[#表紙(表紙.jpg)] 松本清張 無宿人別帳 目 次  町の島帰り  |海  嘯《つなみ》  おのれの顔  逃  亡  俺は知らない  夜 の 足 音  流 人 騒 ぎ  赤  猫  左 の 腕  雨と川の音 [#改ページ]   町の島帰り      一  船は六ツ刻《どき》に着くということであったが、予定より半刻遅れた。さきほど、いま船見番所前で検問にあっている、という報《し》らせがきてから迎えの人々は活気づいていたが、遅いので待ちあぐねていたところであった。船が大川から西に入り、亀島橋をくぐったところで姿を見せると、霊岸島|河岸《がし》に待っていた出迎え人たちは、いっせいに喚声をあげた。 「これ、静かにしねえか、お上《かみ》の手前もある」  貸元らしい年寄りが手を振って制《と》めたが、この男も笑いながら船の近づくのを見ていた。船には二、三十人の人間が乗っていた。いずれも三宅島や八丈島に遠島《えんとう》になっていた流人《るにん》たちであった。今度、公方《くぼう》が薨《な》くなったので大赦《たいしや》に遇い、赦免されて江戸に帰ってきたのである。三年、五年と島に居た者が少なくないので、みんな潮焦《しおや》けした黒い顔をしていた。  船が着く。赦免人どもが陸《おか》に上がると、出迎え人たちは、わっと彼らを取り巻いた。口々に名を呼ぶ者がいる。早くも見つけた縁者は久しぶりの出会いに泣き出す者がいる。流人も夢にみた江戸の土を思いがけなく踏んで、黒い頬に泪《なみだ》を流していた。  一番派手な出迎えは、どこかの親分らしく、大勢の男たちにとり巻かれていた。 「親分さん、お帰んなさい」 「親分さん、おめでとうございます」  とにぎやかな声を湧かせていた。この一群れは祭りのような騒ぎであった。当人はほかの赦免人よりも栄養がよく、にこにこしてぐるりの挨拶をうけていた。 「やっぱり江戸だなあ」  彼は首を仰向《あおむ》けて周囲をなつかしそうに見廻していた。  賑やかな騒ぎはこの一団だけで、無論、ほかの者はこそこそと散って行った。出迎えの者に連れられて急ぎ足に行く者もあるし、誰も来なくてひとりだけ寂《さび》しそうに歩いて行く者もある。島では共同の暮しだったが、娑婆《しやば》に帰るとはっきり暮しの差別がつくのである。  目明しの仁蔵《にぞう》は、柳の繁った葉蔭に身体をかくして、眼を光らせていたが、一目で島帰りと知れる恰好の二十八、九の男と、水商売の女らしいすんなりとした背の女とがより添うようにして話しながら歩いているのを見つけると、厚い唇の端に薄い笑いを泛《うか》べた。彼がこうして此処《ここ》に半刻も前から、足の痺《しび》れを辛抱して立っていたのは、この島帰りの男、野州無宿の千助《せんすけ》を待つためだった。  仁蔵の眼は、二人の姿に吸い付いていた。千助の身体に一分の隙《すき》も無く重なるように縺《もつ》れて歩いている色の白い女はお時《とき》といって両国の茶屋の女である。仁蔵の瞳に火のように烈しいものが点《とも》った。  仁蔵は前に出ると、男の背中を黙って手で敲《たた》いた。相手のふり返った顔に、彼はにやりと笑った。 「久しぶりだな、千助」  千助は仁蔵だと分ると顔を歪《ゆが》めた。が、彼はそれをかくすように頭をつづけて下げた。 「達者のようだな、千助。何年、島にいた?」  仁蔵はお辞儀をしている千助を見下ろすように云った。眼の端に、お時が棒のように立っているのもちゃんと入れておいた。 「へえ、二年でございます」  千助は、ぼそりと答えた。 「二年か。早えものだな。もうそうなるか」  仁蔵はとぼけたように云った。この男を島に送り込んだのは仁蔵なのである。 「どうだ、島は辛《つら》かったかえ?」  仁蔵は空うそぶいた。 「へえ」  千助は眼を伏せていたが、瞼《まぶた》が小さく震えていた。 「お代《だい》がわりになって御赦免に遇い、おめえも仕合せだ。折角、江戸の土が踏めたんだ。もう悪事をするんじゃねえぞ」  仁蔵は濁った含み声で睨《にら》みを利《き》かした。 「へえ」  千助はやっぱりうなだれていた。 「おめえ、今夜のねぐらはあるのかえ?」  白い顔が横から動いてきた。 「もし、親分さん、もう勘弁《かんべん》して下さいな」  お時が仁蔵を睨むように云った。 「この人のことは、あたしがみますよ」  仁蔵は、ゆっくりと女の方に顔をむけた。彼はまた唇に薄笑いを上せた。 「違えねえ。おめえが居たっけな。二年待った貞女のいるのに気がつかなかった。なあ、お時、待ちこがれた可愛い男が帰ってきて、おめえも今夜から愉《たの》しみだな」  この言葉は、ぎらぎらした眼つきで出た。 「だがの、千助」  と、その眼をじろりと戻した。 「おいら、砂糖をなめたような甘え顔ばかりもしていられねえからの。火つけ、押し込みの物騒な当節だ。島帰りの無宿者は特に気をつけろというお上からのお達しだ。気に入るめえが、おめえが何処《どこ》にもぐっても、ときどき、この面を出させて貰うぜ」  千助は眼をあげたが、一瞬光ったものが走った。が、すぐお辞儀をすると、何も云わないでお時に促されて歩き出した。 (あの阿魔《あま》)  どうするか見ておれ、と仁蔵は二人の仲のよい後姿を騰《たぎ》るような胸を抑えて見送った。  急に肩をつつかれたので、仁蔵はふり向いた。さっき、芸者衆の賑やかな出迎えをうけたでっぷりした男が、今も大勢をうしろに従えて立っていた。 「これは、親分」  仁蔵は人が変ったように、あわてて頭を低くした。 「お帰んなさいまし」 「しばらくでしたな、仁蔵の親分」  と、相手はゆったりと笑った。 「早速、誰かを苛《いじ》めて居なさるのかえ?」 「いえ、そういう訳では──」 「折角、お上のお慈悲で江戸に帰《けえ》った人間だ。大目にみてやって下さいよ」  仁蔵は二、三度、頭をつづけて下げた。      二  仁蔵がはじめてお時を見たのは、三年前、目明し仲間の寄合いのくずれで、両国の茶屋に飲みに行ったときであった。そのときは近くの芸者を二、三人よんだが、仁蔵の眼はそんな安芸者より、座敷で立ち働きする顔の細い小股《こまた》の切れ上がった女中に惹きつけられた。  仁蔵は、好い女だな、と思った。幸い、手洗いから帰るとき、廊下でその女に行き遇ったので、手を握って、 「おめえ、何という名だえ?」  と酔った振りをしてきいた。 「お時と云います」  女は笑いながら答えて、手を振りほどいて行った。仁蔵は、その顔が忘れられなくなった。  その後、仁蔵はひとりでその茶屋に上がった。先方では仁蔵の職業を知っているので粗略にしなかった。 「おや、親分さん。先日は」  とお時が座敷にきて挨拶した。 「今晩も、誰か若い妓《こ》を呼びましょうか?」 「それには及ばねえ」  と仁蔵はらいらくに手をふった。 「こちとらの身分じゃ、ここに上がるだけでも贅沢《ぜいたく》だ。おめえがお酌《しやく》してくれたら充分だ。この間の狐つきのような顔の芸妓《げいこ》より、おめえの方がよっぽど弁天さまだ」 「おや、本当にしますよ。恐れ入ります。それではゆっくりお過し下さい」  色が白く、切れ長の眼の睫毛《まつげ》が濃い。笑うと口もとに男心を唆《そそ》るような愛嬌《あいきよう》がある。仁蔵は前見たときよりも余計に好きになった。  だが、その晩はあっさり引きあげた。仁蔵は一度眼をつけた女は遁《のが》したことがない。ことに茶屋の女中なら訳はないと思った。しかし、これは彼の誤算であった。  仁蔵は、それから繁々と通った。たかが目明し風情《ふぜい》では、そんな金は無い筈だが、彼には金蔓《かねづる》があった。職業柄、弱味のある商家を二、三軒握っていた。番頭の前で、灰吹きに煙管《きせる》をとんと強く叩くだけで、彼の袂《たもと》が重くなる方法を知っていた。 「どうだえ、お時。おいらがこれだけ通えば、たいてい心が読めそうなものじゃねえか」  仁蔵はお時の両手を掴《つか》んで、膝に揉《も》むようにして云った。彼は自分の座敷に、お時以外の女中を入れたことがない。 「あんなことを云って。ご冗談ばっかり」  お時は笑って一向に乗ってこない。これは手強《てごわ》いな、と仁蔵は初めて悟った。 「おめえに情夫《いろ》でもあるのかえ?」  仁蔵は通っている間に、痺《しび》れを切らして遂に野暮なことをきいた。こういうところの女は、たいてい男があっても居ないと云う。ところが、お時は、仁蔵があまり執拗《しつよう》だと思ったのか、わたしには決まった男があります、と答えた。 「へええ、そうかい。おめえほどの女をもった果報な男の顔が見てえもんだな」  お時は笑ったが、どこか寂しそうな顔をした。顔色を読む商売の仁蔵は、それを見遁さなかった。  仁蔵は子分に云いつけてお時の身辺を洗わせた。職業柄、それも訳はなかった。お時は茶屋の裏の髪結床の二階を借りていて、男と一緒に暮らしているという。男は毎晩、遅く帰るお時を迎えに来ているというのだ。 「ふうん」  仁蔵は鼻をふくらませて莨《たばこ》の煙をはいた。 「一体、そいつあどんな野郎だ?」 「それが親分、けちな遊び人ですよ」  子分の報告によると、その男の名は千助といって、方々の賭場《とば》に出入りして小《こ》博奕《ばくち》を打つという。気のやさしい男だが、そんな素行が直らないのでお時は気に病んでいる。けれどお時の方がその男に執心して世話を焼いているというのだった。 「そうか。それでたいてい分った」  仁蔵は煙管を指にはさんだまま考え込んだ。そう聞いたらいよいよお時が欲しくなった。一度、眼をつけたら必ずものにして来た男なのである。  その後、だんだん探ってみると、千助というのは国元で何かの間違いを起し、江戸に出奔《しゆつぽん》してきた男と知れた。無宿者と分って、仁蔵の気持は決まった。  馬喰町《ばくろちよう》の質屋に泥棒が入って、金と店の質物を奪って逃げた事件が起った。その下手人に仁蔵は千助を無理に仕立ててしまった。当時、幕府の方針として無宿者に苛酷であった。仁蔵の巧みに作った証拠に、千助は入牢《じゆろう》し、石を抱《だ》かされて知らないことを白状した。それで遂に三宅島遠島となった。 「ざまあ見ろ」  仁蔵は肚《はら》の中で嗤《わら》った。遠島になったら、一生帰れるかどうか分らぬ。これでお時はおれのものになったとかちどきを上げた。  しかし、仁蔵の目算はここでもまた外れた。お時が少しも靡《なび》いて来ない。 「お時、おめえもあんな男のことをいつまでも想っていても始まるめえ。ここらで心を変えてみる気はねえか」 「親分さん。そりゃ駄目ですよ。あたしゃ、あの男が忘れられないんですから」  お時はきびしい眼つきで云った。彼女は仁蔵が千助を島送りにしたことを知っていた。 「二度と帰って来ねえ男でもか?」 「死んだと思って、後家のつもりで通します」 「ふん」  仁蔵は鼻を鳴らした。これは尋常では落ちない。狙ったら、おれのものにせずには置くものかと粘《ねば》りはじめた。  仁蔵は茶屋に上がって会うだけでは辛抱が出来ず、髪結床の二階まで押しかけた。お時は午《ひる》ごろまでならそこに居た。 「どうだ、お時。こうまでおめえに惚れて思い詰めて来てるんだ。何とかしてくれ」 「みっともないですよ、親分さん。あたし風情の女に。みなから嗤われますよ」 「嗤われても構わねえ。惚れたのが因果だ」  もう見栄も何もなく、手をかけて身体を抱こうとしたが、女はそれを突き放した。 「見損なっちゃ困りますよ」  仁蔵は、蒼《あお》すごんでつっ立っているお時を睨んだが、次には笑った。恰好の悪さなど気にする男ではない。  二度目に、髪結床に押しかけたときは、お時は茶屋に住み込んでしまっていた。手も足も出なかった。が、目をつけたが最後、諦める男ではなかった。仕方なく、どこかの商家から金を強請《ゆす》り上げては茶屋に通った。 「おめえも強情な女だぜ。ちったあ、おれの気持にもなってくれ」  手をひきよせて口説くが、お時はそれを振りもいだ。 「何とおっしゃっても、これだけは仕方がありません」  と遁げた。仁蔵は舌を鳴らしたが、そう邪慳《じやけん》にされると本気に惚れてしまった。なに、ひとり者だ。淋しくなって今にうんと云うだろうと思った。目的を遂げるまでは、気の長い男であった。二年というものをそんなことで過してきた。  しかるに今度、将軍家が薨《こう》じ、新将軍があとに立った。幕府では、大きな慶事と仏事があるときは大赦を行なう。島送りの流人で、神妙なものは帰されることになっていた。  仁蔵は、今度、伊豆諸島から放免されてくる赦免人の中に、野州無宿の千助の名のあるのを知ってびっくりした。  折角、送り込んだのに、もう帰ってきた。お時を手に入れることは、これでいよいよ絶望になる。仁蔵は不機嫌に顔をしかめた。  だが、彼は諦めることを知らない執念深い男であった。二年も待たされて何のことか分らぬという業腹《ごうはら》もある。彼が一日《いちんち》、むつかしい顔をして黙りこんだ揚句、にたにた笑い出したのは、別な胸算《むなざん》が立ったからであった。      三  霊岸島で、島帰りの千助を待ちうけて、嫌味を云ったのは、彼の秘かな目算の第一歩である。しかし、この時の疵《きず》はどっちが深かったか分らない。お時と千助が仲よく縺《もつ》れるように歩いている姿を見せつけられて、仁蔵は熱湯を咽喉から注ぎ込まれたような口惜しさを覚えた。お時が千助を庇《かば》うように仁蔵の前に立ったのも彼の胸をかきむしった。 「野郎」  仁蔵は嫉妬《しつと》で眼が昏《くら》みそうだった。今夜から愉しみだろう、といったのは口先だけの皮肉ではない。仁蔵は妄想で七転八倒した。蒼白い憎悪が燃え立った。よし、千助を一番気に入る方法で始末しよう。お時は意地でもものにしてみせるぞ。仁蔵を舐《な》めるな。  仁蔵は手下を使って、お時と千助の様子を探らせた。 「親分。お時はまた髪結床の二階に移りましたぜ。千助の野郎と一緒です」  と子分は報告した。 「ふうん」  仁蔵は煙を吐いた。 「どんな様子だ?」 「お時は千助を病人のように大事に介抱しています。島で苦労したというので、身体をつくるため、せっせとうまいものを喰べさせているそうです。着物を脱いでまで尽しているとかで、脇で見ちゃいられないと階下《した》の髪結の女房がべらべらと喋《しやべ》りました」 「そうか」  仁蔵は唇を噛んだ。 「千の野郎は無宿者だ。お時の給金じゃいつまでも贅沢な飼い方は出来めえ。質草が無くなりゃ何を仕出かすか分らねえ。油断なく見張っていてくれ」 「分りました」  仁蔵の気持は、相変らずおだやかでなかった。二年間放っておかれたお時の、男に乳でも呑ませるような夢中な可愛がりかたが眼に見えるようであった。彼は脂汁《やにじる》を一どきに嚥《の》みこんだような苦さを味わった。  それから三日と待てずに、仁蔵は両国に出かけて茶屋に上がった。家にじっとしていられないくらい胸が苛々《いらいら》するのだ。  お時はいつもより硬くなった顔で仁蔵の前に出た。 「どうだえ、お時。おめえ、急にやつれたようだぜ」  と仁蔵は酒を飲みながら、お時の顔をにやにや笑って見て云った。 「大そう千助を可愛がっているそうじゃねえか。身体に毒だぜ」 「亭主でございますからね。島で痛めつけられて可哀想です」  お時は歪んだ微笑を見せて云った。 「違えねえ。千助はおめえの亭主だと何度も聞いたっけ。だが、島戻りの無宿者は危ねえから気をつけろとおいら旦那方から云われている。おめえには箱の中にしまって置きてえ大事な亭主でも、俺は壁に穴あけても目を離さねえから、そう思ってくれ」  お時は黙って細い眼に光を湛《たた》えていた。 「なあ、お時」  と仁蔵は調子をやさしくしてつづけた。 「十手を預かる身は辛《つれ》え。固いことばかり云っても居られねえ時もあらあな。おめえの気持ひとつで相談にも乗るぜ。おめえだって千助をまともな人間に直してえに違えねえ」  お時は眼を挙げたが、また伏せた。そして始終黙っていた。仁蔵はお時の心に手応えがあったと見て、肚の中でせせら笑った。彼はその晩はあっさり引きあげた。  それから十日もすると、子分が報告にきた。 「親分。千助の野郎は働きに出ていますぜ」 「働きに?」  仁蔵は眼をむいた。 「へえ。浅草の馬道の料理屋で板前の手伝いをやって居ります」 「あいつにそんな手職があったのか?」 「なに、手職というほどじゃござんせん。魚の水洗いや、鉢、皿などのよごれを洗う、けちな下働きをしております。お時が茶屋の知り合いに頼んで、千助をそんなとこに嵌《は》めこんだに違えありません」  そんなことだろうと仁蔵はうなずいた。それを聞いて、お時が千助に一生懸命になっているのが、仁蔵に改めて腹を立てさせた。彼は長い羅宇《らお》で火鉢を激しく叩いた。  あくる日、仁蔵は、子分から聞いた馬道の料理屋をたずねた。思ったより構えの大きな家だった。 「いらっしゃい」  小女が大きな声で迎えた。 「なに、客じゃねえ。ご亭主かお内儀《かみ》さんが居るなら、ちょいと内緒で会いてえといってくれ」  仁蔵が懐の朱房《しゆぶさ》をのぞかせると、小女は怯《おび》えたような眼で奥へ行った。  奥から四十くらいの肥えた女が、盆に銚子とつまみ物を持って出てきた。 「おめえがおかみさんかえ?」 「さようでございます。親分さん、まあ、おかけ下さい」  おかみは少し不安そうな顔で、銚子を仁蔵の前に置いた。 「そんなことをされちゃ困る。今日は、ちょいと訊きたいことがあって来たのだ」  仁蔵は自分の名前を云った。 「お前さんのところへ、近ごろ千助という男が傭《やと》われて来たかえ?」 「はい。知り合いから頼まれましたので、恰度《ちようど》洗い場が手不足だったもんですから来て貰いました」  おかみは不安げに答えた。仁蔵は黙って腰から莨入《たばこい》れを抜いた。その様子を見て、おかみは咽喉に唾をのんだ。 「おめえさん、あの男が島帰りの無宿者だと承知して傭いなすったかえ?」  仁蔵は鼻から煙を出して云った。 「えっ。無宿者ですって。わたしは知り合いから頼まれたので、間違いない人だと思って傭ったのですが」  おかみは、息を詰めたような顔になっていた。 「受け人はあるのかえ?」  仁蔵はきいた。こういう商売は堅気な店と違ってたいていいちいち保証人を立てない。おかみは知り合いの紹介だから定まった受け人はないと答えた。 「そうだろうと思った。無宿者の受け人に立った日には、他日、身体が危なくてしようがねえ。まあ、間違いがなければ、それでいいが」  江戸の町内に住むには、地主、家主、五人組などの保証が必要であった。悪事をする者があると町内のこういう人たちは連帯責任で共に罰せられる仕組みになっていた。人別書き(戸籍)を持たないで故郷を出奔した無籍者は、このような制度のために、いかなる職業に就くことも困難であった。喰い詰めた彼らから犯罪者が多く出たのは当然である。無宿者は江戸制度の谷間であった。  仁蔵が出された銚子を一本のんで下駄をはいた時、肥えたおかみは顔色を蒼くしていた。その表情で仁蔵は今からの結果を察した。  三日経って、子分がきて、 「千助はあの料理屋をお払い箱になりましたぜ」  と報らせたとき、仁蔵はうなずいて、にやりと笑った。      四  それからしばらくして子分は報告に来た。 「親分。千の野郎は、風呂屋の三助にもぐりこんで居ますぜ」 「三助だと?」  仁蔵は問い返した。 「へえ。久松町の梅の湯という湯屋の三助をやっております。これもお時が茶屋に来る客か誰かに頼んだに違えありません」  仁蔵は大きくうなずいた。  彼が手拭いを懐に丸めて、久松町に出かけたのはいうまでもなかった。梅の湯は古着屋の隣りでかなり広い間口をもっていた。番台には顔色の悪い老人が坐っていた。  仁蔵は、着物を脱ぐとき懐から十手を大事そうに取り出した。番台の老人の眼はそれを見逃さなかった。かれは、ぎょっとして顔馴染《かおなじ》みのない客の仁蔵を見た。仁蔵はわざと知らぬ顔をして柘榴口《ざくろぐち》をくぐった。  暗い湯槽《ゆぶね》の中には二、三人の男が沈んでいた。わざわざ遠いところから来たから誰も仁蔵の顔を知っている者は無かった。  仁蔵は高い湯槽をまたいで上がると、洗い場の隅に臀《しり》を下ろした。それから手を拍《たた》いた。 「へえい」  と裏から返事が聞えた。  湯気の霞《かす》んだ中からちらりと見ると、くぐり戸を開けて来たのは、まぎれもなく千助であった。仁蔵は背中を向けたまま、顔を見せずに云った。 「おい。こっちだ。流してくれ」 「へい、ありがとうございます」  千助は湯桶の湯を仁蔵の背中にかけて、絞った手拭いでこすりはじめた。 「おめえ、たいそう流しかたがうまくなったな」  仁蔵は、顔をうつむけたまま云った。 「へっ」  背中の手が動きをやめた。声で分ったらしく、千助はびくりとしたようだった。 「親分ですか?」  と、間をおいて千助は低い声で云った。声が少し慄えていた。 「おれで悪かったな。やい、千助、面は見せるぜと云っておいた筈だ」  仁蔵は大きな声で云った。 「おめえ、いいところへはまりこんだな。千助が三助になったなんざあ洒落《しやれ》になるぜ。いつからここへ来た?」 「へえ、五日前からです」  千助はあたりを憚《はばか》るように小さい声で云った。 「新米《しんめえ》にしちゃ上達が早え。それとも島で習って来たかえ?」  千助は黙っていた。傍にいた客が二人の方をぬすみ見した。 「おう、背中が冷えらあ。湯をかけてくれ」 「へえ」  千助が湯桶に湯をくんで、ざあざあ流しはじめた。 「なあ、千助」 「………」 「折角、もぐりこんだ仕事だ。おとなしくしていろよ。無宿者には過ぎた職だあな。受け人はあるのかと野暮な穿鑿《せんさく》はしねえ。島で括《くく》られているつもりで、まあ辛抱して働け」  相変らず仁蔵の声は大きかった。暗い柘榴口の中で、湯につかっている客が話し声をやめて聞き耳を立てているのが分った。千助は恨《うら》めしそうな顔をしていた。  仁蔵がようやく千助を解放して板の間に上がると、先に上がった客が番台の親爺の耳に何か云っているところであった。かれらは仁蔵の顔を見るとあわてて囁《ささや》きをやめた。親爺は仁蔵に愛想笑いをした。  仁蔵が着物をきて出ようとすると、番台から親爺がぺこりとお辞儀をして引きとめた。 「もし、親分さん。あの千助という奴は島帰りですかえ?」 「云っちゃ可哀想だが、ありようはそうだ」  仁蔵は満足して云った。 「誰の口ききで入れなすった?」 「ちょっと知り合いから頼み込まれたものですから」  親爺は顔をしかめた。 「まあたいした悪い奴じゃねえ」  仁蔵はわざと鷹揚《おうよう》に云った。 「気をつけて使ってやんなよ。客の持ちものなんざおめえさんが目を光らせて番することだな」  さっきの客が、ぎょっとしたように着物を抱えた。親爺の眼の色の変ったのを見て、仁蔵はいよいよ腹で嗤いながら外に出た。  二、三日経つと、子分が仁蔵に知らせてきた。 「親分。千助の奴は三助もお払い箱になりましたぜ」 「そうか」  仁蔵はうまそうに雁首《がんくび》に詰めた莨に火をつけた。 「どこへ行っても長つづきのできる野郎じゃねえ。いま、どうしている?」 「髪結床のお時のところで、詰まらねえ顔をしてごろごろしてまさあ」 「そのうち食いつめると油断が出来ねえ。今までのようによく見張っておけ」 「合点です」  仁蔵は、その晩、着替えて茶屋に足を向けた。茶屋では仁蔵が来ると、お時のあしらいと決めて、いつも彼女を出した。 「しばらくだな、お時。これは元気か?」  仁蔵は親指を立てた。 「あまり元気でもありません」  お時は仁蔵を怨《うら》むような眼で云った。 「親分さん。後生《ごしよう》だからあの人を苛《いじ》めないで下さい。折角、あたしは苦労して堅気にさせようとしているんですから」 「とんだ貞女鑑《ていじよかがみ》を見せつけられたが、そりゃ云いがかりというもんだぜ、お時」  仁蔵は、あざ嗤った。 「無宿者には旦那方も気を使っていなさる。千助を野放しにして眼の届かねえ所においては、役目怠慢でおれが旦那方の小言《こごと》を喰わにゃならねえ」  仁蔵は銚子をもったお時の手首をつかんだ。 「えい、お時。役目だが、底もあれば蓋もあらあな。次第によっちゃあ、おれが千助をまともな仕事に世話せぬでもねえ。その均衡《かねあい》はおめえの胸におれは預けているつもりだ。たいてい分っている筈だから、くどくは云わねえ。可愛い男を生かすか廃《すた》れ者にするかだ。よく考えてみてくれ」  お時は握られた手を今度は強くふり放さなかった。黙ってうつむいているお時の衿あしに覗いた襦袢《じゅばん》もうすい垢がついていた。 「おらあ気の優しい男だぜ。三年越しにおめえを想って諦められねえところでも判ってくれるというもんだ。なあに、千助と別れろと云うんじゃねえ。時々、かげで会ってくれれば、それでいいんだ。ええ、おめえとおれとが口を固くしていれば分ることじゃねえぜ」  仁蔵は、膝を乗り出して、お時を口説き立てた。      五 「千助は屑《くず》買いになりましたぜ、親分」  子分の報告に、仁蔵は舌を打った。 「ちぇっ。性懲《しようこ》りのねえ野郎だな。どの辺をうろついている」 「旅籠町《はたごちよう》から黒船町、竹町のあたりを屑籠かついでほっつき廻っております」 「うむ、浅草か」  仁蔵は眼を瞑《つむ》った。屑買いにも縄張りがある。あの辺は誰だったかなと仁蔵は考えたのだ。  仁蔵が丹波屋という屑ものを扱う問屋の店に姿を現わしたのは、その日のうちであった。店さきは小さいが、横手の空地には集めたいろいろの屑の山が積まれてあって、かすかな臭気が漂っていた。四、五人の男がそれをより分けていた。 「主人は生憎《あいにく》と他出して居りますが。私は番頭でございます」  痩せた男が、仁蔵の身分をきいて出てきた。 「番頭さんでも構わねえ。立ち話でも済むことだ」  仁蔵は框《かまち》に腰かけて、渋茶をすすった。 「何か、間違いでもございましたか?」  番頭は心配そうにそうきいた。こういうところは扱う品に時々盗品がまじるのであった。 「いや、まだ間違いが起ったという訳じゃねえ」  仁蔵は云った。 「起るかも知れねえから気をつけろと云いに来たのだ。おめえのところに近ごろ千助という男が出入りを始めやしねえか?」  番頭はうなずいた。 「へえ。主人が誰かに頼まれましてね。困っているから面倒をみてやってくれといわれて新しく出入りさせました。まだ素人《しろうと》ですからたいしたものは持って来ません」 「そのうちたいしたものを持ってくるようになるかも知れねえぜ」  仁蔵がせせら笑ったので、番頭は不安そうに眉をよせた。 「親分さん。一体、あの男はどういう素姓の者ですか?」 「おめえも人を使う男だから、たいてい顔を見れば分りそうなものだな」 「へえ」 「千助は無宿者だ。それもこの間、島から帰ってきた男よ」  仁蔵は吐くように云った。痩せた番頭は眼をまるくした。 「迷惑のかからぬうちに教えに来てやったのだ。うっかりすると、野郎のことでどんなかかり合いになるか知れねえと主人が帰ったら耳うちしといてくれ。おれが埃《ほこり》をかぶってここまで出向いて来たのは、それだけの用事だ」  それから三日とたたぬうちに、子分が知らせにきた。 「千の奴は、屑屋から断わられたそうですよ」 「屑屋からお払いになれば世話は無え」  仁蔵は歯を出して笑った。 「いよいよ、あの野郎は食い詰め者だ。これから何を仕出かすか分ったものじゃねえ。気をつけろよ」 「分りました」  その子分は十日も経つと、千助が賭場通いをしはじめたことを告げにきた。 「ふん。とうとう逆戻りをしやがった」  仁蔵は、眉を開いて、煙管《きせる》の吸い口で頬を掻いた。彼にはもう成算があった。  茶屋の座敷に上がると、お時は前よりも一層やつれた姿で仁蔵の前に坐った。 「ちょっと見ねえ間に、おめえ痩せたようだな」 「ええ」  お時は口の中で返事をした。着替えもないのかお時は前にみた着物をやっぱり着ていた。前よりもくたびれていた。お時は隠すように垢じみた衿に手をやった。 「どうだ、千助と仲がいいか?」  仁蔵が盃を与えると、お時はその酒をぐっと飲んだ。 「親分さん、この間のお話は本当ですかえ」  彼女は仁蔵に眼を据えて云った。仁蔵は、来たな、と思った。 「千助のことか? 惚れた男だが、おめえも困るだろう。このごろはまた賭場に出入りしているそうじゃねえか?」  お時は、弱くうなずいた。気苦労のあとが窶《やつ》れた顔に出ていた。 「可愛い男を何とかしようとするおめえの気持も分るが、無宿者じゃ世間さまが相手にしねえのも無理はねえ。このままじゃ、千助はやけになって、また島送りになるぜ」 「あの人は破れかぶれになっているんです。もうあたしの力では及びません」  お時は眼に泪《なみだ》を浮べていた。仁蔵は舌で唇を舐《な》めた。 「そうだろう。ここらが大事の瀬戸際だ。おらあ嘘は云わねえ。世間に、ちったあ売れた顔だし、無理をきいてくれるところもある。千助を真面目《まじめ》な店《たな》に世話してやろう」 「本当でしょうねえ」  お時は瞳《め》をあげた。泪で濡れて色気が出ていた。 「嘘は吐《つ》かねえと断わった筈だ。きっと世話する。なあ、お時、それで、おめえの気持は決まっているんだろうな?」 「え」  お時はまたうつむいたが、微かにうなずいた。仁蔵が、彼女の細い手をとって引き寄せると、今度は抵抗は無かった。 「可哀想に、苦労しているようだな」  仁蔵は撫《な》でるような声でいった。 「小遣い銭ぐらいには不自由させないぜ。それで」  と彼は咽喉をごくりと鳴らした。 「何処で遇ってくれる?」  お時は、小さい声で、 「どこでも。親分さんの好いところで」  と応えた。女の身体の重みを仁蔵は受けて、彼の心は燃え上がった。 「そうか。それでは、こうっと、そうだ。浅草の奥山の近くに花屋という水茶屋がある。その二階で待ち合せよう。明日の夕方だ。いいかえ?」  仁蔵がお時の顔をのぞき込むようにして云うと、彼女は仁蔵の臭い息を避けたのか、顔をそむけてうなずいた。 「六ツ半までには必ず来てくれ」  時間まで約束すると、そのあと仁蔵は機嫌よく酔った。こんな味のいい酒は久しぶりである。とうとう漕ぎつけた。仁蔵は心の中で歓声をあげた。長い間、辛抱しただけに、これからの愉しみが大きかった。どうだ、俺は一度狙った女は、金輪際《こんりんざい》、外したことが無いのだ!  仁蔵はその夜、子供のように明日がたのしみで、眠れぬくらいであった。      六  仁蔵が、そわそわして、六ツの鐘を聞く前に支度をしていると、子分が駆け込んできた。 「親分。千助の野郎が挙げられましたぜ」 「なに?」  仁蔵は棒立ちになった。 「どうしたというのだ?」 「賭場の喧嘩《けんか》で暴れて手傷を負わせたのです。千の奴、初めから荒れていたといいますぜ」  仁蔵が考えたことは、千助が追い詰められて自棄糞《やけくそ》になっていたということだ。それは構わないが、いま挙げられたのでは拙《まず》かった、お時を手に入れる寸前なのだ。 「しょっ引いたのは誰だ?」 「寺島の権太《ごんた》親分です」 「ふむ、千の野郎、向うまで足を延ばしていたのか。いつだえ?」 「へえ。たった今、聞いてきました」  こういうことは目明し仲間だけに誰よりも耳が早い。お時はまだ知らないであろう。それに約束の六ツ半は迫っているから、もう家を出たに違いなかった。  仁蔵はやっと胸を撫で下ろして家を出た。空には低い雲が垂れて雨が降っていた。浅草までは、かなりの道のりであるが、仁蔵はぬかるみを苦にせずに歩いた。  仁蔵は約束の茶屋に入った。お時には水茶屋といったが、実は出合茶屋であった。そのお時はまだ来ていなかった。  酒を飲みながら仁蔵は待った。狙ったら外したことがない、という自分の成果に満足を覚えている。お時の身体を空想しながら胸を騒がしていた。  浅草寺《せんそうじ》の五ツの鐘をきくと、仁蔵もさすがに焦《じ》れてきた。約束よりも半刻《はんとき》経っている。遅いのは化粧に暇どっているのか、雨の路に困っているのかといい方に無理に解釈した。ひょっと千助が挙げられたことを知ったのではあるまいかという不安もあったが、そんな筈はないと思った。もし番屋から知らせがあっても、今晩遅くか、明日になる筈であった。  仁蔵は、いっそ途中まで様子を見に行こうかと思ったが、行き違いになるような気がして、それも出来かねた。彼は飲みたくもない酒を注文して、無理に腰を落ちつけた。 「お連れさまは、たいそう遅うございますね」  銚子を運んできた女中が愛想半分に気の毒そうに云った。 「うむ、雨降りで暇どるようだ」  仁蔵は、てれ隠しに云った。 「ほんとに悪い雨でございますね」  女中は調子を合せて去った。  それから、じりじりしながら半刻あまりも待ったが、お時はとうとう現れなかった。今まで勝手に愉しみを空想していただけに、仁蔵は我慢のならない気持で起ち上がった。  欺《だま》しやがった、この仁蔵を!  仁蔵は屈辱と怒りで顔を赤くしながら、極まり悪く茶屋を出た。雨は相変らず降っている。高下駄で歩くのがもどかしく、着物の裾《すそ》をからげて、裸足《はだし》になって走るように歩き出した。彼の脛《すね》に泥が刎《は》ね上がった。  両国橋を渡る時は、闇の大川から吹きつける横なぐりの雨に、仁蔵は身体の半分まで濡れた。彼はよけいに苛立《いらだ》った。  お時が二階を借りている髪結床の前まで来ると、暗い中で傘さしている人達が集まっていた。髪結床は、表の戸を半開きにし、二階の障子には灯影《ほかげ》に映った人影が何人もちらちら動いていた。家の前に立っている人達は、その二階を見上げていた。  仁蔵は、はっとした。最初は千助のことで町方でも来たのかと思ったが、どうも様子が違うようであった。  顔の半分を袖でかくして、仁蔵はそこに立っている人に小さい声できいた。 「もし、この家に何かあったのですかえ?」  きかれた男は、そっと身体を寄せて、 「この家の二階を借りていた姐《ねえ》さんが自害したのですよ。いま、検死があるのです」  え、と仁蔵は危うく大きな声を上げるところであった。彼の顔は石のようになった。 「剃刀《かみそり》でね、咽喉を切ったのですよ。四畳半は血の海だそうです」  仁蔵は、声が出なかった。 「そこの茶屋で女中をしていた女《ひと》なんですがね。少し年増でしたが、それだけ色気がある佳《い》い女でしたよ。可哀想に、男で苦労したのですね。男ってのは、あなた、島から帰った無宿者だそうですよ」 「へええ」  やっと仁蔵は声を出した。その人間が詳しく様子を知っていそうなので、ぐるりの人が三、四人、集まってきた。彼は得意になっていた。 「男が無宿者だから、どこも相手にしないで仕事が無いのですな。やっとありついてもすぐ断わられる。男はあせる。姐さんは心配する。男はまた|やけ《ヽヽ》になるって訳で、とうとう男は人と喧嘩して害《あや》め、縛られて行ったんです」  ぐるりの人は聞き耳を立てた。 「その知らせが来たときは、姐さんは何処かに出かけるところで、着物も着更え、顔もきれいに化粧していたということです。男が縛られたと聞いて、もう駄目だと、せいも張りも無くしたんでしょうな。可哀想に、その支度が、そのまま死出の旅になってしまった訳でさ」  仁蔵は、そっと群れを離れた。  後悔の心は少しも無かった。じだんだ踏みたいのは、間の悪いときに寺島の権太が千助をしょっ引いたということだけである。もう少し、待ってくれたら、お時はおれの所に来て、ものになったものを。指の間から幸運がすり抜けて遁げたような口惜しさであった。  えい、糞面白くも無い。どこかで飲み直そう。仁蔵は雨の中をはだしで、いまいましそうに歩き出した。      七  仁蔵が、八丁堀同心の手にかかって縄をうけたのは、それから二十日とたっていなかった。彼が今まで商家を強請《ゆす》ってきた悪事が露見したのである。一軒が暴《ば》れると、次々に被害の家が分ってきた。  この時代でも、十手を預かっているような人間が悪事を犯すと、罪は大きい。彼は吟味方《ぎんみかた》役人の取調べをうけると、罪状処分の決定まで伝馬町《てんまちよう》の牢に入れられることになった。  牢!  仁蔵は恐怖した。今まで他人を縛って牢に入れたのは数知れない。それは商売だからもとより平気であった。今度は己《おのれ》が入る番なのである。わが身にふりかかってくると、それがどんなに恐ろしいことか、切実に逼《せま》ってきた。  だが、仁蔵が恐怖したのは、それだけではなかった。彼は職掌上、牢内での囚人による私刑を知っていた。最悪の場合は殺されるのである。牢内で憎まれている者がそれを受けるのだ。憎まれる者といえば、岡っ引以上に、その資格がある者はないだろう。ことに彼の手で送り込まれた囚人が牢に居たら助かりっこはないのだ。ここでは悪人の逆恨《さかうら》みという言葉は通用しない。仁蔵の恐怖はそれであった。 「もし、お役人。わたしが目明しだったということは、お慈悲でご牢内にはご内緒に願います」  仁蔵は哀れな声を出して役人に懇願した。牢屋同心四人、張番三人は顔を見合せて、せせら笑った。  同心は仁蔵を引き立てて格子外の鞘《さや》まで来ると、 「大牢」  と呼ばわった。内から陰気な声で、へえい、と答えがあった。牢名主の返事である。 「入牢があるぞ。内藤|主計頭《かずえのかみ》殿お懸り、大伝馬町塩町、町人、仁蔵、年四十一歳、一人じゃ」  なるほど、目明しというのは正式な職業でないから、町人というほかはない。仁蔵は、ほっとした。 「お有難うございます」  牢名主は受けた。  三尺四方の留口から仁蔵が這《は》い込むとき、 「さあ、来い」  と中に待ち構えた一番役が、仁蔵の尻を強《したた》かに引っぱたいた。仁蔵は肝《きも》をつぶした。  内はうす暗い。入牢はたいてい暮れがたに決まっていた。すえた体臭と汚物の臭いが仁蔵の鼻をついた。恐る恐る見廻すと、正面に畳を高くつんで名主が彼を睨みつけていた。思わず首を縮めると、彼は襟首をとられて押えつけられ、キメ板でいやというほど背中を叩かれた。 「やい、新入り」  耳もとで割れるような声がした。 「娑婆《しやば》からうしゃアがった大まごつきめ、はッつけめ。そっ首を下げやアがれ。御牢内はお頭《かしら》、お角役《すみのやく》様だぞえ。汝《うぬ》がような大まごつきは夜盗もしえめえ。火もつけえめえ。何でここに入って来たか、お役所で申すとおり、有体《ありてい》に申し上げろ」  つづいて板が仁蔵の背中で鳴った。 「へ、へい。申し上げます。じ、じつは、強請《ゆすり》で入《へえ》ってまいりました」  仁蔵は声を絞った。 「なに、ゆすりだと?」 「へい」 「十文も強請って、夜鷹《よたか》にでも入れあげたか?」 「そ、そんなところでございます」 「ふん、けちな野郎だ」  仁蔵は突き放された。すると詰《つめ》の本番がそれをうけとるように、また襟首をつかんで引きずった。そこは隅にある厠《かわや》であった。 「やい、新入り。娑婆じゃ何という、厠というか、雪隠《せつちん》というか。よく聞け。ご牢内じゃ名が変り、詰の神様というぞ。詰には本番、助番とて二人役人があって、日に三度、夜に三度、塩磨きするところだ。覚えておけ」  仁蔵は頭を抑えつけられて、雪隠穴の傍に顎をつけた。それから、やっと向う通りに戻された。  向う通りというのが、また大変なところだった。名主をはじめ、頭、角役、隅のご隠居、上座のご隠居、仮座のご隠居、二番役、三番役、四番役、詰の本番、助番、客分といった牢役人が広い場所をとっているから、五間に三間の大牢でも、ひらの囚人は一畳に十二、三人詰め込まれた。寝るどころか、膝を組むことも出来ないのである。仁蔵は、向う通りでも新入りが坐る一番悪い場所に坐らせられた。畳ではなく板敷きなのだ。顔じゅうが髭だらけの男たちの間に入ったので、仁蔵はまた肝を冷やした。  ここに居る者は、かつて娑婆にいる時、仁蔵の眼には鼠か虫のような存在だった。いつもおどおどして仁蔵のような目明しに這いつくばった者ばかりなのである。それが、いまは仁蔵に、鬼のように見えるのが不思議でならなかった。そして自分がこんなに虐待されるのが納得出来ないのだ。  そのうち、仁蔵の顔をさっきから薄明りの中で透かして見るようにしていた隅のご隠居が、 「おう、おめえは、仁蔵親分じゃねえか?」  と声をかけた。仁蔵は飛び上がらんばかりに仰天した。 「おう、やっぱり、そうだ。どうも、さっき似たような名前をきいたと思ったが、間違えは無え。こいつあ、おどろきだ。地獄で閻魔《えんま》さまが火責めに遇っているようなものじゃねえか」  仁蔵は、あっと思った。この男こそ、千助を霊岸島に迎えに行ったとき、大勢の派手な出迎えをうけて島から帰った博奕打ちの代貸であった。彼がまた入牢していようとは、仁蔵は夢にも思わなかった。  名主が高い畳の上から、 「隅のご隠居、何だえ?」  と訊いた。 「うむ、あいつア」  と代貸の隅のご隠居は、あごをしゃくった。 「仁蔵という蝮《まむし》のあだ名で通った目明しだあね」  入牢人たちは一斉に仁蔵を見た。仁蔵は真蒼な顔になった。 「そうけえ」  名主は仁蔵の顔をじっと見ていたが、 「やい、みんな。仁蔵とかいう目明しに苛められた者はねえか? あったら出てこい」  と大きな声で云った。  仁蔵は生きた心地がなかった。彼は慄えた。すると、 「もし、お名主さんえ」  と名乗り出た男がいた。仁蔵は頭に大石が落ちたように思った。もしやそれが千助ではないかと思ったが、千助ではなかった。無宿者の千助は、別の無宿牢に入っているのである。  名乗り出た男は云った。 「申し上げます。あっしゃ、こいつのために縛られて憂目を見せられやした。よろしく願います」  数多い科人《とがにん》を牢に送っている仁蔵は、その男の顔に記憶は無かった。先方では恨みをもっているから忘れないでいるのだ。 「お名主さん」  と、また別な一人がすすみ出た。 「あっしも仁蔵に非道《ひど》い目にあわされました」  仁蔵は、その男の顔にも見覚えがなかった。彼は顛倒《てんとう》しそうであった。  名主は、太い声を出した。 「詰の本番」  と怒鳴った。 「おお」  厠の近くにいる詰の本番が返事した。 「新入りは、いま入《へえ》ったばかりで、晩飯を食って居ねえそうな。ご馳走して取らせろ」 「おお」  詰の本番は立ち上がった。大きな男であった。彼は、仁蔵を引きずり出した。  仁蔵は恐ろしさで、口がきけず、よろよろした。 「やい、いま名乗ったの」  と本番は向う通りに叫んだ。 「お名主さんに云われたように、今から新入りにご馳走する。てめえ、馳走の手伝いをしろ」 「へえい」  その男は出てきた。これも逞《たくま》しい男であった。彼は椀を持って厠の方に行き、何やらしていたが、すぐにかえった。 「お膳が出来やした」 「よし」  仁蔵は杉箸《すぎばし》まで添えてある椀に盛られた異物を見て、もがいた。本番は仁蔵の身体にとびかかって捻《ね》じ伏せ、裸にすると下帯を解いて仁蔵を襷《たすき》がけにした。その結び目を両手でしっかりと握ると、仁蔵を仰向け加減に引き据えた。  仁蔵は犬のように息を吐いた。  さっきの男が椀と箸を仁蔵に持たせた。椀には得体の知れない色が盛ってあった。仁蔵はその臭気と恐怖に失神しそうだった。 「やい、神妙に戴け。遠慮するな。遠慮するとお代りをつけるぞ。それ、早く戴け」  本番がせき立てた。助番はキメ板をもって後に立っている。  仁蔵は泣き出した。しかし、泣いても勘弁してくれる世界ではなかった。 [#改ページ]   |海  嘯《つなみ》      一  強い夕陽が暑かった。能州《のうしゆう》無宿の新太《しんた》は、本所松坂町の本多《ほんだ》内蔵助《くらのすけ》の長い塀の蔭を拾って犬のように歩いていた。  彼は本所花町の夜鷹宿《よたかやど》の裏で、おえんと会っての帰りであった。 「さあさあ、これから商売の支度だよ。いつまでもキリがないから帰っておくれ。おまえの顔を眼の前に据えて見ていると、あたしも未練なほうだからね」  おえんは新太をせき立てた。気は強いが、分別があった。新太と世帯をもつために倹約して稼ぎを溜めている。色は黒く容貌はあまりよくないが、取った客は大事にするので、折助《おりすけ》や店者《たなもの》で決まって通う者があった。新太には情が深く、夫婦を約束してからは、身体に毒だぜ、と彼が心配するほど稼ぎに精を出した。その性根がうれしくて、新太はいよいよ惚れこんでいた。  汗が濃い。おえんに親切にされた疲れと、残っている地の熱気にうだりながら新太が怠《だ》るそうに歩いていると、後ろから、 「おい」  と肩を小突かれた。不意だったので、新太が振り返ると、眼つきの鋭い男が、口だけ薄笑いして立っていた。新太は顔を知らぬその男が何者かすぐ悟った。 「へい」  彼は反射的に腰を屈《かが》めた。 「呼びとめて済まねえ」  裾をからげて毛臑《けずね》を出した岡っ引はおだやかに云った。が、光っている眼は新太の風体を上から下まで見廻した。 「おめえ、職人かえ?」  高い声ではなかったが、訊く口吻《くちぶり》は普通でなかった。 「へ、へい」  新太は吃《ども》った。 「何処《どこ》に住まっているんだね? ついでに家主の名前《なめえ》も聞かしてくんな」  新太が返事が出来ないで怯《おび》えていると、 「ものが云えねえところを見ると、遊んで、家賃の要らねえ塒《ねぐら》らしいな。済まねえが、ちょいと番屋まで来てくれ」  と手を握った。 「親分。なにも、あっしゃあ番屋に引張られるような──」  びっくりした新太が手を振り放そうとすると、男は掴んだ手に力を入れた。 「まあ、いいからよ。そう手間は取らせねえ。おとなしくしてくれ」  手間は取らせぬと云ったのは嘘だった。辻番所から縄をかけられて、伝馬町《てんまちよう》にまっすぐに送り込まれた。  牢屋同心から簡単な調べがあった。名前と年齢《とし》を訊かれた。同心は「能州無宿新太、二十六歳」と帳面につけた。 「もし、お役人。一体《いつてえ》、どういうお調べで、あっしゃあ此処へ入《へえ》るんでござんしょうか?」  新太は前にのめるように半身を突き出して訊いた。悪事をした覚えは全く無いのだ。橋の下で、上を通る者が男か女か坊主かで仲間と賭けをしたことはあるが、まさかそんな一文|博奕《ばくち》で牢送りとなるとは思えなかった。何か重罪になるような無実の嫌疑をかけられた予感で動顛《どうてん》した。 「心配するな。一晩明けたら分る」  同心は相手にしなかった。 「新入り」  鍵番の声で、三尺四方の入口に這いつくばり、臀《しり》を叩《たた》かれて内部《なか》に入ると、蒸すような人いきれとくさい臭いが鼻をついた。  暗くてさだかには分らないが、三十人ばかりの頭数がそこに蠢《うごめ》いていた。かれらは新太が入ると低くどよめいた。やあ、また入《へえ》ってきた、と嘲笑《あざわら》うように云う者がいる。新太はまごまごした。 「おい、新入り」  すぐ横にいる男が、嗄《しわが》れ声で呼んだ。 「へえ」  新太は、びくびくして向き直った。 「おめえ、何処でしょびかれてきたのだ?」  と訊く。男の口が臭いので、新太は少し顔を除《よ》けて、 「へえ、本所松坂町です」 「妙なところから来たな。松坂町から伝馬町へ討入りたあ茶番の忠臣蔵にもならねえな」 「へえ」  新太は黙った。彼はひそかに周囲の空気を窺《うかが》っていたが、隣りの男が気やすげに口をきいてくれたので、低い声で恐る恐る訊ねた。 「もし、兄い」 「なに、おれのことか?」 「ちょっと、伺いますが」 「伺うも無えもんだが、何だえ?」 「口憚《くちはば》ってえことを云うと怒られちゃ困るが、あっしも一度はご牢内の|もっそう《ヽヽヽヽ》飯を食ったこともごぜえます。だが、こう見たところ高えところに坐っていなさるお名主さんはじめ牢役人衆も居なさらぬようだ。こりゃあ今年からご牢内の仕組みが変りましたのかえ?」 「おめえ、何をして此処に来た?」  男は答えずに反問した。 「へえ、それが、ちっとも身に覚えのねえことで。何とも解《げ》せねえでおります」 「首を傾《かし》げることは無えやな」  と男は低く笑った。 「おめえ、無宿者だろう?」 「へえ、まあ、そうですが」 「それだ」 「へ?」 「それだよ。おめえが無宿人だから牢送りになったのよ」 「え。そりゃまた、どういう訳で?」 「訳もへちまもあるものか。江戸中の無宿者ばかり狩りあつめて今夜はここで泊まらせ、明日は何処かに連れて行こうってえ寸法よ。お名主さんが居ねえのも道理、このご牢は仮牢だあな」  普通の大牢や百姓牢が監獄に当れば、仮牢は数日間拘留するいまの警察署の留置場に相当していた。  仮牢ときいて新太は思わず安心の吐息を鼻から洩らすと、男は暗い中でその表情を読んだように云った。 「安心するのは、まだ早《はえ》えぜ。お天道さまがまた上がった明日になりゃア、おれたちの身体は何処に持って行かれるか分らねえぜ」 「えっ。そりゃ何処のことですかえ?」  新太は再び心配した。 「お上のなさることだ。そいつあ分らねえが、ここに居る仲間の辻占《つじうら》じゃアどうも佐渡のお金山《かなやま》じゃねえかという卦《け》が出ている」 「すると、おめえさんたちも?」 「同じ無宿者ばかりよ。ありようは、おれはおめえより半|刻《とき》早くここに入って来たばかりだ。擽《くすぐ》ってえから、兄イと云うのは止してくれ」  この男が、甲州無宿の権次《ごんじ》で、新太より一つ年上であった。      二  佐渡送りと聞いて新太の顔色は無くなった。金山の暗い地の底で働かされる水替人足の仕事はこの世の地獄と聞いている。一度行ったら、生きて帰れるかどうか分らない。新太はその話を何度も聞いていた。彼の知った者で佐渡送りになって果てた者がある。陽の目の見えない地底の労働と、石埃《いしぼこり》を吸い込む毒とで、どんな頑丈な者でも早死するということだ。  新太が蒼くなったのは、その地獄に送り込まれる恐怖だけではなかった。おえんと二度と会えなくなる悲しみであった。おえんと夫婦約束してからは彼は何となく世の中がたのしくなってきていたのだ。夜鷹だが、おえんは気性がしっかりしていて、新太を亭主と思って尽してくれていた。こんな味を新太は今まで一度も味わったことが無かった。女といえば、銭を払ってその場だけの交渉と心得ていた彼は、おえんの情を知ってからは溺れて甘えた。その気性から、おえんの方が姉ぶって新太を可愛がった。  このまま、おえんの顔を見ずに佐渡に送られて死んだら、諦め切れない。急に自分が居なくなっておえんはどんなに心配するだろう。気は強くみえるが、情が濃い女だけに、狂わねばよいがと、それも心配になってきた。  牢内では、狩り込まれた連中が、佐渡の話をひそひそとしている。新太はいちいち聞き耳を立てた。なあに、佐渡じゃあるめえ、石川島《いしかわじま》だあな、と軽く云う者も居た。そうだ、そうだ、と相槌《あいづち》を打つ者がいた。当人は自分の言葉に慰められて元気を出しているようにみえた。新太はそれにも耳を傾けて、それならいいがと念じた。牢内の無宿者たちの観測はまちまちであった。新太はその夜一睡も出来なかった。  江戸市中や近国の無宿者を捕えて、佐渡の水替人足に遣《や》らせたのは安永七年頃からであるが、これは幕府が江戸の治安の維持と、鉱山の労働力の充足との二つを狙ったものであった。ところが金山の水替人足には収容力に限度があるので、その代りとして、寛政二年、佃島《つくだじま》の隣り、もと石川大隅守|上地《あげち》のうち三千六百坪に囲いを設けて無宿者を集めた。火付盗賊改役、長谷川平蔵の建策によったもので、とかく無宿者の中から犯罪者が出るので、それを島に隔離して、強制的に労働させた。授産場という意味もあるが、やはり囚獄の匂いが強い。人足|寄場《よせば》と称した。一定の期間がきて成績のよいものは、労務の賃金を与えて釈放するのが特色であった。  朝になって呼び出しがあった。新太は寝不足の赤い眼をして、ほかの連中と平伏すると、役人が立ってみなを睨《ね》め廻し、 「その方ら、本来ならば佐渡金山水替人足として彼《か》の地へ発足させるべきところ、特別のご仁慈をもって石川島人足寄場において就役させる。有難く思え」  と大きな声で云った。一同、へえい、といって畏《かしこ》まる。  新太は、ほっと安心した。この言葉をきいて胸が休まった。思わず安堵《あんど》の吐息が出た。やれやれ、助かったと昨夜念じた仏に感謝した。佐渡に送られなくてよかった。石川島なら江戸の内だ。生きられる、生きておえんに会えるのだ。彼は思わず唇が綻《ほころ》んだ。  それから一同は役人に護送されて、ぞろぞろと永代橋《えいたいばし》際まで歩き、待っていた船に詰め込まれた。船は容赦もなく岸を離れた。炎天だが、汐風が涼しい。 「おう、新太と云ったな」  隣りの男が小さい声で云って、肘《ひじ》をつついた。やっぱり昨夜の仮牢で隣りにいて口をきいた男で甲州無宿の権次という名だった。 「おめえ、今朝はたいそう顔色がいいようだが、石川島ときいて、うれしくなったらしいな?」  権次の声はどこか意地悪なものを含んでいた。実際、新太が振り向くと、彼の眼は冷たく、髭《ひげ》の中にある厚い唇は皮肉そうにうすく笑っていた。新太は少し不快になった。 「佐渡だって石川島だって不自由な島に変りは無えよ。