戦国史疑 桑田忠親 著  [#表紙(表紙.jpg、横180×縦252)] 目 次    ㈵  戦国史 謎の事件と人物  戦国七人の成り上がり大名  戦国七人の首取り武将  初陣《ういじん》にみる戦国武将の生き方    ㈼  武田家興亡三代  信玄と五人の宿敵  謙信、不犯説の真相    ㈽  信長に滅ぼされた七人の武将  宿命の美女をめぐる姉川合戦  秀吉の人物と業績  肖像画に描かれた秀吉の顔    ㈿  戦国七つの異色集団  天下|御免《ごめん》の堺衆  戦国の名器、楢柴《ならしば》茶入れの争奪    ㈸  殺生関白《せつしようかんぱく》秀次乱行の悲劇  徳川家康は四人もいた……  おらが合戦見聞録  あとがき  文庫本刊行に際してのあとがき [#改ページ]   ㈵ [#改ページ] [#1段階大きい文字]戦国史謎の事件と人物  戦国時代に起こった歴史的事件や、同時代に活躍した人物のなかで、その真相や実像が解明されないままに、謎とみなされているものについて、概略、説明し、いささか私見を述べてみたいと思う。  時代的区分についての疑問  まず、戦国時代という時代的区分からして曖昧であり、いつからいつまでということが明瞭でない。これも、一種の謎といえなくもない。  漠然と戦国時代というと、室町時代の末期の群雄割拠の時期を、中国の古代の戦国時代になぞらえて、戦国時代というのであるが、これを具体的にいう場合、広い意味と狭い意味がある。広い意味では、応仁の大乱が始まった室町中期の応仁元年(一四六七)から、足利十五代将軍義昭が織田信長のために京都から追放されて、室町幕府が自滅する元亀四年(一五七三)までの、百六年間をいう。そして、狭い意味では、駿河の守護大名の今川義忠の食客をしていた伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が、義忠の死後、その子の氏親を助け、伊豆の堀越公方《ほりこしくぼう》茶々丸を殺害して、伊豆の国を乗っ取り、韮山に城を築き、自立して戦国大名に成り上がった延徳三年(一四九一)から、信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(一五六八)までの、七十七年間をいう。従来の学説では、大体、以上のように説明されているのである。  戦国時代をさらに広範囲にひろげて、その終末を、秀吉が全国統一に成功する天正十八年(一五九〇)、あるいは、家康が徳川政権を確立する慶長五年(一六〇〇)、または、大坂夏の陣を最後として、戦乱が終息し、元和|偃武《えんぶ》(武を偃《や》む)といわれた元和元年(一六一五)に持ってゆく説もある。しかし、これでは、信長が政権を成立させた安土時代(永禄十一年〜天正十年)、秀吉が政権を確立させた桃山時代(天正十年〜慶長八年)が、その内に含まれてしまうから、戦国時代の終末は、やはり、安土時代の始まる永禄十一年までとするのが、合理的と考えられる。しかし、その始めを応仁元年とするか、延徳三年とするかが問題であろう。  なお、近年、戦国時代の始めを、北条早雲が、伊豆の国を乗っ取ったのちに、相模の小田原城を急襲して、城主の大森藤頼を殺害し、城を乗っ取り、関東制覇の基を開く明応四年(一四九五)とするという新説も提唱された。この新説をよしとすれば、戦国時代は、さらに少し縮小されて、七十三年間ということになる。しかし、早雲が伊豆一国を乗っ取って戦国大名として自立するのが、それより四年前の延徳三年(一四九一)だから、やはり、旧説どおりに、戦国時代を七十七年間とするほうが合理的のようにも思われる。ともかく、戦国時代の時代的区分についても、以上のように、諸説や、さまざまな見方があり、いつからいつまでということが判明しない。つまり、戦国時代という言葉の概念からして、多くの謎を含んでいるのである。しかし、この問題は、学問的に、なんとかして解決されねばならぬ、と思うのである。  なお、ついでだが、安土時代はともかく、桃山時代という言葉も、慣例的に使ってはきたが、ずいぶん非学問的な言葉であると思う。ある意味で戦国末期といわれる織田時代は、安土時代で問題はないが、豊臣時代のことは、むしろ、大坂時代と呼ぶべきではなかろうか。どうしても秀吉の晩年を中心として呼びたければ、伏見時代のほうが、まだ学問的であろう。桃山時代というのは、伏見桃山時代の略称であるにしても、秀吉の時代には、桃山などとは言っていない。秀吉の死後、伏見城のあたりが桃畠になったからである。桃山時代などという非学問的な言葉を豊臣時代の代用としていること自体が、現代学界の謎であって、これは、なんとかして、大坂時代と改称さるべきである。これを機会に、改めて、自説を提唱しておきたい。  人物の素生にまつわる謎  戦国時代において社会的に華々しく活躍した人物、つまり、大名や武将などのなかには、その出生地や素生が明らかでないものが、かなりいる。父祖が守護・守護代であるとか、中央の公卿や将軍の支族であるとかいうものは、その毛並みが明らかで、出生地がはっきりしている。地方諸国の地頭をつとめたような豪族でも、これに準ずる場合が多い。しかし、下剋上《げこくじよう》の風潮に乗じ、はだか一貫で成り上がった戦国大名や武将などは、その出生地や素生が謎に包まれているものがほとんどである。たとえば、その活躍ぶりが戦国時代の開幕を示したといわれている北条早雲などは、その出生地や素生が、全く判明しない。  早雲の生国については、古くから五説がある。大和説、山城説、京都説、伊勢説、備中説の五説である。しかし、このうち大和と山城の二説は根拠が薄くて、問題にならない。残る三説のうち、京都説は、早雲を室町幕府で代々|政所《まんどころ》の執事をつとめた伊勢氏の出身とする。これは、『伊勢系図』『諸家系図纂』などを典拠とする。かくいう筆者の恩師の渡辺世祐博士は、これらの文献に基づき、早雲を伊勢貞藤の子と推定されている。伊勢説は、『小笠原文書』『今川記』『相州兵乱記』を典拠とする。もと東大史料編纂官の田中義成博士は、とくに、『小笠原文書』所収の九月二十一日(永正三年)小笠原左衛門佐(定基)宛北条宗瑞(早雲)書状に、「仍《よつて》、関右馬允方事、名字我等一躰ニ候。伊勢国関|与《と》申所に依二在国一、関|与《と》名乗候。根本|従《より》二兄弟一相分るゝ名字ニ候」とあることによって、早雲は、伊勢平氏の関氏の一族であって、一介の素浪人にすぎない、と主張した。備中説は、『中国兵乱記』を典拠とし、平重盛十七代の後胤、伊勢駿河守が備中の国小田郡園井村に下向したが、その一族に伊勢新九郎長氏と称する武士がいた。この長氏は、武者修行の旅に出たが、今川義忠の妻になり、北川殿と称していた妹をたずね、駿河に下ったとある。この備中出身の伊勢新九郎という武士のことは、なお、『蔭涼軒日録』『長禄二年以来申次記』にも出てくるとのことである。しかし、『長禄二年以来申次記』に見える室町幕府の申次衆の伊勢新九郎盛時と、駿河に下向したという伊勢新九郎長氏とが、同一人物であったか、どうかは、判明しない。北条早雲の出生地と素生記については、最近、立木望隆という人が、『北条早雲素生考』と題する著書を小田原市の郷土文化研究所から発行して、岡山大学教授の藤井駿氏の説に傾斜して、早雲備中出生説を主張したが、東大史料編纂所に在職した杉山博氏は、改めて、早雲京都出自説を唱えた。そして、早雲が、一介の素浪人ではなく、歴《れつき》とした室町幕臣か、地頭級の在地有力武士の出身であろうと推定する点では、両氏が共通している、とのことである。しかし、その父祖が幕臣であろうと、在地の有力武士であろうと、早雲が駿河の今川義忠の内室北川殿をたよって下向した当時の境遇は、一介の素浪人であったに相違ない。立木、藤井、杉山三氏の研究も、なお、再検討の余地が十分にあり、まだ、この程度の研究では、北条早雲に関する謎を解くことはできない、と思うのである。  ただし、杉山氏は、近年、萩原竜夫・下山治久氏とともに、後北条氏研究会というものを発起し、『後北条氏研究』という研究雑誌を、昭和四十六年に創刊した。その創刊号に、小和田哲男・下山治久氏共編の「北条早雲文書集」が掲載され、三十通の北条宗瑞(早雲)書状類が収められている。もちろん、問題の『小笠原文書』も、『早雲寺文書』となって、収められている。小笠原家から箱根の早雲寺に寄贈されたものとみえる。  ともかく、人物伝の研究には、系図や伝記よりも、書状のような古文書が、文献史料として最も確実性に富むものだから、北条早雲を研究する場合も、早雲自身の書状類を一通でも多く蒐集《しゆうしゆう》することが先決問題であろう。この意味において、後北条氏研究会に期待するところが多い、といわねばなるまい。  北条早雲のほかにも、その出生地や素生が明らかでないものに、三好長慶の家老、松永久秀がいる。久秀の出生地は、近江とも、大和の西《にし》ケ岡《おか》とも、阿波ともいわれていて、分明しない。その素生についても、武士ではなくて、商人であったという説さえある。久秀は、中央社会における下剋上の張本人といわれ、謀略をもって主人の三好長慶を悶死させ、長慶の死後、これにかわって五畿内の権力者と成り上がったばかりか、長慶の一族の三好三人衆と共謀して、十三代将軍足利義輝を京都二条の新館に襲って自害させたことでも、その名を知られている。しかしその素生が明らかでないせいか、北条早雲と同様に、その伝記書が一つも書かれていない。久秀の出自は、謎に包まれているといってよい。久秀関係の古文書もまた、きわめて少ない。筆者は、少し蒐《あつ》めてみたが、十数通に満たない。これでは、正確な伝記書も書きにくい、といわねばなるまい。  美濃の国盗り大名として知られた斎藤道三の出生地や素生も、謎に包まれている。道三は、明応三年(一四九四)、山城の国|乙訓《おとくに》郡|西岡《にしのおか》の松浪左近将監基宗という北面の武士の子として生まれたという。これは『江濃記』などという美濃関係の記録だけでなく、織田信長の一代記『信長公記』十六巻を書きのこしたことで名高い太田和泉守|牛一《ぎゆういち》の『大かうさまぐんきのうち』と題する慶長年間の古記録にも、「美濃の国斎藤道三は、ぐわんらい、五畿内、山城の国西岡の松浪と申す一僕の者なり」とあるから、大体、信用してよいように思う。なお、美濃関係の記録でも、『堂洞軍記』には、京都の町の賤しい傘張《かさはり》職人の子に生まれた、と記している。貧乏武士か、貧乏職人のむすこに生まれたらしいが、生国は山城の国ということで、大体、一致しているようだ。  ところが、最近、道三は、元来、美濃の守護土岐氏の家老のむすこであって、美濃の出身だという異説が提唱された。これは、江南の守護大名六角義賢(承禎)の書状によって立証されるのであるが、それが史実とすれば、道三が山城の国西岡の地侍、松浪基宗のむすこだという通説は否認され、したがって、道三が若いころ、山崎屋という灯油売りの行商人になり、灯油を売りながら美濃に流れこんできたという興味のある伝説もウソだったということになる。しかし、この異説は、なお検討の必要がありそうである。美濃関係の記録は別として、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』の記事は、そう簡単に無視できないからだ。いずれにしても、斎藤道三の伝記書も甚だ乏しい。  テレビドラマ『国盗り物語』が放映された当時のこと、私は、『斎藤道三』と題する伝記書を初めてまとめ、新人物往来社から刊行したが、道三関係の古文書の少ないことを痛感し、極力、その蒐集につとめた。ところが、昭和四十四年に岐阜県から『岐阜県史』が出版され、その中の「古文書編」に収められた十数通の道三関係古文書が、道三の伝記を書くうえに、非常に役だった。それらを駆使することによって、道三にまつわる謎の一部分が解明されたことを、喜んでいる。なお、拙書『斎藤道三』は、昭和五十八年、「講談社文庫」に収められた。  出生地と素生が明らかでないといえば、織田信長を本能寺で殺害したことで有名な明智光秀も、そうである。光秀は、美濃の名族明智氏の一族で、その父を明智安芸守光綱とするが、それは、『系図纂要』『明智氏一族宮城家相伝系図書』『明智軍記』などの所記であって、これらに比べて著述年代の古い『土岐系図』や『明智系図』では、光秀の父を光国、あるいは、光隆と記している。だから、光綱とは断定しがたいのである。しかし、光国・光隆・光綱にしても、そのような名前をもつ明智氏という人物が、確実な文献史料である古文書によって立証されるわけではない。つまり、そういう姓名を明記した書状類が、いまのところ、一通も発見されていない。したがって、光秀の父親は、明智氏の一族であるにしても、その名前さえ明らかでない、という結論に達せざるをえないのである。しかも、『籾井《もみい》家日記』によれば、光秀は、族姓も知れぬ武辺者だったとある。さらに、『若州観跡録』には、光秀は、若州小浜の鍛冶《かじ》冬広の次男であったが、幼少のときから鍛冶職を嫌い、兵法を好み、近江に赴き、六角家に仕え、明智十兵衛と名のったとあり、また、天野信景の随筆集『塩尻』には、いま(元禄元年=一六八八)から百三十年以前(永禄元年=一五五八)に、濃州の明智から御門《みかど》重兵衛という者が、使者として参上したが、なかなかの器量人で、諸事について賢明につとめたため、その評判が高くなったのを、信長が聞いて、さっそく召し出して、明智重兵衛と名のらせたとある。ついで、『武功雑記』には、日向守(明智光秀)が、渡り奉公をしているうちに、三河|牛久保《うしくぼ》の城主牧野右近大夫に仕えたとき、知行は百石ほどであった、と記している。光秀の素生には触れていないが、信長に仕官する以前に越前の朝倉家に仕えたことをいわずに、三河の牧野氏をもって、これにかえている。要するに、光秀は、美濃の守護土岐氏の庶流に属する明智氏の子孫であるにしても、八代の後胤明智光綱のむすこだとは、断定できない。明智氏を称してはいるが、その父親の名前さえもはっきりしないほどの、低い身分の武士だったことが、推測される。美濃出身の武士であるにしても、名族明智氏の直系とは実証しがたい。しかし、光秀が、教養を身に備え、特殊技能も身につけていたため、それを信長が認め、下級武士から近畿・山陰地方で七十五万石の大名として、抜擢《ばつてき》されたのだ。なお拙著『明智光秀』も、昭和五十八年に「講談社文庫」に収められた。  謎に包まれた人物の若年時代  戦国時代に活躍した人物の出生地や素生に続いて明らかでないのは、その若年時代の事績である。そして、明らかでない部分は、どうも伝説化される傾向が多い。これは、戦国時代以前の人物の場合もそうである。例えば、鎮西八郎為朝、九郎判官義経の場合が挙げられる。戦国時代の人物では、越後の竜といわれた上杉謙信も、長尾景虎《ながおかげとら》と称した青年のころ、数人の近臣とともに、六十六部すがたに身をやつし、為朝や義経と同様に、諸国を遍歴する一時期があったことになっている。つまり、六十六部すがたの景虎一行は、まず、越後柏崎の琵琶島城主宇佐美駿河守定行のもとを出て、三条を経て、春日《かすが》山城《やましろ》に赴き、兄の長尾晴景を訪問するが、酒色に身を浸らせていた晴景は、かえって虚勢を張って、弟の景虎を叱りとばす。やがて、春日山城を出た景虎一行は、宿泊をかさね、越中の栴檀野《せんだんの》にたどりついて、亡父長尾為景の墓所に詣でて、菩提をとむらった。まもなく、一向宗徒にねらわれるが、一行は、その難を避け、飛騨を経て、信濃に入り、川中島付近の地形を観察し、将来は、ここで決戦が行なわれることを、景虎が予言する。それから一行は、甲斐の国に入って、甲府に近づくが、まもなく、武田方の兵士に怪しまれ、草むらを走って逃げる。やがて、一行は相模に入り、北条氏の居城である小田原の様子を視察するが、ついで、武蔵《むさし》を経て上野国《こうずけのくに》に赴き、果ては、陸奥《むつ》の白河を経て会津をまわり、ようやくの想いで、越後に帰国する。この諸国巡歴の旅の行程は、延べ千三百キロにのぼるという。  これは、『越後軍記』の所記であるが、史実として、果たして、こんなことがありえたであろうか。  なぜかといえば、この長尾景虎一行の長旅のコースや、旅行中における景虎の言動が、あまりにもうまくできすぎているからだ。たとえば、越中から飛騨を経て信濃に出たのはいいとしても、甲斐の甲府近くまでも行って、武田氏の情況をさぐり、武田の兵士に怪しまれたりするのはどんなものか。いくら、六十六部すがたに身をやつしていたとはいえ、一国の主ともなるべき長尾景虎が、果たして、そのような軽率な行動を、あえてしただろうか。また、それに景虎の近臣らが賛同し、随行しただろうか。大体、史上の英雄・武将の伝記を書くにあたって、史実的に不明瞭な若年時代のことを、その人物が成長した暁《あかつき》への伏線として、経歴ゆたかに、面白おかしく作りあげることは、伝記作家の自由であるし、また、そうした工夫があってこそ、初めて、英雄伝・武将伝は、すぐれた歴史文学たりうるのであろう。しかし、その文学的作為も、史実たりうる可能性が豊富でなければなるまいと、筆者は思うのである。あまり不自然でも、不合理でも、困るのだ。これは、明智光秀の場合でも、やはり、同様なことが言えるのではなかろうか。  明智光秀は、美濃の国恵那郡明智の出身らしいが、稲葉山城主の斎藤義竜(道三の長男)のために明智城が陥落し、明智一族が離散すると同時に、美濃を出奔して、越前に赴き、一乗ケ谷城の朝倉義景に仕えた。しかし、それまでの若年時代の史実が、全く明らかでない。そこで、後世に書かれた『明智軍記』などは、その間の光秀の行動を、諸国巡歴・見学修行といった、伝記作者の常套《じようとう》手段を用いて、創作している。つまり、光秀が日本全国を遍歴し、諸大名の人物、その領国の地理・風俗・人情などを実地見学し、なお、大名たちの居城・軍備・軍事施設の長短までを、事こまかに偵察し、すぐれた戦略家としての光秀の素地を作りあげた、と説明する。これは、為朝や義経などの英雄伝説の影響もあるだろうが、また、光秀が早くから天下盗りの大望を抱いていたことを『明智軍記』の読者に納得させるための伏線でもあったらしい。  さらに、豊臣秀吉の場合は、素生・生年はもとより、少青年時代の史実は、全く謎に包まれている、といってよい。『太閤記』や『太閤素生記』によれば、秀吉は尾州愛智郡中村の百姓木下弥右衛門のむすこだと説明されているが、この二書よりもずっと古い、秀吉の御伽衆、大村|由己《ゆうこ》の書いた『関白任官記』には、秀吉が天皇の落胤であることを匂わせている。生年月日も、『太閤素生記』は天文五年(一五三六)の正月朔日とし、『関白任官記』は天文六年(一五三七)の二月六日としている。その間に一年の差違があるため、秀吉の享年も、『太閤素生記』は六十三歳、『関白任官記』は六十二歳となる。どちらが正しいかということになると、従来、二説に分かれて判明しない。秀吉のような日本史上第一流の人物であっても、このように、素生や生年月日が謎に包まれているのである。しかし、この謎は、最近、かくいう筆者の『豊臣秀吉研究』によって氷解した。『関白任官記』の天文六年生年説を裏づける古文書として、『桜井文書』所収の天正十八年(一五九〇)十二月吉日、石通白《いしどおはく》杉本坊宛、伊藤加賀守秀盛の白山立願状が発見されたからだ。この立願状に、「関白様、酉《とり》之御年、御年五十四歳」と明記しているのが、きめ手となった。つまり、秀吉は、酉の年(天文六年)の誕生であり、天正十八年に五十四歳だから、慶長三年(一五九八)八月十八日死去のときは六十二歳であったことが、立証されるのである。ただし、秀吉の素生について、『関白任官記』の天皇落胤説は、秀吉の自己宣伝にすぎなく、父親は、やはり『太閤素生記』の説くように、尾州中村の百姓弥右衛門であった、と推測される。  謎に包まれた歴史的事件  戦国時代に発生した歴史的事件のうちで、謎の事件といわれるのを拾うと、いろいろあるが、試みに、その範囲を武田・上杉氏関係にしぼってみると、まず、武田信玄は、どうして父の信虎を甲府から追放したか、ということが問題になろう。天文十年(一五四一)の五月、信虎は長男の信玄を連れて、信濃の海野平《うんのだいら》に出陣し、海野|棟綱《むねつな》を攻め、これを上野方面に敗走させた。そこで六月四日に、甲府に凱旋することになった。ところが、その途中、五月十四日、信虎は、甲府への帰路を、突然、信玄配下の足軽隊によって遮断されてしまった。そこで信虎も、やむなく駿河の府中にのがれ、今川義元の食客となり、ついに隠退することになったのである。この信玄の取った行動にたいして、世人の評判はきびしく、越後の上杉謙信からは、親不孝者と罵倒された。しかし、信玄を弁護する者は、信虎が駿府に赴いたのは、信玄と合意の上であって、今川義元を謀るためであった、と説く。  この説の根拠となるのは、『甲斐国志』所収の九月二十三日付の義元の書状であり、かつて東大教授星野恒博士も、この書状を典拠として、父子合意説を主張した。  ところが、その後、渡辺世祐博士によって、その義元の書状に読み違いのあることが指摘され、この書状は、信虎が駿府に赴いてからのちの隠居料、付き添いの女中衆のことや、その人数などについて、義元が信玄に交渉をしたものにすぎないことが明らかにされた。そして、その後、史学者たちによって、いろいろと推測された結果、信虎の駿府隠退は、偶発的な事件ではなく、計画的なものであった。しかも、計画者は信玄だけではなく、その背後に、信玄の義兄にあたる駿河の大名・今川義元がいた。義元は、側近の軍師|太原雪斎《たいげんせつさい》らと相談した結果、信虎を駿府に隠退させ、信玄に武田の家督を相続させることによって甲斐の領国政治を改革するために、甲・駿両国の和親と攻守同盟を強化させようと謀り、若い信玄を動かした、というのである。しかし、これとても、一種の推理にすぎない。なお、この謎の事件の鍵を解くためには、関係古文書の発見につとめねばなるまいと思うのである。  つぎに、武田信玄と上杉謙信とが雌雄を争った信州川中島の合戦に関しても、それが五度にわたって行なわれたということは、渡辺世祐博士著『武田信玄の経綸と修養』(新人物往来社刊)によって決定づけられたといっていいが、その一回一回について、どちらが勝ったか、負けたか、有利であったか、不利であったかということになると、さまざまな判定の仕方があって、一定しない。そこへまた、信玄びいき、謙信びいき、などという主観が加わるから、なお、ややこしくなってくるのである。  ことに、「鞭声粛々夜河を過《わた》る」という頼山陽の漢詩で名高い永禄四年(一五六一)九月十日の、川中島第四回戦において、どちらが勝ったか、負けたか、ということになると、前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ち、ということで、五分と五分との引き分けと評すれば、一応のおさまりはつくが、信玄びいきの作家や学者は、戦後、川中島の地が武田方に属したという結果論で、信玄の勝利と評定しがちである。  しかし、謙信には、信玄のように土地にたいする欲望がなかったからだと説く謙信びいきにいわせれば、当日の戦闘で、武田の有力武将を討死させ、信玄に刀傷を負わせただけでも、謙信のほうが勝利者であった、と主張する。また、両将の一騎討ちについても、これを肯定する者と、否定する者とがいる。大体において面白い軍談は、『甲陽軍鑑』とか『越後軍記』とか『川中島五箇度合戦之次第』などといった後世の史書に見え、史実は、なお、曖昧模糊として、謎に包まれているといってよかろう。  また、川中島合戦に登場する人物にしても、越後春日山城主の上杉謙信などは、多くの謎に包まれた人物である。謙信は、生涯を戦陣の巷《ちまた》に明け暮らしながら、神仏を熱烈に崇信し、また、敵を愛することを知っていた。好戦家ではあったが、弱きを扶《たす》け強きを挫《くじ》く、といった正義観念に徹していた。それに、美女さえ見かければ、敵将のむすめはもとより、家臣の妻でさえ、妾にせずにはおかない、といった群狼のような戦国武将たちのなかにあって、謙信は、ただ一人、四十九年の生涯に、一度も妻をめとらず、側室もなく、したがって実子も儲けなかった。そこで不犯《ふぼん》の名将とさえいわれている。まことに不可解な身の処し方というほかあるまい。そこで謙信は、男色家で女ぎらいであったとか、不能者であったとか、男でなく女人であったとか、さまざまな異説が唱えられた。このうち、女人説は、異説中の奇説であろう。しかし、残念ながら、謙信が男であったことは、あらゆる角度から立証されるから、この奇説だけは、単なるお笑いぐさにすぎない。  また、謙信の軍師として知られた宇佐美定行も、信玄の軍師山本勘助も、軍記物語の作った架空の人物といわれている。しかし、山本勘助については、信玄の将山県昌景配下の下級武士で、三河出身の、異様な風体をした、能弁な兵法家だったということが、『武功雑記』によって明らかにされた。が、謎は、なお、いろいろと残っている。これらの謎の解明は、やはり、関係古文書の発見を待つよりほかあるまい。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]戦国七人の成り上がり大名  戦国大名のなかから成り上がり者を七人だけ選んでみると、たれとたれとになるか。私は、結局、北条早雲・斎藤道三・松永久秀・毛利元就・長宗我部元親《ちようそかべもとちか》・織田信長・徳川家康の七人を挙げることになった。  いまさら、信長や家康でもなかろう。それよりは、明智光秀と豊臣秀吉のほうが、一介《いつかい》の成り上がり者としてピッタリだと考えてもみたが、光秀も秀吉も、信長の家臣であって、純粋な意味では戦国大名といえまい。石田三成も成り上がり大名だが、秀吉の家来であり、戦国大名ではない。三好長慶は、戦国大名だし、下剋上の代表として、松永久秀とともに、世に知られているが、父親の社会的地位が、信長や家康にくらべて、少し上位のように思われる。成り上がりというのは、その人一代で成り上がった、という意味であって、先祖の毛並みの良否とは無関係に考えたほうが妥当であろう。そのようないろいろな理由で、やむなく、この七人を挙げることにしたのである。  それでは、この一人一人について、彼らが、裸一貫、または微力な地方土豪から成り上がって、いかにして一国あるいは数ヵ国の領主として君臨するに至ったかを、究明してみることにしよう。ただし、信長と家康の場合、天下統一政略に着手した以後の事歴は、省略する。  素浪人から成り上がった北条早雲  北条早雲の生国や素生については、古来、諸説あって、明らかでないが、早雲自身が説明する通りに、伊勢の生まれで、生家が伊勢平氏の流れを汲む関氏の支族だから、初めに伊勢新九郎長氏と名のったものとみえる。  しかし、箱根の早雲寺に伝わる早雲の肖像画を見ると、名門の若殿の御面相には程遠い、野性的で、不敵な面魂《つらだましい》をしている。体はやせぎすで、頬骨《ほおぼね》が高く、眼光けいけいとして、人を射るようだ。体力と気魄だけでスポーツ界に躍り出た巨人選手の風貌を想わせるものがある。やはり、伊勢の小土豪の出身だが、長氏自身は、元来、一介の素浪人だったに相違ない。父親が無名で、むすこの立身出世に何一つプラスしてないのも、裸一貫の実力者だったことを裏書きする。  しかも、長氏は、都で志を遂げがたいのを悟ったせいか、地方開拓者として、妹の北川殿が駿河の守護大名今川義忠の愛妾となっているのに頼り、伊勢から駿府(静岡)にやってきた。応仁の大乱がまだたけなわな文明元年(一四六九)のことで、長氏が三十八歳の男ざかりのときだったという。おそらく、大乱で荒れ果てた花の都を見限って、東国で新天地を開こうと考えたのであろう。  それから七年ほど経過し、今川家の食客伊勢長氏が、四十五歳になった文明八年(一四七六)の二月のこと、遠江《とおとうみ》の地侍の勝間田《かつまた》・横知などの徒輩が、西軍の大将|斯波義廉《しばよしかど》の指令を受けて、府中の城に立籠り、土《つち》一揆を煽動し、反乱を起こした。遠江の守護が元来斯波氏だったからだ。  そこで、東軍を支持していた足利九代将軍|義尚《よしひさ》は、東軍側に属している今川義忠に命じ、土一揆を討伐させた。義忠は、遠江に出馬し、勝間田らを討ち、勝利を得たが、駿府に帰陣する途中、駿遠国境の塩見坂で、土一揆に襲われ、討死をとげた。そのため、義忠の遺児|竜王丸《たつおうまる》(後の今川氏親)をめぐって、今川家臣の内訌《ないこう》が起こり、国内も乱れた。そこで、今川家の食客だった長氏は、初めて立ち上がり、両派に分かれて争っていた重臣たちの間にはいって調停し、内訌を鎮定した。その功労によって、駿河富士郡の内で地を与えられ、一躍、興国寺の城主となったのである。  富士郡の領主としての長氏については、『北条五代記』に——興国寺の辺を知行し、郎党二、三百人を養っていたが、慈悲の心が深くて、百姓をよく憐れみ、年貢を宥免《ゆうめん》したので、百姓らは大いに喜び、この殿の情に対しては、命をもお役に立てよう。どうぞ、末ながく栄えて頂きたい、と祈らぬ者とてなかった——と伝えているから、民政に宜《よろ》しきを得、領民に敬慕されたのである。武略にすぐれただけで、治績があがらないと、領主として発展性に乏しいことを実証する。  そのうちに、延徳三年(一四九一)、長氏が六十歳になったとき、伊豆の堀越公方《ほりこしくぼう》足利政知が病死し、そのむすこの茶々丸が家を嗣いだが、茶々丸は、私怨を晴らすために、その継母と義弟を殺害した。すると、家臣らは茶々丸を憎み、伊豆の国内が乱れた。この様子を見ていた長氏は、チャンス到来とばかりに、茶々丸の乱行を糺《ただ》すのを理由とし、日頃から手なずけていた駿河の国衆を率い、伊豆の北条に攻め入り、茶々丸を討って堀越公方家を滅ぼし、伊豆の国を乗っ取り、韮山《にらやま》に城を築いた。  かくて一国一城の大名と成り上がった長氏は、北条を氏とし、ついで剃髪して、早雲庵|宗瑞《そうずい》と号した。伊豆の大名になってからも、領内に善政を行ない、四公六民の税制などを定めて、領民を心服させている。さらに、四年後の明応四年(一四九五)には、扇谷《おうぎがやつ》上杉氏の重臣大森藤頼の居城小田原を奪い取って相模に進出、小田原北条氏五代関東制覇の基を定めた。時に早雲は六十四歳であった。  越前の戦国大名朝倉義景の後見人として有名な朝倉宗滴の書いた『朝倉宗滴話記』に、早雲のことを評して——伊豆の北条早雲は、針を倉に積みかさねるほどの心がけで、貯《たくわ》えも十分あったというが、その貯えを武者だてに使う場合には、玉をぶち砕くように、思いきって使った——と述べている。平素は財政に細心の注意を払うが、いざという場合には、放胆に出費し、積極的に行動したらしい。だから、かれ一代、二十二年の間に、一介の食客浪人から一国一城の大名に成り上がれたのである。  油売りから美濃の大名へ  つぎに、斎藤道三だが、灯油売りの行商人山崎屋庄五郎として美濃の国に入ってから、守護|土岐頼芸《ときよりなり》にかわって美濃の国持ち大名と成り上がるまでに、僅か十数年を要しただけというから、北条早雲よりもさらに出世が早い。  道三は、応仁の大乱が起こった応仁元年(一四六七)から三十年ほどたった明応三年(一四九四)に、山城の国|乙訓《おとくに》郡|西岡《にしのおか》の貧乏侍|松浪基宗《まつなみもとむね》の庶子として生まれている。松浪氏の先祖は、代々、院の北面の武士であったというが、道三の父基宗は、太田牛一の『大かうさまぐんきのうち』によると、「一僕の者なり」とあるから、極めて小身な下級武士であったらしい。  その庶子の庄五郎が、妙覚寺の小坊主修行を終え、還俗《げんぞく》して、灯油売りの行商人となったのは、未来よりも現実、読経よりも蓄財と割り切ったからだが、妙覚寺時代のおとうと弟子|日護房《にちごぼう》を頼って、動乱の美濃に下向したのは、利用できるものは抜け目なく利用するといった功利的根性と、守護大名家の家督相続争い、家臣の内訌には、名誉欲のほかに、私欲が主目的であるのを看破した庄五郎の卓抜な才覚が潜在してのことであった。行商人としての情報通で土岐家の内部事情をも偵察し、今泉の常在寺の住職となっていた日護房の日運上人を利用し、土岐家の執事長井長弘に武家奉公し、さらに長弘の紹介で守護の土岐|盛頼《もりより》の弟|頼芸《よりなり》に近づき、盛頼を廃し、頼芸を守護とし、この功績によって、守護代斎藤氏の跡目を継ぎ、斎藤新九郎利政と改め、さらに入道して、斎藤山城入道道三と号したのである。そうして、最後に土岐頼芸を国外に追放し、これにかわって、美濃十八郡、三十七万石の国持ち大名と成り上がったのである。これは、道三が才智にすぐれ武略に長じていて、美濃の国における長年の動乱を鎮定し、人々に安堵の思いをさせたからである。  しかし、国持ち大名と成り上がってからの斎藤道三の評判は、甚だよくなかった。それは、道三が旧主の長井長弘を上意討ちにし、また、守護の土岐頼芸を国外に追放するといった、甚だ不徳義な手段で美濃の国を奪い取ったことにも起因するが、家臣団の統制が北条早雲のように巧妙でなく、また、民政にも宜しきを得なかった。牛裂《うしざ》き、釜煎《かまい》りなどという酷刑を実施し、人々を恐怖のドン底に陥らしめたからである。  が、道三の破滅は、家庭争議から起こった。かれが、長男の義竜《よしたつ》を疎《うと》んじ、三男の喜平次を溺愛《できあい》し、いったん家督を相続させた義竜を廃嫡し、喜平次に国を譲らせようとたくらんだため、そのことを知った義竜が、弟の孫四郎と喜平次を謀殺した。それを怒った道三が、居城の稲葉山を脱出して、北方の鷺山城に移り、長良川を挟んで親子戦争を展開した揚句《あげく》、多数の家臣や国衆に背かれた道三は、遂に六十三歳を一期として敗死してしまった。しかも、国持ち大名としての斎藤氏は、義竜の子の竜興《たつおき》まで、三代にして、尾張出身の強豪織田信長のために滅ぼされた。  国盗りの手段の巧妙さでは、北条早雲に劣らなかったが、親子関係、家臣の統制、民政に宜しきを得なかったから、滅亡したのである。  幕府の執権となった松永弾正  戦国三人男のもう一人、松永|弾正《だんじよう》久秀は、他の二人、北条早雲と斎藤道三が都落ちして地方諸国に覇を唱えたのに対して、京都における中央政権を牛耳《ぎゆうじ》ったのである。  久秀は、一説によると、山城の西岡《にしのおか》の商人の出であるという。これが事実とすれば、同じく西岡出身の先輩斎藤道三の立身出世に見ならったといえなくもないが、それは、飽くまでも仮説にすぎない。  しかし、また一説によれば、久秀は阿波の生まれで、享禄二年(一五二九)二十歳のとき、阿波細川家の家老三好長慶に仕え、才智と弁舌で長慶の信任を得、次第に立身出世をかさねていった。そうして、長慶が、主家の阿波細川氏を室町幕府の執権に押し上げて、幕府の実権を握ると、久秀も京都守護職に任命された。すると、久秀は、京都における三好氏の代表者のような顔をして、専横をきわめるようになった。  たとえば、久秀は、人頭《にんとう》税や通行税を思いのままに課して、私腹を肥やし、その財力をもとに、朝廷や有力公家に金品を贈り、また、主君三好長慶を猿楽能に招いたりしている。汚職役人の典型といえた。  久秀は、三好長慶が陪臣《ばいしん》の身でありながら幕府の実権を掌握したのにならい、自分もまた長慶に取って代わろうと考えたが、その手段は、武将らしからぬ卑劣なものであった。しかし、武力を用いずに、悪智恵だけで、相手の自然消滅を謀った点は、近代的な知能犯罪といえるだろう。その点が、早雲や道三と少々相違する。  まず、主君三好長慶の弱体化を計るために、長慶の手足ともなって協力していた弟の三好|之康《ゆきやす》のことを長慶にざん訴した。之康は、三好氏の本拠の阿波を固めていたが、久秀のざん訴を信じた長慶が、之康と反目するに至った。長慶のもう一人の弟の十河一存《そごうかずまさ》も優れた武将だったが、まもなく病死し、その二年後には三好之康も戦死し、そのために、長慶の勢力が急激に弱体化した。すると、久秀は、さらに、幕府の中枢にあって長慶と協力していた政所執事の伊勢氏を滅亡させ、つづいて、長慶の長男の義長を毒殺してしまったのである。  最愛のむすこを失った長慶は、落胆のあまり、半病人のようになり、何事も久秀のいうままになった。長慶には、なお、安宅《あたか》冬康という弟が残っていたが、これも久秀のざん言を信じて、殺してしまった。しかも、長慶自身も、そのあとを追うようにして、この世を去った。永禄七年(一五六四)のことである。  長慶が久秀に暗殺されたという噂がたったのも、無理ではない。そうして、長慶の跡を継いだむすこの三好義継も、久秀には頭があがらなかった。  三好長慶がこの世を去ると、永禄八年の五月、久秀は、こんどは、三好義継や三好三人衆(三好長縁、同政康、岩成友通)を味方に引き入れ、足利十三代将軍義輝の住む京都二条の館を夜襲し、義輝を殺害した。骨のある将軍義輝が、久秀の意のままに動かないため、もっと自由にできる将軍を迎えたかったからだ。かくて、十四代将軍に選ばれたのが、阿波公方《あわくぼう》の足利|義栄《よしひで》である。  大和を領国とした松永久秀は、最初、和泉の堺と大和の奈良の中間に位する信貴山《しぎさん》に城を構えた。しかし、永禄十年(一五六七)には、奈良の北西の多聞山《たもんやま》に築城し、ここを居城とした。ここは、奈良の喉もとを扼すると同時に、堺や京都へも通ずる要衝《ようしよう》であった。多聞山に城が築かれるや、久秀と三好三人衆の戦いが始まった。両者の反目は、十四代将軍義栄の争奪戦によりエスカレートしたのである。三人衆は、新将軍義栄に、久秀追討の御教書《みぎようしよ》を出させた。前将軍義輝を殺害した罪を久秀にだけおっかぶせたのだ。  激怒した久秀は、敵の意表を衝き、奈良東大寺の大仏殿に火を放った。そうして、驚き騒ぐ三好三人衆の虚を衝き、攻勢に移った。そのために、三人衆らは、京都へ逃げ帰った。大仏殿を焼いたため、松永久秀の悪名は世にひろまった。  しかし、久秀は、平然として、三好三人衆と抗争を続けていた。目的のために手段を選ばぬところが、斎藤道三に似ている。しかし、その翌年(永禄十一年)九月、織田信長が六万の大兵を率い、前将軍義輝の弟足利義昭を奉じて上洛してくると、久秀は、やむなく、信長に降参し、大和一国を安堵されている。しかも、信長に取り入り、信長の武力を利用して、三好一族を討ち滅ぼした。  そういうところは、さすがに悪賢《わるがしこ》かったが、元亀二年(一五七一)に十五代将軍足利義昭が、朝倉・浅井・六角・比叡山の僧徒らと結んで信長に反抗したとき、久秀も、この動きに加わった。しかし、信長は、これを赦した。  ところが天正五年(一五七七)、石山本願寺・毛利輝元・上杉謙信などと結んで、久秀が信長に再び反旗を翻《ひるがえ》し、大和の信貴山に籠城したため、遂に信長の派遣した軍勢によって、信貴山を落とされ、久秀は自害して果てた。謀略をもって一国一城のあるじにのし上がった成り上がり大名松永弾正久秀は、信長への反逆に失敗し、一代にして滅亡したのである。  以上述べた三大名、北条早雲・斎藤道三・松永久秀は、戦国三人男とか、下剋上の張本人とか、戦国三|梟雄《きようゆう》とかいわれ、信長・秀吉・家康に比べて、時代の暗黒面を代表する武将とみなされている。これは、かれら三人が、それぞれ、全くの裸一貫で、したがって他の類例を見ない非常手段によって一国一城のあるじと成り上がったせいであろう。  これら三梟雄に比べて、つぎの四雄、つまり、毛利元就・長宗我部元親・織田信長・徳川家康などは、厳密な意味では、裸一貫から一代で成り上がったとはいえない。  三千貫の地頭から西国大名へ  西国の大大名として知られた毛利氏の祖、毛利元就は、安芸《あき》の国三千貫の地頭から成り上がったのだから、裸一貫からとはいいがたい。しかし、かれ一代で西国随一の大名となったということでは、典型的な下剋上の所産といってよかろう。  毛利氏は、鎌倉幕府草創のとき、公文所《くもんじよ》の別当に補せられた大江広元の四男季光が相模の毛利荘を領し、毛利氏を称したのに始まり、季光の子の経光が三浦の乱の難を逃れ、安芸の国吉田荘の地頭となって以来、吉田に住んだ。地頭|職《しき》は三千貫である。これが二代目の当主で、三代目の時親の南北朝時代に、吉田に郡山《こおりやま》城を築き、ここを居城とした。元就は八代目にあたる。室町末期の戦国時代に、安芸と備後《びんご》には、大小三十数氏の豪族が蟠踞《ばんきよ》していたが、元就の父弘元は、次第に領地を拡げていった。したがって、元就は、父の時代から安芸の豪族として発展していたわけで、裸一貫の成り上がり者とはいえない。しかし、父の弘元は、大名とはいえなかった。つまり、元就一代で、安芸の国を中心とする西国の大名となったのである。  そのころ、西国地方では、出雲《いずも》の尼子氏と周防《すおう》の大内氏が最も有力な大名であった。尼子氏は、元来、出雲と隠岐《おき》の守護京極氏の守護代で、出雲の富田《とだ》の月山《がつさん》を居城として、両国を支配していたが、経久《つねひさ》のとき、この両国のほかに、伯耆《ほうき》・因幡《いなば》・備前《びぜん》・備中《びつちゆう》・但馬《たじま》・美作《みまさか》・播磨《はりま》の諸国に勢いを拡げた。また、大内氏は、義隆のときに、累代の本拠である周防の山口によって、瀬戸内海を制圧し、周防・長門《ながと》・安芸・石見《いわみ》のほか、九州の豊前・筑前の守護をも兼ねていた。したがって、安芸と備後は、尼子・大内の両雄が常に衝突する地域であり、人心の動揺が絶えなかった。尼子氏も大内氏も、安芸吉田荘の毛利氏には目をつけていたから、元就の心労も並み大抵でなかった。元就は、大内氏に人質を出すとともに、尼子氏には臣下の礼を取らざるをえなかったのである。しかし、天文六年(一五三七)の末、元就が、十五歳になった長男を人質として山口に送り、大内義隆がこれに一字を与えて、隆元と改名すると、毛利氏は、完全に大内氏に臣事することになった。  これを知った尼子経久の孫晴久は、毛利討伐を策し、三万の大兵を率いて安芸に殺到した。しかし、元就は、三千の寡兵で郡山城に立籠り、機を見て城外に撃って出て、尼子軍に大損害を与えた。そのうちに、大内氏の援軍が到着し、翌年、尼子軍は大敗して、出雲に逃げ帰った。  この一戦によって武名を知られた元就は、その後、次男の元春を吉川《きつかわ》家の、三男の隆景を小早川家の養嗣に入れ、山陰の名族吉川氏と山陽の海賊大将小早川氏を毛利の一族に組み入れることに成功し、反対派の旧臣を悉《ことごと》く処分してしまった。かくして、毛利の両川《りようせん》といわれるほどの強固な一門衆ができあがり、毛利家の西国支配の基礎をつくりあげたのである。その重要性は、世に元就の遺訓と伝えられる三本矢の教えにも窺《うかが》われる。ただし、この遺訓はニセモノらしく、本当の遺訓は毛利家伝来の自筆遺言状がそれだが、その精神において、さほど変わりはない。  そののちに、天文二十年(一五五一)、大内義隆が、家臣|陶晴賢《すえはるかた》に討たれると、元就は、この叛臣を討つことを名義とし、巧みな謀略をもって、晴賢の二万余の大軍を安芸の厳島《いつくしま》におびきよせ、僅か三千五百の寡兵をもってこれを奇襲し、晴賢を自害させた。弘治元年(一五五五)のことである。  その結果、元就は、同年、六十一歳で、安芸と備後を収め、大内氏の旧領周防・長門・石見をも併せて、一躍五ヵ国の大名と成り上がったのである。ただし、毛利の家督を継いで郡山の城主となってから、三十四年の歳月が流れ去っていた。  四国に覇を唱えた長宗我部元親  土佐出身の土豪で四国全島に覇を唱えた長宗我部元親の場合も、毛利元就と同様、裸一貫の自力の成り上がりというわけではない。父親は大名ではないが、土地の名族であり、毛並みもそれほど悪くはない。しかし、地方的な土豪から一国一城を領する大名となった点では、元就や信長・家康と同格である。  元親の先祖は、元親自身がいう通りに、秦《はた》氏であって、初め信濃にいたが、鎌倉時代の初め四国の土佐に移住し、中央部の長岡《ながおか》郡の宗我部《そがべ》におり、地名を取って、長宗我部氏と称した。その後、次第に勢力を拡げ、室町時代には、岡豊《おこう》に城を築いて、これに居り、阿波《あわ》・讃岐《さぬき》・土佐を支配する四国細川氏の配下となった。  長宗我部氏が仕えたのは、土佐の守護代をつとめた細川家であったが、主家の権勢を笠に着て、他の諸豪族を軽視したため、戦国時代の永正四年(一五〇七)、長宗我部|兼序《かねつぐ》は、土豪の本山氏に攻められ、岡豊城で自害し、城が焼け落ちた。  そこで、兼序の遺児|千雄丸《ちおまる》は、家臣に守られて、城を脱出し、土佐の名門一条氏を頼って落ちのびた。千雄丸は、成長して、長宗我部|国親《くにちか》と名のり、一条房家の尽力で岡豊城にもどったが、所領は僅か三千貫にすぎない。毛利元就と同様である。そうして、この国親の長子が元親だった。  元親は、永禄三年(一五六〇)、国親が父の兼序を討ち滅ぼした本山氏の軍勢と長浜で戦って、半数の寡兵で勝利を収めたとき、初陣の手柄を立てた。時に、二十二歳であった。ところが、まもなく国親が病死したので、元親が家督を継ぎ、同十一年になって、ようやく宿敵本山氏を討ち滅ぼした。つぎに、元親は、土佐の東部の豪族安芸氏を滅ぼし、ついで、西部の名家一条氏の家臣らを調略し、評判の悪い当主|兼定《かねさだ》を九州の豊後《ぶんご》に追放し、遂に土佐一国の統一に成功した。時に天正三年(一五七五)のことで、かれ一代で、一国一城のあるじとなれたのである。  さらに、四国統一の野望を抱いた元親は、父国親ゆずりの外交手腕を発揮して、中央政権を掌握した織田信長をはじめ、西国地方の宇喜多・毛利の諸氏と交誼《こうぎ》を通じた。元親の妻は斎藤|利三《としみつ》の妹で、明智光秀の縁者だったから、光秀を介して信長に接近することもできたが、また、長子弥三郎には、信長の一字を貰い、信親と名のらせたりしている。  そのうちに、元亀二年(一五七一)のこと、たまたま阿波に寄宿していた元親の弟が殺害されたため、元親は、それを口実にして、阿波への侵略を開始し、天正六年(一五七八)には、讃岐と伊予への進攻を始めた。そのため、同十年五月、信長は、長宗我部討伐に着手したが、本能寺で横死した。そこで、信長に代わって全国平定を志した豊臣秀吉のために、同十三年八月、遠征され、さすがの元親も秀吉の軍門に降り、ようやく土佐一国だけを安堵されたのである。  桶狭間《おけはざま》戦勝で一国の大名となる  尾張の風雲児といわれた織田信長のことを一代で成り上がった戦国大名などというと、奇妙な感じをもつ人もいるだろうが、信長も、やはり、毛利元就や長宗我部元親と同格の毛並みをもった成り上がり大名と見るべきだ。  信長の先祖は、越前の国|丹生《にう》郡織田荘の荘官であって、室町時代の初めに、越前の守護|斯波義将《しばよしまさ》に仕えた。義将の子|義重《よししげ》の代になると、斯波氏は越前・尾張両国の守護を兼ねた。しかし、義重は室町幕府の管領として常に京都の館に住んだので、朝倉氏を越前の守護代に任じ、織田氏を尾張の守護代として入国させた。尾張の守護代の織田氏は、その後、両家に分かれ、織田大和守が尾張の下《しも》四郡を領して清洲《きよす》城に住み、織田伊勢守が尾張|上《かみ》四郡の領主となって岩倉を居城とした。  ところで、清洲城主の織田大和守の家老に、織田|因幡守《いなばのかみ》・同藤左衛門・同|弾正忠《だんじようのちゆう》の三人がいたが、そのうち、弾正忠というのが、名を信秀といい、最も勢いを得た。信秀は、次第に他の二家老や主人の織田大和守を凌ぎ、天文元年(一五三二)の頃は、朝廷に献金までして、従五位下・備後守に叙任された。この信秀こそ信長の父親なのである。信長は、信秀の三男として、同三年、尾張の那古野《なごや》城内で生まれたが、十三歳のとき、同国|古渡《ふるわたり》城内で元服し、十四歳で三河に初陣している。父の信秀が四十二歳で病死したのは、同十八年、信長が十六歳のときである。  信長は、かれの舅《しゆうと》にあたる美濃の斎藤道三が悲惨な最期を遂げる一年ほど前、弘治元年(一五五五)、二十二歳のとき、尾張下四郡の小守護代の坂井大膳を尾張の国外に追放し、さらに、守護代の織田大和守を、その居城清洲に攻め、これを切腹させ、尾張下二郡を平定した。父の信秀が一生かかって成し遂げられなかったことを果たしたのである。しかし、信長を中心として、織田氏の同族争いは、一向に絶えなかった。  ところで、信長は、その伯父にあたる尾張の守山城主織田信光としめしあわせ、織田大和守が切腹して果てたあとの清洲城を信光に乗っ取らせた。が、同時に、信光の勢いが強大になることを恐れ、謀略を用いてこれを暗殺。しかも、信長の弟織田勘十郎信行が、竜泉寺城にあって、尾張上四郡の守護代で岩倉を居城とする織田伊勢守と内通して、信長に反逆を企てているという噂を聞くと、禍根を未然に断つために、信行をも暗殺させている。  このようにして、信長は、尾張下二郡を完全に統一し、同族をも粛清《しゆくせい》したが、尾張上四郡はもとより、下四郡の内でも、南部の二郡は、なお、信長の思うにまかせず、殊《こと》に南端の知多郡は、駿河の大名今川義元の支配下にあったのである。到底、一国一城の大名どころでなかったのである。それに、北隣の美濃の斎藤氏までが敵国と化し、尾張上四郡の領主織田伊勢守と内通して、信長を苦しめた。それに加えて、東隣から今川義元の武力的圧迫があった。信長の環境は、父信秀の時代よりもむしろ悪化し、その進退はまさに窮《きわ》まったといえる。  しかし、強気な信長は、この局面を打開し、禍いを転じて福とならしめんとした。