松本清張 迷走地図(上)  院内紙記者  観光バスが来た。 「みなさま。ここは千代田区永田町一丁目でございます。あそこに見える白亜の大殿堂は、ご存知の国会議事堂でございます。昭和十一年に新しく建築され、建坪は約一万二千五百平方メートル、延面積は約五万二千五百平方メートル、高さ約二十一メートル、中央塔の高さは約六十五メートルでございます。正面向って左が衆議院、右が参議院でございます。只今、国会は開会中でございます」  マイクの声につれてガイド嬢の白い手套《てぶくろ》の先が動く。バスは国会前庭南地区の横にとまっていた。 「衆議院の横手に見えますのが国会内局、衆議院議員面会所、道路をはさんだ左側が衆議院事務局、その南隣が国会記者会館。木立の繁りで見えませんが、そのずっと左手に総理府がございます。真向いが首相官邸でございます。それから、大きな議事堂のかげにかくれておりますが、そのうしろには、衆議院第一議員会館、同第二議員会館、参議院議員会館の三つがならび、各議員の事務所が入っております」  ガイド嬢はマイクを持ちかえた。 「みなさま。この台地付近は標高三十メートル、四方とも坂になっております。北は三宅坂と梨の木坂、それから東西に流れて赤坂見附に出るのが富士見坂でございます。台地の南側には三辺坂、山王坂、グミ坂などがございます。東には汐見坂《しおみざか》がございます。霞《かすみ》が関《せき》坂と三年坂とがそれとならんでおります」  観光バスはすこし移動して国会前庭南地区の端にきた。車の交通量が多いので、傍《そば》に寄って小さくなっていた。 「みなさま、汐見坂がこの坂でございます。昔はこの近くまでが海岸線でしたので、台地上から漁師が汐の流れや満ち引きを観測したというので、この汐見坂と申しました」  白い手套の指先は、汐見坂の下に展開するビル街の上を横に撫《な》でた。 「現在の霞が関は官庁街になっております。ごらんください、すぐ下が外務省と科学技術庁、その左が運輸省、建設省、自治省。道路を隔てた前が農林水産省と厚生省です。左手、皇居とむかい合う屋上タワーの見えるのが警視庁でございます。坂下の右側は、手前から中央合同庁舎、大蔵省、会計検査院、文部省、通産省とならびます」  マイクをまた持ちかえる。 「このようにして台地上が永田町の立法府の中心、台地下が霞が関の行政府の中軸となっているのがよくおわかりになると思います。この結び合せによって、ここが日本の政治の中枢神経になっていることが知られます。みなさま。こうなると汐見坂ではなく、『政治見坂』と改名したくなりますね。……ご退屈さまでした。それでは次に参ります」  観光バスは、春の軽い埃《ほこり》を並木のイチョウの根に舞わせて走り去った。  衆議院第一議員会館、同第二議員会館、参議院議員会館とも七階建てで、コーヒー色をした煉瓦《れんが》外装である。北欧の建物のように白枠の窓がならぶ。一階は吹き抜けの玄関、中に入るとロビーで、ここに議員面会人の受付があり、待合室もある。  だれかがその面会受付に記入した面会票を出したとしよう。銀行のカウンターさながらに居ならぶ受付の女性が、当該議員事務所に電話し、諾否の返事をとる。  面会人は受付で捺印《なついん》された面会票を、低い階段上のせまい出入口に立っている制服制帽もいかめしい守衛に見せる。衛視《えいし》という。上代宮廷の衛士《えじ》は衛門府と左右衛士府とに属したが、現代の衛視は議院事務局警務課に所属する。——  いま、衆議院議員会館で面会票をちらりと衛視に示して、エレベーターのある中央ホールにきた身体《からだ》の小さな中年男があった。  日にやけた扁平《へんぺい》な顔は、まん中を金槌《かなづち》で叩きこんだような感じであった。くぼんだ眼は細く、鼻翼はひろがり、口のまわりは年寄りのようにすぼんでいた。うすい髪は、枯れかけた草のように疎《まば》らにもつれ、あごの下には胡桃《くるみ》を入れたみたいに咽喉仏《のどぼとけ》が出ていた。  ワイシャツの襟が反《そ》っているのは、いつもうつむいてものを書くからで、着古したレインコートの下にある洋服には、メモ帳を突こんでいた。  ホールに入って右には、もう一つ受付があって、女性二人がならんでいた。背の低い中年男は、しじゅうこの議員会館に出入りしているとみえて、顔馴染《かおなじみ》の受付嬢に挨拶代りの笑顔をむけたが、彼女らはその半分の微笑も返さなかった。  折から、濃いえんじ色の環《わ》の中に金色の菊花が小さく光る議員バッジを胸にした青年と、秘書バッジをつけた年配の男と、赤いワンピースの女性秘書とが、横のエレベーターから出てきた。女性秘書は受付に寄って鍵《かぎ》を渡し、なにかを頼んだ。  この受付はホテルのフロント式に会館内の各議員事務所の鍵を出納《すいとう》するキー・ボックスがあり、放送コーナーでもあった。  その議員の運転手を呼ぶアナウンスの女の声が、黒塗りの車の集る駐車場にゆき渡った。玄関先にゆっくりと寄せられた車に乗るため、若い議員はきびきびとした動作で出てゆく。その後姿へ、小さな中年男はせせら笑いを送った。  するとその眼に、衛視の挙手をうけて、ゆっくりとした足どりで、入ってくる初老の議員が映った。 「あ、宮下先生」  男は声をかけた。 「やあ、きみか」  宮下先生と呼ばれた五十八、九の小肥りの議員は、近づく痩《や》せた男を見返った。 「先生、いいところでお眼にかかりました。ちょっと、お耳に入れたいことがあるのですが」  男は、人のいない隅のほうへ議員を誘いかけた。背が低いので、靴先を立てるようにしていた。 「ちょっと、事務所に急用の客が来ているんでね。あとにしてくれるか」  議員は面倒臭そうな顔をした。 「あとで? じゃ、のちほど先生のお部屋にうかがいます」 「うむ。いいよ」  半分は突放したような答えであった。ホールの右側にはエレベーターが四つならんでいるが、受付に近い議員専用のエレベーターに宮下議員は入った。  あと三つのエレベーターは一般用で、いましも男女十人くらいの上京組がその前に集っていた。地方からきた中年の人たちで、男は風呂敷包み、女は竹かごをさげていた。議員への手土産らしいが、上を笹の葉で蔽《おお》った竹かごの中味は、鮮魚のようだった。  エレベーターのむかい側が廊下になっていて、地下一階の議員食堂、地下二階の一般食堂、議事堂へ連絡する地下通路、地下三階の駐車場と地下四階の運転手の休憩室のほうへ行く。ホールの正面はまた受付のようなカウンターがあって、左の奥は議員事務所が七室ならぶ。右へ曲ったところにエレベーターがさらに二つ、はなれたところには荷物運搬のエレベーターもある。それらは奥まっていて、ここからは見えなかった。  眼の前のエレベーターが開き、五、六人の人が出てきたが、その中に記者バッジをつけた男がいた。こっちの男と眼を合わせたが、どちらもそ知らぬ顔ですれ違った。  待っていた上京組がエレベーターに入った。それが地階へ降りるとはわからず、間違えて乗ったのだ。五分の後、一階ホールに上ってきたエレベーターのドアが開くと、再び土産物をさげた男女の顔が現れた。 「どちらからおいでになりましたか」  いっしょになった小さな中年男は、なかでいちばん年とった男にきいた。 「××県の××だす」  関西だった。 「ああそうですか。じゃ、平井先生にご面会?」 「へえ」  選挙区の議員名を即座に云い当てた男の顔を、一行の男女はぽかんとして眺めた。  背の小さな男の名は、西田八郎という。議院内で発行している新聞、いわゆる院内紙の記者であった。ただし、彼は記者バッジを持たず、もっぱら面会票で議員会館に出入りしていた。  西田八郎は、記者バッジを持たないばかりに、かくべつ用のない四階の議員事務所へむかわねばならなかった。面会申込票に記した議員名であった。  議員会館の内部設計はいずれも同一プランで、各階とも議員事務所が両側に二十室ずつならび突き当りに二室。エレベーターの昇降口、湯沸し場、手洗所、物置などを入れた区画が端から端まで中央を縦断していて、これが各議員事務所ならびに廊下を左右にふり分けていた。  いまの西田の眼前には、長い廊下と、それに沿う各室とが、あたかも遠近図法の見本のように先細りとなって遠くの一点へ集中していた。  西田はこの光景を見るたびに、アパート長屋を連想するよりも、若いときに図書館で読んだ村上|浪六《なみろく》の「八軒長屋」を想い出すのだった。  浪六といっても、いまの読者にはわかるまい。明治後半の通俗小説家であった。 「八軒長屋」は、路地裏の棟割り長屋が舞台となっている。せまい路地をはさんで左右に一棟四軒がならぶ。まん中に長屋の共同井戸があって、つるべのきしる音が始終聞えている。この見取図が本文の中に挿入されてあった。  それぞれの店子《たなこ》(借家人)の生活を浪六は描いている。現在でいえばオムニバス小説にあたろう。店子が引越して出たり夜逃げしたりすると、挿図でもその家に「貸家」札が斜めに貼《は》られる。家がふさがれば、また新しい店子の生活が描かれる。こんどは向い側の家に「貸家札」があらわれる。  西田が議員会館の中を見るたびに「八軒長屋」の図解を連想するのは、総選挙で落選した議員が会館を立ち退くとき、その移転が暮夜ひそかに行われるからだ。  落選は議員にとって名誉とはいえないから、人目の多い白昼に堂々と事務所を明け渡して退去する勇者はいない。総選挙のたびに議員の三分の一くらいは落ちるが、その事務所は次の借手が移ってくるまで空いている。西田の眼は、そこに八軒長屋の「貸家」札を浮べるのだった。  彼は、議員会館に「議員長屋」の別称をひそかにつけていた。各階の中央に共同湯沸し場があるのは長屋の井戸と同じだし、女性秘書たちが湯沸し場に集って情報交換のおしゃべりをしているところなどは、長屋の井戸端会議と変りなく思えた。もっともこの比喩《ひゆ》は、構造的にはそう云えても、内容的にはかならずしも適切でなかったが——。  各階には、訪問者のため見取図が出ている。党を異にする議員事務所が隣り合っているのは、落選者によってもとの配置が崩れたからで、当選回数の多い議員だけで隣り近所をかためるというわけにはいかなくなっている……。  西田が歩いているとき、アナウンスが騒々しくはじまった。  女性の放送の声は、全館内にひびきわたった。 「浅野先生のお車」 「古光議員の運転手さん」 「江尻先生のお車」 「門田先生のお車」 「近藤先生の運転手さん」  アナウンスはやつぎばやに議員の名を呼び立てた。一階のキー・ボックスのある受付からの放送で、会館の前や地下駐車場に待機している運転手に告げる。さながらホテルの宴会場からの帰り客風景を思わせた。  正午が近い。勉強会と称す派閥の昼飯《ひるめし》会に、会館に残っている議員が召集され、あわただしく出かけて行くらしかった。  西田が廊下に立ちどまって耳をすましたのは、アナウンスに宮下正則議員の名があるかどうかだった。さきほどエレベーターの前で同議員に遇《あ》ったとき、あとから事務所へ来いよと云ってくれた。放送は十数名の名をあげて終ったが、とうとう宮下先生の運転手さんは出ずじまいだった。  西田の足はふたたび動き、中尾秀太議員の事務所へむかった。  中尾は西田が面会票によく利用する名前で、用事がなくても一応その事務所に顔を出さねばならなかった。西田の郷里と中尾議員の選挙区とが同じというだけの因縁だが、中尾も同県同郷人ということから、この院内紙記者の頼みをむげに断りもできなかったのである。  西田は大きな無心をふっかけるわけではなく、いわば会館の中を徘徊《はいかい》するために面会票の名義貸しだったから、中尾の秘書もこれを承服していた。  それと、これは議員のアキレス腱《けん》といわれるのだが、もしもそれを拒絶して院内紙記者の反撥《はんぱつ》を買えば、かれらがどのような悪質デマをまきちらすかわからないおそれがあった。  同一選挙区でも、野党議員にその種の宣伝が流されてもたいしたことはないが、同じ党で、派閥の異なる対立議員派にその悪質な噂《うわさ》が流されると、かなりな打撃になる。選挙時には、とくにそれが影響する。そうなると、敵は反対党ではなく、まさに自分の党であった。——  議員事務所の出入口ドアは閉まっているのもあるし、細目に開いているのもあった。それが半開きになっている部屋に、さきほどエレベーターの中で見かけた鮮魚持参の一組が見えた。内側では、平井議員の、やあやあ、という大きな声と、訪問した支持者たちの高い関西弁とが交わされていた。議員はこれから陳情を聞き、また秘書は院内の見物の案内をつとめなければならないだろう。  西田はその部屋の前を通りすぎ、中尾秀太議員事務所の入口ドアをノックもせずに開けた。  事務所に入ったところがすぐ秘書室で、正面に中仕切りのドアがあり、その奥は、明るい窓をもつ議員の執務室であった。ぜんたいが二十平方メートルという規格で、秘書室はその半分よりも小さかった。そこに、第一秘書、第二秘書、女性秘書の三つの机とイスが配置され、本棚、書類戸棚、それに来客用の小卓と椅子まであるのだからいよいよ狭かった。机の上には帳簿やファイルや切抜きのスクラップブックなどがならび、書類、伝票、雑誌、新聞まで積まれ、それに電話機二つで、ほとんどスペースがなかった。  それでも狭い場所はそれなりに合理的にかたづけられてあった。  ノックもしないで開いたドアに秘書二人がふりむいた。一人は若い第二秘書で、一人は二十五、六くらいの女性事務員、いわゆる女秘書だった。  両人はふりむいたものの、訪問者が院内紙記者の西田八郎だと知ると、その顔をすぐに机の上にもどして、第二秘書は新聞を読み、女秘書は名簿から名前を抜きリストつくりのつづきに入った。  西田が、今日は、というと、第二秘書は顎《あご》をわずかに動かしただけであった。 「先生は?」  西田は女性秘書にきいた。 「外出です。今日はお戻りになりません」  愛想のない声で彼女は答えた。 「そう。じゃ、よろしくね」  西田の声に彼女は黙ってうなずいた。第二秘書は新聞に眼をさらしたままだった。 「いつも、どうも」  部屋を出る前に二人のどちらへともなく西田が云ったのは、面会票で世話になっている礼のつもりだった。 「はい」  女秘書は冷たくこたえ、第二秘書は新聞の上に顎を乗せたかっこうのままでいた。  面会票はいわば議員の好意だが、その旨をうけて階下の受付からの電話に諾の返事を与えるのは秘書だから、この連中に世話になっているのはたしかだった。  それを思うと、西田も追従《ついしよう》笑いが口のまわりに出て、 「吉田さん。この次にはチョコレートの一函《ひとはこ》でも持ってくるかな」  と女秘書にいった。 「ありがと」  彼女はにこりともしないで、唇の端をゆがめた。第二秘書は退屈そうにちょっとだけ眼をあげた。  廊下に出た西田は、なにもあんなに秘書たちへ卑屈にならなくても、といういつもの反省が身を噛《か》んだ。たぶんいまごろあの秘書二人は自分をあざ笑っているにちがいなかった。しょぼくれた情報屋さんね、と。  この次にチョコレートの函を持ってくるなどとあの女秘書に云ったのは余計なことだった、と西田は廊下を階段にむかって歩きながら反省していた。自分で云っておきながら、その言葉にいつまでもこだわるのが、われながらどうにもならない性質であった。  これまでも菓子を持参するとあちこちの女秘書に口約束してきたが、あまり実行したことはなかった。それで先方もアテにしなくなっている。中尾議員の気の強そうな女秘書が唇を曲げたのも、空疎なお追従とわかっているからだった。  安いプレゼントが履行できないのも、西田にいろいろとフトコロ都合があるからだった。当座はその気でも、ついつい頬かぶりが便利になってしまう。  それに、秘書には定収入があり、なかには相当な余禄かせぎをしている者がいるのを院内紙記者西田は知っていた。自分より向うがずっと金持ちなのだ。  第一・第二秘書は、いうまでもなく国家公務員だが、私設秘書や、女性秘書の名でよばれる女事務員などは、議員とコネのある企業の出向社員という形になっている。彼らのサラリーはその会社から出されている。専用運転手もまた出向社員である。  つまり議員は私設秘書をなん人抱えようと、女事務員や運転手を傭《やと》おうと、人件費に自分の財布が痛まないことになっている。一部の例外はあるが、大臣経験者の大物議員にしてすらかれらの給料は選挙区の企業に出させているから、およその事情はわかろうというものであった。領収証の要らない政治献金を受けたり、その配分にあずかっていながら、議員連中は渋い、と西田はいつも思う。  出向社員だから、かれらの基本給料は本社なみであって、ベースアップがあればそれにスライドされているはずであった。ただ、ボーナスは少かろう、時間外手当ても出ないだろうが、議員がそのぶんをいくらかカバーするにしても、西田の推定では、月に三万円程度らしかった。  それにしても、定収入があるのは、すこぶる不安定な収入の西田にとってうらやましいのだった。だからチョコレートのプレゼントも口約束だけになってしまう。  院内紙記者といっても、さまざまで、じっさいに新聞を定期的に発行しているところと、そうではなく、ときたまに普通の新聞の一ページ大を二つ折りにして両面に印刷したビラていどのものを出しているところとがある。もっと下は、その新聞すら出してなく、議員の間をとび歩いて特殊情報を伝えてまわる。  西田八郎はこの最後のクラスに属していた。  西田といえどもはじめからそうなったのではなかった。  西田八郎は、もと地方新聞社の東京支社にいて、政治部を担当していた。地方新聞でも小さな社は通信社から記事の配給を受けて政治・経済面をつくっているが、彼の居た地方紙は大きく、近隣県に販売網をもち、いわゆるブロック紙と同じだった。  十年前に、支社の政治部長格の男が支社長と衝突して退め、当時はまださかんだった院内紙を発刊した。その先輩に可愛がられていた西田は、彼のすすめでいっしょに退社し、その院内紙のスタッフに加わった。ほかによそからきた二人がいた。  順調にいっていたが、二年ほどしてその「社主」が病死した。三人でしばらくあとをやっているうちに内輪|揉《も》めが起り、二人がやめた。折から院内紙も景気が過ぎて、下降線をたどるようになっていた。乱立状態もようやく淘汰《とうた》期に入りつつあったのだ。前途に見切りをつけた二人が退め、西田だけが残った。  印刷するだけの力がなく、「国会ポスト」の紙名は、西田の名刺に刷りこまれているだけになった。前の社主のやり口を見習い、議員などからの「集金」が身についた彼は、永田町|界隈《かいわい》にずるずるといまだに居残っている。 「顧客」はほとんど保守党議員だが、最近は集金高も少くなる一方であった。院内紙が減少するのも、その不景気からである。  原因はいろいろとあるが、その一つに、旧い体質の議員が減り、若手議員がふえたことがあげられる。死亡、引退などによってその議員の息子、女婿といった二世、そういう血縁とは関係のない新人議員は、当選三回を含めて現在百人ほど居る。それくらい新旧交替が顕著になった。  従来、実際には新聞を発行しない院内紙記者にまで金を渡していたのは旧い議員で、新人議員はその種のつきあいに冷淡であった。ドライな性格の新人は、そんなシキタリには関係ないと云っている。  さっき、会館をさっそうと出て行く川村正明二世議員の姿を西田は嘲笑《ちようしよう》で見送ったが、あの二世などはそのドライの見本のようなものだった。  いつぞやも「親父のつき合いは親父かぎりだ。息子のおれとは無関係」と云った川村に院内紙記者の一人が癇癪《かんしやく》を起して、 (おい、若僧。おれたちをあんまりナメるなよ)  と、啖呵《たんか》をきった。これは同じ立場の院内紙記者の感情を代表していた。  だが、そういうことでは一致しているが、記者どうしは足の引張り合いをやっている。それというのも、いってみれば金ヅルの争奪からであった。  院内紙が不景気になった原因は、ほかにもある。——  院内紙は、野心ある議員には「武器」として利用できた。これらはいわゆる党人派に多い。  だが、議員に官僚出身が多くなったのと、各派閥の中に抱えこまれている現状では、議員もしだいにサラリーマン化してきた。かれらが院内紙とのつきあいに関心をなくする理由の一つである。  それと、政治資金規制法制定いらい、まとまった献金は主として党や派閥単位に行われ、議員個人に渡ることが少くなった。一般の議員は、その属する派閥のボスから金を分与してもらう。つまり議員の収入が減少した。あとは議員じたいの才覚だが、とにかく院内紙記者に金を出す余裕が少くなったのだ。  第三種郵便物の規制も影響している。これまでは第三種の安い郵便料金で議員の選挙区にむけて発送できたものが、第三種の認定がとれなくなって高くつくようになった。これは院内紙を、PRの一つとして選挙区に配布する議員にとっても痛手であり、そのため議員が大量に買い上げてくれなくなって、院内紙には二重の打撃である。  そこで、院内紙を出さない院内紙記者つまり「廊下トンビ」式の「情報屋」がふえるようになった。西田八郎にとっても商売の競争相手が多くなったわけである。——  西田は三階に降りた。  宮下正則議員事務所は向うの端にある。そこへ西田は靴音も小さく歩いて行った。無意識に靴音を忍ばせるようになったのは職業から来た習性だった。  運んでいるその足がふいととまった。ドアの前の廊下に、古新聞や雑誌などの束がビニール紐《ひも》にくくられて出ているからだった。  議員事務所は狭隘《きようあい》である。不用な新聞雑誌をいつまでも置けなかった。それでなくとも、書類だとか資料だとかがふえてスペースがなくなっている。  西田は背をかがめて、屑屋《くずや》に出すばかりになったその古新聞雑誌の束に見入った。紐が十文字がけにしてあるので、手にとることができなかった。  一般新聞のほかに、むろん院内紙があった。西田もこれはとっくに読んでいるが、その院内紙は目下有力派閥に属する或る幹部議員を批判していた。それはひどく攻撃的だった。  批判は攻撃的に見えたが、第三者が読んでもよくわからないところが多かった。具体的で、決定的なところがわざと避けられてあるからだ。西田にはそのへんの事情がよくわかった。たぶんその批判記事はなくなってしまうにちがいない。いまに裏で手打ちが行われるだろう。  その古新聞の上に「文芸誌・朱眼」といううすい同人雑誌が乗っていた。大文字は二字だから、ビニール紐にもかくれずに読めた。西田はいまも文学志望を捨てていなかった。  なにやらキナ臭い院内紙の間に、文芸同人雑誌がはさまれているのは、泥池に清楚《せいそ》な花一輪を見たような思いが西田にはした。  西田自身も、文学仲間と「季節風」という詩の同人雑誌をつくっている。これはいまのところ金がないのでタイプ活字の謄写版だ。「朱眼」は地方の同人雑誌だが、中はどうやら活版印刷らしかった。  西田は「朱眼」の表紙をめくってみたかったが、十文字にしばられたビニール紐のためにどうすることもできなかった。彼はそこにしゃがみこんで、指で雑誌の端をめくってみたが、それは最下段の活字の一部が見えたていどだった。  いったいだれがこういうものを読んでいるのか、とドアを見上げると、名札に「戸崎俊三」と出ていた。戸崎は保守党の長老議員で、当選九回、大臣経験者である。  七十をすぎた老人がこんな文芸同人誌を読むわけはないから、たぶん秘書であろうと思われた。秘書でも年配の第一秘書や第二秘書ではなく、女性秘書であろう。  あいにくと西田は戸崎議員にはこれまで「付き合い」がなかった。だから気軽にドアを開けて首を突込み、そこに居る女性秘書に、 (不要になった「朱眼」をもらって行きますよ)  と声をかけることができなかった。  それを云うだけならやさしいけれど、五十歳にもなり、鬢《びん》に白いものが出ている男が、同人誌をくれなどとおめおめと云うのが気はずかしいのだ。  いくら文学はおれの心のささえだ、こんな情報屋のような仕事をしていても、自分には文学があるから、最後のところで崩れないのだ、と日ごろから自分に云い聞かせていても、見知らぬ他人にそれを云う勇気はなかった。  それでも西田は「朱眼」が読みたかった。 (どうせ屑屋に出すためにここに置いてあるのだ。黙って紐を解いて「朱眼」をもらって行こう。そのあと紐をもとどおりにくくっておけばよい)  西田は紐に手をかけかけた。廊下の前後に人影はなかった。  が、結んだ紐の端に手をふれたものの、ふいにドアが開いて、議員か秘書かが出て来そうな気がした。いくら不要になった雑誌でも、ドアのすぐ前に置かれてあるので、所有権はまだ部屋の主にある。泥棒とは云われないだろうが、無断の行為を咎《とが》められそうだった。  すると、廊下の端に人の姿が現れた。西田はあわてて立ち上り、さり気なく前へ歩き出した。  すれ違ったのは背の高い三十四、五の男で、風呂敷包みを小脇に抱えていた。カンで役人とわかった。これから新人議員の事務所にレクチュアに行くところであろう。風呂敷包みの中味は、資料に相違ない。  どこかの委員会に属した新人議員に質問の順番がまわってくる。そこは新人というズブの素人のかなしさ、何をどう質問していいかわからない。そのために関連省庁から役人を事務所に呼びつけて、講義を受けることになる。新人議員は、委員会から帰って昼食時間を利用するらしかった。  西田はそういう場面をたびたび眼にした。議員室に伺候しているのは、たいてい課長か課長補佐クラスであった。しかし、いくら「御進講」申し上げても、議員によく通じないことが多い。  第一歩から勉強するには時間がかかる。質問する委員会の開催日は迫っている。 (ぼくの質問を、紙に書いてくれませんか)  自分に絶望した議員は役人に頼む。 (わかりました)  役人は承諾する。 (その質問に大臣や政府委員がどう答えるか、それがわからないと、ぼくは次の質問ができないね。政府側の答弁もあわせて書いてくれませんか。そうしてまたそれに対するぼくの質問も) (承知しました)  どの課長もひきうけるはずである。  役所としても業績のPRになるような想定問答が書かれる。こうして委員会の質疑応答は、役人のつくった草稿に沿ったものが速記録になり、官報の号外に載せられ、それを議員が大量に買って支持者や選挙民へ発送する。かくてその議員がすばらしく国会活動をしているように映る——。  西田は、課長の痩せた後姿を見送ったあと、いよいよ「宮下正則」と名札のかかった部屋の前にたどりついた。ドアは閉まっていた。  宮下正則——五十九歳。元自治省の局長。当選四回。政務次官経験者。現在逓信委員会理事。  ドアをノックしないのが、院内紙記者の流儀だった。  開けると、すぐ眼の前の机で若い第二秘書がスクラップ帖《ちよう》に新聞の切り抜きをせっせと貼《は》っていた。机のまわりは切り捨てた紙片が雪のように散乱していた。女秘書は片隅で、紅茶二つをいれていた。まだ客がいるのか、と西田が思ったのは、先刻一階のホールで遭った宮下が、事務所に急用の客が待っていると云い残してそそくさとエレベーターの中へ消えたのを思い出したからである。  宮下は逓信委員会に属しているが委員会をさぼっているらしい。  正面の仕切りドアが三分の一ほど開いていた。その隙間から見える議員の大きな机の向うのイスには、宮下ではなく、肩幅のひろい第一秘書の木沢房吉がすわっていた。宮下議員は居なかった。  さては逃げられたかと西田は内心で舌打ちしたが、第二秘書のてまえ、それは顔に出さず、先生はお留守か、何時《いつ》お帰りか、と訊《き》こうとしたが、それを口に出す前に、ここからは姿が見えないが、聞きおぼえのある客の声が耳に入った。  議員執務室は、正面の議員机と、その横に来客用のイスが四つくらいある。人数の多い陳情組などが入ってくると、もちろんイスのまわりに立っているし、それが何組もあると、廊下まで溢《あふ》れ出る。  その来客用のイスにすわっているらしいのは、小さな声と関西弁の特徴で、丸山耕一議員の第一秘書有川昌造だと西田はすぐにわかった。  丸山耕一。——六十三歳。当選六回。環境庁長官(国務大臣)経験者。目下、商工委員会所属である。  その丸山議員も、この部屋の主宮下議員もともに不在で、両第一秘書はその留守の間にここでアブラを売っているらしかった。  西田にはこの有川昌造が苦手であった。その頑丈そうな身体《からだ》に似ず女性的で、クニャクニャしていた。内股《うちまた》で歩くというほどでもないが、肥《ふと》った身体はふしぎとしなやかで、つかまえどころがなかった。これまで西田は丸山議員からはめったに「おつきあい」をしてもらっていなかった。それというのがこの有川が前面に立ちふさがって、議員のツイタテになっているからだ。  有川のやわらかな関西弁は、いつも不得要領で、それでいて、中に固い芯《しん》のようなものをくるんでいた。  有川昌造が来ていては仕方がないと思い、西田は第二秘書の傍へ寄った。 「有川さんはまだここにねばるつもりかね?」  横で紅茶を支度しているすらりとした背の女秘書を眺めながらきいた。第二秘書は散髪したばかりの頭をちょいともち上げて、 「ああもうすぐ昼飯だから、帰って行くらしいね」  と、低い声で答えた。  第二秘書はまだ若いし、東京に来てから日が浅いだけに、ほかの秘書たちよりも純真にみえた。堀口武夫といって、宮下の選挙区で采配《さいはい》をふるう地元秘書団の元締堀口弥太郎の息子であった。  宮下はこの堀口弥太郎に頭が上らぬかっこうである。弥太郎はその前の議員時代からの秘書で、その議員が死亡したため、地盤をついで役人から議員になった宮下の秘書に付いた。弥太郎はもう七十近いが、元気なもので、宮下の票田を守護していた。こういうのを「国家老」という。  古い体質の人間だとはわかっていても、宮下はこの「国家老」の云うことを聞かざるを得ない。議員にとってはなにごとも選挙第一であった。  その息子は二十八になる。いままで地元にいて父親の手伝いをしていたが、働くなら東京でというわけで、父親にせがみ、父親の弥太郎が宮下へ圧力的に依頼して、かくは第二秘書となった、と西田は聞いていた。  有川が昼食に丸山議員事務所へ戻って行くらしいので、それまで西田はそのへんをぶらぶらすることにした。木沢秘書が宮下議員から自分|宛《あて》の金を預かっているかもしれないからである。  折から廊下の向うを手土産の袋をさげた一組が二列になってきていて、その後方からせかせかとこっちへ歩いてくる男があった。それを見た西田は、とっさに廊下わきの湯沸し場へ、さっと入った。  院内紙「国会万朝報」の記者古沼文八が茶色の大封筒をこわきに抱えて、うつむきかげんに足を運んでいた。「国会万朝報」は、定期的に発行している大きな院内紙だった。こちらは名前だけの院内紙記者、その引け目だけでもないが、西田は横柄な態度の古沼が苦手だった。いつも気おくれを感じる。  いったいに院内紙記者どうしは、議員室で遇っても、お互いに顔をそむけてすれ違うくらいで、同業という親近感がほとんどなかった。  湯沸し場にいた女秘書五人が、ふいにとびこんできた西田におどろき、いっせいに非難の眼をむけた。 「水を、水をいっぱい飲ませてください」  云いわけするように咽喉《のど》に手を当ててみせた。  湯沸し場は、この階の女秘書らの共同使用であり、彼女らの息ぬき場所でもあった。ここも十四、五平方メートルくらいの狭さだけど、秘書室でしんきくさい仕事をするよりも、たとえお茶くみの支度であろうと茶碗《ちやわん》洗いであろうと、ここで仲間としゃべっているほうがはるかに愉《たの》しいのだ。どこそこの議員秘書とどこそこの女秘書とは仲があやしいとか、どこそこの先生は女好きでこの前も夕方にホステスらしい女性と車に乗って青山通りを走っていたのを見たとか、どこそこの第二秘書は女秘書を口説いたが、はねつけられたとか。こんな噂に派閥のわけへだてはなく、「議員長屋」の井戸端会議だ。  そんなさなかに闖入《ちんにゆう》した院内紙記者に女秘書らが愉快なはずはなく、西田はようやくお情に水をコップ一ぱいもらった。  古沼文八が横を通りすぎると同時に、議員室のドアが開いて、部屋主の第一秘書木沢と、丸山議員の第一秘書有川とが出てきて、湯沸し場出入口の四角い額縁《がくぶち》を横切った。西田が、あっと思って出ると、エレベーターへむかって肩をならべて歩く木沢と有川の後姿が見えた。 「さあ、お二人で昼の食事に外へ出られたんじゃないですか」  事務所に残っている小島幸子という女秘書が冷たく云った。  「秘書連合」  議員会館から西へ一キロとはなれていないところに氷川神社がある。赤坂台地上にあって、賑《にぎや》かな街とは別世界に幽邃《ゆうすい》な境内をもっていた。玉垣にかこまれた杉林の奥深くには、小祠《しようし》のような社がひっそりと建っている。スサノオノミコトを祀《まつ》る。江戸時代には宏壮だった社殿も、上野彰義隊の残党に焼かれて現在のように小さくなった。ために都心にあると思えぬひなびた趣で、その寂然とした神々しさを慕う人々もあった。  氷川神社の北麓《ほくろく》にアメリカ資本系のアダムズ・ホテルがある。十五階建てでは高層の中に入らぬが、急坂に沿って建築が積木細工のようにせり上り、内部は変化に富んでいる。この辺も坂の多いところで、芝居で演ずる浅野|内匠頭《たくみのかみ》未亡人|瑤泉院《ようぜいいん》と大石|内蔵助《くらのすけ》との「雪の別れ」の南部坂、勝海舟邸に因《ちな》む氷川坂もある。下には料亭が集っている。  いましも永田町の議員会館から赤坂の繁華街を通り抜け、坂を上って行くタクシーに、木沢房吉と有川昌造とが坐っていた。宮下議員の専用車を使わなかったのは、その車がいま議員に使用されて出払っているからでもあるが、運転手の中村光次の耳があっては都合が悪いからで、かくはタクシーとなった。  アダムズ・ホテルのレストランで、木沢と有川とはテーブルをはさんで昼食のメニューに見入っていた。  ひろいガラス窓のすぐ近くには和風庭園がある。奇岩怪石にかこまれた池には鯉の群が泳ぎ、向いには寝殿造の対屋《たいのや》を摸《も》した平安朝ふうな建物があり、軒に春日《かすが》灯籠《どうろう》を吊《つ》り、廊下の外は勾欄《こうらん》がつく。外国人客の眼をいかにもよろこばしそうなしつらえであった。  アメリカ資本系のホテルだけに外人客が多く、げんに木沢と有川のテーブルのまわりにも宿泊の外人観光客やビジネスマンがしきりと食事をとっていた。  これがこのホテルを択《えら》んだ有川と木沢の理由である。すこしくらい大きな声で話し合っても、彼らが日本語を解さぬ。密室で話しているのと同然なのである。  オーダーが決まったあと、まずはビールをとって二人は乾杯した。  何を乾杯したか。相互の健康を祝するとか、仕事がうまくいっているとか、将来の多幸を祈るとか、いわば乾杯のための漠然とした理由はなんとなくつくが、いまの彼らにはもうすこしはっきりとしたわけがあった。  運ばれてきた前菜のスモークドサーモンにレモンの汁をふりかけながら有川が云った。 「やっぱり昼食にはこないにきれいな風景のある場所がええなあ。穴ぐらのような地下二階の食堂でうまくもないおしきせ料理をもそもそと食べてるのんとはだいぶんちがうわ」  スープがきた。 「なあ、この前もきみにちょっと言うたんやけど……」  有川昌造は、スプーンですくいはじめた木沢房吉に云った。 「議員秘書連合を結成する話か」  木沢がちょっと眼をあげた。 「まだ、詳しゅうには説明してへんかったな。これから話すがな」 「その前に訊くが、きみの構想は、現在の秘書会とは性格がどう違うのかい?」 「ぜんぜんちがうがな。いまある秘書会ちゅうのんは、党ないしは派閥単位の秘書会で、いわば親睦《しんぼく》団体や。いちおう秘書の待遇向上とか相互扶助とか身分保障とかを会則にうとうてるけど、あんなのはやわなもんや。いざというときなんにもならへんで。やっぱりお互い強力に団結せんとなあ」 「団結? 労働組合みたいなことを云うじゃないか」  有川はスープを五、六回つづけさまにすすったあと、黄色くなった唇をナフキンの端でやさしくぬぐった。頑丈な身体の男が、女性的なしぐさだった。 「労組なんぞとはちがう。ちがうけどなあ、そのくらいシンの太さを持っとかんことには、議員秘書連合の意味ないがな。ま、議員秘書連合ちゅうのんは、ぼくが思いついた仮称やさかいな。みんなで相談して、ええ名前あったら変えるつもりや」 「みんな? もう相当に賛成者というか加盟者がいるのかね」 「あるある。いまのところ二十人を越えてるわ。きみが加盟してくれたら、その連中の名前云うけどな」  有川は、にたりと笑った。彼が仕えている丸山耕一議員は、大阪府第×区の選出。第一秘書の彼は寝屋川《ねやがわ》市の出身だった。 「きみも早いとこ組織したもんだね」 「趣旨がええからな。超派閥や。いわば派閥横断的な秘書連合やがな」 「野党の議員秘書諸君は入れないのかね?」 「野党は無理や。共和党にしても民主党にしても改進党にしても、また労農党にしても、かれら議員秘書はそれぞれの組織から出ているさかいなあ。かれらは党から議員に付けられとるんで、議員が死亡しても落選しても、党なり労組機関なりに戻りよるさかい、ちょっとも困らへん。その身分はそれぞれの組織に保障されてる。で、ほんらいなら全政党の議員秘書連合が理想的やが、野党議員秘書諸君は、われわれと立場が違うよってに、こら無理や。やっぱりわが党の弱い者どうしの議員秘書やないとなあ」 「ちょっと聞くが、その加盟している秘書は所属の議員の諒解《りようかい》をとっているかね?」 「それはまだや。おやじ(議員)連中にいま話したら、ぶちこわしされそうやからなあ」  隣のテーブルで外人の男が笑った。 「もし途中で議員連中にそれが洩《も》れたら、きみのせっかくの構想も雲散霧消するわけか」  スープが残り少くなり、皿を傾けてすくいながら木沢は云った。向うのテーブルに若い女が三人、食事をとっていた。 「その点はぼくも気ィつけてるけどな。そやけど、たとえおやじらに洩れても、超派閥で秘書が五十人くらい加盟してたら、こらだれもよう手下しでけへんわ」  有川はスープ半分を残したまま、話に身を入れた。 「それは私設秘書もいっしょか」 「議員秘書となると、われわれのような第一も第二もない、私設かてみんないっしょや。……ええか、ぼくら第一秘書の月給は三十二万六千百六十円、第二秘書が二十三万二千七百四十円、それにボーナスにあたる期末手当が三・八カ月分や。こら、企業で言うたら、第一秘書は部長なみ、第二秘書は課長なみの給料やな」 「その第二秘書の給料はもと二十万円を切れていたね。それをいまの二十三万円にアップさせたのは、党の秘書会だよ」 「その点では、秘書会をそれなりに評価してもええけどな。ほなら私設秘書の待遇は、どないになるんや?」 「私設秘書は公務員ではないからね。おやじたちがそれぞれポケットマネーで傭っているので、給与体系がない、したがって賃上げのやりようがないよ。それにだ、私設秘書の大部分はおやじがそれぞれコネのある企業に頼んで、そこの出向社員にしている。給料はその企業から出ている。本社の従業員にベースアップがあればそれに準じているよ。そうでない議員秘書もあるけどね」 「出向社員というのんは、名目やからな、給料かて本社員なみにはいかへん。こら安いがな」 「うむ、まあきみとこやぼくとこのおやじは、そういうことはないが、よその事務所では、第一と第二秘書の給料を議員が受けとり、それに議員がいくらか金を財布から出して足し合せ、秘書たちに分配するところがあるよ。それに私設秘書の期末手当も議員のポケットマネーから出ているしね」  国会議員の歳費は月額八十八万円(課税)で、国会法三五条によって国家公務員の最高(各省事務次官)より少くない額となっている。期末手当(ボーナス)は、年額四百十八万円(課税)である。それに文書通信交通費が月六十五万円(非課税)、立法事務費が月六十万円(非課税)、地方選出代議士への応召帰郷旅費という名の日当が一日につき宿泊費を含めて一万四千五百円(非課税)である。 「そういう収入の中から秘書らの給料をまかなう議員さんたちのふところはさぞ苦しいだろうな、というのは一般からの見方でね」  木沢は云った。  ボーイが忍び寄ってきて、二人の前からスープの皿を引いて行った。 「歳費や期末手当だけで秘書どもを傭《やと》うてはる議員さんは苦しいように一般には見えるけど、そこは先生らの才覚や、どっからとものう金が降って入ってきて、充分すぎるほどやりくりがつく」  有川は木沢の言葉を受けて云った。 「しかしまあ、われわれのような秘書は生活するだけの給料はなんとか保証されてるね」  木沢は自分のことにあてて満足げに云った。 「保証やて?」  有川は聞き咎めた。 「きみは第一秘書として月給三十三万円を国からもろうてるよってに、そないなことを云うけど、いざおやじさんが落選しはったり、亡くならはったら、それきりきみは失業やがな。どこへも行くとこあらへんで」 「おやじはその辺を考えてくれてるよ。おれに万一のことがあったとき、きみの身のふりかたは考えているとな」 「身のふりかたとは……」 「コネのある会社へ相当な待遇で入社する約束がすでにとりつけてある。その社名の二、三を聞かしてもらってるがね」 「そんなら、いまのうちにその会社へ押しこんでもろたらどうや」 「そうはいかんよ。おやじが現職に居るかぎり、ぼくを手放さないからね」 「第二秘書の堀口君をきみのあとにすえたら、どうや?」 「あいつはダメだ。国家老の息子ということで、先生も仕方なしに第二にとったんだが、仕事はなんにもできない。頭はからっぽさ。いっぱしの国会議員秘書になったつもりで、かっこうだけを真似ているが、ぼくの云いつけたことも満足にできたためしがないよ」  木沢は唾《つば》でも吐くように横を向いて云った。 「あの男、同室の小島幸子に気があるのと違うか?」  有川がふいと眼を笑わせてきいた。 「どうしてわかる?」 「そら、堀口君の様子でわかるがな。ぼくはきみの部屋にはそんなに行かへんけど、ちょっとのぞいただけでもわかるがな」 「田舎者でも、一人前に色気だけは出るんだな」 「で、小島君の反応は?」 「もちろん鼻もひっかけない。隣り机の堀口に仕事上でものを云われても、彼女まともに返事をしないよ」 「小島幸子は三階の女秘書の中ではいちばんべっぴんや。で、どうや、先生のほうは?」 「どうや、とは?」  問い返したときに、頼んだメイン・ディッシュが白服のボーイの手で運ばれてきた。むこうのテーブルにいる若い女性三人へ有川は眼をちらちらと走らせた。  木沢は、ボルシチ・ウクライニアンの赤い汁をすくい、有川はレアのサーロインステーキに塩をふりかけ、黄色いマスタードを塗りつけていた。 「あ、うちのおやじと小島君のことか?」  木沢は有川の云う意味がわかって、答えた。 「なんでもない。そんな気配はまったくないよ。ただし、おやじも事務所で若い女性にかしずかれているのは、悪い気はしないだろうがね。だいたい、どこの議員さんも女秘書には甘いほうだからね」 「彼女、恋人かボーイフレンド居るのんかいな?」 「きまった恋人はないようだが、ボーイフレンドぐらいはいるだろうな。きみは、また、いやに小島幸子に興味をもつじゃないか」 「べつに興味持ってへんけど、ちょっとな」  有川は下をむいてうす笑いし、レアのステーキにぐさりとナイフを入れた。肉から血がにじみ出た。 「ま、話を本題に戻すとなあ」  有川は血のついた肉片を呑《の》みこんでから云った。 「さっき、きみは、おやじさんがきみの身のふり方をコネのある会社へ頼んである云われて安心してるようやけど、そら当てにならへんで。そこへはめこんでもらうなら、いまのうちや」 「それがね、いまも云ったように……」  云いかける木沢の言葉に、有川はかぶせた。 「おやじさんがきみを離さへんというのんか。きみはぼくとちごうて能力ある秘書やさかい、おやじさんの云わはることも無理ないけどな。それにひきずられて、ぐずぐずしているうちに、おやじさんが亡《の》うなるか、落選つづきで引退するかしてみいな、企業のほうはきみを引きとるのをたちまちキャンセルや。おやじさんが現職議員やからこそ企業には利用価値があるのんやが、そうでなかったら、きみのことでの口約束なんぞ弊履のように捨てるわいな」  木沢はウクライナ風ボルシチの肉を黙って食べていた。 「ええ例がある。十年前に死んだ山野平助な、当時は農相を経て建設相やった。近い将来は首班やいうて、自他ともに許しとった。その山野がやな、甥《おい》を東洋金属に押しこんだのや。甥いうても、相当もう年をくってたがな。旭日《きよくじつ》昇天の勢いやし、押しの強いこと無類な山野やし、また東洋金属でもその山野をつかまえてたら社業発展の好機とばかりに、その甥をいきなり副社長に迎えたもんや。もちろんズブの素人が金属のことなんかわからへん。毎日、副社長室に出てくるけど、ぶらぶら遊んどんのよ。企業のほうは、それでも山野平助の人質や思うてるさかい大事にするがな。そのうち山野が急死しよった。そしたら、さっそくに副社長はんクビやがな。山野派も空中分解したよってに、だれも彼の面倒見ィへんわな……」  血の滴るような厚い肉をナイフで刻む有川は、曽《か》つて政界の実力者だった山野平助の甥が、副社長として入っていたコネの企業から、その伯父の急死とともに、たちまちにして追い出された話を、木沢に云って聞かせたあと、 「首班候補の最有力者山野のお声がかりにしてすらそうや、ましてや山野の実力までいってへん議員さんのヒキで、企業に入った秘書の運命なんぞ推して知るべしやがな」  と、相手をのぞきこむようにして云った。 「うむ。……そうすると、秘書は、おやじさんが死亡や引退すると自分も没落、おやじさんの活躍期でも将来性がない、ということか」  木沢は頬に片杖《かたつえ》をついた。 「そやがな。そないなことはわれわれには日ごろからようわかってる。きみかてよう知ってる。このままの状態じゃ、あかんなあ、とだれしもそう思うてる。みんなが心の中であせってる。けど、どもならんことやと今まではみなが諦《あきら》めてきた」 「秘書にもいろいろとあるがねえ」 「そらある。おやじさんの地盤をうまいこともろうて、秘書から議員になってるのもおるわな。けど、そういう手合いは、幸運というよりは、日ごろから押しのふといやつや。目がきいて、心臓強うて、いつのまにか献金先と直接コネをつけてやな、どっちゃが秘書やら議員やらわからへんのが居るわな」  隣の席で外人たちが哄笑《こうしよう》した。日本語がわかったのかと有川がびっくりしてふりむくと、かれらの仲間がジョークをとばしたらしかった。有川はもとの話に戻った。 「けど、そういうのんは特別や。大部分は、ぼくらのように気ィ弱いよってに、おやじさんには口答え一つでけへん。どないに、おまえはバカやアホウやいうて怒鳴られても、じっと辛抱せなならん。無茶苦茶いわれても、涙をのんで我慢せなならん」  ウクライナ風ボルシチの肉をすくう木沢のスプーンの動きが鈍くなった。充分すぎるくらい身におぼえがあるからだった。その様子を見て、有川の舌は熱が入った。 「総じて議員はわがままもんや。女ごころと秋の空いうけど、女ごころよりも、議員はんはまだ気ィの変りが激しい。昨日云うたことと、今日云うことがまるきりちがう。なんでそないに変ったのか議員さんは秘書に説明なしや。風むきしだいやからな。朝令暮改もええとこや。そのたびに泣かされるのは、われわれ秘書やがな。あっちゃの会合、こっちゃの集りに、おやじが欠席した言訳と謝りに、頭をぺこぺこと米つきバッタみたいにさげて歩かなならん。先方からどないに怒られても、皮肉いわれても、ただ平身低頭、ひら謝りやがな。心の中ではおやじのわがままを恨みながらな。そいでおやじに文句ひとつ云えへん。妻子抱えた生活のため、忍耐これあるのみや」  有川はステーキの大半を平げた。よくしゃべり、よく食う。その舌のさばきぐあいは、みごとであった。眼のほうもちらちらと若い女客へ走る。 「云いたいことはまだあるがな……」  彼は木沢にむかってつづけた。 「選挙区の秘書や運動員連中というたら話にならん。しょむないもんが揃《そろ》うてる。あいつらは、ふたことめには、自分らは年中無休や、日曜日も祭日もない云うてる。かれらはこう吐《ぬ》かす。われわれは朝に晩にドブ板踏んで選挙民に挨拶してまわってる、どこそこに葬式があればモーニングに黒ネクタイ、その晩に結婚式があればネクタイだけを白に変えて出る、やれ、どこそこにヤヤ(赤ん坊)が生れたらお祝いの金一封を届ける、子供が大学試験に合格したら祝電、ご親戚《しんせき》に不幸があれば弔電、寄り合いがあれば酒持ってゆく、こないにキメこまこうまわってると、ちょっとも休みがない、家庭サービスは全然でけへん、とこないに云うわな。そして、それにくらべると、東京の秘書はええ、日曜日も祭日もきちんきちんとサラリーマンのように休みよる、夕方になると事務所にはおらへん、ゴルフをやるわ、先生のツケで料亭で遊ぶわで、けっこうな身分や、とやっかみ半分に云うてけつかる」 「うむ、うむ」  同調する木沢のうなずきかたにも活気が出た。 「ほなら、こっちはおまえらと入れ代ったろかと云いとなるがな。こっちは、毎日おやじの顔色をうかがいながら、おやじのわがままやずぼらの尻ぬぐいばかりさせられてる。ほうぼうをとびまわって、それこそ私生活なんぞあらへんがな。久しぶりの休みでもおやじから電話が家にかかってきて、呼び出しや。それがしょうもない用事や。おやじの気まぐれで呼び出されるこっちの身にもなってみいや」 「うむ。そうだよな」 「地元の連中は、陳情をどんどん東京へ回しよる。それがみんな無理な頼みごとや。一流大学の入学、大会社の就職。地元企業の許認可から、やれ補助金|貰《もら》えの、やれ予算をつけさせろのと、勝手なことばかり云うてきてる。できる相談か、できん相談か、顔を洗って出直してこいと云いとなるがな」 「まったくだ」 「金を集めるのかて、こっちがどないに苦労してるか、地元の連中には絶対にわからへん。こっちゃはあちこちの企業に頭を下げぱなしや。まるで自分が乞食《こじき》になったような、情ない気持になるで」 「うむ、うむ」 「その苦労して集めた金を地元へ送ってやっても、地元ではその金をよう活かして使いよらん。頭が弱いよってに、いつも対立候補の企画に負けてるがな」  デザートになった。  食事をすませた若い女三人が一列になって出て行く。その横顔に見とれている有川の前に、洋梨のチョコレートかけが運ばれてきた。その端をスプーンで舐《な》めてみて、有川は口をゆがめた。 「なんや、このメニューに、ええと、コンポート・ド・ポワール・オー・ショコラ・ショーと、むつかしい名前出てるさかいに試しにとってみたんやが、こないに甘すぎるもんかいな」  スプーンを皿に置いた。千四百円もするデザートの皿だが、議員のツケにまわすので惜しげもなかった。 「それがほんとにサジを投げるというやつだ」  木沢が笑った。 「サジ投げるいうたら、地元の連中のことや」  有川はまだ云いつづけた。 「とくに、しょむないのは地元秘書の元締の国家老やがな。頭は固いわ、やることは古い。それをゴリ押ししよる。なにせ票田の番人をもって任じてるさかい、おやじもかれには弱気や。この国家老が東京秘書のわれわれをいちいちおやじに指図しよる。……きみも、気ィつけんとあかんで」 「なにが?」 「国家老がきみのあと釜《がま》に堀口君を据えんようにな」 「まさか。あのボンクラが」  木沢は云ったものの、ぎょっとなった。 「国家老」堀口弥太郎は宮下正則議員に強い発言力をもっている。弥太郎は小沼という前議員の地元秘書だったが、小沼が死ぬと、その地盤を譲りうけた宮下の選挙参謀となった。他《ほか》に立候補の希望者があったが、某派閥の推薦で自治省の局長だった宮下の出馬を承認したのが弥太郎だった。弥太郎なしには今日の宮下代議士は生れなかった。  もっとも、当選四回ともなると、宮下には自力で当選した意識が強くなってきていて、以前ほどには堀口弥太郎を怕《こわ》がらなくなっている。  が、それでも宮下には弥太郎が依然として煙たい存在には変りなかった。弥太郎とトラブルを起すと万事が面倒になるのだ。  選挙ともなると、派閥の大幹部でさえ、ぽろぽろと落ちる。宮下議員には、いま国家老の堀口弥太郎に背かれたらという危惧《きぐ》も残っていて、彼との摩擦をできるだけ避けている。息子の武夫を第二秘書にと弥太郎が望み、宮下がそれをうけ入れたのも、彼とトラブルを起したくなかったからである。  その弥太郎がこんどは息子を第一秘書にせよとゴリ押ししそうなのは、有川に云われてみると、ないことではないと木沢は思った。  実例はこれまでも他議員の第一秘書にあった。議員がその気になれば第一秘書を居づらくさせる方法はいくらでもあるのだ。その場合、第一・第二秘書の能力の差などはあまり関係なく、議員の恣意《しい》が先に立つ。  木沢の不安が顔色に出たのであろう、有川は彼のほうへかがみこむようにして云った。 「ここで、いままでぼくの云うたことを総括するとやなあ、おやじにバカやのチョンやの云うて怒鳴られるのんも、おやじの尻拭《しりぬぐ》いに汗かいて走りまわるのんも、おやじのために私生活の自由がないのんも、みんな秘書が弱い立場にあるからや。クビ切られたら行き場がない、どないしようと思うさかいに、議員の云うこと、なすことにご無理ごもっともと涙を呑んで従うてるからや。それをなくするのんは、われわれが秘書連合をつくって、団体の結束で議員に当るしかあらへんがな」 「議員に当るというと、具体的にはどういうことかい?」  木沢は眼をあげてきいた。 「さいな、ここにぼくが走り書きしたメモがあるよって、ちょっと見てくれへんか」  有川はポケットから一枚の紙をとり出した。木沢が見ると、箇条書きになっていた。 一、議員秘書の人権を尊重すること。 二、議員は朝令暮改的な、思いつきの命令をやめること。 三、議員は秘書の進言をなるべくうけ入れること。 四、秘書の作製したスケジュールは最良につき、議員は理由もなしにこれを破らぬこと。 五、議員の死亡・引退等の際、秘書の失業に備えて第二の就職を確保し、これを保証すること。 六、退職金は充分に出すこと。 七、其他議員に対して必要なる要求。  ——読み終った木沢が、 「言たるやいちいちもっともだな」  と深くうなずいた。 「そやろ。べつに注釈せんでもきみにはわかるやろが、第一項は、議員が秘書をみだりに怒鳴ったり、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせるのを禁止することや、人権尊重には秘書の私生活の自由を認めることなど、いろんなことが含まれてる。……」  有川は、自分のつくった「秘書連合」規約の第一項を説明する。 「この、議員秘書の人権尊重はやな、またその地位の尊重も入ってる。つまり、他の有力者、たとえば国家老あたりからなんと云われようと、議員はその地位を動かさんことや」 「うむ、なるほど」  木沢は、箇条書きに見入りながら有川の声にあごを引いた。 「第二項、議員は朝令暮改的な思いつきの命令をやめること。これは説明するまでもないわな」 「うむ」 「第三項、議員は秘書の進言をなるべくうけ入れること。……わがままを出して秘書の云うことに耳を傾けんおやじが多いがな。つまりおやじは妙なところで自主性を見せたがるんやな。そんなのにかぎって、あんじょういったためしないがな。落選するのは、こういう手合いやで」 「うむ、うむ」 「第四項、秘書の作製したスケジュールは最良につき、議員は理由もなしにこれを破らぬこと。……これもおやじの妙な自主性から、わしは秘書に使われてるのやないなどと云うて、予定を破ったり変更したりしよる。秘書は客観的にあらゆる状況を勘案して、おやじのスケジュールをつくってるよって、これが最良や。それをおやじが妙な意地出して横紙破りをしよる。泣かされるのは秘書やがな。あっちゃこっちゃ云いわけに走りまわって頭をさげなならん」 「おやじがスケジュールを破る理由は、そのほかに、プライベートな原因もあるよ」  木沢は片眼をつむった。 「あるある」  有川もにやりと笑った。 「ま、おやじのプライベートな理由は、この際問わんことにするわ。とにかく、妙な自主性だけを問題にしよう。次に移るで」  彼はまた読み上げた。 「第五項、議員の死亡・引退等の際、秘書の失業に備えて第二の就職を確保し、これを保証すること。……これがいちばん肝腎《かんじん》や。口約束だけではあかん。殷鑑《いんかん》遠からずで、さっき話したように元建設相山野平助の甥の例がある。そないなことにならんように、秘書が団結して、約束を保証させるんや。対手《あいて》の企業のほうかて、議員秘書連合にそっぽをむかれると、陳情などがあかんようになるさかい、これは云うこと聞かざるを得んがな。われわれの身分保障であり、生活権の擁護や」 「よくわかる」 「第六項の退職金額の保証も、それやで」  有川は、ここでひと息ついた。  まわりのテーブルからはいつのまにか外人客がひき上げていた。 「第七項、其他議員に対して必要なる要求いうのんはな、発起人の会合や設立総会で、いろんな意見が出るやろから、そのための余地にしてる。……どやな、よう出来てると思えへんか」  有川は自案について木沢の感想を求めた。 「完璧《かんぺき》に近いね」  各項目とも身につまされることばかりだった。 「賛成してくれるか」 「趣旨には賛同する」 「趣旨だけやのうて、きみも秘書連合結成の呼びかけ人になってくれへんか」 「呼びかけ人に?」 「そやがな。ええか、きみが完璧に近いというてくれたこの条項を、真に生かすには全秘書が連合するほかはないがな。おそらくみんなは賛成やと思うけど、それには呼びかけ人が必要や。三十人ぐらいはな」 「三十人の呼びかけ人の名の中にぼくが入るのか」 「木沢君。こら、きみ自身のためやで。きみの現在の身分はぼく同様に不安定や。これが出来ると、きみも安心して、おやじさんのために働ける。同じ宮仕えでも、君主の馬前に死してもええという気になれるがな」 「少々大げさだな」 「もののたとえやがな。どやな、きみ自身のため、全秘書のために呼びかけ人になってくれへんか」  木沢は考えていた。このことを宮下議員が知ったばあいの懸念が胸の中を往来していた。議員は不機嫌になるだろう。だが、それは秘書連合に加盟した秘書を持つ全議員も同じである。となれば、宮下も沈黙するほかはない。秘書連合に議員が圧力を感じるからだ。有川の云うように、これは自分ら生活の防衛であった。  と思う一方、まだ逡巡《しゆんじゆん》が残っていた。怒気を含んだ宮下の顔が去らない。  木沢が熟考している間、有川は眼を向うへむけていた。そこには新たにテーブルについた粋《いき》な女客三人があった。三人とも派手な付け下げの衣裳《いしよう》だった。 「よろしい、呼びかけ人になろう」  木沢の決心した声に、有川は顔をもどした。 「そうか、なってくれるか」  有川は喜びにあふれた声で云った。 「うん。なるよ」  木沢は壮烈な表情になっていた。 「ありがとう、ありがとう」  有川は彼に握手を求めた。二人は力強く手を握った。 「きみが呼びかけ人になってくれたら千人力や。……さて、そこでやな」  有川はコーヒーを一口すすった。 「呼びかけ人ともなると、ただ声かけるのんでは実効ない。そこでやな、各呼びかけ人は各自まず五人の加盟者を獲得すべく努力してもらいたいのや」  有川は云った。 「ぼく一人で説いて回ったんでは時間がかかる。なにせ保守党の議員秘書は、私設を入れて千何百名もいるんやからな。そんな、ぎょうさんな数には当れへん。ま、目ぼしいのんを百人くらい得るんや。これが中核や。それさえ出来れば、あとの秘書連は風を望んで加盟するがな。なにぶんにも趣旨がええよってな。そやから、おのおの呼びかけ人が五人の同志得るいうたかて、易々たることやと思うけど、どないやろ?」  感想を求められた木沢は、 「さあ、五人いっぺんはどうかな。いいとこ二人か三人、あとはぼつぼつだな」  と、堅実なところを云った。  その返事に有川はいくらか不満そうな表情だったが、すぐに機嫌をとり直した。 「手始めには二人かて三人かて出来たらええわ。一人ずつ説いてまわるんやからな。あとはその話を耳にした連中が加盟を希望してくるよってに、ずっと話しやすうなる。いまのところ、きみを入れて呼びかけ人になってくれた人間が二十一人や。これが一人平均三人を入れてくれたとして六十三人。ぼく自身は七人くらい入れるさかい、ちょうど七十人や。議員秘書連合は七十人の基礎的な同志から出発するんや。あとは数がどんどん増えてゆく」 「きみは、たいへんなオルガナイザーだなあ」  木沢は有川の顔を見直した。 「オルガナイザーなぞと、左翼的用語は使わんとき」  有川はたしなめた。 「それでのうても、この計画が議員たちに洩れたり、実行が熟さんうちにわかったりすると、怪《け》しからん云うて叩きつぶされるおそれがあるよってな。口実として、あいつらはアカや云うにきまってる。アカとしてきめつけるのんが、いちばん効き目あるように議員さんはおもてはる。そやさかい左翼用語を使わんように気ィつけなあかん」 「わかった」 「組織ができてしまえば、こっちのもんや。議員連中には何も云わせへん。それまであくまでもこっちゃは秘匿行動。会合かて、気づかれんようにやるのやで。会の結成までは、先方の弾圧的な謀略にひっかかって、鹿《しし》ヶ谷《たに》にならんように要心せんとあかんわ」  関西人だけに有川は「平家物語」の故事を口にした。  向うのテーブルで付け下げの女三人がおしゃべりしながら食事していた。 「なあ有川君」  木沢は思いついて云い出した。 「きみの連合構想は、秘書だけだが、運転手のことはどう考えているのかね……」 「議員お抱え運転手のことかいな、きみが云うのんは?」 「そうさ。公用車の運転手は、議院事務局から身分を保障されているが、議員個人のお抱え運転手は、秘書同様に不安定だからね」  公用車は両院に二百数十台ある。正副議長、常任・特別委員長に各一台、各党には議員五名に一台の割り当てである。  そっちのほうではなく、木沢はお抱え運転手を問題にしていた。 「ぼくも、それは前々から考えてる」  うなずく有川に、木沢は云った。 「これは年配のお抱え運転手一般について云えることだがね。彼らも私生活というものがほとんどないよ。みんな家庭持ちだ。議会の会期中は議員に目いっぱい使われる。夜は料亭の前で、午前零時、一時までも待たされる。家に戻ってくるのがたいてい二時になる。翌朝は八時からはじまる朝飯《あさめし》会に間に合うよう議員を保守党本部へ送らないといけない。そのほかに議員が乗りまわすが、それが議員の仕事上のことなのか、私用なのかけじめがつかない。議員の私用というと、きみにも察しがつくだろうが……」 「わかってる、わかってる」  有川は笑ってうなずいた。 「運転手はいかなる秘密をも他に洩《も》らしてはならない、口の固いことが絶対条件、と雇われるときに議員から誓約させられている。だから、議員にどんな使われかたをしようと、女房にもその内容を詳しく云えない」 「そのとおりや」 「議員が乗らないときは、その家族に使われる。デパートへの買いもの、ちょっとしたドライブに議員夫人が乗りまわす。家族が乗るのは、日曜日や祭日が多いから、運転手は休日でも家から呼び出されて働かされる。そのため自分の私生活というものがない。それこそ人権無視もいいところだよ」 「まあ運転手にもいろいろあるがね」 「そりゃ、ある。個々についてはね。ぼくの云うのは一般論だがね」 「たしかにきみの云うとおりや。ぼくは運転手のことも考えてる。ことに近ごろは運転のできる若い者が秘書で入ってきて、秘書兼運転手がどんどんふえてるがな。前からの運転手は、いつクビになるのやわからんいう不安があるわけや。彼らの弱い立場はぼくもようわかってるが、かというて、いっぺんに秘書も運転手も連合というわけにはいかんがな。まず、秘書連合をつくってからや。その組織がかたまって、しかるのちに専用運転手連の加入やなあ」  話し合いは、親睦裡《しんぼくり》に終った。  群像と歳時記  木沢と有川はホテルのレストランを出た。が、ロビーを横切るとき、有川が何かを見て足をにわかにとめた。顔は、コーヒー・ショップのコーナーへむいていた。  彼の視線の先に、そこのレジからこっちへ手をあげる男の顔があった。木沢も有川とならぶ。  男は勘定をすませ、二人のほうへ笑顔で近づいてきた。三十五、六くらいの、四角い顔で、肩幅が広かった。そのうしろに、細い身体《からだ》の、ショートヘヤーの女が遠慮そうに離れて立っていた。地味なワンピースで、茶色の手提げカバンを持っている。