の文意によって知ることができよう。  つぎに、斎藤道三は、つねに周囲の情報に精通していた。そのため、先の見通しが利き、その目的を果たすことが容易にできたのである。ことに、裸一貫で美濃の国の乗っ盗《と》りに成功したのは、油売りの行商をしながら、つねに守護の土岐家・守護代の斎藤家・執権の長井家の内訌《ないこう》、または相互の勢力争いにかんする情報を集め、それに精通し、その弱点を衝いたからである。  信長も、そうした道三の情報通に真似たか、影響を受けたかは、明らかでないが、放胆で、決断力に富む反面、情報の聴取や戦略の行使にあたっては、きわめて細心な注意を払っている。たとえば、桶狭間の戦いは、一見、強引ななぐりこみの奇襲戦のようだが、じつは、今川の総兵力二万五千のなかにある義元の本陣に属する五千の将兵が、桶狭間に向かう田楽狭間の隘路《あいろ》において、細ながい縦隊になって通過せざるをえないといった敵の弱点をみぬき、総大将今川義元がその地点をいつ通るかといった時刻をも詳細に計算し、その地点を、その時刻に、織田軍約二千の総兵力で奇襲するといった、しごく合理的な戦術を用いている。  また、斎藤道三は、法華坊主から油売り商人になったかと思うと、ふたたび武家を志し、大名となる野心をおこしたり、さらに、西村勘九郎正利、長井新九郎規秀、斎藤左近大夫利政、山城守利政、山城入道道三といった具合に、何度となく姓名を変え、変わり身の鮮やかさをみせ、つねに人物的印象の新鮮さをはかっている。  これにくらべて信長は、尾張|下《しも》半国の守護代の家老の家柄に生まれただけあって、道三ほどのイメージ・チェンジを必要としなかったけれども、その居城を尾張の那古野《なごや》から清洲《きよす》へ、清洲から小牧山へ、美濃を平らげると、稲葉山を岐阜と改めて、小牧山から岐阜へ、さらに、岐阜から近江の安土へ、といったように、その根城《ねじろ》を中央へ、中央へと、前進させている。  そうして、禅僧沢彦に撰ばせた印文「天下布武」の印章を用い、しかも、その印章の形状が、楕円形《だえんけい》から馬蹄形《ばていけい》へ、さらに双竜の飾りのついた円形へと変化するといった創意は、居城のばあいと同様に、やはり信長の転身を表現するものにほかならない。  つぎに、旧い秩序と道徳を破壊し、既成の権威に反逆した点でも、道三は、信長に先行し、信長は、やはり道三の影響を受けているかの観がある。  たとえば、道三は、美濃にきてから、守護大名土岐盛頼の執権長井長弘の信任を得、その紹介で盛頼の弟|頼芸《よりなり》に近づき、その信頼を得ると、頼芸に勧めて盛頼を越前に追い、ついで長井長弘を上意討ちにし、守護代斎藤氏の跡目を相続して斎藤新九郎利政と称すると同時に、兄盛頼に代わって守護大名となった頼芸をも尾張に追放し、みずから国主大名と成り上がった。  信長もまた、尾張下半国の守護大名であった斯波義統《しばよしむね》を守護代の織田信友に討たせ、のちにその子|義銀《よしかね》を那古野《なごや》城に押しこめ、守護代の織田彦五郎信友を討ち取ってその居城清洲を奪い、さらに、上半国の守護代で岩倉城主の織田伊勢守信賢を討って上半国を併有し、さらに尾張に侵入した外敵今川義元を桶狭間の一戦で討ち滅ぼし、その余勢をかって尾張一国を統一している。そうして、尾張の国主大名に成り上がると、美濃の国主大名斎藤家の内訌に乗じ、道三の孫斎藤竜興を国外に追放し、美濃の国をも兼併した。  ついで、三好・松永の党に暗殺された足利十三代将軍義輝の弟|義昭《よしあき》を奉じて上洛し、これを十五代将軍とした。しかし、五畿内を鎮定するにつれて、信長は、中央の政権を掌握し、これを不満として打倒信長戦線を布《し》いて信長に敵対する足利義昭をついに京都から追放し、足利幕府に代わる織田内閣を形成して日本全国の平定と統一に乗り出したのである。その点、斎藤道三などよりも、信長のほうが、理想も高く、仕事の幅もはるかに広いが、その下剋上的行動の鮮やかさと、テンポの速さにおいては、共通するものをもっている。