[#表紙(表紙.jpg)] 優しい去勢のために 松浦理英子 目 次[#「目 次」はゴシック体]   端書き  ㈵ 時代   アフリカ救援活動について感じた二、三の事柄   あなたは女子プロレスを観たか   犬よ!犬よ!   発声的認識論   Xからの電話、あるいは二人の怒れるカス女   恋し厭わしスクール・デイズ   〈なまもの〉について   月経お祓い   〈残酷〉な写真   性器のないエロス   性器からの解放を   マウトハウゼン・モナムール  ㈼ 印象   反逆児たちの和解   男が女に変わる時   人形と人間の舞台   豊川誕の官能性   ジョン・モルダー・ブラウンの記憶   〈生涯一美少女〉ジェーン・バーキン   われらがヒーロー1   われらがヒーロー2   われらがヒーロー3   ボテロ・トリップ   プリンスの成熟   観念の吹出物 [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]1 『インディア・ソング』サウンドトラック盤[#「 『インディア・ソング』サウンドトラック盤」はゴシック体] [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]2 マルキ・ド・サド『RUEDESIAM』[#「 マルキ・ド・サド『RUEDESIAM』」はゴシック体] [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]3 ヴァージン・プルーンズ『HERESIE』[#「 ヴァージン・プルーンズ『HERESIE』」はゴシック体] [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]4 コックニー・レベル『THEHUMANMENAGERIE』[#「 コックニー・レベル『THEHUMANMENAGERIE』」はゴシック体] [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]5 セックス・ギャング・チルドレン『SEBASTIANE』[#「 セックス・ギャング・チルドレン『SEBASTIANE』」はゴシック体] [#2字下げ]音盤的祝福(ディスコングラチュレーション)[#「(ディスコングラチュレーション)」はゴシック体]6 アリダ・ケッリ『SINNO'ME MORO』[#「 アリダ・ケッリ『SINNO'ME MORO』」はゴシック体]  ㈽ 文学   「沈黙」に至る旅『暗い旅』[#「『暗い旅』」はゴシック体]   口承文学としての『紫のふるえ』『紫のふるえ』[#「『紫のふるえ』」はゴシック体]   ジャン・ジュネ、性器なき肉体   スティーヴン・キングの恥しい快楽   受け身に徹する男性『女からの声』[#「『女からの声』」はゴシック体]   『嵐が丘』異常な傑作『嵐が丘』[#「『嵐が丘』」はゴシック体]   一流のB級小説『蜘蛛女のキス』[#「『蜘蛛女のキス』」はゴシック体]   鋭敏多感な少女のモデル・タイプ『鏡の中の女』[#「『鏡の中の女』」はゴシック体]   ナチス占領下の子供たち『星の子』[#「『星の子』」はゴシック体]   ナチズムと小児性『ヒットラー売ります』[#「『ヒットラー売ります』」はゴシック体]   強制収容所における良心『パサジェルカ(女船客)』[#「『パサジェルカ(女船客)』」はゴシック体]   性愛小説には性描写を『エデンの園』[#「『エデンの園』」はゴシック体]   〈母性〉神話は罪つくり『パパはごきげんななめ』[#「『パパはごきげんななめ』」はゴシック体]   正攻法の同性愛青春小説『潮騒の少年』[#「『潮騒の少年』」はゴシック体]   ブラザー・フロム・アナザー・カントリー『讃歌』[#「『讃歌』」はゴシック体]  ㈿ 優しい去勢のために   去勢への旅立ち、新たなるタイム・トリップ   欲望の処方箋   肛門、此岸のユートピア   ルナティック・ドリーム女性器篇   POP NAVEL POPPIN'   セックス・ギャング・チャイルドの歌  ㈸ 性愛   性と生の彼方——両性具有とプラトニック・ラヴ   マゾヒストの悪意   神経症的恋愛   レスビアン・フェミニズムとSM   「セク・ハラ」が浮き彫りにしたもの   女は男をレイプするか   女性の〈少年性〉   淡白な若者たち [#改ページ] [#地付き]端書き   本書には一九八一年から一九九〇年までの十年間に書いたエッセーが収められている。八一年と言えば二冊目の小説の単行本の出版があった年で、確かその頃から依頼に応じてエッセーを書くようになったのだった。  二冊目の小説はごく一部の支持を除けば悪罵をもって迎えられ、新しい作品を書いても活字になることはなくなり、以後数年間文芸誌とのつき合いも途絶えたのだが、それでもエッセーは月に二本くらい書いていた(一度文筆業界に名前が出ると、誰にでもその程度の注文はある)。八七年に刊行した三冊目の小説『ナチュラル・ウーマン』も、ごく一部では高い評価を得たもののほとんど黙殺され売れもせず、小説を書く意欲は殺がれたけれども、エッセーは興味のある題材での依頼があれば引き受けた。  昔書いたエッセーをこうしてまとめて読み返すと、特に初期の時事的話題に触れた文章において、構成、語り口等技術面での下手さ、芸のなさに赤面すると同時に、「何をそんなに昂ぶっているの?」と過去の自分に訊きたくなるほど険しいものの言いかたをしているのに驚き呆れ青ざめ、若気の至り、人間性の未熟ということばが肌身に滲みて来るのだが、ろくなことのなかった、鬱屈して過ごした十年間に、投げやりにも卑屈にもならず、自惚れと緊張感を保持し続けた図々しさ、ふてぶてしさだけは買ってやってもいいかと思わないでもない。呆れたついでに思い出せば、二十代の頃私は、いずれ世間を刮目《かつもく》させる性愛に関する一大論文を書くのだ、と無教養なくせに身のほど知らずな野望を抱いていたのであった。 『親指Pの修業時代』を刊行した現在の私は、やはり小説こそ最も具体的で機能的かつ倒錯的な他者の誘惑装置だろう、と信じるようになったので、論文を著わそうとはあまり考えていないのだが、かつて書こうと計画していた論考の断片は本書のあちこちに散見されるはずである。いや、非=性器的なエロスの称揚という『親指Pの修業時代』で展開したテーマは、多くのエッセーに通底していると言うべきだろうか。  ことに「優しい去勢のために」と題した六篇の——呪文とも散文詩ともつかないテキストだが、とりあえず——エッセーには、何とかして性器結合中心主義的性愛観を突き崩そうという情熱が込められ、二十代半ばから今に至るまで私が思い続けていることのエッセンスが凝縮されており、愛着が深い。ところどころ青臭くて恥しい部分がある——たとえば、性欲とは〈個体の有限性〉を否定し他者と結ばれることで〈全体〉に至ろうとする欲望である、といった表現は、たぶんバタイユの影響だったのだろうと推測できるが、今なら書かない——が、是非とも本にしたいと願っていた文章だった。だから本書の題名にも流用した。  私にとっては一九八〇年代は気分よく思い出せる時代ではないけれども、ものを考える時間だけは充分にあったという点では懐しく感じられないでもない。また、知名度の低い私を、商業的な価値判断とは別なところで認め書く場所を与えてくれた編集者がこれだけいた、という事実を振り返ると、改めて感謝の意を表わさないではいられない。  これらのことばは、雑誌に掲載された当時は遠くまでは届きようのない小さな呟きに過ぎなかったのだが、一冊の本にまとめられたことでいくらか力強く響くだろうか、と想像すると、心楽しくもあり怖くもある。ことばが虚空に消えるのではなく、しっかりと読者に受け止められることを期待して、今もう一度放つ。 [#改ページ]   ㈵ 時代[#「時代」はゴシック体] [#改ページ]   アフリカ救援活動について感じた二、三の事柄  USA・フォー・アフリカの『ウィー・アー・ザ・ワールド』は、わが国でも大いに売れたようだ。聴き応えのある曲ではあったし、何と言ってもアフリカ飢餓救済チャリティという目的は崇高だし、まずは売れてめでたいと言っておこう。ただし、いくつか疑問点はある。  第一に、なぜ人気ミュージシャンをわざわざ五十一名も集めなければならないのか、ということである。ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンのデュエットでもいいはずだ。あるいは、御両人の他にこの企画の発起人であるハリー・ベラフォンテ、クインシー・ジョーンズ、ケニー・ロジャースを加えた五名でも。大勢呼びつけてほんの数小節ソロで歌わせたりバック・コーラスを割り当てたりする必要がどこにあるのだろうか。  確かに歌い手たちが次々とソロをとり個性を競うさまには喉自慢大会風の楽しさがあるが、しかし、人気者たちが寄り集まり一緒に歌を吹き込んでチャリティ・レコードとして売り出すなどという発想は、今やあまりにも素朴で楽天的に過ぎるように思う。もっと悪く言えば安直なのである。  そこには、有名ミュージシャンの名前を餌にして話題性を盛り上げよう、レコードを売ろう、企画に箔をつけよう、事業を後世に語り継がれるものにしよう、という意図が見え隠れしている。つまりスター・システムの上に胡坐をかいて高みから大衆を煽ろうとしているのだ、と言うと言い過ぎだろうか。けれども、発起人の一人であるケン・クレイガンなるマネージメント業の男が企画に参加させるアメリカのベスト[#「アメリカのベスト」に傍点]・テン[#「テン」に傍点]・アーティスト[#「アーティスト」に傍点]を選ぶべくヒット[#「ヒット」に傍点]・チャート[#「チャート」に傍点]を眺めた云々、との裏話には愚劣さを感じないではいられない。  LPレコードのジャケットの参加者全員の記念写真も何か時代が逆行したような印象である。六〇年代のヒッピー・コミューンじゃあるまいし、大の大人が何を嬉しがって手を繋ぐのか。七〇年代に黒人歌手スライ・ストーンが「嫌いな奴を同志《ブラザー》なんて呼びたくない」と歌って、甘ったるい連帯意識を批判したというのに。  要するに、その無邪気さ・楽天性が眼に余るUSA・フォー・アフリカの関係者はもう少し考えてもいいのではないか、ということである。今のままだと、『ウィー・アー・ザ・ワールド』のレコーディングは、ポップ・シンガーとしての地位だけでは飽き足らず社会的影響力・政治力をも備えた時代の旗手になりたいという野心を抱いたライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソンらにお人よしの有名ミュージシャンたちが乗せられただけの、(少し世のためにもなった)茶番劇に過ぎない、と皮肉られてもしかたがない。 「飢えた子に役立つのは芸術ではなくパンである」という意見がある。三十年だか四十年だか前にジャン・ポール・サルトルあたりが言い出した意見で、似たようなものに「本当に飢えている人は音楽などやっている余裕はない」というのもある。一見他者に対して想像力を働かせているようだが、国民の大部分が自分を中流階級と認識している一九八五年現在の日本にあって、少数派の貧乏人である私には、飢えや貧困を観念的にしか捉えていない意見と思える。  たとえば、かつてのアメリカの黒人たちは彼等を取り巻く環境が苛酷であったからこそブルースを歌ったり聴いたりすることに楽しみを求めたのだし、東南アジアの難民キャンプの子供たちがほしがるのは食糧や衣料以上にハモニカであると聞く。飢えが慢性化している状況下にあっては、一時的に腹を満たすことよりも無限に楽しみを惹き出せる音楽の方が求められているらしいのである。  エチオピアやガーナの事情と東南アジアの難民キャンプの事情は異なっているだろう。医薬品の輸送や給水施設建設のための寄付ももちろんたいせつだろう。  しかし、ミュージシャンがミュージシャンの立場から本当にアフリカ救済を考えるというのなら、お手軽なチャリティ・レコードをつくるのもいいけれども、一度はアフリカの現地に赴いて人々を慰めるための無料コンサートを開いてみればいいのではないか。音楽という一般の人間の持たない国境を越えたコミュニケーション手段を持っているのだから有効に使うべきである。  もっとも、USA・フォー・アフリカに参加したミュージシャンの中で、アメリカの流行音楽に毒されていないアフリカ人の耳に訴えかける実力を備えた者が、はたして何人いるだろうか。マイケル・ジャクソンが歌ってもアフリカ人は退屈するような気がしないでもない。  USA・フォー・アフリカの話からは逸れるが、先に掲げた「飢えた子に役立つのは芸術ではなくパンである」といった類の、一見鋭そうでありながら実は観念的でしかない意見の例が今一つある。昨年の夏アフリカの難民キャンプを慰問した黒柳徹子氏が華美なドレスを着ていたのがけしからん、とする意見だ。  これも、いかにも中流階級に属する人々の言いそうなことと感じられる。億単位の金をかけた舎屋を建ててもらったコアラに嫉妬したのもこういう人々であろう。裕福でない家の子供たちがコアラを見て味わう喜びは、月に一度ビーフ・ステーキを食べることの喜びよりももしかすると大きいかも知れない、と考えてみたことなどないに違いない。  けしからん、と非難された黒柳側の人々の応答も珍妙なものであった。「汚ない恰好をして行くとかえって失礼ではないか」「黒柳さんはドレスを着たまま難民の子供を抱き上げることができる」「終戦直後、日本の女性がアメリカの婦人の美しい服装を見て憧れたように、アフリカの人々に美しい服への憧れの気持ちを抱かせてあげるのである」等々。  どんな服装で行ったっていいではないか、と思う。贅沢な西洋文明からは離れた場所にいる難民たちに、黒柳氏の着ている服が華美な物か普段着なのか正確にわかるわけがない。と言うより、彼等にとってそんなことは大した問題ではないだろう。日本の貧乏人が、純金と十八金の光沢の違いに気づかずカシミアとラムズ・ウールの着心地の違いを知らず、なおかつそれを少しも苦痛に感じていないように。  慈善行為というものは全く難しい。特に現在のアフリカのような状況の場合、何をどういうかたちですればいちばんよいのかわれわれにもわからないし、おそらく現地の難民たち自身にもわからないであろう。  また、考え込んでしまうと慈善はなせない。今私があの人々に対してこういう行為をすることにはどういう意味があるのだろうか、私にとって慈善とは何であろうか、という風に思案し始めると身動きがとれなくなる。  そこで思い出すのは、七〇年代の初めにバングラデシュ救援のチャリティ・コンサートを開いたジョージ・ハリスンの科白《せりふ》である。 「なぜやるのか」と訊かれてハリスンは「友達(ラヴィ・シャンカール)に頼まれたからだ」と明快に答えた。なるほど行動する人というのは理屈をこねない人なのか、と思った。  アルジェリア解放運動に参加したホモセクシュアルの作家ジャン・ジュネも「アルジェリア人と寝なければ解放戦線を支持することはなかっただろう」と非常に率直な発言をしている。徹底的に個人的で単純な動機から始まる行動は、道徳や宗教で足場を固めた行動につきまといがちの胡散臭さや偽善性がなく、かえって信じられる。  してみると、USA・フォー・アフリカに参加を求められて応じたミュージシャンたちも、考え過ぎて何もできなくなることよりも立ったついでにゴミを捨てに行くほどの気楽さで身軽にスタジオに出向くことの方を選んだ、というわけなのかもしれない。彼等がお祭り気分で喉自慢大会を繰り広げハンド・イン・ハンドで記念写真に収まったことを、能天気とからかうのは不当かも知れない。  ——と、譲歩しかけたが、やっぱりおかしいものはおかしい。彼等はからかわれて当然だし、からかわれることで行為をねぎらわれる。  ちなみに私は『ウィー・アー・ザ・ワールド』の国内盤LPを買った。表題曲以外で三回以上積極的に聴く気になれたのはプリンスの『フォー・ザ・ティアーズ・イン・ユア・アイズ』だけであったが、チャリティ・レコードだからまあいいかと思っている。 [#地付き](「スタジオボイス」'85年9月号) [#改ページ]   あなたは女子プロレスを観たか  一九八五年、あなたは女子プロレスを観ただろうか? もしもあなたが、女性の中で最も新しく良質な一群がどのような感受性を持ちどういう風に生きようとしているか知りたいなら、女子プロレスを観ればよい。まずは書店にて女子プロレスのムック(なるべく全選手のプロフィールを詳しく紹介した記事の載っている物がいい)を購入し、レスラーたちが近頃テレビや雑誌で見かけるどの女性歌手・女優・女性文化人よりも生き生きとした顔つきをしているのを確認した上で、会場に出かけ特別リング・サイドに陣取って紙テープを投げつつ観戦することだ。  お色気ショーまがいの見世物を期待して行き選手の体に触ろうものなら、あなたは百二十キロのバーベルを持ち上げる彼女等の腕に殴り倒されるだろう。宝塚の格闘技版と高をくくって行くあなたは、リングに現われるのが王子様や騎士ではなくメアリー・ポピンズやコメットさんのようなスーパー・ウーマンであるのを認めて恥じ入るだろう。両性具有的なヒーロー=ヒロインという理想の具体例を求めて行くインテリのあなたは、豊かな脂肪をたくわえた優美なファイターたちの超女性的な肢体を眼にして、時代はあなたが考えているよりも遥かに進んでいることを思い知るだろう。  女子プロレスは美しい。女がこれほどまでに魅力的になれるものかと感動させてくれるがゆえに。  もちろん女子プロレスラーたちの魅力は一般的に言われる女性の魅力とは全く異なっている。顔立ちこそプロレスをやっていなかったなら群がる男たちをかきわけなければ街を歩けないだろうと思えるほど可愛いのだが、何分にも彼女たちは逞しくりりしく強い。リングの上で殴る、蹴る、投げる、跳ぶ、怒鳴る等々、長い間社会的に規定されて来た〈女性らしさ〉など意に介する風もなく暴れまわるのだから。そんな彼女たちがいかにも自由でカッコよく映り、少年少女——とりわけ少女たちを強烈に惹きつけるのはなぜだろうか?  目下の女子プロレス・ブームの立役者クラッシュ・ギャルズの二人(ライオネス飛鳥と長与千種)は、『日刊アルバイトニュース』の一九八五年二月一日号のインタビューで、どうして女子プロレスラーになったかとの質問に答えて、次のような発言をしている。 [#ここから2字下げ] 長与 強くてカッコよくて男にひけを取らない女の人になりたかったんですよね。女のくせにって言われて世界を狭くするのがイヤだった。そういう時に夢を与えてくれたのがビューティー・ペアだったんですよ。    (中略) 飛鳥 そういうのって、女のコにしかわかんない部分あるんですよね。 [#ここで字下げ終わり]  これはあきらかに一つの〈社会の規定〉に対する異議申し立てであるが、彼女たちが男性に対抗しようとしたり男性を見返そうとしているのだと誤解してはならない。対男性意識に捉われることをも含めた〈社会に規定された女性性〉を、二十二歳の飛鳥と二十一歳の千種は越えようとしているのである。二人が言おうとしているのは、「強くてカッコいいのは男で弱くて可愛いのが女だとされているけれど、女が強くてカッコよくたっていいじゃない」ということなのだ。  女子プロレスラーたちが素敵なのは、そのような自由な精神を持ってファイトしているためである。かつての女性解放運動家も小説家・批評家も少女漫画家もなし得なかった自由な精神の表現を、身軽で頭のいい彼女たちは楽々と行なっている。少女たちが憧れるのも無理はない。  以上のことを踏まえて女子プロレスを観るがいい。存分に自分を発揮した女たちの美しさばかりではない。いまだにどんな画家も作家も描き出せないでいる〈現代〉という時代の面白さがはっきりとわかるはずだ。 「なんで、�女のくせに��女だから�っていわれるのかな。男ってそんなにえらいの? 私、そんなのイヤだ。絶対にみとめたくない」と女子プロレスラーたちは怒る(『神聖クラッシュ・ギャルズ』より)。  女子プロレスは、新しい女性たちによる明るい怒りに満ちた筋肉と脂肪の饗宴である。 [#地付き](「キャンパスカレンダー」'85年12月号) [#1字下げ](後記) 文中「豊かな脂肪をたくわえた」とあるが、女子プロレスラーの皮下脂肪を実際に計量してみると、一般の人々よりもその含有量は少ないという。よく考えればあれだけの激しい運動をしているのだから、そういう計量結果が出るのももっともだ、と納得する一方で、ボディビルダーや他のスポーツ選手と比べるとプロレスラーの体つきにはやはり筋肉オンリーではない印象があって、皮下脂肪はなるほど少ないかも知れないけれども、脂肪は計量不能な霜降り状になって筋肉中にたくわえられているのではないか、という疑問も残るのである。もし「霜降り状の脂肪もない」との調査報告がなされたら、本文及び後に出て来る「性器からの解放を」中の女子プロレスラーの脂肪についての記述は訂正しなければならない。 [#1字下げ](文庫版後記) 一九九六年に出版された、パンクラス所属のプロレスラー船木誠勝氏の著作『船木誠勝のハイブリッド肉体改造法』(ベースボール・マガジン社)を読むと、一般の男女プロレスラーたちのあのふっくらとした体つきはやはり脂肪によるもので、脂肪を溜め込まないための食事管理をきちんとすれば、パンクラスのレスラーたちのような、ボディビルダーに近い筋肉の浮き出した体つきになる、ということがわかった。 [#改ページ]   犬よ!犬よ!  宣言するほどのことでもないが、犬が好きである。犬種は問わない。強いて言うなら、あまり大きくない日本犬系の雑種にいちばん心を惹かれるのだけれども、基本的には犬でありさえすれば、大きかろうが小さかろうが洋犬であろうが日本犬であろうが肢が短かろうが鼻が潰れていようが毛がはげていようが耳が欠けていようがかまわない。自分で犬の仔が産めないのが残念なくらい好きである(犬を夫にしたいという意味ではない)。  目下アパート住まいゆえ犬を飼えないので欲求不満が募るばかり、しかたなく散歩中に出会ったよその人の連れている犬を撫でさせてもらったり、近くの公園へ出かけて行ってマスコットとして飼われている二匹の犬に遊んでもらったりして、寂しさを紛らわせている。たとえデート中であっても、犬を見かけると近寄らなければ気がすまない。  なぜこんなに犬に寄せる思いが熱いのか。物心ついた頃から家で犬を飼っていたわけでもなければ、池に嵌《はま》って溺れていると犬が人を呼んで来てくれて助かった、というような美しい経験もない。ただ「犬が好き」という気持ちが証明不要の定理の如く、私の中に晴れやかに存在しているだけなのだ。これはもう生まれつきとでも言うしかない。あるいは前世で犬であったか、犬の守護霊がついているのであろう。  考えようによっては、かくも留保なしに犬が好きであるということはまことにつまらない。犬の登場するさまざまな現象に立ち会うその時々に犬への思いが新しく生成するとか、犬を愛する心の奥を探れば思いがけない屈折や歪みがひそんでいたとか、〈文学〉的な精神の揺れ動きが全くないから犬に関して突っ込んで語ることができないのである。犬の美点を並べたてる気力もない。犬と人との結びつきの明るさと暗さをうまく描いた小説はいくつもあるが、おそらく私には書けないと思う。  犬好きの延長で、人間も犬の好きな人に好意を持つ。別にそれだけでは判断しないが、好感を抱いた人が犬好きだと知れるとよけいに好きになる。不愉快なのは犬の悪口を言う猫好きで、「猫は媚びないが犬はへつらう」などとひとりよがりな決まり文句をナルシスティックにうたう連中にはげんなりする。世の中には圧倒的に犬好きが多いから、猫好きの人々が犬と比較しつつ猫を讃えて存在証明をしなければならないのはわかるのだが、それにしても一部の愛猫家は性格が悪い上にアホである。  ついでにもう一つ憎まれ口を叩くと、猫を見事に手駒として使ったSF小説『夏への扉』の作者ロバート・A・ハインラインも「猫は自由だが犬は奴隷だ」とおよそ想像力を武器とするSF作家とは思えない陳腐な発言をしており、それを読んだ私は「だからあんたの小説はどれもこれも大味なのよ」と聞こえもしない非難の文句を呟いたのであった(もちろん『夏への扉』の最初の三分の一は非の打ちどころがないが)。  かつて町にはたくさんの犬がいた。家を一歩出れば、意識して探さなくとも必ず犬に会えた。首輪をつけた犬もつけていない犬も血統書付の犬も雑種犬も、気の向くままに歩き回り思い思いの場所に身を横たえ人間に頭を撫でられるとゆらゆらと尻尾を振った。銭湯に行けば寒空の下入口の前にじっと座って辛抱強く主人を待つ忠犬を見かけたし、原っぱで口笛を吹けばどこからともなく犬が現われた。  今から思えば夢のようなオールド・アンド・グッド・デイズであるが、昭和四十年代の半ばまでの日本はそんな風だったのだ。「飼犬は鑑札をつけ繋いで飼うように」とのお達しが出てもしばらくの間はさほど厳密には守られず、のら犬ものんびりと世を渡っていたし、残飯をくれる家の庭先に何となく居ついた半飼犬も多かった。事情があって犬を飼えない犬好きの人々も、近辺をうろつく犬を可愛がることで楽しみを得ることができた。  昭和四十年代も後半に入ると、のら犬の数は激減した。保健所による指導が浸透して、放し飼いの犬にもあまりお眼にかからなくなった。三十年代には確かにいた赤犬(食べると美味だと言われる)もふっつりと姿を消した。あんなにたくさんいた犬たちも、飼ってもらえなくて食べられたり埋められたり犬捕りに連行されたりしたのだろうか。町の風景はすっかり変わってしまった。  昭和三十三年生まれ(ちなみに戌年)の私は、犬好きにとっての黄金時代の末期とわが子供時代が辛うじて重なったことを幸運に思わずにはいられない。もっとも、のら犬の減少には地域差があるようで、東京育ちの人の話だと東京ではかなり早い時期にのら犬は〈粛清〉されたという。そうすると、犬とともに町に遊びながら育った最後の日本人は昭和三十年代前半に田舎町に生まれた者、ということになる。  実際、地方都市にはいまだに犬のユートピア時代の名残りがかすかに残っている。おとなしいためか繋がれないで飼われている犬に時々でくわすのである。東京と地方都市の違いはいろいろあるだろうが、放されている犬がいるかいないかということも大きな違いの一つではなかろうか。  例を挙げれば、わが郷里には家の前の歩道に寝そべって思索的な顔つきで一日中国道の車の往来を眺めている白い犬がいる。尻尾を巻かないで地べたに垂らしているので、歩道の幅の半分以上を犬の体が占めてしまう。通行人は嫌な顔一つせず、この〈お犬さま〉の尻尾を踏みつけないように注意しながら通り過ぎる。自転車に乗った人は犬の近くまで来ると降りて自転車を手で押して通る。犬もいっこうに悪びれない。この大らかさ! 昭和六十年にしてこうなのだから、昭和三十年代の人と犬との平和な共存は推して知るべし。  現在の東京の町は暢気《のんき》な犬があまりいないために殺風景に見える。犬を連れて散歩している人は多いけれども、おっとりとした優しげな犬は少ない。一日にたった一度しか散歩させてもらえない犬は、昂奮してせかせかと歩いている。かまわれ過ぎて神経質になった犬は臆病で、知らない人に手を差し延べられると横っ跳びに逃げる。去勢され成犬なのに子供っぽい犬は、やたらにはしゃいでじゃれまくる。鳴き声がうるさくないように声帯手術で声を封じられた犬もいる。気持ちに余裕のない犬が大部分なのだ。  犬もかわいそうだが、今の子供たちのことを考えても気の毒になる。動物を飼えない団地に暮らし人間に引きずられて歩いている犬しか見たことのない子供たちの情操教育はいったいどうなるのか。現在でものら猫ならばどこにでもいるし、金魚や小鳥の愛玩も盛ん、小学校では兎等の家畜も飼われている。しかし、人間に本当になつき慕ってくれる唯一の動物である犬という素敵な友達と大いに触れ合う機会がないとしたら、何かとても有意義なことを学べないで成長することになりはしまいか。  幼い時分には停留所でバスを待つ間にも付近の犬を撫でていた私たちは、犬とのつき合いから親や教師や友達とつき合うのと同様に多くのことを学んだ。しつこく悪ふざけして〈お人よし〉の犬を拗ねさせてしまったり、たまたま不機嫌だった犬に近づいて冷たく吠えられ傷ついたり、いたずらをした犬を強く叱り過ぎて後悔したりするうちに、ことばの通じない動物を尊重する心だけでなく、広い意味での自分以外の存在とのつき合いのマナーまで体得して行ったように思う。  性教育の先生だって犬だった。お尻のまわりの毛を赤く染めた犬や性器を充血させた犬、お尻とお尻をくっつけた犬のカップル、牝犬にすげなくあしらわれてしょげ返った牡犬等を目撃して私たちは不思議な感動を覚えた。また、撫でかたによって犬が発情したり嫌がってよけたり安心しきって眼を閉じたりすることから、エロティックな愛撫と一方的で思い遣りのない触りかたと正しいスキンシップの違いをも理解した(これは後年人間と交際する場合にも非常に役に立った)。  そんな私たちであればこそ、よその犬に秋波を送って呼び寄せる術も知っているし、近年ふえた少しばかり神経質な犬を懐柔して仲よくなることもできる。犬と深い関係を持たなかった子供たちが、ちょっと犬に吠えられただけで犬を怖がるようになるとか、自分で犬を飼えるようになった時にエゴイスティックな愛しかたしかできない、という風でなければよいのだが。  保健所が野犬狩りを実施したのはやはり残念である。狂犬病の犬ならともかく、健全で優しい犬まであの人たちは連れて行ってしまった。批判するつもりはない。すべてののら犬に狂犬病の予防接種をしてやれない以上、町の平和を守るために野犬狩りをしないわけには行かないのだから。私たちは人と犬との蜜月時代を回顧し懐しむのみである。  オラフ・ステープルドンの『シリウス』や丸山健二氏の『シェパードの九月』等、犬好きにはこたえられない小説は数々あるが、何と言ってもベスト・ワンはフィリッパ・ピアスの『まぼろしの小さい犬』であろう。ピアスは『トムは真夜中の庭で』(岩波書店)や『ハヤ号セイ川をいく』(講談社)で知られるイギリスの女流児童文学者で、きめ細やかな心理描写に定評がある。 『まぼろしの小さい犬』は、犬を飼いたいと熱望しながらロンドンの住宅事情のせいで諦めざるを得ない少年がいつしか瞼の裏に幻の小さい犬を見るようになる、という胸の痛くなる物語である。まさに犬好きにとってのバイブルで、私も小学校五年生以来何度読み返したことか。少年少女学研文庫に入っていたこの本はすでに絶版らしい。もし再刊されることになれば、犬好きのための最高のプレゼントとなるに違いない。 [#地付き](「スタジオボイス」'85年11月号)  (後記) 『まぼろしの小さい犬』はその後岩波書店より復刊。 [#改ページ]   発声的認識論  必ずしも一概には言えないが、と限定はつくにせよ、〈顔は人を表わす〉という命題はわりあいに広く承認されているようである。もちろん、顔と精神の相関関係の科学的な証明などできはしない。学問的成果(?)としては人相学・観相学といったものがあるが、血液型による人間判断ほどにも信頼されてはいないだろう。それでも、私たちが顔つきを見て人柄の見当をある程度つけるということを日常的に行なっているのは事実である。  では、〈声〉はどうだろう。声によってある程度声の主の個性なり精神なりを判断できる、と言うとどれくらい共感を呼べるだろうか。実は、〈声は人を表わす〉という考えを今から展開しようと目論《もくろ》んでいるのだが、うまく行くかどうか心もとない。何しろ、声と精神の相関関係についての研究など誰もやっていないのだから。まあでも、戯言となるのを覚悟で始めてみよう。  黒人音楽と白人音楽、対比をわかりやすくするためにリズム・アンド・ブルースとロックと特定しておくが、両者におけるヴォーカルに決定的な差異があることは言うまでもない。  ポピュラー・ミュージックの世界では白人が黒人の音楽を模倣あるいは引用するのが常だから、ロックン・ロール、ブルース・ロック、ブルー・アイド・ソウル、近くはファンク等々、形の上では黒人による音楽とほとんど変わらない白人による音楽も多々あって、よくもこれだけ黒人の演奏や唱法を研究し真似られるものだ、と皮肉ではなく感心するのだが、節回しや間合いの取りかた、アドリブの入れかたや呼吸の具合その他がほぼ完璧に再現されていようとも、やはり〈声〉が厳然として違うのである。  黒人的なヴォーカルの特徴としてはまず、声帯に砂利でも埋まっているのではないかと思うほどハスキーでワイルドな声質が挙げられる。だから、生まれつきハスキー・ヴォイスを備えた白人は黒人風の歌唱にかなり近づける。しかし、それだけでは今一つ陰影に欠けるのだ。ハスキーであってしかも響きがよく通りがよいこと、ワイルドではあっても声色・声音は変化に富み表現の幅が広いことが重要である。  自分でも真似て歌おうとして感じたのだが、黒人ヴォーカルの深い陰影の秘密は発声にまつわる部分にあるのではないか。腹筋から発する振動を食道を通じて声帯に伝え歯と舌で整えて唇の間から音声として開放するのは皆同じでも、細かく検討すれば、黒人と白人では筋肉の使われる部位だとか食道の緊張だとか口腔内での声の溜めかただとかが微妙に異なっているのではあるまいか。黒人の方が発声にかかわる諸器官の使用度が圧倒的に高い、という印象なのだ。  どの部位をどう使っているのか具体的には知りようがないが、黒人が腹部で生ぜしめた振動をあちこちの器官で押さえたり増幅させたり溜めたりして加工した結果、あの特徴的な声ができ上がっているのは確かだ。黒人の腹(胃袋か)から唇にかけての器官は精緻にして繊細な管楽器であるという気がする。黒人の器官に比べると白人のそれはずっと機能が単純で素朴なようだ。一般に黒人の歌唱は「泥臭い」と形容されるけれども、本当は非常に複雑で高度に洗練されたものだと思う。  問題はその次である。解剖学的には黒人の発声器官も白人の発声器官も特別な違いはないはずなのに、機能と言うか働き具合が大いに違うのはなぜなのだろう。  遺伝形式及び民族性の違いとひとことでかたづけてしまうのはたやすい。まさか六〇年代によくいた黒人びいきのように、「黒人にしかわからない魂のためなんだあ」などとぶち上げたりはしないとしても、たとえば、アフリカの言語の音韻の豊富さに着目して、発声器官をフルに使って豊富な音韻を発音して来たアフリカ民族を祖先に持つがゆえに(アメリカでリズム・アンド・ブルースを歌う)黒人の発声器官は白人よりも発達しているのである、と説明することは可能だし妥当性もあろう。だが、この説明だけでは解けない現象がある。  七〇年代初めまでのリズム・アンド・ブルース、ソウル歌手は、地域差や個人差は多少あれど、概《おおむ》ね先ほど述べたような特徴のはっきりしたいわゆる「黒っぽい」声を持っている点では共通していた。ところが、七〇年代半ばあたりからアメリカの黒人たちの声は変化し始めた。急速に「黒っぽさ」が衰えて来たのである。  音楽史的には、変化は南部ソウルの退潮、商業主義的ディスコ・ミュージックの隆盛、楽器演奏もこなすヴォーカル・インストゥルメンタル・グループの台頭、ロックの影響等によってじっくりと歌を聴かせるミュージシャンが減少したことに始まる、とされる。そして、さらに視野を拡げれば六〇年代の公民権運動の成果で七〇年代においては黒人の社会的地位が向上し安定した、という時代背景に考えが及ぶ。  ワシントン市長に黒人が当選する今日に至っては、黒人音楽(ブラック・コンテンポラリー・ミュージックと呼ばれる!)の個性はひどく色褪せ、黒人の声か白人の声か昔日の如く一瞬で判断するのが難しい歌い手が氾濫する。発声器官の多様な使用というアフリカ以来の民族的伝統がここへ来て途絶えたわけではあるまい。状況の変化が声の変化を促した、と見るのは突拍子もないことだろうか。  さて、仮説である。環境(外部)からの圧迫の強弱によって人間の発声は変わるのではないだろうか。精神が圧迫を感受すると身体にも影響が顕われるのは常識だが、発声器官はことに強い影響を受けるのではないだろうか。声を発するとは外部から加わった力に対して反応し働きかけることであるとすれば、発声行為は外部の状況をきわめてストレートに反映するものと言えそうではないか。  身近な例を挙げれば、辛い出来事があって意気銷沈すると、私たちは文字通り胸が塞いでスムーズに発声することができず、重くひしゃげた風な声を出す。昂奮すると声は上ずり震える。リラックスしている時に声は軽やかで素直に出て来る。  この仮説に従えば、七〇年代初めまでは黒人たちは息詰まりそうな厳しい状況の下で、繊細なる発声器官にも強いられた緊張をコントロールしながら歌わねばならなかったために、あれほどまでにヘヴィーで生々しく陰影の深い声を発することができたのだ、と説明し得る。ちなみに、彼等の中でも人種差別の激しい南部で活動していた者の歌唱は、他の地域の者に増して「黒っぽい」個性を発揮していた。  現在のアメリカの黒人歌手たちの声の多くが、いかにもスムーズに発されておりのびやかで耳触りがいいのは、あくまでも公民権運動以前と比べての話であるが、外部からの圧迫がいくらか減じいくらか楽になったことを反映している、ということも全く考えられないではない。  発声によって精神が何らかの圧迫を感受しているか否か、あるいは緊張感を維持しているか否かが察せられる、という仮説は成り立たないだろうか。  以上、アメリカの黒人歌手の声をモデルにして〈声は人を表わす〉という考えの根拠の説明を試みたが、少しは説得力があったかどうか。  思えば、赤ん坊の泣き声はほとんど個体差がないのに、一人前にことばを喋る年齢に達すると声にあきらかな個性が顕われ声だけで誰が喋ったかわかるようになる、というのがそもそもの神秘なのであった。  生まれたての赤ん坊は声質が決定されるほど声帯が固まっておらず、泣いたり喚いたり片言を喋ったりするうちに声帯の形状も定まって行くのかも知れない。だとすると、どれくらい泣いたかどれくらい呻《うめ》いたかということに声帯の形成は影響を受けるかも知れない。ひょっとしたら、声帯の形成と性格の形成は同時進行するものであって、生まれてから一二年の間の経験によって基礎づけられるのは性格のみならず声質も同様なのかも知れない。こう考えれば、〈声〉と人間性とのかかわりについてますます想像をめぐらせたくなる。  身近な人間を観察するだけでも、声が声の主の人となりを表わしている実例はいくつも拾えるだろう。育ちのいいお嬢さんはおっとりした愛らしい声で話すし、気の弱い人の声は細い。自惚れの強い人は淡々と喋るということができなくて厳《おごそ》かな声音で意見を述べようとする。陰険な人の声は必要以上に愛想がよく甘ったるい。観察した事例を収集・整理して統計をとって行けば、少なくとも今ある人相学程度には体系化できるのではなかろうか。  以下は付録で、筆者の観察=偏見に基づく声による人間判断法のマニュアルである。 [#ここから1字下げ] 一、声をナチュラルに発している人はバランスのとれた人格の持主と見てよい。 二、声が喉元で抑えられている等、まっすぐに声を発することのできない人はたいてい、神経質で内向的であるか劣等感を克服しきれないでいる。 三、無闇に口調が明晰な人は楽天的で図太い性格であることが少なくない。 四、発声の粘っこい人は他人への依存心が強い。 五、ヒステリックに聞こえるほど声を甲高く響かせる人は、対人関係にコンプレックスを持っている。 [#ここで字下げ終わり]  ——あまり人様の役には立ちそうにないので、この辺でやめておこう。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年1月号) [#改ページ]   Xからの電話、あるいは二人の怒れるカス女 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] X[#「X」はゴシック体] もしもし、Mさんですか? M[#「M」はゴシック体] はい、Mです。 X[#「X」はゴシック体] あ、どうも。Xです。こんにちは。今、よろしいでしょうか? ちょっと〈厄払い〉の必要が生じまして。 M[#「M」はゴシック体] 〈厄払い〉? と言いますと、また何か出ましたか。 X[#「X」はゴシック体] 出ましたねえ、久々に。何ものにも煩わされず常に心穏やかに仕事をしていたいので、なるべく危険地帯・危険人物には近づくまいと日頃から注意してはいるのですが、それでも時には事故に遭うものです。 M[#「M」はゴシック体] わかります。青信号を渡っていても暴走車にはねられることはある。で、いったいどういう厄災に見舞われたんですか? X[#「X」はゴシック体] あのね。私が視野が狭くて生意気なのは、親の躾が悪いからなんだって。 M[#「M」はゴシック体] 何ですか、それは? X[#「X」はゴシック体] 私みたいな女は三十過ぎたらどうしようもなく惨めで見苦しい人間になるんだって。 M[#「M」はゴシック体] ……。 X[#「X」はゴシック体] そう言われたの。 M[#「M」はゴシック体] 誰に? X[#「X」はゴシック体] 酒場で隣り合わせた人に。知らない人。 M[#「M」はゴシック体] 例の、あれですか、あの連中……。 X[#「X」はゴシック体] ええ、あの、自我肥大症かつ男根増長症の……。 M[#「M」はゴシック体] コンプレックスと自己愛以外には何もない……。 X[#「X」はゴシック体] 甘やかしてくれる慰安婦みたいな女と何千回となくやりました、という顔をした……。 M[#「M」はゴシック体] いまだにジーンズを若さと自由のシンボルのように思って穿いてて……。(笑) X[#「X」はゴシック体] 〈挫折〉の経験を後生大事にかかえていて……。 M[#「M」はゴシック体] 「男と女は寝るだけだ」とうそぶいて、男の親友とはプラトニック・ホモごっこをしていて……。 X[#「X」はゴシック体] 自らの恥部を露出するポーズもあさましい……。 M[#「M」はゴシック体] 要するに、動いて喋るス……。 X[#「X」はゴシック体] あ、それ以上言わない方がいいですよ。どこかであの連中が聞いているかも知れない。 M[#「M」はゴシック体] そうでした。あの連中と来たら、二言目には「犯してやる!」「輪姦《まわ》してやる!」だものね。 X[#「X」はゴシック体] 匿名であっても危ないです。 M[#「M」はゴシック体] しかしまた、なぜまたそんな連中に絡まれる破目に? X[#「X」はゴシック体] うーん、私にはよくわからないんだけど。最初、やたらにこにこして話しかけて来るわけ。 M[#「M」はゴシック体] 安酒場によくいる〈お友達づくり〉の大好きなタイプ? どういうわけだか、友達もしくは子分が多いことが自分の魅力の証明になると考えているような。 X[#「X」はゴシック体] そうそう。それで、自分が何か華やかな——女の子が憧れそうな仕事をしていて、あちこちにコネクションがある、といった類のことをしきりにアピールするの。訊《き》いてもいないのに。 M[#「M」はゴシック体] 俺は大きな仕事をしているがこんなに気取らない気さくな男なんだぞ、と胸を反らせながら。(笑) X[#「X」はゴシック体] 他に話相手もいなかったし、黙って聞いてたの、こちらも愛想笑いを浮かべて。そうすると、だんだんデモンストレーションが派手になって来たの。 M[#「M」はゴシック体] 若い時にこんな凄い経験をしていて、こんな面白い人物に出逢っていて、こんな激しい恋愛を経て来ていて……。(笑) X[#「X」はゴシック体] その通り。でもそんなこと口先だけで説明されたってねえ。(笑) M[#「M」はゴシック体] 素晴らしい経験のわりには腑抜けた顔をしてますね、と言いたくなる。(笑) X[#「X」はゴシック体] だから相槌だけ打ってたの。敵は物足りなさそうだった。(笑) M[#「M」はゴシック体] 向こうはあなたが彼の経験談に圧倒され尊敬の念を抱くことを期待してるから。 X[#「X」はゴシック体] 自己宣伝が一通り終わると、次には私に向かって白々しい御世辞を言い出すのね。 M[#「M」はゴシック体] 定石ですね、あの連中の。「肩が寂しげだね」とか「笑顔に影がある」とか言うんでしょ?(爆笑)真に受けるバカがいるか! X[#「X」はゴシック体] 続いて、「僕は若い時分に人から受けた恩を今の若い人に返したい」と前置きして、「いい人を紹介してあげる」とか「仕事を手伝ってくれないか」と持ちかけるの。「機会がありましたら」と丁重にお断わりしたけど。 M[#「M」はゴシック体] ああ、そのあたりですでに相手のハラワタは煮えくり返っていますね。 X[#「X」はゴシック体] でもやっぱり、彼の善人ぶりっ子にボロが出始めたのは、私が自分の考えを口にし始めてからですね。いや、彼にばかり喋らせてこちらが聞く一方では申しわけないんじゃないか、とついつい思ってしまったもので。 M[#「M」はゴシック体] そこが世馴れていないところだ! X[#「X」はゴシック体] はい、後悔しています。だけど、大したこと言っていないのよ。「なぜ書くかという問はナンセンスだ」とか「苦労した経験はもちろんたいへんに貴重であるけれども、それを特権化して他人を見下すのはいいことではないと思う」といったくらい。 M[#「M」はゴシック体] ごく一般的な意見ですね。 X[#「X」はゴシック体] ところが、それからは滅茶苦茶よ。「ろくな男とつき合って来なかったんだろう」だの「親の躾が悪い」だの「俺はおまえみたいな生意気な女をちゃんとした女に叩き直した経験がある」だの、さんざん。 M[#「M」はゴシック体] ……。 X[#「X」はゴシック体] あげくの果てに「俺にすべてをぶつけてみないか。本物の女にしてやる」と来たわ。 M[#「M」はゴシック体] ……完全に例のパターンですねえ。 X[#「X」はゴシック体] そうなの。見事にいつものパターン。もう飽きた。(笑) M[#「M」はゴシック体] まあねえ、私たちが生意気で小物で女としては下の下でカスに等しい(笑)というのは、おそらく本当のことなんだろうけれど。 X[#「X」はゴシック体] あの連中が皆そう言うからにはね。 M[#「M」はゴシック体] しかし、親とか私たちの過去の恋人まで悪く言わないでほしい。 X[#「X」はゴシック体] 恋人とどんなセックスをしているかということまで訊くのよね。そして、「中年以上の男とつき合いなさい、たとえば俺と」って言うの。冗談じゃないです。 M[#「M」はゴシック体] 不思議なのは、私たちを嫌って罵倒する連中がこちらの方でも全く好きになれないタイプの人物だということ。 X[#「X」はゴシック体] そう、中には一人くらい、本当に尊敬できて、しばらくこの人のそばで吸収させてもらいたい、と思える人がいてもいいのに。 M[#「M」はゴシック体] ぱっと見て「あ、感じのいい人」と思うような人々には私たちも嫌われないし、仲よくなれるんだけど。 X[#「X」はゴシック体] でも、あの連中に言わせれば、私たちのような女のカスと仲よくする男は男のカスであるらしい。(笑) M[#「M」はゴシック体] 隙のない理屈だこと。(笑)結局は、彼等と私たちは種属が違うんですよ。天敵同士なんじゃないの。(笑) X[#「X」はゴシック体] それにしても、あの人たちはどうしてあんな風に自分を個性的だと思い込んでいられるのかしら。 M[#「M」はゴシック体] 「俺は口は悪いが実はとてもいい奴なんだよ」と言いたがっていて……。 X[#「X」はゴシック体] 「こんな俺と寝る女こそ本物のいい女なんだ」と信じていて、誘いに乗らない女は屑だと決めつける。 M[#「M」はゴシック体] 金かコネをちらつかせて女を呼び寄せて、自分を女にもてると思っていて……。 X[#「X」はゴシック体] 人がおとなしくお話を傾聴していればなめてかかり、意見を述べれば生意気だと怒る。 M[#「M」はゴシック体] 自己宣伝ばかりして、それをそのまま相手が受け入れて感動してくれると楽観している。 X[#「X」はゴシック体] 十五年前で思考停止しているくせに、自分の思想が普遍的だと信じている。 M[#「M」はゴシック体] 罵倒の後に必ずおためごかしをつけ加えて……。 X[#「X」はゴシック体] 最後に必ずベッドに誘う。(爆笑) M[#「M」はゴシック体] 頭痛くなって来た。(笑) X[#「X」はゴシック体] あれはつまり(笑)「おまえは生意気でバカでカス(笑)だけれども(笑)俺とセックスしたらまあ眼をかけてやってもいいよ」と(爆笑)親切に……。 M[#「M」はゴシック体] ありがたいですねえ。(笑)それで、「本物の女にしてやる」と言われてどうしたの? X[#「X」はゴシック体] うん。何と言っても、相手は年長者だし、殴り合いになったら勝てるわけないし、怖いから、またまた極力丁重に申し上げました。「あなたは私よりもずっと長く生きていらっしゃってたくさんの人間をご覧になっていらっしゃるから、私のような者は三十過ぎたらどうしようもないひどい女になるであろうということが見通せるんでしょうけれども、私も生意気ついでにもうひとことだけ言わせていただくならば、私は私のやりかたであなたの予想を裏切るような面白い女になって、あなたに、ああ、あいつは俺がこれまでに見たことのなかったタイプの女だったんだな、とおっしゃっていただければと思います」って。 M[#「M」はゴシック体] そしたら? X[#「X」はゴシック体] 理解できなかったみたい。(爆笑) M[#「M」はゴシック体] ああいう人たちは、かつて自分が見ることのできたものしかこの世に存在しないと思っているから、新種・珍種が出て来ても気がつかない。 X[#「X」はゴシック体] いや、気がつきかけても、これまで自分が「血みどろになって」(笑)築き上げて来た世界観が崩れるのが怖いから、見まいとする。 M[#「M」はゴシック体] 見なかったことにして土に埋める。(笑) X[#「X」はゴシック体] ペニスを突き立てて安心する。(笑) M[#「M」はゴシック体] 考えてみればかわいそうよね。 X[#「X」はゴシック体] かわいそうだけど、絡まれると不愉快だし、眼障りよ。 M[#「M」はゴシック体] はい、わかります。でも、いいじゃない。どうせ彼等はじきに×××だから。 X[#「X」はゴシック体] あっ、露骨。(笑) M[#「M」はゴシック体] 一度言ってみたかった。(笑) X[#「X」はゴシック体] そうよね、××のよね、彼等は。私たちより先に。嬉しいわ。 M[#「M」はゴシック体] 一刻も早く××でほしいですね。 X[#「X」はゴシック体] 彼等の最後の一人が××までは私は……。(笑) M[#「M」はゴシック体] いやいや、そこまでこだわるほどの相手でもない。 X[#「X」はゴシック体] (笑)ああ、すっきりした。 M[#「M」はゴシック体] だけど、私たちの悪口は今一つ芸がないですね。 X[#「X」はゴシック体] 悪口の天才太宰治先生のようには行きませんでしたね。 M[#「M」はゴシック体] しかたないです、私たちはパンクなんですから。 X[#「X」はゴシック体] ハードコア・パンク!(笑) M[#「M」はゴシック体] 〈厄払い〉になりましたか? X[#「X」はゴシック体] なりました。どうもお騒がせいたしました。 M[#「M」はゴシック体] いえいえ、またどうぞ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「スタジオボイス」'86年2月号) [#改ページ]   恋し厭わしスクール・デイズ  学校が荒れているという。八五年の新聞は連日の如く〈いじめ〉〈体罰〉〈校内暴力〉の事件を報道した。  陰惨な話ではある。だが、こう言っては不謹慎なのだが、学校の荒廃ぶりがエスカレートしていると聞くと、不愉快であると同時に一種の小気味よさとか爽快感を覚えずにはいられない。もっと荒れよ、そして滅びよ、と心の内でひそかに唱えたくなる。  荒れているのは主に中学校であるらしい。十数年前の自分の生活を振り返るとわかる気がしないでもない。中学校は嫌な所であった。もちろん中学校に限らず、学校というものは常に多かれ少なかれ嫌な面がある。が、小学校ほど無邪気に通えず高校と違って辞めることもできない中学校は、とにかく重苦しくうっとうしかった。  私は四国T県の某中学に二年、同じく四国のK県の某中学に一年在籍したが(いずれも公立)、土地柄はやや異なるものの、中学校という空間のうっとうしさは二校とも変わりがなかった。  まず第一番に思い出されるのは、運動場(四国では校庭などというしゃれた呼びかたはされない)に集合させられ教師の訓示を聞かされる時の情景である。  教師たちは立って手を後ろに組み私たちを見下ろしている。私たちは腰を落として訓示を聞いている。かがんで聞けと指示されるのだ。一口に腰を落とすと言ってもこれがなかなか苦しい。地べたにべったりと座り込むわけにも行かず、スカートの裾が汚れないように膝と踵を浮かせ爪先だけで全体重を支えることになる。男生徒はまだ今で言う〈ヤンキー座り〉ができるから楽だった。私たち女生徒はそういうはしたない座りかたはできないので不自然な体勢でこらえなければならない。この体勢は五分が限界であって、じきに私たちの体はぐらぐら揺れ始める。脚の筋も痛み始めるが、立ち上がると教師が飛んで来るので我慢して訓示が終わるのを待つしかない。  考えてみれば話を聞くのに座る必要など全くないのである。立っていても声は聞こえる。しかし、教師たちは自分たちが監視しやすいという理由でわざわざ生徒をかがませる。かがんでいることのしんどさをつゆ知らず。私たちは脚の痛みに耐えつつ、小声で「アホ、死んでまえ」「おまえらが座ってみい」(T県方言)と悪態をつくのみであった。惨めであった。  あの情景の惨めさが、中学校とはどういう所であったかを象徴的に表わしている。  教師は愚劣だった。中にはいい先生もいたが、多くは尊敬に価する人格も能力も持ち合わせていないくせに生徒を見下し頭から抑えつけようとする輩だった。  彼等は平然と腕力を行使した。十数年前の、しかも田舎の話であるから、特別に〈体罰〉と騒がれはしない。学校で教師が生徒を殴ることがあるのはあたりまえだ、と教師ばかりでなくPTAも生徒も考えていた時代である。  あたりまえだと承知してはいたが、やはり生徒の身であれば嫌だったし怖かった。〇組で△×先生が□◎君を殴った、といった類のニュースはすぐに生徒の間に流れたから、教師の暴力を恐れていたのは皆同じだったのだろう。  給食のおかずを残したK君は靴で頬を張られチョークを入れる木の箱の角で頭を何度も小突《こづ》かれ、思わず「痛い」と洩らすと「あたりまえじゃ。痛いようにしよるんじゃけん」と嘲《あざけ》られ、あげくの果てに職員室に引っぱられて行った。  技術家庭の授業中にガムを噛んでいるのを見つかったM君は、怒りに駆られた教師に金槌の一撃を見舞われた。打たれた頭には血の溜ったへこみができた。普段は明るくやんちゃなM君もショックで放心状態となり、帰りのホームルームの際も眼に涙を浮かべて一人で窓辺に立っていた。殴った教師は教師で翌日は学校に出て来なかった。  以上二件とも別に取沙汰もされなかったようだ。  そんな雰囲気の学校であったから、私たち生徒もビンタやゲンコツ程度では驚きもしなかったのだが、次のような話が伝わって来た時にはさすがに薄気味悪さを感じた。  体は大きいが動作が目立って鈍い男生徒がいた。知能も少し低かったかも知れない。ある日、前述のチョークの木箱の角でK君を打った教師が何かで彼を叱り殴った。それから、どういうつもりだったのか、彼を床に四つん這いにさせ背中の上に机を載せて、他の生徒にその机の上に乗れと命じた。命じられた生徒が従わないと、四つん這いになった生徒の上に突き倒した——。  完全に生徒を〈物〉として扱っており、陰湿と言うよりは性的な生臭さの漂うエピソードではないか。教師は生徒に力をふるうのを愉しんでいる、と非難されてもしかたあるまい。  愚劣さのきわめつけは修学旅行だった。チョーク木箱教師を含む引率の教師連中の一部は夜になると酒を飲んだ。酔っ払って女生徒に悪ふざけをした者もいた。本当である。最高責任者の教頭先生御自ら、女生徒の部屋を訪れるとトランプ遊びに加わり、どさくさに紛れてそばの女生徒の胸に触ったりしたのだ。  こうして書き連ねながら、ひどい所であったと今さらのように腹が立って来る。けれども、見聞の狭い中学生当時はあれが普通だと思っていた。自分のいる所がさほどひどい所だとは思っていなかった。漠然と楽しくないと感じていただけだった。  中学校は楽しくなくても行かなければならない所だった。  公平を期すためにつけ加えれば、中学校はうっとうしいばかりではなく、よい刺戟を与えてくれる場所でもあったのは事実である。  教室には、貧乏人の子供もいれば上流家庭の子供もいた。妾腹の子供もいればすでに両親をなくした子供もいた。一流大学をめざす秀才もいれば、運が悪ければ普通の中学には来られなかったかも知れないすれすれの知能指数の子もいたし、学校の勉強などとっくに放棄して趣味の世界にのめり込んでいる子もいた。不良の卵もスノッブの卵もいた。  まさに社会の縮図である。かくもさまざまなタイプの人間が一つ所に集う機会は中学卒業以後はないに違いない。  その意味では面白い所であった——いや、その意味でならば、もっと面白い所でなければならなかったとも言える。数多くの人材を集めているにもかかわらず、中学生活があまりに貧しかったのはどういうわけか。  中学校が義務教育であって、誰でも彼でも同じ勉強をしなければならないことの馬鹿馬鹿しさが、貧しさとうっとうしさの原因になっていると思える。  中学生ともなれば子供たちは、自意識を持ち自己主張を憶えどういう方面に自分の関心が向いているかも知っていて、すでに充分な個性を発揮している。それなのに、中学校では子供たちの個性を無視して文部省の指導要綱に基づいたカリキュラムをすべての生徒に押しつける。  生徒たちの本来の素質を伸ばす時間を奪った上、カリキュラムを消化しようとしない生徒は無視するか力で抑え込む。犯罪的である。  だいたいメンスのある女と射精のできる男が、なぜまた餌を待ち受けて嘴を開いた雛鳥のように知識をあてがわれるのを待っていなければならないのか。馬鹿にした話だ。十三四歳の少年少女なら、自分に必要な知識を自分で身につける才覚くらい備えていよう。  一からげにしようのないものを無理矢理一からげに統制しようとすれば、学校は疑似強制収容所と化す。教師と生徒は対立するかたちになり、生徒同士の関係も歪んで行く。中学校は荒れる。  義務教育の期間が長過ぎるのである。義務教育は小学校まででいい。高等学校の予備校となってしまった中学校など不要、小学校を出たらすぐ就職するなり専門職の養成学校に行くなり高校に進学するなり各人の個性を開放できる場所へ行けるようにすればよい。もしくは、中学校でもある程度専門的な勉強のできる選択科目を設けて不必要な必修科目の時間数を減らしてはどうか。  戦後敷かれた六・三・三・四の学制は変え時にさしかかっているのではないか。  目下の中学校での〈いじめ〉〈体罰〉〈校内暴力〉は、何人もの死者を出す凄まじさである。犠牲者の方々は心から気の毒だと思うが、ここまで来たらもう行き着く所まで行くしかないのではないかという気がする。行き着く所とは中学校の完全崩壊である。一度すべて壊れてしまえば、別の新しいシステムも生まれるだろう。  荒れよ、滅びよ。  それにしても、われながら呆れるのは、抑えつけられ締めつけられていたおぞましい中学校の日々を時折リアルに思い起こして追体験したくなることである。愉快だった出来事だけを選んで懐しむのではなく、うっとうしかった気分まで甦らせ味わい直してしまう。  ナチスの強制収容所から生還したある女性は、夏のバカンスを自分のいた収容所に近い土地で過ごす習慣を持っている、という。日本の中学校と本物の強制収容所を同列に語るつもりはないが、快不快を問わず大きな力に圧せられた経験は抗いがたい反復衝動となって人の内に残るということだろうか。  中学校には、制服の安物のサージの匂いと給食のアルミ食器の匂い、土の匂いと日向の匂い、チョークの粉の匂いに雑巾の匂い、教師の背広に滲み込んだ煙草の匂い、ミルク臭い体臭に混じった初々しい経血の匂いと初々しい精液の匂いが立ち籠めていた。  吐き気を催すようなあの匂いをもう一度嗅いでみたい……。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年3月号) [#改ページ]   〈なまもの〉について 〈なまもの〉と言っても、刺身の話がしたいわけではない。  平凡な職業につき平均的な暮らしをしどこにでもあるような町に住み普通の人々と交際するわれわれが普段積極的には見ようと思わないもの、それらがこの世にごく自然に存在している事実は重々承知してはいても日常的に接することがないので往々にして忘れがちなもの、あるいは本当にそれらについてよく知っているにもかかわらず知っていると認めたくないゆえ意識の片隅に封じ込めているもの、そしてそれらが不意に眼の前に出現したら少なからず動揺せずにはいられないもの——そうしたものを今かりに〈なまもの〉と呼ぶことにしたいのである。  一例としては性器が挙げられる。誰もが生まれつき備え持っている珍しくも何ともない器官なのに、通常は衣服によって隠されており特定の相手としか見せ合わず限られた目的でしか使用しないため、無闇に人眼に曝してはならないという暗黙のルールができ上がっている。だから、いきなり性器を見せつけられると皆程度の差こそあれショックを受け、赤面したり昂奮したり笑い出したりする。ところが、なぜ赤面したのか、なぜ笑い出したのかと問われると、はかばかしく答えられる者はいない。  交通事故等を目撃してしまうことも〈なまもの〉に遭遇した経験と言えるだろう。映画やテレビ・ドラマに出て来る交通事故はいくらリアルであってもエンターテインメントの域を越える刺戟を観る者に与えないようにつくられているが、現実の交通事故は文字通り生々しくとても冷静に見てはいられない。車と接触して路上に倒れ苦痛に全身を痙攣させる人など眼にすれば、「気の毒に」だの「痛そう」といった感想を抱くよりも先に、まるで怪我人の痙攣がうつりでもしたかのように膝が震え出し吐き気が込み上げて来るものだ。 〈なまもの〉はわれわれの生理感覚に直接揺さぶりをかけて来て、理性的対応を許さない。われわれは〈なまもの〉に対してなす術を知らない。ことばによって〈なまもの〉を調理することも不可能だ。なるべくなら心の準備なしに〈なまもの〉には会いたくないが、もし会ってしまったら、頭に血が上るとか胸が詰まるとか汗が滲むとかの生理的な反応が収まるまでじっと待つしかない。  人間の中にも〈なまもの〉的存在はいる。特別に嫌われたり苛められたりはしないのだけれども、何となく皆に避けられ友達ができないタイプの人である。どこがどう普通の人と違っているのか指摘するのは難しい。だが確かにどこか雰囲気が変わっているので他人が寄りつかないのだ。  パリに留学している時に白人女性を殺して食べた青年はあきらかに人に避けられるタイプの人間である。それは彼の書いた小説『霧の中』を読めばわかる。パリの学生仲間は彼がカフェでの会話の仲間入りをすると迷惑そうな様子を隠せないし、日本でも彼には同性の友人がおらず恋人もできなかった。いろいろと微妙な理由があるのだろうが、小説の書きぶりに即して言えば、彼は自分が学生仲間に嫌がられていることに全く気がつかない(読者にははっきりと読み取れる)人間だという点、つまり自分に都合の悪い現実はいっさい見ようとしない偏った性格の持主である点が大きいのではあるまいか。  彼のようなタイプの人間は見ていて辛い。物心ついて以来人とまともにつき合うための最低条件として相手の気持ちを正確に汲み取るよう訓練して来た普通人であるわれわれは、そうした努力と無縁の人間を嫌ったり軽蔑したりする前に恥しいと感ずる。わがことのように恥しいと感ずる。こんな具合に人をいたたまれなくさせるのが〈なまもの〉的存在である。  先日気晴らしがしたくてテレビを観ていたら、困ったことに〈なまもの〉的存在が出て来た。  某テレビ局の素人物真似コンテストである。素人の出演者が順番に物真似を披露して行くのだが、何番目かにマイクの前に立った女性が変わっていた。ぽっちゃりと太った童顔でおかっぱ頭、やや少女趣味的なブラウスとスカートを身につけ、ぶりっ子女子中学生さながらの子供っぽい可愛い声で「二十四歳です」と言ったものだから、会場の見学者も「エーッ」と声を上げたしテレビの前の私も驚いた。  それだけならば年のわりに子供っぽい女性と思うだけなのだが、彼女はチェリッシュの悦ちゃんの口の動きの真似をして会場を白けさせた後、真面目な表情で「ジュディ・オングの真似をやります。私、ジュディ・オングに瓜二つとよく言われるんです」と発言して再び「エーッ」という声を浴びた。このあたりで、子供じみた、と言うより子供そのものの声や表情の動きを尋常でないと怪しむことになった。  始まったジュディ・オングの真似は予想通り全く似ていなかった。オングの衣装を模して両手で大きな布を掲げ悪びれず声をはり上げて歌う彼女の姿だけでも痛々しいが、テレビ・カメラは会場の見学者の女性が思わず顔をしかめたところまで写したのである。私は暗い気分になった。  痛々しいには違いないけれども、彼女の尋常でない幼さと無邪気さは可愛いとも言える。親にとってみればなおのこと可愛いだろう。彼女は家族に非常に可愛がられて育ったと見える。そうでなければ、家の外では悲しい目にも会っているだろうから、もっと惨めな顔つきをしているはずだ。きっと常々家族に「〇〇ちゃんは物真似が上手ねえ」とおだてられているので、今回その気になってテレビに出て来たのだろう——ここまで想像を発展させた私は、ますます滅入って気晴らしどころではなくなった。  報道番組ならば気構えをもって画面に向かい合うから何が映し出されようとそう動じはしないが、ショー番組で不意討ちのようにこういう人が出て来ると戸惑ってしまう。これはテレビ局が悪い。なぜ彼女を予選で落とさなかったのか、と怒りかけたものの、考えてみれば怒るべきことでもない。  彼女のような人を街で見かけると、われわれは一瞬「あ」と思い、続けて「ああ」と納得する。別に何かに対して腹を立てたりはしない。たまたまつけたテレビに彼女のような人が出て来ても同様でいいではないか。先日の場合は、気晴らしのつもりで番組を選んで観ていたのに気晴らしにならなかったので少々落胆したのだが。  むしろあの番組のディレクターが彼女を排除しなかったのは大したことだと言える。あまつさえ、〈なまもの〉的存在の彼女と〈なまもの〉的存在に顕著な反応を示した見学者の双方を写したことで、ディレクターは図らずもわれわれの生きている社会の構造の一断面を見事に捉えて見せて、茶の間の普通の人々を挑発したのだ。  結局のところ、〈なまもの〉とは人間的なもので覆われている世界の地肌を垣間見せる〈裂け目〉なのではないだろうか。われわれは決して〈なまもの〉を愛さないが、〈なまもの〉を見過ごしたり〈なまもの〉を直視して自己崩壊してしまわないように、眼と精神を鍛えておく必要はありそうである。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年5月号) [#1字下げ](後記) テレビ番組に変わり者の素人が続々と出演するようになったのは、この頃からだった。 [#改ページ]   月経お祓い  女が——と書きつけた途端に疲労感に見舞われ思わず筆を放り出して戦線離脱したくなるのは、女による女についての言説が市場にだぶついている今日この頃だからである。戦線は混迷しているのに砲火ばかりが盛んなありさまは、古い喜劇映画のパイ投げ合戦のシーンのようだ。映画と同様、投げる作業をパスして飛んでくるパイを食べてばかりいる者も見られる。この光景を活況と誤認した野次馬の存在も眼障りだ。  のっけから偉そうに出たのは気力の萎えがちな自分を励ますためだが、本音には違いない。女が、女は、女の、と女たちは声高に喋っているけれども、いったい女についてどれほどのことが語られているのだろうか。  一昔前と比べて男性の態度が非常に柔軟になった今日、一応女性たちは自由に発言する権利を得たかに見える。多分、得たのだろう。だが、実際誰が自由に発言しているのか。得たばかりの権利に逃げ腰になっている者が多くはないか、と思う。いいよ、好きなことを言ってごらん、と微笑む優しい男たちに対して、あら、そんなに譲ってもらって悪いわね、じゃあいいわ、あまり過激なことは言わないようにする、と根は優しい女たちが気を遣っているのが現状ではないか。  優しい男たちと優しい女たちが互いに気を遣い合っているゆえにかえって両者の距離が縮まらない。これが〈女性問題〉の過渡期としての現在の特徴であろう。一九八〇年代に入ってからのこうした状況は、ある意味では女性たちが忍従を強いられていたかつての時代以上に虚偽に満ちており不健康である。  再度疑問を呈す。ここ五六年、いったい女についてどれほどのことが語られたのだろうか。  昨年の十二月であったか、レースの最中に出血が始まった女子マラソン選手が立ち止まることなく完走した、という出来事が各マスコミにかなり大きく取り扱われた。別に興味の湧くニュースではなかったので追跡もしておらず、その選手が完走後記者会見等で何かコメントを残したかどうかも知らない。ただ、マスコミがこの出来事に妙に執着したのが意外だった。  水泳の選手が泳いでいる最中に出血したのであれば他の選手の反応ともども大きな話題となるであろうが、今回はマラソンである。レース中に出血が始まったって他の選手に迷惑がかかるわけではないし、激痛でもない限り、かまわず走り続けるのが普通ではあるまいか。そう、普通である。トランクスを赤く染めて完走した彼女は、偉業を成し遂げたのでもないし勝負の鬼だったのでもなかろう。  せいぜい女子マラソンこぼれ話として陸上競技雑誌の埋草コラムで紹介される程度のニュース・ヴァリューしかなさそうな出来事を、女性が強くなった時代を象徴するエピソードとして語り、驚いてみたり「いや、彼女は共産圏の選手だから国から支給される報奨金ほしさでがんばったに過ぎない」とけちをつけてみたり、血に昂奮したマスコミの騒ぎぶりにはナイーヴささえ感じられた。  月経に関する基礎的知識を誰もが持ち、月経中の性交も異常な行為とは見做《みな》されず、生理用品のコマーシャルに人気男性タレントが起用される今日にあっても、男性にとって女性の生理がいまだ神秘性を帯びているとしたら不思議なことだ。どう考えるべきか。  女性の生理についての神話は根強く残っている。一例を挙げれば、生理直前あるいは生理中の女性は普段とは異なった精神状態となりやすく、ヒステリーを起こしたり万引きをしたりする者もある、というもの。生理中に不機嫌にもならず変わった行動もとらない大多数の女にとっては根絶したい不愉快な神話である。  しかし、神話は女性の生理に明るくなかった頃の男たちによってのみ形成されたのではない。女たちもまた月経の神話化を促進した。学校時代は月経を口実に体育の授業を見学し就職すれば生理休暇を悪用、なおかつ周囲の人に当たり散らすことを月経のせいにし正当化した、というのは極端にしても、それに近いことはなくもない。  こと男性に対しては「生理」のひとことは有効であった。「女にしかわからないことだから」と言われれば男性は沈黙するほかはない。女たちは「生理!」と呪文を唱えて男たちを黙らせて来た。  古い呪文の悪しき遺物の一つが職場における生理休暇、略して生休である。断わるまでもなく、最初に生理休暇を要求しそして勝ち得た〈働く女性〉の先駆者たちにはいっさい罪はない。当時は生理痛はさして仕事に差し支えるものではないということを、当の女性自身もまだ知らなかったであろうから。ところが今や事情が違う。女性が職場に出ることがあたりまえになり、生理休暇など不要であると女たちは気づいている。  もちろん生理痛には個人差があり、本当に勤めに出られない人もいるかも知れないが、そういう人はまず婦人科の検診を受け異常な生理痛の原因を突き止めて治療できるものなら治療すべきだ。偽りの生理休暇を取って遊びに出かけ、生休をナマキュウと読んで会社の寛大さを嘲笑する女たちの頽廃は恥しい。  一九八六年において、月経一つに関しても女性が男性に対して正直でないのは遺憾である。体のことについてすら正直でないのだから精神についてはどれだけ偽っているか。くだらない時代だ、相変わらず。  拗《す》ねていてもしかたないので、とりあえず呪文を無効にする方法の試案でも作ってみたい。  男性に限らず女性の方も「男の生理!」と呪文をかけられ沈黙する側にまわる場合があるのだが、言うまでもなくそれは〈異性の生理はわからない〉という大前提を双方とも認めているためである。この大前提を打ち壊すのがよさそうだ。本当に〈異性の生理はわからない〉との命題は真なのだろうか。  異性の生理をわかったふりをしないのは結構なことである。けれども、遠慮深過ぎるのもどうか。「わからない」と安直に決め込めるほどわからないものなのだろうか。最終的には肉体的性別に由来する差異が厳然とあるにせよ、現段階では男女ともかなり手前の地点でわかろうとする努力を放棄しているのではないか。もっとわかり得ると考えても決して異性に対して無礼ではないだろう。  昔、ある女流作家が日本文学史上初めていわゆる〈子宮感覚〉を描写した文章を作品中に書いたところ、批評家の平野謙が「子宮に感覚などあり得ない」と発言し、当然の如く両者の間に論争が起こった。〈子宮感覚〉云々はさておき、平野謙の発言姿勢に注目したい。  紛れもなく男性である平野謙が「異性の生理はわからない」との〈常識〉を物ともせず、ほとんど女の身になって[#「女の身になって」に傍点]「あり得ない」と言い切ったのである。平野氏は想像力をフルに働かせ自らの腹に架空の子宮をしつらえて考え抜いた末、「あり得ない」と判断したのだろう。これは傲慢さではない、アナーキックな誠実さと呼ぶべきである。もし彼が女性であったなら主張通り〈彼女〉には[#「には」に傍点]〈子宮感覚〉はあるまい、と素直に信じられる。素敵な人だ。  もっとも、平野謙のように感受性と直感力を鍛えていなければ同じ発言は許されないが。  ともかく、女性のオルガスムスをリアルに想像できる男やインポテンツの生理が理解できる女性がいたっていいではないか、と思うのである。頭から嘘だと決めつけなくてもよい。そもそも「おまえに何がわかる」などという科白ははなはだ下品だ。  来たるべき九〇年代には呪文の効き目が消え呪いは解け今よりは実のある日々が訪れよう、と予言者の真似をして今回は終わろう。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年6月号) [#改ページ]   〈残酷〉な写真  彼女がアイドル歌手であったとかそれが自殺であったとか、付随する物語は物語でまた別の関心を呼び起こさないでもないが、四月十日発売の報知新聞に掲載された岡田有希子の死姿の写真は岡田有希子という固有名詞を消去して見ても非常に印象的な物であった。と言うのは、その写真は実に久しぶりに人間の姿形が本来とても可愛らしいことを思い出させてくれたからである。  人間の姿形が可愛いこと、犬や小鳥やリスやコアラが可愛いのと同様に霊長類ヒト科ヒト属の動物も独得の可愛らしい姿形をしていることは、あたりまえとは言いながら、ヒト属社会の一員として同属と密接にかかわり合いつつ暮らしていると、ついつい忘れてしまいがちである。特定の個体を可愛い、美しい、セクシーだと感じはしても、ヒト属全体の共有する可愛らしさにまでは思いを至す余裕がなくなるのだ。  かく言う私も、人間の首が縦についているところや腕がいろいろな恰好に曲がるところやまっすぐな姿勢で足だけ動かして歩行するところ等を愛らしいとしみじみ感じるのは、十日間ばかり隠遁に近い静かな生活を続けて心を澄ませた状態で道行く人を眺める折くらいで、普段は同属に対する不満やら嫌悪やら敬意やら愛情やらで頭がごった返しているせいで、ヒト以外の動物しか冷静に鑑賞できない。  ビルから落ちた岡田有希子は細い体で突っ伏していた(サイズは公称百五十五センチ四十キロということであるが実際の身長はもう少し低いだろう)。腕は鉤《かぎ》形に軽く曲げられ、ストッキングだけで靴なしの足はスカートから自然な感じで伸びている。タイト・スカートだから足があまり開かなくてよかった。もしフレアー・スカートだったなら足が開くばかりか裾がめくれ上がっていたかも知れない。頭の周囲に飛び散っている半固体状の物は脳味噌であるらしい。  そういう状態の骸を報知新聞の写真はほぼ真後ろから捉えていたのだが、最良のアングルであったと思う。ヒトの後ろ姿は大体において無防備でいわゆる人間的な個性の臭味を感じさせないため、見る方も雑念なしに無邪気に視線を向けることができる。後ろ側から見る岡田有希子の死姿は、薄い体や脆そうな腰のありさまが眼につくだけでなく、カメラの方を向いた裸足の足の裏がいかにも可憐で、可愛かった。  その写真について「残酷だ」との意見が編集部に寄せられたと知った時には、斬新な解釈を開示された気がして唸《うな》ってしまった。残酷性を表わす情報を私はいっさい読み取れなかったのだ。  出来事自体はむごたらしいには違いない。原因は何であれ一人の人間が自殺したのだから。現場の様相もさぞかしむごたらしかっただろう。かりに居合わせていたら、写真を見るようには遺体を正視できないだろう。しかし、現場を捉えた写真に残酷性があったかどうか。少なくとも私には、出来事のむごたらしさをことさらにアピールして読者を煽ろうとした〈残酷〉な写真とは感じられなかったのだが。  凄惨な事件が発生したむごたらしい現場の写真が発表されると、必ず「あんな残酷な写真は発表を控えるべきではないか」との議論が起こる。  