事務員ふうで、三十歳くらいだった。 「ご無沙汰しています」  頑丈なつくりのその男は、木沢と有川に頭をさげた。浅黒い顔に歯の白さが目立った。 「しばらく」  有川が男へ云った。が、いくぶんぞんざいな口調だった。 「お久しぶりです。今日は、また、お揃いで」  相手は有川と木沢とを等分に見た。 「昼メシを食べに来ましたんや」  有川が云った。 「そうですか。ご無沙汰していますが、丸山先生も宮下先生もお変りはございませんか」 「ありがとう。元気にしてはります」 「どうか両先生へよろしくおっしゃってください」  有川は軽く頭を動かしたあと、 「ところで土井君。顔見なかったようやけど、どないしてはります?」  ときいたが、ライトグレーの新しい洋服をりゅうと着こんでいる相手に眼をみはっていた。色は黒いし、肩幅はあるし、洋服のモデルのように似合った。木沢も同じく土井なる男の身なりをじろじろと眺めていた。 「はあ。わたしは、いま、こういうことをやっております」  ネクタイも、胸にのぞかせるハンカチも黒っぽく、それがうすい鼠色《ねずみいろ》の服にマッチして瀟洒《しようしや》だったが、彼はその上着の内ポケットから出した名刺入れより二枚を抜いて両人にさし出した。 ≪ライター 土井信行 事務所・東京都港区赤坂××、アダムズ・ホテル一三五号室≫ 「え、きみ、ここに事務所を持ってはるのんか」  有川はあらためてホテルの中を見まわした。 「はあ、少々身分不相応ですが、ここに居るほうが地の利を得て、なにかと便利なものですから」 「ライター」と名刺に刷った土井信行は、すこしテレ臭そうに頭に手をやった。その髪は油気がなくて長かった。 「そら便利にきまってるけど、きみ、こないな一流ホテルを借りてると部屋代かてものすごう高いやろ?」  有川が云った。 「相当なものです。でも、当分のあいだ長期滞在の契約ですから、かなり割引いてくれています」  土井は、にこにこしていた。 「たいしたもんやなあ」  有川は単純におどろいてみせ、 「ライターいうのんは、そないに収入のあるもんかいな?」  と、土井の服装をまた見た。 「ライターにもいろいろありまして……」 「きみは、小説か何かを書いてはるの?」 「小説などではありませんが」 「出版社から頼まれて、雑誌なんかに記録ふうなものを発表してるんですか」  木沢がはじめて口を出した。それにしては雑誌に土井信行の名を見たことがなかった。 「雑誌もありますが、ぼくのはおもに書き下しのほうです」  土井は木沢に顔をむけた。 「どういう方面の著書?」 「おもに政治経済関係です」 「あんたらしいね。そんな硬い本、このごろはよく売れるんですか?」  言外に、ベストセラーでもないと、こんな高価なホテルに事務所を持ってはいられないだろうという疑問を含ませた。 「ま、いろいろとありまして」  土井は、ここで彼のうしろのほうに佇《たたず》んでいる手提げ鞄《かばん》を持っている女性をふり返り、こっちへおいでというように顎《あご》を動かした。  短い髪のその女は遠慮そうにして進み出た。 「ご紹介します。このひとは佐伯昌子《さえきまさこ》さんといって速記者です。ぼくの口述を速記にとってくれています」  彼女は、二人に黙ってぺこりと頭をさげた。面長の顔は、眼がくりくりとしていて、口が小さかった。挨拶がすむと、すぐに前の位置に戻った。 「速記者を傭《やと》って口述とは、ずいぶん仕事が忙しいのやなあ」  有川がまた驚歎した。 「わたしは、右指がすこし不自由でしてね、短いものならゆっくりと書けますが、長いものだと書けないのです。ですからどうしても口述になります。もちろん、復原された速記には手を入れますがね」  立話が長くなりそうだった。 「すると、長篇が多いのですか」  木沢が土井に質問した。 「ええ、まあそうです」  土井は答えたが、なんだか話したがらないふうにみえた。彼は腕時計を見た。  有川は察しよく、 「どうもお邪魔したね。じゃ、ぼくらもこれで」  と云い、木沢もそばから口を添えた。 「まあ頑張ってください」 「ありがとうございます」  土井信行はていねいに頭をさげた。うしろの女速記者もそこからおじぎをした。  木沢と有川はホテルの正面玄関を出て、前で客待ちしているタクシーに乗った。 「永田町へ。衆院第一議員会館だ」  有川は座席に尻を落つけ直すと、隣の木沢に話しかけた。 「ちょっとびっくりしたなあ」  さっそく、土井信行のことだった。 「あいつ、どこぞへ消えてしもたと思てたら、ぱりっとしたかっこうになって、このへんに戻りよったなあ」 「うむ。『国会万朝報』の記者をしていたころはしけていたが、あのときとは見違えるようだ。おどろいたね」  木沢も同感だった。 「やっぱり、なんやなあ、永田町の泥水を飲んだ者は、いったんよそへ行ったかて、その泥水の味が忘れられんで、また永田町に舞い戻ってくるんやなあ。そうゆうの永田町周辺に、うじょうじょといっぱい居るがな」 「彼が永田町に、舞い戻ったって? アダムズ・ホテルと永田町とはだいぶん離れてるじゃないか」 「けど、地域は同じようなものや。このタクシーかて、二十分で議員会館へ着くがな。きみは、土井がライターで、政治経済の本書いてるというのんを聞いたやけど、そんな本書いたかて、アダムズ・ホテルに事務所を持つほどの売れっ子になれるのかいな。第一、土井信行いう名前を本でも雑誌でも見たことないがな」 「ペンネームで発表しているのかもしれない」 「ペンネームでか。そやな。……それにしてもやで、速記者使うて口述筆記するくらいに忙しゅうて、しかもあないなデラックスなホテルの部屋を借り切って事務所にするほど高収入になるのかいな? けったいやと思えへんか」 「土井は、東大法科中退で、もと全共闘のメンバー。六九年(昭和四十四年)の東大安田講堂を占拠した闘士の一人だというから、書くものは理論的に、ちゃんとしてるのかもしれない」 「その前歴がたたって、彼はええ会社に入れへんかったんやで」  タクシー内の話題は、しばらく土井信行のことになった。 「土井はな」  有川はつづけた。 「せっかくええ会社に就職しても、安田講堂の闘士という前歴がばれると、すぐにクビや。そいでどこへも行くとこあらへんかった。とどのつまり院内紙の記者になってた」 「ぼくもそれは聞いている。東大法科といえば、おとなしくちゃんと卒業しておれば、官界だと今ごろはどこかの省庁のエリート課長クラス、大企業でも中堅幹部のホープだろうにな。惜しいことをしたものだ」 「若いときあないな運動に熱をあげるのんは、よく云われるように、子供がハシカにかかったようなもんでな。ハシカが癒《なお》ってしもたら、けろりとしてる。けど、過激派全共闘の前歴がたたって、ええ就職先がないいうことでは連中後悔してるやろな。けどな、土井が院内紙の記者をやってたいうことは、あいつのプラスになったと、さっき土井に遇うてからぼくは思うたな」 「どうしてだね?」 「あいつにどないな本を書いてると訊《き》いたら政治経済関係やと答えたきり、あとの言葉を濁してたやないか。そのことと、あのホテルに事務所を設け、仕立下ろしの洋服を着こんで、女性速記者を従えてるいう豪勢ぶりとを考え合せると、こらやっぱり永田町関係の仕事やってるなと察したわな」 「永田町関係の仕事というと?」 「そこまではぼんやりと見当がつくけど、その先がわからん。まあそのうちにわかってくるやろと思うけどな。それを早う知りたかったら、あの女の速記者に聞いてみることや」 「彼女は土井にずっと付いているようだね」 「町の速記所の者やろが、仕事の上でコンビになっているらしな」  有川が「町の速記所」といったのは、議院事務局の速記部に対比しての表現だった。こちらが「官庁」で、一方が「民間」という観念からである。 「あの速記者は、佐伯昌子とか云うてたな」  有川は女の名前をすぐにおぼえていた。 「土井と佐伯昌子とは、もう出来たのとちがうか」 「さあ」 「事務所というたかて、ホテルの部屋やろ。土井の口述を彼女が速記するいうたら、ほかに人は居てへんのやろ。ほなら男と女がホテルの部屋で一対一やがな。土井は三十五、六や。女は三十かな。土井はあのように精力的な体格してて男臭い。洋服着てる格好もなんとのうスマートや。女のほうはそろそろオールドミスとみた。ホテルの密室で、口述者と速記者とがぴたりと息が合うのんは、ほかのことでも息の合うとこがあるのんとちがうか」  有川は鼻皺《はなじわ》を見せて笑った。  赤坂通りから山王坂を上り、第一議員会館の裏側がタクシーのフロントガラスに現れてくると、有川と木沢は期せずして本能的に腕時計をのぞいた。一時五分だった。 「きみとこのおやじさんは、会館に戻ってへんやろな?」  有川が隣へきいた。 「うちのおやじは、朝飯会からそのまま十時の逓信委員会へ行ったが、一時間もすると委員会を抜けて会館に戻った。それからぼくと打合せをしたあと、自治省へ行き、そこからまた午後一時から再開の委員会へ出ると云っていたので、四時までは帰ってこないはずだ」  木沢は云ったが、ちょっと考えてから、 「……もしかすると、そのままどこかへ回るかもしれない。そのうち電話がかかってくるだろうがね。なに、おやじの本音は、会館へ押しかけてくる陳情団や陳情組から逃げたいんだ。そのため、こっちはそれらをさばくのに手いっぱいだ。もう、うんざりだよ」  というと、有川も同調した。 「ぼくのおやじかてそうや。午前中は商工委員会を抜け出して会館の中をうろうろしてたけど、正午は昼食会から委員会や。ぼくも会館に押しかけてくるしょむない陳情を熱心なふりして聞いてやらんとならんわな。おやじはどこぞへ雲がくれして避難してる。秘書は陳情のあと始末に例のごとくあちこち走りまわらんならん。先生はなにぶん公用で多忙で、と、いかにも活躍してはるようにこっちゃはおやじの体裁をつくろい、代ってよろず陳情を承らなならん。そんなことおれ知るかいとばかりおやじはわれわれに同情も何もあらへん。これで、がみがみ怒鳴られた上、身分の安定がないいうたら、あんまり情ないがな。こらどうしても早いとこ秘書連合をつくらなあかんで」  彼はまた木沢にその努力を望んだ。 「わかった。……ところで、さっきはうっかりしていたが、私設秘書を秘書連合に加えるとなると、女性秘書はどうするかね。それもいっしょに入るようにすすめるのかね?」  木沢は煙草を座席の灰皿に揉《も》み消しながらきいた。 「そのことや。そらぼくも考えてるが、女性秘書はあと回しにしよう。まず男性秘書の組織をかためてからがええやろ。というのんは、女性秘書いうたかて、質的に男性秘書とはちがうさかいな。それに、はじめから女性秘書を入れたら、なかには、先生とえろう仲のええのんがいて、すぐに内通しよるがな。こら危険やで」  ここまで有川が云ったとき、タクシーは衆議院第一議員会館の正面出入口の車寄せに、ぴたりとついた。  すれ違いに、院内紙記者西田八郎の見すぼらしい姿が横から出て行った。  木沢が仕える宮下正則議員、同じく有川の丸山耕一議員が、それぞれ所属する逓信委員会、商工委員会を途中で抜け出て議員会館に戻ったり、よそへ行ったりするのは、現在、保守党が両院で絶対多数を占めているおかげだった。与野党の数が伯仲していたころは、委員会や本会議に釘《くぎ》づけとなり、党の理事が絶えず出欠をチェックするという厳しさだった。  いまは、それら常任委員会から三人や五人が途中で脱出しようと大勢になんの影響もなかった。それに、委員会の議事進行時間は、ほとんどシナリオどおりだから、採決が何時ごろにあることも心得ている。その採決の時間まで委員会へ戻ればよかった。  逓信委員会や商工委員会などは、世間の耳目を聳《そばだ》たせるような大問題はめったに起らず、紛争もないので、こうした平静な委員会、別な言葉でいえば、平凡で退屈な委員会には、新聞記者たちもよりつかず、テレビも入らない。したがって委員がそこから抜け出てもすこしも目立たないのだった。  議員のそうした行動を知悉《ちしつ》しているベテラン秘書の木沢と有川は、自分たちの行動をそれに合わせて決めていた。  二人が会館の中に入ると、ホールにならぶ三つのエレベーターの前には、陳情組の人々が群れていた。右端の一台は議員専用で、この前だけはすいている。  二人は陳情組のうしろをこっそりとまわって、奥へ行き、すぐ右に曲った。そこにもエレベーターが二つあるのだが、ホールから隠れているので外来者は気づかず、ここにはだれも待っていなかった。荷物運搬専用エレベーターはもう一つ折れ曲ったうしろにある。  二人がそこでエレベーターの降下を待っていると、上の標示数字が「1」となり、同時にドアが開いた。乗っていたのはたった一人で、痩《や》せた小さな老人であった。うつむきかげんにエレベーターを出たが、その顔がひょいとあがって、待っている二人の正面と合った。 「やあ」  ふいと足をとめたのは年よりのほうだった。 「しばらくだな」  七十に近いと思われるが、それよりも年とって見えるのは、顔に肉というものがなく、眼はくぼみ、鼻梁《びりよう》が隆《たか》く、頬はすぼみ、唇が内側にまくれこんでいるからであった。 「おや、大原さん」  二人はいっしょに声を出して頭をさげた。 「おめずらしいんですね、会館でお目にかかれるとは」  木沢が、その老い過ぎた顔に云った。  大原省吾といって、入江宏文議員の古い秘書である。入江議員は当選十三回、数度の大臣経験者だった。  大原省吾は、入江宏文議員が昭和二十四年初当選して以来の秘書で、議員秘書の大先輩であった。 「うむ、いま、二階の入江の部屋をのぞいてきた」  老いて身体が小さくなった男は、反《そ》り身《み》になって二人に云った。 「入江先生は、こちらの事務所にお見えになってらしたのですか」  木沢が訊《き》いたのは、入江宏文は赤坂山王ビルに事務所を開設していて、この議員会館二階の事務所には女事務員二名を置くくらいで、ほとんど姿を見せないからである。  大物議員ともなると、入江にかぎらず皆がそうで、外部に広い事務所を持ち、会館には名札がかけてあるだけだった。それなら会館のほうを返上してもよさそうなものだが、やはりこっちが「正統」という意識からか、院内紙記者西田八郎がひそかに名づけた「議員長屋」を出て行こうともしないのである。  この大原秘書は、現在は麹町《こうじまち》の西丸ビルという古い建物の中にある入江宏文事務所に、他の老秘書五人といっしょにたむろしている。これは以前の入江事務所だった。現在は赤坂山王ビル内になっているが、議員自身は古いほうの麹町には寄りつかない。赤坂のほうは、若手秘書たちでかためている。  当選十三回ともなると、最近の秘書の年齢がだんだん若くなってきている。年寄った古い秘書たちはだんだんにふるい落されるのだ。だが、党人派で、人情家の入江宏文は、用済みとなった秘書たちへ金を払わないかわり、麹町のビルの旧事務所を彼らのために残し、彼らが使う「入江宏文秘書」の名刺も黙認していた。その名刺によってかれらにいくらかでもヨロクがあればと、それを目こぼししていた。 「ちょうど、いいところで、きみたちに遇《あ》った。きみたちに進呈したいものがある」  大原は着古した旧《ふる》い型の洋服のポケットから四つに折った紙五、六枚重ねたのを二束とり出した。 「大原さん。何でっしゃろか」  有川は議員秘書の大先輩に、ふとった腰をかがめた。 「ぼくはね、歳時記をつくったんだよ」 「歳時記? あの俳句のでっか」 「普通の俳句歳時記ではない。ちょっとばかり趣向が変ってる」  大原は痰《たん》のからんだ声で云った。 「へえ」 「まあそれをあとで読んでもらったらわかるが、いうなれば、国会議員と秘書の年中行事を書いてみたのだ。それに歳時記ふうに季節の俳句を入れたのが、ぼくのミソだ」  老秘書の痩せた顔に得意気な色があった。  エレベーターは目の前で何度も上り下りした。だが、木沢も有川も、大先輩に阻まれて、そこから動くことができなかった。 「国会のしくみや、議員や秘書の日常的な仕事のことは一般の人にはよくわかってないでな」  大原省吾は、まくれこんだ唇をもぐもぐ動かして二人に云った。 「新聞には本会議や予算委員会、決算委員会などでの議論は派手に報道されているが、その他の各委員会の発言はあまり出てないね」 「そのとおりです」 「けど、国会の議論ばかり読まされても、議員活動生活は一般にはちっともわかってない。そこでぼくは、国会の開会、休会期の一年を通じて議員と秘書の日常生活を一覧表ふうにこしらえてみたのだ。それだけでは無味乾燥だろうから、それに因《ちな》んだ四季の俳句を入れて、潤いを与えてみたんだよ。句はおもに自作だが、普通の歳時記から拝借したのもある」 「俳句をつくってはるんですか」 「下手の横好きさ。顔が赤くなるような月なみの句や駄句ばかりだがね」 「なるほどそれは面白い着想ですね。そういうのがあったら、先生方やわれわれ秘書の日常活動もひろく理解されますね」  一部をもらった木沢は、折りたたんだ紙に眼を落して云った。 「新しい試みだが、今までになかったものだから、注目をひくと思うよ」 「きっと大好評を博しますやろ」  有川がおだてるように云い、これから拝見しますけど、と批評を留保した。 「まあ読んでくれたまえ。いまのところは仮りにタイプを複写したのだけどね。まだ完成してない。きみたちの意見など聞かせてもらったうえで続きを書きたい思っている。……ねえ、きみ、こういうものを出版してくれるところはないだろうかね?」 「さあ」 「出版社もきっと儲《もう》かると思うがねえ」  大原と別れ、エレベーターに乗ってから二人は話し合った。 「入江先生とこのジイさま秘書たちは、麹町の旧事務所で、毎日碁を打ってはるかとおもてたら、大原老人のようにこないなものを書くのんも居るのやなあ。なにしろヒマをもてあましてはるジイさまばかりや」 「老人たちは麹町の旧事務所へまだ秘書のつもりで通ってるそうだよ。健康法にはたしかになるだろうが、いささかウラ悲しいね。永田町の泥水は老人にも忘れられないんだね」 「それそれ、それやからわれわれは早いとこ秘書連合をつくらなあかん。大原老人の姿が、われわれの身の涯《は》てやで」  エレベーターの中で有川は木沢の肩をたたいた。  大原省吾老秘書のくれたプリント。——  「国会歳時記」 (大原省吾作製)  通常国会(常会)は、毎年十二月中に召集されるのが常例です。常会の召集詔書は、すくなくとも二十日前に公布されなければなりません。常会の会期は百五十日間です(国会法第一条、第二条、第一〇条)。  ○猟人が犬に餌《え》をやる師走かな     ×  十二月中旬に召集された常会は、五月下旬までつづきます。ほとんどの場合、六月下旬ごろまで延長されます(国会法第一二条)。  ○初春が麦秋にうつらふ泥の水     ×  臨時国会(臨時会)は、内閣の必要に応じて召集されます。いずれかの議院の総議員の四分ノ一以上の要求があれば内閣はその召集を決定しなければなりません(憲法第五三条。国会法第三条)。新議員初登院風景の写真は新聞を賑《にぎ》わす。  ○初富士や子山孫山うぢやうぢやと     ×  特別国会(特別会)は、常会とあわせて召集することがあります(国会法第二条の二)。  休会は、両院一致の議決により会期中にその活動を一時休止することです。年末から年始にかけてのいわゆる「自然休会」がそれにあたります(国会法第一五条)。中堅・新人議員は選挙区に帰って自ら各方面への挨拶回り、または年賀客を引きうけます。  ○礼受《れいうけ》も、座敷礼者と門《かど》礼者 (これは議員の礼受も、票につながる軽重の度合によって礼者を奥座敷に通すのと、玄関先で挨拶を受けるのとあることです)     ×  常会、臨時会、特別会の閉会は会期の終了をもって閉会となります。  常会は、六月末に閉会になりますから、十二月中旬まで議員の身体《からだ》は空きます。この間に議員によっては海外視察旅行に出ます。近ごろ、これがとみにさかんです。  ○先生は外国遊びや秘書の夏     ×  各議院には、委員会は、常任委員会と特別委員会の二種があります。常任委員会は内閣委員会から懲罰委員会まで十六あります。両委員会は閉会中でもこれを審査することができます(国会法第四一条、第四七条)。  大原省吾の「国会歳時記」は、次に議員と秘書の院内活動を中心に時間単位に書いてあった。  議員は、A(大物)、B(中堅)、C(一、二年生)の三区分となっているが、BとCとはだいたい共通している。☆印は議員、△印は秘書。  八時三〇分。——  ☆は党本部で、部会。これがいわゆる「朝飯会」です。  △は議員宿舎へ議員を車で迎えに行き、党本部へ送ります。いっしょに朝飯会へ出席することもあります。終了後、議員を本院へ送ります。  九時三〇分。——  ☆は委員会理事会へ。(Bのみ。Cは議員会館へ行って秘書と打合せ)  一〇時。——  ☆は本会議または委員会へ。  △は議員会館の事務所で陳情団、依頼者の接待およびその処理にとりかかります。  一二時。——  ☆は昼食。議員会館地下一階の議員食堂か外食。  △は昼食。議員会館地下二階の一般食堂か外食。  なお、日によって一二時から派閥事務所で派閥会合があり、☆はそこで昼食を共にしながらの勉強会となります。これがいわゆる「昼飯会」です。  一二時三〇分。——  ☆は代議士会。  △はこれより関係官庁、会社へ挨拶まわりをします。  一三時。——  ☆は再開の本会議または委員会へ。  終了後。——  ☆は議員会館または外部の事務所(ビルやホテルを借りている)へ戻ります。  そこで△と☆とは打合せ。陳情など事務処理をします。  一七時。——  ☆は議員宿舎または自宅(都内居住者)へ戻ります。派閥で夜の会合(料亭など)があればそれへ向います。財界人に招待されることが多いです。運転手の送り。  一九時。——  △は帰宅します。場合によっては派閥の秘書どうしで気楽な夜の会合(料亭・料理店など)をします。  以上は、B・Cを対象にしたものですが、Aとなると「大物」だけに、これとは違う点があります。たとえば早朝から来客や陳情団が押しかけるために「朝飯会」に出席できなかったり、来客の重要度によっては、本会議や委員会には出席しません。したがって、△の行動も、B・Cのそれとは異なります。  議会開会中の議員と秘書の毎日は、だいたい以上述べたとおりです(個々について多少違うのはいうまでもありません)。議員Aは、大物なので、会期中も休会中も選挙区に帰ることが少く、活躍の舞台は主として東京です。それは地盤が安定しているためです。選挙区へは議員夫人が主人の身代りとしてたびたび行くことがあります。  地盤の安定していないB・Cクラスの議員は、議会の会期中でも選挙区と東京とを毎週往復しています。  会期中の一週間の日程は次のようにきまっています。  月 本会議・委員会ナシ  火 本会議  水 委員会  木 本会議  金 委員会  土 本会議・委員会ナシ  日 休み  したがって、B・C議員は金曜日の夕方から列車、飛行機などで選挙区に帰り、月曜日に選挙区から東京へ来るという慣習になって、ここに「金帰月来」の語が生れます。  ○忙しさ金帰月来|虻《あぶ》の翅《はね》     ×  派閥の会合はしばしば行われます。親睦《しんぼく》を兼ねた情報持ちよりの場でもありますが、一つには派閥の結束を固め、離脱を防ぐためです。派閥の会合に出ないと猜疑《さいぎ》の眼で見られるおそれがあるので、議員または代理の秘書が無理してでも出ます。  ○浮草の茎ひつぱられてそよぐかな     ×  同じ党内でも、各派閥は分離行動をとっているわけです。  ○群あるも目高《めだか》の列は重ならず     ×  派閥には婦人議員が入っています。とくに参議院議員には、婦人のタレント議員の多いことはご存知のとおりです。  ○緋《ひ》目高の小さなるほどせはしなや  立子     ×  議員が派閥に所属するのは、第一に、そのボスによって資金、大臣のイス、利権をめざすからです。  ○水の月つかまむとて手長のつなぎをる    (注。手長は手長猿)     ×  なかには派閥を転々とするたびに、そのボスを貧乏にする口八丁手八丁の剛の者もいます。  ○つぎつぎと殻を変えゆく寄居虫《がうな》かな  (注・「ごうな」はヤドカリのこと)     ×  ——休会中の議員と秘書の行動のことは、またあらためて稿を継ぐことにします。  陳情処理  議員会館の宮下事務所には、午後もひきつづき陳情団や陳情組がきた。  大挙して押しかけてくるのが陳情団、二名から五名までの代表がくるのが陳情組と秘書らは名称を区別していた。  陳情団が本格的にたけなわになるのは、秋の予算編成期からだが、それでも四月の今ごろもかなり多かった。  陳情は、議員が金帰月来によって選挙区から持ちこんでくるのもある。だれやらは、それを銀行にたとえて、地元で預金させ(集票)、東京で貸付けし(陳情の実現)、それによって利息をとる(集票の拡大)といった。  陳情は、団体単位のものから一個人のものまで多種多様にわたっていた。宮下議員事務所では、陳情内容をリストにしてそれぞれ四つに区分している。   ◎ ○ △ ×  競馬予想表式の印だが、これはどこの議員事務所でも似たり寄ったりであるらしい。  ◎は、絶対に実現させなければならないもの。票と有力に結びついている。  ○は、可能ならば実現に努力するというもの。  △は、どうでもよいもの。  ×は、はじめからとりあう気持のないもの。  これらは票の結合という面からだけではなく、実現可能性の濃度とも組み合されている。  実現の不可能な陳情の場合でも、はじめから断ってはならない。秘書は「努力します」と云う。絶対に「大丈夫です」とは約束しない。まずたいていは「○○(議員)に伝えておきます」と答えて、言質をとらせない。  保守党の議員はほとんどいずれかの派閥に属しているか、その近くに身を置いているかしている。  各議員は十六の常任委員会と七つの特別委員会のどれかに属し、保守党内では各部会に所属している。部会員はまたいずれかの派閥に入っている。保守党の各派閥とその構成人員の名は、「国会便覧」などに明記されている。  陳情内容によっては、受けた議員が派閥内の他の議員にこれを依頼することが多い。たとえば、陳情を受けた議員が文教部会で、陳情内容が建設関係だったら、その実現方を建設部会の議員に依頼する。各部会に所属する議員はそれぞれの省庁に強い者ばかりだ。議員がその省庁出身のOB官僚であったり、影響力のある者だったりして、一種の専門的な職能をもつ。  このようにして、議員間相互に陳情が交換される。陳情の成功には献金が付く。したがって派閥は「商人ギルド」ということができる。大臣の椅子などの栄誉獲得以外、派閥の解消が容易にできないのはそのためでもある。  当初から実現不可能とわかっている陳情を議員や秘書はどのように処理するか。  頭から拒絶しないで、引き延ばし戦術に出るしかない。「いま極力やっておりますから、もうしばらくお待ちください」などと云う。これを適当な時日をおいて繰り返すのである。  もちろん議員も秘書も放っておくわけではない。依頼主が、ほんとうにやってくれてるだろうかと疑念を起し、念のために関係官庁に当ってみるかもしれないからである。  その手当てとして、議員なり秘書が当該省庁の課長あたりに会うか電話するかして、一応の依頼をしておく。実現不可能とわかっているからそれは熱心でなく、いわばお義理である。課長もそのへんは心得ていて、もしほかから問い合せがあれば、たしかに○○先生からお話を承っております、と調子を合わせてくれる。陳情者はそれを聞いて、やはりあの議員は働いてくれているのだなと信頼する。  かくて、引き延ばしが数度にわたり、遂に「ずいぶん努力しましたが、なにぶんにも壁が厚く、力及びませんでした」と、秘書は先方に平伏する。この引き延ばしはできるだけ長いほうがよい。あまり早く断ると、先方が議員の誠意を疑うからである。  これに対して、票田に強く結びつく陳情には、たとえ絶望的な困難があろうと、「票」の圧力から、なんとしてでも達成に邁進《まいしん》しなければならない。この場合、部会の議員に依頼することはもとより、派閥の首領に動いてもらう。首領はそこで「政治折衝」なるものをやってくる。そうなると、さしも不可能事にみえたものも、ある程度の成果を得ることができる。  票以外に「金」に結びつく陳情がある。たとえば、公共事業の建設工事関係である。これは複数の業者が複数の議員に受注を依頼するために、議員間に競合が生じる。ある新聞は書いた。 ≪建設省に少しでもかかわりのある代議士の波状攻撃は大臣室から国会の委員会室、派閥の朝飯会へと続く。大規模工事であるため実質的に大手五社にしぼられてきたが、政治力にモノをいわせようという動きは、かえって強まる。当然のことに超大物大臣も登場する。「うちには五社も頼んできましたが、よろしく」「なんとかうまくやって下さいとのことです」——超大物らしく電話してくるのは秘書。 「某実力者が建設省に強い党派の幹部を通じて○○建設にやらせる線を決めたそうだが」「建設省幹部の天下りと引き換えに○○組に請け負わせるらしい」。秘書は代議士ではとても入ってゆけないような場所へも飛び込む。担当者にも気軽に働きかける。各種の陳情に慣れているから急所を突くのもうまい。——議員会館には、あれは某建設会社の国会営業所だとささやかれる議員部屋さえある≫  宮下議員事務所では午後三時半ごろ、選挙区からの陳情団二十四、五人が来ていた。来春、町で公民館を改築したいので、国から補助金を出してもらってくれというのである。公民館の横には国体でも誘致できるような総合運動場を造りたいという。まるで規模が大きい。町や県の地方自治体の予算では手にあわないのである。  それだと文部省の管轄である。秋の予算編成期になってからでは遅いので、いまから陳情にやってきたと、代表格の町会議長と町会議員と、商工連合会の会長とがこもごも述べた。  二十数名も来られると、秘書室だけでは椅子と補助椅子に代表四人が坐るだけがせいぜいで、あとはそのうしろに立ち、廊下にこぼれ出る。宮下議員は、よほどのことがないかぎり陳情団を奥の部屋に通すのを嫌うので、いまも秘書室との仕切りドアはぴったりと閉められていた。  陳情を承って問答しているのは木沢房吉で、第二秘書の堀口武夫は横で傍聴の格好であった。女秘書の小島幸子はお茶をすすめるのに余念なく、それを運転手の中村光次が手伝っていた。中村は地下四階の運転手控室の大部屋に居るのだが、議員の用事のないとき、事務所が陳情客で忙しくなれば木沢が呼んで手伝わせていた。  四十半ばの中村は無格好な手つきで廊下の人々に盆に乗せた茶を配っている。彼はこの部屋の前の主、つまり宮下が地盤を譲り受けた前議員に付属した運転手だった。前議員に付いていたころは若かったが、いまは年とっている。  木沢は中村をやめさせ、若い秘書兼運転手を入れたいと思うのだが、宮下は前議員から地盤と共に運転手をも譲りうけたという律義な気持があってか、中村をやめさせることには直ちに同意しなかった。そのままぐずぐずと過している。——  そこへ委員会が終って本院から宮下が戻ってきた。  宮下はわが事務所に溢《あふ》れている陳情団を眼にして、とまどった顔をしたが、陳情団のほうは、当の議員が帰ってきたので、とり巻かんばかりにして近づいた。手をさし出す者が多かった。  先生、先生、と云うのに、宮下は困惑の表情を一瞬に明るい笑顔に変え、 「やあやあ」  と大声で云いながらそこにいる一人一人と握手した。  秘書三人は、椅子から立ち上って宮下にうやうやしく頭をさげた。地元の連中の前ではとくに議員に敬意を見せねばならなかった。  宮下議員は、秘書と陳情団とが相対しているのを尻眼に、 「やあやあ」  と声だけかけながら、自分の執務室になっている奥の部屋へさっさと入り、仕切りのドアをぴしゃりと閉めた。  陳情団の幹部たちがドアの前に行き、 「先生、先生」  と呼びかけるのを、宮下は中から明るい声で答えた。 「あとでお眼にかかります。いま、ちょっと手が放せませんので」  木沢が連中をドアの前から丁重に引きはなした。 「宮下はここへ出てきますから、しばらくお待ちください」  その間、秘書に話していた陳情は中断の形となり、議員が現れるのを待っていた。  運転手の中村は、茶を配る手伝いが終ったとみたか姿を消していた。  やがて奥の部屋から電話をかける宮下の大きな声がドア越しに聞えた。はあ、約束でしたね、これからすぐに行きます、などといっている。  奥の部屋の電話と、小島幸子の机上の電話とは親子電話になっていた。もし彼女が眼前の受話器を取って耳に当てたら、宮下が相手なしにひとりでしゃべっているのを知ったであろう。いったいに議員はあらゆる意味で演技者であった。  ほどなく女秘書の電話が鳴った。 「いまから出かけるので、すぐ車を」  受話器の議員の声はまわりに洩《も》れるほど高かった。  小島幸子が受話器を置くとすぐにダイヤルを回した。キー・ボックスですか、こちら宮下正則の部屋です、車を呼んでください。  何秒とたたないうちに、会館中にアナウンスが響いた。 「宮下先生の運転手さん」  すべてが間髪を入れないといったほどの運びであった。  あっけにとられている陳情団の前に、宮下がドアを開けて奥から現れた。  陳情団の幹部が彼へ寄った。 「先生、公民館建設に国から補助金を付けていただきたい請願の件ですが」  宮下は、にこにこして片手を挙げた。 「申し訳ないですが、これから党の重要な会議がありますので、そっちへ出かけなければなりません。お話は、木沢と堀口によく聞かせておいてください。わたしはそれを承って、でき得るかぎり実現に努力いたします」  失礼、失礼、と笑顔の宮下は頭をさげながら陳情団をおし分けるようにして廊下へ出た。正面玄関まで見送るため小島幸子があとを追った。  廊下を歩く宮下は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、口を曲げていた。陳情団に見せていた莞爾《かんじ》とした仮面はもう必要なかった。あるのは、陳情団を煩《うるさ》がっている生地《きじ》の顔だった。  足早に議員専用のエレベーターへむかっていると、横の手洗所から西田八郎が忽然《こつぜん》として現れた。 「先生。宮下先生」  宮下はふりむいた。 「なんだ、きみか」  また顔をしかめた。  風采《ふうさい》のあがらぬ院内紙記者は、よごれたような顔に媚《こ》びるような笑いを浮べていた。 「昼前に会館の一階でお見かけしてから、先生をお待ちしていたのです」 「そうだったね。ぼくも忙しくてね」  議員は、しつこい奴だという表情を見せた。 「先生、十一月には総裁選がありますね」 「うむ、あるね」 「各派閥とも、ご存知のように、動いています。まだ表立つことを警戒していますが、底流では相当に激しいです。ついては、面白い情報があります」 「ふむ?」  どうせ、いい加減な「情報」だろうと宮下は思った。小さなことを、たいそうなことのように拡大して、さも重大そうに言うのがこの手合いだと考えている。目的は金せびりにある。  だが、まるきり相手にしないのも不安であった。とるにたらない話だとは思うけれど、なかにはきらりと光る宝石のような情報があるかもしれない。骨董品《こつとうひん》を集める者は、ニセモノを承知で買う。そうしないことには骨董屋がホンモノを持ってこないからだと聞いている。  それに、この男は、同じ「内緒話」をほうぼうの議員に云うにちがいなかった。自分だけがそれを知らないのはやはり気になった。一応は何でも心得ておかなければならない。ことに総裁選が十一月と決まっている折柄である。他の者が聞いて平凡な話でも、自分だけが感得するヒントがあるかもしれないのだ。それに、院内紙記者には適当につき合っておかないと、逆に悪口を云いふらされるおそれがあった。迷惑を受ける。  宮下が廊下の端に寄って立ちどまったので、西田八郎はその横にぴたりと付いた。丈の低い西田は伸び上るようにして宮下の耳に数秒間ささやいた。ひどくまじめな顔である。  なんということもない内容であった。聞き終った宮下には予想どおりの失望だった。 「ぼくの部屋へ行ってね」  宮下は眼を輝かせている西田に云った。 「木沢に出してもらいなさい。ぼくがそう云ったといって」  金のことである。  宮下議員は、衛視の挙手を受けて、正面出入口へ向う低い段をたらたらと下りた。向うから野党の議員が来た。知合いである。互いに、よう、と声をかけ合ってすれ違った。  車が横づけになって、運転手の中村がドアを開けて待っている。傍《そば》に小島幸子が立っていた。  宮下は車に片足を入れかけたが、幸子をふりむき、思い返したように足を引込めてもとの姿勢にもどった。眼で呼ばれた小島がその傍に行くと、 「あの連中が帰ったあとは、どういうのが来るかね?」  と訊《き》いた。陳情団の予定だった。 「はい」  小島秘書がポケットから手帖《てちよう》を出した。赤い、可愛い表紙を開いて云った。 「これから××県議会議長、県副知事、県総務部長、それに大学の先生五名の方々が、埋蔵文化財発掘調査促進に関する件でお見えになります」  ××県は選挙区の隣の県であった。票には関係ない。陳情団は近県選出の議員を次々と回るだけであった。 「古墳でも早く掘りたいというのだろう。適当に云って帰してくれ」  宮下は興味なさそうに呟《つぶや》き、 「次は?」  と訊いた。ついでに彼女の汗ばんだ顔を見た。どこかのナイトクラブの女を思い出した眼だった。 「その次は地元の個人です。二件とも車関係です。一件は交通違反で免許を取り上げられそうなので、それをくいとめてほしいというドライバーの依頼です。本人が東京に遊びに来たついでに会館に寄ると云っています。これは先生が地元へお帰りになったときに引き受けてこられました」  車がふえているので、こういうのが多い。交通違反の罰則適用は、早急に手を打てば、コンピューター処理前に、それをまぬがれさせることができる。各都道府県警本部所管だ。  金帰月来の議員も、地元で雑多な陳情を背負いこんでくる。 「庄司君とこに連絡してあるだろう?」 「はい、庄司先生の第一秘書村田さんに頼んであります。その交通違反が悪質なので罰は仕方がないが、三十日間の免許停止ぐらいにはできるそうです」 「本人が来たら、これから気をつけろと云いなさい。もう一つはなんだね?」 「個人タクシーの免許申請です。県の陸運事務所に出してあるが認可されないので、陸運局にプッシュしてほしいというのです。やはりご本人が会館に来ます」  全国の個人タクシー免許は運輸省地方陸運局が行っている。 「まあ適当に頼むよ」  宮下はいかにも面倒臭いという顔で車の中へ入った。  衆議院に出される請願と陳情は、毎日の「衆議院公報」を見ればわかる。  「請願書受領」の項。  ○小規模住宅団地の固定資産税、都市計画税の税額凍結に関する請願(××君紹介)第—号。○私学の助成に関する請願(××君紹介)第—号。○学校事務職員の待遇等に関する請願(××君紹介)第—号。○療術の制度化阻止に関する請願(××君紹介)第—号。○老人医療の有料化及び年金スライドの実施時期延期の中止に関する請願(××君紹介)第—号。○民間保育事業の振興に関する請願(××君紹介)第—号。○電話加入権質に関する臨時特例法の期限延長に関する請願(××君紹介)第—号。○腎疾患総合対策の早期確立に関する請願(××君紹介)第—号。  この日の請願は四十八件、通計千五十七件である。  「陳情書受領」の項。  ○靖国神社の祭祀《さいし》法人化に関する陳情書(××県××町議会議長外八名)(第—号)。○旧軍人・軍属恩給欠格者に対する恩給法等の改善に関する陳情書外七件(××県××町議会議長外七名)(第—号)。○北海道東北開発公庫の存置に関する陳情書外九件(××市議会議長外九名)(第—号)。○農地の固定資産税据え置きに関する陳情書外七件(××県議会議長外二十三名)(第—号)。○土地価格の評価替えによる固定資産税の増税中止に関する陳情書(××県議会議長)(第—号)。○暴走族の取締まり強化に関する陳情書(××市議会議長)(第—号)。○スパイ防止法の制定促進に関する陳情書外二十四件(××県××町議会議長外二十四名)(第—号)。○塩及びたばこ専売制度存続に関する陳情書外五件(××市議会議長外五名)(第—号)。○金融機関の週休二日制に関する陳情書外三百九十九件(××銀行労働組合執行委員長外三百九十九名)(第—号)。○高校新増設に関する国庫補助増額等に関する陳情書(××県議会議長外九名)(第—号)。○理容師の資格免許制度堅持に関する陳情書外二件(××県議会議長外二名)(第—号)。  これらの請願書・陳情書は各常任委員会および各特別委員会に送付される。  右のうち旧軍人・軍属に関するもの、農地農業に関するものは、議員が必死になって実現に努力しなければならない。ほとんど超党派だ。尨大《ぼうだい》な票田である。これら票田に微笑をむけられるのと、顔をそむかれるのとでは、たちまち当落に影響する。  ——以上のようなもののほかに公的・私的のゴミのような陳情が各議員に殺到する。  会館の宮下議員室では夕方五時まですべての陳情に対する処理方針がきまった。  第一秘書の木沢房吉が主任格で、自分自身が処理しなければならないのと、第二秘書の堀口武夫に分担させるぶんとを二つに仕分けた。  木沢は件数を多く抱えこみ、堀口には仕事を少ししか分配しなかった。それも走り使いに近い詰らぬものばかりだった。  第一秘書の命令は絶対だが、若い堀口は自分の受持を不満そうにしていた。木沢に面とむかって抗議もできず、ふくれ面をしている。そうして、ときどき小島幸子に同情を求めるようにちらちらと眼をむけていた。 「これと、これと、これはな」  木沢は堀口に云って聞かせた。 「ぼくが各部会の議員さんや秘書らに会って依頼しなければならない。また、役所へ行って役人に頼む。それには前々からの顔がなければならない。君にはまだそこまでの経験がないからね。だから、こっちのほうを手伝ってほしい」  正面から抗議できないだけに、堀口は口を尖《とが》らせて出て行く。そういう彼を木沢は皮肉な笑いで見送るのだった。  いつぞやはこういうことがあった。堀口が木沢の居ないとき、宮下議員に直訴して、ぼくにも、もっとやりがいのある仕事をさせてください、とたのんだ。 「国家老」から押しこまれた第二秘書だけに宮下も堀口に気を使って、彼の留守に木沢を呼び、堀口にも本人が一応満足するような仕事をやらせたらどうか、と云った。木沢は笑って答えた。 「そのうち本人が馴《な》れたら適当な仕事をしてもらいます。先生、堀口君のことはぼくにお任せください」  議員は黙った。  堀口がひとりでこそこそとどこかの企業に行って、たいした額ではないが、もらった金を議員に得意そうに渡すことがあった。  宮下の居ないとき、木沢は堀口を叱った。 「たとえ、おやじが君に直接命令したとしても、その報告は第一秘書たるぼくにちゃんと報告してくれなければ駄目じゃないか。ぼくが先方の人に会ったとき、何も知らなかったでは困るよ」  この抗議は、ほんとうは宮下に云う筋合のものだった。が、秘書は正面きって議員と衝突することができなかった。議員には、せいぜい笑いながら皮肉を云う程度だった。  小島幸子は議員部屋の中で働きながら、第一秘書と第二秘書とのこうした暗闘、そして第一秘書と議員との心理的な小競合いを眺めていた。  小島幸子は、ネズミのような感じのする堀口武夫にあまりいい気分を持っていなかった。彼が何かと過剰な親切をしてくれることも、部屋で二人きりになったとき、臆病げだが、とかく馴れ馴れしく話しかけてくるのも嫌であった。好意を持たれているのが迷惑であった。  こそこそしていて、始終人の顔色をうかがうような堀口の小賢《こざか》しいところがネズミを連想させた。きれいに別けた髪はポマードでいつも光っていたが、小さな丸い眼や尖《とが》った口も、その小動物を想わせた。  堀口が地方の選挙区から来たときはお国言葉がひどかったが、短い間にすっかり東京語となり、いまでは六本木や青山|界隈《かいわい》の通《つう》ぶりをひけらかすようになっていた。  堀口はなによりも自分が国家公務員の議員秘書であるのを意識していた。 「ぼくには汚職ができませんよ。国家公務員ですからね。バレたらすぐに手がうしろにまわります」  堀口は幸子などの前でこんな妙な自慢をした。第一・第二秘書以外は「民間人の秘書」という意識が彼にあった。小島幸子も秘書とはいえ正規の資格は事務員である。 「国会案内」といった類書には、議員とならんで第一秘書と第二秘書の名が記載されている。彼は「堀口武夫」の活字をどんなにか心足りた眼で眺めているかしれなかった。なにをさせても満足な仕事ができないという木沢の堀口評などは、この国会案内書には一行も出ていなかった。  堀口は幸子に話しかけるとき、こんなことも云った。 「ねえ小島さん。この議員会館の裏門ね。山王坂に面しているでしょう。あそこが男性秘書と女性秘書との待合せ場所になっているのを知っていますか」 「知りません」  小島幸子はそれをとっくに知っていたが、わざとそう答えた。 「ぼくね、昨日の夕方に目撃したんですよ。会館裏側の五階の窓から見下ろしてたから相手は気づかないです。人間の心理として左右は見渡すが、上のほうは見ないものですね。女性秘書が裏門の内側に立っていると、会館正面のほうから回ってきた男性秘書の車がその位置にとまる。すると、待っていた女性秘書がさっと駆け寄って車の中に目にもとまらぬ早さですべりこむんです。車はすぐ赤坂方面へ走り去りましたよ」  小島幸子の気を引くような話しかただった。  小島幸子は、同じ部屋にいる堀口武夫を不愉快に思うことの自然的均衡から、木沢房吉には親しい気持を持った。  木沢と自分とは二十近くも年齢が違うし、男女的な意識になることはなかった。だから木沢に誘われると、夕食なども平気で行った。木沢は、どちらかというと醜男《ぶおとこ》のほうだった。 「今日ね、木沢さんがいらっしゃらないとき、先生がご自分で奥の部屋から大浦商事に電話をかけておられましたわ」  レストランでワインを飲んでいるとき、小島幸子は、つい心安だてに口に出した。気楽な心地からだった。 「ああそれはお礼の電話だろうな。あの会社にはぼくが一昨日行って頂戴《ちようだい》ものを受けとり、おやじに渡したからな」  木沢は日常的な話のように云った。 「ええ、そのようでしたわ。そのときは堀口さんもお使いに出ていて、先生とわたしと二人きりでした。わたしがお茶を持って奥の部屋のドアを開けたとき、たしかに一つ半をいただきました、どうもありがとう、と先生は電話で云ってらっしゃいました」 「なに、もういっぺん云ってみてくれ」  木沢が顔色を変えて、高い声で云ったので、彼女はびっくりした。 「あら、わたし悪いことを云ったかしら」 「きみには関係ないんだよ。ただ、おやじのその電話の云い方が、ちょっと気になるから」  小島幸子は、もう一度同じことを云わされた。 「たしかに一つ半をいただきました。おやじは先方にそう云ったんだね?」 「……」  彼女は小さくうなずいた。 「ぼくがいくらもらったか、先方にその金額を確認したんだ」  木沢は天井を睨《にら》んで云った。 「ぼくが一昨日、大浦商事の野上経理部長からもらっておやじに渡したのは百五十万円だった。一つ半とはその百五十万円のことだよ。……おやじはまだぼくを信用してないんだな。中間でぼくが抜いて、残りの一つ半を渡したくらいにカンぐってるんだよ」  唇を噛《か》んで木沢は云った。 「それほど第一秘書が信用できないなら、おやじが自分で先方に出かけて領収証を書き、金をもらってくるがいい」  宮下議員にはけっして云えない憤慨を、彼は女性秘書に云いつづけた。 「山村先生は各社を回って自分で領収証を書いてるそうだよ。あの大臣経験の大物議員がさ。ウチのおやじも、山村先生の真似をするがいい」  中堅議員の場合、たいていは政治資金を出してくれる先に電話して、 「これから秘書をそちらへさしむけますから、よろしく」  などと、ひと声かける。  秘書がその会社へ行くと、総務部長とか会計課長とかが金を包んで待っている。  政治献金は党の派閥単位になされる傾向が強くなって、議員個人への献金は少くなった。それでもその省庁に影響力が強い議員には、関係業者が献金してくる。官僚出身の議員とか、常任委員会の委員とかがそうである。  献金でも、領収証を議員が出すカネは、政治資金規制法によって自治省に届出でなければならない。が、領収証を必要としない献金は、議員がその後援会に入れたり、自分のポケットにおさめたりする。  後援会といっても、議員のほうで組織したものである。「後援会長」以下の役員は、こちらから外部の人間に頼んで名前だけ借りている。だから、頼まれ役員らは後援会の運営に口出ししない。後援会の諸種の行事も、ほとんど議員と秘書が相談して計画する。  議員がかけ出しの一、二年生のころは、秘書がカネ集めに行っても体よく追い帰されることが多い。それが政務次官から党の政務調査部会長、衆議院の常任委員長、大臣、党役員とポストが上ると、秘書もカネが集めやすくなるし、秘書自身の顔も利くようになる。それがこの世界の常識であった。いわゆる中堅議員は、その中間で、カネ集めには依然として苦労がつづく。  領収証を要さない献金を秘書がうけとった場合、秘書によっては、何割かを抜きとってフトコロに入れることがある。議員は事前に献金先と金額についてはっきりと協定しているわけではないから、領収証を出さないかぎり、秘書が持ち帰ったもので、はじめてその金額を知る。政治献金とは、そういうものである。  そのとき秘書を信用する議員もあれば、秘書の中間搾取を疑う議員もある。また、それをうすうす察知はしてはいても、何も云わない議員がある。そんなことで秘書とあんまり悶着《もんちやく》を起したくないからだ。議員としても秘書にいろいろと弱味を握られている点がある。  だが、秘書からいって、「猜疑心《さいぎしん》の強い」議員は、秘書に渡した金額を先方に確めないと気がすまない。げんに宮下議員のように、 (一つ半を頂戴しました。どうもありがとう)  と、遠回しに確認する。先方が、 (いや、二つですよ)  と訂正すれば、秘書が五十万円を役得的に中間で抜いたことがわかる。それがあまりひどすぎると、議員は秘書をクビにする。 「おやじがぼくを疑うとは心外だ」  木沢房吉は、食事を共にする小島幸子にもう一度、情なさそうに云った。 「困りますわね」  小島幸子は同情した。 「だが、ぼくにはおやじの性質がわかっているからね。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせられないために、ぼくはそのつど、献金をもらった先と日付と金額とを手帖に記《つ》けているよ。ほら、このとおりだ」  木沢は、内ポケットのボタンを外し、黒革表紙の手帖を出し、その一ページを開いて小島幸子に見せた。 ▽東部運輸商事(担当、栗山社長室長)一五〇万円。領収証。 ▽田山化成工業(担当、杉原営業部長)一二〇万円。領収証ナシ。 ▽泰東通信建設(担当、宮武総務部長)二〇〇万円。領収証ナシ。 ▽新宇宙テレビ総合(担当、竹村経理部長)一五〇万円。領収証。 ▽洋光電気工事(担当、加藤会計課長)一〇〇万円。領収証。 ▽興和製作所(担当、小森社長秘書)一五〇万円。領収証ナシ。 ▽福岡電機工作所(担当、石塚営業部長)一三〇万円。領収証。 ▽極東通信工業(担当、赤井総務部次長)一五〇万円。領収証ナシ。 ▽春日海運(担当、内野秘書室長)一〇〇万円。領収証。 ▽霊岸島船舶(担当、糸原経理部長)一二〇万円。領収証。 ▽アジア港湾施設(担当、桐島会計課長)二〇〇万円。領収証ナシ。 ▽希望相互銀行(担当、大森秘書室長代理)一三〇万円。領収証。 ▽(株)竹内組(担当、平山総務部長)一四〇万円。領収証ナシ。  ——こういった文字と数字とが手帖の各ページに詰めこまれていた。  献金の業種に一種の共通性があるのは、宮下正則が党の通信部会長、衆議院常任委員会の逓信《ていしん》理事だからである。  木沢の秘書生活の長さからいって、手帖は数十冊にもなるにちがいなかった。  彼は小島幸子にちらりと見せた手帖を閉じると、さも大事そうに内ポケットにしまい、ボタンをかけた。これを落して人に拾われでもしたら、たいへんなことになると要心しているようだった。 「きちょうめんに記けてらっしゃるのね」  小島幸子がいうと、木沢は内ポケットの上をぽんと叩いた。 「自分を防衛するためだよ。あとでヘンな疑いをかけられたときに無実のあかしにね」  木沢が小島幸子にのぞかせた手帖の献金数字が、せいぜい二百万円どまりという少額なのは、いま各業界が不況であることと、彼がまだ大物議員でないために、献金も「おつきあい」程度ということであった。 「ぼくは正直者だ。いや、小心者だから企業からもらった金をごまかすということができないんだよ」  木沢は、小島幸子に云った。 「それをおやじはどこかで議員さんの話を耳にして、秘書というのはカネをちょろまかすものだと思って、ぼくまで疑っているんだよ。まったくイヤになっちゃうよな」 「わたし、悪いことを木沢さんに云ったわ。告げ口したつもりじゃないんですけれど……」  小島幸子が頬をあからめて云うと、 「いや、きみの気持はよくわかっているよ。ぼくきみからそんなふうには聞いていないから、気にしないでくれたまえ」  と、木沢は彼女をなだめた。 「ま、おやじにしたってさ、カネが乏しいのはぼくにもよくわかってるよ。その点は同情するけどね」  彼は、小島幸子のその気持を変えるように話を転じた。 「ぼくがね、企業からもらったカネを渡すと、おやじはこれは後援会へ入れておいてくれというだろ。それが領収証を書いたカネばかりだ。領収証を発行したぶんは、届出をしなければならないからね」  宮下正則後援会の事実上の運営も、会計も、秘書の木沢がやっていた。 「ところが領収証を出していないカネもほんらいは後援会に入れなければならないのだが、おやじは、これはぼくがもらっておくよ、といってときどき自分が持って行く。プライベートに要るカネなんだね。こっちもその使い道までは訊かないがね」 「……」 「おやじは秘書にカネをとりにやらせるから、そんな余計な気を使わなければならないんだよ。自分で取りに行けば、こっちにはわからないのにね」  ここで木沢はうす笑いを洩らした。 「しかしね、ぼくは、おやじが自分でカネを取りに行っていることも、そのカネを出す先も、だいたい見当がついてるよ。いつぞや、外出先から帰ったおやじに、今日はどこそこにお出《い》でになったんですか、とその企業の名を云ったら、おやじ、イヤな顔をしてたよ」 「あらあ」 「まあなんだね、有川が秘書連合をつくろうという考えがわかるよ」 「あら、有川さんは秘書連合をつくろうとなさってるんですか」 「いやいや、それは冗談だがね」  木沢はあわてて打ち消した。  運転手の場合  丸山耕一議員の運転手福井三郎は午後二時ごろ会館玄関に現れた丸山を乗せた。本院では商工委員会が続行中なので、議員は途中で抜けて出たのである。  かかる脱出の場合、議員は本院から約五十メートルの地下道を歩いて会館の正面出入口に向う。地下道には、かなり急な階段の昇り降りがあったりして、年配の議員は急いで歩くと息が苦しい。  丸山耕一。——当選六回。大阪府第×区選出。元環境庁長官。経済企画庁調整局審議官から政界に転じた。現在六十三歳。 「新宿のRビルへ」 「かしこまりました」  福井はていねいに発車させる。地下道を急いで来たらしい丸山はまだ荒い呼吸をしていた。  丸山議員は禿《は》げ上った額が広く、髪が少い。眉毛がうすく、頬ぼねが出ている。そのため年齢よりふけてみえた。うすい眉をかくすように太い黒縁の眼鏡をかけている。  午前十時からはじまっている委員会を抜け出たにしては、地下道歩行の息切れを除くと、丸山議員は疲れてはいなかった。むしろなにか溌剌《はつらつ》とした表情だった。黒縁の眼鏡の奥にある老いた兎《うさぎ》のような丸い眼にも精気のようなものがこもっていた。  バックミラーで議員の顔をちらちらと眺めた福井運転手は、機嫌がいいとみたか、背中ごしに「先生」と話しかけた。霞が関のランプから高速道路に入り、新宿インターチェンジに向っているときだった。 「第一秘書の有川さんが、このごろしきりと会館内の各部屋の第一秘書さんらと外で話し合っているのをご存知ですか」 「有川が? さあ知らんな」  福井はハンドルを回しながらカーブの多い前方を注視し、あとを黙った。後頭部に白髪がみえている。首が長く、肩幅がせまかった。四十三歳で、丸山のお抱えになって十年が経っていた。  福井が話を続けないので、丸山は気になって運転席のほうへ質問するように身体《からだ》を傾けた。 「有川がほかの議員秘書連中と外で話し合うてるというのんか。きみは見たのかね?」  丸山耕一議員は、福井運転手の瘠《や》せた背中に訊いた。 「はい。十日ぐらい前でしたか、宮下先生の第一秘書木沢さんと有川さんとがどこかへ行かれていっしょにタクシーを会館の前で降りるところを見ました」  右手に国電信濃町駅のホームが過ぎた。千駄ヶ谷の屋根が近づいてくる。ラブ・ホテルのネオンが多いところである。 「そのほかの秘書たちもか、有川が話し合うてるというのんは?」 「はあ、わたしがちらっと見たのは、木沢さんのほかに、大橋先生とこの田山秘書、永井先生とこの辻田さん、大原先生とこの石川秘書、それに永山先生とこの森さんなどでした」 「うむ。派閥が違いよるなあ」  丸山は上着の胸ポケットからパイプをとり出し、金色のライターを横むけにして火をつけた。煙を吐き、しばらく窓の外を眺めていた。外苑《がいえん》の森は新緑が深い藍色《あいいろ》に変りつつあった。  が、丸山は植物を観察していたのではなかった。自分の第一秘書有川が、派閥の区別なく他の秘書連中に何を語らっているか、その疑問を解きたい眼だった。口を動かすたびにパイプの煙が新しく上った。  福井三郎は若いときタクシーの運転手をしていた。ハイヤー会社に転じ、或る会社の社長を送り迎えするうちに社長に気に入られ、社長が車を購入したときその運転手となった。会社が倒産した。福井運転手は丸山議員のお抱えに移った。その会社から多額な政治資金をもらっていた丸山は、義理もあって福井を傭《やと》ったのだった。  福井は、タクシー、ハイヤーの経験があるだけに東京都内の地理によく通じている。倒産した会社が丸山にそういって推薦した。じっさい福井は都内のどのような間道でも知っていて、便利だった。  四十三になる福井は、またその経験から主人の意を迎える術《すべ》を心得ていた。他の客を乗せていない場合、車の中は議員と運転手だけの密室であった。高級国産車で外車なみの設備だった。  彼は二つ下の妻と、二人の子供がいた。丸山議員に解雇されるのをおそれていた。運転の腕さえあれば退《や》めても食うに困らないようだが、議員のお抱え運転手をしていると、それなりに陳情組などからのヨロクが入った。それに年齢が年齢だけに、いまさらタクシーやハイヤー会社に傭ってほしいと履歴書を出すこともできなかった。 「福井」  丸山は有川秘書の行動について考えあぐねたようにパイプの蓋《ふた》を閉めて座席から云った。 「有川がほかの秘書連中とどないなことを話し合うてるのか、様子がわかったらぼくに直接知らせてくれ」 「かしこまりました」  ハンドルを握ったまま福井は前に頭をさげた。  車は外苑の森を左手に過ぎて、新宿インターチェンジに降りる高速道路の上り坂にかかっていた。ニューヨークの絵ハガキにあるような天を摩す高層建築が五つも六つもかたまってあらわれた。丸山の行くRビルはその一つである。  福井は、丸山の反応をバックミラーで一瞥《いちべつ》して安堵《あんど》した。やはり話は気に入られたのだ。  福井にしても有川の行動の意味はわからなかった。ただ、目撃したことを議員に告げたまでである。  彼は、有川昌造が好きでなかった。第一秘書の肩書をかさにきて威張っている。第二秘書の吉見という若い男や他の私設秘書も有川には文句一つ云えないありさまであった。態度が太くて、あつかましくて、口うるさい。関西弁というやつは、もの柔かく聞えるが、じっさいは云いにくいことをずばずば云える特徴があった。皮肉も東京弁よりも辛辣《しんらつ》である。丸山議員も大阪弁だが、有川ほどではなかった。それに議員の体面上、アクセントは抜けないにしても、なるべく標準語を使っている。  有川は人使いが荒かった。丸山が本院に出て会議や打合せなどに釘《くぎ》づけされている間、会館の地下四階の運転手|溜《だま》りから、なんだかんだと呼び出して、議員の用事だか私用だかわからないことで、車を各所へ走らせた。秘書には議員のために金集めの仕事などがあるから、そのへんの区別は運転手にわからない。そのほか議員部屋の掃除とか、陳情団へのお茶くみとかに平気で狩り出す。有川の図体が大きいだけに、瘠せて細い福井は、彼の迫力に負かされるのであった。  運転手溜り場で、福井がテレビを見ていたり、ほかの運転手と将棋を指しているとき、部屋の女秘書三原秀子からの電話で、有川さんがお呼びです、と云われると、有川をしんから呪《のろ》いたくなった。有川なぞ早く退《や》めてしまうがいい、心から思った。  いま、教えた有川の行動を、どうやら丸山は気にしているらしかった。黒縁眼鏡の奥の眼が動かず、ドアによりかかって頬に指を当てたりしている。  丸山はこの秘書を心から信用していないようであった。  Rビルの正面入口へ車を着けた。  運転席をおりて、車のうしろを大急ぎで回り、ドアを開けると、うすい髪の頭にソフトを乗せた丸山が降りた。 「集会は、二時間くらいかかりそうや」 「わかりました」  待っていなければならぬ。丸山はビルの中に消えた。  このビルはR企業系統の各社が入っている。社名が標示板にレンガ積みのようにならんでいた。ほかの企業も入居し、一階と地階はテナントの商店街、四十七階の上はレストランである。  議員は企業と接触が多いから、ビルのどの階かにある会社へ行って、経営陣に会うとか、または社員のために「最近の経済情勢について」といったものの座談会か講演でもしているのであろう。どんなことでも献金と結びつく。あるいは献金を受けているから若干の義理を果している。  Rビルは地下駐車場もあるが、前の広場にも有料駐車場があった。今日は車が空いている。福井はそこへ車を入れた。暗くて冷たい地下よりも、春の陽ざしが窓からさんさんと入ってくる広場のほうがいいにきまっていた。  福井は腕を組んで眠りに入る用意をした。まどろみは運転手の特技である。神経をやすめ、活力を蓄えさせ、視力を回復する。  が、福井は空腹を感じた。有川に使われ、昼めしを食べるひまがなかったのである。有川の無神経にまたも腹が立った。  丸山は二時間くらいは戻ってこないはずだった。経済企画庁調整局審議官時代に顔のつながりがまず企業と出来た。当選六回、国務大臣(環境庁長官)経験、衆議院商工委員長一回、現在は同委員、党の商工部会長。ますます政治資金とつながる顔はひろがり、集金源の層は厚くなっている。次の内閣では通産大臣か農水大臣を狙っているという噂《うわさ》だった。  そんな準大物議員だったら、なにもこまめに企業先に行ってサービスすることはないように思われる。集金だって、秘書をやればすむことだ。なにも本人が出むくこともあるまい。  金を受けとりに丸山議員自らが出かけるのは、それだけ彼が第一秘書の有川を信用していないあらわれであろう。少額の金は有川に任せ、高額の金になると自身で頂戴に赴くらしい。  というのは丸山をRビルに送ってきたのはこれで四度目であり、ほかのホテルやビルでも二時間くらい待たされることがあったからである。——  運転手の福井は、長い待ち時間がともなう丸山の外出をそのように想像していた。  とにかく仮眠する前に、何か食べなければならない。福井は車の中からあたりを見まわしたが、新宿でもこっち側は新開地と同じで、高層ビルばかりあって、気軽にとびこめる飲食店といったものが眼につかなかった。歩いている人間も少い。二時半だった。  そのかわり、この地域の環境といったら清潔と景観そのものだった。草花と芝生に囲まれた遊歩道があり、泉池のまわりにベンチを配置した憩い場がある。白い石段が複雑に組み合されて、光と影を立体的につくっていた。遊んでいるのは子供ではなく、若いアベックだった。  福井は、車を出た。Sビル地階にある軽食店に行くことにした。Rビルは丸山議員がさっき入って行ったので、顔を合わせるのを避けた。