どこまでも合理的で、能率主義で、バイタリティーに富んでいるところも、両者が共通している。  しかも、史上の有名人物として、いや一個の人間として、両者のもっとも共通するところは何かといえば、それは、六十三年なり、四十九年なりの生涯のうちに、それぞれ、自分の欲するがままに、思う存分の行動をほしいままにし、あえて、後世の史家の評価、他人の思惑などを、あたまから無視してかかった点であろう。  とくに、国盗り物語の第一の主人公である斎藤道三のばあい、蝮《まむし》とか、梟雄《きようゆう》とかいわれて、心ある人々に忌み嫌われていながらも、その行動には、なんとなく、一種の明るさとユーモラスが感ぜられる。これは、道三に、偽善者らしい面が少なく、むしろ偽悪者とみられるような面が多いために、その悪行《あくぎよう》のかずかずが、あまりにも露骨に発揮されていて、それを隠そうともしないところに、かえって人間的な魅力をおぼえさせられるからであろう。  たとえば、油売りの行商人としての山崎屋庄五郎の油の計り方、美女深芳野をめぐる土岐頼芸とのいきさつ、女婿《むすめむこ》織田信長との正徳寺での初対面のもようなど、蝮の道三の面目躍如たるものがある。極刑の牛裂《うしざき》はともかく、釜煎《かまいり》のばあい、釜の火を罪人の妻子に焚《た》かせるなど、そのやり方があまりにも悪どすぎているために、凄惨さを通り越して、むしろ滑稽さをおぼえさせられるのは、不可思議だ。  長男義竜との親子戦争で討死をとげる最期の場面も、義竜の家臣の功名争いのために、首を打たれ、鼻までそぎとられたところも、悲惨を通り越して、ユーモラスである。  戦国乱世に処して、斎藤道三ほどやりたい放題のことをやってのけた男も、ほかにいない。また、人間の弱点を、これほどまでにさらけだしてみせた人物もほかにいないようだ。そこに、人間的な魅力がある。人生は一種の劇場であり、人間の一生が演出の連続であると仮定すれば、斎藤道三は、人生劇場の名優といってよかろう。しかも、かれは、悲劇の名優というよりも、むしろ喜劇の名優であったといえよう。 [#1段階大きい文字](二)道三を引き離した信長の行動  道三にくらべると、国盗り物語の後継者と目される織田信長には、道三ほどの人間味とユーモラスが感ぜられない。  信長は、一人の極悪人を釜煎《かまいり》にし、その妻子に釜の火を焚かせるかわりに、比叡山の僧徒千数百人を殺戮し、長島城にこもった一揆の男女二万人を焼き殺し、越前の一向一揆一万二千余人を搦《から》め捕って誅戮《ちゆうりく》したことが、『信長公記』によって知られる。  こうなると、ユーモラスどころではない。この信長の大殺戮は、もちろん道三のような美濃一国の支配とは違って、日本全国平定、戦国乱世に終止符を打つための大破壊工作の余波であったといえば、それまでだが、この多量殺戮は、異教徒か異民族にたいする殺戮方式であって、世界史的な背景をもつものだ、と説く学者もいる。たしかにそうかもしれない。しかし、信長のばあい、建設の面においても、道三などにくらべて、その規模の大きさは、驚くべきものがあった。  たとえば、信長は、斎藤竜興を伊勢の長島に追放すると、焼け崩れた井ノ口城をただちに大改築し、稲葉山を岐阜、井ノ口城を岐阜城と改めている。これは、周の武王が岐山《きさん》に興ってついに天下を平定した故事にもとづき、沢彦《たくげん》禅師にその名称を撰ばせたというが、岐阜というのは、元来、城が岐蘇川《きそがわ》に沿うているところから名づけたものらしく、すでに、五山の詩僧万里集九の文集『梅花無尽蔵』にも、「岐阜」と見えているから、かならずしも沢彦の創作とはいえまい。  信長は、この岐阜城をもって上洛制覇への軍事的・政治的の根拠地と定め、妻妾、家臣や家臣の妻子まで、尾張の清洲城からここに移転させ、旧井ノ口城下の加納《かのう》市場をも含めて城下町の経営をはかり、加納市場を楽市《らくいち》楽座と定め、中世的な独占排他的な商業組合である座の否定に乗り出している。  