つまり、今川義元が大挙して西上するのを待ち構え、これを撃滅し、その余勢をかって尾張一国を強引に平定し、北隣の美濃をも征服しようと計算したのである。その意味において、永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間奇襲作戦は、信長が、尾張下二郡の豪族から一国の大名に飛躍するための予定の行動といってよかったのである。兵力は、今川の二万五千に対して二千余。十二分の一にすぎなかったが、田楽狭間《でんがくはざま》の間道を縦隊で通過する義元の本陣五千を奇襲し、大将義元を一気に討ち取る、といった作戦が、信長の果敢な進撃によって成功したのである。  松平元信から徳川家康へ  徳川家康といえば、日本全国を統一した大政治家であり、江戸幕府の創始者でもある。これを、一代で成り上がった戦国大名七人のうちに加えるなど、いかにも不合理のように思われる。しかし、家康の父松平広忠が三河の土豪の子孫であり、非力なため、駿河・遠江の国持ち大名今川義元の支配下にあったことは、かくれもない史実である。松平氏が三河を平定して、一国の大名となったのは、広忠の子元康、つまり、家康の代なのだ。  家康は、天文十一年(一五四二)、三河の額田郡《ぬかだごおり》の岡崎城内で、松平広忠の長男として生まれた。時に父の広忠は十七歳で、無力な武将だった。天文十六年、尾張の織田信秀に攻められて、援兵を駿河の今川義元に求めると、交換条件として、当時、竹千代といった家康を人質に差し出すことを要求された。そこで、六歳の竹千代は駿府に護送されたが、その途中、戸田康光のために身柄を奪い取られ、反対の方向の尾張の織田信秀のもとに送り届けられた。そうして、那古野の万松寺に三年の間監禁された。そのうちに、父の広忠が二十四歳の若さで変死したため、三河の国は完全に今川氏の支配下に属し、岡崎を根城とする松平氏は領主を失ったも同様であった。その年(天文十八年)、今川氏と織田氏が一時和睦することになったので、義元は捕虜にしていた織田信広を尾張に返し、その代わりに松平竹千代(家康)を受け取って、再び駿府に人質として監禁することになった。  弘治元年(一五五五)、竹千代は、十四歳で元服し、松平次郎三郎元信と名のった。元の一字は、加冠役《かかんやく》の今川義元から与えられたものだ。元信は、永禄元年(一五五八)、十七歳で西三河に初陣したが、まもなく、元康と名を改めた。祖父松平清康の英名を慕い、康の一字を継いだといわれる。  その二年後に桶狭間の戦いがあって、今川義元が織田信長のために敗死するが、そのとき、松平元康は、今川軍前線の一部将であった。義元敗死のしらせを受けると、当年十九歳の元康は、尾張の大高城を出て、三河の岡崎城にもどり、やがて、義元の世嗣今川|氏真《うじざね》と断交し、永禄五年(一五六二)、信長と清洲軍事同盟を結び、翌年七月、家康と改名したのである。元康の元の字が今川義元から貰ったものだから、これを家康と改めたのは、今川氏との宿縁を完全に断ち切ることを表明する。しかも、程なく、松平を徳川に改め、三河を平定し、今川氏真を追討して、遠江を収め、二ヵ国を支配する東海の大名として発展する。父親は三河の名族だが、無力な存在だったのを、家康の自力で、しかも、僅か数年で、東海の有力大名と成り上がったのである。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]戦国七人の首取り武将  戦国時代と限らず、武家全盛の乱世期にあって、戦場において活躍する武勇の士は、名誉と地位のある敵と戦うことを好み、これに打ち勝った場合、それを証明するため、相手の首級をあげ、しかも、その数によって戦功を競い、恩賞の厚さを誇る習慣があった。  その行為は、勇敢ではあるが、野蛮であり、残忍である。したがって、その首取りの手柄を何らかの方法で美化したり、または、その犠牲者の亡霊をとむらい、冥福を祈る、といったような宗教的行事も行なわれた。そこに、幾分の救いがなくもなかったのである。以下、戦国時代に活動した武将の首取り話のうちから七種を選び、その実況を紹介してみよう。  斎藤道三の六万墓と織田塚  一介の灯油売りの行商人から武家奉公を志し、美濃の守護土岐盛頼の弟|頼芸《よりなり》に近仕し、盛頼を廃して、頼芸を守護に祭り上げ、自ら守護代にまで成り上がった斎藤道三は、さらに、頼芸の弟頼満を毒殺し、同じく頼芸の弟|揖斐《いび》光親と頼芸の子法師丸のことを、頼芸にざん訴し、これを遠ざけた。  しかし、道三に毒殺された土岐頼満の家来加藤|主水《もんど》と塚本主膳が、一部始終を頼芸に訴え、頼芸に諫言を呈した結果、頼芸は、初めて目の醒める想いをし、前非を後悔し、越前の朝倉氏の助勢を乞うて、道三を討ち取ろうと謀った。これを耳にした道三は、土岐頼芸の忘恩を憤り、天文十一年(一五四二)の八月、数千の軍勢を率いて、美濃の稲葉山城を出馬し、頼芸の立籠る大桑《おおが》城を包囲し、これに猛攻を加えた。頼芸方もよく戦ったが、兵力の不足は致し方なく、敗北した。このとき、討死する者が、敵味方合わせて、三百七十人におよんだという。  そこで、これらの戦没者の亡霊をとむらうために、後世、村びとらが、大桑城の麓に「六万|墓《ばか》」というのと、「千人塚」というのと、二つの墓碑を建てた。「六万墓」のほうは、斎藤方と土岐方両方の戦没者を合わせて供養するため、「千人塚」は土岐方だけの戦死者をとむらうためであったという。現在、岐阜県山県郡高富町大桑の市洞《いちほら》という部落の山ふところに、その両碑が残っている。  ところが、その後、天文十三年(一五四四)八月と同十六年九月の両度にわたって、当時、越前の一乗ケ谷にのがれていた土岐頼純(盛頼)を援けた朝倉孝景の軍兵と、尾張の熱田に亡命していた土岐頼芸を後援する織田信秀の軍勢が、北と南から呼応して、美濃に侵攻してきた。ことに天文十六年(一五四七)九月、織田軍は、斎藤道三が楯籠る稲葉山城下の町家を焼きはらったが、夕刻になると、兵を収めようとした。満を持していた道三方は、これを急迫し、敗走する織田方の将兵五千余人を討ち取ったという。そのなかには、信秀の弟の尾張犬山城主織田信康の死体もあったらしく、信秀も、いのちからがら、尾張に逃げ帰ったといわれる。  現在、岐阜市の円徳寺にある織田塚は、そのときの織田軍の戦没者を葬った塚だといわれている。戦没者を埋葬した直後、この塚のなかから、毎夜、鬨《とき》の声が聞こえ、雨の降る夜には人魂《ひとだま》があがり、四辺に浮動する、と噂された。村びとらは、それを聞き、首のない戦没者が浮かばれないからであろうと、同情し、死者の亡魂をとむらうための大供養を施行した。すると、そのような異変は、まもなく、あとを絶ったという。  しかし、この「六万墓」「千人塚」「織田塚」などの場合は、大勢の敵軍兵士の首を斬り取った武将、つまり、斎藤道三自身が、首取りの供養を行なったわけではない。戦場に近い村の人々が、墓を造り、供養をいとなんだのである。その点、道三は、非情な首取り武将だったといえるだろう。  北条氏康の河越《かわごえ》夜襲戦  つぎに、小田原北条氏三代目の当主北条氏康の場合を紹介しよう。小田原北条氏は、伊豆の北条を根拠として相模に進出した早雲をもって一代目とし、相模の小田原城を本拠とし、武蔵へ進出して、関東管領|扇谷《おうぎがやつ》上杉氏の居城河越をおとしいれた氏綱をもって二代目とするが、三代目の氏康は、天文十年(一五四一)、二十七歳で、跡目《あとめ》を相続し、同じく扇谷上杉氏の居城である江戸城をも奪い取った。そのため、扇谷上杉氏は次第に衰微していったが、上野《こうずけ》の平井城(群馬県藤岡市)を居城とした山内上杉氏の当主|憲政《のりまさ》も、時勢の推移に関する認識にうとく、関東管領の虚名に酔いしれ、京都から白拍子《しらびようし》を招き、日夜、遊興に耽っていた。ところが、北条氏康が聞きしにまさる名将であり、上杉氏の属将が殆ど氏康に内通しているという噂を耳にすると、上杉憲政は、当時、北条氏と敵対関係にあった駿河の守護大名今川義元と結び、同十四年(一五四五)の八月、扇谷上杉|朝定《ともさだ》と協力して、河越城の奪還をはかったのである。古河公方《こがくぼう》足利晴氏も、憲政に味方した。  九月になって、上杉憲政は、六万五千の大軍を率いて上野の平井を出発し、武蔵の河越城を包囲した。十月に入ると、足利晴氏も二万の軍勢で河越に着陣し、憲政を援助した。寄せ手は合わせて八万五千。十重《とえ》、二十重《はたえ》に包囲された河越城は、糧道を断たれ、城将北条|綱成《つなしげ》以下三千余の兵士が城門を開いて降伏するのも、時間の問題と思われた。寄せ手の軍勢は、いまは、ただ、時間を待っていればよかったが、それだけに、余暇を持て余した。そして、酒宴と遊興に耽溺《たんでき》した。しかし、実は、これが北条氏康の仕かけた謀略であった。酒と女を上杉方の陣中に送りこみ、戦意の低下と軍律の弛緩《しかん》をはかったのである。が、それに気がつかない上杉憲政は、長陣にあきて、平井|館《やかた》から自慢の白拍子の美女を呼びよせたりしている。  いっぽう、北条氏康は、河越城を守る北条綱成の弟で氏康の小姓をつとめていた福島勝広という若侍を河越城内に忍びこませ、城を固守して援軍の到着を待つようにという氏康の意向を城将に伝えさせた。城内の将兵は、これを知って、急に元気づいた。そこで、氏康は、駿河の今川義元に使者を送って、交渉をかさねた末に、義元と和睦し、後顧《こうこ》の憂いを除くことにも成功すると、天文十五年(一五四六)の四月、八千の精兵を率いて、河越城の救援に向かった。  氏康は、上杉憲政の本営のある砂窪《すなくぼ》から一里余南の三ツ木に陣取ったが、弱音を吐いて上杉方を油断させ、さらに、入間川の南に少数の兵を出して、戦いをいどみ、上杉方が攻勢に出ると、一戦にもおよばずに、南方へ遁走させた。しかも、そんな小細工を四度も行ない、敵の大軍を慢心させることに成功した。氏康は、なおも、忍者に敵情をさぐらせ、北条軍が一両日中に三ツ木から退散するだろうとの噂が流れていることを確かめると、四月二十日の夜、八千の軍勢を四隊に分け、そのうちの一隊を三ツ木に残し、あとの三隊をもって、砂窪の上杉憲政の本営に近づくと、大喊声《だいかんせい》をあげて突入したのであった。不意を衝かれた上杉軍は、たちまち大混乱に陥り、総大将憲政は一戦も交じえずに上野の平井に遁走し、扇谷上杉朝定は討死をとげた。河越城将北条綱成は、城外に撃って出て、古河公方の大軍を潰走《かいそう》させた。  この夜襲戦に、北条氏康は、自ら薙刀《なぎなた》を振るって奮闘し、敵将十数騎を斬った。上杉軍の戦死者は、名将三十数騎を含めて一万六千人に達したが、北条方の損害は百名に満たなかったという。名将氏康の首取りぶりのすさまじさは、言語に絶するものがあったのである。  毛利元就の厳島《いつくしま》奇襲戦  安芸の吉田三千貫文の地頭にすぎない郡山城主毛利元就は、初め周防の守護大名大内義隆に属し、出雲の守護代尼子晴久を郡山城下に撃退し、武名を知られた。  その後、義隆が叛臣|陶晴賢《すえはるかた》に殺害されたが、元就は、亡君の仇を討つ気配さえ見せず、却って、晴賢の手先となって働きながら、尼子の所領を少しずつ掠《かす》め取った。それを晴賢から咎められると、急に態度を変え、天文二十三年(一五五四)の夏ごろから、周防の侵略を始め、晴賢の属城を次々とおとしいれた。  晴賢は激怒して、大兵を安芸に指し向けたが、折敷畑《おしきはた》で大敗した。そこで晴賢は、天野慶庵《あまのけいあん》をスパイとして郡山城に入れ、毛利方の情勢をさぐらせた。すると、元就は、この慶庵を逆に利用して、同年の秋、厳島の北岸の宮尾に城を築き、五百の兵でこれを守らせ、その軽挙を悔いる噂を流させた。敵方に宮尾城を奪われ、厳島を固められたならば、毛利方は、兵糧の運搬さえもできず、元就の息の根も止まるだろう、と歎くのであった。  慶庵の密告で、この噂を信じた陶晴賢は、明くる年の九月下旬、二万の大軍を数百艘の兵船に分乗させ、安芸の厳島に向かったのである。厳島は、長さ二里半、幅一里の小島だ。この狭い島山に陶晴賢の大軍を誘引し、一挙にこれを撃滅しようと、元就は考えたのだ。三千の小勢では、そうするほか、勝算が立たない。  九月|晦日《みそか》の夜半、元就は、地御前《じごぜん》から船を漕ぎ出させた。風雨が烈しく船端をたたく。浪がしらが暗夜に狂い立つ。どの船も篝火《かがりび》を消していた。やがて、風が落ちて浪が静まったころ、毛利勢は、厳島西岸の鼓《つづみ》が浦《うら》に着く。船から上がると、一同、決死の覚悟を定めた。元就は、当年とって五十九歳とは思えぬほどの確かな足どりで、手兵を率い、嶮しい博奕《ばくち》尾山《おやま》を登り、陶晴賢の本陣、塔の岡の背後に迫った。  十月|朔日《ついたち》の早暁、毛利勢は、大鳥居前から上陸した小早川隆景の別隊と北岸の宮尾城の守備兵とを合わせ、三方から鬨《とき》の声をあげ、塔の岡に集結しつつあった陶氏の大軍にたいして、奇襲攻撃をかけた。不意を衝かれた陶軍は、あわてふためき、日の出とともに、支離滅裂の状態に陥り、乗船を求めて潰走《かいそう》した。毛利方は、それを追って、八千余人を討ち取っている。晴賢は、大江浦で自害した。時に三十五歳。介錯《かいしやく》をした家臣の伊香賀《いかが》房明は、晴賢の着ていた朽葉色《くちばいろ》の小袖に首を包んで、岩蔭に埋め、自害して果てた。  厳島戦勝のあとで、元就は、晴賢の首を探させたが、判明しない。そのうちに、晴賢の中間《ちゆうげん》の乙若《おとわか》という童子が、自分の助命にかえて、そのありかを教えたため、小袖に包まれた晴賢の首が発見されたという。  ところで、元就は、陶軍のおびただしい死骸を、厳島対岸の大野に運ばせ、手あつく埋葬させたが、なおも、流血の厳島の土砂を洗い、社殿を浄め、神前に戦勝を奉謝している。そして、十月五日には廿日市《はつかいち》の桜尾城に凱旋し、晴賢の首実検を行なったのち、その首を洞雲寺に葬り、亡魂供養のため、石塔を建てている。  厳島で大勝利を博した毛利元就は、戦後、大内氏の領国、周防・長門を、そっくり手に入れた。謀略にかけても、陶晴賢などより、ずっと、うわ手だった。ただの首取り武将ではなかったのである。  織田信長と桶狭間の千人塚  尾張|下《しも》二郡の戦国武将織田備後守信秀の三男として生まれた信長は、信秀の死後、総領となって家督を相続したが、尾張一国を完全に平定するのに、ひどく手間どった。それというのも、三河に近い河内・知多の二郡が、駿河の守護大名今川義元の勢力圏内にあったからである。そのうえ、八年間も織田氏の同盟国であった北隣の美濃で、信長の舅《しゆうと》斎藤道三の長男義竜が、道三を討ち果たし、信長に挑戦したため、再び敵側にまわることになってしまった。それが悪条件にプラスしたのである。しかし、強毅果敢な若大将信長は、東と北に引き受けた大敵にたいして、強引な両面作戦を練っていた。  ところが、永禄三年(一五六〇)になると、東方の今川義元からの圧迫が急に烈しくなってきた。海道一の弓取りといわれた義元が、いよいよ、二万五千の大兵を率いて西上を企てたからだ。義元は、時に四十二歳。義元の本隊五千が尾張の沓掛《くつかけ》まで侵入し、明日は丸根・鷲津《わしづ》の砦《とりで》を総攻撃するらしいとの情報が、信長の居城|清洲《きよす》に伝達されたのは、五月十八日の夜のことである。二十七歳の信長は、前線基地からの敗報を次々と聞き取りながら、その夜は、軍評定《いくさひようじよう》もせずに、寝てしまった。そこで、織田家の重臣たちも、長嘆息して、君側を去った。ところが、信長は、夜半すぎると、寝床を蹴って起き上がり、すばやく物具《もののぐ》を身につけ、湯漬《ゆづけ》をたべ、小鼓《こつづみ》を取りよせ、東方に向かい——人間五十年、下天《げてん》の内を比ぶれば、夢幻《ゆめまぼろし》のごとくなり。ひとたび生をうけ、滅せぬ者のあるべきや——と「敦盛《あつもり》」の一曲を謡いながら、三度も舞った。そうして舞い終るやいなや、小姓七、八騎だけを従え、城門を開いて出馬した。しかし、熱田神宮に参拝するころには、軍勢も追々と集まり、千八百人ほどになっていた。  信長の軍勢が熱田を南に進み、善照寺《ぜんしようじ》に至ったとき、敵将今川義元が沓掛を出て、西の大高城方面に向かって移動を開始し、なぜか、少し南方の桶狭間のほうに向きをかえ、その途中の田楽狭間《でんがくはざま》で小休息しているという情報を得た。忍者の情報である。田楽狭間といえば、狭い窪地だ。五千もの義元の本隊は、どうしても、縦隊に延びざるをえない。そこで、縦隊に延びきって休息しているところを、旗本めがけて斬りこめば、義元を討ち取ることができなくもない。信長は、馬の首を立て直し、二千の兵を一丸となして、疾走した。  信長は、相原の辺で下馬し、旗指物も打ち捨て、田楽狭間の背後の太子《たいし》ケ嶺《ね》に分け入った。樹々の繁みから見おろすと、義元の本陣がまっ下にある。義元は、たびかさなる勝利に、身も心も浮きたち、祝酒に酔いしれていた。折しも、天空が俄かに黒雲に覆われ、下界が霧の底の海のように暗くなると同時に、石氷《せきひよう》を投げつけるかのごとき大粒の雨が降り出したが、その大雨が少し止みかけたとき、信長は、突撃の命令を下し、二千の軍勢が一つの黒いかたまりとなって、太子ケ嶺を駈け降り、義元の旗本めがけ、まっしぐらに襲いかかった。不意を衝かれた今川勢が右往左往しているうちに、信長の近臣|服部《はつとり》小平太が、義元に肉薄していった。小平太は、義元のために膝を斬られた。が、同時に、毛利|新介《しんすけ》が義元を組み伏せ、その首を取った。支離滅裂となった今川軍は駿河に向かって潰走した。  この戦いで、織田方の下方《しもかた》九郎左衛門が、義元の同朋《どうぼう》の権阿弥《ごんあみ》という者を生捕ったので、信長は、これを清洲城に呼びよせ、織田方で討ち取った今川の将士の首を見せ、それらの名前を問うと、権阿弥が、いちいち、その首に名札をつけた。信長は、大いに満足し、十人の僧侶に義元の首を持たせ、権阿弥と一緒に、駿府に送り届けた。そして、清洲から二十町南の須賀口に大きな塚を築いて、これを義元塚と名づけ、法事には千部の経を読ませた。この塚は、後に千人塚と呼ばれた。非情な英雄と呼ばれた信長ではあるが、やはり、天下取りを志すだけあって、ただの首取り武将ではなかったのである。  島津義弘と木崎原《きざきばら》の六地蔵塔  島津義弘は、天文四年(一五三五)、貴久《たかひさ》の次男として、薩摩の伊作《いさく》城に生まれた。島津貴久は、薩摩を本拠として、次第に大隈《おおすみ》をも手に入れ、ついで日向《ひゆうが》の伊東氏と対立した。しかし、この対立の決着がつかないうち、元亀二年(一五七一)、貴久が病死し、長男の義久が家督を相続した。ところが、その翌年(元亀三年)の五月、伊東|義祐《よしすけ》が、突然、加久藤《かくとう》城を攻めたことによって、島津・伊東両軍の木崎原決戦となった。この戦いは、伊東軍の兵数が圧倒的に多く、島津勢は僅か二、三百にすぎなかったが、義久の弟|義弘《よしひろ》の巧みな偽装作戦によって、大勝利を得たのである。この決戦で、島津方の戦死者は二百六十人に達したが、敵の首を斬ること五百余級というから、その激闘のほどが偲ばれる。  戦後、義弘は、敵味方の戦死者の追善供養のために、木崎原の戦場に六地蔵塔を建てた。これを見た往来の人々は、これこそ伊東の人々の亡霊を慰めるための六地蔵であるよ、と言って念仏|回向《えこう》をしたという。義弘のこのような仏事は、おそらく、祖父島津|日新斎《につしんさい》(忠良)が薩摩の加世田《かせだ》に建てた六地蔵塔に影響されたものであろう、といわれている。  のちに、義弘の兄島津義久も、豊後の大友|宗麟《そうりん》と日向の耳川に戦い、大いにこれを破ったあとで、大友軍戦死者の死骸をあつめ、高城《たかじよう》川原《がわら》に塚を築き、これを豊後塚と称し、死者の菩提《ぼだい》をとむらうための大施餓鬼《だいせがき》さえ行なっている。花も実もある日本の武将とは、かれらのことをいうのであろう。敵の首を取るばかりが能でなかったのである。  徳川家康が築かせた信玄塚  秀吉のあとを取って最後に日本全国を完全に統一した英雄徳川家康も、かつては、甲斐の強豪武田信玄を最も恐れていた。これは、いうまでもなく、元亀三年(一五七二)に遠州|三方《みかた》ケ原《はら》で信玄のために惨敗したからである。しかし、その強敵信玄も、その翌年、信州の駒場《こまんば》で病死した。家康は、肩の重荷をおろしたような気がした。  ところが、信玄の嗣子武田勝頼は、亡父の遺志をつぎ、西上の宿願を果たそうとし、しばしば、遠江・三河境に出兵した。勝頼は若年ではあるが、三方ケ原合戦の際の勇猛ぶりを知られていたので、家康も油断できなかった。果たせるかな、勝頼は、信玄死去の翌年(天正二年)の二月、家康が駿河に入った隙を狙い、三万の大兵を美濃に送って、武田の武威を示し、五月、家康の属城となっていた遠江の高天神城《たかてんじんじよう》を奪い取った。高天神は、さすがの信玄もこれを入手できなかった。それを手に入れた勝頼は、大いに心おごり、天正三年(一五七五)の五月、家康に奪い取られた三河の長篠城《ながしのじよう》を取り返すため、一万五千の兵を率い、家康の属将奥平|貞昌《さだまさ》の守る長篠城を包囲した。城兵は僅か五百人だったが、家康の援軍を期待し、容易に降《くだ》らない。しかし、城内の兵粮は次第に底をついてきた。  家康は、これにたいして、単独|赴援《ふえん》をさけ、信長との攻守同盟に従い、織田・徳川の連合軍を編成し、武田軍にあたろうと考えた。家康の要請によって、信長は、三万の大兵を率いて岐阜から来援し、家康の指揮する八千の徳川勢と合体し、合わせて三万八千の連合軍を組織し、長篠城の西方一里の設楽原《しだらがはら》に到着した。  これにたいして、武田軍も、同じく設楽原に出て、鶴翼《かくよく》十三段の陣を布いた。そして、五月二十一日には、武田流軍法による騎馬隊が一斉に織田軍めがけて突入したのである。  これにたいして、信長は、日ごろから訓練しておいた鉄砲足軽隊に三千三百梃の鉄砲を持たせ、味方の陣営の前方に三段構えの柵《さく》を設け、その蔭にかくれ、突進してくる武田の騎馬隊にたいして、交替《こうたい》に玉ごめしながら、連射を浴びせかける、といった新戦法を用いた。  そのため、精強をもって聞こえた武田軍も、その実力を十分に発揮することができず、一万人の戦死者を出して、敗退したのである。  しかし、織田・徳川の連合軍の死者も六千人に達したというから、山県昌景《やまがたまさかげ》・真田信綱《さなだのぶつな》・原昌胤《はらまさたね》・高坂昌澄《こうさかまさずみ》などという武田方の戦没勇将が、いかに力戦奮闘した末に斃《たお》れていったかが、推測されるのである。  家康は、この長篠の戦勝によって、初めて武田信玄からこうむった三方ケ原敗戦の屈辱をそそぐことができ、大いなる喜びを感じた。しかし、幼少のころから、祖母や生母などによって浄土宗の訓育を受け、信仰心を身につけていた家康は、長篠の戦いにおける敵味方の戦没者にたいして、心からその死を悼《いた》み、死骸を集めて、塚を築き、これを厚く葬ったのである。  時の人々は、味方を葬った塚が小さいので、これを小塚といい、敵方を葬った塚が大きいので、これを大塚と呼んでいた。しかも、敵の塚のことは、武田勝頼の父信玄の名に因んで、これを信玄塚とも称したのであった。  ところが、長篠合戦の翌月(天正三年六月)になると、この信玄塚から大きな蜂がむらがり出て、通行人を刺し、悩ますので、村びとらは、この塚の下にねむるつわものたちの悲惨な死にぎわを想像し、かれらの霊魂が浮かばれないせいであろう、と噂しあった。その噂を耳にした家康は、大恩寺の演誉上人に依頼して、七月二十一日のこと、多数の僧侶を集めて、盛大な法要をいとなませたのである。  その後、このことが例となり、今日でも、長篠地方では、毎年、七月十六日(現在は七月十五日)に、火踊りと称して、村びとが、手に手に松明《たいまつ》を持ち、口に念仏をとなえ、仏陀の徳をたたえながら、信玄塚の周囲を踊りまわり、地下の亡霊を慰める行事が行なわれている。  家康も、やはり、敗北者の首を斬り取らせて、実検に供する反面に、死者の怨霊を恐れ、亡魂を慰めることを考えたのである。  首数の最高記録者松平|忠直《ただなお》  徳川家康は、信長、秀吉のあとをついで、日本全国を統一したのであるが、天下の政権を握ったのは、天下分け目といわれた関ケ原の戦いで石田三成に勝ったからだし、徳川将軍を中心とする幕藩体制を布《し》くことに成功したのは、大坂両度の陣によって、豊臣氏を滅ぼすことができたからである。したがって、関ケ原合戦と大坂の陣は、家康が行なった戦争中、最も大規模なものであり、敵味方の戦死者も莫大な数にのぼり、殊に戦勝者としての徳川方の武将が斬り取った敵の首もかなりの数字に達したのであった。 『天元実記』には、関ケ原における石田方(西軍)の戦死者を三万七千余、徳川方(東軍)のほうを三千余と過少に記載し、徳川方で最も多く敵の首を取った者を福島正則の家来の可児《かに》才蔵とし、取り首十七とかぞえている。『可児才蔵誓文日記』によると、才蔵は、切り首の口に笹《ささ》の葉を含ませて、戦功の証拠としたため、これを実検した家康は、才蔵に笹才蔵という綽名《あだな》を与え、その武勇をほめたたえたといわれる。  また、『難波戦記』によれば、慶長二十年(一六一五)五月八日の大坂夏の陣最後の決戦における徳川方の最高殊勲者を松平越前少将忠直としているが、それは、忠直の部隊だけで、敵の首三千七百五十級をあげたからだという。  松平忠直は、徳川家康の次男松平秀康の長男で、家康の孫にあたる。秀康は、家康が若年のころ湯殿で手をつけたお万という女に生ませた子である。秀吉が養子に秀康を望んだとき、家康は、それに応じ、秀康を大坂に送った。秀康は、実父の家康からは疎んぜられたが、養父の秀吉からは寵愛され、羽柴の姓を与えられた。  小田原陣後、下野《しもつけ》の大名|結城《ゆうき》晴朝に所望され、その養嗣となって、結城氏と改め、下野の結城十万一千石を相続している。関ケ原の乱には、会津の上杉勢の押さえとして活動したため、秀康は、松平の姓に改めて、越前六十八万石を賜わり、北荘《きたのしよう》(福井市)に転封された。  しかし、異母弟の徳川秀忠が二代将軍に就任すると、憤懣《ふんまん》やる方なく、自暴自棄に陥り、慶長十二年(一六〇七)、三十四歳をもって、北荘で病死した。この秀康の跡を嗣いだのが、ここに問題とする松平忠直である。  忠直は、十三歳で父の遺領六十八万石の大封を受けたが、父が徳川幕府に抱いていた憤懣をも受けつぎ、幕府から警戒の眼を注がれていた。  ところで、大坂夏の陣における忠直の活躍は、実に目ざましかった。  その前日(五月七日)、忠直は、二十一歳の青年武将として、三万の軍勢を率い大坂城攻撃に参加したが、祖父家康の軍令を待って、動かずにいた。すると、臆病者ぞと、家康に罵倒されたため、八日の未明、立腹《りつぷく》のままに猛攻を開始し、大坂方随一の精兵と聞こえた真田勢と衝突し、ついに、敵将真田|幸村《ゆきむら》をはじめ、三千七百五十の首級をあげ、さらに大坂城内の一番乗りをしたのであった。幸村の首を取ったのは、忠直の直臣、西尾仁左衛門であった。  これを知った家康は、馬上で小躍りして喜び、大坂落城の二日のち、京都二条城に忠直を呼びよせ、その戦功をほめたたえ、名物、初花《はつはな》の茶入《ちやいれ》を与えた。将軍秀忠もまた、貞宗の脇差《わきざし》を賞与している。そのとき、家康は、追って恩賞の沙汰もしようと言ったので、忠直は、その言葉を信じ、家来を集めて酒宴を催したりしたが、恩賞の沙汰もなく、そのうちに家康が病死してしまった。  忠直は、家来にたいして面目を失ったので、その鬱憤《うつぷん》を晴らすため、酒色に耽《ふけ》り、乱行をほしいままにした。そこで、幕府も捨てておけず、これを処罰することになった。それを知った忠直の生母、清涼院は、自ら越前の北荘に赴き、将軍の意向として、忠直を豊後の萩原へ配流するという命令を伝えたのであった。  忠直は、案外すなおにこの処分に服し、元和《げんな》九年(一六二三)の三月、二十九歳で萩原に赴いたが、慶安三年(一六五〇)の九月十日、そこで病死している。時に五十六歳だった。したがって、二十八年間、配所の月を眺めて過ごしたことになる。首取り日本一の武将の末路《まつろ》に似合わしいといわねばなるまい。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]初陣《ういじん》にみる戦国武将の生き方  元服と筆おろしと初陣  同じ武将といっても、源平時代のその昔や、公家化した足利歴代将軍の場合などはともかく、弱肉強食の傾向が熾烈《しれつ》化した戦国乱世の武将ともなれば、十三か十四、五で元服式をすますと、その翌年あたりに、初陣と称して、武装のいでたちも美々しく、敵陣攻撃に参加するのを吉例《きちれい》とする。  そもそも元服の式は、中国から伝来したもので、『続日本紀』によれば、奈良時代の和銅七年(七一四)六月、聖武《しようむ》天皇が皇太子の御時、元服されたのを初見とするが、これを制度として定めたのは、平安時代に清和天皇が元服された際に、大江《おおえの》音人《おとんど》が、唐礼によって制定したのが最初だと、いわれている。堂上公家では、十一、二歳から十五、六歳までの間に行なわれるのが通例であり、式が終ると、元服者に実名が定められ、添《そ》い臥《ぶし》がきまる。添い臥というのは、若君の側近に添い寝をする女性のことである。古代では、この添い臥の指導で筆おろしをするのが、元服、つまり、男の成人式の中心的な行事だったらしい。おそらく、その古代豪族の風習が、一つの行事、儀式となって上代貴族に受けつがれたのであろう。奈良や京都の貴族の公達《きんだち》や平和な時代の将軍の若君、地方土豪の若殿などは、このようにして、十五や十六で、少なくとも今日の上流階級やインテリ層の坊ちゃんたちよりは、はるかに性的に恵まれた成人式をいとなんだわけである。  しかし、戦国時代の大名や武将の若殿には、必ずしも、そのような悠長な元服式が許されなかった。かれらの眼前には、生死の両道がひらけていた。勝つか負けるか、栄えるか滅びるか、の決戦が待っていた。敵を食い殺さなければ、直ちに、敵に食い殺されるにきまっていた。生死の観念を超克して敵陣に突入する訓練を、元服と同時に試みねばならない。それならば、初陣と筆おろしとの関係は、どうであろうか。初陣が先か、筆おろしが先か。それとも、戦国武将には、筆おろしなど、全く不必要であったか、どうか。この問題は、なかなかややこしくて、はっきりしない。しかし、武将それぞれの心がまえ、生き方について考える場合、かなり重要な問題のように思われる。  純真な若者にとって、女色などは、全く知らないに越したことはあるまい。特に死を決意して敵陣に突入する場合、なまじっかの経験は、かえって、この世に執着を覚えさせ、死ぬのがいやになり、卑怯未練《ひきようみれん》な振舞いに及ぶのが関の山であろうという考え方もある。これは、一理ある。たとえば、今から三十数年ほど前に、特攻隊の青少年兵が初陣したときの内輪話を聞いたが、一度の経験もなしに死なすのもかわいそうだと、変に同情し、決死の出撃の直前、この世の名残に、いい思いをさせてやったところが、それがかえって仇となり、ろくな手柄も立てず、終戦直前のどさくさまぎれに、陣営から脱走して、銃殺された例さえあったそうだ。あのようなことは全く知らないか、それとも、もうこの世に思い残すことのないほど、存分に堪能するか、のどちらかであって、なまじっか知るのが、最も毒になるのかもしれない。これは、今も昔も同様に思われる。  そこで、戦国武将の場合、一通りの実例を挙げて、元服と筆おろしと初陣との関係を考察してみたいと思うのである。  二度結婚して初陣した甲斐《かい》の虎  まず、甲斐の虎といわれた武田信玄の場合をうかがってみよう。『甲陽軍鑑』によれば、武田信玄は、幼名を勝千代《かつちよ》といったが、天文五年(一五三六)の三月吉日、十六歳で元服し、信濃守大膳大夫晴信と名のり、禁中から勅使として権大納言|転法輪《てんぽうりん》三条|公頼《きんより》が甲府へ下向した。そうして、同年の七月、勅命によって、公頼の姫君が、晴信に輿入《こしい》れすることになったが、同じ年の十二月、晴信の父武田信虎が信州佐久郡|海野口《うんのぐち》を攻めたので、晴信も、初陣として、これに加わったという。任官も婚姻も、今川義元の斡旋《あつせん》によるらしい。それはともかく、これによれば、武田信玄は、十六歳で元服すると、その年の内に、結婚し、それから初陣したことになる。つまり、初陣の四ヵ月ほど前に女色に接しているのだ。それにも拘わらず、かれの初陣は、その性格の粘り強さを遺憾なく発揮したものであったといえる。初めは大雪のために合戦もできず、そのうえ平賀源心《ひらがげんしん》という七十人力もあるという豪傑が敵方に加わったため、一ヵ月以上も海野口城を包囲したけれど、陥落しない。そのうちに、年の暮に近づいたので、父の信虎は、来春を期し、囲みを解いて甲府に帰った。信玄もしんがりをつとめて、三十里ほど退いたが、甲府へは帰らず、二日後の払暁《ふつぎよう》、手勢三百ばかりで海野口にひき返し、突然、城に攻め入った。八千の武田軍がひきあげたので、安心していた敵方は、みな、それぞれの支城や在所《ざいしよ》に帰ってしまい、城には、平賀源心以下八十人ばかりがいたが、不意を衝かれ、攻め落とされてしまったのである。一説によれば、この初陣の話は、『甲陽軍鑑』の作者のつくり話にすぎないともいうが、必ずしも、そうと断言できまい。  ただ、『妙法寺記』によると、信玄は、太郎と称した天文二年(一五三三)、十三歳のとき、はやくも、父信虎の政略により、上杉|朝興《ともおき》の娘を妻に迎えたが、この妻は、その翌年の十一月に妊娠したまま死亡したというから、元服以前、僅か十三歳で筆おろしをしたことになる。元服の前後に女色を知り、しかも初陣して功名を挙げたことになる。さすがに、甲斐の虎であった。  不犯《ふぼん》を誓って初陣した越後の竜  甲斐の虎に対して越後の竜といわれた上杉謙信は、幼名を虎千代と名づけられたが、天文五年(一五三六)、七歳のとき、父の長尾|為景《ためかげ》の命令で、越後|春日山《かすがやま》城内の曹洞《そうとう》宗の禅院|林泉寺《りんせんじ》に入り、名僧|天室光育《てんしつこういく》和尚の膝下《しつか》で参禅の行《ぎよう》を修めた。ところが、この年、為景が死に、その虚に乗じて、逆徒が領国を乱したので、虎千代は、七歳の幼少ながら、甲冑《かつちゆう》を身につけ、亡父の棺《ひつぎ》を見送ったという。しかし、七歳で初陣したわけではない。その後、兄の長尾|晴景《はるかげ》が、守護の上杉|定実《さだざね》を奉戴し、守護代として越後を治めた。しかし、二十四歳にもなっていた晴景は、病弱のためか、無気力である。そこで、晴景を侮《あなど》った長尾家の部将たちが、頻りに党派あらそいを始め、国内が甚だ乱れてきた。晴景は、やむなく、弟の虎千代を起用しようとした。  そこで、虎千代は林泉寺を出て、天文十二年(一五四三)、十四歳で元服し、ここに長尾平三景虎《ながおへいぞうかげとら》と名のった。そうして、『長慶寺文書』所収の天室光育宛景虎書状によると、本庄実仍《ほんじようさねとみ》らに擁せられて、越後の三条に入り、ついで栃尾《とちお》に進み、所々の逆徒を討ち平らげ、守護代長尾の家名を挽回することができたという。これが、上杉謙信の初陣である。そのときの長尾景虎の根城《ねじろ》は、本庄実仍が城代をつとめていた栃尾城であったが、景虎を若輩と侮った近辺の土豪が、栃尾に対して砦《とりで》を築き、挑戦してきた。  そこで、景虎も、これに応戦し、初陣の手柄を立てて、その武名を揚げたといわれる。これで、上杉謙信の元服は十四歳のときであり、その年、直ちに初陣を行なったことがわかるが、それらと女色のことは、全く関係がなさそうである。特に謙信の場合、生涯|不犯《ふぼん》とさえいわれ、女性関係のことは明らかでない。不犯の名将といわれるからには、筆おろしどころではあるまい。謙信が不犯であったか、どうかは、実証するよすがもないが、江戸初期の大学者新井白石によれば、——謙信は、常に持戒して、伝法灌頂《でんぽうかんじよう》を行なうこと凡そ四ヵ度に及び、或いは護摩《ごま》を修し、或いは参禅し、肉食と色欲を断ったために、子がなかったというが、思うに、弓矢の冥助《めいじよ》を祈り、このような行ないを敢えてしたことは、昔から例がある——という。戦闘に必勝するために、不犯を誓って出陣したのであろう。  尾張の風雲児、敵将の娘を娶る  尾張の風雲児といわれた織田信長は、幼名を吉法師《きつぼうし》といい、那古野《なごや》の城で幼時をすごしたが、天文十五年(一五四六)、十三歳のとき、古渡《ふるわたり》城内で元服し、三郎信長と名のっている。元服式の模様については、『信長公記』にも、——御酒宴、御祝儀、斜《ななめ》ならず——とあるだけだが、清洲町の長崎|※一《かんいち》氏所蔵の「織田信長元服の図」によれば、前髪を切った、ういういしい若武者が、美しい縅《おどし》の鎧《よろい》を着こなし、左手に弓を持ち、かぶとを下におき、黒塗の鎧櫃《よろいびつ》に腰かけている。見るからに、すがすがしい絵である。これが、信長の元服の図であるというが、「一名、信長初陣の図」ともいわれている通り、おそらく、初陣の勇姿を写したものではあるまいか。  上の余白には、寛永十六年(一六三九)に林羅山が賛文《さんぶん》を書いているから、おそらく、信長にゆかりのある者が、江戸初期の某画家に依頼して描かせ、羅山の賛をもとめたものと推測される。『信長公記』によると、三郎信長は、元服の翌年(天文十六年)に十四歳で、三河の吉良《きら》に初陣している。そのときは、御守役の平手政秀《ひらてまさひで》が後見役をつとめた。まず、武者初《むしやはじ》めと称して、紅筋《くれないすじ》の頭巾《ずきん》をかぶり、鎧を着、馬にまたがり、今川義元の属城のある吉良の大浜まで進撃し、所々に放火したが、その日は、野陣《やじん》を張り、翌日、那古野に帰陣したという。ついで、信長の父織田信秀は、美濃の大名として名高い斎藤山城入道|道三《どうさん》と和議を結ぶ必要から、平手政秀を使者とし、道三の娘の濃姫《のうひめ》を、信長の嫁《よめ》にもらい受けている。敵の大将と姻戚関係を結ぶことが、武装平和を維持するための、ただ一つの手段だったからだ。それならば、この婚姻は、果たして、いつのことか。『信長公記』を見ても、はっきりしないが、信秀が四十二歳で病死したのが、天文十八年(一五四九)、信長十六歳の春のことだから、初陣の翌年(天文十七年)、信長十五歳のことと推定する。かりに、この推定を正しいとすれば、信長は、十三で元服し、十四で初陣し、十五で濃姫によって筆おろしを体験したことになろう。  その翌年、十六で父信秀が死に、葬礼が営まれたが、その霊前に信長が抹香《まつこう》をつかんで投げかけたのは、謹厳づらしていた親父《おやじ》も、要するに、あんなことをしてきたのだと、しみじみと痛感したせいかもしれない。  元服前に初陣を望んだ吉川元春《きつかわもとはる》  謀略の鬼といわれた毛利元就の初陣のことはよく分からないが、その二男で、武勇の権化《ごんげ》といわれた吉川元春は、天文十年(一五四一)の正月、元就が精兵三千をひきいて、尼子の部将が陣する宮崎、長尾の砦《とりで》を攻めたとき、元春は、少輔次郎《しようゆじろう》といって、十二歳の少年であったが、従軍を志願した。元就は、まだ早すぎるといって、これを許さず、井上元兼に命じ、少輔次郎を擁して、帰城させようとした。ところが、少輔次郎は、大いに憤慨し、刀を抜いて元兼を斬ろうとしたので、さすがの元兼も、驚いて後退した。少輔次郎は、その隙に乗じ、再び元就の側に進み寄り、さらに従軍の許可を求め、その決意|牢乎《ろうこ》として抜くべからざるものがあった。  そこで元就も、ついに前言をひるがえし、将来を祝福しつつ、これを許した。少輔次郎は、勇躍、敵陣に突入し、奮戦して、偉功をたてた。これが、かれの初陣であった。元服を行なったのは、その翌々年(天文十二年)の八月、十四歳のときで、兄|隆元《たかもと》の偏諱《へんき》を受けて、元春と名のったのである。そうして、天文十六年(一五四七)、十八歳で、三入《みる》高松城主熊谷信直の娘を娶《めと》って、翌年、長男の鶴寿丸《つるじゆまる》を儲けている。のちの吉川|元長《もとなが》である。ところで、この花嫁は、頗《すこぶ》るつきの醜婦だったといわれるが、元春が、それを承知の上で貰った理由というのが、また、振るっている。  ブスを貰って大切にしてやったら、本人も、その親も、感激して、元春のために忠勤を励むだろう、というのである。まことに艶気のない話だが、さすがに、元服の二年前に十二歳で初陣をやってのけた剛将だけのことはある、といわねばなるまい。  初陣の戦功によって元服した例  しかし、元服よりも初陣を先にやった実例は、のちに加賀百万石の大名となった前田利家にもある。『利家公御武功覚書』によれば、利家は、天文二十年(一五五一)、十四歳で、初めて鎧を着し、織田信長と、信長の伯父にあたる津田孫三郎信家に従って、尾張の清洲に出陣し、清洲城主の織田彦五郎の軍勢と、海津《かいづ》辺で戦い、手柄を立てた。そこで、信長も、利家の少年に似合わぬ勇気をほめ、信家が烏帽子親《えぼしおや》となり、その一字を与え、元服させて、前田孫四郎利家と名のらせたという。この場合、初陣の戦功の褒賞として、元服させられたのである。下級武士から成り上がった武将の場合、こうしたケースが多いようである。小者《こもの》・足軽から頭の働き一つで関白太政大臣に出世した豊臣秀吉なども、これに類する。  秀吉の初陣がいつのことかは、明らかでないが、おそらく、永禄三年(一五六〇)五月の尾州|桶狭間《おけはざま》の戦いが、そうであろう。かりに、そうだとすれば、二十四歳のときである。その頃、かれは、おそらく、単に、藤吉郎と呼ばれて、足軽の組頭をしていたと思われるが、桶狭間の戦功もあって、その翌年(永禄四年)、信長の命令で、信長の従兄弟《いとこ》の名古屋因幡守を仲人《なこうど》として、同じ織田家の足軽弓組の組頭をしていた浅野長勝の養女(実は杉原定利の娘)おね[#「おね」に傍点](後の北政所《きたのまんどころ》、高台院)を娶《めと》っている。そうして、その際に、藤吉郎だけでは困るので、木下藤吉郎秀吉と名のらせたらしい。だから、秀吉の場合は、初陣、結婚、元服という順序になるが、初陣が二十四歳までのびたのは、かれが小者・足軽だったせいであり、元服式など盛大に挙げられなかったため、名のりだけを改めて、元服に代えたのであろう。  ところで、徳川家康の場合は、かりにも、三河の岡崎城主の若殿だから、弘治元年(一五五五)、十四歳で元服すると同時に、竹千代の幼名を、松平次郎三郎|元信《もとのぶ》と改め、同三年、十六歳で、元服の際の理髪《りはつ》の役をつとめた今川家臣関口|親永《ちかなが》の娘(後の築山殿《つきやまどの》)を娶り、永禄元年(一五五八)、十七歳で、西三河の寺部《てらべ》城攻めに参加し、初陣の手柄を立てている。つまり、元服、結婚、初陣という順序なのである。  初陣に敗れた三代目と二代目  武将にとって、初陣というものは、元服式や婚礼よりも大切なものであるから、千軍万馬の間を往来した戦国の名将は、大抵、十四か十五、六で、これを体験した。信玄、謙信、信長など、みな、この線を行っている。秀吉などは、地位が低いために、歳がおくれただけである。  ところで、十四で初陣の手柄を立て、四十九で本能寺に横死するまで、生涯不敗の戦績を誇った強豪織田信長も、二代目になると、二男の信雄《のぶかつ》、三男の信孝《のぶたか》など、みな、秀吉に滅ぼされたり、追放されたりし、三代目の織田|秀信《ひでのぶ》(信長の嫡孫)は、豊臣家臣となって生きながらえたが、天下分け目の関ケ原の戦いに、石田三成に味方したのはいいにしても、岐阜の居城を徳川勢に攻められたとき、十九歳で初陣を強いられた。その時、鎧かぶとを、どれにしようかと、カッコいいのを選びあぐねているうちに、戦機を逸し、城を攻め落とされ、降参している。また、稀世の英雄豊臣太閤秀吉も、二代目になると、ひどいものである。大坂夏の陣で、豊臣家が滅ぼされようとしたとき、秀吉の遺嗣豊臣秀頼は、譜代の家臣に励まされ、いでたちも美々しく、大坂城の桜門を出て、天王寺に向かって出陣しようとした。  これが、総大将秀頼にとって、まさに晴れの初陣であった。しかし、秀頼は、すでに二十三歳にもなっていたが、実戦の経験は皆無である。そのくせに、女色のほうにかけては、正妻の千姫のほかに、愛妾も貯え、子も二人ほど産ませて、一人前だが、母公淀殿の教育よろしからず、暖衣飽食、遊惰に流れ、徒《いたず》らに肥満していた。十万の将兵を統率するどころのさわぎではない。教育ママと一緒に親ゆずりの大坂城内で自害できただけでも、上々であった。 [#改ページ]   ㈼ [#改ページ] [#1段階大きい文字]武田家興亡三代  武田|宗家《そうけ》の世系  甲斐の武田氏の系譜を紹介しようと思うが、その正味は、なんといっても、越後の上杉謙信と信州の川中島で雌雄を争ったことで有名な信玄の人物と業績を中心とし、信玄の父信虎および信玄の子勝頼と、合わせて三代にわたる武田氏興亡の歴史の解説になってくる。  しかし、正味は三代の事績であるにしても、順序として、まず、十八世の当主信虎出現以前の甲斐の豪族武田宗家の世系について略述してみようと思う。  甲斐国の豪族武田の宗家は、清和源氏の祖といわれた六孫王|源経基《みなもとのつねもと》の五世の孫にあたる新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》をもって、第一世の主としている。  義光は、鎮守府将軍源|頼義《よりよし》の三男で、近江国|園城《おんじよう》寺の新羅大明神の神前で元服、加冠したから、新羅三郎と称した。兄の義家を援《たす》けて、後三年の役に戦功があり、甲斐守に任ぜられ、その居館《いやかた》は逸見《へんみ》の若神子《わかみこ》にあったという。  第二世の義清は、義光の三男で、逸見|冠者《かじや》と称し、甲斐源氏の基を開いたといわれている。  第三世の清光は、義清の長男で、逸見太郎、または、黒源太、甲斐源太などと呼ばれた。黒源太とは、色がまっ黒だったからだという。義清、清光の二世は、逸見に居住したので、逸見氏を称している。 (画像省略)  第四世の信義は、清光の子で、武田荘を占拠し、初めて武田氏を称した。源頼朝の挙兵に応じ、富士川の合戦に手柄を立て、また、頼朝の弟源|範頼《のりより》に従って平家の軍勢を追討している。  第五世は、信義の五男信光で、初め石和《いさわ》五郎と称し、のちに武田氏に改めた。承久の乱に戦功があり、甲斐国の守護に補せられた。弓馬の術に長じ、射法を北条時頼に授けている。  第六世は、信光の三男信政で、承久の乱に父に従って手柄を立てたが、程なく早死している。  第七世は、信政の子信時で、五郎次郎と称した。甲斐の守護に補せられている。  第八世は、信時の三男で、時綱といった。六郎と称している。  第九世は、時綱の子信宗で、弥六と称した。一族若狭の守護武田氏と争い、没落して、武蔵国の滝山《たきやま》に流浪したが、のち、甲斐に復帰したという。  第十世信武は、信宗の子で、孫六と称した。元弘の乱のとき、父子一族と兵を挙げて上洛し、足利尊氏に従い、各地に転戦した。  第十一世信成は、信武の子で、次郎と称した。甲斐の守護に補せられ、父子、ならびに一族逸見氏らと共に、足利尊氏に属し、笛吹峠《ふえふきとうげ》で、新田|義宗《よしむね》(義貞の三男)と戦った。  第十二世信春は、信成の子で、三郎と称した。甲斐の守護である。尊氏の敵足利|直冬《ただふゆ》らを柏尾《かしお》山に討っている。  第十三世信満は、信春の長男で、次郎と称した。甲斐の守護に補せられたが、上杉|禅秀《ぜんしゆう》の乱に荷担したため、木賊《とくさ》山中に敗死している。  第十四世信重は、信満の長男で、三郎と称した。父信満が敗死してのち、高野山に入り、光増坊道成《こうぞうぼうどうせい》と号して、潜伏していたが、のち、京洛の間に二十年も流浪し、赦《ゆる》されて帰国している。結城《ゆうき》氏を討って功があった。  第十五世信守は、信重の子で、弥三郎と称した。甲斐の守護に補せられている。  第十六世|信昌《のぶまさ》は、信守の長男で、五郎と称した。甲斐の守護を継いだが、守護代の跡部景家《あとべかげいえ》父子の強暴が目に余るものがあったので、これを討伐した。文明十九年(一四八七)の春、聖護院准后道興《しようごいんじゆごうどうこう》法親王が廻国して甲斐に来訪したときは、これを厚遇したことが、『廻国雑記』に見える。文武両道を兼備し、また、篤《あつ》く仏教を信仰し、名君の風格があったといわれる。  第十七世|信縄《のぶなお》は、信昌の長男で、五郎と称した。これは、信虎の父、信玄の祖父にあたる人物であるが、弟の信恵《のぶえ》と不和で、内訌《ないこう》が絶えなかった。その隙に乗じ、隣国|駿河《するが》の守護大名今川氏親が、しばしば甲斐に侵攻してきた。また、今川の食客であった伊勢長氏が大森氏を襲って小田原城を占拠し、北条早雲庵宗瑞と号して、相模・伊豆両国を征服し、勢いに乗じて甲斐の侵略をも企てた。まさに、弱肉強食の戦国時代に際会し、武田家一族も、甲斐の山国の内で、ただ安閑としていられなくなってきた。信縄は、永正四年(一五〇七)の二月十四日、病死した。享年は明らかでない。