[#表紙(表紙1.jpg)] 小説東京帝国大学(上) 松本清張 目 次  哲学館事件  挑戦  穏田《おんでん》の予言者・穏田の行者  謀計の影  強者の権利 「帝国」の大学  先醒亭覚明《せんせいていかくめい》  革命居士  帝国大学教授論(一)  皇室・国体観の不安  帝国大学教授論(二)  七博士の開戦論  硬派と軟派  対面  芸者妻  新講釈  つづきもの  禁止方法 [#改ページ]   哲学館事件[#「哲学館事件」はゴシック体]  明治三十五年十月のことである。  私立哲学館では、二十五日から三十一日にわたって卒業試験が行われた。臨監として文部省から、視学官|隈本有尚《くまもとありひさ》、同隈本|繁吉《しげきち》、その他の属官が毎日同館に出向いていた。哲学館というのは、現在の東洋大学の前身で、当時本校の卒業生には文部省の中学校、師範学校教員の無試験検定認可の特典があった。  倫理の試験問題の担当は、講師中島|徳蔵《とくぞう》だった。設問は「動機善にして悪なる行為ありや」というのである。  生徒の提出した答案は中島が採点する。それを視学官が閲覧する。  隈本有尚視学官は、その採点された答案の束をぱらぱらとめくっていたが、どうしても点のいいぶんに眼が走る。そのうち、最高点をつけられた答案を一瞥して、彼の眼は光った。  視学官は、その答案を引出して、もう一度熟読した。その答案内容は文部省が引揚げてしまったので、現在は伝わっていないが、おそらく次のような趣旨だったであろう。 [#2字下げ] 人は彼が予知せざりし結果に対しては、これを予知せざりしといふ事実に責任ありと言はばともかく、その結果そのものには責任ありといふを得ず、且つ又単に彼の志向に止《とど》まりて動機ならざりし結果の部分をみて、これに善悪の判断を下すべきものに非ず。然らずんば自由のために弑逆《しいぎやく》をなす者も責罰せらるべく、自ら焚殺《ふんさつ》の料に供せんが為に溺死《できし》にひんせる人を救へる暴君も弁護の辞を得べし。ただそれ吾人が動作全体を計算し、(一)その結果が全体として善なるか、はた悪なるか、(二)これらの結果が当の目的なるかの問題に答へたる後、吾人は初めてこれにつきて道徳的判断を立つるの権利ありとするなり。  この生硬な文章は、ムイアヘッドの倫理学('The Elements of Ethics' by Muirhead) を桑木厳翼《くわきげんよく》が翻訳したもので、これを哲学館では教科書に使っていたのである。答案を書いた生徒はほとんど教科書どおりに書いたというから、大体、右に似た文章だったと思われる。  隈本有尚視学官が注目したのは、この文章の中にある「弑逆」のくだりだった。  教科書に載っている学説は、つまり、結果だけを見て善悪を判断すべきでなく、肝心なのはその動機の判断にある、したがって、動機が人民の「自由」を護るという「善」から出ているなら、弑逆をなすもまたやむを得ない、という趣旨である。「自由」を第一義とし、人間の行為をその下に置く倫理論だ。  英人ムイアヘッドが、ここに「弑逆」という文字を使ったのは、明らかにイギリスのクロムウェルがチャールズ一世を弑逆した歴史を指しているのである。彼によれば、自由は最高の「善」であるゆえ、それを守るという動機も善であるから、チャールズ一世のような帝王を弑逆しても咎められることはないと解釈する。  さて、視学官隈本有尚は、この答案を抜き出して同僚の隈本繁吉に見せた。隈本繁吉もそれを読み、同僚の疑問に賛成した。 「中島さん」  と、隈本有尚は休憩室に中島講師を呼び入れた。手に持った例の答案を前に出して、 「あなたは、これに最高点をおつけになっているが、それについて少々伺いたいことがあります」  と、湯呑の茶を啜って、じろりと中島徳蔵を見た。隈本は中島より年齢が上で、哲学館長井上|円了《えんりよう》とは同窓であった。従って、中島とも日ごろから相識の間柄だった。 「はあ、何でしょうか?」 「この学校ではムイアヘッドの著書を教科書に使っているようだが、あなたは、このムイアヘッドの説の講義に批評を加えて、学生に教えていますか?」  これに中島徳蔵は何の考えもなしに答えた。 「教科書にあることは、教師が大体、この程度のことなら生徒に理解できると認めた上で教えているので、別に講義に当っては、批評を加えていません」 「ああ、そう」  隈本視学官は、あとの言葉を捜すように黙ったが、 「そうすると」と、顔をあげて訊《き》いた。「この理論からゆくと、伊庭《いば》のやったことはどうなりますかね?」 「はあ?」  中島講師は唐突な質問に遇ったように眼をむいた。  伊庭とは、前年の三十四年六月に東京市参事会員で逓信《ていしん》大臣の経歴を持った自由党の領袖、星|亨《とおる》を暗殺した伊庭|想太郎《そうたろう》のことである。星は、当時、汚職の元兇のように新聞で叩かれていた。伊庭が義憤に駆られて東京市参事会室に入って匕首を持って星を刺したのである。世間に衝撃を与えた事件だ。  取りようによっては、隈本の問いは、意地の悪いものだった。 「いや、あれはいけません」  と、中島講師はややあって答えた。 「どうしていけないのです? 伊庭は私憤で星を殺したのではない。星が公共の敵であると考えての犯行ですよ。しからば、その動機は善ではないですかね?」  視学官は突込んだ。 「いや、伊庭の動機は、主観的なもので、感情的です。こういうのは善とはいえません」  ここまでくると、中島にも隈本の質問の意図がおぼろに分ってきた。果して隈本はつづけて訊いた。 「しかし、動機が善であれば弑逆も悪にならないのではないかね。この教科書の論理でゆけば、そうなるようですが」  両隈本視学官は中島の顔を見つめて、返事を待ち受けた。  中島は慎重に答えた。 「ムイアヘッドの説は、弑逆が絶対的にいいことだというのではありません。ただ、やむを得ざる非常の場合、しかも、その動機が善と認められた場合のみを指しているのです」  こういったあと、相手の考えを先回りするように急いであとを付け加えた。 「しかし、これは外国のことです。日本では、そのような不祥事は絶対にありませんから、問題外です。西洋では、チャールズ一世を殺したクロムウェルの行動を、どの史家も是認しているところです。ムイアヘッドの説くところは、そういう点にあると思います」 「ああ、なるほどね」  隈本視学官は、分った、というようにうなずいた。  そのあとは、両視学官とも接待の菓子をつまみ、茶を啜った。毎年臨監に来た役人が引揚げるときと少しも様子が違わなかった。 「では、これで」  と、二人の文部省役人は起ち上がった。 「ご苦労さまでした」  と、中島は二人を玄関に見送りに起った。  隈本有尚視学官は、哲学館の玄関から歩き去った。和やかな挨拶を残してである。  中島講師はひと息入れた。——  生徒の答案の「弑逆」のところがひっかかったが、あれはどこまでも西洋の歴史に立った西洋人の理論である。わが国体には関係のないことだ。その辺は両視学官とも分ってくれたらしい。  答案を書いた生徒は、この学校の秀才で、工藤|雄三《ゆうぞう》という者だった。この生徒は、教科書どおりの趣旨を書いたにすぎない。しかし、中島の印象では、隈本視学官は桑木厳翼の翻訳から採ったこの教科書のことを今まで気づかなかったようである。いや、原著も、翻訳書の存在も知らなかったのではなかろうか。生徒の答案ではじめて分ったような様子である。  しかし、中島徳蔵は、そのあとも隈本視学官の質問が気になって仕方がなかった。なるほど、生徒の答案は誤解されるおそれがないとはいえない。現に視学官の質問は、それを曲解した上で発せられたようであった。しかし、隈本は倫理学者で、直覚説を信奉している。直覚説はグリーンやムイアヘッドの実証説と対立している。隈本にはそのへんの意識もあるようだ。(注——直覚説においては、行為の善悪正邪は、直観的に判別されるものを善とする。これに対して実証説は、万人に対して合理的に定義、証明できるものを善とする)  中島は、なんとなく天の一隅に暗い雲を見るような思いがしたので、十一月初旬、文部省に隈本視学官を訪ねた。もう一度説明をして、十分な了解を取りつけておくつもりだった。  役所の応接間に待っていると、隈本視学官がふらりと入ってきた。 「今日は何ですか?」  と、ぞんざいに椅子に臀《しり》を落した。 「先日の卒業試験の生徒の答案のことですが、それにつきまして、もう一度、あなたにぼくの意見を聞いていただきたいと思いまして」  中島は、忙しいところをお邪魔して済まない、と詫びた上で云った。 「ははあ、それは、この前ぼくがあなたに尋ねて、ひと通りは承りました」  隈本は、あまり弾まない顔をしていた。 「あのときは怱卒《そうそつ》のことで、まだ意を尽した答えができたとは思っていません。それで、今日はそれを補足し、十分な説明をさせていただきにあがりました」 「そうですか。じゃ、まあ、聞きましょう」  視学官は椅子の上に斜に構えた。 「ムイアヘッドの倫理学の動機についてですが、その解釈は人間の善意というものを最高至純なものとした立場から説かれています。……」  中島は、その動機論を縷々《るる》として述べた。  隈本は彼の長い話に黙っていたが、聞いているのか、いないのか、眼を別なところに向けている。もっとも、椅子に坐った彼の姿勢が初めからそうであった。  中島は、そのあとさらにつづけた。 「……そのようなわけで、このムイアヘッドの動機論は、決して国家の秩序を破壊しようというものではありません。弑逆に関しての説も、すでに早くから孟子がありますが、ムイアヘッドのは孟子のような架空論ではありません。動機が善なれば弑逆を是認することもあるというけれど、その動機の善とは、もちろん、実行者の勝手な意志に任せるというのではなく、また不合理な動機は絶対に許されないという前提の上に立ってのことです」  隈本視学官は、ときどき仕方なさそうに、はあ、とか、うむ、とか云って聞いていた。  その興味なげな態度を見て中島は不愉快に思ったが、敢えて釈明につとめた。 「したがって、これは皇統連綿たるわが国においては夢にだも見ることのできないことで、前にもお答えしたように、あくまでも外国の君主制に対しての論理です。恐れ多くもわが皇室には、もとより、かようなお方が出られたことは一度も無く、国民は、その御仁慈を、ひとしくお慕い申しあげています。英国人ムイアヘッドは、初めから日本国体というものを知らずにこれを書いたのです。とにかく、以上申しあげたように、これはあくまでも西洋歴史の上にのみ適用されることで、その点、あなたのご了承を重ねて得たいと思います」  隈本は中島の言葉が終るのを待って云った。 「いろいろご説明を承ったが、その程度の説明なら、なにも今日わざわざお見えになることはなかった。先日、学校で伺ったときとあまり違ってないように思われますが」 「はあ、いえ、あなたには、すでにご理解を得たとは思っておりますが。……ただ、今度は」  と、中島は少しあわてたように、持参していた風呂敷包を解いた。その中から二冊の本を取出すと、視学官の前に差出した。 「わたくしのこの見解は、今日に始まったのではありません。すでに明治三十一年度の帝国教育会でわたくしがおこなった講演でも、それは述べてあります。ここに、その講演筆記がありますので、ご参考にご覧ねがいたいと思います。また、三十三年度哲学館で出版した『倫理学概論』の中には、孟子の弑逆説を排するの書、および日本国体の精華論が述べられてあるので、どうぞ参考にご覧願いたいと存じます」  隈本視学官は、それを手に取った。二冊の本を彼はぱらぱらとめくっていたが、 「じゃ、お預かりしておきます」  と、簡単に云ったが、それほど熱心を示すふうでもなかった。 「そこに書いてある通り……」  と、中島がなおもつけ加えようとすると、視学官は、 「いや」  と手を振り、いま、高等官会議が迫っているから、これ以上、説明を聞く時間がないと迷惑そうな顔をした。  中島徳蔵は、何となく落ちつかぬ気持で文部省を辞した。隈本視学官の態度は、こちらの云うことを了解してくれているようでもあり、まだ十分に理解していないようでもある。あの無愛想は、万事理解したから、もう、それ以上よけいなことを聞かされなくてもいいというふうにも取れるし、また、すでに彼が一つの予断を持って、今さらこちらの弁明に耳を傾ける必要はないというふうにも取れる。  中島は不安になって、哲学館に帰ると、このことを他の講師たちに訊いてみた。 「視学官がそれ以上突込んでこないのは、了承したからではないでしょうか。ムイアヘッドの倫理学は、わが国でも定評のあるものだし、一般論だから、そう心配することはないでしょう」  と、いずれも慰め顔に云ってくれた。  中島も、それで少しは気持が落ちついた。すると、数日経って、彼のひそかな不安を再び掻き立てるような噂が流れた。 「文部省では、哲学館で教えている倫理はわが国の国体に合わない不穏な学説なので、どうやら卒業生の教員検定試験免除の特典を取上げるそうな」  というのである。  私立哲学館は、明治二十年九月、東京府本郷区|竜岡町《たつおかちよう》三一番地に創立された。創立者は「妖怪博士」で有名な井上円了である。井上は、もともと仏教徒の子に生れ、その思想は、東洋哲学というよりも、仏教哲学ないしは印度哲学に近く、仏教を改良して、これを世界の宗教たらしめんという理想を抱いていた。明治十七、八年ごろにフランス流の自由平等思想が流れ込み、民権運動の理論的な背景となった上、同時にベンサム、ミル、スペンサーなどの英国流の合理主義哲学も入って来たので、井上は、これに対抗する東洋主義の哲学を起そうとしたのである。  むしろ、彼は国体擁護の愛国者で、明治二十年には『仏教活論序論』を刊行して、その護国精神を説いている。  井上が哲学館をつくったとき、その後援者としては近衛《このえ》篤麿《あつまろ》、後藤象二郎《ごとうしようじろう》、副島種臣《そえじまたねおみ》、勝海舟《かつかいしゆう》、芳川顕正《よしかわあきまさ》、陸奥《むつ》宗光《むねみつ》、谷干城《たにたてき》などの名士がずらりと顔をならべたものだった。  その愛国主義的な哲学館がこともあろうに国体に悖《もと》る倫理学を講じて文部省に睨まれているというのである。文部省が、私立学校の生命である卒業生の教員検定試験免除の特典を取上げるかもしれないという風聞は、哲学館にとって不意に雷鳴を聞いたようなおどろきだった。  しかし、この噂は、その年の十一月半ばになって真実となって現われそうになった。  その月十六日のことである。文部省普通学務局長事務取扱岡田|良平《りようへい》の名で一通の公文書が学校に舞込んだ。  中島が急いでその封を切ると、中から出てきたのは、朱の罫《けい》に同じく文部省の活字のある用紙に墨で黒々と書かれた左のような意味の照会文だった。 [#ここから2字下げ] 「貴館教育部第一課の倫理学では、動機と行為との関係を如何なる趣旨のもとに教授せられているか、その詳細を承知したく、照会いたします。なお、去月二十五日施行した本文学科目試験の生徒答案は直ちに差出されたく、申し添えます。  私立哲学館長 文学博士 井上円了殿 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]」  公文書である。  中島徳蔵は、あのときの視学官との口頭問答だけではやはり、文部省が納得していないことを知った。いや、隈本視学官は、あの説明だけでは足らず、上司にこれを報告し、改めて岡田普通学務局長事務取扱から公文書による問合せを出させたのだと察した。そこに隈本の底意が見える。いうなれば、試験答案に一視学官が些細な疑問を発見して、おのれの成績を上げる機会を掴んだのだ。  だが、文部省のこの文書はあくまでも照会である。これに対して弁明すれば、なんとかおさまると、中島は考えた。隈本視学官もここまでおのれの働きを上司に見せたら、もはや、十分なはずである。これ以上追討ちはすまい。また追討ちされる落度もないと思った。が、ことは、巷間の風聞となっている中等教員無試験資格の恩典を取上げられそうな危機にも絡んでいたので、安心はならなかった。  が、まさか、そんなことはあり得まい。あの噂は単なる臆測だと胸に納得させた彼は、この照会に対する回答だけは丁寧にしなければならぬと思った。早速、その手続きにかかった。  館長井上円了はヨーロッパに旅行中であった。留守中の館長代理格の中島は、早速、答申文をつくって文部省に提出した。 [#2字下げ]「本月十六日付で御照会の、本館教育部第一課の倫理学で教授した動機と行為との関係については、別紙倫理学担当講師中島徳蔵より申し出た趣旨に相違ありません。念のため、ムイアヘッド原著桑木厳翼補訳『倫理学』を一部添えて答申いたします。 [#ここから3字下げ]  明治三十五年十一月十九日 [#地付き]私立哲学館長 文学博士 井上円了  文部省普通学務局長事務取扱 岡田良平殿 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]」  つまり、中島徳蔵は、当事者の講師としての彼と、館長代理としての彼と、一人二役で、この答申を文部省に提出したのであった。  文部省に釈明の答申書を送ったが、それだけではまだ中島の心は落ちつかなかった。  不安なのは、今度のことで文部省が中等教員無試験検定資格を取上げるという噂があることだ。それがまんざら嘘とも思えない。もし、そうなったら、哲学館の存立にかかわる大問題である。  実は、今度の問題は井上館長も、外国に出発前に知っていた。ただ、洋行が間近に迫っているため日程を延ばすわけにはいかず、館長はこの処理を中島講師に一切任して出発したのだった。井上も、そのときは楽観的で、大したことにはならないという予想だった。館長もやはり見通しが甘かったことになる。  わざわざ公文書で照会を発した文部省の肚《はら》には、かなりな決意が窺われた。  中島は、役人というものは、一般の考え以上にことを重大に持ってゆくものだと思った。ことは視学官隈本有尚のちょっとした注意から起ったのだが、今や文部省全体が官僚の事大主義にふくれつつある。  しかし責任者だけに、中島は今後のなりゆきが懸念されてならなかった。  すると、教科書の検定問題に詳しい或る友人が中島の困惑を見かねて助言してくれた。 「検定委員長である山川|健次郎《けんじろう》氏に一度会って了解を得たらどうか。山川さんは東京帝国大学の総長でもあるしね」  耳よりな忠告であった。  中島は、早速、手土産をととのえ、人力車に乗って、小石川|原町《はらまち》から本郷|初音町《はつねちよう》の山川家に向った。これが明治三十五年十二月八日のことである。俥《くるま》の幌《ほろ》の隙間から入る風はもう寒かった。  途中では、鈴を鳴らして号外売りが走っていた。中島には思い当ることがあったので、 「おい、あの号外を一枚買ってくれ」  と車夫に命じた。 「へえ、承知しました」  車夫は横を走り抜ける号外売りの少年を呼びとめた。中島は、財布から五厘玉を出した。 「先生、教科書問題が、どうやらえらい騒ぎになるようでございます」  車夫は号外の見出しをちらりと見て渡した。  中島は、走る車上で活字に眼をさらした。  ≪教科書事件の火の手はいよいよさかんにして、すでにその筋に拘引されし者、県知事、師範、水産、小中諸学校長、その他軍人、前代議士、県会議員ら無慮六十名に達し、なおますます醜吏の拘引せられる者多からんとし、わが教育、社会の恐慌まさにその極度に及ばんとせるが、またまた一昨日より昨日へかけ、その筋へ拘引されたるは、茨城県師範学校教員、同県視学、小学校長ら三名にして、いずれも任地において拘引され、東京に向けすでに護送の途につきたる由。なお、他の連累者およそ二十名も今夜中には拘引さるべしとのこと。  本件の被告はすでに六十名に達したれば、取調べに手数ひとかたならざるをもって、予審部にては川島、森井の両検事を動員し、また検事局にては昨日より、古森、溝口の両検事を補助となしたり≫  読み終って中島の心は暗くなった。同じ教育にたずさわる者として、今度の事件は彼も世間に遠慮な気持である。  小学校教科書を発行している書店の金港堂、集英堂、普及社などが、教科書の売込み競争のために地方の学校教師や県、郡視学を買収した事実が判って、目下、その摘発が進んでいる。各書店は大ぶん大仕掛な贈賄をおこなったとみえ、県知事、県会議長などの身辺にも捜査の手が伸びているらしい。  この号外の様子では、まだまだ連累者が出そうである。昨日の新聞には、近日、文部省にも火がつくように書かれてあった。教科書関係の役人が収賄している嫌疑だ。  しかし、中島は、いつまでもこんな号外の記事に気を取られてはいられなかった。目下の彼自身の問題とはかかわりの無いことで、また潮がさすように心に戻ってくるのは、これから訪ねる山川検定委員長の円満な了解が得られるかどうかの成否だった。  山川は国粋主義者である。それはかねがね中島も聞いて知っていた。この会津白虎隊生き残りの教育家に、果してムイアヘッドの「倫理学」の精神が理解されるであろうか。しかも、山川の専門は倫理学とは畑違いの理科であった。  が、一方では、いくら山川さんでもまさか、そんな分らぬことは云わぬだろうという気休めも中島にはあった。理科の出身だが、東京帝国大学の総長の現職にあるのだから、他の学科についても分らぬはずはあるまい。総長といえば、法、文、理、工、医、農各学科の教授を統率している大学の行政官だ。頑固だといっても、この程度のことは理解してくれるはずだ。——中島の思案は、その乗っている俥のように左右に揺れていた。  それにしても、あの工藤雄三という学生の答案に自分が最高点を与えなかったら、こうまで問題にはならなかったに違いないと思い返された。むろん、信念からすれば、工藤という学生は教科書どおりの趣旨を会得した答案を出したのだから、最高点を与えても後悔はしていない。しかし、あの採点が隈本視学官に誤解を与えたのではあるまいか。たしかにムイアヘッドの説を、わが国体観に置くと、存外な誤解を招くおそれがないでもない。隈本視学官にしてあの通りであった。山川総長が、どのような反応を示すか、その家が近づくにつれて、中島は胸が騒いだ。  俥は初音町の山川家の前に着いた。その家は表通りから引込んだところで、あたりは雑木林と藪がある。  黒門があって、敷地に沿うて竹垣がめぐらされてある。門を入ると、かなり広い庭で、無造作な木立になっていた。その雑木の間には畑があった。玄関につくまでの右側には、頭の半分こわれた石の牝牡《めすおす》の狐が据えられてあった。まるで旧旗本の屋敷跡のようである。  玄関は格子戸も無く、いきなり式台があって、正面の半分が壁になっていた。広いが、古い家であった。格子戸の付いた内玄関は、玄関から引込んだ右側に別にある。  中島は、ずいぶん風変りな家だな、と思った。この奇抜な家を見ただけでも主人の気風が知られて、彼には早くも半分絶望感がきた。  中島は式台の手前に立って、ご免下さい、と大きな声を出した。眼の前の壁には、どういう趣味からか、掛軸が下がっている。漢詩のようだが、山川の筆蹟かどうか分らなかった。 「どちらからですか?」  と、ふいに壁の左手の障子から、絣《かすり》の着物に、くたびれた袴の、二十一、二ばかりの書生が出た。  名刺を出すと、書生はいったん引込んだ。中島は、その間に漢詩のつづきを読もうとしている。心の中では、山川さんは書生が好きだというが、今の男もその一人かと思い、この家には何人ぐらい書生を置いているのだろうと思った。気持が緊張し切ると、かえって、余計なことを考えるらしい。 「どうぞお上がり下さい」  通されたのは裏側で、十畳ばかりの部屋だが、戸障子、畳のほか、飾物らしいものとて無かった。木の根をえぐってつくった火鉢はあるが、縁側の障子が少しあいていた。そこから池の一部が見える。黄色く澱んだ水は、うすら陽をうけている。池の端には葦が枯れていた。見ただけで中島は寒さを覚えた。  廊下に咳《しわぶき》が聞え、白い、いがぐり頭の痩せた男が入ってきた。顔色がおそろしく黒い。それだけに、眼の光が強かった。 「突然、お邪魔いたしまして」  中島徳蔵は座布団をすべり、主人の前に手をついた。 「どうぞ火鉢にお当り下さい」  東京帝国大学総長、教科書検定委員長山川健次郎は、その火鉢をへだてて客の真向いに端然と坐った。顴骨《かんこつ》が出て、顎が尖っている。咽喉《のど》には数本の筋が浮いていた。眼が太い。 「名刺を拝見しましたが、哲学館にお勤めだそうで」  山川は煙管《きせる》に莨《たばこ》を詰めながら、よく光る眼で中島の全体を一瞥した。 「左様でございます。哲学館では倫理学を講じております」  と、中島はいくらか卑下に似たものを感じながら答えた。やはり私学校に勤めている怯《ひ》け目《め》であった。東京帝国大学総長の前である。  しかし、中島の今日の用事は、東大総長としての山川を訪問したのではない。教科書検定委員長に会いに来たのである。  ひと通りの挨拶が終ると、中島は思い切って、すぐに本題に入った。これまでの経緯《いきさつ》を述べ、ムイアヘッドの倫理学の要旨の大略を説明した。それが、桑木厳翼の補訳から哲学館の教科書に採られていること、そして先日の試験問題答案と隈本視学官との問答にいたるまでを語った。  山川は、ときどき唸るような短い返事をして聞いていた。煙管は、山川のうすい唇と火鉢の縁の間を往復した。  相手の表情を読み取ろうとしたが、中島にはその反応が全く分らなかった。 「左様なわけで、視学官には了解を得ているつもりです。先日も文部省を訪《おとな》い、説明して参りました。また、文部省からそれについて照会の公文書が参りましたので、同じ趣旨の答申もしておきました。ところが、最近、この倫理学の趣旨が不都合であるという廉《かど》で、文部省ではわが哲学館に与えている恩典の中等教員無試験検定資格を取上げようという動きがあるように聞いております。わたくしどもとしては大へんに心痛しております。丁度、井上館長もいま洋行中のことではあり、わたくしがその代理をつとめておりますが、しかし、今度の問題の当事者でもございます。そこで、教科書検定委員長たる先生に、ぜひ、このことでご了承を得に参りました」  云い終って中島が頭を下げると、山川は、赤銅《しやくどう》の雁首《がんくび》をひとつ火鉢に叩いた。 「左様ですか」  山川は、口の端を曲げて考えていたが、 「中島さん、聞き間違いないように、わたしからあなたの今の言葉をたしかめさせてもらってよろしいですか?」  と、やがてその口を開いた。 「はい、どうぞ」  中島は、また軽く頭を下げた。 「その英国人の倫理学者の説は、つまるところは、動機が善ならば帝王も弑逆してよいというわけですな?」 「引例を簡単に云えば、その通りでございますが、ムイアヘッド氏は、ただ今もご説明したように、英国のクロムウェルが、人民に圧制を加えたチャールズ一世を弑逆した例を指しているのでございます。わが国には全く関係の無いものでございます」 「しかし、中島さん、英国のキングでも、動機さえ善なれば、人民がそれを弑逆してもいいとなれば、どういうことになりますかな? 英国の王家といえば、わが国では皇室ですぞ」  山川の大きな眼は光った。  それに中島は答えた。予想された質問である。 「さような比較は、この場合、適当でないと思われます。わが国の代々の天皇には左様なお方は一人もおられませんし、日本国民はひとしく皇室をお慕い申しあげております。また、動機が善なれば、その行為が悪になるということは決してございません」 「あんたは、その教科書を学生に教えるときに、別に註釈もつけず、批評もしなかった……そうでしたな?」 「はい」  中島はうなずいた。 「それは、どういうわけですか?」 「これは動機性善説でございます。読めば、生徒は了解すると思いましたから」 「しかし、その例として引いている、帝王を弑逆してもよい、という点は?」  山川はここぞとばかりに突込んだ。  中島は山川の表情をみて、一瞬に考えた。正確には、逡巡が生じた。ここで、突張るばかりが能ではない。一歩、退《さが》るべきではなかろうか。退れば、相手も寛容になるだろう。了解を得るのは、そういうところである。中島の肩には哲学館の存亡にもかかわる特典の去就が重くかかっていた。 「その引例につきましては……」  と、中島は少しく反省の色を示して答えた。 「読む人によっては、不穏当ととれる点がないでもございませんが……」 「不穏当どころではありません」  突然、山川は肩をそびやかして大声を発した。 「外国人がどんな倫理学をつくろうと、それは勝手です。しかし、その著書を教科書に採用し、弑逆も可なり、という引例をそのままになし置いたのは不穏当どころではありません。実に、大不都合です」  山川は、特徴の、大きな眼をむいている。  中島はそのはげしい剣幕に返事が詰った。山川の声といっしょに絶望感が頭上に落ちた。  だが、このまま黙っていては、よけいに最悪の事態へ行く。単に謝っても同じことだろう。そう思った中島は、額に筋を出している山川に勇気を絞って云った。 「教科書というのは必ずしも、その一言一句が金科玉条であるとはいえません。これは単に教授の方便に止まります。瑣々《ささ》たる引例に至るまで、これを生徒に遵奉《じゆんぽう》させるというのではありません。また、その引例は、教師も生徒も日本の国体と参照して考えるから、特に今度の例には注意を払わないで参りました。もし、これが日本ならばどうだと生徒に訊かれたなら、むろん、あり得べからざる不合理であると答え、また生徒もそう考えているに違いありません」 「だが、弑逆という文字は、日本においては畏《かしこ》くも天皇に対し奉って考えられる言葉です。このような字句を教科書にそのまま用いているのは不都合ではありませんか」  山川は中島を睨んで云った。 「この場合の弑逆の文字は、おそらく、翻訳者の桑木厳翼氏が、英国王を殺したクロムウェルの行為を、その字句通りに訳したわけであろうと思われます。この点が誤解を生じたところだと思いますが、哲学館の生徒が井上館長の薫陶によって忠愛の念の厚いことは、決して人後に落ちないと信じます。どうか誤解を避けて、この間の実情をお察し願い、穏便なご処置をお願いいたします」  山川は、それ以上発言しなかった。明らかに不興なのである。  中島はさらに、ムイアヘッドの主義が決して着実を欠いている説でないこと、それにはこれをよくご吟味ねがいます、と云って、桑木厳翼の翻訳書一冊を差出した。  山川は標題に眼を走らせただけで手に取ろうともしなかった。  中島が辞去すると、山川は几帳面に玄関先まで彼を見送った。立ちはだかって腰をかがめたが、両足を式台に踏ん張った様子などは武士の作法そのままだった。  中島は、また荒廃した庭をすぎた。頭のかけた石の狐が彼を見送るようにした。中島は黒門の前に待たしてある人力車に乗った。 「旦那、これからどちらへ?」  車夫が梶棒《かじぼう》をあげて訊いた。 「そうだな、文部省に行ってもらおうか」 「へえ、かしこまりました」  中島の胸には鉛が詰っている。山川検定委員長との会見は不首尾に終った。予感どおりである。万一を期待しただけに、落胆は強かった。  俥に揺られながら中島は、山川との問答を心の中で繰返していた。いや、繰返し浮べているのは山川の憤慨した顔だった。  そのうち中島の心には、文部省や山川がこれほど哲学館の教科書にやかましく云うのは、つい、この前、いわゆる「四ツ目屋」事件が起って世論に非難され、文部省図書課長が譴責《けんせき》処分に遇っているので、そのとばっちりではないかという気がしてきた。  先月だったか、落合直文《おちあいなおぶみ》著の女子国語読本に「四ツ目屋」うんぬんという文章が載っているのが発見されて、高等女学校長会議で問題になった。四ツ目屋というのは江戸時代から両国にあって、猥褻な用具や媚薬などを売っている有名な店だ。「四ツ目屋は女ばかりをよろこばせ」などと、昔から川柳に多く詠みこまれている。  こともあろうに、それがいったん検定済の女子国語読本に載っていたというのだ。文部省は答弁に窮し、検定の疎漏を謝したうえ、図書課長渡辺|薫之助《くんのすけ》を文官懲戒令で譴責した。  文部省が「弑逆も可なり」にひどくこだわっているのは、この過失を他に転じようとした下心ではあるまいか。——中島には、どうもそう思われてきた。  しかし、想像はあくまでも想像である。こんなことをいくら考えても、目下降りかかっている難題の解決にはならない。  文部省のかくされた意図がどうであろうと、中島としては極力、破局を食い止める方向に尽力するほかはない。  文部省に着いた中島は、まず普通学務局長事務取扱岡田良平に面会を求めた。岡田は総務長官だが、普通学務局長が欠員だったため、この兼任となった。事務取扱とは局長代理である。  このときの中島と岡田局長代理の問答も、隈本有尚視学官や山川検定委員長の場合とほぼ同じである。誰が質問しても同じような内容だから、返答も同じになってしまう。  岡田局長代理も、クロムウェルのことを挙げたのはわが国においては不都合な引例ではないか、と中島に問うている。 「まことにおっしゃる通りです。けれども、これは理論の説明として引いただけで、実際上、わが国では左様な不祥事は思いも及びません」  中島は何度も同じような返事をしているので、いくらか云い方が巧妙になっていた。  哲学館では弑逆を是認するような講義をしたことがあるか、と局長代理は第二問を発した。 「今度のことは、理論の研究のために力を取られて引例の当否に注意しなかったまでです。この点、こちらの不用意でした。しかし、実践道徳上の講義は、かねて館長井上円了博士が常に慎重の注意をし、軽率な断言をしないように生徒に訓戒しております。これは何人も知っていることです。哲学館生徒はすでに一年生からして、日本には弑逆のごとき不祥事が起るとは考えておりません。したがって、外国書にこのような引例があるからといって、理論的にはあるいは首肯するとしても、わが国体を考えた場合、これを現実的に是認するような不心得者は、生徒の中に一人もないことを断言いたします。もし、わたしの云うことをお信じにならないなら、あなたが直接間接に十分に哲学館を視察して下さるようにお願いします」  ムイアヘッドの説は、グリーン氏の説と関連しているか、と岡田は最後にきいた。 「ムイアヘッド氏はグリーンの倫理学の流れを汲んでいますので、当然、関連しています」  いま、日本の倫理学界に注目されているのは、イギリスの哲学者グリーンの「自我実現説」だった。一種の個性尊重論である。この学説が目新しいというので、倫理学界を風靡する勢いになっている。ムイアヘッドの倫理学は、このグリーンの説を入門書用として平易に書き直したものだった。  そういうことは岡田局長代理も知っている。知っているから、岡田もむげには中島の陳弁を排斥しなかった。腕を組んで、しばらく眼をつぶっていたが、 「だいたい判りました」  と一言いった。 「え、お分りいただけましたか。では、ご了解を得たので?」  中島は眼を輝かして岡田の顔をのぞいた。 「いや、それはわたしだけは了解したということですよ」  岡田局長代理は、それだけ云うと、今日は多用だからと匆々《そうそう》に席を起った。  だが、中島は、局長代理の言葉に光明が射したような気がした。殊に山川検定委員長との不首尾の面会の直後だっただけに、よけいに岡田の言葉が頼りになった。  しかし、どうも気になるのは最後の彼の言葉である。自分だけ了解した、というのは果して局長代理としての資格なのか、個人岡田良平としての納得なのか、この辺の区別の判断がつかぬ。  もし、後者だとすると、あるいは、その場逃れの口実とも取れないことはない。たとえ、岡田の言葉に誠意があったとしても、個人的な了解というのは文部省全体の意見とは切り離された話で、意味はない。中島にはまた新しい心配が起った。  彼は同じ庁舎の暗い長い廊下を歩いて、松村という検定委員会主事を訪ねた。  中島は主事に会って云った。 「文部省では、哲学館で教授した倫理学説そのものを不穏当と考えているとの風聞が伝わっています。事実なら、それは大変な文部省の思い違いであるから、もう一度調べて判定をお願いします。世上では、哲学館の中等教員無試験検定資格の特典を文部省が取上げるように噂していますが、左様なことはないでしょうな?」  これに対して松村検定委員会主事は、そんなことは上司からも聞いてないし、また今度の問題は自分は何も相談されてないので、全く関知していない、と答えた。  哲学館では、すでに卒業試験も終って、中等教員資格免状の申請を文部省に送達している。そこで、中島は、 「何よりも生徒がことの成行を心配しています。早く免状が下付されるように、貴下からもお取計らいを願いたい」  と頼んで、その部屋を出た。  中島徳蔵は、これだけではまだどこか足りないような気がした。彼はふと、この前学校に来た両視学官のうちの隈本繁吉を思い出した。  試験後に執拗な質問を繰り返した隈本有尚視学官は、今度の問題の火つけ役であるから、この上、彼に了解を求めても無駄である。だが、隈本繁吉視学官は、あのとき終始沈黙してあまり発言をしなかった。その様子から、なんだか隈本繁吉視学官は同僚の隈本有尚視学官に遠慮しているようなところがあった。内実は哲学館に同情していたのかもしれない。この際、あの隈本繁吉視学官に会って、あらためて了解を取りつけるのも無駄ではないと、中島は心づいたのである。  彼は一旦、文部省の玄関を出かかったが、再び足を返して、今度は視学官のいる普通学務局に向った。  すると、その辺がなんだかざわめいている。廊下に職員らしいのが三、四人立ってひそひそ話をしているし、足早に往復する高等官もいる。また、文部省の人間とは思われない人の姿もうろうろしていた。慌しいなかにも何となく沈痛な空気だった。  変だなと思っていると、向うからせかせかと書類を小脇に抱えて歩いてくる人物がいる。今の中島にとって忘れることのできない隈本有尚視学官の顔だった。  隈本有尚も中島の鼻の先まで来て、ふいと彼を認めてちょっと立停った。それまでは心がどこかに向いていたらしく、近くにくるまで気づかないでいたのだ。  悪いところに、と中島は思ったが、先方でも妙にばつの悪い顔をしている。 「先日はどうも……」  中島は取敢えず挨拶した。 「やあ」  隈本有尚視学官は少し当惑そうな顔をした。中島は云った。 「先日の件ですが、どうも不安な噂が流れているので、われわれ哲学館の者は甚だ憂慮しております。この前いろいろ申しあげたように、よろしくご了解を願います」  実は、これは隈本繁吉視学官のほうに云うべき言葉だが、ここでひょっこり隈本有尚視学官に出遇ったので、こっちのほうが先になったのだ。 「あなたは、あの問題でまた役所にこられたのですか?」  隈本有尚視学官ははじめから妥協のない表情で問返した。 「今も局長代理と検定主事に陳情してきたところですが」 「局長代理はどう云っていました?」  隈本有尚視学官は探るような眼つきをした。 「こちらの説明に、自分だけ了解したと云われました」 「ふん、自分だけね」  隈本有尚視学官は半ば鼻にかかったように呟くと、 「そうですか。なるほど。……では、わたしはちょっと急ぐ用事があるので」  と彼は、風のように忙しそうに離れて行った。  中島は、隈本有尚視学官の今の態度をみてもとうてい妥協性のないこと、そして岡田局長代理の答弁を聞いてから見せた軽蔑的な表情は、彼が上司の言葉にそれほどの権威を認めていないことを知った。この場合の権威の無視とは、明らかに局長代理が個人の資格で答えたことへの安心のようでもあった。してみれば、局長代理のあの言葉は、文部省としての意見を代表していないし、全体への拘束力もない。  中島は、またまた不安が大きくなって、今度は目的の隈本繁吉視学官の姿を求めた。だが、いつもなら視学官たちが多勢いる部屋ががらんと空《す》いていた。会議か何か始まっているのかな、と思った。  中島は、会議なら、それが済むまで待とうと思い、廊下の端に立っていると、顔見知りの職員が向うからやって来た。中島は呼び止めた。 「隈本繁吉視学官に会いたいのだが、いま、どこにおられますか?」  その職員も慌しい様子だったが、 「隈本繁吉視学官ですか?」  と、妙に複雑な顔をした。 「ぜひ会いたいのですが」 「あなたは何もご存じないんですか?」 「え、何をですか?」  職員はすっと中島の耳の傍に来て、低い声でささやいた。 「隈本繁吉視学官は、たった今、警視庁に連れて行かれたんですよ」 「何ですって?」  中島は職員の顔を見つめた。 「とうとう、本省にも教科書問題の手が入ったのです。どうせ新聞にはあとで出るでしょうが、隈本繁吉視学官も教科書会社から贈賄を受けたという嫌疑です」  中島は呆然となって文部省を出た。  ただならぬ空気は、警視庁の手入れが文部省に及んだためだったのか。隈本有尚視学官が妙にそわそわしていたことも、その前の岡田局長代理の今日は多用だという言葉もそれで分った。  山川検定委員長の家に向うときの車上で、号外を読んだ記憶は中島に新しい。だが、こんなに早く当局の捜査が及ぼうとは思わなかった。文部省も遂に省内から縄つきを出した。しかも、その一人が隈本繁吉視学官だとは——。  そういえば、哲学館の卒業試験に立会ったときの隈本繁吉視学官は、顔色が勝《すぐ》れないように見受けた。終始、同僚の隈本有尚視学官に任せて黙っていたのも、実はすでに今日あるのを予感して、うち沈んでいたのか。中島は、あのとき黙っていた隈本繁吉視学官を頼りにしていた自分の思い違いに苦笑した。  だが、教科書事件のこの発展は、中島の心をさらに暗くさせた。その影響が怕《こわ》いのである。「四ツ目屋」問題でさえ今度の云いがかりの原因になったのではないかと思っているのに、今回は、はるかに大きな文部省の不面目が出来《しゆつたい》した。この失態は、さらに哲学館の行方をきびしい方に持って行きそうである。  事態はますます悪化の一途をたどっている——中島の心は沈んだが、こうなると、もう岡田局長代理の言葉だけが一本の藁であった。  中島徳蔵は疲れ切って哲学館に戻ってきた。  彼は、早速、そこで職員会議を開いた。他の職員も、中島が今日山川検定委員長を訪問したことを知っているので、帰らずに残っていた。  中島は、山川との面談の模様や、文部省で岡田普通学務局長代理と問答した模様を一同に報告した。 「現在の見通しとしては、残念ながら、わが哲学館に甚だ情勢が非である。しかしながら、なんとしてでも、中等教員無試験免状下付の資格を文部省が取上げぬよう最善の努力をつづけるつもりである」  席上、いまロンドンに滞在中の井上館長にこのことを報告したほうがいいという意見も出た。しかし、中島は云った。 「まだ、結果はどうなるか分らない。あるいは無事にこのままおさまるかもしれない。洋行中の館長によけいな心配をかけるのは適当でない」  しかし、結局は、館長にこの降って湧いた災難を報告しなければいけないことになる。  中島が会議を終ったとき、もう、外は昏《く》れていた。その暗い廊下に中島を待っている生徒が三、四人いた。 「先生」  と、彼は呼び止められた。その一人が問題の試験答案を書いた工藤雄三であった。 「先生、免状は無事に貰えるでしょうか?」  と、眼の太い工藤は級友を代表した恰好で心配そうに訊いた。 「いま、そのことで文部省と話合中だ。だが、君たちの心配するような結果にはならないと思う。あまり噂に動揺しないほうがいい」  と、中島は云ったが、それはおのれの不安に半分云い聞かせたようなものだった。 「ぼくらはみんな気づかっています。あんまり世間の噂が高いので、どうなることかと落ちつきません。免状下付の申請は、もう、学校から文部省に出ていますか?」  別な一人が云った。 「提出してある」 「例年だともう下付されているころですが、未だにそれがないというのは、やはり世間で云っている通りになるのでしょうか?」 「今も云った通り、根も葉もないことを人は云い立てるから、それに惑わされてはいけない。われわれは必ず君たちの免状は貰ってやるから心配するな」  と、中島はなだめた。 「先生」  と、下を向いていた工藤雄三が顔をあげた。 「ぼくの試験答案でこんな騒ぎになり、申しわけありません。けど、ぼくのために卒業生全体に免状が下りないとなると、ぼくはじっとしておられません」  工藤は福岡県朝倉郡の生れだった。小学校は土地だったが、中学校は福岡の中学を出ている。一年生からずっと首席をつづけていた。それで言葉に九州|訛《なまり》がある。言葉だけではなく、その顔つきも、いかにも九州系らしい、色の黒い、唇の厚い若者だった。 「先生、ぼくだけが免状を貰わないで、皆を助けることはできませんか?」  頑丈な身体の工藤は中島を見つめて云った。 「ばかなことを云ってはいけない。君個人のことで今度の問題が起ったのではない。そんなことをいえば、君に最高点を与えたぼくがこの学校を辞めさえすれば面倒が片づく道理になる。だが、そうではないのだ。殊に君は生徒だから、何の責任もない。ぼくは君に最高点を与えたように、君がぼくの教えた倫理学をよく勉強していることを認めているんだよ。君はただ、その通りを答案に書いただけだ。問題は、いま、教科書の倫理学そのものが論議の対象になっている」  中島はうしろの者にも云った。 「とにかく、みんなは心配しないで待っていてくれ」  それでも、工藤だけはよほど責任を感じているのか、まだ、ひとりだけそこにぐずぐずして居残っていた。 「工藤君」  と、中島は彼の肩を叩いた。 「君は自分の教わったことをその通りに書いたのだから恥じることはない。これからも自分の信じていることは曲げないで、どこまでも堂々と主張するのだよ。ただ、世の中には、信じていることをそのまま表現した場合、意外な摩擦が起きることもあるのだ。そこが世間のむつかしいところだ。が、そんなことは、若い今の君が考える必要はない。だんだんに自分で分ってくることだ。もういいから、あっちに行きなさい」  工藤は、はい、と低く答えると、お辞儀をして皆のあとを早足に追った。  文部省から野尻という事務官が哲学館に来たのは、それから五、六日経った十二月十四日だった。事務官は、哲学館の中等教員無試験免許の取消しを公式に伝え、その理由を口頭で簡単に説明した。 「処分の主な理由は、哲学館で使用した倫理教科書にあって、別に学校の設備をうんぬんするのではない。この教科書には、国体上容易ならざる不都合の点を含んでいる。もし、卒業生がこの意味で中学校や師範学校で教授しては憂うべき事態となる。  また、哲学館の教師が不都合な思想を抱いていることは、哲学館から文部省に出している書面、および、中島講師より哲学館に提出している書面でも分る。さらに、不都合な文句を引用した生徒の答案に中島講師は最高点を与えている。したがって、哲学館における倫理科教授が不都合なのはまぎれもない事実である。普通なら、このような教師を置いている哲学館の処分は、その閉鎖をも云い渡すべきところだが、今回は特に中等教員の認可取消しの程度でとどめる。しかし、倫理科の主任教師は引責辞職させるのが当然と思う」  文部省が正式に出した処分書は、四日後の十八日に哲学館に届いた。 [#ここから2字下げ] 「貴館教育部第一課及ビ第二課卒業生ニ対シ明治三十二年文部省令第二十五号第一条取扱ヲ与フルノ件ハ自今取消ス   明治三十五年十二月十三日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]文部大臣理学博士 男爵 菊池大麓《きくちだいろく》」  事態は最悪となった。   挑戦[#「挑戦」はゴシック体] [#ここから1字下げ] 〇 苦にするな暴《あら》しの後に日和《ひより》あり 〇 伐《き》ればなほ太く生ひ立つ桐林 〇 今朝の雪畑を荒すと思ふなよ      生ひ立つ麦の根固めとなる 〇 火に焼かれ風にたふされ又人に      伐られてもなほ枯れぬ若桐 [#ここで字下げ終わり]  狂句と道歌は、中等教員免状取上決定の悲電に接した館長井上円了が、英京ロンドンから寄せた激励である。  井上は、ひとまず、電報で、哲学館の職員一同に謹慎を命じている。文部省の心証をよくして特権の回復を考えたからだった。  しかし、井上が遥かイギリスからのんきな狂句や道歌を寄せてきたところで、問題の解決には役立たない。ひとえに中島徳蔵の努力にまつほかはなかった。  文部省は菊池大麓大臣の名で卒業生一同に対し、文部省令第二十五号第一条の取扱い、すなわち、中等教員無試験資格認定の特典を公式に取消してきたが、書類の面では、何ら理由の説明も加えず、ただ野尻事務官が口頭で伝えただけなのだ。  中島は文部省の取消し告示を次のように整理してみた。 (一) 今回の卒業生は、既得の権利として無試験検定を出願したが、全員不合格となったこと。 (二) これから卒業すべき第一科(倫理、教育)、第二科(国語、漢文)の生徒、すなわち、目下の第三、二、一年の三学級の生徒は、まだムイアヘッドの不都合な引例を教授されていないが、これも卒業生といっしょに特権の認可を取消されたこと。 (三) 中島徳蔵は、右不都合に坐して、哲学館ならびに兼任の東京高等工業学校倫理科講師を諭旨退職せしめられたこと。  ——大体、この三点に絞られると思った。  中島は、自分の進退、すなわち、第三の諭旨退職は覚悟のうえだったが、どうしても納得がいかないのは、卒業生全員が無試験検定に不合格になったことと、目下在学中の生徒からも同資格の特権を取上げたことの二点である。  もし、百歩譲って工藤雄三の答案がいけないとならば、工藤だけを特権からはずせばよい。それなら、まだ筋が通る。しかし、他の卒業生は、工藤と同じ答案を書いていないし、なかには全く逆な結論を書いた答案もある。それらを全部いっしょくたにして不合格にしたのはまことに解《げ》せない。  また、卒業生に対しておこなったこの処分が、さらに在学中の全生徒に及んでいるのは、不条理である。しかも、在学生にはまだムイアヘッドの倫理学を教えていないのだ。  以上のことから、文部省は哲学館、というよりも私学の撲滅を意図しているのではないかと中島にもおぼろに察しがついてきた。  この意図が文部省のどの辺から出ているのか、中島には見当がつかない。まさか菊池大麓大臣の方寸とも思えない。菊池は数学者だからそんなことは考えまい。あるいは文部官僚が考え出したことかもしれぬ。前の「四ツ目屋」事件といい、いま起っている教科書疑獄といい、世論の攻撃を受けている文部省役人が、こんなところで仕返ししようと図ったのかもしれぬ。ことに、後者ではいよいよ文部省内部から縄つきを出したというので、世上では菊池文相の引責辞職がとり沙汰されている。……  中島の悩みのうちに、その年は暮れた。  彼は、三十六年に改まった暗い正月をすごしたあと、一月十八日の午後、文部省に岡田普通学務局長代理を訪ねた。  文部省の意向がどの辺から出ているにしろ、当該長官である岡田に会わなければ解決ははかれない。中島は、免許取上げを、せめて工藤雄三だけに止めてもらうよう懇談するつもりだった。もとより、自分の諭旨退職には文句はつけない。ただ、罪もない他の卒業生や在学生を、この理不尽な処分から救いたかった。 「局長代理はいま御用繁多で、とてもご面会はできないそうです」  事務官が出て中島に云った。 「では、御用の済むまでお待ちしてもよろしい。ほんの五分か十分で済むことです」 「いや、それはお待ちになっても無駄でしょう。また日を改めて出直して下さい」  事務官は冷たく断わった。  中島は空しく文部省を辞したが、ここで何とか今度の事件の原因を掴みたかった。今の状態では文部省と押し問答をしているだけである。いや、問答にもなっていない。一方的な押しつけだった。誰か事情をよく知っている者に訊《き》いてみたい。  中島がそこで思いついたのが、今は退職している或る元視学官だった。この人とはかなりの面識がある。  その家はちょっと遠い。品川であった。だが、苦労を厭《いと》わない中島は新橋まで歩いて、そこから品川行の鉄道馬車に乗った。  新橋、品川八ツ山下までは、東京電車鉄道の経営である。しかし、まだ電気化はされず、その前社名の東京馬車鉄道会社の名が示す通り、客車は馬に引かせていた。  近く電化される計画をめぐって、東京市街鉄道、東京電気鉄道の二社の間に合併問題が起り、目下紛糾している。  中島が、その鉄道馬車に乗って品川に訪ねた元視学官は、彼の問いに、こんなことをボソボソと話してくれた。 「哲学館の問題は、自分もとっくに聞いている。また、今度の処分がひどいということも知っている。文部省の意図が奈辺《なへん》にあるかは、ぼくにもよく分らないが、こういうことは云えるだろうな。つまり、視学官の隈本有尚君は、日ごろから、ムイアヘッドの説をまことに危険だ、と人には云っていたそうだ。だから、哲学館の試験答案が、隈本君に狙い打ちにされたんじゃないかと思うな」  中島には初めて聞く話だった。  してみれば、隈本視学官は、工藤雄三の答案からムイアヘッド説の危険なることを知ったのではなく、前から、それが教科書に載っているのが分っていたのだ。では、隈本視学官は、なぜ、試験答案を待たず、教科書自体について注意を与えなかったのか。  この疑問に対して、その元視学官は、 「その辺のところは、ぼくには何とも説明がつかない。まあ、いま云った話も、ぼくから出たとは人に云わないでくれ。君や哲学館の立場があまりに気の毒だから、つい、内情を話しただけだ」  と、あとは話を逃げた。  これには何か陰謀があるらしいと中島が気づいたのは、このときからである。ムイアヘッドの倫理学は、なにも哲学館だけが教科書で教えているのではない。