座の否定は、荘園制度の否定にもつながっていた。つまり、市場を座の独占から開放し、新規の商人をも加入させ、自由な取り引きを許可したが、それは同時に、市場商人を城下町に繰り入れ、城主の独占支配となすことであった。  このようにして完成された岐阜城の面目の一新さには、耶蘇会の宣教師ルイス・フロイスも驚嘆したらしく、その詳細については、『耶蘇会士日本通信』の一五六九年(永禄十二)四月の書翰に見える。  ——城下町の人口は一万近くもあり、その賑《にぎわ》いはバビロンの都を想わせるし、城内の宮殿は、一階に二十数個の座敷があり、屏風《びようぶ》・襖《ふすま》が黄金色に光りかがやき、廊下の板は鏡のように光り、壁画には和漢の物語絵を描いている。これに数劃の美麗な庭園を配し、池、滝、花壇がある。宮殿の二階には、王妃の休息室、侍女の控え室が多数にあり、座敷に金襴《きんらん》の布を張り、一階よりもさらに美しい。三階には、閑寂なところに茶室があり、三階・四階からみおろすと、宮殿の周囲一帯に重臣たちの住む新邸がぞくぞくと建てられていた——。  そうして、フロイスは、——自分がポルトガルやインドから日本にくるまでに見た宮殿や家屋のなかで、こんなに精巧で美麗なものは、見たことがない。信長は、来世を信じない人物で、現世だけを認めているから、かれ自身のために、地上天国を造ろうとしたのである。だから、岐阜城の結構の宏壮さは、形容の言葉すらない——と、感想を述べている。  信長は、この岐阜城を根拠として、三好・松永の党に弑逆《しいぎやく》された足利十三代将軍義輝の弟義昭を越前から迎え、これを奉じて、永禄十一年(一五六八)の九月に上洛をとげ、三好、松永らの擁立した十四代将軍足利|義栄《よしひで》を阿波に追放し、義昭を十五代将軍と定め、翌年(永禄十二年)、将軍の居城として、京都に二条城を築いた。  この二条城は、岐阜城をはるかにうわまわる宏壮なものだが、この二条城築造にあたって、みずから作事の監督にあたった信長のもようを、『日本西教史』は、つぎのように報告している。  ——信長は、みずから宮殿の設計をし、およそ二万人の工夫《こうふ》を使役させるために、工匠や町の年寄などをも動員したが、その工事を迅速《じんそく》ならしめんがために、かれみずから、虎の皮を身にまとい、白刃を手にし、石匠や人夫の中央に立つのをつねとした。だから、そのような恰好をした信長が、目の前にあらわれると、戦慄《せんりつ》しない者はなかった。  あるとき、工夫《こうふ》として働いていた一兵卒が、その場を通りかかった一婦人の面布《めんぷ》を引き上げ、その容貌をうかがおうとした。すると、はるかかなたでこれを目撃した信長が、たちまちその兵卒に近づき、一言も詰問することなく、その首を刎《は》ねてしまった——。  万事がこういった調子だったから、信長の家来たちも、つねに戦々兢々として、薄氷をふむ心地でいたに相違ない。いつ殺されるかわからぬ専制君主くらい怖いものはなかったであろう。  信長が、尾張・美濃両国を平定し、足利義昭を奉じて上洛した翌年、つまり永禄十二年(一五六九)、京都の二条城で信長に会見を許された例のフロイスは、『耶蘇会士日本通信』のなかで、信長のことをつぎのように観察し、批判している。——この尾張の国王は、年のころ三十七歳ぐらいで、丈《たけ》高く、体がやせ、ひげが少ない。声ははなはだ高くて、たいへん武技を好み、性質が粗野である——と。  これは、おそらく、信長の第一印象であろう。愛知県の長興寺にある、もっとも確かな信長の画像を見ると、五三《ごさん》の桐の紋をつけた萌黄《もえぎ》色の裃《かみしも》を着し、腰に太刀《たち》をはき、正坐した姿を描いているが、スマートなスタイル、色白のほそおもて、小さな口ひげは、フロイスの受けた印象と一致する。ただ、都の公達《きんだち》でも見るかのような端麗な風貌は、「性質が粗野である」というのと矛盾するようだが、顔に似合わぬ粗暴さが、信長の特徴だったに相違ない。  宣教師フロイスの観察は、なおもつづく。