京都では、足利十一代将軍|義澄《よしずみ》の治世が終ろうとしていた。  この信縄の長男が、信玄の父信虎なのである。  一族討伐の暴挙  武田信縄が病死したとき、長男の信直《のぶなお》は、年わずかに十四歳だった。この信直が、改名して、信虎《のぶとら》となるのである。  信虎が家督を相続し、武田宗家十八世の当主となると、まず、叔父(父信縄の弟)の信恵が、弟の岩手縄満《いわてなわみつ》と小山田弥太郎らを誘い、謀叛を企てた。幼主信虎を廃し、おのれ信恵が、これに代わろうと考えたからだ。しかし、信虎は、間もなく、これらの謀叛人を攻め滅ぼしたというから、信虎が、のちの織田三郎信長にもまさる、勇猛の若大将であったことが、わかるであろう。  それから、永正十二年(一五一五)というと、信虎が二十二歳の年のことだが、武田の一族大井|信達《のぶたつ》が反逆し、甲斐の上野城で兵を挙げた。信虎は、さっそく、これを攻めたが、信達の求めに応じ、駿河の守護大名今川氏親がつかわした二千の援兵が、東八代郡の勝山城に籠り、武田がたを牽制《けんせい》したため、信虎は、形勢が不利となり、上野城の攻略に失敗した。が、なおも屈せず、今川の援兵の籠る勝山城を包囲し、さらに、天竜川を挟んで、今川氏親と対陣し、一歩も退かなかった。そこで、氏親も、連歌師の柴屋軒宗長《さいおくけんそうちよう》を間に入れて、武田との和議を謀った。しかし、この講和は、氏親が勝山城の急を救うための謀略にすぎなかったため、間もなく破れている。  また、永正十六年(一五一九)には、東郡の栗原|信遠《のぶとお》も、信虎を軽蔑して去ったので、信虎は大いに怒り、板垣・曾根の両将に命じて、その居館を攻囲し、これを降服させた。時に信虎は、二十六歳だったが、このように、一族の謀叛人が続出したので、武田宗家を防衛する必要を痛感したとみえ、武田|館《やかた》の北方にある石水寺《せきすいじ》山に堅固な城を築いた。これが要害山《ようがいさん》城である。そうして、その山麓に躑躅《つつじ》崎の館を建てた。  信虎は、勇猛果敢なところは若年時代の織田信長に似ていたが、知謀機略に乏しい点では、信長とは似ても似つかぬ愚将であった。一族や譜代《ふだい》の家人《けにん》郎従で、おのれに叛くものは、容赦なくこれを討ち、家臣の諫言《かんげん》を容れず、独断専行で事をはこぶ点も、信長に似ているが、信長には、この欠陥を補ってなお余りある卓抜なアイディアがあり、かつ、その実現の可能性が見られた。しかし、武田信虎には、この欠点にプラスする何ものも存在しなかったのだから、始末がわるい。  が、ともかく、二十六、七歳の若さで、甲斐一国を完全におのれの支配下に入れたのは、上出来といえた。  武田勝千代の出生  大永元年(一五二一)というと、信虎が、二十八歳の年だが、この年の十一月、躑躅《つつじ》崎の館から北方一里ほどはなれた石水寺山の要害山城で、信虎の長男勝千代が生まれた。  勝千代の生母は、信虎の正妻大井氏であった。武田家の一族大井信遠は、信虎にそむき、去る永正十年(一五一三)、中巨摩郡《なかこまごおり》に攻め入られて降伏した。信虎が、信遠の娘をめとって妻としたのは、大井氏の勢力の強さを認めたからだといわれているが、彼女が才色兼備の誉《ほま》れ高い婦人だったからであろう。彼女の画像は、尼姿のものが、甲斐の長禅寺に伝わっているが、信玄の弟武田|信廉《のぶかど》が描いたものだといわれる。  大井氏が石水寺の要害で勝千代を出産したのは、ちょうど、そのころ、駿河の今川の家老福島|上総介《かずさのすけ》の軍勢が甲斐に乱入し、甲府に迫っていたからであるが、防戦につとめた武田信虎が、甲府郊外の飯田河原で、名のある敵将を討ち取ったときに、男児出産のしらせが届いたので、その児を勝千代と名づけたという。この勝千代こそ、のちの武田晴信入道信玄なのである。  信虎は、八十一歳までも生きた男で、男女あわせて十七人の子を儲けている。そのうち男子は晴信(信玄)、信繁、信基、信廉、信是、宗智、信実、信竜、信友、女子は今川義元、穴山信友、諏訪頼重、大井忠成、浦野某、下条某、根津某、左大臣|菊亭晴季《きくていはるすえ》などの妻となった。もちろん、この十七人もの子供を、正妻の大井氏が一人で産むわけはないから、正妻のほかに、幾人かの側室のあったことが推測される。  一説によると、信虎は、初め、長男勝千代(信玄)の出生を喜んだが、次男の信繁が生まれると、勝千代を嫌い、女の子のように美しくて、おとなしい信繁のほうを可愛がった。そこで、親子の仲が次第に不和になったということだが、現今の世間でも、ありがちなことである。ことに、信虎のように理性に欠けた男は、好き嫌いが烈しかったに相違ない。  武田信虎の乱行  さて、信虎は、生来、横暴きわまる性格の男であったが、今川の老臣福島上総介を討ち取ると、その武威を誇り、いよいよ、思いのままに乱行《らんぎよう》をかさねた。 「わしは、これまでに、随分と、やりたい放題のことをやったが、まだ、懐胎《かいたい》した女の腹の中を見たことがない。それをば、心残りに思っているのだ……」  と、近臣を顧《かえり》みて言い、はらみ女を尋ね出させ、当月懐胎の女をはじめとし、二月《ふたつき》、三月のから、十月《とつき》に至るまでの女の腹を切り裂き、男子と女子の違いを見分け、または、十月までの間の、月々の変遷を見さだめた。そのために、すでに、十三人もの婦人が、腹を裂かれて殺されてしまった。目もあてられぬ惨状に、人々は恐れおののくばかりであった。  そこで、譜代の家臣である馬場虎貞と山県虎清が、思いきって諫言したが、聴き容れずに、二人を斬って捨てたので、諸人は、みなおじけをふるい、諫言する者もなくなったため、信虎の悪行は募るばかりであったと、『武田三代軍記』に記している。  甲斐一国を完全に支配下に入れた信虎は、進んで、隣国の信濃に侵略の手をのばした。  甲斐の国は、山また山で、沃野《よくや》が少ない。そこで隣国に進出しようとしても、関東には小田原北条氏が武威をふるい、南方の駿河・遠江《とおとうみ》・三河方面には今川氏が覇を唱えているし、また北方の越後には守護代の長尾(上杉)氏が、儼乎《げんこ》として君臨していた。だから、信虎は、自然と、西方の信濃の国をねらったのである。  信濃の国は、縦横に貫く山脈と河川、または湖沼のために、大きく南北に分かれ、さらにそれが、小さく区劃され、それらの小地域ごとに、それぞれ、豪族が盤踞《ばんきよ》していた。  たとえば、南佐久郡には海野口《うんのぐち》城主の平賀源心、諏訪郡には高島城主の諏訪《すわ》頼満、深志城主の小笠原長時、西筑摩郡には福島城主の木曾義康、更科《さらしな》・埴科《はにしな》郡には葛尾《かつらお》城主の村上義清などが対立し、常に小ぜり合いをくりかえしていたのである。  武田信虎は、信濃におけるこれらの豪族を斬り従えれば、越後の長尾(上杉)氏とも対抗できると、考えた。そこで、享禄元年(一五二八)というと、三十五歳の年だが、その年の九月、初めて信濃に出兵し、諏訪頼満と神戸《ごうど》・境川《さかいがわ》で戦いを交じえた。しかし、戦況は思わしくなかった。頼満は、諏訪明神の大祝《おおはふり》として諏訪郡で武威を誇っていた。  信虎は、ひとまず、信濃から撤兵した。  関東|管領《かんれい》上杉|朝興《ともおき》を援ける  そのころ、弱体化した関東管領の上杉氏は山内《やまうち》上杉と扇谷《おうぎがやつ》上杉との両家に分裂していたが、武蔵国の河越《かわごえ》城に拠る扇谷上杉朝興も、相模の北条氏綱(早雲庵宗瑞の子)に圧迫され、没落への一歩をたどっていた。  享禄三年(一五三〇)の正月のことだ。上杉朝興は北条氏綱を討つために、河越城を出馬して武蔵の府中に向かい、援けを甲斐の武田信虎に求めた。  信虎は、これに応じ、部将小山田越中守に命じて赴援させた。越中守は、猿橋に陣し、津久井郡の方向から府中に進撃を開始した。  北条氏綱は、甲州勢の進路を押さえ、四月になって、これを箭壺坂《やつぼざか》に破った。と同時に、氏綱の子氏康も、上杉朝興と府中において合戦し、これを敗走させた。  上杉朝興が頼りとするのは、武田信虎ひとりだった。そこで、山内上杉|憲房《のりふさ》の後室をうばい取って、信虎の側室に入れ、歓心を求めたりしている。  信虎が、扇谷上杉朝興と連盟を結んだため、享禄四年(一五三一)には、甲斐国に内乱が起こった。武田の老臣|飫富《おぶ》兵部・栗原兵庫が、甲府を去り、御岳山中《みたけさんちゆう》に籠り、信虎に叛旗を翻《ひるがえ》した。しかも、今井信元を誘い、また信濃の諏訪頼満に援けをもとめ、甲府の襲撃を企てたのである。  信虎は、その年の四月、諏訪頼満らの連合軍と、甲斐の塩河原に戦い、これを破った。そのとき、栗原兵庫は敗死し、今井信元は、その翌年、降服している。  天文二年(一五三三)、信虎は、嫡男の太郎(勝千代)に、上杉朝興の娘をめとらせた。その娘は、太郎よりも一つ年上で、十四歳の少女だった。十三歳の少年に妻は不要であろうが、父親の政略のためゆえ、仕方がなかった。しかし、この若妻は、その翌年、身ごもったため、病死したというから、この時代の男女の早熟には驚くほかない。一説によると、この若妻の死は、信虎と太郎(信玄)との間を、さらに冷たいものにしたというが、この政略結婚は、元来、上杉朝興の策略から出たもので、武田信虎にとっては、マイナスだった。  上杉朝興は、それから四年ほどたって、河越で病死したが、小田原北条氏と戦うこと十四度にわたり、戦うごとに敗れたことを深く恥とし、我が亡きあとは、小田原を征伐することをもって仏前の供養とせよ——と、世嗣の朝定《ともさだ》に遺言して死んでいる。しかし、朝定も、程なく、北条がたに謀られて、滅んでしまった。  嫡男武田太郎を憎む  信虎の嫡男武田勝千代(信玄)は、その後、太郎と称したが、幼少の頃から衆童に抜きんでた行跡《ぎようせき》が多く、武田の家人《けにん》らの舌を捲かせたと、いわれている。 『武田三代軍記』によれば、或るとき、父の信虎が、据え物斬りを試み、まず、自分で斬ってみせたうえで、次男の次郎(信繁)に、それを命じた。次郎は、手ぎわよく据え物を斬って落とした。そこで、次に太郎(信玄)に命じた。太郎は、一応、辞退したけれども、父の命令に背《そむ》きがたいことを知ると、仕方がなくて、立ちあがったが、顔色が蒼白となり、手もふるえた。そうして、果たせるかな、据え物を見ごとに斬り損じたのである。信虎は、非常に怒り、次郎の手を引いて、奥の座敷に入ってしまった。すると、太郎は、もと通りの顔色にかえり、うち笑って、愉快げに見えた。この有様を眺めた多くの家来たちは、心中、ひそかに、気骨のない若殿もあったものだ——と思い、嘲笑していた。しかし、荻原|常陸介《ひたちのすけ》という者が、これを見て——この若殿は、大丈夫《だいじようぶ》の器《うつわ》である——と感服した、ということである。  すべて、人の見かたによって、馬鹿とも利巧とも解釈できる武田太郎の行為だが、据え物斬りなどという小手先《こてさき》わざの優劣など、眼中になかったところが、大器だと、常陸介は判断したのであろう。  なお、『甲陽軍鑑』によれば、その太郎が、十三歳になったとき、使者をつかわし、父の信虎が秘蔵している鬼鹿毛《おにかげ》という名馬を所望したことがある。これは、いちど鞭《むち》をあてると幅《はば》十丈の堀をも跳び越えるといわれた駿馬《しゆんめ》である。しかし、信虎は、 [#ここから1字下げ] 「太郎は、まだ、当年十三である。鬼鹿毛などという荒駒《あらこま》は、若年の身に似合わしくない。来年は十四歳だから、元服させたく考えている。そのときは、当家|重代《じゆうだい》の御旗、無楯《むたて》の鎧《よろい》、義弘《よしひろ》の太刀《たち》、左文字《さもんじ》の刀、同じく短刀など、悉《ことごと》くを譲るつもりだ」 と、返答した。 太郎は、かさねて、使者をつかわし、 「当家重代の宝物を悉く頂戴するのは、忝《かたじけ》ないことですが、それらは、御家督を譲られるときにこそ頂戴したい、と思います。来年は、元服を加えて頂くとしましても、まだ部屋住みの身分では、宝物を譲り受けることが憚《はばか》られます。鬼鹿毛のほうは、今から乗り習い、一両年のあいだに、どこかへ御出馬の際には、若年ながらも御|後備《うしろぞな》えを快くつとめたい、と思えばこそ、所望いたすのでございます。それなのに、先程のお言葉は、どうも、納得《なつとく》がまいりませぬ……」 と、押し返すようにして、鬼鹿毛を懇望したのであった。 すると、信虎は、烈火のごとく怒り、 「使者の者ども、よっく聞け。武田の家督を譲るも、譲らぬも、この信虎の心中|如何《いかん》にあるのだ。重代の家宝を譲り与えようというのに、それを不足に思うとあらば、弟の次郎を総領となし、これに家督を譲り、親の下知《げち》に従わぬ奴は、家から追い出すほかあるまいて……」 と、語気を荒らげ、備前|兼光《かねみつ》の太刀を抜き放ち、太郎の使者を追いかけた。 [#ここで字下げ終わり]  このときは、信虎が帰依《きえ》している春巴《しゆんぱ》という禅僧が、中にはいり、調停したため、大事に到らなかったけれども、それから、次第に父子のあいだが打ち解けず、武田太郎は、不遇の身の上となった。  しかし、天文五年(一五三六)の三月一日、太郎は、十六歳で元服し、晴信と名のった。これは、足利十二代将軍義晴の一字を与えられたからだ。晴信は、同時に、従五位下に叙し、大膳大夫兼信濃守に任ぜられた。また、その年の七月、勅諚《ちよくじよう》をもって、三条左大臣|公頼《きんより》の息女が、甲府に降嫁し、武田晴信の後妻となっている。  信虎隠退事件の真相  さて、駿河の守護大名今川|氏輝《うじてる》は、武田信虎と不和の間柄であったが、天文五年(一五三六)の三月、氏輝が病死し、二人の弟が家督を争うと、武田信虎は、北条氏綱と協力し、氏輝の弟|義元《よしもと》を援けて、今川の当主に据えた。  その年の十二月、信虎は、晴信とともに、平賀源心を信濃の海野口《うんのぐち》城に攻めたが、晴信の知謀によって勝利を占めたといわれる。これが、晴信の初陣だったという。  翌天文六年の二月、信虎は、今川義元と同盟を結び、その長女を義元の後妻としたが、この単独同盟が、北条氏綱を刺激し、小田原軍の駿河侵入となった。氏綱としては、上杉氏を制圧して関東を征服するために、背後にある今川氏をたたいておく必要があった。信虎は、駿河に出兵して、今川義元を援けた。  北条氏綱は、その年の七月、上杉|朝定《ともさだ》を攻め、武蔵の河越城を奪った。しかも、その翌年の十月、下総《しもうさ》の国府台《こうのだい》で、小弓御所《おゆみごしよ》の足利|義明《よしあき》(古河公方足利高基の弟)と安房の守護大名里見|義堯《よしたか》の連合軍を破り、大勝を博し、北条氏の関東制覇が決定的となった。  武田信虎は、関東から手をひき、北条氏綱と和睦したのであった。  ところが、天文八年(一五三九)の十二月、信濃高島城主の諏訪頼満が死亡し、孫の頼重が家督を相続すると、俄かに、信濃方面の戦局が緊迫してきた。そのため、翌年の五月、信虎は、板垣|信方《のぶかた》を将とし、信濃の佐久郡に侵入して、海野口を占領し、十一月には、第三女のねね[#「ねね」に傍点]を、諏訪頼重の室として入輿させている。これも結婚同盟だが、晴信の策略だとさえいわれている。  天文十年(一五四一)の五月、信虎は、晴信と、それに諏訪頼重・村上義清らとともに、海野棟綱《うんのむねつな》を信濃|小県《ちいさがた》郡の海野平《うんのだいら》に攻めた。棟綱は上野国《こうずけのくに》をさして敗走した。そんなわけで、武田信虎・晴信父子が、六月四日、甲府に凱旋することになったが、その途中、同月十四日、信虎は、甲府への帰路を、突然、晴信|麾下《きか》の足軽隊によって遮断されたため、駿河に遁れ、今川義元の食客となり、遂に隠退することになったのである。  この晴信のとった行動に対して、世評は、もちろん、辛辣《しんらつ》だった。かれの好敵手であった越後の上杉謙信(長尾景虎)からは、親不孝者と悪口されるし、また、一五七三年の四月三日(天正元年の三月十九日)付で、耶蘇《ヤソ》会の宣教師ルイス・フロイスが、京都から本国のポルトガルに送った報告書にも、——信玄(晴信)は、父の国を奪い、父を国外に追放し、その長子(義信)を牢《ろう》に入れて苦しめたため、暫くして死去した——と、書いている。  しかし、晴信を弁護する者は、信虎が駿河に赴いたのは、晴信と合意の結果、今川義元を謀るためであって、晴信のために追放されたのではない、と説く。この説の根拠となるのは、『甲斐国志』所収の九月二十三日付の今川義元の書状一通であり、かつて、星野恒博士も、これを根拠に父子合意説を主張した。しかし、その後、原本と比べると、読み違いのあることが、筆者の恩師の渡辺世祐博士によって実証された。つまり、この義元の書状は、武田信虎が駿河に来てから後の隠居分、付添いの女中衆のことや、その人数などについて、義元が、武田晴信に交渉したものにすぎないことが、明らかにされたのである。そうして、『妙法寺記』や『窪八幡宮王代記』などという比較的確実な史料によれば、——信虎の悪行が余りに甚だしいので、これを駿河に追ったが、そのために、老若男女ともに喜び、甲斐一国が安穏になった——ということだから、晴信も、やむを得ず、信虎隠退の処置を断行し、同時に、二十一歳で、武田宗家の家督を相続したわけであろう。  一説によると、信虎は、晴信を廃嫡し、次男信繁を総領にしようと謀った。そのことを未然に知った晴信が、直臣と謀り、逆に、信虎を駿河に追放したというが、案外、この説が、真相に近いかも知れない。宗家と領国の安全をはかるためには、親であろうが、妻子であろうが、簡単に犠牲に供して悔いないのが、戦国大名の生き方であったから、晴信(信玄)の行為は、むしろ、当然と思われる。これを親不孝と攻撃するほうが、むしろ、滑稽である。かつて、この一事から、晴信の行為を非情と評し、郷土の信玄崇拝者の攻撃をうけた作家のことが問題になったが、戦国大名は、すべて非情な生きかたをせざるを得なかったわけだから、信玄だけを非情でないと弁護してみたとて、たいした意味もあるまい、と思うのである。  筆者の考えでは、武田信虎の駿河隠退は、もちろん、偶発的な事件ではなくて、計画的なものだと思う。その計画者は、信虎の嫡子晴信だけではない。若年の晴信の背後には、晴信の義兄にあたる駿河の太守《たいしゆ》今川義元がいたし、義元の側近には、太原雪斎《たいげんせつさい》・岡部常憲・冷泉為和《れいぜいためかず》・総印軒《そういんけん》などという今川家の政治顧問や軍師が控えていたのである。信虎を駿河に隠退させ、晴信に家督を相続させることによって、甲斐の領国政治を改革することが、甲駿両国の和親と軍事同盟を強化させることであり、将来ともに、今川家のプラスになる、と考えたからである。晴信は、今川がたの計画に動かされたにすぎない観がある。  隠退後の信虎の行動  駿河隠退後の武田信虎は、二年ばかり今川家の食客をしていたが、やがて上洛し、奈良方面を遊覧し、摂津の石山本願寺の光教《こうきよう》上人に招かれて、饗応をうけたりしたことが、『石山本願寺日記』によって知られる。  そうして、永禄元年(一五五八)には、京都|今出川《いまでがわ》の幸福出雲という伊勢の御師《おし》の屋敷に滞在していたようだ。これは、出雲が、武田家累代の祈祷師だった縁故による。が、信虎は、それから間もなく、また、駿河に帰ったらしい。  その動機は、永禄三年(一五六〇)の五月、今川義元が尾張の桶狭間合戦で敗れ、織田信長のために討ち取られ、義元の子|氏真《うじざね》が家督を相続したためと思われる。『三河風土記』によれば、永禄十一年(一五六八)、今川の家老と相談し、氏真を追放し、駿遠両国を奪い取って、我が子武田晴信に渡し、父子の和睦を謀ったけれど、このことが事前に発覚したため、今川氏真は、大いに驚き、信虎を捕えて殺そうと謀った。これを知った信虎は、深夜に駿河を逐電《ちくてん》し、京都に遁れたという。どっちみち、義元の死後、氏真が、前のように信虎を待遇しなかったせいでもあろう。  天正元年(一五七三)四月、信玄が三河野田の陣中で重病に罹《かか》ったとき、それを聞いた信虎は、南蛮の名医を三河に派遣させたというが、信玄の死後、信濃の伊那に移り、女婿の禰津《ねづ》神平に扶養せられ、同二年(一五七四)の三月二十五日、病死した。享年八十一。その画像と墓が、甲府の土泉寺にある。  信玄の八方経略  さて、天文十年(一五四一)、二十一歳で家督を相続し、武田宗家十九世の当主となった晴信(信玄)は、その翌年、信濃に出兵し、妹婿にあたる諏訪頼重を攻め滅ぼし、その娘を側室とした。また、高遠頼経《たかとおよりつね》の兵を破って、これを退けている。同十五年、進んで佐久郡に入り、志賀城を抜き、また、上田城主村上義清と大井原に戦い、同十七年、小笠原長時を塩尻峠《しおじりとうげ》に破っている。長時と義清は、程なく居城を捨てて越後に遁れ、上杉輝虎(謙信)に援けを求めた。  晴信は、信濃を侵略すると同時に、駿河の今川義元や相模の北条氏康と同盟を結ぶことを忘れていない。この同盟は、結婚の形式によって成立した。すなわち、義元の娘を長男義信の嫁に貰い、晴信の娘を氏康の子氏政にとつがせ、また、氏康の娘を義元の子氏真に配し、ここに甲駿相の三国同盟が結ばれた。そうして、永禄三年(一五六〇)に今川義元が西上の途中、桶狭間合戦で敗死すると、晴信は、今川氏に代わって、三河の徳川家康や尾張の織田信長と接触することになった。晴信は入道して、信玄と号していた。  信長は、信玄の武力を重視し、その養女を信玄の四男勝頼にとつがせ、信長の嫡男信忠の嫁に信玄の末女|松姫《まつひめ》を迎えることを約束している。そのため、甲斐と尾張の間柄は一時小康を保っていた。  しかし、甲斐と越後との関係は、村上義清が上杉謙信に投じて以来、不穏となり、天文二十二年(一五五三)の八月から、五度にわたって、信玄は、信濃の川中島で、謙信と雌雄を争った。ただし、激しく戦ったのは、弘治元年(一五五五)と永禄四年(一五六一)の二回である。  信玄は、また、信濃の大部分を征服すると、さらに、飛騨を侵して、北陸への通路を開き、なお、関東北部の上野《こうずけ》を収め、ついで、多年の宿望を果たすために、遠江、三河に進出し、西上の道を開こうとして、徳川家康や織田信長と衝突することになった。  信玄の西上とその最期  元亀三年(一五七二)の十月三日、信玄は、甲信の精兵二万五千と北条氏の援兵二千をひきいて甲府を出発し、遠江に攻め入った。そうして、このことを、信長の仇敵である越前の朝倉義景や近江の浅井長政などに知らせ、東西より大きく、家康と信長を包囲しようと劃策《かくさく》した。十二月、信玄は、遠江の二俣《ふたまた》城を抜き、天竜川を渡り、家康の居城浜松を素通りにして、三河の東部に進もうとした。そこで家康は、これを阻止しようとして、三方ケ原に撃って出た。信玄は、家康の兵を破り、三河に入り、翌天正元年(一五七三)の二月、野田城を包囲し、これをおとしいれた。しかし、この頃になって、信玄の宿痾《しゆくあ》の労咳《ろうがい》(肺病)が昂進《こうしん》し、鳳来寺《ほうらいじ》に移って療養していたが、一向によくならないので、甲府にひきあげることにした。しかし、その途中、信濃伊那郡の駒場《こまんば》で、五十三歳を一期《いちご》として果てた。同年の四月十二日のことである。  信玄は死に臨み、世嗣勝頼に向かって、——わが亡きあとは、三年のあいだ喪《も》を秘し、武田の旗を瀬田《せた》に掲げよ——と、遺言したといわれる。父の信虎よりも一年早く、あの世に旅立ったのである。  信玄は、戦略家としてすぐれていただけではない。政治家としても卓抜していた。信玄堤《しんげんづつみ》を構築して水田を開き、製紙業を興したり、税制を定めて、甲州判金を鋳造するなど、貧窮な山国の産業開発につとめている。また、——人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵なり——と詠じた名将だけに、躑躅崎《つつじさき》の居館には、塁《るい》も櫓《やぐら》も設けなかったといわれる。この善政のために、かれは、今なお、甲州人のあいだに神の如く崇敬されているのであろう。  勝頼敗死と武田家の滅亡  天文十三年(一五四四)に諏訪頼重を攻め滅ぼしたとき、信玄は頼重の娘を側室としたが、その仲に儲けたのが、四男の勝頼であり、初め信濃伊那郡の高遠城にいたので、伊奈四郎と呼ばれ、やがて勝頼と名のり、天正元年(一五七三)、父信玄の病死と同時に、家督を相続し、武田宗家第二十世の主となった。武勇にすぐれていたが、機略に乏しく、連年のごとく三河に出兵し、同三年、織田・徳川の連合軍と長篠《ながしの》城外に戦って大敗してからは、武威も衰え、さらに、上杉謙信死後の家督相続問題に関係し、相模の北条氏政と不和になったため、孤立状態に陥り、一族、譜代の家臣にも裏切られ、天正十年(一五八二)三月十一日、天目山《てんもくざん》下の田野《たの》で敗死した。時に三十七歳。勝頼の長男信勝も、父と死を倶《とも》にしている。これは、十六歳であった。  武田宗家が、二十世の当主勝頼で滅亡したあと、その領国であった甲斐は、徳川家康の支配に委《ゆだ》ねられ、新たに甲府城も築かれた。江戸時代になると、家康の孫忠長が入国し、その後、柳沢氏の領国と定められた。しかし、金山があったので、徳川八代将軍吉宗の享保九年(一七二四)以後は天領《てんりよう》となった。  武田の一族は、その大部分が、宗家の当主勝頼と運命をともにしたのであるが、信玄の次男で僧侶となった竜芳《りゆうほう》の子孫と、それから、信玄の末子|信清《のぶきよ》の子孫だけが、僅かに後世に生き遺ったのである。そこで、徳川幕府は、武田家の再興を試みるにあたって、竜芳の系統の子孫を取り立てて表高家《おもてこうけ》とし、旧名家としての待遇をし、信玄が任ぜられた従四位下大膳大夫の官位を与えた。そうして、これを武田家の嫡流と認めている。そうして、出羽の米沢にいた信清系統の子孫は、米沢藩主の上杉家によって庇護され、千石の知行を宛行《あてが》われた。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]信玄と五人の宿敵  武田信玄のライバルというと、村上・小笠原といったような信州の豪族や、叛服つねならぬ状態であった北関東の土豪などは別として、なんといっても、越後の上杉謙信、駿河の今川義元、相模の北条氏康、三河の徳川家康、尾張の織田信長の五雄を挙げるほかあるまい。  もちろん、これらのライバルたちでも、時の情勢いかんにより、一時的に講和して友好関係を結ぶこともあったが、信玄の根拠地である甲斐の国に隣接するといった地理的関係から、また、その時々の信玄の目的と行動いかんによって、この五雄は、対決すべきライバルとして、戦国の英雄武田信玄の前後左右に立ちふさがったのである。  前半期における強大なライバルは、信州の川中島で五度までも出会わざるを得なかった上杉謙信であるが、信玄が上洛の理想を抱き、その目的達成のために西上するにあたって、最も手ごたえのある大敵は、当時、畿内・北陸地方をその強烈な武力と政治力で席捲《せつけん》しつつあった織田信長である筈だった。そうして、晩年の、老熟した武将信玄の目から見て、信長の盟友徳川家康などは、物の数でなかったように見受けられる。そこで、信玄にとって生涯のライバルであった以上の五雄と、信玄とを比較し、信玄が、彼ら五雄よりも、どこが勝れていたか、また、劣っていたかを、これから、私なりに観察し、戦国武将の一雄としての武田信玄の価値を評定してみたいと思うのである。  生涯の好敵手上杉謙信  まず、越後の上杉謙信が、信玄のライバルの第一号となった理由は、いうまでもなく、信玄が西北隣の信濃の国の侵略を始め、諏訪《すわ》頼重一族を討ち滅ぼし、さらに、村上義清・小笠原長時・高梨政頼《たかなしまさより》・井上清政など、信濃の名族たちをつぎつぎと追討したため、かれらが北隣越後の春日山城に亡命し、謙信に助けを求めたからである。義によって立ち、弱きを助け強きを挫《くじ》くことの好きな謙信は、そうでなくとも、信玄の勢力圏が北信にできあがるのを嫌い、信越国境の善光寺平《ぜんこうじだいら》を流れる犀川《さいかわ》と千曲川《ちくまがわ》が合流する地点の三角洲《さんかくす》、川中島に出陣した。この場合、信玄の戦いが貪兵《どんぺい》であるのに対して、謙信のは義兵である。  だから、戦いの名義の上では、信玄のほうが不利であった。しかし、弱肉強食の戦国時代に、そのような名義が、実際的に、どれだけの効果をもたらすかは、疑問である。用意周到な信玄は、このことあるを予測し、後顧の憂いを断つ政略を行なった。つまり、かれの長男義信の花嫁《はなよめ》に駿河の大名今川義元の娘を迎え、かれの長女を相模の大名北条氏康の長男氏政に嫁《とつ》がせ、武田・今川・北条の三国軍事同盟を結んだのである。  今川義元は、当時、東海道一の弓取りと呼ばれていたし、また、北条氏康は、関東の覇者《はしや》をもって任じていた。この両雄と、結婚政策によって同盟を結んでおけば、後顧の憂いもなく、心おきなく、信州の川中島で謙信と雌雄《しゆう》を争うことができるからだ。そういうふうに、用意周到、おさおさ怠りなきところが、信玄の長所であった。戦争というものが、武力だけでは勝てないことを、信玄はよく認識していたのである。  有名な川中島の合戦は、このようにして開始されたが、第一回戦における謙信上洛のための越後撤退は別として、いったいに、謙信の即決主義に対して、信玄がその鋭鋒をそらし、決戦を避け、相手のいらだちにつけ入り、その虚を衝こうとする慎重な作戦に出たため、謙信は常に戦機を逸し、両雄は、第二、三、五回戦ともに、川中島を挟んで、善光寺平《ぜんこうじだいら》で、むなしく対峙したにすぎない。  実質的な決戦は、永禄四年(一五六一)九月十日の第四回戦だけだが、その結果、初めは、謙信のほうが優勢で、信玄の弟武田信繁や軍師で名高い山本勘助などを討死させ、謙信が率先《そつせん》して信玄の本陣を襲い、信玄を傷つけたが、のちに、越軍は、甲軍の側面攻撃をうけて、苦戦に陥り、多くの死傷者を出したといわれている。  岡谷繁実《おかやしげざね》の『名将言行録』に、——甲《こう》は持重を以て勝ち、越《えつ》は馳突《ちとつ》を以て雄なり。甲の兵は山の如く、越の兵は火の如し——と評しているように、武田・上杉の両雄ともに軍功者《いくさこうじや》でありながら、その戦法は全く正反対だった。というのは、謙信が理想主義者であるのに比べて、信玄が現実主義者だったからだ。謙信は、天下に旗を揚げることを夢みて、単身で二度も上洛し、朝廷や足利将軍に敬意を表したにもかかわらず、従五位下|弾正少弼《だんじようしようひつ》に叙任されただけで、中央の政権に何らの影響も与えていないし、また、山内《やまうち》上杉|憲政《のりまさ》を助けて、しばしば関東地方に出馬し、上杉の名字《みようじ》を譲られたり、関東|管領《かんれい》に補任されたりしているが、北関東の一郡さえ完全に自領とすることができなかった。いや、それどころか、領国越後の一族衆や国衆《くにしゆう》をも完全に膝下に慴伏《しようふく》させ得なかった。そうして、しばしば、かれらの反乱に悩まされ、遁世の志さえ抱いたのである。  これに比べると、信玄は、足もとの領国甲斐を完全に固め、信濃の諸郡をも着々と自領化し、隣国と同盟を結んで、自国の安泰をはかったり、遠交近攻の策によって敵国を牽制《けんせい》したりしながら、最後に、万全の用意を整え、大兵をひきいて、西上の途に就いたのである。家康と信長に対する各個撃破の戦略、足利将軍義昭の御内書を受けての信長挟撃作戦など、朝倉義景の錯誤《さくご》によって失敗したとはいえ、着実きわまるものであった。  小幡景憲《おばたかげのり》の『甲陽軍鑑』によると、信玄は——十里動くところを、三里、あるいは五里に止め、戦勝の後は戦前より用心を深くし、六分の勝を常に全き勝として、いわゆる後途《こうと》の勝を肝要とし、千人の籠《こも》った城を攻めるには、五千人では危く、一万人を以てして初めて確実であるとした——という。用心に用心をかさね、石橋をたたいて渡る、といった戦法であって、これでは、勝つのがあたり前、負けるほうがどうかしているのだ。これを、『越後軍記』に伝える、——われは、後途の勝を考えず、ただ、弓矢の正しきによって戦うばかりぞ——と、いい、また、——運は天にあり。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば死す——と断じた精神主義的な謙信の戦法と比較すれば、信玄の戦法は、たしかに、あぶなげがなく、かつ、合理的だ。この、すべてが合理的なところに、信玄の長所があったといってよかろう。  つぎに、富国強兵ということが戦国大名の現実的な政策目的であったことは、上杉や武田の場合でも、変わりないが、富国政策の面だけ取り上げてみても、やはり、信玄のほうに見るべきものが多かった。たとえば、治水工事としての信玄堤《しんげんづつみ》の築造、地下資源開発としての金銀の発掘、甲州金(貨幣)の鋳造などがこれである。なお、分国法《ぶんこくほう》としても、今川氏親の『今川|仮名《かな》目録』にならい、『甲州|法度《はつと》』五十五ヵ条を発布している。これが、いわゆる『信玄家法』である。これに対して、謙信は、越中の松倉金山などを支配していたが、まだ、佐渡の金山を経営するに至っていない。ただ、居城|春日山《かすがやま》に近代的城下町の基盤をつくった程度である。  ただ、信玄の、謙信よりも劣る点といえば、道義心に薄いところであろう。実の父親の武田信虎を謀略によって駿河に追放したり、北信の名族で、しかも、信玄の義弟にもあたる諏訪頼重を攻め滅ぼし、これを自害させ、さらに、その娘の諏訪《すわ》姫を側室にするなど、無道のそしりは免れ得ない。その戦闘も、謙信のような名義のない、貪兵《どんぺい》であった。弱い者いじめを得意とするところなど、謙信に劣っている。人物にも、明朗さのない、薄気味わるさがある。  民政よろしきを得た今川義元  駿河の守護大名であり、遠江・三河をも分国《ぶんこく》としていた今川義元は、厳密な意味で、武田信玄のライバルとはいえぬかもしれない。信玄の父武田信虎は、氏親この方の今川氏の隆盛さを見ていたから、義元が家督を相続すると、その翌年(天文六年)、その娘(信玄の姉)を義元に嫁《とつ》がせ、武田と今川の軍事同盟を成立させたのである。この結婚同盟は、武田信虎としては、相模の北条氏康を牽制する目的であったし、今川義元としては、駿河の東部に圧迫を加えてくる北条氏を国境から東のほうへ追い払うのが、ねらいであった。  まもなく、北条氏康が駿河の東部へ侵入してきたが、今川義元は、甲斐の武田信虎のほかに、上野の平井城主の山内《やまうち》上杉憲政の協力を得て、氏康の侵略を退けている。  しかし、義元の目標は、むしろ、西方にあった。岡崎城主の松平広忠(徳川家康の父)を屈服させることによって三河を掌中に収め、さらに尾張に攻め入り、清洲城主織田信長を一蹴しようとして、永禄三年(一五六〇)の五月、二万五千の大軍をひきい、広忠の嗣子松平元康(徳川家康)を先鋒として、尾張に侵入したが、信長の奇襲作戦により、桶狭間《おけはざま》に至る途中の田楽狭間《でんがくはざま》で敗死した。そこに至るまでの連戦連勝の戦果が、却《かえ》って、今川軍の士気を弛緩させたし、また、十分の一にも足りない織田軍の劣勢に対する侮りもあった。それが禍いの因となったのである。  ところで、義元の敗死によって、今川氏の評価が、急激に下落したから、ふしぎなものだ。たとえば、『集覧|桶狭間《おけはざま》記』などという後世の記録には、義元は、——総髪《そうはつ》で、口にはおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]をつけ、公家衆《くげしゆう》の顔なり——とか、または、——桶狭間出陣の首途《かどで》に沓掛《くつかけ》の陣で、具足《ぐそく》をつけ、馬に乗りしも、落馬せり——などと、記述している。そうして、落馬の原因については、『武功雑記』に、——足短く、胴長し——と、指摘している。  いったいに、のちの権力者のライバルだった人物については、史書による酷評が多い。明智光秀がそうだし、柴田勝家も、石田三成も、そうである。今川義元の評判がわるくなったのは、かれが、信長のライバルだったからだ。史実における義元は、決して愚将とはいえない。北条氏康や織田信秀(信長の父)相手に、一歩も譲らない勇将であったし、殊《こと》に領国政治に関しては、父の今川氏親のあとをうけ、立派な業績を示している。  たとえば、義元は、天文二十二年(一五五三)に、氏親の『今川仮名目録』に次いで、『仮名目録追加』を制定したが、この二つの分国法《ぶんこくほう》を比べると、今川氏の領国支配力は、前代よりもはるかに強化されていたことがわかる。義元は、また、領内の地侍《じざむらい》を強固な武士団とし、これを国衆《くにしゆう》と称して、今川家臣のうちに組み入れた。これは北条氏康や武田信玄も行なっているが、今川義元が最もはやい。  また、天文十年(一五四一)、しばしば検地を実施している。これも、氏親の政策を継承したものだが、義元は、たいへん熱心だった。義元は、上杉謙信や武田信玄のように、花々しい戦勝はおさめていないが、遠江や三河を、信玄以上に着実に侵略し、その領土を拡大した。三河の松平氏に対する経略など、巧妙を極めている。  今川義元は、信玄のライバルというよりも、むしろ、先輩格であり、お手本であった。信玄は、今川義元と結ぶことによって、上杉謙信とも充分に戦い、北条氏康をも牽制することができたのである。それにも拘《かか》わらず、信玄は、義元が桶狭間で敗死すると、今川の領国駿河に侵入し、遠江を略し、西上のための戦略を立てるに至った。そうして、義元の遺嗣今川氏真を領国外に追放してしまった。信玄は、その点でも、道義的に、今川義元より劣っていた、といえなくもない。  関東の覇者北条氏康  相模の北条氏三代目の当主北条氏康は、その居城小田原を近世的な大城郭とし、これを包囲した越後の勇将上杉謙信をついに敗退させたことで、名がある。一時は信玄の盟友となったが、晩年には、最強のライバルとして、信玄に立ち向かうことになったのである。  天文の中頃、信玄が信濃の経略に忙殺されていると、関東では、相模の北条氏康が関東|管領《かんれい》の両上杉氏を圧迫したので、上野《こうずけ》の平井城にいた山内《やまうち》上杉|憲政《のりまさ》は窮余の一策として、駿河の今川義元と謀り、東西から呼応して、氏康を挟撃しようと企てた。そのため、今川・北条両氏の和平が破れ、天文十四年(一五四五)の七月、義元は、駿河駿東郡の吉原に進み、伊豆との国境にある北条氏の属城を攻め落とそうとした。氏康も、防戦のために、吉原に出陣した。そこで、信玄も、今川義元を援けるために、九月九日、駿河に出馬し、大石寺《たいしやくじ》に陣を据えた。しかし信玄は、越後の上杉謙信との決戦を前に控えて、北条氏康を敵とすることの不利を悟り、今川・北条両氏の間を調停し、事なきを得たのである。氏康も東西に敵を受けることの不利を知っているし、義元もまた、上洛の雄志を抱いていたから、信玄の調停を容れて、和睦したものとみえる。  信玄は、永禄四年(一五六一)の九月、謙信との川中島第四回の決戦を済ませると、その年の十一月、上野に出陣し、ついで、武蔵に入り、北条氏康と協力して、かつて謙信に征服された北関東諸城の奪回を行なった。それから、関東を舞台にして、連年連月のように、信玄対謙信の牽制作戦がつづく。謙信は、足利十三代将軍|義輝《よしてる》と関東管領山内上杉憲政の命令により、古河公方《こがくぼう》足利|藤氏《ふじうじ》を擁立して、関東の旧秩序の回復をはかるし、信玄はこれに対して、北条氏康が藤氏と憲政を廃し新たに足利|義氏《よしうじ》を古河公方と定めようとする工作に協力している。  信玄は、その後、永禄八年(一五六五)の五月、上野の安中《あんなか》に出馬し、倉賀野《くらがの》城をおとしいれ、六月、箕輪《みのわ》城に迫り、それから連日のように同城に攻撃を加え、同九年の九月になって、ようやく、それを陥落させた。しかし、まもなく、前年から将軍足利義輝の仲裁によって始められていた謙信と北条氏康との講和が成立しそうになったので、信玄も関東経略に一段落をつけねばならなくなった。  ところが、関東経略に失敗した信玄が、甲斐に撤退すると、遠江の浜松に根城を移していた徳川家康が、駿河に侵入して、府中(静岡)を略し、今川義元の遺嗣|氏真《うじざね》を伊豆の戸倉に追放した。北条氏康の嗣子氏政は、その子|国王丸《くにおうまる》(氏直)をもって、今川氏真の養嗣とし、駿河の領有権を譲り受けてしまったのである。無念の歯がみを鳴らした信玄は、永禄十二年(一五六九)の六月、駿河に出馬して、古沢新城に迫ったが、さらに転じて、伊豆の三島に入り、氏政の弟で韮山《にらやま》の城主である北条|氏規《うじのり》と戦って、これを破り、五百余人を討ち取り、相模の小田原に進もうとした。しかし、箱根・足柄の天嶮があるので、ひき返して、駿河の富士郡に入り、大宮城を攻めた。信玄は、駿河からいったんひきあげると、九月になって、また、上野から武蔵に侵入し、北条氏の属城を攻め、ついで、小田原に迫ったが、氏康・氏政父子が出でて戦わないので、十月、甲府に帰った。しかし、十一月になると、またもや、駿河に出陣し、蒲原《かんばら》城を抜き、府中城を降した。信玄と北条氏康父子との戦いは、翌元亀元年(一五七〇)にも、同二年にも続行されたが、この年から、徳川家康の勢力圏内である遠江、三河に対する信玄の侵攻作戦が、いよいよ展開されることになったため、信玄は、北条氏政からの和議の申し込みを受け容れたのである。  氏政が信玄に和睦を申し入れたのは、同年(元亀二年)の十月三日、五十六歳で病死した父氏康の遺言による。氏康が、信玄の実力を認め、上杉謙信と断って、信玄と結ばんことを、晩年に主張していたからである。 『小田原旧記』という古記録によると、北条氏康は、文武兼備の大将であり、一生のうち何十度も合戦をしたが、負けたことがない。その上に、仁徳があって、よく家法を活用したため、この三代目に、北条氏は関八州の騒乱を鎮定し、大いに家名を揚げた、と評している。氏康の評判がよかったため、その子の氏政は愚将とされているが、これは、氏康と比較していっただけでなく、氏政の時代に小田原北条氏が滅亡したからであろう。失敗の責任者は、とかく、馬鹿呼ばわりされる。北条氏政が弱いのではなく、相手の豊臣秀吉が強すぎたのだ。  ともかく、北条氏康は、信玄のライバルとして、上杉謙信の次位にあった。人物の点でも、謙信を少し小型にしたようなところがある。戦略の方面では、信玄と互角といわれてはいるが、少々、劣るようだ。  信玄に学んだ徳川家康  徳川家康といえば、慶長五年(一六〇〇)、天下分け目の関ケ原合戦で大勝利を博した名将として、最高の戦略家とみなされているが、元亀三年(一五七二)の遠江|三方《みかた》ケ原《はら》合戦には、武田信玄のために一蹴され、自害を覚悟したほど、敗戦の憂き目を味わったのである。信玄にとって、家康は互角のライバルとはいえなかった。  信玄と家康との確執《かくしつ》は、信玄が、今川義元の敗死後、その嗣|氏真《うじざね》の凡庸《ぼんよう》に乗じて、駿河を侵略しようとして、遠江の浜松を居城とする家康と対立したことから始まる。信玄は、そのついでに、遠江と三河を侵攻し、西上をはかったのである。  しかし、信玄に西上の決意を促したのは、足利将軍義昭から、家康の盟友織田信長追討の御内書を受け取ったためである。義昭は、永禄十一年(一五六八)の九月、信長に擁せられて上洛し、十五代将軍に就任した。しかし、程なく、その有名無実の地位に不満を抱き、諸国の大名の力を借りて、信長を京都から追討しようと企てるのであった。その頃、信長は、江北《ごうほく》に陣取った朝倉|義景《よしかげ》と浅井長政を相手に、戦闘を続けていた。そこで、信玄は、朝倉・浅井両氏と提携し、信長を南北から挟撃しようとする作戦を立てた。信長を討って上洛しようというのである。  西上の用意を整えた信玄は、元亀三年(一五七二)の十月三日、自ら本隊をひきい、北条氏政からの援軍とともに、甲府を進発し、遠江に侵入した。さらに部将|山県昌景《やまがたまさかげ》を先発隊として、三河の東部に向かわせた。信玄は、直ちに、久能《くのう》城に迫った。これを知った徳川家康は、一部隊をもって武田軍の模様を偵察させたが、あまりにも優勢なのを見て、浜松にひきあげさせた。  信玄は、つぎに二俣《ふたまた》城を攻めると同時に、別隊として、秋山信友に命じ、信濃の伊那口《いなぐち》から美濃に侵入して、岩村城を攻撃させ、これを抜いた。しかし、信玄には、家康の居城浜松を攻める考えが、最初からなかったらしい。目的は、西上であった。その目的が大きいだけに、信玄には失敗がゆるされない。浜松の城攻めが長びき、万が一、失敗に終るようでは、武田の威信を傷つけ、世人の信望を失ってしまう。だから、家康を破るにしても、さすがは信玄と、驚嘆のまなこを見はらせるほど、派手《はで》に勝たねばならぬ。それには、家康を浜松城から誘い出し、野戦にもってゆく必要があった。  信玄は、ここで、山県昌景の別隊をもあわせ、合代島《ごうだいじま》のすぐ下の神増《かんぞう》あたりから、天竜川を押し渡り、秋葉街道に出た。それから、南して、浜松へ向かうような勢いを示して進んだが、有玉《ありたま》付近までくると、急に進路を西に転じ、大菩薩《だいぼさつ》から三方ケ原の台地にのぼり、追分に出た。家康は、徳川軍八千、織田の援兵三千、合わせて一万一千をひきいて、三方ケ原に討って出た。『武徳大成記』によると、徳川の重臣たちが、——敵が優勢なうえに大将の信玄は歴戦の名将であるから、みだりに戦うべきではない——と、諫《いさ》めたが、家康は、——敵勢が我が領内を踏みつけて過ぎるのを、一矢もかけぬとあっては、武門の名誉にかかわる。勝敗の運は天にあり、兵力の多少にはよらぬ——といって、ついに浜松城を出て戦うことになったということである。  家康は、三方ケ原に入ると、武田軍と接触を保ちながら、いつでも相手を攻撃できるように、次第に隊形を左右に展開し、いわゆる鶴翼《かくよく》の構えで陣取った。これに対して、信玄は、すぐに、行進中の縦隊を横隊に展開させ、いわゆる魚鱗《ぎよりん》の戦闘隊形に構えた。優勢な兵力による完璧の構えである。家康は、実は、武田軍が魚鱗の隊形に移る前に、鶴翼の構えで、包囲したかった。しかし、信玄の軍配によって動く武田軍の陣形の変化がすばやいため、徳川軍は機先を制せられた。そこで、信玄は、容易に攻撃命令を下さずに、祝田《いわいだ》の坂上まで徳川軍をひきつけておいた。徳川軍は、こらえきれずに、強引に挑戦したけれども、却って、武田軍の反撃にあい、総崩れとなって敗退した。家康は、いのちからがら、浜松城に逃げ帰った。信玄は、浜松城の攻囲をやめ、三河に進み、野田城をかこみ、これを陥れたけれども、宿痾《しゆくあ》の肺患が昂じて、死去した。信玄は、死に臨み、——我が喪《も》を三年秘し、武田の旗を瀬田《せた》に掲げよ——と、遺言したという。  家康は、生涯、三方ケ原敗戦の苦い経験を省み、無理攻めを避け、石橋をたたいて渡る式の戦法に乗りかえたといわれる。また、強大なるライバルであった信玄のことを尊敬し、その遺臣の多くを召し抱え、また、甲州流の軍学を徳川の軍法に採用したといわれている。  戦わなかった強敵織田信長  武田信玄が織田信長を敵視したのは、いつ頃かというに、おそらく、永禄十一年(一五六八)の九月、信長が足利義昭を奉じて上洛したときであろう。上洛の宿望を抱いていた信玄は、甲斐の山国にあって、地の利を得ないために、地の利を得た尾張出身の信長に先を越されたからである。そのうちに、駿河の今川|氏真《うじざね》の処置問題とからんで、信玄は、遠江と三河を分国《ぶんこく》とする徳川家康と争うに至った。そこで、家康と清洲同盟を結んで以来、盟友の関係にあった信長をも敵とするに至った。そこへ持ってきて、京都の二条城にいる足利十五代将軍義昭から信長追討の御内書を貰ったので、信玄の決意は遂に固められた。宿望の上洛を果たすためには、どうしても信長と決戦を交じえねばならなくなってきたのである。  信玄は、越前の朝倉|義景《よしかげ》や近江の浅井長政と連絡し、打倒信長のための包囲作戦を立てた。この打倒信長の連盟には、大和《やまと》の信貴山《しぎさん》城主の松永久秀も加わった。久秀は、信長が足利義昭を奉戴《ほうたい》して上洛したとき、いちはやく信長に降参したのであるが、ここに至って、ついに信長に反逆し、信玄とも連絡を取り、その上洛を促したのである。  遠江の三方ケ原で徳川家康を敗北させた信玄は、江北《ごうほく》に出馬して信長と対陣していた朝倉義景と連絡を取り、南北から信長を挟撃する約束をしたが、信玄の西上を知った信長が江北の陣営を擁し、美濃の岐阜《ぎふ》に退却しようとすると、どう勘ちがいしたか、義景もまた、江北の陣営を撤収し、越前に帰国してしまったのである。信玄は、義景の馬鹿さ加減にあきれはて、歯がみをしてくやしがったが、あとの祭であった。しかし、三河に侵入して野田城を陥れた信玄が、病気になどならず、さらに岐阜に向かって進撃していったならば、朝倉義景や浅井長政も、大攻勢に転じただろうから、信長の立場は、どうなったか、わかるまい。  かりに、岐阜あたりで、信玄と信長とが決戦を交じえたら、どうであろうか。八方が敵にかこまれていた天正元年(一五七三)当時の信長としては、おそらく、信玄に敗北したかもしれない、というのが常識であろう。したがって、信玄の病死は、信長にとっても、まことに僥倖《ぎようこう》といえたのだ。  