Sビルはひろい道路の向い側にあった。  交差点で信号待ちをして立った。横に人が五、六人いた。  車の流れが眼前を通過する。とたんに信号が変って、車の列が停止した。その先頭にタクシーがいた。人々は歩く。  そのタクシーの窓に居る乗客を、福井はなにげなく見た。男と女だった。男はネズミ色のソフトをやや眼深《まぶ》かにかぶっていた。そのためちょっとわからなかったが、これは外浦卓郎の顔だった。隆《たか》い鼻と、うすい唇。その口を真一文字に結んだところに見おぼえがあった。  福井は歩道を渡らないで背中をかえし、並木の蔭《かげ》に入った。外浦かどうかをもう一度確めたかったのと、伴《つ》れの女の横顔を見たかったからである。  たしかに外浦卓郎に間違いない。外浦は、一方の有力派閥の首領である寺西|正毅《まさたけ》の秘書だった。丸山耕一議員はこの寺西派に属している。  外浦は寺西の私設秘書といっても、別格であった。東大法科卒で四十七、八歳ぐらい。もと経済新聞の記者だったが、財界の世話役といわれる和久宏の秘書になった。寺西が和久に乞うて外浦を自分の秘書に無理に「貸してもらった」といわれている。寺西が外浦を財界とのパイプ役として迎えたいわば特別秘書であった。  派閥の会合には丸山も出るので、福井運転手もその料亭へ行く。料亭の玄関を出入りする外浦を前から見かけていた。  男は外浦卓郎にちがいないが、女はどういう顔か。男の蔭にかくれている女を福井はそこからのぞいた。  信号が変り、タクシーは通過した。  タクシーは甲州街道方面へ走り去ったが、福井は、外浦卓郎とならぶ女を、瞬間だが、わずかに見ることができた。  淡い茶色の婦人帽と、サングラスとが、まず視線に入った。洋装だったが、これは男の姿にかくれて一部しか見えず、ベージュ色がわずかにこぼれていただけで、模様までは知れなかった。  ツバ広の帽子の下に出ている女の横顔は、まるい輪廓《りんかく》だが、そう若くないことだけはわかった。四十七、八の外浦と同じくらいか、それ以上かと思われた。少くとも彼より年下とは思われなかった。  グレーのソフトとベージュ色の婦人帽とがならんでいたが、二つの帽子は固定したままだった。顔が動かないというのは、両人が話を交わしていないことだ。福井の目撃した数秒が、そういった状態に映った。 (女房ではなさそうだが……)  外浦の女房かもしれないが、そうでない感じのほうが福井には強かった。  あれは外浦の恋人か。——福井の残像はその印象であった。ならんで坐っている男女の無言は、そういった仲に見られる。  しかし、これは思い過しかもしれない、と福井は自分の直感を反省した。信号が変るまでの三十秒の何分の一かにあたる瞬時に瞥見しただけなのだ。  派閥の一方の棟梁《とうりよう》、寺西正毅の特別秘書のことだから、知り合いの婦人と車に同乗していたとしてもいっこうにふしぎではない。たとえば政財界関係の夫人をエスコートして行くとかがあっても、それは議員秘書としての務めである。 (それならなにもタクシーに乗ることもなかろうが……)  福井にはこの点がひっかかる。どうしてちゃんとした乗用車を択《えら》ばなかったのか。寺西正毅は、たしか二人の専属運転手と三台の外車を持っているはずであった。特別秘書の外浦は、いつでもその一台を使えるであろう。  タクシーを利用しているところは、なにか隠密行動といった感じがしないでもない。  これが福井にさきほどの想像を起させた理由の一つでもあった。女のサングラスだってあやしくないことはない。  タクシーの運転手をしたことのある福井は、そのころの経験として、恋人どうしの客をタクシーに乗せたばあい、会話を少しもしないのを知っている。そのくせ、下で手を握り合っているのは、バックミラーで二人の様子からわかる。それが癪《しやく》にさわって、車が混んでいるときなどは、わざと急ブレーキを小刻みにかけて、その反動から座席の二人をたびたび前のめりにさせる意地悪をしたものだった。  食事をすませて車にもどった福井は、こんどこそ運転席でゆっくりと眠ることにした。腹も満ち足りたことである。  窓から射《さ》しこんでくる陽光を肩から浴びて、いい心持で眼を閉じているうちに運転手は夢を見はじめた。  わけのわからない場面だった。うす暗い。場所も人間も影のようだった。人が宙に浮いたように歩いている。  知った顔が出た。はじめはその男と話をしているのだが、そのうち、おや、こいつはとっくに死んでいるはずなのにと気がつく。相手は相変らず口を動かしたり笑ったりしている。夢を見ながら、これは夢だと思っている。  そのうち、いま住んでいる北青山二丁目の家が出てきた。これは場面がはっきりしていた。女房と、中学二年生の娘とがいる。小学二年生の男の子は外に遊びに行ってか姿が見えない。母娘《おやこ》が口喧嘩《くちげんか》している。——  小さな家は、車がようやく一台通れる路《みち》の奥にあった。庭はなく、ガレージが付いていた。丸山議員がこの家を借りて福井に住まわせていた。運転手は、自分の家になるべく近いところでないといけないという考えからだった。家賃の八万円は議員が出している。近くにアパート団地があった。  丸山耕一は高樹町《たかぎちよう》に自宅がある。経企庁調整局審議官をしていたときに奥さんの実家から買ってもらった家を、環境庁長官時代に増改築した。長男はすでに会社につとめ、次男は大学生、娘二人は他家に嫁していた。  奥さんは、大阪の選挙区にある丸山の生家にときどき行く以外はこの高樹町の家に居る。主人の生家に行くのをあまり好まないが、選挙に関係するので、仕方なく四、五日は滞在する。その間、主人の名代として、地元の秘書たちと打合せしたり、後援会の人々に会って挨拶をする。票の確保のためだから、内心はいやいやでも行く。選挙になると、その期間ほとんどそこに貼《は》りついていた。  奥さんは顔の尖《とが》った人だが、愛嬌《あいきよう》があり、だれに対してもていねいである。福井にもやさしい。が、運転手を上手に使う癖がある。表面の態度と内心とが違うところを感じる。高樹町の議員宅まで、青山の運転手宅から車で十五分、道路がすいている夜は八分ぐらいだった。  青山二丁目というと買いものなどは至極便利だが、どの店も、いい品を置いていて、値段が高い。若い者の遊び場でもある。場所として他に聞えはいいが、路地の中に住んでいる庶民には楽でない。  いま、夢の中に出た女房と中学二年生との母娘喧嘩も、娘が高い品物を欲しがるのが原因、これは始終だった。  ——窓ガラスを軽く叩く音がした。眼をさますと丸山議員が立っていた。 「赤坂の津田」  丸山は福井に命じた。 「かしこまりました」 「津田」は赤坂の一流料亭である。  福井は新宿から甲州街道を横切り、代々木の参宮橋へ行く道路に入り、それから神宮域内の森林の西側に沿って千駄ヶ谷に出る道をえらんだ。  ここは狭い道で、渋滞した一車線はのろのろ運転であった。この調子だと赤坂までは一時間近くかかりそうだった。いまが五時五分であった。  先生、会合は何時からでしょうか、と福井は丸山に訊《たず》ねようとしたが、バックミラーの丸山はうつむいて睡《ねむ》っていた。  どうせ六時からであろうと察し時間ぎりぎりに滑り込みだと思った。  車の渋滞で、一メートルくらい進んでは止まり、また一メートルくらい進む。そのくり返しの連続だったので、鏡の中にある丸山の様子をゆっくりと観察できた。  てっぺんの禿げた頭を真正面にして顔を下にむけた丸山の首は張子の虎のようにゆらゆらと揺《ゆら》いでいた。Rビルに入るときにかぶったソフト帽子は座席に放り出していた。いびきも聞えていた。相当に疲れている。 「朝飯会」から委員会とつづき、午後も続行、それを中途で抜け出して、Rビルに行き、企業の幹部らと二時間あまりの話し合いだったらしいから、六十三歳の身体は疲労するのがあたりまえであった。  それは今日にかぎったことではなく、これまでもこうした場合がたいてい同じであった。Rビルでも、日比谷のホテルでも、ほかのビルでも、その帰りはたいてい同じであった。  今日、Rビルへ行くまでの溌剌としていた丸山の顔は、二時間余の会談で、何か精力を使い果した感じであった。  が、この車中の居眠りが当人にとって充電になるのであろう、議員商売も体力が資本《もとで》だな、と福井は同情した。  だが、有川第一秘書のことで丸山にもっと伝えたいことがあるのに、それが云えないのが福井には残念だった。たとえば、有川の人使いが荒いこと、そのため今日は昼食を抜きにしたこと、議員の留守に車を乗りまわす有川に公私混同があること、などであった。  が、かんじんの丸山が眠っていては仕方がない。この次は、もっと材料をふやして云おうと思った。有川がほかの議員秘書としきりに連絡しているらしいその内容の偵察も、丸山に頼まれたことだ。これも調べてみよう。——  六時五分前に、赤坂の「津田」の前に近づいた。ひろい玄関と長い塀がある。その玄関前にたむろしていたハッピ姿の男二人が、こっちの車を見ると、ばらばらと走り寄った。うしろに蝶ネクタイの玄関係が立っていた。  料亭「津田」の名前入りハッピ着の男二人が車にかけ寄って、 「先生、いらっしゃいまし」  と、丸山議員におじぎした。  蝶ネクタイの玄関係は早くも奥の玄関へとって返した。 「丸山先生のお越し」  とでも女中たちに触れているのであろう。  丸山は片手をポケットに入れ、うつむき加減に、水打った庭石を踏んで足早に奥へ消えた。  その背中を見送った福井は、車をAパーキング場へ向けた。夕方六時というとこのへんは勤め帰りの男女や家族づれで混雑していた。車はのろのろとその間をかき分けて行く。  人々は愉《たの》しい時間がはじまろうというのに、自分はこれから地下駐車場で二時間あまりを過さなければならない。仕事とはいえ、家族とばらばらな生活がつづいている。  女房は、子供が反抗するのも、あんたが昼も夜も家に居ないからよ、わたし一人ではどうしようもないわよ、と眼を三角にして文句を云った。議員の運転手という不規則な勤務を承知の女房も、怨《うら》み言《ごと》が出るのだ。  夜は、議員の宴会などが遅くなると、家に帰るのが午前三時ごろだ。党の「朝飯会」があれば、七時には丸山を迎えに行くので、五時半か六時には起きて車の掃除をし、あわただしく出る。朝食は食べたり食べなかったり。子供たちとはろくに顔を合わさない。家の相談ごともゆっくりとできないと女房は云う。なにもかもわたしひとりに押しつけられてはたまったものではないとヒステリックな声は始終だった。  それで収入がいいかというとそうではなく、家庭破壊に見合うだけの給料ではなかった。日曜、祭日ともなれば、ふだんの日よりはもっと早起きである。丸山がゴルフへ行くからで、それも会員権の高い都内や近郊ではなく、他県もずっと遠いゴルフ場、往《ゆ》き道だけでも二時間以上かかる。四時半にはもう起きて丸山を迎えに行かなければならない。  ゴルフのないときは、奥さんが福井を呼んで、子供づれでデパートの買いもののお供だのドライブなどをさせられる。少々の心付けぐらいでは間尺に合わないのである。  それに、運転手は、議員の行動を家族にも口外してはならないと誓わされている。家に帰ると、午前一時二時まで、何をしていたかと女房は疑わしげに訊《き》く。議員と誓約した手前もあり、また、いちいち弁解するのもおっくうだった。で、女房の顔も声も、ますますとげとげしくなる。  Aパーキング場は、赤坂の繁華街をはずれたところにあり、付近には小さなビルが散在し、狭い公園もあったりして静かな環境になっている。  パーキング場の入口を入った車道の右側に料金所があり、左側には十坪ばかりの広さで飲食店のような食堂があった。料金所係員のチェックを受けた福井が運転席から左側をのぞくと、灯《ひ》の明るい食堂には、七、八人の運転手がたむろしていた。ここは駐車した運転手の休憩所を兼ねていた。  ソバを食べていた一人がそこからこっちに顔を向け、福井に気がつくと、やあ、と云うように片手を上げた。宮下議員の運転手中村光次だった。まわりの運転手も知った顔ばかりである。福井は、あとでそっちへ行くよ、という身ぶりをして料金所の前を通過した。  地下のゆるい下り坂を運転して行くと、左右に黒塗りの乗用車がならんで詰っていた。柱間の仕切りに三台ずつが行儀よく入っている。まるで検閲を受けるかのようにナンバープレートがならんでいたが、福井はそれらに寺西派の議員の車が多いのを知った。今夜の「津田」の会合は寺西派である。  このパーキング場は百五十台ぐらいが収容できる。そのうち月極めの車が何分の一かあろうが、いま、福井がぐるぐる駐車場を回っても、空いた場所が容易になかった。今夜は車が多いのである。  地下二階のまん中あたりに、ようやく一台ぶんのスペースを見出し、車を尻むけに入れて、運転席を下りた。そこから上の入口横の食堂へ向って、車ばかりで人ひとり居ない、がらんとした中を歩いて行った。  食堂のガラス戸を開けると、中村光次が長テーブルの前からまっ先に手招きした。 「やあ」  福井は中村の前に坐って笑った。 「早いな」 「うん。三十分前だ。おやじが早く�津田�へ行けと急《せ》かしてな。うちのおやじはとくに宴会好きだから」 「今夜の津田は何だい?」 「鉢の木会だ。Y製鉄など財界人といっしょだ」 「道理で、いつもよりはパーキング場の車が多いと思った」  云いながら福井は頬杖《ほおづえ》をついて、飲食店なみの調理場の窓に下がっている食べものを書いた札を眺めた。親子丼《どんぶり》、天ぷらソバ、稲荷ずし、キツネうどん、ラーメン、焼ソバ、コーヒー。ビールや酒がないのは、客が運転手ばかりだからである。  運転手たちは、テレビに顔を向けていた。ニュースがはじまり、今日の予算委員会の一部が画面に出ていた。運転手らの知った議員どもの顔が映っている。  福井は、焼ソバをとった。冷たい水を飲み飲みして箸《はし》をゆっくりと動かした。 「あんまり食べないようだが、食欲がないのか」  中村がその様子を見てきいた。ソバを食べ終った彼は煙草を吸っていた。 「じつは、二時半ごろに食事をしたんでね」  福井は焼ソバを残して箸を置いた。 「ずいぶん遅い昼食だな。忙しかったのか」 「会館で有川にこき使われてな」 「ふふん。きみんとこの第一秘書も人使いが荒いようだな」 「話にならん。おやじも相当なものだがね。きみんとこの、木沢さんはどうだ?」 「木沢もだが、おやじがひどいよ」  中村は宮下議員の横暴をいくつかならべた。  テレビの予算委員会を見ている運転手たちがざわついていた。質問者も答弁の大臣も、そして大臣席に居ならんでいるのも、みんな知った顔だ。自分の「おやじ」が出ると、皆が指さして、けたけたとおかしそうに笑った。嘲笑《ちようしよう》には鬱憤《うつぷん》ばらしのようなものがあった。  質問席の横に坐っているのは理事だが、これが絶えずテレビカメラへ顔を真正面に向けていた。選挙区むけの宣伝が露骨だ。運転手たちの嘲笑の対象になった。  居眠りする大臣を、うしろのだれかがゆり起していた。 「大臣も疲れるよ。夜おそくまでの宴会だからな。夜だけじゃない。昼のこともあるからな」 「昼間も宴会があるのか」 「議員さんに少くないよ。昼間の宴会は、なにも大勢とはかぎらない。二人だって宴会ができる」  中村光次はそう云って、含み笑いをした。福井には中村の云う意味がよくわからなかった。  中村は話を変えた。 「津田の鉢の木会は二時間かかる。こんな穴ぐらのようなところにぼんやり二時間も待っていても仕方がない。どうだ、そのへんの喫茶店へ行ってコーヒーでも飲もうか。ここのコーヒーはあまりおいしくないからな」 「鉢の木会が予定より早く終って、津田から呼び出しの電話がかかってきたら、どうする?」 「なに、その時は料金所の管理人から喫茶店へ電話してもらえばよい。行先の喫茶店を管理人に教えておこう」  二人は立ち上った。ほかの運転手たちへ笑顔を残して食堂を出ると、中村が対《むか》い側の料金所の窓をのぞき、管理人にぼそぼそと頼みごとをしていた。料亭にいる議員から留守に呼び出し電話があったときの手当てである。  待つ間に  中村が福井をつれて行ったのが、パーキング場から歩いて十分くらいの商店街であった。  賑《にぎや》かな灯の通りを、そぞろ歩きの群に入っていると、二人とも拘束中の身を忘れて、自由感にひたった。  入ったのは表に洋菓子をならべている喫茶店で、中は広かった。席を取ってから、中村はレジに行き、女の子に「中村か福井に電話がかかってきたら、そこのテーブルにいるから教えてくれ」といったようなことを頼んでいた。 「これでよしと」  中村はテーブルに来て坐り、蒸しタオルをひろげて顔をごしごしと拭《ぬぐ》った。赤くなった顔に皺《しわ》がよけいに深まった。眼がしょぼしょぼしていた。 「今夜も遅くなりそうだな」  中村は福井に云った。 「津田の鉢の木会は、いつも八時すぎにはおひらきになるじゃないか」  福井の言葉に、中村はニヤニヤして答えた。 「これまではね。しかし、十一月の総裁選の準備がもう控えている。鉢の木会の熱気も違ってくるよ。もちろん、おやじ連中もそうだが、財界の面々も応援の覚悟のほどが、違う」 「鉢の木会」は寺西派の議員たちと、スポンサー的な財界の面々との親睦会《しんぼくかい》であった。これには日本を代表する一流企業の社長、副社長、専務など経営陣の最高幹部が出席する。原則として月一回の会合であった。 「鉢の木会という名前のいわれを知ってるだろう?」  中村が云った。 「いや、知らんがな」  議員の丸山耕一も、秘書の有川も大阪なので、福井も関西弁に染って、つい、それが出る。 「へえ、そうか。北条時頼と佐野源左衛門の故事だよ。ある年の冬、北条時頼が旅僧に身をやつして諸国を行脚《あんぎや》してるとき、上野《こうずけ》の国、佐野で貧乏な郷士の家に泊った。すると亭主の源左衛門は、何もおもてなしができないが、寒さの折からお煖《あたた》まり下されといって、日ごろ秘蔵の鉢の木を切って、囲炉裡《いろり》の焚木《たきぎ》にした。ところが、この源左衛門はじつは北条家の郎党でね、旅僧が時頼とは知らずに、お家一大事のときは鎌倉にはせ参ずる所存、そのときの用意にと貧の中でもそれだけは売らなかったといって、古びた甲冑《かつちゆう》を見せ、廐《うまや》につないでいる痩《や》せ馬を見せたんだな。時頼はたいそう感心し、こういう家の子郎党が居れば北条家も安泰だと安心もしたという、そういう故事からきている。そう、謡曲にも『鉢の木』という曲目があるじゃないか」 「知らんな」  中村はもの知りであった。謡曲だけでなく、競馬のことにも詳しかった。  福井が「鉢の木」も知らないので、もの知りの中村は呆《あき》れ顔だった。しかし、眼を半分閉じた彼の口から低いが、荘重な唸《うな》りが出た。 「……これは只今にてもあれ鎌倉に、御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取って投げかけ、錆《さ》びたりとも長刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り一番に馳《は》せ参じ……」  途中まで謡ってやめ、半眼をぱっと開いて福井に云った。 「これが鉢の木だ」 「ふうむ。きみは謡曲を習ってるのか」  福井は感歎した。 「昔はな。けど、こう雑用に追いまわされては、稽古《けいこ》に通う時間がないよ」 「立派な声だよ。感心した」 「ありがとう。ところで、その鉢の木にちなんで、寺西正毅を中心に派閥がかたく結束し、いざ鎌倉というときは、一致して敵と戦うというわけだ。それを援軍の財界が加勢する」 「敵というと、こんどの総裁選の対手《あいて》か」 「まずそういうことになるな」 「けど、こんどの総裁選では、いまの桂《かつら》総理、つまりわが党の現総裁が老齢のために引退する、総理を三期もつとめたことやし、この際人心一新ということで、寺西正毅に後を譲るということやないか。新聞にはそう出てる」 「つまり禅譲だな」 「そうそう、ゼンジョウや。新聞だけでなく、雑誌や週刊誌にもそう出てる」 「桂重信総理は二期目で辞めるところを、強引に三期をつとめた。そのため、失政続出で人気は史上最低に近い。このままだと、わが党は危機に陥る。それがあとをウチのボスに譲ることになった。桂総裁の心境ということだったな」 「そうそう。同じことが新聞に書いてあった」 「それとだな、桂が三期目をやるとき、ウチのボスの寺西正毅と、次は寺西へ総裁のイスと政権を譲り渡すという固い密約ができた。そのため、寺西派は強引な桂の三期連続をけっきょく承認した、こういうことだったな」 「それも新聞に出てる」 「桂もその約束があるし、党内で一、二を争う寺西派を重要に考えないわけにはいかない。次の総裁はウチのボスに間違いない」 「それだったら、いざ鎌倉の心配はないやないか」 「けどな、桂派以外に小派閥がある。これが総裁選に名乗りをあげそうだよ」 「そんな小派閥など問題にならんやろう」 「そうかんたんに片づけてしまえばそれまでだがね。政界は、一寸先が闇《やみ》というコトワザもある。油断ができん」 「そう心配したらキリがないやろな。鉢の木会が熱気を帯びるのは、わが派に政権近しで元気づいているんじゃないか」 「政権がらみの秋に転げこんでくるというので、鉢の木会も、これからだんだんハッスルしてくる」  中村光次運転手は云った。 「スポンサーの財界のお歴々も、それぞれわが企業の繁栄につながるから、これまたいっそう馬力をかけてカネを出す。今夜あたりから鉢の木会はもう前祝い景気だろうな」 「豪勢な宴会の費用は、だれが料理屋に払うのやろか。先生がたか、それとも先生がたと財界人とでワリカンか」 「ばか云っちゃいかん。もちろんいつも財界人側が払う。料理屋のツケはみんな会社へ回す。議員はそんな会合費は百円も出さん」 「議員がケチなのは、選挙にカネがかかり過ぎるためか」 「たしかに選挙にはカネがかかる。しかしな、議員個人が選挙に使ったカネはその議員の在任期間中に、全部とり戻してまだおツリがくることになってる」 「それは、議員になると、云うに云われぬカネが入ってくるからだな」 「曰《いわ》く云い難しのカネだよ。その議員が大臣になったり、党の役員になったら、入ってくるカネもケタはずれに大きい。名誉とカネとの抱き合せだから、こたえられんわけだな」 「すると、寺西派では、もう寺西内閣の閣僚の顔ぶれが、あれでもないこれでもないと予想されてるわけやな」 「そりゃ、もうたいへんなものだ。競馬の予想表じゃないが、本命《ほんめい》、対抗馬、アナがと、派閥各人の名前の下に印を付けて、鉛筆をなめなめ研究してるよ」  中村はコーヒーをすすりながら面白そうに笑った。 「さすがにきみは馬券好きだけに、云うことも競馬予想式だな」 「なに、総裁選からして競馬と同じだよ。いまのところ三頭立てだが、本命はテラニシ一頭。総理が出馬をオリてるからね。あとの二頭は着外ときまってるが、次の次の競馬開催日をねらってる」 「アナ馬はないのか」 「ないね。だから世間から見ると面白くない。新聞ももり上ってないね」 「ふうむ。……ところで、近ごろのきみの本当の馬券の成績はどうだい」 「あかん、あかん」  中村も大阪弁を真似て首を大きく左右に振り、 「さっぱりだ。大損だよ。何かいいヨロクをせんとこのアナ埋めができない」  と、顔をしかめた。  運転手には場外馬券買いが多い。人に頼んで馬券を買ってもらうか、呑《の》み屋に電話で注文している。中村光次がそれだった。 「ところでな」  中村が話を変えて、福井の顔を見た。 「きみとこのおやじさんは、今度は二重マルの大臣だよ。本命だ」 「ほんとか」  福井は飲みかけのコーヒー茶碗を下に置いた。 「当選六回、環境庁長官経験者。二期ほど啼《な》かず飛ばずだから、こんどは必ず入閣する」 「そりゃたいへんだ」  福井は顔に血の色がさした。 「大臣というと、どういうイスだろうか」 「ポストはまだわからんがね。組閣するにしても寺西派で独占するわけにはゆかないから、入閣は他派との振り合いがある。比率はまず寺西派が四、現総理の桂派が三、あとの三を他の二派閥と中間派で分ける」  大臣のイスは、総理と官房長官を除いて、二十一ある。このうち省大臣が十二、国務大臣兼庁長官が八、総務長官一となっている。これを次期組閣で四・三・三の比率で分配するのだと中村は云う。  行管庁長官と経企庁長官は大物が就任するので別格としても、議員の心理としてなるべくは庁長官よりは省の大臣になりたい。何々大臣といわれたほうがうれしいのである。 「大臣のイスには割りふりがあるにしても、ウチのおやじの二重マルは何のイスになっているのかね?」  福井は気がかりげに中村に訊いた。 「さあ、よくわからんが、郵政大臣か厚生大臣じゃないだろうかね」 「重要閣僚じゃないね」 「重要閣僚でなくても、郵政大臣は郵便貯金と電波とを握っている。とくに電波の権限は、放送局を持っている各新聞社に睨《にら》みがきいて、保守党のマスコミ対策の足場になってるということだな。厚生大臣はクスリを握っている。これも妙味があるらしい。どっちの大臣のイスでも悪くないよ」  店の奥で、テレビが七時のニュースをやっていたが、話に夢中の二人の耳には入らず、もちろん振りむきもしなかった。  福井の顔が複雑になった。 「おや、どうかしたかい」 「おやじが大臣になると、また、おれの女房が鼻を高くする」 「なるほどね」 「前に、おやじが環境庁長官になったときにたいへんだったんだぞ。大臣の運転手だというのでね、亭主までエラくなったように吹聴するんだよ」 「けっこうじゃないか、奥さんがよろこぶなら」 「秘書官ならとにかく、たかだか運転手だよ。女房にはそこの区別がつかんのだ」 「女房族というのは、単純なものだよ」  福井の話を聞いて、中村が笑いながらうなずいた。  まったくそのとおりだと福井三郎は思った。丸山議員が環境庁長官のときは、大臣運転手の妻だというのでうきうきしていたが、大臣をやめてからは、ヒラ代議士の運転手に転落したと考え、不機嫌が三年間あまりもつづいている。いろいろな不平もそこから発していた。 「きみのとこのおやじの様子はどうだな。大臣の本命に見られて、さぞかし上機嫌だろう?」  中村がコーヒーの残りをすすってきいた。 「さあ。おやじの機嫌はおれにはよくわからんな。車の中でも眠ってばかりいるよ」 「さすが国務大臣経験者で、落ちついているな。そこへ持ってくると、ウチのおやじは、そわそわしてるよ。表面では何知らぬ顔をしてるがね」  陳情団が大挙して会館にくると、地下四階の運転手|溜《たま》り場《ば》から呼び出されて、女秘書の小島幸子に手伝ってお茶くみしているような一見のっそりしている運転手だが、議員や秘書らへの観察には、眼がきいていた。 「こんどは環境庁長官か北海道開発庁長官あたりじゃないのか」 「当選四回だからな。まだ国務大臣が一歩手前のところだ。知り合いの新聞記者にもいろいろと様子は聞いてるよ。寺西さんが派閥の幹部たちにも抜け目なくゴマをすってるだろうけどな」 「それじゃ、第一秘書の木沢さんなどは、側面から大活躍だろうな?」  福井が云った。 「うむ。まあしかし、あんな気の利かない、もそっとした男じゃダメだね。おやじの顔色ばかり見ている小心者ではね。やっぱり、きみんとこの有川さんくらいの度胸とハッタリがないとね。こういうときには役に立たんよ」  有川と云えば、彼のこそこそした動きを中村に打診してみようと福井は思った。おやじから頼まれた一件である。  福井が身を乗り出して内緒話らしく、テーブルに肘《ひじ》を突いて上半身を乗り出したとき、店の女の子が近づいてきた。 「お客さまは、中村さんですか」 「そうだけど」  中村が顔をむけた。 「お電話が入っております」  その中村が電話にかかって帰ってくるのに一分とかからなかった。 「パーキング場の料金所から、すぐに戻ってこいというおことづけ電話だ。今夜の鉢の木会はいやに早く終ったんだな」  福井は腕時計を見た。七時半であった。  商店街の喫茶店を出た運転手の中村と福井は、人ごみの間を抜け、パーキング場へ走った。 「津田」に居る丸山議員にしても宮下議員にしても、自分の車を呼ぶのに、せっかちだった。Aパーキング場から「津田」へ車で十分。彼らは運転手がいつもパーキング場に待機しているとばかり思っている。すこしでも遅れると、議員は叱る。  だから、商店街からパーキング場への歩行時間を駆け足で短縮せねばならなかった。中年の運転手両人は心臓が苦しくなった。  ようやくのことで、パーキング場の料金所窓口前に到着した。係員に電話伝言の礼を云う前に、向い側の食堂にいる運転手仲間五、六人が両人を手招きした。  こっちは雑談どころではないと思い、車を置いている地下二階に向おうとすると、食堂入口のガラス戸が開いて仲間の一人が出てきた。 「あんたらは七時のテレビ・ニュースを見たか」  彼は口早やに両人にきいた。 「いや、見てないけど」 「じゃ、こっちへお入り。話してあげる」 「いま、津田に居るおやじに電話で呼ばれてるんだけど」 「その電話は、おれたちが喫茶店にかけたんだよ」  若い運転手は云うと、その口を開けて笑った。 「なあんだ」 「ごめんよ。たぶんあなたたちは喫茶店で話に夢中になってて、店のテレビを見てないだろうと思ってね」  中村と福井が食堂に入ってテレビに眼をくれると、ニュースはとうに終って、クイズ番組をやっていた。ほかの運転手たちもテレビの前から離れて、長テーブルで茶を飲んでいた。 「いったい、どういう大事件があったのかね?」  中村が立ったままできいた。 「議会解散とか内閣総辞職といった大事件ではないがね。世間なみの交通事故さ。ニュースも最後にそれを云った」  交通事故のニュースと聞いて、中村も福井もテーブルの前にかけた。 「だれか知った人が交通事故に遇って死亡でもしたのか」  中村は、まわりの運転手の顔を見た。 「まんざら知らない人でもない。会館ではしょっちゅう顔を合わせる川村正明議員さ」 「あ、あの若手議員、二世の?」 「そう。その川村先生の乗ってたタクシーがね。人身事故を起したんだよ」 「川村先生が轢《ひ》き殺されたんじゃないのか」  福井は思わず口走った。 「違う」  首を振ったのは錦織《にしごり》議員の牧野運転手である。錦織宇吉は寺西派の幹部で、大臣経験者だった。 「人を刎《は》ねたのは、川村先生が乗っていたタクシーさ。場所は渋谷区代々木二丁目の狭い通りだそうだ」  川村正明。——九州地方出身。父親が保守党の大物だった。父親の死後、その地盤をうけついだ。当選四回。外務政務次官経験者。党内第三派閥の板倉退介派所属。  この男が、院内紙記者に付合いが悪いと悪評をかったドライな二世議員である。 「刎ねられた人は、どうなったのか」  中村が眼をまるくして牧野運転手に問うた。 「救急車で病院に担ぎこまれたが、生命には別条がない。六十五歳の老婆だった。ニュースでそう云ったよ」 「そんなことがテレビのニュースに出るのは、乗客が代議士だからかな」  横の福井が云った。 「それもある。が、それだけではない。タクシーがその人身事故を起したときの川村先生の態度がおかしかったんだな」 「おかしかったとは?」 「老婆を刎ねたタクシーが急停車すると、その乗客がメーターをのぞき、すぐに料金を運転手に押しつけて降りたんだな。運転手が倒れた老婆を抱え上げるのを尻眼に、さっさと向うへ歩いて行こうとした」 「かかりあいになるのを避けたのかな」 「そうかもしれん。で、まわりの目撃者が、あんまりひどいじゃないかというので、追いかけて乗客を呼びとめた。それが川村先生だったわけさ。まわりの人たちも、はじめは国会議員とは知らなかったんだな」 「議員バッジを見れば、それとわかったはずだがね」 「議員バッジは付けてなかったらしい。テレビニュースだから、詳しいことは云わなかったけれど」 「バッジをはずしていたとなると……」  中村がほかの運転手たちと顔を見合せた。 「というのはね、川村先生は人に咎《とが》められてから、自分はこういう者だといって名刺を出した。衆議院議員川村正明の名刺さ。それを出したのは、近くの交番からおまわりが現場に来たかららしい」  牧野運転手は云った。 「川村先生は、どうして現場から逃げようとしたのかな」  福井は不審顔だった。 「ニュースが伝える川村先生の話だと、救急車を早く呼ぶつもりで公衆電話ボックスを探しに行くところだったというんだけどな」  牧野は云った。 「救急車は、だれが呼んだのか」  中村が牧野にきいた。 「それはおまわりが交番の電話で呼んだのだろう。テレビのニュースだから、そんなこまかなことまでは云わなかったけど」 「話はそれきりかね」  福井が牧野に云った。 「それだけだ。しかし、ちょっと面白いだろう? いろいろな意味で。だから、きみたちに教えようと思って喫茶店から呼んだのさ」 「おれたちはまた、おやじの呼び出しだと思って駆けてきて、汗が出たよ」  福井が額をぬぐった。 「おやじの呼び出しも近いんだ。津田の鉢の木会が早く終るらしい。そういう情報が津田の女中さんからあった。そのためにも、きみらを早く呼び返そうと思ってね」 「ありがとう」  福井が牧野の心づかいを謝した。 「タクシー事故の川村先生のことだがね」  中村は頬杖《ほおづえ》をついて云い出した。 「川村先生は、いつも外車のものすごいのを乗り回していたよな。運転は、私設秘書の、何んとかという名の、ほれ、小肥《こぶと》りで、赤ら顔の……」 「鍋屋《なべや》健三」  牧野がすぐに云った。 「おや、名前がすらりと出たね。きみと何か関係があるのか」  福井が云った。 「関係なんかちっともない。ないけど、あの脂ぎった顔は、鍋屋という珍しい名といっしょに一度おぼえたら、忘れられないよ。猫撫《ねこな》で声で、押しの強そうなところが�春島�の女中頭の婆アによく似てるからな」 「春島」は神楽坂の料亭の名だった。 「うん、よく似ている」  福井と中村がいっしょに笑った。二人ともおやじの車をよく神楽坂へ向けていた。 「それなのに、なぜ、川村先生はご自慢の自家用車に乗らないで、タクシーを使っていたのだろうな」  中村が不審そうに云った。 「何か事情があるのだろう」  牧野は煙草をふかした。その煙を見つめるようにして、 「代々木二丁目の狭い道路というのは、小田急線の南新宿駅の東西地区に当るな。あのへんは細い坂道がいりくんでいるよ」  と、牧野はあたかもその煙の中から地図を浮べるような眼つきをした。 「川村先生も今日の午後の委員会をずらかったわけだ。その川村さんが、なぜにタクシーでわざわざあんなところを通っていたのかな?」  中村が云った。 「川村先生は、そのタクシーに乗っていたとき、議員バッジをはずしていたといったな?」  中村が云った。 「ニュースだからね。そこまでは云わないが、事故現場を逃げるときに、まわりの人に追いかけられて、議員の肩書入りの名刺をはじめて出したというんだから、バッジを襟に付けてなかったと推理するほかはないよ」  錦織議員の運転手牧野はもう一度煙を吐いて云った。 「と、いうと、どういう推理になる?」 「隠密行動だよ」 「ははあ、お忍びか」 「でなければ、バッジをはずしてタクシーなんかには乗るまい」  横で牧野の語りを聞く福井には、今日の午後、おやじの丸山を新宿のRビルに送り、その前で待っていたときの一光景が浮んできた。  交差点の信号にひっかかって停ったタクシーの中にソフトを眼深《まぶ》かにかぶっていた寺西正毅の特別秘書外浦卓郎が乗っていた。横にはツバ広の帽子をつけた女性が坐っていた。女の顔は、はっきりとはわからなかった。  二人は話しを交わしてなかった。すくなくとも信号待ちの間は、二つの帽子は固定したように動かなかった。眼深かなソフトと、ツバ広の婦人帽と——なんだか隠密くさかった。タクシーを使っているところが訝《あや》しかった。やり手の聞え高い外浦卓郎だけに印象が強かった。  いま、川村正明が議員バッジをはずしてタクシーに乗っていたらしいという牧野の推定は、タクシーの中で女性|伴《づ》れの外浦に結ぶ。 「川村先生もまだ若いからな、いま、世の中が面白くてたまらないときだろう。けど、代々木二丁目あたりに恋人が住んでいるとは思わなかったな」  中村が云っていた。 「住んでいるのは、マンションかもしれない」  牧野はにやにやして云った。 「あのへんのマンションだと、大きな通りに面してないから、目立たないな」 「住んでいる女は、どういう素性かね?」  と、中村。 「そうだな、地形からいって新宿のクラブやバーのママかな」  牧野が続ける。 「新宿の区役所通りは銀座に負けないくらいのバー街になっている。高級ナイトクラブと称する店もだいぶん出来ているよ。ほら、いつか問題になったKDDの職員もあのへんのバーがご愛用だったじゃないか」 「バーの女だったら、ママとはかぎるまい。ホステスかもしれんぞ。川村さんは若いからな」  おやじたちの宴会が終るのを待つ運転手らのひとときのたのしい話題であった。 「あのハリキリボーイの川村先生が、バーのホステスなんかを、たとえお遊びにしても、相手にするものか」  云ったのは、やはり牧野であった。 「そうだ、いまや革新クラブのホープだと思ってるお人だものな」  中村が肩をそびやかす議員の真似をした。  板倉退介派のうち、当選回数三から六くらいまでの中堅議員七名で政策集団「革新クラブ」が結成されている。年齢は三十代から五十代で、最高が代表世話人、上山庄平の五十六歳であった。上山庄平は、山陰地方選出、当選六回、前国土庁長官。  一応板倉派にとどまっているが、同派からは突出した形であった。「ヤング・パワー」ということから、なにかとマスコミにとりあげられることが多かった。 「なんにしても、川村先生のタクシーが代々木二丁目の路地のような道を通っていたのはまずかったよ」  牧野が茶を注いで云った。 「あの人はどこに住んでいるのか」  中村がきいた。 「赤坂の議員宿舎だ」 「赤坂と代々木。なるほど、方角が違い過ぎるわい」 「お忍びで乗ったタクシーが人身事故を起したときは、さすがの川村先生もあわてたろうな。わかるよ」 「人間、政治と同じで一寸先のことはわからない」  牧野が眼を笑わせた。 「川村先生は、運が悪かったのさ」 「タクシーが老婆を刎ねたとき、先生が逸早《いちはや》くメーターの料金を運転手に押しつけて、逃げ出そうとした気持はわかるし、同情できるよ」 「追いかけられて、仕方なしに名刺を出して居直ったわけだよな」 「川村先生は本院の委員会を抜け出して、会館前からタクシーを拾って行ったんじゃないだろうな」 「それはできないな。会館前は議員の車がいっぱい駐車してるから、運転手たちの見ている前で流しのタクシーに乗るわけにはゆかないよ。運転手たちにどう思われるかわからない。それには議員も気を使うよ」 「すると、川村先生は会館前からお抱えの車で何処《どこ》かへ行った。たとえばビルのようなところにね。そこで車を降りて、ビルに入って行き、中を歩いて反対側の出口へ行く。トンネルのように抜けるんだな。そうして流しのタクシーをつかまえたのかもしれないね。そうして某所へ行き、そこで昼下りの恋愛を愉《たの》しみ、またタクシーを拾って、もとのビルに戻る。こんどは逆のトンネル抜けをして、お抱え運転手の車が待っている玄関へ、何くわぬ顔で出てくる。まあそんなところじゃなかったかな、川村先生の場合も」  牧野の想像に、福井は聞き耳を立てた。  福井が牧野の話に耳をそばだてたのは、今日の午後二時に、おやじの丸山耕一議員を議員会館から新宿のRビルに送ったが、丸山がそこからふたたび姿をあらわすまで二時間ほど待たされたことだった。  川村議員のことで牧野が云ったように、あれは丸山もRビルをトンネルにしてタクシーで「某所」を往復したのではなかったろうか。 「どうして先生がたは昼間にそんなことをするのかね?」  中村が卑猥《ひわい》な微笑を浮べて牧野にきいた。 「そりゃ、夜になると派閥の会合その他の宴会があるからだよ。いまも�津田�で鉢の木会が開かれているようにね。だから、例の時間は昼間しかない。委員会などを抜けてお忍びで某所へ行くわけさ。ところがそのあとがつづいて夜の宴会。それも二次会、三次会とある。くたびれて、翌日の委員会や本会議で居眠りするのも無理ないよ」  福井は丸山が車に乗っていたときの様子を思い出す。  会館から新宿のRビルに向う途中、バックミラーに映る丸山は、なにか溌剌《はつらつ》とした表情だった。黒縁の眼鏡の奥にあるまるい眼にも精気のようなものがこもっていた。  ところがRビルから二時間後に出てきて、ふたたび車の座席に腰をおろした丸山は、何かぐったりとなっていた。Rビル内で、どこかの企業幹部と政治献金の相談で、長時間話し合い、それに精力を使い果した感じであった。そのため、この赤坂の�津田�へ向う途中の車中で、眠ってばかりいた。Rビルへ向うときと、そこを出てからとは別人のようであった。  福井運転手は、牧野運転手の話をおやじの丸山議員にあてはめてみて、複雑な思いになった。不器用な丸山に女があるとは思わなかっただけに、この推測はショックでないことはなかった。  このとき、食堂の出入口の戸が開いて係員が顔を出して告げた。「丸山先生の運転手さん、宮下先生の運転手さん、河上先生の運転手さん、原田先生の運転手さん、松江先生の運転手さん、平田先生の運転手さん。みなさんは�津田�へすぐにおいでくださいとのことです」  運転手たちは一斉に立ち上った。  錦織先生の車の牧野運転手はお呼びでなかった。 「さあ、どうやら鉢の木会が済んだらしい。今夜は、いつもよりは早いな」  運転手たちは云い合った。八時二十分であった。  Aパーキング場から黒塗りの車が列をなして出動した。福井の車もそれにまじって「津田」に到着し、その長い塀の前にならんだ。  同じような黒塗りの車が、この料亭の玄関前をまん中にして左右の塀ぎわに整列していた。  ハッピ着の料亭の若い衆が活発に動いていた。 「津田」から客がつづいて出てきた。  門灯が客の半顔を一つ一つ映した。白頭や禿頭《とくとう》の年寄りもあり、艶々《つやつや》とした黒髪の壮年もあった。老人はうつむいてゆっくりと歩を運び、若い組は背を伸ばして大股《おおまた》に歩いた。  玄関係の蝶ネクタイがハッピ着の若い衆を指揮して議員たちの車を次々と呼んでいる。門内におかみと女中たちの姿がかたまっていた。芸妓《げいぎ》らの見送りはなかった。道路が狭いので、車は一列でしか動かない。華やかで、あわただしい空気だった。  丸山耕一議員の車は、宮下正則議員の車の次で、前列から六番目であった。運転席の福井には、前の車でハンドルを握る中村の背中が、外の灯に逆光で見えた。  先頭の車が動かない。蝶ネクタイと女中たちがうしろの玄関へふりむいている。その車に乗る客の出てくるのが遅いのに気を揉《も》んでいた。  このとき、門内から背の高い男が現れた。明りに浮んだその顔半分を見て、福井は、あ、外浦卓郎だなと思った。昼間、女性づれのタクシーで新宿を走っていた寺西正毅の秘書である。いまはソフトの帽子でなく、櫛目《くしめ》を入れた髪と広い額とを正面に見せていた。光線の加減で、徹《とお》った鼻筋が白く浮き出て、眼もとと頬のあたりが黒い影になっている。立体感のある顔だった。  外浦秘書は車の様子を見に外に出てきたのかもしれなかった。だが、その外浦はそこへふいに現れた男たちにとり巻かれた。新聞記者だった。社旗を立てた車は、別の場所に置いてあるらしかった。  門内から現れるほかの議員らには眼もくれずに外浦だけを囲む新聞記者は、彼が「財界の世話役」和久宏から寺西正毅へ貸された特別秘書と知っている。ザコ(雑魚)の議員連中は眼中になかった。次期総裁候補の寺西正毅と財界とのパイプ役外浦卓郎のほうが議員らよりも取材価値があった。  寺西正毅が外浦卓郎を「三顧の礼」で和久宏から一時譲り受けたとき、寺西夫妻は揃《そろ》って和久邸に礼を述べに行ったという挿話も記者たちは知っていた。  記者らが外浦にいろいろと質問しているのを、車の中から福井運転手は眺めていた。もちろんその一問一答は聞えない。が、財界人との今夜の会合は、いよいよ今秋の総裁人事に備えて、寺西派と財界とが結束をかためる意味かなどと記者団が聞いているのは想像できた。  当惑顔の外浦卓郎は、答えも短く、記者たちをふり切るようにして料亭の門内に引返した。  ようやく先頭の車が動いた。料亭の門内から出てきた議員四人が、その車にいっしょに乗ったからだ。壮年組であった。 (おれの知ったバーがある。そこへ行こう。面白い女の子が居るよ)  一人が二次会に誘う。 (おれの車でいっしょに行くから、きみらの車はここから返してしまえ)  議員らの会話はたぶんこういうことだったろう。  今まで長いこと議員を待っていたそれぞれの車が空《から》で返された。若手議員ばかりだから、秘書兼運転手だろうが、不平の様子はない。むしろ早く解放されたのをよろこんでいるにちがいない。  こっちはこれからが仕事だ、と福井は思った。若手と違って、二次会へ行くにしてもおやじの丸山は、車の相乗りなどはしない。それに丸山などの年配となると、ナイトクラブとかバーなどよりも料亭を択《えら》ぶ。それも神楽坂とか浅草あたりの小さな家である。新聞記者などの眼を避ける意味でも、目立たない待合を択ぶのが近ごろの傾向だった。密談にしても、遊ぶにしても、そのほうが万事便利であった。  丸山の行きつけは、神楽坂と浅草であった。神楽坂の待合では小唄を稽古《けいこ》している。若い妓《こ》も呼んでいる。時には麻雀《マージヤン》をする。  川村正明議員のタクシー事故の話から、丸山にもタクシーで往復する先があるように福井には考えられてきた。そこは何処《どこ》だろう、女はだれか。第一秘書の有川なら知っているかもしれない。有川は目はしのきく男である。  神楽坂にしても浅草にしても、これから行くとなると、帰りがまた遅くなりそうであった。午前一時を過ぎることは間違いない。それまで運転手は車の中で寝て待つしかない。  女中が、おかみさんからだといって夜食をさし入れてくれる。おかずは客に出す料理のあまりものだ。それを車の中でぼそぼそと食べる。  が、これはいいほうで、丸山がゴルフに行くときは、運転手は未明の四時半起きになる。女房は朝飯の支度などはしない。丸山邸のお手伝いさんが出してくれる味噌汁に干物の焼いたものなどで飯をかきこむ。それを台所の隅で食べるわびしさといったらないのだ。  それにくらべると待合の夜食は馳走ということになる。しかし家に帰るのが午前二時すぎで、女房の機嫌の悪いのはもとよりである。丸山が「待たせて悪かったな」と呉《く》れるケチな小遣い銭ぐらいでは間尺に合わない。  前列の四台が去った。順送りに中村の車が「津田」の正面に進んだ。福井の車があとにつく。Aパーキング場から来る車で新しい後列ができた。  宮下が門から出てきた。運転席の中村が坐り直している。玄関係の蝶ネクタイがドアの把手《とつて》に手をかけたときだった。いままでどこにいたのか、小さな男が急に現れ、宮下の横に寄ってきた。院内紙記者の西田八郎であった。  記者団は後列の車へ流れていた。かれらはナンバープレートを覗《のぞ》き、車の主をたしかめていた。寺西正毅と、錦織宇吉など同派の幹部、それに財界の主だった面々はまだ料亭に残っている。牧野が運転する錦織の車もパーキング場から出てこなかった。「寺西番」の各社記者だけでも十人以上の影がそこに集っていた。  こちらでは西田八郎が宮下議員に頭をさげていた。もらった金の礼でも云っているのだろう。宮下は面倒臭そうにうなずいて車の中に入った。中村の運転するその車は灯の通りへ走り去った。  福井運転の車がそのあとに進んだとき、丸山の小肥りの身体《からだ》が門の中から出てきた。 「先生、今晩は」  西田が丸山議員に腰を折って挨拶した。  丸山はじろりと見て、やあ、と鼻の先で答えた。自分に寄ってきたのが院内紙記者だったのが不足らしかった。一般新聞の記者たちは向うにかたまっていて、丸山が現れても、そこから一瞥《いちべつ》しただけだった。 「先生、ちょっとお耳に入れたいことがありますが」  この状況である。丸山はこの院内紙記者を振り切ることができなかった。黙っていると、西田八郎はえたりとばかりに伸び上って丸山の耳になにごとかささやいた。重大なことを告げるときの厳粛な表情だった。  丸山は、ふむ、ふむ、と聞いている。質問はなく、一分ぐらいで話は終った。 「いずれまた、先生に直接にご連絡します」  座席に乗りこんだ丸山を追ってきた西田がドアの窓から云った。  走り出してから、丸山が低い声で云った。 「春島へ」  かしこまりましたというように福井は上体を前に折った。  へえ、今晩は神楽坂か。——神楽坂の「春島」は寺西正毅がよく使う。してみれば、寺西や錦織らが「津田」から来るのを待っての二次会らしかった。  バックミラーの丸山は眼を閉じていた。眠っているのでも酔っているのでもなく、何か思案の表情であった。西田のささやいたことを考えているのか。  福井の耳には、先生に直接連絡します、と云った西田の声が残っている。「直接」とは、第一秘書の有川を通じないでという意味だろう。  とすると、丸山が気にする有川の例の動きを、あの院内紙記者がつかんだのかな、と福井は思った。  アダムズ135号室  川村正明議員の私設秘書鍋屋健三は、赤坂アダムズ・ホテル135号室の土井信行の部屋にいた。 「ライター」の土井は、この部屋を自分の「事務所」にしていた。三週間ほど前、一階ロビーで偶然に会った宮下正則議員の第一秘書木沢房吉、丸山耕一議員の第一秘書有川昌造の両人に土井が自分の口で話したとおりである。  この客室は一つが応接室風、一つはベッドルームで、間に仕切りドアがある。二部屋だと料金は高そうだが、ホテルと長期滞在契約をしているので、割安なはずであった。  横手の寝室はベッドを撤去して、土井の執筆机が置かれてある。それとならんでやや小さな机がもう一つあった。それには三十歳くらいのショートヘヤーの女が書きものをしていた。仕切りドアが開け放たれているので、応接室にいる鍋屋健三にはその姿の一部が見える。  この女なら、やはりロビーで土井が木沢と有川に紹介した速記者の佐伯昌子だった。  鍋屋は、いま土井から渡された原稿を読んでいる。二十字十行で二十枚くらいだった。その几帳面《きちようめん》な字を、癖のある字が訂正していた。原稿の文字は、土井の口述速記を復原した佐伯昌子の筆蹟《ひつせき》で、文章の直しは土井の右肩上りの字だった。  鍋屋のずんぐりとした身体が横坐りのようなかっこうで椅子にあった。太い、不格好な指が原稿を一枚ずつめくっていた。腫《は》れたような左手の薬指に、ダイヤ入りのプラチナの指輪が窮屈そうに嵌《はま》っていた。  土井信行は自分の書いた原稿を読む鍋屋を対《むか》い側から眺めていた。これはラグビー選手でもしたようなひきしまった体格だが、謹み深く椅子にかけていた。遠慮そうに煙草を喫った。  黙読しながら鍋屋はときどきうなずく。いかにもわが意を得たりという個所に眼が出遇《であ》ったときである。  鍋屋は、丹念に読み終った原稿をテーブルの上で揃えた。脂の浮いたぎらぎらした顔には、満足そうな表情があった。 「たいへん結構ですな」  鍋屋は土井に微笑をむけ、云った。 「どこか不備なところがありましたら、訂正しますが」  土井のこの態度は商人のそれだった。 「いや、いや、もう云うとこなかです」  原稿を入れる大型の封筒が用意されてあった。封筒の下には「川村正明事務所」の大きな活字が横にならんでいた。 「さすがですなあ」  鍋屋は土井に云った。読んだ原稿の感想である。川村正明議員も鍋屋健三秘書も九州出身だった。 「さすがに理論の鋭かです。ほかの人では、とうてい書けませんたい」  鍋屋が「さすがに」と云って賞《ほ》める裏には、土井信行が東大生の「全共闘上り」という履歴を意識していた。「理論が鋭い」と賞めるのもそれである。 「恐縮です。でも、そんなものでいいでしょうか」 「いや、これで結構ですたい。云うところはなかです。まったくぼくの考えている内容にぴたりです。それは上手に文章にあらわしてもろうとります。理想的ですやな」  鍋屋は九州弁まる出しだった。  ここで彼は傍《そば》に置いた土井の原稿をもう一度とりあげてぱらぱらとめくり、その一部を声を出して朗読した。 「口調もなかなかよかです」  赤ら顔をにこにこさせた。 「パーティのスピーチにしては、すこし理屈ぽいですかね?」  鍋屋の朗読に聞き入っていた土井が首をかしげた。 「いやいや、これくらい芯《しん》のあるもんでなかと、川村の女性ファンは惹《ひ》きつけられんですたい」 「女性ファン?」 「川村には女性ファンが多かです。土井さん、あんたはウチの川村に遇ったことはなかですか」 「いや、一度も」 「写真は?」 「それまだ拝見したことはありません」 「なかなかの好男子ですよ。川村はね、おれの欠点は、よか男ぶり過ぎる、と自分でいうとります」  噴き出しそうになる土井を、鍋屋は手で制した。 「冗談ではなく、当人が本気でそう云うとります。じっさい、川村の顔はよかです。まあ美男子というてよかですな」 「ほほう」 「それに、三十九歳という若さです。川村もそれば意識して、情熱的にスピーチしますけんな。そして話しながら聴衆の女性の一人一人に熱のこもった眼ば向けます。心得たものですたい」 「川村正明議員を励ます会」が二週間後に、都内Oホテルの「鳳凰《ほうおう》の間」で催される。鍋屋秘書が土井信行に頼んだのは、そのときに川村がスピーチする草稿だった。  川村正明は若手パワーの政策集団といわれる「革新クラブ」のメンバーであった。 「しかしですな。残念なことに、ウチの川村正明はノールスでしてな」  鍋屋秘書は云った。 「ノールスというのは、なんですか」  土井がたずねた。 「ははあ、東京では、そげん言葉ばあまり云わんですかな。ノールスというのは九州もん(者)の云うとります。脳が留守、つまり、ここが空っぽという意味です」  鍋屋は、自分の人さし指をこめかみに当てた。 「ははあ」  土井は下をむいて苦笑した。 「川村は、知識というたら何もなかですたい」  秘書は、仕える議員をこきおろした。  土井は困った顔でいたが、 「この前だったか新聞に出ていましたが、ある高級官僚が国会議員になっての感想です。議員というのは、こんなに頭を働かせなくとも済むものか、役人だったときからすると楽なものだ、とそういう言葉でした」 「高級官僚は、たいしたもんですたい。ほとんどが東大法科卒ですけんな。教育もあり、役所に入ってからはみっちりと勉強ばしとります。競争の激しか官界で鍛えられて生き抜いてきたとです。頭脳の構造からして違いますやな。与党の議員はもとより野党の議員さんでも、官僚の手助けなしには何ひとつ仕事ができません。質問するにしても、役人から資料ばもろうてワキばかためんと、でけんです。まあそげな必要のなか質問は、外交問題と防衛問題くらいでしょうなあ」 「そう云われていますね」 「けど、ウチの川村の頭はとくべつです。一応、東京の有名私大ば卒業しとるばってん。これは情実入学でしてな。親父の孝平が学長に頼んで息子ば突込んでもろうたとです」 「……」 「ぼくが、あの男の面倒ば見んことにはどもならんのです。ぼくの家はね、孝平先生にずっと恩ば受けとりますけん、正明の面倒見は、孝平先生への恩返しのつもりですたい」 「ああそうでしたか」 「正明は大げさな身ぶりで、ヤング・パワーぶりば見せかけとります。あれもぼくの演出でしてな」 「ははあ。川村先生も鍋屋さんのような名演出家兼名参謀が得られて幸福ですね」 「そげんまともに賞めてもらうと恥かしかです。ぼくは名参謀でもなんでもなかですよ。ばってん、正直なところ、ぼくが付いとらんことには川村二代目は危なっかしくて、どうにもならんですたい。あの男、ノールスですけんなあ……。正明の親父の川村孝平は古い政党政治家でした」  正明の私設秘書鍋屋健三は話した。 「有名な代議士でしたね」  知っていると土井はうなずいた。 「大臣を三度やりました。晩年、体力が衰えてからもっぱら党の役員で、党内ばまとめる実力者でした」 「寝わざ師ということでしたね」 「さすがにご存知ですな」 「その程度ですがね、ぼくらの常識は」 「当時、わがM県は川村王国でしたもんね。孝平が死んで、伜《せがれ》の正明が最高点で当選ばしました。二年生議員で外務政務次官になれたのも、連続四回当選も、亡父のおかげですたい。もっとも三回目が次位、四回目がビリの当選でした」 「ははあ」 「正明はですな、なんとか亡父の七光りから脱け出ようと一生懸命ですたい。亡父は党内に隠然たる勢力ば張っておったばってん、もともと地味な性格でした。そこで正明のほうは、派手に派手に、と行動ばするのですな。親父は口が重かったけど、正明はよくしゃべる。親父は演説が下手でしたが、正明は演説上手を身上にしとります。親父は無愛想でしたが、正明はタレントのように愛嬌《あいきよう》ばふりまきます。そげなふうに、正明はすべて亡父の逆を逆をと行くように心がけとります」 「その気持はわかります」  土井は同情するように云ったが、すぐそのあと、つつましげに皮肉な微笑を鍋屋にむけた。 「そういうことは、みんな鍋屋さんのご指導ですか」  え? と鍋屋は問い返すように一瞬の間を置いて、 「正明にはその方面の才能はあります。ゼスチュアは大げさ過ぎるけど、うまいもんです。タレントか俳優の素質は充分ですな」 「なるほどね」 「その熱演が、婦人層ば惹《ひ》きつけますな。顔も好男子です。自分の不幸は好かか顔に生れたことだと正明は本気に云うくらいですもんな。は、ははは」 「……」 「ばってん、色男、カネと力はなかりけりで、正明にはカネがなかです。それで四苦八苦しとります」 「ほほう」 「親父の孝平は政治活動で自分の身代ば潰《つぶ》しよりました。そげなわけで、正明には親譲りの財産がありません。これが彼の泣きどころですたい」 「鍋屋さんがそのほうの調達をなさってるのじゃありませんか」 「金のことになると、ぼくの力では限界があります」  隣の部屋に間を置いて紙をめくる小さな音がしていた。速記者の佐伯昌子が仕事をしている。それは速記記号を普通の文字に復原しているのだった。  鍋屋秘書は、川村正明にカネが無いと歎息した。四年生議員ぐらいでは、自前の政治資金が充分に集らない。政務次官の経歴はあっても、通産、農水、建設、運輸、大蔵などの経済関係省のポストとは違って、外務のそれでは金ヅルも出来ないのである。 「そこでですな、『川村正明議員を励ます会』というのばたびたび開いて、川村にスピーチさせ、スポンサーなりファンば獲得する運動ばやっとります。それにつけても理論ば持たん川村に理論武装ばでけんと思って、あんたにスピーチの草稿ばお願いしたというわけです」 「ご期待に添えたかどうか、それが気がかりです。もし川村先生にお見せいただいて、不充分な個所があれば、どのようにでも手直ししますから、遠慮なくおっしゃってください」  代筆業者は、商人であった。 「いや、これでよかです。川村にしては、ちょっとむつかしか理論ですが、このくらいでなかと婦人たちには川村が偉かごと見えんでしょうや。おなごどん(女ども)は、自分たちのよく理解でけん話ば尊敬するもんです。ふしぎですな」 「それは婦人にかぎりません。インテリと云われてる男でも、自分らの理解を越えた難解な文章に弱いものです。いかにも深遠な思想があるように錯覚するんですね。最近、そういった評論家人種の一人が、ある雑誌の対談で、すっかりメッキが剥《は》げたという評判です」 「土井さん。あんたは東大法科でしたね?」 「中退です。退学処分になりました。正確には全共闘崩れですよ」  土井は眼もとを笑わせた。それに自嘲《じちよう》の色があった。 「東大全共闘の理論家だったそうですな?」 「仲間と勉強はしましたが……」 「だから、こげな立派な理論が書けるんですな」  全共闘(全学共闘会議)は、昭和四十三、四年の大学闘争の主体だった。ほんらいは大学単位の組織で、東大、日大全共闘などがよく知られていた。「人間性回復、自己否定など、学生や大学の社会における倫理性の追求」が特色だったといわれているが、既成セクトを主体とせず、一般学生が結集した学生の大衆運動組織というのが、普通の意味での定義となっている。  四十三年六月は、東大構内の安田講堂が東大生を中心にした全共闘の学生に占拠されたのは有名だが、この年九月には中核派が全国全共闘を組織した。  その後、官憲側の弾圧などで、この大学闘争は終った。全共闘も、革マル派、中核派、解放派などの過激的な急進運動グループを除いて、解消した。 「土井さん、あんたはその運動で逮捕されましたか」  鍋屋は興味をおぼえて訊《き》く。ついでに出た枝葉の話であった。 「逮捕歴三回です」 「投獄されましたか」 「警察につかまっても、そのつど完全黙秘で通しました。ゲロっていたら懲役一年以上の判決は間違いなかったでしょうね」 「頑張ったものですなあ」  鍋屋に見つめられて、土井は照れ臭そうに眼を伏せた。 「自白した人たちは、どのくらいの刑期でしたか」 「最高が二年でしたね。一年とか六カ月とかが多かったです。みんな執行猶予がついていましたが」 「その人たちは、いまどうされていますか」 「そんな前歴がありますから、就職はダメです。たとえ前歴をかくして官庁や会社に入ろうとしても調査でばれますからね」 「当時二十歳くらいの人だとしても、いまが三十三、四歳ですかな。東大法科卒だと、普通のコースでは、官庁でも企業でも、エリート課長か部長クラスになっとりますなあ」  いかにも惜しいというように鍋屋は云った。げんに眼の前に居る土井信行がそれに当るのだ。逮捕歴が祟《たた》って、どこにも就職できず、前は院内紙の記者をやっていた。現在はそれから浮び上っているものの、けっきょくは「代筆業」であった。 「若気の過ち」を憐む色が鍋屋の眼に現れていた。 「そうですね」  その視線がわかったらしく、土井は答えた。 「全共闘の実体がなくなった今、当時の仲間に虚無感があるのはたしかです。残されている道は、郷里に帰って地方の市民運動とか文化運動をやることですね。ぼくの仲間にもそういうのが居ますが」  鍋屋は気づかないが、虚無感をもっとも抱いているのは土井信行自身のはずだった。今や「権力側の保守党議員」のために「代筆」という売文業で暮している。  全共闘上りの連中が地方の文化運動や市民運動にたずさわっているという土井の話に、鍋屋はまた新しい興味を起した。 「その運動は、どげな理念からですな?」 「べつにイデオロギー的なものはありません。普通の意味の進歩的な市民運動です。そういう立場で、地域から政治の浄化を図るということらしいです」  土井は以前の仲間のことを云った。 「効果の上っとりますか」 「市民層の大衆運動ですからね。地域的政界浄化といっても遅々たるものです。それに、地域のその組織に眼をつけた国会議員が、市町村会議員などを使って、自分の選挙地盤に取り込もうとしているのです。鍋屋さんの前ですが、議員さんの票田発掘活動は油断もスキもなりませんね」 「そりゃ土井さん、議員よりも地元の秘書連中のやることですやな。あいつらは、そげなことばかりばやっとります」 「四十四年の全共闘運動に敗れて郷里に帰り、虚脱状態になった青年を、遊んでてもなんだろうからと選挙に手伝わせたのがきっかけで、ある議員の有能な選挙参謀になったという話を、新聞で読んだことがあります」 「そういう人ば見つけて、議員会館に入れたらええかもしれんな。ひとつ、川村にすすめてみようかな。……いやいや、川村のようなノールスじゃ、そげな腕きき秘書に殺されそうだな」  鍋屋は首《かぶり》を振った。 「これは全共闘とは関係ありませんが、ぼくの大学時代の先輩が、超大物議員の秘書になっています」 「だれ?」 「寺西先生の秘書の外浦さんです」 「えっ、外浦卓郎君が、そうですか?」  鍋屋は眼をみはった。 「ぼくの十年先輩です。やはり法科ですが、外浦さんは成績優秀で卒業。ぼくはいま云ったように三年で中退です。外浦さんが経済新聞社の記者のとき、財界の世話役の和久宏東方開発社長に知られてその秘書になりました。そこから寺西先生の秘書に移りましたが」 「外浦君は、寺西先生に懇望されたとです。特別秘書という名の、財界とのパイプ役ですな。あんたは外浦君とは知り合いですか」 「学生時代の友人の兄貴が、外浦さんと同期でしてね。友人に引張られて、まだ新聞社に勤めている外浦さんに会いに行ったことが二、三度あります。新聞社の近くの喫茶店で外浦さんの話を聞いたことがあります。それきりです。