[#表紙(表紙2.jpg)] 小説東京帝国大学(下) 松本清張 目 次  屈辱講和  戸水事件の発生  山川総長免官  学制改革談義  久保田、菊池論争  荘厳なる権威  逆転  落着  問題の発生  喜田貞吉の史観  南北正閏論  落し穴  天に二日ありや  喜田学説「逆徒」化  挫折感 「密偵」帝国大学教授  爆裂弾製造法  元老と大逆事件  議会質問書  曲学阿世の徒  田舎教員の手紙  あとがき [#改ページ]   屈辱講和[#「屈辱講和」はゴシック体]  明治三十八年九月五日は、帝都は大騒動であった。ことは、日露戦争後の講和条約が米大統領ルーズベルトの仲介でポーツマスで進められたが、この日、九月五日にロシヤの全権ウィッテと日本全権小村|寿太郎《じゆたろう》との間に調印がなされることになった。十月十六日に発布、十一月二十五日に批准交換の予定がなされた。  日本の各新聞は、これを屈辱講和として政府や重臣を攻撃した。  万朝報《よろずちようほう》は九月一日に「弔旗を以て迎えよ」という社説を掲げて、「武功によって内外に宣揚した帝国の光威を抹殺したのはわが全権である。全勝国民の顔に泥を塗ったのはわが全権であるから、国民は断じて彼の帰朝を迎うるなかれ。これを迎うるなら弔旗を以てせよ」と論じた。万朝報は初め非開戦論、平和論を掲げてきたのだが、途中、社内の開戦論者に押されて、幸徳秋水、堺|枯川《こせん》らの退社をみてからは、社主黒岩|涙香《るいこう》も輿論《よろん》に同調したのである。それで、当初の万朝報の論説と、この論調とは全く別な新聞をみる思いであった。  このなかでただ一つ徳富蘇峰《とくとみそほう》の国民新聞だけは「日本は満洲から露国を追放し、朝鮮で保護権を得たのであるから、これ以上望むのは無理であり、この結果に満足すべきである」という社説をかかげた。蘇峰は桂首相に妥協したといわれている。  条約調印の九月五日が近づくにつれて政府弾劾の輿論は激しくなった。その急|先鋒《せんぽう》に当ったのが、日露戦争前に開戦論を唱えていた対露同志会の一派である。対露同志会は戦争開始によって一応解散したが、この講和条約によって再び有志が結合され、その他の国粋主義団体と講和問題同志連合会を組織した。そして、舌戦をもって華々しく先頭に立ったのが、かつての自由民権運動の闘士|河野広中《こうのひろなか》だった。  この講和問題同志連合会は、その前に明治座で臨時大会を開き、もし、当局者が講和条約で譲歩をするようなことがあれば、当局者は戦勝の効果を失い、国家百年の禍いを遺す責任を免れることはできない、と決議している。  同時に、国内の不満を電報で全権に送り、「閣下の議定せる講和条約条件は君国の大事を誤ったものと認める。速やかに処決して罪を上下に謝せよ」ときめつけた。  さらに九月二日になると、彼らは上奏案を議決して檄文《げきぶん》を全国に発した。  九月五日、講和問題同志連合会は、この日をもって国民大会を日比谷に開催すると公示したので、当日、民衆は続々日比谷公園に集まった。政府は数日前からこの予防策を講じ、警察は彼らを会場に入らせないように予防していた。しかし、日比谷に集まった民衆は数万人にふくれあがり、随所で警官と揉み合った。  大会では河野広中が議長となり、講和条約破棄決議と、満洲各軍および枢密顧問官に対する決議をおこなった。  大会が終了すると、参会者は警官隊と揉み合いながら二重橋前で万歳を三唱し、それから新富座《しんとみざ》の演説会場に行ったが、ここも解散の命令で警官と群衆の間は大衝突となった。  夜に入って芝の紅葉館で懇親会が開かれたが、百五十名ばかりの来会者があった。再び河野広中が座長となり、全国各府県同志と連絡をしてあくまでも講和条約破棄の目的を貫徹する、という決議案を満場一致で可決した。  この懇親会の開かれているころ、市中のいたるところで群衆と警官との間に揉み合いが起った。  警視庁ではあくまでもこの大会を弾圧するため、その日午前十時ごろから、日比谷公園の各門に大丸太で垣を築き、巡査が鉄条網を張って警戒した。  参会者は地方から上京した有志も含めてまず日比谷正門に向ったが、警官隊に食い止められて押戻された。丁度、炎天のさなかである。正午《ひる》ごろには人が道に溢れて電車の通行もできなくなった。  そのうち、群衆のなかから演説をはじめる者が現われた。巡査があわてて止めると、周囲から、やれやれ、巡査などかまうものか、などと絶叫が起った。昂奮は次第に盛上がる。  一群は警戒の巡査をつかまえ、なぜ、市の公園へ市民を入れぬのか、と詰問した。すると、十二時二十分ごろ、正門の左側にさっと旗が掲げられた。それには「弔講和成立」「弔陸海軍軍人戦死」の文字と、千葉県|剣持《けんもち》勝という人の名前があった。  群衆はそれを見ると、賛成賛成、と声をあげ、その弔旗のもとに集まった。これが歴史的な帝都騒動の端緒となったのである。  警官隊が、その弔旗を中心にした一団に解散を命じようとすると、たけりたった群衆は激昂し、巡査を袋叩きにしようとしはじめた。十数名の巡査が応援にくると、今度は群衆がこれを包囲して石を投げ、棍棒《こんぼう》をふるった。巡査隊は山下門のほうへ逃げ出そうとした。  群衆は鬨《とき》の声をあげてこれを追撃し、石や礫《つぶて》を雨のように投げた。折から電車がきたために群衆は一時さえぎられたが、そのため車掌や運転手は殴られた。  こうした間にも路上での演説会はほうぼうで起り、群衆の数は増すばかりである。  日比谷正門は警官隊がなお頑張っていたが、群衆は猛《たけ》りたつばかりである。すると、そのなかの一人の紳士が、 「いま、この門を破るには、わが輩が演説をするのを待って大いに騒ぎ、その混雑に乗じて門の一方から押し入るがよい」  と叫んだ。  一同、大喊声《だいかんせい》をあげる。紳士は一枚の活版刷の決議案を手にして朗読しはじめた。  それを読み終ると同時に、待ち構えた群衆は騒ぎ出した。このとき東京市参事会員の一行が駆けつけた。彼らは、いま木柵《もくさく》をとりのけるから道を開け、と群衆にわめきながら、間をすり抜け、門の前に近づいた。その参事会員の一人が柵をとび越えて門内に入り、署長にその不当の処置を詰問すると、署長は、取締り上仕方がないから大目にみてくれ、と挨拶した。だが、その問答の間に群衆は警官を突きのけ、突きとばし、遂に木柵の一カ所を踏み倒した。彼らは怒涛《どとう》のように公園内に押入った。  公園内に雪崩《なだれ》込んだ群衆は、「弔講和問題国民大会」と大書した旗を翻し、号砲と同時に国民大会を開いたが、それが終ると、だれ云うとなく、屈辱条約を擁護した国民新聞社へ向え、という声が上がった。一同は日吉町に向った。  国民新聞社では巡査と憲兵と民友社の社員が懸命に防禦に当ったが、群衆は激昂し、命がけで揉み潰《つぶ》せ、と騒ぎ、長梯子、どぶ板、丸太を得物として、止める連中を片っぱしから殴りつけて工場に入り、活字台などをひっくり返した。  彼らは口々に、防禦の新聞社員を露探《ろたん》、などといって罵っていたが、騎馬巡査三、四十名が駆けつけて、ようやく国民新聞社の攻撃はやんだ。  だが、一方、新富座の大演説会は解散を命ぜられた瞬間、聴衆は総起ちとなり、臨監の京橋署長に詰寄った。警官隊はそのなかの者を捕えようとしたが、一人の壮士風の男がステッキで署長を殴って血だらけにした。応援にきた他署の私服の刑事は互いに顔を知らないので、お互いが普通の暴徒と思って同士討ちをはじめた。  また、午後三時半ごろから、内山下町《うちやましたちよう》の内務大臣邸前には一団の群衆が現われて、だれ云うとなく、殺《や》ってしまえ、という声と共に石が官邸に投げられた。警官隊が四方からきたが、とうてい手がつけられない。官舎の門衛所のガラス窓や門扉《もんぴ》は見る見る破壊され、群衆はなかになだれこもうとした。警官五、六名は抜刀して食い止めようとしたが、とうてい支えきれず、一部はなかに乱入した。内務大臣は芳川顕正《よしかわあきまさ》であった。  その夜のうちに各交番からは火が出た。火焔は各所で夜空を焦がした。群衆によって焼打ちされた交番は、日比谷、外務省前、琴平町《ことひらちよう》、芝佐久間町、芝公園、芝源助町、芝公園入口、御成門《おなりもん》、飯倉《いいぐら》五丁目、松本町、京橋|出雲町《いずもちよう》、新橋、京橋などだった。  殊に芝公園の交番を焼払った際には、近くの慈恵病院に火が移りかけたので、群衆が自分たちの手でこれを消し止めている。宇田川町交番に向った彼らは、午後十時半ごろ三田四国町に集合するため、なだれを打って歩いた。電車は不通となった。  十一時ごろには、日比谷、芝、京橋の各交番の焼打ちが日本橋に移った。さらに神田に移り、二時ごろには、深川、本所《ほんじよ》に移った。こうなると警察の手ではどうにもならず、さながら無政府状態となった。 「白昼白刃をひつさげて官邸に闖入《ちんにふ》すること、すでに驚くべし。白昼火を官邸に放つ、さらに驚くべし。さらに警官剣を抜いて人を斬り、軍銃をさげて良民にのぞむに至つては、宛然《ゑんぜん》、これ第二の露都なり。戦捷《せんせふ》の帝都を化して第二の露都となすの大失態を現出せしむ。嗚呼《ああ》、これ果して誰の罪ぞ。民心は火のごとし。一度これを激すれば炎焔《えんえん》天を焦がす。禁止の一挙、威圧の反動、遂にこの大紛乱をみる。悲しいかな」(日本新聞)  日比谷公園前の派出所では群衆が建物をとり囲み、打ちこわした刹那《せつな》、ランプがこわれて火が移った。昂奮した群衆は、これで屈辱講和を弔ったぞ、やれやれ、と叫んで、虎ノ門から佐久間町へと次々に派出所襲撃となったのである。  土橋《どばし》派出所では、近所に人家が密集しているので類焼を懸念した群衆は、派出所の建物を多勢でかつぎ上げ、大通りへ投げ出して火を点じている。出雲町交番でも、これを横倒しして放火している。  京橋分署では、群衆のなかの少年が槌をふるってガラス戸をこわし、長梯子を屋根にかけて猿《ましら》のごとく駆けあがり、石油を撒いた。これに火を投げると、別働隊が燃料を運ぶ始末である。彼らは万歳万歳、と叫んで手を叩いた。  この騒動は六日になっても熄《や》まなかった。その夜九時ごろ、日比谷正門に停車した電車へ一人の男が躍りこんで、石油を車内に撒き火をつけた。電車は見る見るうちに火焔に包まれる。  群衆は四方八方から集まって、えいえい、と掛声をかけながらこれを押してゆき、内務大臣官舎の前で押倒そうとした。  別な群衆の一団は、あとからきた電車ごとに乗りこんで、運転手と車掌を追払い、これにも順々に火をつけ、みんなで押して内相官邸正門へ迫った。電車は遂に十何台も燃え上がった。その猛火を背景に真黒い群衆が喚《わめ》きながら動く様はすさまじいばかりだった。有楽町から桜田門へかけて停車した電車は一|輛《りよう》残らずこの焼打ちに出遇った。  この騒ぎに護衛兵が一、二発の空砲を鳴らしたが、それでようやく群衆も退去した。  前夜といい、その夜といい、火災が起っても東京じゅうの半鐘は鳴らなかった。これは群衆が火をつける前に、だれから云うともなく半鐘をとり下ろしていたからである。軍隊も出動したが、結局、積極的には行動せず、ほとんど傍観の様子だった。  六日、政府は勅令をもって帝都に戒厳令を布《し》いた。同時に、新聞記事については暴動教唆の記事を同じく勅令をもって禁止した。騎兵もこのときから憲兵となった。  この騒擾《そうじよう》で民衆のなかに死傷者を出した数は約六百人、警官の負傷者は五百人に及んだ。  この騒動で国民大会委員長河野広中をはじめ、小川平吉《おがわへいきち》、大竹貫一《おおたけかんいち》、桜井熊太郎《さくらいくまたろう》、細野次郎《ほそのじろう》など三百余名が検挙された。彼らは兇徒嘯聚罪《きようとしようしゆざい》をもって起訴されたが、公判の結果、いずれも無罪の宣告があった。  このとき穏田《おんでん》の行者飯野吉三郎が河野広中のため司法当局に折衝しているが、飯野が当時東京地方検事局検事正|奥宮正治《おくのみやまさはる》と接触したのはこれからである。それより尾をひいた警保局長|有松英義《ありまつひでよし》への下田歌子に関する平民新聞記事さしとめかたの交渉となったのだった。  奥宮検事正の弟が奥宮|健之《けんし》である。飯野、有松警保局長、奥宮健之の人間関係が隠微な中に生じた。  こうした騒動が起ったのは、その前から講和条約の内容がぼつぼつ国内に洩れはじめて輿論《よろん》を硬化させていたからで、政府ではなるべくこっそり講和条約を締結して適当な時機をみてから条約の全文を発表するつもりだった。この秘密主義がよけいに民心を激昂させたといえる。  なかでも東京帝国大学教授|戸水《とみず》寛人《ひろんど》博士は、さきの開戦論以来、絶えず対露強硬論を唱えてきた。彼は「外交時報」その他の発表機関に自説を書き、口でも講演してまわった。  戸水博士は、前に早稲田大学の講堂で公然、露国征伐論を述べたのを機会に当局から睨まれていたが、講和条約の噂が聞えるようになると、戸水は独自の講和条件なるものを発表した。  それは、談判の場所は日本ですること、予備条約締結までは休戦をしない、その後は条件を付して休戦をすること、講和条件としては、償金三十億円、土地は樺太《からふと》、カムチャツカ並びに沿海州全部の割譲、遼東《りようとう》半島におけるロシヤの権利譲与、満洲の処分は日清両国の決定にすること、またバイカル湖以東の露国守備兵を制限などの主張だった。  戸水博士は、これらのことを講和予備条件として六月十一日に他の博士と相談して決議をしている。これには岡田朝太郎、中村進午、建部|遯吾《とんご》、渡辺千冬などが参加した。  しかし、戸水寛人がひとり学者のなかで急進的だったとしても、彼だけでこの活動はできない。実は彼が開戦論を唱えた当時から強力な背景があったのである。  日露戦争前、ロシヤが満洲から撤兵せず、着々と勢力をひろげているとき、これを憂えて公爵近衛|篤麿《あつまろ》のもとに頭山満《とうやまみつる》、神鞭知常《かんむちともつね》、陸実《くがみのる》などが国民同盟会というのを組織した。これに法科大学教授戸水寛人が真先に参加して、友人の寺尾|亨《とおる》や中村進午博士を誘い、開戦の輿論を起そうとしたのだった。例の七博士の開戦論発表の前にも戸水はたびたび近衛などと会っている。  彼らは集会所を芝の南佐久間町に借りたので、これを「南佐荘」といった。 「南佐荘」を中心とする戸水と同志たちは、首領の近衛篤麿が明治三十七年の正月に死んでからも変ることなく、以後は「城南会」というのを設けて、戦争と外交に関してしきりと意見の交換をおこなっていた。この「城南会」に集まるのが伯爵松浦|厚《あつし》、渡辺|国武《くにたけ》、蔵原惟昶、陸実、寺尾亨、金井|延《のぶる》、中村進午、高橋作衛、ほかに法科大学教授岡田朝太郎、文科大学教授建部遯吾などだった。戸水、寺尾などは早くからバイカル湖以東を割譲させるという論をとっていた。  戸水がこのように主張する背後には、こうした「城南会」の支援があったのだが、三十七年九月に戸水は「アジア東部の覇権《はけん》」と題して、満洲は、北支那の占領、ひいては全支那制覇の足場として絶対にわが領土にしなければならぬ、と力説した。これは文科大学教授大塚|保治《やすじ》博士の大学に設けた時局学術演説会でおこなった講演である。  ところが、この論文は内外の識者の間に多大の反響を与えた。英米露の新聞に転載されたが、殊に清国ではこれを「支那|併呑策《へいどんさく》」ととって漢訳され、十万冊を発行し、異常な昂奮を呼んだ。  このとき文部当局は、山川総長に戸水博士の行動は不穏当だから注意するように伝達した。戸水の言動は、絶えず七博士の開戦論以来当局に注目されていた。  山川は戸水を呼び、 「これは文部大臣から総長を経てあなたに対する訓言であるが、実際は内閣一同の希望であろう」  と前おきして、 「あなたの言論は清国に対して非常な誤解を与えている。自分としても当局の注意があるのと否とにかかわらず、これは事実上外交の妨害となると思うから、このような言論を吐かれるのは決して得策ではないから考慮されたい」  と説得した。戸水もその場では、 「これからは濫《みだ》りに支那人の感情をそこなわないように努めます」  と誓った。  ところが、戸水がさきにあげた講和条件討議のことが新聞に出たので、文部大臣久保田|譲《ゆずる》は山川総長に次のような書状を発した。 [#ここから2字下げ] 「拝啓、然者《しかれば》時局ニ関スル大学教授ノ言論ハ、国際上戦局上影響スル所|不[#レ]尠《すくなからざる》ニ付、十分御注意|相成度《あひなりたき》旨|予《かね》テ得[#二]貴意哨[#一]置候処、本日国際法学会ニ於テ、戸水、寺尾両教授ノ提出ニ係ル講和条件討議|有[#レ]之《これある》趣新聞紙ニ相見候、右ハ目下大事ノ場合ニ於テ、万一ノ行違ヲ生ジ候テハ甚《はなはだ》遺憾ノ次第ニ付、両氏ハ猶《なほ》注意ヲ与ヘラレ、不都合ヲ生ゼザル様御配慮相成度希望致候。 [#地付き]拝具    明治三十八年三月六日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]久保田文部大臣」   戸水事件の発生[#「戸水事件の発生」はゴシック体]  総長山川健次郎は、戸水寛人、寺尾亨両博士の言動に関して久保田文部大臣からの注意を書面でうけとったので、戸水教授へ手紙を出した。戸水は博士連のなかの先頭者だ。山川の手紙は文部大臣からの注意もあったので、今後の言動に十分気をつけられるようにとの文面だった。  しかし、三十八年五月の日本海海戦が勝利に終って講和の機運がきざしてくると、またまた戸水博士らの運動は活溌になってきた。特に六月に入って講和条約の締結が濃くなって、露国側の強硬が伝えられると、戸水は、これに対する意見をいろいろな新聞に発表した。それには戸水のほかにも、寺尾、建部、中村の諸教授などがいた。  六月十一日には「南佐荘」で有志の会合が催されたが、出席者は、戸水、寺尾、建部、中村(進午)、高橋(作衛)、岡田(朝太郎)、立(作太郎)の諸博士に蔵原惟昶らの十人で、主催は松浦厚伯だった。  ここで講和条件について一同は議論を闘わしたが、結局、彼らのいう最小限度の対露要求を決議して新聞に発表することになった。この席では戸水が激しい調子で論じ、講和の時期や条件に関して積極的な意見を述べた。それが会合の翌日、早くも読売、報知、日本、電報の四新聞に一斉に発表された。  政府はこれをみて、再び戸水博士らに対する干渉を決めた。まず、その日のうちに、高橋博士主催の国際法学会で講和条件の決議をすることを文部大臣の名で禁止した。さらに文相は今後、この問題に関しては自粛するよう山川総長から訓戒することを命じた。  そこで山川は、翌《あく》る十三日、戸水、建部、寺尾、岡田、金井の諸教授を総長室に出頭させた。  五人の教授が山川の前にならぶと、山川は静かに述べた。 「諸君が国家を想う赤誠から発言なされていることは自分もよく知っているが、しかし、講和条約のことは今後外交上の問題です。新聞には民間の有志がいろいろとこの問題について発言しているが、帝国大学教授の発言となれば世間の受取り方もおのずから違ってまいります。政府では諸博士の言論が今後の外交上微妙な影響を与えるので、今後、有害と認められる言動は慎んでもらいたいということです。諸君もどうか、この点に留意していただきたい」  黙って聞いていた博士たちのなかで、戸水教授がすぐ身を乗り出して総長に迫った。 「大学には言論の自由というものがあります。したがって、われらが言論をなすのも自由であって、毫《ごう》も政府から干渉されることはないと思います。わたしはしばしば自分の言動についてこれまで文部大臣から注意をうけていますが、これ以上、言論を吐けば、あるいは文部大臣はわたしの帝国大学教授の職を罷免するかもしれません。総長は、この点をどうお考えですか?」 「それは文部大臣のことであって、わたしが大臣の意図を軽々しく忖度《そんたく》して答えることはできません。ただ文部大臣の注意を諸君にお伝えし、総長としてもその点をお願いするだけです」  山川は痩せた身体を椅子に埋め、身じろぎもしないで答えた。 「かりに文部大臣がわたしの言論に干渉して、その故でわたしが職を免ぜられることがあっても、わたしは悔いはしません。もともと、わたしは初めから一身上の事柄は眼中においてないのです。もし、わたしが職を免じられるようなことになれば、総長は適当な人を挙げて後任教授にしていただきましょう」  戸水は昂奮している。  山川は戸水に沈痛な面持で答えた。 「もとより教授が大学を去ることは、大学のために不利益です。しかし、それだけでなく、そのような事態になればほかにも不利益な点をわたしは想像しているが、いまはそれを述べる時機ではありません」  戸水博士は羅馬《ローマ》法の教授である。現在、羅馬法は戸水以外にほとんどこれを講ずる者が居なかった。山川が、戸水教授が大学を辞めるのは大学にとって不利益である、と云ったのはその意味もあるが、そのあと、ほかにも不利益な点を想像するとつけ加えた意味については、具体的な説明がなかった。だが、彼の胸には、もし戸水がその強硬論によって政府から罷免された場合、世論が沸騰し、文部省対帝国大学の対決にもなりかねないと想像していたのであろう。世間は、日本軍の勝利に酔って対露講和条件の強硬論が沸騰しているさなかなのである。  六月十四日、「南佐荘」で決議した「講和条件の最小限度」は都下の新聞に大々的に出たが、文部省は同日直ちに、この会合に出席した教授連に対する訓諭を山川総長に届けた。 [#ここから2字下げ] 「官吏タル者ハ、政治問題ニ関スル言動ヲ慎ムベキハ言ヲ待タズ、殊ニ今日ノ時局ニ関スル大学教授ノ言動ハ、国際上・戦局上影響スルトコロ尠《すくな》カラザルヲ以テ、一層コレヲ慎マザルベカラズ。故ニコレニ関シテハ十分戒告ヲナス旨、サキニ注意スルトコロアリタリ。シカルニ近来ソノ学職員ニシテ、時局ニ関シ不謹慎ノ言動ヲナス者往々ニシテコレ有ルヲ聞クハ甚ダ遺憾トスルトコロナリ。貴官ハ宜シクコノ意ヲ体シ、不都合コレ無キ様コノ際厳ニ訓戒ヲ加ヘラルベシ。   明治三十八年六月十四日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]文部大臣 久保田譲」  山川は、この「内訓」を受取って、政府の真意をたしかめるため、その翌日、文部省に久保田大臣を訪問している。  久保田は、山川を大臣室に引入れて、「内訓」に関する総長の質問に答えた。 「これは文部省がただ大学総長を介して文部大臣の意見を伝えたにすぎません。文部省としては敢えて教授の言論の自由を拘束するつもりもなく、ただ、帝国大学教授の言論はすこぶる重大に受取られるので、これが外交の妨害にならぬよう慎重の態度に出てもらうことを希望したのです」  山川総長はそれに訊《たず》ねた。 「では、教授の言論が外交の妨害となるかどうかの基準をどこにおいてしかるべきものでしょうか?」 「それは各自の判断に待つほかはありません」  久保田文相はそう答えている。  そこで山川は大学に帰り、再び五博士を呼んで文部大臣の意図を説明した。  文相久保田譲が、山川に出した「内訓」は言論の拘束ではなく、もちろん、禁止命令でもなく、いわば単なる訓戒であると弁明したのは、その場の言い訳で、実は文部当局には布石的な下心があったのである。それはやがて分った。  七月十日、戸水寛人は「外交時報」に「講和の時機果して到るや」との論文を発表した。  その内容は、桂内閣が米大統領ルーズベルトの忠告を容《い》れて軟弱な条件のもとに露国と講和を結ぶことを痛撃したものだった。戸水はかねてから、償金三十億円、樺太、カムチャツカ、沿海州全部の割譲、シンガポール以東にあるロシヤ軍艦船の譲与などを主張していたので、新聞電報などで伝えられる講和条約の条件が彼には甚だ屈辱的なものにとれた。折から日本軍は南樺太を占領したばかりだった。  越えて八月二十三日、今度は久保田文相が電話で山川総長に急遽《きゆうきよ》お会いしたいと云ってきた。山川は照りつくような炎天の下を俥《くるま》で文部省に出頭した。  大臣室に入ると、久保田は、 「実は」と、少し云いにくそうに口を開いた。「今回、官庁の都合によって戸水教授を休職処分にすることになったから了承を願いたい」  山川は、文相に呼ばれたときからこの懸念があったので、その申渡しをうけてもさほどにはおどろきはしなかった。しかし、総長は一応文相に反問している。 「官庁事務の都合とおっしゃるが、これは戸水教授の言論が政府の意にさからったことに原因があるのですか。左様にとって、よろしいでしょうか?」 「戸水教授に関しては、これまで再々総長を経て当局から注意や訓戒をお願いしている。そのことと今度の休職処分とはまるきり無関係とは申しませんが、この決定は文部省だけでなく政府全体の意向です」  久保田はそう云っただけで、明瞭な説明は避けた。 「この処置は、わたしとしては少々了解に苦しむところです。官庁の都合によりといえば、この場合、大学当局の都合でということになりますが、戸水博士には羅馬法を講義してもらっています。羅馬法の講義はいま戸水博士を措いて適任者はないので、大学の都合によって休職を命ずる理由は少しもありません。次に、このような処分を文部大臣の権限によって一方的になさるならば、必ず大学教授たちの間に抵抗が起ると存じますが、再考を願えませんか」 「その点は、わたしも文部省に長い間職を奉じてきて、分らないでもありません。しかしながら、この処分は、すでにわたしだけの意見ではなく、本省全体の決定の上に政府の意向でもありますから、総長におかれては戸水教授に納得のできるよう伝えて下さい」  山川は、それから二、三、久保田と押問答をしたが、結局、久保田は、 「戸水教授の休職処分はすでに明日発令することになっており、その手続きも済ませましたから、いまさら変改はむずかしゅうございます」  と、なるべく早くこの会見を打切りたいようだった。  文相の言葉通り、文部省は戸水の休職辞令を八月二十五日付で発令した。 [#ここから2字下げ] 「文官分限令第十一条第一項第二号ニ依リ休職ヲ仰セ付ケラル 東京帝国大学法科大学教授法学博士戸水寛人」 [#ここで字下げ終わり]  ——新聞は、この辞令を報じた。八月二十六日の東京朝日新聞は次の記事をのせた。 「戸水博士が休職となった表面の理由はともかく、その実は講和問題に関することは云うまでもない。元来、七博士諸氏は国家の大事に際して学者の本分としてその所信を公にするに当っては、政府が強いてこれを威圧しようとするのはその意を得ないとして、依然、筆に口にその意見を公表していたので、政府部内、特に元老の立腹はひとかたならず、恰《あたか》も処士の横議《おうぎ》のように目し、博士諸氏を浮浪の徒を取締る予戒令を以てなすべしと放言したこともある。しかし、諸博士はますます硬説を唱えたため、政府はいよいよ持てあまして戸水博士を処分したものである。  ただ、他の同志の博士をいっしょに処分するという議もあったが、それでは国家の体面だけでなく、実際教育上差支えがある場合を考えて、特に最も硬派である戸水博士を処分したものである。  しかしながら、他の博士は、この処分を以て霜を踏んで堅氷到るとして、ますます、その決心を鞏固《きようこ》にしているし、かつ、戸水博士ひとりを犠牲としてそのまま黙視出来ないとの考えを持っている人々もあると聞けば、あるいは他日博士たちの連袂《れんべい》辞職をみるような事態になるかもしれない」  この予想は当ったのである。——  戸水博士の辞令が出ると、法科大学ではすぐに教授会を招集した。教授会には山川総長が呼び出され、教授たちの質問に遇った。 「総長は文部大臣の意図によって戸水博士の休職に同意されたのですか?」  と、一教授は訊いた。 「文部大臣からこういう処分が主務省で決ったから、これを了解してもらいたい、というので、やむなく戸水教授休職の申請をしました」  山川は答えた。 「しかし、それは少々腑に落ちないことです。大学官制第二条には「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具申シ、判任官ニ関シテハ専行ス」とあります。戸水教授はもとより高等官ですから、大臣は総長の具申を俟《ま》たなければ勝手に教授の進退を決めることはできないはずです。また総長たる者は、たとえ上司の命があっても、自己の本心に背いてまで高等官教授の進退を具申することはないと考えますが、総長は戸水博士の休職に本心から賛成されたのですか?」 「いや、本心では決してありません。それはたびたび申上げたように、わたくしの本意ではなかったのですが、文部大臣の意図がかく決定した以上、やむを得ず従ったまでであります」 「総長のご意見が左様なれば、これはあくまでも文部大臣に対して戸水教授の休職に反対していただきたかったと思います。現に大学官制第二条は、大学の自治という建前から明治二十六年に改正されている。実に、このような場合を予想して改正されたのだと了解しています」  山川は、この質問に遇って返事に窮した。  それはその通りであった。  帝国大学制度は明治十九年の帝国大学令で基礎づくりがされたが、二十六年に改正が加えられた。  それは、まず評議会の規定の改正からだが二十五年にこれが行われ、それまで評議官は文部大臣の特選となっていたのを、各分科大学長と法科大学教頭並びに各分科大学教授各一名を以て当て、教授から評議官となる者は分科大学ごとに教授の互選として、これを文部大臣が命ずるというふうになった。つまり、大学自治の実現である。これは現在まであまり変ることなくつづいている。  二十六年には評議会の権限がもっと拡張されたが、評議会のほかに各分科大学教授会の規定も加えられた。その審議事項としては、第一、分科大学の学科課程に関する件、第二、学生試験の件、第三、学位授与資格の申請、第四、その他文部大臣または帝国大学総長より諮詢《しじゆん》の件、の四項目となった。  以上の件に関しては文科大学長の独断専行を許さず、必ず教授会に諮《はか》った上で決行することにきめられた。この教授会の制度は欧米大学の先制を参酌して設置されたが、これより評議会と共に教授会は大学における重要な自治機関となってきた。  次に、この年また「帝国大学官制」が制定されて、総長以下教授、助教授の職制が規定された。このなかで総長の職制中に、「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具申シ、判任官ニ関シテハ専行ス」との一条が入っていたのだ。  いま、法科大学教授会が山川総長に非難の論議を集中しているのは、この条項を楯にとったもので、この「具申権」の規定は大学自治の上から文部省の干渉に対する強力な防砦《ぼうさい》であった。  山川総長は教授たちの質問攻めに遇って、自分の手落ちにはじめて気づいた。  山川も、それが規定の上で改正されていることを知らないではない。だからこそ久保田文部大臣には一応反抗している。だが、山川の頭には従来の慣行がどうしてもこびりついていた。うかつだったといえばそれまでだが、文部大臣の命令は総長が単に取次ぐという気持がどこかに残っていたのだ。  山川のその意識のなかには、帝国大学総長も文部行政官だという観念がなくはなかった。帝国大学が創立されて以来、文部官僚と教授との交流がしきりと行われてきたからである。文部省の役人はしばしば大学教授に移ったし、教授もまたしばしば講壇を去って文部省に入っている。  げんに帝国大学総長からしてそうである。最初の総長だった渡辺|洪基《ひろもと》は衆議院議員となるために去ったが、そのあとは加藤|弘之《ひろゆき》が襲った。しかし、加藤は明治二十六年老齢のため激務に耐えないとしてこれを辞したが、そのあとは大学に縁故の深い浜尾新《はまおあらた》であった。  浜尾は明治三十一年文部大臣に移り、そのあとは文科大学長|外山正一《とやままさかず》が替った。まもなく外山は浜尾のあとをうけて文部大臣に転出し、そのあとを理科大学長|菊池大麓《きくちだいろく》が襲っている。そして菊池もまた三十四年に総長から文部大臣に移っている。  このようにながめると、東京帝国大学の総長は何度か更迭されたが、総長から文部大臣に移るというコースが不文律化したために、帝大総長は大学の行政官なのか、文部省の行政官なのか、少なくとも山川の意識にはそのへんの区別があいまいになっていた。山川がうっかり久保田文相の戸水教授休職の命令を大学に持ち帰ったのは、そうした安易な気持が根を張っていたからである。  山川は法科大学教授会で自分の非を認めて謝った。  総長を謝らせた教授会では、ここに一致して戸水教授擁護に起ち上がり、政府と正面から対決することに決めたのである。——  戸水教授休職処分に対し、帝大法科大学教授連は結束して文部省に抗議書を提出した。教授たちは法科大学の機関雑誌「国家学会雑誌」十月号で、ほとんど全教授や助教授を総動員して、権力の濫用、言論の自由、学問の独立などを主題として執筆した。京都の帝大法科大学もこれに倣った。  山川総長は、この情勢から教授団を援けざるを得ない立場におかれた。山川は文部省から押しつけられた戸水教授休職処分を鵜呑みにした誤りを自覚している。その上、こうまで激しくなった教授たちを宥《なだ》めることも不可能になった。総長は、ここに文部省と教授たちとの板挟みとなった。  山川は、八月末の蒸し暑い夜、妻も寄せつけないで一室に閉じこもって辞表を書いた。戸水の休職処分が発表されてから一週間目だった。このことは妻も知らない。  八月三十一日、山川は家から書生たちに見送られて人力車に乗り、文部省へ向った。  街には号外の鈴が鳴っている。車夫に買わせると、大きな活字が次のように出ていた。 「償金無し、樺太分割。——(三十日ポーツマス発)本日の会見にて平和の望み確実となれり。しかし、わが国より或る物を譲歩したとの説高し。ウィッテは、樺太半分の割譲並びに俘虜《ふりよ》給食費の弁償を承諾すべきも、これ以上は少しも譲歩せずと反復宣言せり。談判の前途は暗澹たり」  山川は号外をていねいにたたみ、ポケットの中に入れた。彼の顔も暗くなる。講和条約がこんなかたちで締結されるだろうとは、前々からの新聞電報で予想されたところだった。しかし、現実にこう明瞭になってくると、またまた戸水博士らの反対運動は激しくなる。戸水休職処分問題は、ますます文部省とこじれてきそうであった。  文部省にゆくと、久保田大臣は他出中とのことであった。山川は次官|木場《きば》貞長を次官室に訪問した。 「講和もだいぶん大詰になってきましたな」  と、木場次官は山川に会うとのんきな顔で云った。 「実は、木場さん、大臣がおられたらお目にかかってお渡しするのですが、おられないのであなたにお預けします。大臣がお帰りになったらお手渡し願います」  総長はうすい上衣の内ポケットから封筒をとり出した。  木場次官が何気なく見ると、表に「辞職願」とある。次官はおどろいて山川の顔を見たが、 「とにかく、わたしが拝見します」  と、なかを開いた。大学の罫紙用箋《けいしようせん》に毛筆で一字一字正確に、 [#2字下げ]≪私儀|爾後専《じごもつぱ》ラ貴族院議員トシテ国家ノ為ニ尽力|致可《いたすべ》ク、依ツテ帝国大学総長ノ職ヲ辞任致度ク此段御届ニ及候也≫  と書いてあった。木場次官は読み下して、また元の通りにたたんで封筒のなかに収めた。それは前のテーブルの上に置いて、 「たしかに大臣が帰られたらお渡しいたします。それまでわたくしが預かっておきます」  と、さっきの気軽さとはうって変って慇懃《いんぎん》に云った。木場はそのあとでつけ加えた。 「総長、これは大臣にお見せするまではたしかにわたくしがお預かりしたのですが、どうも、こういうことは困りますな。これは自分の私的な希望ですが、いま、あなたが帝大総長をお辞めになることは文部省としてはたいへん困ります。それこそ法科大学の先生がたはますます文部省を攻撃なさるでしょう。なんとか思い止まっていただけませんか」 「いや、木場さん、わたしの気持はもう決っているのですよ。法科大学の教授が今回戸水教授の休職問題で主務省を攻撃したのは、もとはといえばわたしの不徳のいたすところです。その責任は十分に感じていますから、大臣にはわたしの固い辞意をご披露願います」  そう云ったまま山川は口をへの字に結んでいる。木場次官も仕方がないから、 「では、後刻、大臣のお手もとに差出しておきます」  と山川の起ち上がるのを傍観していた。実は法科大学の情勢を知りたかったのだが、山川から辞職願を出されてはそれも聞けなかった。  久保田文相は本省に帰って木場次官から山川の辞職願を受取った。彼は顔色を変えて、すぐこれを桂首相に報告している。東京帝大法科大学が公然と文部省に刃向っているのだ。この上、山川に総長を辞められたら、騒動はどこまでゆくか分らなくなる。  久保田文相は、その翌日、山川を文部省に呼んだ。 「総長、なんとかこれだけは思い止まっていただけませんか」  と、久保田は昨日出された山川の辞表を前に置いた。 「いえ、どうも、わたくしとしてはよほど決心した上でのことです。帝大総長の重責はひとより自分のほうがよく自覚しております。その職を辞めるのですから、十分に考えての上です。どうかお聴き届けを願います」 「困りますな、山川さん」  久保田は考えていたが、 「多分、あなたの辞意は、戸水教授の休職問題からそのご心境になられたことと思いますが、あなたに思い止まっていただくにはどうしたらよろしいでしょうか?」 「左様」山川はすぐに云った。「文部省のほうで戸水教授の休職取消しをなさるのが一ばん良策だと思います。そうなれば、わたくしもこの辞表を撤回し、その職に留まって教授たちをなだめましょう」 「それはどうも難題ですな」  と久保田は首をかしげ、言葉をついだ。 「戸水教授の休職処分は、ご承知の通り、文部省として再三の訓戒を戸水さんに出したにかかわらず云うことを聞いて下さらない。それで、遂にあの処分を出さざるを得なくなったのですが、いま、ここでそれを撤回すれば、これは文部省の面目、いや、政府の面目にかかわりますでな」 「ごもっともです」  山川もそれにはうなずいた。 「それでは、大臣、こういうことはいかがでしょうか。戸水教授は、わが法科大学では唯一の羅馬法の講座をもっている人です。戸水さんが辞めてはあとを継ぐ者がいない。そこで、とりあえず一応、講師を嘱託し、次に教授に任命するという案はいかがですか?」 「講師ですか」  久保田はまだ考えている。それをみて山川は強く云った。 「これがわたくしの考える最小限の希望です。これを容れていただかなければ、わたくしとしてはとうてい法科大学教授を統率することはできません。もし、文部省で戸水さんの講師をお認めになるなら、及ばずながらこの山川が極力尽力をいたしましょう」  総長は語をついだ。 「大臣、現在の情勢は、この前、大臣とわたくしとが戸水教授処分問題のことでお話ししたときにあらかじめ申しあげたことです。不幸にしてわたくしの予言が当りました。ですから、もう一度申しあげたいと思います。戸水教授を教授に復職させないなら、法科大学だけの問題ではなく、ことは帝国大学全体にも及び、また現在のなりゆきからみて京都大学もこれに同調してくるかも分りませんぞ」  久保田は困った顔で聞いていたが、決断がつかない。 「たとえ講師であろうと、いったん処分で辞めさせた教授を採用することは文部省の面目まる潰《つぶ》れですからな」  と呟いていた。 「しかし、主務省のほうが面目にばかりこだわっておられると、この先とり返しのつかないことになりましょう」 「戸水博士のことはともかくとして、山川さん、われわれとしてはあなたの辞職を何とか思い止まっていただきたいのですがね」  久保田は問題の核心にはふれず、ただ山川の翻意を希望するだけだった。 「私のこの考えをお容れにならないなら、再三申しあげるように、私としてもこれ以上総長の職に留まることはできません。よろしくご勅許の手続きを願います」 「わたしのほうでもよく考えてみましょう。しかし、総長、この辞職願は当分わたくしが預かるとして、まだ決定はいたしませんよ。それで、たいへんご苦労ですが、決定まではこのことをほかにお洩らしにならないで事態の収拾をお願いします」 「辞令が出るまでは山川はその職にあるのですから、全力をもって努力したいと思います。他人にも絶対に洩らさないことはもちろんです」  総長は椅子を起った。  久保田からこの報告をうけた桂はこと重大とみたか、一日経って山川を首相官邸にこっそり招いた。このときは久保田も同席していた。 「山川さん、あなたの辞職願はたしかにお預かりしたが、何もおっしゃらないで、これをそちらに収めていただけませんか」  と、桂は微笑を浮べながら山川の封筒を前に出した。 「ニコポン」とあだ名された長州出身のこの首相は、講和条約問題で苦労している最中なのに、ふくよかな顔できわめて愛想よかった。 「総理閣下、わたくしの辞意は文部大臣に申しあげたように固い決意から出ております。そうおっしゃられるだけでは困ります」  山川は「古武士のような風貌」といわれるその枯れた顔に眼ばかり光らせている。 「しかし、総長、あなたが辞められると、教授たちはいよいよ文部省の攻撃に騒ぎ出しますでな。それでは久保田君が困る。わたしも困る。政府としてもご承知のような民間の講和条約反対運動に手を焼いている際です。このうえ帝大教授の騒ぎが激しくなっては、世間に対して火に油を注ぐようなものですからな。国家の大事に際して、これはひとつ考え直してもらえませんかな」  山川は、国家のためということはよく分るが、とうなずき、桂に対しても、唯一の解決策として戸水博士の教授復職を前提とした講師依嘱案を持ち出した。  ニコポンの桂も久保田と顔を見合せたが、 「そのことはですな、山川さん、久保田君からも聞きましたが、久保田君も云うんです。今度の休職はいわば戸水さんの言動に対する懲戒的な意味の処分ですから、ここで戸水さんを講師にし、つづいてすぐに教授にするというのは、たとえ羅馬法の後継ぎがないというような理由があるにしても、文部省の面目にもかかわるというんです。わたしもその意見なんですよ。もっともなことですからな」 「総理、主務省の面目だけに拘泥されていたら、火の手は決して収まらないと思います。したがって、わたくしもこの職に留まることは不可能でございます」  桂の山川への説得も成功しなかった。  これは当然で、実は戸水の休職は久保田文相の独断ではなく、むしろ桂の意志から出ていた。久保田はただ桂の云うことを実行しただけである。だから、山川が持ち出した戸水処遇案への反対も、久保田よりも桂の意志だったのである。  山川の辞表は当分の間だれも知らなかった。その妻は、彼が辞表を提出後十数日経って、はじめてこっそり夫から打ち明けられた程度だった。むろん、他の帝大教授たちには知らされなかった。  しかし、戸水の休職処分によって、当然、他の六博士の態度が注目された。戸水は七博士の先頭として対露強硬論を吐いたのは事実だが、それが文官分限令によって休職となるなら、六博士もそれから逃れることはできないと思えたからだ。  六博士といっても中村進午は宮内省管轄の学習院大学部の教授で、文部省の外だ。しかし、これは今度大学部が廃止されたので自然と中村博士も辞職のかたちとなった。だが、他の五博士は文部省の所管である。事実、文部省でも戸水だけは処分したものの、この五博士の進退に対してはすこぶる処置に当惑していた。  そのなかで寺尾亨博士は、 「政府は、もはや、文官分限令でわれわれを処分することはできない。われわれを処分しようとすれば、ぜひとも懲戒令によらなければならない。この懲戒令はいろいろな証拠物件を必要とするので時日を要する。もし、政府がわれわれを懲戒委員会にかけるとするなら、条約批准後の人心がやや平静に戻ったのちであろう」  と昂然としている。  これに対して言論界の反応は、たとえば、鳥谷部春汀《とやべしゆんてい》の次の穏当な意見に代表されよう。 「博士たちは学問の自由というが、およそ学問の自由は、信仰の自由と同じように、また一般の言論や集会の自由と同じように、決して絶対無限のものではない。いやしくも国法を破り、もしくは国家の安寧秩序を妨げるおそれがあると認めるときは、たとえ大学教授の言論でも、政府はこれに適当な制裁を加えることができる。もし、これを聞かなければ、さらに合法の処分を施すことができる。これすなわち、国家ありて学問がある。学問ありて国家があるのではないからである。ただ、問題は、その言論が果して国法を破り、もしくは国家の安寧秩序を妨げるおそれがあるかどうかの判断だが、いわゆる七博士の言動に対する政府の断定は必ずしも正鵠《せいこく》を射たとはいえない。けれども、われわれは同時に大学教授らが唱えている学問の自由論にも容易に賛成することができない。何となれば、彼らの主張は学問の自由を以てほとんど絶対無限なものであるというにあるからだ。  大学の独立は希望としては甚だよい。しかも、現在の帝国大学がまだ純然たる独立の位置にないのも現実としてどうしようもないことである。というのは、大学の独立はまず大学自体の経済の独立をもたなければならないからだ。しかるに帝国大学は、その資を国庫に仰いでその経費を維持しているがために、その興亡存廃を決するの権力はなお政府の手にありといっても過言ではない。それだけでなく、現行官制は帝国大学をして文部省直轄の下に立たしめ、その総長は文部大臣の監督を受けしめ、その教授の身分待遇はすべて政府の官吏に準じていることをみても、大学教授だけがひとりその天職の高いのを理由として、どのような場合でも政府の干渉を拒絶できると主張することはできない。  彼らは、大学教授の言論が政府の政策に背馳《はいち》する理由を以て濫《みだ》りにその地位を奪い、これに休職を命ずるがごときことがあれば、大学教授は政府の頤使《いし》するところとなり、大学の独立を侵害するの処置になる、と主張する。けれども、すでに大学教授もまたひとしく政府の官吏である以上、いきおい官紀の支配を受けなければならない。これは国法の命ずるところである。つまり、大学が完全な独立の位置を有しない限り、とうてい政府の権力の侵入を防ぐことはできないのである」  総長山川健次郎が、さきの久保田との最初の会談で、戸水教授の休職処分をうかつに引きうけたのも、こうした「政府の官吏」「官紀の支配」意識があったからであろう。  ところが、数日経って文部省では山川総長の要求を容れて、ひとまず戸水博士の法科大学講師を承諾し、羅馬法講座を担任させる旨の発令をした。つまり、ことが重大化したとみて桂も久保田も山川に妥協したのである。  これはひとまず効果があった。戸水が講師として事実上復職をしたのだから、他の法科大学の教授の山川に対する感情もやや宥和《ゆうわ》された。それまでは政府の不当な干渉に同調してきた山川総長にも強く反撥していたのである。  しかるに矯激なる戸水は、またもや金井、寺尾、岡田、建部、中村の五博士を誘って連署し、講和条約拒絶の上奏文を宮内省に提出した。 「……陛下が此《かく》の如き条約を嘉納せさせたまはざる可きは、臣等のひそかに確信するところにして、陛下の赤子《せきし》が共に仰望する所なり。然るに或は妄見《まうけん》の存するあり、或は信を万国に失ふを以て辞と為し、或は内外の事情を以て説と為し、今次の条約を以て、万|已《や》むを得ざるに出づと為し、以て陛下の聡明を蔽《おほ》ひ奉らむと擬する者なきを保せず。それ条約の批准が法律の裁可と均《ひと》しく許否の自由を存するは、之を国際の法理に照して明《あきら》かなり。若《も》し国家の元首は大臣の締結したる条約を必らず批准せざるべからずとせば批准は則ち無用の長物のみ、いづくんぞ国際法に於いて此の如き無用の長物を設くるの理あらんや。凡《およ》そ批准の拒絶し得べきことは之を普通の学理にかんがへ、之を幾多の実例に徴して、昭明的確また一点の疑《うたがひ》を存せず、而して此事|毫《がう》も元首が、予《あらかじ》め条約の内容を熟知せると否とを問はざるなり。……」   山川総長免官[#「山川総長免官」はゴシック体]  日露条約批准拒否を上奏した六博士は、戸水寛人のほか、金井延、寺尾亨、岡田朝太郎、建部遯吾、中村進午の諸博士となっている。戦争前、日露開戦の建議書を政府に提出したときは、戸水、中村、金井、寺尾、高橋(作衛)のほか、富井政章、小野塚喜平次の七博士だった。  明治三十八年の上奏文では、三十六年の開戦論当時の富井、小野塚、高橋の三博士が退き、建部、岡田の二博士が入っている。戸水に云わせると、上奏文の六博士こそ実際の対露強硬論の学者だという。  富井は開戦論を献策した当時、寺尾に向って、「高橋君ならもう少し温和な建議書を書くだろうと思っていた」とこぼしたという話がある。また、小野塚も、開戦建議書が世間に発表されたあとは戸水らの会合には出なくなった。高橋、富井、小野塚は当時から、七博士のなかでは、穏健派|乃至《ないし》は消極派だったのである。三博士が上奏文に参加しなかったのは三十六年ごろからの態度だ。  一方、新しく加わった建部遯吾は当時から積極論者で、三十六年に戸水ら七博士が建議書を桂首相に出したのちも、別にひとりで建議書を桂に出そうと思ったほどであった。このことは案外世間には知られていないと、戸水はその回顧録で書いている。彼はその中で、 「小野塚博士去リテ建部博士来レリ。来ル者ハ之ヲ拒マザルノミナラズ又大イニ之ヲ歓迎セリ。去ル者ハ之ヲ引止メント欲シタルモ遂ニ果スコトヲ得ザリシハ甚ダ遺憾ナリ」  と述懐している。ともかく七博士の建議書当時から、戸水を強硬論の最右翼とすれば、小野塚はその最左翼だった。戸水と小野塚は「両極端」だったのである。  小野塚が、戸水と「対極」的な温和論を抱いていたのは彼の性格によるというほかはない。小野塚は大学教授が政局についてこのような激しい建議をすることにかなり懐疑をもっていたようである。懐疑というよりも遠慮があったといったほうがいいかもしれない。よくいえば、学問の場から踏み出した学者としての反省であり、意地悪い見方からすると、文部省に対する彼の卑屈ともみられないことはない。小野塚は、七博士事件で文部省が山川総長を介して干渉してきたとき、一時は大学教授を辞めて政治家になろうとさえ決心したことがある。  もともと、小野塚は帝大を卒業するとき抜群の成績だったため、時の首相伊藤博文から秘書官になるように誘われたものだった。そのあと山県が首相のとき、今度は内閣参事官になるよう勧誘された。彼は青年時代の理想が民衆政治家にあったと語ったということだし、博文の秘書官のことも多少未練はあったらしい。  だから、七博士に文部省から山川総長を通じて注意があると、彼は学者をやめて政治家への転向を考えた。しかし、岳父の石黒|忠悳《ただのり》に相談したところ、石黒は、政界で活躍するには第一に彼の健康が許さないこと、第二に、選挙となれば山間|僻地《へきち》を歩き回って政見を述べ、選挙民の支持を得る苦労のほか、選挙民の歓心を買うためには日ごろの主義主張に反することも敢えてやらねばならないことなどを説いて断念させたのだった。  それくらいだから、上奏文のときは小野塚は当然に参加しなかった。  その小野塚は戸水の休職処分では弁護をしているが、その前文にこう書いた。 「戸水教授は東京帝国法科大学で羅馬法の担任者であった。その学問に忠実で造詣の深いことは既に人の知るところだが、性格は真摯《しんし》で挙動明快である。常に多方面の興味を持ち、殊に東亜の問題に関しては多年専心研究している。その言論は概して放胆であるために往々温和な人士の忌諱《きき》に触れるようなことがないでもなかったが、その議論は決して一場の座談ではなく確乎たる定見に基づいていたことは、同教授を知る者は斉《ひと》しく認識するところである。自分は必ずしも戸水教授の意見に敬服し、同教授の行動を称讃するものではないが……」  以下、小野塚の戸水擁護論は、当局の戸水に対する処分問題からはなれて、大学の自由擁護という名分的な立場でなされている。  それはあとにも関連させることとして、とにかく、右の小野塚の儀礼的な文章でも戸水の性格を「放胆」とし、自分も「その行動を称讃するものではない」と明言している。  従来、戸水はその奇矯な言動でたびたび学界の話題に上っていた。  戸水は助教授時代にイギリスに留学したが、官命は英国法律研究にあった。しかし、彼がミドル・テンプル(法学院)での講義に出席したのは六年間の在学期間中僅かに二時間だけだったという。あとは日夜書斎に引きこもり、政治、経済、文学、哲学などの書を渉猟して耽読した。専門の法律学のほうは独学で修めた。つまり、百科事典式の勉強をしたわけである。二時間の聴講も、ただ学位を取れるかどうかの瀬踏みのため出席したと本人はいっていた。  英国からドイツ、フランスをまわって帰ったが、東京帝国大学では彼に羅馬法の講座を頼んだ。これは戸水にとって寝耳に水で、羅馬法のために留学中もそれほど勉強したのではなかった。羅馬法はラテン語をたくさん知っていなければならない。しかし、戸水の博学は俄《にわ》かに押しつけられた羅馬法の講義をも無事にこなしてゆけたのである。  その上、法典調査のために富井政章博士が多忙だったので、戸水は富井の民法講座も兼ねて持たされてしまった。ところが、彼の民法講座はすこぶる好評を博した。こういうこともやはり留学中の百科事典式の雑学が役立ったらしい。  戸水は、富井に代って民法を代講しただけでなく、穂積|陳重《のぶしげ》が万国東洋学会に参加するためローマに出張すると、戸水はまたもやその代役として法理学講座を担当した。これも好評だったのである。民法といい、法理学といい、その応援講義が本尊を凌《しの》いで学生に人気があったのも、やはり彼の百科事典式勉強の広さからきている。戸水は法理学の講義で、ギリシャ、ソクラテスの知徳合一説から近世カントの批判説に至るまで、純正哲学の深遠な哲理を滔々《とうとう》と講じた。それで、当時ただ権利義務の卑近な法律論しか知らなかった法科大学生を煙にまいたのである。  彼のそうした雑学的趣味は学生時代からあったらしく、或るとき、学生同士が集まって毎週一回演説会を催したことがあって、その演説の順番が彼に当った。戸水は準備していなかったので断わると、ほかの者が会則に違反するといって承知しない。ただ一言でもいいから何か云えというので、彼はやむなく壇上に登った。そして、恥ずかしそうにはじめた演説が「日本人種はメキシコに出《いで》たるの説」という奇想天外な題だった。  しかも、その説くところ、人類学、考古学、言語学にわたって一時間あまりも述べ、当日の演説中では白眉だったという。日露の風雲が怪しくなると、彼は大学図書館の中で「亜細亜《アジア》」という文字のある本は一冊も残さず全部読破したという評判だった。当時、戸水を評する者は、その大言壮語癖、奇矯な行動から彼を「法科大学の壮士」だと云った。それで、戸水が日露開戦論で建議書を出すと、「雇われ壮士」が倉皇《そうこう》と国家の危急に赴いたみたいだと揶揄された。  この戸水と開戦論から上奏文に至るまで一致して行動した一人の寺尾亨博士は、戸水とも性格的に似てなくはない。寺尾は司法官の出で、明治十七年に司法省法律学校を出ると、すぐに横浜地方裁判所判事となった。六年ほど判事を勤めて大学教授に転じたのだが、この六年間の判事生活がその法理論を現実的なものにさせた。もともと、法律学は人間の実際生活の規範を定めるのだから、抽象的な空理論だけ研究してはその真髄をつかむことができない。或る程度まで実際問題の解決に処して、その理論の変化と応用とを味わわなければならない。その点、寺尾の法理論は現実に即していたことで評判で、議論も警抜で人をおどろかしたといわれる。彼はまた国際法も担任したが、この傾向は変らなかった。  国際法といえば、戸水も同法を講じたことがある。しかも、その蘊蓄《うんちく》は尋常専門学者を超えていたといわれる。戸水の博学は気味悪いほどだった。それくらいだから、戸水の専門の学問は一体何なのかだれも分らなかった。訊いても、本人も知らなかったという。  だが、戸水がどこまで高い学問に達していたかは疑問である。戸水が学生のとき大学選科から本科に移る際、漢文学の試験を受けたことがある。文学部教授内藤|耻叟《ちそう》試験委員が「伯夷《はくい》列伝」を彼に示して、その素読と講釈を命じた。戸水は、その本を持って一瀉《いつしや》千里に朗読し、その講釈をはじめようとすると、内藤委員は手をあげてそれを止め、もういい、と云って及第点を与えた。  のちに戸水が内藤に遇ったときその理由を訊くと、内藤は「君のように早く読まれては聞いているほうが骨が折れるから」と答えたという。つまり、戸水は本の中の訓点に頓着せず、流れるように朗読し去ったので、内藤も彼の学力を知ったということだが、実際は煙にまかれたのが真実だという。後年の戸水寛人が政治家になったのもふしぎではない。  ——さて、文部省側では、その戸水寛人がまたもやほかの五博士を語らって軟弱条約の批准を天皇が拒否するよう上奏文を出したので、態度を再び硬化させた。  久保田文相は、山川総長を文部省に呼びつけた。  山川が会うと、久保田は苦りきっている。 「総長、どうも戸水さんには手を焼きますね」  と云った。もちろん、上奏文のことだった。 「文部省としてはせっかく総長の要請があったので、戸水さんには講師として大学に復帰を願うことになって、その決定があった矢先に今度のことです。二年前は内閣に出された建議書ですが、今回は上奏文ときている。これは前回と違って容易ならぬことです。殊に政府は今度の条約を国民に反対されて、その対策に腐心している際、帝国大学教授がそうした国民の間違った感情をさらに煽るような上奏文を出されては全く困却します。戸水さんは文部省の意向が十分わかっていながら、どうしてわざわざこんな政府を困らせるようなことをなさるんでしょうね?」  山川もすぐには返事ができなかった。彼にも、もう戸水を制御する自信はなかった。久保田大臣はつづけて云う。 「それで、この前から総長が云われていた戸水さんの教授復職のことですがね、われわれとしては戸水さんを講師に委嘱したことだけでも大きな譲歩と思っています。この上さらに教授にしたいというあなたのご希望はまず見込みがないということを申しあげたいんです」 「戸水さんが上奏文を出されたことについては、前回同様注意はいたしますが、それを以て私は戸水さんの教授復職を断念することはできません。戸水博士の教授復職はあくまでも私の強い要望です。もし、これが絶対に望みがないとおっしゃるなら、私としてはさきにお手もとに出した辞表の許可を速やかにしていただくほかはないと思います」 「ご趣旨はよく分りました。しかし、折角、総長のご希望ですが、文部省としては戸水博士の教授復職はますます困難になったと申しあげるほかはありません」 「すると、わたしの要望は絶対に駄目だということですか?」 「まあ、そういうわけです」 「では、辞職のことをなるべく早くお決め願います」 「そのことでは桂首相にも配慮があるようです。まあ、もう少し待って下さい」  久保田は戸水博士を教授に戻す山川の希望ははっきりと断わったが、総長の辞職のほうははっきりとさせなかった。  十一月に入ってから、山川はまたもや久保田大臣に面会している。  このときも山川は、戸水の復職の可能性を問いただした。久保田は、戸水を講師に委嘱したことで一応大学側の希望を容れたのであるから、これ以上教授の復職は困難である、と最終的な決定を回答した。  そこで山川は、さきに自分の提出した辞表の受理方を頼んだ。久保田大臣は、 「閣僚一同はあなたの辞職をやむを得ないと認めました。それで、わたしもやむなく認めるよりほかに仕方がないでしょう」  と答えた。閣僚一同の意見というよりも桂首相の考えであることはいうまでもない。 「それでは、いつごろ発令になりましょうか?」  山川はほっとした顔色で訊《き》いた。 「多分、来月に入ると思いますが、何しろ後任総長の決定もしなければならないので、それまではどうか従前どおり大学のほうをみていただきとうございます」  山川は、もちろん、発令があるまではそれが当然の義務だ、と答えて大臣室を出た。  