しかし、軍隊の装備や戦法を比べると、当時において、信玄よりも信長のほうが、はるかに進歩していたことは確かである。たとえば、新鋭武器としての鉄砲の利用度を取り上げても、それを最もはやく研究したのは、武田信玄だったといわれているが、『織田軍記』によると、信玄は、火縄銃を発射させるのに時間がかかりすぎ、その隙に敵が斬りこんでくれば、なんの役にも立たないといい、そんな考えから、敵が撃つ最初の銃丸一発を、竹製の楯《たて》で防ぎ、二発目を敵が撃つまでに、こちらから斬りこんでゆくといった、極めて幼稚な戦法を案出したのである。しかし、信長は、鉄砲隊を三列にならべ、一列目から順々に射撃させ、三列目の発射が終る頃に、一列目の鉄砲隊の火薬と銃丸ごめが終っているように、工夫したのであった。このようにして、信長は、信玄の死後二年目に、その嗣子武田勝頼の精鋭を三河の長篠《ながしの》で潰滅させ、武田氏滅亡のきっかけをつくったのである。  やはり、信長のほうが、頭がよかった。考えが進んでいた。これと比べると、信玄は、戦いの駈引《かけひき》には長じていたが、いささか時代おくれの武将だった、といえなくもない。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]謙信、不犯説の真相  謎《なぞ》多き武将  わが戦国時代に諸国に割拠《かつきよ》した群雄のなかで、越後の上杉謙信といえば、信州川中島合戦の好敵手であった甲斐の武田信玄とともに、特にその名が鳴り響いている。神仏に対する熱烈な信仰に生きながら、しかも、一生を戦陣に明け暮れ、宿敵信玄を憎みながらも、信玄が困却すれば、越後の塩を甲斐に送ったりしている。また、美女さえ見かければ家臣の妻でも妾にせずにはおかないといった群雄にたち交じって、ただ一人、四十九年の生涯に、妻を一人もめとらなかったため、清浄潔白、不犯《ふぼん》の名将とさえ称《とな》えられた。ともかく、気っぷのいい武将で通っている。しかし、その反面に、いわゆる名将の仮面を剥ぎ、真相を暴露すると称して、謙信は、要するに、短気で、かつ、好戦の党であったとか、不犯はうそで、稀代の男色家であったとか、ひどいのは、不能よばわりさえしている。一体、全体、どちらが本当なのか。  上杉謙信の人物については、このように不審・不可解な点が多いためか、古来、謙信に関する研究著書は極めて少ない。代表的な著述といえば、大正六年に出版された布施秀治著『上杉謙信公伝』(昭和四十三年、歴史図書社改版)一冊くらいなものである。  したがって、謙信を主題とした評伝・歴史小説なども、信玄と比べると、至って少ない。事績はともかく、人間像がしっかりつかめないからであろう。そこで、今回、従来の謙信に関する諸説を一応批判し、私なりの見解を述べてみたい。まず、興味のある問題から始めていこう。  謙信は不犯であったか  これは、最も好奇心をそそる問題に違いない。四十九歳で死ぬまで一生、女を知らなかったなどというと、現代のドライ娘や、よろめき夫人ならば、軽蔑するのが当然であって、あら、不潔だわ——なんていうのが、落ちであろう。ご自分の不潔は棚にあげて……。しかし、明治生まれの女《おんな》大学式女子教育で鍛えられた女性ならば、顔も見ないで、ぽおっ——とするかもしれない。さらに、上杉元伯爵家秘蔵の、法衣に袈裟《けさ》、左手に数珠《じゆず》、右手に軍配|団扇《うちわ》を持って檀上に正座した謙信の、眉目秀麗《びもくしゆうれい》、あごひげも鮮やかな風貌に接すれば、その男性的魅力に胸打たれ、こんなに立派な武将に、どうして岡ぼれする女がいなかったのだろうと、不審のまなこをひそめるに相違ないのである。謙信は、果たして不犯の名将だったであろうか。そこで、まず、謙信をめぐる女どもについて検討してみよう。  謙信の直系の子孫は、幸い、出羽《でわ》の米沢三十万石の藩主として明治初年まで伝わり、廃藩置県以後は伯爵となった。したがって、謙信に関する系図も、古文書も、記録も、一応、正確なものが伝わっている。『上杉系図』『上杉家文書』『上杉年譜』などが、これである。しかし、どの文献を見ても、謙信に妻がいたとは記していない。もちろん、その名前も分からない。子は、景勝《かげかつ》と景虎《かげとら》という二人の男子がいたが、二人とも養子であって、実子ではない。そのほか、側室・愛妾がいたなどと書いたものもない。それならば、かれの周囲には女っ気が一つもなかったのか、というに、そんな馬鹿なこともあるわけがなかろう。  謙信の側近にも、二人の若い女性が侍《はべ》っていた。それは、上杉家の重臣直江大和守実綱の娘で、姉娘のほうの名前は判明しないが、妹娘は船《せん》といった。船は、のちに謙信の嗣子《しし》景勝の輔臣直江|兼続《かねつぐ》の妻となり、謙信の死後も上杉家中に重きをなした婦人だが、姉娘のほうは、一時、謙信の身のまわりのことをすべて世話した女性で、謙信にとっては秘かな意中の人であったと、『越後軍記』に伝えられている。しかし、この女も、遂に謙信の側室となっておらず、のち、謙信の上洛中に出奔し、信濃の善光寺の尼僧となったということである。中村八朗氏によれば、この二人の娘は、謙信が越後の春日山《かすがやま》城内から腰元女中衆までを追放し、全く女っ気をなくしたのちも、なお、謙信の側近に侍していた。しかし、それは、上杉家の忠臣直江実綱が、自分の娘たちを、主君である謙信の御毒見役として仕えさせていたにすぎない、とのことである。  つぎは、京都の若い公卿《くぎよう》、関白|近衛前嗣《このえさきつぐ》の妹|絶姫《たえひめ》である。これは、謙信が二十四歳で初めて上洛したとき、前嗣が招待してくれた能楽の鑑賞会で見かけた美女であった。曲目が八島《やしま》で、絶姫は義経に扮して出演している。前嗣は、前途有望な武将上杉謙信へ自分の妹をめあわせておけば損はないと考えていたらしい。しかし、謙信は、近衛前嗣や絶姫とは、なんの約束もせずに、逃げるように越後に帰国している。そうして、その翌年、絶姫は病死してしまった。これも、じつに不可解な話といわねばなるまい。  それから、『異聞録《いぶんろく》』によれば、もう一人。上野国《こうずけのくに》平井城主千葉|采女《うぬめ》の息女、伊勢《いせ》姫がいる。謙信が三国峠《みくにとうげ》を越えて関東に出馬したとき、上野の諸将は、その武威に恐れ、それぞれ、人質をおくり、降服したが、その人質のなかに、伊勢姫がいた。さすがの謙信も、姫の美容にこころひかれ、これを熱愛したが、敵国の女を寵愛《ちようあい》するとあっては間違いのもと——と、上杉の重臣柿崎|和泉守《いずみのかみ》に意見され、遂に目的を果たさなかったという伝えがある。  つまり、謙信の周囲には、いま列挙しただけでも、三人の若い女性がいたのである。それにも拘わらず、謙信は、かの女らの一人をも妻妾としていない。そこで、不犯の名将という伝説ができあがったのであろう。  しかし、よく考えてみれば、これだけの外面的な事情で、謙信が不犯であったか、どうかは、到底、きめられないと思うのである。千軍万馬を叱咤《しつた》し、日夜烈しい戦闘に耐えた謙信ほどの偉丈夫が、生涯、女を知らずにすごしたとは、常識的にも、ちょっと考えられない。手っとりばやくいえば、妻子や妾がなくとも、女と関係することはあり得るからだ。それに、一説によれば、千葉采女の息女伊勢姫は、謙信と関係が深かったが、前述のような事情で、妻とも側室ともなれなかったため、その翌年、青竜寺という寺に入って尼僧となり、別離の悲しさに耐えきれず、十九歳で果てた、といわれる。二人が平井で初対面を交わしたときは、謙信が二十三歳、伊勢姫が十六歳だったという。これが事実とすれば、謙信は、もちろん、不犯の名将どころではなかったのである。  それはともかく、謙信不犯説は、単なる伝説にすぎなく、史実としては、余り当てにならぬと思うのである。  男色家であったか  謙信は男色家だった。だから、女性を愛することを知らない。したがって、妻妾も持たず、もちろん、子供も生まれなかった——という説がある。これは、なかなか有力で、信奉者も多い。  中村八朗氏によると、謙信が初めて上洛し、近衛|前嗣《さきつぐ》の招いた能楽の鑑賞会で、前嗣の妹の絶姫《たえひめ》を見そめたが、それは、女性としての姫に魅せられたのではなくて、姫の扮装した男性の義経の美しさに魅せられた。だから、能楽が終って、義経に扮したのが、男ではなくて、女の絶姫だということが判明すると、トタンに興味を失い、謙信は、前嗣の止めるのもきかず、逃げるようにして越後に帰った。これは、謙信が女を愛せない男色家だったからだ——という。さらに、謙信の上洛中に、かれの身のまわりを世話してくれていた直江実綱の姉娘も、失恋の痛手に耐えかねてか、出奔してしまい、越後の春日山城に帰ってきた謙信を迎える姿は、すでになかった。その上、その翌年、近衛の絶姫も病に倒れ、この世を去ってしまった。この二女の事件が、若い謙信の心にかなり強いショックを与えたとみえて、かれは、いよいよ女嫌いとなり、奥女中・腰元のたぐいも、悉く城外へ追放してしまった。そうして、それからは、誰はばかることもなく、美少年を愛することになった、というのである。  永禄二年(一五五九)、謙信が三十歳の年には、十二歳から十四歳までの少年親衛隊が誕生した。それからは、これらの少年たちが、或るときは美しい腰元のごとく謙信を慰め、或るときは誠忠比類なき楯《たて》の役目を果たした。そのため、謙信は、生涯、妻もめとらず、女も近づけなかったと、中村八朗氏は説く。(『おんな嫌い謙信の男色戦法』歴史読本、昭和三十七年十二月号所載)  このような男色肯定を説く人々も、また、極端に走り、謙信の仲のよかった武臣や僧侶までを、みな謙信の男色の相手方にしてしまう嫌いがある。たとえば、越後の林泉寺の天室興斎の相弟子の宗謙《そうけん》、青年関白近衛|前嗣《さきつぐ》、それから、謙信の嗣子《しし》景勝《かげかつ》の輔臣として名高い直江|兼続《かねつぐ》までを、謙信の愛人とみなしている。いくら男色が流行した戦国時代とはいえ、これでは、謙信がかわいそうだ。  少年親衛隊を編成したのは、何も、謙信と限ったことではない。信長だって、秀吉だって編成している。これは、小姓格の少年武士であり、馬廻衆でもあった。また、直江兼続が謙信の寵愛をうけたという証拠は、一つもない。むしろ、景勝の寵愛をうけたのだ。ただ、謙信の愛童として、諏訪虎王丸《すわとらおうまる》がいたことは、ほぼ推測できる。虎王丸は、武田信玄によって滅ぼされた信濃国|諏訪《すわ》郡の豪族諏訪頼重の長男で、天文十一年(一五四二)の四月四日に生まれた。父の頼重は、同年の七月二十一日、信玄のために甲府の東光寺で殺された。すると、その翌年の暮、当時十四歳だった虎王丸の姉は、甲府の躑躅崎《つつじさき》の館《やかた》にひきとられ、信玄の愛妾にされた。虎王丸は、母に養われていたが、母が、父頼重のあとを追って甲府の一条寺で自殺したため、姉のいた躑躅崎の館にひきとられたのである。かれは、十歳の頃、信玄が父の仇であることを知り、これを刺そうとしたが、失敗して捕えられた。しかし、姉の哀願によっていのちを助けられ、一条寺に預けられて、僧侶となった。が、密かに寺を脱出し、天文二十二年(一五五三)、十二歳のとき、越後に走り、初めて謙信に謁見を許され、その援助を仰いだ。そこで、謙信も、義によって虎王丸を助けることを約束し、春日山城内に住まわせた。時に謙信は二十四歳だったが、虎王丸の胆力と美貌を愛し、これに居館を与えて優遇した、といわれている。  謙信が美童を愛さなかった——というのは嘘であろう。確かに寵愛したに相違ない。しかし、それは、やはり、信長が小姓の森蘭丸《もりらんまる》を愛し、秀吉が石田三成を寵愛したのと同様であって、同時代に生きる武将として、何も不思議はない。ただ、謙信だけを男色の専門家のようにみなしたり、男狂いの如くあしらうのは、間違っていると思うのである。  謙信が男色家であったという説は、やはり、かれが不犯《ふぼん》の名将であるといった概念から派生したもので、強調するに足りない。不犯だから男色一点張りだったとするのは、どうかと思う。たとえ不犯でなくとも、男色家は沢山いる。信長や秀吉の例でも分かるではないか。戦国武将には、概して、両刀使いが多かったらしい。  不能であったか  謙信は不犯の名将といわれて、一部の女性の憧れの的とさえなっている。謙信に愛されないために、かれをめぐる三人の若い女性が、三人とも尼になったり、病死したりしている。これは、失恋の結果だ、とさえ説明する。しかし、謙信がかの女らを愛さなかったのは、男色家だったからでも、また、信心堅固で女犯の戒律を厳守したからでもない。かれは、じつは不能《ふのう》だったのだ。女を愛さないのではなくて、愛せなかった。不犯の名将ではなくて、不能の名将だった——と説く人がいる。  謙信が、上杉家の重臣直江実綱の姉娘に手をつけなかったのも、京都の関白近衛|前嗣《さきつぐ》の妹絶姫を妻としなかったのも、みな、かれが不能であったからだ、とする。そうして、この不能の根拠説としては、謙信が七歳のとき、河中に落ちて左の膝《ひざ》を烈しく打ったことを挙げている。が、その後また、長尾俊景と戦ったとき、左の内股に矢傷を蒙《こうむ》り、その傷が深かったためか、手当が充分でなかったせいか、ひどく腫《は》れたので、切開したが、大きな傷痕を残した。これは『常山紀談』に、「左の脚に気腫ありて、歩む時、これを曳く如く見えしと也」と書いてある通りだったらしい。しかし、それだけの根拠で、謙信を不能の名将とするのは、早計であろう。  謙信の左脚が腫れて跛行《はこう》したことは事実かも知れないが、おそらく、それは、一時的な現象であろうと思う。かりに、かれの左脚が常にそのように不自由なものであったとしたならば、四十九年の生涯を通じて、あのように身軽く東西南北に転戦できる筈もない。また、かりに、かれが左脚の不自由を、あるいは青竹の杖でささえ、あるいは馬上に托して活躍していたとしても、左脚が不自由になったがために不能になったとは考えられない。まして、幼時、河中に落ちて左の膝を強く打ったがために、後天的の不具者・不能者になったとも思われない。第一、謙信の性格には不能者の持つような陰湿な暗さや、ひねくれたところが、全くみられない。かれの遁世《とんせい》思想は熱烈な仏教信仰に基づくものであって、不能者の持つものとは異質である。謙信不能説は時代小説の構想としては、奇抜で、人を驚かすに足りるかも知れないが、歴史的事実としては頂きかねる。第一、謙信の名声を穢《けが》すことの甚だしさは、かれを変態的な男色家とみなす以上であろうから。  筆者は、謙信のことを不犯とは考えないし、また、特別な男色主義者とも思わないし、また、不能者であったとも推測しない。生涯妻帯せず、不犯の戒律を守ろうとつとめたのは、事実であろうが、その戒を破ることもあったに違いないし、また、人並みに男色にも心を動かしたこともあろうと、臆測する。なぜとならば、そのような複雑多彩さと曖昧《あいまい》さが、いずれの時代にも、生きた人間の真の姿であるからだ。まして、戦国の乱世に活躍した武将上杉謙信においてをや——と、言いたい。  妻帯しなかった理由  さて、とくに男色家で女ぎらいではなくて、また、不能者とも見られないのに、謙信は、どうして生涯妻帯しなかったのであろうか。これは、いうまでもなく、かれが熱烈な仏教信者であり、とくに幼時から禅を修め、また、長じては、深く真言密教に帰依《きえ》し、戒律を守ったからである。それならば、かれは、なぜ、このように熱烈に仏教を信仰したのであろうか。  戦国時代の武将で神仏に対する信仰心の篤かったのは、何も上杉謙信と限ったことではない。しかも、この時代の武将は、一体に、八宗兼学《はつしゆうけんがく》などと称して、さまざまな宗派の仏教を兼ね信仰している。たとえば、安芸《あき》の毛利元就、同隆元、薩摩の島津|忠良《ただよし》、同|貴久《たかひさ》、甲斐の武田信玄、三河の徳川家康など、みな、そうだ。だから、謙信だけを殊更に仏道に徹した情ぶかい武将とみるのは、これまた、見当はずれというべきである。  謙信が禅と真言宗に傾倒したといえば、かれの好敵手の武田信玄だって、天台・真言・禅の諸宗に帰依することが篤かったのである。謙信が真言密教の真諦《しんてい》を究め、嵯峨の大覚寺義俊の執奏《しつそう》によって法印大和尚に任ぜられ、ついで高野山《こうやさん》無量光院の阿闍梨清胤《あじやりせいいん》から真密を皆伝されて阿闍梨権大僧都《あじやりごんだいそうず》に進んだのに対して、信玄もまた、天台密教の奥義を究め、曼殊院門跡《まんじゆいんもんぜき》准三宮|覚恕《かくじよ》法親王の推薦により権大僧正の位に昇っている。だから、外観や形式から見たのでは、寺院や神社との商取引のようなもので、精神的な方面とは関係が薄い。第一、これらの武将たちが、本当に信仰生活に徹していたとすれば、戦争と称する集団的殺人罪は犯さなかった筈であろう。神仏信仰は、人殺しを商売としているかれらの表看板《おもてかんばん》にすぎない。看板だけは、行為とは裏腹《うらはら》に美しくあらねばならぬ。侘びの看板を掲げながら贅沢《ぜいたく》をしているお茶の師匠と同様である。神主も、坊主も、武将を相手にしないと、堂舎の修繕にも事欠く有様なので、その点はよく心得ていた。信玄の権大僧正や謙信の権大僧都などは、旦那将棋で貰った段位のようなものだった。しかし、謙信が真言密教の戒律を守り、生涯妻帯しなかったのは、肉食妻帯をば罪悪視しない一向宗徒《いつこうしゆうと》に対する反撥心が起因となっていたらしい。  越後の守護代として擡頭《たいとう》した長尾家(謙信の生家)の門徒(一向宗徒)ぎらいは、謙信の祖父長尾|能景《よしかげ》以来の伝統であった。越後の一向宗(浄土真宗)は、かつて、宗祖の親鸞《しんらん》が、国内の巡錫《じゆんしやく》を行ない、多くの帰依者《きえしや》を獲得したことに始まる。それだけに、根づよい信者がおり、一向宗徒は団結して、しばしば、守護代の長尾氏と衝突を起こしている。能景は、越後領内の宗徒を弾圧した。しかし、かれらは、越前加賀の宗徒と提携し、一向一揆を催して敵対したので、能景は、これを追って、越中の般若野《はんにやの》で戦った。そうして敗死している。永正三年(一五〇六)九月のことである。そのため、能景の子の為景《ためかげ》(謙信の父)は、父の仇である一向宗徒を甚だしく憎み、ついに一向宗の僧侶をことごとく越後領外に追放し、領内の一向宗派の寺院を破却し、信者を改宗させたりしている。このような父祖二代にわたる一向宗ぎらいが、少年の謙信の心に強い影響を与えたに相違ないと思う。  謙信は、享禄三年(一五三〇)の正月二十一日、越後の春日山城に生まれた。この年が寅年《とらどし》だったので、幼名を虎千代《とらちよ》と名づけられたが、天文五年(一五三六)、七歳のとき、父の為景のいいつけによって城内の曹洞宗の禅院林泉寺に入り、名僧|天室光育《てんしつこういく》の膝下で、参禅の行を修めている。当時の禅院は規律がすこぶる厳格で、朝夕の勤行《ごんぎよう》、行鉢《ぎようはつ》の儀式、坐臥進退、ことごとく細則が定められていた。為景が、まだ幼い虎千代を、このような生活環境に入らせたのは、将来、わが子を禅僧に育てあげるためではなくて、動かざること山の如き度量の名将に鍛えあげたかったからであろう。  ところが、この年、父の為景が死に、それに乗じて叛徒が領国を窺《うかが》ったので、虎千代はまだ七歳の少年ながら、甲冑《かつちゆう》を身につけて、亡父の棺《ひつぎ》を送ったとのことである。  父の死後は、兄の晴景が、守護上杉|定実《さだざね》を奉じ、相変わらず守護代として越後を支配していたが、二十四歳の晴景を侮った長尾の部将たちが党派争いを始めたため、国内が非常に乱れてきた。そこで、虎千代は、十四歳で元服して、長尾平三|景虎《かげとら》と名のっている。  このような悲運が、若き日の謙信の心を禅宗の如き自力仏教のほかに、真言宗のような他力仏教の信仰に向かわせたと言ってよかろう。しかし、それには、また、彼の生母|青岩院《せいがんいん》の勧めもあったに相違ない。青岩院は深く真言宗に帰依《きえ》していた。『上杉年譜』によると、春日山城の北の丸には大乗寺という真言宗の寺院さえあった。謙信は、この大乗寺の僧侶|長海《ちようかい》について真言密法の戒を授かっている。禅院の修行も甚だきびしいが、真言宗には、古くから戒律があり、その一つとして、不犯を説き、肉食妻帯を禁じた。そうして常に護摩《ごま》を修し、不浄を焼き浄める法を行なう。これが、武運の長久を祈願する正式の方法でさえあったのである。  父母の教訓や影響ほど身にしみるものはない。謙信は、幼いうちから一向宗徒を忌み嫌う心があったが、やや長じて、母の勧めによって、真言宗を信仰するにつれて、いよいよ一向宗徒の在俗的な破戒ぶりを憎むようになった。そうして、反動的に真言密教に帰依し、戒律を守り、生涯妻帯しない覚悟をきめたのであろう。  謙信のこのような覚悟に対しては、一族、家臣はもちろん、さすがの生母青岩院も驚き、一国の兵権をあずかる守護代として、それほどまで信仰に徹底しなくとも——と、諫止したに相違ない。しかし、若い謙信の心は動かなかった。かれは、生来、律義な性格の男であり、戒律がある以上、それを厳守せねば納得できなかったとみえる。もっとも、戒律を厳守するかわりに得られるものはといえば、戦勝であったから、武将としては本懐至極だったに相違ない。 『越後軍記』によれば、謙信は、その兄晴景を府内《ふない》城に攻めて自害させたことを終生の悔恨事と思い、上杉の家督を我が子に譲らないために、一生妻帯しない決心をしたという。しかし、謙信が兄を攻め滅ぼしたというのは、誤伝にすぎないから、この説は全く採るに足りない。そこで、新井白石も、この説に反対して、謙信は常に持戒して、灌頂《かんじよう》を行なうことおよそ四ヵ度、あるいは護摩を修し、あるいは参禅して、肉と色とを断ったため、子がなかったという。兄の家督を奪ったという疑いを避けるために、このような行ないをしたとは思われぬ。思うに、弓矢の冥助《めいじよ》を祈って、このような行ないをしたことは、むかしから例がある——と、主張している。つまり、新井白石の説によれば、武神の加護を得るために持戒行法をなし、色欲を断った——というのである。  この白石の説に、私は、一応、賛成したい。そのわけは、戦国時代の武将がこの世に生き抜くための、さし当たっての目標は、戦いに勝つことである。戦いに勝ちさえすれば、わが身も家族も安全だし、領国も保てる。領地もふやせるし、家名を揚げることさえできる。だから、かれらは、戦勝のためには、あらゆる手段を講じた。あらゆる手段とは、一口にいえば、戦略戦術を練ることだが、また、人知の到底およばないところは、神仏の加護に頼るほかないので、神仏を信仰し、土地や財物を奉納し、戦勝を祈願したのである。  謙信が妻帯しなかった理由は、父祖の一向宗嫌いと、生母の真言宗帰依の影響を受け、曹洞禅と真言密教を信仰した結果、戦勝祈願のために、妻帯せぬことを神仏に誓約したため、と考えられる。  武将としての評価  さて、謙信は武将として、どのように評価されてきたであろうか。  まず、謙信の宿敵であった甲斐の武田信玄は、謙信は手づよい弓取りだが、決して、片頬《かたほお》破りの偏頗な気性などは持たない——と、いって、褒めている。また、あのように勇猛な謙信と事をかまえてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば必ず援助してくれる。断わるようなことは、決してしない男である。この信玄は、おとなげもなく、かれに依託しなかったばかりに、一生かれと戦うことになったが、甲斐の国を保つには謙信にすがるほかはない——と、その嗣子勝頼に遺言したということである。  やはり、謙信の好敵手であった相模の北条氏康も、信玄と信長は表裏《ひようり》つねなく、頼むに足らない。ひとり謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い武将の守り袋にさせたいと思っている。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託する人は謙信だけである——と述べたという。  長年戦いを交えた敵将からもこのように信頼されている謙信は、余程の義理がたい好人物だったらしく思われる。 『名将言行録』という書物にも、謙信の人物評がのっているが、総じて勇敢、無欲、清浄、器量広大で、まことに恵み深く、よく下々の忠諫を容れて、明敏明朗、少しも隠すところがない。これみな、謙信の良いところである。戦国の末世に有難き名将だ——と、絶賛している。その反面に、謙信公の人となりを見るに、十の内、八は大賢人、残りの二は大悪人であろう。怒りに乗じて行なうこと、ひがごとが多く、欠点というべきだ——と評している。ここで初めて、謙信の欠点を拾ったのである。  謙信の評判があまりにもいいので、何か欠点はと探した結果、怒りに乗じて行なうひがごとが多い——と述べた。しかし、十の内の八は大賢人で、残りの二は大悪人——というのは、変な批評である。大賢人というように、善悪両面に大の字をつけるのは、いかにも、感情的で、大ざっぱな批判といわねばなるまい。そうして、その十の内の二つ大悪人というのが、怒りに乗じて行なうひがごとだ——というのである。これは、何を指すのであろうか。謙信の行動には、たとえば、つぎのような意外なことがあった。  永禄四年(一五六一)の閏《うるう》三月、相模の国鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で、山内上杉憲政から関東|管領《かんれい》の職を譲られ、相続の儀式を行なったとき、謙信は、中啓《ちゆうけい》をもって武蔵の忍《おし》城主成田|長泰《ながやす》の顔を殴打しているし、また、翌年、武蔵の松山城が北条、武田の連合軍に囲まれ、城主上杉|憲勝《のりかつ》が降服したとき、援けに行って間に合わなかった謙信は、大いに怒り、人質として預かっていた憲勝の二児の髻《もとどり》をひっつかんで、自ら斬り殺している。また、上杉家の属将本荘繁長と長尾藤景が、川中島合戦に関して、謙信の戦術を批判したのを怒り、まず、藤景を殺し、さらに繁長をも討ち果たそうとしたので、繁長は、その城に拠り叛旗を翻した、といわれている。  謙信は、時たま、このような発作《ほつさ》的な狂暴な行為をしている。これが『名将言行録』の著者のいう、十の内の二つの大悪なのであった。  しかし、この程度の行為は、この時代の武将としては、むしろ、普通のことであって、敢えて謙信だけを、大悪人などと言ってとがめるには当たらないと、思うのである。  それから、また、謙信を誹謗《ひぼう》する者は、かれのことを狂信的な好戦家と評する。そうして、かれをヒットラーにたとえたりしている。なお、戦争だけが好きな小器で、天下を取る大器ではない——とも評している。  しかし、筆者にいわせて貰えば、上杉謙信は、やはり、弱肉強食の戦国時代に稀にみる純真な、しかも義理がたい武将だったと思う。かれの純真さは神仏信仰の態度においても窺えるが、義理がたさは、かれを頼って越後に逃げてきた信濃の諸豪族を援けて、川中島で武田信玄と五回も合戦を行なったことでもわかる。また、相模の北条氏康に追われて越後に亡命した関東管領山内上杉憲政を援けて、しばしば関東に出馬し、氏康および北条氏政などと決戦を交じえたことでも知られる。人に頼まれれば、いやと言えない、親分肌の性格を持ち、狡猾なところが少しもない。駿河の今川と相模の北条両氏が連合して武田信玄の領国甲斐に塩を送らなかったときに、謙信が塩を敵国である甲斐に送った話は、『北条記』『上杉年譜』などに見えるが、『芹沢文書』によって、永禄十年(一五六七)八月のことと確認されている。決して架空な伝説ではない。  また、『上杉家文書』には、弘治二年(一五五六)の六月二十八日付で、旧師である長慶寺の天室禅師に送った長文の書状を収めているが、その文面によると、亡父の長尾為景が、二十ヵ年に及ぶ長いあいだ落ち度なく武略をつくしたけれども、為景の死期が近づくと、膝下まで凶徒が動きまわる有様なので、この自分は、甲冑《かつちゆう》を着て亡父の葬礼を行なうという次第であった——と言って、亡父為景の武功に対して懐疑の念を抱いている。そうして、今や国内も豊饒である。古人も功なりて名をとげて退く、といっているから、退身して沙門《しやもん》に入り、遠国《おんごく》に巡礼に出たい——などと述べている。  ところが、謙信に遁世《とんせい》の志あることが世間に洩れると、流言|蜚語《ひご》が乱れとび、越後は、たちまちのうちに内乱の様相を呈した。そこで、謙信もまた、心機一転、猛然として武将本来の姿にたちかえるのであった。これが、謙信二十七歳のときのことだ。  謙信は、曹洞禅と真言宗のほかにも、天台宗・日蓮宗・時宗《じしゆう》・浄土宗の各宗派にわたって、弘く仏教を信仰し、あるいは寺領を寄せて堂舎を建立し、あるいは物を献じて武運の長久を祈らせ、あるいは名僧を請じて宗義の堂奥を窺うなど、いわゆる八宗兼学の実を挙げている。したがって、かれの日常生活は神仏に対する熱烈な信仰によって支配され、戦場に臨むときは観音、大師、および大日如来の尊像を黒塗りの厨子《ずし》に納めて奉戴するを例とし、軍旗には毘沙門天《びしやもんてん》の頭の一字を用い、降魔《ごうま》の意を示し、軍兵に対して一つの必勝の信念を抱かせている。また、兜《かぶと》の前立《まえだて》には摩利支天《まりしてん》・月天子《がつてんし》・信濃|飯縄明神《いいづなみようじん》の神髄を用い、印文にもこの三仏神の名をあわせ刻した。出陣に際しては、五大尊明王を本尊とし、五壇護摩を執行し、武禎式《ぶていしき》を挙げるのを常とした。陣中にあっても、山内上杉憲政から譲られた五梃の槍を立て、中央の槍頭に軍神を祀り、般若《はんにや》の太刀をもって護摩堂を装飾し、勝利を神明に祈った。そして、敵国に侵入しても、まず、神社仏閣を礼拝し、然るのち兵士に軍令をくだすのを常としている。謙信が愛宕《あたご》・弥彦《やひこ》・六所《ろくしよ》・春日・小菅・更科《さらしな》八幡などの神社に納めた願文《がんもん》は、今もなお遺っているが、それらを見ると、どれも、義をもって不義を誅《ちゆう》し、もって天下の憂いを除く、という趣旨のもとに、ひとえに戦勝を祈願する——といった理想を顕示している。しかも、戦いが終って越後春日山城にあるときは、講武閲兵の寸暇をみて、城内の毘沙門堂、または持仏堂にとじこもり、近習の者が、「御本丸にござなされるを、御座の間に一人もまかりいでず、おつぎにはばかり、ひかえありしは、禅学あそばさるゝに、おさわりもあるにや」と、その生活ぶりを伝えているほど、身を持することが厳正で、さながら禅僧を見るが如くであった、といわれている。  謙信は、天正四年(一五七六)の六月、当時、備後の鞆《とも》の浦に亡命していた足利将軍|義昭《よしあき》の御内書《ごないしよ》を受け、武田・北条の両雄と和睦し、安芸の毛利輝元・摂津の石山《いしやま》本願寺・大和の松永久秀などと呼応し、大兵をひきいて上洛し、織田信長を追討し、京都の秩序を正し、将軍家再興の事に当たろうと企てた。そうして、信長の部将柴田勝家らを追って加賀の辺まで進撃した。が、まもなく、また、関東の上野に出陣し、一度、越後に帰国、改めて大挙関東に出陣しようとした。その寸前、卒中に罹り、天正六年(一五七八)の三月十三日、春日山城で病死している。時に四十九歳であった。謙信の病死で救われたのは、信長と、それから武田勝頼であった。  謙信は七歳で甲冑を着し、十四歳のとき越後の三条に移り、半国の支配に任じてから、四十九歳で春日山城に斃《たお》れるまで、三十五年の間に、戦闘を指揮すること数百回、自ら陣頭に立ち、また、攻城にのぞむこと七十余度、といわれている。全く、不動明王と摩利支天とを粉末にたたき、等分に練り立てたような武将であった。しかし、それだけ戦争をしても、少しも領土がふえていないのは、不思議なくらいである。これは、かれが正義を好み、義戦を主とし、領土的野心がないからである。戦国の世としては珍しく正義観念に富んだ人物といえる。しかし、その反面、信玄・信長・秀吉・家康などと比較すれば、現実味に乏しい、空想的な、甘いところがある。戦国随一のセンチメンタリストといってよかろう。殊に、その最後の挙動を見ると、信長を追討して上洛の宿望を遂げようと考えたことはいいとしても、それが、すでに信長によって政権を剥奪《はくだつ》され京都を落ちて備後の果てに没落していた足利将軍義昭の、しかも一片の御内書の美辞麗句を見て、謙信は、今さらのように、感奮興起しているのだ。気分と観念と夢想だけで行動した武将上杉謙信に、果たして天下が取れたかどうかは、わかるまい。むしろ、上洛の寸前に病死したことが、かれの名声を傷つけなかった。その点、謙信は、信玄と同様、一種の悲劇的な人物でありながら、しかも幸運児であった、と言いたい。  最後に、謙信が政治家としても立派な領内政治を行なったことを推奨したい。 [#改ページ]   ㈽ [#改ページ] [#1段階大きい文字]信長に滅ぼされた七人の武将  足利義昭を奉戴して上洛し、室町幕府の再興を名義として織田政権の樹立と日本全国の平定に着手した信長は、かれの行動に敵対する戦国武将たちをば、強力な軍事力と巧みな戦略によって、ことごとく討滅している。それならば、信長の怒りに触れて討ち滅ぼされた武将とは、誰とたれか。いま、そのうちから、主なもの七人を選んでみよう。これは、——男は一歩外に出れば七人の敵がある——といった諺《ことわざ》に基づいた数字である。  桶狭間《おけはざま》で討たれた今川義元  まず、生国尾張を平定しようとしていた直前、大軍を率いて尾張の東部に侵入し、清洲の居城にあった二十七歳の青年武将織田信長をおびやかしたのは、駿河・遠江の国主大名今川|治部大輔《じぶたゆう》義元である。  今川氏は、足利将軍の支流で、名門であり、義元のとき、東三河に侵入し、小豆坂《あずきざか》で信長の父織田信秀と衝突したことがある。そのときは、今川方が不利であったが、その後、相模の北条氏康・甲斐の武田信玄と三国軍事同盟を結んで、後顧の憂いを断ち、永禄三年(一五六〇)、二万五千の精兵を指揮し、尾張の東部に侵攻した。清洲城の信長を一蹴して、上洛の宿望を遂げるつもりであった。  五月十八日、義元は馬廻衆《うままわりしゆう》五千を率いて、本営を沓掛《くつかけ》に進め、松平元康(徳川家康)を丸根城に、朝比奈|泰能《やすよし》を鷲津城に向かわせた。翌十九日、今川軍は、丸根と鷲津に攻撃を開始し、これを陥落させ、元康を大高城に入れ、本陣を桶狭間に進めた。勝報が次々にはいってきた。幸先《さいさき》よしと思った義元は、緒戦の勝利を祝い、近在の神主の持ってきた酒肴《しゆこう》を将兵にくばり、小休息を命じた。ちょうど正午《ひる》どきでもあった。  ところが、突然、豪雨と疾風が桶狭間をおそい、たちまち視界が闇の底に沈んだ。すると、義元の本陣の動きを偵察し、背後の太子《たいし》ケ嶺《ね》にひそみかくれていた信長の精兵二千が、いきなり、今川勢のまっただなかに突進してきたのである。織田軍は、遮二無二に、義元の旗本に突っ込んできた。旗本は崩れ、乱戦となり、義元は、服部小平太に槍をつけられた。しかし、刺されながら、義元は、槍ごと、小平太の膝を断ち割った。小平太が、どっと前へ倒れたとき、横あいから、毛利新介が義元に斬りつけ、そのまま押し倒して、首をかこうとした。新介の手が義元の顔に触れたとき、義元は、その指を、がぶりと噛み切った。時に四十二歳。名家の誇りだけを保ち、化粧した容貌を美々しい甲冑で包んでいた。  二万五千の兵力の優勢をおごり、桶狭間の間道で五千の旗本が縦隊にのびて手薄となることに気づかず、敵の捨身の奇襲を許したのは、戦国武将としては、油断も甚だしい。天下取りなど思いもよらぬ愚将というべきであろう。  親の因果で滅ぼされた斎藤|竜興《たつおき》  強敵今川義元を桶狭間で討ち取った余勢をかって領国尾張を平定し統一した信長は、つぎに、上洛のための足がかりを北へ進めるために、北隣の美濃の攻略を開始した。永禄四年(一五六一)、信長が二十八歳のときである。  美濃の国は、信長の父織田信秀の時代に、油売り商人から身を起こした斎藤山城守入道|道三《どうさん》のために乗っ取られ、守護の土岐《とき》氏一族は国外に追放され、美濃の土豪はみな道三に臣従し、道三は国主大名として、美濃の統一に成功した。織田信秀は、しばしば道三と戦いを交じえたが、東から尾張に迫ってくる今川義元への対策上、ついに斎藤道三と和睦することにした。道三は、講和の条件として、かれの愛娘《まなむすめ》濃姫《のうひめ》を信秀の嗣子信長に嫁がせ、縁者となった。ところが、その後、道三は、その長男|義竜《よしたつ》と争い、親子戦争を決意するに至って、美濃の国を娘婿の信長に譲る約束をし、義竜と戦って、敗死した。  義竜は、父道三を殺害し、斎藤家二世となり、よく国を治め、信長の来攻をも撃退したが、永禄四年(一五六一)に病死し、その跡を継いで斎藤家三代目の当主となったのが、義竜の庶子竜興である。時に竜興は十四歳の少年にすぎない。  舅《しゆうと》の道三から美濃の国を譲ると約束され、仇敵義竜を討って美濃を乗っ取ろうとしていた信長は、義竜の病死によって仇を討ちそこなったが、その代わりに、義竜の嗣子となった竜興を改めて仇討ちの目標と定め、竜興が少年であるという弱みにつけ入って、攻撃を開始した。  竜興は、西美濃に侵入してくる織田軍と戦って、たがいに勝敗があったが、失政が多いため、配下の諸将に漸く離反の色が見えた。これに対して信長が行なった主従の離間《りかん》策が次第に効果をあげ、有名な竹中重治《たけなかしげはる》をはじめ、西美濃三人衆といわれた大垣城主の氏家卜全《うじいえぼくぜん》、清水城主の稲葉一鉄、北方《きたかた》城主の安東守就《あんどうもりなり》などが、竜興を背き、信長に内通するようになった。これは、竜興にとって、最も痛手だった。  永禄九年(一五六六)、信長は、伊勢の北畠氏を攻めると見せかけて、竜興方の目を欺き、美濃の木曾川と長良川の合流点|洲股《すのまた》(墨俣)に砦《とりで》を築かせ、ここを足場として、竜興の居城稲葉山を攻めた。  そのころ、美濃衆の有力者がすべて信長の味方となったため、同十年の八月、稲葉山城はついに陥落し、竜興は舟に乗って木曾川を下り、伊勢の長島に遁れた。  それからの斎藤竜興は、長島一揆や三好氏の余党と与《くみ》して、信長と抗戦したが、やがて越前に赴き、朝倉氏の食客となり、天正元年(一五七三)、信長が越前に攻め入り、敦賀《つるが》城を包囲したとき、これと戦って、討死をとげている。享年二十六。油売り大名の斎藤氏は、三代、僅か二十余年で、信長の武略のために滅亡した。  優柔不断で敗亡した朝倉義景  稲葉山城主の斎藤竜興を国外に追放して美濃を手に入れ、稲葉山を岐阜と改め、尾張の清洲から居城をここに移した信長は、永禄十一年(一五六八)、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を十五代将軍として、二条城に居らせた。が、義昭は将軍とは名ばかりで、中央政権を握って放さない信長の行動を怒り、密令を諸国の寺院や大名に下し、信長打倒の戦線を張らせた。越前の朝倉義景も、その戦線に加わった。それを知った信長は、義景の上洛を求め、これを詰問しようとしたが、義景は、上洛の要求に応じない。  そこで、信長は、元亀元年(一五七〇)、若狭《わかさ》へ攻め入ると見せかけて、急に方向を転じて越前に侵入し、敦賀《つるが》・天筒山《てづつやま》の諸城を抜き、金《かね》ケ崎《さき》城を包囲した。一乗ケ谷の居城にあった義景は、直ちに江北|小谷山《おだにやま》城主浅井長政を味方に引き入れ、信長の背後を断たせた。さすがの信長も、やむなく金ケ崎を撤退し、西近江の朽木谷《くつきだに》の難所を越えて、京都にひきあげた。  同年(元亀元年)の六月、義景は、長政と連合し、江北の姉川をはさんで、信長と決戦を行なった。朝倉軍一万余、浅井軍八千に対して、織田軍四万、救援に赴いた徳川軍が五千である。つまり、朝倉方が半分以下の劣勢であった。合戦が始まると、織田・徳川方は、かなり押しまくられたが、中盤戦から余剰の軍勢が姉川を渡り、側面攻撃を行なって、朝倉方の戦列を攪乱《こうらん》させたため、勢いを盛り返し、大勝を博するに至り、朝倉義景は敗北したのである。  しかし、義景は、足利将軍義昭の密令に従い、その指図をうけて、どこまでも信長を追討しようと考え、信長が石山本願寺と三好の残党を討伐するために摂津《せつつ》の天満《てんま》に出陣した虚を衝き、浅井長政としめし合わせ、三万の連合軍を南下させ、信長方の城である江南の宇佐山《うさやま》を抜き、義景自身も二万の大兵を率いて比叡山の麓に陣した。十月十六日のことである。  このときは、比叡山の僧徒も朝倉方に味方し、本願寺門徒も山崎に迫り、江南の大名六角|義賢《よしかた》も信長打倒の兵を起こしたので、義景も、宇佐山に軍をかえし、信長を一挙に攻撃すべき絶好のチャンスをつくった。しかし、義景は、あまりにも慎重すぎて、戦機を逸しがちであった。窮地に陥った信長は、足利義昭をおびやかし、正親町《おおぎまち》天皇に講和勧告の綸旨《りんじ》を要請させ、十二月、朝倉・浅井両氏と講和したのであった。  しかし、この講和は間もなく破れた。義景は、足利将軍義昭の策した信長包囲作戦の一翼を荷ない、浅井長政との連絡を固め、信長打倒に踏み切った。そのうちに、甲斐の虎といわれた武田信玄が西上の途に就いたのを知り、信玄と提携して、信長を挟撃しようと計った。しかし、信玄の三河侵入に驚いた信長が江北戦線を撤去して岐阜城に戻ろうとすると、義景は、信長の追撃をやめ、越前に撤兵したため、折角の挟撃作戦も水泡に帰した。  天正元年(一五七三)、信玄の病死を知った信長は、直ちに上洛して、足利義昭を京都から追放すると同時に、大軍を催して小谷山城を包囲した。浅井長政は、義景の応援を求めた。義景は、直ちに大兵を率いて南下したが、却って、信長のために、刀根坂《とねさか》で敗れ、越前の一乗ケ谷に逃げ帰った。しかし間もなく信長の追撃にあい、城を脱出し、自害して果てた。時に、八月二十二日。義景は四十一歳であった。優柔不断が義景敗北の原因であったといってよい。  義兄に滅ぼされた浅井長政  越前の朝倉義景の直後に、返す刀で強豪信長に討滅された大名が、江北小谷山城主の浅井長政である。  長政は、浅井下野守久政の長男で、永禄二年(一五五九)、十五歳で元服し、新九郎と称し、賢政《かたまさ》と名のり、ついで備前守となった。父久政の命令で江南の大名六角義賢の老臣平井加賀守の娘をめとり、義賢の一字を貰った。しかし、同六年に尾張の織田信長と軍事同盟を結ぶことになると、平井の娘を離婚し、信長の妹お市《いち》姫を貰っている。長政は二十歳、お市姫は十七歳で、絶世の美女であった。かくて、賢政は、信長の一字を貰い、長政と改名したのである。  義兄となった信長は、ほどなく斎藤竜興を攻め滅ぼして美濃を平定し、越前から迎えた足利義昭を奉じて上洛の素志をとげた。しかし、信長の武力を借りて十五代将軍となった義昭は、まもなく信長と不和となり、越前の朝倉義景に信長打倒の密命を下した。かつて流浪中の義昭をかくまったことのある義景は、密命を拝受した。  これを知った信長は、義景に上洛を命じたが、応じないので、突然、兵を発して越前に侵攻した。義景は、直ちに応援を江北小谷山城主の浅井長政に求めた。  ここで、長政は、朝倉氏との父祖以来の友好関係を重んずるか、義兄信長と結んだ軍事同盟を重んずるか、つまり、義景に味方するか、信長につくか、どっちかの一つを選ぶ必要に迫られたのである。しかし、長政が信長と締結した軍事同盟条約の一つに、長政に無断で朝倉氏を攻撃しない、という一条があった。この一条を信長が違犯した。そのため長政は朝倉方につくことになった。つまり、長政に事前に何らの了解も得ずに、いきなり朝倉氏を攻めたことを理由として、信長と断ち、朝倉義景に味方するように、長政の父浅井久政が主張し、浅井家の重臣たちがこれに同意し、長政が衆論に屈服したからだ。長政は、元来、これと反対に、義景と断って、義兄信長に味方するつもりだったのである。しかし、大将の長政が遂に家中の世論に屈服したのが、浅井家滅亡の原因となったのである。  ともかく、浅井長政は、信長と断ち、朝倉義景に味方し、越前の金ケ崎城を包囲している織田軍の背後を襲おうと企てた。それを聞いた信長は、部将木下秀吉に殿《しんがり》軍を命じ、本隊を率いて金ケ崎を撤退し、西近江を経て京都にひきあげたのである。  かくて、その後、三年にわたって、朝倉軍と提携して、江北の姉川・江南の大津付近で織田軍と戦ったが、戦況が次第に不利となり、天正元年(一五七三)の八月二十七日、小谷山城もついに陥落し、長政は、最後まで力闘し、二十九歳の若さで自害して果てた。妻のお市の方は、長政の説得に従い、三人の女子を連れて、城を遁れ出て、兄の信長のもとに引きとられたが、長政の長男万福丸は、越前の敦賀の某所で捕えられ、信長の命令で、串刺《くしざ》しの刑に処せられた。  都落ちした足利最後の将軍義昭  朝倉義景・浅井長政らに信長打倒の戦線を張らせた足利十五代将軍義昭も、信長によって滅ぼされた武将の一人には相違ない。  義昭は、足利十二代将軍義晴の次男に生まれた。十三代将軍義輝の弟にあたる。天文六年(一五三七)に生まれ、兄の義輝が将軍になると、奈良の一乗院の門跡《もんぜき》となり、覚慶《かくけい》と号した。ところが、永禄八年(一五六五)五月、義輝が三好・松永の反乱によって、京都の二条館で殺害されると、覚慶も興福寺内に幽閉されたけれども、幕臣の細川|藤孝《ふじたか》(幽斎)に助けられて、奈良を脱出し、還俗《げんぞく》して義昭と名のり、近江、若狭を経て、越前の大名朝倉義景のもとに至り、食客となった。義昭は、三好・松永らが義昭の従弟《いとこ》にあたる阿波公方《あわくぼう》足利|義栄《よしひで》を十四代将軍と定めたことを聞くと、義憤をおぼえ、朝倉義景の援助で上洛しようと考えた。義昭は、細川藤孝を介して、しばしば、義景の説得につとめたが、義景にその意志が乏しいのを知り、永禄十一年(一五六八)の七月、藤孝と朝倉家臣明智光秀を仲介とし、美濃の立政寺《りゆうしようじ》で信長と会見し、信長に奉戴されて、九月二十六日に上洛し、十月十八日、阿波に敗退した足利義栄のあとをうけて、十五代将軍に就任している。  義昭は、信長の忠節を賞し、これに感状や足利の家紋を与え、管領《かんれい》に補任しようとした。しかし、信長は、そのすべてを辞退し、そのかわりに、堺・大津・草津を織田家の蔵入領《くらいりりよう》(直轄地)とし、そこに代官を置くことを要求し、それが許可された。永禄十二年(一五六九)の四月、二条城の工築が落成し、義昭は、本圀寺《ほんこくじ》の仮館《かりやかた》から、ここに移った。ところが、月日がたつにつれて、中央の政権が信長の手に握られてゆき、将軍とは名ばかりの自分の存在に忿懣《ふんまん》やる方なく、義昭は、ついに諸国の大名に密書を送り、信長追討を策するに至った。  これを感知した信長は、元亀元年(一五七〇)の四月、突如として越前に兵を進め、朝倉義景を攻めた。しかし、江北の浅井長政が、朝倉方に味方して信長の背後に迫ったため、信長も苦戦し、京都に撤兵した。  六月、朝倉・浅井の連合軍が、江北の姉川で信長と戦った。この合戦は、義昭の予想に反して、連合軍の敗北に終った。しかし、信長の敵がふえたことは、義昭の思う壺にはまることであった。義昭は、さらに八方に密書をとばし、反信長派をふやすことに成功した。比叡山の僧徒、伊勢の長島一揆、三好・畠山の余党、江南の六角義賢など、みな、打倒信長の陣営に加わった。しかし、義昭が最も成功したのは、甲斐の強豪武田信玄を味方にひき入れたことである。  元亀三年(一五七二)の十月、義昭の密書の主旨に従って西上の途に就いた信玄は、越前の朝倉義景と結び、遠江の浜松の徳川家康と、美濃の岐阜を本拠とする信長を、大きく包囲する作戦を立てた。義昭は、その結果を大いに期待していたが、結局、義景の優柔不断と信玄の病死によって失敗した。しかし、極秘にされた信玄の死を知らない義昭は、不覚にも、近江の石山まで出陣し、反信長戦線の黒幕の正体を暴露した。そのため、天正元年(一五七三)の二月、織田軍の攻撃を受け、京都に敗退し、二条城にたてこもったが、三月、信長の本隊に包囲された。叶わぬと思った義昭は、朝廷に奏請して、和議勧告の綸旨《りんじ》を賜わった。そこで信長も、やむなく、四月七日、義昭と和睦している。  しかし、五月になると、義昭は、再び信長追討の密令を朝倉・浅井両氏に送り、信長打倒の兵を挙げ、伊勢の北畠|具教《とものり》、越後の上杉謙信などに救援をもとめた。それを知ると、信長は、かねてから用意させておいた軍船十数艘に兵を乗せ、琵琶湖を一気に押し渡り、坂本に上陸し、突如として二条城を包囲した。義昭は、周章狼狽し、宇治の槙島《まきのしま》の支城に移ったが、ここも攻められ、ついに、僅か二歳のむすこを人質に出して、信長に降服している。  義昭は、まもなく河内の普賢寺に護送され、ここで謹慎の意を表した。しかし、将軍義昭は、信長のために京都を追われ、三好義継の居城である河内の若江城に移された。そのため、足利将軍家は全く政治権力の座から転落し、同時に、室町幕府の組織も機能も、急速に崩壊したのである。  義昭は、痛恨やるかたなかった。そこで、つぎに、安芸の毛利輝元に密書を送り、出兵を促した。また、大坂の石山本願寺、河内の三好・畠山・遊佐《ゆさ》・紀伊の根来寺《ねごろじ》の僧徒などにも指令を下し、信長に反撃を加え、帰洛をはかったが、ことごとく失敗し、和泉の堺、紀伊の宮崎を経て、備後の鞆《とも》に亡命した。