松本健一 われに万古の心あり 目 次  第一章  小林虎三郎の時代  第二章  常在戦場という精神  第三章  河井継之助と小林虎三郎  第四章  象山と松陰を繋ぐもの  第五章  精神のリレー  第六章  幕末のパトリオット  第七章  戦わない論理  第八章  遠望するまなざし  第九章  小林一族の戊辰戦争  第十章  敗戦国の復興  第十一章 後から来るものへ  第十二章 終焉  第十三章 ながい影 [#改ページ]   第一章 小林虎三郎の時代    黒船の時代に  国際化という名の開国論が国是として唱えられるようになったこの十数年、わたしはいつも心の奥底で、小林虎三郎(病翁)という人物のことが気にかかっていた。  小林虎三郎というのは、幕末の長岡藩における政治指導者・河井継之助《かわいつぐのすけ》の、真の意味でのライバルだった。戊辰戦争によって敗戦国、焦土と化した長岡を復興に導いた人物として知られる。新国劇でも何度か上演された——広告で知っているだけで、わたしは見ていないが——山本有三の戯曲『米百俵』の主人公だといえば、ああ、なるほど、とうなずくひともあるだろう。  しかし、そのような、いわば戦後復興をなしとげた人物と今日の国際化(一種の開国論)の問題とは、どこで、どう結びつくのだろうか。  もっとも、わたしは今日の国際化の問題を考えるために、あるいはその問題を解くための補助線として日本の近代化を考えている過程で、この小林虎三郎という人物を探しあてたのではない。出会いは、偶然である。  二十年ほどまえ、わたしは代々木にあった故竹内|好《よしみ》さんの主宰する「中国の会」の事務所を借りて、気の合った、しかもほとんど定職のなかった(それゆえ時間だけはたっぷりあった)まだ二十代だった友人たちと、日本の古典(思想および文学)を読む研究会をもっていた。大学時代に勉強をしなかった罰かもしれない。  その事務所は奇妙な場所にあった。といっても、代々木駅から山手線の外側に歩いて十分ぐらいの距離で、代々木ゼミナールの前の道路をまっすぐ西に向かって、商店街の切れたあたりを右折した坂の中腹であるから、べつだん変な場所という意味ではない。奇妙、というのは、事務所の相向かいに、構えの立派な日本風家屋があったことで、そこに平田鉄胤《ヽヽヽヽ》とか何とかいう表札が掲げられていたのである。その名まえからして、日本のことを世界の中心という意味で�中華�あるいは�中国�というふうに呼んでいた幕末の国学者、攘夷運動家の平田|篤胤《あつたね》の子孫という気がした。  竹内好さんの「中国の会」の相向かいが、日本こそ�中国�であると考えた平田篤胤の子孫の家か、とわたしは何だか愉快になった。そのころ、わたしたちの研究会は、明治の中江兆民や福沢諭吉あたりから、幕末の大久保利通など、また横井|小楠《しようなん》あたりへと「読む」対象を移行させていた。そして、その過程で佐久間|象山《しようざん》の文章を読んでいるときに、わたしは象山の弟子としての小林虎三郎、ならびにその父親の小林又兵衛の名を知ったのだった。  その間の事情と、象山師弟の関係性などについては、おいおい明らかにしてゆくとして、まずは、小林虎三郎の真骨頂とでもいうべき(とわたしが考える)思想を取り出しておこう。それは、安政六年(一八五九)の春、小林虎三郎——字は子文、号は炳文など——が満三十歳のときに書いた『興学私議』の一節である。興学私議、とは、学問をおこすことについての私なりの考え、というほどの意味であろう。  ところで、安政六年春という時期は、井伊直弼が大老になり、勅許をまたずに日米修好通商条約の調印を行った一年後のことである。小林虎三郎は、これよりまえ老中であった長岡藩主の牧野忠雅に提出した横浜開港説についての上書によって、長岡での謹慎を命ぜられていた。  その六年まえ、嘉永六年(一八五三)六月、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーは、遣日特使として軍艦(黒船)四隻を率いて、浦賀に来航した。ペリーは翌嘉永七年(安政元年)一月にも軍艦七隻を率いて、神奈川沖に来航し、幕府とのあいだに日米和親条約を結ぶことになるが、その実態は和親《ヽヽ》といったものではなかった。  というのは、ペリーが嘉永六年に来航し、久里浜で幕府に米大統領フィルモアの国書を手渡したとき、そこに白旗二|旒《りゆう》を添え、次のような添え書をつけていたからだった。——国書の受入れを拒むならば、天理に背く罪をただすために戦闘を開始する。戦闘になれば、文明のわれわれが当然勝つから、和睦を乞う場合には、この白旗を立てよ、と。  とどのつまりは、天理=文明の立場に立った側(アメリカ)からの、武力を背景にした開国の要求である。幕末の日本の開国には、このように外からの力に強いられた文明化、近代化という性格があった。  いずれにせよ、こういった黒船の出現によって、日本は外からの力で鎖国体制を破る契機を得たのだった。このとき、小林虎三郎が記述しているように、幕府は大あわてで、外国からの侵略を防ぐべく国内の諸改革に着手した。水陸の兵制から、防禦用の堡塁の築きかた、それに大砲や巨艦の建造はもちろんのこと、あらゆる器械類に至るまでオランダに範をとった変革、改良を企てた。海軍伝習所の創設もふくめて軍艦操練の技術を学び、武学、洋学の学校さえつくった。しかし、その効果はまだあがったとはいえない。そのような情勢をふまえて、小林虎三郎の『興学私議』は書かれたのだった。  小林虎三郎は改革の効果があがっていない原因を究明するために、まず、次のように情勢を分析する。(原文は漢文だが、読み下して記す。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここから1字下げ]  中国(日本のこと)、虜《りよ》の侮《ぶ》を受くるや久し。昔|嘗《かつ》て安きに狎《な》れて労を憚《はばか》り、之を禦《ふせ》ぐ所以《ゆえん》の方を求めず。癸丑《みずのとうし》(嘉永六年)、墨夷《ぼくい》(アメリカ)の事あるに及んで、然る後に、祖宗の故事の、以て当時(今日)を済《すく》う無く、変通更革《へんつうこうかく》(改革)の以て已《や》むべからざるを知る。是に於て一旦《いつたん》令を発して、水陸の兵制、堡台《ほうだい》の備、皇《こう》|※[#「石+駮」]《ほう》巨艦より、以て凡百の器械の細に至るまで皆、則を荷蘭《からん》(オランダ)に取る。  既にして其の人を招致し、舟楫を操り水兵を練るの法を受け、又武学を置き、蕃書院《ばんしよいん》(洋学所)を建て、之が教師を設け以て多士を育す。凡《およ》そ彼の諸学科は、皆其の力の及ぶ所に随って、之を治むるを得たり。蓋《けだ》し其の意は全く彼の長ずる所を取って、我が短き所を補い、以て我が勢を振うに在り。而して一毫の固執の私も、其の間に雑《まじ》えざるなり。 [#ここで字下げ終わり]  ここまでは、さきに要約したとおり、黒船の来航以降、日本がみずからを守るために、じぶんより進んでいる欧米に学んで大急ぎで近代化の改革をはじめた、ということだ。末尾ちかくの「彼の長ずる所を取って、我が短き所を補い、以て我が勢を振うに在り」という思想は、かれの師の佐久間象山が小寺常之助宛の書簡で具体的に述べた「夷(外国)の術を以て夷を防ぐより外《ほか》、之《こ》れ無しと存候。彼れに大艦あらば、我も亦た大艦を作るべし。彼に巨砲あらば、我も亦巨砲を造るべし」という戦略に通じている。  虎三郎はつづけて、しかし、改革の効果はあらわれているか、と問うて、否、という。  かれの考えによると、諸改革の効果があがっていない原因は、上に立つものが学ばず、文武百官これに従って学問をせず、その職責が空虚になってしまっているからである。こういった当今の「患」が根本にあるため、黒船来航をきっかけとして天下に「変革の令」が下って六、七年もたつが、その効果があらわれていないのだ。  では、どうしたらよいか。    教養を広め、人材を育成せよ  謹慎の身の上である、ということは地位も自由も当面は奪われているが、考える時間だけはたっぷりあった小林虎三郎は、しきりに考えをめぐらせたあげく、次のようにして当今の「患」を除こうと考えた。 [#ここから1字下げ]  夫《そ》れ、当今の患|此《かく》の如し。果して能《よ》く学をして上に在り、文武百官をして学ばざることあるなく、其職をして皆《みな》為に実ならしむるにあらずんば、何を以てか焉《これ》を済《すく》わん。然り而して、之を為すの要は、教養を広め以て人材を育し、官制を修めて任使を専《もつぱ》らにするに在るのみ。  何をか教養を広めて以て人材を育すると謂《い》う。夫れ、学の事、二。道のみ。芸のみ。道は以て体《たい》を明らかにし、芸は以て用《よう》を達す。相離る可からざるなり。今、都府の学、三あり。曰《いわ》く、大学。曰く、武学。曰く、蕃書院。大学は主に道を教うる所にして、武学と蕃書院とは則ち芸のみ。然り而して、三者相|為《ため》に謀らざること、胡越《こえつ》の如く然り。此れ固《もと》より已《すで》に失せり。而も況《いわ》んや、三者皆未だ其の宜《よろ》しきを得ざること、前《さき》に言う所の如きをや。 [#ここで字下げ終わり]  ——上に立つものが学び、文武百官がこれに従って学問をし、その職責をそれぞれ全うすることが、まず当今の「患」をすくう道である。そのためには、迂回の策にみえようとも、人びとが広い教養を身につけ、人材を育成し、しかも官制を整備してその適所に人材を登用することが「要」である、と虎三郎はその前段においていう。  こういった考えは、門閥制度、つまり家柄によって役職が決まってしまう徳川の制度を根本的に否定したもので、幕末の「実学」の提唱者として名高い横井小楠のそれに近い。小楠は福井藩有志からの問いに答えた『学校問答書』(嘉永五年)において、「大和にても漢土にても古も今も学校を興し玉うは……必ず学政一致に志し、人材生育に心を留め玉うことに候。然に其学政一致と申す心は、|人材を生育し政事の有用に用いん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》との心にて候」、といっている。  この学政一致の考えかたは、学問を社会の運営と不可分のものと捉える「実学」に特徴的なもので、それはさきの引用文にあったような幕藩体制下の道学者教育的な学問制度についての批判を生みだす。すなわち、広い教養を身につけた人材を育成するためには、学問はどのように行われなければならないか、として、虎三郎は後段で次のように考えるのである。  ——学問には「道」と「芸」とが必要である。「道」とは、学ぶ主体がみずからを知り、その理念(道)にむかってみずからを作りあげる、ということだ。これに対して、「芸」とは、その主体が社会を改革し、富ませ、発展させるための手段(用)を学ぶ、ということだ。そして、その二つを相離して考えてはいけない。ところが、いま都にある学問体制は、「道」を究める大学(昌平黌)と、「芸」(技術も)を学ぶ武学および蕃書院(洋学所)とに分かれていて、ともに手を握り合うということがない。これではだめだ、と。  学問において「道」と「芸」とが分かれていてはだめだ、という虎三郎の考えは、幕藩体制下の学問、もっといえば思想状況を強く批判したものである。そして、この点においても、横井小楠の次のような考えかたと相似的であった。小楠はいう。  ——学問はこれまで学者、つまり儒者を育てることのみを目的としてきた。学者とは「書を読み其義を講じ」て世事に関わらないもののことである。一方、世事に通じ実務をよくするものは、「経済有用の人材」や「役人」として世事をのみ取り仕切った。学問において、このように本と末、体と用が相離れている状態はあってはならない、と。  こういった小楠の『学校問答書』が黒船来航の一年まえに当たる嘉永五年(一八五二)に著わされていることは、改めて注意されていいことである。つまり、儒学者を育てるというかたちの幕藩体制下の朱子学的な学問制度に対する批判は、黒船の来航という外からの事件がなくとも、すでに内部で生まれはじめていたのだ。そして、それが体制(学問制度)の矛盾というかたちで、一気に噴き出すきっかけをつくったのが、小林虎三郎のいうように、黒船来航(癸丑、墨夷の事)だったわけである。  黒船の来航は、門閥制度に甘んじ、朱子学的な儒学者の育成のみに関わってきた学問制度の欠陥を暴露した。そこに、小楠があらかじめ予告し、いま小林虎三郎が指摘したような「学政一致」、つまり学問において「道」と「芸」とを不可分一体と考え、政治が学問に秀でた人材を登用する方法が講じられる必然性があったのだ。  かといって、これは小林虎三郎がその『興学私議』を横井小楠の思想によって書いたという意味ではない。虎三郎が直接に依拠したのは、「道徳」と「芸術(技術)」とは学問における不可分一体の要素である、という佐久間象山の思想のほうである。ただ、その思想を虎三郎が「教養を広め、人材を育成せよ」というかたちで、学問・学校の改革へと具体化したところに、「実学」の提唱者である横井小楠との相似性があらわれた、ということだろう。  象山は、虎三郎の『興学私議』を読んで、「小林子文は、嘗て余に従って遊ぶ。明体達用(体を明らかにし、用を達する)の学に志あり。辞別して数歳。録して此の文を示す。詞理明暢(論理明快)にして、皆実用あり。平生の志に負《そむ》かずと謂うべし」と評した。  そこには、弟子の成長をよろこび、その文章をほめる師の配慮がうかがえる。が、同時に、「明体達用の学」つまり「実学」に志した小林虎三郎の真骨頂が捉えられてもいる。    象山�期待の弟子�  小林虎三郎は嘉永四年(一八五一)、数え二十四歳のとき、佐久間象山の門に入った。かれはその前年に長岡藩主より江戸への遊学を命ぜられていた。江戸でははじめ萩原緑野の門に入ったが、父の小林又兵衛(誠斎)の口添えで象山のもとに移ったのだった。  虎三郎の父の又兵衛と象山とは、かねてより親交があった。象山は天保九年(一八三八)四月、越後に遊んでいる。このとき新潟町奉行をつとめていた小林又兵衛と出会い、意気投合したらしい。又兵衛は象山の人物、学識に敬服して、じぶんの息子——虎三郎は当時数え十一歳——が大きくなったら、ぜひあなたのもとに入門させたいといい、象山もよろこんでこれを引き受けたという。ここに、又兵衛—象山—小林虎三郎—佐久間恪二郎(象山の息子)という、長く堅い人間の絆が結ばれることになったのだった。  だが小林又兵衛の名は、歴史のうえで虎三郎の父としてのみ記憶されているのではない。少なくとも、わたしにとっては、そのように記憶されたのではない。「おやっ、日本史にはまだこんな人物が隠れていたのか」という感じで、わたしはかつてじぶんの記憶にとどめたのである。  もっとも、それは小林又兵衛の事蹟とか、思想とか、遺物とかによってではない。極言すれば、そういったものはほとんどないのである。  小林又兵衛の名がわたしの記憶に強く残ったのは、佐久間象山がかれに与えた書簡の見事さによってである。これは、かれが佐久間象山の学識・思想・文章のすべてを傾けて手紙を書かなければならぬほどの相手だった、ということである。翻っていうと、この小林又兵衛宛の書簡は、それほどまでに見事に当時の象山の精神のありようを伝え、凝縮するものだった。  この書簡は、象山全集にはもちろん、長岡市が昭和五十年(一九七五)に刊行した『米百俵 小林虎三郎の思想』(ただし、誤植や漢字の読み誤りが多い)にも載っているが、より一般的には岩波書店の日本思想体系55『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』(一九七一年初版)で読むことができる。わたしが小林又兵衛・虎三郎の名を記憶にとどめたのも、この岩波版においてだった。そして、それから五年後、幸いにしてなおもつづいていた研究会の席上で、長岡市版の『米百俵 小林虎三郎の思想』をテキストとして採り上げることができたのである。  それはともかく、象山が小林又兵衛に宛てた手紙の内容に移ろう。これは又兵衛の息子(三男)の虎三郎が象山門に入っていた嘉永の終わりごろか安政のはじめごろの書簡で、その前段には、象山が又兵衛の息子に大いに希望を託している旨が記されている。  象山はそこで、又兵衛にむかって、あなたの息子の虎三郎は「才気不凡」、「志行篤実」の、まことに将来有望な傑物だ、と賞めている。それがたんにお世辞でないらしいことは、学の「東西を并《あわ》せ」、「文武」の術を兼ね備えている点、じぶんの志の衣鉢を受け継ぐことになろう、と言明していることからも明らかだろう。  そして、その学の「東西を并せ」る、という箇所は、象山が学問の理想を述べたものであり、ひいてはそれが虎三郎の、学問にあっては「道」と「芸」が不可分一体であるべきだ、という思想の前提となっているのである。というのは、象山は右の引用文のあとを、横井小楠の学問論にほぼ相似的なかたちで論理展開し、そうしてそれを黒船来航の時代、いいかえると開国を迫られている日本の国是としてテーゼ化しているからである。  それが小楠の学問論とちょっと違うところは、東洋(漢土)の学問が「道徳義理の講究」であるのに、西洋《ヽヽ》の学問にはそれがない、というふうに「西洋」の規定をしている点である。そして、その規定、認識のうえに、象山は西洋(墨夷)の武力の脅威にさらされた幕末の日本の進むべき方向性を、次のように論理づけるのだ。 [#ここから1字下げ]  東洋の道徳、西洋の芸術、匡廓《きようかく》(版木の枠)あい依りて圏模《けんぼ》(円形のかた)を完うす。大地の周囲は一万里、また半隅を虧《か》(欠)き得べきやいなや。  末句の意は、道徳芸術相|済《すく》い候事、譬えば亜細亜も欧羅巴も合せて、地球を成し候如くにて、一隅を欠き候ては円形を成し申さず候。その如く、道徳芸術、一を欠き候ては、完全の者にあらず、との考に御座候。(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  つまり、象山はその代表作の『省《せい》|※[#「侃/言」]録《けんろく》』(安政元年=一八五四)でもいっているように、黒船時代の日本のテーゼを「東洋の道徳」と「西洋の芸術(技術をふくむ)」とを合わせたところに見出している。日本の開国とは、「東洋の道徳」を日本自身の体《ヽ》として持しつつ、「西洋の芸(技術をふくむ)」を用《ヽ》として採り入れることだ、というわけだ。  この「東洋の道《ヽ》徳」と「西洋の芸《ヽ》」という両論が、小林虎三郎の『興学私議』における、学問にあっては「道」と「芸」とが体《ヽ》と用《ヽ》として不可分一体だ、という考えの前提となっていることは、改めて指摘するまでもないだろう。そしてそれは、虎三郎の思想に、象山の父親(又兵衛)宛の書簡を通して流れ込んでいたものなのである。  ちなみに、この象山の「東洋道徳、西洋芸」というテーゼにある「東洋道徳」を水戸学の影響下に「国体」という名で捉え直したのが、吉田松陰(一八三〇—五九)である。松陰も小林虎三郎と同じ象山門下であり、実をいえば象山門下の「両虎」とよばれた、仲の良いライバルだったのである。しかし、この点については、あとで詳しくふれよう。  いずれにしても、小林虎三郎の父又兵衛こそ、象山の開国日本のテーゼを「東洋道徳、西洋芸」というかたちで凝縮させた書簡の宛先人だったのである。「東洋道徳、西洋芸」という開国日本のテーゼは、のちに平俗化されて近代日本の「和魂洋才」というテーゼになるわけで、その意味で、小林又兵衛の存在は近代日本において隠れた重要な役割を果たしていたことになる。「おやっ、日本史にはまだこんな人物が隠れていたのか」というわたしの驚きは、まさにそのことを指しているのだ。    東洋道徳、西洋芸(術)  いまわたしは、近代日本における「和魂洋才」というテーゼを、「東洋道徳、西洋芸」の平俗化されたものだ、というような言いかたをした。それは、「和魂洋才」という言葉には、東洋(日本)には形のない魂しかなく、形のある才(術)はすべて西洋のものだ、というニュアンスが感じられるからだ。  だが、虎三郎が帰郷するにあたって象山が贈った文章、ということは、安政元年か、せいぜい二年(一八五五)はじめの日付になる文章「小林炳文に贈る」を読めば一目瞭然であるが、象山は宇宙の真理に東と西の二つあるわけではない、一つだ、と述べているのだ。そうだとすれば、才(術)はすべて西洋のものなのではなくて、西洋のほうが当面より進んでいるにすぎない、ということになる。  象山の「小林炳文に贈る」に、いう。 [#ここから1字下げ]  宇宙に実理は二つなし。この理のあるところは、天地もこれに異なること能わず、鬼神もこれに異なること能わず、百世の聖人もこれに異なること能わず。近来西洋の発明するところの許多《きよた》(あまた)の学術は、要するにみな実理にして、まさにもって吾が聖学を資《たす》くるに足る。(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  一読してわかるのは、象山のきわめて柔軟な精神である。かれは「西洋の発明するところの許多の学術」をどのように沢山とりいれたところで、自己のナショナリティ(民族性)がなくなるなどとは考えない。頑迷な攘夷論者から憎まれたのも当然という気がする。  象山はこの十年ほど後、その大胆な開国策によって尊攘派から疎まれ京都で暗殺されるわけだが、かれの開国策は西洋化ということではなかった。  それは「夷(外国)の術を以て夷を防ぐより外《ほか》、之《こ》れ無し」という戦略論であり、同時にまた「宇宙に実理は二つなし」とする強い信仰に立脚したものでもあった。  東洋(日本)であれ、西洋であれ、それが実理(まことの理、真理)に根ざした「芸術(技術をふくむ)」であれば、すべて「吾が聖学を資《たす》くるに足る」という発想は、堂々たる自己の把持に支えられた自信といっていい。稚いころのわたしは、佐久間象山は尊攘派の刺客によって背中(?)を切られた、卑怯者だ、などという風説にとらわれていて、まともに象山の文章を読んでみようとしなかった。けれども、大学を卒えたあと必要にかられて自分で読んでみてはじめて、象山の思想の大きさに目ざめたというところかもしれない。  そういったわたしの感慨についてはともかく、象山は東洋(日本)であれ西洋であれ、真理は一つであるという思想に立っているから、頑固な儒学者や自己中心的な尊攘派が馬鹿にみえて仕方がなかった。そういった高慢さが儒学者や尊攘派の憤激をよけいに買ったのにちがいない。実際、さきの「小林炳文に贈る」は、儒学者流の罵倒というかたちでつづいていた。  象山は「西洋の発明するところの許多の学術」に目を開こうとしないものたちを哀れみ、歯牙にもかけていない。かといって、かれは西洋崇拝の罠に陥ちているわけではない。かれは「東洋道徳」を把持している。そのことは、しかしすでにふれた。  象山は門人の小林虎三郎に、真理は一つであるから、当面はより進んでいる「西洋芸」を学べ、ひいては世界に通用する一つの理を立てよ、と激励し助言している。  当時、象山の塾には、虎三郎とほぼ同年輩の吉田松陰がいた。羽倉簡堂、斎藤拙堂らも同門である。勝海舟(一八二三—九九)も同門であるが、虎三郎よりは五歳上、松陰よりは七歳上で、象山の塾にいたのは同時期ではない。ただ、かれらには交流があり、その交流、もしくは関係については、追々ふれてゆくことにしよう。  象山はそれらの門人中でも、小林|虎《ヽ》三郎(炳文、寒翠)と吉田|寅《ヽ》次郎(松陰)の「両虎」に期待するところ大だった。虎三郎の甥の小金井権三郎が著わした「小林寒翠翁畧伝」(明治二十六年)も書いているように、象山は、 [#ここから1字下げ]  義卿《ぎけい》(松陰)の胆略、炳文の学識、皆稀世の才なり。但《ただ》事を天下に為す者は、吉田子なるべく、我子を依託して教育せしむべき者は、独《ひと》り小林子なるのみ。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり] と評していた。「両虎」のうち、松陰については「胆略」を認め、虎三郎については「学識」を認める象山の眼力はさすがである。しかも、「事を天下に為す者」つまり回天の業に従うものこそ吉田松陰であり、「我子を依託して教育せしむべき者」が小林虎三郎である、という評価は、門弟たちのそれぞれの資質をきわめて的確に捉えたものといえよう。  松陰が師象山に宛てた手紙でも明らかなように、松陰を象山に引合せたのは、小林虎三郎だった。この三者の微妙な関わりについては、幕末史と虎三郎の精神史との記述にふれて、いずれ詳しく物語ってゆかねばならない。しかし、「事を天下に為す者」としての松陰が安政の大獄で死罪に処せられ、師象山も事件に連座したこと、一方、「我子を依託して教育せしむべき者」としての虎三郎が象山から息子恪二郎を託されて生き残ったことを考えると、わたしは歴史というものの絶妙な作用に思いを致さざるをえない。  わたしがここで試みようとするのは、そういった歴史についての考察であり、それが黒船の来航から開国、戊辰戦争をへて、文明開化の時代にどのようにあらわれたか、そのことを小林虎三郎という人物に即して語ってみることである。そして、そのことを通じて、それからわずか百二十年後の現在、国際化という名の一種の開国の時代に人間がどのように歴史に立ち向かうべきか、を考えてみたいのだ。  つづめていえば、歴史における人間のエトス(精神)を、小林虎三郎という長年気にかけてきた人物に即して語ってみたいのである。それは、小さくいえば、「東洋道徳、西洋芸(技)術」として切り開かれた近代日本の、そして現代日本の進路の問題に関わり、大きくいえば、歴史における革新と保守の問題、いや歴史において永遠に守るべきものは何か、という課題に関わっているにちがいない、という予感がいまのわたしにはあるのだ。 [#改ページ]   第二章 常在戦場という精神    長岡藩風「常在戦場」  長岡藩士の家に生まれ育った連合艦隊司令長官・海軍大将の山本五十六は、揮毫をたのまれると、かならずといってよいほど、「常在戦場」の四字を書いた。海軍兵学校のあった江田島に現在残っているのも、予科練で有名な霞ヶ浦航空隊の跡に遺されているのも、この「常在戦場」の四字である。  山本五十六の筆になる「常在戦場」で、わたしが実際に目にしたのは霞ヶ浦航空隊跡のものだけで、江田島をはじめとする残りの筆跡はすべて写真版である。しかし、実物と写真版との双方から伝わってくる書の印象は同じで、いささか常套的ではあるが、雄渾と覇気である。  達筆ということでいえば、山本家の四代まえの老迂斎《ろううさい》・山本義方の書のほうが上であろう。また、親しみ易さをもった独善性という点もふくめて、重しのような存在感ということでいえば、長岡藩における戊辰戦争の主役、河井継之助の書と伝えられる「常在戦場」のほうが上であろう。が、その人のもっている勁さのようなもの、覇気は、山本五十六の書のほうにより多く感じられる。  この勁さは、もともと家老職の家の跡継ぎとして育てられた老迂斎や河井継之助とちがって、山本五十六が高野家の七人兄弟の末っ子として生まれ、戊辰戦争で戦死した山本帯刀の家の養子となった事情と、無縁でないだろう。  山本五十六は、父親の高野貞吉が五十六歳のときの子であったので、その名がついたのである。長兄の攘《ゆずる》とは、三十二歳も年が離れていた。攘の長男、つまり五十六からみれば甥にあたる力《ちから》は、五十六の十歳も年上である。この年上の甥は、大変な秀才で、高野家の跡取りでもあったから、上級学校へも進み、周囲の期待も大きかった。しかし、病魔によって二十四歳で夭折してしまう。  高野力が二十四歳で亡くなったとき、祖父にあたる貞吉は非常に落胆した。戊辰戦争後に没落した高野家再興の夢がついえた、とおもったのである。そのとき、貞吉がまだ十四歳であった五十六にもらした言葉は、山本義正の『父・山本五十六』(光文社、昭和四十四年刊)によれば、次のような残酷なものだった。 「おまえ(五十六のこと)は、高野家にとって、どうでもいい存在だ、家を継ぐべき力にかわって、おまえが死んでくれたらよかったのに」  連合艦隊司令長官・山本五十六の勁さは、この「おまえが死んでくれたらよかったのに」という、弱い人間なら一ぺんに気力の萎えてしまうような言葉の十字架を背負いつつ、人生を生きはじめねばならなかった人間の、コンプレックスを振り切る膂力のようなものであったろうか。その勁さが、「常在戦場」の四字の筆づかいにもあらわれているのだ。それは、山本老迂斎の達筆にも、河井継之助の存在感のある筆にもないものである。  それはともかく、このように幾人もの手になる「常在戦場」の書が残っていることからもおおよそ推測できるように、この言葉は長岡藩の藩訓というか、その藩の精神をあらわす藩風であった。常在戦場(じょうざいせんじょう)と一気に読み下すが、常に戦場にあり、と読んでもよい。つねに戦場にあるの心をもって生き、ことに処せ、というほどの意味である。  長岡藩がこの四字を藩風にしたのは、藩主の牧野家の家風によっている。長岡藩初代藩主の牧野忠成は、家康麾下の徳川十七将の一人であった。牧野家は三河国(参州)宝飯《ほい》郡牧野村(現豊川市牧野町)に住みついたあたりから名を興した。この牧野村というのは、豊橋市の北方にあたり、牛久保町の東方に位置する。そして、牧野家がそこに勢力を興したことが「常在戦場」の四字に関わりをもつのだ。  牛久保は、豊川街道と御油街道の交叉点に当たっている。戦国時代、牧野氏はもと駿河国の今川氏の武将であり、その場処で、とくに徳川氏と対峙していた。西方の徳川氏、織田氏も、北方の甲州武田氏も軍を進めるうえで、この牛久保を経てゆく。それゆえ、牛久保は今川氏にとって重要な前哨拠点ということになる。牧野氏はそこに城を築いていたのだ。  牧野成定の代に、今川義元が桶狭間で戦死した。ところが、その子、今川氏真が将の器としてはあまり優れていなかったので、北方の武田も、西方の徳川・織田の連合軍もしばしばこの牛久保に軍をすすめ、牧野氏はつねに侵攻の脅威にさらされることになった。このため、牧野氏は常に戦場にあるの心構えをもって、四囲に注意をはらわねばならなかった。「常在戦場」という家風の生まれたゆえんである。  長岡藩には、『参州牛久保之壁書』というものがあって、これが三河国以来の牧野氏の家風を伝えている。その劈頭にあるのが、「常在戦場」の四字にほかならない。  牧野成定は結局のところ、永禄八年(一五六五)、徳川氏の勧めに応じて、徳川氏に帰属することになった。翌九年には成定が死に、その子貞成は家康の諱の一字を賜って、康成と改めた。そして、天正三年(一五七五)の長篠の戦いに、酒井忠次とともに鳶巣城を攻略して、徳川氏勝利の原因をつくったのである。  このため天正十八年(一五九〇)、徳川家康が関八州を所領したとき、牧野康成も牛久保七千石から上州大胡(現群馬県大胡町)二万石に封ぜられた。慶長九年(一六〇四)、康成は隠居し、嫡子忠成が襲封して、元和二年(一六一六)には、越後の頸城郡長峯(現新潟県中頸城郡吉川町長峯)五万石に移封されている。ただ、実際にはここには入封せず、翌々四年に長岡六万四千石に再移封されている。  牧野長岡藩はその二年後、栃尾の一万石を加増されて、七万四千石となり、それが明治維新まで二百五十年間つづいたわけである。その二百五十年間、長岡藩はずっと『参州牛久保之壁書』を藩風として掲げつづけた。いわば、「常在戦場」は長岡藩士の精神の規範だったのである。  山本五十六が長岡藩士の高野家に生まれたのは、明治十七年(一八八四)四月四日で、長岡藩が戊辰戦争に敗れてから十六年後のことである。しかし、そのころはまだ、敗戦の傷痕がそこここに、生ま生ましく残っていた。ましてや、父の貞吉がこの戦いで負傷し、祖父の高野秀右衛門は城を守って七十八歳で戦死している高野家にとっては、その傷痕はなかなか癒える質のものではなかったろう。  長岡城は焼け、藩は七万四千石(実質十万石をこえる)から二万四千石に減封されてしまっている。つまり、外に形としてある長岡藩はどんどん小さくなってゆく。それゆえにかえって、内なる長岡、つまり長岡人士たちの帰属すべきトポス(場所)としての「常在戦場」という精神がよけいにせり上がったのである。そこに、明治十七年生まれの山本五十六が長岡藩風のこの四字に、みずからの精神の置きどころを求めるゆえんがあったようにおもわれる。    敗戦国のトポス(場所)  戊辰戦争およびそれにつづく明治の変革の過程で、城が崩壊、消失した藩の数は多い。藩そのものが近代の国家体制のもとで消滅したのだから、その藩の象徴のようになっていた城が無用の長物と化したところで、それじたい何の不思議もない。  明治以後、多くの城は荒れるにまかされた。しかし、荒城となっても、城跡は残っているのがふつうである。維新から百二十年たったこんにち、その城跡に町のシンボルとして、あるいは観光資源として城が(天守閣が)復元されているところも少なくない。  ところが、長岡のばあい、現在城跡に建っているのは、JR長岡駅である。かつての長岡城本丸跡が駅庁舎になり、二の丸跡が駅前広場になっている。藩庁の所在地で、このような例は、わたしは他にあまり知らない。  山本五十六が生まれた明治十年代の後半、長岡城跡は荒れるにまかされ、一部はゴミ捨場にさえなっていた。千人あまりの長岡藩士およびその家族たち(八千人あまり)にとって、これは心の痛む光景であったろう。山本家などとならぶ家老職の稲垣家に、明治六年、生を享けた杉本|鉞子《えつこ》はその著『武士の娘』(一九二五年刊、現在はちくま文庫)に、その当時の城跡の光景と、それを眺める長岡藩士およびその家族たちの心象とを、次のように描いている。(原文は英文、大岩美代訳) [#ここから1字下げ]  ……私(鉞子)は|きん《ヽヽ》につれられて、お濠端へ出かけました。ずっと前には、このお濠端の一部は高く築き上げられていたものでございますが、今、そこは、青々とした稲田になっておりました。でも、大部分は、なお沼地のままで、塵埃捨場になっていました。一ところ石垣の角のやや突出ているお濠には、ビロードのような蓮の葉が茂りあっておりました。きんの話では、もと、お濠の水はとても深く、鏡のように澄みきっており、花時ともなりますと蓮の葉の作る地模様に、白と淡紅のあやを織り出して、錦をひろげたようだったそうでございます。 「ねえ、きん。お城はどんなだったの。もう一度話しておくれ」と、私は崩れかかった城壁や高い石垣を上手に望みながら申しました。 「エツ坊さま、それゃ、どこのお城もみな同じことでございましょうが、このお城は私共のお城でございました——」  陽気なきんには珍しく、真面目になってしまい、それきり何もいわずに、じっと荒れ果てた城跡をみつめておりました。 [#ここで字下げ終わり]  |きん《ヽヽ》は稲垣家の女中だった。明治六年生まれの鉞子はかの女に、ありし日の長岡城の姿をたずねる。きんは、深くしかも鏡のように澄んだ水をたたえた濠、そこに白と淡紅のあやを織り出す蓮の花の美しさを語る。それは、事実の描写というよりも、長岡城の栄光を象徴した光景にほかならない。  むろん、それは失われている。現実に目のまえにあるのは、荒れ果て、稲田となってしまい、一部はゴミ捨場になってしまった城跡だ。  いや、荒れ果てているのは城跡ばかりではない。鉞子が町で目にする女達の多くが、仕事中でもないのに、藍染めの手拭いをかぶっている。それは戊辰戦争で夫を亡くした妻たちの姿だった。戊辰戦争における長岡藩の戦死者は、総督の河井継之助をはじめとして三百九名を数え、藩士の三分の一にも達するほどだったのである。  かくのごとき状態で、長岡藩士およびその家族たちが拠り処としたのは、「常在戦場」という言葉が醸す精神的共同体以外の何ものでもなかった。城もなく、藩も消滅する。そこでは、藩風の「常在戦場」の四字のみがかれらの共同のトポス(場所)だったのである。  たとえば、二・二六事件のときの司法大臣である小原|直《なおし》は明治十年(一八七七)に長岡藩士の家に生まれているが、かれの『小原直回顧録』(昭和四十一年刊、現在は中公文庫)は、次のように始まっている。 [#ここから1字下げ]  私は、明治十年一月二十四日、新潟県長岡本町(現在の長岡市)弓町、田中敬次郎の三男に生まれた。父は牧野藩の武士であり、母、孝も旧藩の医師赤柴泰庵の次女であった。  田中の家は代々牧野藩の禄を食み、石高はわずかに五十石の小身者であったが、歴代、弓術の師範を勤め、屋敷内には弓の道場があり、藩士の弓道修業の場所に供していた。祖父は、賢之進、通称登と称した。弓町という町名は、私の家に弓の稽古場があったのに由来すると伝えられている。私は幼少の頃、祖母(歌子)から、ときどき「通し矢」の話を聞かされた。それは、一年に何回か、弓道修業の行事として行われたもので、このときは、弓士は道場に立って、千本の矢を連続射通す、その間休むことなく、食事は、ムスビを他人から食べさせてもらい、腕や肩が疲れると湿布で治療してもらう、という難行であった。これは牧野藩伝統の家訓、「常在戦場」の精神を実践するものであったと思われる。 [#ここで字下げ終わり]  小原直はここで、弓術師範という自家の職の延長線上ではあるが、長岡藩風の「常在戦場」を何の違和感もなく、丸ごと受け入れている。翻っていうと、明治生まれの小原は藩という実体を、「常在戦場」という四字の言葉を通して実感できたのである。  このことは、藩といった実体《ヽヽ》を失ったあとでなお、「常在戦場」という言葉《ヽヽ》が藩士(および家族たち)を捉える精神共同体として作用した、ということである。  そして、おそらく山本有三はそう考えたがゆえに、『米百俵』という戯曲で、「食えない」と叫ぶ敗戦国の長岡藩士たちに、改めて「常在戦場」という言葉を与えた小林虎三郎を描いたのである。  山本有三の『米百俵』によれば——虎三郎は門下生の宇吉(岸宇吉——実在の人物)に命じて、佐久間象山の書軸を老迂斎筆の「常在戦場」の四字の書に掛け換えさせる。そして、「食えない」といいつのる藩士たちに、こういう。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 虎三郎 (威儀をただし)さて、おのおのがた。そのもとたちも、このかけ軸の文字は、よもお忘れはござるまい。これを知らぬ者は、ここには一人もおらぬはずだ。「常に戦場に在り。」この|もじ《ヽヽ》、このことばは、当藩の者である限り、もの心づくと同時に、必ず目にし、耳にし、口にしているところのものだ。申すまでもなく、これは参州牛久保のおん壁がきだ。その壁がきのうちの、第一条の文字だ。ご当家が当長岡にお国がえになったのちも、このお定めは、参州以来のご家風として、三百年来、とりわけ重いおきてとされているところのものだ。「常に戦場に在り。」——常に戦場にありとは、いくさのないおりにも、常に戦場にある心で、いかなる困苦欠乏にも堪えよという、おことばではないか。戦場にあったら、つらいの、ひもじいのなどといっておられるか。何がないの、何がたりないのなどと、不平をいっておられるか。しかるに、武士たるものが、ことに、当藩の藩士たるものが、食えないとはなんだ。米をわけてくれとはなんだ。(後略) [#ここで字下げ終わり]  ここで小林虎三郎がいった言葉は、事実とはいえない。少なくとも、そのようなやりとりがあったと記している史料はない。とすれば、それは長岡藩士の規範が「常在戦場」の四字にあったという事実をもとにした、山本有三なりのフィクションにほかならない。だが、このフィクションによって、小林虎三郎が学校を立てたという事実の意味が、きわめて明確に浮き上がってくるのだ。    山本有三の『米百俵』  山本有三の『米百俵』は、明治三年四月の末、当時長岡藩大参事となっていた小林虎三郎を主人公にし、かれが長岡支藩の三根山《みねやま》藩から送られた米百俵をもとでに学校を立てる、という筋の戯曲である。虎三郎は文政十一年(一八二八)生まれであるから、このとき四十三歳ということになる。かれは病身であったため、いちど結婚はしたが、ほとんど生涯一人暮らしだった。戊辰戦争のときは家を焼かれたので、門下生で唐物商の岸宇吉の離れに住まっていた。  その虎三郎のもとに、夜中、大勢の藩士が押しかけてくる。かれらは三根山藩が本藩見舞いのために米百俵を送ってきたと耳にして、それを藩士に分配せよ、という。七万四千石あった藩の表高が二万四千石に減封されたため、藩士たちへの支給も三分の一以下に下がっていて、「食えない」、というわけだ。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 三左衛門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に、見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。 専八郎 しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。たしかに、さような事、従五位さま(藩主、牧野忠毅のこと)に申しあげるつもりか。しかとした返答をお聞きしたい。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  これに対して、虎三郎は木で鼻をくくったような返答をする。「食えない」から「学校を立てる」のだ、と。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 虎三郎 貴公たちは、食えないといって騒いでおるではないか。みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ。 三左衛門 ふふふふ。これはおまえ様のような学者にも似あわぬ意見だ。食えないから米を配分するというのなら、たれにもうなずけるが、食えないから学校を立てるとは、さらに理が通らんではござらぬか。  (中略) 虎三郎 (前略)なんぞというと、すぐ百俵、百俵とわめき立てるが、百俵の米って、一体、どれだけあると思っているのだ。旧幕時代には、おれのうちだって、そのくらいはちょうだいしていた。それっぱかりの米を、家中の者に分けてみたところで、高が知れておるのではないか。考えてもみるがいい。当藩のものは、軒別にすると、千七百軒あまりもある。あたま数にすると、八千五百人にのぼるのだ。かように多数のものにわけたら、一軒のもらいぶんは、わずかに二升そこそこだ。ひとりあたりにしたら、四合か、五合しか渡らないではないか、それくらいの米は、一日か二日で食いつぶしてしまう。一日か二日で食いつぶして、あとに何が残るのだ。 [#ここで字下げ終わり]  虎三郎の考えでは、いまがひもじいのだから百俵の米を分けてくれ、という藩士たちの要求もわからないではない。しかし、それでは一軒当たり二升そこそこ、一人当たりにしたら四合か五合で、そんなものは一日か二日で終わってしまう。それでは後に何も残らない、というのである。  藩士たちは、食えない、いま食いたい、とおもう。現に、いま食えないために娘を売りに出しかねない家さえ出てきている。町人どもに馬鹿にされる藩士もいる。しかし、「さきざきの事」を考えずに、ただ、いまあるものを「食いつぶしてしまっ」たら、いつになっても「食えるようにならない」、「その日ぐらし」ではダメだ、というのが、山本有三描くところの小林虎三郎像である。 「その日ぐらし」では、敗戦国長岡の復興はできない。いつになっても「食えるようにならない」。では、どうしたらよいか。米百俵をもとでに学校をつくって、子どもたちが「食える」ようにしてやろうではないか、と。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 虎三郎 (前略)なあに、はじめからこなかったものと思えば、なんでもないではないか。——もとより、食う事は大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはゆけない。けれども、自分の食う事ばかりを考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。だからおれは、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。|その日ぐらし《ヽヽヽヽヽ》では、長岡は立ちあがれない。あたらしい日本はうまれないぞ。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  山本有三が虎三郎にいわせている言葉は、細部や言葉遣いを別にすれば、小林虎三郎の思想に忠実に即している。虎三郎の『興学私議』や国漢学校設立の趣旨は、たしかに「その日ぐらし」を排し、何十年か先を見通した人材育成の思想に立脚したものであった。  なお、この国漢学校の設立は、後に詳しくふれるように、明治三年六月十五日である。この日付は、東京で小学校が開設された日と同じであるが、国漢学校の設立はある意味で四郎丸村の昌福寺を校舎とした時代に遡ることができるので、そこに遡れば明治二年五月一日からということもできる。そうだとすると、東京より一年余りまえ、ということになる。  国漢学校の正式設立は、長岡の阪之上町においてである。これが官立の阪之上小学校に発展する。また、この国漢学校にはのち洋学校、医学局が併設された。その洋学校が長岡中学になり、医学局が長岡病院になるわけだ。  ちなみに、山本五十六が少年時代に通ったのが、この阪之上小学校と長岡中学にほかならない。その意味では、かれは小林虎三郎が「学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたい」といった、まさにその「学校」に学んだ「子ども」だった、ということになる。  むろん、この国漢学校、阪之上小学校、長岡中学に学んだのは、ひとり山本五十六ばかりでない。森鴎外の妹きみ子が嫁した日本で最初の医学博士・小金井|良精《よしきよ》(虎三郎の甥にあたる)をはじめとして、改進党で活躍し福井県知事になった波多野伝三郎、さきに名まえのでた司法大臣の小原直、東京帝大の総長になった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、博文館の大橋佐平、大橋新太郎なども、この出身である。それに、虎三郎の弟で、第一回衆議院議員になった政治小説家の小林雄七郎がつくった育英団体の長岡社が、この学校設立と相俟って長岡の教育に果たした役割も加えるなら、小林虎三郎の教育事業は近代長岡の全体を覆っている、といえるかもしれない。    軍国主義への抵抗  山本有三が戯曲『米|・《ママ》百俵』を発表したのは、昭和十八年(一九四三)、『主婦之友』の一月号と二月号においてである。これよりさき、昭和十七年五月十三日、有三はJOAKより「隠れたる先覚者・小林虎三郎」という講演を放送していた。しかし、それはいわば歴史研究というか、学術的意味あいをもった講演であって、文学作品とはちょっと趣きを異にしていた。(すくなくとも、有三はそう装っていた。) 『米・百俵』という、維新後の小林虎三郎を主人公とした戯曲は、山本有三が昭和十五年(一九四〇)に、「ペンを折る」と宣言して以来、はじめて成った文学作品である。これは、昭和十八年六月に、「隠れたる先覚者・小林虎三郎」という講演と合わせて、『米・百俵』(B6判、二二〇ページ)として刊行された。初版は五万部である。初版部数とすると、大変な数である。  当時の山本有三は、『真実一路』(昭和十年)や『路傍の石』(昭和十二年)などの発表によって大衆の人気を獲得していた。また、昭和十四年から十六年にかけて『山本有三全集』(岩波書店)を刊行してその名声をゆるぎないものにしていたから、初版五万部というのもあながち冒険的な部数とはいえない。ところが、この作品は軍部から「反戦小説」とにらまれたために、すぐ絶版においこまれたのである。  ところで、山本有三が昭和十五年に「ペンを折る」と宣言した経緯は、『主婦之友』に連載中だった『新篇 路傍の石』に対して内務省が検閲干渉を強化したため、十五年七月号で連載を中止し、八月号でこれに抗議した、というものだった。この宣言以来、有三は文学作品を発表していなかったのである。  そうだとすれば、山本有三が昭和十七年五月の「隠れたる先覚者・小林虎三郎」という講演において、「常在戦場」を座右銘のようにしていた連合艦隊司令長官の山本五十六のことをとりあげながら、軍国主義的な風潮に抗するかのように、戊辰戦争における非戦派、戦後復興の担い手、人材育成論者の小林虎三郎を押し出したのは、山本有三なりの時局に対する抵抗であったろう。こういった山本有三の意図は、「隠れたる先覚者」における次のような口振りをみれば、容易に推測することができる。 [#ここから1字下げ]  国民は今、山本連合艦隊司令長官の豪放なる作戦に、心から感謝と賞讃のことばをささげております。しかし、山本大将は決して一日で、偉大なる人物になったのではありません。あの決断、あのすばらしい戦術、あの偉大さというものは、——もちろん、山本大将その人に備わっているものにはちがいありませんが、——その原因をたずねますと、さまざまな理由があげられると思うのであります。そして、その遠い原因の一つとして、七十五年の昔、「おれは人物を作るのだ。人物を作って、長岡を復興させるのだ。人物を作って、新しい日本を立ちあがらせるのだ」といった小林先生のことばを、ここに引くことは不当でありましょうか。もとより、小林先生がああいう意見をとなえたから、山本大将が出たのだとは申しません。しかし、まったく、かかわりがないことだとは、いえないと思うのであります。 [#ここで字下げ終わり]  山本有三の発言は、じつに物やわらかで、主張のしかたも婉曲的である。しかし、時点は昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃から五カ月後のことである。ここには、戦勝気分に浮かれ、神州不滅、神兵無敵といった呪文にみずからをあずけはじめていた軍部や国民の気分を批判しようとする山本有三の意図が、明らかに読みとれよう。  あえていえば、そういった軍国主義的、全体主義的な時局に抵抗する意図によって、かれは「常在戦場」の真の意味を体現している小林虎三郎のことをとりあげたのだった。それは、当時の「米をつくれ、船をつくれ、飛行機をつくれ」といった東条政権の戦時体制論に対して、山本有三が「人をつくれ」という小林虎三郎を対置したものともいえた。 『米百俵』の単行本化にあたって付けられた「はしがき」には、かれがそういう時局への抵抗の意図をもって、小林虎三郎をとりあげたことが明らかにされている。 [#ここから1字下げ] 「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々はおお声で叫んでおります。もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話しであります。しかし、それにも劣らず大事なことは「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。長い戦いを戦いぬくためには、|日本が本当に大東亜の指導者になるためには《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき大事と信じます。  かつて、維新の戦いのあとで、窮乏のどん底に追いこまれた長岡藩のなかに、同じ叫びをあげた人がおりました。|その人《ヽヽヽ》の名はうずもれておりますけれども、現在の長岡市というものは、その声にはげまされて、立ちあがったものであります。そして、その長岡の町から|今日どういう人が出ておるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、それらの人々は、お国のために、今どんな働きをしておるかを思いおこすならば、この声の余韻の、いかに深いものであるかを、改めて味わわれるにちがいありません。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  改めて註釈をほどこすまでもなく、山本有三はここで、かつての維新の戦いのあとで「人物をつくれ」と叫んだのがわが小林虎三郎であり、今日その長岡から出ている人が山本五十六である、と語ろうとしている。  そして、この「はしがき」が単行本につけられて世にでたのは、昭和十八年六月二十日という時点なのである。実は、この日付より二カ月ほどまえの四月十八日に、連合艦隊司令長官の山本五十六がソロモン上空で米機に撃墜され、戦死している。  そのことをおもうと、「飛行機をつくれ」ということも重要だが、「人物をつくれ」ということはそれに劣らず大事なことだという山本有三の主張は、悲痛な叫びとして響いてくるだろう。  それに、わたしが右の引用文で傍点をほどこした最初の「日本が本当に大東亜の指導者になるためには」という箇所には、このころ大東亜戦争の「世界史的」な意義を何とか説明しようとしていた西田幾多郎の門下生たち、いわゆる京都学派の思惟と拮抗する精神があるようにおもわれる。  つまり、京都学派は真珠湾攻撃とほぼ時期を同じくした「世界史的立場と日本」(『中央公論』昭和十七年一月号)という座談会で、世界史を動かすのはランケのいう(そして西田幾多郎の説く)�モラリッシェ・エネルギー(道義的生命力)�だ、それを大東亜の指導者としての日本は形成すべきだ、と結論していた。  これに対して、山本有三はその�モラリッシェ・エネルギー�をどう培ったらいいのか、というふうな具体的な質問をしているのだ。たとえば、右の座談会を引き継いだかたちの座談会「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」(『中央公論』昭和十七年四月号)の冒頭において、高坂正顕は次のように発言している。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 高坂(正顕) 先日東京で、山本有三氏にお会いした時、山本氏のいわれるのに、この前の座談会を読んだ。その中でランケのモラリッシェ・エネルギー(道徳的|精力《ママ》)というのを諸君が取上げていられる。大変面白く思った。だがモラリッシェ・エネルギーをどうやって養ったらいいか、またどうした内容を盛るべきか……、それについての意見をききたいと言われるのだ。 [#ここで字下げ終わり]  高坂の紹介では、山本有三は「意見をききたい」といった、となっている。しかし、近衛文麿の同級生であり、いわゆる近衛ブレーンでもあった山本有三には、ある腹案というか、�モラリッシェ・エネルギー(道義的生命力)�を形成すべき具体的な方法のイメージがあったのではないか。それが、「飛行機をつくれ」の東条軍国主義政権に対する「人物をつくれ」の小林虎三郎像の提示というかたちであらわれているように、わたしにはおもわれるのだ。  いずれにせよ、山本有三は昭和十七年から十八年という時点で、「常在戦場」を座右銘とした長岡出身の山本五十六を引き合いに出しつつ、戊辰戦争における非戦派で、敗戦国長岡藩の戦後復興にたずさわり、一貫して人材育成論を掲げた小林虎三郎の像を描いた。それは、当時の軍国主義、また戦時体制のための生産力主義に対する抵抗の意味をもっていたのである。 [#改ページ]   第三章 河井継之助と小林虎三郎    司馬遼太郎の『峠』  司馬遼太郎の歴史小説のなかで、わたしが好きなものの一つに、幕末の長岡藩の風雲児・河井継之助《かわいつぐのすけ》を描いた『峠』(昭和四十一—四十三年)がある。風雲児というのは、司馬の説明によれば、「時を得れば英雄児となるし、時を得なければ風雲児になる」ものだから、坂本龍馬などはさしずめその英雄児、これに対して河井継之助が風雲児ということになるのだろう。  河井は「時を得な」かったためか、それとも別の解釈からか、岩波の『広辞苑』(第三版)には名まえがのっていない。いまその生年をたしかめようとして『広辞苑』のページをくっていて、そのことにはじめて気がついた。陶芸家の河井寛次郎の名がのっているくらいだから、河井継之助の名ものっていて然るべきなのではないか。ちなみに、虎三郎の名ものっていない。  それはともかく、河井の生年は文政十年(一八二七)で、かれの真の意味でのライバルだった小林虎三郎の生年は文政十一年(一八二八)である。二人はわずかに一歳ちがいだった。河井と小林は親戚でもあり、一時期同じグループを形成してもいた。それゆえ、司馬遼太郎の『峠』に何度か虎三郎の名がでてくると思いきや、かれの登場はたった一場面である。  文久三年(一八六三)、虎三郎が満三十五歳のとき、長町にあった小林家は火事で全焼している。このとき、河井はある|もくろみ《ヽヽヽヽ》のもとに、火事見舞いにでかけた。その|もくろみ《ヽヽヽヽ》とは、ことあるごとに河井に対立する虎三郎の「心を溶かしたい」ということであった。そう、司馬は書いている。  まず、司馬が描く、河井と虎三郎の対立のありようから引用してみよう。 [#ここから1字下げ]  (河井継之助に対する)反撥の総大将は家中《かちゆう》きっての儒者であり、家中きっての硬骨漢であった小林虎三郎であった。小林は雅号を病翁《へいおう》と言い、河井家とは親戚のなかであったが、瞬時といえどもたがいにゆるしたことがなく、継之助は、 「小林というやつほどの腐れ学者もいない。あれほどの頭脳をもち、あれほどの骨節《ほねつぷし》のたしかな精神をもっていながら、書物のみにかじりついて時務も知らず、実行もできず、名声のみを得ている。これは名声泥棒というものだ」  と平素言い、小林のほうも、 「河井は天下の大曲者《おおくせもの》である。君寵をたのんでおのれひとり合点の説をたて、|しんこ《ヽヽヽ》細工でもひねるように政道を自由にまげようとするやつ。あいつはいったいこの長岡藩をどこへもってゆこうとするのか」  と、そんなぐあいであり、ここ数年、両家のあいだで親戚づきあいも絶えている。 [#ここで字下げ終わり]  司馬の描く、河井と虎三郎の対立のありようは、いくらか誇張がすぎている。かれらは「瞬時といえどもたがいにゆるしたことがなく」、などという仇敵のごとき間柄ではなかった。  たしかに、虎三郎には儒者、硬骨漢といった印象がつよく、河井には武断派、財政をもふくめた国家経営者、実務派といった評価がついてまわる。これは、後にふれるように、かれらがそれぞれ師とあおぐ人物が、一方は理論家肌、思想家という印象のつよい佐久間象山であり、他方は実学派、財政家という評のある山田|方谷《ほうこく》であったことに見合っていよう。  しかし、虎三郎が「書物のみにかじりついて」いて、「時務も知らず、実行もできず」の、いわば腐れ儒者であったかというと、そうではない。文武総督として敗戦国の長岡藩を復興させた実行家が虎三郎であり、幕末の時点では時務的な開国論を建白してもいた。それらのことは、これから追々明らかにしていく。  また、河井にしても、「しんこ細工でもひねるように政道を自由にまげようと」したわけではなかった。非常時には非常なる策と手段が考えられるべきであり、東北列藩同盟と官軍とのはざまにおかれた幕末の長岡藩にあって、理性(政治)ではなく気概(文学)を重視すれば、河井のような選択をするしかなかったような気がする。そして、その非常なる選択においては、かれは可能なかぎりの用意をととのえ、また成功への努力をしたといえよう。  だから、虎三郎も河井もおたがいに相手を仇敵のごとく憎み合っていたわけではなく、右の記述は司馬遼太郎という小説家が二人の対決を際立たせるべく、そのような相互評をさせた、ということであろう。幕末の長岡藩における肌合いの異なった二人の対立を面白がって、といったら言葉がわるいが、対比の妙を考えて行った、小説家としての技巧にちがいない。  そういった技巧に無縁な、というより、愚直にちかい真面目さをもって歴史に向かった村上一郎——昭和五十年自死——などは、圧倒的な河井ファンでありながら、河井と虎三郎の対立を次のような関係において冷静に読み解いている。「北越戦線と河井継之助」(『明治の群像』2『戊辰戦争』所収、三一書房、昭和四十三年刊)に、こうある。 [#ここから1字下げ]  同藩の士で、継之助の尊敬したのは鵜殿春風(団次郎)と小山良運であった。鵜殿春風は、つとに蘭学、数学、航海術に通じ、幕府に召出されて目付役となり、勝海舟を助けて功あった人であるが、後に幕吏らと意見を異にして長岡に病臥した。西郷隆盛はその偉材に注目し、薩摩に招こうとしたが成功せず、後の海軍大将伊東祐亨を長岡に派し、就いて学ばせた。長岡藩内には、伊東を間|牒《ママ》(スパイ)視し放逐しようとする者がいたが、河井継之助はあざ笑って心ゆくまで修学せしめたという。小山良運は、大阪緒方塾の出身で藩医を勤め、早くからの開国主義者であった。