[#表紙(表紙.jpg)] 松本清張 証  明 目 次  証 明  新開地の事件  密宗律仙教  留守宅の事件 [#改ページ]    証  明      一  久美子はこのところつづけて次号雑誌の取材で下調べをしていた。特集は「芸術に見る性《セツクス》」というのだった。雑誌は婦人知識層を対象にしているが、近ごろの傾向のことで、だんだんにエロチックなものに内容が傾いている。それを知性の薄紙に包んでいる。編集方針を批判しても仕方のないことだし、また久美子にはその発言力がなかった。彼女は正式な社員ではなく、編集部との契約で取材したり記事を書く仕事だった。結婚前まで、別な婦人雑誌につとめていた経験で、五年前からこの仕事をはじめた。  今度の久美子の受けもちは「絵画における性」だった。図書館や友だちから借りてきた西洋美術史や画集や画論の本などを机の前にならべてメモをとっていた。晩春のうすら寒い夜である。  昼間は仕事で外をまわっているし、帰りも不規則なので思うようにすすまなかった。しかし、メモの作業が進捗《しんちよく》しないのは、隣の部屋で書きものをしている夫の信夫に影響されている。原稿用紙を破る鋭い音や仰向けに倒れる畳の響きを聞いたりすると、気が散った。影響というよりも災難だった。  この災難は長年だった。信夫が会社づとめをやめたのは五年前だが、原稿に向って苦しむのはそのまた二年前からはじまっている。毎晩のように原稿用紙を破る音を聞いてきた。  数日前、信夫はA社のLという文芸雑誌の編集部から百二十枚の持ちこみ原稿を突返されて戻った。例によってNという若い編集者から、ほうぼうの「疑問点」を指摘されたようである。久美子が帰って見たときの信夫の様子が違っている。ここ一年間、書きあげた原稿を雑誌社に持ってゆくことも、持ち帰ることも彼女には内緒にしているが、それは彼の様子から知れてくる。突返されると虚脱したようになっているか、荒れ狂うかする。三日ぐらい経ってようやく気をとり直し、原稿の部分的な書直しにとりかかるが、思うようにゆかないと、原稿用紙の屑を撒《ま》き散らして、ぷいと出てゆく。酒が飲めない男だから同人雑誌仲間のところにうさ晴らしに行ったり、裏山に登ったりする。久美子は逆らわないようにしているが、閉め切った隣で聞えよがしに呻《うめ》いたり、転んで寝返ったりする畳の響きを聞くと、自分の仕事ができなかった。信夫はそれを、狙《ねら》うように邪魔した。  だが、襖《ふすま》が開けて夫をなだめることは許されなかった。そんなとき、彼はことさらに怒った。同情されたくないというのがその口癖だった。夫のほうから出てくるか、おい、と吠《ほ》えるような声で襖越しに呼ぶかするまで待たねばならなかった。  久美子はその日の外の行動を必ずメモにつけた。たとえばこんなふうだった。 ≪午前十一時出勤、一時半社員食堂で昼食、二時半|田園調布《でんえんちようふ》に作家A氏訪問一時間、四時帰社、取材メモ整理、原稿十一枚七時まで、七時十分夕食、八時二十分目黒に画家Y氏訪問九時まで、電車で帰る≫  取材先の都合に合わせなければならないから、訪問が夜の九時というのもあった。約束をすっぽかされて留守のこともあり、三時間も喫茶店で待って話を聴く相手があらわれないこともあった。タイムレコーダーを押す勤めと違い、家を出たら最後、時間も居所も不定だった。  どういうわけか信夫は一年半くらい前から久美子のこの行動に関心をもちはじめた。単純な嫉妬である。はじめはそれほどでもなかったが、次第にひどくなった。その日の行動を明確に報告しないと憤《おこ》る。憤りはじめたら手がつけられなくなる。  最初は久美子もいちいちそんなことはおぼえてなく、時間と場所が記憶からすっぽり落ちていることがあった。錯覚もあった。夫に訊《き》かれて返事ができなかったり、辻褄《つじつま》が合わなかったりすると、夫の機嫌は悪かった。その不機嫌が次第に昂《こう》じてきて、呆れるくらい怒るようになった。根も葉もないことで、いいがかりであった。以前の信夫は自尊心があって、邪推めいたことなど、たとえ考えていても言葉の端にも出さない男だったが、今では妻の前に恥も体裁もなく、偽悪的にすらなっていた。  信夫がそうした傾向を帯びてきた一年半前は、ちょうど彼が自分の小説に自信を失いはじめたときと一致した。  七年前に久美子が信夫と結婚したのは恋愛からだったが、そのとき彼は会社づとめをしていた。前からの文学青年で友人たちと同人雑誌を出したり、ほかの同人雑誌仲間とつき合ったりしていて、小説をぼつぼつ発表していた。その何編かは批評家にも注目され、文芸雑誌の同人雑誌評にもとりあげられたことがあった。  二年経ってから信夫は、勤めを持っていては時間の自由がないので小説の勉強が出来ないから辞めたいといい出した。が、それでは生活ができないので、彼は煩悶《はんもん》した。久美子は夫にそれほどの才能があるとは思えなかったが、とにかく彼の希望を少しでも叶《かな》えてやりたくて、結婚前まで勤めていた出版社の社長に頼み、いまの雑誌編集部に社外記者として世話してもらった。それは原稿料計算だったから信夫の給料の二倍くらいな収入になった。  信夫はよろこんで小説に打ちこんだ。二、三年くらいは遅く帰ってくる妻のために夕食の支度や夜食の用意をして待っていたものである。  信夫の書いた原稿は容易に一流の文芸雑誌には採用されなかった。同人雑誌ではゆうに大手を振って掲載される質で、その程度にうまいのだが、商業出版社の文芸誌は採点が辛かった。彼は三つの文芸雑誌の編集部に原稿を持ちこんだり、持ち回ったりしたが、いい返事を聞かされなかった。彼の作品は箸にも棒にもかからぬというのではなく、水準近くまで行っていたから、どこの編集部でも預かってくれて叮嚀《ていねい》に読んでくれた。しかし、一週間か十日して速達をもらい、編集部に出頭してみると、待たされている応接間に彼の原稿を抱えた若い部員が入ってきて、必ず不満を述べるのだった。  信夫は編集部員の指摘した作品の欠点──心理描写の不自然さや、プロットの平凡さ、文章の拙劣さを承認することもあったが、ほとんどは承服しかねた。しかし、それで論争すると、相手が機嫌を悪くして、雑誌社への出入りも止りそうなので、止《や》むなく、というよりも卑屈に賛成して書直しのため原稿を持ち帰った。  彼はいわれた欠陥の書直しを試みるが、相手の意見に従いかねるときなど、ひどく苦しんだ。自分ではこれでいいと思っているのだからその手直しはかえって改悪になる。こうなると編集者と絶縁しても良心を守るか、自分を空《むな》しゅうして縁をつなぎ、やがて文壇に出る機会を狙《ねら》うかしかなかった。信夫は後者を択《えら》んだ。彼には編集者と正面から対決する勇気はとてもなかった。彼の書直しの部分は、ただ編集者の意に沿うようにのみ心がけられ、自分が書いているような気が少しもしなかった。  だが、書直しして持って行っても合格するわけではなかった。その書直しの部分の欠点がさらに指摘された。三度も四度もそういう作業をさせられた。しまいには、訂正が重なったため全体の筋が不自然になり、調子も崩れて、どうにも収拾がつかなくなって没にされた。  それでも信夫の作品は全国の文学青年が羨望する有名な同人誌にはときどき載《の》った。短いながら批評の対象にもなった。だから彼は文学から退却する決断がつかなかった。もう一歩のところだった。ほんとにもう一歩のところだった。しかし、一流同人雑誌と一流文芸雑誌の格差はあまりにありすぎた。  信夫は友人に原稿を見せ、自分の考えが正しいか編集者の意見が適切かを聞いて回った。ほとんどの場合が彼の考えに賛成する返事だった。編集者の意見を支持する者は、よほど彼の小説が不出来でない限り、少かった。  しかし、それは信夫に何の利益ももたらさなかった。友人たちがどのように彼の小説を支持しようが、編集者の承認を得なければ雑誌には一行も活字となって現われないのである。彼の作品の運命は、彼よりも年下の一人の青年や一人の女編集者の評価に握られていた。彼らのいい草によると、「凡作を掲載することは作者の為《ため》にもならず、雑誌の為にもならない」のだった。むろん、後者に重点が置かれていた。  当然のことに信夫は批判を持つ。一編集者に果して文学に対する正当な鑑賞力があるだろうか。少くとも文学作品を評価するからには、それだけの理解力と感受性がなければならない。もし、ここに偶然に職場的な配置で文芸雑誌の編集部に、文学には鈍感で無知な男や女が籍を置くとする。そして、「新人」の作品を検閲するとしたら、その結果はまことに恐るべきことになる。  そういうと先方は答えるかもしれない、各雑誌の編集部員が読んで、いけないというのだから公平であると。しかし、十人足らずの人間の判断では実際のところは分らない、と信夫は信じた。その程度の数では低い評価の物差しか持たない俗物ばかりだといえる。少くとも数十人の眼を通るのだったら、その決定に従うことができよう。もし、ここに新しい思想をもった難解な小説、型破りのスタイルをもった傑作が現われた場合、従来の小説に馴らされた彼ら常識人がよくそれを理解することができようか。まず、その原稿は屑籠に投棄されることは間違いない。「新人」の作品を採否する編集者は、評論家なみの資格を持っていなければなるまい──。  久美子は、信夫のそうした気炎とも愚痴ともつかぬ話を、ずいぶん、以前から聴かされた。      二  信夫が荒れてきたのはここ一、二年来だが、とくに近ごろはひどくなった。  彼は相変らず小説を書いてきた。一日十枚を志して書いていた。一年に一回ぐらいは何かの都合で──多分それは彼の持ち込み原稿でも出来のいいのがゲラにして組み置きになっていたのを、その号で当てにした作家の原稿が入らず、穴埋めとして陽の目を見たのだろうが、雑誌に掲載される機会があった。しかし、それは一向に評判にならなかった。何かが欠けていた。が、評判にならなくとも彼には励《はげ》みだった。一流の同人雑誌に載るよりはずっと出世した気になれた。もう少しである。あと一歩で、彼は新進作家の地歩に辿《たど》りつきそうであった。  なまじっか、そういうことがあるので、彼のためにはかえって不幸になった。彼は思い切って小説を棄てるまでの決心がつかなかった。そのうち、同人雑誌仲間で文芸雑誌に書きはじめる者が出てくる。聞いたこともない若い人が文壇に登場してくる。文学賞を貰うのもある。彼よりあとからきた新進作家が中堅作家の域にすすんだ。彼は群衆に押し戻されるようにあとへあとへと取り残された。爪立ちするような焦燥《しようそう》に駆り立てられるようになった。  信夫は、雑誌編集者や一部の作家の間に妙な名前の売れ方になっていた。長く文学をやっているが、あまり才能はなく、平凡な小説を努力して書いているといった褪《あ》せた印象だった。彼は歯を喰いしばり、やはり自分で日に十枚ときめた小説を依然として書きつづっていった。近ごろの文学傾向に自分の小説が合わなくなったのかと思い、テーマの方向も変えてみた。文体や文章に工夫を凝《こ》らしてもみた。だが、どの文芸雑誌の編集者も認めてはくれなかった。やはり何かが欠けていた。  その編集者も、社によっては他の部署に移ったり、地位が上ったりして、彼の原稿の欠点を応接室で指摘する相手は次第に若くなった。それに最近になるほど彼らはサラリーマン化し、文学も小説も分らず、しかも分ったような顔をして無知な指摘をした。以前には理解力がないと思っていた編集者のほうがはるかに鑑賞力があることが分った。  信夫は、しかし、原稿を雑誌社に運ぶのをやめなかった。彼は、若い編集者の説に相変らず逆らうことなく、辛抱して書直しをした。彼のほうが採点者よりも文学歴では何倍も長いのに。  とうとう信夫は、我慢しかねて若い編集者と議論した。彼は意見を述べながら顔に脂汗《あぶらあせ》をにじませた。じゃ結構です、この次に何かお出来になりましたら拝見させて下さい、とその編集者は眼鏡を光らせて大股で立ち去った。それ以来、二度と彼はその社の応接室に呼び入れられることはなかった。  そんなことがあってから、信夫は用心深い人間になった。ひとたび編集者と対立したらどんな復讐をうけるか分らないことを知り、相手の無理解を内心で憤り、軽蔑しながらも、表面は唯々《いい》として書直しにかかった。それでいて採用される保証はなかった。そこまでの可能性に漕《こ》ぎつけるには、もっと卑屈になることが彼自身に必要だった。  突返された原稿を手にして出版社の玄関を出る屈辱を信夫は何回味わったかしれなかった。彼は何度か絶望したが、何度か気力を奮い起した。それは執念にも似ていた。倒れても倒れても起き上る戦場の兵士を連想させた。  しかし、そうした執念がつづけられるのも、久美子に収入があるからだった。彼が責任者として生活を維持しなければならないとしたら、いや応なく文学と離れなければならない。勤めながら小説を書くことの不可能さは五年前に会社をやめるときに知っていた。  信夫は初めのうちこそ──まだ彼がそれほどこの修羅《しゆら》にさまよわない前は、久美子に感謝していた。彼には夕食や小夜食の支度を妻にしてやるだけの心の余裕があった。だが、焦燥が出はじめたころからそれは疎《おろそ》かとなり、とうとう、何もしなくなった。それから妻に対して不機嫌が強くなり、つらく出るようになった。それは彼の絶望感の深まるとともにすすんだ。彼は雑誌社でうけた屈辱をすべて妻に仕返しているかのようだった。妻が仕事から戻《もど》っても口をきかなかった。閉め切った襖の向うからわざと原稿を引裂く音や、畳に仰向けに倒れて獣のような呻きを聞かせるのも、妻を苛《いじ》める手段にしているようだった。  久美子は信夫の気持がよく分った。彼女はそれを半分は、いや、そのほとんどかもしれないが、夫の甘えと受けとっていた。一日中、たったひとりで家の中にいて原稿用紙にしがみついている夫である。返されても返されても書直しを丹念にやっている夫を見ると、小説|莫迦《ばか》という気がした。が、やめてくださいとはいえなかった。夫の文学への執着を見ていると、その阿呆ぶりよりは鬼神に近くさえ思われてきた。  それに、久美子は妻に養われているという卑屈感を夫からできるだけとり除こうと気を遣《つか》った。夫がわが儘なのも、その弱点を見せないためだし、空威張《からいば》りも、横暴もみんなそこから出ている。彼自身がその無理なことをよく承知していると分っている。久美子は服従すればよかった。  信夫のあせりは、妻から生活保護をうけている意識からの脱出にもあった。これが雑誌社から投げつけられる屈辱と二重に重なり合い、やり場のない憤懣《ふんまん》を妻に脱出を求めている。感情の昂ぶっているときは、夜、妻の身体にも嗜虐的《しぎやくてき》だった。  一年半前から、信夫の苛め方が変ったものになった。彼は妻の行状に猜疑《さいぎ》深くなってきた。不規則な妻の仕事の時間に嫉妬を持つようになった。それまでになかった新手だった。  夫にはその理由のないことが分っているのだ。妻をいじめる口実に疑惑をつくりあげ、妄想を持つ。今までのように漠然と妻に当り散らすのではなく、そこに具体的な拠《よ》りどころを設定する。──久美子には夫の心理的な動きが覗《のぞ》けるのである。  不幸は彼女の職業の種類にもあった。彼女は雑誌の企画もので取材し、原稿にするが、取材先がほとんど世にでた人々だった。性質上、文化方面が多い。評論家や作家がいた。夫はそれらの人々を罵倒した。それがかれらに接触する久美子への憎悪にふり替えられる。つくられた嫉妬はここでも重なり合った。  嫉妬は夫の荒《すさ》みといっしょに激しくなった。彼はその刺戟によろこびをおぼえ、苦しむことを愉しんでいるようにみえた。  あるとき、信夫は久美子の一日の行動をいい当てた。それは彼がどうしても尾行していたとしか思えないくらい正確で詳細だった。お前、嘘をついておれを誤魔化そうとしたって駄目だよ、と彼は得意そうにいった。久美子は、肌寒くなった。  彼女はそれ以来、仕事先と時間とをメモするようになった。信夫の質問はほとんど毎晩だったから、正確を期した。少しでも曖昧《あいまい》なところや齟齬《そご》があるとそこを追及された。あげくのはてには罵倒された。身におぼえのないことばかりである。  信夫は、わざときたならしい風采《ふうさい》で外を出歩くようになった。散髪もせず、髭も一週間くらい剃《そ》らなかった。じじむさい髭が、近ごろふえてきた皺《しわ》といっしょになって三十六歳とは見えぬ老けた顔になった。眼つきも陰険に変った。  そんなみっともない恰好をしないで着更《きが》えてくださいと頼み、洗濯のきいたものを出して置いても、おれはルンペンだからこれでいいんだ、と見向きもしなかった。文学的な無頼《ぶらい》を気どる誇りではなく、しんから不貞腐《ふてくさ》れているのだった。一日十枚が一枚も書けない日になった。  このごろは、死ぬということをいい出した。おれのような才能のない者が文学を志したのが間違っていた。だが、この年齢になってもう引返しはできない。律義な勤めにつくなど考えただけで息が詰る、おれにはすっかり怠け癖がついているのだから、これは生れ変るより仕方がない。お前だって、おれのような厄介者が早くいなくなればいいだろう、お前の再婚のためにもおれは死ぬ、といった。  借りているアパートは多摩丘陵の近くだった。裏山はまだ宅地造成がすすんでいず、あっても遠くのほうからはじまっていた。斜面は背の低い松や雑木で蔽《おお》われ、笹藪《ささやぶ》が伸びていた。二百メートル足らずの尾根を越すと、向うにもう一つの脊梁《せきりよう》があり、間が陥没していた。その谷間のこっち側、裏山からは反対側の斜面に戦時中に村人が掘った防空横穴が三つならんでいる。そこも灌木や笹に蔽われて、草が繁る夏などはちょっと入口も分らないほどだった。附近に湧水があって、穴の中の赤土はじめじめしている。だれも気味悪がって、道からはずれたそこまでは行かないが、信夫はときどき冥想と称してその横穴の中に入って坐《すわ》ったり、寝たりした。セーターもズボンも赤土だらけになる。そのよごれた恰好に、信夫は自らの敗残をさらしているようだった。おれが自殺するときは、あの穴の中を死場所にする。おれの姿が二日でも見えなくなったら、あの横穴を探すがいい。信夫はそんなことを冗談ともつかずいって、久美子を脅《おど》かした。      三  五月二十三日の夜七時から九時まで久美子は取材のことで洋画家の守山嘉一と赤坂のレストランで会った。守山は五十八歳だが、女体を主題にした独特な絵で知られていた。パリに十五年ほどいて腕も確かなら、画論も達者であった。いまでは画壇の或る会を率いて、一方の雄になりつつある。画論を書いたり、しゃべったりするのでひろく名を知られていた。今度の企画では取材から落せない一人だった。  場所と時間の指定はむろん守山のほうだった。場所をそこにしたのも、それからさきの守山の行動予定に都合がいいからきめたようだった。久美子は守山にご馳走になった。花街に近い、しゃれたフランス料理店であった。守山はだれも連れてこなかった。それが久美子を窮屈にさせたが、守山はウィスキーをひとりで飲んでは磊落《らいらく》にしゃべった。彼はその画と同じように精力的な脂ぎった顔と広い肩幅をもっていた。彼は、久美子に、あなたは奥さんでしょうね、とたしかめ、見当をつけた年齢に安心して、かなりきわどいことを話しては大口を開いて笑った。その話は乾いたもので聞いていていやらしくはなかった。だけでなく、自然と彼の画論にもなっていた。笑うと歯の抜けた口が無邪気で、糸のように細まる眼が可愛らしかった。外国に長くいただけに、豪放のようだが、婦人に対するこまかな心遣いがあった。  久美子は家に帰る途中、この面会が夫に話せないことに気がついた。守山嘉一は聞えた女遊びの達人だった。その風流なゴシップがよく雑誌などに載る。また、彼自身がそれをかくそうとせず、体験めいた艶ものを随筆にした。  そういう画家と二人だけで食事をしたといったら、夫にどんないいがかりをつけられるか分らなかった。むろん場所は立派なレストランで、二人だけといってもボーイやほかの客がいる前であった。公明正大で、隠す必要は少しもなかった。  しかし、画家が名うてのプレイボーイとして定評めいたものがあるだけに久美子はその名を夫に出すのが躊躇《ちゆうちよ》された。夫は嫉妬のための口実を求めている。いいがかりだとは夫にも分っている。それでよけいに無理難題となって荒れてくる。  信夫のつくられた嫉妬は昂じてくると、妄想と現実の境目が乱れて、本気になってきた。その異常心理から思わぬ発展を予想し得ないでもなかった。尾行したこともある彼だった。まさかとは思うが守山嘉一に電話で怒鳴りこまないとも限らなかった。悪い事態を考えるときりがなかった。  久美子は、守山に会ったことだけは夫に隠すことにした。その時間は、社の人たちと食事したということにした。それは今までずっとあったことだし、信夫のいいがかりの対象にはなっていない。幸い、特集のほうは各界の人たちの談話をひとまとめにした構成なので、守山画伯の名もその記事の中に出てくるだけだった。  久美子はその日メモに、 ≪二十三日。……午後七時から九時。編集部A氏ほか三名と社員食堂で打合せを兼ねて夕食≫  と書いた。  不必要な嘘だった。打ちあけて何でもないことであった。こんなことにまで余計な気を遣わなければならない立場が情なかった。  しかし、久美子の予想を裏切って、その夜のことは信夫は何も彼女に訊かなかった。その点でも信夫はまことに気紛《きまぐ》れだった。訊問がはじまると執拗だが、その気分になってないときは、けろりと忘れていた。久美子はくだらないいい訳をしなくて済んだのをよろこんだ。  それから四日くらい経った晩だった。信夫は隣室で珍しく原稿用紙を破る音もさせず、低くうなるだけでおとなしく万年筆を動かしている様子だったが、襖を開けて入ってきた。 「おい、マッチはないか?」  彼は立ったまま手を出した。火のつかない煙草をくわえ、眉に立て皺を寄せていた。 「ちょっと待って」  久美子も机で取材メモを横において原稿を書いていた。これは活字になる文章ではなく、別の人間が記事にまとめるための材料だった。夫はたちはだかったまま、妻の原稿をじろじろと見下ろしていた。なにもいわなかったが、さも軽蔑したような眼つきだった。久美子は起ち上って台所に行くのがつい大儀だったのと、夫に早く離れてもらいたいのとで、何の気なしに机の下のハンドバッグを引き寄せ、手さぐりでマッチをとり出した。はい、と夫に手を伸ばした瞬間、彼女は心臓に水をかけられたような気がした。自分の指が握っているのはパリのエッフェル塔の図案だった。すでに引っこめるには遅すぎた。  信夫はマッチを擦る前に、レッテルをじっと見つめた。久美子は胸が轟いた。いい訳が頭の中で急速に回転した。 「ふむ、レストラン××か」  彼は文字を口にし、まだレッテルを見ていたが、ゆっくりとそこにあぐらをかいて坐った。久美子は心臓がますます高鳴りした。 「赤坂か。……こんな店、いつ、行ったんだい?」  信夫は静かにいうと、マッチの棒を抜き取り、火をつけた軸を煙草の先に持っていった。  久美子は、会社の人たちとはいえなかった。そんな高級なレストランで打合せの食事をしたことなど一度もなかった。習慣に反したことをいえば夫は必ず質問する。ちょっと不自然だと思うと気がすむまで根掘り葉掘り追及してくる。その上で、不審を起すと、実際にマッチについている番号のダイヤルを回して事実を確かめかねなかった。  守山画伯の名は出せなかった。それにはもう四日前の段階で絶対観念になっていた。  久美子の追いつめられた、忙しい思案の中に仏文学者で随筆家の平井忠二が渦の中から出てきたように浮んだ。この人とは仕事の上で前に二回ほど会い話をしたことがある。それはその都度夫に報告してある。二度とも彼は何もいわなかった。信夫は先輩作家にはいろいろと批判はもっていても、奇妙に外国文学者に対しては無条件に尊敬していた。それに、平井忠二には守山のような派手な噂は少しもなかった。 「今度の取材のことで平井先生に、そのレストランで会ってお話を聞いたんです」  猶予するだけ訝《あや》しまれると思い、久美子は急いでいった。平気な声に聞えるのに苦労した。 「うむ、何日《いつ》だ?」  信夫はマッチの裏表をくるくる回して見ていった。  それほど険悪な表情でもないのでやや安心したが、油断はならなかった。 「二十三日です。夕方から、一時間ばかり」  眼を閉じるような思いで答えた。 (それは本当だろうな、何時から何時まで話していたのだ、場所の指定は向うでしたのか、どんな話をした、どこかに行こうと誘われなかったか、レストランを出ていっしょに何処《どこ》かに行ったのではないか、相手はお前の手を握らなかったか?)  次々と追及の言葉が夫の口からとび出しそうであった。眼を据えて、じっと返答を聞く彼の凄い顔がいまにも迫ってきそうだった。  嘘をついているのではあるまいな、ほかの男といっしょに飯を食ったのじゃないのか、このレストランに電話をかけて訊いてみるぞ、それでもいいか──詰め寄ってくる夫が次の動きになっていた。  が、信夫にそうした気配はなかった。彼は平然とマッチを抛《ほう》り出し、煙を吐きつづけた。あぐらも組まれたままで、そこから動かなかった。表情も変っていなかった。 「食事代は平井さんが出してくれたのか?」  彼は普通の調子できいた。 「いいえ、仕事の上だから、わたしが立てかえて払ったけど、あとで会社に請求するの」  食事をおごってもらったといえば、また何をいい出されるか分らないので、そう答えた。すべて無難なほうに言葉を択ばなければならなかった。  そこで平井氏からどんな話を聞いたのかと問われると当惑するのだが、これまで信夫は滅多に彼女の仕事上の話を聞こうとはしなかった。彼は雑誌記事の取材など軽蔑している振りを見せ、妻の仕事の内容には一切興味を示さない態度をもちつづけていた。  果して、信夫は平井忠二の談話内容を避けた。 「二十三日というと金曜日だったな。金曜日というとああいう場所は混むということだが、本当か」 「そうね。そういえば、少し混んでいたようだったわ」  久美子は夫が、二十三日は金曜日だったな、とわざわざ言葉にしたのは、何かの策略ではないか、とぎょっとしたが、表情をみると以前のままだった。信夫はいつまでも顔色をかくすことのできない男だった。  久美子は早くこの話題から脱れたかった。 「あなた、お仕事のほうはうまくいってるようね?」 「どうしてだ?」 「だって、合間にわたしのところにきて駄弁《だべ》ってらっしゃるんですもの。苛々《いらいら》してらっしゃらないんだもの」  久美子は夫の機嫌をとるように微笑した。 「うむ、いまのところはね」  信夫は満更でもない顔つきで短くなった煙草をふかしつづけていた。 「そう、よかったわ。Eさん、どういってらしたの?」 「いままで拝見した原稿の中で、いちばんいいように思うといった。もっとも、少しばかり書直しをさせられるけどね。だが、今度はその箇所が少いんだ。心配なのは二百枚近いのをいっぺんに載っけてくれるかどうかだが、Eさんは新人のは一挙に載せないと反響がないといった。もしかすると、次の次の号ぐらいには発表してくれるかもしれない」  信夫は久しぶりに雄弁になった。編集者にそういわれたのがよほどうれしかったらしく、いつも気むずかしい顔が明るくなっていた。編集者不信の言葉などけろりと忘れたようだった。そして、やがて四十に手が届こうというのに、長い間の小説書きというのに、編集者に新人呼ばわりされて少しも腹を立てていない夫の気弱さをそこに見た。彼女の、自分の危機を乗切った安堵《あんど》は、次には夫への同情となった。 「よかったわ。あなた、しっかり書いてよ」 「うむ」  が、信夫は煙草の残りを灰皿に捨てると、ふいに起ち上りインキでよごれた指ですぼんだ頬を掻いた。 「しかしな、E君のとこでパスしてもKさんがどういうかな。ほかの編集者の意見もあるし。何度も同じことがあったからな」  Kは怕《こわ》い編集長だった。信夫はもとの暗い眼つきにかえっていい残すと、襖を開けて次の間に消えた。  久美子は夫が置き忘れたレストランのマッチを机の抽出しの奥にかくし、台所から別のマッチを持ってきて用意した。あのマッチは明日すぐ処分しなければいけない。  その夜おそく久美子は娼婦のような気持で夫を床に誘った。      四  二週間を過ぎたが信夫の書直しは完成しなかった。今度は希望が見えているだけに──一方、いつもの不安は絶えず彼に付きまとっていたが──その希望に強《し》いて光を託していた。それだけになかなか慎重だった。この一本にすべてを賭《か》けているようだった。これまでにないことだが、二、三行を直すのに五時間ぐらいかかった。  それに全精神を打ちこんでいるせいか、久美子に荒れることはなかった。部屋に閉じこもったままである。二百枚の原稿に手を入れるのは容易なことではなかった。彼は妻の前に出てもぼんやりとして気の抜けた顔をしているか、文章のことが気になって仕方がないように遠くを見るような眼で思案しているかした。久美子が戻っても外での行動などまるで無関心で、何も訊こうとはしなかった。  束の間の平和だった。二百枚がもう一度突返されたときの反動が彼女は怕《こわ》かった。そしてその可能性は無いよりはあるほうが強かった。これで編集部に頼めるものなら何とか載せてもらうよう拝《おが》み倒しに行きたかった。  そんな日、久美子は銀座で向うから大きな身体をゆするように歩いてくる画家の守山嘉一に出遇《であ》った。彼は今日も一人だった。  久美子は先夜の礼をいった。 「やあ、つまらんことをしゃべりましたな。雑誌はいつごろ出るの?」  守山は白髪のまじった長髪をかきあげてきいた。 「来月の初めに出ます。出ましたらお送りさせていただきます……」  その次にいいたい言葉があったが、ためらった。が、守山のほうでいった言葉で躊躇を捨てた。 「また、いっしょにお食事しましょう、今度はどこか別の料理店でね」  それは守山のお愛想だったが、久美子は真顔になって近づいた。 「あの、先生」 「う?」 「あの、たいへん失礼なお願いですけれど……あの、この前、先生と二人きりでレストランでお目にかかったこと、少し事情があって、内聞にしていただきたいんですけど」  顔が燃えるようだった。  守山は眼をまるくして久美子を見ていたが、すぐその意味に合点《がてん》がいったらしく、 「ああ、そうか、君はご亭主持ちだったんだね。いいよ、いいよ。だれにもいわないよ。……どうもぼくの評判は予想以上に悪いんだなア。不徳のいたすところだから仕方がないがね」  と、欠けた歯を見せ、仰向いて笑った。そして象のように細まった眼にちょっと憐れみの色を浮ばせた。 「ほんとに申し訳ありません」  久美子は、急いでおじぎをすると守山の前を逃げた。  いくつかの街角を走るように歩いてこの恥かしさから早く醒《さ》めようとした。その羞恥《しゆうち》は容易に消えなかったけれど、それよりも大きな安らぎが心にひろがってきた。守山画伯と夫との交際はない。ないが、守山の開広げの話がどこにどのようにして伝わり、回り回って夫の耳に入らないとも限らなかった。勇気を要したが、口どめしてよかった。さすがに恋愛経験の豊富な守山のことで、万事を心得ていた。君はご亭主持ちだったんだね、という画伯の笑い声が火照《ほて》った耳の奥にいつまでも残った。  これで万一の懸念はとり除かれた。まったく確率の低い、遠い危険ではあったが、夫が異常心理の状態に陥った場合のことを思い、偶然の不運をできるだけ避けねばならなかった。他人にいったら嗤《わら》われる話である。  その信夫はまだ手直しにかかっていた。彼はそれに神経を没入させて、わき目もふらないといった様子だった。この鎮静は一時的かもしれないが、少くとも夫の狂気の一時抑えになった。  しかし、それから一週間と経たないうちに久美子の安心を根こそぎに引抜く事実が現われた。  その日、久美子は書店に入った。やはり自分の雑誌が気になるので売行の具合を見るためだったが、昨日発売された綜合雑誌を手にとって何気なく目次を開いた。随筆欄に「高原の春・平井忠二」という活字があった。久美子は不安な予感をおぼえ、そのページを急いで繰った。 ≪私はこの五月十九日から二十五日まで、久しぶりに九州を旅したのだが、二十三日午後は車で別府を発ち、久住高原《くじゆうこうげん》横断のドライブウェイを阿蘇に向け……≫  はじめの三行を読んだだけで久美子は眼の前が昏《くら》んだ。何ということだろう、五月二十三日は平井忠二は九州に行っていた!  久美子は本屋を出た。「二十三日」の活字が街の上に陽炎《かげろう》のようにさまよっていた。  信夫は赤坂のレストランのマッチを見たとき、(二十三日は金曜日だな)と念を押すようにいった。この日附は彼の頭に刻まれているだろう。同時に平井忠二から一時間ほど話を聞いたという報告のことも。──  その綜合雑誌は信夫も毎号見ていた。創作欄を読むためである。当然、妻が仕事の上で接触している平井忠二の随筆を読む。それに彼は仏文学者には理由もなく劣等感をもっている。  欺瞞《ぎまん》が暴露したときのことを想像して、久美子は心臓が震えた。追及する夫の形相《ぎようそう》が浮んだ。忘れていたとか思い違いしていたとかの段ではない。あきらかな作為で夫を欺《あざむ》いていたのである。  夫は電話で平井に事実の有無《うむ》をたしかめるかもしれない。その結果、問い詰められて守山画伯の名を出したらどういうことになるだろう。逆上して守山を難詰しに行くかも分らなかった。近ごろ、間歇的《かんけつてき》に現われる異常性格を考えると、ありえないことではなかった。  その発展次第では、夫婦間だけの問題でおさまらなかった。久美子は恥かしくて外の仕事ができなくなる。平井忠二の抗議で社の仕事もやめねばならなくなるだろう。あらゆる汚辱《おじよく》が予想された。顔をあげて歩けなくなるにちがいない。こうした出版関係の世界からも身をひくことになりそうだった。だが、ほかにこれだけの収入になるどんな仕事があるだろう。  信夫にしても同じで、そうした噂がひろがれば彼の原稿を採用する雑誌はないかもしれない。すでに文壇に出た者とはわけが違うのである。「新人」にとってこの醜聞は致命的になるだろう。自分で首を絞《し》めるようなものだった。  が、そんな理非を説いても信夫が諾《き》くとは思えなかった。いったん感情に駆られたら前後の見さかいもつかなくなるのである。ことに問題は彼女の嘘にあった。その嘘には不貞につながる疑惑があった。説得しても弁解ととられるだけだった。  何とか危急を事前に防がねばならなかった。久美子は冷い汗が額に出た。息の詰るような思いだった。  彼女が考えついたのは、平井忠二に会って事情を打ちあけ、諒解を求めることだった。夫が面倒を起す前に平井に許しを乞えば、いくらかでも危機が抑えられそうである。抑え切れなくても軽くはなると思った。  恥を忍ぶほかはなかった。どうせ守山嘉一には恥を打ちあけていることだった。  だが、懸念は平井がそのことを快く承知してくれるかどうかである。仏文学者で随筆家の平井忠二は学者肌の男で、純粋な性格の持主と思われる。守山画伯のようにもの分りのいい粋人《すいじん》とはよほど違うと考えなければならぬ。そんな問題でぼくの名前を利用されては困る、と苦《にが》り切って横をむきそうだった。激怒を買うことも予想された。  いくどかためらったが、予想される破局の怯《おび》えが彼女を動かした。覚悟をきめて平井忠二の家に電話した。      五  約束して平井と会ったのは、その日の夕方だった。ちょうどAホテルに人を訪ねるから、その前にロビーで会おうといってくれた。平井は久美子の話を聞くまで仕事の上のことだとばかり思っていたようである。  ロビーの横の、飲みものなど出しているコーナーで久美子は平井忠二と対《むか》い合った。彼は、プライベートなお願いで上りましたという彼女の前置きをきいたとき、意外そうな顔をし、眼鏡の奥の瞳を不審げに凝《こ》らした。もっともなことで、平井とは二、三回会ったにすぎなかった。途中で出遇っても目礼して過ぎる程度なのだ。  羞恥とも屈辱ともつかぬ必死の思いで話し終ったとき、久美子は身体中に火がついたように熱くなった。  しかし、平井忠二の細長い顔がおだやかに笑いはじめた。四十五歳というが、四十前といっても立派に通る豊かな髪と、色の白い、知的な風貌をもっていた。 「そりゃ、いいですよ。諒解しましょう」  平井は細長い指を組み合せていった。 「だけどね」  と、彼は組み合せた両手をテーブルの前に置き、長身を前屈みにさせていった。 「ご主人がぼくに直接質問してこられたとき、ぼくはどう答えたらいいんですか? あなたがぼくの名前を使ったのを諒承しているといっても、ただ、それだけでは変なものでしょう。そりゃ、かえって不自然に聞えて、ご主人をよけいに怒らすようなものですよ」  平井の言葉は、そんなことをいうと、信夫の邪推からこっちの仲まで疑われそうになるという意味だった。それを遠回しにいっている。それは久美子も考えていたことなので、また顔が赧《あか》くなった。彼女の気持では、平井の名前を使っていることが分ったとき当人の平井が腹を立てないでくれるだけでよかった。その安心さえ得れば、あとは夫をどのようにでも抑えられると思っていた。 「さあ、それだけでは弱いね。