山川は、その足で前総長の浜尾新を訪問して、彼だけには一切の事を打ち明けた。浜尾と山川とは親密な間柄である。山川の話を聞いて浜尾も顔をしかめた。日ごろ饒舌家《じようぜつか》の浜尾もこのときばかりは言葉が少なかったが、彼が云うには、 「久保田がそう云ったのは、文部省でも戸水君を講師に復職させたことで教授連の昂奮がおさまったものと判断したからだろう。つまり、君の辞表が出された八月では、それを受理すると大学に騒ぎが起る。そこで、ほとぼりの冷めるのを待っていたのだろうな」  との解釈だった。次に浜尾は目下の学内の動向を訊いたので、山川は、 「戸水さんの講師復職でともかく表面は収まっていますが、今度自分の辞職が発表されると、教授たちは、それを以て文部省が戸水問題に責任をとらせてわたしを辞めさせたと考えるかも分りません。そうなると多少厄介なことになりそうですが、その点は後任の新総長の手腕にお願いするほかはないと思います」  と答えた。浜尾は、 「久保田君の意中は、後任総長に農科大学長の松井君を持ってくるらしい。松井君で収まるかどうか不安だね」  と云った。  しかし、山川は、それからも平日どおり大学に出て執務をしていた。それで、教授も職員もまだ辞表の事実を知らなかった。が、十二月二日になってとうとう文部省から「依願免本官」の辞令がきた。  このとき山川は妻の鉚子に、これでやっと安心した、と云ったが、しかし、大学に何事もなければよいが、と心配そうであった。  明けて三日、山川総長の免官辞令が発表されると、初めて知った各分科大学の教授たちは動揺した。わけても浜尾新、菊池大麓の両元総長がその日の朝、山川の私邸にきて事情を聞いて帰った。事務官中村恭平もそのあとにくる。次には法科大学長|穂積八束《ほづみやつか》が俥で乗りつけてきた。  穂積八束は山川に会うと、まず免職の理由を問いただした。だれしも戸水問題に関連していることは分りきっているが、穂積は山川の口から確認を求めたのだ。山川も仕方がないから、初めてこれまでの経緯《いきさつ》を話した。  穂積八束は黙って聞いて帰ったが、文部省がこのように露骨な干渉を大学にするに及んでは、とうてい学長の地位に留まることができないとして辞表を書き、即刻文部大臣の手もとに提出した。これを聞いた兄の穂積|陳重《のぶしげ》も四日の朝、同じく辞表を提出している。  もともと、穂積陳重は戸水が休職後に久保田大臣に対《むか》い、この事件に大学総長を巻込んではならないと勧告したことがあった。それにもかかわらず今度山川総長を免職させるに及んでは自分も安んじて教授の職に居られない、というにあった。  この情勢をみて各分科大学の教授たちは、山川免官の報が新聞に発表された四日の午後大学に集まり、各分科ごとに教授会を開いた。彼らはいずれも山川を免職させた久保田文部大臣の干渉を憤慨すると共に、後任の松井新総長に対しては、その人物力量の点で少なからず不満を持ったのである。  四日午後、山川健次郎は新総長農学博士松井直吉に事務引継ぎをして帰った。松井は農科大学長だが、本来は農芸化学の講座を受持ってきた。その松井新総長が教授連の会議が開かれているというので、何気なくその部屋に顔を出すと、集まっている一同から忽《たちま》ち退場を要求された。  十二月四日の午後から始まった法科の教授集会には、さらに文科、医科、工科、理科の各教授、助教授などが合流し、会場も学内の山上会議所で開かれた。  問題の寺尾、金井、高橋など、いわゆる七博士組は、その日の昼には、すでにそれぞれ松井直吉新総長の手もとに辞表を提出している。  山上会議所に集合した各科の教授、助教授は百名以上にものぼった。協議は夜に入ってもつづけられ、会議所内の明るい電燈は窓辺の枯れた立木を白々と映し出していた。  まず、松井新総長の辞職勧告が決議された。各科の有志教授二、三名の代表が総長室に控えていた松井直吉を訪ねている。 「ごらんのように、この度の問題で、大学はまさに全教授の総辞職に至るような危機に直面しています。もとより、これは新総長の責任ではなく、すべては久保田大臣の処置が誤ったことからきていることで、新総長にはまことにお気の毒ですが、事態がこのようになった以上、もはや、あなたの総長辞職を実現しなければ解決の見通しもつかない状態です。このへんをお察し下さって、ひとえに善処を願います」  松井も昼間に教授たちの会議をのぞきに行って追放されているので事態の緊迫は分っている。それに、自分の総長としての衆望がないことを知っている。しかし、松井は、一応、この辞職勧告を断わっている。 「学内の状態は自分としてもまことに心配しています。わたしが総長を辞めれば事が解決するようなお言葉ですが、わたしは文部大臣から任命されてこの職についたばかりです。いま諸君のお勧めに従って、簡単に左様なれば辞めましょうという一存にもまいりません。いずれ、文部大臣と相談をした上でわたしの処置を決めたいと思います」  代表は、これを会議所に待っている教授たちに報告した。一同は松井総長の回答を誠意なしとして憤慨した。そこでまたいろいろな議論が出た。結局、もう一度使者は松井総長を訪れることになる。 「総長のお言葉を一同に伝えましたところ、遺憾ながら全員承服をいたしません。もし、あなたが総長の地位に固執なさるならば、これからどんな事態が起るやも分りません。文部大臣の承認がなければ自分の処置は決められないとおっしゃるのは一応ごもっともですが、それは平常の場合のこと、今日の非常事態では一刻も早く辞職のご決意を表明なさるのが、学内に平和をもたらす最良の方策だと存じます。もし、このことがお聞き入れになれなかったら、あなたに対する全教授の非難が集中し、あなたのために惜しむべき結果となりましょう」  代表がこう述べる間、松井は面を伏せてじっと考えていたが、 「分りました。わたくしが総長を辞めれば大学のためになるとおっしゃるなら、即刻文部大臣に辞表を提出することにいたします」  と、沈痛な声で回答した。  代表は、これを山上会議所に待っている百余名に報告した。しかし、松井総長の辞職だけではもとより解決にはならない。百余名の協議は昂奮のうちに重ねられたが、強硬論が続出するばかりだった。学内の夜は更けてゆく。  理科の田中館愛橘《たなかだてあいきつ》教授は起って、 「自分は学問の独立のために今回のごとき事件が起ったのはむしろ喜ぶべきことだと思う。大学はこの機をもって独立を完全に獲得し、将来のためにその鞏固《きようこ》をはからねばならない。われわれはここで奮励一番すべきである」  と、勇壮な演説をした。  協議は数時間もつづいたが、その結果、三箇条が決議された。  その一はまず、ここに集まった教授たちから文部大臣に抗議書を提出し、また総理大臣にも警告を発する。次に、各大学学長、評議員から文部大臣に辞職を勧告する。そして、以上二つの目的が達せられないときは、ここに集まった教授全員が即刻いさぎよく辞職する。——こういうことを決めた。  すでに寺尾、金井、建部、高橋、岡田の諸教授のほか、小野塚喜平次の辞表提出、講師の戸水寛人博士の辞表と法科大学は全滅状態に陥っている。それで、この二つの決議要求が政府に容れられないときは、東京帝国大学全教授の総辞職は必至となった。  そこで、文部大臣に対する辞職勧告と総理大臣への警告文を起草するため、三名の委員を選出することになった。その結果、高橋作衛が筆を執り、梅謙次郎がその内容を審査し、文学博士|三上参次《みかみさんじ》が字句に手を入れるという慎重さになった。  出来上がった抗議文は久保田文相に対する覚書として、このように決定された。 [#ここから2字下げ] 「謹ンデ久保田文部大臣閣下ニ白《まう》ス、本年八月廿四日、東京帝国大学法科大学教授法学博士戸水寛人氏休職ヲ命ゼラレ、越エテ五日即チ八月末日、前東京帝国大学総長理学博士山川健次郎氏辞表ヲ閣下ニ呈セリ、閣下ハ之ニ関シテ、一方ニハ慇懃《いんぎん》ニ其辞ヲ翻サシメント勉《つと》メテ其ノ熟考ヲ要求シ、他方ニハ久シク其ノ辞表ヲ留置セラレタリ、然ルニ閣下ハ去ル十二月一日ヲ以テ突如トシテ山川前総長ヲ東京帝国大学ニ訪ヒ、九十余日以前|而《し》カモ再考ヲ要求シタル旧辞表ニ対シ、急遽《きふきよ》聴許ノ旨ヲ伝ヘラレ、|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》ニ山川前総長ハ令名好評ノ嘖々《さくさく》タルニモ拘ラズ、俄《にはか》ニ其ノ職ヲ去ラルルコトトナリタルハ、小官等ノ深ク遺憾トスルトコロナリ。  閣下或ハ云ハン、前総長ノ免官ハ其ノ情願ニ出ヅ、事決シテ戸水教授ノ問題ト関連スルトコロナシト、然レドモ十目ノ視《み》ル所十手ノ指ス所、厳トシテ|※[#「てへん+(合/廾)」、unicode63DC]《おほ》フベカラズ、山川前総長ニ願意アリシトスルモ、其ノ辞表ハ閣下ガ嘗《かつ》テ熟考ヲ要求セラレシトコロナリ、閣下ハ何故ニ熟議ヲ遂ゲズシテ直チニ之ヲ免官セラレシカ、是レ単ニ常識ニ訴ヘ士道ニ照スモ、慊焉《けんえん》タルナキ能ハザルトコロナリ、閣下又或ハ説ヲ為《な》シテ云ハン、山川前総長ハ戸水教授ノ休職セラレントスルニ際シ、文官分限令ノ規定ヲ誤解シ、閣下ノ要求ニ応ジテ休職ヲ申請セリ、是《ここ》ニ於テ法科大学ノ質問ヲ受ケ、之ニ対シテ責ヲ引キタルモノナリト、小官等ハ姑《しばら》ク山川前総長ヲシテ此誤解ヲ惹起セシメタルモノノ、果シテ那辺《なへん》ニ在ルカヲ追究セズ、タダ此問題ハ戸水氏ヲ更ニ講師トシテ嘱託シ、其ノ講座ノ曠廃《くわうはい》ヲ防ギ得タルニヨリテ大半解決セラレタリ、今日ニ在リテハ、山川氏ハ法科大学ノ質問ニ対シテ責ヲ引クノ必要ナキヲ断言スベシ、閣下|若《も》シ終《つひ》ニ辞表ノ文字ニ拠リ、山川前総長ノ辞職ハ貴族院議員トシテ事務ノ多端ナルニ基クト云ハンカ、山川氏ノ貴族院議員タリシハ昨今ノ事ニ非ズ、何ヲ以テ山川氏ハ今日ニ至ルマデ総長ノ重職ヲ曠《むなし》ウセズシテ其ノ令名ヲ博シ、而カモ貴族院議員ニ於テ其職責ヲ完《まつた》ウスルヲ得タルカ」 [#ここで字下げ終わり] 「久保田大臣に対する覚書」は次にこうつづく。——  すなわち、辞表の形式と事件の真相とが違っている例は非常に多い。今度のことも、山川前総長の辞表の表面上の文字に藉口《しやこう》して免官を強弁しようとしても、事件の真相を曲げることはできない。自分たちは事の顛末を聞いて、その曲折をはっきりさせなければならない。そもそも、山川前総長の辞表提出の時期が戸水教授らの上奏と文相に対する抗議、言論自由の連盟起稿並びに戸水講師嘱託など一連の出来事の前だったとしても、その免官の理由をこれらの諸現象に関連させていると考えざるを得ない。  さらに云う。  一体、山川前総長の免官事件は、単純な一官吏の免官問題ではなく、その根底には国家的世界的な問題が包含されている。大学の独立、学問の自由、これである。自分らは職を学問至高の府に奉じる超卓高潔な者であって、行政官府の不法もしくは不当な行為によってみだりに進退されるようなことがあれば、大学の威厳をどうして維持できようか。また、いかにして学問の自由が擁護できよう。自分らはもとより専心講学に従事し、以て国家に尽すを本分としているが、しかも、このまま沈黙できないのは、一には大学の威厳を維持し、一には公平無私で統轄の才ある山川前総長の免官を見るに忍びないからである。また進んではわが帝国をして学問|蹂躙《じゆうりん》の汚名を海外諸国から受けることなく、ひいては自分たちが俗累を忘れて神聖な学問に専心打込みたいと望むからだ、とする。したがって…… [#2字下げ]「窃《ひそ》カニ惟《おも》フニ、学政ノ振張ハ閣下積年ノ希望ナリ、文教ノ隆興ハ閣下終生ノ企図ナリ、此希望ヲ懐《いだ》キ此ノ企図ヲ有スルノ閣下ヲシテ、学問蹂躙ノ汚名ヲ蒙《かうむ》ラシムルコトモ亦《また》小官等ノ大《おほい》ニ遺憾トスル所ナリ、是ヲ以テ閣下ニ対シテ猛然反省セラレンコトヲ切望シ、尊敬ヲ冒涜スルノ罪ヲ顧ミズ、敢《あへ》テ所信ヲ進言ス」  となるのである。  ——また、総理大臣に対する覚書は次のような文章である。 [#2字下げ]「謹ンデ内閣総理大臣桂伯爵閣下ニ白《まう》ス、頃者《けいしや》東京帝国大学総長理学博士山川健次郎ハ其ノ本官ヲ免ゼラレタリ、其ノ表面ノ理由ハ当人ノ情願ニ基クガ如クナレドモ、事ノ真相ハ由来スル所甚ダ深ク、事態重大ニシテ、大学ノ独立ト学問ノ自由トニ関スルモノアリ、其ノ責文部大臣ニ在ルハ言ヲ待タズ、而シテ文部大臣ヲシテ此ノ如キ行動ニ出デシメタル者アリトセバ、亦其ノ責ヲ明ニスベキハ当然ナリト思惟《しゐ》ス、故ニ別紙ノ覚書ヲ文部大臣ニ呈シタルコトヲ謹ンデ閣下ニ報告ス、且《か》ツ夫《そ》レ此事タル、国家的並ニ世界的ノ大問題ニシテ、処置|宜《よろ》シキヲ得ザル時ハ、汚名ヲ海外ニ表白スルニ至ルベキヲ以テ、慎重ニ且ツ敏速ニ善後ノ策ヲ講ゼラレンコトヲ希望ス。頓首《とんしゆ》再拝」  教授たちの辞表提出は連日のようにつづいた。六日までに新しく加わったのは、理科の寺尾|寿《ひさし》、医科の青山|胤通《たねみち》、法科の梅謙次郎、岡野敬次郎、松波仁一郎であった。  文科大学では総辞職を決議した。すでに辞表を提出した建部博士のほか、坪井九馬三、星野恒、井上哲次郎、元良勇次郎、中島力造、上田|万年《かずとし》、三上参次、箕作元八《みつくりげんぱち》、芳賀矢一《はがやいち》、萩野由之《はぎのよしゆき》、姉崎正治《あねざきまさはる》、白鳥庫吉《しらとりくらきち》、田中義成、高楠順次郎《たかくすじゆんじろう》、大塚保治の十五教授だった。  こうして東京帝国大学が総辞職の形勢に急激に傾いてゆくと、京都帝国大学でも、五日に法科大学長|織田萬《おだよろず》博士は各教授を招集して協議した。その結果、学長以下総辞職を決定、すぐに辞表を集めて総長木下広次の手もとに提出した。また、東京では各私立大学講師のほとんどは東京帝大の教授がかけもちだったために、この紛争は各私立大学にも影響して、多くの学校は講義を中止し、成行きを静観した。  こうした情勢をみて久保田文相はあわてた。彼はたびたび桂を訪問して密議を凝らしている。戸水の処分は久保田よりも桂首相の意志であった。また、山川総長の免職も桂の気持から出ている。久保田はただ桂の云いなりになってきた主務大臣にすぎなかった。  桂もこうまで帝国大学の教授連が強硬に出るとは予想もしていなかったので驚愕した。しかし、事は単に戸水問題、山川問題から大学側が文部省に反撃を加えたとは思っていない。その根は久保田に対する大学側の反感が大いに動いているくらいは知っていた。  それはともかく、桂は当面の事態収拾のため、すでに辞表を提出した法科大学長穂積八束に申入れて彼を官邸に招いている。ここで桂は穂積に教授連の慰留を依頼した。  桂は松井総長のあと浜尾新を再び総長にして事態を収拾しようと考え、これを穂積に伝えた。そこで穂積はこの桂の意志にもとづき、法科の岡野敬次郎、富井政章らの諸教授と計って浜尾かつぎ出しに奔走するところがあった。後任総長を浜尾に再勤させることを桂に進言したのは菊池大麓であった。  浜尾かつぎ出しの使者には農商務大臣|清浦奎吾《きようらけいご》が当った。浜尾は、清浦に対し、辞表提出の諸教授を留任させ、次に或る程度大学の独立を政府が認めなければ総長に就任する自信はない、と断わった。桂は清浦の報告で苦悩した。  一方、大学教授連は、さきに決議した山川前総長と戸水博士の復職、文部大臣の引責辞職、および大学の独立と言論の自由の三箇条を固守してやまない。もし、この中の一項目でも実現しないときは、いよいよ総辞職を以て政府に迫ると決めている。  このような条件を全部容れると、桂の威信は全く地に落ちる。そこで桂は、久保田文相を辞めさせることで、山川、戸水の免職は勿論、この問題で強硬意見を吐いた博士数十名の辞表も受理して両者の喧嘩両成敗にしようとした。これで自分の面目を保とうと図った。  この間の調停に動いたのは前総長菊池大麓と、それにつづく前大学|綜理《そうり》加藤弘之と浜尾新だった。このうち菊池は、山川前総長の復職を前提とする解決策に腐心したが、これは山川の辞退でものにならなかった。加藤、浜尾の二人は、桂の意志を了解しながらも大学側に有利な条件で解決しようとしていろいろ奔走するところがあった。特に山川と仲のいい浜尾は、たびたび山川を訪ねて辞職の意志を翻すように努めた。浜尾は、山川を総長に復職させることで活路が見出せるものと考えたのだが、これは山川自体が固辞して受けないので、ここで調停は全く行詰りとなった。  大学側ではあくまでも久保田の辞職を迫ってやまない。九日早朝には、理科の箕作佳吉《みつくりかきち》、医科の青山胤通、文科の坪井九馬三ほか十二名が首相官邸を訪い、桂に面会して直接談判でいろいろと迫っている。この席には特に加藤、浜尾が調停者として出ていた。  教授側の意見は強硬である。彼らは久保田の辞職を代る代る激しい言葉で首相に迫った。桂が例の調子で躱《かわ》そうとしても教授連はどこまでも追及してくる。  この様子をみた加藤と浜尾は、桂を別室に呼んで、 「こうなった以上は、やはり久保田さんに引導を渡すよりほかないですね」  と、自分たちの意見を伝えた。加藤、浜尾ははじめ桂から頼まれて久保田の留任を考えながら調停工作に当ってきたのであった。  桂も二人にそう云われて、仕方がないと諦めたか、 「それでは久保田君に辞めてもらいましょう」  と、初めて譲歩を認めた。  教授たちは加藤、浜尾から桂の回答を聞くと歓声をあげた。久保田は遂に文部大臣を辞職せざるを得なくなった。しかし、なぜ、久保田がこのようにまで教授たちの憎悪の的になったのか。それは戸水、山川の問題だけでなく、久保田にはずっと前から大学側が反撥を持っていたからだ。  とにかく久保田の辞職の確定を見たので、九日午後には再び山上会議所で各分科大学教授の第二回総会が開かれた。  この席では医科大学長青山胤通が、 「もはや、文部大臣も辞職したとのことであるから、このへんで総辞職のことは中止してはどうだろうか」  と、温和論を主張した。青山に従って桂首相と直接交渉した箕作佳吉はこれに賛成した。  これに対して法科の土方寧《ひじかたやすし》教授は起って、 「今回の事件は久保田文相の更迭を目的として起ったことではありません。大学の独立、学問の神聖を標榜してわれわれは起ったのであるから、少なくとも、この目的の犠牲者である山川前総長並びに戸水博士の教授復職をみるに至るまでは断じて譲歩はできない。ここで文部省に一歩を譲れば、文教の独立はいずれの日に達すことができようか。いま、この目的の趣旨が貫徹せられない以上、一大臣の更迭のごときは毫《ごう》もわれわれの関知するところではない。あくまでもわれわれの主張を全面的に政府に認めさせるべきであります。それまで辞表撤回のことは毫も考えてはなりますまい」  と弁じた。医学博士岡田和一郎が賛成した。つづいて岡田朝太郎、金井延、寺尾亨、建部遯吾の諸教授がこもごも起って、 「真理のためにはわれらは一死をも辞さない」  と、熱に浮かされたように強硬論を吐いた。こうした会場の雰囲気は一方的に強硬論に引きずりこみ、次のような議案も議決させた。 「一、学問の独立を図るに十分なる結合をはかること。  二、山川前総長、戸水教授の復職をなすにあらざれば目的の一部を達する能わざるものと認む」  これを採決に問うと、百余名の出席者中反対者は僅か十名にも足りなかった。さらに多数決を以て、あくまでも大学独立の目的を達するにつとむべしと決め、その実行方法について協議を凝らした。  この夜は会議が深更までつづけられ、山上御殿の灯は午後十一時になっても消えることはなかった。   学制改革談義[#「学制改革談義」はゴシック体]  大学教授らの総辞職を賭した反抗で久保田譲は文部大臣を辞めさせられたのだが、世間はそれをどう見ていたか。  その代表として鳥谷部春汀《とやべしゆんてい》が三十九年一月に発表した意見が適切だ。春汀は、政界、財界、言論界、軍部、教育界の全般にわたる万能選手的な評論家である。  彼は、こう云う。 「山川前総長の免職されるや、百余名の大学教授は同盟して久保田文部大臣に抗議を提出した。彼らは文相の非を鳴らして曰く、山川前総長の免職は戸水博士の休職問題に関連しているゆえ、その事件は単なる一官吏の免職問題ではない、また、大学の独立、学問の自由を獲得せねばならぬと叫ぶ。すなわち、職を学問至高の府に奉ずる超卓高潔な帝国大学教授が行政官の不当な行為で濫《みだ》りに進退を左右されては、とうてい学問の自由を保持することはできない、というている。  けれども、自分は政府に戸水博士に休職を命じ得る理由があるのを信ずると同時に、また山川前総長の辞表を受理したこともそれ相応の理由があったと信ずる。何となれば、政府には政府の威信を維持する必要があったからである。  けれども、たとえ帝国大学の現状がまだ完全な独立の位置に達していないにせよ、その本来性からいえば、大学はなるべく政権の外にあって学問の最高峰である威厳を保持しなければならないのである。世には帝国大学を目して政府の機関であり、官吏養成所であり、その教授の数が多いのを冷笑し、彼らは徒《いたず》らに権勢に扈従《こじゆう》する曲学阿世の徒であると評するむきもある。  世間の一部では、いま教授たちが大学の独立、学問の自由を唱えて政府と一戦を交えるのを見て、彼らの唱える大学の独立や学問の自由という題目は単なる口実であって、実の狙いはただ久保田譲を文部省から放逐しようとするだけであると云っている。というのは、久保田は茗渓《めいけい》派の頭目を以て称せられ、在野時代にはややもすると帝国大学を攻撃する態度をとっていたからだ。つまり、大学教授らが久保田を狙っている由来は甚だ深いのである。  だから、今度の大学対文部省の対抗は一種の感情問題だけである。その証拠に、戸水博士の休職と山川前総長の免職は文部大臣の独断ではなく、むしろ桂首相の意志から出て、久保田文部大臣はただこれを遵奉したにすぎない。しかるに、教授たちはこれを一個の久保田の責任なりと追及し、遂に彼の辞職をかち取って、もって大いに満足しているではないか。  渺《びよう》たる久保田譲の進退は大学の独立、学問の自由に何の関係があろうか。大学の独立、学問の自由という大問題が単なる一文相の辞職によって解決せられないのはもとよりである。しかるに教授らは帝国大学の力が文部大臣すら辞職させたと考えて誇っているようである。しかし、政府は大学に対する文相の処置の誤りを認めて久保田にその責めをとらせたのではない。政府はいまもなお戸水博士の辞職や山川総長の免官を正当であるとなしてこれを取消していないのだ。のみならず、大学教授らが常軌を逸した行動に出たのは文相の監督不行届であるとし、その理由で久保田文相が自分から辞表を提出したのだと言明している。このようにみれば、久保田譲の辞職は必ずしも帝国大学側の勝利ではなく、また大学教授らの誇るべき手柄でもないのである」  一般世間は、帝国大学対文部省の抗争など自分たちには縁もゆかりもない別世界の出来事だと思っていた。それこそ教育界という小さな天地の嵐であった。  しかし、当事者にとっては大問題である。久保田の辞職は帝国大学教授たちを勝利感に酔わせた。たとえ山上会議所での会合で土方寧が、われわれは文相の辞職だけで満足すべきでなく、さらに大学の独立、学問の自由を完全に獲得するまで闘わなければならない、と昂奮して叫んだにしても、教授たちは自分たちの圧力で文部大臣を辞職に追込んだという勝利感に陶酔していた。  ——しかし、なぜ、こうも久保田は帝国大学から執拗に狙われたのか。  それは大学創設以来の大問題である学制改革に関連している。久保田はこの学制改革最初の主唱者だったのだ。  学制改革問題の原因は簡単にいうと、創立以来の帝国大学の教育程度が高すぎて、その下の小学校、中学校との間に系統的につながっていないというところにある。下には幼稚な小学校がある。上には非常に程度の高い大学がある。その上下をつなぎ合せるのが中学校だが、これがまた何のために設けてあるかというような至極哀れな位置である、というのだ。  これは明治以来、義務教育たる小学校教育と、「国家ノ須要《しゆよう》ニ応ズル人物」を育成する帝国大学の教育とが別個の目的でばらばらに発達したためである。だから、下から上へという一貫性がない。その上、不統一からくる欠点として、修業年限が長すぎる。  それに、帝国大学はアメリカの大学などにくらべてむしろ程度が高い。したがって、小、中学の現状とは融合していない。そこで、大学の程度を低くすれば自然とそれだけ官立の大学の数もふえ、私立の大学も起るようになる。そうなると、はじめて大学というものを日本人が自分のものとして利用できるだろう。こうなってこそ、はじめて下は小学校から大学に至るまでよく連絡がとれ、統一ができ、教育の効果が奏せられるというのである。  学制改革に文部当局として初めて手をそめたのは井上|毅《こわし》であった。井上は伊藤博文の下で憲法制定の補助をつとめたし、また教育勅語の草案も書き、当代一流の法令通でもあった。  この井上が、以上の欠点を補うために明治二十七年に高等学校令をつくり、それまでの高等中学校(中学校に高等部、普通部の二部制があった)を高等学校と改称した。ここで専門学科を教授し、また帝国大学に入学する者のために予科を設けることにしたのである。  井上の肚《はら》づもりでは、この高等学校を最高学府の帝国大学とは別な程度の低い大学としたかった。ここでは短い期間に専門の学術を修めさせようというのであった。が、井上も帝国大学の反対をおそれてこれに「大学」と名づけるのを遠慮して「高等学校」という名をつけたといわれている。それで高等学校には大学に準じて講座制を置いたものだ。だがこれはふるわず、その付随物である帝国大学志望の予科のほうだけが繁昌した。こうして低い大学を多数つくって帝国大学に入学が集中するのを防ごうという井上の計画は無駄となった。これによって帝国大学の地位は少しもゆるがず、学制改革の目的は失敗した。  このため、学制改革問題はあとから再び表面化して、それからもたびたび問題となった。この改革論の急先鋒《きゆうせんぽう》が久保田譲だった。学制改革同志会、学制調査会といったものはみな久保田が作った在野の機関であった。  久保田譲は根っからの文部省育ちで、彼が初めて文部省に入ったのは明治五年、十二等出仕からだった。権中録《ごんちゆうろく》、中録、少視学、権少書記官、少書記官、権書記官、権大書記官を経て、地方学務局長、会計局長、普通学務局長となり、二十五年には文部次官となった。それを最後に省を去って貴族院議員に推薦された。  こうした経歴でも分るように、彼は純然たる教育行政の立場で、学制改革を次のように考えて、明治三十二年に帝国教育会で演説している。  彼はまず現行の学制が日本の国情に適しないとした。現在の学制によれば、小学六年、中学五年、高等学校三年在学して、さらに三年か四年の大学課程を修めてようやく学業を終るから、前後十七年か十八年の歳月を学業に費やすことになる。しかも、各学校の連絡が不十分だったり、学校の数が不足なために、在学の中途でむなしく若干の歳月を経過するので、実際に大学を卒業するのは平均二十五、六歳となっている。それで法定年限を二年も三年も超える。しかも、現行の学制は普通教育と高等教育との目的がはっきりしない。その上、各学校の学科課程がひどく煩瑣で、教育方法を誤っているために日本国民の資力と体力では負担が重すぎる。そのためほとんどの学生が身体虚弱となり、学問に中毒を起す弊害になっている。  そこで久保田は、第一には各学校の系統を確立し、第二には在学年限を短縮し、第三には学科課程を簡明適切にすることだと主張した。そうすれば健全な国民をつくり、一方には国家有用の人材を速成できるというのだ。  久保田のその具体的な案とはこうである。  中学校に入ろうとする者は小学校のときから学途を区別する。小学校は単に普通教育を受ける目的だけの最も多数の児童を収容するところにする。中学校に入ろうとする者はたいてい余裕のある家庭の子弟だが、現行では小学校は貧富の児童が混合して、その課程も設備も錯雑している。これは富者の子弟を益しないのみならず、また貧者の子弟をも利するところでない。  したがって中学教育以上志望の金持[#「金持」に傍点]の子弟のためには大学予科を設ける。公立小学校はドイツの如く、大多数の下層人民[#「下層人民」に傍点]の子弟を教育するところとし、その課程はなるべく簡単に、実用を主とした一般国民に必要な教育のみを与えることにする。こうすれば校舎の建築、器具機械の設備も質素にできるから費用が節約される。それで授業料の免除とか国庫補助の申請もできるようになる。  一方、中学校は健全な中等人民の養成所にすると同時に、大学の予備校として欠点のないものにするために、その設備を最も完全にする。こうして中学をすぐ大学と直結させるようにし、学生を試験競争の難関から解放させる。  さらに久保田によると、高等学校は必ずしも必要ではなく、その専門部門を伸ばせば程度の低い大学とすることができる。現在の高等学校ではつけ足しでつくった大学予科がさかんになって、高等学校といえば帝国大学予科の感じを与えているが、これは正常なかたちではない。高等学校の名は廃して、これを帝国大学とは別な大学にすべきである。つまり、程度の低い「大学」をなるべくたくさん作って人材の速成を図ろうというのである。  久保田の改革案は以上の通り、小学校のはじめから金持の子の進学課程と下層人民の子の普通教育とに分けたところに特徴がある。  さて、明治三十四年に文部大臣となった菊池大麓も「低い大学」に当る専門学校を設けようとした。すなわち、中学校卒業後三、四年で卒業できる各種の専門学校をつくることだった。だが、これも不徹底なところがあった。  というのは、この専門学校にも帝国大学に入学する者のために大学予備門を設けて修業年限を二カ年とした。ただ、急なことではすぐに中学校の程度が向上しないから、その完備するまでは大学予備門に一カ年の補習科を設けて、その後は修業年限を一カ年に短縮するという案だった。ここでは高等学校を改めて、「低い大学」の各種専門学校にし、その中に帝国大学に進む者のために大学予備門を併置しようというのである。純粋に専門学校の性格にしなかったところに、問題があった。  すると、この案が三十五年に高等学校教育会議にのぼると、まず大学予備門案について、加藤弘之、穂積八束、青山胤通などの大学派が猛烈な反対をした。つまり、大学予科一カ年の修業程度では学力の低下が防げないというのである。これを裏返せば、帝国大学の超然的権威の誇示である。そして大学派は寄ってたかってこの案を叩き潰《つぶ》した。ただ技術部門的な色彩の強い専門学校案だけは無事に通過して、これが「専門学校令」となった。  要するに、帝国大学は、東京と京都しかない二つの大学以外には「大学」と名のつく学校をこしらえないで、あくまでも狭き門の、最高学府の権威を保持したかったのである。  こうして菊池文相の学制改革案は、その一部がどうにか実現しただけで、帝国大学の関係は否定され、結局、大学と高等学校の関係は依然として未解決のままに残った。  菊池がこのような仕事をしているとき、突然起ったのが学制改革問題とは関係のない、教科書汚職事件である。  これは文部省にとって創設以来の衝撃だった。この事件に連坐して贈収賄の嫌疑をうけ検挙された者は二百余名で、公判の結果有罪と決定したのは、官吏収賄罪六十九人、恐喝取財犯一人、涜職法《とくしよくほう》違反一人、詐欺取財犯一人、小学校令施行規則違反四十四人、合計百十六人であった。この中には哲学館の試験答案に臨場した隈本繁吉のような視学官もいる。そのほか、代議士、知事、師範学校長、中学校長、郡視学、小学校長などが含まれていた。  一体、教科書が民間で作られるようになって以来、出版元の競争が激しく、贈収賄が早くから盛んだった。このため文部省も明治十九年森|有礼《ありのり》が大臣のときに教科用図書検定条例を発布して教科書採定の規準を定めた。しかし、この一片の法令だけでは取締ることができないので、この条例を廃して師範学校、小学校並びに中学校教科用図書検定規則というものを作った。  だが、贈収賄は少しも改まらないので、三十四年に出版元の不正運動を防止するために具体的な制裁条項を設けた。  こういう法令を設けても出版元の競争はやまず、遂に空前の教科書疑獄事件が起ったのである。  この事件は文部省の名誉を著しく落した。その一つの現われが菊池文相と岡田良平総務長官との間で教科書を国定制度にすることだった。これは三十六年早々に桂内閣の閣議を通過して立法化されている。  もう一つの現われは、この責めを負って菊池大麓が文部大臣を辞職したことだ。しかし、それだけでおさまらず、輿論《よろん》は猛烈に文部省に対して攻撃を開始した。菊池文相の辞職も実は衆議院が輿論に動かされて文相に対する不信任を決議したからだ。  菊池の文相辞職を特に閣内で強調したのは軍部関係の大臣だった。それで菊池の後任として乗りこんだのが陸軍の重鎮で、台湾総督でもあり、また内務大臣の現職を兼ねている児玉源太郎であった。児玉は閣僚である菊池の責任を猛烈に追及した一人だ。今度はそのあとをうけて彼みずから文部省の改革に意気ごんできたのである。  児玉が文相となると、世間では文部省が廃止されるであろうという説が流れた。つまり、文部省を廃して内務省に教育局を置くという説である。児玉内相が文相を兼任したのはその下準備で、首相と新文相との間には内約ができ、すでに閣議でも文部省廃止が内定しているという風聞だった。  いつの世でも役所の機構を縮小する案には官僚がまっ先に反対する。ここで曾《かつ》ての文部官僚だった久保田譲、伊沢修二、湯本武比呂、そのほか貴衆両院議員と官民教育家などが、文部省廃止案が閣議に上ると聞いて文部省廃止反対期成同志会を組織した。彼らは都下の新聞雑誌の教育担任者に檄《げき》を飛ばし、あるいは、みずから筆に口に大いに主張を宣伝した。  これらはすでに文部省を去った旧官僚の運動だが、現職の連中も省内で文部省存置運動に躍起となった。その急先鋒は総務長官岡田良平と普通学務局長の沢柳政太郎《さわやなぎまさたろう》であった。彼らは枢密顧問官の蜂須賀茂韶《はちすかもちあき》を説いて枢密院の空気が文部省存置に傾くように運動したり、直接児玉文相を突き上げたりした。  ある日、岡田と沢柳とは二人して文部大臣のところにゆき、 「世間では文部省廃止案が伝わっていて、すでに閣議で内定しているとの噂も流れています。これは本当でしょうか?」  と訊いた。児玉は、 「文部省廃止のことは一向閣議で聞いていない」  ととぼけた。そこで岡田が、 「もし、そのように閣議で決った場合、大臣としてはどういうお考えですか?」  と訊くと、児玉は、 「たとえ聞いているにしても、主務大臣である自分が口外すべき筋合でないことは、君たち文部省官吏がいちばんよく知っているだろう」  と突っ放した。  そこで岡田は、この案がすでに閣議に上程されたことだけは間違いないとし、省内の同志を誘って猛然と反対運動に起った。沢柳も普通学務局の手勢を率いて省外の存置論者と連絡をとり、これも反対の陣頭に立った。児玉はその情勢に憤慨して、それきり文部省には登庁しなくなった。  このため文部省廃止案は中止となり、児玉も兼任文相を辞めてしまった。  そのあとに大臣としてきたのが学制改革論の先頭、久保田譲だったのだ。   久保田、菊池論争[#「久保田、菊池論争」はゴシック体]  久保田譲が大臣として文部省に乗りこんでくると、世間は彼に大きな期待を持った。彼のこれまでの言動からして、さぞかし教育行政の大刷新を行うであろうと、固唾《かたず》をのんで見戍《みまも》っていた。  久保田はもともと文部省の改革論者だ。文部省はさきの教科書汚職事件でも世間のごうごうたる非難を蒙ったが、それでなくとも情弊が多い。その官僚主義から私学を圧迫する。さきの哲学館事件で、卒業生はもとより、在校の生徒から中等教員の免許をしばらく取り上げたのもその一つの現われだ。  次に文部省はたびたび教育方針を変えている。たとえば、初めは欧化主義を唱えて、それまでの倫理教育における儒教主義を撲滅しようとした。それが別の大臣になると、文部省は忽ち一変して国粋保守主義になった。前に奨励した欧化主義は国家に有害であるといって、再び儒教を倫理の基礎に戻したことがある。次の時代には、日本は列国に伍してゆかなければならないので、そのためには世界的思想を以て国民を教育しなければならないと主張して、またまた文部省は行政権を以て欧化主義を復活させた。  この変転極まりない文部省の教育行政は徒《いたず》らに教育社会の混乱を招いて世間の物議を醸《かも》した。かえって教育行政の施設にいろいろな障害があった。要するに文部省の機構があまりに事大主義に出来ているので、これに大鉈《おおなた》を振い簡素化しなければならないとは一部で唱えられていた。さきに文部省の縮小案が出たのも教科書汚職事件は単なるきっかけであって、その根はもっと深いところからきている。  そこで世間では、教育行政の元老である久保田なら文部官僚を押えて、内務省教育局ということまではできないが、世間の期待どおりの刷新をするであろうとみていたのである。  久保田に対するもう一つの期待は、彼が唱えてきた学制改革論の実行である。久保田は貴族院でも絶えずこのことを主張していた。  たとえば、明治三十二年に久保田は帝国教育会で教育制度改革論の大演説をした。この要旨はすでに出しておいたが、いま、次のような部分を速記録の上にみることにする。 「これから大学のことを申します。大学は中学校から直ちに入ることの出来るように、大学予科を経ずに直ちに大学に入ることを得て、そうして三年また或る学科によっては四年の課程にするつもりである。そうして大学は必ずしも法、文、医、理、工、農等の六分科大学を備え、また、一カ所に是非この六科を設立せずとも大学と称することを得てよいと思うのである。独逸《ドイツ》の如き大学はたいてい神学、哲学、法学、医学、この四分科大学を含んでおりますが、また中には二分科のみの大学もある。我国の如く法、文、医、理、工、農の六分科大学を備え、また病院までも一構内に設けて置くというような大学はあまり多く聞かないところである。これは頗《すこぶ》る統一してよいようであるが、また一方から見ればあまり面白くない。大学の中に病院があって看病人または病者が、構内を徘徊しておるというようなことはあまり体裁のよいことではない。それゆえに必ずしも何もかも一緒に設けなければならぬとか、六分科大学を是非備えなければ大学でないというような窮屈でないほうがよいと思う。それからまた従来大学および大学の学生に付与したるところの特権、名誉すなわち学位の授与、留学生の派遣、徴兵の猶予、官吏、教官、医師、技師、弁護士等の資格は悉《ことごと》く新しい大学にも付与し、私立学校にも或る制限を以て大学の名称を付し、同一の特権名誉を付与することを得るというようにしたい。  大学は専ら国家の必需に応ずる人材を供給するということを以て目的とし、応用の才を養うことを以て主眼として、最も之に必要なる学科を択《えら》んで之を授け、濫《みだ》りにただ高いというようなことに流れず、あまり迂遠《うえん》なことは勿論してはなりませぬ。また比較的必要ならざるところの学科はなるたけ之を省いてゆかなければならない。そうして学問と共に人物を高尚にするということに深く注意をしてゆきたいことと思う。  是からは現在あるところの学校を如何にするかということを申します。東京帝国大学はその起源は遠く幕府の末に起ったのである。それから次第に発達をして参って殊に前の半分というものは外国人の手で発達した。それ故に学制|頒布《はんぷ》後に順序を逐《おつ》て発達した小学校、中学校などとは全く歴史を異にしておって、初めから関連しておりませぬ。したがって普通教育と大学との間に大なる一つの溝がある……溝が出来た。そうして連絡することが出来ない。そこで止《や》むを得ず高等学校の大学予科というようなる一種特別の学校を設けてその溝に橋を架けたのである。そういう奇道を取っておるのである。かようなものを学校の正当な系図の中に置きますときには、小学校も中学校も是が為めに犠牲とならなければならない。現在の弊というものも即ちここに存しておるのである。それならば今の東京帝国大学は不要であるかといえば決して不要ではない。我国の学問の最高等の機関として最も必要である。それ故にこの大学を学校の正系以外に置いて特殊の大学として現在の儘《まま》に存して置いて、そうして専ら学術技芸の蘊奥《うんおう》を研究するを以て主眼と致し、他の学校との連絡関係などに頓着せず自由に行動をして、その必要によっては自身に適当な予科を付設することを許してもよい。そうして東京帝国大学と新に出来るところの大学とは共に各々その特色を以て教育社会に立って、そうして国家に貢献をしてゆくがよいと思うのである。左様になればニュートンとかワットとかいうような発明家が東京の大学から出た、或はミルとかスペンサー、ユーゴーとかいうような大学者が彼《か》の大学から出た、或はグラッドストーン、ビスマルクというような政治家がこの大学から出たということになって、各々特色を以て相競うて国家に貢献するがよかろうと思う」(『明治以降教育制度発達史』第四巻所収、明治三十二年十一月四日帝国教育会臨時講演会における久保田譲の演説筆記)  要するに、帝国大学は六分科大学の必要はない。ドイツのように三分科か四分科でいいという。次に帝国大学が学生に与えていたいろいろな特権、たとえば、学位の授与、留学生の派遣、徴兵の猶予、官吏、教官、医師、技師、弁護士などの資格は、ほかの大学にも与えるがよい。ほかの大学とは専門学校から昇格させた程度の低い大学のことで、これは全国にたくさんつくる。それだけでなく、私立学校にも同様な特権を与えるようにせよというのだ。  これは権威ある帝国大学にとっては暴論としか聞えない。帝国大学を半分くらいの分科に縮小すれば、それだけ教授たちは講座を失う。大学の機構が縮小するということも耐えられないが、これに失業問題がかかってくる。機構の縮小は人員の削減と不可分の関係にある。さきに文部省が内務省の一局に縮小されようとしたとき文部官僚の大反対があったが、帝国大学についても全く同じで教授たちは久保田発言に対して大きな反撥を覚えた。  もっとも、久保田構想は帝国大学を正系の外におく「特殊な大学」として残しておくというのだが、このことは、東京師範学校長や文部省編集局長などの経歴をもつ教育界の先覚者伊沢修二も同じ意味を云っている。 「いやしくも大学を国家|須要《しゆよう》の機関にしようとするには多数有用な人物を作らなければならない。いわゆる理想に富んだ少数の学者を拵《こしら》えるということはよろしく大学院でやるがよい。大学院はいかに程度が高くなろうとも、細く高くしておいて然るべきものであろうと思われる」  学制改革論者は、帝国大学をして別格に置き、広く人材を養成するには、それとは別個な、程度の低い大学を数多く作れというのだ。しかしこうなれば、帝国大学はしまいには世間から浮き上がってしまうかも分らない。しかも久保田が云うように、ほかの低い大学に帝国大学と同様な特権の大盤振舞いをし、それを私立にまで及ぼそうとすれば、帝国大学はその存立意義さえ失ってしまう。大学側はそれを恐れた。  久保田は、明治三十二年の暮から開かれた、第十四議会でも帝国教育会で講演したと同じ趣旨の演説を述べた。これに対し、時の東京帝国大学総長、貴族院議員菊池大麓は、大学関係者の意見を代表して猛烈に久保田意見を同議会で反論した。 「大学の程度を下げる、大学の卒業の標準を下げるということは、これはいかなる理由でありましょうか。一つの専門の学科を修めるときは、その行くところの先というものには限りはありませぬ。しかしながら、大学においては、その行くところの先まで教えることはもちろんないのである。ただ、どこまでも進み得るだけの道具を与えなければならぬ。これは学者に限ったことではありませぬ。大学を終って世間へ出て実務を執る者でありましても、その自分の修めたるところの学科については十分なる取調べができ、十分なる研究をするだけの力のある、それだけの教養のある者でなければならぬのであります。それでなければ大学卒業とはいわれませぬ。僅か人からして教わったことだけを知るだけでは大学卒業とはいわれないのであります。大学の程度を下げたならば、つまり、大学へくるまでの年限を今日の有様で縮めるということにしたならば……それをしたならば、大学の卒業というもののその程度に達しないということは明らかなることであると本員は考えております。今日世の中へ出て国家の須要に応ずるということをするに当って今日の大学の卒業生の学力を考えてみますると、実は覚束《おぼつか》ないと思うほど心配であります。ずいぶん方々からして卒業生の力が足らぬということの叱言《こごと》は毎度聞くところであります。実に今日の競争|場裡《じようり》に立ってどうでありましょうか。ただ教わっただけのことをやってゆくとか、向うから注文したところの機械が滞りなく運転してゆく間はそれについてゆくことが出来るというだけの力では、今日国家の須要に応ずることが出来ましょうか……  そういう世の中でありますから、ただ向うから教わったことを学ぶというだけになっては、今日国家の須要に応ずることは出来ない。それはなるほど低い程度の、すなわち、ただ今の高等学校専門部くらいの卒業の人も必要である。たくさん必要である。たくさん出なければならぬ。それ故に高等学校専門部をたくさん設立されて、それに多くの学生を入れて卒業させるということは最も今日必要なことではありますが、しかしながら、それでは大学卒業の力とは本員はいわれないと考えるのであります。本員が甚だ惧《おそ》れまするのは、大学の有様が今日よりは卒業生の力が落ちはしないかということを心配するのであります。これは入学生の力が落ちはしないかということを心配するのであります。その理由は何故かというと、明治二十六年において井上文部大臣のときに中学校へ入学するところの程度を二年下げられまして、高等小学校二年を終った者は直ちに入学させるということになりました。それから、ちょうどそのころから中学校の数はずいぶんふえましたからして、ただ今では不足でありまするけれども、以前と較べて非常に数がふえました。現に高等小学二年を終った者が中学校へ入っているのであります。それで今日不完全なる中学校を終ってきたならば、高等学校の程度というものは自然下げなければならぬ。そうしたならば、大学へくるところの入学生の力も下がるであろうということを心配しているのであります」  菊池大麓はつづける。 「それから、或る説によるというと、大学の低い程度の大学というものを置いて、今の帝国大学というものはそのままにしておいて蘊奥を研究するところにするという説がありますが、これはすなわち大学の性質を知らぬから起るのであります。大学においては研究ということと授業ということを分けて行われるのではないということが分らない。それをいっしょにやるくらいの程度でなければ大学とはいわれませぬ。こういうことは決して出来ない。研究をしない大学というものはあることは出来ないのであります。……  この建議案の大主意というものはいろいろ説明がありまするけれども、大学にくる年限が長いから、これを縮めなければならぬということが大主意であるかのように本員は考えるのであります。それはただ今申しました通り、大学の程度を下げれば、すなわち、今の高等学校の専門部を大学にすればよろしい。学制調査も何も要らない。程度を下げてよいことなら、今の高等学校の専門部を大学という名をつければいいのである。ただし、それが日本帝国の大学といわれるや否や、大学というものはそういうものであるかないかということは別問題であります。……  これを要するに、今日の学制が不都合である、不都合であるという人の説をよく味わってみまするというと、学科課程が改正されなければならぬということと、学校が増設されなければならぬという、この二つに帰するのであります。それからもう一つは、大学の程度を下げたいというのであります。今のところでは、すなわち、学科課程の改正と学校の増設ということは、これは学制には関係はない。大学の程度を下げるということは、本員などはどうしても下げられぬと考えるのであります」  要するに菊池は、程度の低い、かつ学術の蘊奥を研究する任務をもたない大学は、これを大学と称すべからず、と叫んで久保田の説を弁駁したのだった。  そして久保田譲が、教育制度の改革は心ある者にはずっと考えられてきたが、学政の当局者が終始替っているので、このような重要問題を考える暇がなく、むなしく現在に至ったため、教育の弊害も事実となって現われてきたと云う。  たとえば、前に法科大学では試験で不成績だった三百人以上の学生を惜しげもなく突然|抛《ほう》り出したことがあった。このようなおどろくべき意外な事実が出てきたのも、結局、現在の大学の程度が高すぎて下からの連絡がないためである、と云った。  菊池はそれを次のように駁論する。 「法科大学の落第事件につきまして云われましたには、学生全員の半数に近い三百有余人の学生が云々また三百有余の学生が惜しげもなく突然抛り出されてしまったということを云われているのでございます。まことにこういうような語気でなければ演説にうま味がなくなるのでありましょう。しかしながら、それは事実の上において大へん間違いのあることであります。学生全員の半数に近い三百人と言われるが、実際学生の落第いたしました数は二百五十八人でありまして、それは半数に近いところではありませぬ。三割くらいに当るのでございます。それが惜しげもなく突然抛り出されたという。実は、抛り出されもどうもしないのであります。また惜しげもなくでもない。また突然でもない。そういうような事実の間違いであります。また法科大学で競争試験をするのは残酷であると云われましたが、競争試験をするというのは設備の上に限りがある以上やむを得ぬことであります。法科大学に限ったことではないのであります。これはいくら制度を改めたところで法科大学に或る一定の数より余計な学生を収容することは出来ない。また学生の力が足りなければ落第もする。その力を充実するのはどういうふうにするかというと、これは学制の改革では出来ませぬ。また何故大学の者が躍起となってこの建議案に反対するかということを云われましたが、われわれ、むしろ本員は大学のことを一番よく知っているのでありますから、本建議案の大学に関するところについては、あるいは、本建議案を主張するところの人々の理由とするところについて、大学のことについて、その主張のごとくすることはとうてい出来ないということを信じております。故に反対するのであります。反対せざるを得ぬのであります。前回の会議におきまして久保田君は大学を非常に攻撃されました。大学総長を攻撃されました。大学の学生を攻撃されました。この建議案は知らず、久保田君がこの建議案に賛成する一つの理由として大学を攻撃されたのであります。久保田君は大学のことをご存じないと本員は考えます。また大学総長は俗務に汲々《きゆうきゆう》として会計事務の判をついて日を暮しているということを云われました。本員はこれを答えるべきものでないと考えます。大学のことについて久保田君がどのくらい承知であるかということは、およそそれを以てみても判定がつくということだけを本員は考えます……」  菊池は語気激しく久保田の学制改革論をこう反撃している。  このように帝国大学を代表して堂々と久保田を攻撃した菊池大麓も、後年は自ら学芸大学、つまり、俗に云うところの「低い大学」の主唱者になってしまった。全く別人の観がある。それというのも当時の菊池が帝国大学総長として久保田に対する教授連の反撥の代弁者だったからである。   荘厳なる権威[#「荘厳なる権威」はゴシック体]  学制改革の主唱者久保田譲が文部省に乗りこんだとき、世間は彼を歓迎した。新聞の評論がそれを率直に表わしている。 「新文部大臣は実に事務を以て訓練せられた頭脳を持ち、これを助けるのに教育社会の後援がある。故に、その教育行政上における施設は今後必ず大いに見るべきものがあろう。況《いわ》んや現内閣が彼を文部省に誘い入れたのはむしろ彼の学制改革論、情弊打破論を容れた結果であると推測されるからなおさらである。もし彼がその学制改革論、情弊打破論を実現できないとなると、それが困難という理由でなく、彼に実行の意志がなかったと言わざるを得ないことになる。第三者的立場から自由な言論を吐き、理想論を発表するのはだれでも出来る。自ら当事者になって、かねての主張を実現することがまさに当人の真価の決定だ。もし久保田にして日ごろの主張に対してその責任を忘れるようなことがあれば、われわれは彼のために悲しまざるを得ない」  たしかに久保田が文部省に乗りこんだときは、学制改革に手をつけようとした、そういう痕跡は認められる。だが、あたかも日露戦争の勃発となった。久保田はなかなか改革にとりかかることが出来なかった。何も戦時中という理由だけではない。文部官僚が一致して久保田にそっぽを向いたからである。彼らはもともと新文相を快く思っていなかったから久保田を憎む大学派と通じた。久保田は部下に面従腹背の徒を多く持ったのである。これでは大臣ひとりがどのように焦っても手足が麻痺したのと同じだ。  大学派は久保田譲を、なぜ、このように憎悪したか。  まず、久保田による学制改革案では、大学を各地にたくさんつくるようになっている。大学派にはこれが帝国大学の権威を冒すと思われた。大学といえば帝国大学の同義語と考えているのだ。いかに程度の低い大学でも、大学という名の学校が出来るのは我慢のならないところだった。たとえ帝国大学が学問の蘊奥《うんおう》を究める至高の学府と祭り上げられようとも、学力の低い専門学校に大学の名を与えてはならぬ。  帝国大学に年々入学志望者がふえて全国各地から殺到するのは大学派の歓迎するところだ。学制改革論者は、学生の都会集中を避け、試験地獄を緩和するために各地に大学を数多くつくり、分散主義を図るのだが、帝国大学としては、その狭き門に学生が殺到すればするほど権威があることになる。各地の実業学校的な大学に学生をとられ、赤門が閑散としたのでは面目にかかわると思ったものがいたかもしれない。しかも、改革案によれば、私立にさえ官立の「低い」大学と共に帝国大学の特権をそのまま付与するというのだ。これは帝国大学からすればとうてい我慢のならないことだ。  私立で初めて「大学」の名を許可されたのは慶應義塾だが、これは「大学部」の設置だった。全校名で「大学」の名称を許可されたのは、東京専門学校を改称した早稲田大学であった。それも創立から二十年経った明治三十五年であった。その翌三十六年には、明治法律学校が明治大学、東京法学院が東京法学院大学(のちの中央大学)、和仏法律学校が法政大学、日本法律学校が日本大学とそれぞれ改称した。  しかし、文部省はもとよりこれらの私立を東京大学と同一視していなかった。たとえば、帝国大学に入る高等学校は三年だが、私立大学の高等予科は一年半で、ちょうど半分の期間である。これは文部省が帝国大学と私立大学との差別をつけるために、私立大学の高等予科にはどうしても三年制を許さないためだった。  政府がどうして帝国大学を絶対的なものにしておきたかったかは、それがわが国の最初の官立大学というだけではない。帝国大学の教授と高級官僚との交流がその理由の一つに挙げられる。憲法・国法の教授は宮内官僚、刑法・刑事訴訟法は司法官僚、国際法は外務官僚とそれぞれ交流したため、帝国大学と政治との一体化がみられた。さらに東京帝国大学の外山正一(文科大学長当時)、菊池大麓(理科大学長当時)、穂積陳重(法科大学教授、法学部長)、浜尾新(二十六年に総長)が、いずれも帝国議会が二十三年に始まるとすぐに貴族院議員に勅選された。帝国大学と政治の結びつきはいよいよ強固となった。これが文部行政をして帝国大学を唯我独尊的にもりたてたのである。  帝国大学にはさまざまな特権がある。その最も重要なのは帝国大学教授が高等文官試験の試験委員を兼ねていることである。  高等文官試験はいうまでもなく有能な官吏の資格を国家が認証することである。いわゆる国家の須要《しゆよう》に応える人材である。帝国大学の目的が官僚の養成をその一つとしている限り、この制度はまさに適切であった。  大体、政府は明治二十六年までは大学卒業者を無試験で官吏に採用していた。しかし、その年、文官任用令というものを作り、高等行政官となるにはこの国家試験を受けることを必要とした。もっとも、司法官は無試験だったから、二十七年の卒業生で司法官となった者は多数ある。それで、行政官を志した者はこの制度が司法官にくらべて片手落ちだと抗議し、受験することを拒んだのだった。  彼らが反対の理由とするのは、去年まで無試験だったのに今年から試験を必要とするのは腑に落ちない。そもそも帝国大学は国家の機関だ、その大学で十分な教育を受けて卒業した者を同一の国家が再度試験するとは不合理である。殊に高文の試験官は同一の大学教授であって、試験科目は大学の試験科目と同一であるから全く意味がない、というのである。よって、速やかにわれわれを無試験とせよ、でなければ、われわれは断じて行政官とはならないと卒業学生たちは抗議したのだった。  しかし、絶対官僚主義の伊藤、山県などは学生の抗弁を受付けなかった。殊に官僚制度の完成に細心な山県は文官任用令の施行を強行した。抗議の学生は時の内閣書記官長|都筑馨六《つづきけいろく》に試験の撤回を要求したが、都筑もまた山県らに命令されて頑として応じなかった。  こうして両方で争い揉んでいるうちに年月が経ち、知らぬ間に明治二十八年となり、新卒業生ができた。この頃になると、新卒業生も無試験要求がとうてい容れられないことを悟った。それで、むしろいさぎよく受験したほうがいい、試験といっても別にむずかしくはなかろう、七月に大学で試験してくれたと同じ先生がまた八月に同じような試験をするのだからと考えて、諦めて受験した。前に無試験要求をしていた学生はとっくに学校を出て行っているので、政府の作戦は図に当った。  幸いなことに、明治二十八年はその前二カ年越しに官吏の払底時代だった。それで官吏の必要からその年の高文試験は容易だった。こうして二十八年の新卒は易々と高文試験を合格し、各省に大挙して入省した。浜口|雄幸《おさち》、勝田《しようだ》主計《かずえ》の大蔵省、幣原喜重郎《しではらきじゆうろう》の外務省、俵孫一《たわらまごいち》、伊沢|多喜男《たきお》らの内務省など二十八年組に官界の出世|者《もの》が多いといわれたのはこのためである。  帝国大学と、その教授の権力が大きいのは、帝国大学教授が高文試験委員を独占していることである。高級官僚や判検事、弁護士などの資格審査は、結果としては東大出でなければこの試験に合格しないことになっている。他の私立大学卒の受験生では、帝国大学でこれらの試験委員の講義をノートしていないから問題が分らない。特に口述試験などでは、その教授の講義を直接に聴いていなければとても理解の出来ない質問が飛び出す。これは私立大学を高文試験からふるい落す陥穽《かんせい》である。将来の高級官僚を育成しようとして、政府がいかに帝国大学出身者に重点を置いていたかが分るのである。  帝国大学を他の私立大学より権威あるものとして飾るのに帝国大学卒業式における天皇行幸があげられる。ここに帝国大学の卒業生は儀式的にも国家の須要に応える人材として完成するのである。  たとえば、京都帝国大学が開設された明治三十年の翌三十一年には東京帝国大学卒業式に伏見宮|貞愛《さだなる》親王の台臨があったが、その次の三十二年の卒業式には直接天皇の行幸があった。  七月十日、各宮並びに首相山県、西郷、松方、清浦、曾禰《そね》、樺山《かばやま》の各大臣が参集して天皇の車駕《しやが》を迎えた。学生の門内に整列する中を菊池大麓総長が先導し、教職員高等官以上が廊下に列立する中を天皇は法文科大学楼上の便殿に入って休憩、それより機械、製図、古文書などの部屋を巡覧した。  式の次第は、分科大学学生総代に各分科大学長から卒業証書が渡され、特に優等生二十二名には御下賜品の銀時計(御賜[#「御賜」に傍点]の二字が彫ってある)が天皇の前で渡された。