桑木厳翼補訳のものを掲載したこの教科書は他の学校でも使っているところがある。それを哲学館だけ狙ったのはいかなる理由からか。これは、試験答案が不穏だということにしないと、哲学館が責められないからではないか。教科書に対しての注意なら、哲学館だけに、このような苛酷《かこく》な処分を科すわけにはゆかぬ。  中島は、胸が沸《たぎ》るような思いで、また鉄道馬車に乗った。彼は揺られながら、このことを一心に考えた。  馬は尻尾を空に立てて、ときどき糞をたれた。馭者は鞭を鳴らす。その鞭の音も、今の中島には耳ざわりである。隣の廂髪《ひさしがみ》の女二人の饒舌も気に障ってならぬ。そのいらいらした神経のなかで中島はずっと思案をつづけた。  文部省の理不尽さを考えているうちに、今度は学校全体に迷惑をかけた自分の責任の重さに移った。最後には、哲学館からも東京高等工業学校からも放逐されたのちの生活の困窮に考えが落ちてくる。文部省に睨まれて罷免された教師を拾ってくれる学校はあるまい。その新しい怒りがまた根本の文部省の処分に戻るという具合で、馬車に乗っている間じゅう、彼の思案は同じ所をぐるぐる回っていた。  新橋に着くと、彼は辻待ちの人力車に乗った。明日の収入を考えると、こんな無駄づかいはできない気持だが、学校では中島の戻りを待って職員が帰らずにいる。岡田局長代理との会見の顛末《てんまつ》を聞きたいからだ。事件以来、職員会議は頻繁に開かれてきたが、初め気を揉んでいた職員たちも、この処分の回復がむずかしいと分ってからは、中島に対する同情が、いくらか妙な空気に変っている。彼をこの危機を招いた下手人のように見る眼もあった。  新橋から原町までは長い。その長い車上でも中島の思案はつづいた。 「旦那」  と、走っている車夫がうしろ向きに声をかけた。中島は眼をあけた。俥《くるま》はいつのまにか水道橋を渡っていた。 「あれをご覧なせえ」  車夫は顎を振ったつもりだが、饅頭笠《まんじゆうがさ》がちょいと動いたにすぎぬ。 「あの濠端《ほりばた》を俥が走ってますが、お目に止りましたかえ?」 「うむ?」  なるほど、お茶の水から濠沿いの坂を勢いよく下っている後押しつきの俥がある。しかし、寒気を避けるためか幌《ほろ》が下りていた。 「あれ、誰の俥だかご存じですかい?」 「幌がかかっているから分る道理はないね」 「あれは下田歌子《しもだうたこ》ですよ」 「なに、下田歌子?」  中島は、もう一度眼を凝らしたが、向うの俥は水道橋の袂《たもと》を横切って、飯田橋のほうへ駆け去っていた。 「下田歌子って、旦那、ご存じありませんかえ?」  車夫は水道橋を渡り切って春日町《かすがちよう》のほうへ走りながら云う。  中島の眼には、黒塗の蒔絵《まきえ》の俥の背が残っていた。 「うむ、名前を聞かないでもない」  車夫は、いままで黙っていた客が受けてくれたので勢いづいて話しだした。 「下田歌子ってえのは、大した女だそうですね」 「そうかね」 「なんだそうじゃありませんか、いま、華族女学校の学監というんですかえ、生徒を監督するえらい先生だそうじゃありませんか」 「そうだね。しかし、君は、幌をかけた俥を見て、それが下田歌子さんとよく分ったな?」 「そりゃこっちも商売ですから、俥をひと目見ただけでちゃんと分ります。あの俥は、下田歌子が秋葉大助《あきばだいすけ》に特別注文で造らせたものでさ。輪を細くして華奢《きやしや》に見せかけているところなんざ、やっぱり洋行帰りのハイカラぶりですな」  中島を乗せた俥は春日町のゆるやかな坂をのぼったが、車夫はむだ口をやめなかった。 「下田歌子てえのは、凄い別嬪《べつぴん》だそうで、歌はうまいし、宮中では大もてだそうですね」 「そんなことは知らないが、君は俥をひと目見て下田さんのものと分ったくせに、まだ当人の顔は見てないのかい?」  中島もくよくよと思い悩んだあとだけに、少し気分晴らしに車夫を相手にした。 「そいつが、旦那、あっしが出遇うときはいつも運悪く、ああして幌をかけたときばかり、とんと簾《すだれ》の中のお姫さまを拝むような心地でさあ。おっとお姫さまじゃねえ、五十に近い大姥桜《おおうばざくら》のその面《つら》をいっぺん見てやりてえと思ってますがね」 「おいおい、君も口が悪いな」 「なに、あっしばかりじゃありません。誰に聞いても、下田歌子の評判はよくありませんよ。なんでも、若えときからだいぶん偉い人を籠絡《ろうらく》してきたそうじゃありませんか」 「さあ、よく知らんね」 「もっぱらの評判ですぜ。伊藤侯爵や山県《やまがた》侯爵などをたぶらかし、ずいぶん上《うえ》つ方に顔を利かせてるそうですね。五、六年前、外国に二年間行ってたそうですが、それも伊藤侯爵あたりからの差しがねだそうですよ。今も飯田橋のほうへ俥を急がせて行きましたが、あっしの見当では、目白台の椿山荘《ちんざんそう》と睨んでやすがね……そんな不品行な女が華族女学校の監督なんですから、どうも世の中は解せませんね」  中島は、あとの返事をしなかった。もし相槌《あいづち》を打てば、際限なく車夫の悪口はつづくに違いない。そういう陰口を中島は好まない。  下田歌子の噂は、彼も聞いていないではなかった。車夫までそれを知っていると思うと、世間の早耳におどろいた。  そうすると、哲学館のことも間もなく世間にひろがるに違いない。そのときはどのような風聞になっているだろうか。世間では表面のことしか云わない。深い事情を知らないばかりか、文部省の口車に乗せられる危険もある。哲学館では、天皇さまをも殺していいと教えているそうな。そんな云い方で伝わらないとも限らない。  もし、そんな歪《ゆが》んだ風評になったら、それこそ哲学館自体の存亡問題になる。車上の中島は、また重苦しい気持に襲われた。  翌十九日の午後、中島は、もう一度文部省に岡田良平局長代理を訪うたが、今度も面会を断わられた。  これで中島の肚《はら》は決った。岡田が面会を避けているのは、すでに話合いの余地がないということであろう。余地がないというのは、文部大臣名で特典取消しの公文書を出しているので、今さらどうにもならぬということに違いない。せめて在学生だけでも救いたいと思っていた中島も、今度は決心するところがあった。  むろん、こうすれば、ますます文部省を硬化させることは分っている。だが、すでに処分が決定した以上、この上、膝を屈して何の憐憫《れんびん》を求めようというのか。  中島は、その晩から机の上でせっせと原稿を書きはじめた。読売、時事、日本、万朝報《よろずちようほう》など各新聞に投稿するためだった。 「ムイアヘッド氏の倫理学中、第二篇第二章第二十三節の文章を批評せず、抹殺せず、あるいは、特にその不都合であることを生徒に知らせないで教授したことが果して文部省が処分するほどの教師の重大な不注意であろうか。自分は倫理学教師として、先輩各位の教えを乞い、日本の教育界に過誤のないように願うものである。  まず、今度の問題では、教育行政上、自分には次の疑問が生じてくる」  ここまで書いてきた中島は筆を休め、あとは一気に書きつづけた。 「もし、かりに右の問題が教師の不注意から起ったとしよう。しかし、それは監督不行届きとして学校全体を重く罰すべき性格のものだろうか。  文部省は平素から何ら巡視らしいものはしてない。しかるに、たまたま今度の卒業試験の際、初めて臨場して教師の一不注意事件を発見した。そして直ちに認可取消しを断行したのだが、果してこれは適切な処置であろうか。行政官には何の親切もないのだろうか。  また、その不注意に直接関係した当該卒業生は直ちに不合格という不運を甘受しなければならないだろうか。その不注意とは何らの関係のない今後の卒業生に対しても懲罰的な認可取消しの必要があるのだろうか。  また、右のごとき不注意をした教師を果して諭旨退職させなければならないだろうか。  一体、文部省は、公私立学校監督上で公平を欠いているように思われる。  たとえば、同一程度の公私立学校の授業中には、たとえ高等教育上とはいえ、はっきりムイアヘッドの引例以上に、教育上危険な主張を生徒に鼓吹しているものなしとはいえない。  また、文部省検定試験に応じた者の多くが、ムイアヘッドの書を読んだと口答したのは事実だ。しかるに、いまだ曾《か》つてその本の中に不都合なことがあるという注意を文部当局が発したのを聞かぬ。もし、今回のような事態の大不都合があれば、検定委員は事前にこれに注意する責任があると思う。それを注意しなかったのは、哲学館とその講師に対すると同等な責任が検定委員にもあるのではないか。  今回の処分はあまりに過酷である。したがってわれらは、ここに文部省に対して幾多の邪推を抱かざるを得ない。たとえば、視学官隈本有尚君は、平素からムイアヘッドの倫理説を以て危険なものと排斥していたと確聞している。その一方的な主観を以て報告を書き、これに従って文部省は処分を決定したのではないか。  さらに「閉鎖をも申しつくべきところなるも特別の緩典」うんぬんと言われたのを思えば文部省の真意が最初から単に教師の一不注意事件とみなしていなかったことが分る。すなわち、文部省は、ムイアヘッドの学説を当初から弾劾しようとの形跡が窺われるのである。  また、教員資格検定方法にも不公平がないとはいえない。文部省は、公立学校には僅か数葉の形式的な文書で免状をすぐ授与するにも拘《かかわ》らず、私立学校には、生徒の三年間の成績調査して後、はじめて及落を決し、しかも、僅かな不注意事件があれば、忽《たちま》ちこれを不合格とする。これは全く、不公平な差別的処置ではないか。かつ、この常任検定委員の中には倫理専門の人は一人もいない。倫理専門上の疑義があった場合どう措置するつもりだろう。疑義なしということでこれを軽々に措置した場合、一体、その責任の行方はどうなるのだろうか」  そして、中島は「高等倫理学の教授に関する余が弁解」と題する気宇壮大な糾弾文にとりかかる。——  その「哲学館事件及び余が弁解」は、約一万字に及ぶ長文の抗議だが、まず事件の顛末を述べてから約八千字にわたって本論を展開する。 「……文部省、並に余が教を受けたる先輩、及び同学の士は、「ム」氏の学説を罪するものは殆《ほと》んど之《これ》なきが如し。故に今余は此《この》点に就て云ふの必要なし。「ム」氏の説は倫理学上至善を以て自我実現にありとし、又|洽然《かふぜん》或ひは一般の善にありとす。而《しか》して此二つは善悪を両面より観察して説けるものにして、曾て異なれる二致ありとするに非ざるなり」  という書き出しではじまる内容は次のような意味だった。  ——自由は、人間にとって至上ではあるが、これはただ抽象的にいうだけで、これを実際に応用して道徳律を作るには、国家、社会、歴史などの特殊性を参酌《さんしやく》しなければならないのはもちろんである。すなわち、ム氏は、時の古今、所の東西を通じ、固定した道徳の存在を認めないのである。  至善が、われらにとって最上価値あるものとすれば、この最上価値のために、時と所によってはわれらの行為は千差万別となる。であるから、自由の解釈次第では、所と時によってはクロムウェルの弑逆《しいぎやく》を是認することもあり得るのである。もちろん、これは緊急事態の場合、非常の人によってなされることで、平時のことではない。ム氏といえども、秩序のますます整頓した今日、云いかえれば、自由のますます伸長せられた今のイギリスにおいて、現実の問題として上に述べてきた論理を述べたわけではない。  要するに、ム氏の説は、今のイギリスでも実際上の問題として扱われるなら、それは社会秩序の全体を破壊する積極論となるから、危険な説といわなければならない。さらには、不忠不敬の主張といわなければならない。英国政府がいかに言論思想の自由に寛容であるとしても、どうしてこのような狂的な説を許そうか。それをしないのは、ただ彼の著述に現われたものが単なる抽象的な文句で、「至善のためには非常の手段を是認することもあり、また通例人が悪だと思っていることもやむを得ない場合にはこれを善と認めることもある」と学問的に云ったまでだからである。ム氏の一言は、決して今のイギリスに革命を是認するものではない。ましてや今日の日本にひきくらべてはなおさらのことである。  倫理学は、学として理論的研究をなすもの。理論的研究とは、抽象的真理を立てることである。抽象的真理は、最大要義を明らかにするために、特殊な例を没却させて普遍化するものだ。であるから、当然、その性格は均等化され、無差別的となる。すなわち、必ずしもすぐに実際上実現せらるべき具体的理念ではない。ただ、健全な具体的理想を構成するためには、人生目的における最大意義を知る必要が生じるのであるから、そのために抽象的真理の研究が入要となるのである。つまり、倫理学の本質論は、主として抽象的真理を取扱うわけである。  そして、この抽象的真理なるものは、もし、その論述の片言隻句《へんげんせつく》を捉えて勝手な解釈を加えた場合、いかがわしい結論にも到着する危険をはらんでいる。だから、学者にとって、俗人の邪推的な解釈ほど迷惑なものはないのである。  たとえば、倫理学上の真理は利己にありとして、人生の目的は自己のために計るにあるといった場合(これは、わが加藤|弘之《ひろゆき》博士の説であるが)、それを邪推解釈するなら、他人に対してはどうなるのか、社会、国家に対してはどうなるのか、という設問が生じ、結局、利己とはまことに危険千万な説であるということにもなろう。いうまでもなく、これは、自己という観念を解していない無学者の誤りである。  また、井上哲次郎東京帝国大学教授は、人生の最要義は大我にある、現象上の理想を追求するにある、と云うておられる。これに対しても同様の誤解が生じよう。井上教授の説がまだ俗人の理解するところに至っていないのは幸いだが、教授の説くところは少なくとも国家主義ではないのである。  さて、ム氏の引例は、ただクロムウェルを罪しないという消極論であって、それも歴史上の一例である非常事態として是認したまでである。だから、英国人はム氏がイギリス皇室に対して不敬者であるとは考えていない。  しかし、ム氏の著書のその部分を講義するに当って、私が、わが国の国体上、その不都合なる点の註釈に気づかなかったのは事実である。だが、この一事実を以て私が日本臣民としての常識を持っていなかったという証《あかし》にはならない。私も、かの問題の抽象的文句が、今のわが日本皇室の上に誤って引き直された場合を思って、瞬間、初めてこれは恐れ多きことだと気づいたのである。これは大不忠になるのではないかと疑った。そして、この一句を口にするだけでも不快となってきた。そして、私は感情上、このような論議をすることさえ実に忌むべきことだと思ったのである。この気持は現在でも変らない。  しかし、また一方で考えると、これは倫理学上の研究であるから、その研究の到達した末が忠愛の点に背くことがなければ、この間に別に合理的な説明をする必要はないようにも考えられたのである。そこで、自分がム氏の文句を読んだとき、まず念頭に浮んだのはカーライルの「クロムウェル論」であったが、この論に照らしても、私が決してわが皇室に不祥事を擬していないことが分ってもらえよう。  そこで、あるいは質問があるかもしれない。もし、哲学館生徒が日本国民の大義に通じたものであるなら、その優等生が試験の答案にかかる不都合な文字を書いたのはいかなるわけかと。——それに対して自分の答えは用意されている。すなわち、答案中に現われた文句は、その生徒が単に教科書中にある抽象的概念の記憶を写したにほかならないと。この生徒の胸中にはこの教科書の棒暗記のみがあって、それをわが国体に照らして考えた形跡は少しもない。だから私は、いささかもこの答案に不穏を感じなかったのである。  ——一体、試験問題は一定時間内にかなりの問題を解答するのであるから、優等生とはいえ、どうしても棒暗記的な答案になる。これはやむをえないことである。だから問題になった文句が一優等生の答案に現われたとしても、これを以てすぐに哲学館生徒が国体上不穏な危険思想を持っているとは断定できない。  では、それなら何故にかの生徒に私が優等点を与えたか、という質問が次にあるかもしれない。これは、一、二点くらい教科書からの棒暗記的解答が見られたとしても、他の学科を通じての成績で、彼が授業をだいたい理解していると判断され、穏健の知能を修得していると私が認めたからにほかならない。教科書は、主として生徒の理性を自由に発展させるための道具であるから、私は教科書からは、その趣旨の大体を生徒に取らせている。ただ、今回のことで問題があるなら、それは動機論であるが、これについては、動機善にして悪なる行為ありや、という私の試験問題に対して、全く反対の趣旨を述べた生徒もあるのである。この生徒はリンカーンの暗殺の例を持ち出したりして、明らかにム氏の論をはき違えているのだが、しかし、私はこれにも高点を与えている。  いろいろ述べたが、要するに、今回のような議論を起したのは全く私の責任である。卒業生も、哲学館も、況《いわ》んや今後の卒業生も何ら関知しないところである。彼らには全然罪はない。例の問題は、その隻句について言葉尻を捉えるべきでなく、その抽象的真理を有機的、組織的に観察すべきである。そうしてこそ、初めて理論が正しく理解され、その上で、それが果して教育上不都合であるかどうかを判断すべきである。  今回のム氏の引例は本筋の論旨よりはずれた、いわば傍系的な引例であるからなおさらである。…… 「……高等倫理教授上、這般《しやはん》の問題に就ては、余は敢て自身の正しさを主張せず。もし世の学者、教育家の合理的解釈によつて、余が非を明らかにし、蒙を啓《ひら》くものあらば、余は翻然道を改むるに吝《やぶさか》ならざるなり」  このように中島の抗議の文章は結語した。  この稿は、読売、時事、日本、万朝報などの各新聞に掲載された。  読売新聞は、これに対する当事者の隈本有尚視学官の答えを求めた。が、隈本は、自分では直接に筆を執らず、記者に口頭で語った。それは一月二十九日付の同紙に隈本視学官談として掲載された。 「お尋ねにより一応、哲学館の認可取消し事件の事実をお話しいたそう。哲学館には教育部というのがあって、この部を卒業した者は無試験で中学もしくは師範学校の教員になれる資格を有していますが、その卒業試験のときには文部省から視学官が出張して、その問題並びにその答案を検討することになっています。さて、この度の試験に際して私が出張を命ぜられて行ってみると、そのときの試験問題が「動機善にして悪なる行為ありや」というので、学生はいずれも動機善なるときは行為もまた善なりとの意味の答案を差出しました。  そこで私は、いかなる教科書を用いているかと訊いたところが、ムイアヘッド倫理書を用いているということでした。よって私は講師にむかって、この倫理書に説明もしくは批評を加えているかということを尋ねたところ、講師は書物にある通り教授して別段説明や批評などを加えておらぬ、との返答でした。  役所に帰ってから私は右試験の顛末につき一片の意見書を上局に差出し、ム氏の倫理書に少しも説明を与えず、原書のまま教授するのは穏当ならぬ旨を具申しました。文部大臣は早速書面を以て哲学館にその事実を照会に及び、それは一視学官の誤解によるのではないかと問合せました。ところが、井上館長と中島講師とは調印の上、試験問題を初め答案のこと並びにム氏の倫理書に説明を加えない旨私が上申した如く回答して来ました。  そこで文部大臣は、参事官並びに学者に諮問して、その可否の取調べを命じたところ、ム氏の倫理は一の学説には相違ないが、これを完全の倫理として、しかも将来教育の職に当る者が、その主義を取るに至っては穏やかならず、かつ、教師がム氏の倫理書をそのまま講じて解説を与えないのは注意を欠いたものと認め、遂に同館卒業生の無試験検定の認可を取消すに至った次第であります。  私個人の意見は、教授法を改正すれば認可を取消すにも及ぶまいという考えです。しかし、これは省議で一決した上ですから余儀ないことで、私からいえば、井上円了博士は同窓ではあり、中島講師には気の毒に思いますが、もし、目的が善ければ手段は構わぬとすれば、伊庭想太郎や、島田一郎、西野文太郎、来島恒喜《くるしまつねき》の行為も否認されぬわけとなり、日本の国体上容易ならぬことにもなりましょうから、学説は学説として、講師たる人は学説の誤解を避けるため説明を加え、批評を添えねばなりません。これをしてないのは即ち注意を欠いたもので、文部省ではこれを過失と認めたのであります」  伊庭想太郎は星|亨《とおる》、島田一郎は内務卿参議|大久保利通《おおくぼとしみち》、西野文太郎は文部大臣森|有礼《ありのり》をそれぞれ暗殺した犯人で、来島恒喜は外務大臣|大隈重信《おおくましげのぶ》の暗殺未遂者である。  これに対し中島徳蔵は、「文部省視学官の言|果《はた》して真ならば」の題名で、反駁を草した。暗い電燈は彼の昂奮した半顔を映した。耳には隈本有尚の嗤いが聞えている。彼は妻子の寝た深夜、稿を一気に書き上げ、翌朝、新聞社に投じた。 「過日、読売新聞に当事者隈本有尚君の談話なるものが出た。ところが、不思議なことに、これは先にわれわれに伝えられた文部省処分の理由と違っている。前回、文部省は引例の不都合を咎めたと称したのに、今度は、隈本君は、その学説が不穏当であるから罪したのだと云う。これは初めて聞く言葉である。しかも、文部省は学者、学説にむかって相応の礼儀を尽し、問題を軽々に決せずに、特に専門家の鑑識を得たと称している。これを読むと、文部省は、一見、その処理に周到な用意をしたように聞える。  しかし、文部省の選定した専門学者がその人を得て、その意見が公正であれば、少なくとも哲学館事件についてわれらが文部省の過酷を恨むことにはならないのである。  そもそも哲学館事件の原因は、全くム氏の学説の当否にかかわる問題から発していることであって、これを決するのは一に学殖深い専門家の判断にある。とすれば、ム氏の学説について、たまたま隈本視学官と今回、意見を同じくした人は一体誰であろうか。このことについて文部当局からは何の説明もなされていない。この説明を隠すのは何ら益なきのみならず、かえって大害である。文部省の鑑定者は何故に名前を挙げて、堂々とその所信を発表し、われらと社会に教えないのであろうか。私は虚心坦懐にその説を聞きたいと切望するものである。  さて、私は文部省が一個の引例を以てこの大処分を加えたことのあまりに非常識なるを疑っていたが、今回、隈本君により、「省議が学説を断罪した」と聞いて、はじめて疑問の一端が解けたように思った。私たち学窓にたずさわる者は、国家行政のことはよく分らないが、行政官庁である文部省がム氏の学説を危険呼ばわりすることについては奇怪といわなければならない。  もし、文部省の云う通りの流儀でゆけば、文部省はまず大学教授の学説を罪しなければならなくなるのではないか。少なくとも高等師範学校の卒業生に中等・師範の教員免状を与えてはならなくなる。また、文部省の修身科教員としてすでに検定免状を与えた者の多数から、その返還を迫らなければならなくなる。なぜなら、大学教授のなかにはムイアヘッドの倫理学を述べているものがあるし、また、高等師範学校の卒業生で、その口頭試問中、ム氏の倫理学説を熟知していると答えているもの多数だからである。  隈本君は直覚説に私淑している人である。少なくとも高等師範程度の教科書において、直覚説以外の説を危険視している人である。私は隈本君が直覚説の主張者であるために同君を非難するのではない。直覚説もまた倫理学上一大主義であることを失わないからである。カントしかり、ヘーゲルしかり、ジャネーも、シヂウィックもまた直覚説の臭味《しゆうみ》がある。私は衷心、直覚説にむかっても一半の敬意を分つのを惜しまないものである。  ただ、その直覚説が学問的には真理でないことは、今日の学界ではすでに定説となっている。隈本君にして、尚、直覚説を楯に取ってム氏一派の学説を危険視するなら、私も正当防衛上やむなくここに一個の直覚説の危険な応用を示して隈本君に酬《むく》いたい。すなわち、同論の筆法でゆくと、左の通りの三段論法となるのである。  ≪戦争は絶対的に悪である。天皇は戦争をなし給うことがある。故に天皇は悪事をなし給うことがある≫  直覚説の危険な応用は右に見られる通りである。これ、まことに恐れ多い結論になるではないか。隈本君ではないが、全く「国体上容易ならぬことにもなりましょう」と云わなければならない。すなわち、詭弁を弄して人を落そうとするなら、いうところの、人を呪わば穴二つ、隈本君の詭弁は、このように国家、皇室に不敬不忠となってしまうのである。  直覚論者、隈本君の誤解、曲解、邪推、詭弁は上述の通りだ。私らは同君の品性、人物を尊敬するが、また甚だしくその知識、特に倫理学上の知識を信ずることができない。また同君と所見を同じゅうするという他の倫理専門家の鑑識をも疑わざるをえないのである。  これを要するに、文部省視学官の言果して真ならば、疑いもなく文部大臣は哲学館教授の倫理学説を罪したのである。そして、それが濡衣《ぬれぎぬ》であることは、私が今まで詳しく書いた通りである。思うに、今の文部大臣はまことに英国紳士の面目を備え、今の検定委員長、山川東京帝国大学総長は、実に当世|得易《えやす》からざるの風骨を備えておられる。しかし、君子の過ちは日月の蝕の如しという。もし、私の言葉に少しでも採るところがあれば、諸氏は翻然、志を改め、責任を明らかにし、目下の哲学館の無罪不幸を躊躇なく回復されんことを切望する。——以上、いささか窮鼠猫を咬《か》むの文章になったが、行きがかり上、やむを得なかった」  これに対する文部省の反応は、二月十六日の時事新報に現われた。文部当局者の談となっている。 「ムイアヘッド氏の著書を文部省が教科書として採用することを認可したように伝える向きがあるが、誤解である。本来、認可学校が教科書を採用する際には、一応、文部省に届出るべきなのに、右の教科書については絶えてそのことなく、届出がなければ、したがって本省においても認可したおぼえはない。この一事がすでに法規に反しているのみならず、原書の訳者桑木氏の訳書第一版では、今度不穏当と認めた引例をそのままに記載しているが、同氏もその引例の甚だ不穏であることを感じたとみえ、その後第二版以下にはこれを抹殺し、改訳している。  故に、哲学館の教授用に使ったのは、おそらく、その第一版を採用したものであろう。以上のように、教科書採用の点に関しては、哲学館はすでに過怠の責めがある。さらに、これに加えて教授上の不注意があるとすれば、文部省が同館の認可を取消したのは過酷の処置ではないと信じる。今度の問題に関して中島徳蔵氏と隈本視学官との間に多少の論議もあったように聞く。また、中島氏は二、三の新聞に駁論を掲載しているようである。学者が学問上の意見を公にすることは別に構わないが、ただ、隈本視学官の議論は隈本有尚一個の議論であって、文部省の省議としては別に決するところがあって、先般の処分に出たことを承知されたい」  ——この新聞が出た朝、哲学館の優等生で問題を起した当人の工藤雄三が中島の家に訪ねてきた。  工藤はくたびれた久留米絣《くるめがすり》に袴をはいている。彼は座に着くと、まず新年の挨拶をした。  しかし、年始が目的でないことは、中島には初めから分っていた。第一、正月から日が過ぎている。それに、工藤は入ったときから、うち沈んだ様子でいる。  中島の妻がかたちばかり屠蘇《とそ》代りの酒を運んできた。 「去年の暮からいやなことがあったな。ま、おまえもそんなことは忘れて飲むがいい」  中島は遠慮する工藤に酒を注いでやった。 「先生」  工藤は、中島の妻が引込むのを待って、盃を置き、かたちを改めて、 「このたびは、ぼくのために、先生や学校に大そうご迷惑ばおかけして申しわけのございません」  と、九州|訛《なまり》を交えて、深く頭を下げた。 「それは、君の責任ではない。わたしこそ君たちには迷惑をかけた」  と、中島もやや沈んだ声で云った。 「そのために、君たちには文部省が教員の免状を出してくれぬ。免状が無ければ、せっかく師範科を卒業したのに君たちは教師にもなれまい。まことに済まないことだが、なに、いつまでもこういうわけにはいかないだろう。いくら文部省でも、そこまで理不尽な横車は押せまい。そのうち必ず資格を取ってあげるから、それまで待ってくれ」 「いいえ、ぼくらは先生のお気持がよく分っているので、何とも思っとりません。先生こそ、今度の問題で学校をお辞めになって、さぞ心外でしょう。それば考えると、改めてぼくの答案がどのようにご迷惑をかけたかが分って、お詫びのしようもなかです」  工藤は言外に、職を離れた中島の窮境に謝罪している。そういえば、彼の眼は、それとなく狭い家の中の模様をさぐっているようでもあった。 「なに、わたしのことはあまり心配しないでくれ。食うくらいのことは何とかやってゆける」 「奥さまはご心配でしょう。お顔ば拝見しましたが、ご気色がすぐれてないようで」 「そこまで気をつかってくれるのはありがたいがね、貧乏暮しには馴れている。今までの収入の半分くらいは、そのうち、何とか取れるかもしれない。倫理学の本でも書こうと思っているのでね。当分、浪人暮しで、勉強が出来て、かえって都合がいいよ」 「そういわれると一言もございません。この前から先生が、つづけて発表されている論文を新聞で拝見した者は、みんな、敬服しています」 「そうかね。あれは評判がいいかね?」  と、中島の顔は少し明るくなった。 「痛快なくらい文部当局に議論を吹きかけておいでになります」 「わたしのところにも、あれ以来、見ず知らずの人や友人から、激励の手紙が来ている。ま、多少、手ごたえがあったようには思うがね。だが、相手は文部省だ。わたし一人がいくら大車輪で書いても蛙の面《つら》に水、蟷螂《とうろう》の斧と思って冷笑しているだろうよ」 「けど、世間の評判は先生に味方しております。殊に最後の隈本視学官に向けられた攻撃なぞは、直覚説を堂々と批判しておられますが、先生、あれは隈本さんのうしろに控えている誰かに向けられたのですか?」 「いや、別に、そういうことはないがね」  中島は口を濁した。相手が教え子なので、よけいなことは云いたくなかったのかもしれない。 「けど、世間ではいろいろなことを云うとりますが……」  中島がその答えを避けているようにみえたので、工藤は急に話の向きを少し変えた。 「そういえば、隈本視学官は、どうも変ですね」 「変というと?」 「いや、これも世間の噂ですが、隈本さんは、以前、学生時代に、ずいぶん数学などがよく出来たが、意地の悪い性質なので菊池大麓先生に憎まれて、三年のときに落第させられ、そのまま退学ばされたそうです。隈本さんは、それをひどく恨んで、それからというものは、菊池先生が数学雑誌に新奇な論文を出せば必ず反対するというふうで、執念深く敵視していたそうです。ところが菊池先生が文部大臣になってから、どういうわけか、隈本さんを視学官に引上げて和解したので、それからは、隈本さんは掌《たなごころ》を返したように、菊池大臣に忠勤ば励むようになったと云うとります。品性下劣な人だそうじゃありませんか。ああいう人に哲学が判る道理がないとみんな云っとります」 「そうかね」  中島はかすかに眉を寄せて、盃をとり上げた。 「隈本さんは、福岡の修猷館《しゆうゆうかん》の校長もやりましたが、不評判でした。それから、その前には山口の高等中学校の教授もしていたが、生徒がストライキをやったとき、おれ一人は勘弁してくれと、こっそり生徒に頼んだというので、生徒は、その陋劣《ろうれつ》さに呆れたそうです。嘘か本当か分りませんけど、隈本さんについては、そげな芳《かんば》しからぬ噂があります」 「君はよく知っているんだね」  と、中島はむずかしい顔になって眼を伏せ、盃を運んだ。 「いいえ、これは学生仲間で云うとることです」 「生徒は、いろいろなことを云うものだ」 「それだけじゃありません。今度、哲学館にこういう処置ばさせたのは、東京帝国大学の井上哲次郎先生と、哲学館長井上円了先生との確執が根にあるからだとも云うとります」 「工藤」  と、中島は遮った。 「そんなことはあまり云わぬほうがよい。裏にどういうことがあろうと、われわれには関係ないことだ。学者は、あくまでも学問上のことで争うのが本道だ。いいか」  彼は、工藤をそうたしなめたが、その工藤雄三の哲学館における身元保証人が何者であるかまでは気がつかなかった。  工藤は、中島に戒められて、しばらく黙っていたが、また顔をあげた。 「先生。文部省が当局談として今度時事新報に発表したのば見ますと、桑木厳翼先生の訳書は、動機善なれば弑逆も可なり、というところは第二版から削除してあると答えていますが、その通りでしょうか?」  と、今度は本論に戻って訊《き》いた。  この質問で、中島はすぐに自分の机の上に積んである書籍の間から一冊の本を取出した。それが桑木厳翼補訳のムイアヘッド倫理学だった。彼は急いでその奥付を工藤に見せた。 「この通り、この本は第四版だ。いいか」  と、栞《しおり》を挿んでいるところをひろげ、第四版には、その箇所がこう出ていると、中島は朗読した。 「人は彼が予知せざりし結果に対しては、これを予知せざりしといふ事実に責任ありと言はばともかく、その結果そのものには責任ありといふを得ず、且つ又単に彼の思考に止まりて動機ならざりし結果の部分をみて、これに善悪の判断を下すべきものに非ず、然らずんば自由のために弑逆《しいぎやく》をなす者も責罰せらるべく、自ら焚殺《ふんさつ》の料《とが》に供せんが為に溺死にひんせる人を救へる暴君も弁護の辞を得べし……」  こう読んだ中島は、 「このように、ちゃんと出ている」  と、指を押えたところが、今の「弑逆」の部分だった。 「文部省は言葉に窮して強弁しているのだ。第二版から以降削ったなら、削除したはずのこの文章が第四版に現われる道理はない」  と、昂奮の面持だった。 「先生、それは先生が桑木先生にお問い合せになったのでしょうか?」  工藤は中島の顔を見て訊いた。 「いや、それは別に訊き合せるまでもない。現に第四版の本に、こう、ちゃんと書いてあるからな」  中島は言下に答えた。しかし、これが中島の思い違いだったことはあとで分るのである。 「とにかく、わたしは反論を書くよ」  と、いささか酒が入ったためか、中島は調子高い言葉で云った。 「大体、文部省は、この教科書の採用に対して全然関係していないように云っているが、この本が他の学校の教科書や参考書として文部省の承認を得ているのは動かせない事実だ。大体、文部省認定という教科書は高等学校には無いのだからね。だから、中等教員の検定試験には、このムイアヘッドの本を読んで、その趣旨を答案に書いたものがずいぶんと多い。しかも、何一つ当局から注意を受けないで、みんな及第している。だから、これらは文部省が今まで公認してきた教科書といって差支えなく、ごまかしようはないよ。また、文部省は今度の回答で手続き上の過怠を云っているが、ほかの学校のぶんは黙っていて、こちらだけ手続き上の落度を咎めるのはおかしいではないか」  彼は熱をおびたようにつづけた。 「文部省は時事新報の回答で哲学館の教科書は認定していないという言葉を使っているが、認定とは、中学校や小学校の教科書のように、文部省が検定をなすことだ。だが、強いて高等学校用にも認定という言葉を使うなら、これまで、この教科書を使って生徒に教えていた哲学館及び他の学校のことを知らなかったという過怠の責は免れまい。だから、わたしは、まず、文部省自身がその責任を明らかにせよ、と云いたくなるね」  中島は話しながら、これから書く反駁文の構成をまとめるかのようであった。 「一体、今ごろになって、なぜ、この引例のところを問題にしてきたか、わたしにはさっぱり分らない。もし、咎めるなら、今までにそれがなされていなければならない。これが不思議でならないよ。もし、ムイアヘッドの倫理学の本旨である動機論が危険でないと考えて、文部省が今まで放置してきたのなら、この論から起ってくる引例も、今までは危険でないと考えていたことになる。もっとも、弑逆の文字を当てたのはいささか妥当でないと云えば云えるがね。世界の史上の事実を純学問的な立場で大方が是認しているのだから、わたしがこれを否認しないのも、一つの学問的立場だよ。要するに文部省は、本論の主要な脈絡というか体系を無視して、傍系の一引例を特に取出し、強いて今度の処分に出たことははっきりしている。だから、文部省が、この引例を咎めるのは、むしろムイアヘッドの動機論全体を告発したことになり、これは純粋な学問に文部省が裁断を下したわけだから、実に乱暴な話だ……」  こう話しているうち中島の頭には自然と、その先の論理が一つの文章となって泛《うか》んだ。 (ム氏のいわゆる動機は諸結果の考量上より生ずるものなり。何ぞ必ずしも手段を問わずといわんや。文部省の御用倫理説が直覚説ならば、すなわち知らざるなり。知らず文部省の認めて穏健着実、国体に合せりとするの説は直覚説なりや否や。これ国家教育上究追せざるべからざる緊急適切の大問題たらずんばあらず。あえて問う、あえて問う)  こういった文句や、 (文部省は誤解、曲解、誣妄《ふぼう》をもって無罪可憐の学校職員および生徒に重罪を科せしの嫌疑無きあたわず)  とか、 (口さがなき世間は、すでに文部省が誤解を自覚しながら、なお強いて辞を求むという。あるいは、帝室うんぬんの言をもって徒《いたず》らに下《しも》を威《おど》すという。これらの言、おそらくは当局者の心事にあらざるか)  といった文章が、次々と出てきた。  中島の眼の前には、すでに優等生工藤雄三の姿は無く、隈本有尚視学官の背後にそそり立っている文部省の巨大さだけが見えていた。   穏田《おんでん》の予言者・穏田の行者[#「穏田《おんでん》の予言者・穏田の行者」はゴシック体]  本郷|西片町《にしかたまち》の中島家を出た工藤雄三は、新宿停車場まで行き、汽車で東京府下|豊多摩《とよたま》郡|千駄《せんだ》ヶ谷《や》村穏田に向った。彼は渋谷停車場で降りたが、そこから青山練兵場のほうへ歩いた。当時、日本鉄道会社の山手線は、池袋、田端間が開通せず、新宿、品川間が単線で通じていた。  このごろ、千駄ヶ谷村辺は急にひらけてきた。もともと、青山から渋谷にかけては農家ばかりだったが、練兵場が青山に移ってきてからは、ぼつぼつ軍人の家もふえてきた。穏田とは中世の隠し田から名前が来ているというが、あるいは恩田にも字を当てている。  さて、工藤雄三がついたのは、現在の宮益坂《みやますざか》を上ったところの大きな士《さむらい》屋敷の長屋門の前だった。乳鋲《ちびよう》のついたいかめしい門扉の上には注連縄《しめなわ》が張ってある。見ただけで神官の家か、御岳《みたけ》の行者か、大山の御師《おし》の家のようだった。  工藤が、その門をくぐる前に、ふと横手を見ると、塀の横に立派な人力車が置いてある。蹴込《けこみ》に腰を下ろしたのと、それに対《むか》い合って地面にしゃがんだのと車夫二人が、煙管《きせる》をくわえて話合っていた。いうまでもなく、主人を待っている間の一服だった。  工藤は、ちょっと怪訝《けげん》な眼を投げたが、黙って脇門を入った。門柱の一つには部厚い檜の大看板が掲げられてあるが、それに「宇宙神教 飯野吉三郎」と筆太な字で書き流されてある。  工藤は、同じく注連縄の張った表玄関には回らず、横手の控え玄関に向った。  この広大な屋敷全体は古く、暗い厳めしさが淀み沈んでいる。今にも、髷《まげ》をつけた取次ぎが出てもふしぎではなさそうだった。  工藤は、黒光りのする式台の前に立って、ごめん、と奥に呼んだ。  眼の前には障子が閉《た》っている。まもなく、その向うから畳を踏む足音が聞えて、 「どなた?」  と、若い男の声がした。 「米村《よねむら》さんか。おいだ、おいだ、工藤だ」  と、工藤は云った。  たてつけの悪い障子があくと、毬栗頭《いがぐりあたま》の書生のような男が現われた。眉の大きい、唇の厚い、二十一、二の若者だった。 「やあ、工藤か。まあ、上がれ」  立ったままで、米村という書生は笑顔をみせた。 「それじゃ、ちょっとお邪魔する」  工藤は下駄を脱いで上がったが、家の中は寺の内陣のように暗かった。 「いま、忙しゅうなかとな?」 「よか。ちょっとぐらいなら、よか」  工藤は、書生に従って横手に曲った。  そこは八畳くらいの部屋で、壁の隅には行李《こうり》や風呂敷包などが置いてある。構造からみて、仲間《ちゆうげん》部屋のようなのが、この書生の住居とみえた。 「まあ、坐れ」  二人はあぐらをかいて対した。 「今日あたり、おぬしがくるじゃろうと思っとった」  米村という書生は工藤の顔をのぞいて笑った。 「いや、もう、ちかと早うきたかばってん、つい、中島先生の本郷の家に行くのが敷居が高いような気がして……」  工藤は云いにくそうに答えた。 「そぎゃん気の弱かことでどげえするか。で、いま行って来たとな?」 「行って来た。一時間ばかり先生と話して来たけん、その足でこっちに回った」 「そうか。中島先生はどげな様子でおらしたな? 大ぶん弱っとらしたろう?」 「うむ……」 「そうでもなかかの?」 「いや、いろいろ説教を聞いて来たばってん、やっぱり参っとらす」 「そげじゃろうのう。まあ、詳しく話してくれ……」  書生は米村|忠三《ちゆうぞう》という、九州は筑後福島の出身で、工藤雄三とは同郷だった。工藤よりは三つ年上に当る。  その米村が詳しく中島の様子を話してみろ、と云ったとき、はるか離れたほうで手が鳴った。 「ほい、せっかくのとこば、またお呼びじゃ」  米村は惜しそうにして膝を起てた。 「米村さん、いま、表で立派な俥が待っているのを見たばってん、ありゃ、飯野先生にどなたか来客か?」  工藤は起ち上がった米村を見上げた。 「うむ、あいか……」  米村はニタリと笑って、 「一時間ほど前から、下田歌子先生の来とらすたい」  と、声を低めて云った。  一旦、部屋を出て行った米村忠三は、すぐに戻って来た。 「もう、用事は済んだとな?」  工藤雄三は眼で迎えて訊いた。 「うむ。女中どもで間に合うた」  米村はまたそこにあぐらをかいた。赭《あか》ら顔の、肩のもり上がった男である。 「こげん広か屋敷なら、雇人も多かろうの?」 「うむ。おいのほかに書生が二人、そいに、小間使や女中どもが五人たい」 「そげえに雇人が要るかの?」 「客人の多かけん、そいでもまだ手が足らんたい。部屋数でも三十ぐらいあるけんの、掃除だけでんなかなか手が回らん」 「そげえにあるかの?」 「まだ使うてなか部屋もある」 「この屋敷は、前には誰がいたとな?」 「外松《そとまつ》ちゅう陸軍主計監のおらそうが。その外松少将の屋敷だったのを、うちの先生が譲りうけたとたい」 「相当高かったろうな?」 「いや、金は一文も出してなか。外松少将から先生がタダで貰われたらしいな」 「ほう。そら、どうしてな?」  工藤雄三はびっくりした。 「外松少将は、それくらい飯野先生に心服しとらす。ばってん、外松さんだけじゃなか。陸軍の将校たちも先生のもとに出入りしとる。そいというのが、飯野先生は偉か予言者じゃけん、何でも未来をちゃんとお当てなさる。いま、ロシヤと日本の間に戦争の起きろうごとしとる。で、何かと先生に伺いを立てにくるとたい」 「飯野先生の予言は、そげんに当るもんかの?」 「飯野先生には、ちゃんと神さまがついとらすけん何もかも先が見通したい。はじめは誰でん大ボラ吹きと思うとる。無理もなか。おいもはじめは飯野先生が稀代《きたい》のインチキ師と考えて、先生ば退治しようと十日ばかり尾《つ》け狙《ねろ》うたことがある。ほら、いつもぬしに話しとる通りたい」  米村はあぐらの足を組み直して云った。その話は、工藤もたびたび聞かされていた。  ——二年前のこと、九州から上京していた米村は、麹町《こうじまち》三番町に居を構えて予言者と称している飯野のことを知った。当時、飯野は天照大神《あまてらすおおみかみ》を祀って日本精神団というのを作っていた。飯野は神託によって人間のことはもとより、政治、社会の推移も見通すことが出来ると吹聴していた。  その頃から飯野のもとには軍人の出入りが多かった。つづいては、かなり上流の婦女子の信心を集めていた。  飯野の前身はよく分らない。彼が岐阜県に生れて、出京してからは筮竹《ぜいちく》を操って易をみていたという説もある。一時は学校の教師をしていたという説もある。いずれにしても予言者を名乗る彼の正体を剥ぎ取ってやろうと、米村は麹町の彼の家を一日訪れた。このときは玄関払いを食わされ、米村は追返されている。  それが彼の飯野に対する敵意を一層に煽った。次からは飯野の門前にひそんで、彼の外出先を尾行した。折あらば、天照大神を騙《かた》るこの詐欺漢を刺そうと思い、いつも懐ろには短刀をのんでいた。筑後の米村の家は小さな神社の神官をしているので、神道には心を寄せていたのである。  飯野の外出先をみるに、かなり上流の家ばかりを訪問している。なかでも大島健一陸軍砲兵大佐と外松少将の家が最も多い。  飯野の外出はいつも俥で、屈強な車夫が挽《ひ》き、うしろにもこれまた頑丈な体躯の車夫が後押ししている。米村は、この車夫がいる限り、邪魔されると思い、容易に実行が出来なかった。  こんなふうにして十日以上経ったが、際限《きり》がないと思った彼は、意を決して再び麹町の飯野宅を訪れた。その家はさして大きくはなかったが、門前にも玄関先にも注連縄が張ってある。神官の家に育った米村は、余人と違ってそれが少しもありがたくないばかりか、かえって胡散《うさん》げに映った。  妻女の取次ぎで米村はうす暗い祭壇の前に通された。御簾《みす》の垂れた暗い奥には、二本の蝋燭の灯がゆらいでいる。祭壇には三方《さんぼう》が何段にもならんで、鮮魚や野菜の供物がそなえられてある。貧弱な田舎の神社の眼に馴れた米村は、思わず心が怯《ひる》んだ。  そこに飯野が現われて、祭壇を背にして坐った。巨きな体格で、眼光|炯々《けいけい》としている。  米村が何か云おうとしたとき、突然、その顔に白い礫《つぶて》が飛んできた。彼は避けることができず、したたか顔を打たれた。眼の前に落ちたのを見ると、白い礫だと思ったのは玉葱で、いつの間にか飯野が祭壇の三方の上のものを取って投げつけたのである。息をのんだ米村が片膝を起てようとしたとき、 「ばか者」  という声が彼の鼓膜にとどろいた。 「おい、きさまはおれを刺すつもりでここに来たのだろう。だが、そんなナマな腕ではおれを殺せないぞ。きさまの顔に当ったのが玉葱だからよかったが、もし、短刀だったら、どうする? きさまは命を失うか、不具《かたわ》になってここから出るか、どっちかだ」  飯野は肩を動かして笑ったが、その肩をもうひと揺りさせると、突然、今度は米村の膝坊主の前の畳に短刀が突き刺さった。 「きさまの懐ろにある短刀を早くそこに出せ」  飯野の一喝に気を呑まれた米村は、見えない力に命令されたように、素直に短刀を前に置いた。  飯野は米村の顔をじっと見ていたが、 「きさまはおれを十回|尾《つ》けていたな」  その場所はどこどこと、いちいち指摘した。それが全部当っている。一度も俥の上からふり返ったことのなかった飯野からあたかも傍に肩をならべていたかのように指されて、米村は肝を冷やした。  つづいて飯野は、米村の生い立ちから現在に至るまでを一気にしゃべった。それが悉《ことごと》く的中している。米村は気を呑まれた。  ようやく気を取直した米村は、そのように的中するのは先生が易をみるからか、と問うた。  飯野はあざ笑い、易では、こんなふうに千里眼を持つことはできない。自分は天照大神を信仰し、神霊をうけているから、どんなことでも先の先まで分る。政局のことも世界がどうなるかということも分っている。ましてや、おまえなぞ蛆虫《うじむし》のような奴のこと知るのは造作もない、と云うた。  そこで米村は訊いた。天照大神を崇敬しているのは先生一人ではない。日本国民たるものは残らず礼拝している。殊に神社では天照大神をどこでも合祀している。先生の場合とどう違うか。  飯野はそれに、それだから神道が堕落するのだ。今の神道は枝葉の末社を大事にして元素であらせられる天照大神を忘れ奉っていると答えた。  神官の家に育った米村は、飯野の言葉に思い当るところがあった。その顔色を見て取ったように飯野は、天照大神こそ宇宙の体現であると、滔々《とうとう》と述べだした。  ——宇宙を総括するところの大精神が神である。正義というのは畢竟《ひつきよう》、この大精神の別名である。大精神を確認して六合《りくごう》の平和を永遠に維持するのを真理という。この真理を発見せんがために幾多の先哲がしばしば苦悶した。先人にして、あるいは宗教といい、あるいは政治と称して人心の統一を企てたが、これがかえって後世に紛乱を来たし、いよいよ乱雑となった。これは宇宙すなわち天照大神の大精神を会得せぬからである。大精神は、帝国の主権者が担わせらるるところの天津日嗣《あまつひつぎ》の御《み》稜威《いつ》が元素となっている。  ——天照大神は初代太陽を以て理想とし、御姉妹の月読命《つきよみのみこと》は月世界を以て理想とされている。その他御一統の神々は悉く、この宇宙を以て理想とされているのだが、今や、この精神は忘れられ、枝葉末節の亜流が神道を穢している。自分は、この宇宙の精神を以て本来の姿に戻し、この世の穢れを浄めてゆくのだ。  ——ところが、近ごろ、後進国たる諸外国の書籍を読んで、とやかく新しいことを云う者がいる。野蛮国の考えを光輝ある国体のわが国に移し植えようとする輩《やから》のあるのは以てのほかだが、世間の一部でもこれを迎えているのは心外である。自分は日本を神の国として、政治も、宗教も教育も、このもとに統率したいと思っている。自分は考えに詰ったり、困ったことがあったりする場合は、天照大神の御神託を聞くことが出来るから、自分の考えどおりに人々がついてくれば、わが国は絶対に他国に遅れを取ることはない。  ——ロシヤとの戦争は、必ず来年にははじまる。そして、必ずロシヤが敗けるようになっている。陸軍の部内でも、まだロシヤを怖れて尻ごみする者があるのは歯痒《はがゆ》い限りである。しかし、自分の考えにだんだん共鳴する者が出てきたのは心強い。殊に外松少将と大島大佐とが自分の家来になったのは当然とはいいながら、いささか意に足りるものがある。  しかし、軍人だけでは困るから、いま、自分は上層部の者にも教えているところだ。早晩、伊藤博文や山県有朋も自分の信者となるはずだ。児玉源太郎《こだまげんたろう》はすでに入信している。こういう意味のことを、飯野は能弁にまくし立てた。  聞いている米村は煙に巻かれた。しかし、感動を覚えた。天照大神が宇宙の体現である、というくだりが彼の心を捉えたのだ。もとより、米村も飯野の云う理屈がすっかり呑みこめたのではない。だが、神の道は元来、神秘的なところにある。神道にいささかの知識を持ち、同時に現在のそれに懐疑を覚えていた米村は、忽ち飯野の説に服した。理屈はよく分らないながらも、その漠然としたところから直感的に何かをつかみ得たと信じたのである。  飯野の洞察力は、すでに米村の前半生を云い当てて証明済みである。彼は飯野を予言者として信じた。だが、児玉源太郎中将がすでに入信し、伊藤、山県が近く信者になるという話は、米村にも少し大げさなように聞えた。  なるほど、米村が飯野の訪問先を尾けている中には、外松少将や大島大佐の家はあった。また他の上流家庭もあった。しかし、伊藤、山県、児玉となると、桁はずれに大物である。米村は、それを少し疑ったが、二、三日飯野の家に居ると、飯野は電話を山県や児玉にかけて、ほとんど対等に話をしている。それで、米村も完全に屈服した。  爾来《じらい》米村は飯野の書生となって、この屋敷に住みこんでいる。彼のほかにも二人の書生がいるが、いずれもはじめ飯野に疑いを持ち、近づいたものである。それだけに飯野への信頼は普通の者より深い、と米村は云った。  ——飯野先生は救国の予言者である。いま、大敵露国と戦争がはじまりそうになっているが、飯野先生の予言を当局が信じて、その通りに外交や軍事を行えば勝利は確実だと、米村はかねがね郷里から出てきた工藤雄三に聞かせていたが、今も米村は工藤に改めてそのことを話したのであった。 「そいで、下田歌子さんも、近ごろは先生のところによく見えるとたい」  と、次に米村は少し表情を崩して云った。おそらく、固い話のあと、女性の名が出たからであろう。下田歌子は才色兼備の教育家として有名だ。工藤の眼には、表に待っている立派な人力車が泛《うか》んだ。 「大ぶん話の長かようですな」  工藤は、別間で有名な女子教育家が飯野と話している場面を想像し、自分などは見ることもできないような高名な人が自ら飯野を訪ねて来ていることに、改めて飯野の偉大さを覚えた。と同時に、その同じ家の部屋つづきにこうして坐っている自分に少々昂奮を覚えた。  下田歌子が飯野先生に近づいたのは、やはり、飯野先生の偉大な予言に感心したからか、と工藤雄三は米村に訊いた。  もちろん、それもあると、米村はうなずいてから説明した。 「下田先生も飯野先生も同県人じゃから、そいだけ急に気心が合うようになったのたい。丁度、おいとぬしとが同郷ちゅうのと同《おんな》じくさ。大島大佐も岐阜県の人じゃけんの」 「ほう、そげえなことな。そんなら、外松少将も岐阜県人かの?」 「いいや、外松さんは違う。ばってん、外松さんは同県人以上たい。この屋敷も外松少将が先生に提供されたし、そいに、近く外松少将の令嬢も小間使として先生のところにくるちゅう話ばな」 「そいは凄かですな。そげん外松少将は先生ば尊敬していなさるかの?」  少将は、令嬢まで小間使に差し出すというので、工藤も驚嘆した。 「外松少将はもう先生ば神さま扱いたい。