[#表紙(表紙.jpg)] 千里眼の教室 松岡圭祐 目 次  スクールカウンセラー  うさぎとカメ  迷える子羊  タイムレース  その三十分前  貴族・平民・奴隷  日本政府  処刑の真実  統治官・補佐・平民  青酸カリ  適材適所  教育の行方  貨幣経済とは  数値と漫画  独立国の女たち  学校、友達、日常  希望を繋《つな》ぐ者  正午の市場  ジェネレーション・ギャップ  試験の裏技  戦渦の発明品  カジノ部屋の悪夢  薄らぐオーラ  悪しき平等  たったひとりの使者  変異する伝言  爆弾の在《あ》り処《か》  独立と敵対  賭博《とばく》分析官  ベルヌーイの法則  青天の霹靂《へきれき》  勝利宣言  永遠を望む瞬間  真実の代償  蜘蛛の巣  脱出  友里《ゆうり》佐知子  偽りのゴール  地獄絵図  地獄の終焉《しゆうえん》  卒業証書 [#改ページ]   スクールカウンセラー  鏡にうつった自分の姿は、まさしく年老いて疲れ果てた逃亡者にほかならなかった。  わずかな陽しか射さない都会のビルの谷間。駆けこんだ路地裏に、放置されている歪《ゆが》んだ全身鏡。  不法投棄されたものか、このビルの住人が粗大ゴミにだしたものか、知るよしもない。だが、偶然ここに鏡があったおかげで、ひさしぶりに自分というものを認識した。どんな男か確かめることができた。  伸びほうだいの白髪《しらが》頭、三十代からずっと同じ眼鏡、痩《や》せこけた頬にぎょろりとした目。いつの間にか顔は浅黒くなって、皺《しわ》の数も増えていた。  五十嵐《いがらし》哲治《てつじ》は息を切らしていた。この歳になって全力疾走すれば、誰でも息があがる。年齢のわりには健闘しているほうだ。  しばし鏡を眺めて、ふと五十嵐はつぶやいた。「異常者だな」  その自分の言葉に、おかしさがこみあげてくる。  そう、鏡のなかにいるのは、よれよれの背広をまとった異常者同然の男だ。これが自分だというのだから始末に負えない。  と、そのとき、路地に女の声がした。「いいえ。あなたはおかしくなんかない」  びくっとして、壁から身体を起こす。  辺りを見まわしたとき、ほんの数歩離れたところに立つひとりの女が目に入った。  五十嵐は息を呑《の》んだ。いつの間に現れたのだ。  バイク乗りが着るつなぎは、その女の見事なプロポーションを浮かびあがらせていた。身長はそれほど高くはないが、顔は小さくて八頭身か九頭身はありそうだ。やや長めの髪に縁取られたその顔には、大きな瞳《ひとみ》が見開かれ、こちらを凝視している。  吸いこまれるような眼力。美人には違いないが、どこか変わった顔つきでもある。 「誰だ」と五十嵐は喉《のど》にからむ声できいた。  女はゆっくりと歩み寄ってきた。  路地の暗がりのなかで、うっすらと見えていたその顔も、明瞭《めいりよう》に視認できるようになった。 「こんにちは」女は落ち着いた声でいった。「五十嵐哲治院長ですね? 津島循環器脳神経医科病院の」  見た目はずいぶん若いが、喋《しやべ》り方からすると二十代後半ぐらいだろう。物怖《ものお》じしない態度からも、ただの道行くOLとは思えない。  ため息が漏れる。「今度は女を寄越してきたか。どっちから派遣されてきたんだね。警視庁か、それとも防衛省か」 「先生は、臨床心理の専門家となら話してもいい、そうおっしゃったはずですけど」 「ほう? するときみは臨床心理士かね? そんなふうには見えないが」 「外見で人は判断できないものですよ、五十嵐先生。あなたもそうです。失礼ながら初老にさしかかっておいでとお見受けしますが、異常心理にはほど遠いです」 「ふん。別れた妻と同じで、ずけずけとものを言ってくれるな。……日本臨床心理士会がきみを寄越したのか。私を説得するためにか?」 「そうです」 「なら、戻って無駄足だったと報告することだな。私は官憲と馴《な》れ合うつもりはない」 「馴れ合いではなく、先生は容疑をかけられているわけですから、出頭されるべきだと思いますけど」 「なんの容疑だ? 人は自由にものを考え、自由に研究できるはずだろう。きみは科学者の権利を認めないつもりか?」 「先生の専門は脳神経外科でしょう? 海外のブローカーを通じて台湾製の時限式爆発物を購入することが、脳となんの関係が?」  