[#表紙(表紙2.jpg)] 松本清張 波の塔(下) [#改ページ]  波 の 塔 (下)   影      1  輪香子に電話がかかってきた。  取りついだのは女中だったが、新聞社の辺見さんからでございます、と聞いたとき、輪香子は、いつぞや頼んだ返事を、辺見が持ってきてくれるのだと思った。電話口に出ると、 「辺見です、しばらくでした」  と、彼の声は、少し早口に聞こえた。 「どうも、失礼しました。あれから、お見えにならないので、どうなさっているかと思っていましたわ」 「いやあ、ご無沙汰いたしました」  辺見は言った。 「輪香子さんから、この間、頼まれたことがありましたね。そのこともあるし、ちょっとお目にかかりたいんですが」  辺見が、やはり、その返事をくれるのだと分かって、輪香子は胸がはずんだ。 「すぐ、お目にかかりたいわ」 「どうです?」  と辺見は、少しためらいがちに言った。 「お宅に、うかがってもいいですが、局長も、今はお留守だろうし、散歩がてら、こちらの方に出ていらっしゃいませんか?」  辺見としては、珍しい誘いである。 「今、どこにいらっしゃいますの?」 「有楽町《ゆうらくちよう》です。でも、途中まで、お迎えに行ってもかまいませんよ」 「たいへんですわ」 「いや、社の車で行きますから、すぐですよ」  しかし、輪香子は、それを辞退した。 「いえ、わたしが、そちらにまいります。ちょっと、買物もありますし、そのほうが都合がいいんです」 「そうですか」  辺見は、それ以上にすすめなかった。 「では、有楽町駅のそばに『チロール』という喫茶店があります。ご存じですね、そこの二階でお待ちしていましょう。あと一時間ぐらいでいいでしょうか?」 「結構ですわ」 「それじゃあ」  辺見の声はいきいきとしていた。  輪香子は電話を切った。銀座に出るのもしばらくぶりだったし、何よりも、辺見に頼んだ返事が聞きたかった。  母がいたので、居間に行き、辺見に会ってくることを話した。 「そう、行ってらっしゃい」  母は気軽く言った。むしろ、辺見に輪香子が会うのを喜ぶふうだった。 「どのお洋服を着ていくの?」  そんな心づかいまでした。輪香子は、母が、そのように気を使うのがいやだった。 「ふだん着のままで行くわ」 「それじゃあ、あんまりよ」  母は顔をしかめた。 「この間、つくったのがあるじゃないの。あれ、着ていったらどう?」  母の気持では、輪香子が外で辺見と会うとき、少し着飾ったほうがいいとすすめたいらしかった。が、その心づかいは、輪香子には、かえって憂鬱《ゆううつ》である。 「いやだわ、おニューを着て銀座を歩くなんて。なんでもないときに変よ」  輪香子は、自分の部屋に帰って、いつも友だちと会うとき着ていく服に着替えた。母は、輪香子を玄関まで見送って、 「変なひとね、あれを着ればいいのに」  と、まだ未練らしく言っていた。  母は、単純に、輪香子が辺見と会うのを歓迎しているらしい。輪香子が出かけるときも、 「辺見さんによろしくね、ゆっくりしてきていいわ」  と言ったくらいである。輪香子は、反発をおこした。 「すぐ、帰ってきます」 『チロール』という喫茶店の二階に行くと、辺見が、窓際にすわっていた。 「やあ、よく、いらっしゃいました」  辺見は勢いよく立って輪香子に挨拶した。顔いっぱいに、うれしそうな笑いがひろがっていた。 「どうぞ」  と、輪香子を目の前の席に請《しよう》じて、すぐコーヒーを言いつけた。 「ご無沙汰していますが、お変わりありませんか?」  辺見は、輪香子に向かいあい、家に遊びに来るときとは別人のようにしかつめらしい挨拶をした。輪香子は、すこし、おかしくなった。 「いいえ、変わりありませんわ。辺見さん、あんまり、いらっしゃらないので、家じゅうで、お噂してましたの」  実際、母は、辺見が来ないことを、この間から言っていたのだ。辺見は頭をかいた。 「新聞社の仕事をしていると、勝手な時間がありませんので。休みも、不規則なんです」  彼は言いわけのように言った。 「結構ですわ。やっぱり、お仕事が第一ですもの」 「電話で呼びだしたりしてすみませんでした」  辺見は詫びて、性急に話しだした。 「この間から輪香子さんに頼まれていたこと、どうにか調べましたよ」  さりげない顔をしていたが、輪香子の胸はときめいた。 「お忙しいところ、すみませんでしたわ」 「いや、それが、あんまり、お礼を言われるほどの成果をあげませんでしたよ」  辺見は、少し、体裁の悪そうな顔をした。 「何しろ、ぼくと畑違いの分野なんで、自分で調べるわけにはゆかず、知ったやつに頼んだせいもあって、十分とはいきませんでした。が、まあ、だいたいのアウトラインだけは、どうにか分かったようです」 「そう。早く、うかがいたいわ」  輪香子は、半分は、どこかで、その話を聞くのを恐れるような気持だった。 「『津ノ川』というのはですね」  辺見は、話しだした。 「いろいろ、世間の噂にのぼっているように、代議士たちの談合場所なんです。赤坂では一流の料亭ですよ。そこに出入りするのは、かなりな人物ばかりです。むろん、フリの客なんか、寄りつけるところではありません」  辺見は、手帳を出して開いた。 「お話の結城さんという人を当たってもらいましたがね、なかなか、複雑な人らしいですよ。ぼくの知っている男も、結城さんの正体は、はっきり分からないと言うんです。政治家よりも、官庁に顔の利く人らしいですがね、まあ、一種の情報ブローカーといったところが、定説のようですね」  辺見は、そういう言い方をした。 「情報ブローカーって、なんですの?」  輪香子は、よく分からなかったのできいた。 「いわば、官界や政界のいろいろな情報を基《もと》にして、それを、あちこちに売りこむ商売ですよ。それも、ピンからキリまであって一概には言えませんが『津ノ川』に出入りするだけに、結城という人は、ピンのほうでしょうね」  輪香子は、いつか見た結城の顔や姿を思いだした。背が高く、顔はどこか頽廃的な冷たさがあった。陽の当たっている結城の家の前や、車で走っていく瞬間に見た印象である。  当然、輪香子は、結城の横に、頼子を置いて考えている。深大寺で会ったときもそうだったが、あの高台の家に佇んでいた頼子の姿には、孤独な憂愁さが感じとれた。 「結城さんってかた」  輪香子はきいた。 「どこかに事務所がございます?」 「あります」  辺見は手帳を見て言った。 「表向きの名前、と言っていいかどうか、とにかく、本職はあるんですよ。朝陽商事株式会社と言っています。事務所はLビルで、つい近くですね」  近い、と言った辺見の言葉が、輪香子を動かした。そこに行ってみたい衝動が彼女に起こったのである。 「その、結城さんってかたの事務所、眺めてみたいわ」  驚いた顔を上げて、辺見が輪香子を見た。彼女がとっぴな申し出をしたと思ったのである。 「そんなところへいらして、どうなさるんです?」 「ただ、外から見るだけですわ」  輪香子は、上べはいたずらっぽい目で重ねて言った。 「おもしろそうなところだわ。ねえ、辺見さん、わたし、そういうところを歩いてみたいの。連れていってくださらない?」  輪香子と辺見とは、Lビルの前に着いた。  このビルは、下が商店街になっていた。しゃれた店が多い。外人向きのスーベニールを売る店があるくらいだから、すべてがはなやかである。洋服商も、化粧品屋も、銀座の一流店の出店のようだった。二階まで吹き抜けた天井は高い。大理石のフロアを歩くと、古めかしいがはなやかな意匠の建物が、異国的でさえあった。  二人は、幅広い階段をあがった。  この建物は、戦前からのもので贅沢な建て方をしていた。床は大理石でできている。二階にも事務所があったが、これは、下の商店街がまん中を空洞のようにあけているので、上から見おろして、舞台をのぞくように見事であった。 「きれい」  と、思わず輪香子が呟いたくらいだった。  三階に上がった。完全に、貸事務所ばかりの廊下であった。その両側に沿って、几帳面《きちようめん》に仕切られた事務所が並んでいる。入口のドアのひとつひとつに、会社の名前が、金色や黒い文字ではいっていた。  二人は、どこかの事務所を訪ねていくような恰好で、四階に上がった。ここも、三階と変わりはなかった。朝陽商事株式会社というのは、その四階の突きあたりにある。  二人は、歩きながら、絶えず、両側を見た。事務所のドアを開閉して、社員や女の事務員たちが出入りしている。  輪香子がここで気づいたことだが、このたくさんの事務所のどれ一つとして、彼女の知らない社名ばかりだった。まだ、結城の事務所が見当たらない前なので、輪香子は、入念に、それぞれの社名を読んで歩いたのである。  朝陽商事というのは、その四階の廊下を突きあたり、さらに、鉤《かぎ》の手になって引っこんだところにあった。ほかの事務所よりは、ずっと狭かった。  たぶん、この貸事務所は、二部屋を持っている事務所と、一部屋の事務所に分かれているに違いない。朝陽商事は、その一部屋だけの方を使用していた。  輪香子は、その前に立った。別に用事もないので、中にはいるわけにはいかないし、その勇気もなかった。なんとなく、朝陽商事株式会社と書かれた磨ガラスのドアを眺めるだけである。  が、今にも、そのドアをあおって、結城の姿が現われるような気がして落ちつかなかった。真正面からぶっつかった時の瞬間を思うと、早く、ここを立ち去りたい気持だった。むろん、結城のほうでは、輪香子の顔を知らないはずである。が、見知らぬ人間がそこに立っていれば、当然、結城の注意が彼女に向けられるわけである。  輪香子は、心の中で、漠然と、自分がいつか、結城と直接会う時が来るような気がした。その前に、輪香子が彼の事務所の前に佇んでいた記憶が結城にあっては、都合が悪いのである。 「帰りましょう」  輪香子は、低い声で辺見に言った。  ちょうど、そのとき、ドアの磨ガラスに、内側から人影がさしたせいでもあった。輪香子は、急いで辺見の腕をつついた。  二人は、長い廊下をもとの方に歩いた。  途中で気になって、輪香子がふりかえると、二十《はたち》ばかりの女事務員が朝陽商事の内から出てきて、二人の後ろ姿を見送っているところだった。  輪香子は、その視線に追われるような思いで、中央のエレベーターの場所に行った。  いっしょに乗りあわせた若い社員たちは、辺見と見くらべて、輪香子をじろじろと見た。恋人同士ぐらいに思っているらしかった。  輪香子は、この建物の中で、ぱったりと結城に会いそうな気がした。先方では、輪香子の顔を知らないから平気のようだが、この内で会うのは、やはり気おくれがする。  昼でも、明るい電灯のついているこのビルから出ると、外の空気が頬に当たった。その感触が輪香子を救った。 「しかし」  辺見が、横で歩きながらきいた。 「輪香子さんは、どうして結城という人に興味を持つんです?」  何も知らない辺見としては、当然の質問だった。 「すこし、友だちから頼まれたことがあるんです」  輪香子は、先ごろ辺見に言った理由を、もう一度言った。 「ご縁談に関係したことなの。結城さんてかたが、先方のご兄弟だというんですけれど」  輪香子は、辺見を納得させるために、苦しい嘘を言った。 「そうですか」  辺見は、傍で靴音をさせて、歩いていたが、その言葉で下を向いた。  輪香子は辺見に、欺瞞《ぎまん》を見抜かれたような気がした。  が、辺見は、それきりそれに触れないで、立ちどまると、 「これから、どうします?」  と、顔を上げて、輪香子を見た。  いつのまにか、二人は日劇前に来ていた。人と自動車とが流れあっていた。  輪香子は迷ったが、これ以上、辺見を束縛《そくばく》したくなかった。土曜の午後だったけれど、新聞社のことである。 「お友だちのところを訪ねてみますわ」  輪香子は、とっさに佐々木和子を思いだした。 「すみませんでした。辺見さん、どうもありがとう。また、家にお遊びにきてくださいな」  彼女は礼を言った。 「うかがいます」  辺見は直立して言ったが、残り惜しそうな表情をした。その顔に半分、明るい陽が射していた。  輪香子は赤電話で、佐々木和子の家にかけた。和子がもう帰ってきているかどうかを、確かめるつもりだったが、女中は輪香子の名前を聞いて、すぐに和子を出した。 「あら、どこにいるの?」  和子は、はずんだ声できいた。 「有楽町よ。あなたがいたら、外にひっぱりだそうと思ったの」  輪香子が言うと、 「それよりも、うちにいらっしゃいよ。そっちに出かけて行ってもつまらないわ」  と、和子は答えた。京橋に住んでいる彼女は、なるほど銀座へ出ても仕方がなさそうだった。  輪香子はタクシーで和子の家に行った。呉服店の横に、格子戸の普通の入口がある。そこをはいると、玄関にも紺《こん》の暖簾《のれん》が見えたりして、いかにも下町の造りの家であった。  和子が、その玄関に待っていた。 「はやかったわね。さあ、どうぞ」  和子は輪香子を見て、顔いっぱいに笑い、二階に上げた。階段の裏側には、呉服物を詰める屋号の印のついた箱がいっぱいに積まれてあった。  その呉服物の箱は、二階の廊下にも置かれてあった。 「お店が、だんだんこっちにも侵入してくるのよ。商売人の家は、これだからいやだわ」  和子はこぼした。商家にいる彼女は、輪香子の家のような住居を羨しがっている。  和子の部屋は八畳だった。床には琴と三味線が、花模様の布に包んで置いてあるし、違い棚には、京人形が集められていた。やはり、下町の娘の部屋だった。 「お店がだんだん狭くなってきてね、商品をこの部屋まで置くというので、あたし、精いっぱい抵抗しているのよ」  和子は笑っていた。 「珍しいわね、ワカちゃんが一人で銀座に出るなんて」  向かいあってすわってから、佐々木和子は言った。 「どこかへ行っての帰りなの?」  輪香子は首を振った。 「ううん。ちょっと買物に出ただけなの。すぐ失礼するわ」  しかし、それは輪香子がここに来て、急に変えた返事であった。  実際は、彼女が和子に会いたかったのは、別な目的だった。  深大寺で見た女性の夫のことが分かったので、それを知らせるつもりだった。本当は、それは小野木に知らせたかったのだ。が、ひとりでは小野木に告げる勇気はなかった。それだけの|悪い《ヽヽ》内容を、あの女性に輪香子は漠然と感じている。  ひとりでは小野木に言えなかった。  その勇気を、和子と共同になることで得ようとしたのだが、和子の顔を見ると、その話さえできなかった。小野木に、自分が背信してゆくような気になったのである。  上諏訪の駅のホームを寂しそうに歩いていった小野木の姿を、これ以上、理由なしに寂しくさせたくなかった。  輪香子が和子を訪ねた目的は、不意に曖昧となった。      2  輪香子はここに来た目的を失った。自然に、佐々木和子との会話は、彼女の気持の外側を流れた。  ここに来るまでは、和子に、深大寺で小野木と一緒にいた女性のことを話すつもりだったが、彼女のその勇気を、小野木の影が奪ってしまった。話は、だから、普通のとりとめのない話題を、和子との間にひろげたにすぎなかった。 「ワカちゃん、今日、元気がないのね」  和子が、輪香子の表情を見て言った。  会話の流れに、ともすると、輪香子は乗っていけなくなる。時々、和子の話に返事が合わなくなったりした。 「心、ここにない、という顔だわ」  和子がじっと目をすえて言った。 「何か、あるのね?」 「ううん、そうじゃないわ」  輪香子は否定したが、いつものように溌刺《はつらつ》とした話し方にならない。 「あなた、買物にきた、と言ったわね。それ、まだ、すんでないんでしょう?」  和子は、輪香子の表情を、そのほうに解釈してくれた。 「それが、気がかりなんじゃない?」  輪香子にとって、和子の解釈は好都合だった。小野木のことを言いそびれた今、うつろな話題をごまかすには、それを承認するのが適当だった。 「そう、まだ、何にも買ってないの」  輪香子は合わせた。 「じゃあ、早く、お買いなさいよ。なんだかあなたの顔、落ちつかないみたいだわ」 「そうかしら」  輪香子は腕の小さな時計を見た。和子の家に寄ってから一時間近くたっている。 「なんだったら、あたしも一緒に行ってあげるわ」  和子が申しでた。 「そうね」  この場合、今の落ちつかない気持のままに帰るよりも、和子と、もう少ししゃべりながら街を歩いたほうが、気がまぎれそうであった。 「よかったら、お願いしたいわ」  輪香子は答えた。 「よし」  と、和子はかけ声をかけて、勢いよく立ちあがった。次の間にはいって、もう支度を始めていた。  和子と一緒に外に出ると、また、自分のここに来た目的が途中で話せそうな期待が輪香子にあった。何かのはずみに、ふと、自然にそれが出るかも分からない。和子ならきっと、本気になってその話題に身を入れてくれるに違いない。ただ、輪香子が恐れるのは、その場合に、和子が、小野木に非難の言葉を向けそうなことであった。  小野木がその女性とどのような交際をしているのか、輪香子には、まだはっきり分からない。が、二人きりで、あの深大寺の杜《もり》を歩いていたところを見ると、友人以上の関係らしいのである。その相手の女性に、正体の知れない結城という夫のあることを小野木は知っているであろうか。  小野木の姿に、なんとなく寂しい翳《かげ》が見えるのは、輪香子は、そのせいだと思っている。もし小野木が、その女性に夫のあるのを知っていても、たぶん、その夫の素性までは、小野木には分かっていないのではあるまいか。いや、あるいは知っているのかもしれない。そうだったら、今ごろ、彼女が小野木に忠告するのも、かえって妙な具合である。  が、そう思う一方、また、小野木が何にも知らないのではないか、とも考えられるのである。それなら、小野木のために、その女性のことをはっきり言ってやりたい。それが、小野木にも、その女性にも、幸《しあわ》せな結果になりそうな気がした。  その判断が、輪香子には、どちらともつきかねるのである。和子にそれを言うと、彼女は、簡単に、そのどちらかを決めそうであった。目を輝かせ、すぐに、何かとっぴな提案をしそうな気がした。それが輪香子に躊躇《ちゆうちよ》を起こさせている。  しかし、やはり、このままでは、なんとしても落ちつかない。和子との会話が、いつもの輪香子らしい精彩がなく、話題が彼女の心の外側を流れるのも、そのためであった。街に出ると、もっと自然に、もっとうまい話し方がありそうな気がした。  その期待で、輪香子は、和子の支度のできるのを待った。 「お待ちどおさま」  和子は和服を洋服に着替えて出てきた。 「何を買うの?」  和子は、無邪気にきく。  買物にきたというのも、まんざら、輪香子の心にないことではなかった。 「セーターよ」  輪香子が言うと、それなら、銀座のこの店がいいと、和子はすぐに名前をあげた。  二人は外に出た。いつのまにか陽が曇っている。空は晴れているのだが、赤っぽい霧が一面にかかっていた。太陽がぼんやりと光の輪をにじませて濁っている。遠くのビルも影のようにぼやけていた。  このごろの東京には、時おり、こういう日があった。陽はかっと照っているのだが、霧の中を通した光線は弱く、一帯に赤っぽい膜がかかったようにはっきりとせず、どんよりとしていた。  二人は、銀座四丁目から電車通りの裏側の通りにはいった。そこは、銀座でも一流の店が軒を並べていた。ここの品物は、高価なだけに趣味もよく、高級なものが多い。  このあたりも、どんよりとした陽が照っている。何もかもはっきりと形が見えないで、歩道に落ちた人の影まで淡《あわ》かった。  二人は、ある角の店にはいった。この店では和子は常連らしく、店員も、彼女には親しげな挨拶をしていた。 「あたしが、見てあげる」  和子は、先に立って、陳列棚に飾ってあるのや、店員がとりだす品物を選んだ。  今年の流行は、模様の極端に派手なものと、一方、ひどく単純で、色だけで見せるものとに分かれているらしい。派手なのは、まるで、スキーのセーターみたいに賑やかな模様だった。 「こんなのは、ワカちゃんに似合わないわ」  和子は、いっぺんに言った。  輪香子の性格として、もっと単純で、おとなしい色を、和子は目標においた。このごろの流行で、チャコールグレイとベージュが圧倒的に多く、型も、どちらかというと、ゆったりしたものが多かった。  ようやく、その一枚を選んだ。  そのときだった。今まで、店内の中央にあるケースにさまたげられて見えなかったが、和服を着た一人の女性が、陳列窓に向かって立っていた。こちらからは、その後ろ姿しか見えない。店員が品物を包装している間のことだったが、輪香子は、敏感にその姿を見てとった。着物の柄にも帯にも見覚えはないが、髪のかたちとすんなりした高い姿勢は、確かに、今まで、彼女の心を占めていた|あの女性《ヽヽヽヽ》であった。  輪香子は、急に胸が鳴った。少し、自分の体の位置を動かして確かめてみると、やや横向きに、その女性の頬のあたりが見えた。間違いなく、深大寺で、小野木の横に歩いていた女性であった。  輪香子の視線に気づいたのか、和子も顔をふり向けてその女性を見た。彼女のほうが輪香子よりも先に、小さな声を出した。 「あの女《ひと》だわ」  和子は、低いが声を弾《はず》ませて言った。  二人は、それから、黙って相手の女性を凝視《ぎようし》したが、なんとなく、息をのむ思いだった。  その女性は、こちらから見られていることを知らないで、ひとところに立ちどまって、陳列ケースの中の品物に見入っている。そこには、ハンドバッグや婦人用の手袋、装身具などがきれいに飾られていた。が、一方、男もののネクタイやマフラーも並んでいた。その女性の視線は、位置からいってネクタイに注がれているらしかった。 「ワカちゃん」  和子は耳もとでささやいた。 「ちょうど、いいチャンスじゃない? 何か、お近づきにご挨拶したらどう?」 「困るわ」  輪香子には、とても、その勇気がなかった。 「かまわないじゃないの、あなた、言いなさいよ」 「だって」  輪香子は、和子をつついた。 「あなたなら、言えるでしょう。あなたがいいわ」 「でも、小野木さんと知りあったのは、あなたが先でしょう。だから、あなたが先に言いだすのが本当よ」 「いやだわ」  二人は、互いにつつきあった。和子のほうはクックッと笑っていた。 「毎度、ありがとうございます」  店員が、輪香子の買物を包装にして大声を出した。  向こうの女性が、ふと、こちらを向いた。店員の声に、店の奥を覗いたという恰好だった。  これは、若い娘が二人立って見つめている視線と、正面から合ったものである。見るうちに、その女性の顔に、軽い驚きが起こり、つぎに微笑がひろがった。  その表情に、こちらの若い二人は、思わずおじぎをしてしまった。先方から静かに歩いてきた。 「いつか、深大寺でお目にかかったかたでしたわね?」  目もとの微笑のなかで、婦人は、少し顔を傾《かし》げて言った。 「こんにちは」  と言ったのは、やはり、和子が先であった。輪香子は、黙って和子の傍に寄った。 「お買物ですの?」  輪香子の提げている包みを一瞥《いちべつ》して、婦人はきいた。 「はい」  輪香子は、なんとなくあかくなって下を向いた。今日、和子に話したい当の女性が不意に目の前に現われたのである。婦人のほうは、若い二人を穏やかに眺めている。 「偶然ですわね」  彼女は和子と輪香子とを見比べて言った。 「お急ぎでなかったら、そこらで、お茶でもご一緒しません?」 「ありがとう」  これも、和子の活発な返事だった。あまり人見知りしない性質である。 「ご馳走になります」 「あなたも」  と、これは黙っている輪香子に言ったものだった。 「ご都合は、よろしいんでしょう?」 「はい」  婦人は、自分の買物を中止したらしかった。二人の来るのをゆったりと待ち、少し先に歩いて店を出た。 「どこか、お好きな店、ありますの?」  通りに出て、婦人はきいた。 「いいえ、別にないんです」  和子が答えた。 「そう」  婦人は、ちょっと考えるふうだったが、 「近いから、そこにしましょうね」  と、自分のほうで決めた。  喫茶店ではなく、レストランだった。この店は、中二階みたいに広い二階がついていた。婦人は、その方に自分で先に上がっていった。落ちついた店で、客も静かに食事をとっていた。  卓を決めてすわると、 「偶然に、妙なところでお会いしましたわね」  と、婦人のほうから誘うように笑いかけた。  輪香子は、あのときの記憶が残っている。湧き水の流れている小川のほとりだった。ちょうど、虹鱒《にじます》を料理しているのを見物しているとき、小径《こみち》の上の笹を分けて、小野木の洋服姿が現われた。その後ろに、この婦人が従っていたのだ。その白い着物が目ににじんだ印象が、まだ残っている。 「深大寺には、よくいらっしゃいます?」  婦人のほうから二人に質問した。この女性は、自分たちが小野木のことを、これほど知っているとは気づかないきき方であった。 「いいえ、あの時がはじめてでした」  輪香子が答えると、和子がそれを引きとった。 「あたしが、ワカちゃんを誘ったんです」  和子の快活な答えを、婦人は、やはり、きれいな目もとで笑って受けた。 「そう」  その視線を輪香子に向けて、 「ワカちゃんて、おっしゃるのね?」  ときいた。輪香子は、まだ自分の名前を言っていないのに気づいた。 「わたくし、田沢輪香子と言います」  彼女は、腰をかけたまま、姿勢をあらためておじぎをした。 「佐々木和子と言います」  和子も、輪香子に続いて名乗った。 「申しおくれましたわ。わたし、結城頼子です」  夫人のほうも軽く頭をさげた。  結城頼子──はじめて、名前を聞いたのである。結城という姓で、やはり、この夫人があの男性の妻であることを、はっきりと知った。今まで、こちらの推定として、想像はついていたが、当人に名乗られて明確になったのである。 「大学で、ご同級なの?」  頼子は、少し親しそうに言った。 「はい、もう卒業しましたけれど」  和子が答えた。 「そう、じゃ、これからですわねえ」  頼子の言い方には、多少の羨望があったように、輪香子には受けとれた。 「これから」という彼女の言葉の中に、若い輪香子たちの青春の行動と、未来の結婚とが予想としてふくまれていた。実際、この二人を見る頼子の表情には、年上の鷹揚な寛容さと落着きとがあった。 「ワカコさんは、小野木さんと、上諏訪でご一緒だったんですって?」  頼子は、やはり、和子に目を向けたまま、微笑を続けていた。  この質問を受けて、輪香子はうなずいたが、彼女の脳裏には、たちまち、深大寺の檪林《くぬぎばやし》を歩いている小野木と、頼子の静かな会話が流れた。あのとき、輪香子に会った後の小野木は、頼子と歩きながら、輪香子のことを彼女に話したに違いない。  どのような話し方をしたか、輪香子にはそれが想像できる。たぶん、信州の古代遺跡で、一人の若い東京の娘と出会った顛末《てんまつ》を、紹介的に話したことであろう。  明るい光の満ちた空と、青麦のひろがっている畑と、カリンの白い花と、蒼い湖の見える小径を歩いたことまでは、小野木の口からは話されなかったに違いない。その情景は、輪香子だけの記憶に納めていることである。また、こちらの見ているのを気づかない、ホームを歩いていた小野木の孤独な姿も、むろん、当人の知らないことだった。 「あちらの方には、よく、いらっしゃいますの?」  コーヒーをときどき口に運びながら、頼子はきいた。 「いいえ、あの時がはじめてなんです」 「あら」  夫人は、軽い驚きを見せた。 「わたし、そんな場所にいらしったと聞いて、ワカコさんも、そんなご趣味があるのかと思いましたわ」  頼子は、小野木の趣味を知っている。出会った場所も、小野木から聞いているのである。 「あのときは、木曾路をまわって上諏訪の宿に着いたんです。女中さんから古代遺跡の場所を聞いて、もの好きに覗きにいっただけですわ」 「そう」  夫人は、年上らしくうなずいた。 「時々、おひとりで、そういう旅をなさるの?」 「いいえ、めったにまいりませんわ」 「ワカちゃんは」  と、和子が、横から頼子に言った。 「そういう性質ではないんです。お家《うち》が、かたいお役人ですから」  輪香子は、和子が、よけいなことを言うと思った。家庭の環境は、自分の性質を支配していないと思っている。が、和子のほうでは、いつもそう思いこんでいた。 「お父さまは、お役人ですか」  頼子は、それから何かをききたそうにしたが、遠慮したように黙った。  この様子から見ると、小野木は、輪香子の父に、友だちの結婚披露の席で会ったことを、頼子に話していないらしかった。すると、小野木が、輪香子のことを頼子に話したのは、深大寺で出会ったとき、紹介的に伝えただけにすぎないらしい。これはつまり、輪香子の存在を、小野木と頼子の間では、それほど重要に考えていないしるしのようだった。 「あなたのお家も、どこか、お勤めのご家庭ですか?」  頼子は、和子に顔を向けた。 「いいえ、そうじゃありません。商人なんです」 「そう」  それも、それ以上の質問を、結城頼子は遠慮したようにみえたので、今度は、輪香子が取りついだ。 「和子さんのお家は、京橋の呉服屋さんで、芳見屋っていうんです」 「あら」  と、低い声で言ったのは、頼子がその店の名前を知っていたからである。 「そうでしたか」  輪香子も和子も、頼子の夫が、別な女性を連れて、和子の店に買物にきたことを知っている。のみならず、和子がその女性の家の偵察に訪問したことまでも、輪香子は聞いている。しかし、頼子の目には、ただその店の名前を知っているというだけの表情で、特別な変化は現われなかった。  明らかに、結城頼子は、その夫の所業を知っていないようにみえた。  輪香子は、何となく息をつめるような思いで、頼子を見た。  が、頼子のほうでは平静であった。 「お聞きしたいんですけれど」  頼子が、明るい顔で、輪香子にきいた。 「ワカコさんとうかがったけれど、文字は、どう書きますの、若いという字を書きますの?」 「いいえ」  輪香子は首を振った。 「ワは、三輪山《みわやま》の輪です。カは、香久山《かぐやま》の香です」 「あら」  頼子は目をみはって、すてきだと言った。 「万葉に|ゆかり《ヽヽヽ》のあるお名前ね。お母さまがおつけになりましたのね? きっと」 「いいえ、父です。父が奈良《なら》県で役人をしていたときに、わたくしが生まれたんです」 「そう」  頼子が目を伏せた。      3  三人はお茶をすませた。  輪香子と和子とは、そっと目を見合わせ、椅子から立ちあがる時期を確かめあった。 「どうも、ご馳走になりました」  和子の方が、先に口を切っておじぎをした。輪香子も頭をさげた。 「そうですか」  頼子は、小さな腕時計を眺めた。 「お引きとめして、すみませんでしたわね。たのしかったわ」  若い二人を見る目に、微笑があった。輪香子はここで立つのが、まだ心残りであった。もっと、たくさん頼子と話したかった。別に、これという話題は心にないが、今のままの状態を、もっと続けたかった。 「これから、ときどき、お目にかかりたいわ」  頼子のほうから言った。 「ぜひ、お願いします」  和子は、頭を下げた。 「今度は、どこかちがったところで、お食事をごいっしょしましょうね」  頼子は、誘うように、前の二人を見た。 「はい。ゆっくりお話ししたいんです」  これも和子が答えた返事だった。  輪香子は、和子も、やはり、自分と同じような気持だと思った。  はじめて、わずかな時間を過ごしただけで、若い二人は頼子に魅《み》せられてしまった。 「わたしの家、お教えしましょうね」  頼子は、ハンドバッグをあけて、小さなメモを出した。  住所と電話番号を先に書き、親切に簡単な略図をそえて書いた。和子と輪香子とはうつむいて図面を書いている頼子に分からないように、顔を見合わせた。反対側から見て、書かれている地図は、いつぞや二人が見た、あの高台の家であった。  頼子は書き終わって、そのメモをはずした。 「あら」  小さな声で、気づいたように、 「一枚しか、書かなかったわ、もう一枚、書きましょうか?」  と、二人を見くらべた。 「いいんです。あたしがいただいておきます」  和子が言った。 「輪香ちゃんとは、始終、連絡があるんです。一枚いただいておけば両方で共通になりますわ」 「仲がいいのね」  頼子は笑って、それを和子に渡した。 「お電話をかけてくだされば、なるべく、時間の都合をつけて、ごいっしょしますわ。家のほうにも、ときどき、お遊びにいらしてくださいな」 「うれしい」  和子が言った。 「お邪魔しても、よろしいんですか?」 「結構よ、歓迎しますわ。お若いかたにいらしていただくと、わたしもたのしみですもの」 「お小さいかた、いらっしゃいません?」  と言ったのは、やはり和子である。この質問は、輪香子に思わず頼子を見つめさせた。 「いいえ」  頼子は弱い返事をした。 「昼間は、わたし、ひとりなんです。ですから、ぜひ、どうぞ」 「電話をかけて、おうかがいします」  和子は明日にでも遊びに行くような口吻《くちぶり》だった。 「そうしてくださいな。そう、いらっしゃる前に、お電話をいただいたほうがありがたいわね。わたし、時々、用事があって出かけるものですから」  輪香子は、頼子が出かけるという先を、瞬時に、なんとなく空想した。彼女の目には、深大寺を歩いている小野木と頼子の姿が、ふたたびよみがえった。 「どうも」  頼子が椅子をすべらすと、若い二人も、勢いよく立ちあがった。  カウンターに向かって、先に歩いていく頼子のかたちのいい姿は、あたりの婦人客を見劣りさせた。実際、テーブルを囲んでいる客たちの目が、それとなく、頼子を追っているのである。  ドアから外に出ると、頼子が立ちどまった。 「失礼しました」  と、やはり軽い微笑で若い二人に挨拶した。 「いいえ、わたくしたちこそ、失礼しました。あの、本当に、おうかがいしてもよろしいんでしょうか?」  和子は、追うように念を押した。 「どうぞ」  頼子は、瞳《め》でうなずいた。 「さようなら」  輪香子は、和子とならんで、おじぎをした。 「さようなら、またね」  頼子の姿は、車が列をつくって駐車しているところに歩いていた。通りがかりの男たちの中に、やはり、頼子に無遠慮な目を向ける者がいた。  頼子の後ろ姿は、輪香子に、今まで会った女のひとにない、洗練された特別な雰囲気を感じさせた。  輪香子と和子とは、歩道を反対の方に歩いた。ショーウィンドーが次々と変わって移っていく。自然と四つ角に来た。  二人は、歩く方向を失っていた。その角を曲がって歩くと、輪香子には、急に自分のそばから大きなものが去っていったような気持になった。今まで、満ちたりていた暖かいものが除《の》いて、自分のそばに穴をあけたような感じだった。肩にあたる風までが冷たかった。  横に歩いている和子も、何も言わなかった。二人とも、何か虚脱状態に似た気持になっていた。目だけは、習慣的に、横のウィンドーに移っていく。それも、ただ、きれいな品物を眺めて通りすぎるだけのことだった。いまの気持がすぐに変わって、陳列の中に向かうようなことはなかった。 「すてきなかたね」  和子が言った。 「あれほどの女《ひと》とは思わなかったわ」  それは和子が率直に表現しただけのことで、輪香子も同じ感想であった。これまで遠くから見ていたときの頼子のイメージは少しも崩れずに、もっとそれを充実してくれた。人に会ったあと、そのようなことは、めったにないのである。 「あの方に、もっとお近づきになってみたいわ」  和子が呟くように言った。  自分たちの世代にないものが、結城頼子の表情にも、話し方にもあった。頼子の知性が深い落ちつきの中に沈んでいた。  言葉は自然のままだが、匂いがあった。  若い二人の気持に敏感なのも、感受性の強いひとのようだった。  輪香子は、頼子の横に立っている小野木が、急に大きく感じられた。自分の前にいる小野木と、頼子の前にいる小野木とは、別人にみえそうだった。輪香子の心には、小野木が、はるかに成長した人間に感じられた。  カリンの花の咲く諏訪湖畔の畑に立った小野木の、青年らしい明るい顔は、頼子をそばに置いて、たちまち、輪香子の心に小野木を変化させた。彼との間に、ある距離を感じさせたのである。  二人は、いつのまにか、電車通りに出た。それから先の方向も、輪香子には決まっていなかった。ただ、和子について流れて歩くような気持だった。 「ワカちゃん」  和子が、輪香子の横顔を見て言った。 「どうしたの、急にしょげたのね?」  通りには、電車がゆるやかに走り、自動車が流れている。それが、まるで現実でない景色のようだった。 「そうでもないわ」  輪香子は、元気に首をふって見せたが、 「あなたも、今の結城夫人に会ってから、気をのまれたのね」  と、和子が言いつづけた。 「あたし、今、いろんなことを考えてるの。あの夫人といつも会っている小野木さんは、いままでの小野木さんとは違うような気がするわ。そら、あの夫人の姿はいつか見たわ、でも、それは、ただ見ただけだったの。でも、今、話してみて、小野木さんの感じまで違ってきたわ」  和子は、足の向くまま、交差点の方に、歩きながら言った。輪香子は、和子の言葉を聞いて、彼女もやはり、自分と同じ気持を持っているのだと思った。  和子自身が、いつになく快活さを失っているのである。この時ほど、二人とも、自分の若さに対してくやしさを持ったことはなかった。 「ワカちゃん」  和子が呼んだ。 「あなた、小野木さんに、好意を持っているんじゃない?」  何気ない言葉だったが、輪香子の心を蒼ざめさせた。 「そんなこと、ないわ」  言葉がうまく出なかった。自分で顔が硬《こわ》ばるのが分かった。 「そう」  何か、もっと和子に言われるかと思って輪香子は身がまえるような気持だったが、和子は、それきり黙った。  あとになっても、輪香子は、そのときの情景をおぼえている。二人のすぐそばを若い男女が二組ほど通っていた。  その女性の持っている包み紙の模様までも、鮮かに記憶したことであった。  結城庸雄は、自動車に乗って、外をぼんやり眺めていた。  車は銀座の広い通りを走っている。彼は無関心な目を片側の通りに投げていた。赤っぽくぼけたような空気の中で、弱い秋の陽ざしが歩道に当たっている。通りは賑やかだが、どの店も退屈そうだった。ただ人間だけが、大勢、所在なさそうに歩いている。  結城の目は、感動も何もなかった。この通りも、事務所が近いので、始終通っている町というだけであった。彼には、銀座も索漠《さくばく》たる場末の通りと変わらなかった。  通りを歩いている通行人の中には、二人の若い女性が肩を並べているのが見えた。  結城の視線は、ふと、それに注がれた。  これは、彼女たちが若い女性で、ほかの中年の男や女たちよりは、結城にはなんとなく新鮮に映ったのである。  若い二人は、まだ大学を出たばかりの年齢らしかった。よい家の娘らしいことは、その服装の様子でうかがえた。  しかし、この二人は、どことなく活気がなかった。何かささやくようにして歩いている。  通りすがりに見た一瞬の情景であるが、結城はそれだけの観察をした。車の位置から、顔ははっきりとは分からなかったが、彼女たちには、結城がつきあっている女たちにない、若い清潔さがあった。これは、やはり、年齢のせいである。  しかし、走っている車にいる彼の目は、いつまでもそれに寄せられているわけではなかった。ふたたび、彼は退屈な目つきになって、外にぼんやりと視線を投げている。表情のない横顔である。  感動のない街の情景は、彼を精神の弛緩《しかん》状態に誘った。人間は、こういうとき、ふと、思わぬことを想い起こすものである。発明家なら、偶然にアイディアを考えつくことであろう。結城が思い当たったのは、この前の晩、吉岡に会って、彼から聞いた言葉であった。 「きみの奥さんを、朝早く、上野駅で見かけたよ」という言葉だった。  それは、確かに、頼子から聞いた。だから、女房は友だちを送りにいったんだ、と吉岡に答えたものだが、そのとき、吉岡が、妙な顔をして急に黙ったことを、結城は、今、思いだしたのである。  そのときもそれ以後も、全然念頭になかったことが、海面に魚が背中を見せたようにポカリと頭に浮かんだ。まるで、今の今まで考えてもいないことであった。  結城は、窓から目を離して前を見た。運転手の肩越しに前方の景色が迫って来る。車は、日比谷を過ぎて、警視庁の建物をこちらに近づかせていた。  ──なぜ、あのとき、吉岡が妙な顔をしたのか、結城は考えている。いつもの吉岡なら、その話題についてもっと語るはずであった。吉岡は、頼子のことになると、日ごろから妙に関心を示す。吉岡が、かねてから頼子に興味を持っていることを、結城は知っていた。それなのに、あのときばかりは、まるで自分で戸を閉めたように、急に話をそらしたものであった。  女中から聞いたときも、朝の五時に、頼子が人を見送りに上野駅に行ったのを、少し、妙だとは思った。これまでになかったことである。あのときも、心の隅で何か落ちつかないものを感じたが、急に思いだした吉岡のあのときの表情は、今、それを拡大させるものがあった。  頼子は誰を見送りにいったのであろう。友だちということは聞いたが、名前は聞いていない。が、吉岡が妙な顔をしたのは、自分が、ああ、あれは友だちを送りにいったんだよ、と言ったときだった。それも|送りに行った《ヽヽヽヽヽヽ》と説明したときに、吉岡の目がふと怪訝《けげん》な表情になったことに思い当たった。  ──そうか、送りにいったのではなかったのか。  吉岡は、ただ、頼子を上野駅で見かけた、とだけ言ったのである。べつに、送りにきていた、とは言わなかった。駅に友だちを送りにいった、と言ったのは結城のほうである。その言葉に、吉岡が微妙な反応を示したのである。  すると、駅に行く用事と言えば、見送りでなかったら出迎えである。そうか、頼子は、誰かを迎えにいったのか。  車の右側にお濠端《ほりばた》が続いていた。皇居の石垣と櫓《やぐら》の白い壁が青い芝生に囲まれて、どんよりした空気に煙っていた。  芝生は鈍い陽を受けて、色が冴えない。  |千鳥ヶ淵《ちどりがふち》のあたりは、恋人らしい男女がゆっくりと歩いている。 「ちょっと、とめてくれ」  結城は、運転手に言った。運転手が予定として聞いていた行先は、番町《ばんちよう》のある代議士の家だった。  命令を受けて、運転手は急いで車をとめた。結城は自動車から降りた。すぐそばに公衆電話のボックスがある。彼は、その中にはいった。金を入れてダイヤルを回した。 「吉岡産業でございます」  耳に当てた受話器の中から、女の声が聞こえた。 「社長は、いるかね?」 「どちらさまでしょう?」 「結城だ」 「ああ、さようでございますか、ちょっとお待ちくださいまし」  吉岡はいるらしかった。 「やあ、この間は」  吉岡の声が聞こえた。 「失敬した」  結城も答えた。 「きみに今夜会いたいんだが、都合つけてくれるか?」 「なんだい? 例のことかい?」  吉岡は、少し声を低くしてきいた。 「うん、その報告もある。しかし、それはわざわざ会わなければならんほど、まだ材料がそろっていない」  結城は正直に言った。 「ただ、なんとなく、きみと飲みたいんだ」  何か、話があるらしいと、相手は、結城の気持を察したらしかった。 「いいよ、都合をつけよう。どこにするか?」 「Xがよかろう」  結城は、キャバレーの名前を言った。 「八時だ、いいね?」  いい、という返事だった。結城は、ボックスを出て車に乗った。  結城は煙草をすった。マッチを擦ったが火がうまくつかない。二度目は、力がはいりすぎて軸が折れた。結城としては珍しいことである。  彼は、目を相変わらず外に投げていた。静かな邸町は、彼の現在の思索には恰好な場所であった。外国の大使館の前を過ぎた。色の美しい車が、ヒマラヤ杉の下に四、五台置かれてあった。そこを過ぎて、車は閑静で贅沢な街に曲がった。  着いたのは、ある代議士の家であった。  代議士は、結城をすぐに通した。来客があったが、あとから来た結城が先に面会した。和服の代議士は、結城としばらく、小声で話した。その話が、結城には遠い声のように残らなかった。心はどこかにある。  話がすんで、代議士はふところ手で玄関まで見送った。靴をはいている結城に、代議士は短い言葉で旅行の話などをした。  結城は、いいかげんな相槌を打った。  夜になって結城はクラブ『X』に行った。  結城は、ここでは顔である。  自動車を降りると、ボーイが飛んできて、お愛想を言った。暗い通路にはいって、ウェイトレスがオーバーを脱がせる。  その間に、支配人が出てきて挨拶した。 「先ほどから、吉岡さまがお待ちかねでございます」  結城は、これに黙ってうなずいた。  支配人が目くばせすると、ボーイが先に立って案内した。  音楽が鳴り、客が踊っている。テーブルには蝋燭《キヤンドル》が赤い筒の中で揺れていた。ボーイが女たちの囲んでいる席に案内した。  吉岡は女たちを相手に無駄話をしていたが、結城が来ると、立ちあがって片手をあげた。 「やあ」  女の一人が、椅子を後ろに引いた。ここでも、結城は女たちに人気があった。  彼がテーブルにつくと、彼女たちは結城にいっせいに話しかけた。酒を注文して、結城は、しばらく、女たちの相手をしていた。 「少し、吉岡と内緒話があるんだ。ちょっとはずしてくれないか」  と、女たちに言った。 「はい、はい、分かりました。吉岡さんと内緒話がすんだら、次は、わたくしにね」  女の一人が、笑いながら椅子から立ちあがった。 「あら、ずるいわ、わたしよ」 「おい、おい、結城にばかり内緒話を頼むなよ。おれを忘れてやしないか?」  吉岡は、傍から言った。 「あら、吉岡さんは、もうすんだじゃない? ゆうべ、ちゃんとしてあげたわ」  女たちは笑っていた。 「調子のいいやつだ」  女たちが離れるのを見て、吉岡は舌打ちした。女たちののんだグラスだけが、賑やかにあとに残っている。椅子には、結城と吉岡だけになった。吉岡は、話を聞く身がまえのように、煙草に火をつけた。 「女房の話だがね」  結城が言った。 「きみは、この前、言っただろう? 朝早く上野の駅で、女房を見かけたって」  吉岡のほうは、どきりとしたように目を見張った。 「きみは、見たんだね? はっきりと」  結城は、他人の噂をするように抑揚《よくよう》のない調子で言った。 「ああ」  吉岡は、瞳《め》を客の踊っている方に向けて答えた。 「その時、女房は、人を送りに行ったのではなく、迎えにいったのだろう? 相手の男はどんな奴だ?」 [#改ページ]   上野駅の青年      1  結城庸雄は、妻のことを吉岡に質問して、グラスの酒をなめ、彼を下から見上げた。  吉岡の返事はすぐになかった。心でとまどっている。  今ごろになって結城が、不意にその話を持ちだそうとは思わなかったのだ。彼は結城の表情をうかがうようにしていた。直接《じか》に彼の顔を見なくても、結城がどのような目をして自分を見ているか分かっていた。  結城の声は、あまり抑揚がなかった。吉岡にしたその質問が、まるで世間話でもしているようだった。しかし、吉岡は、結城がそのような声を出したときの気持を知っていた。結城がその調子の声を出すときは、感情の緊張を現わしている。これまでの取引のときがそれなのだ。吉岡は、自分の経験から、結城のいまの心を測量していた。 「そうだった」  吉岡は、間をおいて答えた。自分でも思いだしたという恰好だった。 「奥さんは、上野駅に誰かを迎えにいっていたっけ」 「ふむ」  結城は、相変わらず感情のない声を鼻の先で出した。  それが、少し吉岡の気にさわったので、 「ずいぶん早い汽車だったよ」  と、彼は初めて積極的に話した。 「あれは、ぼくが仙台に行く時間だから、その時刻に到着の列車といえば、福井から来た急行だけだ。奥さんが駅に迎えたのは、北陸方面から来た人だね」  結城は、ちょっと黙った。それは、グラスを傾けて、一口、酒をのむためだった。 「誰だろうな?」  結城は、小首をかしげた。 「若い男だったよ」  吉岡は、多少意地悪い言い方をした。 「ふん幾つぐらいかな」  やはり結城は首を傾けたままである。  それが、本気に考えているのかどうか、すぐには分からないくらい、ぼんやりした顔だった。  きみでも女房のことは気にかかるのか、と吉岡は言ってやりたいくらいだった。勝手なことばかりをしている結城が、そんなことをわざわざきくのがふしぎだった。  吉岡は、結城の妻の頼子に興味を持っていた。結城のような男には過ぎた女房だ、といつも考えていた。これは、吉岡が頼子にひそかに惹《ひ》かれていたからである。だから、上野駅でふと頼子と若い男とが歩いているのを見た時、わざわざ後ろから尾《つ》けていったくらいだ。彼は発車までの時間があまりないのに、この二人の後を追って、わざわざ駅前をはいった路地にある飲食店まで行っている。 「そうだな、二十六、七かな。背の高い青年だったが」  吉岡は、飲食店にはいって観察した、頼子の相手の描写をした。  結城は、また、グラスに唇をつけている。話を聞いても、様子に、あまり変化がなかった。この男の表情はいつも同じである。 「女房はどうしていた?」  結城は、ぼそりと言った。 「二人で近くの飲食店にはいったよ。奥さんは親しそうに話していたがね」  吉岡は、もっと意地悪になろうとした。結城の反応を試《ため》したかったのである。 「ほう、きみは飲食店に一緒にはいったのか」  結城が突然きいたので、吉岡は狼狽した。 「いや、そうではない。歩いているところを見ただけだ」  彼は急いで弁解した。 「ああ、あれはおれの親戚だ」  結城は、突然、大きな声で言った。 「え、親戚?」 「従兄弟《いとこ》なんだよ。思いだした」  結城は、平気だった。  吉岡があきれて、彼の顔を見つめた。  結城は、グラスのかわりを命じた。表情が同じであった。 「従兄弟が金沢《かなざわ》にいてね」  結城は、ぽつりと言った。 「出張で上京してきたのだ。女房が迎えにいった話を思いだしたよ」 「そりゃ、よかった」  吉岡は、相槌を打った。何がよかったのか彼自身にも分からない。 「女たちを呼ぼうか」  結城が言った。 「いいな」  と吉岡も、少し救われたような顔をして、賛成した。  女たちが、またテーブルに戻されて集まった。 「何を話してらしたの?」  結城のそばにきた女が、彼の顔を覗きこむようにして言った。 「大事な話さ」  結城は、薄ら笑いして答えた。 「ビジネスの話なのね」  と、別な女が言った。 「男のかたって、お仕事のことが、こんなところに見えても忘れられないのね」 「忘れられないことは、ほかにもあるさ」  結城は、ふだんの口調で言った。 「仕事だけのことではないさ」  吉岡がそれを聞いて、目をあげた。が、結城は平静な表情で、横の女の子にささやきかけた。曲がちょうど変わったところで、まわりのテーブルから踊りに立っていく者がある。 