『東京帝国大学五十年史』は、次のように書いている。 「此の日の卒業式に就き特に記すべきは、車駕親臨あらせられたることと、優等卒業生に賞品を下賜せられたることなりとす。本学の光栄以て加ふる莫《な》く、優等生の名誉も亦《また》甚だ大なり。此の事が独り本年の特典たるに止《とど》まらずして、大正七年に至る迄年々此の光栄に浴したるは、本学関係者一同の感激|措《お》く能はざる所なり。是れ偏《ひとへ》に、聖上教学を重んじたまふ叡慮に出づるものにして、殊に教学に従ふ者の益々奮励努力以て報効の実を挙げんことを誓ふ所以《ゆゑん》なり」  実に三十二年から連続行幸をみている。殊に学業優秀なる者には賞品として銀時計を与えたことは帝国大学権威の儀式的象徴である。まことに帝国大学こそは「聖明ノ深旨ニ対《こた》ヘ下ハ国民ノ鴻益《こうえき》ヲ謀リ以テ報効ヲ企図スル」(明治三十年七月伏見宮|令旨《りようじ》)帝国須要の人材を官製で養成する学校であった。天皇の行幸といい、「恩賜の銀時計」といい、帝国大学はひとり至高に飾り立てられる。  久保田の学制改革案によれば、帝国大学の六分科制は多すぎるといって縮小を匂わしている。それなら講座も少なくなるだろうし、教授も職員も減らされるだろう。これは帝国大学にとって耐えがたいことであった。  明治三十年には各分科大学の講座総数は百二十七講座だったのが、大正七年末にはその総数二百六講座になっている。実に七十九講座の増設である。これは帝国大学教授に最も喜ばしいところだが、久保田案によれば逆に講座を減少させるというのだから大学派から猛反対が起きたのは彼らの自衛のためだ。この改革意見を貴族院あたりで始終ぶっていた久保田に、帝国大学が反感を持つのは当然であった。  もっとも、久保田は局外ではそう云っていたが、実際に文部省の責任者となってくると、この猛反対を押切ってどこまで改革がやれたか分らない。いや、日露戦争の勃発がなくとも久保田には出来なかったに違いない。だが、久保田が大臣になったこと自体が大学派の強い反撥を起していたのである。  大学側は「戸水問題」が起って久保田文相を猛然と攻撃したが、それは久保田に対する積年の反感からで、戸水問題は単にきっかけであった。しかし、彼らは久保田文相に向うのに「学問の自由」「大学の独立」を掲げた。この大義名分の前には日ごろの派閥的な感情を忘れて教授たちが団結した。  だが、帝国大学に真の意味の大学の独立と学問の自由があり得るだろうか。  帝国大学はいうまでもなく国家予算で運営されている。簡単に云えば、初めから政府のヒモつきだ。また、総長は親任官、教授は勅任官という高級官僚だ。すでにそうであるなら、法律上、彼らは官吏服務規定に最初から拘束されているといわなければならない。逆に云えば、そのことを承知で彼らは帝国大学教授になったのだ。戸水博士が国家の利益と相反する言動をしたという理由で、文官分限令の規定によって政府が解職したのは少なくとも法的には間違っていない。だからこそ山川総長も久保田文相に内意を伝えられたとき、うかうかと承諾を与えたのである。総長が教授会に諮《はか》ってから是非を答申するというのは、要するに手続き上の問題でしかない。  帝国大学の経営が国家予算で賄《まかな》われている以上、どこに真の意味の「大学の独立」があり得ようか。教授が官吏である限り、どこに「学問の自由」があろうか。ひとたび、それが国家の利益、政府の方針に相反したときは干渉を受けるのは当然の話である。だからこそさきに久米邦武《くめくにたけ》が「神道は祭天の古俗」で筆禍を蒙り、講壇から放逐されたのだ。たとえ伊勢神道一派の策動はあったにしても、久米は皇室の尊厳を傷つけたのである。だが、このときはほかの教授は「戸水問題」ほどには久米を庇《かば》わなかった。彼らは久米を見殺しにした。なぜか。  要するに、それが一歩間違えば不敬罪を成立することに教授たちは気づいていたからである。もし、真に「学問の自由」を唱えるならば、同僚教授がこぞって久米を擁護しなければならない。なぜなら、久米の右の論文は学問上のことであり、純粋な論攷《ろんこう》だからだ。それを傍観して何もしなかったのは、帝国大学教授たちが久米の論文が国家の利益に反していたことを狡猾にも心得ていたためである。  ところが、戸水寛人らの言動は、ことが皇室に関わるものでなく、桂内閣の方針に違反したという政治上の問題だ。政府の方針——といっても、実はさきの七博士の開戦論は政府の決意を先走ったもので、政府にとって迷惑ではあってもその線からはずれたものではなかった。ただ、あとの六博士の上奏は、ポーツマス条約の軟弱外交を攻撃した点で政府の方針に違背している。いずれにしても、それはあくまでも政府の政策上の問題であって、皇室そのものには関係はない。教授たちは安心して戸水問題、山川免職問題を口実にできたのである。  ともかく、こうして帝国大学教授たちは東西呼応して久保田を大臣の椅子から転落させた。彼らは凱歌をあげた。  久保田が退陣すると、世論はこう云った。 「前文部大臣久保田譲は教育行政家として決して無能の人ではなかった。もちろん、その知識はいささか古いというきらいはあった。その抱いていた学制改革意見も、ただ徒らに大声を出して人を驚かしたにすぎなかった。彼は遂にこれを実行することが出来なかった。その精励|恪勤《かつきん》と事務に練達した点とは少なくとも教育界有数の手腕家であったと認めてもだ。  久保田は結局は大臣の器ではなかったようだ。さきに久保田は文部大臣として乗り込むと、属僚に対して、頗《すこぶ》る威を用い、権をはさみ、しばしば小事に干渉した。部下に事務上の手違いがあれば、怒声を発して少しも仮借《かしやく》するところがなかった。これをみれば、久保田は部下を統御するのにあまりに狭量であり単純であったといえる。もとより、久保田は人徳を以て部下を心服させる人ではないことは分っていたが、しかも、かくのごとく不人気であろうとはおそらく久保田当人も意外としたことであろうし、また世間も文部省始まって以来、こんな不人気な文相を聞いたことがない。  久保田は反対意見を容れる度量がなく、ややもすれば自分の弁舌を以てそれを圧伏した。そこで、これに対する自然の反動として属僚に面従腹背を生じ、誰も久保田大臣に真実の敬意を表しなくなった。思うに文部省は各省の中で最も平和な役所であった。けれども、久保田がひとたびその長官となると、省内の気象は常に憂鬱で満庁暴風雨を警戒するに似ていた。久保田は森有礼の胆略がないのに、その専制的なところを学び、井上毅の識見がないのに、その明察に自分を擬そうとした。ために属僚は彼から離れ、みな手を拱《こまね》いて久保田のするところを傍観していた。こうして久保田は、ほとんど文部省から孤立してしまったのである。  それで、久保田は手足を持たず、羽翼を持たず、腹心を持たず、助言者を持たず、その僅かに有するものは彼の学制改革意見に同情を持つ一部の教育家の後援があるだけだった。しかも、これらの教育家すら彼が就任以来一つもこれという仕事をしないのをみて、ようやく彼の言動に不満と疑惑の色を示していた。ましてや、最初から久保田の人格に敬服しない文部省の属僚はなおさらである。久保田が大臣を辞めると聞いて、多くの属僚は秘《ひそ》かに手を拍《う》って冷笑したというではないか——」  ——では、文部大臣の後任は誰に落ちつくのか。東京、京都両帝国大学教授の全員は辞表提出中である。   逆転[#「逆転」はゴシック体]  東京帝国大学側では久保田の辞職だけで満足しなかった。教授たちはいずれも大学の独立を唱えて、この際、一気にその目的を遂げようとした。政府としては久保田を辞めさせた以上、戸水をはじめ大学の強硬論者八、九名を処分し、喧嘩両成敗のかたちで面目を保とうとしたが、それもますます騒ぎをひろげるだけだと分ると、遂に浜尾|新《あらた》の意見を受入れて我を折った。浜尾は、文部省が大学側の制裁を条件とする以上、とうてい後任総長には就任できない、と頑張っていたのである。  こうして内閣も大ぶん譲歩の様子をみせてきた。だが、多数の教授連は満足しない。彼らはあくまでも、このときでなければ大学の独立の目的は遂げられないとして、よりより協議を重ねる。このままの勢いでゆくと、帝国大学も崩壊しかねまじき形勢となった。  山川は、辞職した十二月四日以来、初音町《はつねちよう》の自宅に引籠って来客を全部断わり、ことの成行きを見まもっていた。だが、ことここに至ると、もう傍観もしていられない。彼は大学の中で最も強硬な法科大学教授の説得に全力を注ぐことにした。  十二月十日は、ちょうど法科大学の教授会の開かれる日である。山川は穂積八束法科大学長に通告してこの席に出て行った。彼は並居る教授たちに向って慇懃《いんぎん》にこう述べた。 「諸君がもし辞表を撤回しなければ、他の諸分科大学の教授もこれを黙って見ていられなくなって、今後どのような騒動が起るかも分りません。その結果、ひいては帝国大学はあるいは閉鎖されるというような不幸な事態をみるかもしれません。また、これがために内閣も瓦解するかも分らない。諸君は、あるいは内閣の瓦解などは一向に構わないと云われるかも分りません。けれども、大学の閉鎖も平気だと云われる方は一人もないと思います。もし大学が閉鎖されるようなことがあれば、まことに国家の不面目であります。かつ、事件の発展がそこまで行ったならば、有為な教授諸氏は必ず帝国大学を去って他に就職なさるでしょう。ならば、他日帝国大学が再開されることになっても、これらの諸氏はおそらく復帰することはない。そうなりますと、本大学が今日の隆盛を来たしたのは、実に教授諸氏の多年の努力に負うところが多かったことを思えば、再開の大学があたかも今日のように盛大となるには、これから先またまた幾多の歳月を経なければなりません。これを文明の退歩と云わずして何でしょうか。わたくしの辞職のために学界に不祥事を生じ、それを契機として日本の文明が退歩するようなことがあれば、わたくしは何の顔《かんばせ》あって天下の人に見《まみ》えることができましょうか。諸君はわたくしの微意を察せられて、一日も早く辞表を撤回されるようにお願いします。また、聞くところによれば、諸君はわたくしの復職を要望せられているということですが、わたくしは一身の都合上、現内閣はもとよりのこと、たとえどのような内閣が出来ても、当分の間就職の意志は断じてございません」  一同はしんとして山川の声を聞いている。腕組みする者、首をかしげている者、両膝に手を几帳面に置いている者、机に片肘をついて顎を支えている者、さまざまであったが、だれ一人として山川に抗弁する者はなかった。  その晩の法科大学教授会は、ほとんど夜を徹して協議をおこなっている。さしもの強硬派も山川の説得で心が動いてきたようだった。  大学の独立といっても、教授たちもそれには限度があることを知っている。もし、真に大学の独立と学問の自由をいうなら、帝国大学の経費は一切政府予算からの絆《きずな》を脱し、みずからの手で授業料を徴収して経営してゆかなければならない。それがどのように困難かは一同にも分っている。早い話が、帝国大学の教授、助教授の特典である海外視察や留学も消えてしまう。  山川は教授たちの気持が動いたのをみた。しかし、この事件に最も関係の深い戸水寛人の意向を質《ただ》さないことには解決は不可能である。そこで彼は、自分で戸水を訪ねてその説得に当ることにし、筧克彦《かけいかつひこ》を介して会見を申込んだ。  筧が戸水に会ったところ、戸水はいった。 「聞くところによると、総長の後任には浜尾さんを当てるということだが、政府は姑息《こそく》な手段で一時を凌《しの》ごうとしている。かようなことはとうてい問題の解決にはならないから、浜尾さんは総長に就任することをおやめになったほうがよろしかろうと思う。だが、山川さんがお会いになりたいというなら、もちろん、喜んでお話を伺う。それには、山川さんからおいで願うのは恐縮だから、自分のほうで出向きます」  その言葉の通り、翌十一日の正午に戸水は初音町の家に山川を訪ねている。  戸水は、この事件の張本人だ。彼は自分の考えを熱心に山川に述べたが、山川も戸水が辞意を翻すように勧告した。発頭人の戸水が辞表を撤回すれば、他の教授も抵抗の意義を失うので彼らも自然と辞表をひっこめるだろうというのが山川の観測だった。  しかし、戸水としては、そう簡単に山川の云うことを聞いてはいられない。戸水も内心は、思いのほか火の手があがりすぎたので自分の責任は感じている。しかし、山川の言葉にも動かされた。彼は、自分の一存では決められないので、ともかく他の同志に謀《はか》った上で何ぶんの確答をいたします、と遂に云った。  山川が、 「では、諸君の集まりでもあるのですか?」  と訊くと、戸水は、 「実は、今日、神田一ツ橋の学士会事務所で同志が集まっています」  と打ち明けた。山川は、この機会だと思って、 「では、わたしもあなたとごいっしょして一ツ橋に参りましょう」  と猶予せずに云った。山川は戸水の軟化を見て、せっかくここまで漕ぎつけたのに、また彼がほかの者に遇えば、その気持が逆戻りするとおそれたのである。二人は俥を連ねて初音町から一ツ橋に向った。  学士会の事務所に集まったのは、寺尾亨、金井延、土方寧、高橋作衛、筧克彦、岡田朝太郎、小野塚喜平次、山田三良、上杉慎吉、中田薫、中川孝太郎、高野岩三郎、立作太郎などで、法科大学の教授、助教授のほとんどを網羅していた。  山川は、ここでも一同に辞表の撤回を望んだ。このままでは大学が閉鎖する危機に至るかも分らないというのがその趣旨で、戸水に述べた通りの内容であった。  これに対し、戸水をはじめ、寺尾、金井、岡田、高橋は、この事態を収拾するのは、あくまでも文部省の擅断《せんだん》を排して山川の総長復職にあるとして、山川に復職を勧誘した。このとき金井延は起って演説した。 「欧米の諸国では学者の言論の自由が拘束される場合がないでもないが、それはみな十八世紀以前のことであって、当時の専制主義と為政者の狭い思想が盛んであったからである。とはいうものの、当時ですら大政治家は、このような小策は弄しなかった。いまの欧米諸国は法令上明らかに学者の言論の自由を保障し、官公立大学に教職を奉じる者は行政官吏と全く待遇を別にし、その教職者の地位を安全ならしめている。思うに、わが国でも学者の言論は、皇室の尊厳を冒し、政体を変革し、もしくは明らかに朝憲を紊乱《びんらん》するものは別として、それ以外のものは、諸説の可否如何にかかわらず威力を以てこれに圧迫を加えるのは明らかに立憲政治の精神に反している。学問の独立と学者の身分保障とがドイツにおいて確立していることはすでに知られる通りである。  ここで思い出されるのは、ベルリン大学の教授ビルヒョーが宰相ビスマルクに向って徹頭徹尾その政治意見に反対し、ことごとに彼と論争し、そのためにビスマルクはしばしば政策を妨害されたことである。けれども、そのためにビルヒョー教授の学界における地位は少しも動揺をみず、ベルリン大学はそのために一層重きを加えたのである。ビスマルクもまたしばしば衷心からして、その政敵のいる大学と学術界の成功を祝福した。人は、それはビルヒョーの専門が法制経済でなく医学であったためだというかもしれない。しかし、このような言葉は、ドイツ社会が昔よりいかに学問の独立を尊び、大学教授の言論の自由を重んじたかを知らないものである。また、それはビスマルクのごとき英雄の心中を理解しない者の言である。すなわち、ドイツ学界が今日ある所以、またドイツの国運が近世において大なる発展を遂げた所以はみなこの精神に基づくのであって、そのよってきたるところは深いといわなければならない。  学問の独立はまことに神聖である。いやしくもこれを犯すものは、秦の始皇帝が書を焚《や》いたごときものである。学者の言論は、その自由に任せなければならない。いやしくもこれを拘束しようとするものは、なお儒者を坑《いきうめ》にしたごときものである。いま、わが政府は、かくのごとき暴挙を敢えてしようとしている。われらは一致して、あくまでも学問の自由のためにその初志を貫徹しなければならない。そのためには政府が無謀にも発令した戸水教授の解職を撤回させ、また山川総長復職をどこまでも要求しなければならないのである」  しかし、山川はなおも説得をつづけた。それで強硬論者も次第に沈黙し、大勢はひとまず山川の云うことを聞いて辞表撤回を決めることに傾いた。どの教授の胸にも、言葉では山川の復職を主張するのに、現実としてはそれがとうてい不可能と分っていたからである。この理想論でさらに突進すれば、大学の瓦解に至るかも分らない。  ここで、法科大学の教授会は、はじめて全員辞表撤回を決定した。  そこで十四日には、久保田譲の文相辞職のあと、浜尾新が正式に帝国大学総長に任命された。こうして、さしもの大学騒動もここにめでたく終結するようにみえた。  しかし、別な障害が建部遯吾《たけべとんご》教授から起った。  建部教授は十一日の会合には何かの都合で欠席していた。彼は鎌倉の自邸に居たから、会合で山川の意見を聞く機会もなかった。  それで、その日、法科大学の志田|※[#「金+甲」、unicode9240]太郎《こうたろう》と文科大学の姉崎正治の二教授が鎌倉に建部を訪ね、学士会における協議の顛末を述べて、建部にも辞表の撤回を勧めた。  建部は即座にこれを拒絶した。 「自分は抗議書に署名し、教授、助教授の申合せに参加した以上山川総長の再任と戸水教授の復職とをみない限り、とうてい辞表の撤回はできない。もし、山川さんの復職が不可能なら、復職不能のことは、大学教授の言論自由とは全く関係のない別の理由に因るものであると政府に公表させよ。これを条件としなければ、あくまでも辞表の撤回には応じかねる」  と、語気鋭く云った。  建部は前の開戦論のときにはいわゆる七博士の中に入っていなかったが、その後、この運動に参加して、「紅葉館」や「南佐荘」で戸水と会い、しばしば意見を闘わして、その結果、まったく戸水に同調してきたのである。それで講和条約の批准問題のときも上奏文の組に入っている。  建部が強硬論を吐いて辞表の撤回を承知しないので、山川も大いに心配をした。  山川はまた使いを鎌倉に出し、建部と即刻東京で会いたいと云わせた。このとき建部は、 「それでは、十三日に東京へ出るから、自分のほうで山川さんのお宅に伺う」  と回答している。  その言葉の通り、建部は十三日の朝山川を初音町の家に訪い、二時間半にわたって会談した。山川は切々として建部に辞表撤回を頼む。建部は頑として承知しない。相変らず戸水の復職と大学独立の具体化とを強硬に主張した。  しかし、山川の熱弁で彼もそう一方的に云うわけにはいかず、 「では、今日、同志と合議するので、その結果を待ってご返事いたします」  と云って辞去した。  十三日には再び学士会で協議が開かれた。そこには高野、建部、寺尾、筧、金井、志田、中川、山田、小野塚が集まって、建部を中心に辞表撤回問題をいろいろ協議した。このとき建部は、 「ことここに至っていまさら辞表撤回でもあるまい。自分はあくまでも戸水教授と山川総長の復職をみない限り、絶対に妥協に応ずることはできない」  と云い張った。  建部が、山川の再任が不可能ならば、その理由が大学教授の言論圧迫とは全然無関係であるということを政府に公表させよ、これを条件とせよ、と云ったのは正論である。だが、こんなことを政府が承知するはずはない。それは分りきっている。  並居る教授連中も、建部の熱弁と、筋の通った話にまた動揺を来たした。山川の勧誘で、辞表撤回をほのめかしていた戸水が、建部の話を聞いて真先に強硬論に戻った。 「自分のことからこのような事態になったのは、まことに責任を感じているところである。自分が山川さんの説得で辞表撤回を考えたのは誤りであった。いまこそ自分はその責任を負ってあくまでも辞表撤回は拒絶し、その実現をみた上で大学を去ることにする」  彼は悲壮な顔で決意を述べた。  この形勢を見た寺尾亨も、 「自分の辞表撤回の意志は間違いであった。やはりわれわれの目的が達せられない以上、辞表を取消すことはできない」  と云い出した。  建部はこれを聞いて、ますます自分の所信に進むことを決め、山川に、 「山川さんが総長に復職するか、戸水博士が教授に復活するか、このどちらかが実現しない以上、われわれは辞表の撤回の意志は毛頭ない」  と通告した。  この建部の強硬態度に次いで戸水と寺尾も同調したので、その他の教授だけが辞表を撤回しても意味のないことになって、さきの七博士をはじめ、続々と建部と行動を共にすることになった。せっかく落着しかけた大学騒動も、ここに形勢一変して逆戻りのかたちとなった。  これをみた浜尾新総長も大いに困った。彼は小野塚などを一人ずつ小石川|金富町《かなとみちよう》の家に招いて、極力辞表撤回を懇請した。しかし、山川の云うことでさえ聞かない教授たちが浜尾の言葉に服するはずはない。だれ一人としてそれに応ずる者はなく、みな戸水の復職を唱えてやまない。  大体、浜尾は総長になる条件として、桂から適当な時機に戸水を復職させる了解を取っている。しかし、これはまだ他の教授たちに口外できないことだった。また、適当な時機といっても、当分の間は戸水を復職させることはできない。ほとぼりを冷ますとすれば、まだ時期を要する。  ところが、一方、教授たちは、まず戸水の復職が先決問題だとして譲らない。事態はまた妥協点を失い、両者の対立のままとなった。  こうして日を重ねるだけで解決の見通しがつかなかった。そこで山川はまた強硬派の建部を説得することになり、十二月の半ば、彼はわざわざ鎌倉に出向いた。  建部にとっても、まさか山川が自分で鎌倉の家までくるとは思わない。彼はびっくりして山川を上にあげた。  山川は北鎌倉あたりの風景をほめたのち、おもむろに自分の考えを述べた。 「あなたが辞表を依然として撤回されないならば、それはひとまずそのままにして、適当な時機にまた考慮していただくことにしましょう。それまでは講義を継続していただくようお願いします」  いま急に辞表の撤回を云ったところで建部が承知するはずはない。それで辞表の不撤回の問題はタナ上げにして将来の解決に残す、その代り講義は継続させる。山川としては建部に名を与え実を取る話合いに出た。こうすれば、実質的には建部は依然として教授であり、しかも辞表の不撤回という面目が立つ。  建部も山川が遠路わざわざその懇請にきたことに感激し、ここに辞表は保留、講義は継続という承諾を与えた。  その年は暮れ、冬の休暇に入った。   落着[#「落着」はゴシック体]  帝国大学教授が大学から追放された例は、明治二十五年に久米邦武の事件がある。  久米は佐賀藩士出身で、江戸に出て昌平黌《しようへいこう》に学んで明治政府に仕えた。明治四年の岩倉具視の欧米視察には随員として同行している。帰ってから修史館・修史局に居たが、明治二十一年に東京帝国大学文科大学教授となった。  問題の「神道は祭天の古俗」という論文は、はじめ明治二十四年の「史学会雑誌」に発表したが、翌二十五年、田口|卯吉《うきち》の主宰する雑誌「史海」に転載された。  田口がこれを載せたときは非常な意気ごみで、みずからその前文を書いている。 「久米邦武君の史学における前人未到の意見は実に多い。殊にこの篇は自分の最も敬服するところである。すでに『史学会雑誌』に掲載したものだが、特に久米君に頼んでこれを掲載し、読者に供する。自分はこの篇を読んでひそかに現在の或る神道熱心家が決して沈黙すべき場合でないと思った。もし神道家がそれでも沈黙するなら、彼らが全く閉口したものと思わざるを得ない。鼎軒《ていけん》」 「神道は祭天の古俗」は、およそ次のような内容である。 ≪神を敬うことは日本固有の習俗であるが、神道は宗教ではない。したがって、誘善|利生《りしよう》といった意味はない。ただ天を祭って災を払い、福を招くという祓《はら》いをするだけだ。  全国どこの神社の祭礼でも、たいてい新穀を供え、蒸飯《むしいい》を炊いて神酒を供える。この濁酒蒸飯は古代の生活のもので、神に福を祈るために供えたものだ。すなわち、天に祈って福を求める古代の風習が神道に遺っている。  大体、世界どこの国でも、神というものを究めれば、結局、天を祭るということになる。そしてわが国の神道も実はシナで行われた祭天の古俗が輸入されているのだ。  その祭天の儀式が現在の新嘗祭《にいなめさい》である。新嘗祭は天照大神を祭るのではなく、天を祭る古い習俗なのだ。だから、新嘗祭はシナにもある。また韓土にもある。後漢書《ごかんじよ》や三国志の魏志《ぎし》にも、当時の韓土においては十月には天を祭り、国中の人間が集まって、飲食歌舞する、とある。日本の新嘗祭や大嘗祭《だいじようさい》も、このような天を祭る古い習俗が宮中において儀式化したものと考えなければならない。  伊勢大神宮に三種の神器のうち鏡があるが、これは古事記にもいうように、アマテラスオオミカミが『この鏡を見ること我が魂を見るが如くにせよ』とあるため、伊勢大神宮はアマテラスオオミカミを祭るものと思っているが、そうではなく、天を祭っているのである。  伊勢神宮は上代に大和《やまと》から伊勢に移ったものだが、はじめ磯宮《いそのみや》といった。ここで新嘗殿がつくられ、天を祭ったのである。外宮《げくう》はその離宮である。したがって、内宮《ないくう》は天を祭る斎宮《いつきのみや》であり、外宮はその外に建てられた天皇行幸の際の離宮である。大和の三輪神社も拝殿だけで神殿がないのは、山そのものが幸魂奇魂《さちだまくすだま》の鎮まるところとして崇拝されているからだ。伊勢神宮の鏡もまたアマテラスオオミカミの御霊《みたま》ということになっている。魂とは天の霊魂を指しているのだ。このように考えれば、伊勢神宮といい、三輪神社といい、その起りは天を祭ったことに始まっている。  しかるに、のちになってそのことが乱れ、天神・地祇《ちぎ》の別が生じた。もともと祭天には地祇はないのであるから、これが神道を混乱させた。その果てが皇室に功労のあった臣下を神社の祭神にしたり、甚だしいのは皇室に叛《そむ》いた反逆人まで神社に祭られるようになり、果ては狐をまつって稲荷《いなり》とし、蛇を祭って市杵島姫《いちきしまひめ》とし、鼠を貴んで大《おお》己貴神《なむちのかみ》などという弊風になった。これ悉《ことごと》く神道が祭天の古俗から来ていることが分らぬ無知のゆえである。  神に仕えるにはまず清浄でなければならない。汚穢《おえ》を忌嫌うのは神道の趣旨だからだ。記紀に穢れを嫌う話はいろいろ出ているが、その穢れの中で最も忌嫌われるのが死穢《しえ》である。それで、古代では人が死ねば、その家は不浄であるとして一代限りで棄てたものだ。奥津棄戸《おくつすてど》というのは死人を棺に入れて遺骸を置去ったことをいうのである。それから神事に汚穢を忌嫌うについて祓除《ふつじよ》の法が生じた。これがのちにいろいろ弊害を生じて、祓いをすれば穢れが除かれるという誤った考えになった。もともと神に仕える神官は死穢を特に忌嫌わなければならないのに、今日では神職が葬式を司るというところまでなり下がった。怪しからぬことである。大体、祓除の趣旨は、宗教でいえば懺悔に近いもので、古代の刑罰にも当っているのである≫  久米は全篇を通じて、神道は学理を以て論じても敢えて国体を損ずるおそれはないとしたのである。田口卯吉は、こうした久米の文章のあとに、 「まことに卓見というべきである。もし仏法が渡来しなかったならば、神道はすでに宗教とまで発達したかも分らないが、中途で仏法が渡来し、文字が輸入されたので、わが神道は宗教とまでならなくなった。近ごろになって神道を宗教としようと欲している者がいるが、これ遅蒔《おそまき》の唐辛子《とうがらし》で、国史はこれを許さない。その事実を証明する者は久米君のほかにないであろう」  と付加した。  久米のこの説は、現在からみると必ずしも妥当とはいえないところもある。大体、神道の教義は、記紀や祝詞《のりと》が典拠になっているが、そこに書かれた説話では、日本固有のものが極めて少ない。今日の比較神話学や民族学では、記紀の説話が世界各国に共通していることが知られている。そのことから、北方系や南方系から民族と共に記紀にある説話が渡って来たとする意見が強い。簡単にいえば北方系のシャアマニズムである。しかし、中国ではシャアマンは発達しなかった。だから中国の古い文献では日本のそうした呪術《じゆじゆつ》を「鬼道」という言葉で表わしている。シャアマンはシベリヤから朝鮮半島に入り、日本に伝わったとみられるのが今日の通説である。この点、久米が祭天の古俗を主として中国に求めたのはかなりの思い違いである。しかし、明治二十年代の学問では久米の説は新鮮な考え方だった。実証的な史学者田口鼎軒が絶讃するゆえんである。  だが、神道家は、これを学者の挑戦だととった。特に気に障ったのは、今日の神道家が葬式に携わっているという攻撃である。  明治初年、それまでの神仏習合を改めて、仏教と神道とは分離されたが、排仏毀釈が行われた通り、神道家は頗《すこぶ》る鼻息が荒かった。それで、神道を宗教にしようという運動が主として伊勢神道から起されている。久米の説に同調した田口は、そこを揶揄している。  神道家は憤慨した。そして、久米の右の説にある伊勢神宮はアマテラスオオミカミを祀っているのではなく、実は天を祭っているのだ、それが原始《もと》の姿だという論を捉えて、皇室を侮辱したものであり、不敬であるとした。  火の手は、こうして神道家から燃えあがった。彼らは久米を攻撃する一方、文部省に久米の処罰を迫った。  神道と宮内省官僚とは切っても切れぬ仲だ。宮廷官僚は政府に久米の処罰を迫る。時あたかも日清戦争の前で、国家主義の高揚期であった。久米は遂に帝国大学を辞職しなければならない羽目に陥った。時の総長は天皇制絶対主義哲学を唱えた加藤弘之だ。 「神道は祭天の古俗」問題では、だれ一人として帝国大学の内部で久米を擁護した者はなかった。ことが天皇制と衝突する限り、彼らは身の危険を知っていたからである。「学問の自由」を唱える帝国大学教授の本質がここに露骨なまでに現われている。  わずかに田口鼎軒が久米の論文を転載した道義上、久米を擁護して次のように云っている。 「久米氏の一文は前人がいまだかつて発表しなかったもので、自分が最も敬服しているところである。特に神道家に熟読してもらい、その意見を聞きたかった。それに神代のことでは学問的には研究すべきことがまだまだ多いと思っているからである。  自分は皇室の尊厳を打破し奉らんとするものではない。それは甚だしき邪推である。憚《はばか》りながら自分も日本国の一市民である。国家万一の場合は、痩腕たりとも国家の干城《かんじよう》たるにおいていまだ神道家諸君の人後には落ちないつもりだ。憚りながら自分は、神道者流が天神地祇を祭って怨敵退散を祈ったような方法を忠義の極意とは認めていないのである。久米氏もまた同じであろうと考える。久米氏の一文は一点も神道を敵視したものではない。また、これまでの久米氏の地位と履歴とを考えるに、氏は断じて皇室に対し不敬の文字を陳列する意志があったのではない。  ただ、問題は、日本古代の歴史の研究は今日のままに放っておいていいかということだ。本居宣長や平田|篤胤《あつたね》などがこじつけた解釈のほかに、今日の人民は新説を出してはいけないのだろうか。新説を出すことが皇室に不敬になるのだろうか。自分はそうは思わない。日本人民はだれでも随意に古代史を研究する自由を持っていると信じる。そして古代史を研究するのがいささかも皇室に対して不敬にわたるとは考えない。また、自分は神代のいろいろな神様が霊妙な神霊ではなく、われわれと同じような人種であり、飯も食い、水も飲み、踊りも踊り、夢をみていたとしても、決してそれが国体を紊乱《びんらん》するものでないことを固く信ずるものだ。  自分は、皇室を敬い、国家を愛するの念は、かの本居、平田のごとく単に古事記の字句を考証するよりも、広く人種、風俗、言語、器物について研究するのを意義あるとするものだ。たとえば、平田が述べる造化三神の説はキリスト教の三位一体説と似ていて信用はできない。もし、このような旧説のほかに新説を発表するのが国体を紊乱するというならば、知識人は古代史を研究してはならないことになる。しかし、かの水戸|光圀《みつくに》さえ『大日本史』では神代史を抹殺し去ったではないか。しかも、光圀は神道家諸君の最も尊敬する人物ではないか。  すなわち、神武天皇紀の中の神代に記された神々のことは『神異不測』の四語を以て抹殺しているのである。いま神道家諸君は久米氏を攻撃して、アメノミナカヌシノカミ以後の連綿たる皇統をも架空としたと責めている。それなら、『大日本史』が神代史を抹殺した点をどう考えるのか。もし、『神異不測』として光圀のように史上から抹殺したならば、神道家諸君は国祖とするところの神名をだに知ることができないであろう。もし、神道家諸君が皇室の尊厳を損じ、国体の秩序を紊乱したと非難するならば、それは久米君でなくて水戸義公に向ってなすべきであろう。  自分は神代史の研究では、つとめてわれわれの祖先はわれわれと同一の人種であったという主義をとるものだ。それがかえって国史を改良するものであって、実に皇室に忠に国家に愛なるゆえんだと信じるものである」  こうして鼎軒田口卯吉は久米を弁護した。しかし、彼の云うところは、荒唐無稽な神代史にもっと科学的な研究を、と叫んだのだ。神代史|乃至《ないし》は古代史と学問的に取組もうとすれば、どうしても「皇室の尊厳冒涜と国体の紊乱」にぶっつかるのだが、当時の帝国大学文科大学教授たちにして、この『日本開化小史』の著者ほどの気迫をもって久米を擁護した者は一人もなかった。  後年、早稲田大学教授津田|左右吉《そうきち》が『古事記及日本書紀の新研究』で不敬罪に問われたのも第二次世界大戦中であった。久米の筆禍も日清戦争直前である。天皇制絶対主義が大陸侵攻政策と結合した高揚期に同じ犠牲が繰返されている。  田口鼎軒も右のように『大日本史』にふれて、神代史の諸神を編者が「神異不測」の字句を使ったことを引用したが、津田左右吉も第二審に提出した「上申書」の中で同じ言葉を引用している。 「わが国の上代史というものは近ごろまでははっきりしたこと、たしかなことがほとんど知られておらず、わかっておりませんでした。それを明治時代の中ごろからあと、ここに述べましたような意義での学問に従事しました多くの学者によって、少しずつ、そうして次第次第に、いろいろのことがわかってまいりました。けれども、今日でもまだまだわからぬことが多いのであります。あるいはむしろますます多くなって来たのであります。わかったことが多くなりますれば、それに従って、わからないことが少なくなるように思われるかもわかりませんが、実はそうではなく、わかったことが多くなるにつれて、わからないこともまた多くなるのが、人の知識の性質であり、学問の基づくところでもあります。つまり疑問が深くなり、細かくなり、あるいは大きくなり、いままで気のつかなかった疑問がだんだん出てくるのであります。そうして、そういう疑問を次第次第に解決してゆくところに知識の進歩、学問の進歩があるのであります。ですから、わが国の上代史についての疑問も、またますます深くなり、細かくなり、大きくなってゆくのであります。そういうようにして、次第に起ってくる疑問を次第に解決してゆき、そうして上代史を次第に明らかにしてゆくのが、学問に従事する者の責任であります。  記紀の書物とその記載とについて、特にその神代の部分、並びに仲哀《ちゆうあい》天皇のみよ以前の部分について、わからないこと、すなわち、疑問が多いからでもあります。それは、だれが読んでも、実際あったこととは思われない神異奇怪のことが多いからであります。ここに『神異』と申しましたのは、ふしぎなこと、人の行動とは解せられないことをいうのでありまして、水戸で編纂せられました有名な大日本史のはじめに、神代のことは『神異不測』であると書いてありまする、その『神異』の語をとったのであります。また『奇怪』と申しましたのは、平安朝の初期に朝廷で書紀の講筵《こうえん》が開かれましたその時の筆記に『日月二神はそのこと奇怪なり』ということが見えていますので、その語を用いたのであります。  今日の読者はそれでは満足しません。書いてあることが実際あったことでなければ、それは何であるかを究めずにはおきません。いろいろの違った解釈があれば、何故にそういうことが生じたか、それらの解釈にいかなる意味があるか、それらが現代の一般の知識に適合するかどうかを考えずにはおきません。それによって或ることがらを知ろうとしても、どれに従ってよいのかわかりませんが、そればかりでなく、どうしてこういう違いがあるのかということが疑問として生じ、そうして、それが疑問となれば、記紀のそれぞれが何を資料として編纂せられたのか、その資料がどうしてできたのか、という疑問も、それにつれて起ってくるのであります。そうして、これらの疑問が起ってまいりますれば、記紀が上代史にとって如何なる意味と価値とをもつものであるかも、また疑問となるのであります。上代史の研究者、記紀の研究者は、それに対して明らかな解決を与えねばならないのであります。もしそれがこれまで解決せられていないとしますれば、新たにその解決のできるように研究することが、この方面の学問の課題であります。今日の学問は、こういう性質のものでありまして、すでにわかっていることを学び知るという意味の昔の学問とは、全く違っているのであります」  ——さて、戸水問題は皇室の尊厳と衝突することではなかったから、帝国大学教授も安心して「学問の自由」「大学の独立」が叫ばれ、辞表の総提出となった。それもすでに教授中建部遯吾を残してほとんど妥協に傾いた。一月二十日、穂積兄弟、金井、寺尾、戸水、岡田、高橋、小野塚などいずれも大学に出頭して、浜尾総長から辞表の還付を受けた。建部の辞表は山川健次郎が代理として還付を受けた。  こうして、さしも揉みに揉んだ学界空前の大|紛擾《ふんじよう》事件も、戸水の復職決定で呆気なく幕を閉じた。  大学側は、これで完全に政府を屈服せしめ、大学の地位を高揚し得たと信じた。  一月三十一日の日記に、法科大学教授金井延は次のように書いている。 「大学に行き、官報を見て戸水氏の二十九日に復職を命ぜられたるを知り、この日の講義の前、学生にむかい、このことにつき一言し、大学の勝利を祝す」   問題の発生[#「問題の発生」はゴシック体]  さしも帝国大学をゆるがした「戸水問題」も、明治三十九年二月を以て落着した。戸水は復職することになり、辞表を出した帝国大学教授全部はそれを撤回した。大学側は、文部省に対する大勝利だと誇った。  山川健次郎は総長を退くと、しばらく閑《ひま》な月日を送った。彼は新聞などに時事問題の小文を書いたりしていたが、四十年九月から教科用図書調査委員会の委員を命ぜられ、その主査委員となった。  さきに起った教科書汚職事件で、民間出版社の小学校の教科書は文部省で編集する国定教科書になったが、その内容の審査は教科用図書調査委員会でなされた。そこで文部省は、新しく教科書の作製に手をつけることになり、これを教科用図書調査委員中から択んだ起草委員に委嘱し、執筆を命じた。三十六年であった。  だが、国定となっても汚職は消えたわけではない。やはり官吏の収賄は相変らず行われたが、ちょうど戦時中なので、これはうやむやに葬られている。  しかし、この国定教科書が急いでつくられたので戦争がすむと、本格的に改訂する必要を生じた。そのため、四十一年九月に、委員長に加藤弘之、副委員長に菊池大麓が任命されている。委員には山川をはじめ、穂積八束、井上哲次郎、中島力蔵、三上参次、芳賀矢一、萩野由之、三宅米吉、田中義成、市村鑽次郎、喜田貞吉、森林太郎(鴎外)などの学者のほか、一木喜徳郎、岡田良平、松井正直、古沢滋などの文部官僚も入った。  山川健次郎は文部省の教科用図書調査委員総会に出た。会場で歴史教科書の草案をもらって読んでみると、南北朝のところで北朝の記述が全く載せられていない。北朝の存在が意識的に抹殺されている。  そこで山川は、開会されてから云った。 「南北朝については、自分も全く南朝を正統と認めるものであります。しかしながら、北朝にも天皇があらせられ、南北両朝の時代が約半世紀つづいたことは歴史上の事実でございます。いま、南朝を正とするあまり北朝を教科書から抹殺するのは小中学生の教育上面白くない。事実は事実でございますから、北朝の記述もあわせて載せるべきだと思います」  歴史教科書から北朝の存在を抹殺したのは起草委員ほとんどの意見であった。そこで起草委員の萩野由之博士が起って云った。 「山川先生のお言葉はまことにもっともと思います。しかしながら、南朝を正統と認めることは、すでにわが政府当局の意向でもあり、畏《かしこ》くもご聖断を得ていることでもございます。山川先生は、このことをご存じなくご発言なされているのかと思います。さらに、これは小学生に読ませる教科書でございまして、学説ではございません。学説においては両朝の併立を述べられることはもとより自由でございますが、まだ歴史的知識のかたまらない小学生に南北両朝の併立のことを教えますると、かえって彼らの頭脳に混乱が生ずるかと思われます。したがいまして、南朝を正統と認める以上、われわれとしては、混乱を招くおそれのある北朝の存在に思い切って斧鉞《ふえつ》を加えたのでございます。かようにご了承願います」  山川は反論に起った。 「ただいま、萩野博士より起草委員としてのご意見を承りましたが、その限りではごもっともと存じます。しかしながら、政府の意見というのは歴史的事実を決める機関ではございません。したがいまして、すでにご聖断を仰いだと云われましたが、これは政府より畏きあたりに申上げて、再び聖慮のほどを伺えばよろしいわけでございます。また、教科書は頭の固まらない小中学生に教えるのであるから、南北両朝の併立は混乱を招く。したがって、学説ならば許されるが、教科書に書かれるのは適当でない。このようなご議論でございましたが、わたくしは残念ながらそれに服しかねます。何となれば、小学生は萩野博士がお考えになるよりも分別をもっておると存じます。左様でありますから、もしここに北朝の存在を抹殺したならば、これらの小学生が大学に進み、あるいは、もっと高等な知識を得た際、何故に国定教科書が北朝のことを記載しなかったのかと当然に疑問をもつと存じます。そういたしますと、あるいは、文部省が何らかの意図をもって故意に北朝の存在を抹消したという疑惑をもつものと存じます。そうなりますと、これはかえって思想上由々しき問題を生じるかも分りません。いわば官製の都合のいい歴史を教えられた。だから文部省の教育、ないしは国定教科書はアテにならない。つまり信用できない。かような不信感を抱くことと存じます。これは国定教科書に南北両朝併立の叙述を載せるよりもはるかにわが国民思想の上において、害毒を及ぼすことと存じます。また、ここに両朝の併立が書かれましても、南朝はわが国皇室の正統でございますから、そこは教師が然るべく指導すればよろしい。いささかも弊害は起らないということになる。かようにわたくしは考えます」  折から真夏のことであった。山川は汗を流して弁じた。  これに対して起草委員のほとんどは容易に承服の色を見せない。互いが私語し、うなずき合い、山川の論に大きな不服を見せている。文学博士森林太郎は黙然と窪んだ頬を見せ、軍服姿で腕をこまねいている。 「委員長」  と、穂積八束博士が発言を求めた。 「穂積君」  加藤弘之は白い口髭を向けた。  穂積八束は起った。 「先ほどからご両人のご意見を伺いましたが、起草委員でないわたくしの立場から意見を申しあげたいと思います。わたくしは結論的にいえば、起草委員側の論旨に賛成せざるを得ないと思考するものであります。そもそも南朝が正しいことは、すでにわが国論となっております。これは『神皇正統記《じんのうしようとうき》』を見ましても、あるいは、『大日本史』や『日本外史』を読みましても南朝が正統であることが明瞭にされている。殊に楠公《なんこう》は国民のひとしく尊崇するところである。すなわち、それは南朝がわが皇室の正統であるからであります。翻って足利尊氏が逆賊の汚名をのこしているのは、尊氏が北朝を擁《よう》して、ほしいままに武断政治を施《し》いたからであります。かく考えまするならば、国民感情として南朝を正統とし、北朝を否定するのはまたやむを得ないことでございます。南北朝の時代は群雄割拠いたしまして両朝に二分されたのでありますが、南朝方に走ったのはいずれも大義名分を心得た忠義の武家ばかりでございます。いま山川先生のご意見を承りますると、教科書で北朝を抹殺することは政府が何か為にするために考えられたもので、のち、小学生が高級なる知識を得た場合に疑惑を抱き、かえって不信感を持つというご趣旨でございましたが、これももっともなことと存じます。さりながら、わたくしは、いまだ知識の固まらざる小中学生に南北両朝の併立を教えこむということは、やはり起草委員側から申されるように、混乱を起す危険がある。混乱のみならず、日本に二つの天子があったということは奇異な感じを抱かせます。すなわち、万世一系の皇室に対し奉り不可解な感を抱かせるということは初等教育上面白からざる現象かと存じます。山川先生は、その点、教師が適当に指導すればよろしい、それで適正な教育ができる、かようなご意見ですが、わたくしはここで、ただいまより数年前に起りました哲学館問題を想起せざるを得ないのでございます」  穂積八束博士は汗が出たので、上衣を脱いだ。 「哲学館ではムイアヘッドの倫理学を教科書に使用いたしました。申すまでもなく、ムイアヘッドはスペンサーの倫理学を祖述した学者でございますが、これも一学説としてわたくしはその存在を否定しない。しかしながら、学説が教科書として適正なりや否やということになりますと、哲学館の問題が如実にこれを証明いたしておりまする。すなわち、教師中島徳蔵君は生徒にムイアヘッドの倫理学を講じましたる際、適切な指導をしなかった。いわば自由的に生徒に勉強させたのでございます。その結果、哲学館卒業の一生徒はその卒業試験において、動機善なれば君主を弑逆《しいぎやく》するもまた可なり、と書いたのでございます。しかも、教師中島君は、この答案に対して最高点を与えております。このことは、ここに列席の諸賢のよく知られているところでございます。この問題がはしなくも文部省の一視学官によって捉えられ、ご承知のような大事件に発展して参りました。哲学館に対する文部省の処分は、わたくしも必ずしも賛成するものではございませんが、しかしながら、哲学館がかように誤解しやすき学説をそのまま何ら註釈も加えず教えた……教師が適当な指導をしなかったということに対して、文部省がそれ相当の警告を発したことはわたくしも是認せざるをえなかったのでございます。でありますから、山川先生が、南北両朝の併立を教科書に記載しても構わないではないか、むしろ北朝の抹殺はおかしいではないか、南朝の正しいことは教師が指導すればよろしい、かように仰せられまするが、わたくしは哲学館の前轍《ぜんてつ》をふまないためにも、むしろ起草委員側の主張を認めたいのでございます。さらに申しあげれば、哲学館の場合はとにかく高等教育の課程でございます。ところが、今度の場合は初等教育である。高等教育を受けたる生徒にして然りとするならば、小学生の場合はさらに誤解を与える危険十分なりと思考するものでございます」  山川健次郎は再び起った。 「ただいま、穂積博士より縷々《るる》お話がございましたが、まことにご意見を承ればごもっともなところがございます。哲学館でムイアヘッドの倫理学を鵜呑みにした学生がいて、動機善なれば君主を弑逆するもまた可なり、という答案を出し、しかも、教師がそれに最高点を与えた、今度の場合はそれよりずっと知能の幼稚な小学生であるからなおさらである、というご懸念でございます。しかしながら、わたくしは穂積博士のご意見を伺っても、なお自説を主張せざるを得ないものでございます……」  満堂は暑さにうだっているにもかかわらず、粛然となっていた。  山川は、さらに自分の説を詳細に述べた。だが、前帝国大学総長の言葉にも拘《かかわ》らず起草委員側は容易に承服する様子がなかった。  このとき委員長席にいた加藤弘之が、先ほどから山川の言葉に耳を傾けていたが、何を思ったか、 「みなさんにお諮《はか》りしますが、わたくしもこの問題について意見をもつものでございます。したがって、委員長の席を一時山川君と替りたいと思いますので、ご了承を願います」  加藤は山川を招いた。ここで委員長は交替となった。加藤は自席に着くと、早速、白い口髭を動かして云い出した。 「わたくしは先ほどから山川君のお話を承っております。また起草委員の方のご説明も承った。いま両説を考えまするに、わたくしも山川君の説に賛成する一人でございます……」  満堂はざわめいた。加藤がわざわざ発言をするため議長交替を申し出たときから、さぞ起草委員側に味方するだろうと思われていたからである。加藤は進化論を援用して、天皇に超人格を与える学説をつくった人間である。されば、彼が南朝のみを認め、教科書から北朝を削ることに賛成するとだれしも思っていた。加藤は云う。 「山川さんの説は悉く首肯に価すると思われます。すなわち、将来、小学生が高等の知識を得た場合、何故に国定教科書に北朝の事実が記載されなかったのか、何か文部省で具合の悪いことがあって故意にそれを抹殺したのではないか、という考えを必ず起すと思われます。そうなれば、かえってわが国体に不審を抱くことになり、教育上弊害を生じることと考えます。わたくしはよろしく国定教科書には南北朝併立を書き入れるがよろしい、こう主張するものでございます……」  遂に、教科用図書調査委員総会は、山川、加藤の意見で起草委員会の原案を破棄し、南北朝併立を書き入れることになった。  しかし、これがあとで思わぬ問題を惹き起そうとは、両人とも夢にも思わなかった。  ——一三三三年(元弘三年)鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇が将軍政治をとり上げて親政を施《し》いた。世に建武の中興という。しかし、この政府は、それまで鎌倉幕府打倒に加勢した武士階級の失望を買った。そうした不平の武士を糾合《きゆうごう》したのが、名家の出であり強大な武力を擁した足利尊氏である。  尊氏は、建武二年、武士階級の衆望を担って後醍醐の中興政権に離反したが、戦いに敗れ、九州に追われた。だが、彼は西国の軍勢をも擁し、楠正成《くすのきまさしげ》らを湊川《みなとがわ》に破って大挙京都に攻め入った。もともと、九州の武士は弘安の役で相当な打撃を受けているうえ鎌倉幕府の政策の皺寄せを受けて、かねてから中央政府に不平を持っていたのである。  尊氏は京都を占領したが、朝敵の名を避けるために、鎌倉時代からつづいている持明院《じみよういん》と大覚寺《だいかくじ》の両皇統の対立を利用して、大覚寺統の後醍醐天皇に対し持明院統の豊仁《ゆたひと》親王を擁立した。光明《こうみよう》天皇という。  後醍醐は尊氏の圧迫に屈して、皇統継承の象徴である神器を光明に渡した。しかし、やがて京都を脱出し、大和の吉野に移って、依然として正統の皇位であることを主張した。それで吉野朝廷と、足利尊氏の擁立する京都朝廷と南北二つに分れて対立することになる。南北朝とは、こうした分裂から名づけられたものである。  京都の北朝は後醍醐の使っていた建武の年号をそのまま襲ったが、吉野の南朝は延元と改元し、それからは両朝別々の元号を用いている。  しかし、北朝の政治権力は初めから尊氏によって握られていたため、光明天皇には何らの実権はなかった。こうしたことから古代よりつづいた朝廷政治機構は崩れ、北朝の実体は全く足利政権そのものであったという有様になったから、南北両朝の対立は、実は南朝と足利政権の争いであった。  南朝側では皇子や諸将を地方に派遣し、地方の軍事拠点を固め、再起を図ろうとした。  この時期は南北両勢力の抗争が最も激しかったのだが、恒良《つねなが》親王、新田義貞などの北陸地方勢力が潰滅し、つづいて北畠顕家《きたばたけあきいえ》の奥州勢力が崩壊し、さらに北畠|親房《ちかふさ》の東国の諸城が破れると、南朝軍の敗北は決定的になった。  しかし、そのほか九州肥後の菊池、阿蘇の勢力を集めた懐良《かねなが》親王と、北畠派の奥州の残存勢力、それと大和紀伊の奥地にある本拠地で南朝は僅かに勢力を保っていた。ところが、足利氏内部にも紛争が起り、その諸将の抗争がたびたび南朝の利用するところとなった。そのため南朝は意外に長く生命を保ち得たのである。一時は京都奪還の宿望を達したこともあったくらいだ。  その後、足利一族の間の抗争は激しくなり、殊に譜代の執事であった高師直《こうのもろなお》と、尊氏に代った直義《ただよし》の勢力争いは、足利氏の一族諸将を悉く抗争の渦の中に巻込んだ。  こうしたことから足利の政府自体が実力を低下させ、かえって地方武士の擡頭《たいとう》を促した。これが、それまでの古代朝廷的支配制度を没落させ、その経済的基盤である、朝廷、貴族、寺社の荘園が失われて、地方武士による土地分割が行われた結果、守護領国制の展開と、農民の成長を促す。このへんから近世の封建制度がはじまるのだ。  とにかく、そうして足利政権の内争は約二十数年つづいたが、南朝のほうも九州地方を除くとほとんど軍事活動も停止した。また足利政府のほうでも、細川、斯波《しば》、畠山などによって中央集権的な支配体制が出来上がったので、将軍義満は南北両朝の和解をこころみた。その結果、南朝第四代の後亀山天皇が京都に帰還し、ここに北朝の後小松天皇朝と合体して、約五十七年ぶりで単一朝廷が回復された。  この間、南朝では後醍醐、後村上、長慶、後亀山となり、北朝では光明、崇光《すこう》、後光厳、後円融、後小松となるのである。  南北両朝和解の条件としては、今後、天皇は両朝から交互に立つことになっていたが、そのことは実行されず、南朝は後亀山を最後として、以後北朝系の天皇のみが立つことになる。  南朝を正統とするのは、北畠親房の『神皇正統記』や、水戸学の『大日本史』、頼山陽の『日本外史』などの力説するところだが、これが幕末の勤王攘夷の理論的支柱になったことはいうまでもない。  ——この九月の教科用図書調査委員会について森鴎外は日記に書く。 「二十六日(土)。教科用図書調査委員会委員を命ぜらる」 「(十月)十三日(火)。教科書部会に|※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、unicode849E]《のぞ》む。実業学務局の階上を会場とす」   喜田貞吉の史観[#「喜田貞吉の史観」はゴシック体]  教科書汚職問題が起って民間の教科書をやめ、文部省の編纂による国定教科書になったとき、その地理と歴史の二科の執筆をしたのが喜田貞吉《きたさだきち》だった。  喜田は徳島県の生れで、帝国大学文科大学の国史科を卒業し、千葉県の成田中学校長を経て、早稲田と国学院の史学科講師などをした。その後は、教科書の編纂と検定を文部省から嘱託されている。  教科書汚職問題から新しい国定教科書がつくられるまで、非常に短い期間であった。とにかく新年度から児童に使わせなければならないので、編纂も足もとから鳥が立つような慌しさだった。喜田は、歴史のほうは帝国大学教授三上参次と相談し、とにかく地理と共に九冊の教科書を期日に間に合わせた。そのため彼は休日もなく、徹夜したことも多かった。なお、喜田は、歴史のほうでは三上のほか、田中義成、萩野由之博士などにも眼を通してもらっている。  文部大臣は久保田が辞めたあと牧野|伸顕《のぶあき》が襲ったが、これも辞職して、あとは小松原英太郎となった。この小松原のもとで教科用図書調査委員会がつくられたのである。委員長に加藤弘之、副委員長に菊池大麓、歴史の部長は辻新次だった。喜田は教科書の執筆を完成したのち、さらに教科書の教師用のものもつくり、これに関連して『国史|乃《の》教育』という著書も出した。  この歴史教科書の中では、当然、南北朝時代が取扱われた。教科書汚職の直後につくられた明治三十六年の第一回教科書では、喜田は南北両朝を併立して、その両朝廷については強いて軽重を論じなかった。ただ、臣下の側からのみ順逆の次第を明らかにしようとする筆法で原稿を作成した。これは当時の三上、田中、萩野の諸博士に見てもらっているが、何の注意もなかった。事実、約七年間というものは、これについて教育界から別に問題も起っていない。  また、それが改訂される四十一年の教科用図書調査委員会でもそのまま踏襲されている。  もっとも、表面はそうだが、この草案審査委員会では南朝を重視するのあまり北朝の存在を抹消したのを、調査委員会の総会の席で山川健次郎と加藤弘之とが反対し、従前どおり南北朝併立に復している。  さて喜田は、そのころ自著の『国史乃教育』で南北併立を教科書に書いた事情をやや詳しく説明したが、次に小・中学校長を集めた国史講習会では、それにふれて講演をした。  講習を受ける小・中学校長はほとんど全国から集まって、五、六百人にも上っていた。その中には師範学校の歴史科教諭も含まれていた。  会場は、そうした校長連によって満員だった。演壇に立つ喜田貞吉は、このとき四十歳。前年は文学博士の学位を受けている。  喜田は、南北朝の事情について、こんなふうに云った。 「これまでの民間教科書では、その悉くが南朝を以て正位とし、北朝を閏位《じゆんい》とする筆法をとってきました。これは云うまでもなく水戸義公が編纂した『大日本史』の立て方に準拠したものですが、実際にはさらに筆が走って北朝方の軍を賊軍と書いた書物も少なくなかったのであります。それは民間教科書ばかりではなく、維新以来の日本歴史が官選と民選とを問わず、たいてい南朝正統の筆法をとっておる。江戸時代でも頼山陽のごときは最もこれを熱心に主張したのはご承知の通りであります」  喜田は、こういうふうに話した。 「しかしながら、『大日本史』以前の事情はどうかと申しますと、もちろん、南朝というものは公には認められていないのであります。御歴代の天皇は北朝の系統であらせられる。ただに御歴代が北朝によって数えられただけでなく、事実、南朝は北朝に併合せられたものとして、合一後の官僚の手に成った記録類には往々にしてその合一を南朝方の降参というふうに解しております。なかでも、『皇胤紹運録《こういんしよううんろく》』のごときは南朝の後村上天皇の御事を記して「義良《のりなが》親王南方に於いて君と称し後村上天皇と号す」と書き、また同じく南朝方の長慶天皇の御事を記して「寛成《ゆたなり》親王南方に自立し長慶院と号す」と記している。さらに後亀山天皇の御事にいたりましては「熈成《ひろなり》王吉野より降る。のち太上天皇の尊号を蒙《かうむ》り後亀山院と号す」とあって、ここでは明らかに後亀山天皇が吉野から北朝に降ったという「降参」の文字を用いているほどでございます。  したがいまして、後亀山天皇におつけした太上天皇の尊号についても天皇の過去に於ける皇位を認め奉ったためではない。南方の前主は当朝に在ってはもろもろの皇子であるとの見解をとっております。つまり、北朝が正統であるから、南朝の諸天皇はいずれも皇子の位でしかないという見方でございます。つまり、それまでは例がないが、特に敬意を以て、そうした諸皇子の一人であらせられる前主の熈成に特に太上天皇の尊号を奉ったのだという見解で、そういう形式をとられたのでございます」  喜田の話は、明治維新前の官撰記録はほとんど北朝を正統として南朝の天皇はすべて皇子であった、という見方を説明する。皇子はいわば天皇の臣下なのである。  さて、喜田は、いよいよ問題の話に入った。 「それから、神器の授受についても、南朝方の後亀山天皇の従来の御位を承認して、北朝方の後小松天皇が先帝からこれをお受けになったという義ではなくて、元暦《げんりやく》の故事によって、事情があって皇居の外に御遷座《ごせんざ》あらせられた三種の神器が元のように宮中に還御《かんぎよ》ましましたという形式によられたのでございます。