後に長岡藩が敗れ、たのみとした会津若松も落城した後、良運は継之助の遺志にもとづき、藩世子牧野鋭橘を奉じて仙台から外国船に投じ、フランスに亡命しようとした。事は失敗し、鋭橘はやがて牧野家を継いで忠毅と名乗るが、良運はこの挫折後、帰国して弥彦山麓に隠退し、藩庁の召出しにも応ぜず、病死した。このような二人が、継之助の相談相手であったことは注目してよいことであろう。佐久間象山門下として学んだ川島億二郎、小林虎三郎とは、一時意見を異にしたらしいが、その川島や小林も小山良運とは親しんでいたし、継之助も長岡藩が最後の危機に見舞われるに及んでは、彼らと手を握って後事を託している。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  たくさんの人名がでてきたので引用が長くなった。これらの人名についての一々の説明はさける。いずれ改めて取り上げる機会があるだろう。ともかく村上一郎の理解では、河井と虎三郎の対立は、小山良運の存在を媒介に、また「長岡藩の最後の危機」をまえにしては溶けている。とすれば、かれらの対立は現実の政治・政策を遂行するうえでの意見対立というものであって、「瞬時といえどもたがいにゆるしたことがなく」という間柄ではなかった。  それに、小林虎三郎が師とした佐久間象山のところには河井も一時学んでいるのだ。逆に、河井の尊敬した鵜殿春風《うどのしゆんぷう》(団次郎)は、虎三郎が深く信頼する年下の友人であった。鵜殿のことは、右の村上の文章をよめば大略わかるが、虎三郎が鵜殿の著述『万国奇観』を編集し後序を付したりもしているので、河井と虎三郎をつなぐ大きな糸として、火事見舞いの場面を少し先にのばして、次にそのことにふれてみよう。    鵜殿春風のこと  鵜殿春風(一八三一—六八)が最も親しく交わったのは、村上一郎の書いているニュアンスとはやや異なり、むしろ小林虎三郎のほうである。河井との関係については、鵜殿は「河井があれほどの敏捷な人物であるのに、どうして(官軍との)戦争などを起したものか、到底勝てる見込はないが……」と嘆息した、というエピソードが伝えられている。  事実、鵜殿は長岡藩の開戦に関しては否定的で、「京師之命を御拒《おこば》み被成候《なされそうろう》事」はまちがいだ、と藩当局に進言している。一方、北陸道鎮撫総督参謀の山県狂介(のち有朋)と黒田了介(のち清隆)は高田に布陣したさい、旧知の鵜殿と森源三とにあてて、「今日、内々《うちうち》で戦争などするのは洵《まこと》に詰らぬことである。官軍の方は、おれ(黒田)が引き受けるから、長岡の方は両君(鵜殿と森と)で何とか話をつけて戦争をやめるようにしてはどうか」と、二回も手紙を書いている。もっとも、このとき鵜殿は江戸にあり、戦況も一気に展開していったため、この手紙は結局、森の手にも渡らなかった。  ところで、鵜殿は長岡藩の敗戦後、新政府の誘いをことわって長岡に帰ったが、病でその年(明治元年)十二月、満三十七歳で亡くなっている。そして、その三年後、小林虎三郎が鵜殿の『万国奇観』(慶応二年に執筆)を編集し、出版したのだ。明治四年九月三十日の勝海舟の『日記』には、次のような記述がある。 [#この行1字下げ] 荒木卓司、小林六郎、「省※[#「侃/言」]録」の事、并びに病翁「万国奇観」の後序持参。  ここにでてくる小林六郎とは、虎三郎(病翁)の弟、寛六郎のことだろう。つまり、荒木卓司と小林六郎とが佐久間象山の『省《せい》|※[#「侃/言」]録《けんろく》』の出版の相談のためと、虎三郎が鵜殿の『万国奇観』のために書いた「後序」をもって訪ねてきた、という意味にちがいない。虎三郎は鵜殿と象山との二つの関わりから海舟と繋がりをもっていたわけで、海舟の『日記』にも何度かその名をみせる。  さて、その「後序」であるが、ここには虎三郎の「亡友」鵜殿に対する哀悼の念がよく出ている。『求志洞遺稿』に収められた「万国奇観後序」を、読み下し文によって次に引いてみよう。(読み下しにあたっては、小林安治氏の『稿本略註国訳求志洞遺稿』=未刊=という草稿を参考にさせてもらったが、それと同じではない。) [#ここから1字下げ]  向《さき》に余郷に在って、久しく病に臥《ふ》す。適々《たまたま》亡友鵜殿春風、宦《かん》に倦《う》みて帰り、母を養って閑居す。時、厳冬に属し、短景(短い日)既に暮れ、狂《きよう》|※[#「風+(犬/犬+犬)」]《ひよう》(狂ったつむじ風)怒号し、寒威骨を|※[#「石+乏」]《う》つ。忽《たちま》ち門に抵《あた》りて、簑雪を払うものあり。出でて之を迎うれば、則《すなわ》ち春風なり。乃《すなわ》ち之を書楼(書斎)に延《ひ》く。坐、纔《わずか》に定る。春風則ち曰《いわ》く、子、未だ欧州近日の新報を聞かずや。普(プロシャ)墺(オーストリア)と戦い、大いに之を破り、北日(北|日耳曼《ゲルマン》)の各国皆普に属せりと。乃ち炉灰に画《か》きて、略《ほぼ》中欧の地勢を作し、指点して(指でさして)以て示して曰く、此《こ》れ北日なり。此れ法国(フランス)なり。普、既に北日を管すれば、則ち法と壌《つち》相接せり。而《しか》して法帝|路易拿破侖《ルイ・ナポレオン》は、雄鷙驕傲《ゆうしきようごう》(勇しく猛々しい)、人の上と為《な》るを好む。普の強盛にして已《すで》に迫るは、固《もと》より悦ばざる所、必ず応《まさ》に徒《いたず》らに已《や》まざるべし。則ち欧州の騒擾、是より始らん、と。  因《よ》って遂に著わす所の万国奇観を出《いだ》し、余に属《しよく》して刪潤《さんじゆん》(文章を削り、また修辞すること)せしむ。余受けて之を閲《えつ》すれば、則ち内に路易拿破侖《ルイ・ナポレオン》の記あり。其の末に乃ち曰く、侖(ナポレオン)の動静、欧州の列邦皆目を属す。後来(今後)何事をか作《な》し出《いだ》し来らん。当《まさ》に他日史籍の出《いず》るを竢《ま》ちて之を考うべし、と。  余是に於てか、春風の侖に於ける注意、亦《また》深きを知る。  乃ち、樽を開いて対酌し、相共《あいとも》に欧州列邦の強弱盛衰の勢を縦論し、更(時)の既に移り、寒さ益々烈しく、門前雪の積むこと数尺なるを覚えざるなり。  既にして未だ幾年ならざるに、春風下世(死)せり、而して余の疾、又|滋々《いよいよ》痼なり。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここまでが、慶応二年、鵜殿が『万国奇観』を執筆し、それをもって雪の烈しいなか虎三郎のもとを訪れてきた日の回想である。これによれば、鵜殿はプロシャの勃興に注目しつつも、フランスのルイ・ナポレオンがこれを黙視しているはずはないから、必ずや欧州の騒乱がはじまる、と予言した。そして、今後のナポレオンの情報に注意して、将来を推論したい、ともいったという。  ところが、その二年後、鵜殿は病没してしまった。虎三郎も病がちである。「後序」は、次のようにつづいている。  ——今この秋(明治四年秋)、わたしは病を医師に診てもらうべく上京した。それは、フランスがプロシャと戦って敗北し、ナポレオン三世がプロシャに降伏して一年にならんとする時だった。戦記がつぎつぎと舶来して、その訳本もたくさん出はじめた。わたしは一日、たまたま友人宅でナポレオン三世が武装を解いてプロシャ皇帝ウィルヘルム一世に会見している図を見ることができた。あの勇しく猛々しいナポレオン三世が見る影もなく悄然として物さびしく描かれており、わたしは声を失ったものだった。  かつて鵜殿春風が囲炉裏の灰に図をかいてみせた時を回想すれば、ああ、それはまさに昨日のことのようではないか。かれとまた、この戦記をよみ図をながめて、戦争の勝敗の原因を論じてみたいとおもうものの、すでに彼はいない。わたしは一人残されて、涙が胸臆をぬらすにまかすばかりだ、と。  このあと、虎三郎の「後序」は、『万国奇観』版行の経緯へと移ってゆく。 [#ここから1字下げ]  会々《たまたま》、春風の弟、白峯駿馬《しらみねしゆんめ》(鵜殿男外雄。海援隊に加わった)海舟勝君に請うて、将《まさ》に此の書を刊せんとす。君既に之が序を為る。又余をして一言を題せしむ。夫《そ》れ此の書撰述の意は、春風の自序、之を言って、既に明らかなり。三英雄の事蹟に至っては、法《のつと》る(手本にす)べく戒しむべきは、則ち勝君の論|又《また》切にして尽せり。因《よ》って、余独り区々《くく》悲慕の私を叙《じよ》するのみ。之を巻尾に|※[#「うかんむり/眞」]《お》くと云う。明治辛未(四年)、重陽(九月九日)後二日、越後小林虎、東京の客舎に撰す。(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  勝海舟『日記』の明治五年一月六日の項には、「鵜殿男外雄、団二(郎)著述出板の事に付き、東京より(藤沢に)来る」とあり、春風の弟が亡兄と親しかった海舟や小林虎三郎に図って、『万国奇観』の出版に奔走していたことが窺える。そして、虎三郎の「後序」も、海舟からの指令によったものであることが、右の条《くだ》りからわかるのだ。  虎三郎は海舟からの指令によって、明治四年九月十一日に、この「後序」を書き終え、「亡友」への「悲慕」の想いをあらわしたのだった。すなわち、本書の意図は春風の「自序」に明らかであり、三英雄の事蹟から教訓を読みとることは勝海舟の「序」に記されているので、じぶんは春風への哀悼の意を述べるにとどめる、というわけである。もって、鵜殿春風(団次郎)と小林病翁(虎三郎)との親しい交わりの跡をみることができるだろう。    政治思想の対立  ともかく、このような鵜殿春風の存在をあいだにおいてみれば、河井継之助と小林虎三郎の関係があたかも仇敵のごとくであったというより、むしろその対立は政治、政策上の見解の相違にもとづくものであり、いわば表層的なものであったと推測することができよう。そして、その辺の事情は司馬遼太郎にもおよそ察しがついていたとおもわれる。それゆえ、司馬は『峠』のなかで小林虎三郎を登場させる唯一の場面に、河井継之助が虎三郎の火事見舞いにいったさいのエピソードを効果的に用いたのだ。  河井は「あの男の心を溶かしたい」という|もくろみ《ヽヽヽヽ》によって、当座の生活用品をもって虎三郎を見舞った。「はて、虎め。どう出るか」、と。続けて司馬は、河井が虎三郎を見舞った場面を、次のように描いている。 [#ここから1字下げ]  焼け出されの病翁小林虎三郎は、その妻の実家に仮ずまいしていた。 「なに、継之助がきた?」  と、小林はあわてて腰をあげようとしたが、すぐ尻をおちつけた。たれがきてもあの男がくるはずがない。  が、事実であった。しかも当座の生活用品を荷車に山のように積んでやってきている。  奥の一室で対座した。  (こいつ、もらってくれるかな)  と、継之助はそのことに賭《か》けるおもいがしていた。が、案ずるよりもまずその回答は小林の泣きっ面に出ていた。小林は越後ことばでいうムッツラ男(豪毅な男)で、それだけに感情が豊富すぎるのか、とにかく継之助の好意に一も二もなく小林は感動し、何度も手拭で目がしらをぬぐった。 「ひとの心はハッコエもので」  と、小林はいった。ハッコエというのはつめたいということであろう。平素小林の家に追従《ついしよう》しにきていた縁者どもも、火事からこっち、足をむけようともしない。ゆけばなにがしかの無心でもされると、それをおそれてのことであろう。「ところがおみしゃんとわしとは世間も知る不仲であるのにこのようにおのれの財を割《さ》いて恩をあたえてくれた。わしはどう感謝していいか」 [#ここで字下げ終わり]  河井は火事見舞いにいくことによって虎三郎の心を溶かした、という劇的な展開である。そして、それが劇的であるためには、そのまえの二人の対立はどうしても「瞬時といえどもたがいにゆるしたことがな」い、いわば仇敵のごとく設定する必要があった。小説家司馬の技巧であろう。  虎三郎は見舞いに感激して、二人は和解する。いや、河井は虎三郎の心を溶かした。それはそうなのだが、そのことは河井が虎三郎を懐柔したということにはならなかった。それどころか、虎三郎は河井の心づかいに対して、返礼は赤誠をもってじぶんの考えを申し述べることしかない、というのである。 [#ここから1字下げ]  小林虎三郎はやがて膝をただし、 「これほどの財物を頂戴してもおかえしできる力がない。なにもないのだ」  顔に、赤誠があらわれていた。 「ただ、足下《そつか》の物の考え方、施政、人の使い方に大きな誤りがある。それを申しのべて、この御厚情に対する恩礼としたい」  と言い、その刻限から夕刻にいたるまでの長時間、継之助のやりかたをいちいちあげて痛論し、間違っていると叫び、さらに欠陥をえぐり、その欠陥の基礎になる考え方にまで刺すような論評を加えた。  そのはげしさ、痛烈さは、気の弱い者なら卒倒するほどであったであろう。 [#ここで字下げ終わり]  河井の施政は、師の山田方谷ゆずりで、財政家、実務派的である。つまり「経国実用の学」に根ざした財政改革に、まずはその特徴がある。それによって現在の危機が脱せるなら、きわめて急進的な改革もあえてした。ところが、虎三郎の政治に対する考えかたは、『興学私議』に明らかなように、学制の改革、精神の教育に基本をおくものであり、それによって公正な政治と経済が可能になる、というものであったから、きわめて根本的であるが、十年、二十年さきを�遠望�したものとなる。  ちなみに、わたしはつい先日、虎三郎に関する短いエッセイを草したが、そのタイトルを「『遠望する』まなざし」(『新潟日報』十月二十四日)とした。改めて解説するまでもなく、虎三郎の思考には、十年、二十年さき、あるいは百年さきを「遠望」しているところが特徴的なのである。  それはともかく、河井と虎三郎の政治に対する考えかたは、政策の一々に顕れかたを異にするばかりでなく、そのもとの発想が異なっていた。そのため、虎三郎の河井批判が激しかったことも予想がつく。火事見舞いのお礼に、赤誠をもって激しい批判をあびた河井は、むかっ腹をたてながらも、「小林という男は、どうにも、えらい」とおもわざるをえなかった。  司馬はこのあとで、河井が藩医の小山良運(洋画家・小山正太郎の父)のもとに出掛けていって、虎三郎の「えらさ」を口にする場面をもうけている。 [#ここから1字下げ] 「人間の偉さってものはね、良運さん、わかったよ」  と、すわるなり、いきなり言った。 「なんだ、だしぬけに」 「病翁のことだ、あいつのことだ」  (中略)要するに、小林は無一物になってあれほど難渋している。そこへ継之助が見舞の品々をもって見舞に行った。それによって泣いて感謝してくれた。これで継之助に対する悪口雑言をやめるかとおもえば、「自分はこのように無一物で、なにも返礼できない。せめておみしゃんに対する苦言だけでも」といって、聞いているこっちの頭が破《わ》れそうになるほど痛烈な批判をした。  その批判たるや、かならずしも継之助にとって的を射たものばかりでなく、学者らしい迂遠《うえん》なところも多い。しかし多少得るところもあり、継之助は大いに物を考えるうえで刺戟《しげき》をうけた。  それはいい。そういうことよりも小林虎三郎のそういう態度である。仇敵《きゆうてき》といってもいい継之助から窮迫中に物を恵まれてもいささかの卑しさもみせず、「これはお礼である」といって赤心を面にあらわしつつ鋭く継之助の欠陥をついてきた。 「どうだ、この卑しさのなさは」 [#ここで字下げ終わり]  河井は虎三郎に一点の「卑しさ」もないことに感動して、「どうにも、えらい」といった。虎三郎の「卑しさのなさ」はえらいが、そのことに感動できる河井もえらい、そう、司馬遼太郎は考えているようだ。わたしも同じように考えるが、そうだとすればこの二人の対立は「仇敵のごとく」あったのではなくて、やはりその政治思想の違いに根源があったのである。    山田方谷と佐久間象山  河井継之助と小林虎三郎は一歳ちがい、家禄も百二十石(のち加増されて百五十石)と百石でさして変わらない。それに若いときは、同じく藩儒の山田到処(愛之助)のもとに集まる同志であった。  山田愛之助はつとに治国経済の説をとなえ、そこに集う一党は野樸を尚ぶという意味からか、�桶宗《おけしゆう》�とよばれた。�桶宗�の名の由来は、ほんとうのところわからない。  この一党に集まった中心が、河井継之助、小林虎三郎、川島(のち三島)億二郎らで、党の首領が川島の兄、伊丹政由である。伊丹は若くして(二十九歳)死んだが、かれが山田愛之助に宛てた手紙には「おのれつとに経済に志す」とあるところからも、この一党が実学的な経世の学に志を抱いていたことが知れよう。  ちなみに、明治から大正にかけての人物評論家——かつてはこういうジャンルがあった——として著名だった黒頭巾こと横山健堂が、大正十五年に著わした『旧藩と新人物』(大文館)に、旧長岡藩における「俊才」として、河井継之助、小林虎三郎、川島億二郎、鵜殿団次郎の四人の名をあげている。そのほとんどが�桶宗�に集まっていたことをみても、到処山田愛之助の影響力のほどがわかるはずである。  この�桶宗�の一党のうち、川島億二郎(文政八年生、つまり虎三郎の三歳上)と虎三郎は佐久間象山の門に入り、河井は一時象山のもとに出入りしながらも、結局は山田方谷の門に入った。村上一郎はそのちがいを、象山が陽明学をきらい、他方、河井が十七歳のときから陽明学を慕って、鶏をさいて犠に陽明を祭り立志を誓ったことにある、と推論していた。  もちろん、人の思想はそのような学統のみで測られるものではない。河井は古賀茶渓(謹一郎)の門にあるとき、その書庫に入るを許されて『李忠定公集』を見出し、寝食を忘れて筆写した。象山はこの筆写を激賞して、その題簽《だいせん》(表紙の文字)を書いているほどである。  ただ、今泉鐸次郎(木舌)の『河井継之助伝』(目黒書店、昭和六年刊)によれば、河井は象山のことを「佐久間翁は豪《えら》いことは豪いが、どうも腹に面白くない所がある」といい、それほど敬服していなかったらしい。そうだとすれば、陽明学云々よりも人間的な肌合いの違いのほうが、河井を象山から遠去けたことになるだろう。  河井の若いときの全国遊学日記『塵壺』(平凡社東洋文庫)には、かれが安政六年(満三十二歳)七月十七日に備中松山の山田方谷のもとをたずねて、象山についての話をした旨が記されている。すなわち、 [#この行1字下げ] 佐久間に、温良恭謙譲の一字、何れ阿(有)ると論ず。 と。要するに方谷は、象山には「温良恭謙譲」の一字もない、と批評したのである。 『哲人山田方谷』では、「方谷かつて佐久間象山を評して、彼は実に聡明の人なれども、恐らくその終を全うせざるべしと。門人その故を問ひしに、温良恭|倹《ママ》譲の処一もなければなりと答へたり」と記されている。つまり象山は聡明にして鋭敏ではあるが、「温良恭謙譲」といった徳が一つもそなわっていないから、その終りを全うできないだろう、というわけである。河井が方谷を訪れたのは、さきに記したように安政六年(一八五九)のことで、このときはまだ象山は暗殺されていない。たしかに、方谷は河井にむかって象山の非業の死を予言していたわけではないが、象山の人間性の一面を指摘することによってその運命をも予言していた、ともいえる。  かといって、河井はその人間的側面から山田方谷の門に入ったのか、というと、そうではない。かれが山田方谷を師として選んだのは、方谷の「経国実用の学」を実地に学び、後日長岡藩の財政改革に役立てるためであった。  山田方谷(安五郎)は佐藤一斎の門下で、佐久間象山、塩谷宕陰らと同門であったが、次第に陽明学者としての旗幟を鮮明にした。文化二年(一八〇五)、松山藩御目付格の長《おさ》百姓の家に生まれ、二十一歳のとき藩士に取り立てられた。のち藩主の信任を得て処士から元締になり、嘉永・安政のころ大いに藩政を改革して、全国にその名をあげた。方谷が元締だった八年のうちに、松山藩は十万両の負債を償却し、さらに十万両の余剰を生じたという。松山藩はこれを投じて、幕末諸藩にさきがけて洋式軍隊の創設をはたした。  この山田方谷の財政改革、洋式軍隊の創設は、のち長岡藩の執政に任じられた河井が手本としたものである。その意味で、河井が方谷を師と選んだのは、たんに人間的側面によるのでなくて、その「経国実用の学」の実地を学ぶための目的によっていたことがわかるだろう。  ただ、歴史の偶然とはおもしろいもので、河井継之助が山田方谷のもとを訪ねたとき、二人の会津藩士に出会った。このときのことは、わたしの『秋月悌次郎 老日本の面影』(作品社、昭和六十一年刊)に詳しく記してあるが、その二人とは秋月悌次郎と土屋鉄之助である。戊辰戦争のさいは、二人とも会津藩にあって主戦派で、前者は軍事奉行添役(外交官役)として河井と同盟を交渉し、後者は新錬隊長として白河口で戦った。  それはともかく、知行合一といった掛け声に走りやすい陽明学徒としての河井は、この山田方谷の門で「経国実用の学」の実地を学ぶことによって、着実に幕末の政治家になっていった。元治元年(一八六四)、かれが義兄(梛野嘉兵衛《なぎのかへえ》)にあてた手紙によると、幕府の長州征伐も危ういが、尊攘派の言動も愚だ、と批判して、堂々たる政論を展開している。 [#ここから1字下げ]  攘夷、尊皇などと浪人|共《ども》、言い振らして居り候趣、迂愚《うぐ》の至りに候。普天《ふてん》の下《もと》、率土《そつと》の浜《ひん》、王臣に非ざる者なし。尊王の儀をわきまえざる者一人もこれなく候。攘夷とは何たる儀に候や。洋舶《ヽヽ》(黒船)|到来候とて《ヽヽヽヽヽ》、吾に綱紀《こうき》|立ち《ヽヽ》、|兵強く《ヽヽヽ》、|国富み候わば《ヽヽヽヽヽヽ》、|恐るるに足らざる事に候《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。用意も致さず候て、攘夷攘夷と騒ぎ候は、臆病者のたわごと、心痛この事に候。|吾に用意これあり候えば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、通商の道を開き、勢に乗じ、国富の実を挙げ候事も出来申すべく、無禄の浪人どもの取沙汰ならば、糧のためと|一※[#「口+據のつくり]《いつきやく》(一笑)に付し申すべきも、薩長の外船砲撃とは何たる無謀の振舞いか、嘆息のほかこれなく、行く行くは天下の乱階となげかわしく深憂に堪えず候。今日は容易ならざる大事の時、上下一致、綱紀を張り、財用を充《みた》し、兵力を強くし、一朝の夢、御家名を汚さざる心掛け第一と存じ奉り候。(傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここには、黒船が日本の四囲をとりかこみはじめても、「吾に用意あれば」、すなわち「綱紀立ち、兵強く、国富み候わば」、何らおそるるに足りない。通商をひらくことはもちろん、国富の実をあげることさえ難事ではない、という河井の強い政治思想が脈搏っている。象山の「東洋道徳、西洋芸」という思想戦略と、方谷の「経国実用の学」の実践とが二つながら生きている、といってもよいだろう。 [#改ページ]   第四章 象山と松陰を繋ぐもの    吉田松陰と虎三郎  佐久間象山の門弟名簿「及門録」には、嘉永四年(一八五一)のところに、吉田寅次郎(松陰)と宮部鼎蔵の名が小林虎三郎とともに記されている。松陰は、後にくわしく述べるように、小林虎三郎の紹介によって象山に見《まみ》えたのだった。  松陰と宮部鼎蔵(熊本藩士、一八二〇—六四)は、山鹿流兵学——赤穂浪士討入りのさいの陣太鼓で有名——を継ぐ山鹿素水門で同学だった。しかし、二人ともこれにあきたらず、象山塾に移っている。もっとも、象山塾への入門を果たした直後に、二人は東北遊歴の旅にでている。松陰は宮部のことを、「毅然たる武士なり。僕常に以て及ばずと為し、毎々往来して資益あるを覚ゆ」と評しているから、気が合ったのだろう。宮部はのち尊攘家として活躍したが、元治元年(一八六四)池田屋に会合中、新選組の襲撃をうけ、屠腹して果てた。  ところで、河井継之助が象山の塾に入門したのは、虎三郎や松陰の一年後、嘉永五年のことである。のち帝大総長になった加藤弘之と一緒である。  象山の塾は、蘭学と洋式砲術の教授をうたっており、嘉永二年(一八四九)に松代で開かれている。このときは、当然のことながら、門弟三十一人のほとんどが松代藩士だった。翌嘉永三年になって江戸の深川藩邸で、翌四年に木挽《こびき》町に居をかまえた象山はそこで全国からの門弟を教えた。すでにその名の高かったことが知れる。その嘉永三年の入門が、勝海舟や津田真道である。虎三郎らはその海舟たちの翌年に入門したわけだ。  ちなみに、河井、加藤の次の年が永島三平、白井小助、坂本龍馬らで、その次の年が橋本左内、真木和泉らということになる。これらの名まえをみても、幕末の錚々たる人物の多くが当時象山門に入ってきたことがわかろう。木挽町の象山塾は、本所の江川太郎左衛門塾、愛宕下の下曾根金三郎塾と江戸で覇をきそっていた。  ところで、虎三郎は入門後二年で、早くもその塾頭にあげられ、オランダ語の原書講読はもっぱらかれが代講している。象山のほうは各藩から大砲の鋳造を依頼されたり、川路|聖謨《としあきら》ら要路からの意見諮問に答えるのに忙しかった。  虎三郎が入塾後二年で塾頭にあげられたのは、かれの学識の高さもさることながら、父親の又兵衛と象山の親交によるところが多かったであろう。かれが入塾後まもなく、吉田松陰を象山に引合せることができたのも、おそらくその父親の縁故によって、早くも塾で重くみられていたから可能だったのにちがいない。  松陰と虎三郎は象山門下の「両虎」と並び称されたが、その性格のちがいにもかかわらず、妙にウマがあったらしい。松陰はのち下田踏海(密航)の罪で野山獄に幽囚中、「象山平先生に与うる書」(安政二年)を書き、その冒頭でわざわざ虎三郎のことにふれている。 [#ここから1字下げ]  矩方《のりかた》(松陰の名)の先生に見《まみ》えしとき、小林虎三、実に矩方の為めに謁《えつ》を行いき。虎三点花(天然痘の痕)面《かお》に満ちて矩方と相類し、年歯《ねんし》も矩方と相|斉《ひと》しく、而《しか》して名称又矩方と偶々《たまたま》同じ。但《た》だ虎三は才華にして、矩方は則ち才粗なり。是れを異なれりと為すのみ。之れを終《お》うるに虎三は先生に因《よ》りて罪を獲、而して矩方は則ち罪を以て先生を累《わずら》わす。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  松陰の文章は、言葉遣いはやや難しいが、それを読みこなせば、かれの性格の優しさ、ナイーブさが透いて見える文体をもっている。右の引用文もその類で、そのまま読んでもらうのがいいのだが、あえて直訳してみると、次のようになるだろう。  ——わたし(松陰)が象山先生に初めて見《まみ》えたとき、虎三郎が紹介の労をとってくれた。虎三郎はかお一面に天然痘の痕のアバタがあり、わたしと同類。年齢もまた同じくらいで、その名もたまたま虎三郎(通称|虎《とら》)と寅次郎(通称|寅《とら》)で同じだった。ただ違いがあるとするなら、虎三郎は才能があふれるようにあり、わたしはまことに才乏しいことだったろう。その結果、虎三郎は象山先生との関わりで罪をこうむり、わたしのほうはその罪(下田踏海)によって先生を累わせたのだった、と。  ここには、松陰が虎三郎に対して、その年齢や容貌や名まえなどのさまざまな点から親近感をおぼえていたこと、またその入門にさいして厚情をこうむったこと、才能(学識)の点ではるかに及ばないと感じていたこと、などが書かれている。それに、師の象山との関係でいえば、先生に迷惑をかけたものと先生との関わりから謹慎を命ぜられたもの、という逆の立場に立ったことなども記されている。  松陰がなぜ「象山平先生に与うる書」の冒頭で、このように小林虎三郎のことを縷々述べたのかはわからない。理由はわからないが、かれが同門の親友のことを心に懸けていたことだけは、たしかに読みとれるだろう。  虎三郎は嘉永四年、象山に入門後、そこに住みこんでいた。だから、松陰が入塾のため象山を訪ねたとき虎三郎が紹介の労をとったのは偶然ともいえよう。  しかし、そのときの松陰の姿ときたら、痩骨が衣をまとっているごとくで、髪は蓬《よもぎ》のごとくぼさぼさ。それにアバタ面なのだ。ふつうなら紹介の労をとるどころか、おぞ気をふるってしまうだろう。もっとも虎三郎のほうも、衣裳は整っていたにちがいないが、やはりアバタ面で、そのうえ左眼が幼時の事故で失明、白濁しており、右眼のみがらんらんと光っているといった具合である。  このとき、松陰が数え二十二歳、虎三郎が数え二十四歳。この、意気だけは誰にも負けないという年齢の青年が、外面にとらわれず、お互いの資質を見抜いて心を開き合ったわけだ。  ところで、松陰のそのころの異貌については、勝海舟の証言がある。徳富蘇峰が『吉田松陰』(明治二十六年刊、現在は岩波文庫)に記しているものだ。 [#ここから1字下げ]  嘗《かつ》て海舟勝翁に聞く、翁の壮なるや、佐久間象山の家において、一個の書生を見る。鬢髪蓬《びんぱつよもぎ》の如く、|※[#「病だれに瞿」]骨《くこつ》衣に勝《た》えざるが如く、而して小倉織の短袴《たんこ》を着く。曰く、これ吉田寅次郎なりと。もし壮年以後に、松陰に及ぼせし個人的勢力の大なるものを求めば、象山にあらずしてまた誰《たれ》かある。松陰を知らんと欲せば、勢いこの人を知らざるべからず。 [#ここで字下げ終わり]  海舟はここで松陰の風貌を語っているばかりでなく、その松陰の思想を知るためには、壮年以後のかれに非常に大きな影響を及ぼした象山のことを知らねばならない、といっている。そして、蘇峰はその言のとおりに「象山と松陰」の章を綴りはじめるわけだ。    象山と松陰  吉田松陰がはじめて象山に会ったのは、すでにふれたとおり、数え二十二歳(満で二十一歳と三カ月)のときである。このとき象山は、数え四十一歳(満で四十歳九カ月)。学者としてはもっとも油ののった時期といってよい。  蘇峰は、松陰と象山の初対面の場を、次のように描いている。  ——初め松陰は、象山のことを洋学の知識を売っている学者にすぎまい、とおもった。それなら知識を買いにいけばよい、とばかりに平服で出かけた。ところが、象山は「貴公は学問するつもりか、言葉(オランダ語)の技術を習うだけのつもりか、後者なら別の塾に行け。もし学問するつもりならば、弟子としての礼をとって来なさい」といった。そこで松陰は衣服を改め、礼をとり、束脩(入門料)をもって入門したのである。象山はその自負するごとく、学問の深さ、思想の高さにおいて際立っていた、と。  このエピソードは、よく象山の驕慢を象徴するものといわれるけれど、そうではない。象山の学問に対する真摯さなのである。象山にとって、学問は言葉の技術を習得するものではない、世を救い、人を生かす「聖学」なのである。それゆえ、礼をもってこれにむかわなければならない。そうだとすれば、松陰が衣服を改めたのは、師に対する礼というよりも、学問に対する礼なのである。  そして、そのことが了解されたから、象山は二十歳も下の弟子に対して、はじめは漢学、蘭学、学芸といった知識のことを話しながら、ついには「天下の勢」のことまで説き及んだのだった。そこでは師弟、年齢差などの垣根は取っ払われている。  松陰は象山の「天下の勢」についての議論をきき、それを支えている学問の深さを知った。だから、「象山という奴は、並の奴ではないぞ」と遠慮会釈ない言い方ではあるが、とにかく感服したのだ。松陰の筆によると、こうである。  ——師の象山(氏は平)は「経術」に深く、しかもそれに立脚して「時務」に心を致す生き方をしている。たとえば、老中となっていた藩主の真田|幸貫《ゆきつら》が海防掛を担当することになったとき、象山は顧問として「海防八策」を建議した。その建議は、造船技師・洋砲技師・操船員・技士を海外から傭って洋艦をつくり洋砲を鋳造する、そうして洋艦を操縦し砲術を学んで、海戦の方法を身につけるべきだ、というのだ。当時とすれば、この洋式海軍論は革命的なものだったが、これはもしそのようにしなければ「外夷を拒絶し国威を震耀する」ことができない、と象山が考えたからにほかならない、と。  こういった松陰による象山の紹介は、後にまたふれることになるが、象山の「夷の術を以て夷を防ぐより外、之れ無し」という戦略、つまり究極の攘夷のための開国という方法の忠実な祖述となっている。松陰はその点で、まさに象山の正統な弟子であった。ちなみに、その弟子が師をある意味で超えるのは、幕藩体制に対しての革命論として発動された国体論、この一点においてだったといえよう。  それはともかく、こういった松陰による象山の紹介をみても、海舟がいうように、象山が壮年以後の松陰に及ぼした影響力というか、感化の大きさを知ることができよう。ただ、松陰は象山の真似をしようとはしなかった。思想的・学問的に大きな影響は受けたが、松陰はあくまでも松陰のやりかたで、幕末の非常時を生きたのだった。  蘇峰はそういった師弟の生きかたの違いを、かれらの性格、気質の違いとして捉え、次のような鮮やかな対比として描いた。 [#ここから1字下げ]  彼らの性質は固《もと》より相い同じからず、その年齢も相|距《へだた》る二十《ママ》年。弟子は卒直に過ぎるほど卒直なり、先生は荘重に失するほど荘重なり。一方は木綿服に小倉織の短袴を着すれば、他方は綸子の被布を纏《まと》い、儼然として虎皮に坐す。一方は翰《ふで》を揮《ふる》う飛ぶが如く、字体の大小、筆墨紙の精粗を択《えら》む所なきも、他方は端書すら奉書紙にあらざれば書せず。一方は謙虚益を求め、他方は然天下の師を以て自ら居る。一方は赤裸々の心事を、赤裸々に発表すれども、他方は苟《いやし》くも人に許さず、甚だ一笑|一顰《いつぴん》を吝《おし》み、礼儀三千威儀の中に、高く標置す。一方は質樸なるを以て英雄の本色となし、他方は質樸ならざるを以て英雄の本色となす。一方は恒《つね》に直径を取りて、打破的運動をなし、今日の事をして、今日の事をなさしめよといい、他方は廟算《びようさん》定まらざれば、一歩も動くを欲せず、その眼界は遠く百年に及ぶ。その相反する実にかくの如し。 [#ここで字下げ終わり]  蘇峰の対比はいちいち穿っている。書体をみても一方は飛ぶがごとくであり、一方は筆の切尖はするどいが整然としている。一方は天下にことをなす書生であり、一方は天下の師をもって任じている。質樸と華麗。どれをとっても対蹠的である。しかし、一番ちがうのは革命思想家としての、かれらの生き方かもしれない。  すなわち、佐久間象山の�革命�が百年先までを見すえた政治であるのに対して、吉田松陰の�革命�はわが身一個の奔騰、草莽崛起《そうもうくつき》である。松陰にあっては、政治は度外視されている。己れが正しいとおもった道をひたすら進めばいいのである。  松陰の「草莽崛起」は、たとえばかれが野村和作に与えた次のような言葉のなかに、そのすべての意味が尽くされていよう。 [#ここから1字下げ]  恐れ乍《なが》ら、天朝も幕府、吾藩もいらぬ。只《ただ》六尺の微躯《びく》が入用……。義卿(松陰の字《あざな》)義を知る。時を待つの人に非ず。草莽崛起、あに他人の力をからんや。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  松陰の自己規定「時を待つの人に非ず」と、蘇峰の象山評にある「廟算定まらざれば、一歩も動くを欲せず」とは、まさに対極に位置する。にもかかわらず、この師弟は時務の認識と、その非常時において何がなされねばならぬかという把握においては、共通していた。ただ松陰は、それをわが身一個の草莽崛起において担おうとしたのである。  そして、それゆえに象山は「事を天下に為す者は、吉田子なるべ」し、と評したのだ。繰り返すまでもなく、象山はこれに対して、じぶんと同じく百年先を見通す、いわば「遠望する」まなざしをもったものとして、小林虎三郎を考えていたのにちがいない。松陰と虎三郎の対比は、とすれば人間のタイプとして、河井継之助と虎三郎の対比に相似的である。  ついでながらいえば、かつて吉田松陰の「草莽崛起」の意味をわたしに教えてくれたのは、故村上一郎である。村上は北一輝論において、当時若かったわたしと激しく対立したが、草莽について、社稷《しやしよく》について教え諭して、ひとり早くも世を去っていった。天性の教育者である村上の教え諭しがなければ、戦後生まれのわたしが吉田松陰=国粋主義者という戦後神話から解き放たれることはなかったか、その歩みはずっと遅れていたろう。二十年ちかく後のいま、その村上の光芒を想って、感慨新たなるものがある。    嘉永六年、「黒船」来る  嘉永六年(一八五三)、小林虎三郎が木挽町の象山塾の塾頭をつとめているとき、「黒船」が浦賀に来航した。このとき、二年まえ東北遊歴の旅にでて脱藩の罪に問われた吉田松陰も藩から赦され、改めて十年遊学の許可をもらって江戸に上ってきていた。象山師弟の三人は、ここで再び顔を合わせるのだ。そして、今度はその背景に「黒船」が出てきている。  六月三日、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーは、軍艦四隻(詳しくは後述)をひきい、アメリカ大統領フィルモアの国書をたずさえた国使として来航した。この来航はすでに前年、オランダ商館長から幕府に予報されていたのだが、幕府が一年間このことを無策に放置したため、よけいに大事件となった。このとき、事態の重要性をもっとも早く、しかも深く認識したのが、佐久間象山だった。 「黒船」の第一報が江戸の浦賀奉行(井戸鉄太郎)のもとに届いたのは、六月三日の午後十時すぎである。深夜といっていい。老中阿部正弘をはじめとする幕閣の重だったものには、すぐ情報が伝えられた。しかし、それから二、三時間後、松代藩に関わりをもつとはいえ一民間人の象山がこの情報を入手している。いや、新橋にあった松代藩邸には、象山が六月四日の未明にそのことを伝えたのだ。  象山がこのように素早く「黒船」来航の情報を入手したのは、勘定奉行川路聖謨を通じてである。象山は川路から、 [#ここから1字下げ]  米国使節東|印度《インド》艦隊司令長官海軍代将「ペリー」旗艦「サスクハナ」ニ乗ジ、「ミシシッピ」「プリマス」「サラトガ」ヲ率イ、浦賀ニ来ル。奉行組与力中島三郎助等、米艦ニ就キ来意ヲ問イ、且《かつ》国法ヲ諭《さと》シ、長崎ニ到ラシメントス。「ペリー」肯《がえん》ゼズ。(『維新史料綱要』による) [#ここで字下げ終わり]  というような情報をきき、すぐに松代藩邸に出かけた。そして、定府家老の望月《もちづき》主水《もんど》をたたきおこし、その重大性について説いたあとで、望月から「浦賀へ急行せよ」という藩命を取り付けている。じつに素早い。望月は松代藩における象山の後援者で、翌年(嘉永七年)に松代藩が横浜警備にあたった折にはその総督をつとめ、軍議役に象山を用いることになる。  象山の敏捷な行動と松代藩の対応という連携の見事さに較べると、幕府のほうは周章狼狽、右往左往するばかりだった。『維新史料綱要』の六月四日の項には、 [#この行1字下げ] 松代藩士佐久間修理、藩命ニ依り、浦賀ニ赴イテ米艦ノ動静ヲ視察ス  とある一方で、幕閣の外交上の最高顧問の水戸|斉昭《なりあき》と福井藩主の松平慶永が書信によって「米国ニ対スル処置ヲ議ス」、などと記されている。呑気なものだ。翌日にペリーが大統領の国書をたずさえていると知っても、 [#この行1字下げ] 幕府、前日来、米国国書ノ受否ヲ議シテ容易ニ決セズ といった状況だった。幕閣が国書を受けとるべきかどうか、と江戸城で議論しているあいだに、象山は塾生数人のほかに、松代藩からの連絡要員として足軽二名をつれ、浦賀へと出発している。大森海岸で舟に乗る予定だったが、風向きが悪くて、結局神奈川まで歩く。そこから舟に乗ったが、南風にさまたげられて、金沢八景あたりで日が暮れてしまう。しかし、船頭に交渉して、闇のなかをなおも大津まで進んだ。  大津に上陸した象山は、そこから山越えで浦賀まで十八丁(二キロほど)を歩く。夜中だが、月が明るかった。象山は六月六日付の望月主水宛書簡に、こう書いている。 [#ここから1字下げ]  大津にて岸に登り、夫《それ》より山を越し、十八町にして浦賀に御座候所、此度は御|合印《あいじるし》(敵味方を見分ける印)御座候|提灯《ちようちん》、持参仕らざる方|可然《しかるべし》と相考え、態々《わざわざ》用意仕らず候処、此夜けしからず明かに候て、山路の高低、石の多少まで尽《ことごと》くよく分り、歩行少しも無差遣《さしつかえなく》、浦賀に著《つき》仕候。刻限は夜四ツ半(午後十一時)ばかりにて御座候いき。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  もはや夜も深いが、象山は馴染みの小泉屋の主人を呼び出して、昨日来のペリー一行、浦賀沖の模様を尋ねる。前夜もねていないのに、象山のまなこはらんらんと光っているようだ。  望月宛の書簡には、その小泉屋の主人から訊き出した話の内容が逐一書きとめられている。この段階では、黒船がアメリカ船であることはわかっていない。しかし、象山が書きとめている内容から、かれがこの事態から「西洋」の衝撃をまざまざと受けとっているさまが、十分に伝わってくる。 [#ここから1字下げ]  昨日来黒船渡来の様子(あるじに)承候に、蒸気船の神速《じんそく》なる事、言語に断えたる由に御座候。松輪辺に異船の帆影見え候と申《もうす》やいなや、またたく間、矢を射候が如く走り来り、彦根侯御持の台場よりも、乗留め候心得にて乗出し候よしの所、皆及び候こと能わず。第一番に参り候船浦賀港を過ぎ、鴨居と申|辺《あたり》に錨を卸し、続て蒸気船に無之《これなき》船一艘入来る。……是迄渡来の船と総て品替り候て、乗組|居《おり》候者共も、殊の外|驕傲《きようごう》の体にて、是までは、黒船渡来の度ごと、与力同心乗入見分する事、旧例に候処、此度は与力同心の類身分軽きもの、一切登る事を許さず、奉行に候わば登せ可申《もうすべし》との事にて、其船の側へ参り候をも、手まねにてしらしめ候由。夫を強て近寄り候えば、鉄砲を出し打放し候べき勢に御座候故、一番船に向い候与力は、其儘引返し、又彦根侯御人数の内にても、乗寄せ強て登らんと致し候所、空砲には可有之候得《これあるべくそうらえ》ども、二発打出し候に付、是も無致方《いたしかたなく》、且は怖れ候て、引返し候由の話に御座候。いずれの国にやと尋ね候所、宿屋亭主には不相分《あいわからず》候故、其儘休息|仕《つかまつる》。 [#ここで字下げ終わり]  象山はすでに述べたように、「海防八策」を草して洋式海軍への転換を提議していたから、小泉屋の主人の語る「黒船」のおおよそのありさまは推測可能の出来ごとだったろう。にもかかわらず、その主人の語る「蒸気船の神速なる」こと、また従来の異国船と異なって「乗組居候者共も、殊の外驕傲の体」であること、与力同心などはもちろん「身分軽きもの」は登船も許さないこと、そればかりか、強いて近寄ると、「空砲」にちがいないがともかく発砲をするという強面《こわもて》の風には、何か尋常ならぬさまを改めて感じとったとおもわれる。  その理由は、あとで、このアメリカ船が大統領の国書をたずさえていること、その遣日国使ペリーがまったくの武人であったことなどから、なるほどと了解されることになる。しかし、まずは、象山が一時の休憩(仮眠)をとったあとで実見した、「黒船」についての記述を引用しておきたい。 [#ここから1字下げ]  翌五日|早晨《そうしん》に起出で、東浦賀より山に登り、鴨居と申所の東に向い候所に至り、一見|仕《つかまつり》候所、浦賀港口の東南十六、七町の所に、大砲廿八門備え候洋名コルベット(小型軍艦)と申べき船一艘|有之《これあり》、其東北四町程隔て候所に一艘、是は所謂蒸気船にて、其形コルベットに比し候えば、殊に大にして、比例し候に五と三との如くに御座候。コルベットも大略測量仕候に、其長サ二十四、五間|可有之《これあるべく》候。蒸気船は四十間ばかりと被存《ぞんぜられ》候。其東北に同じく蒸気船一艘、是は先のに比し候えば稍《やや》大に見え候。いずれも船腹に車輪を備え候。其輪の大サ、径六、七間可有之候。蒸気を生じ候為の筒と見え候が、径五尺ばかりにして、舷より三間余高く突出し候もの有之候。大砲の数は、車輪の前に四門、後に弐門、是は砲窓を開き有之候故、より分り申候。其上に六門、是は砲窓を閉じ有之候故、かすかに見え候。左候えば、是も二十四門を備え候と被存候。夫より同じく東北に当り、砲廿八門備のコルベット一艘、船と船との間、いずれも四町ばかり並よく隔て、左右にコルベット、中に蒸気船二艘を置き候様子、船の結構よりして、いかにもきらびやかなる事に御座候。乗組の人数は、四艘合せて二千人ばかり、船印は□(注・右図)如此《かくのごとく》にして、角の黒白は、俗に申一抹《もうすいちまつ》(市松、じつは星形を並べたもの)と申すものの様に見え候。持参仕候|遠鏡《とおめがね》、格別宜しからず候間、委《くわ》しき事はわかり不申《もうさず》。尚《なお》精しくは、後便|可申上《もうしあぐべく》候。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  やや長い引用になったが、これをみれば象山が黒船の一団を実に詳しく観察していることがわかるはずである。軍艦四隻というのも、四十間(七十メートル余り)の蒸気船二隻、コルベットという二十四、五間(四十五メートルほど)の小型軍艦二隻だった。蒸気船には横腹に巨大な車輪がついており、大砲も二十四門備わっている。コルベットのほうは二十八門。乗組員総数はおよそ二千人という、大変な数にのぼっている。いずれも星条旗を掲げているらしい。  なお、象山が朝早く、東浦賀の山上から沖合の「黒船」の様子を仔細に観察できたのは、持参の望遠鏡によってである。これは、前年かれがその妹を娶った、勝海舟から譲られたものだった。象山、海舟の連携、そしてここには直接名まえがでてきていないが、この浦賀行には、わが小林虎三郎も同行してきている。そしてまた、江戸を再訪して四日にしかならない吉田松陰が、一日遅れで象山、虎三郎の師弟を追い掛けてきた。    浦賀にて 『維新史料綱要』の六月四日(じつは六月五日の誤り)の項には、象山師弟に一日遅れて浦賀についた痩骨の書生のことが、次のように記されている。 [#この行1字下げ] 元萩藩士吉田寅次郎、浦賀・久里浜ニ赴キ、米艦ノ状ヲ視ル  江戸に出てきたばかりの松陰は、六月三日すでに象山塾に顔を出していたが、六月四日、麻布にある毛利藩の下屋敷のあと桜田門にある上屋敷に立ち寄ったところで、「黒船」来航のニュースを耳にした。この報に衝撃をうけた松陰は、すわとばかりに、木挽町の象山塾に馳せ参じた。しかし、塾はもぬけの殻、重立ったものはみんな浦賀に行ってしまっていた。  松陰の『癸丑《きちゆう》遊歴日録』の六月四日の項には、次のようにある。 [#この行1字下げ] 直ちに佐久間の塾に至れば、塾中の諸生皆今朝を以て浦賀に至ると。還《かえ》り急ぎ発す。 「黒船」のニュースをきいた松陰が急いで駆けつけたのが、ほかでもない象山のもとだったことは、松陰が江戸で、まず象山の学問、そして時務論をたよりにしていたことを明かしていよう。  松陰はその六月四日の夜八時ごろ、鍛冶橋の下宿を出、鉄砲洲で舟をやとった。舟が出たのは翌朝四時だが、満ち潮や逆風のため品川についたのが六時間後、午前十時という不手際である。そこから、川崎、神奈川と歩いて、金沢野島で舟をやとった。  浦賀についたのは、六月五日午後十時。象山に遅れること、丸一日である。かれは例の『日録』に、次のように記している。 [#この行1字下げ] 佐久間象山翁もまたその門生中尾定次郎らと昨夜を以て来《きた》る。  松陰も象山と同じように、色々なところから情報を集めた。その結果、その「黒船」は「話聖東国人《ワシントンこくじん》の船」だと知る。この記述で北アメリカ洲《ヽ》となっているのは、当時六大陸を六大|洲《ヽ》というふうに呼び、その北アメリカのワシントンから来たつまり大統領命令によって来航した船、というほどの意味であろう。  いずれにしても、井出孫六が『杏花爛漫〈小説佐久間象山〉』(朝日新聞社、一九八三年刊)で書いている次のような記述は、やや的外れな松陰評といってよい。この小説はなかなか良く調べて書いてあるものの、信州出身者の象山びいきのためか、それとも国粋主義者=松陰という戦後神話のせいか、松陰に対する評価がときに正確さを欠いている。たとえば、井出は、 [#ここから1字下げ]  若い吉田寅次郎の浦賀取材メモには、興味深い表現がある。黒船の正体は、 〈北《きた》亜墨利加洲《アメリカしゆう》話聖東国人《ワシントンこくじん》の船〉  だというのだ。すでに長崎・平戸に遊学の機会をもち、多少なりともオランダ語を学んだはずの松陰は、象山の薫陶もあいまって、当時の知識青年の最先端にいたはずなのに、アメリカ合衆国についての認識は、『話聖東《ワシントン》国』|程度のものであった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。おそらく、独立時の大統領ワシントン、その首都ワシントンといった|断片的な知識《ヽヽヽヽヽヽ》が、この|奇妙な国名《ヽヽヽヽヽ》になって定着したのに相違ない。松陰にしてからこうなのだから、他は推して知るべしだ。『黒船』という呼称にも、鉄製の巨船というイメージのほかに、国籍不明の得体の知れぬ不気味さといった、当時の日本人の恐怖感が、その語感にこめられていたといってよい。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり] と書いている。たしかに、当時の海外知識は低く、断片的であったろう。松陰もその弊をまぬがれていないことは事実である。しかし、ここで松陰が書いている黒船についての国名表記は、かれの知識の低さ、断片的であることを物語ったものではない。このときの通訳が語った言葉を浦賀奉行所でそう聞きとった、その情報が松陰に正確に伝わっている、ということなのだ。  なぜなら、象山も浦賀奉行所の情報として、松陰とほとんど同じように書いているからだ。さきの望月宛書簡の続きの部分。 [#ここから1字下げ]  ……追々浦賀役場の手筋へ掛り、黒船|来著《らいちやく》の始末承り候に、皆此度は事に成り可申《もうすべし》と、覚悟を極め居候様子に御座候。与力中島三郎介と申者、和蘭通事堀達之助一同、其主船とおぼしき船に〈浦賀の方より第三、江戸の方より第二〉乗寄せ、拒み候を強て乗登り、|何れの国より《ヽヽヽヽヽヽ》何の用ありて来りしやを問い候所、|北アメリカの内ワシントン《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のよしを答え、さて此度の用向は、江戸へ直《じか》に達し可申候えば、各《おのおの》の厄介に成り不申《もうさず》、通事も召連れ候故、入用|無之《これなし》と申放し候よし。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  象山が海上の黒船の観察から戻って、浦賀奉行所から仕入れた情報では、たしかに「何れの国より」来たか、との問いに、「北アメリカの内ワシントン」との答えが出ているのだ。そして、その用向に関しては「江戸へ直に達し」言うので、おまえたちの厄介にはならない、ときわめて権高な物言いである。むろん、その背景には大統領の国書があるわけだが、とにかく奉行所の役人は(おそらく象山も)「此度は事に成り可申《もうすべし》」と感じたのだった。  なお、余談ながら、井出孫六が「黒船」の呼称について書いていることにも、やや誤解がある。その「黒」に日本人の恐怖感がこめられている、というのは、ペリー以後の結果としてはそのとおりだが、この呼称は安土桃山時代からのもので、「鉄製」ではなく木造の南蛮船が船体を黒く塗っていたためである。 [#改ページ]   第五章 精神のリレー    黒船と白旗  吉田松陰は師象山宛の手紙で、小林虎三郎は先生と関わるかたちで罪におとされ、じぶんのほうはむしろ先生に罪を及ぼした、と書いていた。そのことの意味をより審《つまび》らかに知るためには、嘉永六年(癸丑《きちゆう》)のペリー来航にはじまる黒船騒動とこの師弟三人の対応とに、より深く立ち入ってみなければならないだろう。  ペリーがアメリカ大統領フィルモアの国書をたずさえていたことについては、すでにふれたが、六月九日幕府が周章狼狽のはてに受けとったその国書の内容は、次のようなものであった。  ——偉人にして、よき友よ。余は提督マシュー・C・ペリーを介して、この公書を陛下(将軍)に呈す。この者は合衆国海軍における最高地位の一士官として、今陛下の国土に訪れたる艦隊の司令官なり。  余はペリー提督に命じて、余が陛下と陛下の政府とに対して極めて懇切の情を抱き居ること、および余が提督を遣《つかわ》したる目的は、合衆国と日本とが友交を結び、相互に商業的交通を結ばれんことを陛下に提案せんがために他ならずと、陛下に確信せしめんとす。  合衆国の憲法および諸法律は、他国民の宗教的または政治的事項に干渉することをことごとく禁ずるものなり。余は、陛下の国土の平安を乱すべきあらゆる行動をなさざるよう、特にペリー提督に諭したり。(中略)  余はまたペリー提督に命じて、陛下に次のことを告げしむ。即ち余等は日本帝国内には石炭および食糧が豊富なることを聞知しおることこれなり。わが諸汽船が大洋を横ぎるにあたっては多量の石炭を焚《た》く。それを遙かにアメリカより持ち来るは便利ならず。願わくはわが汽船およびその他の船舶が日本に停船して、石炭、食糧および水の供給を受くることを許されよ。これらの物に対しては金銭または陛下の臣民が好む物をもって支払をなすべし。またわが船舶がこの目的のために停船するを得るがごとき便利なる一港を、貴帝国の南部地方に指定せられんことを要求する。余はこのことを熱望するものなり(下略)、と。  一読すればわかるように、フィルモアの国書は日本に対して、友好の情を示し、ていねいに通商を申し入れていた。(中略部分には、アメリカは日本が清国とオランダ以外には通商を許していないこと——鎖国政策——も知っているが、通商がいまや世界史の趨勢である、とも説いている。)  ちなみに右の引用末尾の石炭云々については、オランダから長崎近辺で石炭がとれる情報を手に入れていたのだろう。長崎沖の高島(一九八六年に閉山になった三菱石炭鉱業高島炭鉱の島)で石炭が発見されたのは、元禄八年(一六九五)である。宝永七年(一七一〇)ごろにはすでに、高島の石炭は伊万里地方の陶器製造用燃料に、また中国・四国地方の製塩用燃料に送り出されていた。  それはともかく、このフィルモアの国書だけを読めば、井出孫六が『杏花爛漫』で書いているように、それが「通商の必要が世界史の趨勢であることを、情理をつくして説いている」ことになる。しかし、ペリーはこの国書を幕府に手渡すさい、次のような添え書(既出)をつけて、降伏用の白旗二|旒《りゆう》を幕府に送ってきてもいたのだった。  ——国書の受入れを拒むならば、天理に背く罪をただすために戦闘を開始する。戦闘になれば、われわれが当然勝つから、和睦を乞う場合には、この白旗を立てよ、と。  この添え書の思想は、じぶんたち西洋人(アメリカ人)こそ文明の徒である。それゆえ戦闘をしてもわれわれの文明が日本の野蛮に勝つことは目に見えている、というものだ。このばあい、その文明の徒が野蛮の徒に要求しているのが、通商という世界史の趨勢というものであって必ずしも「天理」ではないのだが、いずれにしてもアメリカは友好的な通商の申し入れの背後にこのような戦闘(武力)をちらつかせていたのである。帝国主義に顕著な「砲艦外交」の思想、といっていい。  それゆえ、安政四年(一八五七)にハリスが幕府に通商条約の締結をせまったとき、象山は「ハリスとの折衝案に関する幕府宛上書稿」(安政五年四月)において、アメリカの武装および白旗のことにふれながら、次のような根本的な疑念を述べたのだった。 [#ここから1字下げ]  合衆国一体の風誼《ふうぎ》(一般的な習わし)を心得候までにとて申立候に、是迄《これまで》一里たりとも干戈《かんか》(武力)を用い候義は無之《これなく》、条約(日米和親条約)を以て相結び候事と申候えども、六ヶ年以前、其(米)国当邦へ始めて使節|差越《さしこし》候節、許多《きよた》の軍艦兵器用意|有之《これあり》候は、如何なる趣意に候や。其節使節より白旗等贈り候無礼の事も候いしかど、吾《わが》朝廷寛容を旨とせられず候わば、干戈を用い候は必然の事に候。彼の一時のみ一体の風誼を失い候事や、是又不審の一つ也。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  象山はここで、嘉永六年のペリー来航にさいして、アメリカが友好をいい通商を申し入れながらも、大砲を数十門備えた軍艦をひきい、また条約締結の申し入れが受け容れられなければ戦端を開くといって国書に白旗を添えたことなどからみて、これまでは戦闘(干戈)の非常事態が起こらなかっただけで、アメリカがいつも戦争準備を背後でしてきたことは十分に予想ができる、といっているわけだ。  だからといって、象山は即刻「攘夷」を! などと声高に叫んでいるのではない。象山は、だから「夷の術を以て夷を防ぐより外、之れ無し」、すなわち砲と艦をそなえて洋式海軍の建設をいそぐべきだ、といっているのである。  いずれにしても、象山はこのときアメリカの今日まで続く「砲艦外交」の原理をするどく看破していたわけで、フィルモアの国書の表面だけをよんで、それが「通商の必要」を「情理をつくして説いている」と理解するのは十分でないことになろう。  それに、象山はかねてより外寇のあるべきことを予想するばかりでなく、江戸湾近海の海防がなっていないことを指摘し、これでは江戸湾内海に入り込まれたら江戸は洋砲の射程内に入ってしまうだろうと警告してもいた。こういう現実的想像力をもっていたのは、当時にあっては、象山ひとりだった。洋式砲術の先駆者といわれる江川太郎左衛門も、海防問題にくわしかった川路聖謨も、そこまでは考えていなかった。  そして、その象山の危惧どおり、このときペリーの軍艦は江戸湾深くに入り込み、浦賀沖に投錨。その後また浦賀の関門を通り過ぎ、横浜の本牧沖にまで入ってきてしまうのである。  嘉永六年六月六日付の望月主水宛の書簡で、象山はペリーの艦隊を目のまえにしながら、そういった危惧を再説していた。 [#ここから1字下げ]  此度様の事出来り候は、全く真の御武備|無之《これなく》、近年、江戸近海、新規御台場等御取立御座候えども、かねても申上候|通《とおり》、一つとして法に叶《かな》い、異舶の防禦に聢《しか》と成候もの無之、事を弁《わきま》え候ものよりは、一見して、其伎倆の程を知られ候義に御座候故の事にも可有之《これあるべく》、且《かつ》大船も無之、砲道も極めて疎《うとく》候と見込候て、仕《つかまつり》候事と被存《ぞんぜられ》候えば、如何様の乱妨《らんぼう》に及び候わんも難計《はかりがたし》。浦賀の地等の乱妨は、如何程の事にても、高の知れたる事に候えども、自然(江戸の)内海に乗入、御膝元へ一発も弾丸を放ち候事御座候わば、大変申ばかりも無之候。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ペリーの軍艦が江戸湾へ、そしてまた本牧沖に入ったとき、川路聖謨は前年象山によって示されていた危惧がまさに的を射ていたことを悟らざるをえなかった。そこで川路は、象山をして洋式海軍の建設を中心とする建白「急務十条」を書かしめ、老中の阿部正弘宛に提出させたのだった。しかし、幕閣でこの「急務十条」に賛成したのは、川路一人だったといわれる。    ナショナルな思想  嘉永六年(癸丑)六月十二日、ペリーは国書への回答を明年まで延期することを認め、琉球へと去った。その琉球では、琉球王朝を威嚇して、貯炭所の設置、必要品の購入などを認めさせ、小笠原近海の測量さえして去ったのだった。  ペリーが江戸近辺にいたのは、してみれば、わずか十日にすぎない。しかし、その間、徳川幕府の狼狽、無策ぶりは大変なものであった。まさしく、「太平のねむりをさます上喜撰《じようきせん》 たった四はいで夜もねむれず」という落首の指摘する状況だった、といえようか。  ところで、象山はこのとき、「火輪横恣転江流……」という有名な詩をつくった。 [#ここから1字下げ] 火輪横恣転江流 火輪横恣、江流に転ず 非是君臣※[#「りっしんべん+曷」]日秋 是れ君臣日を|※[#「りっしんべん+曷」]《むさぼ》るの秋《とき》に非ず 忠義要張神国武 忠義、神国の武を張らんことを要す 功名欲伐虜人謀 功名、虜人の謀を伐《う》たんと欲す 東圻起堵曾陳策 東圻《とうき》、堵《かき》を起こすは曾《かつ》て策を陳《の》ぶ 南島※[#「貝+(やね/示)」]船盍有猷 南島、船を※[#「貝+(やね/示)」]《おぎの》るはなんぞ猷《はかりごと》あらざる 兵事未聞巧之久 兵事未だ巧《たくみ》の久しきを聞かず 何人速解熱眉憂 何人か速に熱眉の憂を解《と》かん [#ここで字下げ終わり]  象山のこの七言律詩には、憂国の情とナショナルな思想とが脈打っている。