「まあ、うれしい」  女は、すぐに応じた。  結城が、女を先に立てて踊り場に行くのを、吉岡はテーブルにすわり、首を立てて見送っていた。  結城は、曲に合わせて踊った。じょうずな踊りだ、と誰もが彼をほめるのである。 「ねえ、結城さん」  女は、結城の胸の中で揺れながら、顔を仰向けて小さい声で言った。 「今夜、ここがすんでから、どこかに連れてってくださらない?」  結城は、生返事しただけだった。目を遠いところに向けて、体を動かしていた。  結城はテーブルに戻ると、 「帰ろうか」  と、突然、吉岡に言った。 「あら、まだ早いじゃありませんか?」  横の女が、声をあげた。 「用事があるんでね」  結城は、吉岡のほうを見た。  吉岡も出していた煙草をポケットにしまった。  勘定を払って、二人が立つと、四、五人の女たちは、入口まで二人を見送った。  支配人が、靴音を忍ばせて近づき、 「ありがとうございました」  と、結城に頭をさげた。 「もうお帰りでございますか?」 「うん、別なところをまわるんでね」  結城は、ボーイに後ろからオーバーをかけさせながら目で笑った。 「はあ、さようでございますか」  この店では結城はいい客である。支配人の愛想はよかった。 「また、お近いうちに、どうぞ」  支配人は、結城というこの客の名前だけを知っていて、その正体が分からなかった。職業も、実業家のように聞いているが、ついぞそれらしい社員を連れてきたことがない。そのくせ、ここに結城が連れてくるのは上等の客が多かった。  それも、ひどく金放れのいい連中ばかりである。支配人は、正体は分からなくても、結城を疎略にしなかった。  玄関に出ると、ボーイが結城の顔を見て、暗いところに駐車している車に走った。 「失敬するよ」  車の来るのを待ちながら、結城は突っ立って、突然、吉岡に言った。平気でそういうことが言える男なのである。 「そうか」  吉岡も、少しむっとしたらしい。しかし、彼もすなおに結城の前から離れた。 「じゃ、また、いずれ」  車が結城の前に滑って着いた。ボーイがドアをあける。吉岡は、車の中にはいっていく結城の姿を見たが、走りだす瞬間に目にはいった結城の横顔は、いつもの不遜《ふそん》な彼の顔つきに似ず、どこか寂しそうだった。これは吉岡が、おや、と思ったことである。  ドアを開く役目の、外国の兵士みたいな服をきたボーイが、寒そうに肩をすくめていた。──  結城が着いたのは、銀座でも高級で知られたあるバーの前だった。運転手には帰るように言った。  バーの中は、ほとんど満員だった。はやる店なのである。客の誰も、彼を知った者はないが、結城のほうでは、客に知った顔がある。これは親しいからではなく、新聞の写真などで見かける有名な実業家や文化人だった。この店は、そういう高級めいた雰囲気を持っていた。  結城がはいってきたのを見て、女給の一人が、受持ちのテーブルからわざわざ離れて、彼の傍に寄ってきた。 「いらっしゃいまし」  結城は、ゆっくりオーバーを取らせて、女の案内に従った。彼は、背が高いので目立った。テーブルで酒を飲んでいる客が、結城の歩く姿を注目したほどである。  奥まったテーブルに彼はついた。 「まあ、お久しぶりでございますね」  その女給は、この店での古顔だった。 「あれからずっとお見えになりませんでしたわ。もう一月《ひとつき》ぐらいになりますかしら?」 「そうだな」  結城は、かすかに笑みを浮かべた。 「忙しいんでね」 「そうだと思っていましたわ」  女は微笑してうなずいた。 「何になさいます?」 「ハイボール」  女は、結城の傍にそっと寄り、ささやいた。 「すぐに、ママを呼んできます」  結城は、顔色を動かさなかった。女はカウンターに客の注文をとおし、そのまま二階に急いで上がった。  しばらくして、二階からこの店のマダムがおりてきた。すんなりとした姿は、洋装がよく似合った。それもはなやかなデザインで、派手な顔によく似合った。 「ママ」  と呼ぶ声が、客のテーブルの方々から起こった。マダムは、それに背をかがめ、笑顔を向けて歩いた。その微笑にも歩き方にも多少の気取りがある。彼女は、声をかけた客の前に、時々立ちどまり、愛嬌を振りまいていたが、そこにはすわらなかった。 「いらっしゃいませ」  と挨拶して、腰を落ちつけたのが、結城の前だった。 「しばらくお見えになりませんでしたわね」  マダムは、笑っている目を結城に向けた。客に見せている空疎《くうそ》な愛嬌ではなかった。 「そう」  結城は黙りがちにグラスをなめている。 「お忙しかったんですか?」 「まあね」 「お電話ぐらいいただけるかと思って、待ってましたわ」  マダムは、黒い大きな瞳《め》で、じっと結城の顔を見つめた。 「仕事に追われてね」  結城は、ぼそりと言った。 「そうだとは思うてましたけれど、やはりお待ちしてましたわ」  彼女は、ボーイを呼んで、自分の酒を命じた。  他の席では、男と女の笑声が絶えない。近くのテーブルでは、マダムを呼べ、という声がしきりにしていた。 「今夜はどこからのお帰りですか?」  結城がむっつりした顔をしているので、マダムは、機嫌をとるように、笑い声できいた。 「Xだ」  結城はキャバレーの名を言った。 「そう。あちらへは、やはりいらしてますの?」 「時々だがね」  結城は短く答えた。やはり同じ表情で、煙草をくわえた。マダムは、マッチを擦って火をさしだしながら、 「なんだか今夜、ご機嫌がお悪いようね?」  と、彼の顔をのぞいた。 「そう見えるのか?」 「ええ。いつも、あなたはお静かなんだけど、今夜は、なんだか寂しそうだわ」  結城は、初めて目を動かした。青い煙を吐いて、膝を組みかえた。 「なにか、お気に染まぬことがありましたの?」  マダムは、まだ見つめていた。 「お酒の召しあがり方もまずそう」  結城は、鼻先でわらった。 「ねえ、結城さん」  彼女は、急に上体を寄せ、小さな声を出した。 「気の浮かぬことって誰にもあることですわ。わたしもいまがそうなの」  結城は、瞳をあげてマダムを見た。彼女の顔は、熱い視線を彼に据えて、笑っていた。  店が終わらないうちにマダムは抜けた。  結城が、三十分ほどして外に出て、戸をおろしているレストランの前に歩いてくると、暗いところに、自動車が灯を消して待っていた。 「会いたかったわ」  マダムは結城の手をとって、自分の背中にまわさせ、体をもたれかけた。酒の匂いがした。 「だって、長かったんですもの」  いつもの行先であった。車で、銀座から四十分かかった。マダムが電話をかけておいたらしく、待合の女中が、車のとまる音を聞いて、門の外にすぐに出て迎えた。 「お久しぶりでございますわ」  離れに通して、女中はマダムに挨拶していた。彼女も、愛嬌で女中と話している。 「ね、女中さんも、そう言ったでしょ?」  二人になって、マダムは結城を睨むようにした。  酒を運ばせた。 「珍しいのね」  と、マダムが言ったのは、その酒が長かったことである。結城はいつまでも腰をあげなかった。 「何かあったのね?」  これは、結城がようやく横になってから、マダムの言ったことである。 「何もないさ」  結城は、仰向けになって、煙草をすい、煙を上に吹きあげていた。ほの暗い明りのなかに、結城の横顔が浮いていた。いつも感じることだが、整っているだけに冷たくみえるのである。 「うそ」  女は言った。 「何かあったのよ。お店で、あなたの顔を見たときから、そう思ったわ。何かに気をとられてらっしゃる感じ。そして、いらいらしてらっしゃる感じだわ」  結城は、また煙を網代《あじろ》に組んだ天井に向けて吐いた。 「そう思うか?」 「思うわ」 「違うな。おれは、いつも、こんな顔をしている」 「分かるのよ」  マダムは声に笑いをまじえた。 「わたし、たくさん、男の人を見ているから。今晩の結城さん、いつものように落ちついてないわ。それを、ご自分でごまかそうとして、こんなところに、わたしといっしょに来たのね?」 「そんなことはない。おれは、いつも同じさ。きみの勘違いだね」  結城は、煙草の残りを、枕もとの灰皿に投げ入れた。 「そう。そんならいいけど」  マダムは、別な笑い方をし、手を伸ばして、結城の肩に触れた。 「酔った」  と、結城は言い、背中を女に見せた。──  一時間ばかりたって、結城は広い座敷にすわっていた。  卓の上には、前に飲んだ銚子がならんでいる。結城は、そこでも、ひとりで煙草をすっていた。 「結城さん」  隣からマダムが声をかけた。 「何をしてらっしゃるの?」 「何もしていない。煙草をのんでいる。なんだ、きみは睡《ね》てないのか?」 「眠れる道理はないでしょう?」  床を起きてくる気配がした。 「きみ」  と、結城は不意に隣に言った。 「きみは、どこの生まれだね?」 「あら、へんだわ」  女は、起きて支度をしているようだった。 「なによ、急に?」  と、声だけが返った。 「北陸地方ではなかったのか?」 「あいにくね。これでも京橋の区役所に戸籍があるわ」  マダムは、半纏《はんてん》を羽織って、結城の座敷に出てきた。化粧を落としたせいか、顔が神経質そうになっていた。 「汽車の時刻表を持っていないか?」  結城は、その顔に尋ねた。 「そんなもの、あるわけないわ。旅行でもなさるの?」 「この家《うち》にはあるだろう?」  結城は答えずに言った。 「そりゃ、あるでしょう。だけど、もう夜中の三時よ、誰も起きてやしないわ」 「女中の一人ぐらいは起きているだろう、電話をかけて、持って来させてくれ」 「まあ、およしなさいよ」  マダムは、結城の非常識を非難した。 「じゃ、おれが電話する」  結城は違い棚の受話器をはずした。  長いこと、耳に当てていたが、先方の声が聞こえたので、時刻表を持ってくるように言いつけた。 「そんなに、急なの?」  女は、結城にきいたが、彼の返事はなかった。  女中が、廊下にすわって、時刻表を畳の端に置くのをすぐにとった。  結城は、それを開いた。最初にしたのは、巻頭にたたんである地図をひろげたことである。  結城は、それを見つめていた。それが北陸地方だった。一つ一つの駅名が、鉄道線路にうるさく書きこんである。結城の目つきは、それを調べていた。  それから、時刻のページをめくって、北陸本線・上野着の細かな数字を眺めていた。 「結城さん、あなた、ひどいかたね」  忘れられたマダムが、うらんで言った。      2  結城庸雄は、夜九時ごろ、自分の家に帰った。  石段を上がるとき、玄関だけに明りがあった。この時刻に帰ることは珍しい。日ごろ、たいてい帰宅が、夜中の一時か二時だった。しかし、彼は、昨夜、外に泊まっている。  玄関にあかりがあるのは、まだ戸締まりのしていないためだった。高いところにあるこの家の、そこだけぽつんと明るい。近所は、外灯を残して、ことごとく暗かった。  結城は、玄関の戸を音たててあけた。  靴を脱いでいるときに、女中が出てきた。 「お帰りなさいませ」  結城は、一方の靴を脱いで、片方の靴の紐《ひも》を解いていた。 「玄関を閉めなさい」  結城は、うつむいたまま言った。 「はい」  女中は、この主人におどおどしている。めったに家に早く帰る主人ではなかった。いつもむっつりとして口数をきかない。とりつきにくいのだ。結城の顔にも体にもそれを感じさせた。気むずかしい主人だと、女中は恐れている。  結城が上にあがったとき、廊下に白っぽいものが動いてきた。それが妻の頼子だと知った。 「お帰りあそばせ」  結城は、返事をしなかった。  頼子は、まだ着替えていなかった。 「いいのよ」  という声を、結城は背中で聞いた。頼子が女中を部屋に休ませる声だった。  結城が居間にはいると、すぐあとから頼子がはいってきた。彼が乱暴に脱いだオーバーを取りあげて、洋服箪笥の中にしまっていた。  次に、着物を持ってきて、彼の着替えを待っていた。笑顔ひとつ見せない妻だった。きちんとした服装のままなのである。  結城は黙ってワイシャツを脱いだ。その後ろから、妻は着物を着せた。たがいに口をきかなかった。  結城は、昨夜、外泊している。妻はそのことをきこうともしなかった。むろん、彼も言う気がない。この習慣は、二人の間に長いこと続けられてきている。結城が一週間ぐらいつづけて外に泊まってきても、何も言わない妻だった。表情ひとつ変えなかった。彼女の顔には、水のような淡泊さがあるだけだった。  頼子は、結城の脱いだズボンをたたんでいる。上着も片づけられた。洋服から女性の香水の匂いのするハンカチが出てきても、どこかの待合のマッチが出てきても、いっこうに平気な妻だった。  結城は、帯を巻きつけながら妻の姿を眺めていた。膝を突いてズボンをたたんでいる妻を、自然に結城が見おろす位置になっていた。そこからは傾いた妻の背中と、かがみこんだ腰の線があった。  結城は、妻のその姿を凝視していた。  自分では分からなかったが、自然にその目つきになったのである。  彼は、頼子の姿勢を眺めていた。それは観察するような目だった。自分の妻を眺める目ではない。  彼の観察は、頼子のかがんでいる腰部の線から、ある意味を読みとろうとしていた。自然に目つきは穿鑿《せんさく》的になった。  彼女は、ズボンをたたみ、二つに折って、掛けた。立ちあがって、洋服箪笥にしまう。そのいちいちの動作のたびに、体の線が変化する。  結城は、帯を巻きながら、それをさりげない顔で見つめていた。  吉岡から聞いた話が、彼の頭に残っていた。が、それを口に出す男ではない。顔色にも出さなかった。  いまの彼は、眼前の妻の外形を懸命に穿鑿しているだけであった。 「お食事は、どうなさいます?」  頼子が顔を向けたので、夫は目を別なところに走らせた。 「すんだ」  ぼそりと言った。 「はい」  頼子は、洋服箪笥の戸を閉めた。  普通の夫婦だった。夫が外から帰ってくる。出迎える。ふだん着に着替えるのを手伝う。脱いだ物を片づける。そと目には、少しも変わっていなかった。が、この妻は、日常のそれだけの奉仕しか夫に与えていなかった。あるいは、それだけは守っているという印象だった。 「お風呂が沸いておりますが」  頼子が静かな声で言った。これも結城の耳にはたいそう事務的に聞こえる。 「すんだ」  結城は短く答えた。  すんだ、という言葉に意味を伝えたつもりだった。実際、昨夜も今朝も、彼はよその風呂にはいっている。頼子にその意味が分からぬはずはなかった。しかし、彼女の表情はやはり変化を起こさなかった。  この妻は、嫉妬《しつと》を知らなかった。  彼が得体《えたい》の知れぬ外泊を何日間続けようとも、また、女と一緒にいた証拠を、彼の洋服のポケットの中から発見しようとも、他人事《ひとごと》のように知らぬ顔をしていた。長い間そうなのである。  結城のほうが、その場合、いつもある焦燥《しようそう》と、圧迫と暴力とを、自分の意識の中に起こすのであった。 「それでは、わたしがいただきます」  風呂のことであった。  結城は、やはり、返事をしない。頼子が部屋を去ってゆくのを、彼は襖《ふすま》や廊下の音で知った。  結城は、自分の机の前にすわった。何をするでもない。煙草を出して、なんとなくすってみた。  彼は、漫然と北陸のことを考えていた。汽車の時間表で知った、北陸地方の駅名の一つ一つが浮かんでくる。そこから走ってくる汽車も、彼の目にあった。吉岡が話したことである。若い男だということだった。頼子がその男を迎えて、飲食店にはいり、話しこんでいたと聞いた。  吉岡は、その目撃した情景を彼に伝えた。そのとき、結城は、吉岡にわざと細かい質問はしなかった。ただ話を聞いているというだけだったが、頭の中で、その話に自分が勝手に質問していたのである。そして、彼の想像が、それに答えていた。吉岡の前だったので、いつも他人に見せる結城の習慣として、さりげない顔で聞いたものだった。  朝の五時すぎという早い時刻である。  普通の交際の儀礼でないことが、それでも分かった。相手の男の風貌《ふうぼう》も、およそのことは吉岡が説明した。どのような人種かと考えたが、結城に見当がつかなかった。  妻の一面に、知らなかった発見だった。  それと、さっき見たばかりの彼女の体の線を、結城は考えあわせている。他人の女を見て、分析するような観察だった。  それには、吉岡が話してくれた北陸からきた男の姿が、彼女の体の線の変化と結合していた。  結城は、まだ煙草をすっていた。  机の上には、一冊の本も置いてなかった。元来、読書の嫌いな男である。それで、彼の視線は、薄暗い障子のガラスに向けられていた。  彼はある「時間」を考えていた。それは、自分の知っていない妻の「時間」だった。一週間のうち、この家に帰って来るのは三日とない彼にとって、妻がその男と持ちそうな時間はあまりに多すぎた。結城には、見当がつかない。  しかし、ふと、彼は思いあたった。彼は頬に指を当てた。あれはいつのことだったか。そうだ、台風のときだ。たしか、夏だったように思う。調べれば分かることだ。  頼子が友だちと一緒に、一泊旅行でどこかへ出かけると言っていた。当時、それは結城も聞いている。実際、いつも妻の存在を無視するようにしてはいても、頼子が二日でも家をあけて行くことは、彼に解放感を与えた。彼は彼なりに、四、五日、別な女と暮らしたものだった。  帰宅した時には、頼子は帰っていた。当たりまえの話である。一泊だから、彼以上に家をあけることはなかったわけだ。  しかし、あのとき、頼子は本当に一泊だったのだろうか。いま、ふと、結城の頭にもたげたある疑念は、これだった。  記憶がある。結城が、別の女と一緒にいた夜、ひどい暴風雨だった。横にいる女が、ひどい風と雨の音をこわがったものだ。あくる日の新聞には、その台風の被害のひどかったことが出ていた。  その晩、結城は、女を抱きながら嵐の音を聞き、頼子がどこかで困っているのを想像したものだった。別に気にかけたわけではない。ただ嵐の音に、ふと、旅先にいる頼子のことを瞬間的に考えただけだった。行先は頼子も別に言わないし、彼もきこうともしなかった。  結城は、ここまで考えて、煙草を灰皿に捨てて、呼鈴《ベル》を押した。  女中が来た。 「紅茶を入れてくれないか」  その注文した茶が来たとき、結城は、女中をすぐに退《さ》がらせなかった。 「おまえ、覚えてるだろう?」  結城は女中に話しかけた。 「いつか、奥さんが、旅行に出かけたことがあったね。この夏の末ごろだったと思うが、ほら、台風が来た時さ」  女中は、三十ぢかい女だった。結城の前にたえずおどおどしている女である。このときも、あかい顔をして下を向いた。考えているのか、すくんでいるのか分からなかった。  結城は、できるだけ、やさしい声を出した。 「思いだしただろう。奥さんはめったに旅行などしない人だ。おまえ、留守を頼まれたはずだったね」  結城はその女中をのぞきこんだ。 「はい」  やっと返事が得られた。 「そうか。思いだしたかい。あの時は、奥さんは一晩泊ったかね? 二晩だったかね?」 「二晩だったと思います」  これは女中が即座に答えた。 「そうか、二晩だったか」  結城は、表面、満足そうな顔をした。  頼子は、あの時、確かに一泊旅行だと言った。結城が帰宅した時も、それは当たりまえのこととして、何もきかなかったし、頼子も報告をしなかった。が、今、女中ははっきり二晩だと言うのである。 「間違いないだろうね?」  念を押した。 「はい」  女中は、はっきりとうなずいた。 「そうか」  結城は、新しい煙草を口にくわえ、次の質問を考えた。 「奥さんが」  結城は、煙を吐いて、女中にきいた。 「うちに帰ってきた時は、何時ごろだったかね」 「四時ごろだったと思います」  女中は考えた末に、低い声で答えた。やはり顔を伏せたままだった。 「そうか」  これほど女中に話しかけたことも珍しい。結城は続けた。 「その時、奥さんに何か変わったことはなかったかね? いや、おまえの言うことをおれが聞いておくだけだ」  これは、絶対妻には何にも話さないことを女中に約束したのであった。 「変わったことと申しますと?」  女中は、細い声を出してききかえした。 「いや、ふだんと変わったことという意味さ、おまえ、気づかなかったか?」  女中は、いよいようつむいた。考えているのだ。いつも、ぶっきらぼうな主人が、意外にもやさしい声で話をしてくれるので、とまどう一方、ひどく心を動かされたふうだった。 「そうおっしゃいますと……」  女中は、すこし顔をあげ、思いだしたように言った。 「お帰りになった時に、お召物がたいそう汚れておりました」 「ふむ?」  結城は、煙を急いで吐きだした。 「どういうのだね?」 「お召替えのお洋服は、別にスーツケースに入れて持ってらっしゃいましたが、それが泥まみれになっていたんです。そして、ひどく雨に濡れていました。あとでわたくしがざっと手入れして、クリーニング屋に出した覚えがございますけれど」  結城の頭には、たちまち台風のことが浮かんだ。洋服が濡れたとすると、戸外であろう。傘はあっても役立たなかったはずだ。そうか。頼子は、そのとき、家の中にはいなかったのか。  すると、それは人家のない場所に、彼女がいたことになる。しかも、あの台風の通過した区域のどこかに、頼子が彷徨《ほうこう》していたのである。むろん、一人ではないはずだ。  結城は、雨の中、彼女のそばに歩いているもう一人の人物を想像した。場所も人家のないところなのだ。  朝の五時すぎに、頼子が上野駅に迎えにいった人物のことが、すぐに胸にきた。  結城は、女中を去らせた後も、しばらく考えていた。  机の前から立ちあがったのは、なんとなく落着きを失ったからである。  彼は廊下に出た。  どこかで、かすかに水を動かす音が聞こえた。浴室の方である。  結城は、その方に歩いた。なぜ歩いたか、彼には分からなかった。珍しいことだが、この時、結城の行動は、自分の意思を決めていなかった。  浴室のドアには内側から灯が映《うつ》っている。  結城は、それを押した。洗面所と浴室の間には、もう一枚のドアがあったが、湯気の匂いがそこまでしている。  結城は黙って洗面所の水を出し、コップに受けて飲んだ。  その時、間のドアが開いた。ドアのガラスは曇っていた。明りが濡れている。開いたドアの隙間から、白い湯気が流れて出た。  手洗場は、脱衣場と隣りあっていた。頼子の着物が乱れ箱に脱がれている。  開いたドアから、湯気と一緒に頼子が出てきた。洗面所の電灯は、結城の癖で、わざとつけなかった。  頼子のほうでは、水の流れる音を聞いたが、これは女中と思ったらしい。夫がそこにいるのを見て、急に、バスタオルを胸に当ててすくんだ。  湯気は光線を明るくふくんでいる。曇り日の太陽のような光が、頼子の背中から当たっていた。白い湯気の靄《もや》の中にかがんだ彼女の体が、にぶい光ににじんだ。  結城は、手を洗い終わって、妻を眺めた。大胆な目が、自分の妻の肩から下にすべった。この時も夫の目ではない。そこには、一人の女を観察する男の凝視があった。 「あちらにいらして」  頼子は、いつになく佇んでいる夫に言った。  彼女の白い肌から、湯気が炎のように光の中に揺れていた。これはすべて逆光だから、美しい立体感を目に与えた。  結城は、黙って手を拭いた。  ドアを鳴らして廊下に出たのは、その後である。彼の目の中には、白い肩と腕が残っていた。  部屋に戻った。ズボンをたたむときの、着物の上からの妻の腰部の線と、今、光線の中に白く浮いた彼女の肉体の線とを考えていた。  結城は、妻の二泊の行動を思索している。それと、上野駅の男のことが、頭の中で重なった。その男が妻の体に与えた線の変化のことである。  結城は、机の前で、しばらく煙草をすった。思考が、ひとところに落ちつかなかった。気持の動揺でもあった。  妻の体の線に変化があったか。結城は、自分の目の記憶の中で、それを確かめている。  しかし、彼は、すぐにそれを妻に詰問する意思はなかった。彼の考えは、もっと別なところからそれを確認しようと計画している。  それから二時間後には、結城は、のっそりと歩いて、妻の部屋の前に立った。  ノックをした。  このようなことは、二年間、無かったことである。隔絶された夫婦関係は、結城をまったく別な女の部屋の前に立つ意識にさせた。  ノックを二回した。  妻が起きていることは分かっていた。寝室で呼吸《いき》を詰めている様子がドアを越して感じられた。  返事があった時の用意が、結城にあった。物を忘れたから取りにきた、という理由である。  しかし、三度目に扉を叩いても、妻の返事はなかった。  結城は、廊下を帰った。背が高いし、いつも周囲を無視している男だったが、彼は、寒い風と、蒼白い炎とを感じていた。  結城は、この間、頼子が別れたいと言いだしたことを思いだした。  これまで、その話は、頼子から何度か持ちだされた。結城は、そのたびに知らぬ顔をしていた。  自分のしていることを、頼子が気に入らないのは承知だった。結婚した当初に、頼子がその失敗に気づいたことも、結城には分かっていた。  結城が意地になったのは、そのときからである。妻に愛されもせず、尊敬もされていないと分かると、自分の気持の方向を失った。  勝手なことをしようと思いたったのは、そのころからである。女のことだけではない。生活の方法も、潔癖な頼子が嫌う、暗いものだった。わざと頼子が嫌うように、自分で自分をしむけたともいえる。性根《しようね》は、頼子を愛していただけに、これは空虚だった。それを埋めているのが意地みたいなものと、刹那《せつな》的な愉楽《ゆらく》であった。  頼子から、別れたいという話があったのを、横着に無視してきたのは、彼女を放さないためだった。頼子の中に、古風な倫理のあるのを彼は知っていた。夫が承知しないかぎり、勝手に逃げることのできない女だと信じていた。  が、今度は違っていた。  ──そうか。好きな男ができたのか。  結城は、暗い空間を眺めてすわっていた。      3  結城は、ひる前に起きた。 「ずいぶん、お寝坊ね」  女は、トーストを焼いて、ミルクをそえて持ってきた。  結城がこの家に来たのは、昨夜、おそかった。飲みすぎて、ついふらふらと、自動車《くるま》で乗りつけたのである。当分、来ないつもりだったが、酔ったあげくに迷いこんだようなものだった。  女は喜んでいた。が、結城は、家にはいるなり、そのまま丸太棒を転がしたように寝ころんでしまった。布団の上で女がワイシャツやズボンを脱がしたのを、かすかに覚えている。目が覚めるまで何も知らなかった。結城は、不機嫌そうにトーストをかじった。 「今日は、ごゆっくりでいいんでしょ?」  女は、そばからさしのぞいた。朝から濃い化粧をしているのは、昨夜、目も開けなかった結城に、今朝、顔を見てもらうためだった。着物も派手なのに着替えている。 「そうもしていられない」  結城は、ぼそりと答えた。 「すぐ出かけるよ」 「あら」  女は睨んだ。 「では、今夜のご都合は?」 「ここに寄らないだろうね」  女は、はい、と言って、お絞りを渡した。 「近ごろ、全然、お見かぎりね?」 「そうでもない。忙しいからな」 「昨夜、どこで飲んでらしたの? まるで石を置いたみたい」  結城は返事をしなかった。やはりむっつりとしている。手をタオルで拭くと、乱暴にそれを投げて、立ちあがった。 「お出かけ?」  女は諦めた。しゅんとした顔つきになったが、結局、男の支度を手伝った。 「はい」  きれいにたたんだ新しいハンカチを出して、 「おズボンのハンカチは、洗濯しておきましたわ。口紅がいっぱいよ。どこでしたの? 昨夜は」  結城は表情も変えず、返事もしない。ネクタイの締め具合を、鏡に向かって試していた。冷たい表情なのである。女は、その顔を熱っぽい目で見つめた。 「わたしもごいっしょに行くわ」  返事がなかった。 「いいでしょ? 銀座まで」  結城は、ああ、と口の中で言った。  女は、急いで、支度をしなおし、女中に言いつけて、ハイヤーを呼ばせた。  結城はまだ蒼い顔をしている。車の内でも、顔をしかめて、口をきかなかった。 「毒だわ」  女は、彼の手を握って、袂《たもと》の下に隠した。 「深酒、もう、およしなさいよ」  結城は、女の手を振りほどいて、ポケットから煙草を出した。相変わらず、機嫌がよくない。青い煙を吐いて、ぼんやりと、流れていく景色を眺めている。 「会社にいらっしゃるの?」 「さあね」  初めての返事だった。 「どこに行こうかと考えている」 「いやアね、昨夜の女のところ?」  結城に、反応はなかった。目も動かない。女はじれたように、結城の体に自分をすりよせると、 「ねえ」  と、ささやいた。 「今夜、来てくださるでしょ? つまんないわ。だってずいぶん放っておかれてるんですもの」  結城は、肘でそれを静かに押しかえした。 「だめだろうね。遊びたかったら、きみの自由にしていいよ」  女は指を伸ばして男の煙草を抜くと、口にくわえ、やけにマッチを擦った。  車は銀座の通りにはいった。 「お願い」  女は負けた。 「ごいっしょにお茶でも飲んで、お別れしたいわ。つきあってくださる?」  彼女は、男の顔を下から媚《こ》びるように見上げた。 「うん」  仕方なさそうな返事だった。  車を降りると、女が結城を誘って喫茶店にはいった。十二時過ぎている。 「おコーヒーになさる? それともお紅茶?」  女は自分の気持を引き立たせていた。 「どっちでもいい」  結城の表情も声も鈍かった。二、三度、欠伸《あくび》をした。目がまだ冴えていなかった。  思いだしたように時計を見て、店内で電話のある場所に立った。かけた先は、自分の事務所である。出たのが女の声だった。 「ぼくだがね、何かあったかい?」 「おはようございます」  女事務員は、きれいな声で挨拶した。 「たった今、岩村さまからお電話がございました。至急にお話ししたい用件があるので、ご連絡ねがいたい、とのことでございましたが」  事務員は、電話番号を言った。その番号は、結城も知っている家である。 「分かった。それだけかね?」 「はい、ただいまのところ、それだけでございます」  一度、切って、結城は、別なところにかけなおした。今度も女の声だった。 「結城です。奥さん、いますか?」 「はい、ただいま」  女中の声は、別の女に変わった。今度は、少し嗄《しやが》れた声だった。花柳界の女によくある、あの咽喉《のど》のつぶれたような特徴のある声だった。 「あら、結城さん? 待ってましたのよ」  女は、いきなり言った。 「しばらくでした。どうもすみません」  結城は答えた。 「ほんとにしばらくね。どう、相変わらずなの?」 「商売ですか?」 「バカね。商売なんかあたしに分かんないわ。あっちの方よ。ご発展でしょ?」 「さっぱりですよ。ところで、土井《どい》さんはいま……?」 「たった今、出かけたばかりなんです。でも、結城さんからお電話があったら申しあげてくれってことづかっていますわ。今夜、七時から赤坂の『梅川《うめかわ》』で、ぜひお目にかかりたいんですって。とても緊急な用事なので、結城さんにぜひご都合つけていただくように言ってました」 「分かりました。うかがいます」 「そう、ありがたいわ。ねえ。結城さん。あたしも土井といっしょにまいりますのよ」 「そうですか」 「結城さんの顔をしばらく見ないから、たのしみだわ」 「ぼくも久しぶりですね。では、いずれ」  先方は、まだ何か話したそうにしていたが、結城のほうで先に切った。  卓に帰ると、女は、紅茶の茶碗を口から離してじろりと見上げた。強い光がこもっていた。 「どこかの女のところに、お電話なさったのね?」  結城は、夜七時、赤坂にいった。料亭は静かな通りの中にあった。  女中の案内で、奥まった部屋に行った。襖の外に、スリッパが二足、きれいに揃えてある。 「どうぞ」  内にはいると、床を背にして大きな男がすわっていた。  その横には、細い女の顔がならんでいる。  男は、頭が禿げていた。ずんぐりしているから、全体が大入道の感じだった。これが、すわったところから結城を見上げて、大きな口で笑ったのである。 「ようこそ、さあ」  結城の席がその横につくってあった。 「しばらくでした」  結城は、その男に挨拶し、横の女に目を移した。和服の似合う女だったが、着付が素人ふうではなかった。白い細い顔で、結城には目もとを笑わせて頭をさげた。  女中が二、三人はいっている。結城の来る前に、先客と賑やかな話がかわされていたようだった。  男は、血色のいいあから顔だった。六十というのが本当の年齢だが、三つは若く見える。顔の皮膚に、拭きこんだような艶があった。 「ご苦労でした」  先方は、結城に会釈して、杯を出した。  世間話が賑やかにしばらくつづく。渋い和服を着た大きな男は、場なれしていて、女中たちにも如才がなかった。太い声を出し、笑うときは、はじけるようにそれが高いのである。  その名前は、土井|孝太郎《こうたろう》と言った。弁護士という肩書が、一応ついているが、実際は、官庁に自由に出入りの利く、顔の広いボスだった。つまり、官庁関係と業者との間に介在している斡旋《あつせん》的な顔役なのだ。どこの官庁にもかならず存在する人物なのである。彼は大臣とも親しかった。次官とも局長とも友だちのような口をきいた。実力のある代議士連中に対してもそうなのである。  電話で名のった岩村は土井の変名である。  横の女は彼の愛人だった。まだ二十四、五の年恰好だったが、細面で華奢《きやしや》な体つきをしている。芸者をしていたのを、土井が引かせて、世話しているのだった。彼女は、細い目と小さな唇をしていた。着ている着物も贅沢なもので、女中連は話しながらも、目が自然とそれに走るのである。  土井と結城との間に、世なれた雑談がかわされた。結城が杯を五、六杯口に運んだころ、土井が女中たちを笑いながら見まわした。 「少し内緒話があるんでね、悪いが、きみたち、ちょっとはずしてくれないか」  女中たちはかしこまった。 「おまえも」  と、土井は自分の女にも顔を向けた、 「どこかで遊んでいてくれ」  女は、うなずき、ちらりと、結城を見た。 「はいはい、分かりました」  女中もその女も去った。あとには二人だけとなった。 「結城君」  土井のほうから大きな体を動かして、結城のそばに寄ってきた。 「ちょっと困ったことができたのでね、急にきみを呼ぶことにした」  今まで野放図に屈託のない笑いをつづけていた土井が、むずかしい顔になり、低い声で言いだした。 「なんですか?」  結城は杯をおいた。 「いや、きみ、吉岡が挙げられたんだよ」 「ええっ、吉岡君がですか?」 「知らなかったんだね。昨日だった。地検の特捜部に任意出頭の形で呼ばれたが、そのまま逮捕状を出されて、留置された」  結城は目を据えた。 「本当ですか?」 「本当だとも。実は、ぼくも、昨夜、それを聞いたばかりだ」 「容疑はなんですか。まさか……」  結城が言いかけたのを、土井はうなずいて押えた。 「そうなんだ。表向きは、例のことではない。逮捕状は、一応、詐欺《さぎ》の容疑になっている」 「詐欺?」 「むろん、その体裁で引っぱったのさ。地検の狙いは、そんな小さなことではない。名目だけのことでね。本当のところは、例の一件を吉岡の口から吐かせよう、という魂胆《こんたん》らしい」  結城は黙って聞いていた。眉の間に皺を立てている。その表情を、土井は見まもるように眺めていた。 「どこから、もれたのでしょう?」  結城は、息をつめてきいた。 「それは、ぼくも、それとなしに探っているがね」  あから顔の土井は、しかし、結城ほどに深刻な顔つきはしていなかった。厚い唇のあたりには、薄い笑いさえ出した。 「どうも密告らしい」 「密告? どの筋からです?」  結城は、沈んだ瞳を動かした。 「ぼくの推定だがね、余分な分けまえにありつけなかった連中からだ、たぶんな」  ここで、土井はある有力な代議士の名前をあげた。 「この辺の筋ではないだろうかな。これは考えられるところだ」 「そうですか」  結城は、呟くように答えた。 「前から、ちょっとおかしな動きもあった」  土井は言った。 「やっぱり先生たちはやっていたのだな」  これは、地検特捜部の検事たちのことを言っていた。 「吉岡は泥を吐くでしょうか?」 「そりゃ、吐くだろう」  大入道は、あっさりと答えた。 「吉岡は、あれでもろいところがあるからね、ある程度、検事におどかされたら、一部を吐くかもしれない」 「どうします?」  結城は、土井の顔を正面から見た。 「こちらで手を打つだけのことさ。検事の狙いは、吉岡を突破口として、こちらのほうを先口《せんくち》にやって、次が、お役人のほうに立ちむかうという寸法だ。お役人となると、これは吉岡あたりよりもっと弱いんでね」 「下のクラスは仕方がないが、上の方までいきますかな?」 「そりゃ、いくだろう」  ボスは断言した。 「ただ、なんとか、これを局長止まりぐらいにしたいものだね」 「局長といいますと?」 「田沢局長さ。この線で食いとめたい。あの男はわりと骨がある。こいつが崩れると、えらいところに広がりそうだからな」 「大丈夫でしょうか?」 「まず、四分六分というとこだな。検事がわりと強硬なんでね」 「なんという検事です?」 「主任は石井検事で、その下に若い検事がついている。待て待て、確か、名前を書きつけといたはずだ」  土井は、腹の突き出たふところを探って、手帳を出した。ぎっしりと書きこんである黒皮の手帳で表紙がぼろぼろになっていた。彼は眼鏡をだし、鉛筆で書きつけて写した紙をくれた。結城がそれを手に取ってみると、文字は、石井、小野木、と走り書きしてあった。 「ぼくは、できるだけ手を打ってみる」  ボスはメモを眺めている結城の耳にささやいた。 「少々、手づるもあるんでね。ところで、この石井のほうはだいたい分かっているが、若いほうの検事は、皆目《かいもく》、どんな男か見当がつかない。とにかく若い連中は先走りしすぎるんでね。この小野木という検事を、少し調査をしておいたほうがいいと思う」  結城は、それにうなずいて、メモを破り、火鉢の中に入れた。小野木、と口の中で呟いて記憶に刻んだ。紙は青い煙を立てていたが、すぐに炎に変わった。メモはよじれながら焦《こ》げた。 「だいたいのところは、こういうことでね。とにかく、今のところ、どういうことになるか、ぼくにも様子が分からん。まず、今の情報だけ、とりあえず、きみに承知してもらったわけさ」 「わかりました」  結城はうなずき、灰になった紙を火箸で崩した。 「女たちを呼ぼう」  土井は、布袋《ほてい》のような体を後ろに反《そ》らせて、ブザーを押した。  結城が手洗から出て、廊下を通っていると、急に、曲がり角から女が出てきた。土井の女である。偶然に出会った恰好だった。女はそこに立って、歩いてくる結城を迎えるふうだった。細い顔なので、豊かにふくらませた髪が重そうだった。土井の好みか、着物も帯も万事が派手である。女は、結城に笑いかけた。  結城は黙礼した。 「これ」  女は、急に、袂からハンカチを出した。薄い桃色の縁のあるものだったが、それをわざわざ広げて、結城の手の上にのせるようにした。 「すみません」  結城は、指を軽く拭いた。強い香水の匂いが漂った。 「ありがとう」  返そうとした時、女がつと寄って、結城の小指を堅く握った。  結城は、女の細く通った鼻筋を見つめた。女は、こぼれるように目で笑っている。  小指を握って放さない女の手は冷たかった。ハンカチが、からみあった指の上に蔽《おお》うようにかかったままである。 「土井さんが来ますよ」  結城は、普通の声を出した。 「大丈夫よ」  女は、紅い唇から歯をのぞかせた。 「ずいぶん、お目にかかってないわ。相変わらずなんでしょ?」 「何がです?」 「あちらのほうよ。お噂、聞きましたわ、吉岡さんから」 「冗談でしょう」 「冗談なもんですか。憎い人ね」  廊下には女中も通らなかった。横が座敷になっているが、客がいないのか、障子は灯がなく暗かった。一方がガラス戸になっていて、この家の自慢の庭に、蒼白い光の照明が当たっていた。植込みも、芝生も、石も、灯籠も青色ガラスをはめているようだった。灯籠の笠の上に、まくれた小さい葉が二、三枚たまっている。 「土井さん、どうですか?」 「いやあね。そんなことをきいて」  女は、肩をひねってみせた。そんなところは彼女の前身がまるで出ていた。  結城は、小指を彼女の手から抜いた。 「風邪《かぜ》を引きますよ」  彼は言った。 「部屋の話はすみました。土井さんが呼んでいるはずです」 「結城さん」  歩きかけた彼の後ろから、女は呼んだ。 「今度、一度っきりでも会ってくださらない? お話ししたいことがあるんです」  結城は、女を見返した。彼を見つめている目に光が点じていた。 「さあ」  結城は、曖昧に答えた。 「土井さんに悪いでしょう」 「分からないようにするわ」  と言ったのは、結城の腕のところにきて、ささやいたのである。 「時間の都合は、あたし、結城さんに合わせますわ」  女が急いで離れかけたのは、廊下に足音がしたからである。 「待っています」  これは、女が最後に投げた言葉で、そのまま豪華な帯を見せて反対の方に向かった。  結城が座に戻ったとき、太ったボスは、女中たちと、賑やかに笑いを起こしていた。 [#改ページ]   情  報      1  結城が土井に呼ばれたのは、あくる日の二時ごろであった。  ちょうど、ビルの事務所にいたとき、電話がかかってきた。 「結城さまでいらっしゃいますか?」  最初は、女の声だった。  そうだ、と言うと、 「少々お待ちくださいまし」  今度は太い声に変わった。 「土井だ。昨夜はどうも」  と、先方で言った。 「失礼しました」  最初に、結城が感じたことは、土井がどこかの家から電話していることだった。はじめに出た女の声の感じで分かる。それは当たっていた。 「急に、きみに連絡したいことがある。電話ではちょっと言えないことでね。悪いが、すぐに来てくれないだろうか?」 「どちらです?」  土井は、ここで築地《つきじ》のある待合の名前をあげた。 「分かりました」 「すぐ来てもらえるかね?」  土井は急いでいた。結城が知っている土井としては、珍しいことだった。 「すぐうかがいます」  電話を切って、結城は煙草を取りだした。  なんの用事で呼びつけるのであろう。最初、頭にきたのは、例の事件のことだった。突発的なことが起こったのかと思った。それ以外には、土井があんなに急いで呼ぶ理由がない。  ふと、結城は土井の女のことを考えた。  あの女は、以前から、結城にいろいろと誘いを向けている。もと、柳橋から出ていた妓《こ》で、ある実業家の女だったが、旦那が没落して別れ、土井が拾ったのである。もとから浮気の方面では慣れた女だし、旦那の土井だけでは、飽《あ》いてきているのであろう。  その女のことが頭をかすめたが、まさか、土井がそれで自分を呼びつけたわけではあるまい。  事務員が書類を持ってきた。彼は、内容をろくに見もせずに判コをおした。どうせ、今やっている表向きの商売はたいしたことはなかった。儲かっても損をしても知れているのである。ただ、このビルに事務所を持つ必要上、その営業の体裁にしていた。  結城は立ちあがった。女の事務員がすぐにオーバーを取って、後ろから着せた。 「出てくる」  結城は、事務員たちに言った。 「あの、今日、お帰りになりますか?」  女の事務員が、遠慮そうにきいた。この女はまだ若かった。 「帰れないだろう」  結城は、事務員たちがおじぎをする中を、ドアをあおって廊下に出た。  エレベーターで下に降り、賑やかな店舗の並んでいる間を外に出た。昼でも電灯のついているビルから外に立つと、陽がまぶしいくらい明るかった。  主人の姿を見て、駐車している自動車《くるま》がすべってきた。 「築地」  結城は、運転手に土井から聞いた待合の名前を言った。  そこは、そのような構えの家ばかり並んでいる一郭だった。人通りはあまりなく、どの家の塀も昼間は妙にうらぶれて見えた。  結城は、指定された家の玄関に立った。昼間の待合というものは、どこかはかなく、白々《しらじら》としている。  奥から少女が出てきたが、これも妙にだらしなく見えた。結城の名前をきいて、奥にはいったが、 「おかあさん」  と、呼びたてる声が聞こえた。  女将《おかみ》がかわって出てきた。この家は、昨夜、結城が土井と会ったところではない。土井はあれからおそく場所を変えて、この家に来たものらしい。そのまま残っているのである。 「いらっしゃいまし」  太った女将がおじぎをした。この世界特有の感じの女で、精彩ある夜の顔とはまるで違う。昼寝でもしていた後のような腫《は》れぼったい目つきだった。 「お待ちかねでございます」  結城は、そのあとに従った。  昼下がりの待合の中ほど侘《わび》しいものはない。埃《ほこり》を感じさせるくらいだった。廊下を歩いていて、家の中も中庭も、静かな廃墟といった感じだった。  奥まった部屋の前まできて、女将が膝を突いた。 「お見えでございます」  おう、という声があった。  結城は、あの女もいっしょかと思っていたが、障子をあけたとき、土井が一人で酒をのんでいた。客を迎える用意があったのは、床柱の前をあけて座布団が敷いてあることだった。間に炭火のおこった火鉢が置いてある。土井も太った体に、ちゃんと羽織をきている。山がすわっている感じであった。 「さあ、どうぞ」  土井は、大きな掌《て》を出して、客を請《しよう》じた。 「昨夜は失礼」  結城が席につくと、 「失礼。わざわざ、どうも」  と、土井も彼を呼びつけた詫《わ》びを言った。  女将が障子を閉めて廊下を去ると、 「電話よりも」  土井が話しだした。 「やはり直接に会って話したほうがいいと思ってね」  土井は、まず結城に杯を持たせた。自分で酌《しやく》をしてやってから、結城のほうにかがみこんだ。 「実はね、少しまずいことになった。いや、例のことだがね」  頭の禿げたボスは、低い声になった。 「R省の××課から、とうとう検察庁にひっぱられる奴が出てきたのだ」 「誰です?」  結城は、目を大きな男の顔に据えた。 「いや、今のところたいした者じゃない。係長が一人だがね。まだ逮捕にはなっていないらしい。任意出頭の形だがね、だが、これはすぐに逮捕状が出るだろう」  土井は、悠々と話した。 「その係長は誰です?」  結城は名前をたずねた。 「中島《なかじま》だ。ほれ、きみも知ってるだろう?」  結城はうなずいた。 「ああ、あの男ですか」 「たいした人物ではないがね。しかし、検察陣の狙いは、そういうところから、上に傍証《ぼうしよう》を固めようとしてるわけだな。次は、杉浦《すぎうら》だろうね」  土井は、課長補佐の名を言った。その次には、課長、部長の名前を並べた。 「検察庁の狙いは、この辺から局長の田沢におよぼうとしている。まあ、ここのところが向こう側の本命だろうな」 「田沢局長までいくと、これは、えらいことになりますね?」 「そうだ。たいへんなことになる。ここまで来ると政界に飛火していく。大臣だって危ないぜ」 「そのほうの手当は、あれから出ているんですか?」 「きみが知っていることよりも、はるかに大きい。これは例のほうから金を集めさせて撒いているがね」 「検察陣はどこまでつかんでいるんでしょう?」 「この辺までは知っているだろうな。なんといっても、敵方の密告が詳しく内報しているにちがいない」 「弱ったですな」  結城は目を遠くの方にやった。床には、山水を描いた掛軸がかかっている。南画めいた奇怪な山岳の形を、彼はぼんやり見つめていた。 「検事連中のほうはどうなんです?」  結城は目を土井の上に返した。 「うん、そのことだ。なかなか強硬らしい。それで、あんたに来てもらったわけだが、まず、これを見てもらおうか」  土井は、ふくれたふところから紙を出した。それはリストになっていた。  石井芳夫《いしいよしお》  昭和十八年、高文合格。二十年、検事任官。名古屋地検所属。二十三年、岐阜地検。二十五年、富山地検。二十八年、新潟地検。三十年、津地検。三十一年、東京地検。  横田忠一《よこたただいち》  昭和二十七年、司法官試験合格。二十九年、浦和地検。三十二年、熊本地検。三十四年、東京地検。  小野木喬夫《おのぎたかお》  昭和三十二年、司法官試験合格。三十四年、東京地検。 「東京地検特捜班の連中さ」  土井は注釈をつけた。 「まず、敵を知っておく必要があるからね」 「なるほど」  結城は、紙に書かれた名前を自分の手帳に写した。石井、横田、小野木としるして、メモのとおりにその略歴を書いた。石井も小野木も前に聞いた名前である。 「この石井という主任が、なかなかの硬骨漢でね。いったい、その履歴でも分かるとおり、今までの歩いたコースがわりと不遇だったわけだ。そういう連中は、何かと肩肘張って融通が利かない。今までの不遇のせいで、妙に根性が反抗的なのだ。だから、今度の事件もひどく強腰になっている」  土井は説明した。 「次に、横田という男だがね。こいつもだいたい、石井と似たりよったりさ。久しぶりに東京に帰ってきたんでひどく張りきっている。第一線の現役としては、脂《あぶら》の乗った盛りだ。こういう手合いが、いちばん危ない」  土井は、最後に言った。 「小野木という男だがね、これは、まあ、新米だし、すべて二人の上司の指揮を仰いで捜査に当たる、というところだろう。まあ、たいしたことはない。だいたい、ぼくが調べさしたのはこの程度だ。現在、この連中の趣味というか性格というか、そういうものを、調べさしている。まもなく分かるはずだ。分かったら、きみにすぐ連絡するよ」 「分かりました」  結城は答えた。  これまで、土井のやり方として、相手方の性質に応じて手を打ってきたことを知っている。 「それはそれとして、これは事前に、なんとかしなければいかん」  ボスは言った。 「ぼくは、この人にすぐに当たりをつけるつもりだ」  土井は、紙の端に鉛筆で名前を書いた。それは、ある政党の実力者の数人だった。 「しかし、彼らだけではちょっと心細い。そこで、きみのほうもひとつ工作してほしいのだ。例の人とはやはり連絡があるかね?」 「やってみます」  と言ったのは、結城が常に何かとコネをつけている、ある代議士だった。 「ぜひ、そうしてくれたまえ」  ボスは言った。 「まあ、われわれが、心配するほどのことはなかろう。ことに、ぼくのほうが頼んでいる人は、検察庁にも、抑えの利く男だからね」 「それは分かります」  結城は同意した。 「が、それだけでは手薄だ。とにかく、これが綻《ほころ》びると、えらいことになりそうだ。いや、あの連中がひっぱられたり、監獄にはいるのはかまわないがね、こちらの商売ができなくなるのが困る。万全の手を打つのに越したことはない」  土井は、厚い唇をあけて笑った。 「そこで、きみにもぜひ、工作を頼みたい」 「分かりました。できるだけやってみます」 「ぜひ、頼みます」  話は、そこですんだ。