そんなことで喜ぶようじゃ、おめえもおめでてえ男だな。いや、おめえばかりじゃ無え。この船の奴らみんなそうだ」  権次は顎《あご》をしゃくって、役人に聴えぬよう毒づいた。 「一体、おいらが何をしたというのだ。無宿者というだけでこんな理窟に合わねえ扱いを受ける道理は無え。こんな、べら棒な話ってあるものか」  新太は聴いていて、半分は肯定し、半分は否定した。理窟はその通りだと思うが、世の中は理窟通りには行かぬ。佐渡の地の底に送られても仕方がないのだ。それを逃れただけでも助かったではないか。第一、権次の言葉の悪意のような響きには、ついて行けぬものがあった。黙っている新太を権次は見て憐れむような顔つきをした。  船は石川島に着いた。 「一同、静かに上がれ」  と役人が注意する。佃島に接した南側に門があり厳重な囲柵《かこい》が張りめぐらされてあった。門を入ると右側に見張番所が在り、広い中庭をかこんで左に大きな瓦屋根の役所があり、東側に人足小屋の低い杉皮の屋根が長く立ちならんでいた。小屋の中からこちらを覗《のぞ》いている人間もいた。  寄場吟味役という赭《あか》ら顔の男が、涼しそうな顔をして出てきて、広場の地べたに膝を揃えている一同に、興味なさそうに云った。 「その方ら、佐渡水替人足ともなるところ、格別の思召をもって、当寄場に働きを申しつける。神妙にいたせば他日、相応の銭を与えて召し放す。ご仁慈を有難く思え」  皆は、へえい、といってお辞儀をした。  吟味役が引込むと、控えていた小役人が帳面を持って、一人一人、手職があるか無いかを訊いた。大工、左官、鍛冶《かじ》屋、といった者はいいが、百姓をしたことのある者は米つき、縄細工などさせられる。いよいよ何も出来ない者は炭団《たどん》を丸めて造るのだ。  新太は、能登《のと》の漁師の伜だというと、小役人はちょっと考えて、 「それなら草履《ぞうり》を綯《な》え」  と云った。百姓と似たものだと思ったらしい。ここで柿色の地に白い水玉のお仕着せをくれた。島での期間が長くなるほど、水玉の数が減ってくるのである。  仕事の割り振りが全部済むと、一同は分けられた。職種によって小屋が異《ちが》うのである。  新太がふと見ると、甲州無宿の権次は油絞りの列の中に入って歩いていた。大きい男なので目立ったが、権次は不服そうな顔をして片足を引きずっていた。新太は権次の足が悪いことに初めて気づいた。      三  新太は暗い土間に坐って、毎日、藁草履《わらぞうり》を綯《な》った。初めはうまく造れない。それを教えてくれたのは、前から居る野州無宿の卯之吉《うのきち》という三十くらいの痩せた男であった。親切でおとなしかった。百姓だけに草履造りはうまかった。新太は手をとって教えて貰《もら》い、悪いところは直して貰った。  卯之吉の着ている柿色の中の水玉は少なかった。 「卯之兄い」  と或る日、新太は訊いた。 「おめえさん、此処にはどのくらい、居なさるのかえ?」  卯之吉は、おとなしく笑って受けた。 「そうよなあ。もう二年も居るかな」  表情はさして動きが無かった。二年。新太は眼をむいた。 「二年も居なさるなら、ご赦免はとっくの筈だ。兄いのように働きのいい者が残されているなアどういう訳ですかえ?」  卯之吉は笑いを含んで新太を見た。 「新太。おめえの云う通りご赦免はとっくの昔にあったよ。ところが、おれは、お役人にお願えして此処に置いて貰っているのだ」  新太は、愕《おどろ》いて卯之吉を見つめた。 「何も、そうびっくりして、おれの顔を見ることは無えやな」  卯之吉は掌に唾を吐いて藁を撚《よ》りながら云った。 「おれは此処がありがてえところだと思っている。お飯《まんま》は下さる。寝るところもある。おまけに出る時は鳥目《ちようもく》まで下さるのだ。考えても見ねえ。おれは、ここへ来るまでは橋の下や軒の蔭に寝ていたのだ。菰《こも》をかぶって往来を歩いたものだ。人に乞食のように見られてよ。無宿者てえな誰も相手にしねえから職は無え。人さまの裏口で餌をあさって廻った辛さが骨身にこたえているのだ。それにくらべると、ここは極楽だあな。おれはいつまでも居てえ。新太よ。おれの故郷《くに》の身内てえな水呑み百姓でな。朝から晩まで真黒になって働いても粟《あわ》の飯を食い兼ねている。二朱の金も箪笥《たんす》にしまったことは無え。病気になりゃア死ぬばかりよ。医者にもかかれねえ。ところが此処に居れば医者はついている。養生所は在る。仕事をした分の賃銭は、ちゃんとお上で積み立てて下すっている。新太、おれは、もう二両がとこ溜めているぜ。田舎《いなか》の兄弟が可哀想なくらいなもんだ。出来ることなら、おりゃア一生でも此処に置いてもらいてえ」  卯之吉の顔を覗くと、その言葉の通り、本気で感謝しているようであった。 「へえ、そんなもんかねえ」  新太は半信半疑に云うよりほかなかった。 「まあ、おめえもその内に分ってくる。精出して余計なことを考えるんじゃねえぜ」  卯之吉は笑った。 「へえ」  新太は生返事をした。  卯之吉の云うことが分るようでもあり、分らぬようでもある。なるほど、飯は貰える。寝るところもある。医者にもかかれる。賃銭もいつかはまとまって貰える。だが、それだけではどうも不満なところがあった。やっぱり心の底に一カ所、穴のように空《くう》なところがある。  新太は、仕事場は違うが、権次とよく顔を合せた。気の毒に、権次は体格が大きいだけに、油絞りという一番|膂力《りよりよく》を要する骨折り仕事をやらされていた。  権次は、いつ顔を合せても不服で堪《たま》らぬ表情をしていた。眉をいつも苛々したように顰《しか》めて笑ったことがない。 「飛んだ世迷言《よまいごと》を吐《ぬ》かす野郎が居たものだ」  権次は、新太が卯之吉の話をすると、眼にかどをたてて怫《おこ》った。 「二年もこんな所に居たから頭に来たとみえる。人間、飯だけありゃア生きてるというもんじゃねえ。翼があって好きな所に飛び廻らなきゃ生き甲斐《がい》はねえのだ。この狭い島に飼い鼠みてえに閉じ込められておとなしく有難がってる奴の顔が見てえ。新太、そうだろう」  卯之吉の云った言葉にはすぐに相槌を打てなかったが、権次の云うことには新太はすぐにうなずいた。  そうだ。どうも底に隙があって、卯之吉の理窟が腹にがっぷりと入らなかったが、権次の言葉でその理由が分った。食わせてもらえるかもしれないが、ここには自由が無かった。気随気ままに何処にでも行くことは出来ない。寝たい時には寝転び、起きたい時には欠伸《あくび》をして起きる。そんな小さな自由さえ無い。始終、役人の光った眼に縛られている。三千坪の囲いの外に出ることが出来ない。 「新太」  と権次は低い声で、ぼそりと云った。 「おらあ、いつかこの島から脱け出すつもりだ。きっとだ。その時ア、おめえも連れて行ってやるぜ」  新太は、ぎくりとして権次の髭面《ひげづら》を見直した。が、権次はそれだけ云うと、さっさと大股で離れて行った。その広い肩幅は、いかにも確信あり気に見えた。  ここに来てからひと月あまり経った。新太は、その間じゅう、おえんのことが一日も忘れられなかった。顔が見たくてならなかった。どんなに心配して暮しているだろう。あれきり、ぷっつりと行かなくなったのだから、気が狂ったように探し廻っているに違いない。そうだ、おれがこの島に送られたことは、仲間の誰かから聞いて知っただろう。それなら、あの女のことだから、おれの帰るのを待ってくれている筈だ。あいつ、心変りのする女じゃない。早く顔を見せてやりたい。こっちも顔が見たい。  権次の云ったことが、真っ当だと新太が信じたのは、おえん恋しさが募ってきてからであった。飯よりも、銭よりも、好きな女の所に行けないことが、人間、生身のままで殺されるのと同じだと分ったのだ。ここに居たのでは生きながらの骸《むくろ》だ。これから先の辛抱が、早くも新太には出来そうになかった。  石川島人足寄場は東に尖《とが》って突き出ている。ここからは海を距てて深川一帯の人家の屋根が遠くに眺められるのだった。昼間の仕事が済み、夜になると新太は、こっそり小屋から出て行って深川の方角に見入った。空の方がかえって薄明るく、その下に屋根が黒々と沈んでいた。時には細い灯が見える。新太は、その町なみが恋しい。どの屋根の下でも、幸福な、自由な人間の生活が営まれていると思うと、羨《うらや》ましくてならなかった。この深川を斜めに切った向うに、おえんの居る本所の花町があるのだ。 「おえん」  と新太は声に出して呼んだ。おらあ、ここに立って、おめえの方を見ているぜ、と告げてやりたいのである。この囲柵《かこい》と海が無かったら、すぐにも飛んで行ってやりたい。あの顔を両手で挟んで、頬ぺたを舐《な》めてもやりたいのだ。  新太は泪《なみだ》を流した。      四  新太は、毎晩、寝ながらおえんのことを想いつづけた。眼が細く、鼻は低いが、受け唇《ぐち》の女である。鼻のわきに小さな黒子《ほくろ》があるのが堪らない欲情を唆《そそ》った。皮膚は黒いけれど、小股の切れ上がった女で、身体が締まっていた。膝を押しつけてみると、太腿《ふともも》には弾力があった。すべすべと滑《なめ》らかなのは、脂《あぶら》の乗り旺《ざか》りのせいだった。  情の濃い女だから、新太に抱きついている時の顔は必死の眼であった。汗かきで、冬でも額にうすく汗を光らせ、乱れた髪の一、二本が粘りついた。あの受け唇が苦しそうに歪《ゆが》み、白い歯がのぞいた。喘《あえ》ぐ声が新太の耳を擽《くすぐ》るのである。そのあとで、それを云うと、本気に憤ったものだ。  新太はそんなことを一つ一つ眼を瞑《つぶ》って思い出した。身体中の血が騒いで睡れなかった。おえん、おえん、と声を出さずに叫んだ。やっぱり権次の云ったことが本当だ。人間、飯だけで生きては居られない。  その権次は、夜になると、やっぱり仏頂面を見せにきた。この無愛想な男は、どういうものか新太だけは気に入っているらしかった。二人は、小屋をこっそり脱けて出て、番人に見咎められぬよう北隅にある畠の中にしゃがんだ。 「埒《らち》もねえ、毎日毎日、油絞りだ。いまにおれの総身の脂も脱けそうだ」  権次は唾を吐いた。 「やり切れねえ話だ。いい若えもんが、五十日にもなるによ、女の匂いが嗅《か》げねえのだ。こんな間尺に合わねえ法って無えぜ」  新太は、権次の口から女ときいたので、暗い中で、思わず彼の顔を見た。 「おめえにも情婦《いろ》があったのかえ?」 「べら棒め。何も情婦に限るこたアねえやな」  権次は腹を立てたように云った。 「女が欲しいだけよ。おれは娑婆《しやば》にいるとき、三日に一度は無理して柳原の土堤下に夜鷹を抱きに行ったもんだ。おらア、五日と辛抱が出来ねえ性質《たち》だった」  権次の身体なら、なるほどそれに違いないと新太も思った。 「新太。おめえも女が抱きてえだろう?」  権次がきいたので、新太は、 「う、う、まあな」  と云った。 「馬鹿野郎。なにもてれることはねえ。おめえの若さだ。欲しくねえ方が嘘だ。ここの奴ら、みんながつがつしてらあな。埒もねえことで慰んでごまかしてるだけだよ」 「慰む?」 「おや、おめえ、まだ知らねえのか?」 「知らねえ」  新太は首を振った。 「呆《あき》れた野郎だ。おれは、おめえもやってるかと思ったぜ」  権次は含み声で笑った。 「そんなら、夜中にほかの野郎の寝床を気をつけてみな。あんまり恰好のよくねえ図が見られるぜ」  権次に云われて、そのことが新太の頭に灼《や》きついた。彼はその夜、雑魚寝《ざこね》の仲間の間に何が行なわれているかを知った。彼は動悸《どうき》が激しく搏《う》った。血が頭に上った。  新太は、今までおえんが恋しいとばかり思っていたが、権次に云われてからは、実は女であることに気づいた。おえんだけではなかった。いや、おえんでなくともよいのだ。女なら誰でもよい、女の身体が欲しいのだ。  ここへ来て五十日以上を数えていた。権次の云う通り、無理はないのだ。おれはまだ若い。この疼《うず》くような血のたぎりを抑えて辛抱しろ、というのが理不尽なのだ。  自分が穢《きたな》いとは少しも思わなかった。当り前なのだ。それからは、夜空に沈んでいる深川辺の屋根の水平を見ても、人間の暮しを羨まずに、女だけを想った。その屋根の下にはさまざまな女が棲んでいる。どれでもいい。飛び込んで引捉《ひつとら》えたかった。真黒い海が、辛《から》い汐風を吹かせて、その間に大きく横たわってうねっていた。 「聞くんじゃなかった」  と新太は思った。権次の言葉が毒となって新太の血液を流れた。それからの毎日がのた打つ思いであった。  新太は草履を綯いながら、隣りで一心に手を動かしている野州無宿の卯之吉の横顔を時々、偸《ぬす》み見た。この男は、いつも変ったところがない。横顔は至極のん気そうであった。 「兄い」  と新太は訊かずには居られなかった。 「おめえさん、ほんとに此処に永く居てえのかえ?」 「当りめえよ。こんな結構なところがあるものか」  と卯之吉はやはり即座に云った。 「お飯《まんま》を頂いて、鳥目が下がるのだ。極楽だぜ、新。有難えお仕置きが出来たもんだ」  彼は新太の方をゆっくり見た。 「おめえ、娑婆の苦労を忘れちゃ居めえな。妙な気を起すんじゃねえぞ」 「へ」  新太は生返事をした。  かれは改めて、そっと卯之吉を観察した。年齢はまだ三十そこそこなのに、まるで老人のような云い草であった。この男に、自分と同じ悩みはないのであろうか。合点が行かなかった。痩せてはいるが、血色もいいし、百姓だけに力があった。どう考えても女が不必要とは考えられなかった。  だが、卯之吉の顔を見ると、現在の境遇に満足し切っている。どこにも、苦渋も懊悩《おうのう》もない平和な顔であった。新太は卯之吉に、羨ましさと憎々しさを覚えた。 「お飯を頂戴するだけで生きて行けるかい。おめえのような若隠居たア違うのだ。ひょっとこめ」  新太は肚の中で卯之吉に毒づいた。  権次に次に会ったとき、卯之吉の話をすると、かれもしきりに悪口を叩いた。 「二年もこんな所にくすぶってやがるから、大方、人間さまの血が枯れてしまったに違えねえ。新太。永く、へえへえと畏まってるとこじゃねえぞ。おめえもいまに仏臭くなるから気をつけろ」 「権次」  と新太は身体をすりつけた。 「おめえ、本当にやるのかえ?」 「念を押すこたア無え」  と権次は肩を上げて嘯《うそぶ》いた。 「おら、やると云ったら、きっとやって来た人間だ」 「お、おれも脱けるぜ」  新太は踏み込むように云った。権次は、ふふ、と笑った。 「いいとも、おめえなら、おれが手引きしてやらあ」  星を仰いで権次は云い切った。      五  秋の、いい天気の日であった。  昼飯をたべたあと、僅かな休みがある。新太は薄暗い小屋を出て、陽に当るため外に出た。おだやかな、明るい光が地面に降りそそいでいた。晴れ切った秋の空である。  新太は背伸びして空を見上げた。蒼い色が抜けるようだった。いい日和《ひより》だな、と思いながら彼の眼は、ふと辰巳《たつみ》の空の一角に向けられた。  紙を千切りとって貼りつけたような一片の雲が、青い空にぽかりと浮んでいた。新太は急に眼を大きく開いてそれを見詰めた。漁村に育った彼はその雲の知識を子供のときから持っていた。  彼は小屋の中に走り込んだ。 「おい。海嘯《つなみ》が来るぞう」  誰に向かってではなく、大きな声で喚《わめ》いた。顔色を変えていた。 「つ、な、み?」  近くに居た男が妙な顔で問い返した。初め、意味が分らなかったのである。やっと、それが分ると、空を見上げ、呆れた顔に変った。 「そうだ、海嘯が来るのだ。お役人に云ってくれ、みんな、波に掠《さら》われぬよう用心しろ」  新太は叫んだ。  仕事にかかった者は手を休めて新太を眺めた。みんな、ぽかんとしていた。げらげらと笑い出したのは、しばらく経ってからである。 「笑いごとじゃねえ」  新太は真剣になって叱った。 「おらア浜育ちだ。あの雲が何かてえことは餓鬼のころから知っている。ありゃア、海嘯の先触れだ」  四、五人が、わざわざ戸口の外に出て空を見上げた。拭い上げたような青く透いた空に、平凡な雲の一片が東南の方に浮んでいるだけだった。 「埒もねえことを云って騒ぎやがる」  ばかばかしいという顔をして戻って行く者もあれば、 「新太。可哀想におめえも頭にきたか?」  とからかう者もあった。新太の声をきいて、何事かと紙漉場《かみすきば》から二、三人の顔が覗いたりした。 「何にも知らねえなアおめえ達だ。おらあ漁師の伜だ。天気のことはうぬが臍《へそ》の垢よりも詳しいんだ。やい、まごまごすると生命を失うぞ」  誰も本気にしないと見ると、新太は役人屋敷の方へ走って行った。 「お役人え。海嘯が参《めえ》りますぞう。ご用心なされませえ。お役人、海嘯ですぞう」  新太が大声で走り廻るので、番所の小役人がとび出した。 「これ、落ちつかぬか。何だ?」  と叱った。  新太は沖の空を指さした。 「あの雲をご覧なせえ。ありゃ海嘯のくるしるしでさあ。磯育ちのあっしの云うことだ。嘘じゃねえ」  その絞るような声で、役人は空を見上げたが、これも呆れた顔をした。日本晴れの上天気なのだ。小さな雲が、のんびりと漂っているだけだった。 「馬鹿なことを申せ。海嘯はおろか、風一つ無い凪《なぎ》だ。きさまは何の夢を見て寝とぼけているのだ?」 「嘘じゃねえ、旦那。あっしゃ正気だ。この眼に狂いはねえ。早くなさらぬと、いまに海嘯でこの島は大波をかぶりますぞ」 「えい、落ちつけ。落ちついて小屋に帰るのだ」  小役人は棒を持って新太を追い返した。  新太が小屋に入ると、居合せた者は平気で仕事をしていた。誰も相手にしないと分ると、新太は着物を脱いで裸となり、晒《さらし》の木綿を腹に捲きつけた。それを眺めて皆は大笑いした。  が、この時、空にあった一片の雲は、見る見る拡がって空に膨れ上がったのだ。風はそよともせぬが、雲は黒くなり、川のように空を流れはじめた。瞬く間に気温が上がって、なま暖かくなった。  小屋の中に居る連中が、轟《ごう》という地響きする遠い声を聞いたのは、この時であった。皆は、何だろうと顔を見合せた。新太の言葉を気にかけていた者は、初めて不安な表情になった。  突然、けたたましい叫びが外から聞えた。 「みんな出るな。高潮だぞ。戸を閉めろ。窓を開けるな」  役人の声だと分って皆は総立ちになった。二、三人は外に走り出た。南の沖を見ると、信じられない現象が起っていた。水平線の高さが違っているのだ。いつもより一尺は高く見えた。海は黒く変色し、その水平線のままが動いてこちらに来るところであった。見た者は悲鳴をあげて小屋に走り込んだ。 「出るな、出るな。戸を閉めろ」  役人は絶叫をつづけていた。 「海嘯だあ」  偵察して帰った男たちが、うろたえて叫び、戸閉まりに皆が混雑して戦場のようになった瞬間、耳を圧する音とともに、戸を倒して滝のような波が流れ込んできた。小屋が音も立てずに傾いた。 「うわあ」  波の中に溺れてもがく者や、片すみに叩きつけられる者がいた。その波が急流のように退くと、木片のように他愛なく流される者があった。あとの者は柱や梁《はり》にしがみついていた。一息つく間もなく、第二波が不当な暴力で押し入ってきた。 「うわあ」  波が人間の集団の頭の上まで一洗いして退った。何人かが、それに乗せられて行って、小休止があった。  この時、役人屋敷の大屋根から、寄場奉行の田村伝蔵が必死の声で叫んでいた。 「奉行の申し渡しじゃ。ここに居ては生命が無いぞ。逃げろ、逃げてもよい。その代り、高潮がおさまったら永代橋際に集まれ。必ず集まれよ。それまで、火急の場合じゃ。みんな、逃げろ。奉行が許す。逃げろ」  波の山がまた島に襲いかかって一|掃《は》きした。白い泡を残してひいた時は、人足小屋の半分が|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《も》ぎ取られていた。 「逃げろ、逃げろ」  奉行の声は絶え間、絶え間だが、いつまでもつづいた。  新太は盛り上がっている波の中にとび込もうとしたが、柱に抱きついている卯之吉を見ると、一緒に助けたくなった。彼は走り寄って卯之吉の腕を捉えた。裏海の荒波できたえただけに、泳ぎの腕には自信があったのだ。 「兄い、おれが助けるぜ。一緒に逃げよう」  新太が云うと、卯之吉は頭を振った。 「怕《こわ》がることはねえ。さあ、一緒に来な」  それにも卯之吉は顔を振った。新太は初めて、卯之吉の拒絶を知った。 「なに、嫌なのか?」  返事をきく前に、また波が闖入《ちんにゆう》して天井まで満たし、小屋の中は水槽のようになった。それが流れ退いたとき、卯之吉は苦しそうな顔をして柱に貼りついていた。 「新。有難えが、おれは行かねえ」  卯之吉は飲んだ海水に咽《むせ》びながら云った。 「おい、おめえ、あの声が聴えるか?」  逃げろ、逃げろ、と奉行の声はまだしていた。 「お奉行さま始め、お役人衆は、この島を守って死ぬ気だぜ。お気の毒にな。役目大事で、討死なさるつもりだぜ。おれも一緒に残るつもりだ。なあに、運がありゃア生きられるよ。おめえと逃げても、運が悪けりゃア死ぬまでよ。してみりゃ、どっちだって同じだあな。今までのご恩で、おりゃアお役人衆と運否天賦《うんぷてんぶ》を一緒にするつもりだ。新、おれに構わず逃げてくれ」  その声のすまぬうちに、びしょ濡れの権次がよろよろしながら新太に近づいた。 「やい、新太。そんな奴に構うんじゃねえ。この高潮がもっけの幸いだ。天の助けたアこのことよ。さあ、また波をかぶらねえうちに飛び込もうぜ」  轟きが高くなった。また大波のうねりが寄せてくるのだ。新太は夢中で跳躍した。  泳ぐ気持だが、波浪は彼の身体の抵抗を奪って叩きつけた。巨大な力に揉《も》まれ、押し上げられ、落下した。確かに彼の後についてきていた筈の権次の姿が無かった。新太は波を潜りながら、権次は足が悪かったことに気づいた。      六  身体が、いやというほど固いものにぶっつかったので、新太は無意識に手で抱いた。波が彼をもごうとしたが、彼はようやくのことで押し流されることから脱れた。掴まった物は家の崩れた破片であった。  この秋の末に襲った海嘯は、石川島、佃島を洗い流し、築地一帯、松平越前の下邸のある湊町《みなとちよう》、深川の沿岸に乗り上げて夥《おびただ》しい人家を押し潰した。長さ百十四間の永代橋まで危険であった。深川|洲崎《すさき》弁財天の拝殿末社などを壊し、本社だけが残った。引浪で海に入り、溺死者が無数に出たのである。  新太が波から匍《は》い上がって、崩れた家の材木の積み上げの上に立つと、あたりは惨憺《さんたん》たるもので、見る限りの家屋は微塵《みじん》となっていた。深川は掘割が多く、それが悉《ことごと》く膨れ上がって、水は四方から攻めたのである。 「逃げられた。助かった」  新太が考えたのは、これだけであった。人間が眼の前を流れて行くが、見向きもしなかった。逃げるのだ。逃げるのだ。うかうかすると自分が危なかった。彼は崩れた家から家へ、材木の島を伝いながら北の方角へ這い進んで行った。  それから、やっとのことで家がまともな形で残っているところに来たのだが、無論、水は軒の下で渦巻いていた。顔を出した樹が草のように揺れていた。半鐘が鳴っているが、火事と勝手が違って、鳶《とび》、火消しの姿はどこにも無かった。気の利いた者が小舟を出して喚いていた。  新太は屋根を歩き、屋根が切れたら水にとび込んで泳ぎ、また次の屋根にとりついた。ここまで来ると、子供のときから海で育った泳ぎが自由に云うことをきいてくれた。長持、箪笥、着物、鉢、瓶など人間の生活具一切が面白いように速く流れて行った。  新太は、二階だけが水の上に出ている家を見つけると、ほっとしたように泳ぎついて行った。水を防いでいるつもりで、戸が閉まっているが、勿論、誰も居ないと思い込んで、匍い上がった。家は大きくないが普請は新しかった。手入れの届いている松、楓《かえで》などの植込みの先が、水草のように浮んでいた。  戸閉まりは無い。新太が一枚を押し開けたとき、思いもよらず、女の高い声がした。 「だんな!」  びっくりして身を退いたが、そんな間は無かった。とび出して来た女と視線が真正面であった。 「あッ」  女は棒立ちになった。美しい女で、黒い瞳をいっぱいに見開いていた。顔色が無かったのは、水の恐怖で今まで慄えていた故《せい》だった。が、こんな場合でも、きれいな他所《よそ》行きの支度をしていた。 「おまえさん、旦那から頼まれて助けに来たのかえ?」  女は、半分、呑み込んだように、口早に云った。かすかだが、安心の表情が出ていた。新太は頭を振った。とにかく疲れている。腹巻きと下帯だけの裸だったが、女の前の遠慮は考えられなかった。彼は髪の水を手で絞り、畳の上に寝転んだ。その時、気づいたのだが、天井も床柱も木口を撰んだ凝ったものだし、部屋の調度は眩《まぶ》しいくらい立派であった。 「何だえ、お前さん。木場の若い衆かえ?」  女は立ったまま、襖《ふすま》に手をかけて訊いた。まさか石川島の寄場人足とは考えが及ばなかったようだ。 「そんなもんだ」  新太は寝たまま返事をした。新しい畳についた背中の感触は快かった。ちょっと起きられなかった。 「あたしを助けに来てくれたの?」  と女は少し媚《こ》びるように問うた。しょってやがる、と新太は思い、頭をごろりと振った。女の顔には、失望と意外さが顕《あらわ》れた。 「じゃ、おまえも流されて来たのかえ?」  と、少し間を置いて訊いた。新太はそれにはうなずいた。 「おまえ、泳ぎは出来るのだね?」  新太は、また、うなずいた。女は一足すすんだ。 「後生だから、あたしをここから助けておくれな。礼は何でもするよ」  女は再び媚びる眼をした。  海嘯は、もう峠を越していた。いま外に出るよりも、このまま、家の中にじっとしていた方が安全なのだ。水は次第に退いて行くに違いない。家は、もう流される危険はない。新太は、それを説明しようとしたが、面倒臭くなって云わなかった。  新太が黙っているので、女はすがるような声を出した。 「あたしは、今まで、この家にたったひとりで、どんなに心細かったか知れやしない。おまえが来てくれたので、ほっとしたところだよ。ねえ、お願いだから、もっと安心の出来る場所まで連れて行っておくれ。お礼は、はずむよ」  お礼をはずむよと云った言葉で、新太は、この女の素姓をいよいよはっきり知った。粋《いき》づくりの部屋、洒落《しやれ》た調度。彼は眼を女の顔に移した。細面で、色が抜けるほど白かった。細く鼻筋が通り、恰好のよい小さな唇が可愛かった。黒瞳の勝った眦《まなじり》には、切れ長な部分にうすい紅がさしてあった。  新太の眼が光り出した。彼は、むっくりと起き上がった。 「礼をくれるんだな。姐《ねえ》さん」  と云った。 「あ。きいてくれるのかえ? 有難うよ。お礼は欲しいだけ上げるよ」  女は顔を輝かした。 「礼はおれの欲しいものをくれ。銭なら要らねえ」  新太は唾を呑んで云った。  女の表情は、はっとなった。彼女は、じっと新太の顔を見つめた。無表情に見えたが、それは何か重大なことを思案している瞬間であった。新太との間の距離は五尺ばかりだったが、二人の眼は一線にぴんと引かれた。 「いいよ」  女は、遂に返答した。 「姐さん。礼は先に頼むぜ」  新太は云った。 「ふん」  女は鼻で笑うと、どたりとそこに坐った。 「約束は守るだろうね?」  と、じっと新太の顔を睨《にら》んだ。 「当りめえだ。逃げやしねえ」  半鐘は以前よりも激しく鳴った。どこかで人の騒ぐ声が大きくなった。水音が一しきり高くなった。女は、それを聞いて怯えたような顔をし、早くしておくれ、と云った。女は畳の上に横になると、袂《たもと》で顔を蔽《おお》った。      七  新太は、女の身体に抱きついた。昂奮で身体が、がたがたと震えた。  女の着物は絹もの特有の手触りの滑らかなものだった。柄が粋に凝っていることも無論だ。衿にのぞいている襦袢《じゆばん》も上に着ている着物に負けなかった。  女は新太の手がかかっても、じっとしていた。人形を転がしたように観念していた。  新太は息を犬のように吐いたが、身体の戦慄《せんりつ》は止まなかった。この着物が悪いのだ。今まで触ったこともない高貴さが、彼の意欲を拒んでいた。  彼は女が蓋《ふた》をしている袂を押し除けた。女は、低く、いや、と云ったが、新太は女の顔をむき出した。  白い細い顔に、高い鼻が形よく仰向いていた。唇の恰好が描いたように綺麗であった。両の眼は伏せて休み、長い睫毛《まつげ》が揃ったように翳《かげ》っていた。新太は息を詰めた。  今まで、こんな美しい顔を、こんな条件で見たことがなかった。彼は歓喜の血が頭に逆流した。が、どこかで彼の実感は阻《はば》まれて、感情が到着しなかった。  ──こんな筈は無え。おれは、二カ月も独りで辛抱したのだ。  新太は苛立った。が、彼がいらいらすればするほど、昂奮とは逆に、意欲が抑制された。  女が、薄い眼を開けて、新太を視た。それは咎めるような眼つきであった。  新太は、あわてた。 「おめえ、おれとこんなことをしても、旦那にいいのかえ?」  彼は、間《ま》をつなぐように云った。 「構やしないよ。こんなときに、来てもくれない薄情な男だもの」  女は低い声で、自棄《やけ》になったように云った。  この短い会話で、新太は気持を落ちつけるつもりであった。彼は新しい勇気を奮い起そうとした。だが、彼の手の動作にかかわらず、身体の意志は云うことをきいてくれなかった。彼は、あせった。こんな筈は無いぞ。  意欲を拒んでいるものは、結局、女がきれい過ぎることだった。今まで、新太が腕の中に抱いてきた女とは種類が異《ちが》っていた。細い白い顔と恰好のいい眼鼻立ちが、新太の実感を邪魔した。おえんのような黒い皮膚や、低い鼻や、饐《す》えたような臭い体臭だけに、彼の身近な充足感があったのだ。これは、まるきり性質《たち》が違っていた。馴れない、異種であった。顔も、着ている物も、光り過ぎていた。  新太が、あせればあせるほど、身体が慄えて、意志が減退した。かけ上がろうとしても、崖《がけ》くずれのように石が転んで、足が前に進まなかった。新太は汗を出し、顔が真赭《まつか》になった。時間ばかりが無駄に経過した。 「駄目だ」  新太は、絶望して、女の身体を突き放し、弾《はず》みをつけて反対に転がった。彼は手で顔を押えた。  女が静かに半身を起した。こちらの様子を見透かすように、しばらく黙っていた。 「どうしたのさ?」  女はきいた。不安げなのは、礼を受け取って貰えないからのようだった。  新太は、呻《うめ》くような声を洩らして泣き出した。駄目だ。駄目だ。おれは、いつからこんなになったのだ。──野州無宿の卯之吉のことを思い出した。そうだ、海嘯が退いたら、永代橋際に行こう。寄場奉行の声が耳の底に残っていた。また、島に帰ろう、帰って草履を作るのだ。おえんにも会いたくなかった。おとなしく島に帰ったら、奉行は誉めてくれるに違いない。がっくりと気落ちしたなかで、新太は絶望を噛みながら、そんなことをぼんやり思った。 「おおい」  外で声がした。 「おみよ、居るかア。迎えに来たぜ」  声をきくと、女は急に走った。 「あんたア!」  勢いづいた声で外へ叫んだ。 「お。心配《しんぺえ》したろうな。やっと、舟をみつけて持ってきたのだ。済まねえ済まねえ、遅くなって」  水音の上を、男の大声が滑っていた。がたんと音がしたのは、舟を二階の手すりにつけたのだ。 「あんた。よく来てくれたねえ。あたしゃ、待って、待って。うれしい!」 「うむ」  肩にもたれかかった女を抱いて、男が座敷に入ってきたが、途端に、新太を見ると、ぎょっとして立ち止まった。 「この人がねえ」  と女は新太を指さして、旦那に急いで云った。 「いま、あたしを助けに来てくれたところさ。よかった。恰度《ちようど》、あんたが間に合って」  女の声はさらに甘えた。 「見ず知らずの人だから、お礼はうんとはずんで上げて!」 [#改ページ]   おのれの顔    坂部能登守勤役中風聞書写 [#ここから2字下げ]  牢内ニ而《て》囚人共内々役人有[#レ]之、新入之もの御座候節ハ、手荒成《てあらなる》取扱致候趣ニ付、様子| 承 合《うけたまわりあわせ》候所、左之趣ニ御座候。 一、入牢被[#二]仰付[#一]候もの共之内ニ、役人之心ニ|不[#レ]任《まかせざる》ものハ打擲《ちようちやく》等仕り、至而《いたつて》手荒なる取扱致候趣ニ御座候。 一、牢内へ茶を入遣《いれつかわし》候樽を茶樽と唱《となえ》、右の樽へ水を入れ、当人を伏せ置、右樽を背中に乗せ、二人にて右樽を持上げ、背中へ落し候由に御座候。 一、汁溜と申し数日汁其他塩ノ物を給し不[#レ]申、飯ばかり|為[#レ]給《きゆうされ》候義も御座候由。 一、落間へ落置《おとしお》き昼夜立たせ候て、或ハ冬向ハ四斗樽へ水を入れ、右中へ入れ置候なども有[#レ]之由ニ御座候。 一、(略) 一、右ノ通り打擲致し、強く打擲致候節|相果《あいはて》候ヘバ、病死之趣ニ申立候由。病死のもの有[#レ]之候|而《て》も、委しくは見分ケ不[#レ]仕候故、死骸ニ疵等有[#レ]之|而《て》も、見出候義も無[#レ]之由に御座候。 右之通り悪者共ばかり牢内役人致し罷在《まかりあり》候故、一通りニテ入牢致し候ものハ甚ダ難儀仕候由ニ御座候、右風聞及[#レ]承候間申上候。 [#ここで字下げ終わり]    寛政十二|申《さる》二月      一  入牢の新入りは、たいてい日の暮れ方であった。牢屋同心が、誰々と生国と年齢《とし》をよみ上げて中鞘《なかざや》の潜《くぐ》り口から抛《ほう》り込む。牢名主が、へい、有難うございます、と声をかけて受けるが、薄暗い中では顔つきもさだかに分らない。改めて見るのは夜が明けてからであった。  二番役をしている濃州無宿の喜蔵《きぞう》が、銀次《ぎんじ》という新入りの男の顔を知ったのは、そういう見知りかたであった。  牢内の朝は早い。まだ暗い七ツ時(午前四時)には三番役が大きな声を張り上げる。 「詰《つめ》ろ詰ろ羽目通り、つめろつめろ役人衆、牢人衆、詰の御番衆、つめ洗水をぶち込んではならぬぞや。詰ろ羽目通り、詰ろ詰ろ夜が明ける。お役人衆、御牢人衆、御牢内の法度書《はつとがき》ありありと見えてはならんぞや。詰の羽目通り、五器口前の御牢人さん方、上座《かみざ》の牢人さん方、下座の牢人衆、助番坐れ坐れ、目を覚まして借りようぞや。詰ろ詰ろ総役人衆、お戸前の鍵も、鞘戸の鍵も、ちんやからりと鳴ってはならぬぞや。詰ろ詰ろ羽目通り、つまりました、つまりました、夜が明けたア」  こんな声がかからぬうちから、新入りは眼を醒《さ》ましていた。気の弱い者は心配で一晩中眠れないのである。牢内同囚の間では厳しい役人制があり、新入りが苛虐《かぎやく》な試煉をうけることは世間に知れていた。  喜蔵が眼を醒ますと、いま吠えた三番役の平吉《へいきち》が喜蔵に定法の挨拶をした。 「これはお隣りの二番役様、今朝も結構なお天気につきまして、なまに朝声早々と相かかりまして悦びをお訴えと仕りました」  喜蔵はうなずいた。名主の武平《ぶへい》はまだ高い畳の上で足をひろげて寝ていた。  もっそう飯と汁の朝飯がはじまる。 「上座の牢人衆、まだもっそうも中下膳もろくにゃア引けますめえ。御隠居さん隠居さんお願いなされてお角役《すみやく》さんが座をらくにいろとおっしゃるから、らくに居ろ」  平吉はまた怒鳴った。  牢内には薄い朝の明りが靄《もや》のように射してくる。喜蔵は、羽目通りに詰め合っている科人《とがにん》の端に覗いた、昨夕《ゆうべ》の新入りの顔を何気なしに見て、ぎょっとなった。  喜蔵は、はじめその男が盲目かと思った。それほど彼の眼窩《がんか》は落ち窪んでいた。よく見ると、眼はその窪んだ暗いところに小さく光っていた。  その代り、その小さい眼を埋め合せるように、人なみより大きい鼻をもっていた。顴骨《かんこつ》の張った四角い顔に、この二つの道具はひどく醜悪にみえたが、なお、いけないことには下唇の上に薄汚い前歯が牙のようにむき出ていた。 「いやな野郎が入ってきた」  と喜蔵は思った。  喜蔵が厭な気持がしたのは、その面相が醜悪な理由からだけではなかった。彼の持っている顔の特徴の一つ一つが、実に喜蔵のそれと同じであったからだ。無論、仔細に見れば、少しずつは異《ちが》っている。第一、喜蔵のは彼ほど極端ではなかった。しかし、印象は全く同じなのだ。いわば、その男は、喜蔵の眼、鼻、口の道具を拡大して持っていた。  喜蔵は今まで、この顔の不幸な出来の悪さにどれだけ苦痛を味わってきたか知れなかった。女には絶対に好かれたことはなかった。そのため惚れた女を何度も他人に取られ、辛《つら》い目に遇ってきた。初めから相手にされない顔であった。いや、女や子供ばかりではなかった。男もそうだった。喜蔵の顔を見ると、眼をあらぬ方に向けるのである。  おれは誰からも好かれないと悟ったのは二十《はたち》の頃であった。ぐれたのもその時分だ。侮るような冷たい他人の眼に突掛って行ったといえる。どうせ気に入られないなら、好きなことをすることだと発心した。  かねて彼を嫌っていた村の名主に手疵《てきず》を負わせ、美濃の郡上《ぐじよう》の在からとび出して江戸の無宿の群れに入った。博奕《ばくち》や喧嘩は無論のことである。暴れることで、その方では顔を売ったが、相変らず誰からも親しい眼を向けられなかった。  喜蔵は、自分ながら己の顔が恨めしかった。窪んだ小さい眼、人より大きな鼻、隠そうとしても、いつか唇の端からせり出してくる出歯、尖った頬骨、──髪結床に行って、たまに鏡に映るわが面《つら》つきに愛想が尽きると一緒に、腹を立てた。いつも恥しいところを見せているような負《ひ》け目が、逆に他人に強く出ることになった。嫌われてやれ、どこまでも嫌われてやれ、と性根を据えた。  岡場所に行っても、女にもてたことがなかった。いつも冷淡にあしらわれた。小半|刻《とき》もいやいやながら居てくれるのはよい方だった。一晩中、灰吹きを叩いて夜を明かしたことは珍しくない。そのため、ちょいと覗いた女を追いかけ、髪を掴んで引きずり戻し、女が気絶するくらいに打擲して大騒動になったことも一再ではなかった。──女はとうに諦め切っていた。  喜蔵が、昨夕入ってきた新入りの顔を見て恟然《きようぜん》となったのは、あまり自分に似すぎていたからだ。その顔は、まるで彼をあざけるように部分を誇張していた。暗い眼窩の底にちかちかしている眼、平べったい顔の中央にぶら下がっている巨きな鼻、始終、うす笑っているような出歯、どれも喜蔵のそれを押し拡げていた。  喜蔵は、何とも云えない厭な気持に襲われた。 「三番役」  と喜蔵は平吉に顎を新入りの男にしゃくって見せた。 「野郎、どこからうせた馬の骨だえ?」 「へえ」  平吉は答えた。 「野州何村の百姓銀次とか同心衆が云っていやした」  喜蔵は少しうなずいた。 「おしゃべりを聞かせてやるとき、キメ板で少し痛めてやれ」 「因縁のある奴ですかえ?」  平吉は喜蔵の顰《しか》めた顔を見た。 「なに、一向に知らねえ。だが、虫の好かねえ野郎だ。少々、おどかしてやれ」  喜蔵は平吉に、自分の顔と新入りの百姓の顔とが似ていると気づかれるのを懼《おそ》れるように急いで云った。 「へえ、ようがす」  平吉は、厚さ四分、幅一尺三寸、長さ二尺のキメ板を抱えて立ち上がった。      二  銀次は、ふてぶてしかった。彼はどんなに平吉の折檻《せつかん》をうけても音《ね》を上げなかった。新入りなら、たいてい初日のキメ板をうけたら、泣き出しそうな顔をして這いつくばうのである。しかも平吉は、喜蔵に云われて力いっぱいに殴りつけたのだが、銀次のくぼんだ眼と醜くむき出した歯には、さして痛い目をうけた表情はなく、横着げだった。 「新入りにしちゃア、しぶとい野郎ですね」  キメ板を投げ出した平吉が、汗を掻《か》いて意を迎えるように喜蔵に云った。 「うむ。情けをかけることはねえ。これからも痛めつけてやれ」  喜蔵はうなずいて云った。  銀次という男は、百姓なだけに骨太い体格をしていた。箱のような感じである。少々なことでは応えそうにないようにみえた。  いまいましい奴だと喜蔵は思った。  牢内ではいろいろな制裁方法がある。鞘の格子に手をかけさせ、濡れ雑巾を太股《ふともも》に当てがって、黒痣《くろあざ》が出来るほど殴りつけることがある。両手、両足を鞘に縛りつけて一昼夜立たせて眠らせないこともある。蒲団蒸しにして、逆さに羽目に立てかけることもある。だが、そのようなことをするには、相当な理由を名主に云わねばならなかった。つまり、相手に遺恨のあることを申し立てて許しをとるのだ。  喜蔵にその理由は無かった。他人《ひと》には口に出して云えないことなのだ。理由は、新入りの野州百姓の銀次が、あまりに己に似すぎていることだった。それも、大げさにである。恨みはそれだけだが、これが口から吐けないだけに、喜蔵は銀次が憎くなった。 「二番役。おめえさん、あの野郎に何か気に入らねえわけでもあるかえ?」  平吉が、喜蔵の顔色をよむようにして、また云ったくらいだ。 「わけもへちまもねえ。あの野郎の動作が太《ふて》えのだ。なあ、平吉。おめえにはそう見えねえか?」  喜蔵は実際の理由を悟られまいとするように云った。 「そうですね」  平吉は半分は疑うように、落間の端に坐っている銀次の方に眼を遣った。  実際、他の者には喜蔵が癇《かん》を立てるほど銀次は横着には見えなかったに違いない。百姓というだけにその動作に鈍《にぶ》そうなところはあった。要領のいい奴は、敏捷《はしつこ》く立ち廻って、牢役人である古い囚人の機嫌をとるか、いかにも恐れ入ったように蒼い顔をして縮んでいるのだが、銀次の態度には、そんなものは無かった。が、といって、それが図太い態度とは思えなかった。三番役の平吉の眼は、牢慣れしている筈の喜蔵が、そんなことを云うのは怪《おか》しいな、と審《いぶか》るようであった。 「おめえにゃア分るめえ」  と喜蔵は肚の中で平吉の顔に毒づいた。  あの顔を見るのが、おれにはやり切れないのだ。面《つら》の造作がいちいちおれのものを太くして持っている。日ごろから苦にして嫌っている己の顔が、いやでも毎日、眼の前に歪《ゆが》んで据わっているのを眺めると、胸が悪くなるような嫌悪を覚えるのである。 「三番役」  と喜蔵は云った。 「あの銀次の野郎は何でここへ送り込まれて来たのだったえ?」 「おしゃべりの時に吐かせたには、|かたり《ヽヽヽ》だとぬかしてましたぜ」 「うむ。かたりか」  あの鈍重な顔つきで詐欺《かたり》が出来たのかと、喜蔵は案外な気がした。が、それよりも憂鬱だったのは、そのような罪名ではお調べが長びくのだ。喜蔵は舌を鳴らした。  罪名が決まって、早くこの牢から失せて消えればいいものを、これでは当分の間、あの嫌な顔と面つき合せねばならないようだった。喜蔵は苛々してきた。  彼の顔を見ないようにすればいいのだが、余計悪いことに、生憎《あいにく》と牢内は人数が空いていた。落間に坐っている科人は、ふだんなら畳一枚ぶんに七、八人坐って、この大牢では七十人ぐらい詰まっている。それくらいなら人間の頭のかげにかくれて銀次の顔を見ないで済むのだが、今のように空いていては、疎《まば》らな人の間から銀次の顔が意地悪くまるきり覗いているのだった。銀次は恰《あたか》も喜蔵を厭がらせにやって来たように、その憎い顔を喜蔵の眼の正面にむき出していた。  喜蔵は憎悪が湧いた。  立ち上がって行っていきなりその顔を滅多打ちにしてやりたいくらいだった。張り倒して、息が止まるほど足で滅茶苦茶にその顔を踏みつけてやったら、どんなにせいせいするかしれない。その衝動で身体が嚇《かつ》とすることがあったが、それが出来ないのだ。憎いが、訳は誰にも話せないことだった。喜蔵は後頭が疼《うず》くほど神経が苛立った。  ところが、喜蔵のその苦悩を救うような小さな変化が三日目くらいに起った。  新入りが五、六人、一どきに入ってきたのである。五、六人では、科人たちの隙間はさして埋まらなかったが、それでも誰かが出牢して行って余計に間が拡がるよりは助かった。  新入りの五、六人は、平凡な罪名で入牢して来た者が多かったが、その中で、たった一人、めずらしいのが居た。  その男は、女のように柔らかい身体つきだったが、顔ものっぺりしていて、色も蒼白かった。いや、此処へ初めて来るものはたいてい蒼くなるのだが、彼はふだんから血の色は少なそうにみえた。 「うぬの名前《なめえ》を申し上げろ」  とキメ板を持った平吉が仁王立ちになると、その男は鬼にでも遇ったように震えた。 「材木町木曾屋庄三郎の手代で忠八《ちゆうはち》と申します」  細い声で切れ切れに答えた。 「うむ、白ネズミか」  平吉は、あざ笑った。彼は男の衿首を掴むとキメ板をとり直して振り上げた。男は悲鳴を上げた。 「やい、娑婆からうしゃアがった大まごつきめ、はッつけめ、そっ首を下げやアがれ」  平吉は早口でおしゃべりを聞かせた。流れるように一種の調子がある。 「ご牢内はお頭、お角役様だぞ。えい、一番目にならびゃアがった一二、一六、一候《びんぞろ》とり野郎め。うぬがような大まごつきは夜盗もしえめえ、火もつけ得めえ。割裂《かつさ》きの松明《たいまつ》もろくにゃア振れめえ。やい。すぐな杉の木、曲った松木、いやな風にも靡《なび》かんせと、お役所で申す通り、有体《ありてい》にもうし上げろ」  おしゃべりはもっと長く文句を聞かせるときもあるが、こんな風に端折《はしよ》るときもある。どっちにしても打擲をうける方は助からないから、音を上げるのは同じだった。 「へ、へい、あっしは密通でくくられて参りました」  新入りの手代忠八は泣き声になって云った。 「みっつうだと?」  平吉が問い返した。 「は、はい。その、店《たな》の内儀《かみ》さんといい仲になって忍び合っていましたので」 「なに、間男《まおとこ》か」  平吉がちょっと息を抜かれたように、手をゆるめた。そう聞けば、いかにもこの男は、そのようなことをしそうな白い顔と、やさしい身体つきをしていた。ほかで聞いていた牢内の一同が思わず視線を彼に集めた。 「この野郎」  平吉が怒鳴ろうとしたとき、 「おい、待て」  と畳を高く積み上げた上から、名主の武平が声をかけて制止した。 「やい、そこの新入り。間男たア近ごろ面白え。こっちへ来て、罪状の段々、詳しく白状しろ」  武平は黒い髭面《ひげづら》の中から白い歯を出して、うす笑っていた。      三  忠八は名主に声をかけられて、怯えたような眼で武平の顔を見上げた。が、彼は名主の顔が平吉ほど鬼には見えなかったのであろう。いや、それよりも他人の顔色をよむことになれた彼は、武平のいかつい面貌に動いている或る表情を早くも捉えたようであった。  忠八は、少し身体をくねらせて高い畳の下にいざり寄った。 「はい、お頭さん、何でも申し上げます」  と彼は媚びるように云った。 「うむ、駈け出しの岡ッ引みてえに下手な詮議はしねえから、ツボだけは外さずに正直に云え」  と高い所で名主は云った。 「おめえとおかみさんが心安くなったのはいつからだ?」 「はい、忘れもしない一年前、恰度《ちようど》、桃の咲く時分でございました……」 「芝居《しべえ》がかりで云うことはねえ。そいつアどういうきっかけだ?」 「節句になったので、おかみさんがあっしを連れて土蔵《くら》の中に雛飾《ひなかざ》りの人形を取り出しに行った時でございます」 「おかみさんは何歳《いくつ》で、おめえはいくつだえ?」 「はい。おかみさんは三十一で、あっしは二十五でございます」 「三十一たア大年増だが、女の脂の乗り旺《ざか》りだ」  武平は上からじっと忠八の顔を見下ろした。その眼は光っていた。それは武平だけではなかった。そこに並んで坐っている牢役人たちも、眼の色が変っていた。 「蔵の中で出来たなんざア、とんだ薹《とう》の立ったお染久松だ。おめえの方から手を出したのか?」  武平は背を屈めて訊いた。 「いえ。おかみさんの方からでございます」 「そうだろう。おめえは色が生白《なましれ》えからな」 「けど、その時に出来合ったわけではございません。あっしはびっくりして断わったのですが、そのあとも、おかみさんがしつこくつきまといますので」 「嘘つけ。てめえの面じゃ据膳に頭をころがして喰いついたに違えねえ」 「いえ、本当でございます。主人は六十で、おかみさんは後妻なものでございますから」 「なるほどな。かみさんが淋しいのでおめえに取り憑《つ》いたという訳か。とんだ者に見込まれたな。それじゃ、おめえも散々可愛がられた訳だ。行灯《あんどん》に着物を掛けて、暗えところでつつき合ったのは何処だ? 家内が寝静まった夜中に忍び合ったのか?」 「いえ、主人の居る家の中じゃ恐ろしくて出来ません。浅草の茶屋の二階で行き逢いました。おかみさんは寺や芝居に行くと云って出掛け、あっしは掛け取りに行くといって出掛けました」  忠八はまた身体を少しくねらせた。 「出合茶屋たア筋書き過ぎるな。道行のところは要らねえ。早速だが太夫にサワリのところだけしんみりと語って貰おうじゃねえか」  名主の武平は、舌で唇でも舐めそうに云った。牢内は一段と静粛になった。ごくりと唾を呑みこむ音が聞えそうなくらいであった。 「はい」  手代の忠八は、さすがにすぐには云い出しかねていた。が、彼の顔つきは相変らず名主に媚びていた。牢内の苦痛を少しでも脱れたい阿諛《あゆ》だった。 「おお、なにもそう気取るこたア無え。ここに来て妙な助平根性を出すんじゃねえぞ。やい、てめえも主人の女房を盗んだ悪党だ。悪党は悪党らしく、洗いの鯉《こい》みてえに何もかも泥を吐け」  武平はわざと大きい声を出した。彼におどかされたので、忠八は身震いを一つした。 「出合茶屋の二階でどうしたのだ?」 「はい」  引っぱり込まれたように忠八は口を開いた。が、話の途中までくると、武平はまた怒鳴った。 「ばか野郎。そんな通りいっぺんの話をきくために、お名主さまがわざわざ手前をここに坐らせたんじゃねえ。早えとこ真打ちの咄《はなし》をやれ」 「へえ」  忠八は、覚悟を決めたように、ぼつぼつと話し出した。皆が固唾《かたず》をのんだように聞いていた。笑い出す顔は一つも無かった。永く牢に居る人間ほどそうで、眼の色に籠ったような熱気が出ていた。  話はすすんだ。それは男女の姿態の詳細な描写だ。武平さえ、顔の皮膚に脂が出て粘く光っていた。鼻の呼吸も荒くなっていた。 「うむ、それでどうした?」  彼は身体を乗り出して、話の内容を深く穿鑿《せんさく》した。根掘り葉掘りして、精密な描写を要求した。こうなると忠八も調子に乗ったようだった。彼は自分の話が聴き手に充分な効果を与えたと知ると、時々思わせぶりな沈黙をしたり、実際以上に誇張したりした。  事実、彼の話し振りと、その身体つきは完全に似合っていた。蒼白い顔と華奢《きやしや》な姿とは、その種の秘密な絵草紙《えぞうし》に出てくる主人公そっくりに見えた。皆は息を詰めて、その物語りの片言も遁《のが》さずに聴いた。どの眼も奇妙に真剣であった。話は一刻《いつとき》近くも要した。 「よし。今日はそれくれえで勘弁してやる」  武平はやっと云った。彼の顔には汗が噴いていた。自分の昂奮を抑えるように、ふうと肩で息を吐いた。 「いい目を見たのだから、そっ首が飛んでも恨みはあるめえ。息のあるうちにだんだんに吐いて行け。おれのお呼び出しがあるまで、残りを考えておけ」  また、脅かされて、忠八は肩を縮ませて大勢のいる落間に引き退った。それでも、なよなよとした身体を妙にくねらせていた。  はじめて薄ら笑いが牢役人たちの顔に浮んで出た。彼らは昂《たか》ぶりをかくそうとして、そのためかえって露骨にお互いの顔を見合った。  この手代の忠八は、この牢に思いがけなく闖入《ちんにゆう》した愛嬌者だったが、ただの愛嬌者ではなかった。彼の話の内容は滑稽だけでは済まないものがあった。聴く方には、逆上《のぼせ》るような粘っこい毒を残した。 (とんだ野郎が迷い込んで来やがった)  喜蔵は、寝てからもその話が耳から離れなかった。話から勝手な妄想が発展して寝苦しかった。  とんだ野郎といえば、野州百姓の銀次は相変らず落ち窪んだ小さな眼と、ぶら下がった大きな鼻を囚人たちの間から平気で出していた。五、六人ふえたくらいでは、彼の面は隠しようもなかった。いや、喜蔵には銀次がわざわざ彼の方へこれ見よがしに顔を突き出しているようにさえ思えた。  喜蔵の意識している自分の顔の醜悪の部分が拡大されて、絶えず向き合っていることは、逃げようのない檻《おり》の中だけに、堪え切れない嫌悪だった。      四  あくる日になると、名主の武平は、また忠八を呼びつけた。 「やい、色男。昨日のつづきを云え。てめえのしたことは三度や五度じゃ無えはずだ。何でも洗いざらい云ってしまえ」  忠八は昨日のことがあるので、今度は素直に口を割った。彼の薄い唇は初めからそのつもりで濡れているようだった。 「はい。申し上げます。三度目は両国|河岸《がし》の宿の二階で逢いました」 「よし。余計な前置きはいらねえ。