——正義と慈悲の業をたのしみ、傲慢《ごうまん》で、名誉心がつよい。部下の進言に従うことはめったになく、独断専行で、ほとんど規律に服従しないが、戦術は巧みである。諸人から異常な畏敬を受けているが、日本の王侯をことごとく軽蔑し、まるで、下役人にたいするかのように、相手の肩の上から言葉を交わす。しかし、人々は、至上の君にたいするがごとく、信長に服従している——。信長がいかに尊大な暴君であったかがわかる。  つぎに、フロイスは、——善《よ》き理解力と明晰な判断力をもち、神仏その他の偶像を軽視し、異教いっさいのうらないを信じない。名義は法華宗だが、宇宙には造主もなく、霊法も不滅ではなく、死後はなにものも存在しないことを明らかに説いている——と述べ、そのころの日本人としてはまれに見る信長のあたまの良さを、ほめたたえている。偶像を軽視し、うらないを信ぜず、人間は死ねばそれまでであって、死霊のたたりなどあるわけがない、というのだから、はなはだ科学的な頭脳の持ち主だったことがわかる。  この点においては、——一子が出家すれば九族が天に生ず——とか、——法華|妙躰《みようてい》のなかにあって、生老病死の苦しみを離れ、修羅場において、仏陀の果報を得るだろうことを、嬉しい——とか、——たとえ、五体が不具になっても、成仏は疑いない——などと、その遺書に述べた斎藤道三とは、同じ法華信者でも、かなり相違していた。ただし、道三が辞世の和歌で、——捨てだに此世のほかはなき物をいづくかつゐのすみかなりけん——と詠んだ虚無的な人生観とは、相通ずるものがあった。  しかし、道三は、長男義竜と決戦を行なった結果、義竜のいくさぶりをほめ、「勢《ぜい》の使いよう、武者くばり、人数の立てよう、残るところなき働きなり。さすが、道三の子にて候。美濃の国|治《おさ》むべきものなり。とかく、われら誤りたるよ」と、義竜の良さを見ぬけなかった自分の愚かさを後悔している。そうして、このように述懐することによって、蝮の道三も最期に救われたらしいが、これにくらべて、本能寺の変における信長の最期は、さすがに、虚無に徹していた。  そのもようを、『信長公記』によってうかがえば、天正十年(一五八二)の六月二日の払暁、桂川をうち越えた明智光秀の軍一万三千人が、信長の御座所である本能寺を取り巻き、四方から乱入すると、「信長も、御小姓も、当座の喧嘩を、下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候ところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚《ごじよう》のところに、森乱《もりらん》申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候えば、是非に及ばずと、上意候」とあるから、信長は、さすがにあきらめがよかった。  それから、最期の場面は、「信長、初めには、御弓を取り合い、二、三つ遊ばし候えば、何れも時刻到来候て、御弓の絃《つる》切れ、其の後、御|鎗《やり》にて御戦いなされ、御|肘《ひじ》に鎗疵《やりきず》を被《こうむ》り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそいて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷《まか》り出でよと、仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深く入り給い、内よりも御|南戸《なんど》の口を引き立て、無情に御腹めされ……」とあって、やれるだけのことはやり終えて、従容《しようよう》として割腹《かつぷく》したところは、さすがである。  斎藤道三のように、親子戦争で子に負けて、自分の所行を後悔するようでは、一国の国盗りが精々であって、天下平定など、とうてい不可能である。