が、思いだしたように、ボスはつけ加えた。 「そうだ、検察庁の方の調査が届いたら、すぐにきみのほうに回すことにする。そのときは使いを出すよ」 「いつごろになるでしょう?」  と、結城が言ったのは、自分がいつも事務所に不在であることだった。 「そうだね、明日の午後は確実だろう」  結城は事務所で待つ、と言った。 「ところで、土井さん。なんです? 今ごろから」  結城は、土井がこの家に昼間から停頓《ていとん》している意味をきいた。 「なあに、少々、都合があってね」  土井はいった。 「あいつが」  と言ったのは、自分の女のことである。 「放さないのでね、とうとう、この始末だ。もっとも今夜はまた、別な人間を呼ぶことにしている」  翌日、結城庸雄が、土井から連絡を受けたのは、彼が予告したとおりだった。隣の低い屋根のうえに落ちているビルの影が長くなりかけた二時過ぎだった。 「社長、岩村さまからでございます」  女事務員が取りついだ。  結城が受話器をとると、 「結城さん」  と若やいだ女の声が聞こえた。 「あたし。分かるでしょ?」  結城は、土井の女とすぐに知った。 「分かります」 「一昨夜《おととい》は、うれしかったわ。今、このビルの下にいますのよ。土井が手紙を届けてくれって言ったので、あたし、使いにきたの」  女の声は弾《はず》んでいた。 「すぐ降ります。そこに喫茶店があるから、待っててください」  結城は抑揚《よくよう》のない声で答えた。 「そう。早く降りてね」  結城は、帰り支度をさっそく始めたが、思いなおして、そのまま廊下に出た。外出着だと、あの女にからまれそうだった。  喫茶店は、ビルの地下室にあった。結城がはいっていくと、客はまばらだった。場所柄ふだんからあまり繁昌《はや》らない店である。  土井の女は、彼がはいってくるのをすぐに見つけやすい場所にすわっていた。入口に真向かいなのである。  今日の彼女は盛装で来ていた。白っぽい地の着物に派手な柄が、裾からはいあがっていた。帯も華美なものである。横の椅子の上には、脱いだピンクのモヘアのショールがふくらんでうずくまっていた。  結城が女の前の椅子に腰をおろすと、彼女はうれしそうに笑った。 「一昨夜はどうも」  女は、軽く頭をさげて、にっと笑った。 「いや、こちらこそ」  結城は、わざと女の顔を正面から見て、感嘆してみせた。今日は特別の念入りで、厚い化粧に強いアイシャドーさえ、まぶたに塗っていた。昼間から、まるで夜会にでも行くような恰好は、この女の教養の程度をむきだしにしていた。ただ、面会に来ただけの用事なのである。 「ずいぶん、きれいですね」  これを皮肉とは取らないで、女は正直に媚《こび》のある笑いを顔にひろげた。見せた白い歯に口紅が薄くにじんでいる。髪も美容院から出たばかりのようだった。 「似合うかしらね、これ?」  女は着物のことを言った。 「よく似合いますよ。それで一段と美しい。土井さんがご満悦でしょう」 「いやあだ」  女は、大仰《おおぎよう》に顔をしかめた。 「パパなんかに見せたくないわ」 「だって、みんな土井さんのお見立てでしょう?」 「ううん、パパなんかには分からないわ。全部あたしが選んだの」  女は、自分の趣味をひけらかした。 「でも、結城さんにほめていただいて、うれしいわ」  彼女は、上目づかいに結城に瞳を据えた。 「いや、ぼくにもよく分かりませんよ」 「あんなこと言って。女のことはなんでも知ってらっしゃるくせに」 「そうでもありませんよ、近ごろは」  結城は苦笑した。 「信用できませんわ。ずいぶん、お噂を聞くんですもの」 「デマですよ。それを信用されては困りますね」 「かまいませんわ」  女はさばさばと言った。 「殿方は、やっぱり外でモテないとだめですわ。あたしなんか、好きな人が、外でもモテないとつまんないの」  やはりこの女の性格だった。それで土井が、彼女に目を細めている気持が分かるのである。 「ところで」  結城はいいかげんなところで切りだした。 「土井さんの手紙をいただきましょうか?」  結城は、わざと手を出した。 「あら、すみません」  女は、ハンドバッグを寄せた。これも彼女の趣味らしく、派手なものである。しゃれた留め金をあけて、封筒を出した。 「どうも」  結城は、手紙を受けとり、封を切った。中を出した。それには、三人の検事の性格や趣味がいっぱい書きこまれてある。  土井は、かなりな情報網を持っていた。これだけのことがすぐ分かるのも、そのネットの広さを思わせた。  結城は、ざっと目を通しただけで、いずれ後でゆっくり読むつもりだった。  この女の前で熟読するのは都合が悪い。彼は、それを封筒に元どおりにした。 「確かにいただきましたと、土井さんに言ってください」  結城が、女の顔に目をもどしたとき、彼女は、じっと彼を見つめているところだった。この凝視は、結城が手紙を読んでいるときからつづいていたのだ。 「ねえ、結城さん」  彼女は言った。 「まだお仕事、おすみにならないの?」 「ええ、少し残っています」  結城は、外出支度で来なくてよかった、と思った。 「すぐ出かけられませんの? 少しの時間だったらお待ちしますわ」 「どうするんです?」 「ごいっしょにその辺を歩きません? あたし、半分はそれが楽しみで来たんです。残念だわ」  結城は、丁寧に断わった。 「仕事が残っていますのでね。この次に」  女の顔に、あきらかに失望が浮かんだ。 「つまらないわ。がっかりね」  女はしょげたが、すぐに顔を上げた。 「ねえ、結城さん」  と言ったのは、ささやくような声だった。 「ほんとは、結城さんに、あたし、どこか遠いところに、連れてっていただきたいの。パパのほうは、なんとかあたしが言いくるめるわ」  うるんだ、あかいような目で、女は結城をまた見つめた。      2  結城は、その晩八時ごろ、自分の家に帰った。近ごろは、帰りがときどき早くなる。自分でそれに気づいたものだ。もとは、早くても午後十二時すぎだった。十時前の帰宅というのはめったにない。  それが、このごろ、八時に帰ることになったのだ。結城が自分で変化に気づいて、その原因が分からなかった。 「お帰りあそばせ」  玄関に女中が迎えた。頼子の姿はなかった。  黙って靴を脱ぎ、むずかしい顔をして奥へ通るのは、いつもの癖である。  女中が、後ろからついてきたことで、頼子がいないことが分かった。 「あの、お召しかえなさいますか」  女中が居間にはいって遠慮そうにたずねた。 「うん」  むっつりして考えていたが、 「いや、これでいい」  不機嫌に答えた。 「留守かね」  と言ったのは、頼子のことである。 「はい」  女中が、少しうつむいて、 「奥さまは、六時ごろからお出かけでございます」  と、小さな声で答えた。これは、主人の不機嫌が、妻の不在に関係がありそうに思えたからである。 「どこに行くと言っていた?」  結城は、女中の方を見ないできいた。 「学校のお友だちの会があって、そこに出ると、おっしゃっていました」 「行先は?」  珍しいことである。これまで、結城は妻の行方を、これほど執拗《しつよう》に女中にたずねたことはなかった。 「品川の方面だとは、おっしゃっていましたが、お出かけ先のことは承っておりません」  そうか、と言ったのは、口の中である。ポケットをさぐって、煙草をすった。青い煙をゆっくりと吐いた。  そばの女中は、まだ、もじもじと立ち去りかねていた。 「よろしい」  結城は女中を退らせた。  彼は、広縁にある籐椅子の上に腰をおろした。ガラス窓の外から、夜の屋根が黒く沈んで見える。場所が高台なので、付近一帯を見おろせる位置にあった。風があるらしく、黒い木の茂みが動いていた。  女中が静かにはいってきて、紅茶を運んだ。結城が動かないですわっている前に、恐れるように茶碗を置いて退ろうとした。 「おい」  結城は女中をとめた。 「はい」  女中は、そこに膝をついた。 「奥さんは、近ごろ、よく外に出るかい?」  あまりなかった質問だったので、女中のほうでうろたえていた。 「いいえ」  と返事して、どぎまぎしていた。  結城は、それきり黙った。女中は迷っていたが、主人の言葉がないので、そのまま、足音をしのばせて退った。結城が考えているのは、女中が言った言葉だった。  頼子は、友だちとの会合に行っているという。これは、いつか、頼子が話したことだが、上野駅に朝早く行ったのも、友だちを送るためだという。  しかし、それが、嘘だと分かってからは、結城は心の平静さを失っている。  相手の男は誰か、という謎《なぞ》である。  前に一度、結城は、朝五時ごろ上野駅到着の列車を推測して、北陸方面の時刻表を調べたことがある。頼子が本当は迎えた人物が、その方面の人間かと思ってのことだったが、今、ふと、思いついたのは、頼子が、自分の留守に二日ほど家をあけた事実だった。  ──どこへ行っていたのか?  結城の性格として、妻にそのような質問のできない男だった。いつも、妻には弱みをみせない夫だったのだ。何かと自分が冷然と妻にかまえる姿勢をとっている。  妻に直接、どこに行っていたのか、なぜ、一日予定を遅らせたのか、というような詰問めいたことは言えないのである。これまでの仕方がそうだった。  結城は、頼子が、自分から離れていることを知っている。妻に自分が卑屈になることを、極度に警戒した。  日ごろから、妻に取りあわない自分を保っている夫であった。  椅子によったまま、結城は考えている。  頼子は、あのとき一泊の予定で家を出た。その泊まりが二日になっている。予定より延びた一夜を、彼女はどこで過ごしたか? いや、過ごさねばならない事情は、なんであったか?  結城は、女中から、頼子が帰ったときに、スーツケースの中の衣類が、雨にうたれて濡れていたという話を、前に聞いた。  それを思いだしている。  頼子は、旅行先で雨に濡れたのだ。  では、雨が彼女を引きとめたのか。それも普通の雨ではない。風雨の中を彼女が歩いたのである。  あのときは、台風がきたときだった。結城は、彼女が留守の間、いくらか気分が楽になって、女のところに泊まったことを覚えている。頼子は、あの台風に、どこかで遭《あ》ったのだろう。  そうだ、頼子が、帰る予定を一日延ばしたのは、台風のためである。  なぜ、その台風が、彼女を予定より一日延ばさせたか。頼子の性格として、一日の予定を二日に延ばす女ではなかった。  台風の中だって帰れる。それができなかったのは、つまり、不可抗力がそれをさせたのだろう。 「不可抗力か」  結城は呟いた。当時、台風が鉄道に被害を与えたことを思いだしたのだ。  そうだ、彼女の帰京が遅れたのは、汽車の不通が原因だったからだ。  結城は新しい煙草に火をつけた。疲れたように籐椅子によりかかり、額に指を当てている。  あの時の台風は、かなり被害を与えて去った。東京方面も、その余波でひどく荒れたが、電車がとまるほどではなかった。  結城は、当時の新聞記事を思いだそうとした。  鉄道が台風のため、どこで切れたかである。  あの台風は、潮《しお》ノ岬《みさき》の沖合から、北々東に進路をとり、相模灘《さがみなだ》から、東海道《とうかいどう》を横断して、甲州へ抜け、東北寄りの日本海に抜けた。一番、被害が大きかったのが、山梨、長野の両県だった。  確か、中央線と信越線とが寸断されたはずである。  では、頼子は、その方面を旅していたのか。ここで、結城は頼子が上野駅で迎えたという北陸方面の「客」のことを考えた。  だが、北陸では、少し遠すぎる。頼子は一泊の旅行で出かけたのだ。  信州や北陸だったら、一泊で帰れるわけはない。もっと近いところだ。  鉄道が寸断されて、しかも、一泊で東京に帰れる場所というと、どこだろう。  結城の頭には、関東一帯の地図が描かれた。  一泊旅行とすると、田舎だし、何にも縁故がないところに、彼女が泊まるわけはない。普通の都会人のように、温泉のある土地ではあるまいか。頼子一人ではないはずだ。結城はその地図の中に、温泉地を探した。  東京から一泊で帰れる温泉地。中央線なら、甲府の湯村、諏訪、松本の浅間温泉などがあるが、浅間は、ちと遠かろう。甲府から分かれる身延線には、西山《にしやま》、下部《しもべ》がある。上越線は伊香保《いかほ》、四万《しま》、水上《みなかみ》がある。そのほか、鬼怒川《きぬがわ》、塩原《しおばら》、福島県の飯坂《いいざか》などがあるが、東北方面は台風の被害をあまりうけていないので、線路の切断は、なかったはずである。  これらは、一つ一つ結城に思い出のある温泉ばかりだった。つまりこれまで、女と行って遊んだ土地ばかりだ。  しかし、彼の知らない温泉は、そのほか幾つもあるはずである。むろん、小さな温泉地までは知識がない。  結城は、中央線と信越線に、一応しぼってみたが、これという推定はできなかった。何か、それらしい手がかりはないか。  結城は、現在、いろいろな屈託があるはずだった。土井から、ささやかれた例の事件もそうである。もし、これが大きくなれば、彼自身の体は、危険にさらされることになる。  しかし、その屈託が遠のくほど、彼は頼子の足跡に心を奪われていた。  何か、今の推定の材料になるものはないか。──  結城は、体を起こすと、女中を呼んだ。 「御用でございますか?」  女中は、古くからいるほうだった。いつも頼子の身辺を世話している。  その女中は、普通の用事かと思ってきたのだが、いつになく結城が微笑を見せた。 「まあ、そこにおすわり」  と、畳の上を指さした。 「はい」  女中は、とまどっている。こういう言葉を、今まで、結城から言われたことがなかった。 「いいから、そこにおすわり」  結城はすすめた。自分でも目もとを笑わせている。日ごろ、冷たい顔だけ見せる主人だったが、このときは、妙に人なつこい表情を向けたのである。  結城自身が、籐椅子から立って畳の上にあぐらをかいた。これは、女中を気楽な気持にさせるためである。 「おまえに話があるんだ。まあ、そこにすわれよ」 「はい」  女中は、ようやくそこに行儀よくすわった。三十近い女で、額が狭く、目の細い善良そうな女である。 「おまえだったね、いつか、奥さんが旅行から帰ったときに、スーツケースの中の着物が濡れていたと言ったのは?」  結城はやさしい声を出した。  女中は何をきかれるかと思って、ちらりと結城の顔をうかがうように見た。 「そうだったね?」  結城は重ねた。 「はい、さようでございます」  女中は、いくらか、堅くなって答えた。 「ああ、そうだった。とにかくね、そのときの着物は、雨に濡れていたんだね。それを、おまえが手入れしたんだね?」 「はい」 「クリーニング屋に出す前に、むろん、おまえのほうで、それを始末したんだろう。誰がしたのかい?」 「わたくしでございます」 「そう」  結城は、ここで、しばらく黙った。煙草に火をつけてすった。 「そのときおまえは、何か、その衣類に気づいたことはなかったかい?」 「え?」  女中のほうで怪訝《けげん》な目を向けた。 「いや、変わったことといっても、別にたいしたことではない。ただ、おまえが気づいたことはなかったかというのだよ。たとえば、その着物に泥がついて汚れていたとか、何か、違ったものが、くっついていたとか、そういうことだよ」  淡々とした言い方だった。別に、詰問でもなく、また、頼子に嫌疑的な考えを持っているとは、思われない言い方だった。  その女中は、黙っていた。 「なあに、おまえから聞いたといっても、別にたいしたことではない。ちょっと、心当たりがあってきくだけさ。おまえが気づいたことがあったら、なんでも言ってごらん」  あくまでもやさしい言葉なのである。顔も、これまで見せたことがないほど、柔和だった。 「さようでございますね」  女中は考えていた。そして、ふと顔を上げたが、すぐには言葉は出さなかった。確かに、その表情には、迷いがあった。 「何も遠慮することはないよ。ぼくが聞くだけだ。いや、聞き放しにするだけだよ」 「はあ」  女中は言ったが、ようやく重い口を動かした。 「そうおっしゃいますと、奥さまのスーツには、葉っぱが、くっついておりました。濡れていたせいか、それが、お洋服の襟のところに隠れるように、ついていたんでございます」 「ほう」  結城は目を輝かした。 「なんだい、その葉っぱは?」 「梨の葉でございます」 「なに、梨の葉?」  一枚の葉が梨かどうかは、素人では分からないのが普通である。女中に、すぐにそれが鑑別できたのが、ふしぎだった。 「おまえは、その葉っぱが梨の葉だということが、すぐ分かったかい? 奥さんがそう言ったのか?」 「はあ、それは、わたくしにはすぐに分かったのでございます」 「どうして、分かった?」 「はい、わたくしの郷里が、静岡の在でございます。ですから、田舎には、梨がありますので、ふだんから見つけております」 「ああ、なるほど」  それで合点がいった。 「そうか、おまえは静岡だったね」  結城は、また、煙草をすった。しばらく考えて、その次に言った言葉は、 「分かったよ、もう退っていい」  と、女中を部屋から出したことだった。  結城は、しばらく、そこにすわっていた。  梨の葉のことが、頭の中にひっかかってくる。温泉と梨の葉、台風の被害地、この三つを彼は合わせようとしていた。思考が、それをいつまでもいじっていた。  ほとんど、一時間あまりもそこにすわっていた。目を宙にすえたままである。煙草だけは、何本もすった。少しも味のない煙草である。  結城は立ちあがった。自分でオーバーをひっかけ、廊下を歩いた。  その足音を聞いて、女中が出てきた。 「あら、お出かけでございますか?」  それには口の中で、うん、と返事をしただけである。  女中は、小走りに先に走って、玄関で靴を揃えた。結城はそれに足をつっこんで、黙ってヘラを使っている。女中は膝をついて、控え目にきいた。 「奥さまがお帰りになりましたら、何か、旦那さまのおことづけがございましょうか?」  結城はヘラを使いおわって、丹念な動作で、靴の紐を締めている。 「いいだろう」  ひとこと言っただけだった。  彼は、女中があけてくれたドアの外に出た。家の前の石段をおりて、道路に立った。用事がないものと思って、運転手は帰してしまっている。石垣の中が車庫《ガレージ》になっているが、結城は、ポケットから鍵を出して扉をあけ、次の鍵で自動車《くるま》をあけた。  広い道路に出るまで、結城は二台の自動車《くるま》に行きあった。自分の乗った車の速力を落として、それを見送った。彼の目の前を過ぎた二台とも、頼子は乗っていない。  なぜ、今晩は頼子のことばかり気になるのか、分からなかった。  車が大通りに出て、交通の多い道路を走った。  ハンドルをまわしながら、自分の行先を考えている。女の顔が二、三浮かんだが、そのどれにも行きたくなかった。  走っていながら、途中で電話ボックスを見つけた。彼の頭に浮かんだのが、昼間、ビルの喫茶店で会った女の顔であった。  ボックスの横に車をよせて、中にはいった。手帳を出して電話番号を調べた。  受話器をとるときに、ふと、土井のことを考えたが、今夜、彼は、その家《うち》にいないことを知っている。ダイヤルをまわすと、女の声が出た。しかし、これは、あの女ではない。 「どちらさまでしょうか?」  女中らしい声がきいた。 「結城と伝えてください」  もし、土井がその家にいたら、そのときのことだったが、ばたばたと走ってくる足音が、女のもので、それが、受話器にも伝わってくる。手にとるようだった。がたりと音がして、 「もし、もし」  と、あの女のはずんだ声が聞こえた。 「てる子さんかね?」  と、結城は、土井の女の名前を呼んだ。 「そうです。あら、結城さんね、どうしたの? 今ごろ」  女の声は息をはずませていた。 「昼間は、失敬しました」  結城は、まず、普通の挨拶から言った。 「いいえ、でも、うれしかったわ。あなたに会えて」  やはり、旦那の土井はいないらしい。  女は大きな声を出していた。 「きみ、昼間、言ったこと、本当かい?」  結城は、思わず、ぞんざいな声になった。女は、もと芸者だったのである。 「ほんとうよ、結城さん。あたし、嘘なんか言わないわ。あなたがどこかに連れて行ってくださるなら、喜んでついていくわ」  勘のいい女だった。結城が電話をかけた意図を、ちゃんと察している。結城がちょっと黙ったものだから、女のほうで、催促した。 「もしもし、結城さん?」 「うむ」 「あら、いやだ、聞いているの? 本当にどこかに連れていってくださるのね?」 「きみがその気ならと思って、電話したのだけれども、ちょっと、土井さんに悪いよ」 「あら、平気よ。土井のほうは、あたし、なんとかするわ」  結城は、また黙った。 「もしもし、もしもし」  と、女はつづけた。 「聞こえるよ」  彼は返事した。 「じゃあ、この次、電話する。そのとき、具体的なことを話すよ」 「そう、きっとね、嘘じゃないでしょ?」  女の声に喜びが出た。 「だいたい、どの方面に、連れていってくださるの?」 「中央線だよ。そうだね、甲州方面だ」      3  新宿発十二時二十五分長野行は、白馬号という準急列車である。  結城が二等車の中にはいったとき、女は座席からのびあがって入口の方を見つめていた。結城の姿を見て、ぱっと立ちあがった。その様子で、女が先ほどから苛々《いらいら》して待っているのが分かった。 「やっと駆けつけたのね。結城さん、まにあわないのかと思って、あたし、はらはらしたわ」  女は息を吐いて言った。  結城は、ゆっくりと女の前にすわった。窓際に席を取ってくれていて、そこには白いしゃれたハンカチが広げてある。結城は、隣の人に会釈《えしやく》して、そこにすわった。 「もうあと五分ぐらいで発車でしょ。あたし、何度、プラットフォームに降りて、あなたの来るのを待ったか分からないわ」  今日の女は、髪のかたちを変えている。いつもは、ふくれあがった丸いかたちの髪だが、今日は、わざと素人くさい地味な形だった。着物も、ふだん好んで着るような派手なものでなく、渋い好みだった。 「きみは、よく早く起きられたね?」  結城は、もの憂い口調できいた。 「あら、昨夜《ゆうべ》、眠られなかったくらいよ。これで今朝《けさ》早く、セットに行ったりして騒ぎだったの」 「そりゃ、たいへんだったな」 「それでも、あたし、ちゃんと結城さんより先に来てたわ。どう、似合う?」  女は顔だけ横に向けた。  わざと地味な服装《なり》をしているが、争えないもので、着付けや帯は、やはり彼女の粋《いき》な好みが出ていた。それが着物の渋さと妙にちぐはぐだった。 「Sとおっしゃったわね。むずかしい名前なので、あなたの電話を聞くと、切符を間違えないように紙に書いておいたんだけど。向こうに着くまで、何時間ぐらいかかるの?」 「三時間ぐらいだろう」  結城は、ポケットからたたんだ新聞を出した。 「あら、もう新聞、読むの? せっかく気をもんで待ってたのに。少しは話しなさいよ」 「うん」  結城は、新聞をやめた。 「しかし、きみ、よく出られたね?」  女の顔を見た。 「あら、平気よ。なんでもないわ。三、四日ぐらい泊まったって大丈夫よ。あたし、そのつもりで来たんだから」 「そんな強気なことを言って、土井さんのほうは大丈夫かい?」 「この間、電話で申しあげたでしょ。なんとでもなるのよ」 「分かったら、たいへんだぞ」 「あら、おどかすのね。いいわ、分かったって土井と別れるだけよ。そのあと、あなたも覚悟でしょうね?」  女は、じっと結城を見つめた。目のふちに薄いアイシャドーをつけている。二十四、五ぐらいの年齢だが、やはり、仕方のないもので、まぶたには、もう疲れたような小皺が見える。  結城は、知らぬ顔をして窓を見た。ちょうど、列車が少しずつ動きだしはじめた。 「やっぱり旅はいいわ」  女はうきうきしていた。  窓外には、街が消え、雑木林の多い台地が広がってきた。 「結城さんといっしょに出かけるようになるなんて、夢にも思わなかったわ。それに、こんな旅に出るのは何年ぶりかしら」 「その何年か前には、誰と旅に行ったんだね?」 「結城さんの知らないひと」  彼女が笑いをふくんだ瞳《め》で結城を見た。 「妬《や》いてくれるの?」 「ぼくに関係のない話だからね」 「頼りないのね。これが土井だったら、大変だわ」 「へえ、土井さん、そんななのかい?」 「年寄りって、みんな、ああなのね。あたしの前のことを、根ほり葉ほり、そりゃうるさくきくの」  結城は黙って、煙草を窓ガラスに吹きつけた。青い煙はガラスを伝わって上にもつれあがっていく。結城のその顔を女は見まもって、 「こわくなった?」  と、さすがに低い声で言った。  横の乗客二人が、週刊誌を読んでいる。が、彼女と結城の会話にそれとなく耳を澄ませているらしいことは、その様子で分かった。 「別に」  結城は怠惰《たいだ》に答えた。 「いい度胸だわ」  女はくすりと笑った。  甲府に着くまでの二時間余り、女は何かと結城にサービスした。まずウィスキーをスーツケースから出した。 「いかが?」  小さなグラスを渡した。 「ほほう。こんなものを持ってきたのか?」  オールド・パーの黒い瓶《びん》を見た。 「ね、気がきくでしょう。あたしもいただくわ」  結城がのむと、女も小さなグラスをなめた。それまで用意してきている。  それがすむと、果物や菓子などをやたらに出した。 「ずいぶん、いろんな物を持ってきてるんだな」 「そうよ。だって、汽車の中、退屈なんですもの。それに、結城さんとこうしていろんなものを食べてるのが楽しいのよ」  女は好きな男のためには、さまざまな食べものを奉仕するものらしい。  甲府から身延線に乗りかえた。女はうれしそうに横についてくる。  結城が、てる子という土井の女と、思いきって行先をS温泉に選んだのは、理由があった。台風の日、中央線も被害を受けて、汽車がとまった。そのほかにも、この山梨県、長野県を中心にして数カ所に線路の故障があったが、結城は、二つの理由からS温泉を決定した。一つは、頼子の最初の予定が一晩で帰れる地域であったということ。一つは、彼女の濡れたスーツについていたという梨の葉である。  結城は、中央線を中心に、近いところで梨の栽培地域を調べた。すると、可能性のあるのが、甲府から身延に出るまでの沿線である。これに温泉地を条件に入れると、自然とS温泉がポイントになってくる。  この推定が当たるかどうか分からなかった。もしはずれていたら、もっと別なところを詳しく調べるつもりだった。頼子のことで結城がこれほど打ちこんだことはない。現在、さまざまな面倒な事が起こっているが、それを捨ててきたくらいである。 「まあ、葡萄ばかりね」  中央線の塩山《えんざん》から甲府、身延線の鰍沢口《かじかざわぐち》に至るまでは、左右は葡萄畑の連続である。この辺は初めてだというてる子は、窓から珍しそうにのぞいている。  結城は、梨畑を注目したが、それはなかった。御坂山塊《みさかさんかい》の上に、八合目から上の富士が、気味の悪いほどの近さでのっていた。汽車が山峡《やまかい》にはいると、やがてSの駅に着いた。寂しい駅だ。  駅前には、旅館の番頭が三、四人出ていた。 「一番いい旅館にしてね」  てる子が、結城の後ろから言った。  案内された旅館は、なだらかな坂道の途中にあった。この辺は旅館ばかりが並んでいる。宿の裏が渓流になっていた。  その渓流に臨んだ座敷に二人は通された。 「宿はきたないけれど、景色はいいのね」  てる子は、川をのぞいて言った。  川をへだてたすぐ前が、山の急な斜面になり、断崖になっている。 「番頭さん」  てる子は荷物を運んできた番頭にふりむいて言った。 「ここが、いちばんいいお部屋なの?」 「へえ、どうも」  番頭は頭をかいた。 「この温泉は、皆さま、湯治でいらっしゃるかたが多いので、まだこういう体裁でございます。いずれそのうちに、箱根に負けないような、近代的な建物にしたいと思っております」 「そうしなさいよ。部屋がきたないと、いくら湯がよくっても、東京のお客さん来ないわよ」  てる子はずけずけと言った。番頭は苦笑して逃げた。  すでに、あたりは暮れかけていた。ほかの宿の灯が、蒼白い靄《もや》の中にあたたかい色でにじんでいた。  女中が丹前を持ってきた。 「お風呂へご案内いたしますから、どうぞ」 「そう」  てる子はすぐに立った。 「あなた、お支度なさいよ」  結城は、暮れかけた山を眺めて縁側の籐椅子によりかかっていた。 「ぼくは、あとではいるよ」 「あら、どうして?」 「今、何だかはいりたくないよ。きみ、先にはいれよ」 「いやあね、せっかく、こんなところに来たんですもの、二人ではいんなきゃつまんないわ」  女中は面倒な話になりそうなので、廊下の外に出た。 「ねえ、どうしておはいりにならないの?」  てる子は、帯を解いた恰好で寄ってきた。 「疲れたんだ」  結城はまだ山の方を見ている。体を椅子に沈ませて、長々と足を出していた。 「疲れは風呂にはいるとなおるのよ。ねえ、早くはいりましょうよ」  てる子が、結城の肩に手を当てた。 「いいから、きみ、はいりたまえ」  煙草をくわえて身じろぎもしない彼の肩は、女には石のように冷たく見えた。  結城は、てる子が風呂にはいったあと、番頭を呼んだ。 「何か御用で?」  番頭は敷居際に膝をついた。 「いや、ちょっと話したいことがある。こっちに来てくれ」 「へえ」  番頭は怪訝《けげん》な顔で進んだ。そして、結城の掛けている椅子の横にうずくまった。 「そこでは話ができない。まあ、こっちにかけてくれ」  結城は向かいの椅子をさした。番頭はもじもじしていたが、結局、結城の言うとおりになった。セーターの上に宿の名前を入れた印半纏《しるしばんてん》を着ている三十恰好の男だった。 「ここは初めて来たが、いいところだね」  結城は、まずほめた。 「へえ、ありがとうございます。何しろ山奥ですから、見るところもございませんが」 「いや、いいところだ」  結城は、煙草をすすめた。 「どうだね、東京のお客さんも、よくここに来るかい?」  番頭は、世間話と思って、顔色をゆるめた。 「へえ、東京のお客さんは、よくお見えになります」 「新聞で読んだが、このへんは台風で荒らされたのだったね?」  結城は切りだした。 「へえへえ、こちらもえらい騒ぎでございましたよ」 「この家も被害を受けたの?」 「いいえ、手前どもはそれほどでもございません。ごらんのように土地が高うございますから、水に漬かることはございませんでした。それでも、この先に二軒、大きな旅館がございまして、そこは川のすぐそばでございますので、土地が低いため、お客さんをこちらに避難させました」 「ふむ」  結城は、少し体を動かした。 「それで、どうだった?」 「へえ、あいにくと、この辺一帯の旅館が団体のお客さまでいっぱいでございましたので、とりあえず、旅館組合の事務所の二階に、一晩お泊めしました。ああいう事故があると、なにしろ宿の少ないところなので、まったく不都合なことになります」 「その宿のお客さんは、何人ほどあったの?」 「両方で十八人でございました。いや、もう、めったにああいうことはございません。手前も初めての経験でございます。おかげさまでお客さまがたには怪我人《けがにん》も出ないで、ほっといたしました」 「その客を移した旅館は、なんというのかね?」 「八代屋《やつしろや》と篠屋《しのや》というんでございますが、両方ともわりと大きな旅館でございます」 「八代屋と篠屋」  結城は呟いた。 「すると、駅から向こうだね」 「へえ、さようでございます」 「線路といえば、この辺はやはり汽車が不通になったんだろう」 「さようでございます。この先にHという村がございまして、ちょうど、富士川が線路わきに流れるところでございます。そこで川の水があふれまして、地盤が崩れ、線路が一部流されました」 「そりゃ困ったろう。それで、開通はその日にはできなかったんだろうな?」 「へえ、やっぱり翌日の夕方になりました」 「お客さんは、それまで全部足止めかね?」 「さようでございます。ちょうど、甲府の方では被害がございませんが、なにしろ中央線がやはり寸断されましたので、東京へお帰りになるお客さまも、ここに罐詰状態になりました」 「そりゃ難儀だ」  結城は同情的に言った。 「帰りを急ぐお客さんだってあったろうにな?」 「へえ、そりゃもう、どなたもそうで。なかには、汽車の開通を待たずに出発された一組もあったくらいでございます」 「ほう」  と言ったのは、結城が急に番頭の顔を見てからだった。が、すぐに目を伏せて、新しい煙草に火をつけた。 「番頭さん、そりゃどういうのだね?」  声も普通であった。 「台風の来た日の夕方、いま申しあげた八代屋に着かれたかたでございますがね。ご夫婦でございました。男のかたは、さよう、二十七、八ぐらい。ご婦人は、凄《すご》いくらいきれいなかたで、やはり同じくらいでございましょうか、そりゃ上品なかたでございました」  番頭は熱心に話した。 「背はどうだった? いや、その女のほうだよ」  結城は椅子をきしらせた。が、番頭は、結城がタダの興味からの質問だと思ったらしい。 「背はすらりと高いほうでございましてね、なにしろ、こういう辺鄙《へんぴ》な場所に見えるお客さまの中では、めったに、ああいうおかたはお見かけいたしません」  結城は、ちょっと黙った。 「男は?」 「これもご立派なかたでございました。まあ似合いのご夫婦と申しましょうか、やはり背の高いおかたで、いい顔をなさっていましたよ。そのお二人がおそろいで、山伝いに歩いて行かれたのですから、みんな驚きました。せいぜいお止めしたのですがね、よほど、お急ぎとみえて、それを振りきってご出発なさいました」  結城が体を動かした。そのために籐椅子はまたきしった。客がどんな表情をしているか、むろん、番頭の観察にはない。 「そりゃ、どっちの方角だったね?」 「すぐその山伝いでございますよ」  番頭は後ろを向いて指さした。 「そこんとこをずっとまいりますと、身延のほうに出ます。道らしい道のないところですが、あれじゃお二人ともご苦労なさったと思いますよ。まだ雨が降っておりましたし、風もおさまっておりません。その中を山伝いですから、こりゃ並大抵じゃございません。ご本人たちは、東海道線に出るところまで、お歩きになるつもりだったでしょうがね」  結城は、また黙った。 「時に、どうだね、番頭さん、その辺に梨畑はあるかね」  結城は、平静な声できいた。 「梨畑? ええ、そりゃございますとも」  番頭は即座に言った。 「この辺は果実が多うございましてね。甲府はぶどうでございますが、ここいら一帯は、梨、スモモ、メロンなどをやっておりますんで」 「梨畑があるんだね?」  と、結城はこだわった。 「へえ、ございます。ちょうど、お二人の歩かれた途中にもあるはずでございます」 「もう一度きくがね、その二人は、仲がよかったかね?」 「へえ、そりゃもう。手前どもは、ご新婚からそうたっていないおかただと、睨んでおりました。八代屋さんからお迎えしたのは、実は手前でございますがね。そのときから、旦那さんのほうは奥さまをかばうようにとても大事にしておられました。ご出発の時でも、はたの目で羨しいくらいに、お仲が睦《むつ》まじゅうございました」 「そうか。新婚からそうたっていなかったのか」  結城は、ここで声を出して笑った。 「番頭さん、最初の宿は八代屋というんだね?」  結城は、その女性の服装を確かめたあとで、念を押した。  てる子が湯からあがったとき、結城の姿が見えなかった。  彼女は、結城が手洗かと思って待っていたが、容易に戻ってこない。  急に、不安げな顔になった。すばやく目を走らせたが、スーツケースも彼女のそれと並んで置いてある。洋服箪笥をあけたが、そこにも結城の洋服が行儀よく掛かっていた。  てる子は、鏡台の前にすわって、化粧にかかった。が、それがすんでも、結城は部屋に帰らなかった。彼女は落ちつかない顔色になった。  ブザーを押した。やがて足音がして女中が顔を出した。 「お呼びでいらっしゃいますか」  女中は、襖を半開きにして、外に膝をそろえた。 「あんた、知らない? うちのひとが、どこに行ったか」 「はあ」  女中は、ぼんやりした顔をしていた。 「なんですか、先ほど散歩に出かけるとおっしゃって、玄関からお出かけでございましたが」 「そう? どこに行ったか分かんないの?」 「はあ、それは」  女中は、てる子が険しい顔をしているので、どもっていた。 「何もうかがいませんでした。でも、ここいらは狭うございますから、すぐにお帰りになると思います」 「そう」  てる子は考えていたが、 「そんな時は、ちゃんと行先をうかがっとくものよ」 「はい」  女中は去りかけて、 「あの、お食事は、旦那さまがお帰りになってから……」 「当たり前よ。帰ってきたら、すぐ出してちょうだい」  女中が逃げたあと、てる子は川の方をのぞいた。あいにくなことに、川のふちには道路はなかった。ただ、向かい側の急な斜面に細い小径がついているが、それも夜の暗い中に溶けこんでいた。 [#改ページ]   黒 い 山      1  結城が行ったのは、線路を渡って、川の近くにある温泉宿だった。この近くでは大きい旅館である。  そこは広い庭園を持っていた。庭は自然のままを多少加工しているにすぎない。それでも、川が近いので、かえって野趣があった。建物は、その川のすぐそばにある。結城が行ってみて、これでは洪水のときに避難するのも当たりまえだ、と思った。 「いらっしゃいませ」  番頭が迎えたが、結城の恰好が、別の宿の丹前なので、泊まり客のところへ遊びにきたものと思ったらしい。 「ご主人はいないかね?」  結城はきいた。 「へえ」  番頭は怪訝《けげん》な顔をした。 「少しおたずねしたいことがあるので、わずかな時間でいいが、お目にかかりたい。ぼくはこういう者です」  結城は、用意してきた一枚の名刺を渡した。  番頭は、それを持って奥にはいった。結城は玄関につっ立ったままである。丹前の肩にカメラを掛けていた。  出てきたのは、この宿のおかみらしく、中年の女だった。 「わたしは、このうちの者ですが、どういうご用件でございましょう?」  客扱いに慣れているので、言葉も物腰も丁寧だった。結城の名刺を片手に持っていた。 「名刺のとおりの者です」  結城は言った。 「東京から来たのですが、簡単に言うと、人を尋ねているのです。ちょうど、お宅に厄介になったと思われる形跡があるので、おうかがいしたいのですが」  おかみは眉《まゆ》を寄せた。 「どうぞ、こちらにお通りください」  面倒な話と思ったらしい。結城を上に請《しよう》じて、帳場の横につづいている応接間に通した。茶を出させたあと、結城と向かいあったおかみは、もの静かな調子できいた。 「どういうご用件か、ゆっくりうかがわせていただきます」 「恥を申しあげるようで恐縮なんですが」  結城は、前置きをした。 「実は、ぼくの親戚の者が家出をいたしましてね。従妹《いとこ》なんですが、愛人ができて、婚家を出奔《しゆつぽん》したのです。いや、どうも恥ずかしい次第です」 「いいえ、どうぞ。そういうことは、こういう商売をしておりますので、よく承ります」  おかみはかえって同情を見せた。 「このS温泉の近くから葉書を出しているのです。それによると、どうやらその日は、こちらに台風が襲ってきたときに当たるのです」 「あの時は、こちらも相当ひどい被害を受けました」 「婚家でも実家でも、その対策に非常に困っているんです。本人たちもまだ帰っていません。もしも妙な結果になっては、と、みんなで心配しているわけですが、こちらに確かに泊まったという形跡があれば、また探しようがあるわけです」 「それはご心配でございますね」 「それで、台風の夜、泊まったお客さんの中に、これからぼくが申しあげる特徴の人間はいなかったか、どうか教えていただきたいのです」 「ああ、台風の晩でしたら、わたしの旅館がちょうど、ごらんのように川のそばなので、危険になりました。それで、お客さまがたは、この上の旅館組合に避難していただいたのです。そんな具合で、その中にそのようなお客さまがあったら、女中がきっとおぼえていると思います」 「それはありがたいですね」  結城は落ちついて言った。 「では、従妹の特徴を申します。それと、そのとき着て出た服装もいっしょに言います」  結城は、頼子の顔だちや背の恰好、服装などを、ここで話した。しかし、連れの男は分からない。彼はこう言った。 「その連れのほうも様子が分かっていますが、問題は、従妹のほうなんです。そういう女が泊まっていたかどうか、まず、教えていただきたいのです」 「分かりました」  大きくうなずいた。 「しばらくお待ちください。心あたりの番頭か女中にきいてまいります」  おかみは、座を一度はずした。  しばらくして、番頭と女中とが、おかみの後ろからはいってきた。 「確かに、そのお客さまは、わたしのほうにお泊まりでございました」  結城は、おかみとならんで立っている番頭と女中を見つめた。 「話をうかがわせてください」  おかみにも促《うなが》されて、女中のほうが、まず口を切った。 「おっしゃるとおりのおかたでございました。とても、もの静かな美しいかたでしたが。そうですね、お二人は、夕方、こちらにお着きでございました。そのころから、空模様が怪しく、風が強く吹いていたんでございます。わたしが桔梗《ききよう》の間《ま》にご案内いたしました」 「様子はどうでした?」  結城は、落ちついた声できいた。 「とてもお二人ともお睦まじいようでございました。ちょうど、台風がひどくなりかけで、電気が消えましたので、わたしがお部屋に蝋燭を持ってまいりました。その時、こう申しあげてはなんですが、暗い部屋の中で、お二人が寄りそうようにすわっていらっしゃいました」  結城は身じろぎもしなかった。三人の前で眉一つ動かさないのである。 「それから、どうしました?」 「台風がひどくなって、いよいよ危険だというので、ほかのお客さまがたとごいっしょに、この上の旅館組合の事務所に避難していただいたんです。その時は、もう、たいへんな暴風雨で、ひとり歩きができないくらいでした」 「それからは、手前がその下まで、ほかのお客さまがたとごいっしょにご案内しましたがね」  と番頭がかわった。 「男のかたは、そのご婦人をしっかりと抱きかかえるようにして、ごいっしょにお歩きでした。いや、あの時はひどい荒れようなので、わたくしも心配しましたが、その中でも、お二人の様子を見ると、その仲のいいことは、そう言ってはなんですが、お羨しいくらいでございましたよ」 「ありがとう」  結城は冷静に礼を言った。 「それで、だいたい分かりました。申しかねますが、もう一度、本人かどうかを確かめたいんです。その時、宿帳をつけているはずと思いますが、それを見せていただけませんか。むろん、偽名だとは思いますが、筆跡を見たいのです」  女中がかわった。 「宿帳は、男のお連れさまがお書きになりましたが」 「結構です」  平気で答えた。 「その従妹といっしょだった男も、念のため確かめたいんです。いや、これは、あとあと問題になった時の参考なので、けっしてお宅にはご迷惑はかけません。拝見するだけで結構です」  おかみは少し迷ったような表情をしていたが、結局、結城の要求に従った。  女中は、いったん、そこを去ったが、やがて宿帳を持ってきた。 「これでございます」  開いたところを見せた。   青山隆一郎《あおやまりゆういちろう》 二十七歳 会社員    東京都杉並区××町××番地   同 京子《きようこ》 二十六歳  男の筆跡だった。  結城が宿に帰ると、てる子は待ちくたびれた恰好で、部屋にすわっていた。  黙って座敷にはいってきた結城を見上げると、 「あなた、どこへ行ってらしたの?」  と、女は拗《す》ねた顔でなじった。 「黙ってあたしを放っておいて、ひどいわ」  結城は、肩からカメラをおろして、そこに投げだした。 「ね、どこへ行ってたのよ。カメラなんか持って」  結城は、縁側の籐椅子に腰をおろして、女の方を見向きもしなかった。煙草をくわえた。 「ね、どうして、あたしに黙って一人で出かけたのよ?」  女は結城のそばに来た。  座敷と縁側とは、障子で仕切られている。薄い電灯の明りが縁側にもれていた。  女は、間の障子に背中をもたせて立っていた。椅子に掛けている結城を見おろしたままである。 「せっかく、たのしみに温泉に来たのに、お風呂にもいっしょにはいらず、たった一人で出ていくなんて、ひどいじゃない」  結城は煙を吐き、目を外に向けたままである。すぐ下を川が流れ、奔流《ほんりゆう》の音が高かった。向かいは断崖で、宿の灯がほのかに岩肌に映えている。 「どうしたの?」  女は、少し大きい声を出した。 「どうもしない」  結城は、ぼそりと答えた。  やはり、顔を外に向けたままである。体も動かなかった。 「いやに不機嫌なのね、あたしとこんなところに来たのを、後悔してらっしゃるの?」 「別に」  結城は簡単に返事した。 「そんなら、もっと話してよ。土井に気がねなさるんでしたら無用よ。あたしが、なんとでも言いくるめるから」  女は、そこで甘えた声になった。障子のそばに立っていたのを、結城の後ろにまわり、その肩に手を置いた。 「あなたが、だまって出かけた間、あたし、どんなに怒ってたかしれないわ。だって、こんなところに、あたしだけを置いてけぼりにするんですもの。でも、今はいいの。あなたの顔を見て安心したわ。あたし、もう、気持がなおったの。それで、うれしくて浮き浮きしているの」  女は、急に饒舌《じようぜつ》になった。声もはずんでいる。  結城は、相変わらず石のように、椅子によったままだった。 「ねえ」  女は男の肩を動かした。 「ラジオでもかけて、ダンスしません? つまんないわ、こんなところ。どうせこんな宿には、ホールなんかないでしょう?」  結城は返事をした。 「いやだね」  低い声である。 「まあ、ご挨拶ね、お疲れになったの、外を歩いて」  女の声は媚《こ》びたが、それにも返事はしなかった。 「だったら、ひと風呂浴びてらっしゃらない? この温泉は温度が低いんだけど、ちゃんと、沸かしてあるわ」 「それも、あとにしよう」  結城は短く言った。 「なんだか変ね。いつもの結城さんらしくないわ。なに、考えていらっしゃるの、山ばかり見て。いやに寂しいとこね」  女は、結城に甘えるつもりで、体を寄せて、いっしょに外をのぞいた。 「あたし、こんなところに一晩泊まったら、飽き飽きするわ。やっぱり、東京の賑やかなのが性《しよう》に合っているのね」 「帰ったらいいだろう」  結城は、ゆっくりと言った。 「え、なんなのよ?」  女は笑いだした。 「いやだわ。あたし、あなたとだったら、本当は何日でも平気なのよ。どんな山の中でも退屈しないわ」 「いや、帰ってもらったほうがいいんだ」  女は冗談と思っていた。まだ笑っている。 「意地悪ばかり言うのね、何か気に入らないことを思い出したの? いやね、あたしにそんな八ツ当たりして」 「八ツ当たりじゃないよ。きみに言ってるのだ」  結城は、体を起こした。くわえた煙草を、灰皿に捨てた。 「すまないが帰ってもらおう」  今度は強い声だった。 「まだ、あんなことを言って」  女は初めて顔色を少し変えた。だが、まだ半分笑いを残していた。 「結城さんて、ずいぶん、意地悪いのね。そんなことを言わないで、早くお寝《やす》みになったら。お留守に、あちらに女中にお支度をさせてありますわ」  結城が突然立ったのは、それを聞いてからである。 「ぼくは、本気で言っているんだよ」  結城は顔を女に初めて向けた。微塵《みじん》も微笑のない、かたい顔だった。  まっすぐに向けている目の表情も真剣なのである。 「悪いが帰ってもらおう」  女の顔から血の気が引いた。 「冗談?」  と、それでもやっと踏みとどまってきいた。 「冗談ではない。とにかく、おれは一人で今夜は寝たいんだ」  結城は突き放した。 「結城さん」  女は叫んだ。  結城は、かまわず床の間の送受器を取った。 「お客さまが一人帰る。今度の上りは、何時だね?……そう」  結城は聞いて送受器をおいた。 「三十分後に汽車が来る。今から支度すればまにあうよ」  てる子は、蒼くなってつっ立っていた。目がぎらぎらと光って、結城を見据えた。 「結城さん」  唇をゆがめて鋭い声で言った。 「ひどいことをするのね。まるであなたは鬼だわ」  その顔がゆがんで、女は声を放って泣きだした。  障子の外に足音がした。 「お呼びでいらっしゃいますか?」  女中は遠慮そうに外から言った。 「はいってくれ。次の汽車にまにあうように、東京に帰る客がある」  汽車が遠方から来る音がした。夜だから長いことその音はつづいた。すぐ近くが線路だし、汽車の通過が、はっきりと部屋にいて分かった。  列車は駅にとまった。機関車から蒸気を吐く音がする。駅員が駅名を連呼していた。  それらの音を、結城は籐椅子にすわって聞いていた。このときも体を動かさなかった。目を真向かいの暗い断崖に向けたままである。川の音を聞いているだけのようだった。  発車のベルがすぐに鳴った。汽車が動きだす音がする。てる子がその汽車に乗っているのだ。  女中の手前も考えずに、半泣きにわめきちらしたすえに、てる子はスーツケースを持って出ていった。結城は、その間、ほかのことを考えていた。  汽車はレールの上に音をたてて遠くに行った。山峡《やまかい》なので、いつまでもその音が消えなかった。このあたりも静かなのである。  結城は、いつまでもそこから動かなかった。煙草をすっていたが、灰が胸に落ちるのが分からなかった。この男に似げなく肩のあたりが寂しかった。  急に立ちあがった。  着物をぬいで、洋服に着替えた。オーバーをその上から着て、ひとりで部屋を出ていった。  階段を鳴らして下におりると、宿の者が驚いた顔をしていた。 「あれ、お客さまもお帰りですか?」  結城はうすい微笑をした。 「いや、ぼくは散歩だ。靴を出してくれ」  女中がうろたえて、下駄箱から靴を探した。  宿の者は、てる子が泣きながらそこを去ったことを知っている。結城の顔を、それとなく興味ありげに見ていた。  結城にはそれが分かっていた。黙って靴をはくと、玄関を出ていった。 「行ってらっしゃいませ」  後ろから番頭が声をかけた。  宿の前は坂道になっている。結城は、そこを下っていった。並んでいる旅館のほとんどがガラス戸を閉めていた。道を歩いている泊まり客の姿もない。  結城は、坂をおりきって踏切にかかった。左右を見たが、線路の先は暗かった。近くの駅のホームに、孤独に灯が明るいだけだった。  結城は、線路を渡って、別の道を下った。その道はしばらく線路についていたが、やがて、それとも別れた。  暗い畑と、その先に迫っている黒い山があるだけだった。  山の裾に農家の灯がぽつんとともっていた。この道は誰も歩いていない。