向うはもうぼくを憶《おぼ》えてないでしょう」 「そのころ、あんたが外浦君と会ったときは、どげな話が出ましたか」  鍋屋がきいた。次期総裁に擬せられている寺西正毅の秘書なので、外浦卓郎に対する関心は強かった。 「あんまりむつかしい話はしなかったですね。憶えているのは、外浦さんが目下速記術を習っていると云っていたことです。新聞社の連絡部には地方の支局からの電話送稿を受ける速記者がいて、それを見て思いついたと云っていました。インタビューなどを速記でサラサラと書けば、正確だし、速いということでした。いまは新聞社も地方支局からの送稿はファクシミリなんかの電送になっているそうですが、当時は連絡部にまだ速記者が居たんですね」 「なるほど」 「しかし、速記はなかなか憶えられないと、さすがの外浦さんもこぼしていましたよ。あれは速記専門の学校に入っても三年間かかるそうです。自由自在に書けるようになるまでは、さらに二年かかるそうです」  隣の部屋では速記者の佐伯昌子が仕事をしていた。 「国会の速記者養成所でも、習得期間がたしか三年間でしたかな」 「基本をマスターするまでね。ところが、そこまで行かないうちに、途中で断念する者が大多数だそうです。五十人のうちでモノになるのは四人か五人、あとは脱落です。それほど速記は辛抱の要る勉強です。専門に勉強しててもそれくらいだから、まして新聞社の雑用の合間を縫って練習してたんでは、いつになったら速記術をマスターできることやらわからないな、とそのころの外浦さんは心細そうに笑っていましたがね」 「その時分から外浦君は努力家だったのかな」 「そうです。たいへんな努力家ですよ。頭脳がいいだけじゃありません。たぶん、外浦さんは速記術をマスターしたにちがいありません。寺西先生の秘書として現在その速記を縦横に活用しておられると思いますね。寺西先生からの指示も、受ける電話も、それからメモもね。速記だと、速いですからね」 「うむ、うむ。それに、あのミミズの這《は》ったような記号だと、たとえまわりの者にのぞかれてもわからんですからな。外浦君がそればやっておるとすれば、やはりほかのボンクラ秘書とは違いますな」  こう云って、鍋屋は土井の顔をあらためて見た。 「土井さん。あんたもその速記ば仕事に活用されているわけですな」  隣室から佐伯昌子の紙をめくる音がしていた。  速記を活用していると鍋屋が土井に云ったのは、もちろん速記者を使って代筆をしているという意味であった。  土井へ代筆を依頼する永田町関係者は多かった。それには、議員の「著書」をはじめ、選挙用演説、集会スピーチ類から「海外視察報告」「日本の将来についてのわが展望」「私の政治理想」「人生随感」などという選挙区むけの小冊子まであった。代筆というよりも完全な代作であった。  ほんらいは秘書が先生の代筆または代作をなすべきだろうが、およそ議員秘書にはそれに適《む》くような者がいなかった。文章力がないのである。  そこで土井信行のような職業的な代作者に頼むことになる。それが職業であれば、土井はそれぞれの依頼者によって代作を書き分けた。同じ保守党でも、AならAの、BならBの、CならCの個性に合わせた文章にしなければならない。各自それぞれの主張や意見を違えて、独自性や特徴を出す必要があった。その点、土井信行には職業的な天才性があった。  速記者を使うのは、注文が多すぎて、土井がいちいちペンをとって書いていては間に合ないからである。口述速記をする。復原した文字に眼を通し、文章に手を入れる。その間に次の口述をするといった流れ作業であった。  速記者の佐伯昌子は某速記事務所に勤めているが、現在は土井の専属のようなかたちで、アダムズ・ホテル135号室に出勤していた。 「どうもお忙しいところを、長い間お邪魔しました。では、これを、どうぞ」  鍋屋は、内ポケットから厚みのある封筒をとり出して、テーブルの上に置いた。 「どうも」  土井は頭を下げてうけ取り、領収証を書くために隣の間に引込んだ。  その間に鍋屋は別のポケットからはがき二枚大の印刷物をとり出して眼を通していた。 ≪衆議院議員川村正明君を励ます会≫  と大きな活字があり、挨拶文句につづいて、 ≪会場Oホテル鳳凰《ほうおう》の間。会費 二万円≫  とあった。  発起人には、衆議院議員板倉退介、同じく上山庄平、同じく何、同じく何、と十名くらいの名がならび、その中には党幹事長、現職大臣の名もあった。  土井が隣室から戻ってきた。 「ありがとうございました」  土井にさし出した領収証には、三十万円と記入されてあった。  土井からもらった三十万円の領収証をポケットに収めた鍋屋は、 「これは川村のパーティの招待状です。もしお時間のありましたら、気軽にお出かけください。ただし、二万円の会費は頂戴《ちようだい》しませんから」  と、笑いながら手に持った刷りものを土井にさし出した。 「どうも。ああOホテルですね。ここから近いですから、おうかがいして川村先生のスピーチを拝聴したいものです」  土井は招待状から眼を上げて云った。自分が書いて渡した演説のシナリオを、川村正明がどのようにしゃべるだろうか。また、その鍋屋の演出はどんなぐあいだろうか、「ライター」としては興味のあるところらしかった。 「では、わたしはこれで。長いことお邪魔をしました」  鍋屋健三はようやく腰を上げた。 「失礼しました」  土井は彼をドアの外まで見送った。  室内に戻った彼は、次の間に入った。自分の机とならんで速記者の佐伯昌子が原稿紙にボールペンを動かしていた。  傍に置いているのは半紙を二つ切りにした綴《と》じもので、それには土井の口述が速記記号にとられている。彼女はその速記記号を見い見いして漢字や平カナに復原していた。  土井は復原された四百字詰原稿の枚数をのぞいて、百二十三枚まで進行しているのを知った。 「平井先生の本は、外国の高官と会った写真をふんだんに入れるそうだから、本文は二百枚をちょっと越える程度でいいですね。十ポイントくらいの活字でゆっくり組めば、二百ページくらいの本にはなる。……」  土井は速記者に話すともなく云った。 「だから、あと百枚くらいの復原ですね。ご苦労さん。まあ一息入れてください」 「はい」  佐伯昌子はペンを措《お》き、熱いお茶をいれて、いままで鍋屋健三が坐っていた応接テーブルに土井とともについた。 「あと百枚の復原というと、時間はどれくらいかかりますか」  土井が煙草に火をつけてきいた。 「二日もあれば完成します。お急ぎなら、家に持ち帰って書きますから、もっと時間が短縮できます」  佐伯昌子は云った。 「いや、そんなに無理しなくてもいいです」 「でも、あとのぶんがつかえていますわ。小早川先生の速記と石井先生のをまだ復原していませんもの」 「小早川議員のは演説集の小冊子だから短いけど、石井議員のは著書だから、かなり長いですね」  どれも土井信行の代作であった。 「平井先生の名前で出るご本のことですけれど」  佐伯昌子が熱い茶をひと口すすって云った。 「土井さんの口述を速記にとっているときも感じたことですが、いまそれを復原してみて、土井さんが外国の土地のことをよくご存知なのにおどろきましたわ。まるでご自身で外国旅行のご経験があるみたいです」 「海外旅行をしたことはないですね。議員さんの海外視察報告の作文程度は、あり合せのガイドブックをつなぎ合せるだけでなんとなく出来上りますよ。国内で出版されたものから取るのは気がさすので、英国から各国別の案内シリーズが出てるのがタネ本です。議員さんだって、出発前に訪問先の外国絵ハガキを大量に買いこんで、秘書らが手分けして選挙区の宛名《あてな》書きや、短文のペン字を書いています。これも代筆ですよね。それを議員さんが現地に到着して投函《とうかん》しますから、海外視察報告の代筆もそれと択《えら》ぶところはないです」  土井は笑った。 「でも、同じ視察報告でも、A議員、B議員、C議員とそれぞれにその人らしい性格と特徴の文章になっています。意見とか感想もみな違っています。それには、失礼ですが、速記をとりながら感心するんです」 「佐伯さん。それが職業ですよ。いや、職人仕事ですよ。注文主の求めに応じて、いかようにも仕上げます、というところですな」 「……」 「いま帰って行った川村正明議員の私設秘書の鍋屋という人ね、川村さんをヤング・パワーのチャンピオンとして自分が演出をつけていると云ってたでしょう?」 「はい。向うで仕事をしながら拝聴していました」 「だからぼくは鍋屋秘書の演出に合わせて、川村さんという役者のスピーチ台本を書いたんですよ。代筆職人、売文職人ともなると、それぞれ注文主の気に入るように、台本のセリフも書きわけなければならないのです」  速記者の佐伯昌子は、茶碗《ちやわん》を顔の前に当てたまま、上眼つかいの視線を土井の顔に走らせた。  この人は全共闘の学生運動家だったというが、全共闘が崩壊してからは、その挫折《ざせつ》感から現在のように虚無主義的になってしまったのか。そのニヒルな心情から、全共闘を潰滅《かいめつ》させた権力側の司令部の保守党の議員たちに、「売文」しているのか。この人には「転向者」としてのうしろめたさがあって、そうしてその意識を拭《ぬぐ》い消すために居直っているのだろうか。  それとも、あれは学生時代という青春の一時の情熱だったと割り切って平気でいるのだろうか。——  もしこの場に第三者がいて、佐伯昌子の土井への一瞥《いちべつ》を横から観察したら、そのような印象を受けたかもわからなかった。 「さきほどあちらでうかがってたお話の中に、寺西先生の秘書の外浦さんが速記術をマスターしてらして、筆記でもメモでも速記記号でお書きになっているというのがありましたわ。速記者のわたしは、それにとても興味がありました」  佐伯昌子は話題を変えた。 「あなたがそれに興味をもつのは当然でしょうね」  こんどは土井も明るい微笑になった。 「経済新聞社に勤めてらしたときに、連絡部の速記者から速記術をお習いになったなんて、外浦さんは積極的な方ですね」 「それだけでも彼の性格がわかるでしょう? 大学の先輩で、ぼくはちょっとしか面識がありませんが、秀才の評判が高かったです。しかし、それだけでなく、努力家ですよ。いまや寺西先生のいちばんのブレーンだそうですよ」 「外浦さんは将来政界に出られるのですか」 「あの人は政界には興味がないと思います。彼としては、早い時期に寺西さんの秘書をやめて、元の和久宏さんのもとに帰りたいんじゃないですかね。それを寺西先生がどうしても承知しないというのを人から聞きました。無理もありません。彼は和久さんを代表とする財界との太いパイプ役ですからね。外浦さんを手放したら、寺西先生の実力にも影響すると思いますよ」 「虚無的な」土井信行だが、先輩外浦卓郎には畏敬《いけい》に近い好意を持っている口ぶりだった。 「お話、ありがとうございました」  佐伯昌子は一礼して、腰を浮かしかけた。その昌子に、土井がきいた。 「佐伯さん、今夜もお宅に仕事を持ち帰りということになりますかね?」 「ええ、あと復原するのが詰っていますから」 「重労働させて申し訳ないです。といって、あなたに代るような優秀な速記者はほかに見あたらないしね」 「そんなことはありません」 「とにかく、あなたはぼくの仕事についてもらって馴《な》れていますからね。ただ、そのために、ご主人のお世話にさしつかえるようなことがあっては申しわけないと思っています。それがぼくにいちばん心苦しいんですが」  佐伯昌子の夫は病弱で結婚後間もない四年前から働けないということだった。そのときすでに速記者だった彼女が働いて生活を支えている。  詳しくは土井も聞かないが、佐伯昌子はそのようなことを洩らしていた。 「いいえ、主人も前からみると、かなりよくなりましたから、大丈夫ですわ」  ショートヘヤーで、小柄なため若くは見えるが、佐伯昌子の顔には、やはり苦労のやつれがにじみ出ていた。いまもそう云って元気そうに見せてはいるが、眼もとに疲れが浮んでいた。  激励パーティ  その日の午後六時前、土井信行は赤坂のOホテルの宴会場「鳳凰の間」へ行ってみた。 「行ってみた」という表現が、そのときの土井の心に似つかわしい。代作したスピーチを川村正明議員がどのような口調で演説するか、それには鍋屋健三秘書がどのような演出を行っているか。この前の鍋屋の話もあったので、興味を抱いて来たのだった。いわば半ば弥次馬的気持であった。  それと、日ごろから代筆しているのが保守党議員のものに多いので、この際、会場の一隅に立って議員たちの様子を眺め、その空気を知りたかった。仕事の上に役立つだろうと考えた。  各宴会場の前の広いロビーが客の溜《たま》り場《ば》になっている。「衆議院議員川村正明君を励ます会」のほかに何組かの結婚披露宴の受付がならんでいた。今日は大安であった。ロビーにはモーニング姿や婦人たちの留袖や付下げ姿が見られた。  が、なんといっても「励ます会」の受付が大人気であった。受付机は横に長くできていて、女性を含めて係が十人くらいならんでいた。どの胸にも「衆議院議員川村正明君を励ます会」のリボンがさがっていた。すでに受付の前は、参会の記帳をする者や、二万円の会費キップと引換えに徽章《きしよう》をもらう者で混雑し、なおもうしろに列がつづいている。さらには記帳の手つづきをすませた人々が「鳳凰の間」の入口へ長い列をつくっていた。ほとんどが男性だが、女性も少くなかった。すでに入場が開始されていた。  土井はその行列のうしろ近くにならんだ。鍋屋は会費不要の判コのある「招待券」をくれたが、それでも記帳はしなければならなかった。参会者は、どうやら業者関係が多いように思われた。  記帳などに手間どるのか、行列は遅々として前に進まない。土井は退屈してロビーの一方を眺めていた。そこには結婚披露宴の参会者が入場を待って、椅子にかけたり、立ったりしていた。幾組もあるので、ここも相当な混雑であった。  そのうち、向うのモーニング姿の一群の中に見知りの顔を土井の視線が捉《とら》えた。  煙草を吸いながら隣の紳士と談笑しているのは外浦卓郎であった。もう十数年遇わないが、その顔はすこしも変っていなかった。ただ、年月の経過と環境の変化とが彼の容貌《ようぼう》と姿態とに貫禄を加えていた。  つい二週間ほど前に、土井は自分の事務所で鍋屋健三と外浦の話をしただけに、なつかしい気持でその視線を動かさないでいると、向うの外浦が話をすませて、ひょいとこっちをむいたそのひょうしに、両方の何気ない視線が合った。  遠くからなにげなく土井と視線の合った外浦卓郎は、最初どこかで見たような顔だがといった表情だったが、すぐにそれとわかったらしく、「川村正明君を励ます会」の列にいる土井のほうへ微笑しながらモーニング姿を近づかせてきた。  頭をさげる土井へ、 「やあ、しばらく」  と外浦は快活に声をかけた。 「お久しぶりです」  土井もなつかしそうに笑顔を返した。  土井のいる行列の前後の人が外浦をなんとなく見た。外浦はその人たちへ軽く目礼して土井に話しかけた。 「もう何年になる?」  一別以来という意味だった。 「十三、四年にはなると思いますが、ご無沙汰しています」 「もうそんなになるかね。きみは変ってませんね」 「外浦さんこそ以前のままです。すぐにわかりました」  ここで外浦という名を出しても、まわりの人に反応はなかった。土井をはさむ列の前後は、政界のことに詳しくない一般の人々だった。 「元気そうだね」  外浦は「川村正明君を励ます会」の列にならぶ土井を、ちょっといぶかしそうに見た。保守の第一党政憲党関係の仕事を土井がしているのかな、といった眼だった。 「外浦さんこそ。前よりはお肥《ふと》りになったようですが」  貫禄がついて立派になられたというのを言外に響かせた。 「もうすこし瘠《や》せないといけない。身体《からだ》が重くてね」  外浦は笑った。健康そうな歯なみだった。 「ご親戚《しんせき》の結婚ご披露ですか」  これは外浦がモーニングをきているからだった。友人関係だったら、たいていが平服である。 「うむ。まあね」  結婚披露宴の受付が三つも出ていて、広いロビーも人の群でせまくなっていた。外浦が掲示板に出ているどの両家の披露宴に出席するのかわからなかった。  こっちの行列が前に進んだ。 「そのうち、久しぶりに話したいものだね」  先輩はなつかしそうに云った。 「でも、外浦さんはお忙しいんでしょう?」  寺西正毅議員の秘書だとは知っていますよという表情を土井は見せた。 「いや、そうでもないよ、電話をくれたらいい」  寺西の事務所に、という意味を、外浦もはっきりと聞かせた。 「じゃね」 「失礼します」 「衆議院議員川村正明君を励ます会」の会場「鳳凰《ほうおう》の間」を入ったすぐ右側には来客を迎えて主人側が六人ならんでいた。客の一列はその前へ儀式のようにすこしずつ進んだ。  カメラの閃光《せんこう》がしきりと放たれていた。重要と思われる客が主人側と対《むか》い合い、頭を下げ、握手したりする場面を捉えている。カメラマンはそこに数人待ちかまえていたが、いずれも主催者の「川村正明後援会」に傭《やと》われたものだった。  主人側の先端に立っているのが胸にひとまわり大きい金色の花形の輪を付けた人物で、輪の下に垂れ下がったリボンには「川村正明」と書かれてあった。  彼は上背があって、隣にならぶ板倉退介の短躯《たんく》を圧していた。年齢の点でも、男ぶりの点でも、新聞、雑誌の写真では有名な板倉の顔を貧弱にさせていた。それは次にいる「革新クラブ」の代表世話人上山庄平についても、その次の元厚生大臣にしても、またその次の元法務大臣についても同じことがいえた。ましてや、最後にいる後援会長の会社社長の年とりすぎた矮小《わいしよう》さといったらなかった。元大臣達はいずれも板倉派だったが、今夜は「ヤング議員」の川村正明を、彼らの肉体的条件がおのずから引立て役にまわっていた。  だが、参会者の列にいる者は、当の川村正明と言葉をかわすよりも、隣の板倉退介に長々と挨拶したり、次にならぶ閣僚級議員と握手するのが多かった。そういう客はほとんど議員バッジ組であった。  もしここに政憲党係の新聞記者なり板倉番の記者なりが居合せたとしたら、こんな解説を試みたであろう。 ≪川村正明は上山庄平の弟分である。上山の「革新クラブ」は板倉派に所属しているので、今夜の川村正明を励ます会には、御大の板倉退介が主人側に自らならんでいる。それは上山の「革新クラブ」がヤング・パワーとしてとかくマスコミにとりあげられ、またそれによって自信を得ている上山らが、強引に独立しそうな気配があるのを牽制《けんせい》する意味と、桂重信=現首相・総裁=派と寺西正毅派とに水をあけられている板倉退介が自派の結束を固め、かつは勢力誇示のデモンストレーションの機会を、今夜の会に求めたのである。板倉が閣僚経験者の自派の幹部を引具してきているのもそのためだ。一見、川村正明を応援し、上山庄平の顔を立てているようだが、今夜の「革新クラブ」は、板倉に利用されているのである。板倉退介はやはり策士で、上山以下「革新クラブ」七名の議員の手綱を握っている。≫  こうした「読み」をするクロウト筋の参会者もあったが、無関心な客が多かった。かれらは割り当てで二万円のパーティ券を買わされた企業関係者だった。  パーティ券を買わされた者、または買った人(団体)から券をタダでもらった参会者は、ほとんどが企業関係の中堅社員どころで、彼らは金屏風《きんびようぶ》の前に居ならぶホストの前を素通りした。せいぜいが新聞写真で見馴れた板倉退介の実物の顔を一瞥《いちべつ》する程度であった。川村正明もかたちだけ彼らに目礼した。むろんカメラのフラッシュもむけられなかった。そのぶん会場へ入る列がはかどった。  土井はその列の中にいたが、川村正明のうしろに控えた鍋屋秘書が、土井の顔を認めると、すばやく川村の耳にささやいた。  形式的に来会者の列へ頭を下げていた川村は、鍋屋の耳うちを聞くと、視線を土井の顔にちらとむけた。鍋屋の川村へのささやきは、あんたの「代筆者」はこの人ですよと云ったはずだが、川村には、なんだ、こいつかと、まるで出入りの商人を見るような表情だった。  会場にはあらかた二千人ぐらいの客が入っていた。そのうち婦人が二割くらいまじっていた。議員バッジを付けた連中や、財界人らしい白髪や禿頭の輩《やから》は、設置された演壇近くのメインテーブルに集り、さして肩書もない一般の客どもは入口側や、スシ、天ぷら、おでん、焼きトリなどの屋台がならぶ両の壁ぎわにかたまっていた。パーティの初めにはよく見られる現象で、中間地帯には人がまばらであった。あとからの入場者もメインテーブルのほうを遠慮していた。  しつらえられた演壇の真上にはバラの造花でふちどられた大きな横額が吊《つ》られ、「衆議院議員川村正明君を励ます会」と看板文字が墨書されていた。中央のテーブルには、巌上《がんじよう》に鶴が両翼をひろげている巨大な氷の芸術品が飾られ、それを中心に色とりどりの各種バイキング料理を盛ったテーブルがほどよく配置されているのは型どおりであった。  その間を、飲みもののグラスを乗せた銀盆を持つボーイや、若い女たちが行き交うのも見馴れた風景だったが、しかし、サービス嬢らは、ある種のパーティのように銀座のホステスが狩り出されたのではなく、ホテル側の契約によるバンケット・ガールで、白のブラウスに赤のロングスカートという揃《そろ》いのユニフォーム、「清潔ムード」を狙っていた。会場のあちこちを参会した議員の秘書たちがこまめに動きまわっていた。  入口にならぶ板倉退介やその派の閣僚級の幹部たち、それに川村正明の介添役の上山庄平までが、一時的に川村をそこにほったらかして、かわるがわるメインテーブルにくるときは、財界の主だった顔を案内するからだった。彼らはそこで短い時間談笑し、またもとの入口の定位置に戻る。  定刻をかなり過ぎた。川村を先頭に板倉、上山、元大臣連が完全にはなれて入場してきた。それまで場内に流れていた静かなメロディ音楽がやみ、ざわざわした声もやんだ。司会者の開会宣言に拍手が起った。  轟《とどろ》く拍手に迎えられ、金屏風の前、大きな松の盆栽を飾った演壇に板倉退介が立つと、カメラの閃光が、その平べったい顔に集中した。  演壇下の右側には、ひときわ大輪の花形徽章を胸につけた川村正明が、いささか緊張した面持で佇立《ちよりつ》していた。彼の面長な整った顔と長身とは、壇上の、扁平《へんぺい》な顔に眠たげな眼とまるい鼻とがおさまる短躯の板倉とは、絶妙な対照だった。 「板倉退介でございます。皆さん、今晩お集りの方々は、わが川村正明君の絶大な支持者ばかりであります。ありがとうございます」  板倉退介は、不透明な声で云って深々と頭をさげた。 「それを考えますならば、わたくしがこのような高い所に立つのではなく、皆さま方に全部この壇上におならびいただいて、わたくしは、はるか下座から三拝九拝しなければならないのでございます」  笑声が湧《わ》いた。 「と申しますのは、川村君はわが党の大物になる人物でございます。いや、いまでも大物でございますが、まだ年が若うございまして、それを表面に出していないだけでございます。今夜はごらんのとおり神妙な顔で控えておりますが、それはホストとしてのわきまえからで、日ごろは闘魂むき出しの面《つら》がまえをしております。しかも、それは単に荒々しいというのではなく、十分に理知を持った上でのファイトであります。すなわち、日本の政治というものを考え、それによって政策を練り上げてつくり、さらに広い視野からそれにさまざまな角度から緻密《ちみつ》な検討を加え、これでよしときまった上は、その信ずるために情熱をもって川村君は驀進《ばくしん》するのでございます。つまり川村君は理知派と情熱派を兼ねそなえている政治家でございます。近い将来、日本は必ずや川村君を主役として必要とします。すなわち川村総理大臣の出現は、そう遠くないのでございます。不肖板倉がこの壇上でそう確言するのでございますから、これはもう間違いないことでございます」  笑声が起り、すぐにそれが会場をゆるがす拍手に変った。壇下の川村が面映《おもは》ゆそうにつづけて頭をさげた。 「そのような川村君の将来を予見されて、川村君を支持される皆さまのご聡明《そうめい》に対して、わたくしは深く敬意を表するものであります。同時に、政界という荒波に揉《も》まれる川村の大成を期すためには、どうしても皆さまの熱烈なご支援とご激励をお願いしなければならないのでございます。すなわち、皆さまをここにお上げして、下座からわたくしが三拝九拝しなければならない理由でございます」  聞きながら片隅に立つ土井は、そっと場内を見まわした。  土井の眼に、場内の参会者はおよそ二千名と思われた。  一枚二万円のパーティ券は、たぶん三千枚くらい発行されたのではなかろうか。発行は「川村後援会」だが、これは川村議員事務所そのものである。川村や秘書たちが手分けして、関係先の企業や団体に三千枚のパーティ券を割り当てる。不況の折柄、この売込み運動も楽ではなかったろう。  千名の欠席があっても、券は前売りしているので主催者に損はない。  総額六千万円の売上げである。そのうち二千万円をホテル側へ支払うとして、四千万円が一夜にして川村議員のふところに入る。  昨今、政治資金かせぎにパーティが流行している。威勢の誇示と、まとまった実収入とを兼ねているのでこたえられない。  今夜の計画もその流行にならったもので、川村議員と私設秘書の鍋屋健三両人による共謀だろう。とくにアクの強い鍋屋が売込みの主動力になっているはずだ。もしかすると、鍋屋は歩合をもらっているかもしれない。歩合をとるなら鍋屋の勧誘売込みも、外交員なみに強引なくらい熱心になろう。鍋屋の前歴は、じっさいにどこかの販売外交員かもわからなかった。  鍋屋秘書が虚心に川村正明の参謀をつとめているとは思われなかった。それにはかならず利益があるはずだ。利権のリベートもある。  ただし、四年生の川村ではたいした利権は狙えない。外務政務次官程度の履歴では、大きな企業とのコネはつかない。ことに党内第三位の板倉派に属しているのだから、大派閥に居るようなウマ味はない。まだ常任委員長にもなったことがない。そこでヤング・パワーを売りものにして、上山庄平を盟主に「革新クラブ」を結成し、板倉派からの独立を図る一員に川村は加わったのだが、これも鍋屋の影の指導と思われる。 「革新クラブ」が党内に勢力をもってくれば、川村の常任委員長就任も不可能ではない。政務次官、常任委員長、大臣が議員の出世コースだ。川村を大物に仕上げればそれだけ鍋屋の利権リベートも大きくなるわけだ。  それこそ板倉退介が持ち上げるように「川村総理」が実現すればもっとも理想的だが、所詮《しよせん》それはいわゆる水に映る月の影である。板倉の露骨な持ち上げ方は、「革新クラブ」を自派につなぎとめたい意図から出ている。  板倉の意図がそうだとすれば、川村の入閣も不可能ではない。主流二派と板倉派の妥協から、バランス主義で平凡な人間が大臣のイスにありつくことがある。  新たに起った拍手は、壇上に上った板倉派の幹部で、元厚生大臣に送られた。 「川村正明先生は」  彼は開口一番に云った。 「わが党のホープであり、近い将来の総理大臣であります」  たったいま降壇したばかりの親分板倉退介が述べた「川村総理大臣」説を敷衍《ふえん》したのだが、六十を三つ四つ越した白頭の閣僚級議員が、はるか後輩の川村を「先生」づけにして呼んだのである。来会の「支持者」たちを頭に入れてのことかもしれないが、それにしてもこれまた臆面もないお世辞であった。 「川村先生の識見には、わたくしどもは常々敬服しておるのでありまして、その若き行動力は新時代の政治家というにまさにぴったりであります。ただいまも板倉さんが申しましたように……」  板倉退介が演説する間は、水を打ったように静かだった場内も、格の下る元閣僚の議員のスピーチとなると、聴衆に私語がはじまって、ざわめきがひろがり、壇上の語尾がよく聞えぬくらいになった。  場内で人の肩がさざ波のように揺れ動く中で、ひとり不動の姿勢をとっているのは演壇わきに立つ川村正明であった。彼の七三に分けた黒々と豊かな髪の幾筋かは額にもつれかかって、その好男子ぶりにいくぶんの粋《いき》さえ加えた。一八〇センチの身長と、八〇キロばかりの体重とは、たしかにここに居るバッジ佩用《はいよう》者たちの中でも群を抜いていた。二千人の参会者に四百人近い婦人がいるのも、川村正明のひそかなファンのように思われた。  板倉退介はメインテーブルの氷の鶴の横ににこにこして立っていたが、その傍にこっそりと寄ってきた財界人も少くはなかった。それが代理人の出席者だと板倉は軽く会釈するだけだが、本人の社長とか会長になると、板倉はいっそうに愛想よく破顔して握手を求め、あとでゆっくり談笑しようと云っていた。というのは、元閣僚のあとに、司会者に指名された某社の社長が登壇したからだった。 「川村先生は……」  社長は祝辞を述べはじめた。  頭の両側にわずかな髪の毛がへばりついているその社長の肥った顔は、財界の超一流の人物とは云いかねるが、新聞、雑誌にはときどき出ていた。けれども参会者の注目を浴び、その声が会場に行きわたったのは、はじめのほうの数分間で、あとはようやくアルコールの入った高い雑談の声に消されがちとなり、うしろに集っている会衆には聞えなかった。 「やあ、土井さん」  耳のそばで名を呼んだのは、鍋屋健三であった。  ふり返った土井の前に、眼を細めた鍋屋秘書の顔があった。 「あ、どうも」  盛会でおめでとう、と土井が云う前に、鍋屋はにやりと笑った。 「もうすぐ川村のスピーチのはじまるやな」  あんたの書いた台本を川村がどんなしゃべりかたにするか、その調子を聞いてやってくれという意味であった。 「わかりました」  土井が答えると、鍋屋はその肩をぽんと叩き、忙しそうに来会者の群の中へ、ガニ股《また》で入って行った。  その姿を土井が眼で追うと、鍋屋はいかにもやり手の秘書らしく、来会者のだれかれとなく頭をさげたり挨拶したりしていて、川村正明の参謀役兼介添役をいかんなく発揮していた。  川村の第一秘書は先代から仕えているが、これは忠勤者というだけで、感覚が古い。第二秘書は若いけれどまだ馴れてなくて気がきかず、使い走りがせいぜいというところだった。どうしても鍋屋が中心にならないと、陳情の処理にしても他派議員秘書との折衝にしても、ことが運ばない、というのが鍋屋が自身で洩らす口ぶりで土井が察したことだった。  また、それだから鍋屋が川村を利用して利権のリベートなどヨロクが稼げるのであり、もし第一秘書がしっかり者だと、それに掣肘《せいちゆう》されて鍋屋の稼ぎ場は少いであろう。と、土井は想像した。  その鍋屋は、いま、会場の左手壁ぎわにガニ股《また》を歩かせていた。そこには屋台がならんでいるが、スシ屋の前に立っている黒っぽい洋服の胸に三連の真珠をかけた女の横に、彼は低頭しながら近づいた。  その女は会場に入るとき、列のうしろにならんでいたのを土井はおぼえていた。立話をすませた外浦卓郎が結婚披露宴の待合せ客の群に戻るのを見送ったついでに、眼を後列に遣《や》った際、ちょうどこの女性が視野にちらりと入ったのである。  よく見たのではないが、ロングヘヤーと、楕円形《だえんけい》の顔と、黒っぽい洋服と首飾りのパールと、それから背格好が一瞬に漠然と印象に残った。いま、鍋屋がていねいに何やら話しかけている相手が、まさにその中年女であった。  こっちの壁ぎわから向うの壁ぎわまでは距離があるし、間に人がうろうろと動いているので、土井にはさだかにわからなかったが、年は一見して三十五、六くらい、頬がやや張って、顎《おとがい》がやや長いといった顔だった。遠目には個性のある美人といった感じだった。  彼女は、話しかけてくる鍋屋に微笑でうなずき返していた。こちらからでも歯の白さが目立った。  来賓の挨拶がつづくあいだ、模擬店の屋台も手持ちぶさたの格好だった。  鍋屋秘書が話しかけている婦人は、どういうひとだろうと、遠くからそれとなく眺めて土井信行は考えた。ここに参会しているからには、川村正明議員となにがしかの縁があるはずで、あるいは出席できない誰かの夫人かもしれなかった。  その女性は、ほかに伴《つ》れらしい者がなく、ひとりでそこに立っていた。それだから鍋屋が暫時のお相手に彼女へ近づいたともいえる。主人側としてのもてなしであろう。  黒っぽい洋服という地味な身なりだが、それだけに三連のパールのネックレスと胸の参会徽章とが映えた。立ち姿の線がきれいなのも、日ごろ気をつける習慣を想わせた。鍋屋の話に微笑でうなずく形もどこか洗練されていた。いうなれば素人にない垢抜《あかぬ》けたものが見られた。  このパーティにはバーのママもホステスも呼んでいない。サービス嬢はホテル側の提供によるものばかりだった。それ専門のクラブがホテルと契約している。彼女の素姓が、土井にはわかりかねた。議員夫人なら、だれかが近づいてくるはずだが、それはなく、鍋屋が叩頭《こうとう》して彼女から離れても、まだひとりで彳《たたず》んでいた。  来賓の年とった社長のたどたどしいスピーチが済むと、いかつい顔で、もり上った肩の筋肉労働者のような男が、白バラの大きな造花を胸に付けて壇上のマイクの前に立った。「革新クラブ」の代表世話人で、今夜の励ます会の副主役でもある上山庄平であった。板倉退介にも負けない盛大な拍手が起った。 「皆さん。上山庄平でございます。ありがとうございます、ありがとうございます」  彼はいきなりつづけさまに頭をさげた。 「今晩は、同志川村正明を励ましてくださるために、かくも盛大にお集りいただいてお礼の言葉もございません。ただ、感謝申し上げるのみでございます。ありがとうございます」  礼を述べるのは選挙の経験で板についたものだが、いまの上山には一種の熱が入っていた。これまでの演説者たちが、御大の板倉退介を除いて、「川村先生」と呼んでいたのに上山だけは「川村」と呼び捨てであった。内輪の親愛感がそこに誇示されていた。  当の川村正明は、やはり壇下の横に直立不動の姿勢で立っていた。  上山庄平は卓上に両手を突いていたが、その手を離すと、やおら形を改めたというようにぐっと反《そ》り身《み》になった。 「日本の政治はいまや破滅に瀕《ひん》しております。……よろしゅうございますか」  上山庄平は、念を押すように左から右へ太い眼を一巡させた。その四角い箱のような身体を見れば、当然こういう声が出るだろうと期待されたとおりの野太い声量であった。 「日本の政治は破滅に瀕しているなどと申しますと、またもや政治家の月なみな演説だと、皆さんはさぞかし興ざめの思いをなさるかもわかりませんが、いささか現今の事象を例にひいてわたしどものかねての考えを申し上げたいと存じます。一口に申しまして、現在の旧態依然たる年より政治家中心の政治は一刻も早く解消されねばなりません。理想も目標もない政治、その日暮らしの政治、定見のない政治をこれ以上つづけてゆくときは日本は将来破局の日を迎えます。それはもう眼に見えております。その破局を救う道はあるかと申しますと、わたくしは政界の速かなる新旧交替いがいにはないと信じます。じつにロートル政治家の指導的存在が、日本を破壊する時限爆弾になっております。今日、核全面廃止が叫ばれておりますが、わたくしをもって云わしむるならば、核爆発で世界が滅びるかもしれない未知数よりも、ロートル政治家核によって日本が破滅する確率のほうがはるかに高いのでございます。老害よ、即刻に去れ、であります」  突然、一人の哄笑《こうしよう》が聞えた。メインテーブルにいる五十九歳の板倉退介が愉快そうに大口を開けていた。——桂重信総理は七十三歳、寺西正毅は七十歳であった。 「聞くところによりますと……」  上山庄平のダミ声はつづいた。 「今秋に予定されているわが党の総裁選挙は、すでに現総理である桂総裁から寺西正毅先生へ禅譲が決まっているということであります。禅譲とはいったい何でありましょうか。古代中国の故事からきたこの言葉のほんらいの意味は、天の意志に叶《かな》う有徳者なり賢人が次の天子に択《えら》ばれる、そのため現天子が位をその者に譲るということであります。これはみなさまよくご承知のとおりでございます。ところが、わが党の総裁は天子ではありません。総裁即総理大臣というところに天子という錯覚が生れるのかもわからないが、総理大臣といえども天子ではありません。しからば天の意志に叶《かな》う者のみが天子になるというその天なるものはなにものでありましょうか。それは日本国民であります。国民が天であり、国民の意志が天の意志であります。これはわかりきったことであります。そのわかりきったことがわからず、総裁の禅譲などという奇怪千万なことが今秋に行われようとしています。総裁公選は形式のみであります。まったく天をもおそれぬやりかたでございます。すなわち国民をおそれぬ大胆不敵な行為です」  会場にどよめきが起った。  参会者の間に低いどよめきが起ったのは、いまや保守党の本流である政憲党内の若き行動派「革新クラブ」の代表世話人が、今秋の総裁「禅譲」を批判するスピーチをおこなっているからである。  上山庄平は、同志を励ます会での挨拶に名をかりて、すでに党が決定している桂から寺西への総裁委譲すなわち政権の授受に反対の宣言をしたのだった。招待できていた新聞記者はあわててメモを取り出した。  世代交替理論による老頭政治家の排撃は、七十三歳の桂首相、七十歳の寺西正毅の引退を促すことであり、これは五十九歳の板倉退介を一挙に押し上げることにつながる。このスピーチを聞いたとき、板倉退介がひとり呵々大笑《かかたいしよう》したはずであった。 「革新クラブ」の七人は、板倉派から突出していて、やがては同派を離脱し、小会派として独立するだろうと見られ、新聞などにもそのように観測されているのだが、上山庄平のいまの「挨拶」では、内定した「禅譲」をたたき壊して真の総裁公選に持ってゆき、党内第三位の派閥しか持たぬ板倉退介をそれに割りこませるという狙いがあるようにみられた。その意味では彼らはまだまだ板倉退介に忠誠を持っているように思われた。  が、その一方、上山がここでボスの顔を立てながら、この勇ましい演説によって、彼ら「革新クラブ」の実力宣伝をしているようにも考えられた。  上山庄平の「挨拶」はそれから二十分もつづいたが場内は彼の爆弾宣言にもひとしいスピーチに煽《あお》られて熱気を帯びてきた。 「皆さん。これより衆議院議員川村正明先生の謝辞がございます」  司会者の声も一段と高かった。  川村正明が万雷の拍手のうちに登壇した。その姿勢といい、足の運び方といい、颯爽《さつそう》という使い古した形容詞に実感を持たせるに十分であった。  前のマイクよりも低く頭をさげた川村は、その顔を容易にあげなかった。今夜の主人公を壇上に迎えた場内は、最初の静粛が奇異な静寂へとつづいた。マイクにすすり泣きにも似た声が洩《も》れはじめたからである。  それが一分間もつづいた。一分間とは長い。長いと感じる頃合いを見はからったように、川村正明は顔を上げた。その顔は真赤になっていた。そうして彼は胸のポケットからハンカチをとり出して眼に当て、洟《はな》をかんだ。マイクがその音を、がっと鳴らした。 「……失礼いたしました」  詫《わ》びる言葉は鼻声であった。  涙と洟を拭いたハンカチをポケットに戻した川村正明は、そのまましばらく絶句の状態にあった。顔の紅潮はまだ褪《さ》めていなかった。彼は涙声になるのをおそれ、普通の声に回復するのを壇上で待っているみたいだった。  参会者は、あっけにとられた様子で、壇上にうつむいて棒立ちの川村正明を見つめていた。私語がやみ、会場は静粛になった。 「皆さん。ありがとうございます。ありがとうございます」  彼は両手をひろげ、その掌《て》をテーブルへ叩きつけるように置くと、ふたたび顔をがばと伏した。感極まったその声は昂奮《こうふん》していた。 「不肖、川村正明をこのようにご支援ご激励いただくかと思いますと、ありがたくて、お礼を申し上げる前に、不覚にも涙が先に立ちました。とり乱しまして、申し訳ない次第です」  だれやらが感動したように拍手した。それに誘われ、または催促されたように、一斉なる拍手が轟《とどろ》き渡った。  会場の一隅に立っている土井信行は、奇異に思った。こういう台辞《せりふ》は、彼の書いた台本にはないことであった。感涙に咽《むせ》ぶ川村正明の身ぶりは、彼の秘書鍋屋健三の言葉からして、たぶんに彼の演出によるものと思われた。  土井が鍋屋の姿を眼でさがすと、いったんどこかへ消えた鍋屋は、向うの壁ぎわに彳んでいる黒っぽいスーツの婦人の斜めうしろに、まるで控えるように立っていた。その婦人は壇上の川村をじっと凝視していた。 「皆さん」  顔に微笑をとり戻しての直立不動であった。 「わたくしどもの考えかたは、ただいま同志上山庄平君が申したとおりでございます。それに尽きておりますが、なおわたくしの感想の一端を、ほんのしばらくの間、申し述べさせていただきたく存じます。不肖わたくしの叱咤《しつた》激励のためにお集りくださった皆さん、とくにわたくしにご同情をたまわっている後援会の皆さんから、わたくしの愚見を申し述べさせていただく機会を与えてくださったことを、生涯の感動とするものでございます」  壇上の川村正明は、はじめから声涙ともに下るの状であった。それは顔で笑って心で泣いている奥床しい身ぶりであった。  これも鍋屋の演出であろうか。 (川村はですな、ノールスですたい)  鍋屋のささやきが、土井の耳もとに聞えるようであった。  ノールスの議員は、雄弁よりも泣き落しの一手しかないのだろうか。それはこれまで選挙演説などでさんざん使ってきた手らしい。  土井が演出家の鍋屋に眼を移すと、鍋屋は婦人の耳もとへ何かほんとにささやいていた。 「皆さん」  壇上の川村正明は、それまでの様子から急に立ち直った態度を見せた。眼を輝かし、声量も増した。背後の金屏風の光にも負けずに、 「今日の日本の政治を引張って行っているのは、どういう人たちでしょうか?」  彼はそう設問して、場内を見渡した。 「それはひとにぎりの恍惚《こうこつ》の老人たちです」  どっと笑いが起った。 「お年寄りの恍惚というのは、老衰によって脳が軟化し、外界への認識、理解などに障害が起ることですが、老政治家の恍惚とは自己への己惚《うぬぼ》れ、もしくは自己の置かれた環境への己惚れという独特のナルシシズムであります。すべてが自己個人本位に立つ己惚れでありまして、世界動向の中で日本がどのような立場になっているかは、いっこうに認識がないのであります。  わたくしは医学のことには知識がないのでありますが、聞くところによると、前頭葉には、生存欲、所有欲、自己顕示欲が集っていて、頭頂葉から後頭葉にかけては知覚、理解、認識、視覚といった機能が存在しているそうであります。老頭政治家には、どうもこの前頭葉のみが異常に発達していて、後頭葉のほうはどこも萎縮《いしゆく》しているんじゃないかと思われます。生存欲とは政界でのそれであり、所有欲とは物質欲であって無限に利権を所有したい、カネをもっともっとかき集めて、貯めたい、ということであり、自己顕示欲とは申すまでもなくいつまでも政界や社会に君臨したいという名誉欲であります」  笑声。 「それでありますから萎縮している後頭葉内の視覚は世界情勢や日本の現状には、これを見れども見えず、触れども知覚せず、理解、認識がまったくないのであります」  笑声につづいて拍手。 「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊《はいかい》している、共産主義の妖怪が……、という字句はマルクス兄弟の有名な共産党宣言の冒頭でありますが、わたくしはこれを、日本にはいま一個の妖怪が徘徊している、それは老害政治家である、と云い直したいのであります」  片隅で聞いていた土井は、わが耳を疑った。「マルクス兄弟」とはドタバタ喜劇の古い映画役者ではないか。なぜ、そんな間違いを川村正明は云ったのか。  想像するに、川村はマルクス=エンゲルスを兄弟と思いこみ、それをどこかで聞きかじったマルクス四兄弟と混同しているのではないか。むろん台本から逸脱したアドリブであった。川村はノールスですたい、といった鍋屋秘書の言葉がまた聞えてきた。  議員の云い間違いはそう珍しいことでないせいか、それともそれに気がつかないのか、場内から失笑も起らず、むしろ拍手の中にそのミスが包みこまれた。  しかし、川村の「雄弁」ぶりは、なかなかのものだった。 「皆さん」  川村は額に汗を滲《にじ》ませてつづけた。 「このような数人のロートル政治家が日本を引張って行っておるのであります。彼らは因習に固執し、自身の既得利益のために密室政治をおこなっております。彼らの眼には日本も日本国民もなく、自己の利益追求のみがあります。いまだかつてこのような腐敗政治を見たことがありません。彼らトップ老政治家は果して日本をどこに持ってゆくつもりでしょうか」  彼は語尾に力を入れた。 「老衰せる脳の後頭葉、すでに枯死せる視覚、知覚、認識、理解力。しかして、肥大せる前頭葉にうごめく生存欲、所有欲、自己顕示欲の年寄り政治家に、日本を任せてよいでしょうか。断じて否であります。この人たちはわが党の長老ばかりでありますが、即刻に退場を願わねばなりません。そのためには党の改革が急務であります。今秋の総裁選挙は、真の公選ではなく、禅譲という三千年も昔の中国に逆戻りしたような密室内の帝王委譲であります。国民を愚弄《ぐろう》するにもほどほどにしてもらいたい。ふざけるな、と云いたいのであります」  拍手。 「首相の座が桂さんから寺西さんへ、シャンシャンシャンと手をシメて行われる。まるでやくざの親分の跡目相続と同じであります。それに対して党内において奇異の声がいっこうに高まらないのがふしぎであります。わが党は、よほど重症になっているようであります。それを救うには、われわれ若い行動派が改革を行わなければならないが、もう改革というナマぬるいものではなく、革命という思い切った手術が必要であります」  小さなどよめきが起った。  それを壇上の川村は撫《な》でるように両手で押さえた。そのゼスチュアも堂に入っていた。 「こう申したところで、わたくしども革新クラブは左翼ではありません。また、世間の一部に誤り伝えられているような新右翼でもありません。あくまでも国民本位の国民主義であります。国民主義といえば、ナショナリズムと誤解されるかもわかりませんが、いわゆる民族主義とも違います。日本のため、一億の国民と共に歩くものでございます。そして日本を担うものは、やはり保守本流の、わが政憲党以外にないのであります。断じて現在の野党ではないのであります」  九州出身だが、九州|訛《なまり》は影をひそめ、歯切れのよい東京弁であった。 「人によっては、わたくしども革新クラブを政憲党の党内左派と位置づけるかもわかりません。まさか右派とは云わないでしょうから。左派ととられてもかまいません。わたくしどもは、そんな評論家の区分にとらわれることなく、国民のために党の体質を改革、いや革命をおこないたいと決意しております。そのために、党からの除名すら覚悟をしております」  今度はひときわ高いどよめきが起った。壇下の上山庄平と、その派の幹部らがにこにこ笑っていた。 「皆さん」  川村正明の紅潮した頬は少年のような純真さに見え、中高な顔をいっそうに美男子に見せた。うつくしい昂奮がそこに顕《あら》われていた。川村がそこまで計算しているかどうかはわからないにしても、婦人ファンを魅了するだけの効果はありそうだった。 「一部の人々は、わたくしどものやりかたを批判しております。その批判に対して、ここで答えたいと思います」  川村は自信ありげに云った。 「批判の一つは、革新クラブの議員はいずれも官僚出身でないから、行政に暗いということを云います。たしかにそのとおりであります。しかし、行政とはなんでしょうか。行政とは政治末端の技術化であります。先ず政治ありき、であります。政治があって、その具体的な従属物としての行政技術があるのであります。行政に政治が付属しているのではないのです。しかるに、近年の傾向はそういった逆現象になっております。官僚出身の首班による内閣が戦後つづいております。おそらくこれはアメリカの日本占領政策が直接統治でなく、間接統治であったため、アメリカ政府ないしはGHQが日本人の行政熟練者である官僚を多数に利用したことにはじまると思います。そのために真の党派的な政治家が日本に居なくなったのであります。官僚はたしかに頭がよい。行政技術にも長じております。けれどもそれは当面のことしか見えません。せいぜい、二年から五年先までの見通しであります。この激動する世界の中で日本が真に誤りなく進むためには、三十年先、五十年先の遠距離的な展望が必要であります。小手先の行政技術しか持たない官僚にはけっしてできないことであります」  そうだ、という声援が起った。 「わが党の同僚議員にも、官僚と密着しているのが少くありません。たしかに行政面に通じている官僚と付き合いをよくしておくことはいろいろな面で便利であります。けれども官僚から教えてもらうことは、きわめて狭小な行政技術であります。国会議員が年々小型になってゆく傾向はそのためであります。わが国会は官僚の前にひれ伏してよいものでしょうか。官僚翼賛議会になってもよいものでしょうか。断乎《だんこ》として反対であります」  拍手。 「ごらんください。桂総理も寺西正毅氏も、ともに官僚出身であります。桂総理は大蔵省出身、寺西氏も大蔵省出身であります。その結果日本の政治を矮小化《わいしようか》させてきました。このお二人がわが党を因習的な保守にしてしまったのであります。党の退化現象ともなりました。しかし、党のことよりも、わたくしどもは国を憂えるものであります」  川村正明が、党よりも国を憂える、と叫んで演壇を拳《こぶし》で叩いたとき、会場を揺がす拍手が起った。  聴衆のうしろに隠れるようにさがっている土井信行は、会場でのシナリオの効果をたしかめていた。川村議員のスピーチが、台本どおりかどうか、彼はスクリプターのように確めていた。川村の台辞《せりふ》は「マルクス兄弟」のトチリ以外、おおむね正確であった。創造はないが、記憶力は悪くないようであった。  むこうの壁ぎわに立つ黒っぽいスーツの女性は、そこから川村の顔に眼を向け、その熱のこもった弁舌に、小さくうなずいていた。  うしろにいる鍋屋秘書が、ときどきその耳に何かささやいていた。演説の解説のようでもあった。 「わたくしどもに対する批判の二は、わたくしどもが東京大学法科卒でない、したがってインテリではないという点であります。この点は、事実において承認いたします」  そう云ったあと、川村は昂然と血の気の射した顔を挙げた。 「けれども、皆さん、東大卒のみがエリートとして待遇されるのは、官庁においてのみであります。それは明治の昔から東京帝国大学が国家枢要なる人材を養成する官吏の養成所だからであります。だが、実力本位の民間企業に入っては、彼らはそうはならないのであります。企業にダメな人間が輩出しております」  笑声。 「インテリとはなんでしょうか。ことに際して逡巡《しゆんじゆん》する分子であります。右顧左べんする輩《やから》であります。理論は上手だが、行動に移す気はありません。昔から青白きインテリと申します。自分の保身を第一に考える勇気なき徒輩であります。例外はありますけれど、わたくしどもは東大卒のインテリでないことを幸福とし、誇りとするものであります」  拍手。 「とにかく、わたくしどもはみな若いのであります。若い力の結集でございます。これは強いのです。利害打算を考えません。老練な駆引きも知りませんし、それとはいっさい無縁であります。わたくしどもは、せせこましい行政知識よりも、政治に対するロマンを持っております。明治維新をなし遂げたのは、各藩の若い下級武士であります。足軽クラスの者でした。彼らはみなロマンを持っておりました。分別くさい各藩の重役どもは、行動もせずに引込み思案で維新の革命を座視しておりました。中国の革命をなし遂げた毛沢東もロマンチストでした。ロマンこそは改革エネルギーの源泉だと信じます」  大きな拍手であった。  川村正明が大拍手のうちに降壇すると、メインテーブルに立つ後援会長の前にマイクが運ばれた。 「ただいまより川村正明先生のご活躍とご健康を祈り、本日の盛会を祝して乾杯をいたしたいと存じます。よろしくお願いします」  後援会長は右手にグラスを高々とさし上げると、満場のグラスが挙った。 「乾杯!」  後援会長の嗄《しわが》れた声につづいて乾杯の合唱が起った。川村が深々と頭を下げると、拍手の波が揺れ渡った。  それが終るとすぐに、板倉派の幹部の一人で、これも閣僚経験者が司会者に促されて壇上にあがった。彼は団子のように肥っていた。 「これより川村正明先生の活躍を期して万歳を三唱したいと存じます。ご唱和をおねがいします」  咳払《せきばら》いの上、絶叫した。 「川村正明先生万歳!」  両の手を力いっぱい上へ突き上げた。腹が出ている彼は、三度の「万歳」をする間、ワイシャツがずり上り、その裾まではみ出しそうになった。 「万歳」の鯨波《とき》の声が鎮まると、またもや拍手が鳴った。議員ほど「万歳」が好きなものはないようであった。  演説儀式から解放された参会者たちは、各テーブルに美々しく陳列された料理へ向って手を殺到させた。かまびすしい声と哄笑とが湧《わ》き上った。 「代筆者」の土井信行が騒音がこだまする向いの壁ぎわに眼をむけると、さきほどまでそこにあった黒っぽいスーツ姿の婦人はいつのまにか消えていた。  メインテーブルには主役の川村正明をかこんでにぎやかな輪ができていたが、輪の中心は板倉退介と、革新クラブの世話人代表上山庄平であった。二人からすると川村正明はとりまきの一人にすぎなかった。参会者で、輪の二人へ挨拶をしに近づく者が絶えなかった。  鍋屋秘書はと見ると、会場の後方を動きまわっていた。そこには最も目立たない群が蝟集《いしゆう》していた。議員夫人とは違う普通の女性たちがそのへんにかたまっていた。  鍋屋健三は、屋台の天ぷら屋の前に近づいた。いかなる不都合からか、客に人気のある天ぷらは早くも売切れとなり、隣のスシ屋が繁昌していた。  その天ぷら屋の横に、ベージュ色のツーピースをきた四十くらいの女が遠慮そうにして立っていた。が、彼女の眼は、そこからは遠い距離にあるメインテーブルの川村議員へさきほどから注がれていた。  鍋屋は彼女の傍《そば》に来て、何気ない笑声でひとことふたこと云った。そしてまわりに気付かれないように、たたんだメモの紙片をすばやく彼女の手に握らせた。  クラブ・オリベ  鍋屋《なべや》健三は銀座裏の街角でタクシーを捨てた。周辺は、バーの名を梯子形《はしごがた》に縦に一列した細長い看板の雑居ビルが通りの両側にならび、夜空に光彩を積み上げていた。  鍋屋が入ったのはそうした雑居ビルでなく、普通のビルの地下だった。通りに面した入口には「クラブ・オリベ」の店名が出ている。その傍に"Club Olivet"と小さく書き添えてあるのは、フランスの地名をもじったものらしい。オリベがパリの南およそ百キロにあるオルレアンの次の町だとはフランス通なら知っているかもしれない。  緋絨緞《ひじゆうたん》の階段を曲って降りたところが店の前である。「会員制」の札を掲げた樫《かし》の重い扉を開けると、正面がクロークカウンターで、蝶ネクタイの男と、白のブラウスに黒のロングスカートの若い女とがカウンターの中に立っていた。二人は鍋屋を見て微笑し、揃《そろ》っておじぎをした。 「社長は?」  ママのことである。鍋屋は手提げカバンをカウンターの上に乗せてきいた。 「いらっしゃいます」 「何時ごろ出てきたの?」 「一時間ほど前でございます」  蝶ネクタイがいんぎんに答えた。  鍋屋は手首を見た。八時四十二分だった。七時四十分ごろに店にあらわれたとすると、ホテルの「川村正明議員を励ます会」を抜けたのは七時すぎということになって、川村のスピーチが終った直後だ。  中に入ると、ほのあかるい照明の中に客の影があちこちにかたまっていた。時間的にはまだ早く、テーブルについているホステスの数のほうが目立った。フロアは三十坪という広さだった。どこかでピアノが鳴っていた。 「いらっしゃいませ」  ホステス二人が鍋屋の前に来てテーブルへ案内した。  そこへ坐りかけると、マネージャーのような蝶ネクタイが急ぎ足で来て女の子に耳うちした。 「あら、お席は下ですって」  フロアの横手に地下二階へ降りる階段の手すりが金色に光っていた。やはり緋色の絨緞の階段を踏みながら鍋屋は前の女の背にきいた。 「偉い人たちが来てるんじゃない?」 「いいえ。まだ、どなたも」  笑い声でホステスは答えた。  地下二階のフロアは上の三分の一くらいの広さだったが、両側に大きな飾り戸棚をならべ、正面にはマントルピース。壁上に掲げた油絵の金縁が、天井の小さなシャンデリアに光っていた。両側の戸棚には西洋の古美術品がならんでいる。  ここは「談話室」であった。  テーブルも椅子も擬ロココ様式の凝ったもので、これもロココ風な戸棚の中には、ヨーロッパ近世の陶器などがならべられてあった。  案内したホステスが当座の相手になって、鍋屋のオーダーをボーイに伝えたりした。 「ママはもうすぐ参りますわ」 「いま、どうしている?」 「上のお客さまのテーブルにホステスたちといっしょについていますわ。こっちへいらっしゃるとき、ごらんになりませんでしたか」 「気がつかなかった。客席のほうをじろじろと見たくなかったのでね」  鍋屋は人影の一団を思い浮べて、 「お客さんは、どこの会社の人?」  ときいたが、ホステスは笑って答えず、ボーイが運んできたブランデーを鍋屋の前に置くと、 「ママを呼んできます」  と、云って出て行った。  サロン風なここは、入会金を払っての完全な会員制になっている。上は普通のクラブと変らないが、企業関係の客が多かった。「談話室」は会社の役員や、ときには政治家が来た。  一人になった鍋屋は、椅子から立って戸棚の中をのぞきこんだ。古めかしい壺や皿がならんでいるが、そのほうはさっぱり不案内であった。もしここにもの識《し》りがいて、戦士の画のついたこの皿はスペインのアンダルシア地方のトリアナ窯《よう》、この車輪と翼を浮き出した強い青緑色の壺はハンガリーのハバン陶器、藍色《あいいろ》の中世|衣裳《いしよう》をまとった婦人像はイタリーのベルジア窯のマジョルカ人形、トロフィー形の飾り壺で、頸《くび》と脚に金の紋章、張った胴いっぱいに貴婦人遊楽図を描いているのがフランス宮廷の華麗な工芸品、胴のふくらんだ徳利に円形の紋章風意匠を施したのがドイツのコローニュ焼、梅・しだれ桜・ボタン・水仙などを白地に描いた色絵の壺は、十八世紀のオランダの陶工が日本の伊万里《いまり》磁を模倣したもの、などと列品について講釈しても、鍋屋には退屈して聞くしかなかったであろう。ただ、九州人の彼にとっては、伊万里焼という言葉にわずかな興味を起したかもしれなかった。  これらの美術品は「クラブ・オリベ」の経営者、織部佐登子の所蔵だった。  織部という姓を、フランスの地名Olivetの音に結んだところに、店の名を考えた人の機智がうかがわれた。  ただし、ヨーロッパ近世の骨董品《こつとうひん》を蒐集《しゆうしゆう》したのは織部佐登子自身ではなかった。そのコレクターの名は、このクラブの会員になっているほどの客にはほとんど知れ渡っていた。 「お待たせしました」  織部佐登子が入ってきた。「川村正明代議士を励ます会」に来ていて、鍋屋秘書から何かとささやかれていた女性だった。 「ずいぶん盛会でしたわね」  織部佐登子は、鍋屋の対《むか》い側に坐って、ほほ笑みながら云った。 「おかげさまで」  鍋屋はまるい背中をかがめた。 「社長に、お見えいただいたので、川村はたいそうよろこんでいました。ありがとうございます。ただ、早々と会場からお帰りになったのを残念がっていました」  と、礼を述べた。 「社長だなんて、いやですわ。普通に呼んでくださいな」 「クラブ・オリベ」の経営者は笑って訂正を求めた。  ホテルの会場では黒っぽいスーツだったが、いまは大柄な模様の塩沢だった。つづれ帯の錆朱《さびしゆ》が白い着物をひき締めていた。  地味なスーツでいたのはホテルの会場で目立たないようにしていたからで、ここでは一変して和服になっていた。もともと客の前ではそれが似合うと彼女は自分でも思っているようだった。  ロココ風な調度と、飾り棚の中のヨーロッパ近世の陶磁器に囲まれた和服姿は、かえって対照的効果からそれを浮び上らせた。が、時にはまわりの調度に融《と》けこむようなドレスや長いスカートにする変化も持っていた。  会場では控え目だった化粧も、いまは濃いそれに戻り、いくらか頬高の顔も中年の個性的な輝きになっていた。 「ママ」  鍋屋は、てれた声で、あらためて云った。 「ぼくは、川村のスピーチが終ったあと、すぐにママの姿をさがしたのですが、もう見えなくなっていて、川村だけじゃなく、ぼくもがっかりしました。もっとも、お店の時間もあるので、仕方なかですが」 「店のほうはどうにでもなるんです。みんながやってくれてますから」  ホステス約六十人、支配人、副支配人、主任、ボーイなど六人というのが鍋屋の聞いている「クラブ・オリベ」の従業員だった。 「会場では、隅のほうでママはずっと一人でしたな。あれはほかの者に話しかけられるのを避けていたとですか」 「あのような場所で皆さんとお話しするの、気が染まないのです」 「財界の人も来てくれてました」 「ええ、存知あげているお顔がありました」 「政治家は、どうですな?」 「板倉先生、上山先生などのお顔ははじめてです。そのほかの先生方も、川村先生以外はあんまり……」 「ははあ、派閥が違いますからな」  いわゆる主流派の議員がこのクラブの客らしかった。激励会には、その主流派は一人も参会していなかったのである。 「会場ではママに気づいた財界人がおりましたよ。ぼくが回っているとき、新東水産の山下社長、浜村化学工業の浜村社長、西日本電機の清水会長、東亜産業の渡辺副社長、九州鋼業の金子専務などが、きみ、クラブ・オリベのママが来てるじゃないか、川村先生とオリベのママとはどういう関係だな、などと訊いとりましたよ」  ブランデーのグラスを両手に囲って揺りながら鍋屋秘書は笑顔で云った。 「なんとお答えになって?」  織部佐登子は眼もとに微笑を漂わせた。 「川村がオリベにときどき飲みに行くので、店の客としてお見えになったのでしょう、ママにはパーティ券も買っていただいたし、と、そう答えておきましたけどね」 「あの方たち、お店によくいらっしゃるんです」 「そうでしょう。スピーチが終ったら、ママにこっちの話仲間に入るように伝えてくれと、皆さんに云われましたよ」 「ですから、川村先生のお話が済むと、わたしはすぐに失礼したんです。お店と違って、ああいう場所で皆さんとお話しするの、わたし苦手なんです」 「そうだろうと思うとりました」  背の高い副マネージャーが佐登子の前に軽い飲物を置いて出て行った。 「ところで、ママ、川村のスピーチはどうでしたか。感想をききたいものですな」  鍋屋はブランデーに口をつけて云った。 「すばらしかったと思いますわ」 「ほんとに?」 「うそじゃありません。感銘をうけました」  佐登子は真面目な顔だった。 「ほほう」 「ここには政治家の方はなん人かお見えになります。でも、それはお客さまとしてですから、もちろん政治のお話はいっさい出ません。愉快にお酒を召し上って、面白いお話や冗談をおっしゃって、お帰りになるだけですわ。ですから、わたしは政治のことはすこしもわかりません。板倉先生のお顔も、上山先生のお顔も、さきほどのパーティではじめて拝見したくらいです。……でも、川村先生のお話は、政治のことを知らないわたしにも、教えられるところが多かったんです」 「どういう点がですか」  相好を崩して鍋屋は訊《き》いた。 「日本の将来のことですわ。やはり、今は若い力の政治家でないと、いけないんじゃないかと思うんです。ウチには年配の先生方もお見えになってますわ。そういうお客さまには申しわけないと思いますけれど」 「というと、その議員さんたちは、だらだらしてる?」 「その先生方が、だらだらなさってるわけじゃありませんけれど……」  織部佐登子は、鍋屋の質問に答えた。 「そりゃ、こういうところですもの、お客さまはリラックスしにおいでになるんですから、昼のお顔とは違いますわ。でも、パーティの革新クラブの先生方を拝見してると、なんだか姿勢がまるきり違って見えたんです。