待って下さい、じゃ、こうしましょう」  久美子の話を聞いて、平井は思いついたようにいった。 「五月二十三日は、ぼくは旅行していなかったことにしましょう。東京にいたことにするんです。そして、あなたとそのレストランに午後七時からいたことにしましょう。そうすれば、あなたがご主人にされた話の証明になりますよ」  久美子はおどろいて平井の顔を見つめた。彼の尖《とが》った、長い顎《あご》は充分に理知的な印象を与えたが、その上の唇は、いま静かに微笑していた。 「でも、ちゃんと雑誌に先生のご文章が載っていますのに?」 「さあ、そこですよ、あれはね、ぼくが実際には九州に行かないで書いたということにしたらいいと思います。ぼくは九州には去年行っていますからね。そのときの、記憶で、あの頼まれ原稿を書いたということにします。幸い、今度の旅行はぼく一人でしたからね。そういっても分らないはずです。もっとも、二十三日の夜は、ぼくは阿蘇の内ノ牧という温泉に泊っていますが、ご主人はまさかそこまではお調べにならないでしょう」  久美子は、眼の前に熱いものが滲《にじ》み、平井の顔がゆがんで分らなくなった。  平井忠二は久美子の泪《なみだ》を見て当惑した表情になったが、彼女の気持をひき立てるようにわざと快活な口調できいた。 「いったい、どうしてそんなことになったんですかね?」  答えたくないことだったが、黙っているわけにはゆかなかった。平井は、途絶えがちな久美子の話を聞くと、顔をしかめてうなずいた。 「あなたもたいへんですね」 「……仕方がありませんわ。そういう主人をもったと諦めていますの」  久美子がうつむいた。 「ご主人の小説が雑誌に載るようになるのがいちばんいい解決法ですね。そうしたら、ずっと明るくなられるでしょう」 「本人はあせってるんです。気持のやり場がないから、わたくしに当るんです。それはわたくしにもよく分りますから、主人が気の毒になるんです。何といわれても、わたくしが我慢していればいいんですけど、主人が昂奮のあまりに人さまにご迷惑をおかけするのがこわくて……」 「あなたの心は分りますよ。あなたは、よく出来たひとだな」  平井忠二は久美子を向い側からじっと見た。 「いいえ、わたくしが駄目なものですから、こういうことになりますわ」 「そんなことはない」  平井は強くいったが、自分の思わず出した声に気づいたように、低く咳払《せきばら》いして声を落した。 「なんとかご主人の小説を雑誌のほうで採用しないものですかねえ」 「いま、長い原稿の書直しをしてますが、本人はだいぶん希望をもっているようです。でも、これまでもそういう期待だけで終っていますから、今度のもどうなるか分りません」 「その雑誌には、ぼくも今まで何回かフランスの新しい小説の紹介を短く書いたことはあるけど、どうもそれだけの縁では編集部にご主人のことを頼みこむわけにはゆきませんしね」 「ありがとう存じます。主人の作品が駄目なんだから、仕方がありませんわ。そんなふうにいっていただけるとは思いませんでした。わたくし、ほんとに先生に怒鳴られるのを覚悟でお願いに上ったんです。そのお言葉を伺うだけで、夢のような気がいたします」 「ぼくは女性をどなったりはしませんよ」  平井忠二は唇を少し開いて笑った。 「いまの件はそういうふうにしておきましょう。あなたも含んでおいてください」  彼はテーブルにのせた両手を椅子の肘かけの上に引いて、 「これからも、ぼくの名でお役に立つようなことがあったら、いつでも遠慮なしにいってください」  平井は、もう一度、久美子の顔を瞬間だが凝視した。  ──これほど久美子が心配したのに、信夫はいっこうに平井忠二の九州紀行の話を持ち出さなかった。今度に限って発売中の綜合雑誌を読んでないようだった。久美子は気をつけて、それとなく襖の向うの夫の部屋を見ているが、雑誌は眼につかなかった。  信夫は相変らず二百枚の原稿の書直しと格闘していた。一度、直して持って行ったが編集部からさらに註文が出たというのである。  だが、今度は信夫もよほどそれに希望をつないでいるようだった。 「Kさんがな」  と、彼は厳格なことで聞えている編集長の名を出していった。 「Kさんはこういうんだ。E君から聞いた話だけではよく分らないが、あなたが充分に手を入れた上で、その出来がよかったら、次号の『新鋭作家三人集』の中に入れるよ、とね。あとの二人は、C君とD君だ。ほら、評判の新人だ。力量のあることでは批評家たちが一致して認めている二人だ。ああ、おれもその中に入れてくれたらいいがなあ」  信夫は心身をすり減らしたような顔に、眼だけ輝かして大きな息を吐《つ》いた。二百枚の書直し、それも二度目の書直しにかかってからは頬が目立って落ち顔色も蒼黒《あおぐろ》くなっていた。  久美子は、K編集長が一度でも夫の原稿に眼を通しているのだったらともかく、まだ読んでもいないのに簡単にそんなことをいったのだったら、危いな、と思った。CもDも、いま売出し中の新進作家で、年齢こそ信夫より下だが、その新鮮な作風と筆力とは、信夫の比でなかった。彼がその中に入って発表されるのは、たしかに彼が共に注目されて、文壇に出ることを意味した。が、今度の作品に限って、そんなに出来がいいはずはないと久美子は思った。K編集長は、信夫のその原稿を見もしないうちに、どうしてそんなことをいったのだろう。ワンマン編集長のKは若い部下のEの言葉を鵜呑《うの》みにするほど甘くはなかった。もしかすると、信夫を気の毒がっていい加減な言葉で常連を激励したのかもしれない。あるいはKが彼をからかっているのかもしれなかった。  勢《きお》いこんでいる信夫にも、その不安と危惧《きぐ》の影はみえた。彼は昂然としているかと思うと、急に悄気返《しよげかえ》って、苦しそうに頭をかかえた。 「おい、今度のやつがパスしなかったら、おれは死ぬぞ。生きていたってつまらんからな」  信夫は冗談ともつかない顔でいった。 「おばかさんね。小説だけが人生だと思ってらっしゃるの。あなたは、小説にのめりこんでいらっしゃるから、ものの価値判断が分らなくなってるんだわ」  久美子は、自分の怯えを払うようにわざと明るい声を出した。 「おまえこそ、おれの気持が分らないんだ。おれはそろそろ四十だよ。文学の痴呆症にかかってるんだ。ほかのことでは役に立たん男だ。おれの価値判断は文学が目盛りになってるんだ」 「じゃ、あなた、四十まで生きててよ。あと三年ね。今度の小説が、たとえ雑誌に出なくても、キリよく四十まで生きて、もう少しやってみるのよ。四十ちょうどになったら、死んでもいいわ」  今度は、夫の危機をできるだけ先に延ばしたかった。 「四十か……。それまで、おれ、もつかなあ」  信夫は何か虚《うつ》ろな声で呟くと、隣の部屋に行き襖を閉めた。どすんと坐る音がした。  いまの信夫は綜合雑誌を読む余裕もないのだ。久美子は自分の一応の危機を脱《の》がれたと思った。皮肉なことだった。恥かしい思いをして守山画伯や平井氏に頼んだのが不必要になった。しかし、次に夫の危険がはじまっている。  会社に出ると、平井忠二から電話がかかってきた。 「どうですか、その後、ご主人はあのことで何もいわれませんか。ぼく、あなたのことが心配になったものですから……」  平井忠二とホテルのロビーで会ってから一週間目だった。      六  どうしてそのようなことになったのだろうか──。  その後の一年半の経過を思い出しても久美子は自分が他人《ひと》のような気がして、よく分らなかった。足を滑らしたというほかにいいようはなかった。過失というには、そのあともあまりに平井忠二との間に深入りしすぎた。 「魔が差した」という昔からいいならされた言葉のほうにむしろ実感があった。  久美子は平井忠二を夫よりも愛しているとは決して思っていなかった。それなのに、なぜ、夫の眼を偸《ぬす》んで平井に会いに行くのか。帰りには、心が真暗になり、次の誘いにはもう絶対に応じないと決心するのだが、精神と身体とはいつも分離した。そうして一年以上その関係をつづけていると、夫に対する罪の意識は慢性化して鈍麻し、懊悩《おうのう》はこころよく退潮した。呪咀《じゆそ》は自分の中に棲む忌《いま》わしい細胞の平井を恋う活動に向けられた。  信夫は、二百枚の小説が雑誌から落されて以来、土色の顔は尖《とが》ったままで、衰弱が進んだ。それでも机に向って日に十枚と自分できめた目標に原稿を書きつづけていった。執念で生きているというものではなく、書くことをやめたら死の誘惑に惹《ひ》かれる恐れを脱れたいためのようだった。信夫は、久美子が朝十時に家を出て、夜十時を過ぎて帰ってきても、その間の時間割の行動はもう訊かなくなった。それだけの闘志も気力もすでに消失していた。そのことが久美子の罪悪をたすけたといえる。もし信夫が眼を光らして彼女の昼間と夜の行動を根掘り葉掘り糺問《きゆうもん》し、それこそ一時間の誤差も許さずに追及していたら、彼女が平井に誘われる意志は閉じこめられたに違いなかった。が、曾《か》つて自分で作為した嫉妬を己れの逆境への憤りとわざとすりかえて妻に怒り、そのことによって創作の闘魂をかき立てていた信夫は、小説の前途に絶望したことで、も早その理由を失っていた。彼は妻には何も問わず、何も語らず、そして何もしなかった。  一年がさらに半年経ったころ、久美子は平井忠二に前から女がいることを知った。このときの苦悩のほうが、平井との関係で初期におぼえた夫に対する懊悩より遙《はる》かに強かった。あるいは、のちになって夫への意識が鈍麻したためそんなふうに感じたのかもしれない。しかし、その苦痛の性格は全く違っているのだ。夫への悔恨は精神的で道徳的なものだったが、平井に女が存在する事実の苦悩は原始的で肉体的だった。ときどき狂躁的《きようそうてき》にすらなった。  そうした夜、信夫の姿が消えた。久美子は、前からいっていた夫の言葉を思い、暗い朝、こっそりと裏山に上った。  丘陵の背を越して、向う側の斜面の下にある横穴の前に立った。昼でも人の寄りつかない場所である。三つの穴の入口は、さしかう枝の繁りと、伸びた草とに蔽われていた。久美子は、懐中電灯で手前の穴からのぞいた。光の中に、輪をつくった青い蛇が浮んだ。二つ目の穴には何も見えなかった。三つ目の穴に、二本の脚が映った。  久美子は背を曲げて中に入った。土の天井の隅に大きな羽虫が群れてたれ下っていた。光の輪に、眼を閉じた信夫の顔が浮んだ。彼の口から頸筋にかけて嘔《は》いたものが白く流れていた。鼻の孔が真黒だった。その口は鼾《いびき》をかいているように大きく開いていた。口のまわりも顎の下も伸びた髭《ひげ》があった。肩の横に睡眠剤の瓶《びん》が三つころがっていた。二つは空だが、一つの瓶の底には白い錠剤が五、六粒残っていた。ネズミ色のセーターも褐色のズボンも赤土だらけで、土は滲《し》み出る水で湿っていた。  信夫は三十九歳と十カ月だった。数えでいえば四十一歳である。  久美子は一時間ほど夫の横で通夜をした。そうして坐りつづけているうちに考えつくものがあった。それはこの死んだ|夫の手《ヽヽヽ》で夫自身のぶんと、自分の復讐とを遂げることだった。  彼女は、あたりがうす明るくなったころに山を降りた。山でも、道でも、アパートでも人に見られなかった。みんなまだ睡っていた。遠方の街道にトラックが一台走っていた。  部屋に戻って横たわり、少し睡った。九時ごろに起きて支度した。廊下に女の児が立っていた。 「おじちゃんは?」  七つの女の児はませた口ぶりで訊いた。信夫がときどき遊んでやる子だった。 「まだ眠ってるのよ、お蒲団の中でね。昨夜はお仕事で徹夜だったから、夕方でないと起きないわ」  ほほ笑み、屈《かが》んで頭を撫でてやった。この声は部屋の中の母親が聞いているはずだった。  昼間の仕事を済ませ、七時から取材のために婦人評論家の家を訪問した。二時間ほどそこにいた。取材メモも正確にとれた。出されたケーキもおいしく味わえた。  平井忠二の家の玄関に立ったのが十一時ごろだった。合図で、チャイムのボタンを三回つづけて捺《お》した。レースの手袋をはめた指だった。このへんは住宅街で、塀《へい》を広くとった家が多かった。平井の家は路地のような奥にある。両隣は板塀とブロック塀で、母屋を離れていた。平井忠二は前の妻と別れてからは独身で暮していた。これが彼の武器でもあった。女中は通いで、夜はいなかった。  玄関のドアを細目にあけて、平井の眼鏡がのぞいた。 「ああ、君か」  平井はドアをひろく開けた。彼はまだチェック格子縞《こうしじま》のセーターに青いズボンでいた。 「どうしたの、前もって電話もくれないで?」  平井が中に入った久美子のうしろからいった。  家の中にだれもいる様子はなかった。平井が彼女の肩を抱き、耳を生あたたかい唾《つば》でなめた。 「あの女《ひと》、今夜は来てないの?」 「だれのこと?」  平井はとぼけた笑い方をし、 「ばかだな。いつまでもそんなこと気にして。それよりも、えらく遅いじゃないか。どうしたんだね?」 「わたし、今晩、ここに泊るわ」 「泊る? へえ、初めてだね」  平井はうれしそうな声を出した。 「ねえ、わたし、何だか寒いわ。この辺、夜が冷えるのかしら?」  レースの手袋は脱がないままでいた。 「ひろい家ばかりならんでいるし、人通りがなくて暗いから、そんな気がするんだろう。もう五月だよ」 「でも、寒けがするの。ねえ、何か上に着るもの貸して下さらない? レインコートでも何でもいいんだけど」 「レインコートなら、二階の洋服ダンスの中にかかってるよ。あ、いいよ、ぼくがとってきてあげる」  平井忠二は気やすく廊下に出た。階段を快活に上ってゆく足音がした。  久美子は急いで台所に行った。何回もきているので勝手は分っていた。ガスレンジの下にあるデコラの抽出しを開けて刺身包丁を持ち出し、抽出しはそのままにした。うすい手袋のままだった。平井の足音が階段を降りてくるころには、もとの部屋に戻り、包丁は低い本箱の上に置き、雑誌で上をかくした。柄《え》がのぞいているが平井が気づくはずはなかった。 「さあ、これ、上からかけときなさい」  平井は抱えてきた青いレインコートを久美子のうしろから肩に置いた。久美子は両袖を通し、前のボタンもみんな完全に掛けた。 「なんだ、これから外出するみたいだぜ」 「寒くてしようがないの。風邪薬のようなもの、何かない?」 「うん、何かあるだろう。ちょっと、待って」  平井は次の間に行ってタンスの小抽出しを開けていた。久美子は雑誌の下の包丁をそっと取った。平井は薬がすぐに見つからないらしく、小抽出しを次々と開けては中をかきまわしていた。その長身の背中は包丁の刃を誘うように全く開放的だった。  帰りには風呂敷包みを抱えていた。  信夫の死体は五日後に、横穴を探検に来た近所の冒険少年たちに発見された。腐爛《ふらん》していたが、現地が湿地なのと気候のせいで普通よりは腐敗がすすんでいると思われた。実際は、もっと新しいにちがいないが、解剖医は死後経過の推定にまる一日の誤差を前提とした。  胃から致死量ぶんの睡眠薬が出てきたのは、死体の横に転がっていた三つの空瓶と一致した。その薬も本人が一週間前に近所の薬屋をはじめ遠くのほうまで行って買い集めたものと分った。薬屋では同一人に睡眠薬をいちどきには多く売らない。  疑問の余地のない自殺だったが、死体が被《き》ている青いレインコートに血が附着しているのが合点ゆかなかった。明らかに返り血だった。警察は横穴のまわりの草を刈った。血のついた刺身包丁が現われた。その柄に付いた指紋は自殺者のものだった。  警察では、四日前の晩に自宅で刃物で殺された仏文学者平井忠二の事件とこの自殺者とを容易に結ぶことができた。レインコートについていた血が被害者の血液型と一致した。刺身包丁は被害者の傷口の形と合致した。背後から心臓に達した傷創《しようそう》二箇所、後頸の傷創三箇所がいずれもその包丁によるものだった。平井の家に通っている女中は、その包丁が平井家のものであること、青いレインコートが平井忠二のものであることを証言した。  久美子は、四日前の晩に夫の信夫が居なくなったままずっと家に帰ってないので、明日あたり警察に捜索願いを出すつもりでいたと述べた。平井との不倫な関係を認め、夫が早くからそれに気づいていたことも供述した。久美子は留置されずに帰された。警察では、信夫が寝とられた妻のことで平井を憎悪し、犯行の夜、彼は妻の留守に平井の家を訪問して激論となったが一旦はしずまり、のち平井の隙を見てそのレインコートを洋服ダンスから奪って着用、返り血が自分の衣服にかからぬように防ぎ、同家台所にあった刺身包丁で平井の背後から刺殺し、現場から逃走して自宅アパート附近の裏山の横穴で覚悟の睡眠薬自殺を遂げたものと推定した。捜査は中止された。  ──洋画家守山嘉一は、この事件を新聞で読んだ。自殺した犯人の妻、高木久美子の名に心当りがあった。  そうだ、あの婦人記者だった、と彼はうなずいた。二年前の今ごろ、そうだ、五月二十三日の夜、赤坂のレストランで絵の話をしてやりながら食事を共にした女だった。五月二十三日という日附がどうして印象にあるかといえば、かねて念願のバアのマダムとはじめて寝た晩だったからだ。それから、またなん日か経って、その婦人記者と銀座の通りで行き遇った。そのとき彼女は真顔で、先生とレストランで会った先夜のことは内緒にしてくれと頼んだ。亭主の悋気《りんき》がひどいのだと察し、いいよ、と呑みこんだものだった。画家はこの殺人記事に慄然《りつぜん》となり、彼女の亭主に殺されずに済んだ自分をひそかに祝福した。  それから一カ月くらい経って、守山は訪ねてきた編集者から、高木久美子が山陰のほうで自殺したという噂話を聞いた。彼はもう一度「絵画における性」のモチーフの話に熱心に耳を傾けてメモしていた、どこか疲れたような感じの、しかし、魅力のある女の顔を浮べた。出入りの雑誌編集者が来た。彼女の亭主というのは、遂に酬われることのなかった同人雑誌作家でした、いい線まで行ってて期待されていたんですがね、ああいうことになるとは分らないものです、とその編集者は画家に話して紅茶の残りを飲んだ。 [#改ページ]    新開地の事件      一  都会に密集した家屋は、異った生活集塊の様相と、隣人との孤絶関係で成り立っているという組み合せから犯罪の伏在を容易に想像させる。実際、その猥雑《わいざつ》さと秘密な閉鎖性と、複雑な建築様式とは他人の眼の入る一分の隙もないくらいに内部を隠している。  その上、住人のほとんどは流れ者で素性が分らない。長い間そこに居住している者でも隣人について本当の知識をもっていない。表面《うわべ》は互いの機嫌を損ねない柔らかな会話を交しているが、それが当人の性格でないことは相手のほうで知っているし、その話も決して自分のことには深く触れさせない。こういう秘匿的《ひとくてき》な人間が相互に断絶し、しかも軒を重ねた家屋内に住んでいるから、犯罪発生には適切な条件を備えているように見える。  それにくらべると、田舎は──遠い地方に出かけるまでもなく、東京の近郊を眺めるだけでよい、そこには疎《まば》らな家屋をとり囲んだ防風林があるか、山裾の杉林があるかである。家屋と家屋とは充分に間隔がとってあるし、裏口もたいてい戸が開いていて内部をまる見えにさせている。居住者は何代も前からつづいた者ばかりで、互いが家族の一部のように何でも知っている。これでは体裁をつくっても仕方がないから、会話は気どりがなく、自然のままで、開放的である。  武蔵野の場合、涯《はて》しなく田野がひろがっている中での集落──それも多くて十軒、少いので二、三軒の家屋と、それを保護する防風林の点在がある。上代の条里制が遺《のこ》っているところでは、その名残りの畔道《あぜみち》を伝って人が家に達するにはかなりな時間がかかり、豁然《かつぜん》とした視野はどこからでもその人物の姿を認めることができる。こうした開放的な居住地を人が眼にするとき、詩的な情感は湧いても犯罪の伏在を想像することはできない。もし、そうした気持を起せば、よほど変った想念だと自分自身をたしなめるにちがいない。  しかし、ここ十年ばかりで東京の近郊も変った。勤め人の可愛い家がふえ、私設のアパートが大小となく建ち、公営の白亜の団地が出現した。それにつれて小さな商店街がほうぼうにできた。農家は土地を売った金で、古い茸《きのこ》のようなワラぶきの家を、総檜造りの広壮な建築にかえた。  だが、それでも、まだ田園がすっかり住宅地に侵略されたわけではない。水田も畑も相当部分残っていて、米、麦、野菜が昔どおり栽培されている。雑木林も全部が切り倒されたのではなく、あちこちに森を残している。その下には相変らず湧き水があり、小川がまだ流れている。  こうした新しい環境を、前にみた犯罪的な予感からすると、どのような範疇《はんちゆう》に入れたらよいだろうか。都会住宅と田園の折衷《せつちゆう》という立地条件と環境の新現象に、犯罪分類学者はしばらく当惑する。秘密性と開放性の同居は、家屋にしても人間にしても境界が判然としなくなる。田園が現代化している際だからよけいに厄介である。  結局、都会の秘匿的な性格が田舎の開放性を侵略するか、田舎の非秘密性が都会の住宅慣習に影響を与えるかによって犯罪分類学者の頭脳の判断を截然《せつぜん》とさせる方向にもってゆくようである。  それは行政区劃では東京都北多摩郡になっていた。N新田《しんでん》の名の示す通り、以前は開墾地だったのだが、丘陵地をはるかに見るこの平地も、農地が次第に少くなり、半分以上が団地や住宅で占められてきた。電車で新宿まで約一時間という便利さもあって、ベッドタウンとか田園都市とかいう美称を冠せられて、住宅の繁殖はますますひろがろうとしている。もちろん、土地の値も異常な高騰となった。  耕作を放棄した農家は、土地を売った金で都会風の家を新築した。いま、サラリーマンの小住宅の間に見かける大きな門構えの立派な家の多くがそれである。なかには、ちょっとした料亭かと思い違いするような和風の家もあり、和洋折衷の邸宅もあった。仕上りにはどことなく垢抜けのしないところがあったが。  そうしたなかで、こぢんまりと改築した質素な旧地主も何軒かはあった。やはり周囲に防風林を残し、前には籾《もみ》を干《ほ》すだけの広い空地をとっている。その構えでも知られるように、そうした家はまだ「農家」だったのだ。ほうぼうに持った農地をいっぺんに売ることなく、地価の値上りを見越して、徐々に分譲しているのだった。おかげで、すでに住宅地となっている区域にはいつまでも農耕地が間にはさまっているので一向に街らしくならないで発展を阻害されていた。住民たちは「百姓」の貪欲《どんよく》を非難した。  そうした種類の農家の面影を残す家の一つに「長野忠夫」の標札があった、標札のかかっている大谷石《おおやいし》の門柱の左右にはコンクリートの万年塀が伸びて約百二十坪の敷地を囲んでいる。その家は、二十五坪の平屋は中央よりずっと背後の北側に引込んでいて、前は空地とも庭ともつかないものになっていた。庭らしい様子を整えているのは、格子戸の玄関正面をかくしている前栽《せんざい》の植込みで、松が五本、椿が三本、それに下植えとして満天星《どうだん》数本が素朴に繁っていた。前栽を火山岩の石が円形に囲んでいるが、石は黒く、青苔《あおごけ》がついていた。  そのほかは、だだっぴろい地面で、何の人工も加えられてなかった。が、どういうものか石がやたらと転がっていた。この家が改築されたとき、庭師が入って材料の秩父の石を運び入れたのだが、値段の折合いがつかないため造園は放棄され、結局、依頼主が石の値だけ払ってそのままになってしまった、といういきさつを人に容易に想像させた。石は何の観賞の価値もない、くだらないものである。間の空地には雑草やゼニゴケが生えている。  二十五坪の母屋のうしろにはトタン屋根の細長い古い納屋が附属していた。これこそ改築前の母屋と同じ時代のもので、つまり、この家が純粋に農家だったころの籾蔵《もみぐら》であり、麦、野菜、農器具の格納庫だったのだ。今は、屋根のトタンも腐り、板壁も朽ちている。  唯一の風情《ふぜい》は、その納屋のうしろと、敷地の東西の隅にかたまっている雑木林だった。松や杉の針葉樹はあまりなく、櫟《くぬぎ》、楓《かえで》、樅《もみ》などが多い。見事なのは欅《けやき》で、そのなかでも二本はとび抜けて高く、空に向って亭々とそびえていた。この家の何代か前の住人のころに自然林の一劃を屋敷内にとり入れたものが、その一部を残しているのだった。  この家の近所は旧《ふる》いので七、八年前、新しいのは去年か今年建った家ばかりで、勤め人か、退職した人の近代的な匂いのする小住宅ばかりであった。  家の前の道は勤め人が駅に行く途中でもあり、また駅前の小さなマーケットに主婦たちが買物に行く通りでもあったから、朝と夕方とはわりに人の通行があった。 「長野忠夫、か」  門の前を通りかかった若い勤め人が歩きながら標札を見上げていった。 「土地を売って儲けたお百姓さんだろうな。先祖代々の土地というけれど、法外な値で売れたのだから、まる儲けみたいなものだ。会社や親類から借金でやっとマッチ箱のような家を建てたわれわれからみるとうらやましい限りだな」 「でも、農地を売ってしまったあとは、どうして生活してらっしゃるんでしょう?」  駅まで夫を見送る若い妻は、いっしょに標札に眼を走らせて夫と肩をならべて歩いた。 「ごっそり銀行に預金して、その利子で食べているんだろう。農家の人の生活は質素だからね」  夫は道に捨てたハイライトの吸殻を靴の先で踏みつけた。 「そうでもないよ」  と別な二人連れのサラリーマンがこの家の前を通りかかって同じような問答をした。 「近ごろの農家の人は利口だからね。銀行預金だけじゃ満足しない。土地の値上りを待って申し訳程度に野菜をつくっている。現金収入のほうはさ、前に売った土地の金を資本にして、駅前でパチンコ屋とか、風呂屋とか、八百屋とか小さなスーパーストアとかいった日銭《ひぜに》かせぎをしている。ちゃっかりしたものさ」 「しかし、人にだまされて土地を売った金をすった連中も多いらしいな」 「百姓は目さきの欲に迷わされるからな。ま、そういう手合の話でも聞かないことには、われわれの憂鬱《ゆううつ》は晴れないよ」  二人の笑い声は朝の澄明な空気の中にすがすがしくひびいた。  家を建てるため土地を探しに来た中年夫婦が駅前の不動産屋に連れられて通りかかった。 「長野忠夫……」  中年の夫は門標を声出して読み、そこから家の全体を眺めた。 「この家も前からつづいた農家だったんだろうね?」 「なんでも三代つづいているというんですがね。あたしはこの辺は新しくてよく知らないんですが、ふるくからいる土地の人の話だとそういってますね」  肥った不動産屋はこの辺の地図を片手にしていった。 「けど、この長野忠夫さんというのは中央線のM駅近くで洋菓子店を持っていて繁昌しているらしいですな。とてもうまい菓子だというので、この近所でも評判です」 「この近所でも?」 「忠夫さんが近くの奥さんがたに頼まれて、店から註文品をよく持って帰るらしいのです。勤め人の奥さんはそういうものには口が肥えていますからな。忠夫さんも菓子の職人です」 「お百姓の息子が洋菓子屋さんとはちょっと変っているね」 「いや、養子だそうですよ。この家にはひとり娘しかいませんでしてね。いまは、農地も半分以上売払って、菓子屋の資本にしてしまってるそうです。……父親のほうは亡くなって、いまは母親だけです。あたしも商売柄、ときどき、そのお袋さんのほうには会ってますがね。まだ五十の半《なかば》で気持のいいひとですよ」  不動産屋のおしゃべりがつづくので、妻は夫を促《うなが》すように先に歩いた。  地味なネクタイをつけた中年の夫は、もう一度その家を振りかえって高い欅のある雑木林を塀越しに眺めた。      二  この家の主《あるじ》、長野忠夫の養父は直治といった。忠夫の旧姓は下田である。  長野家は三代つづいた農家で、初代は明治の中期にここに居ついた。もっともそのころは小作人だった。先代が昭和十年ごろにようやく半町歩足らずの田を買いとって、半自作農となった。当時はそれこそ渺茫《びようぼう》たる武蔵野の田野で百姓家の点在があるだけだった。  伜の直治は二十七のとき、見合いで六歳下のヒサといっしょになった。ヒサは近県の山村の生れで働き者だった。彼女はそのころから固肥りの女であった。自作農と小作農とを合わせた田地に草も生やさずにやってゆけたのはヒサの努力である。酒好きな直治は女房のあとからしぶしぶ野良に出てゆくような男だった。  そのかわり、直治には商売の才能があって、昭和十七、八年の米の統制時代にヤミをやって儲《もう》けた。他人の米まで買って売ったのである。そのため、二度ほど警察署の留置場に入れられた。儲けた金でまた田を買った。  戦後の農地改革のときでも直治はうまく立ち回った。小作農の土地はむろん自分の手に帰したが、そのほか情勢にイヤ気がさしている地主の土地も少しずつ手に入れた。 「そんなに田を買って、どうする気かえ。あんたは働かんし、お婆さんは役に立たんし、赤ン坊負うたわしひとりじゃ手に負えんだで」  ヒサは口を尖《とが》らせた。  先代は死亡し、老母が残っていた。彼には兄弟がなかった。 「心配しねえでもいい」直治は笑った。「いまにおめえも鍬《くわ》を持たねえでもいいようになる」  直治は常に田圃《たんぼ》でヒサに文句を云われているので、いつのまにか女房が苦手になっていた。 「そいじゃ、また小作農が頼める時世になるのかえ?」  新しい法律で自作農しか認められないことを知っているヒサは眼を輝かした。今度は小作農を傭《やと》える身分になるのである。 「そうなるかもしれねえ。まあ、長い目で見とけよ」  直治は相変らずの米のヤミ売りをして金を儲け、儲かったからといっては酒を呑んだ。まるでヤミ売りすることで、野良働きの義務から脱れようとしているようであった。  だが、そんなことで、ヒサは直治を許さず、彼を田畑に引き立てた。金儲けはいいが、亭主が酒ばかり呑んで、酔って寝るのが気に入らなかった。夜、ヒサのほうで足を出して触っても直治は朝まで熟睡し、肩に手をかけると無意識に向うをむいて鼾《いびき》をかいた。  固肥りのヒサの身体は百姓仕事でますます健康となっていた。ヒサが生れた近県の山村は最近まで若い者の悪風習が残っていて、彼女も直治といっしょになる以前に女にさせられていた。直治は決して強靭《きようじん》なほうではなかったが、酔ってない限りは女房にそれほどの不満は与えなかった。  直治の予言は少し違ったけれど、ヒサがそんなに懸命に百姓仕事をしないでも済む時代がきた。終戦から十年近く経つと、この辺も都会の住宅の波が押し寄せてくるようになった。新宿から中央線沿いに西に、順々と、しかも、急速にひろがって、みるみるうちに田や畑が住宅地となった。そうした家と家との間に残された農地は忽ちあとからの家で埋めつくされ、商店街が出来、団地が建てられると、さらに発展した。暗かった夜は灯の輝きを増した。  もっとも、そうした急速な発展もK駅から三つか四つ目の駅までで、それから西のほうはわりあいとそれが緩慢であった。都心へ出るのに時間がかかりすぎるからである。しかし、徐々にだが、新しい家がふえてゆくことはだれの眼にも確実に映った。土地を求める人々の欲望が次第に西に伸びてきたのである。N新田の農家が先祖からの農耕地を売った金で、憧れの都会風な家をぼつぼつ新築しはじめたのはそのころである。  直治が大きな損をしたのは、ひとり娘の富子が十歳の時であった。彼は農地の三分の一を住宅地を望む人のために売ってしこたま現金を握ったが、なまじ商売気のあるところから不良株をつかまされ、欲に目がくらんで無尽講まがいのインチキ会社に大量投資し、その上、あろうことか素人には最も危険な小豆相場にまで手を出して、大きな穴をあけてしまった。  直治がヒサの前に威信を大きく失墜したのはいうまでもない。ヒサは怒り、泣き、亭主を罵《ののし》ったが、それで損害が一銭でもとりかえせるものでもなかった。直治は恐縮したが、考えてみると、投資ができるくらいの財産をつくったのは彼自身の力である。野良で鍬だけを揮《ふる》っていたヒサの働きは貧農仕事で、財産づくりには一片の寄与もしていない。金を儲けた人間が不慮の損失をしても咎《とが》められないことだが、普通の夫婦ではそんな理屈は通らない。それにヒサにとって堪えられなかったのは、直治の小豆相場の穴埋めに、残っている農地をかなり多く売却しなければならないことだった。こうして、当初直治が抱えていた土地は、遂に三分の一となった。 「これから先、どうなることやら心配でならねえで、いまのうちに家を建てるよ」  ヒサの発案というよりも独断で、古い百姓家がこわされ、町風の新築がなされた。が、残った土地、つまり財産が心細く感じられたため、その新築は附近の同じ農家のそれとくらべて小さくまことに中途半端なものとなった。はじめ庭をつくるつもりで庭師に石を運ばせたが、庭師が見積以上の工事費になるといったので喧嘩をし、運び入れた石をほったらかしにしてしまった。家のうしろにある古い納屋もまだ百姓をつづけるつもりで残したのだし、塀の中の雑木林も体裁よく刈る予定だったのが、出資を惜しんでそのままにしてしまったのである。それが都心からくる人の眼に俳諧的な風情を感じさせている。  このとき、直治は五十六歳、ヒサは五十歳、富子は十三歳であった。おそく生れた子である。老母は前年死んだ。  その翌年の秋、長野家は一人の青年を間借人に置いた。  新宿からK市にいたる中央線の途中にO駅がある。この辺一帯は会社の役員とか貴族の後裔とか大学教授とか著述家とかが多く住んでいて「文化区」として知られているのだが、そのO駅の近くに「銀丁堂」という洋菓子店があった。フランス風の、なかなか甘味《うま》い生菓子《ケーキ》をつくるので「文化人」を顧客として繁昌していた。その支店二つ以外、他の店には決して菓子を卸《おろ》さないから、この辺の婦人たちには「銀丁堂」の特徴ある包紙をもつことがひとつの見栄にすらなっている。──  その「銀丁堂」の主人の遠縁にあたるものがN新田に住んでいて、間借人の話を直治夫婦のところに持って行ったのだった。「本人は九州のF市の菓子職人ですがな、銀丁堂の主人のところに何度も手紙を寄越して、ぜひ技術をおぼえたいから見習いで採用してほしいと熱心に頼んだのです。もちろん給金も見習いなみでいいからということでね」  その人は夫婦に話した。 「当人は二十六で、地方では立派な菓子職人で通っていい給料もとっている。それが見習いなみの安い手当てでいいというんだから向上心があるんですね。で、とにかく、こっちに呼んでみて素質をみようというわけで銀丁堂の主人が上京させたのです。で、腕を試してみると田舎臭いけれど見込みはある。愛想も何もない人間だが正直なんですな。で、小僧なみの給料で傭ったが、困ったことに雇人の寝起きする場所がいっぱいでしてね。まあ、無理に割りこませることもできないではないが、なにしろ同じ年ごろの人間が職人で自分が見習いじゃ、当人が可哀相だという主人が心づかいで適当な間借り先を見つけてやろうということになりました」  だが、店の近くでは部屋代が高いので少い給金の当人に気の毒である。というところから、こちらにその人間を置いてもらえないだろうか、ここからだとO駅まで電車で三十分くらいだからまことに好都合だがという話だった。  間借人を置く──初めてのことなので直治夫婦は互いに顔を見合わせた。 「わしのとこは、この通り寂しい田舎だが、本人が辛抱しなさるかえ?」  ヒサが訊いた。 「そりゃ辛抱しますとも。当人も生れは九州の山の中だそうで、田舎のほうが落ちつくといってこの話に乗気なんですよ。そうそう、本人は安い給料だけど、実家は中農で毎月金の仕送りはあるんですよ。三男坊ですがね、東京の菓子職人として一人前になるまでは跡取りの長男が送金するといってますから、部屋代についてはご迷惑はかけません。万一のときは銀丁堂が責任を負いますから」  直治は、そんなら構わねえじゃねえか、と呟《つぶや》くように云った。 「けど、|うち《ヽヽ》には女の子がひとり居るんでね、若い男のひとを置くのはどうだろうね」  とヒサは難色を示した。 「娘さんはいくつですか?」 「十四ですよ。いま、中学生だけど」  紹介者は笑い出した。 「そんならご心配はいりません。本人はもう二十六ですからね。それに職人として一人前になるまでですから、二、三年の間だけ置かせてもらえばいいわけです」  ヒサは、よく考えてみるから、明日もう一度来て欲しいと云った。      三  下田忠夫は不恰好な顔だった。顴骨《ほおぼね》がつき出て、顎《おとがい》が長い。鼻が肥えて、唇は人一倍厚かった。いかにも九州人の先祖が南方系であることを証明しているようであった。太い眉は両の間がせばまっていて、濃い毛が色の黒い額《ひたい》にうすぎたなく生え眼も大きかった。ただ、笑うときに出る眼尻の皺《しわ》と鼻の皺に愛嬌が出た。  背が高く、身体は頑丈そうだが、動作は落ちついていて無口であった。その太い指が見せるように、全体がゴツゴツした感じで、およそ女の魅力の対象からは遠かった。  十四のひとり娘のことを考慮したヒサの懸念は消えた。  忠夫は、この家の表側の六畳をあてがわれた。玄関から入ってすぐの突き当りになるのは、彼が朝の五時ごろには起きて電車で「銀丁堂」に行くからである。それと、西側の奥になる八畳の夫婦の部屋の横が富子の寝室になっているので、彼を娘から隔離する意味もあった。 