したがって、しばしば世間に伝えられるように、後小松天皇と後亀山天皇の間の神器の御授受は父子の礼を以て行われたということは、事実上、この際認められるべきではなく、もちろん、御譲位の形式は無かったのでございます。また、これもしばしば云われてきたように、南北両統が対等の条件のもとで元に復したということではない。対等の条件で両朝の合一が成立したとは思われないのであります。要するに、南朝の終末は足利義満のペテンにかかって皇位を抛棄《ほうき》し給うたという形式になっている。ですから、北朝方の後小松天皇は、御位を御子の称光《しようこう》天皇に譲り給うたのでございます」  喜田は淡々と説明したのだが、これは重大な発言であった。 「ところが、称光天皇が崩御されたが、皇子がおられない。つまり、称光天皇の御血統は、ここで断絶することになったのでございます」  と、喜田は壇上で講演をつづけた。 「そこで、南朝の忠臣の子孫が朝廷に対して南朝の皇胤《こういん》皇位を要求し、南朝方の皇子を推戴して吉野に立籠《たてこも》りました。この皇子を自天王《じてんのう》と申しておる。自天王とは、つまり天皇の義でございますが、史書は、はばかって王としてある。けれども、これは逆賊として北朝方の追手に滅ぼされました」  会場の校長たちは壇上の喜田の熱弁に聴き入って、なかにはしきりと筆記している者もある。喜田の舌は、そうした会場の雰囲気を反映してさらに滑らかになった。 「楠正成や新田義貞以下南朝方の将士の忠誠は尊敬すべきであり、国民教育上の模範となすべきことはもとよりでございますが、それでも南北朝統一後の朝廷からは、こうした南朝方の将士は朝敵として扱われてまいりました。その子孫も長く仕官の途《みち》まで止められたのでございます。ただその中でひとり楠公だけは、のちに、その子孫と称する者の運動によって正親町《おおぎまち》天皇から特に朝敵赦免の勅許を得たのであります。が、その恩命にうるおわなかった他の南朝の忠臣義士は、形式上、依然として朝敵と認められたものといわねばなりません。こうして北朝の皇胤はひきつづきとこしえに皇位を継承し給い、北朝の任命によった臣下もまたひきつづきそのままに地位を保ったのであります。  これに反して南朝の皇胤は、その存在すら全く後世に知られなくなり、忠臣義士の後裔は仕官の途を止められて、多くは民間に沈淪《ちんりん》し、遂には、これもその存在を忘れられるようになったのでございます。  ところが、江戸時代になって水戸の義公が大いに国史を研究して大義名分を論じ、『大日本史』において南朝の君を正位に置き奉り、北朝の君を閏位としてその後に記載するの筆法をとられたのは、まことに空谷《くうこく》に足音を聞くような出来ごとでした。  もちろん、このために朝廷におけるお扱いまで変更が行われたということにはならず、維新後発行の有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王の御題詠のある『雲上正示鑑』という書物でもまた北朝によって御代数をかぞえているほどではありますが、ともかくも義公の大義名分論によって天日は再び光を顕《あら》わし、忠臣義士の赤誠偉勲はそのために報いられたのであります。国民は、これによってそのつくべきところを知り、感奮してよく明治維新の大業を成就せしむる素因をもなしたのであります。  これはまことに喜ばしいことでございまして、維新後、水戸義公をはじめ、その説に共鳴して盛んにこれを宣伝した頼山陽などが贈位の恩典に浴し、殊に義公の後裔が公爵を授けられるようになったのも、年と共にますますその光を加えるゆえんであると申すべきであります。  しかしながら、その『大日本史』においては、北朝の君を依然|帝《みかど》と尊称して、その天子にましますことを認め奉っております。ただ、これは御歴代以外の天皇としてお扱い申すという筆法をとったにすぎないのであります。  また、北朝の天皇の御任命になった将軍以下武家の将士につきましても、これを将軍伝、将軍家臣伝に収めて、あえて叛臣伝、逆臣伝の中に加えてはいないのであります。明治維新後、南朝の諸天皇に対し奉っても明らかに天皇としてこれをお扱い申上げることとなったのはいまさら申すまでもなく、その忠臣義士にもそれぞれ贈位の恩典があり、あるいは、別格官幣社としてこれを神にお祀りし、あるいは、その後裔をたずねて華族に列し、その遺訓を表彰し、万世に顕彰させ給うたことは、まことに盛代の慶事として万民ひとしくその御聖徳を仰ぎ奉る次第であります」  喜田はつづける。 「さらに申しますと、南朝の諸天皇に対し奉り、これを明らかに天皇としてお扱い申上げ、かつ、その忠臣義士を顕彰したことによって宮内省の扱いが北朝の諸天皇に対してあえて敬意を失い奉るようなことはないのであります。『大日本史』には北朝の諸天皇を帝と称し、御称号の上に文字の差別を示してはおりまするが、維新後の宮内省におけるお扱いぶりにおいては、その天皇としての御尊号はもとより、山陵、祭祀、その他について、これまでと少しも変ったところがないというように承っております。しかるにもかかわらず……」  と、喜田はやや声を励ましていった。 「明治時代の日本歴史、特に、その教科書はいずれも南朝正統の筆法によって、なかには『大日本史』のとった態度をも超えて、尊氏以下武家方の将士を露骨に賊と書いたものが多いのでございます。明治三十四年には私が職を文部省図書審査官に奉じ、これを検定する際においても、まず以てこれに対して、果してこれでよいのであろうかとの疑いを抱かざるを得なかったのであります。もし尊氏以下武家方の将士を賊とみるならば、北朝の諸天皇もまた賊の天皇におわしますというように、幼稚な児童の頭に映りはせぬだろうか、という懸念でございました。しかし、それは前例に倣って文部省の検定ではそのままに通過する習慣となっているところでもありますので、私は先任者の方針によってこれをそのままにいたしたのであります。  ところが、いまやこれを国定教科書として文部省自身が編纂し、官権を以てその使用を全国一斉に強いようとする場合に至って、果してまたこのままでよいだろうか、ということが再び私の頭に浮んだのであります。そこで私は、さらに進んで各方面にわたって調査を重ねてみますると、現に宮内省においては未だ御歴代に関する御決定がなく、いまなお御調査中であるとのことでありました。  しからば、いま仮に『大日本史』の例に倣って、単に両朝間の正閏を明らかにするだけに止めて、武家方を賊とは直接に書かない筆法をとるとしたところで、それが民間の私選ならばともかく、いやしくも官選としてこれを国民一般に強制する場合、南北両朝の軽重を付し奉ることそれ自体が、すでに僭越のきらいがあるのではなかろうか、との疑いなきを得なかったのであります。殊に史実の経過が未熟の教師によって、北朝が次第に勢力を得て、いわゆる南風競わざるの終末を告げ、閏位たる北朝の皇胤は永く天位を継承し給い、正位たる南朝の皇胤は全くその後を絶つに至ったものであるという史実を説き示されるならば、果してそれが単純な児童の頭にどう映るであろうか。仮にしばらく、これまでしばしば見られたところの書き方にしたがって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に対し父子の礼を以て神器を伝え給うたとか、それからは両統更迭もとのごとくにするという条件が付いていたとかいうふうに、両朝合一の際の収まりを都合よく説明するの方法によって一時を糊塗《こと》し、両朝合一後の後小松天皇は後亀山天皇の御養子にましますかのごとき形式をとるとしたところで、その児童が成長したのちにおいて合一後の詳しい史実を明らかにするようになった場合、純真なる青年にそれが果してどう感ぜられるであろうか。それは事実私の青年時代においても感じたところであり、また事実そんな感じから問題を起した事件も過去に存在したと聞いておるのであります」  そこで喜田は、さらに遡《さかのぼ》って史上の前例を求めてみたという。すると、安徳、後鳥羽天皇の寿永《じゆえい》・元暦《げんりやく》の対立があった。これは形式上まったく南北朝の対立と同一の状態にあった。したがって、まず、このほうから決定してかからねばならない。この寿永・元暦のことは、その期間が短く、また安徳天皇はこのとき八歳、後鳥羽天皇は六歳というような極めて幼少の年齢であったし、また平家方が一般に不評判で、同情はむしろ源氏のほうにあったために、従来あまり世間の注意をも惹かなかった。したがって、そう教育上の問題にはなっていなかったということが分った。——喜田は、そういうことを述べたあと、 「しかしながら、いまもし南北朝正閏の筆法を以てこの際のことを述べようとするには、もちろん、安徳天皇は、正位の君に在《ま》し、後鳥羽天皇は安徳天皇御|存生《ぞんじよう》の間、当然閏位の君となる上に、この際にあっては神器問題の上からも後鳥羽天皇は非常に御不利な立場にあらせられたのでございます」  これは喜田が安徳天皇の壇ノ浦|入水《じゆすい》のとき神器もいっしょに失われたことを指している。ついでに云うと、宮中にある三種の神器のうち、剣と鏡はいわば「うつし」であって、「真物」は伊勢大神宮に鏡がおさめられ、熱田神宮には剣が納められてある。ただ、勾玉《まがたま》だけは宮中にあったが、この宮中の二つの「うつし」の神器と真物の勾玉とを持って二位局《にいのつぼね》は安徳天皇を抱いて入水したのである。したがって、宮中には当時神器が無かったことを喜田は指す。だから後鳥羽天皇が位に即《つ》いたけれども、神器無しに践祚《せんそ》したことになるのだ。喜田は、そのへんの事情を言葉で表現した。 「後鳥羽天皇は明らかに神器無くして践祚し給い、ひきつづき即位式をも挙げ給うたのであります。そして安徳天皇崩御後においても、その位を譲られ給うたとか、あるいは、合意の上で神器の授受が行われたというがごとき事実も全然なく、したがって、教育上一時を糊塗する都合よい方法も求められないのであります。  しからば、この間の史実にあっては、閏位の君の軍が正位の君の軍に圧迫を加えて、遂に一天万乗の正位の君をして海に沈め給うのやむなきに至らしめ奉り、その結果として神器が閏位の君の御手に帰しさえすれば、それ以来その君は忽《たちま》ち正位の君となり給うというがごとき事実を認めさせる結果となり、南北朝の場合よりも説明上いっそうの困難があるといわなければなりません」  講演の内容は最も問題となるところに入った。満堂の校長連中も、かたずをのんで喜田の顔を見入り、きき耳を立てていた。   南北正閏論[#「南北正閏論」はゴシック体]  喜田貞吉の講演は、もうしばらくつづく。  ——神器が無くて践祚した後鳥羽天皇の場合を例に挙げて、神器の点からみると後鳥羽は閏位ということになるが、それでは困るので、これを安徳、後鳥羽両天皇の争いとはみないで、すなわち、神器の問題にはあまりふれないで、単に源平二氏の間の争いという説にしてある、と話した上で云う。 「……したがいまして、安徳天皇の崩御についても、源平両氏の争いの結果、勢いの赴くところ、遂に、このような恐れ多い事実を生じたというくらいのことにして、軽く扱っているのが万事都合よくなったのであります。南北両朝問題を取扱うときも、この筆法を以てすべきではなかろうかと、自分は最初にそう結論を得たのであります。  しかしながら、それにしても南北朝時代の期間は、寿永・元暦の間の短さとはくらべものにならないくらい長く、殊に南朝の諸天皇は、安徳天皇がご幼少で平氏のなすがままにされた場合とは甚だしく事情を異にして、親しく政治をみておられたのでありますから、いかに初等教育の教科書であっても、そう簡単に考えるわけにはゆかない。まずもって、その御位についても何とか方針をきめなければならない。そこでわたくしは、史実を研究すると共に、一方では、この問題についてどのような扱い方がなされているか、ほかの先例を調べてみました。  まず第一に、帝国憲法や皇室典範ではどうであろうか。この憲法や典範については伊藤博文公爵が義解《ぎげ》を書いておられるので、それについて調べてみると、公爵はどうも南北朝の関係についてはっきりした正閏を認めておられぬらしく思われます。たとえば、『皇室典範義解』では、これを「皇家の変運にして祖宗典憲の存するところにあらざるなり」と説明しておられます。つまり、南北朝の争いは天皇家における一時的な現象であって、皇統連綿という秩序には一向にかかわりのないことであるとされております。公爵は南北両朝対立の史実をそのままに認められて、これを皇室内の一時の変態とし、もとより祖宗の法ではなく、のちの例となすべきではないという解釈を下しておられるのであります。  次に、官庁発行のものがどうなっているかを調べてみたところが、前に述べましたように、たいていのものは南朝を主とし、北朝をそのあとに付記するという『大日本史』流になっておるのであります。しかし、それはみなその官庁限りのもので、宮内省で認められたというのではございません」  聴講生の校長たちは、しきりと筆記の筆を動かしている。緊張しているのは、大事な問題にさしかかっているからである。 「さらに、明治六年、太政官《だじようかん》布告の祭日表や、宮内省における陵墓表に関する記述など、いずれも南北両朝の間に軽重あるのを認めないのであります。明治九年、元老院で編纂発行した纂輯《さんしゆう》御系図のごときもまた例によって南朝によって歴代をかぞえ、北朝の天皇を不正位としてこれを付記することになっているが、しかし、これには明らかに、この書は一時急いで作ったものであるから、という事情を述べ、もしこれに間違いがあれば、あとで宮内省|修撰《しゆうせん》の御系譜の出るのを待って訂正したい、と断わってあります。  してみれば、当時宮内省で御系譜が修撰中であったことが察しられるのですが、まだ、そのご発表はない。したがって、われわれは、そのご発表があれば一も二もなくそれに従い奉るべきだが、教科書編纂は非常に急いでおりましたので、そのご発表を待っているわけにもゆきません。そこで暫定的にでもとにかく文部省だけの方針を立てて、他日、そのご発表があれば、問題もなくそれに従って訂正すべきものであるとわたくしは考えたのであります。  そこでさらに東京帝国大学の『大日本史料』をみると、これははっきり両朝対立となっております。各年次について両天皇の御名、両朝の年号とをならべ掲げて、その間に軽重を示していないのであります。そして、それは決定当時編纂官で協議の上、総長から口頭を以て文部大臣および宮内大臣に通知したということでありました。歴史的事実からみればまさにこうだ、それをいかに解釈し、いかに認定すべきかは自ら別問題である。他日然るべき筋から適当な決定をみるまでは極めて慎重な態度をとって、この『大日本史料』は編纂されたように見受けられます」  喜田貞吉は、教科書で南北朝の立て方についてその苦心を話す。喜田の話す『大日本史料』とは、明治二十八年に史料編纂事業が置かれたときから、修史局以来集められた材料を編纂して国史研究の根柢にしようというので、その出版事業が計画された。その最初が『大日本史料』第六編の一で、担任は文学博士田中|義成《よしなり》であった。この編が南北朝時代に当っているのである。  田中義成は帝国大学文科大学教授として国史学を担当していたが、その中でも南北朝時代、室町時代などが専門であった。  田中の南北朝時代の講義は、田中の死後、その弟子たちによって草稿が集められ『南北朝時代史』という著書になって出たが、この本の序文を田中と同輩だった三上参次が書いている。その中に三上はこういっている。 ≪第六編の三を印刷しましたときも、それまでにもずいぶん苦しんでおったことでありましたが、恰も北朝の光明天皇の御時代になるのでありまして、史料編纂掛においては光明天皇をいかに扱うべきかという相談を編纂会議でいたしました。そのとき博士が苦心惨澹してその案を作られました。それは、『大日本史料』は科学的研究に基づいて国史研究の根本をなすものであるから、事実上、どうしても光明天皇を一代の天子としなければならぬ。すなわち、南北両朝共に天子とみるという案を立てられて、編纂掛の方はそれで議論がまとまりました。そこで、その議を時の総長にもいたし、文部大臣へもそれぞれ手続きをいたし、また宮内省の或る向きへもそのことを申立て、各方面の同意を得まして第六編の三が印刷になったのであります≫  喜田の右の話は、この三上参次の序文と合致するのである。  田中義成も、『大日本史料』の南北朝時代で両朝をどのように取扱うか苦心したと云っている。また喜田貞吉も、教科書でこの両朝の立て方について苦心したと話している。なぜ、二人とも「苦心」を要したのか。  それは、水戸義公が『大日本史』を書いて南朝を正統と認めて以来、その大義名分的な君臣論が、幕末の勤王イデオロギーに結びついて明治維新の遂行になったからである。『大日本史』では、南朝には「天皇」と書いているが、北朝には「院」と書いて正閏を区別している。しかし、尊氏などを別に逆臣とはしていない。これをさらに強調したのが頼山陽の『日本外史』で、『外史』は史論としての価値は低い。いうなれば、山陽の悲憤慷慨的な美文調で書かれたもので、内容には史実的の誤謬や俗説に流れたものが多い。そういえば、北畠親房の『神皇正統記』にしても、南朝方に属した親房が中国の『資治通鑑《しじつがん》』などの史書の影響をうけて、南朝を正統として陣中で一冊の参考書もなく書き上げたといわれている。  しかし、明治になると、史学は大義名分論的なものから実証的なものに変った。これは欧米の先進学問の輸入によって史学もまた科学的になったのである。  南北朝を確実な史料によって実証してゆくと、これまでのように南朝のみを重しとはできなくなる。北朝も約半世紀にわたって現存していたのだから、これを軽視も否定もできなくなった。そこで南北朝には正閏はなく、併立ということになる。  だが、それではいろいろな不都合が出てくる。たとえば、足利尊氏はこれまでの考えでは逆賊となっている。幕末に勤王の志士が尊氏の木像を梟首《きようしゆ》にしたという話が伝えられている通り、天皇に叛逆した元兇として神社にも祀られていない。もし南北両朝の併立を認めるなら、北朝もまた正しい天皇であるから、それに忠誠だった尊氏は忠臣ということになる。  それから、楠正成、名和長年《なわながとし》、新田義貞など、いわゆる南朝方の忠臣は、北朝を否定してこそ天皇に忠誠を尽したことになるが、もし南北両朝を同価値に認めるなら、これらの人々を単純に忠臣と呼んでよいかどうか問題になってくる。少なくとも、南朝には忠臣だが北朝には逆賊ということになる。  さらに明治の実証史学では、楠正成の人物すらよく分らないということになった。彼が河内の山地に居た、極めて身分の低い土豪(ある記録には「悪党」とある)であったであろうことは推定されるが、その素姓もほとんど分っていない。また、後醍醐天皇を隠岐から伯耆《ほうき》に迎えた名和長年もさしたる素姓の武人ではなく、殊に後醍醐が隠岐に流されるとき、院ノ庄で桜の幹に詩を刻んだという「美談」の児島高徳《こじまたかのり》などは実在の人物でないと、勇敢に抹殺された。  かえって逆賊とみられた足利尊氏のほうが、『梅松論《ばいしようろん》』や、その他の諸家に伝わる記録などから大いに見直されてきた。  こういうことが当時の国民教育の上から、また、その教育をうけてきた国民感情の納得からいって、南北両朝を平等におくことに歴史家が「苦心を要した」のである。  このへんをもう少し立入っていうと、北条政権を足利尊氏などの武士階級によって倒した後醍醐は、建武の政治を天皇親政の昔に返すことを理想とした。そのために後醍醐は自己がすべての権力を握ることを考え、たとえばそれまでの武家の所領を全部否定して、自分が改めて承認したものでなければ取り上げるといい出した。そのため、京では全国から所領の安堵を訴える人間が集まり、天皇ひとりでは裁ききれなかった。天皇の王政復古主義はあまりに性急で現実ばなれしていたから、案に相違して武士の心は後醍醐から離れ、尊氏に傾いてゆく。後醍醐は、そのため尊氏の対抗馬として新田義貞を起用するのだが、大ざっぱに云えば、尊氏の勢力が中国、四国、九州、北陸方面の強大な勢力を味方にしていたのに対し、後醍醐方は地元の近畿と、東国、奥羽などの主として親房がオルグした非御家人の地方武士団で、爾来《じらい》五、六十年間、武士たちは、その利害関係から争闘を繰返す。その間には尊氏も弟や部下に叛乱を起されて事態は複雑な様相となる。その結果、南北両朝共完全に争闘からも浮き上がり、遂には政治的・経済的地盤を失うのである。  だから、これまでの人物論も見方が違ってくる。たとえば、足利尊氏について、『大日本史料』の南北朝を担当した田中義成は、こんなふうに云っている。 ≪尊氏が北畠親房の大規模な作戦計画に対抗して北軍の形勢をよく維持したのは、まったく彼が大局に着眼していたためである。彼が内部に兄弟の内訌《ないこう》や部下の叛服があって何度か危機に陥ったにもかかわらず、よく北軍を支えたのはそのためである。彼は元弘三年に隠岐より還った後醍醐を伯耆に迎えて、勅命を受けたと称して檄文《げきぶん》を諸国に配布したため、諸国の将士はみな尊氏のもとに馳せ参じた。こういうことは彼が大局に眼がよく行届いて諸国の将士の人心を収攬《しゆうらん》していたためで、そのため彼は天下を掌握することができた。  また『梅松論』によると、夢窓国師《むそうこくし》の尊氏観として述べられたこととして、尊氏は三つの徳を備えている。第一は意志|鞏固《きようこ》であって死を怖れない。常に笑いをもって矢面《やおもて》に立っている。第二は人を憎まない。第三に物を惜しまない。財宝を見ること恰も塵芥《じんかい》のようである、と述べている。  また、尊氏が後醍醐に叛《そむ》いたのは後醍醐の主義と相容れないからである。すなわち、後醍醐は王政復古を以て主義としたのに対し、尊氏は武家再興を以て主義とした。そもそも根本から主義が違っているのであって、尊氏は後醍醐個人に対して何ら感情的には衝突していない。むしろ、いつも天皇の知遇に感謝していたようである。  であるから、後醍醐が死ぬと、その百カ日には盛大な仏事をいとなみ、みずから願文を献げ、自分が今日あるのはひとえに天皇の恩遇によるといって後醍醐の御徳を感謝している。また、後醍醐のために当時民力が疲弊していたのにも拘《かかわ》らず、京都に壮大な天竜寺を造営し、多額の荘園を寄付して、その菩提をとむらっている。要するに尊氏は、後世誤り云われるがごとき極悪人ではなく、むしろ、武人としては度量の広い人格だった≫  この田中義成はじめ、三上参次、辻新次、喜田貞吉などいずれも南北対立論者であったから、喜田が教科書編纂に当って、その取扱いを同じにしたのは当然であった。  しかし、南北朝の決定はいろいろな問題を抱えているので困難である。喜田貞吉が講演する通り、宮内省でもその決定ができないでいる。喜田は宮内省で、そのいずれの朝が正閏であるか、あるいは対立であるか、はっきり決めてくれたら、それに従うといっているが、その結論が出ない。  もっとも、宮内省でも努力はしている。明治三十七年四月に帝国年表草案調査委員会というのを設けて、重野安繹《しげのやすつぐ》、井上哲次郎、坪井九馬三、星野恒、三上参次などを委員として、神功皇后など従来異説のある各天皇の治世年表を編成しようとの事業をはじめた。  これで南北朝の取扱いも当然決定されるはずだが、その調査機関も議がはかばかしくすすまない。寿永・元暦の安徳天皇・後鳥羽天皇の関係がすでに容易でない。神器の授受が無かったのがどうしてもひっかかる。尤《もつと》も、神器の授受をしようにも、神器は安徳と共に入水しているのだから、どうしようもない。  そこで、しばらくこれをあとまわしにし、まず、南北朝問題を決定してから、寿永・元暦の問題に立ちもどろうとしたが、南北朝問題も同じ性格なので、やはり決めかねる。調査委員会は足踏みの状態で、一向に進捗《しんちよく》しなかった。  問題はまことに厄介であった。  さて、喜田は講演の結語をこうしめくくった。 「要するに国定教科書では、南北朝時代の戦乱を皇位の御争いとはみないで、天皇親政の古《いにしえ》に復するか、鎌倉時代のように引きつづき武家に政権をゆだねるかという、宮方と武家方との主義上の争いとみようとしたのです。そして、両天皇が同時に存在し給うたことについては、これまで大覚寺・持明院両統|迭立《てつりつ》の例であったのが、その争いの結果として勢いの赴くところ、遂に同時にならび給うたという歴史上一時の変態現象であったというふうに解釈しようとしたのです。ただ史実はどこまでも史実であって、曖昧《あいまい》にすることはできない。そこで、それを初等教育上に応用する上でどのように扱うかということが苦心の払われるところであります。ただ、足利尊氏など武家方の将士は賊名を避けるために天皇を推戴し奉ったのであるから、北朝の諸天皇はむしろその利用するところとなられた被害者であったとも申上げることもできます。したがって、尊氏などはもちろん皇室に対する忠臣とはいえない。これに対して南朝方の人々は真に君国を思うの忠臣として、これまでどおり説明ができると考えたのです。史実では南北統合といっても、南朝方が降ったということになっているので、厳密な意味からゆけば平等な立場での統合ではない。いわば南朝方が敗けたという印象ははっきりしている。しかし、これを一時の変態事項の説明として、そこを教師がうまく指導すれば、べつに少年に朝敵が勝利を得たという感じを抱かせないで済む。南朝を正とし北朝を閏とすれば、すなわち、正統なる南朝からは北朝が朝敵ですから、そうなります。両朝併立とすれば、そのへんの説明は初等教育の上でまことに都合よくゆくのではないかと考えて、左様な観念で執筆したのでございます」  この喜田貞吉の講演は、実は明治四十三年十一月十日から十二月一日の間に前後通じて十時間行われたのである。そして、喜田は最終日には慎重な態度をとって、わざわざ宮内省|図書寮《ずしよりよう》編修官の臨席を求めている。  喜田の講演の最終日は聴講者の質問である。  主催者側の一人が例によって、どなたか喜田先生のご講演に対してご質問がありませんか、と云ったとき、場内の中央から前に近い位置で手をあげた者がいた。半白の、五十近い人だったが、はじめから色をなしていた。司会者が指名すると、その人は壇上の喜田を睨《にら》むように見た。 「喜田先生の長いご講演を拝聴し、まず、そのご苦労に対して厚くお礼申上げます」  と、彼は切口上に云った。 「わたくしは永い間小学校教員として歴史、地理を担当してきた者でございます。そして、特に喜田先生の執筆された国定教科書の南北朝の項には非常に関心を持っておる者でございます。と申しますのは、この教科書では南北朝が併立または対立ということで書かれております。これがわたくしにはどうも理解ができない。児童に対して教える場合、いつも私は説明の言葉に詰るのでございます。そもそも、わが国においては……」  と、校長は威儀を正した。 「畏《かしこ》くも天皇は万世一系で、皇統連綿としてあらせられます。すなわち、わたくしども教育者は児童に対し、天皇はちょうど天に太陽が一つしかないごとく御一代にはお一人におわしますと教えております。ところが、喜田先生の説のごとく南北両朝の天子さまが同時にお二人あらせられたとなれば、いわゆる天に二|日《じつ》があることになります。この点、児童にどのように教えたらよろしいか、喜田先生のご教示を願います」   落し穴[#「落し穴」はゴシック体]  聴衆の中から起った地方の小学校長らしい初老の男の語気には、素朴な問いというよりもすでに攻撃的な調子が含まれていた。  壇上の講師、喜田貞吉は、まだ四十の壮年である。彼は、忠君愛国の教育に燃えた田舎の校長の一本気な質問をやんわりと受止めるという術《すべ》を知らなかった。喜田はむしろ狷介《けんかい》な性格である。彼は眼鏡越しにじろりと質問者を見ると、無愛想な調子で答えた。 「おっしゃる通り、御歴代は皇統連綿として万世一系にわたらせられておりますが、これは通則から申上げていることで、歴史上には変則ということがございます。したがって、歴史上の変態的な事実まで、通則によって否定し去ることはできませぬ。もともと南北朝の争いは、ご承知のように、後嵯峨《ごさが》天皇に御二子があらせられて、御長子のほうを後深草天皇と申しあげる。次子の方がその後深草天皇のおあとを践祚《せんそ》あそばされた亀山天皇であります。ところで御父の後嵯峨天皇は、温順な後深草天皇よりも、資性英敏にましました次子の亀山天皇を御寵愛あそばされ、その御位も強いて後深草天皇から譲位をおさせなさったのです。のちに後深草天皇は持明院に坐《おわ》しましたから、爾来《じらい》、後深草天皇の御子孫は持明院統と申し、亀山天皇はのち大覚寺におわしましたから、これを大覚寺統と申しあげる。この両統のお間柄がどうもよろしくない。後深草天皇を初め奉り、持明院統の御子孫のご性格は温和にましましたので、とかく鎌倉の北条幕府に御妥協をあそばされる。ところが、亀山天皇の大覚寺統は豪気な御性格の方々がつづいておられたので、とかく鎌倉幕府に楯突《たてつ》く立場をおとりになった。両系統の御争いのために、自然と幕府に対する態度もこういう結果になったとも思われます。この大覚寺統に後醍醐天皇がおわしますので、これよりして大覚寺統は南朝の系統ということになり、持明院統は北朝の天皇となられて、両朝の対立となるのです。  しかしながら、これを皇室の御争いという点だけ見奉るのは当らないことで、武家政権がこうした皇室の内紛を、自分のほうに都合のいいように利用したとみたほうが正しい解釈だと思われる。すなわち、北条幕府は、大覚寺統の方々に関東征伐の思召しがある、という持明院統の人々の言葉を信じて非常に警戒的であった。事実、後醍醐天皇は武家政権が皇位の継承にまで嘴《くちばし》を入れるのを憤られて北条政権を御転覆なされ、建武の親政を施《し》かれたのですが、その後は再び後醍醐天皇に叛き奉った足利尊氏の政権によって、持明院統が北朝として尊氏の利用し奉るところとなったという次第です。したがって、歴史の上では、この両朝の対立ということを否定するわけにはまいりません。これを妙にぼかしたり匿《かく》したりすれば、かえって純真な児童の国史教育を歪めることになり、のち彼らが成人したとき、国定教科書の歴史について懐疑を覚えることとなります。これは面白くございません」  喜田としては丁寧に説明したつもりだった。しかし、彼の容貌はもともと傲慢不遜に見える。言葉にも愛嬌がない。聴くほうからすれば、この程度の歴史の初歩すら知らないのかと揶揄されたように感じられる。  髪の白い校長は再び起った。 「喜田先生からいろいろご懇篤なご説明がありましたが、もう少し具体的にお話を願わなければ納得がまいりませぬ。この問題は非常に重大でございます。すなわち、聖徳太子が憲法十七箇条をお定めになった。その第十二条には、国に二君なく民に両主なし、率土《そつと》の兆民は王を以て主となす、とあります。次いで蘇我氏の専横なるに及んで太子の女《むすめ》、上宮大《かみつみやのおお》娘姫王《いらつめのみこ》は憤られて、天に二日なく国に二王なし、と云われました。さらに大化の改新に当っては中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》は上奏されて、天にまた二日なく国に二王なし、この故に天下を兼ね合せて万民を使うべきはただ天皇のみ、とあります。これわが国が創始以来無窮に発展し、さらに未来に向って終始一貫した大きな精神でございます。喜田先生は通則という言葉をお使いになったけれども、われわれはこれを公理と考えております。日本の国が絶対に唯一である限り、主権もまた絶対に一つであらねば不合理だと思います。かようにわれわれは児童に教育をしてまいっておるのでありますが、喜田先生のご執筆にかかわる国定教科書には両朝併立もしくは対立というかたちになって、すなわち、天に二日を認めておられる。先生は、歴史上には変則というものがある、またこれは史実である、かように仰せられますが、さきに申しあげた万世一系皇統連綿の公理は絶対不変な真理であると考えます上から、およそ変則というものを認めるべきではないと、かようにわれわれ教育者は考えております。このへんについて、もう少し先生のご説明を承りたいと存じます」 「お話し申しあげます」  喜田は淡々と答えた。 「おっしゃるように、我が国の歴史は極めて立派な、善美なる歴史でございます。万世一系の皇統には間違いありませぬ。ただ、南北朝の場合は、それが大覚寺統であらせられようと、持明院統であらせられようと、後嵯峨天皇より出たるもので、すなわち根は一つであらせられる。しかし、問題は、北朝は北朝の御歴代天皇を以て御代をかぞえ奉っているに対し、南朝は南朝の御歴代を以て御代をかぞえ奉っているところにある。これがわたくしのいう歴史上の変則の事態であります。長い年月には、ときにはいろいろな事態が起る。変態が起った際には、理屈ではちょっと説明しにくいようなことが起る。これがすなわち変則の変則なるゆえんで、常道を以ては説明しにくいのでございます」  喜田はつづける。—— 「御歴代の数のごときは、まさにそういう結果として現われたものの一つといってよろしい。たとえば、『大日本史』の説と、塙保己一《はなわほきいち》の説とは、単に長慶天皇の位を認めるか認めないかというだけの相違ですが、しかし、これをさらに進んで研究を重ねますと、南北朝の場合は、南朝によってかぞえるか、北朝によってかぞえるか、という根本の問題に突き当る。近ごろ世に行われている普通の書物では、たいてい南朝を正統とし、北朝を閏位としておるため、御代数を南朝によってかぞえる場合が多いのである。しかし、これは結局私事であって、皇室のことはそう簡単に決めてよろしいものではない。文部省の国定教科書が南北両朝について軽重をつけないで、双方を五分五分の筆法を用いてあるのは、十分に慎重な研究を重ねた結果でございます。……もっとも、宮内省で何とかご発表があれば別でございます。臣民の分として皇室の歴史を書くには、そのいずれにも十分な敬意を表さなければならないのですが、講演中にしばしば申しあげたように、明治九年のころ元老院で皇室の御系譜を編纂し発表になっておりますが、その御系譜には、北朝の天皇を天皇として認めながら、南朝によって御歴代をかぞえております。しかも、その南朝の中には長慶天皇を御代数に入れておりませぬ。しかし、この編纂は、いわば仮の御系譜であって、将来宮内省修撰の御系譜が出たならば、これを訂正するというふうになっておる。したがって、元老院編纂のものは典拠として定まったものではないのです。宮内省修撰のものについては御調査があるときいていますが、いま以て御発表がない。御発表があれば議論は少しも要らないはずですが、それがない限りは、やむを得ず学者がその研究からこれを決めて行くことになる。そして、将来宮内省の正式な御修撰が御発表になれば、これに従うということになる。かように考えて、それまでは文部省の国定教科書の南北両朝対立はそのままである、ということにご了承を願いたいと思います」  初老の校長は三度起った。 「喜田先生のお話のように、宮内省で左様な御系譜について御修撰が発表になれば、もちろん、それで学説も定まるということになりましょうが、しかし、御修撰がいつ御発表になるか、わたくしどもの洩れ承ったところでも、なかなか早急というわけにはいかないようです。それまで国定教科書のほうでは、やはりこういう天に二日を認めるような書き方がつづくことになる。この点を児童教育の上からわたくしども非常に憂慮するわけでございます。……喜田先生は、どうもわたくしの質問に対して核心のところを避けてお答えになっているように考えられる。あるいは、そうでなくともお気づきにならないかとも存じますので、先生がこのたびのご講演の基礎にされておるご自著の『国史乃教育』の諸点についてお伺いしたいと存じます。それは、先生の講演がこの『国史乃教育』をさらに敷衍《ふえん》されてお話しなされておると思うからでございます」  校長は、持参の緑色の表紙の本を開き瞳《め》を凝らして読みはじめた。 「南北朝にともなって、しかも、これとは別に考えなければならぬのは光厳天皇の御事である。この御方は、『大日本史』が南朝正統の筆法をとった結果としてその御在位を認めず、したがって北朝の諸天皇と共に同じく後深草天皇の皇統、すなわち持明院統におわす関係より、北朝の五主の一として、これを後小松天皇本紀の初めに列してから以来、普通の書には、これを北朝の一天皇として見奉る例となっている……」  と校長は喜田の顔をちらりと見た。 「……しかしながら、南北朝の分立は、光明天皇が京都にて御位にましまし、これに対して後醍醐天皇が吉野にお移りになって、依然天皇にましますことを御主張あそばしてからのちのことである。南北朝五十七年とかぞえるのも必ずこのときから以後である。したがって、その以前に御位にましました光厳天皇は決して北朝の君ではない。それ故に北畠親房の『神皇正統記』の筆法によって全くこの御方の御位を認めないならば、それも一つの見方であるけれども、すでにその御位を認めるとするならば、それは北朝の君としてではなく、南北朝以前の君として、その御治世を定め奉らねばならぬ」  校長はここまで読んで、いよいよ肝心な箇所だというように声を張上げた。 「光厳天皇の御地位は、少なくとも寿永当時の後鳥羽天皇と同等と申し奉らねばならない。その後、光厳天皇は後醍醐天皇より三種の神器をお受けになった。次いで立派に即位の礼をもお挙げになった。もっとも、その三種の神器の中に八坂瓊曲玉《やさかにのまがたま》のみは擬器であって、真の神璽《しんじ》は後醍醐天皇が御身を離さず、隠岐までも御携帯であったとの説もあることであるから、三体具足しなかったとしても、ともかく後醍醐天皇よりこれをお受けさせられ、三種のうち二種までもお伝えなされたとすれば、単純に神器の所在を以て皇位の正、不正を論ずる筆法よりしても、天皇の御位を絶対に否認することはできない。いわんや、後醍醐天皇の隠岐にましました間は、事実において主権を行わせられず、光厳天皇が天《あめ》が下《した》をしろしめされたのであった点からみても、この天皇を御歴代に列し奉るが至当と解せられる。故に、いま仮に後醍醐天皇が隠岐にましましたまま、また光厳天皇が京都にて天が下をしろしめされたまま長く変更がなかったと想像したならば、この天皇の御位については後世何の疑問も起らなかったであろう。しかるに、事実は然らず、勤王の軍が勢いを得て武家政治は忽《たちま》ち滅び、光厳天皇は隠岐よりの詔命によって御位を退かれ、後醍醐天皇は天子|巡狩《じゆんしゆ》より還幸せらるる御儀式を以て京都に還られ、再び御代しろしめされたのである……」  喜田の『国史乃教育』に書かれたこの部分の論旨は、要するに、後醍醐天皇は隠岐に流されて主権はなかった。しかるに、光厳天皇は京都において即位式までして、立派に統治をしたのであるから、光厳を正位の天皇としなければならない。したがって、後醍醐が光厳を否定するのは理屈の上からいって合わないというのである。  このあとにつづく文章を要約すると、隠岐の後醍醐は引きつづき天皇の位に在った。京都の光厳ももちろん天皇であるから、このあたりで二つの天皇が重複して存在したことになる。京都に還った後醍醐の留守中の事情については、後醍醐が地方を巡幸中に皇太子がいろいろの政治をしたという解釈をとった。したがって、光厳の譲位は天皇がその位を退かれたのではなくて、皇太子である量仁《かずひと》親王(光厳)が自らその位を退いたというように解釈された。そこで、後醍醐天皇の代がこのまま永続したならば、光厳天皇は全く歴代から消えてしまうところだが、その後、足利尊氏のために後醍醐は比叡山にのがれ、尊氏は光厳上皇の院宣《いんぜん》を乞うて、その子の光明天皇を擁立した。のみならず、後醍醐は尊氏から迫られて三種の神器を光明天皇に伝えた。そして、逆に光明から後醍醐天皇は太上天皇という隠居の尊号まで受けてしまった。ここで後醍醐と光厳の位の関係がまた問題となって、ややこしいことになる。 「これはもとより後醍醐天皇の御意志ではない。殊に、そのお伝えになった神器と申すのも、実は真の神器ではなかったのだ。天皇は秘《ひそ》かに真の神器を奉じて吉野に移りたまい、依然として即位にましますことを宣言あそばされた。むろん、光厳天皇や光明天皇の御位をお認めにはならない。これよりのち、南朝のほうでは常にこの流儀で御歴代をかぞえ、これに反して北朝のほうでは吉野における後醍醐天皇以下の諸天皇の御位を認めず、どこまでも光明天皇以下の諸天皇の御位によって御歴代をかぞえられるのである……」  しかし、その後、南北両朝は合一した。しかし、事実は、南朝方の後亀山天皇が吉野より出て北朝方に降ったと、頗《すこぶ》る露骨な書き方をしているのをみても、その合一当時の情勢が推測される。喜田の著書はこう述べたあと次の文章につづく。 「その後の御歴代のかぞえ方は、むろん、北朝に寄せられたものと拝察し奉る。しかるに、明治の維新に至って南北朝に関する考え方はよほど趣が変った。明治の維新は、七百年来の武家政治を覆して王政の古《いにしえ》に復した大変革で、すなわち、宮方たる南朝の主張が五百年後に至り貫徹した次第である。維新の元勲は、すなわち、南朝の忠臣の遺志を継いでこれを貫徹したのである故、維新後、南北に対する思想は大いに変らざるを得ない。今日では、もはや、かつて武家時代に出来た『皇胤紹運録』などの筆法を学ぶべきではない。維新後、一般の歴史が『大日本史』に倣《なら》って光厳天皇を認めず、南朝によって御歴代をかぞえるものが多いのは理由のあることである。が、さらに冷静にこれを考えたならば、南北両朝の関係は、かく単純に論ずべきものではない。かけまくも恐れ多いことながら、今上天皇陛下は持明院の御流れでまします。後小松天皇以後の君はいずれも南北両朝合一の結果、その双方のあとをうけさせられたとは申せ、御血統において明らかに北朝のあとであらせられるのである。したがって、国史の教育を施す上においては、南北両朝の関係を説くに特に注意するところがなければならぬ。南朝の忠臣を賞揚せんとするのあまり、万一、北朝の天皇までも不正の君であったかのごとく考えしめ、遂には敬を子孫に失するようなことがあってはならぬ。南北両朝はどこまでもその対立を認め奉り、これと同様に、光厳天皇の御位と後醍醐天皇の御位とをも共に認め奉るを穏当とする。なお、神器と皇位についてもいろいろの議論があって、したがって論ずべきことも多いけれども、あまりに専門にわたるから、今回はすべて省略することにしよう……」  喜田の著書からこれだけの長い引用を小学校長はしゃべった。  喜田は自分の著書を棒読みにされる間、うんざりとした表情でいた。それが、また、はたの眼には、いかにも律義な小学校長を小莫迦《こばか》にしたようにみえる。 「喜田先生にあらためてお伺いしますが、ご著書にもある通り、後醍醐天皇が光明天皇にお渡しになった御神器は真物ではなかった。つまり、ニセの御神器ということですが、それでは、北朝の天皇方は真の御践祚をなされたとは申し上げられないと思いますが、いかがですか?」  校長は訊《き》いた。 「いや、神器の所在だけで皇位を決定するのは単純すぎます。それに、後醍醐天皇が光明天皇にお渡しした神器はニセである、本ものは南朝にあるというのは北畠親房が『神皇正統記』で説明したもので、この本はもとより南朝方の利益のための政略的な著述ですから全部は信じられません。実際は、北朝に渡した神器は真正だったかもしれない。そのホンモノを南朝方がアレは偽物だと宣伝したのかも分らないのです……」  若い喜田はうっかり口をすべらした。   天に二日ありや[#「天に二日ありや」はゴシック体]  一時、北朝と和睦した後醍醐天皇が、足利政権に強制せられて神器を北朝方の光明天皇に渡したのだが、それは偽物で、真物は南朝方にある、と『神皇正統記』などが書いているが、しかし、それは案外北朝に渡したのが真物であったかもしれない、と喜田貞吉が云い切ったので、先ほどから質問に立っている校長は顔色を変えた。 「先生は、後醍醐天皇が北朝方にお渡しした神器は真物かもしれない、偽物というのは南朝方の宣伝だとおっしゃいましたが、それは先生個人のご感想ですか、それとも何か拠りどころがあってのご意見でしょうか?」  この校長は富士前《ふじまえ》小学校校長で、峯間信吉という男であった。もとより熱烈な忠君愛国の教育者で、南朝方を正統と信じて疑わない。そうしたことは喜田もあとでは分ったが、このときはまだ知らなかった。 「いまのご質問ですが、わたしは自分の感想で歴史上の論断をしたことは一度もございません」 「お差支えなければ、この場でその典拠をご教示願えませんでしょうか?」  峯間校長は熱心に喰下がった。  喜田はちょっと面倒臭いなという表情をした。しかし、このことは単に一校長の質問ではなく、ここに集まってきている聴講者全体の関心だと思うと、素気ない答弁はできなかった。彼は云った。 「神器の授受は、ご承知のように、この時代、二度ほど行われております。最初は後醍醐天皇が笠置《かさぎ》においでになったとき、北条氏が光厳天皇を擁立申しあげた。しかし、笠置が陥ってからのち、北条氏は神器を光厳天皇にお渡しするように後醍醐天皇に強く要請した。そこで天皇はやむを得ず神器を光厳天皇にお授けになった。このことは群書類従の中の『剣璽渡御記《けんじとぎよき》』と、伏見宮御記録の中にある『光厳院|宸記《しんき》』とに詳しく出ております。  ところが、『増鏡《ますかがみ》』『太平記』などによると、このとき神器は三種とも後醍醐天皇がお持ちになっていたように書いてあるが、このことについて疑問があります。それは、このとき授受された神器の真偽問題です。『剣璽渡御記』を初め『太平記』に至るまで、光厳天皇にお渡しした神器が偽物だという疑いは少しもしておりません。ところが、『大日本史』には『授クルニ新器ヲ以テス』と書いてある。これは『増鏡』に、天皇が隠岐においでになったとき神器を納めた箱を御身からお離しにならなかったということから推して、真の神器は御手を離れなかったものと認め、光厳天皇に渡されたものは新器であると断定したのです。  しかし、『増鏡』だけでこのように断定するのは早計であり、また、とっさの間に新器が用意されていたとは思えないのです。三種の神器といっても、鏡は初めから宮中に残されていたと思われるので、このときは勾玉と剣だと思います。この二つの神器にしても怱急《そうきゆう》の間に造れるものではない。やはり後醍醐天皇が光厳天皇にお渡しになったのは真物だと考えられます。  その後、今度は足利尊氏が光明天皇を擁立して、またまた後醍醐天皇に神器の授受を逼《せま》っております。このとき天皇は『虚器を授けられた』と『園太暦《えんたいりやく》』に見えている。すると、やはり新器をお授けになったのではないかと考えられますが、しかし、この園太暦の説も信用ができないのです。なぜかというと、南北朝対立になってから南朝方では、真正の神器は、こっちにある、したがって正統の天子は南朝であるということを天下に呼号し、人心を収攬《しゆうらん》する目的があった。『神皇正統記』は、実にこのことを説明するために政略的な意味で書かれた著述なのです。  ですから、『神皇正統記』、『園太暦』とも信用ができない。ましてや『増鏡』はもっと信用ができない。それ故に、『大日本史』の授くるに新器を以てすという記事のほうが容易にうなずけるのです。ただ、注意すべきことは、『大日本史』が主として神器の真偽を論じて、光厳天皇の受けられたのは偽の神器であるからという理由で、この天皇を除き、後小松天皇本紀のあとへ付録として北朝の天皇と共に列挙しております。  しかし、事実を史学の上からみれば、『大日本史』の態度はとるべきものではない。わたしの考えでは、『続本朝|通鑑《つがん》』『国史略』などが後醍醐天皇の次に光厳天皇をおいて、その次に再び後醍醐天皇を挙げているのを妥当としたいのです。  すなわち、こういう史観からしても、南北朝併立としたほうが実態によく合致すると思われます。……それから、もう一つ、申し上げたいことがある」  喜田は校長の顔を見ながら云った。 「後小松天皇の御代に南北朝合一が行われたのですが、このときの契約では、持明院、大覚寺両統で代る代る天皇の御位に即《つ》かせられることになっていたが、後小松天皇の御後は、いわゆる北朝方の皇子が代々御践祚あそばされた。そこで、吉野において父祖代々南朝方にお仕えした武士たちはみな憤りを発して、いかにもして足利の輩《やから》を滅ぼし、南朝の宮を取立て奉り、後醍醐帝の叡念《えいねん》を通し奉ろうと考え、十津川や河内、紀伊などの者どもが語らい、後亀山天皇の御後の方を南方宮と申し奉って、軍兵三百人ばかりが嘉吉《かきつ》三年九月の夜半に内裏に押寄せ、狼藉を働き、神璽《しんじ》を奪い奉って比叡山に籠り、それから大和へ引揚げた。  この方が秘《ひそ》かに天子と称して、吉野の山奥に御座所を設けられたのですが、これを世に自天王と申しあげておる。もし、南朝方に真の神器が伝わっていたなら、吉野の徒党が畏《かしこ》くも皇居に乱入して偽の神璽を奪うはずはない。これも一つの傍証となるかと思います。しかも、このあと、その神璽は、赤松|満祐《みつすけ》の家人が自天王を害して奪い返し奉ろうとしたこともあったが、結局、その後十六年もその神器が北朝方に戻らなかったという記録もございます」 「それでは、喜田先生は、結局、南朝は真のご神器は北朝方にお渡しになっていないというご結論でございますね?」 「いや、結論というと早急にすぎるが、要するに、『神皇正統記』に書かれてあることは、神器に関する限りそのまま受取ることができないと申しあげたのです。ただ断わっておきたいのは、神器の所在によって正閏が決るというのではなく、歴史上からみて両朝対立とみたほうが妥当だと考えてるだけでございます」 「しかし」と、峯間校長は執拗に云った。「われわれは『神皇正統記』に書かれていることを真実の歴史だと受取っております。また、真の神器をお持ちになるのが正統な天皇だと考えますので、南北両朝が同等な御位に在られたとは考え得られません。やはり天に二日は無いのでございます。したがって、『神皇正統記』にあるがごとく、たとえ隠岐や吉野の辺地におわそうとも、御神器をお携《たずさ》えになった後醍醐帝がそれを南朝方の代々の天皇にお引継ぎになったという事実を以って南朝を正とみるべきだと考えます。したがって北朝を閏と考えたいのであります」 「あなたは神器に少しくおこだわりになっておるようにわたくしには思えます。もし、どこまでも神器の所在を以って天皇の御正統たる理由になさるなら、そもそも安徳帝が壇ノ浦で入水なさったときに失われた神器をどうご解釈になりますか」 「そのことは、宝剣がその後海に泛《うか》んで流れていたのをお拾いして、もとの然るべき御場所に納められたと伝えられております。したがいまして、神器は間違いなく安徳天皇後も御歴代の天皇に伝わっております」  喜田の顔に失笑らしい翳《かげ》がみえたが、それはさすがに口辺の皮肉の微笑のままでおさまった。  臨席の修史局修史官|本多辰次郎《ほんだたつじろう》が、ちらりと喜田のその顔に眼を走らした。  峯間校長はもっと質問したげだったが、自分だけが時間を独占するわけにはゆかないので残念そうに坐った。  そのあとに起ったのが、額の禿《は》げ上った、長い顔の人物である。 「喜田先生にちょっとご質問いたします」と、彼は云った。「先ほどからだんだんお説を承っておりましたが、わたくしは別な観点からおたずねしたいと思います。恐れ多くも今上陛下は北朝の御系統にあらせられます。しかるに、明治以後、神社の祭神として迎えられたのは楠正成、新田義貞、名和長年、北畠親房、児島高徳をはじめ、南朝の忠臣方ばかりであります。また、そのほか御贈位になったのも、いずれも南朝の忠臣方ばかりであります。すなわち、南北朝の時代、北朝方に従っていた足利尊氏以下の将士は神社にも祀られないばかりか、御贈位の恩典にも浴していない。これは今上陛下が北朝の御系統であらせられるのを考えますと、ちと奇異な感じがいたします。この点はいかがでしょうか?」 「その点は、わたしの著書『国史乃教育』に書いておきました」  と、喜田は相変らず無愛想な調子で答えた。 「つまり、足利尊氏は天皇御親政を奪って武家政権に復しようとした張本人であります。恐れ多くも後醍醐天皇をして吉野にご遷座のやむなきに至らしめた不忠者でございます。ですから、彼がたとえ北朝方に忠義を尽していたとしても、それはあくまでもおのれの政権を立てるために天皇を御利用し奉ったのであります。しかるに、楠正成、新田義貞、名和長年、北畠親房などは天皇御親政の目的のためにお尽しした人々でありますから、これは、純粋な忠義だといえる。南朝の御系統は、その後、あるいは僧籍に、あるいは吉野の山深いところに絶えたのでございますが、しかし、これら南朝方の忠臣は維新後に顕彰されて今日の輝かしい栄誉を得たのであります。それに反し北朝方についた武士たちは、足利尊氏という武家政権が間に入ったため、天皇に直接御忠義を尽したことにはなりません。われわれが憎むべきは足利尊氏で、それ以上の方々にこの感情を持ってはならないと思います。……これで南朝北朝の対立と忠臣の関係は分明かと思います」 「喜田先生は、武家政権が怪しからぬ、畏くも天皇御親政を奪い奉ったというお話ですが、それならば、何故に源頼朝に御贈位がなされているのか、また徳川家康が何故に神社にまつられているのか、家光など代々の徳川将軍に御贈位がなされているのか、このへんを伺いたいと思います」 「お答えします。なるほど、源頼朝は武家政権を立てました。しかしながら、これは時の天皇より統治権の御委任を受けたのであって、足利尊氏の場合とは少しく違う。すなわち、頼朝は天皇に対し叛逆的な行為をいたしてはおりません。徳川家康にしても、家光にしても、みな同じことがいえます。かようにご了解を願いたいと思います」 「喜田先生のせっかくのお言葉ですが、わたくしには合点がいかない。なぜなら、なるほど、頼朝は時の天皇に対し表立った不忠の行為はしていないかもしれない。しかしながら、武力をもって鎌倉に政権を立て、恐れ多くも京都の天子さまを監視しております。もし、時の天子さまが後醍醐天皇のごとく御気性の激しい方であらせられて、ちょうど北条氏に向けられたように、頼朝政権に兵力をお向けになったならば、頼朝は果して弓や刀を御前に投げ出して降伏申上げたでありましょうか。われわれは否といわなければならない。同じことは徳川家康についても申せます。すなわち、家康は京都に二条城を造り、所司代をこしらえ、畏くも陰に陽に皇室に対し奉り、圧迫をお加え申上げている。現に三代将軍家光は、寛永年間、江戸より諸大名の軍勢何万人という未曾有の勢力を引具して京都に上り、天皇に対し奉って一大示威をこころみています。これ、先生の云われるごとく、虚心に将軍が時の天皇より政権の御委任を受けたといえましょうか。決してそうではない。事実は逆であって、すなわち、当時の朝廷が将軍に下される詔は形式的なもので、はっきり申せば、御歴代の天皇は幕府の武力威嚇の前に全くご無力であらせられた。これは幕府の創始者頼朝をはじめ、秀吉や、家康や、家光みな同じで、いずれも不忠の臣です。区々たる僅かな尊王的な行為は、彼らの本質をごまかすための欺瞞であります。この点、喜田先生のお説はまだ合点がまいらないのでございます」 「その点は……」と、喜田は急に苦しそうな顔をした。 「あるいはお説の通りかもしれない。しかしながら、歴史上において、武家政権は一種の変体でございます。御親政が正しいかたちである。だが、長い歴史ではやむを得ない変体も起りうる。その変体の中でとにもかくにも武家政権が万世一系の皇位をお護りしたというのは、その限りにおいて功績を認めなければならない。かように政府でも考えられて、維新後、そうした人々にそれぞれ御贈位になったことと思います」  しかし、その人は昂《たか》ぶった調子で質問をつづけた。 「けれど、先ほどからのお話だと、喜田先生は足利尊氏の人物についてかなり評価なさっているように伺いました。しかし、われわれ教育者からすれば、逆臣は逆臣、忠臣は忠臣と、はっきり区別して児童に教えなければならない。先ほども前質問者からお話が出ましたが、天に二日が無い以上、北朝方か、南朝方か、どちらかについた者が逆臣か忠臣かでなければならない。喜田先生が学問上ご意見、すなわち学説をお持ちになっていることはご自由でありますが、しかし、問題は児童に教える教科書という性格にあります。つまり、これは国民の教育であります。学説の発表ではございません。わが国民教育に重大な影響のある教科書に、国民が、その帰趨《きすう》に迷うような南北両朝併立を載せることは、今後、国民の心にその就くべき道を誤らせるおそれがございます。教科書は、南朝を正とし北朝を閏とする、すなわち、天に一日を仰ぐ書き方に致すべきだと考えます。この点について、先生のお考えをお伺いします」 「お説は承りました。ご意見は今後の参考にさせていただきます」  喜田は、軽くそうかわそうとした。 「喜田先生、それでは、これからも教科書にはこの南北両朝対立で通されるのですね?」  質問者は追った。 「先ほどからお話ししましたように、宮内省においてもまだ御系譜が出来ておりません。それが御完成になるまでは、執筆者の意見で書くほかはないと思います」  この質問者は、中石勉三という静岡県沼津中学校長だった。  すると、この中石校長の質問のあとをうけてすぐに起ったのが、眼の鋭い、痩せて顴骨《かんこつ》の張った、長身の人である。これもあとで分ったが、山梨県師範学校教諭本山惣太郎という人だった。  彼も激しい口調で喜田に質問を浴びせた。それはもう質問というよりも一種の攻撃であった。 「喜田先生は、宮内省の御系譜作成がのびのびになっている、それはいつ御完成になるか分らない、それまでは教科書は執筆者の考えによって書くほかはないというご意見ですが、われわれからみると、それではすべてが宮内省の御系譜作成に責任が転嫁されているように思われます。……と申しますのは、御系譜が御完成になるまでの期間こそ教科書が国民教育の上の指針になると思うからであります。未だ国民の拠るべき正式な御系譜がみられない以上、生徒児童は教科書にこれを求めるよりほかはありません。したがって、ある意味では、御系譜が御完成になったのちは、もはや問題はなく、それまでの教科書が最も重大だと考えられます。  しかるに、喜田先生が南北両朝併立をおとりになると、これは国法上との関係にも影響することだと思います。すなわち、日本には天子様がお二方おいでになった。しかも、お二方は対立の関係にあらせられた。こういう場合、一体、国民はどちらの天子様におつきすべきか、甚だ迷うところであります。そもそも国法は天皇の主権のもとに定められている。天皇がお二方あらせられると、当然、日本は二つの国法をもつことになります。将来、万一にも南北両朝といった残念な時代はないと思いますが、かりに、仮定的な問題としてですよ、再びこれに似たような変則的なことが起ることを想像すると、その場合の国民の気持の規準を定める上においても南北両朝のお扱いはまことに重要であります。また、喜田先生は南朝正統論をおとりにならない。南朝も北朝も正統であるというお説ですが、もし、従来のように南朝のみ正統とするならば、それは国民教育上、どのような悪影響になりますか、この点を含めて、以上についてご説明願いたいと思います」  喜田はまことに苦しい立場に陥った。彼も学説の上からいいたいことはいっぱいある。しかし、ここでは云えぬ。問題は教科書についてのことだ。聴衆は小・中学校の教師である。喜田が研究の上で得た学説をこの場のこの特殊な聴衆に説明するのにはむろん不適当であった。  壇上の喜田は、なんだか説明すればするほどがんじがらめになってゆく自分を覚えた。  しかし、それにしても、少々、この場の質問者の空気は異常であった。