その大年増と抱き合ったところから講釈しろ」  武平は、また背中をかがめて、下にかしこまっている身体の細い手代を見下ろした。  昨日で下地が出来ているので、忠八は今度は手真似まで入れて喋《しやべ》りはじめた。それは中年女が年下の男と絡み合う愛欲の描写だった。彼の説明は、微に入り、細にわたって精密を極めた。 「うむ、うむ」  武平は言葉を入れるのを忘れて聞き入った。忠八の顔つきと身体が不思議な実感を盛り上げた。武平ばかりでなく、ほかの聴き手の眼も燃え出していた。長い間、女から離れ、これからも隔絶を強《し》いられている彼らは、異常なくらい話に神経を蒐《あつ》めた。だが、この刺激は、あとで自分を意地悪く苦しめるのだ。 「よし」  と長い時間をかけて聞き終ると、武平は奇妙な吐息をついて云った。 「今日はそのくれえで幕にしろ。この次は、ちっとは変ったところを聞かしてくれ」 「はい。では、そういたします。なにしろ年上の女にかかっちゃア叶《かな》いません。妙なことを知っているので、あっしの方がおもちゃにされます」  いい気なものだったが、聴く側にはいちいち、毒となって胸にひろがった。話のあとでもしばらくは平気になれなかった。忠八の話は充分に聞き手には愉しみを与えたようだが、実は存分に攪乱《こうらん》していた。  止せばよいのに、名主の武平はつづけて毎日、それを忠八に催促するのだ。 「やい、忠の字。ここに来て出語りしろ」  すると忠八は、段々、話が巧者になり、艶《つや》をつけて洒々《しやあしやあ》と述べ出す。彼は聴く方を飽かせないよう、同じ場面を繰り返さずに、変化する工夫さえした。話術は回を重ねる度に冴《さ》えてくる。武平をはじめ、みんな額に汗を浮べて聞き入った。喘《あえ》ぐような呼吸《いき》をする者さえいた。命令する武平さえ、あとでこんな話を聞くのではなかった、と悔やんだに違いない。が、あくる日になると、その後悔を知りながら、忠八の話が欲しくなるのだ。  ところが、それとは関係なしに、数日すると牢内に一つの変化が起った。新入りの囚人がどっと送りこまれてきたのだ。  偶然であろうが、一晩に十人ぐらいずつ、四晩にわたって入牢した。平科人のいる場所は百人以上がぎっしりと詰まった。 「滅法ふえたものだぜ」  新入りにキメ板を振るう平吉が大汗をかいた。  喜蔵は、しかし、内心でよろこんだ。こう混み合ってくると、あの嫌な銀次の顔も密集した人間の顔のかげに見えなくなった。畳一枚七、八人が定員みたいなものだが、十二、三人はたしかに詰め合っていた。無論、あぐらを掻《か》くことも横になることも出来ない。夜の睡眠は前の人間の背中に頭をつけて坐ったまま眠るのである。喜蔵が望んだ通りになった。いまや隙間というものは寸分も無かった。あの、己に似た顔は埋もれて没している。やれやれ、これで神経が休まると彼は安心した。  実際、あの顔が眼の前から消えたとなると、これほど心が落ちつくものかと思った。疫病神を追払ったようなものだった。肉親なら別である。他人が己の顔に似ているほど厭らしいことはなかった。蛇でも見ているような本能的な厭悪《えんお》だった。それも、己の醜いところを引き伸ばして、ぬっと突き出されたのでは堪ったものではない。  名主の武平も、急に人数がふえて心忙しくなったのか、手代の忠八をあまり呼ばなくなった。これも妙な焦燥から逃れて助かった。喜蔵は久しぶりに楽々とした気持になった。  偶然のはずみというものは奇妙だった。喜蔵の安心を更に深めるように、それからも新入りの科人が毎晩のようにつづけてやってきた。二百人、三百人とふえて、向う通りにいる平科人は坐るどころか、中腰にならなければ、あとの人間が収容出来なかった。  一枚の畳にあぐらをかいている名主の武平も、一枚に二、三人だけで寛いでいる角役はじめ役つきたちも、呆れてこの混雑を眺めた。  が、ただ呆れてばかりもいられなかった。平科人たちの場所は落間と称して区画が定まっていた。これから外には、どのように混雑しても坐ることが出来ない。手足もそこには出せないのである。定規で引いたような区画の線の内側に、何百人の平科人があろうと、絶対にそこに押し込まねばならない。  あわれな平科人どもは、腰をうかせ、互いにうしろの膝に乗っているような恰好で眠らなければならなかった。そのままの姿勢で、身動き一つ出来ないのだ。見ていても息が塞がりそうだった。 「なあ、二番役」  中央の畳の上から、名主の武平が喜蔵をよんだ。 「こう混み合っちゃ堪らねえ。この辺で、四、五人、サクを作ろうか?」  武平は高い所から平科人の密集した頭を眺め廻すように云った。 「そうだな」  喜蔵もそれを考えていたところだから同意した。  サクを作る──それは平科人のうちの何人かを死亡させて、他の者に少しでも場所をひろげて楽にしてやることだった。 「その人間を決めるなアおめえの役だ。いいように択り出してくれ」  武平が低い声で云ったので、喜蔵は黙ってうなずいた。彼の心には一番にその死亡の候補者が決まっていた。  あの野州の百姓銀次だ! 「おお、その内にはな」  と武平が、これだけは自分の考え通りの人間を死亡人の中に入れてくれと云った。 「あの手代の忠八だ。間違いなくあいつは失せてくれ」      五  坐ることも出来ず、立つことも出来ず、人間と人間が中腰で糊《のり》のように密着しているこの地獄場から、少しでも空きをこしらえるために、二番役の喜蔵は五人を間引くことにした。  銀次を一番にその中に入れることは絶対だった。あの醜悪な呪うべき面貌が、己の前から永久に消えて無くなるとは、何という心の休まりであろう。もう苛立つこともなければ、嘔《は》き気がするようなあの面を目の前に据えることもない。|おれ《ヽヽ》とは異った顔ばかりが見られるのだ。こんな安心なことはない。野郎、おぼえたか、と喜蔵は心の中で笑いを上げた。  武平が忠八をその中に入れろと云ったのは、意外のようだが、その心持は喜蔵にも分らぬではなかった。武平も忠八を憎悪しているのだ。あの刺激的な毒が武平に彼を憎ませたに違いない。のっぺりとした白い顔と、極彩色の妖しげな話は、聞いているうちに笑いごとや座興ではなくなった。殺すとすれば、忠八は間違いなく該当人であった。  あとの三人は、咳《せき》ばかりして煩《うるさ》い病人が二人居る。これは耳障りで仕方がない。夜、眠るのにはたの者が迷惑なのだ。もう一人も、何の病気か分らぬが、呻ってばかりいる。これも片づけたい。人選の役目を任された二番役の喜蔵は、これだけを肚の中で数えた。 「ちょいと話し合いがある。みんな、こっちに来てくれ」  喜蔵は、角役、三番役、四番役、五番役、本役、大隠居、若隠居、本役助などの牢役人をあつめて、この次第を低い声で話した。名主がそう云うのだから、誰も異論は無かった。ことに忠八を入れることには、みんな同意の表情をした。彼への憎しみは誰も同じにみえた。  ただ、百姓銀次を入れたことは、他の者に理解出来なかったらしい。分る筈がない、これはおれだけの腹の中にある絶対の理由だと喜蔵はせせら笑いたいくらいだった。反対する者があったら、殴りつけたかもしれない。  ことは決まった。  膂力《りよりよく》のある三番役の平吉と、本役助と、中座の中から強そうな奴を一人、お手伝いとして選んだ。この中座の科人というのは、入牢の時にツル(金)を余計に持って来た者か、牢役人に知り合いのある者で、平科人よりは楽な場所に坐らせられていた。 「やい、銀次。こっちへ来い」  と平吉はどなった。  ぎっしりと詰まった間から、銀次がのっそりと抜けて出てきた。くぼんだ眼と、肥大した鼻と、牙のような出歯の顔であった。喜蔵が久しぶりにみる憎々しい顔だった。  平吉は、いきなり銀次をキメ板で殴りつけた。銀次はよろけて倒れた。それでも白い出歯は横着げな笑いをしているように見えた。  本役助とお手伝いがその上に飛びかかった。もがいている銀次の手足をとって、鞘の前に引立てた。栗材で六寸角の太い格子に銀次の両手は拡げたままで縛りつけられた。  二人が銀次の足を片足ずつ確《しつか》りとつかまえた。彼の姿勢は、腰を少し落して、両股を開き、鞘の格子を拝むような恰好になった。 「やい、みんな」  と平吉は、息を呑んで蒼い顔で見詰めている平科人に怒鳴った。 「古道具屋の店先にならんでいる徳利みてえにぼんやりしているんじゃねえ。|とき《ヽヽ》を唱えろ」  平科人一同は夢からさめたように、声を揃えて、ええい、ええい、とかけ声をかけた。毎日、役人の申し聞かせがあって、それに科人一同が声を揃えてこんなことをいう牢法がある。折檻はその時刻を利用した。  大勢の鬨《とき》を上げるような声に消されて、百姓銀次の悲鳴は鞘の外に聞えなかった。銀次が悲鳴を上げるのも道理で、かれの内股に濡れ雑巾を当てて、平吉がキメ板の角で力いっぱい殴りつけるのである。骨が砕けるような苦痛で、さすがの野州の百姓もひいひいと笛のような声を出した。  平吉がくたびれると、本役助が代ってキメ板を揮った。内股には墨で塗ったような黒痣《くろあざ》が出来た。本役助が疲れると、お手伝いが替った。替る替る殴打されて、銀次は萎《な》えたように身がぐったりとなった。 「この野郎」  仕上げに平吉が眼を火のように輝かして、仕置人の背後に立った。彼は急所を目がけてキメ板を乱打した。銀次は声を出す力も無かった。身体が格子に紙のようにぶら下がった。彼の息は絶えていた。 「おう、三番役」  と名主の武平が云った。 「急病人が出来たようだな。寝かせてやれ」  へえ、と平吉は答えた。三人で手首にくくった縄を解き、死骸をかかえて落間の隅に転がした。牢内には蕭殺《しようさつ》の気が漲《みなぎ》っている。平科人たちは目をむき、声も出ないで震えていた。  喜蔵だけは、やっと安心した。──  ほかの四人もその夜のうちに片づけられた。夜中にみなが寝静まっている間の出来事だった。雇主の女房に可愛がられた手代の忠八は、五人がかりで手足を押えつけられ、濡れ紙で鼻をふさがれて他愛なく窒息した。折角の、のっぺりした顔も、死に顔は醜く歪んでいた。  その夜が明けると、名主の武平は、見廻りに来た牢屋同心に申し出た。 「もし、お役人さま。昨夜のうちに急病人が出来やした」  牢屋同心も慣れているから、事情を呑みこんでいる。牢屋の内は科人の一種の自治制で、役人も名主の云うことは、政策上、たいてい黙許していた。役人は、急病人なら医者を呼ぼうと云った。  医者というのは、ここにいつも来る六十ばかりの老人だった。役は鞘の外に転がっている五つの屍体を一瞥しただけで眼を逸《そ》らせた。あまりの凄惨《せいさん》さに正視が出来ないのだ。 「いかにも、これは急病死でございます」  医者は立会いの同心に告げて、逃げるように立ち去ろうとした。  その始終を内鞘から睨んでいた名主の武平が、 「おい、角《すみ》の隠居、先生にお手洗いをさし上げろ」 「へえ」  隠居が医者をよびとめた。 「先生、お手洗いでございます」  間髪を入れず、声と一緒に医者の袖の中には、紙に捻《ひね》った二分金が落ち込んだ。喜蔵が、その様子を、内からじっと見ていた。      六  喜蔵が出牢したのは、それから半年のちであった。  しばらく振りの娑婆だった。何を見てもきれいだ。秋のおだやかな天気で、空気も澄んでいるし、天地が限りなく広かった。喜蔵が永い間、牢に屈んでいたとは誰も知らない。通る人は無関心に、それぞれ愉しそうに歩いていた。  が、自由にうまい空気が吸えるだけで、そのほかは何ひとつ自由にはならなかった。もっそう飯だが、牢内にいた時は三度の飯にこと欠かなかった。せまい世界であったが、牢内役人として平科人に威張っても居られた。娑婆に出てみると誰も無宿者の喜蔵など相手にしないのである。  懐には十文の銭も無かった。銭さえあったら、少しは自由感があるのだが、これでは動きがとれない。博奕も出来なかった。  自由なようだが、娑婆の方が、牢内よりずっと不自由であった。 「あの医者からふん奪《だく》ってやるか」  橋の下に寝ていて、喜蔵が考えついたのはこれだった。  牢屋によく来る医者の顔を思い出した。六十の年寄りのくせに、肥っていて、皺が少なく色艶がよかった。随分と金を貯めているに違いない。栄養がいいのは、うまいものを喰っている故だろう。医者という奴は金を持っている。  その金も、あのように袖の中に抛り込まれたのが多いに違いない。医者のくせに、ろくに診《み》もしないで、金だけ素知らぬ顔で握って逃げて行く。その金も、科人が役人の目をぬすんで口から呑んで尻から出した苦心したツルなのだ。それを平気で取ってゆくとは、憎々しい奴だ、という考えが起きた。  喜蔵はその晩、早速に実行に移った。  医者の名前も所も知っていた。大きな家の構えである。贅沢な生活が想像出来た。あの様子では、妾でも外に置いて居そうだ。  喜蔵はその高い塀を乗り越え、家の内に入り込むことには成功したが、不運なことが起っていた。外の雨戸が一枚はずれていたので、悪い予感はしたが、思い切って内に忍び込むと、座敷の中で彼は蒲団につまずいた。いや、蒲団と思ったのは暗い中での思い違いで、すぐにそれが柔らかい着物をきた、息の無い人間の身体であることに気がついた。  喜蔵は闇の中で眼を凝らした。なれてくると家の中の様子がおぼろに見えてきた。その辺が掻き廻されていた。誰かが来て、先を越したのだ。喜蔵は遁《に》げ出した。夢中であった。畜生、と彼を出し抜いた見えない相手に悪態を吐《つ》いた。  ふと、後ろから来る足音をきいたので、喜蔵は駆け出した。悪いことに行く手に夜泣きそば屋が居て、こいつが屋台をほうって喜蔵に組みついて来た。後ろから来た人間は、近づいてこの組み打ちを見ていたが、これも、そば屋に加勢した。若い者三人だったので、喜蔵は苦もなく押えられた。 「おやじさん。何だえ、こいつア?」  若い男の一人が、喜蔵を指した。 「何だか知らねえが、いま時分、泡を喰って駆けて来るから、盗人《ぬすつと》だと思って組みついたのだ。おめえたちが来てくれて助かった」  そば屋のおやじは、まだ肩で息をしながら云った。 「そうかも知れねえ」  と若い一人が喜蔵をこづいた。 「まともな奴じゃねえだろう。おいらは組の寄りがあって遅くなり、この場を通りかかってよかった。やい、面を見せろ」  喜蔵は、なんだ、と思った。追手ではなかったのか。あまり逆上《のぼせ》たので、判断がつかなかったのだ。彼は自分の軽率を悔やんだ。 「おらア、そんなんじゃねえ。こんな手荒なことをして後悔するな」  喜蔵は掴まえられた腕を解こうと振ったが四人の力には叶わなかった。 「何を云やがる。悪い奴はそんなせりふを云うものだ。やい。こっちへ来い」  そば屋の行灯《あんどん》の明りの届くところまで喜蔵を四人は引きずった。 「面を見せろ」  一人が両手で首を掴まえて、ぐいと上げた。四人の眼は試すように喜蔵の顔を凝視した。 「うむ。こいつア悪党面だ」  と一人が云った。 「陰気な眼つきをしていやがる」 「でけえ鼻をしてやがるじゃねえか。こいつあ太え」  ほかの一人が云った。 「おそろしく出歯だな。きたねえ歯だ。お、臭え口だ」  喜蔵は顔を掴まえられたまま吠えた。 「やい、やい。見世物じゃねえ。いい加減にしてくれ。そこを放してくれ。痛くて堪らねえ」 「痛くても放すものか」  おやじはあざ笑った。 「おめえは悪党だ。その面を見ても分らア。悪党面だぜ。おれのような仏みてえな男は、そんな面はしねえものだ」 「違えねえ。人相見じゃねえが、おれにもそれくれえは分る。番所へ引き立てろ」 「親方」  と喜蔵は俄《にわ》かに弱い声を出した。 「人違えだ。おらアそんな人間じゃねえ。駆けてたのは、病人が出来て医者を呼びに行くところだった」  喜蔵は必死だった。番所に行って岡っ引の手に渡ったら最後だ。あの医者殺しの嫌疑はすぐに己にかかるに違いなかった。云い開きの届く所では無かった。  無宿者で、前科者なのだ。一も二もない。 「往生際の悪い奴だ。嘘を吐いても、おめえのその面つきが承知しねえぜ。やい、覚悟しろ」  顔。──また、これだ。今まで彼の生涯を散々に虐《いじ》めた顔が、ここでも彼を獄門にまで落そうとしている! [#改ページ]   逃  亡    安永七年、老中書付 [#ここから2字下げ]  無罪《ヽヽ》ノ無宿共、先ヅ四五拾人佐州へ差遣《さしつかわ》し候間、水替人足ニ遣《つか》ひ候様致スベシ。 尤《もつとも》無宿共ノコトニ候間、欠落《かけおち》、死失等|有之候《これありそうろう》とも届ニ及バズ、佐州ニおいてハ地役人共ニ取計ハセ掟《オキテ》厳シク申付ケ、居小屋外へ罷り出候ものハ勿論水替|不精《ぶしよう》いたし候カ、或ハ虚病《けびよう》等申立候者ハ、仮令《たとい》悪事|無之《これなく》候とも拷問同様ニ致し、其上ニテ相用ヒザルものハ死罪ニも行ヒ候様致スベシ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](佐渡年代記)      一  昨日、尾張無宿の宗七《そうしち》が人足小屋で病死した。宗七は身体があまり頑丈でなかった。何十尺という地底での息つくひまもない水替労働の過重に耐え切れなかったのである。  宗七は蒼い顔をして三日ばかり寝込んだ。それを叩き起して坑内に追い込んだのは、鉱山《やま》の地役人である。 「やい、仮病を云うな。怠けると痛い目を見せるぞ」  決して仮病でも怠けているのでもない、と宗七は衰弱した身体をはだけて見せたが、役人はきかなかった。 「息をしているうちは働くのだ。甘《あめ》え顔をしているからと思って、つけ上がるな。うぬらのような無宿人に舐《な》められて堪るか」  役人は鞭《むち》を振るった。宗七は病犬《やまいぬ》のように喘ぎながら二日ばかり我慢していた。それも仕事場では仲間が見兼ねて替ってやったのだが、遂に昏倒《こんとう》して、暗い敷《しき》(坑内)の中で息を引いたのだった。  死骸が坑外に運び出されると、役人は一瞥《いちべつ》して薄ら笑いした。彼はそこに立っている水替人足に向かって怒鳴《どな》った。 「やいやい、ぼんやりと見ているんじゃねえ。てめえらも気合を抜かして、ひょろひょろしているとこの通りだぞ。娑婆のように医者もお手当も無えと思え。うぬの身体が可愛かったら出精しろ」  罪の無い、ただ無宿人というだけの理由で、江戸からここ佐渡の金銀山に水替人足として送り込まれる人数は、年間に相当なものだったが、死亡した数も多かった。  人間扱いの労働ではなかった。一口に金山といっても沢山の間歩《まぶ》(鉱坑)がある。そこで働く者は穿子《ほりこ》(鉱夫)や大工がいるが、これは稼業人だからまともな扱いだ。水替人足は坑内に湧き出る水を鉄桶で汲み上げ、手繰りや車引きで段々に上げて外に流し出す作業だった。坑底を川のように流れている湧水は、少しでも汲み上げを油断すると水量が増すので、作業は一分も休みがなかった。飯のときでも交替で水を汲むのである。  暗くて、狭い場所なのだ。掘ったあとへ僅かなかかりをつけて丸太を渡し、その上に乗って水汲みの手繰りをする。坑内を上下するのも、丸太に刻んだ足掛りの梯子《はしご》を伝うという危ない芸当だった。 「地獄だ」  と人足どもが息を切らして吐くのは、言葉だけの形容ではなく、身体に体験する実感であった。作業は昼夜交替だが、岡(坑外)に上がるとみなが病人のようだった。顔色はまるで無い。根を出し尽して、足も前に出ぬほど萎《な》えていた。何年も生きようというのが望めぬ無理だった。  それも、江戸に帰してくれる年期でも決まっていれば、まだ希望をつないで元気が出る。そのことは全く無いのだ。佐渡に送りこまれた以上、死ぬか、島から脱走する以外、この責苦からは脱れられなかった。  脱走させないためには、役人の方も心得たものである。間歩と間歩の山奥の谷間に、建坪百三十六坪の水替小屋場を作り、厳重な柵で囲って交通を遮断した。その近くには番所や水替役所をつくって役人に見張らせた。小屋の中でも、差配人、小屋頭、下世話というような牢役人まがいの者を置いて平人足を監督させた。少しの自由も無いのだ。敷《しき》に下っても地獄、小屋に帰っても地獄だった。仮病を申し立てたり、過怠《かたい》したら拷問《ごうもん》をしてもいいことになっている。場合によっては、死罪にしても構わなかった。 「江戸や故郷《くに》が恋しい」  と人足どもは空を向いて泪《なみだ》を流した。  誰も逃走を考えていた。しかし、小屋から間歩までの途中は一かたまりとなって歩き、役人がつき添って眼を光らせている。夜陰に小屋からの脱出も、夜番が廻っていて不可能だった。  たとえ、小屋から逃げても、佐渡と本土とには海が巨きな障害となって横たわっている。川のように泳いで渡るわけにはゆかず、舟が無ければどうにもならぬことだ。狭い佐渡の島を逃げ廻るだけで、所詮は袋の鼠であった。  それでも、逃げたい一心で脱走を企てた者がないではなかった。が、それらは、たいてい島の山の中にひそんでいて捕えられるか、うまく漁師から舟をぬすんで沖へ遁《に》げても、一里と行かないうちに追手の船に掴まって成功しなかった。脱走者は文句なしに獄門台でさらし首である。  脱走を企てた者が出たあとは、警戒は更にきびしくなった。地役人どもの気も一層荒くなる。  が、いくら失敗の例があっても、人足たちの儚《はかな》い希望は絶えない。それが夢なのだ。間歩の行き帰りに、木の間がくれに覗いて見える暗鬱な北の海をながめて、人足の誰もが、いつかは必ず、と思うのだった。無論、無駄とは知っている。が、そうでも思わなければ、一日でも生きられる世界ではなかった。  悪事をした罪でこの懲罰をうけるのなら、まだ諦めも出来る。しかし、無罪なのだ。何とも不合理な話だった。  誰に怒りを訴えようもない制度である。憤怒と絶望とで彼らは笑いを忘れていた。      二  尾張無宿の宗七があわれな死に方をして数日経ってからだ。  上総《かずさ》無宿の新平《しんぺい》という男が、夜中に眼を開けると、隣りに寝ている信州生れの与八《よはち》をそっと揺すった。 「誰だ?」  真暗い中で手が伸びて顔を撫でたので、与八は眼がさめて声を尖らせた。 「大きな声を出すな。おれだ、おれだ」  と新平は低い声で抑えるように云った。小屋の中に寝ている連中の鼾《いびき》のほか何も音が聞えない。夜番の足音は、さっき通り過ぎた。 「新平か。なんだえ、今ごろ」  与八も低い声になって問い返した。 「少し、相談がある。もちっと、そっちへ寄るぜ」  新平は身体を少しずらせた。 「相談はほかじゃねえ。此処をずらかろうと思うのだ」  新平は与八の耳もとで囁いた。与八は闇の中で眼を剥《む》いた。 「そりゃ悪い了簡《りようけん》だ。止しねえよ」  彼はこたえた。 「万一、しくじったら、獄門ものだぜ」 「おめえがそういうのは、初《はな》から分っている。だがよ、人間、踏ン切りが肝心だ。見たかよ、この間の宗七の死にざまを。この地獄で精も根もすり減らして、揚句の果ては暗いところで往生だ。それも野良猫の死骸同然の扱いだぜ。おらア、あんな死にようはしたくねえ。死んでも死に切れねえ」 「うむ、そりゃおれも同様だ」 「それ見ねえ」  新平は勢いづいて説得にかかった。 「おめえだって逃げてえのは山々に違えねえ。ただ、出来ねえことだと半分は諦めているのだ。だがよ、そうして愚図愚図している間に宗七と同じ最後になるのだ。道遊割戸《どうゆうわりと》の南に江戸水替人足の墓てえのがあるだろ。みんな宗七と似た死に方をした奴が何百人とあの下に埋まっているのだ。どうだ、早いとこ決心を定《き》めねえと、おめえも骨をあの下に埋めることになるぜ」 「云われるまでもねえ、そいつア分っているが」  と、すっかり眼が冴《さ》えた与八はいった。 「おめえに何かうめえ工夫があるのか?」 「あるから申し上げているのだ」  新平は低いが熱のこもった声になった。 「逃げる算段はたった一つだ。おれたちが、小屋からつながって間歩に歩いて行く、その途中を狙うのだ」 「え。だが、逃げようにも山役人が前《めえ》と後からついているぜ」 「ふふ。分ってらあな。その役人を殺《ば》らそうというのだ」  なに、と与八は息を詰めたようだった。 「何もびっくりすることはねえ。それよりほかに遁げ道はねえのだ。役人を殺《や》ることは、ちっとも可哀想じゃ無え。あいつらは、相川の女郎屋で十日に三度は女を抱いているそうだぜ。鉱石《いし》の目方をごまかして甘《うめ》え汁を吸っているということだ。悪事をしている奴がいい目を見て、何の罪もねえおれたちが、あいつらから地獄の責苦にあわされる理屈はねえ筈だ」 「そりゃ、ま、そうだが」  与八は新平に問い返した。 「殺《や》るといっても、こっちは刃物は持たねえ。どうするのだ?」 「ばかだな。相手はたった二人きりだ。こっちは二十人もつながって歩いている。それ、途中で高い崖の上を通るだろう。あすこから皆で谷底の川へ役人を蹴落すのだ」  与八は黙った。暗くてよく分らぬが、思案しているに違いなかった。 「なるほど、そいつあ趣向だが」  と与八は呟《つぶや》いた。 「すると、それから先はどうなるのだ。二十人もかたまって遁げるのかえ?」 「さあ、そこだ」  と新平は云った。 「二、三人で逃げても掴まるのに、二十人も一緒では遁げ終せる訳はねえ。まあ、それからあとのことは、おれに任しな。とにかく、今は七、八人ぐれえの仲間を作るのが先なのだ」 「なに、七、八人でいいのか?」 「血のめぐりが悪いぜ。二十人の中から七、八人が役人を手ごめにしようとすれば、あとの奴らは自然にこっちに加勢すらあな。なあに、みんな逃げてえ奴ばかりだからな」 「うむ、おめえも考えたな」  と与八も意が動いたようだった。 「だが、まだ先が聞きてえ。舟の目星はあるのか?」 「それよ」  新平は更に熱心に云った。 「こいつア、やっぱり漁師の舟を夜ぬすむほかはねえ。おれにその目論見《もくろみ》がちゃんと立っているから大丈夫だ。おれは前から今日のことを思い立って、それとなく敷内で働く相川の大工と心安くなっていたのだ。この鉱石《やま》のどの辺を役人が固めているか、どっちへ逃げたら無事か、漁師のある村はどの方角か、大工の話で大体、見当をつけてあるのだ」 「なるほど、おめえは軍師だ」  と与八は、少し弾んだ声で云った。 「そこまで考えているなら安心だ。新平、よし、片棒入れるぜ」 「そう来なくちゃ嘘だ」  と新平は満足そうに云った。 「失敗を怕《こわ》がっちゃ、道も歩けねえ。まして一生が浮ぶか沈むかの瀬戸際だ。一番、度胸を据えてかかろうぜ」 「よし来た。おれも眼の前が明るくなったようだ。それで謀反《むほん》の仲間の心当りはついているのか?」 「うむ。おおかたの当りはしてある。何せ、寝返りが出ちゃ、一も二もねえ、首がとぶのだ。おいらの組の中で、これという奴にしか打ち明けられねえ。おめえもそのつもりで二、三人は頼むぜ」 「いいとも」  与八は小さい声に熱を入れて請け合った。  夜廻りの足音がまた近づいて来たので、二人はそっと離れて、空鼾《そらいびき》を立てた。      三  上総無宿の新平、藤沢無宿|卯之助《うのすけ》、信濃無宿与八、駿河無宿|次郎七《じろしち》、板橋無宿|定五郎《じようごろう》、美濃無宿|喜兵衛《きへえ》の六人が気を合せて逃走の手筈を決めたのは、秋晴れの朝であった。  鶴子間歩に向かう昼勤《ひるつとめ》の一組で、同勢二十三人の水替人足が細い山の道を縦になって繋がるように歩いていた。先頭と後尾には山役人が警固してつき添っていた。  諸方の間歩は突兀《とつこつ》として巌肌《いわはだ》を露出して立っている。その間の渓谷を埋めて紅葉が色彩を撒いていた。径《みち》の下には渓流が音たてている。普通の人なら美しい眺めだが、水替人足にとっては、風流どころではなかった。生地獄へ通う道なのだ。  水替人足の一行はいつものようにおとなしく歩いて行く。呑気《のんき》なのは二人の役人で、これは鼻唄でもうたいそうな顔であった。江戸で暴れた無宿者も、ここでは、自分たちに絶対無抵抗だと信じ切っている。  突然、その人足の中から罵《ののし》り合う声が聞えた。先頭の役人はふり返った。喧嘩でもはじまったと思ったらしい。 「騒ぐな。声が高いぞ」  叱ったが、意外に効き目がなかった。二人の男が掴みかからんばかりに口ぎたなく喚いている。  役人は自分の言葉が効かないので、ひどく機嫌を損じて、二人の傍に大股でやってきた。 「鎮まらぬか。やい、鎮まれ」  後ろにいる役人は、何事がはじまったのかと声を聞いて走って来た。 「騒ぐな。静かにしろ」  二人の地役人が一緒に来たのが、共諜者の狙った機会であった。  新平と与八は、くるりと役人の方を向いた。 「なに、静かにしろだと。何を云やがる。糞でも喰《くら》え」  新平が勢いよく云った。役人は胆を奪われたように唖然《あぜん》とした。 「やい。今日かぎり敷に入ることは御免だ。お。阿呆《あほ》みてえに如意《によい》切り立ってるんじゃねえ。分ったか?」  地役人は、初めて顔を真赭《まつか》にして、 「うぬ、手向いするか」  と威丈高《いたけだか》になった。  与八が手を挙げたのが合図だった。力の強い定五郎が後ろから役人の腰にとびついた。喜兵衛も、卯之助も、かねて定めた通りに、二人の役人の左右から石を持って迫った。 「おい、みんな。逃げてえ奴は、この役人をやっつけろ」  新平は、突発したこの場の騒ぎに眼を瞠《みは》っているほかの人足たちに叫んだ。 「今、逃げねば、逃げる時はねえぞ。まだ地の底で括《くく》られてえ奴はあっちへ行け。自由の身になりてえと思ったら、こいつをやっつけろ」  三、四人が、煽《あお》られたように前に出てきたのがきっかけだった。ほかの人足も悉く二人の地役人に突進した。逃げられる、これだけで彼らは動物的になった。 「おい、殴ってばかりいるんじゃねえ、ほかの者が来ねえうちに、早いとこ川の中へ叩き込んでしまえ」  新平は命令した。  みなは地役人を抱え上げた。助けてくれ、と地役人は悲鳴を上げたが、二人とも毬《まり》のように弾《はず》みをつけて断崖の下に転落して行った。水音が下から聞えた。 「逃げるんだ」  と新平は一同に叫んだ。 「おれの行く方へついて来い。ほかへ踏み出すと捕まるぞ。声を出すな」  新平は命令した。彼はもう一党の首領になっていた。  一同は、新平を先に立てて山中に入った。この山一帯の出口には要所をかためて番所がある。が、ここからはまだ距離があった。渓合《たにあ》いの狭いところに来ると、新平は立ちどまった。 「ちょっと、ここで、みんなに話がある。その辺に腰かけてくれ」  新平は云った。 「こんなところでぐずぐずしていいのか。早く逃げねえと危ねえぜ」  と人足の中から云う者がいた。 「まあ、そうあわてるな。無茶苦茶に逃げることが能じゃねえ。紙袋をかぶせられた猫みてえにうろうろしていると追手に捕まるばかりだ。逃げ道を落度のねえように決めてかからねえことには、ことは成就しねえ。しくじったら獄門首だからな」 「新平の云う通りだ」  と云ったのは、与八だった。 「がやがや騒いでも始まらねえ。こうなりゃ船頭任せだ。新平の工夫に従おうじゃねえか」  一同は黙って異議を云わなかった。はじめてことの重大さが実感に逼《せま》ったような硬い顔をしていた。地役人を川に突き落せば、すぐにでも逃げられると思った瞬間の昂奮は醒めていた。いまや獄門台を背負っていると思うと、誰にも単独行動の勇気は無かった。 「よし、分ってくれたか」  と新平は満足な顔で皆を見た。 「この辺の山の地理は、おれが調べてある。山から脱けるのは、心配《しんぺい》は要らねえのだ。だが、それから先の海が難物だ。こいつア泳いで渡る訳にいかねえ。どこかの漁師の舟を奪ってにげるより仕方がねえ。おお、そうだ、誰か、この中に船の漕げる奴は居ねえか」  皆は返事しなかった。誰も居ないのかと思うと一人の男が前に出た。 「おりゃ船頭をやったことはねえが、大洗の磯育ちだ。舟ぐれえは漕げるぜ」  まだ若い男で、常陸《ひたち》無宿の吉助《きちすけ》といった。 「うむ、吉助か。そうか、おめえが漕げるのか」  新平はうなずいた。      四  上総の新平が一同に云い出したのは、こうだった。ここから南へ二里ばかり山越しすると松ヶ崎という漁村に出る。舟をここで奪って、まっすぐに東の沖に淡く見える山を目印に行けば、いやでも越後のどこかに漂着する。其処《そこ》まで着けば大丈夫で、あとは陸つづきのことだから思うところに逃げられるというのだった。 「落ち合う先は松ヶ崎だ」  と新平は云った。 「松ヶ崎に出て、舟にさえ乗れば、こっちのものよ。漕いでも漕がなくても、潮の流れがひとりで越後に着けてくれらあ。ところで、その松ヶ崎に出るまでの道中が要《かなめ》のところだ。こう二十何人も、ぞろぞろとつながって歩いていちゃ目立っていけねえ。誰かにきっと見咎《みとが》められるに決まっている。そこで、おれが考えるのは、人数を少しずつ分けて、別々に松ヶ崎へ行くことだ。そうだな、六人ぐれえずつ四組に分れたらどうだな」 「なるほど、新平の云うのは尤もだ」  と賛成したのは、また与八だった。 「こう大勢じゃ、暴《ば》れるのは当り前だ。おめえの云う通りに四組になろう」  皆にも異議は無かった。誰も、不安と緊張で、この二人の発言の通りになっていた。自然に、四組に分ける人選も新平がするようになった。  新平は、自分の組に、与八、卯之助、次郎七、定五郎、喜兵衛を撰んだ。これは今度の共諜者ばかりだった。 「おい、吉助。おめえもこっちに来な」  と新平は、舟の漕げる吉助を抜け目なく自分の組に編入した。  四つの組が決まると、新平は、あとの三組にそれぞれの逃走路を教えた。彼は土の上に棒切れで絵図を書いた。 「こう行けば川に出る。それを西に沿って行くと三角のかたちをした山が見える筈だ。それを目印にして南に行くと──」  と細かに説明した。三組の十六人は眼を凝らし、頭の中に叩き込もうと必死の面持ちをしていた。 「そうと決まったら此処で長居は無用だ。出立しようぜ」  与八が促した。 「うむ、そろそろ山役人に変事が知れるころだ。そんなら、みんな、気をつけて行ってくれ」  新平は立ち上がった。  四組に分れた二十三人は、そこで互いに別れた。 「やれやれ、これで一つは済んだ」  と新平は歩き出して云った。 「これから、この七人が心一つになるのだ」 「あの三つの組は、うまく松ヶ崎に着けばいいが」  次郎七が云うと、新平はあざ笑った。 「無事に着く筈が無え。途中で捕まるに決まってらあな」 「何?」 「おう、次郎七、考えてもみろ。二十何人がどうして舟に乗るのだ。四艘も五艘も舟を盗める訳はねえ。一艘がせいぜいだ。おれは邪魔な人数を追払ったのだ。おれが、あの三組の野郎たちに教えた道は、途中でちゃんと村があって見張りに引っかかるようになっているのだ。これからおれたちが行く道だけが見張りに気づかれねえ間道なのだ」 「なるほど、おめえは知恵者だな」  与八が新平の顔を見上げて感じ入ったように云った。 「当りめえよ。これくれえの知恵が働かなきゃ首を賭けたこの博奕《ばくち》は打てねえ。おりゃ、この壺の賽《さい》の目は読んでいるつもりだ」 「そいつあ頼母《たのも》しい」  と美濃の喜兵衛が眼を輝かして云った。 「こうなりゃ、おめえが頼りだ。たのんだぜ」  新平は、にっと笑ってうなずいた。  道といったが、無論、径《こみち》もない。樹木と雑草の中を踏み分けて、新平は先に立った。百舌鳥《もず》がけたたましく啼いて飛び立った。声を殺して七人は草をわけた。  突然、遠くで狼烟《のろし》を上げる音がきこえた。みなは顔色を変えた。 「変事が山役人に知れたのだ」  新平は告げた。 「あわてることはねえ。今ごろまで知れねえのが不思議だ。みんな、落ちついてくれ」 「やっぱり松ヶ崎へ出るのか」  与八がきいた。 「松ケ綺なものか。あすこは番所もあって警固のやかましいところだ。おいらがこれから出ようというのは田野浦という淋しい漁村《むら》だ。松ヶ崎とはまるであべこべの方角よ。外海で波が荒えが、その代り、見張りの無えところだ」 「そうか。そこまで知っているなら安心だ」 「みんな相川の大工のお蔭よ。おりゃ、寝てる間もこの企《くわだ》てを考えつづけて来たのだ」  新平は誇らしそうに云った。  一|刻《とき》も歩きつづけたが、相変らず山の中で、ほかの者には方角の見当もつかなかった。 「吉助、大丈夫か」  新平はふり向いた。吉助は一番後ろからついて来ていた。それを確かめると新平は安心したようにまた足を進めた。  山と樹林のほかには、秋空に鰯雲《いわしぐも》がひろがっているだけだった。      五  その日の暮れに、やっと海の見えるところに出た。長い山中の彷徨《ほうこう》に疲労し切った七人は元気が湧いた。 「海だ」  暗いが、星空の下に真黒い海がひろがり、騒音と潮風を送ってきていた。  が、家らしいものは一軒も無かった。山の上からそれを見下ろしていた皆は、眼を左右に動かしたが、小さな灯一つ見えなかった。どうやら岩ばかりの海岸のようだった。 「ここが田野浦か?」  与八は新平に訊いた。新平は首を振った。 「田野浦なら家がある筈だ。少し見当がずれたかな」  しかし、いずれにしても田野浦はもう近いと彼は断言した。 「少しその辺に降りて様子を見てくるか」  与八が云ったが、新平は制《と》めた。 「危ねえから止めろ。おれたちの逃げたことが分って役人は血眼になっているのだ。誰かに見られてみろ、それ切りだぜ。それよりも今夜はこの山の中に寝て、夜があけて様子を見るに越したことはねえ」  新平は、此処まで来るとひどく慎重だった。危険と云われれば、与八も黙った。 「新平の云う通り、へたに動くより様子がはっきりするまで山の中にもぐって居よう」  定五郎が云った。彼は人一倍、臆病だったが、この場合、誰もそれを笑わなかった。  その晩は、皆は草むらの深いところにかくれて睡った。気が昂《たか》ぶってはじめは寝つかれなかったが、昼の疲れで朝まで眠りに落ちた。新平が眼をあけた時は、空いっぱいに朝の光が満ちていた。 「起きろ」  新平はほかの者を揺すった。喜兵衛が、|くさめ《ヽヽヽ》をした。夜露に濡れて誰の身体も冷えていた。  明るい朝陽の下で見ると、果して岩ばかり重なり合った海岸で、家は一つも無かった。左右、どちらを見ても海と山の線だけしか眼に映らなかった。 「仕方がねえ。この海に沿って山を歩こう」  新平は云った。 「そのうちに漁師の集まった部落《むら》に出るに違えねえ」  すぐ眼の下には波が寄せていた。七人は海岸から離れぬよう山を伝って匍《は》った。 「道が見えるぜ」  しばらくして卯之助が下の方を指した。なるほど細い道が木の間から白い糸のように伸びていた。道があるなら、どこかの漁村に出られると七人は勇み立った。  希望の人家はやがて皆の眼に見えてきた。部落というほどでもない、四、五軒の家が海に向かって寒げにかたまっているだけだった。低い屋根には石がならべて置いてあった。 「舟が繋いであるぞ」  喜兵衛が逸早く見つけて指した。  皆の眼はその方に注いだ。貧しそうな端の家の裏に小さな舟が揺れていた。 「一艘だけだな。ほかの家には無い」  新平は眺めて呟いた。 「漁にでも出ているのかな」  新平は沖に眼を遣ったが、蒼く拡がった海のどこにも漁船の影は無かった。 「小さな舟だ。三人ぐれえしか乗れねえな」  皆がぎょっとしたのは、新平のこの言葉を聞いてからだった。思わず七人という人数を考えたのだ。 「なに、一艘ということはねえ筈だ、いまに漁から戻ってくるだろうよ」  新平は皆に衝撃を与えたことを知って、なだめるように云った。  その四軒の家からは人の姿がときどき出入りした。みな貧しい装《なり》をしている。老人も、若い者も、子供もいた。 「おや、若え女がいるぜ」  与八が声を上げた。  顔は遠くて分らないが、着ている着物の赤いので知れた。すんなりと伸びた姿だった。女は、一番端の家の暗い戸口から出入りしていた。 「小舟のある家だ」  新平が、じっと視て呟いた。 「いい女らしいの」  次郎七が眼を輝かしていた。ほかの者も、女の姿が見えるたびに強い視線を投げた。貪欲《どんよく》な眼になるのは仕方がなかった。暗い地底と陰鬱な小屋の中に閉じ込められた生活で、女というものを見たことがないのだ。 「ああ、早くこの海を渡りてえ」  定五郎が溜め息をついて云った。この男には江戸に残した可愛い女が居た。海は凪《な》いでいて沖には白波一つ立っていなかった。白い雲が高いところに一つまみの綿のように浮いていた。  夕方近くまで皆はその場所に潜んで待ったが、ほかの漁船が帰って来る模様がなかった。 「新平」  と与八が云った。 「もっとほかの村に出よう。どうやらここにはあの小舟が一艘きり無えようだぜ。この人数じゃ、二艘要るのだ。半分乗って、半分残ることになる。ほかへ行って探せば五、六艘ぐれえつないでいる村はありそうだ」 「うむ」  と云ったが、新平は気の乗らない顔をした。 「まあ、もう少し待ってみよう。舟が帰ってくるかも知れねえ。それに、もう、あんまりうろうろすると危ねえからな」  その言葉が終らないうちに、馬蹄の音が下から起ってきた。見ると、騎馬の役人が三人、道を走っているのだった。皆は思わず草の深いところに首を沈めた。  こわごわ覗くと、三人の役人は馬をとめ、恰度《ちようど》、家の外に出ている老人に何か訊いていた。それから馬に鞭を入れて駆け去った。 「ああして、どの村も役人が廻って見張っているのだ。おれたちが逃げたので死物狂いなのだ。家数のある村ほど眼が多いから危ねえ。もう、ここから動かれねえぜ」      六  新平は、ほかの舟が帰ってくると期待していたが、遂に空しい望みだった。日が暮れてからも一向に別な舟が戻って来る様子はなかった。  ほかに移るのが危険なら、此処から海に逃げるより仕方がない、と皆は観念した。が、問題は小さな舟であった。いかにも小さ過ぎた。三人より乗れない、と新平が見積もった通り、一同の眼にもそれ以上は無理なことが明らかだった。  三人と七人。この数字が誰の頭をも支配した。  新平は今度の発頭人だし、指図をしているから自分は一番に乗るだろう、と他の者は考えていた。が、こうなると、発頭人も糞も無かった。みんな同じなのだ。新平が自分を残して強引に乗るなら引きずり降ろそうと思った。なに、ここまで来て、新平にそんな指図をうけるものか、と誰もが一様に思った。  その夜は、また草の間に眠ることになった。本気に眠る者はなかった。こっそりと誰かが抜け出してあの舟を奪って逃げそうに思えて、互いが神経を立てた。  新平の肚《はら》はどうなのか分らない。さすがの与八も、 「一体、誰と誰とを乗せるつもりだえ?」  と訊くことが出来なかった。その話にふれるのが怕《こわ》いのだ。  互いの間に肚の探り合いが火花を散らした。 「ああ、腹が減ったな」  新平が、その鋭い空気をはぐらかすように云った。  いや、実際に腹が減ったのだ。昨日から何もたべていなかった。緊張して感じなかったが、そう云われると空腹が急に迫ってきた。 「おや」  と卯之助が云った。 「吉助が居ねえぞ」  なに、と皆は刎《は》ね起きた。瞬間に誰の胸にも来たのは、常陸無宿の吉助が大洗生れで舟が漕げるということだった。 「野郎、逃げたか」  与八が叫んだ。皆はいっせいに見覚えの家の方を見たが、闇は家も海も包んでいて、舟があるのかないのか分らなかった。  吉が逃げた。新平が歯を噛み合せたのは、吉助が逃げたという打撃だった。彼は、ひそかに舟が漕げる吉助を当てにしていた。吉助が居なければ、海からの脱出は出来ない。そのために、新平は彼を自分の組に入れて置いたのだ。  ほかの者では役に立たないのである。みんな舟さえあれば沖に逃げられると思っているが、この浪の荒い外海から北の岬《はな》を廻って越後まで行こうというのに、舟乗り無しでは出来ることではない。折角、ここまで来て吉助に逃げられては、舟も人も無く、この島の山中に袋の鼠となるほかはなかった。新平は足が震えそうだった。  すると、暗い中から草を踏む音がした。 「誰だ!」  与八が咎めた。 「おれだ」  と云ったのは吉助の声だった。 「吉助か?」  新平は思わず云った。歓喜が自然に声に出た。 「どうしたのだ、おめえが居ねえので騒ぎになるところだったぜ」 「腹が減ってしようがねえから、たべるものはねえかと行ってきたところだ」  吉助は答えた。 「この野郎、ひとに心配《しんぺい》かけやがって図々しい奴だ」  卯之助がおこった。 「そうか、そいつア済まねえ。その代り、少しだが飯は持ってきた。食ってくれ」  吉助は布に包んだものを草の上に置いた。夜目にもうす白い飯が見えた。 「飯だけだ。香のものも無えぜ」  皆は呆れてすぐには言葉も出さなかった。 「何処から盗んで来たのだ?」  与八が、しばらくして訊いた。 「どこでも構わねえ。おめえたちも腹が減ってるだろう。まあ、少しだが食ってくれ」  吉助は答えた。 「吉助が苦労してもってきたのだ。折角だから、と云いてえが、意地にも我慢が出来ねえ。お、みんな、手を出しな」  新平が云った。皆は手づかみで飯をたべた。握り飯にしたら、一つぶんくらいだったが、それでも気はおさまった。  夜が明けた。一同の眼は何よりも真先に舟に向かった。一艘の小舟は皆の眼を安心させるように無事に繋いであった。  昼、一ン日中、彼らは山の中の草むらから出なかった。いや、出られなかったのだ。互いが目の先にある一艘の小舟を目標にして牽制《けんせい》し合っていた。夜は夜で、猜疑《さいぎ》が余計に募《つの》った。 「こうなりゃ仕方がねえ。うらみっこなしに籤引《くじび》きにしようぜ」  と当然出そうな提案も誰の口からも吐かれなかった。自分が貧乏籤を引いた時の恐ろしさを思うからである。  新平、与八、卯之助、次郎七、定五郎、喜兵衛、吉助の七名は、その山の中に眼ばかり光らして釘づけになったまま二晩を明かした。  その間に、遠くで鉄砲が二度鳴った。騎馬の役人が道を走った。  こうなると、彼らにとって敵は、捜索に懸命になっている役人と、いつ抜け駆けするか分らない仲間と両方だった。  ただ、吉助だけは、どこから盗んで来るのか、夜になると黙って飯を運んで来た。三晩目になると、飯の量は多くなり、香の物までつくようになった。彼は皆に訊かれても、黙ってにたにたと笑っていた。      七  吉助の運んでくる飯の量は知れていた。この山の草むらの中に伏せて寝起きに馴れてくると、胃はそれでは満足出来なかった。 「こう腹が空いては叶わねえ。逃げる前《めえ》に干乾しになって餓《かつ》え死だ」  新平が云い出した。 「吉助の飯だけじゃ、もう追っつかねえ。米を浚《さら》って来る工夫はねえか」  皆も同感だった。なにしろ腹が減る。新平の云う通り米がここにあったら、どんなに助かるか分らなかった。 「どうだ、あの家から米をかついで来る方法は無えか」  新平が顎で指したのは、四軒の中で一番大きそうな家であった。そういえば、様子を見ていると、どこかに田か畠をもっている家らしく、朝になると家の者が鍬《くわ》をかついで出て行く姿が見られた。 「吉助、どうだ?」  と与八が引き取って吉助の方を向くと、新平はそれを遮った。 「いや、ひとりや二人じゃ無理だ。ごっそりと取って来るのだ。釜も鍋も要らあな。なあ、与八、おれは、いいことを思いついたのだ」 「知恵者のおめえが考えたなア耳上りだ。何だえ?」  与八はすり寄った。 「あの家の隣りに火をかけるのだ」 「え、何だと?」 「まあ、聞きねえ。あの家の隣りに火をかける。いや、いま一つ隣りがいいかな。何でも近所に火事を出すのだ。するてえと、みんな騒いでその方に駆けつけるに違えねえ。どうだ、その留守に米をひっかついで来るのだ」  新平は、にたりと笑って云った。 「うむ、少し危ねえ工夫だが、やってみるか」  与八は考えるような眼で云った。 「背に腹はかえられねえとはこのことだ。ついちゃ、与八、おめえが行って指図をしてくれ」 「え、おれがか?」 「ほかの者じゃ頼みにならねえ。まず、火をつける役が一人、米をとって来る役が二人は要るな、それに、釜と鍋をとってくる役と、都合、四人もありゃいいやな」  新平は与八の顔に媚びるような眼をした。 「与八。これは、ぜひ、おめえでねえと出来ねえ仕事だ。しくじってみろ、こっちの在所《ありか》を役人に知らすようなもので、獄門台に一蓮托生《いちれんたくしよう》だ。どうだ、おめえの指図でやってくれぬか?」 「うむ」  与八は決心したようにうなずいた。 「よし、じゃ、やっつけよう」 「有難え。それでは、おれが名指しをするぜ」  新平は、卯之助、次郎七、定五郎の三人を指名した。 「喜兵衛は動作が鈍いから連れて行かねえ方がいい。吉助は毎晩飯をもって来ているから、外してやってくれ」  新平は首領らしく云った。とにかく彼はまだ支配力をもっていた。  夜がいいという新平の意見で、与八と次郎七と卯之助と定五郎の四人は夜を待ってこっそりと山から降りて行った。 「しっかり頼むぜ」  新平は激励した。  残った三人は、山の上から、下を凝視した。四つの家は、夜の暗い中に黒々と融けて沈んでいた。やがて、赤い火が点のようについた。 「やったな」  喜兵衛が思わず云った。  が、その火がまだ延びない前に、急に人声が湧き立った。走り出す音がする。喚く声が家の周囲から蜂の巣をつついたように起きた。泥棒だ、泥棒だ、と人声は連呼した。  喜兵衛も、吉助も息を呑んで見つめていた。新平も、じっと眼を放たずに見据えていたが、口の端にはうす笑いが出ていた。  下の騒ぎは、いよいよ大きくなった。火が燃え上がらないところを見ると、誰かが消したらしい。そのうち騒ぎの声は汐風に送られて、「つかまえたぞ」とか「みんなで四人だ」と叫ぶ男の声が途切れ途切れに耳にきこえた。  その騒ぎは、大勢の声と足音とが道を歩いて去るまでおさまらなかった。男の声の中に女のもまじっていた。 「捕まったのだ、四人とも。あいつらは見張番小屋に送られたのだ」  新平は平気で、蒼くなっている吉助と喜兵衛に説明した。 「うまくいったな」  新平が洩らした一語に、二人はぎくりとなった。 「これで三人になった。舟に乗られるぞ」  新平はうれしそうに云った。 「邪魔な四人は片づけてやった。おれはここに来てから、あの部落をじっと見つづけていたのだ。若え男が案外多い。みんな屈強な男だ。昼は畠に行くので夜しか居ねえ。総体に若え者は夜ふかしするからな。あの四人がドジを踏むのは分り切っていた。こっちは散々地の底で苛められて弱っている身体だ。それに腹が減っているから力は無えときている。向うの若え奴らに囲まれたら一も二もねえやな。みろ、与八をはじめ四人とも他愛なく捕まったじゃねえか。いまごろは、相川の奉行所に突き出される途中だ」  新平は面白そうに笑った。 「おいら三人、これで舟で逃げられる。ま、当分はいまの騒ぎで出られねえが、明後日《あさつて》の夜あたりは、あの舟に乗ろうぜ」      八  三人になったというので、新平は安心した。もう以前のような猜疑《さいぎ》も何も無かった。 「おお、吉助」  と新平は、あくる晩、太平楽に注文した。 「おめえ、たべ物を持ってくる名人だ。飯のついでに酒がどこかの家にあったら奪《と》って来てくれ。おらア、長えこと酒を飲んだことがねえ。この辺の家には地酒がおいてある筈だ。明日の舟出の祝いに一杯飲みてえな」  吉助は、あったらとってくる、と云って暗い中を下りて行った。 「なあ、新平」  とあとで二人になった喜兵衛が云った。 「吉助はどこから盗ってくるんだろうな?」 「吉の野郎の巣はたいてい分っている」  新平は暗いなかで、あざ笑った。 「が、まあ、見逃してやっているのだ。あいつが居なけりゃ、舟が動かねえからな」 「いよいよおれたち三人で逃げるとなりゃ、与八たち四人に悪いみてえだな」 「おめえも人がいいぜ、他人《ひと》のことよりわが身だ。構っていられるか。この佐渡の島にお別れしたら、おめえもそのつもりで世を渡りな」  吉助が戻ってきたのは、それから一|刻《とき》あとだった。 「新平。注文の酒は持って来たぜ」  彼は徳利と飯を差し出した。油紙につつんだ飯には干魚が添えてある。 「こいつア豪気だ。肴《さかな》までついて居ようとは思わなかったぜ」  新平は、うれしそうに云った。彼は徳利の口から酒を一口飲むと、額を手で叩いた。 「うめえ、うめえ。久しぶりにありついたせいか、腸《はらわた》にしみ渡らあ。地酒といっても、こんな時に飲む酒の味は、灘《なだ》の剣菱も追いつくめえ」  彼は、ぐいぐいと二、三度、咽喉を動かして飲んだ。 「うめえな。どうだえ、おめえも飲みな。ひとりで飲んじゃ勿体ねえ」 「おらア、飲めねえたちだ」 「そうか。冥利《みようり》を知らねえ奴だな。じゃ、遠慮なしに飲むぜ。明日の祝いだ。そうだ、喜兵衛はおれのあとで飲んでくれ」  新平は、水に渇《かわ》いたように酒を飲みつづけた。それから満足したように横たわると、高い鼾《いびき》をかきはじめた。舟に乗れる安心が、彼を酔いつぶしてしまった。 「喜兵衛」  とそれを見届けた吉助が云った。 「さあ、逃げようぜ」  え、と喜兵衛は、眼をむいた。 「どこへ?」 「知れたことよ。舟にのって逃げるのだ。