「わりと、おとなしい男じゃねえか」  と、忠夫を家に置いて一週間ばかり経ったころ直治が酒を呑みながらいった。 「そうだね、間借人としては邪魔にならないね」ヒサはいった。「それにしても、醜男《ぶおとこ》だな。様子も垢抜けがしねえし、あんまりものもいわねえよ」 「うむ。ああいう男が間違いがねえ。おれが酒はどうだなといったら、飲めねえ性質《たち》だといやがった」 「おまえさんのつき合いじゃ困るから、ちょうどいいよ」 「とっつきはよくねえな。これから先はどうか知れねえが、いまのところは田舎出のままだ。こっちも田舎者だが、九州の人間とはやっぱり違うからな」 「若い者だし、そのうち東京の風に染まるよ」 「おれはそうは思わねえ、あの男はこのままだろう。二十六にもなった菓子職人が見習い志望でやってきたんだから。根性はしっかりしている。あいつは三年も経ったらいい腕になるぜ」  ヒサはそれに疑い深い眼をした。ごつごつした忠夫と、繊細で優雅な洋菓子づくりとが観念のなかでどうしても一致しないようであった。 「それはそうと、富子のほうはどうだえ?」  直治はひとりで酒をつぎながらきいた。 「どうというと?」 「富子は下田をどう思ってるかな」 「どうも思やしないよ」とヒサは、桃色の歯齦《はぐき》を出して笑った。「あの子はまだ十四じゃないか。子供だよ」 「そうかなあ」 「富子からみるとひとまわりも年の違う二十六の下田はおじさんだからね。それにあんな造作《ぞうさく》じゃ年ごろの娘だって寄りつきはしないよ」 「富子は下田になついているかえ?」 「なつくもなつかないも、下田があの通り無口じゃ、富子だって取りつく島もないよ」  闌《た》けた秋の夜は、遠くの電車の音を運んでくる以外、何も聞えなかった。 「富子は十四で子供というけどな」  酔ってきた直治がいい出した。 「おめえが女になったのはいつごろかえ?」  突然のことに、ヒサは色をなした。 「かくさねえでもいい。おめえがおれのとこにきたとき生娘でなかったのはたしかだからな。おめえの育った村が夜這いがさかんだというのもおれは知っている。おめえの蒲団の中に男が初めて入ってきたとき、おめえはいくつだったえ?」 「何を寝呆けたことを酔っていってるんだえ、酒ばかりくらいやがって、ろくに男の甲斐性もないのを、そんな難癖でごまかす気かえ?」  ヒサは睨《にら》みつけた。 「おめえが、日ごろあんまりガミガミいうから、おっかなくなって、つい、その気がなくなってしもうのだ。……そんなら、今夜あたり久しぶりに抱いてやる。おめえが村の男に早えとこ女にされたと思うとおれだって腹が立ってくるからの」 「ふん、どうだか。いつも駄目なくせに」  ヒサはまだ田に出て働いていた、土地の三分の二を売払い、その金を直治がドブの中に捨てたと同様に失ったいま、ほかの地主のように店を持ったり、アパートを建てたりしているのとは違い、換金の方法がなかった。それだけでも田に立つとヒサは直治に腹が立った。夫婦は野良でよく喧嘩したが、いつも直治が負けた。 「富子」  ヒサは直治のいない畑で仕事を手伝わせている娘に何気ないふうに問うた。 「おまえ、下田をどう思うかえ?」 「ああ、あのおじさん……どう思うかって?」  中学生の娘はふしぎそうに眼をあげた。 「その、おまえとよく話をするかえ?」 「話なんかしないよ、むっつりしてるんだもの」 「じゃ嫌いだね?」 「とくべつ嫌いというほどじゃないけど、好きじゃないわ。あんな人、女からは好かれないわね」  富子はませたいい方をした。 「うむ、徳永先生のような人が来たら、おまえも気に入るだろうがね」  富子は返事をしないで赧《あか》い顔をした。  徳永先生というのは中学校の先生で、この近くに下宿して通っていた。色が白く、あるテレビドラマの主演俳優に似た顔なので女生徒に人気のあるのをヒサは知っていた。そして自分でも忠夫の代りに徳永先生に間借人になってもらったらどんなにいいだろうかとひそかに思っていた。それで、富子が赧い顔になったのをみて嫉妬のようなものを感じた。  十四で、もう色気づいている。そういえば今年の二月に初潮があって、その手当ての方法などを教えてやったことにヒサは思い当った。  直治にいまごろになって厭味をいわれている村の男とのことは、ヒサが十七のときだった。それまで入れ代り立ち代り村の男が忍んできたが、結局、日ごろから好ましく思っていた色白の、顔だちのいい男に蒲団にもぐりこまれて、口も身体も動かなくなった。  その後、彼とは山の中で二度ほどあった。また、それ以後も違う男を床の中で許したが、顔のよくない男は決して近づけなかった。それがヒサにはいまだに誇らしげな気持でいられる。──あの男たちは、いまごろ、どうしているずら。  みんないい加減な子持ちだとは聞いた。ヒサは二十年前に両親が死絶えてからは村に帰ったことがない。最初にゆるした男は直治より二つ上だったから、もう老いこんでしまったはずである。ほかの男も老爺の顔になっている。──ヒサは山村の青春をなつかしむ気持が空を渡る鳥影のように通りすぎた。  富子はまだ子供だ。が、思春期の入口にきている。下田忠夫に無関心を示し、徳永先生に頬を赧らめるのは、すでに色気が出ている証拠だ。やはり自分の娘のころと気持は少しも違わないと、ヒサは稚《おさな》い富子の顔と、風呂で見るその身体の変化とを思いくらべてみるのだった。  下田忠夫が来てから三カ月ほどすぎたが、彼の様子は初めと少しも違わなかった。ちっとも垢抜けがしないし、相変らず口かずが少かった。もっとも、あの不恰好な顔では手入れをしてもどうしようもあるまい。身体こそがっちりとしているが、一向に風采が上らないのは、すべて不器量な顔に合わせているみたいだった。  忠夫は朝が早く、晩飯も「銀丁堂」で食ってくるので、ヒサは彼と口をきく用事もあまりなかった。洗濯物も、部屋の掃除も忠夫はきちんとするし、間借人として手がかからなかった。もっとも、ヒサは彼のためにそんなことをする気も起らなかった。  そのかわり、彼が居ても不愉快というほどではなかった。馴れてみると、彼の不均衡な顔にも愛嬌らしいものがあった。こっちで話しかけても、ほんの二言《ふたこと》か三言《みこと》しか返事しない点はやはり愉快でなかったが、家に置いて目障《めざわ》りにならないのが何よりだった。  だが、日が経つにつれ直治のほうで忠夫を気に入りはじめた。忠夫は朝早くこの家を出ると晩の八時ごろでないと帰ってこない。直治は彼の戻りを待ちかねるようにして、自分の部屋に呼んだり、自分から忠夫の六畳の間に出向いたりして話した。  そんなとき、忠夫は迷惑そうな顔もせず、重い口を開いて、問われるままに洋菓子の造り方や、九州の話などした。ぼつぼつだが、自分の生い立ちや、家族のことなども語るようになった。  直治が忠夫と話すのをたのしむようになったのは、ヒサともあまり気が合わず、富子もなついてこない孤独からであろう。仕方なしにヒサについて百姓仕事をしている彼は、気の散じようもなく、女房の白い眼をふり切って酒を呑んでいた。どこにも出かけず、訪ねてくる友だちもいなかった。そうした直治は、東京で友人のいない忠夫に親しさを持ったと思われる。 「変り者どうしで気が合うんじゃな」  ヒサは、ときどき二人の低い笑い声を聞いて富子に冷笑をみせた。  酒の飲めなかった忠夫も少しずついけるようになった。  こうして二年ほど経った。      四  このころになると長野家ではわずかな変化があった。  忠夫は「銀丁堂」で見習いから一人前の職人になった。それは本人の誠実と、年齢と腕の上達とが主人に考慮されたからだった。彼は自分と同じ年齢または年下の職人のいいなりによく動いた。屈辱的な扱われ方に耐えたのも技術をおぼえる熱心さからだった。地方仕込みとはいえ、彼にはもともと菓子造りの下地があったので腕もめきめきと上った。主人は忠夫の年齢的な振り合いからいっても彼を普通よりは早く職人にしなければならなかった。  しかし、忠夫は「銀丁堂」でもっと働かせてくれと申し入れた。はじめの予定では修業が終ったら再び九州のF市の元の職場に帰って腕ききの職人としての待遇をうけるのだったが、彼はもう少し技術を磨きたいからここに残りたいと希望した。主人は承諾した。  忠夫は、給料がふえても長野家から出てゆかなかった。一つは間借り代が安いからである。「銀丁堂」の近くだと通うのに便利だし、快適なアパートはあったが、家賃が比較にならないくらい高かった。彼は九州から出てきて二年以上経ったが東京の風にはそまらず、新宿や銀座のような賑やかな場所に遊びに行くのを好まなかった。N新田のような田舎に居るほうが彼にはずっと性《しよう》に合っているようだった。それに長く同じ家に間借りしていればそこに馴れてしまって、新しい家に移るのがおっくうらしかった。忠夫はおよそ好奇心とは縁のない性格にみえた。  もう一つ、忠夫がF市に帰りたがらなかったのは、そこに戻ってもやはり使用人だからだ。彼には一軒の店をもつだけの資金はなく、また実家も彼の独立を援助する資力を持ち合わさなかった。それなら、地方の職人でいるよりも、東京の職人でいたほうが身の為だと直治にいった。忠夫は、なまじっかの腕を自負したばかりに崩れてゆく地方の渡り職人の例をたくさん見ていた。 「あいつは、なかなかしっかりしてる」  直治はヒサに話して聞かせた。  この頃になると、ヒサも忠夫の性質をすっかり呑みこんでしまって、「家族同様」の扱いにしていた。変り者なら変り者のような仕向け方もある。晩飯も、いつもいつも店のものではまずいだろうといって特別に用意することもあるし、忠夫が休みのときは家族といっしょに三度の食事をした。 「忠夫さん、あんたひとりでごろごろしていないで、富子をどこかに遊びに連れて行っておくれよ」  店の休みが日曜日と重なったとき、また、富子が学校から早く帰ったとき、ヒサは忠夫にいいつけたりした。忠夫は、生返事をしながらも富子を連れ出した。 「忠夫は富子をどう思ってるんだろうな?」  直治は二人が出て行ったあとヒサにきいた。 「さあ。ああして遊びに連れてゆくところをみると嫌いじゃないんだろうね」  ヒサは明るい顔で云った。 「うむ。もう少し年齢が近いと忠夫と富子とを一緒にさせてもいいんだがな」 「富子はまだ十六だよ、あんた。いくら何でも早すぎるよ。……ただ、忠夫さんのほうでもう二年ほど待ってくれると、ちょうどいいんだけど、あの男も、今は二十八だからね。二年さきだと三十になるし、それまで嫁の話があるだろうしね」 「忠夫は、東京で女房をもらうつもりかな?」 「どうだか。あの男の考えていることは、わたしにはさっぱり分らないよ」  この時期になると夫婦仲が前よりはかなり円滑になっていた。いろいろと気にそまない亭主だったが、五十九歳で老いが目立ってきた。ヒサに亭主をいたわる気持が起ったのかあまり強いことはいわなくなった。ヒサ自身も百姓仕事が前よりはつらくなってきたようである。  三、四カ月が経った。直治がヒサにまた訊いた。 「富子は忠夫について外に遊びに行っているけど、忠夫のことをどう思ってるんだろうな?」 「富子にきいてみたけど、上野の動物園に行ったり、映画館に入ったりするけど、忠夫はやっぱり話もあんまりせず、面白くない人だと云ってたよ」 「そいじゃ、嫌いなのかな」 「嫌いとか好きとかいうよりも、富子は西洋料理をいっしょに食べたり、きれいな喫茶店でお茶をのんだりしたいほうだからね。忠夫のように田舎者臭いやりかたが不足なんだろうよ」 「富子も、もう十六だからとっくに男の好き嫌いがはっきり出る年だ。それが黙って忠夫について出るところをみると、まんざら嫌いでもなさそうだ。忠夫がもう少しおしゃれでもすると違うかもしれん」 「忠夫のあの顔でおしゃれをしてもはじまらないだろうよ。あの男は、いまの泥臭いままでいたほうが似合うよ」  実際、忠夫はこの家に来たときと風采に変化がなかった。つき出た頬の骨と、長い顎と、肥えた鼻と、厚い唇と、濃い産毛とは、男ざかりに近づいてそれぞれの特徴をますます発揮した。不恰好な顔だったが、しかし、それには一種の逞《たくま》しさが発達していた。  だが、忠夫は一度も外泊したことがなく、ほかの職人のように悪遊びはしなかった。賭けごともしなかった。彼は給料を貯金していた。いつのことか分らないが、将来、小さな洋菓子店を出すときの用意だった。  近所の者で、忠夫が長くそこに間借りしていることや、彼がときどき富子を遊びに連れてゆく姿を見かけることなどで、忠夫を富子の婿養子にしてはどうかとヒサにすすめるのがいた。 「富子はまだ子供ですから、早すぎますよ。忠夫さんがもう二十八じゃどうしようもありませんから」  ヒサは、にこにこして答えた。彼女は直治が年以上に老けているので若くみえた。百姓仕事が辛くなってきたとはいえ、野良で働き、鍛えてきた身体は少しも痩せず、がっちりとしていた。  しかし翌年の春、ヒサは忠夫を富子の婿養子にすることを熱心に亭主に説きはじめた。 「富子も、今年で十七だからね。少し早いようだけど、忠夫といっしょにさせようよ。あの男も二十九だから、ほかの結婚話もぼつぼつ出てくるだろうけど、こうなると、ちょっと惜しいよね。人間はしっかりしているから」  直治はその意見に賛成した。  が、直治は次の疑問を持ち出した。  忠夫がこの家の婿養子になるのを承知するかどうかである。いざ、婿養子になる話になると、ここが東京と接しているだけに、こちらが百姓という点でやはり卑下を感じた。 「忠夫に店をもたせることにしようよ。まだ、田畑が残っているからね。あの半分でも売ったら、近ごろはずいぶんと値上りになっているので、小さな洋菓子店を開くぐらいはできるよ。忠夫は早く一本立ちになりたいに違いないからよろこぶと思うよ」  それはまことに名案だったから直治は同意した。店が繁昌に向うと自分ら老夫婦も忠夫に充分な面倒がみてもらえる。忠夫にとっても恩人だから自分らを疎略にはすまい。そういう打算もその賛成には含まれていた。  次には、忠夫が富子を気に入っているかどうかである。 「忠夫は、あの通り無口で、顔にも気持を出さないからよく分らないけど、富子が好きなようだよ。富子も、このごろはすっかり大人びてきたから」  十七になった富子は顔も身体も成熟期に近づき、皮膚もヒサに似て白く、顔は透き徹るように輝きを加えてきた。ただ、性格のほうは、父親に似て派手ではなく無口であった。しかし、無口どうしの夫婦もいいかもしれない。  かんじんの富子のほうはどうだろうか。 「あの子の気持をそっと聞いてみたけどね。忠夫がまんざらでもなさそうだよ。なにしろ、忠夫がここに三年も居るんだから気心は呑みこんでいるし、知らない男のとこに嫁《ゆ》くよりも安心なんだね」  年の少い娘としては当然そのように思われた。この際、ひとまわりも年上の相手という点では富子に問題はなさそうだった。それに夫婦で長く暮してゆけば、女は老《ふ》けるのが早いからそれ相当のかたちになってくる。──  忠夫と富子の婿養子の挙式はその年の四月に行われた。ヒサが直治に話を持ち出して間もないことだから、急速な運びであった。  仲人《なこうど》は「銀丁堂」の主人夫婦がつとめた。披露は、この土地に近い町の一番の料理屋で行われたが、その席で主人は忠夫の人柄と技術とを賞讃した。  このようにして、忠夫は長野家の養子に入り、やがて新宿に近いM駅の近くに洋菓子の小さな店を開いた。資金は、約束通り、養家で農地を売った金を当てた。  この時、ヒサはその金の一部で富子にダイヤの指輪を買って贈った。二分の一カラットで二十万円もした。 「結婚と、おまえたちが店を持ったお祝いだよ。大事にしなよ」  ヒサはこのダイヤの指輪を娘に与えたことが自慢で、知った人に吹聴した。 「ダイヤって高いですねえ、四十万円もしたんですよ」  店は「けやき屋」という名だった。養家の裏庭にある欅《けやき》から思いついて「銀丁堂」の主人が命名したのである。菓子製造は忠夫が当り、見習いの少年を二人やとった。せまい店のほうには富子が白い上被《うわつぱり》をきて、少女の店員ひとりとういういしく販売に当った。  その店の奥の三畳の間には少年二人を泊らせた。それほどこの借りた家は狭かったので、両人はN新田の家から通った。夫婦仲はむつまじかった。  N新田の界隈も次第に家が建つようになって、新開地の様相を呈してきた。だが、冒頭でも書いたように、犯罪の伏在はどこにでもある、長く述べてきた長野家のこうした平和な経緯《けいい》の中にも「犯罪の因子」は胚胎《はいたい》していた。      五  それより一年後、直治が卒中で倒れた。酒のせいであった。生命は助かったが、半身不随となった。忠夫がこの家にはじめて間借りしてから四年後である。  家庭のなかは思うようにゆかないものである。養子夫婦は順調に運んでいるのに、直治が厄介な病気にかかった。  忠夫と富子はもう少し店をひろげて、そこに引移るつもりでいたが、これでは一応計画を放棄しなければならなかった。忠夫は不自由な身体の直治のために富子を二日おきぐらいに家に置き、自分も夜は店から家に戻った。  ヒサは近所の人の見舞に頭をさげていった。 「おかげさまで婿と娘とが親父さんを大事にしてくれますから、本人はよろこんでいます。わたしも、親父さんがああいう身体になってしまった今は可哀相でならないから、できるだけ親切にしてやります」  ヒサは、これまではとかく不足な亭主として口争いをしてきたが、不自由な身となったのだから、女房として最後の愛情を尽したいと望んでいるようだった。実際、直治のよろよろした身体を支えて蒲団に寝起きさせたり、茶碗を持って食事を彼の口に入れてやったり、肩に彼をすがらせて縁側を伝って便所通いをするヒサのかいがいしい姿が、用事があってくる人や、通りすがりの人々の眼に写った。  中風は容易に回復しないものだが、それから一年ばかり経つと、直治も少しは様子がよくなった。そのころ、病人は安静のために別の部屋にひとりで置かれたが、彼の寝たり起きたりは、ヒサが夫の頭をうしろから持たねばならなかった。直治も蒲団の上に坐って舌だるいいい方ながら、たまに訪ねてくる人と話はできるようになった。食事も茶碗だけはヒサや富子が持つが、自由のきく左手で箸は動かせた。便所への歩行は、ヒサの肩が提供されたが、直治は半分はヒサへの気がねからか彼女の眼をかくれるようにして戸や壁を伝わりながら歩いた。 「あんた、そんな危いことして万一、転んだらどうする気かえ?」  ヒサは発見すると病夫を叱った。  忠夫の洋菓子店は繁昌した。いまでは見習いのほか菓子職人も一人傭い、表の女店員も三人となった。忠夫のつくる洋菓子の味がようやく評判を呼んだのである。女店員を三人にしたのは、その忙しさのためもあるが、富子が始終は店に出られず、家にいる日が多いからだった。富子が店に出るときは、午前中に菓子製造を終えた忠夫が夕方早目に家に戻り、夜九時ごろ帰ってくる富子を待つのだった。  忠夫も相変らず無口だったが、直治にはよく尽した。 「忠夫は親父さんとは性《しよう》が合うんですね。親身になって面倒をみてくれますよ。親父さんも忠夫だと富子に世話してもらうよりもよろこんでいます。……忠夫はわたしにはそれほど親切にはしてくれませんがね」  ヒサは近所の人に笑顔で云い、あとは少し不満そうな眼になった。  結構じゃありませんか、お婿さんがご不自由なお舅《しゆうと》さんにお尽しになるなんてそうざらにお目にかかれるものじゃありませんわ、あなたもいずれはお婿さんに親切にしてもらえますよ、と近所の主婦は挨拶した。  忠夫の評判は近所によかった。長野の家はいい婿をもらったといって昔の農家仲間のみならず、近ごろこの辺に建ちならんだ住宅街の人々も羨ましがった。不器量な忠夫だが、店主ということで、それなりの重味がついた。商売の苦労が彼の人間を揉み、風格をつくりあげたかにみえた。彼の無口も人には堅実という印象を与え、誠実な人間だというふうにうけとられた。  忠夫はそうした勤め人の奥さんたちのために、店の品の註文品を持ち帰っては便宜をはかった。サラリーマンの主婦たちはいっぺんに多くは買わなかったけれど、「近所」ということで忠夫はどんなに少くても面倒がらずに配達した。菓子はおいしかったので、その好評が忠夫の人気にもなった。とくに、来客のあった家庭では客にその菓子がよろこばれたといってたいそう重宝がられた。  徳永教諭の妻は、忠夫の顧客《おとくい》だった。徳永は富子が中学生のころの、あの生徒に人気のあった徳永先生である。色白の美男子だった徳永先生はその後、近くにある高校の教師にかわり、恋愛の末に資産家の娘と結婚して、近所に瀟洒《しようしや》な住宅を建ててもらって住んでいた。その妻も美人でまるい肉づきのいい女であった。夫はすでに往時のテレビ俳優の面影を喪失していたが、妻は、おしゃれで、いつも厚目の化粧をし、身ぎれいな装いをしていた。  彼女は実家から金をもらっていたので、結婚前の贅沢《ぜいたく》さを(高校教師の妻という立場で考えてのことだが)つづけていた。店から帰る忠夫に菓子を註文する度合は彼女がいちばんであった。どうしてそんなことが分るのかふしぎだが、彼女は徳永と結婚する前は何度か派手な恋愛をして、なかなかの「発展家」だったという噂であった。  だが、そのようなことは何でもない。新開地ともなればいろいろな人間がここに移ってくる。長野家の人間の生活とはかかわりのない話であった。  しかし、その長野家の中では、直治が中風になって一年目に決して小さくない異変が起った。  晩春の夜、便所に行くつもりで壁に手を当てて庭に面した濡縁《ぬれえん》を歩いていた直治が転倒して縁から落ちた。そこには、この家が出来るとき、庭を造るつもりで運び入れた大小の庭石がころがっている。縁側に近い、その石の一つに直治は頭を打って死んだ。誰もそばにいなかったので分らなかったが、死体で見つけられたときは、そういう状況であった。  もっとも、そのとき、家に誰も居なかったわけではない。ヒサが医師や近所の人に話したところによると、家には彼女も娘の富子もいた。ヒサは奥で縫物をしていたが、縁側のほうで大きな音がしたので起ってのぞきに行った。そこで土の上に横たわっている夫の姿を見た。直治は、便所に行くのにヒサや富子の手をかりるのを嫌い、黙って不自由な足どりで通っていた。 「富子、富子。お父さんがたいへんだ」  ヒサは縁からとびおりて、直治の肩を両手で持ちあげながら奥に向って叫んだ。  返事はなかった。 「富子、富子。何をしている」  ヒサは甲高く呼んだが富子はすぐにはこなかった。彼女がやっとそこに現われたのは、十二、三分も経ってからだった。  ヒサは直治を座敷に抱え上げるのを富子に手伝わせながら、 「こんなとき、おまえ、何処に行っていたのかえ?」  ときいた。 「忘れていた洗濯物をとりこみに裏で……」  富子は低い声で云った。 「ばか。こんなときそばに居ねえで……」  と、ヒサは叱った。  中風の年よりが庭石に頭を打ったのだからひとたまりもなかった。直治は一言も発せずに死んだ。六十二歳だった。 「便所に行くときは必ずわしらにそういってくれといっておいたのに、あの人は、それがうるさいのか、わしらへの遠慮からか、かくれるようにひとりで通っていたんですよ。日ごろからよく気をつけてはいたんですけど、こっちの油断が悪かったのです」  通夜の席で、ヒサは弔問者に云っては泪《なみだ》を拭いた。  忠夫とならんだ富子は母のうしろで下を向いていた。  直治の三十五日がすぎてから、ヒサの身のふり方が問題となった。  富子は母に云った。 「お母さんもひとりになったのだから、この家に居ることもないわ。わたしたちのお店のほうに来てよ。いっしょに住んだほうがいいわ。わたしたちも、お店とこの家とを通っているんじゃ不便だし、くたびれて仕方ないわ」 「いっしょに住めといったって、あの店にわしの居るところがあるかえ?」 「だから、店をひろげるんだよ。お母さん、隣の人は売ってもいいと云ってるから、その家を買いとって、店を拡張する。そしたら、お母さんの居間だって立派にとれるよ」  無口な忠夫が熱心に云った。 「おまえたちに、そんな金があるのか?」 「だから、この家と土地と、田圃を売ったらその資金は充分にできるのよ」  ヒサは忠夫の顔をじろりと見た。 「イヤなこった」  と、ヒサは激しく首を振った。 「わしはこの家に居るよ。この家は親父さんと長い間いっしょに住んでいたんだからね。わしが足腰立たなくなったときは移るかもしれないけど、当分はここから動かないよ。田圃も売らないね。おまえたちがここに戻りたくなかったら、それでもかまわないよ。わしは、畑仕事をしながら自炊して暮すからね」  ヒサの強い反対に、富子は忠夫の表情をそっと見た。  ヒサは五十六歳であった。      六  そのような経過を経てN新田の長野家では現在に至っている。通りがかりの人たちが見上げる「長野忠夫」の標札にもこうした歴史が含まれていた。三本の高々とした欅の樹と雑木林の一部で武蔵野の名残りをとどめているこの住宅風な農家を表からのぞく者でもそこまでは分らなかった。  家の歴史は現在でも未来の流れにつづいていた。  ヒサが頑固に家と土地とを売るのを拒んで以来、家の中が冷くなった。忠夫夫婦は世間体もあって老婆ひとりをこの家に残すこともできず、前と同じように店に通勤した。忙しい際は、忠夫が店に泊ることもあるが、そんな時も富子は母の家に帰った。また、富子が遅いときは、忠夫が早目に家に戻った。  まったく無駄なことだった。ヒサさえ店にいっしょに住むようになればこんな時間の浪費はしなくても済む。宅地と農地を売れば、最近の法外な値上りのことだし、まとまった金が入る。それで店の拡張や新装ができ、客をもっとつかむことが可能である。商売は好調に向っているとはいえ、夫婦にそれだけの資金はなかった。半分は金融でまかなうとしても、あとの半分を調達するにはこれから先、何年かかるか分らなかった。忠夫も富子もヒサの頑固をうらんでいる様子だった。 「土地は死んだ亭主が苦労してわしに残してくれたんですからね、そうすぐには売るわけにはゆきませんよ。わしに財産が一つも無くなったとき、わしはまるきり忠夫夫婦の世話にならねばなりませんからね。そうしたら、あんた、わしは邪魔もの扱いされて泣くような目に遇いますよ」  そんなことはない、と間に入った「銀丁堂」の主人がヒサにいい聞かせたが、その説得は功を奏さなかった。 「わしが元気な間は、できるだけ野良仕事をします。今から閉じこめ隠居の厄介者扱いされるのは真ッ平ごめんです。何が不便か知りませんが、忠夫と富子は今まで通りこの家に寝て店に通ってもらいます。もともと、あのお店にしたって、旦那もご承知の通り、わしらが土地を売って開かせたんですからね、そんなわがままは通らないはずですよ」 「銀丁堂」の主人は手を引いた。 「婆さんが死ななきゃどうにもならないな。あれでは、あの土地を抵当にも出さないだろうよ」  主人はあとで忠夫にいった。  しかし、死ぬのを待つといっても遠い将来《さき》であった。ヒサは五十六歳で、髪も黒く、顔艶もよかった。身体つきも肉がしまっていた。直治が死んでからはよけいに若々しく見えた。  一種の苛立《いらだ》たしい空気が長野家を支配した。忠夫は、これまでの遠慮を払い落したように義母に対して大きな声を出すようになった。とくに、富子が留守のときは忠夫の怒声が家の外にも洩れることがあって近所の人を驚かせた。それは義母に向って叱言《こごと》をいうというよりも、老婢《ろうひ》でも罵っているような声であった。  ヒサは、はじめのほうこそ何かいい返していたが、忠夫の勢いに呑まれたように沈黙した。それはまるで娘の富子が帰るのを待つかのようだった。──これが外で聞いた人の印象である。 「ひどいじゃありませんか。忠夫が急に威張りはじめて。つまらないことに癇《かん》を立ててどなり散らすんですよ。わしをまるで女中か何ぞのように思っているらしいんですよ」  ヒサは、体裁悪さのいい訳もあって、近所の人にこぼした。以前と違い、長野家の周囲には住宅が隙間なく建っていた。 「あのおとなしい方がねえ」  と近所の主婦の大半はサラリーマンだったが、意外そうな顔をし、次にヒサに同情を見せたが、むろん内心では好奇心で聞いていた。 「それで、富子さんはどうしてらっしゃるんですか?」 「娘は、あなた、それこそおとなしい子ですからね。亭主には強くいえないし、わしと亭主の間に入っておろおろするだけですよ」 「まあ、お可哀相にねえ」  近所の主婦たちは、口かずの少い富子を見ているだけに、これにはしんから同情した。  だが、近所の忠夫の評判は悪くはなかった。無口だが、商人らしく腰は低いし、洋菓子の註文がどんなに少くても面倒がらずに店から持ち帰って配達してくれた。第一、菓子がたいそう美味《おい》しい。  近所の人も、ヒサと養子の不仲の原因が、土地を売る売らないにあるのを知っていた。それはヒサが忠夫の悪口をいうたびに少しずつ洩らしたからである。ヒサは土地を売らない理由として、「銀丁堂」の主人に話した通りのことをいった。  近所の反応としては二通りあった。ひとつは忠夫の主張がもっともで、ヒサの頑冥《がんめい》が折角の商売の繁栄を阻《はば》み、彼が焦慮《あせ》って憤るのは無理ないというのだった。もうひとつは、ヒサのいうのは当然で、土地を失えばヒサは養子夫婦に厄介視されるだけだ、それは世間にざらに例のあることで、彼女は土地をあくまでも死守すべきだというのだった。あとの意見は多く年配の夫婦や、息子夫婦の世話になっている老寡婦から出た。こうした間にも、忠夫とヒサの険悪な仲はいっこうによくならないようにみえた。店に行って富子のいないとき、それは忠夫が店から早目に帰る夕方だったが、ヒサに向ける彼の怒声や罵声がしばしば外まで聞えた。  それを耳にしたものは、忠夫がいかにヒサに対して遠慮会釈もない態度に出ているかが想像できた。それに対抗するヒサの声がだんだん小さくなってゆくことにも気づいた。身体が不自由でも直治が生きているときは、ヒサは養子の横暴は決して許さなかったろうし、また、忠夫もそれができるはずはなかった。やっぱり役には立たなくても亭主がいるといないとはずいぶんと違うものだという感想をだれでもが持った。事情を知った者は、その直治と忠夫とは気が合っていた様子を思い出すにちがいない。  こうした母と夫との間に立って、富子はほとんど為《な》すところがないようだった。忠夫がヒサを罵《ののし》るのは富子が家にいるときもあったが、彼女は母のほうにつくでもなく、夫の側に立つでもなく、といって、積極的に両方の間をとりなすふうでもなかった。外部からは分らないが、富子が板ばさみになって苦しんでいる様子はよく察せられた。  そんな状態になってもヒサはまだ土地を売ろうとはしなかった。忠夫に虐待《ぎやくたい》されればされるほどよけいに最後の財産にしがみつこうとしていた。また、忠夫夫婦も、思い切ってヒサをその家に棄てて自分たちだけで店に引移るでもなかった。さすがにそれでは外聞がはばかられるらしく、やはり夜だけはヒサの家に寝た。一つは、店が狭いので夫婦の寝場所も荷物の置場所もないからだが、それだけに忠夫の焦燥と憤懣《ふんまん》が第三者にも分るのだった。  このような三人の変則的な生活が一年近くつづいたころ、忠夫と徳永教諭の奥さんとの仲が普通でないという噂が近所にひろがった。  忠夫は註文の洋菓子を徳永の奥さんのもとによく届けにゆく。奥さんは界隈でも男の眼を惹《ひ》く美人で、自分でもそれを意識していつもきれいに化粧をしている。変な顔の忠夫との取り合せは奇態だが、こういうことは常識的な観察では当てはまらない。それに奥さんのほうには娘時代の前歴の噂もあった。好男子よりも今は忠夫のような顔よりも逞しい身体の男を浮気の相手に望んでいるかも分らなかった。あまり口かずをきかない忠夫のような朴直《ぼくちよく》な男のほうが、美男子で世辞の上手な男ばかりを相手にしてきた恋愛経験者には新しい魅力かもしれなかった。  とにかく、その噂はどこから立ったか分らないが、相当な信憑性《しんぴようせい》をもって附近に伝播《でんぱ》した。徳永の奥さんがしきりと洋菓子を註文して忠夫をよびつけるのも、忠夫がしげしげと奥さんのところへ足を運ぶのもそこに結びつけて意味が生じる。奥さんと忠夫とが夕暮どきに近くの雑木林のなかで密会していたという話さえ伝わった。  忠夫の雑言に対してヒサの抵抗がはじまったのはそれからである。ヒサの耳にその噂が入ったらしく、忠夫を逆に罵りはじめた。 「近所の奥さんと浮気なんかして、それでも富子が可哀相と思わないか」  ヒサの激しい声のなかにその言葉だけが高かったせいか、家の外で聞いた人があった。  ヒサもやっぱり母親だ、これまでは忠夫の冷罵に耐えていたが、娘可愛さに猛然と婿を攻撃しはじめたのだと近所の人は今度はヒサの心情に同調した。  富子のほうは夫婦争いをするのがみっともないと思ったのか、それともすべて母親の口喧嘩に任せているのか、彼女の声は少しも聞かれなかった。  しかし、事態はだんだん悪化していった。富子の居ないとき、忠夫がヒサを殴打《おうだ》する音が聞えるようになった。ヒサが逃げ回る音と、この婆ア、という忠夫の罵声が交差し、ついで平手打ちの響きと、ヒサがヒイヒイとあげる悲鳴が隣の家にもはっきりと洩れた。  が、事情が事情なだけに、だれも仲介に入ることはできなかった。  そうした状況が三カ月ばかりつづいた秋の晩、忠夫夫婦が家に居ないとき、ヒサが何者かによって殺された。      七  十月二十五日の午後七時半ごろ、富子はいつものようにM駅から電車に乗り、九時ごろに自分の家の前に戻った。  あとで富子が警察の捜査員に述べたことだが、家の裏口から一歩なかに入ったとき、どうも様子がおかしい。それはいつも住んでいる人間の感覚で、見た眼には異状はないのだが、何か変ったことがあるような予感が走った。それで富子はそれ以上は内部に入らず、また裏口から出て、隣の家のブザーを鳴らしたのである。  富子がなぜ電話のあるわが家に駆けこまなかったかといえば、忠夫は昨日から菓子組合の慰安旅行で、二泊の予定で箱根の温泉に行っていたからである。  隣の夫婦が富子に付いてきてくれ、三人は家の中に入った。ヒサの寝ているところは前に直治が病身を横たえていた四畳半である。忠夫と富子とは、それより廊下を隔てた奥の八畳を居間と寝室に使っている。  電灯を消した中でヒサは蒲団の中に枕を当てて寝ていた。見たところこれも異状はない。だが、電灯の光を当ててみて三人はおどろきの声を発した。暗赤色をしたヒサの顔の下には素人眼にもはっきりと分る深い索溝《さくこう》が頸《くび》に付いていた。  三十分後に警察から多ぜいの人が来た。  ヒサの死体の検視をした老警察医は死後二時間以内だといった。すると八時前後ということになる。これはあとの解剖でも確認された。死因は絞殺による窒息死で、抵抗のあとがないところから、熟睡中に絞殺されたと推定された。凶器の紐は発見できなかったが、細紐のようなものだというのが解剖医の意見だった。  家の中は荒らされていなかった。畳にも、裏の出入口にも、それから通路に当るところにも犯人らしい足跡はなかった。富子はタンスなどを調べてみて衣類一枚盗まれていないと申し立てた。ヒサの名義による五十二万円の銀行預金通帳も印鑑も抽出しの中の冬衣裳の間に無事だった。預金通帳は富子も忠夫も知らないものであった。ただ、ヒサのガマ口の現金が奪《と》られていた。だが、刑事の観察では、強盗事件というカンがしなかった。  まだ解剖の結果が分る前、つまり現場で検視が行われているときに、富子が隣の家で電話を借りて、箱根の旅館にいる夫に急報しようとした。 「長野さんは五時半ごろに外出されましたよ」  菓子組合の幹事が電話口に出て告げた。 「今夜もそちらに泊ると聞いていましたが」 「いや、それがね、何か急な用事を思い出したからといって出て行ったんですが、もしかすると、また、こっちに戻ってくるかも分りませんね」  幹事は、忠夫の妻からの問合せ電話に弱っていた。忠夫が組合の宴会を口実に浮気しているのだったら、女房には体裁よくいってやらねばならない。 「そうですか。では、主人がそっちに戻るようなことがあったら、急用があるからすぐに電話をかけるよういって下さい」  富子は隣の家の電話番号を念のため幹事に告げて、受話器を置いた。 「五時ごろというと、今が十時二十分だから、五時間以上も前ですな。すると、東京に帰ってくるなら、もう、とっくに着いているはずだが」  刑事は頑丈な腕時計に視線を落して云ったが、その眼つきには疑わしげなものが出ていた。家の中で採集した指紋は家族のものばかりだったのである。 「奥さん、お母さんは人に恨みを買っていたようなことはありませんか?」  警官の一行のなかで係長か主任と思われる背広服の恰幅のいい人がやさしく訊いた。ハイカラな柄のネクタイを締めていた。 「いいえ、思い当るようなことはありません」 「お母さんの交際範囲は?」 「母はあまり人とは深い付き合いはしないほうでした。近所の方とも、道でお会いしたときにご挨拶をする程度で」  ここで、その人は家族関係のことを聞いた。 「ご主人は洋菓子屋さんですか。それでは儲かっているでしょうな。わたしの近所にもちょっと名の知れた洋菓子屋があって、ずいぶん繁昌してますよ」  その人はかすかに笑った。が、すぐにその微笑を収めてきいた。 「ご主人とお母さんの間は円満にいっていましたか?」  富子にとって辛い質問だったので返事はすぐ出なかった。彼女の眼の高さにその人のしゃれた縞のネクタイ模様があった。 