教育者として熱心といえばそれまでだが、なんだか初めから自分を攻撃するような調子に見られる。喜田の答弁が次第に曖昧になったのは、彼も、これは何かあると予感したからだった。  そこで喜田は、その後、文部大臣官邸で開かれた講習員の懇話会の席上、対談的に講習の際に述べた南北朝問題の論旨について、その説明の不備を補足している。故意の誤解を避けたいためだった。  小松原文部大臣も出席者の質問に対し、いろいろと文部省の方針を解説した。小松原文相の話は、大体、喜田の立場を支持して、 「お上において御系譜の決定がなく、現に宮内省でも南北両朝は御同様にお扱い申しているのだから、文部省としてもどこまでもその方針でゆきたい。両朝の天皇に対し奉って私に軽重を付すのは僭越である」  といった。  ——しかし、実際の問題は、その翌月、明治四十四年一月を迎えて起りはじめた。   喜田学説「逆徒」化[#「喜田学説「逆徒」化」はゴシック体]  喜田貞吉が講習会の最終日に、つるし上げ的な質問をうけたその日の夕方、穏田《おんでん》の飯野吉三郎の屋敷にそうした校長連が五、六人集まった。  飯野は彼らに夕食を出した。きれいな女中三人が膳を目八分に捧げてそれぞれの前に据え、酌をしている。校長たちは御殿女中に給仕をしてもらっているような錯覚を起した。  飯野は上座に紋付袴で顎鬚を見せて坐っていた。大きな体躯だから貫禄がある。  近ごろの飯野吉三郎は一段と立派になっていた。屋敷の中も改造するし、女中も若くて容貌のいいのを択《えら》び贅沢な着物を着せて飾り立てている。この二、三年、日露戦争が終ってからの飯野の収入《みいり》は急激にふくれ上がっていた。  校長連中は飯野の前にかしこまっている。彼らは、飯野が大官や陸軍の高官たちに大きな信用があり、先の先まで見通せる鋭い洞察力を持っている人格者だと思っていた。天照大神を崇拝する愛国者だと尊敬している。のみならず、彼は天照大神の託宣を受け得る、神に仕える霊人だとも信じこんでいた。  その飯野に校長たちは今日の講習会の模様を話し、喜田貞吉の答弁ぶりも語った。この集まりのなかには、富士前小学校の峯間信吉校長、沼津中学校の中石勉三校長、山梨県師範学校の本山惣太郎教諭もいた。 「喜田は傲慢そのものです」と峯間校長は飯野に云った。「絶対に南北両朝対立論を主張するんです。少しも譲るところがありません。つまり、天に二日を認めて、それをあくまでも押し通そうとするんです」  峯間校長だけではない。口々に喜田の不遜と不忠とを難じた。 「こんなことでは、これからの国史の教育はどうなってゆくんでしょう。文部省の国定教科書に堂々とこういう史観が載るのですから、行末が案じられます」 「怪しからん話だ」と、真ん中に坐っている飯野が顎鬚をしごいた。「当人は、諸君がいろいろ質問しても、まったく改悛の情はないのかね」 「はい。ないどころか、あの男はわれわれをいかにも無知なやつだと云わんばかりの態度です。その見下した態度はよく分るのです」沼津中学校長の中石勉三が云った。「これでは地下の南朝の忠臣の御霊《みたま》が鎮まりません。何しろ口には出さないが、足利尊氏を忠臣と考えているようです。喜田は尊氏の人物をほめちぎるのですからね」 「不忠者だ。そんなのがわが帝国大学にいると、国家の将来、寒心に堪えん。これは山県侯爵もひどくご心配になっていらっしゃる」 「山県侯がですか?」  と、一同の視線が飯野の顔に集まった。 「ああ。この前に目白台に呼ばれてね、お目にかかったが、侯爵は、この教科書の南北朝問題を非常に憂慮されておられる。こういうことでは日本の将来がどうなるか分らないと、大そうなご心痛だった。これはあまりほかに行ってしゃべってもらっては困るが……」 「はあ」  校長連中はうなずいた。かねて飯野が山県侯と密接な関係があるとは知っていたが、彼の口からはっきりとそう云われると、ますます飯野が偉く見えてくる。 「そこで、わたしは諸君を激励して喜田貞吉への質問をしてもらったのだが、喜田の答弁はみんな書き留めてもらっているね?」 「それはほとんど一字一句違わないように記録してあります」と、本山惣太郎が云った。 「喜田は非常に狡《ずる》い男です。要するに、宮内省で御系譜が完成になっていないから、それまでは自説で教科書を書くほかはない。いうなれば、一切の責任を宮内省の御系譜完成延期に転嫁しているわけです」 「それはいよいよ以て不敬だ」  飯野は大きな声を出した。 「しかもですよ。喜田は、南朝方が北朝に渡したご神器が真正なものかどうかというのは問題でないというのです。あれは物品だから、どっちに渡ろうとかまわぬ。そんなこともいうのです。それに、喜田は『神皇正統記』や『日本外史』を全く俗説だといって否定し、自分の勝手な主観で、わざと史実を曲げて云っているのです」 「そんなことまで云ったのか?」 「それもはっきりと書き留めてあります」  峯間は、自分が質問しただけに喜田の答弁を克明に書き取ったものをそこで朗読した。だが、これには峯間信吉自身の考えが大ぶん入って、喜田貞吉の言葉どおりではなかった。  たとえば、喜田は南朝から北朝に渡した神器が真正だとは必ずしも云っていない。『神皇正統記』の文章がそのまま信じられないと云ったのである。ところが、峯間の筆記は、南朝が虚器を持ち、北朝に真正な神器が渡ったように書いてある。また、喜田は神器のみを問題にするのは正論ではないといったのを、峯間の筆記では、神器は物品だから皇位継承には関係がないということになっている。 「『神皇正統記』は単に南朝方に人気が集まるように書かれた宣伝の文章だから、歴史書としては価値の無いものだというのです」  と峯間がつづけると、 「それだけではありません」と、今度は中石勉三校長が云った。「御神器そのものについても、あれは安徳天皇のとき西海に失われたので、それ以後は宮中にあると思えない。だから、後醍醐天皇がお持ちになっていた神器も、もともと、その後につくられた新しいものだと云っていました。だが、安徳天皇のときは、宝剣が海上に漂っていたのを収めた者があり、たしかに宮中に還御になったと記録に残っているのを、喜田は、それすらニセモノだと云わぬばかりです」 「まことに恐れ多いことじゃ」  と、飯野吉三郎は俄《にわ》かに威儀を正し、眼を閉じて合掌した。天照大神の神霊に、この不忠の学者の存在をお詫びしているのである。  一同粛然となっていると、飯野吉三郎は閉じた眼をかっと開き、深刻そうにみなの顔を見渡した。 「実はここだけの話で、これを公にしてもらっては困りますがな」  その重々しい口吻《こうふん》に、どのような重大なことが話されるかと、校長連が息をのんでいると、 「実はいま公判が進行中の大逆事件じゃが、そもそも、ああいう事件が起ったのも、このような学者の説が公然と大手をひろげて横行しているからじゃ」  と、飯野は憂慮に堪えない面持で云った。 「では、喜田の説が……」  だれかがすかさず云った。 「いや、喜田ではない。喜田ではないが、同じような不穏な説を唱えている学者の文章を読んでな……」  と、穏田の行者はものものしく一人一人の顔を見た。 「恐れ多くも至尊の車駕《しやが》に対し奉り、爆弾を投じようとした不忠者の一人に森近運平《もりちかうんぺい》という男がいる。これが予審判事に云ったことだが、森近は久米邦武の『大日本古代史』を読み、紀元がつくりごとである。あれは支那の辛酉《しんゆう》革命思想をとり入れたもので、まことに信用ができないというのを知り、そこでわが国体に疑いを抱き、不忠の念が兆したということだった」  一同は色めき立った。 「なに、久米邦武の?」  この「神道は祭天の古俗」という不穏な史論を咎められて、東京帝国大学文科大学教授の椅子を追われた不逞の史学者を、ここにいる校長連中が知らないはずはなかった。こうなると、久米邦武も、喜田貞吉も、同じ不敬思想を持った史家として彼らの観念にいっしょくたにされてしまった。  辛酉革命は、中国の讖緯家《しんいか》が中国の古代に行われた陰陽五行の説に基づいて唱え出したことで、辛酉の年で、しかも二十一度目のその年ごとに天の命が革《あらた》まるという思想である。この計算でゆくと、二十一度目の辛酉は一二六〇年になる。つまり、『古事記』や『日本書紀』に書かれた神武紀元はみな嘘だというのである。  しかし、これは久米邦武が云い出したことではなく、やはり歴史家の那珂通世《なかみちよ》が着目して唱えたことである。これは多くの学者の賛同を得たが、賛成者の一人である久米邦武もその『大日本古代史』の中に書いたにすぎない。  久米は、それをこういうふうな意味に書いている。 ≪神武天皇の紀元元年から欽明《きんめい》天皇頃まで年数には不確実なところがあります。元来、神代から暦が無くて押し通してきたものを、神武天皇のときから突然暦を用い出したというのは少々ふしぎな話であります。けれども、それには必ず起原がなければなりません。そこで、この点を研究しました結果、到頭、その原因を発見したのであります。『辛酉ヲ革命トナシ、甲子《かつし》ヲ革命トナス』という句は易緯《えきい》にある言葉です。日本はその易緯の方を採用していたので、辛酉には革命があり、甲子には革命があると信じていたことは、三善清行《みよしきよゆき》が昌泰三年に菅原道真に辞職勧告をした文中にもその文句が見えて分ります。  それで、斉明天皇の崩御の年から神武天皇の御即位なされた年まで逆に計算して、その間を千三百二十年としたので紀元元年が辛酉の年に当るのです。この辛酉から辛酉まで三十七朝千三百二十年が、春秋緯にいうところの一蔀《いちほう》だと決定して神武紀元元年を定めたに相違ありません。  これは那珂通世君も苦心して研究した結果これに違いないというところまで調べつけられたのであります。そこで日本の紀元節というのはこういうわけで、昔の学者が緯書説を採用して年数を定めた上、その紀元の日を二月一日と決定したのであります≫  校長たちはざわめいた。 「そういえば、久米邦武は、『太平記』は史学に益無し、という論文を出していますが」  と、そこは中学校長だけに詳しい者がいる。南朝の悲劇をうたいあげる『太平記』もまた彼らの史観であった。 「そういう学者がいるから、大逆犯人が出るのじゃ」  飯野吉三郎は、憂国の至情を鬚面にみせて吐息をついた。 「先生、その大逆事件の森近とかいう男が幸徳秋水の一味に入った動機は、そんな学者の説を読んだからだと、はっきり云っておりますか?」  山梨県師範学校教諭の本山惣太郎がたしかめるように訊《き》いた。 「たしかに間違いはない。実は、わしは今度の事件について相当詳しい内容を知っているでな」  穏田の行者は、きびしい顔をひとりでもっともらしくうなずかせた。はたの者は、山県はじめ重臣の間に信用があり、かつ、いろいろな相談を受けている飯野のことを考えて、さぞかしそういうこともあり得るだろうと、互いに眼を見合せた。民間に洩れない秘密事項も、飯野なら重臣なみに知っているだろう、それで日本の現在がすべて彼には深いところまで分っている、そう考えている一同は飯野の紋服姿の威厳に改めて搏《う》たれた。  たしかに飯野は山県などに接近して、今度の大逆事件のことも詳しくその裏側を知っていた。が、実は今度の大逆事件の火つけ役を飯野が果していたのである。これは飯野が奥宮健之《おくのみやけんし》を始終、家に通わせているうち、ある日、奥宮がふと洩らした一言で山県へ注進の材料をこしらえたのである。——  このことは別に書かねばならない。いまは明治四十四年一月の喜田貞吉の周辺にどのようなことが起ったかを追うことにする。  一月九日ごろから、喜田の講習会における言葉がぼつぼつ東京の新聞に問題となって現われはじめた。そのことを喜田は次のように自分で書いた。 ≪新聞記者がしきりにいろいろのことを聞きにくる。それに対して自分の態度がどうもよくなかったらしい。喜田は傲慢だ、あんな奴はうんとひっぱたいてやれ、と云っているという噂がちらちら聞える。自分の持って生れた無愛想な面つきと、お上手でない素朴な振舞いとが、これをそうさせたものらしい。多くの新聞記者の中には全然歴史の素養の無い者もあって、とんでもない間違いや聞き違いが報道される。  たちの悪いのになると、心から自分の立場に同情したかのごとき態度をとって、いわゆる誘導訊問的にうまくしゃべらしておいて、いかにも自分から進んでそんなことを云ったかのごとくに書き立てる。どうしたことか、文部省内のストーブ側の仲間同士の内輪話までが尾ヒレを付けて新聞記事になって現われる。  小学校に通っている宅の子供らが友だちから虐《いじ》められたとか、夜分宅へ投石する者があったとか、事実無根の報道をまでしていやが上にも世間の人気をそそり立てる。果ては事件に全然無関係な自分の過去の行動や失策談までが余興的にならべ立てられる。思いもよらぬ訛伝《かでん》を誇張して人身攻撃がはじまってくる。  こうなってみると、もはや、いちいちそれを弁明するわけにもゆかぬ。弁明すればするほど、ますますものがこんがらかってくる。警視庁でも身辺の危険を顧慮してくれて、大塚署から私服の警官を派遣して、文部省への往復や自宅の警固に当られたような騒ぎにまでなった。このときの警官石倉清次郎氏は至って謹直な人で、その夜分、宅に詰めておられる際にも盃一つ手にされるでもなければ、後にも断然些細の慰労をも辞退せられた謹直さに一方ならず敬服し、かつ感謝したことであった。  元来、国定教科書における南北朝の扱い方は畢竟《ひつきよう》は暫定的のもので、この際にとってはこれが最も穏当であると考えたにすぎなかったのである。また、それによりて国民教育的に説明を下す上にも敢えて少しも差障りがないと考えたのであった。したがって、もちろん、それ以上に深い考えがあるべきはずがないのであるが、それが問題となってくると、いろいろの臆測が加わって、だんだんと議論が深刻になってくる。  殊に、それが新聞問題として扱われるようになってからはとても手がつけられない。喜田は北朝正統説を立てんがために、その予備行為としてしばらくこんな曖昧な態度をとっているのだとか、喜田は三種の神器を物品とみなして、それで以て皇位を定むべきものではないとの主張を持っているとか、将来といえども天に二日を生ずることの絶無を保証しがたいとか云ったとか、まるで思いもよらないことがしきりに喧伝せられる。  折も折とて一月十八日に幸徳事件の判決があり、巨魁《きよかい》秋水以下二十四人が死刑を宣告せられ、そのうち半数の十二人は特赦減刑の恩典によって無期徒刑に処せられたが、残りの十二人は二十四日に刑を執行せられたというような事件とかち合った。  これがために世上の人気はますます尖鋭化してくる。こんな不祥事が起るのも畢竟、文部省の歴史教育の方針が当を得ぬからだとの議論も出てくる。罪を教科書の正閏問題にかけてくる。  世間の一部の人々の自分に対する攻撃は一層深刻になってくる。果ては、喜田は幸徳一派の一味で、国体を破壊し、国家の転覆を図るべく永遠の計画をもって、まずその思想を小学児童に植えつけんとするものだ、とのデマまでが飛んでくる。  あるいは、教科書の内容をも調査せずして、自分を以て頭から北朝正統論者だと決めてしまい、尊氏・師直などを忠臣とし、正成・義貞などを逆臣視せんとするものなどと、自分としては思いもよらない脱線した攻撃までがやってくる。  いわゆる憂国の志士の間には国体擁護団なるものが組織せられて、口に筆に盛んに活躍する。真剣か悪戯《いたずら》かは知らぬが、いろいろの脅迫状が舞込む。なかには最も見当違いで滑稽なのに、 「汝等《なんぢら》は幸徳の一味ならん。その事業の失敗の報復を為すために尊氏の二の舞を世人にすすめ、千載ののち邦家を覆《くつがへ》せしめんことを企てたり。その罪逆賊に譲らず。その誅戮《ちゆうりく》を免れるは一に皇恩によれり。汝等、もし、このことを否認せば、自殺して誤説世を惑はせし罪を至尊と国人とに謝すべし。然らざれば、汝等は実に幸徳等の一味なり。天誅豈踵《てんちゆうあにきびす》をめぐらさんや」(無名、消印岡山)  というのがあった。教科書がすでに明治三十六年に編纂せられ、その翌年から行われていたことすら一向ご存じなく、幸徳事件以後の出来事であるかのように簡単に考えたものらしい。  しかし、自分はこれも永年の不徳の報いかもしれないと思った。自分はよく人を怒らせた。よく人を困らせた。ずいぶんと意地張りで、狭量で、思いやりのない挙動もかなり多かった。そんなことがたび重なって多くの人々に甚だしい迷惑をかけた以上、その報いがどうしてこずにはいられよう。この際果してそれがやって来たのだ。第一に喜田そのものに対して新聞記者を初めとして一般の世間の同情が無かったのだ。これがもし他の温厚な長者によって起された問題であったならば、こんなにまで大きな騒ぎにはならずして公平な判断が与えられたのであったかもしれぬ……≫   挫折感[#「挫折感」はゴシック体]  喜田貞吉が教科書に書いた南北両朝併立の扱いが新聞などで世間に伝わると、日に増し脅迫状もふえてきた。新聞などでも、喜田は「国賊」とか「乱臣賊子」だとかいう意見が多くなってくる。それも相当良識のある人の口から出る。  なかには、こういう脅迫状もきた。 「本日当横須賀の某所に陸海軍青年将校約百名の秘密会合あり、小生儀|其《そ》の所に或る事情ありて接近する機会を有し、ひそかに漏れ聞く所によれば、其の会合は恐るべき重大なものらしく、閣下が南北朝に就ての御意見、並びに神器の件、及び後来天に二日を生ずる事あるべしと申されし事に就いて、陸軍重砲兵並びに海軍の青年将校の憤激甚しく、若《も》し政府当局にして閣下を処分する所なくんば、彼等青年将校は、身命をなげうち閣下の同志を族滅《ぞくめつ》すべく、若し秘密に事行はれずんば、進んで全国の陸海軍将校団を提《ひつさ》げて、兵力に訴へんとする決議らしく、閣下は先日の社会主義者よりも尚恐るべき逆賊と見做され居るものの如く候。同会議は秘密に行はれし陸海軍親睦の名義にて、青年将校の外に二三の大佐少将も含み居るやに候。行きがかりの恐あれば匿名にて聞き及び候まま御知らせ申上候。充分御注意|可被成《なさるべく》候。横須賀NY生」(消印神奈川)  こういった類いのものは新聞に出た記事をそのまま鵜呑みにしたものだったが、もちろん、あとで調べてもそんな会合などはなかった。  投書は喜田を攻撃するものばかりだが、なかには、匿名で彼の説を支持するものもないではなかった。 「啓。小生は今回四面楚歌の中にありて力闘する貴下の勇姿を至極本懐の至りに存候。余は貴説の多く真実なるを認む。願はくは真理を持する恒《つね》に牢乎《らうこ》ならんことを希望致し候。我が日本史は曲学阿世の徒によりて綴られたり! 小生は今イプセンの『民人の敵』なるドクトルストックマンを想起す。其結末の一章。Yes, of course ! (gathers them around him, and speaks confidentially.) This is what I have discovered you see. The strongest man in the world is he who stands most alone. 御味ひなされ度候。草々」(無名、消印本郷)  この投書に「力闘する貴下の勇姿」とあるのは、新聞記事からの印象だろうが、当時、喜田は弁解すればするほど、それが誤って伝えられ、非難の火の手をあげる結果になるので、遂に沈黙した。その沈黙ぶりが「勇姿」にうつったのかもしれない。  しかし、喜田の沈黙は必ずしも自分の意志から出たものばかりではなかった。「自今、決してしゃべってはならぬ、特に宮内省との交渉の如きは一言も触れぬようにと厳しく箝口令《かんこうれい》を布《し》かれていた」と彼はその回想録に述べているので、彼の南北両朝併立論について、宮内省への了解運動が行われていたことが分る。そして、それが喜田が属していた東京帝国大学からではなく、国定教科書を認定した文部省からだということも分る。  事実、文部大臣小松原英太郎は喜田をひそかに呼んで、 「これでは、とうてい口頭の弁解だけでは間に合わない。要するに、君の意見なり文部省の真意が世間に分っていないのだから、君が先日講習会で話した講話筆記の中から南北朝に関する部分だけ整理して、至急世間に発表したらどうだ。文書をもって世間の誤解をとくようにしたほうがよいと思う」  と勧めている。小松原も思いのほか問題が重大化してきたのに狼狽していた。このころは、すでに政界方面にこれを政治問題としようとする動きのあることが小松原の耳にも入っていたのである。  そこで喜田は家に引籠り、「南北朝論」の論文執筆にとりかかった。大臣より大急ぎでという意向もあって、彼は凩《こがらし》の吹く音を戸の外に聞きながら、火鉢にかじかむ手を温めては筆を走らせた。  それを書きながら喜田は、改めて、学者としての自分と、教育家としての自分とが自身の中で混同していることに思い当った。もともと、南北両朝問題は叙述の上で非常に厄介な問題を抱えている。一歩間違えると不敬の叙述にわたるものを含んでいる。喜田は教科書にこの問題を扱うとき、彼なりに慎重を期してそれまでの公刊資料に当っている。東京帝国大学編纂の『大日本史料』もその一つだ。  喜田の学者的な良心は、つい、歴史教科書が科学主義よりは道徳教育的な面に重点をおいているという本来的な性格を忘れさせた。あるいは、彼は、教科書の道徳的な史観が史実の科学的主義と背馳《はいち》していることに不満を覚え、この改訂をどの程度になし遂げるかに苦労した。その結果、とうとう、教育上の道徳というよりも史実的な面を重視することに傾いた。いうなれば、彼は南北朝問題では、教科書を書かずに学説を書いたのである。  そこに喜田の妥協を許さない学者的研究態度があった。実際、彼自身もそれを良心だと思っていた。さらに、これまでの民間教科書に書かれたものが極めて平凡でつまらないものだったから、国定教科書の最初の執筆者として彼は独自なものをつくり出そうとした。爾後《じご》の教科書も、この書き方に倣うような意気ごみで工夫した。そこに知らないうちに学説を出しすぎてしまった。要するに、彼は学者と教育家の二足の草鞋《わらじ》をはく性格ではなかったのだ。  しかし、喜田は小松原文相にすすめられて「南北朝論」を書いてゆくうち、それが次第に世論の非難に対する弁解となってきた。はじめは、史実は史実、歴史上の事実はかくかくである。それを曖昧にしないことが国民の歴史に対する信頼を深めさせることであり、それは皇室尊崇の観念と背馳するものではないと書こうとしたのだが、いつの間にかその筆が世論に対する弁解となった。  殊に小松原文相の窮境を考えて、そのほうの配慮が主となってしまう。小松原は現に喜田の『国史乃教育』には、わざわざ巻頭に序文を寄せて喜田説を絶讃しているのである。その証拠があるだけに小松原の立場も苦しい。  殊にこのころになると喜田も、この問題に関して元老山県有朋が非常に不快な感情でいることを聞くようになった。それは小松原の口の端からもうかがえる。小松原は山県の直系である。喜田はそうした文相の立場も考えなければならぬ。  また、政党がこの問題をとり上げて桂内閣攻撃の政争の具にしようという動きも耳に入っている。  実際、ことが皇室に関する問題だし、不敬問題を起しそうなので、喜田も次第に臆病にならないわけにはゆかなかった。いくら、正当なことを主張するのに俯仰《ふぎよう》天地に恥じぬと強がりなことを自分に云い聞かせても、心が萎縮してくる。  そのことは、喜田が執筆中の「南北朝論」を一時中止して、何回となく練り直して書き上げた、文部大臣宛の「開陳書」の字句によく表われている。 [#ここから2字下げ]  開 陳 書 一、小官ガ講演ニ於テ北朝正統論ヲ説キタリトノ世評|有之《これあり》、右ハ北朝ノ皇位ガ、世人ノ往々ニシテ信ズルガ如ク、軽々シク偽位ト決定スベキモノニアラザル所以《ゆゑん》ヲ明《あきら》かニセンコトニ努力シタルヨリ起リタルモノカト存ジ候。其ノ南朝ノ正位ナル所以ヲ説クコト精ナラザリシハ、是《こ》レ聴講者ノ斉《ひと》シク信ズルトコロニシテ、更ニ之ヲ説クノ必要ヲ認メザリシ為ニ候。小官ノ所説ハ教科書所載並記ノ理由ヲ敷衍《ふえん》セルモノニテ、要スルニ南北正閏問題ニ触ルルコトナク、臣下ノ側ニツキテ正邪順逆ノアル所ヲ明ニシ、国民教育ノ本旨ヲ達スベシトノ義ニ外ナラズ。随《したが》ツテ其ノ所説|固《もと》ヨリ北朝正統論ニアラズ。南北対等論ニモアラズ、其ノ容易ニ正閏軽重ヲ論ズベキニアラズトハ、正閏軽重ナシトノ義ニアラズシテ、年少児童ニ対シ軽々シク正閏軽重ヲ説キテ、敬ヲ失スルコトナカレトノ義ニ有之候。 一、小官ガ神器ヲ以テ一ノ器物ニ過ギズトナシ、権力論ヲ説キシヤニ伝フルモノ有之。右ハ全ク小官講演ノ趣旨ヲ誤伝セルモノト存ジ候。神器ノ継承ヲ以テ践祚《せんそ》ノ必要条件トナスハ無論ニシテ、殊ニ皇室典範御制定以後ニアリテハ、決シテ異例ヲナスベキノ虞《おそれ》アルコトナシト雖《いへども》、過去ニ於テハ史上時ニ変態アリテ、或ハ神器二所ニ分レタルコトアリ、或ハ宮中ヨリ出デタルコトモアリ、神器モトヨリ無上ノ尊器ナレドモ、既ニ右ノ如キ史実アル上ハ、必ズシモ神器所在ノ一理由ノミニヨリテ、過去ニ於ケル皇位ノ正閏ヲ決スベキニアラズ。必ズ他ノ条件ヲモ併《あは》セ考フルヲ要ストノ意ヲ演述セシモノニ有之候。 一、小生ガ南北正閏論ト逆徒トヲ連結シテ説話セシヤニ伝説スルモノ有之。右ハ過日某記者ノ、過般ノ講演ハ逆徒事件ニ鑑《かんが》ミテ開キシカ、逆徒中某々ノ事ヲ口ニセシヤニ伝フルモノアリ、果シテサル関係アリヤトノ質問ニ対シ、毛頭サルコトナシト答ヘシヨリ起リタル訛伝《くわでん》カト存ジ候。 事情右ノ如クニ有之、苟《いやしく》モ斯《かく》ノ如キ誤解訛伝ヲ生ゼシメ、正閏論ニ触ルヽ勿《なか》レトノ趣旨ヲ以テナセル小官ノ講演ガ、却《かへ》ツテ正閏論ヲ誘発スルノ動機ヲナスニ至リタルハ、全ク小官不徳ノ致ス処ト恐懼《きようく》ノ至ニ存ジ候。 右及開陳候也。   明治四十四年二月十七日 [#地付き]文部編修 喜田貞吉  文部大臣 小松原英太郎殿 [#ここで字下げ終わり]  つまり、喜田は、この「開陳書」の中で、北朝が世間でいわれてきたように偽位ではない理由を強調するあまりに、南朝が正位であることに詳しく触れなかった。それが世間の誤解を招いたのだといい、従ってこれは南北朝併立論ではないという。しかし、これは喜田が講演で述べた趣旨から後退している。喜田はあきらかに南北両朝を対立関係に置いていたのである。  また、神器の真偽や、その存在などは皇位継承とは何ら関係がない、神器の問題はさほど重要ではない、と講習会で述べたところも、この開陳書の第二章ではかなりぼかされている。  ここに喜田の後退というよりも、挫折がはじまった。  ——時の文部大臣小松原英太郎は山県系だ。彼は岡山県の生れ。初め上京して慶應義塾に入り、曙《あけぼの》、江湖《こうこ》、朝野《ちようや》などの新聞に筆を執って盛んに自由民権を唱導したものだ。その言論が過激にわたって投獄せられたこともある。  この民権家の新聞記者を発見したのは井上|馨《かおる》だった。井上は彼を外務省出仕にし、明治十七年に外務省書記官となってドイツ公使館に三年間在勤した。つまり、このころの小松原は井上馨の直参《じきさん》であった。  明治二十年に井上が条約改正に失敗して外務大臣を辞めると、彼は山県内務大臣の秘書官として山県の信用を得る機会に恵まれた。爾来《じらい》、累進して警保局長や各県の知事となり、司法次官、内務次官、内務総務長官を経て勅選の貴族院議員となった。ここで完全に山県の直系をもって目されるようになったのである。  山県内閣が倒れると、彼は官を一時辞めて大阪毎日新聞に入った。この経歴を見ただけでも彼がいわゆる普通の官僚でないことが分る。しかるに、同じく山県の直系桂太郎が内閣を組織すると、彼は文部大臣となった。前文部大臣の牧野|伸顕《のぶあき》が何もしない官僚型なのに対し小松原は、たとえば、文部省の多年の宿題だった仮名遣い改良案を撤回して紛議を収めた。また、調査事項も下僚に任せることなく、自分でこれに当ることも少なくなかった。自然と文部省の空気も小松原を迎えて一変したといわれている。  だが、山県がこの南北朝問題に不快を感じていたとなれば、小松原も狼狽せざるを得ない。山県の不快は、この問題が大逆事件に影響するところがあると考えたところから発している。  なぜに山県がさほどまでにこの両朝問題に神経質だったか。それは、一つには山県が大逆事件の「陰の当事者」であるからだ。一つは、山県らがおこなってきた倒幕運動が南朝を正位とする「尊王イデオロギー」につながっているからである。  まず、後者だけについてみる。  倒幕運動のスローガンが尊王攘夷にあることはいうまでもないが、元来「尊王」と「攘夷」とは別々のものだった。「尊王」は倒幕運動者の「思想」だったが、「攘夷」はその実行手段であった。  大勢からして「開国」がやむを得ないことは倒幕論者でもよく分っていた。これに反対して攘夷を幕府に迫ることで、幕府を窮地に陥れて崩壊させようという魂胆だった。その証拠に、こうした攘夷運動家でつくった明治政府は忽《たちま》ち積極的に開国政策をとっている。攘夷を唱えたのは、尊王—神国—外夷排斥という思考過程である。逆にいうと攘夷という倒幕手段には、「尊王」という思想が必要であった。こうして尊王に攘夷が結合された。  幕末の尊王思想は水戸史学から出ている。  水戸史学といっても特別なものではない。儒学、特に朱子学で、幕府がこれを国教としたように、根は一つであった。朱子学の大きな特徴の一つは、「君臣の名分」論である。これが徳川幕府の封建秩序に最もよく適合したから、林家に講じさせて国教としたのだ。  しかし、林家の史観と水戸史観とには当初から僅かな相違があった。林家の朱子学での君臣論の解釈が、徳川家中心だったのに対し、水戸|光圀《みつくに》は皇室を認め、皇室中心に考えた。純粋に君臣論を解釈するなら林羅山や道春よりも、光圀のほうが正しい。将軍の上位に天皇を置かざるを得ないのである。そうすると、天皇と将軍は君臣の関係に置かれるから、この名分論がのちになって水戸史学と林家史学とを大きな開きにさせてしまった。光圀自身、考えてもみなかったことだ。  光圀が修史の顧問として、明《みん》人、朱舜水《しゆしゆんすい》を招《よ》んだのはよく知られている通りだ。朱舜水は相つぐ内乱と、北方の清の侵攻の前に傾いた明の王室を恢復しようとして援兵を求め、支那から日本、交趾《こうち》、安南《あんなん》の間を十五年間も流離放浪した志士であった。彼を光圀に推挙したのは筑後|柳川《やながわ》の藩儒|安東省菴《あんどうせいあん》だ。  朱舜水は省菴から、南朝方の楠正成や新田義貞、名和長年、北畠親房のことを聞いたらしい。彼が己れの境涯に似た楠以下の武士の悲劇に同情したことは大いに想像できる。これが、ひいては南朝正位論になってしまった。正成らの「忠義」を認めるなら、そうなってしまう。  光圀も、その修史局である彰考館の儒者たちも朱舜水に心服した。それまでの歴史観は南朝を閏として、南朝方についた武士は逆臣扱いだった。もっとも、楠正成だけは足利末期にその一族と称する者の請願で逆賊の名を宥《ゆる》されている。水戸史学が南朝を正位として顕揚したのは、舜水の忠憤義烈精神に影響されたのだ。  その彰考館の編集員であった安積《あさか》澹泊《たんぱく》が五十年前、年少にして初めて史館に入ったときを回想している。当時彰考館でつくられた紀伝を見せられたが、それには北朝の五天皇が列伝に入れられて臣下扱いにされ、足利尊氏以下の北朝方の武士悉く賊と書かれてあって疑問を感じた、と述べている。以て、水戸史学の南朝を正とするあまり、北朝を下した扱いかたが分る。  それまで、『太平記』などに書かれて一介の軍略家にすぎなかった楠正成が、一躍大忠臣になったのも、光圀が朱舜水の文章を銘文にして湊川碑を立てたからだ。この水戸の南朝忠臣論が山陽の『日本外史』によって悲憤慷慨史論と一段高い調子のものになって、倒幕運動家の尊王攘夷精神になったのである。  だが、誰が考えてもふしぎなのは明治天皇は北朝の系統である。その北朝を閏として、対立した南朝を正とするのはいかにも理屈に合わないような気がする。そのことは早くも『大日本史』が出来た当時、近衛|家熙《いえひろ》の家臣が安積澹泊に与えた手紙の中に「今は北朝の御裔《おすえ》であるから、この書が世に出されるのは困難であろうという者が多い」と書いてあるのでも分る。  幕府史観は、北朝が正、南朝が閏であった。南朝を正とする明治史観になったのは、倒幕運動家が政府をつくってからである。元老山県有朋はもとよりその巨魁《きよかい》の一人である。こういう史観にしなければ、元老たちの「思想」が首尾一貫しない。  喜田貞吉の南北両朝併立論は、科学的史観によって尊王史観(水戸史観)を是正したものだが、これが山県の不快を呼んだのは当然だ。  しかし、山県がこの問題に不快以上に激怒したのは、喜田の史観だけではない、喜田と同じ実証史観に立つ久米邦武の史論を読んで大逆事件の被告森近運平が「不忠の念」を起したというところにあった。  大逆事件になぜ山県がこうも昂奮したのか。この事件の背後には、東京帝国大学教授が山県のスパイ的役目を果しているのである。——   「密偵」帝国大学教授[#「「密偵」帝国大学教授」はゴシック体]  明治三十八年の秋、出獄した幸徳秋水は平民社を解散してアメリカに渡った。十一月二十九日にはシアトルに着いている。  秋水の入獄は、平民新聞五十二号に載った石川三四郎の「小学教師に告ぐ」が新聞紙条例違反にひっかかったためだが、これで平民新聞は印刷できなくなり、六十四号を最後として廃刊している。最終号は全部赤色刷りで、終刊の辞に「平民新聞は一粒の麦種となって死す」と秋水は書いた。  幸徳は大審院判決で禁錮五カ月を言渡され、二月二十八日に下獄した。それまでの秋水は社会主義者であった。  広く知られている通り、彼は中江兆民の愛弟子《まなでし》であったが、彼が日露戦争中、反戦主義を唱えてきたのは、もっぱら社会主義者の立場からだった。ところが獄中でクロポトキンの著書などを読み、「私は初めマルクス派の社会主義者として監獄に参りましたが、その出獄するに際しては過激なる無政府主義となって娑婆《しやば》に戻りました」と、ある人に手紙を書いたくらいの心境になっていた。  秋水がアメリカに渡る目的は、一つには、コンミュニストまたはアナーキストとしての外国語会話と作文習得のためだったが、一つには、外国の革命党の幹部を訪問して、日本の警察の手の届かない外国から天皇制政府の組織形体を自由に評論するためだったという。しかし、本当はそれほどはっきりした目的ではなく、はじめは息苦しい日本を逃がれ、国内でぶらぶらしているよりも保養がてらアメリカに行き、見聞をひろめるという程度であったらしい。  彼の入獄中、例の日比谷で開かれた愛国国民大会から民衆の暴動が起って、内相官邸、警察署、交番の焼打ち、電車への放火、国民新聞社の襲撃などがあって、帝都には戒厳令が布《し》かれている。この騒動は、伊藤、山県、桂などの権力政治家を恐怖させ、社会主義者への憎悪を一層に煽り立てた。それには、平民新聞を受継いだ「直言」が「政府の猛省を促す」という題のもとに伊藤、井上、松方、芳川、桂などの戦時中における淫逸奢侈《いんいつしやし》な行動を暴露したことも手伝っている。その記事はこういうものだった。 「回顧せよ、戦争開始の当時朝野を挙げて「勤倹」の二文字を戦時国民の精神生命なりとし、之を以て児童走卒を教へ、富豪紳士は金具金品を日本銀行に納めて以て愛国心を競ひしに非ずや、然るに戦争|連《しき》りに捷《せふ》を得て、政府の権威|赫然《かくぜん》人目を眩《げん》するに及び、諸君の驕傲《けうがう》真に匹夫匹婦をして悲憤の情禁ずべからざるものあらしめたり。  看《み》よ、伊藤博文、井上馨、松方正義、彼等は「元老」てふ不可思議な尊称の下に、常に施政の大権を左右しつつあるの輩に非ずや、而して伊藤は妓《ぎ》を大阪に購《あがな》ふて妾《せふ》となし、井上は妓を携へて叡山《えいざん》に遊び、松方は赤十字事業視察の途次至る所に淫蕩《いんたう》を恣《ほしいまま》にせり。夫《そ》れ出征者の家族、戦死者の遺族は飢ゆれども食なく、寒けれども衣なし。  啻《ただ》に是れのみならず、民の疾苦を訪ふの口実を以て内務大臣芳川顕正は淫蕩到らざる無く、総理大臣桂太郎は万金を抛《なげう》ちて新に妾宅を構へたり、吾人《ごじん》は寧《むし》ろ諸君の余りの大胆と無遠慮とに呆然として攻撃の論理を組織するの力さへ無かりし也、吾人は諸君に質問す、斯《か》かる諸君の不義無道にして、毫《がう》も国民の塗炭に同情せざる心事と行動とが、果して無事安全に看過せられ得べしと思考したりしや、吾人は実に諸君の為めに危険の念に堪へざりしなり」  最後の「諸君の為めに危険の念に堪へざりしなり」という一句は、不逞の社会主義者たちがこれから何を企てるか分らないという一種の恫喝にも聞え、事実、山県などはそういうふうにとった。山県は伊藤や井上、松方などとは意見が合わなかったが、権力支配者という点では共同の立場である。右の「直言」の論説は、日比谷焼打ち騒動がこうした為政者の淫逸奢侈の結果だと指摘したのだが、それが単に過ぎた事実について云うのではなく、将来、それ以上のことがどういうかたちで起るかも分らないという警告、すなわち恫喝とも山県などは受取ったのだった。  また、右の「直言」の論説には、 「特に警察と兵隊とを以て桂の妾宅を警護したるに及んで、吾人は万斛《ばんこく》痛惜の涙を呑んで筆を投ぜざるべからず」  とある。これは日比谷の焼打ち騒動で桂首相の愛妾お鯉《こい》の宅が危険になったので、軍隊と警察とに護衛させたというのだ。  軍隊がお鯉宅を警備したというのは噂の通りを書いたものだろうが、当時、神楽坂《かぐらざか》署や首相官邸警護の警官が警戒に当ったのは事実で、お鯉が口述した「お鯉物語」にそのことがうかがえる。  面白いのは、「直言」の記事が動機で山県が、桂とお鯉を別れさせたことで、山県から桂に与えた手紙が「お鯉物語」に載っている。 「此《この》度の都下の騒動は、実に意想の外に出で、畢竟《ひつきやう》前知の不完全の致す処と深く恐縮御座候、事|此《ここ》に到り候らはば、非常の手段に出で、寸時も速かに人心を安堵《あんど》せしむるは、当然の儀と相考へ候。  戒厳令の一部施行、並に新聞紙条例の補足等、先づ武器を第一に実行し人民をして、此武器に依らしむる方法を一方に取り来り候処、元来不良の奴等、此機に乗じ良民を誘導して、事此に到らしめたる義に候へば、熱度の冷却と同時に、日一日と人心も元に復し来り候。此間政府は充分冷静に誠意を以て御一念を遂行致候はば、目的を達する事、難事に之ある間《ま》じく、否《いな》是非貫かねばならぬ事と相考居申候」 「お鯉物語」には右の山県の文中、「その「人心を安堵せしむるは、当然の儀」という文言の底には、民衆が目の敵にして「桂のお鯉を焼き殺せ」と覗《ねら》いの目標にしたそのお鯉を第一に(桂の)身辺から退けて、世間の人気を鎮めるという意味も或いは含まれて居るかとも察せられる」とある。それが当っているかどうか、とにかく桂はその直後にお鯉に暇を出した。  しかし、お鯉の心境とは別に、山県の手紙の中に「戒厳令の一部施行、並に新聞紙条例の補足等」が人民を鎮圧する「武器」であると述べている点である。これは日比谷の焼打ちだけではなく、この事件の教訓を得て、ますます今後人民を締めあげてゆく最も有能な武器であることを山県は認識したのである。山県は軍閥の頭目だけではなく、明治の初めに全国に自治制度を施《し》いて、その機構から中央集権化を図り、警察行政機構を緻密《ちみつ》に組織した政治警察の総帥でもあった。  この山県がアメリカに渡った社会主義者幸徳秋水の行動を気にしないはずはない。彼はアメリカ|駐剳《ちゆうさつ》の公使館や領事館に命じて幸徳の言動を調べさせ、これを逐一報告するように求めている。  幸徳の乗った伊予丸は十一月の末にシアトルに接岸したが、この船中で幸徳はクロポトキン自伝を読んで感激した。なかでも、マルクス、バクーニン対立の箇所には心を打たれたという。  十二月一日には幸徳は日本人会堂で五百の聴衆を前にして演説し、五日にはサンフランシスコに着いている。ここには「平民社桑港支部」があった。十六日には同市のホテルで「戦後に於ける日本国民の堕落と窮民の状態」という題で演説し、普通選挙の必要を叫んだ。幸徳がアメリカに渡ったのは、同地に居る社会主義者片山|潜《せん》を意識してだが、片山とはこのサンフランシスコで会っている。しかし、幸徳の心境は次第に社会主義から離れつつあった。  彼はサンフランシスコからオークランド、サクラメントと各地で連日講演したが、その間にもアメリカの社会主義者や無政府主義者とも会って、激しやすい彼の気持は、いよいよ日本の革命に向って意気を高めた。そして、自由だと思っていたアメリカも言論においては制約があることを知り、その政治的圧制は少しもロシヤや日本と異なるところはないとまで云った。  四月十八日にはサンフランシスコを中心に大地震が起り、街は三日間燃えつづけたが、秋水は、その猛火を見てローマのネロの放火の光景を連想し、炎の向うところ富なく何らの権力なしと、無政府主義革命の火に酔うた。  彼はサンフランシスコからオークランドに移ったが、この地では社会革命党の結成をした。それには在米同志五十余名を集め、善美・自由・幸福の社会の建設を自分たちの責任と権利であるとし、現社会の大革命の実行を期している。その綱領には「土地資本の公有・万民平等の自由の権利・四海兄弟・世界平和・万国連合しての社会大革命の実行」などが挙げられた。  この社会革命党の党員の一部が、明治四十年十一月三日の天長節を期して「日本皇帝|睦仁《むつひと》君に与ふ」という檄文《げきぶん》を作成し、サンフランシスコ領事館をはじめ各地に添付発送した事件を起した。 「睦仁君足下、哀れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕《たんせき》に迫れり……」  という書き出しの文章は、天皇制を否定し、天皇暗殺を暗示した檄文であった。外国で発生した事件ではあったが、いわゆる、この「天皇暗殺事件」は、日本政府並びに重臣、特に山県を震撼させた。  当時、サンフランシスコ領事館に、在留日本人の社会主義者や無政府主義者の行動を偵察する男が二人雇われていた。巽《たつみ》鉄男と川崎|巳之太郎《みのたろう》の両名である。彼らの情報は、サンフランシスコ領事館から外務省、内務省、内閣と上って行っていた。ところが、一方には、当時アメリカに旅行中の東京帝国大学教授高橋作衛にも流され、高橋教授から穂積|陳重《のぶしげ》に伝わり、穂積は彼の最も依存していた山県有朋に伝えている。  高橋作衛は法科大学で国際法の講座をもっていたが、明治四十年に渡米し、主にアメリカの排日問題と移民問題について研究した。右のいわゆる「天皇暗殺事件」は明治四十年十一月三日だが、このときは彼はまだオークランドにいた。その後サンフランシスコにきて、約二カ月間、全力をあげて在米日本人の研究に尽したといわれている。そして、この時期に高橋は在米の日本人社会主義者や無政府主義者の動向を日本の或る筋に逐一報告したといわれている。  この或る筋というのが、実は領事館や外務省ではなく、別なルート、つまり穂積|八束《やつか》から山県へ流されたものである。そして、その調査のための費用まで穂積博士を通じて高橋博士に送られていた。(この資料は長い間発見されなかったが、戦後外務省関係の文書の発掘でようやくその一部が判明した。以下は東京経済大学会誌に掲載された大原慧氏の論文を中心に従う)  高橋は明治四十年十月二日に横浜を出発して以来、ビクトリア、シアトル、バンクーバーを経て二十七日にオークランドに着き、ここでいわゆる天皇暗殺事件に遭遇する。そして十一月八日にオークランドからサンフランシスコに到着している。高橋が著名な国際法学者であったため、彼がサンフランシスコにきたのを機会に集まった邦人記者たちは、折から起ったいわゆる「天皇暗殺事件」などの経過を高橋に報告し、無政府党員に対する取締り方法、制裁方法など、彼に法律上の見解を質《ただ》した。  社会主義対策、排日問題、移民問題などの政治問題に一方ならぬ興味を抱いていた高橋は、「日露戦役中の国際法関係」という最初の研究をつづける傍ら、川崎らとたびたび会談した。また、オークランド地方を視察した際は巽とも知合うこととなった。川崎、巽の二人は領事の「偵吏」として、彼らの諜報活動の一部に関して領事館から厳重に秘密を守るよう要請されたにもかかわらず、高橋博士と数回会っているうちに彼らは高橋の地位を信頼して、自然に調査の結果を洩らすようになったのである。そして、高橋はこれを穂積陳重に報告し、穂積から元老山県有朋への報告となったという。  たとえば、巽の報告文では、「去ル四十年十一月三日我天長節ノ当日ニ当リ彼等不敬文ヲ散布シタルコトハ貴下ノ親シク知ラルル処ナリ、其連中ト近頃渡米シタル前宮内省ニ奉職スル事十余年間ナル一人ニ之亦《これまた》社会主義者アリ、其者ヨリ宮内省ノ内情及宮中ノ図面ヲ印刷シ、之ヲ以テ同志ヲ募ルコトヲ企テ居ル事ヲ探知シタリ……」という文章もある。そして、付属資料として「暗殺宣言書」や「斬奸《ざんかん》クラブ」の「予告書」など、センセイショナルな新聞切抜きが挿入してあった。特に高橋との往復書簡の全貌は「米国ニ在ル日本人無政府主義党ニ関スル資料|注疏《ちゆうそ》」すなわち、内務省がその資料を読む上の註釈をつけた二十七枚の罫紙《けいし》によって輪郭が想像される。すなわち、それには、「加州日本人無政府主義者ノ起源、幸徳伝次郎ノ渡米後、幸徳ノ所信一変ス、幸徳ノ置土産、雑誌『革命』ノ発行、宣言書ノ全文、社会革命党ノ綱領、雑誌『革命』ノ其後、天皇暗殺ノ檄文、謀殺未遂ノ刃傷《にんじやう》事件、桑港新聞ノ記事、出版ニ続クニ演説、機関紙及ビ同情者、狂熱ノ伝播《でんぱ》力、ロッキー時報ト北米週報、内外人ノ連絡」という目次がつけられている。  こうした「高橋通信」がどれだけ山県を恐怖させたか分らない。彼は天皇制絶対主義の体制づくりに懸命になっている男だ。山県は、桂内閣のあと出現した西園寺内閣がとかく自由主義にすぎて、ある程度言論の自由、社会運動の自由を許容していたのにあきたらず、この内閣の倒閣を考えていた。そのハシリが高橋作衛を使っての幸徳らによる在米社会革命党の「天皇暗殺事件」である。  なお、戦前には、この高橋と山県との関係は極めて秘密にされていた。ただ、一部ではそれが伝わっていたらしく、昭和四年発行の白柳秀湖《しらやなぎしゆうこ》『西園寺|公望《きんもち》伝』で、そのへんの事情を白柳は次のように神秘めかして語っている。なお、白柳は当時の社会主義者で、堺、大杉、荒畑、高畠、山川などの売文社の同人であった。 「著者は、この編を草するに当り非常の努力と苦心とを以てして、第一次西園寺内閣倒壊の原因につき、まさに湮滅《いんめつ》に垂《なんな》んとする歴史の秘密を把握することを得た。この秘密こそ本編によって初めて発表せられる貴重な史料である。ただ、おしむらくは関係者にして官途に要職を占めている人が多く、したがって、その人に迷惑を及ぼすのを惧《おそ》れるので、或る時期まで場所もしくは人名の発表を保留されることを許してもらわなければならない」  と、著者白柳は書いて、長い間西園寺内閣毒殺の真相について苦心研究をつづけたが、或る日或る所でTという名士から、その下手人が死んだ国際法学者の高橋作衛博士であることをささやかれて、「全くその意外なこと」におどろく。  そのTという人が語るところによると、高橋作衛は日露戦争後官命をおびてアメリカに行き、もっぱら日本の国情の宣伝に努めたが、その傍らサンフランシスコを中心とする日本人の社会主義運動に対して注意を怠らなかった。 「当時サンフランシスコに幸徳秋水がおり、岡繁樹《おかしげき》氏の桑港平民社を中心として彼《か》の地の日本人間に盛んに社会主義の宣伝をおこなっていた。高橋作衛は自身サンフランシスコに出張してつぶさに彼らの活動を視察し、その矯激なる言説と奔放なる行動とを目《ま》のあたりに見て、それが日本の国際関係に及ぼす悪影響につき深憂を抱き、数次密書を山県に寄せて彼らの取調べを厳重にすべきことを進言した。T氏の言はただこれだけで、その他につき多くを語らなかった」  白柳は、高橋の特派された事情といい、幸徳の渡米といい、かの地における社会主義者の内情といい、殊にこの秘密をささやいてくれたT氏の地位といい、すべての点から推して或る程度それを事実と思わないわけにはいかなかった。そこで白柳は、念には念を入れよということもあって、高橋作衛のことをよく知っているはずのS博士に宛てこの事実に関する鑑定を求めた。  ところが、S博士からは、以上のことについてほとんど断定に近い強さで、その事実であることを暗示する親切な返書がきた。さらに白柳は別な線から某氏を訪ねたところ、その人もT氏の言葉は絶対確実だという証言を与えてくれた。高橋が山県へ進言していたことは、もはや、想像以上に深刻な確信となったというのである。  また、高橋は帰朝後滞米中のことは一切だれにも話さなかった。どこにも書かなかった。これも不思議で、高橋という人は日ごろから好んで自慢話をする性格だが、この沈黙もおかしいというのである。ただ、穂積陳重博士がいくぶんその内情を知っていたものか、或るとき或る人と対談中、 「高橋は今度外務省から別に旅費をとった。それはなんでも、派遣された仕事のほかに何か別の仕事をしてきたというので請求したそうである」  と話していたことがあるそうである。別の仕事というのは、もちろん、サンフランシスコを中心とする社会主義者の動静を視察してきたということに相違ない。しかし、高橋はこのようにして教授仲間にはそのことを絶対秘密にしていたが、さすがに心を許したものか、家人にはそのことをよく話していたという。——白柳秀湖は、こう結んでいる。  幸徳秋水がオークランドに移ったのが明治三十九年の五月初めであった。それまでサンフランシスコ平民社に出入りしていた竹内鉄五郎、岩佐作太郎などが中心となって邦人約五十名が六月一日に社会革命党をつくった。彼らのほとんどは、皿洗いや、コックやハウス・ボーイなどの、いわゆる日雇労働者《デー・ワーカー》であった。その事務所はアメリカ・オークランド社会党本部を借りたが、宣言と綱領は幸徳秋水が書いている。 「たった一人を贅沢に暮させるために、百万の民衆がいつも貧困と飢餓に泣いている。これで労働が果して神聖であろうか……」  といった意味の書出しだが、「たった一人」というのは日本の天皇やアメリカの大統領などを抽象的に暗示したものだ。当時、アメリカでは日本移民排斥が行われ、それが法律化されようとした矢先なので、大統領に対しても在米邦人は好感をもっていなかった。この宣言は一切の権力を否定する幸徳のアナーキズムをよく現わしているといわれる。  幸徳はこの社会革命党が出来てすぐにアメリカを発ち、帰国している。しかし、そのあとの社会革命党は、タブロイド新聞型の雑誌「革命」を発行し、 「われわれの政策・主張は、資本家階級を代表するミカド、王、および大統領をなるべく速やかに顛覆するにあり、この手段には何ら躊躇しない」  と書いた。その手段とは、 「唯一の手段は爆裂弾である。革命の資を得るのも爆裂弾である。紳士階級を破壊するのも爆裂弾である」  と書いたからたまらない。  これがアメリカ官憲の注意を引き、アメリカの新聞の攻撃となった。竹内はアメリカの裁判にかけられる騒ぎになったが、結局は無罪になったものの、サンフランシスコ領事はこの事件を外務省に報じて、日本政府を狼狽させ、元老山県の神経を刺戟させたのである。その山県むけの報告には滞米中の東京帝国大学教授高橋作衛博士が直接に当っていたのだ。  高橋作衛は信州|高遠《たかとお》の産で、父親は内藤家の藩儒であった。彼は長野中学教諭であった父親に従って長野市に育ったが、第一高等中学校を経て東京帝国大学法学部に入学して、のちに国際法の教授となった。父親が藩儒であったため彼も漢学の素養が深かった。彼は常に身なりをかまわず、ベルギー留学時代もしばしばその汚れた衣服のことで注意をうけたという。そのきたない恰好はベルギーの国際法の大家ナイスに見習ったのだそうである。  日清戦争が起ると、彼は国際法の学者として連合艦隊に参加した。海上の問題で日本海軍が列国との紛争を避けるため国際公法学者の従軍が必要だったのである。  彼は黄海の海戦には参加しなかったが威海衛《いかいえい》と旅順の攻撃には従軍した。伊東連合艦隊司令長官が清の提督|丁如昌《ていじよしよう》に送った有名な降伏勧告状の漢文は高橋が書いた。  そうしたことから、高橋作衛は軍部や指導者階級に人望があったらしい。  高橋がアメリカ滞在中に、サンフランシスコの在留邦人社会主義者の動静を穂積陳重・八束の兄弟を通じて山県に報告したことは、山県に宛てた陳重の手紙にその証拠が現われている。手紙は、 「先年サンフランシスコから高橋作衛氏が無政府党員に関して通信したとき、それを八束を経てお手もとに差出したが、それ以来閣下も別してご心配なされていることと拝察していたところ、遂に今回のごとき不祥の事(大逆事件を指す)に至ったことは、閣下のご心中を拝察してまことに恐悚《きようしよう》に堪えないところであります」  という意味のものだ。  この穂積八束は神がかり的な皇室中心の憲法論者で、彼が「民法|出《いで》て忠孝亡ぶ」といったのはよく知られている。八束は趣味として和歌を作っていたから山県の常盤会《ときわかい》歌会につらなって、その目白の椿山荘《ちんざんそう》や小田原の古稀庵《こきあん》に出入りしていた。そういうルートから高橋作衛の報告は山県の手もとに届けられていたらしい。  また、当時サンフランシスコの小池総領事から外務省政務局長山座円次郎宛の文書には、次のようなことも報告されている。 「数日前に当地に到着した文学博士|黒板勝美《くろいたかつみ》という者が私と面接の節、黒板博士はふと穂積博士から高橋博士に伝言があると洩らしたので、私はそれは社会主義者の件に関することではないかと問い返したところ、黒板博士はそうだと答え、さらに、さきに穂積博士に届いた高橋報告は大いに参考となったから、今後とも無方針で続々報告を寄せられるよう望む旨を高橋博士に云ってほしいという穂積博士よりの伝言の依頼を受けていると云った。そして、なお、そのために費用支出が必要ならば遠慮なく申出てくれということも伝えるはずだったと、右の黒板博士は私に語った」  この手紙と、前に書いた川崎、巽らの領事館のスパイの手紙をくらべると、高橋作衛の在米視察旅行の目的がよく分る。黒板勝美は東京帝国大学文科大学の国史科の教授である。  高橋作衛が報告したといわれるものに、次のような意味の文書がある。 「昨夜、バークレーに演説会があって、竹内鉄五郎と岩佐作太郎が暗殺主義を演説した。竹内の演題は『殺人制度と革命の根本主義』、岩佐の題は『国家滅亡』というもので、実に聞くに忍びないことを口外し、先日差し上げた天長節のビラと同一の主義だが、それよりも一層激烈な言葉を弄していた。彼らの党は、米国にいる間はどんなことを云っても、日本政府はどうすることもできない。米国もわれらをそのために強制送還することはできないから安心してやるべし、などといって増長し、また、これに参加する不良の徒も次第に増える模様であるから、実に国家のために心配である。  これらの連中は幸徳秋水と気脈を通じているということだが、実際かどうかは分らない。単に書状のやりとりだけで気脈を通じているとはいいかねるが、事が重大であるから、ご参考となることはみんな申上げる次第である」  この高橋報告では、幸徳が社会革命党と気脈を通じているとは断定していないが、そのようにも取れる文章となっている。  しかし、社会革命党の岩佐や竹内はサンフランシスコ平民社の者であり、幸徳がオークランドに来てから、この党が出来、幸徳が党の宣言・綱領を書いているのであるから、誰が見ても幸徳が彼らと連絡があったように思われる。  けれども、前に書いた「天皇暗殺」のビラも、「革命」の権力者否定も、その手段とする「爆弾」云々も、幸徳がオークランドを去り、アメリカを発って後のことだから、この点では関係がないのである。  ところが、この社会革命党の機関紙に載った「爆弾」と、幸徳の帰国してからの運動に現われる「爆弾」とが奇妙に一致するのだ。  幸徳秋水は、三十九年六月の末に日本に帰って大久保|百人町《ひやくにんちよう》に居住した。その翌年一月には日刊平民新聞を発行したが、四月には早くも廃刊となっている。この間に議会主義を認める社会主義者一派と論争をしたりしたが、彼自身はじめて公然とアナーキストを称した。秋に郷里の土佐中村に帰郷して、ここでクロポトキンの『麺麭《パン》の略取』の翻訳に従った。  暑い七月に彼は郷里中村を出発して上京したが、それは八月から開かれる赤旗事件の公判を傍聴するためだった。赤旗事件というのは、彼が郷里にいる間に、東京で大杉、堺、山川、荒畑などが同志の山口義三の出獄を迎えて歓迎会を開いたとき、大杉たちが「無政府共産」と赤地に白文字の大旗を振って戸外に飛び出し、警官と旗の奪い合いとなって乱闘した事件である。このとき管野《かんの》スガも逮捕された。これらの人々は幸徳と親交のある者ばかりだ。  幸徳は上京の途中、紀州|新宮《しんぐう》に医者をしている大石誠之助を訪ねた。この大石はアメリカで医業を修めた者で、現在の権力政府を否定する一人だ。幸徳は次に箱根に内山|愚童《ぐどう》を訪ねた。彼も幸徳の思想の影響をうけた人間で秘密出版を志していた。そして、幸徳は八月十五日に開かれた赤旗事件の公判を傍聴し、巣鴨《すがも》村に居を構えた。  大体、「大逆事件」発生のあらましは、幸徳と恋愛関係に陥った管野スガが在獄中に虐待されたのを恨みに思い、女らしいヒステリックから何かと大きな復讐を考えようとしたことが一つの核になっている。この管野スガに新村忠雄が接近し、爆弾による天皇暗殺を考えるようになった。新村は信州の生れで、上京して苦学しているうちに平民新聞の読者となり、幸徳と文通するようになった。一方、それとは別に宮下|太吉《たきち》が単独で爆弾を造ろうとしていた動きがこれに絡まる。  この宮下は甲府の生れで、小学校卒だけだが、独学で機械の知識を習い、機械工場を転々しているうちに日刊平民新聞を見て、自分の経験に合致するので社会主義に傾いたものだ。彼もまた幸徳を訪問し、また幸徳の影響下にある大阪の森近運平を訪ねて天皇制について質問している。  森近運平は平民新聞時代からの支援者だが、病身で、一時上京して幸徳のもとに同居していたことがあった。  この森近が宮下の質問に答えた言葉が宮下太吉によって予審廷で供述されている。 「わたしは社会主義を読み、社会主義を実行するに当り、皇室をいかにすべきかとの疑問を持っておりましたところ、四十年十二月十三日、森近に会ってから、日本の歴史に関し皇室のことを質問したのです。すると森近は、日本の歴史は支那の文物制度を受けたのちいいかげんなことをこしらえたものであるから信用はできぬ。神武天皇が大和の橿原《かしはら》に即位したというがごときはみな嘘で、神武天皇は九州の辺隅より起り、長髄彦《ながすねひこ》を倒してその領土を横領したにすぎない。しかるに、その子孫を天子として尊敬するのはいわれなきことである、と申しました。その説を聞き、わたしはますます皇室を軽んずる考えを高めました」  この森近運平の話は、前東京帝国大学教授で、早大教授久米邦武の『日本古代史』を読んで云ったことである。この予審の内容が洩れて、喜田貞吉の「南北両朝併立論」にはね返って問題になったのは、これまで詳しく書いた通りだ。  宮下は森近の説明を聞いて感心し、皇室を軽んじる考えになった。そのあと、彼は愚童の秘密出版物によって、ますますその考えをかためた。愚童が配布した秘密パンフレットの内容は、 「今の政府の親玉たる天子というのは、諸君が小学校教師などからだまされて居るような神の子でもなんでもないのである。働いている小作人諸君が一日は、一日食うことすら苦しんでおるのだもの、日本は神国だなんどというても諸君は少しも有がたくないであろう。