昨年の日航機墜落の時もそうだった。家庭に配達される一般の新聞は良識的措置として報道を加減したが、大人向けの週刊誌は文章による詳細なレポートと写真を大々的に掲載し、一部だか多数だかの読者からの批判を受けた。  こんなことを書くと想像力の鈍さをさらけ出すようだが、私は週刊誌の詳しいレポートによってようやく旅客機の墜落事故がどんなにたいへんな事故であるかリアルにイメージし得た者である。  もちろん何百人もの人間の命が一時に失われたと聞けばたいへんなことだと嘆ずるが、それだけでは漠然としたイメージしか思い描くことができない。安全ベルトから下しか残っていない遺体があったとか木の枝に皮膚の切れ端がぶら下がっていたとか妊娠中だった人の体から胎児が飛び出していた等の具体的な記述を読み写真を見て、初めて事故の凄まじさが了解できた。「現場の光景は酸鼻を極めた」程度の新聞報道では不足なのだ。  別に私はむごたらしいもの・凄惨なものの愛好家ではない。事故の惨状の写真を平然と見つめたわけでもない。数多い報道写真の中には確かに公表するにはふさわしくない物も混じっていることもわかる。ただ、むごたらしいものを見ることを忌み嫌う人々がマスコミに無闇に報道の加減を要求するのに違和感を覚えるのである。  残酷な光景を写した写真が即ち〈残酷〉な写真であるということはない。先ほど少し触れたが、残酷な光景を写した写真が〈残酷〉な写真となるのは、〈残酷な光景〉ではなく〈光景の残酷さ〉が写し出されている場合、つまりこれは残酷以外の何ものでもないと見た者が感ずるよう予定して撮られている場合、煽情性がある場合である。猥褻写真にたとえると、性器を正面からあからさまに写した物は猥褻でも何でもないが、見えなさそうで見える角度から撮ったり意味ありげに指を添えたところを撮ったりすればただちに猥褻になる、というようなことだ。  残酷な光景を写した写真が発表されることに反対する人々は、芸術作品であろうがポルノ作品であろうが性器が見えれば公表を禁ずる役人に似ている。幸いにしてお上の規制があるのは性描写だけなのだから、規制のない残酷なものの描写については、本物の〈残酷〉表現及び大して必然性がないのに広く眼に触れる場に公表された残酷表現物のみに拒否反応を示す風でありたいものだ。  ところで、写真と言えば写真週刊誌『FOCUS』である。創刊以来この雑誌は多種多様の生臭い写真を読者に見せつけて来た。戦争、テロ、リンチを始め殺人現場や性犯罪者のポートレート、タレントのスキャンダルや政治家の立小便、業病患者の写真等々。数ではニュース性の高い写真や話題の場所、人物、風景を紹介した普通の写真の方が多いけれども、目玉はやはりテレビや新聞ではなかなか見かけない生臭い写真だろう。  今生臭い[#「生臭い」に傍点]と言うのは、いかなる良識家、育ちのいい上品な人、カマトト的優等生であれどもたいていは深いところに持っている下世話な好奇心、覗き趣味、助平心をくすぐる、というほどの意味であるが、先ほどの定義に従えば〈生臭いもの〉ではなく〈ものの生臭さ〉を写し出した写真が〈生臭い〉写真だから、『FOCUS』誌に載る写真でも本当に〈生臭い〉写真はごく少ないように見える。  しかしながら『FOCUS』の場合は、まず刺戟的な写真を集めて来て見せることを第一とした編集方針であるのがあきらかだし、写真一枚一枚に実に辛辣で捻《ひね》った意地悪な註釈がつく。この註釈こそが猥褻写真における〈性器に添えられた指〉の役割を果たし、生臭いものを写した写真を〈生臭い〉写真に変えてしまうのだ。何という高等技術であろうか。 『FOCUS』をめくると、こういうものが見たいんだろう、見せてやる、とばかりに生臭物が取り揃えられており、さながら雑誌版〈ソドムの市〉の観がある。大手出版社発行の超メジャー誌が毎週〈ソドムの市〉を開いて毒を売っているのだから面白い。怖い。 『FOCUS』、そして註釈の文章に毒気が足りないので『FOCUS』の域に達さない『FRIDAY』が岡田有希子の件でどんな写真を載せるか注目していたが、二誌とも側方から遺体を撮影した物を使用しており写真誌でありながら報知新聞の写真には及ばなかった。何か可笑[#「可笑」に傍点]しい。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年7月号) [#改ページ]   性器のないエロス  映画を語る才能はないと自覚している私に、目下恐怖映画が人気を集めている理由を考察せよ、との要請があった。これがSF映画やアニメーションの人気の要因を探れという註文であったら、誰かがブームを仕掛けているんでしょ、のひとことでかたづくが、モダン・ホラーと呼ばれる作品群には映画好きではない私も惹かれ続けているので、僭越ながら一筆寄せさせていただくことにした。  人をして中毒症状を起こさしめるモダン・ホラーならではの魅力とは何か。  気障な引用で恐縮だが、『エロティシズム』の著者に〈あなたは恐怖のように美しい〉という詩句がある。エロスは本質的に死を志向すると言い切った著者には、表面的にはかけ離れた現象に見える恐怖とエロスが実は死を予見することによって発動するという共通性を持っている、との考えがあったのだろう。この詩句においては、〈美しい〉という語を蝶番にした恐怖とエロスの連結が鮮やかになされている。  ダリオ・アルジェント作品に代表されるモダン・ホラー映画が映像化しているのも、先の詩句において実現されたのと同じ〈恐怖とエロスの連結〉である、とモダン・ホラー・ジャンキーの一人としては思うのだがどうだろうか。  モダン・ホラーはエロティックである。正統的な恐怖映画とモダン・ホラー作品との違いは、後者の提供する恐怖にはエロスの要素が含まれている点に尽きる。モダン・ホラー以前でもたとえばヒッチコックの作品はエロティックであったけれども、モダン・ホラーは露骨にエロティック、とめどなくセンシュアルなのである。  ここでエロティックというのは、必ずしも性愛を連想させる事柄のみを指すのではない。直接性器に結びつかない感覚、皮膚がむず痒くなるような感覚だとか血管の引き締まる感覚だとか心臓に濡れ手を押しつけられるような感覚だとか眼球の裏側を舐められるような感覚等、快不快は別としてともかくもいくばくかの昂揚感を交えた生理的変化はすべてエロティックあるいはセンシュアルであると言える。  思いつくままに例を挙げると、『遊星からの物体X』で血液に姿を変えた異星の生き物が電極か何かを挿し込まれてはね上がる場面や、『シャドー』で殺人者が絞め殺そうとしている女の口に丸めた紙片を押し込む場面、『ハウリング』で狼男が狼に変身するためのきっかけを得ようとして額の傷口に指を突っ込み掻き回す場面、『ハンガー』での血しぶきとレア・ステーキのアップのショットの連続。こういった映像を観るたびに私たちは、今まで充分に鍛え上げて来てすれっからしになっているはずの神経が思いがけない震えかたで震えるのを感ずる。そしてそれは、紛れもなく官能的な体験である。  モダン・ホラー映画を観る愉しみは、普段は滅多に刺戟される機会のない心身の処女地を開発されることの愉しみにほかならない。もっぱら性愛に繋がる部位に訴えかけて来るだけのポルノ作品では、この愉しみは味わえない。  エロティックな体験をポルノではなくモダン・ホラーに求める、即ち性器的なエロスよりも性器的ならざるエロスを好むモダン・ホラー・ジャンキーにとって、最も深い感動を与えてくれる映画は、やはりダリオ・アルジェントの門下生ジョージ・A・ロメロの傑作『ゾンビ』であろう。ゾンビ・メークの美しさとか俳優の細かい演技の色っぽさももちろん印象深いが、何よりも、生きた人間の肉を喰らうことイコール同属をふやすこと、つまり食べることイコール生殖行為であって性器的エロスなどとは無縁のゾンビのありかたが魅惑的だった。本能に導かれるままゆらゆらと歩きまわるゾンビたちの姿に憧れ自らゾンビになりたいと願う観客がいたとしても不思議ではない。  それではまるで小児性欲ではないか、と性器的エロスに執着する人々は言うかも知れない。モダン・ホラー映画の隆盛は現代人、特に若い世代の衰弱と未成熟の証拠なのではないか、とも。  性器的エロスに執着しないことを衰弱・未成熟と呼ぶのは一つの考えかたではある。しかし、衰弱・未成熟の証拠とするにはモダン・ホラー映画はあまりにも絢爛豪華である。だいたいが、性器的エロスに執着する連中が男女関係を始めとしていかに世界を貧しくして来たか振り返ると、衰弱・未成熟との批評は偏った一方的な決めつけに思えて来る。  確実に言えるのは、昔ならば悪趣味・グロテスクとされごく少数のマニアの注目しか集められなかったであろうモダン・ホラー映画が今日広く支持されるのは性器的ならざるエロスをも豊かに愉しめる人々がふえたということで、むしろ成熟の印と見ることもでき、大いに結構なのではあるまいか。  つけ加えれば、性器的エロスへの執着の弱まりはおそらく女性の変化に端を発している。それは現在モダン・ホラー映画とともに女子プロレスが大人気である事実からも察せられよう。  モダン・ホラー映画の愛好家は、自分同様性器的エロスに執着しない恋人をデートに誘う際、きっと次のように言うに違いない。 〈恐怖映画を観に行こう、恐怖映画はあなたのように美しいから〉。 [#地付き](「シネアスト」'86年7月号) [#改ページ]   性器からの解放を  女性、もしくはジェンダーをめぐる言説は一九八六年も氾濫していた。ことに女性による女性についての発言は質が高かろうが低かろうが相変わらず買い手が多かったようだ。一昔前に比べて男が女の発言に関心を抱くようになったのは大いに喜ばしい、と言いたいところだが、喜ばしい光景をよくよく眺めれば、その荒涼として寒々しいこと吹きさらしのツンドラの如し、である。  一歩退いて女の話に耳を傾ける姿勢をとってくれる男に反応してはり上げられる同性の声が、私には地声と聞こえない。進歩的な意見を述べているようでいて甘い裏声は「ねえ、あたしを嫌っちゃいやよ、仲よくしたいのよ」と媚に濡れている。中にはたとえば伊藤比呂美の『テリトリー論』のようにふっ切れて冴え渡った女の存在証明もあるけれども、大方は自ら滴り落としたバルトリン腺液に足を取られて鈍重な歩みぶりを披露しているばかり。  女は強くなったとか、いやもともと強いとか評されてはいても、男の譲歩に対して頼まれもしないのにかくも卑屈であるという事実は、女が依然として弱いこと、弱いままでいたがっていることを示している。対男性意識に縛られ男なしには女は女であり得ないと信じ込みいまだに男性器を受け入れる女性器を後生大事にしているあの声の大きな女たちが、男に「可愛いね、面白いね」とおだてられたらすぐさまスカートをまくり上げ潤った性器を開いて見せる図は、たやすく想像できる。  女であることの根拠を性器に求め性器に限定された女性性に執着する女は貧しく、醜く、弱い。たとえ肉体的には頑健であってもそれは変わらない。  アメリカの女性ボディビルダーたちはことのほか醜い。脂肪を取り去り筋肉を増強する彼女たちが、寝呆けたスノッブの褒めるように男性と女性の身体的差異を可能な限り消去して両性間の距離を縮めるなどといった成果を上げているわけでないことは、だらしなくぶら下がりっ放しの乳房を見れば明瞭である。彼女たちは女性性を放棄するふりをしつつ実は女性性を顕示するという昔ながらの男性向けの茶番を野蛮に演じているのに過ぎない。女性ボディビルダーの写真を眼にするたびに私は、さぞかし膣の括約筋の方も発達していらっしゃるに相違ない、と溜息をつくのだ。  弱いことは悲しい。どうにもならない弱さならしかたがないが、わざわざ弱さを選ぶのは悲しい。男であろうと女であろうと、弱いよりは強い方が十全に生きられるに決まっている。もういい加減に、女は性器から自由になって強くなっていい。  性器から自由になるとは、性器経験を性経験の本質と捉えず、性器を武器だとか男と女の親しさの度合を測る道具に仕立てたりせず、別に男に向かって開かれているのでもない何ら特別ではない器官として意識する、というほどの意味である。  性器を脱ぎ棄てたって女が女でなくなることはない。セックス・アピールともパワーとも無縁の脱色された魅力の薄い女ができ上がるわけでもない。幸いにしてと言うか奇跡的にもと言うかわが日本に、性器に基づくセックス・アピールやパワーをはかないものと思い知らせるアナーキックで過激に魅力的な存在の具体例がある。  彼女は十八歳の女子プロレスラー、リング・ネームをブル中野という。  昨年の夏にこの素敵な少女を発見して以来私は夢中である。百七十センチの身長、八十五キロの体重、豊かな脂肪の内に鍛えられた筋肉をひそませた女子プロレスラー独得の体つきは、ゴージャスでパワフルで、男性性を志向してもいないし男性と対比した上で導き出される女性性の規格からもはみ出しており、超女性的で滅法セクシーだ。さらに、無闇に可愛らしい。  大雑把に説明しただけではわかりにくいが、並みいるチャーミングな女子プロレスラーの中でもセクシーで可愛いのはブル中野ただ一人である。フェリーニの映画の登場人物を思わせる印象的な容貌のせいでもある。しかし、それだけではない。  注目すべきはブル中野の見るからにデリケートな皮膚の下で無邪気にたゆたう贅肉と脂肪だ。無邪気にと書いたが、そう形容せずにいられないほど大らかにナチュラルに贅肉と脂肪がたくわえられている。肥満、ではない。肥満などという病んだ状態を示すことばは健康なブル中野には当て嵌められない。言うならば、幼児が発育途中で一時的に太るようにブル中野は太っているのだ。  実際ブル中野には、清らかな子供が子供のまま大きくなった、子供の状態から何も失わず何も獲得せず百パーセント清らかさを保って十八歳まで成熟した、そんなイメージがある。リングの上で悪役として乱暴の限りを尽くしてもどこか純粋で清潔で、いわゆる悪の要素を感じないどころかつい手を差し延べて庇《かば》いたい衝動に駆られる。セックス・アピールの点でも、思わず手を差し延べたくなる子供の官能性を備えていると言える。  通常の人間の成熟の行程とは全く別の行程を辿ってこれまで成熟しこれからも成熟して行くであろうブル中野、永遠に子供のように可愛く子供のように官能的であり続けるであろうブル中野に、性器に基づく性別を被せるのは無意味である。では何と呼ぶべきか。イギリスのポジティヴ・パンクのバンド名からヒントを得た呼称を私は用意している。  セックス・ギャング・チャイルド。ヘリオガバルスからジャン・ジュネ、プリンスに至るセックス・ギャング・チルドレンの系譜にブル中野もまた名を連ねる。  性器を脱ぎ棄てて可愛くセクシーになれば女はいくらでも強く自由になれる、ブル中野のように。男だって同じだ。すべての男女が性器から解き放たれてセックス・ギャング・チルドレンとなる日を、私はひそかに夢見ている。 [#地付き](「ブルータス」'87年1月15日号) [#1字下げ](後記) その後のブル中野さんは、「ブル様」「女帝」「女子プロレス界の至宝」と呼ばれる強くてうまくて迫力のあるレスラーに成長した。しかし清らかさは変わらず、崇高さも加わった。 [#改ページ]   マウトハウゼン・モナムール  アウシュヴィッツ、ラヴェンスブリュック、ダッハウ、ノイエンガメ、ベルゲン・ベルゼン、と名前を記して行くだけで、心のある部分がさざめき昂ぶるのを抑えられない。決して猟奇趣味だとか下卑た好奇心だとか劣情から発するものではないと思うが、爽やかに口にできる類の昂奮でもないことは確かである。倒錯的な生理変化には違いないのだろう。なぜなら、この昂奮が快いのか不快なのか自分でも感じ分けることができないのだから。  ともかくも、小学生の時に『アンネの日記』を読んで以来、私はナチス・ドイツの強制収容所に強い関心を持って来た。いやもっと露骨に言えば、そのイメージに強い愛着を寄せて来た。理由なら幾通りでも並べたてられる。一つだけ挙げるとすれば、強制収容所のイメージを借りることによって私自身の怨恨の性質がはっきりするため、である。「あなたの苦痛を私の苦痛で計ることはできない」という強制収容所経験者の名言はもちろん頭の中に谺《こだま》しているのだけれども、理性で感情を断ち切ることができないのもまた事実だ。  そんなわけで、強制収容所跡を実際にこの眼で見るのは長年の希望だった。念願叶ってウィーンに近いマウトハウゼン強制収容所跡を訪れたのは一昨年である。行先がマウトハウゼンになったのは偶然で、選んだのではない。某テレビ番組のプロデューサーがどこでどう間違ったのかネーム・ヴァリューのネの字もない私に紀行番組のリポーター役を依頼して来たのが事の起こりで、当初私はアウシュヴィッツに行きたいと言っていたのだが結局はウィーンに行くよう頼まれた。落胆したものの、強制収容所のあった所を示したヨーロッパの地図を見るとウィーンに遠からぬ位置にマウトハウゼンがある。先方の意には沿わなかったかも知れないけれども、これ幸いと足を延ばすことにしたのだった。  しかし私はいったい何が見たくて強制収容所を訪ねたのだろうか。  マウトハウゼン収容所は丘の上にあった。坂道を登るうちに視界に入って来るのは親衛隊の宿舎で、これはクリーム色をした木造モルタル風のごく普通の外観の建物である。この建物の横手にしつらえられた門はさほど広くもなく威嚇的でもなく、アウシュヴィッツとは違って「労働が自由を生む」とのたわけた標語も掲げられていない。もともとはユダヤ人抹殺用につくられたのではなく大量殺人に拍車がかかるまではガス室もなかったマウトハウゼンは、まずは穏やかな佇《たたずま》いで姿を現わしたのである。  訪問前から、青ざめて吐き気を催したり過度の感傷に陥ったり戦争やナチスへの義憤に駆られたり、といった運びにはならないだろうと予想してはいたが、予想以上に私は冷静に見学した。強制収容所跡と言っても、かつての悲惨さが生々しいかたちを留めているわけではない。囚人ブロックの大部分は連合軍に焼き払われていて現在建っているのはレプリカだし、ベッド等もあまり残っていないのかまばらに置かれているばかりである。暗くてじめじめした地下の作業場に痩せ衰えた囚人が蠢《うごめ》いているのが見えるはずもないし、思っていたより小さかったガス室や焼却炉に四十年以上前の死臭を嗅ぎ取るほど私の嗅覚はすぐれていない。普段強制収容所のイメージと戯れる際にはきわめてリアルな光景が浮かぶのだけれども、たぶん無意識のうちに禁欲したのだろう。眼のあたりにしている収容所に自分の抱いているイメージを塗りつけるということを行なう気にまるでなれなかったのだ。  当時の囚人服や靴、写真、スケッチ等を展示した資料館ではさすがに神経に触れるものを感じたが、それは文献を読んだりドキュメンタリー・フィルムを観たりする時のおののきと同質のものであって、強制収容所跡に身を置いてこそ得られる感動とはやはり別物であろう。しかも、強制収容所愛好家の私には豊富な予備知識があるから、すでに読んだ本を読み返すのと大して変わらない反応しか起こらなかったと記憶する。何しろ、マウトハウゼンに赴いてから一箇月もたたない折、友人に強制収容所に人間の皮膚で作った電気スタンドの笠はあったかと訊かれて、笠の像を瞼に描くことはできてもはたして現物を見たのか、展示されたパネル写真を見たのか、本に載っていた写真か映画で見たのか、思い出す手がかりもなくて絶句したくらいであった。  全く、私はいったい何が見たくて強制収容所を訪ねたのだろうか。  いくつかの事柄は印象深かった。  収容所の前に着いた時、いかにも生意気で元気そうな少年たちの一団が門の内から出て来るところにぶつかった。彼等は一様に悪ぶる[#「悪ぶる」に傍点]ようなにやにや笑いを浮かべていた。ドイツの警察学校の生徒たちと聞いて納得が行った。自分たちの祖先のやったことをおまえたちも責任をとれと言わんばかりに見せつけられれば、後ずさってにやにや笑いたくもなるだろう。思い返せば紅顔に浮かんだ笑いは、どこか気恥しげでもあり実に少年らしかった。  その日、たまたまマウトハウゼンには元囚人である初老のドイツ人男性が来ていた。敵前逃亡の咎《とが》でマウトハウゼンに収容され、自分でも理由はわからないけれども毎年バカンスには必ずマウトハウゼンを訪れずにはいられないという彼は、ガス室や電流の通った鉄条網のあった場所や野外の作業場に案内してくれた。強制収容所経験者との幸運な出会いではあるが、彼は重い記憶を心の適所に安置するのに成功した立派な紳士であり、学校で朗読術を仕込まれるヨーロッパ人らしい朗々と響く説明の声や、電流の通った鉄条網にこうやって飛びついて自殺した者がいたと言って劇的な所作で自殺者の姿を演じて見せるさまを、私は精一杯虚心に拝見し拝聴するばかりだった。ただ、野外の作業場に行く途中の崖っぷちで親衛隊員は囚人を縦に並ばせ、前から二番目の者に先頭の者を突き落とすように命じた、と話した際の彼の苦い表情は忘れがたい。命令を拒めば親衛隊の手で突き落とされる。命令に従って前の者を突き落としても次は自分が先頭になって後ろの者に突き落とされる。眉を曇らせてそう語る彼の声音には力がなく朗読調ではなかった。  だから私は、強制収容所に出かけた甲斐がなかったとは考えていない。だが、「見た」というほどのものは何も見なかったと思うのである。  広島を舞台にした映画『二十四時間の情事』(原題『ヒロシマ、モナムール』)の冒頭に、日本人の男とフランス人の女の会話のリフレインがあった。「私はヒロシマを見たわ」「いや、君はヒロシマを見ていない」という科白《せりふ》である。「君はマウトハウゼンを見ていない」の声を私も想像の中で聞く。  それでも、アウシュヴィッツにもダッハウにも行ってみたい、と私は切に願っている。 [#地付き](「文藝」'89年秋季号) [#改ページ]   ㈼ 印象[#「印象」はゴシック体] [#改ページ]   反逆児たちの和解  長与千種とダンプ松本、この二人の聡明な女性が同じ年に女子プロレスに入門したのは運命の神の粋なはからいと言うほかはない。  彼女たちがベビー・フェイスとヒールという敵対する立場にあって、二度に及ぶ敗者髪切りデス・マッチを頂点とする長い抗争を展開して来たのは周知の事柄だろう。  二人が下積みの新人時代をともに過ごし慰め合い励まし合った仲であることは雑誌などで伝えられており、その事実だけとっても彼女たちの激しい対立は血を分けた兄弟でありながらわけあって殺し合わねばならなくなった極道者たちを描いた仁侠映画を思わせる悲劇性を帯びるのだが、長与千種とダンプ松本の試合にはそんな感傷を越えて響き合うものがあったように思う。  もともと長与千種は、世の中から押しつけられる女性性の枠を打ち破って自由な自己表現をするためにレスラーを志し、プロになってからはプロレスリング独得の因襲や不文律をはねのけようとしてライオネス飛鳥とクラッシュ・ギャルズを結成した、生まれついての反逆児だった。時おり暴発する顔面蹴りや場外乱闘等のヒール顔負けのラフ・バウトにも、伝統的なベビー・フェイスの型にすっぽりと収まるのをよしとしない反逆精神が表出されていた。  彼女の反逆精神に最もよく応えたのがダンプ松本である。千種のベビー・フェイスの役柄を突き抜けたラフ・バウトに対して、ダンプはそれを上回るラフ・バウト、凶器攻撃を繰り出した。ダンプの無法ファイトは千種をさらに過激にする火種となった。一見対照的な二人だけれども、〈ちゃちなルールは破る〉という志においては熱く連帯していたのだ。  二人の反逆児の試合は凄惨だったが、醜いところや貧しいところは全くなく、女性の強さと豊かさへの可能性を示唆して感動的であった。それぞれが一度ずつ坊主になるまでにエスカレートした抗争は、千種とダンプの組み合わせでなければできない、社会が女性に着せかける〈女らしさ〉という拘束衣をどこまで引き裂けるかをテーマにした文字通り血みどろの実験だったと言える。  そういう関係の二人だったから、最後に当たって和解、と言うより秘められた連帯性を顕わにして見せるのは当然必要なことだった。  二月二十五日、川崎市体育館でダンプ松本と大森ゆかりの引退特別試合が行なわれた。引退するダンプ=大森のペアとクラッシュ・ギャルズが対戦するタッグ・マッチである。  特別試合なのでクリーン・ファイトで臨むかと思いきや、ダンプはフォークや石油缶を持ち出して大暴れ、千種、飛鳥ばかりかペアの大森をも流血させ自らも反撃に遭って額を割った。観客の悲鳴と怒号の中、無効試合が宣告され終了のゴングが鳴り響く。  本当の最後のドラマはそれからだった。ダンプがマイク片手に「長与、おまえとは敵だがこのまま終わらせるわけには行かないんだ、来い」と呼びかけ、千種が「よし、おまえと一回だけタッグを組んでやる」と応じた。そしてダンプ=長与千種対大森ゆかり=ライオネス飛鳥の異例のエキシビション・マッチが勃発。どこまでも掟破りの二人であった。  プロレスはドラマの宝庫である。しかし、数多いドラマの内でも際立った光を放つ長与千種とダンプ松本の物語が育まれたことについては、やはり運命の神に感謝しなければなるまい。 [#地付き](「朝日ジャーナル」'88年4月1日号) [#改ページ]   男が女に変わる時  美しいのは男、色っぽいのは女、というのが私の持論である。美しさとは線の鋭さ、硬さ、緊張感がほとんど奇跡的に現世で捉え得た〈超越=永遠〉とでも言った強靱で静的なもの、色っぽさとは線の優しさ、柔らかさ、甘さから生ずる〈はかなさ=危うさ〉であり不安定で可動的なもの、と定義しよう。この男と女の個性の違いは主として体の中の脂肪の含有量の違いによっている。  たとえば舞台の上で男が女を演じねばならぬ時、先天的にその身に多くの脂肪を持たぬ者はいかにして色っぽさに近づけばよいか。  歌舞伎の女形はしなをつくる。これは正面を切らないで斜《はす》に光を受けること、つまり陰影によって線の鋭さを緩和することである。  トロカデロ・デ・モンテカルロ・バレエ団の男たちはもう一つの答を提示してくれる。硬い線を滲ませればよい、と。ピンと張った弦を弾いて震わせるように、体を震わせて輪郭の線を幾重にも見せればよい、と。彼等が女を演じる時の繊細なヴァイブレイションは確かに色っぽさに迫り得ている。  そして、ヴァイブレイション自体に不可避的に伴う男性的ダイナミズムと色っぽさの兼ね合いはかなりスリリングである。貧しい舞台装置のわりには観劇料が高過ぎるが。  さらにもう一つ、これぞ最高にして最強、絶対正しいコロンブスの卵的解答があったのだ。即ち、ホルモン注射をすること!  新宿のバレリーナ・パブ『黒鳥の湖』で踊る二人のプリマ・バレリーナの〈女演技〉の身軽さ、明るさは、天に与えられた属性に縛られたまま精励せねばならぬ〈芸術〉の不自由さをいとも晴れやかに乗り越えている。  血を吐くような訓練によって女らしさを身にまとうことはもちろん素晴らしいが、身の中に女らしさを注ぎ込み男と女の個性の差異の秘密を明るい光の下で顕現してしまうゲイ・ボーイさんたちのポップな過激さに栄光あれ、とも言ってみたい。 [#地付き](「フリー」'83年9月号) [#改ページ]   人形と人間の舞台  生身の俳優が黒子の操る人形と同じ舞台に立つ。舞台の上では見えないはずの黒子が駕籠|舁《か》きの役を平然と演じ平然と消えて行く。人形たちが自分たちの頭の何倍もの大きさの生首を掲げる。女の人形が男声で語り男の人形が女声で語ったかと思えば人形の性別と同じ性の声優が役割を務める。和楽器の彩る空間を突如シンセサイザーが揺さぶる。そしてカーテン・コールではヒロインたる人形がロック・ビートに乗って舞を舞う。  人形師辻村ジュサブロー率いるアトリエジュサブローの人形芝居『天守物語』は、そのような「ありそうになくもないこと」が次々に起こって来る演劇である。  私たちが自分の人生を記憶する、あるいは歴史化=物語化しようとする時には、自己にまつわるあらゆる経験の中から「ありそうなこと」を選択し掻き集めて「あったこと」として一篇の〈人生〉に仕立て上げるという方法が一般的である。その平凡さに飽き足らない人は「ありそうなこと」の連鎖の中に「ありそうにないこと」を紛れ込ませて別の平凡さに身を寄せる。  そうして歴史化された〈人生〉はもちろん充分に豊饒なものであろうが、今一つ「ありそうになくもないこと」を添わせてよりいっそうの〈豊饒〉を紡ぎ出してみたいと欲望するのもまた自然なことだろう。 「ありそうになくもないこと」とは歴史化=物語化しにくいもの、双葉もつけぬ物語の萌芽である。「ありそうなこと」や「ありそうにないこと」に似てしまう可能性があれども「ありそうになくもないこと」は「ある」。  アトリエジュサブローの演劇が前衛やら異端やらに堕さないのは、「ありそうになくもないこと」が「ありそうになくもないこと」のままあらせられているからである。人形に〈妖艶さ〉を探さず生身の俳優の登場に〈斬新さ〉を感じ取らずとも、眼の前で展開される出来事のすべてを私たちは見ることができる。 [#地付き](「フリー」'83年10月号) [#改ページ]   豊川誕の官能性  今から八九年前、私が思春期の真只中にいて現実の恋よりは架空の恋に耽ることの多かった頃、アイドル歌謡界に豊川|誕《じよう》という愛らしい少年スターがいました。今でこそその名を知る人も少なくなりましたが、一時は新御三家の次のクラスに位置するほどの人気者でした(嘘だと思うなら雑誌『明星』七五年十月号の人気投票をご覧なさい)。  あまたの可愛子ちゃんタレントの中で誕くんが異彩を放っていたのは、顔や歌唱力によってではなく、けたたましい人気とり戦線にあって愛敬も振り撒かず取り澄ましもせず常にボーッとしていたその様子のためでした。  孤児院育ちで両親の顔を知らないという生い立ちも関係しているのかいないのか、自分の中に立ち起こって来る諸々の感情を処理する術も知らずたった一人地表に佇《たたず》んでいる、といった印象。あえて思い入れを込めて言ってしまえば、世界が肌に合わなくて戸惑っている、そんな風だったのです。  世界が肌に合わない、とは特に思春期には誰しも一度は呟いてみること。呟いた後、野暮な人たちは怒ったりふてくされたり諦めたりします。誕くんのようにひたすら戸惑い続ける少年少女は滅多にいるものではありません。  それゆえ、私も含めた彼のファンの少女たちは、彼に憧れるよりも可愛いと思い可憐だと思い、彼に触れられたいと望むよりは彼に触れたいと思ったものです。戸惑っている人には他人に自然に能動態をとらせてしまうところがあります。  思い起こせば、思春期の暗くて甘い匂いの立ち籠める教室の片隅で、怒れる少年たちのダミー人形の如く苛められたり可愛がられたりしていた少年は、皆豊川誕くんのように世界のありように惑ってぼんやり突っ立っているのが似合うタイプでした。  性という媚薬なしに他人を誘惑する資質、この〈存在論的官能性〉とでも呼ぶべき魅力のために豊川誕くんは私の記憶に残るのです。 [#地付き](「フリー」'83年11月号) [#改ページ]   ジョン・モルダー・ブラウンの記憶  美貌と色気は一人の人間には同時に顕われない、即ち美しい者はセクシーではなくセクシーな者は美貌ではない、という説がある。確かに最高にセクシーなミック・ジャガーはハンサムではないし、デヴィッド・ボウイの〈美貌〉は性的には貧相で退屈きわまりない。  多分美貌という物は完成され過ぎ収まり返り過ぎていて、色っぽさの必須事項である繊細さや危うさが足りないのだ。静的なものは見る者の官能を揺り動かさない。柔らかに甘やかに震えるが如く存在するものこそが他人の官能を共振させ媚薬の香りを放つ。  しかしながら、この世には美少年と名づけられる美と色気を兼ね備えたとんでもない化け物が存在するのであった。一般に成長期のちょっと可愛い少年少女は、明日にでも平凡な容貌に移ろってしまいそうな落ち着かなさが姿形そのものに漂っていてまさに「可愛い」のだが、それだけでは〈化け物〉の資格はない。〈美少年=化け物〉の具体例としては、たとえば七〇年代初期に活躍したイギリスの俳優ジョン・モルダー・ブラウン(代表作『初恋』『早春』『ルードヴィヒ』)がいる。  出世作『初恋』(一九七一年)のスチールを見た時、何とまあ不細工な少年だろうと思ったものだ。まず鼻の肉が分厚い。唇も腫れぼったい。かつ、鼻と唇の間が長過ぎる。頬や顎も福々しい。美しいどころか醜く見えた。  ところが実際映画を観てみるとその陰影の深いこと、笑えば鼻の下は短くなり唇は薄くなる、伸縮自在の頬は表情の変化に敏感に反応する、わがジョン・モルダー・ブラウンは一瞬ごとに美しくなったり醜くなったり普通になったりで眼が離せなかったのであった。  醜さを含んだ美貌あるいは美しさを含んだ醜貌。いや、醜さも美しさも未分化の年少者特有の混沌が渦巻いている、見かたによっては畸型とも言える風貌。十三歳の私は生唾を呑みながら、このわけのわからない魅惑的な生き物の煽情的七変化に見入った。 [#地付き](「フリー」'83年12月号) [#改ページ]   〈生涯一美少女〉ジェーン・バーキン  八二年度正月映画の『地中海殺人事件』はとりたてて言うべきこともない観光映画と断じてしまっても大して心は咎めはしないが、ただ一つ、他の俳優を喰い南欧の風物を喰いストーリーを喰いスタッフの技術まで喰ってとにかく際立っていたジェーン・バーキンのことは語らずば女がすたるというもの。  夫の女癖の悪さを悲しむ繊細な人妻(を装う悪女)の役なのだが、何の必然性もないのに滅法色っぽい。色っぽいと言っても、もともと美少年のような美少女のバーキンのこと、〈猫にマタタビ、ペニスに裸女〉のようなパターンに収まる色っぽさではない。  まず気にかかるのは特徴ある口の動きである。早い話が唇が微妙に歪んだ形に開くのである。それが下品でも白痴的でもなく、一種煽情的な幼さ、危うさに感じられるのが不思議だ。眉や眼の表情、身のこなしについても同様に〈洗練された大人の所作ではない不安定さ〉が見られる。皮膚を刺戟される。  これは人生のごく早い時期に(世界の向こう半分の生々しい相貌を見るなどして)立ち止まったきり動けなくなった者のイグジスタンス・アピールだ、と想像するのは大袈裟か。  バーキンと言えば、かつての夫セルジュ・ゲンスブールとデュエットした放送禁止歌『ジュ・テーム〜モワ・ノン・プリュ』が有名だが、きわどい歌詞と溜息にもかかわらずここでの彼女はまるでセクシーではなかった。相方のゲンスブールはなかなか雰囲気を出しているのだが反応は乏しい。 『地中海殺人事件』を観てその理由がわかった。バーキンは他者によって新しい魅力を惹き出されるタイプの人間ではないのだ。男性遍歴を重ねて〈いい女〉とやらに熟して行くタイプでもない。時の流れの外側にいる〈生涯一美少女〉なのだ。  間違ってもエリザベス・テイラーやジャンヌ・モロオのようにどっしりと腰回りの太い女にはならないでほしい。 [#地付き](「フリー」'84年1月号) [#改ページ]   われらがヒーロー1  ロバート・デ・ニーロ扮するジョニー・ボーイが、ストーンズの『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』に乗って、女を左右に一人ずつ抱えニタニタ笑いながら踊るような足どりでクラブに入って来た時ほど、恋心と同時に嫉妬心を覚えたことはなかった。  ニューヨークの下町のイタリア系の若者たちを描いたあの映画『ミーン・ストリート』の中での主人公はやはり、親友ジョニー・ボーイを見捨てられずに悩みもがき〈運動〉するハーヴェイ・カイテル演ずる若者の方なのだろうが、彼はJ・Bを見続けJ・Bを自分の世界における〈いとおしい人物〉として定着させることによって〈語り手〉という位置を獲得し、J・Bに拮抗し得る存在に高まったのだから、いつまでたってもJ・Bに遅れをとるしかない。  ——などとごたごた理屈を述べなくとも、現実にわれわれが気ままでいい加減で型破りだが憎めない〈J・B的存在〉を仰ぎ見るしかないこと一つを指摘すればすむだろう。  われわれは〈ヒーロー〉J・Bに身悶えするほど恋し嫉妬する。そしてある者は筆を取り、映画の中でカイテル青年がやったのと同質の方法——〈語り手〉としてことばによってJ・Bを現実よりももっと純粋なヒーローに錬金し、恋情と嫉妬心を昇華しようとする。  ところが、自ら築き上げた作品世界にもわれわれは裏切られることを知る。J・Bには死ぬことができるが語り手であるわれわれに死ぬことは許されない、という一点で。ヒーローが死んだ後でも語り手は生き続けねばならない。語り続けねばならない。  死んでしまえることと生き続けることとどちらが素晴らしいかはここでは措く。ただ、先に往《い》かれてしまうことは遅れをとった者にはあまりにも痛切である。 〈書く者〉が〈書かれる者=ヒーロー〉に嫉妬するのはこのどうしようもない〈時間差〉のせいなのだ。ことばはいつも遅すぎる。 [#地付き](「フリー」'84年5月号) [#改ページ]   われらがヒーロー2  書く側と書かれる側のどちらがよりカッコいいかということと同様、愛する側と愛される側のどちらがカッコいいかということも問題となる。  数多いヒト属の中には愛しもしなければ愛されもしない生きたミイラのような心理障害者も稀にいるようだが(そして日本の戦後小説の中で不気味にも主人公を務めている例も少なくないのだが)、そうした手合は〈人間〉のレベルには達しない奇怪な生き物だから「ああかわいそう」とだけ呟いて無視して差し上げるのが正しかろう。  われわれ可愛い(〈可愛〉とは〈愛ス可《べ》キ〉と読み下す)健常者は、甘い光を発散する自分にとってのアイドルに手向けることばを昼も夜も吟味する。「愛の決まり文句が好き」(ブリジット・フォンテーヌ)だから〈通俗〉をも拒みはしないが、熱を入れてことばを紡ぎ自らの愛情を明晰にするのも全く趣味のよい試みである。  そんなわけで、ニール・ヤングは「僕は夢見る者だけれど君は夢そのもの」と歌いアラン・トゥーサンは「君はスウィート・センセイション」と歌う。それを聴いてわれわれは感動する。どこかで誰かが誰かを愛しているという凡庸な事実に感動する。  歌を捧げられているヒーロー、ヒロインをことさらに羨んだり特別視したりする必要はない。私だってあなただってブライアン・フェリーやスモーキー・ロビンソンの吐くような愛の科白《せりふ》を幾度も言われもし言いもしたのだから。  愛を捧げてもらうことなど(健常者なら)誰でもできる。それよりも、巧みに綺麗に艶やかに愛を表明することに励む者の方が間違いなくカッコいい。「あなたが自分の美しさを信じないのなら私はあなたを映す鏡になろう」(ルー・リード)——この境地に至れればわれわれはますます可愛くなる。 [#地付き](「フリー」'84年6月号) [#改ページ]   われらがヒーロー3  われわれがわれわれの想い人に寄せる感情のエネルギーが抱き合った時に接する肌の表面積に収まる程度の分量であればよいと思う。そうであれば、抱きたい、寝たい、やりたいと毎日毎晩毎秒熱望している相手を抱きしめ得た時にどうしようもなく感じる〈抱き足りない〉という印象はなくなるかも知れない。  