川は左側に高い音をたてていた。  風がある。結城は襟を立てた。両手をオーバーのポケットにつっこんだままである。川音が始終聞こえていた。  結城は、ただその道を歩いた。宿からは遠くなるばかりである。前方には、両方の山がせばまり、道がその先で暗く消えていた。  道端に一軒の百姓家があった。薄暗い灯が障子に映っている。誰か外に立っているらしく、彼の方をうかがうように見ていた。  結城は、その方に歩みよった。 「この道はどこに行くんでしょう?」  きかれたほうは、老人のようだったが、のどの奥で驚いたような声を出した。 「へえ、この道はまっすぐ行くと、身延山《みのぶさん》に行きますだ」 「そう」  結城は立ち去りかけたが、思いだしたようにきいた。 「その辺に梨畑がありますか?」 「梨畑」  きかれたほうは、ちょっと声を跡切《とぎ》らせてから答えた。 「そりゃ幾つもありますだ。この先の山の裾は、梨畑ばかりですよ」  老人は、暗い中から黒い山の方角をさした。 「ありがとう」  結城はその山を見て歩きだした。  たった一人である。黒い山裾が塊のようにせまっていた。闇の中に道だけがほの白く一筋つづいていた。  結城の顔がゆがんでいた。      2  結城は、七時半に東京駅に着いた。  乗車口の方へ出て、タクシーを拾った。行先をまっすぐ自分の家に命じた。 「旦那」  運転手は、背中越しにきいた。 「今、急行が着いたんですか?」  結城が、そうだ、と言うと、 「大阪からですね。旦那も関西からいらしたんですか?」  と、きく。  話し好きの運転手とみえて、走ってる間でも、始終、話しかけた。  結城は、富士駅から乗ったのだ。ちょうど、頼子が帰ったと思われるとおりのコースを、彼は回ってきたのだ。  結城は、流れる街の灯をぼんやり眺めている。三時間前に富士山を見た。赤い雲が頂上のあたりにかかっていたのが、まだ目に残っている。S温泉から、東海道線に出る途中、富士が車窓にゆっくりと回ったものだった。  今、眺めている東京の夜の景色が、嘘みたいだった。これまで結城は、何度も旅行したことがある。もっと長い期間、東京を見なかったこともあった。  しかし、ただの一晩だけだったが、S温泉のことは、長い滞在をしたような充実感を持たせた。東京の灯が、変わって眺められたくらいである。  いつもの道である。結城は、その景色までがどこか変化しているように見えた。 「どの辺でしょうか?」  運転手が、またきいた。  結城は方向を教えた。道はそこから勾配《こうばい》になっている。賑やかな灯が消えて、寂しい屋敷町だった。  結城は、ここまで来て、自分の気持が落ちついていないのを知った。  これまで、めったになかったことである。彼はもっと長い間を、女と旅行したことがあった。その時でも、これほどの不安定な気持にはならなかった。  このまま自分の家にはいるのが、自分で不安になってきた。彼は、いま、頼子と向かいあう準備ができていないことを知った。まっすぐに家の中にはいるのが、いかにも不用意のようだった。そのうちにも家が近づいてきた。  結城は、突然、停止を命じた。 「ここですか?」  運転手は、車をとめて、横をのぞいた。長い塀をつらねた他人の家である。 「このまま、車をもとの方角へ回してくれ」  結城は言った。 「は?」  運転手は、のみこめない顔をしていた。 「いや、用事を思いだしたのだ。銀座に回ってほしい」 「これからですか?」 「そうだ」 「惜しいですね。せっかくここまで来て」  運転手は、そう言いながら、車をゆっくりと転回させた。 「悪いな」  結城が言うと、 「どういたしまして。どうせ帰りは、お客さんを、拾えるかどうか分からないんですから、わたしはありがたいですよ。でも、旦那がずいぶん損をなさいますな」  運転手は喜んでいた。  車はそのまま元の道に返った。賑やかな街にもどったとき、結城は、気持のどこかで安心を覚えた。  彼は、二、三の女を頭にうかべた。その女たちのどの家にでも、結城は泊まれるのだ。  結城は、これまで、一週間や十日、外に泊まっても平気だった。今夜は、その女たちのところに行くのが、砂を噛むように味けなく思えた。自分の空虚さが、よけいに広がりそうだった。  銀座の横町に車をとめた。時計を見ると九時過ぎだった。結城は、スーツケースを持っている。  結城は、狭い路地をはいった。バーの看板がごてごてと並んでいる。路地はまた奥でわかれた。ある建物の狭い階段を上がった。  ドアを押すと、内にこもった煙草の煙が灯を靄《もや》のように包んでいる。黒い影が乱雑に動いていた。 「あら、いらっしゃい」  結城を見て、女たちの声がきた。 「ずいぶん、お久しぶりね」  女の一人が、結城のスーツケースを取り、オーバーも脱がした。 「あら、ご旅行なの?」  結城は、そうだ、と言った。 「これからですか? それともお帰り?」 「これからだ」  結城は、カウンターの方に近づいた。 「あら、ボックスが空《あ》いてますわよ」  ドレスの女が言ったが、結城は黙ってスタンドの椅子にすわった。 「今夜は、こっちのほうがいい」  バーテンがシェーカーを振りながら、結城におじぎをした。 「まあ、しばらく、結城さん」  このバーのマダムだった。 「ずいぶんお久しぶりね。何カ月ぶりかしら?」  マダムは、結城の横にすりよった。 「今夜はスタンドなの? 珍しいわね」 「こっちのほうがいいんですって」  ドレスの女が笑った。 「結城さん、ご旅行ですってよ」  スーツケースを受けとった女が歩いてきて、マダムに告げた。 「あら、そう。今夜お発《た》ちになるんですか?」 「まあね」  結城は、スコッチの水割りを注文した。  結城は、今夜はボックスなどにすわりたくなかった。できれば、自分一人がカウンターに肘《ひじ》をついて、酒をたてつづけに飲みたかった。この気持も初めての経験である。 「ご旅行は、どちらへいらっしゃいますの?」  マダムが、結城の顔をのぞいて、きいた。 「九州だ」  結城はすぐに答えた。実際、九州に行きたい、という衝動も、心の隅にないではなかった。  女たちは、ボックスのお客にほとんどついていたが、結城の横には、マダムが残っていた。久しぶりだったし、マダムも結城を大事にしていた。 「九州なんて嘘でしょう?」  マダムが、目を笑わせてきいた。 「どこかに、いい人とごいっしょに逃避行じゃないんですか?」 「悪いけど、今度はそうではない」  結城は調子を合わせて笑ったが、酒を飲んでも、それほど気分は引きたたなかった。 「結城さん、ご無沙汰なわけよ。ずいぶん、よそでお噂を聞くんですもの」  いつもの結城だったら、その話に取りあうのだったが、その気持もまだ起こらなかった。 「お疲れになっているみたいね」  マダムは、結城の顔をのぞきこんだ。 「これから、旅行にお出かけじゃなくて、お帰りなんでしょう。どこにいってらしたの?」 「商用で関西に行ってきた」 「そう、おいそがしいのね。近ごろ、結城さんがいらっしゃらないので、寂しいわ」  結城は、この店に、土井と何度か来たことがある。もとは、土井が知った店《うち》なのである。  結城は、ふと彼のことを思いだした。  S温泉から追い返した、土井の女の連想とも言えた。 「土井はくるかい?」  結城はきいた。 「ここんところ、ちっとも、お顔をお見せにならないわ。みなさん、おいそがしいのね。でもたまには、結城さんだけでもいらしてよ」  マダムは結城と並んで、ハイボールをのんでいたが、思いだしたように、 「そう言えば、今日の夕方、土井さんを探して、お二人お見えになりましたわ」  と言った。 「へえ、どんな人だね?」 「何だか、あまり風采《ふうさい》のよくない人でしたわ」  結城は、誰だろう、と思った。土井は、さまざまなつきあいをもっている。みんな彼の商売に関係したことだが、結城とは性の合わない方面にも彼は筋を持っている。いま、風采のあがらない男たちが、土井を尋ねてきたとマダムに聞いて、初めは気にもとめなかったが、結城の頭をかすめたのは、それが別な種類の人間ではないかという疑念である。 「なにか、土井のことをきいていたかね?」  彼は、マダムにたずねた。 「ええ、土井さんの行きつけのところはどこか、と、しつこく訊くので、わたし、ぜんぜん、知りませんと言っておきました。ちょっと、妙な感じのする人たちでした」  マダムは、妙な感じという言葉をつかった。それも結城の予感に合致する。 「土井の家に電話してくれないか?」  結城は手帳を見たが、土井の自宅よりも、てる子の家にかけさせたほうが早いと思った。その番号を、そこに来た女の子に言いつけた。 「ママさん、きみが代わってくれないか」  彼は頼んだ。 「土井がいたら、ぼくが出るがね。留守だったら、女の人が出るはずだ。そのときは土井の行先を尋ねてくれればいい。こちらの名前は、岡田《おかだ》の代理だと言ってくれ」  岡田は、土井の商売仲間である。  女給がマダムに送受器を渡した。 「土井さん、いらっしゃいますか?」  マダムは、結城が言ったとおりにきいた。  結城はグラスを持ちながら、その方に聞き耳を立てていた。留守だという返事らしく、マダムは、行先をたずねていた。  それも分からないという答えらしい。彼女は、いつお帰りなのかときいていた。  送受器を置いて、マダムは結城のそばにもどった。 「土井さんはいらっしゃいませんでしたよ。どこにいらしたか、行先もよく分からないとおっしゃってました。女のかたでしたが、なんだか不機嫌そうな声でしたわ」  てる子だと結城は思った。 「いつお帰りになるか、予定も分からないんだそうです」 「ありがとう」  結城は、グラスを傾けていた。浮かんだ氷が彼の歯に当たった。 「結城さん、踊りません?」  酔った女給が、結城の背中から抱きついた。 「そうだな」  結城が生返事をしていると、 「あら、しばらくじゃないの、踊りましょうよ」  襟《えり》をひろげた着物の女が、結城の手をひっぱった。  結城は仕方なしに一曲踊った。酔った女は、結城の顔に頬をすりつけてきた。 「結城さん、ほんとに久しぶりね。近ごろ、どの方面ですの?」  結城は、ただ足を動かしていた。少しも気持が浮いてこなかった。踊っていることで、かえって沈みそうになった。  土井を探しにきたという妙な男のことが、頭から離れない。懸念《けねん》するだけの徴候はあった。土井自身が、この前会ったときにもらしたことである。  今夜の土井が、行先が分からないことも、その気持をひきずった。  もう一曲踊ろうというのを、結城は断わって、スタンドにもどった。三杯目の水割りを注文して、しばらく飲んでいた。  マダムは結城が踊っている間に、よそのボックスにすわっている。  他の客が電話を使っていた。結城の心が動いた。その電話が空くのを待って、彼はダイヤルを回した。自分の家にである。  しばらく、信号が鳴っていた。結城は、電話のベルが響いている夜の自分の家の中を想像した。 「はい」  出てきたのは頼子の声だった。結城の心が緊張した。 「ぼくだ」  と、彼は告げた。 「はい」  平静な声である。これは少しの感情もなかった。 「留守に変わったことはなかったか?」  これまで、めったにしたことのない電話である。 「いいえ、別に、何もございません」  頼子の顔が目に見えるようだった。水のように淡い表情である。  結城は頼子と向かいあっている気持になった。汽車に乗っている間から、考えていたことだが、それを急に思いついたのは、妻の落ちついた声を聞いてからだった。 「今夜、風呂にはいる、これから用意しておいてくれ」  それにも、静かな答えがあった。 「かしこまりました」  結城は電話を切った。  カウンターにもどって、残りの水割りを一気にのどに流した。 「勘定」  結城はカウンターに叫んだ。  声を聞いてマダムが急いできた。 「あら、もうお帰り? せっかく、いらしたんですもの、もう少しお残りになりません?」  マダムは、目に意味をふくませていた。  結城は首を振った。 「今夜は、急ぐのでね」  横顔は冷たかった。彼の特徴だったし、その表情を女たちは喜んでいた。結城はスーツケースをさげて、一人で急な階段をおりた。  結城が帰ったのは、十一時を過ぎていた。  頼子が出迎えた。 「お帰りなさい」  結城は、わざと頼子の顔を見ないようにした。スーツケースを渡して、一人で先に部屋の方へ歩いた。女中たちは寝ていて、家の中は音もなかった。結城は部屋にはいって、そのまましばらくつったっていた。  頼子は、スーツケースを手にさげて、あとからきた。 「お風呂の支度はできております。すぐにおはいりになりますか?」  着物をきちんときたままで、様子も、結城が、一日の外出から帰ってきたのを迎えたみたいだった。  この妻はいつもそうだった。結城が十日間も黙って外泊して帰っても、同じ態度である。行先もきかない。何をしていたかともたずねなかった。  これまで、仕事でなく、女と遊び歩いた証拠を見せたことはたびたびだが、それにも彼女は平気だった。頭からそのようなことを無視していた。結城が勝手なことをしているのを、一度も、口にも顔色にも出したことはなかった。妻は、夫の性格と職業とを嫌悪《けんお》している。  いまもそうだった。  頼子は、着替えの着物を持ってきた。オーバーを取り、洋服を脱がせて、それをてきぱきと始末しはじめた。夫への義務的な世話は、少しも怠っていないのだ。  他人の目があったら、かいがいしい妻に見えるのである。  結城は、着物を着た。妻は、脱いだワイシャツを片づけている。スーツケースがそのまま畳の上に置かれていた。  結城は、妻の姿を、立ったまま上から見おろした。彼はもがいている自身を感じていた。  頼子が、スーツケースをそのままにしているのを見ると、結城は言った。 「ぼくが風呂にはいっている間に、そのスーツケースの中を整理しておいてくれ」  脱いだ物を片づけている頼子の手が、瞬間に止まったようだった。これまで、結城が言ったことのない言葉である。  もう何年も前の話だった。スーツケースから他の女の持ちものが現われて以来、頼子は、夫の持って帰ったスーツケースには手を触れないことにしていた。  結城もそれを命じたことがない。が、今夜は違っていた。わざわざ、入浴の間に片づけておけ、と言ったのである。  結城は、タオルを持って浴室にいった。  夜ふけの浴槽《ゆぶね》の中に身を浸《つ》けた。  ガラスの向こうから妻の声がした。 「お湯かげんはいかがですか?」  結城はそれに、いい、と答えた。足音は去った。  結城は、ゆっくりと体を洗った。  こうしている間にも、頼子はスーツケースを開いて、中の物をとりだしていると思う。いや、彼女は、その中から出たある品を見て、立ちすくんでいるにちがいなかった。  スーツケースの中に、彼は、わざと二つの品を入れておいた。  一つは、タオルである。これはS温泉の旅館が出した物で、包んだ紙にもタオルにも、その旅館の名前がはいっていた。  一つは、その温泉|土産《みやげ》の菓子だった。これにも、S温泉の名前が大きくレッテルについている。女中にでも、やるつもりだった。  頼子がこれを凝視《ぎようし》している顔を、結城はひとりで想像した。今まで、ほとんどスーツケースの整理をさせたことがなかったのに、急にそれを命じたのは、二つの品を彼女に見せたいからだった。S温泉に行ってきたという証拠をである。  座敷の方から声も聞こえない。そこで呼吸《いき》をのんで、S温泉の文字を見つめている妻の蒼い顔が、結城には目に浮かぶようだった。  結城は、風呂から上がった。座敷にもどると、頼子の姿はなかった。スーツケースもそこに見えなかった。  結城は、黙って庭の方を向いた。ガラス戸越しに木の揺れるのが見えた。薄い光が庭に当たっている。猫がいそいで暗い地面をよぎった。  頼子は、容易に座敷にもどらなかった。結城は、自分の効果を知った。  彼は、よほど頼子の部屋に行ってみようかと思った。が、思いとどまった。彼の想像は、頼子が、部屋でじっと佇《たたず》んでいる姿を描いていた。  結城は煙草を胸の奥まですいこんだ。  煙を吐き、薄れてゆくのを見ていた。驚くほど多い煙であった。      3  輪香子は、父の帰る自動車《くるま》の音を聞いた。  部屋の中でピアノを弾いていたのだったが、それをやめて、すぐに立った。自分の部屋を出たとき、廊下を急ぎ足で来る母と行きあった。 「お父さま、お帰りですのね?」 「そう」  母は短く言った。輪香子は、そのあとから従った。父の帰りがおそいときは別として、なるべく母といっしょに迎えに出るようにしていた。  玄関で、父は靴を脱ぎかけていた。腰をかがめて紐を解いている。 「お帰りなさい」  輪香子は母といっしょに挨拶した。  父は、うん、とかなんとか、口の中で言って式台に上がった。顔が赤いのは宴会の帰りにちがいなかったが、まだ八時過ぎなので、ずいぶん早い切りあげだ、と思った。  その父の横顔は、ひどく不機嫌そうだった。もっとも、外から帰ってくる父は、いつもそれほど機嫌はよくない。  父は、自分の居間にはいった。母のあとについて輪香子も従ったが、父は格別に輪香子には声をかけなかった。  時々、父は輪香子に土産を持って帰ることがある。そうでなくても、かならず何か言ってくれた。一人娘なので、輪香子は、時には母よりも父から甘やかされていた。  そのとき、父は、輪香子をちらりと見ただけだった。やはり機嫌がよくない表情で、母が気をつかっていることが分かった。  輪香子は、それなりに部屋を出ていった。子には、両親の気まずさが分かるものである。彼女は、そこに長くいるのが悪い気がした。  帰ってから、ピアノの続きをしようとも考えたが、その気持が起こらなかった。今日の父の様子は普通ではない。単純な不機嫌さでなく、もっと根のある複雑なものが原因していそうであった。  母は、廊下に出なかった。  父の着替えの手伝いをすますと、すぐに出てくるのが母の癖だった。それがいつになく父の部屋に残っていることで、彼女の予感は当たったような気がした。  この間から新聞には、父の勤めている役所の汚職がしきりと出ていた。まだ小さな記事で、なんということもない。係長クラスの人間が警視庁に留置された、というのである。  輪香子は、父に言えなかったので、そのことで母にきいた。 「わたしも、それを心配したのよ」  母は言って聞かせた。 「お父さまにうかがったら、その課だけの小さな不都合だそうよ。なんだか係りの人が業者から、ケチな物をもらったことが引っかかっているので、しようのない奴《やつ》らだ、と言ってらしたわ」 「お父さまに責任がおよぶことはないでしょうか?」  輪香子はきいた。 「それはないっておっしゃったけれど。課の下の人がしたことなので、局長までは責任はいかなくてすむんだそうです」 「いろいろな人がいるので、お父さまも厄介だわね」  輪香子は、一応、母の話で安心した。  それから新聞に気をつけて見るのだが、記事はそれきりだった。初めから小さな扱いなのである。  そのことがあって一週間以上たっている。輪香子は、いつかその記事のことを忘れかけていた。  今夜の父の不機嫌に出あうと、思わずそれがまた心に浮かぶのである。が、あのことは、それきりどの新聞にも出ないし、父にもその気配がなかった。何かあれば、母がかならず言うはずである。  輪香子は、ピアノの蓋をしめ、本棚から読みかけの本を出した。  しかし、一ページも進まなかった。活字がただ目に映るだけで、文章の中にはいれなかった。耳の一方は、父の部屋の方に気をとられているのである。  こういう時に、和子から、電話がかかればいいと思った。  むろん、彼女の電話で輪香子が考えている心配が消えるわけではない。しかし、少なくとも今の気持が救えそうだった。  それは、両親の争いの中から逃げていくような気持と似かよっていた。自分だけの勝手な考えだが、和子と電話で話すことで、この重い気持がまぎれるのである。しかし、都合よく和子から電話がかかってくるはずはなく、輪香子は、自分のほうから電話をしようかと思った。  和子とは、このごろ、わりに多く会っていた。話題はいつも同じところに落ちつく。それが結城頼子や小野木のことだった。  和子のほうでは、ときどき、小野木に電話をしているらしい。 「小野木さん、とっても忙しいらしいわよ」  彼女は輪香子に話した。 「いつお電話しても、外に出て、いらっしゃらないの。ときたま居ると、そのうちに時間ができたらうかがいます、とおっしゃるだけだわ。やっぱり新米のビリの検事だから、いろいろとこき使われるのね」  和子は、そんな言い方をした。  輪香子は、和子のいつものやり方が羨しかった。思うことをなんでもやってのける、この友だちの人見知りしない性格が、自分にもほしかった。  輪香子は、小野木に会いたかった。  会って、いろいろなことを話しあいたかった。あの美しい夫人も、口うるさい和子もいない場所でである。  輪香子の小野木へのイメージは、いつも諏訪の青い麦畑の中である。風が麦の穂を渡り、カリンの白い花が、木に星のように並んでいる、蒼い湖面の見える場所だった。  古代遺跡の竪穴《たてあな》の中にむっくりと起きあがった小野木が、輪香子には今でも忘れられない。小野木のことを考えると、いつもそれが目に浮かぶのである。  麦畑の中では、農夫が一人|鍬《くわ》を振るっていた。諏訪の町が段丘の下にひろがり、蒼い水の向こうには、なだらかな丘陵がかこんでいた。  あのくぼみのあるところが、塩尻峠です、と指をさして小野木が教えたものだった。  その横顔に明るい陽が当たっていた。よごれた帽子も、きたない鞄《かばん》も、輪香子にだけ印象づけてくれた。  小野木が低い坂をおりていく。麦笛でも作って吹きそうなたのしそうな足どりだった。輪香子は、もう一度カリンの花の咲く諏訪に、小野木といっしょに行きたかった。そこでいろいろなことをしゃべりたかった。  上諏訪の駅で、プラットホームを歩いている小野木の顔を見たのが二度目だったが、そのときの彼は、もうあの美しい夫人につながっている別な小野木だった。  こちらの汽車の窓で眺めているのを知らないで、ホームを歩いている小野木の顔が、ちがったように寂しそうだった。これから富山の方に行くのだ、と言っていたが、好きな旅をする人の顔ではなかった。孤独げな姿が輪香子の心にすぐに映ったのだが、それは結城頼子の翳《かげ》だとは、近ごろ知ったのである。  輪香子は、その苦しげな小野木と連れだって、思いきり広い空の下を歩きたかった。  田沢は妻に手伝わせて着替えていた。帯を締めながら、洋服を片づけている妻に、不意に言ったものである。 「この間のミンクのコートだがね」  何気なさそうな声だった。 「あれは輪香子にやったのか?」  妻はちょっと手を止めたが、夫のほうは見ないで返事した。 「いいえ、あれっきりになっています」 「そうか」  夫は煙草に火をつけて、しばらくそこに立っていた。  妻が妙だと考えたとき、夫は少し言いにくそうに言った。 「きみは、あのコートはいらないだろうね?」 「この前、申しあげたとおりですわ」  妻は普通の口調で答えた。  夫は、ちょっと黙っていたが、 「あれは、家に置かないほうがいいだろうな。誰か親戚《しんせき》でほしい者がいたら、やったらどうだね?」  呟くようにぼそりと言った。妻がはっとしたのは、それを聞いてからだった。 「はい」  そう返事しただけで、黙って片づけをつづけていた。  夫と妻の間には、しばらく会話がとぎれた。夫は煙草をのみ、妻はたたんだものを洋服掛けにかけていた。 「あなた」  不意のように、妻は、夫に向かった。 「あのミンクのコートがどうかしたのでございますか?」  妻の目が夫の顔をまっすぐに見ていた。  夫のほうは目を逸《そ》らした。 「別に」  と、煙といっしょに吐いた。 「どうもしないがね」 「でも、急にそんなことをおっしゃって」 「しかし、おまえも気に入らぬようだし、輪香子にもやりたがらないようだから、処分したらどうだね。今、思いついたから、そう言ったのだ」 「いいえ、そうじゃございませんわ。他所《よそ》にあれをやったほうが、ご都合がよろしいのではございません?」 「どういうのだね?」  夫は静かだった。 「わたくし、初めから、あれが気にかかっていました。わたくしにはもったいのうございますわ。あんまり立派すぎて」 「それは皮肉かな」  夫はじろりと妻をみた。 「いいえ、そうじゃございません。いただいては悪いような気がしたのです。はっきりおっしゃっていただきたいわ。この間のことを、もう一度おききするようですが、新聞に出ていることは、本当に、あなたには関係ないのでございましょうね?」 「もちろんだ。そんな小さなことで、いちいちおれが責任とれるか」 「それなら安心でございますわ」  しかし、妻の顔は安心していなかった。 「やはり、おっしゃるように、ミンクのコートはさっそく、わたくしが処分します。ああいう物が家にあったら、いいことはないと思いますわ」  妻は、はっきりと言った。夫は煙たそうな顔をしていた。 「でも、わたくし、とても心配でございます。あなたのご様子が、近ごろ、少し変わったように思うんです」 「なんのことだね?」  夫は低くききかえした。 「ただなんとなく、そう思うのですわ。あなたは、前からりっぱなかたでした。前は、貧乏でしたわ。今だって、そう自由とは思いませんが、あのころからみると、ずいぶん恵まれています。輪香子も大きくなったし、もうすぐどこかに嫁《や》らなければなりません。大事なときですわ。あなたに変なつまずきがあっては困るんですの」  夫は妻の顔を見ないでいた。 「なんのことか、はっきり言ってみたらどうだな?」 「わたくしに、何か隠していらっしゃるようなところが見えるんです。役所の宴会が多いことは、前から分かっていますけれども、前になかったものが、近ごろときどき、わたくしの目に触れるのですわ」  夫は声をのんだようだった。 「ご交際ですから、それは仕方がありませんわ。でも怖《こわ》いのは、あなたの地位の利用をねらって業者のかたが運動していることです。それは、家《うち》は貧乏ですわ。でも、そう不自由とは思いません。わたくし、月々いただくものでありがたいと思っています。今の生活が分相応なんです。ですから、ミンクのコートは、せっかくですが、初めから、わたくし、気にそまなかったんです」  妻は、夫の顔を直視した。その目は光っていた。 「本当になんでもないんですね? 本当に、この間、新聞に書いてあったことには関係ないんでしょうね?」 「この間、言ったとおりだ」  夫は、少しうるさそうに答えた。 「ぼくがそんな事件に、かかわりあいがあると思っているのか」 「いいえ、それは思いませんわ。でも、急にあのコートをどこかにさしあげたら、とおっしゃるのを聞くと、わたくし、やっぱり、気にかかるのです」 「安心してくれ。そういうことは絶対にないよ。ただ、あの品物はちょっとまずいんだ。いや、別に、おれがどうかしたという理由じゃなく、あれは家《うち》に置きたくないのだ」  輪香子は、辺見のいる新聞社に電話をかけた。  電話口に出た辺見に、 「すぐにお会いしたいんですけれど」  と言うと、辺見のほうで驚いた声を出した。 「ほう、珍しいですな」  しかし、彼の声はいそいそとしていた。 「なんですか、いったい?」 「お目にかかってお話ししますわ。お忙しいかしら?」  輪香子はきいた。 「今ならちょうどいいです。夕方から忙しくなりますが」 「それなら、すぐうかがいますわ。新聞社にうかがったらいいでしょうか?」 「そうですな。社では落ちつくところがありませんから、社の近くに小さな喫茶店があります。あまり人の行かないところですから、そこがいいでしょう」  辺見のほうでその名前を指定した。  家を出て、電車に乗り、輪香子がその店を探してはいると、辺見はすみの方で新聞を読みながら待っていた。彼は輪香子を見ると立ちあがり、にこにこした。 「こんにちは。いつぞやは失礼しました」  辺見はうれしそうだった。忙しい仕事をしているせいか、すぐ感情が素直に外に現われた。 「輪香子さんから来ていただくのは珍しいですね。なんのご用件かと、ここで待っている間にいろいろ考えていたとこです」  辺見の明るい言葉が、輪香子には重くこたえた。  そこは、静かな喫茶店で、客があまりいなかった。外は賑やかな人の流れだが、店の中は、ひっそりとしていた。こういう話をするには、辺見は、はからずも適切な場所を選んでくれたものだった。 「お母さまはお元気ですか?」  辺見はきいた。 「ええ、ありがとう。元気ですわ」 「ここんところ、ちょっとご無沙汰しています。どうぞよろしくおっしゃってください」 「ええ」  輪香子は、ちょっとさしうつむいたが、 「実は、今日、わたくし、辺見さんに会うのは、母には黙ってきたんです」  と言った。 「そりゃ、いちいち、お断わりになることはないでしょう。もう大人《おとな》ですからな」  辺見は、輪香子の面会をどこまでも軽く考えていた。 「いいえ、そういう意味じゃないんです」  彼女は、話すのが苦しかった。思わず表情に出たものとみえ、辺見が妙な顔つきをした。 「なんですか?」  彼の顔から微笑が消えた。 「実は、お願いがあって来たのです。近ごろの新聞に、R省の汚職のことが出てるでしょ。父の局なんです」  辺見の顔が、その時に変化した。目が急に当惑したようになった。 「そりゃ知ってます」  だが、返事のほうは軽かった。 「新聞は、毎日、いやでも社で読まされてますからね。そんなことを心配して、輪香子さんは来たのですか?」 「いま言ったように、父の局で起こったことです。はっきり申しあげると、父がどの程度これに関係があるのか、教えていただきたいのです。辺見さんは、新聞社にいらっしゃるし、父の役所の担当ですから、誰よりもよくお分かりになると思って、うかがいに上がったんです」  昨夜、父と母とが何か争いをしていた。輪香子が父の部屋を出たあとだった。  その場にはいなかったが、それは様子で分かるのである。父の部屋から母は容易に出てこなかった。何かある、と感じた直感には、やはり間違いはなかった。  母にはあとで顔を合わせたが、いつもの様子ではなかった。これは輪香子のほうできいたが、母は答えなかった。輪香子に見せる態度が、けっして、変わったのではなかったが、母の顔色から、父との間に何かあったことはすぐに分かった。母は気の浮かない表情をしていたし、目つきが悲しそうだった。  それが新聞記事に関係しているのではないか。母の不機嫌や心配の原因は、父にその責任がおよびそうだと分かったからではないか。  母の返事が得られないとなると、やはり辺見にきくほかはなかった。  辺見はR省関係方面を担当していて、父には目をかけられている。彼なら誰にきくよりも、事情をよく承知しているし、ありのままを言ってくれそうだった。  ところが、辺見は、初めから軽そうな口吻《くちぶり》だった。輪香子には、わざとなんでもないことのように言っているような気さえする。 「辺見さん、わたくし、たとえ父がどのような立場にいてもかまいませんわ。正直に教えていただきたいんです。心配で、じっとしていられなくなったんです」 「ごもっともです」  辺見はうなずいた。 「でも、輪香子さん、実のところ、ぼくもよく知らないんですよ。いや、これは体裁で言ってるんじゃありません。今度、別なある課の係長が逮捕されそうなんですが、この事件は、せいぜい課長補佐あたりで止まるのじゃないかと思っています。お父さまのところまでは、けっして責任がいかないと思いますよ」  辺見は、やはり同じ調子で答えた。 [#改ページ]   ニューグランド・ホテル      1  小野木は、地下鉄を神宮前《じんぐうまえ》駅で降りた。  夕方なので、混んだ電車から降りると、体が急に軽くなったような気がした。  階段を上がって道路に出ると、たそがれの街には灯がはいっていた。  小野木は、電車をやりすごし、自動車の列の切れるのを待って、道を向かい側に渡った。  頼子は、表参道を少しはいったところの並木の下に立っていた。夕暮れの中に佇んでいる彼女は、今日は黒っぽいコートを着ている。  葉を落とした並木の梢の片側には、窓だけが明るいアパートがつづいていた。  中央の道は、神宮までずっと延び、自動車《くるま》の往来が激しい。人目から避けるようにして立っている頼子の姿は、小野木に妙に寂しそうに見えた。 「お待たせしました」  頼子は黙って会釈《えしやく》した。薄暗い中に、彼女の白い顔がほのかに浮いていた。 「お忙しかったんでしょ?」  頼子は、歩きだした小野木の横に寄りそった。 「このごろ、急に忙しくなったのです。自分の時間が自由にとれないくらいです」  小野木は、ここに来るまで、特捜部の連中と会議に出ていた。朝から一日じゅうぶっ通しでつづいたのである。疲れていた。 「すみません。そんなにお忙しいところに電話をかけちゃったりして」  頼子が詫びた。二人は、爪先を遊ばせるようにして歩いた。 「いや、ぼくも、あなたに会いたかったのです」  小野木が言うと、頼子は黙っていた。それなりに二人は歩きつづけた。 「あら、どこに行きますの?」  頼子が気づいたように立ちどまった。 「さあ、どこに行こうかな?」  ただ自然に歩きだしたので、まだ方向はきまらなかった。  遠近法の透視図を見るように、道も、並木も、家も、はるか彼方《かなた》の一点に集中し、その先には黒い杜《もり》がのぞいていた。その上を暮れ方の雲が残光をひいてはってゆく。 「わたし、海が見たいわ」  頼子が言った。 「海?」 「もう、ずっと見てないんです。なんだか無性《むしよう》に見たくなりましたわ」 「海だと……」  小野木は言った。 「東京湾ですね」 「いいえ。それよりも、いつかごいっしょしていただいた、横浜の海を見たくなりました。あなた、よかったら、行きません?」  小野木は、頼子が自分との最初の記憶をもう一度目によみがえらすのだ、と思った。 「いいでしょう」  小野木は外国人の乗った車を見ながら言った。 「うれしいわ。思いたってよかったわ」  頼子が、走ってきたタクシーを止めた。 「どちらへ?」  運転手は背中できいた。 「横浜へ行ってください」 「ヘい」  運転手は、長距離なので喜んだ。  付近に駐車していた車が、二人の乗ったタクシーのあとから走りだした。  タクシーは、渋谷から五反田《ごたんだ》に回り、京浜国道に出た。 「ずいぶん会いませんでしたね?」  小野木は、横の頼子に言った。 「ちょうど二週間ですわ」 「そうなりますかね」  小野木は、その間、何度か頼子から電話をもらっている。が、今、かかっている事件が複雑で大きいので、たいてい帰るときが夜十一時ごろになった。そのつど断わってきたものだった。 「そう、電話でちょっと聞きましたね。何か特別に話があるということでしたが」  それには、頼子は黙っていた。小野木が見て、その顔がいつもと違って感じられた。しばらく会わなかったせいかと思ったが、どこか表情がかたいのである。  急に海を見たいと言いだしたのも、頼子の心の何かが言わせているのではないか。顔色もふだんより蒼い。最初見たとき、それを暮れる空の色のせいだと考えていたのである。  車は速力を増した。繁華な通りを抜けてようやく郊外に出ていた。街の灯りも次第に少なくなって行く。 「何かあったのですか?」  小野木の手は頼子の膝の上で、彼女の両手に包みこまれていた。  いつものしぐさではあった。だが、頼子の手の中にある小野木の掌《て》は、それがつねより堅く押えられているのを感じた。  頼子の手が冷たかった。  車は長い橋を渡った。川の暗い水に工場の灯りが映っている。 「ねえ、小野木さん」  彼女は呟くように言った。 「わたしは、結城の家を出ますわ」  小野木が思わず見た頼子の横顔は、唇をかんでいるようにかたかった。 「いいえ、これは、あなたには関係ないことですわ。わたくしが勝手に、そう決心したんです。心配なさらないでください」 「どういうのです。何かあったんですね?」 「そうではないと、申しあげていますわ」  車は、川崎《かわさき》の寂しい街を抜けていた。  左の方に、工場の黒い煙突が、夜空にうすく見えていた。 「急だと思いますが」 「いいえ」  頼子は、普通の声で言った。 「もう、前から、その決心だったんです。わたし、近いうちに、郷里《くに》に帰りますわ。そして、正式に結城と別れます。離婚の手続きがすむまで、田舎《いなか》にのんびりしているつもりですわ」  小野木は、やはり結城と頼子の間に何かあったのだと思った。  利口な女《ひと》だから、詳しい説明をしない。これはきいてもむだだ、と悟った。  小野木は、その瞬間から新しい世界がくるのを感じた。暗鬱な長いトンネルを通りぬけそうな思いだった。 「分かりますよ」  小野木は、それだけ言った。 「そうなったとき、ぼくはきっと、あなたを迎えに行きます」  頼子の手が、前よりももっと強く彼の掌を締めつけた。 「本当に来てくださるのね?」  頼子が叫ぶように抑えた声で言った。 「行きますとも。実を言うと、ぼくは、あなたがそれを言いだすのを待っていたんです。ぼくはあなたのご主人を知らないし、あなたの生活のことも知識にありません……」 「ごめんなさい」  頼子はさえぎってあやまった。 「どうしても言えなかったのですわ。そのことを言うと、あなたを、苦しめそうでした」 「分かっています。ぼくは、それを少しも責める気はありません。最後までうかがわないことにします。ただ、ぼくは、あなたというひとりの人間だけあればいいのです。その背景も、つながりも知る必要はありません」 「しあわせだわ」  小さな声だったが、急に濡れたものに変わっていた。  タクシーは鶴見《つるみ》の街にはいっていた。  頼子は小野木に言えないことがある。  結城が、自分たちのことを気づいているらしい様子をである。  この間、結城は旅行から帰って、頼子にスーツケースを整理させた。それも、すぐ片づけろ、というのであった。珍しいことで、今までわざわざ命じたことはなかった。  顔色を変えたのは、そのスーツケースの中から、S温泉の旅館のタオルと土産の包みが出たことだった。それを発見したとき、呼吸《いき》が止まりそうだった。顔から血がひいた。  夫が、湯から上がってくるまでが耐えられなかった。自分の部屋にも帰れず、家を出て近くの暗い通りを彷徨《ほうこう》したものだった。  結城は知っている。たしかに、知ってのうえのやり方なのだ。  すぐに、別れなければならないと決心した。  前にも、夫には別れる話を相談したことがある。夫は意地悪く相手にしなかった。  頼子は、それを切りだす機会を待っていた。夫は頼子のそのような様子を察して避けるようにしている。ずっと口をきかないし、何日もつづけて外に泊まって平気である。頼子は夫と落ちついて話しあうときを失い、それを待っていた。  それが、このような形できたのである。S温泉じるしのタオルと土産の包みを見せつけたのは、夫がわざと言葉でなく、証拠で詰問をしているのだった。  その後の夫の表情にも態度にも、特別に変化はない。頼子は覚悟をしていたのだが、夫は何も言わなかった。  そして、翌日から出かけたまま帰らない。  彼女が結婚の失敗を悟ったのは、挙式のすぐあとだった。このとき、決断しなかったことが、今は罪の意識となって、彼女を罰した。  はっきり家を出ることに決めたのは四、五日前からである。最初、小野木には黙ってそれを実行するつもりだった。この離婚は、小野木とは関係がなかった。自分だけが解決することだった。  小野木と結婚できなくても、彼女は諦めるつもりだった。  これは、夫には告白もできなかった。小野木に迷惑がかかるのである。  普通の職業ではなかった。検事という小野木の地位が、そのために奪われ、彼の一生を泥土《でいど》の中に埋没させそうであった。夫には、そのようなことに持っていきそうな性格があった。それが恐ろしかった。  小野木に心配させないためもあったが、決心の事情を言えないのは、夫のことがあるからである。  もともと、これまで、小野木に、夫の結城のことが打ち明けられなかったのは、その暗い職業が、頼子にひけ目を負わせていたからだった。  家は、明日にでも出たかった。夫と、落ちついて離婚を相談するのは不可能と悟った。自分と別れても、夫は困ることはないはずである。ただ、その決心になると、やはり小野木に一目でも会いたかった。  この間から電話したが、小野木は忙しがっていた。今夜がその機会だった。  タクシーが横浜の街にはいった。桜木町《さくらぎちよう》への高架線がながながとつづいた。  頼子が見て、小野木の顔は明るかった。頼子が離婚の決心をしたと聞いて喜んでいた。 「この前、ここに来たときは春でしたね」  小野木は、窓の外を見て言った。  タクシーが、公園の暗い木立の見えるところに来ていた。 「おぼえていますか?」  頼子は、かすかにうなずいた。 「降りますか?」  彼がきくと、 「ニューグランドから、港一帯が見えますわ。一ばん上が食堂になっているんです。そこからゆっくりと海を眺めてみたいわ」 「いいでしょう」  車は、ニューグランド・ホテルの賑やかな明るい灯りを、前方に見せていた。 「きみ」  小野木は、運転手の背中に言った。 「ホテルの前でとめてくれたまえ」  この車がホテルの玄関にすべりこむと同じくらいに、後ろから来ていた車が、少し過ぎたところにとまった。  降りた男はまだ若かった。彼は急いでホテルの玄関の回転ドアの中に身をはさんだ。  その男は、大勢の外人たちが、ゆっくりと階段を降りている間をすりぬけて、二階のエレベーターの前に走った。  が、エレベーターの上の針が、七階の数字のところで止まるのを見ると、その男は、安心したような顔をした。  食堂は七階にあった。  クロークで、頼子が黒いコートをぬぐと白っぽい着物が現われた。この急な変化が眺めている者に目がさめるようだった。  ボーイが先に立って、窓際のいい席をとってくれた。 「きれいだわ」  頼子がすわる前に言ったのは、その窓全体に横浜の夜景が広がっているからだった。  暗い海に、外国船の灯がかたまって落ちている。大きな船は三隻だったが、それぞれ夜の城みたいだった。その背景に、鶴見あたりの灯がつらなっていた。  船のマストの赤い灯が、小さくかわいかった。  窓の下の隅に、手前の山下公園の木立が、半分のぞいていた。街灯の灯が黒い樹木の間に、まばらに光っている。  頼子がそれをじっと見ている。この前、小野木とここに来たときのことを思いうかべているのだろうか。そのあたりが、今も暗い塊《かたまり》になっている。  彼には、頼子が向けている視線の意味が分かっていた。  ボーイが注文《オーダー》をとりにきた。  小野木は、生《なま》のオイスターを注文しておいて、 「少しのみますか?」  と、頼子に笑いかけてきた。 「ええ、いただきますわ」  小野木は、彼女のために軽いジンフィーズを頼んだ。  あたりの白いテーブルは、ほとんどが外人客だった。声をひそめて話しあう行儀のいい食事である。片側で、楽団が静かな室内楽をやっていた。たえず木琴が鳴っている。  頼子は外ばかりながめていた。小さなランチが細い灯をひいて、暗い海を流れていた。 「どうして、急に海が見たくなったのですか?」  小野木がきくと、頼子は白い顔をこちらに戻した。 「なんとなく見たくなったのです。でも、よかったわ、ここに、連れてきていただいて」  ジンフィーズがきた。二人はグラスを合わせた。 「珍しいですね」  小野木は笑いかけた。 「これ」  頼子は指で握っているグラスを見た。 「今夜は、なんだかいただきたくなったんですの」  その気持は小野木に伝わった。彼は言葉がすぐに出なかった。 「今夜、こういうところに来ようとは思いませんでしたね。ぼくがあなたに会うまでは、夢にも考えていなかったんです」  小野木は、正直に感想を言った。 「人間は、どんなきっかけで思わぬ行動をするか分かりませんのね。わたくしも、ただ、海が見たいと思っていただけなんです。ふしぎだわ。こうして、あなたと、この場所にいっしょにいることが」  頼子の言葉は、これから先の自分の運命の方向を言っているみたいだった。  小野木は、なるべくその話から避けるようにした。これは、その問題を、彼なりにもっと深く考えてみたかったからである。頼子の気持も分からないではないが、やはりこの場所でなく、頼子と二人だけの世界で話したかった。 「頼子さんの郷里《くに》には、海がないんですか?」  小野木はきいた。 「そりゃ遠いんですの。ですから、小さいとき、とても海にあこがれていました。山に囲まれた町ですわ」  頼子は、追想するような瞳《め》になった。 「静かな町ですわ。小さなお大名の城下なんです。まだ崩《くず》れかけた土塀のつづく武家屋敷が残っていました」  彼女は話した。 「白い土蔵や藁《わら》屋根が幾つもあるんです。士族屋敷の黒い小さな門に、蔦《つた》かずらなどが下がっているんです。子供のときは、随分きたないおうちだ、と思っていましたが、今、考えると、落ちついた通りですわ。道に立っていても、しばらくしないと人が通りかからないんです」  その古い城下町に、頼子はすぐに帰ることになるかもしれないのだ。  彼女の生《お》い立ちは、いつぞや、小野木が大体を聞いた。古い町の古い名家の育ちである。  今の夫はどういう職業の人か、小野木には分からない。頼子がそれを言いたがらないのは、何か事情がありげだった。いや、小野木への複雑な遠慮からではなく、何か暗いものを感じさせるのである。  その暗さが頼子の生活に出ている。むろん、小野木は彼女の家を知らないから、その生活が分かろうはずがない。だが、彼女の肩や体全体に、その暗い影が落ちていた。それが彼女の生活といったものだった。 「そのような町に、ぼくも一度行ってみたいな」  小野木は、山に囲まれた小さな盆地を想像した。眠ったような町で、人々がひっそりと生活しているのである。 「お迎えにきてくださる約束だったわ」  頼子が初めて微笑を見せた。それは、ジンフィーズの効果だけではなく、彼女が、そのときのたのしさを思い浮かべているからであろう。 「そうでした」  小野木も明るい声になった。 「そりゃぜひ行きます。頼子さんがどんなところで生まれたか、ぼくもその町を見たいのです」 「退屈な町。びっくりなさるわ」 「驚きませんよ。そういうところで暮らしてもいいと思ってるくらいです」  頼子は、そのままの目で小野木の顔を見つめていた。  エレベーターをあとから上がった男が、東京に電話していた。 「今、食事をなさっています。……ええ、ホテルの七階です。……すぐ、こちらにいらっしゃいますか?」  男は送受器を指で囲い、自分の声が他人《ひと》にもれぬようにしていた。  皮ジャンパーに黒色のズボンという、このホテルに来る客にしてはそぐわぬ身なりであった。      2  食事が終わった。  ボーイが来て、デザートをきいた。頼子はフルーツを頼んだ。 「あら」  窓の外を見て、彼女は小さく叫んだ。 「お船の灯が消えていますわ」  小野木は目を移した。先ほどまで、お城のように灯を輝かしていた外国船が、暗くなっている。前に見たときのほとんど半分になっていた。  そういえば、その背景に流れている鶴見の街の灯も暗くなっていた。  こうして食事をしている間にも夜がふけて、街や船の灯が次第に消えてゆくのである。 「わたしのいるところは、高台でしょ」  彼女は話した。先ほど、車の中で見せた憂鬱《ゆううつ》はとれて明るかった。 「外を眺めると屋根がいっぱいに海のようにひろがっているんです。夜がおそくなるにつれて、その灯がだんだん消えてゆくんです。ネオンもなくなりますわ。ほんとにそれは、夜がふけるのが目に見えるようですわ」  小野木は、頼子が、帰らぬ夫の家から、しょんぼりと外を眺めている姿を想像した。  頼子はボーイが運んできたイチゴを、白いミルクの中に浸《ひた》していた。 「十一時ごろになると、宵の灯が半分になるでしょうね?」 「そうなんです。見てて、そりゃ寂しい気持」  小野木は、頼子の話で、灯の消えた暗い街の上にひろがる星の位置まで目に浮かぶようだった。 「小野木さん、夜は、やっぱりおそいんですか?」  彼女はきいた。 「ええ、近ごろ、投所でおそくなるんです。帰ると、たいてい十二時になりますね」 「まあ、そんなに」  頼子は目を大きくして、小野木の顔を見た。 「ここんところ、ずっとなんでしょ? 体をこわさないでね」 「いや、かえって、なんだか張り切ってますよ。明日なんか、五時に起きなければならないんです」 「五時?」 「いや、これは明日だけですがね。今、かかってる事件のことです」 「お忙しいんですのね」  彼女は、小野木にやさしいまなざしを投げた。  小野木の仕事は特殊だし、これは内容を頼子がきくのを遠慮しなければならなかった。小野木もあまり話したがらない。  頼子は暗い風のようなものを感じた。  夫の結城が持っている明るくない職業が、小野木の言葉に思いあわされた。  小野木の仕事は夫と対立的だし、彼の中に、夫のような職業がいつも対象になっているのを考える。 「どうかしましたか?」  小野木が頼子をのぞいた。 「いいえ」  頼子は笑って首を振った。 「ほんとうに、今晩は思いがけなかったわ」  ナプキンをたたみ、窓の外を眺めた。 「あなたには会えたし、わたしの言いたいことも、お伝えしたし、それに、こういう気持の晴れるところに連れてきていただいたし、本当にうれしかったわ」 「そんなにあなたが、喜んでくれるとは思わなかった」  小野木自身が、頼子以上にたのしい表情だった。 「帰りましょうか?」  小野木が時計を見ると、九時を過ぎていた。  このグリルに着いたときいっぱいだったテーブルも、半分に人が減っていた。楽団も、いつのまにか引きあげている。  小野木は、ボーイを呼んで、会計をすませた。  頼子はもう一度窓を眺めた。 「東京から、たった一時間だけど、まるで旅に出たみたい」  と、小さく笑った。 「いつも、うちにいるでしょ。ですから、こんなところに来ると、そんな錯覚をするんです」  小野木は、ひとりで家の中に暮らしている彼女のことを考えた。 「郷里《くに》に帰っても、当分は寂しいでしょうね?」  低い声だった。 「ううん」  頼子はかすかに首を振った。 「わたしには、刺激の多い東京も、退屈な田舎も、どっちだって、おんなじだわ。ただ、田舎だと、いろいろ人目が多いんです。わたしが帰っている間が長くなると、すぐにいろんなことを言われそうなの。でも、かまわないわ、小さくなっていますから」 「あなたが車の中で話したこと、なるべく早く実行してください。すぐに迎えにいきます。そう長くあなたを放っておけないんです」 「ありがとう」  頼子は見つめて言った。 「お願いしますわ。そのときを考えて、わたし、どんな辛抱でもするわ」  小野木は、彼女の瞳《め》がうるんでいるのを知った。  