そいに、今度は下田歌子先生とじゃけん、うちの先生もどこまで勢力範囲をひろげんさるか分らんたい」 「ほんなこつな」 「なんちゅうても下田歌子先生は、伊藤侯爵や山県侯爵の睾丸《きんたま》をちゃんと握っとらすけんのう」  米村は、ちょっと卑猥に眼尻を笑わせたが、 「下田先生は和歌に堪能で、古典にも通じとらす。ま、今様紫式部みたいな人たい。恐れ多いことばってん、皇后陛下のご信用ば得てなさる。その下田先生がコロリと飯野先生に参ってなさるけん、飯野先生の偉かことがぬしにも分るじゃろう」 「分る、分る。そいで、ああして下田先生はよくこらすとですか?」 「飯野先生は、いま、娼妓《しようぎ》の廃止を唱えていなさる。下田先生も女子教育家として先生の説に大いに共鳴ばして、ああしてよくこらすとたい」 「お二人の話の長かのは、その相談のためですな?」 「さあ、どうかの」 「二年前、吉原の娼妓ば救世軍の山室《やまむろ》中尉が足抜けさせたとかで大騒ぎになったことがあるが、先生もそげな運動なさるとな?」 「救世軍? ふん、あげな力の弱かもんじゃなか。耶蘇《やそ》の連中には何《なに》いでんでけん。この前のごと、せいぜい吉原の連中から袋叩きの目に遭うだけたい。飯野先生は、宇宙の大神ば背負っとらす。吉原だけじゃなか、今に日本中の苦界の女が先生の力で救われるとたい」 「なるほど。下田先生と相談の上なら、どげなことでも出来るとな?」 「そげんたい……ばってん、もし、そげなことになったら、おいもちょっと困るの」  米村は急に浮かぬ顔をして、 「おいも吉原みたいな高級なとこじゃなかばってん、似たようなとこにときどき行っとるけん、弱ったことになるの」  と、白い歯の間から舌を出した。二人は顔を見合せて初めて笑った。 「だけんど、工藤君よ」  と、米村は表情を真面目にひき戻して云った。 「下田先生が、今日こっちに来《こ》らして、飯野先生と長話ばしとらすのは、その娼妓廃止の相談とは違うばな、ほんなこと云えば、話は、ぬしに関係のあることたい」 「なに、おいに?」  工藤はおどろいて米村の顔を見た。 「うむ。ぬしが哲学館の試験問題に書いた、あいがことたい。おいはそう睨んどる。下田先生は、そいで足しげくこらすとたい」 「米村さん。詳しく聞かしてくんさい」  と工藤は眼を大きくひろげた。  それに対する米村の答えはこうである。  ——工藤の「動機善なれば弑逆《しいぎやく》も可なり」という答案から発して、いま、哲学館処分問題をめぐり、中島徳蔵と文部省とは、倫理学の論争をしている。これが次第に世間の注目を買いつつある。  文部省では、生徒がこのような答案を書く中島の教授の仕方に危険を感じている。このまま放任しておくと教育上、由々しき事態となる。国体の異《ちが》う外国の君主観を、日本に当てようとしているのが怪しからん。だから私学は困るというのだ、この際、徹底的に私学を糾弾しなければならぬ、といっている。  しかし、これはひとり文部省の事件ではなくなっている。宮内省では今度の問題で一大衝撃をうけている。帝王の弑逆を是認する学説が公然と私学で教えられているとなると、これからの日本はどうなるのか。わが皇室に対し奉っても、まことに恐れ多いことである。—— 「宮内省ではカンカンに怒っておるらしかよ。下田先生の来らしてるのも、先生とそのことでの話合いたい」  米村忠三はそう説明した。  聞き終った工藤は、それで哲学館弾圧の裏の筋道が何となく分ってきたような気がした。  強硬策をとった文部省の背後には宮内省があったのだ。いや、宮内省が文部省に圧力をかけたのかもしれぬ。  工藤雄三は、自分も見えないその大きな網の端にいるような気がした。  文部省の哲学館処分問題をめぐって、俄然、諸新聞は文部省を攻撃しはじめた。  ——万朝報は社説に書いた。 「その高等官の中から、その監督する諸学校から、幾多の醜漢を鍛冶橋《かじばし》の牢獄に供給した文部省に、果して忠君愛国を唱える権利があるだろうか。その全力を尽して保護し、年ごとに多額の金を国庫より出して維持してきたる帝国大学および高等師範学校の卒業生中から、最も多く臭い連中を出した文部省は、その完全を私立学校に求め、その欠点を非難し、その既得の権利を奪う資格が、果してあるといえるか。もし、文部省に、この権利があり、資格があるというのなら、盗賊が他人に向ってひとのものを盗むなと説教してもふしぎではない。天下にこんな逆なことはない。  周知のように、元来、文部省は官立学校に重く、私立学校を継子《ままこ》扱いにしてきた。このために、わが国の学事の進歩にどれだけ阻害を与えたか分らない。先年の松方《まつかた》内閣のとき尾崎|行雄《ゆきお》が文部大臣の椅子に坐ったが、尾崎氏はさすがに文部省慣例の偏狭な政策を是認せず、私立学校を奨励しようとの考えをもって、慶應義塾、早稲田専門学校、国学院並びに哲学館の四私立学校に、その卒業生には無試験で中学校および師範学校の教員免状を与えるという特権を以てした。  ところが、尾崎氏が退職して大学派の人が再び文相の位置に就くや、文部省は忽《たちま》ち旧方針に戻り、私立学校の迫害をはじめた。まず、文部省は、官立学校の付属として臨時教員養成所なるものを設立した。教員欠乏の際、文部省がそれを補うためにこの方法を採用し、別に私立学校を妨害したとはみえないようだが、その実、私立学校は、これがために大きな損害を受けているのである。というのは、私立学校では文部省の規定に従い、中学校の卒業生でない者には無試験検定の特権を与えず、その上に修業年限は三年の規定としている。一方、文部省の教員養成所は中学校の卒業生でない者も入学することが出来る上、その修業年限を二年とする。もし、ここに教員志望の学生があって、官私立のどちらを撰《えら》ぶかとなれば、その就くところは自明である。  すなわち、明らかに文部省には私立学校を妨害しようという意志がはっきりしている。しかも、文部省は、この手段だけでは満足せず、先年、設備の不完全であるとの理由を以てさきに与えた特権を慶應義塾から奪い、さらに昨年末には、哲学館からもこれを奪ったのである。  今回の哲学館問題にしても、口に忠君愛国をさえ唱えれば、その心事がどのように陋劣でも、その行為がいかに醜《みにく》くとも、立派な忠君愛国者とする文部省の俗吏たちが、このむしろ大胆な答案を見て足もとに火山が破裂したような愕《おどろ》きをしたのも道理である。視学官隈本有尚は一大陰謀が哲学館の中にひそんでいるとでも思ったのだろうか。彼は倫理学受持講師中島徳蔵にむかい、探偵的に種々の質問をなしている。  さらに問えば、文部省それ自身、果して他の不注意を咎める資格があるか。近くは、図書審査官がいわゆる四ツ目屋事件に関した不注意を文部当局者はどのように弁解するか。中島の不注意を責めて今回のような厳罰を下した文部省は、果して以上の自己の不注意について深く責任を取ったであろうか。四ツ目屋事件はまだ許せるとしても、今回の教科書疑獄のごときは、学政監督の任にある文部省が第一に責任を負うべき大不注意ではないか。しかも、その大臣、その総務局長などは、その大不注意に対して責任なしとして恬然《てんぜん》としている。恥知らずの極と言わずして何であろうか。しかも、ムイアヘッドの倫理学は、近世最も進歩した学説として広くわが国にも行われ、ただに哲学館だけでなく、高等学校その他の官立諸学校において教科書として用いられつつあったのである。かつ、同書は文部省の教員検定試験の参考書としても用いられているという。文部省は、今回危険なりと認めた弑逆うんぬんの引例について、これらの諸学校および受験者等に注意を与えたことが一度でもあったか。それを今回の哲学館の不注意として咎めた文部省自体一層の不注意ではないか。  要するに今回の事件は、文部省十八番であるニセ忠君、ニセ愛国主義と、私立学校撲滅の意図とが歴然として現われている」  ——東京朝日新聞は社説に書いた。 「今回の事実を観察するに、中島氏が倫理学を講ずるに際し、わが国体に合わない極端な引例までも書籍のまま講義し、これに批評を加えなかったのは教授上不注意のそしりを免れない。しかし、われわれは、中島氏の教授したのは実践道徳を教える修身科ではなくて、倫理に関する諸般の学説を教授する倫理科であったことを記憶せねばならない。国家の成立、社会の状態において実践すべき道徳は、井上(円了)館長がつとに忠孝主義を以てこれを薫陶したのみならず、中島氏もその著『倫理学概論』ではこれを講説している。  しかるに、今回中島氏を不注意の廉《かど》を以て制裁を加えたとすれば、それはそれなりに当局の処置を諒とするところはある。けれども、当局はひとり中島氏の諭旨退職に止まらず、哲学館長にもその責を負わしめて無試験検定の特権を剥奪した。これは一体どんな目的なのか。もし、哲学館長にして不穏危険の学説を持ち、それを子弟に注入するものだとすれば、文部省は同館の特権を剥奪するに止まらず、断然、その閉館解散を命ずべきではないか。この間、毫《ごう》も情状の酌量を許してはならないのである。しかし、哲学館長は少しも不穏危険の学説を教授するの意志なく、その講師もまた好んで不穏当の引例をしたのでないことは歴然としている。これは文部当局にも分っているはずである。したがって、たとえ彼に制裁を加えるとしても、哲学館長に注意を与えて中島講師を解職せしめればそれでよいはずだ。また、不穏当の引例をなして答案を作った卒業生の検定を無効にすればよい。どうして殊さらに同館の特権を剥奪し、また、その卒業生の検定を無効にし、教科書の引例を不穏当として、これに反対の答案を出した者までも同一の責めを負わせて、彼らが三年間の蛍雪《けいせつ》の労をむなしゅうさせる必要があるか。  特に、現在同館に在学している幾多の生徒は、未だかつて不穏な学説を教授されていない。にもかかわらず、特権剥奪の結果、みなは当初入学の目的を失うの不幸をみることとなった。これまた、あまりにも苛薄冷酷の処置ではないか」  各新聞は、俄《にわ》かに火がついたように文部省の攻撃にかかった。  その趣旨はいずれも同一点を指摘しているが、毎日新聞も社説で述べた。 「哲学館というのは文学博士井上円了氏の設立するところで、井上氏の道徳意見として従来世に発表したものには、むしろあまりに頑陋《がんろう》なる忠君愛国説のきらいがあったほどである。したがって、今度、倫理学説の理由を以て文部省が直ちに特権剥奪の挙に出たのは、いかにも軽率の感を免れない。されば、文部省がこの軽率に出た動機は、一に宮内官吏の干渉を恐怖したのによる。さなきだに教科書収賄事件によって文部省が大打撃を受けつつあるとき、国体違反、不敬事件等の呼び声が一方に高まるならば、文部省は敵を前後二門に引受けるの窮状に陥らざるを得ないと判断して、急遽《きゆうきよ》、哲学館に対してこのような処置に及んだのではなかろうか」  ——中国民報の社説。 「文部省が今日でもなお固陋なるニセ忠君主義により政権を以て学界を迫害するのは、われらの憤慨に耐えないところである。さきに久米邦武《くめくにたけ》氏が「神道は祭天の古俗」なる一文を史海誌上に載せるや、ときの文部省は久米氏の帝国大学教授の職を奪った。これ、ニセ忠君思想の弊害であって、権力が学術研究の独立を侵害したことであり、今度の文部省のやり方もまた相似た事実をくり返している。  もし、ムイアヘッドの著が、その全部悉く弑逆を是認する趣旨ならばともかく、文部省が認めた国体に合わないとした箇所は単に、引例中の一句にすぎないのである。これに対して中島講師が批評を忘れたのは、たまたま忘れたということだけであって、決して故意とは認められない。このム氏の倫理学は桑木厳翼氏の手で訳された刊行物であるから、内務省が公然と許したものである。それならば、この本は単に学生に読まれるだけでなく、全国一般にも読まれることを公認した本である。もし、かの一句があるために危険な書であると文部省が認めるなら、天下の万民挙げてこれを読んだとき、その危険はいくばくぞやと言いたい。出版検閲の任にある内務省は文部省が今回咎めた一句のあるこの著書の刊行を何故に許したのであろうか。何が故に訳者をしてこの一句を抹殺せしめなかったのであろうか。内務省が許し、これを文部省が不敬罪のごとく危険視する。この矛盾を当局者はいかに考えるか。  さきに久米邦武氏は、その説のために帝国大学教授の官を奪われたが、その教えを受けた文科大学出身者も、今度の例に倣えば、中学、師範教員無試験検定を許すべきでなかったという論理になる。しかして、一は帝国大学という官立であったためこのことがなく、一は哲学館という私立であったためにこの災厄が下ったとせば、文部省の処置を許すわけにはいかない。われらは一哲学館のために弁を費やしたのではない。実に今日の形式的な教育の弊を憂い、さらに深くニセ忠君愛国主義が文運発展の上に一大障害となっていることを指摘したいのだ」  一般新聞の間に伍して、二大私立学校である慶應義塾と早稲田大学も、それぞれ「学報」で論じた。 「哲学館対文部省事件は、いよいよやかましくなってきた。私立学校といえばとかくにケチをつけ、勢力をそぎ、頭の上がらぬようにするというのが政府の本願である。かかる思想が一国教育府たる文部省の基礎となりいる間は、わが国の教育はとうてい駄目なりと覚悟せねばならぬ。文部省を廃して内務の一局とせよとの議は久しく識者によって唱えられたところであるが、今日のように文部省をして要らざる世話焼きをなさしめるならば、ぜひとも廃止しなければならぬ」(慶應義塾学報) 「哲学館の中島講師がムイアヘッドの倫理学を講じて、動機と行為とに関する論をそのまま伝えているのをみた文部省視学官隈本有尚は、わが国では許すべからざる学説であると主張して、哲学館は認可を取消されたという。形式主義の教育界を現わす絶好の材料ではないか。さまでにその倫理書が不都合の理論を述べているとするなら、何故にその発売を禁止しないのか。何故にその原書の輸入を禁止しないのか。このような大問題に接しながら学者間の意見も聞かず、ただ一個の俗吏の言葉によって決定した文部省は全く無能である。哲学館および中島君は、この問題について社会にむかいぜひとも解決を求むべきであり、徒《いたず》らに俗吏俗物の蹂躙《じゆうりん》にまかすべきではない」(早稲田学報)  こうして、言論機関が挙《こぞ》って文部省のやりかたを攻撃するなかで、問題の人、ムイアヘッドの倫理学書の補訳者、文学博士桑木厳翼は、弁明を世間に発表した。 「中島徳蔵君ならびに哲学館は、余の先年訳述せし倫理学書の為に不測の奇禍を買へり。今や中島君|蹶起《けつき》して世論に是非を質《ただ》すにいたり、余の知友また遥かに書を寄せて、事の真相を問ふ者あり。このときに当りて訳者たる余は、原著者に対する義務として、つひに一言なき能《あた》はざるなり」  という書出しで、その「ムイアヘッドの倫理学書に就いて」の中で、桑木は述べる。  彼は、原著者における動機と結果の倫理学的定義を行い、さらに動機と「志向」との区別を紹介する。「吾人が動機と称するものは目的に限る、而して目的を達するに当りて取るべき手段の中には、多少その目的と方向を異にするものなきにあらず、これらの手段およびその結果は、われが志向してなすところなれども、我が行為にはあらず」、したがって、志向は動機を離れては全く道徳的意義を有しないから、志向だけによって行為の善悪の判断をしてはいけない、という。  桑木は、そこのところをこう書いている。 「ムイアヘッドは志向のみによつて行為の善悪を判断すべからずと説き、之に接続して、So judged, the regicide for the cause of freedom would be condemned,É と云へり、これ国体上容易ならぬことと目せらるる点なれども、虚心坦懐これを解釈すれば必しも然《し》かく慮《おもんぱか》るの要なきなり。余はまづ何人もこの文を読過して、我国体に考及ぶものなきを断言し得べし」  桑木は、原著書が例にひいたレジサイド(弑逆)はあきらかに英国の史上の事実を指すのだから、ここをよんだからといって、日本人にして日本の国体に適用して考える者は一人も居ないと断言するのだが、しかし、彼は最後につけ加えている。 「倫理学訳本第二版では「レジサイド」云々の一句を削って「否《しから》ずんば自己将来の悪業に資せんがために、今しばらく善根を施す者も賞讃せらるる等の弊を生ずるに至るべきなり」という句を挿入した。これは初学者がまだ哲学的論法に慣れず、ただこの字句に拘泥することをおそれて、先輩の忠告に従って訂正したからである。しかるに、書店は、自分の意のあるところを察せず、第三版以下を第一版の紙型を使って印刷してしまった。そこで今回のような面倒が起ったのである」  ——これは重要なところだ。  桑木厳翼もさすがに「弑逆」うんぬんの字句が誤解を招くとおそれて、第二版から、そこの訳を削ってほかの文句に変えたのだった。ところが、出版社がどういうつもりか、桑木の気づかない間に第三版以下を初版のままに回復して出したというのである。  したがって、工藤雄三が中島に、 (先生、文部省が当局談として時事新報に発表したところをみると、桑木先生の訳書は、動機善なれば弑逆も可なりというところは第二版から削除してある、と答えているが、その点はどうでしょうか?)  と訊いたのに対し、中島が第四版を出して、 (これ、この通り、そこのところはちゃんと出ている。文部省は言葉に窮して、そう強弁したのだ)  と答えたのは、中島の間違いであった。間違いというよりも、出版社の第一版紙型回復に気づかなかったのである。  この点は、新聞記事にある文部省当局談も同じで、第二版以下は完全に問題の部分が訂正されていると信じていたわけである。今度の桑木厳翼の釈明によって初めて、この事実が明るみに出たのだった。  しかし、文部省当局は、果して第二版以下が完全に訂正されていたと思いこんでいたのだろうか。あるいは、第三版以下が第一版に回復したのを知っていながら、第二版以下訂正という主張を敢えてしたのではなかろうか。  このへんの謎は、ある晩、隈本有尚のもとに工藤雄三が訪ねた場面から解けてゆく。  工藤が隈本の宅を訪れたのは、彼が穏田に予言者飯野吉三郎の書生米村忠三を訪問した半月後に当った。 「先生、哲学館問題で新聞がうるさくなりましたね」  と、工藤は、今夜は標準語で隈本に云った。 「うむ、だいぶんやかましくなったな」  と、隈本は工藤に対坐してうす笑いした。  それにしても奇怪なのは、工藤雄三のこの行動である。  中島徳蔵を訪い、穏田の予言者宅をたずね、今夜は、中島を哲学館から追った対手《あいて》、文部省視学官隈本有尚を訪う。——どうした気持からであろうか。  工藤雄三は、九州福岡の修猷館中学始まって以来の秀才であった。その故に、隈本有尚が同中学校の校長をしていたときの部下が推薦状を添えて工藤を隈本のところに訪ねさせたのである。それが今から四年前だった。  聞いてみると、工藤は、哲学館に入って師範科に進み、将来教師になりたいという。隈本は工藤をしばしば家に出入りさせた。哲学館に入学してからも工藤の成績は抜群である。  この隈本と工藤の関係を、哲学館講師中島徳蔵は少しも知らなかった。これは中島の大きな迂闊《うかつ》である。  今夜、訪ねてきた工藤は、その隈本に頼んだ。 「先生、今回の事件で、われわれ卒業生は文部省から中等教員の免状が下付されなくなりましたが、これは近いうちに解除となる見込みはございませんか?」 「さあ」  隈本有尚は、むずかしい顔をして腕組みした。 「何せ問題が問題だけに、すぐには困難だろうな。それに、中島君があんなふうにいきり立っていてはどうにもならぬ。彼には全く反省の色がないからな」  袴の上に手を置いた工藤は聞いている。 「本来なら、中島君も謹慎すべきところだ。あの哲学館では、湯本武比古《ゆもとたけひこ》のような講師はすっかり謹慎している。湯本君は、何せ『勅語読本』などを書いたほどの愛国者で、さすがだと思う。中島君に湯本君の万分の一もの慎みがあるといいんだが、彼は狂犬のようにわたしに喰ってかかっている……」  隈本は、口辺に冷たい微笑をみせた。 「どういう気持か、あの人の心理は、わたしにはさっぱり解《げ》せぬ。文部省相手に奮闘するつもりだろうが、それがますます哲学館の立場を悪くするのがあの人の目には見えないようだ。いや、先日も湯本君が訪ねて来てこぼしていた。中島君は哲学館を首切られたので、窮鼠猫を咬む奮闘もいいだろうが、自分たちは大いに迷惑していると、苦り切っていたよ」  哲学館の中に中島講師を排斥する風が顕著になってきたのは工藤雄三も知っていた。その先頭が講師湯本武比古で、湯本は隈本をこっそり訪ねて来ているらしい。  隈本有尚は、うかつに洩らしたそのことを少し後悔したふうに、 「いや、湯本君がわざわざ来たのではない。先日だったか、文部省の廊下で行き遇ったときの立話だがね」  と、口を濁したうえ、さらにつづけた。 「新聞がまた中島君の云うことの尻馬に乗って文部省を攻撃している。新聞というやつは、とかく為政者に噛みつけば勇ましくみえるでな。そこがまた俗衆にうけるわけで、あれは要するに新聞の人気取りだ。ずいぶんとわけの分らぬことを書いている。ま、いちいち取り上げて教えてやることもないがね」  と、ここで、ふと、工藤雄三の悄気《しよげ》た顔をこっそりと見た。 「工藤君、そんなわけで、いま早急に、哲学館卒業生の君たちに免状を下付するわけにはいかぬ。いま、それをすると、文部省の面目がまる潰れになる。これは文部省が……いいか、文部省がだよ、中島徳蔵君に負けたことになる。政府の面目がないではないか。もし、そうなったら、世の中に不忠者の似非学者が大手を振って出てくる。断じて文部省は新聞などには負けないよ」  と、見えぬ敵を凝視するかのように、工藤の肩のうしろに眼を投げた。電燈の暗い光の先には襖紙《ふすまがみ》の千鳥が仄《ほの》かに浮いていた。  工藤は、その隈本の気色《けしき》ばんだ顔色の下から遠慮そうに訊いた。 「先生。いかがでしょうか、この前のお話のように、わたくしにだけ特別に免許を下さるわけにはいかないでしょうか?」 「うむ……」 「わたくしの実家は、ご承知のように、朝倉郡の農家ですけん、わたくしが東京から帰って教壇に立つのを、家族、親戚、みんなが待ち焦がれとります。そこにわたくしが手ぶらで帰って行くのは、どうにも恥ずかしい思いがします」 「なるほど、君の家庭はそうだったな」  隈本は、髭の端を指で揉んでいたが、 「気の毒だが、前の事情と変ってきたので、今すぐに君だけにそれを与えるわけにはいかぬだろう。もう少し、待ってくれ」  と、ぽつりと云って、 「というのは、いいか、工藤君、今度の処分はわたしの権限ではない。これは文部省の省議として決り、すでに公文書として発令済みになっている。特に君の場合、あのとき、その公文書が区役所から哲学館に通知されたはずだがな。それは見せてもらっているだろう?」 「はい」  工藤は、わずかにうなずいた。  その文句は工藤もおぼえている。 [#ここから2字下げ] 「客年《かくねん》十一月十四日付ヲ以テ工藤雄三外三名教員検定願書提出ノ処右ハ検定不合格ノ旨|其《その》筋ヨリ申越《まうしこし》候条|及伝達《でんたつにおよび》候也   明治三十六年一月二十一日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]小石川区長 石井義弘《いしゐよしひろ》」  工藤外三名を特に名指ししたのは、文部省がまだ卒業生全員の処分を決定する前のことである。つまり、不穏な試験答案を書いた工藤雄三を、今度の事件の元兇とみなして特に指定したのだから、卒業生と在学生をいっしょくたにした総括的な処分よりも、一段と罪は重いわけである。 「まあ、ぼくは君のために、すぐにもなんとかしてあげたいが、どうも、問題が大きくなったので少々まずくなったな。君の答案で問題が起きたのは気の毒だがね」  と、隈本有尚は再び腕を組んだ。  工藤雄三は、隈本の態度に突き放されたような気になった。彼は今まで、半分は隈本の協力者の意識になっていたのである。  工藤雄三が隈本有尚に突然下宿から呼びつけられたのは、去年の卒業試験の始まる前日だった。工藤は、めったにないことなので、使いを貰うと早速駆けつけた。それが、今夜対坐しているこの部屋だった。きてみると、同郷の米村忠三が隈本の傍にいて、やあ、といった。米村は隈本が修猷館を去る一年前に入学して、すぐに中退したのである。しかし、東京に出た米村は、そのわずかな縁をたよりにして、ときどき隈本の家に出入りしていた。  隈本は、そのとき機嫌がよく、九州の話などした。彼も修猷館にいたころ、暇をみては近くを歩いているので、その辺の地理は分っている。筑後川の話や、日田《ひた》の鮎のことなどが話題に出た。隈本は、その辺の史蹟になっている木ノ丸神社や、恵蘇宿《えそのじゆく》などという古い村々を歩いた思い出を語った。いずれも、米村や工藤の生れた近くであった。  三人のその話がひと区切りつくと、隈本は、 (ついては、君のほうもいよいよ卒業試験が近づいたね)  と工藤に云った。身元保証人として気にかけてくれていたのである。 (はい、いま勉強しとります)  と、工藤が云うと、 (君は秀才だから、格別勉強することはなかろう)  と、隈本は笑い、 (ときに、倫理学は誰に教わっているかね?)  と訊いた。 (中島先生です)  と答えると、隈本は、自分は館長の井上円了博士とは友人関係だから、その中島徳蔵講師ともよく知っている、というようなことを語った。 (哲学館の倫理学は、どういう教科書を使っているかね?)  工藤がそれに答えると、隈本は、そのムイアヘッドの倫理学というのは、どういう趣旨なのか、と重ねて訊いた。  工藤は、半ば自分が試験されているような心地で、教科書の趣旨をおぼえているだけ答えた。  隈本は、うむ、うむ、と聞いていたが、 (たしか、その倫理説は、行為の動機を大そう重視するそうだね?)  と、質問した。  工藤は、動機善なれば……というくだりをひと通り話した。 (そうか。その動機善なればというところだが、その例として、なんでもクロムウェルの行為を是認するようなことが出ているそうだね?)  と、また訊いた。  工藤は、そこで、その引例のところをまた、詳しく話した。  隈本は、それにひどく興味を覚えたようであった。 (中島君は、その引例について別に註釈は加えなかったかね?)  と、問うてきたので、工藤は、別にそういったものは話されなかったと、ありのままを答えた。  隈本は、そこを咎めるふうでもなく、むしろ明るい顔で、 (中島君が卒業試験にどんな問題を出すか分らないが、あるいは、その動機論を持ち出すかもしれないね。聞いていると、どうやら、そこが大事なようだ)  と云った。  工藤もそう予想していた。 (そのときは、君はおぼえていることをそのまま書いたほうがいいな。その引例も答案につけたほうがいいよ。中島君は、几帳面な答案を喜ぶ人だ)  と、助言した。  また、そのあと雑談の中で隈本はこうも云った。 (さっきの試験の話はこの場かぎりにしよう。他人《ひと》に聞えたら誤解を招く。しかし、もし些少《さしよう》の問題が起っても君は何事も心配はいらぬ。君の身分と将来は同郷の先輩である自分が保証する)  工藤が帰るとき、座にあった米村も起ち、いっしょに隈本の家を出た。  自分には何も分らないが、と肩をならべて歩きながら、中学を中退した米村は九州弁で工藤に話しかけた。  ——隈本先生は親切な人である。今まで先生とぬし[#「ぬし」に傍点]の話を傍で聞いていたが、先生のすすめる通りに試験答案を書いたほうがいい。あれは中島さんの出題傾向を、隈本先生が知っているから云っているのではないか。ぬし[#「ぬし」に傍点]も卒業試験にはいい成績をとって、秀才の誉《ほま》れを郷里に見せてやるがいい。  工藤は、米村の単純な忠告にもうなずいた。この男が中学を中退したのは、家庭の事情からでもあるが、頭脳《あたま》がよくないからでもある。それだけに、彼は三つ年下の工藤を同郷の友だちとして自慢している。今も彼は、学問の話はよく呑みこめないが、卒業試験の答案は、隈本の云う通りにしたほうがいいと贔屓《ひいき》から云うのだった。  米村は、いま穏田のほうにいる偉い予言者の家に書生となっている。彼は、その主人を神様のようだと尊敬していた。工藤は、何度その話を米村から聞いたか分らない。  二人は、そのとき途中までいっしょに歩いて、別れた。  ——こういうことがあったから、いまも工藤雄三は隈本有尚の案外な言葉に落胆した。  自分は隈本のすすめどおりに、中島の出した試験問題「動機善にして悪なる行為ありや」に教科書どおりの趣旨を書き、「動機善なれば弑逆を行うも可なり」と引例まで加えた。  ところが、その隈本視学官が試験当日に臨席して、忽ち自分の答案を問題にした。  なんだか隈本は、中島がそのような出題をするのを事前に察知していたかのようである。卒業試験に、中島講師なら必ずこのような出題になるだろうと予想して、あのとき、答案の方向を助言したような気がする。もっとも、いくら隈本でも、正確に「動機善にして悪なる行為ありや」という出題があるとは分っていないだろうが、結果的には、そのヤマカンが当ったことになる。  しかし、自分の答案が隈本によって突然摘発されたとき、工藤は仰天し狼狽《ろうばい》し、青くなったものである。自分の指先から爆弾が破裂したような気がした。  ——なるほど、隈本は、「動機善なれば弑逆を行うも可なり」という答案を出せとは云わなかった。それはあくまでも工藤自身の答えである。だが、隈本は、中島講師は几帳面な答案を喜ぶ人だから、なるべく引例にも及んだほうがいい、と云った。引例といえば、暗にこの弑逆のことを指している。  それを摘発し、哲学館の弾劾に及んだ隈本の心理はどういうことだろうか。しかも、その答案を出した当の生徒は自分の家に出入りさせている人間なのである。  工藤は、直後に隈本のところに駆けつけた。すると、隈本は、 (たとえ中等教員の免状が下付されなくとも、おまえだけは何とかしてやるから、そう心配するな)  と云った。ただ、自分の家にときどき遊びに来ていることは他人には云わぬがいい、と口止めされた。  この他人に云うなという中には、むろん、中島徳蔵が含まれている。工藤は、相手が視学官なので、その権限でどのようなことでも取計らえると思い、自分にだけは資格の免状がもらえると安心した。  そのときの隈本の話では、哲学館の倫理学の教育方針がかねて腑に落ちないと思っていたところ、たまたま問題になったのだから、卒業生を懲罰しているのではないと云った。そして、哲学館は不敬な倫理を教えている、と何度も非難した。  それから、隈本はこうも云った。 (おまえの答案のおかげで私立学校が摘発出来て、よかったよ)  これは語るに落ちた云い方である。哲学館の倫理学教授が、かねて腑に落ちなかったというのは、日ごろから、それに目をつけて、摘発の機会をうかがっていたという意味ではないか。——  工藤は、その一言で、なんだか自分が隈本の手伝いをしたような気持になった。答案を書いたのは自分の意志だから、正確には彼の云いなりになったことにはならないかもしれない。しかし、この前の隈本の暗示的な助言といい答案の中から自分のものだけを抜き出して、電光石火のように隈本がその場で中島講師を問責したことといい、また、その後の問題の大発展といい、工藤は、前から隈本有尚と通じていたような心理に陥った。  一つは、工藤が中島徳蔵に今度のことで大そうな迷惑をかけたという心理がある。そのため何となく中島に対して近づきにくい。この疎遠が、ますます一方の隈本に加担したという気持を強めさせた。中島には工藤も二、三度挨拶に行ったが、こちらの気のせいか、何となく彼の眼が自分に向けて冷たくみえる。  また、隈本有尚視学官の権限で工藤だけには中等教員の免状が貰えるような口約束だった。もちろん、特別な計らいを彼だけにするというのは、あくまでも修猷館の関係、身元保証人の関係からの好意だという。しかし、工藤にはどうしてもそうは思えなかった。やはり隈本に手柄を立てさせたための報酬のような気がする。  工藤の家は筑後の貧農だった。郷里では秀才の評判が高く、家族は哲学館を卒業して戻ってくる工藤に、近隣の自慢の上からも、一家の経済的な面からも期待していた。工藤は何としてでも教員の資格を獲得して帰らねばならなかった。  たしかに隈本はこれまで、おまえだけは、という内約を与えた。工藤はぜひ教員の資格が欲しいから、隈本の云うとおり、他人には黙っている。この秘密性がまた工藤に隈本との共謀心理にならせていた。自分だけが他人に隠れて教員免状がもらえるとなると、工藤もうしろめたさを覚えずにはいられない。そのうしろめたさが、どうしても隈本の味方になる。  こうして工藤は、知らず知らずのうちに裏で隈本有尚と結んでいる意識になっていた。  ところが、隈本の話では、容易にその特別計らいのことが実現出来ないという。問題が世間でうるさくなったから、もう少し時機を待てというのである。たまりかねて今夜も訪ねてきた工藤は、また隈本に先に延ばされてがっかりした。  隈本の云うことも一理がないではない。世間の騒ぎが、隈本の予想以上に大きくなっているから、彼も約束を果すのに二の足をふんでいるのだ。二、三日前は、在野の倫理学者で作られている丁酉《ていゆう》倫理会が「哲学館事件に対する意見」なるものを発表して、 「ム氏の動機説を教育上危険と認めず、また倫理学の教授に際し、中島氏がその引例をその儘《まま》になしおきし所作を以て深く咎むべき不注意に非ずと認む」  と、文部省のやり方に真向から反対した。  これには、会員の波多野精一《はたのせいいち》、桑木厳翼、村上|専精《せんじよう》、朝永三十郎《ともながさんじゆうろう》、浮田和民《うきたかずたみ》、藤井健次郎などが名を連ねていた。 「先生、もう少し待てと云われますが、あと、どのくらい待てば、その件が叶えられますか?」  と、工藤も自分の一身にかかわる重大事だから、隈本に断わられても勇を鼓して訊いた。 「そうだな」  隈本は、顔をしかめて下を向いていたが、 「ぼくが洋行する前までには、ちゃんとしておくよ」  と、呟くように云った。 「えっ、先生は洋行ばなさるのですか?」  工藤は眼をみはった。 「うむ、近く文部省から出張命令が出ることになっている」  と、隈本は少しきまり悪げに云った。   謀計の影[#「謀計の影」はゴシック体]  視学官隈本有尚の口から「洋行」という言葉を聞いたとき、工藤雄三はふいに取り残されたような気持に陥った。  隈本は、かねて君だけは何とか特別に便宜を図ってやろうと云ってきた。その相手が外国に行ってしまえば、約束のことはどうなるのだろう。いまでも、その実現は早急にはむずかしいと云っているのに、当人が居なくなれば、もっと困難になる。  工藤は顔から血の気がひいた。初めて聞く話である。 「先生、その洋行はいつごろでしょうか?」  隈本は曖昧な顔で、 「いつとはまだ決っていないがね。なにしろ内々の話だから、はっきりしたことを云うわけにはいかないが」  と眼を落した。 「ご出発までに、あと一カ月ぐらいは余裕がございますか?」  工藤は重ねて訊いた。 「いや、ぼくもはっきりしたことはまだ岡田さんから聞いていない」  岡田とは岡田良平局長代理のことである。では、洋行は岡田局長代理から話があったのか。途端に工藤の脳裡にきたのは、哲学館問題で世間が騒ぎ出したので、文部省が当事者の隈本を外国に逃がそうとしていることだ。工藤は思わず隈本の顔をじっと見つめた。  隈本も工藤が何を考えているのか察したらしく、少々、面はゆげな顔で、 「この洋行の話は、ずいぶん前からあったんでね。ただ、いろいろな事情から延び延びとなっていたのだ。それが今回ようやく本決りになってきたわけさ」  と、打ち明けた。だが、工藤には、それが隈本の弁解としか聞えない。 「洋行といわれると、どちらですか?」 「うむ、まだ、はっきりと行先も判ってないような具合だがね。イギリスになるか、ドイツになるか、いずれ命令はあるだろうが……」  これはおかしい。前から話があったとすれば、その行先もすでに決っていなければならない。第一、文部省が官吏を出張させるには、はっきりとした目的がなければならない。遊びにやるのではないのである。……隈本の辻褄《つじつま》の合わぬ言葉で、工藤はいよいよ自分の想像が当っていることを知った。  今回の問題は、隈本有尚の摘発から発した。しかし、このような大事態になろうとは、当の隈本視学官も、文部省も予想しなかったに違いない。各新聞はこぞって、文部省を攻撃した。在野の学者のほとんどが、これに同調した。他の私学ももとより文部省非難に加わっている。これは、いつわが身に同じ災厄がかかるか分らないので、その防禦だった。  攻撃側は、必ず隈本視学官の名前を出してくる。狼狽した文部省は渦中の人物を遠くに逃がすことで当面を糊塗《こと》するつもりらしい。いわば、ほとぼりを冷ますのである。——岡田局長代理の名前が隈本の口から不用意に洩れたので、工藤には、こういう関係がはっきりと捉えられた。  その工藤の考えが顔色に現われたのかもしれない。隈本は、突然、高い声になった。 「君、今度のことでぼくが降参するとでも思うかね?」 「は?」  工藤がおどろいて隈本を見ると、なんだか肩肘を張ったような姿勢でいる。 「世間では、ぼくがひどく参っているように思っているかもしれないが、それは全然見当違いだ。なにしろ、ぼくの方針は、文部省だけでなく、帝国大学の教授連もみんな支持しているのだ。特に井上さんは声援してくれている。これは局長も云っていた」  井上さんというのは、むろん、哲学館長のことではない。帝国大学教授井上哲次郎を指している。隈本は、自分が輿論《よろん》に追い立てられて外国に逃げて行くのではないと云い張りたいのだ。工藤の表情を見て、隈本は急に昂奮をみせたようだった。井上の名を出したのも、その勢いかららしい。 「まあ、新聞に書いてあることは、あれは犬の遠吠えさ。何といっても、文部省や官学の意見が正当だからね。そのうち咬みついてもかなわぬと判って、あの手合も鳴りを静めるに違いないよ。いわんや、中島某なんかが何を吠えても無駄さ」  自分は文部省と帝国大学を背負っている、と云わぬばかりだった。  工藤は、隈本の思わぬ昂奮に圧《お》されて聞いているだけだった。しかし、彼にしてみれば、そんなことよりも隈本との密約の行方が気にかかる。 「先生、わたしのことはどうなるのでしょうか?」  と訊いた。 「うむ、君か」  隈本はつまずいたような顔になったが、 「それは、ぼくが向うに行く前に目鼻をつけておくよ」  と答えた。  その言葉があまりに軽すぎて聞えたので、工藤は、 「本当にそう願えればありがたいのですが、大丈夫でしょうか?」  と、念を押した。 「君のことは、これでいろいろと考えているのだ。こういう事態になって、すぐに約束どおりに出来なかったのは残念だが、なるべく洋行前にはカタをつけておく。もし、間に合わなかったら、しかるべき人間に間違いなく申し送っておくよ」  と云った。  工藤は、おや、と思った。隈本は洋行前にそのことを果すのではなく、だれかに引き継ぎするというのである。それでははっきりとした決定にはならない。もし、引き継がれた人がいいかげんな考えだったら、そのまま立消えになるのではないか。隈本の云い方は、その場逃がれのようにも思われる。 「先生、その方はどういう人でしょうか?」  工藤もそう訊かないわけにはいかなかった。  すると、隈本は髭の先を捻って、 「だれとは今は云えないが、たしかな人だ」  と、やはり曖昧だった。 「先生がお留守になったあとは、その方にわたしもお願いに行かなければならないのですが、そうしますと、洋行前には、その方のお名前を知らせていただけますね?」 「もちろんだとも。名前だけではない。その人を君にひき合せるつもりだ」  と、隈本は明言した。  工藤は、隈本にそれ以上押し返しようもなかった。それに、隈本の様子には、どうやら、彼との長い対談を迷惑がっているところも見える。  工藤は、隈本の洋行までにはまだ間があることだし、今夜だけでなく、もう一、二度は面会できると思った。相手の機嫌を損じそうなおそれもあるので、ひとまず、引き退ることにした。 「先生、どうぞよろしくお願いします」  隈本は、ほっとした顔になって、 「まあ、そう心配しないでもいい。君のことはよく分っているからね。今夜はぼくもこれから調べものがあるので失敬する。洋行が内定したとなると、これでなかなか忙しい。また来給え」  と云った。  しかし、玄関に見送ったとき隈本は、工藤に次の言葉を云うのを忘れなかった。 「君、ぼくが洋行するということは、ひとには内聞にしておいてくれ。なにしろ、まだ正式に発令がないんでね。発令のないうちにぼくがむやみとひとにしゃべったと思われても困るんだ」  ——工藤は表に出た。暗い中に寒い風が吹いている。まるで心の空洞を震わせるような風だった。  またしても工藤は、試験答案は正直に書いたほうがいい、と云った隈本の言葉を思い出す。工藤は、いま隈本に裏切られたような思いになっている。君のことは洋行前に実行すると云う口の下から、留守中、あとの人にそれを頼んでおくという。いいかげんな言葉としか聞えない。その洋行のことも、まだ内密にしてくれと、くどいくらいに念を押す。  そのくせ、自分には文部省と帝国大学がついていると昂奮して云ったものだ。  文部省とは岡田局長代理の援助を指すらしい。これは間違いではなかった。岡田良平はいま文部官僚の中心になっている。菊池大麓大臣は岡田の云いなりになっていると世間では伝えている。  隈本は井上哲次郎の名を出した。それもふいと昂奮した唇《くち》から洩れたのである。  歩いている朴歯《ほおば》の下駄が小石を弾いた。急に工藤は眼がさめたようになった。先日、井上哲次郎が新聞に弁明文を出していたことが思い出されたのである。  井上が弁明文を書いたのは、その前に日出国新聞に「哲学館問題の裏面」という匿名氏の一文が載ったからだ。まず、その文章は、こうなっている。 「頑迷な文部省が哲学館の教員検定無試験資格を取消してから、はしなくも世の物議を買い、今なお、その落着をみていないが、右に関し大学学生の一部は大いに憤慨し、この問題の真相をたしかめた上、文部当局に迫ると同時に、社会公衆に対し大いに訴えようとするようである。今ことの起りを聞くと、文部省をしてかくの如き不法の処置を取らせたのは、哲学館長井上円了氏と文科大学長井上哲次郎氏との反目がその原因の主であるという。すなわち、初め文部省は取消しのことを協議した際、まず文科大学長井上哲次郎氏を呼び寄せて、その倫理上の危険について意見を聴いたところ、彼は日ごろ宿怨のある哲学館のこととて充分の審査もせず、一も二もなく危険であるとし、認可取消しの正当なるを述べた。文部省はその説に盲従して、遂にこと|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に至ったわけである。そして、それらの内情が彼ら大学生の耳に入ったので、一部の有志は井上哲次郎氏の心事を頗《すこぶ》る陋劣なりとし、大いに哲学館に同情を寄せることになり、近く井上哲次郎氏排斥の団体を組織し、この問題のため目下同志を糾合しつつありということである。井上哲次郎たる者、速やかに彼らの疑惑、いや、むしろ社会の疑惑を解かないときには、その身に累が及ぶことになろう」  井上啓次郎の弁明文とは、この攻撃に対してであった。 「拝啓、本日貴社新聞の「哲学館問題の裏面」という一文を読んだが、これは全く虚構に出た浮説で、小生が井上円了氏と宿怨あるように取っているのは事実と相違している。文部省の哲学館処分と小生とは初めから何らの関係もない。殊に文部省が取消について協議したとき、まず小生を呼び寄せて意見を聴いたということは、何びとかの捏造《ねつぞう》であって、全く小生の与《あずか》り知らぬところである。隈本視学官が大学の一教授に相談して今度のことを決行したとの意を洩らしたそうだが、その一教授が誰であるかを明言しないため、あるいは小生に臆測したのではなかろうか。しかし、とにかく夢にも知らざることで、迷惑この上ない。小生と井上円了氏とは学説上見解を異にし、相互に論争したことはある。が、これは学者間にあっては常のことであって、これによって円了氏その人に対し個人的な宿怨を抱くということは全くあり得ないことである。何卒《なにとぞ》、この一文を新聞紙上に掲載されんことを望む」  東京帝国大学文科大学長井上哲次郎は、菊池大麓が東京帝国大学|綜理《そうり》であったころ最も信任の厚かった人。現在、岡田良平局長代理とは唇歯《しんし》の間と噂されている。すると、菊池と岡田と隈本、菊池と井上、井上と岡田という、それぞれの関係が、いま歩いている工藤雄三の頭にも三つも四つもの輪に重なって描かれてきた。  工藤は何となく、これまでの頭の中を塞《ふさ》いでいた靄が少しずつ霽《は》れてくるような思いだった。しかし、それが全部霽れ渡ったわけではない。彼にはもっと解けない深い部分があった。これが判らない限り、全部が拭い去られたとはいえなかった。  問題は自分の試験答案から発している。そのことから臨席した隈本視学官の摘発となり、文部省の哲学館処分となった。つまり、偶然の一事から出発して発展した。  しかし、それにしてはあまりに文部省の処分が苛酷であった。全生徒に対しても無試験検定の資格を奪った文部省の姿勢には、何かそこに待ち構えていたような形跡が見える。偶然事の発展にしては、文部省はあまりに事前の首尾を整えすぎている。  工藤には、卒業試験の前夜、俄《にわ》かに隈本に呼びつけられた一事が頭にこびり付いている。倫理学の試験問題に動機論が出るかもしれないから、君は教科書通りの引例をつけて書いたほうがいいと、隈本は教えたのである。これは何を意味するか。隈本は生徒の答案に「弑逆《しいぎやく》」の文字が出るのを明らかに狙っていた——。  いうなれば、文部省は隈本を使って、待ち構えていたようである。これはムイアヘッドの倫理学自体の否定を企んでいたからではないか。ただ、学問上、これを頭から否定すると俄かに問題が起るので、そのきっかけを哲学館に求めたように思われる。  世間はそこまでは気がつかないから、試験答案という偶然事から発展した処分の苛酷におどろく。しかし、それが最初より企図された謀計なら、この処分は決して苛酷でも何でもない。  問題の因果関係を偶然の発端と解しているから、世間は錯覚を起す。それだけのことだったら、文部省も今度のように強腰になるわけはない。  では、文部省にこの謀計を考えさせ、強硬な態度にさせているのは何だろうか。世間が云うようにどうも文部省が教科書疑獄の不面目をごまかすためだけとは思えなくなってくる。  このとき工藤の記憶に泛《うか》んだのが、先日、穏田《おんでん》の予言者の書生米村忠三の洩らした一事だった。 (今度のことでは宮内省がひどく衝撃をうけている)  宮内省。——  工藤の眼に泛んだのは、予言者の宏壮な塀の前に待っていた華美な人力車であった。下田歌子。この宮中に顔の利くという女子教育者!  工藤が思案に追われ、ほとんど無意識に道を歩いて下宿の格子戸をあけたとき、玄関の三和土《たたき》に三、四足のきたない下駄が揃えられてあるのを見た。それを避けて工藤が上がったとき、奥から、この家の老婆が急いで出てきた。 「工藤さん、お客さまですよ」 「え?」 「もう、ずいぶん前から、あなたの帰りを待って、学生さんたちが来てらっしゃいますよ」  工藤は、いっしょに哲学館を卒業した友人だと思ったから、別段気にもとめなかった。ただ、隈本視学官と会って帰ったことは、もちろん、秘密であった。  しかし、自分の部屋の襖をあけたとき、工藤は思わず棒立ちとなった。  狭い座敷で目白押しにならんだ三人の学生は、工藤の全く知らない顔だった。 「失敬しています。工藤君ですな?」  と、その中の一人が工藤を見上げて膝を直した。  工藤がとまどっていると、 「ぼく、帝国大学文科三年の石井|波平《なみへい》といいます」  と、先方は名乗った。 「ぼく、小山東助《こやまとうすけ》、石井と同じ文科の三年生です」 「同じく高橋正熊です」  三人の眼が一斉に立っている工藤の顔を射た。  工藤は闖入者《ちんにゆうしや》の正体を知ったが、意外な訪問者にどぎまぎした。 「工藤君、ぼくらは、今度の哲学館の問題で、ぜひ君に訊きたいことがあって来たんですよ」  と、最初の石井波平というのが、代表したように口を切った。   強者の権利[#「強者の権利」はゴシック体]  工藤雄三は、帝国大学文科学生三人に真正面に坐りこまれて哲学館問題の経過を訊かれたとき、はじめ、彼らの意図が分らなかった。  新聞や世間の噂などでは、文部省が哲学館に対し今回の苛酷な処分に出たのは、私立を圧迫し、機会があればそれを潰滅《かいめつ》させ、官立だけにしたいという意図から出たと臆測している。帝国大学は官立学府の最高である。その文科の学生が何で哲学館の事情を訊きに来たのであろうか。三年生といえば、卒業間際の学生だった。  工藤は何となく胸騒ぎを覚えながら、まず、その理由をたずねた。  石井波平という学生がみなと顔を見合せ、共に微笑を泛《うか》べた。 「いや、その質問はもっともです」  やはり石井波平が工藤に向って云った。 「今度の問題は、どうもわれわれには納得できない点があるんですよ。大体の経過は、中島徳蔵先生が新聞に書かれたものを読んだり、その他の記事で分ったが、ぼくらは君から直接に、問題の発端となった試験答案のことを聞かしてもらいたいと思い、それで、文科の三年生の同志がよりより相談してきたんです」 「工藤君」  と、高橋正熊という学生が脇から云った。 「いま、石井が云った通りだが、これはなにも他意があって来たわけじゃないのです。われわれ、今度の文部省の態度を見ていると、どうも問題が単純でないような気がする。そこで、みなと大いに研究してみようということになった。どうかありのままを説明してくれませんか」  小山東助も、高橋正熊の云ったことにうなずきながら工藤を見た。  工藤雄三は、まだ先方の意図が明瞭には分らなかった。しかし、別に底意はなさそうに思える。事実、工藤雄三には三人の文科大学学生に坐りこまれて、それを拒絶できるだけの強いものはなかった。一つは、相手が帝国大学学生というのに対し、自分が私学哲学館の学生であることからくる劣等感もある。もう一つは、これを話さないと、事態が彼らに悪く解釈されそうである。つまり、工藤には隈本との「共謀意識」が拭い切れないから、それが彼らにむかって弁解する気を起させた。知られたくないところは隠しおおせたいという心理である。  そこで、工藤雄三は試験答案のはじまりから話した。むろん、その前に隈本有尚に呼ばれた一件はおくびにも出さなかった。  三人の文科大学学生はじっと聞いていたが、極めて当り前な質問が二、三あったきりで、しばらく黙った。彼らは、下宿のおばさんが出した茶を飲んだ。 「そこで、工藤君に訊きたいが」  と、小山東助が顔をあげて云った。ひどい東北|訛《なまり》だった。 「君は、その卒業試験に、中島さんから、動機善なれば、という例の問題が出ると予想していましたか?」 「いや、それは考えていませんでした」 「そうすると、その問題が出たとき、君はすぐに弑逆《しいぎやく》うんぬんのことが頭に泛んだのですね?」  そうだ、と云えば嘘に聞えそうなので、工藤はちょっと考えた末、 「それはすぐではなかったです。動機が善なれば行為の上において許されることがある、と書いたのですが、どうも、それだけでははっきりしないように思われたので、あとから弑逆のところを付け加えたのです」 「分りました」  と、小山東助は、石井波平にあとを譲るように顔を見た。 「工藤君、君は中島さんと教室以外で話したことがありますか?」  石井波平は訊いた。 「それは、日ごろ教わっているので、廊下だとか、教師室だとかで話ぐらいはします。中島先生の家にも伺ったこともあります」 「君は秀才だから、大いに中島さんに認められているわけですな。だから、それは当然だが、試験の前に中島さんから、答案には引例まで書いたほうがいい、といったような暗示的な話はなかったですか?」 「いや、中島先生は、そういうことは一切おっしゃらない方です」 「なるほど」  三人は、また顔を見合せてうなずき合った。工藤は、次に彼らが、自分と隈本視学官との関係を訊くのではないかと内心|怯《おび》えたが、それはなかった。 「どうも、われわれには腑に落ちないのですよ」  と、小山東助が云った。 「学生の試験答案から端を発しているにしては、あまりに文部省の態度が前から用意されていたという感じが強すぎる。何か、こう、万端の用意ができていたという感じだな。文部省は、君たち、卒業する学生から教員資格無試験認定の特典を奪い上げただけでなく、在学生一同も処分したというのは、ほれ、罪九族に及ぶ、というあれと同じですよ。それは、ちっとやそっとの思いつきで出来ることではない。君の答案の、弑逆の二文字にフラフラと眼がくらんだためだけではない。ぼくら考えてるんですが、文部省は何か罠を仕かけていたと思いますね」  石井波平が引き取って云った。 「世間では、文部省が教科書疑獄の目を外に逸《そ》らすため、今度のような事件をわざと大きく煽り立てたと云っているが、どうも、ぼくにはそれだけとは思えない。何か魂胆がありそうだ。しかもだよ、文部省が、こうも輿論《よろん》の反対を受けてもびくともしないというのは、少々、出来すぎている。何かあと押しがあるような気がする。工藤君、君はそうは思いませんか?」 「さあ」  そう問われても、工藤は返事のしようがなかった。  彼らの言葉は、まさに工藤自身が隈本有尚の家を出てからここに帰るまで考えつづけてきたものと同じだった。