意味はおよそ次のようになろうか。——西洋の蒸気船がわが江湾《うみ》をほしいままに走りまわっている。君臣ともに日をむさぼっているときではない。われらの忠義はいまや神国の武を張ることを求められており、またわれらの功名はいまや外夷のたくらみを打ち滅ぼすべきである。東京の武備(砲台)を固めることについてはかつてわたしは策をのべたことがあり、また南海に船を購入して乗り出すことも計画した。しかし、そういった軍事がとどこおりなく進んでいるという話もきこえてこない。ああ、誰がこのわたしの憂いをすみやかに解いてくれるのだろうか、と。  この詩の際立っているところは、まず冒頭の句「火輪横恣転江流」のあざやかなイメージである。アヘン戦争(一八四〇—四二)によって示された西洋の蒸気船、軍事力の威圧、そして脅威が目にうかぶようだ。そのイメージは、あとに展開される象山のナショナルな思想を十分に説得的にしている。  ところで、小林虎三郎はこの象山の詩の韻に次いだ詩をつくっている(傍点が韻)。題は、「癸丑《きちゆう》六月。弥利堅《メリケン》使節|彼理《ペリー》。率兵艦四隻。来浦賀港。致其大統領書而去。象山先生有詩。奉次其韻」——嘉永六年六月、アメリカの使節ペリー、兵艦四隻をひきいて浦賀港に来り、その大統領の書を致して去る。象山先生に詩あり、その韻に次したてまつる、と。 [#ここから1字下げ] 忠憤鬱屈涙空|流《ヽ》 忠憤鬱屈、涙空しく流る 正是黠夷侵海|秋《ヽ》 正《まさ》に是れ黠夷《かつい》海を侵すの秋 講武十年足以用 講武十年、以て用うるに足る 折衝千里豈無人 折衝千里、豈《あに》人無からんや 草茅未見興奇傑 草茅、未だ奇傑の興るを見ず 廊廟何縁建遠|猷《ヽ》 廊廟《ろうびよう》、何に縁《よ》ってか遠猷を建てん 生在神州同受沢 生まれて神州に在り、同じく沢を受く 如今孰不負深|憂《ヽ》 如今《じよこん》、孰《たれ》か深憂を負わざる [#ここで字下げ終わり]  これもまた、象山の詩と同じく、虎三郎がじぶんもまた憂国の情を抱いている、とうたったものである。意味はおよそ次のとおり。——悪がしこい夷人がわが国の海を侵し、わたしは忠誠心の怒りと鬱屈にかられつつ空しい涙を流している。わたしが武を講ずること十年、いまこそこれを用うべきである。千里をたずね問えば、どうして同じような人の無いことがあろうか。しかし、草茅(草むら)では未だ奇傑興らず、廟堂ではどうして遠いはかりごとを建てたらよいのかわからずにいる始末だ。同じく神州に生まれ、この国の同じ恩沢を受けている者、いま、その誰が深憂を負わないというのであろうか。わたしでさえ深い憂いにとざされているというのに、と。  詩の出来として較べてみると、虎三郎より象山のほうがやはり上手い。読者をその詩のイメージの囚にし、それによって政治行動のほうへと煽動しているからである。しかし、そういった詩の技巧を別にすると、わたしには読者をその詩のイメージの強烈さによって煽動してゆく象山と、いまじぶんが思っていることは何かとしきりに考えを詰めようとしている虎三郎との、資質のちがいが明らかにみえてくる。象山の本質が政治(はかりごと)の才ならば、虎三郎は明らかに思想(かんがえごと)の才なのだ。ついでながらいえば、吉田松陰のばあいは、「草莽崛起」、つまりじぶんがいま成しうる行動(行うこと)は何か、の才なのである。  いずれにせよ、嘉永六年の時点で、象山は天下国家を背負ってそのナショナルな思想を詩にうたい、弟子の虎三郎はそれに同一化しようとしながら、いわば「わたしはそれをどう考えていくべきか」と、しきりに問うていたことになる。    下田開港の批判  翌嘉永七年(一八五四)一月十六日、ペリーは再び、軍艦七隻をひきいて神奈川沖に至った。前年申し入れの日米和親条約の締結を迫るためである。  幕府は横浜に応接所を設け、そこで折衝することとして、この警備を松代・小倉の両藩に命じた。松代藩は江戸家老の望月主水を総督に、象山を軍議役に命じた。松代藩の士卒はこのときすでに、象山の構想と訓練のもとで西洋式の大小砲を装備していた。これに対し、小倉藩は旧式の火縄銃である。そこで、当時次のような川柳がはやった、という。   小倉《こくら》より用ひて強き真田打  むろん、松代藩が真田公を藩主としていることからの寓意である。小倉は博多織にちかい丈夫な木綿の織物であるが、それよりも平たく組んだ真田紐のほうが強い、というのである。それほど、彼此の軍備の差は目立つものだった。  ところで、軍議役の象山については、面白いエピソードが残っている。象山は背丈が五尺七、八寸の長身で、肉付きもよい。顔も長く、額も広いうえに、白皙である。眼光するどく梟《ふくろう》のようであったので、子供のころはテテッポウ(梟の方言)とアダナされたという。耳は正面からはみえないくらい後ろについているという異貌である。そういった容貌魁偉の象山がつめている松代藩の陣屋のまえを、ペリーが通り過ぎた。と、その軍議役の象山を目にしたペリーが、ていねいにお辞儀した。これをみていた川路聖謨が、「日本人でペリーから会釈されたのは貴殿ばかりだ」と評した、というのだ。このエピソードは象山自身の吹聴をもとにしているのかもしれないが、なるほど象山の才能と異貌と押し出しなら起こりうる事態だ、とおもわせるところがミソである。  それはともかく、軍議役として横浜出張中の象山は、二月二十日(十九日とも)の夜、和親条約が内定して下田と箱館が開港されるだろう、という情報を耳にした。そこで、翌朝早く総督の望月主水に下田開港はだめだ、と語った。象山の考えでは、下田は江戸から離れすぎており、しかもその間に東海の険害があって、その下田で外国人が事を起したらこれを抑えることができない、というのである。『省《せい》|※[#「侃/言」]録《けんろく》』に、次のようにある。 [#ここから1字下げ]  二月廿日の夜、下田の議ほぼ定まるを聞く。翌朝早起して望月に詣《いた》りて曰く、「下田は本邦の要地にして、その形勢は全世界の喜望峰に比すべし。夷虜これを|※[#「にんべん+就」]《やと》い(借り受け)、屯駐《とんちゆう》してもって巣穴《そうけつ》(すみか)となさば、その害は言うべからざらん。かつ□大城は江戸にありて、人口衆多なり。米穀布帛はみな海軍に資《と》る。不幸にして警《けい》(不測の事態)ありて、海路|格塞《かくそく》(閉塞)せば、江戸は首としてその禍を受けん。伊豆の州たるや、天城の険、その中を隔絶して、下田はその南端にあり。一旦変起らば、陸路兵を出だすも、|※[#「石+駮」]《ほう》隊(砲隊)は嶮の沮《はば》むところとなりて、もって行くべからず。海路はすなわち我に堅艦なし。他日たとい造作するを得とも、虜に海陸の形勝(地の利)ありて、我は反《かえ》ってこれを喪《うしな》えば、主客位を易《か》え、攻守勢を殊《こと》にせん。計にあらざるなり。それ善く事を制するものは、常にその利をして我にありて、その害をして彼にあらしむ。(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  これでみるかぎり、象山は外国船が備えている大砲(およびその砲術)それじたいには、恐れを抱いていない。これは、かれが洋砲の鋳造の技術を修得しているばかりでなく、松代藩にはもちろん、中津藩には十二ポンド野戦砲の設計図を示したり、松前藩には十八ポンド長カノン砲と十二ポンド短カノン砲を鋳造し、またその砲術指南も行っていた経験のうえに立ってのものである。  象山が心配したのは、たとえそういう火器がわがほうにあったところで、下田に蟠踞した外国兵が争乱をおこしたばあい、陸路では天城という東海の険害があり、海路では外国船に太刀打ちできる大艦がない、ということだった。要するに、下田開港は戦略的にまずい、下策だ、というのである。  象山は開港すべきでない、といっているのではない。開港はしかたがないが、戦略的思考をもって下田ではなく、むしろ横浜の開港にすべきだ、というのである。こういった戦略的思考のなかには、わずか十年ほどまえアヘン戦争に敗れた清国が、イギリスに香港を割譲し、上海ほか五港を開港せしめられた事実などが踏まえられていた。  象山が横浜を開港地に考えたのは、横浜なら江戸から近く有事の際にも抑えやすいこと、また近いということで警戒心が抱きつづけられること。大きくいって以上の二点によって、象山は横浜開港説を主張した。望月主水にそう説いたばかりではない。かれは即刻江戸に至り、藩主の真田幸教にもそう述べ、藩主が色よい返事をしないとみるや、水戸藩の藤田東湖に面会し、かれの説に同意した東湖をして徳川斉昭を通じて幕議をくつがえそうと試みた。また、小林虎三郎に建白書をかかせて長岡藩主で老中の牧野忠雅に、そして老中首座の阿部正弘に下田開港の決定を変えさせようとした。  しかし、下田開港説の献策者である江川太郎左衛門はこれを変えず、川路聖謨は象山の説くところに従って下田案には批判的だが、さりとて横浜開港とまではいわない。折衷して浦賀説をもちだす始末である。結局、下田開港が決定され、三月三日、日米和親条約(神奈川条約)が締結された。  藤田東湖はこのとき、象山に宛てて手紙を書いた。その文面でみるかぎり、東湖は、毎日横浜で外国船をみて臥薪嘗胆に思いを致すという象山の意見はいわば劇薬であり、浦賀開港という川路聖謨の温和な薬さえ幕閣によって用いられない、と嘆息している。  もっとも、五年後の安政六年五月になると、勝海舟を阿部正弘に推薦した開国論者の岩瀬|忠震《ただなり》などの採用によって、改めて横浜の開港が決まり、かわって十二月には下田が閉港された。(横浜開港の恩人として、一九五六年、野毛山に象山の彰徳碑が建てられたのは、そのためである。)  ただし、この安政六年の時点にあっては、すでに江川太郎左衛門は没(安政二年一月)、藤田東湖は圧死(安政二年十月)、阿部正弘は没(安政四年六月)、吉田松陰刑死(安政六年十月)……というように、時代ははやくもその主役を交代させていたのである。    虎三郎、謹慎を命ぜらる  小林虎三郎は師象山の意向に従って、下田開港反対の建白書を藩主牧野忠雅に提出した。牧野忠雅は当時、海防掛月番の老中であり老中首座の阿部正弘とも親しかったから、象山がこのルートにかける期待は大きかったとおもわれる。  実際、さきの藤田東湖の象山宛書簡に、下田開港の建議の出所が韮山(江川太郎左衛門)であるという情報が「長岡」経由、と記されているのは、象山が虎三郎を通して聞き知ったものであろう。しかし、虎三郎はなんといっても、このとき数え二十七歳の書生である。政治の現場にいない。結局、一書生の分際で直接国政に容喙するのはよろしからずとして、ただちに帰藩を命ぜられた。これとほぼ時を同じくして、象山塾の門下生であった川島億二郎も帰藩を命ぜられている。  ただ、川島億二郎のばあいは、下田開港についての建白書が原因ではなく、ペリーの再来航にふれての政論が原因らしい。なぜなら、川島が一書生の身をもって藩政を論ずるのは「不埒至極」という理由で、御目付格を免ぜられ帰藩を命ぜられたのは、ペリー再来航の三日後、嘉永七年(一八五四)一月十九日のことだからだ。  虎三郎は明治十年という早い時期になくなったので、きちんとした伝記がつくられていないが、川島億二郎——明治以後に三島と改めた。以下、三島に統一する——には今泉鐸次郎著『三島億二郎翁』、また鐸次郎の子の今泉省三著『三島億二郎伝』という二冊があるので、それらからこの辺の事情を少し引用してみよう。ペリー初来航から藩庁に政論を提出する条り。(これは右の両書に共通した部分。) [#ここから1字下げ]  (三島が)夏島の辺までゆくと、一隻の米艦が内海を測量している。これを見た翁は、憤慨の情に堪えず、舟子を激励して漸く横須賀までゆくと、残りの三艦が、屹然《きつぜん》として岸を距《へだた》る一里|許《ばか》りの処に碇を下している、浦賀までは尚《な》お二里程ある。更に実況を探らんものと、急いで西浦賀までゆくと、阿州藩の高畑某等数士が居ったので、これに会うて一と通り米艦の動静を聞き、更に一商家の楼上に上り望遠鏡で米艦を遠望せしに、艦隊の構造から砲門の大小、甲板上に於ける兵士の操練が手に取るように見えた。全く海城の名に背かぬ観がある。流石《さすが》の翁も、之には一驚を喫せざるを得なかった。(中略)偖《さ》て親しく米人に接近して其動作を見るに、隊伍整然として規律厳粛、何ともいえぬ勇壮の所がある。翁は親しく彼等の動作を見て『六月猶お寒さを覚ゆ』と評したが、此の実際の教訓に接して、余程感奮する所ありしと見え、帰邸後、浦賀に於ける米艦視察の報告に併せて一篇の意見書を藩庁に提出した。 [#ここで字下げ終わり]  三島億二郎がこのとき藩庁に提出した政論(意見書)も、小林虎三郎が下田開港にふれて提出した建白書も、その内容がわかっていない。しかし、かれらがほぼ同時期に帰藩を命ぜられ、そのあとで謹慎に処せられたことは共通している。このとき、同じく建白書を出したうち河井継之助のみが、三島や虎三郎と逆に、藩主に抜擢される結果を生んでいるのだ。  今泉鐸次郎の『河井継之助伝』は、藩老牧野頼母の手記を引いて、次のように記している。 [#ここから1字下げ]  時に江戸在学中なりし継之助は、此の未曾有の国運転換期に念し、殊に藩主忠雅が老中の要職に在りて、難局処理の大任に当れることとて、身は白面の書生に過ぎざりしと雖も、異常の緊張味を以て熱心に各方面の意見を聴き(中略)、『此頃河井継之助、川島億二郎、小林虎三郎、鵜殿団次郎等も献言呈書せしことありたり。又嘉永癸丑以来、鎖国開国の論、藩中相半せしを、公、|攘夷の為すべからざるを悟り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、一藩をして方向を一定し玉《たま》いり』(牧野手記)。而して継之助の献言書は、其言、太甚《はなはだ》しく詭激に渉《わた》れりと雖も、此一事、料らずも忠雅の心を惹き、時局漸く困難ならんとする今日、以て用うべきの器なりと認識せられけん、過言の御咎《おとが》めもなく、却《かえつつ》て部屋住の身より抜擢され、御目付格評定方随役として新知三十石を給せられたり。是れ継之助が仕途に就ける第一歩にして、藩政に関与せし始めなり。時に歳二十八《(満で二十六)》(安政元年)。継之助後年に至るまで、談当年の事に及べば、『流石は常信院様(藩主忠雅)なり』とて深く其知遇に感激せり。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  この『河井継之助伝』の記述によれば、小林、三島らは建言によって帰藩のうえ謹慎を命ぜられたのに、同じ書生の身である河井のみは藩主のおぼえ目出度く、御目付格評定方随役として新知三十石を賜ったことになる。これは不思議なことではないだろうか。  ただ、右の記述には舌足らずというか、若干正確でないところがあって、それが他の人物たちとちがって河井のみ藩主のおぼえ目出度かった、というふうな文脈を生んでしまっているのだ。なるほど藩主がこのころ、藩士の諸生たちにも建言を許し、「攘夷の為すべからざるを悟」っていたのは、そのとおりだろう。だから、河井の「詭激」にわたる言にも寛容で新知さえ与えたのである。  しかし、正確にいえば、河井がその建言の内容は不明ながらも、藩主によって抜擢されたのは、ペリー初来航の嘉永六年の時点であり、翌年のペリー再来航のとき、すなわち三島億二郎が御目付格を免ぜられた嘉永七年一月末には、河井もまた「藩によって意見が行われず」として職を辞しているのだ。とすると、この嘉永七年一月十六日のペリー再来航以降、一、二カ月のあいだに、三島、河井、小林がつぎつぎに藩庁(主)の意にそまない言動をとったとみてもよいのではないか。それは何が原因か。  どうもよくわからないが、原因は三人ともに象山に関わりがあるところから察して、下田開港批判の問題なのかもしれない。三人のうちで下田開港を批判したことが明らかになっているのは、小林虎三郎だけである。しかし、藩主の牧野忠雅が海防掛月番をつとめる幕閣において江川提議の下田開港を決定したところからみて、これはどうも幕閣批判の急先鋒だった象山の息のかかったものたちが排除されたと推測するのが妥当の線ではないだろうか。「虎三は先生に因《よ》りて罪を獲」と松陰が書いているのは、まさにそのことなのにちがいない。    悲憤の共有  すでに述べたとおり、虎三郎の建白書は残されていない。しかし、その建白が原因で、かれが嘉永七年の三月ごろ帰藩を命ぜられ、謹慎に処せられたことは、明白な事実である。象山は『省※[#「侃/言」]録』に、こう記している。 [#ここから1字下げ]  ここにおいて窃《ひそ》かに(下田開港批判を)建白するところあり。また門人、長岡の小林虎をして、その主侯(牧野忠雅)に上書して、大計を開陳せしめ、また、これをして阿部(正弘)閣老の親幸するところに見《まみ》えて、為にその利害を論ぜしめ、時に因りて規諫する(正し諫める)ことを得て、挽回するところあらんことを欲す。並びにみな行われず。小林生はこれをもって主侯の譴《けん》を獲、遂に辞して国に帰れり。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  つまりは、小林虎三郎は師象山の意向に従って、藩主が決定した幕政(下田開港=日米和親条約)に異をとなえたことになる。このため「主侯の譴を獲」たのだった。  虎三郎がこの帰国にあたってつくった詩が、『求志洞遺稿』にある。「甲寅春。獲罪将帰郷。奉留別象山先生」——甲寅(嘉永七年)の春、罪を獲て将に帰郷せんとし、象山先生に留別せんとして奉る、と。 [#ここから1字下げ] 粗率自知多漏遺 粗率みずから知る、漏遺多きを 一朝獲辜又咎誰 一朝|辜《つみ》を獲るも、又誰をか咎めん 故山伴父豈無楽 故山父に伴う、豈楽《あにたのしみ》無からんや 此地離君太耐悲 此地君に離る太《はなはだ》悲しむに耐えたり 学併東西志何挫 学東西を併す、志何ぞ挫《くじ》けん 術兼文武意聊期 術文武を兼ね、意|聊《いささ》か期す 索居偏恐長驕惰 索居|偏《ひとえ》に恐る驕惰を長ぜんことを 引領遙望規誨辞 領を引いて遙かに望む規誨の辞 [#ここで字下げ終わり]  この七律で、虎三郎は罪を獲ても誰も咎めない、といっている。それどころか、かれは師の象山に対する深い尊敬をあらわにしつつ、みずからを戒めている。詩中の「学東西を併」せ、「術文武を兼」ねる、というのは、かつて象山が虎三郎の父小林又兵衛に宛てた書簡のなかで虎三郎を賞めた言葉である。そしていま、虎三郎もそれを志し、みずから期している、というのだ。ここには、師弟の精神のリレーとよぶべきものがある。  詩のおおよその意味を、いちおう記しておこう。——わたしはその言動において粗率で、遺漏も多い。それゆえ、このたび罪を獲ても、誰も咎めたりはしません。故郷に帰って父と一緒にすむのも楽しいではないか。そうおもってこの地で先生(象山)と離れる悲しさにも耐えることにします。しかし帰郷しても、学は東西を併せるという志の挫けることはないし、術は文武を兼ねるという意志はもちつづけます。ただ、田舎に閑居して驕惰の念が生ずるのをおそれるので、先生からの訓えとおしかりの言葉が来るのを、首を長くして待っております、と。  これに対して、象山は虎三郎の七律に次韻した、次のような詩をつくった。 [#ここから1字下げ] 久知天道易推移 久しく知る天道の推移し易《やす》きを 家国興衰将問|誰《ヽ》 家国の興衰将に誰にか問わんとす 伯紀遠謀人所惜 伯紀の遠謀、人の惜しむ所 椒山抗疏世徒|悲《ヽ》 椒山《しようざん》の抗疏《こうそ》、世徒らに悲しむ 一方卻敵未知計 一方敵を却《しりぞ》くるに未だ計《はかりごと》を知らず 四顧称雄何有|期《ヽ》 四顧して雄と称するも、何ぞ期するところあらんや 不揆又遭今日別 揆《はか》らずして又今日の別に遭う 傷心万事付新|詞《ヽ》 傷心万事新詞に付す [#ここで字下げ終わり]  この詩は二、四、六、八の句が韻を次いでいるわけだが、象山はこのなかで、虎三郎との別れを惜しみつつ、家国の衰亡を坐視するにしのびない思いを弟子と共有しようとしているのだ。悲憤の共有とでもいったらよいか。 [#改ページ]   第六章 幕末のパトリオット    長岡の陋幽に棲む  幕末という言葉は、嘉永六年ペリーが軍艦四隻をひきいて浦賀に至った、それ以後の時間に対して用いられる。その意味では、同じ象山の門弟として肝胆相照らすところのあった小林虎三郎と吉田松陰とがまったく異なった人生を歩むようになったのは、この「幕末」という時間がかれらの資質をしかるべき方向にむけた結果である、ということもできよう。  このことは、同じ長岡藩にあって�桶宗�を形成し、また相ついで象山の門弟となった虎三郎と河井継之助の関係についても指摘できることがらなのにちがいない。戊辰戦争にさいしては、非戦派と主戦派というようにその立場を決定的に異にし、明治になってからは虎三郎が河井のことを「我が藩の権臣《ヽ》迷錯して、妄《みだ》りに私意を張り」云々(「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」)と評したこともあって、こんにちの長岡では虎三郎と河井は仇敵のごとくに扱われている。小林派は保守派、河井派は革新派、などといった色分けさえまかり通っている。  しかし、こういった立場のちがいは、「幕末」という特殊な時間がそれぞれのパトリオット(愛国=郷者)に強いた選択のちがいというべきものではないか。それを、片方は保守派、片方は革新派とレッテルを張って、その是非を争うところで、そこからは何も生まれないような気がする。幕末のパトリオットたちが何を考えて、そういう選択をしたかを考えるということが、歴史|に《ヽ》学ぶということなのだ。わたしたちは歴史|を《ヽ》学ぶのではなく、歴史|に《ヽ》学ぶべきなのである。  たとえば、ペリー来航後の嘉永六年末の時点にあって、虎三郎と河井とは三島億二郎をもふくめて、じつに仲の良い友人であり、かれらの往き来も繁かったのだ。小山良運が嘉永六年(一八五三)十一月六日付で河井篤治にあてた手紙には、そのことを推測させる事実が、次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  河井子(継之助)、江府遊学、津藩・斎藤徳蔵(拙堂)へ入塾の由、林虎(小林虎三郎)より申し来り、御同車慶ばしき事と存じ奉り候。(中略)芝田町の海月楼へ、林虎、河継(河井継之助)、川鋭(川島鋭次郎=三島億二郎)、三友あい会し、殊に佳興御座候由、との他、所々三友遊観おり節御座候由、疇昔《ちゆうせき》のこと思い出され、羨しき事なり。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この文面によれば——小山良運のところに虎三郎から便りが届き、河井継之助が江戸遊学のため上府したので、河井と虎三郎と三島の旧友三人がつどって話をはずませ、処々観光もしている、と伝えてきた。それをきいて�桶宗�のころのことが懐かしく思い出され、羨しいかぎりだった、と。  こういった友人同士が、その二、三カ月後には、ペリーの再来航、下田開港問題をきっかけに、その人生を異にしてゆくのである。改めていうと、虎三郎は帰国を命ぜられて謹慎、河井は登用されながらも辞任、といった過程をたどって相訣れてゆくのである。  さて、小林虎三郎がその帰国にあたって象山から与えられた文章(「小林炳文に贈る」)の内容、すなわち「宇宙に実理は二つなし……」についてはすでにふれたので、ここでは虎三郎が帰国後につくった『隠憂賦《いんゆうのふ》』、つまり「隠れたる憂憤の心の詩」を、読み下し文によって引いておきたい。そのことによって、虎三郎が長岡での謹慎中にどのような心境にあったか、がわかってくるはずである。 [#ここから1字下げ]   隠憂の賦  陰陽の繆戻《びゆうれい》に属《あ》い、膏肓《こうこう》の|※[#「病だれに火」]疾《ちんしつ》に罹《かか》り、衆工《しゆうこう》の秘薬を餌《じ》し、甘温に範《のり》して調摂すれども、秋再び閲《けみ》して未だ除かず、空堂に託して潜蟄《せんちつ》す。時序の衰替《すいたい》に値《あ》い、愁緒《しゆうしよ》の紆結《うけつ》を増す。百草の彫悴《ちようすい》を睨《うかが》い、落木の繽紛《ひんぷん》を瞰《み》、涼飆《りようひよう》の蕭瑟《しようしつ》を聴き、繁霜の凄寒に触れ、心|懍々《りんりん》として其れ惻《そく》|※[#「りっしんべん+或」]《よく》し、意惨惨として其れ労煩《ろうはん》す。永嘆を而今《じこん》に発し、追感を昔年に致す。…… [#ここで字下げ終わり]  ここまでは、前置きといった文章である。ただ、措辞がきわめて難解であるので、簡単に訳してみたい。  ——陰陽をたがえて、わたしは胸を病み熱病さえ発した。多くの医師の秘薬をためし、衣食住いろんなことに気をつかって治療に専念したが、再び秋がめぐってきても治らなかった。わたしはただ空しく室内にこもり、蟄居していた。冬に入り、そのわたしの悲痛の思いはいよいよ結ぼれていった。草花は枯れしぼみ、樹木は枯れ落ち、底冷えのする秋風が淋しい音をたてて吹きぬけ、霜がつぎつぎと降りて、あたりを凍らせた。死の世界である。その森閑とした世界にあって、わたしの心は怖れおののくこと多く、思いが悲痛に達し、心底から疲れ切ってしまった。ああ、かくなる今は、わが来し方を振りかえってみるしかすることがない、と。  小林安治が書いているところでは、虎三郎はこの『隠憂賦』に「後記」を付しており、そこには安政三年(一八五六)の春より病臥して、翌四年の冬に至っても治らず、この賦を作った、とあるらしい。そうだとすれば、これは安政元年に帰国してから三年後の作、ということになる。  ともあれ、虎三郎は憂憤、悲痛のうちに、自身が今日に至った道すじを振り返ってみる。  ——わたしが学問道義を学びはじめたのは、元服まえの幼いころであった。聖人賢人の書を読み、心にたたきこみ、何が正しいことなのかを識った。齢二十歳をこえて、志を高くもった。明師(象山先生)に従って学び、何が美しいかを知り、孔儒の学統をさかのぼり、程朱の理を究め、諸家の論に渉り、歴史上の学問文章を読み、また西洋の書物に及んで、宇宙の全体を知った。そうして時勢に悲憤慷慨したけれども、それをうまく言いあらわせずに激さえした。  しかし、所詮はまだ学の及ばざるをおもい、いよいよ学問につとめた。そして、古の君子の風采を追い、道義の奥をきわめ、技芸の帰するところを探り、「体」と「用」とを知って一と為し、文武を合体、わが徳を深め、才を偉にし、廟堂の政計をたすけ、典礼の欠けたるを補い、学校をおこし、多士済々を育て、軍政を修めて武威を張り、猛々しい外夷を伐ちたい、と考えた。  だが、どうしてか、天道がわたしのその行いをほめてくれなかった。わたしは躓き倒れ咎にあって、再び故山に帰ってきた。そうして、世を避けて、この暗い陋屋に棲んで、漁師の仲間、木樵《きこり》の友となっている、と。    象山いわく、「儘《ことごと》く佳なり」 『隠憂賦』は、まだつづいている。虎三郎はその詩文が現在の謹慎・幽閉に及んだところで、みずからの憂いの情に説き及ぶ。隠れたる憂情という言いかたで、その憂いの丈のほどを述べている。そして陋幽に棲んでいるじぶんの憂情を理解してくれる相手、それを述べるべき相手がないことを歎き、そのことがより病をじさせており、それゆえ、ますますもって歎き、憂う、という。  ——明師(象山先生)の厳しい諭えもなく、議論すべき良友もなく、思いをときほぐすこともできない。これでは学を修めることなぞ、できるものではない。年月は、奔馬をもののすき間からちらと見るがごとく、素早く走り去ってゆく。忽ちにしてわたしは壮年に達し、ひとり旧巣を守るばかり。憂いに閉ざされて心はちぢに乱れるばかりである。わたしの苦難はなぜおわることがないのであろうか。進取の時におくれることを悲しみ、皇恩に未だ酬いていないことを慙じ、本来の志を述べていないことをつらく思っている。こういった怨恨を心にいだいているため、夢のなかでさえ安んずることができないほどだ。人生は永遠でなく、すでに晩年は迫ってきている。にもかかわらず、わが思いが世に伝わってゆかないのがつらい。憤って志を述べようとしても、病が固くまとわりついて、体はやせおとろえるばかりだ。これでどうして努力することができようか。  痛みはまし、怖れもまして、夜よなかも眠ることができないまま、灯光の耀やきに向かい合っている。天をあおいで、嘆息すれば、涙流れてやまない。そのボウダたる雨のなかに、光り耀やく陽がみえる。こういったわたしの憂いを誰が察してくれるというのか。古き琴をたたいて念いのほどをのべれば、その音が入り乱れて一つに合ってゆかないことである。それほどに、わたしはいま心を伝えるすべもなく茫然としている、と。  この詩は、一句おきに「兮」の字で終わる形で全編が統一されている。そうして、二句ごとに「ツ」(たとえば「疾《シツ》」「摂《セツ》」「蟄《チツ》」「結《ケツ》」)「ン」「イ」「ウ」……といったぐあいに韻をふんでいる。もちろんその押韻はすべて日本的な韻によっているわけだが、それでもかなり凝った作りになっている。そのぶんだけ難しい措辞が多くなっているのにちがいない。  いま詩の作法のことを別にすれば、虎三郎はここで、自身の病が重くなるばかりでなく、その病がじつは師もなく友もなく、志をのべる相手も機会も方法もないことによって、いよいよ鬱結していっているさまを述べている。じぶんがこれまで奮起し、師に従って古今東西の学問を究めようとしたのは、ほかでもない、政治をたすけ、学校をおこし、人材を育成し、軍備をそなえ、そのことによって夷を制し、もってわがくにの力を伸張させるにあった。それがしかし、すべての道を奪われて、いま北国の陋屋にひっそりと幽閉されている。出来ることといったら、詩にわたしの隠れた憂いの情を述べてみることぐらいだろう。そういった悲痛、慨嘆、憤激の声が、この詩には充ちている。  嘉永七年の春、帰国・謹慎を命ぜられた虎三郎は、ペリーの再来航にはじまった幕末の動乱をよそに、長岡の長町のはずれにあった邸に病躯をひそめ、長く用いられることなく時を送ることになった。  それから十年のあいだにわずかに世に現れたことといえば、安政六年(一八五九)の春に『興学私議』を書いたことぐらいだろう。  あとは、『隠憂賦』のように、詩に思いのほどをあらわすだけだった。師の象山は、この『隠憂賦』をよんで、ひとこと、   儘《ことごと》く佳なり と評した、と伝えられる。象山が実際に、詩に述べられた思想、その手法のすべてを「佳」と考えたのか、それともじぶんの意思に従って主君の譴責にあった弟子の身の上を慮ってそういったのか、象山側のほうには伝える資料がないので、詳しいことはわからない。  ただわたしなど後生からすると、技巧をこらしすぎて難解になってしまったこの『隠憂賦』よりも、次の詩(題不明)のほうが易しく、親しみをもって共感できる。 [#ここから1字下げ] 奕葉覇図夢一場 奕葉《えきよう》の覇図《はと》、夢一場 空看松樹傲厳霜 空しく看る松樹の厳霜に傲《おご》るを 城楼依旧人非旧 城楼旧に依り人旧に非ず 不賦黍離亦断腸 黍離《しより》を賦さず、亦断腸 [#ここで字下げ終わり]  ——大いなる企ても一場の夢と終わってしまった。わたしは故山に帰ってきて、松の木が厳霜に負けず誇らかに堂々としているさまを空しくみている。城は昔のとおりだが、謹慎のわが身をみる人の目は昔のとおりではない。城は昔のとおり堂々としているのだから亡国の歎きをうたうことはできないが、それでもなお心は断腸の想いである、と。    松陰の下田踏海  虎三郎が下田開港を非とする建白書を藩主に提出して譴責をうけ、帰国・謹慎を命ぜられたころ、象山のもう一方の弟子、吉田松陰は下田踏海(密航)事件をおこしていた。松陰がこの密航事件をおこしたのは、嘉永七年(一八五四)三月二十七日のことだが、その計画は前年のペリー初来航のときにさかのぼる。  松陰がそのペリー初来航にさいして、師象山を追うように一日遅れで浦賀に馳せたことについては、すでにふれた。象山はこのあと、松陰にむかって、次のように説いた。  ——先年じぶんが「急務十条」を老中の阿部正弘に上書したときには、賛成者は川路聖謨ただ一人で、そこでの洋艦の建造、洋砲の鋳造、洋式海軍の編成・操練といった意見は用いられなかった。ところが、ペリーが軍艦四隻をひきいて来航してくるやいなや、幕府は狼狽してオランダを通じて軍艦購入の計画をたてた、という。だが、多くの軍艦を購入することは、わがくにの財政が許さない。それに、少数では役に立たない。だから、どうしてもわが国人の手によって洋艦を建造せねばだめだ。それには、俊才・巧思の数十名を外国に派遣して、軍艦や大砲を製造する技術を修得せしめねばならない。幕府があのときじぶんの策を用いなかったのは、いかにも残念である、と。  すると、当時数え二十四歳の松陰は、「詩人は居ながらにして名所を知るといいますが、やはり名所をみなければ、その実感はおきません。百聞は一見にしかずといいますから、わたしが外国の事情を探りに参りたいものです」と名のり出た。政治(はかりごと)の才が象山ならば、松陰はやはり「草莽崛起」、つまりじぶんがいまなしうる行動は何か、の才なのである。  そこで象山は、「よく決心した」といって大いに喜んだ。しかし、密航は国禁を犯すことになるから、ジョン万次郎のように「漂流」ということにすればよいだろう、と助言した。このため、松陰は漂流に名をかりて渡航すべく用意をととのえていたが、米艦がはやくも去ってしまった。好機を失ったとガッカリしていたところ、七月になって、ロシア使節のプチャーチンがやはり日本の開国を要求して、長崎に至った。  これを知った松陰は、時来れり、とばかりに江戸を発って長崎に赴こうとした。このとき、象山は松陰の行を壮とし、「吉田義卿を送る」の詩を書いて贈っている。  ——この子には霊骨があって、ことにあくせくせず、万里の道をゆっくりと歩いてゆくごとくである。その心事は人に語っていないが、何か理由があるようだ。行を見送って城門を出ると、その行を壮すべく秋の空に孤鶴が横たわっている(「孤鶴は秋旻《しゆうびん》に横《よこた》わる」)。広々とした大洋ではあるが、五大洲はすべて隣り合っている。その世界をめぐって形勢を見究めて来い、一見は百聞をこえるであろう。知者は機会に投ずることを貴ぶものだ。帰ってくるのは必ずや次の朝になるだろう。(夜明けをもたらすのは、おまえだ。)非常の功を立てよ、と。  象山はそう書いて、松陰を激励した。そればかりでなく、かれの長崎行に対して旅費四両をわたした。  松陰は勇躍、長崎にたどりついた。十月二十七日のことである。しかし、プチャーチンの一行は同月二十三日立去ったあとだった。松陰はガッカリして長崎から引き返し、帰途、京都で梁川星巌などに会ったりしたあと、十二月末に江戸に戻った。象山からわたされた四両は、封印のまま返却している。  ところが、江戸に戻ったばかりの松陰のまえに、ペリーがこんどは軍備を増強して、再びやってきた。嘉永七年一月十六日のことである。このたびは軍艦七隻で、一年まえに予告したとおり、和親条約を結んで開港しなければそのさいには戦端が開かれるであろう、との意思を誇示していた。その結果、幕府は三月三日、日米和親条約(神奈川条約)を締結し、下田・箱館の二港を開くことにしたのだった。  松陰はこのとき同志の金子重輔と相謀って、神奈川沖の米艦に近づく機会をねらった。しかし、その機会を見出せぬうちに、米艦は下田へと去ってしまう。そこで、松陰たちはこれを追って、三月二十七日夜、漁舟に乗って下田の柿崎沖に出た。真夜中で方角もわからないうえに、技術もないから、舟は容易にすすまなかったが、それでもようやく米艦ポーハタンにたどりついた。  このとき、松陰はペリーにむかって、アメリカに同伴してくれと頼んでいる。しかし、ペリーは日本と条約を結んだばかりであり、国交上よからぬ結果を招くおそれがあるから受けいれがたい、といって、二人をボートに乗せて陸地に送り返してしまった。  以上の密航失敗の経緯については、従来より松陰の回顧録や『ペリー日本遠征日記』などを素材として、ほぼ研究され尽した感があった。ところが、つい最近、ペリー艦隊の乗組員W・スペイドン二世の『日記』が発見され、そこに松陰の密航失敗の始終が誌されているので、引用してみよう。ちなみに、W・スペイドン二世というのは、同艦隊のミシシッピー号主計長の息子で、当時二十歳の若ものである(『中央公論』一九九〇年三月号、三好啓治「吉田松陰の二通の投夷書」による)。 [#ここから1字下げ]  数日前の夜、二人の男の乗った日本の小舟がわがミシシッピー艦に近寄ってきた。彼らの目的が何なのかはっきりわからなかった。彼らは江戸の方を指さし、そこから来たという。われわれは彼らの小舟をパウハタンへ横付けさせた。  わが方の通訳ウイリアムズ氏が彼らと話した。そこで判明したことは、彼らは江戸の立派な市民であり、わが国のことをよく聞いたり読んだりしていて、アメリカにぜひとも行きたいという大いなる望みを持っているということであった。しかし日本の国法では、日本人の海外渡航は禁じられているので、脱走してわが艦にのればアメリカへ連れて行ってくれるだろうと決意したものであった。  (中略)漕ぎなれない小舟を漕いできたので、彼らの手はマメだらけで皮がすりむけていた。彼らは、艦中に留まることはできないと言われ(艦内のどこにでもよいから置いてくれることを望んでいたが)、しかもパウハタン号に乗るとき、彼らの舟を押し流してしまったので、パウハタン号の舟艇で岸へ送り返された。 [#ここで字下げ終わり]  翻訳ではあるが、やはりどことなく二十歳の若さがにおうような記述である。    去年は雲外の鶴、いまは籠中の鶏  松陰たちが岸に送り返されて、密航事件は片が付いたようにみえた。ところが、かれらが乗り捨てた漁舟が岸に打ち上げられ、舟のなかに残した行李と大小刀が下田奉行の手に落ち、密航計画が露顕してしまった。松陰は、こうなってはもはや逃れられない、と観念して、奉行所に自首して出た。  松陰たちははじめ下田の牢に繋がれ、その後江戸へ護送され伝馬町の獄に、ついで萩の野山獄に送られた。松陰はそのあと、『幽囚録』(安政元年冬)にこの下田踏海(密航)の次第を、次のように要約して誌している。 [#ここから1字下げ]  ……象山に購艦の説あるに及んで、余、意《こころ》に期すらく、官或は斯の挙(外国から軍艦を購入すること)あらば、自ら請うて役に従い、万国の形勢情実(実情)を察観せん、亦過を償い恩に報ずるの一端なりと。而して象山の説遂に行われず、九月十八日、江戸を去り、西のかた長崎に到りしも、事意の如くなるを得ず。十二月の季《すえ》に及び、復《ま》た江戸に帰る。明年、夷舶の下田に在るや、余、藩人渋木生(金子重輔の変名)と窃《ひそ》かに夷舶に駕して海外に航せんことを謀り、事|覚《あら》われて捕えらる。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  だが、密航の失敗は、松陰と金子重輔の捕縛に終わらなかった。師の象山も、この事件に連座したのである。というのは、かれらが乗り捨てた漁舟の行李のなかに、先年松陰が長崎にむかうとき象山が書いてくれた壮行の詩(前掲の「吉田義卿を送る」)があったため、象山がこの密航を慫慂したものと判断されたのだった。象山も伝馬町の獄に囚われの身となった。  挙は失敗に終わったが、松陰はその挙を悔いていない。ただ、それが失敗に終わったために、結果として何の挙も起さず「空論高議」する輩と同類とみなされることが恥ずかしい、という。『幽囚録』の自序にこうある。 [#ここから1字下げ]  吾れ微賤なりと雖も、亦皇国の民なり。深く理勢の然る所以を知る、義として身家を顧惜し、黙然坐視して皇恩に報ぜんことを思わざるに忍びざるなり。然らば則ち吾れの|海に航せしこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》、豈《あ》に已《や》むを得んや。今、事|蹶《つまず》き計敗れ、退きて図を按じ筆を弄して空論高議する者と流を同じうす、何の羞恥かこれに尚《くわ》えん。(傍点、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  松陰にとって「海に航せしこと」は、かれのいわゆる草莽崛起であった。やむにやまざる行動である。その意味で、これは小林虎三郎が師の象山の慫慂にかかる下田開港反対の建白と、揆を一にする行為といえた。  実際、松陰はこの『幽囚録』のなかにも虎三郎の名を出して、師の説を行動に移して罰せられた、という評を述べていた。いわく、 [#ここから1字下げ]  (象山は)急に江戸に帰り、窃かに建白する所あり。其の門人長岡藩小林虎三郎(有志の士なり、師の見る所を聞き深く之れを然りとし——象山の書き込み)師の説を以て執政某侯(牧野忠雅)の臣に語《つ》ぐ。(見《まみ》えて以て其の説を進む。——象山の書き込み)遂に諸生天下の事を議するの罪を以て藩、国に還し就かしむ。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  もし、じぶんの藩主が長岡藩のように海防掛月番の老中であったならば、じぶんもまた虎三郎と同じように藩主に建白書を提出していたろう、といった書き振りである。けれども、松陰の属する長州毛利藩は、大なりといえども外様大名であって、その藩主が老中を職とすることはないのである。ともかく、松陰は同門の虎三郎がとった行為を当然のことと捉えていた。  なお、この『幽囚録』は、松陰が伝馬町の獄で一緒になった象山から執筆をすすめられ、その冬(安政元年冬)に萩の野山獄に送られたのち記したものである。そうだとすれば、このとき松陰は、同年の春(八カ月ほどまえ)に帰国・謹慎を命ぜられた虎三郎についての詳しい情報を知っていたわけだ。 『幽囚録』の末尾には、伝馬町の獄で九月十八日に判決が下り、松陰も象山もそれぞれ国表において蟄居を命ぜられ、松陰は十月二十四日に萩についた旨が記されている。そして、かれが護送のため「出獄」した日につくった詩も誌されている。  ——去年は秋空に飛びたってゆく鶴(象山のいう「孤鶴は秋旻に横わる」)だったが、いまは唐丸籠に囚われの鶏であることよ。人事はかように定まらない。天はどうしてこのような不合理なことをするのであろうか。というのが、その詩の大意である。  ところで、伝馬獄中の象山については、松陰が男らしく容易に罪をみとめてしまったのに、幕吏のいうことに一々反駁して罪をみとめようとせず女々しかった、という評が当時あった。こういった妄評は幕吏が象山をおとしめんとして流布させたものである、と断固否定したのは、ほかでもない松陰だった。  松陰は兄の杉梅太郎との往復書簡に象山の裁判における主張を一々書き留めたうえで、いう。——象山が無罪を主張したのは、かかる非常時に松陰らが「何とか術を設け海外へ出で」ようとしたのは、むしろ国家のためをおもってのことで、「全く国禁に背《そむ》き候心底毛頭|無御座《ござなく》候」という考えからだった。それに、幕吏が、たとえ国家のためとはいえ「漂流」に名をかりて海外渡航を企てるのは、渡航を禁じる国法があるのだから、「矢張り国禁を犯すなり」と罪を問うと、象山は「かかる非常の節にも法は法」といわれるのなら、「私国禁を犯すこと明なり」と答えた、と。  嘉永七年九月十八日、国表での蟄居を命ぜられ、象山は松代に、松陰は萩にと護送せられた。松陰はいう。 [#ここから1字下げ]  奉別の時、官吏坐に満ち、言発すべからず。一拝して去る。今や乃《すなわ》ち地を隔つるに三百里、毎《つね》に鶴唳《かくれい》雁語を聞き、俯仰徘徊自から措《お》く能わず。 [#ここで字下げ終わり]  象山と松陰は別れにさいして言葉を交わすことも許されず、相別れた。それ以後、かれらは二度と会うことがなかった。それから五年、松陰は安政六年の大獄で刑死した。徳富蘇峰の『吉田松陰』は、松陰刑死のことをきいたときの象山の言葉を誌して、次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  松陰の刑せらるるや、その絶命の詞《ことば》、伝えて象山に到る。象山|潸然《さんぜん》として泣いて曰く、「義卿は事業に急なり、今やかくの如し」と。彼自ら曰く、「我れ本《も》と一丈夫、豈《あ》にその元《こうべ》を喪うを忘れんや」と、彼は自から死を決して徴命に応じたり(元治元年、幕命に応じて上洛——引用者註)。彼らの趨向殊なりといえども、各々その身を以て信ずる所に殉ず、また以て大丈夫たるにおいて愧《は》じる所なかるべし。 [#ここで字下げ終わり]  ここには、松陰の死生をそれと認めて肯なう師象山がいる。もとより、象山の死生はおのずから別である。そしてそう認める蘇峰が、ここにいるわけだ。  松陰の刑死後一カ月ほどたって、下田港が閉鎖された。象山が主張したように神奈川(横浜)がその年(安政六年)の五月に開港されたからである。  振り返ってみれば、この嘉永七年(安政元年)という一年こそ、象山の門弟である虎三郎と松陰の運命をわかち、かれらを「幕末」という時間によって翻弄せしめた始めの年であった。 [#改ページ]   第七章 戦わない論理    長岡=ナショナリズム  長岡という地名は、わたしたちに幕末の河井継之助や大東亜戦争における連合艦隊司令長官といった、歴史上の人物を想いださせるばかりではない。この二十年ほど日本を騒がしつづけてきた田中角栄の選挙区も、長岡を中心とする新潟三区であった。  昭和五十年(一九七五)の秋、田中角栄が前年末にロッキード事件で首相をやめてから一年とたたないころのことであるが、わたしは北一輝研究のための何度目かの佐渡行の帰り道、小林虎三郎の跡をたどるべく長岡に立ち寄って、面白い光景に出くわした。長岡駅に接した書店の店頭に、田中角栄の『大臣日記』(大蔵大臣当時の記録。昭和四十七年刊)が何冊も平積みにされてある隣に、山本有三の戯曲を中心とする『米百俵 小林虎三郎の思想』(昭和五十年八月二十四日初版発行)がやはり同量ほど平積みにされてあったのだ。  田中角栄と小林虎三郎。これほど氷炭相いれぬ、対蹠的な人物の組み合わせもないではないか。何という御国じまんの錯誤か、わたしは一瞬そうおもった。一方は、いまは「堕ちた偶像」となってはいるが、かつては大衆の政治への幻想(それゆえの幻滅)をかきたて、革新的ともいえる『日本列島改造論』を打ち出した田中角栄である。他方は、政治への幻想を与えようとしたのではなく、歴史において永遠に守るべきものを考えようとした小林虎三郎である。その対極を平然と並べておくとは、長岡とは何という土地柄か、と。  しかし、よく考えてみると、この田中角栄はある意味で、幕末の河井継之助に代替可能なのではないだろうか、という気もした。その革新性をもった発想、思い切った政治決断(田中角栄の日中国交回復を思え!)、大衆を強引に率いてゆく指導力……どれをとっても、河井継之助につながってゆくイメージがある。  たとえば、明治になってから小林虎三郎の下で学校訓導になる鬼頭平四郎(少山)は、戊辰戦争中に河井継之助によって「非常の時、まさに非常の計に出」た、といって絶讃されている。つまり河井は、みずからと同じく「非常の計に出」ることのできる才を好んだのだ。「少山自叙伝」(明治二十四年執筆)にあるエピソードは、次のようなものだ。  ——あっというまに薩長軍との戦端が開かれたために、鬼頭らは急いで城から弾丸を運び出した。しかし、一日の弾丸消費量が十万発にも及ぶため供給が間に合わない。来援してきた会津藩にしても同様だったが、鬼頭は会津藩士からたまたま貿易商(武器商人)のスネルが「今来りて新潟に在り」という情報を仕入れた。そこでかれは、スネルならば河井と交際(取引)があったはずで、交渉してみれば何とかなるだろう、と考えた。  鬼頭は紹介状も金ももたず、独断で新潟に直行した。スネルの宿舎となっている寺院には、諸藩からの使者が数十人も来て坐っている。それを横目でみながら、鬼頭は「長岡藩河井氏の使者某」と名のりをあげた。すると、スネルは大声で「長岡藩の使者至る」と応えた。(さすがにスネルは商売上手、と後世のわたしは言う。)鬼頭はその場で銃器弾薬の購入をもちかけると、スネルはすぐ許諾してくれ、翌日さっそく大砲硝薬三千斤あまりと、後込め銃四十一挺を弾丸つきでそろえてくれた。鬼頭はそれを加茂の本陣に送り、本陣において「専断の罪」をわびた。  ところが、藩の重役たちはおたがいに見詰めあっているだけで、誰も言葉を発しない。すると、軍務総督になって間もない河井が、「使なる哉、使なる哉、非常の時、当《まさ》に非常の計に出づべし、豈《あに》格法に拘泥すべけんや」といい「気色甚だ喜」んだ、というのだ。非常の際に法律とか仕来りとかに囚われるな、というわけである。しかも河井は、このあとすぐに鬼頭を中間頭格へと昇格させ、スネルへの代金の支払いとともに再度の軍器購入にむかわせている。才を用いるに敏、といえよう。  このため、後にスネルは官軍によって捕われ「戦地に銃器を売」った罪で、万国公法(国際法)違反に問われることになる。しかし、河井によれば、非常の時に非常の計に出るのは当然であり、商売人のスネルは商売をしただけだ、となるだろう。  そんな河井と田中角栄にはやはり通じ合う資質があるようにおもわれる。これは、長岡あたりの人びとにとっては暗黙の了解となっているような気がする。  たとえば、田中角栄の出身地の西山町に隣り合った柏崎に生まれ育った北川省一(良寛研究家、もと共産党員)などは、『角さんや帰っておいで越後へ』(恒文社、一九九〇年刊)という近著において、長岡という地名をマクラにふりながら、河井継之助と田中角栄の二人の名を出しているのだ。 [#ここから1字下げ]  長岡は、戊辰の役では明治新政府の敵軍に回り河井継之助を押し立てて戦ったために賊軍ということになり、それで官軍に滅ぼされたという歴史的な土地柄だし、太平洋戦争の時には二度も空襲に遭っている。しかし、戦後もあれだけの発展をした。だから、角さんは「叩かれれば叩かれるほど強くなるんだ」と言ったし、長岡の市民もそう考えるのは当然だと思われる。長岡は角さんの選挙区の中心でもあり、今まで叩かれてきているから、叩かれれば叩かれるほど強くなる。だが、そこからの抜け口というものを新潟三区は角さんに求めていったわけで、歴史的にも地理的にも、ここで角さんのためにみんなが起つという現象(ロッキード事件で辞任したあとの選挙で二十二万票を獲得し、第一位で当選したことを指す)が現われることになったわけです。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  ついでながらいえば、北川省一の文章にはこのあと、その選挙の即日開票が行われた日、長岡に一日で三十センチも雪がつもり、つごう一メートル近くに達した、と記されている。長岡の戊辰戦争での敗北に、第二次大戦における東北・北陸ではめずらしい激しい空襲、そうして裏日本・豪雪などに打ちのめされる長岡人のルサンチマン(怨念)に繋がるように、かつての河井継之助がおり、いま田中角栄がいるというわけだ。  田中角栄と河井継之助は、その傑出した資質の共通性と同時に、その資質によってルサンチマンをくつがえす長岡=ナショナリズムとでもいった役割を一身に果たす存在として捉えられている。そうだとすれば、田中角栄と河井継之助は、長岡あたりの人びとの意識のなかでは、それぞれに代替可能なのだ。(ここに、山本五十六の名を加えてもよいだろう。)昭和五十年秋にわたしが目にした田中角栄と小林虎三郎の並置は、とすると、河井継之助と小林虎三郎の並置というふうに考えてもいいわけだ。そして、そこに長岡人特有の革新と保守についてのバランス感覚があるのではないか。    ネーションとは何か  戊辰戦争に直面した長岡藩にあって、河井継之助と小林虎三郎はそれぞれ、主戦派と和平派という相対立する立場をとった。河井は薩長と戦うことによって長岡一藩のナショナリズムとでもいった立場を主張したのだが、保守といわれる虎三郎はその和平策によって何を守ろうとしたのか。  いま戦わざれば長岡藩という主体は失われてしまうだろう、というのが、主戦派の考えである。この、長岡藩士を(のみならず現在の長岡人をも)奮い立たせる思想に異を唱えることは、なかなかに難しい。では、虎三郎は何を考えて、和平を主張しようとしていたのか。  戊辰戦争当時、虎三郎は病臥にちかい状態にいた。これは、嘉永七年(安政元年)の帰藩以来ずっと変わらぬ状態といっていい。藩政への参画といっても、オランダの兵制書など数篇を翻訳して藩の軍制の近代化に資する、といった間接的な協力にすぎない。  しかも、虎三郎が帰藩して十年後の元治元年(一八六四)には、頼みとする師の象山が京都で暗殺されてしまった。そのころ、かれがつくった「十年」という詩がある。  虎三郎はそこで、病臥はもう十年に及ぶが、じぶんの「国」を憂うる心はすこしも衰えをみせていない、という。もちろん、立身出世し功を立てるといった欲もないわけではないが、一時の功名心にまどわされることなく、天にむかってわが志をのべたい。ただ、いまは時に随って隠居しているのだ。世間才俊の士が功名心に酔って病のごとくうろついているとしても、わたしはむしろそれを憐んでいる、と。  ところで、ここにでてくる「国」はいささか抽象的なイメージであるが、幕末の政治状況の切迫下にあっては、それは虎三郎のなかでしだいに明確な内容をともなうようになる。つまり、「国」とは「一領一国(藩)」のことでなく、「日本」というネーション(民族・国家・国民の一体化した概念)のことである、と。  そう考えることによって、虎三郎は長岡一藩のナショナリズムではなく、藩国を超えたネーションをこそ守るべきだ、という思想に到達していったようにおもわれる。しかも、それにはいま朝廷の命に従うべきで、西軍(薩長軍)と戦うべきでない、という和平策が必然的に導き出されるのだ。  だが、長岡一藩の主体を守ろうという主戦派の主張は、その藩が姿かたちのあるものだけに長岡藩士に受け入れられやすい。一方、長岡藩や徳川幕府といった幕藩体制を超えるネーションは、まだ姿かたちのはっきりしないものである。黒船の脅威にさらされた日本列島という風土的な意味ならやや了解可能だから、「攘夷」という掛け声には同意することができる。しかし、黒船の脅威にさらされているのは、ほんとうは風土ではなく、「日本」というネーションである。そのネーションを徳川幕府ではもはや守ることができない。  このとき、東北諸藩およびその人民にとっては存在さえも定かに知られない「天朝」に拠って、「日本」というネーションを守ろうという虎三郎の和平策は、長岡藩のなかで孤立するしかないものであった。このことが、かれに次のような「孤臣」という言葉を生ませたようにおもわれる。 [#ここから1字下げ]   家国 家国将傾非易支 家国のまさに傾かんとす、支え易きにあらず 権奸窃命士民離 権奸|命《めい》をぬすんで士民離る 曲突徙薪不及事 曲突徙薪《きよくとつししん》、事に及ばず 焦頭爛額只斯時 焦頭爛額、ただこの時 五※[#「羊+殳」]去邦竟難忍 五《ご》|※[#「羊+殳」]《こ》邦を去るはついに忍び難し 三閭投水亦徒為 三閭《さんりよ》水に投ずるもまた徒らに為すのみ 力疾抗疏誰又諒 疾をつとめて抗疏すとも誰か又諒とせん 孤臣幽憤有天知 孤臣の幽憤、天の知る有り [#ここで字下げ終わり]  この詩の意味は、難解である。その理由は、詩に用いられている文字、語法が難しいということもあるが、それ以上に虎三郎の「幽憤」の位置が二重に疎外されたものになっているからだろう。  虎三郎には、歴史が「天朝」を軸に流れはじめたことがみえている。その「天朝」をかついでいるのが薩長であってみれば、これによって朝敵とみなされている徳川幕府が倒れてゆくのは、もはや時間の問題といっていい。ところが、徳川の譜代大名である長岡藩は一部の「権奸」の判断によって、薩長軍との戦端を開こうとしている。もっとも、「権奸」には、虎三郎の和平策が事なかれ主義の恭順策にしか映らない。かといって恭順派には、「天朝」に拠って「日本」というネーションを守ろうと考える虎三郎の�遠望するまなざし�がない。どちらも歴史がみえていないのである。  ——家国が傾かんとしているとき、それを支えるのは難しい。(徳川の世はもう倒れてゆくしかないのだ。)このとき、一部の「権奸」が政治を左右してしまい、士民が離れてゆく。政を司るものは災いを未然にふせぐ策をとるべきであるのに、そうしていない。(主戦派はみずから火中に飛び込んでいっている。)考えに考えぬくべきは、いまなのだ。雄羊たち(民百姓)が邦を立去ってゆくのも仕方ないだろう。かといって、「権奸」を批判するわたしがいま憤って水に投身したところで、何の意味もないことである。だが、わたしが病をおして上奏文をたてまつって直言を(藩の上層部に、また敵側にいる「天子」に)したところで、誰がわかってくれるだろう。主君に嫌われ捨てられた「孤臣」の「幽憤」は、天(そして「天子」)がわかってくれるばかりだ、と。  詩のなかの「抗疏」と「天」は、ここでは二重の意味をもっている。つまり、虎三郎が上奏文をたてまつり直言し、それを諒としてくれる相手は、永遠不変の「天」であるが、その「天」は現実には敵側にいる「天子」でもある、という二重性である。そこに、かれの難しい立場があり、詩の難解さもあるのだ。  ところで、ここで虎三郎によって「権奸」と呼ばれているのは、いまや軍務総督として藩の命運をにぎっている河井継之助にほかならない。どうしても、それ以外に名をあげようがないのである。    和平策の根拠  薩長軍が長岡の西方高田に兵をすすめたのは、慶応四年(明治元年)三月十五日のことである。北陸道鎮撫総督は高倉|永《なが》|※[#「示+古」]《さち》、副総督は四条隆平。その軍の主力は、松陰の門下生の山県狂介(有朋)を参謀とする長州軍と、西郷隆盛の命をうけた黒田了介(清隆)を参謀とする薩州軍であった。  ところが、黒田は三好軍太郎を軍監とする海道軍(二千五百人)のほうに同行していて、鯨波から柏崎へと進軍している。山県を参謀とする一方の山道軍(千五百人)は、土佐出身の岩村精一郎(高俊)軍監のほうにまかされていた。この山道軍が小千谷を占領したため、軍務総督の河井は小千谷に出むいて、五月二日、長岡藩の「中立」嘆願書を提出している。同行者は二見虎三郎と、従僕二名。しかし、その嘆願は不成功に終わって、河井は薩長軍と戦端を開くことになったのだった。  三月に北陸道鎮撫総督府が高田に進出したさい、北陸諸藩はその重臣を派遣して「恭順」を誓っている。その結果、各藩は軍資金の献納を強いられているが、長岡藩はこのとき三万両の献納をことわっている。軍資金の献納をことわりつつも、別の趣旨の嘆願書を用意して、家老の山本帯刀——戊辰戦で戦死。この家を山本五十六が継いだことについては、すでにふれた——をその正使に、三島億二郎を副使に命じている。ところが、この嘆願書の提出計画を、軍務総督となった河井が「時機既に遅れたれば、其効なかるべし」(『河井継之助伝』)と取り止めさせているのだ。  このときの河井の考えが、わたしにはよくわからない。河井はその二カ月後になって「中立」嘆願書を提出しているからだ。河井ファンの村上一郎でさえ、このときの河井の行動には首をかしげている。いわく。 [#ここから1字下げ]  長岡藩は、約二カ月前、三万両の軍資金献納を強いられてことわった頃、別の嘆願書を用意してこれを提出するまぎわに中止している。以後、まったくその機会がなかったわけではなかろうに、河井継之助があえてその機をつかもうとせず、いよいよ西軍が(小千谷から)藩境に迫るに及んで、その騎虎の勢の前に自ら立ち現れるというのは、どういう考えからであったろうか。 [#ここで字下げ終わり]  三月の時点で長岡藩が用意した嘆願書は、虎三郎の起草にかかるものであった。それを提出するまぎわに河井が取り止めさせた。もちろん、それが提出されたからといって、虎三郎苦心の和平策が実現されたとはとうてい考えられない。しかし、歴史というものはステップを踏んで次の段階が必然化されてゆくのであってみれば、その提出を取り止めさせたことにまず第一段階の誤りがある、と虎三郎はおもったことだろう。それが「家国」という詩における「権奸命をぬすんで……」という激しい言葉の一因になっているような気がわたしにはする。  つまり、虎三郎が嘆願書を起草したのは、藩主の命に従ってである。ところが、それを軍務総督の河井が「時機既に遅れた……」といって提出しなかった。そこに、虎三郎が「命をぬすんで」と憤激する理由があるのではないか。  虎三郎の起草にかかる嘆願書は、まず徳川慶喜の大政奉還から大坂表での謹慎に至る経緯をのべ、それゆえ慶喜を「反状《ヽヽ》顕然」とみなし「朝敵」とよぶのはまちがいだ、と次のように主張した。 [#ここから1字下げ]  慶喜に於てそもそも、朝廷へ対したてまつり野心を挟み候義にはござなく候ところ、あに計らんや右の条々を以て慶喜|反状《ヽヽ》顕然、朝敵たるの旨、御布告にあいなり、官位召上られ候のみならず、既に御征討の御勅定も下り、それぞれ御手配これあり、おいおい御人数御差向にあいなり候旨、拝承つかまつり驚きいり候。(中略)  謹んで大宝律を案じ候に、八逆罪の内に、謀|反《ヽ》(ムヘン。ムホンとも)は国家を危くせんと謀るとあい見え、即ち平将門|抔《など》が所為の如きをもうし候哉に存じたてまつり候。また叛《ヽ》は国に背《そむ》き偽に従わんと謀るをいうにあい見え、即ち皇家に背き、偽賊もしくは外夷に奔《はし》り託し候わんと巧み候をもうし候哉にて、彼の方隅に割拠し、朝命を不奉者も叛《ヽ》に属し候義と存じたてまつり候。  然るところ、此度慶喜が処為、前文数ケ条の迹《あと》を以て熟考つかまつり候に、国家を危くせんと謀るの情実(実情)は、万々あい見えもうさず、反状《ヽヽ》顕然と仰せいだされ候ところ、おそれながら律の明文に照し候ては適当如何にて冤罪のように存じたてまつり候。(傍点、カッコ内引用者、少し易しく読み下した) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎の議論は、一種の論理的なリゴリズム(厳格主義)に立脚して、徳川慶喜の冤罪をはらそうとしたものである。こういうリゴリズム、あるいは合理主義が当時の薩長軍に通じたとは、かならずしもおもえない。薩長軍=維新政府軍は倒幕の革命に酔っている状態である。それに、薩軍のトップにいた黒田清隆などは性格豪放、人格円満、西郷からも信頼されるところ大だったが、明治になって総理大臣に任命されたときでさえ「天皇階下(てんのうかいか)」といったほどの豪の者である。そういった相手に対して、大宝律令とか古代の八逆(八虐)罪をもちだして、議論をたてたところで、はたして理解されたかどうか。  ただ、虎三郎とすれば、薩長軍=維新政府が前年末に「王政復古」をとなえ、神武創世に復古する旨の宣言をだしていることを逆手にとって、慶喜の「大政奉還」以来の行動はすこしも「反」に値するものでない、ましてや「叛」でもない、と幕府を弁護し、薩長を批判したわけである。  すなわち、虎三郎がいう古代の八逆罪のなかには、謀反《ムヘン》・謀大逆・謀叛《ムホン》・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義が列挙され、「国家を危くせんと謀る」謀反と、「皇家に背き、偽賊もしくは外夷に奔る」謀叛とが、別々のこととして扱われている。明治以後につくられた天皇制国家にあっては「忠君」と「愛国」は一元化されて忠君愛国思想と捉えられるわけだが、これはもともと別のものだったのである。そのことを論理的に批判したのが木下尚江であり、それを国体論=革命論に仕立てたのが北一輝の『国体論及び純正社会主義』(明治三十九年刊)だった。  考えてみると、戦前の天皇制国家はこの謀反罪と謀叛罪を合わせ鏡にして、国家支配の原理としていた。治安維持法と不敬罪がそうであったように。それゆえ、二・二六事件(昭和十一年)と第二次大本事件(昭和十年)とが表裏一体の関係にあったのだ。つまり、二・二六のクーデターが「国家を危くせんと謀る」ものだったとすれば、〈もう一つの天皇制〉をつくる出口王仁三郎の大本教が「皇家に背き、偽賊もしくは外夷に奔る」ものと捉えられたのである。  それはともかく、小林虎三郎はこの嘆願書において、大政奉還以来の徳川慶喜のとった行動は古代の八逆に照らしてみて、「国家を危くせんと謀る」謀反にはあたらない。それゆえ薩長軍(征討軍)=維新政府のいう「反状顕然」というのはおかしい、と主張するのだ。のみならず、慶喜は「自己の不束《ふつつか》」によって「近京騒擾に至」らしめたことをわび、すべての罪を「一身に負い、朝廷へ厚く御詫び申上」げている。そうだとすれば、これは「皇家に背き、偽賊もしくは外夷に奔る」ような叛でもない。「朝敵」とよぶのもまちがっている、というわけだ。  とはいえ、虎三郎はこのようなリゴリスティックで、受身の慶喜弁護論に終始しているのみでない。かれは、徳川家が幕末の開国策によって「皇国」を興す努力を重ねてきたことを積極的に述べる。そして、「恩義浅からざる家柄」の長岡藩・牧野家がこの徳川家のためにいま弁護論をうつのは当然だ、と(牧野駿河守の名で)主張してもいる。いわく。 [#ここから1字下げ]  慶喜が事も……一昨年将軍を拝し候以来、ますます励精奮発、勤倹を以て下を率い、海内士民開化文明を果敢取らせ、|少しも早く皇国をして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、欧羅巴《ヽヽヽ》、|亜米利加諸強国と並立の勢を為さしめん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と日夜苦心焦思、規画経営いたし、すでに其|験《しる》しなきにもあらざるは、衆人の見るところ、是また効なき労とも申しがたし哉に存じたてまつり候。(中略)  慶喜に於ては旧来の臣下を禄養し、|ますます学芸を興し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|人材を育し《ヽヽヽヽヽ》、|富強の術を施し《ヽヽヽヽヽヽヽ》、皇国を保護たてまつり、此度の罪過をもつぐなひ、御洪恩の万一をも報いたてまつらん事でき申すべく……前段にも申し上げたてまつり候とおり、徳川氏に於て恩義浅からざる家柄の義、此の節の大難、黙止つかまつりかね候。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  改めていうが、虎三郎の執筆した嘆願書は、河井の考えによって薩長軍に提出されることがなかった。それは正論ではあっても、すでに征討軍が目前に迫ってきている政治情勢を切り抜ける役には立たない、と河井が判断したためだろう。この判断のしかたは、河井がより政治(はかりごと)の実務家の才であり、虎三郎が学者、思想(かんがえごと)の才であった違いを物語っているのかもしれない。  しかし、いずれにしても、虎三郎はここで徳川家(慶喜)の弁護論を展開していたにしても、薩長軍=維新政府に抵抗しようとする思想は抱いていなかった。かれは幕府の努力した開国策こそが「皇国」を興し、ヨーロッパやアメリカと対抗するような勢を生む方法だったのだ、と考えているのだ。つまり、かれのナショナルな思想は、幕府(慶喜)を弁護しつつも、維新を必然としていたのであろう。だから、かれには薩長軍と戦うなどということは、とうてい考えられなかった。それに、山県有朋らはかつての同門の友人、吉田松陰の弟子だというではないか。    世界史を視野におさめて  すでにふれたように、河井は虎三郎の起草した嘆願書の提出をとりやめさせた二カ月後、別の嘆願書を岩村精一郎軍監に提出している。ところが、岩村はこの嘆願書には一顧もはらわず、いわばケンもほろろ、という応対をした。岩村は当時まだ数え二十四歳、血気さかんな若輩である。河井(数え四十二歳)との面談も三十分ほどで終えてしまった。  もちろん、この段階で、嘆願書にあるように長岡藩に中立を認め兵を迂回させることができたか、といえば、それはまことに難しかった。しかし、『河井継之助伝』において品川弥二郎が語っていることも、ある真実を衝いているだろう。 [#ここから1字下げ]  一体越後口に向った黒田や、山県が、河井に逢わないで、岩村のような小僧を出したのが誤りじゃ。黒田はあんな気風の男だからなお能かったろうし、山県が逢っても、戦争せずに済んだかも知れぬ。己《お》れはいつも山県に言うことだが、時山(直八。奇兵隊長。当時の長州にあっては随一の傑物だったといわれる。雲井龍雄の『討薩の檄』はかれに宛てて書かれた。長岡藩との戦いで死んだ)を殺したのはお前だ、河井に逢わなかったのは間違って居ると、こういうと、今でも山県が真赤になってそうじゃないとか何とかいって怒るのじゃ。河井が死んでから、皆なが惜しいことをしたといって居った。何でも生きてるやつが勝じゃ。後から何のかんのと丁度よい加減のことを言って居るからな——。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  品川弥二郎は山県有朋と同じ松陰門下で、山県よりも五歳下であるが、松下村塾への入門では一年早いことや、山県がじぶんの家(足軽)よりもなお低い卒族の出身であることなどから、揶揄もふくめて容赦のない口のききかたになっている。そういったニュアンスを別にしてみても、品川がなぜ山県(当時数え三十一歳)はじぶんで河井との会談にのぞまないで、数え二十四歳の岩村にまかせたのか、と残念がっている論旨は伝わってくる。岩村は河井と短い面談はしたが、その提出する嘆願書を披見することはもちろん、受け取りさえこばんだ。河井は鎮撫軍に加わっている尾州、松代、加州などの諸藩士にこの嘆願書の取り次ぎをたのんだが、どれも薩長の顔色をうかがって引き受けてくれない。かくして、河井は翌五月三日、小千谷を後にした。  ところで、この嘆願書(名儀はやはり牧野駿河守)は誰の起草にかかり、詳しくはどのような内容のものだったのか。 『河井継之助伝』では執筆者の名が記されていないが、松下鉄蔵編『小林病翁先生伝』(非売品、昭和五年刊)ではこの嘆願書も虎三郎の筆になるのではないか、と推測されている。  わたしのみるところでは、この嘆願文は文体や用語が虎三郎のものと、やや違う。もっとも、この点については、三月段階よりも情勢が緊迫していることも考慮にいれなければならないだろう。当然、文体はパセティックになり、内容もわが藩の身の処しかたのほうが中心になって用語も藩政に関わったものが多くなってくる。そして、長岡藩政との関わりが多くなれば、それは河井継之助の得意とする分野になり、自然とその用語も河井ふうのものが多くなるだろう。  ただ、この嘆願文が前のと同じく、徳川慶喜の大政奉還から大坂表への謹慎という経緯の記述からはじまっていることからみて、虎三郎起草の前文をふまえていることはまちがいない。ともかく、この堂々たる文章の末尾の部分を、次に引いてみよう。 [#ここから1字下げ]  方今《ほうこん》海外の諸国、互に富強を計り、嘉永癸丑渡来よりの所業、御承知せられあり候とおり申しあぐるまでもこれなく、歎息まかりあり候ところ、自国の争乱不止の勢とあいなり候ては、行末のところ、深く御案じ申しあげ候儀にござ候。微小の弊邑《へいゆう》にても、|用を節し《ヽヽヽヽ》、|倹を勤め《ヽヽヽヽ》、|両三年中には海軍用意もつかまつるべくと一同勉励つかまつり候《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ところ、かかる形勢とあいなり、乱を済うに補なく、徒らに領民を苦め、農時を妨げ、疲弊を極め候ては、悲むべき事にござ候。万死を犯し、朝廷へ献言たてまつれどもその詮なく、徳川氏へ申し立て候もその益なく、進退|途《みち》を失い、|ただ領民を治むるを以て天職となし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、暫く清時を待つの心事、よろしく御憐愍も成しくだされ候わば、このまま差置かせられ度く、然らずば、民心の動揺、大害の生ずる所、幾重にも御赦免願いたてまつり候。ひとり一領一国の為にて申しあげ候にはこれなく、日本国中協和合力、世界へ恥ずることなきの強国にならせられ候わば、天下の幸これに過ぐるはなく、事迫情切、愚誠の程御採用にも相なり候わば有難く存じたてまつり候。恐惶恐懼謹言。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  傍点した条りは、河井が実学派・財政家の山田方谷のもとで「経国実用の学」をおさめ、小さな村々にも節倹をすすめ、藩の財政改革を行い、洋式軍隊——山田の松山藩は陸軍であるが——の創設さえ果たしたこと、そしてその実績のもとに「ただ領民を治むるを以て天職と」していたことを思い出させてやまない。そして、河井はここにあるように、「暫く清時を待つの心事」つまり長岡一藩の中立と、「このまま差置かせられ度く」という薩長軍の迂回とを提言していたのである。では、これは河井の考えのみによった嘆願かというと、そうは断定できない。というのは、そのまま薩長軍が長岡藩内に進軍すれば、「民心の動揺」をまねき、「大害の生ずる所」となるだろう、という言挙げは、西郷軍が江戸城総攻撃に移ろうとしたときの勝海舟の言挙げを思い出させるからだ。いわく、 [#この行1字下げ] 一朝不測の変に到らば、領民無頼の徒、何等の大変、垣内に発すべきか。日夜焦慮す。  改めていうまでもなく、海舟と関係が深いのは、虎三郎のほうである。もっとも、こういった心配(焦慮)は思想家というよりも執政者のものであると考えれば、江戸と長岡とで規模の大きさはちがうが、執政者としての河井の発想により近いといえるかもしれない、と考えることもできよう。  いずれにしても、この嘆願書は長岡藩領の平和と、領民の生活と安全とを目的として中立策を展開した、堂々たる主張といっていい。ただ、そのレベルだけでいうなら、これは堂々とはしていても、長岡藩=ナショナリズムとでもいった、ある意味では狭い、歴史的な視野を欠いた、独善に陥りやすい欠陥をもっている。  ところが、そうではないのだ。中立策によって長岡藩の平和と領民の生活および安全が守られることは「ひとり一領一国の為」ではなく、結局は「日本国中協和合力」して「世界へ恥ずることなきの強国にな」るための一ステップである。そして、そのことによって昨今「互に富強を計」っている諸外国と対抗することができるだろう、というのだ。  その意味で、この嘆願書は長岡藩の身の処しかたを世界史的な視野へとつなげていっている見事な論である。もし、これが河井継之助の起草にかかるものとすれば、そこには小林虎三郎のリゴリズムをふまえ、そうして虎三郎の「日本」というネーションの視座、そうしてまたその世界史的視野を十分に参考にしたかたちで、長岡藩の戦略を導き出したもの、ということができる。  しかし、この嘆願書は受理されなかった。これは、長岡藩の和平・中立策が受け入れられなかった、ということだ。かくして、河井継之助は軍務総督として、長岡藩の気概を示すべく主戦へと転じていったのである。戦闘の火ぶたが切られたのは、雪国の春の農作業のはじまる五月九日のことだった。 [#改ページ]   第八章 遠望するまなざし    独特な軍政思想  虎三郎は幕府(=慶喜)の弁護論をうちはしたが、彼此の戦力の比較からはもちろん、「日本」というありうべきネーションの視点からしても、維新政府と一戦をまじえる戦略は愚策だ、と理性的に考えたのである。それが、ついには主戦論へと転じた河井継之助とかれとの、決定的な違いだったろう。  河井がこのとき、薩長を主力とする維新政府軍と戦って最終的に勝てるという展望をもっていたとは、到底おもわれない。しかし、三島億二郎との対話(後出)でも明らかなように、事ここに至れば戦端をひらくも止むなし、というのが河井の気概だった。  その意味では、河井の主戦論はそれから七十年後の大東亜戦争における対英米開戦当時の山本五十六の立場と、おどろくほどよく似ている。すなわち山本五十六は、近衛首相から日米戦争になったばあいの海軍の見通しをきかれて、「是非やれといわれれば、初めの半年や一年はずいぶん暴れて御覧にいれます」と答えたのだ。  こういった山本五十六の戦略(というよりも無戦略)に対して、和平派の井上成美は次のように批判したという。「失敬ながら、山本さんいけません……近衛という人は常に他力本願で、海軍に一と言やれないと言わせれば自分は楽だという考え方なんです。それに、山本さんとしては、連合艦隊の司令長官が対米戦争をやったら日本の負けと考えていることを、部下に知られると困る。具合が悪いですよ、そりゃあ。連日連夜猛訓練中の艦隊の士気が、一ぺんに沮喪してしまう。だから、さぞ言いにくかったろうし言いたくなかったろうと察するけれど、それを押して、艦隊将兵四万への気兼ねも捨てて、敢てはっきり言うべきでした。事は、国家百年の運命が決するかも知れない場合なんです。……やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません……強くそう言うべきでした。かねがね私は、山本さんに全幅の信頼を寄せていたんだが、あの一点は黒星です」(阿川弘之『井上成美』)、と。  この、山本五十六に対する和平派・井上成美の批判は、主戦論へと転じた河井継之助に対する和平派・小林虎三郎の批判にも通ずるものであったろう。対英米戦を対維新政府軍に置き換えればいいのである。それに、井上成美のばあいは彼此の戦力の比較から非戦を唱えているのだが、戊辰戦争における虎三郎のばあいはそればかりでなく、「日本」というありうべきネーションの視点からも戦いは避けるべきだ、というのである。  和平派の虎三郎は、軍政というもの、軍事というものを嫌ったり軽視していたわけではない。そのことは、かれが病臥中にした唯一ともいえる仕事が洋式兵制書(蘭語)の翻訳であったことからも、察せられるだろう。  虎三郎に「戎政」と題した詩がある。文字どおり、軍政あるいは防衛のことを論じた内容のものだ。その制作は、大政奉還の行われた慶応三年(丁卯)である。 [#ここから1字下げ]   戎政丁卯 戎政非細務 戎政は細務にあらず 振作亦難哉 振作すること、また難いかな 堅儒不知変 堅儒、変を知らず 俗吏偏惜財 俗吏、ひとえに財を惜しむ 惟聞鼓※[#「鼓/卑」]響 ただ鼓《こ》|※[#「鼓/卑」]《へい》の響きをきくのみ 空憶将帥材 空しく将帥の材を憶う 児戯棘門軍 児戯《じぎ》なり棘門《きよくもん》の軍 千古英雄哀 千古の英雄、哀しむ [#ここで字下げ終わり]  司馬遼太郎の『峠』によれば、河井は虎三郎のことを「腐れ学者」というふうに呼び、「書物のみにかじりついて時務も知らず、実行もできず……」と非難したことになっている。しかし、虎三郎が「実行」できなかったのはかれが藩政から斥けられていたからであり、病臥の生活を送っていたからでもある。「時務」を知らなかったわけではない。  それどころか、虎三郎はこの詩でわかるように、財を惜しむことばかり考えている「俗吏」と、時代の変化を知らない「堅儒」とを、ともに唾棄している。堅儒とは、頭の固い学者といっても同じで、「腐儒」と同意味である。  詩の意味は——軍政は細事ではないばかりか、それを振作することの難しい事業である。頭の固い学者は時代の変化というものを知らず、俗吏は財を惜しむことばかり考えている。軍政といえば、攻め太鼓をたたきならすことだというふうに考えているバカどもめ、将帥の人材を見出し育てることを忘れている。矛《ほこ》をならべて何が軍門だ。千古の英雄が哀しんでいるぞ、というところだろう。  ここには、軍政とはただ武張った議論をするばかりでも、武器をそろえることでもない、戦争をたたかう根底が人間であることを忘れてはならない、という虎三郎特有の思想が脈打っている。その思想に立脚して、軍政の重要性が説かれているのだ。  ちなみに、のちに東京に出た虎三郎は自宅に長岡から出てきた豊辺新作を下宿させ、そこから陸軍士官学校に通わせている。豊辺は日露戦争当時は中将で、「騎兵の豊辺か、豊辺が騎兵か」とうたわれた。こういったことを考え合わせてみても、虎三郎の軍政についての思想が「書物のみにかじりつい」たものでないことがわかるだろう。    千代ヶ崎の台場にて  虎三郎の軍政、防衛に対する関心は、かれが嘉永四年(一八五一)に象山塾に入って早々、象山につれられて浦賀付近に遊んだころから芽生えたものと推測される。『象山全集』巻一(昭和九年初版)にのせられた象山の「年譜」には、「九月浦賀に遊ぶ」とあるから、このときの行に、入門してまもない虎三郎をともなったのである。  象山がその塾を深川から木挽町に移したのが、この嘉永四年の五月末で、虎三郎の入門がその七月である。虎三郎の所属する長岡藩邸は、広尾にあったから、かれにとっては深川よりも木挽町の塾のほうが何かと便利だったとおもわれる。  それはともかく、このときの象山の浦賀行は物見遊山などではなかった。この前年の四月、数え四十歳の象山は『増訂和蘭語彙』の出版が幕府によって不許可にされたのを機に、江戸を去り鎌倉に遊んでいる。そして、そこから転じて八王子、荒崎、城ヶ島、剣ヶ崎、大浦、千代ヶ崎、観音崎、猿島などの台場(砲台場)を視察して、それらがとうてい物の役に立たぬと看てとった。そこで象山は、すぐさま『沿岸防禦の不完全を指摘し幕府に上らんとせし意見書』の稿を起こした。  この意見書に、いう。 [#ここから1字下げ]  ……大よそ湊々に台場を置き候ことは、其湊に敵船を寄せ申まじきために用意つかまつり候義と承り候。左《さ》候えば荒崎、千代崎等の御台場もことうの浦を守り、浦賀の湊を禦《ふせ》ぎ候思召にて差置かれ候御事にござ候えば、もとより然るべき地勢にあるべくござ候。ただし是を以て御府内近辺内海へ乗入候夷舶を打沈め候わむためとござ候ては、右両所は申上ぐるに及ばず、猿島、観音崎等に至り候までも、一箇所として其実用を成し申すべくはなくござ候様ぞんじたてまつり候…… [#ここで字下げ終わり]  このあと、象山はその理由を述べ立てるわけだが、要するに幕府の海防用の砲台場がその位置も内実もまったく役に立たない、といっているわけだ。その台場のうち、幕府の浦賀奉行所や、のちに(嘉永六年)つくられる浦賀造船所の所在する浦賀を直接的に守るものが千代ヶ崎と観音崎、ということになる。  だが、この『沿岸防禦の不完全を指摘し幕府に上らんとせし意見書』は、藩主の真田|幸貫《ゆきつら》が幕府の忌諱をおそれて、幕府に対しての建白を象山に取り止めさせた。そのため、これは二年後(嘉永五年)に川路聖謨が海防掛となったとき、はじめてその覧に供せられたという。  象山は四カ月後の八月にも、浦賀勤番砲術師範となっていた下曾根金三郎の招きに応じて、その門弟たちに熕砲《こうほう》の使用法教授のため、再度浦賀に赴いている。  そういった経緯があっての、翌嘉永四年九月の浦賀行である。象山が虎三郎をつれて千代ヶ崎をふくむ浦賀への旅にでたのは、前年十二月に幕府が観音崎の台場を改築したという情報を得て、その成果を実見しようとするもくろみをもっていたとおもわれる。  虎三郎はこのときの行を、「辛亥(嘉永四年)八月《ママ》、象山先生につきそって千代岬に到る。見る所を記す」という詩につくっている。ついでながらいっておくと、『求志洞遺稿』における「評註」で同門の北沢正誠(幹堂、この当時華族女学校幹事)は、この詩について、象山が中津藩のために海上演砲したさいの作ではないか、と述べているが、これは誤りである。象山が中津藩のために新鋳の大砲の発射試験をしたのは十一月のことで、それも上総の姉ヶ崎でのことだ。千代岬とは、相模の浦賀と久里浜のあいだの千代ヶ崎台場のことをさしているのである。 [#この行2字下げ]辛亥八月。陪象山先生。到千代岬。記所見。(嘉永四年八月、象山先生につきそって千代岬に到る。見る所を記す。) [#ここから1字下げ] 豆嶺房山紫翠分 豆嶺、房山、紫翠分かれ 拍崖白浪気氤※[#「气+(囚/皿)」] 崖を拍《う》つ白浪、気|氤《いん》|※[#「气+(囚/皿)」]《うん》たり 八郎逸躅知何処 八郎の逸躅《いつしよく》何処なるかを知らん 只見茫茫水接雲 ただ茫茫として水、雲に接するを見る [#ここで字下げ終わり]  この詩をつくったとき、虎三郎は数え二十四歳、長岡から出てきてまもない。すでに思想家、洋学者、戦略家として天下に名をなしていた象山のまえでは、何ものでもない。それゆえ、虎三郎には、千代ヶ崎の北に翌々年ペリーのひきいる黒船四隻が停泊することになった浦賀湾があり、その南にはペリー一行の上陸点となった久里浜がある、という戦略的価値などはあまり考慮に入れられていない。さきにふれた象山の『沿岸防禦の不完全を指摘し幕府に上らんとせし意見書』では、千代ヶ崎が重要な戦略上の拠点として扱われていたことを思い起こすならば、虎三郎二十四歳の若さが露呈してしまっている詩といえるかもしれない。  たしかに虎三郎の詠うように、千代ヶ崎にたてば東には緑なす房総半島がよこたわり、南には伊豆の嶺々が紫にけむっているのがみえる。そこは太平洋の波が直接的に打ち寄せる岸ではあるが、波は日本海のように荒々しくはなく、心がのんびりと和やかになる。鎮西八郎為朝——浦賀にはその為朝像をまつった神社がある——が流された伊豆大島もどのあたりか、ただただ茫々として水が雲と接するのを見る——という穏やかな風景が、そこには展がっている。  それに、二年後の嘉永六年に灯明堂(灯台)のあるこの岬の南北があわただしい歴史の波にもまれるようになる気配は、まだどこにもみえない。すくなくとも、虎三郎にはみえていない。しかし、師の象山は入門したばかりの虎三郎をここにともなうことで、「日本」というネーションがいまどういう位置にあるかを悟らしめようとしたのにちがいない。  この二年後のペリー来航にさいして、吉田松陰が浦賀に馳せ参じたことについてはすでにふれたが、かれの『癸丑遊歴日録』から、千代ヶ崎の灯台とその三百メートルほど南に位置する砲台場にふれた箇所を抜きだしてみると、次のようになる。 [#ここから1字下げ]  (嘉永六年六月)七日 晴。西浦賀を過ぐ。西浦賀番所の前の海には舟数隻を列《なら》べ、番所右には砲数箇を列《なら》ぶ。西浦賀の人家尽くる処に彦根藩兵の仮鋪《かほ》あり、鋪の右に|※[#「石+駮」]《ほう》(砲)五門を列ぶ、皆二三百銭(匁)の銃のみ。海《かい》|※[#「竹かんむり/筮」]《ぜい》(水際)には番舟数十隻を列ぶ。千代崎灯台《ヽヽヽヽヽ》の下に至り、賊艦を望む。未後(午後二時すぎ)、蛙鋪楼の上に赴き、望遠鏡にて以て賊船を望む。  八日 晴。沿海を巡視し、松輪・三崎に至り帰路久里浜を過ぐ。聞く、賊明日を以てここに来り、国書を呈し、奉行二員親臨すと。(中略)浦賀以西は※[#「石+駮」]台五、曰く千代崎《ヽヽヽ》、砲十五門曰く千田崎(千駄崎)、曰く伯耆山、砲二門曰く大浦、曰く剣崎と。皆彦根の管する所にして位置|宜《よろ》しきを失し、一も用に適するなし。(傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  松陰の批評によれば、千代ヶ崎砲台場をふくむ浦賀以西の五砲台場は、すべてその配置がよろしくない、実戦の役に立たない、というひどいことになるが、いずれにしても幕末の思想家はこのようにして一人一人皆、軍政、防衛の実地検分をはたしたうえで時務にたえうる思想を培っていたのである。  一九九〇年春、わたしは虎三郎の詩の現場をたしかめようと、千代ヶ崎へと出かけた。浦賀奉行所跡から、嘉永六年に日本で最初の洋式造船所となった浦賀造船所跡、千代ヶ崎の灯明堂までは、ほんのわずかの距離である。この灯明堂は数年まえに復元された。木造二階建ての日本式灯台で、一階が番人小屋、二階は四方を紙張りの障子に金網をめぐらし、そのなかに直径三十六センチ、深さ十二センチの銅製の灯明皿をおいて、菜種油を燃やして海上を照らした。その光は、海上七キロも届いたという。  その灯明台からさらに南に三百メートル、二、三の廃屋とゴミのなかを通って、篠竹のやぶの道なき道を進んでゆくと、海岸から二、三十メートル奥まったところが、三、四メートルほどの盛り土になっている。これが、千代ヶ崎の台場跡である。  もっとも、そこには史跡表示もないし歴史的遺跡としての整備もなされていない。知らぬ人は道もない篠竹の群生地として見すごしてしまうだろう。これが、文化都市を宣言している横須賀市の実態かと、わたしは篠竹が頭の上高く繁るなかを右左と迷いながら藪こぎしつつ、思わず笑ってしまったことだった。  ちなみに、浦賀奉行所跡にも現在、史跡を誌す柱が一本立っているほかは、住友重機の古い社宅が建っているばかりだ。また、日本最初の洋式の浦賀造船所跡には、何もない。住友重機の工場廃屋が重く沈んだ浦賀湾の風に吹かれて建っているばかりである。    「我に万古の心あり」  虎三郎は軍政や防衛のことを嫌ったから維新政府軍との戦いを避けようとしたわけではない。また、たんに戦力的にみて勝つことができないと判断したから和平を唱えたわけでもない。かれが考えていたのは、現実にはまだほとんど姿をあらわしていない「日本」というネーションのことである。そして、虎三郎はそれを遠望するがゆえに、当面は多少の屈辱を甘受しても維新政府軍との和平を結ぶべきだ、と主張したのである。  この、ありうべき「日本」というネーションにあっては、近代政治学の概念では「国民」ということになってしまうが虎三郎の想念にあっては生きとし生けるもの、つまり「生霊」がその国家の基礎にすえられる。そして、そこでは「天朝」が新国家の精神的支軸となる。そうだとすれば、現実には幼い天皇を錦の御旗とかついで、大政奉還をした幕府を「賊」に見立て倒幕の内戦をおしすすめている薩長軍も、かれからすれば「児戯」だし、これに対して戦いを挑もうとする長岡=ナショナリズムの主戦派も「生霊塗炭の悲しみ」を無視した「児戯」のたぐいとみなされる。  ここに、和平派の小林虎三郎が当時の状況から二重に疎外されてしまう必然性があった。虎三郎の立場は、山縣有朋ら松陰の弟子たちがひきいる維新政府軍からも、ついに東北列藩同盟へと加わった河井継之助ら長岡藩の主戦派からも、理解されがたいものといっていい。「孤臣」は、その憂憤をたとえば「戊辰の春作」という詩に託すしかなかった。 [#ここから1字下げ]   戊辰春作 九重幼冲無所知 九重《きゆうちよう》幼冲にして知る所なく 姦邪窺隙逞其私 姦邪|隙《げき》を窺いてその私を逞《たくま》しうす 用兵固非不得已 兵を用うる、もとよりやむを得ざるに非ず 其奈生霊塗炭悲 それ生霊塗炭の悲しみをいかにせん 反者非反賊非賊 反する者反に非ず、賊、賊に非ず 名言嚇愚識者嗤 名言愚を嚇《かく》すも識者|嗤《わら》う 若使当年邵雍在 もし当年の邵雍《しようよう》をして在らしめば 挙頭亦応嘆児戯 頭をあげてまたまさに児戯を嘆ずべし [#ここで字下げ終わり]  大意——天子はいまだ幼く世の中のことがわかっていない。それをいいことに姦邪のものどもが私意をほしいままにしている。かれらが兵を用いたのは止むを得ない事情によるのではない。戦いによって「生霊」を「塗炭の悲しみ」におとしいれている。どこに反があり、どこに賊がいるというのか。易学に精通した北宋の学者・邵雍にいわせれば、この戦いは「児戯」ではないかと歎くだろう、と。  このように北越戊辰戦争をみる虎三郎のまなざしは、その渦中にありながら歴史の彼方のほうからこれを遠望するふうである。むろん、戦争の渦中ではかれのまなざしはありうべき「日本」という、歴史の彼方のほうへと注がれている。いま何を為すべきかの才であった河井に欠けていたものがあるとすれば、この、いまを超えた歴史的なパースペクティブ、つまり虎三郎の「遠望するまなざし」というものだったかもしれない。  この「遠望するまなざし」を、虎三郎自身の言葉でいえば、「我に万古の心あり」となるだろう。「清夜の吟」に、こうある。 [#ここから1字下げ]   清夜吟 天有万古月 天に万古の月あり 我有万古心 我に万古の心あり 清夜高楼上 清夜高楼の上 憑欄聊開襟 欄によっていささか襟を開く 天上万古月 天上万古の月 照我万古心 我が万古の心を照らす [#ここで字下げ終わり]  意味は説明しなくとも明らかだろう。天上には昔から変わらぬ万古の月がかかっており、わたしのつねに変わらぬ心をわかってくれるのは、その万古の月だけだ、というのである。  いまを、いまの時点のみで考えてはいけない。歴史的なパースペクティブ、つまりいまを超える普遍的な立場から遠望してみなければいけない、というのが、小林虎三郎の精神の真髄である。  これに対して、いま何を為すべきかの才(政治家)である河井継之助の考えとすれば、この戦いの最中に何が「万古の月」だ、長岡藩士のわれわれはなんとかして、いまこの戦いに勝たなければならない、たとえ勝てずとも後世に汚名を残すような生きかた、戦いかたをしてはいけない、ということになるだろう。戊辰戦争中の名文の一つといわれる雲井龍雄の漢文体の『討薩の檄』とは、また一味ちがった河井の口語体の名文『口上書』に、こうある。 [#ここから1字下げ]  此|一軍《ひといくさ》は、第一御家の興廃も此の勝ち負けにありて、御家がなければ銘々《めいめい》の身もなきもの故、御一同|共《とも》に身を捨てて、数代の御高恩に報じ、牧野家の御威名を万世に輝かし、銘々の武名も後世に残すよう精力を極めて御奉公いたしましょう。(中略)此の大乱を作《な》せし薩摩の西郷吉之助が越後へ来て、天下分け目の軍《いくさ》すると云う事を聞きましたが、何にしてもそりゃ分け目だから、此の軍は大切で、私ども間違っても御城下に入って死ねば、義名も残り、武士の道にも叶うて、遺り置く事もなく、思いのままに勝てば、天下の勢を変ずる程の大功が立つから、精一杯出してやりましょう。(中略)目出度く御入城の上は、両三年も御政事をお立て遊ばさるれば、もとの繁昌にすることはたしかにできるから、御一同とも、必死を極めて勝ちましょう。死ぬ気になって致せば生きることもでき、疑いもなく大功を立てられますが、もし死にたくない、危い目に逢いたくないという心があろうなら、それこそ生きることもできず、むなしく汚名を後世まで残し、残念に存じますから、身を捨ててこそ浮む瀬もあれと申しますれば、よくよく覚悟を極めて大功を立てましょう。一昨夜より風も強く此一戦を大切に思い、皆様と御一心になって、今度は是非とも大勝を致したいと心に浮みしだけを口上に申し上げようと書きましたが、届かぬこともあるけれども篤とお考え下されましょう。 [#ここで字下げ終わり]  ここで河井が「目出度く御入城の上は」といっているのは、五月九日に戦端がひらかれたあと、五月二十日に長岡藩は維新政府軍に城を奪われているからである。この『口上書』は、その二カ月後の七月二十四日に、河井が長岡城奪回と維新政府軍の撃破を企てるにさいして兵士(およびその家族)に対して行った激励である。前半部分は日露戦争における「皇国の興廃この一戦にあり」をおもわせる調子の高いものであるが、後半部分は兵士一人一人に対して、その生死のありかたをしみじみと語りかける調子のものになっている。  河井はいま何を為すべきかを、じぶん一個の生きかたにおいて問うばかりでなく、藩士や領民の一人びとりに問い掛けるかたちで、この『口上書』を書いている。戦いのいま、この時点にあって必要とされていたのは、虎三郎の「遠望するまなざし」ではなく、河井の「現在の指針」であった。    三島億二郎を戦場に送る  長岡城奪回にあたっての戦闘体制は、おおよそ次のようであった。 [#ここから1字下げ] 前哨兵(八丁沖の地理、水深などに詳しいもの)十名 第一軍(前軍) 三島億二郎(軍事掛)指揮。大川・千本木の二隊         山本帯刀(大隊長)指揮。花輪・牧の二隊 第二軍(中軍) 三間市之進(軍事掛)指揮。稲垣・篠原・鬼頭・小野田の四隊 第三軍(中軍) 花輪求馬(軍事掛)指揮。望月・渡辺・小島・奥山の四隊 本部梯団    河井継之助(総督)と諸役人、およびその従者 第四軍(後軍) 牧野図書(大隊長)指揮。稲葉・今泉・内藤の三隊         稲垣主税(大隊長)指揮。河井平吉・横田の二隊  合計十七小隊 計七百名 [#ここで字下げ終わり]  長岡城奪回作戦は、右のように十名の前哨兵を案内人とし、城の東北およそ一里にある八丁沖を渡るという夜襲作戦であった。その先陣を切ったのが、虎三郎の片腕ともいえる三島億二郎と、河井の死後に全軍の指揮をとることになる家老の山本帯刀だった。  虎三郎は病身のため、この戦闘には参加していない。かれはだいたい藩主・牧野忠訓の警護といった役どころである。河井は会津藩の軍事奉行添役となった旧友・秋月悌次郎の「藩主と城の双方を守ることはむつかしいだろう、藩主を会津に移せ」というすすめに従って藩主を会津に移していたから、それに応じて警護役の虎三郎も会津へと落ちて病身を養っていた。  ちなみに、虎三郎の弟の貞四郎、猶五郎、寛六郎はいずれもこの戊辰戦に出征している。かれの妹ゆき(幸子)が嫁していた小金井儀兵衛良達も同様である。ゆきは後年、息子の小金井良精に嫁してきた森鴎外の妹きみ子(喜美子)に、この戦いについての物語をした。それが小金井きみ子の『戊辰のむかしがたり』となったのである。つまり、面白いことに、小林虎三郎と森鴎外とはお互いにその妹を通じて縁戚関係になるわけだ。  それはともかく、虎三郎の片腕で和平派の三島億二郎が長岡城奪回の夜襲作戦において先陣を担当したように、この段階では長岡藩士のすべてが戦闘に加わっていたといっていい。例外は、虎三郎の弟の雄七郎が江戸に遊学中で、兄から戦争のために戻ってくる必要はない、と言い含められて勉学をつづけていたぐらいであろう。  ところで、虎三郎は三島億二郎が軍事掛つまり前線の指揮官となって出征するにさいして、「川島子楽が栃尾に在って軍を督するに寄す」という詩をつくった。なお、川島子楽という名は、もと伊丹家の二男(幼名鋭次郎)であった三島億二郎が三十七石扶持の川島家を継いでいたためで、子楽はその号だった。虎三郎の子《ヽ》文、弟雄七郎の子《ヽ》英、北沢正誠の子《ヽ》進、そして三島の子《ヽ》楽は、すべて師象山の字である子《ヽ》明の一字を借りたものだろう。億二郎がその姓の川島を三島に改めたのは、明治後のことである。  三島億二郎は文政八年(一八二五)の生まれであるから、このとき数え四十四歳。虎三郎の三歳上(河井の二歳上)であるから、当時とすれば初老ということになる。鬢のあたりには当然、白いものが出ている。この三島が栃尾において軍を指揮し、また長岡城奪回にさいしては、まだ二十四歳と若い家老の山本帯刀とともに第一軍の指揮をとったわけだ。  その詩——君が身が結局のところ存亡を左右するだろう。君は日々兵を論じて憂うるところ多いにちがいない。しかし、必ずや功なって再び会える日が来るだろう。その日には鬢のあたりにさらに白い霜を加えているだろう、悲しいことだ、と。  虎三郎はここで、若いときからの友人である三島の出征を激励しつつ、その身と任務の難しさとを案じている。もちろん、武士がその主家のために尽くすのは当然のことだが、三島も虎三郎とともに非戦を唱えた同志であってみれば、その三島が前線の指揮官になることは、虎三郎に悲痛の想いが去来したであろう。  三島は、小千谷談判の決裂後にたずねてきた河井に非戦を説いたが、容れられずに、結局前線の指揮官となって河井と死生をともにすることになった。このときの河井と三島の問答を、今泉省三の『三島億二郎伝』(覚張書店、一九五七年刊)は次のように誌している。 [#ここから1字下げ]  継之助は曰く、薩長の鼠輩亡状を極め微衷容れられず、万事休す、ことここに至れば只《ただ》戦あるのみ。億二郎は継之助の再考を促し、反覆非戦論を説いた。継之助は沈思黙考していたが、しからば致し方がない、吾が首を斬り、三万両の軍資金を献納すべし、斯《か》くすれば或は我藩は無事なることを得んと力説したので、億二郎は足下の言は、畢竟長岡藩を思うてのこと、事ここに至る。どうして足下独り死地に陥れ、自分だけ恬然《てんぜん》(平気に)安居することができよう、よし自分も足下と死生をともにする。かくて協力して藩事に尽くすことに決し、相ともに摂田屋の本陣に赴いたといわれている。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  三島は戊辰戦争の直前までは、三十七石の目付役であったにもかかわらず、河井と意見が合わずに前島の庄屋方に逼塞していたのである。それが、この河井への同意によって、戦場に指揮官として送られることになったのだった。戦場に赴いた三島の身と任務の難しさを気づかう虎三郎の心中には、切実なものがあったろう。  このころ虎三郎がつくった詩「筒場の諸村の戦を聞きて感あり」。 [#ここから1字下げ] 久知世事易炎涼 久しく知る、世事炎涼を易うるを 忽至斯間感転長 たちまち斯の間に至って、感うたた長し 豈料少年釣遊処 あに料らんや、少年釣遊の処 一朝化作戦争場 一朝にして化し、戦争場とならんとは [#ここで字下げ終わり]  世の中のことはとかく変じ易いが、このときにあたってその感はなはだしい。われらが少年のとき釣り遊びをした筒場の村も、いまや一大戦場と化した。……嗚呼、という虎三郎の歎きがきこえてきそうな詩である。 [#改ページ]   第九章 小林一族の戊辰戦争    みずから称して、亀のごとし  虎三郎は病身であるために、短い結婚生活を送っただけで、生涯ほとんど独り身だった。もっとも、戊辰戦争中には会津に落ちた藩主に随行して最後は仙台までいっているから、このころには立居振舞いにあまり不自由はなかったとおもわれる。  ただ、かれの病気はこんにちのリウマチか神経痛にちかい「風湿」というものだった。中村敬宇(正直)は『小学国史』の叙に、「余始めて炳文(虎三郎)を見る。年四十とするべし。面貌痩せて黒し。みずから言う、久しく風湿を患うと」と記している。この病は、冷気にあたることを極力避けねばならなかった。  虎三郎はふだん頭巾のようなものをかむっていて、人に面貌をさらすことが稀だった。首には真綿のようなものを巻き、手足を外気にさらすこともしなかった。頭巾のなかから、隻眼の目だけがぎょろぎょろと威光を放っている。そんな異様な風体であるが、かれにはそれをまるで亀みたいだ、とみずから諷するユーモアもあった。 「冬日偶作」という詩には、病気には寒さが禁物なので、冬の風雪のおりには衣を引き上げて首をちぢめ、ちょうど亀の子みたいになっているので、人の声もきこえない、といっている。  身体の具合のいいときには、こんな詩をつくるユーモアもでてくるが、かれがかかえていた持病はその「風湿」ばかりでなく、「胸患」つまり胸部疾患もあったらしい。それに、中村敬宇が「面貌痩せて黒し」と書いているところから察するところ、肝硬変も進行していたとおもわれる。実際、虎三郎が明治五年に書いた「与田中春回(田中春回に与う)」には、「僕、風湿を患いて既に二拾年なり。昨年来、更に一症を発す。肝臓時々劇痛し、食機振わず、精神沈鬱、皮膚発疹、奇癢ほとんど忍ぶべからず」と記されているからだ。明治九年の三島億二郎宛の手紙になると、肝硬変を意味する「チルロース」という病名も書かれている。  いずれにしても、長年の「風湿」に加えて、「胸患」、それに「チルロース」と、虎三郎の身体は種々の病気の巣のようだった。にもかかわらず、戊辰戦争中から敗戦後の虎三郎の活動には、病身をおもわせぬ、意気軒たるものがみられる。これは、かれがこの非常時に家国を支えるのは自分だと考えていたからにちがいない。これは自負というより、家国に対する責任感に発する精神といっていいだろう。この精神的な張りに支えられて、虎三郎は明治十年まで生きのびたともいえる。  ところで、虎三郎には兄が二人いたが、ともに夭折している。そのため三男の虎三郎が家を継いだが、かれには子がいないので、その死後は弟の貞四郎が跡を継いだ。しかし、この貞四郎も早く亡くなっている。つぎの猶五郎(横田氏を継いで、大三《だいぞう》と名のる)も、寛六郎、それに衆議院議員になった末弟の雄七郎も、みんな早死である。かれの家系はあまり身体が丈夫でなかったのだろう、吉田氏に嫁した妹の富《とみ》も早く亡くなっている。  例外は、妹(長女)のゆき(幸子)である。ゆきは、同じ長岡藩士の小金井儀兵衛に嫁して、のち解剖学の権威となった医学博士の小金井良精、第二回選挙で古志・三島両郡から衆議院議員に選出された小金井権三郎、日露戦争で戦死した陸軍歩兵少佐の小金井寿衛造、それに帝大教授の高橋節斎に嫁した一女(名まえ不詳)などを生んで、かなり長生きした。すでにふれたように、その次男の小金井良精のもとに嫁いできたのが、軍医でもあった森鴎外の妹きみ子(喜美子)である。きみ子は後年、姑ゆきの戊辰戦争体験談を『戊辰のむかしがたり』として文章にした。  虎三郎の妹ゆきは、小金井儀兵衛の妻として長岡戦争に際会しているのだが、虎三郎の男兄弟は、貞四郎、猶五郎、寛六郎、いずれもこの戦争に出征している。ただ、末っ子の雄七郎のみは、兄虎三郎の指示によって福沢諭吉の塾などに遊学中で、帰国・参戦を許されなかった。(この事情については、後に詳しく記すことにしよう。)    小金井きみ子筆『戊辰のむかしがたり』  虎三郎が河井継之助のことを「我が藩の権臣迷錯して、妄りに私意を張り」云々と批判し、「権奸」とさえ呼んでいたのは、河井が主戦へと転じることによって、家国を廃墟となし、おびただしい死者を出し、領民を貧窮に逐いやった、とみなしたからだ。一言でいえば、失政である。もし政治が過失をおかすなら、その執政者は「権奸」とよばれることを甘受しなければならない。これは、武士が政治を一手にまかされてきた封建体制にあっては、当然のことといっていい。  そして、いまのばあいは特に、長岡藩が官軍(天朝)の命に抗したわけであるから、藩主と多くの藩士をその政治の過失から救うためには、一人の「権奸」の「迷錯」が原因である、と糾弾するしか方法がなかった。虎三郎はそう考えて、この「権奸」とか「迷錯」という文字をつかっているような気がする。  翻っていえば、政治にたずさわるものはその失政において「権奸」とよばれることも覚悟しなければならない、ということである。いずれにしても、虎三郎は一人の「権奸」を出すことによって、藩主や多くの藩士、それに領民の全体を救うことができると考えたのにちがいない。そういった慮りが「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」などにはあるとおもわれるが、そのことについてももうすこし後にふれよう。  いまは、戊辰戦争にまきこまれた長岡藩士や領民の苦労を語る一例として、虎三郎の妹ゆきが後年その嫁の小金井きみ子に物語った『戊辰のむかしがたり』を紹介しておくことにしたい。この文章は、たんに戦争にまきこまれた長岡藩士の妻の苦労談というにとどまらず、歴史(戦争)という大きな流れのなかで人間はどのようにして生きてゆくのか、その生を支えていたエトス(精神)とはどのようなものだったのか、といったさまざまな想いを読むものに触発する名文である。 『戊辰のむかしがたり』は、冒頭の前書き部分からもわかるように、日清戦争がはじまって半年後、明治二十八年一月に物語られたものである。小金井きみ子の擬古文調の鮮やかな筆致をみてもらうために、まず本文の出だし部分を引いてみる。 [#ここから1字下げ]  思いいずれば、はや三十とせの昔とはなりぬ。慶応の三とせのはじめより、何となく世の中騒がしくなりもて行《ゆき》て、花鳥の色にも音《ね》にも、つゆ心とまらであかしくらすほどに、いつしか春も過ぎ行《ゆき》て、卯の花|朽《くち》し晴間なき頃となりぬ。我が背の君(夫)は(四月)二十日過る頃よりは、ようよう事しげく成りたりとて、たまたま家にたち寄給うのみにて、大かた役所にとどまりたまい、家より日々にわりご(弁当)つくりてまいらするのみなれば、いとうら淋しきに、雨さえ晴るる日もまれなれば、いよいよ物うさも増《まさ》り、この末いかに成行くらむと、おさなき子らと、日々かたりくらすのみなりき。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ゆきが嫁した小金井儀兵衛は、小林家より禄高が多くて、百三十石。郡奉行とか寺社奉行といった役どころで、この時点では藩主の警護役として城に詰め、のち会津、仙台へと随行してゆく。それゆえ、夫の儀兵衛はほとんど家に戻ることがなく、妻のゆきは「いとうら淋しき」日々を送っている。長男の権三郎はまだ十二歳、次男の良精は九歳、三男の寿衛造は五歳、そして末の女の子は二歳である。  五月の二日、河井の小千谷談判がやぶれ、十日のころからは長岡の市中にも大砲の音がひびきわたっている。薩長軍が信濃川の渡河作戦によって長岡城を陥した五月十九日の未明、ゆきと四人の幼な子、それに二人の雇人は屋敷を逃れ出る。  ——二歳の女の子を婢に、五歳の男の子を下僕に背負わせて、ゆき母子は屋敷を立退いた。じぶんはもちろん、婢にも短刀を与え、長男と次男には大刀をもたせている。次男のほうはまだ九歳なので、いつもは木刀なのだが、いまばかりは危急の折なので真剣を与えたところ、とても喜んだという。  出立にあたっては、かねてから用意しておいたワラジにはきかえて、足元をたしかにしている。武家のたしなみとはいえ、備えが行きとどいている。常在戦場の精神がこういうところに生きているわけだ。  ついでながらいうと、長岡藩士の家にはつねに四木《しぼく》を育てよ、という訓えがあった。梅、柿、栗、棗《なつめ》の、その果実が保存食料になる四木を育てることによって、飢餓をはじめとする非常時に備えるのである。常在戦場の精神は、たんに心がまえのことではなく、このようにそれが暮らしや生活態度のなかに浸透してきているのが、この藩風の特徴であった。  そして、そうであれば、藩士の妻がこの立退きの忙しいときに、『戊辰のむかしがたり』でのように、青柳のうちなびくさまを歌によんだりするだろうか、という疑問も生じなくもない。わたしの想像では、これは姑(ゆき)がその立退きのさいには庭のあやめがいまを盛りと咲きほこり、青柳が長く尾をひいて風にゆれていた、とでもいった回想をしたのに対し、それに気づく心のゆとりをゆかしいとおもった嫁のきみ子がほどこした文飾なのではないか、という気がする。わが家が戦火にまかれ、いずれ青柳をもふくめて煙となるであろう、といったさいに、それをあわれと和歌によむという発想は、武家の妻のものというより、擬古文が理想とした王朝の女流詩人ふうのものとおもわれるからだ。  ——ゆき母子の一行が、下僕たちにせきたてられて屋敷を立退き、町の北東を流れる栖吉川《すよしがわ》の堤にのぼってみると、すでに町の方角は焔が天をこがし、大砲の撃合う音がすさまじくひびいていた。避難民もつぎつぎと堤に押し寄せてきた。  このあと、一行は知り合いのある栃堀にむかおうとして、長倉村を通った。すると、そこを夫の儀兵衛が通りすぎてゆく偶然に出くわした。このときの夫婦の会話には、お家を大事とする武士の忠誠心と、それを当然と考える妻のきびきびとした対応とが感じとれるだろう。 [#ここから1字下げ]  長倉村という所に、しばし息《いこ》いたる折、かど口にありししもべの主人の君の見え給いたりというにいそぎ出で見れば、かいがいしきいで立《たち》しておわしき。是より栃堀さして落ち行かんと思い侍るがいかに、と申しに、それぞ好からん、我は吾君《わがきみ》の落ち給いし、み跡慕いていそぐなり、との給いすててかえりみもせでいそぎいなれぬ。 [#ここで字下げ終わり]  たしかに、妻の「是より栃堀さして落ち行かんと思い侍るがいかに」という問いに対して、夫の「それぞ好からん」という答えは、あまりに素気ない。素気ないだけでなく、じぶんは主君の跡を追って急いでいる、といって後ろをふりむきもせず立去った、という箇所には、妻の恨み言のようなニュアンスも漂っていないではない。  しかし、そういった私心を封殺し、主君のために尽くす夫と、家を守る妻という封建道徳の典型がここにはでている。これは、鴎外の妹の美意識というか道徳観が強く左右したものであろう。その意味では、『戊辰のむかしがたり』は小金井きみ子の創作だ、ということもできる。    ゆき母子、会津へ落ちる  しかし、この創作としての『戊辰のむかしがたり』の底には、明らかに虎三郎の妹ゆきの歴史体験が強く横たわっている。そして、その体験に裏打ちされた戦争さなかの人間観、人生観、歴史観こそが、この『戊辰のむかしがたり』をたんに戊辰戦争における一女性の貴重な体験談としているばかりでなく、文学作品として優れたものにしているのである。  たとえば、五月十九日、下僕たちに背負われた幼な子たちははやくもむずかり、大刀を与えられて喜んでいた次男もそれを持てあまして地面にひきずっている。しかし、官軍がちかくに迫っているという報もあり、ゆき母子の一行は道をいそぎにいそいで、日暮れに知り合いのいる栃堀村にたどりつく。翌二十日には、長年つかっていた下僕たちに暇をとらせることにした。その別れの名残りを惜しんでいるさなかに、身を寄せた知り合いの主人が、ここも危いから、山奥にあるじぶんの小屋に隠れ棲んだほうがよい、と忠告をしてくれた。ゆきたち母子は婢一人をつれて、その主人の先導で山奥へと移ってゆく。幼き子どもたちの前髪も、里の子たちとわからぬように、切り落された。  山小屋は里から二里もはなれたところにあり、家というのは名ばかり。大きさも方丈(四畳半)ほどで、まわりはよしず張り、床は板敷で、屋根板もまばら。雨つゆをしのぐ、といっても格好だけ、強風が吹けば壊れてしまいそうである。  そんな陋屋《ろうおく》に、母と幼な子四人、そして婢一人のわび住まいがはじまった。これまで食べたことのない「かへる菜」、つまり関東でいうゲエロッ葉(おおばこ)さえ摘んで食用にしている。  ゆきたちはそのようにして十日あまりをすごし、官軍の追及もゆるやかになったときいて、さきの田舎人の家にもどって、そこに居候をした。そうこうするうちに、七月二十四日には、長岡軍が薩長軍に奪われた城を奪い返したという報が伝わってきたが、八月一日には、再び長岡城は薩長軍に奪われたという悲報が伝わってくる。城下からは敗残兵がつぎつぎに落ちてきた。  ゆきもここで、会津へと落ちゆく決意をした。かといって、婢もすでに里に帰してしまったので、末の女子を栃堀の知り合いに人づてに託すことにした。まだ乳のみ子ではあるが「親子の契《ちぎり》つきせずば」また会う折りもあるだろう、と。  八月三日、ゆきたちは八十里越えをこえて会津に入った。七月二十九日の戦いで長岡城を陥され、みずからも二十六日に銃創を負った河井継之助がこの峠をこす一日まえのことである。数多の敗残兵たちと道を同じくしたゆきは、この日の峠越えの苦渋を次のように物語っている。 [#ここから1字下げ]  三日。くもりぬ。道さかし(険し)と聞きつれば丙(寿衛造)おうべき人やといて、名高き八十里越というにかかりぬ。登り下りにて、八里あまりなれど、一里も十里にむかうとて、この名はありとぞ。げに高く聳ゆる山の岩のはざまなる細道をのぼり行くに、何れの木にかあらん、大いなる梢、枝さしかわして空も見えず道の左右には所々に熊笹ふかく生い茂りて……(中略)此日頃うち続きたるあめに、落人の多ければ、さらぬだに、ねばりたる山の土は、皆上とけて、さながら水田のごとく、所々の馬ざくり(馬が踏んで掘り窪みとなり、水がたまっている場所)は、その深さ子どもらの股をも埋むべく、まろびては又起りて、あえぎあえぎのぼりぬ。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  時は八月。雨がつづいている。場所は険しい八十里越え。道は岩山のあいだの細道で、熊笹におおわれている。その細き泥道を、敗残の落人もたくさん通り、馬も通っていく。ところによっては馬ざくりが水田のような泥沼になっている。そこを、女のゆきも幼き男子らも転びつつ、あえぎながら登っていった。  途中は五歳の子を背負うひとも雇うことができたが、頂きの関所からはその人足も追い返された。関所では、ゆきのことを「女の大小さしたる」と書き留めた。それをみるにつけても、じぶんは大へんな格好をしているのだろうな、と恥入った。関所のそばの「たすけ小屋」には、白き包帯に血をにじませた人が沢山いた。その小屋のひとつに故郷で隣り合った知り合いがいて、なんとか中に入れてもらえた。  そこで、ゆきは一人の老人に会う。この老人との、一個の握り飯をめぐるやりとり、そしてそれを見守る人々、またその後日譚はまことに人間の醜と美とが裏表にあり、またこのような混乱のさなかにあって崩れているようにみえて微妙なところで守られている世間のモラルというものを窺わせてやまない。  ——ゆきは朝の握り飯の残りを、子どもたち三人に分け与えた。かの女の手もとには、じぶんの分一個が残っている。ところが、一人の老人が昨夜より何も食べていないので、それをいただけないか、というのだ。  前夜から何も食べておらず、今日も一日歩きつづけて飢えてしまったと、おずおずと、しかし泣かんばかりに懇請する老人。じぶんも空腹だが、何とか昼餉《ひるげ》(?)は食べているから、すこしは辛抱できるとして、握り飯を差し出そうとするゆき。これに対して、みんなも空腹をこらえているのだから、「物心わきまえ」た人は耐えるべきだ、それに相手は「おさなき人ともないし」女人ではないか、という回りの人々。  まさに、建てまえと本音、モラルと欲望、同情と嫉妬、憐みと修羅、そういったさまざまなものが入り交った人間の世界が、ここには展開されている。  結局、同情の心と自分を保つことを知っているゆきが老人に一個の握り飯を半分与えて、このやりとりは決着がついた。(残りの半分は、二十歳にみたぬ米沢藩士の重傷者に、粥にして与えられた。)ちなみに、かの女とこの老人のつきあいは戦後もつづき、ゆきは三十年後にもその亡き老人のことをなつかしく憶いだすのである。    七尺あまりの雪のふるさとへ  このあと、ゆき母子は二カ月をかけて、会津高田、檜原峠、米沢、山形をへて、奥羽の山越えで仙台へと落ちていった。長岡へと戻ってくるのは、戦火もやんだその年の暮れのことである。  このあとの旅の次第をいちいち記すことは省くが、二つのことにはふれておきたい。一つは、八月二十三日の出来ごとである。会津若松の鶴ヶ城が陥ちる一カ月まえ、若松に二里ばかりの高田にいたゆきは、城の方角が何となく騒がしいと感じる。  筒音がきこえ、昼ごろには、城下のほうから多くの人が逃れてきた。そのなかに下僕に背負われた由緒ありそうな老女の一行があり、そこに「まだうら若き女」が髪ふりみだしつつ、白はちまきをして、着物のすそを高からげにし、鞘をはずしたナギナタをわきにかかえこんでいるのが、とくに目についた。ゆきはそういった女どもをみながら、このあわただしい折にもかの女らがみな美しくきりりと化粧し、身なりをととのえていることに感心している。さすがは会津の女たち、というべきか。  もう一つは、ゆきが早くも雪のふりはじめた山を越えて仙台についたところ、藩主に随行した夫の一行がさきに来ていることを知り、安堵するまもなく夫がたずねてきてくれた条りである。(このとき、おそらく兄の虎三郎もまた仙台に来ている。)  五月の長倉村での出会い以来、四カ月ぶりの夫との再会である。何ともあっけない、長い言葉をかわすひまさえない瞬時の再会であるが、その未練を証すように、ゆきは夫がいそいで主君のもとに戻ってゆく姿を、じっと佇んで、見えなくなるまで見送っている。  このときのことを詠んだ二首の和歌「逢い見てはうれし悲しもわすられてまずさしぐむは涙なりけり」と、「走りよる子らの頭をかきなづる君がみ姿見ればうれしも」は、おそらくそのあとでゆきがつくり、小金井きみ子が手をいれたものとおもわれるが、実に素直な歌いぶりである。技巧というものの跡さえ感じられない。ゆきは実直な、自然にさからわぬ、それでいて勁さをもった女性だったのだろう。  七カ月に及ぶ逃避行のはてに、長岡に戻ったとき、故郷ははやくも深い雪にとざされていた。ゆきはこの帰郷を、「七尺あまりの雪」の「ふるさと」へ、というふうにさらりと物語っている。 [#ここから1字下げ]  その年の末、たいらぎの事ととのいて、さまざまのうさつらさをしのぎて、ふるさとにかえりしにはや雪は七尺あまりもつもりたり。   立かえり雪《ゆき》ふるさとを来てみれば     今朝白妙に埋もれにけり [#ここで字下げ終わり]  七尺といえば大へんな積雪であるが、長岡人にとっては冬はまだこれから、というところだろう。そういう平常心にちかい、淡々とした感じが、この技巧も何もない歌にはよく出ている。  これに較べれば、ゆきの体験談を筆記する小金井きみ子の歌のほうが、はるかに技巧にたけていて、情緒的である。姑のむかしがたりを書き終えて、きみ子は次のように記している。 [#ここから1字下げ]  母君のかくかたり終らるる頃は、落葉をさそう村《むら》時雨《しぐれ》いと物淋しくほのかにひびく、上野の山のかねの音数うれば、はやま夜中も過ぎてけり。いとけなきものは、皆ねまりたれど、おのれはこのむかしがたりを聞き流さんことのあだらしさに、わすれぬひまにと、ともし火のもとに、筆をはしらしぬ。   ふりし世の昔がたりを聞く袖は     時雨のあめに逢う心地して [#ここで字下げ終わり]  きみ子がこう記したとき、姑ゆきの兄虎三郎はこの世を去ってすでに十八年、弟の雄七郎が亡くなってからも四年の年月がたっていた。きみ子が姑の『戊辰のむかしがたり』を書きとどめる気になったのは、夫の良精が権三郎とともに小林虎三郎の『求志洞遺稿』(明治二十七年四月刊)を編んだことがきっかけだったろうか。    虎三郎、長岡に帰る  虎三郎の妹、小金井ゆきが幼い子どもたちを連れて長岡に帰り着いたのは、すでに明治と改元された年の「末」である。