そうして一生神の面をかぶった泥棒の子孫のために働くべく使われるべく教えられるから、諸君はいつまでも貧乏と離れることが出来ないのである」  といった調子のものだった。  宮下太吉は、いよいよ、その思想に共鳴し、四十一年十一月、天皇が行幸の途次、東海道線|大府《おおぶ》駅を通過する際、その奉迎のために集まっていた群衆に右の愚童のパンフレットを配り、その趣旨を説明した。ところが、皇室のことに関する彼の説明にだれも耳を傾ける者がない。彼は憤慨して、「まず、爆裂弾を作り、天子に投げつけて、天子もわれわれと同じく血の出る人間であるということを知らしめ、人民の迷信を破らねばならぬと覚悟」(予審調書)したのである。彼は、そのことを大阪の森近運平に書きおくったが、彼からも幸徳からも何の返事もないので不満に思ったが、とにかく爆弾の製造を自分一個の立場から思い立った。  一方、管野スガも宮下とは別に爆弾による天皇制転覆を考えて、これを幸徳に云い出している。  管野スガは京都に生れ、小学校を出て独学、婦人記者などしているうちに社会主義に入った。彼女は赤旗事件では無罪となったが、他の同志が刑に処せられたのに憤慨すると同時に、自分が在監中検事にいじめ抜かれたのを恨み、すでに入監中に暴動、暗殺、革命ということを考えていたと、予審調書には出ている。スガは赤旗事件で入獄した荒畑寒村とは内縁関係にあったが、幸徳と接近するうちに彼と恋愛関係に陥り、そのために幸徳といっしょに周囲の同志からも非難されるようになった。  スガは激しい気性の女で、幸徳ともときどき衝突した。二人の間も、冷めかけていたが、幸徳は彼女にひきずられていたところがある。爆裂弾計画にも気乗りうすだった。たとえ、それが成功するにしてもスケールが小さく、それによって一挙に革命ができる可能性はなかった。幸徳はもっと組織的な革命を考えていたのだ。だから、宮下太吉の、ただ天皇に爆弾を投げつけ、騒動を起させるという小児病的無政府主義にもなっていないような単純な考えを幸徳が受付けるはずはない。だが、大逆事件の裁判の段階で、この三つの「爆弾製造計画」がいっしょくたにされているし、そのことにあずからない幸徳の関係者二十数名まで共同謀議ということで断罪されている。  幸徳が管野スガと同棲したのは四十年三月ごろだが、スガも肺病、幸徳も病身で、新宮の医師大石誠之助の診断では、二人ともあと二年という生命であった。この二人がその主義の上から恋愛に結ばれたのは、それほど不思議ではない。殊に管野スガは火の玉のような情熱の女で、すでにこのときは新村忠雄を引きこんで天皇暗殺の計画を持って幸徳に迫っているふしがある。  ところが、こうした幸徳と管野とが恋愛関係にあるのを友人たちは非難し、ほとんどが二人を見捨てたかの様子であった。殊に大石誠之助の紀州グループと、これまで幸徳を支援していた「熊本評論」の熊本グループとが真先に幸徳から離れた。もっとも、これは二人の恋愛を憎悪したためともいわれているが、あるいは、幸徳、スガの不気味な計画におびえて逸早《いちはや》く手を引いたのかもしれない。それでも、彼らは大逆事件の処刑から逃れることはできなかった。  上司小剣《かみつかさしようけん》が幸徳とスガとの恋愛をテーマにして小説に書いて発表した。それからは最後まで幸徳を支持していた若い人々が二人を激しく非難し、幸徳を許そうとはしなかった。これは幸徳に妻があり、管野スガにも荒畑寒村という内縁の夫があったためだが、管野はすでに入獄前の荒畑とは縁を切っている。したがって、あとの場合は非難に当らないのだが、在獄中の荒畑寒村がスガと幸徳との恋愛を呪い、出獄してからは幸徳に決闘を申込んだりして、人々は荒畑に同情したのである。  こうした生活状態のときに、その幸徳の巣鴨の寓居に奥宮|健之《けんし》がぶらりと訪ねてきた。もともと、奥宮も幸徳も同じ土佐人で、しかも、社会主義者としては奥宮は幸徳のずっと先輩だ。しかし、このころの奥宮は、年老いて、だれからも相手にされなくなり、まったくの孤立であった。  彼の目指す社会運動もとっくに挫折し、近ごろは政府筋に頼まれて社会運動家の宥和《ゆうわ》の役を買って出たり、資本家と労働者との調停を買って出たりして、ようやくいくらかの金を得て生活していた。往年、自由民権運動に挺身して名古屋事件のようなテロ行為をおこなった壮士とは思えない落魄《らくはく》ぶりである。 「よう、どうしちょるかね?」  と、奥宮は幸徳の家に上がりこんだ。  幸徳も内心では奥宮を軽蔑しているが、大先輩だから粗略にはできなかった。管野スガも裏口から質屋に走って奥宮の好きな酒を買ってきたりした。 「これはすまん、すまん。けれど、近ごろは年を取っての、このほうもさっぱりいけんようになった」  奥宮は白髪まじりの長い頭を掻きながら幸徳に盃を出し、 「まあ、ちくと一杯いこうぜ」  と、すすめた。  このとき奥宮は同志の大部分から見放された幸徳とスガに同情し、主義のためには常識的なモラルを無視しても許されるといったようなことを英語まじりに話した。  奥宮がどのような意図を抱いて幸徳を訪問したかよく分らないが、あるいは有松警保局長の内意をうけて幸徳の行動を抑えようと宥《なだ》めにきたのかもしれない。すでにこのころには、当局に爆弾のことまでは分らなかったが、無政府主義者としての幸徳に厳重な監視がつき、管野スガですら尾行をつけられていた。幸徳に対する当局の抱きこみ懐柔策は、彼が湯河原で逮捕されるまでつづいているから、奥宮の訪問目的もその一環だったかもしれない。  しかし、最初の訪問だから奥宮も俄《にわ》かにそんなことは云えなかった。話は奥宮のほうで自然と幸徳の意見に合わせるようになった。ある意味では奥宮が幸徳の言動を探る機会でもあった。  ところが、管野スガは奥宮を旧い自由民権運動の闘士で、その後は社会運動家とだけしか分っていなかった。このときスガにふと泛《うか》んだのが、現在爆弾製造に必要な知識がなくて宮下太吉がゆき悩んでいることだった。かつて自由民権のテロ行為に活躍した奥宮なら、爆弾の製造方法くらい知っているのではなかろうか、知っているなら、それを聞いてみよう。こういう考えが彼女に起きた。   爆裂弾製造法[#「爆裂弾製造法」はゴシック体]  宮下太吉は愛知県の亀崎《かめさき》で働いていたが、四十二年六月ごろ、亀崎から長野県東筑摩郡|明科《あけしな》の明科製材所へ転職した。宮下はここで爆弾の製造を目ざすのだが、それは国民百科全書で材料と分量を知るという程度であった。しかし、彼は、たまたまその製材所の職工に花火師をしていた男がいたので、それからいろいろな方法で薬の配合を聞き出した。だが、まだ正確には火薬の造り方が分らないので、彼は管野スガに手紙を出して、それを知っている人間に教えてもらってくれと頼んできていた。  奥宮健之が幸徳秋水と管野スガの家にひょっこり現われたのは、そうした時期であった。  管野スガは幸徳に、奥宮ならかつて自由民権運動の闘士だったから火薬の製法ぐらいは知っているだろう、と耳打ちして、幸徳に質問させたのは彼女らしい思いつきからであった。 「奥宮さん」  と、幸徳秋水は、民権運動の先輩でもあり郷土の先輩でもある、この老客に訊《たず》ねた。 「つかぬことを訊《き》きますが、あなたは十七、八年ごろの自由民権運動でずいぶん活躍されたが、あの時分、刀や鉄砲だけでなく、爆裂弾を武器にするような計画はなかったですか?」  幸徳は、そのへんから探りを入れてみた。 「爆裂弾か。そうだな、無いことはなかった」  奥宮は白髪のまじった髪を掻き上げ、片手では冷酒の湯呑を抱えている。 「ほう、ありましたか」 「あの時分は鎮台兵と一戦を交える覚悟だったからな。向うは大砲ちゅうものを持っておる。それに対抗するには、こっちもそれ相当な武器を持たんことにはならんちゅうて大ぶん研究しよったが、まさか大砲を買うわけにもいかんし、爆裂弾が一番よかろうということになった。爆裂弾さえあれば、兵隊がわっと集まっちょる真ん中にも投げこめるし、屯営《とんえい》にも投げつけられるからな」 「そうですか」  幸徳は云おうか云うまいかと躊《ためら》っていたが、 「いや、奥宮さん、実は、その爆裂弾の造り方ですが、それをあんたがご存じなら、ちょっと教えてくれませんか」  と、控え目ながらも勇敢に口に出した。横に坐っている管野スガは、奥宮の表情をじっと窺っている。 「爆裂弾の製造法か」  奥宮は眼を大きくして幸徳の顔を見ていたが、 「これはおどろいた、幸徳君、君はまさか管野君との仲を同志に排斥されて、二人で爆裂弾心中をするつもりじゃないだろうな?」  と、冗談めかして云った。幸徳は苦笑し、 「いや、そういうことになるかもしれませんな。何しろ、われわれのことではもう四面楚歌ですから」 「いや、そう悄気《しよげ》るものでもない。土佐ッポは鼻柱の強いのが取柄じゃ。まあ、一杯受けておうせ」  と、彼は幸徳の湯呑に振舞い酒の徳利を傾けながら、 「いまの心中の件は冗談じゃが、君はどうしても爆弾の製造法を聞きたいのか?」  と、眼を笑わせながらも、その奥から真剣な光が滲《にじ》んでいた。 「奥宮さん、これは絶対他言されては困りますが」 「分っとる」 「いや、ほかでもありません。誤解を受けますから」 「それも十分に心得とる。何しろ、君はポリスの眼に囲まれていてな、一口云うことがどんな誤解になって引っぱられることになるかもしれん」 「そうです、そうです。それで、あなただけにしていただきたいんですが、ある男から頼まれましてね、どうしても爆弾を造ってみたいというんです。ところが、その薬の比率や調合の方法が分らないで困っている。それで、教えてくれとぼくのところに云ってきたんです」 「その人は君の知合いか?」 「まあ、ちょっとした知合いです。なかなか利かぬ気の男で、いま時分そんなことはよせと云うが、どうしても承知しないんです。まあ、本人は何ということはない、一つ造ってみれば、それでいいのでしょう。この時世に憤慨して癇癪玉《かんしやくだま》でも破裂させるつもりで山の中にでも爆発させてみたいんでしょうな」 「山の中ならいいが、エンペラーにでも投げつけたらおおごとじゃな」  奥宮は、そう云って大きく笑った。彼は天子を英語でいつもエンペラーと呼んでいた。 「とんでもない。いまそんなことをしたら、われわれ一統は自滅です。外国の事情とは違いますからな」 「おおきにその通りだ。早まったことをしたらいかん。その、何かえ、癇癪玉のことだが、製造法ぐらいはわしがほかから聞いてあげよう。いや、わしにはその知識がないからな」 「そうですか。どうぞお願いします」  幸徳は頭を下げた。 「しかし、幸徳君、そんな気の短い連中が君の下にいたのでは、君も大ぶん苦労だな」 「いいえ、それほど苦労ではありません。みんな常識は弁《わきま》えていますから」 「そうかもしれんが、若い者はとかく無茶なことをやらんとも限らん。その手綱を締めてゆく君も一苦労じゃと思うとる。幸徳君、せっかくわしもあんたとこうして昵懇《じつこん》を重ねる仲じゃ。もし君の手でどうしても同志が抑えられんようじゃったら、ぜひ、わしに話してくれ」 「はあ」 「これは君のためを思うて云うとるのじゃ。アメリカのカリフォルニアあたりの日本人がエンペラーを殺せというてビラを撒いたという話じゃが、君はその結社に関係があるのか?」 「いや、あれはぼくが日本に帰ってからのことです。オークランドに行ったときに、その連中に会ったことはありますが」 「あれはアメリカのことだからまあいいが、日本でその伝《でん》でやるとえらいことになる。そこのところを弁《わきま》えん若い者が君のぐるりにもし居るとなると一大事じゃからの。そいつらを抑えるときには、ぜひわしが加勢してやる。だから、そのときには何もかも打ち明けてくれ」 「はあ、そうします」 「そうせんことには、可愛い管野君とほんとに無理心中させられんとも限らんきにの……よし、その爆裂弾の造り方は、いずれ近いうちに報《しら》せにこよう」  奥宮は幸徳の言葉どおり、それほど重大とは考えてないように爆弾の製法を請合って帰った。  奥宮健之は幸徳と管野スガの話を聞いて、すぐに友だちの長谷川昌三を伴って穏田《おんでん》の飯野の屋敷に出向いた。長谷川も旧い自由党員で、大井憲太郎の家で育ち、昔から奥宮とは自由民権運動で手をつないできた人物だ。この男もいまは窮迫している。奥宮ももちろん金に困っている。  彼が飯野に面会を求めると、客間に上げてくれたものの、一時間ばかりも待たされた。長谷川も飯野とは前に奥宮に伴《つ》れられて行って知っている。このころの奥宮は、政界や華族仲間に急に顔の広くなった飯野に近づいていた。飯野のうしろにいるのが有松警保局長である。  もっとも、奥宮が飯野に近づいた理由として、あとで次のように裁判で述べている。 ≪社会主義者が数派に分れて互いに悪口を云うており、主義者が個々独立して赤旗事件のごとき争いをやるのはつまらぬ話だから、社会党を一団としてわたしにその操縦方をやってくれぬかとの話があり、わたしはそれは自分の力で出来ようと思い、そのことを友人長谷川昌三に相談したところ、同人も賛成いたし、飯野に頼んで有力者とわれわれと妥協し、有力者から金を出してもらわんとしたのです。これについては、その人の一言でことが決し得られるくらいの有力者でなくてはいけませんから、飯野から談じてもらおうという考えであったのです≫  これでみると、彼は社会主義者を統一し、その操縦には、飯野を通じて金持から運動費を出させて行おうというのである。完全に労働ブローカーといっていい。奥宮も貧すれば鈍するで、すでにそこまで落ちていた。  しかし、彼には半分くらいはその理想がないではなかった。 ≪社会主義者中最も過激な者はごく少数と思います。幸徳などのごときは窮迫をされても意地張りずくでむやみに走ってしまうものですが、そのほかの過激者というは畢竟《ひつきよう》生活問題から来ておるに違いないのですから、自活の出来得る方便を与えれば懐柔し得るものとわたしは確信しております。しかし、この主義者を制御するには一種の威力が必要ですから、世に意を得ざるわれわれのごとき政治家が一団となって社会党の或る者には威力を加えて征服し、追っては労働党という一団体をつくり、空理空論ではなく、事実の上において着々労働者の利益を図り、その実績を上げたいというものでありました。そして幸徳はスイスに行きたいなどと云っておったことがありますから、わたしは同人に談じ、幸徳夫婦を米国または清国へ行かせようと思いました。  過激な社会主義者を鎮める方法としては、たとえば、貧民長屋を建てて、これに住まわせ、自活の出来るようにするのです。また『日本人の日本』という新聞を発行し、労働党のために尽す考えでしたから、貧苦者はこの新聞の配達の仕事などにも使おうという考えでした。その費用を飯野から談じて有力者から出してもらおうとの考えです。また、主義者で分らぬ理屈を云うものでもあれば、これを圧迫的に服従させる必要もあります。長谷川は腕力家ですから、この制御的の方面を引受けてやろうと云うておりました。これは同人に頗《すこぶ》る適した仕事です≫  要するに奥宮は、幸徳が弾圧を受けて窮迫しているから、どんな謀叛気《むほんぎ》を起すかも分らない。それで、金持に金を出させ、彼と管野スガとを外国に出してしまう。そして、社会主義者は結局貧乏のために過激な思想を持つのであるから、これに住宅を与え、最低の生活費を保障する。その費用もまた金持に出させる。そうすれば彼らの反抗を鎮めることができるというのである。  奥宮は、どちらかというと社会主義者でも人道的な傾向があって、階級的な被圧迫者という点よりも、貧乏人の生活救済を考えていた。奥宮がクロポトキンなどを翻訳していたとしても、実際どれだけ理解し得たか分らない。検事の訊問に対する供述という点を割引しても「クロポトキンは非現実的なことを空想で塗り込めた文章にしているから幸徳などはついダマされるのだ」と云っている。  しかし、奥宮のその半面の人道的社会主義は認めるにしても、金持から金を出させて、しかも政府のために社会主義者を宥撫《ゆうぶ》するというのは、やはり政府側についた一種の労働ブローカーであろう。  奥宮は、こういった考えを飯野にかねがね説明していた。飯野は、それに対して鬚をしごきながら、 「日本には社会党の必要は認めない君の考えは非常に面白い」  と云っていた。  今日も奥宮が来て同じことを述べ、だれか適当な金主は居ないか、と申込んだ。 「よろしい。いっぺん山県侯爵に話してみよう」  彼は早速お得意の電話をかけていたが、受話器を置くと、奥宮のほうに戻り、 「残念だが、侯爵はいま小田原の別荘にお帰りになったばかりだそうだ。では、小田原のほうへ伺ってもよろしいかと云ったら、いまは客があってその暇がないということだった。だから、別口へ電話をかけるから、明後日また来てくれ」  と返事をした。  奥宮は飯野に云われた通り、二日経ってまた長谷川といっしょに飯野邸へ赴いた。飯野はさんざん待たした挙句に、ようやく神様然とした威容で現われた。 「ああ、一昨日《おととい》の話は警保局長に話しておいたから、何とか目鼻をつけてくれるじゃろう」  と、至極横柄な口調で云った。  奥宮としては、そんな気長なことでは金がいつふところに入るか分らない。彼は目下火の車であった。彼は飯野に会う前から、幸徳に頼まれた爆裂弾の一件が胸にある。そこで彼は云った。 「実は、いま社会主義者が大変窮迫している。これは容易ならぬことだから、どこかで金を出してくれませんか」  飯野が、何だ何だ、と云ったので、 「ちょっと話しにくいが、このままだと、社会主義者は爆裂するかもしれない。それをはっきりと確認するには金が要る。これを何とかしてもらったら、もっと確実なところがさぐれます」  と誘ってみた。飯野もそれには大ぶん興味を示して、 「では、もう一度ある方面に電話してみるから、明日また来てくれ」  と云った。  その翌日奥宮が行くと、飯野は早速昨日の件でこういうことを奥宮に話した。 「警保局長に君の話のあらましを話した。もっとも、金が真先だと思うたから、一大機密のことだが、機密費を出してくれぬかと云うと、局長は、それは何に要るのか、議員操縦問題か、とわしに訊くから、そんなことではない、ほかの一大機密だと云うてやった。すると局長は、機密費はもう使い果したから出せないと云う。それで、おりをみてまた話そうと思い、そのまま帰って来たがね」  飯野は、自分の信者の或る金持から金を出させると云ったが、結局、それも嘘で、飯野は一文も奥宮には渡さなかった。奥宮は、その返事を長谷川昌三に宛てて、 「神様の言葉も当てにならぬ」  と、断わりのふざけた葉書に書いて寄こした。  ところで、奥宮は飯野に、幸徳などが爆裂弾の製造を考えていることをどの程度に云っただろうか。  奥宮は法廷で、飯野には社会主義者をこのままにしておくと爆裂するかもしれないと云ったが、それはその爆裂という言葉が爆裂弾に通ずると思っていた、と供述している。だが、実際はそんな抽象的なことではなかったであろう。老獪《ろうかい》な飯野は、金を奥宮に出すふりをして聞くだけのことは聞き、結局一文も払わなかったというのが真相のようである。 「被告は長谷川と共に飯野訪問の際、幸徳は爆裂弾の準備をもなし、かつ天皇に対し危害を加えんとするやの企画あるがごとしと話したのではないか?」  という予審判事の質問に対して奥宮は、 「爆裂弾を準備したなどという事実はまだ無かったのでしたから、左様なことは云いませんでした。ただ、幸徳はあのように窮迫されて爆裂するに違いないと云うたのであります。皇室うんぬんのことは、かつて幸徳から左様な言葉を聞いていたこと故、あるいは飯野にも話したことであったかもしれません。何でも、飯野はわたしに、そんなことをする者は日本人にはいない、と云ったのを記憶します」  と答えている。そして、つづいて判事の追及に、 「わたしはまさか幸徳が天皇危害の計画をするとは信じませんが、これに潤色を加えて[#「潤色を加えて」に傍点]飯野には話したのであったかもしれません」  と云い、さらに判事の、 「幸徳はすでに田舎で爆裂弾の試験をしたということを、その事実どおり被告は飯野に話したのではないか?」  という質問には、 「試験をしたといっても、それはただこれで出来るということを試みただけのことで、まだ、これを製造してどこに隠してあるというのではなく、また、いつこれを使用するということでもなく、ただ将来のために研究したことくらいにわたしは感じていたのですから、そんなことは飯野には話しません。ただ、幸徳は爆裂するかもしれぬとの言葉で、飯野にもたいてい意味は分ったろうと思います」  と答えている。  ここまで予審廷で云っているのだから、奥宮は飯野に向って、幸徳は爆裂弾を造っているらしい、そして彼のことだから、それは皇室に向って使用されるかもしれない、というくらいのことは、いわゆる機密費欲しさにしゃべったであろう。予審廷での奥宮の供述は、彼がこの事件に巻添えを食わないように要心に要心を重ねて極めて消極的に述べたことだ。しかし、奥宮自身も云う通り、 「潤色を加えて飯野に話したかもしれない」という一語が、飯野に語った彼の話の内容の程度を示している。  とにかく、飯野は奥宮からこれを聞くと、取るものも取り敢えず山県有朋のもとに一大注進のため馳せつけたのであった。   元老と大逆事件[#「元老と大逆事件」はゴシック体]  奥宮健之は、管野スガと幸徳秋水に頼まれた爆裂弾製造法について、まったくその返事をしなかったわけではない。しかし、それはたいしたものではなく、その程度のことなら幸徳も知っていた。  奥宮は、自分にはその知識がないので、旧い自由党員で、現在は芝のほうで機械ブローカーか何かしている西内正基《にしうちまさもと》から、火薬と添加物の配合を聞いたのだった。それは「塩酸加里六分、金硫黄四分、鋼鉄加入の雷粉」という割合だった。  この西内は二十年くらい前に高知の郊外で自分でも爆裂弾を製造していたが、爆発事故が起って眼をやられた者だ。だから、西内から教えてもらった爆裂弾製造法は二十年前の旧い知識であった。  幸徳は、奥宮がいかにも大事そうにその製造知識を伝えたとき、 「それくらいなら分っています」  と答えている。これが明治四十二年の十月下旬のことだった。なお、奥宮は、そのとき、郷里の田岡|嶺雲《れいうん》が書いた『明治叛臣伝』に自分のことが出ているので、自慢そうにそれを幸徳に渡している。この本は田岡の著になっているが、実はやはり同郷の若い文士田中|貢太郎《こうたろう》の代作であった。 「わが輩のことがこんなふうに書かれとるけんど、だいぶん間違っとるところもある。けんど、まあ、こねえなもんじゃろう」  と、奥宮は、それに書かれた自分の伝記にひどくうれしそうだった。  幸徳秋水は、奥宮が帰ったあと、管野スガを座敷に呼んで、奥宮から聞いた話をした。 「薬品は、鶏冠石四、塩酸加里六の割合だ。あるいは、鶏冠石と塩酸加里を半々の割合でもよかろう。容器はブリキ鑵《かん》で、このくらいの大きさだ」  と云って、スガに火箸《ひばし》でその長さを見せ、指をまるくしてその大きさを示した。その指を曲げた恰好では、大体、水道の鉛管くらいであった。  管野スガは、このことをすぐに長野県明科の製材所にいる宮下太吉に書き送った。それには「これは経験家の話だから大丈夫です」と添えて、宮下を信用させている。  奥宮のほうでも、幸徳秋水が爆裂弾の製造法をたずねたことで、何か鬱憤晴らしに小さな示威をやるくらいには考えていたかもしれないが、それがどんなことに使われるか具体的には分らなかった。  もっとも、奥宮が社会主義者を懐柔するという理由で飯野から金を世話して貰うために「このままでは社会主義者が爆裂するかもしれない」と云ったのは、彼も幸徳と管野の様子がただごとでないと感じたからで、その限りではこの言葉に根拠がないわけではないが、幸徳の周囲、たとえば管野スガや新村忠雄、古河力作、宮下太吉などが何を考えているかは全然知らなかった。  飯野吉三郎は証人として取調べをうけたとき、 「明治四十二年十二月中、奥宮健之、長谷川昌三の両名にて来訪し、近来幸徳派の社会主義者が過激の行動を企て、或は事を皇室に及ぼすやも計り難きを以て、之《これ》が緩和策を講ぜざるを得ず。就ては金壱万円あらば吾々両人にて引受け、其《その》任に当るべき旨申出でたるを以て、証人(飯野)も一応は賛成の意を表し、警保局長に交渉したることあり。其際に於ける奥宮の談話は演説口調にして、之を要するに幸徳等は爆裂弾を造り、皇室に対し容易ならざることを為すも知るべからず。此時に当り彼等と政府との間に介在し、双方の融和を講ずることは最急務にあらずやと云ふに在りたるを以て、証人は奥宮に対し、日本臣民として畏《おそ》れ多くも九重《ここのへ》の雲上に対し奉り、不穏の行動を為すが如き者は一人たりともあるまじき旨答へたるに、奥宮は『あるまいと云ふても若《も》しあつたら何《ど》うなさる』と叫びたるを以て、証人は大いに驚愕したる旨の供述」をした。  また長谷川昌三も証人として「奥宮は酒を飲みつつ弁を揮《ふる》ひ」「若しあつたらば何うするかと怒号したるに相違なし」と証言している。  飯野の証言だけならともかく、奥宮と同行した長谷川昌三がそういっているのだから、奥宮の言葉はまず間違いあるまい。演説口調とか、酒を飲みながら弁を揮いとか、怒号とか、いかにも奥宮らしい。  その前年の八月に、幸徳が一度だけ飯野に会いにきた。これには飯野の弟子の有馬泰というのが使いに立った。 「幸徳が一日私方へ来ましたから私は自分の主唱する主義の説話をして聞かせました。私の主義とする大精神とは、日出《ひいずる》東海の帝国主権者が担わせらるるところの天津日嗣《あまつひつぎ》の御《み》稜威《いつ》が元素である、これは御系統を繹《たず》ね奉り、天照大神は初代太陽を以て理想とし、御兄弟の月読宮《つきよみのみや》は月世界を以て理想とせらるるが如く其他御一統|尽《ことごと》く宇宙を以て理想とせらるる雄大絶倫な御国体である、かくの如き歴史を知らずして後進国たる選挙を以て大統領とせらるる国柄の書籍を読んだのが幸徳氏の謬源《びゆうげん》であるという意味にて一場の説話をしたるところ、幸徳氏は頗《すこぶ》る感じたるものの如く、大いに利益を得た、なおまた左様な説を伺い度いと云いました。また幸徳は世間で云う如き恐るべき人でなく人格がしっかりしており、私の教に導いてみたいと感じました。そして幸徳は今悲境に陥り窮状に居るというので私は大いに同情し、この人が思想を翻えし帝国主義のために働いたならば結構と思い、浄財に拾円を呈したところ感謝して辞し去りました。……しばらく後に同人より詩を書いた葉書が一度来ました。その詩はただ読書に耽《ふけ》ると云うような意味のものでした」(予審判事原田鉱に対する飯野の証言供述)  この証言通りだとすれば、幸徳は飯野のもとに出かけ、飯野の「帝国主義」論(皇道主義)を一度聞かされて、金十円をもらって帰ったことになる。飯野はまさか幸徳が手なずけられるとは思ってなかったが接触は図った。  とにかく奥宮のいう爆裂弾の話は、飯野が早速、山県有朋のところに駆けつけて、 「御前《ごぜん》、幸徳らの無政府主義者どもが、不穏なことを企んでいる様子でございます。彼らは爆裂弾をつくっている由でございます」  と告げた。飯野は山県のほか、警保局長の有松英義にもこれを教えている。  無政府主義者が爆裂弾をつくっていると聞いて、山県は顔色を変えた。爆裂弾といえば明治十七年に自由民権運動が各地で華やかだったころ、急進的な自由党員が九月に宇都宮県庁開庁式の当日、県令三島|通庸《みちつね》をはじめ政府高官の暗殺を企てて果さなかったため、そのリーダー河野|広躰《ひろみ》(河野広中の甥)などが資金獲得のために東京神田の質屋に強盗に入ったことがある。そのとき、追跡してくる巡査に投げつけたのが爆裂弾であった。また、明治二十二年に外務大臣|大隈《おおくま》重信が片脚になったのも、彼の馬車に玄洋社員の来島恒喜《くるしまつねき》が爆裂弾を投擲《とうてき》したからである。  山県にとって爆裂弾は不逞の徒が政府を顛覆するか、大官を暗殺する恐るべき凶器としか考えられなかったが、今度、幸徳の一味が爆裂弾で狙っているのは、もっとそれ以上の天皇が対象だと知って彼は色を失った。  幸徳秋水には山県も早くから注目し、幸徳がアメリカに渡ってオークランドにいるときは、滞米中の帝国大学教授高橋作衛に命じて幸徳の動静を内偵させている。その報告書は同じく帝国大学教授穂積八束を経て山県のもとに出されていたが、幸徳の帰国後、彼の影響下にあったオークランドの平民社支部の日本人が「天皇暗殺事件」を記したので、山県はいよいよ幸徳が天皇暗殺を企てているものと思いこんだ。 「それじゃから、いわんことじゃない。いまのうちに社会主義者を根絶せんにゃ、おおごとが起きる。西園寺内閣を早う打倒したのも、そのためじゃけんのう」  と、長州弁で飯野に云った。 「全く、御前さまのご慧眼《けいがん》には恐れ入るばかりでございます。神様の予言に近うございます」  と、飯野は五つ紋の羽織で平伏した。 「すぐに桂と平田を呼べ」  山県が側近の者に、総理大臣と内務大臣とを呼びつけさせるのを聞きながら、飯野は目白台を下りて行った。  山県のことである。その直系の警察官僚に命じて、幸徳の弾圧はさらに厳しいものになろうと、飯野は嗤《わら》ったが、彼にも山県が幸徳たち十二名もの無政府主義者をいっぺんに死刑にするような謀略をしようとは分らなかった。そこまでは山県の肚《はら》が透視できなかった。  西園寺前内閣を倒したのは山県である。  山県は、西園寺内閣の社会主義者に対する取締りが手ぬるいと攻撃していた。前内相の原|敬《たかし》は、社会主義者をあまり弾圧すると彼らが地下にもぐって取締りが行届かなくなり、かえって彼らの激発を招くと考えていた。西園寺も原の意見に賛成して、その内閣では社会主義者の言動はかなり大目にみられていた。  これが社会主義者嫌いの山県のカンにさわっていた。もともと、西園寺内閣の成立には、山県直系の官僚派が快しとせず、早くこの内閣を倒して、再び自分たちの陽の目を見ようとした。この野心があったので、彼らは社会主義者の言動を誇大に山県に伝えた。そのころの警察のボスは山県の子分大浦|兼武《かねたけ》であった。大浦は薩摩出身だが、警視総監には二度もなっている男である。それに、警察官僚は、西園寺内閣が警視庁の官制を改正し、これを内務大臣直轄とすると共に高等警察事務機構を縮小したことに少なからず不満であった。  山県は、社会主義者の取締りの緩慢を西園寺内閣倒壊の絶好の道具にしようと考えた。  四十一年六月二十二日に神田錦輝館に社会主義者が会合し、散会の際に手に手に赤旗を持ち、市中行進に移ろうとして、これを阻んだ警官隊と乱闘した。十数人の主義者が拘引されたこの「赤旗事件」を山県は具体的な倒閣材料とした。  山県が、西園寺内閣の主義者取締りの緩慢を天皇に内奏したのが同月二十三日であるから、その間髪を入れないところからみて、この「赤旗事件」は山県が仕組んだひと芝居であった。山県の意をうけた大浦兼武は、警視庁に云いつけて警察のスパイに赤旗を持たせ、わざと警官隊との乱闘を起させたのである。  山県が天皇に会って、この赤旗事件に関して西園寺内閣の社会主義者取締りの不完全を奏上したところ、天皇からは、なんとか特別に厳重な取締りがほしいものだ、という言葉があった。この内奏は侍立《じりつ》の徳大寺実則《とくだいじさねつね》侍従長から西園寺首相に語られた。徳大寺は西園寺の実兄である。  西園寺はそれを聞いて、山県がそこまで奸計《かんけい》をめぐらすなら、面倒臭いから内閣を投げ出そうと決意した。だが、ちょうど、その少し前に総選挙があって、与党の政友会は絶対多数を占めたので、閣員の中から、次の議会まで辛抱されたいという勧告もあって、西園寺はともかく一応は辞職を思いとどまった。  しかし、その後、「赤旗事件」で拘引された社会主義者のなかで留置場の板塀にフランス革命を詠じた漢詩の一節「一刀両断帝王頭、落日光寒|巴黎《パリ》城」と、箸《はし》で書いたものがあることが発見された。警察はまた神経を尖らせた。このようなこともあって、山県はまたまた、「新刑法が不敬罪に緩いのは現政府が忠君の念に乏しいためだ」と内奏した。だが、この新刑法は前からの引継ぎのもので、西園寺内閣が起草したものではなかったのである。  こんなことで西園寺は山県の陰険な謀略にますます嫌気が差して、絶対多数という与党を有しながら七月に総辞職した。西園寺には粘りのきかない性格があり、世間では彼を買いかぶっているが、やはり公卿《くげ》育ちであった。一般の者はなぜ内閣が倒れたか分らず、与党の政友会も全員茫然としたという。しかし、ぼつぼつその真相は、知れてきた。そして、西園寺内閣は山県に「毒殺」されたといわれた。  山県は宿望を達したので、四十一年七月にいよいよ自分の思いどおりの内閣をつくり上げた。それが桂太郎を首班とする内閣である。内務大臣平田東助、農商務大臣大浦兼武、文部大臣小松原英太郎、逓信《ていしん》大臣後藤新平、陸軍大臣寺内|正毅《まさたけ》、いずれも山県直系の子分である。このことは、すでに伊藤が朝鮮の統監から枢密院議長に祭り上げられ、薩にも人がなく、山県の権力が完成したことを物語る。  そのような事情で成立した第二次桂内閣なので、|※[#「勹<夕」、unicode5307]々《そうそう》に天皇に乞うて詔書を渙発《かんぱつ》している。それは、内閣が日露戦争後の膨脹した予算を整理緊縮するために、国民の私生活に質素を教えたものだが、その詔書中に、 「抑《そもそ》モ我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト我カ光輝アル国史ノ成就トハ炳《へい》トシテ日星ノ如シ寔《まこと》ニ克《よ》ク恪守《かくしゆ》シ淬礪《さいれい》ノ誠ヲ輪《めぐら》サバ国運発展ノ本近ク斯《ここ》ニ在リ」  とあるのは、国民に対して社会主義を警告したのだ。ところが「我カ光輝アル国史ノ成就」と詔書で述べられたのに、この内閣のもとで喜田貞吉の「南北朝正閏問題」が起ろうとは、この時点では、さすがの桂も予想できなかった。  明治四十三年五月二十日、長野県松本警察署が明科の宮下太吉方を家宅捜索すると、小さなブリキ鑵三個が出た。宮下の家宅捜索をしたのは、警察が、彼の身辺を警戒しているうち、製材所の職工に宮下がブリキ鑵二十四個をつくらせ、さらに去年の十月ごろに、どこからか薬研《やげん》を持ってきて赤い薬品を粉末にしていたことなどを聞込んだからである。  これから足がついて、二十五日には宮下太吉、新村忠雄、古河力作、新田融が長野県警察部に逮捕された。  これはすぐに長野県警察部から警視庁に連絡された。折から湯河原に休養と原稿を書きに行っていた幸徳秋水と、秋水と別れたばかりの管野スガその他を東京で検挙するためだった。がそれよりも大事なのは、これが長野県警察部から伝えられると色を失った検事総長松室致、警保局長有松英義、警視総監亀井英三郎らが同道して山県を訪ねてこの報告をしたことである。  山県はそれを聞くと、この前に飯野がもたらした、幸徳秋水らが爆裂弾を造っているという話を思い出し、飯野を呼び出している。 「それごろうじろ。神様のお告げに間違いはございますまい。神様は何もかもお見通しでございます。これからもこの飯野の言葉をご信用下されば、何でもちゃんと先は見通せます」  と、飯野は顎鬚をしごいて誇らしげに云った。  そこで山県はますます飯野を近づけるようになったが、飯野にしてみれば、奥宮からもらった情報には、はじめの約束と違って、結局一文も出していないから、タダで手柄を立てたようなものだった。奥宮は軽率なことを飯野に話したばかりに死刑にされる運命となった。  飯野吉三郎は山県に幸徳らのことを密告したことで、もう一つの収穫があった。  幸徳が明治四十年に出していた日刊平民新聞には「妖婦《ようふ》下田歌子」の題で、下田歌子が伊藤や山県などの顕官と愛欲に耽っていた模様が面白おかしく連載読物になっていた。下田歌子は、これを何とかしてやめさせようと飯野に頼んだが、公然と内務省の許可を得て出ている新聞なので、いかに飯野でも、それだけの理由で発行停止処分を当局に頼むことはできなかった。そのころ、飯野は下田歌子を自分の愛人にしていた。  そのつづきものの筆は、たとえばこんな調子である。 ≪ここに貴婦人《きふじん》の社会《しやくわい》に出入《しゆつにふ》して狐《きつね》のごときなにがし伯爵夫人《はくしやくふじん》や、豚《ぶた》のごときなにがし子爵令嬢《ししやくれいぢやう》の前《まへ》に叩頭再拝《こうとうさいはい》ご機嫌《きげん》をとり、御太鼓《おたいこ》を叩《たた》く中川某《なかがはぼう》と称《しよう》する男《をとこ》あり、精神的淫売《せいしんてきいんばい》、知識的奴隷《ちしきてきどれい》ともいふべき人間《にんげん》の風上《かざかみ》にもおけぬ奴《やつ》で、歌子《うたこ》にはいたく愛《あい》せられて下田家《しもだけ》の忠臣《ちゆうしん》となりをれるが、一日歌子《いちじつうたこ》を訪《たづ》ね来《きた》り、例《れい》の売淫《ばいいん》の室《しつ》に当《あ》てたる書斎《しよさい》にて何《なに》くれとなく物語《ものがた》るうち、中川《なかがは》はポケツトより古金襴《こきんらん》の表装《へうさう》うるはしき絵巻物《ゑまきもの》を出《いだ》し、その絵巻物《ゑまきもの》に賛《さん》をしるしてくれと頼《たの》みしに、歌子《うたこ》は何《なに》やらぬと開《ひら》き見《み》れば、こはそもいかに、男女相戯《だんぢよあひたはむ》るる閨中《けいちゆう》の狂態《きやうたい》なり。さすがの歌子《うたこ》も双頬《さうけふ》に桃花《たうくわ》の血《ち》をのぼらせしが、日本一《にほんいち》の女傑《ぢよけつ》なれば驚愕《おどろき》のさま少《すこ》しも現《あら》はさず、墨《すみ》すりながら筆執《ふでと》つて水茎《みづくき》の痕《あと》うるはしく、一首《いつしゆ》の歌《うた》を書《か》きつけしとなむ。日本第一《にほんだいいち》の閨秀《けいしう》となるには春画《しゆんぐわ》に賛《さん》を書《か》かねばならぬものと見《み》えたり。学習院《がくしふゐん》の女子部《ぢよしぶ》や実践女学校《じつせんぢよがくかう》の学科《がくくわ》に春画《しゆんぐわ》に賛《さん》を書《か》くことを教《をし》へぬはいぶかしきことにこそ……≫  これが蜿蜒《えんえん》と毎日つづくので、歌子もその当時は口惜しさのあまり神経衰弱になっていた。  この日刊平民新聞は思想的弾圧で途中で廃刊の運命になったので、ようやく「妖婦下田歌子」伝も中絶した。飯野は今度こそ幸徳を不敬罪に引きずりこんだので、歌子の遺恨を晴らしてやることができた。  飯野が奥宮をひっかけて、幸徳の「大逆事件」をつくり、山県に注進して彼らを死刑にしたのも、歌子の依頼を果したといえるし、歌子は山県と飯野を唆《そその》かして、平民新聞の続きものの復讐をしたともいえる。  幸徳秋水が湯河原で検挙されたのは、宮下らの逮捕に遅れること七日の六月一日であった。彼はいったん湯河原の駐在所に入れられて東京に護送されたが、翌年の四十四年一月十八日大審院法廷で死刑の判決をうけ、二十四日午前八時に絞首台に消えた。 「大逆事件」がでっち上げであるとはすでに今日知れてきたが、実際、その裁判記録を見てもこれという物的証拠はない。判決でいう天皇暗殺の計画があったということも、実は彼らのうち数人が、宮城の番兵を追っ払い、天皇の綸旨《りんし》をうけて革命をやったらどうだろうかという、出来もしない他愛もないことを座興的に話しただけである。また、宮下太吉の爆裂弾の研究も、どのような方法で使用するかということも明確には決っていず、ただ漠然と、観兵式の途中では警戒が厳重だから、他の行事の日がいいというくらいな程度だった。その実行方法についても何も決ったわけではない。  ただ、多少ひっかかりそうなのは、ヒステリー気味の管野スガが音頭をとって、宮下太吉、古河力作、新村忠雄が籤《くじ》を引いて爆裂弾|投擲《とうてき》の順番を決めた点だが、これにしても確定的な計画があったわけではなく、さし当りこういうところだろうな、という程度で、もし、ほかに出来れば、もっと大仕掛けにやろうといい、そのときは他の同志も引入れようというくらいな話で、これも実行段階の計画にはなっていない。それに、古河力作が途中からこの計画に懐疑的となって、組から脱けようとする気配もあったので、なおさら実行性はうすかった。  また、幸徳秋水についていえば、彼は計画には全くあずからなかった。秋水はヒステリーの管野スガについてゆけず、湯河原で小泉|三申《さんしん》から頼まれた通俗日本歴史の原稿を書いているうちにスガと別れた。秋水は、スガが若い新村や、人のいい古河や、朴訥《ぼくとつ》な宮下らを引入れて夢のようなことに独走しそうな気配に嫌気がさし、彼らから遠ざかっていたのだった。その証拠に、右の四人とも予審廷では、幸徳はこの事件に関係がないと、口を揃えて云っている。  だが、秋水はもとより、途中から脱落した紀州の大石誠之助や、岡山の森近運平や、熊本の松尾卯一太や、神奈川の内山愚童たちも死刑となった。奥宮健之は、幸徳らの動静をさぐるため政府のスパイとなって近づき、他の者の手前、当局が一蓮托生《いちれんたくしよう》で処刑したという説もある。  山県有朋は、この「大逆事件」の裁判がはじまると、得意の和歌を詠んでいる。 [#ここから1字下げ]   国家破壊主義者の公判を伝へ聞きて  天地《あめつち》をくつかへさんとはかる人    世にいつるまて我なからへぬ [#ここで字下げ終わり]  奥宮健之の最後がどういう心境だったかは分らない。しかし、彼が死刑の判決を受けたのは、まるで雷に撃たれたようなものだっただろう。彼の罪状は、幸徳から爆裂弾の製造法を訊《き》かれて、旧い自由党員だった旧友の西内から「塩酸加里六分、金硫黄四分、鋼鉄加入の雷粉」という割合を教えられ、それを幸徳に伝えたにすぎない。それが極めて常識的な、百科事典にもあるような配合だったことは、幸徳が「それくらいのことなら分っている」と云って、自分の考えをそれに付け加え、宮下に報せたことでも分るように、まことにつまらないことだった。  彼は、その無政府主義を政治的実行に移すのは反対であった。それは、一利を興すも一害を除くも個人の力では容易に出来ないから、国家全体の力、すなわち民意を代表する政府機関の力によって行わなければならない。無政府主義者はあくまでも権力を憎悪し排斥するが、これは権力が悪いからではなく、徳行が伴わないから悪いのだという。つまり、彼は権力自体を否定する考えはなかったのである。権力による貧乏人救済が理想であった。  したがって、彼の社会主義は現実と妥協しながら社会を改良する主義であり、政府が厄介視している社会主義者も結局は金に困っているから、金を与えて宥和《ゆうわ》したほうがいいとする。しかし、金だけやってもいけない。圧迫を強めて調和する必要があるといっている。彼は飯野に一万円の運動資金を世話してもらい、それによって社会主義者の懐柔を計画していたのである。だから、飯野に相談したことも幸徳の前途を慮《おもんぱか》って国家の利益と考えたまでだと、述べている。  具体的には、奥宮は幸徳に同情して、その資金で幸徳と管野スガとをシナにでも逃がし、残りの社会主義者は、彼が発行する予定の新聞の販売などに関係させて生計の手段にさせようと計画したのだった。  世間では、飯野が奥宮から社会主義者や無政府主義者の内情を聞くために彼を近づけていたようにいっているが、奥宮の云った程度のことなら常識であって、特殊な情報というほどではない。もし、また、本当に奥宮が政府の密偵だったら、なにも飯野あたりを仲介にする必要はなく、直接政府当局者に報告すればいいのである。  幸徳に多少でも関係のある者なら、ほとんどこれを大逆犯人にしなければ承知できなかった当局によって、奥宮は有無をいわさず死刑台に引きずりこまれた。  幸徳は、死刑の執行を目前に控えた十九日、堺枯川宛に次のような手紙を書いている。 「先ずは善人栄えて悪人滅ぶ、めでたしめでたしの大団円で、僕も重荷を卸したようだ。……但しだ、覚悟のなかった多勢の被告は、殊に幼い子供のある人や、世間を知らない青年などは、如何にも気の毒でならないが、然し、ドウする事も出来ぬ。難破船にでも乗合せたとでも思って観念して貰うの外は無い……」  奥宮は、もちろん、世間を知らない青年どころか、幸徳より十四歳も年上の五十五歳である。経歴的にも幸徳よりずっと先輩だ。しかし、幸徳からすれば、奥宮もまた難破船に乗合せた一人であり、ドウすることも出来ぬ人間の一人であった。  奥宮もまさか自分が死刑はおろか、この「大逆事件」にひっかかろうとは夢にも思わなかったであろう。彼は、その前日まで片山潜と演説会の壇上に立っている。また、彼が警官に引致されてゆくとき妻の沢は病床にあったが、 「今度帰って来たら、社会主義者のシャの字も云ってもらいますまいよ」  と云ったという。妻も奥宮自体も、いくらかの刑期をつとめたら、再び娑婆《しやば》に戻れるものと思っていたのである。  しかし、この妻も奥宮が検挙されてから一月ほどのちに、貧苦のなかにひとり寂しく死んで行った。奥宮も、その妻の死後半月足らずで冥途《めいど》に赴いている。(笹島正男「奥宮健之」に拠る) 「大逆事件」の判決が都下の各新聞に一斉に報じられたのは一月十九日付であった。  同じ日付の読売新聞には、判決の仰々しい記事のためにちょっと人目にはつかない投稿が、「論議」という囲いものに載った。しかし、これは第一面である。  それは、「南北朝対立問題、国定教科書の失態」という題で、本文は、 「明治維新は足利尊氏の再興したる武門政治の転覆にして、又北朝の憑拠《ひようきよ》したる征夷大将軍の断絶也。……」  という書き出しにはじまる。  維新の大業が成されたのは、水戸|光圀《みつくに》、頼山陽、その他多くの学者が南朝を正位とした尊王論が深く天下の人心を刺激したためだと云い、水戸学に昂奮した薩長土の勤王志士が働いたたまものであると述べ、さらに、今上陛下は北朝の皇胤《こういん》にあらせられるのにもかかわらず、南朝の元勲に贈位され、別格官幣社に祀られ、また、その子孫にも華族の籍を与えられた。これ、大義名分の明らかなるためだと説く。そして、次のように論を進めていた。 [#ここから2字下げ]  然るに吾輩の怪訝《くわいが》に堪へざる一大事件は、来四月より新《あらた》に尋常小学生に課すべき日本歴史の教科書に、文部省が断然先例を破つて南北朝の皇位を対等視し、其結果|楠公《なんこう》父子、新田義貞、北畠親房、名和長年、菊池武時等諸忠臣を以て、逆賊尊氏、直義輩と全然伍を同《おなじ》うせしめたるに在《あ》り。  天に二日なきが如く、皇位は唯一神聖にして不可分也。設《も》し両朝の対立をし許さば、国家の既に分裂したること、火を睹《み》るよりも明かに、天下の失態|之《これ》より大なるは莫《な》かる可し。何ぞ文部省側主張の如く「一時の変態」として之を看過するを得んや。然らば則《すなは》ち其一の正にして他の閏《じゆん》たること固《もと》より弁を俟《ま》たじ。今日は憲法上継承上順位巨細一定して論争の余地なしと雖《いへど》も、古来正閏を批判するには皇祖天照大神の神勅に依り、神器の所在を以て唯一の典拠とせり。而して其当時を顧みれば、明かに南朝に相伝し、後亀山天皇に至りて父子の礼を以て之を北朝に譲りたれば、其間北朝諸帝が閏位に在《ま》すこと自ら明かなり。殊に光厳、光明二帝の若《ごと》きは奸雄《かんゆう》が賊名を免れんが為に不法に擁立したるものなるをや。安《いづく》にか「後世より之が軽重を論ずべからざる」条理あらん。吾輩は国法学の十分発達したる現時に於て、堂々たる文部の調査委員が斯《か》くも不条理の論断を為《な》すを見て、転《うた》た長嘆大息するの外なき也。  日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は、知識徳行の優劣よりも先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今の如く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては、特に緊要重大にして欠く可らず。而して国民に此の情操を豊富ならしむる方法は、実に国史の教育に若《し》くものなし。然るに今文部省が国定歴史を以て「南北朝対立—順逆不二」の観念を第二代の国民に鼓吹せば、其結果は如何。実に寒心に堪へざるなり。吾輩は畏《おそ》る、二重橋畔楠公の銅像を始め、藤島、名和、阿部野、結城、菊池、四条畷《しでうなはて》、小御門の諸神社は、漸次其神徳を失ひて無意味に帰し、従つて維新の初め表示せられたる大聖旨を没却するのみならず、延《ひ》いて尊氏崇拝者の陸続輩出せん事を。  唯《た》だ文部省は彼れ尊氏を正成以下の諸忠臣と区別せん為め、「武家政治の再興を希望し其の心忠誠を欠く」と弁ずれ共、若し彼れに誠意あること南朝諸忠臣の如くんば、果して之《これ》を許容する意思なるか。吾輩はもと法理上閏位に対して忠誠を抽《ぬきん》づる義務なしと信ずるに、さりとは反逆|幇助《はうじよ》の奨励とは、聴くさへ懼然《くぜん》たらざるを得ず。  頃者《けいしや》此問題に関し、文部の主任委員喜田博士は、記者の質問を反駁《はんばく》して曰《いは》く。此主義は原《もと》三十六年編纂の現行教科書に始まる、何すれぞ今に及んで事新しく呶々《どど》するかと。然り、往年既に此失態あるに拘《かか》はらず、教育社会一人の之を感知する者なく、又既に之を感知しながら之を指摘し得ざりしは、畢竟《ひつきやう》渠等《かれら》が迂愚《うぐ》無能の致す所にして、偶々《たまたま》文部省の僥倖《げうかう》たりしのみ。遮莫《さもあらばあれ》、苟《いやしく》も天下の木鐸《ぼくたく》を以て任ずる吾党の一旦之を認識したる以上は、事の新旧に拘はらず、断じて之を黙々に附することを許さざる也。乃《すなは》ち吾輩は|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に一言賢明なる小松原文相に警告す、文相速かに此失態を修正し、兼て行政上の責任を明かにし、且《かつ》委員会の組織を更《あらた》め、斯《かく》の如く慎重を要すべき事業には、少くともハイカラ学者の参加を排し、以て将来を戒飭《かいちよく》せざるべからず。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](半嶺子《はんれいし》)  ——この投稿を読んだ読者のなかで、これが政治的問題として重大化する発火点になろうとは、ひとりも予想しなかった。  投稿者の「半嶺子」とは何者か?   議会質問書[#「議会質問書」はゴシック体]  幸徳らの死刑が報道された一月二十四日の新聞は、日本中の話題となった。  早稲田大学の講師室でも、牧野謙次郎、菊池|三九郎《さんくろう》、桂五十郎、吉田|東伍《とうご》の各講師が授業の合間にストーブを囲んで、やはり幸徳たちの死刑のことで少々昂奮しながら雑談していた。  牧野、菊池、桂はいずれも漢学者だが、吉田東伍だけは地理学者であった。吉田には『大日本地名辞書』の大著がある。  そのうち、牧野の口から、十九日の読売新聞に載った国定教科書を難じる投稿のことが話された。  菊池、桂など、いずれも南朝を正と考え北朝を認めていない学者ばかりだ。牧野謙次郎は、国定教科書の記載をいままでだれも見咎めなかったのは全く奇怪至極だと息巻いた。菊池も桂も同感だといった。  その中でただひとり吉田東伍だけは北朝を正位とする議論を吐いた。吉田のそのときの論旨は頗《すこぶ》るふるっていて、 「自分は今上陛下の臣民であるから陛下に忠義の心をささげねばならぬ。今上陛下は北朝の系統である。故に陛下の臣民たる以上は北朝の正統を信ぜねばならぬ」  と云ったという。しかし、まさか、そのような単純なことではなかったであろう。それは吉田がその後、雑誌「太陽」に発表した文章を見ても分る。  とにかく、こうしてストーブの周りで講師たちの話に花が咲いて、まさに談が佳境に入ろうとしたとき始業のベルが鳴って、一旦、中絶となった。  ——一体、読売新聞に投稿した「半嶺子」とは何者だったのか。実は、これがさきに文部省主催の歴史講習会で講師喜田貞吉にしきりと攻撃的な質問を浴びせていた東京富士前小学校長の峯間信吉だったのだ。  読売新聞の「国定教科書の失態」と題する投稿が忠君愛国主義者峯間信吉の自発的な意志から出たことは疑いない。しかし、それだけではなさそうである。喜田執筆の教科書が早稲田の講師たちから非難の火の手があがり、それが政治問題化してゆくきっかけがこの峯間投稿にあったとすれば、そこに峯間と牧野あたりとに何か隠された因果関係が想像できないことはない。このストーブを囲んでの雑談も、あるいは牧野が意識して、話を峯間投稿に持って行ったということも考えられそうである。喜田貞吉も、 「自分の講演に対してかなり辛辣なる質問を試みる人が現われた。それは、不日この問題の盛んになった際に最も熱心に論弁せられた、今の東京商科大学予科教授で、当時は富士前小学校長の峯間信吉君であったということをのちに聞いた」(『六十年之回顧』)  と述べ、これが政治問題化したことについて、 「この事件がどういうことから起ったか、自分は知らぬ。しかし、当時の噂では、早稲田大学教員室での一部の教員たちのストーブ側の会談が、その導火線をなしたものだなどと言っておった」  と書いている。喜田は他人から聞いた話のように書いているが、これは周囲のことを考えての体裁で、実際はそれが真相だったのを彼は知っていたのであろう。  四十四年三月十五日号の「日本及日本人」には「正閏論問題の起源と大日本国体擁護団」という題で、三塩熊太という人が書いている。その中に、 「この問題は国民教育上の大問題であるのに、直接関係ある天下十万の小学校教員のほとんどが対岸の火災視した。その無気力は国民教育の前途にうたた寒心に堪えざるものがあったが、その導火線たるものが小学校長(註 峯間信吉のこと)から出たということは小学教育者のためにいささか慰めるに足る」  という一章がある。「大日本国体擁護団」というのは、この問題が起ってから牧野を中心に結成されたもので、三塩もその一人であった。峯間校長もその一員と考えられるから、このへんに伏在した事情が泛《うか》び上がってきそうである。  とにかく、牧野謙次郎は早稲田の講師室での雑談だけで胸が納まらなかったのか、それとも予定の行動だったのか、その翌日、松平|康国《やすくに》を訪問して、この問題について協議を重ねた。いよいよ前日のストーブ雑談が単なる「炉辺談話」でなかったことが察せられるのである。  もし、牧野が真にストーブ雑談から発してこの行動に移ったとするなら、それには当日からもう少し時日がおかれていなければならない。その間に彼の思慮や工夫の時間がなければならない。ところが、牧野が翌日早速、松平を訪ねて、その従弟《いとこ》にあたる無所属代議士藤沢|元造《げんぞう》をして、この問題の質問書を衆議院に提出させる画策をしているのだから、いよいよ前日の読売新聞投稿の話題が見せかけの「きっかけ」だったことが推測される。峯間信吉の投稿も、牧野との間に連絡があって行われたと思わないわけにはいかない。  藤沢元造は大阪府選出代議士で、その父は藤沢|南岳《なんがく》といって儒者であり、漢学者であった。そして、牧野も、菊池も、桂も、この南岳の開いていた「泊園書院」の曾《かつ》ての塾生であった。  一方、その藤沢代議士が、一月二十五、六日ごろ、衆議院で十九日の読売新聞の「半嶺子」の投稿を読んでいると、そこに、ふらりと犬養毅《いぬかいつよし》が入ってきたので、藤沢がその新聞を犬養に見せると、犬養も大いに愕《おどろ》いていたという。  これは三塩某の書くところだが、藤沢が衆議院で読売新聞を読んでいるところに犬養が来合せたというのも、なんだか話が出来すぎている。思うに、藤沢が院内に犬養を訪ねて、これをご覧下さい、と彼に見せたのではあるまいか。  というのは、同じ三塩の記述に、牧野が早稲田大学教授(漢文主任)松平康国と同道して藤沢代議士を訪ね、藤沢に文部省より喜田の書いた教科書をとり寄せるよう依頼したとある。これが二十五日の出来事で、新聞を犬養に見せたのはその直後の二十五、六日ごろとしてあるから、牧野にそそのかされた藤沢代議士が犬養を味方に引入れようとしたことは、前後の事情から想像できる。  さて、藤沢は、その教科書をとり寄せて仔細に読んだところ「実に愕くべき順逆顛倒、前後矛盾、支離滅裂、まさに国体を破壊し、大義名分を没却せんとするの証拠が充満」しているのを知った。彼は憤然として議院質問の任に当ることを牧野と松平に回答した。そのとき、さらに藤沢は、牧野から「教科書編纂に関する種々の情実」を聞いたという。  種々の情実とは何か。察するに、早稲田大学の講師牧野謙次郎は国定教科書の編纂が帝国大学教授のみに限られたことに大きな忿懣《ふんまん》を覚えていたようである。すなわち、帝国大学教授は高等文官の試験委員を壟断《ろうだん》し、有形無形に学界、官界、実業界に権威をふるっていた。私学の教授たちの立場からすると、官僚教授の専横として憤慨に堪えないところであろう。  さらに、教科書が汚職事件を契機として民間から国定に切り替ったとたん、私学関係の学者は全部教科書執筆から締出され、官学教授の独占となった。これも私学の教授には忿懣やるかたないことであった。いうところの「情実」とは、その教科書編纂をめぐっていろいろな噂話があって、それが牧野から藤沢代議士にこまごまと伝えられたのであろう。「情実を聞き」という一句は、その意味に解される。  牧野からそのことを聞いた藤沢元造は、選挙区の大阪から牧野宛に手紙を寄こした。 [#2字下げ]「拝啓 一月二十八日より両三日帰阪仕り候間、左様ご了承願上げ候。教科書一読、まことに不都合千万なる記述にこれあり、大いに考究すべき大問題と存じ候。草々」  つづいて二十八日付で、再び藤沢から牧野へ次の手紙が来ている。 [#2字下げ]「(前略)教科書事件は貴論のごとく、まことに盤錯《ばんさく》せる事情伏在いたしをり、容易ならざる事件と存じ候間、なほ十分審議の上、一大問題として議会に論議仕りたき愚案にござ候。文部当局は大義名分をうんぬんしつつ自ら大義名分を紊乱《びんらん》せるは許容すべからざる大事件と存じ候。いづれ両三日中に帰京いたすべく候間、直ちに拝訪の上、委曲ご高見を拝聴仕るべく候。草々不備」  東京に帰った藤沢が牧野からさらにどのような講釈を受けたかは分らない。とにかく、藤沢が牧野から「委曲ご高見」を承ったことだけは間違いない。  その藤沢は二月四日に、その宣言のごとく、衆議院に教科書に書かれた南北両朝に関する記述について次のような質問書を提出した。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] 「第一、文部省は神器を以て皇統に関係無しとするか。  第二、文部省は南北両朝の御争いを以て皇統の御争いとなすか。  第三、文部省は南朝の士正成以下を以て忠臣にあらずとなすか。  第四、文部省は尊氏を以て忠臣となすか。  第五、文部省の編纂にかかわる尋常小学校用日本歴史は順逆正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根柢柢を破壊するの憂いはないか」 [#ここで字下げ終わり]  この国定教科書編纂に関する質問書は、河野広中、大竹貫一、小泉又次郎、佐々木安五郎など五十一人の賛成を得た。  藤沢元造は、このとき三十七歳であった。彼は父南岳の薫陶を受け、十六で上京し、共立学校に学ぶこと五年、大阪に帰ってからは父の経営する私塾「泊園書院」で教鞭をとった。  三十四年には清国に赴き、一年間滞在したが、帰途、武昌《ぶしよう》を経て帰朝した。そうした関係で彼は頭山満《とうやまみつる》や犬養毅とも相|識《し》っていた。また、この質問書に名を連ねた佐々木安五郎も、そのころ蒙古の王族を日本につれ帰ったりして「佐々木蒙古王」という渾名《あだな》をつけられていた。