「父が生きているときは割合にうまくいっていたのですが、亡くなってからはあんまり……」 「よくいってなかった? その原因は何ですか?」  恰幅のいい警察官は富子の述べる言葉を注意深く聞いた。 「すると、お母さんの持っていた土地をみんな売払えば、時価にして四、五千万円はあるわけですね。それだけの資金をお菓子屋さんに注ぎこめば大したものだ。ご主人がお母さんにそれを望まれたのは当然ですな。あなたもご主人と同じ気持だったでしょう?」 「思い違いをしないでください。主人は母が反対するので諦めていたのです」 「だが、お母さんが亡くなれば……げんにこの通り亡くなっているわけだが、その土地はみんなあなたがたのものになるわけですね」  このへんから──背広の人は地元署の捜査課の係長だったが、その口ぶりも眼つきも少し妙に変ってきた。 「まさか警察では主人のことを……」  富子が恐怖と怒りをまじえた顔で云いかけた。 「いや、そんな考えはありません。いまのところ警察では強盗事件という以外、何の先入観も持っていませんから」 「母もそろそろ年ですから、そういつまでも頑張るとは思いません。また、何十年生きられるとも思えませんから、そのときを待てばよいのです。主人もそういってました。何も無理をすることもありませんわ」 「そりゃ、そうです」  係長は富子の言葉を聞き流して、 「それにしてもご主人の箱根からのお帰りは遅いですなあ」  と、表のほうを見た。表には懐中電灯の光や捜査員の歩き回る足音が動いていた。 「湯本の××旅館からだと、小田急の始発駅のすぐそばだから、新宿まで一時間半あれば充分ですね、新宿から此処《ここ》まで電車と歩行とで一時間くらいだから、向うを五時に出ているなら、この家には七時半ごろには戻っているはずだが。余裕を見てもね」  すでに十一時を過ぎていた。 「奥さん、ご主人は帰りにどこかに寄る予定がありましたか?」 「聞いていません」 「そうですか。……ところで、奥さんがこの家に着かれたのは?」 「九時五分前でした。家の中の様子がおかしいと思ったので、お隣の方をお呼びしてごいっしょに中に入ったので、十分くらいかかったと思います」 「お店を出られたのは?」 「七時十分ごろでした」 「ここまで二時間近くもかかりますか?」 「電車が四十分ほどかかります。店から駅まで歩く時間と駅で電車を待つ時間とで十五分ぐらい、それに近くの駅に下りて家に戻るまでの歩く時間が七、八分です。いつも一時間はたっぷりとかかります」 「今日はあと一時間近くよけいにかかっているようですが」 「はい、それはこれから一キロ東に当る徳永先生のお宅に頼まれたお菓子をお届けに上ったのです。主人が昨日註文をうけたのですが箱根に行って居ないものですから」 「ははあ、その徳永先生というのは顧客《おとくい》ですか?」 「そうです。いつもは主人が頼まれたものをお届けに上っています」 「そこで、どのくらい居ましたか?」 「奥さまと三、四十分くらい話しました。女の足で一キロの往復には三十分はかかります」 「店を出られるときには、店員がいましたか?」 「はい、いつも店に泊っている見習い職人の男の子が二人居ました」  膝の上に組み合わされた富子の指には三年前に亡母から買ってもらった半カラットのダイヤの指輪があった。  翌日のうちには捜査員の聞込みによって長野家の内情が全部分った。被害者と養子婿の仲の悪かったことと、その原因と、実母と亭主の間にある富子の立場とさらに忠夫と徳永先生の奥さんとの噂と──とくに忠夫がヒサを罵っていたこと、打擲《ちようちやく》していたことなどが警察の注意をひいた。 「それは事実です」  四日経ち、三回目の事情聴取のとき富子はかなしげに実母と夫との不仲を承認した。それまでに彼女自身の帰宅までの行動は店の見習い職人と徳永の妻によって証明できていた。 「忠夫さんと徳永先生の奥さんとの噂は?」 「それは聞かないでもありませんが、根も葉もないことだと思います。わたしはあまり気にかけていませんでした。あの晩も、お菓子をお届けしてお話ししたくらいですから」 「忠夫さんは、いま、どこにいるか心当りはありませんか?」 「さあ、分りません。一日も早く帰ってくれたらいいと思っています」  忠夫は箱根を出た日から姿を消していた。      八  忠夫が十月二十五日の午後五時二十分小田急湯本駅発の急行に乗ったのは、その人相や服装などで駅員が証言した。この電車は新宿駅に六時三十分に到着する。新宿からN新田の駅までは一時間十分くらいである。解剖で推定された午後八時のヒサの死亡時刻には忠夫は充分に間に合う。  地元署に置かれた捜査本部は、忠夫は八時前に家に帰ってヒサを絞殺して出て行った、そのあと一時間くらいして富子が戻って死体を発見した、という論理を組み立てた。  忠夫の養母殺しはもちろん計画的で、箱根に泊っていることになっているのを「奇貨となし」(警察用語)旅館の組合員には「事情があって外出」という、いかにも好きな女とでも遇うような意味ありげなことをいって出た。動機は、土地を売らないヒサに憤り、養母を殺せば早く四、五千万円の金が手に入って店舗拡張の希望が達せられると考えてだろう。  だが、強盗に見せかけての犯行後、忠夫は恐怖をおぼえた。第一、最初の計画通り再び湯本の旅館に戻ったにしても、その間のアリバイが成立しない。忠夫はさまざまな口実を考えていたであろうが、結局、いい開きの不可能を知って逃走した。──こうした推理は警察官ならずとも市民でさえ気づく。当の忠夫はあれから一週間経っても行方が知れないのである。  捜査本部では警察庁を通じ、全国の警察署に長野忠夫の手配をした。  二週間後、忠夫は九州の小さな町の旅館で逮捕された。箱根に行ったときの服装のままで、シャツも洋服もよごれ、憔悴《しようすい》していた。彼は翌晩の急行で素麺《そうめん》の産地として知られているその田舎町から東京に向った。東京から来た刑事二人が彼の左右に坐って、ときどき彼をいたわった。手錠の上には刑事のくたびれたオーバーがかけられてあった。忠夫は終始眼を伏せ、弁当にもひと箸つけただけだった。だが、ときどき、彼は何か安心したような表情を見せた。  捜査本部に入った忠夫は犯行の一切を自供した。警察が推定した通りである。  ──忠夫が家に入ったとき早寝のヒサはすでに蒲団の中に横たわって熟睡していた。彼は富子がいつものように九時半ごろに戻ってくる前に目的を果したかったので、たとえヒサが起きていても背後から倒して首を締めるつもりだった。彼はヒサの枕元に立って合掌し、馬乗りになって彼女の首に細紐をかけた。紐は店に送られてくる菓子原料の箱に使われている強靭《きようじん》なものである。ヒサはもがいたが、彼はうつ伏せにして押えつけ、後頸《うしろくび》のところで紐を結束して締めあげた。ぐったりとなったヒサの身体は二十分後に、死の前の痙攣《けいれん》を起した。彼はヒサの財布を奪い、再び駅に向ったが、引返すのを駅員に見られそうなので、車の通る街道まで歩いてタクシーを拾い、新宿に出た。しかし、養母を殺した衝撃と、アリバイがないことを考えて恐ろしくなり、そのまま東京駅に出て大阪行の列車に乗った。  京阪地方を五日間放浪した。その間にポケットに入れた紐と現金を抜きとった財布とは神戸の海岸から海に捨てた。洋菓子店も人生もすべて破壊されたことを思うと絶望で自殺を考えた。その場所を求めて中国地方を彷徨《ほうこう》し、九州に渡って田舎を流れているときに土地の刑事に踏みこまれた。  忠夫の自供は以上のようなことであった。  忠夫は警察から検察庁に送られた。  係になったA検事は三十五、六の人だった。彼は警察から送致されてきた一件書類を通読し、忠夫を調べた。忠夫の自供に変更はない。参考人として訊問した妻富子の供述も、実母ヒサと養子婿とが不和だったことをいっている。警察記録には近所の人々も、忠夫がヒサを悪罵し、ときに殴打していることを述べている。物的証拠は、忠夫が海に凶器の紐を投棄しているので無かったが、彼の犯罪を証明するに足る情況証拠は十二分に揃っていた。A検事はもちろん、起訴を決心した。  A検事は起訴状の草案をつくるに当って、もう一度はじめから警察記録を読みはじめた。すると、忠夫が犯行を説明する場面にちょっと気になることがあった。  それは次の、警察署の捜査係長と忠夫の取調問答の箇所である。  問 家ノ中ニ入ッテ、ドウシタカ。  答 養母ハ蒲団ノ中デ寝テイテ、私ガ入ッタコトヲ知リマセンデシタ、電燈ハ消シテアリマシタガ、私ガ開ケタ襖カラ隣室ノ電燈ノ光ガ細ク洩レテソノ明リデ様子ガヨク分リマシタ、私ハ養母ヒサノ枕元ニ立ッテ手ヲ合ワセマシタ。  問 ナゼ合掌シタノカ。  答 コレカラ殺ス人ニ向ッテ詫ビタノデス。  問 ドンナフウニシテ合掌シタカ。  答 指ト指トヲ組ミ合ワセテ拝ミマシタ。  問 普通、神棚ヤ仏壇ニ向ウ時ノヨウニ伸バシタ指ト指ヲ掌ト一緒に合ワセテ拝ンダノデハナイカ。  答 違イマス(ソノ通リニ恰好ヲ見セテ)、コンナフウニ指ト指トヲ半バ握リ合ワセルヨウニシテ拝ミマシタ。ソレガ済ンデ、紐ヲ持ッテ養母ノ上カラ掛ケ蒲団越シニ馬乗リニナッテソノ頸ニ紐ヲ捲キツケマシタ。  前にここを読んだA検事は、犯人も養母には多少尊属に対する気持と、洋菓子店を開かせてもらった恩義があるので、殺害する前に合掌したのだな、と思って読み過したが、今、そこを読んでみて、ヒサを殺害しようとする前に生前憎悪していた相手に合掌するだけの心の余裕が忠夫にあっただろうか、と疑問が湧いた。  ヒサは彼の実母ではない。殺すくらい憎悪をかけた他人である。忠夫は人を殺すという行為の前に気持が上《うわ》ずっていて昂奮状態にあったと思われる。それにぐずぐずすると富子が帰宅するおそれもあるから一刻も早く殺して、箱根に引返さなければならないのだ。彼に手を合わせる|ゆとり《ヽヽヽ》があっただろうか。  A検事は拘置所に行って忠夫に面会し、ほかの訊問といっしょにこの疑問を質《ただ》してみた。 「警察で申し上げた通りです。養母《はは》を絞殺する前にこんなふうにして拝みました」  忠夫は悪びれもせずに答えて、検事の前でも、両の指先を組み合わせるようにして合掌の形をして見せた。  その翌朝、A検事が食卓についていると、妻の翡翠《ひすい》の指輪がふいと眼についた。ふだんから見なれているものだが、参考人として呼んだ忠夫の妻の指に光っていたダイヤの指輪を思い出したのである。妻は十年前に洗濯のとき小さなダイヤの指輪を指から抜いてそのへんに置き忘れたまま紛失していた。その直後に来た御用聞きに持ってゆかれたのだろうと推察したが、証拠がないのでそのままとなった。以来、新しいダイヤを買ってやる機会がなかった。  A検事の頭に閃《ひらめ》くものがあった。彼は妻と三、四の問答をした。  検事は役所に出ると、忠夫の犯罪捜査記録をもう一度詳細に読みはじめた。今度は別な主観を持って読んだので、眼が新しい見方になっていた。検事は各記録から十何箇所に亘《わた》ってメモにとった。  忠夫は養子婿になってから直治とは仲がよかった。この時期はヒサともそれほど悪くはない。直治が死んでから、忠夫はヒサに辛く当るようになった。ヒサが土地を売るのをどうしても承知しないからだが、それでも忠夫のヒサに対する態度は異様である。忠夫はヒサを悪罵し、虐待し、殴打した。が、ヒサはあまり強くいい返さない。これは日が経つにつれて顕著になっている。検事はこれまで気がつかなかったが、いま、読んでみると、その行為は、忠夫にもヒサにも嗜虐的《しぎやくてき》な、何か狎《な》れ合っているようなものが感じられる。  これに対して富子は両者の間に中立的だが、それは実母と夫との板挟みになっているというよりも、一種の傍観的な態度がみえている。  近所の人の証言によると、ヒサが忠夫に猛然と反抗しはじめたのは、徳永の妻と忠夫の噂が立ってからだという。これは捜査の段階で事実でないことが分ったが、ヒサの婿に向けた怒りは娘富子を可哀相に思っただけだろうか。──  A検事は考え抜いた末に、拘置所に忠夫を訪ねた。 「君は、箱根から家に戻って裏口から入ったとき、そこには誰かが先に来ていたね?」  忠夫は蒼い顔に眼をいっぱいに見開いた。 「君はそれを知ってその辺にかくれ、ヒサの居間でその人間が何をしていたか見ていたはずだ。隣の間の電灯の光が洩れて中の様子がよく分った。その人間はヒサの枕元に立って手を合わせていた。それからヒサを絞殺した。君はずっと目撃していたが、それを制《と》めに入らなかった。なぜなら、君にもヒサへの殺意があったからね。君が箱根の旅館から急に帰ったのも、ヒサを殺害するためだったのだ。つまり、君はその人物に先を越されたのだ。で、君はその人物が犯行を終えて家を出て行ったあとで逃げた。どうだね?」  忠夫は顔を伏せて答えなかった。 「しかし、君は嘘の自供をした。嘘をいうためにはなるべく現実的に犯行を述べなければならない。だから、君は目撃した通りを自分の犯行のように話した。ヒサを殺す前の合掌がそうだ。……しかしね、君が見たのはその人物がヒサに向って手を合わせて拝んでいたのではないよ。あれは手の指輪を抜いていたのだ」  忠夫の顔が上り、凄い眼で検事の顔を睨んだ。重大な錯覚に気づいたときに人間がみせる驚愕の極致の表情だった。 「女のなかにはね、何か手荒い仕事をするときは、それにとりかかる前に大切な指輪を指から抜きとる癖のひとがいる。洗濯をするとか、何か大きな荷造りをするとか、そういった時だ。それは指輪の保護の意味もあり、綱とか紐とかを括《くく》るとき、かたく握るために指輪でとなりの指が痛くなる、それをまぬがれるためでもある。これは習性になっている」 「………」 「その女はヒサを絞殺する前に、その習慣から意識的にか無意識的にか指輪を抜いたのだ。そのときの様子が、隣室の細い電灯の光の中であたかも女がヒサに合掌しているように見えたのだよ。君はだいぶん距離をおいてのぞいていたからね。……無理もない、実の娘が母を殺すのだから、君にはそれが拝むように瞬間に映ったのは当然だ。だから君は、犯行の話に現実性を加えるため 『合掌した』と云ったのだよ」 「富子がいいましたか!」  忠夫は口走った。 「それはこれからだよ。その前に訊くがね、富子は、夫の君と、実母のヒサとの仲をいつごろから気づいていたかね?」 「富子は何もいいませんが、多分……」  と、忠夫は顔に汗を流して云った。 「二年前からでしょう。養父の直治が中風で倒れてからだと思います。そのころから養母《はは》の私に対する要求が前よりは強くなりましたから」 「そのころから要求が強くなった?」  検事が聞き咎《とが》めた。 「ヒサと私とは直治がまだ元気で、私が独身であの家に部屋を借りていたときからです。当時、十七になったばかりの富子を急いで私と結婚させたのもヒサです。直治や富子に知られ、ひいては近所の噂になるのをおそれたからです」  今度は検事が意外な眼になった。 「ヒサは、店に移るのをどうしても承知しませんでした。店に行けば、改築したところで家はせまいし、住込みの店員などの眼があるので、広い田舎の家に私たち三人でいたほうが便利だったのです。富子が遅く店に残っている日は私が夕方に帰るので、肉欲の強いヒサは何でも出来たのです。土地を売ると自分が心細くなるというのは口実です、私との関係をできるだけつづけたいからです。私自身もこの歪《ゆが》んだ奇態な関係をふり切ろうとしても、その瞬間にはふしぎな快感をおぼえて、ずるずるになっていたのです」 「うむ。それで殺害を考えたのだね?」 「ヒサから脱がれるには、殺すほかはなかったのと、早く土地を手に入れて売却し商売をひろげたいのと両方です。……検事さん、ヒサを殺したあと、私が早く自殺すればよかったのです。そしたら警察で述べたような遺書によって犯人は私ということになったでしょうから。富子の罪を何とか軽くして下さい。あれも可哀相な女です」  忠夫は最後に云った。  ──富子はA検事の取調べに答えた。 「母と忠夫との関係は今から四年前、私が十五の時から気づいていました。母が父の睡《ねむ》ったあとに抜け出して忠夫の部屋に入って行くのです。私は真夜中に廊下を往来《ゆきき》する母の足音を月に何度となく聞きました。父も、うすうす知っていたようですが、酒のみで、働きのあまりない父は母に頭が上らず、何もいいませんでした。それに酒のみの父は夫婦関係に弱く、母を満足させることができなかったと思います。農地を売って欺されたあとはよけいに母に萎縮していたと思います。  母は、私が十七になったとき、急いで忠夫との結婚をすすめました。私は母の魂胆《こんたん》が分っていましたが、忠夫が嫌いでなかったのと父が気の毒なので承知しました。母は父と私の手前をごまかすつもりか、二十万円も出して結婚記念のダイヤを買ってくれました。父もこうなると母の悪い癖も改まると思ったのでしょうし、私もそう信じていたのですが、いっこうに変りはありませんでした。母には、その生れた村の悪い風習が滲《し》みこんでいたのです。眠ったふりをする私のそばから忠夫がそっと起きて母の待っている別間に入るのをどんな思いで耐えたか分りません。私は忠夫には沈黙を守っていました。  けれど、半身不随でも父が生きていると母には邪魔です。私も邪魔ですが、二人よりは一人のほうがいいにきまっています。父はひとりで便所に行くとき転び庭石に頭を打って死にましたが、あれは母が父を殺したのです。あのとき、私は裏で洗濯物をとりこんでいましたが、変な胸騒ぎがするので、裏から庭伝いに便所の見えるほうに足音を忍ばせて回りました。そこで見たのは母が縁側から足の不自由な父を庭に思いきり突きとばしている瞬間でした。  私は、舌も脚もしびれて、声も出ず、その場にとび出すこともできませんでした。父が可哀相な、というよりも、いまそこに出たら母に悪い、という気持でいっぱいでした。私は、母の呼び立てる声にようやく裏に引返し、さも、そこから駆けつけてきたような風をしました。そのときの自分の行為がまるで母と共犯者になって父を殺したような気持で思い出され、その忌《いま》わしさが次第に母に対する憎しみとなりました。  母への憎しみは、父の死後、忠夫に執拗になってゆく母の欲望を垣間見《かいまみ》るにつれて強くなりました。決して土地を売ろうとしないのも、忠夫との醜関係をつづけたいからです。忠夫は三日置きぐらいに店から夕方早く母のいる家に帰っていました。だれも居ないあの家で二人が勝手放題のことをしているのを想像すると、お客さんに向ける私の笑顔も凍ってしまいます。  忠夫が母との不自然な関係を早く断ち切りたい気持は分ります。そのため、忠夫は父が死んでから母に悪態をつき、女中のようにこき使って虐待しました。母が何か口答えすると忠夫は母を殴りつけました。母は|ろく《ヽヽ》に抵抗もしなかったのですが、私は決してその間に入ってとりなそうとはしませんでした。忠夫が母を虐《いじ》める様子には、まるで夫婦のじゃれつきのような、ねばねばした、愛欲が感じられたのです。母はとくに忠夫に殴られるときは顔を蔽いながらも、何ともいえぬよろこびが、あの五十六歳にしてはずっと若い、しまった身体にあふれるのです。痛さに耐えかねたように身体をもだえさせましたが、あれは恍惚《こうこつ》のうごめきでした。  母に対する憎しみは、私の心の中で頂点に達しました。もう母ではなく、完全に夫を奪い取った女です。父を殺すのを黙って見ていた私の共犯意識も私の母に対する殺意を助けました。私が徳永の奥さんと忠夫との噂を近所に撒《ま》き、それが母の耳に入ると、母は嫉妬に駆られました。それまで忠夫にどんな悪態をつかれても、殴られても、おとなしかった母が、人間が変ったように激しく忠夫に突っかかってゆくようになったのです。私は、その逆上ぶりを見てからよけいに母が醜悪な動物に映りました。私は母を殺すことにしました。  十月二十五日、私は七時半にM駅近くの店を出て、夫からその前の日に云いつけられた徳永さんの註文の菓子箱を携え、タクシーを拾ってN新田の駅近くに降りました。人目のないところで車をとめさせたのです。それからまっすぐに家に帰りました。暗いし、だれも見ていませんでした。菓子箱を物置小屋のそばに置き、母の部屋に、襖をそうっと開けて入ると、隣の部屋の電灯がその小さな隙間から射しこんだので、母がよく睡っているのが見えました。  私は店からポケットに忍ばせていた菓子材料の包装用の細紐をとり出しました。そしてその紐の端を手に握りしめたとき、指輪が邪魔になるのに気づき、枕元に立ったまま手から指輪をゆっくりと抜きました。抜いたのは母の首を絞めるのに指輪が邪魔だったからだけではありません。そのダイヤの指輪は、たとえ誤魔化しのためにもせよ、母が私にくれたものです。どうして、その指輪のある手で母の頸を絞めることができるでしょうか。  私は母を殺したあと、菓子箱を持って徳永さんの家を訪ねたのです。前の申し立てでは、この順序を逆にしました。  当日、忠夫が予定を変えて箱根から新宿行の五時二十分発の急行電車に乗ったこと、そのまま行方を晦《くら》ましたことで、私には忠夫が何をやろうとして戻り、そして、そのまま逃げたかだいたい察しがつきました。  ……あの人は自殺なんかできる性格ではありません。忠夫がつかまって虚偽の告白をしたのは、やはり私に済まない気持があったのと、自分の恥をいいたくなかったからでしょう。でも、母殺しの罪を引きうけるあの人の気持は最後まではつづきません。私が自首して出るのを待っていたと思います。そういう人なのです。  私は、忠夫の裁判がはじまってから自首するつもりでした。それまでは拘置所で苦しめたかったのです。──あの人も、長い間、私を苦しめてきたのですから」  A検事の前の富子はハンカチを噛んだ。  土地をさがしに来た中年夫婦が足をとめた。 「おや、このへんに、たしか欅のある雑木林を庭に残した家があったはずだが。……そうそう、標札に長野忠夫という名が出ていたね、去年来たとき見かけたけれど」  いっしょにきた不動産屋が地図を片手に答えた。 「その家のあとがこの新しいアパートです。長野さんは九州だかどこかに行ったそうです。この土地もいい値で売ったらしいですな」 「ほう、あの家がなくなって、このアパートかね」  中年の夫は残念そうに云った。 「このへんからも、だんだん農家らしい家が減ってゆくね」  妻が夫を促すようにさきに歩き出した。 「長野さんの家もいろいろと事情があって……」  不動産屋は低い声でそれだけを呟いた。  三人が歩き去った道の上には煙草が青い煙をあげていた。向うには、まだ雑木林が家の間にところどころ見えていて、辻には石の道祖神がある。── [#改ページ]    密宗律仙教      一  尾山|定海《じようかい》は彼が真言宗の僧籍に入ってからの名である。のち悟るところがあって律仙教《りつせんきよう》を創設したが、定海たることには変りなかった。俗名は武次郎、石川県|動橋《いぶりばし》町近くの農家の生れである。  人は、彼の淫逸な性格を生地の環境に求めようとする。近くには山中、山代、粟津《あわづ》、少しはなれて片山津の諸温泉があるから、その温泉地の風儀が年少の彼に影響を及ぼしたのであろうという。こう評する人は、夜の夜中に猪《しし》が出る、という山中温泉の俗謡が頭にあるためかもしれない。しかし、温泉地と彼の好色とは関係がない。  また、人によっては彼の宗教心の下地を近くの吉崎に求めようとする。ここは世に知られているように蓮如《れんによ》上人が布教所を建てたところで、その本願寺別院はいまも「吉崎御坊」とよばれている。これも定海の幼時とは関連がない。第一、吉崎は真宗で、彼の両親も真宗である。  定海の武次郎には兄一人と、妹二人とがいる。これとても家を十五歳でとび出して金沢に走った彼とはあまり因縁がない。彼はほとんど家には寄りつかず、両親の死もあとで知ったほどだった。その代り、武次郎がどんな女房をもらったかは兄妹も知らない。  武次郎は中学校を出ると、金沢に行き或る印刷屋に見習い職人として住みこんだ。だれの世話があったわけでもない、一人で印刷屋にとびこみ、主人に頼んだのである。印刷屋を択《えら》んだのもとくに考えがあってのことではなく、その店の表に植字工及見習募集の紙が貼ってあったからである。それが眼につかなかったら、ほかの職業に就いたかもしれない。この印刷屋に入ったことがその生涯に最も結ばれそうである。  尾山武次郎の三十五歳までの経歴を詳しく述べていたのでは、それだけでも長編になりそうである。そこで年譜ふうにあらましを書くことにする。  その印刷所は活版機械が十台ぐらいならんでいる中程度の規模だった。植字場と解版場、製本場といったもののならぶ工場の二階にある暗い八畳部屋に寝起きさせられた。見習い、つまり住込み小僧はここに四人いて、ときには渡り職人が来て六人にも七人にもなることがあった。  植字工の見習いになったが、はじめから仕事など教えるはずもなく、二年間は職場の拭き掃除、職人たちの小使いだった。食事は畳の上でなく、裏の台所の土間に飯台《はんだい》があって、腰かけで食う。傭《やと》い婆《ばあ》さんがつくるおかずは、魚の切身のうすいのや肉のコマ切れがたまに出るだけで、あとは菜葉とか大根とか人参とかヒジキとか油揚げの、いい加減なものばかりだった。終日陽の当らぬコンクリートの土間は横の内井戸から流す水でいつも湿っており、その井戸の向うに板壁とくもりガラスで仕切られた風呂場がある。  印刷屋奉公が彼に役立ったのは、植字をしているときに文字をおぼえられたことだった。小僧から少し出世するとはじめて技術を教えてくれるが、ほとんどが雑用で、これを追回しといった。職人が追い回してコキ使うからだが、徒弟制度にはじめから人権の存在はない。ヘマをやったり職人の機嫌の悪いときは、組み版の上をならすのに叩く木槌やスパナーが顔や足に飛んできた。植字工見習いに定着するまでは、解版や活字拾いや、手が足りないときは製本場にまでかり出された。  製本場は小冊子などもつくるが、用紙を截断《せつだん》したり、ノリ付けしたり、刷上ったものを揃えて括《くく》ったりするのだが、紙倉庫からは用紙の出し入れもする。もちろん製本にして綴《とじ》こむ帳合いもする。要するに何でもやらなければならない追回しであった。のち、定海が女房のヤスを製本女工にして食いつながせたのはこのときの経験による。  活字を拾うにも、組むにも原稿の字を追いながらだが、チラシ広告などは別として、ちゃんとした文章には読めない字が多かった。金沢には大学などがあり、そこの先生の論文なども回ってくる。追回しから少し出世して、植字工専門の見習いになると簡単な組みは任せてもらえた。伝票などはケイものといって案外むつかしく、罫《けい》をタテ、ヨコに組むのは技術を要する。複雑なケイものが組めたら一人前の職人とされた。文章などの棒組みは案外にやさしいのである。その文章も学術論文あり、随筆あり、読物あり、なかには小説のようなものもあった。武次郎は活字を拾う関係からだんだん漢字をおぼえた。職人によってはむつかしい字の分らないのもいるが、そのときは校正さんにきく。文章ものは註文主が主に校正するが、印刷所内にも内校正がいる。植字工の職長がこれに当っていた。  字をおぼえてゆくと、武次郎は原稿の文章の上手下手がだんだんに分るようになった。腕が上ってゆくと片手に組み函といっしょにつかんだ原稿を追いながら、片手は見ないでもひとりでにケース棚《だな》から活字を正確に拾う。活字のならべ場所はきまっているから、タイピストの指がキイをたたくのと同じ習性である。個人差はあるが、武次郎は器用なほうで、一人前の職人には人より早くなれそうだった。  あるとき、住込みの校正係が入ってきた。店主が連れてきた三十すぎの男で、得意先の官庁の用度課長に頼まれ、東京で勤め先の新聞社をクビになったのを仕方なく拾ったのである。用度課長とは友人のその男は、髪を長く伸ばした文学青年くずれだが、間借先を見つけるまで小僧たちの寝る八畳に寝起きした。夏脇という名だったが、みんなは最初に聞き違えた夏秋の名で呼んだ。  夏秋は不潔な八畳の間に六人も七人もザコ寝するのにびっくりし、これは監獄部屋だと叫んだが、慣れた武次郎にはそうは思えず、くたびれた身体が横たえられるならどこでもよかった。夏秋はゴロ寝の若者たちを見て、おい、ここではあればやっちょるのか、と九州弁で訊いた。あれとは何ですかと問い返すと、反歯《そつぱ》を出してニヤリと笑い、おチゴさんたい、といった。  夏秋が新聞社をクビになったのはやがて本人の語るところで分った。その新聞社は九州に本社があるのだが、夏秋は大学の政治科を出ているというところから東京支社詰になっていた。失敗は支社長の女に手を出したからで、東京で再起を図るまでしばらく都落ちと決めたが、あとからその女が追ってきそうなので、|戦々兢 々《せんせんきようきよう》の様子だった。こげん給料じゃ女の上の口は養えんけんなあ、といっていたけれど、どうやら内心は女を待っているふうで、手紙をせっせと書いていた。  武次郎は夏秋から字を習い、文章のよしあしを教えられた。こげなのは文章じゃなか、綴《つづ》り方《かた》たい、あ、こいはちかっとはマシばってん回りくどかなあ、用語もようなか、などといい、それを分析したり、書直してみせたりした。彼の添削《てんさく》が入ると見違えるようにその文章がひきしまり、よくなった。さすが東京の新聞記者だと武次郎は感歎した。  店主は五十近い、肥った、赭《あか》ら顔《がお》の男で、風呂には必ず女房といっしょに入った。それが飯を食う場所のコンクリートの土間からよく見える。女房は四十くらいだが、色の白い、あか抜けした顔の上に、若づくりだった。彼女は住込みの傭い人など眼中になく、風呂場と向い合せの、そこは四畳半ばかりの部屋で「奥の者」の飯食い場にもなっているが、そこに赤い長襦袢《ながじゆばん》も腰巻も平気で脱ぎすて、真白な裸身を風呂場に運んだ。飯台からは風呂場に入るまでの何秒かその裸がまる見えで、あとはくもりガラスに夫婦の話し声と湯音とが聞えた。住込みの夏秋もそこで飯を食うから、うわ、たまげたな、四十にも五十にもなった夫婦が人前もはばからずなんちゅうこっか、と憤慨したが、それからは仕事が忙しいのにかこつけて食事時間を延ばし、わざと夫婦が風呂に入る頃を狙ってやってきた。むろん女房の裸を瞥見《べつけん》するのが目的で、瞳が落ちつかなかった。ことに女房が帯を解き、腰紐を抜き、恥かしげもなくそこでくるりと着物を脱いで腰巻をとるだんになると、夏秋の息はひとりでに荒らくなっていた。  それだけでなく、店主の弟夫婦もこの家の二階に同居していたから、その妻もあとから入る。その亭主は外交で帰りが遅くなるときがあり、若い奥さんとみなによばれているその妻はひとりで風呂に入る。嫂《あによめ》にならってそこで立ちはだかりながら赤い着物を脱ぐことに変りはない。三十一、二くらいのその妻は明るい顔で、これも色が白く、脱衣してから風呂場まで歩くまで、まろやかな肩、胴体、脚に炊事場の電灯が当ってにぶい艶光りとなった。夏秋は店主の女房もええが、若いほうもよかな、と歎息し、ええくそ、いっちょやっちゃろかなどといっていた。むろんそれは彼の豪語で、覗《のぞ》き見以上には行動の勇気もなく、おいが女は早う東京からやってこんかのう、と本音をつぶやいた。  工場が忙しいときは、夏秋の仕事も忙しく、彼はストのときのように長髪に鉢巻きをし、汗をかきながら近眼をむき出して遅くまで校正していたが、それが済むと「監獄部屋」に上り、今夜は若奥の肉体を完全に見てやったとご機嫌になった。なんでも腹が減ったので晩飯を早く済ませたから、そのあとで何度も水を飲みに炊事場に行き、三度目に裸身の機会に当った。ほかにだれもいなくて、こっち側は電灯は消してある。向うは風呂場の電灯と四畳半の電灯と両側から照明が若い奥さんの肉体に当った。若い奥さんはまさか暗い横に人がひそんでいるとは知らないから、腰巻を脱《と》るときも、そのあとも、日ごろ以上に大胆なポーズをとった。夏秋の表現によると、中の臓腑《ぞうふ》が見えるほど拝ませてもらったという。そのあと自ら校正用の赤鉛筆で刷り損いの会葬御礼の黒枠ハガキを裏返して詳細に女体の部分解剖図と挿入断面図を描き、説明をして聞かせた。そのあと彼は上気した顔を口いっぱいにして笑ったが、眼は赤くなっていた。      二  武次郎に文字と性の解剖を教えた夏秋は三カ月足らずで印刷屋を黙って去った。当座店に私服の刑事が出入りしたが、何でも夜の路上に四十女を襲ったが、未遂の上に先方があとで示談にしたため逮捕だけは脱《の》がれたということだった。印刷屋では三カ月ばかりは夏秋の話題がつづき、殺気立った植字場の職人もその間だけおとなしくなった。みなは夏秋を嘲笑していたが、武次郎は彼をそこに追いつめたのは風呂場の、とくに若い奥さんの裸だと思った。  そうして、結局彼もその影響を受け、解版場に働いている女工で、精神発育の遅れた、不器量な十七になる小娘を夜業のとき裏の物置小屋に連れこんで押えた。気ばかりあせって自分でも何のことか分らず、不完全を自覚したが、頭に上った血だけは下った。しかし、脳が足りなくとも、解版女工の情だけは人なみにあって、家から彼のために特別に弁当つくってくるやら、菓子を買ってくるやらするので他の職人に知られてしまい、まだ一人前にもなってないのに何という奴だと職長に怒鳴られた。そんなことで辛抱ができなくなり、富山県の高岡の印刷所に移った。これも自分が先方に行って店主に会って交渉したのだが、一人前の職人としてふれこみをした。十九歳であった。  給料は腕を見てから決めるということで、ひやひやしたが、立派に職人なみで通った。自分では気がつかなかったが、金沢の印刷屋で鍛えられていたのである。ここは住込みでなく、店主の紹介で大工の二階を借りた。四十ぐらいの夫婦者で、子供がなかった。  生れてはじめての自由に武次郎は、世の中が眼の前にぱっと開けた感じだったが、この時期には金沢よりはさらに多くの経験を得た。それを簡単に挙げると、宮田というのと荒川という渡り職人を知ったこと、一方では大工の女房と懇《ねんご》ろになったことである。  そのころは、どこの印刷屋でも職人の減少に困っていた。若い者は手っとり早く金になって、背広で通勤できる工員になって、職人の弟子入りなどする者はほとんどいなくなった。印刷工の渡り職人は各地の印刷所を転々と移る気まま者で、昭和の初めごろまでいたがその後途絶え、戦後は人手不足でまたぼつぼつ復活の傾向にあった。  以前は若い者が多かったが、戦後は年を喰った者が多い。古い職人で、一軒の店を持つ資力もなく、さりとて転職するでもなく、たとえしてもそれに失敗して馴れた腕の職に戻った。荒川は武次郎がその印刷屋に来て一カ月後に来た二十五、六歳の職人だが、本人は胸を病む蒼白い顔で女房子を連れて渡り歩いていた。ほとんど東日本の印刷屋という印刷屋は知っているといった。それだけに腕はよく、仕事は速かったが前借りの連続で店主に渋い顔をさせた。この印刷屋にいるのも長くはない。胸部疾患に悪いと知りながら、女房子を養うに埃《ほこり》の多い印刷屋しか働くところがないようだった。こうした職人の末路を見ていると、武次郎も将来を考えないわけにはゆかなかった。  宮田は三十二歳、渡り職人としてはのんびりとした性質で、顔つきからしてまる顔に眉の開いた童顔だった。腕もあまりよくなく、店主は安い給料で契約した。女房と子は東京に残しているという。腕の悪いのは、ほかの職人に莫迦《ばか》にされるが、宮田はもの識りで、本もよく読んでいるようだし、印刷屋では店といっている事務室に毎朝早く来ては新聞をのぞいていた。昼の休みは三十分、宮田は政治でも哲学でも芸術でも、要するにひろい知識を油だらけの職場で弁当を食う職人たちに得意になって聞かせた。そうして、いま資本《もとで》入らずに金を儲けるには新宗教をつくって教祖になることですよ、これが当ればどんな事業よりも有利ですな、とおちょぼ口をまるく開いていった。  宮田は三カ月ぐらいして印刷所から消えた。腕がよくないので店主もあまり引きとめなかったが、よその土地の印刷屋にでも行ったのだろう、しかし、あの腕では何処《どこ》に行っても長つづきはしないだろうと職人どうしで悪口ともなく云い合っていると、ふた月後に本当に教祖らしくなって武次郎の前に現われた。  そのころは武次郎も、下宿先の、大工の女房と出来ていた。四十女だった。大工の亭主は早朝に仕事に出るので、武次郎が印刷屋に出るのとズレがある。一時間は遅いので、その間に女房が彼を床の中に呼び入れた。女房は七時ごろに亭主を送り出すと、また床の中に戻る。支度のため朝起きが早いのだが、ある朝、武次郎が出かけようとすると、肩が凝《こ》るからあんたの強い力で少し揉《も》んでくれといった。蒲団の中にいる寝巻姿の女房の背中のそばに坐ると、蒲団の中はなま暖かく、甘ずっぱい臭いがこもっていた。ちょうど寒いときで、あんたも少しあたたまって行きなさいといって自分で蒲団の端をめくった。そこからさらに甘い臭いが煽《あお》り出た。  武次郎は大工の女房から閨房の手ほどきをうけたのだが、彼はこの色の黒い、獅子鼻の、小皺《こじわ》の寄った女房の顔を見るのが耐えられず、眼をふさいで金沢の印刷屋の女房二人の裸身をひたすら瞼《まぶた》に描いていた。それは姉のほうでも妹のほうでもいいから、交互にかわった。大工の女房はそれとは分らないので彼が恥かしがっていると思い、あんたは何も知らないから可愛いとか、初心《うぶ》だとかいっていたが、教える女のほうが途中で歓喜に陥ってたびたび中絶した。  