じれったくなり、五十嵐は声を荒げた。「説明している時間はないんだ。どいてくれ」 「いえ。おおよそ見当はついてます」 「きみになにがわかるというんだ。臨床心理士はフロイトの亡霊をひきずってりゃいい.脳は専門外だろ」 「そうでもありません。認知心理学は昨今の課題ですから……。五十嵐先生。先生が一年前に発表された論文、いまも変わりなく真実だとお思いでしょうか」 「……ふん。きみも馬鹿にしたいクチか。学校や職場など、機密性の高い場所に大勢が押しこめられていれば、酸素が足りなくなることぐらいわかるだろう」 「酸素欠乏症が起きると、脳細胞がいくつか破壊されて、人が暴力的になる。いじめの原因はそれだとおっしゃるんですね」 「そう短絡的に捉えるな。いいか。酸素欠乏症というのは、真空に置かれたときに生じるわけじゃないんだ。一般の空気中の酸素濃度は二十一パーセント。これが一瞬でも十八パーセント以下にさがっただけでも、欠乏症は発症する」 「血管中の酸素が、濃度|勾配《こうばい》に従い、逆に肺胞腔《はいほうくう》へ放出されてしまうからですね」 「そのとおりだ。そして血中酸素が不足。延髄の呼吸中枢も呼吸反射を起こす。そこでさらに体内の酸素が大気に放出され、どんどん状態が悪くなる……。一回でも、わずかに酸素濃度の低い空気を吸いこんだら、脳の障害につながり、悪くすれば死に至るってことだ」 「やがて脳の神経細胞が破壊されて失われる。先生の研究では、学校のような鉄筋コンクリートの建造物のなかで酸素欠乏症が起きると、おもに前頭葉の細胞が働かなくなるそうですが」 「よく読んでるな。神経細胞は、互いに連絡をするために神経線維を持っているが、それが壊れて連絡能力を失う。前頭葉を失った人間はどうなるか? まさに動物だよ。人が人でなくなる瞬間だ」 「それで校内暴力というか、いじめが発生するんですか」 「理性による自制が働かなくなるのだから当然だろう」 「……先生は、厚生労働省と文部科学省に訴えを起こし、退けられてますね。酸素欠乏症がいじめにつながるという、先生の持論はいまのところ、体制に支持されてはいない」 「連中が馬鹿で石頭だからだ。いい家庭に生まれて、私立に進学して、陰湿ないじめとは無縁に育ったんだろう。もしくは見て見ぬふりを決めこんでいたかだ。役人どもは、本気でいじめ問題を解決しようと思ってはいない」 「先生のその執念は、息子さんがいじめられていることが発覚してから、生じたものですか?」 「馬鹿をいうな!」五十嵐は思わず怒鳴った。「聡《さとし》は……あいつのことは関係ない。私は純粋に、これからの世代のためによかれと思って研究をつづけてきた」 「理論を実証するためとはいえ、テロ同然の事件を起こすことは許されません」 「なんのことだ」 「時限式爆発物と一緒に、テオクタギバシンとセンニトリンの混合物を発注しましたね。発火すれば燃焼によって空気中の酸素が数パーセント失われる。……どこかで酸素欠乏症を引き起こし、データでも取ろうというんですか」 「ふざけたことを。そんなつもりは毛頭ない」 「いいえ。先生はまぎれもなくそのおつもりです」 「なぜそんなことが言えるんだ」 「図星を突かれた瞬間、上まぶたが上がって下まぶたは緊張した。と同時に、唇がすぼむのではなく一文字に結ばれた。怯《おび》えと怒りの感情が同居するのは、秘密を暴かれまいとする心理が働いているから」 「それを見抜いたってのか? 一瞬でか? お笑い草だな。臨床心理士はたしかに人と向き合うのが仕事だ、表情の観察から感情を読みとるのにも慣れているだろう。しかし、ほんの〇・一秒以下の表情筋の変化なんて、読みとれるわけが……」 「いいえ。それが読みとれるの。先生。あなたもいまその可能性に気づいたはず。そういう人間がいることを知ってるでしょ?」  五十嵐は言葉を失った。  可能性が一瞬脳裏をかすめた。それすらも、女は正確に見抜いているのだ。 「まさか……きみが岬美由紀か。千里眼か?」 「そんなふうに呼ぶのは科学的じゃないけど、世間ではそう言いたがる人もいるわね」  背筋に冷たいものが走った。  岬美由紀。女性自衛官として、史上初めてF15のパイロットになったという伝説の存在。