『戊辰のむかしがたり』からはそれ以上の細かい日付はわからないが、雪七尺あまり、とあるから、いずれにしても年の暮れちかくになっていたろう。  そして、これとほぼ同じころ、虎三郎も仙台から米沢をへて、長岡に戻っていた。少しくわしくいえば、米沢を発ったのが明治元年(一八六八)十一月五日で、見附に一カ月あまり潜居し、そのあと年末あたりに長岡に帰り着いている。藩主忠訓の一行は十月二十三日、仙台謹慎中に総督府から上京を命ぜられており、それを機に虎三郎は米沢に移り、そこから帰国の途についたのである。  仙台で虎三郎がした最大のことは、おそらく新政府に提出する藩主の謝罪文を書くことだったろう。この謝罪文が総督府に提出されたのは、九月二十三日。会津藩が降伏した翌日のことである。  内容を直訳的に述べると——王師に抗がったのはじぶん(忠訓)の本意ではありません。むしろ、そのように藩が行動したことに狼狽して「本国逃遁」の方法をとったのです。もちろん、かねてより己れの至らざることは明らかですが、この春以来の状況が不分明であったため、かようの不始末を犯すに至りました。わが藩にあっては勤王以外にその心なく、ついてはその効をあらわすため、兵器などすべて差し出し、朝廷のお裁きをまちます。ただ、このまま他国に謹慎しつづけるのは天地に身のおきどころがない感じなので、旧領の寺院にて謹慎いたしますので、お許し願えませんか、となる。  謝罪文といいつつ、これは、謝ったうえで旧領への帰国を願い出たものとみることができよう。虎三郎にすれば、「勤王」は当然の大義名分である。それゆえ、抗戦の罪は藩として問われても仕方がない。けれども、そのうえで出来るだけ藩主の責任を軽くし、藩士の困窮を救っておきたい。こういった考えから、このような藩主の謝罪文を草したと推測される。  しかし、十一月五日、藩主忠訓は総督府から官位を剥奪され、邸も没収された。また、その邸にあって付き従う家臣たちも放置されることとなった。それゆえ、虎三郎が十一月五日に米沢を発った、というのは、この家臣の放置という総督府の命に従ったことを意味する。  虎三郎が長岡に戻ると、三島億二郎からの手紙が待っていた。三島はこのとき京都にいた。その三島の手紙は残っていないが、これに対する虎三郎の返信(翌明治二年孟春念一=一月二十一日付)のほうは残っている。そこに、当時の虎三郎の身辺の状況がかんたんに記されている。 [#ここから1字下げ]  去ル十一月念五の芳翰、漸く本月三日拝閲つかまつり候。先ずもっていよいよ御清康なられ御勤め候条、抃賀《べんが》(手を打って賀す)たてまつり候。別来いまだ一字をも呈さず、簡慢の至、幸ニ御恕宥なし下され候。小生、命の如く十一月五日、米城を去り、十三日、見附着。それより名木野寺院ニ謹慎の図《つも》りニて、内々池之内村出入の者方ニ潜居いたしおり、当節漸く御城下出入の町人、岸屋助吉方へ引移り申し候。幸ニ宿痾ニ格別の障《さわ》りもこれ無くござ候間、御放念くださるべく候。令郎も見附まで御同伴ニて、毎度御厄介ニ相なり謝たてまつり候。其後ハ久々拝面もつかまつらず候えども、此節なお栃尾町ニ御滞在、随分御壮健、戦記御渉猟ト申す事ニござ候。御令政君、後二君ハ栃堀ニ御出、是《この》六日安来のよし、何れも御放念の程願いたてまつり候。……(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この文面からすると、三島億二郎が明治元年十一月二十五日(?)に京都から出した手紙を虎三郎がみたのは、翌明治二年一月三日のことだったようである。一カ月余りもかかっているのは、世上の混乱もさることながら、虎三郎の所在が明確ではなかったことが関係しているのだろう。  いずれにしても、明治二年一月三日現在、虎三郎は長岡に戻ってきていて、町人の岸屋助吉のところに仮住まいしている。そこから、かれの宿痾の状態と国元の状況とをたずねてきた三島に返辞を書いているわけだ。  それによれば、病気のほうは厳寒のさいちゅうであるにもかかわらず、さしたる障りもない。また、藩君たち一行も一月六日現在、栃堀にあって何事もないから、安心してくれ、という。  また、虎三郎はその便りのついでに、三島の子息の消息にもふれている。——じぶんが長岡に帰着するにさいしては、見附までは息子さんと一緒で、大変世話になった。そのあとは会っていないが、栃尾町にいるはずで、元気に戊辰戦の事歴をくわしく調べまわる仕事にたずさわっているときいているから、安心なさるように、と。  虎三郎はこのように、三島億二郎の心配事をいちいち取り除いている。しかし、手紙の内容はそれに尽きるわけではない。それどころか、虎三郎は敗戦国となった長岡藩をいかにしたら立て直せるかを、とくにその学政改革の面から詳しく論じているのだ。いわば家国を支えるのは自分だと考えている虎三郎にとって、戦中と戦後とは断絶した時間というふうには捉えられない。敗戦国をいかに支え、立て直してゆくか。これがはやくもかれの政治の課題となっている。    敗戦国長岡の再建にのりだす  三島億二郎宛の書簡(明治二年一月二十一日付)は、次のようにつづいている。 [#ここから1字下げ]  扨《さて》、旧臘《きゆうろう》奥羽越列藩 天裁も相済み候処、最初の風聞、演説等トハ違ニて余り寛典ニもこれなく、会津ハ勿論の事、仙・庄(仙台、庄内藩)等も憐むべきの至 御当家も御穀禄大ニ減し、更ニ会計立ち申さず、為礼来教ニもこれあり候とおり実ニ痛心の至ニ候。その表ニ於て開府以来|悉皆《しつかい》御百折(度々の失敗)のよしニ承り、御困難の程御察し申上げ候。|学政御更張の儀《ヽヽヽヽヽヽヽ》ニ付、書籍必用の品々書立て差上げ候様おおせ聞かされ、是ハ旧臘秋田参政(花輪求馬)まで差上げ申し候。なお又、その趣向も調査候様おおせきかされ拝承、此も蘆野参政(村松忠治右衛門)より申しきかされ候事ニ付き、何《いず》れそのうち大略書立て差出し何か申す心得ニござ候。……(傍点、カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで、前年の十二月に東北列藩への朝廷の処分が終わり、それが意外に厳しかった、と書いている。じっさい、最後まで戦った会津藩の家老・萱野権兵衛は死罪、軍事奉行添役の秋月悌次郎は終身禁錮といったぐあいに重罪に処せられ、ついで会津藩じたいも二十三万石から斗南三万石へと移封されている。長岡藩も、虎三郎が「御穀禄大ニ減し」と書いているとおり、七万四千石(実禄は十万石)から二万四千石へと大幅に削られてしまった。  そうして、長岡城跡は官軍預り。忠訓は隠居して、十二月二十二日には先代の忠恭《ただゆき》(雪堂)の庶子|鋭橘《えいきつ》(のち忠毅と改む)に家督が譲られている。忠恭一行は、東京にむかった忠訓一行とは別に、十一月二十一日に帰国し、栖吉《すよし》村|普済《ふざい》寺に謹慎していた。  こういった藩体制の激変のさなかに、三島はおもに東京と京都で、虎三郎は長岡で、藩の維持と立て直し、そして復興へと奔走しはじめるのである。黒頭巾こと横山健堂は大正十五年刊の『旧藩と新人物』に、長岡藩の四人として河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎、鵜殿団次郎をとりあげたあとで、次のように書いている。「長岡の、能く今日あるは、河井の外、三島億|次《ママ》郎ありて、戦後の経営に任じたるに、依らずんばあらず。……新長岡を、窮苦の中より造り出したるは三島等の努力|与《あずか》って力あり。河井歿後の統領は彼也」、と。  ところで、虎三郎はさきの三島宛書簡で、「学政御更張の儀」について、はやくも報告していた。学政の改革と発展のために書籍や必要の品々を書きたてて、参政の秋田外記(花輪求馬。百五十石取りで、のち権大参事)に提出し、そのおおよその趣向についても同じ参政の村松忠治右衛門に提出するつもりだ、と。  こういった活動方針によって、かれは明治二年八月の施政改革において「文武総督」を引き受けるのだ。三島のほうは、副執政つまり実質的な家老だが、新政府の公議所・集議院の議員でもあって、もっぱら新政府と藩の連絡役というか、藩の代表として活動している。このときの施政改革による主なメンバーを記しておくと、 [#ここから1字下げ] 執政(家老)   山本頼母(牧野頼母) 副執政      三島宗右衛門(億二郎) 参政       梛野嘉兵衛(河井の義兄)          秋田外記(花輪求馬)ほか 公用人(外交官) 秦八郎安田右内ほか 文武総督     小林虎三郎 文武主事     秋山左内 文武教授     大原甚輔          田中弥左衛門(春回) 軍務局主事    三間利兵衛(市之進。村松忠治右衛門の実家) [#ここで字下げ終わり] といった具合である。河井、山本帯刀らが戦死してしまっていることもあって、ほぼ非戦派の陣容となっている。  なぜこういうやや詳しいメンバー名を記しておくか、というと、さきの虎三郎の書簡の続き部分において、これらのメンバーが長岡藩の戦後復興のために動き出していることが窺えるからだ。その続き部分。 [#ここから1字下げ]  安田生(安田右内)東上御面会、此地の形勢お聞取、驚愕の趣、ごもっともと存じたてまつり候。併《しかし》、私ハ帰郷後、村家ニ独居つかまつり候ゆえ甚《はなはだ》耳遠ニて、その要領を得るニ申し難く候。乍去《さりながら》落城後御領分中ニ新政の非を書き綴り訴え候者二十余人これあり、又、斯《か》く成らせられ候ても只今頃ハ如何か、先頃まで(旧政を)御慕願等つかまつり候者ハ一人もござなく候よし。然ル処、頼母大夫(牧野頼母)、外記参政(花輪求馬)ハ蘆野殿(村松忠治右衛門)ニ先日面会つかまつり候ニ、中ニ新政の非を悟られ候様子などハ相見え申さず候。他の稲本(稲垣主税のこと)・三間(三間市之進)等の諸君も御同様と察せられ候。落城御供を致し、戦を苦しむ様のものハ余り政府中河党(河井党。つまり主戦派をさす)ニ属する人々を歯牙《しが》ニも掛けもうさずやニ候えども、杢《もく》老人(牧《もく》老人。つまり雪堂・牧野忠恭を指しているとおもわれる)始ハ大分|睥睨《へいげい》しおり候|哉《や》ニ承りもうし候。当時、一藩の論ハ安鉚父子(安田右内父子のことだろう)はじめ官軍ニ降り候者をバ、大部|悪《にく》みもうし候よし。是ハもっともの事ニ候。併《しか》しながら安田父子ニもその情|恕《ゆる》すべき処これあり、(藩)政府ニハ睥睨せらるる罪充分ニこれあり、彼是《かれこれ》混雑中ニ|六ケ敷《むつかしき》事ニ候。山夫子(不明。秋山左内のことか)なども最初より帰参の了簡ハこれなき哉ニ候。何れ御帰郷候ワバ一々御嘆息トぞんじたてまつり候。……(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この文面は、虎三郎が藩内の人物を一々指しながらも、それを変名や匿名で書いていることもあって、意味がとりにくい。ただ虎三郎がここで暗に、長岡藩の戦争責任の問題や、その責任者の指定をめぐって藩論が左右に揺れ動いている事情を語っていることはたしかである。  この書簡を収録している『米百俵 小林虎三郎の思想』でも、「杢老人」が誰かを(はばかって?)指定していないが、いまあえてこれを先公の雪堂・牧野忠恭だと想定してみよう。その理由は、引用文中に註したように杢《もく》が牧《もく》の暗示になっていると考えられるからであり、またこの雪堂こそ河井継之助を深く信頼して藩政にとりたてた主だからである。  それに、「杢老人」が先公の牧野忠恭だと想定してみれば、かれが「始ハ大分睥睨し」て、官軍に降った公用人(外交官役)の安田右内父子を「大部悪」んだ中心人物だった、と納得がゆくのである。ともかく、そのように想定して、右の引用文の大体の意味をとってみよう。  ——安田右内が東上して、あなた(三島)に会ったとき、あなたは長岡の情勢を耳にして驚愕したそうですね。ごもっともなことです。わたしも帰郷後、村の町人の家に独りずまいをしているため、事情にうといので、藩内の情勢をうまく説明できません。しかし、落城後なお明治の維新政府の非を唱えて藩庁に訴えたものが二十余人もあったそうですが、半年もたった現在では旧政を慕うものは一人もいないそうです。御家老の牧野頼母と参政の秋田外記が軍務を担当している蘆野殿に先日面会したところでは、藩士たちの様子に新政の非を唱えているものはないようです。他の稲垣や三間も同じで、藩論は新政府への恭順に統一されてきています。むろん落城後に藩主(忠訓)の御供をし、戦を悪んだものは、藩政府の河井党つまり主戦派を歯牙にもかけてはいませんが、その黒幕というか後盾だった雪堂公は最初のうちずいぶんニラミをきかしていて、困りました。官軍に投降する役目をになった公用人(外交官役)の安田父子などは最初藩の人びとからずいぶん憎まれました。それももっともなことですが、安田父子には恕すべきところがあり、それどころか藩の当局のほうに憎まれる罪があるというべきでしょう。いずれにしても、簡単には判断できない、混雑中の出来事といえましょう。山夫子なども最初より帰参のつもりはなかったようです。いずれ御帰郷のおりには、一々ああそうだったのかと納得なされて、嘆息のでることでしょう、と。  ちなみに、虎三郎はこの手紙の追伸に、鵜殿団次郎(春風)が前年十二月十一日に死去している旨記している。鵜殿は江戸開城にさいして勝海舟の副使たるべきだったが、その後長岡に帰省し病臥していた。歳わずかに数えで三十八歳。虎三郎や三島とすれば、年少の盟友を失って言葉もなかったろう。    雲容樹色、哀しみに堪えず  虎三郎は、まだ市中にもどれない。焼けてしまった城跡も新政府の管理下に置かれている。いや、そういった外面的なことより、敗戦ということの重みがかれの心の底にずしりと沈んでいる。  次の、「次長沢伯明韻二首(長沢伯明の韻に次す、二首)」のうちの一は、おそらく城が落ち会津へと逃れていったときの作だろうが、虎三郎の心の底に沈んだ敗戦の意識、その悲哀の感じをよく伝えている。 [#ここから1字下げ] 南天一望凭高台 南天を一望して高台に凭《よ》る 十世城楼已作灰 十世の城楼すでに灰となる 指点故山近在眼 故山を指点すれば近く眼に在り 雲容樹色不堪哀 雲容樹色、哀しみに堪えず [#ここで字下げ終わり]  もとの長沢伯明の詩というのがどのようなものかわからないが、これはこれで一つの完結した詩情をうたっている。大意は次のようなものだ。——南の空を一望して高台にのぼってみた。ああ、あの辺り。永くわれらの誇りであった城楼は灰となって、いまはもうない。いちいち指さして見る故郷の山はすぐそこである。しかし、そこはすでにわれらのものでない。雲のかたちも樹々の色も、わたしには哀しみをたたえているように感じられることだ、と。  この詩にある「雲容樹色、哀しみに堪えず」という字句は、虎三郎の創作というより漢詩の常用句にちかいものといえよう。ただそれが、いまのばあい、あらゆる風景に悲色を映してみる虎三郎の感情にふさわしく、詩の展開にぴたりと収まっている。  そういった悲哀の感を、しかし、かれはいま表にあらわすことができない。いや、そうしてはならないと自制している。なぜなら、敗戦国となったいまこそ家国を支える政治家としての自分が要請されている、というのが、かれの自負であり責任感でもあったからだ。そこには、すでに亡き河井継之助に対するライバル意識さえ潜んでいたかもしれない。いずれにしても、市外にあって南天を一望する虎三郎の目には、半年まえの悲色を底に潜めつつ、すでに敗戦国を再建する意思の光の色があらわれていた。  それはたとえば、明治二年三月十八日付の三島億二郎宛の手紙などにも窺うことができよう。この手紙は、二月の二十六日に母親の久が逝去したことを報せる目的のものである。けれど、文面はそこから自然と政治に関わる内容のものに移ってゆくのである。 [#ここから1字下げ]  ……愚母患状、先便は兎《と》も角《かく》も取続申すべき哉《や》に申し上げ候処、其後持病|差起《さしおこ》り、食事出来ず、遂に去る廿六日相果もうし候。私共一同悲慟のきわみ御推察成しくださるべく候。(母)存生中は久々御心易く成しくだされ、火難(文久三年の自宅焼失をさす)後よりは別して御厚情をこうむり、ありがたく存じたてまつり候。御令政君病中も御配慮の御見舞に預り、不幸の砌《みぎ》りも色々頂戴物等つかまつり、毎度御深志のほど重畳感銘、山々《さんざん》御礼申し上げ候。貞四郎(弟)も兎角肥立申さず困り入り候。乍去《さりながら》追々|宜《よろ》しき姿には候間、御過念くだされまじく候。|郡県論起り《ヽヽヽヽヽ》坂、西諸藩|事《こと》に着眼の早さには感心いたし候。併《しかし》是は所謂|太《はなはだ》早計にこれあるべく存ぜられ候。愚見大略は秋田殿(花輪求馬)へ申し遣し置き候。本藩の事浩歎の外ござなく候。藤野善蔵(のち慶応義塾入社。その後、長岡洋学校長)も御暇願差出し候。私へも相談いたし候えども、善蔵申すところ、大義を失わず候ゆえ、強《しい》て止むる事つかまつらず候。此方《こちら》の政府は決し難く、尊兄等へ問合わせのよし、如何《いかが》御決しに相成り候哉。何れにも尊兄の御帰来を待ちおりもうし候。……(傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで、亡母に対する三島の永年の厚情などを謝しつつ、そこから一転して中央新政府で起りつつあった「郡県論」のことを話題にしている。廃藩置県が実施されたのは、明治四年(一八七一)七月のことであるが、虎三郎はこの情報をすでに耳にして、西国諸藩の「着眼の早さには感心」するがちょっと「早計」にすぎるのではないか、といっているわけだ。  廃藩置県はこの噂から実現まで二年四カ月たっているから、虎三郎がその時点でも早計になると考えたか、それくらい時間をかければよいと考えたかはわからない。ただ、かれのナショナルな思想からすれば、廃藩置県を「着眼」と捉えたことは明らかだろう。それへの漸進的な移行については、かれは賛成だったとおもわれる。  なお、右の手紙の末尾ちかくにふれられている藤野善蔵の件というのは、どんなことを指しているのかはわからない。藤野が「御暇願」をだしたことはわかるが、その理由が不分明だからである。長岡を去り、上京して慶応義塾に入り英学を勉強したい、ということだったろうか。ただ、虎三郎が帰藩ののち積極的に藩政に関与しはじめたことは、これらの事例によっても窺い知れるだろう。かれの得意とするところは、さきの手紙でもふれられていたように、「学政」に関した分野だったが、時勢はいやおうなくかれを政治の中枢のほうへと引っぱり出していた。  八月の職制改革では、かれの役職は「文武総督」というものだった。ところが、二カ月後、新政府からの命令で入札法による正・権(副)大参事の公選が行われる。これによって、かれは三島とともに選ばれて「長岡藩大参事」に任ぜられることになった。十一月八日の辞令と、それぞれの禄高を見較べてみると、すでにある程度、封建的な門閥制度がやぶられはじめているのを知ることができる。 [#ここから1字下げ]        牧野頼母  四百石 長岡藩大参事 三島億二郎 六十五石        小林虎三郎 百石        梛野嘉兵衛 百五十石        秋田外記  同 同 権大参事 原一平   同        武部静蔵  同        赤川哲造  百七十石 [#ここで字下げ終わり]  この正・権大参事は、すでにふれたように、入札法という藩士たちの公選によって選ばれたのだが、その他の役職はすべて藩庁からの任命である。そのいくつか重だったところを引いてみると、次のようになる。 [#ここから1字下げ] 士正(目付のようなものか) 槇正記[#地付き]百三十石               村下村主[#地付き]百七十石 軍務主事          森源三(河井没後、河井家を継いでいる)[#地付き]百石   審判司           小倉帰一[#地付き]百五十石 市郡宰兼社寺司       小金井儀(虎三郎の義弟)[#地付き]百三十石 出納司           萩野喜衛[#地付き]百石   学校主事          秋山左内[#地付き]百石   武庫官事          三間利兵衛[#地付き]百石   検使同格撫農司       鬼頭平四郎[#地付き]七十石  [#ここで字下げ終わり]  詳しくは、『明治二年長岡藩士総名順表』にのっているが、それと照らし合わせてみれば、このときの虎三郎と三島の「大参事」役は、従来の門閥制度を超えた、衆望の帰するところだったことがよくわかるだろう。    藩内、困窮す  虎三郎が入札法によって、大参事に選ばれ、役所から辞令をもらったのは、すでにふれたように、十一月八日のことである。かれはこの日、東京に遊学中の弟雄七郎に手紙を書いている。それをみると、敗戦国長岡藩の政治にたずさわることの難しさについての感懐がよくあらわれているが、それを引用するまえに、大参事として廟堂に立つことになった感慨のほうを、かれの詩から引いておこう。  詩の題は「拝大参藩事後作庚午(大参藩事を拝して後の作明治三年)」であるから、任命後二カ月ほどへての制作であろう。 [#ここから1字下げ] 多年臥病老書生 多年病に臥す老書生 誰料一朝蒙寵栄 誰か料《はか》らんや一朝寵栄を蒙むらんとは 門前縦是人如市 門前たとい是《これ》人市の如きも 依旧此心秋水清 旧に依って此の心秋水清し [#ここで字下げ終わり]  ここには、多年病におかされ、また政治から遠ざけられてきたものが、一転して廟堂に立つことになった嬉しさがなんとなく滲みでている。詩とすれば、「人市の如し」と「此の心秋水清し」という後の二句の対比がちょっと単純すぎる気がする。しかし、その単純な対比も、虎三郎がついに政治に直接関わることになったのだと喜びと自戒を直にあらわしていると考えれば、そう悪いものでもない。  虎三郎ばかりでなく、この当時の詩人にとって、詩は世界をねじふせる言葉の技巧というよりも志を述べるものであった。そうだとすれば、この詩には虎三郎の「大参事」役を素直に喜ぶ気持ちがよくあらわれている。むろんそれは、かれが高い地位を喜んだということではなく、これまで無縁に遠ざけられていた政治に直接関与できるという感慨である。  それゆえ、この感慨には裏に、実際に政治にたずさわって、敗戦国を立て直し、七万四千石から二万四千石へと減封された財政を運営し、また戦火に逐われて困窮に苦しむ藩士や領民を救うにはどうしたらよいか、という苦悩がはりついている。それが、弟の雄七郎宛の手紙にはよくでているのだ。雄七郎は後に詳しくふれるとおり、当時東京遊学中で、数え二十五歳。福沢の慶応義塾に入る半年まえである。  虎三郎はその手紙に、二時間ほどずつ政事堂に出ていることを報告したあとで、長岡藩内において人びとが困窮しているさまを語っている。母方の栂野家などでも粥ばかりで、禄高が大幅に削られた士族の家のなかには三度の粥にもこと欠くものもある、という。文教、武備、政治、どれも費用に不足である。ただ、来春漢学校(国漢学校)を建てることになったぐらいが計画どおりで、あとは皆だめだから、朝廷が嘆願(減封分をもとに復してほしい?)を容れてくれると有難いのだが……と嘆息している。  そのうえで、かれは朝廷の政治にも批判の筆を加えている。もちろん、そのなかには条理明らかなる処置もあるが、不条理のこともある。こういって、庄内南部におこった移転運動に「七十万金の献納」を命じた例をあげている。この明治二年は、虎三郎が手紙のなかに記しているとおり全国的な「不作」で、新潟、仙台、新発田、南部、高山、福江、広瀬、笠松、松江、長崎、飯田、高崎……とつぎつぎに百姓一揆がおこっていた。これに対し、三条実美右大臣が減俸して貧民救済の大範を示したのはよいが、庄内南部に対する処置はいけない。「二事仁暴相反する」、というのである。  では、小林虎三郎が具体的に考えている政治とは、どのようなものだったのか。これは、虎三郎にとって「維新」とは何か、ということである。それを検討するためには、長岡市立互尊文庫に残されている『文書草案』、くわしくいえば戦後長岡藩に関する小林虎三郎作成の布告・通達文を調べてみることが必要だろう。この『文書草案』は、互尊文庫嘱託だった小林安治氏が「釈読」を試みたことがあるだけで、これを論評したものは管見のかぎりでは、ない。 『文書草案』の最初のものは、虎三郎が「文武総督」となったばかりの八月下旬の布告である。かれはここで、明治二年夏以来の不作に対応すべき政治について語っている。 [#ここから1字下げ]   己巳(明治二年)八月下旬郷中へ布告  天の衆人を視る事子の若《ごと》し。衆人の相視る事兄弟の如くなるべし。君は兄弟中の長者にて、之を管轄するものの若し。されば、衆人中困窮の者あれば、独り政府に於て賑恤《しんじゆつ》の処置を為すべき而已《のみ》に非ず。衆人中の富有なる者も亦その蓄うる所の米金を出して、之を救助すべきの義あり。(中略)然るに、作方宜しからず、米価引上候の折柄には、毎々富有の者ども有余の米穀を所持致しながら、取抑《とりおさえ》て売出さず、猶更《なおさら》に米価の登るを待て売らんと欲し(中略)小前の者共|益《ますます》困窮に至り候は従来の通患にて、右に全く自分一人の私利を営み、兄弟も同じき道理合なる衆人の難渋を何とも心に掛けざる致し方にて、大に天理に戻《もと》り候|訳《わけ》、甚以《はなはだもつて》宜しからざる事に候。当年も夏以来、殊《こと》の外《ほか》季候不順にて作方宜しからず(中略)方今、王政御一新万民御撫恤精々御心を運びなされ候折柄、前条諸人も兄弟に同じき道理合と、朝廷の御趣意柄とを篤く相わきまえ、新穀出来候までの飯米取除け、少分にても余米これあり候者は、速に売捌き候て、少しも諸人難渋を免じ候様いたすべきもの也。 [#ここで字下げ終わり]  これは、民衆への諭告にちかい。藩政府の政治方針を述べたものでも、罪罰をともなうような具体的政令でもない。「自分一人の私利を営」んではいけない、という人倫を敷衍して政道へと繋げていったもので、虎三郎の政治思想はよかれあしかれ、こういった仁政的な性格を内包していたといえるかもしれない。そして、あらかじめいっておくなら、それがうまく活かされたのが「学政」という分野だったのである。    末弟・雄七郎のナショナリズム  虎三郎が入札法によって長岡藩大参事に選ばれたころ、十七歳下の末弟雄七郎は、横浜・東京へ遊学中だった。雄七郎は江戸で佐久間象山に会ったことがあるというから、兄の虎三郎が象山の一件で長岡に帰国・幽閉の身となる安政元年(一八五四)よりまえに江戸への遊学を許されていたのかもしれない。そうだとすると、雄七郎は十四、五歳のころからずっと、江戸、横浜、東京というぐあいにその場を移しつつ遊学をつづけていたことになる。  ともかく、雄七郎は戊辰戦争中、長岡にいない。兄の虎三郎に帰国すべきかと問うたところ、その必要がない、おまえは勉強をつづけろ、と諭されたこともあって、戊辰戦争中はもちろんその前後にも長岡藩に帰っていない。  にもかかわらず、ここに雄七郎のことをやや詳しく扱ってみようとするのは、かれが明治二十年代になって書いた政治小説『自由鏡』や、史論『薩長土肥』には、かれが|長岡を離れて《ヽヽヽヽヽヽ》日本全体(ナショナル)の目から戊辰戦争という歴史を注目していた形跡がうかがえるからである。そして、それは|長岡にあって《ヽヽヽヽヽヽ》日本全体(ナショナル)の目から戊辰戦争を視ていた兄虎三郎の立場と相照らし合うものとなっているのだ。  小林雄七郎は弘化二年(一八四五)十二月二十三日生まれ。字は子英。号は北陽、また生化居士ともいう。生化居士とは、文明開化のために尽くす、の意味で、福沢諭吉の弟子を自任していた雄七郎らしい号である。戯号としては、酒好きだったことに由来する酔死道人というのがある。  雄七郎の生涯、およびその位置づけについては、横山健堂の『旧藩と新人物』が簡潔にして要をきわめているので、まずそれを紹介しておきたい。横山は虎三郎と河井継之助にふれたあとに、自由民権家の雄としての雄七郎について、こう記している。 [#ここから1字下げ]  病翁(虎三郎)、多病にして娶《めと》らず、子無し。弟、小林雄七郎|亦《ま》た名士也。豪放|不羈《ふき》、学識あり。著作多し。学生《しよせい》を愛し、後進を誘掖《ゆうえき》(先にたってすすめ、手助けをする)す。夙《つと》に民権自由の説を唱え、北陸自由党《ヽヽヽヽヽ》の領袖となる。第一期議会に大多数を以て、推されて代議士となる。是より、まさに中原に活動す可かりし也。翌年、病歿せしは殊《こと》に惜む可し。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  横山は雄七郎の文章にもふれており、『薩長土肥』については、その史観とも絶讃である。同書の内容にふれないうちにその評を紹介するのはちょっとまずいが、小林雄七郎という文章家、歴史家についての評とみなして、引用しておこう。 [#ここから1字下げ]  雄七郎の文章、精采《せいさい》あり。蓋《けだ》し、北陸《ヽヽ》近時の文章家なるべし。吾輩、未だ多く、其の著述を見ずと雖も、『薩長土肥』一冊の如きは、恐らくは、彼の傑作にして、又た以て、明治の人国記、政治史に有要《ゆうよう》の文章と為さずんばあらず。  蓋《けだ》し、自由民権の志士が、薩長土肥の元勲者を攻撃せしは久し。弾劾の言論文章、往々、光焔《こうえん》万丈なるものあり。然れども、質実に『薩長土肥の人国記』を研究したるものあるを聞かず。其の之あるは、雄七郎を以て先鞭と為す。『薩長土肥』は、寧《むし》ろ片々たる小冊子也。然れども、観察奇警、叙述|肯綮《こうけい》に中《あた》る(要点をおさえる)。就中《なかんずく》、其の精力を集中するは、薩長人の特徴を論ずるの一章にあり。薩人を以て才子《ママ》的武人、長人を以て武人的|才子《ママ》と断ずる如き、恐らくは、薩長人の自ら言わんと欲するところを、能く言えるものならん。 『薩長土肥』は、或意味に於ては、仏《フランス》人デ・モーランが、英人を研究せる、Anglo-saxon Superiority と其感情を一にするものあり。維新の失敗者にして、其の対手《あいて》たる優勝者を論究す。感興の筆端に漲《みなぎ》るもの無くんばあらず。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  横山健堂の『薩長土肥』評は、文章に精采があり、人国記・政治史として優れている、とくにその四藩比較の妙において真を衝いている、という前半の条りは、ほとんどそのままで首肯《うべ》なうことができる。柳田泉(『政治小説研究』)のように、雄七郎の文章を中江兆民に匹敵する、と評価するのは賞めすぎとおもうが、兆民・末広鉄腸につぐ、とはいえるだろう。あらかじめ述べておくなら、小林雄七郎は文章家として優れているが、それよりもわたしは「政治ハ技術ナリ」という観点からの歴史家として卓抜なるものがあった、というふうに考えている。  ただ、右に引いた横山健堂の『薩長土肥』評の末尾についていえば、これは誤った評である。『薩長土肥』は「維新の失敗者」が「其の対手たる優勝者を論究」したものではない。雄七郎はその兄虎三郎と同じように、戊辰戦争の勝敗から超越した場所にいる。その歴史を、薩長土肥のような「優勝者」や、会津や長岡のような「失敗者」といった観点からでなく、この幕末や維新の時点にあってはまだ仮構ともいえる、近代日本というナショナルな観点から視つめていたのだ。  雄七郎(酔死道人)の政治小説『自由鏡』にあっては、その主人公の赤城二郎は会津藩の出身であるが、白虎隊に加わっていこうとはしない。のみならず、こういう。——諸君(白虎隊士)は会津藩とか徳川幕府を佐《たす》けるとかいうが、ことがもうここまで来た以上、世界における日本の将来を考えるべきだ。すでに大政奉還がなされ、将軍も藩主も恭順しているのだから、文明開化へと全国で力を合わせ、富国強兵の道にすすむべきだ、と。  この主人公の発言がすべて作者の雄七郎の思想どおりとはいえないだろうが、主人公の兄の一郎(故国に病臥——虎三郎を連想させる)と師の淡津佐渡(先年使節となって西洋をみてきた——福沢を連想させる)とがともに尊王・開国論者であることからみても、雄七郎の思想にちかいもの、とはいえよう。そして、その尊王・開国論の立場は、戊辰戦争を「優勝者」か「失敗者」かとみる視点とは次元の異なったものであった。それはおそらく、兄虎三郎や勝海舟のナショナルな思想につらなるものである。  それゆえ、『薩長土肥』は横山健堂のいうような、「維新の失敗者」が「其の対手たる優勝者を論究」したものではない。雄七郎の「感興の筆端に漲」っているのは、あらかじめいえば、維新から二十数年間の歴史を観察することによって、明治後半期の日本の「政治」に必要な指導原理を導き出さんとする情熱だったのである。ナショナリズム(国民主義)の思想にもとづく歴史観が、そこにはある。    雄七郎、慶応義塾へ  小林雄七郎は明治三年(一八七〇)五月十六日、数え二十六歳のとき、慶応義塾に入社(入学)している。これは、かれが江戸で知り合いになった茨城出身の塚原周造(のち管船局長)が慶応義塾に入って洋学(英学)を修めはじめたことからの影響である。  雄七郎の側からの記録によると、慶応への入社は明治四年二月十八日ということになるが、慶応側には正式な入塾記録(入社帳)が残っているので、この日付にはまず間違いがないだろう。これよりさき、虎三郎の三島億二郎宛書簡(明治二年三月十八日付)にでてきた藤野善蔵が長岡藩に御暇願いをだして慶応義塾に入社——入社帳によれば、明治二年五月十九日入社——しているが、雄七郎の入社はこの藤野に影響されたものではない。  ただ、雄七郎の入塾保証人は藤野なので、兄虎三郎と相談のうえで藤野に保証人になってもらったものとおもわれる。(ついでながらふれておくと、藤野は明治五年十一月、国漢学校から分かれて創立された長岡洋学校の校長に就任している。お暇願い、慶応義塾入社、修学、その教師、長岡洋学校校長、という経歴をたどったことになる。)  雄七郎の慶応入社以前の遊学歴には不明のところが多いが、松下鉄蔵の小冊子『小林病翁先生伝』に付せられた丸田亀太郎筆「小林雄七郎先生伝」や、柳田泉の『政治小説研究』中の「小林雄七郎研究」などによって、そのおおよそを記しておこう。そういえば、いま憶い出したが、わたしが一九六八年に刊行された柳田泉の『政治小説研究』全三巻を読んだのは、象山を読んだ幕末思想研究会に先立つ明治文学研究会(前者と同一メンバー)のときである。とすると、わたしは小林虎三郎の名よりもさきに小林雄七郎の名を知ったことになる。  雄七郎ははじめ江戸で洋学とくに蘭学を学んだが、数年後には英学のほうを主に学びだしたらしい。そのためには江戸よりも開港地の横浜のほうが便利だと考えたものか、ともかく元治元年(一八六四)の冬には、江戸で知り合いになった塚原周造をたずねて横浜に移っている。数え二十歳のときである。  横浜では、北方村東漸寺に塚原と同居することになった。ここに、同じく江戸以来の友人の星亨(一八五〇—一九〇一。のち自由党幹部、アメリカ公使、東京市議会議長)も同居して、三人で自炊生活をはじめている。塚原はアメリカ宣教師に日本語を教え、宣教師の発行する日本新聞紙の手伝いをして学費をかせぎながら、その宣教師から英語を学んでいた。雄七郎も塚原の世話で、バラーというアメリカ宣教師に日本語を教え、交換にデビット・タムソンから英語を学んだという。これによって、パーレーの『万国史』を読めるまでになったらしい。そうだとすれば、雄七郎は慶応義塾に入社した時点で、すでに語学としての英語はかなり修得できていたと推測される。  東漸寺での自炊生活は三年ほどつづき、そのあいだに会津の野口某、彦根の鈴木某、大分の大井憲太郎、出雲の飯塚修平、加賀の林賢徳、姫路の長谷川規二郎、羽州の酒井某なども加わっている。いずれも英学中心の勉強であったらしい。同志の元締め的役割は塚原で、かれが明治元年に一時帰国したときは雄七郎がその代理をやっている。  さて、塚原は明治二年に東京に戻ってきたが、そのまま横浜には来ず、箕作麟祥の塾に入り、ついで福沢諭吉の慶応義塾へと転じた。この当時、洋学の中心はすでに蘭学から英学や仏学に移りつつあり、英学は三田の慶応義塾がもっともすすんでいた。福沢の英学は、いってみれば文明開化を説く新思想であった。そのあたりのことを雄七郎も見極めたのだろう、かれも横浜での生活を打切って慶応に入社したのである。  慶応ではすでに教育体制が整っていたため、初心者は福沢や小幡篤次郎の講義には出席できなかった。けれども、雄七郎の学問はすでにその段階をクリアーしていた。それどころか、入社九カ月後の明治四年二月には福沢の命令で『万国史』の翻訳に従事している。  雄七郎が塾に在学したのは結局一年ほどだったが、このあいだかれの福沢への傾倒ぶりは大変なものだった。それは、二十年ちかくたった時点での『薩長土肥』にも明らかに痕跡を残していて、かれは明治二十年間を支配した薩長土肥気質の外に「独立独行」している「士」といえば福沢諭吉一人あるのみだった、と断言する。  薩長土肥気質の「国家的武断的厳師父的皇漢学的」な性格に対して、「各個的自由的良友的欧米学的」な性格なるもの。そして、民選議院の設立建白に先立って議院主義をとったもの。天下の人びとすべてが薩長土肥の下風に立ったとき、そこから巍然《ぎぜん》として「独立独行」したもの。——それが『西洋事情』や『議事院談』の著者で、慶応義塾の創立者だった福沢諭吉だ、と。  小林雄七郎にとって、その議会制的な政治思想、民権的な社会思想、そして近代的な文明観などの全き師として、福沢という存在はあった。薩長土肥気質から「独立独行」した福沢諭吉とその思想について、もう少し仔細に、雄七郎のいうところをきいてみよう。 [#ここから1字下げ]  抑《そもそ》も三田翁が著訳の社会の文明に大功ありしは、人皆之を知る。慶応義塾の英学教育に、修身教育に、理財(経済)教育に、社交教育に大功ありしも、人亦皆之を知る。三田翁が断然国家的武断的厳師父的中央集権的の政略に反対し、慶応義塾が多く各個的自由的良友的地方自治主義的主義の士を出し。否、三田翁が政治社会に向て自治制国に向て立憲帝政国に向て別に一個の方針を立て別に一線の鉄軌を布《し》き別に一列の汽車を発し、磊々落々羈《らいらいらくらくおもがい》されず牽《ひ》かされず、超然として彼の耳を提《ひ》かれ頷攫《おとがいつか》まれ肩を脅かし尾を掉《ふつ》て猶《なお》及ばざらんことを畏るる世間無膓的学者輩の外に立ち、隠然《いんぜん》在野政治家等に向て其方針を指点せるが如きに至ては。否、三田翁の三田翁たる本色本領に至ては、天下之を知らざるに非ずと雖も。否、之を知る者多らざるに非ずと雖も、未だ明々地に其本色本領を写出す者有るを見ざるは、何ぞや。 [#ここで字下げ終わり]  雄七郎はここで、福沢諭吉(およびその慶応義塾)が明治の文明開化の時代に、英学教育、修身(精神)教育、理財(経済)教育、社交教育といったさまざまな領域に啓蒙の功績があり、また日本の政治社会にあってその自治制、議会制、立憲帝政にむけてさまざまな指導を行ったことは世間がよく知っているといいながら、いや、それでもまだ福沢の本質本領は十分に伝えられてはいない、と強く主張するのだ。この一事をもってしても、かれが福沢への心服者であったことは明らかだろう。    虎三郎、雄七郎とともに高知へ  雄七郎が三田の慶応義塾に籍をおいたのは、一年ほどだった。翌明治四年の春、土佐藩の海南学校から福沢のもとに、英学の教師を招聘したい、という申し込みがあった。そこで雄七郎は、福沢の指示によって、塚原周造、梅浦精一、吉田五十穂などとともに土佐へと赴いた。このとき、病弱であった兄の虎三郎が南国の風光に接することの珍しさと温暖の地での静養をかねて雄七郎に同行している。  雄七郎・虎三郎の一行は、品川沖から土佐藩の汽船もみぢ丸に乗って、海路、高知についた。ただ、この船はもともとアメリカの河蒸汽を購入して修理したものであったから、旧式で速力がおそく、高知まで五日間かかった。船の揺れもひどかったので、船に弱い雄七郎などは寝通しであったらしい。  虎三郎も病身であったから、若い弟よりはもっと大儀であったろうとおもわれるが、高知行にふれた詩からはそのことはあまり伝わってこない。むしろ、海上から富岳をのぞんだときの感慨や、紀州洋に到ったときの描写には、かれがこの船旅をたのしんでいるような気配さえある。  虎三郎の詩には、若いときのものを除き、病身と沈痛なる心情を映して暗いものが多いので、その「紀州洋」と題した、明るく、のびやかささえ感じられる詩を引いておこう。 [#ここから1字下げ]   紀州洋 日落紀州州尽辺 日は落つ、紀州のくにの尽《つ》くる辺《あたり》 朱霞閃爛映波鮮 朱霞|閃爛《せんらん》として、波に映じて鮮やかなり 台湾呂宋在何処 台湾|呂宋《ルソン》、何処《いずく》にかある 俊鶻高飛水接天 俊鶻《しゆんこつ》高く飛び、水天に接す [#ここで字下げ終わり]  大意を述べるほどのこともない、単純な内容の詩で、その単純さが逆に、日ごろの病身からも公務の責任からも解き放たれた虎三郎の解放感をあらわしていよう。——日は紀州のつきるあたりに落ちてゆき、波も朱く鮮やかに染っている。ああ、このままいけば、遠く台湾・ルソンへと通じているはずだ。ハヤブサが高く飛び、水は天に接して、茫々たる洋であることよ。  海南学校で雄七郎が教えた科目が何かは、わかっていない。イギリスの議会制史とか、ミルの経済学とか、それらの基礎としての英語などであったろう、と想像できるだけである。ただ、当時数え二十七から二十八歳にかけての雄七郎が、この時期、精力的に研究や翻訳をつづけていたことはたしかである。その結果、かれは高知で故吉田東洋の一子、吉田正春と親しくなったり、帰京後に海老原済・梅浦精一と共訳で『銀行簿記精誌』(英人シャンド著)を刊行したりするのである。(吉田正春と雄七郎との関わりについては、わたしの『在野の精神』一九七九年刊に収めた「在野ということの意味——吉田正春にふれて」を参照されたい。)  これに較べると、四十代半ばに達している虎三郎は、弟たちのもつ若さと精力と情熱はすでにじぶんにはない、と悟っている。かれは高知で、旅行中とはうって変わった落魄の心境にいた。もっとも、その落魄はすでに静かな自己観照のうちに治められている。しかし、それゆえに落魄はおのが身の事実として、次のような詩の底に沈んでいるわけだ。  高知にあること半年の後、虎三郎が北沢正誠(子進《ししん》)に贈った詩、「辛未《かのとひつじ》歳晩。在高知県。遙寄子進。(明治四年の歳晩、高知県にあり、遙《はる》かに子進に寄す)」には、すでに老境さえただよいはじめている。  ——髪も半ば白くなり、顔もやつれ、これではどうみたって青年の意気雄なる状態とはみえない。おれも年をとった。身は空の涯てのほうまで流れきて、病気はまだ治らない。名を史書に残す望みもすでに空しい。雲のかかった高い山はぼうっと昏くかすんで、故国は遠くにあり、目ざしてきた書剣の道は細々として、歳月もきわまった。もはやわが心は悟りきり、悠々として、独り杯酒をかたむけ酔顔を紅くしていることだ、と。  虎三郎はすでに人生を降りているようにみえる。しかし、そうではない。『求志洞遺稿』のこの詩のあとに北沢正誠が後註を付しているところによれば、虎三郎はこの詩とともに象山の『省※[#「侃/言」]録』のための跋文を送ってきた、という。一方では、児童むけの『小学国史』を執筆しはじめてもいた。そうだとすれば、かれはこれらの仕事によって、後から来るものに残すべきものを一つ一つ作っている状態であり、人生を降りているわけではない。  ただ、この詩のつくられた明治四年末の時点にあっては、自身が廟堂に立って政治をやることからはすでに身を退けているとはいえるだろう。明治四年末の虎三郎は、象山が虎三郎の質を「わが子の教育を頼むべきもの」と看破した、その後生の教育のほうに身を移している。そのことをかれ自身も知っているがゆえに、「心事悠悠」というのが負け惜しみでないのだ。落魄は事実であるが、詩の心は悲嘆ではない。老境の澄みやかさが感じられる。虎三郎は結局、雄七郎とともに一年、南の高知にいた。  雄七郎の海南学校との契約は一年で終わったらしく、明治五年五月には塚原とともに東京に戻っている。そしてまもなく、雄七郎は塚原とともに大蔵省紙幣寮に出仕することになった。かれはここにいるとき、福地桜痴(源一郎)と知り合いになり、紙幣寮の頭であった芳川顕正にその力量を認められることになった。二十年来の友と中江兆民がのちに書いているところによれば、兆民と知りあったのもこのころか。それとも、兆民とは高知の海南学校時代に知り合っているのだろうか。  大蔵省紙幣寮時代、雄七郎は工部大輔をしていた伊藤博文の知遇をえている。その結果、伊藤はじぶんの部下として雄七郎を引き抜き、工部権助という役職(従六位)につけた。ただ、雄七郎の素志は役人になることではなかったから、この工部省も明治八年には辞めている。そのまま役人になっていれば、薩長土肥の「長」のルートにのれたかもしれないが、かれの理想は福沢諭吉のいう「啓蒙」の道だった。いや、かれはゆっくりと福沢が啓蒙した政治・経済の思想を、具体的に政治や経済の世界に活かす方向へと歩きはじめたのだ。  もちろん、その方向が実を結びはじめるのは、長岡の復興の具体策にかかわっていた三島億二郎に請われて、かれが銀行設立や長岡社という育英事業などを手がけ、ついには代議士になってゆく明治十年代から二十年代にかけてのことである。いまは、雄七郎は東京に戻って私塾をひらき、かたわら文部省などからたのまれた翻訳に精を出している段階にすぎない。  帰京後の雄七郎が手がけた翻訳に、文部省の「百科全書」の一冊、『法律沿革事体』(明治九年刊)があり、また同じ文部省からの『日耳曼《ゼルマン》国史』(馬爾加摩《マルカム》女史著、明治十年刊)がある。翌明治十一年には、陸軍文庫の『ナポレオン一世伝』も書いている。このナポレオン伝には、かつて長岡攻めの参謀であった山県有朋が感心をしたという伝説が残っている。  だが、ここは明治になってからの小林雄七郎の生涯と功績を記すのが目的ではない。かれの『薩長土肥』という史論に、その戊辰戦争観あるいは明治という時代に対する観察がどう記されているのか、これを語ることが目的だった。そのために、幕末から明治初年の雄七郎の歩んだ道すじを、部分的には虎三郎と絡み合わせて記述しておいたにすぎない。    『薩長土肥』のおもしろさ  小林雄七郎の史論『薩長土肥』(博文館)が刊行されたのは、明治二十二年六月十四日である。一カ月後の七月十四日には再版がでており、その再版には田口卯吉の『東京経済雑誌』や徳富蘇峰の『国民之友』をはじめとする十数紙の書評が併載されているから、当時なかなか評判になったものであることがわかる。  いま、その内容に入るまえに、出版社の名「博文館」に注目してもらいたい。博文館(東京日本橋区本石町三丁目)は長岡出身の大橋佐平が興した出版社であるが、その大橋は明治初年、虎三郎が創立した国漢学校、そしてその後身たる長岡学校あるいは長岡洋学校の教員であった。  本書は長岡市の稲川明雄さんからいろいろ助力をうけており、本章にふれた小金井きみ子筆『戊辰のむかしがたり』も稲川さんからのコピーをもとにしていた。その稲川さんがさいきん『長岡郷土史』第二十七号(一九九〇年五月)に書いた「田中春回の学問の行方」に、明治四年当時、まだ長岡学校の教員であった大橋佐平の年俸が記されている。それによれば、筆頭が田中春回で七十二円、第二位が安田修蔵で六十円、第三位が大橋で三十六円だという。 「田中春回の学問の行方」は、つづいて長岡洋学校の陣容にもふれているので、ついでに引用しておく。「三島億二郎は洋学を積極的に導入することを考え、稲垣林四郎、加藤一作、大橋佐平《ヽヽヽヽ》、星野伊三郎と相はかって、明治五年十一月長岡洋学校を設立した。そこに、三島は福沢諭吉の高弟となっていた藤野善蔵《ヽヽヽヽ》を百二十円という高給で招へいした。あわせて、英語学の津田束、藤井三郎も採用し、漢文は田中春回が担当した」(傍点引用者)、と。  田中春回には虎三郎が宛てた書簡や詩などもあるので、また別にふれよう。ともかくいまは、雄七郎の『薩長土肥』が虎三郎や三島億二郎らにつながる長岡出身の大橋佐平の手によって出版されている、という事実に留意してもらえばいい。 『薩長土肥』は、次のような「附言」からはじまっている。——明治二十一年、後藤伯(象二郎)が大同団結を主張して「藩閥政府」を攻撃したが、これはかつて板垣伯(退助)が自由党を組織して「藩閥政府」を攻撃したのと同じく、論理矛盾ではないのか。それは結局のところ、藩閥の薩長土肥の一が「薩長政治家」にかわって内閣の椅子をとろうとする権力闘争ではないのか、と。  雄七郎によれば、幕末から明治の二十年間というもの、実際に歴史を動かし、政治を支配していたのは、「薩長土肥」である。それゆえ、かれは藩閥の果たした現実的役割を最大限に評価する。かといって、藩閥の役割を「国会」が開設される将来も認めようとするのでない。 「結論」の部分からいえば、『薩長土肥』における雄七郎の主張は、次のようになる。——明治維新は「干戈」の時代であったが、維新後は「文明」による競争の時代である。とくに憲法発布がなされ、国会が開かれる現在以後は、そうである。そこでは「立憲政治」の是非を論じて、政府と政党が相争う時代である。干戈の時代は「革命」を第一義とするが、国会は「改良」を第一義とする。そして、国会で政治の改良を行ってゆくうちに、維新の元勲たちはつぎつぎに死んでゆく。かれらによって形成された藩閥はいわば自然に消滅してゆく。そうだとすれば、現在の政治的課題は後藤伯のいうような藩閥の打倒ではなく、国民を「文明」に目ざめさせる啓蒙であり、国家の整備・改良のほうである、と。  しかし、この「結論」の部分は全体の十分の一程度である。『薩長土肥』のおもしろさは、これまで薩長土肥がなぜ権力を一手に握ってきたか、そしてそれはこの四藩のどのような特徴と、その組み合わせによるのか、という考察および論究の部分にあるのだ。  これはなぜか、というと、小林雄七郎の政治思想が、政治は畢竟国家を運営し、民を支配する(啓蒙する)技術である、というものであったからだろう。かれは書いている。 [#ここから1字下げ]  政治は技術なり、学術には非ず。唯《ただ》其国を治め、其民を新にするを期す。必ずしも其理義を明《あきらか》にし、其因果を究《きわ》むるを要せず。政治家は実際的なり、理論的には非ず。唯其政治を善くするを期す。必ずしも政理に通じ、政学に暁《あきら》かなるを要せず。是れ猶《なお》農夫が唯善く田畝を耕し米麦蔬菜を作るを期し、必ずしも農理を審《つまびらか》にし農学に精《くわ》しきを要せざるが如し。(原文カタカナ。句読点、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  この、政治家は「実際家」であるべきだ、その国を治めその民を新にする「技術」をもち、そう運用できればいい、という思想は、「実際的武断家」としての薩摩を四藩中でいちばん高く評価する、という考えの前提になっている。  ちなみに、雄七郎は工部権助だったとき、参議の大久保利通に会って、日本もおいおい立憲帝政・君民政治をつくってゆかねばならない、と談じたという。すると、大久保がしばらく待っていてくれといい、いくばくもなく地方官会議(明治八年)が催された。こういう体験にもとづいて、政治家は「実際的武断家」でなければならず、政治は実際に国家を運営し民を支配(啓蒙)する技術である、という思想がつくりあげられてくるわけだ。  ともあれ、雄七郎は政治を実際に動かしてゆく技術を評価する考えのもとに、薩長土肥の四藩気質を次のように把握し、比較している。 [#ここから1字下げ] 薩 実際的武断 長 武人的知謀 土 理論的武断 肥 文弱的知謀(文人的知謀) [#ここで字下げ終わり]  まず、薩摩人の気質について、かれは次のように説く。  薩人は理論家に非ざるなり。区々《くく》学理を説き諜々《ちようちよう》才弁を弄するが如きは、其長ずる所に非ざるなり。……其材識|能《よ》く大勢を察し、大事を理するに足り、勇武能く大難を撥し、大乱を定むるに足る。是《これ》薩摩政治家の本領なり。……薩人が実際的の精神は唯政治上に止まらず、其講修する学術技芸に於ても亦《また》之を見る。其之を講修するは直《ただ》ちに之を事業に施し、直ちに之を実際に行はんと欲するなり。奇論を弄《ろう》し新説を衒《(てらい)》りて快を取るの類に非ず。其欧米の学を講するにも、彼の文物制度は如何《いかん》、彼の兵式は如何ん、兵器は如何ん、農は如何ん、商は如何ん、工は如何んと直に現行の政治実際の業務を学ばんと欲す。  この条りは、さきの大久保利通の地方官会議や、西郷隆盛の廃藩置県や徴兵制、それよりまえの島津斉彬の反射炉や集成館工場などの例を思い浮かべれば、すぐに首肯できるだろう。雄七郎は、薩人はビスマルクの道を選ぶのであって、ヘーゲルの道は選ばない、ともいっている。卓抜な例えである。  しかも、この実際家としての薩人は、それを行うにあたってほとんどしゃべらない、そして責任を負うという役割を自任する、ともいう。 [#ここから1字下げ]  薩人は其言行に於て其責に任ずるの気象あり。故に其言や《にぶ》うす(重々しい)。薩人は行に敏ならんと期する者なり。故に其言に於ては訥《とつ》(にぶい)なりと為さざるを得ず。……策を討幕に決するや、伏見の戦、東北の役、異議を排し俗論を破り、遂に維新の大業を成就せしを見よ。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  こういった薩摩気質の把握は、こんにちでは周知のようになっているが、明治二十年ごろ、そういった分析を他藩との比較でおこなった歴史家はまだいなかった。それゆえに、横山健堂は同書について「人国記」の先鞭をなしている、といったのである。  薩摩を「実際的武断」という気質において掴みだす雄七郎の史論は、たとえば、さいきんでた司馬遼太郎の『「明治」という国家』(日本放送出版協会、一九八九年刊)の先駆をなしてもいる。司馬は、雄七郎が「其責に任ずるの気象」といった薩摩の気質を、こう表現している。「薩摩の藩風(藩文化といってもよろしい)は、物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官のタイプを多く出しました」、と。そのいわんとするところ、雄七郎のそれとほとんど変わりがない。  わたしはここで、雄七郎の指摘した薩長土肥四藩の気質について、細かく説明と批評を加えるつもりはない。さきの短い規定の表現から、それぞれに想像を逞しくしてもらえばいいからだ。それよりも、こういった四藩気質の把握と比較をしている小林雄七郎が立っている位置が重要なのだ。  小林雄七郎は長岡から離れているばかりではない。かれはその四藩の権力闘争と組み合わせによって維持・運営されてきた近代日本の政治の外に立ち、それをありうべき日本というネーションの立場から観察していたのだ。虎三郎から戊辰戦争への参加を拒まれた雄七郎が、その歴史の観察の結果を『薩長土肥』に書いたのだ。そこにわたしは歴史のイロニーを感じとるのである。 [#改ページ]   第十章 敗戦国の復興    戊辰刀隊戦死者の碑  虎三郎が文武総督だった明治二年のなかごろ、戊辰戦争で「刀隊」として戦った藩士たちが訪ねてきて、こういった。戦死者のための石碑を建てたいので、その碑銘を書いてほしい、と。 「刀隊」の隊長だった大川正則がいうには——じぶんたち三十九名は「君恩」にむくいんがために生死をともにして戦った。そのうちには、悲しいことに、生きて還れなかったものがいた。篠原|徳隣《のりちか》、亀倉貞勝、長島義定、三間《みつま》正直、能勢政常、長島|正吉《まさよし》、井上|正寮《まさとも》の七名である。生きて還ったものたちは、すでにその赤心をみとめられ、また抗命の罪もゆるされて、「皇化の優渥《ゆうあく》」にも浴さんとしている。しかし、すでに死んでしまったものたちは、そういうわけにはいかない。たしかに「馬革《ばかく》に屍《かばね》を裹《つつみ》、原野に骸《むくろ》を曝《さら》すは、固《もと》より武人の甘んずる所」である。七名の死者たちもそのことをうらんではいないだろう。しかし、生き残ってしまったものとしては、かれらを「悲慕」するにたえないものがある。そこで碣《けつ》(石碑)を悠久山のまえに建てて、かれらのことを永遠に伝えようとおもう、と。  悠久山というのは、長岡藩の歴代藩主がまつられている蒼柴《あおし》神社の「お山」である。このまえに石碑を建てるというのは、「君恩」にむくいんがために戦死した、かれらの志を讃えんとする目的をあらわしている。(ちなみに、悠久山には現在、長岡城が再建され、郷土史料館になっている。) 「刀隊」の隊長の大川らは、その碑銘を非戦派だった小林虎三郎に書いてほしい、というのである。このことは、虎三郎が絶対非戦論者であったわけではなく、薩長軍が「天朝」を旗印にナショナルな統一をめざしているのだから、これに対しては一時の屈辱をしのんでも戦うべきでないと主張したにすぎず、かといって戦端が開かれたら必死に戦わねばならないという意味では、主戦派と手をたずさえていたことを証していよう。絶対非戦論者に戦死者の碑銘を書いてもらおうとしたところで、犬死にだといわれるのがオチである。  虎三郎はこの頼みをことわらなかった。その心を、かれは碑銘の末尾の部分に、こう明かしている。——じぶんは「刀隊」の隊列に加わって戦ったわけではないけれど、思いは同じだった、それゆえに、体の衰えとか疲れとかを理由に銘を書くことをことわることができなかった、と。  そこにある「生者必ず死す。壮士|曷《なん》ぞ傷まん」とは、生きているものはみな必ず死に赴くのであるから、死んだ壮士たちよ、何で悲しむ必要があろうか、あなたがたは十分その命をはたしたのだ、という意味の常套句にちかい文字である。死者を悼むに相応しい措辞といっていい。虎三郎はこういう文辞の選びかたがうまいのである。 「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」の碑は、明治二年七月五日、牧野家を祀る蒼柴神社の参道左側に建立された。その碑銘は、長岡藩の戊辰戦争が一部権力者(「権臣」)の誤った選択によって行われた、という文章ではじまっている。しかし、実際に戦ったものたちを責めてはいない。そこに、小林虎三郎の柔軟な思想の真骨頂がみられるだろう。 [#ここから1字下げ]  戊辰の変、我が藩の権臣迷錯して、妄《みだ》りに私意を張り、遂に敢えて王師に抗じ、城邑陥没し、社稷墟と為るに至る。洵《まこと》に臣子たる者の言うに忍びざる所なり。  抑々《そもそも》武弁の士、此の顛沛離流《てんぱいりりゆう》の間に於て能く其の股肱の力を竭《つ》くし、身鋒鏑《みほうてき》に膏《こう》して悔いざる者。罪を朝憲に獲《う》るは固《もと》より免れざる所なりと雖も、其の事《つか》うる所に於ては則ち未だ始より二無しと為すを失わず。乃ち其情亦哀れむに足る者あり。皇上覆載(天が覆い、地が載せる。つまり天地のこと)の仁、其の頑《がん》を愍《あわれ》み、其の罰を緩《ゆる》くす。其れ此れを以てに非ずや。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  言葉づかいは難しいが、意味はやさしい。それゆえ、直訳して示せば、次のようになるだろう。——戊辰のさい、わが藩の権力者は迷い誤って、かってに我意を張り、ついに王師に抗することになった。その結果、城下は攻め落とされ、藩国は廃墟となった。まことに臣下としては口にだすことも恥ずかしいことである。  もともと武人たるものは、こういった混乱のときにあってよくその臣としての力を尽くし、身を戦に投げだし死して悔いざるものである。もちろん、その戦いそれじたいが誤っていたのだから、天朝のきまりに照らして罪を獲るのは仕方がない。しかし、かれらは主君につかえるべく戦に加わったのだから、それは誠意に出る行為だ。その真情たるや哀れむに足る。これに対して、天朝の大いなるには、武人たちの頑なな志をあわれんで、罰をゆるくしてくれた。それというのも、かれら武人の二心なく主君につかえようとした心ばえを諒としたからではあるまいか、と。  虎三郎はここで、主君に二心なく仕えようとし、身を戦に投げだそうとした武人たちをあわれみ、同時にかれらのその一途な心ばえを諒とし寛典をもって遇した天朝をたたえている。そして、すでにふれているように藩主には抗命の意思はなかった。  そうだとすれば、誤りは一に、実際に政治にたずさわっていた権臣(河井継之助)のほうにある。いったい、城下を攻め落とされ、藩国を廃墟となすような政治(戦争)を行った責任は、その権臣がおわなければならない、というのが、小林虎三郎の思想である。  これは、河井継之助に対する人格的な非難ではない。「権臣」ということばも、権力を握って政治をつかさどっているもの、つまり政治担当者と解釈すればよいのであって、その政治的判断、選択、施策がまちがっているにもかかわらず、それを気概によって強引に押し通したこと、そのことによって「権臣」は批判されねばならない、というのだ。