さ、急ぐんだ」 「だ、だって、おめえ、新平を──」 「そんな野郎はここで眠らせておけ。どうせ人を罠《わな》にかけてきた男だ。自業自得よ。さあ、急ごうぜ。明日になりゃ与八たちが口を割って役人がここに来るかも知れねえ。逃げるなら今夜のうちだ」  吉助は喜兵衛の手を引張るようにして山をかけ下りた。  二人が一軒の家の近くまで来ると、人影が立っていた。喜兵衛は、はっとした。 「吉助さんかえ?」  暗いところで女の声がきこえた。 「そうだ。待っていてくれたか。すまねえ」 「いいえ。あたしゃ、まだ、待つつもりだったよ。あら、この人は?」 「うむ、おれの仲間だ。一緒に舟に乗せてくれ」  喜兵衛は仰天した。その女は、舟のある家の戸口で見かけたあの若い女なのだ。 「い、一体、こりゃア、どうしたのだ」 「ふふ。飯がとり持つ縁だ」  と吉助は笑った。 「飯盗人《めしぬすつと》と仲よくなった女は、世の中にこの女《ひと》くれえなもんだろうよ」  女は、含み笑いを洩らした。 「吉助さん、さあ、舟の縄は解いてあるよ。急いで」 「おい来た」  家の裏に廻ると、汐の香が急に鼻をついた。小舟の腹を波の打つ音がしていた。 「さあ、乗って、あたしゃ、櫓《ろ》を握るからね」  女のこの言葉を喜兵衛の耳が咎めた。 「き、吉助。おめえは漕げねえのか?」 「当りめえよ」  と吉助は笑って答えた。 「水戸在の百姓のおれが舟を漕げる訳はねえ。逃げる仲間に入りてえ一心からの出鱈目《でたらめ》よ。みねえ、新平みてえな男も、このおれを終《しめ》えまで手放さなかったじゃねえか」  喜兵衛が言葉も出ないでいると、 「船頭衆はこの女《ひと》だ」  と吉助はつづけた。 「向うに着いたら、おれと暮らすそうだが、一生、おれの梶《かじ》をとっているに違えねえ」 「いやだよ、吉さん」  と女が笑って櫓をとった。 [#改ページ]   俺は知らない      一  信州|奈良井《ならい》生れの銀助《ぎんすけ》は懐に金が一文も無かった。このところ負けてばかりいる。最後の金は賭場で知り合いになった弥平次《やへいじ》という男に借りたのだった。  二、三日前である。銀助は下谷《したや》の瑞雲寺《ずいうんじ》の賭場で裸になり、夜徹《よどお》しの勝負と、惨めな結果に、早い朝の往来をぼんやり歩いていると、これも夜を明かしての帰りらしい弥平次にばったりと出遇った。 「銀助じゃねえか」  と弥平次の方から声をかけた。 「顔色のよくねえところを見ると、お手上げで尻尾を捲いたところだな」 「図星だ。そういうおめえも、何処《どこ》かの朝帰《あさげえ》りか。景気が好さそうだぜ」  銀助は弥平次をじろじろと見た。懐に金があるのと無いのとでは表情で分った。弥平次は顔色も明るいし、風采も良かった。以前《もと》はこんな男ではないのだ。 「うむ、ちっとばかり賭場が当って来たのだ」  と弥平次は薄笑いして云った。 「そういえば、おめえはいつもの所で近ごろ見ねえようだ。何処か新規な所にでも、もぐり込んだのかえ?」  銀助は半分|羨《うらや》ましそうに訊いた。 「うむ、さる貧乏旗本の屋敷で賭場が立っている。おれはそいつを嗅《か》ぎつけて入《へえ》り込んだのだ。それからは不思議と運が向いてな。この先が怕《こえ》えくれえよ」 「そりゃ豪気だ。おれはこのところ負運《しけ》つづきで腐ってるところだ。どうだえ、よかったら、おめえの顔でおれも其処《そこ》へ潜らせて貰えねえか?」  銀助が頼むと、弥平次は少し嫌な顔をした。 「テラ銭を取っていても相手は旗本屋敷だ。むやみと新しい顔は入れねえのだ。まあ、もちっと待ってろ、そのうち、おりを見て連れてってやる」  弥平次は、おだやかに断わった。 「そうか。ぜひ頼むぜ。どうも河岸《かし》を変えねえと、運もつかねえようだ」  銀助が云ったのは、この弥平次も今までは決して勝負運がよくなかったからである。そんな愚痴《ぐち》を云う銀助を、弥平次は見下すように見た。 「おめえ、いま懐に一文も無えようだな」 「空《から》っ尻《けつ》の観音様よ。倒《さか》さにしたって鼻血も出ねえ」 「気の毒にな。何千両たあ用立てねえが、一朱《いつしゆ》ぐれえなら貸してやってもいいぜ」 「え。一朱も貸してくれるのか?」  銀助は思わず眼をむいて、声を上げた。 「そいつア有難え。今日の飯が食えねえところだった。兄哥《あにい》、済まねえが頼む」 「お世辞を云うぜ」  急に兄哥といわれて、弥平次は苦笑した。 「まあ、取っといてくれ」  弥平次は財布を出して銀助の掌の上に一朱銀を載せてくれた。その財布の膨らみを銀助の眼は遁《のが》さなかった。 「大そうな景気だな。おめえの運におれもあやかりてえ」  銀助は本心から讃嘆した。  その時に貰った金がもう一文も無いのである。その晩の博奕《ばくち》で半分負け、今は懐の中に塵《ちり》も残っていなかった。どうしてこう不運がつづくのか、自分ながら自分を捨てたいくらいに情けなかった。  銀助は、少し厚かましいが、もう一度、弥平次から金を借りようと思った。実際、このままでは動きがとれなかった。なに、そう悪運ばかりは続くまい。今度こそは、という心持ちがある。  銀助は弥平次の借家を知っていた。馬道《うまみち》の古道具屋の横の路地を入って、穢《きたな》い長屋の奥である。弥平次は銀助と違って女房持ちだった。銀助も前に一度弥平次に連れられて行ったことがあるので、家の道順を忘れてはいなかった。  銀助は体裁の悪さを忍んで、弥平次の家の戸口に立った。戸に手をかけたが、歪んでいて容易に開かない。声をかける前に、その音で狐のような顔をした弥平次の女房が内から覗いた。 「何か用かえ?」  女房は甲高《かんだか》い声を出した。 「ご免ねえ。わっちは、ここの兄哥の友だちで銀助という者だが。兄哥は居ますかえ?」  女房は自分で中から戸を開けて、銀助を見た。 「お前さんは、いつか来た人だね?」  女房は銀助の顔を憶えていた。 「あのときはお世話になりました」  銀助は礼を云った。 「時に、兄哥は居ますかい?」 「いま留守だよ。お前さんは何かことづかって来たのかえ?」  女房の吊り上がった眼が光ったので、銀助はあわてて首を振った。 「そうじゃねえ。ちょいと会いてえと思って来たのだ」  留守ときいて銀助は失望した。 「会いたかったら、どこか白首《しろくび》のところを探した方が早いよ。ここには一昨日《おととい》から帰って居ないからね」  女房の鋭い声には、嫉妬《しつと》があった。 「へえ。こいつア愕《おどろ》いた。兄哥にそんな粋筋《いきすじ》がありますのかい?」 「ふん。粋筋というほど乙な女じゃあるまいよ。何だか知らないが、この二月あまり、そわそわして落ちつかないのさ。二、三日、泊まって帰って来た日は、決まってくたびれてるからね。白粉《おしろい》くさい臭いが残ったりしてさ」  女房は黄色い歯齦《はぐき》を出して毒づいた。聞いていると、この女房が情婦《いろ》のところから戻ってくる亭主の身体を嗅いでいるように思えて、銀助は心の中で面白がった。  そんな女が出来たところをみると、弥平次はよっぽど賭場で出来がいいに違いなかった。一体、それは何処の屋敷だろう。腕の未熟な素人《しろうと》くさい連中を相手に、弥平次が甘い汁を吸っているように銀助は想像して、今さらながら羨望《せんぼう》した。 「それで、おまえの用事は何だえ?」  銀助が考えているので、女房は訊いた。 「なに、兄哥が居たら、少し銭《ぜに》を借りようと思って来たのだ。留守なら仕方がねえ」  銀助は頭を掻いた。  すると女房は銀助の不漁《しけ》た顔を見つめていたが、声の調子を変えて云った。 「少しくらいなら、貸して上げるから持ってお行きよ。折角、ここまで来たのだから無駄足させても気の毒さ」 「えっ。姐《ねえ》さんが貸してくれますかえ?」  銀助は吃驚《びつくり》して、女房の尖った顔を眺めた。 「あいよ。どうせ、うちの人が、どこかの馬の骨のところへ持ってゆく銭さ。遠慮なくとっときな」  女房はまた眦《まなじり》を吊り上げた。      二  銀助は弥平次の女房から一朱もらって、喜んで帰った。これは儲《もう》けものだった。女というものは、ケチな性質《たち》だ。気前よく、金を出してくれたのは、女房の嫉妬《やきもち》からである。前の一朱の借金の言訳もせずに拾ったようなものだった。  銀助は馬道から三間町に出た。何処に行くという当てはないが、金が俄かに懐に入ったので心愉しかった。ぶらぶら両国の方へ向かうつもりで歩いていると、一軒の小料理屋があった。銀助はそれを見ると、急に酒が欲しくなった。このところ、咽喉が酒に渇いている。彼は縄のれんを景気よく頭で分けた。 「おい、何か旨えものを見つくろって、酒をくれ」  懐が暖かいので、彼は元気に云った。  だが、小女は彼の風体を見て、ためらっていた。 「おう、何をもじもじしてやがるんだ。銭ならここにあるぜ。心配はいらねえから、早いとこ燗《かん》をつけてくれ」  彼は台の上に一朱銀を見せびらかすように置いた。奥から亭主がじろりと覗いてみて、 「いらっしゃいまし」  と愛想よく頭を下げた。  菜飯屋のようなこの辺の小料理屋では、ろくな酒も肴もない。それでも銀助は烏賊《いか》の煮つけを箸でつつきながら、薄い酒に咽喉を鳴らした。  そこへ門口から三十すぎくらいの年増女が小皿を袖にかくすようにして入ってきた。面長な顔で、化粧にも、着物の着つけにも、どこか玄人《くろうと》くさいところがあった。彼女は台の上に置かれたままの一朱銀と、銀助の風采とを見くらべるようにしながら店の土間を通って奥に行った。 「肴が何にもないのだけど、何かありませんかえ?」  と女は奥で云っていた。 「鰌《どじよう》の蒲焼が生憎《あいにく》と切れたところでね」  と亭主の声が応えた。 「烏賊の煮つけが少々鉢に残ってまさあ。おめえさん方の口にゃ合うめえが」  それでも構わない、と女は云った。それから急に声が低くなった。話し声は、銀助の耳に届かない。店と奥を仕切った汚いのれんの隙から、その女と亭主とが、銀助の方をちらちらと窺いながら内密の話を交わしていた。 「それじゃ、これを頂いて行きます」  女は急に大きな声を出した。  亭主もそれに応えた。女はまた、片手に持った皿を袖で垣するようにして門口から出て行った。女が銀助の横をすり抜けるとき、横眼で観察するように見たのを、彼は気がつかなかった。  銀助は半|刻《とき》くらいそこに腰を据えて飲んだ。彼の前にはいつか三、四本の銚子がならんでいた。借りたとはいえ貰ったも同然の金なので、彼は久しぶりにいい心持ちに酔えた。表の腰障子に当っていた陽射しが、弱く薄れていた。その日射しを影が遮って、人間が外から窺うように銀助をのぞいていたのを彼は気づかない。いや、変だと気づく前に人影はすぐ離れた。ふと弥平次がのぞいたような気がしたが、弥平次がこの辺に居る筈はない。気の迷いだった。銀助はそれからもしばらく粘っていたが、ようやく長い臀《しり》を上げた。 「おい、勘定してくれ」 「へい。有難うございます」  亭主はそこに置いてある一朱銀をとってお辞儀をした。  懐の中には、剰《つ》り銭が五百文以上おさまっていた。銀助は赭《あか》い顔をして外に出た。陽が落ちた往来には、吉原に商売に行く辻占売《つじうらう》りの女の子が歩いていた。銀助はそれを見ると、今夜は夜鷹を先に買って、それから賭場に繰り込もうと決心した。  銀助がいい気持で五、六歩あるいた時に、彼の手首は不意に後ろから強く掴まれた。銀助はよろけた。 「だ、誰だ?」 「御用の筋で訊きてえことがある」  手首を握った男は、さらに腕を捻《ね》じ上げて濁声《だみごえ》でいった。 「ご、御用だと?」  銀助は、びっくりして叫んだ。 「あっしゃ、何もそんな覚えは無え。痛えから放してくれ」 「痛けりゃ、楽にしてやる」  男は捻じた腕をゆるめたかと思うと、素早く縄を銀助の身体に打った。 「あっ」 「云うことがありゃ、聞いてやろうぜ」  三十一、二の顴骨《かんこつ》が高くて、鼻のわきに引き吊ったような疵《きず》あとのある岡っ引が顔を突き出した。 「そこの番屋までつき合ってくれ」  云うなり銀助の背中を小突いた。  辻番には肥った四十男が茶をのんで腰かけていたが、その横には女が袖を前で掻き合せて立っていた。この女なら銀助が小料理屋で酒を飲んでいるときに皿を抱えて肴を買いに来た年増女だった。 「親分、連れて来ました。やい、てめえはそこに坐れ」  岡っ引は銀助の腰を蹴った。 「おれは田島町の宗吉《そうきち》というお上の御用を聞いている者だ。少々訊きてえことがあるが、まずおめえの名前《なめえ》を名乗れ」  男は、土間にへたばっている銀助を見下ろして、大きな眼を光らせた。 「へえ。銀助と申します」 「夜露を凌《しの》いでいるところは何処だ」 「両国の辺でございます」 「渡世は何だえ?」  銀助は黙った。 「うむ、聞かねえでもたいてい分っている。おめえは無宿者だろう?」 「親分、何のお疑いか知らねえが、あっしゃ何も──」  銀助は叫んだ。 「えい、つべこべ云うな。訊いてることに返答しろ。生国《しようごく》は何処だ?」  宗吉は荒い声を出した。 「へい。木曾の奈良井です」 「木曾の山奥から、にょろにょろとお江戸に匍《は》い出して来やがって、ふてえ真似をする野郎だ。やい。てめえは先月の二日の晩に、ついこの先の丹波屋という質屋の前を通ったろう?」 「先月の二日の晩──」  銀助は考えた。もう五十日も前のことである。しかし彼には記憶が無かった。 「いいえ、通った覚えはございません」 「とぼけるな」  宗吉は割れるような声と一緒に、持っていた茶碗で框《かまち》の上を叩いた。 「通った覚えは無えでも、その質屋に押し入って、箪笥《たんす》をこじあけ銭箱から七両二分の金を掻浚《かつさら》って遁げたろう?」 「えっ」  銀助は雷に撃たれたようになった。 「と、とんでもねえ。親分。おらア知らねえ」 「ふざけるな。木曾から木の葉を尻にくっ付けて来ただけにとぼけかたがうめえ。だが、いくらてめえがおいらの眼を化かそうたって無駄だ。ちゃんと証人があるのだ」 「え、証人?」 「師匠」  と宗吉は横に立っている年増女に向いた。 「こいつの面に違えねえかえ?」 「親分さん」  と年増女は、少し怕《こわ》そうに返事をした。鼻が低くて眼が細い。厚化粧の白粉がまだらに剥げていた。 「あたしゃ、いま、この人がそこで酒を飲んでいる時にひょいと顔を見て動悸《どうき》が打ちましたね。だって、あの時の男に違いないんですもの。あたしゃ、すぐ気がつきましたよ」  女は昂奮した声で、早口にぺらぺらと云った。指に撥《ばち》|だこ《ヽヽ》があるので、これは三味線の師匠と知れた。      三 「な、何を云やがる。途方もねえことを云うアマだ」  銀助は吠えた。 「おめえなんざ、おりゃ見たこともねえ」 「いいえ、たしかに、あの日の昼間、質屋の裏口をうろうろしていたのは、この人ですよ。あたしが二階から見たんですからね。顔を覚えてますよ。恰度、昼間のお稽古に来た子を帰したあとでした。あたしは、一度見た顔は忘れない性質《たち》ですからね」 「その男が、たしかにその晩に質屋から逃げたんだね?」  岡っ引の宗吉が女にきいた。 「そうなんです。親分さん。九ツ(十二時)をすぎたころ、あたしが手洗いの帰りに表でごとごと音がするものですから、こわごわと戸を細目に開けて見たところ、この男そっくりの身体つきの男が質屋さんの裏木戸から逃げて行くところでした。いえ、暗いから顔は分りませんが、背恰好はそっくりでした。あたしは、すぐ昼間うろついている男を思い出したくらいですからね。そのあとで聞いたのが質屋さんのあの騒動でしょう。未だにあの盗人《ぬすつと》が捕まらないということでしたが、あのとき逃げたのがこの人に違いありません」  三味線の師匠は少し蒼い顔をして銀助を見ながら説明した。 「と、途方もねえことを吐《ぬ》かす女だ。おらアそんな質屋など知るもんけえ」 「親分さん」  師匠は宗吉に云った。 「強情なようだけど、あたしは人違いとは思いません」 「うむ。おめえは客の顔を覚えるのが商売《しようべえ》で来た女だ。間違いは無かろう」  宗吉はうなずいた。 「やい、銀助。こうして生き証人が居るのだ。神妙に白状しろ、おめえだろう、質屋に入った盗人は?」 「違う、違う。おれじゃねえ。このアマ。何の恨みがあっておれを訴人するのだ?」  銀助が立ち上がろうとして、喰いつきそうな顔になったので、女は宗吉の傍に身を退いた。 「えい、じたばたするな、野郎」  銀助の縄尻を握っていた顔に疵あとのある目明しが、腰を後ろから蹴ったので、銀助は倒れた。 「銀助。おめえは無宿者だ。無宿人のすることは、押し込み、掻払い、火つけ、悪戯《わるさ》とたいてい相場が知れている。生き証人の前で往生際が悪いぜ」  宗吉が銀助を見据えた。 「何と云われても、おらア知らねえ」 「ようし。それなら訊くが、てめえ、先月の二日の晩は何処に居た?」 「なに?」 「いやさ、その晩は何処に居たかというのだよ。それが云えて、ちゃんと証《あか》しが立ったら、宥《ゆる》してやらねえでもねえ」  先月の二日の晩。──銀助は考えたが、まるきり何処に居たか憶えが無かった。五十数日も前のことだ。はっきりとした記憶は消えていた。どこかの賭場かも知れなかったが、それも行きつけのところは一カ所だけでなく、三つも四つも首を突込んでいるので、どれだか見当がつかなかった。それとも膝を抱えて小屋の裏に寝ていたか、夜鷹を抱いていたかも分らなかった。銀助はあわてた。あせればあせるほど記憶は茫漠《ぼうばく》として濁っていた。 「何も首を捻《ひね》ることは無え。てめえのことだ。すらすらと申し立てろ」 「親分、そいつア無理だ」  銀助は肚の底から云った。 「五十何日も前《めえ》のことをいちいち覚えちゃいねえ」 「覚えねえ方が、てめえにゃ都合がいいかも知れねえが」  と宗吉は、あざ笑った。 「こっちは思い出して貰いてえのだ。質屋に入《へえ》りやしたと正直にな」 「親分。何といわれても、あっしじゃありません」  銀助は半分泣き声になった。 「知らねえ知らねえと、芝居の子役みてえに首ばかり振って済む狂言じゃねえ。もう日も暮れた。おれは気が短けえのだ。早いとこ泥を吐いて幕にして貰いてえ」 「だって、親分──」 「ええい、煩《うる》せえ」  宗吉親分は立ち上がるなり銀助の横面を撲《なぐ》った。 「情けをかけてゆるゆる調べた日にゃ、三日もこの番屋に居候しなけりゃならねえ。この先は八丁堀の旦那方にお願え申すとしよう。お奉行所にゃ海老責《えびぜ》め、石抱きと道具が揃ってらあ。おれのようにおとなしくは行かねえぜ」 「何をされても、あっしは──」  銀助は声を絞った。 「うむ、飽くまで知らねえと突張るのか。よし。それじゃ、先月二日の晩に、確かに此処に居ましたという証人を出せ。その名前《なめえ》を云え」  居場所も憶えてないのに、どうしてその証人が挙げられよう。宗吉の云うことは無理ばかりだった。銀助が心当りがありそうな人間は、みんな賭場で博奕を打っていた男ばかりだから、その証明に名乗って出るような気遣いは無かった。彼は絶望の中にうめいた。 「ざま見ろ。口が開くめえ」  と岡っ引の宗吉は、苦悶している銀助を嘲《あざけ》った。──  銀助は牢屋敷に送られた。宗吉から掛りの与力に申し送ってある。与力が下調べをしたが、銀助は身に覚えのないことだと云い張った。 「確かな証人のあることだ。この上の強情は為《ため》になるめえぜ。神妙に白状しろ」 「いいえ、あっしはそんな質屋なんぞどこにあるのか知ってもいません。あの女が嘘をついているのです。一体《いつてえ》、どんな恨みがあるか知れねえが、とんでもねえことをいう女です」 「文字豊《もじとよ》は三味線の師匠だ」  と与力は、目撃者の名を云った。 「無宿者のお前に係り合いがある訳がねえ。恨みもへったくれもあるものか。お前が面を見られたのが不運なだけの話よ。云い遁れをしようったって無駄だ。この上、まだお上にお手数をかける気か?」 「何といわれたって、あっしは知りません。その三味線の師匠の人違《ひとちげ》えです」 「そんなら、二日の晩は何処に居た?」 「それが──」  それさえ憶えていたら、こんな苦境には立たないのだ。人間、こんな場合をいちいち考えて頭の中の帳面に付けているものなのだろうか。五十なん日も前のことを穿鑿《せんさく》されても、きれいに忘れてしまって記憶の手がかりがない。その晩の証《あか》しを立ててくれる人間すら頭に泛《うか》ばないのである。  銀助はいよいよ穿鑿所に坐って徒目付《かちめつけ》の吟味をうけた。質屋に押し入り、金品を奪い取った、という罪状を詰問されたが、飽くまでも首を振って否認した。  吟味役は声を荒らげた。 「再三申し聞かせたるも、証拠歴然たるに、心得違いをいたし申し陳《ちん》じまかりある上は、公儀を恐れざる体とみえた。是非なく拷問にいたす」  拷問ときいて銀助は慄えた。      四  拷問の手始めは笞打《むちう》ちである。 「──囚人を太縄にて縛り、左右の腕先は背後の肩まで順々としめ上げ、その縄先を前後に引分け、下男二人えりを引っつめ囚人の動かざる様になす。これのみにても、囚人は苦痛甚だしという。  ──それより打役は、先ず一方より箒尻《ほうきじり》即ち拷問杖にて囚人の肩を力を極めて打|敲《たた》く。又左右より、打役二人にて打違いに敲くことあり。皮肉破れ、血はしり出る。血出れば下男は砂を疵口にふき掛け、血どめをなし、又その上を打つ。  ──きびしく縛り上げられたる時、その苦痛に堪えずして大声を上げ、泣き叫ぶ囚人は打ちかかると間もなく白状に及ぶ。されども口をかたく閉じ、縛られながらも、びくともせず眼をねむって自若たる奴は、是れ剛胆非凡の者なれば、皮肉破るるも中々白状せざる者なり。又、おかしきは、囚人銘々の癖ありて、或は題目或は南無阿弥陀仏を唱え、甚だしきは不動経、観音経など誦《ず》する者あり。斯《か》かる輩《やから》は、必ず白状に決する者なり」  これから石抱きとか、海老責めとか順々にあるが、まずたいてい笞打ちで参って了う。恐怖と苦痛で、銀助は覚えのない罪の白状をしてしまった。彼も思わず口の中で南無阿弥陀仏を唱えて、泪《なみだ》を落した。  吟味はそれだけでは済まない。まだ余罪があるだろうと穿鑿される。それから何分の罪科が決定するまで大牢の中に抛り込まれてしまった。  牢内もまた厳しい牢法があって地獄である。しかし銀助は自分の犯した罪なら仕方がないが、全く知らぬことでこの責苦に遇わねばならぬかと思うと泣くにも泣けなかった。愬《うつた》えても取り上げてくれようもない不合理に、憤怒と絶望が燃え上がるばかりであった。 「おい、おめえ、いつも苦しそうだぜ」  と相牢の者が、銀助に云った。 「くよくよしても始まらねえ。此処へ来たら観念して諦めることだぜ。その方が身体のためだ。こんなところで病死しちゃ詰まらねえ」 「いいや、どうでも諦め切れねえ」  銀助は、痩せた頬に眼を光らせて云った。 「おらア無実だ。こんな扱いを受けるわけはねえ」 「ふん、往生際の悪い奴は、みんなそういうぜ」  相牢の者は憎々しそうに銀助を見て横を向いた。よく見ると眇だった。  誰も信用してくれないのだ。人間、生涯にどれだけ災難があるか分らないが、これくらい絶望的な災難は無かった。分っているのは自分が何もしていないということである。それを他の者が信じない。信じさせるには、こちらに説得の反証が必要だが、それが何も無い。全く、空気のように何も無い。  人間にこんな災厄が降りかかるのだったら、几帳面《きちようめん》に毎日の行動を憶えておかなければならないことになる。しかし、誰がこんな難儀を予想しよう。毎日、のんきに暮らして、一昨日《おとつい》のことを忘れているというのが実体なのだ。こんなことなら、おい、今日はおめえの所に寄ったぜ、おめえと会ったぜ、覚えといてくんな、といちいち立ち廻り先に断わって歩かねば心配で暮らせないことになる。そんな途方もない話ってあるものか。  銀助は肚の中で、三味線の師匠を呪った。あの女が、一口、出鱈目《でたらめ》なことを告げたばかりに、彼はいわれのない責苦に墜ちた。何という悪魔のような女だ。云った方は無責任な人違いで済むかもしれないが、こっちは堪ったものではない。万一、娑婆に出て、白粉の剥げた、鼻の低い、眼の細いあの顔に会ったら、八つ裂きにしてくれようと思った。それを考えると、頭に血が逆上するのである。  牢内の銀助に眠れぬ夜がつづいた。どう考えても諦め切れない。彼はいつまでも藻掻《もが》いた。 「おい、悟りが悪いぜ。いい加減に諦めな。尤も、その内には観念してひとりでにおとなしくなるがな」  相牢の眇の男は冷たい笑いを見せた。  そうかもしれなかった。こんな世界に居ると、心気が減《め》って朦朧《もうろう》としてくる。遂には、どうにでもなれ、と思うような心持ちになるのかも知れない。拷問に畏怖して、心にも無い白状をしたが、何だか本当に犯《や》った錯覚に陥りそうである。  ところが、或る晩のことである。拍子木を打ち、提灯を持たせた牢屋同心の見廻りが通り過ぎてのことだった。  牢の羽目板を隣りから、かすかに叩く者がいる。隣りは二間牢だった。 「お隣りのお名主へ」  と細い声が聞えた。 「おう」  名主は畳を積み上げた高いところから返辞して耳を澄ませた。相手の声は二間牢の名主だった。 「今夜、ちっとばかり音がするかも知れねえが、勘弁して貰いてえ」  低い声で羽目板の向うからそう云った。 「よし、承知した」  こちらの名主は請け合った。  銀助はそれを聞くと、どきんとした。隣りの名主の言葉の意味が分った。それは破牢の企《たくら》みだ。音がするというのは、鞘(格子)を鋸で挽くつもりなのであろう。鋸は、櫛を挽くときに特別に使う細いものを誰か入牢者がこっそり牢内に持ち込んだに違いない。  こっちの牢名主はそれを知って「承知した」と云った。それは悪党仲間の仁義で、両名主の間に約束が出来たのである。──銀助はこれだけのことを二人の低い言葉から知った。  牢の外鞘は暮れ六ツの拍子木が鳴ると、時をきめて見廻りが歩く。その見廻りの足音の聞えない間を狙って、隣りからは、微かに木を挽く音が伝わってきた。  格子は樫《かし》の丈夫なものだから、すぐには挽き切れない。一本を挽き終るには二晩くらいかかるだろうし、人の身体が抜け出すまでには数晩もかかる。用心深く、辛抱強い秘密な作業である。昼間は細い挽き口の筋に飯粒を塗って見廻り役人の眼を誤魔化《ごまか》すのである。  真夜中から、あけ方にかけて隣りで木を挽く音は聴えつづけた。銀助は耳の神経が尖って寝つかれない。動悸が苦しいくらいに搏《う》っていた。彼は自分の計画に心躍らせていたのである。  夜の明ける前に牢内二番役が、起きろ、起きろとかけ声をかけて寝ている科人《とがにん》たちを起した。無論、隣りの鋸の音はその前から熄《や》んでいた。  七ツ半|刻《どき》になると、牢法として牢屋同心の見廻りがあった。銀助が狙っていたのはこの時である。 「申し上げます」  と銀助は格子を手に掴んで、外鞘を歩く見廻りの同心に叫んだ。  同心はびっくりした顔で足を停めた。 「申し上げます、申し上げます」 「何じゃ?」 「隣り牢で破牢を企てて居りまする。お調べ下せえまし。昨夜鋸で挽いておりました」  銀助は大声で云った。役人たちも牢内も、嵐のように騒ぎ出した。      五  銀助は放免になって出牢した。 「破牢を企てたる悪人を訴え出たるは神妙の至り、特にお慈悲をもって──」  と奉行は讃めたのである。  隣り牢にその計画者が居たのが仕合せだった。銀助は機会を掴んだ。入牢者仲間の仁義も糞も無かった。何とかして牢を出たかった。もとより無実でいわれのないことだ。どんな手段をとっても牢から脱出するのが当然ではないか。  暗くて、臭気の充満した牢屋から出ると、何と世間の景色は明るいことか。ふだんは見慣れて何とも思わなかったが、日光が贅沢なばかりに眩《まぶ》しく降っている。空気も清潔で甘い味がついている。往来を通っている人間に声をかけて挨拶したいくらいだった。通る女がみんな美しく、着物の色もきれいだった。  ひでえ目に遇った。──  あのまま、牢に繋がれている自分のことを思うと鳥肌《とりはだ》が立った。危ないところだった。ようやく地獄から匍い上がってきた思いである。  それにつけても、いまいましいのは、あの三味線師匠の文字豊とかいった女《あま》だ。口軽に理由《いわれ》の無いことを告げ口されたばかりにひどい目に遇わされた。こっちは死にそうな苦痛を味わったのを、あの女は何にも知るまい。いい気で毎日、三味線をペンペンひいているに違いない。  それを思うと、銀助は無性に腹が立ってきた。どう考えても、このまま見過すことは出来なかった。牢内にいるとき、八つ裂きにしてくれようと思った憤怒が改めて起ってきた。当り前だ。こっちはあの女のために無実の罪科を背負わされたのだ。一言、礼を云いに行くのが当然ではないか。黙ったままでは、どうにも腹の虫がおさまらなかった。  銀助の足はひとりでに三間町の河岸に向かった。町の狭い通りに入ると、いつぞや酒をのみに入った見覚えの小料理屋がある。銀助は隣りの駄菓子屋に顔を突っ込んだ。 「もし、この辺に文字豊さんという師匠は居ませんかえ?」 「文字豊さんなら、そこの荒物屋の二階ですよ」  店番の老婆が教えてくれた。  荒物屋はせまい路地を隔てて質屋と隣り合っていた。なるほど、一件の質屋はこれだなと銀助はひとりでうなずいた。 「もし、文字豊さんはこちらですかえ?」  銀助が荒物屋に入ると、商売物の箒をいじっていたおかみさんがふり返った。 「ええ。この二階ですが。お前さんは誰ですかえ?」 「ちょいと知り合いのものだ。梯子段《はしごだん》はどこから上がるんですかい?」 「いけませんよ。勝手に上がられちゃ」  女は遮った。 「そんなら、ちょっと知り合いの者が会いに来たと取り次いで貰いてえ」 「今は困ります。あとで出直して下さい」  女はじろじろと銀助の風体を見た。 「あっしは怪しい者じゃねえ。そんなことを云わねえで取り次いでおくんなさい」 「ちょっと今は困りますよ」  女の表情には実際に当惑したものが出ていた。  銀助は、それで二階に何かあると直感した。暗い奥に梯子段の端が眼に入ると、銀助は女を突き除《の》けるようにして向かった。 「あれ、もし」 「心配《しんぺい》は要らねえ。親類の者だ」  銀助は云い捨てて、薄暗い段をかけ上がった。  上がり切ったところに襖がある。半分、逆上《のぼ》せた銀助はいきなり襖を引き開けた。 「あっ」  こちらも一足退ったが、向うの男女二人も愕《おどろ》いて顔を上げた。  ちゃぶ台の上には酒や料理ものが置いてある。それを傍《そば》に寄せて派手な掻巻《かいま》きがひろがっていたが、それが撥ね上がって、男と女とが肩をならべて起き直っていた。  女は紛れもなく文字豊だった。細い眼が精一杯に開き、低い鼻の下の口が呆れたようにひらいている。髪の乱れや、胸がはだけたのは狼狽のまま直すひまがない。  銀助は、その文字豊よりも、横の男の顔を見て、眼をむいた。不意の闖入《ちんにゆう》に驚愕しているのは、まさしく弥平次ではないか。銀助が息を呑んで、棒立ちになったのは無理もなかった。  どちらもしばらく言葉が出なかった。仰天のあまり、戸惑いした。 「ぎ、銀助じゃねえか」  先に云ったのは弥平次だった。 「ものも云わねえで、急に入《へえ》って来てびっくりするじゃねえか。ど、どうしたのだ?」  弥平次は、てれ臭そうに叱った。が、文字豊の方は、怕《こわ》そうに銀助の顔を凝視していた。 「やい、銀助。ひとの家に入ってくるときは、何とか声をかけるものだ。待ってろ、すぐ此処を片づける」  弥平次の言葉は、どこか縺《もつ》れていた。それは銀助の不作法を怒っているのではなく、何ものかに臆している時の云い方だ。  このとき、銀助には一切の事情が読めてきた。そうか。弥平次の女房が嫉妬《やきもち》をやいて云ったのは文字豊だったのか。銀助は、なぜ自分が文字豊に落されたかを電光のように直観した。  小料理屋で酒を飲んでいる時、たしかに誰かに覗かれたと思ったが、いま、はっきりその正体を確かめた。 「銀助。そっちへ立っていねえでこっちへ入れ。用立てた金を返しに来たのなら、そう早うなくともよかったぜ」 「やい、弥平次」  銀助は呶鳴った。 「何だと」  さすがに弥平次は顔を硬ばらせた。 「おめえだな。隣りの質屋へ押し入った盗賊は?」 「な、なにをほざきやがる」 「かくすこたアねえ。おめえのその面が先に返答してらア。泥棒が捕まらねえで詮議が長びいて煩《うる》せえので、その横に泡を喰っているおめえの情婦《いろ》に教えて、おれを訴人したのだろう?」 「銀助!」 「ええい、うるせえ。ありようの次第《しでえ》はおれから云ってやらア。どうも、おめえに金のあるのがおかしいと思った。新規な賭場で勝ったというが、おめえの腕を知っているおれにゃ腑《ふ》に落ちなかった。落ちねえも道理よ、旗本屋敷の賭場は飛んだ質屋の銭箱の中だった」 「な、何を」 「煩《うる》せえ、黙って聞け。あの日におれが其処の店屋《てんや》で酒を飲んでいたのが、おれにとっての不運、おめえにとっては天の与えよ。おれが呑んでいると、そこに眼を剥いている文字豊が可愛い男の酒の肴を買いに来た。その時、おれが一朱銀を置いていたのを目にとめたのはさすがだ。おれの素寒貧な風体と一朱銀とは釣り合わねえとでも思ったのだろう。それとも質屋で盗んだ一朱銀のどこかに見覚えがあったというのか。どっちでもいい。文字豊はすぐに帰って、おめえに注進した。おれは酒に酔っていて分らなかったが、おめえはわざわざおれを見に来て外から覗いたに違えねえ。おめえの悪知恵はそれから働いた。よし、こいつに罪をきせて、質屋の一件の詮議を消しちまおうとな。文字豊に、質屋に泥棒の入った晩、たしかにこの男が質屋から出て来たと訴人の狂言をやらせたのは、おめえだ!」  弥平次も、文字豊も蒼くなっていた。 「ぎ、銀助。何を、おめえ、云いがかりを──」  弥平次は笑おうとして口をゆがめた。 「やい、図星だろ。ざまア見やがれ。その面は何だ」  銀助は熱い塊のような憤激がこみ上がってきた。彼は自分の言葉に煽《あお》られて、ちゃぶ台を両手で掴んだ。音立てて皿や小鉢が畳に流れた。 「ぎ、銀助、何をする」  弥平次は寝巻の前をはだけたまま立ち上がろうとした。 「何も糞もあるもんか。やい、犬猫みてえに厚かましく真昼間《まつぴるま》からふざけやがって。こっちは、てめえたちのために一生暗えところに繋がれるところだった。この恨みを思い知らせてやる。この野郎」  振り上げた台を銀助は滅茶滅茶に弥平次の顔へ降りおろした。  文字豊が悲鳴を上げて逃げ惑った。  弥平次が顔を割られ血を出してうつ伏せたのを見てから、銀助は初めて気がついて逃げ出した。  やった、ざまみろ、思い知ったか。銀助は走りながら笑い出した。      六  それから二十日ばかり経った。  銀助が行きつけの賭場に坐っていると、若い男が傍に来て、銀助の耳にささやいた。 「おめえさんに会いてえという人が外に待ってるぜ」 「おれに?」  銀助は盆茣蓙《ぼんござ》から眼をあげた。 「どんな男だえ?」 「三十ぐれえの痩せた男だ。名前は云わねえ。おめえに会えば分ると云っている。やはり堅気じゃねえようだ」 「そうか」  銀助に心当りは無かった。 「あとで出て見よう」  二、三度勝負をしたが、気にかかって落ちつかない。銀助はキリをつけて立ち上がった。  夜のことで、外は暗かった。その暗い中から、立っていた人影が近づいてきた。 「銀助さんか?」  人影は云った。 「銀助は、おれだが、おめえは誰だえ?」  銀助は用心しながら覗き込んだが、相手の顔は暗くて分らなかった。 「おれだ、おれだ」  相手は笑いを含んだ声で云った。 「おれじゃ分らねえ。はっきり云え」 「名前を云っても分るめえ。ほら、伝馬町でおめえと一緒に居た者だ」 「何だと?」  銀助は、ぎくりとして見詰めた。相手は銀助の鼻さきに一歩出た。 「覚えてくれてるだろう? おめえの隣りに坐っていた男よ。おれは勘六《かんろく》という者《もん》だ」  男の顔が近づいたので、銀助にも、おぼろに眼鼻が知れた。  なるほど、この男なら自分の横に坐っていた相牢の男だ。銀助が悶《もだ》えていたのを、此処へ入ったら諦めろ、と煩《うるさ》く講釈した眇の男だった。 「あの時は世話になった、と云いてえところだが、お互《たげえ》に非道《ひで》え目に会ったな」 「うむ」  銀助はまだ警戒するように見た。 「おめえ、いつ出牢《で》て来たのだ?」 「たった昨日よ」  と勘六は云った。 「おれのは微罪なので敲《たた》きだけで済んだ。やっぱり娑婆はいいなア。出てみると、おれはおめえに会いたくなった。苦労して探したぜ」 「ふん、その勘六が何の用があって苦労しておれを探したのだ?」 「おめえって、そんなところがあったな。素気なく云うもんじゃねえぜ。これでも、おめえが恋しくなってわざわざ来たのだ」 「何だと?」 「まあそう眼鯨《めくじら》を立てなさんな。おれは娑婆に出て行きはぐれている。訳があって元のところに帰れねえのだ。何かいい口は無えかと世話を頼みに来たのだ」 「おれに世話を頼むなんざ見当違えだ」  銀助は嗤《わら》った。 「そんな話は口入れ屋に持って行け」 「冷てえ男だ。まあ、いいやな。冷てえといえば、外に立たされたせいか、寒くなって来た。ご牢内で知り合ったのは感心しねえが、これも何かの縁だ。おれはおめえが滅法なつかしい。酒でも飲みながら話がしてえ。飲み代はおれが奢《おご》るから、そこまで付き合ってくれ。もう口入れの世話は頼まねえ」  そう云われると銀助も酒が欲しくなった。相変らず勝負は面白くなかったので、この男の奢りなら酒を呑んでやれと思った。 「そうか。それじゃ、ちっとばかり酒屋に遠いが其処まで行くか」  銀助は、勘六と肩をならべて歩き出した。月の無い晩で、この辺は寂しくて暗かった。 「やっぱり娑婆はいいな」  と歩きながら勘六は少ない星を見上げた。銀助が出て来た時と同じことをこの男も感じているようだった。 「うむ。全くだ。あの臭え所は真ッ平だな」  銀助は同感した。 「その嫌なところを、おめえはうめえ具合に脱れたぜ」  勘六の声が云った。 「当りめえだ。おらあ初《はな》から入るわけがなかったのだ。何とかして出たかったのだ」 「てめえ独りが助かりゃよかったのだな」  勘六の言葉に針があるのに気づいて、銀助は、どきっとなった。 「なんだと?」 「いや、おめえが出て行ったあとが騒動だった。隣り牢の名主は山犬の喜三郎《きさぶろう》という名うての悪党だったが、破牢の罪ですぐ獄門よ。手伝った相牢の者四、五人も同じだ」 「………」 「そればかりじゃねえ。おれたちが入っていた牢名主も、通謀したってんで、これも磔《はりつけ》だ。気の毒にな、あと僅かで放免になる人だった。隣り牢の名主から頼まれりゃ、嫌とは云えねえ。承知したというのが仁義だ」 「か、勘六。おめえは何をおれに云いに来たのだ?」  銀助は怯えて、歩く足を停めた。 「何も云うことはねえ。てめえの胸に訊いてみろ」  勘六は、せせら笑った。初めて彼は、はっきりと敵意を露《あら》わした。 「あの牢名主はな、稲荷堀《とうかんぼり》の長兵衛《ちようべえ》といっておれの親分の兄貴分だ」 「えっ」  銀助は一足飛び退《すさ》った。 「おれは知らねえ。そんなことを知るもんけえ。おれは無実で入ったのだ。何とかして出たかっただけだ」 「てめえひとりの都合がよけりゃ、他人を訴人してもいいのか。やい、仁義をふみ潰して、ほかの者を磔《はりつけ》にさせてもいいのか?」  眇の男は吠え立てた。 「知らねえ、知らねえ。そんなことはおれに係わりのねえことだ」  銀助は叫んだ。 「そんな云いがかりをつけられちゃ、おれが迷惑だ」 「やい、銀助。ふざけたことを吐《ぬ》かすねえ。おめえは大勢の人間を獄門台に送ったのだ。ただで済まねえことは、知ってるだろうな?」  勘六は前に出て懐から刃物を抜くと見構えた。  これと同時に、暗いところから四、五人の人影が、かくれた場所から現れて銀助を取り巻いた。 「お、おれをどうしようというのだ?」  銀助は狂った。 「おれの知らねえことだ。勘弁してくれ。おりゃ知らねえことで殺される訳がねえ」  またしても、不合理な、全く自分の意思でないことで彼は追い詰められた。 [#改ページ]   夜 の 足 音      一  浅草田原町の粂吉《くめきち》が、今戸の裏店《うらだな》に龍助《りゆうすけ》を探しに行ったのは、正月の半分が過ぎ、今日は増上寺の山門開きがあるという日であった。路には寒い風が舞い立っていた。  この辺に多い焼物屋の間から、どぶ板を踏んで奥に入ると、粂吉は長屋の暗い戸口に立った。覗くと土間に蓆《むしろ》を敷いた老爺《おやじ》が桶《おけ》を叩いていた。 「ご免な。龍助は家に居るかえ?」  粂吉に声をかけられて、老爺は槌《つち》を持ったまま彼を見上げた。 「おめえさんは誰だね?」 「うむ。やっぱりこの家か。およその見当をつけて来たが狂わねえもんだな。おれは田原町の粂吉といってお上の御用を聞いている者だ。龍助におれがちょっと面《つら》を見に来たといってくれ」  老爺は鉢巻をとって、蓆から起ち上がった。 「こりゃ親分さんですか。龍助は今朝どこからか帰《けえ》って来てまだ寝ているところですが、あいつが何か悪いことをしましたか?」 「ゆうべ夜っぴて塒《ねぐら》に帰らねえところを見ると、あんまり賞めたことをしちゃいめえ」  粂吉は云った。 「龍助は瓦葺《かわらぶき》の下手伝いに行ってるそうだが、やっぱり怠けてるか?」 「どうも長続きがしねえようです」  老爺は、桶の削り屑を手拭いで払いながら答えた。 「なにせ、無宿人てな、当節、嫌われ者でさ。代りがあると、すぐに仕事先から断わられるんでね。当人も自暴《やけ》半分ですよ。気のいい男ですがね。若えし、いい身体をしていて、働き口が無えてなあ可哀想な話です」 「気のいいは当てにならねえが、身体のいいことは、おれもちょくちょく見廻りの時に眼について知っている。野郎はいくつだったかな?」 「午《うま》だとか云っていました」 「うむ、午なら二十二だ。そうか、午か」  粂吉は、肉の厚い鼻に妙な笑いをのせた。 「悪いことじゃねえ。寝てるところを起しても、膨れ面をされるような気遣いのねえ話をもって来たのだ。ちょいと此処へ呼んでくれ」 「ようがす」  老爺は草履をつっかけて裏に行った。龍助はその裏の小屋に寝起きしているに違いなかった。  粂吉が木屑を拾って|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》っていると、間もなく老爺の後から、龍助が汚い袷《あわせ》の胸を掻き合せながら出てきた。彼は、粂吉の顔を見るとお辞儀をした。広い肩と厚い胸をしていて、着物の前が合わないくらいに見えた。 「龍助か。おめえ、おれの顔を知っているかえ?」  粂吉が、薄い笑い顔でいうと、龍助は黙って頭を下げた。何の用事で、この御用聞きが訪ねて来たのか、見当のつかない表情をしていた。 「そうか、ふだん見かけているから、あんまり付き合いたくねえ顔だろうが、我慢して今日はちょっとばかりおれと歩いてくれ。なに、十手は懐に呑んでいるが、おめえを縛ろうと云うのじゃねえ。いい話だ。安心してついて来てくれ」 「へえ」  龍助は、まだ不安な顔を消していなかった。彼は粂吉の羽織のあとから臆病そうに蹤《つ》いて行った。桶屋の老爺が戸口からそれを見送った。  店先に、茶碗や壺や人形などの焼物がならんでいる家並が切れたころ、粂吉が龍助を振り返った。 「今日は寒いな。どうだ、おめえ、酒でも飲まねえか。身体が暖《あつ》たまるぜ」 「へえ。そりゃア……」  龍助は、とまどった眼を挙げた。 「何も心配《しんぺえ》することはねえ。気持よく受けてくれ、そのうち話を聞けば分らあな」  粂吉はなだめるように云った。 「ところで、この辺はあんまりうめえ酒を飲ませる店が無え。それにこの話は他人の大勢居るところじゃできねえからな。足の序《つい》でだ、おれの家はそこだから、もう少し歩いてくれ」  否応を云わせないものが粂吉の歩き方にあった。龍助は、半分は威《おど》かされ、半分は賺《すか》されたような気持で粂吉のあとにつづいた。冷たい風が足から股にかけて吹き、空には凧《たこ》が舞っていた。  粂吉の足は田原町に真直ぐに向かわずに、西に折れて馬道の方へ曲った。この辺は小さい寺が多い。その寺と寺との狭い路地のような奥に押し込んだように一かたまりの町家があり、その一軒の格子戸を粂吉は開けた。 「遠慮なく入《へえ》ってくれ。ここはおれの家も同然だ」  粂吉は、龍助をふり返って云った。  おずおず入った龍助にも、この家の性質がおぼろに分った。狭いが、何となく玄人《くろうと》めいて、小唄の師匠でも住んで居そうな構えであった。それはすぐに奥から粂吉の声をきいて出てきた女の姿で呑み込めた。 「おう。お客だぜ」 「あいよ」  顔の長い女だが、真白に塗って髪は櫛巻きにしていた。細い頸が抜き衿でいよいよ細く見え、粋に巻いた帯が胴を括《くく》ってかたちのいい、すらっとした立ち姿だった。女は馴れた手つきで粂吉の頭の上に石火を切った。 「どうぞ」  と女はお歯黒の口を開けて、龍助を促した。龍助は自分のきたない袷に気が怯《ひ》けた。  二階の座敷には炬燵《こたつ》がある。紅い掛蒲団の向うに粂吉はあぐらを掻いて坐り、龍助にも坐れと云った。  女が粂吉の羽織を脱がせ、長半纏を後ろから着せかけた。 「今日は外は冷えるぜ」  粂吉は、いかにものびやかな顔で、鼻の孔をひろげて云った。 「そりゃお前さん。もう閻魔様《えんまさま》だもの。去年は霰《あられ》が降ったわな」 「違えねえ。もう、そうなるか。寒さもここらが峠だな。ところで、お新《しん》。冷え腹で、疝気《せんき》でも起しちゃ詰まらねえ。早えとこ一本|煖《あつた》めて来てくれ」 「あいよ」  女はちらちらする水色の下から白い足首を覗かせて階下《した》へ降りて行った。龍助は何となく唾を嚥《の》んだ。 「親分さん」 「何だね?」 「いまのは、おめえさんのおかみさんですかえ?」 「野暮なことを訊くぜ。おめえも血の巡りが悪いな」  粂吉は笑った。 「やっぱりそうですかね。佳《い》い姐さんをもって親分は仕合せですね」 「お世辞を云うぜ」 「いえ、本当です。あっしなんざ、一生に一度でいいから、こんな結構な目に遇いてえと思います」 「龍助」  と粂吉の声が少し変った。 「おめえ、本当にそう思うかえ?」 「へえ。そりゃ、もう……」 「うむ。それなら話が切り出しいいや。なあに、あんな醜面《すべた》は女のうちにゃ入らねえ。おめえには、もっと佳い女が恋いこがれて待っているのだ。実は、おめえを呼んだのは他でもねえ、おれがその取り持ちを頼まれてね」 「え?」 「まあ、こっちへ寄れ。こんないい話は、洒を白湯《さゆ》代りにして咽喉を湿《しめ》しながらチョボ語りと洒落《しやれ》なくちゃならねえ。そら、来たぜ」  階下から妾が上がってくる足音が聴えた。      二 「お店《たな》の名前を明かすわけにゃゆかねえが──」  と田原町の粂吉が、細面《ほそおもて》の妾に酌をさせながら、含み笑いをして龍助に語り出した話はこうである。  店の名前は云えないが、とにかく日本橋辺で名前の通った大店《おおだな》である。粂吉は以前、この店に起きた或る事件に係わりがあって以来、何となく出入りをしている。主人というのは五十過ぎ、それに二十五になる娘がある。娘といっても他家に一旦縁づいたが仔細あって不縁になった。つまり出戻りである。器量は申し分ない。それが、いまさる所に在る店の寮に居る。それが何処かも打ち明けることが出来ない。  話というのは、その出戻り娘に絡《から》まることだ。この女は不縁になったとはいえ、ほかの事情によることで、亭主に愛想をつかされたのでもなく、つかしたのでもない。夫婦別れのとき、亭主は時期が来たらきっとおまえを迎えに行くと云った。女は、それまでおまえさんに会わないでいるのは待ち切れないと云った。亭主は、それでは、おれが家の者に内緒で、こっそり忍んで行こうと云った。どちらも好き合っている仲である。こういう約束が密かに取り交わされて、女は泣く泣く実家に還った。  女は、その約束を唯一の愉しみにして、夫が会いに来るのを待ったが、二十日経っても三十日経っても現れない。はじめは容易に出にくい事情もあろうかと思ったが、四十日も経つと焦《じ》れてきた。些細なことに神経を昂ぶらせて、縫物の物差しを投げたり、鋏《はさみ》を抛《ほう》ったりする。それが、日がたつにつれて、昂じてきて、鏡台を庭石に叩きつけたり、三味線の棹《さお》を折ったりするようになった。眦《まなじり》を吊り上げ、身体を震わせて蒼い顔で泣く。主人はどうにも店の者に体裁が悪いので、静かな所で養生させたら気分もおさまるだろうと、旧《ふる》くからいる女中をつけて寮に移した。そのとき、主人は別れた亭主が寮に会いに行く筈だからと慰めるのを忘れなかった。女は|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》として出養生に赴いた。  主人は男の方を探ってみると、これはどうやら他に好きな女が出来たらしいと分った。別れた女房に会いに来ないのも道理である。主人はわが娘に告げる訳にもいかないので困り果てた。  一方、女の方は寮に暮らしながら亭主を待ったが、相変らず何日経ってもやって来ない。そこで再び、店に居た時と同じ兆《しるし》が起った。親の慰めた言葉で一旦期待をもって来ただけに、今度はひどかった。自分の着た着物は裂く、鋏は投げつけるで危なくてよりつけない。ここまで来ると狂気の一歩前というほかは無かった。事実顔を蒼凄《あおず》ませて、誰も居ないのに笑ったりする日があった。主人は心痛した。それほど亭主を恋うなら、先方に会って事情を言い、頼めばよいが、不縁の事情と、ほかの女に心変りした忌々《いまいま》しさからそれも出来かねて、ひとりで悩んでいる。このまま放置しておくと、娘は本ものの病いになるか、身を投げるかする結果になり兼ねない。思案に余って、主人は密かに粂吉に相談をした。ところが、盗賊を詮議《せんぎ》するのと違って粂吉にもいい知恵が出なかった。  だが、粂吉も大事な得意であるから、この難儀を前にして、知らぬ顔は出来なかった。彼は盆暮れのつけ届けはもとより、日ごろから何かと心づけを貰っている。その手前、苦心して考え抜いた揚句、遂に一つの着想を得た。  彼はこれを主人に開陳した。主人はさすがに顔を顰《しか》めたが、下をうつむいて苦い顔でようやく承知した。娘の恥だから、その実行はくれぐれも秘密のうちに運んでくれと云って、肩で溜息を吐いた。── 「と、ここまで語りゃ、その先の筋道はおめえにもたいてい察しがつくだろう?」  粂吉は、もう赭《あか》くなった顔で云った。 「どうだ、いい話だろ。おれはその婿の白羽の矢をおめえに立てたのだぜ」  龍助も酒を飲まされていたが、酔いが少しも出ないで、胸が慄えていた。 「そ、そりゃア親分さん。どういう訳でござんすか。あっしがその亭主に似ているとでも云いなさるのですかえ?」 「おれはその亭主野郎を見たこともねえから、どんな面か知っちゃいねえ」 「それじゃア……」 「莫迦《ばか》野郎。おめえは本気に入り婿する気か。置きやがれ。おめえの婿は夜だけのことよ、夜明け前《めえ》には、帰るのだ」 「………」 「その出戻り娘の病いの因《もと》は、医者に診《み》せねえでも分っている。二十五といや、女ざかりだ。それに男の味もあっさり知っている。五十日も百日もひとりで寝かされてみねえ、身体の血が騒いで頭にも上ろうというもんだ。なあ、お新。おめえなら疳《かん》の虫で眼が潰れるところだ」 「いやだね」  妾は横眼で睨んだ。 「なあ、龍助。つぶれねえまでも、その女の眼が逆上《のぼ》せていることは確かだ。それでなくとも暗え屏風《びようぶ》の囲いの中に忍んでみろ。顔の見さかいなんざつかねえ。おめえに必死で取り縋《すが》ることは請け合いだ」 「ですが、親分」  龍助の声は痰《たん》にからんだ。 「声というものもあらあな。話をしても、合う道理が無えから、とんちんかんな返辞で暴《ば》れそうなものですね?」 「なに、少々なことは相手の気が尋常じゃねえから分らねえ。おめえはいい加減な受け返辞《こたえ》をしていればいいのだ。相手は男恋しさでいっぺえだからの。それも、いつまでもというのじゃねえぜ。女の逆上《のぼせ》が下がったら、おめえも引き退るのだ」 「それじゃ二、三日ですかえ?」 「がっかりした面をするな。二、三日か二十日かはおめえの療治の腕次第だ」  粂吉は鼻に脂をうかせて笑った。 「それに旧い女中には万事を含めてある。おめえは亭主を極め込んで行けばいいのだ。どうだ、うめえ話だろう。おれが、ちっとばかり若かったらおめえに持ち込まねえ話だ」  妾が粂吉の膝を抓《つね》って笑った。 「ですが、親分、どうして、あっしにだけその話を……」 「うむ。おれは見廻りの時に、ちょくちょくおめえの顔を見ていた。おめえが何となく好きなんだ。