しかし、信長が死に、秀吉の天下となり、毛利氏が秀吉と和睦すると、さすがの義昭も、将軍復職を断念し、入道して、昌山道休《しようざんどうきゆう》と号した。天正十五年(一五八七)、大坂にのぼって、秀吉と会見し、捨て扶持《ふち》として、一万石を与えられ、同十六年、准三后《じゆさんぐう》となった。慶長二年(一五九七)の八月二十八日、六十一歳で、大坂において病死している。  名物茶釜と共に果てた松永弾正  信長上洛直前に中央政権を牛耳《ぎゆうじ》り、阿波公方足利|義栄《よしひで》を十四代将軍とした松永|弾正少弼《だんじようしようひつ》久秀も、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、その強大な武力の前にいさぎよく降参し、秘蔵の名物茶入れ作物《つくも》茄子《なすび》を信長に献上し、いのちを助けられた。義昭は、その兄の十三代将軍足利義輝を殺害した松永弾正の罪を赦さず、これを死刑にしようと主張したが、信長は、これを赦し、久秀の勢力を利用することを考えたらしい。しかし、久秀は、逆に信長の武力を利用し、信長をそそのかして、主家の三好氏を完全に攻め滅ぼしてしまった。  久秀は、ともかく、信長に臣従し、元亀元年(一五七〇)、信長の越前討伐にも従ったが、その帰途、岐阜に入城したとき、遠江からやってきた徳川家康のいる前で、信長は、——この男は、世間の人のできないことを三つもやっている珍しい男だ——と言って、久秀のことを紹介し、——一つ、主家の三好を滅ぼしたこと。二つ、足利将軍義輝公を殺害したこと。三つ、東大寺の大仏を焼いたこと、この三つである——と。  それは、久秀が大和の筒井順慶を降参させたこと、信長が越前の金ケ崎から撤退したときに久秀が手柄を立てたことなどは、おくびにも出さぬ、信長の冷たい言葉であった。天正五年(一五七七)の八月、信長の命令で大坂の石山本願寺を攻囲していた最中、久秀は、上杉謙信が大挙上洛することを信じ、天王寺の砦から撤兵し、大和の信貴山《しぎさん》の居城にたてこもり、信長に叛いた。が、まもなく、信長の長男織田信忠の率いる大兵に包囲され、十月十日、六十八歳で自爆して果てた。そのとき、信長から秘蔵の名物茶釜|平《ひら》蜘蛛《ぐも》を譲るように懇望されたが、——平蜘蛛とこの白毛首《しらがくび》は、お目にかけたくない——と言って拒否した。  天目山下の露と消えた武田勝頼  天正元年(一五七三)の四月に武田信玄が西上の途中で病死すると、亡父の遺志を継いだ勝頼は、ただちに家督を相続し、しばしば、遠江・三河に攻め入り、遠江の高天神城を奪い、武名をとどろかした。しかし、同三年の五月、長篠の郊外で、信長と家康の連合軍と決戦を交じえて大敗し、勢いが衰えた。同五年に小田原の北条氏政に和を求め、氏政の妹を後妻に迎えたが、同六年に越後の上杉謙信が病死し、北条氏政の子で謙信の養子となっていた景虎が、同じく謙信の養子景勝と家督相続争いを始めたとき、氏政の求めに応じ、二万の大兵を率いて越後に向かったが、間もなく景勝と和睦して撤兵したため、氏政の怒りを買い、北条氏と断交のやむなきに至った。  同九年、家康のために高天神城を奪還され、遠江から手をひいた。同十年二月、縁族である信濃の木曾義昌が信長に内通したのを怒り、三月、諏訪まで出馬したが、信長と家康の出陣を知って、甲府に戻った。しかし、織田軍に追撃され、甲府から新府に移り、さらに、鶴瀬を経て、天目山《てんもくさん》に登ろうとした。ところが、土民の一揆が蜂起し、これを拒んだため、天目山の麓の田野《たの》にのがれ、最後まで力戦し、自害して果てた。享年三十七。妻北条氏もこれに殉じた。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]宿命の美女をめぐる姉川合戦  美女で釣られた長政  争いの蔭には女がいる——とは、よくいわれる言葉だが、戦乱の背後には、きまって、いわくつきの女性が介在するものだ。薬子《くすこ》の乱の時の藤原|薬子《くすこ》、応仁の乱の日野富子、賤《しず》ケ岳《たけ》合戦の際のお市の方、大坂陣の千姫など、その例に洩れない。  ところで、伊吹山麓を西南に流れ、近江の琵琶湖の東北岸、南浜《みなみはま》に注ぐ姉川を挟んで行なわれた浅井・朝倉対織田・徳川の乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦、姉川の合戦の背景にも、咲く花の匂うが如き可憐な美女がいたのである。姉川という川の名前からして、そのことを暗示してくれているではないか。  南浜から二里ほど、この川をさかのぼってゆくと、右手に小谷山《おだにやま》が見える。小谷山は、近江北半国の領主浅井氏三代の城趾として、名高い。浅井氏は、もと、この地方の守護京極氏の執権《しつけん》だったが、亮政《すけまさ》の時、主家の内訌《ないこう》に乗じ、この山に城を築き、これに拠って江北《ごうほく》を平定し、京極氏に代わって覇を唱えるに至った。いわゆる下剋上《げこくじよう》のブームにのったわけである。しかし、近江の南半国の守護六角氏は琵琶湖南岸の観音寺山城に拠って健在であり、京極氏と同様に近江源氏佐々木氏の同族だったから、浅井氏を反逆者とみなし、しばしば小谷山に攻めかけてきた。  浅井亮政は、自衛上、援けを越前の守護代朝倉氏に求めた。越前も、守護は斯波氏であったが、その頃、守護代の朝倉氏によって横領されてしまっていた。朝倉氏は、将軍家の御相伴衆《おしようばんしゆう》として、室町幕府でもかなりの羽振りをきかせていたのである。  小谷城主の浅井氏は、亮政、久政、長政と三代続いて、久しく越前|一乗《いちじよう》ケ谷《たに》城主の朝倉氏の厄介になった。朝倉の庇護によって今日あり——といってもよかった。久政は、父の亮政から、そのことを、耳にタコのできるほど聞かされてきた。  久政は、亮政ほど勇敢でなかった代わりに、国を護ることにかけては、甚だ思慮の深い男だった。だから、江南の領主六角|義賢《よしかた》ともいい加減に和睦し、危険は出来るだけ避けたいと考えた。そこで六角氏の家老平井加賀守の娘を我が子の長政の嫁《よめ》に迎えることにした。つまり、婚姻政策で義賢と手を握ろうというのである。  しかし、長政は、父の命令に従わない。六角氏の息女ならばともかく、陪臣風情《ばいしんふぜい》の平井の娘など、まっぴら御免|蒙《こうむ》ります——というわけで、この女をただちに里にかえしてしまった。そうして、ちょうど、その頃、話のあった尾張|清洲《きよす》の城主織田信長の妹お市姫を妻に迎えた。永禄六年(一五六三)のことであった。  当時、信長は、尾張一国を平定し、今川義元を桶狭間に破り、徳川家康と攻守同盟を結び、美濃経略にのり出していた。だから、婚姻政策によって江北の浅井氏と結び、美濃の領主斎藤|竜興《たつおき》を牽制《けんせい》しようとしたのであった。 『浅井三代記』によると、信長は、妹を貰い、縁者となってくれるならば、共に力を合わせて、江南の六角義賢を一蹴して上洛した暁は、天下の仕置《しおき》を両人で取り行なおう。美濃の国がほしくば、進上しよう。それに、越前の朝倉氏は、浅井家と親密な間柄と聞いているから、決して信長が自分勝手でこれを攻めるようなことはしない。長政の指図通りに従うと、誓約もしよう——などと、辞を低くして申し込んできた。そこで、長政もこの申し出を受諾し、お市姫との婚約が成立したという。そうして、父親の意見に背《そむ》き、平井の娘を追いかえした長政のことを、あっぱれ、気骨のある若殿よ——と浅井家臣は称賛している。ことに、進んで強豪信長と手を握ったことを、見識あり、とさえ批評している。  しかし、これは、贔屓《ひいき》の引き倒しであって、事実、長政が老臣磯野|伯耆守《ほうきのかみ》の謀議に従ってお市姫を妻としたばかりに、浅井家は滅亡の悲運を招いた——といって差し支えあるまい。  お市姫は天下無双の美女と評判されていた。色欲に目がくらみ、信長の謀略が見抜けなかった浅井長政は、少なくとも、祖父の亮政よりは、ぐっと格の落ちる人物だった。  機先を制せられた義景《よしかげ》  お市姫を餌《えさ》に浅井長政を自陣に釣りあげた信長は、こんどは、長政と攻守同盟を結んでいる越前の朝倉義景から、足利|義昭《よしあき》という宝蔵の鍵《かぎ》を巧みに取りあげてしまった。  義景の居城一乗ケ谷に食客となっていた足利義昭は、室町幕府という宝の蔵をあけるための鍵のような存在であった。義昭は、足利十三代将軍|義輝《よしてる》の弟で、奈良の一乗院の門跡《もんぜき》となり、覚慶と号していた。  永禄八年(一五六五)、義輝は、三好・松永党のために京都二条の第《てい》で殺された。彼らによって奪われた幕府の実権を将軍の手に取り戻そうと、諸国の大名に三好・松永追討の御内書《ごないしよ》を出したことが曝露したためであった。このとき覚慶も興福寺に幽閉されたが、細川藤孝の助けによって、近江、若狭方面に遁走した末、朝倉義景を頼り、越前の一乗ケ谷にやってきた。覚慶は、還俗して、義秋《よしあき》と名のっていたが、やがて、また義昭と改めた。  足利義輝を殺した三好・松永党は、義輝の従弟に当たる義栄《よしひで》を擁立し、これを十四代将軍と定めた。これを知った義昭は激憤して、誰かの力を借りて、義栄を廃し、自分が将軍に就任したいという欲望にかられた。かれは、試みに、その鍵を朝倉義景に預けた。しかし、義景は、容易にこの鍵を使おうとしない。  義景は、決断力の鈍い武将であった。それに、その頃、最愛の息子を亡くして、茫然自失し、何事も手につかないでいた。しかも、朝倉家中には内訌のきざしさえあった。足利義昭を奉じて上洛するどころの騒ぎではない。  義昭は、細川藤孝とも相談して、朝倉を見かぎった。そうして、明智光秀の仲介で、その頃、斎藤|竜興《たつおき》を稲葉山に討ち、美濃一国を支配下に入れた織田信長に渡りをつけた。なんなら、宝蔵の鍵をまかせてもよい、というのである。  稲葉山を岐阜と改め、上洛のチャンスをねらっていた信長は、しめた——と思った。そうして、さっそく義昭を美濃の立政寺に迎えることとした。その話を聞いた朝倉義景はこれで厄介払いができたと、単純に考えていた。義昭は、細川藤孝に伴われ、途中、朝倉の同盟国でもあり、また、織田の縁者ともなった江北の浅井長政の居城|小谷《おだに》山で一泊し、美濃に向かった。  信長は、立政寺で大いに義昭を歓迎し、永禄十一年(一五六八)の九月、これを奉戴して京都に攻めのぼり、三好を討ち、松永を降し、たちまち中央の政権を掌握した。十四代将軍義栄は、三好とともに四国の阿波にのがれようとしたが、間もなく、病死した。信長は、義昭を足利十五代将軍として、二条城を築いて、ここに住まわせた。  信長は、朝倉義景が扱いかねた鍵を、巧みに動かして宝蔵をあけ、内の宝物を引き出すことに成功した。敏速な行動が機先を制したのだ。  浅井・朝倉の軍事同盟  しかし、将軍義昭は、間もなく、自分の空名無実な地位に不満をおぼえ、ひそかに近国の大名に密書を送り、信長追討の陰謀を画策しはじめた。その密書が、越前の朝倉義景のもとにも届いた。  義景は、柄にもなく、義憤を感じた。自分の手から宝蔵の鍵を持ち去った信長が、その鍵で蔵をあけ、宝物を引き出したかと思うと、もう、その宝物を粗末に扱いはじめたからだ。ただちに、義昭の計画に賛意を表しておいた。ところが、そのことが、程なく信長の耳に入った。信長は、直ちに京都に伺候《しこう》するようにと、義景に命じた。義景の真意をテストしたのである。  義景は、これを蹴った。かれは、その家柄からして信長よりは上位にあったし、今さら、信長に臣従したくない。それに、将軍義昭と内通したことを悟られたので、京都に伺候するのは危険だった。人質に取られる恐れがある。  しかし、京都伺候の拒絶は、すなわち、宣戦布告にほかならぬ。このことあるを予期した信長は、元亀元年(一五七〇)四月、武藤《むとう》氏討伐を名として、三万余の大兵を若狭の国に進めていたが、ただちに鉾先《ほこさき》を転じて、越前に攻め入り、天筒《てづつ》山・金ケ崎の両城を陥れた。  信長の来襲を知った朝倉義景は、さっそく援けを江北《ごうほく》の浅井長政に求めている。軍事同盟の履行を迫ったわけである。もっとも、義景は、上洛拒否と同時に、長政の父久政を通じて、万一の場合、長政の意見がどうあろうとも、これをよく説得し、朝倉を援けてほしいと懇願してきていた。浅井久政や老臣たちは、まず、信長の違約をなじった。長政の許可なくして、勝手に朝倉を攻めない——という誓約をふみにじった以上、朝倉を援け、信長と戦うほかに手はない——という意見である。  理の当然であった。さすがの長政も、これに同意せざるをえなかった。美しい愛妻を犠牲にしてまで、義理の兄信長に敵対したくはないが、お家の大事には代えられないと思った。かれは、ただちに出兵し、信長の退路を断とうとした。  浅井出陣の急報に接した信長は、さすがに驚き、大あわてで、金ケ崎を撤退し、若狭路より近江の朽木谷《くつきだに》を越え、途中、土一揆の蜂起に悩まされながら、いのちからがら、京都に逃げかえった。 『信長公記』によると、信長は、長政の裏切りを大いに怒り、これを徹底的に討伐しようと決意したという。信長みずから誓約を破っておきながら、ずいぶん身勝手な屁理屈もあったものだ——と思うのだが、そもそも、乱世に理屈は禁物である。理論などというものは、テンで通用しない。  長政は、初めて、自分がお市という美しいおとりで釣られていたのを知って、驚いた。しかし、この愛妻を今さら離別するにも忍びないので、当分の間、そっとしておくことにした。やはり、甘い男だった。  夜陰に熟した戦機  この年、いちど岐阜に帰った信長は、六月になって、いよいよ軍備を整え、江北に侵攻した。浅井長政は、こんどは反対に、朝倉氏の援兵を求めたのである。  六月二十一日、信長は、小谷城下に放火し、翌日、竜《たつ》ケ鼻《はな》に陣し、小谷山の南方二里余の属城横山を攻囲した。城将の高坂・野村の両氏は士卒を励まして、防戦につとめたが、寄せ手の攻め方が急激なので、しきりに援けを長政に求めたのである。  そこで長政は、手勢五千騎を率いて、小谷山をくだり、朝倉氏の先陣朝倉|景鏡《かげあき》の八千余騎と合体し、小谷山の東方に位する大寄山《おおよりやま》にのぼって、信長の軍勢と対峙し、朝倉義景の本隊が到着するのを待って、信長と決戦を交じえようとした。  横山城からは、救援を求める急使が頻々《ひんぴん》としてやってくる。これ以上放置すれば、横山は危ない。横山が落ちれば、それより南方の諸城との連絡が断たれ、小谷城は孤立化する恐れがある。もはや、一刻も猶予《ゆうよ》できない。  長政は、朝倉景鏡と相談し、二十七日の夜陰《やいん》にまぎれ、密かに大寄山をくだり、草野川を越えて、姉川の北岸に出た。そうして、朝倉勢は三田村に、浅井勢は野村に陣取り、夜の明けるのを待って、信長の陣営を襲撃しようと決意した。  信長は、闇夜に陣地が無気味に動揺するのを知り、戦機の熟したことを察した。直ちに全軍を十二段に備えた。稲葉一鉄をはじめ、氏家卜全《うじいえぼくぜん》など美濃衆を第一陣とし、三河から応援に馳せつけた徳川家康を第二陣に据えたが、家康がこれを喜ばないので、改めて、徳川勢をも第一陣の一手とし、柴田勝家・明智光秀を第二陣に、稲葉一鉄を第三陣に配し、ついで、坂井|政尚《まさひさ》を本陣の第一陣、池田|恒興《つねおき》を第二陣とし、信長の旗本を馬廻衆で固めることにした。  足利義昭を奉じて上洛してから二年ばかりの間は、すべてが順調にいったが、朝倉義景が義昭の謀略に荷担し、義弟の浅井長政までが敵方となるに至って、信長は、もはや、将軍の執権格《しつけんかく》で在京などしていられなくなってきた。弱り目に祟《たた》り目《め》ということもある。まごまごしていれば、八方が敵になって、もとの木阿弥《もくあみ》に戻る恐れが充分にあった。そう思うと、信長の怒りは頂点に達した。しかし、一方、朝倉義景も越前本土まで信長に攻め込まれたし、浅井長政としても、兄弟の義理を捨て去って、信長と戦う決心を固めただけに、敗北のあとには死があるだけだ。これは、なんとしても負けられない一戦であった。  乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦  明くれば、六月二十八日(新暦の八月十日)午前六時に、戦端が開かれた。  浅井・朝倉の連合軍は、野村と三田村の陣地を出て、姉川を渡り、信長と家康の本陣めがけて殺到する。この頃の戦争は、敵の大将の首を取れば勝ちだ。それが最も巧妙な戦法だった。  朝倉|景鏡《かげあき》の総勢八千余騎は、槍ぶすまを作って五千の徳川勢に迫り、遮二無二《しやにむに》、攻めたてた。徳川の先陣酒井忠次らは、これを邀《むか》えて激しく戦ったが、多勢に押しまくられ、退《ひ》き目《め》がちになった。家康が自ら槍を取り、旗本を指揮して敵中に突入したので、徳川勢が急に奮いたち、形勢は逆転した。朝倉勢は算を乱して敗走した。徳川勢はこれを田川、虎御前《とらごぜ》まで追い討ちにし、多数の敵を討ち取った。  しかし、朝倉方にも、名ある勇士がいて、最後まで奮戦し、花々しく討死した。中でも、真柄直隆《まがらなおたか》などは、五尺余りの大《おお》太刀《たち》を打ち揮い、徳川勢数十人を斬り伏せたが、遂に白坂六郎五郎のために討たれた。その子の十郎も、縦横無尽にあばれ廻っていたが、父の死を知り、今はこれまで、死なば諸共《もろとも》に——といって、父の最期の場所に引きかえし、青木一重という剛の者と渡りあって、壮烈な討死をとげている。  浅井勢は五千にすぎなかったが、必死になって信長の一陣、二陣を破り、さらに本陣に迫り、氏家卜全らの三千余と揉み合い、戦いは有利に見えたが、友軍の朝倉勢が敗走した時、稲葉一鉄の軍勢が横ざまになぐり込んできたため、浮き足たち、遂に敗れて、小谷山に逃げかえった。浅井の家臣遠藤喜右衛門尉は、味方の敗北を憤り、叶わぬまでも信長を討とうとして、乱髪を面に垂れたままで信長の本陣に忍び入ったが、竹中久作に見咎められ、志を果たさずして、討死している。また、この遠藤の郎従に富田才八という者があった。主人に離れて、五、六町ほど引き退いたが、喜右衛門が討たれたと聞き、この上は何を期待しようぞ——といって、取って返し、散々に奮戦した末、壮烈な最期をとげたという。また、才八の最期を知った弓削《ゆげ》六郎左衛門と今村|掃部助《かもんのすけ》は、若い者にしては実にあっぱれである。我らも死を共にせん——といって、敵勢の中に駈け入り、思う存分戦った末、屍《しかばね》を戦場に曝《さら》したということである。  敵味方の死闘は数時間にわたり、午前十時を最頂点として、浅井・朝倉がたの敗北に終った。  はじめに戦いを有利に展開した筈の浅井・朝倉勢が、最後になって惜しくも敗れ去ったことは、織田・徳川の連合軍にくらべて、連絡統制の上で、どこか欠けるところがあったせいだと思う。  織田勢は、勝ちに乗じて小谷山の城下に迫ったが、この山は非常な要害であって、一気に抜くことができないので、兵をかえして、竜《たつ》ケ鼻《はな》に戻った。信長は、ここで、将士の論功行賞をなし、感状、太刀などを与えた。そうして、同日づけで、足利義昭の侍臣細川藤孝に宛てて、次のように、姉川の戦況を報告したのである。  今日、巳《み》の刻《こく》(午前十時)越前の朝倉勢と小谷山の浅井長政が、横山城を助けるために、野村というところまで出張って来て、両所に陣取った。朝倉勢は一万五千ほど、浅井勢も五、六千はあろうか。同時に、当方からも討って出て、両所で一時に合戦をとげ、大勝利を得た。敵の首級は、どれだけ取ったか、書き切れない程だ。野も田畠も死骸ばかりである。天下の大慶、これにすぎることはあるまい。浅井の小谷城も、ついでに攻め崩したいが、山がけわしいので、ひとまず、これを包囲している。落城も、時間の問題であろう。  近江も越前も、信長の武略をもってすれば、物の数ではない。江北は、どうやら、平定した。横山にたてこもっている敵は、いろいろと泣きごとをいってくるが、これは、結局、討ち果たす覚悟である。  おそらく、今明日のうちに陥落することだろう。そうなれば、佐和山城の守りを固めたうえで、ただちに上洛する。この旨、よろしく将軍家にご披露《ひろう》願いたい。  こんど、岡崎の徳川家康も出陣し、信長の近臣と一番合戦のことで論じ合ったが、家康が一番を承ることになった。これに池田|恒興《つねおき》・丹羽《にわ》長秀などの人数を加えて、朝倉勢に攻めかかり、滅茶滅茶に斬り崩した。浅井勢のほうは、信長の近臣に、その他の衆を加え、ことごとくこれを討ち果たした。たれもみな、目ざましい働きをとげた。ご想像のほかの有様である。  この信長の書状は、その日のうちに、さっそく出したもので、姉川合戦大勝利の模様を詳細に報告し、細川藤孝を通じて、自分の強さを将軍義昭に思い知らせ、その出端《でばな》をくじき、これを威嚇しようとしたのである。  そういう意図のもとに書かれただけあって、この文面には、少々、事実を誇張した部分がないでもないが、信長が浅井・朝倉勢に大打撃を与えたことは事実だった。  戦後の形勢の変化  信長は、浅井長政の本拠|小谷《おだに》城を抜くことができなかったけれども、この姉川合戦で大勝を博した結果、横山城を手に入れ、部将木下秀吉に命じてこれを守らせ、越前への要路を押えることに成功した。  それに、朝倉の部将磯野|員昌《かずまさ》のこもる佐和山城を丹羽長秀に監視させ、上洛の通路の安全を図っている。  京都二条城にいた将軍義昭は、姉川の敗北を知って、身の危険を感じ、三好衆や石山本願寺に檄《げき》を飛ばし、救援を求めた。  信長追討の御内書《ごないしよ》を手にした三好一党は、摂津の野田・福島に陣を据え、京都に迫ろうとした。本願寺は、朝倉氏の姻戚《いんせき》に当たっていたので、義昭の御内書を待つまでもなく、近畿、北陸の門徒に指令をくだし、信長と抗争させた。  この形勢を知った信長は、八月二十日、三万の大軍を擁して岐阜を出発し、二十三日上洛、二十五日、河内の枚方《ひらかた》に陣し、ついで野田・福島の三好勢を攻めた。  九月に入って、信長は摂津の天満《てんま》に陣を進め、本願寺門徒の軍勢と激しく戦った。  この状況を見てとった浅井・朝倉勢は、三万の連合軍を組織して南下し、信長の属城|宇佐山《うさやま》を猛攻した。そのため、城将織田|信治《のぶはる》・森|可成《よしなり》は、防戦の末に討死した。これは、あらかじめ三好一党としめしあわせての、姉川の報復作戦であった。  信長は、急報に接すると、ただちに、野田・福島の囲みを解き、上洛したが、間もなく、兵を近江の坂本に進めている。  これから、比叡山を挟んで、いわゆる志賀《しが》の陣が展開され、信長の苦境は容易に去らず、元亀二年、三年と悪闘をかさねるが、信長の比叡山の焼討ち、長島一揆の敗北、朝倉義景対武田信玄の協力作戦の失敗、信玄の病死など、事件の推移を経て、天正元年(一五七三)の八月、朝倉氏が、織田軍に越前一乗ケ谷に攻められ、ついで孤立化した小谷城が陥り、浅井氏は滅亡するに至る。  ただし、美女お市の方だけは、難を免れ、尾張の清洲《きよす》に引き取られた。かの女を死出の道づれとするのを嫌った浅井長政は、要するに、女に甘い男だった。信長は、長政とお市の方との仲に生まれた長男万福丸を串刺《くしざし》の刑に処したが、女子三人は、そのいのちを助けている。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]秀吉の人物と業績  全国平定の戦略と戦術  秀吉は、戦国時代の武将のなかでは、最も巧妙な戦略家だった。  かれが、信長の遺業の跡をついで全国平定の決意を固めたのは、賤《しず》ケ岳《たけ》の合戦で強敵柴田勝家を討ち滅ぼした直後のことだったらしく、その頃、毛利の部将小早川|隆景《たかかげ》に与えた書状を見ると、「日本の治《おさめ》、此の時に候の条」とか、「日本の治、頼朝以来、これには争《いかで》か増すべく候や」とか、気焔あたるべからざるものがあるが、そのいっぽう、「秀吉は人を斬り抜くことが嫌いにて候」と宣言している。  また、その後、小田原陣中で、これまでかれが採用してきた戦術を具体的に説明した文面にも、「三木《みき》の干《ほし》殺し、鳥取の渇《かつ》え殺し、太刀も刀も要らず、高松城に水を入れ」とあって、強引な力攻めの戦法よりも、むしろ、兵粮《ひようろう》ぜめ、水ぜめのほうが得意だ、といっている。 「三木の干殺し」とは、毛利がたに、寝返りを打った別所長治《べつしよながはる》を播磨の三木城に攻め、これを兵粮ぜめにしたこと。「鳥取の渇え殺し」とは、毛利の部将吉川|経家《つねいえ》のたてこもる因幡《いなば》の鳥取城を同じく兵粮ぜめにしたこと。「高松城に水を入れ」とは、毛利の属城である備中の高松城を水ぜめにしたことを意味する。  これらは、どれも、信長の命令によって中国地方を経略したとき、秀吉が好んで用いた戦術であるが、人を斬り殺すことを屁《へ》とも思わぬ信長には、人びとも恐怖をおぼえたが、人を斬り抜くことの嫌いな秀吉には、信頼がおけた。  さて、戦略家としての秀吉の面目が躍如としてきたのは、信長の死後であろう。  本能寺の変が勃発したとき、秀吉は備中の高松城を水ぜめにし、後巻《あとまき》に出てきた毛利輝元の大軍と睨み合っていたが、信長の横死《おうし》を知ると、これを味方にも秘密にし、ただちに毛利と和議を結び、疾風迅雷《しつぷうじんらい》の勢いで東上した。欺かれたと知った毛利軍が追撃しようとしたときは、すでに敵味方の距離が、あまりにもへだたりすぎていた。謀略による、見ごとな撤退作戦であった。  しかも、東上した羽柴軍が城州の山崎街道で明智光秀の軍勢と遭遇したときには、秀吉の兵力は光秀のそれよりも二倍以上も優勢だった。遭遇戦には兵力の優秀がものをいうことを、秀吉は、充分わきまえていた。山崎合戦は二時間ばかりで、秀吉の勝利に帰した。  賤ケ岳の戦いは、清洲《きよす》会議の後、織田家の政権を防衛するために、柴田勝家が起こした戦いである。  勝家は、信長の三男|神戸《かんべ》信孝と、同じ織田家の重臣である滝川|一益《いちます》と語らい、近江の賤ケ岳と、美濃の岐阜と、伊勢の亀山の三方から兵を挙げ、秀吉を奔命《ほんめい》に疲れさせたうえ、これを包囲しようとする作戦だった。  これに対して、秀吉は、軍勢を三手に分け、各個撃破の作戦に出て、機を見て賤ケ岳の柴田軍を奇襲し、総崩れとなった勝家の本隊を追撃し、越前に至り、その居城|北荘《きたのしよう》を一気におとしいれている。  しかし、織田政権を奪い取り、全国平定の確信を得てからは、このような力攻めや、奇襲戦術を、つとめて避け、兵粮ぜめ、水ぜめなどよりもさらに巧妙な戦略と戦術を用いた。  たとえば、信長の次男北畠|信雄《のぶかつ》と徳川家康を向こうに廻して戦った小牧山の戦いでは、つとめて武力戦を避け、位詰《くらいづ》め、懐柔《かいじゆう》、買収などの戦法を交互に繰り返し、次第に家康を孤立させてしまった。じつに柔軟きわまる戦略であった。  信雄を懐柔して単独講和を結ばれたり、三河譜代の重臣石川数正を買収されたりして、さすがの家康も、音《ね》をあげた。  西国の毛利、東国の徳川を臣従させてからの全国平定の戦略と戦術は、関白太政大臣という地位にものいわせ、勅命を奉じての位詰めの戦法であったから、兵力も圧倒的だし、秀吉は、悠々として、名所見物がてら、九州を平らげ、関東奥羽を威服させた。  小田原の城攻めには、長期包囲体制を持し、しかも、デマ戦略によって、北条がたの戦意を喪失させている。  秀吉の戦略と戦術は、信長や家康よりも柔軟であり、巧妙で、かつ、多彩であった。  天下統一の政策  小田原北条氏を攻め滅ぼし、関東奥羽を平定した秀吉は、信長の死後僅か八ヵ年の間に、全国統一の実績をあげることができた。  これは、「秀吉は人を斬り抜くことが嫌いにて候」といったかれ独特の柔軟戦術と宣伝戦略にも起因しているが、また、占領地域に次々と施行したさまざまな政策が巧妙をきわめ、時宜に適したことも、その主要な理由として挙げられる。  たとえば、刀狩《かたながり》、城割《しろわり》、大名の転封、関所の撤廃、座の禁止、城下町の建設、鉱山の採掘、貨幣の鋳造、検地、百姓|還住《げんじゆう》などの政策がこれだ。このうち、秀吉の創意によるものは刀狩くらいであって、あとは、大体、信長のアイディアを秀吉なりに踏襲し、これを全国的に推し及ぼしたものといってよかろう。  刀狩とは、闘争の根源となる武器・武具を、僧侶や百姓の手から取りあげることをいう。秀吉は、全国の寺社や大名に令して、僧侶や農民の刀、脇差《わきざし》、槍《やり》、薙刀《なぎなた》、鉄砲などを差し出させ、それらを鋳潰《いつぶ》して、京都|方広寺《ほうこうじ》の大仏殿の釘鎹《くぎかすがい》などを作らせ、これを——国土安全、万民|快楽《けらく》の基《もとい》だ——と称している。  城割も、刀狩と同様に、戦乱の原動力となる不要の城塞《じようさい》を破却するにあった。ただし、大名の居城、そのほか、重要な城郭だけは残しておく。それが、徳川家康の一国一城の令となった。  大名の転封は、大名領国の配置がえ。これによって、新参大名を譜代大名に監視させ、全国の大名を統制する。参勤・人質も実施。江戸幕藩体制の原型である。  関所の撤廃は、大名領内の封鎖性の否定、全国交通、商工業の発展を促すために、不要の関所を破却する。座の禁止は、荘園制度下の独占排他的商工業組合の否定。商工業の自由発展のためである。ただし、城下町に新儀の座を許可する。  城下町の建設は、大名の居城に都市をつくり、商工業者を農村より招致する。商農分離の封建政策である。都市の発展に寄与した。鉱山の採掘は、戦国大名や信長の政策の踏襲、地下資源の開発である。  貨幣の鋳造は、鉱山の採掘と関連をもつ。天正大判金、銀・銅の天正通宝、文禄通宝など。日本貨幣経済の独立を目ざす。検地は、田畑からとれる米や麦の収穫高を調べ、租税を公平に割りあて、歳入予算を確定させ、日本の農業経済を安定させる目的のもとに、全国的に強制した。そのため、逃散《ちようさん》した百姓を農村に還住させている。  秀吉の刀狩や検地のことを、百姓|搾取《さくしゆ》、封建的農奴の再編成を強行した悪政治だ——と非難した歴史学者の書物を読んだことがある。  もし、秀吉が近代社会の政治家だったら、そんなこともいえるだろう。この歴史学者は、史学と社会学とを混同している。滑稽千万だ。かりに、群雄争乱・一揆蜂起に見るような無秩序な社会状態を、そのまま放置したとしたら、日本は、一体、どのような国家となっていたというのか。農民中心の近代民主国家でも、すぐに誕生したとでもいうのか。あまりにも歴史の現実を無視した、甘い、無知な考えかたである。  ともかく、戦乱の日本を統一した秀吉の政治力は、そのまま、徳川家康によって踏襲され、近世封建国家の誕生を見たのである。  人使いの妙技  毛利の使僧としてその名を知られた安国寺恵瓊《あんこくじえけい》が、秀吉の人物を評価して、次のようなことを述べている。  ——羽柴は、弓矢を手に取り、鎗一筋《やりひとすじ》で城をも攻め、つぶさに世の辛酸《しんさん》をなめ、乞食や小者《こもの》までやり終えてきた人だから、口先なんどで胡麻化《ごまか》せる男ではない。日本を手の内に廻す名人だから、毛利がたでも、秀吉を相手に、いくさなど、決してすべきではない——と。  信長のような我儘《わがまま》坊っちゃんじゃない。家康が若いときの人質生活で幾ら苦労したといっても、秀吉に比べれば、問題じゃない。乞食や小者までやり終えた人間が、関白太政大臣に成り上がり、全国の大名を臣従させ、日本を統一しようとするのだ。実力以外、頼るものは何もないはずだ。毛並みの最低な男にのしあがられ、臣従せねばならぬ。秀吉に斬り従えられた大名、追い使われる家来たちの身になってみると、秀吉の人間性だけが問題になってくる。  秀吉は、小猿と呼ばれた少年の頃から、非常に人なつこくて、愛嬌があった。性格が明朗で磊落《らいらく》だ。つまり、人に好かれる人間だった。さすがの信長も、猿めの面《つら》を見ると、失笑せざるをえない。神経質で陰険な明智光秀とは対照的である。そうした秀吉の人使いが、快適で、巧妙なのは、当然といってよかろう。  秀吉は、臆病者と無精者《ぶしようもの》を嫌った。かれが信長の命令で播磨の三木城を攻めたとき、明石与四郎という武士が、兵卒を戦場に残したまま、主人(隊長)や寄親《よりおや》(組頭)よりも先に退却したことを聞いて、さっそく、二首の狂歌を作って、与四郎におくり、返歌を求めた。 [#ここから2字下げ] おくびゃう者のき口いそぐ雪の上消えもはてなん人のありさま つはものを千代にふるまで残し置きのちの宝となすは此の御代《みよ》 [#ここで字下げ終わり]  与四郎の臆病な振舞いを罵りながらも、このような洒落《しやれ》た狂歌を二首も詠み与えた秀吉の人物の大きさには、心うたれるものがある。  また、甥《おい》の秀次が、長久手《ながくて》の合戦で徳川家康に敗れ、部下を討死させて、自分だけ退却したのを叱り、その卑怯未練を戒《いまし》めた書状が遺っているが、——お前のような心がけの者は、いっそ、この世に亡きものとしようと、一度は決心したが、また、不愍《ふびん》の心が生じ、この書状を書いたわけだから、心がけも直って、他人にも一人前の人間と呼ばれるようになったならば、もっと引き立ててやろう——と述べている。  きびしい中にも、人情味たっぷりなところを見せている。  それから、九州遠征の最中に出陣の諸将に与えた軍令状に、「松下加兵衛こと、先年、御牢人《ごろうにん》の時、忠節の仁《じん》に候間、右の儀に、各《おのおの》と同然にはこれあるまじく候条」と、記している。  松下加兵衛尉|之綱《ゆきつな》は、そのむかし、今川義元の家臣で、遠州|久能《くのう》の城主だった頃、尾張から流浪してきた秀吉の面倒を見て、これを小納戸役まで引きたてた人だが、今川家没落ののちは、徳川家康の家来となっていた。それをば、秀吉は、報恩の意味で優遇し、全国統一ののちは、もとの通りに、久能の城で三万一千石の大名に取り立てたのである。  平民的で、恩情の溢れた人使いだった。  女性関係  秀吉は、母親想いで、子煩悩《こぼんのう》だが、女性に対しても、やさしかった。恐妻家で、フェミニストである。  信長の女性関係は、よく分からないが、秀吉の妻に与えた訓戒状など見ると、かなりフェミニスト的なところがある。家康は、正妻の築山《つきやま》殿にこりたせいか、女を単に性欲の対象物、人間製造機械としか考えていなかったようだ。  秀吉は、正妻の北《きた》の政所《まんどころ》のほかに、十六人の愛妾を囲っていたが、常に正妻の顔を立て、小田原陣中に愛妾の淀殿を呼びよせたときにも、いちいち、北の政所に指図させている。  愛妾中で随一の美女といわれた松の丸殿に与えて、その湯治を見舞った消息があるが、じつに懇切を極めている。  ——目が大切だから、湯に入れるので、わしが一緒でなくて、お前さん一人を入れるのは、甚だ困るが、目の悪くなるのをなおすためだから、仕方がない。湯からあがったら、肩を打ったり、灸《きゆう》を据えたりして、少しも早く全快するように——といった調子で、読んでいると、少々、あたまにくる。  大体、女性に対しては、色気抜きで、親切である。悩み多き青春放浪の時代に、話相手の慰みか、食事、縫い物などの世話になった、心やすい、年長の婦人に対して、病《やまい》の床についたのを見舞った書状がある。それには、  ——わたしが浪人していたとき、親切にしてくれたことは、今も忘れがたい。こんど、わずらったと聞き、心配している。かわいそうに思ったので、この書状を書いた——と、記している。この婦人は、五さという名前だが、当時、秀吉を頼って、大坂城の大奥にきていた老女と、推測される。  趣味と教養  よく、家康は学問好きで、礼文《れいぶん》政治を行なったが、秀吉は無学で、常にコンプレックスに悩まされていた、などと説く咄家《はなしか》や作家がいるが、とんでもない誤りだ。  家康こそ元来、無趣味、無教養で、秀吉にならって、和歌、茶の湯、能楽もやってみたが、どれも、ものにならない。書もいちばん悪筆である。  江戸時代に、江村専斎《えむらせんさい》という学者が書いた『老人雑話』という本を見ると、秀吉は土百姓の小せがれだから、非常に無学だったと評し、その実例さえあげている。或るとき、右筆《ゆうひつ》が、醍醐《だいご》の「醍」の字を度忘《どわす》れしたので、ふと、秀吉に質問したところが、——「大《だい》」の字を書いておけ——と、答えた。このように無学文盲な男だから、秀吉の作として世間に伝わっている和歌は、自作ではなく、右筆の大村|由己《ゆうこ》の代作にすぎない——などと、まことしやかに説明している。  しかし、醍醐の「醍」の字を、「大」と教えたのは、むしろ、秀吉の実利主義の一面と、諧謔的な性格を物語る逸話として、興味がある。今の世に生きていたら、漢字制限論者だったであろう。  また、秀吉の和歌が、代作でなく、自作だということは、秀吉の自筆の和歌の草稿が二枚も発見されて、判明した。  秀吉は、初め、狂歌を学び、それから、正風体《しようふうたい》の和歌を作ったようである。師匠は、当代随一の古典文学者細川幽斎であった。関白に任官する四ヵ月ほど前、根来《ねごろ》寺の僧徒を討伐するため紀州に出陣したとき、和歌の浦に遊び、 [#ここから2字下げ] 打ち出でて玉津島《たまつしま》よりながむれば緑たちそふ布引《ぬのびき》の松 [#ここで字下げ終わり]  という一首の和歌を詠んだが、この和歌のことを、儒者の大村由己は、——最も正風体の佳作なり——と、褒めている。  九州遠征の途中、下関《しものせき》の阿弥陀《あみだ》寺を見物し、安徳天皇の御影《みえい》、および平家一門の人びとの画像を拝観し、 [#ここから2字下げ] 波の花散りにし跡《あと》をこととへば昔ながらにぬるゝ袖かな [#ここで字下げ終わり]  の一首を詠んだ。  伏見城の数寄屋《すきや》の床《とこ》に掛けたという秀吉自筆の和歌が、現在、伝わっているが、なかなか侘《わ》びたひびき[#「ひびき」に傍点]がある。 [#ここから2字下げ] 夕されにたそやそぞろにこと訪ふは窓のあたりの山おろしの風 [#ここで字下げ終わり]  晩年の清遊といわれる醍醐の花見の和歌は、 [#ここから2字下げ] あらためてなをかへてみん深雪山《みゆきやま》うづもる花もあらはれにけり 深雪山かへるさをしきけふの暮《くれ》花の面影《おもかげ》いつか忘れん [#ここで字下げ終わり]  最後に、辞世の和歌をあげておく。 [#ここから2字下げ] |つゆ《〈露〉》と|をち《〈落〉》つゆと|きへ《〈消〉》にしわが|み《〈身〉》かな|なには《〈浪速〉》の事も|ゆめ《〈夢〉》の又ゆめ [#ここで字下げ終わり]  世俗に、「つゆとおき」と書き伝えているが、自筆の原本には、「つゆとをち」となっている。このほうが、第一句として、はるかに優れている。「つゆとおき」では、折角の一首が死んでしまう。  茶人としての秀吉は、戦国武将中、随一といえる。  主君信長の奨励により、堺の茶匠|千利休《せんのりきゆう》について茶道を学び、利休に命じて、山崎の妙喜庵《みようきあん》に待庵《たいあん》、大坂城内に山里《やまざと》の数寄屋、黄金《きがね》の茶室などを造らせ、名物茶器の蒐集《しゆうしゆう》につとめ、連年連月のように茶会を催している。  最も有名なのは、階級打破、開放的な北野《きたの》の大茶会である。当日は、京都の北野天満宮の境内から、そのはずれの松原にかけて、公家、武士、町人、百姓などのこしらえた数寄屋、茶屋が千五、六百軒も立ち並んだ、といわれる。  秀吉は、また、能楽のすたれたのを復興させた。肥前の名護屋に在陣中のこと、長陣の徒然《つれづれ》を慰めるために、金春《こんぱる》太夫安照・暮松《くれまつ》新九郎などという能役者を側近によびよせ、自分も仕舞《しまい》の稽古に熱中した。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]肖像画に描かれた秀吉の顔  小者《こもの》・足軽といった低い身分から立身出世し、関白太政大臣として天下の諸大名に号令をくだすことになった豊臣秀吉は、いかに下剋上ばやりの、実力主義の世の中とはいえ、栄達があまりにも迅速なので、尋常一様の人物とは見られず、その出生についても、幾多の奇譚《きたん》がつきまとっている。それに、秀吉の容貌が猿に似ていたというのも、有名な話である。しかし、それは、果たして事実であろうか。それに、猿面冠者《さるめんかじや》のいわれも、秀吉の誕生に関するさまざまな奇譚と結びついているようである。  誕生にまつわる奇譚  江戸後期に岡田|玉山《ぎよくざん》の挿絵《さしえ》で出版された竹内|確斎《かくさい》作の『絵本太閤記』と題する絵入り時代小説をひもとくと、秀吉誕生の有様を、つぎのように説明している。 [#ここから1字下げ]  ——そもそも、太閤秀吉の先祖は、比叡山|西塔《さいとう》の盛法師《せいほうし》という僧侶であった。ところが、盛法師が、僧侶を嫌い、尾張国愛智郡の中村にやってきて、還俗《げんぞく》し、中村弥助|昌盛《まさもり》と名のった。その子の弥右衛門|昌高《まさたか》の、そのまた子を弥助|昌吉《まさよし》といったが、この昌吉は、農業を嫌って、武技を好み、同国|清洲《きよす》の城主織田備後守信秀の足軽をつとめた。しかし、駿河の今川との合戦で負傷したため、足軽をやめて、郷里の中村に帰り、剃髪して、筑阿弥《ちくあみ》と号した。  ところで、筑阿弥の妻は、持萩《もちはぎ》中納言|保廉《やすかど》卿の落胤《らくいん》であって、夫婦仲むつまじく暮らしていたが、男児を授かろうとして、妻が日吉権現《ひえごんげん》に祈願をかけた。その御利益《ごりやく》があってか、ある夜のこと、日輪《にちりん》がふところにはいる夢を見て、たちまち懐妊《かいにん》し、妊娠十三ヵ月の後、天文五年(一五三六)丙申《ひのえさる》の正月元旦、寅《とら》の一天に、男児が誕生した。そのとき、屋根の上方に霊星《れいせい》があらわれ、照らすこと白日《はくじつ》の如くであった。  このようにして生まれてきた赤児が、人も知る太閤秀吉なのだ。秀吉が、生涯、難戦苦闘の折には、必ず、この星が頭上に現われ、凶を転じて吉となした。そればかりか、この児は、また、生まれた時から歯が生えており、面相は猿とそっくり、名前は日吉丸《ひよしまる》だが、猿に似ているところから、人はみな、猿之助と呼んだ—— [#ここで字下げ終わり]  十三ヵ月も母親の胎内に宿っていたなら、生まれながらにして歯が生えていたのも、あながち不思議でないかもしれないが、「日輪が宿った」とか、「白日の如く照らした」などというのは、キリストの生誕《せいたん》奇譚さながらで、面白い。  この太閤秀吉の神格化にさらに拍車《はくしや》をかけたのが、江戸末期に書かれた栗原柳庵の『真書《しんしよ》太閤記』である。柳庵は、そのなかで、秀吉誕生の有様を説明して、 [#ここから1字下げ]  ——この時、弥助の家の上方にあたって、彗星《すいせい》のような星が現われ、そのまた光の強さがいつもの星の倍ぐらいもあり、その耀《かがや》くところ、あたかも白昼の如き観があった。生長の後、戦場に臨み、戦況が危うくなると、必ず、この星が天空を裂いて陣上に現われ、常に勝利をもたらしたという。そればかりか、この児の容貌がまた変わっていた。顔色あかく、猿まなこで、眼光鋭く、瞳《ひとみ》が二つある。頬先《ほおさき》には五つの黒あざがあり、尋常の子供と違って、さながら、猿の如くであった—— [#ここで字下げ終わり]  と、述べている。  この記事は、漢の劉邦《りゆうほう》と楚《そ》の項羽《こうう》とをいっしょくたにしたような奇譚であって、とうてい、事実とは受け取れない。「猿まなこ」や「頬先の五つの黒あざ」は、いいにしても、瞳が二つあったり、生まれながらに歯が生えていたりしたのでは、恐れ入るよりほかはない。白髪をかざし、杖をつき、母親の胎内《たいない》から、のこのこ出てきたという老子《ろうし》の誕生譚《たんじようたん》ほどではないにしても、やっぱり、中国渡りの偉人伝説にほかならぬ。  しかし、このような奇譚も、今の世の中だからこそ、神話ともなり、珍説ともなって、人々の笑い種《ぐさ》にされるが、秀吉の史実の究明がタブーとされていた江戸時代にあっては、案外、真実とみなされていたかもしれないのである。  ところで、秀吉が猿まなこであったとか、猿に似ていたとかいうのは、まんざら作りごとでもなさそうだ。猿面冠者の由来は、どうやら、その綽名《あだな》と容貌の、両方からきているらしい。  猿面冠者のいわれ  まず、秀吉の幼名については、江戸初期の儒医|小瀬甫庵《おぜほあん》の『太閤記』にも、「幼名を日吉丸とつけた」としているが、やはり、江戸初期に書かれた土屋|知貞《ともさだ》の『豊臣太閤素生記』には、「小猿」と称しており、成長するにつれて、「猿」と変えている。  しかし、この「猿」というのを、容貌が猿に似ていたという他愛もない理由からではなく、申年《さるどし》(天文五年=一五三六)生まれだからだ、とする説もある。そうとすれば、これは、自然に、天文五年|申歳《さるどし》誕生説を肯定することになり、秀吉の御伽衆大村|由己《ゆうこ》が秀吉の命令で天正十三年(一五八五)八月に書いた『関白任官記』に、天文六年|酉歳《とりどし》の二月六日に生まれたとあるのは、秀吉の容貌にたいするコンプレックスから、申歳生まれを嫌ったために、酉歳に作りかえたのだ、ということになってくる。が、天文六年酉歳二月六日誕生の事実は、容易に曲げられない。『関白任官記』が、秀吉が関白に任官した翌月に、御用学者の大村由己に命じて書かせたものだからである。 「二月六日」というのも、「正月元旦」とは違って、いかにも、そうありそうな数字である。  だから、幼名を「小猿」とつけたのは、申歳生まれのせいではない。酉歳生まれでも、「猿」と名づけて、一向に不思議ではない。たとえば、加藤清正は、戌歳《いぬどし》生まれで虎之介と呼ばれている。こういった通称は、生まれ歳と関係のない場合も多いのである。 「小猿」とか、「猿」とかいうのは、要するに、秀吉の綽名《あだな》と思われる。ニックネームが呼び名になったわけであろう。細川家伝来の織田信長黒印状には、信長自身が、秀吉のことを、——猿が帰ってきて、夜前《やぜん》の様子をこまごまと知らせてきた——と書いているから、「猿」というのは、秀吉の呼び名のように使われていたらしい。が、おそらく、初めは、容貌にちなんだニックネームだったに相違ない。  なお、前出の『豊臣太閤素生記』のなかで、秀吉が、郷里の中村を出て、諸国放浪の末、遠江国《とおとおみのくに》曳馬《ひくま》(浜松)の城主|飯尾《いいお》豊前守に見出だされた際の様子を、——豊前守は、道端《みちばた》で異形《いぎよう》なものを見つけた。猿かと思えば人だし、人かと思えば猿である。みんなに見せてやりたいものだと思って、御前《ごぜん》にひき出した。豊前守の息子や幼い娘なども出てきて、これを見物した。側近の侍なども、これを眺めて、甘皮《あまかわ》のついた栗など取り出して、くれてやると、皮を口でむいて食う有様が、猿さながらであった——と、述べている。  こうなっては、太閤様もまったく型なしだ。——猿かと思えば人だし、人かと思えば猿——では、ちょっと、ひどすぎる。しかし、秀吉が、もし猿面をしていなかったならば、クレオパトラの鼻の高さではないが、日本の近世史が一変したかもしれないのである。  民俗学者のなかには、秀吉の先祖は、おそらく日吉《ひえ》神社に隷属していた猿女《さるめ》の一族であって、猿の面をかぶって踊るのを特技としていたらしい。秀吉が、山王《さんのう》日吉神社の申し児《ご》で、幼名を日吉丸といったから、容貌が猿に似ているという伝説が生まれたのであって、実は、もっと好男子だったのではなかろうか、と説く人がある。しかし、この民俗学者の猿面説も、単なる臆測にすぎず、歴史的事実とはいえない。それに、幼名を日吉丸としたのは、小瀬甫庵の『太閤記』以来の作りごとで、中村の土百姓の小せがれに、そんな若様じみた名前がつけられるはずがない。それに気がついた作家の吉川英治氏は、『新書太閤記』で、秀吉の幼名を「日吉《ひよし》」と書いているが、これも、実証性に乏しい。  なお、毛利家臣|玉置《たまき》土佐守|吉保《よしやす》は、因幡《いなば》出陣のために姫路城を出発しようとする羽柴秀吉を一見した時の有様を思い出して、その著書『身自鏡《みのかがみ》』に、——赤ひげをはやして、猿まなこをぎょろつかせて、ひらりと馬にまたがるや、空うそぶいて、出かけていった——と記しているから、秀吉の因幡出陣の天正九年(一五八一)当時、秀吉の容貌、ことに、まなこが猿に似ているのが、もっぱら評判になっていたことだけはわかる。  はげ鼠か猿面か  さて、主君の信長までが、秀吉のことを猿呼ばわりしていたことは、すでに述べたが、のちになって、信長が秀吉の正妻(北の政所)に与えた訓戒状を見ると、そこでは、「はげ鼠」と呼んでいる。信長のことだから、所かまわず、「はげ鼠」を連発したかもしれないが、その妻にたいしてさえ、その亭主のことを、「はげ鼠」呼ばわりするとは、いかにも信長らしい。それだけに、また、信長も、親身《しんみ》になって、秀吉のことを可愛がっていたのであろう。  これによれば、おそらく、若いころから猿に似ていた秀吉の御面相《ごめんそう》も、中年のころから、頭髪が少しはげて、頬の肉も落ち、むしろ、「はげ鼠」に似てきたのかもしれない。