二人はテーブルを離れた。赤い絨毯《じゆうたん》を踏んでグリルを出ると、エレベーターの前に立った。上の針が一階に回ったばかりだった。ボーイが走ってきて、ボタンを押した。  待っているうちに、外人の夫婦が小さい男の子を連れていっしょになった。子供の世話をほとんど父親がしていた。  エレベーターが昇ってきた。外人たちは途中の四階に降りた。若い父親だったが、むずかる子供の面倒をみて出ていく。ドアが閉まり、一階に降りるまで、頼子にはそれが妙に印象に残った。  結城が、車でニューグランド・ホテルの前に着いたとき、待っていたように一人の男が近づいた。ボーイではなく、ジャンパーをきた男である。 「早かったですね」  男は、車を降りた結城に向かった。 「今、食事がすんで、二階におられるところです。どうします?」  近いホテルの玄関の光の中に浮かんだ結城の顔は、複雑だった。すぐには返事をせず、考えているようだった。  結城は、オーバーの襟を立てている。その肩に光をあてて自動車が通りすぎた。 「はいろう」  結城が言った。  若い男は黙って先に立った。回転ドアを押すと、装飾のついた広い階段が見え、その二階正面にエレベーターの金属扉が光っていた。まだ誰もおりては来なかった。  階段も廊下も緋絨毯を敷きつめてある。階下は、観光外人向きのスーベニールの売場になっていた。 「こっちだ」  階段を上がりかけた男に、後ろから結城は止めた。  売場は広い。大きなケースが幾つもならんでいた。陶器の皿や壺などをならべた棚の前に、結城は立った。ジャンパーの男も結城の真似をして、品物を鑑賞しているような恰好をした。  階段の上から人影が動いた。横にいる男が見上げて結城に注意した。 「おりてらっしゃいます」  結城はケースを離れて位置を変えた。そこから、ガラス棚を越してまっすぐ階段の側面が見とおせた。  頼子が男と並んでおりていた。黒いコートの隣にいる男は、グレイのオーバーだった。背の高い男である。若い、というのが結城に与えた最初の印象だった。  十七世紀王朝ふうの大きなシャンデリアの光線が、男の横顔をはっきりと見せた。  これは結城が見る初めての顔だった。  頼子に何か話しかけながら降りるので、結城の位置から見て真正面だった。  広い額の、若い瞳の男だった。どこかで前に見たような気もしたが、錯覚かも分からなかった。  頼子が男の話に答えて、微笑を浮かべている。それが実に緩慢《かんまん》に、結城の視界を横切っていったのである。  結城は、胸に苦しいくらい鼓動が打った。めったにないことだ。小指の先がふるえた。  横の男は、結城の顔をうかがうように見た。結城がポケットを探ったので、隣の男はぎょっとしたような目つきをした。だが、これは煙草を取りだしたのである。  ゆっくりと、口にくわえた煙草の白さが目に強かった。ライターを鳴らして火をつけたが、炎がふるえていた。  やがて玄関の方角に、車のドアの閉まる音を耳にした。  結城が階段を見つめてからその音を聞くまで、全く長い時間だった。心とは反対に自分の動作も悠長だった。煙草を肺まですい、味わうように煙を吐いたものである。男が怪訝《けげん》な顔をした。  陳列の陶器は、冷たい色で電灯の光をとめていた。美しい模様である。  外国人の好みのような派手な意匠が、白い肌に施されてあった。ロココふうのものもあれば、シナの山水画のようなものもあった。統一がないのは当たりまえで、買い手の好みはばらばらである。  結城が頼子の目の前に姿を出さなかったのも、彼の好みである。妻と青年の乗った自動車が走りでる音を耳に確かめてから、彼はその場所を出た。 「あとを」  と、ジャンパーの男が急いで言った。 「追いましょうか?」  結城は黙って、上着のポケットに手を入れた。財布から何枚かの札をいいかげんに数え、それを手の中にたたみ、若い男に突きつけるように出した。 「ご苦労だった」  男は意外そうな顔で結城を見上げた。 「では、これでもう」  結城はうなずいた。 「どうも」  秘密探偵社の男は、軽いおじぎをして結城から離れた。結城に投げた彼の目に、軽蔑《けいべつ》の色があった。  結城は玄関に歩いた。回転ドアがまだ風車のように回っている。今の男がとびだして行った余勢である。結城はことさらに力を入れてそれを回した。  外に出ると、寒い風が吹いていた。その中にロシアの将校のようないかめしい恰好のドアマンが足踏みして立っていた。 「お供は?」  将校は、ホテルから出て来た客に問いかけた。 「ない」  結城は短く答えた。 「タクシーを」  彼は風に吹かれて言った。 「かしこまりました」  道路に向きなおり、金モールをのせた肩章の片腕を高々とあげた。  タクシーがとまった。  結城は、銀貨を二つ男の掌《て》に与えて車に乗った。 「東京だ」  運転手の背中に命じた。  走り出す車に、大きな帽子のロシア将校がうやうやしく敬礼した。  片側に黒い木立がつづく。公園の中には街灯がまばらに立っていた。木立の隙間に暗い海が見え、船の灯がともっていた。  結城は、暗い自動車の中で煙草をすいつづけていた。  まだ九時過ぎだから自動車の多い時刻である。結城は、フロント・ガラスに見えるほかの自動車の赤いテールを眺めていた。  そのたくさんな灯の一つに、頼子とその連れとが乗っているような気がする。前の車がとまると、横を通りぬけるとき、結城は思わず客をのぞきこむようになった。  横浜から都内にはいるまで、結城は考えこんでいた。気むずかしい客と思ったのか、運転手は話しかけない。事実、結城は一言《ひとこと》も口をきかないのである。  五反田の駅が見えたころ、初めて運転手はきいた。 「どちらへまいります?」  結城に当てはなかった。今夜、自分の家に帰る気がしなかった。頼子の顔を見るのが、彼自身を怯《ひる》ませた。  結城は、杉並のある町を指定した。  結城は、今夜泊まるところをいろいろ考えた。それには不自由をしない。が、そこに行くと、何か別な自分になりそうだった。杉並の女の家を指定したのは、そこが、いちばん現在の彼の気持を弛緩《しかん》させる場所だったからである。  結城は、耳に物音を聞いた。  最初は分からなかった。けだるい夢の中の音のような気がしていた。  寝ている場所が自分の家でないことだけは分かっている。昨夜、おそくまで、ここで酒をのんだ。それは女があわてるくらいに乱暴な飲み方だった。  その酔いが頭にうずきを与えている。  物音で薄く目をあけたが、部屋は暗かった。横に寝ていた女が起きあがりかけているのを、薄い意識の中でとらえた。 「ごめんください」  襖《ふすま》の向こうで小さい声がした。女中が遠慮そうに起こしているのである。 「なによ」  女は身支度をしながらきいていた。 「あの、お客さまでございます」 「こんなに早く?」  女の声が呆《あき》れていた。 「いま、何時?」 「はい、六時でございます」 「そんなに早く、いったい、誰かしら?」 「旦那さまを訪ねていらっしゃいましたが」 「誰だろうね、いやだわ」  女は、結城の友だちが夜遊びのあげく、押しかけてきたものと早合点したらしい。 「お名前をうかがったの?」 「はい、名刺をいただきました」  名刺という言葉が女を驚かせた。結城の友だちなら、わざわざ名刺を出すことはない。 「あなた」  女は、結城を起こした。  結城もその話し声ではっきり目をさましていた。 「誰でしょうね、名刺を持ってきたんですって」  少し心配そうだった。  結城にも心当たりはなかった。しかも、この「西岡《にしおか》」の家に結城がいることを知っている客である。 「とにかく、その名刺を見せて」  支度をすませた女が襖をあけた。  まだ夜の世界で、電灯が赤々とついていた。女中はエプロン掛けで襖のそばにかしこまっている。 「どれ、お見せよ」  女は女中から名刺を取った。まず、自分で電灯にかざしていたが、 「あ」  と、短く叫んで、寝ている結城のそばにすわった。 「あなた、検察庁からよ」  結城は、急に肩を起こした。名刺には「東京地方検察庁検事 山本|芳生《よしお》」の文字が刷られている。結城は、しばらく呼吸《いき》を詰めていた。 「何人で来たのかね?」  と、女中に問うまで、しばらく間があった。 「はい、五人さまでございます」  結城は、名刺を女に戻した。 「その辺を片づけて、上げなさい」 「はい」  女中は玄関へ去った。 「あなた、どうしたのでしょう?」  女はうろたえていた。 「おれを引っぱりにきたんだろうね」  結城は、床から起きて、丹前に着替えていた。 「まあ」  女は、結城を見つめて蒼い顔になっていた。 「上にあげたかい?」  と、結城がきいたのは、戻ってきた女中にだった。 「はい、あちらでお待ちになっていらっしゃいます」 「あなた」  女が結城の後ろから心配そうについてきた。 「大丈夫? 心配だわ」  結城は黙っていた。  土井が留置されたときから、このことはいずれあるものと覚悟していた。そのために、幾つかの書類は処分していた。が、彼の自信は、自分のところに来るにはまだ間があると思っていた。手は打ったつもりである。そのことを頼んだ代議士も、情勢の好転を伝えて、安心するがいい、と言ってくれたばかりなのである。  結城は、顔を洗った。ゆっくりと歯を磨きながら、検事の前で言う答えを考えていた。  女は顔色を失って、結城の周囲をうろうろしていた。  襖をあけた。  背広の男が五人、寒そうにすわっていた。結城が見て、少しも威圧を感じない連中である。どの男の背広も古く、肩が白くなっている。  五人はいっせいに結城を見上げた。 「結城です。ご苦労さまです」  結城は膝を折った。 「名刺はさしあげておきました」  その中の若い男が、訪問の挨拶をした。  ふところから書類を出した。四つにたたんだ細長いものである。 「念のためにおうかがいしますが、結城庸雄さんですね?」  貧弱な男だったが、目だけは鋭い。 「そうです。結城です」 「これから検察庁にご足労していただきたいんです。任意出頭という形になっておりますから」  結城はうなずいた。 「承知しました。お供します」 「これは」  検事は紙をポケットから出した。 「捜索差押え令状です」 「分かりました。家宅捜索ですね」  結城は言ってから問いかえした。 「では、自宅のほうも?」 「そうです。ご自宅のほうは、別な人間がうかがってるはずです。結城さんがどちらにいらっしゃるか分かりませんのでね」 「しかし、よくここが分かりましたね。さすがですな」 「いや、やはり商売ですよ」  五人は声を合わせて笑った。  結城は、別間に立って、洋服に着替えた。女は、その手伝いにもあわてていた。 「あなた、すぐ帰られるんでしょ?」 「まあね」  曖昧《あいまい》に答えた。このまま留置されるかも分からない、と思った。  今ごろは、自分の家でも家宅捜索は行なわれているであろう。それを眺めている頼子の顔を、結城は想像した。 「弁護士さんへの連絡は、向こうに着いてから、してください」  検事が、ぼそりと言った。      3  その朝、小野木は、五時過ぎに家を出た。  寒い朝で、たまった水が道に薄く凍っていた。  地検にはいると、検察事務官たちが小野木を待っていた。すぐ、そこを出るので、ストーブに火を入れてなかった。 「ご苦労さま」  小野木は一同に言った。四人ばかりがオーバーのまま椅子にかけてかたまっていたが、小野木を見て一時に立ちあがった。  小野木は、家宅捜索令状を広げた。  自動車《くるま》が二台用意された。五人ではぜいたくだが、帰りに押収書類を載《の》せてくるためだった。  人の見えない通りを走った。蒼白い朝靄が籠《こ》めて、建物の窓の灯がにじんでいた。車はまばらな通りを、かなりな速度で走った。  車内では、事務官たちが雑談をしていた。  現在の用事と縁のない話である。一人が酒の話をし、一人がマージャンの話をしている。小野木は笑って聞いていた。が、その無駄話の中には、当人たちの緊張が感じられた。  令状のあて先の家は、車で三十分ぐらいかかる高台の方面にあった。この辺まで来ても、やはり、車も人も通っていない。  遠くに見える雑木林に、濃い靄がかかっていた。空が明るくなった。  車は石垣と、長い塀の多い通りにはいった。その番地が近づくにつれて、車の速度が落ち、運転手は首を左右に振って探す目になった。 「ここですね」  と言ったのは、門標の「結城」の文字を見たからである。  一行は、車から降りた。  あたりには人の影もない。その家は、石段を登らねばならなかった。刈られた芝生のある斜面の上に、垣根の上部が見えていた。  小野木が先頭になって石段を登った。  みんな黙っている。  黒いオーバーに身を包んだ五人が、白い息を吐きながら足早に登っているのは、早い朝だし、普通ではない風景だった。  玄関の前に立った。 「いい家《うち》ですね」  一人の事務官がそこを離れて、家の具合を見るように横に回った。出入り口を確かめている。ここから見ると、下町一帯は屋根を重ねて下に広がっていた。  遠くにまだ靄がはっていたが、陽の光がそれに射しはじめた。屋根の下に、褪《あ》せた電灯の光が残っていた。  一人が玄関のベルを押した。  そこで、かなり長いこと待たされた。家の者が起きてくる時間をはかって、五人はそこにたたずんでいた。一人が小さく足踏みをしていた。  玄関の扉があいた。女中らしく、赤いセーターの若い女だったが、起きぬけらしく、髪の手入れがまだできていなかった。彼女は、大勢で洋服の男が立っているので、びっくりしたような顔をしていた。 「ご主人はいますか?」  小野木がきいた。  女中はただごとではないと直感したのか、目がおびえていた。 「いいえ、旦那さまはいらっしゃいません」  小野木の後ろにいる男たちが顔を見合わせた。 「そうですか、ご旅行ですか?」 「さあ」  女中は返事に詰まっていた。 「いや、それならよろしい。奥さんはいらっしゃいますか?」  小野木は名刺を出した。 「こういう者です。朝早くからうかがって、恐縮ですが、ぜひ、お目にかかりたい、と言ってください」  女中は名刺を受けとり、おじぎをして引っこんだ。 「旅行に行ったのかな?」  事務官たちが小声で話した。 「あちらの方は」  と、一人が言っていた。 「もう連中が着いているころだね。向こうで押えたかもしれない」  結城という人物のことだった。別の場所に結城の妾宅《しようたく》がある。同じ時刻に、二カ所を捜索する手はずになっている。小野木は自宅の方を受けもったのだった。  だれかが咳をつづけてした。その声が朝の澄んだ空気の中に小さな響きを持った。  ──家の中で、頼子は起きる支度をしていた。  玄関のブザーが鳴ったとき、最初は、夫が帰宅したのかと思った。これまでにないことだったが、まさか、こんなに早く来る訪問客があるとは思えなかった。  女中が出ていったようである。ここまで話し声が聞こえないが、夫でないことは確かだった。夫だったら、すぐに廊下にその足音がするはずだ。  頼子がそれとなく耳をすましていると、女中が隣の部屋から声をかけた。 「奥さま、奥さま」  頼子は返事をした。 「どうぞ」  女中は襖をあけた。 「あの、旦那さまに、ご面会のかたがいらっしゃいました」  名刺を持っていた。  時計を思わず見たものである。六時を少しすぎている。 「どなたかしら?」 「あの、大勢さまでございます」  胸がさわいだ。 「こういう名刺をいただきました」  頼子は手に取った。  活字を見た瞬間に、目に刺されたような衝撃を受けた。  ──東京地方検察庁検事 小野木喬夫。  体の血が凍りそうだった。一瞬に目のまえが暗くなった。  女中の手前、取り乱してはいけない。心のどこかで叫んでいた。持った名刺がゆらいだのは、指のふるえだった。 「応接間にお通しして」  ちゃんと言うつもりだったが、声がかすれた。 「はい」  女中は襖をしめた。  玄関に大勢で靴を脱ぐ音がする。女中に案内されて、廊下を踏む足音がつづいていた。  頼子は、それをすわったまま聞いた。体がそのままくずれそうだった。胸には激しい動悸が打った。自分で顔から血の気が引いているのが分かった。肩で荒い呼吸をした。  こういう時がいつかくる、という漠然とした予感はあった。それが今きたのだ。  頼子は体から力を失い、ゆらぐように立ちあがった。鏡台に向かって顔をなおしていたが、あたりがくろずんだ。妙に指の先に力がなく、顔の皮膚にも感覚がなかった。  激しい感情が今にも発作《ほつさ》となって起こりそうな一方、冷静にも似た絶望感が彼女を無感動に引きずりおろしていた。その妙な違和感が彼女をぼんやりとさせていた。  小野木たちは、女中に案内されて応接間に通った。  十畳ぐらいの広さである。落ちついた色彩で統一されていた。この家の主人の趣味か妻の趣味か分からない。壁に掛けた絵の傾向からみても趣味のよさがうかがえた。  女中はガスストーブに火を入れた。 「いらっしゃいませ」  あらためて挨拶して、 「奥さまは、まもなくお見えになります」 「すみません。朝早くから来て。できるだけ早く、奥さんにお目にかかりたいと、言ってください」  小野木が言った。  五人の男たちは、少し、手持ちぶさたで待っていた。だれの目も、見るともなく青白い炎を上げているガスに向けられていた。そのかすかな音が、静かなこの部屋に聞こえていた。  女中が、カーテンをあけておいたので、窓から明るい陽が射しはじめていた。一人がその窓から外をながめた。下に広く沈んでいる屋根の上の空が、光をふくんでいた。 「おそいな」  一人が呟いた。  それはみんなの気持を言っていた。朝が早いので、家の者の身支度に手間どっているとは思ったが、それにしても時間がかかった。みなは壁の絵にも、窓の外にも飽いていた。 「何かやっているのかな」  一人が呟いた。  これは、検事の一行が家宅捜索に来たので、家人のだれかが、証拠|湮滅《いんめつ》をやっているのではないかという危惧である。事務官たちは緊張した顔になった。 「検事さん」  と、一人が言った。 「もう一度、だれかを呼んで、それで出てこなかったら勝手にやりましょうか?」  みなが勢いこんでいた。朝早く起きてきたことの余勢もあった。 「まあ、もう少し待ちましょう」  小野木は、穏やかに微笑した。  しかし、おそい。何をしているのか。  事務官の一人が椅子から立って、応接間を往復していた。苛立ちがようやくみなの間に起こっていた。  そのとき、廊下を踏むスリッパの音が、しのびやかに聞こえた。  こちらが顔を見合わせたとき、入口のドアがあいた。  小野木がすぐに見たのは、髪の形と白っぽい着物だった。  それが、最初の印象だったが、むろん、それまでは平気だった。  が、彼女のうつむきかげんの顔を見たとき、小野木は自分の目を疑った。  確かに頼子だと知ったとき、小野木は体が凍った。目が、彼の意志でなく彼女から離れなかった。  小野木の凝視の前に、頼子は歩いた。  やはり顔をあげなかった。  落ちついた動作だし、つつましげに離れたところでみなに挨拶した。 「いらっしゃいませ。わたくしが結城の家内でございます。ご苦労さまでございます」  小野木の耳に、それが遠雷のように響いた。頼子が、はっきりと結城の家内だと言ったのである。  小野木の後ろにいる事務官たちは沈黙していた。頼子に説明する立場が小野木なのである。  小野木はあたりが傾くのを覚えた。すべての色彩が失《う》せ、立っている自分の場所がゆらぎ、見ている視角から遠近感がなくなった。小野木は蒼くなっていた。 「検事さん」  横の事務官が、かすかに突っついた。  小野木は、やっと内ポケットから折りたたんだ令状を出した。  この動作の間にも、頼子はきちんと立っていた。かえって、小野木が威圧されそうなくらいだった。  頼子は知っているのだ。名刺を渡したことだし、ここに来るのが手間どったのも、小野木に対決する用意だと分かった。瞳《め》を伏せて小野木の視線と合わないようにしているのも、彼女が小野木をつらくさせないためのようだった。両手を前に組みあわせているが、注意して見ると、その指が鬱血《うつけつ》するくらいの強さだった。  小野木から意識が遠のいた。前後の順序も、これから自分がどうすべきか、という意志も動転の中に失っていた。  事務官たちは小野木がいつまでも黙っているので、ふしぎそうな顔をした。 「朝早くからうかがって申しわけありません」  と言ったのは、いちばん年輩の事務官だった。小野木が口をあけないので、彼が気をきかせてかわった。捜査経験二十五年の男だった。 「ここにおられるのは、小野木検事です。ご主人はご不在ですか?」 「はい」  と、頼子は答えた。 「ご旅行ですか?」 「いいえ」  頼子はうつむいて答えた。 「遠いところにいらしたわけではないですね。では、今夜はお帰りでしょうか?」  頼子は黙っていた。 「ある事件のことで、ご主人に検察庁まで来ていただかなければなりません。お帰りになったら、そうお伝えください。至急に小野木検事のところまで出頭なさるように」 「はい」  返事は、はっきりしていたが、顔はやはりあげなかった。すんなりした恰好のいい形が、事務官たちの目に印象的だった。 「検事さん」  と、その男はまた小野木を小さく呼んだ。  小野木はほとんど無意識のうちに、令状を出した。 「お宅にある書類を、捜索させていただきます」  小野木はやっと言った。声が自分のものではなかった。何か空洞の中でものを言っているようで、どこかで響いて返って聞こえそうな気持だった。 「ご書斎はどこでしょう?」  と、慣れた事務官は言った。 「こちらでございます」  案内するように、頼子はおじぎをした。彼女は、この間、一度も小野木を見なかった。  小野木は呼吸《いき》がつまりそうだった。  彼は、事務官たちが急にざわめいて動きはじめるのを、遠いところの出来事のようにぼんやりと聞いていた。  頼子が部屋を出た。  家宅捜索が始まっていた。  小野木は、事務官たちが書斎にはいって捜索しているのに立ちあうことができなかった。頼子と顔を合わすのが耐えられない。  応接間も、二人がかりで捜索をしていた。書類を匿《かく》しているような場所を、彼らの嗅覚《きゆうかく》で探している。  すべての状況が、小野木に関係なしに行なわれているような気がした。 「ありませんね」  と、立ちあがった事務官が、小野木に言った。 「ここはこのくらいにして、ぼくたちは別の方に行きます」  二人の事務官は出ていった。その白くなった洋服の背中を、小野木は立ったまま見送った。だれもそこには残らなかった。  窓からの陽はもっと明るくなった。気持のいい朝である。光線が清潔だった。  小野木は結城庸雄が頼子の夫だ、と初めて知った。  彼は頭が麻痺《まひ》していた。何か紐のようなもので頭をくくられたみたいだった。  頼子が、夫のことを小野木に決して告白しなかった理由が、初めて分かった。小野木に言えない職業を彼女の夫は持っていた。  名前も住所も教えない理由が、小野木に初めて理解できた。  いつかは彼女の夫のことを知らされる、とは覚悟していたが、このようなかたちで、それを知ろうとは思いもよらなかった。  現在の調べでは、結城庸雄はこの事件に重要な役割をしている。彼は業者と官庁の役人の間を斡旋《あつせん》し、自分自身でも、その仲間と結託して金を取っている。  業者の場合は、自己の事業の便宜《べんぎ》を官庁にはかってもらうために、役人に贈賄《ぞうわい》をするが、結城たちのグループは、官庁に顔を利かせている立場を利用し、その両方の斡旋をしている。いわば上前《うわまえ》をぴんはねしているといってもよい、もっとも下劣な悪辣《あくらつ》なやり方だった。  小野木は、このような人間を軽蔑している。陋劣《ろうれつ》で卑怯《ひきよう》なのだ。業者の弱点にのしかかり、それを利用し、私腹を肥やしている。手段としても陋劣であった。  業者なら、まだ自分の事業を大事にするという理由があった。しかし、結城たちのやり方には、同情すべき動機はなかった。  ただ役人と業者の間に割りこんで、金をタダ取りするにひとしい。  これまでの調べによると、この事件は、業者のある一団が、管轄官庁に便宜をはかってもらうため相当な金を出した。それを結城たちのグループが受けとり、ほとんど半分に近い金を横領しているのである。  業者には、全部を渡したと言って別に謝礼をもらっているから、ひどい話だった。  もらった側の役人は、わずかな金を受けとったにすぎない。  業者が役人に提供したものは金高がしれているが、その業種を専門にするある委員会の代議士たちは、もっと大きな金を業者からとっている。それにも結城は関係しているのだった。  つまり、このような汚職にかならずと言っていいほどついている寄生虫が、結城庸雄のグループだった。ことに、結城という男は、土井というその方面の常習者と組んで、今度の汚職事件のブローカー的な立役者となっている。小野木が自分の感覚からいって、いちばん憎んでいるタイプだった。  それが頼子の夫だった。  この発見は、小野木を自失させた。  小野木は蒼くなっていた。  事務官たちは、よその部屋を捜索している。検事として、彼は立ちあわねばならなかった。しかし、足が動かない。彼はそこに一人ですくんで立っていた。このまま体がどこかに落ちていくようだった。  耳鳴りがした。すべての思考が彼から失われ、頭の中がぼやけた。  ドアがあいたので、呼吸《いき》をつめていると、それは事務官だった。 「小野木検事」  年老いた事務官は言った。 「書斎も居間も、だいたい、捜索は終わりました。当人がいないので、ここの奥さんに立会いを求めていますが、奥さんは出てきません。われわれでほかの部屋をやりたいのですが、かまいませんか?」  家宅捜索には家族の立会いが必要だった。しかし、当人の意志で、立会わなくても公務は執行される。 「かまわないだろう」  小野木は言った。  その言い方が、日ごろの調子と違い、妙に聞こえたのか、年輩の事務官は小野木の顔をのぞくように見た。 「小野木検事、どうかなさいましたか? 顔色がたいそう悪いようですが」  実際、小野木の顔色はなかった。  ものの言い方も力がなく、熱があるときの声に近かった。自分の耳にそれがうつろに聞こえるぐらいである。はたの者が聞いて不審を起こすのは当然だった。 「別に」  と、彼は答えた。 「気分は悪くない。ぼくにかまわないで、仕事をつづけてくれたまえ」  小野木は、落ちつくために煙草をすったが、指先がふるえた。 「そうします」  事務官は二度も小野木をふりかえって出た。  あとはやはり静かなものだった。遠くで捜索している物音が聞こえる。  頼子はいつまでたっても姿を見せなかった。小野木も奥に行こうとはせぬ。  この家全体が、真空の中に存在しているみたいだった。      4  小野木は立ったままだった。彼の耳には家の中で検察事務官たちが家探《やさが》ししている気配が伝わってくる。それが遠い物音のように聞こえた。空気に何か障害物があって、それをへだてて、聞いているような感じだった。感覚に密度がないのである。  ドアがあいた。  それが頼子だった。  頼子は、小野木に軽くおじぎをした。それは小野木がいつも見ている彼女ではなかった。この家の主婦としての頼子だった。  静かに小野木の前に立った。前とは違い、今度はまっすぐに小野木に視線を当てていた。目が異様なくらい光っていた。  顔は蒼かった。唇がかすかにふるえている。だが、立っている姿は毅然《きぜん》としていた。  これはかえって、小野木の方が圧倒を覚えたくらいだった。彼はまだ空虚なままだった。 「とうとう、わたしの家《うち》にいらしたのね」  彼女は細い小さな声で言った。 「こんなふうにお目にかかろうとは思いませんでしたわ。お驚きになったでしょう?」  小野木は、頼子の顔を見返したまま声が出なかった。頭の中がまだ真空だった。 「何もかもお分かりになりましたでしょ。わたしが、自分の夫のことも、この家のことも、あなたにお教えしたくなかったことが……」  頼子は、少し目を伏せた。 「わたし、一度でいいから、あなたをご招待したかったわ、こんなふうにでなく。もう先《せん》に、ちゃんとそれをしたかったのです。でも、どうしても、できなかったのです」  検察事務官たちはまだ帰ってこなかった。物を落とす音がどこかで聞こえた。 「意外でした」  小野木は、やっと言った。 「ぼくには、ただあなたが、結城さんの奥さんだと知って、どう、今の気持を言っていいか分かりません」  頼子は、その言葉を静かに受けとめた。 「ごもっともです。許してください」  彼女は言った。 「こういうことになるかもしれない、という予感はわたしに前からあったのです。でも、それをなんとか、先に延ばせそうな気持もしていたのです。わたしが悪かったのですわ」  頼子の責任ではない、と小野木は心で叫んでいた。  自分がもっとも軽蔑していいと思っている男、結城庸雄の妻が頼子だったのだ。だが、結城の妻であることと、頼子という人間とはかかわりないのだ。小野木は、それを心でくりかえした。 「いつか、あなたから聞きました」  小野木は細い声で言った。 「あなたは、ぼくに、自分だけを見つめてくれ、自分の背後にあるものも、自分につながってるほかのことも、それはわたしには関係ないと、何度もくりかえしましたね」 「あのときは、そうでした」  頼子は急いで答えた。 「わたしがどのような環境の中にいる女か、あなたはご存じなかったからです。でも、いまは違いますわ。あなたが、この家に訪ねてこられたいまの瞬間から、その理由はなくなったのです。あなたは、わたしという者の背後を、全部お知りになりました。もうわたしは、あなたにとって、すべての線を切り離された個々の存在ではなくなりました」 「ぼくは」  と、小野木は言った。 「いまの自分の考えを、すぐにここで言いきることはできません。正直に言って、ぼくの現在は混乱しています。何をどう言っていいか分からないのです」 「無理もないことですわ」  頼子は、じっと顔を伏せた。 「わたしがわるかったのです。ほんとに許してください」 「そんなことはないのです」  と、小野木は首を振った。 「あなたに対するぼくの気持は変わりません。これだけは確かに言いえます。ただ、あまりに突然に、あなたが思いがけないところにいたので、ぼくは考える力を奪われたのです。これは、あなたを許すとか許さぬとかいうことではないのです。ぼくの気持を、自分でどう説明していいか、整理がつかないのです」  頼子は黙っていたが、そのさしうつむいた姿に、寂しさがあふれていた。  小野木に衝動が起こった。頼子の体を引きよせ、自分の腕の中に抱えこみたかった。  彼女の夫が結城庸雄と分かった今、かえって彼女を、そこから引きはがしたい急な感情がつきあげてきた。 「頼子さん」  小野木は彼女を見つめ、前に進もうとした。 「いけませんわ」  頼子が声でさえぎった。 「あなたは、あなたの任務でここに来られたのです。それを立派に遂《と》げてください。わたしは、この家の家族として、それをお受けしますわ」  この言葉が、小野木に一つの不安を起こした。 「あなたは」  彼は言った。 「まさか、ぼくの前から消えるのではないでしょうね?」  頼子は、そのときだけ、うつむいて答えた。 「そんなことはいたしません。わたしは自分のしたことに責任を持ちますわ。あなたの前から、自分を黙って退《ひ》くなどという卑怯なことはしません。小野木さん、わたしはどんなことがあっても、あなたとの約束は破りませんわ。もし、あなたから軽蔑されなかったら、わたしにそれを許してください」 「ぼくの気持は変わりません。ですが……」  このとき、奥で捜索していた事務官の足音が近づく気配がした。小野木は元の位置に体をもどした。頼子がうなだれた。  ドアがあいて、三人の事務官がもつれてもどってきた。 「小野木検事」  と言いかけて、そこに頼子が佇んでいるのに気づき、とっさに、二人を見くらべた。  だが、それは、小野木が今まで彼女を尋問していたようにとったらしかった。  その三人の事務官の一人が、経験の多い年輩の男だった。  彼は、頼子をじろりと見て、小野木の横に音を立てないで来た。 「捜索しましたが、どうも、これと思うものが出ません」  事務官はささやいた。 「ほかの部屋も、今やっていますが、どうやらここには何も残してないようです」  小野木はつらかった。頼子の前で、この報告を聞かねばならないのである。  事務官の方に遠慮はなかった。美しい妻の前で、その夫の摘発を進行させるのに、多少、興味を覚えているくらいにみえた。  だが、声だけは頼子には遠慮していた。 「決め手となるような書類は、ほかの家に匿しているのではないかと思いますがね。向こうの方はどうでしょう?」  結城の妾宅の意味だった。 「そうですね」  小野木は、事務官たちの口を封じたかった。頼子の前で、それを言わせたくなかった。 「わたくし」  と、頼子が言った。 「失礼いたします」  頼子は目を伏せて、小野木にも事務官たちにも、目礼して部屋を出ていった。それが落ちついていたし、自然な動作だった。  小野木はうつろに見送った。 「あの奥さんを」  と、年輩の事務官はきいた。 「尋問していらしたのですか?」  間《ま》をおいて小野木は答えた。 「いや、そういうわけでもないが、二、三、質問はしました」  これは事務官たちへの遠慮であった。 「で、どう言うのです?」  経験の多い事務官は、検事を追及した。小野木には、彼がわざとそれをきいているように思えた。 「いや、いずれ詳細なことは、本人を取り調べてのちにしたいと思いましてね。いまは、別に本格的なことはききませんでした」  事務官は少し不満げに黙った。やはり新米の検事だという意識が、その沈黙の中に出ているようであった。  別の事務官が一人で、ぼそりとはいってきた。 「小野木検事。ここには何もありませんよ」  彼は手ぶらだった。 「これくらい何もないのも珍しいですね」  事務官たちは顔を見合わせた。暗黙の間だが、これは大物だ、という感じを言いあっていた。 「事務所のほうは、九時からでしたね?」  これはビルの四階にある結城の事務所を言っているのだった。その事務官は時計を見た。 「役所に帰ってすぐ、ということになりますね」  と、小野木に言いかけた。 「帰りましょうか?」 「本人のほうは」  と、別な事務官が呟いた。 「向こうの方でつかまえたのかな?」  みなはそれに答えなかった。これは、結城が逃走していない確信があり、どこかで彼を押えている、という安心からだった。 「奥さんに」  と、一人が言った。 「何か断わっておきましょうか?」 「ここに呼んだらどうだね」  と言ったのは、年かさの事務官だった。  小野木は、自分の意志でなく、周囲の事務官たちが、勝手に事を運んでいると感じた。  若い事務官が応接間を出てゆくと、頼子が静かにはいってきた。前と変わらない様子だったし、落ちついて検事の話を聞く態度だった。 「奥さん」  と、最初に言ったのも、年輩の事務官である。捜査経験の長い男だった。 「どうも朝からお騒がせしました。だいたい、用事がすんだようですから、これで失礼させていただきます。小野木検事がそう言っておられますので」  小野木は、頼子を正視することができなかった。 「どうも失礼いたしました」 「ご苦労さまでした」  頼子が丁寧におじぎをした。  まだ早い朝なので空気が冷たい。窓から朝の薄い陽が庭木に射しているのが見えた。  頼子は小野木たちを玄関まで見送った。めいめいが靴をはいた。雑然としたその動作を、頼子は玄関に膝をつき、動かないで見送っていた。  小野木は目をあげて彼女を見た。光線の薄いところにすわっている彼女の姿は、かえってしっかりとしていた。 「失礼しました」  小野木は低い声を出した。それがみなの前でやっと言えた挨拶だった。 「たいへん、失礼いたしました」  同じことを頼子は返した。小野木よりずっと確かな口調であった。  小野木は、表に出て、石段をおりた。  朝の早い勤め人が、ふしぎそうな顔をして、見返りながら通りを行きすぎた。  自動車二台はこっそりと路地に隠れるように置いてあったが、結局、来たときのままで検察庁へ帰らねばならなかった。  訪問した家から、引きあげてくる書類は一冊もなかった。  車の中では、結城の噂を事務官たちがしていた。したたか者だ、というのが一致した意見である。重要なメモは手帳にして、いつも体からはなさないでいるのだ、と主張する者がある。その例が前に起こった大きな事件にあった、と話していた。  聞いていると、小野木がまだ大学時代の話である。経験の多い事務官たちから見ると、小野木はまだ「若僧」だった。  小野木は、終始、黙っていた。それを無視したように、車の中では、先輩の事務官が一人でしゃべっていた。彼は、小野木がなぜ、かたい表情になって沈黙しているのか、探りを入れているようだった。 「あの奥さんはきれいだったね」  と、彼は言っていた。 「なかなかのしっかり者だ。顔はきれいだし、落ちついているし、なかなか魅力があるじゃないか」  その事務官は、小野木の顔色をちらちらと見ながら、大声で話していた。  彼は、小野木の寡黙《かもく》の原因を、その直感で察知しているみたいだった。  結城庸雄は検察庁にはいった。  事務官が彼を案内した。 「ここで、しばらくお待ちください」  はいった部屋は狭い事務室のようなところだった。だれも来ていない。朝の冷たい空気が昨夜のままよどんでいた。  窓に薄い陽が射している。  火鉢もなかった。  結城は、その粗末な椅子に腰をかけた。案内した事務官は、彼をそこに連れこんだだけで、どこかに出て行き、もどらなかった。  すぐにでも取り調べるかと思うと、そうではなかった。検事もここに来るまでは車の中でいっしょだったが、それからどうしたのか、いっこうに姿を見せない。  のみならず、事務官のだれも来ないのだ。  結城は、いかにもお役所らしい無粋な事務室をながめていた。黒板があり、月例行事が書きこまれていた。  ○××日、地方検事正会議 ○××日、月例打合せ会 ○××日、検事正出張 ○××日、地検会議……。  椅子も粗末だが、机も粗末だった。大きな不細工なガラス戸棚の中に、綴込書類が詰まっている。それぞれに、付箋が垂れているのもお役所式だった。  それらを結城は眺めていた。だれも来ないのだ。  結城は煙草を取りだした。不細工な灰皿がある。ライターを鳴らして火をつけた。寒い。すわったままオーバーの襟を立てた。  このままドアをあけて門の外に出ても、だれも追ってこないな、と思った。逃走する空想を結城は頭に描いていた。  実にたやすく逃げられそうな気がした。まるで監視をされてなかった。だが、むろん、そんなばかなことはしない。  結城は不服だった。  いかにも自分を、小物扱いにした感じだった。第一、朝早く人の寝込みを襲ってきて、この待遇はないのだ。もっと丁寧に扱っていいはずだった。  三十分そうしていても、相変わらず、だれひとりとしてはいってこないのである。  庁内は森閑としていた。時計は八時を過ぎている。登庁時間に早いのか、さっきからすわっていても、廊下を歩いていく靴音がしないのである。  火の気のないところに、いつまでも人を置いているのが、腹にすえかねた。結城は席を立った。床板が靴で鳴った。埃《ほこり》っぽい庁舎である。それに第一、暗い。  結城は、いまの自分が置かれている困難な立場を考えるまでにならなかった。あまりに相手にされなすぎた。事件のことを思索《しさく》するのに、その実感がまだこなかった。それよりも頼子のことを考えていた。  電車の音が近くに聞こえる。その音響はここにいても朝の空気をふくんでいた。  やはりだれも来ない。  結城は咽喉《のど》が乾いた。腹がへってきた。考えてみると、そのままここに連れてこられたのである。  家を出るとき、確かに検事は言った。 「朝の食事がまだでしたら、どうぞゆっくりとやってください。われわれはお待ちしていますから」  その必要がない、と言ったのは結城のほうだった。第一、女は狼狽《ろうばい》してうろうろしているばかりだった。彼女に食事の支度を言いつけるのが面倒くさかった。それでなくとも、ふだんから、おそく起きる習慣の女である。ひどくだらしないところを検事たちに暴露するような気がしたのである。  飯を食べてないことが|てきめん《ヽヽヽヽ》だった。ここにきて腹がすいた。だが、ふしぎと食欲はなかった。やはり胸がつまって、空腹は感じながらも、食べる気がしないのである。  ただ、咽喉だけは勝手に乾いていった。  結城は、そこで小使いでも呼びたかったが、どのような方法で呼んでいいのか分からなかった。がらんとした部屋が、結城に手も足も出させなかった。  結城は我慢ができず、ドアを押した。すぐ廊下だった。長い廊下である。同じような部屋が両側につづいていた。部屋の上には、黒い表示板に白い文字がいちいち書かれている。すべてが冷たく規格に統率された景色だった。  廊下はいっそう暗い。人影もなかった。結城は、水のあるところがすぐ近くにあるような気がした。役所のことだし、どうせ簡単な湯わかし場みたいなところがあると考えた。結城は、およその見当をつけてその方に歩こうとした。だれもいないのである。まだ自由な身なのだ。逮捕されているのではない。これは大いばりだった。とがめられる道理はない。  結城が二、三歩、その方に歩いているときだった。遠くの方で靴音が聞こえた。  だれかが出勤してきたのか、と思った。彼は、その方角に目を向けた。  うつむきかげんに、廊下を人が歩いてきていた。背の高い男である。コートに両手をつっこんでいた。結城が自分の目を疑ったのは、その若い男の顔だった。  とっさの間に、彼は体を元の部屋にもどした。それから、自分の部屋の前を通りすぎていく靴音を、じっと聞いた。隙間をあけてのぞいた。  見まちがいはなかった。男は、昨夜、見たばかりの人相である。横浜のニューグランド・ホテルの階段を、頼子といっしょに歩いてきた男の横顔である。  結城は、ドアをもっとあけて、体を廊下に出した。反対側に歩いている男は、しばらく背中を見せていたが、角を曲がった。  結城が呆然《ぼうぜん》となっていると、その反対側から事務官がやってきた。これは結城を訪問した中の一人である。  結城は、事務官に、いま自分が見送った男の名前をきいた。彼は、たった今、そこでその男にすれちがってきたはずである。 「ああ、あの人かね」  事務官は、横柄《おうへい》に答えた。 「あの人は、小野木検事だよ」  事務官は、結城の体を部屋に押しもどすようにしながら答えた。 [#改ページ]   逮  捕      1  結城は、検察庁の構内にある公衆電話で弁護士の家を呼びだした。かねてから知っている林秀夫《はやしひでお》という弁護士だった。 「結城ですが、先生をお願いします」  書生が、すぐに林弁護士を出した。 「しばらく。えらく早いですな」  林弁護士は、のんびりした朝の挨拶をした。 「実は、いま、検察庁に来ているんです」 「検察庁?」  弁護士は、びっくりした声を出した。 「どうしたんですか?」 「事情はお会いしてくわしくお話ししたいと思います。とにかく、今朝、寝込みを襲われましてね、こちらにやってきてるわけです。すぐに事件をお願いしたいのですが」 「分かりました。それで、もう逮捕状は出ているのですか?」  弁護士はきいた。事件の性質を察したらしかった。 「いや、まだ逮捕状まで出ていません。現在のところ、任意出頭という形です。でも、いつ逮捕状にきりかえられるか分かりませんよ」 「本格的な取調べは、まだですか?」 「まだです。逮捕状が出ない前に、いろいろと先生と打合わせしたいのですが」 「分かりました。では、すぐそちらに行きます。ところで、係りの検事さんは、だれですか?」 「山本芳生という若い検事です」 「ああ、山本さんですか?」  弁護士は、さすがにその名前も人物も知っているようだった。 「では、そちらにすぐにまいります」  電話を切って、結城はもとの部屋に帰った。そこに検察事務官の一人が待っていた。結城を連行したなかの一人である。 「やあ、お待たせしました」  事務官は言った。 「これから、山本検事がお話ししたいそうですから、すぐ検事の部屋に行っていただきましょうか」  結城は時計を見た。もう十時に近かった。朝、検事一行と、ここに着いたのが八時前である。二時間も待たされたわけだった。 「では、お供します」  結城は言った。弱みも恐怖も見せてはならなかった。彼は平気な足どりで事務官の後ろに従った。  廊下を歩いて、右側の部屋にはいった。  ドアをあけると、すぐ、暖かい空気が結城の頬に流れてきた。室内にはストーブが燃えている。狭い部屋で、机が二人ぶんぐらいしかなかった。鉤《かぎ》の手になっているそのまん中の机に、けさ、結城を連れてきた山本検事が煙草をすって腰かけていた。 「やあ、どうもご苦労さまです」  山本検事は、椅子から立ちあがって結城に笑いかけた。 「寒かったでしょう。どうもお待たせしました。さあ、どうぞこちらへ」  検事は、自分の前の椅子を示した。  ちょうど向かいあってすわった恰好になった。結城は、ポケットから煙草を出した。  検事が素早く手もとのライターを取りあげて、火をともした。 「ありがとう」  結城は、検事の火をかりた。  検察事務官がはいってきた。これからの取調べを記録する係りだった。一方の机の前に黙って腰をおろした。いかにも寒そうな顔をしていて、両手をすりあわせた。 「朝早くご足労願ってすみません。ええと、結城さんは」  と、検事は書類を取りだして開いた。 「本籍は、××県××市××番地でしたね?」 「そうです」 「出生年月日や卒業学校などの履歴は、このとおりに間違いありませんか?」  検事は、ひととおり書類を読み下した。 「そのとおりです」  結城は耳を傾けた末に言った。 「どうぞ、お楽にしてください」  検事は書類から顔をあげて、結城に言った。何か世間話を始めるような気楽な顔だった。 「ここにご足労願ったのは、ほかでもありませんがね、結城さんは、土井孝太郎という人をご存じですね」 「知っています。ぼくの友だちですからね」 「そうだそうですね」  検事は、さりげなく相槌《あいづち》を打った。 「実は、土井さんは四、五日前からこちらに来ていただいているんです。結城さんは、土井さんが××企業組合の幹部と昵懇《じつこん》で、その輸入原料割当てについて、R省と交渉の仲介をやっていた、という事実をご存じですか?」 「そうですね」  結城は、煙草の煙を吐いた。事務官は筆記を始めていた。 「それは返事しなければいけませんか?」 「ご返事願いたいですな。じつは、土井さんは、あなたのことについて自供しているのです。あなたにとって困ったことですが、われわれとしては、一応、真偽をあなたにきかなければいけません。でも、断わっておきますが」  と、山本検事は雑談のように言った。 「あなたがこれに答えたくなければ、それでもいいんですよ。まだ逮捕状も出ていないことだし、なおさらです。われわれとしては、ご当人に不利な自供を強《し》いようとは考えていません。どうか、その辺のところをよく考えて、お答え願いたいんです」 「分かりました」 「で、どうなんですか、いま、わたしが言ったことに心当たりはありませんか?」 「そうですね、実は、土井とはたしかに知りあいですが、その件は、わたしは何も知らないのですよ」 「ははあ、なるほどね」  検事はうなずいた。 「それでは、古川平六《ふるかわへいろく》という人をご存じですか?」  検事は、すぐ別の人名を出した。 「ああ、それは企業団体の役員ですね。名前は聞いたことがあります。しかし、当人とは交際がないから知りません」 「しかし、土井さんの話では、あなたは古川さんと、ある席で会ったと言っていますがね。土井さんは、あなたを古川さんに紹介したそうじゃありませんか?」  結城は目を迷わせた。 「さあ、よくおぼえていません」  山本検事のところに、別な検察事務官がはいってきて耳打ちした。検事はうなずいていた。 「結城さん、林秀夫弁護士が見えたそうです」  検事は伝えた。 「そうですか」  結城は、思わずほっとした顔になった。検事は、その顔をじろりと見た。 「林さんが、あなたの弁護士ですか?」 「そうです。もし、わたしが逮捕されたら公判まで、ずっと林さんに頼もうと思っています」 「なるほど」  検事は、湯呑み茶碗を抱えて飲んだ。 「では、ちょっと休みましょう。せっかく弁護士さんも見えたことだし、お会いになったらいかがですか?」 「ありがとう」  結城は軽く頭をさげた。  彼は検事の視線を後ろに感じながら、その部屋を出た。  林弁護士は待合室にいた。太《ふと》って血色のいい男である。結城を見ると、椅子から体を起こした。  暗い廊下に、結城と弁護士とはならんで出た。廊下のすみに弁護士は結城と立ちどまった。 「どうしたんですか? いったい」  弁護士は、窓から射してくる光線で眼鏡を光らせた。 「今朝、急に、寝込みを襲われましてね、六時ごろでしたか。予感はあったが、やっぱり不意を打たれたという感じですね」  結城は言った。弁護士には、事件の内容が聞かないでも分かっている。 「捜索《ガサ》は?」 「やられました。実は」  と、結城は、ちょっと苦い顔になった。 「自宅の方もやられていると思います」 「おや、あなたは、自宅《うち》にいらしたんではなかったんですか?」 「世話をしている女がありましてね、そこを襲われたのです」 「そりゃあ……」  と、弁護士は言ったが、 「奥さんのほうには連絡がついていますか?」 「まだ電話していません」  弁護士はうなずいた。 「それは、わたしのほうでやりましょう。ところで、逮捕状は、まだ出ていないのですね?」 「出ていません。だが、今の取調べの様子から見ると、今日じゅうにも出るかも分かりませんな」 「取調べた検事は?」 「山本芳生という人です」 「ああそうそう、あの若い人?」  弁護士は合点合点をした。 「この事件は、主任が石井検事で、特捜部の部長です。その下に、ベテランが一人と若手が三人かかっています。あなたのほうは、その若手の一人の山本検事が担当したわけですね」  若手の検事三人というのが、結城の目をきらりと光らせた。 「その若手のなかに、小野木検事というのがいましたね?」 「ええ、います。何か?」  弁護士は結城を見た。 「ふむ」  結城は口をつぐんだ。黙ったまま、しばらく足踏みするようにしていた。  ふだんから苦味のある顔で、そこが玄人《くろうと》の女たちに好かれるのだが、その表情がいっそう深くなった。 「林さん」  と急に、結城は弁護士の正面に立ちふさがった。何か重大なことをうち明けるような、きびしい顔つきになっていた。 「小野木検事を少し調べてくれませんか」 「それは、どういう意味ですか?」  