信長のように、徹底した聡明さと非情さがあったればこそ、秀吉・家康に先んじて、日本全国の平定と統一に乗り出せたのであって、信長こそ、破壊の英雄であると同時に、建設の英雄ともいえるのである。  終わりに、余白を借りて、筆者が最近気がついた「稲葉文書」(東大史料編纂所本、大分県史料所載)所収の斎藤道三書状を読み下しにして、左に紹介する。 [#ここから2字下げ] (端書上書)  「       斎藤新九郎入道                 道三    福島四郎右衛門尉殿  御宿所」  此の国取払うの儀に就いて、神前において懇祈を抽《ぬき》んぜられ、御祓大麻《おはらいたいま》御意に懸けられ候。謹んで以て頂戴候。并長鮑《ならびにながあわび》拝領申し候。急度《きつと》示しに預かり候。畏恐少なからず候。此表の儀、去月十七日合戦に及び、武藤掃部助を始め、数輩討ち候。其の已後、関と申し在所へ、敵取懸け候間、懸合わせ、即時に切り崩し、奮戦して、蜂須賀など申す類《たぐい》、数多《あまた》討ち、当月十五日、西方において大利を得候。土岐一家の者より始め、随分の者共百余人討ち候。都合新数三ケ度に三百余これを討ち捕《と》り候。かくの如き条、過半本意の様に候。次郎は莚田と申す在所へ執り出で候。越州衆、江南衆少々相加わり候。然りと雖も、一戦の上、猛を余さず候。いま一行《ひとてだて》をもって平均に申し付くべく候。時宜においては、御心安かるべく候。尤《もつと》もこれより切々申し入るべく候いき。手前取乱れ候にて罷《まか》り通り候。聊《いささか》も疎意に非ず候。御礼ども相積り候。随って、神忠の儀、其の意を得存じ候。一廉《ひとかど》申し談ずべく候。万端御祈念仰ぐところに候。猶《なお》追って申し入るべく候。恐々謹言。   九月廿五日 [#地付き]道三(花押)     福島四郎右衛門尉殿 御返報 [#ここで字下げ終わり]  これは、天文十六年(一五四七)の九月二十五日、道三が福島四郎右衛門尉にあてて、同年の八月十七日に尾張の織田信秀の軍勢を撃退して大勝利を博した情況を報告したもの。端書の上書に「斎藤新九郎入道道三」と明記しているのが珍しい。  文中に「蜂須賀」とあるのは蜂須賀小六正勝、「越州衆」は越前の朝倉勢、「江南衆」は近江の六角勢を指す。宛名の「福島四郎右衛門尉」が何ぴとであるかは、明らかでないが、道三の依頼によって戦勝祈願を行ない、大麻や長鮑を贈っているから、ある神社に関係のある武士であろう。 [#改ページ]   あとがき  この夏から、新人物往来社の編集局長鎗田清太郎氏の依頼と激励を受けて、『斎藤道三《さいとうどうさん》』と題する史伝を書くことになった。道三を主題とした歴史小説では、故坂口安吾氏の『梟雄』という短篇と、司馬遼太郎氏の長篇『国盗り物語』が世に知られているが、史伝、あるいは人物伝として、まとまった単行本は、一冊も見あたらない。それに、歴史学者の書いた著述、研究論文さえ皆無にひとしい。これは、実に不思議なことではあるが、要するに、斎藤道三、および美濃の国主大名斎藤氏三代の事蹟は、わが戦国時代史における空白地帯であり、未開拓分野に属すると言っても、過言ではなかろう。しかし、それだけに、筆者は、確実な史料に基づいて道三の伝記を書くことの困難さを、身をもって味わわねばならなかった。  道三の人物や事件に関する文献史料は、美濃関係の記録・軍記・家譜など沢山あるが、そのほとんどが、江戸中期以後に書かれたものであって、内容は、それぞれ面白いが、さまざまな異説が多く、どちらが本当か、どれが確かであるか、判定しがたい。そこで、比較的信拠できる史料があるかどうかを調べてみた結果、文献以外のものでは、道三・義竜・竜興の画像、文献では、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』・『信長公記』と、道三・義竜・竜興関係の古文書にすぎないことを確かめえたのである。  したがって、この史伝『斎藤道三』は、これらの良質な史料を典拠とし、これを基準として、美濃関係の諸記録の記事を、筆者なりの歴史的推理で取捨選択し、史実に近づく努力をかさねてみたのである。  