数ある人間の中で、おめえを択んだのは、そういう訳よ。それに、龍助。これはお店《たな》から礼金も出ることだ」 「え」 「どうだ。この寒空に洟水啜《はなみずすす》って瓦を屋根に運んでいるよりも、よっぽど冥利に尽きるぜ。その手間仕事も、近ごろはあまり無えそうじゃねえか?」 「へえ」 「佳い女だぜ。おめえが柳原|堤《どて》を百遍往き戻りしても、お目にかかれる玉じゃねえ。それに男に離れているから情が厚いや。別嬪からは抱きつかれる。礼金はたんと貰える。やい、龍助。これほどの仕事口を教えてやったのだ。五節句にはいくら包んで持って来る?」      三  龍助は駕籠《かご》の中で揺られていた。夜のことだし、たとえ外を覗いてみても真暗で見当がつかないのに、手拭いで眼隠しされていた。  新|鳥越《とりごえ》町の海禅寺横の空地まで来れば、駕籠が待っている筈だと田原町の粂吉は云ったが、実際、その通りだった。暗いところに駕籠屋の提灯《ちようちん》が宙に止まっていた。  龍助が近づくと、しゃがんでいた人影が立ち上がって、 「おめえは龍助さんかえ?」  と訊いた。龍助が、そうだ、と返事すると、手拭いで眼隠しされ、駕籠の中に入れられた。これは約束だから仕方がなかった。  龍助に不安はあった。初めは、これは田原町の粂吉が甘《うま》いことを云って自分を罠《わな》にかけているのではないか、ということだった。しかし、自分は粂吉から憎まれる何ものも無いことに気づいた。もとより金も無いし、何かの理由で人質に取られる値打もなし、他人から危害を加えられるような心当りも無かった。食うや食わずのどん底の生活だ。裸より強いことはなかった。  この心配が消えると、次は、上手にその女の亭主に化け切れるかどうかという不安だった。だが、粂吉の激励によると成功は期待出来そうである。先方の女中も心得ていることだ。それに万一の時は、粂吉が引きうけると云ってくれた。龍助は、これも気遣いはないと胸に納得させた。  だが、やはり動悸は搏《う》った。二つの心配は消えても、これから先の展開の未知が彼の身体を小慄いさせた。どんな女で、どのようにして彼に来るか。夜鷹や蹴|ころ《ヽヽ》を買いに行く時と違って、想像のつかない世界にとび込んでゆく不安であった。相手は及びもつかぬ家柄の新造で、龍助のこれまでの経験になかった素人《しろうと》女だ。その上、粂吉の話では、男の身体を求めて燃え立っているらしい。病いになりかかっているというから、その凄まじさが知れた。  が、掌《てのひら》に固く握った銭と引換えに、感動の無い顔つきをして、義務的に身体を任せている売女には無いものだ。龍助はそれを想うと咽喉が干からびそうな昂奮を覚えた。いわば、不安と思っているのは、苦しいくらいの胸の騒ぎであった。  その龍助を乗せて駕籠は走っている。隙間から寒い風が吹き込んでくる。駕籠は突き当ったかと思うと、右に曲り、左に外《そ》れた。方角が分らないが、西の方であることは確かのようである。通る人の声がさっぱり聞えない。寺や屋敷が多いのであろう。  いろいろと曲りくねって行くところをみると、よほど入りくんだ道のように思われた。しばらくすると、通行人の足音が聞えるようになり、女や男の声もする。百万遍の数珠《じゆず》を繰《く》る念仏の唱え声が遠くでしたが、駕籠はそれを行き過ぎた。町家の通りから、また寂しい場所に入ったらしい。今度は猫の声もしない。  駕籠の脇には、絶えず草履の音が従っていた。これが、龍助さんか、と呼びとめた男であり、案内人であるようだった。この男は終始、黙っている。駕籠かきも時々、掛声をかけるくらいである。ぴたぴたと小忙《こぜわ》しい草履の音だけが、森閑とした道に高かった。  右の方に法華《ほつけ》の太鼓が聞えた。それから、駕籠の行先は左に曲った。もう太鼓は遠ざかって聞えない。その代り、遠くで梟《ふくろう》が鳴いた。龍助は、粂吉から借りて着た紬《つむぎ》の袷の衿を思わず合せた。寒いだけではなく、胴慄《どうぶる》いがきたのは、もうすぐ目的地が近いことを予感したからである。それが当ったように、駕籠が停まって、地に下りた。 「もう、いいぜ、龍助さん」  横について来た男が、はじめてものを云った。眼隠しをとってもいいということなのだ。龍助は手拭いを眼から除《と》った。  真暗で何も見えなかった。明るいのは空に貼りついた星だけであった。それを劃《かぎ》って、いやに黒いものが山のように塞いでいた。眼が馴れてくると、これは木の展《ひろ》がりと知れた。川が近くにあるらしく、水の音が聞えた。 「これを真直ぐに行きな。龍助さん」  男が、傍に来て低い声で教えた。 「五、六間も歩いたら、木戸がある。そこでおめえを待っている人がある筈だ。それから先の案内は、向うに任せるのだ。明日の朝は七ツ半に、またおれが此処に来て、おめえを迎えている。じゃ、いいな」  男は龍助の背中を突いた。それに押し出されたように彼は前に足を運んだ。  男の云う通り、垣根があって、小さな門があった。龍助が、その木戸を敲《たた》くまでもなく、ひとりの女が提灯を持って立っていた。その灯に誘われたように龍助は近づいた。 「旦那さまですか? きみでございます」  と女は云った。声音《こわね》からみると年増の女のようだった。龍助は、これが、手引きの旧い女中であろうと判断して、うなずいた。無論、声に出して返事はしなかった。  女は提灯を持って先に歩いた。龍助は慄えそうな足であとに従った。提灯の下だけが明るく動いて、枯れた草を照らした。草は一部分を見ただけでも手入れの行き届いていることが分った。云うまでもなく、これは庭の内部《なか》で、星空を区切ったこんもりした木立は、みな庭の配置であった。龍助は、思いもよらぬ寮の広大さに仰天した。どこかから花の匂いが漂ってきた。  黒い屋根が空の下に沈んでいた。灯りはどこからも洩れていない。提灯の明りと、女の庭石を踏む下駄の音が龍助を誘導した。それは或る所で停まった。柴折戸《しおりど》が開く音がした。夜目にも闇から梅の白さが滲《にじ》んでいた。寒気は相変らずあたりに降りていた。  提灯はそこで消え、代りに戸が軽く敲かれた。それから女は踏石から縁に上がり、声もかけずに雨戸を少し開いた。雨戸の内側には戸閉まりがしてなかった。 「どうぞ。この内でございます」  女中は云った。嗄《しやが》れた声で顔は見えない。それから庭に下り、下駄の音がひっそりと遠ざかった。主人に忠実な女らしい。  龍助は、動悸が早鐘のように搏った。開いた戸の間には障子に映った灯の明るさがあった。薄い明りだが、外の闇を通って来た眼には、眩しいくらいであった。龍助は気を鎮めようと胸を抑えた。苦しい息を吐いた。  此処まで来たのだ。退引《のつぴき》ならぬ立場だった。逃げ出すことは出来なかった。障子の明りは、彼の空想を三秒とはたたぬうちに実現してくれる魅惑と圧迫をもっていた。  龍助の足は冷たい廊下を踏んだが、足に灼《や》けそうな感覚があった。足が浮いて滑りそうで危なかった。  障子に手をかけた。指の先まで動悸が脈打った。障子を開くのに、これほど重いと思ったことは今までになかった。  屏風があり、その内側の端から、紅や黄の蒲団の色彩が眼にとび込んだ。屏風には、帯や、赤い着物がだらりと掛けてある。着物は行灯《あんどん》にも被《かぶ》せてあった。着物の外れた部分から明るい光が遁げて、襖の下方の扇面散らしを浮き出させていた。  女は、蒲団の中に埋《うず》まっていた。着物に遮られた行灯の光は弱く、ほの白さだけが顔の輪郭をぼんやり出していた。龍助は、この分なら、自分の顔もはっきりと見えないだろうと安心した。それは嵐のような彼の感情の中の、たった一つの分別であった。  龍助が眼を失って迷っていると、 「あんた──」  と女が下から呼んだ。龍助は雷に撃たれたように戦慄して息を呑んだ。立っているのに膝の節が力を失って瘧《おこり》にかかったようになった。 「あんた、よく来ておくれだったね」  女は白い腕を伸ばして、龍助の着物の裾を引いた。それから彼の足に手を捲いた。      四  龍助は女中に送られて外に出た。まだ夜は明け切っていない。星はやはり宵のように輝いている。上気した顔に当る空気は心地よく冷たかった。女中は提灯を胸のところで抱き、袖で囲うようにして、 「旦那さま。お気をつけて」  と云って木戸を閉じた。  龍助はぼんやりして歩いた。本当の寒さが身に滲みてきた。彼は白い息を吐いた。 「龍助さんか」  暗いところで声がした。昨夜《ゆうべ》の男で、云った通り駕籠が据わっていた。小さな赤い火がみえるのは、駕籠かきがしゃがんで煙管《きせる》をくわえているのだった。 「ご苦労だったな」  と男は犒《ねぎら》った。笑っているかどうかは暗くて分らなかった。合図したらしく、駕籠屋が煙管を石で叩いて立ち上がった。 「約束だぜ」  男が龍助の袖に捻った紙を入れると、重味が袂に落ちた。それから手拭いで眼隠しされた。これも約束だった。  駕籠に揺られながら、龍助は、今、離れて来たばかりの世界を想い、夢のようだった。こうして駕籠に乗っている自分が嘘みたいである。それとも、あの行灯を枕元に置いた紅い蒲団の中の自分の方が嘘なのか、どっちが本体か判らなかった。  耳もとには、まだ、 「あんた」  と呼ぶ女の声が残っていた。声も幻聴のようなら、淡い光に泛《う》いた光景もただ幻視だった。触覚はまだ膚《はだ》のところどころに斑点《しみ》のように遺っているから、あれは現実だったということを証拠立てた。  女の身体は、たしかに狂っていた。あんた、あんた、と熱い息で叫びながら、龍助を捲き込んだ。言葉はそれ以外に出ないほど、抑えに抑えた感情が噴き出たのだ。龍助はこんな目に遇うのは初めてだった。彼は潮に揉まれた。それまでもっていた臆病が去り、その逆巻く潮に自分から溺れ込んだ。目も口も開けられなかった。彼は流されては泳ぎ、泳いでは流された。女は厚い脂肪をもっていたが、龍助の若さがひとりで暴れた。疲労がくると、女は貪欲に喚いて攻めてきた。男から離れた女の飢渇がこれほどの凄さとは思わなかった。龍助が今まで経験したどんな女にも無かった奔騰が彼を圧倒した。大きな店《たな》の奥深いところで躾《しつけ》よく育った女だというのに、行儀も羞恥《しゆうち》もかなぐり捨てて野放図だった。顔はほのかにしか分らなかった。光の工夫が目鼻立ちをぼんやり浮かせただけだったが、きれいなことは確かだった。昼間見たら、つつしみ深く澄まして冷たい美しさを匂わせているに違いないのだ。その想像が、余計に龍助の血を沸《たぎ》らせて女を苛めさせた。──  駕籠が急に下りた。龍助は背中を叩かれたように自分に還った。 「着いたぜ」  男が少し横柄に云った。 「明日の晩、また此処に来るんだぜ。いいな、龍助さん。時を間違えねえようにな。それまで、ゆっくり睡って、くたびれを癒《なお》してくれ」  そのあと、男は初めて笑いを鼻の先に立てた。  ひとりになった龍助はあたりを見廻した。夜が白んで、寺の屋根の上に蒼白い靄《もや》が匍っていた。海禅寺の銀杏《いちよう》の木も、なまこ塀も次第にはっきりして来た。人の通りがちらほらとある。納豆売りと、河岸《かし》へ買い出しの魚屋が、龍助の姿を振り返って通った。  龍助が歩き出した時、浅草寺の明け六ツの鐘が鳴り出した。  龍助は紬《つむぎ》の袂を探った。捻った紙を開けると二分銀が出て来た。彼は紙を捨て、銀の重味を掌の上に乗せた。三十日働いても貰えぬ金であった。  今戸の裏のどぶ板を踏んで帰ると、桶屋の老爺が手に息を吹きかけながら仕事の支度をしていた。龍助を見上げて、愕《おどろ》いた眼をした。 「おめえ、夜っぴてわるさをしていたのかえ?」  老爺はさいころを振る真似をした。 「うむ、まあ、そんなところだ」  龍助は横を向いて応えた。 「顔色が悪いぜ。夜通しの勝負ごとは身体に毒だ。田原町の親分が来たのは何の用事だな?」 「なに、詰まらねえ手伝いを頼まれたのだ。わざわざおれを呼び出すこともねえ話だった。ところで、老爺さん。間代も溜まって苦になっていたところだ。これを取っておいてくんな。剰《あま》ったら、今日はうめえものを店屋《てんや》からとって食わせてくれ。おめえの分もだぜ」  二分銀を出すと、老爺は眼を剥いた。彼は改めて龍助の着た紬を見詰めた。 「こりゃ、どうしたのだ?」 「昨夜の勝負が気持の悪いくれえ|つい《ヽヽ》てよ。この着物も代償《かた》にとった品だ。何も不思議はねえ」  龍助は歩き出して云った。 「睡《ねむ》いや。うめえ物は宵にとってくれ。それまで寝かせてくれ」  納屋のような部屋に帰ると、破れ蒲団を敷いて横になった。身体の骨が抜けたようで、欲も得も無かった。夢も見ずに泥のように睡りこけた。  眼が覚めた時は、部屋の内は薄暗かった。 「呆れたもんだ」  と揺り起した老爺は云った。 「もう、そろそろ暮れる頃だぜ。店屋からとったものはここにおいて置く。一尺の鰻《うなぎ》がたっぷり丸ごとだ。口が腫れるようだが、おらあ遠慮なく先に馳走になった。おめえのお蔭で生命《いのち》が五年延びたぜ」  龍助は、その鰻と飯を食ってまた眠った。──  あくる日になると、龍助は元気が戻った。失われた力が身の内に充実した。その日の暮れが来るのを彼は待ち兼ねて、早くから身体をもてあました。陽の高いのが恨めしいくらいだった。  桶屋を出るとき、老爺は今晩も夜通しか、と訊いた。  龍助は、そうだと返辞し、嚔《くさめ》を背中に聞いて外に歩きだした。  暗い中を、寒い風に逆らって、海禅寺横の空地に急ぐと、駕籠はもう来て待っていた。 「早かったな、龍助さん」  闇の間から、聞き憶えの声が聴えた。 「おくれて済まねえ」  龍助は愛想を云った。 「なあに、一足の違えだ。だが、おめえの送り迎えも辛え役だぞ。おめえが絹蒲団の中で汗を掻いている時分、こちとらは水ッ洟《ぱな》すすりながら、すごすごと凍《い》てた道を戻って行く図なんざ、われながら間抜けて見られたもんじゃねえな」  男は、初めて長い言葉を吐いた。 「そう憤《おこ》るな、兄い」  ──龍助は浮き浮きして云った。 「なあに、怒りゃしねえ。これも役目と思や仕方がねえ。さあ、行くぜ」  眼隠しされて駕籠に乗ると、龍助の身体が地から浮いた。  駕籠は真直ぐに行き、右に曲り、左に行った。龍助は何となくその順序を覚えようとした。眼が開いていても、この真暗な闇では、外の様子は知れなかった。人気の無い寂しいところを通るらしい。一昨日の晩と同じだった。やがて、人声が聞える。町家の通りらしい。それが切れると、また元の森閑とした道を行った。龍助は、百万遍講の念仏を耳に期待したが、それは起らなかった。その代り、やがて法華太鼓の音が聞えた。ああ、そうだ。これから左に折れるのだな、と思っていると、駕籠は、その通りに曲った。龍助は胸が鳴り出した。到着は、もうすぐである。旦那さまですか、というあの嗄《しやが》れた女の声が聴えそうであった。      五  ──行灯は着物をかけて、光と影にこの部屋を染め分けていた。光は襖の扇面散らしに当り、影は淡い明りとなって紅い蒲団と屏風をぼかしていた。  何か匂っている。が、それはいま通って来た庭の早咲きの梅の記憶であった。 「おお、足が冷たい」  と女は云った。鼻の先が彼の頬に当った。 「おかしい。慄えている」  女は笑った。甘い声である。息がじかに龍助の顔に吹きつけた。これほど近いのに、女の顔は、眼も鼻も唇も霞んでいた。おれの顔も、おおかたこうであろうと龍助は何となく安堵《あんど》した。この女は自分の亭主だと思いこんでいる。それをいつまでも信じさせねばならなかった。別れた亭主が、やっと会いに来てくれた。何十日と待ち焦がれた男である。女が燃えているのはそのためだった。別人と分った時の女の驚愕と憤怒を思うと、龍助は空恐ろしかった。その恐怖を彼は無理に振り切った。 「あんた」  と女は甘えた。龍助は返事せずに、うむ、と咽喉の奥で応えただけであった。ものを云うと露見しそうである。 「あんた、待っていた」  女の息が弾んできた。それは龍助の正面に風のように当った。龍助の身体の火が煽られた。彼の内側に漲《みなぎ》っていた力が暴れ出した。女は声を上げた。一昨日の晩と同じようなことが、それから起った。恰度、駕籠に揺られて同じ道を来たのと似ていた。分らぬ色彩が眼の前《さき》を舞って、龍助は昏《くら》くなった。秩序から脱け出た白い感覚が弾ねて動いた。  女は唇を開け、呼んでいた。言葉にはならず、短い切れ切れの声であった。奔流の中に、龍助は流されては抵抗した。若い生命は疲労を寄せつけず、途方もない充実さで働いた。女の頬が塩辛くなった。  ふと、龍助は、太い息を聴いた。──  それは、鼻翼《こばな》をせわしく動かして喘《あえ》いでいるこの女の息ではなかった。もっと、異質な、別の吐息であった。心の迷いと云えそうな、途中で風が耳に運んだ一瞬の遠いざわめきにも似ていた。それきり、あとは何にも続かなかった。  龍助は、はっとなった。得体の知れない冷たいものが彼の身体を走った。彼は身を沈めた。動悸が激しく起った。だが、これは女に向かったものではなかった。 「ねえ、どうしたの?」  女は汗ばんだ掌を龍助の頸に捲いた。彼は女の手くびを捉え、動くことをやめさせた。あらゆることを静止させ、彼は耳に神経をあつめた。何秒かの後、彼のその耳は、廊下をしのびやかに踏んで去ってゆく足音をはっきりと聴いた。一人の足音ではなかった。  龍助は、不意に半身を起して、或るところを恐ろしい眼で見つめた。行灯の灯の届かない足の方の襖が、一寸ほど隙を開けていた! 「ねえ、どうしたの?」  と女の声は絡みついた。うむ、と龍助は空《くう》な返事をした。彼は女の身体を突き放し、顔を蒲団に押しつけて、帰りの時刻が来るのを待った。──  その帰りも順序の通りであった。嗄れ声の女が障子の外で小さく龍助を呼び、暗い広い庭を提灯で足もとを照らして門の外まで見送った。 「旦那さま。お気をつけて」  と云った。  暗いところに駕籠が待っているのも変りはない。寒い風が星空を渡っていた。 「ご苦労だったな、龍助さん。おや、何だかぼんやりしてるぜ」  あの男が横で云った。半分、笑った声だった。 「ぼんやりするなア道理だがな。まあ、帰ってゆっくり眠ってくれ。明日の晩には、ぱちんと眼を開けてあそこに来るようにな。ほらよ」  袂に紙の捻りが落ちた。この男の素姓は見当がつかない。店《たな》の使用人かと思ったが、口の利き方に崩れたところがあった。それに妙に威圧的な調子が含まれている。龍助は、おとなしく眼隠しされて駕籠に乗った。  帰りの駕籠の方向を、龍助は覚えるのに余念がなかった。来る時の逆を考えている。しかし、人声も無ければ、太鼓の音も聞えなかった。海禅寺の前で、ほっぽり出されたとき、東の空が明るくなっているのは同じであった。  疑惑が龍助の頭の中を渦巻いていた。冬の朝の風も冷たいとは思わなかった。無論、おとといのような疲労感は無く、身体のうちに熱いような緊張が充ちていた。  あの女とは異《ちが》った溜息、忍びやかに廊下を去って行く一人では無い足音、一寸幅の黒い棒になっていた襖の隙間。──もしや、と思う忌まわしい直感に狂いは無さそうであった。  龍助の足は踵《きびす》を返して、もとの道に向かった。朝は急速に明るくなり、陽が斜めに射しはじめた。  道順の記憶と照らし合せながら、龍助は西へ歩いた。まっすぐ行くのだ。思った通り、両方は寺ばかりだ。しばらく行くと三つ角に出た。躊躇《ちゆうちよ》なく右に曲った。駕籠がそう曲ったのだ。左は寺、右は小禄の旗本の小屋敷がならぶ。行く手に松平出雲守の下屋敷の長い塀が見えたところから、左に折れる道がある。記憶にある通り、その道をとって行くと、左は下谷具足町で、右は御切手町の町家がつづく。この辺で、百万遍の念仏講の唱和を聞いたのは道理だった。突き当ると養玉院だが、すぐ隣りから車坂町がはじまっている。人の声を夜この辺で聞いたのは、町家が近いからだった。龍助はひとりで合点をした。  駕籠は、これから右に曲った。それからすぐ左に折れた。坂本町二丁目。ここと三丁目の間に左に入る道がある。龍助はそこを行った。突き当りが要伝寺で右へ東叡山領、千歳院、永称寺、日雲寺とならぶ。夜通って寂しい筈だった。  龍助の眼は日雲寺の門碑の文字にとまった。「法華宗」とあった。なるほど、とうなずいた。二晩とも聴いた太鼓の音はこの寺からだった。  それなら、目的の屋敷はすぐだった。彼は左へ曲って足を運んだ。川が眼に入った。符節が面白いほど合った。川向うは田圃で、木立と杉垣で囲った邸がいくつか見えた。根岸の里であった。離れたところに森がある。梟が啼いたのは当り前だった。  龍助は、すぐ眼の前に見える木立の多い屋敷に心を奪われた。竹で編んだ垣根が長々とつづき、木立の奥にひそんだ屋根に朝の光が当っていた。地形と屋敷の構え具合から、これ以外に無い。  龍助は忍ぶように屋敷に近づいた。垣根には洒落た木戸がある。なかをのぞくと、植込みを配り、石を散らして枯れた芝草が広大にひろがっていた。遠くに松を植えた築山《つきやま》を島に見立てた池があり、水が落ちていた。仔細に見ているうち、かすかに梅の香が匂って来た。もう、寸分の疑いも無かった。  一体、日本橋の大店とはいえ、町人風情がこれほど広大な寮をもつものだろうか。龍助は見当もつかず、呆れていると、庭に人の姿が動いて来た。  彼は、垣根の蔭に身をひそめた。眼だけ出して見ると、一人は老人で、これは明らかに武士だった。髪が半白だから、さほどの年齢《とし》とは思えないが、背の高い身体に袖無しを着ていた。が、身分あるらしい隠居であることは、艶のある小袖の贅沢さで分った。痩せて顔色がよくなかった。  この隠居につき添うようにして、大年増の肥えた女がいた。むっちりしたいい身体を年齢より派手な色の着物につつんでいた。  隠居は足の運びが遅い。女は手で身体を支えるようにして歩いている。何か話して笑い合っていた。女の声は甲高くて、どこか嬌《なま》めいていた。 「──明日の晩も、またお愉しみでございます。参る手筈でございますから。旦那さまのお身体も、私がびっくりするほど、ずんとお元気にお返り遊ばして……」  あとは、また笑いが起った。  龍助は、それだけ聞くと、そこをこっそり逃げ出した。自分の直感は、ここでも正確だった。襖に隙間をつくって、溜息を吐き、廊下をこっそりと去った足音の正体を、いま、はっきりと突き止めた。      六  龍助は、自分が二晩の道具《ヽヽ》になったことを知った。いや、知らなければ、ずっとこれからも道具になって通っていたに違いない。寒い風が吹いているのに、彼の全身は汗が噴いていた。  彼は動物にされていたのだ。その動物の姿を、あの隠居と妾から覗かれ、吐息をついて仔細に観察されていたのだ。  ふらふらと歩いていると、土地の者らしい百姓に出会った。 「もし」  龍助は呼び止めた。 「あすこに見える立派なお屋敷は、どなたのお住居ですかね?」  百姓は眼脂《めやに》の溜まった眼を、龍助の指した方向にむけた。 「うむ、あれけえ?」  と濃い髭の中で口を開けた。 「あれは青木芳山《あおきほうざん》様のご隠居所でさあね」 「青木芳山様?」  龍助が首を傾けたのを見て、百姓は説明した。 「芳山様は今はご隠居のご身分ですがね、もとはといえば、南町奉行までなすった、千二百石の知行取り、青木河内守様と仰言ったお方だ。随分と切れたお方だったそうでな」 「なに、南町奉行……」  龍助は呆然とした。百姓が去ったのも分らず、その場にしばらく立ち尽した。  |愉しんだ《ヽヽヽヽ》主《ぬし》は、もと南町奉行の青木河内守だった。  そう聞くと、見えぬところで牽《ひ》かれていた糸が龍助に解けた。──この奉行に可愛がられたことのある与力か同心かが、その道具の世話を頼まれた。下役だった男は忠義立てをして、己の支配の下で働いている岡っ引の田原町の粂吉にことの周旋を依頼した。もしかすると、これは逆かもしれない。年老いて若い妾をもつ青木芳山に、回春の道具をすすめたのは、もとの部下かもしれなかった。どっちにしても、その取り持ちを依頼されたのは田原町の粂吉だ。  粂吉は上役のご機嫌とりに、その物色にかかった。そこで彼が目をつけたのは、見廻りのときにちょいちょい見かける遠州無宿の龍助だ。若い上に、身体もいい。広い肩と厚い胸をもっている。──  と、ここまで考えた時に、龍助は身体の中に血が煮えるのを覚えた。粂吉の罠にかかったのだ。日本橋の大店の出戻り娘という餌で釣った。役は見事に落ちたのだ。落ちたところは行灯に衣を被せて薄ぼんやりした部屋だった。囮《おとり》の雌が彼を待ち構え、彼は狂ってそれに飛びついた。二匹の動物は舐《な》めて噛み合った。  衰退しかけた老人は、それを覗いて血を若やぎ回《かえ》らせた。絵草紙も、読本《よみほん》も、すでに役に立たなくなった老人だが、この秘密な覗きだけは、僅かに残った気力を湧かせた。大年増の、脂肪の厚い妾が喜んだ。…… 「畜生」  かっとして、思わず眼を恚《いか》らして寮の方を見たとき、彼の視線は、いま、其処から出てくる一人の女の姿を捉えた。三十過ぎの、崩れた恰好をした女だった。  龍助の踵《かかと》が地を蹴《け》った。  女の背後に近づくと、彼の手は、その肩をがぶりと掴んだ。 「あれ」  女は、愕《おどろ》いて振り返った。縮緬皺《ちりめんじわ》に白粉が塗り込んである。  眼が狸《たぬき》のようにまるく、鼻が低かった。口も大きい。昨夜の、淡い灯影の中に夕顔のように白く浮いた大店の出戻り女の正体がこれだった。  女は龍助の顔を見て、逃げ出そうとした。龍助は、その手を握って引き戻した。 「やい、うぬは何処の白首で、誰に頼まれてあんな真似をした? さあ、そいつの名前を云え!」  ──龍助が、今戸の裏の桶屋に帰ったのは午を過ぎていた。 「おやじさん。また、うめえものを頼むぜ」  龍助は二分銀を老爺に投げ出した。 「昨夜もかえ? 龍助。いけねえぜ、おめえの眼は血走ってらあな」  老爺は、龍助を見上げた。 「身体に毒だ。もう、止しねえ」 「うむ。もう止しだ」 「何かえ、昨夜も出来がよかったのだな?」 「うむ、大当りだ、大当りだ」  龍助は嗤《わら》った。 「眠くてならねえ。宵まで一寝入りするからうめえものが来たら起してくれ」 「いいとも」 「それから、その銭の剰《つ》り銭で、近所の金物屋から山芋掘りの道具を買って来てくんねえ。棒の先が尖ったやつよ」 「妙なものを買うじゃねえか?」 「うむ、賭場で知り合った奴に頼まれたのだ。そいつの近くの店では売ってねえそうだ。済まねえが、探してみてくれ」 「むつかしい註文だが、広小路あたりの、がらくたをならべている古道具屋に行けば売ってるかもしれねえ。山芋掘りたア懐しい。おれも餓鬼の時は、郷里《くに》の山で掘ったものだ」 「おれもだぜ、おやじさん」  と龍助は、眼を輝かして云った。 「おりゃア山芋掘りの名人だった。一間もある長いやつを折らずに掘り出したものだ」 「そう聞くと何だか山の匂いがして来るようだ。だが、この辺で使い道があるのかえ」 「なに、構わねえ。道具の使い道は、山芋ばかりじゃあるめえ」 「え?」  老爺は怪訝《けげん》な眼を上げた。龍助は自分の寝小屋の方に歩いていて、背中を見せていた。      *  岡っ引の田原町の粂吉が、妾の家で、その妾と一緒に殺された。  発見は朝だったが、犯人は昨夜のうちに忍び込んだらしかった。蒲団の中で、粂吉も、妾も、疲れてぐっすり寝込んだところを殺《や》られたらしく、抵抗のあとはなかった。  咽喉を一突きに刺されていて、苦痛の表情も無いくらいな即死だったが、兇器は刀でもなく、出刃でもなかった。検屍の役人は、槍であろうと判断した。見事な突き方で、狙いの外れは無かった。槍で殺されるとは珍しかった。  珍しいのは、それだけではない。粂吉は妾と抱き合ったまま死んでいたのだ。検屍の役人は蒲団をはぐって見て、眼をそむけた。これほど行儀の悪い死にざまも滅多になかった。そのあられもない姿態を、立会った人々の眼は|露骨に覗いた《ヽヽヽヽヽヽ》。それは役目だから仕方がない。  しかし、死に方もあろうに、こんな醜体を人の眼にさらすとは珍しいと、いつまでも噂《うわさ》になった。 [#改ページ]   流 人 騒 ぎ      一  武州|小金井《こがねい》村無宿の忠五郎《ちゆうごろう》が、賭場《とば》の出入りで人を傷害し、伊豆の八丈島に島流しになったのは、享和二年四月のことであった。  忠五郎は二十日あまり、伝馬町《てんまちよう》の牢舎《ろうしや》に入れられていたが、いよいよ島送りとなる前日に牢屋見廻り与力に呼び出された。 「忠五郎か。明日、八丈島に発船となる。島に着いたら、随分と神妙に勤めるがよいぞ」  与力は諭《さと》すように云った。 「有難う存じます」  忠五郎は頭を下げた。面《おも》やつれはしているが、まだ二十二歳の若さであった。 「神妙にしておれば、やがてご赦免《しやめん》の機会《おり》もある。早ければ、二年くらいで江戸の土を踏む者もある。そのほうはまだ若いから、それを愉しみにおとなしく勤めるがよい」 「有難う存じます」  忠五郎は二度つづけて頭を地に下げた。  この与力のほかに、もう一人の役人が帳面を持って立ち会っていた。牢屋敷物書役で、書記の役目をしている。このとき、忠五郎の前に立ったのは、小柳惣十郎《こやなぎそうじゆうろう》という男だった。面長で眉が濃く、女に紛《まご》うような白い顔だった。彼も、まだ若かった。 「武州小金井村百姓、当時無宿、忠五郎、二十二歳。横川伊織様お掛り。間違いないな」  小柳惣十郎は、手にもった遠島在牢者溜り人別帳を読み、確かめるように云った。 「へえ。左様でございます」  惣十郎は、忠五郎を視た。二十二歳というと己《おのれ》と同年である。そのことで、ちょっと興味を惹いたに過ぎない。これから先、何年かを孤島で送る同年者の流人の顔を眺めた。頬骨がやや高くて、眼が鋭い。罪状を見ると、この者は所々にて博奕《ばくえき》いたし、口論の果て、相手を刺し手疵《てきず》を負わせたとある。いかにもそのようなことをしそうな陰気な顔をしている。年齢《とし》よりは二つは老けて見えるようだ。惣十郎は、同じ齢でありながら、いつもは三つは若く見えて女たちに騒がれている自分の容貌に改めて満足した。  惣十郎が、忠五郎をちらりと見た興味はそれだけである。相手のこれから先の苦労な生活など、心に塵ほども泛《うか》ばない。それは職業上で慣れ切っている。磔刑場《はりつけば》に送るため、牢屋から引き出した罪人の顔を直視しても、通行人を見るように何の感情も湧かないのだ。 「身寄りの者からは、届物は来ておらぬぞ」  惣十郎は、別な帳面を見て云った。 「へえ」  忠五郎は、うなだれるように頭をさげた。  遠島送りの者には、親戚や宿元などの縁者から届物が出来るようになっている。一人につき、米なら二十俵まで、麦は五俵まで、銭は二十貫まで、そのほか、雨傘、木履《ぼくり》、煙管《きせる》の類の差し入れを許した。米の届けの多いのは、島に行くと自活しなければならないので、そのためである。江戸からの島送りは、伊豆七島でも、寛政頃から新島、三宅島、八丈島の三つに限られるようになった。三島とも耕地が尠《すく》なく、食糧が少なかった。  しかし、届物があるのは普通の罪人で、親類や身内に見放された無宿者には殆《ほとん》ど何も無かった。そんなことは役人も慣れているので、格別に同情を起すということもない。 「届物が無いから、お上よりお手当て物を下される。有難く頂戴しろ」  惣十郎は云った。 「へい」  忠五郎が貰ったのは、金子《きんす》二分、赤椀、用紙半紙二帖、それに船酔いの丸薬などである。これだけが当座の官給品で、島に上陸して以後の生活は保証しない。 「よし、それでは牢に戻るように。今晩はゆっくりと睡っておけ」  と与力は云った。忠五郎は最後のお辞儀をして遠島部屋に引き退った。牢屋敷物書役小柳惣十郎と、遠島者小金井無宿の忠五郎との短い接触は、ただ瞬時のこのときだけであった。  伊豆三島への遠島出帆は春秋年二回と決まっていた。秋は九月中旬までで、これは波荒い海上の都合のためである。  忠五郎が青細引のかかった駕《かご》に乗せられて霊岸島に護送されたのは、四月二十日であった。外には初夏の強い陽射しがある。空には眩《まば》ゆい光が膨らんでいた。  霊岸島には、御船手当番所があり、役人が流罪人の人別改めをやった。ここで牢屋奉行石出|帯刀《たてわき》の支配を離れ、伊豆|韮山《にらやま》代官江川太郎左衛門の宰領となるのである。  忠五郎が乗った船には、十四、五人の遠島人同囚がいた。いわゆる無宿者でない町方、在方の罪人もいたが、半数は無宿人であった。上州無宿の伝四郎、信州無宿の丑松《うしまつ》、甲州無宿の藤五郎、下総無宿の軍蔵、千住村無宿の栄造、越後無宿の宇之助、相州無宿の源八、肥州無宿の佐吉、それに変ったところでは女犯《によぼん》で追放された下谷高源寺の役僧|覚明《かくめい》が居た。  風一つ無いおだやかな日和《ひより》である。一行を乗せた流人船は、陽が高くなりかかった巳《み》の刻には岸を離れた。  岸には、今日の出帆を聞いて、流人の身寄りの者が見送りにひしめいている。女房も、子供も、老人もいた。肉親の者は、再会を期し難い訣《わか》れに狂ったように泣いている。彼らは船が見えなくなるまで爪立ちして手を振った。腰縄をかけられた流人たちも舷《ふなべり》を掴んで泪を流し、眼を腫《は》らして嗚咽《おえつ》した。  見送り人の無い無宿人たちも、声を呑んで茫乎としていた。念仏を誦《ず》しているのは、破戒僧の覚明だった。ただ、護送の三人の役人だけは、にやにや笑って見ていた。 「いやな図だな」  と忠五郎の耳に嗄《しわが》れた呟きが聴えた。横に居るのは、人足|寄場《よせば》を脱走して捕えられた下総無宿の軍蔵で、四十二歳の最年長者だった。 「こうなると、なまじっか身内のねえおれたちは気楽だな」  彼は忠五郎と眼が合ったので低い声で話しかけた。  忠五郎がうなずく前に、彼の前に坐っている男が軍蔵の方に振り向いた。 「ふん、身内が無えと?」  尖々《とげとげ》しい眼をしたのは千住村無宿の栄造という男である。 「何を云やがる。てめえなんぞと一緒にされて堪るけえ。おらあ縄張りに二百人くれえの子分があるんだ。これからのこともあるから云っとくがな。あんまり安く踏んでくれると困るぜ」  栄造は首を捻じ曲げて毒づいた。      二  船は品川沖に出て風待ちし、相州浦賀の沖に停まった。ここで番所の改めをもう一度うける。この船が停まっている間、ほかの漁船は一切近づくことが出来ない。「七十五|尋《ひろ》触れかかり」といった。  浦賀番所の改めが済むと、船は南に向かって永い航海に就いた。  本土の伊豆、相模、駿河の山々が海の向うに消える頃には、誰の胸にも死地に赴くような切迫感がこみ上げてきた。実際、生きて還れるかどうか、誰にも分らないのだ。  船中の者は、いずれも打ち萎《しお》れている。ぐったりとなっているのは、ただ船暈《ふなよ》いのみではない。見る限り、蒼い海原と、雲の流れのひろがりだけの視界が、彼らの胸中のすべてでもある。これから先の不安と絶望とが一同の上に襲いかかっていた。  二百人の子分があるという栄造だけは、はじめの二日は割合元気であった。彼はいかつい眼を殊更に光らせて、蒼い顔をしている一同を睨《ね》め廻した。 「意気地のねえ野郎ばかりだな」  栄造は、あたりに聞えよがしにそんなことを云った。実際、それまでの彼は強そうに見えた。  船は三日目から揺れ出した。空を黒い雲が川のように奔《はし》り始めると、ひどい風と強い雨とが襲来した。船子《ふなこ》は、船内の浸水の水掻き出しに懸命だった。恐ろしい海の唸りの中に、船は今にもばらばらに崩れそうだった。 「万一の場合があるから、今のうちに申しきかせる」  と役人の水手《かこ》同心はよろけながら立ち上がって大きな声を出した。 「難破して、お前たちが何処かに泳ぎついて助かっても、逃げるじゃないぞ。逃げたら、破牢と同じに獄門だ。神妙に上陸《あが》った所で待っていろ。その次の船で島に連れて行く。やい、よう聞け。お前たちはこの船が難破したら天の助けと思って喜んでいるかも知れねえが、お前たちの息のある間は、どうしても島に送り込まれるのだ。観念するがいい。不埒《ふらち》な心得違いを起さねえように、今のうちに云い渡しておく」  声は風と波の音に時々消された。死んだような流人たちだが、その耳には声が腹の底まで徹《とお》った。彼らは、たとえ生命が助かっても、腰についた縄は、所詮、島に手繰《たぐ》られる運命を自覚せねばならなかった。  覚明は舟板にしがみついて経文を高らかに唱えていた。 「和尚《おしよう》」  と細い声で云ったのは、今まで親分の貫禄を見せていた栄造であった。彼は、苦悶しながら腹匍《はらば》っていた。 「おめえ、まさか今のうちから葬えのお経を上げているんじゃあるめえな」 「なあに、海に抛《ほう》り出されても、無事に命があるように祈っているのだ」  覚明は、経文をやめて答えた。 「こうみえても、わしの読経は娑婆では効験《あらたか》だと評判をとっていたからな」 「じょ、冗談じゃねえ」  と栄造はあわてたように云った。 「海に投げ出されて堪るけえ。おら、金槌で泳げねえのだ。頼むから船が沈まねえようにお祈りしてくれ。和尚、頼みます」  栄造は手を合せた。彼は真蒼な顔に、脂汗を掻いていた。手下二百人の親分は皆の前で男を下げた。  船は沈みもせず、暴風雨を切り抜けて三宅島に着いた。ここで長い期間、風待ちして八丈島に送られる。彼らが目的の島に到着したのは六月の末で、江戸を出てから七十日近くもかかっていた。  島に一同がぞろぞろと上がると、陽に焦《や》けて黒い顔をした島人たちが、物見高に集まって、新しい流人たちを見物していた。  どういうものか、渚《なぎさ》の石浜には、新しい草履が無数にならべられてあった。 「やい、その草履を早く突っかけろ」  と役人が呶鳴った。 「突っかけたら、草履の裏を返して見るのだ。そこに名前が書いてある。それがてめえの身体を預かる庄屋どのだ。分ったか。早くしろ」  流人は怯えたように草履を見ていたが、やがて一人が恐る恐る一足の上に足をのせると、誘われたように一同は草履をはいた。忠五郎が己の足から草履をとって裏返すと「源えもん」という字が読めた。  庄屋の源右衛門は六十ばかりの老人だったが、焼け杭のように背が高くて色が黒かった。この庄屋の下についたのは、忠五郎のほか、信州無宿の丑松、肥州無宿の佐吉、千住無宿の栄造、それに高原寺の覚明がいた。  何という名か知らないが、島の西北に富士山のような恰好をした山が見える。海岸は黒い岩ばかりであった。行きずりに会う女は、長い髪を垂らし、頭に水桶をのせて歩いていた。  三町も歩くと、先頭に立っていた庄屋の源右衛門は一同を振り向いた。 「おい、みんな聞け。あれがおれの支配している村だ」  庄屋が指さしたところを見ると、なるほど一かたまりの部落がある。どの家からも島人がとび出して一行を眺めていた。格別珍しいものを見ているという眼ではなく、厄介な奴が来たという顔つきをしていた。 「この村が、お前たちの住まいだ。滅多にこの村から離れることは出来ねえ。勝手によその村に行くことは法度《はつと》だ。いいな。そうだ、この中に医者と大工は居ねえか」  居ないと分ると、源右衛門は忌々《いまいま》しそうに舌打ちした。 「みんな能無し野郎か。なるほど無宿者ばかりじゃ手職があるめえ。畠を打つことも、魚を獲ることも知るめえ。だが、時には村の手伝いをして皆から可愛がられるのだ。そうすりゃ、お飯《まんま》の一杯《いつぺい》や二杯は赤椀に恵んでもらえる。いいな。決して盗みや狼藉《ろうぜき》を働くでねえぞ。庄屋はいつでもお上から鉄砲の三十挺や五十挺は預かっているのだ。不届者はいつでも打ち殺していいことになっているのだ」 「もし、お庄屋さんえ」  と進み出たのは、栄造だった。 「それじゃ、あっしたちは、お上から何も食べ物は頂けねえので?」 「当り前なことを云やがる」  と老人の庄屋はあざ笑った。 「この島じゃ、村の者でさえ食い物に不足している。おめえたちを養う米が頂けたらこっちが欲しいくれえだ」 「それじゃ、どうして──」 「食う算段か、そいつは、おめえたちの古顔に訊いてみろ。この先、西へ一町半ばかり行けば洞穴《ほらあな》や掘立小屋があらあ。飢え死から逃れた奴ばかりが巣をつくっている筈だからな」      三  享和二年四月に八丈島に流された小金井村無宿の忠五郎は、それからまる七年間、島に留め置かれた。  島での生活は悲惨であった。  まず、住居は別に設備があるわけではなかった。島人の住む村はずれの空地に草でふいた掘立小屋を造るか、崖の洞窟にひそむかするよりほかに仕方がない。これは橋の下の乞食よりも、まだ哀れであった。 「なあに、今に慣れてくるよ。おれもはじめこの島に来た時は、おめえと同じようにびっくりしたものだがな。こう見えても、おらあ江戸では贅沢した人間だぜ。小梅には寮までもっていたからな。柳橋のきれいどころを十日間も揚げて流連《いつづけ》したこともある男だ。その人間がよ、今じゃこうして穴住まいが結構気にならないのさ」  五年前に流されて来たという流人が、髭《ひげ》だらけの顔を笑わせて忠五郎に云ったものだった。  その男は、忠五郎が着くと、一年ばかりで赦免に遇って江戸に還って行った。その住居のあとは忠五郎が今では貰っている。彼もあとから島に来る流人に同じ台詞《せりふ》を云うようになった。  食べ物が無いのが一番の苦痛であった。  忠五郎は子供の時から百姓の経験があるから、畑仕事を手伝って、島人から飯や芋の報酬をもらっていた。それも向うさまの思し召し次第である。気に入れば余計にくれるが、気に入らぬと空き腹をかかえねばならない。島は米が尠なく、主食は芋《いも》であった。  一日じゅう、こき使われた上、 「ほらよ」  と二個か三個の芋を投げられても、 「有難うございます」  とお辞儀せねばならなかった。腹を立てたら、あとの手伝いを断わられるからだ。  着物は着たきりで、和布《わかめ》のようにぼろぼろになっていた。幸い、島は春から秋にかけてが長く、短い冬も暖かであった。見兼ねた島人が、一年に一度か二度は古着をくれた。  酒は無論、一滴もありつけなかった。 「おらあ、娑婆じゃ勿体ねえようなうめえ酒を浴びるほど飲んだもんだ。今度、江戸に帰ったら、酒の風呂を湧かして溺れるほど暴れ飲みをしてやるんだ」  二百人の子分がいると威張っていた千住の栄造が、からからの唇を舌で舐《な》めて云ったものだった。が、その栄造も、島について三年目に患いついて死んだ。 「大きな口を叩いていたが、可愛い奴だったな」  と、流人墓に埋葬して読経してやった女犯僧の覚明が首を振って云った。 「可哀想に、酒場は愚か、湯灌《ゆかん》も出来ねえで土になりやがった」  流人が死んだ時は、皆が一緒に穴を掘って埋めた。目印は石ころを土の上にのせておくだけである。そういう石ころが無数にならんでいる。陽当りの悪い山の蔭であった。  手を合せる一同の眼には泪《なみだ》が滲《にじ》み出ている。今日は人の身、明日はわが身かも分らないのだ。 「江戸の土も踏まねえで、こんなところで死んで堪るけえ!」  彼らより古い流人が死んだとき、思わず狂ったように叫んだのは信州無宿の丑松であった。丑松は、江戸に好いた女もいて、江戸にかえることを執念にしていた。  無論、それは丑松だけではなかった。この島を出る願望を、誰も片刻《かたとき》も忘れたことは無かった。夕どきになって、海が凪《な》ぎ、遠くに茫漠とした靄《もや》が立つと、誰もが溜息をついて江戸の方角を眺めた。赤紫の靄の中に、江戸の町なみや故郷の山が塗り籠められていた。  いつ、この島から出られるか。これだけに流人たちは生の希望も絶望も賭けていた。赦免は、大体、将軍家の慶事や仏事を機会にして行なわれることが多い。しかし江戸から海で隔絶せられたこの島には、いかなる出来事も何一つ噂に聞えて来ないのだ。赦免の迎え船は突如として現れるのである。前触れというものが無かった。流人たちは、毎日毎日、飽くことなく海上を見詰めるのだった。数年も待たねばならぬ絶望感もある代り、半刻後には幸運が訪れて来るかも分らぬ望みもある訳である。  しかし、赦免の迎え船が来たときくらい、この世の幸福と絶望とを露骨に分けて見せるものはなかった。解放される者は、足が地につかぬくらい雀躍《こおどり》して喜ぶ。早いもので三年、永いものは六、七年めに帰されるのだ。役人に名前を呼ばれて、呆然とまだ信じられぬ面持ちで居る者もあった。  地獄に陥るのは、その名前に洩れて残された連中だった。それも、島に来てから日の浅い者は、はじめから諦めているから、まだ始末がいいが、どうにも諦め切れないのは、古い流人どもだった。彼らは、もしや役人の読み落としではないかと、何度も頼んで自分の名前を捜させた。いよいよ無いと分ると、地を匍って泣き伏した。  船が出帆するときが、またこの世の修羅場《しゆらば》であった。残された者は岩の上に伸び上がり、船を追って泣き喚いた。しかし、彼らがどんなに喚こうが、船との距離は関わりなく正確に遠ざかって行った。船が、海の上の黒い一点となるまで、いや、それが全く視界から消え失せてしまうまで、流人どもの叫喚は少しも低くはならなかった。そのあと、五、六日間は誰もが咽喉に食べ物が通らない。落胆のあまり病気で倒れる者も出た。  島抜けとも、舟抜けとも云う、島からの逃亡者は年に何回か必ずあった。しかし、それで成功した試しはあまり無い。海に逃げても、途中で追手の船で捕えられるか、荒波に顛覆《てんぷく》して溺死した。伊豆の海岸に辿《たど》りついたのは、よほど運の強い少数であった。  忠五郎は七年間、島で辛抱した。彼と一緒の船で島に来た流人は、各部落に配属されたが、その半数以上は赦免に遇って島を出た。死亡者があるから、残っているのは、彼を入れて僅かしかない。 「忠五郎よ。そうあせることはねえ。おめえの罪は軽い方だから、いまにお迎えの船がやって来らあな。あまり、くよくよするな。気に病んで死んでも詰まるめえ。気永に待っていろ」  と親切に云ってくれた庄屋の源右衛門は六十何歳かで死んだ。あとは息子がついだが、これは親父ほど忠五郎に眼をかけてくれなかった。  忠五郎は、七年待ったが、何の音沙汰も無い。彼より後から来て、先に赦免になって帰ってゆく者が次第に多くなったから、忠五郎も不安と焦燥に駆られるようになった。賭場の争いで、手疵を負わせたくらいの罪で、そんなに永く留め置かれるものであろうか。殊に、その年文化六年の四月には、大量の赦免人が出て、それにも洩れたから、忠五郎はいよいよ不安を深めた。  が、当人は知らないが、実は、彼はそのとき赦免される筈であったのだ。  それが出来なかったのは、江戸牢屋敷物書役小柳惣十郎の思いもよらぬ行為からだった。  そのため、忠五郎の名は、永久に赦免人の帳面から抹消された──。      四  武州小金井村無宿の忠五郎が、賭場の喧嘩で人を傷つけ、伊豆八丈島に遠島になったのは享和二年四月であった。それから七年経って文化六年の春、幕府は将軍家に仏事のことがあって、遠島人に大赦《たいしや》を行なった。  流罪人は、新島、三宅島、八丈島の三島に配流《はいる》せられている。永いのは十五年、二十年という者がいる。赦免にならぬまま、島で果てた者が多い。  文化六年四月には、将軍家亡母の三年忌が芝増上寺に行なわれることがあり、将軍家及び御台所《みだいどころ》の代参が立つ。この機会に、流人で在島久しき者は宥免《ゆうめん》しようというのであった。  流罪人の名簿は、江戸牢屋敷に保管されてあった。罪人の出生地、年齢、罪状、係の役人の名が記入してある。遠島者《えんとうもの》には刑期が無かった。呼び返しがなかったら、一生を島で終るのだ。赦免は在島の年数と、罪状の軽重とを勘考して指名される。しかし、役人のやり方は、それほど厳密ではなかった。  牢屋敷物書役小柳惣十郎は、先刻から仕事に倦《あ》いていた。春のいい日和《ひより》である。この小部屋に射し込んだ陽が、まるめた背を温《ぬく》めて睡気《ねむけ》がさしそうである。時折り、吹いてくる風も生あたたかい。桜はとうに散り果て、町には金魚売りの触れ声でも聞えそうな陽気である。  惣十郎の倦怠は、この懶《ものう》い天気の故《せい》ばかりではない。彼は続けている事務にうんざりしていた。眼の前には帳面が拡げてある、帳面には文字がぎっしり書き込んである。「何国何郡何村百姓当時無宿、何某、何歳、右は博奕《ばくえき》致し候上、何某を打擲《ちようちやく》致し候罪科にて何某殿お掛りにて被取調《とりしらべられ》候処、何島に遠島|被申付《もうしつけられ》」。こういった文句が年号月日順にずらりとならべられてある。惣十郎の仕事というのは、これを古い順と、比較的軽い罪科の者とを拾い上げ、別の書面に書き写すことであった。今度、将軍家の仏事が行なわれるについて、大赦があり、遠島の流罪人が呼び戻される。その候補人名を奉行に差し出すのだ。裁決は奉行がするから、彼はその下撰《したよ》りをするのである。  彼はそれを朝からはじめているのであるが、これくらい単調な仕事はないと思っていた。帳面についている人名は、彼とはまるきり縁も由縁《ゆかり》も無い人間ばかりである。少しも興味は無かった。何兵衛、何助、何右衛門と朝から他人の名前を随分書いてきたが、一向に仕事は終りそうにない。埃《ほこり》にまみれた部厚い帳面は、彼の机の脇にまだ堆《うずたか》く積まれてあった。  朝から筆を握っているので、軸|だこ《ヽヽ》の出来た彼の指も少々痛くなった。時には茶をのんだり、小用に立つ振りをして廊下で背伸びしたりするが、それがかえって災いして仕事にとりかかるのが大儀になってくる。いよいよ気乗りがしなくなって、筆の運びは遅くなった。  彼は口の中で生あくびをかみ殺しながら、懶惰《らんだ》に筆を動かしていた。睡気がさして仕方がない。後頭部から眠りが拡がってくる。それと闘っているから、泪が滲《にじ》み出そうである。  眠いのは、昨夜、夜ふかしをしたためだ。近ごろ彼は両国あたりの茶屋女に好きなのが出来て、毎晩のようにそこに通っている。以前から女には騒がれているので顔には自信があった。ところが今度の女は、こっちの方が参っているので、かなり熱を上げている。  惣十郎は十八歳の時に物書役見習として上がり、もう十年ばかりこの役所に坐ってきていた。はじめは新鮮だったこの仕事も、今では慣れすぎて当初の感激が無い。二十九歳という歳は、遊びを覚えると面白くて堪らないころである。仕事の方は、惰性で毎日を過しているようなものであった。  ──陽が弱くなり、部屋の中が翳《かげ》ってきた。さきほど彼の背中をぬくめていた日向は遠ざかり、今では五間も離れた塀の上に白く溜まっているだけになった。 (もう八ツ半ころかな)  惣十郎は肚で見積もった。すると、彼は急に身体の中に元気が湧いてきた。退出の合図の振鈴が鳴るのは、あと一刻《いつとき》も無い。もうすぐこの退屈な仕事から脱れて、好きな女の所に解放されるかと思うと、気持が立ち直り、眼まで活々としてきた。  彼は机の上の帳面を見た。未整理の部厚いやつがまだ四、五冊は残っている。それが眼に入った途端に憂鬱になった。上役には明日までには書面を差し出す約束になっている。 (これは居残りになるかな)  うんざりして、彼は帳面を眺めた。今日中には片づくものと思っていたのだが、能率を上げなかったばかりに、この結果になった。  居残りはしたくなかった。好きな女のところに一刻も早く行きたい。その女には、彼とは別に惚れた男が熱心に通っていた。その相手への意識があるから、彼は焦《じ》れている。この殺風景な部屋の、暗い燭台の下で筆を運んでいる味気なさもさることながら、その間にも相手の男が女を口説いているのではないかと妄想すると、ひとりで気が立ってきて落ちつけなかった。  居残りはしたくない。 (何とか早く片づける方法はないか)  惣十郎は筆を運びながら考えた。昼間の睡気はけし飛び、眼つきが変ったように昂《たか》ぶっていた。  しかし、どんなに速くやっても、あと一刻では到底おわりそうになかった。四、五冊ぶんの帳面の、何百人という、何兵衛、何助、何右衛門が、意地悪く前途に立ち塞《ふさ》がっていた。 (こいつらのために)  と惣十郎は忌々しそうに舌打ちをした。 (こいつらのために、おれの自由が縛られている。何という奴らだ。おれとは何の関係も無い奴らに)  彼は帳面を睨んだ。憎悪が起ってきた。 (何の縁故も無い奴らに、おれが縛られる道理はない)  これは理屈だ、と彼は思った。そう考えたとき、ふと彼の脳裡に妙案が湧いた。天の啓示のようだった。 (飛ばせばいい)  これだ。帳面の名前をいい加減に飛ばして書くのである。そうすると時間は三分の一くらいに短縮出来る。まさに妙計だった。  判る筈がない。誰も、元帳と、彼の書き抜きとを照合する者はないのだ。上役は彼の書いた書類だけに眼を通して裁決する。知っているのは、彼自身だけなのだ。  惣十郎は、早速、それを実行した。見違えるように速度が上がった。