結果が、敗戦であり領国の廃墟なのであるから、その「政治」はまちがっていた、というのが、虎三郎の理性としての判断である。  こういった虎三郎の理性的な政治思想は、政治をその人格的要素から切りはなそうとせずそれゆえ政治に倫理を求めがちなわがくにでは、馴染みにくいものかもしれない。しかし、政治はあくまでもより多くを救うという効率の問題であり、より多く勝つというマキャベリズムである、というのが、幕末から明治の政治家たちの学んだプラグマチズムだった。そういう意味では、この時期は政治が決断—責任という概念において測られうる、日本にあっては稀有のときだったのかもしれない。  いずれにしても、虎三郎はこの碑銘において、「権臣」の政治をあやまちだ、と否定することによって、戦いに加わっていったものたちすべてを掬い上げている。天朝をたたえ、藩主をあやまちから除外し、責をただ一人の「政治」に帰しているのである。  すでに死している河井からすれば、『痩せ我慢の説』において福沢諭吉から批判された勝海舟が「行蔵は我にあり、批評は勝手たるべし」と応じたように、批評は勝手たるべし、というかもしれない。それどころか、あのときほかにどんな選択が現実的にありえたのか、と反論するかもしれない。  ただ、にもかかわらず、わたしは死せる河井が、なるほど結果として戦争は敗れ、藩国は廃墟になったのだから、その「政治」の責任はすべてじぶんにある、と応じるような気がする。そして、じぶん一人がその誤った「政治」の責任を負えば、他のすべてが助かるというのなら、そのように決断して新たなる「政治」をやってくれ、それが小林虎三郎の「政治」というものだろうから……と、呟やくような気がするのだ。  わたしがおもうに、「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」にある、「我が藩の権臣迷錯して」という文句は、もう一度いうが、河井への人格的非難ではない。そう記すことが、その戦争をたたかった藩士を救い、藩主を政治責任から除外し、ひいては天朝の世を肯定することになるという、小林虎三郎なりの「政治」であったのだ。    もう一つの碑銘 「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」の碑が建立された十カ月後、虎三郎はもう一つの碣銘を書いた。栖吉《すよし》村普済寺にある「古騎法教師渡辺氏門下の戦死諸士の碣銘」が、これである。  古騎法教師渡辺久高の門下生たちの戦死者を記念する碑が栖吉村の普済寺に建立された理由は、かつての閣老牧野常信公(第十代藩主・忠雅)の祖である宝性公(初代忠成)の墓がここにある因縁からである。その牧野忠雅と渡辺久高との関係はどのようであるかというと、虎三郎筆の碑文に、次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  故従四位牧野常信公(忠雅)閣老たりしとき、松山藩の十河某の源氏古騎法を伝うるを聞き、其の臣数人をして就きて学ばしむ。渡辺久高、其の技もっとも精《くわ》しきを以て、擢《ぬきん》でられて教職に任じ、一藩の子弟を訓導す。及門の士、蓋《けだ》し数十人、業甚だ勤め、情甚だ厚し。春野秋郊、師|帥《ひき》い弟従い、鞭を挙げて叱咤し、驪《れい》|※[#「馬+聰のつくり」]《そう》(黒馬とあしげ)蹄軽く、縦横に馳騁《ちてい》(馬を走らせる)し、一瞬に千里、皆以て壮快と為さざる靡《な》し。  而して一旦戊辰の変、戦死者十六人なり。久高乃ち今昔を俯仰し、憾愴禁ぜず。栖吉村普済寺は、公(常信)の祖宝性公の墓の在る所なるを以ての故に、為に此に石を建てて、以て不朽を図らんと欲し、虎をして之を銘ぜしむ。虎辞すれども獲ず。乃ち之が銘を為《つく》る。其の姓名の若《ごと》きは、則ち勒して碣陰に在り。(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  要するに、渡辺久高は閣老となった藩主の抜擢で馬術教授方になったわけで、その馬術教授の弟子たちの数十人のうち十六人が戊辰戦争で戦死した。その死を悼んで、普済寺に碑を建てた、というわけである。  この碑銘を書いた虎三郎は、若いときは別にして、帰藩後はおそらく馬に乗ることはなかったろう。それゆえ、よけいに馬に乗って春野秋郊を走りまわるかれらの姿を羨しくのぞみ見たろう。黒馬と葦毛の軽やかな疾走、という書き振りに、虎三郎の羨望がうかがえる。かれの父親の又兵衛は騎馬隊の指揮をとったこともあったから、じぶんも身体が丈夫だったらという思いは強かった、とおもわれる。  それはともかく、碑銘には、右に引用した部分の前後があって、前の部分は師弟の情愛の厚きをたたえ、その結果また師の門弟たちの死を歎くこと激しきをいっている。その点、まえの「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」と、ずいぶん趣きがちがっている。引いてみよう。 [#ここから1字下げ]  術芸既に同じく、好尚又一なり。先ず覚《さと》る所の師、之を弟に伝うるを楽しみ、未だ能《あた》わざる所の弟、之を師に受くるを悦《よろこ》ぶ。是れ即ち師の弟と、其の情|悪《いずく》んぞ厚からざるを得んや。乃ち尋常の一死一生の際に在りと雖も、思慕の心、自《おのずか》ら已《や》む能わず。況《いわ》んや夫《そ》の患難に遭遇し、身弾丸に斃《たお》れ、骸を寒烟幽草の中に委《まか》せて収むるを得ざる者をや。其の悲悼すべきと為す、亦|如何《いかん》ぞや。 [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで、師弟がその文武の道において、芸術を同じくし好尚を一つとするものだという一般論からはじめ、まず覚った師が後から来る弟子にそれを伝えるのだから、その師弟の情愛は厚くならざるをえない、という。それは尋常の生死のばあいでも変わらないので、いわんや非常の困難に際してはますます厚くならざるをえない。いま師弟は、身は弾丸にたおれ、骸は野山にまぎれてしまうような訣別のしかたをしている。嗚呼、この情愛のふかい師弟がたがいに悲しみ悼むのは当然のことである、と。  このような前段があって、さきの、師弟がその因縁によって、たがいに馬を駆って春野秋郊をめぐる、明るく軽快な場面へとつづくわけである。それがしかし暗転して、戦死者十六人の悲劇になり、次の後段を導き出す。  銘に曰く、危さを見て命を授かる。衆の栄《さかえ》とする所、死者|固《もと》より以て憾《うら》み無かるべし。生者其れ亦以て情を慰《なぐさ》むるに足らんか。明治三年歳庚午に在り。夏、五月。  この結びは、さきの「戊辰刀隊戦没諸士の碣銘」とその趣がほぼ同じである。死者は危を見、命を奉じて、安んじて死んでいったのだ、というほどの意味である。  いずれにしても、虎三郎はこれらの碑銘において戦争での死者の霊をなぐさめつつ、生者にむかって語りかける、という立場をとっている。むろん、碑銘であるから、死者たちの生をきっちりと歴史にきざみつけてやるほうが主である。一方、生者たちに対しては、文武総督としての役割においても、かれ本来の人材育成という思想においても、より後から来るものに教育をほどこす、という領域でかれ自身の「政治」の責任をはたそうとするのである。    国漢学校の創設  虎三郎は大参事に選ばれたあとでも、そのおもなる仕事は文武総督というものだった。これは、柏崎県庁が庚午(明治三年)十一月に虎三郎に「学校|并《ならびに》演武場掛、申付候事」という辞令を発していることでも明らかであろう。  学校并演武場、という名が用いられているのは、明治二年八月の藩治職制の改革で、教育は文武学校というのが総名称となり、その下に国漢学校、洋学校、兵学校、演武場、医学校、小学校、調馬師、珠算教授といった各部があったからである。その総体を司るというほどの意味で、学校并演武場掛という名が与えられたのだ。文武総督といっても同じである。  長岡藩の教育改革は、この後、国漢学校と洋学校を二つの軸としたかたちですすめられるが、これを束ねる位置にいたのが虎三郎である。国漢学校のほうは漢学者で医師の田中春回が虎三郎の片腕になり、明治五年に発足する洋学校のほうは慶応義塾を卒えてきた藤野善蔵が一手にまかされた。田中春回と藤野善蔵は、学問の方向性のちがいもあって、ソリが合わなかったらしいから、かれらを束ねる意味でも虎三郎の存在は大きかったのである。  虎三郎は在京の雄七郎宛の手紙(明治二年十一月八日付)に、「来春漢学校を建候|図《つも》り……」と書いていたが、すでにその前身となる学校は発足していた。これは、長岡藩の藩黌|崇徳館《そうとくかん》を下敷きにしながら、すでに国漢学校と名のり、明治二年五月、四郎丸村の昌福寺において士族の子弟を中心に教育するものであった。この教員は、崇徳館助教であった田中春回をはじめとし、西郷葆、大瀬虎治、田中登、大原蔵太、稲垣※[#「金+虎」]吉、伊知地涵、伊知地元造などである。生徒数は三十名ほどであったらしい。東京で小学校が開設されたのは、明治三年六月のことであるから、長岡藩の教育制度はこれに先立っていたともいえる。これは、敗戦国の長岡藩がその学校の創設によって再建を図ろうとした意思を物語っている。  国漢学校は明治三年六月十五日、阪之上町二十七番地に新築された。学校長は大参事で文武総督の小林虎三郎である。田中春回が筆頭の国漢学訓導師で、生徒取締だった。開校式には、虎三郎の「大学」の講義があった。このときの生徒だった渡辺廉吉(法学博士。伊藤博文をたすけて欽定憲法の制定に参画した)の回想録によれば、学校の概要および当時の状態は次のようだった。 [#ここから1字下げ]   国漢学校の創立  ……国漢学校の教育は崇徳《そうとく》館とは大《おおい》に内容を異にし、国学と漢学を併せ教授すると云う点に頗《すこぶ》る進歩の跡が見える。従来崇徳館の教育は凡《すべ》て漢学で漢土の事のみを教えてあったから、日本の臣民でありながら日本の国体等の事も分らなかったのであるが、国学を併せ教ゆるに至って従来の欠陥を補うこととなった。而して単に国学と云うも仮名交りの文章を読ませるのでもなければ又和文和歌を教ゆるのでもない。矢張り漢文を以て国家の歴史、制度等を学ぶという遣方《やりかた》である。  之と同時に世界の出来事、凡《あら》ゆる科学的の事をも研究させる。日本の歴史、制度の教授に用いた重《おも》なる教科書は大日本史、日本外史、漢学に於ては経書は勿論史類等にて、尚お科学的の方面に於ては漢文で書いた地球説約(世界事情、地理書)、窮理書(哲学、数学、物理学、医学をふくむ全体学)、博物新篇其他技術に関するもの等で、全く教育の方針を一変したものである。  第一の学校長は病翁小林虎三郎サンで、此人は従来学校へは一回も出られなかったが、初めて国漢学校の校長に出られた。小林サンに次で田中春回サン、高野耕造サン等が重《おも》なる先生で、熱心に教授せられた。当時私共は小林サンを神様の如く尊敬し、又田中、高野の両氏とは往々議論もしたが、此氏は宛《あたか》も日月の如く思うていた。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この渡辺廉吉の回想にもあるとおり、国漢学校の教育は旧幕時代の崇徳館のそれとは、決定的に異なっていた。  それは第一に、国漢学校が従来のように儒学・漢学中心でなくなり、国学を新たにとり入れていること。そのために国史を大きく扱おうとしていることである。もちろんその教科書としては、まだ漢文による大日本史や日本外史などしかなかった。このため、虎三郎はみずから『小学国史』(明治六年刊)を編集しはじめるのである。同書については後に詳しくふれるが、皇紀年号が用いられている。  第二に、国学・漢学のみでなく、それまでなら洋学の分野に入る地球説約といった世界事情や地理学、窮理学といった哲学や物理学、そして博物学なども教育科目に入れられたことである。国漢学校といいながら、やはり『万国奇観』を書いた鵜殿春風、その弟で海舟の紹介によって海援隊に入った白峯駿馬、蘭学を学び『泰西|兵餉《へいしよう》一斑』などの翻訳書もある小林虎三郎などを出した長岡藩であってみれば、洋学をその科目にとり入れるのは当然のことであった。虎三郎にとってみても、師象山の「東洋道徳、西洋芸」を一つに合わせることが学問であったのだから、洋学を外すことは考えられない。  虎三郎には、諸葛孔明の画像への「賛」などもあり、これはあえてとりあげる必要もないが、もう一方のヒポクラテスの画像への「賛」のほうを参考までに引用してみよう。ヒポクラテスとは、いうまでもなく、西洋医学の祖とよばれる古代ギリシャの医師である。 [#ここから1字下げ]   彼卜加剌得斯画像賛(ヒポクラテス画像の賛)  天降哲人。西海之頭。方術聿脩。黎庶以休。来学有師。斯道日優。孰謂※[#「(医+殳)/巫」]小。沢被五洲。(天、哲人を西海の頭に降ず。方術を聿脩《いつしゆう》して、黎庶《れいしよ》以て休んず。来り学ぶに師あり。斯道日に優なり。孰《いず》れか|※[#「(医+殳)/巫」]《い》を小なりと謂う。沢、五洲に被る。) [#ここで字下げ終わり]  改めて解説するまでもなく虎三郎が西洋医学の祖ヒポクラテスを尊崇し、かれによって庶民は安心することができた、その恩恵は全世界に及んでいる、と賛えていることがわかる。こういった短い文章だけみても、かれの洋学に対する関心と信頼のほどがわかるはずである。  それはともかく、渡辺廉吉の回想には、当時の長岡の人びとに(子どもまでをふくめて)小林虎三郎に対する尊敬の心が厚かったさまが語られていた。虎三郎はその国漢学校の校長となったばかりか、その開校式に出席して講義している。渡辺の回想のつづき。 [#ここから1字下げ]   開校式の景況  ……国漢学校の始めに開校式の様な事があった。時の藩知事即ち殿様が御臨席になって、小林虎三郎サンが大学の講義をされた。殿様から二三|間《げん》の前に藩の重立《おもだち》初め綺羅星の如く居並ぶ処に、髯ムシャムシャの小林サンが裃《かみしも》を着けて、荘厳なる御前講義を試みられたのは、如何にも偉観を極めたもので、今猶お眼前に髣髴《ほうふつ》たるの想いがする。 [#ここで字下げ終わり]  虎三郎の講義が「大学」で、あたかも御前講義であったのは、いかにも大時代という感じであるが、永いこと病臥し、謹慎の身でもあった虎三郎とすれば、晴れ舞台だったといえよう。    「政治」としての教育  国漢学校の創設は虎三郎にとって、かつての『興学私議』の理論を実践にうつしたもの、とみることもできる。しかし、それだけではなくて、虎三郎は学校創設による人材育成こそ敗戦国の長岡藩を復興させ、ひいてはネーションとしての日本を根底から建設する政治の最重要事だ、と捉えていたのだ。  その考えをストレートに表明した文章は、虎三郎にはない。しかし、明治新政府の学政、教育方針、ならびにその実態を批判するというかたちでの、間接的な表明なら、ある。明治五年十月十日付の田中春回宛の手紙が、これである。  すなわち、虎三郎はこの書簡で田中に病気見舞いのお礼をいったあと、次のようにつづけている。 [#ここから1字下げ]  ……過日学制も御|頒告《はんこく》にあいなり、此間《このかん》小学教則|抔《など》も出申し候。方今少しも識見これあり候者は、|富強の《ヽヽヽ》本《もと》|ただ人民の知識を開く外なし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という議論にて、朝廷にても専ら此に御注意ござ候様子に相見え候ところ、文部省のこと規模|固《もとよ》り大ならざるに非ず。節目は余り挙りもうさず。既に昨秋、老拙出京の頃より小学は総て国文の書を以て西洋の学科を教えられ候御趣向ともうす事にて、そのご編修寮設けられ、小学にて用うべき書類編纂とうけたまわり候わば、おいおい然るべき書籍も出来、発蒙(啓蒙)の功効も顕れもうすべきとあい考えおり候処、豈料《あにはから》んや、多分の財を費し一年弱の光陰を送りて、是ぞともうす程の書籍は一部も出来もうさず。今般の小学教則には多分福沢(諭吉)等の、元来学校に用ゆる積りにも無き書類を以て暫く填《うず》めこれあり候ぐらいの事。徒《いたずら》に書生の嘲を醸し、遺憾も少なからぬ次第にござ候。  されば只今の処にては、文部省は海内の文権を握ると申すものの、実は小学校の整頓も出来ざる形勢にござ候。|小学は貴賤賢愚の別なく皆入るべき所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、この一件処分よろしきを得ず候ては、他皆如何とも致し難《がたか》るべし。成る丈《たけ》早く基礎の立ち候よう致し度しと、かげながら祈りおり候ことにござ候。……(傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで重要なことをいくつかいっている。まず、教育とは何か、ということだが、国を富ませ強くするもとは「人民の知識を開く」ことだ、という。これはすでに『興学私議』にも強調されていた思想である。  ところが、新政府にあってもこの啓蒙という思想は注意されているはずであるにもかかわらず、その実践の成果はあがっていない。じぶんが上京したころから、文部省はすでにヨーロッパの原書ではなく国文によって「西洋の学科」を教えようというふうに考えて、金もつかい一年余りの時間もつかったのに、小学校用の教科書はまだ一部も出来ていないというではないか。せいぜいが福沢諭吉の本を代用にしているくらいである。だが、福沢の本はもともと小学校用のものでなく、書生の議論用のものだ。小学校は「貴賤賢愚の別なく皆入るべき所」であり(中等の国漢学校などでも町人の子弟が入れるようになっている)、これにまともな教科書がないようではダメだ。文部省は「海内の文権を握る」とはいうものの、小学校の整備さえできていないではないか、というのである。  こういった虎三郎の考えは、国漢学校創設のさいの片腕だった田中春回には着実に伝わっていた、とおもわれる。それゆえ、田中はその創設にさいして『国漢学校制度私議』という文章をあらわしたのだ。これは、そのタイトルからしても虎三郎の『興学私議』を連想させるものだが、教育を政治の中心にすえるという思想それじたいにおいても虎三郎ゆずりのものだった。 『国漢学校制度私議』には、次のように書かれている。 [#ここから1字下げ]  学校は政府の根本なり。従来の弊習を一洗し、学校を経て人材を教育し、人材を以て諸官に登揚(用)すべきこと。  (さもないと?)国家の政典は自国家の旧制にあり、学士優生は生徒に文字章句を談ずる者の称となる。政典は自政典、学校は自学校として虚説、陽尊(尊敬しているふり)、鶏肋《けいろく》(にわとりのあばら骨。たいして役に立たないが捨てるには惜しいものの意)に属す。或は漢籍|未疏《みそ》(意味不明なもの)を反覆し、或は故事小説を渉猟する事とするのみ。この才幹、以て要務に任ずるに足らず。身材以て武技を煉《ね》るに足らず。怯懦《きようだ》虚飾の洌藪《れつそう》(すごいヤブ)となるに似たり。  これを一変するには学問政事を一と為し、学校政府相資け、字詰文章は句読師、訓導師の任に委し、剛直果断、事理に誼煉《ぎれん》(吟味)し、所謂《いわゆる》、儒生の風習に染ざる者を精選し、学校の選挙監督を主《つかさど》らしめ、及び一技一能に通ずるものも悉《ことごと》く網羅して学局中に備え、互に琢磨相資して、|専ら実材を生育し《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|以て国家の実用に備する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を以て急務とするに如《し》くはなし。百工の小技必学であり、後に其の事に従う。況や国家の政に従う者、予め其道を学ばざるべからず、これを学ぶ処を学校と云う。(傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  要するに、学問はおのれの修養、教養のためになすのではなく、国家有用の人材を育成することであり、これが学校の任務だ、という実学思想である。そして、その人材を登用することによって政府は国家の旧制、弊習を改めてゆくことができるのだ、という開明思想もここにはある。  この「要務に任ずるに足」りない「才幹」の道は学問の道にあらず、とでもいった物言いは、在野の思想家たらんとするわたしにとっては、ある部分で耳に痛い。しかし同時に、いま要務に耐えるからというのは、たんにいま有用ということにすぎない、ともいえる。思想(および学問)は現在ただいまの用を足らす政治と離れてはじめて思想たりうる、といいたい気もする。そしておそらく、河井継之助からは「腐儒」「腐れ学者」とみなされたかもしれない小林虎三郎もまた、みずから実学といいつつ、その実学は今日ただいまの時点から見ての謂いではなかったろうという気がする。  もっとも、田中春回もそのことはおよそ了解していたはずで、その意味で当時の実学の最たる洋学、医学を志すものも、国家とは何か、国家の政とは何か、それらにとって「有用」とは何かを学ばねばならない、と考えたのだ。『国漢学校制度私議』に、いう。 [#ここから1字下げ]  洋学校、医学校は別段御建築これあるまでは、暫く国漢学校中に於て、一局を分《わかつ》て講習せしむべし。  医家洋学家も国漢学の大意四|子《ママ》六経等までは必ず了解すべし。又国漢学の生徒、事理考窮のため洋学局への問合せ出入勝手次第、漢土西洋の学は皇学の羽翼たるの大体を弁知し、必ず互にあい扶《たす》けて、あい軌《き》する(束縛する)の弊なきを要す。 [#ここで字下げ終わり]  こういった田中春回の学校論に対して、稲川さんの「田中春回の学問の行方」は、「洋学の必要を説きながらも国漢学にこだわっている」という批評を下しているが、必ずしもそうはいえない。なぜなら田中は「漢土西洋の学」という表現で虎三郎や象山のいっていた「芸」を考えているからである。「道」に対する「芸」、「東洋道徳」に対する「西洋芸」である。  そうだとすれば、田中春回が「こだわってい」たのは、学校とは究極においては「其|道《ヽ》を学」ぶところだ、というものだったろう。国漢学校の開校式において小林虎三郎が「大学」を講義したのも、それが「道」に関わっているという確信からだったはずである。技芸を学ばせるところの学校ではなく、道を学ばせ、それによって人材教育を行い、国家の政にたずさわる有用な人物をつくる。それゆえに、学校は「政府の根本」であり、教育は国家を安きに導く、と考えたのである。  敗戦国の長岡藩の復興も、この学校づくりから始められねばならない。これが文武総督虎三郎の思想であり、その片腕となった田中春回の理解であった。 [#改ページ]   第十一章 後から来るものへ    文武総督として  虎三郎が文武総督、ついで大参事として敗戦国長岡の「政治」にたずさわって、まず直面したのが、藩の財政難であった。かれは学校創設による人材育成こそ敗戦国の復興にとって肝要だ、と考えていたが、そのための資金もないのである。  長岡藩はすでに述べたように、七万四千石(実質十万石)から二万四千石へと減封されていた。そのため、明治二年十一月八日付の雄七郎宛書簡でもふれていたように、藩には文教・武備・政治のための費用はもちろん、「公廨《こうかい》費用」つまり役所運営の費用さえ「甚だ不足」してしまっている状態である。  このため、虎三郎は藩内に王政一新を諭告して人心の統一をはかる一方で、朝廷に対しては二万四千石では「公廨費用」さえ捻出できない、なんとかしてくれ、と訴えでるのだ。虎三郎の『文書草案』には、(明治二年)九月付の「従五位様御歎願書」という文書があって、これは文武総督にあげられたばかりの虎三郎が藩主牧野忠毅(第十三代。忠恭の第四子で、明治元年十二月、十歳のとき家督相続)の名で、次のように嘆願したものである。  まず、藩の重役のものどもに「不心得」があって、王師に抗したてまつった「大罪」にもかかわらず、「至仁の思召」をもって家名を立て、版籍奉還後に二万四千石を「下賜」され、「知藩事」さえ仰せつけ下さった。そればかりでなく、藩士一同を「朝臣」に加えても下さった。そう、朝廷に感謝の意を申し述べる。  そして、そういった朝廷の「御趣意」にしたがうべく、われ(ら)も「政教」両面においてつとめ、「管内の民」にも「洽《あまね》く王化に浴」させるべく念じている、と。  ただ——と、ここで文意が一転する。 [#ここから1字下げ]  当藩の支配地当時(いま)僅かに二万四千石にござ候。民政の儀はさまで繁擾にもござなく候えども、士族の者若干、卒族の者若干にござ候ゆえ、この両族の事務はすこぶる多端にござ候て、したがって兵隊学校等の職員も高に拠らず不相応に多数にあいなり、右に準じ公廨費用もなるたけ節減つかまつり候えども、あまり節減つかまつり候ては、政教二つながら如何とも可ならずつかまつり候に付き、是また自然多分にあいなり、別紙に図り立て候ところ、固《もとよ》り是にて十分|抔《など》と申すにはこれなく、惟《ただ》かろうじて政教を施し得候までの見図りをもって算定つかまつり候儀にござ候えども、既に支配地の歳入も残り少く、これに引当て候次第その余米をもって、士卒両族に給与つかまつり候えば、一人一俵にも当りもうさず。既にかくの如くにござ候えば、人びと凍餒《とうだい》(飢えと寒さ)を救うにいとまあらず。たとい学校等設置候ても、更に勉励・研磨つかまつるべきようもござなく、したがって向後(これから)政事なにをもって脩挙つかまつるべき哉《や》。武備なにをもって整飾つかまつるべき候哉。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  とどのつまり——われ(ら)は政教二つともにつとめているが、二万四千石ではどうにも足りない。役所運営の費用も節減しているが、あまり節減しては何もできなくなってしまう。寒さと飢えの冬にむかうにさいして、もはや士族卒族の一人に対して一俵あての米しか残っていない窮状である。(来年には学校をつくるつもりだが)これではどのようにしても勉励・研磨できないし、また武備も整えることができない、というのである。  虎三郎は、この「従五位様御歎願書」と同時に「執政参政より歎願書」も執筆していて、それには藩の歳入や人口を細かく算定し書き出している。藩主が一々そんな細かい計算などするわけはないから、そういった実務は家臣にまかせるというわけだろう。ともかく、最終的な嘆願は、次のようになっている。 [#ここから1字下げ]  罪戻の余をもって、御仁恵に甘え、歎願等もうしあげたてまつり候も呉々《くれぐれ》恐れ入りたてまつり候えども、仰ぎ願わくは、格外の御処置をもって、公廨費用|并《ならび》に士卒両族の者どもの俸米等、別紙図り立ての通り、御給与下し置かれたく、左候わば、不行き届きながら、勉励・鼓舞、士族卒族の者をして各その職分を尽さしめ、管内の民をして各その所を得候よう処置つかまつり、天恩の万一をも報い得べくたてまつり、この段|昧死《まいし》、懇願たてまつり候。 [#ここで字下げ終わり]  ——役所の運営費用と、士卒両族の俸米。これをぜひ政府のほうで支給してほしい、というのである。  虎三郎はここで、もしそうしてくれないと不測の事態がおきるとか、役所の運営をやめるとか、ブラフ(おどし)をおこなっているわけではない。しかし、細かい計算書を添え、また「執政参政より歎願書」も同時に提出しての藩主の嘆願は、新政府が二万四千石へと減封したことを盾にとってのものであったから、なかなかの迫力をもっていたとおもわれる。  もっとも、新政府はこういった嘆願に応える手段をもたなかった。維新政府の成立に功のあったものに恩賞を与え、新政府を建設するほうが急務だったからである。  そのため、藩では士卒に「他郷への移住」や「蝦地(北海道)の開拓」への従事、あるいは「帰農帰商」の奨励といった対応の処置をとるのである。そして、もしそういったことができない士卒は、「薄謝」でもがまんし、みずから「活計を立」ててほしい、と布告(明治三年一月六日付)するのだ。藩のこういう布告一つをとってみても、この当時の窮状が察せられるだろう。  ただ、そういった藩の財政難にもかかわらず、虎三郎が「学校等設置」のことについて考えはじめていたことが、右の嘆願書からは窺える。かれはすでに三島億二郎とはかって、四郎丸村の昌福寺において国漢学校の前身を発足させていた。しかし、それをかつての崇徳館のような藩の子弟だけの学校とせずに、広く人民に開くためにはかなり大きな資金が必要とされた。その学校建設費を新政府にむかって出してくれ、とは虎三郎はいっていないのである。文武総督としての虎三郎の見識であり、気概であるといってもいい。    『米百俵』のエピソード  明治三年四月末か五月のはじめころ、それは国漢学校の創立(六月十五日)に先立つ一カ月あまりまえのことであるが、長岡支藩だった三根山《みねやま》藩より本藩の窮状をみかねて、百俵の米を送ってきた。この米をもとでに、文武総督の虎三郎が国漢学校をたてて敗戦国を復興させる根幹とした、というのが、山本有三の『米百俵』の大すじだった。  ところが、山本有三はその戯曲を収めた昭和十八年刊の『米百俵』の「そえがき」(昭和十八年四月二十一日記)で、面白いことをいっている。虎三郎がこの米百俵で国漢学校を立てたというエピソードは、山本が戯曲にかくまではほとんど採りあげられたことがなかった、というのだ。 [#ここから1字下げ]  ……今まで出ている病翁の短い伝記の類には、ほとんどこのことが載っていないのです。前にもいった通り「求志洞遺稿」のなかの略伝は、信用のおける伝記と思っておりますが、どういうものか、そのなかには、国漢学校設立のいきさつについては、何も書いてありません。また、そのあとで出た有名な「北越詩話」のなかにも「小林虎」のくだりは、ほかの人の伝にくらべて、かなり丁寧であるにもかかわらず、このことについては、一行も書いてありません。(あとで見たものではありますが、「幕末血涙史」の著者も、この事実を取りあつかっていませんし、「旧藩と新人物」の著者、黒頭巾《くろずきん》氏も、虎三郎の名をたびたびあげておりながら、この問題には、ふれておりません。)病翁の伝を書くからには、この大事なことがらをのがすという法はないのに、甥にあたる小金井(権三郎)氏も、同じ国の人である「北越詩話」の著者(坂口五峰。地方政治家で、坂口安吾の父でもある)も、この話を全然とりあげていないということは、すくなからず私を迷わせました。それで、小金井博士(良精)をお訪ねして、まっさきにこのことをお聞きしたのですが、博士もそういう話は聞いていないといわれるのです。(中略)しかし、長岡の漢詩人、高橋翠村翁の「病翁小林先生伝」には、二三行ではありますけれども、はっきり、この事実をあげておられるので、どうも私には、根も葉もないつくり話とも思えませんでした。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  山本有三がいっているように、米百俵をめぐるエピソードは、『求志洞遺稿』の略伝(小金井権三郎筆)にも、『北越詩話』にも、『幕末血涙史』にも、『旧藩と新人物』にもでてこない。ただ、高橋翠村の「病翁小林先生伝」にのみ、次のようにでてくるのだ。前後をすこし絡めて、引いてみる。 [#ここから1字下げ]  翌年(明治二年)、朝廷特旨あり、侯(忠訓)の弟忠毅君を以て、先封三分の一を襲うて、長岡藩知事と為す。侯|乃《すなわ》ち先生及び川島心億(川島億二郎)を抜きて藩政に参せしむ。先生|疾《やまい》を力《つと》めて学政刑法の事を総裁す。時戦乱の余を承け、藩士窮乏甚し、支封三根山藩主(牧野忠泰)の之を|※[#「口+言」]《とぶら》い、米若干|斛《こく》を饋《おく》るに、藩士多くは分ち与えて以て飢を救わんことを望む。先生|可《き》かず。必ず之を資として以て学を立てんと欲す。衆|嗷嗷《ごうごう》として迫り詰りて曰く、「吾輩食を索《もと》むるの暇あらず、焉んぞ学校を用いんや」と。先生色を正して曰く、「諸子|但《ただ》自ら話すること能わず。吾故に学を興して以て樹立する所《ところ》有らしめんと欲するのみ」と。衆敢て復《また》言わず。乃ち首として国漢学校を立て、次いで洋学校、医学校に及ぶ。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここにある虎三郎の「諸子但自ら話すること能わず。吾故に学を興して……」という言葉を、山本有三は「食えない」から「学校を立てる」のだ、というセリフに仕立てるわけである。そういった文学上の仮構(フィクション)についてはともかく、この高橋翠村の伝記には短いながらも、たしかに国漢学校創立のエピソードがでてきている。  しかも、山本有三はそのエピソードの確認のために数々の書類をあたって、次のような資料を見つけ出した。それは明治三年五月七日に長岡藩政庁「触書」で、ここには、三根山藩から送られてきた米百俵を「文武両場」の資にあてる、と記されてあった。 [#ここから1字下げ]  三根山藩士族より当藩士族へ、此節の見舞として米百俵《ヽヽヽ》贈与これあり。しかるところ士族給与米の儀は、三月中より面扶持に候えば、辛くも目今《もつこん》(現在)の凌《しのは》ぎあいなり候筈に付き、右百俵を以て、文武両場必要の書籍器械の費に充て候えば、闔藩《こうはん》士族両道稽古の一筋にもあいなり、即ち三根山士族の厚意にも戻《もと》らざる儀と評決いたし、その段取り計り候あいだ、この旨心得をなし、一統へ布告あるべく候也。(読み、傍点、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  一読してみればわかるように、三根山藩から送られてきた米百俵は、当面みんな何とか生計は立つだろうから、「文武両場」に必要とされる「書籍器械の費」にあてられる。そして、それが三根山藩士の厚意にかなう方法だと「評決」した、と藩庁は布告しているのだ。  改めていうまでもなく、このときの大参事が三島億二郎、小林虎三郎(文武総督)、権大参事が梛野《なぎの》嘉兵衛(虎三郎と河井継之助の縁戚)ら、軍務主事が森源三(河井継之助家の継承者で、源三の長男広は有島武郎の『或る女』にでてくる木村のモデルである)、学校主事が秋山左内。このうち、学校創設にもっとも熱心だったのが『興学私議』の虎三郎であった。三島億二郎はその虎三郎の思想を政治的実現に導いた人物といえるだろう。  山本有三はふれていないが、右の「触書」が出された翌五月八日から書きはじめられた三島の『まんとこ路|日こと《ひごと》の記』には、国漢学校のこと、そして米百俵の代金がどのように「文武両場」の資として使われたかが、かなり詳しく記されている。 [#ここから1字下げ]  五月八日 晴 朝五十五度(華氏) 梛野より洋学校取立の儀、建議する。  同二十二日 知藩事家へ三根山知事家より御到来米代金の内百両、文武入用に御出し下され候分の配当。 二十両国漢。二十両兵。二十両武場。二十両医。二十両洋。  同二十八日 松五郎に二百両遣す。三根山米代金にて書籍の料となす也。外百両置くべく、是は武場道具の料也。  六月二十六日 朝七十五度 晴 按察府へ弁官よりは七月分借渡の達しあり。民部・大蔵よりは未だなし。当月中には必ずあらんと云。  右森源三、水原より帰藩にて承知する也。 国漢学校訓導司、申し付けらるる也 鬼頭平四郎 願の通、国漢学校訓導司、免ぜらるる也 大瀬虎治 数学修業両三年、東京行願の通 新井恭蔵 [#ここで字下げ終わり]  これをみると、山本有三が「そえがき」でしていた推測はあまり正確でなかったことがわかる。かれは、三根山藩から送られてきた米百俵の代金はおよそ二百五十両だったろう、殿さまはそのうち百両しかださなかったのだろう、と推測していたのだ。  たしかに、その代金のうち百両が「文武入用」として出され、国漢学校へ二十両、兵学校へ二十両、武芸場へ二十両、医学校へ二十両、洋学校へ二十両、というふうに割りふられている。しかし、三島億二郎がその日記に書いていることから判明するように、その米百両の代金の残り二百両は、「書籍の料」として、松五郎(藩御用達の書籍商か?)に渡されているのだ。それのみならず、藩としては「武場道具の料」として別に百両を用意してもいる。つまり、「文武両場」の資としては、つごう四百両が費されているのだ。山本有三の推測するように米百俵の代金が二百五十両ほどであるなら、それは「書籍の料」と合わせた三百両ですべて使い果たされてしまったことになる。  そういった細部の費用についてはともかく、長岡藩が国漢学校の創設などにあたって、かなり多くの資金を費したことはまちがいない。それはひとえに、虎三郎の思想(とそれを支えた三島らの政治力)によるものであった。    「富強の本」は「人民の知識を開く」こと  国漢学校はのちに新政府の学制に組み入れられ、それも柏崎県長岡分黌といった形になって、阪之上小学校、長岡中学、洋学校、医学校などに分岐していくが、はじめは藩黌の崇徳館にかわる、それも士族ばかりでなく町人も農民も入れる、開かれた学校として創立された。これは、重ねていうが、虎三郎の思想によるものであった。かれの田中春回に宛てた手紙(引用済み)には「小学は貴賤賢愚の別なく皆入るべき所」とあったし、三島億二郎に宛てた手紙には「兎角諸旧藩の風習ニて、平民教育ニ心を用いず、士族|而已《のみ》ニ教育費用を掛ケ……」とあった。  それは、虎三郎の思想がもともと、「富強の本《もと》ただ人民の知識を開く外なし」というものであり、そのためにはまず小学校の教育制度改革から始めなければならない、と考えていたことを示している。  実際、かれは藩の資金で建てた国漢学校に、町村の子弟の入学を許可している。志願者は、町ならば町代の印、村ならば庄屋の印をもらって、左のような願書を出せば、四書五経の素読が終わっているかぎり簡単に入学が許可された、という。  国漢学校への入学は、このようにかなり容易に認められたから、最初から多くの志願者がでた模様である。明治三年に阪之上に新築された校舎の平面図をみると、教室数が六つもある、なかなかの規模だった。平屋建てで、たたみ敷きである。  後年、長岡市阪之上尋常小学校が出した『創立六十周年記念号』雑誌(昭和八年)に掲載され、山本有三が「そえがき」に転載した、その国漢学校平面図を、次頁に写してみよう。  この教員室には、すでに四郎丸村の昌福寺の時点で、田中春回をはじめとして七人ほどの教師がいたわけだから、その部屋の大きさ、そして学校全体の規模というものも、およそ想像がつくだろう。  しかも、虎三郎はその学校を、施設(建物)とか資金のレベルでよりも、教師や教育の内容という観点においてより問題にしていたようである。たとえば、『求志洞遺稿』に「土屋生に与う」という手紙がおさめられている。なかに『徳国《ドイツ》学校論略』(後述)のことがふれられているから、明治七年のものだろう。土屋生というのは詳しくはわからないが、おそらく元藩士で、このころ小学校教師になっていた人物である。この手紙にいう。 [#ここから1字下げ]  向《さき》に小林生来り、足下の健寧にして、某村の小黌に在りて生徒を教督するを詳らかにするを得たり。はなはだ慰み、はなはだ慰む。前年来、屡《しばしば》かたじけなくも佳菓を恵まる。珍に感じ、珍に感ず。乃ちまさに書を作って謝すべきに、病懶にして能わず。慙悚《ざんしゆ》(はじ怖れること)浅きに匪《あら》ず、罪とすることなくんば幸いとなす。  茲に好便を得て、此の書を裁し、併せて徳国学校論略一部を呈す。聊《いささ》か以て報答の意を寓するのみ。若し熟読して教事に補うあらば、何の幸か焉《ここ》に加えん。  疾を力《つと》めて翰を秉《と》り、一々なる能わず。暑威ますます酷し。千万多愛せよ。草々。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここで虎三郎は、何度か「佳菓を恵ま」れつつも、病気がちかつ懶気のため礼状をだすべきにもかかわらず、そうできなかったことを詫びている。しかし、わたしはそういった付き合いの実態よりも、虎三郎がこの土屋という人物に、かれが「某村の小黌(小学校)に在りて生徒を教督(教育・監督)する」仕事についていることをきいて喜び、ごくろう、といっていることに心惹かれる。虎三郎は教育こそ現在ただ今のでなく、将来的な意味で国家の基を築くと考えていたのであり、土屋がそれを某村の小学校で実践していることに自身の喜びを見出していたのである。  そして、それだからこそ、虎三郎は土屋を激励する目的で、出版したばかりの『徳国学校論略』一部をかれに贈呈したのである。「若し熟読して教事に補うあらば……」というのは、たんなる形式上の文言ではなくて、虎三郎の期待のほどを物語っているのだ。 『徳国学校論略』は、日本にドイツの学制を紹介した、ほとんど初めての文献といっていい。かれはヨーロッパにおける新興国家ドイツ(プロシャ)の発展の秘密を、その学校制度にある、とみていた。これが、かれの同書を翻訳・略述した直接の動機にほかならない。  虎三郎の手になる「翻刊徳国学校論略の序」に、こうある。  ——オランダの学制、フランスの学制についての書はすでに翻訳・刊行された。こんどはドイツの学制書である。ところが、このドイツ(プロシャ)の最近の実力たるや、東にオーストリア、南にフランスを破るといった具合で、強国をもって鳴るイギリス、ロシアともいまや畏れている。この力の根源はなににあるかというに、ドイツが学校をさかんにおこし、教育を重視したからだ、と。  ここには虎三郎がドイツの学制に注目した理由が、直截明快に書かれている。なお、かれはこの序文に、ドイツと対照的に弱いのが、わがアジアの老大国たる中国だ、ともいっている。  すなわち、中国は人口四億——明治のころは、「支那《しな》にゃ四億《しおく》の民がある」と謳われた——を数えるほどで、全世界の三分の一にあたるのに、ドイツと較べるとはなはだ弱い。アヘン戦争などでも明らかになったように、欧米帝国主義列強(「外侮」)が猛威のふるうままになっている。これは、ほかでもない、欧米が「学を励み業を勉め」ているのに、中国はそうしていないからだ、と。    民の強弱  かくて、ドイツ(プロシャ)と中国(清国)の強弱の比較などを頭におきながら、虎三郎は序文の冒頭を次のように書いている。論旨は明快で、文は力強い。虎三郎の文章のなかでも印象に強く残るうちの、一つである。 [#ここから1字下げ]  地民を生じ、民|聚《あつま》りて一大団を為す。是れを国と謂う。民乃ち国の体なり。故に民強ければ則ち国強く、民弱ければ則ち国弱し。国の強弱は民の強弱に係る。何をか民の強と謂い、何をか民の弱と謂う。其の能く学を励み業を勉め、勇あって方を知る者、之を強と謂う。其の能く然らざる者は、則ち弱なるのみ。民にして果して能く学を励み業を勉め、勇あって方を知る。其の数、寡しと雖《いえど》も国以て強たるを得。若し能く然らずんば、則ち其の数多しと雖も、国弱を免かれず。 [#ここで字下げ終わり]  これを読むと、虎三郎がたんに国家の強さを軍事力や産業の近代化によって計るなどという考えをとっていないことが明らかである。国家の強弱は民の強弱によって決まる、というのである。  では、民の強弱は何によって決まるのか。民がよく学問にはげみ、それぞれの業につとめ、国民的元気があって、しかも方略や方法に頭が働く、その度合によって決まる、というのだ。  こういう民がいれば、人口は少なくても(プロシャのように)その国は強くなるし、いなければ、ただ人口が多いからといっても(清国のように)その国は弱くなる。——そう、虎三郎は説くのである。プロシャ体制は国家主義的だ、というのが、こんにちのわたしたちの常識であるが、虎三郎の解釈はそういった常識を修正するだけの論理をかたちづくっている。  その論理の根底には、虎三郎が『孟子』などによって展開された、民を第一とし、社稷(国家)これに次ぎ、君を軽しとす、といった思想を当然のものとして身につけていたことが窺えるだろう。虎三郎は吉田松陰の友人であったが、松陰が後のいわゆる「皇学者流の国体論」(福沢諭吉の評言)と無縁であったように、国の強弱の基準をその独立自存の民度によって計り、国体論をもふくめたイデオロギーによって計ったりはしないのである。  そして、その国民の民度を高めることこそが学校の役割であり、教育の目的だ、というのである。これは、民が「国の体なり」という虎三郎の思想にもとづいて導きだされてくる教育についての考えかたにほかならない。あるいはまた、「政治」としての教育、という発想もここに由来している。  虎三郎は民の強弱にちがいがあるのは、その教育の結果であって、民族性にちがいがあるわけではない、ともいう。「万世一系」とか、「世界に冠たる」とか、「金甌《きんおう》無欠」とか、皇学者流の民族を飾る言葉とは無縁なのである。山本有三が小金井良精に虎三郎は「尊皇心」の持主だったか、とたずねたところ、小金井が「そんなことはなかったようです」と答えたのも、こういった事実をふまえてのことにちがいない。  作家の星新一が書いた『祖父・小金井良精の記』(河出書房新社、一九七四年刊)によれば、この『徳国学校論略』の翻訳・略述についてはドイツ語のできる小金井良精が手助けをした(後述)ということである。良精は伯父虎三郎のそういった考えかたはおおよそ理解していたであろうし、「序」のなかの次の文章も読んでいたであろう。 [#ここから1字下げ]  夫《そ》れ以《おも》うに、支那の民、欧米各国の民と、種族同じからずと雖も、其の万物の霊たるは、則ち一なり。而して強弱の天淵懸絶、此の如き者は、抑々《そもそも》何ぞや。亦|惟《おもう》に欧米各国|民《たみ》を教うるの具と其の法と備わり且つ悉《つく》さざる莫《な》くして、支那は則ち然《しか》能わざるに由るのみ。然れば則ち今の時に方《あた》りて、其の民を啓迪《けいてき》(教え導く)し、弱を変じて強と為し、以て其の国を強うせんと欲する者は、欧米各国の為す所に倣わずして、又何の求むる所ぞ。  曩者《さき》に、文部の学制を定むる、其の課目次第皆多く彼に取るは正に此れを以てのみ。顧うに彼の各国民を教うるの具、皆同じからざる靡《な》しと雖も、其の法に至っては則ち未だ小異なしとせず。蓋し国風民俗、彼此一に匪《あら》ず、勢宜しく然るべきなり。而して今我之に倣わんと欲す。学、官私を論ぜず、科、高下に拘らず、凡そ教育を以て職と為す者、苟くも、彼の各国学務の書を取りて、一一《いちいち》参照し、其の同異を詳らかにし、我の今日適する者を択んで、之を用うるに非ずんば、悪《いず》くんぞ施す所の可に当り、以て其の功を奏するを得んや。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  ——中国も欧米も(むろんドイツも)種族こそちがえ、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは、人民に対する教育・啓蒙の差なのである。だから、国を強くしようとするものは、すべからく欧米各国に学び習わなければならない、と。  ここには、虎三郎の民族と歴史に対するこだわりのない考えかたがよくでている。また、だから日本も欧米にならったその教育・啓蒙によって、民智をひらき国を強くしなければならない、という時務論が生みだされてくるのである。  虎三郎はまた、こうもいっている。——日本でも文部省が欧米にならった学制、学科を取り入れたのは、このためである。しかし欧米と一口にいっても、それぞれ、その国風民俗がちがうから、教育手段も内容も少しずつ異なっている。だから、官私を問わず、学科の高下を問わず、教育にたずさわるものは、欧米(オランダ、フランス、そしてドイツと)の学制・学問の書をいちいち参照して、「我の今日適する者を択んで」これを採用すべきだ、と。  そうだとすれば、虎三郎が某村の小学校教師となった土屋にこの『徳国学校論略』を贈呈したのは、たんに「佳菓」の返礼などというものではなかった。それは、かれが土屋もまた「教育を以て職と為す者」と考え、その「教事に補う」手だてとしてほしい、と考えていたからである。ましてや、土屋が教職を奉じているのは、小学校、つまり後から来るものの最たる者を教育・啓蒙する場ではないか。    小金井良精のこと  虎三郎が『徳国学校論略』を出版したのは、明治七年のことである。このとき、後の解剖学の権威で、甥の小金井良精がドイツ語の翻訳・略述の手助けをした、といわれている。しかし、良精は安政五年(一八五八)一月の生まれであるから、このとき数えで十七歳、満では十六歳にすぎない。  満十六歳で、長岡育ちの良精に、ドイツ語ができたろうかという疑問をとくためにも、また明治初年代の良精と虎三郎・雄七郎との関係に説き及ぶためにも、戊辰戦争前後の小金井良精のことについて若干ふれておかねばならない。  小金井良精(幼名は銓之助《せんのすけ》)は、星新一の『祖父・小金井良精の記』によれば、戊辰戦争よりまえに藩黌の崇徳館に入って、学問をはじめていた。また、それ以前に、祖母(帝《てい》)から『大学』を学び、神戸万右衛門に読書、安田孫八郎に書を習ってもいる。  祖母(帝)というのは、小金井儀兵衛良和の妻である。小金井良和はもともと次席家老の山本家の次男で、山本家を継いだ長男に結局子が生まれなかったために、四十一歳で再び実家に戻り、山本勘右衛門となってしまった。その養子が二十四歳で戦死した山本帯刀である。良和(=山本勘右衛門)が実家に戻ったとき、妻の帝はそのまま小金井家にとどまり、小笠原家の次男を養子にむかえて、小金井儀兵衛良達としたわけだ。良精はその父良達と母ゆきとの次男である。  さて戊辰戦争後、長岡にもどってきたゆき母子は、家屋が焼かれてしまったため、まず町家に仮住まいし、翌年夏、夫の儀兵衛良達とともに今朝白町に移った。そして、その年の冬、良精は数え十三歳で秋田求馬(花輪求馬。当時参政)の養子となっている。何人かいる武家の次男が他家の養子になるのは、当時とすればありふれたことで、異とするに足りない。なお、この年、四男の栖吉が出生後まもなく死亡するという事件がおきている。母親のゆきが妊娠中に東北地方を流浪し、戦後の食糧事情も悪かったためだろう。  秋田家の養子となった良精は、翌明治三年七月、養父母とともに上京し、永田町の藩主・牧野家の邸内に住んだ。しかし、二カ月後には小松彰の食客になり、十月には大学南校で英語を学ぶことになった。なお、良精が小松彰の食客となったのには虎三郎の口ぞえがあり、大学南校(旧幕時代の洋書調所)で英語を学ぶことについては雄七郎の指示があったらしい。  小松彰というのは、星新一が大植四郎編『明治過去帳』によって書いているところによれば、信州松本藩医の長男で、佐久間象山の弟子である。元治元年には赦免となった象山に従って京へのぼり、明治二年には倉敷県判事。この明治三年には、二十九歳で大学大丞である。のち生野県知事、豊岡県令へと出世してゆく。……  ところで、良精は明治五年三月、事情不明ながら、雄七郎のすすめで入ったこの大学南校を退学してしまう。良精の記録によれば、次のような記述になっている。(ちなみに星新一が祖父良精の記録・日記を所有しているのは、かれの母の星せいが良精の次女だからである。父の星|一《はじめ》——星製薬の創立者——が事業に東奔西走していたため、星の一家は小金井家に同居しており、良精は孫の新一を手もとにおいて可愛がった。) [#ここから1字下げ]  明治五年 この年より栄雄(の名)をやめ、秀精の名を用う。三月四日、南校勤惰局より、保証人(小松精一君。彰の弟)に相談したきことあり、帰宅せよと命ぜられる。そのため、さっそく退校願を出す。六月ごろより、小松彰君の好意により、本郷進文学社(私立の語学校)へ入り、日々そこへ通学す。 [#ここで字下げ終わり]  すでに述べたように、この退学の事情は明らかでない。ただ、良精の学費は雄七郎や小松彰がだしていたもののようで、五カ月後の記録をみると、養父の秋田求馬も豊岡県令となった小松彰に引き上げられて、その下に出仕することになり、やっと学費を出してもらえる、と喜んでいる様子がうかがえる。ところが、その養父が上京後急死してしまう。このため大学南校(洋学)を退学させられたばかりの良精は、一年間の高知赴任を終えて帰京してきた叔父の小林雄七郎と、かれに同行・静養してきた虎三郎のもとに出むき、進路を相談した。私立の語学校である進文学社に通学しても、先行きの見通しがたたないとおもったからである。そこで、雄七郎は医学の大学東校にいけ、とすすめた。大学東校の校長は、たまたま長岡出身で順天堂に学んだ、旧知の長谷川泰(当時三十一歳)だった。このとき、将来、医学(解剖学)の方向にすすむ小金井良精の道すじがおよそ決まったのである。  それから、七十年ちかくたったころの良精の日記に、次のような見馴れた人名がでてくる。 [#ここから1字下げ][#ここで字下げ終わり]  (昭和十五年)四月二十六日 かねて思いいたる、染井墓地行。きみ(妻喜美子、鴎外の妹)同行。まず小松家《ヽヽヽ》、原家の墓にもうで、つぎに榊、緒方、岡田家(いずれも旧友)の墓に花を供う。  四月二十七日 きみ同行、谷中墓地行。小林虎三郎《ヽヽヽヽヽ》、雄七郎《ヽヽヽ》、伯叔父の墓にもうでて、花と香を供う。途中、時どき雨にあいたり。  (昭和十七年)七月二日 谷中へ、小林虎《ヽヽヽ》、雄《ヽ》、両おじの墓に参詣。同時に石黒忠悳、長谷川泰《ヽヽヽヽ》、両先輩の墓にも。  九月二十三日 蘇峰氏、近世日本国民史を永々と新聞に連載中のところ、北越戦争の部、長岡城回復につき記述。萩原要人、花輪求馬《ヽヽヽヽ》などの名みえたり。いかに感ふかきことか。  九月二十九日 好天。きみと谷中、虎《ヽ》、雄《ヽ》おじの墓参。  十月三日 きみと染井墓地。小松《ヽヽ》、原、榊、緒方、岡田、浜尾の諸家の墓へ。(傍点、カッコ内引用者) [#ここから1字下げ][#ここで字下げ終わり]  良精が妻と一緒に墓参を重ねているのは、すでに八十歳をはるかにこえ、みずから死期を悟っていたからだろう。かれは昭和十九年、八十七歳で死去するが、その死をまぢかにひかえた日々に、小林虎三郎、雄七郎、小松彰、長谷川泰、秋田(花輪)求馬といった人びとの名を懐かしく、そして親しく思い出していたのだった。かれの人生は、七十年ちかくまえの数え十五歳の日々にほぼその基本が定められていたことが、この後年の日記に記された人名からたしかめられるだろう。    医学生・良精と虎三郎兄弟  小金井良精は、大学東校(医学校)に入学した直後の記録に、次のように記している。 [#ここから1字下げ]  (明治五年)十月、叔父、小林雄七郎君の助力により、将来の方針をさだめ、医学をこころざす。第一大学区医学校に入学し、かつ入舎せしは、これ十一月七日。良精、満十三歳十一カ月なりき。この時、じつに再生の思いをなせり。その後は、困苦のあいだにも前途の楽しみあり。大いに気づよくなる。学問だけに従事できる状態となれり。この年、改暦、十二月を以て、次年の一月とす。 [#ここで字下げ終わり]  それまでの生活の困窮や、何を将来の道としたらよいのかわからない状態が、ここに至って解消した。そのことの喜びが、十三歳十一カ月の少年の記録に如実にあらわれている。良精の進路の決定に、小林虎三郎・雄七郎の兄弟と、長谷川泰という長岡人とがかかわっていた。  良精は入学とともに、寄宿舎に入った。これで、養家の秋田家にも小松家の世話にもならずにすむ。のみならず、翌年十二月には官費生となって、経済的にもさして伯叔父たちの世話にならずにすむようになった。官費生になると、十二円が支給されるからである。寄宿代が四円五十銭だから、学生一人分の生活費はなんとかまかなえるわけだ。  明治六年についての良精の記録。 [#ここから1字下げ]  明治六年。暑中、一カ月の休暇をえて帰郷す。郷を出てより四年の星霜をへて両親(実父母のこと)に対面。喜び、きわまりなし。十二月、大試験に及第して官費生となる。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり] つづいて、明治七年についての記述も、引いておこう。 [#ここから1字下げ]  明治七年。暑中休暇に帰郷す。父上(実父良達)は塩新町校に在勤の時なり。秋田未亡人は国元へ引きあげる。ついで兄上(権三郎)出京す。十一月、大試験に及第、本科に入る。ドイニッツ教授につき、解剖学をはじめる。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この明治七年についての記録からわかるように、小金井良精は明治五年十一月に大学東校に入学し、二年で予科を終えている。予科での勉強は、語学としてのドイツ語のほかに、数学や物理や化学などもみなドイツ語で、それにラテン語と自然科学が加わるわけだ。良精はその予科のあと本科(五年)にすすんで、ドイニッツ教授のもとで解剖学をはじめたのである。  そうだとすれば、かれは大学東校に入学することによって、その予科で明治五年十一月から七年十一月まで、もっぱらドイツ語の学習に明け暮れていた、ということもできる。十五歳ぐらいの良精が、虎三郎の『徳国学校論略』の翻訳・略述においてはたして手助けすることができたろうか、という疑問は、これでほぼ解消する。  虎三郎はオランダ語にくわしく、英語は初歩程度。雄七郎は英語をよくしたが、ドイツ語はあまりくわしくなかった。とすれば、ドイツ語ができ、学校でドイツ人の教授たちにその社会や教育制度について質問することのできる良精の手助けなしに、虎三郎が『徳国学校論略』をあらわすことは不可能だったろう。  ちなみに、良精は後年「日本医学に関する追憶」(昭和二年)という文章のなかで、当時の医学校(大学東校)の校長の長谷川泰やドイツ人教師たちについて、こう回想している。 [#ここから1字下げ]  ……(医学校成立の)これらのいきさつは、長谷川泰の存命中に直接聞いたことであり、僕とは同藩で、子供の時から知遇を受けていたが、ぎょろりとした鋭い眼光のかたであった。  僕の在学中の教師は、ことごとくドイツ人だった。ベルツ、ドイニッツ、ギールチなどであった。みな立派な学者であり、授業をするだけでもかなりの負担だったが、そのほかに学術研究をもおこたらなかった。業績はドイツ東洋学会誌、本国の学会誌などに発表され、本国へ帰ったあと学界で有名になった人も多い。 [#ここで字下げ終わり]  教頭のミュルレルの厳しい教育方針もあって、小金井良精のドイツ語の実力は、かなりの程度のものだったらしい。そうして、五年後、二十三歳で本科を卒業したときの良精の成績は、十六名中の首席である。このためドイツ留学生にえらばれ、そのことが同じドイツ留学生の後輩である森鴎外の妹きみ子を後妻にむかえる因縁を導きよせるわけだ。  しかし、それはもうすこし先の出来ごとである。いまは留学まえの、良精と虎三郎、雄七郎の関係に話を戻す。明治八年についての良精の記録。 [#ここから1字下げ]  明治八年。春、故あって実家に戻る。これより現名、良精を名乗る。暑中には、叔父雄七郎君とともに帰郷す。父上様は新潟講習所に在勤。 [#ここで字下げ終わり]  良精は満十六歳のとき、秋田家の養子であることをやめ、小金井家に戻り、良精の名を用いるようになった。秋田家の養父はすでに死去しており、養母の未亡人は明治七年に長岡に帰国していた。官費生となっていた良精とすれば、ここできちんと自立する意味で改名もした、ということだろう。  しかし、それと同時に、東京での虎三郎・雄七郎兄弟との関係はますますふかくなってゆく。子供をもたなかった虎三郎にとって、甥の良精が心理的に後継ぎがわりとなっていた、ということもあろう。明治九年についての良精の記録は、次のようになっている。 [#ここから1字下げ]  明治九年。四月を以て、解剖および組織学を終る。六月より教授ドクトル・ベルツにつき生理学をはじめる。暑中休暇は病翁(小林虎三郎)様ご病気につき、帰省せず。高橋三郎氏と旅行し、富士山に登る。ついで病翁様をともない、伊豆熱海に行く。  秋、家族は今朝白町の年来の旧宅を去り、栃堀村へ引越す。  本郷に医学校新築落成し、そこに移る。十二月よりチーゲル氏、生理学を教授す。シュルツェ氏、外科学総論を、ベルツ氏、内科総論をはじめる。 [#ここで字下げ終わり]  満十七歳当時の良精は、東京の虎三郎が病気であることを理由に父母のいる長岡への帰省をとりやめ、そうして伊豆熱海での静養につきそう、といった配慮をみせている。それほど、良精と虎三郎との関わりは深く、密なるものになっていたのである。もちろん、虎三郎が当時本名を「病翁《へいおう》」と改めるほどの病身であり、良精がベルツのもとで医学者としてすぐれた才能をあらわしはじめていたという偶然性も、そこには働いているかもしれない。しかし、良精の記述には、そういった偶然性を超えた、虎三郎に対する愛情というか敬虔な感情のようなものがうかがえるはずである。    