除隊後、臨床心理士に転職したが、パイロット特有の動体視力が心理学的な知識と結びつき、一瞬にして相手の顔の変化を見抜いて、感情を読みとる特殊な才覚を身につけたという。 「なるほど……」五十嵐はようやく声を絞りだした。「岬美由紀を送りこんできたか。適任だな……」 「わたしは先生を追い詰めるために、ここに来たんじゃありません。臨床心理士として話し合いに来たんです」 「話し合いね……。私は異常じゃないんだろ? それなら放っておいてくれないか」 「先生のご自宅で組み立てられたとおぼしき時限式爆発物は、数日前に運びだされましたね。内偵を進めていた警察の監視班が確認したそうです。先生に任意で事情を聞こうとしたところ、姿をおくらましになった」 「国家の犬に媚《こ》びる習性はないんでね」 「爆発物の行方を気にかけるのは、警察として当然のことだと思いますけど」 「きみには関係ない」 「いいえ。わたしもスクールカウンセラーとして、未成年の児童や生徒の将来を案じる身です。先生は学校のいじめ問題と酸素欠乏症の因果関係を証明するつもりでしょう? 爆発物はどこかの学校に仕掛けたんですね?」 「なにも答える気はない」 「結構です。表情筋の変化でわかりますから。目を細めて眉毛《まゆげ》がさがり、唇をきつく結んだことからショックを受けたことがわかる。左右非対称になった表情は、嫌悪を抱いたことを意味する。同時にそれらの感情が発生したのは、真実が暴かれたからです」  五十嵐は寒気を覚えた。  なにもかも見抜かれてしまう。  この女の鋭い視線は、すべての脳細胞の働きを瞬時に看破する特殊な光線を発しているかのようだ。データにはいささかの狂いもない。思い浮かべたことは、確実に読みとられてしまう。  すぐさま身を翻し、全身鏡を引き倒して美由紀との間にバリケードをつくる。五十嵐は駆けだした。路地を全力で走った。 「待って!」美由紀の声が追ってくる。  ちらと振りかえると、美由紀はすぐ背後に迫っていた。さすがに元自衛官だ、障害物など難なく乗り越え、無駄のない機敏な動作で追いすがってくる。  それでも捕まるわけにはいかない。五十嵐はがむしゃらに走った。世間は私の警告を無視した。この命に代えても償わせねばならない。 [#改ページ]   うさぎとカメ  岬美由紀は五十嵐哲治を追い、ビルの谷間を疾走していった。  すでに六十歳近いというのに、驚くほどのスタミナを発揮する逃亡者だ。研究室に籠《こ》もってばかりの変わり者という噂と相反する身体能力。  いや、いまはひたすらに逃亡の意志の強さに支えられているだけだろう。息があがっているのがわかる。ほどなく歩も緩むはずだ。  しかし、五十嵐の速度が衰えるより早く、彼は路地から表通りに踊りでた。  ミッドランドスクエアの脇から名古屋駅前のロータリーにでる。  人の往来が多い。五十嵐は何度もぶつかり、転倒寸前によろめきながらも体勢を立て直して逃亡をつづけている。  歩行者用信号は赤だった。だが五十嵐はかまわず飛びだしていった。  横断歩道に迫っていたタクシーがけたたましい音とともに急ブレーキを踏み、後続のトラックが追突して乗りあげる。  さらに次々と追突がつづき、スピンしたクルマが歩道に弾《はじ》かれる。  逃げ惑う歩行者らの悲鳴がこだまする。セダンのボンネットが跳ねあがり、エンジンルームから轟音《ごうおん》とともに火柱が噴きあがる。  一帯に煙が充満しだした。戦場さながらのパニックのなか、美由紀は炎上したクルマからドライバーが這《は》いだしたのを見てとった。  犠牲者がでるのは時間の問題に思えた。五十嵐はすでに名鉄百貨店前に達している。工事用クレーン車の運転席に乗りこもうとしていた。  赤いヘルメットの作業員らが制止するのも聞かず、五十嵐はクレーンを発進させた。  それは無謀かつ危険きわまりない運転だった。クレーンは若鯱家《わかしやちや》の巨大看板を吊《つ》り下げたまま、ロータリーに猛スピードで踊りでた。通行する車両が回避する間もなく跳ね飛ばし、みずから道を切り開いていく。  阿鼻叫喚《あびきようかん》の混乱がひろがったが、クレーン車の突進はわずか数十メートルだった。旧メルサ前の歩道に乗りあげたとき、クレーンがアーケード屋根にひっかかって看板が落下した。  身長七メートルのマネキン型オブジェ、ナナ人形がクレーン車に倒れかかり、頭部が運転席を直撃した。