動作《どうさ》のすばやいところは、猿も鼠も同様だから、動作からつけられた綽名《あだな》かもわからないのである。  ともかく、文献をあさったかぎりでは、これ以上のことは、よく判明しない。つまり、鼠に似ていたか、猿に似ていたか、それとも、それらの綽名は、動作からつけられたものであって、秀吉の容貌とは関係がないか、どうかも、はっきりしない。そこで、さらに進んで、現存する秀吉の肖像画によって、そのことを確かめてみようと思うのである。  ところで、肖像画などというと、写真技術の進歩した現代の読者諸氏は、写真とは違って、実際より美化されているだろうから、あまりあてにはならない、と思われるかもしれないが、肖像画には、元来、似絵《にせえ》という性格があって、なるべく本人の似顔を描くのを主旨とするたてまえがある。したがって、秀吉の肖像画も、いわれの正しいものは、大体、秀吉の容貌の特徴を活かしている、とみてよいのである。  さて、現存する秀吉の肖像画の代表的なものを挙げると、伊達家、高野山の蓮華定院《れんげじよういん》、大阪の豊国神社所蔵の画像があるが、これらは、みな、秀吉の死去した慶長三年(一五九八)か、もしくは、同四、五年のころに描かれたものであることが、その賛文《さんぶん》の年月日付によって実証され、秀吉を実見したことのある当代一流の画家が、秀吉の生前にその容貌を写した下絵《したえ》を基にして、着色し、完成したであろうことが、推測されるのである。  そこで、これらの肖像画のうちで最も典型的なものと定評のある伊達家所蔵の太閤秀吉画像によって、秀吉の容貌が猿に似ているか、または似ていないか、あるいは鼠に似ているか、どうかについて、一通り検討してみたいと思うのである。  画像に見る秀吉の容貌  秀吉の肖像画の鑑賞については、畏友、谷信一氏の研究に負うところが多いが、ここに引きあいに出した伊達家伝来のものは、私にいわせてもらえば、最も晩年の秀吉の風貌を如実に伝えたものであろう。これにくらべて、高野山蓮華定院のは少し若く、大阪の豊国神社のはさらに若いころのものと思われる。全体的にやせ細り、憔悴《しようすい》しているのは、老病の結果であろうが、顔や手足の割合に体躯が大きく堂々としているのは、大きな竹のたが[#「たが」に傍点]を体にはめこんだ上に、白い直衣《のうし》を着て、威容を示したせいであろう。さらに、つけひげをし、唐冠《とうかん》をかむり、手に笏《しやく》を持っているが、一種の神格化された肖像ともいえるであろう。  さて、その顔貌を仔細に観察すると、額《ひたい》が狭くて、眉は薄いが、かなり長い。眼ははなはだ大きくて鋭く、瞳が耀《かがや》いている。眼光《がんこう》人を射るが如しという形容が当たっている。しかも、その眼窩《がんか》のくぼんでいるところに、著《いちじる》しい特徴がある。鼻は高く、筋がよく通っており、上唇《うわくちびる》が少し出ていて、その両端が鮮やかに切れ、両の頬骨《ほおぼね》が少し出ており、頬肉が少なく、精悍俊敏な性格を示している。  これを要するに、太閤秀吉の容貌は、猿に似ているといえば、いえなくもないが、似ていないといわれれば、そうもいえる程度のもので、曖昧模糊《あいまいもこ》とした点が多い。かつて、三上参次博士が、「これをもし、猿に似ているというならば、人間の顔は、みな猿に似ている、といわねばならぬ」と論破されたのにも一理がなくはないと、私も思うのである。しかし、強《し》いて、秀吉の容貌のうちで猿に似ているところといえば、眼窩《がんか》のくぼんでいる点と、額の狭いところくらいなものであって、むしろ、信長がつけたニックネームの「はげ鼠」のほうに、ずっと感じが似ているように思われる。ことに、この伊達家伝来の太閤秀吉晩年の画像をながめると、その感が深い。そうすると、やはり、若猿《わかざる》も老いて鼠と化した、というところであろうか。  老いるにつれて、頭髪も剥《は》げ、「はげ鼠」とはなったものの、やはり、猿面冠者の呼び名は、秀吉の一身につきまとったニックネームとして、最もポピュラーなものだった。これが、時には、秀吉にたいする愛称となり、時には、うっぷん晴らしの嘲罵《ちようば》の言葉ともなったのであろう。呼ぶほうにしてみれば、こんな気やすい呼び名はなかったかもしれないが、呼ばれるほうの身になれば、あまりいい気持でなかったに違いない。いや、常に劣等感を植えつけられたことだろう。猿に似ているといわれて喜ぶ奴は、まず、いないだろうから、もっともである。  小さい時から、——小猿、小猿——と、バカにされ、立身出世して、足軽大将になってからでも、なお、主君の織田信長に、——猿、猿——と、呼び捨てにされては、たまったものではない。それでも、かつ、秀吉は、長いあいだ、それらの嘲罵に甘んじ、劣等感を克服することに絶えまない努力をつづけてきた。うっぷんを長いあいだ抑《おさ》えていたとはいっても、抑えられたバネは、必ず、はねかえってくる。その反撥心が、無意識のうちに、立身出世というかたちを取って、あらゆる競争相手をはねつけた、といえなくもないのである。  しかし、秀吉の天下統一の大事業を、秀吉一個人の劣等意識の代償とだけ見るのは、まったくの見当違い、と私は思う。  なお、ここに取りあげた伊達家所蔵の秀吉画像の詳細を説明すると、頭に唐冠を頂き、地紋《じもん》のある白い直衣を着し、両袖と襟《えり》もとには朱の単衣《ひとえ》をのぞかせ、紫色の指貫《さしぬき》をうがち、右手に檜扇《ひおうぎ》を取り、左手を軽く握って、上段の畳に正坐している。背景は、三分の二を水墨山水図の屏風で画し、残りの左方三分の一は、老松を描いた襖《ふすま》らしいものを表わしている。  そうして、画面の上方の余白には、慶長四|暦《れき》仲春十八日の鹿苑承兌《ろくおんしようたい》の賛文がある。鹿苑承兌とは、相国寺鹿苑院の長老、西笑承兌《せいしようしようたい》のことであり、承兌は、秀吉とはなはだ関係の深い禅僧であった。賛文は、「儼然遺像、有レ威有レ儀、聞風来享、真丹、高麗、富田左近将|監絵《えがかしむ》大相国《だいしようこく》尊容、需書二一語一、感不レ忘忠義之志、不レ獲レ辞謹賛」というのであるが、要するに、秀吉の御伽衆に列していた富田左近将監|知信《とものぶ》が、秀吉の死後数ヵ月たってから、忠義の志によって、ある絵師に依頼して、この肖像画を作らせ、おそらく、どこかの寺院に寄進したものであろう、と谷信一氏も説明している。  因みに、富田知信は、信長、秀吉に仕えて、戦功をあらわし、従五位下、左近将監に叙任せられ、伊勢国|安濃津《あのつ》五万石を領したが、慶長四年の十月二十八日に死去した。享年は明らかでない。  秀吉は、主君織田信長から「猿」とか、「はげ鼠」とか呼ばれていたとおり、その容貌や動作が、猿や鼠に似ていたらしい。今日に伝わる由緒《ゆいしよ》正しい秀吉の肖像画を見ても、額の狭いところと、眼窩のくぼんだ点が、猿に似ているといえば、いえなくもない。猿と綽名されて、若いころの秀吉は劣等感を抱いていたかもしれないが、それに反撥して立身出世したかれのことを、だれもが猿と呼ばなくなったことは、秀吉の勝利を物語る。 [#改ページ]   ㈿ [#改ページ] [#1段階大きい文字]戦国七つの異色集団  堺の町衆《まちしゆう》  町衆とは、町を中心として集団生活を営む人々のことだが、応仁の大乱以後、京都の町衆は、荒廃した家並みを復興させ、町の平和を守るために、自衛、自治的な活動を始め、団結力の強化を図った。かれらは、地域別で、上京《かみぎよう》衆と下京《しもぎよう》衆に分かれ、上京衆は革堂《かわどう》、下京衆は六角堂を集会所と定め、年寄《としより》のほかに、月行事《つきぎようじ》と呼ばれる当番を選び、寄合《よりあい》を開いて、町の政治について相談した。そして、その相談できめられたとおりに、町人たちは行動している。このような惣《そう》の組織をもつ町衆は、領主の無法な要求をはねのけることも可能だし、また、武装して、土一揆の略奪から町を護ることもできた。町衆の主体となっているのは、その町に店舗を構える商工業者だが、その町に住む下級武士、公家衆、土倉《どそう》衆なども、これに含まれる。しかし、このような町衆を中心として自治制を誇っていたのは、京都だけではない。伊勢の大湊《おおみなと》、宇治山田、桑名、越前の敦賀《つるが》、摂津の平野、筑前の博多などがあるが、その典型的な実例は、和泉《いずみ》の堺《さかい》にみることができる。  和泉の堺は、瀬戸内海の東端に位し、五畿内と中国・四国を結ぶ海陸交通の要地であるし、また、代表的な商工業都市であると同時に、日明《にちみん》貿易を中心とする国際的貿易都市でもあった。堺の町は、元来、五山の一つの相国《しようこく》寺の寺領の一つであった。しかし、室町初期には、銭七百三十貫で年貢の納入を請け負っている。つまり、町の豊かな財力で、地下請《じげうけ》の権利を獲得したのである。そのため、堺の町は自治の特権を公認され、町の政治は、納屋衆《なやしゆう》と呼ばれる十人の年寄衆の合議制で行なわれることになった。納屋衆というのは、海浜に納屋(倉庫)をもち、納屋貸し、つまり納屋を貸しつけることを業とする富商のことである。『糸乱記』によると、この納屋衆の代表者十人が、町人の訴訟を審議したらしい。  応仁の大乱以降、堺の町の自治活動は、いよいよ強化された。町衆は、町の周囲に堀をめぐらし、浪人衆を雇い入れて武装し、自衛の体制を整えた。町の政治もまた、納屋十人衆から三十六人の会合衆《えごうしゆう》による自治へと拡充されていった。戦国末期の永禄四年(一五六一)に堺の町を訪れた耶蘇《やそ》会の宣教師ガスパル=ビレラは、その頃の堺について、「日本全国のうちで、この堺の町ほど安全なところはない。他の諸国で戦乱があっても、この町は平穏で、勝者も敗者も、この町に来て住めば、みな平和に生活し、たがいに他人に害を加えるものはない」と、本国に書き送っている。しかし、永禄十一年に信長が上洛し、堺に二万貫の矢銭《やせん》(軍資金)を課したとき、さすがの町衆も分裂し、主戦派と傍観派と屈従派に分かれたが、ついに今井宗久《いまいそうきゆう》や天王寺屋宗及《てんのうじやそうぎゆう》などの屈従派の意見が通り、矢銭を運上《うんじよう》して、信長の武力に屈服している。  紀州の根来《ねごろ》衆  宗教的集団としての紀州の根来衆は、根来寺(大伝法院《だいでんぽういん》)の僧兵を主体とする特異な軍事集団にほかならぬ。これは、京都や堺の町衆のような町人の地域集団ではなくて、仏教信仰によって結ばれた土豪的僧侶の集団である。  根来寺、一名、大伝法院は、紀州那賀郡岩出町根来にあり、新義真言宗の総本山として知られている。熱田公氏の調査によれば、開基の正覚房|覚鑁《かくばん》は、高野山にあって伝法会の復興に尽力したため、長承元年(一一三二)に鳥羽上皇の帰依《きえ》を受けて、大伝法院と密厳院を建立し、座主《ざす》となった。しかし、高野山の実権を掌握したため、金剛峰寺《こんごうぶじ》の衆徒と対立し、保延六年(一一四〇)、七百余人の僧徒を率いて根来山に登り、一乗山円明寺を建立している。覚鑁の死後、久安三年(一一四七)、金剛峰寺と和睦し、僧徒の多くは高野山に残った。しかし、正応三年(一二八八)、学頭|頼瑜《らいゆ》のとき、大伝法院と密厳院を根来山に移し、新義真言宗の確立を見た。それ以来、根来寺の勢威は年ごとに伸長し、南北朝の動乱期から室町末期の戦国時代にかけては、近隣の土豪で入寺する者をもあわせて、一山の僧兵は極度に増大し、その活躍は実に目ざましかった。  根来衆は、杉坊《すぎのぼう》・岩室坊《いわむろぼう》などの僧坊を旗頭とし、整然たる内部組織を持つ僧兵の集団であり、天文十二年(一五四三)、ポルトガル人が種子島《たねがしま》に鉄砲を伝えると、いちはやく、その射撃法と鉄砲|鍛冶《かじ》の技術を習得している。元亀二年(一五七一)に耶蘇会の宣教師ガスパル=ビレラが本国ポルトガルに送った報告書には、「根来寺には、二百余の僧坊があり、二万余の僧兵があるから、戦死者が出ても、すぐに補充できる。各人が毎日七本の矢を作ることを業とし、また、銃撃や弓矢の練習をする。人を切ること、大根を切るが如くである」と、述べている。  天正四年(一五七六)の五月、信長の部将原田直政が摂津の石山本願寺を攻めたとき、根来衆は、三好|康長《やすなが》や和泉衆とともに先陣に加わり、本願寺門徒衆のために惨敗している。この頃は、根来寺の杉坊なども、信長に気脈を通じ、本願寺討伐や雑賀《さいが》攻めのお先棒をかついでいたらしい。しかし、信長が本能寺で横死し、秀吉が活躍する時代になると、根来衆は、粉河《こかわ》衆や雑賀衆とともに、秀吉に反抗するようになってきた。その理由は明らかでないが、おそらく、信長の死後の織田政権を奪取しようとする秀吉にたいする憎悪からでもあろうか。  ともかく、根来衆は、天正十一年(一五八三)、秀吉が江北で織田家の老将柴田勝家と雌雄を争っているのにつけ入り、雑賀衆らと協力し、三万余の軍勢で、和泉の岸和田城に押し寄せた。根来衆の大将は杉坊と赤井坊であった。岸和田の城将中村一氏は、秀吉の命令で城を固守したが、大いに苦戦している。同十二年の小牧の役にも、根来・雑賀衆は、北畠|信雄《のぶかつ》や徳川家康に味方して、秀吉の後方を攪乱した。遺恨骨髄に徹した秀吉は、同十三年の三月、十余万の大兵を率いて和泉に出馬し、小山・田中の属城を降し、紀州に入って、畠中・積善寺《しやくぜんじ》・千石堀・岸・佐和・佐野の六城を陥落させ、根来寺に迫った。根来衆は、山々に城を構え、頑強に抵抗したが、秀吉軍は、たちまちこれを撃破し、全山を焼き払った。そのため、根来衆は壊滅するに至った。  しかし、元和九年(一六二三)、徳川|頼宣《よりのぶ》の紀州入国のとき、根来寺は二百六十石の寺領を与えられ、根来衆のうち、百人が徳川幕府に鉄砲組として召し抱えられ、百人がまた紀州徳川家の鉄砲組となった。これらを根来同心《ねごろどうしん》と呼ぶ。八代将軍吉宗のときに江戸南町奉行となった大岡越前守|忠相《ただすけ》が、紀州から連れてきた根来同心の忍者的な働きは、幕府の司法|隠密《おんみつ》組織に新風を吹きこんだというが、これは、奥瀬平七郎氏の説である。なお、根来寺岩室坊の子孫は、根来氏と称して、毛利家に仕えた。根来寺も、その後、堂宇が再建され、現在の寺域は、豊福寺・円明寺・大伝法院・密厳院の四つに大別されている。  紀州の雑賀《さいが》衆  同じ紀州だが、根来衆についで有名な宗教的集団は、雑賀衆である。これは、雑賀地域の土豪を主体とする特異な軍事集団で、一向一揆的な性格をも包含していたのである。紀州は、国内が山岳によって幾つかの地域に分かれているため、元来、政治的統一が困難であった。そこで、足利幕府によって守護に任命された山名・大内・畠山の諸氏も、隅田《すだ》党・湯浅《ゆあさ》党などという在地の土豪の反抗を受け、統治に苦しんだ。ことに、応仁の大乱で、畠山氏が二家に分裂して、内訌を事とすると、その支配力が弱体化したため、根来・粉河・雑賀などの衆徒の勢いが盛んになり、守護畠山氏の手に負えなくなってきた。  雑賀衆は、紀州の名草《なぐさ》・海部《かいべ》両郡にまたがる雑賀庄を中心とする地域に蟠踞《ばんきよ》する土豪で、土地の農業生産力が紀州随一といわれ、経済的に豊かであった。戦国時代には、真宗本願寺派の信仰によって結束し、自領の防衛として、根来衆のそれにならい、当時の新兵器である鉄砲の保有量の徹底的増大をはかった。そのため、雑賀衆は、近隣の諸大国の脅威の的とされていた。かれらは、多数の鉄砲を持つばかりでなく、射撃にも妙を得ていた。元亀元年(一五七〇)の八月、信長が摂津の野田・福島に三好一党を攻めたとき、織田軍は三千梃の鉄砲を持っていたというが、それらは、元来、信長配下の兵士が持参したものではなく、紀州の根来・雑賀衆から購入したものであったという。『陰徳太平記』によると、本願寺に所属する雑賀衆の鉄砲足軽は、二十五人に一人の小頭をつけ、五十人を一組とし、命令一下、射撃を開始させた、というから、鉄砲足軽組が組織されていたことがわかる。  天正四年(一五七六)、信長が摂津の石山本願寺を攻めたとき、雑賀衆の内応を促し、その一部の者が信長に従ったが、一向宗に帰依する大部分の雑賀衆は、本願寺の招きに応じ、石山城の防衛にあたった。雑賀衆は、また、瀬戸内海を渡って、淡路の岩屋《いわや》・摂津の高砂《たかさご》・花隈《はなくま》などにも移動し、さらに、安芸の毛利氏の要請に応じて、播磨の上月《こうづき》にも赴き、鉄砲隊の威力を示している。信長は、石山本願寺を援護する雑賀衆を憎むのあまり、翌天正五年の三月、部将滝川|一益《いちます》と明智光秀に命じ、大兵をもって、雑賀衆の根拠地である紀州の雑賀を攻略させた。そのため、雑賀衆の頭目《とうもく》・鈴木孫一らは、力尽きて、信長の軍門に降った。そこで信長は、同年三月十五日、鈴木孫一以下栗村三郎大夫・島本左衛門大夫・宮本兵部大夫・松田源三大夫・岡崎三郎大夫・土橋若大夫守重などの罪を赦している。  石山本願寺も、天正八年になって、信長の武力の前に降伏し、石山城が焼き払われ、門主《もんす》の顕如《けんによ》上人は紀州雑賀の鷺森《さぎのもり》に移されたが、翌九年の秋、雑賀衆の頭目・鈴木孫一と土橋《どばし》若大夫守重との相剋があり、翌十年の正月、孫一は若大夫を殺害した。しかし、雑賀衆の内紛はそれほど拡大はしなかった。信長の死後、雑賀衆は、根来衆とともに、とかく秀吉の敵方に呼応して、秀吉を苦しめたため、天正十三年(一五八五)三月、根来衆とともに、秀吉の大軍に討伐されて、壊滅してしまった。そのとき、雑賀の頭目として知られた土橋平之丞重治は、粟村の居城を夜落ちして、行方不明となったという。三月二十四日のことだと、小早川隆景に送った秀吉の書状に明記している。土橋平之丞重治は、若大夫守重の弟にあたる。紀州雑賀の地侍《じざむらい》で、信長の死後、秀吉に招かれたが、秀吉が仇敵の鈴木孫一を起用したため、これに応ぜず、小牧の役のとき、家康に属し、ついで秀吉に攻められて、逃亡した。  しかし、のちに家康の尽力で北条氏政に仕え、北条氏の滅亡で、浪人になったという。いっぽう、鈴木孫一は、一名、雑賀孫市ともいい、雑賀衆や根来衆の軍師をつとめ、その名を知られた。秀吉の討伐をうけて降服して以後、秀吉に仕えて、鉄砲頭となり、小田原陣、朝鮮役にも参加し、一万石余を知行した。慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の役には西軍に属し、伏見城を攻め、城将鳥居元忠を斬ったが、敗戦後は、陸奥に遁れ、伊達政宗のもとに寄食した。しかし、同十一年七月、家康に起用され、三千石の知行を与えられた。ついで、水戸の徳川|頼房《よりふさ》づきとなったというが、終りは明らかでない。以上の経歴を見ても、鈴木孫一(雑賀孫市)がよほどすぐれた人物であったことがわかるであろう。  伊賀の忍者《にんじや》集団  つぎに、戦国時代に暗躍した忍者集団の代表的存在の一つとして、伊賀衆について述べてみたい。  戦国時代の著名な忍者集団には、相模の北条氏に所属する風魔《ふうま》党、甲斐の武田氏に所属する乱波《らつぱ》、越後の上杉氏に所属する素波《すつぱ》などがあるけれど、最も高度な技術をもつ忍者集団は、足利幕府から三河の徳川氏へと歴仕した伊賀衆と、近江の六角氏から徳川氏へと歴仕した甲賀衆の、二大集団であったといえる。  伊賀・甲賀の忍者が、とくに、他に冠絶して強固な組織をもち、高度の忍びの術である火遁《かとん》の術などを発明しえたゆえんは、奥瀬平七郎氏の研究によれば、伊賀・甲賀地域には、古代から多数の忍者を輩出する伝統があったことと、伊賀と甲賀は、古来、その大部分が勅使不入の大寺領であり、大名領ではなかったことである。つまり、伊賀は東大寺領、甲賀は比叡山領であった。  そのため、戦国動乱の時代になると、無数の小土豪が蹶起し、大寺社の圧政に抵抗するため、たがいに連合し、四囲の情報を偵察する必要から、忍術を唯一の武器とする忍者組織を構成した。しかし、この忍者組織は、それが次第に膨脹するにつれて、その組織の維持に苦しみ、内部的分裂をきたすと同時に、中央の足利幕府、または、近隣の有力大名への雇われ忍者として脱落していった、というのである。奥瀬氏の研究成果は、甚だすぐれたものだが、なお、松本新八郎氏によれば、伊賀・甲賀衆というのは、郡中惣《ぐんちゆうそう》と呼ばれる大一揆の残党であって、忍術というのは、かれらのゲリラ戦のなかで発達した兵法であろう、とのことである。  さて、伊賀の忍者には、服部《はつとり》・百地《ももち》・藤林の三家があったが、そのうちで、服部家は、伊賀のことを百地・藤林の二家にまかせ、服部|半三保長《はんぞうやすなが》のとき、足利十二代将軍義晴に仕えた。しかし、半三は、まもなく、足利家の将来に見切りをつけ、三河の大名徳川清康・広忠・家康の三代に臣事する。服部半三とその配下の忍者たちは、家康の居城岡崎の郊外に居住地を貰い、伊賀の上野から八幡宮を分祠した。これが、現在、愛知県岡崎市の伊賀町にある伊賀八幡宮だという。半三の子の服部|半蔵正成《はんぞうまさなり》は、八つのときに三河の岡崎から上洛し、鞍馬山で荒修行を積んだり、伊賀の上野の八幡宮の裏山に道場を建て、忍術の技を練り、十八歳で伊賀流忍術の極意を究めた。その後、半蔵は、岡崎に戻り、家康に従って戦場を疾駆し、数々の手柄を立てている。  ところで、伊賀の忍者たちに大打撃を与えたのは、なんといっても、天正九年(一五八一)九月の信長の伊賀討伐であった。信長の次男北畠|信雄《のぶかつ》を大将とする五万の織田軍が伊賀に乱入し、防戦の末に伊賀衆は惨敗し、国内は焦土と化した。服部半三と並ぶ上忍《じようにん》といわれた百地《ももち》三太夫(丹波)は紀州の根来に落ち、藤林|長門《ながと》もこれに従った。のちに紀州徳川家の根来同心のなかに忍者がいたのは、ここに由来する。同じ上忍でも、服部半三が信長の伊賀討伐のときの対象とならなかったのは、半三が伊賀を出国し、三河の徳川家康に仕えていたからである。  さて、服部半三の子の半蔵が、その忍者として本領を、最もフルに発揮できたのは、天正十年六月の家康伊賀越えの受難のときである。泉州堺の町の見物最中に本能寺の変が起こり、盟友信長の横死を知った家康が、明智光秀の攻撃を遁れるため、僅かな近臣を連れて三河に帰国しようとしたとき、その近臣たちのなかに服部半蔵のいたことが幸いした。家康一行は、半蔵の案内により、間道《かんどう》を伝って、堺から近江の甲賀郡の信楽《しがらき》に入り、御斎峠《おときとうげ》を越えて、伊賀盆地に降りた。すると、服部半蔵の呼びかけに応じて、伊賀衆が二百人、甲賀衆が百人、合計三百も集まってきた。その三百人の忍者に守られて、家康は、鈴鹿《すずか》・鹿伏兎《かぶと》の嶮を越え、伊勢の白子《しらこ》浜に至り、用意の便船に乗って、無事に三河の岡崎に帰還することができたのである。このとき、家康は、鹿伏兎まで供奉した伊賀衆に知行千貫文を与え、伊賀同心に取り立てることを約束し、また、白子浜まで送ってきた甲賀衆には、甲賀与力に任ずる旨を伝えた。  つまり、この伊賀越えの事件をきっかけとして、家康は、伊賀衆と甲賀衆の忍者組織を完全に掌中に収めた、というのが、奥瀬氏の意見である。伊賀衆のことを伊賀者、甲賀衆のことを甲賀者と呼ぶようになったのは、天正十八年(一五九〇)に、家康が関六州を領し、江戸の城主となってからであり、伊賀者には、江戸の四谷に住居を与えた。四谷の南・北伊賀町(現在の若葉町・三栄町)が、その跡である。そして、服部半蔵を、伊賀越えのときの功労によって、伊賀者・甲賀者の頭領とし、役宅を麹町御門の前に与えた。そのため、麹町御門のことを半蔵門と呼ぶようになった。  しかし、その後、徳川幕府の政権が確立するにつれて、伊賀者の忍者たちは、御庭番《おにわばん》という役名で幕府に仕えたが、実は、諸国の大名の動静を密偵するための隠密をやらされたのである。これが、忍者集団としての伊賀衆の成れの果てだった。  甲賀の忍者集団  近江の甲賀地域における忍者集団として知られた甲賀衆は、伊賀衆と比べて、忍家の数が少なかったが、山中・鵜飼《うがい》・芥川・神保・望月・伴《ばん》・美濃部《みのべ》・夏見・岩根・多羅尾《たらお》など五十三家もあった。かれらは、戦国動乱の世に処して、忍者組織を維持するための方便として、江南の守護大名六角氏に臣従していた。  そして、六角義賢が三好長慶と戦ったときは、六角軍に参加して、戦功をたてた。しかも、甲賀衆は、伊賀の忍家、服部・藤林の諸氏とも密接な連絡を保ち、六角義賢が、その後、信長と戦ったときにも、伊賀衆とともに、六角軍に従っていた。しかし、元亀元年(一五七〇)の八月、義賢が信長に降服してからは、甲賀衆も、伊賀衆の勧めで、六角氏から離脱して、徳川氏に頼ることになる。そして、これが決定的になったのは、例の家康の伊賀越えの難以来のことである。このとき、甲賀衆百人が、家康らの避難に協力し、その賞として、家康から甲賀|与力《よりき》に任ぜられたが、その先端を切ったのが、甲賀衆のなかの多羅尾氏であったといわれている。  さて、その後、家康が江戸に幕府を開くと、甲賀衆は、甲賀者と呼ばれて、江戸の神田に移住することになる。その遺蹟が、神田の北・南甲賀町(現在の神田駿河台一丁目・三丁目)である。ついでだが、麻布の笄《こうがい》町は、甲賀者と伊賀者とが併せ住んでいたから、甲賀伊賀町というべきところを、笄の字をあてたのだといわれている。甲賀者は、江戸時代を通じて、与力として、なお、伊賀者と同様に、御庭番・隠密として、活躍することになる。多羅尾氏のように、代官に任ぜられたものもいる。  甲州武士団  戦国時代には、諸国の各地に土着《どちやく》武士の集団が派生したが、甲斐とか美濃とかいった山岳地帯には、とくに強固な武士団が在地し、かれらは、たがいに結束して、外敵の侵入にたいして防衛体制をつくると同時に、とうてい勝てそうもない強力な大名には、団結して、これに臣従し、大名の家臣団の一部に加えられたりしている。  まず、甲州武士団について述べると、甲斐国は、山梨・八代《やしろ》・巨摩《こま》・都留《つる》の四郡から成り、強力大名としては、甲斐源氏の嫡流といわれる、守護大名の武田氏が、甲府に君臨していた。武田氏は、信玄の時代になって、とくに居城を築かなかった。信玄の居館《いやかた》である躑躅《つつじ》崎館《さきやかた》は、平地に一重の堀をめぐらし、土塁《どるい》を築いただけの簡素なものだが、信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀」と謡ったたてまえから、城郭よりも人心の和を重んじ、領国の治政に意を用い、周囲を山岳でかこまれた甲斐国の天然の要害を一つの大城郭とみなし、外敵を一歩も国内に寄せつけないことを主旨としていたらしい。だから、この国には、北条氏の小田原や今川氏の駿府に見られるような城下町が発達しなかった。その代わりに、『甲陽軍鑑』によると、信玄の家臣団は、武田親類衆、武田譜代衆、国《くに》衆によって形成されていたが、この国衆のうちで、甲斐の山岳地帯に住む特異な武士団に、九一色《くいつしき》衆、御岳《みたけ》衆、津金《つがね》衆、武川《むかわ》衆などがいたのである。  このうち、信玄の居館のある甲府内に居住するのは、武田親類衆、武田譜代衆だけであり、国衆は殆ど山間や平地の農村に住んで、耕作に従事していた。このように、在地性の強いところに武田家臣団の後進性があった。しかし、信玄が一生の間に甲斐をも含めて数ヵ国を支配できたのは、国衆の統制が巧みであったからだ、といわれている。  さて、国衆のうちの山岳武士団の一つ、九一色《くいつしき》衆は、八代郡の中郡筋に居住し、党的な構成を有する武士団であり、『寛永諸家系図伝』には、一騎与力の者として、渡辺治郎左衛門以下十七人の姓名が列記されているし、また、『甲斐国志』にも「九一色衆十七騎」と見える。十七騎の武士が団結していたのである。  つぎに、御岳《みたけ》衆は、巨摩郡の北山筋の御岳付近に居住する在地武士団であり、『甲斐国志』には、相原《あいはら》内匠介《たくみのすけ》以下、二十三人の姓名を挙げている。つぎに、津金《つがね》衆は、巨摩郡の逸見《へんみ》筋の津金に居住する武士団で、小尾《おお》・比志《ひし》・小池・箕輪《みのわ》・海口《うんのぐち》の諸氏を支族としていたらしい。つぎに、武川《むかわ》衆は、巨摩郡の武川筋に土着する有力武士団であり、『甲斐国志』によれば、武田|石和《いさわ》五郎信光の末男六郎信長が、一条氏を称し、その子に八郎信経があり、信経の子一条源八時信が甲斐の守護に任ぜられ、十数人の男子が武川筋の村里に分封され、おのおの、その地名を氏とし、子孫が繁昌して、武川衆と呼ばれた。それは、折井市左衛門次昌以下十二人であるという。武川衆の居住する地点が、甲信交通の要衝《ようしよう》にあったため、かれらの向背は、甲信の統治に重大な影響を及ぼしたのである。  濃州武士団  つぎに、濃州武士団の様相を窺ってみよう。戦国時代における美濃国は、土岐《とき》氏を守護とし、守護代は斎藤氏で、その下に執権の長井氏がいた。しかし、それは名義上のことで、実際には、土岐氏も斎藤氏も衰え、政権は長井氏の手に移っていた。応仁の大乱以来、下剋上的な争いが絶え間なく続いたため、そのような結果となった。そこへ山城の国|西岡《にしのおか》出身の灯油行商人・山崎屋庄五郎が入国し、執権の長井長弘に武家奉公した。庄五郎は、ほどなく守護の土岐盛頼の弟|頼芸《よりなり》に近づき、その信用を得、守護代斎藤氏の名跡を継ぐことを許され、ここに、斎藤利政と名のった。利政は、やがて入道して、斎藤|道三《どうさん》と号し、土岐盛頼・頼芸兄弟を国外に追放し、自ら美濃の国主大名に成り上がった。  この下剋上的な烈しい変動に処して、美濃土着の在地武士団は、土岐氏から斎藤氏へと主君を乗りかえた。そのうちに斎藤家中に内訌が起こり、道三は、その長子|義竜《よしたつ》のために討たれて敗死したが、義竜の勝利は、在地武士団である美濃衆の殆どが、道三を見限って、義竜に味方したためであった。しかし、その義竜も、子の竜興《たつおき》のとき、道三の女婿にあたる尾張の大名・織田信長のために討ち滅ぼされ、美濃一国が信長の支配に収められる。この竜興の敗北も美濃衆の殆どが信長に降伏したためであった。  このように、美濃の国内の権力者が交替するごとに、美濃衆は、新興の権力者に追従し、その所領の安全をはかることに汲々としていたのであるが、これは、かれらが生き抜くための方便として、当然のことといえた。それならば、この美濃衆には、どのような土着武士がいたか。それを地域別に検討してみよう。  まず、北美濃には、郡上《ぐじよう》郡の上保《かみほ》川の流域に鷲見《わしみ》・東《とう》の二氏、吉田川の渓谷に畑佐《はたさ》氏がいた。かれらは、東方は益田郡の三木氏、西方は大野郡の朝倉氏と密接な関係をもっていた。つぎに、東美濃には、恵那《えな》郡に遠山氏がいた。これは、頼朝以来の名家であり、守護の土岐氏とともに、足利|尊氏《たかうじ》の味方となり、その功績で、遠山荘を領有していた。この遠山氏は、岩村の遠山を宗家とし、戦国時代には、七遠山《ななとおやま》と称し、東美濃に勢威を張った。その一族に、秋山・明智・妻木《つまぎ》の諸氏がいた。秋山氏は岩村の城主、明智氏は明智の城主、妻木氏は、明智氏と同じく、土岐氏の支族である。有名な明智光秀は、この明智氏の一族といわれている。そのほか、森氏も、源氏の末裔といわれ、信長に仕えた森|可成《よしなり》一族は名高い。松倉城主の坪内氏、鵜沼《うぬま》城主の大沢氏も、信長に降参した美濃衆である。  西美濃には、池田郡の池田氏。子孫の恒興《つねおき》は信長に仕え、輝政は、秀吉・家康に歴仕して、大名となった。稲葉郡の稲葉氏では、良通《よしみち》入道|一鉄《いつてつ》が清水《しみず》城主として活躍し、土岐、斎藤、織田氏に歴仕し、北方《きたかた》城主の伊賀(安藤)伊賀守|守就《もりなり》、大垣城主の氏家《うじいえ》直元入道|卜全《ぼくぜん》とともに、美濃三人衆が信長に降服したために、斎藤竜興は滅亡したといわれている。そのほか、不破《ふわ》・西尾・宮川・一柳《ひとつやなぎ》・市橋・丸茂《まるも》・竹中・飯沼の諸氏も西美濃衆であった。このうち、竹中半兵衛重治は、秀吉の懐刀《ふところがたな》といわれて、特に名高い。南美濃では、大橋氏が有力だが、やはり、斎藤家滅亡の後、信長に仕えている。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]天下|御免《ごめん》の堺衆  武力に屈服した堺衆  禁裏御領の回復と足利幕府の建て直しを名義として、前《さき》の十三代将軍|義輝《よしてる》の弟|義昭《よしあき》をいただき、永禄十一年(一五六八)の九月、六万の大軍をひきいて上洛した織田信長は、義昭を足利十五代将軍にすると、ほどなく、摂津の石山本願寺に五千貫、和泉の堺の町に二万貫の矢銭《やせん》を課した。矢銭とは、屋銭《やせん》ではなくて、弓矢に課する戦争税である。これは、堺の町の富力を支配しようとしたもので、幕府の管領《かんれい》細川氏の執事《しつじ》三好長慶の家老として、堺の代官となり、かつ、奈良・京都・兵庫・尼崎などの重要都市の経済力を掌握しようとした松永久秀の先例にまねたのである。信長は、将軍義昭が授けようとした副将軍の地位と足利家の紋章を辞退し、そのかわりに、和泉の堺と近江の大津・草津の三都市に代官を置く許可を得ている。松永久秀は、信長の武力に抗しがたいのをさとると、ただちに、作物《つくも》茄子《なすび》の茶入れを献上して、信長に降参し、堺の支配権も譲渡した。このとき、堺の納屋衆《なやしゆう》今井|宗久《そうきゆう》も、久秀と同道し、信長に松島の葉茶壺と紹鴎《じようおう》茄子《なすび》を進呈している。共に、機を見るに敏であった、といわねばなるまい。  ところで、信長の課した矢銭にたいして、堺の町の三十六人の会合衆《えごうしゆう》は、ひとまず、反抗の決議をした。その主導力となったのは、能登屋《のとや》・紅屋《べにや》などの保守党であったらしい。堺衆は、信長との一戦を決意し、町の周囲の堀を深くし、櫓《やぐら》を築き、木戸口を固め、そこに菱《ひし》の実《み》を撒いたりした。また、浪人武士を集めて、防衛体制をかため、平野《ひらの》の郷民の援けを求めている。そこへ、四国の阿波から応援にやってきた三好三人衆が、近隣の土豪の兵をあつめ、京都に攻めのぼった。そのとき、信長は岐阜に帰城していたが、織田がたの守備兵が、三好勢を桂川でむかえ撃ち、これを破った。三好勢は堺に逃げかえった。  信長は、堺の町が戦火のために焼亡するのを惜しみ、町衆の反抗を知っても、なお、隠忍していたが、三好三人衆の武力を借りたことにたいして、激怒し、ただちに堺討伐の軍令をくだした。堪忍袋の緒が切れたのである。  信長出陣の情報を得て、堺衆の結束がくずれ、腰が砕けた。能登屋などの主戦派をおさえたのは、いちはやく信長に近づいた今井宗久を中心とする戦争反対派であったと、いわれている。もちろん、まっ先に信長に降参した旧代官の松永久秀の工作も、あずかって力あったであろう。  堺衆は、二万貫の矢銭を拒否したかわりに、礼銭《れいせん》二万貫を献上して、信長に忠誠を誓った。上使として、信長の部将柴田勝家・佐久間信盛が下向して、堺の町を接収し、そこに、代官を置いた。このとき、初代の代官に任ぜられたのは、もと、尾張の清洲《きよす》の町人で、信長の右筆《ゆうひつ》をつとめていた松井|友閑《ゆうかん》である。要するに、このころは、まだ、武士も町人も、百姓も、その身分や地位が固定されておらず、したがって、転業も自由自在であった。  堺衆の屈服は、他の町衆にもつよい影響をあたえ、京都・奈良・越前はおろか、筑前の博多の町人までが信長のごきげんとりに参上し、金銀財宝を献上するようになってくる。信長の武力に屈服した堺衆は、信長の死後、それにかわった豊臣秀吉の強大な武力にも屈服せざるをえなかったのである。  茶と鉄砲のサービス  さて、強大な武力に屈服した堺の町衆は、信長や秀吉にたいして、茶と鉄砲のサービスにつとめている。茶と鉄砲などといえば、一つは平和、一つは戦争のシンボルであり、今日の一般常識人にとっては、頗《すこぶ》る矛盾したサービスぶりとして、すっきり、受けとれないことだろう。しかし、納屋衆の今井宗久や千利休が、会合衆の津田|宗及《そうぎゆう》とともに、信長の御茶頭《おさどう》三人衆となり、京都や堺における信長の名物狩《めいぶつがり》に協力し、また、信長や、その部将たちに茶の湯を指南し、茶会の後見役となると同時に、信長の統一戦にも協力し、鉄砲や火薬の調達と輸送に任じていたことは、史実として、動かしがたい。  信長にいちはやく取り入った今井宗久は、納屋を号とする薬種商であり、火薬をあつかい、鉄砲の製造にも関係していたらしい。同時に、かれは、皮革《ひかく》問屋で茶の湯の名人といわれた武野紹鴎《たけのじようおう》のむすめ婿《むこ》であり、すぐれた茶湯者《ちやのゆしや》として、知られていた。茶湯者とは、『山上宗二記《やまのうえそうじき》』によると、茶の湯も茶器の目利《めき》きも上手で、茶を教えて暮らしのたずきとする者、つまり、茶の湯の師匠のことをいうのである。この宗久が、元亀元年(一五七〇)六月の姉川の戦いにさいして、堺産の鉄砲の火薬と煙硝《えんしよう》とを、信長のために調達したことは、『陸前岩淵文書』所収の木下藤吉郎秀吉の書状にもとづき、かくいう筆者が、はやくから、発見したところである。  それは、六月四日付で、秀吉が、今井宗久・宗薫《そうくん》父子に宛てて、姉川合戦における戦況を報告し、火急の用であるといって、鉄砲の火薬の良質のを三十|斤《きん》と、煙硝三十斤の調達を依頼し、あわせて、江北への通路をあけて、待っているから、安心して、運搬してほしい。大坂に飯米が置いてあるから、これを使用されたし、と述べている。  また、最近、私が研究した表千家《おもてせんけ》秘蔵の信長の印判状によると、姉川合戦から四年たった天正二年(一五七四)の九月十六日付で、信長は、越前の一向一揆の討伐に際して、同じ堺衆の千利休に命じ、鉄砲の玉《たま》千個を調達させたことがわかった。それには、越前出馬について、鉄砲の玉千が到来した。はるばるの懇志、よろこばしく存ずる、とあり、宛名は、「抛筌斎《ほうせんさい》」となっている。それは、千利休の斎号である。  この新史料の発見によって、その前年(天正元年=一五七三)に、今井宗久の斡旋《あつせん》で、やはり、堺衆の津田宗及とともに、信長の御茶頭となった利休が、同時に、信長にたいして、鉄砲のサービスもしていたことが、実証され、利休という茶湯者を、かれこれと、独断的に評価して、得々としてきた観念論者の面目が、丸つぶれとなったのは、じつに皮肉というべきであろう。  利休は、すぐれた茶匠であるから、平和主義者であり、したがって、戦争反対者であり、秀吉とは、思想的にも対立していた。それが、利休処刑の原因だったと主張する、多くの哲学者・歴史学者・作家の推論所説が、いかに笑うべき観念論にすぎなかったかを、痛感せざるをえないのである。  利休は、今日の反戦的文化人とは、その行動が相違していた。残念ながら、それほど、思想的に進歩した芸術家ではなかった。かれは、堺の町人であり、戦争成金の小資本家でもあったのである。だから、同時に、茶と鉄砲のサービスにつとめたらしい。  堺の鉄砲については、『鉄砲記』によれば、堺の商人|橘屋《たちばなや》又三郎によって、種子島《たねがしま》から伝えられたというが、紀州の根来寺《ねごろじ》の近くに住む堺生まれの芝辻《しばつじ》清右衛門という鍛冶職人が、根来の僧兵から、その製法を授けられ、堺の町で鉄砲の製造をはじめ、その子孫の芝辻|道逸《どういつ》は、大筒《おおづつ》(大砲)さえ造ったということが、『南島偉功伝』に記してある。  堺の納屋衆の今井宗久も、堺の|五ケ荘《ごかのしよう》の内の摂津の我孫子《あびこ》(いまの大阪市内)で、鉄砲の鋳造にあたっていたとのことである。  信長の死後に日本全国を統一した秀吉は、小田原遠征にあたって、職人や芸人などを引きつれていったが、それは、やはり、信長の先例にまねたものである。信長の御茶頭三人衆となった今井宗久・津田宗及・千利休は、いずれも、しばしば信長の出陣に随伴している。かれらは、茶湯者であると同時に、政商でもあったから、占領地域の利権の獲得をも目ざしていたらしい。しかし、秀吉のときになると、もはや、そんなにうまい汁は吸えなくなったようである。  大坂築城と堺衆  秀吉と堺の町人衆との関係は、姉川合戦の直前に木下藤吉郎が今井宗久父子にあたえた書状によってもわかるように、信長の在世当時からあった。これも、私が、かつて、その実物を発見し、写しを取っておいた羽柴筑前守秀吉の消息に、五月十七日付で、今井宗久にあたえたものがある。これは、天正初年のものらしいが、返し書きを自筆でしたためた、珍しい手紙である。本文のほうには、こんど、堺に入津して、数日逗留したが、その間、種々の、おもてなしにあずかり、かたじけない。ことに、御茶の湯道具など拝見し、心しずかにお話を承ったことは、本望至極である。その心の中は、手紙の上では申し上げられない。いずれ、ひまになり次第、また、堺に下向して、こんどの心残りを晴らしたい、というのである。このとき、秀吉は、播州姫路の居城にもどっていたらしい。  秀吉が、主君信長から、御政道《ごせいどう》の茶の湯の会を開くことを許可されたのは、天正六年(一五七八)のことで、『津田宗及茶湯日記』を見ると、それから、連年のように、各地で茶会を催している。そうして、信長の御茶頭三人衆のほか、他の堺の茶湯者との親交をかさねている。そうして、かれらを、あるときは、招客に選び、あるときは、御茶頭として、茶事の後見を依頼し、また、名物茶器の目利きもしてもらっている。  さて、秀吉は、信長の死後、これにかわって、日本全国統一の志を立てると、天正十一年(一五八三)の八月、摂津の石山本願寺の跡に、大坂城を築いたが、同城の本丸には、有名な黄金《きがね》の茶室を、山里丸《やまざとのまる》には、山里の自然を露地《ろじ》にしつらえて、草庵《そうあん》の茶室を建て、これを、山里《やまざと》の数寄屋《すきや》と称した。この両席ともに、その前年に山崎の妙喜庵《みようきあん》に待庵《たいあん》と号する数寄屋を造らせた茶湯者の千利休に指図させて、建てさせたのである。だから、秀吉はキンピカ好み、利休は侘《わ》び好みで、その嗜好《しこう》を介《かい》した思想的な対立が利休失脚の原因である、といったような哲学者や作家の推論は、笑うべき俗説にすぎない。  秀吉は、なお、大坂城の本丸には、それぞれ、名物の葉茶壺を飾った五つの座敷をつくっている。その一の座敷の床《とこ》には、四十石《しじつこく》の壺を飾り、千利休に管理させた。二の座敷の床《とこ》には、松花《しようか》の壺を飾り、津田宗及に管理させ、三の座敷の床には、佐保姫《さおひめ》の壺を飾り、今井宗薫(宗久の子)に管理させ、四の座敷の床には、撫子《なでしこ》の壺を飾り、千利休に管理させ、五の座敷の床には、百鳥《ももとり》の壺を飾り、千|紹安《じようあん》(利休の長男、のちの道安《どうあん》)に管理させたのである。  これによってもわかるように、秀吉は、信長の前例にならい、大いに堺衆を重用し、その側近に侍らせ、大坂築城と同時に、茶室建築の指図から、名物茶器の管理までさせているのである。そうして、天正十七年(一五八九)の奥書のある茶書『山上宗二記《やまのうえそうじき》』によると、そのころ、秀吉に仕えた御茶湯者《おんちやのゆしや》が八人いたことが知られる。つまり、田中|宗易《そうえき》(千利休)、今井宗久、津田宗及、山上宗二、重宗甫《じゆうそうほ》、住吉屋|宗無《そうむ》、万代屋《もずや》宗安、田中|紹安《じようあん》(千道安)が、これであり、この八人のすべてが、堺の町衆だったのである。このうち、千利休は、天下一の茶湯者と呼ばれ、秀吉の信任が最もあつく、これも、私が大戦前に発見した『大友家文書録』所収の(天正十四年)四月六日付の大友|宗滴《そうてき》(宗麟)書状によれば、宗滴をして、「内々の儀は宗易(利休)、公儀の事は美濃守(羽柴秀長)」と、言わしめ、また、「こんど、利休|居士《こじ》の心をこめて馳走せられた有様は、なんとも、申しようもなく、ながく忘却することはできぬ。ここもとの様子を見て、宗易(利休)ならでは、関白様(秀吉公)へ一言も申し上げる人がいない、ということがわかった。通り一遍に心得ては、もってのほかである。とにかく、秀長公と、この宗易にたいしては、深重、隔心《きやくしん》なく、入魂《じつこん》いたすことが、肝要であろう……」と、批判させている。「利休でなくては秀吉公へ一言も申し上げる者がない」、という文句によって、秀吉の御茶頭としての利休の権力と地位が、いかに絶大なものであったかが、わかるであろう。  しかし、茶湯者として町衆が重用された、その反面に、堺の町は、新たに築かれた大坂城の衛星都市と化せられていったのである。秀吉もまた、信長の先例にならい、その政権の強化をはかる目的のもとに、信長以上に、都市の重要性に着眼し、堺の町にたいしても、他の都市にたいするのと同様に、統制の手をゆるめずに、町衆にたいしても、茶の湯以外のことには、かなり、きびしい態度でのぞんだようである。たとえば、大坂築城をはじめた翌年(天正十二年)には、京都、伏見、天王寺、住吉の町人とともに、堺の市民も、大坂の城下町に移住を命ぜられたが、天正十四年になると、秀吉自ら出馬して、堺の町の三方をかこった大きな堀を埋めさせている。そのため、堺は、無防備都市と化し、軍事的な生命はうしなわれてしまったのである。堺の衛星都市化は、ここにはじまる。  惨殺された山上宗二  秀吉召しかかえの御茶湯者八人衆のなかに、山上宗二という茶人がいた。かれは、堺の舳松《へのまつ》の住人で、屋号を薩摩屋《さつまや》、庵号を瓢庵《ひようあん》といった。もちろん、先祖代々、堺の商人であったらしいが、宗二は、二十年このかた、利休について茶の湯をまなび、堺の茶湯者のなかでも、博覧強記と、気骨《きこつ》をもって、人に知られていた。しかし、この気骨が、つねに、わざわいのもととなった。かれは、とかく、議論ずきの、毒舌家として名だかく、仲間の茶人たちからも、敬遠されていたらしい。  物ずきな秀吉が、そうした宗二に興味をいだき、これを御茶頭の一人に取りたてようと、言いだしたとき、師の利休は、一応、辞退した。それは、おそらく、後難を恐れたからであろう。  しかし、宗二は、いつしか、秀吉の御茶湯者のなかに加わっていた。  天正十一年の閏《うるう》正月五日、山崎の妙喜庵で羽柴秀吉の朝会が開かれたが、その席上、秀吉の茶の湯論議に、宗二が、さしでがましい判詞《はんじ》を発言したため、秀吉からきびしく叱責され、満座のなかで面目を失し、堺に帰った。そのあとで、宗二処罰のことが、かれこれと、取り沙汰されたが、津田宗及と利休の口ぞえで、ようやく、所払《ところばら》いと、きまったのである。ところが、それから、七年ほどたって、秀吉が、日本全国平定の最後のとどめとして、天下の大軍をひきい、相模の小田原城を囲んだとき、はからずも、山上宗二と邂逅《かいこう》することになった。小田原の東方の高地、石垣山《いしがきやま》に、敵前築城の烈しい工事が開始されてから間もない或る日のこと、秀吉の遠征に供奉《ぐぶ》した利休は、小田原城下のきびしい警戒網を闇夜にまぎれて突破し城中からのがれ出てきたと称する男と、総大将豊臣秀吉の面前で、対決させられたのである。それは、まごうかたなき、利休の愛弟子《まなでし》の山上宗二であった。しかし、それから数日たって、石垣山築城工事の、まっ最中、山腹の木蔭で、宗二が斬刑に処せられたという飛報が、早雲寺の宿舎にいた利休の耳に伝わってきた。利休が確かめたところによると、宗二処刑の表向きの理由は、きわめて単純なものだった。その前日、早雲寺の本堂で、陣中の茶会が催されたとき、宗二が、ひたすら、薄茶《うすちや》を点《た》てて出したのを、秀吉が、「宗二、怠慢ではないか」と、冗談めかして、なじると、宗二は、「陣中の茶の湯は真《しん》の薄茶に限り申す」と、こたえた。そこで秀吉が、「薄茶を点てるのは真の茶の湯ではない。真の茶の湯とは台子《だいす》の茶の湯のことだ」と、主張した。すると、宗二は、なおも、「茶の湯の道に定めとてありませぬ。当世の茶の湯は、むかしと、すっかり変わりまして、草庵の小座敷で薄茶を点てるのが真であり、小壺・肩衝《かたつき》茶入れで濃茶《こいちや》を点てるのが行《ぎよう》、書院台子の茶の湯が草《そう》でございます」、と応酬したのである。  これにたいして、秀吉は、「草《そう》の薄茶をば、ことさらに、真の茶の湯と、言い張り、緩怠《かんたい》に薄茶ばかりを点《た》てる、横着者《おうちやくもの》めが」と、威丈高《いたけだか》に、宗二を罵倒した。しかし、宗二は、平然と、そらうそぶいていた。そうして、その翌日、謹慎中のかれを、ひそかに見舞ってくれた関東武士に向かい、「いわれのない似而非《えせ》数寄者《すきしや》めが」と、秀吉の蔭口《かげぐち》をきいた。その蔭口が、秀吉の耳にはいったため、宗二処刑のことが決定したのであった。  山上宗二は、鼻と耳とを、そぎとられた。しかし、かれは、かれ独特の、編笠手《あみがさで》の高麗《こうらい》茶碗のように、蒼黒《あおぐろ》い、ひずんだ面《つら》がまえをし、まなこだけは、秀吉のほうを、はったと、にらみすえていた、ということである。  堺の町人衆のなかに、山上宗二のような、武将の権威にもたじろがない、気骨のある茶湯者がいたのは、堺の町に、まだ、武士と町人との区別のさだまらなかった戦国時代の町衆の名ごりがあったからであろう。  利休の死因について  山上宗二が惨殺された、その翌年。