アミーバならぬこの体、いかように伸ばし拡げようと試みてももう一つの体と全身で交われる風にはできていない。胸を温め合えば背中が空く。われわれの過剰な愛情は無駄な放熱を続ける。  直接的行為では消費しきれない愛情エネルギーを〈ことば〉に向け得ると仮定してみよう。〈ことば〉によって〈素敵なあの人〉により近づき得るものだろうか。  ことばによる〈現象〉の錬金? いや、われわれにできるのはせいぜいいとしいものやいとしさそのものを物語の鋳型に嵌め込むことくらいではないか。たいていの場合、書き得たものよりも現実のあの人、あのことの方がずっとチャーミングだ。  とは言え、抱擁という行為にしてから〈抱擁という鋳型〉に肉体を沿わせねばなされぬことである。語ることが鋳型を持つこともあながち不条理とも言えないに違いない。  ならばこういう夢想はどうか。ある抱擁はあり得たすべての抱擁を代表するのは当然だがさらにあり得ない〈抱擁〉までも代表するものである。それでなければ虚しさと寂しさを充分意識してなおわれわれが体を寄せ合う理由が説明できまい。  同様に、ある物語は語り得た物語だけではなく語り得ない物語をも代表するものである、と言ってみたい。典型を語ることは同時に畸型を語ることでもある、と。 〈わがヒーロー〉を〈われらがヒーロー〉としてしか語り得ぬことはさほど悲しむべきことでもない。ヒーローとは〈書かれる者にして書かれざる者〉であると誰もが知っている。 [#地付き](「フリー」'84年7月号) [#改ページ]   ボテロ・トリップ  絵画を始めとするヴィジュアル・アートを観る愉しみが作者の視覚を借りて世界を眺めることの愉しみだとしたら、フェルナンド・ボテロのように自分がどういう風に世界を見ているかを明確に強固に表現している画家の作品は、実に愉しみやすい純度の高い美術作品と言えるだろう。  八月二十三日から九月三日まで渋谷の東急百貨店本店で開催されたボテロ展は、一歩踏み込めば物皆すべてラテン系の光と色に彩られ限りなく球体に近く膨張した世界で、まるで突然眼の見えかたが変わってしまったかのような生理的な戸惑いをまず覚えるが、じきに薬も呑まないのに何やらハイな酔心地に至る、という素敵な展覧会であった。  球体の兵士に出迎えられ、球体の少女と対面し、球体の恋人たちのそばを通り抜け、球体のニワトリの頭を撫で、球体の殺戮者をやり過ごし、球体の屍体に見入り、球体の楽師の前で耳を澄ます——そうやって町の公園程度の広さの会場で遊ぶうちに、改めて球体という形の完結性、安定性が人の気分をハイにするものであることに思いが至るのだが、ボテロの球体には他にも人をトリップさせる要素があるようだ。  ボテロの丸々とした人物はどこか品がいい。極端にデフォルメされていながら、道化めいた印象が発生する数歩手前で止まっている気配がある。数歩進んで道化風人物となってしまえば観る者の哄笑を惹き起こすのだろうが、そこまでは行かない。その代わりに哄笑の手前、もう少しで確実に笑いが爆発するだろうと予感した時のくすぐったさをわれわれに感じさせる。胸元で芽吹くくすぐったさは人をハイにするのに充分一役を果たす。  ただ観るだけで心身に生理的変化が生ずるという事実はボテロの作品がすぐれて官能的であることの証拠であるが、この官能性は、人間の肉体を是が非でも球体として把握したいという欲望の強烈さから発している模様だ。  そう言えば、物を見るという行為は対象を自分流に変形して把握することであってそれだけで充分にエロティックな行為であると誰かが言っていた、などと思い出しつつ、私はボテロ・トリップから帰って来た。 [#地付き](「就職情報」'86年9月18日号) [#改ページ]   プリンスの成熟  二十世紀にミネアポリスに生まれ変わったヘリオガバルス、重油と紫の雨を糧に狂い咲いたヘリオトロープ、ネヴァーランドを追放された象牙色の肌のピーター・パン、そんな神話的肩書きを自然に呼び寄せる最後のスター、最後のセックス・シンボルたるプリンスが日本でコンサートを行なうという奇跡が実現してしまった。  私も眼を血走らせてチケット発売所の前に並んだ王子様支持派の一人である。九月八日当日はほとんど夢見心地で会場に駆けつけた。  美妃シーラ・Eのフロント・アクトが終わって横浜スタジアムの上空に上ったのは三日月、『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』ならぬアンダー・ザ・バナナ・ムーンとなったコンサートは、予想に反して、客を楽しませることを第一に心がけた実にまっとうな、ラスベガスで行なわれてもおかしくない良質のエンターテインメントであった。  スキャンダラスなイメージはあるが、本質的にプリンスは小心なくらい繊細で律儀な人なのだろう。開演時刻は正確だし、一時間五十分に及ぶステージは計算し尽くされ一分の隙もない。  気さくで腰の低いプリンスは「トキヨー」を連発し、拍手と歓声には「For me?」とおどけて応える。気前もよくて、二十個近くのタンバリンや花の他に身に着けていたサングラス、サスペンダー、ベルト、ペンダント等を客席に次々と放り込む。スーツの上着まで投げたのには驚いた。  マイク・スタンドを股間に挟んで腰を振り立てても下品ではなく、あくまで健康的で芸達者という印象である。  かと言って、巷間《こうかん》に流布する肩書きを裏切っているわけではない。畸型的なまでにか細い体型と変声期の最中のような影の深い声は、やはり異様にセンシュアルなのだ。  プリンスが相当にどろどろとした暗い青春期を送って来たであろうことはその生々しい声から察せられる。だが彼は、おそらくごく最近、うまい具合に暗い青春を土台にして突き抜けた大人に成熟したのだろう。レコードを年代順に聴いてもそれはよくわかる。  完成され過ぎているという気味もあったが、パーソナリティの滲み出た、好ましいコンサートだった。 [#地付き](「就職情報」'86年10月2日号) [#改ページ]   観念の吹出物  サルヴァドール・ダリと言えばかねがね不思議でならないのは、伝説化した数々の奇行、書く文章の面白さ、写真で見るダンディぶりからして彼がたいへんな才能と魅力を備えた人物だということは疑えないのに、作品の方はあまり刺戟的ではない点である。  もとより美術の専門家ではない素人の私の個人的な感想に過ぎないのだが、ダリの絵からは全く生理を揺さぶるものを感じない。上手だと思うし頭のいい人だと感心するけれども、絵は眼球から脳へと素通りするだけで快感も不快感も呼び起こさない。  血腥《ちなまぐさ》さが、泥臭さが、艶《なま》めかしさがないのだ、ダリの絵には。キャンバスの上に読み取れるのは観念の配列のみであり、しかもその観念は肉体と結びつかない(=エロスの要素の含まれない)衝迫力のない観念である。  フロイトに自分の書いた〈科学論文〉を読ませようとしたほど思想家志向の強かったダリには、もしかすると絵よりもことばを使った表現手段の方が合っていたのかも知れない。不幸にして(?)絵の才能もあったために画家になってしまったが、本当は詩人か哲学者になるのがふさわしかったのではないかと想像できなくもない。  絵に比べるとオブジェの方は、触ってみたい、掴んでみたい、放り投げてみたい、壊してみたい、というような欲望をそそる分、訴えかけて来るものが大きい。  もちろん基本的には二次元のモチーフが三次元に移されただけなのだが、目下秋葉原のミナミ美術館で催されている『ダリ 愛の宝飾展』はなかなか楽しめる。  暗い回廊の壁にしつらえられた陳列窓を覗くと、宝石で構成されたダリ的観念が鎮座している。胡散臭い見世物小屋に入り込んだ気分の味わえるこの展示方法はよい。  三十七個の宝石彫刻を見終えると改めてダリの思想家志向の強さに感じ入る。ダイヤモンドもルビーもダリ的観念に嵌め込まれているばかりで、決してモチーフとはなっていない。ダリ的観念の表面を彩る美しい吹出物でしかないという使われかたである。あまりに徹底しているのでしまいには微笑を誘われる。  宝石とダリ的観念とどちらが魅力的か。考えてみるのも一興だ。 [#地付き](「就職情報」'86年10月23日号) [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福1   ★『インディア・ソング』[#「★『インディア・ソング』」はゴシック体]サウンドトラック盤[#「サウンドトラック盤」はゴシック体]  音盤殺人者が凱旋する。コングラチュレーション。殺人者は倒錯者となって帰ってきた。コングラチュレーション。耳に痙攣する舌を差し込んでくる音盤を欲望する余り数歩歩くにも腰をくねらせて。コングラチュレーション。  そもそもいけなかったのは折れ目だ。あってはならないはずの所、モノラルのプレイヤーにセットするとテレビ・アニメの主題曲を甲高く響かせる直径十七センチの赤いプラスティックの外縁から中心点までの約八センチ、幼女の性器のように薄気味悪いさまで白っぽいその折れ目はあった。  自分の性器もまたそのように薄気味悪いものだとは当時知らなかったし、プレイヤーの針先が一分間に四十五回音を立てて折れ目に入り込むのは痛そうだったし、何よりもちょうど半径一本分などという奇妙な折れかたをしている点が不快で、ある日私はそれに鋏を入れ盤の中央に印刷された鉄腕アトムの肖像を刳《く》り貫《ぬ》いてしまった! 生涯最初の音盤殺人。プラスティックが切り取られる音はとても甘かった。  鉄腕アトムの顔をしたプラスティック片は今何処。それを舐めたか舐めなかったか、あるいは水気の多い眼球の表面にコンタクト・レンズのようにそっと浮かばせてみたか、私は何も憶えていない。何事もなかったかのように時の流れに乗り、ソノシートから塩化ビニール盤へ、十七センチのシングル盤から三十センチのLP盤へと愛の対象を変えて行った。  ところがしっぺ返しは喰うものだ。犯行の日から十四年、知人の家で私が殺したものと同じ種属に出会おうとは。それは色こそ青かったが紛れもなく直径十七センチのソノシートであった。私が殺意を掻き立てられたのは言うまでもない。  それが知人の二本の指で不様につまみ上げられた時私は嗤《わら》おうとしたのだった。しかし、嗤いで渦巻くはずの部屋の空気はターン・テーブルの巻き起こす渦に呑み込まれ、私はポオの主人公さながらに渦の底へ向かって下降して行くことになった。  フランスの映画雑誌の付録に付いたソノシートだという。マルグリット・デュラス原作・脚本・演出、ジャンヌ・モロオ主演の映画『インディア・ソング』のサウンドトラック盤。どのようなメロディであったか繰り返せと言われてもできないが、ヴェール越しに酷熱の太陽を見るような、全身に噴き出した汗がゆっくりと冷えて行くのを感じるような、眼が覚めるたびに隣の部屋で続いているパーティのざわつきを聞く晩のような、そんな印象を受けた記憶がある。  青いソノシートに屈服し床に体を投げ出してはみたけれど、卑屈な恋は実らぬもの、私は昔殺したソノシートと私の物にならなかったソノシートを頭の中で重ね紫色の夢を見るしかない。  幸いにしてと言うか、今一つの『インディア・ソング』のサウンドトラック盤を手に入れることができた。三曲入りの塩化ビニールのシングル盤。確証はないが、ソノシートに収録されていた曲はここには含まれていないように思う。  主題曲『インディア・ソング』をジャンヌ・モロオが歌っている。グロテスク・ビューティーという称号を奉るにふさわしい顔の下半分の垂れ下がったモロオの顔、ただしだらしなく垂れているのではなくぎりぎりのところで重力に張り合い反重力のありようを見せつけているその顔とぴったり一致した声である。  もとよりうまい歌唱ではない。女優としての仕事の際には光を放つ〈モロオ的雰囲気〉に依存した部分もないとは言えない。しかし、メロディに引きずられそうになっては踏み留まり、けだるさに染まりかけては身を翻し、より深い酔いに沈むかと思えば不意にぽかりと浮かび上がる、この容貌そのものの語り口はどうだろう。  ジャンヌ・モロオは〈時間〉を揺り籠に乗せゆるやかに揺り戻す。われわれは自分の犯した罪ごと生まれ直す。  音盤。安っぽいソノシートから特別仕様のピクチュア・レコードまで、必ずしもたいせつには取り扱って来なかったけれども今や体の外にある鼓膜のように思える音盤。いつまで続くか見当もつかない音楽との腐れ縁に音盤的祝福《デイスコングラチユレーシヨン》を。 [#地付き](「劇画チャイム」'84年5月号) [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福2   ★マルキ・ド・サド[#「★マルキ・ド・サド」はゴシック体]『RUE DE SIAM』[#「『RUE DE SIAM』」はゴシック体]  さあどうしよう、この身は欲望でいっぱいになった。ものの数十秒とたたないうちに、頭は過剰な熱の処理の方法を思いつき膨らんだ心臓は平生の形にひしゃげて行くのだろうが、たった今のわたしは欲望で純潔だとでも口走りたくなるほどに明快な状態の心地よさはどうだろう。欲望が見事達成された瞬間が天国だとしたら、裏返しの天国、ツイストした天国に嵌り込んだような圧倒的な充実感でわたしは失神しそうだ。  そう、われわれは絶えず幾多の欲望が生命の水面で泡立つ音を聴いているが、時に津波の激しさで立ち起こる欲望に覆い被さられ架空のオルガスムスに至ることがある。欲望を発火点とするのが現実のオルガスムスであるが、行為以前に欲望そのもので行って[#「行って」に傍点]しまうこと、これはひょっとすると最も過激な倒錯である。  しかしながら、トム・ヴァーレインが「此岸でひたむきには生きられぬ (I live light on these shores)」とうたった通り欲望が明確なかたちをとる前に弊《つい》えてしまったり立ち起こる欲望を成就に向けて放とうとして放ち切れずにしこりばかりを残して行きがちな空気の生ぬるいこの時代に、壮烈な欲望に抱きしめられひととき心中の至福を疑似体験するという戯れの途方もない眩《まば》ゆさ、実を結ばぬ倒錯よと嘲ってばかりもいられない。  欲望を育てることも徒労に思えるくらい〈生〉が生ぬるい時、わざと倒錯の方向に酔っ払って行けば? 単純で原始的でこの上なくセンシティヴな欲望、生きたいという欲望を抱いて震えてしまえば? 〈生〉は自動的に振動し倒錯は戦術としての有効性を発揮しはすまいか? トム・ヴァーレインのオルガスムス・ヴォイスとオルガスムス・ギターに、生きたいという欲望への恋慕を聴きたいと思うのも、一ファンの一つの欲望である。  そのトムのヴァーレインというステージ・ネームを提供した国フランスに、やはり文学史上の人物の名を借り受けてグループ名とした、マルキ・ド・サドという四人組のロック・バンドがある。ある、と言っても現在も活動しているのかどうかいっさい知らないのだが、ともかくも八一年に『Rue de Siam』というアルバムを発表しており、それは日本にも入って来て八三年には輸入レコード店の在庫処分バーゲンの商品となって五百円で売られていた。  マルキ・ド・サドと言えば、世界で初めて観念と欲望を繋ぐパイプ・ラインを敷設し観念の演出する性的饗宴をことばによって見せてくれた人である。ロック・バンドの方のマルキ・ド・サドにも確かに文人サドの遺伝子が伝わっているようだ。 [#ここから1字下げ]  残虐に戻れ、奴等の退屈な人生を彩ってやるために  朝まだき、ワンダは声高く泣き喚き俺は彼女の唇を歯で味わっている [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『Wanda's loving boy』  フィリップ・パスカルなる青年を頭とする四人の若者たちの開陳するのは、仄暗い感興を呼び起こす〈観念〉のコレクションである。基本的にはブリティッシュ・パンク・ムーヴメントに刺戟された比較的ストレートなロックを聴かせるが、時折ドアーズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドに通ずる古典的な陰影がちらつく。  ただし、精神的系列としては近いところに位置するであろうブライアン・フェリーやスティーヴ・ハーリイ、そしてトム・ヴァーレインほどにはマルキ・ド・サドはヴァイブレートしない。ヴァーレインは欲望と抱き合って飽和状態になった地点から声を発するが、マルキ・ド・サドのフィリップ・パスカルはついこの間欲望とキッスを交わしたばかりのハイ・スクール・ボーイのようないまだ硬い声でうたう。  そうした〈青さ〉もまた好ましい。マルキ・ド・サドの選ぶデートの場所は、硫黄島でありベルゼン強制収容所であり中国人通りである。時には自らの癌細胞の疼きまでダンスのリズムに利用してしまう。 [#ここから1字下げ]  ほんのわずかの間だけでも僕は死にたい  君は笑ってくれただろうか?  僕は一緒に笑えただろうか? [#ここで字下げ終わり] 『Silent World』に聴かれるこの呟きにはやはり戦術としての倒錯の気配が漂う。マルキ・ド・サドは魅力的な青い種子である。 [#地付き](「劇画チャイム」'84年6月号) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福3   ★ヴァージン・プルーンズ[#「★ヴァージン・プルーンズ」はゴシック体]『HERESIE』[#「『HERESIE』」はゴシック体]  赤黒いプルーン・エキスを一匙あなたの舌の上に。これは世界でいちばん妖しい食べもの、血のように口蓋を刺し泥のように喉に絡まる。食道を押し拡げてゆっくりと降りて行くプルーンの重たさを存分に味わって。[#「 赤黒いプルーン・エキスを一匙あなたの舌の上に。これは世界でいちばん妖しい食べもの、血のように口蓋を刺し泥のように喉に絡まる。食道を押し拡げてゆっくりと降りて行くプルーンの重たさを存分に味わって。」はゴシック体]  Virgin Prunes とはまた、何というネーミングだろう。プルーン・エキスを口にした以上は〈手つかずのプルーン〉などという直訳に納得してはいられない。どうしたって〈処女の経血〉くらいの訳を考えたくなるし、さらに、アイルランド生まれの彼等の好き放題やっているようでいながらいかにもカソリックの土壌に肥やされて来た者たちらしいストイシズムをも感じさせる演奏を思い合わせると、もう少しイメージを絞り込んで、ヴァージン・プルーンとはつまり〈初潮〉のこと! と辞書に書き加えたくなる。  もちろん〈初潮〉というのも一つのシンボルだろう。プルーンズの音の特徴として、喉や舌や唇等の発声器官をいびつに歪ませたかのような一種の裏声によるヴォーカルが挙げられるが、そこに変声前の少年のボーイ・ソプラノ、ボーイ・アルトへと裏返って行くベクトルを見出すことは可能である。初潮に代表される第二次性徴の諸相——変声、発毛、体の線の変化、精液の分泌の開始等——をヴァージン・プルーンズということばは暗に指し示しているのではなかろうか。  このグループのビデオにはまさに第二次性徴期前後のリビドーの乱れ打ち花火大会とでも呼びたいパフォーマンスが収録されている。単純に文章にすれば、二人のヴォーカリスト、ゲヴィンとグッジが歌とも呻《うめ》きともつかぬ声を発しながら半裸で泥んこ遊びを繰り広げそのうち一人がもう一人の背中に飛び乗ったりするというものなのだが、その印象の異様さたるや、一人で観るときっと幼児退行してしまうであろうと恐れるに充分である。泥んこはプルーン・エキスにも経血にも濃い精液にも糞尿にも見え、あれを弄《もてあそ》べばあらゆるリビドーは満足し自我はゼリーのように溶けるに違いない、そんな風に思わせるだけの求心力を持った、生半可な裏ビデオの何十倍も猥褻なビデオ作品である。  フランスの『自殺への招待』なるレーベルから出たプルーンズの十インチLP二枚組が『HERESIE』である。エレジーとは『湯の町エレジー』のエレジーではなく異端とか邪説の意味で、あるいはフランス人に多い好事家たちをひっかけようとしてつけたタイトルなのかも知れない。  のっけから連中は例のボーイ・アルトで「アーラーヴュー」と誘いをかけて来る。引っぱり込まれそうになった体を立て直す暇もなく、騒ぐ心臓に杭を打ち込むような強烈な曲『RHETORIC』が続く。ノスタルジック・アヴァンギャルドで軽く揺すぶられたりメタリックな地声の感触に汗腺を刺戟されたりしているうちにパリでのライヴを収めたディスク2も聴ききって、一息入れた直後にレコードに針を落とす前と比べて体温が低くなっているのに気づく——『HERESIE』はかつて見た鮮やかすぎる淫夢の残照に似た作用を聴く者に与える。  実際、リズムを生み出すと言うよりはギターやヴォーカルと同格の積極性をもって空間を染めるドラムや、各楽器のノーマルでない噪音(音楽的数値はゼロだけれども音色を決定するポイントとなる音、たとえばオルガンのパイプに空気が吹き込まれる音とかギターの弦に指が当たった時の音)の多さに真剣に耳を傾けていると、ホルモン・バランスが狂うのも当然と言うものだ。  多分、われわれが記憶の底の闇に沈めている第二次性徴期の心身の不均衡、不安、もの狂おしさといったものを、ヴァージン・プルーンズは甦らせるのだろう。野蛮にして典雅なやりかたで。  もしもいつの日にかプルーンズの挑発に乗る決心がついたなら、「アーラーヴュートゥー」と子供の声で答えて明るく笑いながらリビドーの煉獄へと滑り落ちて行きたい。  わたしの秘孔にべったりと口を押しつけくすんだ赤色の滴りを受けてくれたことに報いるため、今度はわたしが繰り返された自慰のせいで血の気を含んだあなたの精液を呑みましょう。[#「 わたしの秘孔にべったりと口を押しつけくすんだ赤色の滴りを受けてくれたことに報いるため、今度はわたしが繰り返された自慰のせいで血の気を含んだあなたの精液を呑みましょう。」はゴシック体] [#地付き](「劇画チャイム」'84年7月号) [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福4   ★コックニー・レベル[#「★コックニー・レベル」はゴシック体]『THE HUMAN MENAGERIE』[#「『THE HUMAN MENAGERIE』」はゴシック体]  生まれていちばん初めに何をした?  泣いた。  温かい羊水は飛び散りそれまで触れたことのない空気という異物が剥き身の体を取り巻く。外界の異様な変化を吟味する余裕もなく、突然のしかかって来た重力を反射的にはねのけようとでもするかの如く、生まれたての赤ん坊は声帯を思いきり震わせ泣き声を上げる。粗い、濁った、祝福されて然るべき場面にはおよそ似つかわしくない耳障りとも言える声を。それが産声、ことば以前、動作以前のわれわれの最初の〈表現〉だ。  最初の? いや、柔らかで無力で小さな存在が発しているとは思えぬほど激しいあの掻《か》き毟《むし》るような泣き声は、その後人が何十年生きてもどれだけの技を尽くしても越えられない最初にして最後の完璧な〈表現〉なのではないだろうか? 何をいかにして表現するか、などと問う〈間〉を赤ん坊は持たない。赤ん坊の表現はその存在と等身大だから。剥き出しの存在が剥き出しの存在を剥き出しに表現する。この奇跡的な三一致。知識だの感情だの自我だのといった衣服をまとった身にはもはや望むべくもない。産声のように聴く者の心臓を強烈にノックする声は二度と出せない。  スティーヴ・ハーリイ。七〇年代に咲いたブリティッシュ・ロックの徒花《あだばな》コックニー・レベルのヴォーカリスト。霧の都の〈傷とナイフ〉の販売人。ロックン・ロール・サーカスの跛の道化師。日向と日陰の境界線上で踊るサイコ・ストリッパー。彼の声は絶えず地肌が見え隠れしている。  呼気を溜めた口腔の中で舌を巻き上げるいかにもロンドンっ子らしい発声、じきに二つ三つポリープをつくる原因になりそうな喉に負担をかけたシャウト、押し殺した呟き声、おどけた低音、のたくるようなよれよれの声等々、ハーリイの声音は七変化するのだが、スタイリスティックな声色を突き破ってしばしば浮上して来るのは地肌——産声の延長線上にある裸の濁り声である。  ことばや動作による伝達を行なうようになり表現衝動を闇雲に爆発させることもなくなると、人はその発声過程で原始的な声の濁りを濾過し聴き取りやすい澄んだ声を発する術を編み出す。そうして産声と同じ声では喋らなくなる。ところが濾過の手順をすっ飛ばして留保のない声でボブ・ディランやジョン・レノン、マーク・ボラン、それにスティーヴ・ハーリイは歌うのだ。とかく〈文学的〉に語られがちな彼等だが、第一の存在証明は〈声〉においてなされているのではなかろうか。  初期コックニー・レベルの面白さは、ハーリイの濁り声と電気楽器の滑らかな音のコントラスト、また、ヘヴィーな歌詞とポップな演奏スタイルの少々ひねくれた結合、クラシック音楽名残りの曲構成と随所に聴かれる民俗音楽風アレンジの危なっかしい調和にあった。言い換えれば、アンバランスなもの、分裂するものを志向するハーリイ独得の美意識の面白さである。  七三年のデビュー・アルバム『THE HUMAN MENAGERIE(=人間動物園)』にはそういう美意識にプロデュースされたバラエティ・ショーの趣きがある。時の流れから身を隠そうとする若者、孤独な娼婦、鏡に見入る野心家の新人歌手、二重人格の俳優といった登場人物たちが順繰りに舞台に立ち己れの恥部を露出して行く。ハリウッド映画の感傷性とシェイクスピア芝居のシニシズムを同時に匂わせながら。  性急なテンポの曲、南方系の音を引用した曲が多い中、しゃれてみることも嘲ってみることもやめたかのように重い一曲のバラードがとりわけ印象に残る。言わずと知れた『SEBASTIAN』である。実にヨーロッパ的な悲痛な恋の歌であり、陰鬱な色合いも抑制のきいたメロディもドラマティックな進行もモノローグにも詠唱にも聞こえるヴォーカルも名品と言うにふさわしい。この一曲によってハーリイの名は十年以上もマニアの間で囁かれ続けることになった。  スティーヴ・ハーリイ。肥大した頭と成熟しない喉を持った裏町のダンディ。次の幕が上がればまた彼は新生児の声で歌ってくれるに違いない。 [#地付き](「劇画チャイム」'84年8月号) [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福5   ★セックス・ギャング・チルドレン[#「★セックス・ギャング・チルドレン」はゴシック体]『SEBASTIANE』[#「『SEBASTIANE』」はゴシック体]  和合への意欲と生命の流れに逆らうまいとする良識とに支えられたこの世界の後ろの正面に、破壊や死をも快楽とする倒錯した闇の領域があるとしたら、そこにはヘリオガバルス、カリギュラ、ネロ、マルキ・ド・サド、ルードヴィヒ等々、闇においてもなお黒々とした輪郭を失わない暗黒のヒーローたちの跋扈《ばつこ》する姿を見ることができるだろう。  コロー、グレコ、デューラーを始め名だたる画家たちのモチーフとなった殉教者セバスチャンもまた闇の領域に属するアイドルの一人である。クリスチャン受難の時代のローマで、皇帝によって体に何本もの矢を射られて殺されたというセバスチャンの物語は、澁澤龍彦の分析(「自己破壊の欲求」『エロティシズム』所収)を俟《ま》つまでもなく、マゾヒズム的官能に大いに訴えかけて来る。  もしも苦痛が我が身に降りかかって来たらわたしは恍惚としてそれに耐えよう——殉教図のセバスチャンはそう言っているかのように見える。  一九八三年、二人の〈セバスチャン〉がイギリス製のレコード盤を通じて立ち現われて来た。一方は均整のとれた古典的な体にしなやかなローブをまとったスティーヴ・ハーリイ版『セバスチャン』であり、もう一方は張りきった若々しい裸身を光と影で彩ったセックス・ギャング・チルドレン版『セバスチャン』である。  前者はスタンダードとなったオリジナル録音から数えて十一年目のリメイク作品で、後者はそれとは全く別の新しい作品なのだが、殉教者セバスチャンの故事を踏まえた二曲が同じ年にリリースされたのは〈世紀末の偶然〉とでも言ってみたくなる面白い出来事だ。  今回のリメイク版以前にもシングル盤のB面を含めて『セバスチャン』のライヴ・ヴァージョンを三種も世に問い、自らの作品の版権会社をセバスチャン・ミュージックと名づけるほどに、かの曲に愛着を寄せているスティーヴ・ハーリイにしてみれば、セックス・ギャング・チルドレン版『セバスチャン』の登場に穏やかならざる思いもしただろう。このポジティヴ・パンクの雄のセバスチャンの綴りの末尾にEがつけ加えられており辛うじて同音異字のタイトルとなってはいても。しかし、いざS・G・Cの音を聴いた時、いかにハーリイといえども自尊心も嫉妬も越えて素直に後輩に向かって拍手したのではないだろうか。  金地にモノクロームのセバスチャン像を載せたジャケットからして『SEBASTIANE』は傑作である。  速いテンポのイントロダクションはパンク・ロックの御家芸らしい驀進《ばくしん》を予想させるのだが、案に相違して、絶妙の呼吸で彼等は減速する。始まるのは、磔刑《たつけい》をめぐるまがまがしい〈祝祭〉に昂奮する人々の息遣いと生贄《いけにえ》の動悸の反響のような、低く重く蠢《うごめ》く演奏である。ヒステリックに軋《きし》むヴァイオリンの音がひときわ耳を衝く。  そして煽情的なヴォーカル。高音域ではガラスのように震え低音域ではゴムのように弾力に富む。眼前で展開する惨劇を素早く画用紙の上に写して行く画家の握ったたっぷり水気を含んだ筆にたとえられそうな歌声だ。  スティーヴ・ハーリイの『SEBASTIAN』が殉教者に同一化した一人称の物語であったのに対して、S・G・Cの『SEBASTIANE』は処刑者の側にも加担しない三人称の物語である。かと言って語り手が醒めているわけではなく、凄惨な光景があまりの衝撃の強さゆえに大脳ではなく角膜にじかに焼きつけられるという話を思い出させるほどに、鼓膜の熱くなるパセティックな語りがなされている。 「もう苦しまずにすむよ/彼等は君の青緑色した血管を断ち切ってしまったのだから」——歌はそう締め括られる。この結びに歌い手の被虐者への心情が託されていると言うと甘ったるく過ぎるかも知れないが、どうであれ、セックス・ギャング・チルドレンはなかなかにできる[#「できる」に傍点]バンドのようだ。  闇の領域へのトリップから還ったら、光の領域への手土産代わりに『SEBASTIANE』を聴かせてあげよう。 [#地付き](「劇画チャイム」'84年9月号) [#改ページ]   ディスコングラチュレーション[#「ディスコングラチュレーション」はゴシック体]   音盤的祝福6   ★アリダ・ケッリ[#「★アリダ・ケッリ」はゴシック体]『SINNO'ME MORO』[#「『SINNO'ME MORO』」はゴシック体] 〈絶対〉とか〈完璧〉とかいうことばは無闇に使われるとこれほど鼻白むものもないのだけれども、時には〈絶対〉という夢の冠を衝動的に献上したくなるような対象に出逢うこともある。私個人のことを言わせてもらえば、音楽において最も頻繁にそうした衝動に駆られる。  思うに、音楽は絵画や映像やことばに比べて伝わりかたがより肉体的だから(振動という肉体の運動をダイレクトに惹き起こすから)、大脳の〈絶対〉という観念を保持している部分により速やかに浸透するのではないだろうか。  言いたい。単に好まれるというだけでなく、趣味のレベルを超えて人の生理に喰い入る〈絶対〉の楽曲が稀にある、と。  イギリスのSF作家アーサー・C・クラークが〈絶対のメロディ〉の存在を仮定して『The Ultimate Melody』という短篇を物している。偉大な旋律が人の心に強く訴えかけるのはそれが頭脳の持つ基礎的な電気的リズムと多少なりとも合致するためだと考えた科学者が、作曲機械と発振器を接続して脳波のパターンと完全に合致した〈究極の旋律〉を見つけ出したのはいいが、その旋律に脳を捕えられてしまって廃人となり果てる——こういう話だ。  クラーク作品の中で「糖蜜のように」頭にへばりついて離れない〈絶対〉に近いメロディの例として挙げられているのは、シベリウスの『第二』のフィナーレの主題と『第三の男のテーマ』である。なるほどと頷けるが、私としてはイタリア映画『刑事』のテーマ曲『シノ・メ・モーロ(=死ぬほど愛して)』を是非とも推薦したい。 「アモーレ・アモーレ・アモーレ・アモーレ・ミーオ」という歌い出しがあまりにも有名な大スタンダード・ナンバーだが、印象的であるとか美しいとかよくできていると落ち着き払った感想を述べようとする鑑賞主義的立場を突き抜けてわれわれの血液の中に流れ込んで来るような精気を多量に含んだ曲だと思う。  とにかくメロディの純度が高い。圧倒的に高い。純度の低いメロディとは、近頃のヒット曲に数多く見られるサビの部分の前後を埋めるためだけに作られたかの如き消極的なメロディや、作曲者の貧しい感性を水増ししただけの安直なメロディを指す。『シノ・メ・モーロ』の場合は、もう少し純度を落とせばこの一曲の主題を使って三四曲は曲が作れるのにもったいない、と思われるほど高純度のフレーズのみで構成されているのだ。  具体的には、センチメンタルにして情熱的、即ちきわめてラテン的な節回しである。よく響き快い湿り気を帯びたハスキー・ヴォイスによって歌われるにふさわしい。そして、実際歌い手であるアリダ・ケッリの声はまさにそのような声なのである。  作曲者はアリダ・ケッリの父でもある売れっ子映画音楽作曲家のカルロ・ルスティケッリ。オーケストラでヴァイオリンを弾いていた時期があるそうで、『シノ・メ・モーロ』も確かに、ピアノやギター以上にフレイジングが自由自在の楽器ヴァイオリンで作曲されたと覚しき雰囲気がある(オルガンかも知れないが)。 〈完璧〉なメロディとアリダ・ケッリの歌唱を前面に出す意図もあるのだろう、アレンジは簡素で各楽器(弦2、管2+オルガンか)は実に控え目に演奏される。抑制的と言うよりはいかにも俗謡らしい素朴な範囲で洗練されたアレンジと言った方がいいだろう。リズム・セクションを排しているため、ヴォーカルがよりよくテンポを統御し得ている点も聴きどころの一つとなっている。  七七年プレスの日本盤シングルは『鉄道員のテーマ』(これも名品)とカップリングされた御徳用盤ではあるが、ニセステレオなのが口惜しい。できれば、ネオ・レアリスモの映画よろしく、蒸し暑い真夏の夜の八時半頃薄汚ないアパートの窓を開け放して、モノラル・プレイヤーにて近隣の家々の騒音とともに聴きたい。  もはや〈絶対〉というのろしに即して『シノ・メ・モーロ』を語る必要もあるまい。ただ「この曲絶対[#「絶対」に傍点]いいんだから!」とナイーヴに呟けばよい。此岸で〈絶対〉などというものが顕現されようはずもないが、しかし、〈熱狂〉という現象は起こるのだから。 [#地付き](「劇画チャイム」'84年10月号) [#改ページ]   ㈽ 文学[#「文学」はゴシック体] [#改ページ]   「沈黙」に至る旅   ★倉橋由美子『暗い旅』[#「★倉橋由美子『暗い旅』」はゴシック体] 『暗い旅』とは Traveling in Dark かと思っていたら、実は Blue Journey であるらしいことが『聖少女』を読むとわかった。Blue とは当然 Blues の Blue であり、従って Jazz の Blue である。『暗い旅』に、また倉橋由美子氏の他のいくつかの作品にジャズ喫茶やジャズの曲名が頻出することはすぐ思い出されるが、そのことに根拠を求めるまでもなく、氏がジャズの人であることは忘れるわけに行かない。  ジャズの人と曖昧な言いかたになってしまったが、つまり単にジャズを愛好して来た(ことのある)人というだけでなく、氏が自分の所有する言語世界に棲む何ものかと結託して産み落とした作品の中に、遺伝情報の一つとしてジャズという要素を見出せる、といったほどの意味である。  たとえば『暗い旅』の「暗い」を文字通りの意味にとっていた頃、題名や筋立てにかかわらず、この小説が奇妙に明るい印象を与えるのが不思議でならなかった。「かれという太陽」を失った「あなた」が「かれ」を捜して旅する話なのだから、描かれる世界は暗いはずなのに曇りガラス越しの明るさが維持されている。一つには、二人称で書かれたこの小説に、描かれた世界の外から「あなた」と呼びかける作者が照明を提供しているからでもある。だがそれにしても、〈薄暗い〉のではなく〈薄明るい〉のはなぜか。 「暗い」が Blue であるのなら謎は解ける。ブルースは黒人たちにとってきわめて不利で深刻な状況から生まれたものでありながら、少なくともやりきれない暗さのみが支配する音楽ではない。それは多分黒人たちの苦しみがデジタルなものであり、今日の苦しみが昨日の苦しみや明日の苦しみに続くのではなくまさに今現在の苦しみでしかないからだろう。彼等にとって彼等の置かれた状況は、いかに悲惨であろうとも彼等をあらしめているすべてではないのである。だから love がうたわれる。そして基本的に短調ではなくハ長調である。このことはブルースの血族であるジャズにもある程度当て嵌まる。  かくして Blue Journey は暗くない。では直接的な明るさを緩和している曇りガラス(ブルースにおいては苛酷な環境)が何かと言うと、「青春」という観念である。奢《おご》りの春である青春は真に dark ではないし、同様にその奢りゆえにナーヴァスになってもいるから真に明るくもない。倉橋氏は『青春の始まりと終り』というエッセーの中で「あの異常に輝かしいくらやみのなかの太陽」と青春を表現しているが、この認識が曇りガラスになるからこそ暗くも明るくもない世界を表わし得たのである。  同じエッセーの中に次のような文章が見られる。「カミュとカフカがわたしのなかで結婚したとき、わたしは自分の『青春』を小説に表現する方法をみいだしました」「わたしにとって、『青春』の終りとは小説を書きはじめることでした」。これによれば、青春が「太陽」を失って熱を放出し、ただの「くらやみ」に沈んで行く過程を描いた小説が、〈小説を書き始めることについての小説〉になるのは自然の成り行きではあるまいか。 〈小説を書き始めることについての小説〉とはいったいいかにして書かれ得るのだろう。小説を書き始めることについての文章ならば、それが適当な形式であるかどうかは別にして容易に書かれ得る。しかし、小説の形でそれを書くことは、でき上がった作品がすでにして小説である以上、空間的なトートロジーに陥らざるを得ない。もうあなたは小説を物しているのに、小説を書き始めようと語るのは珍妙な自家撞着ではないか?  この宿命的なトートロジーを脱するという軽業を見事にやってのけたのは、ジャン=ポール・サルトルであった。彼が〈なぜ書くか〉という出発点をあきらかにする小説を書くためには、ジャン=ポール・サルトルという名を使うわけには行かなかった。作者であって作者でない誰かがなぜ小説を書くに至ったかという形でなければ、先に述べたトートロジーに引っかかってしまうのである。