上山先生なんか、お顔もそうですが、全身が闘魂そのものに見えましたわ」  鍋屋は、上山庄平のブルドッグのような面構えと、両肩のもり上った労働者のような体格を浮べた。闘志満々、保守党の革新はこのリーダーによって行われるとだれの眼にも映る。 「上山先生は、まったく大したものです」  鍋屋は合槌《あいづち》を打った。 「上山先生の革新クラブは、板倉先生の派閥から出られて独立されるという風聞ですが、ほんとうですか。新聞や週刊誌などにちらちらと出ていますが」 「当分の間はそんなことはなかでしょうな。独立となれば、小派閥になるし、金は集らんし、むつかしかとこですな。けど、そんな噂《うわさ》ば立てられるほど、革新クラブは張り切っとるです」  話しているうちに鍋屋はだんだん九州弁が出てきた。 「わたしのような者にもそう感じられました。川村先生がスピーチでおっしゃったこと、因習政治の打破とヤング・パワーの進出、新旧交替、というのは、日本の政治のために必要だと思いました。わたしには理屈はわかりませんが、新聞などで政界の報道を読みますと、日本はこのままでいいのかしら、政界の指導者の方々は、日本をどこへ持って行かれるつもりかしら、とふと心配になることがあるんです」 「理論よりも、肌で感じることが大事だし、それが真実ですな。川村のスピーチは、そのへんにふれとったはずです。あのスピーチの間に、ぼくはママにちかっと説明ばしたですな」 「ありがとうございました。わたしは、川村先生がマルクスだの革命などとおっしゃったので、アカの思想の方じゃないかと心配しましたわ」 「あれくらい云わんと、皆の耳にぴりっとこんですたい。普通に云うとったんでは、なまぬるうしてですな」 「その効果はあったんじゃありません? 一瞬会場がどよめきましたもの」 「効果はあったようですな」 「わたしは川村先生が、革新はロマンだと云われたことに感心したんです。そのとおりだと思いました。だって、いまの政治はお年よりの方が主におやりになっているせいか、ロマンがなさすぎますもの」  織部佐登子は女らしい感想を云って、飲みもので咽喉《のど》を潤した。  革命はロマンだ、と川村のスピーチの台本に書いたのは土井信行であった。いかにも全共闘崩れの男が書きそうな文句であった。引例に毛沢東の名が出たりした。  鍋屋が川村に台本を見せたとき、 「これじゃ、おれがまるでアカに見られる。共産党の手先じゃないかと思われるよ」  と、川村は危ぶんだ。 「そんな心配はなかですよ。これくらい進歩的な用語ば使わんと効果はなかけんな。革命というても、なにも共産主義とは限らん。ほら、そのために、ちゃんと明治維新革命ちゅうのが入れてある。維新革命をアカと思う者は一人も居らんよ。維新というたら、勤王志士の運動になる」 「それもそうだな。じゃ、これでゆこうか」 「革命はロマンという文句がよか。これだと、政治の革新はロマンということになる。これは受けるに決まっとるよ。ぼくはね、あんたは上山さんに提案して、この文句を革新クラブのスローガンにするようすすめてもらいたいくらいだな」  鍋屋の予想は適中した。いまも、織部佐登子が「ロマン」という語に感動しているではないか。 (革命とはほんらい科学的な理論を支柱にしている。空想社会主義では革命は起らない。マルクス=エンゲルスの科学的理論によってレーニンのロシア革命が起った。が、マルキシズムを継承したレーニンの革命にはロマンの部分があったことは否めない。中国革命をなしとげた毛沢東にはたぶんにロマンがあった。行動にはロマンがつきまとう)そういう記述を鍋屋はなにかの本で読んだことがあった。  当初、全共闘の運動にはさしたる科学的な理論がなかった。大学改革という破壊的な「ロマン」だけが強かった。だからこそノンポリの学生や既存の組織に属さない学生大衆が全共闘運動に参加した。——とすれば、全共闘崩れの土井信行が川村正明のスピーチ台本に「革命はロマン」の語を挿入するわけだ、と鍋屋は思っていた。  秘書の鍋屋に云われて納得した川村正明は、これを憶えこんで「励ます会」の壇上でしゃべったのだが、その熱演ぶりは鍋屋の演出指導以上のものがあった。彼は看板のヤング・パワーぶりを十分に発揮した。「マルクス兄弟」のトチリを除けばである。  死去した父親代議士の跡目をついだ川村正明は、父親が大物だっただけに、その逆を逆をと指向して、父親のイメージから早く脱するようにして、自己の確立をめざした。亡父はきわめて保守派であり、旧守的な人物だった。先代に仕えていた地元秘書の「国家老」やその一派は、二世のゆきかたに反対したが、ジュニア川村はそれを押し切った。意外にも当選した。次の選挙も、その次の選挙も。  川村正明の連続当選の秘密はなにか。  対立候補は分析した。彼が浮動の婦人票を多数に獲得しているのは、その「若さ」を強調する武器として、自己の「美男」を利用し、それが勝因の主な一つだというおかしな結論を得た。  彼はいわば御曹子である。「御曹子」の語感には、昔から眉目《びもく》秀麗の顔というイメージがつきまとう。歌舞伎でする貴人の御曹子も、大店《おおだな》の若旦那も、女のようにきれいである。だから女形がその役を演じる。  川村正明にはその恵まれた美貌《びぼう》があった。亡父は平家蟹《へいけがに》というアダ名があったくらいの醜男《ぶおとこ》だったが、どうしたわけか息子はまるで違っていた。 「おれの不運は好男子に生れたことだ」と彼自身が己惚《うぬぼ》れて述懐するほどのことはあった。選挙演説でも、婦人有権者から凝視されているのを意識して、そっちのほうへ、まるで二枚目俳優のように流眄《ながしめ》をくれるのである。選挙演説会には婦人層が集って盛大な拍手を彼に送り、選挙用のトラックに乗って回るときは、下から手を伸ばしてトラック上の彼に握手を求める婦人が多かった。彼はその手を、場合によっては、いかにも意味ありげに強く握り返すのであった。婦人票が他の候補をひきはなして多いのはそういうことらしい。  が、それに伴って多少の弊害はあった。彼のために献身的に働く女性運動員と彼との間に恋愛が生じることである。これはスキャンダルになる前に、地元の秘書連中が懸命に抑えたのだが、選挙のたびにその問題が生じる。あるときなど、その女性運動員が選挙のあと、上京してきて川村正明にしつこく面会を求めた。その半狂乱の女性を抑えるのに鍋屋は苦労したものだった。  むろん鍋屋は織部佐登子に対してそんな川村正明のスキャンダラスなことは、おくびにも出さなかった。  鍋屋はこれから「クラブ・オリベ」の女社長を口説きにかかるつもりである。というのは、彼女が川村に惚れているのを察しているからだった。  顔の長い副マネージャーが影のように入ってきて、織部佐登子の椅子の横にしゃがんで、何かささやいた。 「すこし待ってもらってちょうだい」  佐登子が浮かない表情で小さく答え、ついでに鍋屋のブランデーの代りを命じた。  広間には客が混んできたようだった。その時間になっている。ママを呼べという客があるのだろう。  西洋骨董を飾ったこの「談話室」は、広間と違って、一組の客だけを入れる建前になっていた。企業の客が多いので、ここで飲みながらちょっとした会議もできるようになっているし、グループの放談場所にもなっていた。  したがって、たとえ客が一人でも、それを一組に見なして、他の相客をここに入れることはなかった。いまの鍋屋健三がその扱いであった。  ボーイが鍋屋のブランデーを運んで、すぐ出て行った。 「さっきのパーティで」  鍋屋はグラスをサイドテーブルの上に置いて織部佐登子に云った。 「お聞きのとおり、川村は日本の将来ばほんとに憂いとります。そのためには損を覚悟で、上山庄平先生らの行動派に同志として参加しとるのです」 「損とは、どういうことですの?」  佐登子も飲物を脇へ置いた。 「まず革新クラブが誤解を招いとることですな。あの連中は、何か下心があって、新グループを結成しとるのじゃないかというのです。その誤解は代表世話人の上山先生の外見からも来ていますな。あの人は、一癖も二癖もあるような面《つら》ばしとりますけんな」  二杯目のブランデーでそろそろ酔ってきたか、鍋屋に九州弁が多く出るようになった。 「また、あの連中を蔭《かげ》で操っている党の幹部が居るように云いふらしとる一派もあって、新聞にもそげなことがちらちらと載っとります。ばってん、それはまったくの逆宣伝ですたい」  田舎訛のほうが朴訥《ぼくとつ》で、正直な言葉に聞えた。 「新しいことをはじめると、それに誤解は付きものですわ」  佐登子は云ったあと、ふと呟《つぶや》くようにつけ加えた。 「わたしにも経験がありますけれど」 「ママに?」  鍋屋が眼をひろげて訊き返そうとするのに、 「わたしのことはどうでもいいんですよ……」  と下をむいて微笑した。 「しかし、ママ。これだけの商売をママが一人でやっとられんだから、いろいろと噂があるでしょうな?」 「その噂、お聞きになってらっしゃる?」 「はあ。なんとなく……」  鍋屋は眼を逸《そ》らした。 「鍋屋さん。そんなお話、またにしましょう。今は、川村先生のことを伺ってるんですのよ。川村先生が損をなさってらっしゃるというお話を」 「そうでしたな」  鍋屋は、佐登子に云われて話を戻した。 「川村の損の第二は、革新クラブのように誤解の多か仲間に入っとったら、次の選挙が危なかということです」 「まあ」 「秘書のぼくの口から云うのもおかしかですが、川村の感心なとこは、なみの二世議員と違うとこですな」 「どう違ってらっしゃるの?」 「二世議員というのはですな、先代の七光りで当選したとですから、先代のイメージを壊さんように心がけとります。そのため、どうしても退嬰《たいえい》的になりますな。本人が意欲的に何か変ったことば行動しようとすると、先代に仕えていた老臣や小姑《こじゆうと》連中が、先代はそげなことばしなはれんかった、先代のしきたりとは違う、などと云うて反対ばします。選挙でも、二世が近代的な方法でゆこうとすると、反対して旧来どおりを守る。そげなふうに二世議員はまわりに手も足も押えられて、おとなしゅうしとかんばでけんとです。そのかわり、先輩からも周囲からも可愛がられます。それが一般的ですな」 「わかりますわ」 「川村も当選二回目までは、そのとおりにして、おとなしか御曹子議員でした。ばってん、三回目の選挙からその型ば破って、自分ば主張しはじめました。もちろん国家老をはじめ地元の秘書どもは反対しました。けど、川村は見事に当選ばしました」 「おえらいですわね」 「川村の若さと、その情熱的な言動とが選挙民の共感ば呼んだとです。そのかわり組織票はだいぶん逃げましたよ。一時は落選かと危ぶまれた。ところが、婦人票が多うしてですな、さいわい二位に入りました。ところが、一昨年の四回目の選挙ではさすがに苦戦でしてな。同じわが党の対立候補から先代いらいの票田に切りこまれました。わが党の対立候補は、野党の候補よりも、やりかたが、えげつのうして、きたなかですたい」 「……」 「川村はですな、正直いってですな、革新クラブに入ってさらに損ばしとります」 「どういう損ですか」 「当分の間は、常任委員長になれる見込みはありませんな。川村は当選二回で外務政務次官になったが、こんど革新クラブに入ったことで常任委員長の機会が遠のきました。というのは、革新クラブは反主流の板倉派に属しとるし、その板倉派からも突出して、上山派としてやがて独立すると見られとります。それはママもさっき云いなはったですな」 「わたしのは週刊誌などで読んだ知識ですわ」 「その風聞が強かですな。革新クラブは、いわば党の異端的集団に見られとりますけん、川村の常任委員長は当分あり得んですたい」  鍋屋秘書は、ブランデーのグラスを手にとって、織部佐登子の顔を見ながらつづけた。 「常任委員長経験はですな、大臣になる最短コースですたい。川村が常任委員長になれんのは、大臣にもなれんということですな」 「でも、パーティのスピーチでは、板倉先生をはじめ先生方は、川村先生は将来の総理大臣だとおっしゃってましたわ」  鍋屋は聞いて、声を上げて笑った。 「あれは、ああいう席での、おべんちゃらです。主賓を持ち上げるための見えすいたお世辞です。いつもやっとることですたい。いわば選挙応援演説のようなもので、あれば本気にとられた皆さんには申しわけなかです」 「まあ」  副マネージャーが入ってきた。ふたたび佐登子ママの傍にうずくまって彼女に耳打ちする。  佐登子は袖口の腕時計をめくって、ささやき返した。蝶ネクタイはうなずいて出て行った。 「済みません。お話をつづけてくださいな」 「ママも忙しかようですが、もうちょっと聞いてください」 「ええ、どうぞ」 「川村が革新クラブに入った第四の損はですな」  鍋屋は云った。 「政治資金の入る先が狭くなったことです。先代のときのスポンサーがそのまま川村の献金パイプになってるところがかなりあったとですが、それがだいぶん減りましたな。企業はですな、メリットがなかとカネば出しません。川村じゃ利権がなかけん、見返り利益の線が薄くなります。それに、川村はカネづくりが下手でしてな。あげな男ですから、自分のプライドを重んじて、企業にゴマをすることば知らんとです」 「でも、パーティには財界の方々がお見えになってたじゃありません?」 「あれはですな、板倉先生に顔ば立てに出席しとったとです。それと上山さんのルートもすこしはありましたな。だから、財界人というても、一流どころは姿ば見せなかったです。西日本電機とか九州鋼業とか新東水産とかは九州に本社のある二流企業です。川村が九州に地盤を持っとるので、その関係からパーティ券ば買ってくれたとです」 「……」 「川村がそげな性格ですけん、秘書のぼくがどうしてもカネの工面に奔走することになりますな。川村の第一、第二秘書はなんの役にも立ちません。カネのほうは、おもにぼくが調達する役です。ほうぼうに頭ばぺこぺこさげましてな。人の眼には、ぼくが乞食のごつ見えるかもしれんばってん、自分を殺さんことにはこの役はつとまりません」  ママは鍋屋に同情の眸《ひとみ》を向けた。 「あのですね」  鍋屋はつづけた。 「議員の秘書には、型が二通りあります。一つは、先生の指示どおりに集金先を回る。もう一つは、秘書が資金源を作って、先生にカネば渡すタイプ。これは横着な云い方をすれば、秘書が先生ば食わしておるとです」  佐登子は眼をみはった。 「ばってん、ぼくは、そげな不遜《ふそん》な云い方ばしません。第一にそげな才覚がなかです。けど、川村正明のために一生懸命にカネづくりに走りまわっとります。今夜のパーティもぼくが企画したとです」 「そうだろうと思いましたわ」 「パーティ券ば二十枚、三十枚とまとめて買うてもらうために各会社の総務部長や庶務課長らにどれだけおじぎばしたかわかりません。明日来い、明後日来い、と云われ、そのとおりに行かんとカネばくれんと思うから、どげな都合をつけても出向きます。それがいちどきに三口も四口も重なるから、キリキリ舞いですたい。保険の勧誘員のごつ靴のかかとばすり減らして、毎日走り回りましたな」 「上山先生は、企業先にお口添えなさいませんか」 「板倉先生は多少とも口添えしたり名刺に紹介ば書いてくれましたが、上山先生は知らん顔でしたな。自分の金ヅルに影響するからです。同志といっても、カネのことになると、きびしかです。それも、小グループのかなしさですな。それでも、おかげでパーティ券では四千万円ほど浮きました」 「鍋屋さんのご苦労がわかりますわ」 「ぼくが川村に尽すのは、彼が好きだからです。彼の人柄はよかです。彼には穢《けが》れがなかです。二世だけに、まだボンボンですな。純情ですたい。……そりゃ、ママも彼と話してみてわかるでしょう?」 「お客さまとして、お店でお眼にかかるだけですが、そのお人柄は鍋屋さんのおっしゃるとおりだと思います」 「川村は頭脳がよかです。いまの若手議員の中でも、頭脳|明皙《めいせき》な点では、一、二でしょうな」  鍋屋は平気で云った。一方の「代筆屋」の土井信行の前では、川村はノールスです、と白痴扱いだった。そうした使い分けに鍋屋は慣れていた。 「ぼくはですな、ママ。川村の才能ばつぶしたくなかです。川村は純情ですけん、ぼくが彼を見てやらんことには、人に欺《だま》されたり、蹴落《けおと》されたりしそうです。政界は権謀術策の人間の寄り集りで、油断も隙《すき》もならんとこです。川村のようなよか男を、怪物どもにつぶさせたくなかです」 「鍋屋さんがいらっしゃるから、川村先生も心強いですわね」  佐登子ママは感心して云った。 「しかしですな、ママ、ぼく一人で川村を守るのは限界のあります。ぼくにしても、もうクタクタになりましたからな」  鍋屋はブランデーのグラスを口に当てながら織部佐登子の表情を眼の端に入れていた。「クラブ・オリベ」のママは眼を伏せて、何かを思案しているように見えた。 「川村にはカネがなかです。彼のいちばんの弱点ですたい。この次の選挙は実際に危なかです。これまではなんとか危機ば切り抜けてきたとですが」  鍋屋は、しんみりとした調子で云った。 「川村先生も、あせっていらっしゃるんじゃないですか」  佐登子が呟くように云った。 「そうです。本人の焦燥《しようそう》も相当ですたい。この間も、川村はぼくに、夜もろくに眠れんと云うとりました。いくらボンボンでも、そこを考えると、心配になるとですなあ」 「この前でしたか、川村先生の乗ってらしたタクシーが新宿のなんとかいう通りで、お婆さんを刎《は》ねたとかで、テレビ・ニュースに出ていましたわね?」 「ああ、あれですか」  鍋屋は、はっとしたようだが、あわてずにグラスを持ちかえた。 「あれはですな、川村が或る企業に政治資金の話ばしに行っての帰りでした。その企業は新宿にあるとですが、性質上、その社名が出せんとです。川村は内密の相談にその社を訪ねたとですけん、人に見られたら困るとです。そのために議員バッジもはずし、第二秘書の車にも乗らずに、タクシーば利用したとです。そのタクシーが不運にも通行中のお婆さんを刎ねたとです。ちょっと問題になったのは、川村がその事故現場から逃げようとしたというのですが、これは彼が早く救急車を呼ぶために公衆電話のあるところを探しに行ったのを誤解されたとです」 「川村先生も、そうおっしゃってましたわ」 「その真相がわかって、いまは誤解が消えましたよ」  鍋屋は明るく笑った。 「よかったですわ」 「ま、そげなふうに、川村は川村で金策に走りまわっとるのです」 「その企業のおカネは成功しましたか」  鍋屋は顔をしかめて首を振った。 「不調に終りましたな。川村は何度も接触したけどですな、その企業の献金の壁は厚かったとです」 「鍋屋さんは、それにお手伝いなさいませんでしたの?」 「いや、それは川村の特別ルートですけんな、ぼくは立ち入りませんでした。議員には秘書の知らない資金調達先のあるのが普通です。それにね、川村が自分でカネの調達に苦労するのも若か本人のためによかと思って、ぼくはそういうのにはタッチせんとです」  ホステスが入ってきた。  織部佐登子の感情  青いドレスをきたホステスは織部佐登子の横で腰を曲げ、耳もとに低く告げていた。  佐登子は眼をあげて鍋屋を見た。 「ちょっと失礼します。すぐに戻ってきますから、ここにいらしてくださいな」 「どうぞ」  先刻からたびたび呼びにきているので、これ以上は広間の客を待たせられないようだった。 「今晩は」  青いドレスの女は鍋屋におじぎをした。 「ママのお代り。わたしでは、お気に召さないでしょうけれど」  椅子に、ドレスの裾《すそ》をひろげてかけた。三十前後だった。  波子といって、顔のまるい、頸《くび》の長い女だった。眼蓋《まぶた》の上がやや落ちていて、顎《あご》が短い。深く抉《えぐ》ったドレスの前に露《あら》われた胸は白くて広かった。ロングヘヤーだった。  銅色の鍋屋の顔がご機嫌になった。 「波ちゃん、何か飲めよ」 「いただきます」  つづいて入ってきたボーイに、シェリーをちょうだいと波子は云った。 「川村先生のパーティがOホテルであったんですってね」  波子は云いだした。 「ああ。ママに来てもらったよ」 「ママ、その話をしてたわ。川村先生のスピーチに感激したと云ったわ」  佐登子がホステスたちにそう云ったくらいなら嘘《うそ》ではなかろうと鍋屋は思った。 「そうか。それは、ありがたかなあ」 「川村先生、あとからこちらへいらっしゃるの?」 「さあ、どうかな。今夜はパーティでお世話になった先生方とおつきあいをせんばでけんから、忙しゅうして来られんかもしれんな」 「ママが寂しがるわ」 「寂しがる?」 「ママはね、川村先生が好きなのよ」 「ほほう」  鍋屋は眼をあげた。 「まさかと思うけどな」 「あらほんとうよ。でなかったら、忙しいのにパーティなんかに行くもんですか。ママはね、パーティなんか嫌いで、あまり出たことないのよ」  織部佐登子はパーティ券を十枚買ってくれた。会場には一人で来ていたから、九枚は破り捨てでもしたのだろう。  壇上でスピーチする川村を隅から見つめている佐登子の顔を鍋屋は思い浮べた。川村の凜々《りり》しい顔は、背の金屏風《きんびようぶ》によく映えた。 「一週間前にTホテルで前田さんの古稀《こき》の祝賀パーティがあったけど」  波子は財界の有力者の名を挙げて云った。 「ママ、誘われても行かなかったわ」  波子は、ボーイが運んだシェリー酒に口をつけた。 「ママは川村のどこがいいのかなあ」  鍋屋もブランデーを舐《な》めた。 「好きになったら、どこがいいというわけじゃないでしょう。曰《いわ》く云いがたしでしょう」  曰く云い難し、などというのは、このクラブにくる客の口真似にちがいなかった。ここには佐登子の「以前の関係」につながる会社の幹部が常連になっている。 「でも、ママはこう云ってたわ。川村さんは可愛い人だって」  鍋屋は心の中でうなずいた。わかるのだ。男ぶりのいい川村の頼りなさ。  さきほども鍋屋は秘書として、川村二世の弱点を補い、懸命に彼の支柱となり突かい棒となっているが、それには限界があることを織部佐登子に説明した。川村にはカネも利権もない。秘書の自分はカネつくりに奔走しているが力の及ばないことを歎じた。川村にカネがないために次の選挙では落選するかもしれない、と心配してもみせた。だれが聞いても、川村に同情を寄せる話である。  川村は婦人に人気がある。選挙では婦人票に強いが、所詮《しよせん》は浮動票だ。カネの威力による組織票にはかなわない。次の選挙が危ぶまれる所以《ゆえん》だ。  仮の話だが、川村は次の選挙に落ちても、その次の選挙では当選するかもしれない。川村に婦人の同情票が集るからだ。川村には、この人はわたしが見てあげなければ、という婦人の母性本能を刺激するものがある。芝居の若旦那に寄せる婦人客の意識に通じる。  これが織部佐登子には川村に対して「可愛い」という言葉になったのだろう、と鍋屋《なべや》は思った。彼女は女傑の一人である。銀座のまん中に財界人や政治家がくる高級ナイトクラブを経営している。それも開店して十二、三年しか経っていない。  現在の彼女のスポンサーはよくわからないが、この店を開く基礎をつくった彼女のパトロンは、今は亡き大会社の社長だった。この「談話室」の飾り戸棚にならんでいるスペインのトリアナ窯の皿、ハンガリーのハバンの壺、ベルジア窯のマジョルカ人形、十七世紀フランス宮廷の装飾壺、ドイツのコローニュ壺、すべてはその社長が生前に彼女へ与えた品だった。そのような品目は鍋屋にわからないが、とにかく社長は、近世ヨーロッパ美術品のコレクターであった。  いまもそうだが、年配で、海千山千の財界人を相手に営業している織部佐登子が川村正明を「可愛い人」と云ったのは、彼の保護者心理になっているのではなかろうか、と鍋屋は思った。 「なにを考えてらっしゃるの?」  鍋屋が黙っているので、波子が横からのぞきこんだ。 「うむ、いや。……」  鍋屋は両の掌《て》で囲ったブランデー・グラスの中の液体をゆらゆらと動かしていた。 「ママは、ほんとに川村が可愛いと云うたのか」 「あら、ほんとよ。わたし、嘘なんかつかないわ」 「ママが川村にじかにそう云ったとかな?」 「たぶん直接には云ってないんじゃないかしら」 「川村はこの店によく飲みにくるかね?」 「ええ、たびたび。あら、秘書の鍋屋さんなら、それをよくご存知でしょ?」 「なんぼ秘書でも、おやじのプライベートな行動までは介入でけんたい」 「でも、議会の用事とか、党のことで先生に連絡するために、連絡先を知ってらっしゃる必要があるんじゃない?」 「それはな、第一秘書の仕事たい。ぼくは私設秘書じゃけん、なにも知らん」 「そおお? 鍋屋秘書さんはもっと参謀的なお仕事なのね?」 「そういうことだな。よくわかっとるじゃないか」  鍋屋は満足そうに波子を見た。彼女も眼を細めて笑っていた。その眼もとにそこはかとない魅力があった。髪がふりかかった首すじにも色気があった。 「なあ、波ちゃん」  鍋屋は彼女の耳に顔を寄せた。 「いっぺんぼくと食事ばせんかね?」 「いいわね」 「じつはな、前から思うとったが、きみは素敵な女性だ。どこか静かなとこでゆっくり食事ばしながら話したい」  波子は、上眼でちらりと鍋屋の顔を見た。 「ええ、ありがとう。そのうちにね」 「そのうちに、と云わんで今週の土曜日の晩とか、日曜日の夕方とか、来週の何日とか、今月の終りとか、はっきり決めてくれ」 「いま、そんなことを約束するのは無理よ。だって急なんだもの」 「じゃ、あとでもよい。が、きみの返事をいちいち聞きにここへ来るわけにはゆかんから、きみに電話するよ。きみの家の電話番号を教えてくれ」 「わたしはアパートに母と妹といっしょに居るから、電話はダメよ」 「そうか。店に電話をしたくないけど、じゃ、店へかけるより仕方のなかな。波子、ぼくはきみが好きだよ」 「鍋屋さんに口説かれるのは初めてだわ。ブランデーの飲み過ぎじゃない?」  この「談話室」には、ほかにだれも居なかった。 「ぼくは、酔ったから云っとるとじゃなか。きみが好きだという告白はだな、素面《しらふ》では云えんから酒の力を借りて云うとるとたい」  鍋屋はグラスをテーブルに置いて、波子の手を握った。  彼の大きな手の中に自分の五本の指を包みこまれたままで、 「うれしいわ」  と、波子は下をむいて笑った。 「きみのアパートには、おふくろと妹とが居ると云うたが、それはヒゲの生えたおふくろさんとちがうかな?」 「そんなダンナなんかわたしには居ないわ。正真正銘、六十五歳のおふくろよ」 「アパートは、どこかね?」 「渋谷のあたりよ」 「渋谷のあたりと云うて、ぼかすところがうまかな」 「そういうわけじゃないけれど」 「ママの家はどこかな?」 「あら」  波子は鍋屋の手をふりほどいた。 「こんどはママが好き好きとおっしゃるの?」 「そうじゃなか。参考のためさ」 「目黒の西郷山公園の近くと聞いたわ」 「西郷山公園なんてしらんな」 「最近できた公園よ」 「どっちにしても、ええとこに住んどるんだな。あの辺の町名はなんといったかな」 「青葉台でしょう」 「青葉台か。外国の大使館などがあるところだな。すごいな。その青葉台の何番地?」 「あら、そんなことはママに直接おたずねになるといいわ」 「波ちゃんはママの家に遊びに行ったことがあるか」 「何回かはね」 「どんな家かね?」 「和洋|折衷《せつちゆう》の立派なお宅よ」 「ママのほかに誰がいっしょに居るとな?」 「お手伝いさん。それと愛犬よ」 「そのほかには?」 「だれも居ないわ。あら、そんなことあんまり聞かないでよ。ママに叱られちゃうわ」  織部佐登子が上の広間から戻ってきた。 「波ちゃんと何か面白いお話あって?」 「なに、いま波ちゃんから、川村がここにときどき顔を見せているというのば聞いとったとです」  鍋屋が三杯目のグラスを手にして云った。 「そう。先生にはお見えいただいてるわ」 「なあママ。ママは川村をどう思う?」  傍の波子もいっしょに織部佐登子の顔を見た。 「川村先生をどう思うって訊《き》かれても、ちょっと返事のしようがないけれど」  織部佐登子はとまどいを見せた。 「ママが川村のファンだというのはよくわかってます。パーティ券を十枚も買ってもらったのでも、それはわかるし、感謝しとります」  鍋屋はグラスを握ったまま頭をさげた。 「そんなことぐらいで、おじぎされると困りますわ」 「店の忙しか夕方に、パーティにも出席してもらったし」 「あれは、わたしが川村先生のお話をうかがいたくて、勝手に出たの」 「つまり、川村のファンですな。そのファン心理をもう少し分析すると、どういうことになるかな?」 「むずかしいわね」  佐登子は微笑して、首をかしげ、 「そうね。川村先生は、可愛いわ」  と、呟くように云った。 「ほらね」  横の波子が手を拍《う》って、鍋屋の顔に云った。 「わたしが、云ったとおりでしょ?」 「うむ。……」  波子と打合せしないで佐登子がそう云ったからには、本当だろうと鍋屋は思った。たぶん、佐登子は日ごろから波子に、川村先生は可愛いわね、と洩《も》らしているのだろうと思った。 「ママ。これは前からママにお願いしようと思っとったことだが……」  グラスをまたテーブルの上に置いた鍋屋は、にわかに真顔になった。 「なんのことですの?」 「いや、こんどはパーティ券を買ってください、というようなことじゃなかばってん……」 「ばってん、なんですか」  横から波子がまぜかえした。 「こら、こっちはまじめな話ばしとるとじゃ」 「はい、はい。すみません」 「前からお願いばしようと思っとったけど、ちょっと厚かましゅうして、口に出せなかったとです」 「どういうことだかわかりませんが、おっしゃってみてください」 「じつは川村の希望ですがな、川村もママにはじかに云いかねとるとです。それで、ぼくが秘書として代りにお願いするとですが」 「なんだか云いにくそうですわね」 「云いにくかです。云いにくかばってん、この際、思いきって云います。川村はですな、ママのお宅へお礼にうかがいたいと云うとるのです」  傍の波子が一瞬ママの顔を見た。 「わたしの家へ川村先生がいらっしゃるんですか」  織部佐登子は意外そうな面持ちで、鍋屋に問い返した。 「はあ。ほんのちょっとの時間でけっこうですが」  鍋屋は大きな手をこすり合せて、 「川村はこう云うとるのです。クラブ・オリベで礼を云うても、それは店にきたついでに云うように聞えて、じぶんの誠意がママに通じないというのです。それで、ぜひお宅へうかがって、ちゃんとお礼ば申し上げたい、川村はこうぼくに云うとるとです。あのですね、川村は律義な男でしてな。じぶんの後援者の家へはきちんとご挨拶しに行かんば気が済まんとです。東京でも、ほうぼうのお宅へお礼のご挨拶に行っとるです」  と、佐登子へ柔らかい調子で云った。 「お忙しい先生が、そんなことでわたしの家へお見えになるなんて、恐縮しちゃいますわ」  心なしか佐登子の眼が動揺していた。 「ですけど、川村のたってのおねがいです。ただ、ママはお一人で家に居られるようだからと云うて、川村はそれを云いかねとるとですたい」 「もしそういうことでしたら、ご懸念におよびません。お店へ出る時間の前でしたら、いつでもお待ちしていますわ」 「ほう。そうですか。それはどうもありがとう。川村にさっそくママの言葉ば伝えます。川村がさぞかしよろこぶでしょうや。どうも、どうも」  鍋屋は頭をさげた。  波子が、ママの表情と鍋屋の様子とを見くらべた。 「ところで、ママのアドレスと電話番号ば聞かせてください。川村がおうかがいする前に電話でご都合ば訊きますから」 「波子、メモと鉛筆持ってる?」 「ええ」  波子がドレスのポケットから小さな鉛筆とメモ帖《ちよう》をとり出した。佐登子はそれを取って二、三行書いた。 「ここですわ」  鍋屋は受けとって読んだ。 「どうもありがとう」  その紙片を押し戴《いただ》くようにして、自分の名刺入れの中に大事そうにしまった。 「これで、ぼくも安心しました。秘書の務めば果しましたたい」 「議員さんの秘書さんて、たいへんね」  波子が云った。 「ああ、楽じゃなかな。その間には好きな女性ば誘わんばでけんし」  鍋屋は波子の顔をちらりと眺めた。 「ふ、ふふ」 「じゃ、これで」  鍋屋は立ち上った。 「あら、もうお帰り?」 「酔いました。それに、使者の任務、果しましたけんな」  戸棚の西洋骨董が鍋屋の大きな背中を見送った。  鍋屋は階段をあがって上の広間を通った。ママと波子が彼のあとを従った。  広間は客でいっぱいだった。ホステスらを交えた声と笑いとがほうぼうに上っていた。はやっている店である。鍋屋が出た「談話室」には、空くのを待ってさっそくに十人ぐらいのグループが入って行った。  客層は中年以上の年配者である。白髪と、髪のうすい頭とが目立った。社用族でも幹部級だった。 (今夜は議員は来ていない)  広間の横を通りながら、その辺を一瞥《いちべつ》することを鍋屋は忘れなかった。政憲党の衆院議員の顔は、そのほとんどを鍋屋は知っていた。  議員がここへ来るようになったのは、企業関係者の招待の二次会として寄ったのがきっかけらしい。企業の経営陣は議員を料亭に招待のあと、よくナイトクラブに誘う。  レジで鍋屋は伝票にサインした。これが議員会館の川村の部屋に回り、第一秘書がそれをまた西日本電機か新東水産かの総務部長へ回すはずだった。  出口では、折から入ってくる五人づれと遇った。うち、三人は五十すぎの紳士だった。 「おお、ママ」  一人が頓狂《とんきよう》な声を上げた。 「いらっしゃいませ」  織部佐登子が笑顔で云った。 「席はあるの?」 「無くても、空けさせますわ」  うしろについてきている副マネージャーにママは眼くばせした。蝶ネクタイはトンボのように引返した。 「今晩は」  波子がその一人に云った。 「どこかのお帰りですか。遅いですわね」  十一時近くになっていた。赤坂か新橋の帰りとみえた。 「常務」  若い社員が一人に云っていた。 「そこは段になっています。足もとにお気をつけてください」 「うむ」  肥《ふと》った男が下を見てうなずいていた。連中を下ろしたばかりの三台の黒塗りの車が去るところだった。 「鍋屋さん。これで失礼します」  織部佐登子が腰をかがめた。 「ありがとう、ママ。じゃ、おねがいばしたよ」  川村が彼女の家を訪ねる約束のことだった。  通りがかりの男たちが、白っぽい着物の佐登子に眼を向けていた。和服の似合う女だった。 「いま入ったお客は、東亜鋼産の重役さんたちかね?」  街角まで見送るという波子に、ふりかえって鍋屋はきいた。  波子は黙ってうなずいた。  東亜鋼産株式会社。——資本金三九〇億円、現在の純資産八三五億円、一株(五〇円)当たりの純資産一〇三円、従業員約二〇、〇〇〇人。本社東京。工場千葉県・神奈川県。  前社長は加世田豊敏といった。十五年前に胃癌《いがん》で死亡した。ときに六十歳だった。かれは織部佐登子のパトロンであった。  この事情は、彼の周辺にはよく知られていた。  加世田豊敏は、その死の六年前に妻を喪《うしな》っていた。織部佐登子との関係もそれ以前からだったが、他と再婚もせず、また佐登子をも入籍させなかった。二男一女があったので、それへの配慮からだったが、子供たちは父親と佐登子との間を認めていた。当時の佐登子は銀座で小さな画廊を経営していた。  加世田は骨董に趣味があり、とくに西洋の古美術品に興味を持った。外国を回るときにそれらを求めてきたり、また社員の出張に際してその購買を托《たく》したりした。かれはその中のものを佐登子に与えた。  加世田社長は、桂重信が政憲党の総務会長、幹事長を歴任したころから桂を応援した。東亜鋼産の年々の政治献金はもっぱら桂重信とその派にむけられていた。その金額は相当な額だと噂された。  当然のことに東亜鋼産は政憲党内閣を支える桂から見返りを受けた。販路の拡張、新設工場地の獲得、金融面での便宜などには桂が蔭《かげ》で動いていた。  加世田豊敏は独裁的な社長であった。が、部下の面倒をよく見る親分肌であった。加世田系の部下が現在では社長、専務、常務などの役員となり、部長級の幹部社員となっていた。加世田社長を慕っていた彼らは、その死後、織部佐登子が開いた「クラブ・オリベ」をよく使って、これを応援した。故親分社長に対する義理からである。  織部佐登子は、生前に加世田豊敏からかなりな金銭的支援を受けていた。その額はだれも知らない。加世田の死後、その遺族——二男と一女から遺産の何分の一かを、佐登子はもらったという。父親の面倒を見てくれた謝礼の意味であったと佐登子は云っている。  これが「内妻」として遺産の相当分をもらったというふうに世間に伝えられた。人に訊かれると佐登子はそれを否定した。  加世田が死んでから三年くらいして、佐登子は画廊をたたんで、「クラブ・オリベ」を開いた。これも加世田からもらった遺産を資本にしたのだと人からいわれた。客に財界人が多いのは、画商時代の顧客がひろがったからである。財界人につれられてきたのが縁で政治家も店に足を運ぶようになった。佐登子にはそれだけの水商売的な魅力と、経営才能があった。  当然に佐登子は銀座のバー業界からいろいろにとり沙汰された。  鍋屋が「クラブ・オリベ」を出るときにすれ違った五人づれの客を見て、あれは東亜鋼産の人たちか、と波子に訊いたのは、前社長と佐登子の関係事情を知っているからであった。 「お車は?」  見送りにきた波子はきいた。 「いや。タクシーを拾うからよか」 「では、お気をつけて」  波子は立ちどまって頭をさげた。 「おい、波ちゃん。ぼくと食事する約束、忘れんでくれよ」 「はいはい」  ひとりになった鍋屋は、公衆電話のボックスを探して歩いた。 「だんなさん、どこのバーをおさがしですか」  花束を抱えた娘が寄ってきた。銀座裏の花売り娘は、バーのガイドでもある。彼女らの手帖にはこの界隈《かいわい》のバーの名前がびっしりと書きこまれていた。 「バーじゃなか。公衆電話だ」 「公衆電話なら、もう五十メートル行った右側にあるわ」 「ありがとう」 「花を買ってよ、お客さん」 「公衆電話に花束を捧げることはなかよ」  二分くらい歩いて右側にある電話ボックスに入った。ボックスの中にあかあかと灯がつき、うす暗い通りに光っている。  鍋屋は手帖も見ずにダイヤルを回した。受話器を耳に当てながら腕時計を見た。十一時をまわっていた。  信号音が受話器に返ってくる。その規則正しい音は赤坂の議員宿舎の一室に鳴りつづけているのだ。応答はなかった。二分くらい待って鍋屋は切った。  川村正明はまだ宿舎に戻ってきていない。Oホテルでの「励ます会」から流れて上山庄平らの仲間と二次会に行っているのか。上山らが使う料亭は九段にあった。それとも川村だけいつものところに行っているのか、と思った。川村の巣は新宿区にある。鍋屋はその女に会っている。  はなやかなパーティのあと、川村がうすよごれた赤坂の衆院議員宿舎に戻る気がしないのもわかるのだ。「議員の独身アパート」の衆院議員宿舎は都内に四カ所あるが、赤坂が最も古く、高輪《たかなわ》が最も新しい。赤坂から高輪へ移転した議員は多い。高輪がきれいで、その最新設備が気に入られているからだ。  高輪の議員宿舎の七十七室は先生がたから好評につき満室に近い。赤坂から高輪に移りたくて、手を回してウラで運動する先生もいると聞く。  が、革新クラブに入っているせいか川村はそのウラの手もきかず、また、彼自身が古い赤坂宿舎を気に入っていた。  川村正明の家は九州のM県の田舎町にある。妻はその地方の女だ。中学三年生と、小学六年生の女の児とが居る。  川村の妻は、東京に出たがっている。都心の高級住宅街に家を持ち、子供二人を名門校に入れるのが念願だった。そうして選挙とか、あいだあいだに選挙区に帰って居るのが彼女の理想であった。  これは鍋屋が川村の口からも聞き、また、ときどき上京してくる奥さんからも聞かされている。奥さんは尖《とが》った顔に眼鏡をかけており、見栄を張る女であった。  川村自身も東京に家を建てることでは妻の意見と一致していた。だが、その土地を買う資金がない。「高級住宅街」というのが条件だった。いま、そんな土地の値は眼球《めだま》がとび出るほど高い。  今晩の「励ます会」パーティには川村夫人も九州から上京して、夫といっしょに金屏風の前に晴がましくならぶはずだったが風邪をひいて出京できなくなった。もし東京に家があれば、風邪程度ではパーティに出席できるのだ。東京住いは川村夫人の熱望であった。  川村はたぶん今晩は赤坂の議員宿舎には帰らないだろう、と鍋屋は思った。その泊り先に鍋屋は見当がついている。  西新宿の旅館「香花荘」だ。和風の、高級といっていい旅館である。住宅を改装したもので、部屋の数も八つぐらいしかない。常連の客だけを泊める。  おかみは、岩田良江といい、四十をすぎた未亡人であった。夫は貿易商で財を成し、十年前に死んだ。良江はその遺産を守り、自宅を旅館に直して、生活費にあてた。旅館で儲《もう》けようという気はない。近所に遺産の土地が三百坪ほどあって、これを死守していた。所有の土地は人に貸している。  川村正明は、ある企業家の紹介で「香花荘」に泊って以来、そこが気に入った。  議員宿舎では自炊のわびしさだ。せまいキチンで手料理を作るのは、不器用でもある川村の趣味でなかった。不足のない家庭に育って、食べものはすべて人が作ってくれる。学生時代も父親の後援者の家に預けられていて、自炊の経験がなかった。 「香花荘」が気に入ったのは、おかみの岩田良江の世話が行き届いているからであった。良江は商売意識をはなれて川村の食事その他の面倒をみた。川村は、女の母性本能を誘発するものを備えているらしい。川村と良江の関係ができたのは、二年前からである。宴会の帰りに「香花荘」に泊ったところ、午前一時ごろに良江が部屋に果物を運びにひとりで入ってきた。それから一時間して、頼みもしないのに、水を持ってきた。ありゃ据え膳だったとは、鍋屋が川村から聞いた話だった。  川村正明は昼間でも時間をつくっては西新宿の「香花荘」へ岩田良江に会いに行った。  鍋屋が聞かされた川村の話では、岩田良江は色濃い女で、会うのに四日と間をあけてはいられないというのだった。彼女は亭主に死なれて十年間の孤閨《こけい》を送ってきた。それだけでなく、亡き亭主よりも川村の身体《からだ》に強い愛着をおぼえたと云っている、と、これも川村ののろけ話であった。  川村が「香花荘」に行っているときは、第一秘書も第二秘書もその行先を知らないことになっている。そこに連絡できるのは鍋屋だけであった。  先日、川村は衆議院の委員会を脱《ぬ》けて、午後一時ごろから、「香花荘」に居た。そういうとき川村は第二秘書の運転する車に途中まで乗る。流しのタクシーに乗りついで、タクシーの中で議員バッジをはずす。 「香花荘」では、おかみの私室でひとときを過す。女中たちも部屋に近づかないよ、と川村は云っていた。  帰りも流しのタクシーである。ところが要心深い川村は、車の多い甲州街道から外苑《がいえん》通り、永田町というコースをとらずに、いつも代々木山谷のせまい道を通り抜ける。このほうが車が少い。それに甲州街道を通行する車には顔見知りの人間が居て、おや今ごろ川村議員がどうしてこんな所に、と不審を持たれるかもわからない。その懸念のない山谷の小路に入るのである。また、ここから代々木通り、外苑、永田町のコースが近道でもあった。  山谷を通り抜けるとき、川村の乗ったタクシーが老婆を刎《は》ねた。「香花荘」の帰りという後めたさから、川村はとっさに「身分の危機」を感じて、現場から逃げようとかかり、集った人々に咎《とが》められた。それがテレビのニュースに出た。  川村のフウケモン(腑抜《ふぬ》け者。バカの意)が、と鍋屋は舌打ちしたものだった。あのフウケモンが、何をあわてる。——  テレビ・ニュースになったばかりに、ほうぼうの人から訊かれた。議員会館の他の議員秘書どもはニヤニヤ笑っていた。自分たちのおやじ連中の素行から、意外な町を通行していた川村の行動を推量したらしかった。  さっき、クラブ・オリベでも織部佐登子にそのことを訊かれたが、鍋屋はうまく胡魔化《ごまか》しておいた。  その織部佐登子と岩田良江とは、「川村議員を励ます会」の会場で鉢合せになっていた。二人とも会場の隅に立って、川村のスピーチを熱心に聞いていた。しかし、両人はお互いに知らぬ間である。  岩田良江。まるい顔で、鼻が低く、色が黒い。化粧上手で、それを「個性的」に見せていた。ベージュ色の洋服できていたのは、日ごろの和服姿を見つけている人の眼に気付かれないためだった。そのとき、鍋屋は彼女にメモを握らせた。  鍋屋が「励ます会」のパーティ会場で、岩田良江にそっと渡したメモには、 (ご出席ありがとう。先生は今夜は多忙です。会場には、多くの眼がありますので、ご配慮ください)  とあった。  川村正明と岩田良江との仲は、議員の間にもまだわかっていなかった。上山庄平をはじめ「革新クラブ」の「同志」たちも知っていなかった。これはまだできるだけ隠しておくのが川村の身のためである。新宿の旅館のおかみと深い関係になっているのは、名誉な噂《うわさ》にならなかった。川村は、鍋屋にもひたかくしにしているが、岩田良江からもう相当な金を貢がせているらしかった。  会場で、川村の姿に遠くから熱い視線を注いでいる女がいるとまわりの者に気づかれるのは得策でない。そのへんはカンの悪くない連中ばかりなのだ。  良江は、川村の用事が終り次第、いっしょに帰って行くつもりで、会場の隅で待っているようにみえた。良江はそういう性質の女であった。  良江にはなるべく早く消えてもらわなければならなかった。もう一人、川村に興味をもっている女が良江とは七メートルとは離れてないところに佇《たたず》んでいるからだ。その間は参会者の小さな群で埋まっていたが、女どうしのことだ。両方の直感が触れ合うことになる。  げんに良江は織部佐登子をちらちらと見ていた。参会者は女性が少くないのに、彼女は他に眼をむけなかった。やはり佐登子を意識していた。  佐登子のほうはそれがわかっているのかわからないのか、良江にはまったく無関心のようだった。もともと人から見られるのに馴《な》れている女であった。いつも自分が鑑賞の対象になっていると心得ている職業の女だった。  岩田良江には早く会場を去ってもらわなければいけない。でないと、良江がしだいに佐登子に神経を尖らせてくる。そうなると、やはり佐登子に反応しそうである。いい結果にはならない。  渡したメモが効いて、川村のスピーチが済み、乾杯のあとの万歳三唱が終ると、良江は会場から姿を消した。それで、ことなきを得た。秘書とはそういう役目でもある。  もっとも、ことなきを得たという云い方は正確でない。織部佐登子のほうで岩田良江を意識していなかったからである。それに佐登子も、良江の退場と前後して、これは自発的に帰って行った。  ——川村正明が岩田良江と織部佐登子の両方にどのような最終目的を持っているか、鍋屋は推量していた。これもまた秘書の役目であった。  鍋屋は電話ボックスを出た。タクシーをつかまえに大通りへむかって歩いていると、通行の人群れの中に、知っている男の顔が、女と手を組んでいるのを見た。十一時半近くになると、通りはバーからの帰り客が多く、客の車を探してうろうろするホステスたちもまじって混雑していた。 「やあ、有川さんじゃなかですか」  鍋屋は声をかけた。  呼ばれた男は、立ちどまり、そのへんの明りに鍋屋の顔をすかし見ていたが、 「おう、鍋屋さんか」  と、大仰に上体をうしろに反らせて邂逅《かいこう》のよろこびをあらわした。  伴《つ》れのホステスが、丸山耕一議員の第一秘書、有川昌造の手を解いた。 「しばらくでしたな」  衆院第一議員会館の中で、鍋屋がときどき遇《あ》う有川は、いま酔払って足をよろよろさせていた。 「ほんまにお久しぶりです」 「珍しかとこでお遇いしましたな。たびたびこっち方面にはお出かけですか」 「いえいえ、ときたまです。くさくさしてるときの気晴しですわ」 「ストレス解消にはなによりですな」  第一秘書の仕事はつらい。議員のために自分を殺さなければならない。忍従これあるのみだ。ストレスが溜《たま》るのは当然である。  その解消にバーを飲み歩くのは無理ないにしても、銀座のホステスを伴《つ》れて、これから何処《どこ》かへ行こうという眼前の有川の派手さが、鍋屋には、ちょっと奇異に思われた。  すると、有川はポケットの中から名刺をとり出して一枚を鍋屋に渡した。 「ぼく、いまは、こういうことやっとります」  鍋屋が名刺を外の灯に照らすと、 ≪国会議員秘書同盟委員長・有川昌造≫  と読めた。 「ほほう」  その肩書の細い活字と有川の顔とを鍋屋は見くらべた。 「国会議員秘書同盟委員長……。すると、あんたは丸山先生の秘書ばお辞めになったとですか」  名刺片手のこの質問に、有川昌造は手と首とを同時に振った。 「ちがいま。丸山の第一秘書は変らずだす。秘書をしながら、こういう組織の委員長になってますのんや」 「へへえ」 「鍋屋さん。あんさんは国会議員秘書同盟という名を聞いたことおまへんか」 「そういえば……」  と鍋屋はいった。川村正明の第一秘書の杉山が、前にそんな名を洩らしたことがあった。 「そうでっしゃろ」  有川昌造は、鍋屋が国会議員秘書同盟の名を聞いたことがあるという返事に対して、満足そうに云った。 「その組織は、じつはぼくが提唱させてもらいましたのんだす。おかげで、ぎょうさん賛成者を得ましてな、こないな組織名になりましてん」 「有川さんがそげな提唱ばなさっとるとは、ウチの杉山からも耳にしましたことのありますやな」 「この議員秘書の組織は、立場が異《ちが》う野党の諸君は入ってのうて、政憲党の秘書ばかりだす。派閥に捉《とら》われへん全議員秘書の結集をめざしてますのんや」 「議員秘書には、各派閥ごとに秘書会というのがありますな?」 「いや、ああいう派閥のボスや議員に従属した秘書の親睦《しんぼく》団体とはぜんぜん性格がちがいま。鍋屋はんは、川村先生の有力な私設秘書やから別格だすけど、ご承知のように、第一秘書や第二秘書、その他私設秘書の立場いうのんは、弱くて、あわれなもんだす」  夜ふけの銀座街頭で、酔った両秘書の立話がつづいた。 「議員秘書の大部分と議員との関係は、暴君に仕える家来と同じだす。おやじにどないに無理難題を云われたかて、秘書はご無理ごもっともで従わんとなりまへん。先生にバカやアホウやとどなられても、口答え一つできまへんがな。ひたすら涙を呑《の》んで、忍従これあるのみだす。こんな非民主的な主従関係は、いまどきおまへんで」 「そりゃそのとおり、秘書はみじめなものですたい」 「あんさんにもようわかってますな。それというのが、秘書は首切られても行き場がおまへんからや。そこで泣く泣くおやじにしがみついてます。おやじはその弱い立場をええことにして、ますます無茶苦茶を云いよる。秘書の私生活かてまるきりおまへんがな」 「そげんですたいな」 「秘書どうし互いに団結してへんよってに、おやじにええようにされてますのや。団結してれば、議員も勝手に秘書のクビが切れまへん。つまりだすな、あらゆることに秘書の生活の保障をおやじにさせるのだす。ほなら、おやじは秘書に対する横暴も罵詈雑言《ばりぞうごん》もやめます。秘書の身分の保障と人権の尊重を議員に認めさせるのんです」 「いま、この国会議員秘書同盟にはどれくらいの秘書が加盟ばしとりますか」 「いまのところ、約五十人だす。宮下先生とこの木沢秘書をはじめね。五十人ではまだ少のおますけど、これから加入者がふえまんがな。この前、総会を開いて、ぼくが臨時委員長に選出されましたん。名刺の肩書がそれですがな」  伴れの女が退屈しているのを知って、有川は急に鍋屋に別れを云った。 「じゃ、また。いずれ詳しゅうに話させてもらいますわ」  女づれで行く有川の後姿はたいそう景気よさそうだった。  求愛の形式  朝六時、鍋屋健三は世田谷区松原の古いマンションの部屋で眼を開けた。目覚まし時計をかけておいたのだが、川村正明のいる赤坂の衆院議員宿舎へ七時までに行くには、この時間に起きなければならなかった。  妻がしぶしぶ床をはなれてきた。中学三年の女の子は隣の六畳に睡《ねむ》っていた。 「昨夜は、酔って、遅いお帰りでしたね」 「うむ。川村のパーティの打ち上げがあった」  仕事の上で、本当のことを云わないことがある。面倒臭いし、云って聞かせても理解ができない。妻は、近所の主婦や娘に茶の稽古《けいこ》ごとを教えていた。 「今朝は、ずいぶん早いですね?」 「うむ。川村が朝飯会へ出る前に会うにはな、こげな時間に行かんばでけん」  二日酔で、頭がずきずきしていた。顔を洗うとき、冷たい水に浸したタオルを後頭部に当てた。肥ったうしろ首は段がついていた。  近くのハイヤー営業所から一台がきた。昨夜戻ってから電話でたのんでおいた。そうしないと、朝の間は予約の会社役員の送りに車が全部出払ってしまう。この辺にはそういう連中が住んでいる。ハイヤー代は川村へ請求書をまわす。  早すぎて用意ができてなく、朝飯抜きだった。ドアの前に立つ妻に見送られて、五階からエレベーターで降りた。部屋も古ければエレベーターも古い。マンションはもう二十年近く経っている。ここへ移ってきたのは七年前だが、がたがたになっていて、そろそろ新しい建物へ引越さなければならない。 「お早うございます」  ハイヤーの運転手が挨拶した。 「お早う。ご苦労さん。赤坂の議員宿舎へ」 「かしこまりました」  甲州街道へ出るまでの松原の道路は狭く、一方通行の場所が多い。けれども左右にコンクリートやブロック塀の家がつづく。松原は旧《ふる》い高級住宅街であった。 「おや、新築があるようだな?」  鍋屋は右へ眼をむけた。建築工事の板塀が一ブロックの半分を占めている。板塀の上には赤い起重機の頭が見え、その先端には「安全」の青十字の旗が朝風に飜《ひるがえ》っていた。  つい、この前までは雑木林の庭がある吉村という旧家であった。その林が消えている。 「はあ。吉村さんが土地を売って、よそへ移ったのです」  この近くに営業所があるだけに運転手は詳しかった。 「だれがあとを買ったとな?」 「なんでも会社の社長さんだということです。自宅が建つんです」 「ずいぶん広い土地を買ったもんだな。何坪くらいあるかな?」 「四百坪です」 「敷地が四百坪か」  そこを通りすぎて鍋屋は車の中で呟《つぶや》いた。 「……どのくらいの値で買ったのかな?」 「坪百万円ということでした」  運転手はハンドルを動かしながら答えた。 「土地だけで四億円だな」 「建物もすごいという話です。鉄筋の三階建てでして、地下一階。床面積が二百坪です。建築費がざっと八千万円だそうです」 「うわァ、土地の購入を入れると、四億八千万円か。ずいぶん景気のいい会社の社長だな。どこの会社だろう?」 「新光化学工業というんです」  新光化学工業は、精密化学品、合成樹脂、肥料、合成繊維などを製造していて、業界の大手だった。 「はてな。新光化工の社長はオーナーではなかったと思うが」  鍋屋は思わず声に出して呟いた。  たしかサラリーマン社長のはずである。新光化工の社長は、四億八千万円もの土地・住宅を入手できるほど恵まれた供与を会社から受けているのだろうか。  傭《やと》われマダム的な社長の月給、役員手当、交際費などは知れたものである。株にしてもたいして持っているわけではないから株式配当がさしてあるわけではない。とくに交際費は、国税庁の眼がきびしく近ごろどこの企業でも締めている。あとは社長の機密費だが、これとても社内の規制があるのでいかにワンマン社長でも自由勝手に取れるものではない。  新光化工の社長は、長期在任にしても、四億八千万円もの買いものの資金をどこから捻《ひね》り出したのだろうか。会社からでないとすると、社長がもともと財産家だったということになる。  しかし、社長をしているあいだは経済的に羽振りがよいが、その地位を去ると、たちまち貧乏というのが一般的な通例である。ワンマン社長ほどそれが著しい。  土地の購入も、邸宅の新築も、資産の貯蓄も社長のポストにある間である。  たとえば愛人を得て彼女に料理屋を開かせたり、バーを持たせたりするのも、社長在任中だけである。社長を辞めて会長になったとたんに彼女への支援に窮し、早々に別れ話がもち上る。まして相談役、顧問などに退くと女との手は切れてしまう。女は他に奔《はし》る。あとは僧侶《そうりよ》か哲人のような生活になる。または痴呆症的人間になってしまう。  あえて新光化工の社長とは云わない。大手企業のほとんどの社長にそうした通例を見るのだ。  いったい社長業に付随するどのような高収入の秘密があるのか。あまりにも現象が普通になっていて、これまで鍋屋も疑問を持ったことはなかった。  衆院議員宿舎は、赤坂二丁目の高台にある。  昼と夜は賑《にぎ》やかなこの界隈も、朝六時半というと人通りがほとんどない。夜はいきいきとした生命で光っているだけに、午前中は死んだ街である。早朝だからなおさらであった。  鍋屋のハイヤーは、交番を左角にした坂道にかかった。坂の左側は古風な門がまえの大きな家がならび、右側は茂った木立の中にこれも大きな二階家屋がある。それにつづく石垣下の道端には、赤坂の芸妓《げいぎ》が乗る人力車が五、六台置いてあった。ここに俥《くるま》の立場がある。検番も遠くない。  このとき、坂道を歩き上っている一人の男がフロントガラスを通して鍋屋の眼についた。傍《そば》を追い越すときにその横顔を見た。むこうでも車内の鍋屋に眼をむけた。政憲党の平井友吉議員であった。  平井は衆院第一議員会館に居る。前に院内紙記者の西田八郎が会館の廊下トンビをしていたとき、平井議員の事務所へお土産の鮮魚を持参する地元の陳情団を見ている。  鍋屋はそこでハイヤーを停めさせた。途中、肥《ふと》った身体を車から降ろすのは楽ではないが、議員宿舎では平井は川村正明の隣室であった。そこでよく顔が合うし、平井は川村よりも先輩だから、鍋屋も車の乗り過しはできなかった。 「平井先生、お早うございます。いつも川村がお世話になります」  鍋屋は身体を縮めて挨拶した。 「いやいや、こっちこそ。……きみ、ばかに早いなあ」 「川村が朝飯会に出る前に会うことになっていますので」 「朝飯会」は派閥の会合。 「朝飯会も早いからな。川村君は若いからええけど、わしのような年よりやと、朝飯会へ出るのが、もうしんどうなった」  五十半ばの平井議員は紀州を選挙区にしている。東京に家を持ってないので、議員宿舎に居る。彼はもちろん「金帰月来」の組だった。 「どういたしまして。先生はまだお若いですよ」 「いや、やはり年にはかなわん。だから、すこしでも身体をきたえるため、こうして朝の運動にその辺を歩きまわってるけどな」 「それはなによりの健康法でございますね。毎朝早起きして散歩なさっておられるんですか」 「いや、毎朝というわけにはゆけへんけどな。こっちも朝の用事があるさかい。まあ一週間に一度か二度くらいや」  平井は口ごもるように答えた。 「それでは、お先に失礼します」 「ごめん」  鍋屋は再び車に乗った。  議員宿舎は坂道を上り詰めた右側にあり、すぐそこであった。車は門を入った。三棟の三階建てがならんでいる。  議員宿舎の第二館のエレベーターを上り、通路を歩いて第×××号室を鍋屋はノックした。内からドアが開いて、川村正明が腫《は》れぼったい眼を出した。まだパジャマ姿だった。  2DKの入口は三和土《たたき》、上ったところがせまい板の間、左側に食堂を兼ねたキチン、納戸《なんど》、右側にトイレと浴室、正面に六畳と六畳の和室がならぶ。北むきのキチンは、昼間でも曇り日は電灯をつけないとうす暗い。台所の洗い場には汚れた茶碗やコップなどが溜《たま》っていた。  川村は鍋屋秘書を左側の間に入れた。畳の上に派手な模様の絨緞《じゆうたん》を敷いている。応接台を中心にまわりには戸棚、本棚、テレビなどがある。本棚にならぶ書籍は娯楽読物が多かった。これではスピーチで「マルクス兄弟」と間違って云うはずだと思われた。  隣の六畳は寝室で、議員が自分で蒲団《ふとん》を敷いたり、押入れに片づけたりする。襖《ふすま》が閉まっているのでわからないが、あるいは万年床かもしれなかった。自分で整頓《せいとん》が出来ない川村は、週一回くらい派出家政婦を頼んで掃除してもらう。建物の古いせいもあって白い壁も鼠色《ねずみいろ》がかっていた。  応接台をはさんで川村と鍋屋は対《むか》い合って坐った。 「ぼくはホテルを早目に出たが、あのあと、あんたは付き合いで、おおごとだったろうな。さぞ遅かったろうなあ」  鍋屋は他人の前では秘書として川村を「先生」と云っているが、二人きりだと「あんた」であった。川村が年下だし、彼の面倒を見ているという指導者意識が鍋屋にある。川村もそれには抵抗しなかった。  この早い朝に、議員宿舎に寝呆《ねぼ》け顔でいるからには、川村は昨夜、岩田良江のもとには泊らなかったようである。 「うむ。パーティが済んでから上山さんに赤坂のクラブを引張り回されてな。ここへ戻ったのが二時ごろだったよ。四時間しか眠っとらん」  川村は眼をこすった。 「昨夜十一時すぎに銀座からここへ電話したばってん、応答のなかったたい」 「銀座から? クラブ・オリベに行ったのか」  川村は重たげな眼蓋《まぶた》を開いた。  前の廊下を過ぎる靴音がして、隣のドアが開き、すぐに閉まる音が聞えた。平井議員だった。 「ここへ来る途中で、平井さんと遇ったよ。健康法に朝の散歩だと云うとらした」 「平井さんが朝の散歩だって?」  川村は笑い、低い声で云った。 「そりゃ、どうかな。平井さんは昨夜、部屋に居なかったからな。いま、帰ってきたばかりだよ」 「平井さんが昨夜自分の部屋に戻らなかったというと……今が朝帰りか」  鍋屋は眼をまるくした。 「週に二度くらいは朝帰りだよ」  川村は低声《こごえ》で云って、顔だけで笑った。 「ぼくには散歩と云うとったが……」 「泊り先から車で宿舎に帰ると目立つよ。また流しのタクシーを拾って来るほどのこともない近い所だったろうな。歩いて帰れば、散歩だと云えるから、一挙両得だ」 「うむ。ここは地の利がよかな」  鍋屋は、坂下の石垣の横にならんで置かれた人力車を眼に浮べた。坂下の南側一帯は料亭が多い。 「平井さんは年とったから運動のために散歩するとぼくに云っとったが」 「平井さんはそれほどの年じゃないよ。それは口先だけだ。ときには女性を夜中にここへお招きになる」 「この議員宿舎に?」 「それで問題になる」 「宿舎の管理人から?」 「いや、宿直の管理人は午前零時になると仮眠する。そのあとで女をつれてきてもだれにもわからん。ほかに番人はいないしな」  川村はまた低く笑った。 「問題なのは、奥さんが紀州からときどき出京なさる。ご主人の偵察だろうな。この宿舎の部屋へ来て、じろじろと部屋の様子を観察なさるんだな。そうして、キチンがきれいすぎるとか、押入れや戸棚の中が整頓しすぎているとか、蒲団のたたみかたが男の手ではないとか云って、ご主人を疑うんだな。あるときなど、女性用のハンカチが一枚押入れから見つかったと云って大揉《おおも》めに揉めてたよ」 「防音装置があまりよくなかけん、隣のプライバシーはなかな。議員さんがたが新築で近代的設備の高輪の宿舎に移りたがる気持はよく理解できるなあ。……けど、高輪は、この赤坂ほどには地の利がよくなかけん、両方よかことはなかなあ」 「ぼくは高輪には移らんよ。その資格がないためでもあるがね。なかにはあそこへ行きたくて手を回して運動する連中もあるがね。ぼくは地の利を占めたここから動きたくない。こんな便利のいい場所はないからな。議員会館でも、銀座でも、新宿でも、みんな車ですぐのところだ」  新宿には「香花荘」がある。 「ぼくはな」  川村は顎《あご》を隣室へしゃくった。 「不器用だから、部屋のかたづけがきちんとできないのだ。それがかえっていいんだ。いつ女房が来てもいい。ここを見て女房は、まあきたないわね、と掃除する前に顔をしかめるが、疑われることはないよ。無精もまた一得だよな」  隣室で音がしていた。平井議員が動きまわっている。  いつまでもお隣の話でもなかった。鍋屋は話題を変えた。 「パーティの会場であんたのスピーチを聞いた織部佐登子ママが感心しとったよ」 「彼女とは、会場に入ったときに挨拶を交わしたが、わりあい地味な身なりで来ていたね」  川村は煙草に火をつけた。 「わざと目立たんようにしとったな」  もう一人、川村の姿を見つめて隅に立っていた女のことは、あとまわしにすることにした。 「ぼくもオリベのママがスピーチを聞いているのは眼の端で見ていた。きみは彼女の傍で何か吹込んでいたじゃないか」 「あれは、革新クラブやあんたのことを解説ばしとったとたい」 「ぼくの演説の出来はどうだった?」  