ところで、幸いなことに、昭和四十四年三月に、岐阜県から『岐阜県史料』——中世の通史編・古文書編——が編集され、発行されたので、これを公刊物として、利用させて貰った。ことに、古文書編に集録された古文書のなかで、土岐・長井氏、および道三・義竜らの書状、安堵状、禁制などを、読み下しにして、転載させて頂いた。ここに、そのことを特記し、『岐阜県史料』編集室の各位、および古文書の原本所蔵者に対して、深甚の謝意を表したい。  筆者の試みた以上のような研究方法、または歴史的推理によって、発見した史実の一端を紹介すると、たとえば、美濃関係の多くの記録では、斎藤義竜を、道三の実子とせずに、土岐頼芸と京美人|深芳野《みよしの》との間に生まれた男子と伝える。かりに、それが本当とすれば、義竜は、少なくとも、父道三以上の細おもての美男子でなければならない。ところが、いっぽうに、義竜は、身長六尺四、五寸もある巨漠であり、父の道三を心理的に圧倒したとある。岐阜市の常在寺に現存する義竜の画像を見ると、確かに道三を圧迫するほどの偉丈夫であったことが推測できる。だから、筆者は、義竜の生母が美濃三人衆の一人の稲葉一鉄の姉だとする一説を採用することにした。彼女は身長六尺の女丈夫であったというから、義竜の生母とするに最もふさわしい。しかも、義竜が道三の実子であったということは、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』に出てくる道三の最期の述懐の言葉によって、実証されるのである。  また、太田牛一の『信長公記』によると、義竜は、その父道三を討ち取ってから、中国の故事にもとづいて、「范可《はんか》」と称したとあるが、義竜の古文書を見ると、すでに親子戦争を決意した当初から、「范可」と署名している。これは、父を殺害してから、申しわけに「范可」と改名したのではなくて、父を敵とすることを決意したときに、自分を「范可」にたとえ、むしろ、親ごろしとして居直った、と解釈できるのである。なお、道三と義竜の通称や名前の変遷も、一般の記録とは相違することが、関係古文書によって立証される。たとえば、道三が「秀竜」と名のったことなど、古文書では実証しがたいのである。  さらに、道三のむすめ濃姫と次男孫四郎の生母を明智氏とし、三男喜平次の生母を深芳野一色氏としたのも、筆者の歴史的推理による。しかも、四男勘九郎の生母をも、やはり、深芳野と考えてみたのである。  道三の人物と人生観を知るには、道三が末子勘九郎に与えたと称する遺書が、文献史料として、最も貴重である。この遺書については、京都の妙覚寺所蔵のものが道三の自筆本と推定される。美濃の常在寺にも道三の遺言があり、殆んど同文だが、それには、道三の花押があるけれど、末尾の辞世の和歌の語句を二字ほど写し落としているところから見ると、このほうは、筆蹟が柔らかで、古写本と鑑定せざるを得ない。  斎藤道三や斎藤氏三代に関する史実の研究は、この拙著の出版をきっかけに、今後大いに行なわれるであろうことを期待するが、それには、どこまでも、珍奇な伝説や、いわれのない想像によらず、根本史料である遺蹟・遺品・古文書・古日記、あるいは、少なくとも、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』や『信長公記』のような、慶長十五年(一六一〇)以前の古記録を典拠とせねばならぬことを、一言しておきたいのである。  なお、この小著を完成するにあたって、新人物往来社編集局出版部の大徳忠志・千田蓉子・横山美智子・川名富美子諸氏の尽力を仰ぐこと甚大であった。ここに記し、謝意を表したい。     昭和四十七年初冬吉祥日       東都武蔵境 桜橋豊梅庵にて [#地付き]桑 田 忠 親  [#改ページ]   文庫本刊行に際してのあとがき  新人物往来社の依頼で史伝『斎藤道三』を書いてから、はやくも十年を経過した。