藤沢元造は、府立高等医学校嘱託教授となり、次いで大阪府郡部選出で衆議院議員となったのだが、こうした経歴でも分る通り、いわゆる憂国の志士的人物ではあったが、同時に単純な性格でもあった。  この事件の経過からみて、藤沢代議士は牧野謙次郎など早稲田派に完全に利用されたといっていい。  この質問書が議会に提出されたとき、文部省側では初めたかをくくっていた。いまどき黴臭い大義名分論などで、専門学者の研究に成った教科書を批判するとは烏滸《おこ》の沙汰だとか、古臭いとか云っていた。しかし、藤沢代議士がこの質問書を中心に議会で質問演説をすることが新聞などに載って、それが世間の注目を集めると、文部省もあわてだした。議会の空気も、藤沢の質問演説をめぐって政府に対して強硬になるらしいことも分った。  文部大臣小松原英太郎も狼狽した一人である。いや、彼が最もうろたえた人間かも分らない。というのは、彼は喜田貞吉が教科書と同じ趣旨で書いた『国史乃教育』には、それを絶讃する序文を寄せているからだ。  小松原はすぐさま桂首相のところに報告に行っている。  そのころになると、この問題が小田原の古稀庵《こきあん》にいる元老山県有朋の耳に入って、山県が相当憤激していることが政府筋に伝えられてきた。桂は山県の一喝を予想して、怯《おび》えきっている。彼はなんとか藤沢代議士の質問演説を止《や》めさせるよう小松原文相に含めた。  そこで、藤沢をどうして思いとどまらせるかということになったが、桂の意見で、それには藤沢の父南岳翁の門人であった農務局長下岡忠治を使者に立てたら、元造とも知合いのことだし、彼から条理を尽して説けば承諾するに違いない、ということになった。  下岡農務局長は、東京の旅宿にいた藤沢元造を早速訪ねた。彼は桂首相の使者と称して藤沢に質問演説の撤回を懇望した。藤沢は拒絶した。 「下岡君、君もおやじの門に入り教育を受けた者だ。しからば、儒学がいかに大義名分を尊ぶかはよくご存じであろう。その君が、大義名分を乱している国定教科書について糾問しようとするわが輩の演説を止めるのはいかなる料簡から出たのか。君ら官吏こそ、このような順逆を誤った学説を載せた教科書に対し真先に粛正するのが本務ではないか。それを、いかに総理の命令とはいえ、わが輩にそれをやめろとすすめにくるとは何とも心得ない次第だ。わが輩はいかなる方面からの干渉や圧迫があろうと、断じて君臣の名分を正すために、この質問書の撤回はおろか、これについての議会の質問演説をやめるわけにはいかん、藤沢はこういう決意であると総理に説明したまえ」  藤沢は肩をそびやかし、髭をしごいて威張っている始末である。しかし、この藤沢の態度は予想できないことではなかったので、下岡に第二の策があった。そこで彼は云った。 「あなたの云うことはまことに尤《もつと》もです。自分も内心は全くあなたと同意見ですが、何しろ官吏の身ですから、上司の命とあらば拒むわけには参りません。それで、こうしてあなたから叱《しか》られるのは承知で総理の使者としてあがったわけだが、どうでしょう。一つ、わたしの顔を立ててくれませんか」 「君の顔を立てろとは、わが輩にどうしろというのだね?」  藤沢はじろりと下岡を睨んだ。 「ともかく、この問題では総理も文部大臣もずいぶんと苦しい立場に立っておられる。そこで、わたしがあんたに会って一蹴されて帰ったといえば、あまりにわたしの立場がなくなる。何はともあれ、一応、小松原文部大臣にお会い下さるわけには参りませんか?」 「総理大臣が君に云ってこんな使いをさせたのだから、いまさらわが輩が小松原に会っても仕方がないよ」  藤沢はにべもない態度だった。しかし、下岡がなおもくどくどと頼むと、彼も少しは折れた。 「ほかならぬおやじの門人である君のことだ。なるほど、宮仕えとなれば、その立場もあろう。分った。小松原に会っても仕方がないが、一応、君の顔を立てるため明日でもわが輩が彼に会ってもよろしい」 「え、それでは本当に会ってくれますか?」 「会ってもわが輩の主張は変えんから、それは覚悟してくれたまえ」 「分りました。あなたがその場でどうお答えになろうと、それはもうぼくの知ったことではありません。とにかく文部大臣に会って下さるだけで結構です。それでぼくの立場も救われますから」  下岡農務局長は早々に藤沢の前を引退った。  翌日、藤沢は貴族院の一室で小松原文相と会見した。下岡農務局長も同席した。  小松原文相は藤沢代議士にいとも鄭重《ていちよう》な言葉で事情を述べた。 「実は、桂総理も自分も今日まで、そのようなことが教科書に書かれてあろうとは全く知りませんでした。あなたの提出された質問書を見ておどろき、早速、国定教科書を調べてみて、その事実を知ったようなわけです。その点、うかつとも何とも、深くその責任を痛感しております」  小松原は、自分が喜田の『国史乃教育』に序文を書いたことなどそぶりにも出さなかった。 「それで、文部大臣は、この国定教科書をご覧になってどう思われましたか?」  藤沢は追及した。 「いや、全くあなたと同様に不都合と存じております。もし、事前にそのような記述があることを発見していたら、絶対に教科書の発行を許さなかったのですが、なんと云ってもあとの祭り、監督者たるわたしの手落ちです。もちろん、桂首相も、その教科書における南北両朝の御扱いについては甚だ不都合であると云っておられます」 「総理並びに文部大臣が不都合とお認めになるならば、即刻にもこの教科書を廃棄なさるがよろしかろう。そのような考えがありますか?」 「極めて近い将来、これが改訂を考えております。そこで、あなたは近日、さきに提出された質問書について議会で質問演説をなさるそうですが、それだけはどうぞ止めていただきたい。いかがなもんでしょうか?」 「せっかくですが、そのお頼みにわが輩は応じかねます」  藤沢は決然と云った。 「なるほど、教科書の不都合を認められて近い将来にご改訂なさる意志があるということだが、すでにこの国定教科書は七、八年間も児童に使わせて、これによって教育がなされている。もちろん、改訂は必要だが、それだからといって、いままでこの教科書によって教育された過去の事歴は消えますまい。この教科書によって誤った国家観をもつ国民もすでに多数世に出ている。殷鑑《いんかん》遠からず、同じく誤った歴史観によって『大逆事件』の犯人が出ておりますぞ。ことは皇室にかかわり、また国家道徳の根本に関することですから、この際、議政壇上に立って、その曲直を糺《ただ》さなければならぬ。これが大義名分を天下に明らかにするゆえんです。せっかくだが、わが輩の質問演説は、予定通り断乎として行うつもりだから、悪しからずご諒承願いたい」  文相と会見した代議士藤沢元造は、前に議会に出した国定教科書に関する質問書の撤回はおろか、質問演説も断乎として行うと頑張る。小松原文相も手のほどこしようがなかった。しかし、彼は最後の努力をこころみている。 「藤沢さん。それにしてもあなたは国定教科書の編纂官から直接に意見を聞いたことはないでしょう。あなたがどうしても質問演説をなさるなら、それは代議士として当然の権利の行使であるから止めようはないけれども、万全を期す上から、ひとつ、編纂官に会われて、彼らの意見をじかにお聞きになったらいかがですか?」  小松原としては、喜田貞吉らの学術的な説得に一縷《いちる》の望みをその提案にかけたのだった。もともと、藤沢代議士は理論も何もない男である。学問の上で説明してやったら、あるいは納得するかも分らないと考えついたのだ。  藤沢はちょっと思案したが、それも断わるのはあまりに極端だと思ったか、 「よろしい。あんたの意見どおり、わが輩が編纂官に会って、その考えを聞いてみよう。しかし、そのときには、わが輩だけでなく、牧野謙次郎君、松平康国君を同道するが、それは構わないでしょうな?」  と云った。藤沢も、相手が学者だから単身で乗りこむのは不利だと知っている。 「もちろん、どなたをお伴《つ》れになろうと一向に差支えはない」  と、小松原は了承した。なるべく藤沢ひとりにしたいが、相手がそう云う以上、それも駄目だとも云いかねた。  藤沢代議士が肩をそびやかして帰ったあと、小松原は松村茂助普通学務局長を呼んで委細の事情を伝え、明日、藤沢代議士と牧野、松平の両早稲田大学講師が文部省で教科書編纂官と話合いにくるから、君は大臣代理としてそれに立会うように、と云い含めた。  松村普通学務局長は、すぐにこれを三上参次、喜田貞吉両歴史編纂委員に伝えた。問題の教科書は喜田の執筆だが、喜田ひとりでは心もとなかろうというわけで、同じ南北両朝併立論者の三上を付添わせたのだ。  二月十日午後一時、約の通り藤沢、牧野、松平の三人が文部省を訪ねてきた。  文部省側は松村局長のほか、渡辺|薫之助《くんのすけ》図書課長が喜田と三人の横に着席した。  ところが、藤沢代議士は、どこで飲んできたのか酔っ払って真赧《まつか》な顔をしている。  いよいよ、文部省側は喜田と三上、早稲田側は牧野、松平、それに藤沢代議士を加えての話合いに入った。牧野、松平の質問に、喜田はどこまでも、 「自分の書いたのは宮内省において皇統系譜がご編纂になるまでの私見に基づいたもので、もちろん、将来、宮内省にてそのご編纂があったならば、その決定に従うことにやぶさかでない」  と、前の意見をぶっきら棒に繰返すだけであった。また、南朝が正位として一般に認められているのに、殊更に北朝を南朝と同列にお扱い申しあげるのはどういうご所存であるか、という牧野謙次郎の追及には、 「南朝を顕彰するのあまり、北朝をその閏位に置くがごときお取扱いは水戸史学からのもので、それまでは、『太平記』、『梅松論』の如きもみな北朝の年号を用いている。自分としてはどこまでも従来の歴史観に従って国定教科書を編纂したものである。だが、もとより、南朝を正位とし、北朝を閏位とする気持は毛頭持っていない」  と、例の如く無愛想な挨拶だった。この席での会談は学説の討論でもなければ議論でもなかったので、早稲田派では物足りなく思ったものの、一応、教科書編纂者の意見を聞くというところで止まった。そのとき松平康国が喜田の傍にいる三上参次に、あなたのご意見は、と訊くと、 「維新後、南朝の諸臣らが表彰せられたのはもとより当然と思います。ただ、世間が足利尊氏を憎むのあまり濫《みだ》りに北朝の天位を軽視する傾きがあるのは、北朝の天皇方に対してまことにお気の毒に思っています」  と謹んだ口吻《こうふん》で答えた。  こうした厳粛な問答のなかで、肝心の藤沢代議士は酒の臭いをあたりに撒き散らしているのみか、突然ソワソワと洋服のあちこちを調べはじめた。どうしたのかと思っていると、 「鉄道パスが見当らぬ。はて、どこに置いたかな?」  と、あちこちのポケットに手を突っこんで捜し、果ては自分の鞄《かばん》をあけて中のものを掻き回したりした。喜田の意見を聞きに来たご本尊が、ろくにそれには耳も傾けず、もっぱら鉄道パスを捜すために椅子を起ったり坐ったり、部屋をウロウロと歩き回ったり、まことに落ちつきがない。せっかく藤沢についてきた牧野も松平も十分に喜田との話合いができないだけでなく、この場の空気もそんな藤沢の動作に掻き乱された。一同は、まさか藤沢に文句も云えないので苦り切った顔をしているだけだった。  この会見について、あとで「日本及日本人」の誌上において三塩熊太がこんなふうに書いている。 「三上氏は『大日本史料』の南北対立説にはもとより関係している。されば、文部省編纂の国定の歴史に対立説を採った御大将であることはもちろんである。東京朝日新聞の二月十五日の記事がこれを裏書きしている。説の当否はとにかく、学者として自説の維持に熱心であるから一応感心したが、自己の意見は別にあるとか、または、中学校の教科書で同氏の編纂にかかわる日本歴史には付録の系図のところに南朝を正統にして、すなわち後亀山から後小松に皇位を遷《うつ》してある。北朝五代は一、二、三、四、五と横に細書して皇統に編入せず、明らかに閏位にしてあることを知るに及んで開いた口が塞《ふさ》がらなかった。今ごろの学者は朝夕《ちようせき》をはかられぬが、研究熱心のため新発見が日々出来ぬからであろうか。くちさがない京童《きようわらべ》は言う。官界遊泳術の虎の巻。いや、三上氏のみを咎むべきでない。博士田中義成も三上氏に劣らぬ北朝論者で、対立説採用の責任は田中も免れることは出来ない。然るに、北朝論の風向きが悪くなった今日このごろ田中氏は隠れてしまって杳《よう》として消息無しであるが、これも官界遊泳術一時の変態でもあろうか。  喜田君は、説の当否はとにかく、無遠慮に放言するは三上氏より男らしい。喜田氏はこの会見において明言した。曰く「宮内省で皇統譜の編纂中であるが、それが南北いずれに決るか分らぬから、その決定までは対立にしておくのである」と。これは牧野、松平の両氏が証言するところである」  文部省を訪れて、問題の教科書を執筆した喜田貞吉とその同調者の三上参次に対し、牧野、松平から質問させた藤沢元造代議士は、酩酊して喜田の説明もロクに耳に入ってなかったが、その後の藤沢代議士は意気軒昂として、この国定教科書に関する質問演説はいよいよ二月十六日に行うと明言し、その旨を衆議院の事務当局に通告した。  それだけではなく、ことが皇室の宗廟《そうびよう》に関していることであるからといって、藤沢は集まってくる新聞記者たちに、 「わが輩は二月十一日の紀元節を期して斎戒沐浴し、伊勢|大廟《たいびよう》に詣り、自分の衷情を神霊に報告した上、議会の演壇に立つものである」  と、胸を張って明言した。  そのころ、藤沢が近く議会で質問演説をするというので、新聞も大きく扱いはじめ、世間の注目を浴びていたのだった。  藤沢は、その言葉どおり、二月十日に新橋駅を発して伊勢に向っている。——  さて一方、藤沢を応援する連中は、彼の演説に声援を頼むために貴衆両院議員に運動しはじめた。三塩熊太は佐々木安五郎を訪ねて、藤沢の質問演説のあとにつづいて関連質問をするように依頼したが、それには、 「もし、足利尊氏・直義以下北朝の功臣の銅像を二重橋外に楠公の銅像とならべて建設しようとする者があれば、当局者はこれをどのように処理するか。その際、北朝の功臣の銅像にも建設の許可を与えるつもりか」  という奇妙な質問で追及することを提案した。佐々木は笑って、 「それはいいところに眼を着けた。政府もさぞかし答弁に窮するじゃろう」  と、応援質問の件を承諾している。  なるほど、北朝から見れば、尊氏・直義は楠正成の南朝のそれと同様に天皇に忠義を尽した功臣である。いま、もし、南北両朝の併立を認めるならば、両朝に従った功臣もまたそれぞれ忠臣として顕彰しなければならない。南朝の忠臣だけを顕彰するのは不合理だということになる。政府もこれには答弁に窮するわけだ。  佐々木は、そのとき三塩に語って、 「実は、貴族院でも大木伯爵がこの問題で質問するという意志のあることを聞いている。大木伯にも頼んでみたらどうか」  とすすめた。  大木喬任《おおきたかとう》は佐賀藩の出身、明治維新ごろには江藤新平と共に東京遷都を主張し、その功で東京府知事になった。その後、文部卿や司法卿になったりしたが、明治十七年に伯爵をもらい、元老院議長、枢密院議長などを勤めたり、松方内閣では文相になった。彼もまた反長州閥の一人だ。  大木伯は、訪ねてきた三塩から話を聞くと、 「それは国家の一大事件である。十分調査勘考した上、その廃止を文部省に迫ることにしよう。また十四日の晩にはそのことで話したいから、もう一度やって来てくれ」  と快諾した。  その翌晩の十三日、執拗な三塩熊太は牧野、松平といっしょに早稲田大学総長大隈伯爵を訪ねて、この問題の相談をした。大隈は話を聞いて、 「南北正閏問題はすでに久しく論議されているが、明治維新以来、南朝を正統とする論以外には、すでに北朝を問題にするものはなくなっているんである。いまさらそれを担ぎ出すとは愚昧《ぐまい》曲学の徒が愚論を試みるもので、われらとしては一顧もすべき問題ではない。聞けば、文部省の官吏は、宮内省で皇統譜が出来るまでいまのような愚論を試み、宮内省においてその決定があれば、それに従うということだが、宮内省など敢えて順逆を糺す権利はないのであるんである。況《いわ》んや文部省においてをやだ。特に聖上陛下が尊氏以下の北朝の忠臣を憎み給うこと甚だしく、ひとつも遠慮することはないのであるんである」  と、訪問の三人を前に大いに気炎をあげた。  また、一行は病床にある犬養毅を訪ねたところ、犬養も大いにこの問題を憂慮し、自分はいま病中だが、諸君は大いに藤沢君を激励して十分に活動させ、速やかに目的を達するようにしてくれ、とはげました。  十四日の夕刻、彼らはまた前約によって再び大木伯爵を訪ねた。大木は、二日間かかって国定教科書の記述や、そのほか文部省の動きなどを調べたが、諸君の云うことには全く賛成である。自分も貴族院で輿論《よろん》を喚起することに努めると、これも一同を喜ばして帰した。  ——こうしてみると、彼ら早稲田派は、反長州閥の政治家のところばかり回っていたことが分る。  当時、山県有朋は小田原の別荘、古稀庵に居た。  山県も国定教科書問題のことは耳にして不快に思っていた。ところが、ある日、医学博士井上|通泰《みちやす》が文学博士市村|※[#「王+贊」、unicode74da]次郎《さんじろう》、賀古鶴所《かこつるど》と三人で山県を古稀庵に訪問した。井上通泰は、南北朝正閏問題が起ってから憂慮のあまり夜もろくろく睡れなかったため、この訪問になったと山県に話した。賀古鶴所は森鴎外の親友で、鴎外と共に山県のもとに最も出入りしている一人だ。  井上たちは山県に南北朝正閏問題の内情と、藤沢元造代議士の先に提出した質問書並びに近日衆議院で質問演説することなどの経過を詳しく述べた。  すると、山県の顔は見る見る真蒼《まつさお》になり、 「桂は何をしている?」  と云うや否や、全身を瘧《おこり》のようにぶるぶると震わせ、忽《たちま》ち痙攣《けいれん》を起した。  山県は激昂すると身体を震わす癖があるが、痙攣を起したのはよほど感情が極まったらしい。南朝イデオロギーで倒幕運動をしてきた維新の元勲山県にとって、南朝が後退し、北朝が押し出ることは、この上ない屈辱であり、不敬の極みであった。  山県はすぐに秘書官に命じて、電話で川村宮内次官を東京から呼びつけさせた。川村次官がどのようなことを山県に報告したかは分らない。しかし、その直後の山県の行動を見ると彼の激昂ぶりが分る。  山県は小田原を発して東京に行く前に、まず、人に書を持たして桂首相と陸軍大将寺内正毅に与えている。この書を託されたのはどうやら川村宮内次官らしい。  その桂と寺内に与えた山県の書の内容は、大体、次の要領であった。 「余は若いころ国事に身を投げて以来、ただ大義名分のあることのみを知ってきた。藩の先輩に従って維新の偉業を助け、以て今日に至った者である。昔、わが旧藩主|毛利敬親《もうりたかちか》、幕末に義士が義憤のあまり足利尊氏像の首を梟首《きようしゆ》にかけ、幕府に捕らえられて処刑されんとしたとき、書を以てかれらを救われた。当時、自分はその毛利の臣下で、命を奉じて京都に赴いたものだが、今日から見ると、全く隔世の感がある。図らずも公等(註 総理桂太郎、陸相寺内正毅をさす)身をわが長藩より起し、聖明を輔弼《ほひつ》し、而して、いま俄かにこの正邪顛倒の妄挙《もうきよ》に直面する。有朋《ありとも》老いたりといえども、尚よく鞍上《あんじよう》によって叱咤し得る。願わくは先公(註 毛利敬親のこと)に代って聖明のために弊事を除かん。南北正閏を弁ぜず、恐れ多くも万一にも不軌の徒あらば、その禍いは如何ばかりならん。老夫(有朋)思いをここにいたして睡ること能わず、食に味無し。公等、少しくこれを思うべし」(牧野謙次郎「先朝遺聞」による)  桂首相と寺内陸相とは、この山県の書を開いて愕然としてなすところを知らなかった。そこに、いま山県公が汽車で小田原を出発されたという警視庁の情報が来た。桂は色を失って書を飛ばし、諸閣僚を集め、山県が新橋駅に到着する前に対策のため緊急閣議を開いたのだった。——  当時、第二次桂内閣に対して、野党の第一党政友会も、第二党の国民党も甚だ批判的であった。桂はさきに政友会に対抗する新党結成を考えたこともあるが、これが失敗に終ると、もっぱら政党に対して攪乱《かくらん》工作をおこなったり、持前のニコポン政策によって宥和《ゆうわ》方針を採ったりしていた。桂が「大逆事件」による内閣総辞職の危機をようやく乗り切ったのも、そうした工作のためだった。  当時、政友会の総裁西園寺公望は、打倒桂内閣運動を起すほどの積極的な情熱は持ち合わさず、党内の実力者原敬は外遊中であり、もう一人の総務松田|正久《まさひさ》単独ではどうしようもないときだった。絶対多数を有する政友会は、反政府的でありながら、その倒閣運動は自然発生的な情熱に依存するという甚だ不活溌な態度であった。  これに反して、国民党の犬養毅等は桂を倒すのに躍起となっていた。すでに桂内閣は「大逆事件」で大きな手傷を負っている。それにひきつづいて今度の「南北朝正閏問題」の突発だ。犬養が反長州閥や反官僚閥を誘って倒閣運動の連合戦線を結成しようとしたのは、まさにこの時であった。  ところが、犬養はちょうど病中であり、思うように活動のできない時期であった。そこで彼が早稲田の講壇派をそそのかして、この正閏問題で内閣を窮地に陥れようと考えたのである。犬養はいうまでもなく福沢諭吉の三田派だ。伝統的に早稲田派とは相|容《い》れない。が、桂の長閥内閣、官僚内閣、超然内閣の打倒に対してはこころよく共同戦線を承諾し、かつ熱心に推進した。  当面の目的は桂の打倒だが、実は、その背後にいる山県有朋が彼らの憎悪の対象であった。  ここで「南北朝正閏問題」は政争の具に供される情勢とはなった。  さても代議士藤沢元造は伊勢神宮に参拝し、神官の祓《はら》いを受け、大廟におのれの忠義心の貫徹せんことを祈願した。彼が意気揚々として大阪に帰ったのは二月十二日のことであった。  家に戻っていると、選挙のたびに彼の参謀長をつとめていた中野寿吉という銀行家が訪ねて来た。中野は代議士の父親藤沢南岳の門下生でもある。 「元造はん、あんさんは南北正閏問題で政府に攻撃的な質問演説をしやはるそやけど、そら、思い止まったほうがええのんと違うか」  と、中野は藤沢の顔を見るなり云い出した。 「何でや? どないな理由でわての演説を止めるんや?」  藤沢代議士も地元に帰れば土地の言葉になる。殊に相手は父親の門下生でもあり、選挙のたびに働いてくれているのだから、わが輩などという気どった言葉はつかわない。 「あんさんが質問しやはることで政府が困るのは別としてもやな、問題は、恐れ多くもわが皇室のご先祖を誹謗するようになることや、つまりやな、北朝の天皇方に対してええことにならんわ。こら恐れ多いことだす。殊に今上陛下には北朝のご系統や。そら、国定教科書が南北両朝を同等にお扱いしたのは怪しからんことですわ。そやけど、新聞で見ると、政府も将来国定教科書を改訂してもええと云うとるし、なにも議会で演説などせんでもええと思うがな」 「せっかくやが、今度はあんたの云うことを聞くわけにはいかんわ」  と、代議士は断わった。 「なるほど、政府は将来国定教科書を改めてもええようなことを云うとる。そやけど、その言葉を信用してええかどうか、こら、考えんならん。政府は、とかく目前の厄介を切り抜けたら、あとはもう知らん顔や。わてはな、この際議会で質問演説をしてはっきり皇統の正しさを国民に愬《うつた》えたいと思うてます。論より証拠、わてが前に政府宛に出した質問書にも、文部当局はせせら笑って何一つ回答せなんだやないか。議政壇上で質問すれば、政府かて否応なしに答えんわけにはいかんやろ。わての演説は新聞にもすぐに載るやろ。そうなったら、国民の前に事の黒白《こくびやく》が明瞭になるちゅうもんや。……あんさんが云う通り、わてがそないな演説をすれば、あるいは北朝の天皇方を軽んじるように見られる発言になるかもしれまへん。けどな、そやいうて国民の教育を誤らしたらあかん。『大逆事件』が起ったのは、そないな間違った教科書をつくり、教育をしたためや。また、今上陛下は北朝のご系統やけど、すでに南朝の忠臣をご顕彰になってはるさかい、南朝をご正統とお認めになってるのや。不敬にわたることはあらへん。わては、十六日に演説するよう政府にも通告して、新聞にも出ているさかい、いまさら取りやめるわけにはいかん。選挙のたびにあんさんにはえろう世話になってるけど、これだけはわての意地を通さしてもらいまっさ」 「いや、元造はん、わてへの義理はどうでもよろしゅおまっせ。そやけどな、これはわての意見だけやあらへん。南岳先生かてそう云うてはるのんやからな」 「なに、おやじはんもそないなことを云うとるのかいな? そら思いがけなかったなア」  元造は父親の南岳も意外に軟弱な意見だと知って、顔に憤慨を見せた。 「キリンも老ゆれば何とかいう言葉があるけど、おやじも日ごろ儒道を奉じ、大義名分を説いとるのに、そらまた、えろう変ったことを云い出すようになったもんやな」  元造は父親をあざ笑った。  それから彼は南岳翁と会って議論したが、一途に逆上《のぼ》せているので、父親の云うことも耳に入らなかった。元造は別室に待っている中野寿吉のところへ戻り、とうとう、おやじを論破してやったと得意そうであった。  彼は一晩自宅に泊って上京の途についた。  ところが、列車が京都に着いたとき、車掌が名古屋からの電報を持ってきた。 「ゼヒタチヨラレタシ ウエノ」  発信人は名古屋第三連隊長をしている植野中佐で、父親南岳翁の門人であった。元造は植野がかつて現陸相寺内正毅の副官だったことを思い出し、これは自分の演説中止を説得するためだなと思った。それで植野中佐を敬遠するつもりでいたところ、列車が名古屋駅に着くと同時に、当の植野中佐自ら軍服姿で乗りこんできた。 「久しぶりじゃないですか。どうです、今夜は一杯やりましょう」  と、植野中佐は元造の手を取り、無理矢理に席を立たせた。  その晩、元造は植野中佐の家で夜中まで痛飲し合った。植野中佐ももとより元造が議会で質問演説をするのは知っている。中佐は、元造に向ってしきりと東京に着いたらすぐに桂と寺内に会うようにすすめた。 「桂さんも寺内さんもあんたを憂国の志士だと感激している。いろいろな政治的|思惑《おもわく》から、口では別なことを云っていたが、実はあんたの忠君愛国精神の熱誠にうたれておる。これはあんたも知ってのように、わたしが寺内さんの副官をしていたことがあるので、その寺内さんの側近から手紙が来て知ったのです」  連隊長がしきりに説くので、藤沢もようやく心が動いた。  翌日、二人は熱田神宮に参拝している。このとき藤沢は神前にぬかずき、質問演説の成功を祈った。  藤沢が再び名古屋駅から東京行の列車に乗ったとき、見送りにきた植野中佐が、 「いま東京から桂総理の電話が入ったが、桂さんと寺内さんは、内密裡《ないみつり》にあんたと十五日の午後二時に貴族院で会いたいということですが、ご都合はつきますか?」  と訊《き》いた。藤沢はいい気持になって、 「先方でそういう意志なら出向いてもよろしい」  と確答した。おそらく元造の胸は、一介の代議士が時の総理大臣や陸軍大臣にこうまで大事に扱われるかと思って有頂天になっていたに違いない。 「この会見のことは、あんたを後援する人たちには黙っていて下さい」  と、植野中佐は藤沢に口止めした。  十五日午後四時、約束より遅れること二時間、藤沢代議士は貴族院で桂首相、寺内陸相とこっそり会見した。折から議会は開会中だったので、首相や陸相や代議士が登院するのは当然で、新聞記者の眼もこの会見を見逃してしまった。そのように用心深く計画された密室の会見だったのである。  このとき桂がどのような云い方で藤沢代議士の説得にかかったかは分らない。とにかく、はじめから首相が藤沢を下にも置かぬ丁寧な扱いに出たことだけはたしかである。桂は名うての人心|籠絡《ろうらく》技術者だ。広い額のつぶらな眼は媚《こび》を含み、にこにこしながら藤沢の肩をポンと叩いたに違いない。桂の渾名《あだな》はニコポンであった。  会見時間約四十分、部屋から出た首相、陸相、藤沢の三人は揃って満足な顔つきだった。紋付羽織袴の藤沢元造は、一躍風雲児になったような顔つきでいる。桂首相が藤沢を遇することいかに鄭重《ていちよう》だったかは、その直後、彼みずから代議士を伴い、総理専用の二頭立馬車に乗り、桂の三田の私邸に駆けたのを見ても分る。いまや、政党幹部でもない一陣笠代議士が首相とならんで結構な四輪馬車に乗り、馭者の鞭《むち》の音を聞きながら街頭を疾駆しているのだ。元造の得意想うべしである。このことは彼の同志の誰も知らぬ。  されば、藤沢元造は、桂の私邸で饗応を受けたのち、その場で大阪の父親南岳に宛て官用の電報で次のように報じている。 「太陽|赫々《かくかく》、和気堂々……」  それより藤沢元造は、桂の邸から特別仕立の人力車に送られて牛込《うしごめ》神楽坂の料亭「末よし楼」に入った。  彼は座敷に入るなり女中に云いつけた。 「何でもいいから肴《さかな》をみつくろって酒を持ってこい」  たった今まで時の首相と対等に快談し、意気|軒昂《けんこう》だった彼の顔も、桂の私邸から乗りつけてきた人力車が帰ったのを最後に、この料亭の広い座敷に坐ると、忽《たちま》ち憂鬱なものに変った。さすがの彼も同志を裏切った自分の行動に懊悩《おうのう》したのである。その苦しさを紛らすかのように酒を命じた。 「ここはいい。少し考えごとがあるので、ひとりで呑みたいのだ」  彼の表情の険悪を見た女中は怖れて座敷から引退った。あとは、ぐいぐいと独酌であった。  金銭に眼が眩《くら》んだのではなかった。また栄位を約束して欺《あざむ》かれたのでもなかった。一議員の身が総理大臣や陸軍大臣にチヤホヤされ、彼らと対等の意識になって快談したのを男子一生の本懐とした。その感激の朦朧たる意識の中で、桂の言葉に引きずりこまれてしまったのだ。  しかるに、その夢が醒めてみれば彼の心も同志を裏切ったことで疼《うず》いてきた。あれほど固く約束したのに、僅か一時間くらいの間にそのすべてを反古《ほご》にしたのである。彼は、同志の牧野謙次郎や松平康国、また今度の国体顕揚運動のために働いている三塩熊太その他の同志にその背信を責められるときを思い、懊悩しはじめたのだった。  手酌の酒をいくら呑んでも少しも酔わなかった。彼は蒼《あお》い顔で眼を据えていたが、遂に耐え切れなくなって手を鳴らした。 「何かご用でございますか?」  女中が怖る怖る顔を出した。事実、外から見ると藤沢は常人の顔つきではなかったのである。 「早稲田大学の牧野謙次郎という先生のもとに、わが輩の書状を使いの者に持って行ってもらいたい」  元造は硯《すずり》と筆を持って来させ、その場で短い手紙を書いた。 「はい、かしこまりました」  女中は、藤沢の異常な眼つきに逃げるように引きさがった。  藤沢は、その女中の態度を見て、自分の様子に気がついた。女中は酔狂をおそれているらしい。なるほど、手酌でひとり荒れて呑んでいるのだから、普通ではないと思われたのだろう。  藤沢に一つの思案が浮んだ。  一方、牧野謙次郎のほうでは、藤沢がすでに帰京して桂首相や寺内陸相に面会したなどとは露ほども知らなかった。  彼は藤沢から熱田発の十五日付の電報をもらった。 「アツタニサンパイシタ」  これは午前零時十分の発信になっている。牧野は、藤沢が十六日の質問演説に成功するよう伊勢大廟からつづいて熱田神宮に詣り、神霊の加護を祈念したとばかり思っていた。  事実、その直後、十三日付で同じく名古屋から出したらしい葉書が到着した。 「執酒嘲稷嗣君 猥将礼楽付虚文 眼中無字非揚墨 古有魯連能解紛 今夕汽車赴名古屋 明朝熱田祠明後朝帰京 当直訪尊寓」  この書面に接した牧野謙次郎は他の同志に連絡し、十五日午前中には藤沢元造が帰京するものと思い、同日早朝から、その到着を待っていた。そして、休憩や談合なども旅館などでは秘密が洩れたり、いろいろ不都合があるだろうと思い、彼が着京早々に松平康国の家に案内することまで準備していた。  しかし、十五日正午になっても藤沢は到着しない。集まった一同は待ちあぐねていたが、三時になり四時になっても藤沢の姿は一向に現われなかった。  しかし、大阪の南岳翁や、元造の弟でやはり大阪にいる章二郎という男や、あるいは、金沢師団在勤の三等軍医正三崎麟之助などをはじめ、南岳の門下生から牧野やその他の同志のもとに、頻々《ひんぴん》として電報がきた。その大要はいずれも、藤沢の挙動が常軌を逸しているので、その保護を依頼しているものばかりだった。  集まった同志一同の顔は一斉に曇った。もしや当局者の圧迫が元造に加わったのではあるまいか、という危惧《きぐ》だ。  とにかく元造が名古屋まで来たことは、その書面や電報で確実であるから、南岳の門人である中谷司法官を名古屋まで出発させ、大阪の藤沢家に打電し、向うからも名古屋にだれか人がくるように云ってやった。  すると、その中谷の出発後まもなく、大阪の南岳翁より意外な電報が到着した。 「ゲンカツラノウチニイル」(ゲンとは藤沢元造のこと、カツラとはもちろん桂総理のこと)  ここで同志の不審はその絶頂に達した。あとになって、桂邸より前記のように「太陽赫々……」の官用電報が南岳のもとに着いたので、さらに南岳からこの電報が寄せられたという事情がはっきりしたのだが、このときはまだ東京側にはさっぱり事情が分らなかった。  午後八時ごろ、一人の使者が藤沢の書状を携えて牧野を迎えにきた。この使いは牛込神楽坂の料亭「末よし楼」の者だった。書面を開いてみると、いま自分はここに居るから至急来てくれという元造の直筆である。  牧野宅には松平ほか同志たちが集まっていたので、この書面を中心に協議の結果料亭で元造に会うのは都合が悪いとなし、即刻こちらにくるようにと云って使いを帰した。  すると、約一時間ばかりのち再び俥《くるま》が二台来て、牧野と松平にぜひくるようにとのことである。それで、二人とも仕方なく迎えの俥に乗って神楽坂の「末よし楼」に向った。 「末よし楼」に着いて、二人は藤沢に面会した。ところが、座敷に居た藤沢は二人を見ると傲然《ごうぜん》と肩をそびやかし、 「やあ、来たか」  と云って、その場から立上がりもせず、床の間を背負って、凄《すご》い声で命令した。 「まあ、そこに坐りたまえ」  牧野も松平も藤沢に会って、その疑惑を問詰めよう、もし藤沢が真実に桂に懐柔されているなら、面談して即刻翻意させようと意気ごんで来たのだが、さぞかし弱りきっているだろうと思われた元造の案外な様子に呆気にとられた。  しかし、呆れるのはまだ早かった。  藤沢は二人を睨《ね》めつけ、威丈高《いたけだか》になり、 「やあ、両人、頭《ず》が高いぞ。われは天照大神なるぞ」  と大喝した。  両人は初め、藤沢が泥酔のあまりにこの痴言《たわけ》を云っているのかと思ったが、よく見ると、眼は血走り、顔は真蒼になって髪も振り乱している。肩を震わせ、一点を凝視しているところなど、とんと狂人同様であった。  牧野と松平が言葉を失っていると、藤沢は奇妙な声でつづけた。 「われは桂と意気が投合したぞよ。桂は真の愛国者なるぞ。されば、天照大神の身替りにさせたる元造は明日にても死ぬと思え」  挙句の果ては、元造は懐中から千円ばかりの札束をとり出して二人に見せ、 「これは当座の小遣に桂がくれたのじゃ」  と云い出す始末である。  恰度《ちようど》、途中から同じく南岳の門人である松本洪という男も来合せたが、彼は元造のこの狂態を見て肝を奪われていた。  牧野も松平も元造が本当に発狂したと思った。そこで両人はとりあえず元造の看護を松本に頼み、あわてて牧野の家に戻った。  南岳の門人で同志の内田周平が、これも事のなり行きを心配して来合せていたので、三人はすぐに善後策の相談に入った。 「藤沢氏はもともと気の小さい男だから、満天下の耳目を聳動《しようどう》させているこの大問題は少々荷が重すぎて、その神経に異常を来たしたのであろう」  というのが三人の結論であった。 「では、明日に迫った議会の質問演説をどうするか?」  とにかく藤沢が役に立たないことは分りきっている。そこで、藤沢は狂癲《きようてん》病院に入れ、代人を立てることにした。しかし、代人をだれにしていいか分らないので、そのことを病中の犬養毅に相談することになった。この相談がまとまったのがすでに十六日の当日午前一時すぎであった。  牧野と松平は深夜、俥をつらねて犬養を訪問し、その策を問うた。犬養は小心な藤沢の発狂に同情し、 「質問演説の代りは先例もあるようだから出来るだろうが、いやしくも一国の選良を軽々に狂癲病院などに入れるのは不穏当である」  と注意したうえ、 「代理の演説は福本|日南《にちなん》がいちばん適当であろう」  と助言した。福本日南は当時の新聞人であり、また史家である。  そこで一同は犬養に深く礼を述べ辞去したうえ、牧野は諸種の材料を整えて福本日南を訪ねて、これを相談した。  日南は、その資料を読んだうえで返事をすると云ったが、その気色はすこぶる乗気であった。  気の狂った藤沢元造の代りに、福本日南を議場に立てて、南北朝正閏問題を取扱った国定教科書について政府に質問をさせることになったが、そのために、牧野謙次郎、松平康国などの早稲田派、これを操る大日本国体擁護団の連中は、料亭「もみじ」に引きつづき籠って情勢を監視していた。  ところが、いろいろ入ってくる情報を照合してみると、藤沢代議士はどうも本当に狂人になったとは思われなくなってきた。藤沢が料亭「末よし楼」に入る際、桂の私邸から人力車で送られたというし、殊に、その前、彼が桂の私邸に入ったときは貴族院から桂首相の二頭立の馬車に同乗していたことも分った。だんだん詮議してみると、藤沢は貴族院で桂首相や寺内陸相と密会し、国定教科書問題質問演説のことで桂にまるめこまれたようであった。  桂は名うての業師《わざし》だ。藤沢くらい手なずけるのはわけもない。藤沢は完全に桂の術中に陥って豹変したらしい。だが、彼は今さら早稲田派の同志に向って質問演説は取止めたとはいえないので、窮した挙句、偽《にせ》狂人を装ったものと判断された。  そうだとすれば、正気の藤沢をみだりに狂癲病院などに監禁すると、今度はこっちが官僚の陥穽《おとしあな》に陥って、同志一同が拘禁の災いに遭う危険がある。……そうも考えられた。 「では、藤沢代議士のことはこのまま放任して、ことの成行きを見たほうがよくはないですか。もし、藤沢氏が壇上に立てば、それでもよし、立たないならば、また別途の方針を立てることにしたほうがよろしかろう。その意味で、犬養さんから云われた福本日南氏の起用は一応見合わしたほうがよいと思われます」  三塩熊太など大日本国体擁護団の連中が云い出した。  早稲田派もこの意見に賛成したので、その晩立てこもるつもりだった「もみじ」を引きあげた。これが午前二時過ぎで、すでに演説予定日の十六日になっていた。  もちろん、夜が明けても同志は藤沢の行動から眼を放さなかった。「末よし楼」に残っている佯狂《にせきちがい》の藤沢には、国体擁護団の松本洪が看病を装って監視していた。  牧野謙次郎宅には朝から国体擁護団の出入りが多かった。内田周平の兄の内田正は退役二等軍医正で、事件の前途を気づかって浜松から上京してくる。この人は学者、貴族に知人が多く、静岡県では智恵者をもって目されていたという。  午前十時ごろ、「末よし楼」の松本洪から、藤沢代議士の姿が見えなくなったと知らせてきた。監視の眼をぬすんで逃げたのだ。時間が時間なので、藤沢の登院が予想された。  そこで、牧野、松平をはじめ、国体擁護団の連中は衆議院に押しかけた。藤沢の質問演説はすでに新聞などにも大きく出て騒がれていたので、傍聴席は満員であった。  開会は午後一時である。だが、定刻を過ぎても議長も副議長も現われない。大臣席も人が来ない。藤沢の質問演説が重大な問題だけに、この開会遅延は、舞台裏で何ごとか起っているらしいとは想像できた。  議席はすでに定刻前五分から議員が入場し、空気も緊張している。しかし、定刻十五分近く過ぎになっても、長谷場純孝議長は一向にその柔和な顔を現わさなかった。  舞台裏で何かが行われているに違いないという皆の想像は当っていた。しかし、真相の点ではおよそ見当が外れていた。実は、午前十一時三十分、桂首相は院内大臣室に入るとすぐに長島秘書官をして衆議院に林田亀太郎書記官長を捜させ、これを大臣室に呼び入れ、何事か談合したのである。  林田書記官長は首相に云い含められて大臣室を出ると、長谷場議長を衆議院議長室に訪れ、ここで極秘裡の話し合いを行った。このとき、議長室のドアは固く密封され、廊下には守衛を立たせて、他の人間は一歩もそこに近づけさせなかった。この厳戒の中で、桂の意を受けた林田|翰長《かんちよう》と長谷場議長との間にどのような密談が交わされたかは分らない。だが、藤沢代議士の国定教科書の編纂に関する質問演説に関連していることだけは間違いなかった。  林田翰長と三十分余り話し合いを遂げた長谷場議長は、それからあわただしくどこかに出かけた。そうして、議長が室に戻るとすぐに、当の藤沢代議士が突如として廊下を歩いてきて議長に面会を求めた。これが午後一時前だった。議長は予期したもののごとくに、藤沢代議士を招き入れたが、藤沢は悄然《しようぜん》としてふところから一通の書面をとり出して議長に提出した。書面には「辞職願」と毛書してあった。  長谷場議長が眼を落すと、全文はこのような文句だった。 「拙者儀事故|有之《これあり》、衆議院議員辞職|致度《いたしたく》候ニ付、御聴届|相成度《あひなりたく》此段願上候 衆議院議員 藤沢元造」  藤沢がここに来たのは表正面からでなく、衆議院の裏通用門からこっそり人目に隠れて通ったのであった。  そんなことは議場で開会を待っている代議士連中や傍聴者には分らない。開会の遅れを不審がったり、憤慨しているうちに、定刻を過ぎること約二十分、議長長谷場純孝がようやく姿を見せて議長席に着いた。つづいて左右の扉から桂首相以下各大臣が雛壇《ひなだん》に歩いてきた。  長谷場議長は開会を宣言した。  まず、書記官が議長に命じられて諸般の報告をした。だが、だれもそんな瑣末《さまつ》な報告など聴いている者はなかった。ただ、ひとり遅れて入場した藤沢代議士が自席に着くのをじろじろと見ていた。特に、後方の傍聴席の眼は藤沢の紋付羽織の背中に集中していた。果して彼が予定どおり国定教科書編纂に関する質問演説をするか、または、噂で伝えられているようにそれを撤回するか、その表情や恰好から判断しようとしていた。  だが、大臣席の端にいる総理桂太郎は至極のんびりした顔でいる。彼はすでに何か成算があって事態を楽観しているようであった。つづく内務大臣平田東助も、農商務大臣大浦兼武も、陸軍大臣寺内正毅も、いとも平和な顔つきでいる。  平田東助は、この内閣では事実上の副総理であった。今度の第二次桂内閣の組閣に当っては彼がその参謀となり、閣員の選考に当り、また内閣の施政方針も彼がもっぱら立案に当っている。平田は山県幕下の智者で、清浦|奎吾《けいご》、小松原英太郎、大浦兼武と共に山県系の四天王と称された。  農商務大臣大浦兼武は鹿児島出身だが、早くから山県閥に入ったもの。司法大臣岡部|長職《ながもと》は、これも貴族院における山県系の領袖《りようしゆう》だ。  ただ、この席には肝心の文部大臣小松原英太郎の姿が見えなかった。  その空席の隣には逓信大臣後藤新平が鼻眼鏡をかけて控えている。後藤は岩手県の産だが、平田と同じように早くから長州閥に帰化した。彼は医者で、自由党の板垣退助が遊説先で刺客に襲われたとき、当時岐阜病院長としてその負傷の手当てをしている。のち、内務省衛生局長となり、日清戦争のときは検疫事務に当って、その手腕を児玉源太郎に認められてから、台湾民政長官となってとんとん拍子に出世した。  陸相寺内正毅の隣には、海軍大臣斎藤|実《まこと》が茫洋《ぼうよう》とした顔で坐っていた。彼は薩閥の代表として西園寺内閣から留任したにすぎない。こうしてみると、この内閣は斎藤の薩一人を除いて全部長州閥で占められた超然内閣であった。  ——さて、だれも気にしていない書記官の諸般報告中、突如として皆の耳を捉えた言葉があった。 「次に、衆議院議員藤沢元造君は、一身上の都合により議員を辞職する旨の辞職願を本日午後一時に議長のもとに提出されました……」  平板な書記官の報告の中だから、この一言を聴きのがした者も少なくなかった。だが、やがてそれに気づくと、議場も傍聴席もどよめいた。それは絶対多数を有する政友会よりも、主に国民党の議席から多く声があがった。  雛壇上の桂の顔が一瞬ニンマリとほほえんだように思えた。  議長はすかさず懶《ものう》い声で云った。 「ただいま、藤沢元造君より議員辞職について釈明したいとの申し出でがありました。藤沢君の発言の許可にご賛成でありますか?」  忽ち「異議なし」「賛成」の声が議員席からあがった。 「では、異議なしと認めます。よって、これより藤沢君に発言を許します。……藤沢元造君」  満場注視の中で藤沢元造は自席から起ち上がった。このとき彼は真蒼になっていて、歩く足もとも覚束《おぼつか》なかった。彼は再びその起った自席に帰ることはないのである。  藤沢代議士は、まるで切腹場所に赴くような恰好で壇上に登った。広い議場も咳《しわぶき》一つ聞えず、深山幽谷にあるがごとき静寂さが落ちた。  藤沢代議士はようやく聴き取れる掠《かす》れた声で、いわゆる議員辞職による告別の辞を述べはじめた。 「議長ならびに議員各位、不肖藤沢元造は、今回一身上の都合により、また、思うところもあって、ただ今、議員辞職願を長谷場議長の手もとに提出いたしました。これより、その辞職理由についていささか卑見を述べさせていただきます」  声が小さいので、耳に手を当て、身体を乗り出している議員も少なくなかった。「もっと高い声で」という弥次がとんだ。  藤沢の声は依然低いものだった。彼は淡々として草稿をひろげて朗読した。最早、「狂人」ではなかった。 「不肖わたくしは、先日来、国定教科書の歴史科目の中で南北朝についていわゆる正閏を論じた箇所に不審を感じ、これについて政府当局者に対し質問書を提出いたしました。その要旨は、第一に、神器は虚器であって、皇位継承とは没交渉であるか。第二に、南北両朝の争いは皇位継承の争いであるか。第三に、勤王の諸臣、すなわち楠、新田の諸公は忠臣にあらざるか。第四に、足利尊氏は叛逆の徒にあらざるか。第五に、文部省の編纂にかかわる尋常小学校用の日本歴史は国民をして順逆正邪を誤らしめ、皇室の尊厳を傷つけ奉り、教育の根柢を破壊する憂いはなきか、という点でありました。……このことについて、わたくしは両三度文部大臣小松原英太郎君に面会し、その釈明を求めたのでございます。しかして、文部大臣の紹介によって、この教科書の編纂に当った文部省編纂官三上参次、喜田貞吉の両君とも会見いたしました。両博士とも、維新後一時南朝を正統とみた学説もあったが、いまなお、このように一部で信ずる者があるのは甚だ遺憾の至りである、と釈明されたのであります。……すなわち、両君とも南朝を正統と考えるのは誤りであり、北朝を正とし南朝を閏とする学説をなおも持っておられるようであります。わたくしは、文部省の官吏がかくのごとき誤ったる考えを抱いて小学校児童用の国定教科書を編纂するのは、国民教育上、憂うべき事態だと考えましたので、その質問を議場において試むべく、まず伊勢の大廟に詣で、次いで熱田神宮に参拝して、斎戒沐浴、祈願したのでございます。さらに儒者である父の南岳にも面会し、この意見について話し合いをいたし、昨日新橋駅に到着したのであります……」  満場彼を見つめて、その言葉に聴き入っていた。  藤沢元造は弱々しく言葉をつづけた。 「新橋駅に着きましてから、わたくしは直ちに桂総理大臣をその官邸に訪ねまして、わたくしの意のあるところを述べたのであります。総理大臣はわたくしの話をこころよく聴かれ、まったく自分も同意見である、よって現行の国定教科書は近き将来これを葬るであろう、その後は新しく編纂にとりかかって面目を一新する、との言明を戴きました。総理大臣がかく誓われた以上、わたくしの目的はすでに達せられたのであると、かように存じております。したがいまして、すでに通告いたしましたるわたくしの質問演説はすでに目的が遂げられた以上、撤回いたしたほうが妥当だという結論に到達いたしまして、これをとり止めることになりました」  議場は初めてここに騒然となった。「ノウ、ノウ」「元造、いくら貰った?」「腰抜け」「恥知らず」などという弥次が国民党席から飛んだ。政友会席からは、まばらに「ヒヤ、ヒヤ」という声が起った。傍聴席の一隅を一団となって占めていた牧野、松平などの早稲田派グループ、さらに大日本国体擁護団の連中も歯ぎしりして壇上の藤沢を睨《ね》めつけていた。  藤沢の声は慄《ふる》えてきた。ただ一人、桂は泰然として大臣席に腕組みして微動だもせぬ。あるのは、そのふくよかな面上に漂う微かな笑いだけであった。 「静粛に願います」  長谷場議長が議場をたしなめた。  藤沢元造は前に返ってつづけた。 「……すでに質問演説のことは各新聞にも報道され、世間に思わぬ期待と関心を持たれました。わたくしには以上述べました理由があるにせよ、この質問演説を撤回するについて世間の期待にそむいたことによって、誤解を招くことをおそれるものであります。したがって、その誤解をとく上においても、また世間のご期待にそむいた点でも道義的な責任を感じましたので、ここに潔く議員を辞職することに決意いたしました。政府において国定教科書を改訂すると誓われた以上、議員としてのわたくしの義務は十分に尽されたと考えるものであります。わたくしは、天日未だ地に落ちず、道義なお地を払わず、という感慨を持つものであります。この上は、たとえ代議士を辞職いたしましても、さらに天壌無窮《てんじようむきゆう》なる皇運のために一身をなげうって尽す考えであります。……以上、わたくしの議員辞職について卑見を述べさして頂くと同時に、不肖にこれまで寄せられましたる同志議員各位の絶大なるご後援に対し深く感謝し、さらに各位のご奮闘とご健康を祈るものであります……」  藤沢元造は、拍手と弥次の中に悄々《しおしお》と降壇した。まさに切腹の姿であった。よろめくようなその恰好を桂首相は雛壇から満足そうに見送った。  傍聴席の牧野、松平らは、深刻な顔をしている。三塩熊太らの国体擁護団の連中は傍聴席からバタバタと起って出て行った。院内を出る藤沢を詰問するためだった。  このとき長谷場議長は議場に諮《はか》った。 「ただ今お聞きの通り、藤沢元造君は議長の手もとまで議員辞職願を提出されました。これを許可すべきかどうかにつきまして、討論を用いず、議院法によって賛否を決めたいと思います。賛成のお方は……」  議長がそこまで云ったとき、議席の前列にいた佐々木安五郎が椅子《いす》の音を立てて起ち上がった。 「議長」  と、彼は大声で叫んだ。大男の佐々木はその胸まで垂れた顎鬚を振った。 「見たところ、文部大臣の出席がないようであります。このような大問題に際し文部大臣の出席がないというのはいかなることであるのか。文部大臣の弁明がなければ藤沢君の辞職の理由は不明である。辞職の許可を認めるかどうかについては、文部大臣の出席があるまで延期すべきが至当と思います」  国民党席からは、「そうだ、そうだ」「文部大臣を出席させろ」「採決延期」という怒声と、拍手が湧いた。  しかし、絶対多数の政友会席からは、「異議なし」の声が湧いている。 「藤沢元造君の辞職願の許可に賛成の方はご起立を願います」  と議長は云った。政友会席が一斉に起った。着席者は少数であった。 「それでは、藤沢君の議員辞職を許可することに賛成多数と認めます。よって、本日付をもって藤沢元造君の議員辞職を認めます」  議場は混乱に陥った。議長は休憩を宣した。  大臣席の桂首相が勝ち誇った顔で、議場を横眼にゆっくりと退場した。長谷場議長の扱いは、桂首相の意をうけた林田書記官長との密談の結果であった。   曲学阿世の徒[#「曲学阿世の徒」はゴシック体]  代議士を辞職した藤沢元造は、その後すぐに行方を晦《くら》ました。精神に異常を来たしたのだと云う者と、いや、そうではない、あれは同志の追及から逃れるためにそんな恰好をしているのだと云う者とがあった。しばらくして、彼は大阪の父南岳のもとに帰ったが、二月末に名古屋で酒色に溺れているところを発見されている。そのうちに彼は本当に狂気じみて、 「おれは神様だ。あと十日のうちに死ぬ」  などと騒いだということが伝えられた。  東京朝日新聞は、藤沢が桂首相に会見して軟化したとき、桂は突然藤沢の首ッ玉に抱きついて感涙にむせび、ここに藤沢は見事に「神様」となり、寺内陸相も満足し、めでたく大団円の花輪は藤沢代議士の頭上に飾られた、と報じている。 「その花とは新たに朝鮮の荒蕪地《くわうぶち》に作づけしもののそれなりし。藤沢代議士、否、一個の元造氏は放言して曰く、いつたん帰阪してもすぐ飛び出して事業にとりかからむと。念のために云ふ、寺内陸相は朝鮮総督その人なり」  とも書いている。  藤沢が懐柔された裏面には、この新聞記事を信ずる限り、朝鮮の利権が代償だったことが分る。いくら藤沢でも桂のニコポンだけでは、あれほどのお祭騒ぎの質問演説を取下げることはなかっただろう。その後の藤沢の言動は詳しく分っていない。  桂が何故にこうまで国定教科書の問題で苦労したか。一つには、この南北朝正閏問題が政争の具となって国民党から攻撃され、内閣の座がゆすぶられるということもあったであろう。しかし、当時、絶対多数の政友会が桂内閣を支持していたから、議会は乗り切れたはずである。ただ、桂が怖れたのは、このような天皇問題で院外の「愛国者」から攻撃の火の手があがることだった。  しかし、それにも増して桂の最大の恐怖は山県有朋の不機嫌にあった。  前に山県が急遽《きゆうきよ》小田原の古稀庵を出て出京し、この問題で参内したことは書いたが、そのとき山県は天皇の前を退いてから桂首相以下閣僚たちと会っている。  桂以下は山県を一室に導き入れたが、その席には小松原英太郎文部大臣も宮内大臣渡辺千秋も坐っていた。山県は怫然《ふつぜん》として、 「この南北正閏論なるものの出所はどこからだ?」  と、桂首相にきいた。桂は恐縮して、 「太郎、閣僚を統率し、大政を輔弼《ほひつ》しておりながら、かくの如き問題を起し、恐懼《きようく》に耐えません。それにつきましては文部大臣より申上げさせます」  と答えた。小松原は低頭して、 「そもそもは宮内省よりその意見が出ていると聞いております」  と云ったので、山県は渡辺宮相に眼を光らせた。渡辺宮相は、 「そういうことを前々より承ってはおりますが、前任者に必ずその考えがあると存じます」  と、その場の責任を回避した。そこで、急いで前宮内大臣田中|光顕《みつあき》が呼ばれた。田中は山県の質問に答えた。 「南北両朝の列聖神霊は、宮中においては敢えて区別をせずに同列に奉祀《ほうし》してございます。それにつきまして、以前、正閏問題でわたくしにたずねた者がございますので、宮中ではしかじかに奉祀していると答えましたが、おそらく、その言葉が誤り伝えられて今日の南北両朝併立の議論になったことと存じます。しかしながら、神器の授受に徴しましても皇統の赫々《かつかく》たることは歴史の上で明徴でございますから、ただ今一部で議論されているような誣妄《ふぼう》を容れるつもりは毛頭ございません」  田中光顕の釈明を聞いた山県は頗《すこぶ》る不興であった。桂首相以下は山県にひたすら陳謝し、改悛を誓った。それで山県の機嫌もどうにか持ち直したという。  小松原文相は、南朝と北朝とを同等に視たそもそもの発生は宮内省にあると云い、渡辺宮相は、自分はよく分らないから前任者に聞いてくれと逃げ、結局、前宮相田中光顕がつかまったわけだが、田中も宮中の祭殿では両朝同列に扱っているということが一部民間に誤解を生んだのであろうと、これまた責任を回避したのだ。しかし、すでに宮中で両朝の皇霊を併列していること自体が南北朝の併立を証明することになる。山県は別にそのことに対しては意見を云わなかったが、彼の不機嫌な気持は分る。  だが、これは理屈ではない。伊藤博文すでに亡く、山県は文字どおり宮中、政界、軍部の大ボスになっていた。桂以下が一言も弁解し得ないでひたすら陳謝に終始したのも山県を恐れるあまりだった。「山公色|懌《よろこ》バズ、首相以下罪ヲ引キ、過チヲ謝シ、以テ改悛ヲ誓フ。公ノ意始メテ稍々釈《ややと》ク」という牧野謙次郎の「先朝異聞」の一句はその場の情景を伝えている。  権力に執着する桂太郎は、山県に突き放されることを最もおそれた。桂があまたの先輩を抜いて現在の栄位に昇ったのも、ひとえに山県の推輓《すいばん》によったのだ。  すなわち桂は日清戦争中は師団長としての功によって一躍子爵となり、日英条約締結で伯爵となり、日露戦争で侯爵、日韓併合で公爵にのぼった。もっとも、公爵になったのは、この二十七議会が終った直後の四月だが、いずれにしても、桂が陸軍大尉として陸軍に入ったころ、山県は陸軍中将で陸軍省の長官であった。当時の陸軍中将と大尉との隔絶は、今や桂も大勲位公爵となって山県の大勲位公爵と同等になっているのだ。おどろくべき急速な出世だ。元老の松方正義、井上馨などは彼の下席に坐らなければならぬ。元老たちは心中これを大いに不快としたといわれる。  それほどの桂だから、山県の機嫌を直すために南北朝問題の破壊に必死になったのは当然だ。いわんや、第二次桂内閣は山県の身替り内閣ではないか。山県は桂の背後に控える事実上の宰相であった。  後年、山県が早稲田に大隈重信を訪ねたときの談として、 「日露戦争はもとより非常に苦労した。幸徳事件もずいぶん心配をした。しかし、これを南北朝正閏問題にくらべると同日に語る比ではない。上は九重《ここのえ》の軫念《しんねん》を畏《おそ》れ、下は国論の激昂をおそれ、中は、元老の非難におそれた。このように上中下を恐れるなら、残るところ何ほどもない。次第によっては内閣を叩き潰してもかまわぬと思った」  と語ったというが、多少の誇張はあるにしても、明治の元勲にとっていかに南朝正統イデオロギーが絶対的なものだったかが分る。  藤沢元造が質問書を撤回し、代議士を辞職したことは、かえって国民党や国体擁護団を刺戟した。二月二十一日には、国民党総理犬養毅が自から提出者となって南北朝問題弾劾決議案を議会に提出した。犬養のほかに大石正巳、河野広中が提出者となり、賛成者には島田三郎、箕浦勝人、福本誠(日南)、武富時敏など八十八人が名を連ねた。その背後には藤沢を動かすことに失敗した大日本国体擁護団と早稲田派の一派がある。  その弾劾決議案の理由書のなかで、 「尋常小学校の教科書には光厳天皇を絶対の皇位に入れ、高等小学校の同書には同一の天皇を対立の皇位に収む」  と非難し、また、 「日本歴史においては南北両朝の正閏なしと説きながら、その小学読本では北朝を指して朝敵と斥称《せきしよう》している」  と、その矛盾を指摘した。  喜田貞吉は、その回想録のなかで、その点をこう弁明している。 「しかし、これらはいずれも甚だしい誤解で、教科書は敢えて正閏なしと断じたのではなく、年少児童に対してただ史実のみを説いて正閏問題にふれさせないことを教師用教科書で要求したのにすぎないのであった。また神器の問題のごときも、事実上、それが双方に分れたり宮外に出たりした場合もあること故、初等教育において深くこれに論及しなかったまでである。また尋常科と高等科との矛盾云々のごときは全く誤解で、尋常科の教科書にもまた光厳天皇を絶対の君とは認め奉らず、これを以て後醍醐天皇と対立の君として列し奉ったことは、そのご治世の年間を見れば明らかであり、また読本に朝敵の文字を用いたのは南朝方の言をそのままにしたまでであって、決して矛盾ではないのである。しかし、こんな弁明は当時にあってはもはや世間の耳に入ろうはずもなく、また弁明そのことが許されなかったのであった」  四十四年二月二十三日、幸徳事件と教科書問題に関する決議案が議会に上程せられ、犬養国民党総理みずから激烈な弾劾演説を行った。 