やはり、この人たちも文部省に当初より作為があったと察している。しかも、文部省にはあと押しがあるように考えられるという。工藤は、穏田《おんでん》の予言者飯野吉三郎の書生になっている米村の言葉から、それを宮内省方面に考えていたのだが、この人たちもやはりそう思っているのだろうか。  工藤は弱味を持つ一方、三人の文科大学生に親しみを覚えてきた。そこで工藤は、 「そのあと押しというのは、どの方角ですか?」  とさぐるように訊いてみた。三人はまた互いに眼を交わしていたが、小山東助が代表したように、 「それは追々分ってくると思います。今のところ、相手はまだ模糊《もこ》としていますからね」  と云い、ふと話題を変えて、 「君は、今度の処分が決る前、中島さんが加藤弘之先生のところに意見を聴きに行ったということは聞きませんか?」  と別な質問になった。 「さあ、そんなことは、何か中島先生の書かれたものに出ていましたが、ぼくは直接には聞いていません」  工藤は答えたが、事実、何も聞いてないのである。 「そうですか。中島さんは加藤先生を頼りにしておられるようですね?」  と、小山東助は訊く。 「倫理学のほうでは先輩でもあるし、尊敬されているようです」  工藤は云った。 「中島さんが加藤さんのところを訪ねたのが、ちと或る人に具合が悪かったのかもしれないな」  と、小山東助が妙なことを云った。 「どうしてですか? 加藤先生は進化論を倫理学に適用された唯物論者で、中島先生の実証主義はその感化をうけてのことですから、師弟として当然でしょう」  工藤が云うと、 「いや、全くそれには違いないが」  と高橋正熊が発言を替った。 「そういうことが、いよいよ井ノ哲さんを刺戟したのかも分りませんな」  井ノ哲とは、むろん、文科大学長井上哲次郎のことである。工藤は、そう聞いて、つい、この間新聞に出た井上の、世間の疑惑を解く、という弁明文を思い出した。哲学館長井上円了と、井上哲次郎とは不仲であるから、今度の哲学館処分は井ノ哲の示唆によるという噂の無根を愬《うつた》えた一文であった。 「では、やっぱり井上先生が今度の問題の背後におられるのですか?」  工藤は、そう問わずにはいられなかった。それに対し、三人の学生は黙って笑っていた。  工藤といえども、去年、加藤弘之と井上哲次郎とが論争したことぐらいは知っている。それは井上の「倫理学と宗教」という論文に対する加藤の攻撃であった。加藤の唯物論に対し、井上は唯心論、精神主義である。  加藤弘之は、明治十五年ごろまで『真政大意』『立憲政体略』『国体新論』などを書いて、いわゆる天賦人権論を展開してきた。人間には誰でも天から平等の人権が与えられているという民権説である。これが明治十年前後の自由民権論者に大きな論理的支柱を与えた。  ところが、加藤が東京大学三学部(法学・理学・文学)綜理《そうり》だったころ、御傭《ごよう》教師として招聘したモールスや、フェノロサや、その他|外山正一《とやままさかず》、矢田部良吉《やたべりようきち》などによって、ダーウィンの進化論が輸入されると、加藤は忽《たちま》ち自説を変えた。加藤は、明治十五年、それまで天賦人権説による自著三部を悉く絶版にして、これを新聞に広告した。これが世間に衝撃を与え、加藤は猛烈な攻撃に曝《さら》された。加藤の転向による最初の著が『人権新説』であった。  加藤は、天賦人権の立場にある学者たちの非難を一切顧慮せず、以来、彼の著書はすべて進化論の立場から論じられた。倫理学であろうが、政治学であろうが、いかなる問題を取扱うにしても、全く頑固にダーウィニズムを一貫して通した。彼は唯物主義を固執し、神の存在を否定し、宗教の無用を論じ、一元主義の理想を説いた。  しかし、加藤にあっては、このダーウィニズムは功利主義との接合となった、この点、ムイアヘッドが、その倫理学に述べたグリーンの説と立場が同じである。だが、加藤は、その功利主義を一そう狭く考えて、利己主義をとった。  利己主義は、その一面、個人主義の発展である。個人主義はさらに超人主義に発展する。加藤の場合は、この超人主義を国家の統率者に置いた。すなわち、国家的功利主義である。この辺が加藤の唯物論説の特徴である。  もともと、進化論は自然淘汰説だから、強者のみが生き残り、弱者は敗亡するという立場をとる。加藤のは、この立場からの個人主義と利己主義につながるが、彼は国家を生物と同じく有機体にみなし、われわれ複細胞体たる者が国家のために尽すのは、すなわち、われわれの利己的根本動向を完成するゆえんであって、それがその固有性であると説く。これは、のちの大正元年に出した彼の『自然と倫理』の一句であるが、自然界における矛盾と進化の法則を、このように国家主義的功利主義の思想に置きかえたのは、彼が明治十五年の「変節」以来の論理であった。  この点は中島徳蔵の倫理学も大同小異であった。すでに加藤の指導下にある彼としては、当然、そうならなければならないのだが、彼が文部省に対する反駁の中で、しばしば自分の講演集を読んでくれと云ったのは、そこに忠君愛国的な観念が述べられていたからである。つまり、いうところのダーウィニズム的な唯物論も、中島の師加藤弘之にあっては、それを「強者の権利の競争」の法則に従って国家の強力性、ひいては日本民族の宗家の統治者である天皇を「強者」にしなければならないという超国家主義に結びつくのである。  さらに云えば、加藤のそれまでの天賦人権説が放棄され、全く異質な「人権新説」が唱えられたのは明治十五年のことで、その前年明治十四年は、世に名高い、国会速開論者の大隈重信一派がクーデターによって政府を追われた年である。つまり、これは、憲法制定の方針として岩倉具視《いわくらともみ》の日本主義的立憲思想が根を張ったのと時期を同じくする。岩倉のこの考えは、憲法創案者としての伊藤博文に少し柔らげられて受継がれたが、山県などは、それすら日本国体に対する危惧感となっていた。  要するに、加藤弘之は、そうした時期に際しての政府の代弁者だったのである。彼が明治十四年以来、東京大学綜理、又は、帝国大学総長として十二年間にわたっていたのも理由のないことではなかった。  工藤雄三には、もとより加藤弘之に対してこれだけの知識はない。ないが、漠然と加藤の学者的位置は分っている。  いま、文科大学生三人の話を聞いていると、中島徳蔵が加藤弘之の系列であるため、井上哲次郎の不興を買い、それ故に哲学館問題の陰に井ノ哲が動いているような口ぶりであった。  工藤には、その辺の事情が分らなくなってきた。  加藤も超国家主義者である。井ノ哲はもとより精神家であるから皇室中心論者だ。もし、試験答案の「弑逆」の文字を咎めて文部省が哲学館の不敬思想、危険思想を弾圧し、さらに、その裏に井ノ哲が動いていたとすれば、一体、井ノ哲と哲学館の中島徳蔵の関係、ひいては中島の師加藤と井ノ哲との思想的対立関係はどうなるのだろう。同じ国家主義者として、そこにいささかの異同もないのではないか。両者は天皇中心主義者として一致しているわけではないか。  工藤は頭がこんがらがってきた。そこで彼は、三人の学生のうち一番よく話をする石井波平に訊いてみた。 「いや、それはですな、そういう点では両方とも同じ立場ですが、また別な見方からすれば、一方は唯物論者、一方は唯心論者ですからね。つまり、天皇崇拝という大きな土俵の上では同じだが、唯物、唯心という学問的な東西の関係で相撲を取っているわけですよ。そして学者にとっては、この学問的な対立が、根本的に大きいわけです」  と、石井は口を開くたびに牙のような八重歯を出して云った。 「ははあ」  工藤は、それで何となく納得したような気になった。  すると、今度は小山東助が反歯《そつぱ》を出して、眼を細めて工藤に云った。 「もう一つは、雲の上の勢力争いが絡んでいるように思われるね。なにしろ、伊藤侯と山県侯とは反《そ》りが合わない。山県侯からみれば、伊藤侯は自由主義者だと思っている。伊藤からみれば、山県はコチコチの頑固者だと当惑している。そして、伊藤には前からの因縁で加藤弘之がつき、精神家の山県には井ノ哲がくっ付いてるわけでさ。もう一つ云うなら、同じ精神家の山川総長が井ノ哲の味方になっていると、まあ、こんな地図でさね」  文科大学生は、工藤に向って、だんだん砕けた云い方になった。 「なにしろ、山県は無類の敬神家ときている。ところが、加藤のほうは一切の神を認めないというわけでさ。キリスト教なんか、殊に目の仇にしてやっつけている。キリスト教はともかく、神を認めないという加藤の論法が山県には気に食わない。その加藤のお弟子さんに当る中島さんが今度のような不都合な倫理学を講じているというので、目白台がカンカンになっていると、まあ、われわれは、こう見ているのですがね」  この三人の文科大学生の話を聞くと、工藤にはなんだか簡単に、その系譜が絵解きされているようであった。  山県有朋と聞いて、またしても工藤の脳裡には穏田の予言者が泛《うか》んでくる。そして、彼のもとに華美な人力車を駆ってくる下田歌子が出てくる。その下田歌子は、伊藤侯にも、山県侯にも特殊な関係を噂されているほど近づいている。殊に山県侯には——と、ここまで再び考えたとき、その思案を破るように石井波平が工藤に云った。 「工藤君、今度の問題は、その根本を洗えば目白台だよ。山県さ。なにしろ、山県は帝国大学に乗りこんできて、学生を集め、この学校は国家の幹材たる官吏を養成する学校である、それ以外にこの大学の目的はないと、大演説をブッた男だからね。大隈さんが早稲田に私学を開いてから、一切の私学が悉《ことごと》く目の仇なのさ。帝国の官吏養成の学校があれば、それでいいわけだ。そして山県の心配は、私学で教えているロクでもない学問が官吏の養成所に押し寄せてくることだよ」 「いや、それよりも、もっと根本の問題は……」  と、高橋正熊が急に低い声になって、突然、親指を一本立てた。 「問題は、これだ、これだ。これの本質に誰も触れたがらんから、みんな外側で混乱して騒ぐのさ」   「帝国」の大学[#「「帝国」の大学」はゴシック体]  高橋の親指がどういう意味か仲間の石井と小山には分っている。彼らの顔面に泛ぶ複雑な微笑でもそれは知れたが、工藤にもそれは察しがついた。 「一体、肝心の文科大学教授諸公は、何故に沈黙を守っているのであるか?」  と、石井波平が云った。 「……いうまでもない。教授諸公には、もの云えば唇寒しだ。なにしろ、文部省に睨まれたら、首筋まで寒くなるからのう」  冷笑が彼ら三人の間に起った。 「工藤君、これが分るかね?」  と、小山東助が反歯《そつぱ》を向け、 「わが帝国大学教授は、こういうだらしない連中ばかりだ。少しは哲学館の中島徳蔵先生の爪の垢でも煎じて進ぜたい」  工藤には、まだ文科大学生三人には遠慮があったので、とにかく、文科大学の重立った教授はどういう人か、と訊いた。 「まず、文科大学長井ノ哲先生、哲学哲学史第一講座兼任。さすがに名からして哲、哲とつづいている」  高橋が笑って云った。 「次には、心理学倫理学論理学第一講座教授|元良勇次郎《もとらゆうじろう》先生、同じく第二講座教授中島|力造《りきぞう》先生、社会学講座教授|建部遯吾《たけべとんご》先生。それに、元老加藤弘之先生が引退の身ながら哲学科に睨みを利かしてござる」  小山東助が代って云った。 「この人は高齢ながら、矍鑠《かくしやく》として健在でおられる。唯物進化論と超国家主義の接合者で、精神主義者井ノ哲先生の眼の上の大きな瘤《こぶ》。さっきも云ったように、両先生、唯物、唯心の双方からの衝突だが、住む世界は同じこと。ただ当人が目先の学問の争いに夢中になっているだけだ」 「工藤君のために蛇足の註釈を付すと」  石井波平がひと膝乗り出した。 「わが帝国大学が東京開成学校の後身であることはご承知の通り。文部|大輔田中不二麿《たいふたなかふじまろ》の推挙で、元老院議官加藤弘之が開成学校|綜理《そうり》になったのは明治十年、ときあたかも西南戦争の年だから古い話さ。この田中、加藤の結びつきで、東京大学が着々と整備をみた。明治十二年には、畏《かしこ》くも天皇陛下の行幸を仰いだ……」  彼は笑った。 「明治十四年、学校の改革によって加藤弘之は東京大学綜理となる。そのとき、現在の文部大臣菊池大麓は、理学部教授で理学部長となった。そして十七年には、本郷の今の地に法学部の新築工事をやった。ただし、加賀の殿さまが将軍さまから貰った奥方の住む御守殿《ごしゆでん》の朱塗り門はそのままさ。二年後には、これが再び帝国大学と改称されることになった……」 「石井がくたびれるから、あとの講釈をぼくが継ごう」  と、小山東助が歯をむき出した。 「このとき、わが加藤弘之先生は初代の帝国大学総長になりたかったが、あいにくと、それを渡辺|浩基《ひろもと》先生に奪われてしまった。ことの起りは文部大臣森|有礼《ありのり》閣下、加藤先生とは反《そ》りが合わぬ。加藤先生はもともと開成学校時代からの東京大学の親玉、今ごろ教育には素人の森大臣が横合からきて何を云うかという肚《はら》がある。それで両人喧嘩と相なっての……」 「ところが、その森大臣も、加藤先生も……」  と、高橋正熊が小山のあとを代った。 「もとはといえばどっちも国家主義者、皇室崇拝主義者だ。つまり、加藤先生と井ノ哲先生の場合と同じように、自分の足がついているのは同じ地面なのに、狭い土俵の上での相撲じゃ。この辺がとんとこういうお方たちには気がつかないらしい。そんなわけで、森大臣は加藤を初代帝国大学総長にさせなんだ。もともと、森も、加藤も、その親分が伊藤侯なのに、これも不思議なこと。つまり、森が文部大臣になったのは伊藤侯のうしろ楯、また加藤のうしろにも伊藤侯がいる。この二人が喧嘩するのだから、どこまで同じ穴での喧嘩がつづくか分らぬ。肝が小さいというか、眼が狭いというか……」  それを聞いて工藤の頭に閃《ひらめ》くものがあった。加藤弘之のうしろには伊藤博文が控えているという。すると、加藤と論争相手の井上哲次郎のうしろには——。伊藤と山県の対立が、なんだか今度の問題にも筋をひいているような気がしてきた。  またしても工藤には、穏田《おんでん》の予言者飯野吉三郎が泛んでくる。彼のもとに来ている下田歌子が、それに二重の影となる。  工藤が頭の中でその先を考えようとしたとき、高橋の声が遮った。 「その森大臣、君もとっくに知っての通り、伊勢神宮の拝殿の御簾《みす》をステッキで持ち上げたという噂が流れ、西野文太郎のために刺されてしまう……ほれ、今度のムイアヘッドの君の試験問題ではないが、動機善なれば弑逆も可なり、の好引例の一つさ」  文科大学生三人はまた笑った。 「そこで、最後のくくりはおれがしよう」  と、石井波平が云った。 「森大臣の死後、加藤弘之はわが世を得て帝国大学総長に返り咲いた。これが二十三年だが、ここに、彼の総長就任後二年にして一つの難問題が持ちあがった。文科大学教授久米邦武先生が、雑誌�史海�に『神道は祭天の古俗』と書き立てたから、さあ、大変、国粋主義者たちが蜂《はち》の巣をつついたように騒ぎ立てた。ところが加藤総長は部下を見殺しになさった。加藤流の進化論からいえば、神道が祭天の古い習俗であろうがなかろうが大したことはない。それよりも、国家という複細胞体の統率者がその議論で権威を失墜しては一大事と、久米教授に罷免を申し渡された……なんと工藤君、こうならべ立てたら、多少ともわが帝国大学の複雑な筋道が少しはお分りになろうかの?」  東京帝国大学の成り立ちは、文科大学生の三人が、田舎者工藤雄三に語って聞かせたことであらましは尽きている。  帝国大学の源は、昌平黌《しようへいこう》の復興からはじまっている。昌平黌は、徳川幕府の直轄学校で、当時の唯一の官学であった。大学頭《だいがくのかみ》林|羅山《らざん》以来、代々、林家《りんけ》が中心となり、朱子学が主流だったが、生徒は幕臣に限られていた。その素読《そどく》吟味と学問吟味によって褒賞《ほうしよう》が行われたのは有名で、幕臣の学問奨励と教養機関だった。幕府の倒壊によって昌平黌も倒れたが明治新政府は「学校掛」に命じてこれを再興、昌平学校と改称した。慶応四年八月に出したこれに関する布告には、 「方今、更始《かうし》ノ御盛典ニアタリ、専《もつぱ》ラ人材ノ御養育ヲ思《おぼ》シ召サルニツキ、速カニ大学校ヲ御興建……」  とある。  明治二年六月、昌平学校を改めて大学校としたが、その年の末に、大学校をさらに大学と改めた際、これを大学南校とし、四年に文部省が新設されてただの「南校」と称した。ついで専門学校に昇格して「開成学校」となり、神田一ツ橋におかれた。学科は、法、理、工科を本体とし、鉱山、諸芸(化学、博物、数学、文学作文、歴史、地理)の二学科が加えられた。  医学を専門とした「東校」は、同じく文部省ができて「医学校」「東京医学校」となって神田|和泉町《いずみちよう》から、本郷に移った。  明治十年、右の両校を合併して「東京大学」とし、開成学校の後身を、法、理、文の三学部とし、医学校のそれを医学部とした。初代綜理は加藤弘之であった。  明治十九年、「帝国大学令」の公布で帝国大学に改組され、大学院と分科大学とで構成した。分科大学は、法科、医科、工科、文科、理科で、少し遅れて農科を加え、六分科大学にした。これらの教師に外国人を傭《やと》ったのは、少しでも早く欧米の学問の水準に追いつきたいのと、日本人教師の学力不足の理由からだった。そのため、文部省では若手の有望な学徒をしきりと欧米に留学させて、大学教師としての養成につとめた。  もっとも、海外に留学生を派遣したのは、明治初年以来、政府が各方面にわたって行ったことだが、そのときは人物、学問の考査や身体検査が不十分だったり、情実で派遣を命じたりするものがあって情弊が百出したので、明治六年、官費留学生をいったん引き揚げた。しかし、それではどうにもいかぬというので、今度は厳密な選択方法と監督方法とを立てて、ふたたび海外留学生を派遣することになった。  これは開成学校当時のことで、本校の専門学科である法学、化学、工学の下級課程を終って中級の課程を修業する程度の学科試験を行い、それに合格した者は九週間在学させ、人物、学力等を審査したうえ、海外留学の資格を与えようとした。ところが募集の結果、合格した者は一人もいなかったという話がある。  そこで、文部省は、詮議のうえ、在学生徒十一人を択《えら》んで欧米各国に留学させた。その中には、米国のコロンビア大学に入学した法科の鳩山和夫、同じくハーバード大学に入学した小村寿太郎《こむらじゆたろう》、ボストン大学に入学した菊池武夫、コロンビア大学化学本科入学の松井|直吉《なおきち》、ドイツのフライブルク鉱山学校に入学した鉱山学科予科の安藤|清人《きよひと》などがいた。  文部省では第一回派遣留学生の成績良好なのに気をよくして第二回の派遣留学生を選択したが、イギリスのキングスレイ・カレッジに入学した法科の穂積陳重《ほづみのぶしげ》、ロンドンのユンベルシティ・カレッジに入学した化学中級生桜井|錠二《じようじ》、英国サイエンス・センター農学校に入学した化学中級生杉浦|重剛《じゆうごう》、同グラスゴー大学に入学した工学中級生谷口直貞などがいた。彼らは帰国してから全部東京大学の教授となった。  明治十九年に東京大学を帝国大学に改めたが、これは「帝国大学令」によるもので、ときの文部大臣森有礼の教育改革に関する意見を実現させた。その条文もほとんど森自身の手で書かれたといわれている。  ただ、その意見には、森が腹心の外山正一、菊池大麓、矢田部良吉くらいには相談したらしい。  ここで帝国大学の名前をつけたいわれだが、その前、東京大学は英文で Imperial University of Tokyo と云っていた。官立という意味だった Imperial の語を「帝国」と訳し、ここに帝国大学の字句が考え出されるようになった。 「英語で云えば同じ Imperial University だが、国語で必ず帝国大学と云ったのは、日本帝国の大学[#「日本帝国の大学」に傍点]と云う意味であって、国家主義の上に立つ意味を明らかにしようとしたためであろう。森文部大臣と親交あり、国家の前途に関し互いに胸襟を開き意見を闘わした参議伊藤博文が、後年立案した憲法を帝国憲法と称し、国会を帝国議会と称したと同じ趣意に出たものに違いない。すなわちこれが帝国大学令第一条に帝国大学の目的を定めて「帝国大学ハ国家ノ須要《しゆよう》ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其|蘊奥《うんのう》ヲ攷究《かうきう》スルヲ以テ目的トス」とした理由にほかならぬ」という意味を『東京帝国大学五十年史』の編者も述べている。 「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スル」帝国大学の目的は、昌平学校を開校するに当り「方今更始之御盛典専人材御養育|思《おぼ》し食《めし》ニ付……」と述べた精神の継承にほかならない。「国家ノ須要」といい、「人材」といい、すべては官僚と技術者の養育を帝国大学は目的としたのであった。  森有礼は薩摩藩士。慶応元年、薩藩からイギリス留学を命ぜられ、渡英し、露国にも赴いた。次いで、アメリカに渡って帰国し、外交官|権《ごん》判事、公議所議長心得などになったが、廃刀論で免官となる。明治三年に再び官につき、アメリカ駐在を経て清国公使、外務大輔などを経てイギリス公使となった。  帰国して、明六社《めいろくしや》をつくり、啓蒙運動に活躍し、結婚改良のために契約結婚を唱えて自らこれを実行したのは興味がある。  明治十七年にイギリスから帰国して参事院議官、文部省御用掛兼務となったが、第一次伊藤博文内閣の文部大臣となった。  この内閣では森有礼がいちばん年齢が少なかった。そのため一部から反対があったが、伊藤はそれを押しのけて森を文部大臣にすえた。彼の新知識を大いに買ったのだが、伊藤の下には井上|毅《こわし》がいて、森は井上と最もよかったというから、帝国大学令のようなものも二人が相談し、伊藤の意を行ったものと思われる。井上は伊藤の憲法草案のブレーンの一人であった。  とにかく、帝国大学の卒業生は「国家ノ須要ニ応スル」人物でなければならない。その学校も政府が設立し、国庫の資力をもって維持するのであるから、国家の為でなければならない。したがって、学政の目的も専ら国家の為ということに結論づけられる。 「……たとえば帝国大学においての教務のように、学術の為と国家の為とに関することであれば、国家のことをまっ先にし、最も重んじなければならないようなものである。学政上においては生徒その者のために教育するのではなくて、国家の為にするということを始終記憶しておかなければならない。このことは最も重要な点として、厳重に認識する必要がある」  と、森は明治二十二年に演説している。  森の考えによると、帝国大学は生徒その者を教育するのではなく、国家の須要に応じる人物の養成機関であり、すべては国家のための人物を生み出す機関ということになる。その教育思想は、憲法制定と照応した絶対国家主義から出ている。  この森と争った加藤弘之は幕臣で、明治元年、新政府の招きをうけ政体律令取調御用掛となったのが官途についたはじまりで、ときに三十三歳であった。大学|大丞《だいじよう》、文部大丞、外務大丞などを歴任し、欧米の実情について御前進講をしたこともある。明治八年、最初の元老院議官に任じられたが、征韓論で下野した西郷派の後藤象二郎、板垣退助、江藤新平らの民選議院開設建議に対して時期尚早論を唱え、政府側の代弁学者をつとめた。  だが、まもなく退官し、しばらく浪人して小さな塾など開いていたが、明治十年、文部大輔田中不二麿の勧誘によって開成学校綜理を嘱託され、つづいて、名称を変えた東京大学三学部(法学・理学・文学)の綜理となった。四十二歳だった。十四年、東京大学綜理となって、官学に一大勢力を張った。加藤もまた森有礼らが起した明六社の一員となって、啓蒙運動に活躍している。  しかし、彼らの啓蒙運動が文明開化を説いても決して急進的になれないのは、彼らが政府の忠実な官僚であり、学者であったことでも分る通り、政府の絶対主義的な方針による漸進主義の枠をはみ出さなかったためである。この点、在野の急進主義的な論者と真向から対立した。  ——この小説の時点明治三十五年ごろまでの東京帝国大学の性格づくりは、これからも折にふれて書いてゆく。  さて、文科大学生三人が帰ったあと、哲学館卒業生工藤雄三は、しばらくいまの連中の目的を考えてみた。  彼らは、哲学館の処分が工藤の試験答案問題から端を発しているので、その間の実情を当人の自分にたしかめに来たとは分っている。だが、それから彼らは何をしようというのであろうか。  三人の話しぶりを聞いていると、どうやら、彼らは文部省の処分に反対というよりも、この問題で文科大学教授連が沈黙しているのを不満に思っているようである。さらに、それは東京帝国大学の性格についての不満に突き当っているようである。殊に今度の問題の所在が国体に関する点にあり、ひいては天皇の尊厳の問題に波及している。  しかるに、学者のだれもそのことには触れようとはしない。すなわち、学問の上からは天皇の意義が論じられない。学問に忠実になれば、当然、その神秘性に科学的な手をつけなければならないが、そうなると、また久米邦武教授の二の舞を演じることになる。みんなそこを回避しているから、今度の哲学館問題でもなんだか中心からはずれたところで議論が堂々めぐりしている、と文科大学生たちは云っているようであった。  すると、工藤は、ふと、このまえ「日出国新聞」に出た記事を思い出した。  ≪文科大学生の一部の有志[#「有志」に傍点]は、井上哲次郎氏の心事を頗《すこぶ》る陋《ろう》なりとし、井上哲次郎氏排斥の団体を組織し、該問題のため目下同志を糾合しつつありという≫  すると、あの三人が、その「有志」の一部だろうか。——  工藤雄三が、前途に聳《そび》えた黒雲を見るような思いでいると、二、三日経った夕方、穏田の予言者の書生をしている米村が誘いにきた。工藤はいっしょに浅草の牛なべ屋にあがった。   先醒亭覚明《せんせいていかくめい》[#「先醒亭覚明《せんせいていかくめい》」はゴシック体]  工藤雄三と米村忠三とは、浅草|茅町《かやちよう》の牛肉屋「米久《よねきゆう》」の二階で鍋をつついた。座敷は追込みで、簡単な衝立《ついたて》が客席の間を仕切ってあるだけだ。 「おい、姐《ねえ》さん、もう一本つけてくれ」  と、米村は、襷《たすき》がけで牛肉を運んでいる女中を呼び止めた。 「それから、生肉《なま》をあと三枚だ。葱は刻んだのを持って来てくれ。あ、それからたれ[#「たれ」に傍点]も頼むぜ」  と、米村もこういう場所に来ては東京弁を使う。 「ま、飲みござい」  と、米村は赧《あか》い顔で機嫌よく工藤に酒をついでやった。 「今晩はまたどうしたことな?」  と、工藤は、日ごろ奢《おご》ったこともない米村に訊いた。 「なに、ぬしが悄《しよ》げているから慰めとるたい。おいでも時にはこのくらいの金は持っとる」  と、米村はにこにこしていた。顔つきまでひどく景気がよさそうだった。 「そういえば、近いうち、隈本先生は外国ば行かっしゃるげな。ぬしは聞いとるか?」  と、米村は問うた。 「先日、隈本先生とこに行ったら、そげん話をば云うてござった。ばってん、あんたの耳にももう入ったとな?」 「さるところから噂ば聞いとる」  工藤はおどろいた。隈本はまだ正式な話ではないから黙っていてくれと云っていた。それを米村はもう知っている。 「米村さん、あんた、そればどこで聞かっしゃったとな?」 「どこでもよか」  と、米村はちょっと煙たそうな顔をし、 「おいの耳には、どげんなことでも入ってくる」  と笑った。  工藤は、それは米村が主人の予言者飯野吉三郎から聞いたのだろうと思った。飯野のところには、いろいろな噂が入ってくるらしい。しかし、それは確度の高いものだ。  工藤はまた、隈本が工藤への特別な計らいを本当にやってくれるのかどうか心配になってきた。  彼は眼をじっと据えた。 「どぎゃんしたとな?」  と、米村が工藤の顔色を見て訊いた。 「いや、何でもなか」  米村にも事情を打ち明けられない話である。 「まあ、心配しござるな」  と、米村はうすうす察しているらしく、工藤を元気づけた。 「まさかのときは、おいがぬしの力になるたい」 「え、あんたが?」 「うむ。おいには飯野先生がついてござるけん、何とか飯野先生にお願いすれば、ぬし一人ぐらいどうにか出来るたい」 「…………」 「それとも、ぬしは田舎に帰るつもりでおるとな?」 「いいや」  と、工藤は首を振った。教員免許を貰って晴れて帰るならともかく、帰郷しても家族や村の者に誇るべきものは何もなかった。もし、中等教員になる希望を失ったら、東京で生活を立てたい。郷里への面目なさというよりも、暮すなら東京のほうに望みがあった。  そんな心が動いたのは、すでに彼が隈本有尚の言葉を半分は諦めたといえる。 「ぬしのことは……」  と、女中が運んだ新しい牛肉を、刻んだ葱といっしょに鍋に入れながら米村は云った。 「それとなく飯野先生においから申しあげてある」 「飯野先生に?」 「うむ」  米村は脂の煙る鍋に顔をしかめて、たれ[#「たれ」に傍点]を流していた。 「先生もぬしには同情しとらすたい。実は、今日、こうしてぬしを誘って一杯飲んどるのは、先生から少々ばかり小遣を頂戴して、ぬしにもご馳走してやれというお言葉じゃった」 「米村さん、先生はどげな気持でぼくにそげな好意を寄せとらすとな?」  工藤は、隈本有尚の洋行をいち早く知っていることといい、何か、飯野と隈本との間に張られた一本の線のようなものを想像した。 「なに、ぬしがおいの友だちというところから、いっしょに飲んで元気づけてやれと云わっしゃっただけで、別に他意はなか。のう、工藤君、牛肉ば腹いっぱい食って、ひとつ、今夜は二人で浩然《こうぜん》の気ば養おうか」  米村は顔じゅうを口だけにした。  米村の云う浩然の気というのが何を意味するか、工藤にもぼんやり想像できた。それで、彼も俄《にわ》かに身体の中が火照ってくるのを感じた。  工藤は昂奮を覚えてきたが、口ではその質問を避けた。やはり羞恥が先に立つ。それで、彼はごまかすように飯野吉三郎のことを訊いた。 「のう、米村さん、飯野先生は、どげんして名士の方をば信者に持たれたとな……予言が当るというのは、あんたから前に聞いたばってん、それなら、相場師とか、水商売の関係とかが集まってくるように思われるけんどな?」 「先生は、そぎゃん人はあんまり相手にはなされん。あそこにくるのは知名の士ばかりじゃ。たとえば、日本の将来がどげなふうになるか、政治の方向がどげなほうに行くか。早い話が、ロシヤとの戦争が始まれば、どっちのほうが勝つか、そげなことばかりたい」 「ロシヤと戦争を始めたら、どっちのほうが勝つと云わっしゃるとな?」 「そりゃ日本たい。もう、わけなく日本が勝つと云わっしゃる。おいなどには詳しいことは云われんが、なんでも、どの辺で戦争が始まり、どういう作戦で日本の勝利になるか、そげなことまでずっと軍人さんに云っておられるらしか」 「軍人さんのそぎゃん、ばさり[#「ばさり」に傍点](大そう)こさっしゃるとな?」 「うむ。だんだん先生の噂ば聞いて、少将級の人や、大佐、中佐級の人も見えとらす。なにしろ、児玉源太郎中将や、大島大佐の引きがあるけんの。それに、児玉中将から山県侯爵に先生のことば取次いどらすから、大きな声では云えんばってん、侯爵のお使いもときどき見えとらす。いまのところ、そいはお忍びばってんな……」 「そいも戦争が始まったときに備えて、先生の予言ば山県さんの聞こうとしとらすとな?」 「そげんたい。この前から、先生もこっそり山県さんのところに会いに行っとらすようじゃ」 「山県さんのところに?」  工藤は眼をまるくした。米村の話だと、山県侯はじめ陸軍の将星のほとんどが飯野に心酔しているように取れる。いや、現に外松少将の娘も近く飯野の小間使に出るという米村の話だった。 「そぎゃん偉か人とは想像ばせんじゃった」  と、工藤はいくらか米村に媚びるように云った。 「飯野先生は、はじめから、そげな予言で人気を集められたとな?」 「いいや、先生がどぎゃん偉かでも、そいだけではだれも相手にせん。はじめのうちは、やっぱり人相|観《み》とか、病気|癒《なお》しじゃ。そいが悉《ことごと》く的中し、病気も先生の祈祷でケロリと癒る。そのうちに人相観のほうが、だんだん世の中の見通しのほうに発展して評判を取られたのたい」 「先生の祈祷は、宇宙神を拝んでなさるとな?」  工藤は飯野についていろいろなことを訊いた。  酔った米村が、九州弁で云ったのはこうである。——前にも説明したように、飯野吉三郎先生は、宇宙を総括する大精神が神であるといっている。これすなわち天照大神の大精神である。天照大神は初代太陽を以て理想とし、この宇宙を統括されておられるから、宇宙の教え、すなわち宇宙教となる。  というわけで、神殿には天照大神と月読命《つきよみのみこと》の御霊《みたま》を祀り、その前で飯野先生特有の祈祷が行われる。もっとも、その祈祷は、ときとして別室で行われることもある。殊に婦人は穢れが多いので、飯野先生がお祓いをしなければならない。相手が婦人であるから、いかに書生や女中でも彼らの眼にふれさせるわけにはいかぬ。そこで先生が密室につれこみ、厳粛な祈祷をするというのであった。 「別室?」  工藤は眼を瞠《みは》った。 「そこでどぎゃんお祓いのされるとな?」 「おいも、そんな具合で、この眼で見たことはなか」  と、米村はニヤニヤした。 「お祓いというても、婦人に斎戒沐浴させるとじゃなか。先生の気合で、その婦人に宿っている汚穢《おえ》、悪霊を追出すとたい。その間、婦人のほうはじっと眼をつむり、恍惚無我の境に入っとる模様たい」 「…………」 「そいが一時間くらいかかる。いつぞや、どげな祈祷かと思って、おいがこっそり、その別室の襖際《ふすまぎわ》まで四つ這いになって忍んで行ったところ、中では婦人のうめき声が聞えておったばってん、惜しかところで先生に気取られ、中から大声で怒られたことがあったたい」  と、米村は、牛肉の汁が口からこぼれたのか、舌で唇を舐《な》めた。気のせいか、彼の眼も怪しげに光ってきている。 「そんなら、下田歌子先生もやっぱり、そげな祈祷ば受けに先生のところへ行っとらすとな?」  工藤の眼には、いまだに華奢《きやしや》な人力車の幻がはなれないでいた。 「下田先生もだんだん先生の信者になっとらす。やっぱり身体の具合の悪か模様で、三十分くらいは先生のお祓いを受けとらす模様たい」 「…………」 「下田先生はあげな姥桜《うばざくら》ばってん、まだなかなかの美人じゃけん、先生もお祓いの仕甲斐《しがい》があろうというもんじゃ」  奇怪な話だった。工藤が米村の酔った紛れの言葉を半信半疑で聞いていると、米村も自分の饒舌に気づき、 「のう、工藤君。もう、そげな話はやめよう」  と云った。 「だいぶん腹もいいかげんになったけん、ぼつぼつ吉原《なか》へでも行ってみようか。なに、金は、そのつもりでちゃんと持って来とる。おいが出すけん、ぬしは心配せんでよか。若い者は、ときには女の肌にふれんと身体に毒が回る……身体の毒といえば、飯野先生は決して男にはそんな密室ば使わんでおらすけん、女子《おなご》というのはよっぽど業《ごう》を持って生れた模様たいなあ」  米村は声をあげて笑い、腹を撫でて、 「おい、姐さん、勘定」  と呼んだ。  二人は「米久」を出た。 「いま、何時か?」  工藤が九時すぎだと云うと、 「ちょっと早いばってん、ぶらぶら歩いて行けば、丁度よか」  と、米村は気持よさそうに冷たい風に吹かれて歩いた。  この辺に多い鯉幟《こいのぼり》や雛人形屋の表の大戸はもう閉っていた。また、西洋食器直輸入諸金物商|富貴竈《ふうきがま》本舗や、洋傘商加賀屋、油並に両替升定商店などの看板も暗くなっていた。二人は途中まで歩いたが、米村が、これから新吉原までは相当あるので辻俥《つじぐるま》に乗ろう、と云い出し、二人は西洋料理万里軒の前で、引いてきた空俥二台に乗った。  新吉原の入口、吉原稲荷の前から大門《おおもん》までは石だたみとなっている。金輪《かなわ》の二台の俥はけたたましい音を立ててその上を走った。 「書生さん」  と、鉄骨で組んだ大門の前で車夫は客を振返った。 「どこの引手茶屋に着けますかえ?」  米村は鼻白んで、 「いや、もう、ここでよか。あとは歩いてゆく。いくらだ?」  と、ふところに手をやりながら蹴込《けこみ》から降りた。 「廓内《くるわうち》の引手茶屋の世話になって、大店《おおみせ》に行くほど先生から金を貰ってなかけん。まあ、その辺の小店でもひやかしてみよう」  と、米村は工藤に小声で云い、大門の前に立止った。  鉄で造った両柱の上に橋のようなものが渡され、その上に竜宮の乙姫が玉を捧げているが、その玉は燈籠になっている。  工藤は、その門柱につかつかと歩いて、それに鋳出《いだ》してある文句を大声で読んだ。 「春夢正濃満街桜雲、秋信先通両行燈籠……さすがに桜痴居士《おうちこじ》じゃな。うまいこと作りよる」  と云い残して中に入った。  工藤は吉原は初めてだった。両側にならぶ巨きな妓楼に眼を瞠っていた。大店のほとんどは欧羅巴《せいよう》風の三層の建物で、軒には提灯《かんばん》がイルミネーションのように吊してある。  道は遊客で混雑していた。提灯《ちようちん》を持った引手茶屋の女につれられて鷹揚に大店の玄関を上がる者、その店さきに俥を引込ませている者、張店《はりみせ》の格子を覗いている者、酔って肩を組みながら足もとを縺《もつ》らしている者、その間を、頭に料理ごと朱塗りの台を載せた台屋、三味線を持った二人連れの新内流し、辻占売り、按摩《あんま》などがうろうろしている。さすがに大店には洋服を着た客が多かった。 「いまにおいたちも、あげなふうな店に入らんといかんばい」  と、米村は、ぼんやりしている工藤に笑いかけた。  大店には張店はなく、中店、小店に娼妓《おいらん》の坐った小格子がある。その格子にとりついて女を揶揄《からか》っている者、女に首筋をつかまえられている客などであたりはざわめいているが、米村がすたすたと歩いたのは小店の一つで、京町二丁目の備中楼という家だった。ここにも朱塗りの小格子があって、女が四、五人残っていた。  彼女らは、のぞいている二人に一斉に顔を向けた。 「書生さん、あがっておいで」  と、その一人が手招きした。 「あいはちかと佳《よ》か女な」  米村が眼を輝かし、工藤に、 「ぬしはどれにする? こっちの端にいる女は、若くておとなしそうじゃけん、ぬしはあいがよかろう」  と、先輩ぶった。  工藤はこういう場所ははじめてで、返事がすぐに出ないでいると、入口の土間の腰かけから中年の仲居が起って二人の後にきた。 「書生さん、登《あ》がってらっしゃいよ」  仲居は金歯をちらつかせた。 「うむ、今からだといくらだ?」  米村が早速、値段をきいた。 「まだ時間が早いから、割合に高いけど、書生さんだから、安くしておきますよ」  仲居は米村の指を握り、その数で値段を教えた。小格子の内の女たちは、じっとこちらを見ていた。さっき、米村に声をかけた女が自信ありげな顔をした。彼が工藤にすすめた、端に坐っているおとなしそうな女はうつむいていた。 「いきなり登がってもいいか、引手茶屋を通さなくともいいか」  などと、米村は値段が決ってから、やり手婆の仲居にきいていた。 「当り前なら、五十間町にあるお茶屋さんから来てもらいたいけど、まあ、書生さんだからそのままでもいいでしょう」  と仲居はうなずいて、米村にあいかた[#「あいかた」に傍点]を訊いた。米村は、さっきの女のほうに顎をしゃくり、工藤には耳もとで、やっぱりあれ[#「あれ」に傍点]に決めるかと笑いながらきいた。工藤は唾をのんでうなずいた。 「朝霧さんに、初雪さん。よく名前をおぼえてらっしゃい」  仲居は二人にささやいた。工藤は、拭きこんだ玄関の広い式台を上がりながら、格子の中に坐っていた顔の小さい女を眼に泛《うか》べ、初雪という名を頭に刻みこんだ。  ——工藤は、この前からつづいていた一切の憂鬱をこの瞬間に忘れ去ろうとした。  工藤と、米村とは引付《ひきつけ》部屋に通された。朱塗りの蛸足《たこあし》の台を隔てて坐った。 「いま、敵娼《あいかた》さんを呼んできます。それまでお酒を用意しますが、肴は見繕いでようござんすかえ?」  と、仲居は訊いた。 「ああ、何でもいいのを持ってきてくれ」  と、米村は云い、手早く仲居の手に心づけを握らせた。 「まあまあ、すみませんね」  仲居は帯の間に挿んだが、工藤には、米村の様子がかなり遊び馴れているように思えた。妓楼は違っていても、たびたび、こういう所にきているようであった。  銚子と、皿に盛った肴が揃うころに女二人が入ってきて、襖際で揃ってお辞儀をした。 「さあ、朝霧さんはそっちへ、初雪さんはこちらの方に」  と、仲居が指図した。米村の眼をつけた小格子の中の顔が、彼の傍《そば》にべったりと坐った。米村が盃を渡すと、太り肉《じし》の朝霧という女は、嬌態《しな》をつくってすぐに受取った。  工藤の横にきた初雪は、彼から少し離れてぼんやりとしていた。仲居が、 「初雪さん、お盃を貰いなさいよ」  と注意するまでは、下を向いてじっとしている。 「お、この人はまだ馴れないな?」  と米村が、その様子を見て仲居に訊く。 「はい、まだ出たばかりなんですよ」  と仲居が云った。 「じゃ、初見世か?」 「でもありませんが、初見世同様です」 「惜しいことをした」  と、米村は笑ったが、彼としては自分の横にいる女が満足のようだった。 「工藤君も初心《うぶ》じゃけん、丁度よかかもしれんの。工藤君、しっかりしござい」  と、米村は笑い、 「なんやったら、この朝霧をぬしにやって、おいが初雪と取替えてもよか。朝霧から色道《しきどう》の極意ば手ほどきしてもらうのもよかろうたい」  と云った。 「あら、それ、どこの言葉?」  と、米村が急に云い出した筑後弁に朝霧と仲居は笑いこけた。 「おいたちは九州たい」 「西郷どんのとこですか?」  と、仲居がまぜ返した。 「いや、ちかと違う……どうだい、いまの話は?」 「いやらしいわ。いったん決ったものを取替えっこするのは、けだものみたいじゃないの」  朝霧が、ちらりと工藤のほうに眼を眄《なが》し、米村に云った。 「そうか。初めにおれの眼におまえがとまったのが、運が悪かったかな……だが、工藤君、こげな女に初めてかかったら、ちかと度の過ぎるかもしれんぞ。初めはおとなしい女子《おなご》がよか」  米村が云った。  工藤は初雪という女と二、三度盃を往復したが、女も飲めないし、彼も酒は駄目だった。米村のほうはしきりと口に運んで、片手で女を横抱きにしていた。女も相当いける口のようだった。  いったん座をはずした仲居が忙しそうに入ってきた。この場を見ると、工藤の耳にささやいた。工藤が赤い顔をしてうなずくと、 「こちらの書生さんはお酒が弱いようだから、初雪さんの部屋に引揚げますよ」  と、米村に云った。  彼は鷹揚にうなずいて、 「よかよか……工藤君、そいじゃ、明日の朝八時に、いっしょにここを出よう。まあ、それまでゆっくりしんしゃい」  と、酔った眼で、工藤が肩をすぼめて起つのを見送った。  仲居の案内で工藤は女の部屋に入った。うしろから初雪が従《つ》いてきた。 「それじゃ、ごゆっくり」  と、仲居は廊下の草履を直して襖を閉めた。  部屋は世帯道具が一切揃っている。女は火箸《ひばし》で長火鉢の炭火を灰から掘りおこした。欄間には餅花の枝が垂れ下がり、金銀の短冊が賑やかについていた。 「酒はお弱いようですね」  と、顔の小さな初雪が工藤に云った。 「ああ」 「じゃ、お冷水《ひや》を上げましょう」  と、初雪は片隅に行って、湯呑《ゆのみ》に鉄瓶の水を注いだ。 「君は、この見世に出て間がないそうだな?」  と、工藤は水を飲んでから女に訊いた。 「はい。まだ馴れなくて……」  女は眼を伏せた。 「どこからこっちに来たの?」 「信州です」 「両親はあるんだろうな? 兄弟はどう?」  と、工藤はたずねた。女はいつも客から同じことを訊かれているとみえて、 「母親がいるだけで、あと、弟と妹二人です」  と、言葉少なに答えた。家が貧乏なためにここにきたことは聞かなくても分る。  顔も細いが、線もうすかった。薄倖なことが、そのまま身体に現われているような女だった。こちらから、ものを云わなければ、自分からは口を利かない。米村が、面白くないと思ったはずだった。工藤がちぐはぐな気持で、 「寝ようか」  というと、初雪は黙ってうなずき、長火鉢の前から膝を起した。  夜中に、工藤は眼をさました。  厚い蒲団に包まれているので、額に汗が出ていた。馴れないというのは落ちつかないものだ。下宿のうすい、綿の出かかった蒲団のほうが心が休まる。重ねた敷蒲団は背中に抵抗感がなく、身体が浮いたようで安定感がなかった。  寝返りを打っても、独りだと天地が自由だが、横に人間が寝ていると、窮屈だった。工藤がうす眼を開けたのは、肩につかえるものがあったからである。  女は腹匍《はらば》いになり、暗い電燈の光を頼りに何か読んでいた。  工藤は声をかける前に、彼女が手紙でもひろげているのかと思った。だが、紙をめくる音はしない。それも熱心に字を拾っている様子である。  工藤が身体を動かすと、初雪はあわてて、その紙を懐ろの中に入れた。 「何を読んでいたの?」  と、工藤は寝たまま背中を起して訊いた。 「何でもないんです」  と、女は云った。 「国元からの手紙か?」 「…………」 「それとも、好きな人からかな?」 「違います」  と、女は懐ろを隠すように向うむきになって寝た。 「じゃ、何だ? だいぶん大事そうにしているじゃないか」 「大事かどうか分らないけれど……ここの人に見られたら困るのです」 「ここの人? どうして?」 「どうしてって……けど、わたしにはよく字が読めないんです」 「手紙ではないのか?」 「手紙ではありません。今日の昼間、こっそり、ある人から貰ったものです」 「字が読めなければ、ぼくが読んであげようか?」 「書生さんなら学問をしているから分ると思います。けど、ここの人には云わないで下さい。ひどい目に遭いますから」 「絶対に秘密にするよ。それで、こんな暗いところなのに一生懸命読んでいたんだな」 「昼間は読めないんです。朋輩の人にだってめったに見せられないんです」 「どれどれ」  と、工藤が手を伸ばすと、初雪は何度も黙っていてくれと念を押して、ようやく懐ろから紙を出した。よほど秘密なもののようだった。  工藤が女から渡されたのは一枚のうすい紙だった。まず、「苦界で藻掻《もが》いている人に」と、最初の見出しみたいなものが眼に入った。悪い紙に、かなり小さな活字で印刷してあった。  工藤がひと通り眼を通すと、娼妓廃止の趣意書だった。漢字は多いが、文章はそれほど難解ではない。吉原にいる女に読ませるために相当噛み砕いたものだった。 「君は学校にはどれくらい行ったのか?」 「小学校三年でおろされました。お父さんが死んで手が足りなくなり、無理にお母さんがおろしてしまったんです」 「そうか」  小学校三年生では、なるほど読めないに違いなかった。  工藤は、その文意を分りやすく云い聞かせた。趣意書は、まず、婦人の徳から説き起し、男の獣欲の道具になって牛馬のようにこきつかわれていることがいかに恥ずかしいかを書き連ねてある。そして、現在の法律ではたとえ借金が残っていても自由に自分で娼妓を廃《や》められること、旧い考えや義理に縛られてこの世界に残っていることがどのように無意味であるかということ、一度その決心になったら思い切って救いを求めに出ること、それにはどのような助力も惜しまないこと、などが主な文意であった。要するに、十二、三年前から起っている廃娼運動の一つらしかった。  女はじっと聞いていた。  だが、工藤は、その最後に、婦道作興会の活字の横にならんでいる名前の一つに下田歌子という文字を見つけたとき、妙な気持になった。  下田歌子もこういう運動をしているのか。  昨夜、牛鍋屋で聞いた米村の話が思い出される。 「そこに書いてあることは本当ですか?」  と、初雪は小さな声でたずねた。 「とにかく、そう書いてあるから間違いはあるまい」  工藤は、下田歌子の名前に混乱しながら答えた。 「じゃ、借金もそのままにしてもいいんでしょうか?」 「これには、そう書いてあるがね。その辺のところはおれにもよく分らない」  ——娼妓が自発的に廃業出来ると一応決めたのは明治五年のことで、その条文中には「娼妓芸妓等年季奉公は一切解放|可致《いたすべく》、右に就ての貸借訴訟総て不取上《とりあげず》候事」とあって、諸国の年季娼妓の身体を束縛から解くことになった。  この法令を「牛馬切りほどき」と世に云ったのは、その法令の註解ともみられる司法省布達に、「娼妓は人身の権利を失ふものにて牛馬に異らず、人により牛馬に物の返済を求むるの理無し、故に従来娼妓芸者へ課すところの金銀並に売掛滞金等は一切償ふべからざる事」というのがあったからである。しかし、これがマヤカシの法令だったのは、三業の取締りの捺印《なついん》がないと自由廃業が出来ないしくみでも分る。  その後憲法発布のこともあり、明治二十二年に婦人矯風会が主催して木挽町《こびきちよう》厚生館で、島田三郎、植木|枝盛《えもり》を講師として廃娼の演説会を開いた。この二十二、二十三年が全国に廃娼運動の最も感んだった年である。これに対して存娼論も根強く、その根拠は主に衛生的な立場からだった。大学|御雇《おやとい》教師ベルツ博士はその一人で、日本人学者では長谷川|泰《やすし》が存娼論の先頭だった。陸軍軍医森|林太郎《りんたろう》(鴎外)は廃娼を主唱した。だが、存娼論もこれに対抗し、二十三年六月には江東《こうとう》中村楼で演説会を開き、廃娼が実行不可能であることを弁士が次々と立って述べ立てた。  こうして、それからも廃娼論と存娼論とが対立したままになったが、これにいちばん力を入れたのは救世軍で、ブラード大佐が三十三年に来朝して婦人救済所を設けたときから旺《さか》んになった。ブラード大佐は、廃業を望む娼妓に保護を与える趣旨の刷りもの「鬨声《ときのこえ》」を発行し、吉原の廓内に売ったが、楼主などが全部買占めて一冊も娼妓の手に入らなかったことがある。  ところが、救世軍の矢吹大尉の指揮で、この「鬨声」を売るために演説中、大尉は数十人の暴漢に襲撃されて、数人の負傷者を出した。これが、かえって世間の問題となり、二六《にろく》、万朝、新日本、毎日の諸新聞は自由廃業を論評して、これに賛成した。  娼妓が廃業を望んでも、依然としてその届書に三業取締りの押印が要る規則になっているので、実際には足が抜けないところから、二六新報の一社員が危険を冒して吉原の一娼妓を救い出したことがあった。また、それとは別に、救世軍でも洲崎《すさき》の娼妓を救うために出張したが、暴徒に襲われて負傷した。こういうようなことで内務省もこの騒動を黙って見ていることができず、三十三年九月に、娼妓の廃業届には取締りが捺印を承知しないとき、その理由をつけて届出れば加判の必要はないことを明らかにした。これがために三十三年中には娼妓の自由廃業は燎原《りようげん》の火のように流行し、東京府下だけでも千百人以上が自由廃業をした。  だが、この自由廃業は、いつの間にかまた下火となった。その理由の一つは、楼主側(正式には貸座敷業)が娼妓の自由廃業を警戒して、その気配が見えると、一室に監禁したり、暴力団をつかって恐喝したり、また借金を云い立てて親元をおどかしたりするようになったことや、折角廃業しても生活に困った女がまた元の古巣に舞戻ったりするからであった。  明治五年の廃娼令は、中国人の苦力《クーリー》を積んだペルーの汽船マリア・ルース号が横浜に寄港したとき、奴隷として売られてゆく苦力の一人が脱走し、日本官憲に救いを求め、時の県|権令大江卓《ごんれいおおえたく》が日本の法律を以て人身売買禁止の立場で解放したことから始まる。一説によると、ペルーの船主が裁判所で、おまえの国にも人身売買があるではないか、と遊廓の娼妓を指摘したので、この法令となったともいわれている。  娼妓の自由廃業は掛声ばかりで、なかなか実行はできない。そこには、暴力の脅威と、借金を踏み倒すのが悪いことをするような旧い観念に娼妓自体が囚われていること、それに、この世界特有の義理が絡んでいるからだった。  工藤雄三は、そんな詳しい廃娼運動の歴史は知らないが、廃娼が容易に実行出来ないことぐらいはぼんやりと分っている。いま初雪が、こういうような刷りものを抱え主側に見られたらひどい目に遭うと怖れていることでも、その監視のきびしさが分った。  だから初雪に、この刷りものの通りに自由になれるでしょうか、と問われても工藤は返事に困った。とてもむずかしいと云えば、この勤めにまだ馴れていない女が可哀想だし、さりとて、大丈夫とも請合いはできなかった。  だが、初雪が楼主側の目をぬすんで、読めない字を懸命に読もうとしているのは、この勤めをどんなに辛く思っているかが分る。彼は慰めようもないままに黙った。  翌朝、工藤が眼をさましたのが七時半ごろだった。  米村とは八時にいっしょにここを出る約束だった。初雪もいっしょに起きて甲斐甲斐《かいがい》しく身支度の世話をやいた。あれから、また睡ったためか、それとも諦めたのか、彼女は、もう泣き顔はしていなかった。 「お客さん、あのことはどうか黙っていて下さいね」  と、彼女は刷りもののことが気になるのか、もう一度念を押した。よほど怕《こわ》いに違いなかった。  仲居が顔を出して、 「おや、もう、お帰りですか」  といった。 