大工の亭主は何も気づかず、夜は夫婦の行為もあったようだが、武次郎は二階の階段の端に匍《は》い出て聞き耳を立てるほどの興味もなく、嫉妬もまったく起らなかった。そうしてよく睡った上、翌朝二階に上ってくる醜い顔の女房を待った。  遠地での普請を引きうけた請負師について大工が三日間留守をしたとき、武次郎も女房に仕事を休まされ、昼となく夜となく女に抱かれ通しだった。女房は、彼の熟達を賞し、亭主に比較してその健康を羨望し、今度は亭主がする通りにしてくれといって、武次郎に少々変態的な技術を教えた。正常から変則に移行するのはこの種の行為の径路だが、そのことによって武次郎は女がどのようなことを求めているのかをだいたい会得《えとく》した。後年彼がある人に話したのでは、大工の女房が醜女《しこめ》だったことが何より幸いしたので、もし美人だったら愛情が生じ、あれほど即物的な玩弄に徹することはできなかったろうという。大工の女房は恥知らずにも彼の手をとってそれぞれ女の弱点となる部分に当てがい、自らその反応の度合を示した。  二日二晩の、日も星もない女房の加虐《かぎやく》に武次郎は不覚にも風邪をひき、それがこじれて肺炎となった。印刷所も休み、二階に絶対安静で寝ていると大工の女房はいそいそと介抱し、また、ときとしてわが儘な挑み方をした。亭主が戻る夕方以後はさすがに遠慮して二階にこなかったが、送り出したあとはかいがいしく世話をし、自由自在に振舞った。彼女は、あんたの身体の熱を冷《さ》ましてあげるといい、裸になって彼のほてった身体を抱えこんだ。彼女はそこで、男に不可能な場合でも双方にとって収穫的な方法を教授したが、それは女の側にも充足感を与えたので、彼は横たわりながら冷静に見上げ、技巧と女の奔流する一致点の各部を観察し、詳細に習得することができた。  そんな際、宮田が宗教を提げて病床を訪れたのは予想もしなかったことで、大工の女房は狼狽《ろうばい》して床のまわりを片づけたが、残り香まで消すことはできなかった。作業服を脱いだ宮田は、古着屋からでも買ったのか、こざっぱりした木綿の和服を着用して、彼の床のわきに端坐し、病気はすべて前世の悪い因縁によって生じるもので、これは当人には分らぬ、神の呪術《じゆじゆつ》を体得した御使い、すなわち術者のみがその悪因縁を追放することができる、それによって病患は自然|治癒《ちゆ》するといった。これだけに要約するのは宮田の能弁を伝え得ないが、彼のかねての博識はもっと哲学的な理屈を加え、新聞記事による世相をからませ、さらには古事記などの物語を挿入し、のんびりした顔つきは多少の神秘さが加わって、弁舌また流るるごとくであった。  宮田は、武次郎の病床に三日間通いつめて姿を消したが、そのきっかけは、大工の女房がいつまでも邪魔する宮田を一喝《いつかつ》したからで、いわば愛欲行為を妨げられた怒りのあまりだった。武次郎が十日ほど寝ついているうち、快方に向う四日間というもの、完全に女の恣意《しい》に任され、その強制に支配されることになった。あんなインチキな宗教よりはこのほうがよっぽど病気を癒《なお》せる、ひたすらに喜びに浸ることこそ精神を純粋にさせ、その精神が肉体を立ち直らせる、と、そういう言葉ではなかったが、同じ意味を卑俗な表情でいい、あんた、病気は気からというじゃないの、とこれはその通りの言葉を、巫女《ふじよ》の如く髪を振り乱していった。  二十二歳。──武次郎は名古屋の印刷屋にいた。ここでは酒と女とをおぼえた。安バーの女ばかりを買って終始給料の前借りをした。どの娼婦も彼の若さと、四十男のような技巧に感心したが、後者は大工の女房の仕込みだった。商売女が商売を忘れた。しかし彼は病気を染《うつ》されて、場末の小さな医院にこっそり行った。尿道が詰り、カテーテル洗滌《せんじよう》に依《よ》った。ある日、安アパートの共同便所の中で身体を曲げて自分で洗滌していると、突然戸が開いて女がのぞいた。双方ともおどろいたが、女は四十七、八の寡婦で、生命保険の勧誘をしていた。二、三度そういうところを見つかった末、あんたそんなこと自分でやったら不自由で仕方ないやろ、わたしが手伝ったげる、病気やさかい、遠慮せんかてええ、この齢になったのやから、女とは思わんでや、といい、自分の部屋に連れて行き、バケツに水を汲んでくるやらして、看護婦とまではゆかないにしても手ぎわよく処理してくれた。そういうことが、五、六回つづくと尿の出もよくなったが、今度は看護婦役の女が握ったまま息を荒らくし、手に力を入れ、片手で自分のスカートを外した。しかし、一カ月ぐらいすると、頭の禿《は》げた保険会社の外交主任というのが彼のところに怒鳴りこんできた。その男の女だった。  女のほうは武次郎を諦めきれず、夜は主任がくるので警戒したが、朝になると飛ぶようにしてやってきた。それと気づいた主任が木刀をもって彼の部屋の戸を激しく叩いて連呼し、アパートじゅうの騒ぎとなった。      三  二十六歳。──武次郎は、岡山、広島県の尾道、山口県の下松《くだまつ》と渡り歩き、引返して滋賀県の大津にいた。  この間に武次郎も渡り職人の虚《むな》しさを感じ、やがて、三十ともなれば、そろそろ四十|面《づら》を下げて全国の印刷屋を漂泊して歩く自分の姿が見えてきた。彼はどこへ行っても色ごとに耽《ふけ》ったが、同時に本だけは手から離さずに、哀れな自分の境涯を少しでも紛らわそうとした。わずかだが、金も少しは貯めた。腕のいい彼はどこの印刷屋でも高い賃金で傭ってくれていた。  大津の印刷屋の主人は彼を足どめしたいばかりに自分の家に働いている女中を女房に押しつけた。それが市村ヤスで、武次郎とは一つ違いだった。色の黒い、丈の高い女で、眉うすく、眼のまるい、唇の厚い顔だったが、無口でよく働いた。店主は夫婦のために金を出してアパートを新しく借りてやるなど世話したが、むろん腕のいい職人を遁《に》がさないための政策だった。武次郎がヤスをそれほど気に入ってないと知ると、まあ、ええわな、一年ほどいっしょになってみいな、それでよかったら籍に入れなはれ、と武次郎にいったが、一年どころか生涯連れ添うことになった。ヤスは武次郎のいうことなら何でも抵抗なしに諾《き》く女で、しかもよく働くから、自分が困ったときはこの女に頼るほかないという気になった。そのかわり入籍まではせず、いつ別れてもいいように内縁関係で済ませた。  二十七歳。──武次郎にとって一つの転機があった。自分の生活や運命に不安のようなものを感じて、京都の菩提樹社《ぼだいじゆしや》に入った。菩提樹社は仏教を哲学ふうに新解釈したもので、いわば哲学と信仰との合一を目的としていた。彼は菩提樹社の規定で、初めての入信者は一カ月間は泊りこみしなければならないということから印刷屋の主人には無理に承諾させて京都に行った。その間、ヤスには製本場の女工をつとめさせた。  約束通り、一カ月で大津に戻ったが、そのとき菩提樹社発行の仏教関係書を柳行李《やなぎごうり》にいっぱいになるくらい持ち帰り、仕事が済んだあと毎晩読み耽った。もっとも一方では一カ月間の罐詰め禁欲生活の結果がヤスに殺到した。武次郎の一生では数少い安定期間であった。  しかし、精神生活のほうは必ずしも安定せず、こんなことでよいのかという強迫観念におそわれた。菩提樹社の仏教書や人生教訓書が深奥にして不可解だった影響かもしれぬ。  三カ月ぐらいして武次郎は一週間ほど居なくなった。印刷屋の主人は心配して女房を置き去りにして逃げたのではないかとアパートに行き荷物を調べたが、もとより目星しい家財とてはなく、着がえの下着類が少し無くなっている程度であった。ヤスは平気で、ウチの人は風呂敷包みをもって山に登ってくるといって出かけたというだけで、行先も知らなかった。山というと何処の山だろう、登山にしては季節外れで、またその支度でもない、趣味としても聞いていぬ。さりとて逃亡の形跡もなかった。  一週間経つと、武次郎は予告通り大津に帰ってきたが、少しやつれていた。だが、女房への抱擁は異常なく、ヤスを女として目ざめさせた。  しかし、それも四、五日で、武次郎はこれから高野山に入って修行するのだとヤスに宣告した。話をヤスから聞いた印刷屋の主人がびっくりして駆けつけると、武次郎は落ちついて、実はこの前の一週間は高野山の何とか院に行って院主に会い、修行させてもらったが、宗教の悟道に達するにはどうしても五、六年は僧籍に入らねばならない。申し訳ないがこれで辞めさせてもらいますといった。え、そりゃ、ほんまか、高野山の坊主になるのんか、と主人は呆れ顔だったが、武次郎は真剣に考えた結果だといい、えらい世話になって申し訳ない、堪忍してくれと、繰り返した。  主人は寛容な男で、一つは武次郎の気紛《きまぐ》れで、すぐにもここに舞戻って働いてくれるものと思い、一つはヤスを世話した責任から、お前さんが思い立ったのなら仕方がないやろ、気イ済むように、まあ、行っておいで、その代り坊主の生活がイヤになったらすぐこっちゃに帰ってくるのやで、おヤスさんを忘れたらどもならん、わしが大事にあずかってるよってにほかに女子《おなご》をつくったらあかんで、たとえ一年ほど坊主の生活をつづけても、その間には一カ月にいっぺんぐらい二、三日の休みもあろうから、おヤスさんに会いにくるんやで、と念を押した。  二十八歳。──武次郎は高野山のA院の律師《りつし》となった。律師というとたいそうに聞えるが、真言宗では小僧をしばらくするとみな律師で、その上は|権 少僧都《ごんのしようそうず》、権中僧都、権大僧都となる。そのそれぞれの上位に少僧都、中僧都、大僧都の位がある。その上が僧正《そうじよう》となり、権少僧正以上五階級に分れ、最高の大僧正に至る。要するに武次郎は高野山に二十七歳にして入り、十六、七歳なみの小僧と同じ資格で、印刷屋でいえば再び追回しの世界に戻ったようなものであった。  これからの彼の苦労を叙すと長くなる。印刷屋の職人見習いから叩きあげた彼は、三十近くにして小僧になり、水汲み、まき割り、拭き掃除などしても、さして辛くはなかった。一年くらいで大津に逃げ帰るだろうと思っていた印刷屋の主人の予想は外れ、休暇での帰省はおろかヤスにも主人にも便り一つ出さなかった。  ここで武次郎の僧侶生活を叙すのは冗漫でないが、彼の律仙教発見の経緯に到ったほうが中心に逼《せま》る。その時期は入山三年後、彼が権中僧都にすすんだころといえば足りる。  何ごとにも発見には指導者があり、手伝い人がなければならぬ。剃髪《ていはつ》して定海となった武次郎の場合は先輩の小竹|隆寛《りゆうかん》がそうだった。この権少僧正はどこかの私立大学を中退して高野山に入ったが、何かと定海をひいきにした。  さて、秘法発見の第一は「理趣経《りしゆきよう》」である。「理趣経」は真言宗ではふだんに使われているが、朝夕の勤行《ごんぎよう》には必ずこれを誦《ず》し、普通の寺でも朝晩のつとめや、葬式、法要の際に読む。これは古い訓《よ》み方でなされ、しかも法要の場合は音節をつけて唄うがごとくに誦するので難解|晦渋《かいじゆう》をきわめる。  隆寛が取り出して見せた仏教大辞典にある理趣経法の解説には、「理趣経|曼荼羅《まんだら》を本尊として滅罪の為に修《しゆ》する法を云う」とあり、この法は殊に滅罪を第一の法と為す。其の故は殊に婬罪《いんざい》を滅する為に之を説く、故に或る説は大楽大欲印を以て殊に秘印と為す云云」と説明してある。──「但し此の法は金剛界法に依りて之を修すと雖《いえど》も、振鈴の後に理趣経十七段の段段|印明《いんみよう》を結誦するなり。此の印明は古来空海より相伝せるものとなす。」  理趣経十七段の段々とはなんや、と隆寛が仏教大辞典を閉じて試しにきくから、定海は、それは知ってます、朝夕の勤行には欠かせない経だすといって、びょうてきせいせいくしほさい、よくせんせいせいくしほさい、しょくせいせいくしほさい、と三段までつづけて誦《よ》んだ。ようし、それでええ、ほなら漢字で書けるかと隆寛はきく。定海は懸命に暗記したところを書いた。妙適清浄句是菩薩位《びようてきせいせいくしほさい》、欲箭清浄句是菩薩位《よくせんせいせいくしほさい》、触清浄句是菩薩位《しよくせいせいくしほさい》、愛縛清浄句是菩薩位《あいはくせいせいくしほさい》……とならべたが、各段の下につく清浄以下の七文字はみな同じだから、頭の部分を一切自在主《いつせいしさいしゆ》とか見《けん》、適悦《てきえつ》、愛《あい》、慢《まん》などと変え暗記すればやさしい。  そうして、それぞれの段の終りにはいろいろな印《いん》を結び、フーンとかアーハとかフリーヒとかトゥラーンとかの神秘的な音を発する。  よし、それでええ、そんならこの各段の経文を漢字で読んで解《わか》るかと隆寛はさらに定海に訊く。これは彼に見当もつかない。また師の僧もこれはありがたい意義があり、曰《いわ》くいいがたしと申されたというと、隆寛は、そらそうやろ、分っておってもいえへんのや、と眼尻を下げ、額には皺を寄せた。何でですか、ときくと、これはみんな性《セツクス》に関係があることや。定海は好奇心が猛然と起り、ほんまだすかと反問した。彼も大津以来高野山に来てからも周囲の影響で関西弁を使っていた。ほんまや、ほんまや、お前だけ教えてやる、ないしょやで、といってこんなふうに漢字の上を指で抑えながらていねいに解説した。清浄というのは清らかという意味、菩薩とは、この世の仏、菩薩位とはつまり仏の境地や、さて、はじめの妙適とは、あのときの頂点、アクメのことで、男女交合の際の恍惚こそ清浄な仏の境地、つまりは人間の極致というわけや。次の欲箭清浄句是菩薩位ちゅうのんは、箭《せん》は矢や、つまり男の奔出することやな。触は互いの身体を触れ合うこと、愛縛はきつう抱き合うこと、など以下十七段を順々に説明したが、定海はびっくりした。愛清浄句が欲情するとき、慢清浄句が満足を表情に出すとき、身楽清浄句が機能の好調子なとき、香清浄句が匂いの漂うときと聞かされてはなおさらである。  隆寛は、ゆったりと微笑し、なんでわいが嘘|吐《つ》こう、お前が疑うなら院主さんでも誰でも偉い人にきいてみい、といった。そんなこと訊いてもよろしか。いや、かめへん、かめへんけど偉い人が返事に困るから、まあやめといたほうが無難やろ、と彼は仏教大辞典の理趣経法の項をもう一度開き、この法は殊に婬罪を滅する為に之を説く、という項を指し、婬罪を滅する為とは後人の道学的な註釈で、本来は婬を罪としておらんのや、婬という漢字が誤解をうけるけど、密教は平安のころに空海が唐から持ち帰った、空海はインドの原始仏教といわれるものの実体をつきとめるため長安でバラモン教とサンスクリット語を習い、インド関係資料を日本に持ち帰ったけど、幸い、そのときはバラモン教はインドの原始民族信仰とくっついたもの、南国らしい生命のうたいあげがあるわ、インド仏教はチベットから蒙古《もうこ》に行って土地の特殊風土と合してラマ教となる、空海の持ち帰ったインドの経典の中にはそうした原始宗教的なものがあるけど、その生命の根元を男女交合の性に求めたのはやな、それが生産という人智で理解できぬ超自然の神秘に結びついたからや、これは古事記のイザナギ、イザナミの産土《うぶすな》神話でも分るはずや、つまりは理趣経は真言密教の最高の仏典に位することになる、これを空海がどのように大事にしたかということは、比叡山の最澄が密教に関する資料をたびたび借用しているうち理趣経を貸してくれというたのを、空海ははねつけ、それがモトで両人は仲違いをした、ちゅう話でも分るやろ、と初めて聞く定海にはよく分らぬ話をした。      四  定海には、隆寛の話が頭からはなれなかった。女人は穢《けが》らわしきものと昔から入山を禁じたのは苅萱《かるかや》と石童丸の話でもよく分っているが、その戒律きびしい高野山の経典の最高が性行為を仏の境地としているのはどういうことだろう。そういえば理趣経は古音よみで、しかもフシをつけて誦するので文句をわざとぼかしているようにみえるし、ついぞこの経文について逐語訳的《ちくごやくてき》な講義をだれも聞いていない。どうやら真言密教は空海没後千百何十年の間この秘密を抱きつづけ、信者にはさとられぬよう僧侶どもが隠微の間《かん》に伝承しているように思えた。次からは隆寛さん隆寛さんと定海はいってはまつわりついて教えを乞うた。隆寛は中退ながら大学の文学部に学び、インテリだけに理解力が秀れていると尊敬したのは、中学校しか出ていない定海の劣等感からで、ことに活字を拾いながら文字をおぼえた向学心がそれに拍車をかけた。  勤行《ごんぎよう》の合間、雑用の合間には隆寛と定海はよく出会い、隆寛の研究話がはじまった。坊主がみんなで唱える声明《しようみよう》は一種の合唱だが、理趣経の中曲《ちゆうきよく》は声明のなかでも随一、ほら法会《ほうえ》のときに十歳から十一、二歳の小僧どもが斉唱するやろ、あれはキリスト教会の少年聖歌隊のようなものやが、小僧どもにはむつかしい節まわしを教えて音頭をとらせる、あの小僧の声が女の役割で、大人の僧の性欲を昂進させるようになっておる、ええか、本堂の須弥壇《しゆみだん》のまわりをまわりながら四角の角々に立ちどまって稚児僧《ちごそう》が一節唱すると、二十人ほどの坊主がこれにつけて和するやろ、あれがそうや。いわれてみると、なるほどな、と定海は合点した。隆寛はまたいう。仏さまは蓮の花の上に坐ったり立ったりしておられる、あの蓮はインドでは女性の性器を象《かた》どったもので、それが仏教では蓮の台《うてな》ということになるが、何のことはない、女の性器に坐すちゅうこと自体が男女和合の歓喜、即ち極楽|成仏《じようぶつ》を現わしとるのんや。真言密教の源流を尋ねて行くとラマ教に突き当る、ラマ教の歓喜仏《かんぎぶつ》はまさにそのものずばりだが、その歓喜仏が日本では観音や愛染明王《あいぜんみようおう》となる、平安期に貴族の間で観音信仰がひろまったのも退廃文化と結んで分らぬことはない。インド的な観音に対し、シナ的な弁財天の信仰が起り、裸で琵琶をひく江ノ島の弁財天、さては水商売の連中が信仰する生駒《いこま》の聖天《しようでん》も、性と生産につながり、生産は金儲けと現世利益《げんぜりやく》に変ってきた。ほら、弁天さんのお使いは巳《み》やろ、巳はヘビや、ヘビが男性器の象徴ちゅうのんはよく知られてるやろ、陰陽の合体と交配、これで分ったやろ、と隆寛は説き、そやさかい、聖天や弁天のある寺は、必ずといってもええほど立川流の名残りが残ったる、と隆寛はしゃべった。  立川流って何ですかいなと、定海が訊くと、お前、立川流を知らんのかいな、と隆寛が呆れた顔をした。へえ、按摩《あんま》揉み療治のことですか、というと、阿呆やな、いっぺん自分で仏教大辞典をひいてみい、といわれ、定海は隆寛から借りて、立川流のところを開いてみた。  ──沙石集第八に其《そ》の邪義を評し、近代真言の流は変成就の法とて不可思議の悪見の法門多く流布《るふ》す、諸法実相一切仏法の詞、煩悩即菩提生死即涅槃《ぼんのうそくぼだいしようじそくねはん》の文ばかりをとりあつめて、機法のあはひ、解行のかわれもしらず、男女を両部の大日なんど習ひて、寄あふは理智|冥合《みようごう》なんど言ひなして、不浄の行即ち密教秘事修行と習ひ伝へて、邪見邪念すてがたくして諸天の罪を蒙《こうむ》る、等と言ひ、又立河聖教目録に其の邪正を弁じ、問ふ、邪正分別とは如何《いかん》。答ふ、師言はく、邪流は法甚深なる由を言ひ、赤白二《しやくびやくにたい》を両部と号し、此の二冥合の生身《しようしん》所有の所作皆|法性《ほつしよう》なりと談ず。此《こ》れ極めて邪見なり。正流の意は、諸法色心本より阿字不生六大|四曼《しまん》の体性なり。万法本来不生の義を悟らず、但《た》だ世間の事法に著《ぢやく》して貪等の心を起す。邪見は貪に同ずと雖《いえど》も、不生の貪なりとの覚起らば此れ正見《しようけん》なり。何ぞ男女和合し、赤白二を両部と号して邪見を起さんや。之《これ》に付いて多くの人邪見を起す、恐るべし々々。金剛王院流に、二水和合して一円塔と成り、一字転じて斉運三業と成ると云々。此の義を以て秘密と為《な》すは大邪見なり。諸法皆六大四曼三密の法体《ほつたい》なる上は、法性を離れたる法なし。何ぞ必ずしも赤白二を甚深と談じ、人をして邪見を起さしめんや。大なる誤なり、と言へり。以て破邪の趣旨を見るべし。……  さっぱり、分らなかった。とにかく理趣経の性のところをとって宗旨《しゆうし》としたため邪教とされたことはたしからしい。赤白二とか二水和合とかの文字は甚だ露骨である。隆寛に訊いてみると、まったくその通りで、そこが邪教として高野山の真言密教より逐放をうけた原因や、逐放されるからにはそれまで立川流が高野山の内部に繁殖していたことを物語るものや、といった。──さらに立川流の名義は、鎌倉時代に武州立川の陰陽師《おんみようじ》仁寛を流祖とするからだという説もあれば、そうではなく仁寛は罪を得て京から伊豆|大仁《おおひと》に流罪となった貴族だ。あるとき立川の陰陽師たちが仁寛に接触し、彼らの都合のよい説に換骨奪胎されたからだという説とがある。いずれにしてもこれを後醍醐天皇の護持僧文観という者が大成したといわれ、男女を金剛、胎蔵両部の大日如来《だいにちによらい》にあて、男女交合を以て即身|成仏《じようぶつ》の法となし、煩悩即菩提の極意と称したとある。  高野山の正統派は立川流を邪教として排斥し、撲滅したと伝えられるが、理趣経の経文の意味を他宗はもとより真言密教内部でも分らせぬように隠していること、理趣経十七段に基づいて理趣経|曼荼羅《まんだら》がつくられているが、その原本はこの高野山宝寿院に所蔵されていることなどから、立川流とはいえないまでもその教義の底流は未だに残っている、ただそれが表に出せないまでや、と隆寛はいった。  だいたい空海が唐から持ちかえったインド資料は、唐式に密教化される前なので、原始の要素があり、バラモン教の影響が濃い。釈迦《しやか》の入滅後、弟子どもが寺院にこもって教条主義になっていたのを、民衆の間に釈迦の教えを開放したのが維摩居士《ゆいまこじ》だが、彼は教条主義者を小乗仏教と嘲《あざけ》り、自分らを大乗仏教だというた。けど、大乗仏教を発展させるためには民間信仰的なヒンズー教をとり入れなければならず、ここから土俗的な官能主義が入ってくる。官能主義は現実肯定だから、釈迦の虚無的な現実否定とは逆になってくる。釈迦の精神とは違うけど、この新解釈は民衆に受けた。つまりは、官能主義、愛欲を肯定することによって密教の即身成仏は達成される。  空海が唐からもってきたインド的仏教思想の中には愛欲肯定の考えがあったのや、そやから京に近い東寺《とうじ》に根拠を置いたんでは、なんとも官能的な刺戟を与えすぎるというので高野山に引込み、山中に道場をつくったんやろうな。だから立川流みたいな教義も当然に発生したんや。  隆寛からその話を聞いてからは定海の高野山を見る眼も教典をよむ心も違ってきた。なるほどそう聞けば、釈迦の教えをのちにひっくりかえしたインドの教徒の気持は分る。どだい、人間の本能を抑圧する教義というものは不自然である。釈迦のような偉人でも修行中は性の煩悩に負けそうになったではないか。偉人でもない何千万の凡人に同じ規律を強いるのは道理に合わぬ、それよりも性の現実をあるがままにうけとり、その神秘性を人間幸福に結びつけたインドの原始宗教、ひいては立川流の考えがまことに自然で建設的に思われた。  真言密教には男女行為を思わせるいろいろなものが残っていると隆寛はいい、弘法大師が手に持っている五鈷杵《ごこしよ》、あれは真言の法具やけど、ようあの形をみい、両端が輪になって柄の真ン中のところがちょっとふくれとる、輪は人間の顔、柄は胴と脚、ふくれは両方の合したかたち、すなわち男女一体をあらわしたるがな、と隆寛がいったので、定海は実物にはこと欠かないから、つくづく手にとって眺め、ほんまにそう思ってみるとそうだすな、と感心した。  そのほか、読経《どきよう》のあとで結ぶ印《いん》、経によっていろいろ違うが、その指の結び方はいずれも交合をかたどったもので、坊主はそれを衣の下にかくして人の眼にはふれないようにする。ほれ、その印の結びようはこうや、と指で種々の形を隆寛はやってみせたが、その卑猥に気づいた。  ほどなく定海は自分で一つの発見をした。それは寺院のマークのようになっている卍であった。普通にはマンジと読んでいる。万字ともいう。定海が先輩に訊くと、文字に非ずして吉祥の記号であるという。また、仏の螺髪《らほつ》を表わしたのであるともいう。定海がじっとこの卍を見ていて、はたと膝を打った。これは二つの人がからみ合った姿ではないか。分解すれば※[#卍の一部]と※[#卍の別の一部]の、人の寝たかたちになる。いずれを男とし、いずれを女とするかは問うところではない。これが重なり合って卍となった。すなわち男女交差の姿を象徴している。  隆寛は、定海の報告を聞いて眼を細め、お前もそこに気がついたか、ほんまにその通りや、釈迦のちぢれ髪の旋毛なんぞというもんやない、あれは苦しまぎれに説明していることで、ほんまは男女愛欲の相や、よう気がついた、とほめてくれた。  定海が愛欲の眼になって検索すると、真言密教の経典、法具、法式すべてこれ、そこより発するものならざるはなし、に見えてきた。  定海は、このような研究に一年間をすごし、その間、大津にいる内妻のヤスには便り一つしなかった。      五  尾山定海が「律仙教」を創設したのは三十一歳のときであった。その開教の発想が高野山時代の真言密教にひそむ原始宗教に触発されたのはいうまでもない。立川流とすれば俗に過ぎる。邪教として最初から排斥されそうだ。で、立川を音読みにして別の漢字に当てた。地名にはよく例のあることである。  だが、定海もはじめからひとりで開教の事業にとりかかったのではなかった。それには手がかりがなくてはならぬ。  高野山の宿坊《しゆくぼう》には参詣団体客のために案内の僧がいる。定海はそれを勤めた。金剛峰寺《こんごうぶじ》の伽藍《がらん》、金堂《こんどう》、根本大塔《こんぽんだいとう》、不動堂。不動は男性、観音は女性、火陷を背負った愛染明王《あいぜんみようおう》は不動明王に似て非で、これは両性の愛欲の象徴だす、弘法大師が唐から投げた三鈷《さんこ》が空を飛び海を飛び、落ちたところがこの高野山、それで大師が此処《ここ》を真言の道場にされたというのは通り来りの説明で、その三鈷の形をとくとみなはれ、男女交合のかたちでっしゃろ、と声を低めていうと、参詣人たちは一様に顔を見合せて笑った。百二十あまりある寺のうち、五十ほどが宿坊だが、どの宿坊にもこんな案内坊主はいなかった。苅萱堂《かるかやどう》から一ノ橋を渡った石だたみの参道は両側が古杉の並木となり、鬱蒼《うつそう》とした樹間には多田満仲墓にはじまって武田信玄・勝頼墓、伊達家、島津家、石田三成、市川団十郎、徳川秀忠夫人、浅野|内匠頭《たくみのかみ》、木食《もくじき》上人と時代も人物もごちゃごちゃだが、古めかしい五輪の墓は同じに見え、そのいっとう奥が開基弘法大師の廟塔《びようとう》となる。団体の参詣人はここで一斉に南無大師|遍照金剛《へんじようこんごう》と数珠《じゆず》を繰るが、お大師さんはこの塔の下で眼《め》エ開いて寝てはりますのやで、と定海がいうと、善男善女はお大師さんがまだ生きていてこの世の迷い人を見ていやはる、もったいないと手を合わすが、少し埋屈ぽいのが、なんやお大師さんは極楽に行かはらへんで、浮ばれんのんかと訊《き》く。そこで定海は真言密教は現実肯定だから、大師はいつまでもこの世に存在するということからそういう説話になった。昔、一休禅師がここに来て、墓の下の大師と問答したという伝説もそこから生れると説明する。すると少し科学的にものを考える信者は、ははあ、すると大師の遺骸《いがい》はミイラになってはるという意味だすなアと訊いた。そうだす、そうだす、と定海はええ質問だとほめ、真言密教を究《きわ》めるとそれは蒙古《もうこ》のラマ教につき当りますんや、ラマの坊主は死期を知ると、食を絶ち、毎日少しずつ水銀を飲み、五体をカチカチに金属性のミイラにしてしまうということですわ、そやから大師もカチカチのミイラになってはるかも分りまへんな、と答えた。なんでお大師さんはミイラになんぞなりはるの、という素朴な質問には、もう一度現実肯定の教義をくりかえし、現実肯定が愛欲肯定につながること、男女和合の神秘が仏の境地つまりは人間の幸福につながることを説明した。  定海の説明はふざけた態度ではなく大真面目だったから、はじめはおもしろい坊さんやと思っていた常連の参詣団体の中でも、彼の案外に学のあるところを見直し、そういえば密教というのはそういうものかもしれないと思うようになった。とくに婦人団体にファンができた。  そうして、のちに律仙教の開教に力があったのは、岐阜地方の真言宗の婦人団体で、川崎とみ子、石野貞子、西尾すみ子、服部《はつとり》達子、早川信子、三谷ひろ子たちが創立幹部格となった。  定海はお膳立が終ると、高野山を降りて大津に帰った。四年間に二度帰宅したくらいで、あとは寄りつかなかったから、ヤスはとっくに逃げ出しているはずなのに、印刷屋の製本女工をして辛抱していた。定海は、印刷屋の主人へ顔を出して、済みませんが、もう少しの間ヤスを預かってください、と頼んだ。どないしたんや、いよいよ高野山で名僧智識になるつもりかと主人が訊くと、いや、そうじゃおまへん、今度真言宗から独立して一派を立てることになりましたさかい、えらいすみませんが、といった。律仙教というのはどないな宗旨か、と問われたが、それには笑うだけで答えなかった。本人にもまだ教義が具体化してなかった、のである。  川崎とみ子以下六人の幹部は、高野山に詣でる常連であったが、定海の余人とは違う説明に感心し、それでは定海さんのために寺をつくってあげようやないか、という相談になった。聞けば聞くほどいまの高野山のほうが弘法大師の教えを間違って伝えているように思われる。だが、ここで定海がその誤りを本山に向って指摘したところで、何百年の権威と伝統にかためられた高野山が素直に聞くはずもなく、懲罰《ちようばつ》にあうか、気狂い扱いにされること必定である。それなら、一切の拘束をはなれて新宗教を創設したほうがよいということに一決した。信仰の自由は憲法で保障されている。  しかし、最初から寺院を建てるのは経済的に困難であるから、信者数を獲得するまで説教所のようなものをつくろうということになり、岐阜市から少しはずれたところにある建売りの家を格安で買った。二階家で二十五坪というのは手ごろだったが、これを幹部が共同で月賦にして払うこととなった。  川崎とみ子以下六人はいずれも三十の終りから五十歳までの人妻で、その亭主は中小企業の経営者がほとんどだった。彼女たちの高野山詣ではわが身の後生成仏のためでもあったが、亭主たちの商売繁昌の願いでもあった。その点、定海が語る愛欲即身成仏の理論は、聖天や弁天の引例で彼女たちを魅了した。実は、高野山詣でを数年間つづけていたが商売の上では未だ霊験がなく、彼女らには焦燥と共に疑問も出てきていたのである。  定海はこうした信者の心理に応《こた》えるため、理趣経なり立川流なりの教義をもう少し研究した。いろいろな書籍を渉猟《しようりよう》したのち、次の一文が眼を惹いた。  ──近来世間に内の三部経となづけて目出たき経ひろまれり、此の経昔は東寺の長者、天台の座主《ざす》より外に伝えざりけるを、近比流布《ちかごろるふ》して京にも田舎にも人ごとにもてあそべり、此の経文には女犯《によぼん》は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。若し女犯をへだつる念をなさば成仏みちとおかるべし。肉食《にくじき》は諸仏菩薩の内証、利生《りしよう》方便の玄底なり。若し肉食をきらう心あらば生死《しようじ》を出づる門にまようべし。されば浄不浄をもきらうべからず、女犯肉食をもえらぶべからず。一切の法皆清浄にして速《すみやか》に即身成仏すべき旨を説くとかや。又此の経に教うる所の法を行わば本尊たちどころにあらわれて明かに三世の事を示して行者にきかしめ、福徳を与え、官爵をさずけ給う故に此の法の行者|現身《うつしみ》に神通を得たるが如し。智弁共にそなわり、福徳自在なり。されば昔の大師先徳の験徳世にすぐれてとぶ鳥をも落し、流るる水をもかえし、死するものも生け、貧者を富ましめし事、ひとえに此の法の験徳なりと申しあえり。……  これあるかなと定海は横手を搏《う》った。本尊たちどころに現われて三世の事を示して行者に聞かしめるとある。しかして行者を通じて福徳を与え、官爵を授け給う。さらに福徳は金儲け、官爵は栄達のことである。定海は行者になるため、向う一カ月間、山嶽に籠《こも》ることを六人の婦人支持者にはかった。六人いずれも賛成した。この六人の幹部は開教にひきつづいて教義宣布の大黒柱となり、定海の手足となるものである。釈迦は十大弟子をもち、キリストもペテロ以下の十二使徒をもった。彼らは宣伝使であり、教団のオルガナイザーである。  定海はただ険阻な山中を探して行者の荒行をするとのみいって、行先を告げなかった。既存の宗教を否定するから、行者修行の道場といっても吉野も立山も湯殿山も役には立たぬ。秘教を開くには教祖独自の場がなければならぬ。定海は木曾山中に分け入ったとみせかけ、中央線|三留野《みどの》駅からタクシーで温泉場に到着した。彼はそこでももっともひなびた旅館を択んだ。  人跡稀な深山幽谷というのは現在の日本からは消失している。交通の発達で、何処に行ってもアベックやハイカーで穢《けが》されている。千何百年昔の役《えん》の小角《おづぬ》の時代とは違うから、行者を志す定海が文明の利器である列車やタクシーを利用するのは当然で、わざわざ足を痛めて歩くのは愚であろう。しかし、彼が温泉場から、さらに木曾谷の奥に分け入ろうとせずに何者かを待つごとく宿の浴衣着で落ちついているのは少しく奇怪であった。  まず、到着二日後にその宿に来たのは川崎とみ子ひとりであった。彼女は定海が高野山の案内僧のころに彼に早くも嘱目《しよくもく》した婦人で、定海さんに寺を造ってあげようではないかと音頭をとった一人であった。四十二歳、亭主は小さな土建業で、すでに成長した一児の母である。      六  川崎とみ子が二泊して帰ると、なか一日おいて石野貞子が宿に単独で来た。彼女は三十八歳、亭主は、というよりも家は製菓業であった。児なし。彼女もまた定海の説に感服し、寺を造ることに音頭をとった。  川崎とみ子と石野貞子とが相ついでこの宿に来たとしても、両人の間に何の打合せも連絡もなかった。事前の打合せは、定海と川崎とみ子、定海と石野貞子との間だけだった。行先も宿の名も彼が出発前に耳打ちした。  その理由は、新宗の開教は容易なわざではないから、行者となるにはたいそうな荒行をしなければならぬ。それは従来|曾《か》つてないものになろうが、それには生命の危険が伴う。もとより行者に成り切ってしまえば仏の加護をうけるので何のことはないが、それまでが心配である。そこで介添《かいぞえ》として来てもらいたい。だが、これは独りに限る、また余人を語らってもならぬ。もし、伴《つ》れをつれてくるか、人に洩らすようなことがあれば、仏罰により自分はもとよりのこと、あんたも共に無事には居られぬだろうと告げた。  年下男の荒行のために介添をするのは、女の母性本能をかき立てた。ことに開教のためだというので聖なる援助だと思えた。次には誰にもいうてはならぬという秘密性、元来婦人は秘密を好むもので、これは女の独占心理から発していると説く学者がいる。つづいて、喋《しやべ》れば、仏罰が定海と自分だけに下るという言葉は二人だけの連帯意識ともなった。川崎とみ子は、夫に適当な口実を設け、岐阜駅から中央線に乗った。  宿で定海と会った川崎とみ子が、定海の荒々しい形相と神秘的な言辞にたぶらかされて身を任せたのは、定海の予定通りであった。定海は三十一歳の壮年である。彼は年少流浪の際、年上の女からその愛欲の妙諦《みようたい》を会得《えとく》した。川崎とみ子は彼から二晩ほとんど睡眠を与えられずに快い虐《さいな》みにあい、魂の星天の間に浮遊するが如き心地になった。もっとも、その間、定海はとみ子に向って一言も愛情めいた語を発しなかった。もし、それを云えば行者にも教祖にも成れぬ。人間臭い愛情を相手に吹きこめば、もつれたときに面倒が起る。女の嫉妬は人間に対するものだ。行者はカリスマ的でなければならぬ。  とみ子を宿から帰すとき、定海はこれにて人間の煩悩が身体より去ったので、後刻山に踏み入るのだとおごそかな顔つきでいった。妙適清浄句是菩薩位《みようてきせいせいくしほさい》等に暗示を得て愛欲即身成仏の教義を開く定海としては理論に矛盾があるが、その矛盾に気付くよりも行者は聖なるものとの既成観念がとみ子を支配して、それを怪しまなかった。  次に来た石野貞子も同様で、彼女も二晩、定海のために花咲く園に迷うがごとくになった。貞子が宿を出発するとき、これよりひとりで深山に分け入ると定海が告げたのは前と同じである。三十八歳の石野貞子は川崎とみ子より四つ若い。彼女は上気の醒《さ》めやらぬ顔で温泉を去った。  定海は宿からいっこうに腰をあげなかった。服部達子、早川信子、三谷ひろ子、西尾すみ子と続いて来たからである。いずれも、自分ひとりで定海と結ばれたと思っている。抵抗なく、羞恥のうちにも嬉々として定海の腕の中に入った。愛縛《あいはく》清浄句是菩薩位と定海は女を宙に游《あそ》ばせながら誦した。寺院で仕込まれた節まわしは、少々鼻にかかった声で絶妙であった。