川村は鍋屋に感想を求めた。 「出来はよかったよ。例の土井信行君が聞いとったが、感心しとったな」  鍋屋自身も、川村の「マルクス兄弟」には気がついていなかった。 「ぼくは、土井君の台本どおりにはしゃべってない。ぼくの意見を独自に加えている。情熱をこめてね。弁舌の抑揚も、ゼスチュアも工夫したんだ。きみのアドバイスもあったけどな。あのあとで、板倉さんも、上山君も、その他の諸君も、ぼくのスピーチをたいそう讃《ほ》めてくれたよ」  川村は愉快そうに云い、まだ昨夜の空気に酔っていた。 「ぼくがな、あんたのスピーチに聞き入っとる佐登子ママの耳もとで解説ばしとったのは、これからの新しい日本の政治は、革新クラブのような純真な理想を掲げた若い情熱政治家でないと絶対にでけんと云うのだったよ」 「うむ、うむ。ママはどう云ってた?」 「あの場では、深くうなずくだけだったが、心からぼくの云うことに賛成したんだな。あとで、クラブ・オリベに行ってママに会ったとき、そげなふうに云うとったから」 「そうか、そうか」 「もう一つ、ママの耳に入れた解説がある。それはだな、革新クラブの議員連中にはカネがなか。とくに川村正明にはカネのなか、ということたい」 「……」 「川村のような若か純真な政治家がカネのなかことで、その理想とする政界の浄化、日本政治の正しい道の実現へ邁進《まいしん》でけんというのは、彼にとって残念なことであり、日本の民衆にとっても不幸なことだ、と、こうママに吹きこんどいた」 「彼女、どう云ってた?」 「大いに心が動いとったよ。あのぶんじゃ、佐登子ママはカネば出すよ。かならず出すよ」 「織部佐登子は、ぼくに金を出すかな?」  川村正明は、鍋屋の話に疑わしそうな眼をした。が、顔つきは反対に自信ありげであった。 「出すとも。あれほど、あんたの話に感動ばしたとじゃからな」  鍋屋はまるこい膝《ひざ》をすすめた。 「うむ」  川村は顎に片手をやった。 「彼女が出すにしても、だいたい、どれくらいだろう?」  少額では問題にならないがといった表情だった。 「ぼくが推測するにだな、彼女の資産は二十億円以上だろうな」 「二十億円以上?」  川村は唸《うな》った。 「調査してみんとわからんが、そげな風評じゃ」  鍋屋の話を聞いて川村は昂奮《こうふん》したように両手をこすり合せた。 「どのくらいぼくに出してくれるだろうか」 「そりゃわからん。あんたの腕しだいだ」 「……」 「織部佐登子はな、あんたに惚《ほ》れとるよ」  鍋屋は笑いもせずに云った。 「昨夜、ぼくがクラブ・オリベに行って、佐登子ママと話したとき、彼女は、あんたが可愛か、と云っとったよ」 「可愛い?」  川村は苦笑した。 「可愛かと女がいうのは、惚れたということたい。あんたには、女性からみると、なんとかしてあげたい、じぶんが付いとかんばでけんいう献身的な気持にさせるところのあるけんな」  川村は黙った。黙って、これまで深いかかわりあいを持った女たちの気持のありようを思いかえしているようだった。  鍋屋は鍋屋で、そうした川村の様子をじっと見ていた。  この男は甘ったれである。父親の保護のもとに恵まれた家庭に乳母《おんば》日傘《ひがさ》で育ち、大学には父親のおかげで裏口入学をした。子供のときから他人は自分のために奉仕するものと思っている。学校を出ると、父親の秘書となった。なみの秘書とは違い、はじめから「御曹子」として特別扱いだった。ここでも他人はすべて自分に手をかしてくれるものと信じていた。苦労を知らない。自分本位に考えて他人への思いやりはなかった。亡父の七光りで二世議員になったが、選挙では他人が応援してくれるのを当然と心得、当選はまったく自分の実力だと思っていた。  川村が、自分の不幸はハンサムな顔に生れたことだ、とぬけぬけと自慢するのも、彼が人を人と思わぬ甘えの育ちからきている。「励ます会」の壇上で泣いてみせたのも、甘ったれた泣き方に馴れてきているからであった。  おれは亡父とは違うぞという自己顕示も二世特有の甘えなら、先代に仕えた秘書たちに抵抗するのも、やんちゃ坊主的な甘ったれからである。二世議員と見られていることに反撥《はんぱつ》しながら、そのくせ「二世」の毛ナミのよさを鼻の先にぶらさげている。  川村は小さいときから婦人らに「まあ、可愛い坊ちゃん」と云われつけてきた。ちやほやされた。それがいまも女から聞える。女たちに「保護」されるのを当然だと思っている。  なべて二世議員は、甘えの構造の中にとっぷりと浸《つ》かっている。いや、そういえば、全議員じたいが現在の甘えの政治体制にとろりとした眼で手足を伸ばしている。——鍋屋は川村を見て、そんなことを思うのだ。  鍋屋は九州中部の農村に生れた。アルバイトなどして、ようやく私大を出たが、ヒキも何もない孤独の身は職業を十数回変った。九州に本社のある地方新聞の東京支局員をしているとき、川村の先代代議士に拾われた。本社がその選挙区だったからだが、それも先代の晩年であった。  職業を十何回も変っているうちに、雑草のように他人に踏みにじられることに馴《な》れた。その下積みの生活の中で知恵を得た。人は「悪知恵」というかもしれない。が、それ以外に武装はなかった。「甘え」は毛筋ほども許されないのである。人に追従するときは追従し、背くときは背いた。そうしなければ生きてゆかれないのだ。そうして、いつのまにか四十の半ばを越した。人に好かれる顔ではなかった。—— 「佐登子ママのことだけどなあ」  川村正明が鍋屋に云った。 「彼女がぼくに気があるなら、どういう方法であの女を口説いたらいいかなあ」  さすがの川村正明も、相手が織部佐登子だけに、これまでのなみの女と違って、すぐには思案がつかないようだった。佐登子に対する川村の真の目的は単純でなかった。その手続きの入口で、彼女に刎《は》ねつけられたら何も獲られなくなる。 「考えとったら時間のかかるばな。徐々に、優雅に口説いとったら、二年も三年もかかるよ。そのあいだに女は逃げるかもしれんな」  鍋屋は、そろそろ川村をけしかけた。 「じゃ、どうしたらいい?」 「速攻たい」 「速攻?」 「あの女にはパトロンがおる。だれだかわからんが、財界人だ。それも相当な大物と睨《にら》んどる。ばってん、かまうことなか。あんたの若か身体《からだ》ばぶっつけてみるとたい。そしたら、彼女はイチコロにちがいなか」 「そう簡単にゆくかなあ?」  川村正明は、鍋屋の「速攻」法を聞いて、はなはだ危ぶんだ。 「ゆくとも。あんたなら間違いなか」  鍋屋は力説した。 「あんたは佐登子ママの上品なもの腰、優雅な装い、クラブ・オリベのエレガントな雰囲気に眼ばくらまされとるとたい。あげな女にかぎって、中身はなま臭か。内心では男ば待っとる」 「男? それにはパトロンがいるというじゃないか」 「どうせ年寄りにきまっとる。女ざかりの彼女ば満足させるわけにはいかんたい。彼女は悩んどる。一人のパトロンば守って上品に振舞っとるだけで、それだけに、いざとなれば脆《もろ》かよ」 「……」 「優雅に花束ば捧げて、あなたを愛していますと膝まずいて上品に口説くよりも、早いとこ直接行動じゃ。野性的な行動で、彼女の身体に火ば付けるとたい。そのほうが早道。あの女はカネば馬に喰わせるほど持っとる。財産の三分の一ばあんたに献金しても億単位じゃろう」  鍋屋は川村の本心をずばりと衝《つ》いた。  川村は眩《まぶ》しそうな眼をした。が、その眼の片隅には脂じみた光が湛《たた》えられていた。  外から車が出る音が聞えた。議員宿舎の一階床下は住人の駐車場になっていた。通路側のキチンの窓は、磨《す》り硝子で、はなれた部屋にいる議員の影が、靴音と共にエレベーターのほうへ通り過ぎて行った。すべての音が早朝の空気を伝えていた。 「直接行動を、どこでする?」  川村が訊《き》いた。 「彼女の自宅だ。目黒の青葉台にある。そこへ行く」  鍋屋は、前から考えていたように、即座に答えた。 「自宅に押しかけるのか」 「自宅訪問たい」 「しかし、いっしょに住んでいる者が居ろう?」 「彼女のほかにお手伝いが二人。これはオリベのホステスからぼくが聞いておいた。あんたが訪問しても、ママと会っとる部屋にお手伝いが始終へばりついとるわけじゃなか」 「ママが店から帰宅するのは午前一時か二時ごろになろう。このとき、パトロンが来ている可能性があるな」 「佐登子ママが店へ出る前の時刻を狙うとたい。午後五時から六時半ごろまでの間。パトロンは来とらんよ。議員じゃあるまいし、委員会ば抜けて昼間にやってくることはなか。企業を持っとる財界人は忙しかけんな」  鍋屋は煙草の煙を吐いて笑った。 「自宅を訪問するとすれば、どういう理由をつけて彼女にアポイントメントを取ればいいか」  川村が低い天井に眼をやってきいた。 「アポイントメント?」  鍋屋は呆《あき》れ顔になった。 「そげなものはあんたの心配することじゃなか。口説くための訪問と察知されては、断られるにきまっとる。いくらなんでも佐登子ママが警戒するけんな。かというて、手続きを踏むには時間がかかる。先日の御礼というて、ふらりと立ち寄った格好ばするとたい。中田に車の運転ばさせてな」  中田は第二秘書だった。 「……」 「玄関であんたの顔を見れば、佐登子ママもむげには追い返しはせん。まあ、ちょっと上ってください、ということになる。もともと、あんたが好きだからな。内心はよろこんどる」 「上にあがってから、どうする?」 「まず、中田の運転する車ば返してしまう」 「車を返すのか」 「近くに用事があって、秘書ばそっちへ回らせた、ここへ戻ってくるまで待たせてくれといえば、ゆっくりと時間がかせげる。中田にはそれきり迎えに来させんとたい」 「ううむ」  川村は鍋屋の入れ知恵に唸った。 「ママとあんたとが話ばしとるときに、しぜんと男女間の雰囲気の生れてくる。ころあいを見て、ママの手ば握って手もとに引き寄せる。そのへんは、ぼくが云うよりベテランのあんたのほうが心得とんなさる」 「けど、家の中にはお手伝いが居るじゃないか」 「隙を見て、やるとたい。キッスの一つもすばやくする。ママは声も上げんよ。お手伝いたちも遠慮して、ママに呼ばれんかぎりは、その部屋にはよりつかんたい」 「うむ」  川村の顔が、もう紅潮していた。その場面を想像しているようだった。 「よし。どうなるかわからんが、ひとつやってみよう」  川村は決意したように云った。 「その訪問の際だけどな」  鍋屋はなおも思慮をめぐらして川村に云った。 「何か手土産を持参したほうがよかよ」 「手土産?」  川村は問い返した。 「近くに来たついでに、ふらりと立ち寄ったというのに、手土産を用意というのは、先方におかしく思われんか」 「そこは彼女も察するよ。ふらりと立ち寄ったというのが口実とはな。だから、いわば気楽な訪問ということたい」 「なるほどな」 「訪問なら、手土産持参が礼儀だ」 「何がいいかな」 「ああいう贅沢《ぜいたく》な環境に居る女だ。果物とかケーキとかは、ありふれていて詰らん。もっと高価な品がええな」 「だって、手土産だろう?」 「手土産いうても、ほんとうはプレゼントたい。女心ばつかむためには、プレゼントの品がよか。そして、彼女の心を一気につかむがよか」 「彼女の心を一気につかむというと……、宝石か。ダイヤ入りの指輪か、三連ぐらいのパールの首飾りか……」 「いやいや」  鍋屋は頭を振った。 「いくらなんでも、それじゃあんまり正式すぎる。手土産というてそんなものを出したら、かえって彼女が警戒ばする。もっと、ふだん用のものがよか」 「装身具ではフォーマルすぎるか。といって、他《ほか》に何がある? 彼女は何でも持ってるからな。あとは彼女の好きな美術品だが」 「そんなものはよけいに合わんよ。美術品というても向うの趣味があるけんな。それに織部佐登子は第一級の西洋|骨董《こつとう》ば持っとる。そげな骨董はこっちにわからんし、専門家に頼んで手に入れるにしてもヒマがかかる。値段も何千万円としよう。手土産という名目には合わんばな。まあ、よかとこ百万円までの品物たいな」 「ママが満足するどういう品がある?」 「ぼくはな、ハンドバッグがよかと思うが」 「ハンドバッグ? ワニ皮の例のやつか」 「いや、ワニ皮では手土産にしてはフォーマルすぎる。オーストリッチのバッグはどうかな。ほら、ボストンバッグのような手提げの箱型バッグのあるじゃないか。あれだと、日用だし、貰《もら》うほうも気楽に受け取れる。しかも品物は輸入品の極上等がよか」 「それは手ごろかもしれんな。オーストリッチのバッグは若い女のあいだに人気があるからな」  川村は微笑した。 「若い女の持っとるような安ものじゃ駄目ばな。やっぱり七、八十万円くらいの品でなかとでけんたい」  織部佐登子を「訪問」する話がひととおり済んだところで、鍋屋は話題を変えた。 「昨夜のパーティに新宿が来とったなあ」 「新宿」とは「香花荘」の岩田良江のことだった。 「うん」  川村は急に興味のさめた顔になった。 「彼女、あんたといっしょに新宿に帰るつもりだったらしいよ」 「そんな約束はしてない」 「彼女がひとりで決めてたのじゃろう」 「困った女だ。常識のない奴だから。……しかし、いつの間にか消えてしまったじゃないか」 「ぼくがメモばそっと彼女に渡したとたい。今夜はひとりで早うお帰りと書いてな」 「そうか、道理で」 「新宿が佐登子ママをちらちらと見て、だいぶんイライラしとるようだったからな。女のカンでわかるらしかよ。それが佐登子ママに伝わっては困るけん、ぼくがそげなふうにとりはからった」 「そうか。どうもありがとう」  川村は礼を云った。 「なあ。佐登子ママがどうにかなるまで、新宿にはあまり足ば運ばんほうがよかよ」  鍋屋は忠告した。 「うむ。ぼくもそう考えているところだ。しばらく距離をおくよ」 「新宿のことがわかったら、佐登子ママへのせっかくの求愛工作がパアになる」 「わかってるよ」 「新宿も資産ば持ってるばってん、佐登子ママにははるかに及ばん。新宿が持っとる土地は三百坪。あのへんの時価は坪百二十万円くらいだから、三億六千万円。これが亡夫の遺産たい。一生懸命に守っとる。その三分の一あんたが彼女から貰うとしても一億円ちょっと。それにひきかえ佐登子ママの財産は二十億円から三十億円という話じゃ。家のある青葉台は時価坪二百万円も二百五十万円もしような。銀座のクラブ・オリベの店とは別じゃ。新宿とはケタが違う」 「うむ、うむ」 「それに、新宿のような後家さんから一億円取り上げたということにでもなったら、あんたの評判が悪くなる。さっそく中島武平がこれば怪文書にして地元へ流すよ」  中島武平は同じ政憲党で、川村と同選挙区の議員だった。選挙のたびに対立候補になって互いが足の引張り合いをしていた。対立議員は日ごろから選挙区向けに対手《あいて》の中傷宣伝をしている。 「気をつけよう」  川村はすこし青くなったようだった。 「これまでもあんたの足が遠のくと、新宿は電話をかけてきたろうな?」  鍋屋は煙草を仕舞いながら云った。 「うむ。催促の電話がある」  川村は困ったような顔だった。 「例のタクシーの事故のときも、それで出かけたとか」 「あれには参ったよ」  川村は渋面をつくった。 「まさか新宿がこの宿舎へ夜中に忍んでくるようなことはなかろうな?」 「それだけは拒絶している」  川村は答えたが、鍋屋から見て怪しいものだった。夜中にこの宿舎へ女を同伴してきて、他人や管理人に見られても、姪《めい》だとか親戚《しんせき》の娘とかで、云いのがれができる。身分証明書を見せろなどとまでは追及されないのである。まして管理人が寝てしまったあとは、宿舎への出入りはかなり自由ということになる。——もっとも、宿舎住人の相互監視の眼が相当きびしいから、よほど大胆な者でないと、そんなことはできない。 「とにかく新宿には当分足ばむけんほうがよか」  鍋屋は川村に釘をさして立ち上った。  第二秘書の中田が車で迎えにくる時刻だった。川村を派閥の「朝飯会」へ送るためである。  鍋屋は降りてきたエレベーターに入った。三階に住む顔見知りの政憲党の議員と、荷物を持った若い女二人が乗っていた。 「お早うございます」  鍋屋は挨拶した。 「お早う。……あ、これは娘と息子の嫁だ」  議員は急いで紹介した。娘は議員と顔が似ているので嘘《うそ》ではなかった。女二人は鍋屋に頭をさげた。 「娘はよそに縁づいているがね。嫁と二人で、一週間に一回くらい、こうしてわしの部屋を掃除にきてくれてるよ」  議員は云った。女二人が両手に持つ荷物は、宿舎あてに来たよそからの届け物である。議員自身もその荷物を手にさげていた。彼は衆院農林水産委員会の理事をしている。よそからの貰い物が多い。  部屋の掃除に娘や息子の嫁が来るというのは名目で、溜《たま》った貰い物を家に持ち帰るのである。  一階下の駐車場には赤い中型車が駐っていて、若い男が二人|傍《そば》に立っていた。議員の息子と婿だった。彼らは三人が手で運んでくる貰い物を受けとって車に入れた。車の中には荷物がもうかなり積まれていた。  ずいぶん朝の早いうちから車でやってくるなあ、と鍋屋は見て通った。息子と婿の出勤前かも知れない。  鍋屋に見られて、議員がばつの悪そうな顔をした。  手土産  鍋屋健三は、川村正明議員から百五十万円を渡された。  百万円は、織部佐登子への「手土産」を買う金、五十万円は昨夜のパーティの骨折り料であった。  パーティ券の売上げが六千万円、純利益四千万円が一夜にして川村の懐に入ったのだから彼としては大成功であった。もっともそのうち百万円は板倉退介に「お礼」として献上した。これも一つのしきたりである。鍋屋はそのお膳立に奔走した。券をまとめて買ってもらう先に対しては、追従笑いと、お世辞と、叩頭《こうとう》の連続であった。それに酬いるに五十万円とはあまりに少すぎる。カネのない川村はケチだった。  その吝嗇《けち》な川村が織部佐登子への「手土産」に百万円の予算を見込んだのは、鍋屋に奨められて、彼女への先行投資のつもりらしかった。  鍋屋は銀座に出て、デパートの特選売場の婦人用品部へまっすぐ行った。 「オーストリッチのハンドバッグで、ボストンバッグのような箱型のやつを見せてください。中年の婦人に似合うものを」  数種類あった。女性に人気のある品だった。  店員は鍋屋の前に、駝鳥《だちよう》の皮製品で、斑《ふ》が斜格子模様のように整然とならぶ黒いバッグをいくつかならべた。斑は駝鳥の羽根を抜きとった毛穴で、小さくもり上っている。みんな輸入品だった。大きいほうが見栄えがするという彼の希望で、大型のものばかりが出された。 「七十万円から百万円でございますか?」  店員は頭をさげた。 「そういう超高級品は、てまえのほうには置いておりません。せいぜい四、五十万円程度でして」 「五十万円が最高値かね?」 「はい。でも、お客さま、これはグッチでございます。イタリア製で世界で最も有名でございます。これですと、頂いた方がおよろこびになります。どこへお持ちになっても、ひけはとりません」  店員は、四十男が愛人にプレゼントすると思っているようだった。  鍋屋は、銀座のもう二つのデパートを回った。ここでも出されたオーストリッチのハンドバッグは似たような値段だった。  彼はデパートに失望して、有名な高級婦人用品店、みゆき通りの婦人用おしゃれ品専門の店へも回った。どちらも四、五十万円程度であった。  鍋屋は日本橋のデパートに向った。そのデパートの特選売場には彼が最後の望みをかけたものが置かれてあった。 「これはスペイン製のロエベ、こちらはフランス製のモラビト、アンドレ・コラン、ピエール・グジャロ、それに西独製のコンテヌでございます」  店員は誇らしげに云った。  特選売場のカウンターの上にならべられたオーストリッチのハンドバッグはいずれも世界的逸品だと店員は云ったが、その中でもモラビトのバッグに鍋屋の心が動いた。 「イタリア製のバッグはカジュアルなタイプが多うございますが、フランスのものだと、ぐっとエレガントになります。このモラビトなんかは特にそうでございます」  女店員は説明した。  そのボストンバッグの形に似たハンドバッグは、横三十センチ、縦二十センチ、幅十七センチあった。近ごろは化粧品の種類が多くなり、女性はハンドバッグの容量の大きいものを望むのである。  スポーティなイタリア製のものよりもフランス製のエレガントなほうが、ハイセンスなクラブ・オリベのママにぴったりと思われた。 「これでいくらかね?」 「はい。七十万円でございます」 「もっと高いものはないかね?」  鍋屋もこういう場所ではもちろん標準語であった。 「さようでございますね、超特級で百万円を超すのがございますが、それは特約代理店のほうから取りよせないとなりませんので、三、四日かかりますが」  そんな余裕はなかった。 「では、これを包んでもらおうか」  鍋屋は七十万円のを択《えら》んだ。ハンドバッグというよりも、ボストンバッグに近かった。  七十万円を払った。百万円の予算が三十万円|剰《あま》った。川村にはバッグの値段が百万円だったということにして、三十万円は自分のポケットに入れた。これくらいの小さな余禄はあってもいい。だいたい純利益四千万円のパーティをお膳立てしたのに、川村の出した五十万円の謝礼というのが少すぎるのである。 「ありがとうございます。ただいまご用意いたしますから、どうぞおかけくださいませ」  女店員は、カウンターの前の椅子をすすめた。  煙草が喫いたかったので、鍋屋はそこにかけた。奥では店員が二人がかりでハンドバッグをうすい紙に包み、ていねいに函《はこ》に納めていた。大きな函である。手土産としてさぞ見栄えがするだろうと思われた。 「ねえ、ウインドウに出ている右から二番目のワニ皮のハンドバッグをちょっと見せて頂戴《ちようだい》な」  椅子にかけて煙をふかしている鍋屋の背中で女の声がした。  男の店員がそれに応対した。ウインドウの棚からはずしたハンドバッグを客の前に出している。鍋屋が横眼を遣《や》ると、それは目がきれいに揃《そろ》ったクロコダイルの皮製品で、ボストンバッグ型からすると、むろん小さくて可愛いものだった。 「これ、わたしに似合うかしら?」  女客は伴《つ》れに相談していた。鍋屋の背後で会話がはじまった。 「ええやないか」  男の声が女の相談に答えていた。 「そう? 格好がいいわね。……これ、いかほど?」  男の店員が受けとって見て、 「百五万円になっておりますが」  と、値の高いのに、いくらか遠慮そうに云った。 「百五万円だって」  女の声が男に云った。 「ちょっと高いな」 「でも、ワニ皮バッグのいいのだったら、これくらいするわよ。……いいのだったら、もっと高いわね?」  店員にきいている。 「はい。最高だと二百万円近いのがございます」 「ほらね、どうする?」 「うむ。……」 「でも、二百万円なんて、もったいないわ。百五万円でも、わたしには分不相応だけど」  すべて鍋屋の背中で交わされる男女の会話であった。煙草を喫いつづけている鍋屋は振り返らなかった。 「ほなら、この百五万円のにしいや」 「そう? うれしいわ」 「ありがとうございます」  店員がおじぎをした。 「きみ、これ、一割ぐらい負けへんか」 「はあ、お値段のほうは正札でして」 「そやけど高い値段やで。一割が無理やったら五万円引いとき。百万円ちょうどで、どやな?」 「はあ、でも」 「百万円なら、キリがええ。ぼくはこういう者や。国会議員秘書仲間に、きみんとこを宣伝したるぜ」  男は名刺を出して、店員に渡しているふうだった。 「ほらな。ぼくは国会議員秘書同盟の委員長や。ぼくが会員の秘書に吹聴したら、仰山買いに来るがな。そやよって、五万円引いとき」  うしろの男の声には前から見当がついていたが、やはりそうだった。鍋屋はよけいに振り返れなくなった。 「少々お待ちください」  店員はその名刺を持って奥へ入った。五万円値引きすべきかどうか売場主任にでも相談するためのようだった。  オーストリッチのハンドバッグの包装ができ上った。女店員がそれを鍋屋の前へ事務的に抱えてきた。 「お待たせいたしました」  受けとった鍋屋は、椅子を立って店を出るしかなかった。うしろの男と顔が正面から合った。 「あ」  国会議員秘書同盟委員長の有川昌造が顔色を変えた。  有川昌造は、鍋屋と顔が正面から合って、しまった、という顔をした。女伴れで、百万円以上もするワニ皮のハンドバッグを買う現場を鍋屋に見られたからだ。 「やあ、有川君」  鍋屋は悠揚と声をかけた。こちらは包装してあるので、中身は相手にわからなかった。 「や、鍋屋さん」  有川は顔だけでなく、うろたえた声で云った。 「昨夜は銀座で失礼しました」 「いや、こちらこそ」  女が顔を向うにむけた。昨夜、有川が連れていたバーのホステスだった。 「あんさんもここへお買物でっか」  有川は鍋屋のさげている包みに眼をやって云った。 「ああ、ちょっとな」 「お会いしはじめると、たてつづけにお会いしますなあ」 「妙なもんだな。縁かもわかりませんたい」  奥から戻ってきた店員がワニ皮のハンドバッグを持って、有川の会話が済むのを待っていた。  あんまり邪魔しては可哀想だと思った鍋屋は、 「じゃ、また」  と手を挙げた。 「失礼します」  有川は、ほっとしたように頭をさげた。出るとき、鍋屋は女の横顔に眼を走らせたが、容貌《ようぼう》のいい顔ではなかった。 「あの、それではせっかくですから、五万円引かせていただきます」  鍋屋のうしろで店員の声がしていた。  女に、百万円のワニ皮ハンドバッグを買ってやるとは有川も豪勢だと鍋屋は思った。環境庁長官経験の丸山耕一議員の第一秘書ともなれば、ときには何か大きなヨロクが入るのかもしれない。  それにしても、有川は「国会議員秘書同盟委員長」の肩書がよほど気に入っているらしく、その名刺をこのデパートにも振りまわしている。 「秘書同盟」は議員秘書の身分安定、待遇改善の要求を趣旨として結成されたのではないか。秘書の議員に対する不満が共通の意識となっている。低い秘書の収入もその一つだ。  その秘書同盟の委員長が、女に百万円もするハンドバッグを買い与えている。どうも平仄《ひようそく》が合わなかった。鍋屋は首をかしげて、七十万円のハンドバッグを川村へ届けに、議員会館へむかった。  午後四時ごろ、川村正明は目黒区青葉台へベンツの車を走らせた。運転手は、若い第二秘書の中田だった。  川村は、傍に大きな包装函を引きつけていた。中にハンドバッグが入っている。車の動揺に函は座席の青い天鵞絨《ビロード》の上で慄《ふる》えるようにずれていた。  昨日夕方、鍋屋が持ってきて、包装を気にしながら見せてくれたが、たいそういいものだった。三十×十七×二十センチのオーストリッチの大型ハンドバッグはボストンバッグにも似て、見る眼を圧倒するほど堂々として華麗だった。さすがに百万円の値打ちはある。これなら必ず織部佐登子の気に入るにちがいない。  もっとも鍋屋は百万円だと云っていたが、領収証をくれなかった。デパートだからレシートをかならず渡すはずだが、それも見せなかった。実際は九十万円くらいの値で、鍋屋が十万円を抜いたのかもしれない。が、川村は鍋屋に領収証を呉れということが云えなかった。秘書のヨロクは大目に見るという寛容を装うよりも、鍋屋に対してそういう気の弱いところが川村にはあった。  青葉台は渋谷区|南平台《なんぺいだい》の西側にある。川村は渋谷道玄坂を上る途中、公衆電話ボックスを見つけて、車をとめさせた。  手帖《てちよう》を見ながらダイヤルを回した。 「はい、織部でございますが」  若い女の声で、お手伝いさんのようだった。 「川村正明という者ですが、奥さんは居られますか」  四時二十分だった。ママがクラブに出るのは六時半か七時ごろ、鍋屋の云う出勤前のひとときだった。  少々お待ちくださいと引込んだ声に代って、 「あら、先生?」  と、いくらか部厚い感じのする織部佐登子の声が出た。 「やあ、ママですか。川村です」  川村はなつかしそうに云った。 「こんなお時間に、先生からうちへお電話をいただこうとは思いがけませんでしたわ」  佐登子の声は意外そうだった。 「じつは、ぼく、いま、お宅の近くを通りかかってるんです。南平台にいる大先輩を訪問しての帰りなんですが」  南平台には元首相の家などがあったりする。 「おや、そうですか」 「それで、ママの家がここから近いことを思い出して、ちょっと立寄らせてもらおうかと思ってるんですよ。ほんの玄関先で結構ですが」 「あら、そいじゃァぜひお寄りくださいましよ」 「お邪魔じゃないですか」 「いいえ、ちっとも。お待ち申しあげていますわ」  川村には佐登子の声が弾んでいるように思われた。  ベンツは青葉台の区域に入った。車の前方にゆるやかな坂道がのび上っていた。ハンドルを動かす中田は、左右に出ている番地の標識をのぞきこんでいた。  坂道には碁盤の目式にいくつかの四つ辻があり、横の通りは高台に沿って階段式に積まれていた。どの道路に入りこんでも、長い塀と、うつくしい門と、その中に繁茂する植込みと、瀟洒《しようしや》に設計された建物とがあった。  和風の家も間に挟まっていたが、多くは洋風であった。アメリカ式、フランス式、英国式、そしてそれらの混淆《こんこう》。さらに日本風なものを加えての特異な折衷《せつちゆう》。眺めて通るだけでも、この高級住宅風景は変化に富んでいた。  車の通行も、歩く人も少かった。車といえばほとんどが高級車。歩いている人はたいていが一人で、黙々と坂道に歩を運んでいた。道路じたいが邸宅の一部のように上品であった。道行く声もこの人工的な静寂の街の空気を乱すことはなく、車の音も、靴の小さな響きも、このエリート的な雰囲気に合わせて、忍びやかであった。  番地の番号順を拾いながら徐行する車は、坂道から横の通りへ折れた。左右は謙譲を装った高慢な家がつづく。緑の木立と、白やクリーム色の館《やかた》と、瓦葺《かわらぶ》きと、赤褐色と青い屋根とが、五月の空の下にならんでいた。ここもゆるい勾配《こうばい》だった。  中田が車を静かにとめて、座席の川村をふり返った。 「ここのようです」  道路に面した白塀をはさんで右側がシャッターの下りたガレージ、左側が門になっている。奥まったところに白亜の二階建てがあった。それほど大きくはないが、落ちついた感じだった。  門から玄関までは並木に挟まれた石段があった。家の背後に丘の斜面を蔽《おお》う森がひろがり、その緑色は家の前にならぶ形のいい植込みと照応した。門と窓とは閉じられていた。両隣の家も化粧した白壁だったが、前はチョコレート色の煉瓦建ての家だった。 「織部」の表札が出ている門柱のボタンを川村が押して名を告げると、インタフォーンの声が返ってきた。 「はい。ただいま」  お手伝いの声だった。  門が開く前に、川村は中田に云った。 「お前は帰っていいよ」 「は?」  中田はきょとんとした眼で聞き返した。 「お待ちしてなくていいんですか?」 「いいんだ」 「お迎えは?」 「迎えも要らない」  中田の車が去ると同時に、玄関から若い女が門を開けに出てきた。  包みを抱えた川村は、お手伝いのあとについて玄関を入り、廊下を通った。玄関にも廊下にも、大小の油絵の額ぶちが飾られてあった。 「クラブ・オリベ」の室内装飾がロココ風なので、この家もさぞかしフランス式かと予想していたが、むしろアメリカ式の合理的な直線であった。店と自宅とは区別されているとみえた。金色の額ぶちの中は外国の現代画ばかりであった。  洋間のドアが廊下に沿っていくつかあったが、先に立つお手伝いはそれらの前に立ちどまらず、廊下を左に曲った突き当りの襖《ふすま》を開けた。和室だった。  部屋は十畳の間だった。香《こう》が匂った。客があるというので床の間前の炉を部屋に焚《た》きこめていることがわかった。  障子を開け放した座敷は、借景ともいえる裏庭の繁る林を反映して、畳を青っぽく見せた。外光は、部屋の中央に据えられた黒檀《こくたん》の応接台の上にも溜っていた。  川村は、お手伝いにすすめられて床の間を背に応接台の前にすわった。ハンドバッグの包み函は膝《ひざ》の横に置いた。  お手伝いが引込んだあと、川村は座敷の中を見回した。建ってから十年ぐらいと思われる。木口を択んで、造りが凝っている。他の洋間を見たいくらいだった。  この家の外観と、想像される部屋数からして二階を含めて建坪が六十坪。平面で四十坪ぐらいだろう。後庭と、玄関先から道路までの前庭を入れての総面積が約二百坪くらいと思われた。  この辺の土地の時価が坪二百五十万円として、五億円である。十年前にこの土地を入手した時は坪七、八十万円くらいだろうから、それでも一億五、六千万円を投じている。  織部佐登子が「クラブ・オリベ」を開店したのが十二、三年前だから、その後に、この青葉台の土地を手に入れたことになる。いくら繁昌している店でも、三年間ぐらいで大金がたまるとは思えないから、彼女は死亡した旦那の多額な遺産を分けてもらって、それを使ったのだろう。  鍋屋によると、佐登子はまだどれだけ金を持っているかわからないというから、よほどの遺産を受けたと思われる。その後、クラブで儲《もう》けたとしても、遺産の額にくらべると、知れたものだろう。  お手伝いが茶を運んで入ってきた。 「奥さまは、すぐにご挨拶に参るとのことでございます」  ここでは「ママ」ではなく「奥さま」であった。  すぐにくると云いながら佐登子は容易に現れなかった。化粧に手間どっているのかもしれない。  座敷は書院造りになっている。川村は床の軸を見た。  床懸けの軸は飴色《あめいろ》に燻《くす》んだ南画で、古色|蒼然《そうぜん》としていた。値打ちものらしいが、川村にはその落款《らつかん》の文字も、讃の文句も読めなかった。  軸の前にならんだ飾り皿は古九谷《こくたに》、違い棚にのった金蒔絵《きんまきえ》の文筥《ふばこ》は旧大名家あたりから出たらしい古い品だろうくらいの見当はつけてみたが、仔細《しさい》にはわからなかった。こういうものは苦手だった。  飾りものにも飽きた。織部佐登子も現れないので、その間、川村はさっきの想像のつづきに入った。  鍋屋健三の言葉によると、織部佐登子には現在隠れたパトロンが付いているという。だれだかわからないが財界の大物だろうとの想像だった。  川村も鍋屋の推測に賛成であった。でなければ、いくら亡くなった旦那の遺産分けが多かったとはいえ、それだけだと食いつぶしてしまう。将来が心細いのだ。補給があってこそ資産は保持できるのである。  それに佐登子は美人である。身のまわりを飾り立てる方だから、よけいに美しく見える。「財界人」が放っておくわけはないのだ。  パトロンであろうが旦那であろうが、そんな存在を気にすることはないと鍋屋は助言した。どうせ相手は年寄りにきまっている。あんたの若い身体を佐登子にぶっつければ、彼女はたちまちあんたのとりこになる。それでなくても彼女はあんたに惚《ほ》れている、と云って鍋屋はその「傍証」をいろいろとならべたてた。パーティなどに滅多に出ない女が、先夜のOホテルでの「励ます会」には一人で来ていたではないか。二万円のパーティ券を十枚も買ってくれた。あんたが演壇でスピーチする姿に、彼女は会場の隅から熱い眼ざしを注いでいたよ。  川村も壇上でしゃべりながらもそうした織部佐登子を眼に入れていた。そのような、うっとりとした女の顔は、たとえば選挙のさなかで川村はいくらでも見ていた。演説会場でも、選挙区を回るトラックの上でも。——目をつけた女に的を射て間違いはなかった。献身的な女性運動員の征服だけは味噌をつけたが。  佐登子を手に入れれば、彼女から当座のところ四、五千万円ぐらいは引き出せると思った。あとも、一億円くらいは取れるだろう。川村にはその自信があった。そして彼自身には金がなかった。  佐登子のうしろに財力のあるパトロンが居れば、彼女にしても現在の資産を減らすことなく、こちらの要請する金を、それから貰《もら》って回してくれることができる。——  想像をふくらませてはいたが、佐登子はまだ現れなかった。急に電話して訪問するといったから、あわてて化粧にとりかかったものの、それが入念で時間がかかりすぎるのだろう。  廊下に小さな足音がして襖の外にとまった。 「ごめんください」  襖の外の声は織部佐登子だった。  川村は坐り直した。  入ってきた佐登子を見て、川村は意外だった。夜のキモノとは違った昼の粋《いき》な柄模様の和服と思ったのに、明るいグリーンのセーターにベージュ色のスラックスという部屋着だった。時間をかけての厚化粧と思ったのに、ほとんど素顔に近い薄化粧だった。  佐登子はその姿で、応接台の向うにまわり、畳に両手を突いた。 「いらっしゃいませ」  こちらから見て、彼女の背景にある林の濃緑に、セーターの冴《さ》えた萌黄色《もえぎいろ》が鮮かに浮び上っていた。 「やあ、今日は」  川村正明はにこにこして軽く頭をさげた。自分の笑顔には自信があった。 「ちょっと、この近くに用事があって通りかかったものですから、お立寄りしたんです」 「よく、こんなところにいらしていただけましたわ」  佐登子は顔をあげて、気づいたように自分で身のまわりを見まわした。 「あら、こんな格好でごめんなさい」  スラックスの両膝頭を恥かしそうにぴったりと揃えた。すくめた肩も、うすいセーターに出た身体《からだ》の線だった。彼女の和服を店で見なれた川村の眼には、それが新鮮でないことはなかった。  また店で見つけている化粧顔も、いまは地肌の色に近く、あっさりとした乳白色であった。 「いや、よく似合いますよ」 「そんなにじろじろとごらんになっちゃいやですわ」  佐登子は身をかくすようにして云った。  化粧や着物の支度がえにずいぶんと時間をかけたと思っていたのに、彼女はいったい何をしていたのだろうかと川村は思った。この姿だとすぐにでもここへ来られるはずである。客をじらす手だろうかとも考えた。  けれども、彼女のこの姿には新鮮と同時に、色気がしだいに見えてきた。和服よりも肉体の線がはっきりと出ているし、胸のふくらみもセーターの上から顕《あら》わであった。彼女が男の眼から脱れるように身を縮めているのが、かえって色気を増した。 「電話でお話したように玄関先で失礼するつもりだったんです。それで、何も用意してきませんでしたが、これはほんのお土産代りのものです」  川村は、包装された函を両手で応接台の上にのせた。 「なんだか存じませんが、こんなことをしていただいては困りますわ」  織部佐登子は、応接台にのった包装函に眼をやって、困惑の表情を見せた。 「いや、そう云われるほどの物じゃないですよ。角張った訪問じゃなく、ほんの立寄りだから。それでもまあ中を開けて見てください。嗤《わら》われるかもしれないけど」  川村は函を佐登子のほうへすこし押しやった。 「そうですか。では、この場で拝見してもよろしいかしら」 「どうぞ、どうぞ」  佐登子はかなり嵩《かさ》ばった箱形の包装を解きはじめた。うつむいた顔に情感があり、動く両の指先は白く、ふっくらとしていた。川村はその指を上から握る衝動を抑えた。  デパートの包み紙が除《の》けられると、上に水引きがかけられた函が現れた。「粗品」の墨書はデパート店員の筆であった。  佐登子は包みに一礼して、紅白の水引きをはずし、函の蓋《ふた》を開けた。上から中をのぞきこむなり、佐登子は、 「あら」  と、びっくりした眼を川村にむけた。 「お宅にはなんでもあるので、何を持ってきていいか迷ったんです。お気に召すかどうか、いや、たぶん気に入らないでしょうな」  おどろいた佐登子の表情に、川村は内心満足して云った。  佐登子が中のバッグをすっかりとり出し、両手に抱えて応接台に飾りもののように置いた。黒色というよりも、濃いチャコール・グレーのバッグは、それが特徴の、駝鳥の羽根を抜き取った痕《あと》の小さなもり上りを斜格子文様のように整然と配列していた。百万円もの値だけに(と川村は信じていた)駝鳥の皮でも最良の部分を択び、それをフランス人の一流工芸家が最も典雅なデザインを創案し、これまた熟練のフランス革職人が精魂こめた名人芸で仕上げた品と見えた。ボストンバッグにもなりそうな大型だけに、一瞥《いちべつ》するだけでもそれは威風堂堂としていた。 「まあ、見事ですわ」  佐登子は眼をまるくしてそれを眺め入っていた。 「お気に召したでしょうか」 「気に入るなんて、とんでもない。……」  佐登子はほとんど声がつづかないようであった。 「素晴しいですね。こんなお立派なオーストリッチのハンドバッグを見たことありませんわ」 「そう聞いてぼくも安心しました」 「これ、わたくしがいただいてよろしいんですか」 「手土産ですよ。プレゼントというほどでもありません」 「でも。……」  佐登子はためらいを全身に現して云った。 「こんな高級品を頂くわけにはゆきませんわ」 「なにを云いますか、ママ」  川村は声を励ました。で、つい慣れた「ママ」になった。 「ぼくとしてはパーティに出てもらったお礼ですよ」 「でも、あんなことくらいで……」 「そうじゃないんです。ママの姿を会場で見たとき、ぼくは感激したんです。百万人の味方が詰めかけているように心強かったんです。このささやかな贈り物は、その感謝の気持ですよ」  外から声がして若いお手伝いが襖《ふすま》を静かに開けて入ってきた。紅茶と果物の皿を配るとき、お手伝いの眼が卓上のハンドバッグに、ほんの瞬間だが、磁石のように吸いついた。 「ちょっと」  佐登子はお手伝いの興味を遮るように云った。 「先生の運転手さんにも、お紅茶と果物をお出ししてね」 「あのう……」  お手伝いのためらいに、川村から云った。 「ぼくの車は、よそへ遣っています」  佐登子が川村の顔を見た。 「中目黒の先に用事があって、ぼくがここへお邪魔している間に、そっちへ回らせたんです」 「あらそうですか」  佐登子の眼もとがわずかに微笑《ほほえ》んだ。  お手伝いは出て行く前にも、一礼したついでにオーストリッチの大型バッグに視線をむけた。  佐登子は、わが家のお手伝いにじろじろ見られたことで観念したか、川村へ丁重におじぎをした。 「それでは、おこころざしをありがたく頂戴させていただきます」 「どうぞ、どうぞ」 「でも、わたしにはもったいないですわ」  彼女はもう一度、バッグをとり上げ、観賞するようにその各所をつつしみ深く眺めまわした。 「そんなことはありませんよ。ふだんにお使いくださるなら光栄です」 「ふだんに使うなんて、とんでもありませんわ。旅行に出るときまで、大事にとっておきますわ」 「……」 「だって、こんなに容積が大きいんですもの。これだったらお化粧道具のほかに何でも詰めこめますわ。近ごろは女の持ちものもふえましてね。いろんなものが開発されるもんですから。このように大きなバッグだと、とても便利ですわ」  川村は佐登子の口から「旅行」と聞いて、咽喉《のど》がごくりと鳴った。  織部佐登子の口ぶりからすると、彼女には近いうちにか旅行の予定があるらしかった。  旅行となれば店の都合上から土曜、日曜にかけてであろう。誰といっしょに行くのか。たぶんパトロンに伴われるのにちがいない。  いつの日にか佐登子の旅行に自分もついて行きたい、それも近い将来の実現にしたいものだと川村は思った。佐登子の口から旅行という言葉が洩《も》れたので、それとなく彼女の気を引いてみよう、小当りに当ってみたいと川村は、ふと思った。旦那は旦那たい、好きな男はまた別じゃ、と鍋屋は愛人の心理を云っていた。川村に、姦通の意識にも似たスリルがうごめいた。  いやいや逸《はや》ってはならぬ、せいてはことを仕損じる、という古いことわざが川村の胸を制した。  しかし、贈るのにボストンバッグ型の大きなハンドバッグとはいい思いつきだったと思った。 「先生は、わたくしがパーティにうかがったのをさきほど何とかおっしゃいましたが、わたくしこそお礼を申しあげなくてはなりませんわ」  佐登子は紅茶を上品に咽喉に入れてから云った。セーターから伸びた頸《くび》は、白い皮膚の下に淡い青色の静脈を透き徹《とお》らせて、いかにも粘着性が感じられた。 「礼って、なんですか」 「先生のスピーチをうかがったことですわ」  彼女は川村を見つめて云った。 「わたくしは、政治のことはまったくわかりませんが、先生のお話で、ずいぶん教えられましたの。ほんとにいまのままでは日本はどうなるかと思いますわ。ぜひ、先生にこれからの日本のために努力していただきたいと思いますわ。それは先生のようなヤングなエネルギーの持ち主でないとできませんわ。スピーチをお聞きして、つくづくそう思ったんです」  川村は頭を垂れた。感激で声が詰り、しばらくは言葉が出ないようだった。  が、それは「励ます会」の壇上で、彼が冒頭から感涙に咽《むせ》んで絶句した姿と同じであった。お手伝いもこの場には近づかなかった。 「ありがとう、ありがとう、ママ」  川村は顔をあげ、眼をしばたたいた。 「なんといううれしい言葉だろう。ぼくはママにそう云ってもらっただけで、いつ死んでもいい。政治運動すれば、不慮の死が襲ってくることがよくあるんです。しかし、中道にして仆《たお》れても本望です。ママのその言葉が、ぼくの信念の支えですから。ママ、いつまでもぼくの支えになっていてください。ね、おねがいです」  川村は黒檀の応接台に上体を伏せた。自分の心の支えになってくれという懇願がその形にあふれていた。  これこそ彼の身上で、女の慈愛心を唆《そそ》る甘えの姿態であった。この演技に十分な自信があった。西新宿の「香花荘」のおかみ岩田良江、そのほか数々の女が、この人にはわたしが付いてあげなければ、という愛の保護本能を引き出されたものだった。彼に男らしさと、稚《おさ》ない女々しさとを、同時に女たちは感じるのであった。  ——織部佐登子は、あんたが可愛いと云っとったよ。つまり、あんたが好きということたい。早いとこ直接行動で、彼女の身体に火ば付けるとたい。彼女は内心それば待っとるから、ああ見えても案外に脆《もろ》かよ。  鍋屋の激励の声が川村の耳の奥から聞えた。議員は秘書のお膳立てにこれまで狎《な》れていた。  この女は資産を持っている。これが何よりの魅力であった。彼女を誘惑するのがますます実利的になった。どんなに若くてきれいでも、金のない女には用がなかった。  織部佐登子は、応接台にひれ伏す川村の姿に当惑そうだった。迷惑しているが、心の底には彼に対する優越感と母性的な愛情とが湧出《ゆうしゆつ》していると川村は推定した。 「ママ、ぼくの力になってください」  彼は、屹《きつ》と顔を上げると、佐登子を正面から見つめ、感情を制御できない声で云った。それは抑えた声だったが、絶叫に近かった。この声にも、光を湛《たた》えた眼にも、彼は過去の成績からして、十分な成算があった。 「ええ、わたくしにできることなら」  佐登子は、川村のただならぬ気魄《きはく》に圧《お》されたように小さく云った。  中田が運転する車は返している。お手伝いは来ない。主人が呼ぶまでは遠慮しているはずだ。  織部佐登子のうしろには、西日を受けて半分|翳《かげ》る庭樹の茂みがあった。むろん余人はいない。  川村は肩をわななかせ、彼女のほうへ膝をにじり寄らせた。 「ママ、ぼく、あんたが好きです」  佐登子がすさるよりも川村の膝行《しつこう》が速かった。彼は彼女の手を握りしめた。 「愛している」  この言葉を効果的に聞かせるには彼女の耳もとでささやかねばならなかった。距離を縮めるために川村は握った彼女の手を力いっぱいひき寄せた。佐登子の上体が崩れた。それを受けるように川村はセーターの肩に一方の手を捲《ま》いた。 「あら、いけませんわ」  佐登子が顔を反対に振って、彼の唇から脱れようとした。彼女の抗《あらが》いがセーターを通して胸のふくらみを彼に触れさせ、スラックスを通して太腿《ふともも》の弾力を伝えさせた。  川村は織部佐登子の頸に手を捲いたまま、その顔に近づこうと立て膝になった。 (速攻たい。あんたの若か身体ばぶっつけてみるとたい)  鍋屋の声がまたしても応援した。 「いけません、あ、いけないわ」  佐登子の顔は、スラックスの膝を伸ばして逃げかけた。川村は相手の頬を腕の中に抱えこんだ。それでも彼女は顔を左右に振った。 「佐登子さん。あんたを愛している。……あんただって、ぼくが好きなはずだ」  彼女の頬は汗ばんでいた。乱れた髪毛の筋がその汗に粘りついている。うす化粧のせいもあって、香水の匂いよりは、中年女の饐《す》えたような甘酸っぱい体臭が彼の鼻にきた。  顔を川村の腕に固定された佐登子は、眉を寄せ、眼をつむり、口をしっかりと咬《か》み合せて、男の唇を拒んでいた。  うすいうぶ毛の生えた女のやわらかい耳たぶがすぐ前にあった。彼はそれを舌で撫《な》でた。佐登子の肩がぴくりと痙攣《けいれん》し、戦慄《せんりつ》がそれにつづいた。塞《ふさ》いだ口から力が脱けていくようにみえた。彼女の鼻翼《こばな》が、苦しげに動いて呼吸した。男の情念を唆るような女の「諦《あきら》め」の表情になった。  川村は熱い声と息とを彼女の耳に送った。 「今日は、ダメよ」  佐登子は喘《あえ》ぐように云った。  川村は歓喜した。 「じゃ、別の日なら、いい?」  彼女は眼を細く開き、うっとりとした瞳《ひとみ》で承諾の意志を示した。  川村は佐登子の唇を強引に吸うため、彼女の胸を押えて上体を横にさせようとした。彼女の抵抗はそれほど激しくはなかった。 「今日は」  突然、外の声とともに襖が勢いよく開いた。  川村は仰天し、佐登子を突きはなして飛びのいた。  入ってきた派手な洋服の女も、思いもよらぬこの場のありさまに、立ちすくんだ。  佐登子はすばやく坐り直し、髪へ手をやって、不意の闖入者《ちんにゆうしや》を睨《にら》み上げた。 「ばか、波子!」  店の女を激しい見幕で佐登子は叱りつけた。 「どうして今ごろここへ来たのよ!」 「すみません、ママ」  棒立ちの波子は、うろたえて詫《わ》びた。 「断りもなく、いきなり入ってきてさ、失礼じゃないの?」 「ごめんなさい、ママ。いつものように遊びにきたんだけど」  波子はべそはかいていても、唇に皮肉な微笑があった。 「川村先生に謝んなさい、さ、早く」  川村正明議員は、おろおろするだけであった。  大型バッグの効用  五月なかばの午前五時ごろだった。  織部佐登子は南青山六丁目でタクシーを捨てた。この辺は大きな邸宅が集っている。門に「加藤」の表札があった。  空に薄明がはじまっていた。払暁《ふつぎよう》の屋敷町は人の歩きもなかった。  佐登子は左右を見まわした。黒っぽいセーターに鼠色《ねずみいろ》のズボン、黒のネッカチーフで顔を包んだ。ボストンバッグ型のオーストリッチのハンドバッグを提げていた。  方眼紙形になっている街路の一角だった。加藤家の長い塀が隣の家のそれと接続して、次の交差点まで延びていた。  どの家も、門と窓を閉じて、まだ夜の残りをつづけていた。塀の中の植込みも、緑の発色前の黒い木立であった。  佐登子は、加藤家の塀の端まで歩いた。つづく塀は隣の福島家で、その間はぴったりとつながって見えた。が、じっさいは四十センチばかりの幅で奥へ入る路地があった。  佐登子が、加藤、福島両家の路地入口までくると、 「お早うございます」  という渋い男の声が低く聞えた。背の高い男が塀の奥に身をひそめるように立っていた。 「お早うございます」  佐登子は見知らぬ出迎えの男に腰をかがめた。 「どうぞ」  男は懐中電灯を点《つ》けた。路地の土がゴミといっしょに光の輪の中に浮び上った。 「狭いですから気をつけてください」  先に立った男は佐登子に注意した。懐中電灯を後につき出して彼女の足もとを照らしてくれた。  身体を斜めにして歩かないと通れない路地だった。加藤、福島両家の白い塀が身体を圧迫した。  大型バッグがつかえた。佐登子は持った右手を前後に水平に伸ばしてバッグを通行させた。それでもバッグは塀に擦れる音がした。  案内の男の背中と懐中電灯とが佐登子の前を進んだ。懐中電灯はときどき立ちどまって、歩きにくい佐登子のために待ってくれた。  ようやく路地のつき当りにきた。正面に蔦《つた》かずらの匍《は》う赤茶色の煉瓦塀が塞いでいた。路地を右に曲ると、また別な路地になった。懐中電灯はそこを伝わって歩いた。左側が長い煉瓦塀である。右側の白い塀は路地入口の家の裏だった。対《むか》い合う煉瓦塀の裏は、一ブロックの三分の一を占めていた。  男と懐中電灯とが停止した。煉瓦塀は途中で切れて、小さな格子戸の木戸があった。 「どうぞ」  長身の男に案内された織部佐登子は、そのあとに従った。樹木の繁った暗い裏庭だ。懐中電灯が彼女の前を行く。  光の輪が敷石の横に逸《そ》れると、茂みに乱れる鉄線花の白い星が浮んだ。葉の重なった上の蔭《かげ》から棕櫚《しゆろ》の黄色い花が穂になって垂れていた。  旅館のように大きな家であった。二階の屋根が複雑に組み合されているのは部屋数の多さを示した。それを受けた階下の屋根が横にひろがっていて、これもいくつかの棟を寄せていた。  空には夜明けが進んでいた。  家の裏側であった。案内の男は懐中電灯を消した。まだ暗いうえに、近づきすぎて家の全体がわからなかった。彼は無造作にそこのドアを開けた。  開けた四角い枠の中から灯の光が眩《まぶ》しく流れ出た。女の声と、ふれ合う陶磁器の音とがいっしょだった。  台所であった。お手伝いたちがこっちを見た。男は佐登子との間を壁になって立った。靴を脱いでくださいと佐登子に云う。彼女は彼の腕につかまって靴を片方ずつ脱いだ。硬い腕であった。彼は大型ハンドバッグを持ってくれた。カラのバッグは、軽かった。  彼も靴を脱いで、板の間に上り先を案内した。あとについて奥の廊下へ向う。通りがかりに眼についたのは、厨房《ちゆうぼう》がまるで割烹店《かつぽうてん》の調理場のようだったことである。広いし、五、六人の女が戦場《いくさば》みたいに立ち働いている。天井の照明があかるかった。  たくさんな湯呑に茶を注ぐ女、紅茶の受け皿に角砂糖を添えている女、それらを盆にのせて奥へ行く女。すれ違いに奥から湯呑を下げてくる女、洗っている女。炊き上ったばかりのご飯を茶碗《ちやわん》によそっている女、皿におかずを配分している女、黒塗りの味噌汁椀に蓋《ふた》をして箸《はし》を揃《そろ》えている女。  団体客でも泊っているかのようだった。腕時計をのぞくと、まだ五時すぎであった。  導く男は、廊下の先までは行かず、途中で横の杉戸を開けた。ハンドバッグを提げる佐登子を中に招じた。  そこは六畳くらいの間で、まわりに古い箪笥《たんす》だの水屋だの、箱だのいろいろな道具がならんでいた。 「納戸です。こんなところへお通しして、申しわけありません」  男は、佐登子に座布団をすすめたあと、彼女の前に膝を折った。 「お早うございます。寺西の秘書の外浦卓郎です」  きちんとした挨拶だった。 「お早うございます」  織部佐登子は、外浦卓郎の前に手をついた。 「お名前は、うかがっております。織部でございます。あちらの使いで参りました」 「うけたまわっています。用意してございます」  外浦は眼もとに微笑を浮べた。佐登子から見て、運動選手ででもあったような彼の上背と筋肉であった。スポーツシャツが似合った。  そのあと、外浦卓郎はややくだけた口調になった。 「こんなに朝早く来られるのは、たいへんですね」  佐登子の商売を知っての言葉だった。 「いえ、そのつもりで気を張っておりましたから」  佐登子も微笑した。 「あの路地を通られたときは、びっくりされたでしょう? 身体を斜めにして通らないと歩けないですからね」 「すこしおどろきました」 「おや、そのハンドバッグに白い粉が付着していますよ」  外浦は眼をそれに注いで云った。  佐登子はハンドバッグを引き寄せて見た。 「あら」  ハンカチをとり出してバッグの白い粉を拭きとった。 「白い塀にバッグがぶっつかって、塀のコンクリートの粉が付いたんですわ。路地が狭くてそれには気をつけたんですけど」 「裏の家の塀はもう古くなっているのです。新しいバッグのようですが、あんな路地を通っていただいたばかりによごさせて済みませんでした」 「いいえ、わたくしの不注意ですわ」 「あの、お車は?」 「タクシーで参りました。朝早くでも、流しは通っているものですね」 「お帰りもタクシーのほうがいいと思います。流しが通っている道路までお見送りします」 「もう明るいんですもの。自分で拾いますわ」  外浦は腕時計を見て云った。 「先生はまだ寝ています」 「……」 「けれども、もう約束の面会者が四つの応接間ともいっぱいに詰めかけて、先生が起きるのを待っています。陳情がほとんどですが、そうでない用むきの議員さんも来ているし、朝ガケの新聞記者もきているんです。ごらんのように、台所が忙しいのは、そのお客さんたちに出すものを用意しているからです」  有力派閥の統領、寺西正毅の自宅ともなれば、さすがだと織部佐登子は驚嘆しながらも、うなずいた。 「そんなわけで、表は客が大勢詰めかけていますから、その人たちの眼を避けるためには、こんな裏口にあなたをお通しするしかなかったんですよ」  寺西正毅の秘書外浦卓郎は佐登子に云った。  内緒の来客を裏口から入らせるのは、表の応接間や座敷に蝟集《いしゆう》している訪問客の眼に触れないようにするだけではなかった。大物政治家邸ともなれば、正門前付近に交番がある。邸前には新聞記者や週刊誌記者が張りこんでいて、早朝からの寺西邸の訪問客を眼でチェックしている。とくに寺西正毅は現総理桂重信から今秋に「禅譲」を約束されている。新聞記者たちが記事に好んで用いたがる「政界台風の目」であった。邸前の見張も一段と賑《にぎ》やかなのである。  邸前の報道陣や表の訪客たちに気づかれないように寺西邸に入る方法がある。正門前の道路を行かずに、道を一ブロック迂回《うかい》して、反対側の他人の家の前に出ることである。そこの二軒は加藤家と福島家で、寺西邸の真裏に位置している。両家の塀と塀の間にあるたいそう狭い路地を通過すれば、寺西家の煉瓦塀の裏に突き当る。そこに、正門横の通用門とは別に、勝手口へ通じる裏木戸があって、同家の台所へ直通している。この路地を利用すれば、往復とも姿を他人に見られないで済む。  あたかも加藤家か福島家かを訪問するようなふりをして「間道」を抜け、寺西家の勝手口に達するのである。——  外浦はつづいて云う。 「けれどもですね、この納戸でお話をするのがいちばんいいんですよ。あなただけでなく、内密にお会いする方には、いまあなたが苦労して歩かれた路地をお出でになるようにお願いしているんです。そしてこのきたない納戸にお通ししているんです。恐縮なんですけれどね」 「たいへんですわね」  佐登子は心からそう思った。 「ちょっと失礼」  外浦は、ふいと立ち上り杉戸を開けて廊下へ出た。台所の騒音が大きく聞えたが、杉戸が閉まっても、廊下を歩くお手伝いたちの忙しげな足音はひきつづき伝わった。  外浦が「用意した品物」でも取りに行ったのかと佐登子が思っていると、再び杉戸が開いて外浦は入ってきた。彼はすぐにうしろの戸を閉めたが、その手に紅茶を乗せた銀盆を持っていた。 「どうぞ」  膝を突いて佐登子にすすめた。  内密の客には、お手伝いの手もかりないようにしているとみえた。  外浦秘書が二度目に納戸を出て戻ったとき、彼は五十年配の婦人の後に随《したが》っていた。彼の手に四角い新聞紙包みがあった。  佐登子はその婦人を一目見るなり急いで座布団を外し坐り直した。細い銀ぶち眼鏡をかけたふくよかな顔の中年女性を寺西正毅夫人文子とわかったからである。 「お早うございます」  佐登子は両指を畳に突いた。 「はい。お早うさん」  寺西夫人は、張りのある声で返した。 「わたくしは織部佐登子と申します。初めまして」 「寺西の家内です」  夫人は鷹揚《おうよう》に答えた。 「こんなに朝早くおうかがいして申しわけございません」  佐登子は、文子夫人の視線が、ひれ伏した自分の背中に止まっているのを感じた。その視線がどのような表情——意味と興味を持っているか、彼女にはわかっていた。 「ご苦労さまです。主人が勝手に早い時間の御来宅をおねがいして、済みませんね」  言葉は叮寧《ていねい》だったが、どこか「使い」にものを云う口吻《こうふん》があった。 「とんでもございません」  こちらは平身低頭だった。 「主人はまだ寝《やす》んでおります」 「申しわけございません」 「いえ、よろしいんです。ご用むきは、この外浦さんとわたしが主人から聞いておりますから」 「恐れ入ります」 「まあお楽にしてくださいな、織部さん」  張りのある声に促されて、佐登子は顔をあげた。  夫人の顔と姿とを織部佐登子ははじめて正面から見た。身体も豊満なほうだった。部屋着だろうが、青い色に、小さな赤い花を小紋のように散らしたワンピースだった。顔もその柄とつりあいをとるように朝から濃い目の化粧だった。払暁から押しかける政治家、派閥の議員や参謀、陳情者、選挙区の代表者たちの応対のためだろうが、早起きして来た連中には眼の醒《さ》めるような夫人の身だしなみであった。  夫人は佐登子の顔を見ていた。佐登子はほとんど化粧らしいものをしてなかった。身なりも、これは今朝の用件の必要からでもあったが、目立たない黒っぽいセーターの地味なものだった。 「銀座にお店をお持ちなんですって?」  文子夫人は気さくな調子できいた。 「はい」  佐登子は自分に注がれる夫人の視線の意味を解した。水商売の女は、ふだんはあまり化粧しないで、素顔だと聞いたけれど、ほんとうだわ、このひともそうだわ、と夫人は呟《つぶや》いているようだった。 「奥さま」  外浦が横から静かに云った。 「そろそろ、お渡ししては?」  文子夫人は薄い唇を持っていた。ある人相見によると、そうじて薄い唇の女には無口のひとは少いということだった。  外浦秘書が、そろそろお渡ししては、と横から夫人に献言したのは、銀座にクラブを持っている織部佐登子に興味を抱き、話がそっちへ逸《そ》れるのを防いだようにも思われた。 「ああそうでしたわ」  文子夫人は秘書の言葉に素直に従った。 「じゃ、外浦さん。あなたからお渡ししてちょうだいな」 「かしこまりました」  外浦卓郎は佐登子のほうへ膝を進め、さきほどここに入ったときから手に抱えていた四つの新聞紙包みを彼女へさし出した。ちょうど文庫本を重ねたくらいの新聞紙包みには、一個ずつ上から太いゴム輪がかかっていた。 「お納めねがいます」  外浦は佐登子へそれをさし出した。 「わたくしは使いの者でございます。中身が何だか存じませんが、たしかにお預かりいたしました。あちらには今日中にも間違いなく届けます」  佐登子は四個を受け取って云った。 「わたしどもも……」  外浦秘書が横の文子夫人を含めた複数一人称を使い、笑って云った。 「寺西から預かっただけで、中身は聞かされておりません。お使いの方に渡すようにとだけ云いつかっております」 「ありがとう存じます」  佐登子は四個の新聞紙包みに眼を走らせ、傍に置いたハンドバッグを手もとに引き寄せた。小さな金属音を鳴らしてチャックを開き、包みを横に二個ずつ上下に入れ、あと二個もそれとならべて収めた。ボストンバッグ型の黒いハンドバッグにはその四個がぴたりと入った。チャックを閉めた。  佐登子は、そのときになって気がついたように、外浦秘書へためらいながら云った。 「わたくしは使いの者ですけれど、預り証は、いかがいたしましょうか?」 「織部さんがご使者なら間違いありません。寺西が頂戴《ちようだい》したときも、領収証をさし上げておりません。預り証を頂かなくても、けっこうです」  外浦が低い声で答えた。 「恐れいります」  杉戸を隔てた廊下では、相変らずお手伝いたちの足音が頻《しき》りだった。  佐登子が辞去の挨拶をしかけると、今まで彼女の動作を見ていた夫人が、ふいと云った。 「織部さん。それ、最新デザインのオーストリッチのバッグでしょう? すごいわね」  佐登子は、文子夫人が持参のハンドバッグに興味を持とうとは思わなかったので、少からずどぎまぎした。 「ねえ、ちょっと、それ、見せてくださる?」  夫人は気軽に云った。 「はい。でも……」  佐登子がためらったのは、云われるままにすぐにそれを出すのが不躾《ぶしつけ》なだけでなく、バッグにはいま貰《もら》ったばかりの「品物」が詰めこんであるからだった。 「いいじゃないの?」  夫人は片手をそれへ出した。  佐登子は膝をついて、バッグを畳に滑らせるように夫人のほうへ押した。中に詰った「品物」でバッグはずしりと重かった。  夫人はオーストリッチのバッグを間近かに眺めて、 「モラビトね。やっぱり素敵ね」  と呟いた。  手でさわり、両側を回して見入ったりしている。 