良精のドイツ留学、結婚  明治十三年十一月二十四日、数え二十三歳の小金井良精は、ドイツ留学のため横浜港を発った。このときの見送り人は、小松彰、原桂仙、長谷川泰、小林雄七郎、それに緒方正規らの同期の友人である。虎三郎はすでに亡くなっていた。  長谷川泰については、すでに良精の回想でふれられていたので、説明を繰り返さない。ただ、原桂仙については、少しふれておく必要がある。これは、小松彰の縁に連なる人物である。  小松彰が信州松本の藩医(小松維貫)の長男であることについては、すでにふれた。この当時は、大学大丞、文部大丞のあと官を辞め、東京株式取引所を創設してその初代頭取となっていた。弟の小松精一も役人への道をすすんだので、家業を継いでいない。そのため、小松家では長女に婿養子をとって小松維直(当時軍医)とした。その娘が、良精と結婚することになる八千代である。  ところで、小松維貫の次女、つまり小松彰の末妹と結婚したのが、原桂仙である。象山と同じ、信州松代藩の出身。江戸で松本良順について医学を学んだあと、長崎で西洋医学を学び、明治三年にドイツに留学して婦人科と小児科を専門に研究している。明治七年に帰朝して、軍医となったが、十二年に辞めて開業医となっていた。良精は医学のこと、ドイツ語のこと、また留学のためのドイツ事情などを、この小松一族の原桂仙にききにいっているあいだに、原から小松維直の娘八千代との結婚をもちかけられたのである。  その明治十二年についての良精の記録。 [#ここから1字下げ]  明治十二年、夏に帰郷す。父上様(この年十二月八日死去)は毎日、富島校へご出勤の時なり。  十月を以て、医学の修業年限が終る。これより卒業試験の準備にとりかかる。  十二月三日、原桂仙君より、八千代のことについて相談あり。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  八千代はこの明治十二年に数え十五歳である。二十二歳の良精の七歳下であるから、結婚の年齢差とすれば、離れすぎているわけではないが、いかんせん、まだ若すぎる。しかし小松一族とすれば、良精がドイツ留学を終えた時点ではちょうどいい年齢になっている、という計算だったろう。  良精はこの原桂仙からの申し出を受け入れ、一年後、ドイツにむかう直前に八千代との婚約をととのえることになる。つまり、原桂仙は良精の仲人であり外叔父という間柄であった。 [#ここから1字下げ]  (明治十三年)十一月十一日。西ヶ原村、小松彰君の邸宅に、長谷川泰君、叔父の雄七郎君、兄君(権三郎。上京して慶応義塾に学び、西南戦争に従軍後、新聞記者になっていた)をはじめ、親族たちが集まり、長野県士族、小松維直の娘、八千代との婚約の式をあげた。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この婚約の式の三日後に、良精はドイツ留学へと旅立つわけだ。なお、かれは留学にさいして文部省からの留学費(一年分)として一二〇〇円を支給されたほかに、小松彰より一二〇円、原桂仙より一〇〇円、友人の鈴木孝之助(同年の卒業生)より五〇円を借りている。  良精がドイツ留学を卒えて、日本に帰ってくるのは、この五年後、明治十八年六月のことである。留学中の出来ごとについては、星新一の『祖父・小金井良精の記』にくわしい。六月二十一日に横浜港についた良精は、ただちに牛込の小松家に行き、八千代と父母の小松維直夫妻、そうして隠居の維貫、精一などに挨拶した。翌日には、大学の加藤弘之総長に帰朝の報告をしたあと、雄七郎の家と、原桂仙のもとを訪ねる。といった具合に、当時の良精が小松家と小林家との交流のもとに帰国後の生活をはじめたことを知れば、十分であろう。  良精の結婚は、かれが雄七郎と一緒にすんでいた春日町の邸に八千代が同居し、雄七郎が砂子町に移り住む、という簡単なことですんだ。良精は数え二十八歳、八千代は二十一歳である。そのあと、良精は、帝国大学医科大学(東京大学医学部の前身)の教授となって、新生活がはじまった。  ところが、翌明治十九年六月二日、新妻の八千代が妊娠にともなう子宮炎で急死してしまうのだ。数え二十二歳の若さである。  一年半後、良精は医科大学の一期後輩(年齢は三歳上)の賀古鶴所《かこつるど》の紹介で、賀古の同期の森鴎外の妹きみ子(数え十九歳)を後妻として娶ることになる。この結婚をすすめたのは、当時ドイツ留学中だった鴎外である。  明治二十一年三月八日の鴎外の「独逸日記」に、こうある。 [#ここから1字下げ]  家書いたる。お喜美の小金井(良精)教授に嫁する可否を問う。電報を発して同意を表す。陸軍省医務局にいたる。……午後、独逸帝、病篤き報あり。全都騒然たり。 [#ここで字下げ終わり]  きみ子の回想記によると、この鴎外の電報には、フランス語で「承諾」と一語、記されていただけだった。  きみ子はその結婚と、夫になる小金井良精について、「次ぎの兄」にこう書いている。 [#ここから1字下げ]  私の縁談を言いに見えたのは賀古さんでした。そのころ小金井は医科の教授で、お兄さん(篤次郎。きみ子の次兄)の先生でした。年はお兄様(鴎外。長兄)より二つ上です。お兄さんが直接知っているものですから、お父様たちが、どんな人かとお聞きになると、そのころ役者の声色《こわいろ》に凝っておられたので、すぐに講義の身ぶり声色です。 「いい先生だが、色が悪いな」  小金井はそのころ貧血で病身らしい人でした。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  どうやら、良精は虎三郎などと同じく、このころ病身で、肝臓も悪かったらしい。なお、叔父の雄七郎のほうも、このころ大酒を飲んでいたこともあって、病がちだった。「酒中毒」という形容が、良精の日記にはある。    育英事業「長岡社」のこと  さて、小金井良精のことはこれくらいにして、話を本筋にもどそう。  小金井良精が明治十三年にドイツ留学したとき、「長岡社」の人びとから送別の宴をひらかれている。この長岡社こそ、小林雄七郎が兄の虎三郎の国漢学校設立と相補うように考えだした育英団体だった。長岡の人びとは、後の山本五十六をもふくめて、この育英団体の援助によって多く進学することができたのである。  長岡社が雄七郎の提唱によって創立されたのは、明治八年七月のことである。『三島億二郎伝』には、この創立メンバーの名が記されているので、その条りを引いておく。 [#ここから1字下げ]  育英団体として特筆すべきものに長岡社がある。明治八年七月、人材育成のため小林雄七郎の主唱によって在京の小林|藹《さかゆ》・稲垣銀治(旧長岡藩家老)・三間正弘・小林病翁・長谷川泰・梛野《なぎの》直(東京医学校を卒え、のち長岡病院長。良精の妹保子の夫)・森源三・中村衡平・外山脩造・九里孫次郎・星野憲治・渡辺廉吉・武昌吉・根岸美佐男・池田九十郎等と、長岡の億二郎・中村桃庵、新潟では槙《まき》真一の賛同で結成され、翌九年一月六日、東京幸福安全社で長岡社東京大会が開かれた。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  長岡社は、社長が小林雄七郎、ついで長谷川泰、三間正弘である。東京幹事が稲垣銀治、ついで中村衡平。長岡幹事が三島億二郎、幹部補として梛野直、ついで稲垣林四郎となった。  この育英団体がどのように運営されたかは、右の東京大会における雄七郎の趣旨説明によって、おおよそわかる。その趣旨説明を、『三島億二郎伝』および昭和五年四月刊の『小林病翁先生伝、附小林雄七郎先生伝』(松下鉄蔵編集兼発行人)から、引いておく。 [#ここから1字下げ]  先年(明治八年)七月、旧長岡藩、貧困にして子弟の学資を給すること能わず。子弟皆小成に安んじ、宏遠の規模を立て、盛大の事を起すべき方向を知らざることを憂い、諸君に謀《はか》るに各《おのおの》収むる所の財産の若干分を積んで、子弟の学資を支給せんことを以てせしに、諸君旧里を思うの深きに由て、爾来本社に入るもの八十五人、毎月積立つる定額二十五円|許《ばかり》にして、六カ月間収めたる金合せて百五十円許、三百円に欠くると雖《いえど》も外に未定社員あり……右の三百円を以て準備金となし、長岡岸氏(岸宇吉。虎三郎の弟子、第六十九国立銀行副支配人)に託し、その一冊の利子即ち三十円を以て阪之上学校(国漢学校の後身)に交附し、今一月より収入する廿五円の四分の三を以て貸費生(奨学生)三人に支給し、その一を以て東京準備となさんとす。在長岡社員より生徒の履歴を郵送せり。他の簿冊と共に諸君の閲覧に供し、初度の大例会に当って諸事既に殆んど完備せるを報知し、将来の好結果あらんことを賀し、又いささか卑見を述べ、此社の一日も創立すべからざるを得ざる旨趣を明言せんとす。(カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここにはまず、長岡人士が維新後、経済的に困窮状態におちいって子弟の学資がだせず、その結果、子どもたちがみな志を低くし、大いなる将来を描かなくなってしまったことに対する憂慮が述べられている。そして、これに対する対策として、皆の醵金により奨学資金制度、つまり「長岡社」の設立が計画された、というのだ。  これは、小林虎三郎の学校設立による人材育成を、より具体的に展開したものといえよう。集められた三百円(予定)の資金は、一方で学校の運営に用い、他方で奨学生に対する貸与とする、というのである。しかも、雄七郎は兄に較べて銀行制度や経済の実際に明るかったので、その資金運用の具体的方法にまで言及している。  以上が明治九年一月六日の「長岡社」東京大会における趣旨説明の内容であるが、『三島億二郎伝』には、現実に醵出された金額が次のように記されている。 [#ここから1字下げ] 小林雄七郎 月六円(年七十二円) 小林藹   月三円三十三銭三厘(年四十円) 稲垣銀治  月一円七十五銭(年二十一円) 三間正弘  月一円七十五銭(年二十一円) 小林虎三郎 年十二円 長谷川泰  月一円(年十二円) 森源三   月一円七十五銭(年二十一円) [#ここで字下げ終わり]  都合、一年で百九十九円。これに、在京中の鬼頭悌次郎、高野譲、西尾篤、梅浦精一、藤沢正義、稲垣利八郎などが加わって、年額二百七十一円二十八銭が醵出された。加えて、長岡と新潟で、 [#ここから1字下げ] 梛野直   月一円五十銭(年十八円) 中村桃庵  月三十五銭(年四円二十銭) 三島億二郎 月二十五銭(年三円) 槙真一   月四十三銭(年五円十六銭) [#ここで字下げ終わり]  この他に、七十名ほどの醵出金を合わせると、三百円を優に越す資金となった。その資金を、虎三郎の弟子の岸宇吉にあずけ、第六十九銀行によって運用してもらうのだ。それによって「長岡社」の育英事業は、この後数十年にわたって、長岡人士のみならず中越地方の子弟を教育するための経済的基軸となったのである。  ちなみに、星新一は小林雄七郎(および虎三郎)がこういった育英事業をはじめるに至ったきっかけについて、小金井良精が医科大学で官費生となるまでの経済的な苦労を目にしたためではないか、と推測している。すなわち、明治六年末に試験に合格して官費生となった良精の記録(既出)を引きながら、星は次のような註を加えている。 [#ここから1字下げ]  (官費生となって)良精も勉強に専念できるようになった。それまでの寄宿代はどうしていたのだろう。小林雄七郎に出してもらっていたのではなかろうか。  雄七郎は明治八年に、長岡社という育英財団を作る。外国の事情を調べているうちに、学びたいが金のない学生にそれを貸す機関の存在を知り、それをわが国に作ったのである。アメリカ人から習った、実行の性格をここに見ることができる。兄の虎三郎も賛成した。  そのきっかけとなったのが、良精によってではないかと思われる。いかにいい計画でも、身辺に具体的な形での問題がおこらないと、現実化しにくいものである。 [#ここで字下げ終わり] 『小林雄七郎先生伝』にも、『三島億二郎伝』にも、この育英事業のきっかけが小金井良精の例によっているとは書かれていないが、なるほど星新一のいうように、「いかにいい計画でも、身辺に具体的な形での問題がおこらないと」、なにごとであれ現実化にむかって物事はすすまないかもしれない。そうだとすると、小林雄七郎が医学生の良精に経済的援助をしたことが「長岡社」の具体的な芽生えであったともいえる。  虎三郎と雄七郎のコンビは、学校をつくり、その運営費を捻出するばかりでなく、育英事業を展開することによっても、後から来るものに熱い眼差しを注いでいたのである。    病翁と名のる  虎三郎がその名を「病翁《へいおう》」と改めたのは、明治四年(一八七一)七月、数え四十四歳のときである。号を改めたのではなく、虎三郎という名じたいを改めてしまったのだ。この改名には、二十年来病に苦しめられてきたわが身に対する、いまいましさ、諦め、哀しみ、居直りなどさまざまな想いがこめられているようにおもわれる。  それは、この改名が柏崎県庁から病気療養を命ぜられた直後に行われたことからも、およそ察することができよう。虎三郎は文武総督として長岡藩大参事を命ぜられながらも、その一年後の明治三年十月には長岡藩じたいが廃藩になり、従って大参事を免官となり、新たに柏崎県庁から「学校|并《ならびに》演武場掛」を命ぜられていた。つまり、その所属は変わったが、一貫して「政治としての教育」畑を歩いていたのに、それもこれもすべて病気のため終止符をうたねばならなかったのである。  虎三郎はこのとき、一瞬、わがこと終わりぬ、と覚悟したにちがいない。文部省から「文章博士」への就任を求められたが断っている。かれが「病翁」と名のった直後に弟雄七郎の高知赴任に同行したのも、すでに余生を意識していたからだろう。かれは高知で病身を養う以外、何もすることがないはずだからである。  じっさい、かれはこの高知行の旅程で、大した意味もない叙景の詩ばかりをつくっている。志を奪われた人間に風景は、美しくのどかに映ってくる、ということだろうか。途中、大阪に立ち寄ったときなぞ、東京を「故郷」とよんで懐かしがっているような態である。  虎三郎がおそらく高知で作った詩に、「書感(感を書す)」というのがある。これをよむと、当時のかれの落魄ぶりが窺われる。  ——わたしははやくから志を立て、天下の士となることを目的としてきた。優れた人物と相許し、凡人を待ったりしなかった。同門の羽倉簡堂はおまえの文章は王陽明に似ているといってくれたし、師の象山はおまえには才能があるといって、励ましてくれ、大成するのを望んでくれた。にもかかわらず、病がいかんともしがたかった。すぐれた鷹が遠くまで飛べる翼を折ったごとく、薬石も効なく、歳月は空しく過ぎていった。すべてが思い通りにいかず、人生の暮ももうそこに迫っている。もはや功名を立てることもできず、退いて学術に身を託そうにもまたうかうかと日を送るばかりである。すべては目まぐるしく過ぎてゆき、わたしはたった一人残される。そうして長い一日を一年のごとく、鶏の声をききながら、うつらうつらしている、と。  ここには、虎三郎の志や才能に対する自負と、にもかかわらず宿痾がそれをさまたげたことについての嗟嘆が述べられている。思いもかなわず、人生は過ぎてゆく、という深い悲哀がきこえてくるような詩である。  そして、こういう悲哀を背景にすると、虎三郎が「病翁」と改名をしたことのなかに、いまいましさ、諦め、哀しみ、居直り、などのさまざまな想いを認めることができるはずである。  ただ、かれが人生は過ぎてゆき、わがことは終わりぬ、と哀しくおもっていたのは、ほんの一瞬であったようだ。というのは、余生を送るつもりで出掛けた高知で、かれは「子規《ほととぎす》を聞く」という詩をつくってもいるからだ。  この詩は、虎三郎にしてはちょっとシャレた作りになっている。子規の声を主題とした詩のなかに、杜宇(とう)、不如帰(ほととぎす)という二つの別名を読みこみ、しかもその別名の醸す物語が詩に陰影をそえる仕組みになっているからだ。そのため、この自然観賞的な詩が思想詩的な性格へと転じるのである。  ——海をのぞむ土佐の城に新緑が映え、その新緑に五月の雨がはらはらと落ちかかっている。ああ、ここにもずいぶん長いこと滞在したものだ。故郷に帰りたい。心は、鳥のように飛んで帰りたいと喚いている。そのわたしの心を知っているかのように、子規は静かな夜更けに、帰るに如かず、帰るに如かず、と鳴くことだ。そういえば、おまえの前世は蜀の王杜宇で、位を譲ったのちにほととぎすに化して、俗世を逃れ歩いたのだったな。そのように俗世に官人となり学び歩くことにも倦んだ、とおまえは鳴くのだったな。わたしももう、故郷に帰りたい。そのわたしの心を知っているかのように、子規が鳴いている、と。  余生のつもりで弟の高知行に同行した虎三郎が、一年もたたないうちに、故郷に帰りたがっている。このばあい、故郷は東京である。そこには、じぶんが後世に残すべき仕事が、いや、もはやじぶんしかやらないだろう仕事が待っている。亡き友人の鵜殿春風の『万国奇観』や師象山の『省※[#「侃/言」]録』はもう刊行したが、『象山詩鈔』も刊行しなければならない。  それに、後から来るもののために、わがくにの歴史を分りやすく書いてもみたい、これからの学校制度がどうあるべきかも考えてみたい。たとえばそれは、『小学国史』の執筆であり、『徳国学校論略』の翻刊である。そのためにも、帰らねばならない。虎三郎の帰心がつのっていた。    ネーション(国民)の教育  虎三郎は、弟雄七郎の海南学校での契約が切れた明治五年五月、東京に戻ってきた。高知を去るにあたって、その地で知り合いになった参議の斎藤静盧が訣れの詩をつくってくれた。『求志洞遺稿』に収録されている、その詩。 [#ここから1字下げ] 一回承歓如旧知 一回歓を承けて旧知の如し 君東帰去我南涯 君は東に帰去し、我は南涯 東西奔走男子事 東西に奔走するは男子の事 屈指相期再会時 指を屈して相期す、再会の時 [#ここで字下げ終わり]  素直で、意味が明快な詩だ。訣別が激励とともにいわれている。  これに応えて、韻を次いだ虎三郎の詩のほうが、やや難しい。「余将発高知。静盧斎藤公有送別之作。次韻以酬(余、まさに高知を発さんとす。静盧斎藤公、送別の作あり。次韻し、もって酬ゆ)」と題した詩。(傍点が韻を踏んでいる。) [#ここから1字下げ] ※[#「月+瞿」]儒謬受鉅公|知《ヽ》 |※儒謬《くじゆあやま》って鉅公の知を受く 臨別感嗟何有|涯《ヽ》 別れに臨んで感嗟何ぞ涯《かぎり》あらん 帰舟明夜阿波海 帰舟明夜、阿波の海 応夢高堂晤語|時《ヽ》 まさに高堂|晤語《ごご》の時を夢むべし [#ここで字下げ終わり]  ——やせた儒学者があやまって偉大な人物と知り合いになることができました。別れに臨み感激きわまりありません。帰りの舟では、明るい夜に阿波の海が照りわたることでしょう。その舟のなかで、わたしはきっとあなたと楽しく語りあったときの夢をみるでしょう、と。  文辞はやや難しいが、「子規を聞く」にあったような切迫感や鬱情などから解き放たれて、全体に明るい。帰郷が決まって、どことなく楽しそうな気配がただよっている。病さえ吹き飛んでしまったかのようだ。  虎三郎には帰京後もその気分が持続していたようで、かれは余生の意識をふり捨てて、『小学国史』全十二巻の執筆にとりかかっている。そして、一年後の明治六年四月には、はやくもこれを完成させている。とすると、かれはすでに高知にいるとき、この執筆にとりかかっていたのかもしれない。  この『小学国史』全十二巻は、初学のものたちのために国史をわかり易く記述したもので、独創的な見解というほどのものはない。ただ、国文によって書き下ろしているところが特徴である。これについては、明治六年一月一日の日付をもつ「小学国史の序」に、次のような自負の言葉が記されている。 [#ここから1字下げ]  我が邦の史、上下二千余年の事を挙げて、之を僅々数巻の内に約し、以て初学の階梯《かいてい》と為すべき者、世|固《もと》より多く之れ有り。然れども率《おおむ》ね漢文に係り、童蒙《どうもう》に在っては、猶解し難きを憂う。其の或いは国文に係る者も、又略に過ぎずんば、則ち蕪に失す。志を教育に有する者、常に以て憾《うら》みを為す。  余因って自ら揣《はか》らず、痾《やまい》を養うの余、諸史を閲し、其の要を採り、悉く国文を以て綴輯《ていしゆう》(つづり集める)す。上は神代に起り、下は近世に迄《いた》るまで、総て若干巻。名《なづ》けて小学国史と曰い、梓《し》に|※[#「金+浸のつくり」]《きざ》んで以て世に公けにす。初学の徒、得て之を読み、庶幾《こいねがわ》くはその稍《やや》解し難きの憂いを免れ、古今の隆替沿革に於てまた以てその概略を領するに足らんか。……(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  本文が国文なのに、序文が漢文なのはややチグハグな感じもうけるが、当時の士族階級の公用文がまだ漢文だったことを考えれば、教師連の手にとらせるために、これも仕方のないことなのかもしれない。雄七郎の友人であった中江兆民がルソーの『民約論』を翻訳するにさいして、わざわざ漢学塾に入りなおして漢文的な『民約訳解』とし、士族階級出身の多い自由民権論者に読み易くしたのが、明治十五年のことで、いまはその十年まえにあたるのである。  それはともかく、虎三郎はこの全十二巻の国文による『小学国史』を刊行することによって、それまで漢文で記述されていたために初学の徒、あるいは幼きものにとっては分りにくかったであろう国史についての弊を取り除こうとしたのである。同書の目的はそこにある。みずからの独創的な歴史観を述べるものではない。序文でもいっているとおり、内容は「諸史を閲し、其の要を採」ったものにすぎない。  ただ、この国文による『小学国史』の刊行が、かれの国《ヽ》漢学校の創立という制度的側面と相補う、教育内容面での改革であったことは注目されねばならないだろう。かれは制度において国漢をあわせるのみならず、教育内容においても漢学偏重だった士族教育の弊害を改めようとしたのだ。それは、ネーション・ステイト(国民国家)における教育ということを考えるばあい、国民の大多数を占める平民の教育を重視してゆかねばならない、という思想にのっとっていた。  この当時、虎三郎が長岡の三島億二郎に宛てた手紙には、士族の扱いを一時に平民と同じくすれば「不都合を生じ」るだろうが、いずれはそうしなければならず、これからは「平民教育」により多く心を用いなければならないことが、次のように記されている(明治五年五月二十五日付書簡)。 [#ここから1字下げ]  ……士族扱方一時ニ普通之理を以て処し候てハ、不都合を生じ申すべし。但、兎角諸旧藩の風習ニて、|平民教育ニ心を用いず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、士族|而已《のみ》ニ教育費用を掛ケ、|凡才の者ニ俊秀ニ教うべき学科を授ケ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》候ようの不適当なる事、比々《ひひ》(みんな、それぞれ)皆然り。高知県の如きも尚此の如く、是|畢竟《ひつきよう》ハ地方官の教育事務ニ疎《うと》きの所致ト慨嘆すくなからず候。  然る処、文部省ニ於て、天下の中小学を管轄し、大監小監を設けてこれを監督せしむるの趣向ト申すこと、もっともの事ニ候。但文部省ニもその人少く、余程当惑の由、且《しばらく》|差当リ小学ニて国文の書を以て平人これを学び教授《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いたし候ものも、中々|闔国《こうこく》(全国)一般小区ニ付一人トモ配当ハ出来もうすまじきの困り物ニ御座候。併《あわせて》大木(喬任)文部卿もまた一時の俊傑ニ相違これなきの様子ノ乎《ママ》の届|丈《だけ》ハ因循致まじくと刮目まかりあり候。……(原漢文。傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで、従来の教育が士族中心で、「平民教育ニ心を用いず」、また「凡才の者ニ俊秀ニ教うべき学科を授ケ」るなど門閥中心の教育方針で、能力中心主義をとっていないことの不都合を指摘している。とどのつまり、これでは国民の教育水準を引き上げることはできない、というわけだ。  それに加えて、各藩の教育行政にかわって全国的な教育行政を統べる文部省がまだ十分作動していない、ともいっている。さしあたり小学校では「国文の書を以て」国民が学ぶべきようなシステム、また教育者の配置をすべきであるが、それもまだうまく行われていない、と批判するのである。  むろん虎三郎は、たんに批判ばかりしているわけではない。その証拠に、みずから国文で国史を記述した『小学国史』全十二巻を刊行したのである。それは、ネーション(国民)の教育のためにぜひ必要と考えてそうしたのであるが、同時にそのようなことができるほどの「学力の人」が現在あまりにも少ない、という慨嘆ゆえの行為でもあった。  虎三郎はさきに、小学校においては「西洋の学科」も「国文の書」をもって教えるべきだ、と説いていたが、明治六年一月四日付の三島億二郎宛書簡では、いずれ小学校では「漢学を廃」すべきだ、という目覚ましき提言までしている。その書簡を、肝心の部分の前後をあわせて、少し引用してみよう。 [#ここから1字下げ]  ……学校(長岡の)兎や角御尽力にて取続おり候よし、幸々甚々。東京発船前に差上げ候書も、定て御接手なしくだされ候事に存ぜられ候。それにも申上げ候とおり、文部省にて、何か学政更張(改革)致したき所存とは相見え候えども、何分応用の人材乏しく、致しかたこれ無きと相見え、ただ九月下旬|乎《か》に、荒々しき教官始の黜陟《ちゆつちよく》(功績のないものを斥け、あるものを昇官させる)これあり候迄にて、その後何の処置をも不|※[#「恙」の「心」にかえて「水」]《ママ》候。併し、今少し学費を増位の事は無《ママ》して叶わざる事と存じ候。|いずれ小学は漢学を廃し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|国文書を以て《ヽヽヽヽヽヽ》、速に平民に迄も教化およぼし候よう致すべき趣向と申す事。さり乍ら、右国文の書を善《よく》編集する程の学力の人も、中々多くはこれあるまじく、困り物なり。一般県治の制も今に定まらず、地方官も民心も皆々浮々と致さざるをえず、歎くべき事どもなり。皆、これ畢竟朝にも野にも其人とぼしき故の事ならん。(原漢文。傍点、カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  すでにふれたように、虎三郎はここで、小学校においてはいずれ「漢学を廃」すべきである、といっている。それは、漢学がもはや時代遅れだというのではなく、ネーション(国民)教育の第一段階の小学レベルにおいては、洋学も漢学もすべて「国文の書」によって成すべきだ、という考えである。  しかし、にもかかわらず、そういう「国文の書」を「善《よく》編集する程の学力の人」もあまりいない。これは、朝野ともに人材を欠いているということだ。つまり、人材育成を軽視してきた政治の欠陥があらわれている、というのである。    夢のかけら  ところで、この『小学国史』には、明治五年に『西国立志篇』(スマイルス「セルフ・ヘルプ」の翻訳)を刊行した中村敬宇(正直)の「叙」が掲げられている。敬宇はイギリス帰りの洋学者、教育家であるが、昌平黌で佐藤一斎に学んだ経歴の幕府御儒者でもあったから、洋学の系統はちがうとはいえ、虎三郎と思想傾向がやや似ている。  中村敬宇は津田真道や福沢諭吉らとともに「明六社」を興しているが、津田は虎三郎と同じ象山門下であり、福沢は雄七郎の関係もあって虎三郎がつねに関心をもっていた人物であるから、そういった人物を仲介に敬宇と虎三郎の関係が生じたのであろうか。もっとも、雄七郎は兄の虎三郎とともに江戸に遊学したさい、敬宇の塾に入ったといわれているから、この「叙」については、雄七郎が間に立った可能性もある。敬宇はこの「叙」に虎三郎とは初対面だ、と記しているが……。  いずれにせよ、『小学国史』に中村敬宇の「叙」が掲げられている一事をもってしても、この書が幕末の尊攘家、あるいは国学者流の国史とは別のものであることが察せられるだろう。では、敬宇は同書について、または同書が国文によって綴られていることについて、どのような考えを述べているのだろうか。これも原文は漢文であるが、読み下してみる。 [#ここから1字下げ]  国文読まざるべからず。漢文読まざるべからず。洋文読まざるべからず。而して、国文最もまさに先読すべきなり。国文の書多く、歴史、地理、もって西洋訳書に及ぶ。皆読まざるべからず。而して国史最もまさに先読すべきなり。国史の国文をもって書く者、おおむね皆|巻帙《かんちつ》(書物)重大にして、その事実簡明にして文辞|嫺雅《かんが》(優雅)なるを求むるは、はなはだ稀なり。  頃者(このごろ)小林炳文、小学国史若干巻を著わし、余に序言を乞う。受けて、これを読む。則ち上下二千年の興廃存亡|瞭《あきらか》にして指掌するごとし。而して、その文雅にして俚《いやし》からず。これよろしく小学授業の書に充てるべきものなり。  余はじめて炳文を見る。年四十なるべし。面貌やせて黒し。みずから言う、久しく風湿を患う、と。悠忽《ゆうこつ》日に度《わた》り、一として成すところ無く、意《おも》わず今此編の出ずるを見るなり。かくて知る、炳文の病榻《びようとう》(病床)に在り痛苦を忘れて著述を楽しむ、を。その勤勉の功、まことに嘉尚すべきなり。  炳文、越後の人。かつて佐久間象山翁に学ぶ。けだし、淵源する所あり、と云わん。 [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ](皇紀)二千五百三十三年五月上澣(カッコ内、振り仮名引用者)  以上、全文を行換えを加えて引用したが、中村敬宇にとってはかれより四歳年長で、洋学の先駆者たる象山の一番弟子ともいえる虎三郎の著への叙文というのは、書きにくかったにちがいない。そのわりには、虎三郎の文が「雅」であり、国史書として簡明であることを指摘して、小学校の授業にも適していると積極的に推している。  翻っていうと、明治六年という時点にあって、国文で分りやすく書かれた国史は、ほぼないも同然であったのだ。敬宇が積極的に「読むべし」と推賞したのも、当然といっていい。  しかし、改めて問うが、虎三郎はなぜ中村敬宇(正直)に『小学国史』の叙文をたのんだのだろう。同じ洋学とはいっても、虎三郎はオランダ系であり、敬宇は英米系である。ところが、虎三郎はいつのころからか、英文の勉学もはじめているのだ。現在では第二次大戦中の空襲で焼けて残っていないが、山本有三が『米百俵』を書いた時点にあっては現存していた虎三郎の「ピネオ氏英文典備忘」には、かれが英語英文の勉強をはじめていたことが明らかに窺われるのだ。  安沢順一郎氏が「日本の教育者・小林虎三郎」(『道徳と教育』一九六七年八月号)に記しているところによれば、「雙松晩年備忘」(?)と題した美濃判紙四つ折りのメモには、次のような文字がみられた、という。 [#この行1字下げ]春 Spring  冬 Winter  長 Long, tall  短 Short  そして、やや難しい学術用語になると、 [#この行1字下げ]生理学 フィジオロジィ  解剖学 アナトミイ  というように片仮名で記されている。  これをみると、晩年にあっても虎三郎の学習欲、語学熱は衰えていなかったようである。それは、たんなる語学熱というより、外国=文明のことが知りたいという、かれのあくなき学習欲であったのだろう。  虎三郎が中村敬宇に『小学国史』の叙文をたのんだのは、敬宇がほぼ同年輩の儒学者でありながら洋学への関心を深め、慶応二年(一八六六)に渡英し、明治時代の啓蒙思想家となっていった経緯に対して、共感というか親和感をいだいていた結果なのではないか、とおもわれる。いいかえると、虎三郎も若いとき藩主の譴責をうけて帰藩・謹慎を命ぜられることがなく、また多年の病臥などがなければ、敬宇のように外国へ行って教育行政の実際などを学び、ナショナルな国づくりに啓蒙思想家として参加する夢をもっていたような気がする。  しかし、それはついにかなわぬ夢であった。かれの「雙松晩年備忘」というメモに記された英単語は、その夢のかけらなのかもしれない。  このメモを仔細に検討してみれば、虎三郎がいだいていた夢のかたちがもうすこし具体的に浮かび上ってくるような気がする。だが、それは出来ない相談である。なぜなら、この「雙松晩年備忘」というメモは象山が虎三郎に宛てた書簡などとともに、大東亜戦争下での長岡への空襲によって焼かれ、灰塵に帰してしまったからである。(その一部の写真だけが、山本有三の『米百俵』に「ピネオ氏英文典備忘」として掲げられているわけだ。)  かつて「攘夷(親征)の詔」(文久三年=一八六三)が朝廷によって発されたとき、慨嘆して呻いた小林虎三郎にとって、その八十年後の一種の攘夷戦争=対米英戦による自筆文書の焼失は、歴史のイロニーと感じられたろうか。参考までに、その「攘夷の詔下るを聞き、慨然として咏を為す」という虎三郎の詩の内容を紹介しておこう。  虎三郎はそこで、朝廷が「攘夷の詔」を発したことをきき、「時務を究知する」の人がいない、と慨嘆している。——勾践は恥を忍んで国を興し、魏の国王|※[#「螢」の「虫」にかえて「缶」]《おう》(恵王——多くの賢人を招いて教えを聞いたが、仁義を説いた孟子を用いなかった)は戦いを好んでかえって民を傷つけた。「攘夷の詔」はむしろ、この魏※[#「螢」の「虫」にかえて「缶」]の轍をふもうとしている、と。  虎三郎がのちに、薩長=官軍との戦いに踏切った河井継之助を激しく批判することを想起すると、この、恥を忍ぼうとした勾践を賞め、天下に時務を知る人無きを哀しんだ詩は、虎三郎の思想と政治を考えるうえで、じつに興味深いものといってよい。そして、もしかれが生きていたら、その八十年後に日本が米英に対して開戦し、その戦火によってかれの自筆文書や象山の書簡などが多く焼失したことを歴史のイロニーと考えたろう、とわたしはおもうのだ。一種の攘夷戦争であった大東亜戦争は、虎三郎の夢のかけらさえ打ち砕いた、と。    象山を後世、他者に伝えよう、と  虎三郎は明治四年に勝海舟や佐久間恪二郎(象山の子)と図って象山の『省※[#「侃/言」]録』を刊行したが、その没年に当たる明治十年には『象山詩鈔』を刊行している。この虎三郎筆の「象山詩鈔の跋」を激賞したのがさきに名のでた中村敬宇であるが、それについてはもうすこし後でふれることにしよう。  虎三郎が象山の『省※[#「侃/言」]録』や『象山詩鈔』を刊行したのは、亡友鵜殿春風(『万国奇観』)のばあいと同じように、その遺徳を偲ぶという意味もあるが、それ以上に、後から来るものに象山の事蹟・思想を伝えようという意思によっていた。 『省※[#「侃/言」]録』は、象山じしんが獄中でみずからの思想と行動をかんたんに要約して綴ったものであるが、虎三郎が同書に付した「後序」には、それをもっと短く象山伝・論として述べた趣きがある。  百二十年後の現在となっては特に紹介するまでもないかもしれないが、これが象山が京都で暗殺(元治元年=一八六四)されたわずか八年後の、世にはじめて現れた象山伝・論であるということと、その短い文に虎三郎の象山に対する傾倒ぶりと敬愛のほどが凝縮されていることを考えて、あえて引用しておきたい。 [#ここから1字下げ]  先師象山先生、天資|卓犖《たくらく》にして、聡明絶倫なり。年未だ壮ならざるに経学文章を以て鬱然として一家を為し、名|遠邇《えんじ》(遠きと近き)に馳す。既にして満清鴉片の変(一八四〇—四二年のアヘン戦争)に感ずるあり。乃ち意を籌海《ちゆうかい》(海防)に専らにし、遂に憤を発して洋籍を読む。首《はじ》めに其の銃※[#「石+駮」](銃砲)戦陣の術を究め、又未だ数年ならざるに能く頗る其の要に通ずるを得。  則ち居を都下に移し、徒を聚《あつ》めて教授す。天下の籌海を講じ、洋兵を習わんと欲する者、門に及ばざる莫《な》し。是の時に当り、世儒|率《おおむ》ね皆旧に溺れ新を厭い、固陋自ら守る。乃ち先生の為す所を観て、相倶に其の夏を以て夷に変ずる(文明が野蛮化する)を誹《そし》る。而して先生顧みざるなり。  居ること幾ばくも亡くして、癸丑花《きちゆうか》|※[#「旗」の「其」にかえて「斤」]《き》之事(ペリー来航)忽ちに起り、先生の言是に於てか験あり。衆乃ち益々其の特識に服す。向《さき》の誹る者も亦或は稍々醒むる所あり。則ち、先生偶々時諱に触れ、獄に繋がるること七閲月にして始めて放還せらるるも、猶お且つ幽閉せらる。  後数年、赦を獲て出ずれば、則ち攘夷の説|方《まさ》に熾《たけなわ》なり。先生乃ち以て理勢を詳らかにせざるの甚しと為し、其の非を痛斥し、其の言の害|已《はなはだ》しきもの多きを悪む。遂に以て殃《わざわい》に及ぶ。  今や王政維新、国論始めて定まる。横議の徒、殆ど蹤《あと》を天下に絶てば、則ち先生の墓木、漸くまさに拱《きよう》せん(両手をそろえてささげる)とす。……(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  この象山伝・論には、むずかしい箇所がほとんどない。それは、虎三郎がじぶん自身の思想や感情の表明にこだわらず、ただ師(象山)のことを未だあまり知らない他者、とくに若く、後から来るものたちに分りやすく伝えようとしているからだろう。虎三郎の詩文にむずかしいものが多いのは、そういった他者=読者をはじめから無視し、みずからの想念を述べるに急であろうとした結果にほかならないだろう。  とすれば、虎三郎はここで私を無にしている。みずからの文章力を他者(象山、そして後から来るもの)にささげているのだ。私を述べることよりも、私を表現のほうに押し出す力に従って述べているのだ。その、私(虎三郎)を表現のほうに押し出す力とは、亡き佐久間象山の志にほかならない。それを、いま世に出さねばならないという情勢が、虎三郎を文章に駆りたてているのである。 『象山詩鈔』に付せられた「跋」には、その印象がよほど強い。私を無にしたところで、私(虎三郎)の文章が自在になっているのだ。この「跋」は虎三郎の文章中でも、一、二に位する出来だろう。 [#ここから1字下げ]  客曰く、象翁は文武の英なりと雖も、詩は則ち長ずる所に非ず、と。余笑って曰く、然り、翁は既に文章に屑屑《せつせつ》(こせこせ)たらず。況《いわ》んや、詩をや。然れども、詩は君子の其の志を言う所以なり。故に翁の詩に於けるや。経術に根拠し、材を群籍に採り、篇章字句、必ず敢えて苟《いやしく》もせず(いいかげんにしない)。是、其の作る所を以て、意を幽遠に託し、規律森厳にして、淫靡浮華の習い絶えて無し。要するに、風雅の遺意を失わず。これを当世尋常の詩人の為す所に視《なぞらえ》れば、熟《いず》れか得、熟れか失。明眼の士、必ず能くこれを弁ぜん。余|嘗《かつ》て聞く、宋の胡澹菴、詩人を朝に薦むるに朱文公(朱子)其の一に居《お》きたりと。向《さき》に嘉安の間(嘉永安政のころ)我邦亦あるいは詩人を薦むるあらば、悪《いずく》んぞ翁の其の選中に在らざるを知らんや。然れども、是れ知者と言うべくして、不知者と言い難きなり。客、言《ことば》なくして去る。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この跋文は、対話形式を用いていることもあって、論旨が明快である。にもかかわらず、平俗におちいらず、格調高い。それは、虎三郎が象山の詩人としてすぐれていることを分りやすく説明しなければならない、と力をこめて書いているからである。  すなわち——象山の詩は当世の詩人のように技巧をもっぱらにするのでなく、君子の詩がそうであるように、志を述べるものである。それゆえ、こせこせしておらず、学問・思想によって裏付けられている。象山はいわば歴史の幽遠をみて詩をつくっている。だから、「風雅の遺意」を失っていないのだ、と。  このあと、虎三郎はおもしろい表現を用いている。——かつて宋において胡澹菴が朝廷に第一の詩人としてすすめたのが朱子という学者・思想家であったように、嘉永安政のころのわがくにで第一の詩人は誰かといったら、その選中に象山が入っていないわけがないだろう。しかし、こんなことは知者と語るべきであって、不知者と語るべきことではない。そういったら、象山は「文武の英」であるけれども、詩はあまりうまくないと主張した客は、言葉を失ってこそこそと去っていった、と。  ここには、詩は志を述べるものであるという虎三郎の(そして当時一般的だった)考えが展開され、そうだとすれば象山の詩はその理想にかなった第一等のものだ、という評価が述べられている。しかも、その言いかたがなかなか簡略でありながら、見事な象山詩評価にもなっている。  それゆえ、中村敬宇はこの虎三郎の跋文に関して、次のように評したのだ。「寥々たる短篇にして、多少の層折あり。文字既に佳にして、意思亦好し」、と。つまり、文章の意図また文辞ともよい、と激賞しているのである。    安吾の父の『北越詩話』  中村敬宇は虎三郎の詩文に対して、激賞とも称すべき評価を下した。これに対して、『北越詩話』の坂口五峰(仁一郎)の評は、ややきびしい。いや、きびしいというのはあまり適切でなく、ある部分で精確さをもっている、といったほうがよいかもしれない。  敬宇の虎三郎評は、同時代人でもあり、人間関係もふくめて両者がかなり近い位置にいたので、身びいきのようなところがないとはいえない。これに対して、坂口五峰のほうは、安政六年生まれで虎三郎の三十一歳下であるから、父子といった年齢差である。それに、五峰が『北越詩話』(上下)を刊行したのは、大正七、八年のことであるから、虎三郎の死から四十二年も後のことだ。すでに歴史的な評価が可能な時点に達している。それが五峰の虎三郎評にある精確さを与えている一因かもしれない。  坂口五峰は、新津出身の新潟新聞社社長で、衆議院議員を何期もつとめた地方政界の雄であるが、その一方で三十年の歳月をついやして『北越詩話』(上下)を完成した。かれは生涯に十三人の子をもうけているが、その十二番目が小説家の坂口安吾(炳五)である。安吾は「石の思い」という自伝的なエッセイに、父五峰とその『北越詩話』にふれて書いているので、まずそれを引いておこう。 [#ここから1字下げ]  私の父は二、三流ぐらいの政治家で、つまり田舎《いなか》政治家とでも称する人種で、十ぺんぐらい代議士に当選して地方の支部長というようなもの、中央ではあまり名前の知られていない人物であった。しかし、こういう人物は極度に多忙なのであろう。家にいるなどということはめったにない。ところが私の親父は反面森|春濤《しゆんとう》門下の漢詩人で晩年には『北越詩話』という本を三十年もかかって書いており、家にいるときは書斎にこもったきり顔をだすことがなく、私が父を見るのは墨をすらされる時だけであった。……父とは私に墨をすらせる以外に何の交渉関係もない他人であり、そのほかの場所では年じゅう顔を見るということもなかった。 [#ここで字下げ終わり]  ここで安吾が父親について書いていることは、事実としてはほぼ正確である。坂口五峰は憲政本党(旧改進党系)に属する地方政治家であり、明治四十三年に犬養毅が立憲国民党を結成したおりには、その新潟支部を結成して支部長となっている。  のちには、そこを脱して憲政会総務になっている。また、新潟米穀株式取引所の理事長をつとめてもいたから、じっさい多忙であったにちがいない。  五峰は一方で、青年時代に北蒲原郡の漢儒者大野恥堂の絆己楼に学び、漢詩文の教養を身につけている。明治の漢詩人として有名な森春濤門下となり、森槐南や市島春城が詩友であった。かれは衆議院議員をつとめるかたわら、上下二冊の大部の『北越詩話』の執筆にたずさわったのである。  ただ、そういった坂口五峰の経歴に対する安吾の記述のしかたが、きわめて批判的なニュアンスをもっている。これは、安吾の自己批判、いいかえれば安吾が自らを低める方法の延長上に父五峰のことを書いているからにほかならない。たとえば、安吾はこうも書いている。 [#ここから1字下げ]  私は父を知らなかった。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであった。そして私は多くの不愉快な私の影を見いだした。父について長所美点と賞揚せられていることが私にとっては短所弱点であり、それは私に遺恨のごとく痛烈に理解せられるのであった。  父は誠実であった。約をまもり、嘘をつかなかった。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかった。父は人に道をゆずり、自分の栄達をあとまわしにした。それはすべて父の行なった事実である。そしてそれは私においてその逆が真実であるごとく、父においても、その逆が本当の父の心であったと思う。父は悪事のできない男であった。なぜなら、人に賞揚せられたかったからである。そしてそのために自分を犠牲にする人であったと私は思う。私自身から割りだして、そう思ったのである。  私はまず第一に父のスケールの小ささを泣きたいほど切なく胸に焼きつけているのだ。父は表面豪放であったが、実はうんざりするほど小さな律儀者であり、律儀者でありながら、実は小さな悪党であったと思う。 [#ここで字下げ終わり]  つまり、安吾の父親像は一種の自画像なのである。伝記に父親の「長所美点」と書かれているところに、安吾はみずからに照らして、その裏側の「短所弱点」を看破ってしまう、というわけだ。  もうすこし詳しくいえば、父五峰は「誠実」な人で、「約をまもり、嘘をつかなかった」と評されるが、それは五峰がじぶんと同じく「悪事のできない男」であったからにほかならない、と安吾は考えるのである。また、五峰は「自分を犠牲にする人であった」といわれるが、それはじぶんと同じく「人に賞揚せられたかったから」にほかならない、ともいうのだ。  要するに、一見「豪放であった」坂口五峰は、じつは「小さな律儀者」であり、同時に「小さな悪党で」しかなかった。それゆえに二、三流の田舎政治家で終わった、と安吾は推測するのである。  安吾はつづけて書いている。——五峰が「小さかった」のは「夢がなかった」からであり、それだけ大人であった。これに較べると、加藤高明などという高名な政治家は子ども心の「幼さ」をもっていた。まだ「夢」をもっていた。こういった加藤の幼さは大悪人に通じるもので、ある意味では五峰とちがってスケールが大きかった、と。  以上のような安吾による父親=五峰像は、安吾のイロニカルな自画像の投影であるために、そのままでは坂口五峰という人物を考えるさいに役に立たない。ただ、五峰の『北越詩話』は幾十人もの漢詩人を精確に捉えてはいるが、その精確さはかれの「律儀さ」の反映ではなかろうか、と考え直してみるふうには役に立つ。翻っていうと、五峰の詩人評およびかれ自身の詩には、いわば天馬空をゆくがごとき独自のひらめきは期待できないかもしれない、と。  以上の留保をあらかじめほどこしつつ、『北越詩話』(上巻は大正七年十一月刊、下巻は大正八年三月刊。なお当時、五峰は六十歳。四年後に死去する)における小林虎三郎の詩文に対する評について、ゆっくりと考えてみることにしよう。    坂口五峰の虎三郎評  坂口五峰の『北越詩話』には、徳川以前の釈雪村にはじまり、自身の師である大野恥堂あたりまで、無慮数十人の北越地方における漢詩人がとりあげられている。労作といっていい。  五峰はここで、北越地方における漢詩の文学史を試みている。それは、精確さとバランス感覚と丹念さとを要求される作業であり、誠実さと律儀さとを美点としてもっていた五峰には、ふさわしい試みであったといえるかもしれない。そして、その網羅的に挙げられた漢詩人のひとりに、長岡藩士の小林虎三郎(病翁)の名があるのだ。  では、その虎三郎の詩文についての評は、どのようなものであったか。虎三郎の略歴についてはもう読者周知のことだろうが、五峰の虎三郎についての人物評やその情報源をたしかめるために、その冒頭部分をあえて引いてみよう。 [#ここから1字下げ]  小林虎 字は炳文。通称虎三郎。初め雙松又た寒翠と号し、晩に病翁と更《あらた》む。長岡藩士。誠斎の子。  河井蒼龍(継之助)の事を用うるや、議合わずして抗争するもの亦多し。而して小林病翁・川島叢軒億|次《ママ》郎、其の領袖たり。病翁、天資|穎敏《えいびん》。才思超群。幼にして嶄然《ざんぜん》、頭角を露わし、年十七八、已《すで》に崇徳館助教に擢《ぬきん》でらる。初め古学派の門に学ぶ。而して其の固陋を厭い、博《ひろ》く子史百家の書に渉る。……(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  こういった虎三郎の伝記に関する条りは、小金井権三郎・良精が編んだ『求志洞遺稿』の「略伝」によっているのだろう。「略伝」にあった「天資穎敏・才思超|衆《ヽ》」といった文字がほとんどそのままで使われていることからも、そのことは明らかである。  五峰はこのあと、例の象山門での吉田松陰との「両虎」の併称、象山の命に従って藩主に建言して帰国・謹慎を命ぜられたエピソードなどを、逐一記している。「略伝」と書き振りがやや異なっているのは、幕末の戊辰戦争にさいしての河井蒼龍(継之助)との対立場面である。その異なりは、五峰が長岡藩と直接の関係をもたないこと、そのため戊辰戦争における主戦派(河井)と和平派(小林)の対立を明からさまに指摘できる位置にいたこと、またそれをなしうるだけの時間がすでに過ぎ去っていたこと、などの反映とみられよう。 [#ここから1字下げ]  病翁、時事を慷慨し師友に感愴すと雖も、復た門を出ずる能わず。図書薬炉、悶悶日を消するのみ。然れども其の宇内の大勢に通じ、各国の兵政を暁《さと》るを以て、同志の徒、多く来りて機事を諮謀し、※[#「門がまえ+月」]地に在りと雖も、声望日に重く、隠然、蒼龍と対立す。時に蒼龍、執政たり。多く更革(改革)する所あり。病翁以て不可と為し、叢軒(三島)等と相議して其|失《あやまり》を指陳す。皆な用いられず。  戊辰の乱、蒼龍起ちて王師に抗す。病翁又た叢軒と力を極めて之を争う。而して藩論|已《すで》に定り、復た奈何《いかん》ともする能わず。是に於て、叢軒銃を執りて陣伍に就き、病翁は則ち母を奉じて兵を山中に避く。既にして戦敗れ城陥り、君臣流離、果して病翁の予料するが如し。論者謂う、蒼龍の王師に抗せしは勢の已《やむ》を得ざるに出ずと。而かも其勢を成せし者は蒼龍なり。故を以て識者或は病翁を多とし、其の正議の行われざりしを惜めり。 [#ここで字下げ終わり]  右の前段は、虎三郎が帰国後、門を閉じ、鬱々と日を送っていたにもかかわらず、その情報力、識見がしだいに認められ、声望が高くなって、執政の河井継之助と隠然対立したさまが述べられている。もっとも、虎三郎の意見はすべて用いられなかった、とも。  ここまでは周知のエピソードだが、後段が若干他の史料とニュアンスがちがう。同志の三島億二郎も従軍し、病身の虎三郎は老母を奉じて会津の山中に逃れたあと、戦いは敗れ、城が落ちた。これについてある論者は、河井継之助が「王師に抗」す決意をしたのは、「勢の已を得ざる」状況によってだ、と弁じた。しかし、その「勢を成せし者」もまた河井ではないか。それゆえ、ある識者は虎三郎の「正議」が行われなかったことを惜しんだ、というのだ。  そのように書く坂口五峰は、長岡人士の元気をふるい立たせた功績は河井にあるが、「正議」はむしろ虎三郎のほうにあったのではないか、と考えているようである。  では、漢詩人としての虎三郎については、五峰はどのように評しているのだろうか。ほかでもない、虎三郎の詩は「達意」が目的で、語には「真情」があふれているが、詩の制作に「刻苦」しなかった、というのである。  五峰が虎三郎の詩の代表作としてあげるのは、「癸丑六月、弥利堅使節彼理、兵艦四隻を率いて浦賀港に来たり……」とか、「象山先生を懐《おも》ひ奉つる」とか、「家国」とか、「大参藩事を拝して後の作」とか、「発跡」とかの、幕末・維新期の叙事的な作品である。そして、それら十三作をあげたあとで、虎三郎の作品には時務を論じたものが多い、つまり時務を論じて志を述べることを目的とした、いわゆる述志の文学だとして、次のように指摘する。 [#ここから1字下げ]  甲子《こうし》(十二支、時節)を按じて之を読めば、兼て閲歴を知る可し。而して言の時事に渉るもの、忠義の気、詞表に溢れ、其の戊辰諸作、尤も人をして長太息せしむ。 [#ここで字下げ終わり]  ここまでは、とくに五峰の見解をまつまでもない。多くの評者がほとんど一致していうところだろう。問題は、そのあとの短い批評の部分である。 [#ここから1字下げ]  但だ、近体多く声律に拘せず、未だ太濫《たいらん》を免れず。竟《つい》に足れ(是れ)学人の詩、詩人の詩に非ず。然れども長岡藩の作手を論ずれば、前に秋山景山あるも、竟に其敵に非ず。況や余子をや。 [#ここで字下げ終わり]  直訳してみよう。——ただ、虎三郎の詩は古式にのっとっておらず、韻律や押韻にあまり拘わっていない。はなはだ勝手なものが多く、完成品とはいえない。つまり、これは学者・思想家の詩であって、詩人の詩ではない。しかし、長岡藩の詩の作者としてみれば、さきに秋山景山があるだけで、それも虎三郎の敵ではない。まして、他の作者ではとうてい及ばない、と。  こういった坂口五峰の虎三郎の詩に対する批評は、「詩人の詩に非ず」という箇所からもわかるように、かなりきびしいものである。しかし、それは「近体多く声律に拘せず」という評言からもわかるように、多く漢詩の常法・作法に照らしての批評にすぎない、ともいえる。つまり、漢詩人としての五峰は、その漢詩の常法・作法に照らして、虎三郎の詩を精確に批判しているにすぎないのである。  詩とはついに志を述べるものだ、という虎三郎や河井継之助の思想からすれば、五峰はスケールが小さい、ということになるかもしれない。虎三郎が象山詩にふれて「文章に屑屑《せつせつ》たらず」、「詩は君子の其の志を言う所以なり」と評したことを想い起こしてみて、そう推測するのである。    「明治」を生きる  虎三郎の詩は、詩に遊ぶのではない。志が激発して言葉を作《な》すのである。「異言」と題した明治四、五年ごろの詩に、北沢乾堂(正誠)が次のような評語を付している。 [#この行1字下げ] 満腔の不平、発して、韻語を作す と。まさにそういった印象の詩が多いのである。  その「異言」と題した詩を引いてみよう。異言とは、文字どおり、異《い》なる言葉という意味であろうが、それが具体的に何を指しているのかは明らかではない。明治の新政になってから新たに現れた変わった発言とでも解しておいたらよいだろう。 [#ここから1字下げ]   異言 異言朝野尚紛然 異言朝野なお紛然たり 士庶迷方亦可憐 士庶|方《ほう》に迷う、亦憐むべし 吾恥曲学阿斯世 吾は恥ず、曲学斯る世に阿《おもね》るを 欲以沈淪終剰年 沈淪を以て剰年を終えんと欲す [#ここで字下げ終わり]  ——異言おこり、朝野はなお紛然とさわがしい。士族も庶民もその異言にたぶらかされ、行くさきに迷って右往左往している。憐むべし。わたしは異言に従って真理をまげた学問で、世間の人におもねり人気を得ようとする行為を恥じるものである。人気はなくともよい、沈淪をもって、静かに残りの年を終えようとおもう、と。  虎三郎はここで、「沈淪」し静かに余生を終えよう、などといっているが、そのことが騒がしく「紛然」たる朝野に対する批判を意味していることは明らかであろう。ましてや、詩のなかでは「異言」に従う「曲学阿世」の徒があらわれ、士庶(人民)をまどわしていることがあからさまに指摘されているのだ。虎三郎は詩を作ることで、世上に対し憤りを発しているのである。  同じころの「初秋書懐(初秋、懐《おも》いを書す)」という詩の、その三も引いておこう。 [#ここから1字下げ] 削平功纔成 削平《さくへい》、功|纔《わず》かに成り 荒歉禍未休 荒歉《こうけん》、禍いまだ休《や》まず 兵余多姦偽 兵余、姦偽多く 吏習卻苟※[#「女+兪」] 吏習、却って苟《こう》|※[#「女+兪」]《とう》 内憂既如此 内憂、既にかくの如し 外侮又日稠 外侮、また日に稠《おお》し 世態険於水 世態、水よりも険なり 何人是舟楫 何人か、是れ舟楫なる [#ここで字下げ終わり]  ——初秋になって、おもう。戦乱もおさまり、新政の功もわずかにあらわれつつあるが、昨今の凶作で世はまだ荒れている。正義の兵であったはずのものたちに姦偽のこと多く、己れに対して厳しくあるべき役人たちが一時の安楽をぬすんでいる。かくのごとく国の内に憂うべきこと多いうえに、外からの侮りの声さえ稠くきこえてくる。世情は水上よりも険難《けんのん》である。このとき、誰が巧みに国家の舟楫をあやつってゆくのであろうか、と。  いまこの詩の制作を明治四年秋とすると、前々年・前年につづく凶作でこの年の夏あたりから全国的に百姓一揆がおきていた。「荒歉、禍いまだ休まず」とは、そのことを指しているのだろう。「内憂」の一つである。ちなみに、明治四年の初秋から冬に百姓一揆がおこった県名をあげてみると、名古屋県、広島県、大洲県、松山県、浜田県、鳥取県、飾磨県、生野県、弘前県、岡山県、高知県、豊岡県、度会県などである。  また、「外侮、また日に稠し」とは、この年の十一月に台湾に漂着した琉球漁民五十四人が、言葉が通じないために殺害された事件を指しているのだろうか。この事件は、のちに台湾出兵(明治七年)へと発展するものである。  いずれにしても虎三郎は、そういった明治初年の内憂外患を感受しながら、ひたすら国家の進路、民情の行くさきというものに注意をはらっている。かれはすでに長岡藩大参事を免ぜられ、文武総督といった役どころも病気のためやめさせられている。しかし、かれの意識としては、草莽にあって国家の行くすえをひたすら想う志士を自任しているのである。  あえていえば、「明治」という時代はかくのごとき士が朝野にあることによって、内外ともに多難な季節をのりきることができたのだった。小林虎三郎はそういう士の代表なのである、とも、また虎三郎はそのような士であることによって、「明治」という時代を生きていたのだ、ともいえよう。かれはいわゆる大言壮語し、詩に悲憤慷慨をもらす徒ではない。それは、かれがこのような険難の時代に誰が国家の舟楫をあやつってゆくのであろうか、と危ぶみつつ、同時に『小学国史』全十二巻の出版や、『徳国学校論略』の翻刊という、かれ自身の仕事をすすめていたことによっても明らかであろう。  ただ、そういう着実な仕事をつづけながらも、ときに世情に対し憤りを発し、そのために詩を作るのである。かれは詩の技巧に時を過ごすような詩人ではなかったのである。    明治のパトリオット  虎三郎の「明治」という時代における生きかたをもっともよく示しているのが、明治七年(一八七四)三月二十八日付の三島億二郎宛の書簡だろう。ここには、すでに余生を送るなどといいつつ、じつは国家の進路、民情の行くさきに心を砕く、明治のパトリオット(愛国=郷者)の原像がくっきりと刻まれている。  わたしは第六章のタイトルを「幕末のパトリオット」と名づけ、そこに虎三郎はもちろん、佐久間象山、吉田松陰、河井継之助らをふくめた。そうして、かれらの思想的・政治的立場のちがいは「幕末」という特殊な時間がかれらに強いた選択のちがいではないか、というふうにも書いた。ところが、その「幕末のパトリオット」のうち、「明治」という時代に一人生き残り、いや生き残っているばかりではなく、まさに「明治のパトリオット」として生きているのが小林虎三郎なのである。  ともかく、その明治七年三月二十八日付の書簡をみてみよう。 [#ここから1字下げ]  爾来久々御不音申し上げ、新年早速御祝書に預り候ところ、裁報もつかまつらず、踈慢《そまん》の罪、恐縮の至に存じたてまつり候。先ずもって逐日暖和あい催し候ところ、愈御健安なされ、御興居恭賀たてまつり候。  徳蔵君(三島の長男)御帰郷以来追々御快方に赴かれ、頃日《けいじつ》鵜殿氏(白峯駿馬のことか?)来訪にて伺い候えば、此節は余程宜しく為り入られ候旨、御地の雪寒にては、御病症に如何かと、蔭ながら御案じ申し上げ候ところ、御|碍《さわ》りもこれなく、のみならず追々御平|愈《ママ》にあいなり候は、重畳の御事、大慶これに過ぎずと存じたてまつり候。猶このうえ折角御摂養なされ候よう、万々祈る所にござ候。小生も、新年来此地(東京)例外の雪寒の為に畏縮がちに過ぎ、去月下旬より稍《ようやく》温暖を催し候に付き、出掛け、屡々《しばしば》遠近の知音を訪ねなどいたし候うち、本月十日前の再び返り寒さに中《あて》られ、例の骨節痺痛、加うに熱気これあり、夫《それ》も苦悩の間も暫くにて、追々宜しく候に付き、頃日試に酒を用見《もちいてみ》候ところ、又々中られ、発熱いたし……(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  ここまでは時候の挨拶と、じぶんの健康状態の報告のようなものである。