そこで、『嘔吐』と名のついた小説はアントワーヌ・ロカンタンなる人物の日記の体裁をとった。『嘔吐』がサルトル哲学を小説の形で展開した作品であるなどという幼稚きわまりない俗説が正しいならば、こうした特に新鮮でもない二重構造をとる必要はないと念のため言っておく。 『暗い旅』が二人称で書かれなければならなかったのも同じ理由による。〈小説を書き始めることについての小説〉が書かれるのだから、物語中に〈わたし〉が出て来るのはまずい。正確には『暗い旅』にも〈わたし〉は出て来る。『嘔吐』が「刊行者の緒言」で始まるように、『暗い旅』は「作者からあなたに」で終わる。これが〈あとがき〉でないのは新潮文庫版に本物の「あとがき」が付されていることであきらかである。この部分がなければ、二人称で書かれた部分も実は小説であったことがわからず、『暗い旅』は〈小説を書き始めることについての文章〉と区別がつかないのだから。  ジャズやロックのレコードのライヴ・ヴァージョンには、演奏者が聴衆に向かって Singing! とか Thank you! と叫ぶ声まで録音されているが、「作者からあなたに」もそれに近い役割を果たしているかも知れない。「これがいわゆる自伝的小説でないのは、たんにわたしの体験にデフォルマシオンが加えられているからではなく、わたしがあなたにおきかえられているからなのです。これはあなたを遠隔操作するための装置ともいえます」に続く「あなたはこれまでのように作者から一方的にある物語を語りきかされるかわりに、小説のなかに招待され、参加することになるでしょう」という箇所に至って、読者は自分こそ「あなた」であったことに気づき、小説を読むことが本質的に作者との共犯関係によって成り立つことを思い知らされる。読者は倉橋氏と同じ空間(コンサート・ホール)にて倉橋氏の演奏に耳を傾けていたのである。  単なる修辞のために音楽を持ち出したわけではない。ここで重要なのは、〈小説を書く(書き始める)ことについての小説〉には必ず作者と読者を同時に存在させるコンサート・ホールがつくられている、ということである。一般の〈(すでにして書かれてしまっている)小説〉には決してコンサート・ホールはない。作者と読者の間には如何ともしがたいタイム・ラグが厳然としてある。本という形で提出される小説は、言ってみれば楽譜でしかなくて、決してライヴ演奏にはならない。今さら確認するのも馬鹿馬鹿しい小説と音楽の違いである。  作者が書くことと読者が読むこととの間にあるタイム・ラグを消去しようとする試み、それこそが『嘔吐』に始まる〈小説を書くことについての小説〉の書かれた真の目的ではなかったか。『嘔吐』以降のフランス小説は蜿蜒《えんえん》とそれをやって来た。そうした小説群をアンチ・ロマンと命名したのがサルトルであったことは偶然ではない。本来の意味での小説はフランスでは『嘔吐』をもって終わったと言っていい。  アンチ・ロマンの作家たちが読者の参加によって完成する小説を書こうとしたのは、作者という絶対者を廃す、と言うよりも作者と読者の区別を廃し、それによって最初からタイム・ラグの生じる条件を取り払うためであった。フランスの作家たちの場合にはさらに、作者の絶対性の向こうに主語の絶対性を要求するインド・ヨーロッパ語の暴力性を見ていただろう。  もちろん演奏者と聴衆の場合にも微小なタイム・ラグは存在するが、音楽の場合には空間の共有が可能である。空間の共有だけで満足せず、音楽性自体に可能な限りの同時性を含み得たのがジャズであった。ジャズは演奏者と聴衆の共振を本質とする音楽である。ジャズは時間軸を横断する。ジャズにとって問題なのは歴史的時間の廃棄だと言ったフィリップ・ソレルスは正しい。『嘔吐』に使用された音楽がほかならぬジャズであったのも故ありである。  もう一度『暗い旅』が Blue Journey の和訳であることを思い出してみたい。作者と読者が言葉を媒介にして共振することで成り立つこの小説は、演奏者と聴衆が音を媒介にして共振するライヴ・コンサートに対応した構造を持つ。一般の小説は振動を発する一方なのであるが、それは小説が文字という形、本という形でしか提出できないせいである、という一見あたりまえの、しかし暗黙の大前提として乱暴に忘却され無視されている事実を、小説という形式の詐術として暴くためにも、『暗い旅』はジャズ的性質を帯びることになる。  作中の〈ことば〉たちは、波動状に空気を震わせ拡散して行く〈音〉さながらに、断片を形成してはその断片自身の運動によって拡がり、次の断片へと移行する。〈音〉がやがては静寂に帰するように、〈ことば〉たちは豊かな沈黙へと帰するのであるが、この沈黙は最終的な到達点ではないわけで、時間軸に出たり入ったりしつつ進んで来た物語は形式上の終結に至っても時間軸上の一点に落ち着くのではなく、時間軸をくぐって別の次元にさまよい出る。「かれ」を捜す旅はいつの間にか〈ことば〉を捜す旅に変わっているのである。  そういう不思議な〈ことば〉の運動が可能になるのも、「あなた」という人称の自由さによる。「かれ」は求心力とならない。従って物語も文字通りの「かれ」からずれて行く。「むしろかれとあなたとは、兄と妹、あるいは姉と弟、おなじ胎内で抱きあっていた双生の兄妹であるべきだったかも知れない」。それならば、「かれ」を見つけるためには「あなた」自身を遡って二が一であった世界、全が無であった世界に辿り着けばよい。その道程に耐え得るのは〈ことば〉だけである。やがて〈ことば〉は、〈ことば〉の始まりでもなく終わりでもなく、始まりであって終わりであるのでもなく、始まりでも終わりでもないのでもない〈沈黙〉に突き当たる。これが倉橋氏の言う「反世界」であるように思われる。  倉橋氏の多くの小説が構築された「反世界」であるとすれば、『暗い旅』は「反世界」を構築して行く過程を描いていると言えよう。そこでは〈なぜ書くか〉ということ、〈いかに書くか〉ということ、〈何を書くか〉ということが、ほとんど重なり合って存在している。  一つ誰でも抱くであろう疑問は、〈小説を書き始めることについての小説〉がなぜ作者の処女作でなかったかということである。これに関しては「あとがき」の次のような件が参考になる。「『暗い旅』を二人称で書いたことについては Michel Butor の〈La Modification〉からヒントを得ている。この二人称を使って小説を書くことには〈La Modification〉以前から関心をもっていて、たとえば私の処女作ということになっている『パルタイ』も、『ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた』という文章で始まっているが、『パルタイ』の場合は、『あなた』に語りかけるのでもなく『あなた』への手紙でもなく、『あなた』を三人称のように使って、これに対するもうひとつの極である『わたし』の考えを書いた一人称小説である。Butor の小説の出現は、この『わたし』を消して『あなた』だけで小説を書くことに関して、一種の安心を私にあたえた」。『パルタイ』の場合、〈あなた〉は常に〈わたし〉の射程距離内に留まり、また〈わたし〉の射程距離も〈あなた〉に制約されねばならない。『暗い旅』において読者は〈あなた〉になり得るが、『パルタイ』においては〈わたし〉の側にまわらざるを得ない。〈わたし〉は過去の一時期のことを独り言として物語る。従って『パルタイ』を読む者の運動は円環状に完結する。〈わたし〉とは時間軸なのである。  時間軸の拒否というモチーフは人称への執拗なこだわりとして表われる。人物に歴史性を押しつける固有名詞は排除され、代わりに透明なアルファベットが冠される。時間軸から遊離した二人称主体の『暗い旅』において、やっと固有名詞を持つ脇役の登場が許される。  なぜ『暗い旅』の前に『パルタイ』が書かれたかは、その辺からあきらかになって来る。倉橋氏は時間軸を拒否しにかかる前に、挑発的に時間軸を描出しておこうとしたのであろう。『暗い旅』を実質的な原点(ゼロ)とすれば『パルタイ』はマイナス一に位置する作品である。そしてマイナス一から始まった旅を、時間軸の拒否及び人称との戯れの旅であると解釈するなら、近作『城の中の城』に至ってもいまだにその旅が続いていることを確認できる。 『城の中の城』は構造から言うと、「人間の中の病気」「信に至る愚」という二つの正の数の世界に挟まれて「城の中の城」本篇という負の数の世界があることになっている。「年下の友人に山田桂子といふ人がゐる」または「久しぶりに山田桂子さんが姿を現したのは」で始まる正の世界には、そういう言葉こそ使われていないが〈わたし〉という軸が備わっている。負の世界の方は、〈わたし〉が友人から聞いた話を読者に伝えるという形式になっているので、〈わたし〉は了解事項として埋もれ「桂子さん」という呼びかただけが残る。  三人称小説の形式でありながら『城の中の城』の正体は一人称小説なのであった。形の上では徹底的に一人称が消されているため、読者には〈桂子さん〉しか見えないのであるが、耳元で作者の語る声を絶えず聞いているのである。それゆえ『城の中の城』の文章を読むことは無類に気持ちがよい。  小説という形式の詐術を暴くということでは、これは『暗い旅』以上に過激で悪意を孕《はら》んでいる。一般の小説においては〈……ということがあったと私は聞いた〉という部分は当然の約束として消されている。それを、『城の中の城』は消す作業まで顕わにして見せた。しかも、主語が省略されるという日本語の特質を利用して行なっているのだから、作者の悪意は測り知れない。  倉橋由美子氏の「磁石のない旅」はどこでもない場所への無限の接近であるように思われる。読者としてはその旅について行けないまでも、氏のさらに過激で毒のある土産話を恐れつつ待ち受けなければならない。 [#地付き](「ユリイカ」'81年3月号) [#改ページ]   口承文学としての『紫のふるえ』   ★アリス・ウォーカー『紫のふるえ』[#「★アリス・ウォーカー『紫のふるえ』」はゴシック体]  アメリカの黒人に関する本を積極的に読むようになったのは、リズム・アンド・ブルース、ソウルと呼ばれる音楽を聴き始めてからのことである。最初は聴きかたを深める参考になればと音楽書を繙《ひもと》いていたのだが、次第にそれだけでは収まらなくなった。読書特有の罠——一冊の本が次に読むべき本を指し示す——に嵌《はま》ったということもあるが、音楽への興味と尊敬がそれを生み出した民族への興味と尊敬にまで発展してしまったのである。  収穫はいろいろとあった。たとえば、黒人における生活と音楽の結びつきが他のどの民族よりも強いのは、彼等が彼等の重要なコミュニケーションの場である教会でゴスペルを歌いながら育つからとも言えるが、さらに理由を探れば、彼等の祖先はアフリカ大陸で実に楽器(音程を自在に変えることのできる太鼓)によって会話(信号ではない)を交わしていた、即ち音楽イコール言語であったという歴史的事実に行き当たる、といった知識を得ることができた。  この知識がなければ、黒人女性詩人ニッキ・ジョヴァンニの「われわれの生活を見よ。われわれ全員が音楽家なのだ」ということばを単なるキャッチ・フレーズ以上のものと理解し得たかどうか怪しいし、黒人の書き手による文章にルイ・アームストロングやアリサ・フランクリン等音楽家の名前が頻出する点についても、ある種の現代作家のいい気なネーム・ドロッピングとは根本的に異なると認めるのが難しかったかも知れない。  そしてまた、文学市場に出品されている黒人の小説やエッセーを読もうとする時、はたしてこれをそのまま〈文学〉として読んでいいものだろうかと迷うようにもなった。ライトやボールドウィンに〈文学〉的価値が少ないなどと言うのではもちろんない。非黒人〈文学〉を読むのと同じ読みかたで黒人文学を読むのは正しくないのではないか、という気がしないでもなくなったのである。  もともとアフリカ黒人は文字を持っていなかった。いわゆる〈文学〉をつくったのは書きことばを持っていた民族である。アメリカに連れて来られて文字を学習し当然の流れとして才能を書きことばによる〈文学〉にも向け始めた、とは言っても、今なお親から子へと自分たちのさまざまな物語を語り継いで行くという伝統を守り続けている黒人たちの文学は、やはり、早くから話しことばと書きことばを分離させて来たわれわれの想像以上に、(音楽をも含めた)口承文学に近いのではないだろうか。  そんなことを考えながら、アリス・ウォーカーの『紫のふるえ』(集英社刊・現タイトル『カラーパープル』)を読んだ。黒人女性作家のピューリッツア賞・全米図書賞受賞作として話題になった作品である。  とにかく面白い小説であった。力強く、誇らかで、豊かである。そうした印象は良質の黒人音楽を聴いた時の印象と同じなのだが、書きことばによる作品であるから音楽よりも具体的に思想が伝わって来る。その思想とは〈女は女によって変わる〉というものである。  南部の貧しい家に生まれ多くの苦労を負った主人公が一人の魅力的な女性と愛し合うという経験を経て初めて自分を愛することを憶える。同性愛という題材をエキセントリックととってはならない。先に名を引いたニッキ・ジョヴァンニ(アリス・ウォーカーとは一歳違い)は七五年に『女たちが集まる』という詩の中で「今まで女は男しか愛して来なかった」とうたっている。「男しか愛して来なかった」とは、女を、また女である自分自身を愛して来なかったという意味である。真実自分を愛するためには同性を愛さねばならない。ジョヴァンニの詩の延長線上に同性愛という素材はある。 『青春と読書』99号で谷川俊太郎氏がこの小説について、(登場人物の女性の一人が腕っぷしが強く夫を叩きのめしたりすることに触れて)「女の男に対する戦い」が「大きな主題のひとつ」であって「それが観念とか思想の戦いであるより先にまず肉体的な戦い」であると書いていらっしゃるが、ここは「女と女の結びつき」が「観念とか思想の結びつきであるより先にまず肉体的な結びつき」であるところが面白いと言うのでなければならない。  谷川氏は『紫のふるえ』を平凡な〈フェミニズム〉小説と読まれたらしく、男女の対話形式になっている同批評文において、他にも「男はみんなかわいそうなんだよね、この小説の中では。男が女によってしか変れないなんて困るわ」とか「男の人はこういう小説読むと、いやな気がするんじゃないかなあ」等と女性の話者に暢気な発言をさせている。〈男対女〉という公式を乗り越えたところからアリス・ウォーカーが出発していることにお気づきではないようだ。 「訳者あとがき」によれば、ウォーカーには『われらの母たちの庭をもとめて——ウーマニストの散文』と題されたエッセー集があるらしい。〈ウーマニスト〉とは〈フェミニスト〉を乗り越えた女性解放論者のことと推察する。『紫のふるえ』は内容にレッテルを貼るとしたら〈ウーマニズム〉小説なのだろう。このすぐれた小説の誤読を追放するためにも、続けてエッセー集が翻訳刊行されることを期待したい。  小説のつくりかたの面で注目を惹くのは、全篇が書簡体=口語体で成り立っていることである。黒人文学は口承文学であるという見地に立てばこれは非常に興味深い。主な語り手である主人公は高い教育を受けていない。つまり、アメリカ社会における大多数の黒人と同様、〈文学〉的言語を操って文章を書けるインテリではない。しかし、インテリならざる人々も生き生きとした話しことばは持っている。ウォーカーは何よりも黒人たちの宝である〈話しことば〉を書きことばに組み入れ、〈文学〉的言語を持たない人々の声を広く響かせたかったのではないだろうか。そこで書簡体が選ばれた。  アリス・ウォーカーは口承文学そのものと言っていい文学作品を書き[#「書き」に傍点]、これが〈黒人文学〉だ、という強い意識をもって、非黒人〈文学〉にぶつけたのだと思う。『紫のふるえ』を読んだ後では、ライトもボールドウィンもエリスンも非黒人のものである〈文学〉の真似をしていただけで〈黒人文学〉をつくったのではない、と考えたくなる。 『紫のふるえ』の登場によってアメリカ文学界は、十九世紀末ブルースが顕われた時に西洋〈音楽〉一色であった音楽界が受けたのと同等の衝撃を受けたはずだ。そう、音楽にたとえるとわかりやすい。非黒人〈文学〉を読むのと同じ読みかたで〈黒人文学〉を読むのは、西洋〈音楽〉を聴くのと同じ価値基準で〈黒人音楽〉を聴くことの馬鹿馬鹿しさと変わらない。従って、(たびたび引き合いに出して申しわけないが)谷川氏の前掲書での評言「今の文学の文脈でみれば、方法としてはむしろ保守的な小説」もナンセンスということになる。『紫のふるえ』は最も新しい〈文学〉なのだ。  この小説が口承文学の歴史に連なるものであると確認できれば、爽やかにハッピー・エンドで幕を閉じることに対する違和感も消える。一つの共同体の内に生まれる〈物語〉はハッピー・エンドで終わることが要請されているものなのだから。  同時代に新しい文学の誕生に立ち会えたことを喜ぶとともに、ウォーカー氏がかつての偉大な黒人たちのように命を狙われたりしないことを心から祈る。まだまだ先は長い。 [#地付き](「すばる」'85年7月号) [#改ページ]   ジャン・ジュネ、性器なき肉体   ★ジャン・ジュネ全集[#「★ジャン・ジュネ全集」はゴシック体]  時として人は強い愛着を寄せている人物の死を願う、願わないまでも相手の死の場面を繰り返し思い描いては無駄な涙に暮れたりする、と心理学者は報告する。  それと似通った心理からかどうか、ジャン・ジュネの訃報を聞いた時、待ち受けていたものがとうとう訪れたという気がして、寂しさとともに少しばかりの安堵感が湧き起こったものだ。  十五歳の時からジュネの愛読者になった。私が全集本を揃えている唯一の作家がジュネである。細かいことを言えば、貧乏ゆえにそうそう思うように蔵書をふやせないとか晶文社のパヴェーゼ全集の刊行が途絶えている等の別の理由もあるものの、もともとある著者の一作が気に入ったからと次々と同じ著者の作品を読み進んだり手紙や雑文に至るまでその著者の筆になる物すべてに眼を通そうとしたり、といった作家単位の読書はしない性分だから、やはりジュネは特別なのだ。  私が読み始めた頃にはジュネはすでに執筆活動を停止していた。新作が書かれるとは考えられなかったし、新しい物を読みたい、書いてほしい、と思ったことはない。従って、この稀有な作家の死に際して私の感じた寂しさは、いまだ書かれざる作品、彼が生きていれば書いたかも知れない作品を惜しむ気持ちから発したのではない。  たとえてみるなら、天然記念物扱いの貴重な動植物、ニホンカワウソか何かの絶滅が確認された、といった類のニュースを知った際に抱くであろうような感慨であった。そう、私が新聞記者であれば「仏作家ジャン・ジュネ氏死亡」とは書かず「霊長類ヒト科ジャン・ジュネ属絶滅」と報じるだろう。「ジャン・ジュネ属=パリの娼婦とこの世にあり得ぬ光り輝く黒薔薇との間に誕生した極めて珍しい動物。現在までに一個体が発見されているのみ」と註釈を添えて。  全く『薔薇の奇蹟』の作者は独得な作家であり、独得なありかたで生きていた人間であった。  ここで言う〈独得〉さの中には、ジュネの生い立ちの特異さは含めていない。確かに、娼婦の私生児として生まれ、子供の時分から盗みを働き始めて少年院・刑務所を出たり入ったりし、ホモセクシュアリティに題材を採った処女小説『花のノートルダム』を獄中で書いた、という経歴があってこそ作家ジュネがあるのには間違いないが、そういう経歴の特異さと作品において表現された独得さは別物である。  わざわざこんなことを書くのも、ジャン・ジュネについては経歴の特異さと作品及び作品から測られる作者の人物像の独得さを乱暴に一直線上に並べて語られることがあまりに多いと見受けられるからだ。即ち、「特異な運命を辿って来た者が特異な世界を描いた」とか「社会の底辺に位置する者が反社会的な著作を物した」とか、もう少し高級そうな批評では「ブルジョワジー的社会から疎外された者がことばの力をもって正義と悪、美と醜、聖と汚辱の図式を反転させた点に価値がある」という風に。  作品をどのように面白がろうと読者の自由ではあるが、〈作者の実人生=作品〉とするこれらの批評はいかにも弱い。なぜならば、「所詮《しよせん》特異な人物の描いた特異な世界は平凡な人生を歩んで来た者にはわからない」だの「特異な人物の自己聖化など見るには及ばぬ」といった具合の否定論によって軽く一蹴されてしまうからである。  ジュネの経歴の特異さにことさらに執着し作品を読むに当たってもそうした作品外の伝記的データに引きずられる人々は、結局のところ、一般的でないと思われるもの・珍奇に見えるもの・面白そうなものをその本体を見極めようともしないで遠巻きに見物して楽しみたがっている野次馬的あるいは観光客的読者なのではなかろうか、と言っては言い過ぎだろうか。  まあ、ジュネの作品のいくつか、『花のノートルダム』や『葬儀』そして戯曲作品等、作品自体の内に作品を解読するための方程式が組み込まれているような、巧緻で様式性が強く作者が一つの観念を提出しようとしているのがあきらかな物を読む場合には、作品外のさまざまなデータも研究家にとっては手引きとなるのかも知れず、私が作者の経歴を重視したジュネの読みかたに違和感を覚えるのは、それらの作品よりも情緒の密度の高い『薔薇の奇蹟』と『泥棒日記』を好んでいるからなのかも知れない。  とりわけ『薔薇の奇蹟』を私は偏愛して来た。  自伝的な小説であるから、舞台は少年院と刑務所、登場人物は囚人、ここかしこにきらめくのはホモセクシュアルの〈愛〉と、作者が実人生で見聞きし経験した物事が作品の内部に持ち込まれてはいるが、道具立ての特異さが作品の価値を上げもしなければ下げもしないことは念を押すまでもあるまい。  外見的な道具立ての特異さに眼を眩《くら》ませられなければ、この小説が煽情的でも露悪的でもスキャンダラスでもなく真面目でまっとうな作品である事実を見失うことはない。ジュネの書きぶりには、これ見よがしなところや気負ったところ、秘密めかしたところは皆無で、煽情的にも露悪的にもなりようがないのである。作者はあくまで率直で誠実であり、記述はシンプルで明晰で描き出される世界は晴れ渡っている。  ただ、『薔薇の奇蹟』は非常にセンシュアルな作品ではある。煽情的でないこととセンシュアルであることは一見対立するように思えるが、矛盾しないのが作家ジャン・ジュネの独自性なのだ。  ごく通俗的な考えかたをするなら、具体的な性愛的描写の乏しいところにエロティックな雰囲気は立ち昇りにくい。ポルノと呼ばれる作品の猥褻さは執拗で事細かな性描写から生じる。ところが必要最小限の性愛描写しかない『薔薇の奇蹟』のセンシュアルな印象の発生源は、他の場所に求められる。  執拗で事細かな性描写の代わりに何があるか。執拗で事細かな恋愛心理の描写がある。語り手ジュネが固執するのは、肉体の快楽よりもむしろ思慕の対象との交渉によって惹き起こされる喜びや落胆、嫉妬や憐憫といった精神の変化の模様なのである。そこにはポルノ作者が性描写に注ぐ熱意と同等の熱意が存在する。  ジュネの肉体的快楽への関心が薄かったわけではないだろう。ジュネにとっては恋愛による精神の変化の快楽は肉体の快楽と同等かそれ以上の感動をもたらしてくれるものだったのだと思う。精神の蠢《うごめ》くさまを書き込むジュネは、性器のオルガスムスとは別のオルガスムス、性器に収斂されない官能の震えを反芻《はんすう》していたに違いない。『薔薇の奇蹟』が不思議にセンシュアルなのはそのためだ。  ところで、官能が性器に収斂されないのは小児の性生活の特徴である。ゆえに、ジュネには小児性が濃厚であるということになる。実際『薔薇の奇蹟』の主人公ジュネは、三十歳という年齢にしては実に純情多感で、思い人の動静に一喜一憂し率直に愛情を表現できなかったり強引な手段に出られず苦しんだりする。まるで思春期に入ったばかりの少年のように。  ジュネ自身も作品中で自分を奥手だと認めているが、はたしてそれは人よりも成熟が遅れていることを意味しているのだろうか。いや、正確には、普通の人間とは別種のしかたで成熟をしている、もしくは、通常の時間とは別の時間を生きている、とすべきだろう。小児性が濃厚とは言ってもジュネは幼稚な人間ではないからだ。  他の人々にとってはわずか一瞬に過ぎない時間を何倍分にも体験し、どんなに短い間に起こった小さな出来事も見逃さず一つ一つに実直に反応しつつゆっくりと生きる。時間を節約したいばかりに物事をいい加減にやり過ごしたり型通りの反応で受け流す、という如き真似は決してしない。一瞬一瞬を濃密に生きること、つまりはそれが純情多感ということである。  前の方でジュネを〈霊長類ヒト科ジャン・ジュネ属〉と呼んだのは彼が通常の時間の流れからは自由な比類なき存在であったからにほかならない。彼が子孫を残さなかったのも、ホモセクシュアルだったからと言うより小児的状態のまま性器を成熟させなかったゆえではないか。  独得なありかたで生きたジュネのジュネたる所以を最もはっきりと顕わした『薔薇の奇蹟』は、単純であって荘重、原始的であって優雅、素朴であって洗練された得がたい一冊である。  四巻から成るジャン・ジュネ全集の第三巻に『薔薇の奇蹟』は収められているのだが、私の持っているセットは一括購入した物だから古びかたも四冊同程度であって然るべきなのに、どういうわけか第三巻だけは変色せず新品同様である。これも作品の起こした〈奇蹟〉だろうか。 [#地付き](「スタジオボイス」'86年8月号) [#改ページ]   スティーヴン・キングの恥しい快楽  秋雨に降り籠められた退屈な休日には、気楽に読めて精神を快速ドライブさせてくれる面白い小説が恋しくなる。  お誂《あつら》え向きにサンケイ文庫からスティーヴン・キングの短篇傑作集(全五巻)が刊行中だ。既刊の二冊、『骸骨乗組員』と『深夜勤務』に収められた十六の作品を早速読んでみた。  モダン・ホラーの旗手と称されてはいても、キングは新しい種類の恐怖感を開発しようとか恐怖なる感覚の本質を究めようとするタイプの作家ではない。また、恐怖を際立たせるために手法や仕掛けを凝らしたりもしない。  こういう作家はマンネリズムに陥りやすいもので、実際十六篇中の何篇かには他の作品に似過ぎるのを避けるための申しわけばかりの工夫が露骨に窺える。  にもかかわらず、多少の出来不出来はあれど十六篇は一様に面白い。こんなにも抜け抜けと面白く書いていいのだろうかと不安になるくらい、淫らなまでに面白いのである。  キングの関心は、恐怖とは何かということではなく、恐怖はどのようにして生じどのように心身に作用しながら昂進するかということのようだ。彼は知性でなく生理のレベルで恐怖に愛着を示す。彼にあっては恐怖は快楽なのだ。  恐怖=快楽であればこそ、キングの小説では恐怖の生成過程が野暮ったいほど丁寧に描かれる。読者は描き出される恐怖を同時体験して愉しむ。言ってみれば、キングの小説を読む愉しみは春本を読む愉しみと同質で、それゆえにマンネリズムも非難されるどころか歓迎されることになる。  そんなキングが好んで書くのは閉塞状況物である。春本でも密室での情事はレギュラー・メニューだから、快楽派のキングが隔絶された世界における恐怖を描きたがるのは当然だろう。霧にひそむ怪物、実物と同じに動き回るミニチュアの軍隊、知性の備わったトラック、と恐怖の対象はさまざまだが、十六篇中三篇が閉塞状況物でいずれも迫力ある佳作だ。  秋の夜、早目に寝床にもぐり込んで雨の音を聴きながらスティーヴン・キングの世界に溺れるのは無上の快楽である。その快楽には少しばかりの恥しさが混じっている。 [#地付き](「就職情報」'86年10月9日号) [#改ページ]   受け身に徹する男性   ★青野聰『女からの声』[#「★青野聰『女からの声』」はゴシック体]  青野聰氏は最も注目すべき新しい書き手の一人である。  一九七八年、三十五歳の年に『母と子の契約』によって文芸誌にデビューした青野氏は、世代からすると今若手と呼ばれる作家よりも上に位置するのだが、現代的な新しい人間像、世界像を半端にではなく高い完成度で描き上げている点においては、二十代三十代の書き手を遥かに凌《しの》いでいる印象がある。氏の作品がなぜもっと若い人々に読まれ支持されないのか、二十代の青野聰愛読者としては不思議でならない。  青野氏の勢いよく滴《したた》る熱くて味の濃い体液を思わせる文体や、実体験を創造空間の中で生かしきった作品のみが持つ真夏の光の下で白い皿に絞り出した原色の絵具のような鮮やかで衝迫力のある描写の魅力は、改めて指摘するまでもない。それら以上に惹きつけられるのは、氏の小説世界の基調となっている感受性のユニークさである。  根ざす場所を持たない者の感受性と言おうか。青野氏の小説の主人公の多くが長年海外を放浪し帰国後も帰国したという意識を持てないでいることだけに注目して言っているわけではない。『母と子の契約』『十八歳の滑走路』『猫っ毛時代』等の作品のいまだ放浪を経験しない少年主人公にも同じ感受性の影が差している。  それは非常に柔らかでいて強靱な感受性だ。その感受性ゆえに青野氏の主人公たちは働きかけて来る他人に独得な態度で対応する。たとえば、乱暴を働く義母に対して、浮気をした恋人に対して、主人公は反抗だとか威嚇《いかく》、脅迫といったかたちで不満を表明しない。義母の乱暴には悪態を返すものの腕力を使ってやり返したりはせず、恋人の背信を知れば声を上げて泣くばかりである。一貫して受け身の姿勢を保ちつつ外部から加えられる力に応えるのだ。  硬く屹立《きつりつ》して自己を主張する、というような発想が青野氏の主人公たちにはない。彼等は男性の主人公としてはきわめて珍しい型の人物であるが、なぜそういう風なのか、なぜ硬く屹立しないのかと言えば、根ざす場所を持たないから、屹立しようにも屹立した自己を支える基盤を持たないから、ということになる。  根ざす場所を持たない、あるいは持てない理由まで詮索する必要はあるまい。それより、主人公たちがとり続ける受け身の姿勢が、受け身ということばにつきまとう弱々しさや消極性のイメージとは無縁で、しなやかで優美でかつ激しさをひそめているとさえ見える点の方が興味深い。  青野聰における受け身の姿勢の質を明確にしたのが、ほかならぬ本書『女からの声』である。八四年に単行本として刊行されたこの作品を読んで私は、主人公がどんな既成文学にも見られない新しい男性像を示していることに感嘆したものだった。  語り手である「ぼく」は健康そうに見えても夜中に眠りながら「不吉(グルーミー)な呻《うめ》き声」を上げる「壊れかけた人間」である。語られるのは主に、戸籍上は夫婦だが七年前から別々に生きているナホミと、「ぼく」の大家でありアラブ人の夫とほとんど会話のない生活を送っているイスハーン・桜の二人との交渉だ。  交渉と言っても一般的な男女の交渉とは趣きが違う。「ぼく」は「ぼく」の子供をほしがっているナホミともう一度夫婦としてやり直す意志もなく性交を行なうつもりもない。一方の桜とは愛人の間柄となっても、肛門を舌や指で愛されながら彼女の性器を踵で刺戟する、という方法での交わりを繰り返す。ここには能動的行為のよすがとなる男根が不在なのである。 「ぼく」は徹底して受け身であり、二人の女の言動に生真面目に律儀に反応するだけだ。女たちとの交渉によって「壊れかけた」状態から脱け出そうと目論《もくろ》んでいるわけでもない。ひたすら虚心に「女からの声」に耳を傾け続けるのである。最終ページに至っても「ぼく」の状態はとりたてて変わるところはない。ただし二人の女には変化があって、ナホミは「ぼく」との離婚を決意し桜は夫との離婚の見通しを得る。  主人公が全く変化せず主人公以外の登場人物が変化するとは奇妙な現象のようにも思える。しかし読み終えた後に疑問は残らない。二人の女が「ぼく」とかかわるうちに変化して行くわけがごく自然に呑み込めるのだ。「ぼく」は終始受け身の姿勢を崩さないが、鈍重に構えているのではないし、近づいて来る女たちを軽んじたり無視したりはしない。能動態に移行したが最後ただちに失われてしまうであろうような繊細さと誠実さをもって、女たちと相対する。能動態をとることで繊細さと誠実さが失われるのをよしとせず、受け身を固持し続けているようでもある。 「ぼく」が受け身である限り、「ぼく」と関わる女たちは能動態をとらざるを得ない。「ぼく」は女たちから自発性、能動性を惹き出すのである。女たちは「ぼく」に語りかけ、「ぼく」を欲し、「ぼく」によって惹き出された自分たちの能動性に見合った能動性を「ぼく」からも惹き出そうとする。それでも「ぼく」が清潔とも言うべき繊細で誠実な受け身を保ち続けるので、やがて女たちは、自分たちの方が変化すべきであること、変化し得ることを悟る。  結局、「ぼく」は目立って能動的な行動こそ起こさないが、女たちを感化し女たちに変化を促している。他人を感化する力を備えた受け身は、消極的どころか実に積極的な性質を帯びたものである。通常の意味での積極性とは無論異なる。言わば〈受け身の形でしか発揮されない積極性〉を「ぼく」はフルに発揮しているのだ。  過去の文学に〈受け身の形でしか発揮されない積極性〉を示す人物があったとしたら、女性であって男性ではなかった。大抵の場合、男性ははっきりと能動的であり圧倒的な積極性でもって他人、特に女性に働きかける存在であった。この意味で、『女からの声』の主人公は全く新しいタイプの男性なのである。 「ぼく」と二人の女との交渉に男根が不在であったことを思い起こしてみたい。厳密には一度、桜を相手に男根は役を果たすのだが、肛門性交である。少なくとも女性器をめざす男根は不在であって、「ぼく」は男と女の交わりを安直に性器の結合に集約させようとはしない。「牡意識」は充分持っているが、「ぼく」にとっては男根が唯一の男性性の根拠ではない。こうした男性であればこそ受け身に徹し、女たちと微妙なスタンスで向かい合い、「女からの声」を耳にすることができる。  おそらく、人一倍孤独で「心や肉体の奥底」に「暗闇」を「とどこお」らせているナホミや桜は、「ぼく」のような人物によってしか感化されない。男根を頼りに女性に働きかけ有無を言わさず変化を強いる昔ながらの能動的な男性が相手であったら、変形はしても決して本当には変化し得ないだろう。彼等は女性の自発性、能動性を惹き出さず、女性に声を発する契機を与えないからだ。  男根的能動性を排し受け身に徹することで女たちを動き出させる男性。「女からの声」を洩らさず聴き届け〈男からの声〉によって伝えることのできる男性。こんな新しい男性像を説得力を持たせて描ききるのはたいへんに困難であろうに、青野氏は力強く生き生きとしたことばを駆使して見事にやってのけている。作者自身の資質によるところも大きいと推察されるが、どうであれ、本作品が新鮮で感動的であるのに変わりはない。  現在、男と女の間柄、距離のとりかた、またそれぞれの役割といったものが従来の〈男と女〉の図式では捉えきれなくなって来ている、とよく言われる。目下の様相を描き出そうとした文学作品も少なくないが、青野聰氏は群を抜いた成果を上げている作家である。青野氏御自身は時代の情勢などには関心をお持ちではないかも知れないが、氏の作品はすぐれて現代的なのである。  本書『女からの声』が新たなる〈男と女〉の関係の可能性を考える上での貴重なテキストであり刺戟的な文学作品であることは疑い得ない。 [#地付き](『女からの声』講談社文庫解説 '86年11月) [#改ページ]   『嵐が丘』異常な傑作   エミリ・ブロンテ『嵐が丘』[#「エミリ・ブロンテ『嵐が丘』」はゴシック体] 『嵐が丘』は異常な傑作である。  文学史上のどの系列にも属さない突然変異的な小説であるという意味においても異常であるし、巧みさや典雅さとは程遠い荒々しく力任せな書きかたと言い、善悪だとか賢愚だとか幸不幸といった〈文学〉的主題への無関心ぶりと言い、世に名作と謳われる文芸作品の基準からは大きくはずれている。  描かれた二人の主人公の狂気に近い生の様相にしても、およそ他人の共感を呼びにくい非現実的にさえ見えるもので、しかも現実性を持たせるための技巧上の工夫は試みられてもいない。辛うじて、素朴な脇役たちと容赦ない風雨に晒されるヨークシャーの荒れ地の描写のリアリティによって、露骨なつくりものの印象を免れているばかりだ。  しかし、欠点は多々あっても、この小説を読むと一人の人間の精神の相貌が実にリアルに浮かび上がって来る。作品から作者の人間性が窺えるといった程度の浮かび上がりかたではない。一般の小説には作者の精神性が反映するのだとすれば、『嵐が丘』の場合は反映などという間接的なものではなく、作品それ自体がエミリ・ブロンテの精神の複製なのである。  エミリの作品が彼女の精神の複製とならざるを得なかった理由は、作中の女主人公の次の科白《せりふ》の内に見出せる。キャサリンは言う、「私というものがこの体に収まっているだけのものだったら、私なんて人間に意味はないでしょう?」と。  四百五十ページに及ぶ『嵐が丘』はただただこの考えの立証のために構想された観があるから、ここに顕われた個体の有限性を否定したいという欲望は作者自身のものと思われる。エミリにとって作品を書くことは、体の外にもエミリ・ブロンテをあらしめることだったのだろう。  途方もない欲望ゆえに『嵐が丘』は異常にもなり傑作にもなっているのである。 [#地付き](「スタジオボイス」'87年10月号) [#改ページ]   一流のB級小説   ★マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』[#「★マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』」はゴシック体]  集英社版「ラテンアメリカの文学」シリーズが刊行され、わが国でのラテンアメリカ文学ブームが絶頂に達したのは、五年ほど前のことである。あんなものは土の香りがするだけのヨーロッパ文学じゃないか、と一蹴するアンチ・ラテンアメリカ文学派の声も聞かないではなかったけれども、小説からの刺戟に飢えていた読書家たちの多くは、続けざまの翻訳刊行に大いに活気づいたものだった。  私はと言えば、アンチ・ラテンアメリカ文学派ではないものの、さほど熱心な読者だったわけでもなく、あの日本の裏側の国々の文学の魅力について語るには適任ではないのだが、風土も政情も人種混血の様相もヨーロッパ的ならざる土地でのヨーロッパ語の煮詰められかたの不思議さは〈土の香りがするだけ〉のひとことでかたづけるのはあまりに性急だ、とは思う。ボルヘスにしろガルシア・マルケスにしろ、血腥《ちなまぐさ》いまでに洗練されていて、読みやすくはあっても読み飛ばし辛いのである。  ともあれラテンアメリカ文学は日本に固定読者を獲得したようで、ブームがひとまず落ち着いた後もまあまあ順調に翻訳が続けられている模様だ。文庫入りする作品もぼつぼつ現われ始めた。