「八時に伴《つ》れといっしょに出ることになっているからね」 「お友だちは、ぐうぐう眠ってらっしゃいますよ。昨夜、あれから遅くまで朝霧さんとお酒をのんで酔っ払ったので、枕から頭が上がらないのですよ。起したら、あなたは先に帰ってくれと寝言みたいに云ってましたから、放っておいていいですよ」 「ぼくの勘定は?」 「お伴れさんからみんなもらいましたから、どうぞ、ご心配なく。……初雪さん、お客さんにウラを返してもらうようにお頼みしなさいよ」 「はい……」  初雪は、そういう口説《くぜつ》も云えない女だった。彼女は、店の裏口まで工藤を見送った。  遊廓からの朝帰りは、うら寂しいような侘びしさがある。昨夜の華やかに灯をともした妓楼が、うすら陽のなかに大戸を閉ざしてひっそりとしているのも白々しい。見えるのは、小女が格子を拭いている姿ぐらいだった。  工藤が大門を出て、五十間町にかかったときだった。彼は前方に騒ぎが起っているのを見て、ふいに脚をとめた。  工藤が足を止めたのは大門を出た五十間町。そこには引手茶屋がならんでいるが、その家並みの途切れたところが田圃《たんぼ》になっていた。騒ぎはそこから起っていた。  四人の若い男衆が一人の年配の男をとり巻いて何か罵《ののし》っていた。胸倉をとられている男は見たところ四十六、七歳、褪《さ》めた羽織袴に、くたびれた山高帽をかぶっていた。片方の下駄は跳び、小突かれるたびに身体がよろよろしていた。  工藤は急いでそこに寄った。とにかく、一人を相手に多勢で乱暴しているのだ。攻撃している側は、明らかに妓楼の若者だった。 「てめえも女の足抜けを手助けに来た野郎だろ?」  衿首をつかんでいる男が眼を怒らして山高帽に毒づいていた。  ほかの者は工藤がそこに来たので、じろりと睨んだ。 「何をぬかす。わが輩は歌をうたっていただけだ」  山高帽の中年男は、小突かれながらも肩をそびやかした。 「その歌が、耶蘇の歌に違えねえ」  一人が云った。 「違う。これはアメリカ独立の歌だ。わが輩は向うの言葉でうたったのだ」 「おれたちに分らねえと思ってごまかすな。耶蘇の讃美歌というやつだろう」  と、別の男が口を尖らした。 「さては、この前から女どもに足抜けを勧める紙を配っていたのはてめえだな。この辺にうろうろしやがって……」 「何を申す。わが輩は、昨夜|浩然《こうぜん》の気を養っての帰りだ。思わずそこで気持がよくなって高唱放吟しただけだ。おまえたちには英語は分らぬ」 「いいかげんなことをぬかしゃがって。では、どこに泊ったのだ?」 「それはおまえたちに云う必要はない」 「疚《やま》しいところがなかったら、早くぬかせ。その貸座敷の名前が分ったら、そこにしょっぴいて行って、嘘か真《まこと》か決着をつけてやるのだ」 「貴様らはポリスではないだろう。拘引する権利はない。早くそこを放せ」 「放すものか。やい、昨夜はどこに泊ったか知らねえが、そこで女どもにあの紙を渡したにちげえねえ」 「そうだ、そうだ。どうも、この前から女どもがこっそりあれを読んでいると思った。紙を渡したのはこいつに違えねえ。思いきりぶちのめして、二度とこの大門をくぐらねえようにしてやれ」 「やっちまえ」  と男衆たちは四方から山高帽に飛びかかろうとした。 「待て、待て」  いままで傍観していた工藤がその中に割って入った。 「なんだ、てめえは?」  一人の妓夫《ぎゆう》らしいのが刺青《いれずみ》の腕をまくった。 「なんだか事情は知らないが、多勢で一人をやるとはよくない。それに、この人はもう相当な年配だ。おまえたちはみんな若い。少々、卑怯じゃないか」 「何をいやがる。よけいな世話を焼くな」  若い者の一人が相手から離れ、工藤の前にきて、じろりと上から下まで眺めまわした。 「おや、おめえは書生っぽだな。ふん、さては、昨夜はケチな遊びをしての帰りとみえる。せっかく愉しんだあとだ、早えとこ下宿にでも帰って、てめえの膝小僧でも抱き、昨夜の夢のつづきでもみるがいいや」 「とにかく、その人を放せ」 「おい、そいつもグルだ」  と、山高帽の男を捉えていた一人が叫んだ。 「やっつけろ」  工藤は、眼の前の男が殴りかかってきた手を逆に取った。相手が顔をしかめて爪立ちするのを肩にのせて抛《ほう》り出した。 「おや?」  次に飛びかかってくる男が思わず足踏みして、 「うっ。こいつ生意気な……」  と、身構えた。 「おい、書生は柔《やわら》を知っているぞ。用心しろ」 「なに大したことはねえ」  別な一人がうしろから工藤を羽交締《はがいじ》めにした。途端にその男の手が放れて、その場につくばった。工藤のうしろ肘《ひじ》が妓夫の顎を突き上げていたので、男は顔を押えてしゃがんだ。  若者たちは、山高帽の男を捨てて工藤に向ってきた。しかし、すぐには飛びかからず、両方から手をひろげ、腰を落して、じりじりと詰寄った。それに気勢を得た別の男が地面から起ち上がった。 「だれか、その辺に走ってみんなを呼んでこい」  と、一人が叫んだ。  工藤も下駄を脱いでいた。  山高帽の男はニヤニヤして見ていたが、ふと、何かを見ると、 「おい、逃げるんだ」  と、工藤に大声で云った。  チラリと走った工藤の眼に、向うから巡査が駆けてくるのが見えた。おどろいたことに、山高帽の男は下駄を両手に持って一散に逃げていた。帽子が脱げそうなので、下駄を握ったままの手でそれを押えている。  工藤も一人を振切ると、山高帽のあとを追った。わけが分らないが、彼にも巡査に捕まったときの面倒だけは頭を掠《かす》めていた。 「君は力が強いな」  と、山高帽の男は工藤とならんで歩きながら云った。  浅草近くまで来て、この男は工藤を待つように往来に立って笑っていた。それから肩をならべての話である。 「いえ、そうでもありませんが……」 「強い」  と、男は賞めた。帽子を正しくかぶり、羽織の衿を直して威儀をつくった。堂々とした歩きぶりは、ついさっき、そのはいている下駄を両手に持って逃げ出した男とは思えなかった。  それに、危険を救ってもらった礼は一口も云わない。はじめから工藤の喧嘩を見物していたような口ぶりだった。 「君は書生らしいが、まだ学生かねえ?」 「いいえ、去年の暮、卒業したばかりです」  助けてもらったくせに横柄な口を利く男だが、工藤がそれに抗議できないのは、やはり相手が年上だからである。風采からみて豊かな人ではなさそうだが、とにかく威厳を張っている。黒い顔だが、着物にも衿垢《えりあか》がついていた。 「どこの学校を卒業したのだえ?」 「はあ……」  云い澱んだのを見て、相手は早くもそれと察し、 「云いたくないなら、それでもええけんど」  と、遮《さえぎ》り、別なことをすぐに訊いた。 「君も昨夜は浩然の気を養ったのか?」  工藤はいよいよ返事ができなかった。山高帽は顔を仰向けて哄笑した。 「どうじゃ、これから、ひとつ、ぼくの家にこんかえ?」  さっきの吉原の男衆に云っていたわが輩の第一人称をやめた。 「せっかくだ、寄って行け」  どうやら、それがせめてもの礼心のようだった。少し言葉に訛《なまり》があった。  工藤も、さし当って行くところもなし、それに、この変な男ともう少しつき合ってみたかった。とにかく素性の知れない人物である。先程喧嘩のときに聞いたのだが、英語でアメリカの歌をうたっていたというのも奇妙である。どう見ても、この風采と合わない。もしかすると、それは口からの出まかせではなかったかと思った。 「なぜ、あの喧嘩のとき、ぼくがポリスを見て逃げたか分るかえ?」  と、山高帽は突然訊いた。 「面倒臭いからでしょう」  工藤が答えると、 「それもあるが……ぼくは吉原の巡査に捕まって、ひどい目に遭ったことがある。いまから二十年前じゃけんど、やはりあの辺で友人と高唱放吟して歩いちょってな。吉原《なか》に繰りこむ途中じゃったが、巡査に咎められて大喧嘩になった。あのころはぼくも若かったきに、力があった。それで、逮捕されてから四カ月の刑を云い渡され、石川島監獄にぶち込まれたよ」 「…………」 「ばかなことをしたもんだ。好きな女が或る妓楼にいてな、そいつに逢いにゆくうれしさに喚いた。ちくと酒が入っとったから、巡査相手の喧嘩も派手になった。そいつをふいと思い出したもんじゃから、こいつはいけんと、三十六計を決めこんだのじゃ」 「巡査と喧嘩したぐらいで四カ月の投獄とは、少しひどいですな」  工藤が云うと、 「なに、それにはわけがある。ぼくは官憲から憎まれちょったきにな」  と、ぼそりと云った。  いよいよ不思議な人物のようだが、とにかく、この男の勧めに従うことにした。 「面倒だから、その辺で俥に乗ろうか。水道端《すいどうばた》までは相当あるきに」 「…………」 「心配するな。俥賃ぐらいはちゃんと持っている」  山高帽は、向うの辻に梶棒を下ろしている車夫を大声で呼び、派手に手招きした。車夫は饅頭笠《まんじゆうがさ》を上げてチラリとこっちを見たが、のっそりと蹴込《けこみ》から腰を上げると、梶棒を取上げた。 「だいぶん、よたよたしちょるな。どうやら年寄りらしい。こいつはいけん。君はほかのを呼べ」  と云っているうちに、その俥は二人の前にきた。 「へえ、どうぞ」  と、車夫が腰掛の毛布《ケツト》を手に持った。そして、じっと山高帽の顔を眺めていたが、 「おや、あんたは覚明先生じゃありませんか?」  と叫んだ。 「おや、懐かしい名前を云ってくれるの」  山高帽もじっと相手を見て、 「おれの顔と名前を知っちょるからには、おまえもだいぶん古狸《ふるだぬき》のようだな」 「へへへ、もう車夫を二十五、六年やっておりますので」 「道理での」  年寄りの車夫は黄色い歯を出して、 「講釈師先醒亭覚明師匠、若い時からちゃんとおぼえておりますよ。それから、神田明神の境内で人力車夫の大懇親会を開いたのも先生だった。三浦の親分といっしょだった。おぼえておりますよ。馬車鉄道のやつが出来るというので、われわれ車夫は干乾《ひぼ》しになる。そこで、覚明先生、東京じゅうの車夫を集めて馬車鉄道と対抗しようってんです。神田明神の境内に集まったのが三百二、三十人、いまでもあっしは、あのときのことをありありとおぼえておりやすよ」  と、唾を相手の顔にとばした。 「おい、君はそっちの若い車夫の俥に乗れ」  と、山高帽は工藤に命令した。 「さあ、おやじ、急ぐことはないきに、ゆっくりやってくれ。おれもアメリカから帰ったばかりだ。忘れていた遠いおれを、おまえが呼び醒ましてくれたぜよ。歩きながら昔話をしよう」  小石川水道端あたりの、ごみごみした裏通りで、工藤の俥は前の山高帽の俥に倣って梶棒を下ろした。工藤は、自分の俥賃を払った。  山高帽と年取った車夫とは工藤の眼の前をしゃべりながら歩いていたが、のんびりとした昔話で、ゆっくりとしたものだった。工藤の若い車夫は何度も舌打ちをしていたが、あとからのお供だから行先も分らないし、駆け抜けるわけにはいかなかった。その老車夫は、山高帽からとうとう金を取らないで、俥を引いて帰った。 「おう、君は俥賃を払ったのか?」  と、山高帽は初めて気づいたような顔をした。 「汚ない所じゃけんど、まあ、入りなさい」  裏長屋の一軒で、がらりと表の戸をあけた。別に鍵もかかってない。山高帽は隣の家に声をかけた。 「ただ今」  隣の女房が頭にかぶっていた手拭を取って、 「先生、お帰んなさい。昨夜はとうとうお戻りにならなかったようで」  と云った。 「いや、つい、沈没してな。ははは。……恐縮だが、また、そこの酒屋から徳利を届けるようにしてくれんか」  と、今度は山高帽も財布を出した。  いっしょに家の中に入ると、雨戸が閉めてあるので真暗だった。男は山高帽の塵を丁寧に指ではたいて壁にかけ、羽織は座敷の隅にまるめて放った。自分で雨戸をあけたが、工藤が眼を瞠ったのは、狭い机のぐるりが本だらけである。それも洋書が多かった。机の上には硯《すずり》と罫紙《けいし》が置いてあるが、書き損いのものか、まるめた反古《ほご》が机の下に山となっている。 「まあ、坐り給え」  と、山高帽は隅から座蒲団らしいものを持ってきて、縁の欠けた木の火鉢の前に置いた。その火鉢にも火はない。 「君、隣に行って火種を少し貰ってきてくれ」  早速の使走りだった。工藤は、これから酒屋に行くという隣の女房から十能《じゆうのう》に炭火を貰って帰った。 「すまん、すまん」  と、山高帽は火に背中をまるめた。六畳二間くらいの狭い家だが、たしかに寒かった。  講釈師と聞いたが、なんだか学者みたいな部屋である。工藤は、さっき、この男がアメリカから帰ったばかりだと云ったことや、アメリカの歌を英語でうたったというのが出鱈目《でたらめ》でないのを知った。それに車夫の組合をつくったことがあるという話を加えると、なんだか、みんながばらばらで、掴みどころがなかった。それでいて、なんとなく、それがこの人物の持っている雰囲気に合っていた。女房らしい女の姿もなかった。 「どうも申し遅れました」  と、工藤は黙ってもいられないから生国と姓名を名乗った。ただ、哲学館のことはしばらく控えた。哲学館といえば、いま世間の話題の中心になっている。それだけにいろいろなことを訊かれるのがいやだった。 「おう、そうか」  山高帽はうなずいて、 「ぼくは土佐の生れで、奥宮健之《おくのみやけんし》という者じゃ」  と名乗った。さっきの妙な訛は土佐弁と分った。 「先生は……」と、工藤もつい他人の口が移って、「先生は講談のほうをやっておられるんじゃないのですか?」  それにしても、やはり住居の様子が違っていた。横文字の本がその辺に積まれているし、著述でもしているように硯と紙とが机の上にある。 「講釈師の鑑札は、監獄行きといっしょに取上げられたでな」  と奥宮と名乗る男は笑った。 「監獄といわれると、巡査と喧嘩して四カ月石川島に入ったときのことですか?」 「そんなのはまだ何でもなかったが……」  と、奥宮健之と名乗る男はつづいて何かを云い出そうとしたが、ふいと気が変ったように話を変えた。 「今日は懐かしい車夫に遇った。まさか昔の講釈師の名で呼ばれようとは思わなかった。やっぱり、人間、旧いことを知った男に限る。先醒亭覚明……いい名前じゃけんど、君には分るかえ?」 「は、何のことですか?」 「それを何度でも棒読みしてみなさい」  工藤は、その通りに云ってみたが、別に不思議はなかった。強いていえば、先醒亭という名が講釈師らしくない坐りの悪さだけだった。  そこに隣の女房が徳利を持ってきた。奥宮という男は、すまん、すまん、と云って徳利を抱え、湯呑を二つ持ち出し、工藤の前に一つ置いた。 「先生、ぼくは、どうも酒のほうは不調法です」 「おや、君は何か云ったな?」 「は?」 「たしか、ぼくを先生と云ったな?」 「はあ」 「センセイ・テイ・カクメイ……まだ分らぬかな」 「どうも」 「センセイとは専制政治の専制じゃ。カクメイとはリボリューションじゃ。専制と革命、どうじゃ、この名前」  と、大口開いて笑った。   革命居士[#「革命居士」はゴシック体]  専制と革命——工藤雄三は、突然、爆裂弾が地の中から飛び出したような気がした。  先醒亭覚明という講釈師の名に、そんな物騒な隠語が秘められていたのか。工藤は呆気にとられて、奥宮健之という男の陽に焼けた顔をしばらく見つめた。そういえば、その面魂《つらだましい》は、ひと癖もふた癖もありげである。年齢《とし》にくらべて白髪《しらが》が多く、うすい眉の下の眼窩《がんか》も落込んでいる。出張った顴骨《ほおぼね》も、とげとげしい顎も、過去が普通でないものを感じさせた。  奥宮は、そうした工藤の驚異の眼ざしを受けながら茶碗酒を厚い唇に運び、欠けた歯を出して笑っていた。 「どうじゃ。おどろいたかよ?」 「おどろきました」と、工藤は頭を下げた。「先生は、一体、どういうお方なので?」  その辺に散っている洋書と、貧弱な机の上に載っている硯と紙とが、まだ工藤の感覚には一致しなかった。講釈師と、アメリカ帰りというのも分離していた。 「まあ、いこぜ」  と、奥宮は、まだ少しも減っていない工藤の湯呑に徳利を持ってきた。 「はあ、いただきます」  少し減ったところを奥宮は足して、 「ほんまに君は下戸だねや」と云った。「若い者がそがいなふうでは駄目ぜよ。……醺然《くんぜん》として酔い、意気|飄揺《ひようよう》として大虚に游飛《ゆうひ》するが如く、目よろこび、耳たのしみ、絶えて世界中憂苦なる者あるを知らず、更に飲むこと二三瓶なれば心神|頓《とみ》に激昂し、思想|頻《しき》りに|※[#「分/土」、unicode574C]湧《ふんよう》し、身《み》は一斗室の中にあるも、眼《まなこ》は全世界を通観す……これでいこうぜ」  奥宮の口ずさんだ一句は、中江|兆民《ちようみん》居士の『三酔人|経綸《けいりん》問答』の冒頭で、それくらいは工藤もうろおぼえに知っていた。 「先生は、なるほど兆民先生と同じ土佐でしたね」  と、工藤は云った。 「そうよ。だけんど、ぼくは兆民先生にはとうとうお会いできずに終《しま》った。ぼくの友人に幸徳《こうとく》伝次郎(秋水)という男がいてな。いま、まだアメリカに残っちょるが、こやつは兆民先生の一番弟子じゃ」 「すると、先生も土佐の立志社の流れを汲む自由民権の志士ですか?」 「まあ、そういうことになるかもしれん」 「アメリカにおいでになったということですが、たしか、アメリカには立志社の馬場|辰猪《たつい》先生が渡っていて、かの地で夭折されていますが、それと何か関係が……」 「そがいなものは何もないちゃ」  と、奥宮は頭《かぶり》を振った。 「大体、板垣といい、林有造といい、馬場といい、大石|正巳《まさみ》といい、みんなインチキ野郎ばかりじゃきに。いざちゅうときに逃げ腰になっち、板垣一派なぞは政府に身売りをしよったわねや。自由民権の風上にも置けんやつじゃ」  彼は湯呑酒を呷《あお》って肩を張った。 「君はわしの来歴を知っちょらんのう?」 「はあ、申しわけないことですが」  工藤が頭を掻いたのは、案外、この男が大物だと、だんだん分ってきたからであった。 「そいじゃ、ちくとぼくの身の上をしゃべろうかの」 「お願いします」 「どうせ君には先醒亭覚明の正体を明かしたきに、ついでに云うけんど、まあ、びっくりせんで聞いちょれ」  奥宮は唇の端を舐《な》めた。 「さっき話に出た兆民さんは、実はわしの親父の弟子じゃ」  と、告白でもするように云った。 「え、先生のご尊父の?」 「うむ、わしの父は奥宮|慥斎《ぞうさい》といって、土佐藩の儒者だった。陽明学で藩の殿様の侍講もしたが、のち布師田《ぬのしだ》村というのに引込んだ。そこに兆民先生が習いにきていたのだ」 「それは奇縁ですなあ」 「兆民さんだけじゃない、いまを時めく三菱の岩崎弥太郎、あれも親父の弟子で、親父が江戸に出るとき連れて行ってもらったのだ。わしが三菱会社につとめたのもその縁故だよ」  工藤は初めて聞く奥宮の正体におどろいた。 「わしも十二のときに東京へ出て英語を習ったが、明治十四年、板垣退助が自由党を結成したのを見ち、それまで勤めていた岩崎の三菱会社を辞めち党員になった。……まあ、これでも、そのころは、いま君が話した馬場辰猪とならんで、土佐の二俊秀とひとから云われたもんじゃ」 「左様でしたか」  工藤は思わず坐り直した。 「その馬場や大石などと国友会というのを組織したのは十五年でな、盛んに暴れたものだ。浅草の井生村楼《いふむらろう》で自由民権の演説をしたのが祟《たた》っち、東京府下の演説を禁止されたでな、仕方がないきに、ほかの手で何とか人民にこの思想を教えてやろうと思い、思いついたのが講談じゃ。講釈師の鑑礼を受けち、先醒亭覚明という芸名で寄席に上ったぜよ」 「なるほど」 「寄席では高座から、自由民権のことをほかの話に作り変えちしゃべったけんど、やっぱりこれもいかん。官憲が集会条例違反というやつで一カ月の禁錮にしよった。可哀想に席亭のおやじもいっしょに処分を喰ったぜよ」 「ははあ」 「ところが、出てくると、馬車鉄道が出来るちゅうので人力車夫どもが生活の不安に曝《さら》されちょる。ぼくはこいつに目をつけてな。土佐に竹内綱《たけうちつな》というやつがいるが、こいつのお抱え車夫で三浦|亀吉《かめきち》なる顔役がおっての。その三浦に周旋させち車夫どもを集めることにしたけんど、演説会では連中あんまりこないじゃろうと思ったきに、集まってくる者にはなんぼでも酒を飲ませるちゅうビラを東京中に撒いた。十五年十月四日を期して、神田明神境内で人力車夫の大懇親会を開いたもんじゃ。……いやァ、集まったぞ。あれで三百四、五十人くらいはきたか。まこと神田祭にも負けんくらいの景気じゃったけんどねや……」 「それで、さっきの年取った車夫が先生をおぼえていたわけですね」 「懐かしい話じゃきに、俥の上で時を忘れたぜよ」  と、奥宮は、自分の湯呑に徳利を傾けた。酔うほどに土佐弁がひどくなってきた。  奥宮健之の土佐弁では話がまどろこしいから、そのあとを要約すると、次のようなことになる。  奥宮が失業車夫を集めて作った団体の名前は車会党《しやかいとう》というもので、これをもって鉄道馬車会社に対抗しようとした。ところが、その後、彼は岩本楼で車夫政談演説会を開いての帰り、三浦亀吉と、同志の照山らをつれて吉原に行く途中、酔って大きな声で歌をうたったため巡査に咎められ、大喧嘩になった。  巡査のほうは普通の酔漢として制止したのだが、彼らは酔っている上に、日ごろから官憲を蔑視していたので、忽《たちま》ち反抗に出たのである。逮捕されると、奥宮は石川島監獄に収容された。そして刑を終って出てみると、折角、彼の組織した車会党は雲散霧消していた。  明治十六、十七、十八年は、各地の民権運動が暴動化した年である。奥宮は鹿児島に行く途中名古屋に寄ったが、ここでは図らずも名古屋強盗殺人事件の指導者にさせられた。名古屋事件というのは、大略すると、こうである。  明治十七年ごろ、名古屋の自由党は非常な勢いで発展していた。だが、穏健派と過激派とがあって軋轢《あつれき》をしていた。過激派は実力行動を起さなければ目的は遂げられないとして、紙幣の贋造計画も立てたりした。だが、贋造は容易に出来ないので、手取早いところ富豪から略奪をすることにし、名古屋付近に十数個所の金持を襲って強奪したが、その金も初めの予定額の百分の一にもならず、いつの間にか運動費に使いこんでしまった。  そういう際に奥宮健之が名古屋に入ってきた。彼は社会主義や無政府主義の翻訳などして新聞、雑誌へ投書するくらい語学も出来、また父親の関係で漢学にも造詣が深かった。彼は漢籍を名古屋地方の子弟に教えてしばらく滞在していたが、そのうち自由党員に頼まれて各種の演説会にも出た。  或る晩のこと、同志の集まった席で、奥宮はしきりと無政府主義や虚無党の話をはじめ、政治改革は、極端な過激運動を用いなければ容易に目的を達することは出来ないということを語った。この席にいた党員の大島|渚《なぎさ》という者がそれを聞いて奥宮に向い、「先生の云われるところは机上の議論であって、実際行動に移した場合、果してどうであろうか」と疑ぐるように質問した。奥宮は、話の行きがかりで引くに引かれず、「自分の説は実際に行うことが出来るから云うのである。自分もまたその実行を辞するものではない」と景気よく答えた。ここで初めて渚は、自分らの実力計画の内容を奥宮に話したのであった。  奥宮は必ずしも本意ではなかったが、自分の言葉にしばられて一同に仲間入りすることになった。枇杷島《びわじま》の近所に或る金持がいて、そこに押込めば必ずまとまった大金が盗《と》れるというので、十七年の八月、大島渚が先立って、奥宮もそれの中に加わり、一同が三組に分れて、その富豪へ押込みに入った。だが、このときは目的を果さずに引揚げようとして、平田橋を渡ろうとしたとき、待伏せの巡査にひっかかった。いちばんに押えられたのが演説会などで顔を知られている奥宮だったから、これでいままでの事件が露顕するかもしれぬと早合点した大島は、あとへ引返して一同に、殺《や》っちまえ、と声をかけた。  そこで党員の一人が巡査に一太刀浴びせた。この男は撃剣の達人で、警察署などへ指南に行くほどの腕前だったので、巡査はその場で即死した。奥宮も面白半分に倒れた巡査に一太刀浴びせたが、これがあとになって彼の罪状を重いものにした。  一同は駆けつけた巡査も傷つけて、遠巻きに集まった民衆を威嚇しながら引揚げた。この事件が露顕して一同は縛に就いたが、死刑になった者も数名あって、多くは十年以上の懲役で北海道へ送られた。奥宮も巡査殺しの正犯であるから死刑にならねばならなかったところ、兄の正治《まさはる》が心配して運動したためか、死一等を減じられて無期懲役となった。奥宮の兄奥宮正治は、東京地方裁判所の検事をしていて、のちには検事正にまでなった。  奥宮は何度も破獄を試みたが、成功しなかった。小菅《こすげ》、宮城の監獄を転々とし、二十二年には北海道|樺戸《かばと》に移されて、ここでも一、二度破獄を試みた。奥宮などの主張は、国事犯にしろというのだったが、判決は普通の強盗殺人罪であった。  二十二年に憲法発布がある。土佐の板垣退助、片岡健吉、林有造らの先輩は、奥宮らが強盗殺人罪のために憲法発布の恩典に漏れたことを遺憾として、国事犯に準じ特赦復権の恩命を蒙るよう運動をつづけていた。そのうち板垣が伊藤内閣に入って内務大臣の地位に就いたので、この運動は功を奏し、奥宮は二十九年七月に同志六人と共に釈放された。  監獄を出た奥宮はヨーロッパに行った。 「ヨーロッパでは、ちくと面白い話がある。新橋|烏森《からすもり》の芸者が十何人か扇芳亭の女将《おかみ》に引具されてパリの博覧会に乗りこんできておった。パリで十カ月、保名《やすな》や道成寺《どうじようじ》などの日本舞踊を見せて評判がなかなかええ。それに気をよくしたのと欲が出たのとで、女将が興行元のパノラマ会社の手をはなれ、デンマークを振出しにヨーロッパ各地を巡業した。ロシヤからハンガリーまで行ったとき、傭ったアメリカ人の番頭格に稼いだ虎ノ子の二千円を持ち逃げされるやら、興行が面白くないやらでウインで立往生となった。何しろ言葉も分らねば、知った人間もいない。ちょうど、この連中とわしがいっしょになっていてな、あんまり可哀想だから、臨時番頭になってな、ウインからベルリンに行って、玉井喜作という在留邦人の親分に話をつけ、三百マルク握ってウインに戻り、連中を助け出したことがあったよ」  それから奥宮はアメリカに渡った。ヨーロッパやアメリカ旅行の金はどこから出たか、奥宮は最後まで明かさなかった。或る人に云わせると、奥宮を国内に置いては危険なので、板垣らが金を与え、国外に体よく追出したという説もある。  もっとも、いま奥宮が工藤雄三に語るところは、それほど詳しいものではなかった。肝心なところはぼかし、面白そうなところだけ話した。一つは相手が書生なのでまともに説明する気にはなれなかったのであろう。  奥宮は講釈師の鑑礼を受けるほど話を面白くすることの出来る男で、その弁舌は演説会でも一流だった。工藤雄三がうっとりとなって聞き惚れていたのはいうまでもない。 「ぼくの来歴は、ええかげん、こういうもんじゃ」  と、奥宮は語り終ったが、その間に、いつか一升徳利を倒《さか》さまに傾けなければならないほどになっていた。  工藤は、奥宮の話を聞いただけで、それに対してあまり質問ができなかった。一つは、年齢の相違以上に世界が異《ちが》いすぎていた。奥宮の話は、二十年も前のことで、工藤はまだ幼児である。民権運動というのは書物の上で読んで概念として分っている程度にとどまっている。いまの世に、その体験者が突然として眼の前に現われたのでは、ただそれに、圧倒されて、とまどうばかりであった。しかも、相手は、聞けば聞くほど大物であった。馬場辰猪や大石正巳などとは友だちだというのである。とても、正面から質問できることではなかった。  それに、奥宮の酔いかたも、ひどくなっていた。  工藤は、そろそろ、ここを出て行きたくなった。何となく押えこまれたような気分で、じっと落ちついていることが出来ない。だが、相手の話が終ってからすぐに暇乞《いとまご》いするのも悪いような気がした。さっきから机の上の硯と紙が気になっていたので、それに話のきっかけを求めた。 「先生は、いま、その回想記でも書いておられるのですか?」  そうたずねると、奥宮は歯のない口を大きく開いて、 「まだ、それほどぼくは耄碌《もうろく》しとらんぜよ」と笑った。 「ぼくの仕事は、これからじゃ。まだまだ、この世の中は改めなけりゃならんことが多いきに。いま、ぼくが書いちょるのは、万国労働運動史ちゅうもんじゃ」 「万国労働運動史?」  工藤はまた、その壮大な意図におどろいた。 「そうよ。ここに積んである書物は、その資料じゃ。ぼくは民権運動に苦杯を嘗《な》め、社会主義にも絶望しちょる。ぼくは今から二十年前に、ネッケル・フレーの『共和原理』ちゅうのを翻訳したことがあるけんど、人民の幸福は、結局、虚無主義でないと獲得は出来ん。虚無主義について話すと長くなるきに今はやめておくけんど、そのうち、ゆっくり話にくるがええ。なんぼでも教えてやるきに」 「ありがとうございます」  奥宮は眼を据え、首をぐらぐらさせていたが、 「ときに、さっき君はどこかの学校を出たと云っていたけんど、ぼくはそれを聞いたかな?」 「いいえ、まだお話ししていません」 「そうか、忘れたのじゃなかったか。近ごろは年を取ったきにすぐ酔払うでな。どこの学校かよ?」  工藤も仕方がないから、正直に吐いた。 「なに、哲学館?」  果して奥宮は赧《あか》くなった眼を見開いた。 「哲学館ちゅうと、ムイアヘッドの倫理学のことで文部省から処分をうけた、あの学校かよ?」 「はあ」  工藤は眼を伏せた。 「うむ、そうか……あれは、結局、宮内省が文部省をつついち、あの挙に出させたのじゃ。あの学説が天皇の地位を脅やかすきにねや。……なんで、君は初めからその学校の卒業生ということをぼくに云わなかったのじゃ?」 「はあ、どうも云いそびれまして……」 「思うに、君もあれで肩身の狭い気持になっとるんじゃろう。それは大間違いじゃ。大体、学校側はだんだん文部省に頭を下げちょるようじゃけんど間違いじゃ。あれは、うんと突っ張るがええ」 「世間の評判も文部省を攻撃しています」 「それよ。新聞にはいろいろ書いちょるけんど、なに、ああいうものは限界があるきに、ぎりぎりのところから先は、もう、先に進むことが出来ん。皇室の問題になると、へなへなと腰砕けになる。学者も、新聞も自由があるようなつもりで書いちょるけんど、いまの世の中には、どだい自由ちゅうもんはないきにねや」 「…………」 「どうも、みんな、その辺を勘違いしち困る。親爺のところに漢学を習いに来ちょった兆民居士が、こう書いちょる……世のいわゆる民権なるものは、自ら二種有り。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜的の民権と称す可《べ》き者有り。上より恵みて之を与うるものなり。恢復的の民権は下より進取するが故に、其《その》分量の多寡《たか》は、我れの随意に定むる所なり。恩賜的の民権は上より恵与するが故に、其分量の多寡は、我れの得て定むる所に非ざるなり。若《も》し恩賜的の民権を得て、直に変じて恢復的の民権と為さんと欲するが如きは、豈《あに》事理の序ならん哉《や》……とな」  奥宮は暗記しているとみえ、すらすらと口に出した上、 「このくだりは兆民先生もだいぶん自信があるとみえ、此《こ》の一段の文章は少しく自慢なり、と書いちょる。つまり、日本の人民の自由は、明治維新のとき上からお仕着せとして貰ったというんじゃ。これが兆民居士の恩賜的民権じゃ。それじゃきに、天皇から貰った人民の自由にはおのずから限界がある。いうなれば、それが天皇の存在を危なくするようなところまで行くと、忽ち弾圧されることになっちょる。君の哲学館の問題では、ちょっと見ると、みんな自由の論陣を張っちょるようにみえるけんど、その実は屁っぴり腰じゃ。どういう学生が書いたか知らんけんど、動機善なれば帝王の弑逆《しいぎやく》もまた可なり、というところはさすがに持てあましち、みんな弱っちょるぜよ……」  工藤は、その生徒が自分だと名乗る勇気はなかった。 「どうも、ぼくの見るところでは、哲学館は謀略にひっかけられたようじゃ。あれは、一卒業生の答案を見ち文部省が文句をつけたんじゃないち。前から万端の用意が出来ていて、こしらえ上げたもんじゃ。世間では、東京帝国大学の井上哲次郎が文部省の諮問に答えち、この処分をすすめたと云うちょるけんど、そんな浅いもんじゃなかろう。井上ちゅう先生は道具じゃきに、もっと上のほうで、計画しちょるわねや」  工藤はうつむいたまま顔が上げられなかった。   帝国大学教授論(一)[#「帝国大学教授論(一)」はゴシック体]  工藤雄三は、奥宮健之が、哲学館事件のことは、噂どおりだとすると東京帝国大学文科大学長井上哲次郎は単なる道具で、もっと上のほうから大きな意志が働いている、と云ったので、これには耳を傾けた。  うすうす感じていたことを、この男なら、もっと具体的に云ってくれそうな気がした。自由民権運動に身を投じて何度も監獄に入っているだけに、権力層に対する嗅覚は鋭いに違いないと考えたのである。 「それについて訊きたいのですが」  と云い出して、徳利に酒がなくなったのを見て、 「先生、隣のおばさんに云って酒を頼みましょう」  と、腰をあげた。酒がなくてはしゃべってくれないと思ったからだが、奥宮は酔ってはいるが、意識朦朧とまではいっていない。このような男は、飲めば飲むほど頭が冴える性質《たち》かもしれない。 「すまんの。じゃ、頼もうか」  奥宮は空になった徳利を持ち上げたが、なにか、もそもそしていた。 「今度は、ぼくが先生に献上します。それくらいの金は持っておりますから」  工藤は察して云った。 「そうかえ。そりゃ申し訳ない。このごろ、ちくと懐ろ具合が悪いきに、君の好意に甘えよう」  彼は工藤を見てニタリとした。  工藤はすぐに徳利を持って隣の家をのぞいた。中から女房が出てきたので、酒代を払った上、五十銭玉を相手の掌《て》に載せた。  女房は眼をまるくして、こんなに戴いてはすみません、と何度も礼を云い、駆け出して行った。  工藤は席に戻った。 「先生、もうすぐ酒がここに参ります」  うしろの壁に凭《もた》れて、いい気持になっている奥宮は眼をあけて、 「そりゃありがたい、まこと」  と、背中を起した。 「先生、先ほどのつづきですが、その上のほうというのは誰でしょうか、先生にお心当りがありますか?」  工藤は、奥宮がうつらうつらしていたので少し心配になったが、彼は存外はっきりしていて、 「それよ。ぼくの見込みを教えてやるぜよ」と、太い息を吐いた。「そりゃやっぱり山県有朋じゃよ」  やはり山県の名が出た。工藤の頭にチラリと、昨夜の女が持っていた廃娼運動のビラに書かれた下田歌子の名前が掠《かす》めた。 「伊藤博文という考えもあるけんど、伊藤はそれほど陰険じゃない。本質的には山県と変りがないけんど、国民を縛りつける上では、山県のほうが伊藤より一枚も二枚もうわ手じゃ。今度のことも、必ず山県が動いちょる。大体、山県は、私学なんどは撲滅したい考えじゃ。帝王も弑逆《しいぎやく》してよいというようなことを講ずるのも私学じゃきに、滅ぼしてもよいという考えじゃろう。大学は帝国大学一つあればええ。なにしろ、ここで人民を縛る役人を製造するのじゃきにな。その証拠に、帝国大学の中枢は法科じゃ。この法科の変遷をみても、これは一目瞭然じゃきにの」 「ははあ」 「ぼくは敵のすることをよう見ちょるきに、帝国大学のことも不案内じゃない。そもそも、法科がドイツ法になったのも山県の絶対主義から出ちょる。山県が大御所となっている陸軍が、フランス方式からドイツ方式になったのと軌を一つにする。ええかよ、君。憲法が出来たのが明治二十二年じゃが、それから民法の制定がはじまった。出来上がったのはたしか三年前だったと思うけんど、これには、東京帝国大学教授穂積|陳重《のぶしげ》、梅謙次郎、富井|政章《まさあき》の三人が編纂に当っちょる」 「ははあ」  工藤はうなずいた。 「これに、仁井田益太郎《にいたますたろう》、松波|仁一郎《じんいちろう》が助手格で編纂に手伝っちょる。つまりじゃな、二十四、五年ごろからの帝国大学法学部の優秀な卒業生のほとんどが、この民法編纂の事業に吸取られたわけじゃきにの。この民法が、権力をもっち人民をぎりぎりに縛り上げたもんじゃきにねや」  表に足音がした。話をやめて奥宮健之が、ふいと、そのほうに顔を上げたので、工藤は心得たように起ち上がった。  入口には、隣の女房が一升徳利を抱えていた。 「先ほどは、どうもありがとうございます」  と、彼女は低い声で礼を云った。 「いや、ほんの志です。……これからも先生のことをお願いしますよ」  どうせ、たまにしか心づけをしないと思ったので、工藤が代って云った。 「やあ、済まんのう、まこと」  徳利を見ると、奥宮は顔じゅうを輝かせた。 「こいつが来たきに、君の好意のためにも、知っちょることは何でも話してやるぜよ」  彼は早速栓を抜いて、自分の湯呑にどくどくと注いだ。 「君はどうだ?」 「いいえ、ぼくは駄目です。それよりも、先生が召上がりながらお話しして下さるほうがありがたいです」 「そうか。よしよし」  奥宮は茶碗に口をつけたが、半分ほど一気に飲むと、大きな息を吐いた。 「どこまで話したかよ?」 「民法編纂のことに帝国大学法学部の優秀な卒業生が吸取られたとこでした」 「おお、そうじゃった」  奥宮は、顎《あご》に垂れた酒の滴《しずく》を手の甲でぐいとぬぐった。 「そもそも、民法を作るときが、フランス民法を基にするか、ドイツ民法を基礎にするかでだいぶん揉めたきにの」  と、奥宮健之は語った。 「フランス民法は自由主義じゃけんど、ドイツ民法はいうまでもなく国家主義のものじゃ。じゃけんど、大勢は穂積陳重のドイツ民法が占めることになった。大本の憲法がドイツの国家主義じゃきに、いくらフランス学派がじたばたしても追っつくはずはない。それじゃきに民法もドイツ、刑法もドイツ、商法もドイツと、東京帝国大学はドイツ法学一色に塗り潰されたわけじゃ。さぞかし親玉の山県はニヤニヤしちょったろうよ」  工藤は、相手が酒を飲むのを見ながら聞いていた。 「それで、フランス学派は学内で凋落《ちようらく》し、教授の富井政章という男は、運がええことにドイツ法学、フランス法学両方とも通じていたきに、その難を免れたのじゃ。大体、帝国大学の教授ちゅうのは、役人を兼ねちょったきにねや。いま話した穂積陳重でも、現在の文部大臣の菊池大麓でも、外山正一でも、帝国議会が出来るといっしょに、すぐに貴族院議員に勅選されたきにの、これで帝国大学の性格ちゅうものは分ろうちゅうもんじゃ、たとえば、二十年に国際法の教授をしていた鳩山和夫は、外務省取調局長兼翻訳局長を、財政学教授|田尻稲次郎《たじりいなじろう》は国債局長を兼ねちょった。つまり、こういう高級役人に教授が呼ばれて行くといっしょに、役人のほうも帝国大学の講師に招かれちょる。ええか。二十一年に横浜始審裁判所長|岡村輝彦《おかむらてるひこ》も、また外務省翻訳局次長の小村寿太郎も帝国大学講師になっちょる。たしか田尻稲次郎は、二十五年には大蔵次官と、講師を兼ねちょったはずじゃきにの。そうじゃ。いま民法の講師をしちょる平沼騏一郎《ひらぬまきいちろう》は大審院の検事じゃよ」  奥宮は湯呑に酒を注いだが、さすがに少しずつ身体がぐらぐらしはじめていた。  奥宮健之の言葉につづいて註をするなら——  憲法、国法学の一木喜徳郎《いちききとくろう》教授は、内務省書記官から帝国大学教授に迎えられ、のちには宮内大臣、文部大臣をつとめる。民法の河村|譲三郎《じようざぶろう》講師も宮内大臣、同じく民法の水町袈裟六《みずまちけさろく》講師は大蔵次官になっている。刑事訴訟法の松室致《まつむろいたす》講師は司法大臣、商法の岡野敬次郎教授は法制局参事官、イギリス法の池田|寅二郎《とらじろう》講師は大審院判事というようにつづくのである。  しかし、これは奥宮健之が語っている時点からずっとのちのことになる。 「帝国大学で教える憲法がいかに皇室と結んじょるかは、憲法、国法の教授が宮内官僚から出ていることでも分っちょる。国民の自由を縛り、人権を蹂躙《じゆうりん》しておる刑法、刑事訴訟法は、司法省の役人が教授になっち教えちょる。国際法は、外務省の役人ちゅう具合に、ちゃんと帝国大学と絶対主義の政治は一本になっちょるよ」  眼がだるくなって閉じかけた奥宮が、何かにはっと気づいたように眼をあけた。 「そうじゃ。君の哲学館が今度文部省から中等教員無試験資格を取上げられたのは、こりゃ私学にとっては、おおかた致命傷じゃろのう。けんど、帝国大学教授というやつは、もっともっと大きな権力を握っておる。それは何かちゅうと、高等文官の試験委員を独占しとるちゅうことじゃきにねや。ええか。行政官でも、判、検事でも、弁護士でも、みんなこの試験を通らんことには資格は取れんきに。もっと縮めていえば、東京帝国大学卒業生に非ずんば、この試験にはパスせんのじゃ。ということは、帝国大学でこれらの試験委員の講義を日ごろからよく聴いておかんと試験に合格せん。つまり、口頭試験などになると、日ごろから、その教授の講義をじかに聴いておらんと、とても分らん質問が飛び出してくる。つまり、わが政府が、帝国大学をして天皇制絶対主義の役人を育てさせる考えが露骨に見えとるのじゃ……」  遂に奥宮健之の眼が塞《ふさ》がった。 「ええか。帝国大学は、こういう国家権力を次々に作ってゆく最高の教育機関じゃ……」  彼は身体を横に倒した。 「先生……」  工藤が近づいて背中に手を当てると、 「う?」  と、その眼を開いたが、眼球は真っ赤で、とろんと濁っていた。 「……こういう天皇主義の政府は転覆せんことには、人民はいつまでも束縛せられる」  また眼を閉じて、 「……東京帝国大学なんちゅうやつは焼き払ってしまうがええ」  と、だるそうに云った。 「先生、風邪を引きますよ」  工藤は、だらしなく着物を皺くちゃにして横たわっている奥宮を扱いかねたが、そこに襖があるのを見ると、押入れをあけた。むっと脂臭いにおいが鼻を打ってくる。彼は、そのうちの一枚を取出して奥宮の身体の上にかけた。綿のはみ出そうな蒲団で衿《えり》のあたりが黒く汚れている。  奥宮は蒲団の重さに気がついたか、うす眼をあけたが、 「元兇の山県を殺さんと、らちがあかん。天皇政府を転覆……東京帝国大学は焼き打ち……教授たちはくたばったらええねや」  と、あとは口をうつろに動かしていたが、つづいて鼾《いびき》が起った。  工藤がその辺を片づけて表に出ると、隣の女房がその物音に顔を出した。 「書生さん、いまお帰りですかえ?」 「はあ、先生が寝られたので帰ります」 「書生さんは、奥宮さんのお弟子さんですか?」 「いいえ、そういうわけじゃありませんが」 「そんなら、あんまりここには近づかないほうがいいですよ。あなたはまだ若いから」 「え、それはどういう意味ですか?」 「ここには、警察の人が毎日のように様子を見に来ますからね……わたしたちも奥宮さんはいい人だと思っていますが、やはり気味はよくありませんよ」  工藤は下宿に戻った。  昨夜から今朝にかけて、いろいろなことがあった。人間には、十日も二十日も空虚な日がつづくこともあるが、こうして、一日の出来事が溢れるような充実を持つこともある。  初めて経験した吉原の一夜、初雪という女、その女の持っていた廃娼運動の広告、下田歌子の名。——朝帰りの途上での喧嘩、出遇った奥宮健之という奇体な人物。  その茅屋《ぼうおく》に連れて行かれてからの奥宮の話は工藤にとって新しい世界だった。自由民権運動の古い闘士が突然、眼の前に現われたのも夢のようだった。彼の口から社会主義とか虚無主義とかいう言葉がとび出したが、工藤には遠い距離であった。しかし、それにふしぎに迫力があったのは、奥宮が実際の運動家だからである。これは強かった。  奥宮の口から、東京帝国大学教授の体系といったものを聞いた。彼が云うと、妙に現実感があるから奇体であった。論理明快である。よく判る。だが、工藤は、一方で、反撥を感じないでもなかった。それは、相手の断定的な、というよりも圧《お》しつけがましい云い方による。  それは、奥宮が、自由民権とか、社会主義とか、虚無主義とか、普通の人間とは変った考えを持つことからきていると思える。その考えで万事を見ているような気がする。迫力は感じるが、工藤についてゆけないものがある。  もう一つ云えば、奥宮の落ちぶれかただ。これも気になるのである。落伍者の虚勢的な言葉と思えなくもない。哲学館事件の背景も彼の云うことと、こっちでぼんやり思っていたことが一致したが、それがあまりに明快に合いすぎて、かえって遅疑を生じる。奥宮は、自分の推量を事実のように思いこんでいるのではあるまいか。奥宮のような性格の人間にはありそうなことだ。おのれの想像を頭から事実にして了《しま》うのである。  最後に、奥宮の家を出るとき、隣の女房が云った言葉には、ぎょっとなった。警察が彼の様子を窺いに、毎日のようにのぞきにくるというのである。奥宮は、まだ警察に監視されているらしい。それほど物騒な人間だとすると、あまり近づかないほうがいいようだ。山県を殺せ、とか、政府顛覆とか、東京帝国大学の焼打ちとか、半分睡りながら呟いた言葉も、酔余のうわごとだけとはいえなくなる。相手は、監獄に何度も行って平気な男だし、アメリカにも浮浪している。桁がなみ外れて違うのである。隣の女房の云ったように、無気味な男だ。  米村が書生奉公している穏田《おんでん》の予言者飯野吉三郎といい、この奥宮健之といい、さすがに東京にはなみ外れた人物がうようよしていると思った。  下宿の女房が顔を出した。 「工藤さん、昨夜、この前の書生さんがきて、これを置いて行かれましたよ」  と、手に持った新聞を渡した。文科大学生だとすぐに気づいた。 「やはり三人で?」 「いえ、今度は二人でした。一人は新顔でしたよ」  名前は聞いていないと云った。  新聞のある箇所には、赤インキで二重の丸がついている。 「哲学館事件ニ関シテ学界ノ識者ニ言《ただ》ス」  という標題が眼についた。  工藤は、その場に坐りこんで、むさぼるように中を読んだ。 「……ム氏ノ書広ク天下ニ行ハルルハ、人ノ皆知ル所、書中ノ学説|若《もし》クハ事例ニシテ不穏ノ傾向アリトスレバ、国民ノ倫理教育上一日モ看過スベカラザルハ、事理甚ダ明白ナリ。而《し》カモ学者諸賢黙々見テ知ラザルモノノ如キハ、抑《そもそ》モ何等ノ不親切ゾ、風教ヲ憂フルノ誠意アルモノハシカアル可カラザルナリ。是《こ》レ吾人後進者ガ諸賢ニ迫リテ、其解答ヲ促ス所以《ゆゑん》ナリ」……さらに云う。この事件の主な原因である倫理学上の問題が、不幸にして国体の精華、皇室の尊厳に関わったのは、われわれの深く遺憾とするところであるが、そもそも学者は、いかなる態度で国体もしくは皇室に関する事柄を究めようとするのか。こと皇室に関する解釈は一見明白のようだが、実は国民年来の疑問であって、しかも、この疑問がいつも曖昧のうちに葬られて、忠良の国民や、誠実な学者が往々にして不敬の悪名を蒙るとは、世間の嘆息するところである。今にしてこのような疑問を解決しなければ、このような不祥な現象は今後も跡を絶つまい。しかるに、学者諸賢が黙々として見て見ぬ振りをしているのは、単に学者の面目を傷つけるだけではなく、また忠良の臣義を尽さないと同じである。われらは諸賢に迫って、切にその熟慮を促すのである。学者諸賢はまさかこの問題を知らぬわけではあるまい。知って国民に何ら教えるところのないのは、いかなる理由であろうか。時代を指導し、国民を指導するのは、学者本来の天職ではないか。しかも、哲学館問題は現在の一大疑問であって、国民の迷うところである。—— 「……重要ノ意義ヲ含メル此問題ヲ曖昧|模糊《もこ》ノ中ニ没了シ去ルヲ欲セザルガ故ニ、吾人ノ所見ヲ公ニスルニ先《さきだ》チ、一言ヲ我ガ学界ノ識者ニ呈シテ、其解答ヲ促スモノナリ。 [#2字下げ]帝国大学文科大学哲学科第三年生一同ヲ代表シテ [#地付き]石井波平 小山東助 高橋正熊 滝村|斐男《あやお》 三沢|糾《ただす》 謹白」   皇室・国体観の不安[#「皇室・国体観の不安」はゴシック体]  石井波平、小山東助らの名が連記された「哲学館事件ニ関シテ学界ノ識者ニ言ス」の記事を読んだ工藤は、これは皮肉な文章であるが、同時に、ある意味で恐ろしい文章だと思った。  石井たちは、今度の哲学館問題で輿論《よろん》がともすると肝心な点を避けて議論しているのを衝《つ》いている。実際、新聞の社説をはじめ、識者の意見も、故意に中心点にさわらないようにしている。  それは皇室と国体の問題である。 「そもそも、学者はいかなる態度で国体もしくは皇室に関する事柄を究めようとするのであるか。こと皇室に関する解釈は一見明白のようだが、実は国民年来の疑問であって、しかも、この疑問がいつも曖昧のうちに葬られている」、だから、分っているようではっきりと分らないのが皇室と国体問題だというのだ。  これは今度の紛争の中核に逼《せま》っている。皇室の問題が明確にならない以上、議論はその周囲を堂々めぐりするだけである。これまで発表された諸新聞の論説や諸家の意見は、いずれもムイアヘッドの思想は学問上のことであるから、その引例を咎めて文部省が干渉するのは学問の圧迫だと云っている。しかし、それでは問題の徹底した解決にならない。この「分っているようで分らない」点こそ、まず、学者たちが明確にさせるべきだろう、と文科大学生たちは云うのだ。  しかも、石井たちは、この問題について、「今にしてこのような疑問を解決しなければ、このような不祥な現象は今後も跡を絶つまい」とし、「学者たちが黙々と見て見ぬ振りをしているのは忠良の臣義を尽さないと同じである」と非難している。  この学者とは、いうまでもなく東京帝国大学の教授たちを指している。単に文科大学の教授だけでなく、憲法学者たちに、その鋭利な矛先《ほこさき》を向けている。  工藤雄三は、さすがに帝国大学学生だと思った。この中心問題からことさらに身を避けている狡猾な教授たちに刃を突きつけている。これまで文部省を攻撃する諸説が多くの言辞をつかい、皇室問題をぼかしているのに対して、これは、直接に問うている。それだけに迫力があった。  そこには、未だに頬被《ほおかぶ》りで沈黙を守る帝国大学教授たちの姿がありありと写し出されている。工藤は、奥宮健之の話を思い出した。帝国大学教授たちがそれぞれ各省の役人を兼務していたところに、彼らの二重人格がある。もの云えば唇寒しの用心深さからだけではなく、帝国政府の能吏としての性格が、この問題に沈黙をさせている。  小山東助、石井波平などが、この教授たちの沈黙を奇怪なこととして追及しているのは痛快なことといわなければならぬ。今度の哲学館事件で、これほど簡明に相手の弱点に肉薄したものがあったろうか。皇室と国体のことは国民のいつも迷うところで、それをはっきり解明して教えるところが学者の任務だと、この学生たちはいうのである。  下宿のおばさんから聞くと、彼の留守に来た二人づれのうち一人は新顔だったという。この文章には工藤の知らない名前が二人ほど加わっているので、新顔というのは、あるいは、その一人かもしれない。  だが、いずれにしても小山たちが堂々と本名でこれを発表したところに普通でない決意が見えるようであった。  工藤はまたしても、新聞で報道された、近日、文科大学の学生が哲学館問題で何らかの動きを見せるかもしれぬ、という観測を思い出した。  すると、彼の眼には、東京帝国大学の校庭の隅や、彼らの下宿の部屋で、ひそひそと話合っている人数が泛《うか》びあがってくるのだった。その中には、先日見た石井や小山、高橋などの顔が中心に坐っている。  工藤は毎日のように、その新聞を売っている店に買いに行った。文科大学生の公開質問に対し、帝国大学教授のだれかが回答を発表しているのではないかと思ったからだ。 「書生さん、そんなに毎日のように新聞を買いにくるなら、いっそのこと月ぎめでとって下さいよ」  と、新聞店のおやじが云うようになった。 「ええ、そのうちに」  工藤は一枚ずつを買ってくる。記事は一向に出なかった。だが、毎朝期待した。  十日ほど経った朝のことである。彼は「哲学館事件の問題の所在に就て」という活字を眼にした。横には「文科大学第三年生諸氏の公開書を読む」としてある。  見ただけではかなりの長文だが、「局外中立生」と匿名になっていた。工藤は、その新聞をふところに入れ、駆けるように下宿に戻ると、一字も逃さないように読んだ。 「……果せるかな、文科大学哲学科第三年生諸氏は、一大民衆の師表たるべき当今学者、教育家は何故に黙々として拱手《きようしゆ》傍観の態度を取れるか、と絶叫するに至れり」  という文句から、新聞半分くらいを潰していた。  工藤はひと通り眼を走らせた。「学生諸氏の根本的設定は大なる誤謬を包含するものにして」とか、「こは全く教育行政上の問題にして学理上の問題には非ず」とかいう文句がちらつくだけで、まだ論旨がはっきりと呑みこめなかった。心が急《せ》いているからである。  だが、読みかえしてみて、ようやく、次のような要旨だと分った。 「局外中立生」は、こう云っている。 「文部省が哲学館の認可取消しを命じた真因は、ムイアヘッドの引例を批評せず、抹殺せず、そのままに教授した罪にあると推定される。しかし、認可取消しの理由は、被害者である中島氏の推定よりも、むしろ処分者である文部当局の証言によって明確にされるもので、それによれば、ム氏の論理の評価よりも、中島氏の教授法に対する行政処分であった。  そもそも、いかなる態度をもって国体[#「国体」に傍点]もしくは皇室に関する事理を究めるべきか[#「皇室に関する事理を究めるべきか」に傍点]との疑問を解くのは、いつの世にあっても切実なことで、これを曖昧の中からひき出して解決するのは、まさに学者の尽すべき責任ではある。