宗二の師匠の千利休が、秀吉に切腹を命ぜられ、七十歳のしわばらをかき切って、果てた。この二人の茶湯者の処刑は、それぞれ、個々の、偶発的な事件のように思われるけれども、じつは、甚だ緊密なつながりをもつのである。  さて、利休の死因については、むかしから、さまざまな説があり、千古の疑問とさえいわれているが、私は、なが年の研究によって、最近、ようやく、それを明らかにすることができた。まず、秀吉毒殺の嫌疑をうけたというのはもちろん、朝鮮出兵に反対したからというのも、頂けない。前にも述べたように、茶道は平和芸術であるとはいえるにしても、利休が反戦論者であったとは認められないからである。利休の末娘お吟《ぎん》のこともあるが、そのことだけで、利休が処刑されたとは、思えない。最も確かな原因としてあげられるのは、大徳寺の山門《さんもん》に自分の木像を掲げたことと、茶道具の目利きにインチキがあったことであり、これは、当時の公家や僧侶の日記や、伊達家の古文書にも明記してあるから、まちがいはない。  しかし、木像や茶道具目利きの事件があったから罰せられたのではなくて、利休を罰するについて、この二つの事件を罪状として取り上げたにすぎない。  そこで、その真因について、私は、かつて、拙著『千利休』において、豊臣内部の勢力あらそいを指摘したことがある。つまり、秀吉の正妻|北《きた》の政所《まんどころ》・秀吉の舎弟羽柴秀長・千利休を一団とする一派と、秀吉の愛妾淀殿・石田三成・前田玄以を一団とする反利休派との、勢力あらそいで、それが羽柴秀長の病死によって、利休派の敗北となったからだ、と説明した。ところが、最近、また、筆者のこの旧説を少し目先をかえて、同じ内部的勢力争いでも、秀吉の関東経営をめぐって、石田三成・増田《ました》長盛・佐竹|義宣《よしのぶ》らの一派によって、利休が、秀吉にざん訴された結果だ、と説く学者があらわれた。しかし、これは、私の旧説よりも納得性の足りない、ちょっとした思いつきの推論にすぎぬ。だからといって、秀吉との思想的対立にその原因を持ってゆくのは、前にも述べたように、史実を無視した俗論といわねばなるまい。  そこで、利休処罰の真因を大局的に考えてみると、やはり、山上宗二の示したような堺町人の気骨が、すべて、禍いのもととなったようである。これは、何も、山上宗二や利休と限らない。今井宗久や津田宗及をも含めた、堺町人のすべてが、かつての自由交易都市である堺の町人の持っていた言動の闊達さや、気骨のたくましさ、抱負の遠大さを禁圧されることになったのである。これは、べつに、権力者である関白太政大臣豊臣秀吉の気持が変化したわけでもない。  秀吉は、検地と刀狩によって、百姓や町人から生産力と武力を剥奪《はくだつ》すると同時に、関東奥羽を平定し、日本全国統一の実をあげるとともに、身分法令《みぶんほうれい》を発布し、転業の自由を禁止したのである。つまり、徳川三代将軍家光のときに確立した士農工商という封建的身分制度の基礎を、天下平定と同時に、豊臣秀吉が、つくりあげた。すでに、秀吉の居城のある大都市大坂の衛星都市化されていた堺の町人たちは、ここに至って、ソロバンをはじくほかに能のない、小町人と化せしめられてしまったのである。  それについて、困るのは、武士を武士とも思わない気骨のある町人であり、天下の大名を門下にしたがえ、関白秀吉の御前で、平然と広言を吐く、三千石取りの、天下一の茶の湯の名人であった。かくして、秀吉の封建的社会秩序制定のため犠牲にされたのは、利休だけではない。山上宗二も、もちろん、そうだが、そのほかにも、津田宗及や今井宗久がいた。  かれらが、利休処刑の前後に、原因不明の失脚によって、秀吉の側近から、いつのまにか、姿を消していったことを忘れてはなるまい。利休らの処罰によって、堺の町は、完全に大坂の衛星都市となり、ここが、豊臣家の蔵入領(直轄領)となり、そのまま、徳川氏によって、ひきつがれ、堺奉行さえ置かれた。往時の堺の茶湯者のうち、徳川家康の御茶頭に任ぜられたのは、今井宗久のむすこの宗薫一人であった。  納屋《なや》助左衛門の海外逃亡  ここに、もう一人、戦国時代の堺町人の気骨を徳川の初期まで持ちつづけた傑商がいる。その名を、納屋助左衛門といった。  助左衛門は、戦国末期から海外貿易に従事していたが、秀吉が朝鮮出兵をおこなった翌年、つまり、文禄二年(一五九三)には、フィリピンのルソン島に渡航し、百余人の浪人者をひきい、島の王をおびやかして、和睦を乞わせ、その土地の珍奇な貨物を仕入れ、翌年(文禄三年)の七月、日本に帰国し、そのころ、堺の町の代官をつとめていた石田|正澄《まさずみ》(三成の兄)を介して、傘《かさ》、香料、ロウソク、生きている麝香鹿《じやこうじか》二|疋《ひき》などを、秀吉に献上した。そのほかに、ルソンの真壺《まつぼ》を五十個も進覧に供した、といわれている。そのころ、茶の湯の会が、すこぶる流行し、舶来の珍奇の器物が、茶器として愛玩されたが、袋に入れた葉茶を保存する葉茶壺としては、ルソンの壺が一級品とみなされていた。そのうち、文様《もんよう》のないものを、真壺《まつぼ》と称していたのである。  秀吉は、五十個の真壺を、大坂城の西の丸の広間に陳列し、その一々に価格をつけて、希望者に入札させたところが、たちまち、大名たちの手で、高価に買い上げられ、数日のうちに、売り切れてしまった。そうして、三つ残ったのを、秀吉が、とくに高く買い取った。そのために、助左衛門は、急に大富豪となり、ルソン助左衛門の令名が、真壺とともに、世に宣伝されたということが、小瀬甫庵《おぜほあん》の『太閤記』に書いてある。  もともと、その地方産の葉茶を保管したらしいルソンの壺が、葉茶壺として、むかしから珍重されているところに着眼した納屋助左衛門は、さすがに、すぐれた商才の持ちぬしであった、といえよう。  ところで、大富豪となった助左衛門は、その豪快な気性と相まって、自然と、その私生活が奢侈《しやし》にながれ、衣食住ともに、贅沢をきわめた。居室には七宝をちりばめ、金銀をはりつけて、人目《じんもく》を驚かせ、また、秀吉の寵遇した絵師|狩野永徳《かのうえいとく》に命じ、丹青《たんせい》の技を揮わせる、といった有様である。そのため、かれは、やはり、町人にあるまじき僣上《せんじよう》の振舞い多しと、みなされて、処罰され、その家財も没収されたのであった。通説では、かれの豪奢な私生活が秀吉を嫉視させたからだ、といわれているが、それは、妥当な解釈とはいえない。そのころ、すでに、日本国内を統一し、兵商の分離をはかり、身分法令を発布し、封建社会建設の下ごしらえに専念していた秀吉は、堺の町の豪商たちにたいして、町人は、武士とは違って、どこまでも、町人らしく——といったワクを作りつつあった。そのワクから、はみだすものとして、助左衛門は、同じ堺の納屋衆の千利休の処刑にひきつづき、処断されたのである。  が、助左衛門は、そんなことでは、屈服しなかった。かれは、処罰に先だって、いちはやく、その居屋敷を、堺の太安寺に寄進した。死後の冥福を祈るためでもあった。現存する太安寺の本堂の建物が、それだという。その結構を見ると、なお、桃山式建築の特徴を保ち、襖《ふすま》も、屏風《びようぶ》も、金色さん然とし、丹青はことごとく狩野探幽の筆になり、さながら王侯の居宅を見るかの感がある。遺物としては、所持の香炉とルソンの壺が、伝わっている。  家財の処分を終えた助左衛門は、秀吉によって死刑に処せられたわけだが、一説によると、なお、生きながらえていて、飄然《ひようぜん》として故国を捨て去り、朱印船に便乗し、秀吉の死後九年たった慶長十二年(一六〇七)、カンボジアに渡航し、その地で、国王の信任を得、日本商人たちの取締りを命ぜられたといわれる。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]戦国の名器、楢柴《ならしば》茶入れの争奪  天下三|肩衝《かたつき》茶入れの一  茶入れというと、葉茶壺の口を切って茶袋から取りだした葉茶を茶臼に入れて挽《ひ》き、抹茶《まつちや》としたものを入れる容器である。この茶入れから、茶杓《ちやしやく》(茶匙《ちやさじ》)で抹茶をすくい、それを茶碗に入れ、熱湯をそそぎ、茶筅《ちやせん》でかきまわして茶をたて、来客にすすめる。  茶入れは、客にのませる大事な抹茶を入れておく器《うつわ》だから、茶器のなかで、特に重んぜられている。  これには濃茶《こいちや》を入れる濃茶入れと、薄茶《うすちや》を入れる薄茶入れとの別があり、薄茶入れは、棗《なつめ》、中次《なかつぎ》、雪吹《ふぶき》など、みな、漆器であり、これは、大津袋《おおつぶくろ》のほかは、主として、裸《はだか》で用いるが、濃茶入れのほうは、主として陶器であって、これには袋を着せ、名器の場合には、特に塗盆《ぬりぼん》にのせて飾る。この袋のことを仕服《しふく》というが、名器の茶入れの仕服は、金襴《きんらん》、緞子《どんす》など、大へんなよそおいである。  普通に茶入れといえば、この立派な仕服を着せた濃茶入れのことを意味するが、その形状はまた、さまざまだ。肩の衝《つ》いたものを肩衝《かたつき》、李《すもも》の形をしたものを文琳《ぶんりん》、茄子形《なすびがた》のものを茄子《なすび》、平べったいのを大海《だいかい》という。  これらの茶入れは、もともと茶入れではなくて、南支那産の香油や薬味の容器であった。それを、初期の茶入たちが茶入れに見たて、これに象牙《ぞうげ》の蓋《ふた》をつけて、点茶《てんちや》の際の茶入れに使用したのである。  室町の末期、戦国動乱の世に、天下三肩衝といわれた名器の茶入れに、新田《につた》、初花《はつはな》、楢柴の三肩衝があった。  このうち、新田肩衝は、新田義貞が愛用したという、いわれの古い茶入れで、茶道の開祖|珠光《しゆこう》の所持品となったため、特に天下一と称せられた。初花肩衝は楊貴妃《ようきひ》の香油壺だったという伝説があり、もと足利義政の愛玩物、つまり、東山御物《ひがしやまごもつ》の一つであった。楢柴肩衝は、珠光の高弟|鳥居引拙《とりいいんせつ》の愛用品といわれているが、その前歴は不明である。  足利義政や珠光の生存していた室町中期の東山時代このかた、茶道が大いに興隆し、茶器の逸品が重んぜられること、宝剣、黄金もものかは、名物茶器のすべてを私するものは天下を我がものにできる——とさえ信ぜられたのである。  したがって、天下三肩衝をば、次々とせしめた豊臣秀吉は、ついに天下を我が手に入れたわけである。  ここでは、楢柴肩衝が秀吉の手に入るまでのいきさつを、一席のべておこう。  千貫文で買いとる  まず、楢柴《ならしば》とは、いったい、どんな肩衝茶入れか。  利休の高弟山上宗二の書きのこした『山上宗二記』には、「尻のふくらんだ形の肩衝であるが、上薬《うわぐすり》は飴色《あめいろ》で、一段と濃い」と、簡単に説明しているが、博多の傑商|神谷宗湛《かみやそうたん》の茶日記として有名な『宗湛日記』には、「口付《くちつき》の筋が二つ、腰にさがって帯が一つあり、肩が丸く、なで肩である。筋のあたりに茶色の薬《くすり》がある。土は青めに細かく、薬はずれは四、五分、底は糸切で、その切れ目が、うしろの肌にかかっている」と、こまかな観察をしるしている。それから、その仕服《しふく》(袋)のことは、「白地の金襴《きんらん》で、紋は鉄線花《てつせんか》、金地《かなじ》の菱である。裏は香色《こうしよく》、片色《かたいろ》である」と、説明している。  大たい、こんな肩衝茶入れだった。  それならば、どうして楢柴といったか。茶器には、およそ、銘《めい》というものがついている。この楢柴というのも、その銘、つまり、名前だが、銘は銘でも、これは歌銘《うためい》といって、古歌の一句をとって銘としたものである。 『分類草人木』という古い茶書を見ると、「箸鷹《はしだか》の狩場《かりば》の鈴のなら柴のなればまさらで恋ぞまされる」という古歌の一句からとってつけたものだ、という。  これは、上《かみ》の句は序詞《じよし》(枕詞《まくらことば》の長いもの)であって、下《しも》の句に歌の意味がある。なかなか乙な恋歌である。そうして『山上宗二記』によると、「薬が濃いので、その濃いに、恋をかけたものだ」という。  要するに、上薬の飴色が濃いというだけで、このような歌銘がつけられたのだ。  ともかく、そういういわれのある風雅な肩衝茶入れであって、初め、茶道の開祖珠光の高弟鳥居引拙が愛用していた。それが、芳賀道祐《はがどうゆう》という茶人の手をへて、天王寺屋(津田)宗柏《そうはく》の所持品となった。  鳥居引拙は、堺の茶道を開いた茶匠である。楢柴は、おそらく、珠光から譲られたものであろう。だから、珠光名物茶器の一つであったにちがいない。それが、芳賀道祐、天王寺屋宗柏というふうに、同じ堺の茶人たちの手に移っていったのである。  天王寺屋宗柏は、堺の会合衆《えごうしゆう》の一人で、もちろん、富商であった。連歌を牡丹花肖柏《ぼたんかしようはく》に学んで、柏《はく》の一字をもらい、茶道を引拙について稽古した関係から、楢柴を我がものとした。  ところが、その弟子に神谷宗白《かみやそうはく》という博多の茶人がいた。宗白は、博多の富商神谷|紹策《しようさく》の弟である。  神谷家は宇佐八幡宮の管領《かんれい》という名家の出で、先祖の永福《えいふく》いらい五代にわたって北九州の経済界を牛耳っていた。しかし、安芸の毛利と豊後の大友との十数年にもおよぶ戦乱のために、十万戸も立ち並んでいた博多の港町も、人家がことごとく焼けうせ、見る影もなく荒廃した。  そのため、神谷紹策・宗白一家も、家財を焼かれ、肥前の唐津に難を避けている。しかし、紹策の祖父|寿貞《じゆてい》が大明国《だいみんこく》から持ち帰り、足利八代将軍義政のお目にかけて盃《さかずき》までも賞与されたという玉澗《ぎよつかん》の瀟湘夜雨《しようしようやう》の掛絵《かけえ》と、博多文琳《はかたぶんりん》の茶入れとだけは、一応、後生大事《ごしようだいじ》に、唐津まで持って行った。  博多の商人と堺の商人とは、貿易の競争もやったが、商取引の関係で、常に往き来していた。しかし、茶道では、博多よりも堺のほうが先輩格である。堺の天王寺屋宗柏は、博多の神谷宗白の茶道|執心《しゆうしん》に免じて、秘蔵の名器楢柴肩衝を一千貫文で譲り渡した。  一千貫文というと、そのころの茶器の相場としては、滅法界の値段だが、宗白は、それだけの大金を、どうやら工面して、楢柴を手に入れたのである。  島井家の宝物となった楢柴  唐津に疎開した神谷家は、窮乏のドン底に陥っていた。さすがに、玉澗の瀟湘夜雨と、博多文琳はともかく、紹策の弟の宗白が工面して手に入れた楢柴は、どうも、持ちこたえられそうもない。  楢柴が絶品であるということは、いやしくも茶に心得のある者は、みな、聞き知っていた。だから、これをほっておけば、誰かに買い取られる恐れが充分にある。  そのころ、岐阜から上洛して天下に号令をくだすと同時に、京都や堺で茶器狩りしている織田信長、それから、豊後の数寄《すき》大名として知られた大友|宗麟《そうりん》など、虎視眈々《こしたんたん》として、この楢柴茶入れをねらっている。 「これは、あぶない」と、心配したのは、天王寺屋宗柏の次男|道叱《どうしつ》であった。  堺の天王寺屋は、宗柏が死んで、その長男|宗達《そうたつ》の代になっていた。  道叱は、亡父の宗柏が愛弟子の神谷宗白に譲り渡した楢柴を、堺町人の面目にかけても数寄大名の手に渡したくなかった。  殺人を表芸とする武人が、茶道に志すとか、名器を集めるなどとは、片腹いたい——と、思っていた。  そこで、ふと念頭に浮かんだのは、神谷家と並び称される博多の豪商島井|茂勝《しげかつ》のことである。  島井家は、代々、博多の町の酒問屋で、堺、兵庫、西国一帯の貿易商人や海賊の棟梁《とうりよう》たちに、金を貸しつけ、借上《かしあげ》として、筑紫《つくし》の金融界に重きをなしている。  その点、島井茂勝は、神谷紹策などよりも、さらに、たくましさに富んでいた。店屋や倉庫が焼けうせても、その跡に、さっそく仮屋《かりや》を建て、相変わらず家業にはげんだ。  茂勝の復興ぶりは、近年になってかれが集めた名物茶器の種類を見てもわかる。老《おい》茄子《なすび》の茶入れ、灰被《はいかずき》の天目《てんもく》、尼ケ崎の台、それに、唐津に屋敷を普請した際に神谷紹策に貸しつけた金のかたとして、ついに神谷家伝来の瀟湘夜雨の掛絵まで手に入れた、と聞いた。 「それならば、いっそのこと、楢柴も買い取りなされよ」  天王寺屋道叱は、しきりと、島井茂勝に、楢柴の買い取りをすすめたのである。  道叱は、兄の宗達や、宗達の子の宗及《そうぎゆう》と並んで、堺屈指の茶人といわれていた。道叱と島井茂勝との師弟関係も、十年ほど以前に、博多の島井屋敷で結ばれていた。  茂勝は、師匠の勧告どおりに、いまや家運の傾きかけている神谷宗白に迫り、ついに元値《もとね》の倍額の、二千貫文という大金で、楢柴肩衝を買い取った。  茶道の開祖珠光が、楢柴を遺物として、養子の村田|宗珠《そうしゆ》に伝えずに、高弟の鳥居|引拙《いんせつ》に下げ与えたのは、この茶入れの歌銘《うためい》が気にくわないためだ、といわれていた。  猥雑な闘茶趣味の茶の湯を改革して、茶禅一味の心境を固持した珠光は、茶室の床掛《とこかけ》に歌物《うたもの》を用いることさえも厳禁した。歌物には恋歌《こいか》が多いという理由からであった。  しかし、珠光の孫弟子にあたる堺の富豪|武野紹鴎《たけのじようおう》は、歌人でもあった立場から、歌道と茶道との関連性を強調し、好んで床掛に俊成《しゆんぜい》や定家《ていか》の歌物をつかっている。  だから、紹鴎を堺流町人茶道の開祖としてあがめ、これに師事した天王寺屋宗達、同道叱、同宗及、今井宗久、千利休など、堺の町の一連の茶人たちが、楢柴肩衝の価値を見なおしたのも、当然のことであったといえよう。  大友宗麟の野心  島井茂勝が、天王寺屋道叱のすすめによって、二千貫文の大金を投じて楢柴を買い取ったということが、九州一帯の数寄者たちのあいだで評判になると、玉澗の青楓《あおかえで》の掛絵や、油滴天目《ゆてきてんもく》、新田肩衝《につたかたつき》、百貫《ひやつかん》茄子《なすび》などの唐物《からもの》名器を集めていた大友宗麟は、俄かに眼を血走らせた。  新田肩衝も、百貫茄子も、茶道の開祖珠光が讃美した唐物の茶入れだというが、銘からして、楢柴のほうが、ずっと素晴らしい——と、宗麟は思った。  新田肩衝は新田義貞伝来の茶入れと聞いているし、また、百貫茄子は珠光が天下一の茶入れと定評のある九十九《つくも》茄子《なすび》の銘にかかずらって、たまたま京の都で掘り出した茄子形の茶入れを、門弟の堺の町人|塩屋宗悦《しおやそうえつ》に百貫文で買わせただけのことである。この茶入れの、いったい、どこがよいのか、宗麟は、よくわからないでいる。  こんなものよりも、宗麟は、むしろ、恋ごころを秘めた楢柴という美しい銘の肩衝茶入れのほうに、心をひかれたのである。  そのような名器が博多にあるとならば、誰の所有物でも、愛玩品でもかまわぬ。五千貫が六千貫でも出して買いしめるべきだった。百貫茄子でも、五千貫出して手に入れたというのに、島井茂勝は、たった二千貫で楢柴を神谷|宗白《そうはく》から買い取ったという。 「うまく、やったものだ。なんとかして、改めて、六千貫くらいで、楢柴を手に入れたいものだ」  宗麟は、大友家の家老の吉弘鎮信《よしひろしずのぶ》を顧《かえり》みてそういった。  かれは、もう、じっとしていられなくなってきた。そこで、楢柴を二千貫文で買い取ることを島井茂勝にすすめたという天王寺屋道叱に頼んで、茂勝の意向をさぐらせてみた。そうして、そのいっぽうでは、鎮信を通じて、楢柴所望の意向を伝えさせたのである。代価はいくら出してもいい——というのだ。  しかし、島井茂勝は、いっこうに、取りあってくれない。  宗麟は、歯がみをした。  ところが、宗麟のそうした野心をかぎつけて、にんまりと、ほくそ笑んだ男がいた。  筑前|秋月《あきづき》の城主秋月|種実《たねざね》である。  種実は、格別、茶の道に志のあるわけでもないのに、父の文種《ふみたね》いらい仇敵の間がらにある大友宗麟に、ひとあわ吹かせたい魂胆から、茂勝に使いを送って、楢柴の所望を申し出たのである。  宗麟にたいしては、毛利家の後楯《うしろだて》で、亡父のとむらい合戦を試みて、失敗した結果、いまは恭順の意を表しているので、茂勝への交渉は、ごく内密のうちに行なわれた。  しかし、交渉に出かけた使者の口上は、針をふくんでいた。秋月の領国筑前の博多に住まう町人の分際で、領主の命令にそむく理由はない筈だ——というのである。  一、二度の申し入れを、柳に風と受け流していた島井茂勝も、次第に、ただならぬ気配を感じ取った。  そのうちに、主命に従わぬとあらば、武力に訴えても楢柴を強奪する——という噂さえたった。  秋月攻めの指令  焼跡に、ぽつぽつと、店舗を建てととのえた博多の町びとたちは、こんどは、楢柴ぜめの風聞に、恐れ、おののいていた。  そこで、島井一族の者が茂勝の家に集まって評議した末に、楢柴を種実に渡して、町びとのわざわいを除くほかはない——という結論に達したのであった。  茂勝は、楢柴を神谷宗白が手ばなしたと聞いて、肥前の唐津で歯がみをしたという紹策の子の神谷|貞清《さだきよ》のことを、今さらのように身にしみて思いおこした。けれども、六千貫文の代価でも買い取りたい、と申しこまれた大友宗麟への手前、領主の秋月種実には、いっそのこと、無償《むしよう》で引き渡したい——と、決心した。  それが、名器を強奪される博多|数寄者《すきしや》のせめてもの意地であった。  秋月の使者は、期日たがわず、楢柴を受け取りにやってきた。  茂勝は、使者を島井屋敷の数寄屋に招き、心をこめて饗応した末、ついに楢柴を手渡した。  しかし、秋月の使者が門外にたち去ると同時に、あらかじめ言いつけておいた大工たちに合図して、数寄屋を取りこわさせた。  仮屋敷よりも、ずっと念入りに造ったばかりの四畳の数寄屋だったが、武力をかさに、名器楢柴肩衝を強奪された、けがらわしい思い出を、永久にたち切るためであった。  そのうわさが、間もなく大友宗麟の耳に入った。  とんびに油揚げをさらわれたかたちとなった宗麟は、烈火のように怒って、種実を詰問させたけれども、いっこうに、要領を得ない。  宗麟は、またもや、秋月攻めの指令をくだした。  宗麟の縁者で、筑前の岩屋城にいた高橋|紹運《しよううん》が、秋月城を取りかこみ、一気に攻撃を開始した。種実は、援けを薩摩の島津義久にもとめた。  どちらにせよ、楢柴は、攻め取られる運命にあったのだ。  間もなく、種実から茂勝のもとに、代価として、大豆百俵が届けられた。  茂勝は、屋敷うらの広場に山と積まれた豆俵に、冷やかな一瞥《いちべつ》をくれただけである。  秀吉の名器狩り  この騒ぎで、楢柴は、いよいよ、西国・九州どころか、天下にかくれなき肩衝茶入れとなったが、茂勝の気持は、おさまらない。  と、同時に、神谷貞清の気持もまた、おさまらない。  神谷は財力で楢柴を奪われたのだが、島井は暴力で奪われたのだ。しかし、神谷家としては、同じ博多の町人衆ならばまだしも、これが数寄大名の手に奪い取られたことは、なんとしても、残念だった。  かれらは、秋月と大友との楢柴合戦のうわさを耳にしながら、楢柴を取り戻すには、秋月や大友よりも、さらに強大な武力をかりるほかない——と、考えた。  その強大な武力とは何か。目下のところ、西国の毛利のほかには、全く考えられなかった。  しかし、島井茂勝が、その後、商取引のために、初めて上坂し、堺の町に天王寺屋|道叱《どうしつ》を訪れてみると、天下の形勢は、近畿を平定し、毛利征伐を敢行しつつある織田信長に傾いていることが、はっきりわかってきた。  焼け果てた博多の町を復興し、秋月を屈伏させ、楢柴を取り戻してくれるのは、信長しかあるまい——と、そんなに思われた。  ところが、天正十年(一五八二)の六月二日、本能寺の変が勃発し、信長は、逆臣明智光秀のために暗殺された。  そのとき、茂勝は、本能寺の茶会に招かれていたが、いのちからがら、難を免れ、博多に逃げ帰った。  明智光秀は、間もなく、山崎の一戦で、信長の家臣羽柴秀吉に討たれ、秀吉が亡君信長に代わって天下に号令をくだすことになった。  天下の形勢は、僅かのあいだに、目まぐるしく変転していった。  秀吉は、おのれに敵対する織田家の旧勢力|神戸《かんべ》信孝、柴田勝家を倒し、滝川一益を降参させると同時に、名器狩りをはじめた。  やはり、足利義政や織田信長の先例をまねたのだ。天下の名器を私するものは天下を我がものにできる——という考え方が、一つの信念となって、時の権力者の心を支配していたのである。  秀吉は、まず、天下の三肩衝茶入れを、はやぶさの如く、ねらっていた。  そのとき、初花肩衝《はつはなかたつき》は徳川家康の所持品となっていたが、茶にうとい家康は、それほど愛着をもたなかった。天正十一年の四月、秀吉が江州|賤《しず》ケ岳《たけ》の一戦で柴田勝家をやぶり、越前を平定すると、石川数正を使者として、戦勝を賀し、初花を秀吉に寄贈している。その翌年、家康は秀吉と尾州|小牧山《こまきやま》で雌雄を争ったけれども、その後、家康が秀吉と和睦してこれに臣従する因縁は、初花を寄贈したときに始まっていたのである。初花を手ばなした家康は、天下を我がものとすることにも、おくれをとった。  秋月の敗北で献上  つぎに、新田肩衝《につたかたつき》は、大友宗麟が、堺の塩屋宗悦から五千貫文で買い取ったが、秀吉の求めに応じ、似《にた》り茄子《なすび》と新田を抱きあわせて、一万貫文で秀吉に売却した。  九州随一の数寄者としては、よくよくのことであった。薩摩の島津義久に攻められ、上坂して救いを秀吉に求めた手前、仕方なかったものとみえる。  かくして、初花と新田を手中に入れた秀吉は、最後に楢柴《ならしば》をねらっていた。  その楢柴は、島津に味方し、大友と雌雄を争っている筑前の秋月種実が秘蔵しているのだ。  秀吉は、天正十三年七月十一日、関白に昇進すると同時に、四国を討《う》ち、越中を平らげた。その前年、徳川家康、および毛利輝元と和睦し、この両雄を配下に従えた。四国征伐の先鋒は、瀬戸内海の覇権を握る毛利軍であった。  四国征伐こそ、九州遠征の前哨戦であった。  天正十五年三月、秀吉は、天下の大軍を二手に分け、豊後口・筑前口の二方面から九州に攻め入った。豊後口の総大将は秀吉の弟大納言羽柴秀長であり、筑前口の総大将は関白太政大臣豊臣秀吉であった。  秀吉の筑前入りの案内役をつとめたのは、博多の豪商神谷貞清と、それから、島井茂勝とである。貞清は宗湛《そうたん》と号し、茂勝は、天王寺屋道叱の叱の一字をもらい、宗叱《そうしつ》と号していた。  秀吉は、筑前の秋月城を猛攻した。  秋月種実は全力をつくして防戦したが、上方の大軍の前には、ついに、かぶとをぬがざるをえなかった。  種実は、島津に義理を立てて戦死するほどのこともないと思った。そこで、降服を申し入れたが、秀吉が、なかなか承知しない。  降服の条件は、種実にとって、実に痛かった。肉親の人質《ひとじち》のほかに、楢柴肩衝を献上せよ、というのである。  結局、種実は、信長の降服勧告を退けて愛用の平《ひら》蜘蛛《ぐも》の茶釜と心中した松永久秀ほどの数寄者ではなかった。  四月四日、かれは、ついに、その娘を人質に出し、別に金子百両と米二千石と、それから名器楢柴を献上し、城を明け渡した。 「秋月めは、楢柴のために、いのちが助かりおった……」  そのような風聞が、天下に鳴りひびいた。秀吉は、進んで薩摩に攻め入り、島津義久を降し、その帰途、しばらく、博多に逗留し、荒れはてた港町を復興させ、改めて、神谷宗湛と島井宗叱を町年寄《まちどしより》に任じた。  秀吉は、楢柴を我がものとして、悠々と大坂に凱旋した。  楢柴は、永久に町人たちの手からはなれた。相手が関白秀吉では、いかに島井宗叱でも、どうにもならなかった。  楢柴肩衝をめぐる戦いは、秀吉によって、終止符をうたれたかたちである。  明暦の大火で行方不明  秀吉は、初花や新田と共に、楢柴を非常に愛玩している。  九州征伐から凱旋すると、その年の十月朔日、京都は北野天満宮の境内で、大茶会を催した。「北野の大茶の湯」というのが、これである。このときも、楢柴は、秀吉秘蔵の名物茶入れとして、出品されている。  秀吉が死ぬと、この茶入れは、徳川家康の所有に帰した。やはり、天下を取るもののところへ、天下の名器はころがりこむ。  楢柴は、秀忠・家光というように、代々、徳川将軍家の秘宝として伝えられた。  寛永七年(一六三〇)の四月十五日、三代将軍家光は、江戸城本丸に諸大名を招き、茶会を催したが、楢柴肩衝も、ほかの名器と共に出品されている。客に招かれた細川三斎、毛利秀元、佐竹義隆、加藤嘉明なども、久しぶりで、この茶入れを拝見したのであった。  明暦三年(一六五七)の大火は、江戸の町々だけでなく、江戸城の一部をも焼いた。  そのとき、楢柴も火災にあって破損したけれども、天下の名器のことだ。間もなく修繕されて、その存在だけは取りとめた。  しかし、その後、全く、行方不明となってしまった。  初花は徳川将軍家に、新田は水戸徳川家に伝わり、現存しているが、天下三肩衝茶入れのうち、行方不明なのは、この楢柴だけである。 [#改ページ]   ㈸ [#改ページ] [#1段階大きい文字]殺生関白《せつしようかんぱく》秀次乱行の悲劇  長久手《ながくて》の敗戦  殺生関白とは、いうまでもなく、摂政関白をもじった言葉で、豊臣秀吉の甥《おい》で、実子に恵まれない秀吉の跡をつぎ、関白となった秀次が、殺生を好み、乱行の限りをつくしたからである。もちろん、巷間の人びとから奉《たてまつ》られた悪名にすぎない。  秀次の母は、秀吉と同父母の姉|瑞竜院《ずいりゆういん》日秀で、それが阿波の大名三好氏の一族、三好武蔵守|一路《いちろ》に嫁ぎ、三人の男子をもうけた。その長男が秀次である。だから、初めは三好孫七郎|信吉《のぶよし》と名のっていたが、長じて、秀吉の養子となり、羽柴秀次と改めている。  秀吉は、小者・足軽という低い身分から成り上がって、関白太政大臣の高官にのぼり、信長のあとを取って天下に号令をくだしたほどの武将だから、身うちの者に対しても、なかなか、きびしい。異父弟の羽柴小一郎秀長は文武両道に長じ、恩威ならび行なった名将であったから、秀吉も一目《いちもく》おいていたが、甥の秀次は、どう見ても、凡骨である。秀次が仮に、三好孫七郎という一介《いつかい》の武人で終ったとすれば、問題はない。天下を取った秀吉の養嗣となり、なまじっか、豊臣家二世を継がされたばかりに、殺生関白の悲劇がおこったのである。  秀次は、秀吉の甥であったから、わずか十四歳で、河内国北山二万石の大名となった。そうして、天正十一年(一五八三)正月、十六歳のとき、秀吉が伊勢の亀山城に織田家の宿将滝川|一益《いちます》を攻めたので、いっぽうの大将として参陣し、ついで、柴田勝家を江州|賤《しず》ケ岳《たけ》に討った際にも、羽柴勢第六陣の武将として、手柄をたてている。ところが、その翌年、秀吉が徳川家康と尾張の小牧山に対陣したとき、血気の勇にはやって、大変な味噌をつけてしまった。  かれは、小牧陣が大ぶん長びくので、家康の本拠である三河国に討ち入ろうと考え、秀吉が止めるのも聞かずに、秀吉の直臣堀秀政・森|長可《ながよし》・池田|勝入《しようにゆう》を引きつれ、一万数千の大兵をあずかって、奇襲戦法に出たが、かえって、家康の反撃にあい、長久手《ながくて》という所で散々に敗北し、森長可と池田勝入を戦死させてしまったのである。  十七歳の少年としては果敢な行動だったが、敗戦したのでは、なんにもならない。秀吉はもちろん、かんかんになって怒った。多くの部下を失ったのに、大将の秀次だけが生きのこって逃げかえったというのが、気に入らない。武道のたしなみに欠けている、というのだ。秀吉は、責任者として、秀次を一刀両断にしたかった。しかし、甥のことでもあるから、仕方がなしに、これをさしゆるした。そのとき、秀次に与えた訓戒状では、「再びこのような失態を演じたならば、人手《ひとで》にはかけぬ」、と言明している。  秀次、関白となる  その後、秀次はかなり自重し、長久手敗戦の恥をそそごうとして大いに努力した。天正十三年の紀州|根来《ねごろ》攻めには副将となり、四国陣にもいっぽうの大将をつとめた。同十五年の九州征伐、同十八年の小田原役、奥州遠征にも参加し、人並みの手柄をたてている。そこで秀吉の機嫌も大ぶん直り、秀次は次第に面目を回復していった。  秀吉は、天正十三年、関白に任官し、翌年太政大臣となり、豊臣の姓を賜わった。同十八年には、奥州征伐を最後として、日本国内を平定したので、こんどは、朝鮮出兵を企てた。そこで、当時、実子のなかった秀吉は、関白を秀次に譲り、太閤と号し、国内の政治は秀次にまかせ、もっぱら国外問題にあたる決意を固めたのである。  関白を譲るにあたって秀次に、また、訓戒状を与えたが、その中に、「茶の湯、鷹野《たかの》の鷹、女狂ひにすき候事、秀吉まねことあるまじき事」という文句があった。茶の湯、鷹狩、女ぐるいなど、秀吉のまねはしてならぬ——というのだ。なかなか奇抜な教訓である。おれはやったが、お前はやってはいけないとは、ずいぶん勝手な言いぐさだが、これは、秀次の人物をよく見抜いていた証拠であろう。  秀吉は、かつて、主君の信長から茶の湯を催すことを許可された。これは、かれが播州征伐に抜群の功績があったからである。それから、江州長浜十二万石の大名に出世してから、そろそろ浮気をはじめ、信長から意見されたこともある。しかし、信長の死後、その仇敵明智光秀を討ちはたし、天下に号令をくだすようになってからは、茶会もさかんに開くし、鷹狩もやるし、女ぐるいにうつつも抜かした。愛妾も、淀殿《よどどの》以下十数人たくわえている。秀吉の女狩《おんながり》は有名になった。しかし、これは、そんなこともやれるだけの資格があるからだ、と自任している。が、秀次には、まだまだ、とうてい、その資格がない。本当は、関白を譲って、豊臣家を継がすのも、どうかと思うが、ほかに代わるべき人物もいないから、やむを得ぬ——といった気持であろう。  それに、事実、秀次は、このころ、それほど感心するほどのこともしていなかったようだ。ひそかに、茶の湯も習っていたし、おどりにも打ち興じ、妾も物色していたらしい。だから、関白を譲るについて、そのような訓戒を垂れ、ブレーキをかけておいた。  秀次は、訓戒状を与えられたうえに、これを厳守するための起請文《きしようもん》まで書かせられている。起請文には、血判が押された。血のあとは、いまなお、黄色くなってのこっており、なにか、凄愴な感じをおこさせる。時に、秀吉は五十五歳、秀次は二十四歳であった。  秀頼《ひでより》の誕生と秀次の転落  秀次が関白となってから、一年半ほどたって、太閤秀吉の愛妾淀殿は、秀吉の実子秀頼を生んだ。文禄二年(一五九三)の八月三日のことである。秀吉が喜んだのも無理ではない。かれは、そのとき、朝鮮出陣の将士を総監するため、肥前国の名護屋城にいたが、大坂城に飛んで帰った。そうして、いとしのわが子秀頼を見るにつけて、できることなら、これに天下を譲りたいと考えるようになった。人情の自然であろう。こうなると、甥の秀次などに関白を譲り、家督をとらせたことが、悔やまれてきた。伊達政宗の家老|伊達成実《だてしげざね》の日記を見ると、秀吉にそのような気持がおこったことを明記している。  それから、山科言経《やましなときつね》という公家の日記を見ると、秀吉は、日本全体を五分し、その五分の四を秀次に与え、あとの五分の一を秀頼に与えようと計画し、そのことについて、秀次の了解をもとめ、太閤の命令にそむかぬようにと、教訓を垂れたそうだ。また、秀次の右筆《ゆうひつ》駒井重勝の日記によると、秀吉は、前田利家夫妻を仲人として、将来、秀頼の妻には秀次の娘を迎え、秀頼をば秀次の息子ということにして、円満に豊臣家をわが子秀頼に譲らせようと計画したらしい。これは、なかなか巧妙な手段であった。さすがに太閤だ。秀次も、こんなところで妥協《だきよう》すれば、何ごともおきなかった筈である。  しかし、秀次は、妻妾や直臣たちの手前もあって、いちど占めた栄位は、人手に渡したくなかった。関白という顕官と豊臣三世の株は、できれば、自分の血を分けた息子に譲りたい。が、それができない相談だと悟ると、絶望に陥った。かれが忿懣《ふんまん》のはけ口を学問の道にもとめているうちは、まだ安全だった。当時、関白内大臣の高位にのぼり、京都の聚楽第《じゆらくてい》に起居していた秀次は、宮廷の天皇や堂上公家、五山の禅僧などに接近する機会に恵まれていた。朝鮮陣の最中のこととて、内外ともに多端をきわめたが、京都だけは無風地帯にひとしい。かれは、すべてを忘れて、古典の蒐集や整理に没頭した。そうして、この方面では、源氏物語の筆写、謡曲本の校合《きようごう》など、かなりの功績をのこしている。  が、この擬装は、ながくは続かなかった。擬装が剥がれて、その地金が見えてくると、秀次という男の性根が丸だしとなった。こうなると、なまじっかの権力の座がわざわいする。自暴自棄に陥ったかれは、関白内大臣の権力にものをいわせ、乱行《らんぎよう》をほしいままにし、転落の一途をたどっていったのである。  愛妾おまんの方  そのころ、秀次は、三十数人の側室をかかえていた。秀吉の直臣太田和泉守|牛一《ぎゆういち》の書いた『大かうさまぐんきのうち』という古記録には「美女百余人を集めおかせられ、御寵愛なゝめならず」とあるが、これは、側近の女中衆をも合わせてのことで、側室の定員は三十数人ぐらいであった。それにしても、太閤秀吉の倍数に達していた。武道のほうはそれほどでもないくせに、女色にかけては、太閤そこのけだった。『絵本太閤記』によると、そのなかに、おまんの方という十六歳の美女がいた。  文禄三年(一五九四)の春、秀次が東山で花見の酒宴を催し、双林寺《そうりんじ》を本陣と定めたとき、その門前に住んでいた植木屋の娘を見そめた。それが、おまんである。「年は二八の春秋を経て、芙蓉の顔《かん》ばせ色深く、楊柳《ようりゆう》の容《すがた》、風をも病《いた》む有様、類《たぐい》まれなる艶色《えんしよく》」であったという。  秀次は、このおまんの方を、昼夜、側近に侍らせ、寵愛していたが、或る日のこと、秀次が御飯をたべていると、砂がはいっていて、歯にさわった。秀次は渋面をつくった。側にひかえていたおまんの方は、涼しいまなこを見ひらいて、 「関白様の召しあがる御膳に砂のまじるいわれがありましょうか。料理人を召して糾明《きゆうめい》なさりませ」 「うむう、もっともじゃ」  呼び出された料理方の者は、庭前の白砂に顔を押しつけるように、平伏した。肩先がこまかに動く。恐懼《きようく》のあまりに、ふるえているらしい。 「おまん。どうしてくれようぞ」 「この男は、砂をたべるのがよほど好きと見えます。たんと、たべさせてやったら……」  さすがに、美しい顔を袖でかくしながら、おまんは、いう。 「なるほど。面白い趣向じゃ」  秀次は、小姓に命じて、男の口を割らせ、ひとつかみの白砂を口中に押し込ませた。 「遠慮はいらぬ。一粒も残さずくらえ」  いのちだけは助かるかも知れないと思ったものか、男は、白砂をバリバリとかみくだいた。口中は、見るみるうちに破れ、歯の根がくずれ、まなこがくらみ、うつ伏せに倒れた。鮮血が白砂をくれないに染めた。 「見ごと、見ごと……」  おまんは、柳眉《りゆうび》を動かせ、嬌声《きようせい》をあげた。花のかんばせが、酔ったように上気している。  秀次は、初めて聞いた女の嬌声に、新鮮な昂奮をおぼえた。 「引き起こせい」 「ははっ……」  小姓が、男の襟首をつかんで引きおこすと同時に、秀次は、佩刀《はいとう》を抜いて、庭前にとびおりた。  次の瞬間、男の右腕は、中ほどから斬りおとされていた。秀次は、卜伝流の剣法に達していた。 「お見ごと」  女は、ぬえ鳥に似た叫びをあげた。秀次のまなこは、血ばしっていた。 「もう一つ、どうじゃ……」  こんどは、左の腕がとんだ。 「お見ごと」  女は、姿態をくねらせて、笑いこけた。  とたんに、両腕のない男は、砂上に坐ったかたちのまま、かっと、両眼を見ひらき、おまんの方をにらみ据えた。 「おお、こわいこわい。おまえさま、まだ生きていましたの……」 「こやつが……」  秀次は、やいばを一閃《いつせん》した。男の首は、一間ほどさきの砂上に、音をたてて、ころがった。  関白千人斬り  秀次は、十五歳の初陣《ういじん》よりこのかた、十数度の戦場にのぞんだが、まだ、自分の刀で敵を討ち取った経験がない。それだけに、いちど試みた人斬りの味は、忘れられなかった。料理人を成敗したあの夜の、女の嬌態も忘れられない。  或るとき、北野の松原に忍びの装束で遊びに行った帰り道、盲人《もうじん》がひとり、杖をついて通りかかった。それをながめた秀次は、つかつかと、そばに寄っていった。 「酒を飲むかや……」  やさしい声音《こわね》で、いたわるように、盲人の右腕を取った。  盲人は、見えぬまなこをあげて、かすかに微笑《ほほえ》んだ。  とたんに、秀次は、抜く手も見せず、盲人の腕を斬りおとした。得意の居合い抜きである。  盲人は、悲鳴をあげて、助けを求めた。 「はっはっは。めしいで、手がなくなっても、まだ、生きていたいか」  秀次の直臣熊谷|大膳亮《だいぜんのすけ》が、哄笑《こうしよう》する。 「さては、うわさに高い殺生関白の辻斬りだな、あはははは。めくらの腕は斬れても、敵の首は斬れまいて」  盲人は、背のびしたような恰好のまま、笑いこけた。 「うぬっ……」  一閃、盲人の首は宙に飛んだ。  事実、この頃になると、殺生関白の悪名は、京の街々に鳴りひびいていた。  辻斬りでは、まどろっこしくなってきた秀次は、数十人の巡礼をひっ捕え、片っぱしからなで斬りにした。死骸をほうり込んだ古沼は、血の池と化した。そうして、その夜は、新鮮な美女を思う存分なぐさんだ。  それから、弓の稽古に事よせ、街道筋に微行し、往還の人びとを射ころし、犬追物《いぬおうもの》と称した。果ては、北野のあたりに出かけ、田畠をたがやす農夫たちを的《まと》に、鉄砲をぶっぱなして、興に入った。また、日ごとに、聚落第《じゆらくてい》の天守閣にのぼり、道ゆく人びとを、ねらいうちしては、愛妾とたわむれた。  或るときは、道を通るはらみ女の、腹のふくれようをながめ、これをひっ捕え、腹をたち割り、双児かどうか、試してみたという。  そんなわけで、殺生関白の千人斬りといえば、たれ一人知らないものはなくなった。秀次の小姓たちも、それをいいことにして、夜な夜な、町辻に出て、試し斬りをやった。  比叡山で鹿狩をやったのも、有名な話である。この山は、伝教《でんぎよう》大師が延暦寺《えんりやくじ》を開いていらい、王城鎮護の霊場として、殺生禁断の場所であった。その禁を破ったのも、殺生関白なればこそであった。  殺生関白の末路  関白秀次のこのような乱行は、名護屋を引きあげて大坂城と伏見城のあいだを往き来していた太閤秀吉の耳に、しばしばはいってきた。これは、ひと通りの乱行ではない。関白職を譲った際に秀次から取った起請文の誓約に背くこと甚だしい。放っておくわけにはいかぬ。なんとかせねばなるまい。  そうは思うものの、その一面に、秀吉は、甥のこころの内を見抜いていた。秀頼に天下を奪われるのがいやで、やけになっているのだ。無理もない——と思った。  肉親に恵まれない秀吉は、自分の死んだあとのことを想像すると、暗い気持になる。当年三歳になったばかりの幼児秀頼を、いったい、誰がかばってくれることか。片腕としていた弟の大和大納言秀長は、すでに数年前に病死している。つぎに頼りになるものといえば、この関白秀次だけである。あとは、みな他人だ。他人ほど当てにならぬものはない。その当てにならぬ事実を、秀吉は、これまでに、なんども、この目で、まざまざと見せつけられてきた。その乱行がどうあろうと、ここで秀次を除くことは、わが身を削るも同然だ。  秀吉は、甥の乱行を、聞いて聞かないふりをしていた。できれば、秀次の反省するのを待って、秀頼成長のあかつきには、後見人にしたいとも、考えていた。  ところが、程なく、関白|謀叛《むほん》のうわさがたった。朝廷に白銀《しろがね》数千枚を献上したり、鹿狩にことよせて、夜行軍を催し、ひそかに兵具を携帯して歩かせたりするのは、謀叛の証拠歴然たるものがある、というのだ。それから毛利輝元と誓紙を取りかわしたという風説も流れた。そこで、秀吉は、風説の真偽をただし、一応、太閤に異心なき旨の起請文を納めさせたが、あまりにも世間のうわさがうるさいので、ついに秀次を伏見城に出仕させることにした。そのとき、秀次の直臣たちは、主君の身辺を気づかい、いっそのこと、聚楽第に籠城し、太閤に弓を引くことを勧める者もあったが、謀叛の一件は、さすがに覚えがないので、秀次は、秀吉の命令通り、伏見に参上した。しかし、秀吉は、これを城中に入れず、木下|吉隆《よしたか》の宿所に留めさせ、ついで、これを紀州高野山に追放したのであった。  こうなっては、さすがの殺生関白も仕方がなかった。ただちに頭を剃り、墨染の衣を着て、高野山に登り、青巌寺《せいがんじ》に入った。青巌寺は、秀吉が亡き母|大政所《おおまんどころ》の追福のために建立した寺である。秀次は、五日ほど青巌寺にいたが、まもなく、福島正則らを検使として、切腹の命令がつたえられた。これについては、淀殿が蔭にあって、石田三成らと共謀し、秀吉をそそのかしたともいわれるが、真偽のほどはわからない。秀次の罪名は、「相届かざる仔細《しさい》これあり」といったものであったから、謀叛の嫌疑はあっても、判然たる証拠はあがらなかったとみえる。  高野追放の命令をうけた時から、秀次は、すでに覚悟をきめていたので、ただちに行水して身をきよめ、腹十文字にかき切って、果てた。時に二十八歳であった。東福寺の僧|玄隆西堂《げんりゆうさいどう》をはじめ、近臣山本|主殿《とのも》ら五人が、これに殉じた。文禄四年(一五九五)七月十五日のことである。  秀次の首は、検使が伏見に持ってかえり、太閤の実検に供えた。秀吉は、これを京都三条河原に曝《さら》し、同時に、秀次の子女および妻妾三十数人を車にのせて、洛中を引きまわし、おなじ河原で斬刑に処している。重罪をおかしたものは、一族連坐というのが、戦国の世のならいであった。  秀次の塚は、三条河原にあり、初め、「悪逆塚《あくぎやくづか》」と刻してあったが、のちに、「畜生塚《ちくしようづか》」と改めたというが、すこぶる怪しい。これは『太閤記』に、秀次が母子を共に妾としていた、とあるのによったものだが、尾張の『上宮寺文書』によれば、それは誤りである。慶長十六年(一六一一)に角倉了以《すみのくらりようい》が、秀次の塚を修復したとき、「悪逆塚」の三字を削り、「無縁塔《むえんとう》」と刻したのが、事実であろう。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]徳川家康は四人もいた……  宮本武蔵が二人いたとか、荒木又右衛門が二人いた、とかいう説は、武蔵なり、又右衛門なりの人物の履歴が、史実として詳細に確認されない以上、致し方ないことかもしれない。しかし、徳川家康のごとき、その生涯の事績が明細にされている史上の一流人物に、このような奇説は、全く通用しないように思われる。それにもかかわらず、ここに、家康が三人いたとか、二人いたとかいう説がある。実に不可解な怪談といわざるをえない。まず、家康が三人いたというのは、明治時代の民間の研究家の学説であり、次に、家康が二人いたというのは、講談本から派生した時代小説家の説である。そうして、この両奇説を組みあわせると、表題のように、家康が四人いた——ということになるのである。しかし、本当の家康は一人しかいないはずだから、あとの三人は、みなにせものということになる。眉毛にたっぷりと唾をつけて、聞いてほしい。  明治の奇書『史疑徳川家康事蹟』  明治三十五年の四月十八日、村岡素一郎という民間の一研究家が、『史疑徳川家康事蹟』と題する奇書を、東京の民友社から出版した。わずか一八二ページの文語体の小冊子にすぎないが、その内容は、奇怪この上ない史論である。  村岡素一郎は、そのころ東海道諸県の地方官を勤めていたが、あるとき、はからずも、『駿府記』の慶長十七年(一六一二)八月十九日の条に——御雑談の中、昔年《せきねん》、御幼少の時、又右衛門某と云う者あり。銭五百貫にて御所《ごしよ》を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至り、駿河国に御座《おわ》すの由、談《かた》られ給う。諸人|伺候《しこう》皆これを聞く——とある記事を読んで、疑いを抱いた。  これは、当時はや七十歳を越えていた老齢の大御所《おおごしよ》徳川家康が、隠居地である駿府《すんぷ》(静岡市)の城内で儒者の林羅山《はやしらざん》、金工《きんこう》の後藤庄三郎など、気のおけない側近の人々と、雑談していたが、ふと——これは、ずいぶん古いことだが、わしの幼少のころ、又右衛門某という者がいて、銭五百貫で、このわしを売りとばしたため、えらい苦労をした——と、いったのである。  幼少のころ家康が駿府に人質となっていたことは、世に知られていたが、又右衛門某に五百貫で売られたなどいうのは、初耳《はつみみ》であった。そこで林羅山は、あとで、『駿府記』を著述したときに、納得できないままに、家康の話をそのまま記録し——諸人伺候皆これを聞く——と、付記し、証人が存在することを暗示しておいたものとみえる。  