綴じた二枚ぶんから三、四名くらい落すのは平気だった。何しろ面白いように帳面を繰ることが出来る。  彼が飛ばしたため、落ちた名前の当人が、一生、赦免の機会を消されてしまうことなど、少しも懸念にならなかった。一生懸命なのは女に会うために居残りをしたくないことだけだった。 (なに、どうせ悪いことして島送りになった奴らだ。構うことはない)  彼は心でうそぶいた。無論、落した中に、七年前、八丈島に送った武州小金井村無宿の忠五郎の名があっても、その名前と顔に記憶があろう筈はなかった。──      五  そんなことがあって、また五年経った。文化も十一年になった。小金井無宿の忠五郎が八丈島に来てから十二年になる。  その間にも赦免は度々あった。江戸に帰る御用船を見送る度に忠五郎は苦痛を味わった。殊に堪らないのは、彼より新しく来て先に赦免される流人を見ることである。  江戸から通牒をうけて、韮山《にらやま》代官手代の役人が船で来て、赦免人の名前を呼び上げる毎《ごと》に絶望を味わった。 「今度も無い!」  忠五郎は黒い穴に突き落されるようだった。そんな筈はないのだ。彼より罪状がずっと重い者が帰されて行くのである。 「おめえなんざ科《とが》が軽い方だから、すぐに帰されるよ」  死んだ先代の庄屋の源右衛門が云っていたくらいだ。自分でもそう信じていたし、友だちも同じことを云った。 「忠五郎。おれよりおめえの方が先に江戸の土を踏むぜ」  そう云ってくれた人間が先に赦免の船に乗るのである。八丈島の海岸は、切り立ったような岩の断崖で、海に下りるには桟道《さんどう》のような径《こみち》が刻み込んである。御用船は沖がかりで、そこまでは艀《はしけ》で通う。忠五郎は何度その艀にいそいそと乗り込む赦免人を送ったかしれない。 「おかしいな。おれの方が先に帰される筈はねえが。てっきり、おめえを見送るものと思っていたぜ」  友だちは気の毒げに云った。しかし、彼らのひとりでに笑いのこみ上がってくるような明るい顔色を見ると、忠五郎には、それがただ口さきだけの世辞としか思えず、かえって憎くなるのだ。彼の暗い表情を見ると、先に帰る幸運な男は、あわてて眼を逸《そ》らして口をつぐんだ。  おかしい。たしかに変だ。  もしや自分の名前が赦免状から書き洩らされているのではなかろうか。江戸の役所の何かの事務の手違いで、名前が脱漏したのではあるまいか。これはその都度、忠五郎の胸に起った疑問であった。 「名前が洩れていると?」  二代目の庄屋の源右衛門は、眼を光らせて忠五郎をじろりと見た。まだ三十前の若さで、死んだ親父とは違い、流人の待遇には冷たい男である。 「何を云やがる。お上《かみ》のなさることに塵ほどの間違えはねえ。偉いお役人衆が大勢いなさってお調べになっているんだ。お天道さまが東から上がって西に沈むより確かなもんだ。おめえの赦免が遅れているんじゃねえ。お上には、ちゃんと理由《わけ》があってなすってることだ。てめえの浅い知恵で、余計な気の廻し方をするんじゃねえ」  源右衛門は自分の威厳まで傷つけられたように叱った。  忠五郎は返す言葉がない。云われてみるとなるほど、その通りに思える。お上のすることに間違いはない! 鉄壁だった。爪も立たない。高々と廻した白い厚い塀と、寺のように大きい奉行所の屋根が彼の眼に泛んだ。いかめしい役人が無数にそこに居て、面倒な書類を机上にひろげて端然と調べている。──すると忠五郎には、役人の頭脳が自分の及びもつかぬくらいに高級な精緻さで組み立てられているようにみえ、その組織の中では、どのような誤謬《ごびゆう》も絶対に無いように思えてきた。  お上のなさることに間違いはない。  忠五郎は、この理屈を何度も繰り返して己の胸にきかせた。しかし納得させようとする底から、まるで地下水のように絶えず不安が湧き出て押しのけるのだ。  だが、こんなに永く島に留め置かれる筈はない。筈はない、筈はない。──不安はうたうように呟いている。それは眼に見えぬ不合理に泡のように押し上げられてくるようだ。  十二年前、忠五郎と一緒の船でこの島に来た者のうち、千住の栄造、上州の伝四郎、相州の源八、甲州の藤五郎は島で果て、肥前の佐吉と越後の宇之助とは赦免になって江戸に帰った。残っているのは、信州の丑松、下総の軍蔵、それに下谷高源寺の役僧だった覚明だけとなった。  丑松は押し込み、軍蔵は佃《つくだ》の溜抜《たまりぬ》けで、忠五郎より重科である。覚明は女犯で最も重罪であった。  覚明は、自分でもそれを承知していて、 「わしは江戸には帰れぬ。この島の土になるのだ」  と悟り切っている。尤も、彼は今では三根村の小さな寺に入り込み、機織《はたお》り女と一緒になって、結構満足しているようだった。この女は、|てご《ヽヽ》という名で、よく働くし、色も白く、つぶらな黒い瞳をもっていた。 「|てご《ヽヽ》のような女は吉原にも居ねえ。わしが江戸で間違えを起した女にくらべると吉祥天みてえに佳《い》い女だ」  と眼尻に皺をよせて、口もとを緩めていた。  島での流人の生活は「いづれも島人のなさけをうけ、百姓の助力をもつて、露命相続するかなしき世渡り」(八丈|寝覚草《ねざめぐさ》)であるが、ただ一つの慰めは、女房同様の女をもつのを黙認されていることだった。その女を水汲女といった。島は溶岩帯で水に乏しい。雨は多いが、清水は遠くの川まで汲みに行かねばならなかった。それが若い女たちの仕事であった。  この島は女が多かった。よく働くし、男を大事にする。江戸を発つときは、色の真黒い猿のような女を想像したのだが、来てみて案に相違した。皮膚は白く、黒い艶やかな髪は背を流れて裾に届くまでに長い。いずれも目鼻が整って、上品な容貌《かおだち》をしていた。 「島の女子《めらしべ》は、遠い昔に流されておじゃった、やんごとないお方の血をひいているでな」  と島の男は自慢した。その自慢に肯《うなず》くだけの佳い顔を女たちはもっていた。 「おれの女は、吉原の角店《かどみせ》に出してもお職が張れるぜ」  と信州の丑松などは眼を細めている。  忠五郎にも、|くす《ヽヽ》という水汲女がいた。十九だが、身体が弾けるように生育していた。切れ長な瞳と、細く通った鼻すじと、いつも濡れたような赤い唇とがあった。この女と仲よくなって二年経つが、女は忠五郎に粘りつくように親切である。眼は熱があるように潤《うる》み、肌は男により添うとき、いつも燃えていた。  忠五郎も|くす《ヽヽ》を好いていた。しかし、女と、江戸に戻りたいという帰心とは別だった。この女とは島に居る間だけのことだと思っている。  女は、忠五郎がいつまでも島に残っていることを望んだ。別れる時のことを思うと悲しいと女は口説きながら泪ぐんだ。忠五郎は、そのたびに逆らいもせず、生返事しているが、心の中では別なことを考えている。早く島を出て江戸に帰りたい。女の言葉は上の空に聞えるだけである。  |くす《ヽヽ》にもそれが分っているから、忠五郎が度々の放免に洩れて落胆するのを、喜んだり悲しんだりした。悲しむのは、忠五郎の心がこの島にとどまっていないのを嘆くのである。  |くす《ヽヽ》と一緒になって二年の間、流人の抜け舟が三度あった。  一つは、三人の男が闇にまぎれて舟を出したが沖合で追い詰められて溺死し、うち一人は捕えられて斬罪となった。あとの二件は、舟が遠く沖に出たものの、激しい潮流に呑まれて顛覆した。潮流は帯のように伸びている黒潮で、その奔流《ほんりゆう》が三宅島から新島や本土に近づくことを遮断している。島の漁師は、その潮の激流を黒瀬川と呼んで畏怖している。 「あんた、抜け舟しても駄目ですよ。黒瀬川は乗り切れないからね」  |くす《ヽヽ》は忠五郎の心を見透《みす》かして警告するように云い、さも、その障壁《かべ》に安心したように、きれいな声で唄った。   鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越させぬ黒瀬川      六  放免にならぬのが不思議だ、帰されぬのはどこかに間違いがあるのではないか、という忠五郎の絶えることのない不安が現実となって的《あた》ったのは、その翌年の六月、公儀の御用船が沖に姿を見せてからであった。  この御用船は、新しい流人を島に送り込みに来ると同時に、永い風待ちをして、放免人を収容して帰るのである。  放免状を携えてきた伊豆代官の手代は、大賀郷《おおかごう》大里の部落にある仮屋に入って、その人名を地役人に伝える。地役人は庄屋が兼ねている。流人は、島内の大賀郷、三根村、末吉村、中之郷、樫立《かしたて》村の諸部落に預けられ、その庄屋の監視のもとに百姓や漁師の手伝いをして喰いつないでいた。手に職のある者は、大工をしたり、石工《いしく》、屋根葺き、木挽きなどになった。  画師も、彫り師もいて、仏像など造ったが、これらは百姓の手伝いなどより待遇がよかったとはいえ、島人の情にすがって生活することには変りはなかった。  手代は赦免人の発表を伝えたが、これこそ流人たちの最大の関心事だった。みんな眼を光らせて、わが名前は呼ばれないかと聴き入った。  ない。  忠五郎はまたも突き放された。このごろは失望を味わうのが恐ろしさに、その名前の発表には心が慄えるのだが、それでも、もしやという希望があって胸が躍るのだ。それだけに、聴くのではなかったという後悔と、真黒い絶望に沈む。忠五郎は首をたれた。 「ご赦免になるのは、これだけだ」  庄屋の源右衛門は集まった流人たちの前で、書類をたたみながら云った。 「ほかの者は次の御沙汰があるまで待って、おとなしくしていろ。それから」  と源右衛門はつづけた。 「ご赦免状の中には、武州千住村無宿の栄造、江戸|馬喰町《ばくろちよう》、小間物屋卯右衛門手代才七の名前があるが、この二人は死んだ男だ。生き運のなかった奴らだな」  忠五郎の耳が咎《とが》めたのは、源右衛門が無感動に云ったこの言葉である。死んだ者に赦免が来た。栄造は九年前、才七は六年前に死んでいる。それが、今になって赦免状に名前が載るのだ!  お上のすることに間違いはない、と信じようとしても、これではいい加減なことだといいたい。やっぱり予想は当った。おれの名前が帳面から洩れているのだ。忠五郎はうなだれた首を挙げた。 「お庄屋様に伺《うかげ》えます」  忠五郎は前に身体をずらせて云った。 「なんだえ」  源右衛門はじろりと視た。 「その二人は何年も前《めえ》に土になっている男ですが、お上のどんなご都合で今になってお赦しが出るんでございましょうか?」 「知らんな」  源右衛門はすぐに答えた。 「お上のなさることだ。何かの思し召しがあってのことだろうよ」 「けど、九年も経ってからお赦しが来るのは不思議です。もしや何かの手違いで、左様なことになったのではございませんか? もし、お庄屋さま。あっしと一緒に来た奴らは何年も前にご赦免になって居ります。あっしの罪はそれより軽い筈です。それが今になってご赦免が無いというのは、もしや、お上のお手違いで名前がどこぞで落ちているのではございませんか? もう一度、お役人に申し上げてお調べ願いとう存じます」 「やい、忠五郎」  源右衛門は忠五郎を睨んだ。 「出過ぎたことを云うんじゃねえぞ。お上のお仕置きには、金輪際《こんりんざい》間違いは無え。おめえがご赦免にならねえのは、ちゃんとそれだけの理由があってのことだ。神妙にご仁慈を待っていろ」  忠五郎は黙っていられなかった。このままでいたら一生をここで送らねばならぬ。集まっているほかの流人たちの間にも、ざわめきが起った。それは忠五郎の云うことに同感しているからだ。 「もし、お庄屋さま。お上にお手落ちがあろうとは存じませんが、何ぶん、お忙しいお役人のこと、つい、紛れて手違いもあろうかと存じます。死んでからご赦免状が参っても何にもなりませぬ。ご慈悲でございます。どうぞもう一度、お役人にお調べをお願いしてみて下さりませ」 「えい、煩《うる》せいな」  源右衛門は叱った。彼の声はあたりの動揺まで鎮めるように大きかった。 「やい、忠五郎、うぬはご赦免に洩れたので逆上《のぼ》せたらしいな。ご政道のことに口を出したりすると、ただじゃ済まねえぞ。お上のなされ方には間違いはねえのだ。この上、つべこべほざくと榾《ほた》を鉗《は》めてやるから、そう思え」  源右衛門は憎々しそうに云った。手足に榾をはめて折檻《せつかん》するのは、地役人に許された懲罪だった。その拷問に悶死した罪人もある。忠五郎は口惜しそうに黙った。  庄屋の家を出ると、忠五郎の背を後から押す者がいる。振りむくと、それは下総無宿の軍蔵だった。 「忠五郎、ちょいとおめえに話がある。こっちへ来てくれ」  軍蔵は低声《こごえ》で云い、忠五郎の袖を引張った。道から外れた木立の中に二人は入った。足もとには羊歯《しだ》や竜舌蘭《りゆうぜつらん》が伸びている。軍蔵はその蔭に匿《かく》れるようにしゃがんだ。 「いいことを云ってくれたぜ、忠五郎」  と軍蔵は、尖った頬に笑いをひろげて忠五郎の肩を敲《たた》いた。 「いま、おめえが庄屋に云ったことよ。おれもおめえと同じことを考えていたのだ。どうも、おめえに赦免が来ねえのはおかしいと思っていたが、今日のご沙汰をきいて合点がいった。九年も前に死んだ者に今ごろ赦免がくるたアふざけた話だ。役人なんぞ呆れたもんだ。筆の先で何をやってるか分らねえ」  軍蔵は小さい声だが憤慨した。 「こっちは生命がけだ。島の奴らにご機嫌をとってよ、牛みてえに働いて芋で食いつないでいる。江戸の役人は出鱈目《でたらめ》な仕事をして、したい放題なことをやって遊んでいる。お蔭でこっちは島で虫みてえに死んでゆく。役人はそんなことは知るめえ。いいや、親兄弟も知らねえのだ。こんな、べら棒な、理屈に合わねえ話はねえ」 「おめえの云う通りだ」  忠五郎はうなずいた。ここにも自分と同じ気持の男がいると思うと感動した。その顔色を軍蔵は、さし覗くように見た。 「いいや、おれだけじゃねえ。みんなも胸に同じことを思っているのだ。そこでな、忠五郎、おれはずっと前《めえ》から考えていることだが、こんな島で果てるより──」  と彼の声は一層低く、鋭くなった。 「いっそ、抜け舟をしようと思うのだ」 「なんだと?」  忠五郎は、びっくりして軍蔵の顔を見返した。 「何も、そう愕《おどろ》くことはねえ。おめえだってまだ若えし、これから花実《はなみ》が咲く身体だ。来ねえ赦免状を待って死ぬより、ここで思い切り度胸を出してみたらどうだ?」  軍蔵は煽《あお》るようにつづけた。 「この気持はおれだけじゃねえ。みんなが持っているのだ。いざとなりゃ二十人は集まるぜ。そこでよ、大勢で庄屋の家に押し入って、蔵から鉄砲を奪い、舟を出させて逃げるのだ。こっちは鉄砲を持っているから、役人が追いかけてきても平気だ。役人の方が尻ごみすらあ。こいつア成就疑いなしよ」  忠五郎は胸が鳴り出したが、すぐには返事が出来なかった。それに軍蔵は詰め寄った。 「おめえが黙っているのは、心配しているのだな。無事に海が渡れるかどうかをよ。ほら、沖のあの黒瀬川だろう?」  軍蔵は海の方に顎《あご》をしゃくった。波に陽が明るく射していたが、雨が霧のように降っていた。それは、この島特有の降り方であった。 「ふ、ふ。おれは下総の浜生れでな。あの黒瀬川の末が常陸や上総の沖を流れていることを知っている。あの潮流《しお》にうめえ具合に乗っかりさえすれば、帆は無くても、ひとりでに常陸の大洗あたりに着くんだ。舟のことならおれに任してくんな」  羊歯《しだ》の根の間から、蜥蜴《とかげ》が光って匍《は》って出た。      七  隠密の間に抜け舟の計画がすすめられた。主になってその企てをすすめたのは軍蔵である。彼は佃島《つくだじま》の人足寄場を脱走した経験があるから、島抜けには自信があるのかもしれなかった。尤も、寄場逃亡は失敗して八丈島送りとなった。重罪だから、彼の赦免こそ望みがなかったのである。  軍蔵は、その後も忠五郎のところへ夜こっそり忍んできた。忠五郎は手伝いの百姓家の牛《ま》小|屋《や》の脇に、また藁《わら》小屋を造って水汲女の|くす《ヽヽ》と住んでいる。軍蔵は外に忠五郎を呼び出した。 「丑松に話したら奴は喜んでいたぜ。三根村の庄吉、伍兵衛、六蔵、中之郷の満助、嘉吉も仲間になった」  軍蔵は報《し》らせた。 「これで、もう八人が出来た。末吉村の方には丑松が話をすすめているから、まだまだ人数はふえる筈だ」  彼は息を弾ませている。その後も彼は度々報告にやってきた。 「末吉村では三人だ。樫立村では伍市が入った。おれが見込んだ通りだ。このぶんじゃ二十人にはなるぜ」  軍蔵は自慢した。もうことは半分は出来たようなものだと云った。 「大賀郷では新入りの二人がぜひ仲間にしてくれと頼みに来た」 「中之郷では三人ふえたぜ」  軍蔵は来るたびに人数の殖え方を云った。暗い中を帰ってゆく彼の肩は一段と聳《そび》えているようにみえた。  |くす《ヽヽ》は足音をしのばせて家の中に戻ってくる忠五郎に心配そうに訊いた。 「軍蔵さんが近ごろよく来るようだね。何の用事で来るのかえ?」 「なに、別に大した用でもねえ」  忠五郎は要心して、覚られぬように答えた。 「埒《らち》もねえ話だ」 「そんなら上がって話して行けばいいじゃないか。いやだね、外でこそこそ内緒話のように話して帰ったりしてさ」 「あの男は、他人《ひと》の家に上がるのが嫌いなのだ。おめえが心配するような話じゃねえ」  忠五郎は相手にならなかった。いくら好いた女でも、これだけは話せなかった。所詮はこの女との仲は、島に居る間だけのことである。本土に帰る希望には替えられなかった。うっかり話して地役人に知れたら、帰れぬどころか首が飛ぶのだ。島抜けは獄門だった。  |くす《ヽヽ》は切れ長な眼で忠五郎の顔を探るようにじっと見た。女の本能で何か分るらしい。忠五郎は落ちつかなかった。 「おまえ、江戸に帰りたいのじゃあるまいね?」  |くす《ヽヽ》は忠五郎の手にとりついた。 「何を云う。帰ろうたってご赦免にならねえのにどうなるものか。おれは諦めている。この島でおめえと仲よく暮らしてえ」  忠五郎はなだめるように云って女の背中を抱いた。可哀想だが、知られてはならない。 「そんなら嬉しいが」  と|くす《ヽヽ》は長い髪を揺すって忠五郎の胸に顔をうずめた。 「あたしゃ何だか軍蔵さんが度々来るのが心配になって。おまえが逃げそうな気がする」  忠五郎は、ぎょっとなった。 「な、なにを馬鹿なことを云う。おれはおめえといつまでもこうして居てえのだ」  彼は今度は両手で|くす《ヽヽ》の身体を抱きよせた。女の重みを締めつけながら、これはもう猶予が出来ないと思った。  軍蔵が次にやって来たとき、忠五郎はこのことを話した。話しながら彼は昂奮した。 「そいつアいけねえ」  軍蔵は暗い中で顔を顰《しか》めて首を傾けた。 「八丈島の女は情が深すぎていけねえ。ほかの者にも、女には話しちゃならねえと強く云ってあるが、なるほど、こりゃ油断がならねえな」  彼は忠五郎に顔を寄せた。 「よし。早いとこやってしまおう。ぐずぐずしちゃいられねえ。ついては、おめえに頼みがある」 「何だ」 「坊主の覚明だ。あいつにはまだ話してねえ」 「なんだ、覚明はまだだったのかえ?」 「うむ、どうもあの生臭坊主は女《めらしべ》に惚れて、この島が極楽浄土だと往生しているらしい。それでつい、話しにくかったが、考えてみると今度の一件にはあの坊主を一枚乗せなけりゃならねえ」  軍蔵はその理由を説明した。計画を実行するには一度は皆が寄り合って相談せねばならぬ。しかし滅多な場所に集合しては地役人の眼につくから、その場所を覚明の寺にしようというのである。死んだ流人の供養ということにして集まれば人目はごまかせると彼は云った。 「そいつはいい知恵だ」  忠五郎は賛成した。 「そうだろう? その坊主に説教するのは、おれより仲のいいおめえから云ってくれた方がいい。どうだえ、おめえ口説いてくれねえか?」  軍蔵は頼んだ。忠五郎はその役を引きうけた。  翌日、忠五郎は早速、寺に覚明を訪ねた。寺といっても名ばかりで、辻堂みたいなところに、この島ではボーエと呼んでいる住家がくっついているだけだった。寺は山の裾にあって石垣《かぜくね》を廻し、椎や椿が蒼黒く繁っている。その家の裏には機織りの音が聞えていた。 「いやな話をもってきたな」  覚明は、赭《あか》ら顔を撫で、太い眉をひそめた。 「不承知かえ?」  忠五郎は語気を詰めた。 「不承知というほどでもない。わしはこのままでもよいと思っていた。|てご《ヽヽ》に惚れているでな」  覚明は機織りをする裏の方へまるい顎を振った。|てご《ヽヽ》が織っているのは蚕《かいこ》の糸で紡《つむ》いだ黄八丈である。染料の黄汁《きじる》はアシタバ草から採り、樺《かば》色の染料はマダミの皮から採る。どちらもこの島に生えるものだった。 「だが、みんなの助けなら、わしも合力しよう。この耳で聴いた上は仕方がない」  覚明は、弾みの無い声で云った。 「有難えが、和尚。間違いねえだろうな?」  忠五郎は浮かぬ顔の覚明に不安を感じて念を押した。 「うむ、まあ心得たつもりだ。それよりも、忠五郎、ことはそれほどうまく運ぶかな?」 「軍蔵が采配を振ってやっている。大丈夫だと請け合っていいぜ」 「そうかな。わしはまだ|てご《ヽヽ》に未練があるでな。このまま置いてくれていいのだが。そうもならぬか。この首が急に寒くなった」  覚明は手で太い頸を押えた。  寺からは海が一望に見え、小島が一つそこに横たわっている以外、一物の遮りも無かった。富士山のかたちをしているので八丈富士とよばれている西山の頂上に雲がかかっていた。      八  それから五日ばかり経った夜である。  大賀郷の庄屋源右衛門の家で年寄りどもの寄合いが行なわれた。一昨日暴風雨があった。暴風雨はこの島では珍しくない。その度に多少の被害がある。寄合いはその復旧作業のため、割当て流人を使役してする賦役《ふえき》の相談であった。  こういう場合、一座の音頭をとるのは源右衛門であった。彼はいつものように、きびきびと議事を運んだ。その談合の決着がつくと、集まった四、五人の年寄りどもはくつろいで茶を呑んだり、煙草を喫ったりした。 「昨夜、寺で流人どもが集まったようだが」  と一人の年寄りが煙管《きせる》をくわえて云った。 「なに、あれは死んだ流人の供養だ」  と別な一人が答えた。 「流人の命日にいちいち供養していた日には、毎日寄らねばなるまい。もうあんな集まりは止めさせたがよかろう」  源右衛門は云った。彼の眉には不機嫌なものがあった。  そのとき、あわただしく入ってきた者がある。中之郷の庄屋与兵衛という男で、彼はみなに挨拶もせず、源右衛門の傍に寄って耳打ちした。 「なに。抜け舟を企んでいると?」  源右衛門は思わず大きな声を出して与兵衛の顔を凝視した。傍で聞いた年寄りどもの顔色が変った。 「それは確かか?」 「確かだ」  と与兵衛はうなずいた。 「昨夜、寺で供養があったのは、実はその謀反の相談をやっていたのだ」 「訴人があったのだな?」 「あった。たった今、それを云ってきたので、こうして駆けつけて来たのだ」  与兵衛は、その訴人の名前を耳に吹き込んだ。源右衛門は眼を光らせた。 「うむ。その仲間には忠五郎が居るだろうな?」  源右衛門はすぐに訊いた。忠五郎が不平顔で差し出口をきいたのを思い出したのである。与兵衛は、居る、と答えた。 「よし」  源右衛門は殺気立った顔で皆を見廻した。 「不埒な奴らだ。明日まで待ったら、どんな大事が起るか知れん。今夜のうちに取り押えて引括《ひつくく》ろう」  流人が大勢で島抜けするために起る暴動の恐ろしさは誰もが知っていた。一同は蒼い顔になっている。それを励ますように源右衛門はいちいち差図した。村人をすぐに駆り集めて一味を搦《から》め取ろうというのであった。年寄りどもは源右衛門の指示をうけて倉皇《そうこう》として散った。  源右衛門は、今夜のうちに召し捕ろうといったが、夜中のことで各村の庄屋との連絡が不充分なためそれは出来なかった。八丈島五カ村は道が険岨《けんそ》なので行き来にも難渋するのである。結局、手筈が整って中之郷、末吉、三根の三カ村の若者が総出で取り押えに向かうことになったのは、夜が明けてからであった。この三カ村は、三原山を三方から包囲する地勢にある。すべての采配《さいはい》は源右衛門が振った。  一隊は、先ず寺を襲ったが、覚明の姿は無かった。機織り女の|てご《ヽヽ》がおろおろして云うには、朝早く軍蔵のところへ出かけたという。そこで軍蔵の家に行くと、軍蔵は覚明と一緒に何処かに出かけたと彼の水汲女が云った。 「さては、もう逃げたか。忠五郎のところへ行け」  と源右衛門は喚いた。その忠五郎も家には居なかった。水汲女の|くす《ヽヽ》が泣いてばかり居て行先をはっきり云わない。しかし、何処にも行くところは無いから、三原山に逃げ込んでいることは必定《ひつじよう》だった。どうした訳か、流人の方が事の露見を察知したらしい。  追手の一隊が樫立村まで来たとき、百姓が樋の口から流人どもが山に上ってゆくのを見かけたと報らせた。 「それ、山を囲むように進め。流人どもを見つけたら容赦はいらぬから鉄砲を撃ちかけろ」  源右衛門は命令した。  しかし、山をすすんだが流人の姿は一人も居ない。山には椎、黒松、椿などが鬱蒼《うつそう》と繁っている。それに妨げられて視野が利かなかった。だが、安庭山の方へさしかかったとき、芋畑で芋を食った痕が残っていた。 「あいつらは朝めしも食わずに飛び出したのだ。その辺を捜してみろ」  みなが調べてみると、畑の隅に煙管が一本と庖丁が二挺投げ捨ててあった。この証跡をみて、流人一同が山に籠っていることに確信がついた。  源右衛門の下知で、海岸の方を捜索していた一隊も集め、大勢で喊声《かんせい》をあげて山奥へ向かって進んだ。すると、木の間がくれに四人の姿が逃げて行くのが見えた。 「撃て」  源右衛門の声で鉄砲が鳴った。逃げるのを追って近づくと四人は他愛もなく断崖の谷底に転がり落ちた。そこで、廻り道をして行ってみると、四人とも庖丁で喉笛を切って、うつ伏せになって死んでいた。それは三根村の庄吉、伍兵衛ほか二人であった。  そのうち雨が降ってきたので、追手の総勢は一先ず麓《ふもと》に戻った。すると木挽きがあわててやって来て、山の小屋で流人が一人首を吊って死んでいるという。午すぎになると雨も上がったので、追手はまた山に上り、木挽小屋に検分に行くと、梁《はり》にぶら下がって眼をむいて死んでいるのは中之郷の流人嘉吉であった。  樫立村の流人伍市は、山から下りてわが家の近くまで行った。これは水汲女に生ませたわが子の顔が見たくなったからである。しかし、警固が厳重なので諦めたか、流人の墓場に行って咽喉を突いて死んだ。  中之郷の満助とほか二人も伍市にならって墓場で咽喉を切ったが、死に切れずに苦悶しているところを追手に見つけられて取り押えられた。満助は虫の息で、口も利けなかった。  これに勢いを得た追手は、捜索線をひろげて調べているうちに、海岸をふらふらになって歩いている四人の流人を捕えた。彼らはわけもなく自分から仆《たお》れるように捕まった。  そのなかの一人、三根村の六蔵の白状によると、はじめの計画はこうである。総勢二十人で庄屋の家に押し入り、刀や鉄砲を奪い、五カ村を暴れ廻って人数をふやし、鉄砲でおどして船を出させ島抜けする手順であった。不承知の者はすぐに斬り捨てると申し合せた。 「一味の張本人は誰か?」  源右衛門は訊問した。 「軍蔵でございます」  六蔵は答えた。源右衛門はそれを聞いてうなずいた。 「軍蔵と、忠五郎と覚明と丑松の行方がまだ分らぬ。何処へ逃げたか知らぬか?」 「三原山を山越えして今根ヶ鼻方角へ向かっているのは見ましたが、てまえはそこで別れたので、それから先は分りませぬ」  六蔵は云った。この六蔵はあとで榾にかけられて狂い死にした。  源右衛門は改めて追手をひきいて三原山から今根ヶ鼻の一帯の山中を捜索したが、目指す彼らの姿は無かった。ただ、丑松だけは滝壺に身を投げて死んでいた。 「畜生、あの三人はどこに失《う》せやがったのだ。草の根わけても捜し出さずにはおくものか」  源右衛門は歯を鳴らした。  だが、どのように捜索しても三人の姿は無かった。思いも寄らず、樫立村の横塚の漁師から、舟の盗難の届出があったのは後刻であった。      九  舟は揺れたが速かった。潮流が川のように流れてゆく。なるほど黒瀬川とはよく名づけたものである。舟がその上にのって流されていることがよく分るのだ。  八丈の島影はとうに海の向うに消えた。どこを見ても蒼黒い海ばかりである。天気がいい。雲が少し出ているが風も無かった。北に当って見えるのは、雲か、山のかたちか判然としなかった。山なら伊豆か相模あたりであろうと思われた。  櫓《ろ》は意外なことに覚明が握っていた。漕ぎ方が慣れている。この坊主の正体は分らなかった。  軍蔵は酔って舟の中に転がって寝ていた。無論、舟酔いする男ではない。真赭《まつか》な顔をして口から涎《よだれ》をたらしていた。酒を強《したた》か飲んだ揚句である。酒は島の雑穀で造った濁酒《どぶろく》で強い。どういう算段をしたのか、山を遁《に》げる忙しい最中に覚明が徳利に詰めて持ち廻ったものを、舟が潮流に乗ってから軍蔵に呑ませたのである。もとより酒の好きな男だ。有難え、と咽喉《のど》を鳴らして呑んだものである。 「こんなに呑ませて、いいかえ」  と忠五郎は気づかったが、覚明は厚い唇をひろげてにやにや笑っていた。 「忠五郎」  と覚明は云った。 「云わないこっちゃないだろう。みろ、抜け舟の謀反は見事に失敗《しくじ》ったじゃないか。まあ、ここの三人は脱れたからいいようなものの、ほかの連中が気の毒だよ」 「うむ」  忠五郎も意外だった。こんなに早く、ことが露見しようとは思わなかった。 「だから、おまえが話をもって来たときに、わしは気乗りがしなかったのだ。あのまま、黙って置いてくれた方がよかったものを。可哀想に、今ごろは|てご《ヽヽ》が泣いているぜ」  覚明は、櫓をこぎながら話しかけた。 「うむ、おれもこんなに早えとこ露見しようとは思わなかった。おめえの云う通りだったな」  忠五郎は呟いた。 「訴人《そにん》があったのだ」 「え?」 「仲間のうちから訴人があったのだよ。それで地役人に早く判ったのだ」  訴人。忠五郎は、はっとなった。電光のように頭を掠《かす》めたのは|くす《ヽヽ》のことだった。あの女だ。軍蔵が度々来るのを怪しんでいたが、さては当て推量で密告したと見える。可愛い男をひきとめたいばかりの浅はかな知恵とみえた。  忠五郎は顔から火が出そうだった。 「ひどい奴があったものだ」  と覚明は知らぬげにつづけた。 「そのために十何人かが死んだり苦しんだりせねばならぬ。なあ、忠五郎。そうではないか。おまえもわしを仲間に引っぱり込んで、罪なことをさせたものだな」  忠五郎は返辞が出来なかった。裏切ったのは自分のように思える。彼は心の中で|くす《ヽヽ》を憎悪した。そのとき、 「おや、軍蔵が眼を醒ましたぜ」  と覚明が顎を振った。  軍蔵はとろりとした眼をあけた。口に手を当てると、 「ああ、咽喉が乾いた。水をくれ」  と云った。 「水なんぞあるものか」  覚明が答えた。軍蔵は背中を起して覚明を見た。 「おや、坊主。なかなかやるな。おめえ、お経と一緒に舟乗りも習ったのかえ?」 「舟乗りなら、おまえよりわしが先かもしれぬ」 「うむ、小坊主に上がる前は、舟っ子だったのか。なるほど人は見かけによらねえ。それでおいらも大助かりだ。ところで助けついでに水をくれ。なにしろ咽喉が滅法乾いてならねえ」 「水は本当はここにあるがな」  覚明は舟板を一枚あけて徳利をとり出し、振ってみせた。これもいつ用意したのか、忠五郎には分らなかった。徳利の中は水音が揺れていた。 「お、そいつを一口飲ませてくれ」  軍蔵は片手を挙げた。 「と、そうはゆかぬ。舟に居る間は僅かでも水が大事でな。おまえにやったらみんな飲まれてしまう。忠五郎とわしの分が無くなる」  覚明は徳利を引込めた。 「そんな意地悪云うんじゃねえ。和尚、たのむ。一口で我慢する。なにしろ、咽喉が灼けるようだ。酒を飲んでこんなに咽喉が乾くのは初めてだ」 「そんなに咽喉が乾くか」 「うむ、堪らねえ」  覚明は、にやりとした。 「その酒にはな、島のアシタバの煎《せん》じ汁が入っているのだ。アシタバは身体に利く薬だが、その代り、えらく咽喉の乾《ひ》る薬だ」 「えっ。な、何でそんなものを酒にまぜたのだ?」 「なに、別段のことじゃない。お前の身体に精分をつけてやりたい為《ため》だ」 「えい、余計なことをする坊主だ。咽喉がひりひりすらあ。お、後生だ。その水を呑ませてくれ。一口のむだけだ」 「そんなに飲みたいか?」 「うむ、飲みてえ」 「よし、飲ませて進ぜる」  覚明は徳利を手にとると、軍蔵の傍《そば》にやってきた。後は軍蔵の首を掴まえると、その口に徳利を当てがった。 「有難え、和尚」  礼を云って軍蔵はとびついた。が、一息にのんだとみると、忽ち口を開けて余分を吐き出した。 「ぶっ。え、塩辛え。やい、こりゃ海の水だな」 「真水が無いので我慢してくれ。これでも水だ」  覚明は軍蔵の首を押え、その口に徳利を押しつけて傾けた。汐水は軍蔵の顎から胸にかけて流れた。 「や、やい。何をしやがる。坊主」  軍蔵がもがくのを覚明は放さなかった。膂力《りよりよく》の強い坊主だった。 「忠五郎」  覚明は、呆然としている忠五郎に云った。 「この縄で、軍蔵を動かぬように縛ってくれ」  と懐から縄を出して投げた。縄まで用意しているのだ。 「やい、おれをどうしようというんだ。坊主。気でも狂ったか?」  両手を括《くく》られ、そこに転んだ軍蔵は喚き立てた。 「どうもしない。まあ、おとなしくしてくれ」  と櫓に戻った覚明は薄ら笑いを消さずに云った。 「常陸の浜にこの舟が流れつくまでは、まだ明日一日くらいはかかろう。このお天道さまだ」  と覚明は空を見上げた。眩しい初夏の陽がぎらぎらと輝いていた。 「おまえの咽喉をからからに干してくれる。乾いたら、また汐水を飲ませてやる。海の真中だ。汐水にはこと欠かぬからの。すると、それがまた乾いてくる。乾いて、乾いておまえの咽喉は塩だらけになって焦げつくのだ。これは辛いぜ。軍蔵。おまえは悶え死にをするのだ。南無阿弥陀仏。この世の干し地獄におまえは落ちるのだよ」  覚明は説明した。眼を細めて顔色も変えなかった。忠五郎は息を呑んだ。 「ち、畜生。おれに何の恨みがあってそんなことをするのだ?」  軍蔵は吠えた。 「恨みは、おまえのために計られて死んだ友だちの流人のために、わしがするのだ」 「あっ」  軍蔵は眼をむき出した。恐怖が顔の皮膚をひき吊らせた。 「忠五郎」  と覚明は、あまりのことに竦《すく》んでいる忠五郎に云った。 「この男だ。仲間を売って訴人したのは」  と軍蔵を指さした。 「こいつはな、自分で抜け舟をたくらんだが、あまり事が大きくなり過ぎて怯《おじ》けづいたか、それともはじめから訴人の手柄で赦免に与《あずか》りたかったのか、こっそり抜けて役人に密告したのだ。謀反が早く露見したのはそのためだ。張本人が訴えるのだから、世話はない」 「和尚、どうして、おめえはそれを知った?」 「|てご《ヽヽ》だよ。わしの可愛い|てご《ヽヽ》が、夜、織り上げた黄八丈を庄屋に届けに行ったとき、こいつが庄屋の裏から出てゆく姿を見たのだ。わしはそれを聞いてすぐ悟ったのだ。それで、夜の明けぬうちに、こいつの家に行き、ぐずぐず云うのをなだめすかして山に連れて行ったのだ。そうだ、その時、おまえも誘ったな。わしはおまえを助けたかったのだ。案の定、すぐそのあとに手入れがあった」  忠五郎は、なるほどとうなずいた。 「こいつは、わしと一緒では、今さら役人の方に逃げるわけにはゆかぬ。わしが眼を光らして視ていたでな。仕方なく舟まで同行したのだ。尤も、舟に乗ってみれば、どっちでもいい筈だ。島から脱ければいいのだからな。わしは徳利に入っていた酒に、アシタバをいれた。あれは|てご《ヽヽ》がわしに精分をつけるためにいつも作ってくれていたものだ。情の深い女だった。親切な、佳い女だ。あんなのは、もう日本の何処に行っても居らぬ。忠五郎、おまえは悪い奴だ。おまえがわしを誘いに来なかったら、死ぬまで|てご《ヽヽ》の傍で暮らせたものを」  軍蔵がうめいた。口を蛙のように開けている。 「うむ、水ならやるぞ、海の汐水をな。咽喉が灼けて来たらしいな。この照りつけるお天気だ。無理もない」  覚明が笑った。 「水をくれ。真水をくれ」  軍蔵はかすれた声で叫んだ。 「来たな。よし、よし。もう少し乾かせ。そしたら汐水を呑ませてやる。おう、苦しそうな顔をしているな。干しては塩を呑み、干しては塩を呑むのだ。おまえの手が自由なら、咽喉を掻いて傷だらけになるところだ。それから苦しんで苦しんで、悶え死にするのだ。牢内でそのような折檻があったな」 「和尚! おめえは──」  と呆れた声を上げたのは忠五郎だった。 「山が見えぬかな」  と覚明は、とり合わずに海の彼方を見た。  舟は黒潮に乗って、川舟のように流されている。 [#改ページ]   赤  猫 [#ここから2字下げ]  此年もすでに暮れし十二月|晦日《つごもり》の夜半ばかりに、忠良《ただよし》朝臣の家より火発して、延焼の家ども多く、明れば丙申《ひのえさる》の春正月元日の巳時《みのとき》の終まで、火|消《きゆ》る事もなし。火消しぬべきよそほひせしものと、えぼうしひたゝれせし人々とゆきかふさま、けしかる事共也けり。十一日にもまた火発して、延焼多かる中に獄舎もやけうせて、繋獄《けいごく》のものどもあまたにげうせにたり。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](折たく柴の記)      一  正徳五年の大晦日の夜、呉服橋内の本多|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》の邸から発した火は、鍛冶橋、山下門内の大名小路の邸を数町焼いて、京橋山下町、木挽町、芝口辺まで延びた。  方々で鳴らす半鐘の音は、無論、伝馬町の牢内にも聞えた。夜中だったが、科人《とがにん》どもは全部が起きて、鞘《さや》の格子にとりついて耳をすませた。 「摺《す》り番だ。火は近え」  と眼を輝かせて声を上げる者がいた。 「こりゃア大きそうだぜ」  と叫ぶ者がいる。皆の顔に露骨に喜びが出ていた。 「だんな、ご牢の屋根は、火の粉をかぶっていませんかね?」  と牢屋|鎰番《かぎばん》に催促するように云う者もいて、口々に騒いだ。  ──明暦三年の江戸大火のとき、この伝馬町の牢屋敷が焼けたことがある。その際、奉行石出|帯刀《たてわき》の判断で、牢内の囚人一同を一時釈放した。汝《うぬ》等を焼くに忍びないから、火が鎮まったら必ず下谷《したや》蓮慶寺へ来て集まれ。この約束を違《たが》えずに来た者は、自分の身に替えても、汝らの命を助けるであろうといった。科人どもはその仁慈に手を合せて、思い思いの方角に逃げて行ったが、鎮火すると約束通り下谷にみなが集まって一人の逃亡者も無かった。これは石出帯刀の英断とされて、爾来《じらい》、牢屋敷が火事の危険の際の前例となった。寛文七年の大火で、牢屋敷が焼けた時も同じ処置がとられた。  囚人にとって火事は思わぬ恩恵である。役人の指示の通り、鎮火の後は帰って来なければならないし、それに違うと獄門である。しかし、一時でも娑婆の空気が吸えるのだ。牢から解放されて何時間かの自由が味わえるのであった。  牢格子に鈴なりに重なってとりついている科人どもに、牢屋同心たちは、ばらばらと入って来て手を振った。 「鎮まれ。鎮まれ。名主は居らぬか?」  同心は外鞘から叫んだ。 「へえい。これに居ります」 「火事は消えたぞ。もはや、気遣いはない。鎮まらせい。静かにさせろ」 「へえい」  牢名主の返事にも元気が無かった。 「聞いた通りだ。野郎ども、騒ぐんじゃねえ」  不平そうに呟きながら一同はもとの位置に戻った。落胆が誰の表情にもあった。外はまだ騒がしいが、火事はここまで延びずにおさまったのである。 「元日の娑婆が見られると思ったになあ」  キメ板を抱えて舌打ちを鳴らしたのは、いつも新入りにおしゃべりを聞かせる三番役だった。いつもは平囚人に憎まれているが、このときばかりは皆の同感を得た。まことに、明日は正月であった。  期待が外れ、昂奮のあとに、乾いたような虚脱が牢内に重く沈んだ。この空気は元日から七草が過ぎるまで一同の気持を支配した。牢の中では面白い筈がないが、とりわけこの正月はひどく詰まらなかった。 「元日から赤猫《あかねこ》とは、少々縁起がよすぎたようだ」  あとになって笑ったことだ。牢内では火事のことを「赤猫」という符牒《ふちよう》でよんだ。 「もう赤猫は来ねえものか」  と牢役人どもは露骨に云った。 「なあに、二度あることは三度と云うわな。まだ最初《はな》が済んだばかりだ。気を落さずに二度目を待とう」 「あてにならねえ慰めを云うぜ」  このときは、全く本気にそれを当てにする者はなかったのである。十五日には恒例として牢内にも、菜類、汁、塩菜の平食のほかに小豆粥《あずきがゆ》が出る。せめて小正月の気分を科人にも与えようとする奉行の心遣いであったが、今度の小豆粥はあんまり味がうまくはなさそうに思えた。  しかし、その小豆粥の振舞いが出る四日も前に、また、けたたましく半鐘が夜中に鳴ったのである。牢内の一同は顔を見合せた。当てにならぬ期待を冗談に云ったのは、たったこの間だったが、これは夢があまりに早く来た。 「今度は大きいぜ」  江戸中の鐘が一どきに敲《たた》かれるかと思われるくらいに激しかったし、役人たちの騒動するのもこの前の比ではなかった。牢屋敷の塀の外を駆けて喚く声がここまで聞えるのである。 「こりゃア大きい。しめたぞ。火の手はこっちに来るようだ」  騒ぎがますますひどくなってゆくので、それと分った。思いなしか、牢内まで赤味を帯びて、ぼうと明るいようである。 「お役人様。お役人様」  囚人たちは格子を揺さぶるようにして叫んだ。 「火事はどちらでございますか?」  役人の返事は、はじめは遠くないということだったが、眼の色が落ちついていなかった。あまり外鞘にも来なくなったのは、全部が外に廻って火の警戒に当っているに違いなかった。そのうち家でも壊すような音が聞え、薄い煙さえここまで流れてきた。 「そら来た。火事は伝馬町だ。牢屋敷が危ねえのだ」  名主が云った。その言葉を証明するように赤い炎の色を映した煙が渦巻いて侵入した。 「火がついたぞ。役人は何をやってるんだ。みんなで敲《たた》け」  格子戸を押し倒すようにかたまった科人たちは、口々に叫びを上げ、床や、はめ板を鳴らした。隣接した揚《あが》り屋、女牢、遠島牢、百姓牢などからも喚きが上がっていた。  役人が四、五人走って来た。火事場装束を着ている者もいたが、その身体から煙が舞い上がっていそうだった。 「騒ぐな、騒ぐな。鎮まれ」  声は昂《たか》ぶっていた。 「お役人様。お役人!」 「ええい、静かにせぬか。名主は居らぬか、名主は?」 「へえい。これに居ります」  牢名主は真先に格子の間から顔を突きのぞかせた。 「意外の火事で当牢屋敷が危うくなった。よって奉行石出帯刀殿のお達しによって、その方ども一同を牢より一時、放ち遣わす」  どよめきが科人たちの間に起った。 「ただし、鎮火の暁、明日、午《うま》の刻限までには本所|回向院《えこういん》前に集まれ。よいか、午の刻だぞ。必ず戻って参れ。神妙に立ち帰った者には、格別のご仁慈があるやもしれぬ。もし、これに違反し、逃亡など不埒なことを致した者は、草の根を分けても詮議し、獄門にかけるからそう思え。決して、無分別をいたすでないぞ」  煙が濃くなり、火の粉が二つ三つ、漂うように流れてきた。 「火は湯島から起って神田、柳原より八丁堀一帯に押し寄せている。霊岸島あたりまで延焼しているそうな。大火じゃ。一同、気をつけて行け」  と同心は云うと、 「鎰番《かぎばん》」  と呼んだ。鎰番がかがんで三尺四方の出入り口の鍵を外すと、科人たちは狭いその穴に殺到した。      二  日光御領野州河内郡大沢生れで、当時無宿の平吉《へいきち》は材木置場の蔭で菰《こも》をかぶって寝ていたが、寒いので眼が醒《さ》めた。  空には星が光っている。彼は今、何刻《なんどき》であろうと思った。暗いところをみると、まだ夜は明けていないが、思いなしか東の空が白みかけているようでもある。綿入れ一枚の肩は氷のように冷えていた。  大伝馬町の牢を大勢と一緒に逃げ、両国橋を東に渡って来たときも十二、三人は居た筈だったが、いつかはぐれて平吉ひとりになった。多分ほかの者はそれぞれの行先の目当てがあったに違いない。平吉には格別そんなものはなかった。彼は水戸様の石置場の横で町内の弥次馬と一緒に川向うの火事を眺めていたが、その中の一人が平吉の着ている浅葱色《あさぎいろ》のお仕着せをじろじろ見ているのに気づくと、その見物の群れをはなれた。地理の分らぬところだが、暗い路をよって当てもなく歩いたのだった。  本所か深川あたりと見当をつけていたが、あまり来たことのない土地なので勝手が分らなかった。火事騒ぎで、提灯《ちようちん》をつけた連中が出ているのは困りものだった。彼は材木置場を見つけると、暗いところに入り込み、幸いその辺に棄ててある菰をかぶって材木の上に横になった。疲れているので、いつか睡ったらしい。ふだんからこういう寝かたには慣らされている男である。  眼がさめてみると、人声一つしなかった。余燼《よじん》が燃えているのか、黒い屋根の空が薄く赤かったが、さすが物見高い見物人も家の中に入って戸を閉めたらしい。耳鳴りがしそうなくらい寝静まっていた。  寒いので、平吉は起って足踏みをした。冷え込みが厳しい。焚火をしたいと思ったが、火打ち道具の用意がないので諦めた。ほどなく夜も明けるだろう。午の刻には六、七時間ある。六、七時間の娑婆の自由な身体であった。  大騒ぎして出てきたが、娑婆もあんまり好さそうには思えなかった。第一、行き場がない。構ってくれそうな家も無かった。平常からあまり交際《つきあい》は上手でない男だったから、友だちも無かった。  あたりを見ると、どの家も戸を閉めて昏《くら》い。それは、そのまま平吉を寄せつけない世間を象徴しているように思われた。夜が明け、この戸が開いて人々が動き出しても、彼の立場は同じに違いなかった。もとより平吉は、午の刻には回向院の前に行くつもりだった。牢に帰るのだ。獄門の処罰を恐れただけではなく、逃亡する意欲が無かったのである。それまでの時間、せいぜい娑婆の甘い空気だけを胸に吸い溜めて置こうと思っていた。彼はまた足踏みをした。  ふと、耳に草履の音が入った。ふり向くと路の上を黒い人影が歩いて来ていた。先方でもこちらに気づいたとみえ、立ち停まって見透かすように首を伸ばした。 「おう」  と向うの方から云った。 「おめえは平吉じゃねえか」  声に聞き覚えがあったので、平吉は応えた。 「そういうおめえは新八《しんぱち》か」  牢内で一緒だった越後無宿の新八は上背のある身体をこちらに近づけてきた。彼は平吉の顔をのぞきこんだ。 「びっくりさせるぜ。暗えところに妙な人間が立ってると思った」  新八は癖のある嗄れた声で云った。 「うむ、そこの材木の上で寝ていたが、滅法寒いので眼がさめたのだ」  平吉の答えをきいて、新八は笑った。 「材木の上で木遣りを唄う代りに、鼾《いびき》を吠えるなんざ気の利いた図じゃねえな。違えねえ。寒そうに慄えてらあ。おめえ、どこかにしけ込む家はなかったのか?」 「面倒臭えから、そこに転がったのだ」 「あんまりいい友だちが居ねえとみえるな」 「そういうおめえはどうしたのだ。今ごろ、この辺をほっつき歩いてよ」 「谷中《やなか》にいる友だちを訪ねて行ったら、知らねえ間に本所の方へ越して行ったそうだ」  と新八は云った。 「そうと分ってりゃ、遠廻りするんじゃなかったが、とんだ疲《くたび》れもうけよ。まあ、くたびれついでに、その友だちの家へ行くつもりだが」  と云いかけて新八は平吉の顔を見た。 「よかったらおめえも連れて行くぜ。気のいい奴だから遠慮は無え。こんなところで慄えて風邪をひくより、そこで酒でも呑んで腹を煖《ぬく》めたらどうだえ」 「有難えが、そんな厄介をかけちゃ済まねえ」 「遠慮なら止しにしねえ。滅法気のいい奴なんだ。世話を焼いて喜ぶ性質《たち》での。おれの友だちだ。いや、おめえのことよ」  と新八は勧誘した。 「御牢内でもっそう飯をわけ合った仲じゃねえか。おめえをここに置いて、おれ一人で酒を飲んでいる訳にはゆくめえ」  牢内で暮らして、この越後無宿の新八とは平吉はそれほど親しい仲ではなかった。新八はどちらかというと、利己的な動作をする男だった。が、娑婆に出て、しかも、こういう状態で偶然出会ってみると、新八には格別の友情が出るらしかった。平吉は思わぬその親切と、酒の話に引きこまれた。酒は随分と永い間咽喉を通っていなかった。 「済まねえな、そんならおめえの言葉に甘えるぜ」 「いいとも」  新八は引きうけたように大きく合点をした。二人はならんで歩き出した。人の通る影はまだ無かった。東の方は夜明けの近いことを知らせたが、西の空はまだ火の色が雲に映っていた。 「いい塩梅《あんべい》に赤猫がきたものだ」  と歩きながらその火の色を見て新八は云った。 「七草はすんだが、おいらにとっては近ごろにねえ極楽正月だ。有難え次第だな」 「うむ」  と平吉も応えた。 「思いもよらねえ酒の馳走にはなれる。ちっとばかりだが、娑婆の匂いも嗅いだ。いい慰みだった。これで御牢内に戻っても当分は不足は無え」  おや、というように越後無宿の新八は一瞬、足を停めるようにして平吉の横顔を透かしみた。 「なあ、新八」  と知らずに平吉は云った。 「午の刻限には、回向院までおめえと伴《つ》れになって行こうぜ」  新八は、それには生返辞をしただけであった。      三  暗いが、掘割の水が鈍く光っていた。堀に沿ったどの家も、灯を洩らさずに戸を閉めてまだ睡《ねむ》っているのは、前と変りはなかった。  新八はこの辺までくると、足の速度をゆるめ、きょろきょろとあたりを見廻していた。これは、谷中から越してきた友だちの家を眼で捜しているものと平吉には受けとれた。 「この辺かえ?」  と平吉も一緒に捜す眼になっていた。 「何か、こう、目印でもあるように聞いて来たんじゃねえか」  これには新八は手をあげて制するように、 「あんまり大きな声を出すな」  と叱るように云い、世間はまだ寝ているから、とその理由をつけ足した。  掘割が切れて、両側が家ばかりのところに新八は足を進ませてきたが、道の角まで来ると彼は立ち停まった。彼の眼は、その路地の奥を見つめていた。 「平吉」  と新八は低声《こごえ》で云った。 「おめえは、此処に立っていてくれ。なに、確かにこの奥だと思うが、その友だちの家かどうか確かめてくるのだ」  平吉がうなずくと、その次に新八が云った言葉は注意深げだった。 「人の通るのを気をつけて見ていてくれ。なあに、別に仔細《しさい》は無え。おれたちは牢から出たばかりの人間だ。ほら、この通り浅葱色の綿入れを着ている。いまどき、この辺をうろうろして、知らねえ奴に牢抜けとでも間違えられて騒がれちゃ困るからの」  平吉がその理由《わけ》を理解したのは、自分も火事見物の男に怪しげにじろじろと風采を見られたからである。彼はそれにもうなずいた。 「おめえも、あんまり身体を出さずに此処に居るがいいぜ」  新八はこれだけの注意を与えて、足音を殺すようにして路地の中に入って行った。  それからどれだけの時間が経ったか分らなかった。新八はその友だちの家を探ねあぐねているのか、それとも家の中に入って折衝に手間取っているのか、容易にその姿を平吉の前に戻さなかった。  云いつけられた通り、平吉は軒下の天水桶のかげに姿をかくすようにして忍んで待った。夜はようやく明けかかって、靄《もや》のような白さの中にあたりの輪郭が滲《にじ》み出てきた。しかし、人の通りは深夜と同じに絶えていた。魚河岸に仕入れに行く早起きの魚屋もこの辺には無いとみえて、天秤《てんびん》を担いで急ぐ姿も見えなかった。永いことその状態であった。ただ、鶏が啼くだけだった。遠くで物音がしたようだったが、それきりになった。新八は何をやっているのか、音沙汰もなかった。  平吉が、いい加減、痺《しび》れを切らしているときに、その新八は大股で戻ってきた。 「おい、どうだえ、人の通りは?」  新八は一番に平吉に訊いた。彼の息は忙しく乱れて平吉の頬にかかった。 「まだ、人は通らねえ」  平吉が答えると、 「夜番や見廻りは通らねえか?」 「そんなものは見かけねえ」  よし、と新八は口の中で云ったようだった。彼はいきなり片手で平吉の腕を取った。 「どうしたのだ。友だちの家は分ったかえ?」  平吉が愕《おどろ》いたことには、新八はそれに返事も投げずに引張るようにして駆け出したことだった。 「な、なにをするのだ?」 「何もへったくれもねえ、訳はあとで話すから、黙っておれについて来てくれ」  新八は走りながら云った。気づくと彼は片手に大きな風呂敷包みを提げていた。