弁護士は騒がなかった。どこまでも事務的な顔つきをしている。 「少しおかしなことがあるんです」 「へえ、どんな?」 「恥を言わなければなりません」  結城はうつむいた。  一言、いっただけで、弁護士の顔色が初めて動いた。血色のいい顔だし、愛嬌のある象のような目をしていたが、それが急に鋭くなった。 「確証はつかめませんが、実は」  結城は弁護士の耳にささやきをつづけた。  弁護士の顔が緊張した。あきらかに驚愕《きようがく》の表情が、その童顔にひろがっていった。 「そりゃ」  と言ったまま、結城を見つめて絶句した。 「……結城さん、そりゃ本当ですか?」 「いま、言ったとおりです。わたしは、S温泉に行ったときの、宿帳の男の筆跡を写真にとっています」  弁護士の顔色の方が少し蒼くなったくらいである。 「重大だ」  弁護士は叫んだ。 「あなたは、奥さんにそれを言いましたか?」 「言いません」  結城は、ぼそりと答えた。  弁護士は、何か抗議したそうにしていたが思いかえして黙った。 「あなたのお気持はよく分かります。よろしい、わたしのほうで調べてみましょう」 「秘密に願いたいものです」  結城は、興奮した弁護士を、かえって押さえるように言った。 「このまま、わたしには逮捕状が出るかも分からないので、その写真のあり場所を教えておきます」  結城は、手帳を出して、万年筆で書きつけ、それを渡した。弁護士は、眼鏡のふちを少しずりあげて、それを読んだ。 「確かに」  と、大事そうにポケットに納めた。 「もちろん、だれにも知られぬように調べます。今後、小野木検事には、わたしのほうの事務所の者を監視させておくことにします。なに、ご心配いりません。そういうところは慣れた連中ばかりですから」  話が終わった。  廊下を人影がさして歩いてきた。 「もう、お話はすみましたか?」  ふりむくと、山本検事の部屋にいた検察事務官だった。 「山本検事が呼んでおられます」  会議は、午後三時からつづけられた。  石井主任検事以下が集まった。その席上で、山本検事が結城を調べた経過を中間報告していた。会議の課題は、このまま結城に逮捕状を出すかどうかにかかっていた。  山本検事は、結城の容疑内容が濃厚だから、このまま逮捕したほうがいい、という意見だった。彼を外に出すと、証拠湮滅のおそれがある。この事件では重要な役割を持った人物だし、帰さずにそのまま収容したらいい、という意向だった。  小野木はうつむいてそれを聞いていた。  今朝からの動揺が、彼にまだつづいていた。それは最初の驚きから移行した虚脱だった。同僚の山本検事の述べている話に考える力を失っていた。もはや思考も、体全体も麻痺していた。自分の重心が、ないみたいだった。  小野木検事、顔色が悪い、と石井主任検事から注意されたくらいだった。風邪《かぜ》を引いたんです、と、その場をとりつくろったが、実際、頭に熱があるようだった。体が熱いのに、皮膚が冷たい汗をかいていた。 「小野木検事」  と、石井主任検事は呼んだ。気づいてみると、山本検事の意見が終わったところだった。 「きみはどう思う? 結城に逮捕状を出したものかね?」  石井主任検事の意味は、小野木が土井孝太郎を取り調べているので、それと不可分な関係にある、結城の処置をきいたのだった。  小野木は頭を上げ、前から考えていたようにすぐに言った。実は準備も何もなかった。 「結城の逮捕はまだ早いと思います。もう少し、傍証を固めてからやったほうがいいと思います」  山本検事が、じろりと小野木の顔を眺めた。ふしぎなことを言うと言わんばかりの顔だった。 「傍証か。それは十分だと思うね」  と、石井主任検事は言った。 「現在の段階でも、彼の公訴維持は十分できると思う。このうえ、傍証を固めたいというのは、具体的には、どういう点を言うのかね?」  小野木には、自分でもわけが分からなかった。ただ、すぐ結城を逮捕するのに反対したかった。 「結城は、もう少しそのままにしたほうがいいと思います。これは土井の口から、まだ贈収賄《ぞうしゆうわい》の事実関係が自供されつつありますので、結城とのつながりが、もっと新しく出てきそうな気がします。それからでも彼の逮捕はおそくないと思います」 「土井は、そんなにべらべら言ってるのかね?」 「非常に渋りながらですが、だんだん自供内容をふやしています」 「ふむ」  石井主任検事は、首を傾けて考える表情をした。 「小野木検事の意見ですが」  と、山本検事は反駁《はんばく》した。 「ぼくは、結城をそのままにしておくと、どうもこれから逮捕すべき人間と通謀して、証拠湮滅をやる恐れがあるように思います。土井の線から新しい内容が自供されていると、小野木検事は言いますが、結城を逮捕しておいても結果は同じことです。それに、彼には逃走の恐れがあるかも分かりません」 「結城に逃走の恐れがある、という山本検事の意見には、ぼくは反対です」  と、小野木は言ったが、別に確信があって発言しているわけではなかった。 「結城には、そのような恐れはないと思います」  小野木は、山本検事の顔を見ないで述べた。石井主任検事も、先輩検事も黙って聞いていたが、その先輩検事の一人が、 「R省の役人連中に手をつけるためにも、この際、留《と》めておいたほうがいいんじゃないですかな」  と、意見を言った。 「よろしい」  石井主任検事が断を下すように言った。 「山本検事。結城に、逮捕状を取ってくれたまえ」 「分かりました」  山本検事が声をはずませて答えた。  その声が、小野木の耳には、空洞の中で反響するように聞こえた。  小野木は初めて、頼子の家の電話番号にダイヤルを回した。新しい家に電話をかけているようだった。  出てきたのは女中だった。 「奥さんはいらっしゃいますか?」  女中は、はい、と答えた。 「すみませんが、電話口までお願いします」 「どちらさまでございましょうか?」 「すみませんが、奥さまに出ていただいたら分かります」 「はあ」  女中の声は怪訝《けげん》そうだった。それでも、頼子に取りつぐために引っこんだ。  かなりな時間がかかった。その待っている間、頼子の家の様子が小野木の目に浮かぶ。今朝、初めて見た彼女の家だった。廊下、応接間、玄関、そこに飾ってある調度、朝の冷えた空気。頼子の家の空気。──  頼子が廊下を歩いて電話のあるところに来る姿が目に見えるようだった。  送受器をとる音がした。 「結城でございますが」  頼子の声だった。 「小野木です」  頼子の返事はなかった。沈黙がつづいた。 「今朝は失礼しました」 「………」 「ご主人は逮捕に決まりました」 「知っています。いま、弁護士さんから電話をいただきました」  頼子は、小さいが、あんがい、普通の声だった。 「それで」  と、小野木は息を吸いこんだ。 「ちょっとお目にかかりたいのです。いろいろとたいへんだと思いますが、会っていただけませんか?」  また長い沈黙がつづいた。 「分かりました」  と、頼子は嗄《か》れたような声で答えた。が、その次に言った彼女の言葉は、小野木に思いがけないことだった。 「あなたからのお電話をお待ちしていましたわ。わたしも、ぜひ、お目にかかりたいと思っています。すぐにまいりますわ。場所と時間を指定してください」      2  小野木は、タクシーを走らせ、S駅の前で降りた。  夕方の時間で、駅は混雑していた。小野木が目で探すと、頼子は売店の前に立っていた。人混みの中の彼女の姿は、孤独で寂しげだった。人の目から隠れるように遠慮そうに佇《たたず》んでいた。  小野木が近づくと、彼女は顔を上げた。複雑な表情だったし、小野木がこれまで感じなかったものが、彼女の姿全体に出ていた。二人とも言葉が出なかった。  黙ったまま、無意味に駅の中にはいった。それも意識せずに、自動車の駐車している表口から避ける行動になっていた。  せまい構内は混雑している。その流れについていると、改札口が近くなったことに気づいた。  行先に当てはなかった。  ゆっくりと歩いている小野木と頼子の肩を押して、人の群れが先に進んだ。 「どこに行きます?」  小野木は、はじめて口をきいた。 「どこへでも」  頼子は低い声で答えた。  小野木は、行先を思いつかなかった。改札口へ向かっている流れから、ようやくわきに離れた。 「海でも見に行きますか?」  小野木はきいた。 「そうね」  頼子はうつむいていたが、 「前に小野木さんと行ったお寺ね、あそこを歩いてみたいわ」  もう暗くなりかけていて、構内にもホームにも灯が輝いていた。小野木は、深大寺に到着する時間を考えた。 「おそくなってもいいわ」  二人は、表口の方にもどった。  タクシーに乗った。行先を運転手に言うと、 「深大寺ですか?」  と、ちょっと驚いたようにききなおした。  タクシーは甲州街道に出て走った。賑かな灯が流れ去り、寂しい町なみがしばらくつづいた。  小野木は、頼子の手を握っていた。冷たい手だった。その瞬間、頼子が大きな息をした。  頼子は、ショールをはずして、ふわりとその上にかけた。二人の手がいつまでも離れなかった。  月があがった。それに気づいたのは、車の窓が田圃《たんぼ》を見せはじめてからである。町の灯が少なくなると、夜の空が冴《さ》えてきた。遠くの黒い森の下に白い靄《もや》が張っていた。 「旦那」  運転手はふりかえった。 「深大寺に何かあるんですか?」 「いや、別に何もないだろう。なぜだね?」 「いえね」  運転手は、そのまま、しばらくハンドルを動かしていた。  絶えず自動車の流れとすれ違った。  後部からもヘッドライトが射して、車の中を明るくした。 「いいえね」  と運転手は言いだした。 「あっしは、また、だるま市かと思いましたよ。ちょうどいまごろですからね」 「祭りかね」 「そうなんです。あっしは、下町の者ですがね、子供のころに、おふくろに連れられて、一度だけ深大寺のだるま市に行ったことがありましたよ。それを覚えているんです。まだ寒いときでしたから、ちょうど今ごろではないかと思ったんです」  運転手の話が、気持に軽い和《なご》やかさを与えた。  頼子は黙っていた。目を伏せて、外も見なかった。小野木には彼女の気持がよく分かっていた。だから、わざと話しかけなかった。  街道は時々、町なみを見せた。まだ農家のまじっている寂しい町である。野面《のづら》の遠いところにアパートの灯があったりした。  森があり、木立の茂った斜面があったりしたが、すべて濃い黒い部分だった。  やがて、道は途中でわかれた。そのあたりから家がなくなった。  林が急に近いところに迫ってきた。百姓家が一軒あったが、とまった水車が見えた。ヘッドライトの光は、道と、枯れた草とを白く掃《は》いて進んだ。田舎の子供が一人、車を避けて道の端に立っていた。  タクシーは道をいくども曲がった。  そのたびに、森の深みが濃くなってきた。星がはっきりと見えた。  木の間から強い光がもれてきた。それが寺の外灯だったことは、その前に車が来たときに分かった。 「旦那、着きました」  運転手はとめた。  ただ一つの外灯の光に、山門の古い屋根と石段が照らしだされていた。人影はまったくなかった。四角いかたちの門の中が、吸いこまれそうなくらい暗かった。 「ここで、待ってくれたまえ」  地面に降りてから、小野木は運転手に言った。 「どのくらいです?」  運転手はききかえした。 「四十分ぐらいだ、そのぶんは払う」 「いいでしょう」  運転手は腕時計を灯に透《す》かしていた。  茶屋の灯は消えていた。閉めた表戸の隙間に、内側の明りが薄くもれていた。 「ここで、お待ちしています」  運転手は自分の車の中にはいった。ひと寝入するつもりらしかった。  小野木は、石段に向かった。頼子がすぐあとについてきた。まだ、黙っていた。  やはり人のいないことは、山門を潜《くぐ》って境内《けいだい》にはいっても同じだった。ここにも一つだけ外灯がついていたが、人のいないベンチを荒涼《こうりよう》と照らしていた。  境内は暗かった。外灯が、眩しいくらい強いのである。近いところは、葉のない梢を光線が白く描いていた。本堂も横の弁天堂も、遠い光で淡い影になって沈んでいた。  小野木も頼子も、まだ言葉が出ないままだった。感情がせまって、すぐに言葉にならなかった。  水音のする方へ歩いていた。  鐘の音が聞こえた。不意だったし、はじめ、寺のどこかだと思ったが、音色が違っていた。澄んだ音が揺れていた。  近くに、教会があるらしかった。この辺は森で分からなかった。音は黒い林の中から流れてきているみたいだった。 「どこへ行きます?」  小野木は言った。  二人は、離れて歩いていた。境内は深い木立に囲まれていたが、その片側を小野木は見た。暗い中から、水のような淡い光がもれていた。月が思いがけない方向に上がっていた。 「こちらへ」  頼子は言った。  森の下は暗かった。境内をはずれてから道は湿《しめ》っていた。湧き水がたえず道をぬらしているのだった。  水の音がいたるところで聞こえた。葦簀《よしず》をおおって閉めた小さな茶店の前を通った。ここにもすぐ足もとで水のこぼれる音がした。林はくらかったが、月の光が斑《ふ》を径《みち》に落としていた。  小野木の少し先を歩いている頼子の背中にも、梢の影が動いた。半月だったが、灯のないところでは、意外に明るかった。たまったまま、冬を越した落葉が光っていた。  遠い道を走る自動車のヘッドライトの光が、木の間を点滅させて動いていた。  ここに近づいてくるらしかった。頼子がそれを見ていた。 「こんな寂しいところでも、車は通りますのね」  小野木も光の行方をながめていた。その灯は近くの民家の影の間に消えた。 「ごめんなさいね」  頼子が言った。その小さな声が、はじめて小野木に呼びかけたのだった。 「わたし、あなたをだましたみたいだわ」  小野木は頼子のそばに寄った。 「そんなことはないです。ぼくはあなたにだまされたなどとは思っていません」  小野木は言った。 「結果的にはそうでしたわ」  頼子は動かないで言った。 「わたしは、夫のことも、家庭のことも、あなたに言いませんでした。こういう結果になったのは、その罰ですわ」 「頼子さん」  小野木は激しい声になった。 「あなたの気持はよく分かります。あなたが自分だけを信じてくれ、ほかのことはきかないで、自分というひとりの女だけを信じてくれ、と前に言ったのが、今度よく分かりました。ぼくは、最初、それをあなたから聞いたとき、分かりました、と答えたはずです」  小野木は、頼子の指を求めた。それは、車の中で握ったときよりも、もっと冷たくなっていた。 「今でも、それは変わりありません。あなただけを信じています。ただ、あなたのご主人に、今度のような知り方をしたのが不幸でした。いや、それよりも、このようなことで、あなたをもっと不幸な気持におとしいれたのではないか、と心配なんです」  頼子は返事をしなかった。  黙って小野木の指をとくと、そのそばから離れた。  彼女の踏む落葉の音が聞こえた。蒼白な月光と、枝の黒い影とが交差しながら、彼女の姿を次第に淡くした。ほの白い煙が動いているようだった。  頼子は立ちどまり、そこにうずくまった。そのかたちだけがおぼろに見えた。  遠くで、電車が鉄橋でも渡るような音をたてていた。その音を聞いているように、頼子はそのままの姿で動かなかった。  小野木が近づいて見て分かったのは、彼女が涙を流していることだった。  小野木は、頼子の肩に手をかけた。梢の露が落ちて濡れでもしたように、それは冷たかった。彼女の髪も耳朶《みみ》も冷えていた。  小野木は、彼女の手をとった。素直に彼女は立ったが、そのままに小野木の胸によりかかった。耐えていたすすり泣きの声が唇からもれた。  小野木は、その背中を抱き、手に力を入れた。  彼は、頼子の顔を指で仰向けさせた。淡い光が彼女の顔を白い磁器のように浮かせた。唇がまだ動いていた。  小野木は彼女の唇のふるえを自分のそれで押えつけた。長い時間だった。音も、声も、あたりにはなかった。  遠くで、落葉を踏む音が一度だけ聞こえた。が、気のせいかも分からなかった。あとは湧き水の音がこぼれるだけだった。  小野木は、顔をはなした。  頼子の激しい息が、自分のすぐ前にあった。 「頼子さん」  小野木は言った。 「ぼくには、いま、何を考えていいか分からない。どうしていいか、自分でも整理がつかないんです。ですが、これだけは言えます。ぼくはあなたを放さない。どんなことがあっても放しません。あなたは今、ぼくから離れそうなんだ。放したら、あなたはだめになりそうだ」  小野木の声が、すぐ目の前にある頼子の唇にそのまま吹きこんだ。  彼女は目を閉じ、唇を少しあけていた。きれいにそろった睫毛《まつげ》だった。のぞいた歯に月の光が当たっていた。  頼子はあえいだ。彼女の鼻翼《こばな》がせわしなく呼吸《いき》をした。 「うれしいわ」  彼女は嗚咽《おえつ》の中で言った。 「ほんとに、そう言ってくださるの?」 「本当です」 「わたしから離れないで」  と、彼女はあえぎながらつづけた。 「放さないで。わたしを放さないで。あなたが放したらどこかに落ちていきそうだわ」 「放さない。どんなことがあっても、だれから非難されても、ぼくはあなたを放しません。一生、あなたをつかまえておきます」 「ごめんなさいね。わたし、悪い女だわ」 「そうじゃない。あなたが悪いんじゃない。そう思ってはいけないんだ。あなたが前に言ったとおり、あなたは、いま、自分の環境からはなれた人なんです。ただ、一心に、ぼくという人間を見つめていてくれたらいいんです」  頼子の方からもう一度、かたちのいい顎をあげた。白いのどに光が射した。  彼女の唇の冷たさが、小野木の全身を燃えさせた。  二人は、それから歩きつづけた。  森を抜けると、空が広くなった。  そこはゆるやかな上り坂だった。切り通しのような場所で、その先に明るい野面の一部が見えていた。  この切り通しにはおぼえがあった。暗くて分からぬが、樹木の根が、簾《すだれ》のように斜面に露出しているはずだった。この切り通しの坂道をのぼって、長い道を、天文台の方に歩いた思い出がよみがえってきた。  頼子は、小野木の腕によりかかって添っていた。断崖の黒い遮蔽《しやへい》が、互いの顔を見せなかった。はっきりと姿が月の中に出たのは、草原に出てからだった。遠いところに白い霧がはい、空にうすい星があった。 「あなたの苦しみは、よく分かります」  小野木は、歩きながら言った。 「だから、ぼくから言いますよ。結城さんには逮捕状が出ました。おそらく、起訴は時間の問題だと思います」  頼子の足の運びが、そのとき、一瞬に止まった。 「これ以上のことは、ぼくには言えません。あなたも聞くのがつらいでしょう。だが、ぼくは、こうなると自分が検事だったことを恨みたいくらいです」  小野木は、野を横切り、別な下り道にかかっていた。 「ぼくは役所に見えた結城さんの顔を、どうしても見られませんでした。幸いというか、結城さんはぼくの友だちの担当になっています。それで、どうにか、自分が、現在は救われているのです」 「もうおっしゃらないで」  頼子は、悲しそうにさえぎった。 「わたしにも、解決のつかないことがいっぱいですわ。それは前に何度か、結城と別れようと思いましたわ。そのたびに、結城にそれを言ったのです。でも、結城は取りあってくれませんでした」  小さな声はつづいた。 「そのうち、結城は、わたしの様子に、気づいたようですの」 「………」 「結城がS温泉に行ったのは、意味があったと思いますの。帰ってきた晩に、スーツケースを整理させ、その中からS温泉の土産物が出てきたんですもの。でも、結城は何も言いませんでしたわ。わたしは、そのときから、結城のところから黙って去る決心をつけました」 「………」 「結城には、わたしの気持が、十分にわかっているんです。だから、わざと、それきり家には帰りませんでした。帰ったら、わたし、すぐに別れるつもりでしたの。その間に、不意に今度の事件が起こりました。結城が検察庁のかたに会ったのは、わたしの家ではありませんでしたわ」 「知っています」 「たった一つ、結城に小野木さんだと分かっていないことが、せめてもの、わたしの気休めですわ。あの人は、そんなことを知ったら、無事にしておく人ではありません。こわい人です」  また、径が林の中にはいった。互いの姿が分からず、ゆっくりと坂を寄りそっておりるだけだった。 「ぼくはかまいません。責任をとります。ですが、そうなると……」 「いいえ、いけません。あなたのお名前を出しては、絶対にいけません。わたしはどうされてもかまわないんです。でも、あなたはいけませんわ。これからのかたなんですもの」  頼子はつづけた。 「わたし、結城が離婚を承諾しなくても、自分の思うとおりにするつもりでしたわ」  小野木にはその意味が分かっていた。頼子は、彼に気を兼ねて言わないが、頼子自身も、人妻としての背信に苦しんでいるのだった。 「実は、横浜でお食事をしましたとき、本当は、あなたとの最後の晩にするつもりだったんですの」 「最後?」 「ええ。あなたにも黙っていて、落ちついた土地からお手紙をさしあげようと思っていたんです。でも、結城が帰らないままに朝になって、こんなことになりました」  小野木は急に言った。 「結城さんは、ほんとは、あなたを愛していたんじゃないですか?」  頼子は黙っていた。 「ぼくはそんな気がするな。前から考えていたんですが、今のあなたの話を聞いて、なんだかそれを確かめたような気がします。結城さんはS温泉から帰って、一度もあなたのそばにもどっていない。それで分かるんです。ぼくは結城さんの気持をはっきり知ったような気がします」  頼子は答えなかった。  小野木は歩みをとめて、頼子の肩に両手を置いて揺すった。 「ぼくの考えは間違っていないと思います。どうです? ほんとは、結城さんはあなたを愛していたのです。結城さん自身は、ご自分のなさっていることで、あなたに劣等感を持っていたのではないですか」  木が茂って、影が濃いかげりになった。頼子の表情は分からなかった。だが、手を置いた彼女の肩がふるえていた。 「結城さんの心があなたから離れたのではない。結城さんのほうで、わざとあなたを遠くに置きたかったのでしょう。あの人の暗い職業が、その気持にさせたのです。それは結城さんにはいろんな女がいた。だが、どれも結城さんの本心ではなかった。実際は、結城さんは、心からあなたを愛していたと思います」 「もうおっしゃらないで」  頼子が泣きだしそうな声で言った。 「わたしにも、やっと、それが分かりかけましたわ。それも近ごろなんです。でも、おそすぎましたわ。わたしには小野木さんだけしか見えなくなりました。もう先《せん》、わたしが小野木さんに言ったこと、わたしの後ろにあるもの、わたしのぐるりにあるものは見ないで、わたしだけを考えてくださいって。今は反対ですわ。わたし、小野木さんだけしか心にないんです」  ようやく、一部分だけ明るいところに来た。だが、また木の間にはいった。 「世間から、わたしのしてることを非難されますわ。わたしも、実際、結城には、申しわけないと思っています。でも、ここで、百万べんそれを言っても始まりません。もう、後ろはふり返らないことにします。頼子は人間が変わったと、自分で思いこむことにします」  暗い木の間から強い明りがもれてきた。境内の外灯だった。  後ろから、音をたてずに一人の男がゆっくりと道をおりていた。      3  自動車は、にぎやかな灯の街にはいった。  頼子は、窓の外に顔を向けたままだった。手は小野木に預けていた。 「もうすぐですね」  小野木は、頼子の家の近くだと分かった。白い靄のかかっている早い朝、役所の連中と行って見おぼえた道である。  これまで、いつも頼子と別れる習慣だったのは、ここからかなりの距離のある地点だった。頼子の家を知って、初めてその近くにきたのである。  小野木の記憶にある、岐《わか》れ道が見えた。  頼子の手が力をこめて、小野木の指を握りしめた。 「そこで降ろしていただきますわ」  小野木は黙っていた。  岐れるところが急速に迫ってくる。角に見おぼえの高い建物があった。 「お電話、いただけます?」  頼子はささやいた。 「します。ずっといますか?」  小野木は言った。 「どこへも出ませんわ」 「二、三日のうち、きっとします」 「お待ちしていますわ」  頼子は最後に力を入れた。小野木は返した。  車をとめた。  小野木は、自分で先に降りて、頼子を降ろした。  頼子は、そのまま佇んでいた。 「では」  小野木は、彼女を置いて車の中にはいった。  車が動きだしたとき、頼子は道に立って、頭をさげた。小野木は手を振り、後ろの窓に体を曲げた。  遠い外灯の明りを浴びて、頼子が見送っていた。風の中にやっと立っているような姿だった。小野木は後ろに手を振った。  薄暗い光が彼女の輪郭を浮かせていた。遠ざかりながら彼女も手を振っていた。  小野木はひとりになった。彼の横が空いていた。数秒前までそこにすわっていた頼子がすわっていない。かき消えたみたいにいないのだ。  彼の横には声も聞こえなかった。手を伸ばしても、触れるものはなかった。寂寥《せきりよう》だけが彼の横にうずまいていた。その空虚さが耐えられなかった。 「とめてくれ」  小野木は命じた。 「ここでいいんですか?」  運転手は、車をゆるめてふりかえった。  暗い塀がつづいている道路だった。商店も何もないところである。車の群れが傍を矢のように行き交《こ》うていた。  小野木は金を払った。地面に降りると、頼子と乗っていた車が、尾灯をひいて走り去った。  あの車にそのまま乗りつづけているのが、小野木に辛抱できなかった。頼子を失った空虚な隣の席が彼を圧迫するのである。自分が暗い穴にずり落ちそうだった。車を変えることで、それを救いたかった。  小野木は、暗い道に立った。誰も歩いていなかった。車の往来だけが忙しいのである。小野木は、道に取り残された自分に初めて安心した。  少し歩いた。  灯が少ないせいか、空が澄んで見えるのである。月の位置が変わった方角にあった。深大寺で見た森の中の月とは違って、驚くほど俗になっていた。  空車が速度を落として、歩いている小野木の横にすべりよってきた。  小野木は、運転手のあけたドアに身を入れた。 「どちらへ?」  運転手は走りだしてきいた。 「このままで、しばらく走ってくれ」  帰りたくなかった。この状態でどこへでも行きたかった。行先の当てはなかった。  結城の家の中にもどっていく頼子を小野木は想像していた。半分、嘘のようだった。  ただ、耐えられない寂しさだけは車を変えたことで救われた。体の傾きそうな、あの暗い墜落感はうすくなった。  ふしぎなもので、頼子が初めから横にいない車だと納得すると、座席の空虚が自分のものになった。  無意味に街の灯が流れた。車は、ただ道路を走った。  広い交差点に出た。 「どちらへ?」  運転手がきいた。 「このままでいい。まっすぐに行ってくれ。降りる場所にきたら、そう言うからね」  運転手は不機嫌に黙って、赤信号を待っていた。  小野木の意識が、少しずつ自身を回復した。  そのとき、彼に初めて�仕事�がよみがえってきた。  だが、この�仕事�の思索は、小野木に勇気を与えなかった。苦痛だけだった。今まで頼子がいたことで彼女にかよっていた彼の気持が、ひとりになって内側へ閉鎖した。男は単独になると�仕事�を考えるものだが、小野木の�仕事�は彼を責めた。 (おまえは検事ではないか。被告の妻と恋愛に陥《おちい》っている。検事の職務が、それで正当に勤まるか) (正当だ)  小野木は叫びたかった。  頼子との恋愛は、結城という人物の存在を知るずっと以前なのだ。そのとき、彼の前にいた頼子はひとりの女だった。小野木は、頼子という孤独な女だけを意識していた。それ以外の何ものも知らなかった。知ろうとはしなかった。  結城はそのあとから出てきたのだ。頼子との恋愛に結城は何の関係もなかった。結城の犯罪も、結城の刑罰も、頼子とは何のかかわりあいもない。──  小野木は、そう叫びたかった。  結城にむかっても、そうだった。結城の罪悪、刑罰に対決する自分の意識には頼子は存在しなかった。検事が被告にむかっているだけの話である。あいだに、頼子はいないのだ。小野木は、そう主張したかった。  しかし、それはいかにも空疎なものだった。はかなく空に消えていきそうな声だった。  世間が頼子とのことを知ったら、それを平気で承知するか、である。非難は必至だった。 (検事は、何ものにもとらわれず、何びとをも憎まず、何の主観をも持たず、被告に対決すべきである)  その声が小野木を揺すっていた。小野木の主張が、その強い風に徹《とお》る自信はなかった。  車はまだ走っていた。実に無意味に走っていた。  林弁護士が事務所へ出ると、二人の事務員が椅子から立って挨拶した。 「おはよう」  弁護士は、自分の机の前にすわった。  窓から朝の明るい陽が射している。  弁護士が持参の手提鞄《てさげかばん》から書類を取りだしていると、女事務員がそばにきた。 「立花《たちばな》さんがお待ちでございます」 「おう、それは」  弁護士が目を輝かせて、すぐに通せ、と言った。 「おはようございます」  ベレー帽をかぶった男だった。痩せた三十男である。 「昨夜《ゆうべ》のものを持ってまいりました」 「早いね」  弁護士は上機嫌だった。 「あれからすぐに現像して、大急ぎで焼付けしました」  男は、封筒を出した。 「それは気の毒だ。おそくなっただろうな」  弁護士は封筒をあけながらいたわった。  とりだしたのは、写真が五、六枚だった。弁護士は、その一枚ずつを眺めた。 「なにしろフラッシュが使えないので、あんまりよく撮《と》れていません」  痩せた男は、ベレー帽に手をかけて、 「でも、どうにか、本人の特徴だけは出ていると思います」 「ふむ」  弁護士は、一枚一枚、熱心に繰った。  寺の境内である。林の中に、白っぽい着物を着た女と背の高い男とが寄りそって歩いている後ろ姿だった。  遠くの灯が、人物の片側を照らしている。感度のいいフィルムを使ったのか、光線のとぼしいなかではよく撮れていた。 「思ったよりいいね」  弁護士はほめた。 「そうですか」 「きみ、当人たちには気づかれなかっただろうね?」 「それはむろんです。いや、しかし、苦労しました。ほかに人がいないので、こちらの足音が向こうに聞こえやしないかと思って、ひやひやしました」  男は苦心を報告して、自分でその中の一枚を選んで見せた。 「これは望遠レンズを使ったのです。これだと顔がよく分かるでしょう?」 「なるほど」  写真は、小野木と頼子とが顔を寄せあうようにして話しあっているポーズになっていた。 「うまい。これなら大丈夫だ」  二人の男女が逢いびきをしている組写真だった。背景は夜の深い森である。 「きみ」  弁護士は、仕事をしている若い事務員を呼んだ。 「こっちに来たまえ。いいものを見せてやる」  事務員二人が寄ってきた。 「見たまえ」  弁護士は、組写真を机の上に広げた。 「どうだね?」 「ははあ」  事務員二人は、顔に薄ら笑いをうかべ、丁寧に一枚一枚を点検した。 「ランデブーですか?」  事務員が言った。 「いいところですな。どこの山の中ですか?」  事務員の一人が弁護士に顔を上げた。 「郊外だ」 「わざわざ、そこまでお二人で行ったわけですね」 「隠し撮りですか?」  もう一人の事務員が、写真をためつすがめつしながら男にきいた。 「そうです」  ベレー帽は、ちょっと自慢そうだった。 「歩いている写真ばかりですね。キッスの場面は撮れなかったんですか?」 「いや、それが」  男は額《ひたい》を掌《て》でたたいた。 「そこを撮ると、効果百パーセントですがね、なにしろ暗くて、それだけは失敗でした」 「きみ」  弁護士はベレー帽にむかった。 「二人は、確かにキッスしたんだろうね?」 「はあ、そりゃもう、見ててこちらが腹が立つくらいでした。仕事だから我慢してましたがね、口笛の一つも吹いてやりたいぐらいでしたよ」 「ふむ」  弁護士は、ちょっと考えた。それから事務員二人を彼らの席へ追っ払った。 「写真は上出来だ。こんどは、きみの話を聞こう。順序どおり言ってくれたまえ」 「ぼくは、結城さんの家の前に張りこんでいました。すると奥さんが出てきたので、あとをつけたのです。奥さんは流しのタクシーを呼びとめて、走りだしたので、ぼくは置いてある車にすぐ飛びのり、そのあとをつけていきました」  痩せた男は、薄い唇をなめらかに動かして語った。 「車を降りたところが、S駅の近くなんです。奥さんのほうは、駅の売店のところで男の人を待っていたんです。二人は出会うと駅の中にはいって行ったので、これは電車かなと、と思っていると、またこちらにもどってきました。それから駅前のタクシーに乗って、甲州街道を走り、深大寺に行ったわけです……」  弁護士は、いちいちうなずきながら、メモにつけていた。 「だいたい、それで分かった」  話が終わって、弁護士は言った。 「それから、きみに使いを頼んだ、例の秘密探偵社のほうはどうだった?」 「ああ、それももらってきました」  男は、また別のポケットから封筒を出した。 「これです」  弁護士は、また袋の中をあけた。写真が三枚出てきた。 「なるほど、こりゃまた違ったところだね」  弁護士はたんねんに見入った。それが横浜のニューグランド・ホテルの食堂だった。深大寺の森を歩いている男と女とが、ここでは白いテーブルをはさんで、たのしそうに食事をしている横顔だった。  それから一時間ばかりたった。 「こういうおかたがご面会でございます」  女事務員は名刺を運んだ。  弁護士がそれをのぞきこんだ。 「なんだ、新聞記者か」  口先では言ったが、満足そうな顔色だった。新聞記者が訪ねてくることはめったになかった。歓迎している証拠には、女事務員に、 「応接間に通してくれ。すぐ、お茶と菓子を出すようにね」  と言ったものである。  弁護士はそれから書類の調べにかかったが落ちつかなかった。わざと待たせるつもりだったのが、自分のほうで辛抱できなかった。 「林です」  応接間にはいると、客は二十七、八の背の高い記者だった。 「お忙しいところを恐縮です」  新聞記者の辺見は、弁護士に軽く頭をさげて言った。 「ご用件は?」  弁護士は口もとに鷹揚《おうよう》な微笑を見せた。  女事務員が命令どおり、コーヒーと菓子を運んできた。客に丁寧に挨拶をして退ったのも、主人の言いつけどおりだった。 「どうも、突然、おうかがいするのですが」  辺見は林弁護士にきりだした。 「先生は、今、R省汚職で弁護を担当されているそうですが、そのとおりでしょうか?」  林弁護士は、太って二重にくくれた顎をひいてうなずいた。機嫌がよかった。 「そうです。こんど、被告の一人に付くことになりました」 「はあ」  辺見は、ポケットからメモ用紙を出した。 「先生が弁護をなされるかたはどなたですか?」 「結城です。結城庸雄という人です」 「なるほど、贈賄の仲介に立った人ですね」 「さあ、贈賄といえるかどうかね」  弁護士は慎重だった。 「いや訂正します」  辺見は、少し、あわてた。 「業者と役人との間に立っている人ですね?」 「まあ、そうです」 「この事件の見とおしは、どうなんでしょう?」 「さあ、まだよく分かりませんね。なにしろ捜査もこれからというところらしいですからね」  弁護士は落ちついた微笑を見せた。 「事件が発展しそうかどうか、あなたのほうがくわしいんじゃないですか?」  弁護士は反問した。 「いや、われわれのところでは、正直にいって、よく分かりません。なにしろ、検察陣はひた隠しに隠していますからね。それで先生のところにうかがうと、だいたい、情勢が分かるのではないかと思ったんです」 「さあ」  弁護士は、曖昧に答えた。 「今のところ、なんとも言えませんね」 「いや、これは新聞にすぐ出すわけではありません。先生のお名前も、もちろん活字にしません。ここだけの話として、参考に承りたいんですが、先生が結城さんの弁護をひきうけられてのご感想は、どうなんでしょう? 結城さんは、事件の一つの中心点だと思います」 「確かにおっしゃるとおりかもしれません」  と、弁護士は答えた。 「だが、わたしのほうもこれから調べるところで、まだ何も分かっていません。事件の見とおしを言え、とおっしゃっても、そんな具合ですから、はっきり言えないわけです」 「結城さんは、やはり業者と官庁との橋渡しをしていたと噂されてるんですが、事実は、どの程度まで認めているんですか?」  辺見はねばっていた。 「たとえば、結城さんは、業者の団体役員からR省の上層部に働きかけをひきうけたと言われていますね。もうそれは結城さんの口から自供が始まっているのですか?」 「辺見さんと申されましたね?」  弁護士は、客の名前を確かめた。 「あなたも誘導尋問がうまいですね。このごろの新聞社のかたは油断がならない。しかし、いま言ったような具合で、まだ資料も整っていないのです」 「しかし、先生は」  と、辺見はくいさがった。 「この事件については、被告側に明るい見とおしをなさっているんでしょう?」 「もちろんです。わたしは、けっして悲観的には思っていません」 「ははあ、それは、どういう根拠で?」 「それも今は言えません。だが、わたしには確信があります」 「なるほど」  辺見は、ちょっと黙った。 「結城さんの口から、官庁方面の、たとえば、R省のどの辺まで自供されているのでしょう?」 「さあ、よく分かりませんね」  弁護士は煙を吐いた。 「しかし、ある一部では、R省の田沢局長の身辺がとかく噂にのぼっていますが、実際はどうでしょう?」 「そうですね」  弁護士は、じらすようにあとを黙った。 「まあ、それも、今、お話しする段階にはなっていませんね」 「結城さんが田沢局長のことを、検事の前で言ったかどうか、ということも分からないのですか?」 「さあ、実は、昨日《きのう》、結城さんの弁護をひきうけたばかりで、まだ本人との打合わせも十分にしていないのです。その返事は勘弁してください」  弁護士は言ったが、 「しかし、ぼくは、いずれにせよ、結城さんの罪状には非常に明るい希望を持っていますよ」  と、意味ありげに笑った。 「といいますと?」  辺見は、弁護士を見つめた。 「いや、それは、ここでは言えません。しかし、ぼくがこのことを発表すると、現在の検察陣に大打撃となります。その意味でこの事件は明るいと言っているんです」  林弁護士は、さも腕利きのように自信たっぷりに言った。 [#改ページ]   局 長 の 家      1  辺見は、田沢家を訪れた。  玄関に女中が出たが、これはすぐに引っこんで、輪香子とかわった。 「あら、いらっしゃい」  輪香子は、冴えた青色のブラウスを着ていたが、それが少女らしい清純さに映った。 「こんにちは」  辺見は包みを差しだした。 「あら、クッキー」  輪香子は笑いだした。 「どうもありがとう」  辺見が靴を脱ぐ間、輪香子は奥に走った。母は居間にいた。 「お母さま、クッキーよ、ほら」  辺見からもらったばかりの包みを、母の前につりあげて見せた。  だが、母は、いつものようには、笑わなかった。 「そう。すぐ、こちらにお通しして」  そのとき、母の顔は妙に真剣だった。  辺見を迎えるときの、いつもの、いそいそとした様子はなかった。  そのことは、辺見が廊下を歩いて部屋にはいってからも同じだった。  辺見は、敷居ぎわに膝を突いた。 「こんにちは」  辺見はいつも几帳面《きちようめん》に挨拶する習慣だった。母は、丁寧にそれに答えた。 「どうぞ、こちらへ」  辺見を座敷の中に招いた。 「輪香ちゃん」  と、母はすぐに言った。 「コーヒーでもいれてきてちょうだい」 「はい」  輪香子は台所に行き、支度にかかった。  昨日、挽《ひ》かせたばかりのコーヒーがあった。それを漉《こ》すまでに、たっぷりと十分はかかった。  輪香子がコーヒーを持って母の居間にもどったとき、それまで何か話していた二人の話が急にやんだ。  だが、話を中止したというのは、輪香子が実際に見たのではない。襖《ふすま》をあけたとき、すぐ、そう感じたのだ。そのように感じさせるだけの緊張した雰囲気が、母と辺見の向かいあった姿にあった。  辺見は輪香子にすぐに笑いかけたが、母の顔はこわばったままだった。 「ありがとう」  辺見が礼を言った。 「輪香子」  輪香子がそこにすわろうとしたときに、母は急いで言った。 「ちょっと、辺見さんとお話がありますからね。あなたはあとで来てちょうだい」  これまでに、あまりなかったことだった。  母はどちらかというと、辺見が来ると、つとめて輪香子を呼ぶようにしている。その習慣で、輪香子がそこにすわるつもりだったのを、今日の母は拒《こば》んだのである。 「はい」  すぐに立ったが、輪香子は、軽い胸騒ぎがした。  辺見と母とは、何か自分に知られてはならない話をしているのだ。それが父のことだと直感した。新聞には、父の勤めているR省の××局の汚職が、連日のように出ている。辺見がその情勢を母に知らせに来たのだ、と察した。  母は、近ごろ、ずっと沈んだ顔色でいる。父が、やはりおそく自動車《くるま》で帰ることには変わりないが、どこか、その動作はあわただしかった。たしかに、以前の父の鷹揚さは、その動作から失われていた。  それに、輪香子が居間に引きとってからも、父と母とは、おそくまで話しあっているのだった。  輪香子は、母にそれをきいたことがある。 「心配しないでいいのよ。お父さまには関係のないことだから」  と、母はそのたびに言った。 「それは部下のかたの不始末だから、責任問題が起こるかもしれないがね、お父さまがどうということはないのよ」  だが、それにしては母の顔色は悪かった。輪香子といっしょにいると、どちらかといえば、娘に合わせるように若やいでくる母が、なるべくひとりで引きこもっているようになった。  たしかに、母の態度は以前と違ってきていた。輪香子には、母が急に自分から遠ざかったような気がした。  母がひとりで遠ざかるという意味は、輪香子に秘密をつくっているということになる。大人の世界だし、娘には知られてはならない用事を、母の方で一方的につくっているという感じだった。  それが、今、世間に騒がれている汚職に関係していることは間違いなかった。これは直接、父に関係した問題だ。だが、事件の性質からいって、輪香子は直接に、父にもきくことができなかった。  母にそれ以上追及することも、どこかで迷うのである。つまり、父が刑事上の罪を得るかもしれない、という意識が、娘として一歩そこでためらわせるのであった。  それにしても辺見は、何を告げに、母のところに来たのであろう。母が何かを彼に依頼していることは、その真剣な話し方で分かる。辺見は母の頼みを聞いて、その返事を持ってきたのに違いない。  いつも、輪香子がそこにすわるのをすすめていたはずの母が、追いやるように中座をさせたのも、話の重大さを思わせた。  辺見は輪香子への思いやりからか、つとめて平気な顔つきをしている。だが、母の顔色は正直にそれを語っていた。  輪香子は、自分の部屋に籠《こも》ったが、落ちつかなかった。この問題が起こってから、彼女は、よほど小野木をたずねようかと思った。だがこの事件に検事として彼が関係していると聞いて、それもできなかった。小野木とも長い間、会っていない。和子にでも呼びださせて、彼と話をしたかったが、その自由を失っていた。父が事件に関係していることが羞恥《しゆうち》を起こさせていたし、小野木に会うのが急に肩身が狭くなっていた。 「弁護士さんが、そうおっしゃったんですか?」  部屋で輪香子の母が、目を沈めて考えていた。 「どういうことなのでしょう?」 「内容のことは」  と、辺見は静かに言っていた。 「何も言いませんがね。とにかく、自信たっぷりでした。検察陣は、自分のその発表でひとたまりもない、というんです。あの顔つきからすると、まんざらハッタリとは思いませんでしたね」 「なんでしょう?」 「さあ」  辺見も思案していた。 「ぼくにも見当がつかないのです。まあ、弁護士というのは、その方面の専門家ですからね。正式な防御でなく、いろいろとからめ手からの防御もやるのだと思います。いずれにしても、弁護士が検察陣を攪乱《かくらん》すれば、この事件は、当然、有利になると思いますね」  局長の妻は、溜息をついた。 「ほんとに、そうなるとよろしいんですがね。主人のことが気にかかって、ここんとこ、眠れないんですのよ」 「局長は大丈夫と思います。それに、弁護士が何を考えてるか分かりませんが、その言葉のとおりに成功すると、これは事件そのものが消える可能性も出てきますね」 「ほんとにそうなると、どんなに安心だか分かりませんわ」  その表情を、辺見はちらりと見た。新聞記者の目になって観察的だった。 「奥さん」  と、辺見はそれまでと違った声で言った。 「ざっくばらんにおたずねしたいのですが、何か局長のほうにご心配になるような様子があるのですか? いや、これは無遠慮かも分かりませんが、こういう状態になると、ぼくもご相談に預かりたいと思います」  局長の妻は黙った。すぐに返事はしなかった。顔色の悪くなったことで、質問者はその返事を聞いたと思った。 「実は、心配なことが一つあります」  彼女は、やっと低い声で言った。 「ほんとにお恥ずかしいことですけれど」 「いや、なんでもおっしゃってください。このさい、奥さんひとりが胸に納められてすむことではありません。いちばんいい方法を考えなければならないのです。そのためには、奥さんにも、勇気を持っていただかなければなりません」  辺見は励ました。 「ご心配ごとというのは、なんでしょうか?」  彼は、のぞきこんだ。 「いや、ぼくなら誰にも言いません。それは絶対に安心してください。全部、お話しになってください。最善の方法を、およばずながら、ぼくもいっしょに考えたいと思います」 「ありがとう」  妻は言った。それから間《ま》をおいて言いだした。 「実を言いますと、田沢が、わたくしにと言って、ある晩、ミンクのコートを持って帰ったのです。とても立派なものでしたわ。田沢は局長ですけれど、お給料といってはそれほどではないのです。そんな、ミンクのコートなど、買えるはずがありませんわ。どこかでいただいたものに違いありませんが、いただきものにしては、ケタはずれに豪華なんです。わたくしは、どこからいただいたのか、すぐに見当がついたので、さっそく返すように、田沢に言ったのです」  局長の妻は告白した。 「ところが、田沢はあんな性格ですから、そのままにしておいて、しまいには、輪香子にでもやれ、と言いだしました。わたくしだって、輪香子にそんなものを着せたくありません。それで、なんとなく返さない状態で、ずるずるしてるうちに、わたくしはもう一度、返すように田沢に催促しますと、おまえたちが着ないなら、親戚の者にでもやれ、と田沢は言うのです」 「そして、そのミンクのコートは、そのとおり、親戚のかたにお譲りになったのですか?」 「ええ。親戚の中で、ちょうど、それを着てもいい人間がいましたので、その者にやってしまいました。それが気にかかるのです」 「そうですか」  新聞記者は、顔をくもらせた。 「そりゃ、やむをえませんね。きっと、奥さんのご推察なさったように、そのコートは、業者からの贈りものに違いありません。お返しにならなかったのは、ちょっと残念でしたね」 「ねえ、辺見さん」  局長の妻は、真剣な顔色になった。 「あのミンクのコートが問題になるでしょうか?」  それは、無論、問題になる、と辺見は答えたかったが、さすがにすぐには言えなかった。 「親戚のかたには、こちらからお譲りした品でない、ということをよく言っておくことですね。万一の時のことを考えての処置です」  辺見の言葉は、しかし、弱いものになった。  座敷には薄い陽が当たっている。この部屋の沈んだ空気の中に、どこか隙間があって、そこから冷たい風が吹いてきているような感じだった。 「奥さん」  辺見は念を押した。 「もう、そのほかにはないでしょうね。ほかに、業者が持ってきた品物はありませんか?」  局長の妻は、言葉に出さないで、うなずいただけだった。  しかし、彼女にも辺見には言えないことがあった。もらったのは、ミンクのコートだけではない。新聞紙包みの札束の秘密がある。玄関の下駄箱の上に勝手に置いて逃げ帰った土井という男の残したものだった。  その新聞紙包みの中身は、意志に反して、彼女が半分以上減らしていた。  田沢隆義は、十二時近くになって、役所の自動車《くるま》で帰ってきた。  妻が玄関まで来て、戸をあけた。 「お帰んなさい」  田沢は黙って家の中にはいった。酒の匂いがした。輪香子も女中も寝ていた。家の中は廊下だけに電灯がついていた。  居間にはいって、上着を脱いでいるところに、戸締まりをした妻がはいってきた。 「あなた」  妻は夫を呼んだ。 「今日、辺見さんが見えましたよ」  夫は黙って洋服のまま、じだらくにすわった。酒の匂いは強かった。 「宴会ですか?」  それには返事もせずに、夫は、水をくれ、と言った。  妻が運んで来ると、うまそうに咽喉《のど》を動かして飲んだ。 「辺見さんの話を申しましょうか?」 「なんだと言ったのだ?」  夫は、唇についた雫《しずく》をきれいなハンカチで拭った。 「弁護士さんの家《うち》に行って、検察側の動きを聞いていらしったそうです。その時の弁護士さんの話では、なんだか、こちらに検察側を突きくずすような決め手がある、と話していらしたそうです」 「そりゃ弁護士のハッタリだ」  夫は初めから乗らなかった。 「いいえ、そうでもないそうですよ。辺見さんがそう言ってらしたのです。ほかのかたと違い、辺見さんの言葉ですから、信用できそうです」 「辺見が言っても当てにならない」  と、夫は気のない言い方をした。 「何か具体的なことを言ったのかい?」 「それはおっしゃいませんでした。でも、弁護士はひどく自信のあるようなことを言っていたそうです。検察側は自分の出方で崩壊《ほうかい》する、と弁護士は言ったそうです」  夫はちょっと目を動かしたが、また元の表情にかえった。 「そんなことを真《ま》に受けたってしようがない。おまえ、いちいち、辺見に何かきいているのかい?」 「いいえ、別にきいてるわけじゃございませんが、やはり新聞を見ると、心配なものですから」 「よけいな心配しなくていいよ。おれのほうで何もかも分かっている。大丈夫だ」 「あなた」  妻は声を改めた。 「ミンクのコートのことを、辺見さんに言いました」 「バカな奴だ」  夫は顔をしかめた。 「あれは親戚の恭子《きようこ》さんに上げたのですが、もらった人に早く事情をふくんでおいてもらうよう言った方がいい、とすすめていましたわ」 「辺見の奴、何か言ってやしなかったか?」 「別に」  妻はやはり顔をこわばらせていた。 