元来、僧侶の読経は睡気を誘うことでも分るように催眠術と同時に性的な陶酔に通うものがある。  信者の人妻幹部が何の疑間もなく定海の手に落ちたのは、すでにこのころから定海にシャーマンの徴候がみえたのであろう。シャーマンが絶対的な形式において現われるとき、一つの出来ごとが必然的、不可避的なこととして考えられる。これは人間の理性を超えた絶対的なものとして理解され、盲目的な真実を強制される。  心服した女たちを帰したあと、定海は宿を出て木曾谷の国有林をさまよった。しかし、野宿したのではない。夜はちゃんと温泉宿に戻った。檜、杉等の樹海の逍遙はこれより宗義をどのように弘《ひろ》めるかにあった。思索しつつ歩いても路を失うことはない。材木を運ぶ林間鉄道の軌道が目印となる。宿に戻れば、適当にその近くの女を呼んだ。金は岐阜から来た六人の幹部がそれぞれ置いて行っていた。定海は一晩でも女なしには寝られなかった。高野山の四年間は、たとえときどき極楽橋附近か橋本辺の娼婦をこっそり買っていたとしても、辛くて不自由であった。その四年間の解禁が彼を一挙に昂進させたといえるが、しかし、その荒淫とみえるものも修練として彼に期するものがあった。  思索の果てに、定海は結局理趣経を教義の根幹とすることにした。理趣経はやはり密教の最高である。これを援用したとしても非難されることはない。他宗でも理趣経を採り入れていると聞いている。それなら本尊はどうするか。  愛染明王もいいが、あまりいかめしすぎて女むきではない。それにこの仏像は造らせるにしても買うにしても高すぎる。やはり弁財天がよかろう。弁財天を男女仏両部冥合の秘尊とし、両部合一の秘仏とする。はじめは卍すなわち万字のかたちをいま少し変えて工夫しようと思ったが、仏像としては奇に過ぎる。それに近ごろの若い者はナチスの記章と思い違いをするか分らぬ。  十二日間経って、定海は木曾の宿を引払い、岐阜に戻った。川崎とみ子以下六人の婦人幹部が彼を建売りの家に迎え入れた。家の中は幹部連の肝煎《きもい》りで新しい調度がしかるべく入れてある。新畳は匂い立っている。定海は生れてはじめてわが家を得た。  彼女たちの態度もまるきり違っていた。これまではスポンサー気どりだったが、今は教徒に変っていた。もちろん木曾の宿のことは相互で隠し合っていて、ただ秘めた眼差しが的のように向うのは定海の上だけだった。定海もまた無精髯を伸ばしたままにし、呪術者らしくなってきた。  二十五坪の建売りの家でも律仙教の聖なる出発であった。定海は、この家の階下で最も広い奥の座敷を霊場とした。先生、本尊さんはどないしますか、と川崎とみ子が訊くので、それはわしが求めてくるからよい、といった。教祖ともなれば関西弁では威厳がないから言葉を改めたのだが、経文は、と問われて密教だから理趣経にしようといった。  観音か弁天の木像はどこの古道具屋にもあるが、近くで買ったのでは出所が知れる。定海は京都まで買いに行き、その帰りに久しぶりに大津に寄った。印刷屋をのぞくと、ヤスが製本場で若い女工にまじり、せっせとページものの帳合いをとっていた。その姿に定海は泪《なみだ》が出そうになり、ヤスの姿こそ観音さまではないかと思った。しかし、超人としてこれから演技をするには浅薄な感傷に溺れてはならぬと自戒した。主人が奥から出てきた。どないしたんや、ヤスさんを引きとりに来たのと違うか、と定海の髯面を胡散《うさん》臭げに眺めた。もう少し待っておくんなはれ、と此処では釣りこまれて関西弁に戻り、実はもう少しで目鼻がつきまんね、といった。あとどのくらいやときくので、そうだすな、半年ぐらいでっかな、と首をかしげながら予測をいった。いや、おヤスさんはよう働いてくれるさかい、なんぼでもウチに居てもらいたいけど、お前が居らんのに可哀相でな、高野山での四年間の留守の上に、またあと半年やいうのはあんまりやないか、人を助ける道に入るのもええが、女房泣かせたら栄えはせんで、と店主は意見を混じえて叱言《こごと》をいった。  定海はだいぶ信者ができていること、半年あとにはヤスを必ず迎えると約束したが、建売りでも一軒自分のものになっているとはいわなかった。ヤスをすぐにでも連れて行かなければならなくなるからである。  店さきで話していると、仕切り戸の向うの活版工場からは印刷機械の音がしきりと聞え、彼が前にここで働いていた時分の職人が仕事の打合せに主人の傍に来たりした。お互いに顔を見合せ、やあ、ご機嫌さん、といったが、あのころからみると顔も身体も年齢《とし》をとり、仕事着だけは油で汚れて変らない職人を見ていると、あのままでいたら自分もこの男の通りになっている、と思った。その代り、自分の境涯は四年の間に変化を重ねたが、この職人は十年一日のように同じ状態でいる。小さな生活と平和に満足している。自分はこの職人のようにならないために奮起したのだが、これからさき、どう変ってゆくかまるで霧の道を歩いているような具合だった。  店主が気をきかし、ヤスを早退させてくれたので、定海はいっしょにわが家に戻ったが、岐阜の説教所とは違い、ヤスの世帯のうまさもあって、やはり、家庭的な気持に落ちつく。  しかし、このような世俗的な妥協では、今後の難路に失敗する。自らを鬼神の使いに、鍛えねばならぬと定海は決心した。      七  一年後、定海の律仙教は岐阜地方でかなりな発展を示した。それには川崎とみ子、石野貞子、西尾すみ子、服部達子、早川信子、三谷ひろ子の文字通り献身的な協力があった。協力というよりも、彼女らが主体となって信者獲得に奔走した。定海は呪術的存在であるから、できるだけ俗世間に顔をさらさないほうがよい。鬼道に事《つか》え、能《よ》く衆を惑わす。王と為《な》りしより以来、見る有る者少く、婢《ひ》千人を以て自ら侍せしむ。これは三国志|東夷伝倭人《とういでんわじん》の条、卑弥呼《ひみこ》のことだが、呪術者はこれが理想である。俗人には滅多に顔を見せないほうがいい。すべて神秘の帷《とばり》の中に在って声だけ聞かせたほうがよいのである。侍女千人とまでゆかなくとも十人ばかりの女にかしずかれ、その中の最も気に入った一人が呪術者のもとに出入りして辞を伝える。自分の場合、女|唯々《いい》一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す、である。  王と為《な》りしより以来、見る有る者少し。この王とは呪術の王である。古代または未開地にあっては、王が呪術師として出発し、次第に呪術的儀礼を祈祷《きとう》及び犠牲などの祭司的機能に転化してゆく。人間と神との間が判然とせず、神が人間の形において受肉するというこの信仰は、社会のいかなる階級よりも王に益する。偉大にして強力なる精霊に、小なる巫女《ふじよ》たちは慴伏《しようふく》し、人民の先達となる。  偉大なる精霊と巫女たちとの間に交霊交肉はあっても、それによって巫女たちの間に人間的な紛争、たとえば嫉妬し合うといったものはなかった。このころになると、川崎とみ子と定海との交肉が知れわたっても、石野貞子や西尾すみ子らは何ら人間的な感情を起さなかった。同様に川崎とみ子も服部達子や早川信子や三谷ひろ子に嫉妬することはなかった。  律仙教の宗旨は密教の根元に遡《さかのぼ》っている。平安以後の密教が時代の政治体制と妥協し、さまざまな夾雑物《きようざつぶつ》を加え、また法燈が荘厳具《しようごんぐ》に飾り立てられ儀軌《ぎき》に形式化されて、その精神を失ってきた現在、定海は密教の原始性、純粋性に還れというのである。陰陽の理は万古の真理であると説く。立川流を邪教として排斥したのは、宗教が体制に屈伏したからで、高野山廟塔下に在る空海の眼が開いているなら、泪《なみだ》を流していよう。  定海は病気を癒《なお》した。彼のカリスマ的生活は、おのずから神秘の力をつけさせ、呪医に成らしめたかのようである。とくに、金儲け、商売繁昌を宣教の重点にしたが、これは女たちがもっぱら当った。宗教の出発はすべて現世利益である。  彼女たちの亭主の商売も繁栄にむかった。律仙教を信じてからそうなったのだからふしぎである。だが、実際は彼女たちが人に吹聴《ふいちよう》するほどの繁昌ぶりになったかどうか分らない。むしろ、折からの経済成長の勃興に乗じたというほうが当っていよう。しかし、衰微に向うよりはいいにきまっている。わずかでも上むきなら、それを律仙教のおかげにすることができる。  律仙教は、夫婦の和合を宗旨としているからこれを奨励した。宗教を伴わない話だと、これは卑俗となり、巷間《こうかん》の卑猥談と変らぬ。だが、イザナギ、イザナミの神話にある、天《あめ》の沼矛《ぬぼこ》をさしおろし画《か》き給い、ひき上げ給うとき矛の末《さき》よりしたたり落つる塩とは、沼矛を濡矛《ぬぼこ》と解すれば合点がゆくことであり、わが身の成り余れるところとは男根であり、汝《な》が身の成り合わざるところとは、女陰であり、刺し塞《ふさ》ぎてクニを生みなさんと思うとは、交合し子を産むことである。古事記はまことにおおらかな表現をもちい、学者もみなそのような註釈をつけているが、これを猥褻《わいせつ》な文章と思うものは一人もいない。神話の故にこれを見遁《みの》がし、仏教だからこれを咎めるというのは相変らず神道優位の観念であって、まことに怪しからぬ。天地の真理、人間の自然性、世界じゅう変るところはない。この自然の真理を歪《ゆが》めて弾圧したところに世の中が歪《ゆが》み、人間に病気が多くなったのである。  定海はそのようなことを説き、理趣経を高らかに誦し、夫婦和合の以《もつ》て足らざるところを病気の因、商売不利の故にした。そないにいやはっても先生、うちの亭主はすぐ弱うなってそうはいうこと聞いてくれまへん、と信者がいえば、それはあんたの信仰が足りぬからじゃと叱り、どうも商売がもひとつだんな、と訴えると、それも信仰が足りぬからじゃ、お前さんの努力が不足しておる、と叱り、妙適清浄句是菩薩位と理趣経十七清浄句の理を説教して聴かせるのであった。  昔はな、と定海は女たちや婦人信者に話して聞かせた。この隠れ宗旨の秘事に髑髏《どくろ》の上に男女の和合水を百二十ぺんくりかえし塗ったものを本尊としたものだ。和合水は行者がこれはと思う女と寝て得たものだが、まずはじめに髑髏《どくろ》の上に金銀箔を各三重に押しその上に曼荼羅《まんだら》を描き、また金箔銀箔を捺《お》す。その手数や知るべしである。かくて出来上った髑髏は人の通わぬ場所に置き、そこに珍酒|佳肴《かこう》を整えおきて、行者と女人のほかは入れず、愁い心なく正月の三ガ日のごとくに遊び、読経も手の動作も休んではならぬ。こうして造り立てたなら、これを壇上に安置し、山海の珍物、魚鳥、兎鹿の生肉の供具を備えて反魂香《はんごんこう》を焚《た》き、まつりを行うこと丑寅《うしとら》の刻に及ぶ。かくて供養すること七年に至り、八年目にこの髑髏本尊がはじめて行者に成就を与えるのだ。  定海はつづけていった。その成就の状態は三段に分れる。上品《じようぼん》に成就するものは本尊が言語を発して三世の事を行者に告げ神通力を得たるが如くにさせる、中品《ちゆうぼん》に成就するものは行者の夢の中で種々の事を知らせる、下品《げぼん》に成就するものは夢告などはないが、世間的の願望はすべて成るという利益を獲得する。こういう次第じゃ。  聞いた女たちは驚き呆れた。ほんまにそないなことがおましたのやろか。定海は笑い、あったともなかったともいえぬ、けど、昔のことだから現代の事相では計られぬ、第一、今は髑髏など手に入れようがないではないか。和合水なら心がけ次第でなんぼでも得られるがの、といった。  しかし、と定海は註釈をつけた。この話はおおかた比喩《たとえ》であろう。髑髏に塗るというのは眼に見えぬ目的物をいうので、要するに百二十ぺんも繰り返して和合水を塗らねばならぬほどに夫婦の営みに励めよということじゃ。よいかな、髑髏とはあんたがたのご亭主じゃ、亭主を髑髏と思うがよい。  それで定海は、この宗義から婦人の信徒は必ず夫ある身の者でなければならぬとした。未亡人や未婚の女は信者にしなかった。なぜなら、夫の無い女に和合の道を教えると、それこそ邪淫となる。これは仏陀の教えにも空海の意志にも背《そむ》く。原始宗教の倫理感は案外に健全で、世道人心と一致するものがある。  それなら、夫ある身の川崎とみ子、石野貞子など六人の人妻と彼が通じているのはどのようなことになるのか。しかし、これは許されるのである。なぜなら定海は呪術者であって、世俗的にいうヒトではない。川崎とみ子たちは行者の媒介であるから、その関係においてはやはりヒトでなく仏の使徒である。したがって彼と彼女らとの交肉は交霊を意味するので、世俗的な人妻ではない。不貞といった世俗的な非難は当らないのである。だが、呪術者でない他の男と彼女らが交るときはあきらかに不貞である。定海はこのように説明して、女たちを安堵させた。  このころになると、定海も大津からヤスを呼んで、家の裏に六畳の間を建て増して住まわせた。印刷屋の製本場で働いていたヤスは、どのような環境にいてもあまり感動はなく、夫が先生とあがめられ、自分が奥さまと呼ばれてもそれほどうれしそうではなかった。というよりも、環境の激変に途方に暮れたという恰好でいた。おれは今までと違う、仏さまのお使いだから、普通の夫婦なみに考えたらいかん、おれがどないなことをしようと、みんな仏さまのお指図やで、律仙教を世にひろめて、仰山な人を救うためには、おれがどないなことをしようと見て見ぬふりをしときいな、ヤキモチやいたらあかん、ええか、律仙教が大きくなったらたんと金が入るよってにお前も楽ができるでなあ、おれが川崎や石野や西尾などと別室で一人ずつ話しとるのは、律仙教を大きゅうするための打合せや、宗教やから、話を人に知られたら困るのんや、密教というのは何ごとも秘密秘密にことを運ぶようになっとる、ええな、よけいな気をまわすのやないで、と、くどいほど教えた。  そんな念を押すまでもなく、ヤスはこのなじめない環境に圧倒されていた。もともと感覚の鈍い女で、彼が右を向いていろといえばいつまでも右を向いているようなところがある。  それから一年して律仙教はもっと大きな家を買った。建坪が百坪もある総二階である。階下の十二畳の間を仏間として、それを内陣と外陣《げじん》に区切る本格的なものだった。内陣は暗く、蝋燭《ろうそく》の火が金色の荘厳具を神秘的に照らし、本尊は天蓋《てんがい》の下、帳《とばり》の垂れた厨子《ずし》の扉中からわずかにのぞいているだけだが、外陣に坐って首をさし伸ばしてのぞいても内陣のあたりは幽暗の中に閉ざされ、その間の細長い四畳半で人がうごめいていてもいっこうに判別ができなかった。  二階は前にいた主人のつくった小部屋が五つ六つそのままに残されていたが、ヤスはそこには居ず、この家の北の端にある女中部屋かと思うような小部屋に寝起きしていた。  川崎とみ子が、一週間ぐらいこの家に参籠《さんろう》するようになった。その時は二階の小部屋が宿泊所となる。も早、内陣本尊の前でだけでは定海との交肉が不満になっていた。一週間の参籠では定海が毎晩その宿泊所に忍んでくるので法悦に浸り切れた。亭主も子供も彼女の念頭から去り、その強烈な信仰には亭主も沈黙するほかはなかった。  参籠は、川崎とみ子だけでなく、石野貞子も、西尾すみ子も、以下六人の幹部婦人がかわるがわる行った。  同じ時期に、二人も三人も同時に参籠することがある。定海は、二階の各部屋を順々に回らなければならなかった。      八  しかし、このようにしても、律仙教は予期したようには発展をみせなかった。信者も二百人近くは獲得できたが、それ以上に伸びない。あるいは現世利益がそれほどでなかった結果かもしれない。また宗旨の強烈さについてゆけなかったのかもしれない。  この家を買うのに無理があって、経済的にも苦しくなった。女房連の献金も、亭主持ちでは限界がある。  川崎とみ子の亭主が病気になった。医者は腎臓障害と診断した。先生、祈祷してもらえまへんやろか、と、とみ子が頼みに来たので、定海はお前の和合の励みが足らんのやろ、といった。そないなことはおまへん、わてはつついてますのやが、亭主の身体がどうにも弱りましてな、亭主はお前のいうことをききすぎたよってに、衰弱したんやといいますねん、と、とみ子は弁じた。とみ子は色白の肥った女である。定海と交肉したあとも亭主を攻める余力は充分にあった。  そら、お前がいかん、和合の道は一日も欠かすべからず、一度より二度、二度より三度がよい。腎臓の病気はすぐ癒る。お前のような幹部がそんなことでどうする、亭主が弱っていたら、薬でも強壮剤でも何でも飲まさんか、と、信仰に医薬は不要なはずなのに定海は矛盾したことをいった。へえ、飲ませたり、注射したりしてますんやけどなあ、と川崎とみ子は首をかしげていたが、定海の命令は神聖で絶対だった。彼はすでにシャーマンであった。そして信徒を盲目的に支配していた。  川崎とみ子の亭主は半年患って死んだ。死んだときは心筋梗塞《しんきんこうそく》を併発していた。川崎とみ子は、定海の呪術の権威を疑わず、それは亭主の寿命が尽きたのだと信じた。人間だれしも死から脱《の》がれることはできない。生きものである以上、死は産れたときから決定している。この決定された死の時期、それが寿命である。これは貴賤を問わない。だが宇宙によって決定された死の時期以前に死ぬのは寿命ではない。その場合の病気は必ず信仰で癒せる。  川崎とみ子が、定海に五百万円を持ってきて律仙教に奉納したいと申し出た。どうしたかと定海がきくと、亭主の生命保険がとれたからそっくり寄附するというのである。  考えてみたら、わてら律仙教には何もまとまった寄附をしてませんよってになあ、ほかの宗教やったら、ほれ、屋敷を売って財産を寄附せい、財産を持ってるからそれが心の埃《ほこり》になって病気になるんやというてますやろ、そんで律仙教には何もしてへんさかい、こら、あかんと思うてこのおやじの保険金を持ってきましたのや、と川崎とみ子はいった。そうか、それはどうもありがとう、おかげで助かる、と定海は礼をいったが、とみ子のいう通りまとまった金はこの寺には入っていない。月々の信者からの奉納はあるが、それは家を買った借金への返済もあるので楽ではなかった。まとまった基金がなくてどうして教団活動ができようか。ここで相当な金が欲しい。それは活動資金だけでなく、律仙教が駄目になったときの自分ら夫婦の行く末のためにも考えなければならなかった。  しかし、信者はいずれも中小企業の経営者で、商店主や町工場のおやじが何百万円もの金を出すわけはなかった。今はその女房たちが売上げの中から鼠が餅をひくように少しずつ取ったり、亭主を説得して金を出させている。  定海が五百万円であまりによろこんだのを見た川崎とみ子が、なあ先生、みんな貧乏でいっぺんには金をよう出せへんけど、保険金ぐらいは出しまっせ、どうですやろ、みんなおやじを保険に入れて、その保険金を教団に寄附させては、と提言した。定海は、それはありがたいがといったが、あまり乗気ではなかった。これには非現実な面が二つある。一つは、亭主どもの寿命がいつまで続くやら分らず、あと二十年も三十年も生きられたら、保険金が入ってくるのは雲煙の彼方ということになる。一つは、亭主が死んでその保険金がとれても、家族や親戚もいることだし、女房が寄附しようとしてもそうはゆくまい、女房の勝手にはならぬだろう。すれば、結局は女房のカラ手形で、当てにはならぬ。  川崎とみ子は定海の心持を聞いて、もっともだというようにうなずいていたが、思案した末に、ほなら先生、こうしたらどうですやろ、信者の全部というわけにはゆかんが、幹部の五人、石野、西尾、服部、早川、三谷にいうてそれぞれ亭主に保険をかけさせ、その受取人名義を先生にするのですわ、そしたら受取りのとき家族親族との間にゴチャゴチャが起らんで済みまっせ、と名案を提示した。そうか、それはいいが、そう都合よく皆が承知するかな、と定海がいうと、何をいうてはるねん、先生のためやったら、みんな火の中、水の中でっしゃろ、と、とみ子はにやりと笑った。むろん彼女もほかの五人と定海の関係は熟知していた。知っていて凡人らしい感情を波立たせないところが信仰の使徒であった。それはほかの五人も同様である。  川崎とみ子の予想に間違いなく、二、三日もすると、石野貞子、西尾すみ子、服部達子、早川信子、三谷ひろ子が自分の亭主に保険をかけ、受取人を律仙教代表者定海こと尾山武次郎にしたいと相ついで申し出た。定海はよろこび、みんなの気持はよく分るが、あんまり無理をするなよ、とここで日ごろのカリスマもひどく人間的な言葉になった。いいや、無理しますかいな、これくらいは当り前だす、そやけどうちのオヤジはいつ死ぬか分りまへんから先生も気長に待っておくんなはれや、と口々にいって笑った。  川崎とみ子が、寺の二階にひとりで引越してきた。これまで参籠していた部屋に入ったまま二十日も一カ月も動かなくなった。まさにそれは移転であって、亭主が死んでしまえばだれに気がねもなくここに居すわってしまい、子供はあとの事業をみる弟夫婦に任せた。当人は律仙教の事務局長または呪術王定海の世話がかりと取次の役のつもりになった。唯々男子一大有り、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す、の男子を、女子にかえたようなものだった。  定海は毎夜のようにとみ子のところに何時間かを過して、階下の裏部屋にいるヤスのところに戻った。ヤスにはどんなことがあっても嫉妬をするでない、すべては律仙教発展のためだといい聞かせてある。ヤスは長い間、大津の印刷屋の女中や、製本場の女工をして主人夫婦のいいつけを忠実に守ってきた女で、そのために感情が去勢されていた。もともと感情の鈍いほうなのに主人の命令に馴致《じゆんち》されて定海のいうことにもさからわず、おとなしくしていた。定海はヤスが少々愚鈍ではないかと思っているのだが、騒ぎ立てられるよりは、はるかに助かった。  川崎とみ子が寺院の二階に居ついてしまったことで衝撃をうけたのは、ヤスよりも西尾すみ子以下の五人の女で、嫉妬はないが羨望を起した。それで参籠が頻繁となってきた。定海は自分の身体の衰弱の危険をまず防がねばならなくなった。  定海は助手がもう一人欲しくなった。それだけでもずいぶんと助かる。が、こればかりは一般から募集するわけにもゆかず、だれにでもその資格があるわけでもなかった。滅多な人間を採用すると、秘密が分って、外部にどのような悪宣伝をされるか知れなかった。  定海は、富山の印刷所で働いたころの宮田を想ったりした。あの新興宗教の教祖を志した渡り職人はどうなったのだろう。病気で寝ついたとき、羽織姿で説教にやってきたが、あれが手はじめだったようである。人のいい男だが、彼も自分の行く末に不安をおぼえ、もっとも金儲けになる宗教の教祖を志願したのだ。しかし、新興宗教の創立の苦しさはいまこっちが経験している通りだから、よそ目で見るのとはだいぶん違う。宮田はどうなったか。もし、彼がいれば助手として恰好だがと思う。少し年をとりすぎているが、秘密を守って忠節を尽してくれるのはたしかなようだ。あのとき、宮田の故郷でも聞いていたら、そこに問合せることもできるが、手がかりはなかった。教祖は失敗したに違いないから、やはり今でも年くった渡り職人として田舎の印刷屋で眼を細めているような気がする。  西尾すみ子の亭主が倒れた。亭主は洋服の仕立屋で、弟子と職人とを三人使い、市内の洋服店の下請けをしていた。家の奥で昼でも電灯をつけ、いつも忙しそうにしていた。座職というのは身体に悪いが、西尾の亭主もやせた身体をしていた。肝臓障害で夫婦のいとなみはよくないというのに、定海はすみ子に宗義の道を徹底させた。  すみ子は宗教は宗教、医療は医療と割り切って医者を呼び、毎日の往診に寝ついた亭主に栄養剤の静脈注射をしていた。すみ子にすれば下請けの註文仕事がいっぱい溜《たま》っているのに、いつまでも寝つかれては困るからだが、すみ子の介抱や医者の注射が効いたのか、当人はそれほど悪くもならず、といって快《よ》くもならず、持ちこたえつづけていた。だが、すみ子本人は、三日置きぐらいにやってきて、枕頭の祈祷をしてくれる定海の呪医的な魔力を信じていた。      九  定海は肉食を好む。牛肉でも豚肉でも一日三度の食事のうち一度は必ず食膳に上らせた。むろん現在密教僧が肉食したところで破戒坊主ということはない。寺院の奥の密室で魚肉を食ったり、寺婢の名目で女を置いたりした中世、近世の僧侶の偽善は、不自然な抑圧からきているので、親鸞《しんらん》がこれを撥《は》ねかえしたのはいいが、なぜもう少し思い切って赤白二不二一体の主張をしなかったかと、定海は説教のたびに残念がった。そんなわけで彼は肉食を好む。これをしなければ精力の充足がつかなかった。  ある日、台所でひどく臭い匂いがした。定海がのぞいてみるとヤスが鍋に肉を煮ている。普通の匂いと違うので、どうしたのかと訊くと、二週間前に買っておいた豚肉を冷蔵庫に納《しま》ったまま忘れていたという。あんまりもったいないさかい、いま煮ましたんやけど、けったいな匂いがするよってに腐ってるのとちがいますか。定海は、阿呆、腐ってるにきまってるやないか、いくら冷蔵庫に入れておいたかて、二週間もナマのまま放っておいたら腐るにきまってるがな、はよ捨てんかいな、臭うてならん、と叱った。ヤスは、鍋ものの肉と汁をポリバケツに移したが、バケツの底は脂の汁で満たされた。定海はそれをじっと見た。  彼は何を思ったか、その腐汁を茶碗にとり、うす暗い内陣の、本尊の前に供えた。そこで彼は、理趣経だけでなく、瑜祗経《ゆぎきよう》、|宝篋 印経《ほうきよういんきよう》をも誦《ず》した。誦《よ》み終るまで長い時間を要する。己れの発する音節に己れで酔った。漁火《いさりび》のような蝋燭の灯は暗夜の海上を漂うごとく、また黄道十二支の惑星間をさまようようで、定海は恍惚状態に入った。香煙も一種の媚薬《びやく》となる。  シベリアのシャーマニズムでは疾病は悪精霊のなせるわざとしている。あるいは人間の魂魄《こんぱく》は一悪霊によってさらわれ、禁錮されると信じている。それを追い出すには祈り、呪術にもよるが物質を加えることによって駆逐しようとする。いま定海が試みているのは悪霊を獣物の汁によって追い立てようというのである。豚の腐った汁と臭いが定海には和合水を連想させ、この発想となったのである。宗教観念における妄覚は、存在する現実と同一である。  次の日、彼は小瓶と一五ccの注射器を携え、西尾すみ子の亭主の病床に赴《おもむ》いた。注射器はヤスを医療具店に行って買わせたものだ。その日は医者の往診があって一時間後だった。定海は小瓶の黄色い液体を注射器に吸い取り、これは悪霊を逐《お》い出す聖汁だと夫婦にいって、亭主の痩せた腕の静脈をさがした。幸い、医者が一時間前に打った二〇ccの注射針の痕がある。定海は、その凝血した穴に注射針を突込み、おもむろに聖汁をさし入れた。病人の傍には女房のすみ子しかいなかった。  定海は、これは医者にも余人にもいってはならぬと命じた。医者は呪術師を嫌悪するから、どんな悪宣伝をされるか分らない。また、この和合水のことを信仰の無い者に悟られても所詮はこちらが迷惑するだけだというのである。  亭主は、痛い、痛いと苦しみだした。定海は祈祷し、その苦痛を鎮めにかかった。しかし、苦痛は長かった。  定海が寺に帰って十五時間ばかりすると、西尾すみ子が走りこんで来て、亭主がたった今、息を引きとったと報《し》らせた。医者は急性肺炎だが、直接は急激にきた呼吸困難のためだと診断したという。定海はおどろいたが、すみ子の顔をみつめ、和合水の注射のことは医者にはいわなかったろうな、と念を押した。そんなことだれにもいいまへん、先生にいわれましたさかいにな、と眼を据えて答えた。  医者は、往診のときは何ともなかったのに、ふしぎだというように首をかしげていたが、死亡診断書を書いて、すみ子に渡した。しかし、この医者がこの珍しい病例を県の医師会報に載せたことはだれも知らなかった。一般の眼につかない機関誌である。半月経って、すみ子が定海のところに現われ、先生、死んだ亭主の生命保険の金が明日とれるよってにいっしょに保険会社に行っておくんなはれ、といって来た。保険会社ではすみ子の亭主の保険加入のときから、その金が教団寄附用で定海が受取人であることを承知していた。金額は七百万円であった。  西尾すみ子は三十五日をすぎると、寺の二階へ長い参籠にやってきた。彼女は先客の川崎とみ子と同じ資格になったのをよろこび、川崎とみ子もまた彼女を歓迎した。二人の女はこれまでの友情を破壊するようなことはなかった。  一年経ったのち、三谷ひろ子の亭主が死んだ。亭主は、三日前にひろ子につきとばされて庭に落ち、膝の骨を折って寝ていた。道で転んだことにして寝ていたところ、突然肺炎を起したのである。  医者はさすがに不審を起した。万一の場合を考慮し、警察に届出た。これは三谷ひろ子も同意したのだ。警察は病院に死体を運び、行政解剖した。解剖結果では、死因は脂肪|栓塞《せんそく》で、他殺の疑いはなかった。川崎とみ子や西尾すみ子とも違う保険会社は三谷ひろ子と契約した通り、一千万円の保険金を律仙教に支払った。会社では教団の基金になるのだと考えていた。  三人の未亡人が二階に同居することになったが、仲のいいことはこれまで通りである。そこに早川信子が参籠にきたが、信子は亭主も子供も家にほうり出してきていた。  早川信子の亭主は家庭電気器具の販売店主だった。仕事が忙しいのに、女房を寺に取られてはたまったものではない。亭主が寺の二階に行くと、女房は友だち二人を自分の部屋に呼んで理趣経十七段の発声稽古をしていた。よくせんせいせいくしほさい、しょくせいせいくしほさい、あいはくせいせいくしほさい、と十七段全部が終るまで亭主はそこに待っていなければならなかった。女房も、川崎とみ子も西尾すみ子も、じろりと彼に一瞥《いちべつ》をくれただけである。  亭主は、信子に帰ってくれと哀願した。子供が待っている、家が忙しい、と訴えたが、わては信仰のためや、帰られますかいな、と頑《がん》としてきかなかった。ほかの二人も信子に手伝って、そやそや、あんたもう少し辛抱して待ってあげていな、信子はんは大事な大事な信仰の道に入ってまんのやで、この世の中の幸福をきずくために律仙教をひろめなあかん思《おも》て一生懸命にやってはるんやから、あまり邪魔せんといていな、と口添えした。  そんなら、わしの幸福はどないになりますのか、世の中よりわしのほうの幸福を考えてもらわんとあかんわと、亭主が精いっぱいの抗議のつもりでいうと、なにいうてなはる、信仰ちゅうもんはひとりの人間より世の中の多勢の人間の幸福を願うのんが本筋やで、あんたもええ年して、奥さんが少々はなれたぐらいで辛抱できまへんのか、と二人は口を尖らせた。  早川信子の亭主は、遂に定海と直接交渉をした。定海は、そら、あんたもお困りやろうけど、なにせ、奥さんが信仰に一生懸命になっておられるので、わしも無理に帰れというわけにはゆかない、といった。  そのいい方がひどく突放したように聞えたので、亭主は、ほなら仕方おまへん、警察に頼みまっさ、と腹立ちまぎれにいった。定海は騒がず、警察は犯罪しか口が出せへんところです、これは犯罪ではありませんよ、奥さんは自発的にここに来て泊っておられるのですよ、わしはなるべく家に帰ったほうがいいとすすめているが、奥さんは動かないのです、誘拐でも監禁でもない、どうして警察が口出しできますか、本人の自由意志ですからな、警察は女がたとえ悲鳴をあげていても、それが夫婦喧嘩と分ると手を引くようになっています、まあ、警察などというのはやめなさい、ときびしくいった。  亭主が悄気《しよげ》て泣きそうな顔をしていると、定海は、まあ、よい、わしが奥さんにもう一度すすめてあげると、今度は急にやさしくなった。そして亭主が帰ってから二時間もすると、信子が元気のない顔で家に戻ったのには亭主はおどろきもし、よろこびもした。が、警察という言葉で定海が急に折れたということまでは気がつかなかった。      十  一年ののち、律仙教は発展した。それが使徒たちの努力によることはたしかだが、他の信者の口から口への宣伝が大きかった。とにかく教義が変っている。民衆には理論立った既成の宗教よりも、こうした原始的な宗教に魅力を感じる場合がある。それは宗教を現世利益《げんぜりやく》としてのみ考えるときで、既成のもので効験がはかばかしく現われないときに生じやすい。人間には神秘なるもの、魔力的なものへの憧れがあるらしく、奇怪《グロテスク》なものに精霊を見る。淫祠邪教と呼ばれるものがあがめられるのは、祖先のシャーマニズムの意識遺伝があるのかもしれない。ことに民間信仰のほとんどが性的崇拝となっている。そして、これらは利益が|より《ヽヽ》直接的で、速く顕《あら》われると信じられている。  定海はさらに寺を建立できた。寺院と呼ぶには足りないが、とにかく普通の家屋ではなく、宝形造《ほうぎようづく》りの建築で、まるで法隆寺の夢殿を思わせた。ここでは本格的に内陣、外陣《げじん》が造られ、厨子《ずし》も天蓋もその他の荘厳具も立派なものに変えられたが、変らぬのは本尊の弁財天で、これは開教のときから祀《まつ》っているので、今日の隆盛を見るにつけても大事にしなければならなかった。  その本堂のほかに定海夫婦のいる住居、つまり庫裡《くり》が横に付いた細長い建築で、教祖の住居のほかに宿坊の役をする数々の部屋がしつらえられた。参籠はこの密教の大切な行事で、そのために庫裡はひどく大きなものになった。本堂と庫裡の間は渡廊下でつながり、まわりには庭園らしいものもできた。  律仙教の信者の数はふえ、岐阜県だけでなく、愛知、滋賀、富山、石川、静岡、長野の各県にも及んだ。定海は信者数二千人と号したが、実数はまだまだそこまでは及ばなかった。  定海は滅多に普通の信者には会わず、たいていの用事は川崎とみ子と西尾すみ子らが取次をした。理想通り、居処に出入し、辞を伝う、である。もっとも飲食を供するのは多勢の女がいた。  その神秘的存在のためか、信者の間には定海教祖は福徳を与え、疾病を癒《なお》すのみならず、呪い殺すことも自在じゃそうなという噂がひそかに伝わった。呪術の魔力を信じるなら、当然にそうなる。  さて、その現世利益が福徳を特徴とすると、事業家、投資家に信者ができたとしてもふしぎでなく、律仙教はこの方面にも弘布《ぐふ》の足場を得た。いまのところ、地方の小さな事業家、相場師、水商売の人々であったが、やがてはこれがより大きな地方財界人に注目されるに相違なかった。ほかの例だが、ある地方の銀行頭取は観音信仰が昂じ、その巨像を建立したところ、その融資をうけたい事業家や政治家までが観音詣りをして銀行家を欺《あざむ》き、金を引き出したという噂すらある。そういう地方財閥を握っていれば律仙教も大安心となるのだ。  が、そのうち、それらしい兆《きざし》が見えてきた。近県の私営交通会社の社長が夫人の病弱のために入信したいといってきた。川崎とみ子がそれを取次いできた。先生、いよいよ律仙教も運が向いてきましたな、この運を遁《の》がしたらあきまへんぜ、と彼女は定海の膝を搏《う》った。ああ、分っている、いっぺんその社長というのに会ってみようか、と定海がいうまでもなく、川崎とみ子は、その日に私営交通会社の社長を連れてきた。社長は五十二、三の立派な紳士だったが、定海の前に平伏し、この律仙教に入ると金儲けもできるし、病気のほうも自在にできますのか、とまことに鄭重《ていちよう》に訊いた。金儲けはともかく、病気が自在になるとはおかしな訊き方だが、おおかた病気が自在に癒せることだろうと解釈し、それは信心なされば自在にできます、ただ、いい加減な信仰ではどうにもなりません、とおごそかにいい渡した。そういっておけば、金儲けができないときや、病気が癒せないときは、まだ信仰が足りない、という遁《に》げ道《みち》がある。すると、社長は、先生は絶妙なる祈祷をなさるということだが真実か、ときいた。定海は落ちつき、祈祷は密教につきもので、その技が絶妙でのうて何としよう、と長髪の垂れている肩をそびやかした。社長は感激した模様で帰って行ったが、翌日には百万円の包みを持ってきた。  さすがに豪勢だと思っていると、川崎とみ子がこっそりと寄ってきて、先生、実はな、と声をひそめ、あの社長さんは奥さんを早う呪いの祈祷で始末してほしいといやはるんや、なんでもあとに入れたい女子《おなご》はんがいるらしいけど、奥さんは病弱というてもなかなか死ぬ様子もなし、それに先代の家つきの娘やからまだ財産が自分のままにならぬ、社長も女子はんもいらいらして、この先あのままで五年も十年も生きられたら困るのや、と打ちあけていやはった、そんで先生が呪い殺しの祈祷で女房を片づけてくれはったら、一千万円を奉納しよう、これからは律仙教の信徒代表としてお手伝いするし、毎年相当の奉納もする、といやはる、なにせ、こればかりは女房を手にかけるわけにはゆかへん、祈祷にたよるほかはない、祈祷で死んだとしても犯罪にはならへんから大助かりやといやはるんや、と川崎とみ子は熱心に取次ぎ、先生、なんとかしてあげなはれや、と口説いた。  定海は、それで社長が病気が自在になるのか、といった意味が分った。いきなり百万円を包んできた理由も諒解できた。だが、呪殺の祈祷などができる自信はさらになく、噂は噂として放っておけば神秘性は増すとしても、いざその効力を実行せよといわれても能力のないことは分っていた。