平吉が訳も分らずについて走ると、新八は町家の切れる寂しい方角に足を向けていた。  どこかの下屋敷らしい長い塀に沿って走り、それを途中で右に切れると一かたまりの松林が黒くひろがっていた。新八の足はその中に走りこんで、ようやく停まった。林の間から雀が囀《さえず》って飛び立った。 「いきなり韋駄天《いだてん》とはびっくりさせるじゃねえか。妙な場所へ連れて来たぜ」  平吉はあたりを見廻して不平を云った。松の木を透かして小さな鳥居が白く見えた。 「こんな所でねえと話が出来ねえのだ。びっくりさせたなあ、勘弁してくれ」  新八は妙な笑いを浮べると、風呂敷包みを枝にかけ、懐から財布をとり出した。膨れて重そうな包みだったが、彼はそれに片手を入れると掴むようにして引き出し、握った拳《こぶし》を平吉の前にさし出して開いた。掌の上には小粒金が小さな山になって光っていた。 「こ、こりゃア……」  平吉は眼をむいた。 「おめえの分け前だ。とっといてくんな」  新八は開いた指の先を平吉の身体に押しつけるようにして云った。 「分け前?」 「うむ。おめえが見張ってくれた駄賃だ。少ねえが懐に捻じ込んでくれ。これでも五、六両はたっぷりとある筈だぜ」 「し、新八。おめえは!」  平吉の叫びを抑えるように、越後無宿の新八は含み笑いを洩らした。 「今さら訊くこともねえ、堅気の人間じゃあるめえし、おめえにはとっくに分ってる筈だ。そうよ、おれはおめえが見張りしてくれている間に、ちょっとばかり荒稼ぎをしたのだ」  新八は嗄れ声で話した。 「押しこんだ先はあの路地奥の質屋だ。随分と目星しい家を物色《さが》したつもりだが、案外とけちなうちでよ。慄える番頭がさし出した金箱の中は小粒ばかりで一両の小判も無え。が、まあ贅沢も云えめえ。逃げる路銀には当座の不足は無《ね》え。ついでに、質草の中から着替えの衣裳も貰って来た」  と新八は掌の小粒を平吉の懐の中に投げると、枝に吊るした風呂敷包みに手をかけた。 「新八。欺したな」  平吉は声を上げた。 「はてね」 「おらア、おらア、まっとうに回向院の前に行くつもりだった」 「呆れた野郎だ」  と新八は取り合わなかった。彼は風呂敷包みを解くと、その中の一枚を平吉の足もとに抛《ほう》った。 「浅葱色の綿入れじゃ道中もならねえ。無宿人の牢披けとてめえで披露するようなもんだ。ほらよ、こいつアおめえの分だ。身丈けまで合いそうなものを撰《よ》って来たぜ。品は唐桟《とうざん》の渋物で悪くはねえ。これでもおれは小僧の時から色気がつくまで越後の織物問屋に奉公していたから、着るものには眼が肥えてるつもりだ。貰いものだ、遠慮なくここで着替えて行きねえ」 「いやだ」  と平吉は首を振った。 「おらア博奕はするが押し込みや盗みはまだしたことがねえ。おめえのつき合いは真平だ。おれは午の刻までに間違《まちげ》えなく、お役人の前に面《つら》を出すつもりだ」 「利《き》いたふうなことを云うぜ」  と新八はあざ笑った。 「おめえはおれの見張りをつとめたのだ。ひとりで抜けようたって、そうはゆかねえ」 「欺されたのだ」 「役人の前でその申し開きは通らねえ。おれたちはいつも歪んだ眼で見られてるのだ。白が黒に始終見えてるのだ。そればかりじゃねえ、おめえはその首をうかつに出すと、獄門台に据えられるかも分らねえのだ」 「な、何だと?」 「生娘《きむすめ》の床入りみてえにいちいち聞かされておどろくんじゃねえ。やい、平吉。よく耳に入れておけ。おらアあの質屋で人をひとり殺害《あや》めて来たのだ」 「え!」 「縛っておいた嬶《かかあ》が途中で縄を抜け、あんまり騒ぎ立てるから、つい、咽喉に手を当てると、ちっとばかり力が入り過ぎたようだ。しまった、と思ったがあとのことよ。何もかも行きがかりだ」  近くの本所|横川《よこがわ》の明け六ツの鐘が朝の乳色の膜の中から響いてきた。平吉は身がすくんだ。自分の思慮を超えた、及びもつかない力で身体がふり廻されているように頭脳が霞んだ。 「おう、夜が明けたぜ。いつまでもこんなところで祭文を語るひまは無え。おめえも人に見咎められねえうちに、早いとこ逃亡《ふけ》たがいいぜ」  新八は自分でも手早く着替えながら云った。 「おれも遠国へずらかるつもりだ。磔台《はりつけだい》の待っている江戸にはもう草鞋《わらじ》を向けねえ。おめえも人の気づかねえ土地へ行くがいい」  それから越後生れの無宿人は云い足した。 「云って置くがな。何処かでふいと面を合わすことがあっても、お互えに見たこともねえ知らねえ他人だぜ。覚えておいてくれ」      四  享保元年正月十一日夜、本郷湯島辺より失した火は神田方面から霊岸島まで延び、昌平橋内まで危うくなったので城内でも一時大騒動をした。霊岸島では船手奉行|向井将監《むかいしようげん》の役宅まで焼いてようやくに鎮火した。その夜、大伝馬町の牢屋敷では収容した囚人を解き放ったが、翌日、回向院前に帰参した者は全部ではなかった。調べてみると八人が逃亡していた。それより六十年前、明暦の振袖火事の時に避難させた囚人が一人も欠けずに帰ったという佳話《かわ》とはかなり事情がかけ離れていた。  逃亡囚人に対する詮議は普通の場合より一段と激しい。八人のうち、三人は間もなく捕えられ、二人はその年の暮れに捕縛された。あと一人は翌る年、奥州の伊達《だて》領で召し捕られて江戸に護送された。六人は悉《ことごと》く打ち首となって獄門台に晒《さら》された。  残る二人の行方はどうしても分らなかった。越後無宿の新八と、野州無宿の平吉とである。恰度《ちようど》、火事で解放した十二日の未明、本所六間堀の質屋に押し入って、金と質物の衣類を奪い、その家の妻女を殺して逃げた男の人相が新八に酷似している。男ものの衣類を二つ奪ったところを見ると共犯者があるように思われた。彼らは獄衣を着替えて逃走したに相違ない。してみると、もう一人の男は野州大沢生れの平吉だと推定された。  詮議はだんだん厳しくなったが、この両人《ふたり》の行方が更に分らない。翌年になっても、手がかりさえ掴めない。これだけ厳重な探索をやっても知れないのだから、両人は多分江戸には居ないだろう、どこか遠国に逃げているに違いないと探索方は考えた。人相書や触れ書は諸国に配布して手当てしたが、更に分らぬまま、その年も越した。  そのうち、江戸では新しい事件が相ついで起ってくる。探索方も、そうそうは逃亡した両人の行方にばかり掛っているわけにはゆかない。追及をゆるめるつもりはないが、月日が経つうちに次第に熱がさめてきた。  二年の間、平吉は諸国を逃げ廻った。中仙道から北陸路へ抜け、中国筋を流浪した。行く先々で人足をしたりして働いた。人眼からかくれるような生活だった。思わぬことから兇状持ちになり、草のそよぎにも肝を冷やすような境遇なのだ。このような立場にした新八が恨めしいが、今さら後悔してもどうにもならない。その新八はあの時に別れたきりどこへ逃げているのか捕えられたという風聞も聴かなかった。逃亡の六人は獄門で処刑されたという江戸の噂は田舎にも伝わってきたが、その中に越後無宿の新八の名前は無かった。残っているのは、あいつとおれだと思い、その探索の厳しさを考えると、平吉はいよいよ身をかくす生活に潜り込んだ。  だが、三年目になると平吉もそろそろ江戸に帰りたくなった。田舎の暮しが嫌になってきたのと、二年以上も何事も身辺に起らなかったという事実が少しずつ自信をつけたのだ。人相書は廻っているだろうが、この人相書ぐらい当てにならないものはない、と平吉は前に誰かに聞かされている。逃げ方もうまかったかもしれぬが、この手配書で捕まらなかったのが何よりの証拠のような気がする。三年も経ったのだ、もう大丈夫だろう、探索の眼もゆるんだろうと思った。そう思うとこれ以上、知らぬ田舎を渡ってゆく生活が嫌になり、彼が三年ぶりに江戸に戻ったのは享保三年の暮れで、江戸では雪が降っていた。道中は果して何事も無かった。  舞い戻って、すぐ博奕場に顔を出すような軽率は平吉はしなかった。さすがにそれはまだ怖い。今まで無事に過せたのは、日ごろから友だちが少なく、交際が狭かったせいだと彼は解釈している。探索の手がかりが無かったに違いないのだ。  彼は多少の小金をもっていた。最低の生活には馴れていたし、田舎ではあまり遊ばずに人足などして働いた金は貯めている。それに新八から懐に捻じ込まれた五両の金がまだほとんど残っていた。  或る晩、赤坂辺の暗い通りを歩いていると、おでん屋が屋台の荷を下ろしていた。看板の細長い小さな行灯《あんどん》が眼に入ると、平吉はその前に立った。 「燗酒《かんざけ》はあるかえ?」 「へえ、ございます」  暗いところで半分顔を行灯に浮かせたのは老爺だった。 「肴は、がんもどきに、こんにゃくと、玉子の煮込みでございます」 「その玉子とがんもどきをくれ」 「へえ、有難う存じます。親方、今夜は滅法冷えますな」  老爺は燗をつけた。なるほど、白いものが少し降ってくる。この辺は武家屋敷が多く、遠くに自身番の小屋の灯が凍ったように洩れているだけだった。 「こんな場所に荷を下ろして商売《しようべえ》になるのかえ?」  平吉はあたりの寂しい通りを見廻して云った。 「へえ、お屋敷の中間衆《ちゆうげんしゆう》が寄って下さるのでね。宵の口はここに居りますが、夜が更けると町方の方に参りますので。ところが今夜はこれでしまいにしようと思っております」  平吉が鍋の中を見ると、おでんの串がいっぱいに頭を煮立った汁の中に突込んでいた。 「早仕舞とは豪気だ。酒でも売り切れたのかえ?」 「なに、それならよろしゅうございますが、今夜は冷え込みがひどいせいか、さっきから下腹がさし込みましてね。年寄りは意気地がございません」 「そいつあいけねえ。そんなら、おいらもこの一ぺえで引き上げるとしよう。早く帰って寝《やす》むがいいぜ」 「どうも申し訳がございません。有難う存じます」  平吉はその一本の銚子をあけて、銭を払おうとすると、老爺は屋台の向うでしゃがんで腹を押えていた。 「おやじさん、どうした?」  平吉は屋台の後ろに廻って、老爺の背中を押えた。 「へえ、どうも」  と老爺は起ち上がらずに顔を顰《しか》めていた。 「大丈夫かえ?」 「へえ、そのうちおさまるかもしれません」  といったが、声に元気がなく、動く様子もなかった。  平吉は老爺のうずくまった後ろからさし覗いた。 「おめえの家は何処かえ?」 「へえ、芝口でございます」  老爺は、か細い声を出した。 「うむ。芝口か、そんならあんまり遠くはねえ。その様子じゃこの屋台を担いで帰られめえ。おいらがこれをかついでおめえを家まで送ってやろう」 「とんでもねえ。見ず知らずのおめえさんにそんな世話をかけちゃ済まねえ」  と老爺は手を振ったが、平吉は、それを無理に納得させた。      五  因縁というものは、どこで出来るか分らねえ、というのが、その後三年経っても忘られぬ平吉の感慨であった。おえんという女房に結びついたのは、あの夜、屋台のおでん屋の老爺を家に送り届けてからだった。  老爺は娘と二人暮しで、源助町の狭い裏店《うらだな》に住まっていた。娘は十七、八で色は浅黒く、容貌もそれほど好くはなかった。父娘は平吉に厚い礼を述べた。それが縁となって平吉も度々遊びに行くようになった。時には、道楽半分に老爺についてその屋台を担いで商売に行くこともあった。  それが道楽でなくなったのは、半年も経って老爺の方から平吉に娘の亭主になってくれぬかと頼まれてからだった。それを即座に承知するだけの感情が、平吉の気持の中に流れていた。一つは堅気になって、こんな地道な仕事をしていれば、永久に探索の眼を脱れられそうな勘定もあった。  娘のおえんと一緒になってみると、果して彼女は思った通りの世話女房だった。平吉は素姓を隠していたが、父娘はうすうす彼の暗い半面を察しているらしかった。が、そのことには一口も触れず、こんなしがない暮しをするところに入婿になってくれて済まぬと云った。平吉は、おえんと夫婦になったことを幸福に思った。彼は世間の誰からも怪しまれず、働き手の婿として見られてきた。老いた舅《しゆうと》に代って、屋台を夜の町に担って廻ったが、愛嬌がよく、商売がうまかったので、なかなか繁昌した。三年間、諸国を流れて他人の顔色を窺ってきただけに、彼は人をそらさぬ男になっていた。  二年過ぎて舅が死ぬと、平吉はおえんと相談して高輪《たかなわ》の横新町の稲荷わきに小料理屋の出ものがあったのを居抜きで買い取った。この店も繁昌し、小女を二人置くようになり、銭も溜まってきた。誰もこの店屋《てんや》の亭主が牢抜けをして質屋の女房を殺したお尋ね者とは夢にも想像しなかった。初めは、一日もその不安が頭から離れなかった平吉も、ようやく安心しきった。おえんは相変らず亭主孝行を尽した。  おえんは平吉の持っていた唐桟《とうざん》の袷《あわせ》が気に入っていて、平吉があまりそれを着たがらぬのを知ると、それを崩して、布地《きれじ》で財布をつくってくれた。 「ほら、いい縞柄だから意気に出来たじゃないか」  と縫った財布を指でつまんでさし上げてみせた。こんなことには器用な女だった。平吉にはこの唐桟に忘れてしまいたい記憶がある。それはまだ源助町に居るときのことだったが、着物ならともかく、財布になってみると、そう気も咎めなかった。なるほど、その財布はいかにも洒落《しやれ》た出来だった。が、彼はすぐには使わなかった。  横新町に移って一年目に、患った風邪がもとで、他愛なくおえんが死ぬと、おえんの箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しの中から、この財布が二つにたたまれて出てきた。平吉は、おえんの遺品《かたみ》を見るような思いがし、彼女が生きている間にそれを使わなかったことを悔やんだ。それから後は、平吉はその財布を懐に捻じ込むようになった。  おえんの四十九日を済ませて半年もすると平吉にもあとを貰うように勧める人があった。彼はそれを断わった。あと二年ぐらいは、死んだおえんに義理立てしようと思った。しかし、或る機会《はずみ》で彼の方からその禁を破った。  近所の頼母子《たのもし》講の流れで、品川宿の飯盛《めしもり》茶屋に遊んだのが、そのきっかけだった。そこの大和屋で二枚目を張るお千世《ちせ》が敵娼《あいかた》になったのがはじまりで、三十二歳の男ざかりの平吉はこのお千世に初会で打ち込んでしまった。色が白く、容貌《きりよう》も好かったが、頬の下ぶくれのところが死んだおえんにどこか似ていた。彼は三日目には裏を返しに行った。  平吉が馴染《なじ》み客になると、お千世も彼に不親切ではなかった。会っているうちに、お千世は信州の百姓の娘で、年貢も納められない貧のためにこんな苦界に沈んでいるのだと身の不幸を打ち明けた。女郎にはお定まりの身の上話だったが、惚れている平吉は一途に同情して通った。 「今度は、いつ来てくれますかえ?」  と或る朝、お千世はいつもの通りに訊いた。 「そうだな」  と平吉は考えた。独り身とはいえ、通っている小女の手前、そう度々は朝帰りも具合が悪いので、何か口実を考えねばならなかった。 「二十一日は川崎の大師参りだから、その帰りに寄ろう」 「五日も先だね。そんなら約束を違《たが》えぬよう来て下さいよ」  とお千世は平吉の背中を敲いて押した。  平吉はいつもの通り駕籠《かご》で帰ったが、家の近くで駕籠を下ろさせ、いざ駕籠屋に駄賃を払おうとして懐に手を入れたとき、財布が無かった。彼は、はっとした。  駕籠屋は怪訝《けげん》な顔をしている。平吉はともかく、家の中に入って別な金入れから人足賃だけは払ったが、財布は何処で落したのであろうと考えた。  が、落したのではない、帰りがけに、お千世が、 「おや、意気な財布だねえ」  と手にとって見ていた記憶があるから、そのまま忘れ、駕籠に乗ったことを思い出した。落したのではなく、お千世の部屋に忘れて来たのだと分ると平吉は安心すると同時に唇が綻《ほころ》んだ。五日も先の二十一日を待たずにお千世に会いに行く口実が出来たのであった。三日目の晩には、平吉は大木戸から駕籠に乗り、潮風を吸いながら品川宿に急いでいた。 「とんだ忘れ物でしたね」  とお千世は平吉の顔を見ると、縞の財布を差し出して微笑《わら》った。 「なかを改めて下さいよ」 「それには及ばねえ。こいつのお蔭で二十一日の約束が二日早くなったのだから有難え」 「ほんとうに」  とお千世もうなずいた。それから酒を持って来させて盃を手にしたとき、お千世が思い出したようにこんなことを云った。 「そうそう、昨夜《ゆうべ》の客で、この財布がひどく珍しいと云ってたひとがありましたよ」 「え、何だと。よく話してみてくれ」  と平吉は盃を置いてお千世の顔を見た。それから彼女の話を聞いているうちに、平吉の表情は変ってきた。  客は三十五、六で初めて上がった男だった。お千世が預かって懐に入れている平吉の財布が覗いていたとみえ、眼はしこく見つけると、ぜひその財布を手にとらせてくれと云った。お千世は迷ったが、結局、懐から出して見せると、その客は無論、眼の前で開けないが、じっと財布の布《きれ》を凝視していた。なかなか、意気な出来だと賛め、この持主の客は、おまえの馴染み客かと訊いたそうである。 「それで、おめえは何と云った?」 「ここの習慣《しきたり》としてお客の名前は知らぬと云ってやりました」  しかし、それで済んだのではなかった。その客はしばらく考えていたが、実はこの財布と同じものを持っている人を自分は永い間、さがしている。それは自分の友だちだが、もしかするとこの持主はそうかもしれない。それならぜひ会いたいが、今度はいつ頃、ここに来ることになっているかと訊いた。お千世は正直に答えたものかどうか迷ったが、結局、友だちという言葉に誘われて二十一日に来る約束だと云った。すると客は、世の中には似たような物をもっている人もあるから、果してその仁が友だちかどうか分らぬ。ついては二十一日には自分もここに上がるから、本人には気づかれぬよう、よそ目に見せて貰えないか、そのときは別な部屋にいるので、この財布の持主が手洗いにでも立ったとき、合図をしてくれればよい、と頼んだ。お千世は、そんならあまり無礼のないようにしてくれと、結局ひきうけたと云った。彼女がそれを承知した裏には、祝儀を多分に貰ったことが想像された。 「おまえさんに心当りはないかえ?」  とお千世はさすがに気遣わしそうに訊いた。 「うむ、そんな人には心当りはねえ」  平吉は云い切ったが、彼の脳裡には越後無宿の新八の顔が泛んでいた。  そう云うのは新八のほかは無かった。あの唐桟は質屋から新八が撰り出してきたものだ。かれはそれを記憶していたのに違いない。織物問屋に奉公していて、その方の目は肥えていると自分で自慢していたではないか。新八もまだ無事に居る。しかも偶然にお千世の客になって、平吉に投げ与えた袷を憶えていて、財布の布地にそれを発見した。年齢も似ている。新八以外、そんなことを云う筈の男はいなかった。  新八はまたしても自分を狙っている。今度は強請《ゆすり》か、それともまた悪党仲間に引きずり入れようとする企《たくら》みか。平吉は色を蒼くして考え込んだ。  あれから七年以上も経って、新八がまさか眼の前に現れようとは思わなかった。新八から脱れる工夫はないか。      六  二十一日の晩は細い雨が降っていた。  平吉は駕籠に乗って品川に行ったが、大和屋に登楼《あが》ったのではなかった。宿《しゆく》の入口に小料理屋がある。そこに入って酒を誂《あつら》え、ゆっくり呑みながら時間を待っていた。彼は頬被りをしていた。  しばらくすると、表の縄のれんを分けて年増の女が顔をのぞかせたが、平吉をみつけると傍に寄ってきた。年増女はお千世と仲のよい新造のお金《きん》で、平吉もかねてから祝儀をやっていた。 「親方」  とお金は低い声で耳打ちした。平吉は眼を光らせた。 「粂《くめ》の野郎はどうしている?」  平吉は訊きかえした。 「粂さんは、すっかりお千世さんの客になり済ましていますよ」  平吉はその返辞をきいてうなずき、いずれあとで大和屋の裏口に行くからと云い、一朱を紙に捻ってお金にやった。 「毎度、済みませんね。それじゃ、親方、待っていますよ」  とお金は出て行った。  お金の今の報告によると、この間、お千世のところに上がって、平吉の財布に関心を持った客は果して二十一日の今晩来て別の女の部屋で酒を飲んでいるという。それは大和屋の裏二階でお千世の部屋の前であった。その客が財布の持主の顔を覗き見たいと云った言葉の通りを実行しようとしていることが分った。  もはや、それが新八であることは間違いなさそうだった。新八以外にあの唐桟の布地で作った財布の持主にそれだけの興味を熱心にもつ者がほかにあろうか。彼は平吉に狙いをつけているのだ。  平吉は考えぬいた末、新八の裏を掻く工夫に出た。粂助という近所の男を身代りに立てたのである。お千世の客に仕立てて新八に覗き見をさせるのだ。新八は似もつかぬ別の顔を発見して、がっかりするに違いない。 「もし財布のことを訊かれたら、三年前に道で拾った品だといってくれ。それ以上、うるさく訊くこともあるめえが、何にも知らぬと云ってくれ。おめえにゃ、あとで気に入ったところで遊ばしてやるぜ」  平吉の依頼に、粂助は喜んで承知した。  その粂助は今お千世の部屋に客となっている。お千世にも万事は云い含めて打合せてあるのだ。新八と思える客も、前の部屋の客となっている。芝居の幕はすでに開いていた。  平吉は勘定を払って小料理屋を出た。彼は頬被りを深くして顔を包んだ。彼もまた新八の顔をよそからのぞいて実検しようと思ったのである。  相手は新八だと思っているが、一分の疑いがやはり平吉の頭にあった。あるいは新八ではないかもしれない。この疑念が彼を家に落ち着かせずに、大和屋の裏口に誘い寄せたのであった。もし、新八でなく、人違いだったら笑いものだ。実際、その客の云う通りの事情かも分らない。同じ唐桟の縞模様は世間にざらにあることだし、その財布の因縁話は実際にあることかもしれない。──それが明らかになったら、新八は粂助と交替して安心してゆっくりお千世の顔を見るつもりであった。そんなことを考える平吉の心の底には、どんな機会でも惚れた女に会いたい男の心がうずいていた。  大和屋の裏は品川の海になっている。小雨の降っている暗い沖には漁火《いさりび》が寂しく見え、潮の音と匂いがしていた。平吉はせまい路地からお金の待っている裏口に忍んで行こうとした。  が、彼がそこに行きつかぬうちに突然ひどい物音が大和屋の裏二階から起った。人が大勢で走り廻ったり、道具が倒れたりする音がし、女の叫ぶ声まで聞えた。平吉は、ぎょっとなって足がすくんだ。 「御用だ」  けたたましい二階の音の中に、この声を聞いたとき、平吉はあとも見ずに一散に駆け出した。  平吉は、そのままわが家に戻らずに逃亡した。一体、あれはどうしたのであろう。そのことを落ちついて考えるようになったのは江戸を離れて安全な地帯に脱れてからだった。新八が召し捕られたのか。いや、そうではない。それでは話の辻棲《つじつま》が合わなかった。  探索の網にかかったのは粂助である。無論、平吉と人違いされたのだ。それでは、あの唐桟の財布を怪しんだのは探索方であろうか。いやいや、それではあんまり話が出来すぎている。探索方がそこまで知っている訳はないのだ。やはり、あれを知っているのは新八以外にはなかった。  しかし、新八が密告する。これも奇妙なことである。脛に傷をもつ新八がそんな危ない芸当をする筈もなかった。第一、粂助の顔を見たら平吉でないことが分るではないか。おかしい。一体、あの財布に目をつけた客というのは誰だろう──平吉にはこの謎《なぞ》がどうしても解けなかった。  粂助は役人に訊問されて自分のことを喋《しやべ》ったに違いない。今ごろは新しい探索がはじまっているだろう。謎のことはともかく、うかうかしては居られなかった。平吉は甲州街道を西へ急いだ。  江戸から三十六里、ようやく甲府の城下に入ったとき、土砂降りの雨に遇った。平吉はあわてて町家の軒に立った。雨は白い煙を地面に立てて車軸を流している。平吉は廂《ひさし》の下に棒立ちとなって、呆れたような眼で激しい雨脚を眺めていた。横から格子戸を開けて、女が傘を開きながら出てきた。 「これはひどい雨ですね。少し、止むのを待ってお帰りなさいよ」  家の中から声がしていた。出て来た女はそれを断わり、ひろげた傘を支えて雨の中を小走りに歩いた。女は片手に風呂敷包みを抱えていた。平吉はその家の表をふと見た。大きなのれんが風に動いていたが、紺地に白く丸に質の字が染め抜いてあった。  質屋。平吉の頭に忽《たちま》ち或ることが閃いて、あっと思った。これだった。謎が解けた。あの客は、質屋の番頭だ。六間堀の質屋である。新八が奪った質草に記憶があったのだ。熟練した彼の眼は、財布に化けた七年前の奪われた質草の唐桟を忘れなかったのだ。平吉は鉛を呑んだような顔になった。  それから、また平吉に流浪の生活がはじまった。何もかも逆戻りであった。おえんもお千世も、もう彼の手には無かった。ちょいとした短い夢を見たようなものだった。  享保十三年二月、神田|猿楽町《さるがくちよう》より火を発し、小川町通、小石川辺が悉《ことごと》く焼けた江戸の大火の噂を、平吉は鳥取の山奥で炭焼きをしている時に聞いた。伝馬町の牢から科人が解放されたかどうかは分らなかった。 「赤猫が来たと牢内の者は喜んだに違えねえ」  平吉は一昔前の気持にかえって、ぼんやり考えた。  越後無宿の新八は死んだか生きたか、捕われたという話も聞かなかった。 [#改ページ]   左 の 腕      一  深川西念寺横の料理屋松葉屋に、このひと月ほど前から新しい女中が入った。まだ十七だったが、小柄でおさない顔をしている。しかし、苦労しているらしく、することが何でも気が利いていて、よく働く。おあきという名だったが、十二、三人も居るこの家のふるい女中たちからはすぐに可愛がられた。  松葉屋は、おあきと同じ日に六十近い老人を下男に雇い入れた。庭の掃除や、客の履物番《はきものばん》、風呂焚き、薪割り、近くへの使い走りなどの雑用をさせる。卯助《うすけ》といって、顔に皺が多く、痩《や》せた男である。あまり口かずを利かないが、これも精を出して働く。のっそりとして動作が鈍いのは年齢《とし》のせいだろうが、仕事には蔭日向がない。  おあきと卯助とが同時に松葉屋に奉公したのは、二人が父娘《おやこ》だったからである。実をいうと、卯助は近くの油堀を渡った相川町の庄兵衛|店《だな》の裏長屋に住んで、それまで飴細工《あめざいく》の荷を担いで売り歩いていた。飴細工は葭《あし》の茎の頭に飴をつけ、茎の口から息を吹いて飴をふくらませ、指で鳥の形などこしらえて子どもに買わせる荷商《にあきな》いである。卯助は愛嬌もないし、老人のことで手も何となくきたならしいから、食べもののことで、子供より親が警戒してあまり売れそうもない。それでも、こんな細々とした一文商いで何とか親娘は過していた。無論、ひどい暮しである。  おあきは父親が商いに出たあとは、近所の子守りなどしていくらかの駄賃をもらいながら、煮炊きをして父親を待っている。時には父親の荷について出ることもある。  この父娘を松葉屋に口をきいて世話したのは、板前の若い者で銀次《ぎんじ》だった。銀次は相川町に叔母が居り、そこへ時々遊びに行くうちに卯助親娘を知ったのだ。 「とっつぁん、おめえじゃ、その商いは無理だ」  と銀次は、ある日、卯助に云った。 「おめえが垢《あか》じみた指で飴をひねくり廻し、髭面《ひげづら》の口から臭え息をふくれた飴の中に吹き込んでいるのを見たら、どこの親だって子供に握らせた銭をとり上げらあな」 「うむ。違えねえな」  と卯助はそのとき萎《しな》びた指をひろげて改めるように見た。 「おめえの云う通りだ。おれもそう思ってる。近ごろはとんと売れた日が無え」 「そこでよ、とっつぁん。おらア何も幡随院《ばんずいいん》の長兵衛を気どるわけじゃねえが、おあき坊もあのままじゃ可哀相だ。おれの働いている松葉屋のお内儀《かみ》さんに話して、おめえたち二人を傭《やと》ってもらうよう頼んでみてもいいぜ」 「銀次さん」  卯助はくぼんだ眼をあげた。 「そいつはありがてえが、おれはこの通り年寄りだし、おあきはまだ子供だしなあ。出来る相談じゃあるめえ」 「なに、おあき坊だって、とっつぁんの考えてるような子供じゃねえやな。いまが蕾の開きかけだ。あの容貌《きりよう》なら申し分はねえ。それに、おめえの前だが、苦労させてるからしっかりしたもんだ」  卯助が銀次を見たので、銀次は少しあわてた。 「おれがそう云ったからって、妙な勘ぐりをしねえでくれ。おれは、おめえたち父娘を楽な仕事に世話してやりてえだけだ」 「おめえの親切は分っている」  と卯助はうなずいた。 「それじゃ何分よろしくお願いするとしよう。おれも年をとったで、荷をかついで廻るのも肩が痛くて、からきし意気地がなくなった。おめえに甘えるようだがそんなら頼むぜ」  いいとも、と板前の銀次は請け合った。彼から松葉屋に話すと、お内儀はおあきを一目見て気に入った。恰度、若い女中が欲しかったときである。父親の卯助も実直だとみて、一緒に雇った。  父娘が松葉屋に奉公したのはこんな次第だが、幸い松葉屋でもいい奉公人を傭い入れたと喜んでいる。おあきは住み込みで、卯助は店が閉まると夜更けに相川町の裏長屋に帰ってゆく。  いまさら、独りじゃ不自由だろうから娘と一緒に住み込んだら、と松葉屋では卯助にすすめたが、 「なあに、この方が気楽でさ」  と彼は断わって帰って行く。それから独りで寝しなに火を起して一本|燗《かん》をつけて飲むのがたのしみだと彼は語った。料理屋の朝は遅い。が、卯助は五ツころには必ず出て来て、女中たちが眼をこすりながら雨戸を繰る時分には表から裏までの掃除が出来て、庭の草とりなどしている。年寄りだから、もっと遅く来ても構わないといっても、卯助は、眼が早くさめてしようがありませんので、と笑っている。  笑うと眼が糸のように細くなって人なつこいが、片隅にひとりで坐っている時などは頬に尖った影が出て、眼が光ってみえる場合がある。 「おやじさん、おめえ、前には何をしていた人だね。根ッからの飴売りじゃあるめえ」  と板場や仕込みの連中が四、五人あつまったときなど、卯助に訊く者があった。夜も四ツを過ぎると客への通しものは終るので、閑になった男たちが雑談するのである。 「江戸に出てくるまでは国で百姓をしていたがね。詰まらねえ仕事ばかりで、自慢にもならねえことよ」  と卯助はおだやかに笑う。 「国はどこだね?」  ときいても、 「遠国だ。田舎者よ」  と答えるだけである。 「おめえもいい娘をもって仕合せだ。何かえ、父親にしちゃ年齢がちっと違い過ぎるようだが、若い女房《かみ》さんでも貰ってすぐに死なれたのかね?」  これには返事がなく、にやにやして煙管《きせる》を口にくわえる。おあきに訊くと、おっ母さんは十ぐらいの時に死んだと云うのである。 「後妻に出来た子かもしれねえ」  という意見もあれば、 「いや、あれで散々道楽をしてきた男かもしれねえぜ」  と云う者もある。  しかし、現在の卯助にはその名残もなかった。寝酒は四文一合の安いのを飲むというが、松葉屋で上等を出してやっても辞退して口を触れようとはしない。板前連中は道楽者が多く、四ツ半(午後十一時)をすぎて俎板《まないた》を洗うと、さいころを持ち出して車座になる。そんなときでも卯助は興味のない眼つきをしていた。 「どうだえ、おやじさん。おめえもよかったら入らねえか」  と誘う者があると、卯助は顔を振って、ごそごそと片づけものなどしている。 「律義《りちぎ》なもんだぜ」  と誰かが賞めた。律義なことは確かだった。一文売りの荷商いから松葉屋に拾われたことを当人は喜んでいたし、感謝もしている。働きにそれが自然と現れている。  娘のおあきは松葉屋に来て、見違えるようにきれいになった。松葉屋に来る客が、 「いい女《こ》が来たものだね。櫓《やぐら》下にも滅多には居ねえぜ」  とお内儀にほめた。それに、馴れない初心《うぶ》な様子と、汗でもかきそうに動き廻る働きぶりが、見ていて気持がよかった。  この父娘の間も仲がいい。おあきは何かと卯助に心を使い、父親が夜ふけてとぼとぼと帰って行くときなど途中まで見送って、小走りに戻って来るのである。 「あれが親父でなく、情夫《いろ》か何ぞだったら岡焼きものだぜ」  松葉屋の若い者はそう話していた。      二  誰が気づいたのか卯助の左腕の肘の下にいつも白い布が帯のように捲いてあるということだった。なるほど気をつけてみると、袖をたくり上げた時に確かにそんな布が肘の下を輪のように括《くく》りつけていた。  卯助が来てから途中で気がついたことなので、はじめは怪我でもしたのかと思って訊ねてみたが、卯助はそうではないという。口数の少ない男だったので、それ以上の説明はなかったが、いつまで経ってもその布の帯は除《と》れないでいる。もしかすると、以前からそうしているのかもしれなかった。 「おやじさん、その腕はどうしたのだね?」  気になる男が質問した。 「なあに、若え時に火傷《やけど》をして癒らねえでいるのさ」  と卯助は淋しい翳《かげ》りのある笑い顔で答えた。 「皮膚《かわ》がひき吊ったまま、傷痕《あと》が見っともねえので、こうして匿《かく》しているんでね」  そうか、と訊いた者はうなずいて納得した。醜い皮膚の傷痕を布で捲いて人目に見せない。いかにも律義な卯助のしそうなことなので、奥床しく思ったくらいだった。  板前の銀次は、自分が世話した因縁もあってか、卯助には親切だった。 「あんまり無理して動き廻ることはねえぜ、おやじさん。そういっちゃ何だが、どうせ年寄り仕事だ。根《こん》を詰めることはねえやな」 「有難うよ、銀さん。なあに荷台をかついで町中をほっつき歩き、売れ残りの飴をもって帰るよりどんなに気も身体も楽か知れねえ。これもおめえのお蔭だ」  卯助は礼を云った。 「おめえに喜んでもらえておれもうれしい。おあき坊も滅法きれいになって、お客衆の眼についているそうだ。お内儀さんがそう云っていたよ。両方から喜んでもらって、おれも世話甲斐があったというもんだ。松葉屋はこんな水商売だが固い家でな、妙な客は上がらせねえから、おあき坊のことは心配無え。蔭ながらおれも付いている。変な真似はさせねえから安心しな」  銀次は力んで云った。卯助は、よろしく頼むと微笑《わら》って答えた。女中たちの間では、銀さんはおあきさんに惚れているのではないかとささやかれていた。  妙な客は上がらない、と銀次が云った通り、松葉屋では場所だけに木場の商人が多かった。そんな客は女中たちに心づけを出すから、それだけでもばかにならない。おあきは客から貰ったものは、みんな卯助に出すようだった。卯助は給金やそれらを貯めて、おあきが世帯を持つときの用意にしているらしい。寝しなの安酒は彼のただ一つの愉しみのようである。  卯助は万事が遠慮深い。例えば銭湯に行くのでも、自分だけは店《たな》の用事が終って、自由な身体にならないと行かない。傭いの男たちは四ツをすぎると手の空いた者から近所の銭湯に出かけるが、卯助だけはどんなにすすめても一緒の連れにはならなかった。 「おれは帰ってからでいい」  と云うのだ。手が空いていれば同じことだと誘っても、いつも断わった。やはり自分の身体になってからという心算《つもり》があるらしい。しかし、彼が夜更けの道を歩いて帰り、近所の銭湯に行くとしても九ツ(午前零時)ごろにはなるだろう。 「それじゃ仕舞い風呂だ。同じ垢臭え湯でも、早え方がちっとはましだぜ」  と勧めても、 「馴れてるからね」  と卯助は柔和に眼を細める。年寄りの頑固さも手伝っているが、その気持も分らなくはない。たとえ仕舞い風呂でも、やはり行きつけの銭湯がいいのだ。それきり誰も云わなくなった。  春の或る日のことである。卯助が松葉屋の裏口で埃の立つ道に手桶を持ち出して水を撒いていると、三十過ぎの羽織をきた男が来た。男は卯助の顔をじっと見た。 「おめえは松葉屋の雇い人かえ?」  と彼は横柄な口吻《くちぶり》できいた。 「へえ」  卯助は返事した。 「いつからここに来たのかえ?」 「もう五十日くらいになります」 「そうか。そいつは、ちっとも知らなかった。ここんとこしばらく来なかったからな」  男はそのまま松葉屋の内へ大股で入って行った。  卯助はその後姿を見送ったが、暗い眼つきになっていた。彼はその男の職業を直感したようだった。 「銀さん」  と卯助は裏から料理場に廻って銀次にきいた。 「いま、奥にへえったのは誰だえ?」  銀次は庖丁の手をとめて奥をうかがった。 「うむ、ありゃ目明しの麻吉《あさきち》という男だ」  と彼は教えた。 「門前町の稲荷横丁に住んでいるから稲荷の麻吉と人からいわれている。そのあだ名の通り、狐みてえに嫌な奴だ」  銀次は麻吉を快く思っていないらしく、低い声で悪態をついた。 「お上の御用をきいているが、みんなが遠慮しているのをいいことに、蔭じゃ威《おど》しもしているようだ」 「はてね。十手を持った男がね」 「弱い者いじめでね。人の弱味につけこんで何とか小遣い銭を捲き上げようとするげじげじ野郎だ。この家にもちょくちょくやって来るがね。なに、ただ飲みして、帰りにはいくらか鼻紙に包んだものを貰おうって魂胆《こんたん》さ」 「御用風を吹かせてる男にゃよくある手合だね」  と卯助は呟いた。 「そんなところだ。野郎、久しく面を見せなかったが、何しに来やがったのだろう」  銀次はまた奥を覗くように見た。  それから一|刻《とき》ほど経ったころ、卯助が裏で薪《まき》を割っていると、さっきの麻吉が通りかかった。麻吉は卯助の横で立ち停まった。 「精が出るな」  と麻吉は卯助の頭の上から声をかけた。彼の顔は酔って赭《あか》くなっていた。 「へえ」  卯助は頭を下げた。 「おめえ、何という名だえ?」 「卯助と申します」 「卯助さんか。なるほど年寄り臭えが、色気のある名前だな」  麻吉の足もとは少しふらついていた。しかし、彼の眼は卯助の左腕に吸いついていた。 「おい、卯助さん。おめえのその左の腕に捲いた布はどうしたのだえ?」 「へえ」  卯助はたくり上げた左の袖をそっと下ろすようにした。 「火傷をしましてね。こりゃ飛んだものが親分のお眼に入りました」 「うむ、火傷か。火傷とはちっとばかり色気が無えな。この家の竃《へつつい》の前にしゃがんだとき、割木の火でも弾《はじ》いたのかえ?」 「いえ、若えときからの傷でございます。あまりきたねえので、こうして布を捲いております」 「うむ、若えときのか」  麻吉の眼に冷笑が泛んだ。 「若えときの火傷の痕が見っともねえので、そうして匿しているなんざいい心がけだ。なあ、卯助さん。いつか一ぺんそいつをおれに見せて貰いてえもんだな。おらアそういう傷痕を見るのが好きな性質《たち》でね」  麻吉は、せせら笑うようにして立ち去ったが、卯助は鋭い眼つきをしてその後姿を見送った。      三  稲荷の麻吉が久しぶりに松葉屋に顔を見せた用件は間もなく知れた。  木場の旦那衆が、ひと月に二回ぐらい松葉屋の奥座敷に集まって無尽講を開いている。だが、無尽講というのは表向きで、実は宵から酒を呑んだあと、明け方まで手慰《てなぐさ》みをするのである。五、六人の人数だったが、大きな商人のことで場で争う金も少額ではない。はじめは無尽のあとの座興で始まったのだが、近ごろでは熱が入ってこの方が主になっている。松葉屋では厳しく隠していたのだが、これを麻吉が嗅ぎつけたらしい。  本来なら博奕《ばくち》は法度《はつと》であるから、十手を預かっている麻吉はこれを禁止させるか、見て見ぬふりをするかであるが、麻吉は松葉屋にやんわりと捻《ね》じ込んで、その場の立つ座敷に出入りさせろと要求したのである。といって、彼には旦那衆に混じって賽子《さいころ》の目に張るだけの金がある筈がない。つまり、朱房をふところに持っている自分を出入りさせたら安全だという売り込みと、相手の弱点を掴んで否応を云わさない脅しがあった。手当てとしてテラ銭を出させ、これを捲き上げる計算なのだ。  それからというものは、麻吉は足しげく松葉屋にやってくる。月二回の奥座敷への出入りも思った通りに叶ったらしく、たいそう機嫌がいい。間の日にもやってくるが、松葉屋でも疎略に出来ないから、その都度、酒を出して帰す。麻吉は松葉屋に来ると、いつも生酔いであった。  そんなことが三月もつづいた。そのうち稲荷の麻吉は、おあきに眼をつけているらしいと女中たちの間で噂が立った。彼はそのために用事もないのに度々松葉屋に来るというのである。廊下でおあきにしつこく搦《から》んでいるのを見かけた女中もいた。 「狐野郎。そろそろ本性を出しやがったな」  と銀次は蔭で息まいた。 「おあきちゃんに手を出すなんて飛んでもねえ奴だ。なに、おれがついているからには指一本ささせるもんか」  銀次は出刃庖丁を振ったが、これは蔭の話で、麻吉に正面から会うと意気地がなかった。 「おい、銀次」  と麻吉は銀次に声をかけた。 「こりゃア親分」  銀次は鉢巻の手拭いをとってお辞儀をした。 「てめえは案外色男だってなあ」 「へ」 「何だそうだな、てめえはおあきに惚れてるそうだな」 「ご冗談で」 「なにも照れることは無えやな。この家におあき父娘を世話したのはてめえだそうじゃねえか?」 「へえ。左様で」 「ふん。いい心掛けだ。それでなくちゃ女は狙《ねれ》えねえな」 「いえ、あっしゃ何もそんな」 「餓鬼相手の一文飴売りのうす汚ねえ親父を一緒にこの松葉屋に背負い込ませたなんざ天晴れな細工だ。だがな銀次、あの卯助という親爺は、一体、何者だか知ってるかえ?」 「べつに。ただの飴屋でございます」 「そうか。おめえたちがそう思ってるから世の中は太平楽だ。まあいいやな。せいぜいおめえはあの年寄りの機嫌をとっておくことだな」  稲荷の麻吉はあざ笑って立ち去った。  麻吉がどんなことをしているか、松葉屋の傭い人たちは薄々知っている。しかし、麻吉はそんなことは歯牙にもかけない横柄な顔をしていた。彼は自分が皆から嫌われていることは知っているが、同時に誰からも抵抗をうけないことも心得ている。  だが、卯助を見る眼だけは違っていた。それは相手を無視することの出来ないような、一種の怯えのような色がひそんでいた。自分の所業を奥まで見透かされているような弱味を、卯助に行き遇ったときだけは見せた。それがかえって逆に憎しみとなって出てくる。麻吉が卯助の姿を見つめる時は、蛇のような冷たい眼になっていた。  まだ陽の高いうちだったが、卯助が近所に使いに出て帰りかけると、うしろから麻吉が大股で追って来た。 「おい、卯助さん」  と彼は卯助と肩をならべて歩いた。 「これは、親分さん」  卯助は小腰をかがめた。 「相変らず精が出るね」  と麻吉は云った。それが愛想でないことは卯助にも分っている。 「へえ。なにしろ年齢をとりましたので、からきし身体の意気地がなくなりました」 「なに、おめえくらい壮健《たつしや》なら結構だ。一文飴の荷商いよりやっぱり楽かえ?」  麻吉はそろそろ厭味《いやみ》を云った。 「へえ。そりゃもう、極楽でございます」 「銀次の世話だそうだな。世の中には親切な者があったもんだ。おめえは銀次を婿養子にするつもりかえ?」 「いえ、そういう訳ではございません。銀次さんは好い人で、ただその親切に甘えただけでございます。銀次さんに限らず、店の方はみんな親切にして下さいます」 「その親切にしてくれる人への遠慮かえ、おめえがみんなと一緒に風呂にへえらねえのは?」  この言葉で、卯助はちょっと黙った。それを探るように麻吉はじろりと見た。 「聞いたぜ、そんな話を」 「その通りです、親分」  と卯助は答えた。 「そりゃ、あっしの気儘《きまま》でね。やっぱり遅くなっても行きつけた風呂屋の方が心持ちが落ちつきます。ただ、それだけの理由《わけ》でさ」 「おめえの行きつけの風呂てえな梅の湯だな」 「へえ」  卯助は麻吉の心を計りかねて曖昧《あいまい》な返事をした。 「そうか、まあ、いいや。ところで、おめえの生国は何処だね?」 「………」 「変にとってくれちゃ困る。おれは何も御用の筋で訊いてるんじゃねえ。ちょいと心覚えに訊いたまでよ。御用で訊くときはおめえを番屋にしょっぴいて行かあな」  麻吉は最後の言葉に力を入れた。 「越後でございます」  卯助はぼそりと答えた。 「うむ。越後か。越後とはだいぶん遠いな。ところで、卯助さん、おめえのその腕の火傷も越後で受けたのかえ?」 「へえ──」  卯助は低い返事をした。 「そうか。そいつは災難だったな。今もって他人《ひと》前で布を解いて見せられねえとは、よっぽどの火傷に違えねえ。どうだえ、卯助さん、おれもこんな稼業柄、他人の傷改めが商売だ。のちのちの知恵のために、一ぺんその捲いた布を解いて見せてくんねえか?」 「親分の言葉だが」  と卯助は眼に光を見せて、きっぱりと云った。 「こいつばかりはご勘弁願います。この傷は醜い傷だ。娘にもまだ見せたことが無えので」 「なるほど」  と麻吉は云ったが、頬に冷笑が流れていた。 「娘にも見せねえほど嫌がる傷を、おれが無理にでも見る訳には行くめえ。今日のところは引き退ろう。だがな、卯助さん」  と彼は相手の顔をじろりと見た。 「おれは一旦思い立って遂げられなかったら、どうにも心に残っていけねえ男だ。まあ、このことを覚えておいてくれ」      四  稲荷の麻吉は、小部屋で酒を飲んでいたが、盃を強く置くと、 「ええ、面白くねえ」  と云った。宵の口から飲み出して、今夜はいつもより遅くまで腰を据えている。眼が酒で熟《う》れていた。 「あら、親分さん、どうなさいました?」  前に坐っているおみつという年増の女中が、銚子を持った手を上げた。 「どうもこうもねえ、面白くねえのだ」  麻吉は拗《す》ねるように肩を動かした。 「だから、何が面白くないんですか。さっきから妾《わたし》ひとりだけが差し向いでお酌をしているじゃありませんか」  おみつは媚びるように麻吉の赭い顔を見上げた。 「何をいやがる。てめえのような婆あに酌をされて酔えるけえ。さっきから生唾が湧いてしようがねえのだ」 「婆アで申し訳ありませんね、親分さん。いまにみんな呼んで来ますから。おあきちゃんも伺わせます」  おみつは麻吉の下心を読んだように云った。 「おあきは何処に行っているのだ?」 「二階の座敷です。今夜は日本橋の大事な旦那方が大勢見えているので、みんなその方へかかり切りなんですよ」  おみつはうっかり口をすべらせた。 「なに、大事な客だと?」  麻吉は眼をむいた。 「こいつあ面白え。すると何かえ、おれはこの家では大事な客ではねえというのか?」 「いえ、そ、そんなわけじゃありませんよ。そりゃ親分さんも大事なお客さまです。変ですよ、親分さん、今夜は」  おみつはあわてて酌をしようとしたが、麻吉はいきなり銚子をもぎ取ると片隅に投げた。 「あれ」 「ふざけたことを吐《ぬ》かすねえ。振舞酒を飲んでいるかと思って馬鹿にするな。こっちは大威張りで飲める訳があるんだ。それとも金が欲しけりゃくれてやる。てめえたちに乞食扱いされて堪るか」 「な、なにも、そんな、親分さん」  おみつは後退《あとじ》さりながら喘いだ。 「ええい、うるせい。金ならこの懐に江戸中の馬に喰わせるほどあるんだ。今夜はおれの散財だから文句は無え筈だ。みんな女中たちを呼んで来い。一人残らず集めろ」  稲荷の麻吉はふらふらと立ち上がった。 「あれ、親分」 「ええい、邪魔するな」  麻吉は襖を蹴って開けると、廊下に出た。眼が据わって動かなかった。  彼は折りから膳を抱えて廊下を通りかかった女中の肩を掴まえた。女中は、あれ、と膳を落して身体をすくませた。 「構うことはねえ。そいつはおれの勘定につけておけ。おめえはすぐにおれの座敷に入れ」  麻吉が肩を突くと、女中は悲鳴をあげて座敷に転がり倒れた。 「やい、やい。女ども」  と麻吉は廊下に仁王立ちに股をひろげて突立ち、大声で叫んだ。 「みんな集まれ。今夜はこれからおれが総上げだ。いま客に出してる酒や料理はおれが勘定を払ってやらあ。さあ、来い。ひとりも残っちゃならねえ。すぐ集まれ」  二階で騒いでいる声がぴたりと熄《や》んだ。帳場からも、料理場からも顔がのぞいた。 「おあきは居ねえか。おあき、下りて来い」  麻吉は喚きつづけた。 「畜生」  と料理場では銀次が歯を鳴らしたが、とび出してゆく勇気はない。帳場の男も顔色を失っている。お内儀は奥でおろおろしていた。  のそりと麻吉の背後から人が歩いた。落ちついた足どりだったが、麻吉の肩を叩くのもおだやかだった。 「親分」  麻吉はふり返った。 「だ、誰だ」  眼をすえて睨んでいたが、 「おう、おめえは卯助か」 「へえ」  卯助は頭をさげた。 「親分さんは酔っていなさるようだ。少しお寝《やす》みなさった方がいいと思いますがね」 「何を」  と麻吉は吼《ほ》えた。 「利《き》いた風なことを云うぜ。こいつあいよいよ面白くなった。おめえがおれを扱おうてえのか」 「いえ、そんな大層なわけじゃございません。あっしは親分の為《ため》を思って申し上げてるんでね」 「おれのためだと?」  麻吉は眼を光らせた。 「ようし。どう|ため《ヽヽ》が悪いのか聞こうじゃねえか。おれもお上の御用を勤めている者だ。耳学問におめえの講釈を承ろうじゃねえか」 「親分。まあ、こっちに来なせえ」  卯助が手を握って引張ると麻吉の身体は廊下を泳いだ。 「な、なにをしやがる」 「いいから来なせえよ」  卯助に抱えられて、酔った麻吉は他愛なく引きずられた。みんなが呆れたように棒立ちになって見送った。  二人の姿は松葉屋の裏門から消えた。どうなることかと思っている皆の前に、やがて戻ってきたのは卯助ひとりだった。 「なにね、おとなしくひとりで帰りなすったよ」  と卯助は皺の多い顔で笑っていた。しかし、卯助がどんな方法で荒れている麻吉を説得したか誰にも分らなかった。  その翌《あく》る晩のことである。  卯助がいつものようにおあきに途中まで送られ、油堀を渡って裏長屋のわが家に帰った。彼は手拭いをさげて夜風に当りながら、少し歩いたが、途中から足を変えて火の見櫓の下を通って、少し遠い熊井町の亀の湯に行った。そのころの銭湯は八ツ(午前二時)近くで湯を落していた。  夜更けのしまい湯のことで、さすがに客は疎《まば》らであった。卯助は昼間の汗を流していい気持だった。番台では番頭が蝋燭の灯影《ほかげ》で居眠りをしている。蝋燭は洗い場や衣類の置き場に湿ったような暗い光を放っていた。  卯助が柘榴口《ざくろぐち》から出て身体を拭い、着物を着ようとすると、にわかにその左の腕を誰かにつかまえられた。  暗い蝋燭の光は稲荷の麻吉の顔を映し出していた。 「おお。こりゃア親分さん」 「卯助。昨夜は厄介をかけたな」  麻吉は、しっかりと卯助の腕を握って放さなかった。 「へえ」 「へえじゃねえ。おれは礼を云いに来たのだ。おめえはたしか梅の湯に行くと云ったな。やい、ここは亀の湯だぜ。まさか梅と亀とを間違えるほどおめえも耄碌《もうろく》はしめえ。こんなことだろうと思っておれはさっきから待っていたのだ。おめえの了簡はたいてい分っている。おれに梅の湯といったもんだから、要心にこっちの湯に来たのだろう。おれはおめえの勘定より先廻りしてここで待ってたのだ」  麻吉は一気に云った。 「そりゃ親分の邪推だ。あっしは気ままにこっちに来たばかりだ」  卯助は握られた手を引こうとしたが、麻吉は放さなかった。 「昨夜はおれが酔ってたから、おめえに|いなされた《ヽヽヽヽヽ》が、今晩はそうはゆかねえ。正気ならおめえなんぞにからかわれやしねえ。やい、うろたえずにこの腕を見せろ」  麻吉は卯助の左の腕を強く手ぐり寄せると蝋燭のところに近づけた。まだ濡れている卯助の肘の下に四角い桝形《ますがた》の入墨がべっとりと彫られていた。 「ざまア見やがれ」  麻吉はそれを確かめると勝ち誇ったように云った。 「やっぱり、てめえは無宿の悪党だったな。火傷の痕が汚ねえと他人には見せられねえ筈だ。湯にもみんなとは入らねえ筈だ。入墨者と分っては律義そうなおめえの化けの皮が剥げるからの」 「親分──」  といったが卯助はあとを黙った。 「やい。口が利けめえ。しかもこの入墨の型は長門《ながと》のものだ。びくりとすることはねえ。おれも目明しだ。四書五経を暗記《そらん》じねえでも、それくらい知らねえでどうする。卯助。てめえ、小博奕ばかり打ってたのじゃあるめえ。けちな掻渫《かつさら》いか、強請《ゆすり》でもして牢に喰らい込んだか。どうせ押し込みなんぞ出来る肝っ玉は持っちゃいめえからの」 「親分さん。堪忍して下せえ。あっしが悪かった」  卯助は白髪のまじった頭を垂れた。 「なに。堪忍してくれだと?」  麻吉はあざ笑いを泛べて云った。 「どうしてくれと云うのだ?」 「おめえさんの云う通りだ。私は若えときにぐれて博奕で喰い込み、こんなお仕置きをうけました。だが、今じゃ真当《まつとう》な人間だ。こんなことで折角ありついた楽な仕事から追われたくねえ。私も年齢をとりましたでね。それに、このうらめしい烙印《やきあと》は、娘にも見せたことがねえ。