「でも、ミンクのコートは打ち明けられましたけれど、土井さんからいただいた、あの新聞包みのお金のことは、わたしも辺見さんに言いだす勇気がありませんでした」  夫は黙っていた。 「ねえ、あなた。あのお金のことは、どう始末しましょう」 「いくら使ったのだ?」  夫は、間《ま》をおいて、ぼそりときいた。 「いろいろ出費が重なりましたので、つい手をつけてしまいました。初めからあんなものを置いていただかなかったほうが、どんなによかったかしれません。わたしも、タンスの底にしまって、絶対に手をつけないでお返しするつもりでしたけれど、つい……」  妻はさしうつむいた。 「だから、いくら使ったか、ときいている」 「半分ぐらいになっていると思います。田舎の家の新築に手伝いを頼まれたので、それに出したし、わたしの実家の妹が結婚したので、そのほうも負担したし、いろいろとありました」 「二十万ぐらいか」  夫は憂鬱な顔をした。 「局長と言っても体面ばかりで、あなたのお給料は世間の人の想像よりずっと少ないし、ほんとにつろうございました。お断わりしたのに、ああいうお金を下駄箱の上に置いて、逃げるように帰られた土井さんを恨みとうございますわ。今度、挙げられて、そのことも検察庁で自供なさるに違いありません」 「いや、まだ自供は始まっていないそうだ」 「いいえ、いずれはそれが出ますわ。今さらお返しすることもできなくなったし、どうしたらいいでしょう? あなた、家宅捜索はないでしょうか?」 「そうだな」  夫は弱気になった。 「今のうちに、その金をしかるべく処分したほうがいいだろう」 「処分といいますと?」 「残ってる三十万円を友人の大木《おおき》君にでも渡して、あと二十万をこちらで補填《ほてん》し、ぼくの方から預けたかたちにしておくのだ。万一、土井がその金のことをしゃべっても、受けとれないからと言ってその金を友だちに預け、土井に返すように頼んでおいた、と言えばいい。つまり、おれのほうでは、そんな性質の金だから、あとで友人を通じて返すつもりで預かってもらっていたというかたちにするんだ。万一、家宅捜索のときに、その三十万円の現金がこの家で見つかってはまずいことになる。始末を早くするんだな」 「情けないことになりました」  と、妻は嘆いた。 「これが引っかかって、あなたの位置が揺らぐと、あとはどうなることでしょう?」  妻は涙を流した。 「まあ、そう心配することはないよ。おれの聞いてる情報では、せいぜい、課長あたりで止まるらしいという話だ。それに、おれを引っぱってみろ、たいへんなことになる。その気配を察して、代議士連中が検察庁の方にも運動していると聞いた。大臣だってずいぶん心配しているからな」 「ほんとに大丈夫でしょうか?」 「安心したほうがいい、と言っている。だからおれもこうして、のんびりと宴会などに顔を出して、酒をのんで帰っているのだ。その危険がおれに迫っていてみろ、おれだって、こうしておちおちと宴会などには出やあしない」  夫は太っていた。カラーのボタンをはずし、ネクタイをゆるめた。 「おまえが、そう、くよくよしたって、どうなるものでもない。まあ、おれに任して安心していることだな。ところで、輪香子には、このことは話さないだろうね?」 「輪香子には、とても言えませんわ」  妻はまだハンカチを顔に当てていた。      2  会議が終わったのはおそかった。  小野木は、役所を出た。外は夜になっていた。この付近は暗かったが、銀座方面の空が、オーロラのように明るかった。  ほかの同僚たちは、バスを待ったり、都電の停留所や、地下鉄の方に行った。小野木も、いつもは地下鉄を利用するが、その組にはいらなかった。用事があると断わって、一人で日比谷《ひびや》公園に向かった。  暗い森の向こうの空に、ネオンの色が映っていた。  小野木は、ひとりで歩きたかった。歩いて考えたかった。今日も取調べをしたが、結城庸雄には会わなかった。係りが違うだけではなく、彼に会うのを自分から避けた。とても、結城の顔が見られなかった。彼の供述の必要なところは、調書の上でまにあわせたり、担当検事から話を聞いたりした。  奇妙なもので、結城が取り調べられているその部屋の前の廊下を通るのに怯《おび》えた。  結城庸雄を小野木は軽蔑している。頼子を不幸に陥《おとしい》れた男に怒りを覚えている。しかし、その男に会うのが恐ろしかった。  それは、相手が頼子の夫という理由からくるだけであろうか。頼子を愛する権利は、結城などよりはずっと自分のほうにあるのだ。結城は頼子の生命をむしばんだだけである。ただの世間的な夫婦関係というだけで、こうも自分が結城に会うのをこわがらねばならぬ理由が納得できなかった。  法律的にはどうなる。小野木は今まで調べた事件で随分、法律の解釈が現実のものと遊離していることを、しばしば感じてきた。だが、法律はあくまでも常識の上に組み立てられていた。常識を一つの強権の中に規定したのが法律であろう。しかし、常識は、より公約数的なものであり、普遍《ふへん》的なものである。  だが、普遍的なものは、個々の場合には適用されないことが多い。かえって普遍的なものに従うほうが、不自然なのである。現実の解釈を、もっとも常識的な法律で決めることの不当さを、何度か痛感してきた。  頼子の場合がそうだった。頼子は結城から早く離れたがっていた。結城はそれを許していなかった。この夫婦が、それぞれ別個の存在に乖離《かいり》していた。  頼子の感情が、もっとも結びついているのは、小野木は自分だと思っていたが、現在のかたちでは、小野木の頼子への行動は許されていない。世間的にも非難されることだったし、戦前には、そのための法律さえあったくらいである。  結城庸雄が普通の人間ならそれでいいのだ。だが、彼は小野木がいちばん嫌悪《けんお》しているタイプの人間だった。どのような点からみても、結城庸雄は陋劣《ろうれつ》な人格だった。  その結城をこれほど自分が恐れなければならぬ理由に、自分自身で腹がたった。  小野木は道を歩いている。  公園の中の道は曲がっていた。外灯の灯が歩いている人たちをうつしだしていた。場所がら、若い男女が多かった。誰もがたのしそうに話して、小野木とすれ違うのである。  だれか声をかけたようだった。  気にとめながらも、そのまま歩いていると、 「小野木検事さん」  と、はっきり聞こえた。これは、後ろを追ってくる靴音といっしょだった。  ふりむくと、地検づめの或る社の新聞記者だった。小野木はその男の顔をよく知っている。 「たいへんですね、小野木さん」  小太りのずんぐりした男だが、日ごろから愛想がよかった。 「やあ」  小野木はぼそりと言った。  その新聞記者は、小野木の横にならんだ。自然にそばに来たというのではなく、あきらかに意識しての行動だった。  新聞記者が歩きながら煙草をくわえた。 「検事さん、事件は山を越しましたか?」  なんでもないような口調の質問だった。 「さあね、ぼくにはよく分からないよ。もっと上の方にきいてもらわないとね」  小野木は答えた。 「しかし、捜査は相当進展してるんでしょう。どうです、R省の田沢局長までいきますか?」 「さあ、知らんね」  二人は雑談のような恰好で歩いていた。 「しかし、某方面では、局長の召喚《しようかん》が必至だ、と言って騒いでいますよ」 「そうかね。ぼくには何も分からんよ」 「だが、現在の段階では、当然、そこまでいくでしょう。検察庁がそこまで伸ばさないと、第一、国民がこの事件を見つめているので、納得しないと思いますがね」  新聞記者はくいさがった。小野木は返事をしなかった。 「疑獄事件は、いつも捜査が中途半端になるのが常識になっています。このさい、今度こそしっかりやっていただきたいですね。これは国民の声です。ねえ、小野木さん、そうじゃありませんか?」  小野木は、それにもまた返事をしなかった。  小野木の目には、輪香子が浮かんでいる。この新聞記者の言う田沢局長の娘だった。  初夏の輝くような麦畑の中だった。そこにたったひとり少女が立っていた。──輪香子のことを考えると、いつもその場面が目に浮かぶ。  青い麦畑と、青い湖面と、白いカリンの花と、ゆるやかな塩尻峠あたりの山脈《やまなみ》と。──その中に立った少女の姿は、小野木が目をみはるくらい清純だった。  そのときの印象は、あとで輪香子に会ってもくずれなかった。それだけの純真さが、この少女期から大人に移ろうとする彼女の体にあった。いい家庭に育った躾《しつけ》が、自然とそのおおらかな態度に出ていた。  その彼女を悲しませたくなかった。田沢局長のことを考えるとこのことがいちばん苦痛だった。今度の事件は、ことごとくが小野木の周囲に暗い翳《かげ》をおいている。  いつのまにか、横を歩いていた新聞記者がいなくなった。  小野木の傍を離れた記者は、公園を反対側に歩いて、タクシーをとめた。  行先は近かった。銀座の喫茶店の前で降りた記者は、ドアを肩で押してあおった。  彼は入口に立って店内をひと眺めしていたが、すぐに二階へ上がった。 「待たせたね」  記者が近づいていったのは、そこに待っていた辺見だった。 「ご苦労だったね」  辺見は笑顔で友人を迎えた。 「会えたかい?」  さっそくだった。 「帰りをねらったのだ。うまく会えたよ」  彼は、蒸しタオルで顔をごしごし拭《ふ》いた。 「すまなかったね」  辺見は、友だちのために女の子に注文した。 「で、どうだった?」  辺見は、友人の顔を見つめた。 「いっさい、ノー・コメントだ」  彼は答えた。 「しかし、それは初めから分かっている。ぼくは顔色で判断するつもりだったがね」 「田沢さんの名前を出してきいたのかい?」 「きいた。むろん、そうしなくては話にならん」  彼はうなずいた。 「ところが、それにはいっさい分からないという返事だった。もっとも、若手の検事だから、上の方の方針は分からない、というのは常識的なところだろうが、ここまで捜査が進んでいるのだから、あのクラスでも、もう事情は分かるはずだ」 「どういう反応だったね?」  辺見は熱心だった。 「あれは田沢局長までいくよ」  友人は、実になんでもなく答えた。  だが、辺見のほうでは、それを聞いて深刻な顔つきになった。 「やっぱりいくのかい?」 「いくだろうね、あの顔色では」  彼は言った。 「ぼくはそう判断した。田沢さんの話をもちかけたとき、別に否定はしなかったからね。若いだけに、そこは正直さ。すぐ顔色に出る。きみ、これは田沢局長までかならず手が伸びると思うね。第一、現在の客観的な情勢判断からしても、それが常識だろうな」  辺見のほうは黙った。彼は運ばれてきた二度目のコーヒーをスプーンでかきまぜている。 「どうかしたのか?」  友人のほうからきいた。 「いや、どうもしないがね」 「なぜ、そんなことをぼくに頼むんだ。田沢局長と何か関係があるのか?」  そこまで言ったが、友人のほうで早く気がついた。 「忘れていた。きみは田沢局長とよかったんだな」 「そうでもないが、取材の上でいろいろ便宜をはかってもらっている」 「それで心配だったんだね。分かるよ、きみの気持は。だが、どうもいけないね、今度は」 「だめか」  辺見が友人に調子を合わせた。輪香子のことは悟られないですんだ。 「どうもありがとう」  辺見は礼を言った。 「さっそくだが、急に用事を思いだしたので、これで失敬するよ」  友人の新聞記者が呆れた。 「ひどく急ぐんだね」 「失敬。ほんとにすまん。だが、この時間に会わなければならぬ人を思いだしたんだ。時間がない」  わざと腕時計をめくった。 「やれやれ」 「この次、埋めあわせするよ」  辺見は、わざと軽く笑って椅子を立った。友人も諦めて、つづいて立った。 「失敬」  辺見が喫茶店を出て、友人の肩を叩いた。  だが、歩きだした辺見の顔は憂鬱だった。今の話をどう輪香子に伝えるべきかである。正直に話すのは苦痛だった。だが、気休めも言えなかった。そのことで辺見の足は重かった。  彼の周囲に人が大勢流れている。その中で辺見は砂漠の中をひとりで歩いているような感じがした。  時計を見た。輪香子が待っている。  公衆電話ボックスの中にはいった。 「辺見ですが」  と言うと、電話口に出てきたのは、和子だった。 「あら」  と、若やいだ声で言った。 「ワカちゃんでしょ」 「そうです」 「お待ちかねよ。ちょっと待ってくださいね、今、かわりますから」  辺見は、今度だけは輪香子の声が聞こえないほうがいいと思った。受話器の奥に廊下を歩く音が聞こえた。先方で受話器を取る音が耳に響いた。 「辺見さんですか、輪香子です」  輪香子の声だった。あまり弾《はず》んでいなかった。が、一刻も早く辺見の話を聞きたい様子が目に見えるようだった。 「分かりましたかしら?」 「だいたい、話を聞きました。今、友人の男が担当検事に会ったのです。その報告を受けました」 「そうですか」  輪香子の声は、ちょっと上ずってきた。 「電話ではちょっと言えません。今、銀座にいますから、こちらまで来てくれますか?」 「すぐ行きますわ。銀座は、どちらでしょう?」  辺見は、現在位置を告げた。 「すみません。では、すぐ車で行きますから」  辺見は、受話器をおいた。  相変わらず人の流れが多い。たのしそうに若い男女が肩をならべていた。辺見は、これから会う輪香子が、今度ばかりは苦痛だった。  ある料亭の一室に、中年の男と老人が向かいあっていた。  中年の男は肥《こ》え、老人は鶴のように痩せていた。あいだにはさんだテーブルには、灰皿と湯呑みがのっているだけである。だれもほかにいなかった。  料亭のその部屋は、庭に向かっていたが、障子はガラスのところまで桟《さん》をおろしていた。  庭はこの料亭の自慢のものだったが、密談は他人に二人の姿をのぞかれないくらいの配慮を要した。  中年の男は、弁護士だった。これは結城庸雄と打合わせをした弁護士である。鞄がおいてある。弁護士は、その鞄から大きな封筒を取りだしていた。 「こういう内容ですがね」  弁護士が取りだして見せたのは、数枚の写真であった。 「ふむ」  痩せた老人は、手に取って眺めていた。 「これは」  肥えた弁護士は、少し背伸びして、相手の眺めている写真に、手を突きだして指を当てた。 「横浜のニューグランド・ホテルで、二人で食事してるところです」  老人は、それに見入っていた。 「先生、これは、深大寺というところで、二人で歩いてる場面です。暗いので、はっきりは写りませんが、それでも当人だということは分かります」  弁護士に先生と呼ばれた老人は、かつて検察庁に勤めていた人だった。退官してからは弁護士になっているが、未だに、検察方面には顔が利いていると言われていた。  その元検事正は、もう一枚をめくった。 「これも同じです」  と、弁護士は多少得意そうだった。 「いろいろな角度から撮っております。この少し先へ行ったところで、二人は抱擁したそうです」  老人は謹厳だったので、笑わなかった。  次をめくった。文字だけを拡大したものだった。 「これはですな」  弁護士はつづけた。 「これはS温泉、ご存じでしょうね。山梨県にあります。ひなびたところですがね。ここで結城君の奥さんと小野木検事とがいっしょに泊まったのです。あとで、宿帳を結城君が写真に撮ってきたのですがね。筆跡は小野木検事のものです」  弁護士は、老人の顔を上目で、ときどき見ながら説明した。 「ぼくも小野木検事の筆跡を調べましたが、この写真に、まさにぴたりですよ」  老人は渋い顔をして写真をおいた。 「説明しますと」  弁護士のほうは絶えず微笑をつづけていた。 「小野木検事と結城君の奥さんとは、この温泉に行っているんです。当日は台風がやってきました。そこで、この泊まっている旅館から別の旅館に避難したそうです。この筆跡は、到着と同時に女中に差しだしたものですがね。結城君があとで調べたそうです。その話を聞いたので、ぼくもまさかと思ってびっくりしました。結城君の話だけではなんとも言えないので、事務所の者を調査にやらせました。ところが、先生、結城君の言うとおりでした。しかもですな」  弁護士は勢いづいていた。 「二人は、翌朝、雨がまだおさまらないうちに歩いて出発したそうです。というのは、あの線が、台風のために途中で土砂くずれがあり、汽車が不通になったからです。それで、富士宮駅の近くまで山沿いに歩いたのです。だが、その日にはとても着きません。二人は、途中のどこかで一夜を共にしています。つまり、温泉宿が一泊と、山を歩いている途中どこかで一泊と、都合二泊しているわけです」  弁護士は、唇を舌でなめた。 「結城君にきくと、奥さんはある口実を設けて出たそうですが、その予定は一泊だったそうです。ぼくの推定によると、小野木検事も結城君の奥さんも、一泊の予定で帰るつもりだったところ、あの事故にあって、二泊になったわけですな。いわば不可抗力だったわけです」  元検事正の老人は、腕組みした。 「どうです、先生、小野木検事は今度の疑獄の担当検事ですよ。結城君は被告です。担当検事が被告の妻と通じている。こういうことは前代|未聞《みもん》ですよ。検察庁にとっても一大汚点です。ぼくはね」  弁護士は、卓上の写真を取りあげて、顔の上にかざすようにした。 「この写真と、ぼくのほうで調査した事実とを場合によっては公表するつもりです。そして検察当局の責任を追及しますよ。いや、今度の疑獄だってそうです。あきらかに策謀があります。しかも、その中にこのような腐敗検事がいるということは、法の精神からいって、まったく不埒《ふらち》千万です。先生、どうです、お考えは?」  老人は、しばらく目をつむって考えていた。  廊下に客が来たとみえて、話しながら通る声がした。  襖があいた。これは女中が顔を出したのだが、部屋の用談がまだすまないと思ったか、こっそり、襖をまた閉めた。 「林君」  老人が初めて顔を上げて呼びかけた。 「どういうのだね、きみの気持は?」  老人の目が、じっと弁護士の顔に注がれたが、さすがに鋭いものだった。 「は? どういうつもりかといいますと……」 「林君」  老人はふたたび呼んだ。 「きみは、これで検察側と事件の取引をしようというつもりだね。ね、そうだろう、きみ?」      3  地検特捜部では、毎日、取調べがつづいていた。  新聞はその捜査の進展を報道した。どの新聞社の観測記事でも、事件は発展する公算が大きい、と出ていた。  被疑者は、毎日、S拘置所から検察庁に運ばれてきた。取調べがすむと、また拘置所に帰っていく。  取調べを受ける被疑者たちは、検事の出勤より早く来て待っているので、小野木が護送車を見るのは、夕方、彼らが帰っていくときだけだった。護送の車は小型のバスのようなかたちをし、緑色に塗られていた。  小野木は、それを窓から見ては憂鬱になった。車の内には結城庸雄がすわっている。検察庁の赤い塀をぬい、緑色の車が道に走っているのを眺めて、頼子のことを考えた。あの車には彼女の夫が乗っている。  直接に、結城を調べる担当ではなかったが、それでも、その護送車を見るのはやりきれなかった。  取調べは、分担した各検事たちによって進行した。調書が次第に厚みを重ねてゆく。会議が毎日持たれた。  各自の取調べ状況を総合して、主任検事が方針を指示してゆくのである。  事件は、意外にひろい幅を持っていた。官庁側は末端から上層に伸びようとしている。贈賄側は単純な単位から複雑化してゆく。また、収賄側にしても、官庁とは別に政党方面にも関係者があった。代議士のなかには、自分の過去の経験や顔にものを言わせて官僚に圧力をかける者がいる。  法律的に言えば、「斡旋収賄」という厄介で抜け道の多い罪名に当たるのだ。  これまで、このような政治的な汚職事件となると、たいてい途中でつぶれてしまう。そうでなかったら、ほとんど核心にはいらないまま、お茶を濁されることが多かった。  現に、この事件がはじまって、新聞記者たちは、検事たちにいちいちつきまとっていたが、彼らもそれを、一様に検事たちに言っていた。 「今度は大丈夫でしょうね? 今までのように、変なところから圧力があって、ポシャってしまうことはないでしょうね。何しろ、国民の期待は大きいですからね」  しかし、石井検事は黙っていた。が、彼の意志の強いことはだれにでも分かった。それがはっきりと読みとれるのは、会議の席上だった。柔和な顔をしている石井検事がいちばん強硬なのである。  しかし、或る変化が起こった。その特捜部の空気が、二日前ごろから妙に変わってきたのである。おりから、事件はヤマにさしかかろうとしているときだった。  妙な空気というのは石井部長をはじめ検事正や副部長などの上層部が、頻繁《ひんぱん》に会議をはじめだしたことである。それが事件の技術的な方針に関係があるのだったら、会議をおえて石井検事は、すぐに係り検事を集めて詳細な討議をするはずだった。  だが、そのことがないのである。石井検事は、幹部たちと会議をしきりと開くわりあいに、部下の検事たちとは会議を開かなくなった。風がやんだように、それがないのだった。  この空気は、一方では緊張しているようだが、一方では弛緩《しかん》しているような印象だった。いわば、緊張と弛緩とが、妙にからみあっているような、割りきれない雰囲気であった。  このような空気は、当然、敏感に部下の検事たちに伝わった。  だれもが、何かあると感じたのだった。  その影響は、いきおい検事たちの取調べの意欲にも影響した。首脳部の方針に変化がきたことが明瞭だった。  石井検事は、そのことを何も説明しない。気のせいか、その顔まで気むずかしく、うっとうしそうだった。不安が、部下の検事たちにきざした。得体《えたい》の知れないものが上層部を支配しはじめている。 「なんだろうな?」  検事たちは、ささやきあった。  これまで、皆が熱心になっていただけに、このはっきりと分からない変化は落ちつかなかった。 「政党方面から圧力がかかったのかな?」  同僚の検事は、小野木に言った。  それがいちばん考えられる筋だった。  これまでの経験で、そのことは何度かくりかえされていたのである。  その晩、小野木が検察庁から帰りかけると、同僚検事が後から追いついてきて、肩をならべた。 「どうも、上層部に、外の方から取引の申しこみがあったらしいよ」  彼は低い声で話した。 「取引? どういうのだろう?」  小野木は、遠いところを見る目つきをした。 「それがはっきりわからない。政党からだとぼくたちは考えていたが、今度は、そういう筋ではなさそうだ。どうも弁護団あたりかららしい」 「弁護団が?」 「そう。しかも先方は直接のかたちではなく、元検事正をやっていた人を通しての話らしいのだ。それで分かるだろう、石井部長が憂鬱な顔をしてるのが」 「しかし」  と、小野木は言った。 「考えられないね。弁護団が何か有力な反証でも握ったとでも言うのだろうか?」 「それは分からない。とにかく、ぼくはそう観測している」  同僚検事は、自分の直感を信じていた。  その検事と別れて、小野木はひとりになった。  三月の末で、日がだいぶ延びていた。お濠端《ほりばた》の景色が、蒼味のかかった半透明の中に沈んでいた。  小野木は、日比谷の方に向かった。並木のプラタナスに新芽が出ていた。視角の具合で、それが重なりあうと、新しい緑色に彩《いろど》っていた。  小野木は歩いているうちに予感がした。今、同僚検事が話した言葉が、彼の胸に残っていた。それが小野木の漠然とした不安をひきだしている。  弁護団が有力な反証を握って、それを取引に使うというのだ。仲介に立ったのは、法曹界の元老だった。  話は真実性がありそうに思えた。  石井検事の顔色や、上層部の妙な雰囲気が、その裏づけになっていた。  弁護団が握ったという反証は何か。  同僚検事はそこまで知らないが、小野木には、予感のようなものがきていた。  その朝、小野木は役所に出ると、すぐに石井検事に呼ばれた。  石井検事は、机の上の調書を見ていた。小野木がはいってきて挨拶したが、軽くうなずいただけで、そのまま、調書の山に取り組んでいた。 「そこにかけてください」  小野木は、部屋のすみの長椅子にかけた。  石井はそのまま書類から顔を上げなかった。時々、付箋をつけたり、メモをとったりしている。小野木は、その様子を眺めながら待っていた。  たっぷりと二十分はかかった。石井検事は、眼鏡をはずすと、丁寧にサックに納めた。 「待たせました」  石井検事は、自分の椅子から立って、小野木の横に歩いてきた。長椅子に小野木とならんですわり、煙草を取りだして、ゆっくりと青い煙を吐いた。  窓の外から射す朝の光が、その煙を光らせた。 「どうだね、健康は?」  小野木の横にならんで石井検事はきいた。顔を机の方に向けたままだった。 「大丈夫です。別に悪いところはありません」  小野木は答えた。そのときまでは、石井検事が仕事の上での指示をしてくれるものと思っていた。 「忙しい仕事だからね、時々、健康を害する。頑張るのもいいが、適当な休養も必要だ」  石井検事は、そんなことを言った。 「ぼくの知った者で、優秀な連中が、途中で何人も倒れている。惜しいことだ。病気になったら、これは負けだからね」  なんの話か分からなかった。小野木は、曖昧な気持で聞いていた。 「いや、これは体だけではない。人間は気持の上で時々病気になることもある。あまり仕事に追われると、つい、精神的にも平衡を失うのだな。忙しい事件と取り組んで神経衰弱になった検事がいてね。近ごろは、ノイローゼと言うのかな、ぼくも経験があるが、どうもこいつは厄介だ」  世間話をつづけて、容易に小野木を呼びつけた用事にはいらなかった。 「一度、ぼくのうちに来ないか」  話は唐突だった。 「ほかに見せるものはないが、景色だけは自慢だ。近所はまだ、あまり家も建てこんでいない。雑木林もそのままだ。これからは歩いて気持のいい場所だよ」  石井検事の家は郊外だった。だが、この話も、小野木を呼びつけた用事とは無関係だった。 「そのうち、うかがいます」  それがいい、と石井検事は言った。やはり煙草をくゆらしている。だが、このとき、小野木が気づいたのは、石井検事が小野木の顔を見ていないことだった。話は、正面を向いたままで、終始、小野木には横顔を見せているのだった。その話もとぎれた。  石井検事は、煙草を灰皿にもみ消したり、またすぐに新しい煙草を取りだそうとしたり、普通の彼ではなかった。 「どうだね、調べの方は相当進んでるかね?」  突然、はじめて仕事の話だった。 「はあ。だいたい本人の聞き取りは一段落ついたところです。あとは、関連した被疑者の調書と読みあわせて裏づけを取る段階になっています」  小野木は答えた。 「ふむ」  石井検事はうなずいた。 「はじめての事件で、きみも疲れただろう」 「いいえ」  と言ったが、小野木のほうで、検事の横顔を見つめた。はじめて胸さわぎがした。 「どうだね、きみ。少しこの辺で気分転換をやっては?」  石井検事は何気ないように言った。 「はあ?」  小野木は思わず拳《こぶし》を握った。 「いや、これはきみにぜひすすめたい。しばらく、普通の事件の方に回ってみてはどうだな?」 「しかし、石井検事」  小野木はすぐに言った。言葉が自分でも強いのを意識した。 「事件はまだヤマが見えたばかりです。このまま、よその部署に移るのは不本意です。健康も悪いところはありません。そういうご心配でしたら、このまま頑張らせていただきます」  石井検事は返事をしなかった。黙って指を鳴らしていた。 「小野木検事」  低いが改まった声になった。 「ぼくの言い方が悪かったかもしれない。だが、きみにしばらく、ぼくの部署から離れてもらいたいというのは、実は、もう決まったことなんだよ」  小野木は声をのんだ。顔から血の気が引いた。予感はあったが、やはりそうかと思った。  昨日、同僚検事が話した「取引」の言葉がすぐに胸にきた。弁護団側が有力な反証を持っているといった予想の実体が、なんであるかを悟った。 「いや、気を悪くしないでくれ」  石井検事はやさしく言った。前から小野木に目をかけてくれていた検事なのである。 「人生、いろんなことがある。それと同じように、こういう勤めをしていると、また思いがけないこともある。いちいち、それを気にかけていては敗北だ。きみの気持もよく分かるが、一口に言うと、これは検事正からの話もあったことでね、きみに、普通の事件を受け持ってもらいたいという希望だった」  希望ではなかった。あきらかに命令なのである。自分の予感がはっきりと当たっただけに、小野木は、その理由を質問する勇気がなかった。  小野木の目には、急に緑色の護送車が映った。  この部屋が、にわかに遠近感を失った。色彩までさめてきた。小野木には、あたりが黝《くろず》んで見えた。隣にすわっている石井検事の姿まで、遠のいて感じられた。  林弁護士は、元検事正の老人から返事を受けていた。  やはり前の座敷だった。弁護士は肘を張り、目をすえて、一語も聞きもらすまい、という恰好をしていた。 「まあ、そういうことになった」  元検事正は、結論を言った。 「分かりました」  弁護士の顔は興奮していた。分かった、と言ったときも、太い息をはいた。 「いろいろありがとうございました」  と、正面切って先輩に礼を言った。 「それでは、間違わないように念のためにうかがいますが、特捜部としては、小野木検事を部からはずす、ということになったわけでございますね?」  相手を見上げた目は、じっと視線を当てて動かなかった。かえって、それでうろたえて見えたのが元検事正のほうだった。 「まあ、そういうことだな。どうだね、林君。きみのほうも気に入るまいが、せっかく、そういう処置をしたのだから」 「先生」  林弁護士は、わざわざ煙草をすった。 「それ以上、譲歩はないわけですか?」 「譲歩? 具体的に言うと、きみのほうの要求はどういうことだね?」  元検事正は反問した。 「いや、要求などはありません。そう言っては、いろいろ誤解を受けます。ただ、わたしのほうとしては、検察側にそのような好ましくない人物がいる、というのを言い立てたかったのです」 「だからさ、林君。その処置は取ると言ってるよ」 「しかし、ですね。ただ当の検事を、特捜部からはずすということだけで、始末がつくものでしょうかね?」  弁護士はねちねちと言いだした。 「それじゃ釈然とできません。いいですか、先生。その担当検事はですよ、被告の妻と通じているのです。なるほど、上司は分からなかったかもしれない。しかし、事実が分かった今では、当の検事をはずすという処置だけで責任がすむものでしょうか?」  林弁護士の語気は自然と強くなっていた。 「責任問題となると、まあ、きみの言うとおりかもしれない。しかし、そう、このさい、荒らだてなくても、検察側の誠意も認めてやってほしい」  老人は答えた。 「誠意、とおっしゃいますが、誠意があれば、もうすこし先方も、考慮があっていいようですがね?」 「考慮、というとよく分からないが、どういうことだな?」  元検事正はわざときいた。 「まあ、いいですよ」  弁護士は、急に笑いだした。それから、とってつけたように、相手の杯に銚子《ちようし》を傾けた。 「とにかく、こういうことは、口では言えません。いわば、以心伝心でしてね。わたしのほうだって、こういう個人的なスキャンダルを、公表したくありません。だが、ものは考えようでしてね。検察のほうではその権力をどこまでも押しつける、いわば、重箱のすみをほじるようなやり方で出てこられると、こちらも、こういうことを言いたくなりますよ」 「林君」  元検事正は言った。 「どうすればいいんだね、いったい? きみは不満のようだが、きみの条件をはっきり言ってほしい」 「条件なんかありませんよ。そんなことを言っては、先生もわたしもあとで迷惑する。条件ではないが、やはりこちらの納得のいくようなやりかたをしてほしいものです」 「だから、当の小野木という若い検事をはずす、と言っている」 「当然ですよ、そいつは」  林弁護士はあざけるように言った。 「そんなことは分かりきっています。ただ、わたしのほうとしては、ことが重大なだけに、この事実の発表を躊躇しているだけです。これは正面から特捜部長にも詰めよりたいところですがね。しかし、それでは角《かど》が立つ、わたしとしては、穏便にやりたいのです。事件の本筋とはなんらの関係のないことですからね。しかし、しかしですよ、先生」  と、彼はつづけた。 「検察のやり方が納得がゆかないと、わたしのほうも、自衛上、何かしなければなりません。そのための、予備的な折衝をしているわけです。すまなかった、とだけでは、すむ問題ではありませんよ」  元検事正は、困ったように腕を組んだ。 「それ以上、譲歩がないとなると、わたしもこれを発表したくなる。そして、堂々と戦いたくなります」 「まあ、まあ、林君」  元検事正は、痩せた体を動かして止めた。 「それはちと早まりはしないかね。きみも言うとおり、こんなことは事件とは関係のない話だ。きみも法律で長年飯を食っている人間だ。お互い、法の威信にかかわるようなことで争いたくない。林君、どうだね?」 「同感です」  と、弁護士は言った。 「同感だからこそ、ぼくは戦いたくなるんです。先生もおっしゃったように、法の威信に関係するから、この事実を突きつけたくなるわけです。被告の妻と通じている検事は、おそらく検察庁のどこにもいないでしょう。そして、このようなケースは空前だと思います。なるほど、事件の本筋とは関係ないかもしれない。しかしですよ、こういう事実を隠して、ただ法律上の条文ばかりで戦ったって仕方がありません。根本問題は、法の精神を持っていない検事が、一人でも検察庁にいてはならないことです。そのためには、上層部も断固として処置すべきです。ただ特捜部からはずすというような、姑息《こそく》なゴマカシの処置だけでは、われわれは納得できません」 「分かった」  痩せた老人は大きくうなずいた。 「仕方がない。きみの希望するところがどの辺にあるのか、ぼくには、だいたい察しがつく。しかし、そんなことは、ぼくは、あちらのほうには取りつげないよ。この話は、妥協の余地がなかったことにしよう。ね、林君、そうだろう?」  老人は、弁護士の顔を睨むように見入った。 [#改ページ]   落  下      1  その不安の前兆《ぜんちよう》はあった。  新聞社からの電話を、女中が取りついだのだ。 「断わってください」  頼子は、女中にそう言った。 「短い時間でいいそうでございます」  女中は困った顔をして帰ってきた。 「とにかく、何もお話することはありませんと言って」  そのような電話は方々からあった。新聞社だけでなく、雑誌社の名前もあった。  のみならず、玄関に直接くる記者もいた。 「ただいま留守にしております」  女中にそう言わせた。 「いつごろお帰りになりますか?」 「さあ、分かりません」 「お待ちしてもいいんですが」  先方は強引だった。  なぜ、そう自分がねらわれるのか、頼子には分かっているつもりだった。それはつまり、彼女が結城庸雄の妻ということだ。汚職事件が、いま最高潮に向かって進行中だし、結城のことが話題となっていた。  だが、実はそうではなかった。  それが分かったのは、頼子がその翌朝の新聞を見てであった。  社会面のトップにそれが大きく出ていた。新聞を開いて見て、目をむくような扱いだった。  突然、小野木検事が休職になっていた。このことについて、検察側に暗い翳《かげ》を投げている、といった意味の標題だった。当の小野木の写真も出ていた。  頼子は息もつかずに記事を読んだ。 「今度のR省汚職事件は、地検がいま捜査摘発に全力をあげているが、そのさ中に、小野木喬夫検事が、数日前、突然、特捜部の所属からはずされた。さらに、×日付で、同検事はあらためて休職となった。この裏面には、同検事と、この事件の被疑者になっている某氏(特に名を秘す)の妻との間に、かなり親密な関係があったことが、弁護団側より暴露され、地検でも狼狽《ろうばい》して、とりあえず、この処分となったものである。  地検では、ことの重大さに驚き、同検事について事情をくわしく聞いている。もし、弁護団のいうとおりの事実があれば、同検事には追って断固たる処分をする模様である。検察側では、もし、同検事に、弁護団側の言うような事実がたとえあったとしても、事件捜査の本質とは関係がないとして、あくまで所期の方針に邁進《まいしん》する、と言明している。  が、いずれにしても、この事実がそのとおりだと分かれば、検察側に大きな暗い影を投げかけたことになり、目下の汚職事件捜査そのものの前途にも、影響は免《まぬが》れないだろう、と見られている。  林弁護士談──某被疑者の妻女と小野木検事とが親密な交際をつづけていたことは、当方では確証を握っている。被疑者の妻と、取調べ担当検事とが、このような関係にある事実は、検察側にとっては一大|不祥事《ふしようじ》であろう。このようなことでは、とても公正な取調べが行なわれるとは思われない。われわれは、たとえ事件が有利に運ばれる予想があるとしても、この検事と被疑者の妻との関係を、法の威信のために絶対に黙視することはできない。小野木検事はもとより、あえてその上司に当たる検察幹部の責任を追及するつもりだ。  石井特捜部長検事談──今のところなんとも言えない。弁護人側から、そのような事実指摘の申し入れがあったことは否定しない。しかし、たとえ噂だけとしても、法の威信の上から捨てておけないので、とりあえず小野木検事は休職処分にした。事実の有無は、これから同検事について事情を聴取し、調査するつもりだ。もし、それが事実となったあかつきは、どのような処分になるか、今のところ、決めていないし、もちろん、責任上のことも考えていない。現在の段階では、この問題と事件摘発のこととは、もちろん別個と考え、あくまでも既定方針による捜査に全力を尽くすつもりだ。  なお、このことは、某弁護人から某氏を通じて、検察側に打診があったが、われわれとしては不明朗な印象を国民に与えたくない建前から、断固としてそれを拒絶し、小野木検事の休職処分をとりあえず発表した次第だ。  真偽はとにかくとして、このような問題が起こったのは、遺憾《いかん》である。  小野木検事談──何も言いたくない。すべては上司に任せてある」──  頼子は、それを最初読んだとき、活字がすぐに目にはいらなかった。ところどころ、断片的にしか読めなかった。感情が視覚を混乱させた。  ようやく記事の全部の意味が分かったのは、三度ぐらいくりかえして読んでからだった。目に新聞の紙までくろずんだ。  頼子は、新聞を落とした。そのまま、自分で立てなかった。動悸《どうき》が激しく打ち、目にうつる物が傾いていた。  頼子は叫びたくなった。  何か自分の胸の中に生物がいて、それがひとりで喚《わめ》きだしそうな感じだった。  顔から血が引いているのが自分で分かった。指の先までしびれた。  急いで、することがあるような気がして、立ちあがったが、膝頭《ひざがしら》に力がなく、体がガクガクと揺れた。  電話機に向かってダイヤルを回したが、指が言うことをきかず、三度もやりなおした。出たのは小野木のアパートだったが、 「小野木さんは、今朝《けさ》早くお出かけになったままです」  という返事だった。  念のために、地検に電話した。 「小野木検事は、今日は休みです」  頼子は、送受器を取りおとしそうになった。彼女は部屋にもどり、顔をおおってうずくまった。  胸の動悸は静まらなかった。かなしいくらいに、心臓がひとりで激しく鼓動をつづけていた。  現実の出来事とは思えなかった。思いたくなかった。  ずっと前に見た厭な夢のつづきのように考えたかった。悪い予感は、この一週間ぐらい前から彼女をたびたび襲っていたが、この結果になろうとは思わなかった。  頼子は何かによりすがりたくなった。自分の体が虚脱に陥り、精いっぱいにそれを支えてくれるものがほしかった。  頼子は、結城と別れる手続きを決心していた。それは五日前からだった。そのためには、法律的な手続きを聞きに、家庭裁判所に行ったりした。  それでも、拘置所の結城には差し入れの準備もした。別れる夫だが、それは妻としての最後のつとめだった。愛情からではなかった。  だが、それも途中でやめなければならなかった。結城には、ほかに差し入れに来る女性が二人もいることが分かった。  頼子の知らない女である。  結城が何日も家に帰らなかったり、外で遊んでいる証拠を見つけたりしたが、何年もの間、頼子には動揺がなかった。結城が何をしても無関心だったのである。  二人の女性が、夫に熱心に差し入れに来ていると知っても、感情の波は起こらなかった。  頼子は、はじめて、自分が去っても、結城に世話をする女がいることを確かめ得て、かえって安心だった。結城に尽くした一時期を遠い過去として、他人《ひと》事のように眺めることができた。  だが、小野木に関しての新聞記事は、頼子を錯乱に陥れた。  小野木の姿を想像して、自分の足もとから転落してゆく石を、断崖の上で見つめている気持だった。石は急斜面を転回しながら下降してゆく。それにつれて、足もとのほかの石も土も、煙をあげ、音を響かせて崩れ落ちるようだった。土は頼子をのんで崩壊してゆく。──  落下してゆくときの途中に、回想が起こるように、頼子には自分の郷里《くに》の景色が目に浮かんでいた。現在とはまったく関係のないことだったが、ふしぎに、それだけは色彩をもっていた。乾いた赤土の罅《ひび》のはいった土塀、トカゲの這う石垣、崩れかけた門、誰も通っていない道。──この風景が、幼いときの友だちや、母や、死んだ兄の顔を切れぎれの場面につながらせた。  体がそのまま下に沈んでゆきそうだった。さまざまな思考が頭に浮かぶが、それが奇妙に、現実の今の問題とはかかわりのないことばかりだった。  彼女の思考の方法と、現実との間には大きな空隙《くうげき》があり、空虚がはさまれていた。──  遠いところで声が聞こえた。  頼子は顔を上げた。女中が襖《ふすま》のところにいた。 「奥さま、お電話でございます」  返事をする気力がなかった。 「いかがいたしましょう? 小野木さまからですが」  女中は遠慮そうに言った。  頼子は自分にかえった。電話口に行くのがほとんど無意識だった。 「小野木です」  耳のせいか、小野木の声は嗄《か》れていた。  頼子はすぐに返事ができなかった。  胸が詰まって声にならなかった。 「聞こえますか?」  小野木はつづけた。 「……聞こえます」  彼女はやっと言った。 「新聞、見ましたか?」  小野木はきいた。抑揚のない声だった。 「読みました」  小野木はしばらく黙っていた。頼子は、大きな声で呼びかけたかったが、何を叫んでいいか分からなかった。 「ぜひ、お会いしたいのです。出ていただけますか?」 「出ます」  わたしも、ぜひ……と咽喉《のど》までこみあげてきたが、何か言うと、自分が先に喚きそうに思えた。 「ありがとう」  小野木は礼を言った。 「いつものところで待っています」  電話は、それですんだ。  頼子は、部屋にもどると、支度にかかった。何を選んで着ていいか、自分でも狂っているのではないかと思われるほどあわてた。  彼女が支度をしているのを見て、女中がいつものように手伝いにはいってきた。 「いいの」  けわしい拒絶で女中を退らせた。今日だけはひとりになりたかった。  だれも自分の傍に置きたくなかった。  小野木に会うまで、ただひとりになっていたかった。支度が終わった。  部屋の中を改めて見まわした。  不意に、自分の部屋ではないような気がした。他人の部屋にはいって、自分の用事をしているような錯覚だった。  遠くでベルが鳴った。女中が聞いていたが、やがて襖をあけて、廊下から恐れるようにものを言った。 「林弁護士さんからお電話でございます」 「出かけたと言ってちょうだい」  声が鋭かったのを自分の耳がとらえた。  身支度が終わって、廊下に出た。自分の家だが、どのような順序で玄関に降りたか分からなかった。  タクシーに乗って、はじめて少し自分を取りかえした。  見なれた景色が流れてゆく。歩いている人も風景も、自分とは別の世界になっていた。新聞の活字だけが、目の前にちらついた。  ──小野木喬夫検事が、数日前、突然、特捜部の所属からはずされた。さらに、×日付で、同検事はあらためて休職となった。この裏面には、同検事と、この事件の被疑者になっている某氏(特に名を秘す)の妻との間に、かなり親密な関係があったことが、弁護団側より暴露され、地検でも狼狽して、とりあえず、この処分となったものである。──  新聞を実際に見たときよりも、時間のたった今の記憶の方が、奇妙に鮮明な活字だった。 「どちらへ着けますか?」  運転手がふりかえった。  頼子は教えた。群衆が流れたり止まったりした。その向こうの建物の下に、小野木の姿が遠く見えた。  彼の立っている、その小さな地点だけが、頼子の目には、ほかの景色と切り離れて島のように映った。  その新聞を読んだとき、輪香子にすぐ浮かんだのは、深大寺の森で会った頼子の姿だった。  ふしぎと、それが強烈に心に残っているのである。その後も、その女を高台の家でも見かけたし、銀座でも会い、お茶をご馳走してもらったことがあった。  だが、どの姿よりも、深大寺の森を小野木と歩いている頼子の方が、彼女の心に鮮明だった。  小野木検事の休職を報じた記事を読むと、輪香子はしばらくぼんやりした状態になった。その状態のなかに、頼子の姿が目に映ったのだった。  新聞記事の印象は、しばらくたつと、彼女の心からそれた。小野木と頼子とがそうなっていたという事実を、彼女は前から知っていたようにも思えたし、かえって自分の心がそれで落ちつけた。  輪香子は、また、上諏訪の駅で、たったひとり古びた鞄を肩にかけて歩いている小野木の姿を思いだした。横顔が妙に寂しかったし、複雑な翳がある人だと思ったが、その直感のせいか、その新聞記事は、それほどの驚きを彼女に与えなかった。  古代人の小屋に寝ていた小野木、輪香子がはいってびっくりしたように起きあがってきた彼、麦畑の中を歩いていた彼、そのどれもが清純だった。  しかし、小野木に複雑な翳を与えたと思える頼子にも、輪香子は親和感があった。  これは自分より姉のような女《ひと》だったし、その洗練された美しさと教養が、彼女に憧憬すら覚えさせた。輪香子の側から言えば、頼子に圧倒されたと言えた。が、これは不愉快ではなかった。美しい女《ひと》だと思い、やさしい女《ひと》だと思った。  この頼子と小野木とが結ばれていたことに、少しもいやな動揺は起こらなかった。  小野木も好きだったが、頼子も好きだった。二人が、そうなることが自然だと気づいたくらいだった。  だからそのことは、小野木が新聞記事にあるような運命になったことに腹をたてさせた。自分の気持なりに、小野木をこのような立場にした理不尽さに、何か怒りのようなものが起こった。──  輪香子の居間に、母が顔を出した。 「輪香ちゃん、ちょっと」  母は明るい顔をしていた。輪香子がおやと思ったのは、久しぶりに母のそのような表情を見たからである。近ごろの母の顔は、けわしいし、顔色も悪く、輪香子のほうで近づけなかったほどだった。 「新聞、読んだ?」  母は明るかった。 「あ、それね」  と、輪香子の前の新聞にいち早く目をやった。 「たいへんな検事さんがあったものね。でも、よかったわ、こんな問題が起こって。心配していた事件がうまくどうにかなりそうだわ」  母のうれしそうな表情の原因が、それで分かった。 「お父さまのことも、ずいぶん心配したけれど、この検事さんのことで、どうにか安心なようになりそうだわ」  母は、自分の安心を確かめるように、 「ほら、ね」  と、輪香子に教えるように、その大きな見出しに指をついた。 「検察陣も大狼狽、と書いてあるでしょ。こんなことになると、責任問題が起こるから、現在の検事さんたちは交替するかも分からないわね」  輪香子は、この時ほど母に腹をたてたことはなかった。当然、黙っていた。だが、彼女のその不機嫌な様子さえ、母は気づいていなかった。 「お父さまも、これを今朝ごらんになって、何かほっとしていらしったようよ。珍しくお父さまの笑い顔を見たわ」  母は、いちいち報告した。 「今日は早く帰る、と言ってらしたから、なんだったら、おねだりして、三人でお食事にでも行きましょうか」  輪香子は、何か一言、母に言ってやりたかった。母の無知をこれほど軽蔑したことはない。父にも母にも、輪香子は憎しみを覚えた。上機嫌でいる母といっしょにいるのが、我慢できないくらいだった。  だが、母のほうから輪香子の部屋を出ていかなければならないことが起こった。  女中が電話だと言って、母を呼びにきた。はい、と答えて、立っていくまでの母の動作は、近ごろにない軽快さだった。  電話機は廊下にあった。  母が何か受け答えしている。その声の調子が変わっていた。  輪香子は、廊下にそっと出てみた。母が送受器を手で囲い、背をかがめるようにして話を聴きとろうとしていた。その様子は今までとはまるで違い、真剣さが溢《あふ》れていた。 「はあ、それ、本当ですか?」  母は異様な声を出していた。 「はあ、はあ」  と言っている母の声は上ずり、様子がうろたえていた。  母の立っているあたりから、異様な空気が起こっていた。輪香子が固唾《かたず》をのんでいると、母は送受器を音たてて置いた。  それから、一瞬、母は、ぽかんとしていた。瞳《め》を宙に向けたまま、その場に立って動かなかった。置いたばかりの送受器に、力なく指がかかっていた。  輪香子の気配を知って、母は、はじめてこちらを向いた。その顔がまっ青だった。 「お父さまが……」  母は、にわかに喚いた。 「お父さまが、地検に連れていかれたんですって。いま、辺見さんから電話があったわ」  母は体をふるわせ、涙を溢れさせていた。 「夕方、逮捕状が出るかも分からないので、弁護士さんの選定を連絡するようにって……」  う、う、と母は袂《たもと》をかんで、異様な声をのどから出した。      2  頼子は、S拘置所の待合室の椅子にすわっていた。  待合室には、十二、三人の人が、一方だけ向いた長い椅子に腰をかけて待っていた。講堂のように広い部屋で、白い壁が清潔だった。天井は防音装置のテックスが張ってあり、それだけ見ると、銀行か会社の感じだった。  椅子は紫色のきれで張ってある。一方だけに人がかけているのは、向かいあって顔を見合わさないための配慮だった。  面会人同士は、顔を見ることはなかった。ここでは、貧しい服装の人もあるし、観劇にでも来たみたいな、着飾った婦人もいた。だれもが大きな声を出さない。ひそひそと、ささやきあっている者もあれば、黙ってうつむいている者もいた。  アナウンスで待合人が呼びだされてゆく。その後ろ姿を、あとの人がそれぞれの感じで見送った。  頼子が申し込みをしてから、すでに四十分はたった。