この数行の奇怪な記事は、その後、たれに怪しまれることもなく、三百年余を経過したが、明治三十年もすぎて、初めて、東海道諸県の一地方官村岡素一郎の史眼に捉えられたのである。  村岡素一郎は、それ以来、家康の幼少年時代、及び青年時代の事蹟について、徹底的な調査を開始した。しかし、調べれば調べるほど、辻褄《つじつま》の合わない奇妙なことが多い。そこで、数年間も研究した結果、つぎに紹介するような奇抜きわまる結論に到達したため、これを一本にまとめて出版したのである。これが、『史疑徳川家康事蹟』であり、つぎにあげるのが、その所論の要旨である。 [#ここから1字下げ]  ——幼にして駿河の守護大名今川家の人質となり、つぶさに辛酸をなめたと称する松平竹千代。今川義元の先鋒を承って尾張の大高城に兵粮《ひようろう》を入れ、城主の危機を救った十九歳の青年武将松平|元康《もとやす》。織田信長の盟友として近江の姉川・遠江の三方ケ原に戦い、後に豊臣氏に代わって天下の覇権を握った徳川家康。この三人は、全く別個の人物である。そうして、この三人目の徳川家康と称する人物は、願人坊主《がんにんぼうず》と、ささら者の娘との間にできた、私生児であり、三河の豪族松平家とは、なんの血縁もない流れ者なのだ—— [#ここで字下げ終わり]  と、いうのである。  この『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際しては、時の内閣修史局編修官兼東京帝国大学教授|重野安繹《しげのやすつぐ》博士も、 [#ここから1字下げ]  ——東照公は幕府の烈祖、三百年の基業を開く。世にその事蹟を伝ふる者、粉飾《ふんしよく》避諱《ひい》なき能《あた》はず。仮《かり》に、豊臣氏の子孫、歴世絶たざりしならば、則《すなわ》ち、その太閤微賤の時を伝ふる、未だ必しも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑、皆かくの如し。何《いずくん》ぞ独り東照公を怪しまんや—— [#ここで字下げ終わり]  といった序文を書いているし、また、後に言論界の大御所といわれた徳富蘇峰も、民友社に出版斡旋の労を取っている。一冊の定価二十五銭、五百部を印刷したが、当時、読者の反響はたいへんなもので、賛否なかばし、喧々囂々《けんけんごうごう》たる論議の的となったが、この書は、いつしか、市井《しせい》の店頭からすがたを消し、重版のチャンスさえ得られずに終った。  そのわけは、家康の直系の子孫をもって自任する徳川公爵家と、明治政府の要職にあった旧徳川幕臣とが、この奇説に憤激し、『史疑徳川家康事蹟』に対して強圧手段を加えたためだ、といわれている。  ところが、近年になって、作家南条範夫氏によって、この村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』を史資として、「願人坊主家康」、および、「三百年のベール」と題する、短篇と中篇の歴史小説が書かれ、また、作家|榛葉《しんば》英治氏によって、『史疑徳川家康』という考証書さえ刊行され、一部の歴史愛好者の注目をひいたのである。  しかし、時代小説や作家の考証はともかくとして、徳川家康なる人物が三人もいて、果たして、いいものであろうか。歴史家の立場としては、やはり、そんなことは許されないのである。  宮本武蔵か、荒木又右衛門ならばともかく、日本歴史上、第一流の人物の正しい事蹟として、そのような奇説は、とうてい、成りたつはずがない。  そこで、まず、村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』の所説を再検討し、その推論の良否を批判してみたいと思う。それについては、特に、南条範夫氏の著作によるところが多いので、そのことをここに記し、謝意を表しておく。  願人坊主徳川家康の正体  村岡素一郎の所説に従うと、まず、幼時から今川の人質となって駿府にあって辛酸をなめたという松平竹千代という少年は、正史の上では、徳川家康の少年時代とされているが、実際は、そうではなくて、三河の豪族松平元康の嫡男竹千代、つまり、正史でいう後の岡崎三郎信康のことだ、というのである。  つぎに、弱冠十九歳で今川義元の先鋒を承って桶狭間《おけはざま》の戦いに出陣し、尾張の大高城に兵粮を入れた松平元康のことは、正史の上では、徳川家康の青年時代の姿とみなしているが、実は、そうではなくて、三河の豪族松平元康その人なのだ。そうして、この元康を暗殺し、これに代わって岡崎城主となったのは、願人坊主《がんにんぼうず》あがりの世良田《せらた》二郎三郎元信である。この元信が、織田信長と清洲《きよす》同盟を結び、徳川家康となって、後に天下の覇権を掌握する、というのである。そうして、この世良田元信の前身が願人坊主であったことについては、つぎのように説明している。 [#ここから1字下げ]  駿府《すんぷ》の宮の前に住んでいた善七という者の娘のお万《まん》というのが、売りとばされて、七右衛門というささら者[#「ささら者」に傍点]の妻となり、その間に生まれたのが、お大《だい》であった。このお大が宮の前に住んでいた頃、たまたま下野国《しもつけのくに》から流れてきた祈祷僧の江田松本坊と密通して、男子を生んだ。これを国松《くにまつ》といった。  因みに、ささら者[#「ささら者」に傍点]とは、平素は町に出て、ささら[#「ささら」に傍点]や、灯心《とうしん》、付木《つけぎ》などを売り歩くが、正月になると、鳥追い唄などをうたい、門《かど》づけして歩くので、非人《ひにん》あつかいされていた。そうした人々の集団をいうのである。  この、ささら者[#「ささら者」に傍点]出身の国松という子供は、生母のお大が再婚したあと、祖母のお万が源応尼と称して尼となっていたのに養育されたが、やがて、近くの円光院という浄土宗の寺院に預けられ、浄慶と改める。  円光院の住職智短上人は、浄慶に読み書きを教えたが、浄慶は、九歳のとき、他の寺内で小鳥を捕えたことがわかり、破門された。そこで、浄慶は、祖母源応尼のもとにも帰りにくくなり、駿府城下をうろつきまわっていた。そのとき、又右衛門という悪者が、浄慶をかどわかし、銭五百貫文で売りとばした。これが、『駿府記』に出てくる大御所《おおごしよ》徳川家康の述懐なのだ。  ところで、浄慶を買い取った者は、府中八幡小路の願人坊主酒井常光坊であった。願人坊主というのは、寒中素っ裸になって町をまわり歩き、家ごとに、その頭から冷水をかけてもらい、修行する慣いであった。浄慶も、酒井常光坊について行を積み、やがて一人前の願人坊主となり、加持祈祷を施し、守札や秘符を売って歩いていたらしい。ともかく浄慶は、常光坊のお供をして、九歳から十九歳まで十年余、諸方の山野を跋渉《ばつしよう》し、各地の地理・人情・風俗を偵察した。そのうちに、三河国の豪族松平の宗家《そうけ》である岡崎城主松平元康と駿河の今川家との関係を洞察し、永禄三年(一五六〇)の四月、十九歳のとき、同志を呼び集め、駿府の今川|館《やかた》に人質になっていた元康の幼児竹千代(後の岡崎三郎信康)を奪い取り、遠江に遁走した。  その五月、今川義元が尾張の桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、浄慶は、浜松城の井伊直教を攻めて勝ち、竹千代を尾張の熱田に護送し、織田家の人質とした。信長は、岡崎城の松平元康にたいして、今川を叛いて織田と和睦せよと申し送った。しかし、元康は、これを拒絶して、織田がたの属城を攻めた。そのころ、願人坊主の浄慶は、還俗して、世良田《せらた》二郎三郎元信と名のっていた。世良田姓を称したのは、かれを捨て去った父が上野国《こうずけのくに》の新田氏の後裔《こうえい》だと聞いていたからである。冷酷な父の姓|江田《えだ》を取らずに、同じ新田の支族である世良田を称したのであった。  世良田元信は、岡崎城主の松平元康に協力し、各所で織田勢と戦っていた。ところが、たまたま、元康が家臣の阿部弥七郎に刺し殺されたため、元信は、三河に戻り、ひそかに元康の遺骸を荼毘《だび》に付し、さらに敵がたをあざむく必要から、松平元康その人になりすました。  だから、この願人坊主あがりの世良田元信、改名して松平元康こそ、徳川家康となるべき人物であって、死んだ三河国岡崎城主の松平元康と、駿府から尾張に連れ去った元康の長男竹千代、即ち、後の岡崎三郎信康は、共に全くの別人だったのである。  世良田元信を松平元康と改名した人物は、いまはこの世になき岡崎城主松平元康の正妻|築山殿《つきやまどの》を形式上の妻とした。築山殿こそ、亡夫松平元康暗殺の秘密の鍵を握っている唯一の女性だった。したがって、かの女が、後に甲斐の武田氏と内通し、武田の助力を得て、松平元康を徳川家康と改めた人物を亡きものにし、わが子信康をもってこれに代わらせようとたくらんだのも、当然のことといえる。そうして、そのたくらみを知った家康が、織田信長の援助で、築山殿と岡崎三郎信康を暗殺したのも、これまた、当然のことといえるのである。 [#ここで字下げ終わり]  というわけである。  千古のなぞといわれる築山殿事件も、このように解釈することによって、そのなぞが、容易に解ける。  氏《うじ》も素生《すじよう》もない一介《いつかい》の流れ者が、槍ひとすじで一国一城のあるじとなった例は、これ以前にも、美濃の斎藤道三、相模の北条早雲、近くは、豊臣秀吉などがあるが、徳川家康の場合も、この例に洩れない。家康の正体は、願人坊主の浄慶なのだ。三河国の豪族松平氏の宗家の総領ではない。一介の流れ者にすぎない、というのである。  夏の陣以後の家康は替え玉  村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』によると、徳川家康は三人いたことになるが、第一の松平竹千代も、第二の松平元康も、実は、本当の家康ではない。本当の家康は、第三の願人坊主浄慶が還俗した世良田元信なのである。ところが、ある奇説によると、この第三の本当の徳川家康も、実は、大坂夏の陣の乱戦中に戦死してしまい、その後の、いわゆる大御所《おおごしよ》徳川家康は、百姓|老爺《おやじ》の替え玉だというのである。そうすると、家康がもう一人、合計、四人いたことになる。そうしてこの奇説をもとにして書かれた歴史小説に、加賀淳子氏の短篇『消えた矢惣次《やそうじ》』がある。つぎに、その梗概を述べてみよう。 [#ここから1字下げ]  大坂夏の陣たけなわの頃。その日、徳川家康は、平野の陣屋をひきはらい、茶臼山《ちやうすやま》に陣取り、東西両軍の戦況を見おろそうと思い旗本勢を従え、平野へ出ようとしていた。戦況が東軍に有利に傾いていたから、家康は上機嫌であった。しかし、大坂がたの軍師真田幸村は、忍者の報告によって、家康の移動を知り、これを奇襲すべき最後のチャンスが到来したのを悟った。そこで、部下のなかから三百数十名の精鋭を選んで奇襲部隊を編成し、自らこれを指揮し、平野から茶臼山へ行く途中の亀井村の森林にかくれて、家康を待ちかまえた。  家康にとって恐ろしいのは、幸村一人だった。その幸村は大坂城の天王寺口を守っていたのだから、その奇襲部隊が亀井村の森のなかにひそんでいようとは、知るよしもない。たとえ、どのような事態になろうとも、家康のまわりには二十万に近い大軍がいるから大丈夫だという安心感があった。ところが、亀井村の森の辺に近づいたとき、突如として、喚声をあげて、真田隊が家康の旗本に襲いかかった。大久保忠教・本多忠朝・松倉重正などが、協力してこれを防いだ。しかし、あらかじめ用意を整えた決死の真田隊は、見るみるうちに家康の旗本を突き崩し、幸村は家康を目がけて単騎で突進してくる。大久保忠教だけが、最後まで家康の身辺を離れずに護衛した。  徳川二代将軍秀忠は、その翌日、茶臼山の仮本陣で、父家康の死を知った。町駕籠に乗って退却の途中、槍の一突きで、駕籠の中で最期をとげたとのことである。相手は、幸村か、真田の武将か、あるいは、後藤基次か、明らかでなかった。  ところで、家康の討死を知っているのは、秀忠と天海僧正《てんかいそうじよう》のほかに、大久保・本多・安藤・酒井・井伊の諸将など、おもだった者ばかりで、家康を救おうとして重傷を負った小姓は、自刃をとげた。その日、東軍が討ち取った大坂がたの将兵の数は一万一千数百で、圧倒的な大勝利であったが、肝心の家康が非業《ひごう》の最期をとげてしまったのである。  将軍秀忠をはじめ、徳川の重臣たちが密かに協議した結果、大坂城を落とし、豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を確立させるまでは、家康の死を厳秘にすることで、意見が一致した。  そのためには、家康の替え玉を必要とした。  そうして、その替え玉として選ばれたのが、河内国吉田村の百姓、矢惣次《やそうじ》であった。矢惣次の家は、特に裕福ではないが、水呑み百姓という程でもない。中位の下という程度の農家であった。戦乱の時世だったが、六十六歳の今日まで、家も焼かれず、田畠も失わずに、至極おだやかな半生を送ってきた。総領の息子が三十一、次男が二十八、ほかに娘が一人いた。矢惣次は、寄る年波で、やがて畠仕事から手を引き、ゼンマイやワラビ摘みなどして、老後をすごそうと考えていた。二十九で女房を貰った長男に初孫娘も生まれていた。  大坂でまたもや夏の陣が始まると、農村の平穏な生活にも、刻々と危険が迫ってきたが、ある日のこと、草摺《くさず》りの音をたてながら、甲冑《かつちゆう》すがたもいかめしい一隊が、吉田村に侵入してきた。徳川の武将|榊原康勝《さかきばらやすかつ》の部隊であった。  康勝は、夏の陣では、河内口の徳川本軍の一番右備えの中心部隊の大将であり、部下の将兵は二千百人。吉田村付近に陣取るため、目だつ百姓家を一軒一軒検分してまわった。大坂がたの忍者でもひそんでいやしないかと疑ったものとみえる。康勝は、近習の武士数十人をひきつれ、何軒目かで、矢惣次の家に入り、いろいろと尋問したが、そのとき、康勝は、矢惣次の面貌があまりにも当年七十四歳の徳川家康に酷似していることに、一驚を喫したのであった。矢惣次は、さっそく、戦死した家康の替え玉に選ばれた。そうして、間もなく、否応なしに、榊原の手の者に連れ去られた。  百姓の矢惣次は、茶色の羽織に帷子《かたびら》を着け、笠をかぶっていた、死ぬ一日前の大御所家康と、同一の服装をさせられていた。将軍秀忠は、従者に囲まれて、力なく歩いてくる小肥りのその老人を見て、ぎょっとした。瞬間的に、父が生きていたという錯覚に捉われたのである。それほど、矢惣次は徳川家康に似ていた。だから、家康の替え玉として、教育され、訓練された。教育係は天海僧正であった。  大坂が落城し、豊臣氏が滅亡し、徳川の天下となったが、たれ一人、この背の低い、腹の突き出た老人が偽者《にせもの》の家康だと気のつく者はいない。大名や武士たちは、戦勝の誇りと、恩賞への期待に酔っていた。  矢惣次の家康は、京都に凱旋し、二条城の奥まった美しい居間に落ちついた。しかし、天海僧正や徳川の重臣たちは、その後、いつまでも、この危険な人物を生かしておけなかった。替え玉だったということが、何かの拍子にばれたら、大変だ。  矢惣次は、二条城から、はるばる駿府の城に移されたが、その翌年の初夏、鷹狩の帰途、立ち寄った田中城で、城主から鯛の油揚げの饗応をうけた。その日から、次第に体の肉が落ち、スルメの皮を巻いたようになって、死んでいった。四月十七日のこと、大御所徳川家康公は享年七十五で御他界、と公表された。  替え玉の矢惣次は、六十七歳を一期として、毒殺されたのだ。  この奇説を実証するものとして、家康の本当の墓と称するものが、大坂陣のときの家康の本陣、茶臼山の近くの寺にある。そうして、二代将軍秀忠や、三代将軍家光などが、内々で、その寺を訪ね、寺内にある墓の一つに厚い礼拝を捧げたとのことである。 [#ここで字下げ終わり]  これによると、本当の徳川家康は、大坂夏の陣の最中、真田の手にかかって戦死し、その後の家康は、別人の替え玉だった、ということになる。これは、家康が二人いたという説である。しかし、これとても、本当の家康は、ただ一人で、あとの一人は偽者ということになる。  要は、松平竹千代も、松平元康も、大坂夏の陣以後の大御所家康も、みな、別人であって、ただ、願人坊主浄慶あがりの世良田元信の改名した家康こそ、本当の徳川家康だった、ということになるのである。  『史疑徳川家康事蹟』の批判  村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』の内容については、その序文を書いた重野安繹《しげのやすつぐ》博士も、序文のなかで、 [#ここから1字下げ]  ——もし、豊臣秀吉の子孫が現存し、公爵にでもなっていたならば、やはり、秀吉の卑賤な素生を糊塗し、先祖を藤原氏か、源氏に持っていったであろう。だから、家康も、そのような工作を試みなかったとは、いいきれぬ—— [#ここで字下げ終わり]  という意味のことを述べている。そうして、南条範夫氏の「三百年のベール」によれば、重野博士は、村岡素一郎の奇説に対して、 [#ここから1字下げ]  ——自分も、徳川氏の出自が新田源氏だなどということは、全く出たらめだと思っていた。しかし、家康自身がささら者[#「ささら者」に傍点]のせがれだとは、夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説だ—— [#ここで字下げ終わり] と、批評している。そうして、村岡の、 [#ここから1字下げ]  ——史実として成立し得ると、お考えですか—— [#ここで字下げ終わり] という質問に対しては、 [#ここから1字下げ]  ——いやそこまでは、断定できない。いま、君の挙げた全資料を、自分は、同じくらいの反対資料で、片端から反駁できる—— [#ここで字下げ終わり] と、答えた。しかし、また、 [#ここから1字下げ]  ——自分のできる限りの反論のほうが正しいか、君の立場のほうが正しいか。それは、いまのところ、なんともいえない。徳川幕府は、二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し、湮滅《いんめつ》させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽したに相違ないし、また、民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは、疑いない。してみれば、君の立場も、その粉飾され、阿諛《あゆ》されつくした歴史に対する爆弾的宣言として、大いに意義がある—— [#ここで字下げ終わり]  と、言っている。抹殺博士として知られた重野安繹としては、まことに好意に満ちた評言である。いや、抹殺博士なればこそ、却って、このような危険きわまる奇説に対して好意を寄せたかもしれないのである。  ところで、この奇書の出版を東京民友社に斡旋した徳富猪一郎は、自分の主宰する国民新聞紙上に、自ら広告文を書いたが、後に、『近世日本国民史』を執筆したときにも、 [#ここから1字下げ]  ——家康は家康である。新田義重の後裔と言うたとて、別段名誉でなく、又、乞食坊主の子孫と言うたとて、別段恥辱でもない—— [#ここで字下げ終わり] と、書いている。かなり、村岡の奇説に魅惑されていたらしいことが、推測される。 また、近くは、作家の南条範夫氏も、 [#ここから1字下げ]  ——必ずしも、素一郎の所論に全面的に賛成したわけではない。しかし、独力よく三百年のベールを剥がした素一郎の奔放自在な推理力のたくましさに、一驚を喫した。素一郎にして、万一、現在生きていたならば、おそらく、推理小説か、歴史小説にでも手を染めて、一大流行作家になったのではないかと考えた—— [#ここで字下げ終わり]  と、述べている。  村岡素一郎の『史疑徳川家康事蹟』は、このように、明治三十五年発刊当時、多くの人々を驚倒させただけでなく、抹殺博士重野安繹、民間の歴史家徳富猪一郎、作家南条範夫など、一流の人物を魅惑し、感服させてきた。みな、半信半疑ながらも、村岡説の奇抜さと放胆さに圧倒されたらしいのである。  しかし、村岡説は、小説にすれば大変面白いが、史実としては、やはり、成り立たない。初点から、家康をば、北条早雲なみの流れ者と仮定することによって、三河の豪族松平宗家の系図や歴代の事蹟を否定し、岡崎城主松平広忠の嫡男元信の存在を抹殺しているのだ。大体、この奇説を思いつく動機からして、狂っている。 『駿府記』に見える大御所徳川家康の述懐に、 [#ここから1字下げ]  ——幼少の頃、又右衛門某という者がいて、銭五百貫で、わしを売りとばした—— [#ここで字下げ終わり]  とあるのは、松平広忠の嫡男竹千代(家康)が、今川の人質として駿府に送られて行く途中で、戸田康光という武士に奪い取られ、銭《ぜに》五百貫文で、尾張|古渡《ふるわたり》城主の織田信秀(信長の父)に売られたことをいうのである。銭五百貫という数字も、ぴったり合致する。  そのいきさつを述べると、竹千代(家康)の父の松平広忠が、尾張の織田信秀に攻められて、駿河の今川義元に援兵を求めた。すると、義元は、交換条件として、竹千代を人質に出すように、といってきた。そこで、竹千代は、今川の人質となり、松平家臣たちによって、駿府に護送された。時に六歳であった。しかし、竹千代は、駿河に赴く途中、戸田康光という武士のために奪い取られ、駿何とは全く反対の尾張の古渡城主織田信秀のもとに送り届けられた。康光は、このとき、信秀から謝礼として銭五百貫文を貰った。  つまり、竹千代は、敵がたに売りとばされたのだ。『駿府記』に記載された大御所家康の述懐というのは、それをいうのである。 『史疑徳川家康事蹟』は、このときの松平竹千代(家康)を当時二歳の松平竹千代(信康)と説明するが、後年の信康となる竹千代が生まれたのは、桶狭間の戦いの前年の永禄二年(一五五九)、つまり、松平元康(家康)の十八歳の年であって、六歳の松平竹千代(家康)が戸田康光に奪われて織田信秀のもとに売却された天文十六年(一五四七)には、信康の竹千代は、まだ生まれていない。この世に存在しないものを売りとばせるわけがない。  これは、やはり、後年に家康となるべき松平竹千代のことなのである。  村岡素一郎の歴史的推理は、最初から狂っていた。出発点から狂ってしまったので、強引と無理押しが続き、期待どおりの奇抜な結論が作り出されたのである。  つぎに、村岡説では、願人坊主浄慶の世良田二郎三郎元信が、三河の豪族松平元康を暗殺し、これに代わって岡崎城に入り、松平元康と改めたのが、桶狭間の戦いの直後、永禄三年(一五六〇)のことだと、説明しているが、徳川家康関係文書の最も古いものに、弘治二年(一五五六)六月二十四日付で三河の大仙寺の俊恵蔵主《しゆんえぞうす》に宛てた、松平次郎三郎元信の墨印のある寄進状が、岡崎市の東林山大泉寺に現存している。  三河の大仙寺は、松平元信(家康)の生母お大《だい》(伝通院夫人)が、天文十二年(一五四三)、十七歳のとき、つまり、竹千代(家康)を生んだ翌年に創建したもので、開山は、この寄進状の宛名の俊恵蔵主であった。  大仙寺の伝えによると、お大が、天文十一年(一五四二)に懐妊したとき、岡崎城に招かれた俊恵は、城内の持仏堂《じぶつどう》の本尊|薬師如来《やくしによらい》の宝前で、日夜、安産の祈祷を行なった。そうして、その年の十二月二十六日に、竹千代(家康)が無事に誕生したので、お大が、岡崎城の東北方に一寺を創建し、持仏堂の薬師如来を本尊とし、その寺を大仙寺と号したといわれている。  大仙寺は、松平元信(家康)にとって、このように因縁の深い寺であったから、墓参のついでに、寺院を寄進し、殺生《せつしよう》、竹木伐採の禁断、祠堂銭《しどうせん》・徳政の免許、棟別銭・門別銭・追立夫・諸役の免除、守護使不入などの特権を与え、寺域に保護を加えたのである。  この松平次郎三郎元信というのは、明らかに、後の松平元康、すなわち、徳川家康であって、村岡説の世良田二郎三郎元信とは、別人である。  村岡説の世良田二郎三郎元信は、この松平次郎三郎元信の名称から思いついた架空の人物にすぎないのである。なぜかといえば、弘治二年(一五五六)当時、世良田二郎三郎元信は、願人坊主浄慶と名のっていたはずだからである。もっとも、この松平次郎三郎元信を、松平元康の初名とし、本当の徳川家康と関係のない人物と、敢えていうのならば、それまでのことである。ところで、この松平次郎三郎元信(家康)の文書は、もう一通、岡崎市の多宝山高隆寺にも現存する。このほうは、弘治三年(一五五七)五月三日付で高隆寺に与えた定書《さだめがき》である。  この前年の二月、駿河の今川義元は、松平元信(家康)の名代《みようだい》として、松平氏の支族松平義春に命じて、日近《ひぢか》城を攻めさせたが、そのとき、高隆寺の僧徒が義春に応援したので、翌年(弘治三年)の五月になって前年の戦功に報いるために、寺領を安堵し、寺内の自治制を承認したのであった。  松平元信が元康と改名したのは、後世の記録や、家譜では、弘治三年の春、あるいは四月となっているが、この定書を見ると、五月三日でも、まだ、「松平次郎三郎元信」と名のっていたことがわかる。本人の手紙ほど確かなものはない。偽文書では困るが、これは、本物である。当年(弘治三年)元信は十六歳になっていた。そうして、この年の正月十五日、関口義広(親永)の娘をめとっている。それが、後に築山殿《つきやまどの》と呼ばれた夫人である。  この松平元信が元康と改名したのは、弘治三年(一五五七)五月三日と永禄元年(一五五八)七月十七日との間、年齢でいうと、十六歳と十七歳の中間であった。それは、やはり岡崎市の妙台寺に現存する永禄元年七月十七日付で大竹善左衛門に与えた松平元康の記役免許状によって立証される。(拙書『家康の手紙』〈文春文庫〉参照)  元信というのは、今川義元の元《もと》の一字を貰ったもので、明らかに、義元への従属関係を示している。それを元康と改めたのは、祖父松平清康の英名を慕い、康《やす》の一字を継いだものらしく、三河岡崎城主の若殿としての、一歩前進と見られなくもない。これに比べて、願人坊主浄慶が勝手に改名した世良田二郎三郎元信などという姓名は、当時の確実な文献によって実証することは不可能である。おそらく、村岡素一郎の偽作と思われる。  徳川家康は終始一人であった  村岡素一郎の奇説によれば、願人坊主浄慶の世良田二郎三郎元信が、三河の豪族松平広忠の嫡男元康を暗殺して、それに代わって岡崎城主となり、松平家臣を納得《なつとく》臣従させ、松平元康と改名し、死んだ元康の後室築山殿を形式上の正妻として、世間をたぶらかし、尾張の織田信長と清洲《きよす》同盟を結んだという。  だが、そのような巧妙な猿芝居で、果たして、築山殿や信長を納得させることができたであろうか。たとい、松平家臣や築山殿を否応なしに服従させたとしても、信長の眼力で、その正体を見やぶられた以上は、そのままでは、決して、済まされなかったであろう。  実力さえあれば偽者の若殿でもいいというほど、信長も現実主義者ではなかったはずである。  信長ほどの人物が、そのような替え玉の松平元康と同盟を結び、戦国の世にも稀なる美談の花を咲かせる筈もなかろうと思う。  また、築山殿事件のなぞを解決するには、築山殿が松平元康の後室であって、替え玉の秘密を知っており、その子信康も、家康の実子でなかったとすれば、好都合だというが、この事件は、そのような単純な事件ではない、実際の夫婦と親子の間の深刻な悲劇なのだ。  大久保彦左衛門忠教の『三河物語』によると、信康にはなんの過ちもなかったが、その妻が信長の娘(五徳)である。夫婦の間に女子が二人さえあったのだから、不仲もなんとか押えられたはずである。それなのに、信康だけに腹を切らせるとは、むごい仕打ちだと、評する者が多い。この信康ほどの立派な若殿は、またと出て来まい。信康の言動は、後々までも、三郎様(岡崎三郎信康)がこのようにいわれた、といいあって、なつかしみ、惜しまれた。家康も、わが子ながらも、その器量と武勇を愛し、その死を惜しんだが、信長には叶わぬことと、あきらめた、ということである。  信長の命令で、家康も渋々信康を切腹させたのだ。家康が自主的に腹を切らせたのではない。  要するに、徳川家康は、竹千代、松平元信、元康、家康と改名したが、初めっから一人である。大坂夏の陣のとき真田に討ち取られたというのも、作り話にすぎない。 [#改ページ] [#1段階大きい文字]おらが合戦見聞録  これは、天下分け目の関ケ原合戦を、その土地土地の百姓が見聞したところをまとめたもので、百姓Aの覚書は西軍の伏見城攻囲、百姓Bの覚書は西軍の伊勢|安濃津《あのつ》城攻撃、百姓Cの覚書は西軍の大津城攻囲、百姓Dの覚書は東西両軍の関ケ原決戦、百姓Eの覚書は東軍の関ケ原戦勝の情況を、それぞれ、覚えとして書きとめたものである。  全兵討死の伏見城……百姓Aの覚書  わしは、山城《やましろ》の国|小栗栖《おぐるす》近在の百姓である。小栗栖の百姓といえば、かの山崎の合戦で秀吉にやぶれて、近江に落ちのびようとする明智光秀を竹槍で刺しころし、首を取り、秀吉の恩賞にあずかったことで、名が通っている。しかし、あれから数年もたって、あの男は、秀吉の命令とかで、村を追われた。百姓のくせに分に過ぎた振舞いだ、というのである。大名なんて、じつに勝手なものだ。首など届けずに、よろいを剥《は》ぐだけでよかったのだ。大名どうしのいくさには、もう、こりごりしている。家屋敷に陣取られたり、使役にかりだされたり、兵糧米《ひようろうまい》を徴発されたりするのはまだしも、家屋敷を焼かれたり、田圃の稲を刈られたりしたんでは、生きていけない。だいたい、わしら百姓のつくったものをあてこみ、作物のいちばんゆたかな、みのりの秋に、いくさをおっぱじめようとするのだから、ひどい。虫がよすぎる。が、力のないわしらは、どんなにされても、泣き寝入りするほかしかたがない。どっちが勝とうと、負けようと、わしらの知ったことじゃない。だから、いくさは、見物するにかぎる。見世物《みせもの》としては、こんな面白いものは、ざらにあるまいて。  さて、こんど、わしら、近在の百姓たちは、小栗栖山《おぐるすやま》にあつまって、伏見の城が焼け落ちるのを、じっくりと、見物してやった。  伏見の城は、秀吉が隠居所として築いた素晴らしい城だが、この城で秀吉が病死すると、秀吉の遺言によって、秀吉のあとつぎ息子の豊臣秀頼を大坂城にうつし、それを前田利家が輔佐し、徳川家康が伏見城にいて、利家やその他の豊臣家の重臣と相談して、日本の政治を行なうことになった。  ところが、秀吉が死んだ翌年、つまり、昨年のことだが、大坂で前田利家が病死すると、秀吉に代わって天下の政権をにぎろうとする家康と、それに反対して、豊臣の政権を守ろうとする石田三成との争いが、烈しくなってきた。  ところで、今年になって、上杉|景勝《かげかつ》が会津の黒川で反乱を起こしたというので、これを討伐するために、家康が伏見城を出発して会津に下向したのは、この六月十八日のことである。それに際して、家康は、家臣の鳥居元忠・内藤家長・松平家忠らを伏見城の留守居とさだめた。すると、七月十八日になって、石田三成から、伏見城を引き渡せ、といってきた。これは、家康が会津に下向した隙をねらって、三成が、徳川打倒の兵を挙げたからである。  しかし、鳥居元忠は、——拙者は徳川のためにこの城を守るものだ。他の命令に従うことはできぬ——といって、三成の使者を追いかえし、家康の愛妻、侍女などを淀に避難させ、伏見の城の防備をかためた。城兵、あわせて千八百人、これに対して、寄せ手の西軍は、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、小西行長など、四万余の大軍である。  西軍の攻撃は、七月二十六日に開始され、二十九日には、西軍の参謀石田三成が近江の佐和山から伏見に到着して、諸将を激励したので、諸将は競って城を攻め、三十日には、四度にわたって城ぎわに肉薄した。  この日に、西軍の将|長束《なつか》正家が矢文《やぶみ》を伏見城の松の丸に射込み、甲賀衆《こうがしゆう》をさそい、——西軍に内応して松の丸に放火しなければ、なんじらの妻子をはりつけにする——といって、おびやかした。そのために、松の丸を守備していた甲賀衆四十余人が、八月一日の早暁、火を放って、西軍の突入を便利にした。  そこで、西軍は一気に城内に突入し、松の丸と名護屋丸《なごやまる》をうばい、さらに進撃をつづける。そのため、三の丸の守将松平近正、太鼓丸の守将上村政重は討死し、三の丸の守将松平家忠も自害し、兵士八百人も枕を並べて戦死したのだ。  七月三十日の夜、ついに天守閣も焼け始めたので、城将鳥居元忠の士卒が、それをながめ、城の運命を見きわめ、元忠に自害をすすめた。しかし、元忠は、——この戦いは討死を覚悟の戦いだが、防禦にばかりつとめるのは、自分の名誉のためではなくて、徳川のわざわいを軽くするためである。だから、無名の歩卒のために、いのちを落としても、いとわない——といい、元忠自ら、二百余人の手兵をひきいて、三度も城外に討って出て、見ごとに西軍を撃退したが、城兵の死傷者も多く、元忠も数ヵ所に負傷し、ついに城門の石段のところで、よろいをぬいで、腹を切り、同時に、本丸にいた三百五十人の城兵も、すべて討死をとげたということだから、たいしたものだ。  伏見城の落ちたのは、八月一日の午後の三時ごろ。西軍の死傷者も三千人に達したといわれる。城内には女気《おんなけ》がなかったから、それほど見ばえはなかったが、城からあがる紅蓮《ぐれん》の炎は、なんとも凄まじかった。松の丸が焼け落ちるのも、手に取るように見物できた。東西いずれにもつかない、おれたち百姓の得というものさ。  人質をとり込めた安濃津《あのつ》城……百姓Bの覚書  わしは、伊勢の安濃津近在の百姓である。大坂を出て伊勢路に向かった西軍が、まず、東軍に属した富田信高の籠もる安濃津城を攻めようとし、関《せき》と椋本《むくもと》の間に到着したのが、伏見城が落ちてから四日目の、八月五日のことである。  安濃津は、紀伊の東南部・伊勢・志摩の各地から東海道に通ずる咽喉部にあたり、なお、尾張・三河とも通航できる、伊勢湾西岸の要港である。城主の富田信高は、兵三百余をひきいて、家康の会津征伐に従ったが、上方《かみがた》で石田三成が兵を挙げたことを知ると、ただちに安濃津に帰城して、西軍の進出に備えるように、と家康の特命をうけて、関東から西上し、三河の吉田から海路を小船に乗り、帰城をいそいだ。  安濃津の城を預かるのは、信高の妹むこ富田|主殿《とのも》と老臣富田五郎左衛門以下、僅かに二十余人にすぎぬ。進退きわまった主殿が、その子を人質に出し、いつわって降服するふりをよそおいながら、西軍の気勢を制していたとき、帰城をいそぐ富田信高らの舟が、海上はるかに、点々と見えた。城内の将兵は蘇生の思いをしたが、鈴鹿の山麓にあふれていた西軍の兵士は、関東から西上する徳川家康の大軍と思いあやまり、あわてふためいて、鈴鹿の山中や亀山の村かげに逃げ出した奴さえあったから、腰ぬけ武士にもあきれたものさ。  安濃津に帰城した信高は、城の防備に万全をつくしたのはいいが、津の町や近くの在所から多数の老人・子供・婦女子などを人質《ひとじち》に取り、万が一の際に、壮年の町人や百姓が西軍に連れ去られないように先手をうち、かれらを使役として、兵糧米を運ばせたり、また、籠城のための土木工事に従わせたりしたのである。  武士のくせに、卑怯なことをするものだ。勝つために手段を選ばないのが、かれらの常套手段《じようとうしゆだん》さ。  そのうちに、西軍は、毛利秀元・吉川《きつかわ》広家・長宗我部盛親・長束正家らの諸部隊が集結し、総勢三万余となり、八月二十四日から、一斉に攻撃を加えてきた。城内は、それほど広くもない。それに、多数の町人百姓の人質を取りこめていたので、西軍の撃ち出す弾丸は、ことごとく人に命中し、老幼婦女子の泣き叫ぶ声が、おれたちの住んでる村まで、手に取るように聞こえてくる。  むごいことをする奴らだ。こうなると、西軍も東軍も同罪というほかあるまい。いくさをやりたけりゃあ、手めえたちだけで、やりゃあいいんだ。罪もない子供や女まで生地獄《いきじごく》にひきずりこむとは、この悪党めが。七生まで、たたってやろうぞ。  二十五日になって、高野山の木食上人《もくじきしようにん》という偉い坊主がやってきて、城主の富田信高に降服をすすめてくれた。そこで、信高は、坊主の言うことを聞き、人質の老幼婦女子の死骸を踏み分けて城を出て、一身田《いつしんでん》の専修寺であたまを丸め、高野山に登った。そのくらいなら、初めから、いくさなどせずに、坊主になればよかったのだ。  阿鼻叫喚《あびきようかん》の大津城……百姓Cの覚書  わしは、大津近在の百姓だ。わしの、この目で見とどけた大津落城のありさまを、書きとめておく。大津の城は、いうまでもなく、近江の琵琶湖の西南岸に位し、京極高次の居城である。  伊勢の安濃津城が落ちてから半月ほどたって、九月十三日から十五日にかけて、西軍の将毛利元康・同|秀包《ひでかね》・立花宗茂などのひきいる一万五千の大軍が、大津城攻撃を開始した。城兵はわずか三千にすぎないが、よく防戦した。西軍の諸将は、——城内は糧食が豊かだから、長囲は不利であろう。急ぎ力ぜめのほかない——と、軍議が一決したので、城の三方面だけか、湖上からも攻めかけた。また、城の外堀を埋め、塹壕《ざんごう》を掘った。それから、園城寺《おんじようじ》の松林を切りたおし、それを資材として、砦《とりで》を造った。なお、三井《みい》寺の観音堂の前に大筒《おおづつ》を据えつけ、城を目がけ、巨弾を放ったりした。  そのために、城内は、たちまち阿鼻叫喚《あびきようかん》の修羅場《しゆらば》と化した。大筒から放った石火矢《いしびや》が天守閣の二層目に命中して、炸裂《さくれつ》し、柱を吹きとばした。その凄まじさに、城主京極高次の姉の芳寿院《ほうじゆいん》(松の丸殿)の侍女二人が即死し、芳寿院も一時気絶したが、ようやく蘇生《そせい》することができたということだ。  ところが、そのころ、西軍が運びあげた大筒のすぐ近く、三井寺の観音堂の前で、重詰《じゆうづ》めの料理をひらき、水筒《すいとう》まで用意した京都の町人たちが、この城内の修羅場を、のんびりと見物していたというから、世の中に、図太い奴は武士ばかりじゃないことがわかった。あわよくば、裾《すそ》を乱して泣き狂う美しい女どもの金切り声でも聞こえればと、耳をすませていたに相違ない。いやな奴もあったものだ。落城の悲劇を、芝居や物見遊山《ものみゆさん》といっしょにしては困る。  そのうちに、また、木食《もくじき》の坊主が、この城にもやってきて、開城を勧告し、その意見に従った京極高次が、あたまを丸めて高野山に登ったのは、九月十五日、天下分け目の関ケ原合戦当日の朝のことだった。一万五千の西軍を大津の城に釘づけにし、関ケ原決戦に間に合わせなかった高次の手柄は、たいしたものだと、高次は、高野山を下りてから、改めて、徳川家康に重く用いられ、一生、坊主にならなくてすんだ。大名なんて、勝手なものさ。  血の雨が降った関ケ原……百姓Dの覚書  わしは、美濃の関ケ原近在の百姓である。この目で天下分け目の合戦を見た男の一人だったから、われながら、お手柄だった、と思っている。なにしろ、大垣城を中心に関ケ原付近に陣取った西軍の総勢は八万五千、これにたいして関東から西上して関ケ原に到達した東軍の兵力が十万四千。あわせて二十万にちかい大軍が、狭い原野の中でもみあったのだ。  もっとも、実際にもみあった兵力は、東軍七万六千、西軍は三万五千にすぎないから、西軍石田方が敗北したのも、もっともである。西軍には、毛利秀元や吉川広家のように、初めから形勢を観望して、いくさをやらなかったのもいるし、小早川秀秋や脇坂安治のように、中途から裏切り行動に移った奴もいる。ともかく、大名や武将ほど卑怯《ひきよう》な奴はいないということを、この目で確かめてやったのは、痛快だった。  松尾山にいた西軍の将小早川秀秋が東軍がたの銃声によって注意を促され、一万五千の兵をひきいて山をくだり、西軍がたの大谷吉継の陣地に突入したのをきっかけとして、東軍がにわかに攻撃に転じ、西軍は総くずれとなり、大谷は自害し、小西・宇喜多・石田は山中に敗走し、島津は東軍のまん中を突破して、伊勢にのがれる。山上で形勢を観望していた西軍の将毛利秀元は近江に走り、吉川広家は東軍に降参した。長束《なつか》正家・長宗我部盛親・安国寺|恵瓊《えけい》も、敗報を聞いて、伊勢その他の方面にのがれるといった、だらしなさである。  戦いは、九月十五日の午前八時ごろに始まり、終ったのが午後二時ごろだった。東軍がたでも、松平忠吉と井伊直政は、牧田街道で、負傷のため落馬し、直政のほうは、一時、失心したが、運よく、九死に一生を得た。  午後四時ごろから、昨夜のような大雨となった。この決戦は、豪雨に始まり豪雨に終ったといってよい。その夜、東軍がたの陣屋は、どこも水びたしで、飯もたけないほどだった。そこで、徳川家康は、使番《つかいばん》を走らせ、——米はよく水に浸しておき、戌《いぬ》の刻《こく》(午後八時ごろ)になって食べよ——と、諸陣に触れさせたというが、さすがは家康だ。兵士が生米《なまごめ》を食って腹痛を起こすのを予防したわけである。  西軍の戦死者が八千余人、東軍が四千余人といっているが、ともかく、野山の草木も血にまみれ、不破《ふわ》の河水が溢れて、死骸を押し流し、水の色が紅に変わった。決して、絵そらごとや、草双紙の筆の綾ではない。わしのこの目で見とどけたありさまだ。  勝者の悲哀、佐和山攻め……百姓Eの覚書  天下分け目の関ケ原合戦も、どうやら終ったが、わしは、なおも、いろんな場面を見物してやった。勝利者の悲哀ということが、よくいわれる。いくさに負けたほうのみじめさは、いうまでもないが、勝ったほうも、それほど愉快なものではないらしい。九月十五日の夜、藤古川《ふじこがわ》のほとりで短い睡眠をとった家康は、つぎつぎと、西軍の降将を引見した。  それから、西軍の主将石田三成の居城佐和山を攻め落とすことになったが、東軍も疲労しきっている。十六日から、諸部隊が中仙道を続々と西上し、近江の佐和山のちかくに集結し始める。東軍の総大将家康は、はやくも、佐和山の南の野波村の東に到着し、平田山に陣を張った。  陣屋は、八坪ばかりの、わらぶき屋根の、おそまつな納屋《なや》だった。入り口には戸もなく、脇に小さな窓が一つある。内は土間《どま》で、しめっぽかった。その土間の半分に、佐和山の町から取りよせたという畳《たたみ》をしき、御座所をこしらえた。本陣付近の警備は実に手薄で、武装した御番衆が、十町二十町と離れて点在する農家に分宿していた。旗本の将士も、野陣を嫌い、みな、本陣から一里も離れた民家に宿泊した。東軍が佐和山近在の農家に放火しないのも道理である。烈しい戦いに続く強行軍のために、将兵ともに疲れはて、在所の百姓家に、正体もなく、身を横たえているのだ。  こんなにまでして、いくさをしたがる大名の気が知れぬ。人間は、ほんとうに疲れれば、喧嘩もできないはずだ。わしら百姓にくらべれば、かれらには、ひまがありすぎるのだ。 [#改ページ] あとがき  私が戦国時代の日本歴史に興味を持ったのは、東京大学の史料編纂所の業務嘱託として、『大日本史料』十一編の編纂に従事した昭和初年のことである。その頃から、公務の余暇に、戦国時代の歴史的事件や人物に関する小論、史談のたぐいを、『史学雑誌』・『歴史地理』・『歴史公論』などという月刊誌に発表してきた。それらの小論・史談を一冊にまとめた最初の著書が、『戦国武将の生活』(昭和十七年、青磁社)である。これは、角川書店の前社長角川源義氏の懇望で、内容を大々的に改訂し、昭和四十四年、「角川選書」に収められた。それが、戦後版『戦国武将の生活』である。  ともかく、大戦後は、歴史の見方もだいぶ自由になってきて、歴史的事件でも、人物でも、特定の史観に捉われずに、裏の裏まで探究し、検討することが可能になってきた。言論や文筆の自由があるていど保証される、有り難い世の中となってきたせいである。そんなわけで、筆者の歴史小論や史談も、しだいに奔放自在なものと化し、いささか、歴史小説、あるいは、推理小説じみてきさえした。それらの小篇を、新人物往来社の鎗田清太郎氏の勧めで、かき集めて体裁を整えたものが、この『戦国史疑』であり、昭和三十四年から最近にかけて、月刊誌『人物往来』や『歴史読本』に発表したものが、内容の殆どを占めている。  本書は、全文を五章、十七節に分け、第一章には、まず、戦国時代史に関する謎の問題を提起し、つぎに、当人の実力だけで成り上がった七人の大名、乱世における武将の生き方、元服、初陣、政略結婚の実例などを紹介した。第二章では、戦国武将のうち、とくに武田信玄と上杉謙信を中心として、その生涯の活躍ぶり、人間像などについて論述した。第三章には、信長と秀吉の事績と人物を評し、第四章では戦国時代における七つの異色集団について述べ、そのうち、とくに堺の町衆のこと、および武将と富商をめぐる名物茶器の争奪戦などを紹介した。そして、最後の第五章は、関白秀次乱行事件の顛末、徳川家康にまつわる奇談、関ケ原合戦の側面観について述べた。  全体を通じて、史論じみたものがあるかと思えば、書きたい放題のことを書いたもの、やや歴史小説ふうに推理をめぐらし、いささか脱線して、面白く表現しすぎたものもなくはない。通説や異説にたいする辛辣な批評も見られる筈である。とくに、第四章の「天下御免の堺衆」では、千利休の死因について、諸氏の臆説・推論を批判し、最近の自説を主張しておいた。なお、その詳細については、東京堂出版から近刊の拙著『千利休研究』を参看してほしい。  戦国時代史の研究書の完全なものは、まだ刊行されていない。日本中世史・近世史の未解決な問題を多量に含有しているからだ。歴史的事件についても、人物伝にしても、未発表な分野が甚だ多い。筆者も、これまでに『斎藤道三』(新人物往来社)、『明智光秀』(新人物往来社)、『石田三成』(エルム)、『淀君』(吉川弘文館)などを世に問うたが、北条早雲・松永久秀・太田道灌・北条氏康・今川義元・山中鹿之助など、未刊行のものが、次々と、かぞえられる。研究者諸氏の奮起を促したい。 [#ここから2字下げ] 昭和五十一年水無月吉祥日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]東京都武蔵境桜橋豊梅庵にて    桑 田 忠 親  [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 文庫本刊行に際してのあとがき  この拙著『戦国史疑』の内容と組み立てについては、去る昭和五十年に私が本書の巻末に書いた「あとがき」の通りである。  本書は、これまで「講談社文庫」に入れていただいた『石田三成』(昭和五十七年十月刊)、『明智光秀』(同五十八年六月刊)、『斎藤道三』(同年九月刊)のような、一人の戦国武将の伝記ではない。戦国時代に起こったさまざまな事件、活躍したいろいろな人物に関する謎《なぞ》の解明につとめ、それらについての従来の諸説を、正確な史料である古文書や古日記を典拠として、その誤りを是正し、批判したものである。本書を『戦国史疑』と題したゆえんである。巻頭にのせた「戦国史謎の事件と人物」は、その意味で、本書の序説とみてよい。  つぎの「戦国七人の成り上がり大名」は、裸《はだか》一貫、または地方の小土豪から戦国大名に立身出世した北条早雲、斎藤道三、松永久秀、毛利元就、長宗我部元親、織田信長、徳川家康の七人を挙げてみた。このうち、早雲に関しては、特に、その生国《しようごく》や素姓《すじよう》について諸説が横行しているので、私の信奉する実証史学の立場から、早雲|素浪人《すろうにん》説を主張し、その理由を述べておいた。「戦国七人の首取り武将」では、首取り武功の反面に武将たちの行なった戦死者の冥福をとむらう仏事について述べ、彼らも、心よわい人間であったことを実証してみた。「初陣《ういじん》にみる戦国武将の生き方」は、好読み物といわれる自信がある。現代少年に読ませたい。そのほか、武田三代。信玄の活躍ぶり。不犯《ふぼん》の名将といわれた上杉謙信にまつわる謎。信長の強豪ぶり。信長が浅井・朝倉の連合軍と雌雄を争った姉川合戦にまつわる美女お市姫《いちひめ》の物語り。つぎは「秀吉の人物と業績」。ここで、英雄太閤秀吉の面目を新たにさせた。ついで、「肖像画に描かれた秀吉の顔」も、詳細な考証である。つぎに、「戦国七つの異色集団」のうち、とくに堺の町衆《まちしゆう》を取りあげ、千利休の死因について独自の見解を述べておいた。楢柴《ならしば》茶入れの争奪戦も、当時いかに名物茶器が重んぜられたかを知ってほしいため。殺生《せつしよう》関白|乱行《らんぎよう》事件は、いささか歴史小説じみている。「徳川家康は四人もいた」は、明治の奇書として知られた村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』をば、実証史学の立場から徹底的に批判し、その史論の誤りを指摘してみせた。私の生涯の快事だったと思っている。巻末の「おらが合戦見聞録」は、各地の百姓の目からみた関ケ原合戦の情景であるが、戦況そのものは史実に基づいているので、発表当時、今は亡き東洋史学の大家石田幹之助氏に絶賛された。これは、その後、さらに面白く書き改めたものを、拙著『戦国史談』(昭和五十五年、潮出版社刊)に発表しておいた。なお、本書を「講談社文庫」に入れるにあたって、講談社文芸局の諸氏のご高配にあずかったことにつき、深甚の謝意を表したい。   昭和五十九年卯月吉祥日 [#地付き]桑 田 忠 親