おれにはようできんな、万一、やり損って、その奥さんが長生きでもしてみろ、社長に対してわしの体面はなくなるし、わしも自分の魔力に自信がなくなってくる、と腕を組んだ。  川崎とみ子は、先生、あの方法でやんなはれ、ほら交合水を注射するんや、あれやったら間違いなしですやろ、と妙な笑い方をした。定海は愕然として、この女、西尾すみ子の亭主の死因を知っているのか、と顔が白くなった。川崎とみ子は油断のならない女だ。西尾すみ子から聞いて察したのだろう。しかし、あの場合はまったく知らずにやったことで、まさか急性肺炎を起して死ぬとは思わなかった。だが、急激な呼吸困難とはどういうことか。豚汁の注射も変った症状を起すものだ。今度はどういうことになるのか。  私営交通会社の社長夫人は急性肺炎で死んだ。持病は胃潰瘍なのにふしぎなことだった。病人は手術を嫌い、もっぱら内科的治療だった。かかりつけの医者が隔日に来ては栄養剤の注射をしていた。その医者が帰ってから二十時間ぐらいして当人は死亡した。  医者は主人に様子を聞いた。医者が帰ってから三十分ばかりして主人が病気快癒のために岐阜のほうから律仙教の教祖を呼び、枕もとで祈祷をしてもらったというのである。そのときだれか傍に家族の者が付いていたかと医者がきくと、祈祷は本人だけで、余人がその場にいては困るというので、自分も、家族も、いなかったと述べた。医者が不審に思って、死者の身体をあらためたが、何の工作のあとも見えなかった。ただ、医者自身が二十時間前にした左腕の静脈に注射の痕があるだけだった。少しその痕が大きい、つまり、血管に針が突きささらなかったとき、もう一度やり直したときの状態と似ているが、あのときは一度で静脈に針が入ったから、こういう大きさにはならなかったと思うが、記憶違いかな、と思い直した。自分の落度とならないために一応解剖に付したいと医者が主人に申し出ると、主人は快諾した。その顔は少しも嫌がるところがなく、むしろどこか明るい表情であった。  解剖の結果、直接の死因は急性肺炎であったが、顕微鏡で精査すると肺、腎臓、脳などに脂肪栓塞に似た所見があった。脂肪栓塞は骨折の場合によく起るが、この死者にはそんなことはありようはなかった。  解剖医が閉じようとしたとき、主治医の頭に閃《ひらめ》いたものがあった。それは二年前、岐阜県の医師会報に載っていた報告で、洋服の仕立屋を営む四十二歳の男が、肝臓障害で寝ていたのに、自分の栄養剤の注射後十五時間ぐらいして突如急性肺炎を起し、たちまち呼吸困難に陥って死んだという記事のあったことだった。報告書は今までに経験しなかったことだといってふしぎがっていた。主治医は死者の腕に残った注射の痕の大きさが記憶と違うことも思い当った。  あの注射痕があとからもう一度脂肪滴を注射したのだとすれば、すべては符合する。脂肪栓塞は肺臓や腎臓にも起れば、脳にも起る。肺炎はきわめて起りやすい。普通、骨折によく起るが、骨折の原因や状況に不審がなければ、解剖医は問題にしない。  しかし、これには別な輪《リング》があった。報告例のものも、この社長夫人の場合も、医師が栄養剤の静脈注射をしたあと、必ず律仙教の教祖が来ていることだった。この医師はこれを警察に通知した。しかし、医師も警察も、その脂肪滴の性質が香清浄句是菩薩位の聖汁に関係があるとは知らぬ。  ──附記。「理趣経。十七清浄句」の訳文は村岡空氏「人間はいかに死ぬべきか」に拠った。作者。 [#改ページ]    留守宅の事件      1  交番の巡査は、事件捜査記録の「証人訊問調書」のなかに通報を受けたときのことを述べている。 「問 君は何時から西新井《にしあらい》警察署勤務となり、また大師前《だいしまえ》派出所勤務となったのは何時か。  答 私は昭和四十二年九月から西新井警察署勤務を命ぜられて一昨年十一月中旬ごろから大師前派出所詰となったのであります。  問 本年二月六日、西新井×丁目××番地、栗山敏夫より同人妻の宗子が殺害されたと訴え出たのを受けた状況を詳細に述べよ。  答 二月六日午後六時半ごろでありました。私は休憩時間に相当しておりましたので、所内の見張所の時計のところに腰かけて見張勤務中の山口巡査と相撲の話をしておりましたら、一人の男が参りまして、山口巡査に向って、『勤めから帰ったら、ぼくの妻が殺されて居ましたから、すぐ来て下さい』と云ったので、山口巡査が『どうして殺されたのか』と訊《たず》ねましたら、『家の裏の物置小屋に横たわっている。どうして殺されたかよく分らないが、とにかく殺されています』と申しました。  山口巡査が同人に氏名住所を訊ねると、西新井×丁目××番地栗山敏夫(当三十四年)、殺されたのは同人妻宗子(当二十九年)と申しましたので、山口巡査が私に向って本署に電話報告方を頼んで、自転車で栗山敏夫と現場に駆けつけたのであります。しばらくしてから本署と連絡をとるために栗山敏夫方に参りましたらパトカーがとまっていて刑事が大勢来て居りました。  問 栗山敏夫が派出所へ訴え出たときの様子はどうか。  答 栗山敏夫は派出所に訴え出て参りますのに駆けても来なかったらしく別に息せき切ったという様子はありませんでした。静かに話をして居り、落ちついた態度でありました。  問 本件について他に申し述べることはないか。  答 別にありません」  ──その年少の平田巡査は交番の入口に近い壁時計の下で椅子にかけて先輩の山口巡査と初場所の成績の話をしていた。山口巡査はひいきの相撲の取口を解説していたが、途中で言葉をやめた。  平田巡査が眼をあげると、髪をきれいに分けた、面長で背の高い、オーバーをきた男がゆっくりと近づいてくるところだった。平田はその男が落ちついているので、道順でも訊《き》くのかと思った。 「ぼくの妻が物置で殺されています。すぐ来てください」  男はすぐ前に来て、立っている山口巡査に云ったとき、当の山口も平田もきょとんとして相手の顔を見た。それほど男は平常な態度で、声も小さかった。  男は三十前後にみえたが、実際の年齢よりかなり若く映ったのは、服装がしゃれていたせいであろう。オーバーは濃い紺だが、赤の粗い格子縞《チエツク》で、衿もとにのぞいたマフラーも海老茶色だった。額がひろく、眼が落ちこみ、鼻が隆いという現代むきな面貌の上に、口のまわりも顎《あご》もすべすべするくらい髭をきれいに当っている。頭も顔も手入れがいいのである。あとで自動車のセールスマンと聞いて、なるほどと巡査は思い当ったことだが、上背はあるし、見た瞬間は、いい男前だな、と思った。もっとも顔の色が白いと思ったのは、実際は、このとき蒼白になっていたらしいのである。  交番の巡査二人が栗山敏夫の様子を落ちついていると見たのは、あとで事情聴取のときに栗山の弁明によると、ことがあまりに急で重大だったので、かえって意識がぼんやりとし、神経が麻痺した状態だったと述べた。それで動作も緩慢となり、言葉も舌がもつれたような具合でゆっくりとしか話せなかった。  しかし、この巡査が受けた届出のときの栗山敏夫の印象は、捜査員にあとあとまで影響を与えたものである。 「あなたが奥さんの死体を発見するまでの様子を話してください」  捜査本部がつくられてから、石子《いしこ》という本庁から応援にきた捜査主任が栗山敏夫に事情を聞いた。 「ぼくは岩崎自動車商会の東京本店営業部主任をして居ります。仕事は車のセールスです。給料は固定給のほかに、車の売上げについて何パーセントという報奨金がついています。つまり歩合《ぶあい》ですが、本給は安くても歩合があるので、収入はわりと多いほうです。この岩崎自動車商会というのはG自動車工業の系列下にある販売会社ですからG車ばかりを売っております。主任というのは幾人も居りますが、ぼくは東京都だけでなく、東北地区の応援もやっています。それは二年前までぼくが仙台支店の販売主任をしていて、そこに三年間居る間にかなりの成績を上げたので、いまもって支店から応援を頼まれるからであります。一年に四回、つまり三カ月に一度は仙台支店に出むき、十日間ほど各地を回ります」  栗山敏夫はまず会社での仕事の性質をいった。 「今回の仙台出張は本年一月二十六日からでした。主として宮城、山形両県下を回り、二月四日の昼、列車で仙台を発ち、午後五時すぎに会社に着きました。会社では報告やら留守中の用件を見て、久しぶりで新宿で会社の友人と飲み、午後十一時ごろに帰宅しました」 「そのとき、奥さんの姿は家に見えなかったのですね?」 「そうです。妻の姿はありませんでした。家の表戸に内から錠がかかっていたので、そのとき留守だなと思いました。ぼくは合鍵で入ったのです。そのとき、ぼくは妻が一月三十一日以来、家に居ないことを知りました。事件が分るまでそう思ったのです」 「どうしてですか?」 「玄関内側の郵便受の中に新聞が溜《たま》って落ちていたからです。朝夕刊で九部たまっていました。一月三十一日の夕刊から二月四日までの朝夕刊がそのまま残っていました。郵便物も四、五通入っていました」 「一月三十一日の夕刊からあったとすると、その日の朝刊は郵便受の中に無かったのですね?」 「はい、それはリビングキッチンのテーブルの上にそれまでの新聞といっしょにたたんで置いてありました。ですから、妻はそれを読んで、家を出て行ったのです」 「それまでの新聞というのは?」 「ぼくの読んでない一月二十六日の夕刊からです。ぼくは朝刊は読んで出かけましたから。二十六日の午前九時上野発の特急で仙台に向いました」 「奥さんが三十一日から家を留守にするというのは、あなたが仙台に出張される前に話合いがあったのですか?」 「いや、それはありませんでした」 「では、あなたは、奥さんがあなたに無断で出かけたと思われたのですね?」 「そうです」 「変に思われませんでしたか?」 「妻は静岡の実妹の家に遊びに行っているものと思っていました。これまで、そういうことがときどきありましたから」 「あなたに無断で?」 「ぼくの出張のとき、寂しくなると妻はふいと妹の家に行っているのです。そのときは出張前には話に出てないのです。そうして、ぼくが出張から帰るころには、戻ってくるのです。ぼくは馴れていましたから、そのときもそうだと思い、妻は一月三十一日から静岡に行っているのだと考えていました」 「静岡の妹さんというのは?」 「妻より五つ年下で高瀬昌子といいます。まだ独身で、土地の高校の教師をしています。アパート住いですが」 「そこに電話は無いのですか?」 「アパートにはあります。ですから呼出しです」 「奥さんは静岡に行くといって何かに書き残してなかったのですか?」 「ありません。いつも黙って出て行くのです。そういう性質でした」  捜査主任は、栗山の顔をじっと見たが、思いとまったように次を質問した。 「あなたは帰宅して奥さんが三十一日以来居ないことが分ったのですね。では、静岡の妹さんのところに奥さんがそこに行っているかどうか確める電話をどうしてかけなかったのですか?」 「ぼくが家に戻ったのは、会社の友人と新宿で飲んだあとで夜の十一時でした。そんな遅い時間に静岡に電話をするのがたいぎだったのです。義妹の部屋は直通ではなく、アパートの管理人に呼んでもらうのですからね」 「しかし、あなたは一日置いて二月六日の午前十時半ごろに静岡に電話したわけですね?」 「そうです。五日いっぱいは会社が忙しかったものですから。で、六日の午前十時半ごろに電話したときは義妹の昌子は学校に出て行って居ないということをアパートの管理人から聞きました。そこで、ぼくは管理人にこっちの名前を云って、妻がそっちに行ってないかどうかを訊きましたら、来てないようだという返事でした。妙だなと思いましたが、なお昌子が学校から帰ったらぼくの会社に電話をかけてくるようにと頼んだのです」 「その電話は会社にかかってきましたか」 「きました。午後四時半ごろ、昌子から、いま学校から戻って管理人にことづけを聞いたところだけど、姉さんは一度もわたしのほうには来ませんよ、と云いました。ぼくが、それは変だな、ぼくの出張中、一月三十一日から留守をしているようだと話しますと、昌子はひどく心配して、自分も東京に出て行こうかと云いました。ぼくは、まあもう少し様子が分ってから知らせるといって電話を切りました」 「もう少し様子が分ってからというと、あなたには奥さんの行方について何か心当りでもあったのですか」 「いえ、べつにありません。しかし、義妹が静岡からわざわざ上京して来たときには、妻が帰っていたということになっては勤めをもっている義妹に済まないので、一応とめたのです」 「あなたは、郵便受の中に新聞のほかに郵便物が四、五通入っていたとさっき云われましたね。それはどういうものですか」 「デパートのダイレクト・メールとかそんなつまらない宣伝物ばかりでした」 「あなたは出張中に、自宅の奥さんに電話しませんでしたか?」 「いたしました。一月二十九日の晩八時半ごろです。山形県の天童《てんどう》という温泉に泊りましたので、旅館から電話しました。妻が出ました。そのときは留守中の様子をきき、こっちの成績もちょっと話してやりました。べつに妻からはたいした用事もありませんでした」 「それは奥さんが居なくなった日、いや、あなたがあとでそう思われたという三十一日の二日前ですね?」 「そうです」 「そのとき、奥さんの話の様子に変ったところはありませんでしたか」 「ありませんでした。妻はぼくに、テレビの天気予報では東北地方はだいぶん雪が降っているそうだが、どんな様子かと聞きますので、ぼくは、こっちは例年より三度ばかり低く、雪もかなり降って積もっていると答えました。妻は、ぼくが仙台支店に在勤中、三年間いっしょに仙台に住んであの辺の冬を知っているのです。で、電話を切るとき、妻は風邪をひかないように身体に用心してくれといい、ぼくは四日には東京に帰る予定だけど、もしかすると一日くらい延びるかもしれない、留守中は気をつけるように、といいました。それが、われわれ夫婦の最後の声のやりとりになりました」      2 「出張の予定が一日延びるかもしれないというのは?」  と、石子主任は訊いた。 「向うの車の売れ具合が思うようにはゆかなかったのです。それで、もう少し頑張らないといけないかなと考えたからです」 「しかし、予定通りに二月四日に帰られたわけですね」 「そうです。どう努力してみても駄目だと思って延ばすのをあきらめたからです。どうも時期が悪かったのです。例年より寒さがひどくて、雪も多かったものですから」 「そうですね。東京地方も冷えましたからね。で、二月四日の晩にあなたが帰宅された時に話を戻しましょう。そのときは、家の中に変った様子はありませんでしたか?」 「気がつきませんでした。それにぼくは酔っていましたから」 「すぐに寝られたわけですね?」 「そうです。蒲団を押入れから出して敷くと、そのまま朝の九時近くまでぐっすり睡《ねむ》りました」 「翌朝、つまり五日の朝は?」 「眼がさめたときが九時近くなので、あわててとび起き、トースターで焼いたパンと配達された牛乳だけで朝食を済ませました。あ、云い忘れましたが牛乳も四本溜っていました。で、すぐに自分の車で家を出ました。九時までが出勤時間ですが、五十分ほど遅刻しました。そんなわけで、五日の日は会社に出勤してすぐに外回りをし、ウサ晴らしに映画を見て、家に帰ったのが十時すぎごろでした。妻はまだ戻っていませんでした。妹の家に電話したのも六日の午前十時半になって会社からです」 「五日の日奥さんの居ないことが気になりませんでしたか」 「半分気にかかっていましたが、静岡の義妹の家に行っているものと思っていました。それで義妹からの電話返事以来、心配になりました。で、六日は会社を定時の五時に出て家に帰りました。家に着いたのが六時ごろでした。そして急に募ってきた不安に駆られながら、家の中を調べたのです。けど、べつに荒らされたあともありません。もしや、と思って懐中電灯を持ち、勝手口から出て行きました」 「ちょっと。……そのとき、勝手口に挿し込み錠がかかってないことに気がつきませんでしたか。それは外からコジ開けられて、はずされていたのですよ」 「気がつきませんでした。不安で、気持がうわずっていたのだと思います」 「そうですか。では、つづけてください」 「勝手口から物置小屋の前に行きました。勝手口から物置小屋は五、六歩のところです。ふだんは使わないガラクタ道具だとか、木箱などを入れて積んでいます」 「あなたの家は借家ですか?」 「いえ、二年前に死んだ親父が七年前にぼくらの結婚のとき建ててくれました。三年間仙台に行っている間は、人に貸していたのですが東京に戻ったときに明けてもらったのです」 「部屋数は?」 「部屋数は八畳、六畳が二つ、四畳半が一つそれにキチン」 「ガレージがありましたね?」 「横に付いています」 「車をお持ちでしたね?」 「商売柄、これは必要です。出勤用と外出用です。会社から買ったのです」 「物置小屋は五平方メートルでしたね?」 「そうです」 「で、その物置の戸を開けてから、奥さんの死体を発見されたときの様子を話してください」 「戸を開けたとき、すぐに異変に気がつきました。異様な臭気が鼻をついてきたからです。その悪臭が何かを直ちに知りました。ぼくは胸をどきどきさせて懐中電灯の光を入口から奥にむけたところ、木箱を積んだかげに白い脚が二本、光に浮き出ました。素足で、下駄も靴もはいていませんでした。ぼくは脚だけでは、ひょっとすると、ほかの女かも知れないと思い、勇気を出して物置の中に二、三歩入り、木箱のかげに光を当てました。死体は見おぼえの妻の寝巻で、それはうつ伏せになっていました。ぼくは乱れた髪の端からのぞいた横顔を見て、妻を確認しました。それで物置をとび出して交番に走ったのです」 「奥さんの死体にはふれませんでしたか」 「いいえ。一指もさわりません。臭気がひどいので、死んでいることに間違いないと思ったものですから。さわっては検視にいけないと思ったのです」 「それはいい処置でした。で、電話で一一〇番にかけないで、わざわざ交番に走って行ったのは?」 「気が動顛《どうてん》していたのです。ぼくは会社に往復する車でいつもあそこの交番の前を通るので、それが頭にあったのだと思います。一一〇番に電話したほうがずっと早かったというのは、あとから気づいたことで、そのときはあの交番に知らせることしか頭にありませんでした」 「奥さんの死体を見られたときの気持は、いや、悲痛なお気持だったことはお察ししますが、そのほかに、奥さんがそういう姿になられた原因とか、そういうものに直感が走りませんでしたか」 「妻が寝巻のまま殺されていたので、これは強盗でも入ったのではないかと思いました。しかし、家の中は荒らされてないので、あるいは痴漢が侵入して、ひとりで留守居している妻に乱暴して殺したのかもしれないと思いました。そのときは煮え返るような気持で交番に行ったのです。あとで、解剖によって妻が凌辱を受けた形跡がないことを知って救われた気がしました」 「あなたは奥さんといつ結婚されましたか」 「七年前です。ぼくが二十八、宗子が二十二でした。恋愛結婚です」 「ご夫婦の間は、七年後の現在もうまくいっていましたか」 「恋愛で結婚した最初のようなわけにはまいりませんが、まあ、普通の仲でした。あまり喧嘩もしませんし、大きな不平をもち合うということもありませんでした。そりゃ、だれだって女房に不満はありますが」 「あなたが奥さんに持っていた不満というのはどういうことですか」 「そうですね。宗子は淡白な性質で、あんまりぼくの世話を焼くほうではありませんでした。多少、自分勝手なところがありました。ぼくが出張から帰っても家に居なかったのを静岡の妹のところに行っているかも知れないと思いそれほど気にとめなかったのは、これまでも無断で出て行くことが二、三度あったからです。そのときも、べつに行先を書き残しておくこともなかったのです。ぼくとしては、もう少し親切に世話をやいてもらいたかったのです。不満といえばそんな程度で、ほかにはありません」 「立ち入ったことをお聞きしますが、奥さんが淡白な性質というのは、性的な生活面でもそうですか」 「いや。それは、まあ、世間の普通の夫婦と同じだったと思います」 「これも恐縮な質問ですが、捜査上のことですからお許しください。奥さんには、ほかに愛人とか、そういう男友達の関係があるような心当りはありませんでしたか」 「心当りがありませんね。ぼくが気づいていないなら別ですが。ぼくはさっきもお話ししたように、三カ月に一度は、東北のほうに十日間ほど出張します。また、関西に、これは不定期ですが、二、三日泊りで行くこともあります。その留守の行動は分りませんが、もし、そういう人物がいたら日ごろからの素振りでぼくにも判ったと思います。ぼくは今でも妻を信用しています」 「あなたは萩野光治という人を知っていますか」 「知っています。ぼくの友人で、福島市に住んでいます。大学の一年後輩で、福島で証券会社につとめています。ぼくら夫婦が仙台にいるときは、仙台にくるたびに家に遊びにきていました。東京に移ってからでも、出京する三回に一度はいまの家に寄ってくれました」 「では、奥さんとも親しいわけですね?」 「妻にだけではありません。ぼくら夫婦です」 「萩野君は何か用があって、あなたがた夫婦のところによく寄っていたのですか」 「いや、とくに用事というわけではありません。大学の一年後輩で、友だちですから気軽に話しにきていたのです。くれば彼は宗子ともよく話しておりました」 「あなたは、その萩野君が奥さんに特別の気持をもっていたことを知っていましたか」  この質問に、栗山は秀でた額の下にうすい横皺を寄せた。 「とくべつの気持というのは萩野が妻を心ひそかに愛していたということでしょうか?」 「そういうことです」 「そういう様子はぼくにも分りました。萩野はむろんそんな告白はぼくにはしませんし、露骨な素振りも見せませんでしたが、ぼくには彼の心がなんとなく分りました」 「奥さんは、どうでしたか」 「妻は、萩野を何とも思ってないようでした」 「それじゃ、つまり萩野君は片想いですな。しかし、あなたがたご夫婦の間で、萩野君のそうした気持が話に出たことはあるでしょう?」 「まあ軽い冗談程度に、萩野は君がどうやら好きらしいな、と妻に云ったことはあります。妻は、あんな人はイヤだわ、と云っていましたが、べつに深刻な会話でもありません。萩野がくれば妻はふだん通りに彼と話していたし、萩野の面白い話に笑っていましたから」 「あなたが萩野君と最近会ったのは何日ですか」 「二月二日の晩です。車の売込みがどうも思わしくないので、福島市に仙台時代の顧客がいるのを思い出して、そこに仙台から列車で行ったのです。先方は山下喜市という海産物商ですが、午後十二時半ごろからその店で、二時間ばかり話し、三月にライトバンを一台持ってくる約束ができました。ぼくは、車一台の売込みに成功し、福島まで来た甲斐があったとよろこんで、午後二時半、そこを出てから市内の様子を見て歩き、喫茶店に入ったりしました。そのときは立ち寄るつもりではなかったのですが、明るい気持になったので、福島市××町××番地の萩野の家に行きました。雪の中を行ったのですが、着いたときが八時半ごろだったと思います」 「その晩、萩野君とはどういう話をしましたか」 「べつにとりたてて云うほどの話はせず、世間話とかお互いの商売の成績とか学校時代の旧友の噂とか、そんなものでした。萩野の細君が、ぼくがまだ夕飯をすませてないのを知って、急いで鱈《たら》と豆腐と白菜のチリ鍋をつくってくれ、酒を出してくれました。空き腹だったので、酔いがだいぶん早く回ったと思います。そうして、とうとうその晩はすすめられるままに萩野の家に泊ってしまいました。ぼくは仙台に売込み中の話があるので、それが気にかかってなりませんでしたが、雪でもあるし、萩野の細君が七時ごろに起すというので、泊ったのです」 「そのとき、萩野君はあなたに何日に東京に帰るのかとききましたか」 「萩野君がきいたか、ぼくから云ったか、そのへんはよくおぼえていませんが、四日に帰京することは萩野夫婦の前で云いました」 「萩野君は、近いうち自分でも東京に出て行くような話はしませんでしたか」 「とくに聞きませんでした」      3  警察の検証調書は写実主義の極致のような文章だ。乾いた文体で細密を尽している。およそ非文学ともいえるし、技巧の限りを経た文学の涯《はて》は結局こういう種類のものになるのではないかと予見させるような文章ともいえた。 ≪本検証の目的である栗山敏夫方は東京都足立区西新井×丁目××番地であって、都バス本木町停留所と梅花相互銀行西新井支店とのほぼ中央西側にある杉原葬儀店と椎野美容室との間の幅約三メートルの道路を東に約二百メートル進み、野菜果物商森田トキ方とその西隣横倉忠次方との間にある幅員約二メートルの道を左折して、角の空地より十五メートル先に所在する門構の瓦葺平家建である。栗山方附近は所謂《いわゆる》住宅街であるが割合に人家が疎《まば》らで、栗山方の西は空地であり、東隣は島田芳雄方の万年塀に接し、その間には幅員約二メートル弱、長さ十メートル弱のコンクリート路地があり、表道路より栗山方の横勝手口に通じ、さらに同家裏の約五平方メートルの物置小屋に到っている。同家裏はブロック塀をもって隣接する河合隆太郎方裏と仕切り、栗山方の南側は二メートル道路を隔てて植田吾一方、桜井秀夫方となる。  栗山敏夫方は玄関二畳、所謂リビングキチン式の八畳くらいの広さの洋風の間、座敷六畳二間、茶ノ間、浴室、便所等に分れ、西側には約六・六平方メートルのガレージが附属し、また約五平方メートルの物置小屋は同家裏北側に一メートル離れて孤立し、其の方位間取り等は別紙見取図第二に示す通りである≫  このような文章で≪栗山敏夫方室内模様≫が説明されているから、部屋の茶箪笥《ちやだんす》の上に載った雑品の入ったボール函の数や、台所の隅に≪放置してある二キロ入りの味噌樽一個≫や台所流しの下にある≪ポリエチレン製バケツの中に男物靴下二足の洗濯済のものが入れてある≫などの説明で他の部屋の詳細が推して知られる。  被害者の検証では、 ≪被害者は成年の婦人で、前記の如く物置の木箱の北部に接して顔を木箱にむけて俯伏せ両手を|稍/\《やや》開いて右脚の膝を外側にやや曲げ、左脚は、太股の背部まで現わし、裾を乱す。衣類は晒《さらし》の肌襦袢《はだじゆばん》の上に赤の毛織襦袢、ネルの半襦袢に、化繊の袷《あわせ》の寝巻に伊達巻をゆるく締め、胸部を多分に現わすほど着物の胸を開いている。その詳細を検するに≫  からはじまって、死体の検証に入る。 ≪被害者の着衣ならびにズロースを脱がしめ、順次検するに、眼は稍/\開き、鼻孔より少し許《ばか》りの鼻汗を出し、口も稍/\開いて歯を見せ、かつ軽く舌を出して之を咬《か》み、口もとより血液を交えた唾液を出した痕がある。  其の頸部を検するに相当深き二重の索溝《さくこう》があり、前部で強く結束した痕が認められたが、使用した紐類は死体に附着していない。索条溝の前部と側面に軽い上皮|剥脱《はくだつ》の痕が都合三カ所認められ、使用したる紐は、たとえば女の腰紐のような比較的柔かくて芯《しん》の強いものと推定される。前胸部のほぼ中央|鳩尾《みぞおち》に直径三ミリ位の大きさを有する黒褐色を呈する灸痕様《きゆうこんよう》の傷がある。該傷の附近に縦又は斜に掻痒《そうよう》の如きものがある。また右傷の右三センチ位のところに二カ所の淡褐色を呈する斑点を認む。右膝頭より約五センチ位離れたコンクリート床の上に陰毛と覚しき毛一本、左太股の内側にも同様の毛一本を存する。  本屍は死後硬直の弛緩《しかん》しある状況より見て死後三日乃至四日を経過したと推測されるが、日中の気温平均三度、真夜中の気温平均〇・一度の寒冷の中に放置されたためか、腐敗の進行も通常よりは遅く、比較的新鮮度を保っている。  茲《ここ》において検察官は立会人に対し死体は解剖に付すべきによりR大学医学部法医学教室に運搬すべき旨を命じた≫  次にR大学医学部助教授作成の≪死体解剖検査記録並鑑定書≫は、東京地方裁判所判事より命じられた下記の鑑定事項に沿ったものである。≪㈰損傷の有無。㈪死因。㈫凶器の種類。㈬姦淫の有無。若し姦淫の事実があれば死後の姦淫なりや否や、精液の型。㈭死後の経過時間。㈮性病の有無。以上≫  解剖検査記録の文章は医学用語で充満しているので、警察の現場検証調書よりも難解、かつ、|細密 描写 主義《デスクリプシオニスム・デタイエ》である。 ≪歯牙は上顎に於て右外切歯に白金片を着く、下顎に於て左第一|大臼歯《だいきゆうし》は齲蝕《うしよく》欠如す、其他に損傷なくいずれも智歯《ちし》の発生を認む≫から、胸腹部、下腹部、四肢の外景に及ぶ。肝腎なのは頸部の絞殺痕であって、≪該凹部は左右径に全般に亙《わた》り下縁より上方約一センチ幅の間及び前頸部に於て前記陥凹部の上縁を距る下方約〇・七センチの処より下方に約〇・五センチ幅約五センチ長さの間に特に陥凹の度強きを認む。其他に左右径約〇・二乃至〇・三センチ幅多数の皺襞《しゆうへき》を形成し、該皺襞に沿い……≫と要するに索溝の実検報告であった。  背部、両上肢共に損傷異常なく、右下肢|下腿《かたい》前側上半分に約|豌豆《えんどう》大二個の皮下出血の痕がある。 ≪姦淫の有無≫については、|局部 所見《ゲニタール・ベフンド》を記したあと、要するにその事実はなく、≪精液の存在するを認めない。其他に出血なく、異常なし。肛門は閉じ、周囲に糞便の汚染がない≫。内景検査では、第四|肋骨《ろつこつ》の半ばと第五肋骨のほとんどに骨折があり、左肺と右肺とに≪麻実大|溢血点《いつけつてん》多数が散在する≫。胃に消化した米飯、魚肉、野菜などが僅かに残留し、空腸内、回腸内には胃と同様の内容物が多量に存在している。これが≪説明≫のあと解剖医は≪鑑定≫として、≪㈰本屍の死因は前頸による窒息とする。㈪頸部の索溝は布製紐類の纏絡《てんらく》絞圧、胸腹部の損傷は鈍体の強劇なる外力。右下肢の皮下出血は鈍体の作用等に由るものとする。㈫本屍に直前性交の証跡を存しない。したがって精液の存在を認めない。㈬本屍の死後経過は解剖時より四日乃至五日と推測する。㈭性病ことに淋疾《りんしつ》を証明しない≫  との回答を裁判所に提出した。  ──栗山敏夫の第三回事情聴取。 「あなたは、萩野光治が奥さんを殺害の被疑者として逮捕されたのを知っていますか」  質問者は石子主任だった。 「はい。知っております。昨夜の夕刊で読みましたから」  栗山敏夫は伏し眼加減に答えた。 「萩野の指紋があなたの家の勝手口の戸や、リビングキチンの台所のところやテーブル、それに六畳の居間の襖《ふすま》、障子、柱などに付いていたのです。もちろんご主人であるあなたの指紋は、もっとたくさんほうぼうに新旧を交えて付いていました。萩野のも新しいのです。これが萩野自供の証拠になりました」 「萩野は、ぼくの妻を殺したと自白したのですか」 「家の中に侵入したことは認めました。二月三日の夜です。つまり、あなたが福島市の萩野の家に泊った翌晩ですね。その日の午後二時四十三分福島発の急行で上野に六時半ごろに着き、一時間ほど上野駅附近をぶらぶらしたのち、八時すぎごろ、あなたの家を訪問したそうです。この訪問の目的が何だったかはお分りでしょう。あなたは前晩に萩野の家に泊ったとき、仙台出張から東京の本社に戻るのが四日の午後で、帰宅が夕方だということを萩野に話している。つまり、三日の晩はあなたが仙台に居ることを萩野は承知していながら、彼はあなたの家をわざわざ夜の八時すぎに訪問したのです。その訪問の目的が何だったかは判るでしょう?」 「萩野が妻に一方的な好意を寄せていることにはうすうす気づいていましたが、まさか、まさか、そんな大胆なことをするとは思いませんでした」  栗山は端正な顔に血の色を上らせ、眉間《みけん》に深い縦皺をつくった。 「萩野は、はじめ東京に急に用事があって出た点までは認め、あなたの家に行ったことを否認していましたが、家の中に指紋が付いているのが証拠で云い遁《の》がれが出来ず、錠のある勝手口の戸をこじ開けて内部に侵入したことは認めました。はじめ、あなたの家の玄関で奥さんの名を呼んだそうですが、家の中は電灯が消えて暗くなっているし、返事もないので、思い切って裏口から忍び込む気になったといっています」 「中に入って、萩野は妻に云い寄ったのですか?」 「いや、ところが萩野はまだその点を自供しません。家の中に入ったら、誰も居なかったというのです」 「妻が居なかったというのですか」 「萩野はそういっていますが、苦しまぎれの云い遁《の》がれにきまっています。犯人の心理として最後の決定的なことは匿《かく》せるだけ匿しておこうというわけです。それを云ってしまうと死刑か無期かですからね。それが眼の前にちらつくものだから、云ってしまえば最後だということになって、必死に防禦をつづけるわけですよ。しかし、萩野が落ちるのは、時間の問題です。彼は取調べで、おいおいと声を放って泣き出しましたからね」 「ちょっと待って下さい。妻が寝ているところを萩野に襲われたとなると、その蒲団はそのままになっていたわけですね。まさか、萩野がたたんで押入れに片づけるとは思いませんからね。そうすると、ぼくが四日の晩に帰宅したとき、妻が敷いて寝た蒲団はなかったのはどうしたのでしょうか?」 「萩野が押入れに片づけたに違いありません。一つは、あなたが四日に帰ったとき、奥さんの蒲団が敷き放しで、本人が居ないとなるとあなたがすぐ怪しみますからね。もう一つは、蒲団の上が萩野の挑みで乱れていたにちがいないから、それをごま化すためにたたんで押入れにしまったのだと思います。あなたは気がつかないでしょうが、われわれで押入れにある奥さんの蒲団を出したら、かなり皺が寄ったままになっていましたよ」 「妻は最後まで萩野に抵抗したのですか」 「そうです。寝巻をきて寝ているところでしたからね。たぶん声を立てられたのでしょう。それで萩野は、そこに解いて置かれてあった奥さんの腰紐をとって首に捲いたと思うのです。そういう場合の犯人は、たいていあわてて相手に声を上げさせないように首を絞めるものです。だが、たぶん、奥さんはそのときはまだ仮死の状態だったでしょうね。蒲団の上や畳には血痕とか汚物が付いていませんから。本当に絞めたのは物置に運んでからです。物置のコンクリート床には小量ですが血痕と吐瀉物《としやぶつ》が付いていました」 「萩野は劣情で妻に挑んだのでしょう? 宗子が仮死の状態になったとき、どうして目的を遂げなかったのでしょうか」 「萩野は、やはり臆病だったんですね。凶悪な犯人だと仮死のときはおろか、ほんとうに死んだあとでも劣情を遂げるものです。その点、奥さんはせめてもの幸いでしたよ」      4  ひとりで留守を守っている妻が殺害される事件は珍しくない。ある場合は強盗に殺され、ある場合は居直った空巣狙いに殺され、ある場合には侵入した痴漢に殺され、またある場合は遊びにきた友人から発作的に殺される。こういう犯罪が全国で年間どれくらい発生しているか分らない。  栗山宗子殺しの場合もその犯罪型の一つと推定された。その意味ではありきたりの事件といえる。ただ、この被疑者は夫の友だちだが、夫の留守に来てその妻と話しているうちに欲情が生じて首を絞めたというケースではなく、はじめから夫の不在を知っていて、その妻に挑むために侵入したのである。  その点は被疑者の萩野光治も認めている。彼は一応、家宅侵入罪の疑いで逮捕されたのだが、いつでも殺人の疑いに切り換えられるようになっていた。 「栗山君が福島市の私の家に来たのは二月二日の晩八時半ごろでした。市内の顧客先である海産物商や電機商のところに来たついでだといっておりました。そこでライトバンが一台売れたといってよろこんでいましたが、今度の出張から東京に帰るのは四日の夕方だということでした。私は栗山君と学校では一年後輩で、栗山君が二年前に仙台支店に在勤中はその家にときどき遊びに行き、奥さんの宗子さんをよく知っておりました」  萩野光治は自供した。 「実のところ私は宗子さんが好きでした。けど、そういうことは一度も宗子さんに云ったことはありません。が、私の態度で宗子さんにはそれとなく判っていたと思います。あるいは栗山君も感じていたかもしれません。私は家内が痩《や》せて貧弱な身体をしているのに不満をもっていましたから、自然と宗子さんの豊かな身体つきにあこがれていたのです。それに宗子さんは愛嬌こそあまりありませんが、どこか突き放したようなところに魅力がありました。私の家内が私に世話を焼き過ぎるので煩《うる》さく思っていた反動でもあると思います。  栗山君は二日の晩に私の家に泊って三日の朝仙台行の列車に乗るといって出勤する私といっしょに家を出ました。そのときはべつだん私は何とも考えていませんでしたが、勤め先に出てから、今夜は栗山君は東京の家に居ないのだ、宗子さんだけが留守番をしているのだと思うと、宗子さんとだけ話してみたい気持が急に起って参りました。今まではいつも栗山君が横にいたので、彼女とゆっくり話合う機会はなかったのです。二人だけで話したらどんなに愉しいかしれない、そのときは自分の気持も宗子さんに打明けて、好意をもっていることを知ってもらおう、それですぐに恋愛を求めるわけではないが、親しい感情は持ってもらいたい、そういう気持だったのです。決して変な気持が起ったのではありません。  そう考えるとすぐに実行したくなり、家の女房に電話して東京に出張するからと云い、会社には私用が出来たといって午後から早退をしました。上野駅に着いて一時間ぐらい附近をぶらぶらし、タクシーで足立区西新井の栗山君宅の近くで降りたのが午後八時すぎだったことはこの前から申し上げている通りです。  