そして、このたびはマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』が文庫目録に名を連ねることになったという。 『蜘蛛女のキス』は先の「ラテンアメリカの文学」シリーズの一巻として刊行されていた物であるが、ヘクトール・バベンコ監督による同名の映画化作品の好評も手伝ってよく読まれたのだろう、同シリーズ中の作品に限ればボルヘスもマルケスもさしおいて、トップを切っての文庫参入である。  ——と、便宜上解説めいたことを書いたけれども、実は私はほんの数日前にこの小説を読み終えたばかりなのだ。『蜘蛛女のキス』なる小説の存在は早くから知っていたのだが、これは「ラテンアメリカの文学」シリーズ全十八巻の中でも最も読書意欲をそそらない作品の一つだった。内容の簡単な紹介をどこかで眼にして全く感心できなかったせいである。  監房に暮らす二人の囚人、政治犯と未成年猥褻幇助罪のホモセクシュアルが、眠れない夜にかつて観た映画の話など語り合ううちに、しだいに心を通い合わせ肉体的にも触れ合うようになる、というストーリー。こんなアマチュアの文学青年の考えつきそうな陳腐なストーリーに興味を持てるはずがない。同工異曲の物語はすでにいくつか書かれている。  そういう風に軽蔑する一方で、しかし選ばれてアンソロジーに組まれるからには陳腐なストーリーもうまく料理されているのかも知れない、と少々は関心もあって、いつか暇があったら読んでみようくらいには考えていた。  それで今回初めて読んでみたところ、予想に相違して楽しい読書になってしまった。讃辞を贈りたい部分もあるし、首をかしげたくなる問題点もあれば文句をつけたい面もある。だが、不快感や腹立たしさはほとんど覚えることがなく、読後に友人の誰かとああだこうだと感想を交わしたくなるような、好感度の高い作品であった。  何よりも作者プイグの楽しげな書きぶりがよい。自分が面白いと思ったことを好きな素材を使って自分の才能を最大限に生かせる手法で書いた、と見られる書きぶりは、自由で滑らかで、書き手の楽しさをそのまま読み手に追わせてくれる。  小説の形式は変則的であり、終わりの方に「報告書」をつけ加える形で出来事が説明される他は、全編|科白《せりふ》もしくは太文字による心中独白で構成されていて地の文による描写はいっさいない。科白のみで押し通すだけあってかなり会話は達者だ。もともとプイグは映画作家を志望していてイタリアで売れないシナリオを書いていた時期があったそうだが、修業時代に腕を磨いたのだろうか。得意技を存分に披露しているという印象である。  性犯罪者の囚人が政治犯の囚人に記憶にある映画の話を聞かせる、という設定も作者の趣味が大きく反映しているのだろう。しかも、語られる六本の映画は創作ではなく現実に公開された既成作品らしい。小説を書く者の一人としては映画のストーリーの六本や七本、自分で考え出してほしいと思うのだが、なぜかプイグはそうしない。既成作品を引用して公開当時の世界情勢や時代精神を読者に想起させようとの意図か、あるいは映画という大勢の人が観る言わば公的な物をある人物の解釈とことばによって私的な物に編み直す行為に志があるのか、だがそれにしては選択された映画は決して広く知られた歴史的名作ではないから、いずれの場合も効果を上げることにはなるまい。多分映画が好きな余りの引用だろう。それはそれで微笑ましくて悪くない。  もっとも二人の囚人の間の主な話題が映画だというのは理に適っていて、一人が獄中でも本を欠かさない政治青年、もう一人が政治には関心のない性的人間という、お互いに立ち入ろうとしても立ち入るきっかけも見つけられないような組み合わせなら、無難に映画の話でもするしかないのである。  また映画の話は思わず知らずさまざまな話題を引き出しやすい。二人の囚人も映画について喋りながら、相手の挟んだ批評が気に入らなくて喧嘩したり、そのつもりはないのについ思い出した自分の経験や考えを口に出したりする。そうやって二人はだんだん相手の人生を知るようになるのだが、映画の話から出たり入ったりしながらの物語の進行の呼吸はたいへん巧みで、中断や脱線が繰り返されても読み手が焦《じ》れることはない。  ストーリーは実際に読んでみてどうかと言えば、主軸が陳腐であるのはやはりいたしかたない事実であり、作者プイグが陳腐さを自覚していないところは惜しまれるのだけれども、形式と構成と運びのうまさと細かい部分の設定の充実のおかげで随分救われているようだ。  二人の主人公の人物像も鮮明である。政治犯の方はバレンティンといって、二十六歳の理想に燃える青年だ。性犯罪者は、自分を女と思って振舞い女として男に愛されるのを望むタイプの同性愛者、三十七歳のモリーナである。バレンティンは、別れてもなお忘れられない元恋人がいるれっきとした異性愛者だが、ホモセクシュアルへの差別心や嫌悪感は持たず、話し上手で世話焼きのモリーナと同室でも和やかに生活している。  二人の年齢差が注意を惹く。バレンティンは大学教育も受けた勉強家のインテリ青年とは言っても、二十六歳ではまだ未熟さも残るし純情さも大いに持ち合わせている。対するモリーナは、インテリとはほど遠い育ちだがバレンティン以上に腹の据わったところのある人生の先達《せんだつ》である。バレンティンは時々モリーナを見くびって失言し、鋭いことばで反駁されてたじろいだりする。三十七歳の女性化願望のある男は外見には哀愁漂うのだろうけれども、中味は当然二十六歳の小僧っ子よりは優位に立つのである。そんな二人の会話の押し合いへし合いはユーモラスで愉快だ。  世代の違いも二人の間にずれをつくっている。バレンティンは解放された女とつき合ってきて男性優位主義的思想からはふっ切れた新世代の若者であるが、十一歳年上のモリーナは男性優位主義に奉仕していた時代の女性を模倣しており、〈母性愛〉でもってバレンティンの面倒を見たがり、うるさがられることがある。このように年齢も生きかたも嗜好もまるで異なる二人が性的な関係を結ぶなどということがあり得るだろうか、と読んでいて心配になったが、二人とも根は素直で思い遣りがある人柄に描かれているので、バレンティンが「死にたい」と言って泣くモリーナを慰めているうちにモリーナの願いに応じて性の行為を始める条《くだり》にも一応の納得は行った。  プイグが賢明だったのは、モリーナはともかくバレンティンの方には恋愛感情を抱かせなかった点である。もしバレンティンがモリーナを愛したら作品は嘘で固めた三流読物に堕すところだった。行為の翌朝バレンティンは「セックスというのは無邪気そのものだ」と言う。いかにもバレンティンらしい素気《そつけ》ない冷たくさえある科白だ(と私は思う)が、この科白《せりふ》が作品全体のリアリティを素晴らしく高めている。  さて、読み終えると『蜘蛛女のキス』がプロテスト文学であることは明瞭にわかる。ストーリーが一定の型にすっぽりと嵌《はま》って窮屈なのも、プロテストへの意志が先走り過ぎたためとも推測できる。ただ採用した〈型〉がうんざりするほど古めかしくとも、型に詰め込まれた内容物は密度充分で新鮮な息吹に満ちているのは、これまで見て来た通りである。  同性愛という素材にしても独創的でこそないが、弱味につけ込まれて権力に操られるままになっているモリーナが抵抗の精神を育むにはバレンティンとの同性愛的交渉を契機とする必要があるし、彼を男に抱かれた時に感じる恐怖心を刺戟としなければ性行為を愉しめない男性優位社会の犠牲者とすることで、女性の登場人物を出さずして女性問題にも言及するという軽業が可能になったのであり、下手に用いると惨憺たる結果になる危うい素材を丁寧にさばいて多角的に使うのに成功していると言える。 〈B級〉ということばがある。B級映画といったら低予算でつくられた安っぽい映画のことだが、ポピュラー音楽方面でも音楽的に傑出したところはないけれども、ありふれたメロディやリズムに小粋で気のきいた味つけをした捨てがたい楽曲を愛情を込めてB級と呼ぶ場合がある。  もうすでに読んだ憶えのあるストーリーでありながら凝った仕掛けや細部の豊かさで読み手を惹きつけてやまない『蜘蛛女のキス』はさしずめ〈B級小説〉と称せられるだろう。ただし言うまでもなく、一流のB級小説である。 [#地付き](「青春と読書」'88年11月号) [#改ページ]   鋭敏多感な少女のモデル・タイプ   ★ヤエル・ダヤン『鏡の中の女』[#「★ヤエル・ダヤン『鏡の中の女』」はゴシック体]  二十歳前後の女の子の一種異様な感受性の冴え、観察力の鋭さ、緊張感の高さは、その年頃の女と恋愛をしたことのある男たちが一様に認めるところである(ただし、残念なことにある時期を迎えるとまるで裏切りのように彼女らの多くは輝きを失い凡庸な女に落ち着いてしまう、というのも一致した見解のようだ)。  では、当の女たちはみずみずしい時期の自分をどう捉えているか。その眩《まぶ》しさを際立たせる内面の翳りはどういうものであるか。  たとえば、シーラ・ディレーニーの戯曲『蜜の味』やフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』(以後の作品が通俗的だとしてもこの処女作は掛値なしによい)等に、そうした設問への答が内蔵されているのだが、ここで紹介したいのはヤエル・ダヤンというイスラエルの女流作家の処女小説『鏡の中の女』(一九六八年、二見書房)である。  この小説の女主人公は、頭がよく美人ではないが魅力のある風貌を備え、生き生きとした言動で人を惹きつける。自分でも自分の魅力と才能を知っていて自尊心も高く、他人を操り動かすことによって自分の才覚を確かめるなどという真似もするのだけれども、一方で自分を持て余し時には傷つきながら試行錯誤している。異性との交渉は多いが本当の恋の経験はない。まさに鋭敏多感な少女のモデル・タイプと言えよう。  物語は十七歳で召集された彼女の二年間の軍隊生活を追って展開する。人に愛されるよりも尊敬されるのを望み自ら愛することを制御している彼女が、人を愛しても愛されることは望まない男と任地で出会い初めて過剰な制御を解き心を開くようになって、作品は終わる。  青春期の自己発見を描いた小説ということになるのだろうが、結末で主人公が世界と調和するのが惜しいと感じられるほど、彼女のパーソナリティは鮮烈で輝いている。どのエピソードも面白いが、彼女が他人に興味はないと言いつつも弱い者に対しては常に心ならずも[#「心ならずも」に傍点]親切にしてしまうあたりはことのほか微笑ましく楽しい。  一人の個性的な少女が作品の中で確かに息づいている『鏡の中の女』は是非ともどこかから再刊してほしい。 [#地付き](「就職情報」'86年8月14・21日号) [#改ページ]   ナチス占領下の子供たち   ★クララ・アッスル・ペンクホフ『星の子』[#「★クララ・アッスル・ペンクホフ『星の子』」はゴシック体]  ナチス・ドイツと強制収容所の物語は絶えず気にかかる。実際に知っていたわけでもないのに、自分の体の分泌物が気にかかるように、私たちはあの世界史の暗部に惹き寄せられる。  先頃ノーベル賞を受賞したエリ・ヴィーゼルの『夜』を始め、数多くの文献が私たちをアウシュヴィッツやラヴェンスブリュックに案内してくれたが、オランダの女流児童文学者クララ・アッスル・ペンクホフの手になる『星の子』(一九七〇年、学習研究社)もそのうちの一冊である。  成人による強制収容所体験記はいくらもあるが、収容所における子供たちの姿の記録は少ない。ナチス占領下のオランダの子供たちが胸に黄色いダビデの星を付けさせられ収容所に狩り集められ長い日々の後パレスチナに解放されるまでを描いた『星の子』は、児童向けの小説ながら、被圧迫層の底辺にあった子供たちのか細い声を全編に吹き込んだ貴重な資料だ。  ドキュメンタリー・フィルム・タッチと言うのだろうか、ゲットーの町角から一時収容所、輸送列車の中、強制収容所のベッドと、カメラ・アイのような視点は自由自在に動き、子供たちの言動を淡々と描写する。  かなり悲痛なエピソード、たとえば坊主頭の少女が髪の長い少女に「しらみたかり!」と罵《ののし》られる場面や食品管理室からパンを盗んで一人で食べた少年が枕に顔を押しつけて「パンに気をつけないなんてばかなやつらだ」と呟く場面も、激しい詠嘆調では語られない。  しかし、かえってそのために、この上なく暗い情景が、私たちとは無縁の場所にあった信じがたいものとしてではなく、もしかすると私たちが間近に見ることになっていたかも知れない現実的な情景として眼に浮かんで来るのである。  著者のペンクホフは、ゲットーでユダヤ人小学校の教師を務め四三年に子供たちがベルゲン・ベルゼン収容所に送られると付き添って行った人だという。淡々とした語り口には収容所経験者特有のブルーな響きが聴き取れる。  強制収容所の物語を卑猥な好奇心の対象とするのではなく自分自身の二次体験として引き受けたいと望む者にとっては、本書『星の子』は必読書と言えるに違いない。 [#地付き](「就職情報」'86年12月11日号) [#改ページ]   ナチズムと小児性   ★ロバート・ハリス『ヒットラー売ります』[#「★ロバート・ハリス『ヒットラー売ります』」はゴシック体]  強制収容所という〈閉ざされた時空〉への格別の関心を除けば、ナチス・ドイツ関連の事象の中ではファシズム社会における一般市民の心理・感情に最も興味がある。  第三帝国ほど抑圧的ではない社会に住む者から見ると、ナチスの掲げたスローガンや理論は幼稚で粗雑ででたらめな代物であってよくも大勢の国民がこんな思想について行ったものだと唖然とするが、別の角度から眺めれば、幼稚で粗雑であるからこそ人々は安心して息を抜き、ああこの程度のことを信じていればいいんだ、時間をかけ緻密に検討する必要などないのだ、と思考の努力を放棄した解放感を味わえたとも思えないではない。  ヒトラーやゲッベルス等ナチスの閣僚たち自身も、いい加減な理論をでっち上げては好き勝手な行為を正当化する、あるいは正当化したつもりになるゲームに興じていたのではあるまいか。そのような自己正当化のゲームは知恵のつき始めた子供がしばしばやるものだが、実際、伝えられているナチスの大物たちの人物像は奇妙に子供っぽい。子供っぽい指導者たちは、統治下の人々の思考まで小児的にした節がある。  一九八三年に起こった偽造のヒトラーの日記出版事件のルポルタージュである『ヒットラー売ります 偽造日記事件に踊った人々』(朝日新聞社刊)には、第三帝国の遺産とも言うべき戦後のナチス・フリークの生態が描かれていて面白い。  偽のヒトラー日記を見つけ本物と思い込んで、勤務する雑誌社に注進したゲルト・ハイデマン。ナチスゆかりの品々の収集家でありながらナチスに精通しているわけではなく、ヒトラーが自殺に使用した拳銃がワルサーP38だということも知らず、騙されて違う型の拳銃を掴まされ喜んでいたりする彼は、批判力や研究心を根本から欠いており、仕事の面でもたとえば、資料を集めろと指示されれば役に立つか立たないかの判断抜きでありとあらゆる資料を集めて来る、超人的にまめまめしいのが取り柄の男である。ハイデマンをカモにして偽の日記を売りつけていたのがコンラット・クーヤウ。ヒトラーの書体を真似て十二年分のフューラーの日記を書き上げたのも彼自身だった。  ハイデマンの小児性は明白だが、さほどはナイーヴでなさそうなクーヤウにも匂うものがある。十二年分もヒトラーの書体を模写したというとうんざりする大仕事のようだけれども、自分がヒトラーになったつもりで偽日記を記し十二年分のヒトラーの人生を疑似体験するのは、ナチス・フリークにとってはたいへん愉しい遊びだろう。あまりに愉しかったせいで、一二冊だけに止めておいた方がかえって日記の信憑性も高まるにもかかわらず、途中でやめられなくなって十二年分遊んでしまったのではないだろうか。クーヤウも子供じみた遊びに耽ることのできる男なのだろう。  おそらくナチズムには人の小児性に浸透して行く性質がある。だからいやらしい。 [#地付き](「文學界」'89年1月号) [#改ページ]   強制収容所における良心   ★ゾフィア・ボスムイシ『パサジェルカ(女船客)』[#「★ゾフィア・ボスムイシ『パサジェルカ(女船客)』」はゴシック体]  かのニュールンベルグの戦犯裁判の証言台で、強制収容所時代に自分に好意を示し数々の便宜をはかってくれた〈恩人〉である女看守を、確かに彼女は私には親切だったけれども他の大勢の囚人たちの虐殺に加わっていたのもまた事実である、と告発した元女囚がいたことをフランクルの『夜と霧』(みすず書房刊)の解説文が伝えている。  重い話である。経験のないことについて想像をめぐらせるのは不遜だが、不遜を承知でかりに自分がその元女囚だったらと考えてみると、七割くらいの確実度で私もその元女囚と同様に怒りと冷笑をもって〈恩人〉を告発するだろうと思う。  他方で、もし女看守が不幸なめぐり合わせのせいで犯罪者の立場に身を置かざるを得なかったのだと見られる人物であったなら、という条件つきで、彼女に有利な証言をする可能性も三割程度ある。この三割の可能性を予想するために、先の話が私にとっては重いものになってしまうのだ。  自分に親切だった女看守を法廷で庇《かば》うのは一面では人間の自然な情である、として逃げを打ちたいのは山々だ。しかし、女看守を許す三割の可能性は裏を返せばそのまま、自分もまた収容所の看守の立場に置かれたならあきらかに大量殺人に加担していながら一人か二人の囚人に恩を施すだけで欺瞞的に良心を満足させる手合いになり得る可能性を表わしているのではあるまいか。『パサジェルカ(女船客)』(恒文社刊)を読んだ後ではことにそう疑わずにいられない。  ポーランドの強制収容所経験者によって書かれたこの作品は、アウシュヴィッツの女看守と女囚の心理的な闘いを主題としている。  それは奇妙な闘いである。劣悪な環境にあっても毅然とした態度を崩さない一人の女囚に惹きつけられた女看守は、感謝され信頼されたい一心で彼女を保護し書記に取り立て厚遇し、男子ブロックの婚約者が訪ねて来るのさえ黙認する。だが、「生きることに執着すると人は奴隷になる」と言う女囚は感謝どころか拒絶と策略と軽蔑で応えるばかりである。  回想形式をとった物語は、終戦の十六年後ブラジル行きの船の上で女主人公がかつてアウシュヴィッツで眼をかけていた女囚と覚しき船客を見つけるところから始まり、途中の寄港地で下船しようとする元女囚の前に歩み出た彼女が「まるで不潔なものを避けるように、穢《けが》らわしそうに避け」られて終わる。  全く非情なまでの突き刺しかたであって、物語が女看守の視点で語られているだけに衝撃も強い。  看守の身でいやしくも良心を口にするなら、建物に火を放つとか囚人たちの逃亡に手を貸すとか外に収容所の実態を知らせるとか強制収容所を潰す努力をすべきで、特定の囚人に情けをかけるなど単なる感傷に過ぎない、ということだろう。  強制収容所経験のない読者の感傷や甘さも『パサジェルカ』は突き刺すのである。 [#地付き](「文學界」'89年2月号) [#改ページ]   性愛小説には性描写を   ★アーネスト・ヘミングウェイ『エデンの園』[#「★アーネスト・ヘミングウェイ『エデンの園』」はゴシック体]  ヘミングウェイはマッチョにあらず。かねがねそう考えていた。  確かにヘミングウェイは男性の理想像を追い続けた作家ではあるが、描かれるところの理想的な男性の恋愛模様を見ると少なくとも低俗マッチョではないことははっきりしている。マチズモの根本には男根中心主義があるはずだが、『日はまた昇る』の主人公が不能であることに典型的に示されているように、ヘミングウェイ的人物は男根などに男性としての尊厳を賭けてはおらず、その恋愛はあくまで純情でロマンティックである。  非男根中心主義者にして恋愛愛好家であれば、〈男根なき性愛〉であるレスビアニズムに関心を持ってもさほど不思議ではない。この作家にレスビアニズムを主題に絡めた遺作『エデンの園』(集英社刊)があるのを知った時、意外とは感じなかった。  すでに『海の変化』と題された短篇においてヘミングウェイは、同性の愛人のできた妻が夫から去って行く場面を書いている。ここでも夫は非男根中心主義者であり、俗流読物に登場する低俗マッチョとは違って〈男根性愛〉の優越を信じて妻を口説いたり脅したりせずただ苦しみに耐える、という描きかたになっているのが興味深かった。  長篇『エデンの園』ではきっと短篇『海の変化』を拡大深化したヘミングウェイ流性愛の世界が展望できるのだろう、と期待して読んだ。  結論から言えば、ヘミングウェイ自身手探りで悩みながら筆を進めたと思われる、主題の不透明ないかにも未完成な草稿であって、出版社が遺稿全体の三分の一に刈り込んで世に出したことを考慮に入れても、あまり買う気の起こらない作品である。  女であることに不満を抱いている若妻が髪を切り肌を灼き、夫にあるかたちの性戯をしかける。こう説明すると面白そうだが面白くないのである。性描写がぼかされていて、実際にどんな行為があったのかさっぱりわからず、従って若妻が何を実現しようとしているのかもわからないからだ。  異性間の同性愛的性行為だとか女性主導型性行為が暗示されてはいても、虚空に浮いた観念の提出に過ぎないので随分浅薄皮相に映る。レスビアニズム、バイセクシュアリティ、パートナー交換等も同断である。  もちろんポルノ的要素は無用だが、特殊な志向を孕《はら》む性愛を描くならば、特殊な志向がいったいどのような感覚や感情に支えられているのか要領を得た性描写を通してあきらかにしなければ話にならないのではないだろうか。  ただ、一般にはマッチョ扱いされ自分でも私生活ではマッチョを演じていた節のあるヘミングウェイが、世間の眼をがらりと変えてしまいかねない非男根的性愛小説を描こうとした、その勇気と志は嬉しい。今さらながらに死を早まったのが惜しまれる作家である。 [#地付き](「文學界」'89年4月号) [#改ページ]   〈母性〉神話は罪つくり   ★西成彦・伊藤比呂美『パパはごきげんななめ』[#「★西成彦・伊藤比呂美『パパはごきげんななめ』」はゴシック体]  自分に妊娠・出産はおろか結婚の予定も願望もないということとは全く関係なく、〈母性〉にまつわる神話が嫌いである。「出産こそは女の最大の幸福」とか「女は子供を産んで初めて一人前」等のものものしい流言を耳にすると、女とは子供を吐き出す代わりに〈幸福〉だの〈自尊心〉だの〈一人前の人格〉だのを膣口から呑み込もうとするおぞましい生き物なのかと慄然とし、幸せになれなくてもいいからおぞましい存在にはなるまいと涙ながらに決意を固めたくなる。  しかし、昔々から人々が力を合わせ生殖器も合わせて築き上げた〈母性〉神話には侮りがたい浸透力がある。かく言う私も、〈子〉の立場に身を置けば〈母性〉への感情は愛憎入り混じったものになるし、決して〈母〉にはなれない男性を横眼で眺める時には、わが身に潜在する〈母となる能力〉をひそかに誇りに感じたりもするのである。  西成彦・伊藤比呂美夫妻の共著『パパはごきげんななめ』(作品社刊)は、主に男・夫・父の側からの妊娠・出産・育児観を綴ったイラスト入りエッセーだが、同時にユーモラスな〈母性〉告発書にもなっており、出産経験こそなくても心の一隅に〈母性〉神話に毒された部分をしっかりかかえている私にも楽しく読めた。  著者は〈母性〉を「宿命のライバル」と呼ぶ。育児の大半を父親が引き受けても、子供は事あるごとに乳房のある母親のもとに帰って行く。乳房のない父親は「妻からコドモを奪い取りたい一心で、コドモに媚びつづけている」「世の中のあらゆるふくよかな乳の出るおっぱいを断罪の刑に処してシオカラにでもなんにでもしてやりたくなる」——。  初めのうちは「特権意識」に「おごりたかぶる妊娠」への批判等を、まことにごもっとも、全く〈母性〉神話は罪つくり、と著者に全面共感するのだけれども、話が育児篇に入り父親の母親への妬み、僻《ひが》みがあからさまに浮かび上がってくると、潜伏する〈母性〉神話ナルシシズムがむくむくと首をもたげ、そうよ、所詮《しよせん》父親が母親にかなうはずがないじゃないの、ザマミロザマミロ、という方向に気持ちが突っ走ってしまう。  ではこの本は〈母性〉神話に寄りかかる女の傲慢さを結果的に助長するかというと、そうではない。妬み、僻みを表明する際の感動的な率直さによって、私たちは一瞬でも「ザマミロ」と思った自分のあさましさを深く反省することになるのである。 [#地付き](「ミス家庭画報」'89年7月号) [#改ページ]   正攻法の同性愛青春小説   ★ジョン・フォックス『潮騒の少年』[#「★ジョン・フォックス『潮騒の少年』」はゴシック体]  青春小説というものに特有の魅力があるとすれば、それは第一に、充分知恵のついた成年ならすでに学習済みのこととしてあっさりとやり過ごしてしまいがちなささやかな物事にもいちいち生真面目に引っかかり、全身で反応する主人公の若者の眼を通して描かれた世界が、若者ならざる読者の眼にも刺激と感動に満ちたものとして浮かび上がって来る点にかかっていると言えるだろう。 『潮騒の少年』(新潮社刊)は典型的な青春小説である。ニューヨークの高校生が大学生の青年相手に初めての同性愛経験を持つというストーリーだが、題材が同性愛だからといって高踏的であったり挑発的であったりポルノグラフィックであったりはせず、いかにも青春小説のヒーローにふさわしい多感で一途な少年を主人公とする正攻法の作品である。  ダンス・パーティで知り合った少女とデートしたり友人のガール・フレンドと行きがかり上の関係を結んでしまったり、と一見普通の少年らしい日々を送ってはいるものの、ホモセクシュアルであることを自覚している主人公は、体格のいい大学生に惹かれて一緒にボランティアの政治活動をするようになる。この同性愛のパートナーとの出会いから、恋の進行過程でのときめきや気持ちのすれ違い、探り合い、最初の接吻、痴話喧嘩、性行為、そして気まずい出来事が重なって疎遠になるまでが、わずかな感情の揺れも書き洩らさない濃《こま》やかさをもって語られる。異性愛の小説であったら滑稽にも映りかねない書き込みぶりなのだけれども、本作品の場合はひそかな同性愛の欲望を手探りで実現していく少年のナイーヴさの表現になっているため、逆に新鮮な印象である。  本筋の同性愛経験だけではなく、恋人である大学生やガール・フレンドの家庭の様子、主人公の在籍する学校や水泳部の雰囲気、脇役の登場人物の描写等も、ややきれいにつくられ過ぎた感もないではないが悪くはなく、『潮騒の少年』は古典の香りのする新鮮な現代小説、と呼びたいところだが不満もある。  主人公の同性愛恋愛が中途半端なもので、読み手の期待を裏切って尻すぼみに終わってしまうことである。恋愛初期の様相がこれだけ細密に描かれているのだから、恋愛爛熟期、恋愛末期までもっと膨らませて強力な小説に仕上げてほしかった。青春小説よりもジュニア小説に近いのかも知れない。しかし好ましい一作には違いない。 [#地付き](「ミス家庭画報」'89年10月号) [#改ページ]   ブラザー・フロム・アナザー・カントリー   ★中上健次『讃歌』[#「★中上健次『讃歌』」はゴシック体]  熊野の路地に生まれ育った若者が東京へやって来た、という設定から、まずこの作品は〈異人〉の冒険譚、都探訪記の趣きを持つ。ただし、探訪されるのは東京の中でも風俗営業の店の立ち並ぶ新宿界隈、飽くことなく性が消費される都市の底辺である。従って、性描写の繰り広げられる性愛小説の様相も呈している。  しかし読み進むにつれて、〈異人〉の冒険譚、性愛小説とひとことで説明するのは適当でないことがわかって来る。種村季弘氏風に言うならば、この作品は〈騙し絵〉の構造から成っているようなのである。  とりわけ性描写において顕著だ。通り名をイーブという主人公は、女も男も相手にするプロフェッショナルのホストたるべく訓練され改造された「サイボーグ」であって、その性行為は「本気の嘘」である。金[#「○に金」、unicode328E]多摩霊園なる店の場面で従業員がペニスを用いて「ワイパー」や「かたつむり」の形態模写をするが、ホストのイーブのペニスもペニスの形態模写をしているのに過ぎない。だから、性描写が実のところ描いているのは、イーブの「サイボーグ」性であり「何かに大きく傷つけられている気」であり相手に対する優しさであり、性を消費せずにはいられない人々の滑稽さと悲しさである。  書き手のまっとうな感受性が生きている限り、どんな性描写もポルノグラフィにもならなければ〈不道徳〉にもならない。〈不道徳〉どころか、著者の書きかたはことば本来の意味でモラリスティックである。もちろん純文学であるからには当然そうなるので、男と男の性行為や複数プレイが出て来ても〈大胆さ〉に驚いて見せる必要もないが、中上健次氏ならではのモラリスティックな書きかたは、疑似的な性愛を描きながらも疑似性を突き抜ける。  第四章、ヤクザのイヤさんとイーブの同性愛の条《くだり》。イヤさんは「俺は処女」と言い、「女のように」声を上げた方がいいとのイーブの勧めに従う。「おまえが動きはじめると、男にオカマやられてる気がする」「今、俺たち、それ、やってるんだぜ」などという遣り取りもあるのだけれども、イヤさんがイーブに跨がりイーブのペニスを自分の肛門に収めるここの性描写は、〈男=女〉〈能動=受動〉〈挿入する者=挿入される者〉等の図式を無化して、性愛の最も根源的な部分に触れているように思えて刺戟的である。  どうやら本作品は三重に重ねられた絵のような構造で、性描写に見せかけた非=性描写のさらに下に純度の高い性描写がある、という仕掛けになっているのではないか。主人公の〈異人〉性にしても、「サイボーグ」性に覆われて露骨なかたちでは顕われないが、「サイボーグ」にふさわしい他人に対する無類の優しさこそ路地で育まれた性質であり、〈異人〉の〈異人〉性にほかならないことが、やがてあきらかになる。  性愛のテーマがモラリスティックでなおかつ純度の高い性描写を志向し、〈異人〉のテーマが優しさといった倫理の問題に行き当たるのであれば、二つのテーマが恋愛のテーマに統合されるのは自然の流れであろう。物語は山場にさしかかると急速に恋愛小説の相貌をとり始める。都内で行方をくらましていた三人の路地の老婆が見つかって、主人公が路地に帰ることになると、ホスト業のマネージャー、チョン子が愛を口にするのである。  だが、作品は恋愛小説になりきらないで終わる。読み手としては結末にイーブとチョン子の恋人同士の性愛の描写を期待するし、チョン子がずっとイーブを好きだったのならこれまでの二人の性愛も単なるプロフェッショナル同士の性愛ではすまない面があったろうから、作中で一場面設けられていないことがいかにも物足りなく感じられる。  とは言え、作品が恋愛小説にまでなってしまえば拡がり過ぎるのも事実で、恋愛のテーマは続篇に持ち越されたと見るべきなのだろう。では、テーマの成長深化を禁じたものはいったい何だったのだろうか。  それは新宿風俗街の放つ場所の力、空間の力であろう。性が消費される場所というばかりではなく、社会=文化の抑圧が露呈される場所、性的逸脱者や貧しいアジア系移民の集まる場所、「本気の嘘」によって辛うじて人々が生きられる場所、路地の申し子であるイーブを受け入れ「アジアの王子」に聖化する場所の力である。  路地が日本の原基だとしたら、新宿風俗街はアジアの原基になり得る、もしくはなりつつある場所だ。路地が解体した後、路地の申し子が新宿風俗街に立つのはもっともなことと言えよう。ただ、二つの場所の最大の違いは、路地がさまざまな血の交わる場所であるのに対して、新宿風俗街は決して血の交わらない場所である点である。  まさにそのせいで、イーブとチョン子の恋愛は成就しない。恋愛を成就させようとするなら二人は新宿を離れなければならない。結末で、すでに二人は大型トレーラーのキーの束を手にし、出発の態勢に入っている。本当に出発するのか、出発するとすればどこへ行くのか、路地へ帰るのか、それともチョン子の故郷朝鮮半島へ渡るのか、もしかするとアメリカに向かうのか、今のところ定かではないが、続篇が書かれるとしたら(書かれることを願ってやまない)きっと恋愛小説になるのだろうし、イーブとチョン子の恋愛が成就し得るような場所が舞台に選ばれると想像できる(そんな場所はないかも知れないが)。  最後にもう一度、この作品をひとことで紹介するなら何と言うべきか考えてみたい。数年前、黒人そっくりの宇宙人がアメリカの黒人居住区に降り立つところから始まる『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』という映画があったけれども、発想としては『讃歌』に近いかと思う。イーブは路地からやって来たので、さしずめ『ブラザー・フロム・アナザー・カントリー』、もっと詳しくすると『ブラザー・フロム・アナザー・カントリー・トゥ・アナザー・エイジア』となる。描かれていたのはアジアだったのだから。 [#地付き](「群像」'90年7月号) [#改ページ]   ㈿ 優しい去勢のために[#「優しい去勢のために」はゴシック体] [#改ページ] [#地付き]去勢への旅立ち、      [#地付き]新たなるタイム・トリップ   誘い水を滴らせることもなくいつもの〈愛〉のお呪《まじな》いを囁くこともなく、白痴のようにあなたの静かな性器を抱きしめたい。粘液まみれの腰を振り立てホルモン臭い息を吐き互いの体の毛孔という毛孔に〈愛している〉という観念を吹き込み合うあの作業、これまでは存分に愉しんで来たあの作業が今はとても痛い。生殖、快楽、苦痛等、どんな目的からも自由になったわが欲望が、あなたの性器の静寂の周辺で一瞬、いやもしかしたら一千年、要するに〈限りなく永遠に近い〉かたちで呆けられれば、と埒もない夢を見る。われわれは身柄をこの世界に委ね絶えず〈生命〉に〈時間〉を売り渡し続けているのだけれど、時には真空よりも少し甘い空間に宙吊りになって〈時間〉を取り返す感覚を味わうのも可愛い試みではなかろうか。  産声を上げるのと同時にわれわれの〈時間〉が流れ始める。そもそもの始まり、世界の〈ゲームの規則〉によってか胎内のエデンの園からしごき出される瞬間のことを憶えていないことはいかにも無念である。母親の股間を引き裂き血に染まって外界に晒される誕生の儀式は、恐らく死よりもドラスティックであるだろうに。それを記憶できなかったことは一生かけて悔やんでもまだ足りない。  われわれを送り出そうとしていた時の母たちの産道の痛みはさぞや激烈なものであっただろう。われわれは言わば全身をペニスにして母親を内側から犯したようなものだ(あれが強姦なのか和姦なのかは世界の規則が条文化されていないのでわからない)。生涯にたった一度の母親との交わりがわれわれの初めての性行為であった。憶えもしなかったことを想い起こすふりをするのはせつない戯れ事だが、かの時ペニスたるわれわれの体もひどく痛んだに違いない。  知能の発生について何も知らぬわたしはここでまたひとつ軽口を叩きたくなる。われわれがかの厳粛な儀式をまるで憶えていないのは余りに痛み余りに痛ませたからではないか、と。さよう性交は根源的に痛いものなのではないか、と。  アクメ? アクメはもちろん素敵だ。体は震えるし〈我〉は虚空に融ける。先人はアクメにおける〈我〉の融解に着眼して性交に生から死に至る(即ち流れ行く〈時間〉の外に出る)回路を開く機能があることを発見した。この発見者にわれわれは敬愛の念を抱かずにいられない。  しかし、〈時間〉の外に出る手段としてはアクメはかなり空しい。アクメを期待する性交の手順——アダージョからアレグロまで速まるピストン運動によって積み立てた〈時間〉をアクメ=カタストロフィで一挙に使い果たす——は、胎内で貯め込んだ〈時間〉を一定方向へと流出させるしかないわれわれの生の行程に似過ぎているからである。ということは、アクメの状態が死ぬまで続くのならいざ知らず、単にアクメを待ち受けるだけの性交は所詮〈時間〉の流れに呑まれているのである。古人の口にした如くわれわれが性交の後物悲しさを覚えるのは、〈時間〉を越えようとする企みが大してはうまく行かなかったという事実に起因する。  性交は痛い。  ペニスのくびれ、ヴァギナの歪曲、われわれの性器を形どる曲線は時の刻み目なのだ、そこから時が始まったという印なのだ、といつかあなただったかわたしだったかが呟いた。そう言えばわれわれが例の行為によってわれわれ独自の時を刻もうといくら図っても〈原刻印〉を凌ぐような印はつけられない、母親相手の原初の性交を凌ぐような性交は行なえないのかも知れない、とわたしだったかあなただったかが答えた。  もはや痛いのに飽きたわたしとあなたは別の方法で〈時間〉を取り返そうとする。  時間軸から外れようとするのは野暮だ。かえって囚われの思いが深まる。むしろ初めに時間の背に跨がってしまうべきである。  急いではならない。遅くもなければ速くもない時の流れの吐き気を催すような快適さに一応は身を任せてみること。体が〈時間〉の手籠めになるのはある程度忍ぶとしても、精神は最良の地点を選んで踏み止まるのに努めること。疲弊のあげくデジャ・ヴュが起こり世界の〈時間〉と自分の中の〈時間〉に断層ができるまで、内なる〈時間〉の流れの速度を落として行くこと。  時を止めることも後戻りすることもはかない望みなら、後は内の〈時間〉と外の〈時間〉の歩みをずらすしかない。外の〈時間〉が内の〈時間〉に比べれば光速ロケットのように速く感じられるようになったら、わたしとあなたはロケットの乗務員のように通常とは別の〈時間〉を生きるだろう。  誰が今さらアクメなどに思いを懸けるだろう。わたしたちは欲望の生起と欲望の成就の間を宙吊りのまま滑る。そのためになら、インポテンツにでも不感症にでも白痴にでもなってみせよう。ゆえにわたしはあなたの静かな性器が見たい。 [#地付き](「GS」1号 '84年6月) [#改ページ] [#地付き]欲望の処方箋   今一度あなたがわたしをまさぐりわたしがあなたを挟み込んだとしても、それは性交の痛みよりも快楽の方に敏感であり得た頃へのノスタルジーからでしかない。充血した性器は相も変わらず快楽を待ち受けているのであろうが、たとえかつてと同じ手当てでむずかる性器を宥めようと試みたところで、指先の火膨れを氷で冷やしているうちに指先ばかりか全身の温もりが奪われ寒くて堪らなくなるように、わたしとあなたの行為は苦々しさへと衰えて行く。  生命の水面で絶えず泡立つ欲望の正体を見極められないでいた日々には、欲望はすべて性器から捌《は》けて行くものだと思っていた。存分に抱き合い歓び合い精神を掻き混ぜ合えば欲望は流れ尽くしてしまうものだと思っていた。そんな日々にさえ、どこかこすっからくはぐらかし合っているような不足は感じていたのだけれども、何と言っても知り初めし頃のこと、わたしたちは肉体をありがたがって行為を重ねた。  わたしたちはわたしたちの心身の容量に見合った欲望を遣り取りしているつもりであったのだ。ところが実際は相手の欲望を受けきれたためしがなかった。見積もっていたよりも勢い盛んな欲望はわたしたちをさんざん痛めつけて通り抜けた。