とくにとりあげて説明を加えるほどのこともない。ただ、虎三郎と三島億二郎がその健康状態や家族の動静など細々とした情報まで知らせ合う仲だったことを読みとってもらえばよい。  問題は、このすこし後の記述である。 [#ここから1字下げ]  ……朝鮮一件早速平和に至り、御同情大慶に存じたてまつり候。右談判に付ては、井上氏(井上馨大蔵大輔?)の功、居多のよう相聞え候。黒田(清隆開拓次官)は勇気のみにして、動《やや》もすれば事を敗《やぶら》んとする勢なりしなど申し候。朝鮮の貧弱且愚陋は憐むべきものと申す事にござ候。此地先日薩州の中山等はじめ捕縛せられし後、別段の事もこれなきようにござ候。  政府にては頻に専制を行う説と申す事、其の魁首(首魁)は大久保(利通大蔵卿)にて、伊藤(博文工部大輔)等これを賛成する由、此頃も既に士民所有の刀剣を引上る(廃刀令は明治九年)など風説これあり候。余り甚しき事なり。現在日本の人民にては、民選議院などは固《もと》より起すべからず候え共、稍《いささか》書を読む者は、既に専制の非を知れり。猶専制を以て時宜に適すとなすや、解すべからざる也。  長岡社生徒も過日着京、此節は築地外国人へ語学習いにまいられ候よし、先《まず》は大に宜しく候。御地小学校は、此節如何にこれあり候や。…… [#ここで字下げ終わり]  手紙はこのあともう少しつづくのだが、そこは長岡の小学校も運営資金不足で大変だろう、何とかしてやりたいが……といった心配の文面である。虎三郎が三島といっしょにつくった国漢学校、小学校、長岡洋学校などであれば、かれがその状態を心配しているのも当然である。  ただ、それよりもいまは、東京で「明治」という時代を生きているパトリオットが長岡にいる盟友に何を情報として伝えようとしていたか、そうして当時何に気を配り何を考えていたか、により多く焦点をあててみたい。  もっとも、この虎三郎の書簡では、明治六年から七年にかけての岩倉使節団、征韓論争、大久保(専制)問題、民選議院設立などの情報が錯綜していて、ちょっと分かりにくいところがある。  岩倉使節団の欧米派遣は、明治四年十月八日(横浜出発は十一月十二日)からはじまっていた。特命全権大使が岩倉具視、副使が参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務少輔の山口尚芳の四名である。それに、久米邦武、佐々木高行らの多数の随行要員がいた。  このとき、大蔵卿大久保利通の外遊に反対したのが大蔵大輔の井上馨である。留守中の省務に自信がもてない、というのが、表面的な反対理由である。そのため、政府は大久保の留守中、西郷隆盛が大蔵省の面倒をみることにして、井上を納得させた。ところが、井上は翌明治五年五月三十日、琉球人五十四人の殺害事件を考慮して、琉球の版籍併合を建議するという荒技を行っている。  この一事をみても、井上が当時かなりの力を揮っていたことがわかろう。  そのあと、明治六年五月になって予算編成権が大蔵省から正院(内閣)に移されると、井上は抗議のため辞任している。この直後に、大久保が一年半ぶりに帰国し、西郷を中心とする留守政府で決定していた「征韓論」、いや正確にいうと西郷の朝鮮派遣を取り止めさせるのだ。大久保はそのために天皇を動かそうとして、伊藤博文を使い、三条実美に働きかけたのである。  ところで、虎三郎はこのいわゆる「征韓論」の取り止めの首謀者として井上馨を想像していたらしい。これには、戊辰戦争のあと、長州藩の井上が新潟の佐渡県判知事(民政長官)に任命された(実際は赴任せずに、長州藩干城隊参謀の奥平謙輔に代わった)ことの親近感なども働いているのかもしれない。そういえば、書簡で次に名まえがでてきた薩摩出身の黒田(清隆)北海道開拓次官も、かつて戊辰戦争で長岡攻撃に加わった人物であった。これは虎三郎が長岡藩あるいは北越との関わりから明治の中央政局を眺めていた、ということだろうか。そうとばかりはいえない。長岡攻撃に直接間接に関わった西郷、黒田、山縣、井上、前原(一誠)らが当時いずれも中央政局で重きをなしていた、ということにすぎないだろう。  それはともかく、大久保利通が岩倉使節団に一歩先んじて帰国したのは、明治六年五月二十六日のことである。帰国後、大久保は伊藤を使い、三条実美や木戸に働きかけ、西郷の朝鮮派遣を取り止めさせ、そうして大久保専制体制をつくりあげてゆくのである。毛利敏彦などは、それを『明治六年政変』(一九七九年刊)で、「大久保のクーデター」とよんでいるほどだ。  さてしかし、虎三郎の三島宛書簡が書かれた明治七年三月二十八日段階では、すでに西郷をはじめとする参議、すなわち後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平らは、参議を辞任していた。のみならず、板垣や副島らは明治七年一月十七日付で左院に、「民選議院設立建白書」を提出していた。  虎三郎はこの民選議院について「固より起すべからず」といっているとおり、反対意見をもっていた。それは、議会制度や民主主義に反対というより、虎三郎の思想からすれば政治は理性にもとづいた「哲人政治」であるべきだ、という考えからだったとおもわれる。かれは専制政治については、徹底的に反対していたからである。「稍書を読む者は、既に専制の非を知れり」とは、専制否定論でなくて何だろうか。  虎三郎は、いわゆる「征韓論」に反対するとともに、専制政治(大久保体制)をも批判していた。そのようにして、かれは「明治」という時代に、直に関わっていたのである。かれ自身の思想を賭けて、闘っていたのだ。闘うことによって生きていた、といってもいい。そのように生きることによって、後から来るものへ、みずからの思想を開示していたのであろう。「明治のパトリオット」の生の闘争、とそれを呼んでもいいだろう。 [#改ページ]   第十二章 終焉    病魔あらわる  明治九年(一八七六)、虎三郎は数え四十九歳に達している。いまでいえば老年というには遠いが、当時とすれば初老の年齢をとっくに超えている。それに、いくつもの病気がかれの肉体の衰えをはやめていたとおもわれる。  その肉体の衰えが病魔に対する抵抗力を弱め、この夏には一時、立つこともできないほどの病状になった。甥の小金井良精の明治九年の記録には、すでにふれたように、「暑中休暇は病翁様ご病気につき、帰省せず。高橋三郎氏と旅行し、富士山に登る。ついで病翁様をともない、伊豆熱海に行く」と書かれている。一時は医学生の小金井良精も目をはなせないような状態になったが、やや回復して、良精とともに熱海に療養にでかけた、ということだろう。  この熱海行で、虎三郎は久し振りに、いくつかの詩をつくっている。その一つ。 [#ここから1字下げ]   再抵熱海(再び熱海にいたる) 訪此温泉是両回 此の温泉を訪ぬること、是れ両回 竹輿※[#「口+伊」]軋下山隈 竹輿|※[#「口+伊」]軋《いあつ》して、山隈《さんわい》を下る 村童三五笑相迎 村童三五、笑って相迎う 往日髯翁今復来 往日の髯翁、今|復《ま》た来ると [#ここで字下げ終わり]  これよりまえに虎三郎が熱海に行ったのは、いつのことだろう。そんなに古いことではなさそうだ。『徳国学校論略』の刊行のあとでもあったろうか。『求志洞遺稿』にある、一度目の熱海行の詩をみても、それほど以前のことではないことがわかる。しかし、その折の熱海での詩と明らかに違っている感慨が、この詩にはある。  ——この温泉にきたのは二度目だ。途中の山道は、まがりくねっていたなあ。竹のかごがきしきしと音をたてて鳴った。乗っていて、ちょっと苦しかった。温泉のある村にたどりつくと、村の子どもたちが何人かずつ集まってきた。わたしの顔をみると、「やあ、いつかのヒゲじいさんがまたやって来たぞ」、と笑いながら歓声をあげた。おうよ、あのときのヒゲじいさんだ、まだ生きてたよ、と。  この詩には、生真面目な虎三郎にしては、なんとなくユーモアのような情感が漂っている。それは、虎三郎が危うく死にそこない、辛うじて回復した体験がもたらした、生きていることの喜びというものかもしれない。一度目の熱海行の詩には見出せぬ情感である。  そして、その生きていることの喜びは、生命力に満ちていた若き日への追想につながっていった。先がみえはじめた生命への愛惜が、そういう表現をとったのかもしれない。「熱海寓楼雑詩」二つのうちの一つには、こうもある。  ——遠くの大島は翠にかすみ、近くの初島は黛色に浮かんでいる。真鶴岬は海を飲まんとする竜の子のように、身を乗り出している。伊豆の海から、その先の房洲のほうに目をやっていると、源為朝がかつて白帆をかかげて海を渡り、房洲へと走り去っていったという故事を想い出した。そうだ、若いときもこのように、房洲へとつづく海を眺めながら、鎮西八郎為朝のことを想い浮かべたことがあったなあ、と。  虎三郎がかつて房洲へとつづく海をながめながら、鎮西八郎為朝の故事を想い浮かべたのは、かれが数え二十四歳のときである。四半世紀もまえのことだ。あのとき、かれは師の象山といっしょに浦賀の千代ヶ崎台場をみてまわったのだ。その師もすでに失せて、久しい。わが身ももはや老いた。……というような感慨はここには直接的には記されていないが、海、房洲、源為朝とつづいてゆく連想は当然、亡き師、若かりし日のじぶんへとたどりついていったとおもわれる。  おそらく、まだ生きていたという喜びと、すでに年老いたという哀しみとは、虎三郎のなかで一つになっている。それは、かれが師の象山も、親友だった吉田松陰も、ライバルだった河井継之助もとうに失せて、ただ一人残されてあると意識しているからだ。病み上がりの身がその意識をつよく浮上させる。  象山がその教育を虎三郎に託そうとしていた、息子の佐久間恪二郎さえ、明治十年二月二十六日には食中毒死してゆくのだ。三月九日付の勝海舟の『日記』には、短く、次のように記されている。 [#この行1字下げ] 佐久間|格《ママ》、病死の由。  佐久間恪二郎はこのときまだ二十九歳にすぎない。二日後には、佐久間の親類のものが海舟のもとに「跡々の事何分依頼の旨」申し出でてきており、海舟はこれを了解している。  ともかく、明治九、十年ごろには、虎三郎にとって長いつきあいのある人物といえば、海舟のほかは三島億二郎一人になってしまっているのである。    萩の乱についての批判  その古い友人の三島億二郎に宛てた、明治九年十二月十九日付の書簡には、この夏の病気と療養のための熱海行のことが、次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  ……小生事も春来、図らずも一個の悪症を添え、最初尋常の黄疸の心得に候ところ、左《さ》にこれなく、肝臓の慢性|※[#「火+欣」]衝《きんしよう》(激しい炎症)の一種にて、「チルロース」と申す症《やまい》にて、世間稀少の疾《やまい》ゆえ、此方には未だ訳名もこれなき位の仕合、さり乍《なが》ら幸に療治手後れに成り申さず候ゆえ、先《まず》は維持いたしおり候。  但、何分難疾ゆえウィルニヒ氏の治療も久しく受け、そのご熱海遊浴もいたし候えども、于今《いまに》全快の目途あい立たず、此節佐々木東洋氏の治を受けおり候に、斯《この》人も請合て治するとも申さず、大分永くも相成り、随分困却罷りあり候。  併《しかし》、夏頃に比すれば、精神沈鬱の一症|稍《やや》薄く相成り候あいだ、先是《まずこれ》を頼みに致しおり候。幸に御過念くだされまじく候。右不快に就ては、夏中も御書問に預り、そのごも厚意よせられ、御見舞として御肴料一円御恵投くだされ、感悚《かんしよう》(感激とおそれ)交集、早速裁書、御礼も申し上ぐべきのところ、病慵《びようよう》(病のものうさ)の存外に甚しきより、遂に是迄延引、汗顔の至。幸に御恕亮願いたてまつり候。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  この文面によれば、虎三郎の病気は例のチルロースであって、それが悪化したもののようである。かれはこの治療のため、ウィルニヒというドイツ人の医師にかかったうえ、熱海への静養にでかけたのである。  そうして、その後、杏雲堂病院(御茶の水)の佐々木東洋のもとでも治療をうけている。しかし、虎三郎が書いているように、どの医者も治るとはいわなかったようだ。虎三郎がこの病気にほとほと「困却」しているさまがよく伝わってくる。  とはいえ、かれはこの手紙で、じぶんの身体の不調をいっている(前略部分では、億二郎の息子の病気を心配してもいる)ばかりではない。かれはみずからの病気についての「困却」をいい、老いを意識しつつも、明治という進行中の時代を生き抜こうとしている。右の手紙のつづきの部分は、まさに明治を生きているパトリオットの、同時代に対する生まの感想にほかならない。 [#ここから1字下げ]  先日は|西海山陽の賊徒《ヽヽヽヽヽヽヽ》蜂起狂愚の至、官参議に至り候者の斯る事を働き出候には、実に嘆息にござ候。併《しかし》、早速鎮定、大慶々々。大木司法卿も御処分済にて、頃日《けいじつ》帰京に候。  茨城県下にて去月末よりか百姓共(旧水戸藩の士族も少々は加るという)石《こく》代金の件を口実として暴動、県吏巡査等を殺し、一時|頗《すこぶ》る猖獗《しようけつ》(さかんにはびこる)の趣に聞え候ところ、是も頃日鎮定の趣に承り申し候。  京地も過日の大火の後は別異も無くござ候。色々あい伺いたき件もこれあり候え共、先ず擱筆、新年を期し候。末筆乍ら御見舞の御礼山々、令政君おんはじめ仰せ上げられくだされたく候。時下千万|稠人《ちゆうじん》(多くの人民)の為に、御自玉(自重)たえず渇祈候。……(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎は右の第一段で、十月につぎつぎにおこった熊本神風連の乱、秋月の乱、そうして萩の乱などを「賊徒蜂起」とよび、そうして「狂愚の至」と手きびしく批判している。なかでも、旧参議の前原一誠が首領として加わった萩の乱などは、前原が戊辰戦争で越後攻略に加わり、戦後は西園寺公望(府知事)のもとで越後府判事になっていた経歴のせいもあってだろう、虎三郎はなんと馬鹿げたことを! とあたかも罵っている風情である。「早速鎮定、大慶々々」という言葉には、明治新政の推進者だった参議が、不平士族の反乱に加わるなど愚の骨頂だ、という激怒さえこめられていよう。  もっとも、萩の乱に首領として加わった前原一誠や、その参謀役をつとめた奥平謙輔からすれば、戊辰戦争で多くの死者をだして革命を行ったのに、士族は職を奪われ、農民は酷税に泣いている。にもかかわらず、木戸孝允や大久保利通のすすめる明治の新政は有司専制になっている。何たることか、というところだろう。  こういったことどもに対し、虎三郎はどう考えていたのだろう。右の文面からだけでは、詳しくはわからない。それゆえ、第二段のほうに移ってみると、虎三郎はそこで、地租改正——収穫高に対してから地価に対する三%の課税とし、それも物納ではなく金納にした——に反対して、茨城県下で起こった百姓一揆(とくに真壁暴動が有名)を報じている。この百姓一揆については、「鎮定」をまあよかった、というふうに受けとめているが、「大慶々々」とは喜んでいない。それは、かれが生活苦の百姓一揆を新政に反対する士族反乱とは同一に考えられない、と捉えていたからかもしれない。  新政府のほうでも、萩の乱などに対する処罰は、虎三郎も書いていたように、一カ月後には斬罪に処すといった断固たる処置をとったが、地租改正反対の百姓一揆に対してはこの十二月二十七日付で、大久保利通(内務卿)が地租の減額——地価の二・五%へ——を建議するといった具合に、かなり柔軟に対処しているのである。  いずれにしても、虎三郎は第三段目で、長岡で政治にたずさわっている三島億二郎に宛てて「千万稠人の為に」と書いているように、政治は人民を救うものでなくてはならない、という政治観を抱いていた。だから、萩の乱のように政治にたずさわるべき士族(武士)が士族反乱をおこしたり、幕末の河井継之助のように人民を苦しめる戦争をはじめたりしてはいけない、と考えたのである。  つまり、かつて河井継之助を批判した思想と、いま前原一誠を批判する思想とは、虎三郎にあっては別のものでない。そう考えてみると、『求志洞遺稿』で熱海行のまえに置かれた「有感(感有り)」の詩は、明治九年の萩の乱をふくむ、一連の士族反乱に対する批判というふうにもよめるだろう。    漸進的な変革の道 「有感(感有り)」は、虎三郎の述志の詩としては、最後のものである。これをよめば、虎三郎がこの明治九年末の時点で、肉体の衰えを意識していたにしても、精神はなお健剛を保っていたことがわかるはずだ。 [#ここから1字下げ]   有感(感有り) 昨日妄自大 [#2字下げ]昨日|妄《みだ》りに自大《じだい》にして 囂囂唱鎖攘 [#2字下げ]囂囂《ごうごう》、鎖(国)攘(夷)を唱え 今日乃醒悟 [#2字下げ]今日乃ち醒悟して 諄諄説文明 [#2字下げ]諄諄《じゆんじゆん》として文明を説く 今日之是自可喜 今日の是自ら喜ぶべく 昨日之非曷須議 昨日の非なんぞ議するを須《もち》いん 知過能改不失正 過《あやまち》を知って能く改むれば、正しきを失わず 見幾而変亦是知 幾《き》を見て変ずれば、亦是れ知なり 独憐一種拘儒徒 独り憐れむ、一種|拘儒《こうじゆ》の徒 至死空誦震旦書 死に至るまで空しく誦す震旦《しんたん》の書 [#ここで字下げ終わり]  前半は五言、後半は七言という変則の詩である。いや、詩としては律が整っていないが、いまの虎三郎にとっては形式などはどうでもよかった。明治という時代を生きてゆく、それも未来を「遠望」しつつ生きてゆく精神がつよく指し示せればよかったのだ。  小林虎三郎はいま、どのような精神を指し示そうとしていたのか。  ——昨日まではやけに威張りくさって、声高に鎖国、攘夷を唱えていたものたちが、今日になると一転覚醒して、諄々として開国、文明への道を説いている。あきれかえって物も言えない。ただそうはいっても、今日の是は賀すべきであり、としたら昨日の非をあえて咎むべきではない。なぜなら、過失を知って、それをよい方に改めるなら、それは正しいことだからだ。少しずつでも現実をみて、おのれを変えてゆくなら、それもまた知であるからだ。ただ、偏狭な儒学者、守旧の連中については憐むばかりである。かれらは死に至るまで、空しく中国の書を誦み、儒学の伝統にしがみついているばかりだ、と。  虎三郎はここで、昨日まで攘夷を唱えていたものたちが一転して開国説へ、文明開化の徒へと変じたことを嗤っている。ただ、それも、かつての過ちを悟ったということなら、結局は知に至ったということであるから、許すべきだ、という。これに対して、許せないのは、いや憐むべきなのは、近代に目覚めることのできない守旧派の儒学者だ、と論じているのである。  こういった虎三郎の思想は、明治国家の西洋的な近代への歩みを基本的に是とするものといってよい。より正確にいえば、漸進的な変革をおしすすめる保守思想、とでもいったらよいか。  かつてフランス革命《ヽヽ》の理念に対抗して、「ゆるやかだが確実に持続する進歩」という保守《ヽヽ》主義の理念を打ち出したのは、イギリスのエドマンド・バーク(一七二九—九七)であったが、虎三郎はその意味での、保守主義者であった。かれは前章にも述べたとおり、民選議院の設立には反対したが、かといって専制政治は徹底して排すべきだと考えていた。たとえば、かれは一挙に廃藩置県を断行したり、廃刀令を施行するなどというのは、あまりにも「甚しき事」だ、と考えていた。だが、そういった漸進的な変革は、どのようにしたら可能なのか。虎三郎の答えは、教育ということ、つまり人民の心(エトス)のほうから、考えかたのほうから変えてゆくべきだ、というのである。  三島億二郎宛の十二月十九日付の書簡には、次のような追伸が記されていた。 [#ここから1字下げ]  洋学校も中学校と変じ、開業式も相済み候よし、是等に就ても御尽力御察し申し上げ候。生徒|追々《おいおい》講習の便を得もうすべく、かげ乍ら大慶存じたてまつり候也。…… [#ここで字下げ終わり]  虎三郎の念頭にあるのはなお、国漢学校、小学校、洋学校、中学校と移り変わっていった長岡の「学校」のことである。明治二年国漢学校、四年柏崎県長岡分黌、五年長岡洋学校と変じていった「学校」は、明治七年には公立二十番小学阪之上校および新潟県第三中学、というふうに組織換えになっている。そうして、この第三中学が長岡学校という名で呼ばれるようになったのが、虎三郎の書いているように、明治九年十一月からなのである。そういった目まぐるしい変化はありながらも、虎三郎にとってはこの「学校」こそが日本というネーションを根底からゆっくりと着実に変えてゆく場だ、と考えられていた。その想いがこういった追伸の内容となってあらわれているわけだ。  それはむろん、たんに長岡という一地方においての問題ではない。日本というネーションを根底から変革してゆくためには、このような学校という小さな場、人民の生活している根の場からゆっくりと変えてゆかねばならない、というのが虎三郎の考えであった。  この保守主義者は、伝統を守れなどと声高に叫んだりしない。ましてや、伝統を変えるななどと主張する守旧派ではない。さすが、佐久間象山が子どもをあずけて教育してもらうのなら虎三郎に、と見込んだはずである。人材育成や教育というのは、目先のことのみを考えた、「その日ぐらし」の発想ではダメなので、虎三郎のような「遠望」するまなざしをもった人物にこそ相応しい事業なのである。  しかも、虎三郎はたんに教育者としてそれを考えていたのでない。ネーションの漸進的な変革のためにこそ、教育が須《もち》いられるべきだ、と考えていたのである。人民の心(エトス)の変革が、政治や経済の変革に先んじ、またそれらの根底にあるべきだ、というのである。    その死  病勢は一時|休《や》んだかにみえたが、そうではなかった。明治十年に入ると、手紙を書くのさえ煩しく感じる日が重なり、うつらうつらと過ごす時間が多くなった。  そうこうするうち、佐久間恪二郎が病死し、実弟の寛六郎も西南戦争に従軍して病死してしまう。身のまわりから、血のつながったもの、縁故のあるものが、つぎつぎに欠けてゆくのだ。小林家の跡をとった実弟(四男)の貞四郎も、翌明治十一年五月二十日に死んでしまうのである。  暑い夏をむかえるにあたって、虎三郎は避暑のため伊香保温泉に移った。かれはここでいくつかの詩をつくっているが、それが生涯で最後の詩作になった。『求志洞遺稿』には、「伊香保雑詩」として五つが載せられているが、そのうちの一つを引いておこう。 [#ここから1字下げ] 雷声収雨返岩区 雷声収って、雨岩区に返る 隠隠猶聞震四隅 隠隠として猶聞く、四隅に震うを 糢糊山色翠将滴 糢糊《もこ》たる山色、翠《みどり》まさに滴らんとす 恰是米家水墨図 恰《あたか》も是れ、米家の水墨図 [#ここで字下げ終わり]  ——山里に雷鳴がとどろき、それがおさまって、雨も岩山のほうに返っていった。山に霧がわき、糢糊たる山容になった。樹々の緑は露をふくみ、しずくを滴らして、あたかも緑を垂らしているごとくだ。眼前に宋代の詩人・米《べい》|※[#「くさかんむり/市」]《ふつ》(元章)の山水画の世界がひろがっている、と。  こういう「伊香保雑詩」をよんでいると、虎三郎が盛夏を避けて山中の温泉にすごしている生活が、ごくごく静かに、何の変事もなく過ぎていったさまが窺える。変わったことといえば、雷鳴がとどろいたり、霧がまいたりするぐらいのことである。  そういった山中の穏やかな時間を、虎三郎はうつらうつらしながら送っている。病さえあまり意識することがない。人間の外に在る、といった風情である。  と、伊香保で一カ月あまりを過ごした八月の下旬、虎三郎は突然に高熱を発した。山中の温泉地には、かれの「チルロース」といった病気について知る医者もない。かれは輿にのせられ、蒼惶と山を下った。  明治十年八月二十四日の夕刻、小林虎三郎は、東京の向島にあった弟雄七郎の屋敷について間もなく、息をひきとった。数え五十歳である。  西南戦争が西郷隆盛の自刃で終わる一カ月まえのことだった。文政十年生まれの西郷は、この年、数え五十一歳だった。ほぼ同い歳で、同じような人物たち(勝海舟、佐久間象山ら)に出会いながら、虎三郎と西郷はついに出会うことがなかったもののようである。  虎三郎の死を記録する、二つの文章を引いておこう。一つは、勝海舟の明治十年八月二十五日の『日記』で、 [#ここから1字下げ]  八月二十五日(晴) ……警視佐藤。内田隠居、家の系図並びに書物一箱預り置く。  小林病叟、死去の知らせ来る。  山岡(鉄舟)へ、赤松より預り候う楠公短冊差し遣わす。宮内省より使いこれあり候についてなり。…… [#ここで字下げ終わり] とある。海舟が虎三郎の名を「病叟(へいそう)」と記しているのは、「病翁(へいおう)」の誤りともみられる。ただ、叟も翁もともにオキナであるから、必ずしも誤りとはいえない。それに、虎三郎じしん、寒翠病叟乕という名のりをしていたこともある。  いずれにしても、海舟のもとには、虎三郎の死はその翌日に、すぐ報じられていたのである。小金井権三郎と良精が『求志洞遺稿』を編纂するにあたって海舟にその題詞をたのんだのも、明治という時代において虎三郎の理解者と称すべきは、まず海舟しか考えられなかったということだろう。海舟は象山の義兄であったし、かれこそ革命《ヽヽ》の明治にあってエドマンド・バークのいう保守《ヽヽ》主義者、「ゆるやかだが確実に持続する進歩」をモットーとする思想家であったのだ。  さて、もう一つの記録は、小金井良精の明治十年の記録で、そこには、 [#ここから1字下げ]  明治十年(二十歳)。六月より、教授ランガルト氏が薬剤学を、ベルツ氏が内科各論を教授す。  夏に帰郷す。家族はみな栃堀村にあり。兄君(権三郎のこと)は西南の役にて出京の際なり。在郷中に病翁様、死去さる。……(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり] とある。良精は前年夏の虎三郎の病気のさいには心配して帰郷さえとりやめ、熱海の療養に同行したほどだが、今年は虎三郎があらかじめ伊香保に療養にでかけていたため、安心して帰郷したのであろう。虎三郎の死は、その虚をついたかたちになった。  虎三郎の葬儀に誰が立ち合ったのかは、審らかにしない。ただ、三カ月後の十一月三日にいとなまれた法事には、雄七郎の主催のもと、弟の横田大三、寛六郎のほかに、三島億二郎、牧野雪堂、梛野嘉兵衛、長谷川泰、加藤一作、岸宇吉、稲垣林四郎、三間正弘、白峯駿馬などが出席していたことが、「三島億二郎日記」からわかる。    亡き骸《がら》について  虎三郎の亡き骸は、その葬儀が谷中の天眼寺住職を導師として営まれた因縁で、上野の谷中墓地にほうむられた。戒名は雙松院文覚炳居士。土葬である。  小林家の菩提寺は、もともと長岡千手町の興国寺であるが、虎三郎およびその十四年後の明治二十四年四月四日に亡くなった(四十七歳)弟の雄七郎の追善供養は、谷中の天眼寺でおこなわれてきた。  小林家代々の法事のほうは、菩提寺の興国寺でおこなわれてきたが、小林家を継いだ貞四郎が明治十一年に亡くなり、その跡を継いだ幹が生涯娶らぬまま昭和十五年に亡くなったため、そこで小林家の本家は絶えてしまった。興国寺にある小林家代々の墓は、その後、雄七郎の子孫が守ってきたのである。  なお、虎三郎も一説に生涯娶らなかったといわれてきたが、雄七郎の長男である魁郎が昭和十六年に調べたところ、虎三郎はいちど本富氏から妻をむかえているらしい。その後、理由はわからないが離婚し、再婚はしなかったということらしい。  山本有三も虎三郎が生涯独身だったと書いているが、司馬遼太郎の『峠』では、火事にあって焼け出されたさい妻の実家にいた、というふうに記述されている。星新一はこれを、火事にあったとき、すでに離縁していた妻の実家に「仮ずまい」したのではないか、というふうに推測している。そうかもしれない。離婚の理由については、星新一は虎三郎が藩主から謹慎を命ぜられたさい「遠慮し、離縁したのではないか」と推察しているが、これはわからない。単純に、病臥の生活がつづいたため離縁した、ということかもしれない。  いずれにしても、虎三郎は生涯子をもたず、小林家の本家を弟の貞四郎に渡して谷中墓地にほうむられたから、つねに雄七郎とともに祀られることになった。ところが、雄七郎の長男魁郎が昭和二十二年に亡くなり、その妻粂子は四人の子どものうち一人だけ生き残った娘(他は夭折)がよそに嫁したため、虎三郎・雄七郎の墓を長岡の興国寺に移すことにした。昭和三十七年(一九六二)のことである。  虎三郎の死から八十五年が過ぎ去っていた。このとき興国寺の住職、中村良辨は、みずからトラックにのって、谷中墓地に赴き、虎三郎と雄七郎の遺骨を掘り出している。  地中に鍬を入れると、まず木棺に収められた雄七郎の遺骨がでてきた。棺が木製のため朽ちていて、土が棺を押しつぶしている。なかの遺骨も土の重みで、かなり壊れていた。  ところが、その雄七郎の木棺の下にあった虎三郎の遺骨のほうは、土製の甕棺に収まっていた。そのため、遺骨は八十五年後でもほとんど崩れることなく、坐禅をくんだ状態で保たれていた。  以下は、一九九〇年十二月はじめに、興国寺住職の中村良辨さんからわたしが聞いた話である。  ——いまから三十年もまえのことですから、わたしもまだ若かったんですな。長岡からトラックにのって東京まで出掛けたんですよ。いまなら、もうダメです。虎三郎さんの遺骨は、坐禅をくんだような格好で、甕のなかに収まっていました。雄七郎さんの木棺がちょうどフタの役目をはたしたんですな。甕のなかの骨は、まったくといっていいほど腐っていませんでした。病弱とはいっても、骨格はしっかりしてました。掘り出して、この(興国寺の)境内に埋めましたが、すこしも崩れませんでした。とくに、その頭蓋骨は丈夫でしたな。歯だって、どこが病人かとおもうぐらい立派でした。甕棺で土葬をすると、八十五年くらいではどこも崩れないんですな。そういえば、そのとき掘り出した頭蓋骨の写真が撮ってありましたが……。  そういって、中村さんはその写真が貼ってあるアルバムを探し出してくれた。ふつうの頭蓋骨よりやや大きめのシャレコウベだった。前歯が二、三本落ちているだけで、あとはどこも損傷していない。虎三郎は片眼を失明していたが、シャレコウベの眼窩をみるかぎりでは、どちらの目が悪かったのか、まったくわからなかった。  三十年ほどまえに、このシャレコウベがいまわたしの立っている興国寺の境内に埋められたのだった。そう懐かしくおもって、小林虎三郎・雄七郎の墓石の立っている地面をなでてやりたくなった。虎三郎が亡くなってから百十年あまりが過ぎたが、わたしにとってかれはそれほど昔の人という気がしないのである。つい昨日の人、といった印象である。そのことが、かれのシャレコウベさえ懐かしくおもえたゆえんだろうか。  本書を書きはじめたとき、わたしはかれのシャレコウベを写真でみる機会があるなどとは、ついぞ考えてみなかった。しかし、それを目にした現在では、ごく平静な心持ちである。この眼窩が佐久間象山や吉田松陰にまみえ、この頭蓋骨のなかで、『興学私議』や『隠憂の賦』がつくられ、この口が「我に万古の心あり」と口誦んだのだな、と自然に納得したのである。  ともかく、虎三郎は没後八十五年にして、故郷の長岡に帰ってきたわけである。かつて虎三郎が帰藩・謹慎を命ぜられ帰郷したあとでの詩「偶作」に、こうある。 [#ここから1字下げ] 荒山淪落幾秋風 荒山《こうざん》淪落して、幾秋風《いくしゆうふう》 回首東遊夢已空 |首を回《こうべめぐ》らせば、東遊夢すでに空し 江門若値旧知問 江門|若《も》し旧知の問いに値わば 為道疎狂心尚雄 為に道《い》え、疎狂|心《こころ》なお雄なりと [#ここで字下げ終わり]  ——山は荒れはて、身は淪落して、もう何年になるか。秋風がつめたく吹きわたる。ああ、おれもかつては東遊に夢を抱いたことがあるのだ。江戸でもし旧知の人が、あいつ何してる、と尋ねたならば、どうかわたしのために、あいかわらず意気軒で常軌をはずれた志をいだいて頑張っているよ、と言って伝えてくれ。  そう、「偶作」で虎三郎がうたったように、わたしはひとに、虎三郎は故郷の土に帰ったが、あいかわらずだよ、と伝えよう。骨もそうだが、思想も朽ちていないのではないか、と。 [#改ページ]   第十三章 ながい影    死者は生者を捉え……  虎三郎が跋文を書いた『象山先生詩鈔』(日就社)がわたしの手に入ったのは、一九九一年はじめのことである。百十年以上もまえの本だが、探せばあるものだなあ、といささか感ずるところがあった。  ところで、その奥付をみると、明治十一年(一八七八)二月二日版権免許、四月印行となっていた。とすると、わたしがさきに、同書の刊行年を明治十年というふうに記したのは、正確でなかったことになる。  わたしが同書の刊行年を明治十年と記したのは、『求志洞遺稿』に収録されたその跋文の末尾に「詩鈔刻成る」とあり、「紀元二千五百三十七年(明治十年)八月十八日」と記されていたことからの推測によっていた。やはり現物にあたってみなければダメだな、と反省した。 『象山先生詩鈔』上下が刊行されたのは、結局、虎三郎が没してから八カ月後のことだった。そのため、この跋文の文字は虎三郎の書ではなく、弟の雄七郎が代書したものになっている。それをみると、雄七郎のほうが兄より達筆だったかもしれない、という感想がわいた。  いや、書ばかりでなく、語学や演説も、政治活動や経済活動も、多くの分野において弟のほうが兄より上手《うわて》だったような気がする。その多方面の能力において兄を上回った弟は、しかし、その生きかたにおいて兄ほど鮮烈な印象を人びとに与えなかった。人生とは往々にして、そういうものかもしれない。  雄七郎は自由民権運動や政治小説の研究にあっては現在でも面白い対象だが、極論すれば終わった存在である。これに対して、小林虎三郎は近代日本のなかに長い影をひいている。その影は現在のわたしたちのところまで及んでいる。  死者は生者を捉え……といった古人の言葉が、わたしにおもいだされる。この古言は、……生者は死者を甦らす、とつづくのだが、生者(わたし)が死者(虎三郎)を甦らせえたかどうかは別にして、死者が生者を捉えたことだけはたしかである。わたしは捉えられ、かれから逃げることができなかった。そして、逃げないことによって、かれのシャレコウベに会うこともでき、『象山先生詩鈔』を入手することもできたのである。  そういった感慨についてはともかく、この上下二巻の『詩鈔』をみていると、いろいろなことが明らかになる。——同書の編集人は北沢正誠(子進)であり、校正兼出版人は読売新聞の設立者の一人であった子安峻(士徳)である。虎三郎もまた校閲にかかわった。これら三人はいずれも象山の門弟である。その序文は象山が京都に上ったとき開港の議案をもって謁した二品山階親王。題詞は、象山の友人ともいうべき勝海舟と山岡鉄舟。そして、象山と交流のあった文学者の大槻磐渓と中村敬宇が序文と象山の詩に対する講評を担当している。その中村敬宇と子安峻が、虎三郎の弟子筋にあたる藤野善蔵らとともに福沢諭吉の明六社員であったことを考えてみると、虎三郎と雄七郎の福沢への親近感もふくめて、象山と福沢における開化思想、啓蒙思想にはあい通ずるものがあったのかもしれない。  ところで、同書の全体の編集を担当したのは北沢正誠だが、その「例言四則」をよむと、かれに象山遺稿をまとめさせ、また詩鈔を刊行させたのが、虎三郎と子安峻の二人の兄弟子であったことがわかる。つまり、虎三郎は後から来るものにきちんと仕事を引き渡して逝ったのだ。虎三郎の跋文の日付がその死のわずか六日まえであることも、その感をいよいよ深くさせる。  小林虎三郎はそのように、みずからの思想や詩文を世に残すことよりも、先行者の形影を後生に引き継ぐことをみずからの使命として世を去っていったようにおもわれる。にもかかわらず、世人は何度もその虎三郎のことを懐かしく、そしてかれが「遠望」していたことは何か、というふうに切実に振り返らざるをえなかった。  それは、虎三郎がつねに無私の心で、もっと分かりやすい表現でいうと、私利私欲の眼ではなく永遠の歴史の眼で物事を眺めようとしていたからかもしれない。たとえば、かれが西南戦争で負傷(のち病死)した弟の寛六郎にあてた手紙などにも、肉親をおもう愛情をこえて、一個の人生を歴史のほうへと引き取ろうとする眼差しのようなものが感じとれるのである。  明治十年七月二十八日、伊香保で静養中の虎三郎は、長崎警視病院に収容された寛六郎(子猛)にあてて、次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  今日子英(雄七郎)の書来り、卿が(おまえの)本月十八日の書を附致す。言う八日大隅山高原の役に、奮闘して重傷を負い、現に長崎警視病院に在りて治を受く、と。  之を聞いて駭然《がいぜん》として酸鼻に堪えず。嗚呼、賊魁未だ誅に伏せず。忽《たちま》ち(うかうかしている間に)此の惨毒に罹《かか》る。心算違え易く、功名成り難し。痛恨何ぞ言うに勝《た》うべけんや。然れども、壮士|已《すで》に身を以て国に許す。馬革に屍を裹《つつ》み、原野に骸を暴《さら》すも、亦甘心(満足)する所。事已に此に至る。只|合《まさ》に命に安んずべきのみ。  創《きず》重しと雖も、幸に肺を損ぜず、生命に於いて害無し、と聞く。稍々|軫念《しんねん》(心配)を弛ぶ。然れども、骨傷つき弾|留《とどま》りて患を為すも亦大|苦楚《くそ》(大いに辛く苦しい)、実に想うべし。且《か》つ、時|方《まさ》に烈暑にして、創口自ら腐敗し易し。則ち吾が心何を以てか降《くだ》さん(安堵しよう)。只願わくは細心調養し、以て痊癒《せんゆ》を致さんことをのみ。渇望の至りに堪えず。  急に此の紙を裁す。委細なる能わず。万万諒察せよ。肩を聳やかして西望すれば、覚えずして神馳せ魂飛ぶ。 [#地付き]草々   子猛賢弟硯北 [#地付き]病兄 虎 (原漢文。カッコ内、振り仮名引用者)  [#ここで字下げ終わり]  虎三郎はここで、肺のちかくに銃創をうけ病床にある弟の身を愛情をもって気づかいつつも、同時にかれの命をネーションのほうへと引き取ろうとする、非情といえばそうもいえる眼差しを示している。「壮士已に身を以て国に許す。馬革に屍を裹み、原野に骸を暴すも、亦甘心する所」というのは、慣用句のようなものとはいえ、ふつう壮行を祝すときにいうべき言葉である。病床に横たわっているものにいうべき言葉ではない。「事已に此に至る。只合に命に安んずべきのみ」についても、同様である。これでは、肉親の情を第一義に考えがちな庶民は、突き放されたような想いにとらわれるだろう。  しかし、虎三郎がそのような言葉づかいをしても、もはやあまり冷酷にひびかないのは、虎三郎自身がじぶんの生を永遠の歴史のほうに預けてしまっていることをわたしたちが知っているからだ。かれは己一個の欲望、好みによって思考するという発想からは遠いところにいる。その、歴史という無私の場所から、かれ自身の生も眺め、弟の生も眺めているのだ。  歴史からみれば、いま病床にある弟も、二十年間も病に悩んできた虎三郎も、そうして何年か何十年か後に死ぬものも、さして変わらない位置にいる。百数十年後のわたしたちでさえも。歴史のこの非情さは、いずれは死にゆく生者にとって、ある意味で救いであるのかもしれない。翻っていうと、虎三郎における歴史的な視点は死者と生者を繋ぐ通路になっているのだ。    妹たちの「昔話」  死者と生者を繋ぐ通路は、一般論としていえば、老人の意識において成立する。たとえばそれは、星新一が『祖父・小金井良精の記』で引用している小金井きみ子の「ちまき」に描かれた老人たちの意識に顕著にあらわれているだろう。ちょっと長くなるが、長岡の戊辰戦争の後年の影とも絡むので、孫引きしておく。 [#ここから1字下げ]  昨夜はかなり降ったのに、朝、まだ小雨が残っている。六月のはじめで、梅雨が近いせいだろうか。小金井の未亡人(ゆき。虎三郎の妹)は、自分の部屋をていねいに掃除し、煙草の火を入れ、茶道具をそろえて空ばかり気にしている。きょうはお客を呼んである日なのだ。  お客といっても、たいしたものではない。むかしの同藩の老婦人たちが集まるのだ。  戊辰の時に朝敵となった藩なので、官軍に追われて各地を逃げ歩き、親や子にはぐれ、悲惨な目にあった人たちばかりだ。乱のあと故郷へ帰っても、生活の道がたたず、いうにいわれぬ苦労のなかで、子供を育てた。  その子供たちが、ともかく暮してゆけるようになって、やっと一息ついた時、母親どうし、東京にいる者だけ、おりおり集まって昔話をしようということになった。(中略)  はじめは十人あまりの会だった。もっと集めることもできただろうけれど、話の合うような質素の人だけに限ったのだ。十数年という年月がたち、いまは五人にへってしまった。ひとり死ぬたびに、このつぎはだれだろうと、お互いにしばらく不安の念に襲われるけれど、ほどなく忘れて、 「まあ、お気の毒に」 「おとしに不足はございませんから」  などと、普通の知りあいが死んだのと同じに感ずるようになるのである。いちばん年長が七十八だ。若いというのが七十、いつからとなく婆々《ばばあ》会という名がついた。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  小金井ゆきは七十歳をすぎて、東京に出てきている旧長岡藩の老婦人たちと「昔話」をかたる懇親の会をやっている。はじめは十数人いたけれど、いまでは五人の会になってしまった。つぎつぎに死んでいってしまったのだ。一人死ぬと、つぎは誰だろうと不安におちいるが、そんなこともしばらくすると忘れてしまう。死者は、いま留守をしていて欠席、とでもいった風情である。  そして、この死者と隣り合わせにあるその老人たちの意識においては、おそらく河井継之助と小林虎三郎は仇敵ではない。かれらは歴史のなかでそれぞれに戦争と戦後復興、財政をもふくめた国家経営者と政治の根幹に教育をおく思想家、革新と保守、気概と理性、といった役どころを分かち持っている。しかも両者は、革新が保守を精確に前提として捉えてしか革新でありえず、保守が革新の理念を現実的に引き受けてはじめて「ゆるやかな進歩」を歩むように、究極のところで相補完する関係になっている。そのことを老人たちはとうに承知している。  虎三郎の妹ゆきと、河井継之助の妹安子(継之助の七歳下で、牧野正安に嫁いだ)との関係は兄たちの歴史における終《つ》いの関係を指し示しているのかもしれない。「婆々会」における、ゆきと安子との会話および対応は、小金井きみ子によれば、次のようだ。 [#ここから1字下げ]  ……お客がみえはじめる。おみやげなど持ってくることなしの約束なのだ。雲が切れて、薄日がもれ出した。 「このようすなら、お帰りのころまでには、道もよほどよくなりましょう」  と小金井の未亡人(ゆき)がいう。人力車がついた。牧野の未亡人(安子)だ。芝から電車で白山の終点まできて、そこから車に乗ったものとみえる。  牧野の未亡人は、気性の勝った人のせいか、顔も若々しく、まだ白髪もない。五人のうち最年長なのだが、いちばん若々しくみえる。肉づきもしっかりしていて、黒紋付の羽織で、あらたまってあいさつをなさる姿には、男っぽいところがある。北越の俊才といわれた河井継之助の妹だけのことはある。(中略)  みなから(兄と長男が戦死したことの)見舞いを言われて、牧野の未亡人が言った。 「ええ、あの時は、官軍からは兄の身寄りだと目をつけられるし、藩のほうからは兄のために戦争になったとうらまれるし、長男も戦死してしまって、ずいぶんつろうございましたよ。あれから建てた兄の墓も、台石などをこわされて、母といっしょに泣きましたよ」  河井氏が友人への手紙のなかで「女子ながら気性もこれあるよう存ぜられ」と書いた、その妹であるが、としのせいか、物の言いぶりがしめやかにみえた。 「近ごろ大変立派な伝記のご本ができたそうですね。拝見したいと思っています」  と小金井の未亡人が言う。(中略)  戦乱の時の死者の話がつづく。第一の戦死者を出した小原家のこと。家族の男のすべてが戦死した村山家のこと。この二家の未亡人もこの会の仲間だったが、数年前に死んでいる。(カッコ内引用者) [#ここで字下げ終わり]  虎三郎の妹ゆきが小金井きみ子に看取られて亡くなるのは、大正四年二月のことだが、この「婆々会」とよばれる年寄りたちの懇親会は明治の後半から大正のはじめまでつづいていた、とおもわれる。そこではいつも、戊辰戦争における長岡の「死者の話」がもちだされ、河井継之助の戦死と死後の毀誉褒貶などが話題にされたにちがいない。  そして、あるときはその河井と虎三郎の生前における対立なども話題になった、とおもわれる。男たちはどうしてああ下らないことで意地の張り合いのようなことをしたのでしょう。気概の戦争が長岡を救うのだ、とか、いや理性の政治が救うのだ、とか。おそらくあちら(黄泉の国)でも同じようなことをしておりましょう、という笑い声とともに。  女たちの会話は、しめやかなうちにも笑い声を交えて、つづく。星新一の要約のせいもあるのだろうが、小金井きみ子の筆運びはその情景をよく写している。 [#ここから1字下げ] 「おたがい、からだを大事にして、これだけのお仲間は、いつまでも集まりたいものですね」 「だれが先でしょう」  こうなると、話が変なことになる。 「やせているかたは、わりと強いようです。私はふとっていますから、中風になりそうです」 「近ごろ私は、めっきり物忘れしますが、先が短くなったのでしょう。牧野(安子)さんはお年上だけれど、お丈夫で、一番あとにお残りなさるらしい。話し相手がなくなって、お困りでしょう」  と小金井の未亡人が笑うと、みな声をあわせて笑った。  その時、ちまきが出された。 「まあ、お珍らしい」 「よく笹がお手に入りましたね」  と、おきあがった老婦人たちは、口々に言う。 「国の娘のところから送ってよこしました」 「子供の時に、よくこしらえたものでした」  しばらくは、ちまきの話がさかんであった。 [#ここで字下げ終わり] 「ちまき」がでた後ではもう、戊辰戦争での「死者」や河井継之助と小林虎三郎の対立の話などは、忘れられている。いや、忘れられているのではなくて、もともと「死者」もじぶんたちの病気や目のまえにでてきた「ちまき」と同じ次元の話なのだ。歴史はそこでは、かつてあったことではなくて、いまのなかに沈んでいるのだ。永遠のいま、これが老人たちを支配している時間感覚である。    敬遠すること、近くに歩いてゆくこと  虎三郎はいってみれば、生前からこの永遠のいまに身を預けようとしていた。「我に万古の心あり」とは、こういった精神において生まれてくる言葉にほかならなかった。  しかし、この永遠のいまに身を預けようとする精神は、目のまえに生起する日常の現実に対してはつねに一定の距離感覚を保つ。それゆえ今この現実のなかに生きる人びとにとっては冷たい対応というふうに映るだろう。そのため、虎三郎はかれらから敬して遠ざけられるのである。  そうだとすれば、虎三郎が死んだところで、かれの死に大騒ぎするものはいなかった。かれの死にショックをうけたのは、小金井良精らの肉親を別とすれば、年来の友、三島億二郎ぐらいのものだったろう。あとは、ああまだ生きていたのか、というような冷淡な反応だったのではないか。  これはしかし、虎三郎みずからが望んだ反応ともいえた。「象山詩鈔の跋」にあったように、かれは「不知者」とその思想、詩、また時事について語ったところで仕方がない、とおもっていたからである。むろん、かれは「知者」と認めていたものが訪れてくれば、さかんに議論をかわした。そして、じぶんの死の意味も、かれらだったら理解してくれるだろうと安心していた。  こういった虎三郎の世間との対応のしかたについては、「求志洞遺稿の序」における北沢正誠の文章が図らずも意を尽くしていよう。その短い略歴の部分においても虎三郎という人格がよく捉えられているので、後半部分を引いてみる。 [#ここから1字下げ]  ……明治の中興(明治維新において)、藩侯王師に抗す。君|諫《いさ》むれども聴かれず。東北鎮定するに及んで、起ちて大参事と為り、瘡痍《そうい》を恤《あわれ》み、遺孤《いこ》を撫で、業を勧め、学を興す。多く病蓐《びようじよく》に在りて事を視る。朝廷其の能《のう》を知り、まさに之を擢用《てきよう》(抜擢し登用する)せんとすれども、病と移《つた》えて出でず。廃藩置県に及び、跡を講学に屏《しりぞ》く。会々《たまたま》弟雄七郎工部省出仕と為る。君乃ち居を東京に移す。因《よ》って余と文酒|交驩《こうかん》す。恂々乎《じゆんじゆんこ》(気を大いに配って)|世と《ヽヽ》相《あい》|関せざるが《ヽヽヽヽヽ》若《ごと》し《ヽ》。而して談|偶々《たまたま》国家の利病《りへい》、当世の得失、五州(世界)邦国(日本)の盛衰する所以、政教兵制の沿革する所以に及べば、則ち意気軒、|確乎として定見あり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。……(原漢文。カッコ内、振り仮名引用者) [#ここで字下げ終わり]  北沢正誠は虎三郎の十三歳下だが、さすがに同門の知己というべきで、虎三郎が戊辰戦争の開戦に反対したことや、明治政府がかれを「文章博士」として抜擢登用しようとしたことなども、きちんと押さえている。のみならず、かれが表面的には「世と相関せざる」様子をみせながら、そのじつ一切のことを視ており、世界および日本の情勢をよく捉え、社会の変革について確固たる「定見」をもっていた、と明確に指摘している。  虎三郎は世俗とは相関わらなかったが、時代から隠棲していたわけではない。世俗に倶《とも》に語るべきひとを見出さなかっただけなのだ。その結果として、虎三郎は日々生起する現実に対して一定の距離感を保ち、これに対して世間の人びとはかれを敬して遠ざけたのである。  しかし、そのように敬して遠ざけていた虎三郎の存在を、人びとが想い浮かべなければならないときがくる。それは、人びとが目のまえに生起する日常の現実にあくせくと身を添わせているうちに、じぶんがどこに位置するのかわからなくなり、その現実にどう対処したらよいのか手だてを見失った危機の時代である。  そういう危機の時代とは、たとえば民族が、過ぐる対米英戦争の熱狂に我を忘れているときであり、またその後の敗戦によって茫然自失しているときのことであったろう。山本有三の『米百俵』におけるキーワードは「その日ぐらし」であるが、それは目のまえに生起する日常の現実にあくせくと身を添わせる生きかたにほかならない。戦時体制下にあっては、目先の兵器増産、食糧増産におわれる民族の生きかたが、それだ。  このとき、山本有三は小林虎三郎のことを、そしてかれの国漢学校創立の思想を想い浮かべたのである。「その日ぐらし」の生活では、ダメだ、と。 『米百俵』には、このキーワードが二度でてくる。一度は第二章においてすでに使ってしまったので、もう一度のほうを引用してみよう。百俵の救援米を藩士たちに分けたら、一日か二日で食いつぶす、「一日か二日で食いつぶして、あとに何が残るのだ」、と虎三郎がいった続きの部分。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 虎三郎 ……一日か二日で食いつぶして、あとに何が残るのだ。 専八郎 あとの事は、あとの事だ。まず、さしあたり、この急場を救うために、三根山のぶんをわけたらよいではないか。 虎三郎 貴公、いやにがつがつしているのう。さきざきの事も考えないで、ただ食いつぶしてしまって、どうするのだ。そんな料簡(リョウケン)だから、おまえたちは、いつまでたっても、食えるようにはならないのだ。 専八郎 なんですと? 虎三郎 |その日ぐらし《ヽヽヽヽヽヽ》では、長岡は立ちなおらないぞ。おれが今度、学校を立てようと考えたのは、そこだ。貴公らの目から見たら、みんな食えないで困っているさ中に、と申すかもしれぬが、こういう時こそ、何よりも教育に力をそそがなければならないのだ。(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  専八郎という庶民的なキャラクターの「あとの事は、あとの事だ」、いまの急場を救わなければならない、という言葉が、「その日ぐらし」の発想なのである。これに対して、虎三郎はいま食えないからこそ、百年後に子孫たちが食えるように「学校を立てよう」と、いうのである。  虎三郎の言葉のなかにあった「長岡」を「日本」と置き換えれば、これはまさに敗戦後の日本の再建、復興の理念となる。とすれば、戦後この『米百俵』が何度か舞台にかけられたのも当然のことだったといってよいだろう。  しかし、それは敗戦後の日本にのみ当てはまる理念ではなかった。対米英戦争の戦時体制における東条政権の戦争指導の方法が、さきざきの事を考えず、まず「この急場を救うために」というかたちで、兵器増産、食糧増産、戦線拡大、特攻作戦、玉砕戦法へと走っていったものだったからだ。戦闘の現場だけを考えて戦うという軍人特有の発想法である。そこには、さきざきの事を考えて、外交を展開して、政治を行い、経済体制をととのえてゆく戦略なぞないのである。まして、民族の将来を考えて、教育を充実させるなぞ。  山本有三はこういった「その日ぐらし」の発想、民族の誤った生きかたを批判しようとして、昭和十七年に『米百俵』を書いたのだった。だから、それはたんに教育の重視などということではない。民族の生きかたそのものに関わる問い掛けなのである。  そしておそらく、小林虎三郎の名は民族の生きかたそのものが問い返されるとき、日々の生活にとらわれる「その日ぐらし」の人びとの意識のなかに、じわり、と浮き上がってくるのだ。それまで敬して遠ざけられた虎三郎の存在が、「遠望する」眼差しをもったかれだったらどう考えたろう、という現実を相対化するかたちで、身近に感じられてくるのである。これは虎三郎が時務論的に何か役立つことをいっており、その時務論のなかから質問者が役に立つ言葉を引き出してくることができる、そんな近さにいる、というような意味ではない。  虎三郎はいつだって、夜空に照る「万古の月」のように、同じ距離、同じ大きさ、同じ耀きをもっているのだ。それにむかってわたしたちが歩いてゆけば、かれは近くにくるのである。それは、かれの「万古の心」がわたしたちに近くなる、ということである。    万古の月のように——おわりに  対米英戦争の熱狂に民族が我を忘れているとき、あるいは敗戦後の茫然自失のとき、虎三郎はわたしたちの近くにいた。そして、国際化という名の「攘夷か開国か」の変奏がかなでられている現在、かれは再び近くにきている。  それは、わたしたちが現在、小林虎三郎を欲しているということだろう。かれの「遠望する」まなざしを借りたがっているということでもある。  わたしは「パールハーバー五十年」にあたる一九九一年のはじめ、日米関係論を軸に言論活動を展開している石川好さんと往復書簡をかわした。そしてそこで、小林虎三郎の名が大きく世にあらわれるのは、ペリー来航以来、三度目だろう、といい、その三度の共通点を探って、次のように書いたのだった。 [#ここから1字下げ]  わたしが現在、小林虎三郎の評伝を書き継いでいるのは、とすれば、かれの名が世上に大きくあらわれる三度目、ということになりましょう。一度目は、虎三郎が幕末に開国を唱え、象山の指令で横浜開港を唱えて、長岡藩主から謹慎を命ぜられてしまった時点。二度目は、日米開戦の時点。三度目が、在日米軍の費用負担問題、コメ開放問題、日米構造協議に加え、対イラクの多国籍軍への資金援助をめぐって、日米関係がいよいよキナ臭さをただよわせている現在です。  この三つの時点は、わたしの言葉でいえば、いずれも日本が「世界史のゲーム」にまきこまれている危機において共通性をもっています。「世界史のゲーム」とは、世界の秩序換え、といってもよいものですが、それをわたしたちが日本史の形づくりかたにおいて直に担わなければならない、ということなのです。……(現在、)日本が欧米列強東漸の「世界史のゲーム」にまきこまれて「開国」した幕末を語り、またみずから欧米列強に伍して覇権国家になろうと身をのりだして失敗した日米戦争について論ずることは、むろん、古い歴史についての興味などではありません。まさに、現在の日本史をどう形づくり、そのことによって日本が、覇権競争として現われている現在の「世界史のゲーム」を超えてゆくかの、思想的な手続きなのです。 [#ここで字下げ終わり]  わたしはここで、小林虎三郎の評伝、あるいは「我に万古の心あり」とみずからいった人物を通して歴史のなかの人間の生きかたを考えようとした本書を、日本が現在の「世界史のゲーム」を超えるための思想的手だてと考える、というふうに、やや時務論にちかい言いかたをしている。しかし、それはたんなる時務論(もっとわかりやすくいえば、いま何をなすべきかという状況論)などではない。時務を問題にしつつ、その底にひそむ原理にまで問題を掘り下げる、というのが、わたしの思想的立場である。  そして、その時務の底の原理にまで問題を掘り下げるさいに、小林虎三郎が時代と切り結びつつ「遠望」したことはどのようなことだったのか、かれはどのように生きたのか、を考えようとしたのが本書というわけである。いや、そんな難しいことではない。わたしはかつて河井継之助が好きだったが、いまでは小林虎三郎により親しみと畏敬をおぼえている。それはなぜなのか、とみずからに問うてみたかったのだ。  そして、この、師象山から嘱望されて松陰とともに「両虎」とよばれ、河井継之助の最大のライバルでもあった人物が、なぜ歴史の深い底のほうに沈んでいるのか、と問うてみたかったのだ。しかし、その深底で、かれは「万古の月」のように変わらぬ光を放って存在していた。それを知ることができて、わたしは満足した。そのような存在のしかたは、かれが時代と切り結ぶなかで強いられた、いや、みずから選びとらざるをえなかったものだったのだ。  一九九〇年十二月はじめ、わたしは虎三郎の墓のある興国寺にゆくまえに、長岡市東郊の栖吉にある普済寺に立ち寄った。むかしそこに建てられたという「古騎法教師渡辺氏門下の戦死諸士の碣銘」碑(第十章参照)が、いまもあるのかどうか、一度みてみたかったからである。  長岡藩の出城の一つである栖吉城がかつて置かれた普済寺の裏山に、その碑はいまもあった。ひっそりとした村里のはずれにある普済寺の境内をぬけて、細々とした山道を登ってゆくと、四、五百メートルも奥だろうか、初代藩主牧野忠成の墓に通ずる石段の右わきに、もう文字も読みとりにくくなった、古びた碑があった。  隣の「少年隊士在名碑」というのには、新しい案内板がつけられていたが、小林虎三郎がその碣銘をしるした「古騎法……」の碑のほうは、そこに同行してくれた稲川明雄さんがそうと教えてくれなければ、わたしにはわからなかったろう。普済寺から奥まったその墓所まででさえ、すでに道が定かでなかった。  冬でさえそうだから、夏草のしげる季節になったら、もっとわかりにくくなるだろう。それとも、夏はハイキングと観光のコースにでもなって、訪れる人も多くなるのだろうか。  しかし、たとえそうなっても、虎三郎がしるした「碣銘」をよめるひとは、それこそ稀だろう。ただ、かれは、別にそれでもかまわないのだよ、おれは「万古の月」のように、いつも同じ場所、同じ心で、ここに待っているよ、というような気がする。  小林虎三郎がかつて生きていたという証しは、いま、ながい影として残っている。その影は、虎三郎だったらどう考えるだろう、かれの「遠望」するまなざしはどこまで届いていたろう、とわたしが考えること、そのこと一つをとってみても明らかなのである。つまり「死者は生者を捉え……」ているのである。  最後に、再び、かれの詩「清夜の吟」の意味を、わたし一人のおもいだけで書いてみたい。  ——天には古代から変わらぬ月がかかっている。わたしはその月夜に、ひとり高楼にのぼる。そうするのは、世間にわたしの友とするものは、一人もいないからだ。俗世間のものたちは「その日ぐらし」に馴れ、世評というものばかり気にしている。そんなものは、わたしの友ではない。わたしの友は、現在ただいまのことに心を動かされぬ、天上の月だけだ。もはやわたしは動かない。動かないことによって、わたしはあなたの永遠の友となる。月よ、そして、あなたよ、わたしの永遠の友となれ。 松本健一(まつもと・けんいち) 一九四六年生まれ。東京大学経済学部卒業、法政大学大学院日本文学研究科博士課程修了。評論家、小説家、麗澤大学教授。専攻、日本近代思想史。著書に『石川啄木』(筑摩書房)、『近代アジアの精神史』(中央公論社)、『白旗伝説』(新潮社)などがある。 本作品は一九九二年五月、新潮社より刊行され、一九九七年七月ちくま学芸文庫に収録された。