先ほど、係りの人が来て、本人はいま運動中だから、という断わりがあった。  彼女よりあとに来た人が先に立ってゆく。が、今の場合、そのほうが頼子の気持を救った。申しこんですぐに、夫との面会の場所にゆくのは、心が落ちつかなかった。  広い部屋のせいか、それとも床がコンクリートのせいか、ひどく空気が冷たかった。窓の外に陽が当たって、向かいの建物の壁を明るく照らしている。頼子は、庭の手入れのゆきとどいた芝生と、並木の青い葉とを、ぼんやり見ていた。  ジーと音が鳴って、 「結城さん」  と、アナウンスがあった。  頼子は椅子を立ちかけた。一列に横に並んでいる人が、彼女の方をいっせいに向いたようだった。  制服を着た係員がはいってきた。椅子から立っている頼子を見て近づき、 「どうぞ」  と、うながした。  面会室まで、彼女は係員に誘導された。 「面会時間は五分間です。どうぞ、そのおつもりで。大事な話から先に話してください」  その注意に、頼子は黙ってうなずいた。  予期したような胸のふるえはなかった。  係員がドアをあけた。はいるなり、すぐ目の前に金網があった。待合室の十分の一ぐらいの狭い部屋である。どういうものか、椅子が二つ、先に目についた。  一つの椅子は、金網の前にあった。ああ、これにすわるのだ、と頼子は思った。もう一つの椅子は、その部屋のすみに置かれてあった。  頼子が金網の前に立つと、すぐにむかいのドアがあいた。  夫がはいってきた。見なれた洋服だった。この場所で夫に会うことが、それほど奇異には思えなかった。ワイシャツも頼子の見覚えのものである。  洋服はさすがに皺が寄っていたし、ネクタイがなかった。もともと、服装にはやかましいのだが、それだけが、この新しい環境にはいった夫の変化だった。  髪にも櫛《くし》がはいっていたし、髭《ひげ》も剃っていた。顔色は暗いが、それでもやつれたあとはなかった。  夫は、頼子の方をじっと見ていた。複雑な目の表情で、瞳が動揺していた。 「お元気ですか?」  頼子は椅子にすわって夫に言った。それが、ここで会った夫への最初の言葉だった。 「元気だ」  と、夫も椅子にすわって言った。 「今も運動してきたところだ」  夫の声はあんがい、明るかった。しかし、その表情が、夫の虚勢だとは、頼子に分かっていた。  だが、金網を通して見る夫の顔は印象が違っていた。  金網がフィルターの役目をした。フィルターはうす黒い。夫の顔は、その黒さのなかで動いていた。 「食事が進むのでね、かえって元気だ」  夫は平気な言い方をした。  その声も一枚の遮蔽《しやへい》器を通ってきているような響き方をした。 「お顔色がよろしいわ」  頼子は言った。 「ここでは、わがままができないからね」  夫は答えた。  その言葉は、食事や行動の拘束だけを意味しているのではなかったようである。  頼子には、夫が何を言いたいのか分かる気がした。 「留守に、変わったことはないか?」  彼はまた金網越しにきいた。 「いいえ、別にございませんが」  頼子は金網越しに答えた。  普通の、平凡な夫妻の会話だった。片すみに看守がいて、その会話を聞いている。  頼子には感情が募《つの》ってこなかった。  ふしぎと、恐れていたような興奮も起こらなかった。 「お下着など持ってまいりました。あとで着ていただきますわ」  頼子は差し入れのことを言った。自然と、昨日、差し入れの受付係のところで出会った二人の女性が目に浮んだ。  頼子が頼む前に、その女性たちは結城の名前を言って、下着や日用品や弁当などを頼んでいたのだった。── 「ありがとう」  目の前の夫は、単純に答えた。  このひとは、差し入れの品で、だれのを、いちばんに着るのだろうかと、ふと思った。  結城は頼子に何も言わなかった。  このような立場になったことも、別に触れなかった。それは、そこに腰かけて夫妻の会話を聞いている看守がいるからではなかった。夫は頼子が新聞記事を読んでいることを、むろん知っているのだろうが、それについて、説明や弁解めいたことを口にしなかった。  もとから、頼子には何も聞かせない夫だった。仕事のことも、外でしていることも。──数年間、そのような暮らしだった習慣が、ここでも夫をそのようにしていた。  面会時間は五分と限られていた。頼子の気持を圧迫していることといえば、その限られた時間の意識だった。 「きみは、どうする?」  突然、結城は言った。  頼子は、初めてはっとした。  きみはどうする、と言った夫の言葉をどう取っていいか分からなかった。単純に考えれば、自分の留守の間どう暮らしてゆくか、ということだが、夫の言い方は、自分から別れるのか、このままでいるのか、それを妻に質問しているようにも思えた。  頼子は、しばらく返事ができなかった。  彼女は、あることを結城に言いにきたのだ。それは、夫への許しを請《こ》うことであり、同時に彼女の決断を告白することだったが、それは容易に言えなかった。  頼子がいつまでも黙っているので、すみにすわっている看守が椅子から立った。 「奥さん」  と、看守は言った。 「あと、二分しかありません。大事なお話でしたら、早くなさったほうがいいですよ」  頼子はうなずいた。  大事な話を持ってきているのだ。二分ではむろん話せないことだが、しかし、その時間でも余るくらい、短い言葉でも言えそうだった。 「わたくしがいけなかったのです。申しわけありません」  頼子は、うなだれて、それだけ言った。  結城は、それをどう解釈したか、相変わらずフィルターを通して、夫の顔は、微細な表情までは読みとれなかった。  夫の声も、すぐには返ってこなかった。 「もういいよ」  夫は、やっと言った。  もういいよ。──夫のこの短い言葉の内容も、頼子には、どう受けとっていいか分からなかった。もういい、というのは、頼子のことごとくを知った彼が、すべてを許したという意味か、それとも、そのことは今さら詮《せん》ないことだと言っているのか、よく分からなかった。  いや、それよりも、小野木を陥れた夫が、もう復讐《ふくしゆう》は、すんだから、それでいいのだ、と言っているようにも思えた。  頼子は、自分の気持を、もう少し夫に言いたかった。だが夫婦の会話を、第三者が聞いていることが、やはりどこかに気にかかった。看守は横を向いて聞いていないような顔をしている。だが、全身の注意を耳に集めていることは、その様子で分かった。  看守は腕時計を見た。 「あなた」  頼子は言った。 「帰りますわ、時間がまいりましたから」  このとき、夫は初めて妙な表情をした。 「帰るのか」  それまでの声と違っていた。  初めて、弱いものが、その声の響きに出た。妙な顔に結城が見えたのは、これまでの生活で頼子に示していた別な顔が、そこで急に崩れた感じだった。 「あなた」  頼子は夫の顔を見つめた。  今まで、この夫と暮らしてきたさまざまな場面が、瞬間に、頭の中に次々と蘇《よみがえ》った。遠い過去もあれば、近い時もあった。順序どおりでなく、それが入り乱れていた。 「どうぞ、お体を大切になさってください」  彼女は、頭の中が空虚になってゆくのを感じた。 「そのつもりだ」  夫はすぐに答えた。 「ここにはいっては、もう、どう騒いでも仕方がないからね。体だけがたのみだ」  夫の言葉は、すこし前の調子がかえったようだった。 「安心しました。あなたがお元気そうなので」  頼子は言った。 「きみも」  このとき、夫は頼子の顔に目をすえていた。  頼子は胸を刺された。自分の気持が夫に分かったのか、と思った。 「元気でいることだね」  頼子は目を上げた。夫の視線と妻の視線とが、宙で出会った。それは、すさまじい勢いをもっていた。  夫も頼子も、その視線を逸《そ》らさなかった。夫の顔が次第にゆがんだように思えた。その瞬間の視線のからみあいは、互いの意識の模索《もさく》でもあり、頼子にとって、長い間の夫との闘争の最後でもあった。  看守が音をたてて椅子を引いた。 「お大事に」  頼子はおじぎをした。これが最後になる夫への礼だった。  夫は黙ってうなずいた。  頼子は、夫がドアをあけて、係官につきそわれて去る後ろ姿を見送った。姿勢の癖《くせ》にも変わりはなかった。夫は一度も途中でふりかえらなかった。ドアが閉まり、その姿が見えなくなったとき、頼子の胸に初めて感情が急速に充満してきた。 「では」  看守は、頼子をうながした。 「ありがとうございました」  頼子は看守に礼を述べた。  もとの廊下に出た。すぐそのあと、この部屋を使うはずの面会人が歩いてきていた。中年の女性だったが、目を赤く腫《は》らし蒼い顔をしていた。  今、あの部屋で見た夫の顔が、しばらく目の前から残像のように離れなかった。  中庭には、やはり明るい陽が降っている。地面は白く映《は》え、草は青かった。夫の顔を、今、現実にそこで見てきたのが、歩いているうち、夢のように思えてきた。  疲れた。──  長い間の夫婦の闘争だった。それが今の瞬間に終わったのである。  何もかもが、終わった。これまでの生活が、幻《まぼろし》のように思われた。  妙に、現実感がなかった。自分のいま歩いている廊下も、この建物の中から見える景色も、見えている人間も、ほとんどが現実とは思われなかった。熱があるときに見ているように、すべてが平面で黄色っぽく映った。  夫との離婚は、頼子のほうで手続きをすませていた。あとは、裁判を待つだけだった。家庭裁判所の係官は、そのとき、この離婚が、たぶん成立するであろう、と言ってくれた。  本来なら、それを夫に言うべきだった。それを言わなかったのは、金網越しに立っているネクタイのない夫に同情したからではなかった。頼子には、離婚のことを夫に言う必要がなかったのだった。  夫が何をしたのか、頼子には分かっていた。  小野木が社会的に失墜《しつつい》したのも、夫の策謀だった。そのような要素を、夫の性格は持っていた。  その最初のきざしは、夫が温泉から帰ってきたときに、すでにあった。小野木と行ったS温泉のタオルを、わざわざ頼子の目に触れるようにしておいたのである。  そのときから、頼子の心に、たえず夫の黒い翳が射していた。  だが、それを、夫に咎《とが》める資格は、頼子になかった。夫婦というのも、すでに何年か以来、名ばかりになっていたが、それでも、彼女が結城の妻であることに、世俗的に変わりはなかった。結城のやり方は、夫の権利でもあった。  頼子は、自分の愛していない異性と同じ家に生活する不合理を、もう何年も前から感じていた。これまで何度か、夫に離婚の話を持ちだした。夫は、いつもそれをせせら嗤《わら》っていた。  そして、最後にした処罰がこれだった!  小野木との交渉が始まったときから、頼子は罰を意識していた。その結城の刑罰が、今、彼女にこのような形で加えられた。夫と面会したとき、頼子は許しを請うた。だが、それは彼女の罪の許容を夫に請うたものではなかった。許されないことは分かっていたし、許されるのを望まなかった。が、どのように、結城との生活が、夫婦の名において不合理であっても、また、どのようにその生活が絶望的でも、妻としての最後の謝罪をしなければならなかった。  彼女は、結城に離婚のことを言わなかった。この面会が最後になることも告げなかった。|その必要が《ヽヽヽヽヽ》、|もう彼女になかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  とにかく、長い間のたたかいだった。──  そのすべてが終わった今、頼子の感じているのは、担《にな》っていた重いものが急に取り除かれたあとのように、自分の体が、頼りなく浮きあがりそうな感覚だった。  喜びでもなく、悲しみでもなかった。  ただ、何年間の暗鬱《あんうつ》な闘争が、初めて消えた終了感であった。  疲れた。──  頼子が、正門に向かって歩いているときでも、この拘置所の中にいる人に面会に来る家族がつづいた。  どの顔を見ても、悲しいなかにも喜びが見えていた。それは、これから五分間でも会いたい人の顔を見て話ができることのたのしさであった。この人たちは、帰りには目を腫《は》らし、肩を落として去ってゆくことであろう。だが、そのなかにも充実はあるはずである。人間は悲劇のなかにもそれにふさわしい充実はかならずあるものだった。  しかし頼子にはそれがまるでなかった。感じているのは、茫漠《ぼうばく》とした空虚感だけだった。  歩いている道路の明るさが、目に痛いくらいだった。  拘置所の正門を出た。前には、差入屋などの店が並んでいる。その店の中にも買物をする人の群れがあった。子供づれもあるし、老人の手を取っている者もいた。どの顔も、これほど真剣な買物をしている目つきは、ほかの場合になかった。  ハイヤーを待たせておいたので、頼子はそれに乗った。  運転手が彼女のために外からドアを閉めてくれ、前部から運転台に回っていた。  待っている間のわずかな瞬間だった。  ちょうど、一台の車が正門前に到着したところだった。  頼子が、窓の外を見るともなく眺めていると、その車の運転手がドアをあけた。車から降りた人をふと見て、頼子の目は急にわれに返った。  あっと、声をたてるところだった。  車から出てきたのが、間違いなく田沢輪香子だった。はっきりと見覚えがある。  ただ、違うのは、輪香子の姿に若い溌剌《はつらつ》さが失われていることだった。前に会ったときは、そんな印象ではなかった。あとから降りる人を待っているのだが、その姿に元気が失われていた。  輪香子のほうで、そこに頼子が車の中で見ていることなど気がつくはずがなかった。頼子の視界には、つづいて車から降りる青年の姿が映った。  青年は片手に風呂敷包みを提げていた。その包みの具合から、それが差し入れの下着類であることが分かった。  青年は明るい顔をしていた。車から降りると、彼は輪香子の肩を軽く叩き、笑いかけていた。輪香子に元気をつけている動作だった。  二人が並んで、拘置所の門に歩きかけたとき、頼子の車も動きだした。  頼子は、後部の窓ガラスをふりかえった。遠のいていく二人の姿を見つめた。青年は、やはり輪香子に寄りそい、彼女を励ましていた。  こちらの車が角を曲がり、頼子の目からその光景が閉ざされた。  頼子は、輪香子の父が、拘置所に収容された、との新聞記事を思いだした。  やはり、この事件の拡大につれて、田沢局長に逮捕状が出たのである。  頼子は、あのお嬢さんは、それでも幸《しあ》わせだ、と思った。まだ若いし、あのように親しい友人も持っている。頼子の目に、いつぞや、小野木といっしょに深大寺で初めて会ったときの輪香子の姿が浮かんだ。  小川のほとりで、虹鱒《にじます》を見ている横顔だった。葉や草が、彼女の若い頬に青く映え、それがひどく清潔に感じられたのを、まだ生まなましく記憶していた。  あのとき、輪香子と知りあいだ、と小野木の口から聞いたが、そのときに言った自分の言葉も覚えている。  ──小野木さんも、あのかたみたいな若いお嬢さんと結婚なすったらいいわ。  そうだ、小野木はそうすればよかったのだ。  あのままだったら、小野木も、人生の最初に、その運命を狂わすことはなかったであろう。あのとき、彼女が小野木にそう言ったのは、輪香子の小野木を見る表情に特別な感情があったのを直感したからだった。  この直感は、今でも間違っていないと頼子は信じている。だが、何もかも、すべては終わったのである。  輪香子には、今、悲哀がきているが、そのなかでも充実がある。輪香子らしい仕合わせな充実がある。現に、今見た目にも、はっきりとそれが映っていたと頼子は思って、車に乗りつづけていた。 [#改ページ]   断絶の時間      1  すべての整理が終わった。もう片づけるものは何も残っていなかった。  小野木は、アパートの管理人に、この部屋をあけることを告げた。 「どちらへおいでになりますか?」  管理人も新聞記事を読んでいたとみえ、小野木には眩《まぶ》しそうな目をしていた。 「当分、東京を離れます」  小野木は礼を言って、これまでの部屋代などをすませた。  あらゆるものが片づいた。昨日、石井検事あてにも辞表を送っておいた。  実際は、自分が持参して、これまで小野木に与えてくれた厚意への礼も言わなければならなかったが、今の場合、石井検事に会うのは、遠慮したほうがいいと思った。  辞表といっしょに、長い手紙を書いた。  自分のために地検の全体がひどい迷惑を受けたことを詫《わ》びた。  整理をしてしまうと、これまでの自分の生活が終わったような感じだった。長い経験のようだったし、過ぎてしまうと、それがひどく短い間のようでもあった。  異常な経験だった。小野木が、はじめて受けた生活上の激動だった。  だが、それが過ぎてしまった現在、何もなかった以前と同じような気がした。この状態は、あの異常な経験などは、何かの錯覚だったように、以前のままのつづきのようだった。  実体は、それが過ぎてしまえば何もないと同じことだった。現実感はいつも現在であり、でなければ現在から未来へわたる瞬間に限られていた。実体は現在にしかないのだ。それが過去になると幻影に変わってしまう。  小野木の新しい現実が、すべてを整理したこの瞬間からはじまろうとしていた。しかし、小野木のこの現実には、|未来への橋がなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  こうして整理してしまったあとは、ふしぎな空虚が彼の体を沈めた。その空虚の中には、過去のさまざまな出来事が追想となって埋められていた。どれも、まとまりのない断片的なものばかりだった。  だが、人生の過去は断片的な堆積《たいせき》である。かつての希望も、努力も、そのことが終わったとたんに、ガラスのように透明な破片でしかなかった。  ただ、地検の先輩や同僚の顔だけがむやみと浮かんだ。小野木は、この人たちに本当にすまないと思った。世間の非難は、小野木よりも「検事」の名の全体に重なっていた。非難の中に、小野木という名前は消え、「検事」しかなかった。それだけがその弾劾《だんがい》の中に広がっていた。  謝罪の気持の充満はあったが、小野木に後悔はなかった。行為は自分が選んだことである。  昨夜は、よく眠った。あらゆる夾雑物《きようざつぶつ》が、辞表を発送した瞬間に小野木から取り除かれた。頼子というたった一つの充実が彼に集中した。それだけでよかった。  ほかに、望むものはなかった。生命でさえもそうだった。  十時になった。──  小野木は、スーツケースだけを持ってアパートを出た。あとの荷物の処分は、すべて管理人に頼んでおいた。 「いよいよ、お出かけですか?」  管理人のおばさんが、小野木を出口に送った。 「長いことお世話になりました」  小野木は頭をさげた。 「小野木さん」  と、おばさんは言った。 「また東京にいらしたときには、寄ってくださるでしょ?」  おばさんは小野木に、つとめて明るい顔をしていた。 「ぜひ寄せてもらいます」  小野木は玄関を出た。  通りに出るまで、長い間見なれた風景があった。  子供が道ばたで遊んでいる。これまで一度も声をかけたことはないが、その子供の顔も親しんできていた。  子供は道ばたにしゃがんで泥をいじっていた。その行きずりの小さな動作が、小野木の目に、ふしぎと静かに焼きついた。  向こうから、中年の女がエプロン掛けで歩いてきた。このひとの顔も、それから、家の中で子供を叱っている男の顔も、小野木の生活の一部に、いつのまにか焼きついてきていた。それが今、強く目に残った。  ──よし子さん、お使いに行っておいで。  そんな声が聞こえた。エプロン掛けの主婦が子供に言いつけていた。  その声も、小野木の耳に、妙に新鮮に残った。  小野木は、表通りに出て、タタシーをとめた。 「東京駅へ」  腕時計を見ると、十時二十分だった。東京駅へ着くのには余裕があった。  車が走りだし、いつもの景色が流れた。  だが、小野木の意識には、見なれたその景色がすでに無縁だった。歩いている人にもかかわりがなかったが、全人類が小野木と無関係だったといっていい。ただひとり、頼子だけが彼の心の中にいた。  小野木は、東京駅の乗車口の待合室に待っている頼子の姿を想像した。時間が早いので、どちらが先に着くか分からなかった。  約束は、この前会ったとき、頼子と交したのだった。どちらからの意志ともなく、このような結果になった。頼子は小野木に、悪い、と詫びた。だが、頼子以外に小野木は生きてゆく希望がなかった。  世の中のあらゆることが、小野木にはもう面倒くさくなっていた。純粋に生きていくには、ほかのことにわずらわされたくなかった。しかも煩雑《はんざつ》なものは彼の上に間違いなくのしかかってくる。  生きるためにはそうなるのだ。それが面倒くさかった。何もかも億劫《おつくう》だった。  小野木は車に乗っていて、自身で体の重量感を感じなかった。彼自身が透明なガラスの堆積のようだった。  小野木が乗車口に着いたときは、思ったとおり、十時四十分だった。  小野木は、まっすぐに待合室に行った。  たくさんな人がすわっていた。小野木は素早く一瞥した。頼子の姿はなかった。自分がやはり先だったのだ。  十一時という約束である。あと二十分あった。小野木は、中にはいって、あいたところに掛けた。  彼はポケットから新聞を出して読んだ。活字があまり目にはいらなかった。どれほど大きな記事でも、小野木とつながりのないことばかりだった。彼自身と記事との距離のことではない。要するに、あらゆるものが今の小野木と次元を違えていた。  小野木の隣には、これから大阪に行くという若い夫婦者がいた。地図などを出して、話しあっていた。片方の隣は老人だったが、孫の男の子を連れていた。両方とも、始終、話している。  待合室には、人の出入りがしきりとあった。長いこと腰かけて、思いついたようにふらっと立ちあがって出てゆく者もあれば、外から急いできて席を探す者もいた。すわっているなかには、放心したような顔や、疲れた様子でいる者もいた。だが、ここには、旅の前のあわただしさが、それぞれの人間をおしつつんでいた。  十一時近くになった。  小野木は、自然と胸が弾《はず》んできた。  新聞を捨てた。目は入口ばかりをながめた。入口の向こうには、激しい往来のように人の流れがあった。どれもあわただしそうな歩き方だった。  小野木の目は、その入口に現われる女性にことごとく注がれた。胸が痛みそうなくらい、ひとりで昂《たかぶ》りを覚えた。  十一時になった!  いつも、約束には正確な頼子だった。ことに、このような場合なので、小野木は、頼子のほうが先に来ているかと思ったくらいだった。もうすぐなのだ。頼子が入口から歩いてきて小野木を探している姿が、彼の幻想になっていた。  来なかった。  十一時が十分過ぎた。小野木は不安になった。  何か事故があったのではないか。  すぐに、激しい途中の交通を考えた。頼子に事故がなくても、何かの都合で、車が遅れることも自然に考えられた。  小野木は、動悸の打つ胸をおさえるように体を曲げて、新聞を読んだ。  活字は一字も、彼の目にはいってこなかった。白い紙と模様のような紙面がぼんやりと映るだけだった。  その状態も辛抱ができなくて、すぐに、やめた。一つは、こうしていると頼子の発見が遅れそうな気がした。  時計を見た。十一時半になっていた。小野木に、焦燥と不安が高まってきた。  そこにじっと腰かけていることができなかった。小野木は立ちあがった。 「空《あ》いたわ、ここ」  女の子がすべりこんで、小野木のあとを占領した。  彼は待合室の出口に出た。たくさんな人の流れがある。小野木の目は、人の肩越しに遠方を見た。入口の空間を明るい陽ざしが四角に区切っていた。陽ざしの中に自動車の屋根が並んでいる。丸ビルが遠くにあった。だが、その白い空間からはいってくる人の影には、頼子らしい姿はなかった。小野木は、そこに棒になって立った。  ──熱海に着くのは、何時かしら?  女の声が、彼の耳の横を通りすぎた。  ──土産《みやげ》は、何を買ったらいいだろうな?  ──その辺で見つけたらいいわ。  別な声が通りすぎた。  ──切符は買えるかしら?  その声も通り過ぎた。  さまざまな声が、小野木の横に雑音となって流れた。その雑音は、次第に小野木の耳から遠のいた。何を言っても聞こえなくなった。  時計は十二時になっていた。人の声と足音とが、小野木の頭に無意味に反響した。視界に映る群衆の姿が、小野木の目に、無意味で威圧的な塊に映った。 (頼子!)  小野木は心の中で叫びつづけていた。  額からうすい汗が出た。手の先がしびれて、持っているスーツケースを落としそうだった。  どうしたのだ。いったい、どうしたのだ。──  まさかと思った。そんなはずはなかった。  小野木は、そこに立っていると、足から力が抜け、膝頭ががくがくと鳴って、へたりこみそうだった。  小野木は歩いた。自分でも思うように歩けなかった。  長椅子が一カ所だけあいていた。小野木はすわりこんだ。熱があるように呼吸《いき》が苦しかった。  ──大阪行は、あと何分なの?  隣で、若い女が男にきいていた。  ──まだ時間があるよ。  男の声は答えていた。  まだ時間がある。そうだ、そんなはずはない。頼子に何かの都合が起こったのだ。彼女だって気があせっているに違いない。小野木は自分に言い聞かせた。待とう、二時間でも、三時間でも、彼女が来るまで待とう、と決心した。  だが、すぐに不安が突きあげてきた。  その不安は、妙に空虚だった。  小野木の顔から血の気が引いていた。  彼は不安を押えつけようとした。その努力でいよいよ顔が蒼白になった。小野木は空しいものと戦っていた。それは、絶望との闘争だった。断崖から墜落する者が、途中の草に手をかけるように、小野木は万一の期待に寄りかかっていた。だが、それがすでに崩れつつあるのを知った。  小野木の耳は、激しい音響を聞いた。それは、頼子との間が断ちきれ、自分が落ちていく音だった。──      2  頼子は、新宿駅から汽車に乗った。  発車には、まだ時間があった。十一時二十分発だった。  頼子は片すみに腰かけて、窓の外をぼんやりながめていた。この風景は、かつて、小野木とS温泉に行ったときに見たものである。  ここから見る建物の位置も、歩いている人も、駅売りの売り子も、ほとんど同じだった。  頼子は、今この瞬間、東京駅で待っている小野木の姿を浮かべていた。  一心に待合室から、自分の姿の来るのを見張っている小野木の、真剣な顔が目にしみるようであった。  頼子は膝に手を組み、ともすれば、自分がこの席から立ちあがりそうなのを押えていた。早く汽車が出ればいいと思った。だが、その一方、汽車が出ない方がいいとも思った。こうして、汽車がとまっている間、まだ、ホームにとびおりて、小野木のところに駆けつける機会があるのだった。  頼子は、その苦悩と戦っていた。汽車から降りる誘惑と苦闘していた。  発車までは長かった。一分一分の経過が、自分の体のうちに鈷《もり》を打ちこまれるような気持だった。時間がたつにつれ、体に突き刺す銛が多くなった。  頼子は自分の全身が傷だらけになっていくのを覚えた。窓のすぐ下にあるホームが誘惑だった。彼女は足に力を入れて、汽車の床に固定させた。けっして降りてはならなかった。降りると、すべてが崩壊する。  小野木の生命が、その瞬間に消滅するのである。  その約束は、頼子からではなく、小野木からであった。死が、いちばん最良な方法に思われた。その死は、頼子の意識にも美しかった。  あらゆる消滅は美しいものである。  頼子は小野木の意志を承知した。その出発の約束の時間があと十三分なのである。  小野木の性格だし、このような場合、彼は二時間でも三時間でも、東京駅に待ってくれているにちがいなかった。頼子は、そのような小野木のところに、すぐにでも飛んでいきたかった。彼がいらいらしている様子を考えると、この汽車からとびおりたかった。  乗車したときには、まだ三十分余の時間があった。それが彼女の最後の慰めだった。まだ、小野木のところに行ける可能性の残っている慰めである。だが、時間は頓着なく正確に過ぎた。  可能性がちぢまっていく。その極限はついに不可能に到達する。頼子は歯をくいしばり、自分の体を意識の上で椅子に縛りつけた。  ベルが鳴った。汽車はゆっくりと、少しずつホームを後ろにずらしはじめた。  ああ、これで終わったのだ、と頼子は思った。この風景のように、すべてがあとへあとへと流れていく。自分の足がこの風景の中に立って、とまることはなかった。 「よろしかったら、どうぞ」  不意に横で声がした。隣の席にすわっている女の子づれの中年の婦人が、頼子にリンゴをさしだして言った。 「ありがとう」  頼子はおじぎをして手にうけた。母親のすぐ前にすわっている七つばかりの女の子が、手にリンゴを握って、頼子の顔を一心に見つめている。  子供の澄んだ瞳は、頼子の美しさを凝視しているようだった。 「どちらまで?」  隣の婦人は、にこにこしながら、きいた。 「富士吉田までですの」  頼子は買った切符の行先を言った。 「そりゃア」  と、婦人は鼻に皺をよせて笑った。 「今ごろ、あの辺はよろしゅうございましょう。夏場だと混んで、とてもいやなとこなんですが、今ごろいらしたら、人も少なくて、河口湖の水が、とてもきれいに見えますわ」  婦人は、自分は甲府の者だと言った。  汽車は速度を増していた。東京から急速に離れていく。小野木と離れているのだった。小野木の姿が目に浮かぶ。  いらいらして、待合室を出たり、はいったりする様子が、はっきり映った。だが、もう切り離されていた。小野木には黙って離れたほうがいいのだ。  頼子が昨夜この決心になったとき、すぐに、小野木に電報を打つか、速達を出そうかと思った。だが、そうしないほうがかえっていいと思った。そうすることで、頼子自身の気持が弱まりそうだった。 「ずいぶん、いい気候になりましたね」  横の婦人は、頼子に好感を持ったか、しきりと話しかけてきた。実際、窓の外に見える景色は新しい緑色に変わっていた。  頼子は次第にその婦人の話がわずらわしくなった。初めは、自分の気持をまぎらすつもりで、話し相手になっていたが、それが、だんだん、辛抱できなくなった。  ひとりでいたかった。やはり、孤独の中に自分を閉じこめて、いろいろなことを考えてみたかった。  頼子の返事は、しだいにうとましいものになった。それを感じたのか、隣の婦人の方も、それからは、あまり話しかけなかった。  トンネルを抜けると、山ばかりの中を汽車は走った。左側に、湖水の一部がきらりと光って見えたが、それも、すぐに山の端《は》にかくれた。  それから、しばらく汽車は、山や谿間《たにあい》を走りつづけた。頼子は手の時計を始終ながめた。小野木との約束とは、すでに二時間近く経っていた。彼の動作が針を見るたびに目に映ってくる。まだ、たぶん、待っていることと思う。  小野木が心配している。まもなく、彼は頼子の裏切りを知るだろう。彼女は身が削られるような思いだった。  時間の進行と、小野木の動作とがつながって、頼子の心を締めつけた。  大月駅に来た。汽車がホームをゆっくりと目に見せてきた。  頼子は立ちあがった。 「さようなら」  気づいて少女に言った。少女は、また、瞳を大きく開いて頼子を凝視した。  彼女は汽車をおりた。ホームを歩くと、上り列車が入れ違いにはいってきた。単線なのでここですれ違うのである。頼子の乗っていた汽車が出ると、待機していた上り列車が動きはじめた。あの汽車に乗ると、東京に行けるのだ。小野木のもとに行けるのだ。二時間はかかる。だが、あの汽車に乗ると、その時も、小野木がまだ待合室に待っていてくれるような気がした。  頼子は後ろも見ずに出口に駆けた。  駅前には、河口湖行のバスがあった。団体の学生が、そのバスから、群れをなして降りてきた。 (これをずっと行くと、富士五湖に出るんです。その裾は、深い樹海におおわれています。その森の中にはいると慣れた人でも、うっかりすると出口がわからなくなるそうですよ)  S温泉に行く途中の列車で、大月駅で、小野木が言った言葉が蘇《よみがえ》った。だが、駅前の風景はその樹海の影も見せていなかった。田舎《いなか》の平凡な町の風景だった。ただ、樹海のほとりにつづくであろう一本の白い道が頼子の前にあった。 [#改ページ]   樹 海 の 中      1  頼子は、大月の駅前のタクシー会社にはいった。 「いらっしゃい」  小さな事務所で、事務員が一人いたが、頼子を迎えて頭をさげた。 「ハイヤーを一台お願いしたいのですが」 「へい、かしこまりました。どちらまで?」 「あの、富士の樹海を見たいのですが」 「樹海?」  頼子の言葉に、事務員は、 「樹海といいますと、ずっと西湖《さいこ》のほうですか?」  とききかえした。 「あの、わたくし、よくわかりませんの。こちらは初めてですから、案内をお願いしたいんです」 「かしこまりました。すぐ出させます」  事務員は、奥へ引っこんだ。裏が運転手の溜り場らしく、つづきになっている横の自動車《くるま》をならべてあるガレージの奥からひょっこり、若い男が出てきた。二十四、五の背の高い青年だった。 「お供いたします。西湖までですね?」  彼は頼子に頭をさげながらきいた。 「西湖と言うんですか、樹海を見たいのですけれど」 「西湖まで行けば見えますよ」  運転手は、上着を着け、きちんと帽子をかぶって、きびきびと動いた。  それから、運転台にはいって、車を表に出し、また降りて、頼子のためにドアをあけた。頼子は、座席にはいった。 「西湖まで、どれくらい時間がかかりますの?」  車が走りだして、頼子は後ろからきいた。 「そうですね、直行だと一時間ぐらいで行けます」  頼子は、腕時計を見た。二時近くだった。  大月の町は、細長かった。古い町なみや、やはり昔からの商売屋が目だった。それを通りぬけると、田圃《たんぼ》ばかりの道になった。左右が山だった。  陽が白い道路を光らせていた。  四十分ばかりすると、右手に、三《み》ツ峠《とうげ》の登山口と書いた標識が見えた。その三ツ峠と思われる険しい山頂が過ぎると、にわかに、左手に富士の裾野の一部が見えだした。  思いきり大きな裾野だった。車が進むにつれて、その斜面は次第に上の方をひろげて見せはじめた。  頼子は、小野木のことを考えた。まだ東京駅に残っているような気がしてならなかった。東京駅に立って自分を待っている小野木と、いま富士の裾野を眺めている自分とが、すでに違った世界に住んでいる人間に感じられた。小野木のいらだたしい姿が、いま見ている景色のなかでは、もう淡く、はかなく見えた。  たった一時間ぐらい前までは汽車の中で、あれほど小野木のところに行きたかった自分の気持を考え、この変化に自分でも驚いた。それは、すでに小野木の届かないところに自分が来ている現実がつくった、作用のようだった。  そうだ、小野木はもう届かないところにいる。この山裾の景色が東京駅とはまったく違うように、小野木のいる位置と自分とは格段に離れていた。  小野木がどう自分を待っていようとも、もう、その及ばないところに来ていた。 「奥さん、すぐに西湖に行きますか?」  運転手が背中できいた。  頼子は、この辺の地理を知らなかった。知る必要はないのだ。ただ、樹海だけが彼女の考えにあった。 「あの、途中で、どこか見るところがありますの?」 「河口湖があります」  運転手が即座に答えた。 「途中ですから、ごらんになっていきますか?」 「そうね」  頼子はぼんやり言った。  この返事を、運転手は承知と考えたのであろう。 「こちらが初めてなら、ぜひ、ごらんになったらいかがです。そりゃよござんすよ。近ごろは、展望台ができましてね、ケーブルカーがついているんです」  運転手は、少し自慢そうに言った。  頼子は、どちらでもよかった。初めてだし、その河口湖というのを見ておいても、悪くはないと思った。感動はないのだ。ただ、一つのゆるやかな傾斜の途中に自分がいることだけの意識だった。余裕のない、直線的な進み方よりも、徐々に流れる、緩慢な落下の方が快かった。  河口湖に出た。湖畔に、土産物屋や料理屋がならんでいる平凡な風景だった。赤や青色の屋根が多い。遊覧船やモーターボートが走っている。 「お降りになりますか?」  運転手はきいた。 「いいえ、結構ですわ」  頼子は降りる気がしなかった。窓から見ただけでよかった。 「河口湖も、このごろ、俗っぽくなりましてね」  運転手は、車を返しながら言った。客が降りなかったことに運転手も同感していた。 「便利のいいところは、みんなこうなんです。芦《あし》ノ湖《こ》でも、中禅寺湖《ちゆうぜんじこ》でも、だんだん俗化してきます」 「あの、西湖もこんなふうなんですか?」 「いいえ、西湖は違います。そりゃ、行ってごらんになると、まるきり違うことが分かります。なにしろ、こういう賑やかな店が一軒もないんですからね。人も、あまり行きませんよ」 「これから、どのくらいかかります?」 「そうですね、あと四十分ぐらいでしょう。まっすぐにおいでになりますか?」 「そうしてください」  車は、東京の郊外にでもありそうな町の中を通り抜けた。その町なみが切れると、広い林の中に着いた。道が行手に長々とつづいていた。  富士山は、絶えず左手にあった。晴れた日で、雲一つなかった。頼子は、これほど近くに富士山を見たことがない。頂上から五合目までは雪におおわれていた。陽の加減で、雪の部分の谿谷《けいこく》に複雑なかげりがあった。その下は赤味を帯び、それから蒼い樹木の色になっていた。裾野は尾をひいて、道の横にある林の枝の中にはいっていた。  その道には、途中に家はなかった。人も歩いていなかった。時おり、バスやハイヤーが通った。  ここまで来ると、陽の位置が西に片よっていた。光線も弱くなったようだし、道に落ちた林の影が長くなっていた。 「西湖をごらんになって、その先までいらっしゃいますか?」  運転手は、行先をたずねた。 「その先は何がありますの?」 「精進湖《しようじこ》があります。それから本栖湖《もとすこ》となりますが、それでだいたい引きかえすのが普通のコースなんです」 「そう」  頼子は考えていた。 「樹海を見るのは、西湖というところなんでしょ」 「そうなんです」 「だったら西湖だけで結構ですわ」 「そうですか。奥さんは、樹海をひどくごらんになりたいようですね。たしかにあれは、東京のかたが、一度はごらんになる値打ちはありますよ。そりゃ広いんです。なにしろ、その中にはいると、村の人の案内なしでは出てこられないんですからね」  運転手は説明した。 「その近くに、紅葉台《こうようだい》という展望台があるんです。そこに上がって見ると、その原始林の果てしない広がりが一目で見られるわけです。見てると、こわいくらいですよ。まあ、人間の住まない以前の日本は、あんなふうだったと思いますね」  車は相変わらず人の通らない道を進んだ。道だけがきれいで、すぐ横の林は、運転手の言う原始林の姿だった。  かなり長く走って、車は右に折れた。今までの立派な道と違って、やっと車が一台通れるくらいな狭い道だった。ここも両方が茂った林になっていた。 「直接に西湖にまいります」  と、運転手は告げた。  林の中についたその道は、幾つか曲がっていた。曲がるたびに、林の姿が変わってくる。赤松やケヤキの森があるかと思うと、次にはブナの広い展《ひろ》がりになったりした。次を曲がると、また元の林の姿にかえった。やはりこの道にも人が歩いていなかった。  桑《くわ》畑が見えたころ、集落の屋根が前方に映ってきた。  その入口に来て、それが西湖の端だと分かった。集落にも人の姿がなかった。  その中を通りぬけると、湖が窓に迫ってきた。河口湖で見た色よりもずっと蒼味が深かった。 「西湖ですよ、奥さん」  運転手は車をとめた。  頼子は車を降りた。 「この道をずっと行くと、湖に沿って向こうに抜けられるのですが、ごらんのように狭くて、それに道が悪いのです」  車をそこに待たせて、頼子は、運転手の教えた道をひとりで歩いた。湖は、そこから見ると、先が崖の陰に隠れていた。どういうものか、集落には人がいない。少し進むと、夏のキャンプに使うバンガローがいくつもあった。  静かなものである。そこに立って湖を眺めると、対岸が茶褐色の溶岩だった。樹林がその上に立ち、それから裾野の方まで果てしなく海のように広がっていた。  樹木の先はほとんど高低がなく、広漠とした面積にわたって均《な》らされていた。これが人間を圧倒していた。もし、風雨がこの巨大な密林に降りそそげばどうなるだろう。樹海は怒り、波浪のように揺れ、音を起こし、吼《ほ》え、轟《とどろ》くに違いない。そのときの原始の形相《ぎようそう》が、頼子に幻視を起こさせた。  いま、湖面は、波一つなかった。魚もいないのか、皺一つなかった。  頼子は、これほど孤独な湖を見たことがない。正面に富士山があったが、これまで見なれた富士山と違って、太古のままの火山だった。茶褐色の溶岩の岸と、その上に広がっている樹海の濃いオリーブ色とが、湖のふちに映った。原始の山と、林と、湖とが荒々しく対立していた。  それはけっして融合してはいなかった。  頼子は、そこに三十分もじっとしていた。村がそこから見えたが、奇妙に人が一人も出てこなかった。すぐ後ろに、バンガローの群れがあるが、何か死人の家を感じさせた。ずっと前のことだが、頼子が見た夢が、ちょうど、この場面だった。山の端を歩いて出たところに、さまざまの小さな家がある。その家に住んでいる人が、頼子の知っている死んだ人ばかりだった。その夢が奇妙にまだ忘れられない。  いま打ち捨てられたバンガローを見ると、ちょうど、その感じだった。戸締まりがなく、半分開いている小屋もあれば、釘づけになっている小屋もあった。こわれた屋根と、雨ざらしになって黒ずんだ板壁とが、この湖のそばで無残な感じだった。  対岸の森には、道というものがなかった。西湖についている道は、頼子が立っている、ここだけだった。運転手は、これから先、車が通らないと言う。車だけでなく人も行けないように思えた。 (どこにも行けない道ってあるのね)  深大寺の森から自動車《くるま》を走らせたとき、自分が小野木に言った言葉がよみがえった。どこにも行けない道。──アイルランドの荒れ果てた或る地方に、そんな道のあることを本でおぼえていた。そのような道は、この光景の中にこそあるような気がした。  ふと見ると、湖に近い林の中に白い建物が見えた。どこかの別荘かと思われるくらい近代的な建物がぽつんとあった。  時間がたって心配になったのか、運転手が彼女の方に歩いてきていた。 「いかがです? いい景色でしょう?」  運転手は、煙草を遠慮そうにすいながら言った。 「あの、樹海の中にはいると、村の者でも出口が分からなくなります。道が一本もついていないんですからね。下は溶岩ばかりなんです。まるでジャングルですよ」 「そこにはいった人で、出てこられなかったかたもありますの?」 「さあ」  運転手は首を傾《かし》げて笑った。 「それはどうでしょうか。もしかするとあるかもしれませんね。だが、絶対に、その死体は見つかりっこありません。人に見られないで樹海のなかにはいった人だってあるかもしれませんね」 「そう」  この長い時間、やはりだれも歩いてこなかった。村人も一人も外に出ていないのである。奇妙な村だった。 「あれはなんですか?」  頼子は、その建物を指さしてきいた。 「ユースホステルですよ。夏なんか学生が泊まりに来ます。今はひまでしょう」  頼子は考えていた。陽がかなり傾いて、湖面の蒼い色にうっすらと赤味がさした。富士山頂の雪まで色がついた。 「運転手さん」  頼子は言った。 「ユースホステルだけど、そこでお茶でもいただけるかしら?」 「かまわないでしょう。今ごろは、ひまですから。とにかく、お供しましょうか」  頼子は、車の方に運転手と帰った。  また、だれもいない村を通りぬけた。林の中に小径《こみち》があり、建物の白さがその陰から現われた。 「この建物の横から、ずっと樹海にはいるんですよ」  運転手は教えた。  頼子は、窓からのぞいた。細々とした小径だった。径とは言えないくらいだが、それでも小さな一筋だけは判別できた。  車は、ユースホステルの玄関前に着いた。 「ここでお待ちしています」  と、運転手は言った。 「いいの。料金をお払いしますわ」  運転手が驚いて頼子の顔を見た。 「どうなさるんです? ここにお泊まりになるんですか?」  頼子は、微笑した。 「そう。頼んでみますわ」 「なるほど。せっかく、いらしたんですから、そりゃ、そのほうがいいでしょう。こんな場所の夜は、そりゃ静かなもんですよ。泊めてくれるといいんですがね」 「わたくしが頼みますわ。ご苦労さま」  料金を払ってやると、運転手は車の中にはいった。それが玄関を回りながら元の道に帰って行くまで、頼子は立って見ていた。  車は林の陰に音をたてて消えた。頼子の今までの道が、それで切れた。  玄関から、六十ばかりの老婆がのぞいた。 「急にここにうかがったんですけど、コーヒーをいただけますかしら?」  老婆は頼子におじぎをした。  中にはいると、すぐ横に小さなフロントがあった。老婆の息子らしい二十二、三歳の若者が、その中で本を読んでいた。左手に食堂がすぐ見えたが、誰もいなかった。  老婆は、頼子を食堂に案内した。  客は頼子一人だった。テラスに面したガラス戸を見ると、樹海の一部がそこに迫っていた。樹林は、ほとんど針葉樹ばかりだった。 「こちらの方が景色がようござんすよ」  老婆がコーヒーを抱えて、頼子を誘った。頼子は、湖の見える窓際にすわった。  湖面の北側が山になっている加減か、さっきの水の色とは違っていた。澄んではいるが、蒼黒い濃さだった。その上に暮れ方の靄《もや》が立ちこめていた。  コーヒーはおいしかった。注文したので、コップに入れた水がそえられてあった。  頼子は、コーヒーをのんだあと、ハンドバッグから小さな瓶《びん》を出した。掌《てのひら》にうつすと、白い丸い粒が堆積した。粒はかすかな音をたてた。  頼子は、水をのんだ。それから、ゆっくりと、その粒の数を三回に分けて口に入れた。そのあとから水をのんだ。コップはほとんど空《から》になった。  動悸は平静だった。眺めている風景のように何事もなかった。  頼子は、その静かな湖を見つづけているうちに、急に湖面に波が立ったように思われた。波が──、と思った。  波は、頼子の瞳《め》にだけ映っているのかも分からなかった。それはひどく孤独な波だった。人ひとり見ていない中で、波だけが立ちさわいでいた。その波のせいか、湖面が罅《ひび》のように割れて、その底からぼんやりしたものが瞬間にのぞいたように思った。どのような形だかよく分からないが、いわば、塔の先に似たものだった。この湖底に、白い塔が建っているようだった。── 「お客さん、こちらにお泊まりなんでしょうか?」  青年が横に立っていた。頼子の視覚はまた静かな湖にもどっていた。 「いいえ」  と、頼子は言った。 「すぐ出ますわ。コーヒーをご馳走になりたかったんです」 「車は」  と、青年はきいた。 「さっき帰ったようですが、向こうの道路に待たせてあるのですか?」 「そうなんです」  と、頼子は短く答えた。  だれもいない食堂を出た。まだ彼女の体の中には変化がなかった。  フロントで金を払った。壁には、たのしい観光ポスターがいくつも貼《は》ってあった。青年がスイッチを押して電灯をつけた。 「ご馳走さま」  と、彼女は言った。 「またどうぞおいでください、夏は若い人で混みあいますが」 「ありがとう」  礼を言って出るつもりになったが、ふと、気づいて、 「この森のなかには、何がすんでいますの?」  と、頼子は足をもどしてきいた。 「え、鳥がたくさんいますよ。それに、野兎《のうさぎ》がいます」 「野兎が……」  頼子は微笑《ほほえ》んだ。  青年が、案内書を持ってきて見せた。  ──樹海には、ブナ、ケヤキ、イチイなどの木々が、散乱する溶岩の裂け目に鋭く根をおろし、立ち枯れの木は白い木はだをむきだし、ヘビのように横たわる倒木は、千古の苔《こけ》を宿した人跡未踏の原始密林である。この中に迷いこむと、死体も発見できない。……  頼子は、ユースホステルの建物を出た。道は自動車で来た道だった。彼女は坂道を登った。一方は湖畔だが、一方は樹海の端だった。  そこには、まだ桑畑があった。頼子は、それについて歩いた。  畑がある。  来るときに気づかなかったが、老人と嫁らしい若い女とが、鍬《くわ》で畑を打っていた。  頼子は、まだ足がしっかりしていた。意識も変わりはなかった。変化が起こるのにはまだ時間があった。      2  老人と嫁とは、都会ふうの女性が横の道を歩いているのを見た。 「もしもし」  老人がその見なれない女性を止めた。 「そっちの道は違いますよ。それに、はいってもどこにも行かれねえだ」  その女性は立ち止まった。 「もとの岐《わか》れめに、一度、もどってください。それをまっすぐに行くと、バスの通る道に出るだよ」  老人の目から見て東京者らしい女性は、頭をさげて、その注意を感謝したようだった。 「その道をへえると、一生戻られねえずら」  相手の女性が足をもとの方へもどしたので、老人は笑いながらつけ加えた。  それだけである。  あとは何事もなく、老人と嫁とは、畑仕事にかえった。  暮れたばかりの空には、まだ澄んだ蒼さが残っていた。林の奥は暗かった。  二人はまだ畑仕事をつづけていたが、ふいと、嫁のほうが目を上げた。 「あれっ」  と言った。その声で、老人の顔が起きた。 「いまの女《ひと》、森の道に走って行ったずらな」  老人はふりむいたが、何も見えなかった。 「嘘《うそ》だア。おめえの目の迷いずら。あれほど言ってやったから、そっちに行くわけがねえ」 「そんでも、わしの目にはそう映った。たしかに白いものが、急いで森の道を行ったように思うだ」  老人は嫁を嘲《あざわら》った。 「嘘こけ。おらの目には何も映らねえだ。おめえの目がどうかしているずら。さっきの女《ひと》が、こっちの道を間違えて行くはずはねえ」 「そうけえ」  嫁自身が半信半疑だった。 「東京の女さ見たで、おめえの目がどうかしたずら」  老人はまた畑打ちにかかった。嫁は何か言いたそうにしていたが、黙った。 「おとっつぁん」  と、嫁は言った。 「もう暗《くろ》うなったで、仕事さしまおうけえ」 「ああ、しまおう」  舅《しゆうと》は言った。 「あれ」  嫁が何かを見て、急に叫んだ。 「何けえ?」 「兎が出たで」  老人が見たときは、兎が走りこんだ藪《やぶ》の葉が揺れているだけだった。  折りから、蒼然《そうぜん》たる闇が、この涯しない樹海の上におりていた。 [#地付き](おわり) 〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年九月二十五日刊