どうやらわたしたちの内に生ずる欲望はわたしたちの心身のようには小さくないらしい、と気づいてわたしとあなたは途方に暮れることになった。  今となってはわれわれは欲望の生成に関して言を弄することができる。〈個〉というかたちで在らしめられていることへの異議申し立てとして〈欲望〉が発生する。そのようにして発生した〈欲望〉は〈個〉から〈全〉に向かう架空の道を切り拓く役割を負わされている。従って〈欲望〉は〈個〉において生じた途端に〈個〉のスケールを遥かに越えて拡がり出て行く。そうしたものである〈欲望〉を完全に引き受け得る〈個〉が存在する道理はない。  交わりながら互いの肩越しに〈全〉を見ていることを意識した時に、わたしとあなたは痛みを覚えた。営みの相手を〈全〉に向かうためのただの媒介とするのは不心得なのではないか? わたしたちは侮辱し合っているのではあるまいか? 確かに〈個〉を否定したい気持ちが〈全〉への志向に発展するのだが、もともとは互いの〈個〉性に惹かれて始めた営みである。眼の前の具体的な〈個〉を大切に思うことに変わりはないのに、〈欲望〉はその大切な〈個〉に轍《わだち》を刻印してしまう。どうしてこれ以上あなたに〈欲望〉を押しつけることができようか?  相手があなたでなければ、心の通わぬ任意の〈個〉が相手であれば、晴れ晴れと〈欲望〉を解き放つことができるだろうか? 否、性交不能の状態に陥るのは眼に見えている。あなたとは性交したくないがあなた以外の者とは性交できない。  無邪気に交わっていた時期があったことが今日では信じがたい。わたしたちは〈愛欲〉ということばを知っている。多分昔のわたしたちは、〈個〉をいとおしむ気持ちと〈全〉に向かう〈欲望〉の未分化状態を示すこのことばをパス・ワードとしてアクメへとジャンプし得たのだろう。 〈愛欲〉の時代はすでに遠い。それなのに、どういうわけでか性器は充血しわたしたちはノスタルジーに悩まされる。 〈欲望〉がわたしを満たす。わたしから滲み出る。溢れ出す。わたしは〈欲望〉に嬲られ身をよじる。膨張する。発熱する。動悸が昂まる。わたしは震え出す。わたしは〈欲望〉に突き上げられる。〈個〉は〈欲望〉によって浄められる。わたしは純潔だ。〈欲望〉でいっぱいのわたしは純潔だ。こんなにも〈欲望〉で舞い上がる状態のことを、わたしとあなたは〈負のアクメ〉と名づけた。  正のアクメ、即ち性交の結果得られるアクメ、忍びがたい辛さを伴わずには訪れないアクメはひとまず避けておくことにしたい。〈欲望〉を性器から捌《は》きアクメという最大到達点まで飛ばせるのではなく、あえて〈欲望〉に捌け口を与えず〈個〉の輪郭上でスパークさせるのはどうだろう? 〈欲望〉して〈欲望〉して〈欲望〉し抜いた末に思いがけぬ顕われかたをする〈負のアクメ〉の奇妙な充実感を至上と定め、尾を引くノスタルジーと渡り合ってみるのである。 〈欲望〉を発火点とし現実の行為を経てアクメを導き出すのが正常だとしたら、〈欲望〉の最大限の充填のみを当てにして行為なくして行って[#「行って」に傍点]しまうことは倒錯である。あらゆる倒錯の中でもひょっとしたら最も過激な倒錯かも知れないのだが、〈全〉に肉迫するために〈個〉がもうひとつの〈個〉を用いねばならぬという正常な営みにおける呪わしい宿弊を乗り越える手段としては案外有効なのではないだろうか。 〈負のアクメ〉が生ずる時、〈禁欲〉は淫らさを帯びる。〈淫らな禁欲〉をわたしたちは苦しみかつ愉しむ。 [#地付き](「GS」23/4号 '85年3月) [#改ページ] [#地付き]肛門、此岸のユートピア   たとえば明り採りの小窓がひとつしかない仄暗い部屋の底に、わたしとあなたが少し離れて向かい合い蹲って半日以上何ということもなしに過ごしているような時、長いこと続いた沈黙の後で気紛れにわたしがことばを温かな空気の中に割り込ませようとするとしたら、そのことばはあなたへの問いかけのかたちをとるに違いないのだが、ではいったいどういう問いかけなのだろうか。  もちろん、わたしとあなたが眼醒めたまま見た夢の数だけ、問の内容も考えられるに決まっている。次のように。  ねえ、まだそこにいる? 今は夕方、それとも明け方? 体温は高い、それとも低い? どこか痛いところはない? 今立ち上がったら目眩がすると思う? 輪郭の滲んだ白い影に見えるあなた、その体がどのくらいの大きさなのか自分でわかる? わたしたちが裸でいることを憶えてる? 薄闇の色は青と言うのか黒と言うのか知ってる? 愛情の発作は時を選ばないというのは本当? あなたの体の感触を刷り込まれたわたしの体は温かいと思う、冷たいと思う? 何が好きで何が嫌いか以前のようにはっきり言える? わたしが同性だったか異性だったかの確信はある? 性器と呼ばれる器官は体中にいくつあるか数えられる? 〈あなた〉というのは誰のことなのかわかる? この部屋は今以上に快適になるものかしら?  そうした質問の答は先刻承知のくせに、あなたは戯れて答を探すふりをするだろう。まず部屋を見渡し、続いて自分の体の隠しどころを改める。髪の中から始め、耳の後ろを、手足の指の間を、腋の下を、膝の裏を、臍の襞を。  さて、すべての物事の境界線のぼやけたこの部屋、すべての物事が曖昧でしかもその曖昧さ自体は極めて明晰なこの部屋の、どこに答がある?  あなたはわらって肛門をひらく。  おさらいするまでもない。われわれはいわゆる〈性器〉の存在に気づくよりも先に、後方の底のない沼のもたらす深い感覚を愉しんで来た。痛みにも痒みにもくすぐったさにも似た圧迫感をよこす括約筋の自動的な緊張。皮膚の感覚や唇や舌の感覚とは比べものにならないダイナミックな刺戟に関心を惹かれずにはいられなかった。  単に排泄のために備わっているに過ぎない器官に実用以上の価値を見出した瞬間こそ、われわれが人生で初めて〈過剰〉という観念を予感した瞬間ではなかったか。肛門は実に豊かな、感覚と観念の市場であったように思う。市場、もしくは賑やかな遊園地。われわれは愉しく遊びながらいかに多くを学んだことか。  走ったり、喋ったり、笑ったり、手を振ったり、泣いたりしているうちに、われわれの体積はふえ、あれほど愛しかった後方の市場もさほど顧みられなくなる。われわれはいわゆる〈性器〉の形状に合わせて懸命に〈男〉や〈女〉に成長しようとする。けれども、〈性器〉が第一使節として活躍する時期に入ってからも、肛門感覚から完全に自由になることはないのだ。ともすればわれわれの熱情は〈性器〉からこぼれ落ち肛門に引き寄せられそうになる。  何故ならば〈性器〉は、gender を指定する記号であり生殖という大事業を全うするための仕掛けであり、実用性の方が〈過剰〉性よりも優る野暮なメイン・ストリートでしかないからだ。肛門を凌駕する力などあるはずもない。  わたしとあなたの結びつきからいわゆる〈性器〉が消去されても、肛門は残る。  肛門はわれわれの内でひそやかに持続する大らかな幼年期の核であり、〈無性〉という gender における〈性器〉である。決して女性器の代替物ではないし、ましてや〈男性〉性と〈女性〉性を統合する〈第三の性器〉でもない。徹底してフリーキッシュでアナーキックな祝福された——何なら先人に倣って〈呪われた〉と言ってもいい——器官である。  肛門の輝かしい〈過剰〉性を、どうして愛さずにいられよう?  肛門は裏にして表。  肛門は出口にして入口。  肛門は頂点にして奈落。  肛門は清浄にして不浄。  肛門は楽器にして楽師。  肛門は過去にして現在。  肛門は〈傷にしてナイフ〉。  肛門はクラインの壺。  肛門は gender という虚構の精算所。  肛門は甘くて酸っぱい。  肛門は現身にあって奇跡的に夢を解放する場所。  仄暗い部屋の底で、わたしたちは二つの肛門になる。 [#地付き](「GS」3号 '85年10月) [#ここで字下げ終わり] [#地付き]ルナティック・ドリーム女性器篇   あなたは女性器を持たない。  あなたのしなやかな性器には、リボンを結ぶこともできるし帽子を掛けることもできる。あなたは冬の白く曇ったガラス窓を性器でこすって絵を描くのが得意である。あなたの性器はアンテナのように伸び振子のように揺れる。  わたしが持っているのが女性器だ。  常に湿り気を帯び温もりを溜めた女性器。さまざまなかたちに柔らかい襞を震わせる女性器。逞しい筋肉を秘め時には堅く絞られる女性器。宝石を嵌め込んだり花を挿したりシャンパンを注いだりできる女性器。  女性器は血と親しい。生まれて初めて激情に駆られたわたしとあなたが脱いだ衣服を天井に向かって放り上げ床を転げ回り体のあちこちに擦り傷や痣をこしらえながら性器をぶつけ合ったあの日も、わたしの股間からは血がこぼれ落ちた。  二人ともしばらく笑いが止まらなかったものである。何故なら、激情を映し出したわたしたちの眼球には繊細な赤い紋様が浮かび上がり、腕と言わず胸と言わず無数に印された歯と唇と爪の跡は塩と鉄の味のする体液を滲ませぬめっていたというのに、その上さらにわたしの性器までが血をこぼしたのだから、しつこ過ぎる語呂合わせを聞かされた時と同様吹き出してしまうのは無理からぬ。  全くユーモラスな仕掛けだ、初めての行為に際して女性器が出血するとは。恐怖の余りの失禁以上の滑稽さである。あの日わたしたちは、それぞれの体の血で彩られた箇所を女性器に見立てて指を突っ込む真似をしては大いに笑った。  女性器はまた月と親しい。もはや行為によっては赤に染まらぬわたしの性器だが、月の満ち欠けに呼応して二十八日おきに血糊を吐き出すのは相変わらずである。性器の上部に接続された球形の臓器、これが血糊を降ろすのだ。  この球形の臓器の名称をわたしは思い出せない。いつ頃からそれが活動し始めたのか、何のために活動するのか、ということも。  ただ、毎月血糊の降りる時期になると、わたしの下腹部は俄かに騒がしくなる。球形の臓器は拡張と収縮を繰り返し、独得のリズムでわたしを内側から連打する。連打のリズムに煽られてわたしは酔っ払う。月経が月の司る祭礼だとしたら、わたしは祭礼に不可欠の打楽器を下腹にかかえているようなものだ。血を噴く臓器は月光に感応してひとりでに鳴り出すドラムか。  あなたは血を湛えたわたしの性器を眺めるのが好きだ。赤黒く塗り潰されたわたしの性器が好きだ。性器が性器と見えないのが好きだ。  わたしにしても、崩れ落ちて来る臓器の内壁で性器が埋め立てられると悪い心持ちではない。わたしは臓器の瓦礫ごと性器を葬り去る。性器のないわたしは一個のドラムになる、月に一度。  わたしの体は何と優雅にグロテスクにできていることだろう。  たまにわたしはわたしのものではない女性器を瞼の裏に描く。  楊貴妃の女性器。ネロの母の女性器。ジャンヌ・ダルクの女性器。エミリ・ブロンテの女性器。エヴァ・ブラウンの女性器。ビリー・ホリディの女性器。アン・サリバンの女性器。ガートルード・スタインの女性器。しとやかな女性器。剛健な女性器。清朗な女性器。酷薄な女性器。鈍重な女性器。卑屈な女性器。厳粛な女性器。恐ろしげな女性器。気違いじみた女性器。慕わしさの発作に突き動かされいろいろな女性器を次々に眼に浮かべてみる。  世界中の女性器の悉くがいちどきに血をまとって姿を潜めればどうなるだろうか、とわたしは考える。  あなたも知っているだろうか、月経がうつることを。わたしが月経中の者に身を寄せて親しく戯れればわたしもまた血を噴き始めることを。鳴り響くドラムが間近のドラムの膜を共振させるのにも似て、女性器を持った者同士は響き合うのだ。  子供、老人、及び受胎した者は別にして、もしも地球上の女性器を持つ者全員が一箇所に集まって何日も浮かれ騒ぎ続けたなら、一人残らず血を滴らせる瞬間がきっと訪れるはずである。  その瞬間何が起こるか。  長い間月経という祭礼を司って来た月が、地上の球形の臓器の大群が一斉に打ち出すリズムに反対に影響を受け、祭礼の主導権を失って狂ってしまうのではないか。二十億個もの女性器が連合すれば月の一個くらいよろめかせ得るのではないか。女性器の大合奏によって規則正しかった月の運行が怪しくなると同時に、海は荒れ地表は乱れるだろう。  女性器が集まっての大カーニヴァル。月への謀叛。こんな途方もなく愉快な夢を見るわたしのドラムは目下独演中である。 [#地付き](「GS」4号 '86年12月) [#改ページ] [#地付き]POP NAVEL POPPIN'   テューバのような音をたてたのは、あなたのおなか? それともわたしのおなか? 区別がつかない。どちらの胃もからっぽだったし、ぴったりと体を合わせていたから、一方の腹の震えはただちにもう一方の腹に伝わって、わたしたちはほとんど同時におなかを震わせた。  二人とも自分のおなかが鳴ったのだと思い込んで、しばらく言い合いが続いたけれど、どちらがリードをとったかなんてどうでもいいことだとすぐに気がついて、祝杯を交わしたのだ。腹腔と腹腔の完璧な共鳴に。そう、この間わたしは子宮と子宮は響き合うという話をしたのだが、おなかとおなかはもっと直截的に共鳴する。空腹な時に寄り添いさえすれば。  企みも期待もない、全く偶然の、自然の、瞬発的な、即興の共演。こんなにも軽易に、こんなにも清快に、体と体が結び合えるとは嬉しい発見である。ポップというのはこういうことだ。一瞬の、一瞬と形容するのが無理なら数瞬の、要するに最小単位の愉しみを掴み取ること。流れ行く時間を微塵切りして手の内に収めるいちばん簡単な方法が、〈ポップ〉と呼ばれる。  ポップな数瞬間には欲望だとか昂奮だとか余情が芽生える暇はない。そうしたものを芽生えさせて愉しみを拡張しようと試みるのはポップとは正反対の作法である。ことに、絶頂感ほしさに序奏から始め希薄なフレーズを積み重ね時間を繰り延べつつ情感を盛り上げて行くなど浅ましい限り。  従って、性交は退屈である。クラシック音楽と同様に。  さて、おなかとおなかを改めて見比べたあなたとわたしが注目したのは、言うまでもなく、臍だった。  かつては母胎と連絡していたこの閉ざされた通路を、わたしたちは開いてみようとした憶えがある。もちろん深過ぎて開ききれるわけがなく腹膜が痛くなるだけだとわかっていたのだけれど、襞と襞の間のおっとりとした丸みや控え目に鼻粘膜をノックする魅惑的な香りの誘いに、ついうっかり乗ってしまったのだ。  実はわたしはごく幼い時分から臍に誘惑され続けていて、性器よりも臍をいじらないではいられない時期があったし、思春期には臍に思いきり指を突き立てたい衝動に駆られもした。臍に突き立てた指で腹膜を破り内臓を掻き回してみたかった。胎内での栄養摂取という役目を終えてなお、原初の〈口〉は流入を求めて飢えているのだろうか? それとも、外気を巻き込むスクリューめいたかたちに、指先が刺戟されるだけなのだろうか?  臍は少し肛門に似ている。かたちも、遠い昔の官能的記憶を通じてわたしたちに誘いをかけるところも。  ただ、残念ながら肛門ほどには訴えかける力が強くない、と呟いたわたしを笑ってあなたは、臍には肛門にはない魅力がある、と言う。  出臍ってあるだろう? 出臍は半球型じゃないか。いや、臍に出臍を挿入すれば臍と臍で交接できるなんて冗談を言うつもりはないよ。つまり、臍は折り畳まれた襞の中に球体を秘め持っているんだ。あんな慎ましい窪みの中に最も単純で最も洗練された美しいかたちを潜ませているんだぜ。そこへ行くと、肛門は何も潜ませていない。  ああ、そうね、とわたしは後を引き取る。しかも出臍の原因は赤ん坊の時に激しく泣き喚いて極端に腹に力を入れることなのよ。強い悲しみや怒りがまだ閉じきっていない柔らかい孔から噴出した結果、出臍ができるんだわ。原始の感情と結びついて美しく変態したものが出臍なのね。そう言えばわたしは今でも、怒りではらわたが煮えくり返った折には臍がゆっくりと襞を延ばしながら盛り上がって来るような気がする。  なかなかのものさ、臍は、とあなたは頷く。  臍ハ感覚ガ鈍イ。  でも、暑い夏、胸から滑り落ちた汗の玉が臍の窪みに嵌ると跳び上がりそうになる。  臍ニハ括約筋ガナイ。  だから、貴方の舌先を締めつけない。  臍ハ体液ヲ滲マセナイ。  その代わり、よい匂いがする。  臍ハ浅過ギル。  だから、余計なものを溜め込まない。  臍ノ色ハ冴エナイ。  でも、薄皮の手触りは悩ましくも繊細だ。  臍ニハ表情ガナイ。  だから、読み取る必要がない。  臍ハ音ヲタテナイ。  だから、耳を傾けずにすむ。  臍デオルガスムスハ得ラレナイ。  どうしてそんなに欲ばるの?  臍ニツイテ費ヤスベキコトバハサホドナイ。  湿ったことばを引き寄せないから臍は清潔に乾いているのだし、いとおしむために夥しいことばを費やさなくてもよいところが臍の美点なのだ。  スベテ駄洒落ニ過ギナイノデハ?  すべて、ではない。幾分か。  僕の妹は、生まれた時に臍の緒を切り損ねて、しばらくの間引きちぎられた茎みたいな肉の切れっ端をおなかにくっつけていた。僕はそれを自分の腿の間にあるのと同じ器官だと信じていて、彼女の臍の緒が落ちた時、僕も取りたいと親にせがんでひどく叱られた。  これは、臍の可愛らしさを愛して止まぬあなたのプレゼントしてくれた笑い話。 [#地付き](「GS」53/4号 '87年6月) [#改ページ] [#地付き]セックス・ギャング・チャイルドの歌  あなたの前でわたしは過敏だ。  あなたの放つ体熱で部屋の温度が変わる時、あなたの吐く息の混ざった空気を肺に収める時、あなたのたてる物音が鼓膜を優しくくすぐる時、わたしの体は力が脱け柔らかくなる。  あなたの影がわたしの素肌に落ちる時、あなたの踏むステップが床に座ったわたしの腰に響く時、温かな浴槽の中あなたの身動きで揺れたお湯がわたしを撫でる時、わたしの血は気持ちよくめぐり始める。  触れ合わなくてもあなたの隣に並ぶとあなたのいる側の皮膚が熱くなり、あなたが反対側にまわると皮膚の熱もあなたを追って移動する。  あなたの気配はとても強く伝わるので、服を着ていても裸であなたを感じているように思うし、裸になれば神経がじかにあなたに触れるように思う。  あなたと一緒だと刺戟の閾値が低くなる。小さなことが歓びになり快感になる。  あなたを知ってわたしは剥き身になった。柔らかで、しなやかで、感じやすい、殼を失くした貝に。  あなたとわたし、二つの剥き身のものが床に転がっているのを見た人は吐き気を催すかも知れない。たとえわたしたちが離れて横たわっていようと、人の眼には性交の場面よりもいやらしく浅ましく映るかも知れない。  性交、の快楽が苦痛に感じられる風になったのは、刺戟の閾値が余りにも下がったためなのだ。快楽の上限も繰り下がり、あの行為のもたらす感覚は過ぎる快楽=苦痛に変わった。  今わたしたちはいささか照れ臭く思い出す。もっと近づきたい、もっと奥まで入りたい、もっと知りたい、もっと抱きたい、もっと重くなりたい、もっとよくなりたい等、たくさんの〈もっと〉という欲望を互いの体に塗りたくり合っていた日々を。  当時のわたしたちの体は何と硬くて、重くて、鈍かったことだろう。どんなにぴったり重なっても重なり足りない、どんなに強く抱きしめても抱きしめ足りない、と嘆きながらとめどなく流れ出す欲望を性器に差し向け快楽を引きずり出し、充分に慰めを得ていたのだから。そうしたところで欲望が満たされるわけではなく快楽によって気を逸らされはぐらかされるだけだ、と思い当たったのは、服をすべて取り払っても脱ぎ足りない、裸になりきっていない、との欲求不満がわたしたちの動きを止めた瞬間である。  裸になっても脱ぎ足りない。また重なり足りない、抱き足りない等の不満にわたしたちが絶えず悩まされるのは、服以外の何かで着膨れしているせいではないだろうか。そう考え及んでわたしたちは赤面した。  そこでわたしたちは脱ぎ始めた。何を? あらゆる余計なもの、不潔なものを。おそらく、おめでたい期待やら、執着心やら、偏った好奇心やら、もしかするとこの世のどこかでは恋情の中に当然含まれるとされているかも知れないものを。脱ぎ棄てて行くにつれ、身軽になり感覚が澄んで来るのは愉快なことだった。  そして、気がついたら〈性器〉も脱いでいた。  あなたは脱いだ、わたしの性器を頭からすっぽりと被る〈性器〉を。  わたしは脱いだ、あなたの性器でかたちを整える〈性器〉を。  あなたは脱いだ、わたしの性器に根を下ろす〈性器〉を。  わたしは脱いだ、あなたの性器をつっかい棒とする〈性器〉を。  あなたは脱いだ、わたしの性器を指差す〈性器〉を。  わたしは脱いだ、あなたの性器で方位を推し量る〈性器〉を。  脱いだ、飽きもせず決まりきった役割を買って出る〈性器〉を。  脱いだ、相手の性器を待ち受けている〈性器〉を。  脱いだ、相手の性器を着込んで不様に膨れ上がろうとする〈性器〉を、わたしたちを着膨れの方向へとそそのかす小うるさい〈性器〉を、あなたとわたしの組み合わせを男性器と女性器の組み合わせに還元してしまう粗暴な〈性器〉を。  つまるところ脱ぎ棄てるべき〈性器〉とは、常に他性の性器を意識し、行為中でなくとも想像上の他性器を身にまとった、それ自体が架空のものと言っていい性器である。 〈架空の性器〉を始末するのに痛みを感ずるわけはない。  この去勢は優しく行なわれる。  去勢をすませたあなたとわたしの体にも、ただの器官としての性器は残っている。静かな性器ならば眼障りではない。特別な価値を持たないし、何事も代弁せず象徴せず暗示しない。多分性別ですら表わしてはいまい。あなたとわたしは性器による〈表現〉をやめたのだ。  性器によらない快楽を愉しむあなたとわたし。  わたしたちの属する性を〈セックス・ギャング・チャイルド〉と呼ぼう。 [#地付き](「GS」7号 '88年9月) [#改ページ]   ㈸ 性愛[#「性愛」はゴシック体] [#改ページ]   性と生の彼方——両性具有とプラトニック・ラヴ  今、〈両性具有〉という畸想のアド・バルーンを膨らませかけてみて、早くも私は息切れしている。もちろん〈女〉というアド・バルーン、〈男〉というアド・バルーンを上げることに比べれば、畸想のアド・バルーンを上げることは楽であろう。そこには妄想も偏執も悪趣味もいかがわしい欲望も片輪な愛情も選ぶことなく詰め込めるのだから。だが、この畸想は私のものではない。私は私の湿った指先でこの畸想を弄んだことはいまだかつてない。しぼんだままのアド・バルーンからは何やら興醒めする臭気が漂って来る。これらを膨らませるよりはむしろ脱臭剤でもつくった方がいいのではないだろうか? 〈両性具有〉、男であると同時に女でもあること。物は一つしかないよりも二つあった方がいいという観点からすれば、豊かな印象を与える観念である。しかし、漂って来るのは貧しさの臭いだ。男であるだけ、女であるだけではなぜ不満なのか。何がほしくて〈両性具有〉などという夢を見るのか。持っている玩具に飽いてもっと買ってと喚きたてる我儘な子供、夫婦交換も乱交パーティもSMプレイも経験したが他に目新しいことはないものかとあたりを見回す好色家、ヨーロッパは煮詰まっているから次はアフリカの土人の習俗でも学ぶべい、とカメラを提げて出かける軽薄文化人——そうした精神的貧民と同系の、〈さもしい〉〈ものほしげな〉〈いい気な〉と形容したくなる夢を。  滑らかに隆起した胸、かすかにくびれた胴、硬い筋肉を優美に包む脂肪、柔らかな声を発する喉、しなやかなペニスとひそやかに息づくヴァギナ——それらすべてを完璧に備えた人間があり得たとして、いったい誰が〈彼〉を愛するか。われわれが異性愛者であっても同性愛者であっても、求める性器のすぐそばのもう一つの性器を疎ましく感じ、愛を交わそうとはしないだろう。〈彼〉に贈ることができるのは整形外科か見世物小屋への紹介状くらいなものである。いまだ自覚のない同性愛者であればあるいは一時〈彼〉に惹かれるかも知れない。〈彼〉なら大丈夫、半分は〈異性〉なのだから言訳が成り立つ、アリバイが証明できる、という具合に。他には、無差別志向・際限知らずの猟色家が〈彼〉を慰み者として必要とするばかりである。  かわいそうな〈両性具有者〉。〈彼〉は未成熟な者、性欲過剰な者のペットとしてのみ想定されたのだろうか? 〈彼〉は自家受精もできない(正しい位置に性器がついているならば)。両性を具有しているから〈彼〉が完全だって? とんでもない、結局〈両性具有〉とは男としても女としても不完全ということでしかない。〈彼〉は孤立した畸型児ではないか。  とは言え、〈両性具有〉の概念の原型であるヘルマプロディトスの神話は確かに面白い。美少年ヘルマプロディトスは妖精サルマキスの求愛を拒むが、彼と永遠に離れないようにというサルマキスの祈りが神々に聞き入れられたため、その身に女の属性をも負うことになってしまう。この謎に満ちた残酷な神話をまずは検討してみなければならない。  ヘルマプロディトスの意向を無視したサルマキスの身勝手な願いがなぜ神々に聞き入れられたのか? 少年の運命に同情する立場に立つと当然の疑問である。自身が気に入った者をためらいもなく攫《さら》い犯し身籠らせていた神々の大らかな生きかたからすれば、押しかけ女房的なサルマキスの盲愛は可愛らしく〈善〉であり、愛を退けたヘルマプロディトスこそ他人を愛さないという理由で〈悪〉であったのだろうか? かのナルキッソスの場合であればさもあろう。しかし、ヘルマプロディトスは自分の魅力に陶然とするような少年ではなかった。それに、ダプネーの例もある。ダプネーはアポロンに身を任せるよりは月桂樹になることを望み、その願いは叶えられたのだ。  では、やはりサルマキスが〈悪〉なのだろうか? どう見てもサルマキスのエゴイズムこそ罰せられて然るべきもののような気がする。われわれの通常の恋愛観では、サルマキスが恋する相手と文字通り一体化することを望んだとは考えにくい。身は二つのままいつもそばにいられるように望んだ、と考えるのが自然である。二人を一人にしてしまったのは神々の皮肉な揚げ足取りであって、ヘルマプロディトスと情を結ぶ機会をサルマキスから永遠に取り上げることが盲愛への罰だったのかも知れない。それにしてもヘルマプロディトスにとっては迷惑な話である。  他人を愛さなかったヘルマプロディトスと他人をエゴイスティックに愛したサルマキスは共に〈悪〉である、と考えることもできる。神々は二人を同時に罰した、と。だが、なぜ〈両性具有者〉をつくらねばならなかったのだろう。ギリシア神話における数多くの例に倣《なら》って、元々雌雄同体である植物にでも変えてやればよさそうなものであるのに。  ここでわれわれはわれわれの通常の恋愛観から離れる用意をしなくてはならない。サルマキスの望んだことは文字通りヘルマプロディトスとの合体であった、としたらどうであろう? 彼女の望みは情事でも愛されることでもなく、〈われ〉と〈彼〉が混ざり合い区別のない状態になることだったのではないか? そう考えると、サルマキスの愛はエゴイズムの領域を脱しアナーキーにすら見えて来る。別々の肉体を持って——言い換えると〈われ〉を温存したまま、見つめ合ったりことばを交わしたり駆け引きをしたり抱擁し合ったりするのではなく、もっとストレートに結びつくこと、即ち存在の一体化を望んだ、というわけである。  自分の気持ちが残らず相手に向かって流出して行くように感じられる時、性交によって得られる一体感だけではもの寂しく、永続的な一体化を夢見ない者があるだろうか? 生身と生身を重ね合わせ各々の体温を伝え合ってもなお、自分と相手が皮膜によって区切られており決して融け合わないことを、不当だと思ったことのない者があるだろうか? 時に恋人たちは〈シャム双生児であればよかったのに〉と呟く。われわれが思い描こうとしているサルマキスは〈わたしがあなたであればよかったのに〉と呟く恋する女である。  ヘルマプロディトスは自分を慕う者に接吻一つ与えなかった。サルマキスはさぞかしショックを受けたことだろう。が、ショックの内には心地よい驚きも含まれていたに違いない。おそらく彼女は以前に出会った男たちにそうしたようにヘルマプロディトスにもとりあえず[#「とりあえず」に傍点]接吻を求めたのであろうが、彼に肉の愉しみに身を任せる気がないと知って、性交以外の結びつきの可能性を検討してみたのだと思う。一見淫婦のようであるこの妖精がかねてより性交を通じての一体感のはかなさを強く感じていたならば、性交ではないかたちで合体することを望んでもよい[#「望んでもよい」に傍点]相手を発見し得たと直観したかも知れない。  存在の完全な一体化ということを神々が〈善〉と見做《みな》すなら、うぶなヘルマプロディトスの〈自意識〉など無視してサルマキスの願いを叶えもするだろう。ヘルマプロディトスにとっても孤独でなくなるのはよいことなのだから。〈両性具有者〉がつくられなければならなかったのではない。〈個(=孤)〉が消滅することこそが重要だったのであり、その結果〈両性具有者〉が生じただけなのだ。〈個〉の消滅、〈われ〉の有限性の消滅とは、とりもなおさず〈死〉を意味する。〈両性具有〉とは〈死〉の仮装なのである。  ただし、〈個〉の消滅とは言っても半ばだけのことである。〈個〉をいったん放棄したところで、他人と合体すれば新たなる〈個〉を形成してしまうばかりだ。何とも中途半端な〈死〉の仮装ではないか。この思い切りの悪さが〈両性具有〉という観念の臭気の発生源の一つである。愛におけるアナーキストたるサルマキスもさほど見通しのきく眼は備えていなかったようだ。ヘルマプロディトスと合体しつつあった時に、彼女は性交によって得られる以上の至福感、オルガスムスを味わったことだろう。しかし、両性具有者となったヘルマプロディトス=サルマキスが後々新たなる〈個〉の有限性に深い幻滅を覚えるであろうことは想像に難くない。  プラトンは、人間は元来両性具有であり男が女を、女が男を愛するのは今では別れ別れになってしまっているかつての半身を求めてのことである、と説いた。完全な人間、即ち両性具有者の究極的な姿は球形である、とも考えたらしい。球形の肉塊が地上にごろごろしている図を思い描くとぞっとしないが、まあ、一つの体に両性の特徴を備えた両性具有者像に比べれば球形に閉じられた存在はいくぶんか幸福そうに見える。けれども、その存在様式が完結性と永遠性を暗示しているとしても〈個〉の有限性は依然として残る点が、すでにサルマキスの愛の物語を見て来たわれわれには満足できないところである。  気儘に空想を遊ばせてよければ、われわれはプラトンの両性具有者像の延長線上にジャンプしたい。ゼラチン状の、ワセリン状の、あるいは生卵状の両性具有者というのはどうだろう? 半練り状の個体が雪玉のように地表を転がり他の個体に接触するたびに速やかに融合し、〈個〉の数を減らしながら肥大して行く光景がただちに思い浮かぶ。アミーバか何かの運動を連想させるイメージではあるが。また、軟らかい球形の両性具有者像はわれわれにわれわれの発生の起源を思い起こさせる。受精卵というものはまさにプラトン的両性具有者像のこの世における見事な具体例ではないだろうか? プラトンの言う通り、われわれはかつて——発生の初期段階において——球形の両性具有者であったのだ、と駄洒落の一つも飛ばしたくなる(泉の精サルマキスは水の中でヘルマプロディトスが入って来るのを待っていた。子宮の中で卵子が精子を待つように)。  ところで、先ほど辿った〈両性具有〉の概念の原型である神話は〈プラトニック・ラヴ〉の原型としても読めはすまいか? 〈性交ではないかたちでの結合〉と言った時、〈精神愛〉というほどの意味で巷に流通している〈プラトニック・ラヴ〉ということばがどうしても浮かび上がって来る。〈両性具有〉という概念と〈プラトニック・ラヴ〉と呼ばれることになった概念が二つながらにプラトンの視野に入っていたことは偶然ではすまされないように思う。あまりにも多くの註釈の付けられているこの語を手荒に扱うことになるかも知れないが、われわれのもとに手繰り寄せてみよう。とりあえず、〈プラトニック・ラヴ〉の定義は〈肉体を媒介としない愛〉としておきたい。  男色すらタブーとされていなかった性的に解放された国ギリシアで、なぜ〈肉体を媒介としない愛〉が生じて来たのか興味深い。キリスト教は姦淫を悪徳とし禁欲を奨励したが、ギリシアでは〈肉体の愛〉はとりたてて問題にされもしないあたりまえに過ぎることであった。多分キリスト教|席捲《せつけん》以前のギリシアは現代も含めたどの時代のどの国よりも恋愛に関して進歩的であっただろう。そんな土地で恋愛に付随する観念が様々に花開くのは当然である。〈愛〉にすれっからしになった人々が全面的に自由な〈肉体の愛〉の唯一の制約、〈個体を越えられない〉不自由さを〈発見〉する地点にまで行き着いた、とわれわれが想像したとて大胆過ぎることはなかろう。  不自由さが自由を夢想するのではなく、自由が不自由さを〈発見〉する。孤独であるから交わりを欲するのでなく、交わったがために孤独を知る。恋の神|跳梁《ちようりよう》するギリシアにあってはこうであろう。〈愛〉の初心者あるいは貧困者は不自由さに気づくことはない。〈個体を越えられないこと〉を嘆くのは贅沢な〈愛〉の富裕者のみなのである。もしもサルマキスが接吻を求める術も知らない物陰から思い人を見つめるだけの〈愛〉の貧困者であったなら、堅実にヘルマプロディトスと夫婦になることでも望んだだろう。同一化などと過激な願いを抱いたサルマキスはしたたかな〈愛〉の富裕者であったと見受けられる。 〈発見〉された不自由さは克服されねばならない。そこで〈個体としてしか在り得ないこと〉に真向からぶつからないですむ愛しかたが必要とされ、〈肉体を媒介としない愛〉が考案される。性欲は抑圧されると言うよりは圧縮されより強く意識されたであろう。〈愛〉の対象への執着も。〈精神〉というものもことによったらこの時初めて〈発見〉されたのかも知れない。ともあれ、肉体を使わないことによって〈個体を越えられない〉不自由さは意識されないですむ。  これはキリスト教的禁欲とは異なったベクトルのものである。〈肉体の愛〉が卑しめられたわけではない。余分な金を貯金するように別個に〈とっておく〉ことにされたのではなかろうか。貧困者はすぐに〈肉体の愛〉に走るが富裕者にとって〈とっておく〉ことは何でもない。やろうと思えばいつだってできるのだから。〈肉体を媒介としない愛〉が〈肉体の愛〉より上位に置かれるのは、それが富裕者だけが実現できる特権的な〈愛〉だからであろう。  もっと簡便に〈個体としてしか在り得ないこと〉から逃《の》がれる方法が〈死〉であることは言うまでもない。だが現実の〈死〉は無意味であると思えば〈プラトニック・ラヴ〉を選ぶほかはない。サルマキスは神話の登場人物であったればこそ、軽業的に半ばだけ死ぬことができたのである。 〈個体を越えられない〉不自由さを託《かこ》つ人々は、神話の中では〈両性具有〉化を望み現実においては性別を無化するが如く〈プラトニック・ラヴ〉を志向する。結果だけを見ると正反対のようであるが、〈両性具有〉と〈プラトニック・ラヴ〉は一対になっていると言えるのではないだろうか。  ここまで来れば〈両性具有〉という畸想の臭気も大分薄らぐ。勝手なことを連ねて来たついでにもう一つ冗談を言いたい。結合によって性器を隠滅させた性交中の男女は、見かたによっては一個の両性具有者ではないか。発生の起源を負の次元まで遡って性交に求めれば、〈結合中の男女〉=〈両性具有者〉こそ人間の元々の姿である、と言い得る。それとも性器を隠滅させた〈男女〉は無性の存在なのだろうか? この疑問が何かの議論に発展するのかどうか、今のところはわからない。 [#地付き](「GS」2号 '85年11月) [#1字下げ](後記) 論旨そのものには見どころがないでもない本稿であるが、古代ギリシアと近代的愛の観念を不用意に突き合わせているのが、欠点である。 [#改ページ]   マゾヒストの悪意  二年ほど前に出た本の話になるが、読んだ当時から気にかかっていたもののこれまで文章にする機会のなかった疑問を、自由なテーマのエッセーを依頼された今回書いてみたい。  その本は黒人女性作家アリス・ウォーカーの『いい女をおさえつけることはできない』(集英社文庫)で、名作『カラーパープル』の作者らしい刺戟的な作品を集めた短篇集なのだが、私がこだわりを持ち続けていて折に触れて思い出すたびに首を捻《ひね》ってしまうのが『時の手紙 あるいはこのサド・マゾヒズムを許すべきか?』と題された一篇である。  フェミニズムのグループに参加している黒人女性が仲間の一人(白人か黒人か明記されていないのが辛い)に宛てて書いた手紙の形式をとったこの作品は、たいへんメッセージ色が濃い。  手紙の書き手は、それぞれがいちばん尊敬するフェミニストの恰好をして来るという趣向のパーティーにスカーレット・オハラのいでたちで現われた仲間(手紙の受け取り人)を冷淡にあしらった理由を説いている。  映画『風と共に去りぬ』は、黒人メイドの女主人に対する奴隷じみた振舞いの描写によって、黒人の観客を不愉快にさせる。スカーレット・オハラの扮装をすることは奴隷的存在を暗示し、それは、サド=マゾヒズムを扱ったテレビ番組に出演した頸に鎖をかけられた黒人女と鎖の錠前の鍵を指輪にした白人女の同性愛のカップルと同様に、白人女と黒人女の関係が〈女主人〉と〈奴隷〉の関係に基づいているかの如き錯覚を呼び起こし、黒人女を怯えさせ白人たちに侮蔑の愉しみを与え、両者の正常な関係を歪めてしまいかねないのだ。  手紙は最後に、黒人女を奴隷にしようとする人々に抵抗しなければ、と呼びかけて終わる。  作者の主張は呑み込めるつもりである。『風と共に去りぬ』に含まれる差別性への黒人の不快表明は他でも読んだ憶えがあるし、白人女性が〈女主人〉に扮し黒人女性が〈奴隷〉に扮して見せることには大きな危険がひそむとの考えについても決して大袈裟とは思わない。  しかし、どうしてもすっきりとは納得できないのが、白人女性と黒人女性の同性愛サド=マゾヒズム・カップルの断罪のしかただ。「二人の無知な女」が「�勝手な想像�を公衆の前で演じる権利を主張したために」「奴隷にされた、文字通り何百万という私たちの母親が実際になめた辛苦が、矮小化されてしまった」と、アリス・ウォーカーは言う。  もちろん、一面では正しい意見である。自分たちがマス・メディアに登場した場合の社会的影響に思いを及ぼさず露出の歓びに引きずられたこのカップルは、無知であり軽薄であり鈍感であると徹底批判されてもしかたがない。  ただ、怒れるアリス・ウォーカーが二人の女性を共に「無知」と言い切り、鎖で繋がれた黒人女性の心理にはひとことも触れていないところに引っかかるのだ。身をもって奴隷制度の苛酷さを味わって来た者たちの子孫としては異常に映る彼女の性的嗜好を、ウォーカーはどう解釈したのだろうか。  苦痛や従属を欲するとは言えマゾヒストに自尊心や誇りが欠けているわけではなく、むしろ強烈な自尊心を持っていて誇らかに相方の足元にひれ伏すのがマゾヒストであることは、精神分析好きのアメリカ人の間では常識だろう。マゾヒズムの戯れにおいて主導権を握っているのは被虐者の方で、加虐者が横暴の限りを尽くしている風には見えても実は権利を一時的に貸し与えられているだけで、被虐者はいつでも貸し与えた権利を取り戻すことができる、これもまたよく知られたマゾヒズムの本質であろう。  