「ねえ、外浦さん、あなたは博学だけどハンドバッグのこと、ご存知でいらっしゃるなら、教えて?」  傍の秘書に顔をむけた。 「いや、ぼくはなんにも……」  外浦が尻ごみした。 「そうね、殿方だから無理ないですわね。モラビトというのは、フランス製バッグの有名デザイナーで、最高級品とされてるんですって」 「はあ、そうですか」 「このとおり斑《ふ》が多いでしょう。駝鳥《だちよう》の羽根を抜いた跡なんだけど、高級品ほど斑が多いんです。その斑もあんまり細かすぎてもいけず、大きすぎてもいけないんです」 「むつかしいもんですな」  外浦も夫人の眼の方向に合わせてバッグを見ていた。 「そしてね、斑の間隔が、このとおりきれいにならんでいるのがいいんです」 「ははあ」 「オーストリッチも、このボストンバッグ型の大きいのになると、駝鳥のいちばんいい皮の部分を何枚も取って合わせるんですが、それがまるで一枚皮のように揃っているのが高級品なんですのよ。ほら、このバッグだって、左と右の斑の違いが少いでしょう?」 「そうですね」 「形もいいわね。最新型のデザインね」  夫人は溜息《ためいき》をつくように云って、かしこまっている佐登子へ眼をむけた。 「ずいぶんお値段もお高かったんでしょう?」 「……」 「失礼ですが、九十万円? 百万円?」  佐登子はうつむいた。 「あの、それは、頂きものなんですけれど」 「あら」  夫人は眼をみはった。  モラビトのハンドバッグがよそからの頂きものだという織部佐登子の言葉に、文子夫人は一瞬おどろきの色を見せたが、その表情もすぐに通過して、眼鏡の下に細い微笑が浮んだ。 「こんな最高級品をプレゼントされるなんて、あなたはお仕合せね」  夫人のやさしい言葉の裏には、プレゼントの主が織部佐登子の隠れたパトロンであるのを推定していた。そのパトロンは、佐登子をこうして寺西邸の裏口へ使者によこした人でもあった。  佐登子は、夫人の推量を肚《はら》の中で嗤った。  バッグを贈ったのが川村正明議員だとはむろん夫人は知らない。知らないといえば、この品が九十万円から百万円と少々得意そうに値段を云い当てたつもりでいるらしいけれど、七十万円で売られたことが、包装紙のマークにある日本橋のデパートに、彼女は匿名で電話して確かめていた。その特選売場に現れたのが、店員の答えによる人物の特徴では、どうやら川村の秘書鍋屋健三らしかった。  川村が、つい近くを通りかかったという口実で午後青葉台の家にこの「手土産」のバッグを持ってきたその二日前の晩、銀座の店へ鍋屋はやってきて、川村のことをどう思うかとしきりとこっちの気をひいていたから、符節は合う、と佐登子は思った。パーティ券は、店の客としてお義理で買ってあげたのだし、パーティへの出席も、近ごろ評判の政憲党内のヤング・パワー集団の様子を興味半分に見物に行っただけなのに。  川村はよか男ばってんカネのなか、と鍋屋はしきりと歎いていた。鍋屋と川村の心底は佐登子にわかっている。自分に財産があるという噂を信じて、「政治資金」を出させようという魂胆である。色と欲の二筋道で来ようというのだろう。その接近の信号がモラビトのハンドバッグだ。  川村正明はいっぱしのプレイボーイを気どっている。色男をもって自任している。アマちゃんの二世議員。  青葉台の家に来たときも、川村は車を帰したと云っていた。尻を据えるつもりなのだ。が、これはなにも川村にかぎったことではなく、下心ある店の客のほとんどがすることであった。じっさい、佐登子のほうから客たちに自宅へ来るように誘ってもいる。  訪客のあとの行動は、パターンが決まっている。川村のように速攻に出るのも珍しくはない。そこへ店の波子が「偶然に遊びに来た」ような顔をして邪魔に入る。前もって波子を電話で呼んでおくのである。これは佐登子側のパターンだった。  波子の「偶然の邪魔」が、下心をもつ男性訪客に恥をかかせることなく、彼の体面を保たせて、佐登子はその場を凌《しの》ぐことができる。かくてなお意欲を失わない客を店につなぎとめることが可能なのである。これが織部佐登子の商略の一つだった。  佐登子は川村の「手土産」プレゼントだけは几帳面《きちようめん》に頂戴した。ボストンバッグにも見紛う大型バッグは、早速こうして効用を転用させた。—— 「織部さん。いちど、あなたのお店に遊びに行ってみたいわ」  文子夫人は、ふと思いついたように云った。  佐登子は、はっとなった。 「どうぞ」  云ったものの、胸が波打った。夫人の何気ない言葉の中にある種の意味が含まれているようにも感じられた。 「お店、銀座のどの辺にありますの?」  これこれだと佐登子が答えると、 「お客さまは、どういう方々ですか」  と、夫人はまた訊《き》いた。  まさか政治家がくるとも云えないので、 「企業の経営者の方がたがときおりお見えになります」  と、佐登子は会社名の二、三の名を挙げた。 「そう? 高級なお店なのね」  文子夫人は瞳《ひとみ》をじっと沈めて、「クラブ・オリベ」の店内の様子を想像しているようであった。 「主人といっしょに行ってもいいかしら?」  夫人の声に、佐登子はびっくりした。 「先生……がでございますか」 「駄目?」 「いいえ、とんでもございません。でも、寺西先生ご夫妻においでいただけるなんて、光栄すぎてまるで夢のようでございますわ」  文子夫人は笑った。 「ほんとうはね、主人はナイトクラブよりも赤坂や新橋のお座敷のほうが水に合ってるんです。そのへんの待合だと別宅のようなものですわ。近ごろは会合が毎晩のようですから」  政権の「禅譲」が近づいて、各派との懇親に寺西正毅は忙しいようであった。 「主人はナイトクラブはなじめないと思いますの。ねえ、外浦さん?」  夫人は秘書をかえりみた。 「さあ」  外浦は、つつましげに意見を留保した。 「きっとナイトクラブは気乗りしないと思います。もう年寄りですからね」 「……」 「ねえ、外浦さん。わたしひとりではなんだから、奥さまがた二、三人を誘って織部さんのお店へ行くときは、あなたがボディガードを兼ねて案内してくださらない?」 「はあ……」  外浦が迷惑そうな顔をした。 「クラブ・オリベ」に行ってみたいという文子夫人の言葉は、外浦秘書が積極的な返事をしなかったせいか、そのままに切れた。というよりも、夫人が駝鳥のハンドバッグにもう一度眼を遣ったとき、そこにちょっとした異状を見つけたからだった。 「あら、そこのキズはどうしたの?」  バッグの下の隅、黒地の皮に数条の小さな浅い刻線が走っていた。 「はい。裏の路地を参りますときに、バッグが塀に当って、擦れたのです」  さっきバッグを見たときこのキズに夫人が気づかなかったのは迂闊《うかつ》だが、いまこの位置からの光線の加減で、キズが浮び出たのである。  さきほど外浦に見つけられた際は、キズだけでなく、コンクリートの粉が白墨のように付いていた。 「お気の毒ね。せっかくの立派なバッグが、惜しいわ」 「わたくしの不注意からです」 「でも、ちょっと見ただけでは、眼につきませんわよ」  文子夫人は慰めるように云ったが、とりようによっては、これからキズ物の高価なバッグを持ち歩く女を愉《たの》しんでいる言葉にも聞えた。 「ちょっと時間が経ちましたので」  外浦が腕時計を見て、このへんでというように、夫人へ暗に促した。 「そうね。お引きとめして悪かったわ。ごめんなさいね」 「どういたしまして。わたくしこそお邪魔をいたしました」  佐登子は頭が畳に付くほどおじぎをした。 「また、お遊びにいらして」 「ありがとうございます」 「そのうち、お店にもうかがわせてもらいますわよ」 「おそれいります」 「お帰りを気をつけて頂戴……じゃ、外浦さん」 「はあ。道路までお見送りします」  外浦が立ち上った。 「わたしも、これで」  夫人は立って、銀ぶちの眼鏡をきらきらさせ、童顔をにっこりさせた。 「失礼いたします」  佐登子はもういっぺん畳に手を突いた。  外浦が納戸の杉戸を開け出た。佐登子がつづいた。忙しい厨房の横だった。 「お秋さん、お秋さん」  夫人が古いお手伝いを呼んでいた。 「こっちは、あらかた片づいたの?」  朝の光が空に満ちていた。裏庭の植込みは、下のほうこそまだうす暗かったが、上の枝と葉に陽がすがすがしくきらめいていた。扇にひろがった棕櫚《しゆろ》の葉は朝露に濡れ、蔭《かげ》から垂れた黄色い花の、魚の卵のように群れている形が、明るくなったいまはっきりと見えた。入って来たときは昏《くら》くてわからなかったが、庭の奥には竹の林があり、古い葉が地面に散り重なっていた。  外浦秘書が裏口の格子戸を開けて出た。織部佐登子はあとにつづいた。これからはよその家の塀と塀の間の狭い路地を歩くのである。片手に提げたハンドバッグが重かった。来るときはカラで軽かったから、勝手が違った。 「通りに出るまで、ぼくが持ってあげましょう」  外浦が手をさし出した。 「すみません」  佐登子はすなおにバッグを渡した。  外浦はバッグを頭の上に乗せ、片手で支えた。 「塀に当って擦れないかな」  呟いたのは、佐登子の轍《てつ》を踏みそうな不安からだった。 「かまいませんわ。どうせわたしがキズものにしてしまったんですから」  佐登子は低い声で笑った。  七十万円もするオーストリッチの高級ハンドバッグにキズを付けたことが、川村正明議員の野心を挫《くじ》いたような心地にもなって佐登子にはおかしかった。  それでも前を行く外浦は頭上のバッグを要心しいしい身体を斜めにして路地を歩いた。カニが這《は》うように左右の足を横へ一歩ずつ動かしていた。  右の加藤家の塀の中からはテレビの六時のニュースが聞え、左の福島家の塀の中からは子供の騒ぐ声がしていた。  とたんに、外浦の頭上のハンドバッグが鈍い音を立てた。 「あ、いけない」  外浦は、バッグが福島家の塀に当ったのを知って、あわてた。 「大丈夫ですわ。外浦さん、気になさらないでそのまま行ってください」  外浦は頭からバッグを下ろして自分が付けた新しい擦りキズを点検しようとしたが、両側の間隔が狭すぎて下ろすことも自由にならなかった。外浦もこの品が高価であることを知っていた。 「かまいません。どうぞ平気で行ってください」 「そうですか」  外浦は前よりはもっと要心して進んだ。カニの横這い的な歩きはのろく、表通りに出るまでの路地は長かった。  織部佐登子は寺西邸への使いを頼まれたとき、その人からこう云われた。  ——寺西正毅先生の秘書は、外浦卓郎君という。四十八歳だ。東大法科卒。元経済新聞記者。財界の世話役和久宏氏の秘書となった。寺西先生が和久氏に請うて、外浦君を自己の特別秘書として譲り受けた。譲り受けたといっても当分の間という両者間の約束だった。話が決まったとき、寺西先生と文子夫人とがうち揃って、和久氏に外浦君を貰ったことで礼を述べに行っている。いかに寺西先生が外浦君を秘書として熱望したかが知れよう。  ——それというのは、寺西先生は財界関係に弱い。そこで先生は外浦君を財界とのパイプ役にしたのだ。外浦君は和久氏から聞いた財界の動向などの情報を先生に伝え、先生からは政界の情報を得て和久氏に入れる。先生は政界の頂点の人、和久氏は財界の奥の院の人。それらの情報はトップ・シークレットだ。しかもこれに対する外浦君の情勢分析も正確無比だ。  ——外浦君を通じての政・財界の極秘情報交換だけが寺西先生の利益ではない。先生は和久氏を介して財界に資金ルートを拡大しつつある。これにも外浦君が働いている。それでなくても今秋には寺西先生が桂首相から政権の禅譲を受けることになっているので、財界の大勢は寺西先生の支援になびきつつある。そのために外浦君は財界の要望を前もって蒐集《しゆうしゆう》している。  ——寺西先生は財界との接触に慎重な態度でいる。現時点で有力財界人と会うことは、他の派閥を刺戟《しげき》するからだ。自派の幹部にも財界人と会わせない。それは先生の身代りを意味するからだ。ここでもまた外浦君が起用されている。秘書は政治家ほどには目立たない。外浦君は隠密に行動している。先生にとって、外浦君の重要なことがこれでもわかろう。  ——あんたはぼくの使いで寺西邸へ行ってほしい。その日の午前五時だ。話は通じてある。寺西邸の裏通りに面したところに、加藤と福島という家がならんでいる。タクシーをそこで捨てなさい。両家の塀の間が狭い路地になっていて、普通ではそれに気がつかないくらいだ。路地の角に一人の男があんたの到着を待って立っている。それが外浦秘書だ。それからあとは外浦君があんたを寺西邸の裏口へ案内してくれる。  ——寺西邸に入ると、外浦君がぼくの使いであるあんたに二千万円を渡してくれるはずだ。一万円の札束はたぶん新聞紙で包んであるだろう。その容れものを用意して行きなさい。婦人用の物がいい。人に見られてもおかしく思われないものをね。大型のハンドバッグか。うむ、それは、いい思いつきだな。……  ボストンバッグ型オーストリッチのハンドバッグを頭の上に乗せて路地を斜め横に歩く外浦卓郎の背中を見ながら、佐登子は使いをたのんだ人の言葉を、そのように思い出していた。  前を行くこの人はそんなに大物の秘書なのか。カニみたいに横むきに歩いて行く姿はふき出したくなる。だが、彼のあとに随う自分の姿も同じで、路地を二匹のカニが這っている。  けれども、外浦の格好が滑稽《こつけい》なだけに、かえって彼の頼母《たのも》しさが佐登子に感じられた。彼のことではその人から知識を与えられた。佐登子は、その言葉と、二歩前を行く実際の外浦の長身の背中とを比較していた。  路地の出口にきた。大通りを黒塗りの車が走っている。  出口の一歩手前で外浦は立ちどまり、頭上からバッグを下ろした。 「では、ここでぼくは失礼します」  バッグを佐登子に渡した。浅黒い顔で眼が大きい。微笑した眼の下に袋ができて、なんとも愛嬌があった。佐登子は、明るい外で、はじめて間近かに彼の顔を見た。 「いろいろとありがとうございました」 「妙な路地をご案内したり、裏口から台所わきの部屋へお通ししたりして、びっくりなさったでしょう?」 「いいえ、かえって面白うございました」  面白いという云い方がいけないかと思い、 「先生の奥さまが気さくな方なので、助かりましたわ。明るい、庶民的な方ですのね?」 「ざっくばらんな方です」 「ほんとに、わたしの店へ奥さまに来ていただけるのでしょうか。先生はご無理だとしても」 「さあ。どんなものですかね」  秘書は首をかしげて微笑をひろげた。 「外浦さんが、ボディガードになられて奥さま方をご案内してお越しいただけると、どんなにうれしいかわかりませんわ」 「奥さまにお伝えしておきましょう」  外浦ははじめて声を出して笑った。色が黒いだけに、健康そうな白い歯ならびが目立った。が、彼はその笑いを消して、 「この通りを左へ二百メートルほど行かれると、交差点に出ます。そこだとタクシーが拾いやすいと思います」  と、指を挙げて示した。 「いろいろありがとうございました」 「どうかくれぐれもお気をつけて」  厄  織部佐登子は通りを歩き、「福島」の表札のある門の前を過ぎた。この家の真裏は寺西邸にあたる。他人の眼には佐登子が福島家か隣の加藤家から出てきたように映るにちがいなかった。  人通りはなく、車も二台が走りすぎただけだった。うしろをふり返ったが、外浦秘書の姿はすでに路地の中に消え、塀だけが長々とつづいていた。二千万円の札束をぎっしりと詰めたハンドバッグはボストンバッグ型でも窮屈で、重かった。  四つ角にきた。広い道が、渋谷方面と青山方面と南北に通っていた。人の歩きは少い。車が数台走っている。道路の三分の二は沿道の建物のために影だった。  黒いネッカチーフで顔を包む佐登子は、バッグを右手に、街角でタクシーを待った。トラックや乗用車ばかりで、タクシーは容易に来なかった。朝が早いのだ。十分間以上待った。  向い側の渋谷方面行の道路には空車のタクシーが見える。佐登子は辛抱できなくなって、横断歩道を渡りかけた。  百五十メートル先の交差点で、車の群が信号待ちで停止していた。いまは無人地帯だった。渡っても安全と見た。  ただ、若者の乗った自転車が一台、こっちへ走ってきている。  横断歩道を二メートルほど渡った。横からくる自転車は眼の端に入れておいた。  が、自転車が佐登子まで十メートルの距離にくると、若者は急に競輪選手のような姿勢になってサドルから腰を上げ、ハンドルへ上体を前屈みさせて全速力を出した。佐登子が避ける間はなかった。自転車は彼女を狙って突進してきた。  全身に強烈な重力の衝突を受けた。道路へ投げ出されるまでの一瞬、きれいな朝の空が一回転するのを見た。佐登子の上に自転車が折り重なって落ちた。  佐登子は大地というハンマーで頭を殴られた。固い舗道に叩きのめされた身体《からだ》は痺《しび》れて動けなかった。  百五十メートル先の信号が変って、車の一群が逼《せま》ってきた。轢《ひ》き殺されるかと思って倒れたまま佐登子は脚を縮めた。  車の群は彼女を除《よ》けて通過した。頭の上を地響き立てて走りすぎた。人が倒れていても先を急ぐのか、ドライバーたちは無関心だった。もっとも、そこで急停車すると、追突される危惧《きぐ》もあった。  ようやく一群の後尾についていた一台の車が、タイヤに金切り声を上げさせて急ブレーキで停まった。降りてきたのは、三十歳ぐらいの会社員風な男だった。かがみこんで佐登子の顔を上からのぞいた。 「大丈夫ですか」  佐登子は眼を開けた。ともかく車に轢かれる危険はなくなった。  のぞきこんでいる男に、わずかにうなずいた。 「怪我は?」 「たいしたことはありません」  激痛に耐えて云った。醜態の羞恥《しゆうち》が先に立った。 「起きられますか」 「起きられます」  すぐには身体の自由がきかなかった。会社員風の男が背中を起してくれた。頭の中が真空になったようにふらつき、脚もよろめいた。男は彼女の腕をとって歩道の端へゆっくりとつれて行ってくれた。  土と埃《ほこり》でセーターもスラックスも真白になっていた。血が出ているかもしれなかったが、身体をしらべるわけにはゆかなかった。 「車に刎《は》ねられたのですか」 「いいえ、自転車です」 「自転車に?」  佐登子は、はっとした。自分の手を見た。ハンドバッグを持ってなかった! 道路をふり返って見た。倒れた個所にも、ハンドバッグは転がっていなかった。——  激しい頭痛が襲っていたが、頭を左右に動かして自転車の行方を求めた。その自転車も消えていた。逸早《いちはや》く小路に走り込んだのだ。 「何か落しましたか」 (ハンドバッグを……)  とは口から出せなかった。 「いいえ。何も落してません」  めまいがしそうだった。あたりが昏《くら》くなった。膝頭から力が脱け、脚がへなへなに崩れそうになった。 「大丈夫ですか。歩けますか」 「歩けます」  ここでまた倒れてはならなかった。濡れた頬に手をやると、両掌《りようて》に黒い土がべったりとついた。スラックスのポケットには幸い小銭入れがあった。  男は背中を支えてくれていた。 「すみません。公衆電話のあるところまで、つれて行ってください」  佐登子は公衆電話のボックスにたどりついた。ドアを開ける前、ついてきてくれた会社員ふうの男に彼女は礼を述べる。 「どうもご親切にありがとうございました。電話で家の者をここに呼びます」  男は、道路の自分の車に戻って行った。  佐登子はボックスに置かれた電話帳を見ながらダイヤルを回す。いま出てきたばかりの寺西正毅邸であった。  女の声が出た。お手伝いらしかった。 「おそれいりますが、外浦をおねがいします」 「あの、どちらさまでございましょうか」 「家の者です」  電話口に出るのが外浦でなく、寺西夫人の声だったら、黙って切るつもりでいた。オルゴールが鳴っている。  外浦卓郎は、今朝早く二千万円を「使者」に渡すためもあって、昨夜から寺西邸へ泊っていたらしいのである。この特別秘書は、寺西正毅が多忙なときや必要なときは、その要請で邸内に泊りこむようだった。  待っている間、佐登子は胸の脇に痛みをおぼえ、しだいに息苦しくなった。転倒したとき肋骨《ろつこつ》を折ったかもしれなかった。  頭の鉢がずきずきした。路上で後頭部を強打したことを考え、脳震盪《のうしんとう》が起りそうな不安をおぼえた。  オルゴールがやんだ。 「外浦だが、だれ?」  出た声は、いきなりぞんざいにきいた。家からの電話だと思っているのだ。 「ごめんなさい」 「……」 「織部佐登子です」 「あ」  意外な名におどろいた声だった。 「わたくしのお話しすることに、電話口で受け答えなさらないでください。事情があるんです」 「……」 「たいへんな事故が起りました」 「えっ?」 「いま、大通りの公衆電話ボックスからかけています。お見送りいただいた通りをまっすぐに百五十メートルばかり東へ行ったところです。お忙しいでしょうけど、すぐに出ていただけます?」 「……」 「至急にご相談したいんです」 「出ましょう」  決断した声だった。 「あの、わたくしに会いに出るとは、ほかの方にはおっしゃらないで」 「わかっています。そこで待っていてください。十分ぐらいで着きます」  受話器をかけると、佐登子はボックスの中にうずくまった。  十分間は長かった。佐登子は、ガラスにかこまれた電話ボックスの狭い床にしゃがみこみ、ドアに背を凭《もた》れてうずくまった。  両手で頭を抱え、その手の肘《ひじ》を、立てた両膝の上に乗せた。頭痛がし、吐き気がする。少しでも身体を動かすと、肋骨のあたりが刺すように痛む。じっとして耐えた。  ドアを開けかける音がした。外浦かと顔を挙げると、ガラスごしに若い女の顔が見えた。向うでも、床に人がうずくまっているのに気づき、びっくりして離れた。横を車の列が響きを伝えて走っていた。  ボックスの近くで、タイヤの軋《きし》る音が鳴り、車が停る気配がした。  ドアを外から叩いている。  佐登子は身体の位置を反対に移した。ドアが開いて外浦が入ってきた。 「どうされたんですか」  外浦は眼をみはって、しゃがんでいる佐登子を上から凝視した。息を詰めた顔だった。佐登子の黒いネッカチーフもセーターもスラックスも土まみれであった。 「怪我をしているんです」  愬《うつた》える者が現れて、佐登子は張りつめていた気がゆるんだ。 「車にはねられたんですか」 「いいえ。自転車に突き当てられて、道路に転倒したんです」 「自転車に?」 「わたくしを狙って猛烈な勢いで襲ってきたんです。そして、そして……、あのお金の入ったハンドバッグを、奪われたんです」  外浦は咽喉《のど》を大きく動かして、唾《つば》をのんだ。瞬《まばた》きもせずに佐登子を見下ろしていた。 「とにかく」  彼はやっと云った。 「立ちましょう。このままでも何だから。立てますか。手伝いましょう」  外浦は、腰をかがめ、両手をさし出した。 「いいえ。このままでお話ししたいんです」  佐登子はかすかに首を振った。 「立てないのですか。そんなにひどい怪我ですか」 「怪我はともかく、この電話ボックスの中にいっしょに居たほうがはっきり顔が見えなくていいと思います。外に出ると、だれに見られるかわかりませんわ。通っている車の中に外浦さんをご存じの政界関係の人が居たら、何を思われるかわかりません。わたくしがバーの女と知っている人だと、よけいに邪推されます」 「……」 「この中に坐っていれば、外から気づく人も少いでしょう」  外浦はためらっていたが、思い切って佐登子の両膝の前に腰を下ろした。彼女のスラックスに自分の長い脚が触れないように窮屈そうにしていた。  こんな場所に、佐登子と隠れるように腰をおろしているだけに、外浦も複雑な表情でいた。二人の頭の上に四角い電話機があった。 「怪我は、どんなぐあいですか」  外浦はきいた。 「転んだときに頭と脇腹を打ったので、そこが痛いのです」 「そりゃ、早く医者へ行かないといけない」  外浦は眉を寄せた。 「ぼくが車で病院に送ってあげましょう」 「外浦さん。なぜ、わたしが二千万円を奪《と》られたことを、まっさきにお訊きにならないのですか」  外浦は、黙ったあとで答えた。 「電話であなたから、事故が起きたと聞いたとき、その予感がしたのです。駆けつけてみると、やはりそうでした」 「……」 「予感がしたから、それが現実となっても、それほど意外ではなかったのです。それよりもあなたの怪我が気がかりですね」 「病院に参ります。その前にお話ししたいのです」  狭い電話ボックスの下にしゃがんで、スラックスと、ズボンとは、互いが避けながらも触れ合ったが、佐登子は話しているうちに、そんなことを気にかけてはいられなくなった。 「ほんとうは、この事故はいちばんにあちらにお報《し》らせしなければならないのですが、今は大阪です。大阪へ電話しても、すぐにはどうにもなりませんから、外浦さんにお電話したのです」 「わかっています」  外浦はうなずいた。 「先生にはお報らせなさいますか」  寺西正毅もだが、佐登子には文子夫人の顔が浮んだ。 「いや、あとにします。こうなってからは急いで報告しても仕方がありません。時をみて話します」 「あちらは明後日あたり帰京されるはずです。わたしはどこかの病院に入っていると思いますが、むこうの秘書課長にでも入院したことを伝えます。ご本人が見舞えるのは、あとになると思いますから」 「わかりました。ぼくからご先方に連絡するのは、その後にしましょう」  佐登子は急に胸の中に熱いものが湧《わ》いてきた。相談相手を得た安心と、自分の置かれた立場のかなしさからはじめて涙が溢《あふ》れ出た。  外浦がハンカチを出して渡した。佐登子のハンカチもコンパクトも、奪られたバッグに入れてあった。 「自転車に突き当てられたときのことを一応話してください」  涙を拭《ぬぐ》った佐登子に、云った。 「自転車に乗っていた若者の顔はわかりませんか」  佐登子の短い話を聞いて外浦は問うた。 「わかりません。わたしが路上に投げ出された間に、すぐに逃げましたから」 「……」 「年齢は二十四、五歳くらい。四角い顔で、髪を長く伸ばしていました。青い色のスポーツシャツを着ていたと思います。それくらいしかわかりません」 「あなたを狙って、つき当ったんですね」 「十メートルのところから腰を上げてペダルを踏み、自転車の勢いをつけて突進してきたのです」 「計画的なのかな?」  外浦が呟いた。 「わたくしも一度はそれも考えましたが、あのときの様子では、そうは思われません。女一人が大きなハンドバッグをさげて横断歩道を渡りかけている。朝が早いので人は通ってないし、車は百五十メートル先の信号でストップしている。そういう状態ですから、ハンドバッグに目をつけて、急に奪る気になったのだと思います」 「そうかもしれませんね」  外浦に話していると、ふしぎに頭の痛さも、肋骨のあたりの痛みもうすれていた。話の異常さもあった。 「信号待ちしている車の運転者たちも、その場の様子を目撃したと思うけど、だれも来なかったですか」 「来ませんでした。自転車につき当てられて女が転んだくらいにしか映らなかったのかもしれません。バッグを奪られたところまで見たかどうかわかりません」  オーストリッチのバッグが災厄の原因だった。佐登子は、なんだか川村正明に罰を受けたような気がした。 「で、あなたが倒れたところに車がきても、車はとまってくれなかったんですか」 「ほとんどが無関心に走り過ぎました。不人情なものです」 「不人情にはちがいないが、みんな忙しいから先を急いでいるんですね。それと、事故にかかわりあって警察に証人にされては困るからでしょう。証人となると、現場に釘《くぎ》づけにされますからね。その面倒を嫌って、素通りするのです」 「最後に走っていた車がとまって、会社員風の方が、親切にもわたくしをこの電話ボックスまで連れてきてくださったんです。気持がうわずっていて、その方のお名前をうかがうのを忘れましたが」 「織部さん、あなたがバッグを奪られたことをその人に話しましたか」 「口から出かかったのですが、はっと気がついて、それは云いませんでした」  外浦は、よかった、という顔をした。 「あなたが、その人に、バッグを盗まれたことを話さなかったのは、さすがだな」 「云えなかったんです」  佐登子は唇を咬《か》んだ。 「口外しては困るのです。この事故はわれわれが極秘にしておくことが重要なんです」 「……」 「バッグ入り二千万円の盗難届は絶対に警察に出せない。口惜《くや》しいけど、仕方がありません」  佐登子はうつむいた。  外浦は彼女のその顔を見た。 「念のためにききますが、バッグにはあなたのネームが入れてなかったですか」 「ありません」  川村正明から貰ってすぐなのでそんな時間はなかったし、またネームなど入れるべきものでもなかった。 「バッグの中に、あなたの身分証明となるような物はなかったですか」 「化粧品とハンカチ、それにお財布が入れてあるだけです。お財布には一万円札が七枚と千円札が五、六枚です。車の運転免許証も名刺も入っていません」  勤めている人だと定期券などを持っているが、それもなかった。 「その泥棒が捕まらなければいいが……」  外浦は上に眼を向けて呟いた。  佐登子もその怖《おそ》れを持っていた。 「二千万円といえば大金です。奪った奴が若い者だと、滅茶々々に使いまくって、そこから警察に怪しまれるかもしれない」 「でも、わたくしがどこの人間やらその男にはわかりません。この道路を一人の女が渡っていたというだけです。こんな格好ですから、服装にも特徴はありません。それに、盗難届を出さないのですから、たとえその泥棒が捕まっても警察では被害者が誰やら探しようがないと思います」 「ぼくもそう思いたいけれど……」 「あら、わたくしが被害に遇ったことが警察にわかるんでしょうか」 「わからないでしょうな。そのためにはこの盗難をどこまでも隠しておかなければなりません。たとえ警察が嗅《か》ぎつけてあなたのところに問い合せに来ても、……そんなことは絶対にないと思いますが、万が一にもそういうことがあるにしても、あなたはあくまでも否認するのです」 「もちろん、そうします」  佐登子は頭の痛みをまた覚えてきた。思わず両手で頭の両側を抑えた。 「大丈夫ですか。早く医者に診せましょう。ぼくが車ですぐ送ります」  外浦が佐登子をさしのぞいた。 「外浦さん」  佐登子はうずくまった姿勢で云った。 「二千万円は、わたくしがあちらに弁償します」  外浦は黙って佐登子を見ていた。 「ですから、先生にはこの事故のことを何もおっしゃらないでください」 「……」 「わたくしはどうかしていたんです。外浦さんにお電話するんじゃなかったですわ。わたくしが二千万円を出して、あちらに渡すだけで済むことでした。やはり気持が混乱していたんです。わたくしの考えが足りませんでした」 「あなたのそのお気持はわかります。ぼくとしては、お任せしますというほかはないようです」  外浦は諒解《りようかい》して云った。 「寺西には、この事故をいっさい報告しないことにします」 「ありがとう、外浦さん」  佐登子はわずかに頭をさげてから独言した。 「なぜもっと早くこれに気がつかなかったのかしら。どうかしていたんだわ」  ——弁償するといっても、先方とは「身内」の間である。なぜそのことが心に浮ばなかったのか。内輪でおさまる話なのに、と佐登子の呟きは云っていた。  外浦の表情も、それを聞いて実のところ、ほっとしているようだった。 「やはり思いもよらない出来事に遇って、本能的にお電話したんだと思います。外浦さんにあのお金をいただいたばかりですから」  それ以外にも理由が働いていた。近い所に居る強い者にすがる気持、保護を求める意識があった。が、それは容易に口から出せなかった。 「とにかくその怪我を医者に手当てしてもらうのが先決です。ぼくが車で送りますよ。さ、早く立ってください。ひとりで立てますか」  さきに立ち上った外浦は、佐登子に両手をさし伸べた。佐登子の両手がそれにすがった。どちらの手からともなく力がこめられていた。狭いボックスの中のことで、立ち上った佐登子の脚が安定しないままに外浦の胸に倒れかかりそうになった。 「外浦さん。どうぞ早く先生のお宅へお帰りください」  佐登子は身をうしろに引いて云った。 「この電話で店の波子を呼びます。波子の車で、わたくしは病院に参りますわ」  衆議院第一議員会館三階の湯沸し場だった。  午後二時ごろである。各議員室の女秘書(事務員)四人が集って、おしゃべりしていた。  この時間、院内に各委員会が開かれていて、ほとんどの議員は部屋にいなかった。第一秘書が外部との電話のやりとりをしたり、書類を点検したり、選挙区あての手紙を書いたりしている。第二秘書は退屈そうに補助仕事をしている。陳情団も来なかった。湯沸し場が女秘書たちの井戸端会議になった。 「議員長屋」三階の四十二室の女秘書のことごとくが仲よしというわけではもちろんなかった。ここでも与野党に分れ、与党でも派閥によってグループが分れる。さらに互いの好き嫌いによって親疎が生じる。大きなポットに湯をくみにくるとき、茶碗《ちやわん》を洗いにくるとき、たとえば六人が来ても四人の仲よしは残り、二人は匆々《そうそう》に出て行く。  いま、おしゃべりの話題になっているのは、陳情者などが持参する手土産の処分方法だった。自宅や議員宿舎に届けない手土産はこの会館に客が持ってくる。 「ウチの先生は、手土産の目ぼしいものは自宅に持って帰るわ。あとの残りものを、きみたちで分けなさいと云うわ。ほんとうはみんな自分が持ち帰りたいんだけど、部屋に持参されたんじゃ仕方がないから、しぶしぶ秘書たちに分配するの」  東京に自宅のある議員が土産物の持ち帰りはわかるとしても、単身で宿舎住いの議員はそんな物を持って帰っても仕方がないではないか、というのは愚かな疑問である。 「ウチの先生が宿舎の押入れいっぱいに入れておいた土産物は、月に一回くらい地元から出てくる奥さまがてきぱきと整理して、トラック便で国元へ送られるわ」  一人が云った。 「ウチの先生は里帰りのたびに、ポーターのように両手に土産物をいっぱい提げて地元の奥さま孝行をなさるわ」 「ウチの先生はケチだから、会館にきた土産物は自分ががめつく抱えこんで、たとえ品物が腐っても秘書にはくれないわ。腐っても鯛《たい》という惜しみね。溜《た》まった品々は東京に住む息子や娘たちの家族が週末に宿舎に来て分け取りして行くわ」 「そりゃまだ割り切り方が足りないわよ。お隣の先生は、第二秘書の運転する車に土産物を積んで、都内の息子や娘宅へ配達させるんですって」  話が佳境に入ったとき、身体の大きな男が湯沸し場にぬっと入ってきた。 「すみません。薬をのむので、水をコップにください」  川村正明の秘書鍋屋健三だった。  女秘書たちは散った。  会館の議員事務所の出入口のドアを細目に開けておくと、室内の洗い場の上にかかっている鏡に廊下を歩く人の顔が映る。秘書らはそれを見て、ああいま川村先生のとこの鍋屋さんが通ってるわ、ということになる。彼は身体が肥満しているし、女秘書たちと遇うと愛想がいい。  鍋屋は川村議員室に入ると、そこに居る第一秘書や第二秘書には眼もくれず、突きあたりの奥の部屋へまっすぐに入った。  委員会を脱けて部屋に帰った川村は、アメリカ人がするように靴をはいたまま両足を机の上に乗せ、顔の前に新聞をひろげて読んでいた。うしろの窓に首相官邸の屋根、東京タワー、霞が関ビルなどが見えている。 「やあ」  川村は新聞を顔から除《と》って、鍋屋に笑いかけた。電話で鍋屋を呼びつけたのである。  鍋屋が秘書室との仕切りドアを閉めて横のソファに腰を下ろしたのを見てから、川村は云った。 「織部ママが入院したのを知ってるか」 「いんや、知らんばな」  鍋屋はおどろきの眼を見せ、 「そりゃ、いつかんた?」  と、やや性急な口調で問うた。 「二日前ということだった」 「あんた、オリベに昨夜行ったとな?」 「うん、行った。行ったけど、ママが休んどったので、どうしたかと女の子にきくと、その前の日の夕方、車を運転して山手通りを走っとるときに、車に追突されて頭と胸を打ったというんだ」 「負傷のぐあいは?」 「たいしたことはないというんだけどな。ムチ打ち症で当分は入院するらしい。赤坂のT病院だ。例の波子が付き添っている。きみ、ママを見舞いに行ってくれんか」 「うむ」  鍋屋は川村から青葉台の織部佐登子訪問の顛末《てんまつ》を聞いていた。  川村はこう語った。オーストリッチのハンドバッグを手土産に訪ねたところ、佐登子はたいそうよろこんだ。ころあいを見はからって「速攻」に出て、もうすこしでキスに成功するところへ、ふらりと遊びにきた波子に邪魔された、というのである。佐登子は眼の前で波子をこっぴどく叱ったが、佐登子自身もひどく残念げな顔をしていた。帰りがけに玄関の外まで送ってきた佐登子は、川村の耳のそばで、この次にね、とささやいた、という。  川村が「オリベ」に昨夜行ったのは、佐登子と次の約束をとりきめるつもりらしかった。川村は女に自信があるから、一度のチャンスをのがしたからといって、へこたれる男ではない。  衆院第一議員会館を出た鍋屋は、タクシーで銀座に回り、見舞いの花を買って、赤坂のT病院へ行った。  正面玄関は、対《むか》いに別な建物があって、うす暗い。そこに黒塗りの車が二台停って、中から出てくる人を待っていた。タクシーが次々と来て客を降ろした。  玄関横の受付窓口へ行った鍋屋は織部佐登子の病室をきいた。 「外科病棟の七二五号室です」  受付の若い女は教えた。  鍋屋はおどろいた。これほどの大きな病院だと入院患者もおびただしいから部厚い名簿を繰って病室番号をさがすのが普通だからである。 「たった今、患者さんの病室をお教えしたばかりなので、それで憶《おぼ》えているんです」  受付の女は云った。  川村議員が佐登子の見舞いに鍋屋を代理に立てたのは、病室で議員どうしの鉢合せを回避したからだった。川村にはそんな臆病な一面もあった。「クラブ・オリベ」には国会議員も企業家もくる。ママが交通事故で入院したとなれば、当座はこの客たちの見舞いが殺到すると考えているのだ。  薬を出す薬局の前は外来患者などが声も出さずにベンチに詰めている。T病院は目下裏のほうに新館を建設中で、どこもかしこもせせこましくて混雑していた。鍋屋が受付で教えられたほうへ行く前に、エレベーターから吐き出された一群の人の中に四人づれの紳士がいて、玄関へ急ぎ足に向った。  鍋屋の位置からすると、彼らは横の姿になるのだが、背の低い老人を三人が中に包むようにしている。そのために老紳士の横顔はよく見えないが、頭の上が禿《は》げ、まわりを白い髪がとりかこんでいるくらいは知れた。どこかで見たような顔だとは思うが、自分が直接に会った顔ではなかった。  四人はたちまちのうちに外へ消えたが、察するところ、玄関前にいた二台の車はこの四人を待っていたと思われる。二人一台ずつだからかなり贅沢《ぜいたく》であった。  花束を抱えている鍋屋は、ほかの人たち十人ばかりといっしょにエレベーターに乗った。中には浴衣着の患者もおり、看護婦もいた。七階までには次々と途中の階で降りて、最後には鍋屋と看護婦だけになった。七階は外科病棟だった。  エレベーターを降りると、そこが見舞客の面会室になっていて、七、八人が壁を背にした長椅子にならんでいた。右側が北病棟、左側が南病棟で、それぞれの端にナース・ステーション(看護婦詰所)があった。  看護婦が五、六人、医者が一人居る北病棟のナース・ステーションの前に鍋屋は歩み寄った。 「織部佐登子さんの入院されている七二五号室は、どっちへ行くんですか」  看護婦が無愛想に指さした。 「あっちです。右へ曲ったところにありますよ」  その廊下を進むと左右に病室がならぶが、出入口の開けたドアから内部がまる見えであった。薬品の臭いがこもっている。今日は雨降りで、蒸し暑い。六人ベッドの部屋が多く、患者で寝ているのもあり、起き上って坐っているのもあった。  カギの手になった廊下の突き当りを右に折れると、また病室がいくつかつづきその先に七二五号室があった。密閉されたドアには「面会謝絶」の札がかかっていた。そこは個室の特別病室であった。鍋屋の足はその札の前にとまった。 「面会謝絶」なら、見舞客はそうたくさんはあるまい。あるいは多すぎるので、この札を出したものか。それとも怪我はほんとに重症なのだろうか。  鍋屋は遠慮深くドアをノックした。病室の付き添いには波子が行っているという川村の言葉を浮べていた。  ドアは開かなかった。鍋屋はしばらく待ったが、応答がないので、こんどはやや強く叩いた。そのあとまた待った。その間、二分くらい経った。  ようやくドアが細目に開き、女の半顔と眼とがあらわれた。 「あら」  花を抱えた鍋屋を見て小さく云ったのは、波子だった。  波子はドアをすこし開けてそこから身体を辷《すべ》らすように出てきた。その際、鍋屋の眼にドアの隙間《すきま》から控えの間がちらりと見えただけで、奥のベッド室はわからなかった。 「今日は。ママのお見舞いに来たんだけど」  鍋屋はドアの前で波子に云った。 「どうもわざわざおそれいります」  波子は殊勝げにおじぎをしたが、その顔は、どういうわけか、ほてったように上気していた。  鍋屋はそれを、自分の突然の見舞いに波子がどぎまぎしていると解釈した。それに今日は蒸し暑かった。 「ママが交通事故で負傷したと聞いてびっくりしたんだが、様子はどうだね?」  波子は病室の前から離れ、誘うように廊下を先に立って歩いた。  包帯交換品や点滴の道具をのせたワゴンを押す看護婦、カルテを小脇に抱える若い医者。波子が鍋屋を連れて行ったのは、エレベーター前の面会室だった。  面会室は、その長椅子の半分が空いていた。二人はそこにならんでかけた。端のほうでは、浴衣の患者が煙草をふかしていた。 「どうもありがとうございます」  波子は鍋屋から花束を受けとった。その先には川村正明の名刺を入れた小さな封筒がさがっていた。 「ママが交通事故に遇った話は、川村から聞いてね。ぼくは彼の代理でもあるとたい」 「どうも。先生によろしくおっしゃってください」  波子から聞く佐登子の交通事故のいきさつは、川村の話とだいたい一致していた。 「それはひどか災難だったなあ。で、ママの経過は、どげなふうかな?」 「頭部を強く打ったというので心配してたんですが、怪我はたいしたことはありません。いま、脳波の検査などをしてもらっています。結果はまだわかりませんが、そのほうも大丈夫のようだとお医者さんはおっしゃってます。それとレントゲン検査で二本の肋骨にヒビが入ってるのがわかったんですが、これも二週間くらいの入院で全治するそうです」 「で、ムチ打ち症のほうは?」 「ムチ打ち症?」 「山手通りで、車の追突ということだったじゃなかかの?」 「ああそうでした」  波子はすこしあわてたように云った。 「はい、追突でしたが、さいわいムチ打ち症にならずに済みました」 「そりゃ、よかったな」  鍋屋はポケットから煙草をとり出した。 「で、波ちゃんはママの入院中は、ずっと付き切りで居るのか」 「ええ。お店を休んで自分に付き添ってくれとママが云うもんですから。ママは人見知りするほうなので、ほかの人の付き添いでは駄目なんです」 「えらくきみはママに見込まれたもんだな」 「ママがわたしを可愛がってくれるので、こんなときには尽してあげたいんです」 「よか心がけたい。波ちゃんは青葉台のママの家から近かとこに居るからな」 「タクシーで二十分そこそこですわ」 「この前、川村がママのとこへ寄ったとき、オーストリッチのハンドバッグば手土産に持参したが、波ちゃんはあれば見たか」 「ママから拝見させてもらいました。すごく立派なので、おどろきましたわ」 「あれはな、ぼくが日本橋のデパートで見つけたとたい」 「あら、鍋屋さんが?」 「うむ。ほうぼうの店ば探し回ってな。あれくらいの品になると、そうザラには置いてなかけんな」 「鍋屋さんがあのオーストリッチのハンドバッグを求められたとは知らなかったわ。さすがにお眼が高いのね」  波子の上気した顔もいまはさめていた。 「あのハンドバッグの値段、いくらしたと思う?」  鍋屋は試すようにきいた。 「百万円かしら」 「ほう」  鍋屋はニヤリと笑った。 「川村がママに惚《ほ》れとるのは、それでもわかるじゃろう?」 「ママも先生が好きだとわたしに始終云ってるわ」 「その川村がママとラブ・シーンばしようとしたとき、きみが突然断りもなく入ってきたそうじゃなかかの?」 「ママの家にわたしは始終遊びに行っているのよ。だから、いつものようにあの部屋の襖《ふすま》を平気で開けたら、思いがけないシーンにぶっつかったの。ママにこっぴどく叱られたわ」 「川村もこぼしていたよ。せっかくのところば波子に邪魔されたいうてな」 「ほんとにごめんなさい。悪かったわ。でも、あれにお懲りにならないで、またママの家へ遊びに来てくださいと先生へおねがいしてよ。ママが退院したらね」 「ところで、あのハンドバッグ、ママは使っとるかね?」  波子は足もとに石が飛んできたようにどきりとなったが、すぐに平静な顔になった。 「あの豪華なハンドバッグを、いくらママでも、ふだんから持ち歩くわけはないじゃないの。大事にしまってるわ。退院したら、着飾った姿で、あのバッグを持って回るって、それを愉《たの》しみにしてるわ」 「ばってん、あげな豪華なバッグば持ち歩くとに、ママは誰かに遠慮があるかもしれんな」 「あら、どうして?」  鍋屋は、そっと親指を立てた。 「これに悪かろうもん」 「バカね。ママはどこまでも独りよ。そんな人は居ないわ。わたしが保証するわよ」  ——このとき鍋屋に閃《ひらめ》いた情景があった。この病院に入ったとき玄関で見た四人づれの男たちだ。背の低い一人の老紳士が、三人にかこまれるようにして、玄関前に待たせた黒塗りの車に急いでいた。部下を垣にしてそそくさと歩いていたあの老人こそ、織部佐登子のパトロンではないだろうか。  新聞か雑誌の写真で見たような顔だ。どこか大きな会社の社長だったかな。とにかく財界人だ。あれは佐登子を見舞っての帰りではなかったか。受付の女が、入院患者名簿も見ずに佐登子の病室番号を云ったことも思い合された。 「そろそろママが眼をさますころですから、わたし、これで失礼します」  波子は椅子からふいと立ち上った。  自首  渋谷のアパートに住む平田照夫という二十二歳になる店員が、五月十九日の午後、所轄の赤坂警察署に出頭した。自首をしに来たというのである。  若者は、捜査課員の眼の前で、風呂敷に包んだものを解いた。大型のハンドバッグが現れた。中に百万円の札束が詰まっていた。一千七百五十万円が入っていると自首者は云った。  若者を別室に入れて、課長が会った。 「どうしたのかね。詳しい事情を云いなさい」 「八日前の十一日の朝六時すぎごろでした。ぼくは自転車で南青山の通りを走っていました」  家具屋の店員、平田照夫は、どもりがちに話した。 「ぼくは毎朝運動のために自転車に乗って走っています。そのコースは決まっているんです。このバッグを持った女のひとを見たのは、そのコースの途中でした」 「地図を描いてみなさい」  課長に云われて平田は略図を描いた。課長はそれを見て、管内の詳しい地図と照合した。 「北と南の、こことここに信号があります。その間、約二百五十メートルです。その中間のこのへんが大通りと普通の道とが交差する四つ辻になっています」  若者は自分の描いた略図の上に指を当てた。 「大通りを南から北へ向って自転車を走らせていると、その四つ辻のところで大通りを横断する女のひとを見たのです。そうですね、五、六十メートルのところからです。そのひとは手提げの黒いハンドバッグを持っていました。たった一人でした。ほかに通行人はいませんでした。車の群は南側の赤信号で停まっていました。だれも見ていないという状況が、ぼくに出来心を起させたのです。女のひとが持っているハンドバッグを奪ってやろうという気がふいに起りました」 「ハンドバッグの中に大金が入っているとわかっていたのかね?」 「いいえ、そんなことは夢にも思いませんでした。ただ、三万円か五万円くらい入った財布がハンドバッグの中にあるだろうとは思っていました。ぼくはサラ金の返済に困っていたのです」 「それからどうしたのかね?」 「その女のひとが歩道から出て大通りを横断しようとするとき、ぼくは十メートルくらい手前のところから、サドルから腰を上げ、ペダルを強く踏んで全速力を出しました。女のひとはぼくの自転車に気づいて避けようとしましたが、こっちは狙いをつけて自転車ごと体当りしました。女のひとは道路に倒れ、ぼくも自転車といっしょに転倒しました。そのとき、女のひとがハンドバッグを手放したので、ぼくは女のひとが起き上る前に、それを奪って自転車で逃げました」 「きみがハンドバッグをその婦人から奪って自転車で逃げた道は?」  捜査課長は自首の若者に訊問《じんもん》した。 「女のひとが倒れている間に、自転車を起してそれに乗り、片手にハンドバッグを抱きかかえて、すぐに横丁に逃げこみました。そこから渋谷のアパートに帰るまでの道は、ここを通ったのです」  平田照夫は、略図を示した。 「その婦人が倒れたときの様子を、もうすこし詳しく云いなさい」 「ぼくが勢いをつけた自転車にはねられて、女のひとは仰向けに道路に倒れて動けませんでした。そのひとは顔を黒のネッカチーフで包み、セーターの下にスラックスをはいていました。セーターもスラックスもどういう色だったか憶えていません。なにしろ、ぼくもあわてていましたから」 「その婦人の年齢は?」 「ネッカチーフがずれたときに顔をちらりと見たのですが、四十前のひとでした」 「顔の特徴は?」 「それもよくわかりません。というのは、倒れたときに女のひとは自分の両手で顔を掩《おお》いましたから。けど、きれいなひとだったようです」 「その婦人は、倒れてからきみに何か云ったか」 「何も云いませんでした。眼まいを起した様子で、口がきけなかったのです」 「そのとき、傍を車が通らなかったのか」 「さっきも云いましたように、車の一群は百五十メートル手前の赤信号にひっかかって停止していましたから。ぼくはその車がくる前に逃げたのです」 「婦人は道路に倒れたままだったか」 「そのままでした。起き上れなかったのです。ぼくは、女のひとが道路に頭をぶっつけたので、脳震盪でも起したのではないかとあとで心配になりました。けど、引返して様子を見に行くわけにもいきませんでした。新聞にそれがどんなふうに出ているかと思って、毎日々々、新聞を見ましたが、何も載っていませんでした。警察に女のひとの様子がわかっているなら教えてください」 「まあ大丈夫らしいよ」  捜査課長は口を濁した。  その盗難届が出ているかを、いま部下に調べさせているところだった。千七百五十万円入りのハンドバッグを強奪されたのだから、被害届は当然出されていなければならず、被害者かその関係者かが署に来て事情を説明するはずなのに、課長の耳にはそれがまだ入っていなかった。 「八日前に大金の入ったハンドバッグを奪って逃げたきみが、どうしていまごろ自首する気になったのか」 「怕《こわ》くなったからです」  平田は、犯行八日後の自首についてその理由を捜査課長に云った。 「どうして怕くなったのか、それを云いなさい」 「じつを申しますと、このハンドバッグには百万円札束が二十個入っていたのです」 「なに、二千万円入っていたのか」  課長は眼をみはった。 「そうなんです。その中からぼくが二百五十万円を使いました。サラ金に四十万円を返し、三十万円は友だちの借金に返し、あと百八十万円を小遣いにしました。そのうち百五十万円は場外馬券で、すってしまいました」  若者は頭を掻《か》いた。  ハンドバッグの中身をみると、百万円札の札束のうち十七個がゴム輪でくくられて入れてあった。平田の自供による三個が不足していた。  横三十センチ、縦二十センチ、幅十七センチのハンドバッグには、札束のほかに化粧品、財布、ハンカチ五枚があった。化粧品と財布は輸入品で、麻のハンカチも高級品だった。被害者の婦人が贅沢な暮しをしていることが推定できた。しかし、身元を知る手がかりになる物はなかった。 「きみが怕くなったのは、奪ったのが二千万円もの大金だったからか」 「それもありますが、ほんとうはこのオーストリッチのハンドバッグです」 「オーストリッチのハンドバッグがどうして怕いか」 「課長さん。これはフランス製の最高級品ですよ。ぼくがこのハンドバッグだけを女友だちに見せたら、そう云っていました。彼女は眼をまるくして、こんな最高級品は今まで見たこともないと、びっくりしていました」 「きみは独身か」 「まだ二十二歳ですからね。渋谷のアパートに独りで住んでいます。勤め先の家具店には午前九時に出て、午後七時に帰ります。月給は十六万円です。女友だちと遊ぶため、なかなか苦しいです」  捜査課長は、手袋をはめ、盗品のハンドバッグを手にとって仔細《しさい》に見た。ボストンバッグ型のそれは斑《ふ》の粒が揃《そろ》い、整然とならんでいた。なるほど高級品に思えた。それにまだ新しいのである。 「きみは、札束の入ったこのハンドバッグを、今までアパートの部屋に匿《かく》しておいたのか」 「押入れの中のガラクタ品の下に、古新聞紙に包んで突込んでおきました。何もないぼくの部屋に泥棒は入って来ませんが、たとえ忍びこんだとしても、ガラクタの下にこんなものが古新聞紙に包んで匿してあるとは気がつきませんからね」 「もう一度|訊《き》くが、大金よりもなぜハンドバッグが怕くなったのか」 「カネは長い間に上手に費《つか》ってしまえばわかりませんが、こんな高級のハンドバッグは処分ができませんからね。女友だちは、八十万円ぐらいはするんじゃないかと云っていました」 「このハンドバッグが八十万円もするのか」  女性用高級品のことに詳しくない捜査課長は、もう一度ハンドバッグを眺めた。 「ぼくの女友だちはそう云いました。彼女は婦人用品に眼が肥えているので、だいたい間違いないと思います。こんな持ちつけない物をぼくが持っていたら、かならず自分のやったのがバレると思いました。質屋に持って行けば怪しまれるし、女友だちにくれてやっても、そこからアシがつきそうなんです。といって、どこか遠い場所に捨てるにしては惜しい気がします。ほとほと始末に困りました。それで思い切って自首したのです」  若者は苦しそうな笑いを洩《も》らした。  課長は黒いハンドバッグに眼を近づけていたが、白い手袋の指先をある個所に当てた。 「ここにキズがついているね?」 「はあ、キズがあります」 「これはきみがつけたキズかね?」 「いいえ、はじめからついていました。あの場所からアパートに戻ってよく見たら、こんな擦《こす》りキズがありました」 「バッグはまだ新しいのに、惜しいキズだね。おや、ここと、ここにもあるよ」 「合計で三カ所あります」 「きみの自転車で婦人が道路に倒れたときに、ハンドバッグが路面にぶっつかって付いたキズじゃないかね?」 「そうかもわかりません。けど、それにしてはキズの個所が多すぎると思いますが。道路にぶっつけたなら、一個くらいじゃないかとも思いますが」 「うむ。……」 「それに、キズがちょっと長いでしょう。女のひとが転んだとき、バッグを道路にぶっつけたのだったら、こんな長い形のキズにはならないと思いますが」 「……」  課長は、強奪犯人に教えられたような心地になった。 「それにね、課長さん。いまはぼくが拭き取っているので残っていませんが、最初はこのキズのところに白い粉がついていました」 「白い粉が?」 「そうです。何かセメントの粉末のようなものでした。舗装道路でもセメントの粉末はつきませんからね。バッグの全体に土と埃がつくだけです。それもぼくは拭きとりましたが」 「セメントの粉末はどこでバッグについたのだろうか」 「それは持主にきいてみなければわかりません。課長さん、あの女の人は、どういうふうに届出をしていますか」  課員が入ってきて課長に耳打ちする。管内に被害届は出ていなかった。  二千万円入りの高価なハンドバッグが路上で強奪されたというのに、八日経った現在、被害届が出ていないのは奇態な話であった。  赤坂署の山本捜査課長は、自首した家具屋の店員をひとまず留置し、警視庁捜査一課にこのことを電話で報告した。本庁に被害届が出ているかもしれないし、他署にそれがあるかもわからない。しかし、本庁ではその事実がないと云った。  山本課長は、この強奪事件をサツ回りの新聞記者たちに伏せた。課員らにも口止めさせた。そうして本庁へ行き、捜査一課長と会った。  被害届が出ないのは何らかの事情が被害者側に伏在しているという点で両課長の意見は一致した。もし今の段階で新聞に報道されると、ニセの「被害者」が続出するおそれもあり、その煩雑を避ける意味でも、当分は発表しないことにした。  被害届が出ていなくても、被害者の身元を知る手がかりはあった。オーストリッチのハンドバッグを売った店をかたっぱしから調べて歩けばよい。  八十万円もするようなフランス製のハンドバッグを売る店は、都内にもそうざらにはない。それにバッグはまだ新しく、買ってから間がないと思われるので、これを売った店の店員も憶《おぼ》えているはずであった。  赤坂署の捜査員二人は、現物を持って銀座|界隈《かいわい》の婦人用品店やデパートの特選売場を訪ねて歩いた。それに突き当ったのは銀座ではなく、日本橋のデパートだった。  ハンドバッグの特選売場の主任が捜査員の持参した現物を見て、即座に首肯した。 「たしかにてまえのほうでお売りしたハンドバッグでございます」 「どういう人が買ったのですか」  女店員が売場主任に手招きされて出てきた。 「これをお買い求めになったのは、四十歳半ばの男の方でございます」  女店員は云った。 「なに、男? 男がハンドバッグを買うのかね?」  捜査員は女店員の顔を見た。 「ご婦人へのプレゼントだとおっしゃっていました」 「ああなるほど。その人の住所と名前は?」 「それはうかがっていません。初めて見えた方で、領収証も要らないとおっしゃいました。包みに�粗品�と書きましたが、名前は必要ないと云われました」 「値段は?」 「七十万円でした」 「ずいぶん高いですね」 「はい。オーストリッチのハンドバッグとしては最高級品でございます」  売場主任は自慢そうに云った。 「で、売ったのはいつですか」 「これを売ったのは、たしか二週間前だったと思います。少々お待ち下さい」  売場主任はいったんカウンターの前から離れて帳簿を開いて、日付を確認した。 「間違いございません。今月の七日でございます」  自首した家具屋の店員平田照夫の自供によると、南青山通りを通行中の婦人からこのハンドバッグを強奪したのは十一日だった。このデパートで売られてから四日後である。  その四日間に、ハンドバッグを買った男が婦人にそれを贈り、貰《もら》った婦人が持ち歩いていたことになる。 「これを買った男の人の人相をおぼえていますか」 「肥《ふと》った身体《からだ》の方でした。まる顔で、真赤なくらいに血色がよく、眉が濃く、失礼ですが、団子鼻で、厚い唇の方でした」  女店員はよく憶えていた。 「何か、このハンドバッグのことで事件でも?」  売場主任は捜査員二人に訊《き》いた。 「いや、事件というほどでもないですが、ちょっとした事故が起ったのです」  捜査員は口を濁した。 「ちょっと、拝見」  売場主任は、横三十センチ、縦二十センチ、幅十七センチの大型オーストリッチのハンドバッグを手に取り上げ、点検するようにほうぼうに眼を近づけた。 「おや、三カ所にキズを付けていますね」  女店員も横からそれをのぞきこんで、 「まあ、ひどい。新品なのに」  と、口の中で叫んだ。 「こちらで売られたときには、このキズはなかったでしょうね?」 「もちろんですとも」  売場主任は侮辱されたように眼をむいた。 「品物は入念にチェックしております。ましてこのような高価な高級品ですから点検は充分にいたしております」 「第一、こんな擦りキズのようなものがあったら、お客さまがお買いになりませんわ。このキズは贈られた先方の方が付けられたにちがいありません。それにしても、こんな最高級のバッグを、なんて乱暴な扱いをされたのでしょう」  女店員はわがことのように憤慨した。 「ぼくらとしては、このバッグを贈られた婦人の名前を知りたいのですが、それには贈り主の名を知る必要があります。ここでこれを買った男客の名がわかるような何か方法はありませんかねえ?」  年かさな方の捜査員の困惑した顔を見た女店員が、 「あ、思い出したことがありますわ」  と、売場主任に云った。 「ね、主任さん。これを買われたお客さまと、ワニ皮のハンドバッグを買われた男のお客さまとは、お知り合いのようだったじゃありませんか」  捜査員は女店員の声に聞き耳を立てた。 「その話を詳しく云ってください」  肥った男がオーストリッチのハンドバッグを買ったとき、おりからワニ皮のハンドバッグを買いに来た中年男があった。女づれであった。ワニ皮の男客は関西弁で、オーストリッチの客は、ばってん、とか、たい、とか云って九州弁で、二人どうしで親しげに話していたというのである。 「関西弁のお客さまは、百五万円のワニ皮ハンドバッグをお買いになりました」  女店員は云った。 「百五万円のワニ皮バッグだって?」  七十万円のハンドバッグでも高いと思っていたのに、上には上があるものだと捜査員は、わが給料にひきくらべて嗟歎《さたん》した。 「はい。ワニ皮のハンドバッグとしては最高級品でございます。でも、その百五万円を五万円引いて、百万円にしろとねばられまして、さすがに関西の方だと思いました。そんなこともあって、印象に残っております」 「そのワニ皮のほうは正式に領収証を出しましたか」 「いいえ、宛名なしのレシートだけでした」 「そこまで印象にあるなら、関西弁のそのお客の身もとを知る方法が、なにかありませんかねえ?」  捜査員は、関西弁の男と九州弁の男とが親しく話していたというなら、関西弁の買い手から九州弁の買い手が割り出せる、と考えていた。 「あ、そうだわ」  女店員は思い出したように叫んだ。 「ワニ皮のお客さまは胸に菊の御紋章のバッジを付けていました」 「ほう、国会議員さんかな。エビ茶か黒のビロードの輪の中に金色の小さな菊花が光っているバッジですか」 「いいえ、アズキ色の菊花です。間にのぞいている複弁が白でした」 「ああ、それなら議員秘書のバッジです」  女性だけにこまかく観察していた。その捜査員の言葉を聞いて、他の店員が思い出して云った。 「そうだ。その方から議員秘書の名刺を頂いております」 「なに、名刺を?」 「主任さん。あの時、主任さんにその名刺を渡しましたね?」 「そうそう、思い出しました」 「それ、見せていただけますか」  捜査員は急に元気づいた。 「承知しました。少々、お待ちください」  売場主任は自分の机に戻って、名刺帳のようなものを繰っていたが、その中から一枚の名刺を抜いて捜査員の前に戻った。 「この方でございます」 ≪国会議員秘書同盟委員長 衆議院議員丸山耕一秘書 有川昌造≫  朝九時、世田谷区松原のマンションにいる鍋屋《なべや》健三に赤坂警察署から電話がかかってきた。妻の取次ぎで、彼が出た。 「鍋屋健三です」 「朝からお電話してすみません。こちらは赤坂署の捜査課長ですが」  先方は叮重《ていちよう》であった。 「とつぜんに、つかぬことをおたずねいたしますが、鍋屋さんは、衆院議員の丸山耕一先生の秘書の有川昌造さんをご存知でいらっしゃいましょうか」 「有川君なら知っています」  鍋屋は電話口に答えた。 「とくに昵懇《じつこん》というわけではありませんが、同じ政憲党の議員秘書どうしですから、会えば雑談ぐらいはします」 「そのことで、ちょっとお眼にかからせていただきたいのですが、よろしゅうございましょうか。ほんの短い時間でけっこうです」 「それはかまいませんが……」  答えかけて、こんどはこちらから訊いた。 「赤坂署の捜査課長さんでしたね?」 「捜査課長の山本警部です」 「有川昌造君についてということでしたが、有川君がどうかしましたか」 「いや、有川さんが事故とか、そういうものを起されたのではありません。その点はご心配なく。ただ、ほかのことで、参考までちょっとうかがっておきたいことがあるのです」 「わかりました。こちらにおいでになるのですか」 「お宅におうかがいしてもいいし、もし都心においでになるなら、ご指定の場所へ出向きます。どちらでもけっこうです」  鍋屋は考えた。このマンションの部屋はそれほど立派ではない。それに、女房の耳には入れたくない話があるかもしれなかった。 「今日の午後二時、赤坂のアダムズ・ホテルのロビーでお待ちしています」 「赤坂のアダムズ・ホテルのロビー、午後二時でございますね?」  