しかしながら、大問題の解決と、今回の哲学館の事件とは何らの直接的関係を持っていないのである。だから、この問題を解かなければ哲学館問題も解けないと考えるのは当らない。このような大問題には、特に慎重な態度と公平な熟慮とをもって臨み、十分な時日を費やして断案を下すべきである。  およそ、社会の事件はさまざまな方面に関係を持っている。哲学館事件のごときは一面教育行政上の問題であるが、一面には学説上の問題にも関係している。だが、論者は往々、その間の区別を誤るもので、今度学生諸氏の公開書のごときはまた両者を混同している。両者の混同は、かえって問題の解決を難儀にしているとも思われる。このようなことは無駄な討論であり、また学理研究の独立をもかえってさまたげるものだ。自分は文科大学哲学科三年生諸氏の壮意に対して満幅の同情を表すると共に、その将来の公正を誤ることのないように願うものである」  匿名だからだれが書いたか分らないにしても、工藤でさえ、それが文部省側の人間の文章だとは気がつく。  これは、回答のようにみえて回答になっていない。第一、国体と皇室に関する事理は切実な問題だが、これは重要な課題であるからいま急いでこれを結論する必要はなく、先に延ばしても遅くはない、と論じている。中心の問題点をすらりとかわしているのである。  工藤は、つづいて文科大学生の反論が出るものと思った。このような狡《ずる》い回答では彼らを納得させることはできない。かえって憤激しているに違いない。いまにも自分の下宿に、あの三人が押しかけて来て、この「局外中立生」の論を中心に激昂するであろうと思っていた。  だが、どうしたわけか、あの連中の顔は見えなかった。しかし、数日後の新聞には、「局外中立生」の論に対して横槍をつけている記事が見えた。井上|虎蔵《とらぞう》という人の署名である。 「……局外中立生の云うように、哲学館認可取消しの理由が教科書の引例を抹殺しなかったことの倫理教授上の過失にあるにしても、この過失に対する文部省の処分が、学説問題に少しも関係のない教育行政上の問題とだけみることは妥当でない。学校の設備不完全とか、法令違反とかいう理由なら、だれでもその教育行政上の問題とするに異議がないであろうが、倫理教授上引例の不穏当ということになれば、それは学説上のことに無関係とは云えなくなるのである。すなわち、引例は学説に付随したものであるから、学説が主で引例は従である。学説が本で引例は末である。その引例を罪したのだから、本末顛倒も甚だしい。この場合、文部省は、何故に引例以上にその学説を罰しなかったのか。  また、局外中立生は、皇室と国体に関する事理を究めるのは学者の尽すべき責任であるけれども、このことと哲学館事件とは何らの関係がないと云っている。けれども、噂の伝えるところでは、数学専門の文部大臣菊池大麓氏が倫理学説の何たるを知らず、一も二もなく弑逆[#「弑逆」に傍点]の文字に慄《ふる》えあがり、後日の咎めを恐れて、この過酷な処分を決行したということである。これすなわち、国体と皇室に対する学説が曖昧なるがゆえである。そのために哲学館も奇禍を蒙り、中島氏もまた不祥の冤罪を被ったのだ。それでもなお、この根本問題の解釈は緊急でないといえるであろうか。  ところが、文科大学生が指摘しているように、哲学、倫理学の学者をもって自任している文科大学教授、文学博士は、一人としてまだこの問題について意見を公表していない。思うに、これは教授たちが文部省や宮内省のご機嫌を損ぜんことを恐れているためであろう。文科大学生たちが憤激しているのは尤《もつと》もなことである」  これに対して「局外中立生」は三日後の新聞に回答を載せた。「井上虎蔵君の疑惑を解く」という標題である。 「……余が前回に主張したことは、今回の事件は単なる教育行政上の処分であって、いささかも学問が迫害されたのではないという主旨である。また、行政処分は、たとえ倫理学説に対して少しも見識を持っていない役人でも、これをなし得ると云ったのではないから、この点については答える必要はないようである。  余が前回に主張した学問の独立とは、学問は一切無頓着に全然勝手な論をしていいということではなく、真理の研究をその本領とするがために、確信したところを発揚して独立の地歩を占むべきだという意味である。言い換えると、上に恐れるところがあって真理を枉《ま》げるのも、下に阿《おも》ねるところがあって真理を蔽《おお》うのも、共に学問の独立を害するのである。不純な動機に基づく論争、一時の感情に迷える臆測、また一身の私憤に駆られての主張のごときは、また同じ意味で学問の独立を害するのである。したがって、今回の事件は文部省の教育行政上の処分問題であるから、それだけに限定して論ずべきである。これすなわち学問の独立を傷つけざるゆえんである」  また三日後、井上虎蔵の名による反駁。 「哲学館事件に関し局外中立生と号する覆面の一学者が、この事件をもって単なる教育行政上の問題であると論じたに対し、筆者もさきに少しく問うところがあったが、局外生は、これをもって筆者の臆測に出づる疑惑なりとして弁解の文を公にした。局外生みずからの解釈によれば、哲学館事件は単なる教育行政上の処分であって、毫《ごう》も学説が処罰もしくは迫害せられたのではないと言っている。氏の言葉は前後に矛盾するところがあるが、瑣末の点はしばらく措くも、哲学館事件は果して匿名氏の言うがごとく学説が処罰もしくは迫害せられたのでないと断言できるだろうか。  岡田局長代理が注意して十分な批評を加うるべきはずなのに、という言葉から察すれば、いかにも文部省はムイアヘッドの動機説以上に或る標準説を持っているがごとくみえる。筆者は寡聞にして未だ御用倫理説の確定したことを知らない。われわれはさし当り、幾何教科書の製造家として有名な菊池文部大臣、ジャネーの倫理学を翻訳して倫理教科書を造った岡田総務長官、少なくとも井上博士に最も関係深い一文学士と噂される局外中立生君のこれに関する高評を聞きたいと切望するものである。  また局外氏は、この処罰に相当するものとして「わが国体に照らせば、すぐに何らかの疑義が生じなければならない引例に対して、教師も生徒もこれに注意しないで過ぎ去ったとすれば、その教授法をもって粗雑千万と言わざるを得ない」と『教育界』の社説を引用しているが、何とかして私立学校の欠点をさぐり、文部省の長官の恩賞にあずからんとする文部探偵吏、曲学阿世の御用学者、もしくは悪徳|書肆《しよし》に頤使《いし》せられる堕落文士でない限り、いやしくも常識ある日本臣民としては、万世一系のわが国体に対照して、このような引例を幾百千するとも何らの疑義を生ずることもなく、第一、これをわが国体に対照する必要はないのである。何となれば、弑逆の文字のごときはことごとしく否定するまでもなく犯すべからざる大逆罪なることは、忠良なる国民一般に公認せられているところであるからだ。外国の事例をわが国体に対照して何事か疑義を生ぜざるべからずというのは、彼らの心中すでに忠良なる臣民である信念を欠乏しているからである。哲学館の教師や生徒が、この引例をあえて問題にしなかったのは、彼らがかえって忠良な日本臣民であったことを証明する。その引例をもって強いて疑惑を起さしめ、日本国民に一点不安の念を抱かしたのはかえって文部省である。咎むべきでないものを咎め、罪すべきでない学問を罪した文部省官吏こそ大なる罪悪があるといわなければならない」  言辞、皇室に対する恭謙に満ちているが、文章の装飾である。  二日おいて、いよいよ文科大学哲学科三年生の前回同様な五人連名による質問状が掲げられた。 「われわれはさきに哲学館事件に関して学者諸賢の回答を促したのに、十日遅れてなお注意すべき反響を聞かず、胸中秘かに遺憾としていたところ、たまたま局外中立生君が出てわれわれの所見を論評したことは大いに喜ぶところであるが、その見解は表面の上にとどまって、その根底に横たわっている重要問題を無視しているのを見て失望した。  局外生君の主張は要するに、この事件の真の問題は学理上の問題ではないから、学者の沈黙を責めるのは不当であるということらしい。  そもそも、教育行政上の問題として咎めたのは、哲学館の中島講師がムイアヘッドの説の引例を批評せず抹殺せず、特に、その甚だ不都合なことを注意しなかったとされている。それなら、さらに問いたい。書中の引例を何故に大不都合と断ずべきか。また、これを批評せず抹殺しなかったことが何故に罪せられるに値するのか。多分文部当局は、これは国体に合わない危険な説であると判断したからであろう。しかし、それがどうして危険であるか、文部省官僚の聡明を信頼する国民は、必ずやその理由とするところを聞きたいと欲しているであろう。  事件の根底は、すでに学理の問題である。局外生君は、国体問題に関する学者の態度をもって、このような大問題は十分の時日を要してのち初めて断案を下すべきだと説いている。しかし、今回のように一つの疑問を生じると、ひいては、百疑が生じるのであるから、ことが大問題であればあるほど学者諸賢の早急な判断を国民は聞きたいと欲している。いま、学者、教育家を促して回答を求める理由は、また実にここにあるのである。局外中立生君は、察するところ少壮有為の学者のように想像される。君が問題の所在を究明して事件の解決に一歩を進めんと試みられたのは、われわれの大いに欣《よろこ》びとするところである。願わくは、問題の根源にさらに立入って皇室[#「問題の根源にさらに立入って皇室」に傍点]、国体観[#「国体観」に傍点]について明確な考えを明らかにして欲しいものである。  ただ、この種の問題に関して匿名を用いるのは、断じて責任の所在を明らかにし言論を有効ならしめるゆえんではない。われらは再び論壇に局外生君を見るとき、その覆面を脱いで現われることを切に望み、且つ、信ずるものである。   三月二十三日 文科大学哲学科 第三年生 [#地付き]石井波平 小山東助 高橋正熊 滝村斐男 三沢糾」   帝国大学教授論(二)[#「帝国大学教授論(二)」はゴシック体]  各新聞紙上の哲学館事件論争ははてしなくつづいている。  小山東助らの論文を読んで、彼らが何を考えているか、工藤雄三にもおぼろに分る。小山らは、東京帝国大学教授たちがあえて沈黙しているのは、ことが皇室と国体の本質に介入しそうだから、忌避しているのだと解釈している。なぜに沈黙するや、との攻撃は、帝国大学教授のだれを指しているのかはよく分らない。私学出の工藤は、その間の事情に不案内である。しかし、彼らが表面に引張り出そうと試みているのは、憲法学者や歴史学者などであろう。彼らの口から、日本の皇室と国体の本質を学問的に明確に吐かせようという魂胆だとは分る。  もちろん、それが不可能だとは小山たちも承知しているだろう。もし、学者たちがこの微妙な問題にふれるつもりがあれば、はじめから哲学館事件にたずさわって意見を発表するはずだった。ムイアヘッドの倫理学の引例問題は、官学の教授たちの足もとに爆弾を投じたようなものかもしれなかった。  小山東助らは、新聞の公開質問状といい、また、この前工藤の下宿にきて語ったことといい、思想的には日本の社会制度に疑問を持っている一派らしい。工藤は、この前会った奥宮健之の考え方に彼らもかなり近いのではないかと思った。  論争には、突然「局外中立生」なる覆面が現われて、文部省側の代弁をつとめ、文科大学生の抗議をたしなめた。また、これも飛び込みの井上虎蔵という人の書いたものでは、局外中立生は、どうやら文科大学長井上哲次郎の直系の弟子らしい。小山らは、局外中立生にして、もし次の機会に論壇にまみえることがあれば、その覆面を脱ぎ去るべし、と追及している。  このおさまりはどういうことになるのか。いま少し時日をかけなければ落着はつくまい。論戦はまだまだ終りそうになかった。  工藤は、またしても自分の教員免状の行末が気になってきた。  そうだ、隈本さんは、もう洋行の時期が切迫しているに違いない。この前会ったときは甚だ頼りない口ぶりだったが、あるいは、自分のことをあとの人にしっかり頼んでくれているかもしれない。この前遇ったときは失望的な印象だったが、それはこちらの思いすごしかも分らぬ。  工藤は九州の貧農の生れだ。まず、生活が第一だった。自分のことから端を発して哲学館事件は天下の問題になったが、それとこれとは別ものだと強いて自分に云い聞かせた。新聞の議論は議論、まず、おのれの身を立てるようにしなければならぬ。  あれから相当日にちが経っている。隈本の洋行出発も間近いに違いなかった。  工藤は、何か餞別を持って行かなければと思った。だが、相手が隈本だから僅かなものでは失礼に当りそうである。それに、この餞別には、自分のことをあとまでお願いする意味もこめなければならない。  財布には五円六十銭しかなかった。工藤は、このうち二円をはたこうかと思ったが、いくら何でも二円では買えるようなものはなかった。彼は部屋の中を見まわした。机の引出しを見たが、これというものがない。脇には本が積んであるが、こんなものではいくらの金にもならなかった。  工藤は腕時計をはずした。これでも書籍の入質よりは金になりそうである。  ゆきつけの質屋に入ると、先客の中年女が着物を真ん中に置いて番頭とやり合っていた。その長い交渉を工藤はうしろに立って聞いていたが、番頭も容易には妥協しなかった。彼は心細くなった。 「まあ、二円がせいぜいですな」  工藤の番がきて、顔の長い、薄い頭の番頭が銀側の腕時計を指先でひねりまわしながら云った。 「二円とは安いな。番頭さん、三円ほど出して下さいよ。決して迷惑はかけないから」  工藤は頼んだ。 「二円でも奮発するほうですよ、学生さん。よその店だったら、一円だってあぶないや」 「実は、恩人が洋行するのでね、何とかして餞別を上げたいんだ。頼むから、三円貸してほしい」 「本当ですかい」  番頭は、鈍い眼でじろりと工藤を見上げたが、 「ま、仕方がありませんや。その代り、流さないで下さいよ」  と、台の上に一円銀貨二枚と五十銭玉をならべた。 「もう五十銭は駄目かい?」  番頭は、それには黙って首を振ったが、工藤が格子戸を開けて出るとき、 「学生さん、そいつで色街に行くんじゃありませんぜ」  と、声を投げた。  工藤は、途中で熨斗袋《のしぶくろ》を買い、それに三円を入れて、隈本有尚の家に行った。  家の中は静かだった。奥さんが玄関に出てきた。 「おや、工藤さん」  奥さんはそこにぺたりと坐った。工藤は変だと思った。奥さんが膝を折るのは主人に取次ぐ気持がないからである。家の中がいやに森閑としていた。工藤ははっとした。 「先生はいらっしゃいますか?」 「あら、工藤さん、ご存じなかったの?」  と、奥さんは眼を瞠《みは》った。奥さんには博多弁の訛《なまり》がある。 「と、おっしゃると?」 「主人は、一週間前に横浜から船で外国に出発しましたよ」  工藤は突き飛ばされたようになった。 「それはちっとも存じませんでした」 「そう。それは悪かったですね。なにしろ、急いでの出張でしょ。ほうぼうにお報《しら》せする日にちがありませんでした。きっと工藤さんのほうも通知が洩れたのだと思いますよ」 「はあ……」  工藤は肩を落した。 「ご免さない。でも、工藤さんだけじゃありません。どうしてもお報せしなければならない先にずいぶん失礼してますの。折角でしたね」 「はあ、いえ、ぼくこそお見送りできないで失礼をいたしました。先生、お元気でご出発でしたか」  と、工藤は味気ない気持で云った。 「おかげさまで。なにぶん、初めての洋行でしょ。そりゃ、てんてこまいでしたよ。あなたのように出発をご存じないで、あとから訪ねてみえた方もずいぶん多うございました」  工藤には、それが奥さんの慰めとしか聞えなかった。 「あの、失礼なことを伺いますけれど」工藤は思い切って訊いた。「先生からぼくに、何か言づてのようなものでも置かれてないでしょうか?」  出発の日さえ報せない相手が、そんなものを置くはずはないとは思いながらも、未練があった。 「いいえ、わたくしは聞いてませんけれど……」  奥さんは、やっぱり、そう答えた。 「何かお急ぎのことがあったんでしょうか?」  奥さんは工藤の顔色に気づいて訊いた。 「いいえ、それほどでもないんです……」  工藤は、ふところに入れた餞別の熨斗袋を出しかねた。当人が出発したあととあれば間の抜けたことである。それに、いまいましくもなった。 「では、また、先生がお帰りになったころに伺います」  工藤は、隈本の家を逃げるように出た。  やはりこっちが甘かったと思った。隈本は完全に彼から逃げ去ったのである。騙《だま》されたという口惜しさだけがこみ上がってきた。むろん、工藤の世話について後事を託すと云ったのも口から出まかせだった。隈本はもう工藤のことなど塵《ちり》ほどにも考えてなかったのだ。  隈本有尚は逃亡した。哲学館のことで文部省に対する非難が沸騰したので、彼は国外に逃竄《とうざん》したのだ。それを計らったのが文部省である。隈本を逃がしたのも、彼のためを考えたというよりも、文部省自身のための処置だった。  卑劣だと罵ったところで、いまさら詮ないことだった。恃《たの》みにならないことは、この前訪問したときにすでに分っていたはずだ。それをアテにして来たのが腑抜けだったのだ。工藤は朴歯《ほおば》の下駄を脱いで思い切り溝に叩きこみたかった。袂《たもと》の熨斗袋《のしぶくろ》に気がついた。腕時計を質においてまで金を作ったのがいまいましかった。こんな金は下駄といっしょにどぶに叩きこんでもいい。  工藤の横を通行人が流れた。人力車も走っている。その悉《ことごと》くが冷たい人間に見えた。  一体、おれはどうなるのだ。いまさら郷里《くに》に帰ることもできなかった。といって、東京にいても先の方針は立ちそうにない。  ふと、吉原の女が眼の前に泛《うか》んだ。いまは、そういう場所しかこの気持を癒《いや》すところはなさそうだった。袂の三円がそのためにあるような気がした。  彼は穏田《おんでん》に足を向けようとした。あれ以来、米村は顔を見せない。はじめて手引きしてくれた彼を誘わないと、吉原に行く勇気も出なかった。だが、その足も途中で止った。  この前は全部米村の奢りだった。今度行けば、彼のぶんまで持たなければならない。それだけの余裕はなかった。  このとき不意に泛んだのが、水道端の汚ない家にうずくまっている奥宮だった。吉原の帰りにいっしょになった縁故が、妙に彼を懐かしくさせた。いまはだれかに逢い、だれかと話をしなければやりきれない気持だった。うす気味悪い男だと思い、もう二度と水道端には行かないつもりだったのに、このときは気持が変っていた。  あの男の元気のいい話を聞いたら、さぞ胸が晴れるに違いない。だらしない男だが、妙に人のいいところがある。現在《いま》の工藤は、すでに水道端よりほかに行く場所がなかった。  足の向きを変えて、この前おぼえた道を行った。近所まできて酒屋で一升徳利を求めた。たとえ奥宮が留守でも隣に預けて帰るつもりだった。  裏長屋の溝板《どぶいた》を踏んで彼の家の前に立った。相手は風来坊のことだし、留守だろうと半分は覚悟していたが、入口が開いていて、暗い土間には三足の下駄が脱がれているのが見える。狭い家だから、戸口に立っただけで、中の声が聞えた。  奥宮の笑いがすぐそこにあった。  奥宮の声で、 「だれかよ?」  と、破れ障子越しに訊いた。 「ぼくです。工藤雄三です」 「工藤? おう、哲学館か」  と、畳から起ち上がる気配がした。 「先生、工藤君ならぼくも知っています。ぼくが出ます」  という若々しい声がしたので、工藤は、おやと思った。それが小山東助だったと気づいたとき反歯《そつぱ》の顔が障子の間からのぞいた。 「工藤君か」小山は笑った。「思わぬところで遇ったな」 「やあ」  工藤も呆気《あつけ》にとられた。まさか小山東助が奥宮のところに来ていようとは思いもよらなかった。 「先生が上がれとおっしゃってる。さあ、遠慮はいらないから入りたまえ」  工藤が下駄を脱いで座敷に上がると、奥宮は正面にあぐらをかいていて、 「よう来たな。まさか君たちが知り合いとはぼくも知らなんだ」  と云った。三人は火鉢を囲んでいた。  小山の坐っていた横に、同じくらいの学生が膝を揃えていた。色の白い、おとなしそうな青年だった。もちろん、同じ東京帝国大学文科大学生に違いない。先方から工藤に黙礼した。この前、小山といっしょに来た顔ではなかった。 「工藤君、紹介しよう」と、小山がその場所にあぐらをかいて云った。「友人の吉野という男だ。こいつは法科だがね。つい先日いっしょに行ったが、君は留守だった」  下宿のおばさんが新しい顔が来たと云ったのは、この人だったのかと、工藤は合点した。 「ぼく、吉野作造といいます。先日は失敬しました」  と、その学生は丁寧に挨拶した。言葉に、東北の訛があった。 「いや、ぼくこそ留守にしてすみませんでした」  工藤は云った。奥宮が笑って、 「そりゃ、ぼくといっしょだったときじゃないかよ? 工藤君とぼくは某所で浩然《こうぜん》の気を養うちょったからの」  と、無遠慮に云った。工藤は少しあわてて、 「先生、これを」  と持ってきた徳利を持ちあげた。 「やあ、そりゃ、まこと、すまん。好物、好物」  と眼を細めた。 「工藤君、その辺に湯呑でも茶碗でもあるきに、四つほど持ってきてたもれ。面倒じゃきに、冷《ひや》でいこぜよ」  工藤は裏の台所に行った。さぞ汚ないに違いないと思ったが、案外なことにきれいに片づいていた。ひとり暮しの奥宮には、こういう面の潔癖があるらしかった。その代り器はおそろしく数がなかった。  湯呑二つに茶碗一つを持って戻り、まず茶碗を奥宮の前に置いた。そのとき、小山たちの前に一冊の本がひろげてあった。どういう題名だか分らないが、先ほどから、この本を中心に奥宮と小山たちとの間に話が交わされているようだった。工藤は、小山と吉野という男の前に湯呑を置いた。 「工藤君、君のはどうした?」 「いいえ、ぼくは駄目ですから」 「ああ、そうだったな。話せない男じゃ」  工藤が奥宮の茶碗に酒をつぎ、次に小山の湯呑にもついだが、吉野という男は、 「ぼくも駄目ですから」  と、辞退した。落ちついた男だな、と工藤は思った。 「おや、君も飲めないのか?」  奥宮が吉野に顔を向けた。 「はあ、どうも」  小山が代って、 「吉野君はクリスチャンですよ」  といった。吉野は苦笑していた。 「なに、君はキリスト教徒か?」 「いいえ、そういうわけではありませんが、やはり下戸なものですから……」 「ま、飲めないなら仕方がないきに、小山君、二人でちくといこぜよ」  と、茶碗を取上げた。 「しかし、工藤君、まったく奇遇だな」  と、小山が湯呑の酒を一口飲んでから横を見た。 「まさか君が奥宮先生のところに来ていようとは思わなかった」 「いや、それはこちらも同じだ。おどろいたよ。いつから?」 「実は、今日が初めてなんだ」 「初めて?」 「先生に少し教わりたいことがあってな。ぼくらはいま社会主義を勉強しようと思ってるんだが、日本にはまだいい本がない。大学でも、社会主義を説明してくれる教授もいないでな。文科では中島力造先生くらいなものだ。坪井九馬三《つぼいくまぞう》先生の講義では、少しばかりバクーニンとクロポトキンが聴けるが、靴を隔てて痒《かゆ》きを掻くような話で、どうもぴんとこない。そこで、今日は奥宮先生から、ぜひとも突っ込んだお話を聞かしていただきたいと思って、押しかけてきたのだ」 「そうか」  と云ったが、工藤には、バクーニンが何だか、クロポトキンがどういう人物だか、よく分らなかった。 「君も、そういう疑問を持って先生のところに来ているのか?」  と、小山が訊いたので、工藤は、 「いや、ぼくは違う」  と、小さな声で否定した。工藤は、彼らの世界と自分とに大きな懸隔が感じられ、ひけめを覚えた。 「工藤君は別な社会学じゃ。彼は娼妓廃止問題のほうじゃけんの」  と、奥宮が大声で笑ったので、工藤は赧《あか》くなった。  奥宮健之が、工藤君は吉原の廃娼運動の組だ、と云ったのを小山東助が聞いて、 「ほほう、君も吉原に下宿組ですか?」  と、眼をそばだてた。 「いや、そんなのじゃない」  と、工藤は手を振り、奥宮先生の冗談だ、とあわてて付け加えた。その奥宮は、冷酒を茶碗で飲みながら乱杭歯《らんぐいば》で笑っている。工藤は、彼が吉原の大門外でひどい目に遭いそうなのを助けてやったのに、ひどいことを云う人だと思った。 「いや、吉原に通うというのは少々頼もしいですな」と、小山は東北訛で云った。「なあ、吉野、そうじゃないか」  吉野作造という学生は眉を微《かす》かに寄せてうつ向いた。 「ははは、この男はピューリタンだから、こういう柔らかい話は一切受付けないですよ。それに女房も子もあるんですから、ちょいとわれらと世界が違います」 「小山、よさないか」  吉野が少しあわてたように止めた。 「ほほう、吉野君は、そんなに早く結婚したのか?」  奥宮が眼をむいた。 「仙台の二高卒業前に結婚をしましてね、もう、女の子がいるんですよ、千駄木《せんだぎ》あたりの借家に一戸を構えて、落ちついたものです。本郷教会は目の先だし、どう考えても品行方正にならないはずはありません……」  少し酒の酔いが回ったか、小山東助がべらべらしゃべりかけるのを、吉野は、 「小山」  と止めたが、 「まあ、君、ええじゃないか」  と、奥宮健之は面白そうにしていた。  工藤は、吉野の白い顔を改めて見た。すでに女房、子があるというのは意外だったが、なるほど、そのせいか落ちついているし、小山と違って勉強家にみえた。 「吉野君の前では色街の話は禁句です。なにしろ、子供を膝に抱えては本を読み、眼があいていれば勉強しているという学究の徒ですから」  小山がなおもつづけた。 「小山、もういいかげんにしろ」  と、吉野が少々むっとして云うと、 「やあ、失敬。つい、君を引合いに出したが、工藤君の吉原の話から思い出したことがあってな。先生、こいつの一級上にえらい豪傑がいましてね。この男、加賀の金沢の出身ですが、美男子のせいか、女子《おなご》にはひどくもてる。それでいて頭はいいときてるから、大したもんです。吉原に流連《いつづけ》して、学校にも女郎屋から通ったものです。これが半分は女の身上りというから、われわれには嘘みたいな話です」 「それは大した男だ」奥宮が聞き惚れて、「それで成績はどうなんだな?」 「必ず時計を貰いますよ」 「ほう、銀時計組かよ?」 「在学中は特待生というから、出来が違います。それに色男ときてますから、途方もないやつですな。名前は上杉慎吉といいますが、ことし、政治学科を卒業と同時に法科大学助教授に任命され、行政法を担当するはずです」 「そりゃ、また、ど偉いやつがいたものじゃ。だが、小山君、その上杉君というのは、だれか教授のヒキでもあるのだろう?」 「おっしゃる通り、穂積|八束《やつか》先生のお気に入りです」 「なに、穂積八束?」 「ご存じですか?」 「会うたことはないが、同じ四国の人じゃきにの。穂積は伊予の宇和島、わしが高知じゃ」 「あ、なるほど、同じ四国でしたね」 「穂積の父親|重樹《しげき》は藩士で、兄が陳重《のぶしげ》、弟が八束、どちらも東京帝国大学教授じゃきに、相応な出世じゃな。そうか、その色男、八束の愛弟子《まなでし》か」 「法科大学生だが、この吉野とはだいぶ出来が違います」 「八束の弟子なら、どうせ先行きは神がかりな憲法法律論でも受継ぐのじゃろう。まだ兄貴の陳重のほうがましかもしれんがの。たしか陳重は最近、本を出したと聞いちょるが、あれ、何だね?」  と奥宮は吉野に訊いた。 「相続法だと思います」  吉野はぽつりと答えた。 「相続法とはまた、あの男にうってつけの論文じゃな」 「なぜです?」  と、小山が訊いた。 「ほれ、陳重の女房は渋沢の娘じゃきにの。渋沢が死んだら財産揉めをせんように、かねがね相続法を研究しちょったのじゃろう」 「ああ、そのことですか。先生、この十日ばかり前から、新聞に斬馬剣禅《ざんばけんぜん》という覆面が帝国大学の教授連をあげつらっていますが、こいつが凄く評判になっていますよ。われわれ学生の間には圧倒的な人気です」 「誰ぞ、その覆面は?」 「よく分りませんが、噂では、五来欣造《ごらいきんぞう》という人だそうです。もし、そうだとすると、五来氏は、つい三年ばかり前に帝国大学法科大学を卒業した新進の法学士です。どういうつもりでこういうものを書きはじめたか分りませんが、なかなか穿《うが》っています。丁度、いま話に出た穂積兄弟のことが載っていますから、読んだばかりなのでお話ししましょうか」 「うむ、そりゃ面白そうじゃ」  奥宮健之は聞き耳を立てた。酔いが回ったか、小山東助はいよいよ饒舌となる。吉野作造は苦虫を噛んだような顔をする。  ひとり工藤雄三は話題からはずされて、白々しい気持になっていた。 「これは京都大学との比較になっていますが、横綱|大砲《おおづつ》の位置は疑いもなく穂積陳重博士で、西方の横綱は岡松参太郎というんですが、岡松教授はともかくとして、穂積陳重先生についてはこう書いてあるんです」  小山東助は東北弁丸出しでしゃべりはじめた。 「従《じゆ》四位勲二等法学博士穂積陳重は、明治十五年以来、実に二十年の久しきにわたって法科大学の教鞭をとり、東京帝国大学教頭として、法科大学長として、貴族院議員として、また法典調査会主査委員として声名隆々、実に大学の内外に振うものがある、というのです。以下、うろおぼえのまま、その文章に似せて申しますと、穂積の学問の最も特徴とすべきところは彼の博学多識にあり、彼の儕輩《せいはい》中において彼のごとく広く且つ多く読みたる者なく、美術、文芸、理学、哲学、あらゆる方面に趣味を有し、すべてを理解し玩味し得る資質あり、と書いています」 「それは、また持ち上げたものじゃねや」 「その次が傑作なんですよ。彼が時にその乾燥無味なる法律学研究の書斎より出て、その有名なる夫人歌子を伴い……この歌子が渋沢の娘ですね」 「うむ」 「夫人歌子を伴い観劇の愉しみに耽るがごとき、彼が文章の甚だ流麗なるに似る、というわけです。また、彼の大学の講座は、最も実用に富み、最も地味にして、且つ迂遠《うえん》なる法理学であるが、これ実に大男大砲が鷹揚にして且つ着実なる取口に類するものである、というんですな」 「なるほど」 「また、その次が傑作でしてね。どうも文句が奇抜なので、このくだりだけはよくおぼえています。……ことは近聞に属するが、悪口を以て有名な某東京法科大学教授が、或る日、講義をはじめる前に咳一咳《がいいちがい》して説き出して曰く、余は昨日休暇を利用して梅を大森の八景園にさぐり、帰途、一旗亭に憩い、晩餐を喫す。ときに隣室に私立法律学校の学生らしき者二人あり、喃々《なんなん》としてしきりに法科大学教授連の批評をなす……というわけで、以下、その二人の話となっています」 「うむ、うむ」 「彼らの一人曰く、梅謙次郎は近ごろ民法要義を著わして、その印税で巨万の富をいたし、実に男爵にも劣らざる邸宅を構えて、傲然として学生を引見す。天下学者としてかくのごとき俗物はなしというと、ほかの一人が声に応じて曰く、梅は、それでも自分の労力で今日の富をいたしたもの、べつに咎めることもない、しかれども、かの穂積兄弟に至っては学者にあるまじき富豪の恩沢に衣食し、肥馬軽車を以て白昼大道を闊歩す、これ、俗中の最も俗なる者、というんですね」 「なかなか痛快じゃな」 「ところが、一人が曰く、陳重が大磯の客舎に渋沢の娘歌子夫人と碁を囲んだ挿話あり。陳重は殊更に勝ちを夫人に譲り、例の金歯を現わして微笑して夫人に云う。「お勝ちになりましたな」と」 「そりゃ傑作じゃ」 「弟八束は平生昂然として教場に臨み、常に仙人らしいことを口にしながら、彼の夫人は浅野|総一郎《そういちろう》の娘なれば、馬車を同じゅうして出るも帰るも、その夫人の手を引いて馬車を下らしむるという」 「兄の女房が渋沢の娘で、弟の女房が浅野の娘とは、わが帝国大学も金権に堕ちたものじゃねや。ぼくは穂積兄弟には、腹に据えかねておった」 「教場の八束先生は八字髭《はちのじひげ》をしごき、神韻縹渺《しんいんひようびよう》たる風格を以て鳴っています。これは、この吉野から聞いたのではないのですが、法科大学の一学生が新年明けの初の講義に出かけたのです。まさか今日は講義はないと考えて風呂敷包も持たずに臨んだところ、教壇の八束先生は、それこそ咳一咳して、やおら、「わが帝国憲法は国家の大法にして」と云い出したものです。その学生、あわてて筆記したのはいいが、大法を大砲と書き取ったという笑い話がありますよ。  また斬馬剣禅生の曰く、かくのごとき俗物兄弟を跋扈《ばつこ》せしむる法科大学が決して人物を出すべからざる蓋《けだ》し自然の数のみ。且つ彼穂積陳重は、外面《げめん》親切にして内はすなわち隠忍、よく学生の礼の仕方によって点数を区別し、学生ひとたび彼のために睨まるるや、恰《あたか》も蝮《まむし》に狙われたるがごとく畢生《ひつせい》浮ぶ瀬なしと称す。けだし穂積が自家の勢力の官省の各方面に瀰漫《びまん》せるを利用し、いたるところでその人の通路を妨害せずんばやまぬ。思うに彼は御殿女中……というところまで学生の話を聞いた隣室の某教授は、たまりかねて襖をあけたところ、学生は某教授の顔を見て驚愕措くところを知らず、片手を頭上に当てて狼狽|頗《すこぶ》る笑うべきものありき、というわけです。もちろん、某教授などというのは作りごとで、斬馬剣禅の筆の戯れでしょう」 「しかし、君、なかなか穿ったことを書いちょるな」 「それから……」 「もう、よしたまえ」  と、吉野が止めるのを、小山は、 「なに、もうちょっとだ。これを云わんと画竜点睛《がりようてんせい》を欠く」  と、手をふり切った。奥宮はまた陶然として話のつづきを催促するかのようだった。  小山の次の話というのはこうである。  穂積陳重は、かつて東洋学会委員として学会に出席するため坪井九馬三教授とローマに着いた。金のある穂積は、早速市内で有名なホテルに入ったが、なお安心が出来ずに、直ぐに日本公使館に行き、自分は今日こういうホテルに泊ったが、まだ、この地の事情が分らないので、あるいは日本帝国の代表者として体面を穢すようなホテルではないかと危惧するので教示を願いたいと、その辞、甚だ慇懃《いんぎん》であった。  磊落《らいらく》でかつ皮肉な坪井は、ポケットの中に両手をつっこんで、早口でその穂積をひやかし、君はあのホテルに入ったのか、なるほど、金持の君でなければ出来ないことだ。だが、ぼくなんかは貧乏でホテルに泊る余裕がない。自分が泊ったのは某街の八百屋の向うの下宿屋であると、あたりを見回し、ヒヒヒヒと笑った。  温厚な穂積は黙って一言も発しなかったが、それからというものは大いに坪井に含むところがあり、滞在中、常に両者は円滑を欠いたという。また、一日、ローマ滞留の日本人が博士二人のために歓迎会を催した。ところが、その中にたまたま留学中の岡田|朝太郎《あさたろう》博士がいて、彼にとって穂積は恩師であるから、いろいろと斡旋した。それを見た坪井は傍《かたわ》らで、「岡田君、だいぶ摺《す》っているね」と云った。ゴマを摺ってるな、という意味である。  いかに下情に通じない穂積でもこれは分る。彼は色をなして、「坪井君、摺ってるとは何です?」と詰め寄ったところ、坪井は、「何でもいいさ」と一言残してその場を去った。…… 「……これ実に貴族的なる穂積と、平民的なる坪井の感情衝突の一幕なり。穂積はかくのごとく虚飾を好み権勢を愛す。その周囲にいわゆる取巻きの一群を見るはけだし自然の勢いだというわけですね。人彼を目するに学園の張本を以てするとも、彼あに何の言葉を以て弁解せんとするぞ、といったあんばいで、なかなか手きびしいですよ」 「それは近ごろ腹の皮のよじれるような記事じゃな」  奥宮は愉快そうに大笑いした。  ——工藤雄三は、こうした帝国大学の噂話には何の興味もなかった。いま小山東助が話すことも彼には雲煙の距離にある茫乎《ぼうこ》たる世界である。穂積教授という名前は聞かぬでもないが、私立学校の師範科を出たにすぎない工藤には、小山や吉野を含めて帝国大学は上層の世界であった。いきおい彼は卑屈な気持に陥る。それが彼を仲間はずれみたいな意識にさせる。  それで、その坪井九馬三の名前から、彼の講義の中にバクーニンとかクロポトキンとかの無政府主義者の名前が出ているという小山の話から、彼らの話題がようやく本論に入っても、工藤には何のことだかよく理解ができない。  小山は云う。法科大学には金井延《かないのぶる》教授が経済学を講じているが、その中でドイツのゾチアリステン・ゲゼッツの話をする。金井教授は社会主義と社会党とは不正不義なものであるという論で、自分たちとしては承服しかねる。まだ文科のほうがその点いくらかましなようだが、それとても金井教授のように全面否定的に社会主義が講じられるだけである。坪井九馬三教授のクロポトキン論も甚だ迂遠《うえん》にして、われらの知りたいところの半ばにも達せぬ。先生の無政府主義観を聞かしてもらいたい。  奥宮は酔眼を据えて語る。  無政府主義は『財産とは何か』のプルードンが始祖となって以来、いろいろな思想家によって唱えられたが、無政府主義には、これといった定説がない。一口にアナーキズムといっても、雑然とした学説や思想が入り乱れて、はっきりとはしておらぬ。それというのが、各人各説で、共通点があまりない。ただ一つ、国家の存在を否認する点だけは一致している。普通には、個人主義的な無政府主義と、共産主義的無政府主義と、宗教的もしくは人道主義的な無政府主義などに大まかに分けられているが、自分が考えているのは社会主義と接合した無政府主義で、いうまでもなく、これはクロポトキンの考えである。したがって、バクーニンなどとは少し違っている。  しかし、これを述べるには、まだまだ諸君にここに通ってもらわなければならない。要するに、個人の自由を束縛する国家権力の否定だが、しかし、現在の国家権力が倒れても、また新しい権力が出来るので、個人の自由は権力によって永遠に束縛されることになる。この点、無政府主義は個人の虚無思想の絶対性につながるが、クロポトキンによれば、個人とても社会と無関係ではあり得ないから、将来の世界は権力階級のない人間相互の信頼感、いわゆる相互扶助の本能のような、人間の社会的本能によって個人の自発性と連帯性とに理想をおかなければならないとする。……  しかし、権力構造は一挙にして破壊されるものではなく、どうしても人民の実力行使によらなければならない。すなわち、暴力的革命が肯定されるわけである。それなら、バクーニンたちの暴力革命と、クロポトキンのそれとはどれだけの逕庭《けいてい》があるかというに……といったことが奥宮の口から滔々《とうとう》と語られるが、工藤雄三にはさっぱり理解ができない。  小山と吉野とは奥宮の話に熱心に聞き入り、ときどき質問したり反論を試みたりしている。工藤は、自分の周囲にだけ、うつろな厚い膜が出来ているようだった。彼はもじもじしていたが、 「では、先生、ぼくはこれでお先に」  と、ようやく話の切れめを見つけて云った。  それを機会《しお》に小山も吉野もいっしょに起ち上がった。いつの間にか部屋の中はうす暗くなっていた。  道路に出ると、小山と吉野とは、奥宮とのいまの話に昂奮した顔つきでいた。工藤は先に云った。 「じゃ、失敬」 「失敬」  小山と吉野とが肩をならべて、先ほどの話のつづきを議論しながら歩いて行くのを、工藤は振り返ってはひとり夕暮の路を歩いた。   七博士の開戦論[#「七博士の開戦論」はゴシック体]  東京帝国大学教授富井政章、戸水《とみず》寛人《ひろんど》、寺尾|亨《とおる》、高橋作衛、中村進午、金井|延《のぶる》、小野塚喜平次の七博士は、桂首相に満洲問題に関する意見書を提出した。世に云う七博士の開戦論である。その内容は次のようになっている。 「およそ天下のことは間髪を入れず、機に乗ずれば、禍を転じて幸いとなるものだが、逆に機を逸すれば、幸いを転じて禍となる。外交問題は特にそのことが強く云える。しかるに、かえりみて七、八年来、極東における外交の事実を察すれば、往々にしてこの機を逸したものがある。遼東《りようとう》還付の際、その割譲の条件を留保しなかったことが実にこの必要の機を逸したものであって、今日の満洲問題を惹起させた原因といわなければならない。のち、ドイツが膠州湾《こうしゆうわん》を取得するや、薄弱な海軍力を以て長日月を費やし、以てわが極東に臨んだ。彼の艦隊は後続の軍力があったわけではなく、また進んで拠るべき基地があったわけではない。この機に乗じてわがほうで正義を以て臨んだなら、彼の欲望はわれの正義に抵抗することは出来なかったに違いない。当時、ドイツが膠州湾に手を下すことが不可能なら、ロシヤもまた容易に旅順、大連《だいれん》の租借を要求することは出来なかったのである。  しかるに、わが国は逡巡なすところなく、遂に彼らをしてその欲望を遂げせしめたのは実に慨嘆の至りにたえない。すなわち、機を逸するの結果大なりというべきである。  北清《ほくしん》事変ののち、諸国が撤兵に際して詳細に満洲の撤兵に関する規定を立てたならば、今日ロシヤをして撤兵に躊躇させる余裕はなかったのである。これまた外交の機を逸したものといわなければならない。  いまや第二回撤兵の機すでに過ぎているのに、ロシヤはなおその実行をみせずにいる。このときに当ってむなしく歳月を経過し、条約の不履行を不問に付して因循姑息《いんじゆんこそく》な政策によって一時を弥縫《びほう》しようとするならば、これ実に千載の好機をのがし、国家の生存を危うくするものといわなければならない。  嗚呼《ああ》、わが国はすでに一度遼東の還付に好機を逸し、再びこれを膠州湾事件に逸し、また三度これを北清事変に逸す。この上、更に失策を重ねようとするのであろうか。今までのことは云うまい。ただ、この上はさらに万全の策を講ぜなければならないのである。  特に注意を要するのは、極東の形勢がようやく危急に逼《せま》っていることである。既往のごとく今日の機会を失えば、遂に日清韓は再び頭を上げる機がなくなるだろう。  今日は実にこれ千載一遇の好機であって、しかも最後の好機であることを自覚しなければならない。もし、この機を失って万世の憂いを遺すようなことになれば、現在の国民は何を以てその祖先に応え、また何を以て後世子孫に顔向けができようか。  いまや露国は次第にその勢力を満洲に扶植《ふしよく》し、鉄道の貫通と、城壁、砲台の建設等によってようやくその基礎を固くし、殊に海上においては盛んに艦隊を集めて、海に陸に強力な勢力を以てわが国を威圧しようとしている。このことは最近の報告でも明らかである。  であるから、一日を延ばせば一日の危急を加えることになる。しかしながら、わずかに喜ぶべきことは、現在、わが軍力が彼と比較してなお些少《さしよう》の勝算のあることである。しかしながら、この状態が保持できるのは僅かこの一年の内のことである(そのことを述べるのは事が軍の機密に関するので、これを略したい)。要するに、現在の好機を失ったならば千載に憂いをのこすということは明白だ。  いまやロシヤはわが国と対抗すべき確たる成算があるわけではない。しかるに、ロシヤのなすところを見れば、あるいは条約を無視し、あるいは馬賊を煽動し、あるいは仮装を以てその兵を朝鮮に入れ、あるいは租借地を本島の要地に得ようと欲していて、まさに傍若無人である。  今日の情勢においてすでにそうだとするならば、他日、彼のロシヤの勢力が極東に強力を集め、絶対勝算に自信を持つに至ると、彼がどういうことをしでかすかは想像にあまりある。  すなわち、ロシヤが満洲に地歩を占めれば、次に朝鮮に勢力を伸ばすことは火を見るがごとく明らかであり、また朝鮮をその勢力の中に入れたとき、次に彼が手を伸ばすのがどこであるかは明々白々である。  したがって、今日、満洲問題を解決しなければ朝鮮は危なく、朝鮮が危なければ日本の防禦は決して望むべくもない。わが国上下の人士が今日においてその地位を自覚し、姑息の策を捨てて、徹底的に満洲問題を解決しなければならないゆえんは実にここにあるのである。  況《いわ》んや、いまやわが国は彼と事を構えても、さきに述べたごとく現在は有利なのである。これ実に天の時を得たものといわなければならない。さらにロシヤを見れば、彼はいまだ確乎たる根拠を極東に完成していない。すなわち、地の利は全くわれにある。さらに云えば、四千万の同胞はみな陰からロシヤの行動を憎んでいる。これ人の和を得たものというべきである。  しかるに、この際政府が決するところなく荏苒《じんぜん》として日を送るならば、これ天の時を失い、地の利を捨て、人の和に背くものであって、地下|祖宗《そそう》の偉業を危うくし、後世子孫の幸福を失うものといわざるを得ない。  あるいは、外交のことは慎重を要するので英米の態度を研究しなければならぬ、またドイツの意向を探知しなければならぬ、という論者がある。まことにその通りである。しかしながら、諸国の態度は大体においてすでに明らかになっている。ドイツ、フランスがわが国に加担しないのは明らかであるが、といってまた、この二国がロシヤのためにその戦列に加わらないということも歴然としている。何となれば、日英同盟の結果として、ロシヤと共に日本を敵とすることは同時に英国を敵とするの決心を要するからである。はるか極東の地のために彼らが敢えてその冒険をするとは思えない。  アメリカのごときは、その目的が満洲の門戸開放にあって、その主権者が清国であるとロシヤであるとを問わず、単に通商上の利益を失わなければ、それで満足なのである。  要するに、満洲問題は朝鮮の利益と関連して論ずる必要はなく、満洲問題は満洲問題として解決することを要する。満洲において些少かつ有名無実の空利を得るために、朝鮮におけるわが国の権利の多大の譲歩をなすがごときは、実に現状より後退して不利の地に追いこまれることになるのほかはない。  これを要するに、吾人は故なくして濫《みだ》りに開戦を主張するものではない。また、吾人の言葉が的中して後世から先覚、予言者との名称を得るのは、国家のためかえって嘆かわしいものと考えている。嗚呼、わが国民は現在千載の好機を失ったなら、遂にわが国の存立を危うくすることを自覚しなければならない。姑息の策に甘んじて徒《いたず》らに日を送ることは、結局、自己の滅亡の運命を待つものにほかならない。故にわれらは、今日の時機において政府が最後の決心をもってこの大問題を解決せよと云うものである」(原文より取意)  この建議書の文章は、六月二十四日の東京朝日新聞に掲載された。  右の七博士のうち戸水寛人は、特に強硬に日露開戦説を前から唱えていた。三月ごろにはすでに早稲田大学の講堂で公然と露国征伐論を演説して当局の忌諱《きき》にふれたが、彼はいたる所でその所信を公言して回った。  この帝国大学で羅馬《ローマ》法を講じる教授は、日露開戦を主張する理由として次のように云う。 「日本の人口は年々に増加して、帝国の面積はこれを収容するに足らなくなってきている。ところが、日本人を海外に移植させようとしても、到る所で排斥されて目的を達することができない。それで、国民の勢力を発展させようとすれば領土を拡張しなければならない。領土を拡張しようとすれば戦争の手段に愬《うつた》えるほかはない」  彼の露国征伐論の前提である。この前提によって露国と開戦する必要を論断して云う。 「韓国は日本がこれを取らなければロシヤが必ず取るであろう。ロシヤが満洲に割拠すれば韓国も自立ができなくなる。それで、日本は満韓二つながらこれを取って日本の勢力のもとに置かなければならない。ロシヤと開戦するのはまことにやむを得ない理由だ」  これより以前戸水寛人は、他の六博士といっしょに一橋の学士館に集まって時局について相談した。そのあと一同で桂首相を総理官邸に訪ねている。このとき富井政章博士は首相に、露国に対して強硬な態度をとれ、と進言した。  桂首相はそれに対して、日露の交渉については当局者が確固不抜の態度をとるであろうから、諸氏はこのことについてご心配なさることはない、と答えている。すると、博士のうちのだれかが、 「ロシヤとは満洲と韓国を交換して妥協してはどうか」  と発言した。首相は、満韓交換は断じて行わない、と答えた。  このことを聞いて戸水寛人以下は喜んだが、桂があまりに無造作にそう云ったので少々不安になった。  そこで重ねて押問答があったが、博士の中の一人が戦争のことに話を移すと、桂はこれを嘲《あざけ》って、 「軍事は軍人のほうに任せてもらいたい。諸氏のご心配はいらない」  と云った。すると、戸水博士が進み出て、 「戦術については自分らは何も知らないが、今日ロシヤと戦わなければ、他日、おそらく臍《ほぞ》を噬《か》むことになるであろう。そのときになって後悔しても及ぶまい」  と云った。  この問答が白熱してきたので、博士の一人がわざと話題を変えた。そのとき桂首相は特に戸水に対《むか》って、 「あなたは近ごろ、どうも帝国大学教授として少し不適当な発言をなさっているようだ」  と、戒しめるような口調で云った。  すると、小野塚博士が桂に同感したように、 「どうも、そんな傾向がありますな」  と云った。小野塚は、このときから戸水博士の過激な態度に同調できない感情を持ったようだった。  折しも首相に来客があったので一同は桂の前を退《さが》ったが、玄関に出ると、博士のうちの一人が「桂は露国に対して強硬な態度をとるように云っていたが、どうだね?」  と云ったので、戸水はすぐに、 「あんな言葉は信用できない」  とそっぽをむいて答えた。  次に七博士は車を連ねて外務大臣官邸に行き、小村寿太郎外相に面会を求めた。しかし小村は、今日は急用があるから面会はできないと断わった。そこで戸水は、では、別な機会に面会をしたい、と申込むと、小村は、 「近ごろは多用であるから、いつ面会するともお答えはできない」  と答えた。  翌日、七博士はまた山県有朋侯を目白台に訪ねたが、山県は不在であった。そこで、邸前の木立のもとで七人は今後のことを相談して別れた。  それから、いよいよ建議書を政府に提出する相談となり、七人で起草者の人選に入ったが、富井政章博士は、 「戸水君が書くと過激な文章になるから、起草者としては適しない。むしろ、これは文章のうまい高橋君に起草を頼んだほうがよかろう」  と云った。一同もこれに賛成したので、高橋博士がその起草を引受けることになった。  高橋博士の起草が出来ると、一同は再び一橋の学士館に集まって、それに少しく訂正を加え、清書をした。六月十日、戸水寛人は、その一通を持って桂首相を訪ねたところ不在だったので、これを玄関番に渡して帰った。  他の一通は小野塚博士が山県侯の邸に持参し、四通は高橋博士が松方(正義《まさよし》)伯、小村外相、山本(権兵衛《ごんのひようえ》)男爵、寺内《てらうち》(正毅《まさたけ》)伯に郵送した。  残りの一通は戸水寛人がこれを手もとに保存した。その文章が前記の東京朝日新聞に掲げられたのである。  しかし、この建議書は、一同の申合せで発表しない建前だったが、いつの間にか、この経緯が世間に知れ渡った。世間ではその建議書の内容がどのようなものか分らず、疑問であった。  ところが、二六新報が六月十六日の新聞でその建議書なるものを掲載した。しかし、これは偽造の文章であった。偽造文は二六新報が承知の上で掲載したのか、あるいは知らずに掲載したのか、そのことはのちまで分っていない。  ところが、この偽造の建議書に関して六月二十一日の東京朝日新聞が猛烈に戸水寛人博士を攻撃した。しかるに、その論調を読んでみると、二六新報の偽造の建議書よりも、むしろ真の建議書を読んだ形跡がある。  これはふしぎなことで、戸水が桂を訪ねたとき、このことは桂と自分との間の秘密にする約束であった。戸水は、それを守って他人に見せたことはなかったのに、いかなるわけか東朝の記者は、その建議書を他から手に入れて読んだらしい。だれかが東朝の記者に流したのである。  大体、建議書の内容は秘密にするということは七博士のかたい申合せだったが、すでに洩れている形跡があるので、戸水、寺尾、高橋の三博士は、かえってこれが好機として、次の会合で建議書の発表を提案した。  このとき戸水は立って、 「建議書の内容が洩れたのは、おそらく桂伯か、あるいは、その周辺の者がそれを人に見せたものと考える。彼らが約を破った以上、わが輩もこれを世間に発表して差支えないものと思う。それに、東京朝日新聞が公然としてわが輩を攻撃した以上は、これを世間に発表しないと、かえって世人の誤解を招くおそれがある」  と発言した。  その是非については一同の間に論議が交わされたが、なかなか決しない。ようやく三日後に、文中の「閣下」とか「惟《おもん》みるに」といった式の先方宛の敬語を除いて、論文体のものの覚え書として発表することに決った。  こうして出されたのが六月二十四日の東京朝日新聞の掲載記事である。この記事は世間に衝撃を与えた。しかし、新聞紙上に掲載された日露問題の論文は、こうした開戦促進の記事ばかりではない。五月一日の万朝報《よろずちようほう》は、 「外交と戦争を混同する勿《なか》れ」という論文を掲げている。 「それ外交の能事は平和にあり、戦争を避くるにあり。もしそれその平和のなほ保持し得べく、戦争のなほ避く得べきに拘《かかは》らず、開戦の不幸を見るに至らしむるがごときはこれ拙劣の外交なり、無能の外交なり、吾人はわが外交のすべからく拙劣無能ならざらんことを祈るべきなり。  かつ外交は決して戦争の結果と共に結局するものに非ず、否戦争の結果はかへつて外交の局面を拡大し、その事端を滋《しげ》くするに止《とど》まるのみ。故に領土の膨脹は善し、利益の増進も佳《よ》し、然れどもその平和的手段を以て、経済的基礎を固くし、漸次にその効果を収むるに非ずして、一時馬上にこれを得んとする者、決してその終りを克《よ》くするなきは、歴史の証明するところなり。  ×××××××××××××××××××××××××××××××××古人曰く、×××××××××××××××××××××××××××××切に之を言ふ」  この万朝報の社説は、全体の半分くらいが検閲によって削られ、空白になっている。  この筆者は幸徳|秋水《しゆうすい》と推定されたが、六月十九日付の万朝報には、はっきり「幸徳秋水」の署名による社説が次のように掲げられた。 (画像省略)  空白は検閲による削除の部分で、約三千五百字である。   硬派と軟派[#「硬派と軟派」はゴシック体]  万朝報《よろずちようほう》には幸徳秋水だけではなく、内村|鑑三《かんぞう》の署名入りで戦争廃止論が掲載された。 「余は(略)戦争絶対的廃止論者である、戦争は人を殺すことである。而《そ》うして人を殺すことは大罪悪である、而うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得よう筈はない。/世には戦争の利益を説く者がある、然り……」  といった内村の文章は、いうまでもなくキリスト教的立場からの戦争反対だった。  万朝報は黒岩|涙香《るいこう》が主宰する新聞で、堺利彦《さかいとしひこ》、幸徳伝次郎(秋水)、内村鑑三などの「理想団」が拠って筆陣を張っていた。黒岩は広い意味の人道主義的な立場から、内村はクリスチャンの立場から、幸徳、堺などは社会主義の立場から非戦論を唱えていた。  もっとも、万朝報全部が非戦論者でかたまっていたわけではない。社内の小林慶次郎、円城寺清《えんじようじきよし》などは開戦論者だった。  だが万朝報の非戦論は、世間に急激に起ってきた対露開戦論の前に小さな灯でしかなかった。開戦論が大きく世間の口の端に上るようになったのは、なんといっても帝国大学七博士が新聞紙上に発表した開戦論の建議書にある。  名にしおう帝大の錚々《そうそう》たる七人の博士が開戦論を東京の各新聞に発表したので、全国の新聞は洩らさずこれを転載した。輿論《よろん》はこのために刺戟されて沸いた。  もともと、こういう開戦論を七博士が新聞に出したのは、桂首相が、七博士中最も強硬論者の戸水寛人博士に世間の非難を浴びせようとして、東京朝日新聞の記者に建議書の内容を見せて攻撃させたことからはじまる。 「もし桂首相がわが輩の行動を阻止するために、東京朝日新聞の記者にわが輩の建議書を示して、わが輩を攻撃したとすれば、その作戦計画は全く失敗に終ったといってよい。なぜならその覚え書発表の機会をわが輩に与えたからである」  と、戸水寛人は昂然として口髭を撫でていた。  そのうち新聞には、政府が七博士を懲罰するだろうという記事が出はじめた。つまり、政府としては対露交渉をあくまでも平和裡に解決しようとしている矢先なので、帝国大学の教授が開戦論を唱えるのは甚だ怪しからぬとしているだろうとの予想からだった。  事実、この時点での日本政府のロシヤに対する満洲問題をめぐる態度は、六月二十三日の御前会議の決定にもとづいている。  それは、ロシヤは韓国における日本の優勢な利益を承認し、日本はロシヤの満洲における鉄道経営の特殊利益を承認すること。この各自の利益を保護するために必要な措置は日本は韓国において、ロシヤは満洲において互いにとるべき権利を有すること。韓国における行政整理のために忠告および援助を与えるべき日本の権利をロシヤは承認することなどだった。  しかし、ロシヤではこれを諾《き》かず、韓国独立の保障には異論は唱えなかったが、第二の満洲に関する約定は全部削除した。つまり、満洲とその沿岸は全然日本の利益範囲外であるという承認を求めたのみならず、韓国の領土中、北緯三十九度以北の地方を中立地帯とし、日露両国いずれも軍隊を引入れないことを要求した。ロシヤは日本に満洲に容喙《ようかい》させないだけでなく、朝鮮の北半分を自国の勢力範囲のもとにおこうとした。  そこで桂首相や小村外相が考えたのは、  ≪韓国と満洲との境界で両国が各五十メートルにわたって一つの中立地帯を設定し、この地帯内には両国いずれも軍隊を引入れないこと。  満洲が日本の特殊利益の範囲外にあることを日本において承認し、韓国は露国の特殊利益の範囲外にあることを露国において承認すること≫  などだった。  これがいわゆる満韓交換主義といわれるもので、日本政府の最大譲歩案だった。もっとも、これが正式にロシヤに対して交渉されたのは十月三十日のことになる。  だが、さきに桂首相を訪ねた七博士の中の一人も、満韓交換をしてはどうかと発言している。それに対して桂が、そういうことは断じて行わないと答えたが、戸水は、あんなことを云うけれどアテになるものかと、玄関先で吐いたのは前に述べた通りだ。  政府がもう一つ困っていたのは、陸海軍の少壮将校による即時開戦論者のグループだった。それに、外務省政務局長の山座《やまざ》円次郎などは対露強硬論者の先頭である。五月二十九日には、この山座と、海軍側の軍令部第一部長富岡定恭少将、山下源太郎大佐、八代六郎大佐、秋山|真之《さねゆき》少佐、陸軍側の井口正吾参謀本部総務部長、松川敏胤第一部長、田中義一班長、福田雅太郎少佐などが新橋の料亭「湖月」で会合している。これらが開戦論で上層部をしきりと突上げていた。  参謀本部の機密作戦日誌によると、軍首脳を開戦に導いた資料を謀略的に作成したのはロシヤ班長田中義一少佐などということになっている。当時、軍首脳は数字的に日本の劣勢を知って開戦反対であった。田中はロシヤ駐在武官をしたことがあり、その当時、ロシヤ帝政政治の腐敗、国民の困窮、革命派の擡頭《たいとう》などを見てきているので、いま戦えば必ず勝てると主張していた。しかし、首脳部は容易にその意見を容れない。  そこで田中は、部下の小柳大尉と謀って参謀本部の資料を改竄《かいざん》した。  その頃、満洲におけるロシヤ軍の糧秣《りようまつ》準備は六、五三九万ポンドに達し、シベリア鉄道を通じての動員可能兵力は約四十万であった。これに対し日本軍の輸送力はロシヤ軍の八割、動員兵力は二十万がぎりぎりといわれた。田中らは、この数字を逆にして日本優勢の計算を偽造したのだ。  この資料改竄も手伝って、遂に軍首脳は日露開戦に踏切ったのだが、戦ってみると、やはり資料の数字は正確で、日本軍は悪戦苦闘する羽目となる。——  こういう情勢なので、帝国大学の七教授が一斉に開戦論ともみられるような対露強硬論を新聞に掲載したことは政府を困惑させた。殊に、七博士の意見書が全国の新聞に出て輿論をかき立てたので黙過できない状態におかれた。この情勢が新聞に洩れたというよりも、政府のほうで内々、その意向を新聞記者に伝えた形跡がある。それで、新聞には風聞として七博士の懲罰がしきりと記事に現われるようになったのだ。  そのうち、文部省総務長官岡田良平が東京帝国大学総長山川健次郎を訪問したという噂さえ伝わるようになった。  六月二十四日、戸水寛人の自宅に一通の手紙が届いた。 [#2字下げ]「総長ヨリ御面談|致度《いたした》キ儀コレ有候間、明二十五日午前ノ内ニ御苦労|乍《なが》ラ総長私邸ヘ御出向下サレ度ク、命ニ依リコノ段申シ進メ候也。   明治三十六年六月二十四日 [#地付き]東京帝国大学 書記官心得 中村恭平   戸水法科大学教授殿 [#地付き]」  戸水寛人は、予想したものが来たと思った。山川総長が私邸に呼んだのは、当時総長は身体の具合が悪く、自宅に引籠り中だったからである。  指定の通り戸水は、二十五日午前、小石川|初音町《はつねちよう》の山川総長宅を訪問した。荒れ果てた旗本屋敷のような質素な家で、門を入ると夏草が茂っている。戸水が玄関から座敷に通ると、すでに寺尾亨博士が来ていた。山川総長は浴衣がけで寺尾と雑談していた。 「ご苦労さまです」  と山川は戸水を柔和な笑顔で迎えた。  しかし、すぐに用談に入るわけではなく、三人で団扇《うちわ》を使って話をした。戸水が総長の病気のことをたずねると、 「いや、ご迷惑をかけて申しわけないが、大したことはないので、近いうちに出仕できると思います」  と、山川は答えた。  このとき、玄関に声が聞えた。声で、小野塚喜平次博士だと分った。  三人揃ってから、総長は初めて用件にふれた。  山川は、まず戸水博士に対《むか》って云った。 「諸君が満洲問題について意見を述べられたことは、別に怪しからぬというわけではありません。しかし、もう少し慎重の態度をとられてもいいのではありませんか。そうしないと、世間の誤解を招くおそれがあるようです」  小野塚も寺尾も黙っている。黙っているのは総長が主として戸水に対ってものを云っているからだった。  そこで戸水は答えた。 「ただいまの総長のお言葉は、慎んで承っておきます」  これは戸水の皮肉でも何でもなかった。実際、山川の前に出ると、戸水も何か威厳のようなものを感じないわけにはいかなかった。  すると、小野塚喜平次が横から云った。 「わたしは戸水君とは違い、ずいぶん慎重の態度をとっております。それで、文部大臣からお賞めの言葉をもらってもいいくらいに考えます」  小野塚も冗談ではなく、真顔での言葉だった。  戸水は、小野塚はずいぶんとおべんちゃらを使うやつだ、と思った。もともと七博士の意見といっても、戸水が急先鋒なら小野塚は反対にいちばん消極的なほうだった。このことで戸水は、小野塚が絶えず文部省にご機嫌を取るいいかげんな学者だと軽蔑していた。  それなら小野塚は皆といっしょの組に入らなければいいのに、何となく七博士の仲間に入ったのは、自分だけが取残されたくないとする心から加入したのだととっていた。  そこで、寺尾と戸水とは山川総長に対って代る代る云った。 「世間では、あるいはわたくしのことを甚だ慎重の態度を欠いているように思っているかも分りませんが、これまでやってきたことは、それ相当の理由があるからです。その事情についてご説明したいのです」  と、建議書を桂首相に提出した顛末と、その建議書を桂首相みずから約を破って新聞記者に洩らしたため自分としても覚書を公にせざるを得なかった顛末を語った。  山川総長は二人の話の間うなずいて聞いていた。ただ、小野塚喜平次だけは両方の顔色を見るだけで何も云わなかった。  山川は一切を聞き終ると、 「大学以外の人と連絡して、あまり突飛な政治運動をするのは得策ではありませんな」  と云った。これは微笑しながらの言葉だったが、戸水は言下に、 「わたしとしてはもとより新聞記者との連絡はございます。新聞記者に対っては自分の考えるところを話し、また新聞記者からは新しい話を聞くようにしています。わたしの場合、新聞記者との連絡を断つことはとうてい不可能です。しかし、彼らといっしょに政治運動に従事するようなことは決してございませんから、ご安心願います」  と、いくらか昂奮して答えた。山川は、それ以上戸水を追及しなかった。  戸水寛人が昂奮したのは、山川が大学以外の人と連絡うんぬんと云った言葉が胸を刺したからである。つまり、彼は、その前日貴族院議長官舎に行ったとき議長から、二十六日に新聞記者の会合が芝の紅葉館であるが、その際七博士も出席してはどうか、と勧められた。戸水は、演説するのは約束できないが、とにかくほかの博士に諮《はか》ってみよう、と云って別れ、そのあとで寺尾博士などに相談したところ、みなは出席してもいいと云った。  そこで戸水は、新聞記者の会合に出席する旨を手紙に書いて、これを議長に送った。その期日が、つまり明日に逼《せま》っている。戸水がこのことを山川総長に云わなかったのは、万一累を総長に及ぼすことがあっては困ると考えていたからだが、その矢先、今、山川から大学以外の人と連絡するのは不得策であると云われたので、つい、激しい口返答になったのだった。  翌二十六日早朝、新聞を見ると、戸水博士らが紅葉館で新聞記者と会合することが大きな記事となって出ている。すると早速、山川総長から急使が来て、新聞記事の真偽について問合せがあった。  そのうち寺尾博士が戸水の家にやって来て、 「自分は国家のためには教授の職などいつ棄ててもかまわない。しかし、山川総長は自分に対して同情を持っておられるように見える。自分としては、どんなことがあっても累を総長に及ぼしてはいけないと思っている」  と、かなり豪放な態度で云った。戸水も、それには賛成だと答えた。二人とも、文部省の態度が硬化したので、かなりな衝撃をうけていた。  紅葉館に出席する約束をしたのは、この二人と、ほかに高橋博士と、三人だった。そこで二人は、高橋博士宅に行き、これからわれわれ三人で山川総長を訪ね、真意を打ち明け、その了解を求めたほうがよろしかろうとすすめた。高橋博士は賛同して、すぐ外出の支度にかかった。  三人は俥《くるま》を連ねて再び小石川初音町に走った。  山川総長に会うと、まず戸水が云った。 「新聞記者との会合はたしかに約束したので、いまさらこれを破ることはできません。しかし、かようなことはまことに小さいことでありますから、総長をわずらわすまでもないと思い、いままでは黙っておりました。また、紅葉館の新聞記者との会合でも演説は一切しないという約束で、ただ集まって連中と酒を飲むということだけですから、どうぞ、この点はご了承願います」  山川はそれを聞いて、 「そうかね」  と云って笑っていた。  いよいよ、その晩、新聞記者の会合は紅葉館で行われたが、このとき戸水、寺尾、高橋の三博士のほかに、建部遯吾《たけべとんご》博士が来会した。  建部博士は七博士のなかには入っていなかったが、強硬論者だったので、戸水が前日に誘っておいたのだった。新聞記者は数十名もきていた。戸水博士らは演説しなかったが、彼らと酒を呑み、大いに語り合って帰った。  戸水は帰りの俥のなかで、 (自分がもし、政府の懲罰の風説におびえて今夜の会合に欠席したら、どんな失態となったか分らない。幸い、自分の気持がしっかりしていたからこそ正義を貫くことができた。これからはますます奮激して国論を一定するのを任務としなければならぬ)  と、甚だ今夜の自己の態度に満足するのであった。  翌朝、戸水が配達されてきた読売新聞をみると、昨夜の会合の記事といっしょに、「満洲問題について」という富井政章博士の意見が署名入りで出ていた。  それを読むと、 「近ごろ学友諸氏と共に時局に対する意見書を政府当局者に出したので、世間からは自分も純然たる主戦論者のように見られているが、実は強硬論という中でも自分の意見は最初から少し違っている。自分の見るところでは、強硬論といっても二種類あると思う。その一は、戦争そのものを以て現在の時局に対する唯一の解決策としてこちらから少しく積極的に決行すべしという単純なる主戦論と、もう一つは、戦争は決して望まないが、強硬なる外交方針を持するには最後の決心を以てせねばならぬという、すなわち外交上の勝利を主眼とする説である。自分はすなわち、この第二の説であって、硬派中の軟派である。さきに提出した建議書は少しく純然たる開戦論のように読めたかも分らないが、自分はそこまでの意義にはとらずして賛成したのである。最後の手段は、外交手段を尽したのち真に最後にとるべきものと思う。この点、小野塚君は自分とほぼ同一意見のようである」  という意味の文章で、軟弱論であった。  戸水は、これを読んで思い当るところがあった。  というのは、富井博士が先日寺尾博士に、政府に提出したあの建議書は高橋博士がもう少し温和なものにすると予期したのに、案外強硬なのにおどろいた、ということを語ったのを戸水は耳にしていたからだ。  つまり、小野塚博士といい、富井博士といい、七博士中、いちばん軟弱な説を持っていると戸水寛人は断じて、両人を軽蔑し、おのれひとりは軒昂としていた。   対面[#「対面」はゴシック体]  東京帝国大学七博士の開戦論に刺戟されて日本じゅうの声が日露開戦に盛上がっているとき、ひとり非戦論を掲げて敢然とこの激流に抗したのは、万朝報《よろずちようほう》に拠っている「理想団」であった。 「理想団」とは何か。  万朝報主黒岩涙香によってその結成が提唱された。三十四年七月二日付の万朝報は、涙香の「平和なる檄文《げきぶん》——理想的団結を作らん」の題で、 「何故に理想団と謂《い》ふや。これ宗教的の団体にもあらず政治の党派にもあらず、また或る触感すべき利益を目的とせる会社にもあらず、単に社会改良の理想を以て合する団衆なればなり……理想団の主として力を尽すべきは社会の何の部分なるか。曰く、その人心なり」  という一文を掲載した。  そして「理想団」には、黒岩涙香をはじめ、内村鑑三、幸徳伝次郎(秋水)、山県五十雄《やまがたいそお》、円城寺清、天城安正《あまぎやすまさ》、堺利彦、斯波《しば》貞吉など八人の発起人の名が発表され、この月二十日には団員五百余名が神田青年会館に発会式を挙げた。  このうち幸徳秋水は、早くから戦争否定の論陣を万朝報に張っていたが、すでに北清事変の勃発の前には、こう述べている。 「今や更に戦争の時代となった。軍備と戦争の惨害は滔々《とうとう》として東亜の天地を浸している。これは平和論者、非戦争主義者にとって大いに奮起すべき秋《とき》ではないか。ああ、われら平和論者、非戦争論者は、どうして多数兵士の苦境を説かないでいられようか。軍人遺族の悲惨を説かないでおられよう。また戦地人民の不幸や一般社会の損害を坐視することが出来ようか」  幸徳は、その後もつづいて万朝報にこんなふうに筆を執っている。 「欧洲の帝国主義は、その国力の膨脹である。少なくとも、その資本の膨脹である。その行為の是非と、その結果の利害はともかく、これがあるため帝国主義と称しても差支えない。そしてわが日本が、その外交は無能、その財政は困迫、その資本家と経済市場は萎靡混沌《いびこんとん》を極めている今日、いかに陸海軍備だけを振回して帝国主義を主張しても、この主義は国民的でもなく資本家的でもなく、単に軍事的帝国主義にすぎない。空威張《からいばり》的|飴細工《あめざいく》的帝国主義にしかすぎないのである。今や国民は挙げてこの空威張に心酔し、この飴細工に眼を眩《くら》まされている。国家の前途はまことに寒心の極みである」  幸徳は、その前に、安部|磯雄《いそお》、木下尚江《きのしたなおえ》、西川|光二郎《こうじろう》などと社会民主党を作ったが、その日のうちに時の伊藤内閣の内務大臣|末松謙澄《すえまつけんちよう》から解散を命じられた。つづいて社会平民党を作ったが、これまた解散を喰った。  こうして幸徳はもっぱら論陣を万朝報にふるうほかはなくなったのだが、幸徳が世間的に人目を惹いたのは田中正造のために直訴状を書いたときからである。これは、この物語が進んでいる二年前の三十四年のことであった。  栃木県の足尾銅山から流される鉱毒のために渡良瀬川《わたらせがわ》の沿岸が汚染され、多数の町村がその被害のために荒廃した。田中正造は政府に何回も陳情を重ねたが、被害の救済策は一向に講ぜられず、田中は立場に窮して最後の手段として直訴を決意した。 「理想団」の人々も田中を援助して、鉱毒問題に関する演説会を神田青年会館で開いたりしたが、幸徳は田中の依頼によって直訴状を徹夜で起草した。このことが世間に幸徳秋水の名を大いに高めることになったのだ。  こうしたことで幸徳は、日露戦争勃発の気運を前にして万朝報に反戦論を次々と掲載することになる。  だが、同じ社内の小林慶次郎、円城寺清などは開戦論に回って社主の黒岩涙香に転換を迫った。黒岩も澎湃《ほうはい》たる世間の開戦論に抵抗しきれず、やむなくこれに同調した。三十六年十月の万朝報には、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三の退社が報じられている。  社主の黒岩涙香は、これについて、 「万朝報社に若《も》し光明ありとせば、内村、幸徳、堺三君の如きはその中心であった。今や三君、対露問題の国是論において社中と意見の合わないところがあったために時を同じくして万朝報社を去る。まことに悲しみに耐えない」  と、特に一文を草した。  秋水が同紙に載せた退社の辞は、これも世間の目を惹いた。 「われわれは不幸にも対露問題に関して万朝報紙と意見を異にするようになった。われわれが平生社会主義の見地から国際の戦争を目するに貴族、軍人等の私闘であると断じ、国民の多数がそのために犠牲に供せられていると考えていることは、読者諸君が既に久しく本紙上で見られたところである。  ところが、われわれのこのような意見を寛容した万朝報紙も、近日外交の時局切迫するに及んで戦争が遂に避けられないとし、若し避けられないとすれば、挙国一致、当局を助けて盲進せざるを得ないという社説が見え出した。これまた読者諸君が既に知らるるところである。ここにおいて、われらは万朝報社に在っては沈黙を余儀なくされる立場となった。しかし、長く沈黙して自分の所信を語らないのは、われらとして社会に対する本分の責任に欠けるところがあると考える。故に、われらはやむを得ずしてここに退社を乞うに至ったのである。……」 「先生」  と、米村忠三は奥宮健之のあばら家を訪ねてきた。 「おう、米村君か。まあ、上がれ」  奥宮が起ってきた。 「はあ。それよりも、今、お迎えに来ましたから、お支度のできるまで、ここで待たせて頂きます」 「なに、迎えに来た?」 「先生、お忘れになっては困ります。今日は飯野先生にお遇い下さる約束です。飯野先生もお屋敷で待っておられますから……」 「おう、そうだったな」 「そうだったな、とは心細いですね。この前から何度もお会いになる日どりを決めたのですが、飯野先生もお忙しい身体だし、折角、両方で都合がよくて約束ができても、先生にはすっぽかされるし、間に立ったぼくが本当に困ります」 「うむ。君には申し訳なかった。それでも、やはり飯野さんは、わしに遇いたいといわれるのか」 「はあ。一度はお話ししてみたいと云われるのです」 「辛抱強い人だな。たいていなら、もう諦められるところだがな」 「先生、この話が起ってから、もう半年以上になりますよ」 「そうだったな。いや、わしはずぼらな性質《たち》な上に、酒飲みだから、伺う気持はあっても、つい、二日酔いなどで違約してしまった。申し訳ない」 「先生。今日こそは、本当においでを願いますよ。飯野先生も時間をあけて待っておられますから」 「よしよし。君にもずいぶん迷惑をかけたから、これから出向くことにする」 「それはどうも有難いです」 「支度をする間、まあ、上がって待ってくれ」 「いえ、上にあがると、つい、また長くなりますから。ここで待たせて頂きます。俥《くるま》もそこに置いてあります」 「待つからには、どこに居ようと、どのみち同じことだ。相変らず、取り散らしているが上がりなさい」 「では、そうさせて頂きますが、その代り、酒のほうはご辞退させていただきます。また、先生の腰が重くなりそうですから」 「いや、今日は酒はすすめん。第一、このところ懐ろが寒いでな」  米村が仕方なく座敷に上がると、机の周りには書物が雑然と積まれ、机の上には洋書と、翻訳中の原稿とがある。 「先生、相変らず、ご勉強ですね」  米村はのぞきこんで云った。 「いや、どうも気分が乗らんで困っちょるよ。早いとここれを書き上げてゼニにしようと思うとるが、なにしろ、この通りの気性だから、気が乗らないときは一向に進まん」  奥宮健之は、米村の眼の前で袴をはき、色の褪せた羽織を着た。  狭い庭の竹垣に這った朝顔の蔓《つる》は枯れて、濡れ縁には夜店から買ってきたらしい蕾をつけた菊の鉢植があった。米村は、その朝顔が盛りの頃に何度かここに足を運んでいたので、いまはおだやかな秋の陽射しの庭を眺めていた。 「さあ、出来た」  奥宮は、埃だらけの山高帽を柱の釘からはずした。 「どうだ、それほど待たせはしないだろう」 「ありがとうございます」  うちつれて戸口を出たが、戸は開けっ放しのままだった。 「先生、戸締りはいいんですか?」 「なに、盗られるものは何もない。ただ、ときどき友だちが訪ねてくれるので、外出のことだけを隣に云っておこう」 「それはぼくが云ってきましょう」  と、米村は顔なじみになっている隣の女房に入口から声をかけた。 「ほう、なかなか立派な俥じゃのう」  奥宮は、表に梶棒《かじぼう》を下ろしている人力車を見て眼を瞠《みは》った。 「はあ。飯野先生が、お客さまだから粗末のないようにとのことでした」 「それは恐縮じゃ。……なあ、米村君。大ぶん戦争が近づいたから、飯野さんもますます忙しいじゃろう?」 「なんですか、あんまり屋敷に落ちついてもおられません」 「やっぱり陸軍の大物のところに出入りなさっているのか?」 「近ごろは先方から先生を呼びにきています」 「そういう飯野さんが、どうしてもわしに会いたいという理由が分らんな」 「飯野先生は少し変っているので……いいえ、これは失礼ですが、自分と違う意見の方にも熱心に話を聞かれる人です」 「そうか。とにかく、わしも一度は会いたい人だ。いろいろ噂にも聞いている。どれ、そいじゃ、少し尻こそばゆいが、その立派な俥に乗せてもらおうか」  車夫が膝かけの毛布をひろげて奥宮を待った。  奥宮は、飯野の屋敷の客間に坐って待っている間、部屋の中をじろじろと見回した。調度は何もかも豪華なものを揃えている。床の間の傍には、電話器がとりつけてある。すぐ前の主人の坐るところには、大きな虎の皮が敷かれてある。奥宮は軽蔑の色を泛《うか》べた。  ひどくきれいな女中が茶と菓子を置いて退ってから、かなり経つ。森閑とした屋敷で、物音一つ聞えない。米村も、工藤も現われなかった。  すると、遠くのほうで祝詞《のりと》の声が聞えはじめた。朗々たる音声である。  奥宮は、ははあ、やってるな、という顔をした。取りようによっては、急に世間に名高くなった穏田《おんでん》の行者がわざと神秘的な雰囲気をつくってみせているようにも思われる。柏手《かしわで》が祝詞の間に何度か鳴った。これも冴えた音だった。  奥宮は、あまり待たされるので座を蹴って帰ることも考えぬではなかった。だが、せっかくここまで来たので飯野の顔を見たいという気持はある。最近、陸軍の幹部連中がずいぶんと飯野の予言を信仰しているという噂だ。米村もしきりとそれを奥宮に伝えるのである。  世間では飯野を怪物だと云っている。だが、果して彼が怪物かどうか、奥宮はじかに飯野を見て鑑定しようという気持を持っていた。それで、長く待たされても帰るという決心にはならない。  祝詞の声はまだつづいていた。むろん飯野の声であろう。  奥宮は、ふと、ここで自分が腹を立てて帰ることまで飯野は計算に入れているのではないかと思った。そういう逆手を使いそうな人物に見える。よし、それなら、こちらも泰然としていつまでも待ってやろうという気になった。その気持の底にはやはり飯野の人物を見定めようという魂胆がある。  ようやく祝詞の声が熄《や》んだ。再び柏手の冴えた音が静かな屋敷中に響いた。  と、今度は廊下を歩んでくる足音がする。一人ではなかった。一つは擦り足で、一つは静かだが、どこか重い足どりである。  杉戸が開かれた。奥宮は腕を組んで素知らぬ顔をしていた。  彼の傍に寄ったのが米村だった。 「先生、お待たせいたしました。飯野先生でございます」  その声の下から、 「これはお待たせした」  と、大きな声が奥宮の耳に響いた。 「いや、いま、くだらん男が急にやって来ましてな。やむを得ずお勤めをしてやったのだが、それで思わず遅くなりました」  大きな男が袴をさばいて虎の毛皮の上にどっかと坐った。 「米村」  と飯野は奥宮が何も云わない先に、 「なるほど、奥宮さんは怪物じゃな」  と云うなり大口を開いて哄笑した。  奥宮がむっとしていると、 「いや、奥宮さん。あんたも謀叛人じゃが、わしも謀叛人だ。つまり、怪物は怪物を知るですじゃ」  どういうつもりか、米村がこそこそと部屋を出て行った。 「奥宮さん、わしはズバリと云うが、あんたの運勢はあんまりよくないな」  飯野はじっと奥宮の顔を見て云った。このときばかりは奇妙に鋭い眼つきになった。 「ははあ。飯野さんは何でも見通しだということだが、そうですか。わたしの運勢はよくないですかな」  奥宮は初めて云った。 「断わっておくが、わしは運勢見ではない。だが、あんたがこれまでどういうことをしてこられたか、また、あんたのご両親やご親戚のことも云ってみろと云えば、すぐにでも云えます。だが、そんなことは普通の人相見のすることでな。それに、いままでのことを云い当ててもはじまらん。奥宮さん、気をつけなさるがいい。あんたは畳の上で往生出来る人物ではない」 「ははあ」  と、奥宮はうす笑いした。 「それはありがたいですな。畳の上で死なないとなると、それはまた男として本望かもしれません」 「ご立派です」  と、飯野は鬚をしごいてうなずいた。 「いや、いまも陸軍少将がひとりやって来てな、戦争のことを心配するから、ちょっとご礼拝をしたのです。なに、その少将の魂胆は分っている。戦争の勝敗よりも、自分が戦地に行ったとき無事かどうかを訊《き》きに来たのです。いやはや、日本にもふしぎな将軍が居りますよ」 「戦争の見通しはどうです?」 「もちろん、勝ちですよ。ロシヤと戦って決して敗けはせん。これはもうはっきりしている」 「それはあんたの霊感で決っているのですか?」 「わしは宇宙の真理を体得しているので、二、三十年先ぐらいのことは見通せます。いま、政府でも、陸軍でも、ロシヤと戦って敗けるかもしれんというおそれがあるから、容易に開戦の覚悟はできん。それで、あんまり民間のほうで開戦論を唱えてもらっては迷惑しとるようです。ほら、この前、帝国大学の偉い博士がたが景気のいいことをぶちなすったが、忽《たちま》ち政府に叱られて、博士連中、しょげ返っていますな。わしに云わせると、博士の云うことがまともで、叱る政府のほうが怪しからんです。わしには、日本がロシヤと満洲で戦った際、どういう土地でどういう勝ちかたをするかということも分っていますよ」  飯野は何を思ったか起ち上がると、床の間の傍にとりつけてある電話器の把手《ハンドル》を回した。 「おいおい、児玉源太郎将軍のところにかけてくれ」  飯野吉三郎が児玉源太郎の自宅に電話をつながせたとき、奥宮健之は少々おどろいた。飯野が日ごろ陸軍の上層部に食い入っているとは書生の米村や工藤から聞いていたが、まさか児玉源太郎に直接電話をかけるほどになっているとは思わなかった。  児玉は陸軍の長州閥で、山県有朋の直系である。日清戦争には大本営留守参謀長として活動し、その功によって男爵を授けられ、中将に進んだ。第一次桂内閣から内相兼台湾総督だった。  飯野は受話器を耳に当てて待っていたが、向うの声が出たとみえ、 「飯野吉三郎です。やあ、奥さんですか。先日は長々お邪魔いたしまして」  と、らいらくな調子で云った。 「閣下はおられますか……はあ、恐れ入ります」  飯野は奥宮のほうには見向きもしない。 「閣下ですか。飯野でございます。先日は長時間お話を聞いていただいてありがとうございました。……お忙しくいらっしゃるでしょう。久しぶりに参謀本部にお帰りになっての空気はいかがですか……なるほど。いや、閣下らしいですな。は、ははは」  奥宮は、おや、と思った。飯野が児玉の家に電話をかけたとき、児玉は台湾から一時帰っているのかと思っていたら、参謀本部に戻ったという飯野の言葉である。奥宮は他人《ひと》の話からも新聞からも児玉が参謀本部に移ったことを聞いていない。 「あの節、閣下からたずねられた一件は、飯野が今晩から渾身《こんしん》をこめて神霊に伺うことにいたします。そのご返事は、いずれ三、四日の間にお屋敷に持って参ることにいたします。……はあ、その通りにします。……たいへんお忙しくなられたことと思いますが、国家重大のとき、殊にわが軍の重要なカナメになられたことだし、くれぐれもご健康にご注意下さい。……では、これで失礼します」  飯野は受話器を箱型の電話器の横に付いている金具においた。 「やあ、失敬しました」  と、彼は奥宮のほうに顔を向け直した。  奥宮も児玉が気安く飯野の電話に出たので、さすがに度胆をぬかれていた。 「この前、児玉さんとこで長時間話をして、いろいろと開戦になったときの見通しなど訊かれましてな。児玉さんも今度は直接の責任者だから、ずいぶん心配しておられる」 「児玉さんは参謀本部の何かの要職に就いたのですか?」  おどろきのしずまらぬ奥宮が訊くと、 「ああ、あなたはまだご存じなかった。実は、台湾総督の兼職を解かれて、今度参謀次長に就かれたのです。しかも、これは自分で希望なさった。世間ではまだ分っていないが、二、三日うちに発令が新聞に出るでしょうな」  飯野は、軍のことならどんな事情でも分っているといった顔をした。 「奥宮さん、児玉さんがそうした覚悟だから、いよいよ、これはロシヤと始まりますよ。しかも、参謀次長といえば、今度は直接戦地に行く覚悟でおられる。十年前の日清戦争では留守参謀長として内地におられましたがな、今度は鉄砲の玉の中に立って指揮される覚悟のようです」 「なるほど。で、飯野さんの考えでは、ロシヤとの戦いはいつごろ始まりますか?」 「まず、来年の初めでしょうな」 「世間では、ずいぶんとそのようなことを云っていますが、やっぱりそうですか」 「間違いなくその時期でしょう。こうして輿論《よろん》も大ぶん盛上がったことだし、軍のほうも引くに引かれぬ状態になっている。ロシヤの兵はどんどん南下しておりますからな。満洲から撤兵するどころではない」 「軍がそういう考えを持っているのに、政府はかえって世間の開戦論を抑えにかかっていますな。桂さんの軟弱外交を云う者がいるが、政府の本心はどうです?」 「もちろん、もう覚悟はつけていると思う。だが、ここで下手に開戦論に煽られて強腰になっても外交上困るところがある。日本から進んでロシヤと開戦をしたという恰好は世界に見せたくないですからね。事実、政府が臆病なことはたしかだが、もう、こうなったら決心はついておる。……ただ、世間の開戦論といっても、車夫、馬丁のたぐいが騒ぐのはかまわないが、帝国大学の七博士がああいうことを云ってはやはり迷惑なのです。……なに、博士といっても、世間で思うほど大したもんじゃない。その証拠が、政府の故障が入ると忽《たちま》ち七人ともしゅんとなった。大学教授などという正体は、そんなものかもしれませんな」 「いや、ああいう手合いは権力には案外と弱いです」  奥宮は飯野とは別な立場からうなずいた。  政府は帝国大学総長山川健次郎に七博士の言動について故障を入れた。山川は一応総長の立場で七博士に自重を求めたが、これが予想以上に博士たちに衝撃を与えた。その大部分は、はじめの勢いに似ず元気を失った。  それは奥宮も新聞で読んでいる。 「初めは脱兎の勢いで躍起となって運動を始めた例の七博士も、時局解決問題は菊池文相より山川総長への注意もあって、さしも意気当るべからざりし勢いはどこへやら、今は銷沈《しようちん》し、処女的態度に出ている。最も硬派と目された戸水寛人博士のごときは、われわれの主張は単に国民としての希望を発表したまでで、あえてこれが実行を期する覚悟は初めから持っていなかった。故にわれわれはその意見を当路者《とうろしや》へ進言しただけで満足であると、悄然として語った。こうして七博士の運動は竜頭蛇尾に終って、世間の怪訝《かいが》を買っている」  飯野吉三郎は奥宮健之に対《むか》って云った。 「あんたは社会主義者だそうですが、あんたがたの立場からみると、日本がロシヤと戦争をするのには、もちろん、絶対反対でしょうな?」 「大部分の社会主義者は反対でしょう」  奥宮が答えると、飯野は怪訝《けげん》そうに、 「大部分というと、戦争に反対でない人もいるんですか?」 「ぼくが、その一人です」 「ほう。これは面白いですな」  飯野はますます鬚の顔に興味を漲《みなぎ》らせ、膝を進めた。 「社会主義者のあんたが戦争に反対でないというのはどういうわけか、ひとつ、その理屈を聞かしてもらいましょうかな」 「いや、わたしは戦争に賛成しているわけじゃない。あらゆる戦争には大反対だ。いたずらに人民だけが犠牲になるのですからな」 「では、日露戦争には人民の犠牲が少ないというわけですか?」 「いや、これは大ありです。日本人民の何十万人が殺されるか分らない。……飯野さん、わたしが日露の開戦に反対でないというのは、しょせん、このまま反対をしても戦争は必ず起る。この現実は無視できん、というのがわたしの論の前提になっているのですよ」 「ははあ……」 「わたしの友人に、といっても後輩だが、幸徳伝次郎というのがいますがね」 「知っています。非戦論で万朝報紙に華々しい筆をふるっていたが、つい数日前に退社の辞が出ていましたな」 「この幸徳という男は、もう熱烈な戦争反対論者だが、彼がどのように反対を唱えても日露戦争は必ず起きる。この事態の現実には眼をそむけてはならんと思う。そこでです、わたしの考えは、相手が十年前の弱かった清国との戦争なら別ですが、今度は強国です。そのロシヤと戦争した場合、案外早くわれわれの希望が実現するんじゃないかと思う。その意味で開戦には賛成するわけです」 「日露戦争の結果、社会主義の世の中になると云われるんですか?」 「ロシヤに敗けた際日本は根本的に崩壊する。現在の天皇制も、そのもとに組立てられている政治形態も、社会秩序も悉《ことごと》く破壊されるでしょう。こうして人民の革命は急速に達成されるのですよ。その意味で、この戦争に日本が敗けることをわたしは期待します」 「なるほど。云われてみると、そういうことになりますな。しかし、あんたの期待に反して日本がロシヤに勝った場合はどうなります? まあ、わたしの予言の正確さは別として、世評通りに、万一、勝った場合のことを伺いましょうか」 「日本がロシヤに勝てば、日本の資本主義は帝国主義のもとに急速にふくれ上がってゆくでしょう。これは満洲という利権をごっそり手に入れるから、いままでにない伸びかたになります。そうなると先進国の例でも分る通り、資本家と労働者との間の軋轢《あつれき》が大きくなり深くなってくる。理屈をいろいろ云うと面倒になるが、要するに、そうした資本主義に圧迫された人民の蜂起となります。まあ、日本が敗けたときよりは、こっちのほうが遥かに革命が遅くくるが、いずれにしても日露戦争の結果はそうなってくる。だから、ぼくは理想からいって戦争には反対だが、現実がこうなった以上、そうした見方からいまでは賛成しとるわけです」 「これはますます面白い」  と飯野は奥宮の顔をじっと見て、 「あんたはなかなか鋭いことを云う人ですな。わたしは、社会主義者というと、みんな戦争反対の一点張りかと思った」 「幸徳君なんか、その一ばん典型的な人物だが……」 「むろん、あんたは、その幸徳君を知っておられるでしょうな?」 「よく知っています。わたしは旧い自由民権運動の残党だが、幸徳君は中江兆民君の薫陶をうけた男で、年もわたしよりはだいぶん下です。しかし、好漢おしむらくは運動の経験がないです。だから、理屈に走りすぎる。したがって、彼がもし実践運動にたずさわることになれば、あの理屈どおり熱血的な行動をとるかもしれませんな」 「ますます、あんたは炯眼《けいがん》じゃ。わたしもそう思って幸徳君や堺君の理屈を見ているが、残念なことに、その方面の縁故がない。奥宮さん、もし、あんたがよかったら、今後ずっとご昵懇《じつこん》に願えませんかな」 「ふむ」  奥宮は黙って考えていた。 「わしがこう云うたからといってご心配はいらない。なにもあんたを味方につけて社会主義者の世界をさぐろうというわけじゃない。飯野も男です。世間では怪人物といっているが、それは人間のケタが少々違うから、秤にかけかねるためです。あんたもそのたぐいじゃな。だから、あんたの云うことはよく分る。日本が戦争に敗けたら、すぐに革命がくる、だから戦争に賛成する、こういう思い切った着眼は、画一的な社会主義者の理屈からは出ない」 「飯野さん、ロシヤには革命運動が、いま、皇帝政府を根本からゆすっていますよ。だから、もしかすると、日本はロシヤに勝つかも分らない。ぼくはあんたの神託とか神霊というものは信用せんが、ロシヤの革命運動を見ていると、日本は危いところで勝つという気がする」 「…………」 「最近、オーストリアのアルベータル・ツワイツングという新聞が、ロシヤの革命秘密団体が出した檄文を暴露して載せています」  奥宮は、ここで、その博《ひろ》い国際知識の一端を披露した。 「ロシヤの革命秘密団体はリージアス・アルミズという名ですが、これは良心ある多数の軍人が作っているというので、大いに注目されます。あんたも知っていなさる通り、ロシヤ皇帝政府の圧制に対して人民が各所に蜂起した。それを、政府は軍隊の力を借りて鎮圧している。これを良心のある軍人は政府の暴虐と取って怒ったのです。……わたしにもその気持は分る。いや、自分のことを云って自慢めくかもしれんが、わたしは静岡事件に関係した。わたしの若いころは自由民権運動のさなかで、加波山《かばさん》事件、秩父騒動、それに飯田事件といったように、各所に人民が蜂起したが、それを弾圧したのは警察ではなく鎮台兵でした。鎮台兵は農村の出身者が多いから、上の命令で、蜂起した人民を射撃したり捕縛したりしたが、内心ではいたく自分の行動に矛盾を感じていた。そういう良心のある軍人がたいへんに多かった。だから、リージアス・アルミズは、ぼくにはよく理解できるのです」 「なるほど、なるほど」  飯野は傾聴した。 「さて、オーストリアのアルベータル・ツワイツングに載った檄文の要旨をいうと、こういうことです。政府は次々と法令を出して人民に束縛を加えているが、いまや暗黒は自由の光によって照らされつつある。政府に反抗する勇士は日を逐《お》うて増加しつつある。軍人は外国の敵を防禦し、わが国家の権力を保護するのが義務だが、その軍隊がもし人民にむかって侵略をこころみ、人民の自由を破壊するとしたら、この軍隊は、すなわち敵国の軍隊と毫《ごう》も択《えら》ぶところがない……」  奥宮はひと息入れて、 「檄文は、次にこうつづいている。……見よ、バルチック海より太平洋に至るまで、われわれ人民は重囲のうちに生活しているではないか。到るところに政府と人民の戦いがある。到るところに鮮血が注がれ、到るところに善良な人民が仆《たお》されている。個人の自由、出版の自由、労働の自由を、いまや人民は要求しつつある。このときに当ってわれわれのとるべき道は、この猛悪なザアリズム(ロシヤ皇帝主義)を打ち倒し、社会的にあらゆる階級を連結して憲法要求同盟を作ることだ。暴虐なる官吏に反抗する諸君、ザアリズムを打ち倒せ。憲法要求の同盟のために来れ……こういうふうに書いてありますよ」 「うむ、うむ」 「むろん、政府は、こういう団体の撲滅につとめ、到るところで指導者を逮捕し、監獄に入れているが、ひとたび燃えた革命の火は消えるどころか、いよいよ燃え上がっている状態です。もちろん、こういうようなロシヤ内部の革命運動がすぐにロシヤの敗戦を招くということにはならないと思うが、ぼくの観測では、そのため著しくロシヤは内部闘争に牽制されて戦力が殺《そ》がれると思う。だから、日本は危いところで勝つ」 「では、あんたとしての感想は?」 「もちろん、こりゃ困ったことだと思っています。むしろ、ロシヤの内部にそうした紛擾《ふんじよう》が少なく、ロシヤの軍隊が一挙に日本軍を蹂《ふ》みにじり、日本を征服してくれたらいいと思います。それだけ日本に早く革命が完成しますからな。薩長政府は倒れ、新しい人民の政府が作られる。これはまことに喜ばしいことですが、どうも一挙にはこういうことにはならんようです。日本がロシヤに勝てば、革命の時期はずっと遅れますでな。そういうことを幸徳君などは若いから分らない。中江兆民君はわたしと同じ考えを持っていたらしく、似たようなことを云っていた。だが、弟子の幸徳は分らんから、その点だけ師に叛《そむ》いて戦争反対一点張りです」 「で、万朝報社を辞めた幸徳君はどこに行くでしょうな?」 「彼は多分、いっしょに辞めた堺|枯川《こせん》君と何か考えているようですな。仲間の話では、自分たちだけで新聞を出したいと云っているようですが」 「新聞を? そうすると、それはますます反戦主義の徹底した新聞になりますな」 「今度は他に掣肘《せいちゆう》するものがないから、自由自在に活躍するでしょう。ただ、問題は、それを政府がどう処置するかです」  奥宮健之は、今度はかえって飯野の顔を眺め、 「そのへんは飯野さんあたりに、ひとつ占ってもらいたいものですな」  と云ったが、これは、政府や軍部の要路者にかなり近づきを持っている彼から、政府側の意向をさぐってもらいたいという意味が含まれていないでもなかった。 「は、ははは」  と、飯野は大声をあげて笑い、明瞭な返事は与えなかった。  このとき杉戸の外から書生の声がした。 「何だ?」  杉戸をあけてのぞいたのが米村で、 「ただいま、下田先生がお見えでございますが」 「あっちに待たしといてくれ」  飯野は即座に顎をしゃくった。 「ご来客のようだから」  と、奥宮健之は膝を動かした。 「そうですか。時間を決めて約束したので、どうも会わないわけにはいかない。うるさい婆ァでしてな。下田歌子ですよ。何のかんのと云ってわたしの予言を聞きにくる。だが、その半分は宮中の意向を汲んできているようです。……奥宮さん、逆に云えば、わたしは宮中の模様をすっかり知る立場にありますよ」  と、特別な眼つきで彼の顔を見た。 「あんたはなかなか面白い男だ。ぜひ、これからも昵懇に願いたい。近いうちに、また遊びにきて下さい」  と付け加えて、飯野は奥宮を部屋から送り出した。  あとで飯野は一番古くからいる書生の小野に云った。 「さっきの電話の受け答えの要領はあれでよい。奥宮め、本当に児玉が電話に出たと思って、眼を白黒しおった」   芸者妻[#「芸者妻」はゴシック体]  奥宮健之が穏田《おんでん》の飯野吉三郎の屋敷に来た四、五日あと、工藤雄三が小石川水道端に奥宮を訪ねた。彼は二日前から下宿を引きはらって飯野のところに住み込んでいる。  暗い路地で工藤の足が動かなくなった。奥宮の家に「貸家」の札が貼られてある。  工藤は、この前奥宮に会ったとき移転の話は聞いていなかった。彼は隣の家に声をかけた。奥からいつもの女房が色の悪い顔を出した。 「隣の奥宮さんはどこに越されたのでしょうか?」  女房は門口まで出て、寒そうに両の筒袖《つつそで》に手を入れて、 「書生さんは何も聞いていなかったのですかえ?」  と、問い返した。 「ええ、少しもそんな話を聞いてないので、ここに来て初めて分ったような次第です」 「急なことでね」  と、彼女は云った。 「かみさんがきて、俄《にわ》かにここを引払って出たんですよ」 「え、先生には奥さんがおられたんですか?」  工藤は、独りでいる奥宮しか見ていないので、これも意外だった。もっとも、彼が独身だとはこっちで勝手に決めたことで、あの年配で妻が無かったわけはあるまい。ただ、何かの事情で別れたか、死別したかぐらいには想像していた。 「わたしも聞いておどろいたんですよ。それが、あんた、あの先生に似合わず、粋な女《ひと》でね」  女房はつづけた。 「…………」 「年も十四、五くらいは違いそうな若い人なんですよ。きりっと緊《しま》った顔の、小股《こまた》の切れ上がった芸者ですよ」 「芸者?」 「いまは出てるかどうかしらないけれど、とにかく一目見てそれと分ります。第一、先生が越したところが烏森《からすもり》だからさ」 「烏森ってどこです?」 「あんたは、そっちのほうはあまり詳しくないようだね。烏森というのは愛宕《あたご》下町《したまち》の隣さね。新橋駅の近くで、粋な場所ですよ。そこに移ったんだから、あの先生、きっとその芸者に引取られて、いまごろは拭きこんだ長火鉢の前にヤニ下がってるかも分りませんよ」  女房は黄色い歯を出してニヤリと笑った。 「そういう事情は最近に出来たのですか?」 「いまから考えると、思い当るところもあったようだね。先生、ときどき、二、三日雲隠れをすることがあったからさ。あの通りの風来坊だから、こっちは何も思ってなかったけれど、きっと、その芸者衆のところに行っていたのかもしれないよ。それに、ときどき、夜なんか隣で女の声がしたりしていたからさ」 「家は烏森のどのへんでしょうか?」 「書生さんは向うまで訪ねてゆくつもりかね?」 「はあ」 「あまり云ってくれるなとは云われたんですが、あんただったらいいでしょう。烏森神社の近くだというんだけれどね」  女房は詳しく移転先を教えた。 「向うに行ったら、わたしからもよろしくと云って下さいよ。ぐうたらなところはあったが、ちっとも憎めない人だったね。いつもこのへんの貧乏人は気の毒だ気の毒だと云ってさ。自分で自分が貧乏なことは棚に上げて、むずかしい言葉でそう云うもんだから、近所では笑っていたけれどね」 「…………」 「だけど、あの先生のどこがよくてああいう別嬪《べつぴん》がくっ付いたのか、わたしはまだ狐につままれたようですよ。しっかりした女のようで、わたしにもちゃんと挨拶してさ。引越しの前日から、家の中の掃除を自分ひとりでやっていたようだけど、汚ない汚ないと云って、ずいぶんこぼしながら、あとはちゃんときれいにして出て行ったから、近所ではみんな感心しているんですよ。やっぱり、ああいう女はしゃきしゃきしてますね」  工藤は、もう一度「貸家」の札に眼をやって、女房に礼を云って出た。  彼は、奥宮は不思議な人物だと思っている。同じ奇体な男でも飯野吉三郎と違って、奥宮には何かわけの分らないところがある。強気のようで弱い気性が見え、賢いようで間の抜けたところがある。放蕩無頼のようだが小心な几帳面さがあり、行動力があるようで臆病なところがある。  奥宮はいつぞや工藤に、ほんの一言だが、こう云ったことがある。 (わしは、一体自分は何だろうと思うことがある。結局、のけ[#「のけ」に傍点]者か厄介者ということになろうな。何をやっても、どうも成功せん)  これが工藤に一種の共感を覚えさせたといえなくはない。  明らかに奥宮健之は焦っていた。らいらくに装っているが、その焦りが彼の言動にはっきり読み取れる。何かをやり遂げたいが、不運がいつも彼について回ってそれを崩している感じだった。工藤はまだ奥宮の詳しい過去は知らないが、聞かなくともそう感じられる。  飯野吉三郎の正体不明は一皮むくと、その正体ははっきりしている。飯野は、その詐術で顕官に取入ろうとしているだけである。丁度、淫祠邪教の行者が無知な町人や百姓を惑わすように、飯野は権力のある階級層の連中をたぶらかしにかかっている。飯野の家に住みこんで、その行状を目のあたりに見ると、学識もあり身分もある人が飯野のためにころりと参っているのだ。飯野に不思議な呪力があるというよりも、上流階級の人間に何か欠点があるようである。精神的に彼らに不均衡なところがあるらしい。これはそうした人種には共通のものらしく、そこに飯野がつけいっているようである。——これは、普通の常識では分らない。  飯野にくらべると奥宮の正体不明は、常に藻掻《もが》いているところから来ているようだ。志を得なくて結局世の中に見捨てられてゆく、友だちや知合いに突き放される、絶えず先を走っているようで、結局はいつも後に遅れて落伍する、自分でそれが分っているからよけいに足掻《あが》く。そういった感じであった。  自分は厄介者だと云いながら陋屋《ろうおく》で自棄酒《やけざけ》を飲んでいるかと思えば、そこではちゃんと洋書の翻訳をやっている。同じ不思議な人物といっても飯野とは千里の違いがある。  工藤も焦っていた。このままで一体おれはどうなるのか。やはりだんだん世間から見捨てられてゆくのではなかろうか。妙な共感から、彼は奥宮の体温を求めてゆく。奥宮と会って彼の情熱的な言葉に酔いはするが、彼と別れると、もう、むなしさが心に冷えてゆくだけだった。それでいて、やはり奥宮に会わずにはいられない日がくるのだ。  烏森神社の近くと聞いたので、それを目当てに歩いたが、なるほど、このへんは粋なつくりの家が密集している。  奥宮の名だけでは、むろん、人に訊《き》いても通じまい。女の名前は、あの隣の女房も知っていなかった。  ぐるぐるとそのへんを歩いて、ようやく蕎麦屋で見当がついた。三、四日前、こういう男が来た家はないかと訊いたのだが、それはお沢さんではないかということになった。あの人のところに三、四日前から、その人間らしい男が居ついている。現に二人分の蕎麦の出前をしたというのだった。 「そのひとは芸者ですか?」 「ああ。売れっ妓《こ》だったよ。一昨年《おととし》、パリにここから芸者が多勢出かけて行ったが、そのときにもお沢さんは組の中に入って行ってたからね」  それに間違いないと思った。いつぞや奥宮が、ヨーロッパに行った芸者の舞踊団がアメリカ人の番頭格に金を持ち逃げされて困っているところを助けたと、自慢話に云ったことがある。  奥宮とはそんな男だった。旧い民権運動の闘士でいながら、いつかほかの者は時流に乗って偉くなっている。長い間監獄に入っていたということだが、そのせいもあろうか、いつも人にくらべて損な立場ばかりに回っている。  烏森神社は広い通りから入った狭い路の正面で、その途中から横丁がいくつか分れていた。その横丁の路地の奥に教えられた家があった。工藤が外から見ると、小さなしもた屋風の二階建てだが、いかにもそうした女が住んで居そうな華奢《きやしや》な趣があった。  細い格子戸をあけると、その音で、 「どなた」  と、すぐに奥から女の声が聞えた。  奥からは色の白い女が出てきたが、工藤は水道端の隣家で聞いた女房の言葉がそのまま形に現われたような気がした。 「はあ。わたしは工藤といいますが、奥宮先生はこちらにいらっしゃいませんか?」  工藤は、すらりとしたその女を見ながら訊いた。 「あら、あなた、どこからいらしたの?」  やや警戒的な眼差だった。 「穏田に居る工藤と申します」 「じゃ、うちのひとと前からのお知合いなんですか?」 