従って、本当に自尊心の保持ができない状況ではマゾヒストは快楽を味わえない。マゾヒストの傾向を持たない人々と同じように怒りや悲しみを抱き、この状況を利用してマゾヒスティックな歓びに浸ろうなどとは思いつきもしないはずだ。だからマゾヒストは、力関係で圧倒的に自分よりも優越しておりつけ入る隙もないような者は、まずパートナーに選ぶまい。  ではなぜ、テレビに出演したマゾヒストの黒人女性はパートナーに白人女性を選んだのか。かりに彼女が現在も続いている白人優位的状況に鈍感であったとしても、歴史を知らないわけはないのに。  理由は考えられる。アフリカから連れて来られてから今日まで、黒人があきらかに白人よりも優越し続けていることが一つある。黒人は一度も白人を奴隷にしなかったという道徳的優越性である。  もしもそのような道徳的優越性に強烈な自尊心を託しているのだとしたら、マゾヒズムの快楽はいかばかりのものになるだろう。一般のマゾヒストなら自尊心を保てず音を上げてしまいそうなひどい行為でも、このマゾヒストは余裕を持って愉しめよう。パートナーの行為がむごく汚なくなればなるほど、マゾヒストの自尊心は昂まり貪ることのできる快楽の量はふえるに違いない。  自分の優越性を確信するマゾヒストは相方の劣等性を軽蔑もする。件《くだん》のマゾヒストの黒人女性はパートナーの白人女性の乱暴を受ける時、マゾヒズムの歓びとともに存分に相方を侮蔑し相方に代表されるアメリカの白人全体を侮蔑し、自分の祖先を奴隷にしていた者たちへの復讐心を満足させ歴史的怨恨を晴らしているのではないか。そんな気がしてならない。相当に屈折した心性であるが、倒錯者になるほどある意味で感受性の豊かな者ならば、そのくらいの屈折はするだろう。  白人女性に対してマゾヒストであることが一人の黒人女性の彼女なりの歴史への復讐だと仮定すれば、テレビの画面に登場した二人を見て侮辱を感じ責めたてられたと感じなければならないのは本来白人たちの方なのである。  以上のような変質的な発想は普通にテレビを眺める時に湧いて来はしないから、二人を眼にして傷つく白人よりも傷つく黒人の方が格段に多かろう。だが、伝わりにくいにしてもどうやら怨恨と悪意を肉体に詰めているらしいまがまがしい存在が突然姿を現わした事実は、長い眼で見ればいつか人々にとってプラスに働かないとも限らないのではないか。  それでも彼女は断罪されるべきだろうか。アリス・ウォーカー氏に率直に、真剣に問いかけてみたい。 [#地付き](「文學界」'88年6月号) [#改ページ]   神経症的恋愛  神経症とは幼少期に正しい愛されかたをしなかった者が現実の自己を苦痛とともに抑圧し非現実的な自己形成を行なったために起こる心の病である、と説くアーサー・ヤノフ著『原初からの叫び 抑圧された心のための原初理論』(講談社)は、豊富な治療経験に基づく数々の卓見がちりばめられており、すぐれた心理学研究であるばかりでなくすぐれた人間論にもなっている名著である。  ヤノフによれば、神経症の人間は原初的な苦痛(愛されなかったという思い)を押し殺して非現実の自己を生きているので、絶えず緊張しており自分の本当の感情を充分に感じることができず本当の要求に気づくことができない。彼等彼女等は原初的な要求を象徴的に満たそうとして、是が非でも高級レストランの〈顔〉になろうとしたり、住居や家具や恋人を取っ換え引っ換えするが、決して満たされず内的葛藤に苛《さいな》まれ続ける。  自殺や薬物中毒や性倒錯まで明快に解き明かすこの理論は、机上の空論ではなく成功した治療例に裏づけられたもので、なるほど説得力に富む。だから、神経症の人間と神経症ではない正常な人間を比較した章で、「正常な人間は、孤独を感じない」とか「正常な人間は自分の現状に満足しており、他人をうらやましがらないし、他人が欲しがっているものを欲しがったり、彼らが持っているものを要求したりしない」とか「正常な人間は、人生の意義を探し求めはしない」等の文章にぶつかると、判断の基準が高過ぎるのではないか、天使の話をしているのではないか、と一瞬抵抗したくならないでもないが、「私の正常観は、統計的な規範・平均・社会的な順応度・従順・不従順とかいったことといっさい関係ない」との断わりもあるし、そうか、私も含めて大多数の人は軽重の差はあれ神経症的なのか、と納得せざるを得ない。  同様に刺戟的なのが、「愛とセックス」と題された項目に表わされた見解である。かなり慎重な筆致で書かれてあるが、ヤノフの考えでは「小さな時に愛された人間」即ち神経症でない人間は「愛情をセックスからひきだそうとしない」、なぜなら正常な人間にとって「セックスは他のすべての場合とおなじように、ある関係の自然な帰結であり」、「愛によって『正当化』せねばならぬものではない」のだから、女性がしばしば口にする「愛している人としかベッドに入れない」ということばは、神経症の女性の科白《せりふ》だとすると「『自分の肉体の自然な感じを楽しむためには、私は愛されなければならない』ということを意味している」のだそうだ。  もちろんヤノフは乱交やフリー・セックスといった〈愛なき性〉を自然なものと見做《みな》すわけではなく、「正常な人間はだれかれかまわずベッドへ誘うために、相手を探しにかけずりまわったりしない」とし、別の所では治療が終了すると強迫的な性欲は消失するとも述べている。だがそれにしても刺戟的な見解には違いない。  部分的には結構だ。愛情の比重の低い性欲を覚えることは女性にもある、というのは今や天下周知の事実だし、性行為によって愛情を表現したがったりされたがったりする人々は何かおかしいと私も常々思っていた。しかし、性行為を「たがいに心ひかれている二人の人間の親密な関係」とするヤノフの「愛とセックス」観はあまりに淡白で平板なのではあるまいか。人間ではなく犬や猫その他の動物の性愛に近いような気がする。つまり、あまり面白そうではないのである。  人間の性行為は精神の経験でもあるから、愛情と言うか恋情と言うか、単なる好意や親しみプラス・アルファの情熱が加わった方がエキサイティングで愉しいに決まっている。精神生活が単調な動物の性行為以上に人間の性行為が面白いということについては、神経生理学者も「性の快感は、下等動物では受精のベルト・コンベアによってあまりに自動化されたままにとどまっている。それは人間的な場においてしか十全にはあらわれない」との見かたを示す(ポール・ショシャール著『人間と性』白水社クセジュ文庫)。 「愛している人としかベッドに入れない」と口走る女性には神経症の疑いがある、とヤノフは暗に言いたげだが、これは「愛していない人と性行為をしてもさして面白くない。さして面白くもないことは面倒臭いからやりたくない」という意味に解釈すべきだろう。  もっとも、正常な人間は本能に根ざす方面では動物に近いのだとの話なのだとしたら一理あるとも思える。あるいは、はっきりと書いてはいないがヤノフは恋愛もまた神経症の産物だと考えているのだろうか。少なくとも、度を越して激しい恋、失恋が絶望に至るような恋は正常な恋ではなく「原初的な要求の充足」と定めている節が見受けられる。  全面的に賛同するには若干ためらいが残るが、おそらく〈恋愛=神経症〉説は九割がた正しいだろう。確かに、恋に落ちて日常的な心理状態から逸脱してしまうような人間は普段から飢餓感に苦しめられているのだろう。正常な人間は激しい[#「激しい」に傍点]恋はしない。落ち着きと穏やかさを保った、真の意味での優しさを交換し合う熟恋[#「熟恋」に傍点]を愉しむのだろう。正常な人間が激しい恋に憑《つ》かれるとしたら、それは昔ながらの障壁のある恋、具体的には身分違いの恋やすでに世間の認めた伴侶のいる相手との恋の場合であろう。障壁もないのに過熱するのは神経症的人間に限られるのかも知れない。  けれども、こだわるようだが、正常な人間の正常な恋における正常な性行為は、神経症の人間の神経症的激愛のさなかの正常なのか異常なのか曰く言いがたい性行為に比べて快楽に乏しくはないのだろうか。  この件に関しては次のような反論が予想される。同じ構造の体を持っている以上、正常な人間も神経症の人間も脳の快楽中枢で生ずる性的快感そのものには大きな違いはない。違うのは緊張の放出量であって、神経症の人間は緊張度が高いせいで性行為の際の緊張放出に正常な人間よりも強い快楽を味わうに過ぎない。性行為に執着する神経症者が少なくないのはそれゆえである。しかもたいてい神経症者の性行為を通しての緊張放出はまやかしなのだ、といった風な。  しかし、緊張度が高いとは生理学的には肉体の帯電量が大きいということで、帯電量が大きいと刺戟に伴って脳に送り込まれる電流も当然大量になり、やはり快感には大きな違いがあるはずなのである。ただし代わりに、緊張度の高い人は不快刺戟にも敏感になって痛みもより鋭く感じる理屈にはなる。苦痛と引き換えの快楽など不幸なばかりである、と精神科医は言うだろうか。  いずれにせよ正常な人間は好色ではなく快楽に特別な関心はないとも想像はできる。全く、揶揄《やゆ》ではなしに、神経症の気さえなければ人間はいとも楽々と理想的存在たり得るのである。正常な人間は誰からも好かれる、とまではヤノフは記していないが、実際正常であれば神経症者の一部を除いてあらゆる人から好意を寄せられ、そして惜しみなく好意を返すだろう。正常な人間は常に幸福で、まわりも幸福にするだろう。  そう理解できる程度には私も正常ということを知っている、のだけれども、神経症的快楽と苦痛の魅力の捨てがたさもまた憶え込んでいるのだ。そこで思う。正常な人間も時には逸脱した快楽に憧れはしないか。障壁に阻まれた恋くらいには憧れるだろうが、神経症的恋愛を夢見ることはあり得ないのだろうか。人生への意欲の一環としての好奇心でもって、神経症的恋愛を手探りしてみたいとちらりとでも望むことは——。  狂恋も一度ならば悪くないのだが。 [#地付き](「SALE2」No. 35 '88年10月) [#改ページ]   レスビアン・フェミニズムとSM 「もしも自由と性の快楽のどちらかを選ばなければならないとしたら、真のフェミニストならば自由を選ぶはずだ」。雑誌で読んだアメリカのフェミニストの意見だが、これは性のパートナーをなくしたくないばかりに本来の希望を捨て相手の好みに合わせた妥協的な生きかたをする女性への批判ではない。サド=マゾヒズム、それもレスビアンSMに対する批判なのである。  雑誌に紹介されていたのは右の一節だけなので残念ながら議論の詳細はあきらかでないが、「男性との支配=被支配の関係を拒み自由であろうとするフェミニストが、女性とならば支配=被支配の関係を結んでよしとするのはおかしい」との考えだろうか。だとすれば、男性との支配=被支配の関係と女性とのそれの質の違いを無視した粗雑な議論、思想にふさわしくない性的欲望は放棄せよという教条主義、サド=マゾヒズム差別ととれなくもない。  しかし、レスビアンSMの実態に詳しいわけではないけれども、サド=マゾヒズムを愛好するレスビアン・フェミニストの一部には確かに、真のフェミニストは決して持ち合わせないに違いない不愉快な性質を備えた者が紛れ込んでいるような気がする。限定を加えると、サディスト、女に苦痛を与えるのを愉しむ女の中に紛れ込んでいる。  勝手な解釈だが、冒頭に引用した発言が「男性に従属させられることに反対するフェミニストが、自分では他の女性を従属させたがるのはおかしい」との考えに基づいたもので、主にサディストに向けられた批判なのであれば、たいへんよくわかるのである。  なぜなら、マゾヒストが従属を好むと言ってもそれは性的な場面に限ってのことであり、しかも性的な場面においてすらマゾヒストは自分の従属状態が仮装に過ぎないことを明確に意識していて、自尊心も自由への意志も保ち続けているからだ。レスビアン・フェミニストであると同時にマゾヒストであることは充分に可能である。  一方のサディストの場合、他人に苦痛を与えたい、支配したいという欲望は性的な場面においてのみ発動すると言えるだろうか。こう疑うのは、サディズムの性癖は他人が自分のせいで苦しんでも平気だという感性が欲望に先立ってあるのでなければ生じないと思うためである。サディズムの欲望の根は性的ではない部分にも張っているのだ。サディストの性的な場面における支配状態は仮装ではなく本性にほかならない。  もっともサディストと呼ばれる人々も十人十色で、たとえば本当はマゾヒズムの欲求があるのに現実に辱しめを受けるのは自尊心と羞恥心が許さないので他人に自己を投影して辱しめる側にまわる逆マゾヒストと呼ぶべきタイプ、あるいは苦痛と屈辱に耐える相手の姿に自分への愛情や信頼を確認したがるタイプ、また愛情表現が過度に積極的・能動的・幼児的になってしまうタイプ、こういったサディズムには多少なりとも心ならずもという側面があるので、批判の対象にはならないだろう。  批判されるべきサディストは、他人の自尊心と自由への意志を奪って歓ぶ。パートナーの従属状態が実は仮装であるとしても、サディストの意識の内では奪っているのである。ここには愛情の名に価するような感情はなく、性的欲望がぎらつくばかりである。  彼女たちは心の底では女を嫌っている、というより、自分が男よりも地位の低い女であることが嫌でたまらず、なれるものなら男になりたい、と願っているのに違いない。男性化願望が彼女たちの性的欲望を女性に向かわせるが、もともとは女が嫌いだし何とか一般の女よりは高い地位にありたいため、手っ取り早く他人の地位を貶《おとし》めることで自分が上に上がろうとして平気でサディズムに走る。他方で男性への嫉妬や怨恨も忘れていないから男女平等を唱えるフェミニズムに参加してみたりもするが、女嫌いなので女性全体の地位の向上を本心から考えることはなく、ただ自分の地位が向上することだけを来る日も来る日も考え続けている。  こんな女性がフェミニストの名に価するわけはなく、そのフェミニズム思想にしても中途半端で愚劣なものに決まっている。従って、レスビアン・フェミニストであると同時に(ある種の)サディストであることは不可能である。つけ足せば、レスビアンとしても二流である。さらには女としても二流、いや、人間として二流なのであろう。  けれども、こうした女性も女性差別社会の犠牲者ではある。女性差別社会がよけいな変態をつくり出すのを防ぐためにも、同性愛・異性愛を問わず、あるべき友愛・恋愛・性愛のかたちがもっともっと語り合われねばならないだろう。 [#地付き](「中央公論」'90年3月号) [#改ページ]   〈セク・ハラ〉が浮き彫りにしたもの  ジャーナリズムの場においての〈セクシュアル・ハラスメント・ブーム〉は昨年中でひとまず終息したようだが、印象的だったことの一つは、例によってバカだのブスだのの罵詈雑言の混じった一部の男たちの猛反発だった。新しく入って来た概念への歓迎ストームと考えられなくもないけれども、どうして悪いことは悪いと素直に言えないのだろう、何が口惜しくてむきになるのだろう、と不思議でならない。  ことばの定義が熟していなかったために議論が混乱した面もあるだろう。セクシュアル・ハラスメントを日本で最初に記事にした雑誌は私の知る限りでは『コスモポリタン』誌だったが、アメリカでの実情を紹介したその記事から読み取れた定義は〈仕事の妨害あるいは退職の強制を目的とした女性への性的暴行・愚弄〉であった。それが、あちこちで採り上げられるようになると、〈職場で女性であるがために受ける軽視・侮辱・誘惑〉といった風に定義が拡大かつ平板化されてしまい、セクシュアル・ハラスメント該当事項が随分多くなった。  だから、男性会社員たちが全く下心のないアフター・ファイヴの誘いや雑談中の何気ないひとことも女性社員たちに厳しくチェックされセクシュアル・ハラスメントだと騒ぎたてられてはかなわないと恐れて、〈セクシュアル・ハラスメント・ブーム〉を煩わしがるのはわからないでもない。  しかし、公の場で怒りを顕わにしている男たちの論調には、そういうニュアンスよりももっと生臭い感情が目立つ。曰く、「セクシュアル・ハラスメントなどと騒ぐ女は頭が硬い」「ユーモアがない」「触られたくないのなら挑発的な服装をするな」。大多数のOLは会社にはまともな恰好で行くし、六本木のディスコと違って会社で好色な男の標的となりやすいのはおとなしく少し野暮ったいくらいの恰好をした女だという現実、さらにかりに挑発的な服装をしたOLがいたとしても恋人でもない職場の男が触っていいわけはないという常識を、知らないか故意に無視している文化人のおじさんたちは、「セクシュアル・ハラスメントなどと騒ぐ女」ではなくて〈触らせてくれない女〉に対して猛りたっているのではないか、と勘繰りたくなる。  そこで思い返すと、いろいろな雑誌に載ったセクシュアル・ハラスメントに関するアンケート調査やリポートは、定義が曖昧だったせいもあって、さながら〈女にとっては迷惑な男の言動一覧表〉の趣きを呈していた。もちろんテーマがセクシュアル・ハラスメントであることを忘れなければ、要するに〈職場では性の対象として見ないでほしい〉との訴えなのは明瞭だが、そう言うOLが一方で好ましい男性社員とはオフィス・ラヴを愉しんでいる事実を考え合わせると、〈私が性の対象として見ていない男性には[#「には」に傍点]、私を性の対象とは見てほしくない〉という意味合いも確実に読み取れる。  ここには(現文化における)女性のセクシュアリティの特質の一つが浮かび上がっている。男は女でありさえすれば一応は性の対象とすることができるけれども女はそうではない、と俗に言われるが、選択の幅が広いか狭いかということ以上に男女のセクシュアリティの差異を際立たせるのは、選択の後の態度ではないだろうか。  女は性的関心のない男との間にいっさい性的要素を持ち込みたがらない。性的関心のない男に「いい体してるね」などと言われると寒気を覚える。男の方では褒めことばなのだから悪い気はしないだろうと思うのかも知れないが、その寒気はおそらく、ホモセクシュアルの気の全くない男がホモの男に「いい体してるね」と言われて感じる寒気に近いものである(この場合のホモの男は、柔和で受動的なタイプではなく超男性的なハード・ゲイを想像していただきたい)。  つまり、女は性的関心のない男を性的には徹底的に排斥する。女のこの体質は男に憎まれがちだ。今回の〈セクシュアル・ハラスメント・ブーム〉に一部の男たちがあれほど憤ったのは、アンケート調査の中にかねてから憎々しく思っていた女のこの体質を読み取ったからこそではないか。  女は男に対して、どうしていちいち性的対象として見るのよ、と怒り、男は女に対して、全く性的対象として見ないなんて不可能だ、と怒る。男と女がお互いのセクシュアリティに腹を立て合う悲しくも滑稽な光景はいつの時代にも見られるのだろうが、おかげでセクシュアル・ハラスメントという重大な問題が正しく認識されなくなるのはまずい。もう一度きちんと論じられるべきだろう。  ところで、「触られたくないのなら挑発的な服装をするな」と放言した男たちだが、いくら不愉快だからといってそれほど無茶苦茶な暴論を吐いては、自分で自分の品性を下げるばかりではあるまいか。衷心から心配申し上げる次第である。 [#地付き](「中央公論」'90年4月号) [#改ページ]   女は男をレイプするか  十年ほど前、男の女に対する最大の侮蔑・意趣晴らしは強姦・輪姦である、と信じている男と話す機会に恵まれた。私より十歳くらい年長で元全共闘だというその男は、嘘か本当か知らないが、実際に若い頃気に入らない女がいると仲間で輪姦していたのだそうだ。  露悪家だけれどもナイーヴな人だと思った。レイプは確かに女にとっては不愉快だが、はたして最大の[#「最大の」に傍点]侮蔑たり得るだろうか。レイプする者はレイプによって男の女に対する優越性だか支配力だかを示すつもりなのだろうが、客観的に見ればレイプは男の女に対する弱味を曝け出す行為でもある。目的がどうあれ性欲を起こした、性行為をしたがった、という点で、レイプ者は被レイプ者に逆に侮蔑の根拠を与える。所詮あんたは性的に女に支配されている哀れな〈やりたがり屋〉じゃないの、と。  気に入らない女だからとの理由でなされるレイプなら、この心理的侮蔑返しのおかげで被レイプ者は最大の[#「最大の」に傍点]侮蔑から救われる。品性地に落ちるのはレイプする側である。  件《くだん》の彼は、相手を物として扱う以外に性行為の面白味はないなどとも言う想像力の貧困な人物だったから、きっとレイプされた女の心理的侮蔑返しに気づかず自己満足に浸っていたに違いない。しかしそれにしても、レイプ如きで気に入らない女への意趣が晴れるとはいかにも幼稚な精神だ、と感じて恥しくならないのだろうか。まるで性的快楽というご褒美をもらって拗《す》ねるのをやめる甘ったれ坊やではないか。元全共闘ならさぞかし高邁な思想をお持ちだったのだろうが、ママがキャラメルの差し入れを持って来た時にバリケードから出て一緒におうちに帰った方がよかったのではないか。  以上は正真正銘の侮蔑のつもりである。私をレイプしますか?  誤解を避けるために書き添えると、私は〈レイプなど女にとっては大した痛手ではない〉と主張しているのではなく、〈レイプによって女を侮蔑しようとしても、期待するほどの効果は上がらない〉ことを示したいだけである。レイプ一般は言うまでもなくきわめてまがまがしい犯罪である。その犯罪性についてはいろいろな人がいろいろな所で報告しているので、ここでおさらいはしない。  ところで、女が男をレイプするということはあり得るだろうか。男の方にその気がなければ性行為は不可能なのだから男がレイプされることはあり得ない、レイプに見えても和姦である、というのは、古い考えだろう。たとえ行為によって男性が(おそらく侘《わび》しい)快感をもたらされたとしても、強制的なものならばレイプである。それは、レイプされた女が生理的・反射的に体液を分泌していても和姦の証拠にしてはならないのと同様である。  六七年前、アメリカで少年が女にレイプされる事件が起こり、話題になった。女が強くなった時代を象徴する事件と捉えられ、さらに女性解放が進めば女による男のレイプも珍しくなくなる日が来るのではないか、といった推測もなされた。  だがよくよく考えれば、レイプと見做《みな》されこそしないが、ある種の女が自分よりも弱い年少の男に対して、よく言えば誘惑、悪く言えば強制猥褻行為をしかけるのは、昔からありふれた出来事である。それが法的にレイプと認められたのは、男もレイプの被害を訴えることができるようになったという意味で、つまり女性解放ではなく男性解放を象徴する事件だったのである。  ついでだから、女性解放が進むと女によるレイプ、強制猥褻がこれまでよりもふえるかどうか考えてみたい。目下のところ、文化は女性に消極性・受動性を要請している。女の内の多数派になるのか少数派になるのか現段階ではあきらかでないが、積極的・能動的に生まれついた女は生来の気質の抑圧を強いられているわけである。もしも抑圧の必要がなくなったら、積極的・能動的な女たちは、こぞって気軽にレイプ、強制猥褻を実行するようになるだろうか。  興味深いデータがある。レイプ者の中には、子供の頃に年上の少女等に性的遊戯に誘われ性愛における受動性を刷り込まれたせいで、成長しても女とうまくつき合えずレイプによって性欲を発散しようとする者も少なくない、というのである(『性的攻撃 強姦の精神病理』D・J・ウエスト/C・ロイ/F・L・ニコルス著、金剛出版)。  凶行の原因に悪い女が関与しているからと言って、このデータを〈レイプは女自身が招いている〉などという愚説の証左として悪用してはいけない。男が受動性を刷り込まれてレイプに走るという逆説が成り立つのなら、女が年下の少年に性的攻撃をしかけるのもまた、誰かに刷り込まれた受動性のゆえだとも言えるのではないか。そういう推論が導き出せるデータなのである。  女性解放が進めば、かえって女による性的攻撃は減るだろう。これが正解だ。 [#地付き](「中央公論」'90年5月号) [#1字下げ](文庫版註) 最終行の「女性解放」とは、女性の欲望[#「欲望」に傍点]の開放[#「開放」に傍点]を指すのではもちろんない。 [#改ページ]   女性の〈少年性〉  宮沢りえについては芸能人だという以外は顔も年齢も出演した映画の題名も憶えていなかったのだけれども、女が 褌《ふんどし》姿になったと聞けば面白そうだから見ない手はない。「仰天!」だか「衝撃!」だかのすぐれて女性週刊誌的な決まり文句、いや殺し文句で始まるあの見出しを電車の中吊り広告に見つけて、私もまた、急いで書店に足を向けた口であった。  その写真を載せたカレンダーと写真集は大ベストセラーになったし、今さらここで褒めるのも間が抜けているのだが、たいへんいいものだったと言わざるを得ない。第一に、女性のセミ・ヌード写真としてよい。  もともと私は男女を問わず人間の肉体が大いに好きなのだが、女性の裸体写真は嫌いである。感動させてくれる作品に滅多にお眼にかからないからである。あたりまえと言えばあたりまえだけれども、女性の裸体写真に撮り手の〈男根的欲望〉が少しでも窺えると、女である私は同調できず白けてしまう。劣情を刺戟する意図のない作品でも、女を(俺の力で)きれいに撮ってやろう、可愛く撮ってやろう(変形してやろう)、というような助平心が透けて見えるといけない。〈男根的欲望〉のアトモスフィア漂う作品の中の女は、同性の眼には不自然に女々しく映る。これは男の女性観と女の女性観の違い以前の撮影作法の問題である。  宮沢りえの褌写真は作法に適った撮りかたがされていると思う。実は現物を眼にする前は、男性用衣料を身につけることで逆に女の匂いを増幅させるのを狙った平凡な写真か、ひどい場合はキャバレーや品の悪いビヤガーデンのアトラクションにある女相撲風のエロギャグ写真を予想しないでもなかった。杞憂であった。奇抜な試みをしてやろう、といった野心さえ感じられない粋な作品であって、褌を締めた宮沢りえは女々しくないどころかただただカッコいい。  第二に、やはり、女に褌スタイルが似合う可能性を考えたセンスが凄い。スコット・フィッツジェラルドの妻のゼルダはBVDのトランクスを愛用していたそうだし、わが国でも六七年前から女性用のトランクスが売り出されているが、かつていったい誰が女が褌を締める姿を思い描いただろうか。想像に過ぎないけれども、もしかすると今回の写真の発案者はホモセクシュアル的な感覚を備えた人かも知れない。と言うのは、今時褌スタイルを愛好するのはホモセクシュアルの人々くらいなものだから、また宮沢りえの端整な顔立ちはくどい女臭さがなく美少年風でもあるからである。  そして第三に、女々しさを斥け男性用衣料を持ち出しながら決してユニセクシュアルの美学に溺れていないところが、件の写真の最も好ましい点である。褌は宮沢りえの女らしさを誇張してもいなければ殺してもいない。この十七歳の少女は年齢なりのたおやかさと優美さとあでやかさを身にまとい、あくまで自然に女らしい。〈男根的欲望〉によってあざとい女々しさをまとわされた女性像を見馴れた私たちは、宮沢りえの褌スタイルを前にして、ありのままの女らしさがどんなものであったか思い出すことになる。  それこそが件の写真が感動的な理由だ。写真のジャンルに限らず、ありのままの女らしさが表現として定着しているのを見る機会は非常に少ない。女による表現であっても事情は大して変わらない。世に充満する〈男根的欲望〉に自らを合わせる癖が女にもあるためである。  ところが、時代の流れは古来〈男根的欲望〉がつくって来た偏った女性観を正す方向に向かっている。女が男に男性の期待するような女性像を装わないありのままの女を認めてほしいと望みつつ、ありのままの自分が男に愛されるかどうか不安を抱いていて、男は男で女がありのままの姿を顕わした時に愛せるかどうか不安を抱いているのが、昨今の情勢である。宮沢りえの褌写真にもしも芸能ニュース、あるいはフォトグラフィという芸術ジャンルのトピックの範囲を越えて社会的な注目を集める価値があるとすれば、お仕着せの女らしさを取り払ってなお女が女らしくカッコよく愛される存在であり得る、との事実を男にも女にも示した点に尽きる。  もちろんかつてもさまざまな試みがあった。たとえば、以前某女優が妊娠中のヌード写真を発表して話題になった。確かに、妊婦に対しては男は普通の欲望は向けないものだし、女々しさをまとうまでもなく妊婦は女らしさを象徴している。しかし、妊婦はナチュラルに女々しい。男性性を誇示するマッチョがありのままの男らしさを表現しているわけでは全くないのと同様、妊娠した体を曝すのは言わば逆マッチョ、女性性誇示であって、ありのままの女らしさを示すこととは微妙に違うのではないだろうか。  では、褌スタイルの宮沢りえが思い出させてくれたありのままの女らしさとは何か。逆説めくが、〈少年性〉である。まろやかな体つきや肌の質感はあきらかに少年のそれとは異なっているけれども、女々しさを取り払ってみれば女にはどこかしら飾りを施された少年の風情が匂う。写真を眺めるうちに私の頭に浮かんだのは、「『美少女』とは美少年に範を採った仮象なのだ」という稲垣足穂のことばだった。  本当は、A感覚の深遠性を軸に少年愛の美学を唱えたかの異才のことばを「女は美少年の亜種である」と記憶していたのだが、手元の本をめくってこの一文を見つけることができなかった。次のような類似のことばは見つかった——「女性中の美は『美少年的なもの』だと私は思っている。美人乃至美女は、そのどこかでは少年的なのである」、「美女というのは少年の変型です。みな少年の要素をもっている」。  美しい女は美しい少年の亜種であり、美しくない女は美しくない少年の亜種である、要するに女は皆少年性を備えている、と解釈した上で、私は足穂翁に共感する。「女性とは『万人向きの少年』」と記す際、彼はP感覚=〈男根的欲望〉に眼を曇らされて究極の美にほかならない少年美に気づかない男たちを批判しているのだが、これは女が男に向ける批判としても有効である。〈男根的欲望〉をいったん取りのければありのままの女らしさが見えてくるだろうし、それが〈少年性〉だと理解できれば無闇に女に〈男根的欲望〉を押しつける気にはならないだろう。  誤解を避ける目的で註釈すると、私は男と女の性的結合を否定しようとしているのではない。足穂に倣《なら》ってA感覚=〈肛門的欲望〉を引いてもよいが、〈男根的欲望〉が男性の欲望のすべてではないのだから、〈男根的欲望〉にばかり集中しないで均衡を保った方が愉しいのではないか、と考えているのである。  ホモじゃあるまいし女の〈少年性〉になど愛着が持てない、との意見があるならば、ではホモになってください、と言いたい。文字通りのホモには限らない。女に褌を締めさせることを思いついた人のようにホモセクシュアル的感性を育ててほしいのだ。  ミシェル・フーコーは男と男が友愛によって結ばれることを善として、「われわれは懸命にゲイになろうと努めるべきだ」と提唱した。男がホモになれば男同士の間柄がよくなるだけではない、女に対しても〈友愛〉を抱くようになるはずである。性的欲望は友愛の後でよい。  かくして、宮沢りえの褌写真からは〈男はホモになるべきだ〉というメッセージが導き出される。まことに素晴らしい写真ではないか。 [#地付き](「エキセントリック」'90年3月号) [#改ページ]   淡白な若者たち  最近の若者は性的に淡白である、という風説が立ち始めたのは三四年前だったろうか。 「あなたは月に何回セックスをしますか?」などといったアンケートが大々的に行なわれたわけでもなくまさに風説に過ぎないのだが、どうやらそのようだと頷《うなず》くに充分な状況証拠は私の知見の範囲にもちらほらと見受けられる。つい先日も、六〇年代に全盛を誇った現在は初老の作家が週刊誌の座談会で、「僕等は女と泊まったら必ずセックスをしたが、今の若者は女と泊まってもセックスしないらしい」と不可解そうに発言しているのが眼に入った。  若者向け雑誌、特に男の子向けの雑誌の恋愛関連記事も状況証拠の一つに挙げられる。七八年前は、「女の子を怖がらせたり怒らせたりしないで自然にベッドに誘う方法」等の下半身集約型の記事が主流だったけれども、今や「女の子の気持ちが知りたい」である。男の子にとっての女の子が〈何よりもまず性欲の対象〉から〈快適な生活に欠かせぬパートナー〉に変化していて、性の比重は確実に減っているのがわかる。  なぜこんな変化が起こったのか。女の子が強くなったからとか男と女の性的差異が少なくなったからと言うともっともらしく聞こえるが、女の子が可愛らしさや母性といった昔ながらの〈女らしさ〉のイメージを決して放棄していないことは女の子向けの雑誌が示す通りであるし、必ずしも当たっているとは思えない。それよりも、戦前と違って男女共学で育っているところに男女平等の空気が浸透したおかげで、男の子と女の子が〈何よりもまず友達〉になってしまったから、と考える方が妥当ではないだろうか。  どういうものか、友達になってしまうと性欲は起こりにくい。男と女が友達になるとはおのおのの牡性・牝性をとりあえず保留して親しみ合うということだが、保留の癖がつくと性欲を抱くのを忘れるのかも知れない。基本的に友達なので動物同士になりきれないのかも知れないし、性欲の内にひそむ攻撃性や快楽志向性を相手に向けるのがためらわれるのかも知れない。もちろん器質的な欠陥はないから性行為が不可能なわけではないけれども、淡白にはなるに違いない。  今時のカップルがクリスマスにはシティ・ホテルの部屋を取り、誕生日には東京湾をクルーズし、とやたらイヴェント風デートを重ね遊びまわっているのも、あまり性行為をしないために退屈凌ぎを、あるいは別種の盛り上がりを求めてのことと解釈できないでもない。  しかし、淡白と言われるのはあくまで、男と女が友達になれず性を介する他に親しみ合う術を持たない先行世代と比較しての話である。近頃の若者が女と泊まっても必ずしも性行為に及ばないことについて、先行世代の男性は「男として情けない」と嘆いている気配があるが、大して好きでもない女や大して乗り気になってくれない女と強いて事を起こさないのは、ある意味では健全なことだ。むしろ女と泊まると性行為に及ばねば気がすまない方が異常である、と見られなくもない。  考えてみれば、そもそも混ざり合って存在している男と女を教育の場で別々に育てるのと一緒に育てるのとでは、前者が不自然で後者が自然なのに決まっている。一方の性しかいない環境は偏った異常な環境である。異常な環境と正常な環境とでは、どちらが異常な人間をつくりやすいだろうか。異性と友達になれず無闇に性行為に走るのは、異常な環境に育ったのが祟っているのであって、正常な環境に育った当代の若者の淡白と言われる性的活動こそ、人間本来の性的活動のありようなのかも知れないのである。  性欲は自然の欲求であるとされがちだが、人間においては自然とばかりも言いきれない。イマジネーション、観念、感情等と結びつくことで、いとも簡単に性欲は本能を超えて昂進する。異性と友達になれない世代の性欲は、第一に異性への幻想と結びついている。また、異性を知るとは異性の体を知ることだ、との観念と結びついている。友愛がないせいで、ひどい場合は征服感だの優越感だの復讐心だの上等とは言いがたい感情を性行為によって満足させようとする。先行世代の強い性欲の内実は、案外こんな風なものに過ぎないのではないか、というのはあまりにも失礼な想像だろうか。  ただ、上等なものであれ卑しいものであれイマジネーション、観念、感情等が深く関与した性行為は快楽が大きいのは事実である。それらの関与しない性行為の快楽がさほどでないために、当代の若者は性行為に熱心でないとも考えられる。  ここで最大の疑問が出て来る。環境要因はどうあれ、恋愛をして性的に燃え上がらないのは奇妙なのではないか、と。  確かに、恋に落ちると通常の生理的欲求を遥かに上回るやみがたい欲望が生じる。性欲とイマジネーション、観念、感情は恋愛において最も激しく結びつく。それは、相手の体も心も、と言うより、存在がまるごとほしいというような欲望として顕われる。ひたすらほしくてほしくて、ついにはいったい何がほしいのかわからなくなるところまで欲望はエスカレートする。  そんな不条理きわまりない欲望を、性行為を通して放出する際の快楽もまた強烈である。快楽のみならず感動がある。これだけでも性行為に夢中になるが、残念ながら相手の存在がまるごとほしいというような欲望を性行為によって満たすのは土台無理なので、快楽と感動を覚えはしても漠然とした欲求不満と違和感が残る。だから、欲求不満と違和感を解消しようとさらに誠意と情熱を込めて性行為に打ち込むことになる。  書いているだけでも疲れるが、このくらいには昂まらなければいやしくも恋愛とは呼べないのではあるまいか。そこまで行かないものは、どんなに好意を寄せ合っていても〈準恋愛〉でしかない。従って、恋愛が流行しているかの如く見える昨今ではあるが、性的に淡白な若者たちは別に恋愛などしておらず、穏やかに〈準恋愛〉を愉しんでいるばかりなのである。  性的に淡白だから恋愛をしないのか、それとも恋愛をしないから性的に淡白なのか、あるいは男と女は友達になってしまったから恋愛が発生しにくくなったのか、といった議論は意味がないだろう。当代の若者に限らず、もともと人は滅多に恋愛などしないものである。万葉集の昔から誰もが恋愛のイメージは抱いているけれども、生涯に一度恋愛ができれば幸運であって、たいていの人は〈準恋愛〉の相手を伴侶とし本格的な恋愛は経験しないまま一生を過ごす。  なぜなら、恋愛は一種の変態性愛だからである。生殖を目的としないし、パラノイアックであるし、観念フェティシズムの気味もある。醒めれば治るとは言えバイオリズムも狂う。常識もなくす。恋をしたいと望んでも誰でもできるわけではないのも、変態の素質がなければ変態性愛に溺れることはできないためである。一方の〈準恋愛〉は、日常生活に支障なく溶け込む健全な営みだ。世の中の大多数の人は健全なので、恋愛はせず〈準恋愛〉をする。  それにしても、ここ数年世を上げての恋愛ブームであるが、皆やはり平板な生活と淡淡とした〈準恋愛〉に倦んでいるのだろうか。こうした恋愛への強い欲望を何と名づけるべきなのか、私にはわからない。 [#地付き](「エキセントリック」'90年5月号) 松浦理英子(まつうら・りえこ) 一九五八年、愛媛県に生まれる。青山学院大学文学部仏文科卒業。在学中の一九七三年「葬儀の日」が第四七回文學会新人賞を受賞。一九九四年『親指Pの修業時代』で第三三回女流文学賞受賞。小説に『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマン』『裏ヴァージョン』、エッセイに『ポケット・フィッシュ』『おぼれる人生相談』等がある。 本作品は一九九四年九月、筑摩書房より刊行され、一九九七年一二月、ちくま文庫に収録された。