これも何回も申し上げていることですが、栗山君の家は表戸が閉まっていました。私は、四、五回ブザーを押したのですが応答がないので、留守かもしれないと失望しました。けれど福島から折角来たのにこのまま帰るのはいかにも心残りでした。もしかすると宗子さんはもう寝ているのかもしれない、あるいは女ひとりで留守番しているので夜の訪問があっても応答をしないのかもしれないという欲目が出て、同家横の勝手口に行き、戸を開けようとしたが、もちろんここも閉まっています。そうなるといよいよ中に入って見たくなり、その辺に落ちていた釘だとか、石の尖《とが》ったのを使って何とか戸をこじ開けました。  中に入ると真暗です。でも、私はこの家にも何度か遊びに来たことがあるので内部の勝手は分っておりました。壁ぎわのスイッチを捺《お》すと電灯が点《つ》きましたから、私はリビングキチンから奥の座敷に入って行きました。四畳半、六畳、六畳という部屋を襖や障子を開けては見て回ったのです。もちろん無断ではなく、その都度声をかけて襖を開けたのです。私の指紋が家の中の到るところに付いていたのは、そういう次第です。蒲団はどの部屋にも敷いてありませんでした。  宗子さんの姿はどこにも見当りませんでした。私は留守にやって来たのです。私はがっかりもし、また、一面ではこれでよかった、非常識な面会の仕方をしなくて済んだ、というほっとした気持にもなりました。そのとき、裏の物置には行って居りません。どうしてそんなところに宗子さんが居ると想像しましょうか。私はもと通り電灯を消して、勝手口の戸を閉めて立ち去りました。もっとも内側から施錠《せじよう》することは不可能だし、戸をこじあけた跡はどうすることもできません。この戸に私の指紋がいっぱい付いていたそうですが、それはこじ開けるときにいろいろといじったからです。そしてその晩は上野近くの花房旅館という初めての旅館に泊り、翌朝六時四十分の急行で福島に帰りました。十時すぎに福島駅に着いたので、会社には十一時半に遅刻して出勤しました。  これは真実を申し上げているので、隠している点は一切ございません。私のとった行動が非常識なために、私が宗子さんを殺したようなお疑いを受けておりますが、その点は私の心得違いで申し訳ない次第です。けれど嘘や偽りは絶対に申し上げておりません。宗子さんは居なかったのです。裏の物置などには近づいたこともございません。私の指紋が物置の戸に付いていたでしょうか。刑事さんはそのことで私に何もおっしゃいませんから、私の指紋は付いてなかったのだと思います。私はそこに行ってないのですから、指紋がないのは当然です」  たしかに物置の戸には萩野光治の指紋は検出できなかった。だが、そのときは萩野は手袋をしていたにちがいないというのが一部の刑事たちの観測だった。部屋の襖などに指紋があるのは宗子を殺害する前だったから、用心をしなかったのだ。つまり萩野は最初から宗子を殺害する目的で入ったのではなく、情交を求めに入ったのだから指紋のことなどは気にかけなかったのだろう。しかし、宗子に抵抗され、絞殺してしまってからは殺人犯人なので、犯人心理として自分のポケットに入れた手袋をはめ、仮死状態になっている宗子を物置に運んだにちがいないという推定である。外は寒いから手袋はいつも持っていたであろう。しかし、この点について萩野は手袋の所持を否認した。  では、なぜ、宗子を物置に入れたのか。これも犯人心理として、犯罪の発見をなるべく遅らせようとしたにちがいない。これは顔見知りの者が犯人の場合に多いケースである。仮死状態の被害者を蘇生《そせい》させないようにもう一度決定的に絞めるのも顔見知りの犯行である。生き返ってしゃべられては困るからだ。萩野光治の場合がこれに当った。  では、なぜ、萩野は仮死状態の宗子を自由にしなかったのだろうか。性犯罪には死後の姦淫がしばしば見うけられる。しかし、刑事たちの意見によると、それはいちがいに決められない。概していえることは、顔見知りでない、たとえば強盗とか痴漢とかの犯行にはそれが多く、生前交際のあった人間にはそこまでの残忍性がない。どうしても気が弱くなるらしいというのである。  萩野犯人説の刑事が萩野の自供にもとづいてその矛盾を発見すべく裏付け捜査をしているときに、捜査本部に新しい情報が入った。栗山敏夫が一年前に妻の宗子に千二百万円の生命保険を掛けたというのである。受取人はもちろん亭主の栗山になっている。  そのときの契約では栗山も同時に加入しているが、彼のはたったの二百万円。これはどうにも不自然で、申し訳程度に入ったという感じである。  もし、栗山が宗子を殺したとすると保険金目当ての妻殺しになるが、その期間、栗山は仙台に出張していたのであるから、この疑いから除外しなければならない。  もっとも警察では、この保険の件の情報が入ってから栗山の生活を洗ってみた。競輪競馬の賭けごとが好きである。歩合による収入があるから、普通のサラリーマンより外の生活が派手である。酒が好きで、高級バアにしか入らない。女にはモテるほうで、浮気は始終しているという噂だ。そういうことで、借金はかなりある。収入のある人間ほど負債を背負っているのと似ている。それがみんな遊びの金である。商売柄というか口がうまい。頭が低く、人の気持をそらさない。  これは妻の死の一年前に千二百万円の生命保険を彼女に掛けたことと対応する。夫婦仲は世間に洩れるほど特に悪くはないが、格別にいいというわけではない。宗子は栗山が外で浮気をしていることは知っていたらしいが、そのことで騒動を起すような女ではなかった。そのかわり、夫の世話には無関心な妻だったようである。どうも夫に愛情をもっていたとは思われない。もともと温かい女ではなかったようだ。この点は萩野の供述と一致している。萩野は、そういう冷い感じの宗子に魅力をおぼえたと云っているのだ。  だが、宗子には別に愛人がいた様子がない。これまで夫の出張中に静岡の妹の家によく遊びに行っていたことは事実である。栗山が出張と称して家を空けても、外で何をしているか分らないので、その|うさ《ヽヽ》晴らしもあったようだ。だが、宗子の外泊は静岡だけであった。その点、道楽者の夫に比べて貞淑な妻であった。  静岡の妹昌子というのは宗子より五つ下で、土地の高校の教師をしている。昌子は姉思いで、正直な性質という近所の評判である。それは面接した捜査員の印象でうなずけた。姉は今年になってから一度もうちに来ていないと断言した。二月半ばには来る予定になっていたから、栗山の仙台出張中とはいえ、一月末から二月初めにこっちに来るはずはないというのである。  六日に栗山から電話があって、宗子が一月末以来家に居ないようだが、そっちに行っていないかと訊かれたときは、ほんとうにびっくりした。心配になって、すぐに東京に行こうかと云ったが、栗山はもう少し様子を見るまで待ってくれといった。その晩遅く姉の不慮の死を聞いたのだから、電話以来の不吉な予感が当って何とも云いようがないと昌子は云って激しく泣いた。  昌子が義兄の栗山の行状について何も知っていないのは、宗子がそれを洩らしてなかったからのようである。宗子も、やはり実妹には自負を傷つけることでもあるので云いにくかったようである。  警察の一部では、宗子が殺害されたのを一月三十一日と見ていた。それは二十九日の晩、栗山が出張先の山形県天童の温泉宿から自宅に電話して宗子と話したと述べているからである。裏付けをとってみると、たしかに二十九日の晩に栗山は旅館の帳場を通して東京の自宅の電話番号に申し込み、三分間の通話をしている。交換台でその線をつないだ女中は、最初に出た先方の声が「はい、栗山でございます」と云い、女中がご主人さまからですと告げると「ああ、そうですか」と答えたという。つないだあとの会話を女中は聴いてないが、たしかにあれは奥さんでないと云えない口調だと述べた。  だから二十九日の晩は宗子は生きていたのである。いや、二月四日の晩に帰宅した栗山の話によると一月三十一日附の夕刊から新聞が郵便受に溜っていたというから、宗子は三十一日の朝刊は読んでいたのである。げんに家の中を検証したときに、三十一日の朝刊はリビングキチンのテーブルの上に読んだ形跡を残してたたまれてあった。  すると宗子が殺されたのは三十一日の朝刊を読んだあとから栗山が帰宅した二月の四日の夜十一時ごろの間ということになる。もし、萩野の自供を信じると、彼は三日の夜、栗山宅に忍びこんだときは宗子の姿は無かったというから、このとき宗子が裏の物置にすでに死体となっていたとすれば、時間の幅はもっと狭まり、三十一日朝から二月三日午後八時ごろの間ということになる。  この推定は、死体解剖所見の推定する死後経過時間ともだいたい一致する。しかし、重要なのは宗子が寝巻姿で殺されていることだ。三十一日附の夕刊は郵便受に残っていたのであるから、この寝巻姿は当然に当日朝の、まだ床を上げていない状態を意味する。すなわち、宗子はその朝眼をさまして朝刊を郵便受に取りに行き、リビングキチンのテーブルの上でざっと見出しくらいを見て、寝巻なので寒くなって着更えの前にもう一度床の中に入って身体を暖めたのであろう。冬の朝だとよくあることである。加害者の侵入はその直後だったのではないか。押入れの中の彼女の蒲団が、女にしては乱暴にたたんであったのは、犯人が宗子の死体の発見を遅らせるために、行方不明にしておきたかったからだろう。座敷に床が敷き放しになっていれば、いっぺんに宗子が家の中に残っていることが分る。  近所の聞込みでは、宗子はあまり近所づき合いがなく、どこか「とっつきにくい奥さん」という評判であった。だいたい東京の住宅地では近所交際がうすいのだが、とりわけ宗子は家の中に引込んでいることが多かったようである。だから四、五日の間宗子の姿が見えなくとも、だれも不審には思わず、第一、気にもとめていなかった。  栗山の家は片方が空地で、ガレージはその空地に面している。一方の隣の島田家は道路を隔てて、万年塀で仕切られ、隣家はその塀側を庭にしているから住居の建物とはなれている。また、裏側に当る北隣の河合家とはブロック塀が境となっていて、これまた隣家は塀の内側を庭にし、植込みまでしているので住居までには距離がある。前は二メートル幅の道路を隔てて、植田家と桜井家とがあるが、両家とも道路に煉瓦《れんが》塀がある。要するに、「音」を聞くためには非常に不便な環境ということになる。家庭のプライバシーを守るには好条件だが、ひとたび不運な事故が起った際は、それが変じて悪条件となっている。事実、近所では六日夕方、栗山の届出でパトカーがくるまでは何も知っていなかったのである。犯行時日と推定される一月三十一日には栗山家から「音」も「声」も近所は聞いていなかった。      5  栗山が宗子に千二百万円の生命保険を一年前にかけていたことや、その素行が判ってくるにつれて、どうも栗山がおかしいぞという声が捜査本部の一部に起ってきた。前から栗山に対する疑惑は本部の刑事たちの一派にあった。というのは、萩野光治の供述に真実性を認めたのである。 「裏の物置の戸に萩野の指紋がついていない。家の中にいっぱい付いているのに物置だけに無いというのは萩野の云う通り彼は物置に行ってないのではないか。手袋をはめて死体を物置に運んだという説があるが、それならはじめ勝手口の戸を開けるときから手袋をつけていてよさそうなものである。萩野は手袋を持ってなかったといっているが、それは本当らしい。  萩野は、栗山宅に侵入したのは宗子と二人だけで語らいたかったと告白している。彼がそういう目的で入ったのなら、宗子の抵抗で首を絞めたあとでも意を達したはずである。これまでの事件例をみても、仮死状態中や死後の姦淫が非常に多い。ところが萩野はそれをやっていない。というのは、彼の云う通り、宗子が居なかったからである。つまり、萩野が侵入した二月三日の午後八時には、すでに宗子は死体となって物置に投げこまれていたということになる」  意見はそういうことであった。  家の中が少しも荒らされてないから強盗の犯行ではない。実際、屋内の指紋は、栗山夫婦と萩野だけである。ほかによく分らない古い指紋があるが、古いのは事件に関係がないから除外してよかろう。  物置の戸には宗子の指紋のほか栗山の新しい指紋が付いている。これは当然で、栗山は六日の夕方に物置を探して宗子の死体を発見している。  萩野の線が消えると有力な容疑者は栗山しかない。ことに宗子にかけた生命保険の件や日ごろの素行が分ってくると材料は強くなってくる。  石子主任はこの説に傾いた。そういえば、交番に殺人を届出にきたときの栗山の態度について巡査の印象も、非常に落ちついていた、ということであった。留守中に妻が殺されたのだから、普通は取り乱していなければならない。交番の巡査は、はじめ道を聞きに来たのかと思ったくらいだという。これは少々不自然ではないか。  栗山は二月二日の晩に福島の萩野の家に来て泊り、翌朝の列車で仙台に帰っている。だから二日の夜、東京の自宅に帰って妻を殺すことはできない。では、その日の前後はどうだろうか。  捜査員が現地に行っての裏付け捜査では、一月二十六日、仙台に出張して以後の栗山の行動は次の通りであった。 ≪二十六日。上野発特急九時──仙台着一二時五八分。支店に顔を出して市内の得意先回り。夕方六時より支店の者と会食。十時、市内津川旅館に入り就寝。(確認)  二十七日。九時半に旅館を出て十時に支店。午前中支店で打合せ。午後市内回り。七時半ごろ同旅館に戻り、十時半ごろ就寝。外部からの訪問者なし。(確認)  二十八日。九時半に旅館を出て仙台発急行一〇時──一ノ関着一一時二三分。市内の得意先回り。午後六時ごろ市内竹本旅館入り。九時ごろ就寝。(確認)  二十九日。七時旅館出発。一ノ関発急行八時──仙台着九時三二分。仙台発急行一〇時〇六分──山形着一一時四四分。山形市内の得意先回り。山形発一八時四六分──天童着一九時一〇分。二見館入り。同夜八時半ごろ、旅館の交換台を通じ、東京の自宅に電話約三分間。十時半ごろ就寝。(確認)  三十日。八時半ごろ旅館を出て天童市内の得意先回り。天童発特急一一時一六分──山形着一一時三〇分。市内得意先回り。六時ごろ紅花荘《べにばなそう》に入り、十時ごろ就寝。(確認)  三十一日。旅館を八時半ごろに出て、山形発九時五三分──寒河江《さがえ》着一〇時二八分。市内得意先回り。寒河江発一七時一五分──山形着一七時四七分。バスで蔵王温泉へ。若松屋旅館に入り、十一時ごろ就寝。(確認)  二月一日。旅館を十一時すぎに出てバスで山形駅へ。市内得意先回り。山形発急行一二時四二分──仙台着一三時四九分。支店に行き打合せ。午後十時ごろ市内青柳旅館に入り、十一時半ごろ就寝。(確認)  二日。旅館を九時ごろに出て、仙台発特急一一時一一分──福島着一二時〇九分。海産物商山下喜市方に行き、同家を二時半に出る。市内得意先回り。伊東電機商会に行き、午後四時ごろに出る。午後八時半ごろ市内××町の萩野光治方に行き、同家に一泊。(確認)  三日。萩野宅を八時半ごろ、萩野といっしょに出て、福島発急行一〇時一二分──仙台着一一時五〇分。休養のため、仙石線で松島海岸見物、往復三時間。支店に三時半ごろに入る。六時から支店の者と会食。十時半ごろ青柳旅館に入り、十一時半ごろ就寝。(確認)  四日。旅館を十一時四十分ごろに出て、仙台発特急一二時二〇分──上野着一六時一八分。午後五時半ごろ本社に戻り、社内の友人と新宿で十時ごろまで飲む。(確認)  五日。午前十時近く車で出社。外回りして午後八時二十分ごろ、浅草で映画を見て十時すぎに帰宅。  六日。午前十時車で出社。午後五時退社。妻の死体発見。届出≫  ──この表のうち≪確認≫とあるのは捜査員が東北に出張して、栗山の申し立てに裏付けを得たもので、たとえば彼が回った得意先の話とか、仙台支店員の談話とか、旅館の話とかである。利用した列車は、彼の云うままに記したものだが、彼には同乗者がいないから確認のしようはない。  また栗山は各地で列車の乗車時刻よりは一時間か二時間くらい早く宿を出ているが、これは市内を歩いて様子を眺め、各社の車の普及率など観測するためであったという。  列車よりほかに利用の交通機関はないから、彼の云う通りであろう。各地の旅館に入った時間とか、得意先の訪問時間とかは間違いないので、列車の時刻表とこれは合致する。とくに雪の東北では長距離の営業車はない。  なお、宗子は一月三十一日午前中までは生存していたと思われるので、この行動表のうち当日以前は不要だといってよい。アリバイを検討するなら三十一日以降であろう。  こうしてみると、栗山が東北のいずれの地点からでも東京に戻って妻を殺し、再び東北に引返してくるということは不可能である。仙台からの飛行機の利用もあり得ない。飛行機の往復にとられる時間だけでも、各地の得意先回りや旅館に入った時間が吹きとんでしまう。  それでは、栗山が出張から帰った四日の夜の犯行としたらどうか。彼は新宿で社の友人らと飲み、十一時ごろに帰宅したといっているから、その夜の犯行だと思えなくはない。妻が居ないのに平気で五日はまる一日過し、六日になってやっと静岡の義妹の昌子に、そっちに行ってないかと電話で訊き合わせているのは、不自然といえばかなり不自然な行動である。  しかし、それだと解剖結果による死後経過時間と合わない。鑑定によると、宗子の死亡は二月二日か三日ごろとなる。|それ以前であっても《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、以後ではない。古手の刑事連のなかには、カンによる見込みと法医学的な所見とが食い違った場合、法医学者の意見を無視したり、ひどいのになると嘲罵《ちようば》したりするのがいるが、石子主任はそこまで非科学的な捜査方針は持っていなかった。被害者の死亡時については解剖医の意見に従う。  では、一月三十一日から二月三日までの栗山敏夫の裏付けの取れた行動表を見よう。どの日をとっても彼が東京で妻を殺害する時間はあり得ないではないか。とくに三十一日は寒河江に行って蔵王温泉で泊った。一日は仙台に戻って泊った。二日は福島に行って萩野方に泊った。三日は仙台に戻り、松島を往復し、夕方支店の者と会食し、市内の旅館で寝た。──  情況証拠が山のように多くても、現場不在という一個の証明はすべての疑惑を雲散霧消させてしまう。  捜査は、使いふるされた言葉だが実感の響きをもつ「壁」の前に立った。  しかし、たとえ、小さくとも「機会」はいつもどこかにひそんでいるものだ。それが生かされるかどうかは当事者の感覚によるのだろう。  石子警部補が本庁に戻っているとき、強盗三人組がつかまってその取調べが行われていた。強盗は都内で盗んだ車を乗り回し各所に押し入っていたのである。  車を盗む? ……そういえば栗山は車のセールスマンだ。車には詳しいし、運転もうまいはずだ、と石子は思った。ガレージがないため路上に放置された車は多い。これが盗まれるのである。都内には毎日相当な被害件数が発生している。  たとえ栗山が東北で車を盗んだところで、裏付けのとれている彼の行動に影響はない。その車を乗り回しても時間表通りの行動は不可能なのである。が、まあ、気休めにと思って、とにかく宮城県警をはじめ山形、福島両県警に問合せてみた。すると、どの地方都市も車の盗難は多いとみえて、一月二十六日から二月三日の間には毎日のように件数が発生している。それだけ地方に車が普及したことでもあるが、未解決のものが半数以上である。盗難車はなかなか出てこないものだ。そのうち仙台市内の盗難届出は右の期間に毎日三、四件平均にあった。  このなかに、かりに栗山の盗んだものが入っているにしても、捜査事態に影響はない。車を盗んだところで、東京での犯行には役に立たないのである。      6  石子は、栗山の行動表を丹念に検討してみた。もう十回ぐらいそれを繰り返してきている。繰り返し繰り返し読むことで意|自《おのずか》ら通ずという言葉があるが、石子はここで今まで気づかなかったことをひとつ発見した。  栗山は三十一日に寒河江に行って山形に向い、蔵王温泉に泊っている。山形の市内得意先回りはこの出張で三度もしている。県庁の所在地だから得意先が多いにしても、なぜ寒河江市から米沢市に向わなかったのだろうか。寒河江よりは米沢のほうが人口もはるかに上だし、得意先も多いはずである。寒河江をやめるか、山形での回数を減らすかしてでも米沢に行くべきではなかろうか。素人考えではそう思える。  いや、素人考えではなかった。石子が捜査員に云いつけて岩崎自動車商会本店の営業部に聞き合わさせると、たしかに米沢市には特約店もあるし顧客も多いということだった。では、なぜ栗山は米沢に向わないで、山形から仙台に戻ったのだろうか。  ここで石子は、栗山が仙台に帰ったのは、二月一日に仙台に引返さなければならない用事が彼にあったのではないか、と思うようになった。 ≪二月一日。山形発一二時四二分、仙台着一三時四九分。支店に行き打合せ。午後十時ごろ市内の青柳旅館に入り、十一時半ごろ就寝≫  一日の栗山の行動は何の変哲もない。商売以外の意味はない。その商売上でも、その日に仙台に居なければならないという用件もなさそうである。といって個人的に目立った行動も見えない。 ≪二日。一一時一一分仙台発、一二時〇九分福島着。山下喜市方訪問。市内回り。伊東電機商会を午後四時に出る。午後八時半、萩野方訪問。同宅泊り≫  一日と二日の行動の間に商売以外の関連性はない。商売とはいえ栗山は実によく各地を回っている。歩合による外交はこういうものでなければなるまい。石子は感心したくらいだった。  この二月一日も二日も仙台では盗難車の被害があった。また福島市内にもあったろう。万が一、栗山が車を盗んだとしても、それを東京の妻殺しに役立てることは出来ない。すると、栗山が二月一日に仙台に居なければならないという必然性はなかったのだ。なのに、彼はなぜ米沢で商売をしなかったのだろうか。二日に福島に行く目的があったとしても、米沢から福島まで奥羽本線で直通である。列車で四十分くらいだから、仙台─福島間よりはずっと近い。  人の気持には「好み」というものがあるから、他人の理屈通りの解釈でゆかないことが多い。栗山が米沢に行かなかったからといって直ちに不審に結びつけることはできないにしても、何か事情がありそうである。この事情の推定がつかない。  栗山に疑いをかけている現段階では、彼に直接当って訊《き》くのは避けなければならなかった。それは周辺の情況証拠がもっと出てからでないといけない。  石子は、栗山が四日に帰京してからの行動にもう一度眼をむけた。その日は仙台から戻って午後五時半に会社に着き、新宿で同僚らと飲んで十一時に帰宅している。新宿で飲むまでは同僚らの証言があるから問題はない。  五日は朝九時五十分に会社に出て外回りをしたままで帰社せず、浅草で映画を八時二十分ごろから見て十時すぎに帰宅したと栗山はいっている。このへんの確認がうすいのが石子は気になった。  岩崎自動車商会に当らせると、栗山は午前九時五十分に出社したが、やはりすぐに外回りに出たままで帰社しなかった。外交員だからそれは通例である。  そこで捜査員が営業部の責任者に、栗山はその日どこを回ったのかと聞いた。外交員は翌日になって前日の外回りの報告《レポート》を出すことになっているからだ。その報告書では、栗山は五日の午前十時半に社を出て自分の車で栃木県の宇都宮に行ったことになっていた。宇都宮には岩崎商会の特約店があり、その店主と栗山は親しい。栗山もときどき宇都宮には応援に行っているから、これはふしぎでない。栗山の云う「外回り」とは宇都宮市を含んでいたのだった。  捜査員は宇都宮に行き特約店の店主に会って話を聞いた。それによると、栗山は午後三時半ごろに店に来て、店主と四十分くらい話をした。それは今後の販売方針の打合せで、その日は市内回りはしないですぐに東京に帰るといって出た。二月の午後四時はもう暗くなりかかっている。雪道でもあるし、栗山が車ですぐに東京に引返すのは無理もないので、店主は彼をあまり引きとめなかったという。車だと宇都宮から東京までは片道四時間半ないし五時間くらいはかかる。栗山が宇都宮の店を四時すぎに出たとしても、東京に入るのは九時ごろになる。しかるに彼は十時すぎに帰宅したといっているから、映画を見る時間はなかったはずである。  これは、どういうことだろうか。なぜ栗山は宇都宮行を「外回り」という表現でぼかしたのだろうか。宇都宮に行っていることは事実なのだから、どうしてありのままを云わないのだろうか。  これは当人の説明を聞く必要があるので、捜査員を栗山のもとにさしむけた。捜査員の報告は栗山の返事を伝えた。 (宇都宮には度々行っているので「外回り」には違いないからそういったのです。べつに商売上の詳しい行先を云うこともないと思いました。そのレポートはちゃんと会社に提出しています。宇都宮から都内に戻ったのはわり合いに早くて八時すぎでした。途中、車が少かったのです。映画は浅草の××館に八時二十分ごろに入って一時間ほど見ました。車は路上に駐車させていました。帰宅したときが十時すぎでした)  捜査員の話では、栗山が述べる××館の八時二十分から終りまでの映画の筋は実際と合っていたという。また、交通局に問合せてみると、たしかに四日の夕方の日光街道(宇都宮─東京間)は車が空《す》いていたことが分った。  しかし、栗山の最初の申し立てに少しばかり変なところがあったとしても、それがすぐには妻殺しに関係しない。宗子の死亡推定時間帯は配達新聞の件と、萩野の侵入を考え合せて一月三十一日午前中から二月三日の間である。それ以後ということは法医学的にあり得ない。  石子警部補が頭を抱えているときに、ある班の捜査員が一つの報告をもたらしてきた。 「主任。ちょっと耳寄りな聞込みを得ました。一昨日が二月十日で、栗山の家では被害者の初七日を営みました。まあ殺された日がまだはっきりしないけど、一応、女房の初七日を済ませたわけです。そのとき、静岡から被害者の妹の昌子というのもやって来ました。その式のあと、遺品分《かたみわ》けが行われたのですが、そのとき、昌子は姉が持っていたウールのツーピースが欲しいと云い出したんですね。栗山は、あのツーピースはどこにあるのか見当らない、出て来たらあとで送ってあげるよ、と昌子にいったところ、昌子は、あれは姉が去年の秋につくったばかりだから家の中にないはずはない、姉の洋服ダンスか洋服函に入っているでしょう、わたしがさがしてみる、と云い出したのですな。姉が死んでしまえば、栗山との義兄妹縁が切れるわけですから、昌子も欲しいものは取りたいという気持でしょうね。それに対して栗山は、見当らないものは、いま探しても仕方がないよ、見つかったら送ってやるよ、と軽くいって相手にしなかったそうです。昌子はひどく不満な顔をしていた、とこれはその席に出ていた人の話ですが」 「ふむ。栗山がその女房の洋服をだれか好きな女にでもこっそりやったのかな」 「昌子はそう睨《にら》んでひがんでいるらしいです。初七日の前に、姉が去年つくった新しいやつを浮気の相手の女にくれてやったとね。この話、何か役に立ちませんか?」 「さあ、いますぐには何とも考えがつかないがね。宗子が殺される直前にでもそのウールのツーピースが行方不明になったというなら話が別だが、死んだあとじゃね」 「被害者もせっかくつくったツーピースをきて死ねばまだよかったのに、寝巻で殺されたんじゃ気の毒ですね。まあ裸よりはいいですがね」  石子が自分でいったようにその聞込みだけではすぐにその場で考えが浮ばなかった──が、刑事の何気ない最後の呟《つぶや》きが、刑事の去ったあとで警部補にひとつの暗示となった。  暗示から発展した考えは、 (宗子の新しいツーピースが家の中にないというのは、宗子がどこかに着て行って、失《な》くしてきたのではないか)  というのである。  着て行って失くしたというのはおかしい。それでは行先で別な着ものと取りかえるか、裸で帰ってくるしかない。第一、そういう行先がどこにあったろうか。捜査では宗子には愛人も居ないし、とくに親しい友だちもいないから、着ているものを脱いで帰るようなところはなさそうである。行くなら静岡の妹のところだが、栗山の出張中にそこに行ってないことは確実である。  が、ツーピースの所在は別としても、栗山の留守に宗子がそれを着て外出したということはあり得るではないか。近所の聞込みでは、宗子が外出した話が出てこないが、ああいう無関心な住宅地だから、だれも気づいてなかったのかもしれない。ことに外の寒い季節である。どの家でも昼間から表を閉じて中に閉じこもっていたにちがいない。      7  思い違いというのは、たいてい出来上った概念に影響されることが多い。たとえば自殺や心中の多発する名所地での他殺死体は状況によっては自殺で処理されるかもしれない。自動車事故多発地帯での自殺運転は、車の事故で片づけられるだろう。敵の多い政治家の暗殺は、その政治的な死によってとかく個人的な原因が見落される。  石子は、宗子が去年つくったツーピースがなかったこと、死体が寝巻だったこと、「裸よりはいいですね」という部下の呟きに刺戟されて脳の思考神経が活動した。  仙台─福島間は車で二時間くらいはかかるだろう。雪道だから、もう少しかかるかもしれない。二月二日、栗山は仙台発一一時一一分の特急で福島に行ったといっているが、青柳旅館を九時に出ている。彼はどの土地でも駅の発車時刻より一時間か二時間は早く旅館を出ている。それは土地の様子を見て歩くためで、やはり商売の参考にしているのだという。  栗山が九時に仙台の旅館を出て、仙台に近いいずれかの場所に、前夜置いた車を取りに行ったとしよう。その車に乗って福島に向ったと仮定する。二時間半かかったとして福島市内に入るのが十一時半、三時間を要したとして十二時である。仙台発一一時一一分特急「やまびこ」の福島着は一二時〇九分である。栗山は福島市内の海産物商山下喜市方に十二時半ごろ現われているから、仙台から乗ってきた車をどこかに置く。それから徒歩で山下方を訪問すれば、たった今特急で着いた顔ができる。  その海産物商で栗山はライトバン一台の売込みに成功しているが、この商談に二時間かかっている。その店を出たのが午後二時半ごろだ。それから市内回りをして、最後の得意先の伊東電機商会を出たのが四時だといっている。あたりはすでに暗くなりつつあった。二月はじめの福島地方の日没は午後五時〇一分である。  ところが栗山が萩野の家に現われたのが八時半ごろである。最後の得意先の伊東商会から萩野宅に行くバスの所要時間をさし引いても二時間半くらい時間が剰る。この時間、栗山は何をしていたのだろうか。  石子は、ここで栗山が萩野方に寄ったのは、福島を「中継地」にしたのだと推定した。彼は萩野の妻がすすめるままに同宅に泊ったが、無理にそこに泊る必要はなく、市内の旅館でもよかったのだ。ただ、福島に来て友人の萩野の家に顔を出さないでは不自然なので、寄ってみたまでであろう。だから、彼は萩野夫婦に向って出張から四日に東京に帰ることを強調した。  ところが栗山も予想しなかったことが起った。萩野が、栗山の出張を知り、その留守を狙って宗子に「遇《あ》い」に東京の家に向ったことである。が、これは一時は捜査側を混乱させることで彼を利した。が、結局は萩野が侵入した三日の晩、宗子が家の中に居なかったことで栗山の犯罪を推定するのを助けた。  さて、栗山が萩野宅に行くまでの約二時間の余剰は、栗山に或る行動をさせる充分な時間であったろう。彼は仙台から車で来て、福島市附近の人目につきにくい処に置いている。雪の、引込んだ田舎道か空地にでも駐車させておけば、人通りは少いし安全である。露天駐車はありふれている。  二時間もあれば、栗山は駐車した場所に行き、その車を運転して、福島よりもっと南の土地までに持ってゆくことができる。しかし、福島までの帰り時間を計算に入れなければならないから、それは片道一時間くらいのところだ。郡山市の近くまでは行けるだろう。其処の、やはり人目につかない、寂しい場所に車を放置して、福島への引返しは郡山駅からでも乗る。時刻表を見ると郡山発下り急行一八時四一分というのがあって福島には一九時二一分に着く。萩野宅には八時半ごろに入れるわけである。  翌三日朝、栗山は、出勤する萩野といっしょに彼の家を八時すぎに出ている。途中で萩野と別れ、駅に向う。仙台に行くのではなく、逆に上りのホームに出たのだ。八時二七分発の特急は郡山に九時〇一分に着く。  郡山近くに置いた車の南への移動は、どこまで行けるか。一時間以上かけると黒磯以南の西那須野あたりまで運べる。そこで例によって車を匿《かく》す。西那須野下り一一時三五分発急行「まつしま1号」には充分に間に合う。これは仙台に一四時三一分に着く。栗山は午後三時半ごろに仙台支店に顔を出しているから、ちょうど時間が合致する。彼が一一時五〇分の列車で仙台について、気晴らしに仙石線で松島を往復してきたというのは虚言とみていい。彼の行動を見ていると、決してタクシーやハイヤーは利用していない。乗客の多い鉄道かバスである。ウソの証拠をとられないようにしているのだ。  四日、栗山は仙台から東京に帰る。この日は夜、新宿で同僚たちと飲んでいるので何ごともしなかった。  五日は、自分の車で宇都宮に行っている。そこの特約店を出たのが午後四時すぎである。宇都宮と西那須野間は約四〇キロだ。往復二時間足らずだろう。これに宇都宮から東京までの四時間か五時間を加えると、栗山が自宅に戻ったのは十時から十一時の間ということになる。浅草の映画は、六日の昼間にでも、夜の八時二十分からに当る番組のものをのぞいたのであろう。外回りなら、それくらいの時間は取れる。  その前の西那須野附近では、栗山はそれまで仙台から福島と乗った車のトランクから物体を取り出し、これを自分の乗用車に積み代える。仙台で盗んだ車はそのまま放置したのだろう。しかし、彼は必ず手袋をはめていたにちがいないから、指紋は決して遺していないであろう。しかし、その盗難車は他の者がまた盗まない限り、西那須野あたりにきっとある。  五日の晩十一時まえ、栗山は自宅に戻って自家用車のトランクから物体をとり出して物置に入れる。その前に、泥まみれのウールのツーピースを脱がせ、寝巻に着がえさせる。すでに死体は死後硬直が解けて軟かくなっているから着更えは自在にさせられる。  彼女が仙台に着て行ったウールの洋服は雪に濡れ、車の埃だらけのトランクの中で汚され、連日の冷たい湿気で疲れ、皺だらけとなっている。これをクリーニングに出しても直らないし、洗濯屋にも怪しまれる。栗山はこれを義妹に遺品《かたみ》わけすることができなかった。死体の腐敗が進んでないのは寒冷のためだ。車は雪道を走り、四晩も雪の中に放置された。車のトランクが冷蔵庫の役になっている。  宗子は物置の中に寝巻で横たわらねばならなかった。「夫の出張中、留守を守った妻」にしておかなければならないのである。一年じゅうどこかで起っているケースの一つとして、≪留守居の妻絞殺さる≫という新聞見出しの中に入るのである。読んだ者は、ああ、またかと思うだろう。妻のほうから遠い、殺される場所に出向いて行って、戻ってきたとはだれも思わない。  仙台の盗難車の古いライトバンが西那須野附近の藪《やぶ》かげで発見された。五日以来の降雪で、車の雪達磨《ゆきだるま》になっていた。二月一日、仙台市内の路上駐車中を盗まれたものである。車の中に栗山の指紋は無かった。後部トランクの中には物を引きずったあとがあった。 「二十九日の晩、君が山形県の天童温泉の宿から自宅にかけた電話の一部を旅館の交換台にいた女中さんが小耳にはさんでいたんだよ。君は、奥さんに二月一日に仙台にくるように云ったんだね?」  石子は栗山にいった。これは取調官の詐術《さじゆつ》である。西那須野発見のライトバンのことで攻めたあとだった。 「それにしても、よく奥さんが東京から仙台にやってくる気になったね」 「たいへん重要な用件ができたから、一日に仙台に来いといったんです」  自供をはじめてから栗山は泣いていった。 「ぼくが会社の金を競輪や競馬で費いこんだことがばれたので、すぐには東京に帰れなくなった。至急に善後策を相談したいからといったのです。仙台に着く列車の時間も指定しました。上野発一五時の特急『ひばり4号』です。仙台駅には一八時五八分に着きます。ぼくは五時半ごろに路上駐車で盗んだライトバンを持って、駅前で待っていました。それから旅館に行くといって宗子を乗せ、南の名取市《なとりし》あたりまでは国道を走り、それから西側の県道に入って山のほうに向いました。山麓《さんろく》からは村道になりました。雪が深いのでそれ以上は行けませんでした。八時半ごろでした。だれも通っていませんでした。人家も遠いのです。わたしは宗子に、費いこんだ金の弁償もできないし、刑務所に入って将来滅茶滅茶になるよりは、ここで夫婦で心中しようといいました。そうして、家から持ち出してポケットに忍ばせておいた彼女の腰紐をとり出したのです。……宗子のツーピースは鋏できれぎれに細かくしたあと、六日の昼、晴海の海岸に行って、海に撒《ま》き散らしました」  初出誌    証明 オール讀物(一九六九年九月号)    新開地の事件 オール讀物(一九六九年二月号)    密宗律仙教 オール讀物(一九七〇年二月号)    留守宅の事件 小説現代(一九七一年五月号) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年四月二十五日刊