本書執筆の動機や主旨については、すでに新人物往来社版の「あとがき」に述べた通りだが、こんど、講談社文芸局のご配慮で、これを「講談社文庫」に収めるにあたって、是非とも附記しておきたいのは、その後、昭和五十一年、つまり、いまから七年ほど前に、斎藤道三の生国《しようこく》が山城《やましろ》ではなくて、美濃だったとする異説が唱えられたことである。しかも、その典拠が、横浜市在住の春日倬一郎氏所蔵の永禄三年(一五六〇)七月二十一日付、平井兵衛尉以下五名宛の「六角|承禎《じようてい》条目」という古文書であるため、史実としての可能性が強く、従来の山城国|西岡《にしのおか》の生まれだといった説が少少怪しくなってきたのである。  この新史料は、『岐阜県史料』の編纂委員によって遇然発見されたものであり、それによると、道三の父は、新左衛門尉といい、もと京都妙覚寺の法華坊主だったが、美濃に落ちて、西村と称し、守護大名土岐家の執権長井弥二郎に仕え、長井氏と改めている。ところが、その子の西村左近大夫(道三)は、長井氏の惣領を討ちとって、諸職《しよしき》を奪い、斎藤氏(守護代)と改め、そのうえ、守護大名土岐|頼芸《よりなり》の次男次郎(頼次)を聟《むこ》に取り、次郎が早世して後は、頼芸の弟八郎(土岐頼香)と共謀し、土岐氏の一族を数多く謀殺した、というのである。江南の守護大名で観音寺山城主の六角承禎(義賢《よしかた》)は、以上のような道三の悪行の数々を挙げ、道三の子、斎藤治部大輔|義竜《よしたつ》の娘と承禎の息子六角|義弼《よしすけ》との婚姻に反対するという意見を、六角氏の家老平井兵衛尉(定武)らに陳述しているのである。 『信長の美濃政略史研究』(昭和五十一年、新美濃史学会刊)の著者、松田亮氏は、この新発見の「六角承禎条目」の文中の、道三の父、「新左衛門尉」を藤原(長井)利隆であると解釈し、また、「長井弥二郎」を長井藤左衛門尉長弘と同一人である、と説明している。それが本当だと仮定すると、美濃関係の古記録に出てくる道三のおとうと弟子日護房の兄にあたる長井豊後守利隆が、道三の父親であり、道三は、この父親の推挙で、守護大名土岐|盛頼《もりより》(頼芸《よりなり》の兄)の執権長井長弘に仕えた、ということになってくるのである。この藤原(長井)利隆と松浪左近将監|基宗《もとむね》とが同一人だったと仮定すれば、道三の父は、初め京都の妙覚寺の法華坊主だったが、還俗して藤原新左衛門尉と改め、美濃におもむいて守護大名の土岐氏に仕え、立身出世して、執権長井氏の同族となり、長井利隆と改めたのであって、その子の斎藤道三の生国は、山城ではなく、美濃だったと、訂正されねばなるまい。これが、道三美濃生国税の根拠となるのである。  そこで、生国山城説と美濃説との、どちらが正しいかといえば、その典拠とする文献史料の良否から判断すると、道三の死後四年めの永禄三年(一五六〇)に書かれた「六角承禎条目」の記事のほうをより確実とみなすのが、歴史学の常道であろう。太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』は、古い記録だといっても、道三の死後四十年もたってから、美濃地方の伝聞を書きとめたものにすぎない。したがって、道三の父親のことを道三の経歴と伝え誤ったかもしれないのである。もっとも、道三がその父の美濃落ち以前に生まれていたと仮定すれば、道三の生国は、やはり、山城だったということにもなるであろう。それはともかくとして、拙著『斎藤道三』を新人物往来社から出版して以後、三年めに、以上のような新史料が発見されたことだけを、ここに附記しておきたいのである。  戦国時代の下剋上の張本人のひとりで、しかも梟雄とも、蝮《まむし》ともいわれた斎藤道三の悲喜劇的な生涯を描述した私の苦心作『斎藤道三』が、「講談社文庫」に収められ、ここに十年振りで新たによみがえったことについて、講談社文芸局の方々に深甚の謝意を表したいのである。     昭和五十八年弥生吉祥日 [#地付き]桑 田 忠 親