確認しながらメモした様子だった。 「そうです」 「恐縮です」  電話を切ったあと、鍋屋健三は考えた。  赤坂署の捜査課長は何気なく云っていたが、有川昌造が何かしでかしたのかもしれない。  有川が「議員秘書同盟」なるものを作って、自ら委員長になったのは知っている。その組織を作るために彼は議員会館の各事務所の秘書たちを熱心に勧誘していた。議員秘書の弱い立場を自ら救うために秘書の横の結集を図るというものだった。げんに川村の第一秘書と第二秘書がその勧誘を受けていた。  いまのところ、五十名ぐらいはその「秘書同盟」の中に入っているようだ。書記長格は宮下正則議員の第一秘書木沢房吉だという。  有川昌造は近ごろ金まわりがいいらしい、と鍋屋は思った。  ——川村の「励ます会」のパーティのあと、銀座の「オリベ」に行き、十一時ごろ、波子の見送りでそこを出て、街の公衆電話ボックスで赤坂の議員宿舎に電話した。応答がなかった。川村はまた新宿「香花荘」の岩田良江のもとに転げこんだのか、あれほど忠告したのに、と少々腹立たしい気持になって電話ボックスを出たあと、有川昌造に出遇った。有川は腕にどこかのホステスを擁して、いささか千鳥足のご機嫌であった。  次は、日本橋のデパートの特選売場で有川と鉢合せになった。こっちは川村に持たせてやる織部佐登子に進呈用の七十万円のオーストリッチのハンドバッグを買ったのに、有川は伴《つ》れの女に百五万円のワニ皮ハンドバッグを買い与えていた。もっとも五万円を値引きさせたところは有川らしいけど、高いハンドバッグを買う奴には、上には上があるものと驚嘆した。  その同伴した女は、三十六、七、若づくりしていたが、もっと年がいっているかもしれない。鼻が低く、頬の高い顔で、不器量だった。あんな女に惚れこむとは、有川もよほど女にシケていると思ったものだが、そんなことはどうでもよい。問題は有川昌造の景気のよさだ。  何かよほどいい金儲《かねもう》けのアナを見つけたとみえる。彼が仕える丸山耕一議員は、当選六回、環境庁長官を経験しているが、カネ集めは下手なほうだ。有川がオヤジのおかげで、ヨロクをかせいでいるとはとうてい思えなかった。  すると、有川の金まわりのよさは、どこからきているのだろうか。鍋屋がふと考えたのは、有川の「国会議員秘書同盟委員長」の呼称だ。彼はその肩書がよほど気に入っているらしく、デパートの特選売場でその名刺をふりまわしていた。 「国会議員秘書同盟委員長」の肩書は、世間にハッタリがきくにちがいない。強面《こわもて》がする。気の弱い企業はカネを出すだろう。一方、この肩書は、議員連よりも陳情者らに威力を感じさせるだろう。陳情は議員よりも秘書のほうが実際行動をするのだ。ときに秘書は議員を棚上げして企業と直接につながるが、それも秘書の実力からである。「国会議員秘書同盟委員長」となると、もっと効果を発揮しよう。  せいぜい五、六十名ぐらいの秘書をかき集めて「秘書同盟」もおこがましいが、有川昌造の「委員長」はどうせ始めからきまっていたにちがいない。有川にとって「同盟」の実体はどうでもいいのだ、彼が欲したのは、カネ儲けの手段としての「委員長」の名だったのだ。  もしかすると、有川のヤツ、悪乗りして企業に対して恐喝まがいのことをしたのではないか、それで警察が彼をマークしたのではないか、と鍋屋は赤坂署の捜査課長の電話から考えた。  鍋屋は出入りのハイヤーでマンションを出た。  松原の住宅街を通るとき、以前から新築工事がすすんでいる目かくしの板囲いが除《と》れて、新築の全容が現れていた。  和洋|折衷《せつちゆう》の最新設計は近代感覚の見事なハーモニーを奏でている。地価四億円、地下一階、地上三階の家屋建築費八千万円、推定四億八千万円。いや、建築費だけで一億円を出るかもしれない。  新光化学工業の社長の家というのだが、たしかサラリーマン社長だった。社長族というのはどうしてこうも金まわりがいいのか、と鍋屋はまたしても思った。  アダムズ・ホテルで赤坂署の捜査課長と会う時間にはだいぶん早かった。鍋屋は衆院第一議員会館に車を着けさせた。川村の事務所をのぞいてみる気になったのだ。  入口横の面会人受付は、今日も人でいっぱいであった。ほとんどが議員への陳情とみていい。  鍋屋はエレベーターに入った。十人ばかりの先客が居る。田舎臭い手土産を持った陳情団だった。 「手土産」といえば、川村正明が織部佐登子に贈ったオーストリッチのハンドバッグを鍋屋は思い出す。七十万円の品だ。川村の話を聞くと、あれをエサにしても織部佐登子への第一回のアタックは不成功に終ったという。波子の闖入《ちんにゆう》に邪魔されたというが、それにしても運のない男だ。——  川村事務所に寄ったが、案の定、川村は居なかった。第一秘書も、第二秘書も、ぽかんとしている。陳情者もいなかった。若い二世議員に陳情してもあまり効果がないと知っているかららしい。官僚出身でもない川村は、霞が関(各省庁)にも顔がせまく、陳情処理の交換にも力がない。ボスの板倉退介は、目下のところ非主流派で、陳情達成に頼み甲斐《がい》もなかった。  ボンクラの第一、第二秘書を相手にしても仕方がないので、二階の丸山耕一議員の事務所をのぞくことにした。第一秘書の有川昌造が居れば、これから会う赤坂署の捜査課長の用件に見当をつけたいと思った。捜査課長が「有川さんのことで」と云っていたからだ。  鍋屋が声をかけて入って行くと、第二秘書の吉見四郎は女事務員の三原秀子と親しそうに話していたが、これは珍しいといった顔で迎えた。有川の机の上は片づいていて、前の本立てにノートやファイル類がぎっしりならんでいた。ほとんどが陳情関係で、個人の入社や許認可を求める事業体が多い。中でも情実入社が圧倒的である。川村の青二才とは違い、当選六回、環境庁長官経験の丸山耕一はさすがに陳情集中の的になっていた。  丸山耕一議員くらいになると、公共事業体たとえば公社のようなところには、三人くらいの入社人員枠を持っているようだ。地元秘書団からの強い要請や、議員どうしのホシの貸し借りに備える。東京秘書は地元秘書に、そちらの頼む何某の息子を某公社へ入れてやったから、票のまとめをしっかりやってくれよなア、などと云って恩に着せる。公社は自社関係の有力議員の口添えに仕方なしに入社させるのだが、入社試験の成績などはじめから論外である。「バカでもチョン」でも、公社は新入社員を引受けざるを得なくなる。  だが、民間企業に対してはそうはゆかなくなる。ことに近年のように不況だと、いくら有力議員でも押し込みは容易でない。そこで秘書どもがほうぼうに汗を流して奔《はし》りまわり、米つきバッタのように頭をさげるのであった。会館の議員事務所には「陳情」の臭いが塗りこめられている。—— 「有川君は居ないの?」  鍋屋が訊くと、第二秘書の吉見四郎が、「陳情ノート」の本立ての前から青白い顔を上げて、 「今日は頭痛がするとかで欠勤です。電話で連絡がありました」  と云った。やっぱりな、と鍋屋が合点したのは赤坂署の捜査課長の電話と思い合せたからである。  奥の部屋はドアが閉まっていた。 「丸山先生は?」 「おやじはいま、党の部会に出ています」  それなら安心と、鍋屋は吉見の机の横に寄った。 「有川君のやっている国会議員秘書同盟の景気はどうだね?」  これは赤坂署の捜査課長との面会に備えるためであった。 「さあ、ぼくらにはよくわかりません」  若い吉見は笑っていた。 「おや、あんたは同盟に入ってないのか」 「ぼくは辞退しました」 「どうして?」 「みなさんベテランの秘書さんばかりですからね。ぼくのような若造が加入するのはまだ早いです」  ニヤニヤする吉見の顔を見ると、どうやら有川の秘書同盟に信を措《お》いていないようであった。  身内の秘書からしてこんなぐあいでは秘書同盟の組織も知れていると思った。それなのに有川の景気がいいのは、「同盟委員長」の肩書を利用してのヨロク稼ぎだとますます鍋屋は思った。  女事務員の三原秀子が茶を入れようとするのを、鍋屋は手で制して外に出た。事務所に入ったとき、三原秀子は吉見の傍からあわてて離れたので、この両人は出来ていると鍋屋は見た。  事情聴取  アダムズ・ホテルで赤坂署の捜査課長と鍋屋が会うのは午後二時で、あと一時間以上もある。アダムズ・ホテルは会館から歩いても行ける。鍋屋は地下二階の一般食堂に入った。地下一階は議員食堂だ。  食堂はかなり広いが、ちょうどランチ・タイムで、秘書連中や外来者で混んでいた。メニューには、和食・洋食・中華料理と五十種類も揃っているが、あまり変りばえはしない。もっとも安いことは安く、秘書らが「マル弁」とよんでいる幕の内弁当が七百円、ウナ重のナミが九百円、上が千二百円、天ぷら定食八百円、スシの上が七百七十円。  鍋屋は千五十円のスキヤキ定食を取った。まずい味を承知でここへ昼飯に来たのは、秘書連のいる食堂風景に何かの情報ヒントがあるかもしれないと思ったからだ。  食堂は五十人ぐらい収容できる。カギの手になった客席のあちこちで女事務員たちが焼ソバ、巻ずし、ラーメン、チキンライスなどを食べていた。そういうのは、三百円から五百円の間である。  この昼食も彼女らの井戸端会議で議題に上っていた。湯沸し場に集っての話。 (ウチの先生は昼食代の全部を出してくれるわ) (あら、いいわね。ウチの先生は一銭も出さないわ。昼食代まで負担する必要はないと云ってるのよ) (あら、ケチ!) (ケチも最高よ) (そりゃ、第一秘書が悪いわ。彼が先生に進言しなくちゃね) (進言したってダメよ。それにね、第一秘書は先生の顔色ばかりうかがってる意気地なしだから)  ——鍋屋はスキヤキの脂の多い肉をつつき、茶を飲む。湯呑みを口に当てたとき、三列向うのテーブルの人と人の間に小さな男がラーメンをすすっているのがみえた。西田八郎だった。  西田は発行せざる院内紙記者である。会館を廊下トンビしては議員に「名刺広告」の付き合いをせがむ。旧《ふる》い議員はしぶしぶそれに応じる。新聞を出していないから、これはあきらかに「喜捨」であった。  川村正明にも、 (ご尊父の先生にはずいぶんと可愛がっていただきました)  と、「広告料」をねだったが、川村は、 (死んだ親父は親父。ぼくはそんな付き合いはしないよ)  と、二世議員らしく拒絶した。以来、西田は川村を快く思ってないようであった。西田は広告料取りだけでなく、「情報売り」でもあった。  鍋屋がスキヤキ定食を食べている間に、西田八郎の姿は消えていた。彼がふたたび鍋屋の前に姿を現したのは、食堂から上ってエレベーター前のホールに来たときであった。 「鍋屋さん」  ホールで、地下二階食堂から上ってくる鍋屋を待ち受けたように佇《たたず》む西田八郎は、顔じゅう皺《しわ》くちゃにして愛想笑いしながら呼びかけた。彼も食堂で鍋屋を見ていたのである。 「やあ」  鍋屋は仕方なしに片手をすこし上げて応じた。  西田はひょこひょこと鍋屋の傍に寄ってきた。 「鍋屋さん。ちょっと、あんたの耳に入れたい話があるのですがね」  なれなれしく、しかもどこかねばっこい調子で云うのが、この種「情報屋」の特徴であった。 「どげなことですか」 「川村先生に関することです」  西田八郎は声を低めた。 「川村のこと? 川村がどがんかしたとですか」  どうせいい加減な「情報」を耳打ちして、なにがしかのカネをねだる所存と鍋屋はタカをくくった。もっとも川村にいい感情を持っていない西田のこと、彼の云う「話」が多少気にならないでもなかった。  その西田は、あたりをきょろきょろと見まわした。議員専用のエレベーターから、午後再開の委員会に出席する先生がたが吐き出される。陳情組が隣三つのエレベーターに群れて入る。ホールを秘書たちが忙しそうに行き交う。 「ここでは、ちょっと、まずいですな。鍋屋さん、ちょっとそのへんまで出てくれませんか」  西田は場所を変えたがった。 「そんなら、ぼくはこれからアダムズ・ホテルへ行くとこですけん、途中までいっしょに歩きながら聞いてもよかですよ」 「そのほうが、ぼくとしても好都合です」  会館をならんで出た。背の低い西田は、大きな図体の鍋屋の横では子供のように見えた。  黒塗りの車が屯《たむ》ろする駐車場を横切った。 「今井先生のお車」「矢口先生の運転手さん」「柳沢先生のお車」「横田先生のお車」「勝浦先生の運転手さん」——  アナウンスの声が背中に遠ざかる。会館横のせまい道路を北へ向うと、山王坂《さんのうざか》が直下に落ちていた。  左側は会館の裏門。ここではときどき女事務員と議員秘書との待合せ風景が見られるという。その門のわきに西田は鍋屋を引張りこんだ。 「ほかでもないが、鍋屋さん」  前を走る車から顔をそむけるようにして西田は身体を斜めうしろにして云った。 「川村先生が、こんど南麻布に高級マンションを購入なさるそうですね?」 「え、川村が南麻布にマンションば買うって?」  鍋屋は意表をつかれた思いで、西田に反問した。 「おやおや、鍋屋さんはご存知なかったのか」 「いいや、知らん」 「ほんとに知ってない?」 「知らん。それ、だれから聞いた話ですか」 「或るところからですよ。へええ、川村先生はあんたに話してないのか」 「川村はなんにもそげなことばぼくに云うとらん」 「あそこの第一、第二秘書のボンクラ二人はあたり前としても、川村先生のフトコロ刀のあんたは知ってると思ったがな」 「西田君。そりゃ、確実な話か」 「南麻布三丁目、有栖川宮《ありすがわのみや》公園の南側、近くには大使館などがあって閑静な高級住宅地です。川村先生が買ったのは、その高級マンションの四階、最高値段の部屋です」 「えっ」  そこまで具体的にわかっているなら嘘《うそ》ではなさそうだった。  が、「情報屋」の云うことで、まだ鍋屋には信じられなかった。第一、川村にそんなカネはないはずだ。 「その話は、だれかほかの人のことと間違えておるとじゃなかかの?」 「えらく見くびられたものじゃな、この西田とあろう者を」  西田は鼻で笑い、いくらかすごんで見せた。 「そういうわけじゃなかばってん……」  鍋屋は、すこしあわてて云った。 「鍋屋さん、ぼくはガセネタなんか掴《つか》んでこないよ」 「……」 「マンション屋と川村先生が自ら交渉して、手付金も払ったそうです。川村先生はそこに、地元から家族を呼びよせると云っていたそうな」 「ほう」 「ほうって、あんたトボけてるのじゃないだろうな?」 「トボけるもんか。ほんとに初耳じゃ」 「どうかな。まあいいや。川村先生はな、郷里の家内がどうしても東京に住みたがっている、女の子が来年高校に入るが、これを聖心に入れたい、下の女の子は東京女学館に入れたい、とにかく名門校志望だそうだ」  そこまで聞くと、鍋屋も「情報屋」の云うことを信じるようになった。川村正明の妻は眼の細い、狐《きつね》のような顔をした女だが、見栄が強い。東京移住はかねてからの熱望で、亭主の川村をつついているのは鍋屋も知っていた。  川村が女房につつかれ、南麻布のマンションを買うという西田の話には、現実性があった。女房がその女の子二人を東京の名門校に入れたがっている話も川村からたびたび聞かされていたことだ。  しかし、いったい、一億円近いカネを川村はどこから都合してきたか。川村議員個人に対して、そんな多額な「政治献金」があるとは思いもよらない。  織部佐登子の顔が鍋屋にまず浮んだ。 「どうも、ぼくの耳に入ってなか話で、初めてあんたから聞かされてびっくりしとるとこたい」  鍋屋は溜《た》め息をついた。 「ほう、川村先生の参謀のあんたなら、よく知ってると思ったけどなあ」  鍋屋の表情から、彼がほんとに知ってないのを、西田はようやく納得したようだった。 「で、西田君、そんなことをほじくるきみの気持はどげなことかな?」  情報屋の真意、奈辺《なへん》にありや、と鍋屋は胸の中に呟《つぶや》いた。 「革新クラブのことですよ」 「革新クラブ?」 「川村先生は革新クラブの若手ホープでしょう?」 「ま、そげなことたい」 「この前、川村先生を励ます会には、板倉退介先生ほか板倉派の幹部と、革新クラブの代表世話人上山庄平先生らの同志が総出ということだったが、川村先生が九千万円のマンションに入られるほど、革新クラブは金力がついたかと、ぼくはそれを鍋屋さんに聞きたかったんですよ」  鍋屋は吹き出した。 「革新クラブにそんなカネの力はなかじゃ」  だが、西田がそれを探りたい背景はたしかにあった。革新クラブはヤング・パワーとかヤング・ポリシー集団とか宣伝もし、世間にも云われているが、じつの目的は党内各派のキャスティングボートを握るにあり、すでにもう各派からカネをもらっているという政界裏の風評があったからだ。 「でしょうな。ぼくもそう思いますよ」  西田は案外簡単に合点首をしたが、つづいてその首を左にかしげた。 「そうでないとすれば、川村先生の景気のよさは個人的な人気によるものですかな」 「個人的な人気?」 「ほら、川村先生は女性にモテるじゃないですか。先生は自分でも政界随一のハンサムをもって任じてるからな。女性との噂《うわさ》もちらほらぼくの耳に聞えんでもない。そんなことで、先生のマンション購入は、婦人ファン団体の献金によるものですかねえ?」  西田はねちねちとねばった。 「いや、川村はたしかに婦人に人気のあるばってん、婦人ファン団体から献金を貰うちゅうような、そげな特殊な組織はなかですよ。川村が東京に家を造るとすれば、そりゃ奥さんの実家からの援助でしょうや。奥さんの実家は古くからの酒の醸造元たい」  鍋屋は弁じた。 「ははあ、九州の酒造業ですか」  西田はぽかんとした顔をしたが、その眼には狡《ずる》そうな猜疑《さいぎ》の色があった。 「奥さんの実家から出る金とすれば、東京にマンションば買う計画がぼくの耳に入らんわけたい。いずれ川村からその話の出ろうばってんな」  鍋屋は、煙幕を張り、これは広告料の一部だといって財布から一万円札一枚を出して西田に渡した。 「こりゃどうも」  西田は顔じゅうを口だらけにして笑い、 「広告料と云われるなら、ありがたくいただいときます」  と、一万円札をうけとった。 「じゃ、ぼくはこの裏門から会館に帰ります。どうもお邪魔さま」  ぴょこりと頭を下げた西田は、その小さな姿を横飛びに裏門の中へ消えた。会館裏に入れば、そこにもエレベーターがある。  鍋屋はそのまま山王坂を歩いて下りながら、西田は川村のことで何を嗅《か》ぎつけたのだろうか、と思った。革新クラブの話は西田のマクラで、小当りに当ってきたのは川村の女のことだ。婦人ファン団体から献金かというのも西田の三味線で、もしかすると織部佐登子のことを小耳にはさんでの探りかもわからなかった。「クラブ・オリベ」の客に議員連中もくるから、そのうちの誰かが情報屋の西田に洩《も》らしたのかもしれない。  坂の途中の左側に酒屋があった。店の中では店員がウイスキーの化粧函に紅白の水引をかけていた。議員会館の者が贈答用などによくこの店の酒を買う。  どういうわけか、それを見たとたん、鍋屋の頭にふいに閃《ひらめ》くものがあった。  ——そうか、川村は東京のマンションを買う資金に、「香花荘」の岩田良江からカネをまき上げたな。 (あれほど岩田良江には足踏みするな、と川村に忠告しておいたのに、しょうのない奴だ、フウケモン〈馬鹿者〉が)  アダムズ・ホテルへ行く坂道を上りながら鍋屋は悪態をついた。  川村をイナした格好の織部佐登子が一億円近くも彼に出すわけはないのだ。川村に惚《ほ》れこんでいる岩田良江の「献金」なら、西田の云った話に筋が通る。  それにしても、良江がそんなことをこれから二、三回もつづけると、「香花荘」は潰《つぶ》れてしまう……。  いったい川村は岩田良江にどのようなことを云って一億円を出させたのか。——鍋屋は歩きながら考える。 (政治運動をするには、カネがかかる。なんとか都合してくれないか)  好きな男のためには、「香花荘」を潰してもかまわぬ、と良江は覚悟しているかもしれない。十年前に夫が死んで、自宅で旅館経営を開いた良江だ。中年の未亡人は、川村の身体を得てから彼に盲目となり、馬車ウマのように奔《はし》っているらしい。  しかし、川村が国元から東京へ妻子を呼ぶ目的で南麻布にマンションを買い、そのために良江に「政治資金」を出させたことがバレたときの、彼女の憤りが今から想像できる。川村はどう処理するつもりだろう。えらい騒ぎが起るかもしれない。マンション購入のことを事前におれに打ちあけるならともかく、こっそりとそんなことをしておいて、いざとなってこっちへシリをもちこんでも、おれは知らんぞ、と鍋屋はせせら笑った。  アダムズ・ホテルの玄関の回転ドアを押したのが二時十分前であった。  ロビーには外人をまじえて男たちがたたずんだりクッションにかけたりしている。鍋屋が入ってきても彼の顔にだれも眼を向けなかった。  まだ赤坂署の捜査課長は来ていないのかな、と鍋屋が空いたクッションに重い臀《しり》を下ろそうとしたとき、横手の売店の前にいた二人づれの男が彼に近づいてきた。 「失礼ですが、鍋屋さんでしょうか」  四十年配の中肉中背の、グレーの洋服をきた商社員ふうな男だった。黒い服の横の男は三十四、五くらいで、その部下といったところ。 「鍋屋です」  彼は下ろしかけた腰を伸ばした。 「お電話申上げた赤坂署の山本警部です」  いんぎんな態度で名刺を出した。捜査課長山本要一郎とあった。  鍋屋も名刺を出した。受けとった山本捜査課長はそれを押しいただくかっこうをした。  山本捜査課長が先に立って喫茶室に入り、庭園の見える窓から離れた、まわりに客のいない席をえらんだ。 「どうもわざわざ恐れ入ります」  課長は、椅子にかける前に、鍋屋に立礼をした。彼の顔を直視しながら腰を三十五度に折った。 「いや、どういたしまして」  鍋屋は余裕のある態度で云った。国会議員秘書の貫禄を警察官に見せる気持からだった。 「これは、酒井係長です」  課長は伴《つ》れを紹介した。係長も礼儀正しい挨拶だった。 「酒井吉兵衛と申します」  しかし、名刺はくれなかった。彼は折鞄《おりかばん》を持っていた。  捜査課長は三人ぶんのコーヒーを注文し、鍋屋に愛想よい顔をむけ、二、三分間ほど時候について話をした。くりくりとした眼を持つ男だった。  近くの席に年よりの外人夫婦がきて坐った。  それをきっかけのように山本課長は、ちょっとかたちをあらためた。 「お忙しいので、かんたんにおうかがいしますが、鍋屋さんは日本橋のデパートでハンドバッグをお買いになったことはございませんか」  ハンドバッグを。——  有川昌造のことを聞かれるとばかり思っていた鍋屋は一瞬あっけにとられて課長の眼を見た。乗った車があらぬ方向へ走っている感じだった。その風景の先に、大型オーストリッチのハンドバッグが浮んでいた。 「さあ」  鍋屋は一度はとぼけてみせた。問題になりそうな質問に「トボける」のは政治家の特殊技能で、議員秘書の鍋屋もそれを見習ったのだ。  問題になりそうな質問とは、この場合、むろんそのハンドバッグが川村正明の手から「クラブ・オリベ」のママへ行ったことにある。 「ご記憶ございませんか」  捜査課長はポメラニアン種の犬のような眼を微笑させて再び訊《き》いた。 「さあ、どうも」  記憶がない、と鍋屋はもう一度頑張ってみた。  すると、山本課長は傍の係長に眼くばせした。酒井吉兵衛とかいう係長は折鞄を開けて中から一枚の写真を出して課長に手渡した。 「こういうバッグですがね」  課長は写真を鍋屋の前に置いた。  一目見るなり鍋屋は息を呑《の》んだ。自分が買ったオーストリッチのハンドバッグが、まるで商品見本のようにきれいに写っていた。  オーストリッチのハンドバッグの写真を示されて、鍋屋がショックを受けたのは、バッグそのものではなく、それが警察の鑑識写真だったことである。  警察、犯罪、証拠写真——鍋屋の頭の中をそれが車輪のように回転した。  しかし、ふしぎだ、日本橋のデパートでこれを買ったとき、店員には名を云わなかったのに、どうして買主が自分だと警察にわかったのだろう。警察は何故それを知ったのだろう。……  と、訝《いぶ》かったとたんに閃光《せんこう》が走った。  ——あいつだ、有川昌造だ。  あのとき、同じデパートのハンドバッグ特選売場に丸山耕一議員の有川秘書が女伴れで来ていた。こっちがオーストリッチを買ったあとだ。有川は女にワニ皮のを買い与えていた。彼と顔が合ったので、仕方なしに短い言葉を交わしたが、それが店員の記憶となったにちがいない。それだけでなく、店員は有川から「国会議員秘書同盟委員長」の名刺をうけとっている。 (オーストリッチのハンドバッグをお買いになったお客さまは、この名刺の方とお知り合いのようでした)  店員は警察にそう云ったにちがいない。  有川のおっちょこちょいめ。 「国会議員秘書同盟委員長」の肩書をうれしがってデパートに名刺をふり回したばかりに、こっちまで、とんだとばっちりを受ける……。  この推定は、警察が「有川さんのことでお話をうかがいたい」と電話で云ってきたこととも一致した。 「いかがですか、この写真のハンドバッグにご記憶がおありでしょうか」  捜査課長は微笑をつづけていた。眼を鍋屋の顔に据えたままだった。 「あります。憶い出しました」  写真から眼をはなして、仕方なしに答えた。 「二週間くらい前、ぼくが日本橋のTデパートの特選売場で求めたものです。七十万円で買いました」  どうせ値段まで警察にわかっているだろうと思って、聞かれない先につけ加えた。 「五月七日の午後三時半ごろでしたね?」  捜査課長は云った。 「だったでしょうな」 「デパートのレシートの控えに付いた日時がそうなっています。有川さんのレシートの控えもそうなっていました」  ここに来て、有川の名が課長の口からはじめて出た。 「鍋屋さんは有川さんとお親しいですか」 「今朝の電話でも云ったように、とくに親しいわけではありませんが、秘書仲間ですから知り合いです」  警察は、鍋屋がオーストリッチのハンドバッグを買ったことで、有川を証人にするつもりのようにみえた。 「課長さん。ぼくの買ったハンドバッグを、どうして警察がお調べになるのですか」  鍋屋は煙草に火をつけて、課長の顔を下からすくい上げるように見た。返事しだいでは、黙ってはいないというのを眼つきで示し、国会議員のバックを暗に利かせた。 「いえ、鍋屋さんがお買いになったことが判明しただけで大助かりなんです。われわれとしては、このバッグが売られたルートを知りたかったのですよ」  課長は、国会議員秘書の「威圧」を感じてないような、変らぬ表情で質問した。 「鍋屋さんは、このバッグを、どなたかにお上げになったんですか。いや、ハンドバッグですから、むろんご婦人でしょうけれど」 「ぼくがデパートで買ったことは事実として認めます。しかし、それから先のことまで云わなければならないのですか」 「もし出来ればですが」 「お断りします。ぼくがこれをだれにやろうが自由じゃありませんか。それはぼくのプライベートの問題です」  捜査課長と係長とは、揃《そろ》ってコーヒー茶碗《ちやわん》をとり上げ、下をむいてスプーンでかきまわした。  相手に黙られると、鍋屋も不安になってきた。とにかく自分がデパートで買って川村正明に渡し、川村が織部佐登子へプレゼントしたハンドバッグのことが警察の捜査対象になっている。いったいあのバッグに何が起ったのか。——  それを訊きたかったが、訊けば川村から織部佐登子に渡ったいきさつを話さなければならなくなる。鍋屋にとっては、痛し痒《かゆ》しであった。  課長はスプーンでまぜたコーヒーを一口すすって茶碗をテーブルに置いた。 「ごもっともです」  彼は深くうなずいて云った。 「プライベートと云われると、われわれは一言もありません」 「……」 「ただ、われわれが、どうしてこのバッグの買い先を追っているか、その理由だけを申し上げます。このバッグは強奪されたんです」 「えっ」  鍋屋は、顔に石が当ったようにおどろいた。 「自首してきたのは若い男です。その犯人の自供によると、五月十一日朝六時すぎ、南青山の通りを通行中の婦人に、フルスピードの自転車を体当りさせ、婦人が転倒したところをその持っていたバッグを強奪したというのです」 「……」 「ところがね、その被害届がまだ出ていないのですよ」 「これだけ高価なハンドバッグ、鍋屋さんがデパートで七十万円でお買いになった新品の高級ハンドバッグが強奪されても、未《いま》だにその被害届が出されていないというのは、どうもふしぎです。おかしなことだと思うのです」  捜査課長は、鍋屋の動揺を見て云った。 「そうですね」  自転車の若者に襲われたという婦人は、織部佐登子だろうか。しかし、そんな早朝に南青山の通りを彼女が一人で歩いているわけはない。佐登子は、川村にもらったハンドバッグをまた他《ほか》の女に呉れてやったのだろうか。波子が頭に浮んだ。あの女は渋谷に住んでいると聞いた。 「その婦人の人相はわかっとるとですか」  鍋屋は課長にきいた。 「自首した若者の話では、それがよくわかっていないのですな」  傍の酒井吉兵衛係長が引取った。 「というのは、その婦人はネッカチーフで顔を包んでいたからです。だが、本人の話だと、年齢が四十歳ぐらい、中肉中背の人だったというんですがね」  それだけの特徴ではよくわからない。織部佐登子のようでもあるし、波子のようでもあった。 「たしかに、それはぼくがデパートで買ったハンドバッグですが、それから先のことはぼくのプライバシーに関することなので、云えません」  鍋屋はもう一度明言したうえで、 「しかし、そのハンドバッグの盗難届が出ないということが、どうして警察に問題なのですか。高級品は高級品だし、新しいことは新しかですが、しかし、人にはそれぞれ事情があって被害届ば出さないこともありましょうな。たかがハンドバッグ一つじゃなかですか。それば警察がどうして調べられるとですか」  鍋屋にだんだん九州弁が出てきた。  課長と係長は顔を見合せた。 「ちょっと失礼」  両人は椅子から離れて、向うへ行き、なにやらひそひそと立話をした。  鍋屋があっけにとられた思いでいると、両人は二分くらいで彼の前に戻ってきた。 「どうも失礼しました」  山本課長は頭をさげた。 「では、実際のことを申し上げましょう。しかし、これは捜査の秘密を鍋屋さんだけに打ち明けるのですから、どうか他言をしないようにお願いします」 「しゃべるなと云われれば、人には云いませんが」 「そうお願いします。……じつはですな、あのハンドバッグには二千万円の現金が詰めこんであったのです」 「えっ」  鍋屋は思わず声を上げた。 「……そりゃ、ほんとうかんた?」  どぎもを抜かれたというのはこのことだった。 「横三十センチ、縦二十センチ、幅十七センチ。そのバッグに、百万円札束二十個が四つに束ねられて詰まっていたそうです」  課長は、手でその形の大きさを示した。 「もっとも自首の前に若者が、そのうちから二百五十万円を費消しましたがね」  酒井係長の補足であった。 「その二千万円をハンドバッグに詰めたのは、自転車ばぶつけられた婦人ですか」 「そうです。そうとしか考えられません」 「どこでそのカネば婦人は受け取ったとですか」 「婦人」が織部佐登子であるのは、もはや間違いなかった。二千万円という大金を扱うのは彼女以外に考えられない。波子などではなかった。 「わかりません。なにしろその婦人の身もとすらこっちにはわかってないのですから」 「……」 「ねえ、鍋屋さん。あなたはこのハンドバッグを日本橋のデパートで買われた。そしてだれかにプレゼントされた。デパートの店員は、あなたに代って包みのノシ紙に�粗品�と書いたと云っていますからね」 「はい。そのとおりです」 「その贈られた先を教えていただくと、たいへんありがたいのですがね」 「残念ですが、それはお答えできません。さっきも云いましたように、これはぼくのプライバシーに関することですけんな。ことに贈った先は女性です。その人がまたほかの人にバッグをあげたのかもわかりませんしね。そのへんはお察しねがいたいですな」 「そうですか。では、その女性は、二千万円入りの新しいハンドバッグを強奪されたのにもかかわらず、どうして被害届を出されないのですかねえ? 理由はなんでしょうか」 「わかりません」 「警察としては、それが知りたいのですよ。われわれは被害者の婦人の名前を、いま聞こうとは思いません。ただ、鍋屋さんがプレゼント先から聞かれて、それをわれわれに教えていただけませんか」 「それは警察の職権からですか」 「けっして職権ではありません。参考のためです」 「バッグに二千万円入っていたそうですが、その二千万円の出所が不審なのですか」 「大金を強奪されたのに被害届を出されないのが奇妙なんです」 「だから二千万円の出所が怪しい。警察に被害届ば出さんのは、そのカネにうしろ暗いところがあるからだ、そこでそれば調べたい、こういわれるとですな?」 「そうです」 「二千万円入りのハンドバッグが強奪に遇ったことは、新聞に出ておらんかったですな。それは警察のほうで伏せたのですか」  鍋屋は捜査課長と係長へ逆にきいた。 「ま、そういうことです」  課長がうなずいた。 「それは被害届の出ていなか二千万円の性質が怪しかと思われた、でそれを捜査する必要があった、新聞に出ると捜査の支障になる、警察はこげなふうに考えられたとですか」 「まあ簡単に云うと、おっしゃるとおりですね」 「あのですね、ぼくはですな、二千万円のことにはまったく関知しとらんですよ。それはいま再三云ったとおりです。けど参考のためにおうかがいしますが、警察では、その二千万円の性質をどう考えておられるとですか」 「それがまだ見当がつかないのです。よほど外部に知られたくない二千万円ということだけは推測できますが」 「しかしまあ強いて云えば、被害届を出そうが出すまいが本人の勝手じゃないかちゅうことにもなりますな。そのほかに警察の不審は何ですか」 「早朝に、婦人ひとりが大金を持って歩いていたことです。もちろん銀行は開いていません」  そうだ、そのことだ、と鍋屋も思った。警察の話を聞いたときから自分もその不審を持っていた。織部佐登子は、個人の家から二千万円を受け取ったらしいが、それが早朝だったこと、ネッカチーフで顔を包んでいたこと、すべて隠密行動だ。彼女の住む青葉台から相当にはなれた南青山通りを一人で歩いていた不可解さもその中に入る。 「それにね、鍋屋さん、写真ではよくわかりませんが、このオーストリッチのハンドバッグのこことここの三カ所にキズが付いていたんですよ」  課長は写真の上を指でさした。 「キズが?」 「そうです。何か物に当ってこしらえた擦りキズですね。横に走っているんです。鍋屋さんがこれを買われたときに、そのような擦りキズがありましたか」 「ありません。もちろん」 「デパートの店員もそう保証していました。それに自首した犯人は、ハンドバッグのキズのところには白い粉が付いていたと云ってました」 「白い粉?」 「砂を砕いたような粉だったそうです。署に持ってきたときは、犯人が拭き取ってきれいになっていましたがね」 「……」 「そういうのも、疑点なんですよ」  捜査課長は鍋屋の眼をのぞいた。  ペイ・バック  赤坂署の山本捜査課長と酒井係長とはホテルから帰って行った。鍋屋が、オーストリッチのハンドバッグをだれに贈呈したかは云えない、相手に渡ってから先、ハンドバッグがどうなったかは自分の関知するところではない、とあくまで云い張ったので、両人は空《むな》しく退却したのだった。  引き揚げるとき課長は、ご迷惑をかけました、このバッグの件はどうぞ他に洩らさないように願います、また、何か思い出されるようなことがあればお電話ください、直ちにお伺いします、と云っておじぎをした。  ロビーに残った鍋屋は、客待ち用のクッションに腰を沈めた。捜査課長と係長を云い負かしたという勝利感は少しもなかった。腕を組んで、思案に入った。  ——織部佐登子は、あのハンドバッグに二千万円の札束をどこで詰めさせたのだろうか。だれから二千万円を貰ったのか。そんな早朝に。  パトロンからか。いや、パトロンだったら彼のほうから出向いて彼女のもとに持って行くだろう。女のほうからパトロンの家へ朝早く二千万円もの大金を取りに行くことはない。  すると、佐登子はパトロンの家に前夜から泊っていて、その朝帰りかな、と思った。が、それにしても万事が不自然だ。パトロンの家に堂々と泊るくらいなら、帰りはこそこそとしないで、もっと遅い時間に車で悠々と帰るはずだ。では、誰かの使者として二千万円を渡しに行く途中だったのか? それなら、もっと安全な方法をとるだろう。どうもおかしい。  しかし、佐登子に贈った百万円のハンドバッグが二千万円の単なる容器にされたと知ったら、川村先生はどんな顔をするだろう。地団駄踏んでくやしがるにちがいない。いやいや、川村ならずともこのオレもくやしい。  織部佐登子は南青山通りを歩いていたというが、二千万円を渡してくれるような相手があの辺に住んでいるのだろうか。彼女のパトロンでないとすれば、いかなる人物があの界隈《かいわい》に住居を持っているのだろうか。  鍋屋はごくりと唾《つば》を呑んだ。織部佐登子はパトロンの使いで、早朝にその人の家を訪問し、カネを受け取って出たところを、自転車の若者に襲われたのではないか——という考え方である。  織部佐登子のパトロンのことはだれもよく知らない。しかし、大企業の経営者らしいとは通説になっている。社長か、主要役員かだ。  そのような人物が、愛人をひそかに使って早朝に二千万円を受け取りにやらせるとは、どういうことだろう。織部佐登子にカネを渡したのは政治家かもしれない。金額が多すぎるからだ。大企業と政治家との癒着は、新聞などでもありふれた話題で、もう陳腐になっているが。  しかし、どうもおかしい。ロビーのクッションに腰を下ろした鍋屋は、膝《ひざ》に肘《ひじ》を乗せ、片頬突いて思案する。  横には若い女が人待ち顔に坐って、玄関の回転ドアを見つめていた。すぐ前には外人の男二人と女一人が佇《たたず》んで、立話をしていた。男が高笑いする。  ——政治家が企業の経営者にカネを出すだろうか。いや、逆だ。「政治献金」は企業が政治家に渡すものだ。  かりに織部佐登子がパトロンの使者となって政治家から二千万円を受け取ったとする。なぜ、「受け取る側」の政治家が企業家に大金を出したのだろうか。どういう性質のカネか。  新聞にはこのごろ代議士の汚職裁判がよく載る。大臣経験のれっきとした議員の収賄額が五百万円、中堅議員のそれが二百万円だったという。二千万円にくらべると、五百万円や二百万円ははした金である。裁判は目下係争中だからまだわからないにしても、もし有罪が確定すれば、五百万円や二百万円そこそこでその議員は一生を棒に振ることになる。二千万円がいかに大金であるかこれでもわかる。  しかし、織部佐登子がパトロンの使いだったと推定するこの場合、政治家が(かりに政治家と考えて)二千万円を貰ったのではなく、政治家が企業家に支払ったという逆現象の結論になる。  はて、面妖《めんよう》な。木の葉が沈んで、石が浮んで、……  頬杖を突き、眼を据えているその視線の先に、エレベーターのある奥のほうから歩いてくる男の姿が映った。四角い顔で、肩幅が張っていた。  その特徴ある顔は土井信行だった。前に川村正明のパーティでの演説の原稿を頼んでいる。顔を合わせたら鍋屋はもちろん言葉をかけに立ち上るところだが、土井は忙しそうにロビーを横切って、柱の前のクッションに坐る鍋屋には気がつかず、脚を玄関の回転ドアへ一直線にむけていた。  そのうしろにショートヘヤーの細い身体《からだ》の三十女が従っていた。土井の部屋で働いている速記係だ。が、彼女も土井が玄関前からタクシーに乗るのを見送ったあと、すぐに引き返し、エレベーターのある奥のほうへ消えた。  土井信行は忙しいようである。今日もこれから永田町あたりに出かけ、議員の演説原稿か議員の「著書」の代作を引受けるのかもしれない。ゴーストライターは繁盛しているようだった。  土井が外に去ったあと、鍋屋は再び冥想《めいそう》のつづきに入った。 (政治家が企業家にカネを出す。どういうことだろうか。いつも企業から政治献金を受け取る政治家が。絶えずカネを欲しがる政治家が。……)  わからん。  考えあぐんだせいで鍋屋は頭が痛くなり、ホテルの玄関を出た。  すぐ近くに山王社の鳥居があり、高い石段がある。重い身体の鍋屋は石段を登らずに、横についた車道の坂を上った。運動のためだ。  台地上に朱塗りの社殿がある。結婚式があるらしく、楼門の中に振袖や留袖の女性たちの姿が見えていた。  境内の隅に小石の群の付いた古い石塊が二つあった。シメ縄が張ってあって、「さざれ石」の立札があった。「千代に八千代にさざれ石の巌《いわお》となりて」の、あの「さざれ石」だと説明にある。  台地から赤坂一帯の屋根を俯瞰《ふかん》する。繁華街のあたりに白いビルがふえていた。羊羹《ようかん》を立てたような上に細長い建物で、バーや飲み屋の雑居ビルだった。近ごろ、これがふえている。  バーの盛衰も相当なものらしい。廃《や》めるバーもあればますます繁盛するバーもある。繁栄の因《もと》は、いい社用族をつかむことにあると聞いた。水商売が発展するとなると急速で、それらの「さざれ石」が巌となるのに長年月を要さない。  鍋屋は、いつか耳にしたことがある。社用族をつかんで離さないコツは、店がリベートをこっそり出すことにあるという。店は、水増しした金額の請求書をその会社|宛《あて》に送る。会社の経理ではその金額どおりを銀行振込みにしてくれる。そこで水増しぶんのカネが店の経営者から内緒に客へ手渡されるというしくみである。  これによって店はどういう利益があるか。まず社用族はそのリベートの魅力に引かれて常にその店を使ってくれる。人情と、ポケットマネーかせぎからである。店の経営者が次第に立派になってゆくのにくらべ、社用族のみみっちさ。客のほうはいっこうにうだつがあがらない。……  鍋屋は社前の石段を降りはじめた。上るのは苦手だが、下るのは楽である。眼の前に茶色のビルがあった。石段からは五階にならぶ窓が水平に見える。杉木立の枝が窓の一部を隠していた。これはバーの雑居ビルではない。国会議員たちの雑居ビルだ。ここに議員の事務所が入居している。  議員会館は狭いうえに、陳情団が押しかけてきて何かと煩《うる》さい。そこで議員たちは第二の事務所をここに置いている。中には、政治経済研究所といった名や会社名などになっているのもある。  石段を降りるにつれて、正面に向かう視線の位置も下り、四階、三階とずり下がってくる。一列の窓はどれも同じである。  石段を下から登ってくる中年男が、鍋屋の横で立ちどまった。 「すみません。火を貸して下さい」  ライターを出して鍋屋は男に火を与えた。 「どうも」  頭を軽くさげた男は、煙をふかし鍋屋の横をすり抜け拝殿に向って石段を上る。  鍋屋の眼がふたたび正面にある茶色の「議員ビル」と合った。  とたんに彼の脳味噌が霊妙な活動をしはじめた。  ——織部佐登子が早朝に大型ハンドバッグを持って訪問した先が政治家とすれば、彼女の帰りにそのバッグに詰められた二千万円の現金は、政治家から献金者への逆リベート、つまりは払い戻しではなかったろうか。  この考えが湧《わ》いたのは、あるベテラン議員にまつわる風聞だった。その議員は献金持参の使者に、ご苦労ご苦労、まあ取っとけや、などと磊落《らいらく》に云って、受け取った札束の中から二十万円くらいをその場で渡してくれるという。  この程度のことだったら、バーや飲み屋のママが常連の社用族に水増しした請求の差額を渡すのと変りなく、むしろ「無邪気」かもしれない。  だが、二千万円の逆リベートとなると、ことは大きい。かりにその二千万円が献金額の二〇パーセントとすると、総額一億円の金が企業からその政治家へ渡ったことになる。  一億円も献金する能力のあるのは大企業である。それは複合的な組織にちがいない。基幹会社を中心にして、子会社をいくつも持っているコンツェルン的な企業集団が考えられる。末端には下請会社の多数の裾野《すその》がひろがる。  大きな金額を政党に献金するとき、たいていは、親会社が傘下の関連会社にもカネをまとめさせる。また下請会社群にもカネを割り当てで出させる。  この場合、「政治献金」の項目はないから、親会社と傘下会社の相互の間で「取引」という擬態によって帳簿操作が行われる。下請会社もまたこのしくみの中に組み入れられる。それでも帳簿上消化しきれないものが「使途不明金」だ。これは税務署の調査により課税対象となる。  こうしてまとまった「政治献金」は、親会社の代表が、政党または政治家に手渡す。だから献金する側にはカネの「出」がわかっている。  しかし受け取った政党または政治家には「入り」が明瞭《めいりよう》でない。たとえばある企業が五千万円を献金したとする。この「出」は明白である。  だが、「入り」のほうはそれから先の使途をはっきりさせない。とくに政治家個人や政党の派閥に入ったカネは、その金額も曖昧模糊《あいまいもこ》だ。献金先に対して領収証を発行しないからである。  新聞には政党の年間献金額が自治省の発表として載る。これは自治省に届出たものだけだ。具体的には領収証を発行した献金のみである。領収証を発行しない献金は、自治省に報告されない。もちろんこっちのヤミのほうが届出分よりはるかに多い。新聞が自治省発表の政治献金額を「氷山の一角」と評するゆえんである。水面下にある氷山の部分は、水面上の九倍である。  政憲党は、「政友協会」なるものを作って献金受入れの窓口にしている。ここでは領収証を発行し、自治省に届出ているため党への「入り」は明白である。けれども、その行方がはっきりしない。党内の使途は公表されないのである。  近ごろ政治献金は、個々の議員に対するものが減少し、政党単位または派閥単位の傾向となっている。  政憲党の場合、献金の使途は党の最高幹部が握っている。実務的には党の幹事長であり、その命をうけた党の経理局長などである。  派閥の場合は、もちろんその棟梁《とうりよう》だ。入ったカネの分配は、棟梁の胸一つにある。  こうなると、自治省に届出た献金も、また届出ないそれも、使途不明確な点では同様である。もちろん領収証を発行しないカネの使いみちのほうがはるかに自由だ。その量は前者に比してはるかに大きい。これもまた水面下に没した氷山である。  ——こういうことは、鍋屋も常識的な概念として知っている。  だが、織部佐登子がオーストリッチの最高級ハンドバッグを容れ物にして受け取った二千万円を、政治家から企業家へのペイ・バックではないかと考えついたとき、彼の思案ががらりと変った。  二千万円のリベート払い戻しは、受け取った政治家の自由裁量によるものではあるまい。某実力者のようにその持参者に対してその場で「まあこれを取っとけや」といったような小遣い程度の金額でないからだ。二千万円のペイ・バックは、献金者と受け取る側との間にあらかじめ契約されたパーセンテージによるものであろう。献金額が一億円だとするとその二〇パーセントだ。  献金側は、企業の代表がこれを政治家に渡す。代表といえば社長である。近ごろのことで、オーナーではなく、サラリーマン社長だ。  領収証なき献金は、すべて現金である。一億円の札束はダンボール箱一個におさまる。しかし、まさか社長自らがそれを先方へ届けに行くわけにはゆかぬから、たいていは社長秘書室長といったあたりが暮夜ひそかにダンボール箱を車に積んで先方へ運び入れるのだろう。  問題は、そのペイ・バックの実行方法だ。……  献金を現金で受け取った政治家は、ただちにその場で、社長宛の逆リベートを使者たる社長秘書などに托《たく》しはしない。そんなことをすれば、社長が個人的にペイ・バックを貰《もら》っている事実が会社に暴露するからである。  そこでは政治家は、ダンボール箱の札束を、ありがとう、と云って受領しただけで、領収証は渡さずに社長秘書を帰す。  社長は逆リベートの受け取りに、後刻別な使いをその政治家のもとに出す。もちろん両者の間の密約にもとづいてのことだ。後刻の使者は会社の者を使わない。社長の腹心といえども気がゆるせないからだ。社内派閥抗争の趨勢《すうせい》によって、その者がいつ何どき反社長派にまわるかもしれないからだ。まことに社内には油断も隙《すき》もならない面従腹背の徒、打算の徒輩が多い。  社長にとって心が許せるのは、身内の者だけである。そこでその者を使いにして、ペイ・バックを受け取りにあとから政治家の家へやらせる。会社には絶対にわからない。  織部佐登子のハンドバッグに入っていたという二千万円は、そういう性質のカネではなかったか。織部佐登子のパトロンが、献金した某大会社の社長だとすると、彼女はまさに社長の「身内」である。  だからこそ、佐登子が大型ハンドバッグに入った二千万円を帰りの路上で自転車乗りの若者に強奪されても、被害届を出せなかった。警察に届けると、二千万円の性質と、受け取った先の名を供述しなければならなくなる。当の企業家と使者の佐登子とが沈黙する理由がそこにある。  ——鍋屋は、自分の住む松原町内で、新築住宅を往復のたびに見ている。土地購入を含めて五億円かけたという。新光化学工業の社長ということだったが、世のサラリーマン社長にどうしてそんなカネがあるのかとかねてから疑問に思っていた。彼らはオーナーでないから株を持たない。端株《はかぶ》くらいはあるかもしれないが、それでは配当にもならぬ。社長の役員手当は知れたもの、交際費も締めつけられている。なのに、どうして豪邸が新築でき、愛人に料亭やバーを持たせられるのか。  その資金源の一つに「政治献金」などのペイ・バックがあるのではないか。  その証拠に、社長の「贅沢《ぜいたく》」はその地位にあるかぎりである。社長をやめたあと、「贅沢」は彼からいっぺんに去ってしまうではないか。金も女もだ。  政治献金は「社長の権限」である。社長のポストを去った瞬間、その権限を失う。会長に退いたときから、社用の車にも不自由する。そうして後任の社長が政治献金の「権限」を引き継ぎ、ペイ・バックを稼ぎ、「私的贅沢」を享楽する。……  ——被害届の出ない二千万円のことから、こうして鍋屋は領収証なき「政治献金」にペイ・バックのあることを推定し得た。  ところで、南青山界隈には、どういう政治家が住んでいるだろうか。これは考えるまでもなくはっきりしている。  政憲党の領袖《りようしゆう》寺西正毅の邸宅が南青山六丁目にある。 (寺西正毅か。なるほど、なるほど)  鍋屋は指を鳴らした。  次の政憲党総裁はすなわち総理大臣である。この秋に、桂総理からの「禅譲」が確定している。献金が次の総理とその派閥とに集中するのは当然の現象だ。  寺西正毅もカネ集めに懸命のはずである。「禅譲」が確定しているとはいえ、総裁選にはやはりたいそうなカネが要る。寺西は献金が咽喉《のど》から手が出るほど欲しいにちがいない。いくらあっても足りないのだ。  また、献金側はいまから次の総理にその「見返り」を期待している。献金額の何倍という「見返り」を。  政治献金じたいには、一応、具体的な利益供与の約束はないが、何かのときにはその業者のために政治家が利益を図ってくれるという期待がある。許認可権の拡大解釈による裁量、そのためには法令の改正や新法令の設定もやってくれる。  もし献金をしないときはどうなるか。政治家の「保護」から外されるだろう。この懸念は個々の業者の畏怖《いふ》に通じる。業者どうしの競争に、「保護」があるのとないのとでは格段の落差がつく。その意味で政治献金は消極的には「保険料」であり、積極的には受益への強い期待である。もしそれが汚職の様相を帯びるなら、「期待可能性の犯罪」ということになろう。——  山王社からアダムズ・ホテルにいったん戻った鍋屋は、タクシーで南青山へ向った。寺西正毅邸をよそながら偵察するためだった。  赤坂署の捜査課長らの話によると、二千万円入りの大型オーストリッチのハンドバッグを通行中の婦人から強奪したのは、五月十一日の午前六時すぎであったという。してみればその婦人すなわち織部佐登子が寺西邸へカネを取りに行ったのは、少くとも午前五時ごろか、それ以前の四時台でなければならない。隠密行動だから、たぶんタクシーで行き、そこで乗り捨てたのであろう。また、前からの約束なので、使者の織部佐登子の到来には、寺西邸からは迎えの者が待っていて彼女を邸内に案内したはずだ。他人に知られてはならない隠密行動だからである。  鍋屋は寺西邸の百メートル手前でタクシーを降りた。およその地理はわかっている。  閑静な高級住宅地だ。ところどころに緑ゆたかなケヤキの木立がそびえていた。  通行人か散歩者のように鍋屋健三は閑静な街を歩いた。寺西邸が近いだけに、車に乗ったどんな知り合いの議員や秘書に遇わないともかぎらない。顔を反対側にむけたり、下をむいたりして、ゆっくりと足を運んだ。  しばらく行くと左側に交番があった。寺西邸の斜め前にあたる。体格のいい若い巡査が手を後に組み、両脚を踏ん張って、表を睨《にら》みながら立っている。中では二人の巡査が机の前にかたまっていた。右側の通りの角から寺西邸の赤茶色の煉瓦塀がはじまっていた。  重要な政治家の邸宅の前にはかならずといっていいほど交番がある。べつに政治家に請願されて設置したわけでもあるまいが、「国家に須要《しゆよう》な人物」ともなれば警視庁でも警戒に当っているのであろう。  寺西邸の正門前には両側の塀に沿って黒塗りの車が四台|駐《とま》っていた。一流料亭に似た風景だった。  門内へちらりと眼をむけると、車寄せの前に円形の植込みがあり、その下にはツツジの赤い花が群れていた。奥まったそのあたりにも黒塗りの車が三台ほどあった。  次期総理が予定されているだけに寺西邸はさすがに千客万来であった。派閥の面々、他派の議員、それに財界人其の他陳情者などひきもきらぬありさまのようだった。だからこそ、使者の織部佐登子は早朝に寺西邸へ参上したのであろう。  鍋屋はいったんそう考えたが、しかし寺西邸には早朝から訪問客があるではないか、かえって昼間よりも多いはずだと思い直した。  昼間は主人の寺西正毅が不在の時もある。旅行でもない限り、必ず在宅とわかっているのは朝だ。寺西がまだ寝ているうちから客が詰めかける。陳情者や新聞記者で、応接間や座敷がいっぱいになる。  だが、そのようなときに織部佐登子のような女が訪問すれば、彼らの眼をひくのではなかろうか。隠密の使者にはなるまい。  それとも女だから、それがかえって盲点となり注意を逸《そ》らせるのだろうか。このへんは鍋屋になんとも判断しがたかった。  鍋屋は、寺西邸の煉瓦塀が終るところに来た。同邸は街の一ブロックの三分の一くらいを占めているので、煉瓦塀も長かった。  あと戻りして門の前をふたたび通りすぎようかどうしようかと鍋屋が振り返って迷っていると、その眼に折から門内を滑り出た一台の車が映った。車はこっちへ来る。  鍋屋はとっさに向き直り道の端へ除《よ》けて歩き出した。車は彼を追い抜いた。横を通過する瞬間、車の窓に視線を走らせると、眼鏡をかけた洋装姿の婦人の半身像があった。寺西夫人であった。  鍋屋はこれまで寺西夫人を何度も見ている。あるときは夫妻揃《そろ》った党の公式集会で、あるときはパーティの席上で。  若い二世議員の私設秘書の身である鍋屋は、寺西夫人に直接挨拶したことはないが、その下ぶくれの福々しい顔はよく知っていた。大物議員の夫人といった気どったところはなく、ものの云い方も下町調にはきはきしていて、庶民的な、無邪気な明るさを備えていた。数ある大物議員夫人のなかでも皆から好感を抱かれているほうだった。ただ、高尚な感じの細い銀ぶちの眼鏡は、顔ぜんたいの印象からいくらか浮き上っていた。  鍋屋は横を追い抜いて行く車の窓を一瞥《いちべつ》しただけで、そこに坐っている婦人が寺西夫人だとすぐに識別できたため、ベンツの尻が数町先の十字路を右に曲るまで、見送った。  夫人はひとりでどこへ出かけるのだろう? グレーの洋服は気どった外出着ではなく、むしろ地味なふだん着に近かった。だから他家を訪問するのではない。あるいはデパートにでも行くのかもしれない。今が四時だった。お伴をつれないでデパートに買物に行くところなどいかにも気さくで、夫人らしい。  主人の寺西正毅が次々と来客と話している間を見ての時間利用か、あるいは夫の留守かであろう。邸前の車の群は、主人が居なくても、その帰邸まで待っている。  訪問客は、党務連絡の議員や陳情者だけとはかぎらない。カネをせびりにくる同派閥の議員も居るはずだ。鍋屋が聞いた話では、某派閥のボスはそうした議員が自宅にくると、奥に居る夫人にむかって、オイ、オイ、と声をかける。この声の調子が夫妻の間で電波のように相通じるものがあり、奥さんは金庫を開ける。  五月十一日の早朝、織部佐登子が寺西邸に行ったときは、寺西夫人が金庫の中を調べるまでもなく、いつでも渡せるように二千万円が用意してあったのだろう。使者の佐登子は、ただそれを貰って来るだけだったにちがいない。  織部佐登子のパトロンは誰なのか。子会社など傘下に関連会社を相当数持つ大企業の社長、そして寺西正毅に政治献金する企業だ。  しかし、この範囲を絞ってみても、その企業が以前から寺西派だったとはかぎらない。政治献金は各派閥に対して行われるからである。ただし、対象の派閥次第で多寡の区別はされている。そこは力関係だ。二千万円の逆リベートとは献金も大きいが、これとても次期総理・総裁というので、集中的に行われたとも考えられる。しかし、いずれはその企業に見当がつくと鍋屋は思っていた。  鍋屋は次の十字路を左へ曲った。寺西邸の前を通りたくないので、ここから引返すつもりだった。ちょうど同邸の裏の通りになる。  ここも高級住宅地だった。ブロック塀やコンクリート塀がつづく。その前をぶらぶらと歩いた。肥《ふと》っているので、のんきそうな顔に見えた。  路上に子供が三人でキャッチボールをしている。一人が受けそこなってボールが横手に走りこんで消えた。  その前にさしかかると、隣り合った二軒の塀の間に子供が入って、ボールを拾っていた。ひどく狭くて子供の動作でも窮屈そうだった。ふと見ると、両側の塀ともかなり古くなっていた。  鍋屋の頭に浮ぶものがあった。例のオーストリッチのハンドバッグには「物に当って擦ってできたようなキズ」があったという赤坂署の捜査課長の話である。  さらに課長はそれにつけ加えて、自首した若者は、婦人から奪ったハンドバッグにはそのキズだけではなく、当初「セメントを砕いたような白い粉が付着していた」と自供したと云った。これは古いコンクリートの剥落《はくらく》を意味するではないか。 「坊や」  球を手にして狭い塀の間から出てきた六つぐらいの子供に鍋屋はにこにこしながら訊いた。 「この奥まで歩いて行けるかい?」 「うん」  子供は小さな顎《あご》を引いた。 「そうかい。どこへ出るのかな?」 「よそんち(よその家)の裏だよ」 「なんというお家かい?」 「テラニシさんちだよ」 「なに、寺西さんの家か」  鍋屋は、はっとした。この通りが寺西家のある道路の南側にあたっているとはわかっていたが、まさかこんな隙間のような路地が寺西家の裏に通じているとは夢にも知らなかった。 「じゃ、おじさんもこの中を通ってみようかな」 「ダメだよ」 「なぜダメかい?」 「だって、おじさんは象さんみたいに大きいもの。入れないよ」 「そうか。それもそうだな」  鍋屋は路地の間隔を測るような眼を見せて、 「まあとにかくやってみるよ」  と身体を斜めにして路地へ入りかけた。  無理して、自分で自分の図体を押し込むようにしないと腹が塀につかえて前に進まなかった。  子供はそこに立ち、眼をまるくして鍋屋のぶざまな歩行を眺めていた。  鍋屋はヤモリが這《は》うとも尺とり虫が匍《は》うともつかぬ格好で、塀にへばりつきながら狭い隙間を奥へすすんだ。  古いコンクリート塀だけに無数のキズがあった。この狭い路地を日ごろから人が通行しているということなのである。突き当りは寺西家の裏だと子供も云ったから、寺西家との往復にここが利用されているのだ。  鍋屋は塀にとりついて匍匐《ほふく》しながらもコンクリート塀のキズに眼を集中させた。  あった。……  路地の半分も進んだころ、コンクリート塀にそれと思われるキズを見た。ほかのよごれたキズよりも目立って白いので、その新しいことが知れた。  眼を凝らすと、古いキズが爪の先で引掻《ひつか》いたような細い筋なのに、新しい掻きキズは幅が広く、やや凹《へこ》み、そのまま横へ引きずった形になっていた。それが間隔を置いて三カ所くらいあった。二千万円の札束入りの重いバッグの角が打ち当ると、こういうキズになるだろう。  織部佐登子は中肉の女だ。それでもこの二つの塀の隙間を通るにはまっすぐには行けなかったろう。身体を斜めにして歩いたにちがいない。手に持ったハンドバッグが塀につかえてぶっつかる。バッグに擦れキズができる。古いコンクリートが剥《は》げて、そこに「セメントを砕いたような」白い粉が付く。——  織部佐登子は、あの日の早朝、寺西邸の表門をくぐって正面玄関から訪れたのではなかった。表の応接間や座敷に屯《たむ》ろする多くの客の眼を避けて、この穴のような路地を通って裏口から訪問したのだ。帰りは二千万円の札束をオーストリッチの革製バッグに詰めて、またここを戻ってきた。  鍋屋はポケットから靴ベラを出してコンクリート塀をこすってみた。白い粉がぽろぽろと剥げ落ちた。  ——ハンドバッグの謎《なぞ》は解けた。赤坂署の捜査課長もこれにはまだ気がついてないだろう。  苦労して路地からもとの広い通りに戻ると、キャッチボールをやめた男の子三人がそこに待っていた。 「わあい、出てきた、出てきた」  象のような図体が穴から這い出してきたのをはやし立てた。 「ありがとう」  鍋屋はにこにこして子供の頭を撫《な》でて、二軒の表札を見に、その家の前を往復した。  キズがついた塀の家が「福島」で、その隣が「加藤」であった。  鍋屋は南青山の大通りに出てタクシーを拾った。 「どちらへ?」  ドアを閉めて運転手が背中で訊いた。 「そうだな」  決まった行先がなかった。 「赤坂へやってもらおうか」  運転手は返事せずに発車させた。  ——そうだ、あの路地を出た織部佐登子は、自分がいまタクシーに乗った大通りのあたりで自転車の若者に衝突されて二千万円入りのバッグを奪われたのだ。捜査課長の話からその地点がだいたいそう推定できる。  うっかりしていたのは、佐登子のT病院入院がそのときに受けた負傷とは気づかなかったことだ。はじめ捜査課長の話で、たかが自転車にうち当てられた程度だと軽く思い、彼女が外科病棟に入院していたこととそれとが結びつかなかった。  病院に花を持って見舞いに行ったとき、付き添いの波子が病室から出てきて、 (ママの乗った車が追突されて、ケガをしたのです。肋骨《ろつこつ》にはヒビが入ったけれど、さいわいムチ打ち症にはならずにすみました。頭を打っているので、いま脳波の検査をやってもらっているの)  と云っていた。  赤坂署の捜査課長の話を聞いたとき、どうして波子の作り話にすぐ気がつかなかったのかと思う。  だが、佐登子が医者に脳波の検査を受けていたのは事実であろう。捜査課長の話では、犯人の自供として「婦人は道路上に仰向けに転倒した」ということだったから。  奪《と》られた二千万円には被害届が出されなかった。カネの性質上それを警察に知られたくなかったからだ。ペイ・バックを受け取るはずの佐登子のパトロンはそれを諦《あきら》めたと思われる。世間に知られると払い戻した寺西正毅にも大きな迷惑をかけることだ。大きな企業の社長だとすれば、二千万円くらいさしたるカネではなかったろう。  織部佐登子はもうT病院から退院しているだろうか。脳波の検査結果はどうだったのか。そんなことを聞いたりして、もう一度見舞いにかこつけ、佐登子の様子を探ろうと思った。二千万円がペイ・バックだったかどうか、できるなら確認の糸口をつかみたい。それと彼女のパトロンの実体もだ。  赤坂見附でタクシーを降りて、公衆電話ボックスに入った。時間が早いので、銀座の「クラブ・オリベ」よりも、青葉台の佐登子の家に電話した。  お手伝いの声が出てきた。 「川村の秘書の鍋屋ですが、ママさんが居られるなら、この電話でちょっと話したいので、呼んでください」  お手伝いは即座に答えた。 「奥さまはいま、ハワイです。四、五日前から静養に行っておられます」 この作品は昭和五十八年八月新潮社より刊行され、昭和六十一年四月新潮文庫版が刊行された。 本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)