「文部省の官吏中、神器の所在を以てわが皇位の所在とせる皇統継承の大則を無視し、もし暴力を以て三種の神器を奪い去る者ありとせば如何《いかん》、などの言辞を弄してはばからざる者あるに至っては実に許すべからざる失態にして、これ実に彼の大逆事件以上のことと云わなければならない……」  演説中「文部省の官吏」とは、もちろん、国定教科書編纂官喜田貞吉を指す。  この決議案は、またもや政友会の絶対多数に反対されて、議会では討論を用いずして否決された。  当時、政友会は桂内閣の準与党的立場であったが、この南北正閏問題では必ずしも挙党一致で弾劾案否決に同意ではなかったらしい。 「問責決議案に対しては、大逆事件についてはともかく、教科書問題については政友会においても政府非難の声|頃日来《けいじつらい》盛んになり、幹部の力を以てするも遂にこれを圧迫する能はず、昨日の代議士会においても議論沸騰、ほとんど停止するに至らざりしを以て、松田(正久)総務はこれら代議士に対し、必ず諸君の面目を傷つけないやうに取計らふを以て、何卒《なにとぞ》幹部に一任せられたしと懇請し、これに決してやうやく紛擾《ふんぜう》を鎮《しづ》めるを得たり、松田氏がこの言明をなしたる意味は、その前、桂首相より該問題について、小松原文相を辞職せしめ、教科書を訂正せしむべきを以て、何卒決議案に反対しくれよと請求し来りしを以て、このことをほのめかせるなりと。したがつて、桂首相が議場において教科書に不当の点あらばこれを改むるにやぶさかならずと言明せるは、このことを指せるものなりとしてなり」(二月二十四日、東京朝日新聞)  議会で弾劾決議案は否決されたものの、翌日、大日本国体擁護団の主催で神田青年会館で講演会が開かれた。翌二十五日にも本郷会堂で同じことが行われた。この講演会では、福本日南、佐々木安五郎、蔵原|惟郭《これひろ》、内田周平、松平康国など八人が起ち、満員の聴衆には殺気が漲《みなぎ》っていたという。喜田貞吉に対する個人攻撃も多かった。  政府では問題を早急に解決するため、二月二十七日付で喜田貞吉に休職を命じ、教科用図書調査委員は諭旨免職とした。  政府の見解では、従来の教科書が必ずしも国体を紊《みだ》り順逆を誤っているとは認めず、したがって、大臣以下教科書調査委員にもその責任はなく、結局、表面は、これを編纂した喜田貞吉にのみ「官庁事務の都合に依り」という理由で休職を命じたのであった。この喜田の休職に対し、東京帝国大学の教授のなかでだれ一人として表面から喜田の味方になって文部省や政府に楯ついた者はなく、完全に彼を見殺しにした。この点はあとでもう一度ふれることにする。  とにかく、政府が従来の教科書に国体を紊る点はないと云いながら、大急ぎで教科書の改訂をおこなったのは、弁解が一片の逃口上であったことが分る。この弁解は、喜田だけを犠牲にして小松原文相を難から逃れさせ、桂が安全地帯に逃げこむためであった。  果然、文部省は、二十七日、全国の各地方長官に次のような通牒《つうちよう》を発した。  一、児童用尋常小学校日本歴史巻一第八十頁第二行「錦旗《きんき》を押立てて」は、尊氏が賊名を避けんがためになしたることにして、すなわち、尊氏の奸猾《かんかつ》に生ずるものなること。  二、高等小学校日本歴史巻一第八十三頁第七行、第十八行「錦旗を押立てて」の意義前項に同じ。  三、教師用尋常小学校日本歴史巻一の下は、文部省において南北朝の部分に関し修正を要する廉《かど》あるにつき、これを使用せざること。  以上三つの改訂は閣議で決定した。桂はこれを上奏し、枢密顧問の諮詢《しじゆん》を経て、三月三日、徳大寺侍従長より渡辺宮内大臣に対し、その通り認定があったものだ。  むろん、この矛盾した閣議決定について国民党側が黙っているはずはない。国民党代議士村松恒一郎は、佐々木安五郎ほか三十名の賛成で質問書を議会に提出した。その趣旨は、  ㈰ 同一の教科用図書調査委員がさきには両朝併立論を主張し、今また翻って南朝正統説に一致した理由は如何。  ㈪ 政府が南朝の正統を認めるに至ったのはいかなる事実上の根拠によるや。また、その理由は如何。  ㈫ 政府すでにその非を認めて教科書の改訂に従事した以上、過去一年間、忠奸正邪の別を紊り、国民思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣は何故に処決してその責任を明らかにせざるか。  三点とも急所である。殊に㈰の質問は教科用図書調査委員会の学者全体に対する根本的な疑惑だ。  これに対し小松原文相は、二十一日付で次のように答えている。  ㈰ 明治三十六年以来、教科書編纂上、いわゆる南北両朝の皇位に関してはしばらくその正閏問題に接触しない方針を採ってきた。四十一年以降、教科用図書調査委員会では、教科書を修正する際にもまたこの方針を踏襲したものであって、決して委員会で両朝を対等と認めた説を採ったのではない。今回修正に着手したのは、ご歴代のご順位を明記し、かつ誤解の生ずるおそれのある点を正さんがためである。  ㈪ ご歴代のご順位は歴史上の事実に基づくものである。  ㈫ 現行の教科書は、明治三十六年以来、小学校令の定むるところによって編纂したものであって、教育上、いまだ曾《かつ》て忠奸正邪の別を紊り、国民思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるがごとき事実は認めない。  ——こうして、さしも波瀾を重ねた南北朝正閏問題も政治的には全く終りを告げた。国民党や、その背後の大日本国体擁護団がどのようにいきり立っても、政友会の絶対多数という壁はどうすることも出来なかったのである。  こうして喜田貞吉の執筆にかかわる国定教科書は全面的に廃棄されたが、その後の両朝の取扱いは全く南朝正統論に決定した。  大日本国体擁護団は万歳を高唱し、また喜田貞吉に絶えず攻撃的質問をおこなった富士前小学校の峯間校長は、この報を耳にすると、よろこびのあまり校長室で卒倒した。  それより教科書は南朝を「吉野朝」と改め、「南北朝時代」の名前も消して「吉野朝時代」と改訂した。  だが、ここにふしぎな話が喜田貞吉によって語られている。 「自分が休職を命ぜられて後、幾日かたって文部省に出頭し、大臣に御挨拶の辞を述べた際、大臣は声を低うして、実は南北朝の正閏問題は、お上に於かせられては夙《つと》に御決定になって居られたのであった。洵《まこと》に畏れ多き極みではあるが、桂首相が閣議の結果を奏上して御裁可を請われた時に、聖上陛下から、それはすでに遠《とお》の昔にきまった事ではないかとの仰せを承って、甚しく恐縮し奉り、それから下って調べて見ると、すでに明治二十四年中に宮内大臣より奏上し、御裁可を経て決定したものである事がわかった。他の人々はみなそれを忘れて、ただ陛下のみが御記憶であらせられたのだと、一方ならず恐懼《きようく》の態《てい》を示された。  是《これ》は自分に取っても全く思いもかけぬところで、之を承ると同時に冷汗サット肌を潤おし、一時は為に気が遠くなるまでに、驚き且《かつ》恐懼した事であった。若《も》し自分がさきにいささかにても此の事を承知して居たならば、何も態々《わざわざ》苦心するにも及ばす、一も二もなくそれに従い奉るべきであった。ただそれを知らなかったばかりに、飛んでもない紛擾《ふんじよう》を仕出かしたのであった。尤《もつと》も明治二十四年の御決定と申すものは、特に御歴代をお定めになったという訳ではなく、宮内省に於て皇統譜の凡例並に書式を定むるに当り、宮内大臣より勅裁を仰いで、光厳天皇以下北朝の諸天皇は、之を後亀山天皇の後に附載し奉るという、大体に於て大日本史の筆法によられる事にお定めになった迄であるとの事に承る。然らば今回の閣議の決定は、それとは稍《やや》趣を異にするものがあり、皇統譜に於ける御排列の順序と、御歴代表に於ける天皇の御順位とは本来問題が違うものではあるが、併《しか》しながらそれにしても、さきにすでに斯《か》くの如き御決定があらせられた事ならば、南朝正統説は既に決定したものと申すべく、もはや再び之を蒸し返す必要はないのであった」(喜田貞吉『六十年之回顧』) 『六十年之回顧』に書かれた教科書問題の条《くだり》の、喜田貞吉の感想のふしぎさについて書く。  休職になった喜田が小松原文相のところに挨拶に行くと、文相は、 「実は南北朝正閏問題は、お上におかせられては夙にご決定になっておられた。桂首相が現行の教科書を改訂することを決定した閣議の結果を奏上して御裁可を請うたときに、聖上陛下から、それはすでにとうの昔に決ったことではないか、との仰せを承った。恐縮して調べてみると、それはすでに明治二十四年中に宮内大臣より奏上して、御裁可を経て決定したものであることがわかった。他の人々はみなそれを忘れていて、ただ陛下のみが御記憶であらせられたのだ」  と、声を低くして云ったので、喜田は一も二もなく恐れ入ったようになっている。  しかし、これは喜田自身も書いている通り、明治二十四年の決定というのは、宮内省で「皇統譜の凡例と書式」を決めるに当って、宮内大臣から勅裁をうけ、光厳天皇以下北朝の諸天皇を後亀山天皇のあとに付記するというにすぎなかった。つまり、歴代表を決めたわけではない。皇統譜は皇室の系図であって、名前を記載してあるだけだ。誰が何代の天皇になったとは書いていない。長子が天皇になるとは限らないことは勿論だ。皇統譜の配列の順序と、歴代の天皇の順位とは本来問題が違うのである。しかし、喜田は、この不条理を何の躊躇なく呑みこんでいる。何のためにこれまで学説を懸命に展開してきたか分らない。  天皇が桂首相から閣議決定の報告を聞くまで、世間にやかましいこの問題を全然知らなかったというのは奇妙である。天皇でも新聞は読んでいただろうし、また、側近の者からこの話を聞いていないはずはない。それが閣議の結果の裁決を桂首相が持ってくるまで、そのことについては何も発言がなかったというのは考えられないことである。  また、明治二十四年の決定を天皇ひとりが記憶していて、他の宮内官僚全部が何も知らなかったというのもおかしい。  一歩譲って、かりにそれが二十年前のことだから、当時の宮内官僚が交替していたため、それに気がつかなかった、と考えるとしよう。しかし、それにしても世間に騒々しいこの問題について、退職した宮内官僚が現任者に二十四年の決定事実を告げないはずはない。げんに二十四年当時の宮内大臣田中光顕は山県に呼び出されて前に書いたような答弁をしている。  以上を考えると、天皇ひとりが二十四年の決定を記憶していたということは考えられないことであり、宮内官僚も、ひいては文部官僚も熟知していたのかもしれない。しかし、彼らがあえて二十四年の決定を云い出さなかったのは、それは単に「皇統譜の書式」にとどまるものであって、歴代表における天皇の順位とは全く関係がないと分っていたからに違いない。つまり、両者の本質的な相違が分っていたので、あえてこれを云い出さなかったのだと思われる。  そこで、天皇ひとりが二十四年の決定の裁可を記憶していたという現象になったのだろうか。  しかし、もう一つ深く考えてみれば、この話も頗《すこぶ》る怪しい。なぜなら、天皇が桂首相にそう云ったというのはあくまでも伝聞証言であって、直接の証拠ではない。喜田が小松原文相から又聞きしたことである。  そうすると、やはり宮内官僚や文部官僚は忘れていたのが、問題がやかましくなってから、あわてだし、やっと二十四年の決定を思い出すか、発見するかした。だが、その時点になって云い出すのはあまりにも遅きに失した。そこで「他の人々は皆それを忘れて、ただ陛下のみが御記憶であらせられたのだ」という官僚の工作になったのではあるまいか。  そう解釈すると、この間の事情はすっと解けるのである。  小松原文相は、この問題が起きる前、喜田の教科書における「南北朝併立」の態度を容認したばかりか、同じ趣旨を述べた『国史乃教育』にはわざわざ称賛の序文を寄せている。彼は熱心に喜田の方針に賛意を表して、前に師範学校修身科講習員を官邸に招待した際、自分自身でもこの点を強調して説明したほどだった。それが世間の物議をかもし、山県に一喝されると、桂と共同してこのような体《てい》たらくとなった。  小松原は、雑誌「評論」の主筆として讒謗律《ざんぼうりつ》ならびに新聞紙条例に問われて下獄したほどの民権論者だった。このとき獄中には朝野《ちようや》新聞の成島柳北《なるしまりゆうほく》、曙《あけぼの》新聞の末広重恭《すえひろしげやす》、それに土佐の民権理論家植木|枝盛《えもり》がいた。往年の自由民権論者も山県に手なずけられてからは、完全に絶対主義政府の官僚になってしまっている。  また、その小松原の「二十四年の決定を聖上陛下お一人が御記憶であった」という言葉で、忽《たちま》ち「冷汗サット肌を潤おし、一時は為に気が遠くなるまでに、驚き且恐懼した」という喜田貞吉の心理は理解できない。彼は、この一言で忽ち学問研究の自由や真理を抛《ほう》り出してしまったのである。もっとも、これは前にも云う通り、この回想記の書かれた昭和八年という時点を考えて読まなければなるまい。  さて、こうした最後の決定がなされる前に諸学者の態度はどうであったか。  まず、逸早く井上哲次郎が発言をした。彼はさきに教科用図書調査委員会で喜田の執筆態度を是認していながら、喜田が休職を命じられると、こんなことを云った。 「喜田君の休職はまことに気の毒な次第だが、個人を離れて、今回の南北正閏問題がやかましくなって天下の耳目を聳動《しようどう》するに至ったのは、国民道徳が未だに地に落ちざることを証明するものだ。殊に過般無政府主義者を出して痛恨の情はなはだしきものがあったるに際し、本問題に対し国民の熱誠を吐露してその不始末を詰責《きつせき》せるを見るのは、国家のため最も慶賀すべきことである。  東洋の歴史は左氏春秋に始まり、史家はその史実の上に道徳上の制裁を加え、『資治通鑑《しじつがん》』をはじめ、わが国の『神皇正統記』、『大日本史』のごとき、みな国民道徳上の立場から筆を起しているが、近年、或る一部の学者は、その道徳観を離れて、単に歴史的事実を研究し来たった傾向がある。史学家の態度としてはたしかに一進歩に相違はないが、いろいろな弊害をこれから起している。  すなわち、昔から一種の俗説が盛んに流行して歴史の真相を紊《みだ》れるものが多い。よって、その俗説を洗い落し、その事実の真相を正して間違いないようにするのは一方において立派な研究であるが、俗説にも多少の真理があることを忘れている。このような研究法がその俗説を抹殺し、あわせて道徳上からきた判断を覆すようになったのは、心外の沙汰といわなければならない。しかも、このような抹殺論および奇矯なる言論は世の好奇心をひき、とかく一世を愕《おどろ》かす要素があるので、さらに興に乗じて得意となって、ますます、その研究法を楯に取って国民道徳を無視した自説を主張するようなごときは、決して真摯な学者の態度ではない。  一例を挙げれば、この研究法は、恰度《ちようど》、自然主義が一時世間に喧伝されたが、その後は一向に意気があがっていないのと似ている。自然主義も芸術の範囲に限られているうちはよいけれども、その範囲を逸脱して社会風教に害のある醜悪事を描くに至って、忽ち世の物議を招くに至った。歴史の研究法もまたこれと同じで、研究の歩を進めるのはよいが、国民道徳の観念を無視して徒《いたず》らに奇矯の言をこころみ、万一国民道徳を喪失し、社会の良心を麻痺せしむることがあれば、由々しき国民の大問題となろう。  殊に国民教育については一段の注意を払って国民道徳の養成を図り、民族の健全を図らなければならない。今回の南北朝正閏問題のごときは、ただに今代のみならず将来非常な影響を与うべき大問題である。しかるに、忽ち世上の注意を惹起し、なお、その編纂に従事した喜田君の休職をみるに至ったのは、これみな国民熱誠の発現するところであって、もって人意を強うすべく、この際偉大な教訓を与えたものといわなければならない」(東京毎日新聞、四十四年三月二十八日付)  そのほか、法学博士|副島《そえじま》義一は「太陽」の誌上で「南北正統論の研究」というのを談話している。 「三上参次博士は、南北朝には臣下にこそ忠奸の別はあるが、皇室の御事は併立を認めなければならぬと云い、また、北朝正統論者の吉田東伍博士は、南朝方の書物にすら北朝の年号を用いているのをみても、当時すでに北朝を正統と認めていたことが分ると云っておられるが、当時果して南朝方が一般に北朝の年号を用いていたかどうか疑問である。黒板勝美博士の言によれば、南朝は南朝の年号を用いておられたそうである。たとえ、また南朝方の一、二の書物に北朝の年号を記しているとしても、これは未だ以て北朝正統の有力なる根拠とすることはできない。  同博士はまた、今上陛下を初め奉り各宮のいずれもが北朝の御血統であるといって、それを北朝正統論の根拠にしているが、これまた大なる誤りで、今上陛下その他の宮々がいずれも北朝の御血統であらせられるからといって、南北朝時代の北朝が正統だという証拠にはならぬのである。また、先帝の歌巻物の奥書の御宸筆《ごしんぴつ》や、当時の『雲上明覧』や、年代記が、国法上果していかなる効力を有するかは疑問である」  と述べている。  要するに副島は、南朝方の書物に北朝の年号を使っていたとしても、それで北朝正統の有力な根拠にはならないと云い、また、当時の宸筆や、公卿の職員録や、年代を追った記録物も「国法上」効力があるかどうか疑問だというのだ。ここまで強弁を敢えてするなら、もはや、曲筆といわなければならない。  また、副島が引用した黒板勝美は、同じ「太陽」に南朝正統論を堂々とぶっている。  彼はその中で、『大日本史』を編纂した徳川光圀の大義名分を理解しない人が今回誤った見解を出したのであり、しかも、『大日本史』すら完全無欠の日本歴史とは思えない。もし光圀が今日生れたならば、おそらく、この誤謬を正して改訂増補するに躊躇しないであろうと云い、南朝方の後醍醐天皇が次の代を北朝方の光厳天皇に位を譲ったという証拠は何もないと云っている。 『国史大系』を弟子たちの動員で編集したのが唯一の業績で、学問研究的にはさしたる研究業績もあげていないこの政治的な史学者は、逸早くその面目ぶりを発揮している。  ここで教科書が南北朝併立の扱いを全面的に削除し、南朝正統論に決定して、その時代の呼び名も「吉野朝時代」としたことに対して喜田貞吉の感想を付け加えることにしたい。  喜田は云う。 「斯《か》くして出来上った新教科書には、従来の所謂《いわゆる》南北朝時代の名をも吉野朝時代と改めて、全然北朝なるものの存在を認めず、其《そ》の当然の帰結として、足利尊氏以下武家方の将士を賊と直書し、ただに北朝の諸天皇を御歴代表から削り奉ったばかりでなく、天皇としての御尊号をも除き奉り、其の中に就いて光厳・光明の両天皇は、もと親王にてましましたが為《ため》に之《これ》を親王の列に降し、崇光・後光厳・後円融の三天皇は、其の御即位前の親王の御称号が、もと北朝の宣下《せんげ》に係るものなるが故に之を認めず、後伏見天皇の皇孫又は皇曾孫にてましますとの御関係から大宝令《たいほうりよう》の規定に従って、之を諸王の列に下して御扱い申す事になってしまったのである。  成る程もともと此《こ》の問題の起りが、文部省は天に二日あるを認めるかというにあって見れば、ここまで行かねば徹底せぬ筈である。されば文部省が之を修正するに当って、『大日本史』の立て方以上に出でて、否更に『大日本史』を超越したる従来の多くの教科書以上に出でて、右の如き筆法を採るに至ったのも、勢いの赴くところ蓋《けだ》し已《や》むを得なかった事と思われる。  武家方の将士を賊と直書した筆法から云えば、是は確かに『大日本史』の立て方以上であり、又此の筆法を以て寿永・元暦間の事歴を記述せんには、ただに安徳天皇御存生間の後鳥羽天皇の在位を認めざるばかりでなく、当然之を推戴した源頼朝・義経等を朝敵と為さざるべからざるの結果ともならねばならぬこととなる。寿永・元暦間の事歴は、之を南北朝の事歴に比するに、形式に於ては彼此頗る相類し、而《しか》も其の結果に於ては極めて深刻なるものであった。されば今|若《も》し御幼少の両天皇を争乱の埒外《らちがい》に置き奉り、単に源・平二氏の間の争いとなすの筆法を採るとしても、若し頼朝・義経等を朝敵と直書せんには、或いは児童をして露骨に賊の勝利を認めしめ、我が金甌無欠《きんおうむけつ》の国体に対して、疑惑を生ぜしむる虞《おそれ》なしとも云い難い。さりとて之を従来の筆法によって、賊名を与えざるの記述をなさんには、同一形式の南北朝の事歴との間に、筆法上一致を欠くの嫌《きらい》なしとせぬ。  又後亀山天皇の御在世中にあっては、足利義満は当然賊であったに拘らず、天皇御退位後は、直ちにそれを正当の将軍として認むるというが如きも、其の移り変りに頗る不自然な感がないとは云えぬ。殊に光厳天皇の御位を認めざらんには、其の結果として其の皇玄孫に当らせらるる後花園天皇は、御即位前には単に一諸王として、後伏見天皇からは所謂五世王の御身分となる。大宝令の制定によれば、五世王は王の名を有すと雖《いえど》も皇親の限りにあらずとある。修正教科書には大宝令の規定に従って、崇光・後光厳・後円融三天皇の親王号をも認めず、之を諸王の列に下し奉って居るのである。然らば此の皇親の範囲に就いても、当然大宝令の規定を認めざるべからざる筈である。此の皇親の制は、其の後一旦之を広めて、五世王をも之に加えられた事であったが、延暦十七年に旧制に復する事となって居るのである。然らば後花園天皇は、皇親にあらずして即位し給うた事となる。  斯くの如く改訂教科書の立て方は、単に南北両朝の正閏を定めたというではなく、全く北朝の存在を認めざるの方針を取る事となったが為に、其の当然の結果として他方面に面倒なる影響を及ぼす所が頗る多く、少なからざる問題が後に遺さるることとなった。此の問題に処する教科書編纂者の苦心の、甚だ多かった事はお察しするに余りがある」  これを読むと、喜田のせめてもの抵抗ぶりが分るようである。  ——この間、山川健次郎は、国定教科書における南北正閏問題が起ると、たびたび喜田貞吉の寓居を訪ねて、何かと彼を慰めた。  このとき山川は、井上哲次郎が前の調査委員会の席上では喜田の執筆を承認していながら、いま急に態度を変えて喜田の論法を攻撃したのは全く世間に阿諛《あゆ》した態度であると、激しく非難した。 「あの男の態度は、人面獣心の曲学阿世の徒だ」  と、彼は井上を罵った。  喜田の自伝には「教科用図書調査委員中の某博士の態度を批評して」とあって、名前を出していないが、それが井上哲次郎であることは明白である。  たとえば、喜田と同じ立場に立たされた三上参次が雑誌「太陽」でこういっているのだ。 「同じ教科用図書調査委員なる井上哲次郎博士が、いつでも、またいかなる方法でも、その意見を発表し得られたにもかかわらず、会議の日に欠席したとの理由で教科書委員総会の決定を非難しておられるが、その東京朝日新聞社員に話された談話の中に、何の関係のあることか、かの大逆事件の一人なる森近運平が畏《かしこ》くも皇室に対して不都合なる考えを抱くようになったのは、或る一、二の史学家に出入りしたからとのことであるとの意味がある。  これは森近運平が実際某氏の某史と某氏の某史との二書を読んだことのあるのを指されたのである。どのような書物を読んでも盗は盗に悟り、悪徒は悪しきほうに悟るのである。森近の徒は、『日本外史』を読んでも、『日本政記』を読んでも、『大日本史』を読んでも、馬子《うまこ》や入鹿《いるか》のごとき、また将門《まさかど》のごとき悪例を見て感服するのであろう。しかるに、井上博士は教科書問題の談話中に漠然と一、二の史家といわれたがために、時節柄、その一、二の史家とは三上とか喜田のことであろうと誤解している者があるということである。三上等の迷惑はこの上もない。あるいは筆記した人の間違いかは知らぬが、とにかく井上博士のごとき地位あり名望ある学者の口から、時節柄をも顧みず冤罪を同僚に被らしむがごとき言動をせられたのは深く同博士のために惜しむところである」  国定教科書における南北朝正閏問題がどうして起ったかという実際の原因については、未だよく分らない。  喜田は自叙伝のなかで、「当時の噂では、早稲田大学教員室での一部の教員達のストーブ側の会談が、其の導火線をなしたものだ」と書いている。牧野謙次郎や松平康国など早稲田大学の漢学派を指していることはもちろんだが、彼らの国粋主義に外部の国粋団体が結合したというよりも、彼らが国粋団体に利用されたというほうが当っている。さらにその反対運動が犬養の国民党によって桂内閣の倒閣運動の具に供されたのである。  早稲田派が喜田の教科書に「不穏当な」史観を「発見」してこれを問題化したのは、私立大学の文部省に対する反感から出ているとも思える。文部省は官吏養成所である帝国大学を最も重く保護し、私大には冷淡であった。これは官僚の多数が帝国大学卒業生であったため、文部官僚の行政が公的にも私的にも帝国大学に厚く、私大にうすい結果になったのである。東京専門学校と慶應義塾に大学の名を冠することを文部省がいかに渋ったかの一事を見ただけでも分る。したがって、私立大学の教授はかねてから文部官僚に反撥していた。  次は、早稲田派教授連の文部省編纂官に対する反感である。国定教科書が制定されたのは、三十五年の教科書汚職事件がきっかけとなったのだが、新制の国定教科書では文部省の編纂によったため、それまで民間の図書会社に使われていた在野の学者のものが多く閉め出された。こうした独善主義への憤懣《ふんまん》も加わっていた。  次は、喜田貞吉個人に対する反感である。喜田は元来が無愛想な人間で、とっつきが悪い。天才的な人にあり勝ちな、凡庸《ぼんよう》な学者を見下すような癖がある。そして、多分に官僚臭があった。  喜田はそうした自分を回想記でこう反省している。 「自分はよく人を怒らせた。よく人を困らせた。今から省《かえり》みて何ともお恥ずかしい次第であるが、其の頃は随分と意地っ張りで、狭量で、思いやりの無い挙動も可なり多かった。前に記した某|書肆《しよし》の手代の文部省に来たのを捕えて、課長以下衆人環視の中で面責したというような類いの事が屡々《しばしば》あった。東京市某区の教育会の依頼に応じて、教科書に関する講習を行なって居た際に、今では其の事実をも殆んど忘れた程のつまらぬ事が癪《しやく》にさわって、講話半ばに之を中止し、爾来《じらい》役員達が打ち連れて何と釈明して来ても遂に之に応ぜず、多数の人々に迷惑をかけたという飛んだ失態もあった。某雑誌記者が自分の発表を禁じた講話の筆記を、それと知りつつ其の雑誌に収録した事を責めて、百万陳謝哀願したに拘らず、遂に之を取り消させ、其の記者を失業(?)せしめたという様な事もあった。今から思えば実に慚愧《ざんき》に堪えぬ次第で、勿論其の当時にあっても、それを以て善い事であったとまでは思わぬながらも、ともかく正当な事を行なったものと理屈づけて、俯仰《ふぎよう》天地に恥じずなどと豪語したものであった。此の時自分は三十九歳、今一年で不惑というよい年を重ねながら、思えば馬鹿馬鹿しい極みであったが、それと云うのも生来の意地っ張りの性格の上に、世間の不正に対する公憤と、幾らか本省のお役人であるという官僚式優越感[#「官僚式優越感」に傍点]とが伴っても居たのであろう」  この後の喜田は、人が変ったように角が取れたという。  喜田は文部省を休職になると、京都大学で前から兼任だった講師に専任されることになった。彼は閑《ひま》が出来たために各地の古墳墓や遺物遺跡を見て回り、やがて、その興味からいろいろな論文を雑誌「歴史地理」に精力的に発表した。 「歴史地理」は明治三十二年より気の合った者同士と作ったのだが、彼は毎号これに力の籠った論文を発表した。そのため世間から喜田の個人雑誌のように見られたので、のちに個人雑誌「民族と歴史」を発行することにした。  それ以後、大正に入って東北帝大の講師になったり、京都大学の教授になったりしたが、ある意味では不遇に見られている。しかし、この特別の責任のない地位が、かえって彼に数々の著作をさせた。喜田は分野の広い学者で、考古学、民俗学、古代史など、往《ゆ》くとして可ならざるなき業績をあげている。殊に、法隆寺再建論、日本石器時代植物性遺物の研究、倭人《わじん》研究、アイヌ研究などから、遂にはいわゆる「特殊部落」の研究にまで入った。こういう幅の広い学者は現在では居ない。現在せまい部分をいじるのが学者として純粋のようにみえるが、実は才能の乏しさを語っているのである。  さて、南北朝正閏問題が起ってから、穂積|八束《やつか》がその改訂を最も熱心に主張した。彼は四十三年九月六日付で山県有朋に次のような書簡を送っている。 「歴史教科書に関しては、小生種々頑固に異議相唱へ、委員会を煩《わづら》はし恐入候。幸《さいはひ》にして閣下の堅固なる御主義に依り、委員会の紛議に拘らず、首尾一貫の解決を得、為邦家《はうかのため》実に欣喜《きんき》に堪へず候。事|些細《ささい》なるが如きも、古来大義名分に関する事を重しとするは、全く之を導火線として、意外の極端なる傾向に至るの虞《おそれ》あるが為と存候。特に国民の経典としては、一言半句を重しと致さざるを得ず。国民道徳の傾向を健全に赴かしめ、南北朝問題の紛議を逆に利用して[#「南北朝問題の紛議を逆に利用して」に傍点]、国体皇位の観念を愈鞏固《いよいよきようこ》に致され候等の事実は、決して之を覆す事を許さずと被存《ぞんぜられ》候」  穂積八束も教科用図書調査委員であった。さきに在米の幸徳秋水の行動を調査した帝国大学教授高橋作衛の報告書を元老山県に取次いでいたこの同大学教授は、「閣下の堅固なる御主義に依り」南北朝併立論の教科書を廃したことを「為邦家実に欣喜」し、この「紛議を逆に利用して」国体皇位の観念をかためたことをよろこぶのである。 「逆に利用して」の一句に、この問題を異常に紛争させた真の秘密がかくされている。山県を主人とした帝国大学教授だけに、彼は山県の意図を最もよく知り得ていた。  こうして吉野作造らによるブルジョア・デモクラシーが興る大正期に入るまで、東京帝国大学は、荘重で、幽玄な、権威ある眠りをつづけたのであった。   田舎教員の手紙[#「田舎教員の手紙」はゴシック体]   大正十四年○月×日。  小山東助大兄。 [#地付き]工藤雄三 ≪ずいぶん長い間ご無沙汰しました。あれから二十年以上にもなります。四半世紀も音沙汰無しにして、この挨拶もないものだけど、僕のほうはあなた方、つまり貴兄と吉野作造君の活躍は、新聞紙上や雑誌の上で充分に見ているので、少しも遠ざかっている心地がしないのです。吉野君は東京帝国大学法学部教授という前の肩書よりも、雑誌「中央公論」にデモクラシーの論説を連続して掲げ、社会改造の必要を説き、労働運動をすすめ、あるいは内閣の施政を攻撃するなどし、さきごろはまた朝日新聞社に論陣を張るなどして、いまや押しも押されもせぬ当代一流の論壇指導者になられた。そして君はまた衆議院議員として議政壇上に縦横に活躍しておられる。尤《もつと》も、最近しばらくは君の名を新聞紙上に拝見しませんが、君のことだから何か為すあるための沈黙かと思います。  こんなふうに思わず勝手に書き出したが、君のほうは僕の名を記憶しておられるかどうか甚だ訝《あや》しいものだと気がつきました。四半世紀の昔、哲学館事件なるものが惹起したとき、君たちから暫時にして深甚なる友情を享《う》けた哲学館卒業生、而《しか》してあの事件騒動の張本人たる工藤雄三です。茫々乎《ぼうぼうこ》たる間、埋没せる君の記憶が甦るなら、|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》にあらためて久闊《きゆうかつ》の叙をいたしたいと思います。  両兄の動静は以上のようにぼくのよく承知するところですが、ぼくのことについては両兄は何もご存知ありません。本郷界隈の途上でお別れして以来、ぼくは両兄の前から杳《よう》として行方を絶ってしまった。当座は工藤はどうしているか、どこに潜んでいるかと時には念頭に泛《うか》べられたこともあったかと思います。  順序として現在の僕の身の上を簡単にお話ししなければなりますまい。今は福岡県朝倉郡朝倉村|大字恵蘇宿《おおあざえそのじゆく》に住し、中学校教師として奉職して居ります。  朝倉村と申すのは、東北の景勝地|気仙沼《けせんぬま》に居られる君には不案内かと思われるので、少々注釈を書きますと、ここは筑後川の中流に沿い、上流の日田《ひた》町と太宰府《だざいふ》とを結ぶ街道の中間に当っておる。筑後川がこのあたりで大きく彎曲《わんきよく》し、その突出部に丘陵があるが、その丘上に朝倉神社が鎮座しています。恵蘇宿はその丘の麓で、往昔は街道の関所になっていたが、今は戸数五十戸あまりの寒村です。  朝倉神社は斉明天皇と天智天皇とを祀っている。ここは斉明天皇の新羅《しらぎ》出兵のときの行宮《あんぐう》ともいい、また斉明帝がここで崩じたのでその殯宮《もがりのみや》であったともいう。喪に服した天智天皇が丸木造りの仮屋に入ったので木の丸殿と呼んだそうな。新古今集「あさくらや木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くは誰《た》が子ぞ」の天智天皇御製と伝えられる一首は、恵蘇宿の関所を通る旅人の声を木の丸殿で聞いた叙景だという。「あさくら」は校倉《あぜくら》からきているそうだが、とにかくこの神社のある丘上から俯瞰すると、脚下には筑後川が蛇行し、対岸は筑後平野が涯しなくひろがっている。この辺は霧の名所でもあり、朝ここに立つと白霧の中に川の音を聞き、はるか遠景に森や山が島々のように浮ぶ夢幻境に酔うことができる。もし機会があれば、君に是非ここに来てもらいたいと思います。気仙沼の風光は君の自慢するところだったが、九州内陸の盆地もまた君には別な興趣があることと思います。  僕も四十七歳になりました。君も吉野作造君も同年だったと思うが、両兄の華々しい活躍に比べ、僕は九州の田舎教員、未だ教頭にもなり得ず、いたずらに白髪を加えております。県内の辺鄙《へんぴ》な中学校を転々とし、両三年前ようやく或る人の好意ある斡旋で故郷の中学校に落ちつくことができました。いまは娘も嫁《かた》づき、老いてきた妻と二人だけの暮しです。  哲学館の事件後、僕もようやく文部省から教員検定の認可をうけ、郷里に帰って斯《か》くは田舎の教師となっている次第です。教員資格を得たことで、本望といえば本望ですが、あの事件の顛末が祟ってか、一向に出世もできず、かくは校長はおろか教頭にもなり得ぬ有様。恥ずかしい次第ですが郷里では神童ともいわれた自負もあって、若いころは、これでも懊悩《おうのう》いたしましたが、その後は凡《すべ》てを諦めて爾来《じらい》日蓮宗の信仰に入っております。  しかしながら、当時を回顧すれば憤激が五体より衝《つ》き上げてくることもあり、人には云い得ぬ秘密を抱いてきた慚愧《ざんき》にも駆られ、わが心の弱かったことに終夜|輾転《てんてん》して眠れぬことも珍しくなかったのです。  実はこの手紙は七年前に君に書いて出すつもりでした。七年前といえば、君もすぐに、ああ、あの時期だなと合点がゆくと思う。吉野君が浪人会と対決したときです。  大正七年十一月の「中央公論」に吉野君が書いた「言論自由の社会的圧迫を排す」が浪人会を刺戟し、それから端を発して神田の南明|倶楽部《クラブ》で田中舎身、佐々木安五郎、伊藤杉雄、小川運平の諸君と吉野君との立会演説の模様は新聞で逐一読みました。米騒動の波が高まった八月、大阪朝日新聞は大阪中之島公園で開かれた関西新聞記者大会の報告記事の中「白虹《はつこう》日を貫く」の言を紹介し、それが国粋団体の怒りとなり、遂に浪人会の吉野君との対決にまで発展したというので、世間のたいそうな関心を呼びました。田舎にくる新聞でも「デモクラシー討論」と書き立てていた。 「思想に当るに暴力を以てすることは、それ自体において既に暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするのである。それもしかかる暴力を以て、或種の思想に対する制裁の意味に於て是認するならば、問題はまた異なった内容をもって来る。立憲治下の我国に於ては、国民の制裁をなす権限は天皇陛下にある。この陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認せられるならば、これこそ却《かえ》って乱臣賊子ではないか。国体を破壊する者は、浪人会一派の諸君の行動ではないか」  こうした吉野君の演説内容の一節も、会場には定刻二時間前から聴衆が詰めかけ、場外に溢れる群衆二千名、吉野君の自動車が到着するや群衆の波が一斉に「吉野博士万歳」「デモクラシー万歳」を絶叫し、さらに立会演説の結果は浪人会の弁士四名が完膚なきまで叩きつけられ、吉野君はその新人会の人々と群衆の大歓呼の中に凱旋したことなどと共に紹介されていました。  吉野君の親友である君はさだめし当日の会場に詰めかけて吉野君を背後より応援し、その成行きの一切を見まもり、吉野君の凱旋を見届けたことと思います。  僕は二十三年前、君と吉野君と相連れて本郷台上を逍遥《しようよう》したる日を想起し、その途上で両君と別れた姿を昨日の如く眼底に残しています。薄暮の巷《ちまた》に消える両君の書生姿から、今日の吉野法学博士と小山代議士とをなに人が予想したでしょうか。而してデモクラシーの闘将として、暴力国粋主義者と対決する吉野作造君の勇気に心から感歎の声を発すると共に、当時のわが怯懦《きようだ》を顧みて、これまた今さらの如くに悔恨が心を噛みました。  くり返して云うと、僕は吉野君の勇敢を報ずる新聞を読んだときに、直ちに筆を執って告白文を書き君に送付するつもりだったが、それは遂に今日まで延引しました。一は相変らず僕に逡巡が付きまとったのと、一は新聞記事に刺戟され、一時の興奮に駆られて執筆する結果になることを怖れたからです。そうして躊躇を重ねているうちに、いつしか七年有余が経って了いました。  しかしながら爾来《じらい》僕の心からはこの告白の衝動が一日たりとも消えたことはなく、むしろ心の負担となるばかりであった。今日は書こう、明日は認《したた》めようと思ううちに、つい、筆を執る段になると気が重くなってしまった。もとより田舎の老教師、いまさら過去の恥を旧友に叙《の》べたところで何ほどのこともないが、そこはやはり人間の些少《さしよう》の見栄や自尊心が妨げたものとみえます。  今夜は仲秋の名月、この手紙の冒頭に書いたように朝倉神社の丘上には観月の客が集まり、しばらくは人の声や酒くむ声がつづいていた。この土地は酒の産地でもある。僕も台上に登ったが、眼下羊腸たる筑後川は月光に映え、銀粉の塊を浮べたようであった。僕は石に腰かけ眺めているうちに、黒い森陰から木の丸の関所を通り行く旅人の声を聞くような思いがした。「名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ」。そうだ、自分も所詮《しよせん》は人生の旅人、この際両君にわが過去を名乗って老いの関所を通りたい、まあ、そういった気持になった。それで気が萎《な》えぬうちにと急いでわが陋屋にとって返し、古びた机の前に坐ったというわけです。  両君が他の級友と共に初めて僕の下宿に訪ねてみえたのは明治三十六年三月のはじめでした。この日のことを僕は未だ明瞭に記憶しておる。当時、哲学館の卒業試験答案に端を発した隈本有尚視学官対中島徳蔵先生、いや、文部省対哲学館の問題は意外な火の手を上げて、文部省の学問弾圧と学問の自由を守る陣営との闘争にまで拡がり、世間の視聴を聳《そばだ》てた。  井上哲次郎博士が雑誌「太陽」に「動機と結果論」を掲げて文部省に味方するのに対し、浮田和民、桑木厳翼、元良勇次郎博士らの「丁酉《ていゆう》倫理会」の学者が「ム氏の動機説を教育上危険と認めず」と反駁《はんばく》し、各新聞もその社説において互いに論争するを見て、田舎出の一書生たる僕はまるで放火犯人が思いがけなく街衢《がいく》に荒れ狂うに至った大火に動顛したように、茫然自失の中にも戦々|兢々《きようきよう》としていた。それは、ただに事の大規模に怯えただけではなく、僕の胸中に他人には云えない秘密があったからです。  そこに帝国大学文科哲学科三年生たる君をはじめ石井、高橋の諸君の来訪を受けた。僕は君らの来訪を光栄とした。そうして僕は学問の自由を守る君らの激励をうけた。僕はそれに対して調子を合わせた。まさにそれは上面《うわべ》をとりつくろった相槌《あいづち》でした。さきの戦々兢々は別種の恐怖に半ば変っていたのです。  半ばというのは、正直にいって僕は未だあの試験答案を書かせた背後の魔手について証拠をつかんでないのです。僕は試験の前日、或る視学官にひそかに招致され、その私宅で馳走になりながら雑談の中に一事を語りかけられました。  視学官曰く。卒業試験に中島徳蔵講師は倫理学の設問を出すであろうが、彼の性格は自分よくこれを知る。君は答案にみだりに私見を加えることなく、教授された通りに書いて提出すべし、彼は朴直にして几帳面なる男で教科書のままに書かれた答案をよろこび、改変を嫌う。むしろ丸暗記のほうを可とす。さすればそれに高点を与えるにちがいない。これ中島徳蔵君の造詣の浅きに非ずして彼の性格による、と諄々《じゆんじゆん》に僕に云い聞かせた。  僕は試験問題中、ムイアヘッドの帝王|弑逆《しいぎやく》の例題があるのをみて、教科書通りに書いた。而《しか》して臨場の同じ視学官がこれを咎めたとき、全く奇異な思いがした。もとよりさきの雑談で視学官は、帝王弑逆の動機論について出題があるとは云わず、暗示を与えた程度であった。ただ正直に教科書通りに棒暗記式に書くがよいといわれた。しかして中島講師が用い、われわれに教えたのはムイアヘッドの倫理学である。さすれば「動機善にして悪なる行為ありや」の出題は当然に予想されるし、教科書に忠実になろうとすれば「動機善なれば帝王の弑逆を行うも可なり」との答案がなされることも、また想定されたのです。  ただ、これだけなら僕の心は痛まなかったと思う。雑談の際に視学官は僕にこういったのです。この話はこの場限りにしよう、他人に聞えたら誤解を招く。また試験問題によっては些少の問題が起るかもしれないが、君は何事も心配するな、君の身分と将来は同郷の先輩である自分が保証する。——  僕はまことに迂闊《うかつ》であった。その言葉をその場ではわが身に起る問題とは気がつかなかったのです。他の学生若しくは哲学館全体の問題だと受取り、もし面倒な問題が発生しても、自分だけは問題から免除されると思いこんでいた。視学官の巧妙な話術にひっかかったのも、また已《や》んぬるかなです。  僕が心に怯えを覚えたのは、視学官の私宅で馳走になりながら右の請託を承引し、しかも答案においてそれを実行したことです。そして君の身分と将来だけは保証するという視学官の甘言を信じて、己れ一人が中等教員資格の免状を貰えると思い、右の事実をだれにも打ちあけ得ず、いつまでも秘密として抱いたことです。  尤《もつと》も問題がもう少し小さかったら、僕といえども告白したかも分りません。しかし、あのように火の手が大きくなってしまえば、空恐ろしくなってその勇気が出なかった。放火の下手人はまさに僕だったからです。  さらに僕はもう一つの告白をここにしなければならない。それは視学官の言葉を信じてひそかに彼の許《もと》に再三足を運び免状の下付を懇請したことである。世間に対する何たる欺瞞《ぎまん》、君や吉野君に対する何たる裏切りだったか。しかも、当の視学官たるや面会ごとに言を左右にし、果ては匆々《そうそう》にして無断で外遊に去ろうとは。裏切り者はさらに奸黠《かんかつ》なる人物の裏切りに遇ったのです。  しかしながら真の奸人は出世主義の文部官吏ではなかった。僕の同郷の友人に米村某という男がいました。これも先輩たる視学官のもとへは年に幾度かは顔を出す。米村は穏田《おんでん》の行者として聞えた飯野吉三郎の書生をしていた。飯野はしばしば山県有朋の許に出入りして、その情報係をつとめていた。  このような脈絡を辿るならば、日露戦争を翌々年に控えた山県が国内の輿論《よろん》を国権主義に統率しようとする意図から、飯野を使って文部官僚を躍らせ、哲学館にひと悶着起させ、国論を君主絶対主義に運んだ筋書が烙《あぶ》り絵のように浮んできます。  僕は当時、そのことをうすうす感じながらも君たちの前に告白ができなかった。のみならず米村某の手蔓《てづる》によって穏田の行者のもとに一時書生として住みこんだのは何という陋劣な心理であったろうか。僕はただ教員の免状を欲した。飯野の権力にすがれば、僕だけそれが可能だと思ったのです。敵に身を売った僕は、君らに対して二重の裏切りをしたのです。  ここで弁解を些少とも云わせてもらえば、僕の家は貧農で、父母兄弟は僕が教員になることにすべてを託していた。郷里の人々もまた僕に期待をかけていた。僕はそれに縛られて身動きできなかった。一枚の中等教員資格免状にしがみつかねばならなかったのです。卑劣な視学官に抗議する権利も、僕の陥ったからくりを諸君に暴露する勇気もなかった。嗚呼《ああ》、かかる点では思うままに反抗できる諸君の自由がどのように羨ましかったか分らぬ。  かくて己れを殺して得た一枚の免状は、僕をしてついに碌々《ろくろく》たる田舎教師としての一生に終らしめました。お嗤いください。  飯野吉三郎といえば先日も、飯野が東京地方検事局の滝川検事の取調べをうけ、家宅捜索の末、とりあえず詐欺傷害教唆罪で、身柄不拘留のまま起訴されたと出ていました。記事に曰く。 「怪行者飯野が皇室中心主義を振りまわしつつ事実は不敬極まる行動に出ている事は彼に接した人々の異口同音に唱えている処であるが、検事局の目も極力この方面にそそがれ十日の家宅捜索も主としてこの証拠蒐集にあったらしい。押収されたものの中には黒紋付の羽織があったらしいが右の紋付は不敬にも菊花御紋章に酷似した定紋が染抜かれている。彼は平常「天照皇太神の神意を体して世に臨んでいるのでこの定紋は太陽と菊の具象化だ」との不敬な言を放っていたとの事で、彼の術中に落ちて来る愚かな上流の人々や地方の富豪達は、この御紋章類似の衣服や器具によって一流の妖術につられていたものである」  詐欺とは、御用商人になりたい男から原首相其の他大官に運動してやるからと称し、周旋料三千円を捲上げ、返金を迫られると、壮漢をして暴行させたというもの。  ところが、これが免訴となるおそれが強いという。新聞によれば、裏に政界有力者の司法省筋への圧力がかかっているというが、僕はこれを読んで雀百までの感を深くした。検事局としては飯野の不敬罪を狙って、積年の悪事を暴露したいらしいが、そうなると迷惑する名士が続々と出てくるだろう。圧力をかける顔ぶれもおよそ察しがつこうというものだ。飯野の毒は未だに効き目が残っておる。  記事に曰《い》う。 「捜査隊は、怪行者の秘密を蔵していると目される例の神殿をはじめとして倉庫の穴倉から飯野の居室床下に至るまで大捜索を行なった」  また曰う。 「恐喝の前科者にもかかわらず飯野が依然として知名貴顕の士に接近し、上流家庭に出入りして精神教育家とまでもてはやされ不思議な信者を持つに至ったのは、彼の怪腕にもよるのであるが、このほかに有力な潜勢力が彼の背後にあった。それは同郷出身の愛国婦人会長下田歌子に巧みにとり入り、才気非凡の下田女史と奇智にたけた行者とはお互いの利益のために親密の度を増して離れず今日に至っている。下田女史と彼との関係は殆ど常識で考えられぬ程度の親密さで、飯野にして検事局の見込み通りに有罪となるならば、女史の身辺もまた甚だ面白からぬ結果を生ずるらしい。  飯野と女史の関係については随分奇怪な噂がある。飯野は、絶対に色情関係はないといい、誤解をうけるのは、下田さんとおれは同郷同藩の関係で幼少から姉さんのように親しくして今日に及び、下田さんは家族同様案内も乞わずに出入りしているので、おれの妻と間違えられて噂になる、いや、おれの妻と下田さんとは顔の格好や体格もよく似ているからだ、とうそぶいている」  僕はこうした記事を拾い読みするにつれ、現代の新聞がどのように下田歌子の悪口を書こうと、その新聞を潰すために発行人が「大逆事件」に拉致されることのない幸福を祝した。これもまた下田女史が、飯野の落魄《らくはく》と同様に、その盛時が過ぎた証《あかし》にてもあるか。  僕は「大逆事件」が、下田歌子の憤怒を諾《き》いた飯野によって幸徳の平民新聞撲滅の策略から発展したものであるとは、一筋に思ってないが、その何分の一かの要因にはなっていると思います。  気の毒なのはあの奥宮健之です。処刑の直前に、「世の中には不思議なことが多い」と呟《つぶや》いたとか。一部には奥宮は政府の密偵だったとか、政府がその秘密の洩れるのをおそれて、幸徳や管野、古河、森近らに抱合せて殺したのだとかいっているらしい。実兄に検事がいたこと、監獄を出て間もなく、目的もなしに外国に行った金の出所が不明なこと、帰国してすぐに幸徳に近づこうとしたことなどから、当局の紐がついていたのではないかという疑惑は拭えない。あの人の性格からみると、そういう弱いところがあった。だが、その弱さは、畢竟《ひつきよう》は旧い自由民権運動者が国粋主義に転じて羽振りのいい仲間から取り残され、土佐派からも疎《うと》まれ、さりとて新しい社会主義運動にも入って行けぬ虚無老残の涯ではなかったかと思う。  つい先日、去年発行の伊藤|痴遊《ちゆう》の『明治裏面史』というのを買って寝転がって読んでいると、次のような箇所があった。 「奥宮健之は『大逆事件』にひっかかって死刑になったが、あの連中と深い計画はして居なかったように思う。けれども死刑になったところを見ると、或いは関係があったかもしれない。  ただ、こういうことが一つある。健之は名古屋事件で無期徒刑になって北海道へ送られたが、その後出てくると政界も昔と違って、政党の内部にもいろいろの変調があって、昔風の党員はあまり喜ばれなかったので、健之は重く用いられなかった。明治三十三年の頃と記憶するが、当時の自由党の中に薩派と長派の二派が分れて、時の松隈《しようわい》内閣を助けるか否やということが、面倒な問題になった。その際に健之は薩派の方へ力を入れて加担したということから土佐派の連中が甚《ひど》く憎んで健之を寄せつけないようにしてしまった。健之のほうでもまた面白くないから、自由党本部へはあまり足繁く行かぬようになったので、自然と政党の関係が薄くなり、筆と舌がよく回るために、その頃からはやり出した社会主義や無政府主義の翻訳などをして、雑誌や新聞へ投書するようなことをやっていた。著者《わたくし》は幸徳や堺枯川等と懇意にしていたので、この時、奥宮に向って、 「君は原書も読めるし、文章や演説も巧みではあるが今の政党員の間にはとても向かないから、いっそのこと、社会主義者の仲間入りをしたらどうだ、幸徳は君と同県人の関係もあるし、堺は僕も良く知っているから、君が行くというのならば、僕が世話して、相当の位置につかせることにするが、どうだろうか」といったら奥宮は、二、三日考えさしてくれといって帰って行ったが、やがてやって来て「どうも我輩には社会主義者の仲間に入る決心がつかぬから、このまま現状を保って行きたい」  ということで、遂にこの相談は駄目になったことがある。  しかしながら社会主義者との交際は相変らずやっていたようであるが、こういう事情から考えてみて、奥宮が幸徳などの事件に関係して、死刑になったということは裁判の結果は一点疑いを入れる余地はないけれど、なんとなく奥歯に物がはさまったような感じもするのである」  痴遊は当時の自由党員、今は講談師だがその言には証人として信が措《お》ける。ここで「裁判の結果は一点疑いを入れる余地はないけれど」と云っているのは、もちろん官憲をはばかっているためで、「奥歯に物がはさまったような感じ」すなわち暗に裁判の詭計《きけい》をいっています。しかし、僕は奥宮が積極的に幸徳に近づいて密偵の役をしたとは思わないが、飯野の意図を暗に知りながらも、まずまずこの辺までは大丈夫、ひっかけられることはあるまいと警戒しながらも、どこか自分を棄てていったような意識になっていったような気がしてならない。  北海道の監獄を出たばかりの奥宮が、ヨーロッパやアメリカに行く旅費をどこで都合したか。勘ぐれば、政府が彼に紐をつけて、そこを分らなくするために金を与えて一時外国に出したとも考えられなくはない。「世の中には不思議なことが多い」と独語して奥宮が処刑に臨んだのは、官憲の不条理なやり方と、己れの不条理な心持を云っていたような気がします。  仮に僕が奥宮の立場だったらそうなる。人間はみんなそういう弱さを持っている。だれも奥宮を非難することはできない。田舎教師として一種の落魄の生活を送っている僕にはそれがよく分るのです。  だが、安心してください。僕もすでに老境に入っています。もう野心も何もありません。それどころか、紀元節や天長節には、生徒を引率して朝倉神社に参拝し、敬虔に柏手《かしわで》を鳴らす良教師ですよ。呵々《かか》。とにかく君も九州遊説の折があらば、わが仙境に是非お立寄り下さい。さきにも云う通り、地酒がたいそうおいしいのです≫  ——工藤雄三のこの手紙は、再び工藤のもとに舞い戻った。小山東助は六年前に肺結核で死んでいた。 [#改ページ]   あとがき [#地付き]松本清張   勝手な書き方をしてきた小説である。「国家ノ須要《しゆよう》ナル」人材を養成する目的の東京帝国大学の性格を明治後半期から小説にしてみようと思い、とくに主人公はつくらなかったが、史的事実の叙述に、想像による描写の世界が圧迫された。限られた枚数ではやむを得ない。  欧米先進国に早く追い付け主義の帝国大学の教育に科学性は、それが濃厚になってくるにつれて天皇制と衝突した。そのたびに「学問」は萎縮し、帝国大学は当初の溌剌性を失い、次第に蒼古《そうこ》たる殿堂と化してゆく。その過程を書くに「小説」の描写形式では困難である。もし、それを試みようとすれば厖大な量になってしまう。すなわち勝手な書き方をせざるを得なかった理由である。  奥宮健之には人間的な興味をもっている。彼が政府のスパイであったかどうか私にはまだ推定がつかない。彼が爆裂弾の製法を幸徳と管野《かんの》スガには教えはしたが、その目的については彼らに聞いていないから、法律上では共犯とはいえない。しかし、奥宮には漠然とその使途の心当りはあったろう。 「奥宮ハ酒ヲ飲ミツツ弁ヲ振ツテ社会主義者融和上ノ説話ヲシ余リニ圧迫サルル処カラ爆裂弾モ作リ、皇室ニ迄事ヲ及ボスヤモ知レヌカラ融和ヲ試ミルノガ必要ダト言フタ処飯野ハ雲上ニ対シ左様ナ事ヲスル者ハアルマイト言フト、奥宮ハ「若《も》シアツタラバ如何《ど》フスルヤ」ト言フタ事実デシタ其際奥宮ハ政事家|抔《など》ガ考ヘル処トハ大ニ異リ社会主義者ハ宗教家ト同ジク一種ノ迷信家故仲々度シ難イガ今ノ内ナラバ是《こ》レヲ修メルコトガ出来ルノデアルト言ヒマシタ」(証人長谷川昌三供述=近代日本史料研究会編『大逆事件訴訟記録・証拠物写』。以下同)  社会主義者が爆裂弾を作って皇室にまでことを及ぼすかもしれない、そんなことはないといっても、もしあったらばどうするか、と奥宮が酒の勢いも加わって飯野にどなったのが事実とすれば、爆裂弾の用途は聞かなくても推知していたといえる。この場合は刑法上の「不作為の作為」的な共謀といえよう。たとえ奥宮が飯野から金を出させるために云った脅しの意味としても、その用途の推量が奥宮にあったことになる。また奥宮は幸徳はやるまいが、管野スガの性格なら実行しそうだと思ったであろう。  飯野は、右の奥宮のいったことを陳述で肯定し、 「奥宮ハ主義者ガ斯々《かくかく》ノ企画ヲ為シツツアルト詳細ニ言フタノデハアリマセヌガ、若シ左様ナ事ニ立至ル様デハ一大事ト思ヒマシタカラ其《その》翌日カト覚ユ警保局長ヲ訪フタノデアリマス、併シ其後奥宮等ハ金額五千円デモ可イト言ヒ段々話ガ小サク為《な》ツタノデ或ハ最初奥宮ハ大言壮語セシニ非ズヤト思ヒマシタ」  といい、奥宮の要求した金一万円は如何なる方法に充用するとのことであったか、との問いに、 「夫《そ》レハ私カラモ訊問シタ処夫レハ両名ニ任カセテ呉《く》レト言フ意味ノ話ニテ奥宮長谷川両人ガ責任ヲ持ツテ過激ノ主義者ヲ鎮撫スルト言フノデアリマス」  と答え、警保局長に対し如何に談ぜしか、の問いに、 「奥宮等ガ言フタ事ヲ話シタ処局長ハ仮令《たとへ》少額ノ金ト雖《いへど》モ彼等ニ与フルハ恰《あたか》モ盗人ニ鑰《かぎ》ヲ貸ス様ナモノデアルカラ断ルガ良イ、併シ彼等ヲ怒ラセヌ様|宜敷《よろしく》取計ラハレヨ、奥宮ノ一身ニ就テハ世話ヲ見テ遣《や》ツテ貰ヒ度イト言フノデアリマス」  と飯野は答えている。  飯野が奥宮の云う幸徳らの動静を一々有松警保局長に報告していたのはパイプ役と考えられ、それに対し有松局長が「奥宮の一身については世話を見てやってもらいたい」といったのは意味深長な言葉である。考えようによっては、奥宮はこっちで游《およ》がせている密偵だからと暗に云っているようである。  だが、以上は飯野と長谷川の云うことであって、奥宮はそうは供述していない。  奥宮は、幸徳らのため融和方法を講ずることを飯野に話した趣旨は、幸徳らは政府の非常な迫害をうけて窮地に陥っているので窮鼠猫を咬《か》むの理屈で何を仕出かすか分らず「皇室ニ対シテ迄モ何カ計画シテ居ルヤノ噂アリ」、そうなると双方に不利なので彼らの間に立って緩和を試みるのが実に目下の急務であるという考えからであった、と云う。 「然シ其際幸徳等ハ爆裂弾ヲ以テ事ヲナサントシテ居ルトカ爆裂弾ノ製造ヲ研究シテ居ルトカ言フ話ハ(飯野に対して)為《な》サナカツタト記憶シマス、爆裂弾ノ話ハ全ク出ナカツタト覚ヘマス」  と述べている。 「記憶シマス」とか「覚ヘマス」とか言辞が弱いのは、裁判記録の上の操作であって、実際は奥宮は強く否定したのかもしれない。奥宮の供述の信憑性を弱めることは、事件構成のためであり、取調べ側にはじめからその意図があったとも推定される。  そして、奥宮は、 「最モ必要ナルハ金《かね》ナルニヨリ飯野トノ話モ結局金ノ事ニシテ政府ヨリ相当ノ金ヲ出サスル積リデアツタノデアリマス、自分ハ先ヅ差当ツテ壱万円位ヲ要スル旨飯野ニ話シタト思ヒマス」  とも述べている。  飯野は奥宮に与える一万円は「警保局長ノ方カラハ金ハ出来ヌケレドモ私ノ会計ヲ取扱ヒ呉レ居ル金原明善《きんばらめいぜん》ニデモ話シテ見様《みやう》ト言ヒマシタ」と、スポンサーの名をあげているが、奥宮はその金が「政府ヨリ相当ノ金ヲ出サスル積リ」といっているように政府から出ることを知っていた。  奥宮はその前に錦輝館その他で開かれる労働者大会のことで、旧知の飯野を訪ね、労働運動が過激にならないためにも宥和《ゆうわ》のため五百円を都合してくれと頼み、幸徳の宥和もそのときに出た話である。  こうしてみると奥宮は労働ブローカーである。そして政府側の窓口として飯野と交渉している。労働ブローカーは、「不穏分子」の運動情報を相手に伝えなければならない。そのためには、運動の内面にも入り、その人々と接触もしなければいけない。ここではシンパ的な顔となる。飯野を通じて政府から金を出させようとする奥宮は、正真正銘のスパイではなかったにしても、情報を相手に売っていることではスパイ的であったといえる。そして、用がなくなれば棄てられるどころか、共に消される謀略にかかる要素は十分にあった。ひとつは、彼の複雑な性格が災いしている。一部でいわれるように彼がスパイでなかった、とは全く云い切れないのである。とにかくあまりに人間的な男である。 [#地付き](昭和四十四年十一月) 松本清張(まつもと・せいちょう) 一九〇九—九二年。福岡県生まれ。一九二八年、印刷所に見習いとして就職する。一九五〇年「西郷札」を発表し、五三年「或る「小倉日記」伝」で芥川賞を受賞する。一九五六年、三〇年近く勤めた朝日新聞社を退社。社会派推理小説のブームのきっかけとなった「点と線」を発表し、一方で「日本の黒い霧」「昭和史発掘」などの歴史評論を精力的に執筆した。吉川英治文学賞、朝日賞、菊池寛賞、NHK放送文化賞などを受賞。 本作品は一九六九年一二月、新潮社より刊行され、二〇〇八年三月、ちくま文庫の一冊として刊行された。