親分さん。分って下さるだろうね?」 「ふん。勝手なことを云うぜ」  麻吉は吐いたが、すぐに何かを考えたように、握った手をゆるめた。 「なるほど、おめえも年齢をとっている。ここでおめえのような者の素姓をあばき立てても大人気ねえ。娘も可愛かろう。だがな、卯助。そんなに娘が可愛いなら、別の方法もあるぜ」  稲荷の麻吉は、にたりと笑うと、はじめて卯助の腕を解放した。      五  それから三晩目の雨の夜中である。  表の戸を叩く音で、卯助は眼をさました。 「誰だえ?」 「おれだ、おれだ」  外の声は乱れていた。卯助は起きて戸を開けた。銀次が濡れた姿で息を切らせていた。 「どうした、今ごろ、銀さん?」 「大変だ。松葉屋に押し込みが入ったのだ」  銀次は倒れかかるように云った。 「なに、押し込みだと?」 「うむ。奥座敷で木場の旦那衆が遊んでいなさるところに大勢で入ったのだ」  奥座敷で月に二度、どんなことが行なわれているか、卯助も銀次も薄々知っていた。押し込みの賊はその金を目当てに侵入したに違いなかった。 「まだ逃げずに居るのかえ?」  卯助は帯を締め直して訊いた。 「客も女中も傭い人もみんな縛って落ちついたもんだ。おれはやっと縄を解いて見つからねえように逃げて来たがね。心配なのは女どもだ。どんな悪戯《わるさ》をされるか分らねえ。おあきさんも縛られている。おれはそれが心配で、辻番よりおめえのところに先に走って来たのだ。何しろ稲荷の麻吉まで縛られているんでね」 「あの狐もその場にいたのか」  卯助は眼を光らせた。 「今から辻番に駆け込んでも、間に合うかどうか分らねえ。一体、押し込みの連中は、どれぐらいの人数かえ?」 「五、六人というところだ。事情を知って入ったらしい。刃物を突きつけてのことだから始末におえねえ」  銀次は自分の不甲斐なさを弁解するように云った。 「よし」  卯助は戸閉まりに使った樫《かし》の棒を手に持つと、その場から走り出した。足に泥を刎《は》ね上げながら後からついて来る銀次へ、 「銀さん、危ねえから、おめえは家の中へは寄りつかねえでくれ」  と注意した。雨は相変らず降っている。  卯助が松葉屋の裏口から忍んで入ると、帳場の横につづいた納戸《なんど》では傭い人たちが転がされていた。見張りの頬被りの男が立っていたが、卯助の姿を見ると、 「お。何だ、てめえ」  と匕首《あいくち》を持って構えた。卯助は、どこにそんな身軽さがひそんでいたかと思うような速さで飛びかかると、光った物を棒で叩き落した。見張りの男が障子を仆《たお》して転ぶと、その脛《すね》を卯助の棒が叩いた。男は悲鳴を上げた。  奥座敷の方から誰か走って来る足音がしたが、卯助は出遇いがしらに黒い影を棒で殴った。相手の影は手で頭をかかえてうずくまった。  座敷は明るかった。百目蝋燭が燭台の上に燃えている。その下に散った小判や小粒の光った堆積をとり巻いて、二組の人間がいた。五、六人の男たちが隅に寄りかたまって臀《しり》をついて恐怖で縮んでいる。稲荷の麻吉がその中で蒼くなっていた。  頬被りに尻からげで、毛脛を出した男たちはお定まりの夜盗の恰好だったが、白刃の長いのを突きつけているのも決まった型だった。一人が屈《かが》んで、場の金を包みこむところだった。  卯助が入って行くまでに、いまの物音を怪しんだか、三人がこちらに向きを変えていたが、卯助ののっそりした姿を見ると、一人がものも云わずに刀を振るって来た。  卯助はお辞儀をするように腰をかがめると、棒を伸ばして刀を叩き落した。次にその頬被りの顔の正面を撲《なぐ》った。  金を蔵《しま》い込む男もおどろいて立ち、三人とも刃物をもって卯助の正面に身を構えた。 「や。老いぼれじゃねえか」  と一人が云った。眼ばかり光らせて彼らは、じりじりと爪先を寄せた。 「やいやい、じたばたするな」  と卯助は叱った。 「そんなおもちゃで脅かされていちいち金を持って行かれちゃ堪らねえ。そのまま一文も手つかずに置いて行け。女たちが朝晩拭き込んだ鏡のような廊下に泥を上げたのは了簡がならねえが、まあ子供の悪戯だと思って勘弁してやる。早えとこさっさと失せろ」  横に廻った一人が、いきなり刀を振ってきたが、卯助は棒で叩いた。 「えい、聞き分けのねえ野郎だ。下手なかんかん踊りをしやがると、表の水溜りの中に面を突っ込ますぞ」  卯助は棒をとり直した。  気怯《きおく》れがしたように、男たちは後に足を一歩退いたが、その中の一人が眼をむいて突然、構えを崩して叫んだ。 「おう。おめえさんは蜈蚣《むかで》の兄哥《あにい》じゃねえか」  卯助は、初めて顔色を動かした。 「なに。だ、誰だ、てめえは?」  叫んだ男は刀を投げると頬被りを除《と》った。額に疵のある髭の濃い顔が表れた。 「おれだ、おれだ。上州の熊五郎《くまごろう》だ」  卯助はじっと見ていたが、 「うむ。違えねえ。おめえは熊だ。珍しいとこで会ったの?」 「面目ねえ」  と熊五郎は頭を掻いた。 「こんなところに兄哥が居ようとは思わなかった。勘弁してくんねえ。──やい、てめえら、その光り物を片づけろ」  と熊五郎は仲間を叱った。 「このお方はな、蜈蚣の卯助さんといって以前《もと》はでかいことをして鳴らした大そうなお人だ。おれたちが五十人かかっても敵《かな》うお方じゃねえ。早く謝れ」 「二昔も前のことを云うぜ、熊」  と卯助は嗤《わら》って云った。 「おれは年寄りだ。そんな悪事とは疾《と》うに縁を切っている。いやな時におめえは面を見に来てくれたな」 「なるほど、兄哥も年齢をとったなあ。おれははじめ気がつかなかったぜ」 「当り前《めえ》よ。再来年には六十にならあ。今じゃ料理屋の掃除番で、娘とこの家に奉公して、おれなりに気楽な暮しをしていたのだ」 「うむ。そう云やおめえさんには女の子がいたな。もう大きくなったろう。死んだ姐《あね》さんはきれいな女《ひと》だったから、おっ母さんに似て容貌好《きりようよ》しだろう」 「その娘は、おめえたちに縛られて、あっちで転がってらあな」 「いけねえ」  熊五郎は、一人に云いつけてすぐに納戸に走らせた。  卯助は、隅に縮んでいる稲荷の麻吉に眼を向けた。 「おう、稲荷の」  麻吉は、びくりと眼を慄わせた。 「いま、おめえが聞いたような次第だ。もう腕の入墨もへちまも無え。なまじ人さまにかくそうとしたから狐のようなおめえに脅かされたのだ。もう大びらだぜ、稲荷の」 「へえ」 「仕舞湯まで足労かけたが、おあきをどうのこうのというおめえの話の筋は、これで消えたようだな。おれも年齢をとって気が滅法弱くなったが、そのせいだろうな、おめえが怖かったぜ。いっそ、これで迷いの夢がさめたようだ。熊。何がきっかけになるか分らねえな」 「何のことだね」 「おめえにゃ分らねえ話よ。熊。この男をみろよ。これで十手をもっている人間だ。その十手は弱え者を餌食にしている道具でね」  熊五郎が麻吉を睨むと、彼は膝を後にそっとすべらせた。 「いい人ばかりだったが、此処の奉公もこれきりだ」 「済まねえ、兄哥。真当になったおめえに迷惑をかけた」 「なに、構わねえ。なまじおれが弱味をかくしていたからだ。人間、古疵でも大威張りで見せて歩くことだね。そうしなけりゃ、己《うぬ》が己に負けるのだ。明日から、また、子供相手の一文飴売りだ。──子供はいい。子供は飴の細工だけを一心に見ているからな」  外の雨の音が強くなって、屋根を敲《たた》いた。 [#改ページ]   雨と川の音      一  江州無宿の与太郎《よたろう》が博奕場《ばくちば》の争いで人を斬って伝馬町に入牢《じゆろう》した。羽目通りに坐ったその晩から彼は腹を押えて苦しみだした。身体を前に折って低い呻《うめ》きを洩らしていた。 「おい、どうした?」  と牢役人が寄って来て訊《き》いた。  牢内で病人が出ることは珍しくない。「牢内の病気とはみな牢疫病なり。これは数年人々をこめ置き候故、自然と人の身の臭気こもりて、此の臭気を鼻に入れ候故、皆牢疫病に成るといふ」と≪牢獄秘話≫という写本にあるが、この牢疫病というのは、牢内で発生する伝染病のことだ。新しい空気と光から閉鎖された陰惨な世界だから、こんな病気は起り勝ちで、牢死する者も尠《すく》なくなかった。  だが、与太郎はいま入牢したばかりだから牢疫病ではない。彼は顔を顰《しか》めて答えた。 「何だか胸元が苦しくてなりません。下腹《したつぱら》のあたりが引き吊るように痛みます」 「てめえ、疝気《せんき》持ちか?」 「へえ。これが持病でございます」 「疝気ぐれえであわれっぽい声を出すな。今晩一晩、おとなしく我慢して居ろ。ここは地獄の溜場《たまりば》で、これからも随分と我慢の要るところだ」  牢役人は威《おど》かすように云った。  しかし、与太郎はその晩、一睡もしないで低いうめき声を立てていた。朝になると、もっそう飯に菜汁が出る。それには彼は一箸もつけなかった。昼は無く、夕食は早目に出る。与太郎はそれにも手をつけない。蒼い顔をしてさしうつむいていた。 「新入り。どうしたえ?」 「へえ。差し込みが癒りません」 「まあ辛抱しろ」  牢役人は云った。余った飯はほかの平囚人が争って奪った。  与太郎は四日つづけて食わず飲まずにつくばっていたが、五日目には虚《うつ》ろな眼をして犬のような息を吐いていた。 「新入り。痛むか?」  牢役人はのぞき込んだ。 「へえ、とてもやり切れません」  与太郎はかすれた声を出した。二番役が名主に相談すると、 「いたわってやれ」  とあごをしゃくった。牢入りしたとき、与太郎の持って来たツルは少ない方ではなかった。  牢付医者は毎日一回、朝食後に見廻りにやってくるが、これに申告するのは牢名主だった。 「申し上げます。病人がございます。ご慈悲をもちましてお診療《みたて》を願います」  名主は畳を降りて、鞘《さや》の内から声をかけた。 「誰だな?」  医者を連れた同心が立ち止まった。 「江州滋賀郡草津村無宿与太郎でございます」  名主が答えた。 「よし、これへ出せ」  鎰番《かぎばん》が錠口を開けると、与太郎はよろよろして三尺の入口を匍《は》って出てきた。張番が蓆《むしろ》を持って来て敷くと、与太郎はその上に横たわった。  医者が屈み込んで、与太郎の手首をとると、彼は隠し持っていた二分銀を素早く医者の広い袂《たもと》の中に落した。医者は知らぬ顔で、首を傾《かし》げて眼を瞑《つむ》っていた。 「なるほど、これは重病でござる」  医者は手を放すと、同心を見上げた。 「重病人かな」  同心は与太郎を見下ろした。与太郎は蓆の上に萎《な》えたように伸びて肩で息をしていた。 「ここでは手当が充分ではござらぬ。溜《たまり》に送ったがよろしかろうと存じますが」  医者は意見を云った。  こうして江州無宿の与太郎が、浅草溜へ送られたのは、伝馬町入牢後五日目であった。溜というのは、在牢中の重病者を収容した。浅草と品川と二カ所あり、浅草の方が規模が大きかった。九百坪の敷地に三つ溜が棟を別けて建ち、三百人以上は収容出来た。ただし、ここに移送されるものは、伝馬町より一旦出牢の形式をとって移されるもので、快癒すれば元に戻って仕置をうけねばならなかった。重病人でも逆罪の者は溜送りを許されなかった。  溜の構造は牢舎と大体同じだが、その性質上、取扱いは幾分寛大であった。たとえば、夏の土用には鞘《さや》内で涼ませたり、冬には焚火に当らせ、寒中には夜間粥を給与した。すべて病人に対する心遣いが見えている。牢舎の建て方も、伝馬町ほど厳重でなく、享保三年に大岡越前守が若年寄に報告した書面には、「溜と申候は、長屋作りに仕り、総板敷畳を敷き、竃も内に有之、昼夜とも煮焼《にたき》いたし、湯、茶、たばこ、薬等も給《た》べ申し度き時分は、心の儘に下され、寒気の節は焚火にもあたり居り、風呂も幾度も入り、第一牢屋と違ひ、格子一重にて、はればれといたし吹貫き申候につき、あしき臭ひは曾《か》つて御座無く候て、きれいに候。その上、囚人の内、庭へも罷出候間、牢内とは格別囚人のためにはよし、病人など養生には溜の方至極よろしく候旨申聞候」とある。少々、結構ずくめを誇張したようであるが、伝馬町より寛《ゆる》やかであることはたしかだった。  しかし、病人なら誰でも溜送りになるという訳にはゆかない。そこは医者の心得次第だった。医者に同情をもたれていない病人は、たとえその必要があっても、なに、大事ない、と在牢のまま取り残された。死んでも医師は格別に責任を感じないのだ。それでなければ、伝馬町牢からあれほどの牢死人は出ないのである。溜送りにするかどうかは、牢医の手心一つであった。  江州草津の与太郎が五日間飲まず食わずの苦しい修行をして仮病《けびよう》を遣い、牢付医者の袖の中に二分銀を落したのは、溜送りになりたいためだった。いや、実は、それから先の第二段の目的があった。      二  溜に入ると、与太郎は少しずつ粥をすすった。小屋には溜薬役というのがいて、昼夜二人ずつ勤務して、預かり病囚の煎薬、病人の好物煮焼などを給与した。奉行所からは与力が毎日見廻りにやって来るだけだった。  与太郎が入った小屋には病人が五、六人、元気なのが三人居た。三人の男は、別段患いが癒ったという体《てい》ではない。はじめから健康な男たちだった。  一人は三十二、三、あとの二人は二十五、六で、一目で無宿者と知れたが、何で彼らが此処に入ったか与太郎には見当がつかなかった。三人は自分ら同士でひそひそと隅で話をしていることが多い。  年嵩《としかさ》の男は、頬から顎《あご》にかけて疵《きず》があり、太い濁《だ》み声であった。この男は年長者らしく万事若い両人を抑えている様子だった。くぼんだ眼に粘《ねば》い光があった。  溜では毎朝一回、町医が巡回に来る。溜上番人付添で、外鞘まで病人を呼び出しては診る。寝たままの重病人は、格子の内まで入って診察した。 「どうだ、具合は少し快いかえ?」  町医は与太郎の脈を診た。 「へえ。ちっとは楽になりました」 「そうか。もう四、五日も粥をすすっていたら御奉行所からのお呼出しにも歩いて行けるだろう。まあ、気をつけな」 「へえ、有難う存じます」  与太郎は頭を下げた。彼にはまだ裁きが済んでいない。元の身体になったら、裁判を受けねばならないのだ。博奕と傷害では軽く済みそうもないことは彼にも分っていた。 「与太郎とかいったな」  医者が去ったあと、頬の疵の男が傍《そば》によって来た。 「へえ」  与太郎は頭を上げて返辞した。 「塩梅《あんべえ》はどうだえ?」  だみ声が親切そうに響いた。 「へえ、だいぶ楽になりました」 「そうだろう、おめえが此処に入ったのは一昨日《おととい》だったが、ずんと顔色がよくなったぜ」 「有難うございます」 「おれに礼を云うことはねえ。おめえ、何を犯《や》ったのだ?」 「盆の上のいざこざで、つい、人と争いましたので」 「殺したのか?」 「殺しゃしねえ、疵《きず》を負わせました」 「うむ、殺さねえでも、博奕場の喧嘩じゃ軽くは済むめえ。まず、島送りだな」  与太郎は黙った。彼もそれを覚悟していなければならなかった。 「心配するな」  と男は彼に云った。 「おめえのは南の島だ。三宅島か八丈島か知らねえが、まっとうに働いて居ればご赦免に遇《あ》わねえとも限らねえ。まあ長生きしろ」 「へえ」  与太郎は男の顔を見た。 「兄哥《あにい》は、何でここに入りなすったのかね?」 「おれか」  と男は口もとを歪《ゆが》めた。 「おれも島送りだ。ほら、そこに不景気な面をしている両人《ふたり》とよ」 「やっぱり八丈島かね?」 「おれたちのは北だ。おめえの行く方角とは反対だ」 「北?」 「佐渡送りよ。おれたちは水替人足に送られるのだ。人数が揃うまで、ここに入ってしばらく江戸の名残をさせて貰ってるのだ」  男は説明した。  佐渡金銀山の水替人足を送るため江戸では無宿人の狩込みが時々行なわれた。佐渡送りは一回に三、四十人をまとめて護送する。その頭数が整うまで、この三人の無宿人は溜で待たされているのであった。 「佐渡送りとなれば、陽の目を見ねえ地の底で牛馬の働きをするこの世の地獄だ。二度と生きちゃ帰られねえ。同じ島送りでも、方角ばかりじゃねえ、何もかもおめえとあべこべだ」  男はここまで云ったが、ふと与太郎の眼の中を覗き込んでつけ足した。 「だがよ、そうは云っても、おめえだってそう安心は出来ねえぜ。新島、三宅、八丈には磯風に吹かれている流人《るにん》墓も多いのだ。無事に帰られても十年十五年、この世に愉《たの》しみの用事の無え身体で戻されて来るのだ」  与太郎はまた黙った。実は彼もそれを疾《と》うから考えていたのだ。どうかしてそれだけは脱れたいと思っている。彼はまだ娑婆に未練があった。男は、返辞をしない与太郎のその顔を嘲るように眺めて離れた。  男が再び与太郎の傍に来たのは、四ツを過ぎてからだった。与太郎が、うとうとしている耳の傍で男の声が揺り起した。 「与太郎、与太郎、ちょいと目を醒ましてくれ。おめえに話がある」  与太郎が眼を開けると、うす暗い中に男の臭い息が頬にかかった。 「何か用かえ?」 「叱《しつ》。大きな声を出すな。ほかの奴は睡《ねむ》っているのだ」  と男は低い声で云った。 「寝入りばなを起して悪かったな」 「うむ、まだ身体が本当にならねえのでね、弱っているせいか、昼も夜も眠くなります」 「そうか。うめえ台詞《せりふ》を云うぜ」 「え?」 「なあ、与太郎、おめえ、何か考えてやしねえか?」 「べつに」 「嘘|吐《つ》け、おめえの顔に書いてある。ほかの者はごまかせても、おれの眼はごまかせねえぜ」  男は、凝《じつ》と与太郎の顔に眼を据えた。 「な、何のことだね?」 「これ、大きな声を出すなと云うに。他の者に聞えちゃおめえの都合も悪かろう。与太郎、おめえ、この溜から抜けるつもりだろう?」 「な、何を云うのだ」 「えい、シラを切ることはねえ。そのくれえのことが見通せねえでどうする。おれは、おめえが此処に入って来た時からそう思ったのだ」 「………」 「理由《わけ》を聞かせてやるから、膨《ふく》れ面をするな。おめえのは本当の患いじゃねえ。仮病だ。仮病で溜送りを願い出たのだ」 「そ、そりゃ云いがかりだ」 「まだ云やがる。与太郎、こう見えても、おれは若い時に藪医《やぶい》の薬箱持ちを三年やったのだ。門前の小僧で、三年の年季を入れりゃたいていの病人の察しはつく。おめえ、牢医にいくら掴《つか》ませた? 衿《えり》に縫い込んだツルの残りだから大そうなことは出来めえ。一分も遣《つか》ったか?」  与太郎は、男の顔を凝視して黙った。 「うむ、呆れておれの顔を眺めているところを見りゃ図星だな。だが安心しろ、手柄顔に訴えるようなケチな真似はしねえ。それどころか、おめえの望みを達してやろうと思っているのだ」 「望みだと?」 「もう止しねえ、この市助《いちすけ》に、──あ、そうだ、云い忘れたが、おらア信州無宿の市助というのだ。憶《おぼ》えておいてくれ」  男は自分の名を名乗った。 「その市助さんがおれに何を云って聞かせようと云うのだね?」  与太郎は、身構えるように身体を固くして云った。 「知れた話だ」  と市助はやはり小さい声で云った。 「仮病を使って溜に入る。別段、楽をするつもりでおめえは入ったのじゃあるめえ。そのつもりなら、おめえのように寝ていても、眼玉をきょろきょろ動かす筈はねえ。その眼玉は溜抜けを企《たくら》んでいる眼だ」 「え」 「どうだ、おれの眼は何も彼も見通しだろう。だがな、そりゃ悪い了簡じゃねえ。それどころか、伝馬町の大牢からこの溜を考えたところなんざ感心したぜ。伝馬町じゃ厳重過ぎて逃げられねえからな」  市助は喋《しやべ》った。 「早え話が、ここは格子が一重だ。伝馬町なら外鞘表鞘《そとざやおもてざや》と二重になっている。外囲いに堀があることは変りはねえが、伝馬町は高さ七尺八寸の練塀だが、ここは木柵が打ってあるだけだ。そのせいか、伝馬町には牢抜けのあったことがねえというが、溜抜けはちょいちょいあったと聞いている」 「市助兄哥」  と与太郎は呼んだ。 「それじゃ、おめえも溜抜けを考えているのか?」 「うむ、やっと呑み込みがついたらしいな。当り前よ。佐渡へなんぞ送られて堪るもんか。おれたち三人、早えとこ此処を抜けようというのだ。そこへ、おめえが入って来た。逃げ路を作るのは多いほどいい。どうだ、こういう大事を明かしたからには、おれの頼母子講《たのもしこう》に一口入るだろうな?」  市助は暗い中から眼を鋭く光らせた。厭だと云ったら、その場でも咽喉を締めに来そうだった。 「うむ、おめえの云う通りになるよ」 「そうか。そう来なくちゃならねえ。おめえにとっても、おれのような男が此処に居たのは福の神に出遇ったようなものだ。そうと決まったからには、やい、与太郎、早く足腰をしゃんとさせろ」      三  それから二日置いて、外に雨の降っている真夜中、市助と与太郎、若い無宿人二人の四人はこっそりと起き上がった。 「与太郎、ほかの奴らは睡っているか?」  市助は声を忍ばせて云った。 「うむ、白河夜船だ」  与太郎はならんでいる蒲団を見廻して云った。 「よしよし。おめえは油断なく奴らを見張っていろ。眼をさまして声を立てそうだったら、構うことはねえから、すぐに咽喉に手をかけろ」  市助が指図役であった。 「与太郎、これを見ろ」  と市助は薄い金の棒をとり出して見せた。 「手桶を叩きこわして金輪を外し、棒に延ばして三つに継いだのだ。これだけ作るにも大骨だったぜ」  金輪の延ばしたのを三筋に継ぐと長さ四尺はありそうだった。薄いから先はひらひらと撓《しな》っていた。 「そんな物で、牢格子が切れるのかえ?」  与太郎が訊くと、市助は声を立てずに嗤《わら》った。 「おめえも知恵のねえ男だな。あれを見ろ」  と市助は格子の外を指さした。  そこに金網《かなあみ》をかけた行灯《あんどん》がうすい光をとぼけたように出していた。 「よく眼をむいて見ろ。行灯の金網は古くなって一所《ひとところ》破れている。おれは此処に来た時、すぐにあれに眼をつけたのだ。ありようは、あれが目に入ったから今度の溜抜けを考えたのだ。ここからあの行灯まで四尺ぐれえはあらあな。何とか届く方法はねえかと、知恵を絞ったのがこれだ。まあ、細工は見ていてくれ」  市助は筋金の先に小さいぼろ布を巻きつけた。それを格子の間から差し出し、破れた金網の間から突込むと、行灯の火はぼろ布に燃え移って赤い火を出した。 「しめたぞ」  市助は筋金を手もとに引いた。ぼろの火はきな臭い匂いをさせながら煙を上げて格子の内に入った。 「それ、愚図愚図するな」  彼は若い二人に云った。かねて用意してあったと見え、蒲団の中から摘み取った古綿や板片を彼らは手に持っていた。 「それに火を吹きつけろ」  口で吹きつけると、ぼろ布の火は綿や板ぎれに移った。それをさらに格子の一本と横貫《よこぬき》に押し当てて、息を吹っかけた。赤い火はじりじりと格子の木肌を焦がしはじめた。 「与太郎、どうだ?」  与太郎はその知恵に感心した。 「なるほど、うめえことを考えたな」  与太郎が溜から脱走を考えたのは、もっと幼稚な方法だった。それは溜から再び伝馬町に帰される護送の途中、横目の油断を見計らって逃げ出そうという考えなのだ。だが、それは万一の僥倖《ぎようこう》を狙うだけで、成功するかどうか自信がなかった。それに比べると市助の考えたこの方法は、ずっと物理的な計画であった。 「よし、感心ばかりしていねえで、ほかの奴らは大丈夫か。眼をさました奴があったら、遠慮なしに咽喉を押えろ」  市助は命令した。  与太郎が見張る。市助ら三人は格子に火を焼きつける。伝馬町と異《ちが》って、ここは未明まで見廻りが無かった。作業は長い時間をかけたが、確実に進んだ。 「よし、もうよかろう。さあ、押してみろ。音を立てるな」  市助が二人に云った。三人の手が格子を押すと、その一本と横貫がかすかに軋《きし》んで折れた。 「さあ、外れた、外れた」  四人は声にならぬ歓声を上げた。耳を澄ますとどこからも声が聞えない。雨の降る音ばかりがしている。市助から先に鞘の外に匍い出た。一重格子だから助かった。  市助は溜境の開き戸を静かに押した。  外に出ると強い雨で人の影も見えなかった。ここはまだ溜の地内だから油断は出来ない。四人は雨の中を濡れ犬のようになって木柵の方へ歩き出した。  すると、小屋の中が俄《にわ》かに騒々しくなった。大きな声を誰かが上げている。 「ほかの奴らが注進したのだ。眼をさまして様子を見ていたな」  と市助は舌を鳴らした。 「そんな筈はねえ。おれは見張っていた」  与太郎が云うと、市助は嗤《わら》った。 「おめえも人が好いぜ。眼が醒めても寝たふりをしていたのだ。うかつに起きると、何をされるか分らねえからな。まあそんなことはどうでもいい。ぐずついちゃ居られねえ、走るんだ」  四人は走り出した。小屋の中の物音は大きくなり、戸を倒して人の駆け出る音が聞えた。 「やい、かたまって逃げちゃ駄目だ。ばらばらになるんだ。離れろ、離れろ」  市助は必死に云った。  与太郎は夢中で木柵に匍い上がった。雨に濡れて木が滑った。離れたところで二つ水音がつづいて起ったので、堀にとび込んだのだと知った。彼が木柵をまたいで暗い中に落ちたとき、冷たい水が頭の上から全身に殺到した。  与太郎は逃げた。この辺りは人家が遠く、田圃《たんぼ》ばかりだ。道といわず、畠といわず、彼は無茶苦茶に走った。水と雨で濡れた着物が身体に捲きつき、走るのに邪魔だった。そこで彼は着物を脱ぎ捨てて裸になった。それからまた駆け出そうとすると、後ろの闇の中から、 「おい、待ってくれ」  という声が聞えた。与太郎は、ぎょっとなって身体を構えた。 「愕《おどろ》くことはねえ、与太郎、おれだ、おれだ」  と黒い影を近づけたのは市助だった。 「ずいぶん、速い足だな。追っつけなかったぜ」 「おめえ、おれのあとから来ていたのか?」  与太郎は暗い中で眼を瞠《みは》った。 「そうよ。おめえを見失うめえと気をつけて来たのだ」 「ほかの両人は?」 「あんな野郎、どうでもいい。どこか勝手な所へ逃げてるだろう。なあ、与太郎」 「え」 「おれはおめえと当分つながって歩きてえのだ。何だか気が合いそうだ。仲よくしようぜ」  市助は今度は太い声を野放図《のほうず》に出した。 「おれと一緒に?」  与太郎はぼんやりした。 「そうよ。こういう時は連れがあった方が心強え。おめえだってそうだろう。おれのように目はしの利く男と一緒なら損はねえ筈だ。おや、おめえ、裸か?」 「む、走るのに邪魔になるから捨てたのだ」 「そりゃいけねえ。邪魔なら手に持って歩きねえ。人の通る道に出たら裸じゃ見咎められる。着物の濡れたのは雨の中を歩いて川の中に落ちたといえば済むからな。第一、着物を捨てると、追手に逃げた方向を教えるようなもんだ。それ見ねえ、おれはこれだけ気を配る男なんだ」  二人は泥だらけになって大股で歩き出した。その方角を、市助はじっと覗くようにしていたが、 「与太郎、あれが見えるか?」  と遠方を指した。遠いところに一劃《いつかく》だけ闇の中に、ぼうと明るかった。 「あれは吉原だ」  と市助は云った。 「こうして、おいらのように濡れ鼠になって逃げる者もあれば、あの賑やかな灯の中で贅沢な散財をするものもあるのだ。なあ、与太郎」  と彼は区切って云った。 「人間、命のある間に、したいことをするもんだな」  与太郎はこの新しい連れが厄介になりそうに思えてきた。      四  雨は相変らず止みそうにない。与太郎と市助は、暗い、泥濘《ぬかるみ》の道を、しばらく黙って歩きつづけた。 「市|兄哥《あにい》」  と与太郎が不機嫌な声で云った。 「何だ」  市助が前から返辞をした。 「一体《いつてえ》、どこを目当てに行くのかえ?」 「何も目当てなんざ無え。追手に捕まらねえところに行けばいいんだ。先のことは、それからの算段よ」  当り前のことを訊くな、という響きが市助の云い方にあった。与太郎は、この市助という男の横柄さと、妙に図太いところが不快だった。あとから追いついて来て、勝手にくっついて歩く嵩《かさ》にかかったやり方も苛立《いらだ》たしい。一緒に溜抜けをした仲間の親近感は少しもなく、この男と連れ立って歩いたら、ろくなことは起るまいという予感がした。  与太郎は、出来るなら市助と別になりたかった。もう少し歩いたら、隙をみて離れてやろうと思った。 「与太郎、こうなりゃ先の見えるところまで二人連れだ。仲よく行こうぜ」  と市助は与太郎の心を読んだように云った。  与太郎は心の中で舌打ちした。 「市兄哥、おめえの在所は何処だえ?」  与太郎は市助の行先に探りを入れた。 「おれか。おれは信州よ。松代《まつしろ》に近えところだ」 「その松代の在におめえは行くのかえ?」 「莫迦《ばか》野郎。そんな所へ行けば、お手当が廻って軍鶏籠《とうまるかご》で江戸に逆戻りだ。桑原、桑原。当分は、何処かに|ふけ《ヽヽ》るのだ。うむ、そういうおめえも、まさか故郷《くに》の江州に帰りてえのじゃあるめえな?」 「帰りたくても、おめえの云う通りだ。ほとぼりのさめるまでは仕方があるめえ」  溜は抜けたが、行先が定まらない。この闇夜と同じように、皆目、見当がつかなかった。今は、ともかく、安全な地帯まで遁《に》げるのが精一杯であった。 「おう、あれは駕籠《かご》だな」  市助が立ち停まって、前方を透かした。道は人家のあるところに来ていたが、暗い軒の下に提灯がぽつんと灯りを見せていた。篠《しの》つくような雨に、駕籠屋が雨宿りしているらしかった。 「与太郎」  と市助は低い声でささやいた。 「天の佑《たす》け、渡りに舟とはこのことだ。あの駕籠かき共を脅《おど》して追っ払おうじゃねえか」 「追っ払ってどうするんだ?」 「駕籠をこっちに奪るのだ。まだ分らねえか。俺たちが駕籠をかついで逃げるのだ。こいつは裸で歩いても、誰も怪しむものは無え。そのうち、駕籠屋かと思って客でも呼びとめたら、そいつを乗せ、金をいたぶって路銀にするのだ。どうだ、うめえ工夫だろ、おめえひとりじゃこの軍略は浮ばねえぜ」  市助はひとりで昂《たか》ぶっていた。  与太郎は、市助という男の正体がだんだん分ってきた。こんな悪党とは早く別れなければ飛んだ捲き添えを食いそうだと思ったが、さりとて今の場合、彼の云うなりに随うよりほか、いい知恵も浮ばなかった。そのうち、機会《おり》をみてと思っていた。  暗い軒の下では、思った通り、空駕籠を降ろして、駕籠かきがぼんやり立っていた。棒鼻《ぼうばな》には提灯がぶら下がっていた。向うでも、雨の中を半裸で歩いてくるこちら二人を怪しむように窺《うかが》っていた。 「おう、兄い」  と市助は駕籠かきの方へ近づいた。 「ちょいと、その提灯の火で、莨《たばこ》をつけさせてくんねえ」  駕籠かき二人は警戒するように黙っていた。  市助は、構わずに提灯に手をかけると、いきなり雨の道に叩きつけた。 「あっ」  びっくりしている駕籠かきの一人に市助は組みついた。手に石でも持っていたとみえ、駕籠かきは転びながら悲鳴を上げた。 「与太郎、そいつもやっつけろ」  市助は大声でいった。その怒声と仲間の悲鳴に胆を潰したか、与太郎が手を出すまでもなく、残った一人は俄かに駆け出した。 「意気地の無え野郎だ」  と市助はあざ笑った。 「どうだ、与太郎。うめえ具合にいったもんだな。雲助を手玉にとって、とんぼを切らせるなんざ、ちょいとした鈴ヶ森だぜ。やい、ぼんやりしねえで、その棒鼻に肩を入れろ。今度は、こっちが雲助に早変りだ。おっと、息杖を忘れちゃ恰好がつかねえぜ」  市助は、指図するように云った。  風まじりの雨の中を、両人《ふたり》は俄か駕籠かきになって出て行った。裸になっても、これは見咎められる気遣いはなかった。うっかりした役人は、出会っても見のがすかもしれない。市助が云う通り、なるほどうまい工夫であった。  大体の見当を谷中の方角と決めて、空駕籠をかついで歩いていると、ようやく町中に入ったが、雨の夜のことで人家は寝静まっていた。道には人の影もない。  が、どこに手配の捕方が隠れているか分らないので、両人は油断なく歩きつづけた。溜抜けは、牢破りと同じであるから、追跡の手は厳しいに違いなかった。 「市兄哥」  と与太郎は云った。 「ここは下谷のようだが、夜の明けねえうちに江戸から出てえものだ。中仙道へでも抜けるかえ?」 「大きな声を出すな」  と市助はまず叱った。 「遊山《ゆさん》に出かけるんじゃねえ。のんびりしたことを云うな。浅草溜を抜けたら、中仙道のお手当ては一番厳しいのだ。少々、遠廻りだが、甲州街道を行け」  市助は命令するように云った。  与太郎は黙って歩いた。こうなると市助の云う通りになるよりほかに仕方がなかった。とにかく彼と別れるなら、江戸を離れてからだ。それまでは危険地帯だから、観念しようと決めた。  第一、裸では道中がならない。市助が云う通り、客でも乗せて、路銀の算段をするよりほかに手段はない。与太郎は、いつの間にか市助を半分頼りにするようになった。 「なあ、与太郎」  と市助はその心を読んだように云った。 「こうなりゃアおめえはおれの云うことを素直にきいてくれ。なあに、間違いはねえから安心しな」  雨はやはり強い。  そのまま、闇に沈んだ町通りを、空駕籠を担《かつ》ぎ、泥沫《はね》をあげていると、不意に声がとんで来た。 「もし、駕籠屋さん」  両人は、ぎょっとした。 「だ、誰だ?」  見廻すと誰も居ない。市助は早くも駕籠を降ろし身構えるようにした。 「ここです、駕籠屋さん」  と軒からふらりと出て来たのは、頬被《ほおかぶ》りに、尻からげした男であった。 「な、何だ、おめえ?」 「駕籠屋さんでしょう? いいところに通りかかってくれました。ひとり、乗せてもらいたいのです」  と、軒の方を手招きした。  白い手拭いで顔を包んだ女がそこに立っていた。      五 「客だぜ」  と市助が与太郎に云ってから、 「何処まで行きなさるのだね?」  と頬被りの男を見た。 「高井戸まで行きたいのですが、やってくれますかえ?」  男は、少しおずおずとして訊いた。 「高井戸? そりゃ、遠い。夜が明けて、午《ひる》にならア」  市助は、客の男女の様子をじろじろと見た。どうやら若い者同士らしい。 「本当は甲州まで行きたいのだが、それから先は別の算段をします。ひどい降りなので、雨宿りしているところに、お前さん方が通りかかったのです。駕籠屋さん、この女《ひと》をのせてやって下さい。わっちは歩いて行きます」 「どうする? 相棒」  と市助は与太郎に声をかけた。この芝居には、無論、断わる筈もない口吻《くちぶり》が含まれていた。 「仕方がねえな、やろうか」  与太郎も調子を合せた。 「相棒がああ云っている。女連れじゃ難儀に違えねえ。それじゃ、乗ってくんな」  市助が云うと、男は礼を云って、女をさし招いた。女は暗い中でも、すらりとして、小股の切れ上がった様子をしていた。裾をからげた素足がほの白かった。市助は何となく唾を呑んだ。 「客人」  と市助は云った。 「おめえさん、どこの人か知らねえが、雨の道行も楽じゃありませんな」 「え、道行?」 「かくしても無駄だ。この夜ふけに、しかも雨の晩、若えもの同士が手をとり合って甲州までのそうというのは、誰が見たって駆落者だ」 「え」 「なあに、びっくりするにゃ及ばねえ。こっちも商売だ。酒代《さかて》をはずんでもらえば、誰かれの区別はねえ」 「駕籠屋さん」  と男は哀願した。 「金ならここに持っています。約束通り、高井戸までやって下されば、お礼をしますよ」 「聞いたか、相棒」  と云った市助の眼は光った。 「酒代は頂けるそうだぜ。行こうか」  女は駕籠の中に身を入れていた。与太郎は棒鼻に肩を入れたが、よろよろとした。 「おっと、しっかり頼むぜ」  と市助が云った。 「勘平さんはあとから来なさるってよ」  駕籠は歩み出した。が、俄か駕籠かきの両人は、速いという訳にはゆかなかった。 「駕籠屋さん、大丈夫ですか?」  男は横について来ながら、危なっかしい息杖の使い方に気を揉むようにした。 「なあに、心配しなさんな。雨だから思うように走れねえのだ」  市助はごまかすように云った。  道は、町家が絶えて寺が多くなった。長い塀や、空地がつづく。竹藪に雨の音が鳴っていた。 「駕籠屋さん」  男は、心配そうにきいた。初めて不安のようなものを感じはじめたようだった。 「ええ、煩《うる》せえな」  市助は叱った。叱りながら、彼はあたりを見廻すようにした。塀の上を蔽った立木の茂みが雨に騒いでいた。 「相棒、ここで休もうぜ」  市助の方から先に足を停めて、駕籠を地に下ろした。 「もし」  男は、狼狽《ろうばい》して云った。 「そう早く休まれちゃ困ります、何とか早く……」 「そうはゆかねえ」  と市助は男の前に立った。 「おめえたちは急ぎの道行だろうが、肩の痛えおれたちは、何もそこまでの義理はねえ。何しろ見ての通りの吹き降りだ。高井戸までは道程《みちのり》もある。まあ、ゆっくり一息入れさせて貰うぜ」 「けど、たったいま、駕籠が上がったばかりです。雨も降る、肩も痛えかしれませんが、あんまり休みが早すぎるようです。もし、酒代ははずみますから、どうか駕籠をやっておくんなさい」  男は懐の中の財布を、上から示すように撫でた。 「何だと。酒代酒代といやがって、一朱や二朱の当てがい扶持《ぶち》じゃ済まされねえぞ」  市助は、はじめて威丈高《いたけだか》になった。 「やい、うぬは駆落者だろう?」 「え?」 「どこかの店《たな》の白ねずみが、主家の女房か娘を連れ出したというところが、おれの辻占《つじうら》だ。やい、この辻占は当りだろうな?」 「違う、違う。わっちどもは、そんなのじゃねえ」  男は駕籠の傍に走り寄って、女を内から引っ張り出そうとした。 「えい、何をしやがる」  市助は、男の胸倉を掴んだ。 「駆落者は重罪だ。やい、酒代ぐれえじゃ引っ込まねえぞ」 「ああ、もし、それじゃ、どれくらいで?」  男の声は慄えていた。 「夜鷹の相場を訊くみてえな声を出すな。どれくれえもへったくれもねえ。あり銭を全部ここへ出せ」 「えッ」  市助は男の懐に手を突っ込んだ。男はその手を突き放すと短い道中差しを抜いた。それを見ると市助は飛び離れた。 「しゃら臭え真似をしやがる。与太郎、女を遁がさぬよう気をつけろ」  悪い予感が当った、と与太郎は思った。市助と連れなら、こんなことになるだろうと思った。が、今さら、どうにもならないのだ。  与太郎が女のところに寄ったので、男は逆上して彼に襲いかかった。与太郎は身体をかわして、男に組みついた。両人はそのまま、泥の中に転がった。 「与太郎」  市助が暗い上の方から声援した。いや、声援したばかりではない、確かに相手の男を一時、押えつけたようだったが、どうしたのか、男はまた刎《は》ね返したように暴れ出した。今度は市助は加勢をしなかった。  女の悲鳴がした。それを聞くと一緒に、男の道中差しが、与太郎の頭の上に下りてきた。彼はそれを夢中で左手でうけとめた。瞬間、灼《や》けるような感覚がしたが、右手は刀を奪い取っていた。  男は刀を相手に奪《と》られて逃げ出した。与太郎はそれを追って、道中差しを振り下ろした。男は声を上げて倒れた。与太郎はそれを聞くと怕《こわ》くなった。が、恐ろしい中にも、路銀だけは、という考えが閃《ひらめ》いた。彼は倒れて呻いている男の懐に手を入れたが、財布の手応えは無かった。  財布だけではない、何か自分の|手にも《ヽヽヽ》手応えが無かった。ひどく頼りない感覚だった。  与太郎は左手の指を動かした。どれかが動いていない。はっとした時に、さっきの灼けるようなものが激しく奔騰してきた。それはもう痛みに変っていた。右の指で恐る恐る触って見ると、人指し指と中指の二本が消えたように脱落していた。  刀をうけとめた時に斬り落された、と初めて気づいた。恐怖が湧いて、 「市兄哥!」  と呼んだが返事が無い。走り廻って探したが、人影は無かった。駕籠だけが横倒しになっている。女も居なかった。 「逃げられた!」  男の財布と、女とを奪って市助は逃げていた。  連れになった時から、市助という男に疫病神のような嫌な予感がしたが、まさしく的中というところだった。不運は思った以上だった。  早く、あいつから離れればよかった! 後悔しても追っつかないのだ。その追っつかない後悔が、余計に彼を奈落に沈めた。  土砂降りの雨が、与太郎の鼻と口の中に流れ込み、ぶら下げた左手の血を洗っていた。      六  五年後、与太郎は信州|岡谷《おかや》で博奕打ちのいい顔になっていた。  与太郎は、あれから信州路に流れ込んで、渡世人の家を渡り歩いた。盆の上の鮮やかな手際を売り物にしているうちに、岡谷で一番勢力を張っている粟津の久兵衛《きゆうべえ》という貸元の身内になった。  江戸で浅草の溜抜けをした手配書はこの辺にも流れていたに違いないが、探索の手は与太郎に及ばなかった。  しかし、探索はわが身に及ばなくとも、与太郎は憎い市助を探し出さずにはおられなかった。うまうまと図られて、指二本を失ったのは市助のためである。疫病神か、蛇のように嫌な奴だが、仕返しにせめて相手の指二本を切り落さずには気が済まなかった。  信州を流れ歩いたのは、一つはそれで、市助が信州松代生れと聞いたからだった。 「市助という男を知らねえか?」  与太郎は行く先々で尋ね歩いた。どうせ、市助も博奕打ちだから、この辺を流れているのではないかと思われたのだ。 「知らねえな。聞いたこともねえ名だ」  と、どこでも同じ返事がかえってきた。なかには、 「その市助とかいう野郎がどうかしたのかえ?」  と訊き返す者もあったが、無論、説明は言葉を濁した。  これだけ探《たず》ねても居ないところをみると、本当に信州には居ないらしい、とようやく諦めた。  今ごろは、あの野郎、どこに潜っているのだろう? あのとき、無理に一緒に連れて逃げた女はどうなったか。暗くてよく分らなんだが、小股の切れ上がった佳い女のようだった。市助のことだから、適当に慰んで、宿場女郎にでも売ったか。駆落者から女と金を奪って遁げるなど、全くあいつは肚の底からの悪党だと思った。  それにしても、あの若い男はどうなったであろう。行きがかりで仕方がなかったが、可哀想なことをした。確かに、道中差しで背中を斬りつけたが、まさかあの疵《きず》で死にはすまい。それとも、あのまま助ける者もなく死んでしまったか。どっちにしても、一番気の毒なのは、あの若者だった、と与太郎は思い出したりした。  粟津の久兵衛の子分になっているうちに、与太郎は久兵衛に眼をかけられて、だんだんに兄哥株になった。彼は顔を売るためにも、左の指二本を大きな賭場の出入りで失ったと吹聴《ふいちよう》することも忘れなかった。  与太郎は、盆の駆引がうまくて、喧嘩に強いという印象を仲間同士に与えた。  子分になって四年目に、久兵衛が中風で引っくり返り、半身が動けなくなったので、与太郎はとり立てられて跡目《あとめ》に坐った。 「み、みんな、ふ、不服は、ね、無えだろう、な」  久兵衛は床の上で涎《よだれ》をたらしながら、片方の眼をむくと子分一同は不同意は無いといった。  それからも、大きな賭場の間違いを仲裁したりして、彼の親分としての貫禄も次第に上がった。  それでも、与太郎は、片時も市助の名前を忘れたことが無かった。信州一円の噂は勿論、草鞋《わらじ》を脱いでくる旅人《たびにん》にも市助の名前を訊いた。 「信州生れで、市助ねえ?」  と首を捻るが、 「さあ、存じませんねえ」  という返事ばかりで失望した。このぶんだと市助は全くこの世に居ないみたいに消息を絶っていた。  ──その年の秋、渡世人仲間から、廻状《かいじよう》がまわって来た。  紅葉見物をかねて、貸元連中で、甲州の身延《みのぶ》詣りをしようというのである。 「い、行って来るが、いい」  と久兵衛は、やはり涎を流して与太郎にいった。  信州の親分株が四人、それに子分が一人ずつ付いて、同勢八人だった。べつに誰も法華《ほつけ》の信者は居ないが、信心にかこつけての暢気《のんき》な見物旅であった。  岡谷から身延に行くには、諏訪《すわ》から甲州街道を甲府に出て、盆地の上に出ている裏富士を左手に眺めながら鰍沢《かじかざわ》につく。ここで笛吹《ふえふき》と釜無《かまなし》の二流が合して、富士川となるのだ。身延は山峡を奔流する富士川に沿って駿河《するが》方面に南下するのだ。両岸は、紅葉がさかりだった。  無事に身延の参詣が終ると、なかの一人が、 「折角ここまで来たのだ。帰りには、名前だけ聞いている下部《しもべ》の湯を浴びようじゃねえか」  といい出した。帰り途なら誰も異存がない。身延から三里、富士川と別れて支流を遡《さかのぼ》ると、山間に白い湯気が上がっていた。  寂しい湯治場だが、それでも信玄公隠し湯の一つと聞えただけあって、近隣から入湯者もあるとみえて、宿屋も二軒あった。  八人は崖ふちに立っている大門屋という宿に入った。  宿の者に出迎えられて、一同は見晴しのいい二階の二間つづきの部屋に通された。渓流を超えた向いの山にも紅い色が彩っていた。 「紅葉が滅法きれいだな」  と一人の貸元が、眺望を讃めると、 「紅葉もきれいだが」  一人がいった。 「さっき、俺たちを迎えた宿の者の中に、きれいな女がいたが、ここの女房かな。まさか女中じゃあるめえ」  すると、別の親分が、 「おめえは眼が早え。実はおれも気がついたのだ。この辺の山出しの女とはちょいと様子が違う。少し年増だが、小股が切れ上がって年増の堪らねえ色気がある。女中じゃあるめえが、この宿の内儀《かみ》さんにしても勿体ねえ。諏訪の女郎にも、あんな玉はねえ」  といい出した。晩に酒を運んで来た二人の女中は、実際に猿のように色の黒い女だった。 「あれは、ここの家のお内儀さんです」  と女中は歯齦《はぐき》まで出して笑った。 「きれいな女《ひと》だから、お客さんがみんな訊かれます。お内儀さんは嫌がって、お座敷にはご挨拶に来ないのですよ」 「すると、ご亭主はあるんだね」  と一人が念を押すように訊いた。 「そりゃ、ちゃんとありますよ」  と女中が余計な心配だといわんばかりに答えたので、みんな笑った。  与太郎は酒を飲むふりをして、盃を持ちながら、じっと考えていた。      七  その宵《よい》、与太郎は、少し気分が悪いからといって、狭い部屋をとり、この土地にたった一人だという按摩《あんま》を呼んだ。部屋には誰も居ないで、二階では皆の騒ぎ声がしていた。 「按摩さん、おめえはこの土地に昔から居るんだろうね?」  与太郎は肩を揉ませながら訊いた。 「生れたときからですよ。あんまり自慢にはなりませんが」  五十近い盲人はいった。 「そうか。それじゃ、ちょいと訊きてえが、ここの家の内儀さんは土地者じゃあるめえな」  与太郎は世間咄《せけんばなし》のようにたずねた。 「へえ、お客さまは、よくご存じで」 「この土地の女にしては、渋皮が剥《む》けてらあな。おっと、これはお前さんに悪かったかな」 「いえ、全くその通りですよ。とても別嬪《べつぴん》だそうですね。わっちは眼が見えねえので、それを聞くごとに、口惜しい思いがしますよ」 「土地者でねえとすると、どこの女《ひと》だね?」  按摩はちょっと黙っていたが、 「何でも江戸者とかいう話でしたがね」  と少し遠慮そうにいった。与太郎は眼を光らせた。 「やっぱり、そうか。いや、江戸者に違えねえ、垢抜けてらあな。ところで、亭主も、江戸者かえ?」 「へえ」  といったが、按摩の返事が煮え切らぬので、与太郎は紙入れから一朱銀を出して握らせた。 「こ、こんなに頂いちゃア」  と按摩は頭を二、三度下げたが、それから口がほぐれた。 「親方の仰言る通り、ここの内儀さんは江戸者です。人の噂で、よく分らねえのですが、何でも下谷辺の商家の娘だったといいますよ」  按摩は小さい声でいったが、与太郎は下谷辺と聞いてうなずいた。五年前、雨の降る晩、下谷で駆落者の女を市助と駕籠に乗せた。顔は暗くてよく分らなかったが、姿恰好に似たところがある。あの時も、甲州に行くといっていたことを思い合せ、もしやと思って按摩を呼んで探ったのだが、所も同じ下谷なら、ほぼ間違いはなさそうだ。  それにしても、いま、亭主となっている男は何者だろう? 「嘉助《かすけ》さんといってましたよ」  と按摩は答えた。 「その嘉助さんは二十七、八で、いや、今なら三十二、三で、色の浅黒い、頬骨《ほおぼね》の出た、眼のぎょろりとした男ではなかったかね? いや、おめえは眼が見えねえのだったね」 「いえ、嘉助さんは親方の仰言る通りの人相でしたよ。わっちは盲目だが、人がそういってました」  やはり市助に違いなかった。与太郎は、嚇《かつ》と逆上《のぼ》せそうになったが、ようやく胸を抑えた。もう少し確かめなければならなかった。 「その夫婦が、ここで宿をはじめたのは何年前だね」 「この大門屋さんは三十年も前からつづいた稼業ですが、それを居抜きで買いとったのは、五年前の夏に湯治客で来ていた嘉助さん夫婦です。それまでの持主の年寄りが、この稼業が嫌になっていた時なので、すらすらと譲り受けの話が出来たのです。こんな山奥の古い家だから、それほど大そうな金は出さなかったようです」  按摩は何でもよく知っていた。五年前ならもう間違いはなかった。市助は、あの時、連れて遁げた女と夫婦になったのだ。どうも女の気持は分らない。駆落ちで家を出た女だから、戻るに戻られず、諦めて市助の女房になったのであろうか。市助はあの通りの男だから、無理矢理に女房にしてしまったらしい。それとも市助には女を泣かせるような魅力があったのか。  宿を買った金も、あの時に奪った若い男の財布の中から出たのに違いなかった。 「どうだえ、按摩さん、その嘉助さん夫婦は仲が好いかね?」  与太郎が何気なさそうに訊くと、 「それが親方、いまは亭主が変っているのですよ」  と按摩は揉む手をやめてささやいた。 「え、嘉助さんはどうしたのだ?」  与太郎はびっくりして訊いた。 「一年前に死にました。この奥の谷から墜ちてね。夜中に急に家から姿が見えなくなったそうですが、夜が明けてから村の者が見つけました。それは、ひどい死に方だったそうです」  市助は死んだ。与太郎は呆然となった。 「いまの亭主はね。もっと若い男です。これは房吉《ふさきち》さんといいますがね。嘉助さんの死んだすぐあとに入り婿になったのです」  按摩はいいつづけた。 「死んだすぐあと?」 「へえ、それが妙なのです。嘉助さんが死ぬ三日前にここに湯治に来ていた男です。この辺では、嘉助さんは房吉さんに殺されたのではないかという噂もありますよ」  一朱銀の利き目で、按摩は何でも低い声で喋った。 「殺された? そりゃ、どういう話だね?」  与太郎はまた愕いた。 「嘉助さんが、谷から落ちた晩、二階に泊まっていた房吉さんの姿も見えなかったそうです。女中がそういってました。朝にはちゃんと帰っていましたが、表の戸を開けて房吉さんを内に入れてやったのは、内儀《かみ》さんらしいと女中は誰かにこっそりと話したそうです。それがひろがって、村の者は、蔭では、嘉助さんは房吉さんに誘い出されて崖から突き落されて殺されたと思っていますよ。親方、これは、ほんとか嘘か分りませんがね。でも、内儀さんは前の亭主より、いまの房吉さんとの仲が、ずっといいのですよ」 「そうか……」  与太郎は、その房吉を確かめたいと思った。  朝、与太郎は湯小屋に下りて行った。皆は昨夜おそくまで騒いで疲れたのか、それとも身延詣りでくたびれたのか、まだ睡っていた。  湯小屋には、一人の男が首までつかっていたが、与太郎を見ると、 「お早うございます」  と丁寧な挨拶をした。痩《や》せて、優しそうな顔をしている。与太郎は何となく動悸《どうき》がうった。  小屋の天窓から、明るい陽射しが降っていて、湯の上に光が散っていた。風に吹かれて入りこんだ赤い紅葉が二、三枚、湯の隅に浮いていた。与太郎は、湯につかりながら、何か話しかけようと思ったが、すぐにはうまい切り出し方もなかった。一つは、その男が、顔をそむけるようにしているせいもあった。 「今日も、いいお天気のようですな」  与太郎は話しかけた。 「左様でございます」  男は答えて、あとは黙った。ぽつりとしたいい方で、明らかに話を好まない風だった。 「昨日は、身延さまにお詣りしたので疲れました」  与太郎は試すように話した。 「はア、左様で」  彼はそれだけ返事した。声の記憶を思い出そうとしたが、それはどうも曖昧《あいまい》だった。  この男が、房吉という亭主だろうか、それとも湯治客だろうか、与太郎は迷っているときに、湯小屋の外で女中の声がした。 「旦那さん、そこですか? お内儀さんがさがしていますよ」  おう、と男は湯気の中から返事した。ざぶりと湯を騒がせて彼は上がった。  亭主の背中が、はっきりと与太郎の眼の正面にうつった。首筋の下、五寸ばかりのところから、黒い刀創《かたなきず》が斜めにみみずのように匍っていた。与太郎の眼が恐怖になった。下を流れる川の音が、あの晩の雨の音に似ている。  初 出「オール讀物」昭和三十二年九月号〜三十三年八月号  単行本 昭和三十三年七月 新潮社刊      昭和三十五年十二月 角川文庫より刊行 〈底 本〉文春文庫 平成八年八月十日刊