「はあ」  そのとき二階から奥宮の声が落ちてきた。 「おい、知ってる人だ。上にあげろ」  工藤と、その女とが梯子段を見上げるのが同時だったが、女が笑い出した。 「もう分ったようですよ。さあ、どうぞ」  彼女は初めてそこに膝を折った。そのしぐさには、何でもないなかに嬌《なまめ》いたものがあった。  二階に上がると、奥宮は手摺《てす》りの横に立っていて、見下ろしながら工藤を迎えた。 「やあ、よく分ったな」  今日はまるきり服装が違っていた。いつも見馴れた汚ない着物のかわりに新しい紬《つむぎ》を着て、その上に、これも仕立てたばかりの半纏《はんてん》を着こんでいる。昨日までの奥宮を想像すると、まるで人の違ったような、ぞろりとした姿だった。  まあ、こっちに入れ、と云ったのが襖《ふすま》をあけた次の間で、例の洋書がきちんと整理したかたちで積まれていた。工藤は、天井や部屋のぐるりを見回した。 「何を珍しそうに見ている?」  奥宮が笑いながら云った。 「はあ、いえ、あまり突然なものですから」 「様子が変ったので、とちめん棒を食っているのだろう。いや、実は、わし自身が少々|面喰《めんくら》っているのだ」 「先生、これは一体どうしたのですか?」  と云ったときに、女が銚子を載せた膳を運んできた。 「これはわしの女房でお沢というのだ。これから見知ってもらおう」  奥宮が云うので、工藤は女に対《むか》い、改めて挨拶をした。 「まあ、そんなおかたいことをなさらないで……」  女は気さくに笑った。奥宮とならべると、夫婦というのがおかしいくらいずっと若い。一体に年齢からいって奥宮は老けたほうだが、それだけにこの垢抜《あかぬ》けた女の若い顔が工藤の眼に眩《まぶ》しいくらいだった。着ているものもやはり堅気の素人とは違っている。 「先生には……奥さまがおありだったのですか?」  工藤は思わず訊いた。 「うむ。あったといえばあった。二、三日前に出来たといえば出来たんだ」 「…………」 「いや、出し抜けにそう云っても分るまい。君のことだから事情を話して聞かせるぜよ。なあ、お沢、かまわぬだろう?」 「あんまり体裁のいい話じゃありませんが、どうせ分ることだからご随意に」  ここで話すほうも、聞くほうも彼女の酌を受けた。 「こいつはな、こう見えても、この烏森では一流だった。それは君にも分るねや?」 「はい」 「あんた、何をつまらないことを云い出すのよう」  女が横からとめた。 「まあ、ええ。いつぞや君にも話して聞かせたが、扇芳亭の女将の宰領で烏森の芸者がヨーロッパでひどい苦労をしていたのをわしが助けた。その中にこんな女が居たきに、何となく気に入った。あとはまあ察してくれ」 「はあ」 「わしはアメリカを回ってきた。どうも日本が気に食わんことばかりでな。昔、自由民権運動をやっていたころの友だちが向うにおるきに、それを頼ったのじゃが、一つは、この女といっしょになりたかったのじゃ」 「はい」 「はいと云っても君にはよく納得がゆくまい。この女は旦那が居たのじゃ。ええか。わしといっしょになるには、そっちのほうを片づけんと具合が悪い。ところが、こうした別嬪《べんぴん》じゃきに、旦那もなかなかおいそれと手を切るとは云わん。もっともだ。わしがそんな立場になってもうんとは云わんぜよ」 「あんた……」  お沢が奥宮の話を遮るように膝をつついた。 「お前は黙っておれ。……それで、そっちのごたごたの話はこの女に任せて、一時、ま、わしはアメリカに逃げたような恰好になったのじゃ。なまじっかわしがうろうろすると、よけい別れ話のほうがこじれるきにの。旦那のほうも意地になるじゃろう。ところが、日本に帰ってもまだ話は片づいとらん。わしはこいつにいっそ逃げろと云うたが、この女も相手には大ぶん義理があるきに、そう簡単にはゆかんというのだ。それに、これでもおれにまだ望みをかけてな。将来世に出たとき、あんたの奥さんとしてうしろ指をさされないように、ちゃんときれいに片づけたいというんだ」 「はい」 「それももっともだと思って、わしはその間、水道端のあの裏長屋に独りで居たのじゃ。貧乏人の暮しを見たいと思うてな。そのうち、こっちの話がやっと片づいたきに、ここへ引取ってもらったというわけじゃ」  奥宮は笑って盃を乾し、女に渡して酒をついでやった。 「わしは一生女房をもらわんつもりでおった。若いときからああいう運動に身を投じてきたきに、いつ殺されるとも限らんきにの。それに、女房がおれば、何かと思い切ったことが出来んようになる。事実、監獄にも入ったが、その間女房の生活のことも気にかかる。そんなことでいままで女房をもらわなんだが、パリ行で魔が差したんじゃの」 「あら、魔が差したのはあなただけじゃありませんよ。わたしもそうですよ」  と、女は盃を奥宮の手に戻した。 「ま、二人とも割れ鍋にとじ蓋で、似合いの夫婦《めおと》かもしれん。どうせわしは郷党の者にも実家にも相手にされない男じゃきにの」  奥宮は肩を落して、 「長兄は親父の薫育《くんいく》よろしきを得て、いまでは司法省の役人をしている。どういう役に就いているか、ま、いずれは自然と分るにしても、いまはわしの口から云いとうない。ただ、相当偉いところに居るとだけは云っておこう。……だからありがたいことに、こういう女といっしょになっても、わしにはどこからも苦情がこん。家からはもうとっくに見放されておるでな。見放されてるといえば、わしは郷里の土佐にも帰れんのじゃ。事情があってな。べつに悪いことをしたわけではないが、ちくとした行違いからじゃ。……しかし、みんなは偉くなった。つい四、五日前に死んだ衆議院議長の片岡健吉などは、その出世組の一人かもしれんなァ」 「ああ、そうですか」  工藤も眼を瞠《みは》った。たしかに新聞にその記事が出ていた。 「大体、片岡君という男は……」  奥宮は軽蔑をこめて云い出したが、 「いや、やめておこう。死んだばかりじゃきにの」  と口をつぐんだ。 「そうですよ。一体、あなたは人さまの悪口が多すぎますよ」  お沢という女がたしなめた。 「同郷の者を批判すると、うだつの上がらんわしのひがみと思われそうじゃから、では、別なことを云おう」  奥宮が片方の肩をあげた。 「工藤君。この女の旦那だった男は、どういう人間だったと思うかな?」 「いけません、あなた!」  お沢があわてるのを奥宮は払いのけた。 「なに、構わん。もう縁の切れた相手じゃ」   新講釈[#「新講釈」はゴシック体]  奥宮が、自分の女のお沢の前の旦那が何者だったかと披露に及ぼうとしたので、工藤雄三もおどろいた。当のお沢があわてるのも無理はなかったが、奥宮は一向に構わずに、 「名前は預かっておくが、さる大名華族だ」  と云ってのけた。 「あんた、いいかげんになさいよ」  と、お沢は当惑と羞恥とをまぜた表情で奥宮を咎めた。この女の眼は、厚ぼったい二重瞼でいかにも情のこもった色だが、強《きつ》い眼になると艶《えん》が出る。  これほどの女だから相当な人物が付いていただろうとは工藤も想像していたが、まさか華族とは思わなかった。 「いやだわ、工藤さんがわたしの顔をもの珍しそうにご覧になるじゃありませんか?」  工藤の名前をおぼえて早くも口に出すところなど、やはり客あしらいに馴れた花柳界の女であった。工藤は赧《あか》くなった。 「なに、そのうち、珍しくも何ともなくなるきにの。珍しいうちに工藤君に話を聞かせたほうがええ」  奥宮は盃で唇を湿した。 「わしは華族などというのは有害な存在だと憎んでいるからな。それで、この女を頂戴したのも、その華族の鼻を明かしてやりたかったからじゃ」 「…………」 「変なことをおっしゃるのね。ただそれだけでわたしとこうなったの?」  お沢が奥宮の顔を見つめた。 「まあ、おまえさんは黙っていなさい。そういちいち口を出されると話し辛い。のう、工藤君。どうも女子《おなご》は一度でも外国に行くと生意気になっていかん。この女もパリに踊りに行って以来、どうも理屈が多うなった」 「あなた、そうパリ、パリと云わないで頂戴。せいぜい見世物になって行ったくらいじゃありませんか。はずかしくなるわ」 「分ったよ。まあ、少しは黙っていなさい。文句があるなら、工藤君が帰ってからにしてもらおうか。でないと一向に話が進展せん」 「はい、はい」 「一体に華族というのは、あれは明治政府にとっても初めから無用の長物だったのだ。いうなれば、公卿や大名どもの不平を抑えるために作った制度でな。西洋の貴族制度を見て、これだこれだと手を叩いて、早速、それに当てはめたのじゃ。皇室の藩屏《はんぺい》というが、なに、藩屏なら、それだけの実力がのうてはいかん。早い話、人民が蜂起して皇室に向った場合、それを防ぐだけの実力がのうては意味がないのじゃ。いまの華族には、そんな力は少しもないきにの。依然として旧領地の土地を所有して遊んで喰っている地主じゃ。これが皇室と人民との間の文字通り籬《まがき》になっておる。両方をへだてておる。虚栄の中間層じゃよ」 「はあ」 「その華族の仲間に、伊藤だの山県だのといった維新の頃の下級武士が加わっている。何のことはない。自分たちで作った大名たちの頭を撫でる虚栄に虜《とりこ》になったのじゃな。それに金持までが仲間入りをしたがっておる。こうなれば、皇室の藩屏も質的には変ってきた。こうした新入りの華族こそは実際の意味での藩屏じゃろう。彼らは実力がある。金力がある。人民が革命を企てたときには、これを潰滅させる実力があるでな。ほかの大名華族は単なる高等淫売じゃ。しかるに世間では、そうした華族を尊敬し、新華族をばかにしている。実質を見誤るのも甚だしいといわねばなるまい」 「はあ」  工藤がかしこまっているのを見てお沢が、 「あなた、そんなむずかしい話はいいかげんになさいよ。工藤さんが窮屈そうにしてるじゃありませんか」  と、口を入れた。 「いや、ぼくは一向に平気です」  工藤が云うのを奥宮は見て、 「そうだな。これはまた別の機会にしたほうがよさそうじゃ」  と、案外あっさりお沢の云うことを聞いた。奥宮は口ではいろいろ云っても、この女が気に入っているらしい。  彼女の旦那だったという大名華族とのごたごたが片づくまで、奥宮は陋巷《ろうこう》にひとりで引込んでいたというから、案外純情なのだ。工藤は、そう思うと、その奥宮が一夜吉原に沈没したのがおかしかった。もっとも、その縁で奥宮と親しくなれたのだ。 「ときに」  と、今度は奥宮のほうが話を変えた。 「君に訊こう訊こうと思っていたんだが、この前飯野さんのところに行ったとき、書生が下田歌子の来たことを取次いでいたようだが、下田歌子は飯野さんのとこにたびたび来ちょるのか?」  とたずねた。 「はあ、だいぶんたびたびのようでございます」 「そうか。あの気位の高い女が自分から飯野さんのところにくるようでは、飯野さんも相当なものじゃな、下田歌子という女は、わしもいろいろ素行について聞いている。世の中には面食いという言葉があるが、あれは地位のある男に無性に色を売りたがる。聞くところによると、伊藤の次は山県じゃそうな」 「…………」 「だが、地位も何もない町の予言者のところに彼女が押しかけてくるのは、飯野さんの予言がよほど気に入ったとみえるの」 「そうらしいです」  工藤は、米村から聞いた飯野と下田歌子の関係を口に出したくなかった。また、その飯野が、あの屋敷を譲り受けた外松少将の娘に手をかけていることも黙っていた。やはり世話になっている飯野の悪口は云いたくない。 「先生、このまえ飯野先生に会われたとき、飯野先生のほうではだいぶん先生の人物を見込まれていたようですが、いかがですか?」  工藤は奥宮の感想を訊いた。 「とにかく、あの飯野という男からは妖気が発散している。わしの眼の前で、あれはわざとだろうが、児玉源太郎将軍に電話をかけたところなどはうまいやり方だ。あの手でほかの人間を眩惑しておると思ったな。それでいて、あの場では少しも厭味を覚えなんだきにやはり不思議なところがある。実際、児玉将軍と昵懇《じつこん》にしてなければ、あんな電話はかけられんきにの」 「はあ」  工藤はうつ向いたが、その飯野のからくりも大体彼には想像がついていた。そうした飯野の電話のたびに一番古い書生の小野が奥の一間に駆けこんでゆくのだ。しかし、それも工藤は奥宮には云えなかった。 「あれも何かい、下田歌子が山県を籠絡《ろうらく》して、山県を通じ児玉に飯野を会わせたのかな?」 「そのへんのところは、どうもぼくには分りかねます」 「多分、そういうことじゃろうな。それにしても、いくら上から押しつけられたところで嫌いな者は寄せつけまい。児玉が飯野を近づけるのは、それだけ飯野に妙な魅力があるからじゃろう。実をいうと、わしもあれは面白い人物という気がした」 「飯野先生は、今後も奥宮先生にずっと近づきになりたいようなふうでしたが」 「わしを引きつけて、わしの口から社会主義者たちの動静を聞こうという魂胆じゃ。それは見え透いている。飯野は何もかも例の神様の予言と云っているが、秘密な材料《ねた》は別に持っておかんと、いかに神様の云うことでも的はずれになるからな。飯野がこれから上層階級に食い入って行くには、それだけ社会主義者どもの動きを知りたいわけじゃ」 「すると、先生はそれが分っていて、逆に飯野先生を通じ、上層部の動きを掴もうとなさるのですか?」 「そう思わないでもないが、まあ、もう少し飯野は警戒したほうがよかろう。どうも気味が悪い」 「ぼくもそう思います」  と、工藤は同感だった。奥宮のように複雑な性格の男は逆に飯野の虜《とりこ》になる可能性がある。工藤は、この仲間はずれにされた、気のいい社会主義者を間違った道に踏みこませたくなかった。  それにつけて思うのは、新聞で見た万朝報《よろずちようほう》の脱退組だった。幸徳秋水、堺枯川などが新しい新聞を近く出すように報じられている。そのことを工藤は奥宮に訊いた。 「それは着々と出来ているようだ」  と、奥宮は、その動きを知っていて、 「この前、街でひどく忙しそうにしている幸徳と往き遇ってな。そのときの話だが、新しい新聞は平民新聞という名前をつけたそうじゃ。近く発刊の運びに漕ぎつけたので、わしもときどき何か書いてくれぬかと頼まれた」 「では、その同人にでもなられるんですか?」 「いや、ぼくのような者が出て行っては毛色が違うので、こっちで遠慮したい。平民新聞には、幸徳、堺のほか、山根|吾一《ごいち》、柿内《かきうち》竹次郎が編集責任者になったそうだが、そのうち、万朝報にいる石川三四郎や、二六新報にいる西川光二郎が参加するらしい。そのほか、木下尚江、安部磯雄といった耶蘇《やそ》信者も加担するというから、だいぶん賑やかになる」 「金のほうはみんなで都合をつけたんですか?」 「なに、そんな金持がおれば社会主義などは唱えはせん。金主は、中江兆民の友だちで小島という男がおるが、これと加藤という医者じゃ。名前も平民社と名づけて、有楽町に一軒借りたそうだ」 「早速、当局の弾圧を受けませんか?」 「そりゃ当然に考えられる。なにしろ、連中は戦争反対をモットーとしておるからな。もっとも、中にクリスチャンも入っていることでも分るように、人道主義者が交っているから、紙面の上では幸徳などの主張がそう鋭く出るとは限らん。だが、なにせ、政府としては真向から戦争反対を唱える新聞が出来たというのはたしかに目障りになる。七博士の場合は政府と狎《な》れ合いでやって、表向きには七博士の謹慎ということで世間体をごまかしたが、平民新聞は真物《ほんもの》じゃ。……わしが平民新聞の性格はどういうところにおくのかと幸徳に訊いたら、あれはこう云いよった。平民、新平民は黄金によらず、権勢によらず、文字によらず、ただ一人の人間として社会に立っている。これがわが同胞中最も神聖なものとして平民新聞は彼らを敬愛している。そういう連中に読んでもらう新聞を作るというのじゃ」 「…………」 「忙しいさなかに幸徳は、第一号に載せる文句までぼくに云って聞かせた。曰く、平民新聞は伊藤博文氏という一人あることを聞くも伊藤侯爵という物体あるを知らず。岩崎弥太郎という一人あることを聞くも岩崎の御前という物体あるを知らず。開戦を主張する七人あるを聞くも七博士という物体あるを知らず。何位何爵何博士何学士あるを知らず。平民新聞は人を人として遇し、動物を動物として遇し、人面獣心を人面獣心として遇す……まあ、ざっと、こういった調子じゃ。幸徳は、今度は思うままに書ける、自分たちの新聞じゃから何の気兼ねなしに書けると、えらく意気|軒昂《けんこう》としておった。いまに売行きが万朝報を抜くような口吻《くちぶり》だったが、それも彼の云う敬愛する平民どもがわれわれの新聞だと思って争って購読するというんだな」  奥宮はつづけた。 「なに、それほど売れはせん。官憲の干渉もさることながら、そんな立派な新聞を作っても、読者が高度な教育のない平民では、向うから敬遠されよう。幸徳には、そのへんのところが分らん。あの男は理想主義者じゃきに。一体、そんな新聞をだれに読ませようというのぜよ。平民に読ませるなら、平民向けの新聞を作らんと意味があるまい。むつかしいことを書いても、読んでくれるのはほんの一握りの連中じゃきにの」 「…………」 「人民は貧乏に痛めつけられているきに、ろくに教育は受けておらん。教育のない人間には、それに似合うた新聞を作ることじゃ。それで、ぼくが幸徳にそのことを云うと、あの男は小説のほうも用意していると云うた。一体、そんな新聞にだれが書くのかというと、これまでの小説では物足らんきに、一般からの懸賞で新人を募集すると云うていた。それもええが、どうも懸賞小説でやってもそれほどの効果はあるまい。どんなものが集まるかおよその見当はつく。それよりも講談を載せたらどうかとわしはすすめた」  そういえば、奥宮が先醒亭覚明(専制と革命)と名乗って寄席に出ていたというのを彼の口から聞いたことがある。工藤がそれを思い出すと、奥宮はやはりそのことにふれた。 「ぼくが先醒亭覚明という講釈師になったのは、政談演説を講釈に仕組んで、まず眼に一丁字《いつていじ》もない連中に耳から社会主義を吹込んでやろうと企んだのじゃ。これは大いにうけたな。主に加波山《かばさん》事件や秩父騒動、名古屋事件といった自由民権運動を話したが、県庁の役人や警察官が人民どもにやられるところにくると、やんやと客の拍手じゃ。もっとも、そのとき間髪を入れず、臨監の警官が弁士中止と云いよったが、講釈師に弁士中止も妙な具合じゃ。しかし、わしのまわりには座蒲団や莨入《たばこいれ》の山が築かれたよ」  奥宮健之は当時を思い出してか、大そう機嫌のいい顔色になった。 「なにしろ、名古屋事件などはぼくが当事者だからな、話すことに熱が入る。講釈師見てきたような嘘を云い、という川柳があるが、ぼくの場合は文字どおり見てきた本当の話じゃ……」 「またご自慢がはじまりましたね」  と、お沢が銚子を傾けながらひやかした。奥宮も酒がまわるにしたがって調子が出てきた。 「その頃の講釈をこいつにも語って聞かせたがな。そんなわけで、新聞にはつづきものでぜひ講談を入れろと、幸徳にすすめておいた」 「で、どうでした?」 「やつは、いまも云う通り理想主義者じゃきに、いい意見を聞いたと、ぼくの前ではうまいことを云ったが、顔をしかめておったぜよ。あれではモノにならん」  奥宮は盃を宙に持って、何か思いついたように首をかしげていたが、 「おう、そうだ」  と、その盃をとんと置いた。 「平民新聞には、そんな自由民権運動などネタにしてもうけまい。幸徳の、伊藤博文という一人あるを聞くも伊藤侯爵という物体あるを知らずという文句で思い出したが、ひとつ、伊藤と下田歌子の濡れ場を講談に仕立てたら、こりゃ大向うにうけるじゃろう」 「あんた、つまらないことを云わないで下さいよ」  と、お沢が軽く彼の手を叩いた。 「待て待て。いまぼくには、その文句まで泛《うか》んできている。伊藤という男は芸者ばかりが相手で、それも一人と決めてなく、つまみ食いばかりだそうだが、下田歌子にはえらく参ったようで、彼女とは相当長くつづいとったそうだ。そこでじゃ、外題《げだい》もちと古臭いが、雲井春恋歌柴垣《くもいのはるれんかのしばがき》……春は伊藤の春畝《しゆんぽ》を利かせとるところがミソだ。ちゃんと春と歌とが仲よく詠みこんであるきにねや」  と奥宮は満足そうに云ったが、ふいに奇妙な声を張りあげた。 「……昔で申す傾国の美人は小野小町、才媛といえば清少納言と相場のきまったもの、それを今風に兼ね備えたのが下田歌子女史でございますな。才色兼備とは歌子女史にして初めて奉る言葉で、その上、女だてらに正五位をかたじけなくしておられるというから大層なお方。正五位といえばお稲荷さまには及びもつきませぬが、日本第一の大忠臣|楠正成《くすのきまさしげ》も湊川《みなとがわ》で討死されて初めて正五位を贈位されておりますから、その値打は分ろうというもの。宮中に仕えたという紫式部も清少納言もこれほどの権勢はございません。かてて加えて学習院の女子部の部長をつとめ、かしこきあたりからは絶大なご信任をうけ、さらに華族の女子教育を監督なされ、あるいは実践女学校の校長をつとめ、そのほかにも、やれ会長とか、やれ幹事とか、東奔西走なさいます凛々《りり》しいお姿は、天下の婦女子の羨望の的でございます。その下田女史、すでに五十路《いそじ》の坂にかからせ給うたが、どうしてどうして、貧乏で苦しむ長屋のおかみならとっくの昔に皺くちゃ婆ァの組入りでございますが、そこは栄耀栄華で暮す結構なお身分、前髪は存分に廂《ひさし》を高くなされ、匂うばかりの豊頬柳眉《ほうきようりゆうび》はまこと三十路《みそじ》の半ばかと思うくらいのしたたるばかりの媚《こび》でございます。この人に眼尻を下げたのが伊藤|狒々《ひひ》侯で、下田女史に逢うたびに必ず、下田さんは大臣になる器がおありです、とオベンチャラを云うから、下田女史もつい自惚《うぬぼ》れが募り、狒々が可愛い男に見えようというものでございます……どうじゃ、こんな調子では?」  と、奥宮はお沢と工藤とを見て大笑した。   つづきもの[#「つづきもの」はゴシック体]  奥宮健之が工藤雄三に云ったように、堺枯川、幸徳秋水らの平民新聞は、その年十一月十五日から発行された。全国の新聞がこぞってロシヤ膺懲《ようちよう》の主戦論を主張しているとき、平民新聞ばかりは非戦論を正面から唱えた。  たとえば、こんな調子である。 「時は来《きた》れり。真理の為に、正義の為に、天下万生の利福の為に戦争防止を絶叫する時は来れり。……嗚呼《ああ》、朝野戦争の為に狂せざるなく、多数国民の眼はこれが為に晦《くら》み、多数国民の耳はこれが為に聾《ろう》する時、ひとり戦争防止を絶叫するは隻手江河《せきしゆかうが》を支ふるよりも難きは吾人《ごじん》これを知る。しかも吾人は真理、正義の命ずるところに従つて信ずるところを云はざるべからず、絶叫せざるべからず。すなはち、今月今日の平民新聞は第十号の全紙面を挙げてこれに充《あ》つ」  その熱気は毎週の紙面に溢れていたが、何としても文章が硬い。一般国民には縁遠いものだった。  翌年二月に戦争が始まると、 「行け従軍の兵士。吾人今や諸君の行を止《とど》むるに由なし。諸君今や人を殺さんが為に行く。然らざれば人に殺されんが為に行く。吾人は知る。これ実に諸君の希《ねが》ふところにあらざることを。然れども兵士としての諸君は単に一個の自動機械なり。体躯《たいく》の自由を有せざるなり。諸君の行くは諸君の罪にあらざるなり。英霊なる人生を強て自動機械となせる現時の社会制度の罪なり。吾人諸君と不幸にしてこの悪制度のもとに生るを如何《いかん》せん。行け、吾人今や諸君の行を止むるに由なし」  といった記事を載せた。  つづいて戦時増税が発表されると、「嗚呼、増税」の一文でこれを弾劾した。  しかし、いかにも文章が硬く、いわゆる「平民」が読むにはむずかしすぎた。 「どうも、幸徳たちの見当が少し違うようだな」  と、奥宮健之は、訪ねて行った工藤に云う。 「これじゃ、だれのために読ませる新聞を作っているのか分らない。ほんの一握りの高等教育をうけた人間だけに読ませても仕方がない。そういう連中は結局傍観主義で、平民の味方ではないからな。これじゃ新聞も売れまい。いまに潰《つぶ》れるよ」 「では、どうしたらいいんです?」  工藤が訊いた。 「もっと文章を面白くしなければなるまい。わざわざ銭を出して読むのだから、思想の押売りだけではだれも買いはせん。たとえば、ぼくがこの前云ったように、面白いつづきものを載せるのも一つの方法だ」 「でも、これには小説らしいものが載ってるじゃありませんか」 「そんなものは駄目だ。こんな生ぬるいものより、もっと度胆《どぎも》を抜くような内容にせんと人の注意を引かんよ」 「では、いつぞや先生が云われたように、下田さんの私行のようなことですか?」 「うむ。君はまだあれをおぼえているな。ああいうものがいい。今度幸徳に遇ったら、ぜひ、そういうものをやれと云っておこう」  奥宮健之は不思議な人物で、戦争が始まっても烏森の例の二階に泰然としていた。書きつづけている翻訳もいつ出来上がるか分らない。もっとも、こんな時世では出版を引受ける先はない。  例のお沢がまた芸者に出て、その稼ぎで奥宮は食べているらしい。これが工藤にはよく分らない。口を開けば、貧乏人が可哀想だとか、為政者が横暴だとか云うが、自分自身は女の稼ぎで坐食しているようなものだった。 「どうじゃ、下田女史は相変らず飯野さんのところに通っているか?」 「近ごろは下田さんもいろいろと忙しくなったようで、前ほどではありませんが、それでもやはりお見えになっています」 「くると、どんなことをしている?」 「…………」 「少し、よく観察してみたらどうだな。もし、平民新聞でそうしたつづきものをやりたいという話があったら、早速、だれかが君のところに材料をもらいに行くかもしれないよ」 「先生、それだけは勘弁して下さい」 「どうしてだ?」 「いいえ、ぼくもああしてお世話になっている以上、そんなことは出来ません」 「なるほど。では、古い話をまとめるよりほかあるまい。ところで、どうだ、飯野さんはやはりほうぼうを飛び回っているか?」 「戦争が始まってからは、いよいよお忙しいようです」 「ああいう男こそ本当の怪物だろうな。いまに日本の政界は飯野の手玉に取られるようになるかもしれないよ」 「わたしにはよく分りませんが、だんだん近ごろは、つき合いが上層部の人たちだけになってゆくようです。それも有名な偉い人ばかりです」 「君はどうしてそんなところにいつまでも居るのだ? 何だったら、ぼくの兄貴に頼んでやるきに、いいところを世話してもええぜよ」 「いや、ぼくはあすこで結構です。教員になろうと思えば免状ももらいましたが、いまさら郷里《くに》に帰る気はしません」  哲学館問題は、その後ほとぼりが冷めてから、文部省が改めて全卒業生に中等教員免許状を与えた。だが、工藤は教師になる情熱を失っていた。 「何か穏田《おんでん》でええことでもあるらしいな」  と、奥宮は笑ったが、それ以上に深くも訊かなかった。  週刊平民新聞は、戦争がはじまると当局の弾圧を激しくうけるようになった。たとえば、「嗚呼、増税」を掲載したというので告訴され、発行兼編集責任者だった堺利彦(枯川)は禁錮三カ月に処せられて下獄した。新聞もまた当分発行を禁止された。  つづいて忠君愛国教育を悪口したという理由で朝憲|紊乱《びんらん》の罪に問われ、幸徳と西川光二郎とが軽禁錮七カ月と五カ月をそれぞれ云い渡された。また、本邦初訳の「共産党宣言」の訳載も発行以前に発売を禁止された。  だが、それにもめげず発行をつづけたが、遂に資金に詰ったのと、相次ぐ発売禁止、下獄、印刷機の没収などで廃刊せざるを得なくなった。  だが、その後、雑誌「直言」が新しく出て、次の日刊平民新聞につなぐ役目を果した。  ロシヤとの戦いは終結に向った。その中で「直言」は廃刊したが、戦後の明治四十年の一月になって日刊平民新聞が新しく発行された。創刊号では、多数の労働者、小作人、平民、婦人の権利と利益を代弁すると宣言した。  紙面も週刊時代よりはずっと柔らかくなった。たとえば、「舶来乞食」という新講談が連載され、若い白柳秀湖《しろやなぎしゆうこ》も、ロシヤ小説の翻案「枯野の幻」を掲載しはじめた。  だが、これらはいずれもまだ「平民」にはなじみがうすかった。すると、突然、「目白の花柳郷」という、上流階級の子女が入学している女子大の暴露ものを出しはじめた。「女子大学の真相……黄金魔成瀬」「貧民学生の放逐……絹服の強制」などという小見出しを見ただけでも、その内容は分る。  しかし、これでもまだ漢文調で硬い。  すると、四十年二月三日から、奥宮健之が「治国平天下はパン問題の解決にあり」という「通俗講話」を平民新聞に発表した。 「治国平天下の本義はまずパン問題の解決にありと申さば、いかにも下品|賤劣《せんれつ》のようにも聞えますが、その実、パン問題、すなわち人間の胃の腑《ふ》の要求ほど世に猛烈な動機はありますまい」  この書き出しを読んだとき工藤は、遂に奥宮がいつもの持論を文章で実現させたと思った。 「……疑う諸君は、一日市街の中央に立って往来頻繁の光景を一見するがよい。馬車、人力、電車、自転車、テクテク歩行《あるき》、朝から晩まで東西南北に狂奔|熱馳《ねつち》するところの有様は、まるで修羅の戦場ではありませんか」  これは講談調だ。奥宮がいつも云う平民に読ませる文章であった。  ところが、その月二十四日から「妖婦《ようふ》下田歌子」という連載ものが同じ新聞で始まったのを見て工藤は、奥宮の云ったままが紙面に現われたように思った。人の度胆を抜くような暴露読物がいいと、彼は語ったし、これは何度も幸徳に力説したと云っていた。  工藤が読んでみておどろいたのは、別に名前も変えてなく、また伏字も一字もないことだった。  その第四回から読んでみた。  ≪歌子と剣客の結婚[#「歌子と剣客の結婚」に傍点] 大宮仕えに何年間かをすごした歌子は、二十二の年を迎えた明治十二年、粉雪降る頃、はじめて鴛鴦《えんおう》の衾《ふすま》を囲んだ夫というのは下田|猛雄《たけお》といって千葉県人、田宮流の達人島村|勇雄《いさお》の高弟で、彼はしばらく歌子の実父の家に食客となったことがある。そのとき父母のめがねで歌子と許婚者《いいなずけ》になったのだ。  結婚後は猛雄が道場を麻布に設けたが、歌子は多年大宮仕えの風流に馴れてものしとやかなのに、夫は猿《ましら》のごとく荒くれている。遂に夫が中風に罹《かか》って病床に倒れたのを機会《しお》に彼女は麹町《こうじまち》一番町に塾を開いて、当時ときめく華族や富豪の令嬢を寄宿させた。そこで和漢の学および和歌、習字を指南したが、何しろ、女流第一の噂高い歌子を慕って入学する者も多かった。  彼女を見染めた博文[#「彼女を見染めた博文」に傍点] 「へん、明治の参議だと癪《しやく》にさわらア。長州辺の足軽上り、花魁《おいらん》と芸者の区別も知らず、酒でも呑むとすぐに下《しも》のことばかり詮索する色餓鬼め」とは亡国の遺臣|成島柳北《なるしまりゆうほく》が巻舌《まきじた》で伊藤博文を罵《ののし》った言葉。当時伊藤は嵯峨《さが》の屋|御室《おむろ》、新柳二橋でさえ弾けぬ撥《ばち》だこより枕だこを名誉とする淫売芸者のお臀《しり》を追っていたが、こってりした料理のあとには蜜柑《みかん》のほうが口にいい、商売人より素人もまた格別と、しきりと素人女を選《よ》り出すうち、下田歌子は早速博文の眼にぶら下がった。  博文はつくづく思った。楊大真《ようたいしん》は玄宗《げんそう》の寵《ちよう》を得てその美いよいよ加わり、クレオパトラはシーザーの後宮となってその婉《えん》ますます添えたとか。下田歌子もたかが知れた中風の剣客の家内となって糠味噌《ぬかみそ》臭き世帯女房となるのが可哀想である。われ伊藤博文の御意にさえ従わば女冥利《おんなみようり》に尽きるはずだと、塾の世話にかこつけて博文はたびたび歌子を訪れた。  歌子は、伊藤の黄濁色の顔面に眼尻が下がり屠牛場《とぎゆうば》の雇人とでも言いそうな醜怪|卑牢《ひろう》な顔を嫌って「伊藤さんのような人はいやでなりませぬ」と、会う人ごとに語り伊藤がきても留守を使い、隠れて伊藤とは会わぬようにしていた。  伊藤は、嫌われる女はさらに忘れ難く、日毎夜毎に歌子のことを思いつづけて、遂には自分の名では歌子を呼んでもこないと諦め、山県有朋の名を借《かた》って、一夜歌子を青山の某実業家の別荘に俥で呼び寄せた≫  次が三月一日付の第五回。  ≪術中に落ちた歌子[#「術中に落ちた歌子」に傍点] 歌子は山県参議よりの用事とは何事かと、とるものもとりあえず青山の某実業家の別荘に行くと、案内された応接間は八畳ばかり。紅緑紫黄《こうろくしおう》の花色絨氈《はないろじゆうたん》を敷詰めて、大|卓子《テーブル》には七宝焼《しつぽうやき》の花瓶に白梅一枝を入れたるのみ。歌子は安楽椅子に腰を下ろして、今か今かと待ちわびたが、一向に山県は現われない。いつか日は昏《く》れて洋灯《ランプ》はともされ、燦然たる光を応接間に投げた。  歌子は女ひとりでいつまでもここに止まってはいられない。病床に呻吟《しんぎん》している夫のことが気にかかったので、今夜は失礼して自宅に帰り、他日を約束しようと心定め、山県宛の置手紙を書こうと、卓子の上に載せた浪に千鳥の蒔絵《まきえ》の硯箱《すずりばこ》を開いたところ、これはしたり、歌子の双頬《そうきよう》は火のごとく、顔は驚駭《きようがい》と恥辱に輝いて、忽《たちま》ち硯箱を閉じた。すなわち、知る人ぞ知る。これこそ紳士閥の輩《やから》が無聊《ぶりよう》を慰める閨房《けいぼう》の秘戯を描いた絵巻物であった。  歌子は、今はいかがせんものと、思いわずらううちに、「下田さん、よく来ちょってくれたな」と、長州|訛《なまり》で扉をあけて入ってきたのは山県有朋でなく伊藤博文。酒気|芬々《ふんぷん》とした様子だが、生酔い本性を失わず、扉の鍵はちゃんと閉じて、そのけだもののごとき手で歌子の手を取ろうとする。「あなた、何をなさいます?」と、歌子は白バラのような頬に憤りをおびて、細い手でもって反抗しようとしたが、羊は遂に狼の敵ではなかった。鳩は遂に荒鷲《あらわし》と闘うことはできなかった。嗚呼、死に瀕する夫を看取りする良き妻たる二十六歳の歌子は、遂に花の操を蹂躙された。  濡れぬうちこそ露をも厭え[#「濡れぬうちこそ露をも厭え」に傍点] 歌子は青山から麹町に帰ったが、わが部屋に閉じこもって一度は死を決したが、何度泣いても再び純潔な婦人となることは叶わない。それよりも大いに不貞腐《ふてくさ》れて伊藤に復讐し、存分にもてあそんでくれようと、二十六歳の年若き婦人にはおそろしい心が芽ざした。高橋お伝は癩病の夫を救うために、悪周旋人にあざむかれ淫売婦となり、女賊となったではないか。下田歌子のこの一ページは熱き涙に値する。  されば、夫が十七年五月に病死すると、猛然として心臓はとどろき、恋愛を軽蔑して、野心を礼拝すべき「欲」と「名」の悪魔に依って新しい洗礼を与えられた。彼女は遂に邪径《じやけい》に入ったのである≫  次がその第六回。  ≪歌子を娼妓の如くす[#「歌子を娼妓の如くす」に傍点] さても伊藤博文は歌子の花の蕾を破ってから、かねて親しくしていたおのれと共に長州の三尊と呼ばれる井上|馨《かおる》、山県有朋にこれを打ち明けたから、両人とも伊藤ばかりにその艶《えん》を占め、その美をとられるのは東海国の粋《すい》のおきてを知らぬものよと、歌子の夫の死去の悔みにかこつけて歌子に遇う機会をつくり、俥して歌子を訪うては夜の一時二時ごろまでは官邸に帰らなかった。三鞭《シヤンペン》、葡萄の佳酒は歌子の酌に盛られ、甘美なる肉は歌子にすすめられ、杯盤|狼藉《ろうぜき》、花々乱れて風俗壊乱の一幕を以て、その芝居はひとまずハネル都合であった。  立身出世の道のみ[#「立身出世の道のみ」に傍点] 歌子はいかにして栄達を図り、栄誉をむさぼらんかとただはかなき虚栄心に伊藤や山県や井上を親友の如くに女流教育家に言いふらしていたが、陸奥《むつ》宗光《むねみつ》や松方正義もその道には剛の者だから早くも歌子に近づいてきた。歌子は彼らを言葉巧みにあやつり、七|擒《きん》七|縦《しよう》の術を揮《ふる》っていた。  品川弥二郎と歌子[#「品川弥二郎と歌子」に傍点] 品川はよく歌子を訪問していたがその用向《ようむき》が終れば怱々《そうそう》に席を起って帰宅するので、歌子も品川だけは色仕かけで陥落させることはできなかったという。品川は内務大臣のときは西鶴全集の発売を禁止したほどの頑冥連中のようだが、男女問題には比較的進歩の意見を持っていたので、常に歌子を訪問していたのである。  井上毅の求婚を拒む[#「井上毅の求婚を拒む」に傍点] 歌子は夫の死後、例の伊藤の世話で再び宮内省に勤め、年俸千円の奏任待遇の女官となっていたが、当時伊藤の幕中にあって秘書の任に当り、博大な学識と才華を以て海内《かいだい》にさきがけする秀才と目されたのは井上|毅《こわし》であった。彼も独身の寂しさに堪えず、仕えた美目《みめ》よき女中に手をつけて孕ましたこともあった。これではならずと自らも大いに考え、早く結婚するにこしたことはない、それには女秀才の誉《ほまれ》ある下田歌子こそ恰度《ちようど》よかろうと、親分博文に語り、博文の妻梅子を介して彼女に結婚の申込みをした。  歌子のほうでは井上如きはバカにしてかかっておるから、燕雀《えんじやく》安ぞ鴻鵠《こうこく》の志を知らんやと、その意気の大なるを見せてくれようと、彼女はマンマと井上の求婚を拒絶した≫  その第七回。  ≪三条実美の寵を受く[#「三条実美の寵を受く」に傍点] 歌子は宮中に出ると元田永孚《もとだえいふ》には漢学を習い、高崎|正風《まさかぜ》には国学をおさめ、仏学は鈴木貫一の手ほどきで研究してきたが、下田サン、下田サン、とこの学問のある美人の噂は華族間に喧《かしま》しかった。さきの太政大臣三条|実美《さねとみ》は、そのころ華族会館をつくっていたが、歌子に一目惚れし、歌子もまた相手にとって不足なしと、マンマと三条実美の手活《てい》けの花とはなった。花盗人は頬かぶりして垣根のあたりを窺うに、それをも心づかず、こればかりは麿《まろ》が所有物《もちもの》と庭に出ずる青公卿《あおくげ》こそ哀なる次第であった……≫  この新聞が出たころ、下田歌子が血相を変えて穏田の飯野邸に俥を乗りつけた。——   禁止方法[#「禁止方法」はゴシック体]  下田歌子は人力車を降りると、いつもの落ちつきに似ず足早に玄関に入って、書生の小野を呼び立てた。 「飯野先生は居ますか?」  小野は、日頃の様子と違う歌子におどろいたように、 「ただいま、神様の間でおつとめをなさっていますが……」  とおそるおそる告げた。 「それでは、早く済ませるように、あなたから云って下さい」  歌子は靴を脱いだ。この屋敷では彼女に限り、飯野への取次は無用となっていた。  書生工藤雄三は、小野が案内する下田歌子と廊下ですれ違ったが、彼がわきに寄って頭を下げていると、歌子が、 「小野さん、あんたは先生を早く呼びに行ってらっしゃい」  と命じた。小野が工藤に、 「では、下田先生をお座敷に」  と云いつけ、自分はあわてて神様の間に足早に行った。  工藤は小野に代って歌子をいつもの飯野の部屋に導いた。べつにその必要はないが、下田歌子という貴婦人に対する敬意から、この屋敷ではその形式が必要であった。  その歌子は工藤のすすめる座蒲団の上に坐って小さな扇を出し、苦しそうにばたばたと胸の前をあおいでいたが、 「飯野先生は、いつから神様の間に入っておられるんですか?」 「はい、もう、一時間ぐらいになります」 「それじゃ、すぐに済みますわね」  と、息づかいもせわしい。いつもとりすました彼女が今日は異常に昂奮していた。  工藤があと退りして出ようとすると、 「あ、書生さん、お茶よりも水を頂戴」  と、歌子はふりむいた。工藤がその通りに持ってくると、歌子はコップの水を一気に飲んだ。 「おかわりを……」 「もう結構です」  そのとき廊下に足音が聞えて杉戸があいた。 「これはおいでなさい」  と、飯野が顎鬚《あごひげ》を撫でながら悠然と入ってきた。工藤も小野も廊下から遁《に》げた。  飯野は座蒲団の上に坐って、 「今日はまた何か急用ですか?」  と、歌子に笑いかけた。だが、歌子のほうでは、あらぬかたへ眼をやって肩で呼吸《いき》をしていた。顔色も蒼《あお》いのである。  飯野は当惑した。彼女がなぜこのように昂《たか》ぶっているのか、その原因に見当がつかない。整った、美しい女だけに、その忿《おこ》った顔に凄味《すごみ》があった。  飯野としても、うかつに先に口は切れなかった。彼は彼なりに歌子の立腹があるいは自分に原因があるのではないか、小間使としておいている外松少将の娘との関係が彼女の耳に入ったのか、あるいは、別の女のことかと、気もそぞろであった。 「飯野さん」  歌子が顔を戻すなり、きつい眼を真直ぐ彼に向けた。 「はあ」  飯野は胸の騒ぎを抑えてとぼけた顔をつくった。 「あなたは……この新聞を見たことがありますか?」  歌子は手提げの中から折りたたんだ新聞をとり出し、彼の前へ押しやった。飯野がひろげて見て、 「ほほう、平民新聞ですな」  と、題字を見てつぶやいた。 「幸徳秋水、堺枯川などといった社会主義者が今度また出直して出した新聞ですが、なんでも、いくら官憲に弾圧されても性懲《しようこ》りもなくつづけているそうですな」  と、彼は眼にふれた活字を眺め、 「社会革命の煽動者。欧洲の革命運動……なるほど、これは物騒な新聞だ。革命のことばかり書いてあるようですな」  と、下田歌子を見上げた。 「そんなところには用事はありません」  彼女は横を向き、もどかしそうに、 「その次をあけてごらんなさい」 「次ですか。労働者の心得。日本の社会主義史。検事局出頭の記、これは秋水が書いたんですな。この前から何度も検事局に引っぱり出されているので、馴れているとみえますな」 「飯野さん、あなたはどこを見ているんです?」 「は?」 「そのへんのどこかに何か書いてあるでしょう」  歌子は叱るように云った。  飯野は視線を紙面に配っていたが突然、眼をむいて、あ、と声を出した。 「ううむ」  と、彼の口からひとりでに呻《うめ》きが洩れた。 「「妖婦下田歌子」と出ていませんか?」  歌子は唇をふるわせていた。 「うむむ。術中に陥った歌子だと……」  飯野は活字に眼を吸いよせた。 「……歌子《うたこ》は山県参議《やまがたさんぎ》からの用向《ようむ》きとは何事《なにごと》ぞやと、とり急《いそ》ぎて青山《あをやま》なる某実業家《ぼうじつげふか》の別荘《べつさう》に向《むか》ひたるに、案内《あんない》されたる応接間《おうせつま》は八|畳《でふ》ばかり、紅緑紫黄《こうろくしわう》の花色絨氈《はないろじゆうたん》を敷詰《しきつ》めて……」  そこまでは飯野も声を出して読んだ。だが(「下田《しもだ》さん、よく来ちよつてくれたな」と扉《とびら》を排《はい》し来《き》たれるは山県《やまがた》にあらずして伊藤博文《いとうはくぶん》、酒気芬々《しゆきふんぷん》たる様子《やうす》なれども生酔《なまよ》ひ本性《ほんしやう》を失《うしな》はず、扉《ドア》の鍵《かぎ》はちやんと閉《し》めて、その獣《けだもの》のごとき手《て》をもつて歌子《うたこ》の手を取らんとする。「あなた、何《なに》をなさいます」と歌子《うたこ》は白薔薇《はくしやうび》のごとき頬《ほほ》に憤《いきどほ》りを帯《お》び、繊腕《せんわん》をもつて反抗《はんかう》せんとせしが、羊《ひつじ》は遂《つひ》に狼《おほかみ》の敵《てき》にあらざりき。鳩《はと》は遂《つひ》に荒鷲《あらわし》と戦《たたか》ふことあたはざりき。嗚呼《ああ》……)  という活字になると、彼も声を殺し、生唾を呑むほかはなく、あとはただ眼だけが行を追った。 「うむ、これはひどい」  と、飯野は新聞を捨てて歌子に眼をあげたが、その顔は活字にある通り、「白薔薇のごとき頬に憤りを帯び」て眼の前に据わっていた。 「飯野さん、あなたはそれを読んでなかったのですか?」  歌子は飯野を責めるように云った。 「はあ、こういう新聞はどうも」  飯野はへどもどして答えた。 「ごらんなさい。それはつづきものですよ。いま、あなたが読まれたのは五回目ですよ」 「はあ、いや、実に怪しからんです」 「これをごらん遊ばせ」  歌子はあとの三、四日ぶんを重ねて飯野の前に投げ出した。飯野は、血走った歌子の頬をちらりと見て、その新聞を次々にひろげた。 「妖婦下田歌子」は正確につづいていた。小見出しを拾っただけでも「天下の『閨《けい》』秀《しう》歌子を推す」「歌子の舞踏狂」「交際社会の女王」「総理大臣官邸の仮装会」などと、読まないでも、その内容が分るような字句であった。 「これは、ひどい。これは、ひどい」  飯野も顔に血を漲《みなぎ》らせた。 「面白半分の曲筆舞文も極まれりというところですな。まるでごろつき[#「ごろつき」に傍点]だ。いや、下田先生、これを書いたやつは、無頼漢よりまだ暴力的な社会主義者ですから論外です」 「論外だから、そのままにしておけとおっしゃるのですか?」 「いや、そういうわけではありませんが……」 「飯野さん、この侮辱した読みものは、あとどのくらいつづくか分りませんよ。まだまだ、やっと七回か八回目ですからね」 「うむ」 「その新聞をわたくしに見せてくれたのは華族女学校の或る先生です。わたくしにそっと教えて下さったのですが、それだけでも、その方はずいぶん勇気がいったとおっしゃっていました。わたくしに気を兼ねて黙っていらっしゃる方もずいぶん多いと思います。こんな赤新聞を読む者は少ないにしても、これではあんまりです。わたくしは、こんな屈辱をうけたことはありません。かりそめにも宮中にお出入りし、華族の子弟をお預かりしている身ですよ。わたくしだけの恥辱ではありません。これをすぐに止めさせたいのです」 「そうですな。おっしゃるように大変な侮辱ですが、なにしろ相手が社会主義者のごろつき[#「ごろつき」に傍点]どもですから、抗議したところで受付けないでしょう。かえって、そんなことをするのを面白がって待受けているかも分りませんよ」 「わたくしは訴えようと思います」  歌子は激しく云った。 「しかし、下田先生、告訴なさっても、おいそれとは向うも参らないでしょう。それに、告訴となれば、罪が確定するまでそうとう日数がかかるわけです。その間に向うはこのつづきものを載せてしまおうという魂胆でしょう」 「飯野さん、わたくしはどうしてこんなことを書かれなければならないのでしょうか?」 「それはあなたが当代第一の才媛で貴婦人だからですよ。それに、この社会主義者どもは、あなたのように華族階級の上に臨んでいらっしゃるような人を目の仇《かたき》にしていますからね。彼らは革命を考えているのですから、あなたのような貴族階級の追落しを狙っているのです。おそらく、ここに秋水が書いたように、検事局に呼ばれてゆくくらいは日常茶飯事と心得ているんでしょうな」 「幸徳という人は憎い男ですわ」  と、下田歌子は眉間《みけん》に深い皺を立て、唇を血がにじむほど咬んだ。  飯野は落ちついてその記事を黙読していたが、 「下田先生」  と呼んで顔をあげた。 「あなたのおっしゃるように、これはひどい讒謗《ざんぼう》ですが、多少、書いた人間もよりどころがあって誇張したのではないかとも考えられます。ここに出ている伊藤さん、山県さん、三条実美公などの関係は、俗に火の無いところに煙は立たないの譬《たとえ》、多少の根拠はありませんか?」 「あなたまで何をおっしゃるのです」と歌子は飯野に立向った。「伊藤さんがわたしをあまりに引立てて下さるので、世間では誤解しているのです。山県さんのことも、三条さんのことも、みんなそうしたことから世間の邪推をうけているのです。この記事を書かせた幸徳という人は、そんな噂話にもっと尾ひれをつけてでっち上げたのです」 「それはそうだと思いますが、しかし、下田さん、ほんとに伊藤侯爵との間は潔白なんでしょうなア?」  と、飯野が彼女の優美な顔を見つめて念を押した。 「いくら何でも、わたくしが伊藤侯とそんなことになるわけはありません」  と、下田歌子はちらりと眼を伏せた。飯野は、それこそ人相見の眼つきでその顔の観察をやめなかった。 「飯野先生」と歌子はその視線を妨げるように大きな声を出した。 「あなたの呪術で彼らを調伏《ちようぶく》できませんか?」  飯野は少しあわてたが、 「いや、それはできないことはありません。わたしの神力では幸徳という男を殺すことだって容易です」 「え、本当ですか?」 「しかし、待って下さい。それには少し時日がかかります。なんといっても人の生命を絶つこと、すぐ今というわけには参らないのです」 「それでは、ますます、この無頼漢どもが図に乗ってきますわ。この先、何を書かれるか分りません。それを考えると、わたくしは宮中にお伺いすることも、華族女学校や、そのほかの学校に出ることもできなくなります」 「下田先生、あなたが潔白なら、何の怖れるところがありましょう。はて、日ごろのご気性にも似合わないお気の弱いことで……」  とは云ったが、飯野は少し考えて、 「よろしい、ひとつ、心当りを当ってみましょう」  と、少し心もとなさそうにうなずいた。 「それは、どなたですか?」 「内務省警保局長をしている有松英義《ありまつひでよし》という男です」  下田歌子は、それからどのような用事があったのか、三、四時間もして帰った。あたりはいつの間にかうす暗くなっている。  飯野は帯に巻いた懐中時計を出して眼を落したが、 「いまなら役所から帰っているだろう」  と呟き、すぐに人力車の支度をさせた。彼は書生たちに見送られて玄関前から俥《くるま》に乗った。 「どちらまで?」  車夫が厚い毛布《ケツト》を飯野の仙台平《せんだいひら》の袴の上に巻きながら訊いた。 「赤坂|氷川町《ひかわちよう》」  幌《ほろ》をかけて俥は走り出した。小雪が降り出し、車夫の笠の上もうすく白くなった。その車夫は坂道を下ったり上ったりして高台の閑静な一郭に走りこんだ。 「有松という家があるはずだ。わしはまだ行ったことはないが、分らなんだら、そのへんの交番にでもきいてくれ」  それはそれほど難儀せずに知れた。広い家のならんでいる屋敷町だが、長い塀の間に路地があり、その突き当りの、それほど大きくない二階家がそうであった。飯野は車夫を待たせ、その家の格子戸をあけた。  出てきた女中らしいのが狭い式台に膝をついた。 「ご主人はおられますかな? わたしは穏田《おんでん》の飯野という者です」  女中が引込んですぐ、奥から急いだ足音が聞え、口髭の男が現われた。彼は飯野の顔をのぞき、その場に膝を折った。 「これは、飯野先生」  男の顔にはおどろきが出ている。 「やあ、有松さん。ちょっとお邪魔にあがりましたぞ」  飯野はらいらくに声をかけた。 「こんなところに飯野先生がお見えになるとは思いませんでした。ご用があれば、役所からでもお伺いいたしますのに……」 「いや、ご用繁多のあなたのことです。私用でお呼びしては申しわけありません」 「何かは存じませんが、ま、とにかくお上がり下さい。こんな狭いところで恐縮です」  髭の男はかなりあわてていた。これが警保局長の有松英義だった。  飯野は、その家の客間に通された。急いで火のおこった火鉢が出された。つづいて着物を着換えた有松の妻女が挨拶に出た。 「飯野先生だ。こういうところにおいでになる方ではない」  と、有松は妻に云い聞かせた。 「いや、有松さん、わたしをそういうふうに云われては困ります。たかだか神様に奉仕する行者ですからな」  有松は頭を下げて、 「して、飯野先生がわざわざお越しいただいたご用というのは、どのようなことで?」  と、気がかりげに顔をあげた。 「実は、ご存じの幸徳秋水らがやってる平民新聞のことです」 「ははあ。あれには困ったものです。そうとう当局でも取調べているのですが、なにしろ、ああいう連中で……」 「あれを発売禁止というわけには参らないものですかな?」 「先生、それはたびたびこれまでもやっております。ご承知のように、何か不穏な記事が出れば、検閲ですぐに発売禁止処分にしております」  有松英義は落度でも云われたように弁解した。 「いや、それは有松さん、一日か二日でしょう。つまり、その不穏な記事が載ったときだけでしょう?」 「はあ。近ごろは向うもまことに巧妙になりまして、字句の表わしかたなどを工夫して参っております」 「有松さん、あんたは、あの平民新聞に下田歌子先生のことが毎日つづきものになっているのをご存じですか?」 「はあ……」  有松警保局長は途端に顔を曇らせた。 「知っております。まことにひどいものだと思っております」  有松のほうがどういうわけか飯野に遠慮したように、眼を彼の顔から逸《そ》らした。 「実は、わたしも今日はじめて或る人が持ってきたのを読んだのですがね、まことに怪しからんことを書いておる。根も葉も無いことをでっち上げて、宮中にご奉仕したことのある下田先生を讒謗しておる。ああいうのを載せた新聞を当局のほうでなぜ取締らないのですか?」  飯野は有松の返事を待った。 「それが、どうも、わたしどもでいろいろ研究しているのですが、いまのところ、あの掲載を中止させる法律がないものでして……」  有松局長の返事には困惑がこもっていた。 [#地付き]〔上巻 了〕 松本清張(まつもと・せいちょう) 一九〇九—九二年。福岡県生まれ。一九二八年、印刷所に見習いとして就職する。一九五〇年「西郷札」を発表し、五三年「或る「小倉日記」伝」で芥川賞を受賞する。一九五六年、三〇年近く勤めた朝日新聞社を退社。社会派推理小説のブームのきっかけとなった「点と線」を発表し、一方で「日本の黒い霧」「昭和史発掘」などの歴史評論を精力的に執筆した。吉川英治文学賞、朝日賞、菊池寛賞、NHK放送文化賞などを受賞。 本作品は一九六九年一二月、新潮社より刊行され、二〇〇八年三月、ちくま文庫の一冊として刊行された。