フロントガラスが砕け散り、車両の屋根は大きく凹《へこ》んだ。  美由紀は公道を埋め尽くすクルマの屋根を次々と飛び移りながら、片時も五十嵐の行方から目を離さなかった。  クレーン車が全損状態になる寸前にドアが開き、五十嵐は地面に転がり脱出した。  あちこちでサイレンが沸いている。きのうから逃亡者の五十嵐哲治を追って愛知県警が無数のパトカーを繰りだしているが、付近がこのありさまでは到着することはできない。五十嵐はそこまで考えて道路を塞《ふさ》いだに違いなかった。  彼を捕まえられるのは、わたししかいない。美由紀はクルマを乗り越え、ひたすら走った。  五十嵐はテルミナ地下街への階段を駆け降りていく。  ガードレールを飛び越えて歩道に入ると、美由紀はすぐさま五十嵐を追って階段に駆けこんだ。  そこで美由紀は息を呑んだ。  地上での騒ぎが波及したらしく、地下街にもパニックが広がっている。逃げ惑う人々の流れに逆らい、五十嵐は地下鉄駅から遠ざかっていく。  と、彼の行く手の広場に、トヨタのF1車両が二台、特別展示してあるのが見えた。レーシングスーツを着たマネキンが立ち、テレビモニターにはサーキットのようすが映しだされている。  驚いたことに、五十嵐はディスプレイ棚からステアリングを奪うと、そのF1マシンの一台に飛び乗った。  コックピットにステアリングを取りつけ、エンジン音を轟《とどろ》かせる。滑らかな床をスリップしながら、五十嵐の乗った車両は発進した。  コントロールを失い、蛇行しながらも、五十嵐のF1マシンは猛進していく。右の貴金属店のショーケースを粉砕し、左のアマノドラッグの店頭に突っこんでワゴンをなぎ倒してから、ふたたび地下街の中央に復帰し速度をあげていく。  無茶な。  そうつぶやきながらも、美由紀がとった行動は五十嵐と同じものだった。残る一台に乗りこみ、ステアリングを装着する。  この手のマシンのシートはドライバーに合わせて設計してあり、美由紀にとってしっくりくるものではなかった。カーボンファイバー製、ポリマーで補強されたシートは硬く、座りごこちもよくない。  贅沢《ぜいたく》はいっていられなかった。美由紀はシートベルトを締めにかかった。自衛隊の戦闘機と同じ六点式のシートベルトだが、コックピットが狭いせいでうまく締められない。  レースならばチームの人間の手を借りるのだろう。不幸なことに、いまは逃げ惑う人に手伝いを頼めるような状況にはない。シートベルトはあきらめざるをえないだろう。  イグニッションスイッチを押した。爆発音のようなエンジン音が、地下街を揺るがす。  アクセルを踏みこみ、美由紀はマシンを発進させた。  昔のマシンはクラッチペダルがあったが、いまはアクセルとブレーキのふたつだけだ。操作は美由紀が長年乗っているランボルギーニ・ガヤルドと同じセミオートマだった。右足でアクセル、左足でブレーキ。重心はきわめて低かった。足もとは床すれすれを滑っているかのようだ。  スリップしやすい床だが、速度を抑えてばかりもいられない。ステアリングのボタンでギアをシフトアップして加速する。  人々の悲鳴が前方から後方へ、吸いこまれるように飛び去っていく。だが美由紀は、時速三百キロ近くに達しても通行人の位置や動きを正確に把握していた。F15は音速の二倍で飛ぶ。ここで歩行者を危険に晒《さら》すようでは、空の防衛など勤まるものではない。  たちまち追いつき、五十嵐のマシンの後部をとらえた。すると五十嵐はいきなりステアリングを切り、呉服店の脇の階段に飛びこんでいった。  階段も、F1マシンの大口径のタイヤならば難なく下りられるという事実を、美由紀は初めてまのあたりにした。五十嵐を追跡し、美由紀も階段に突進した。  突きあげる衝撃が激しく、断続的に襲う。背骨が折れるほどの痛みが走った。歯をくいしばって堪えると、地下二階の通路にでた。幅はマシンぎりぎりだ。  五十嵐のマシンは三省堂書店に突っこむと、小学館の書籍コーナーを粉砕しながら猛スピードで疾走していく。辺りに飛び散った紙片は赤く染まっていた。  静電気で引火する恐れがある。燃えやすい紙類の多い書店での追跡は、地階に火災を発生させるかもしれない。  美由紀はすぐさま一計を案じた。昇りの階段にマシンを乗りいれ、中地下階を突っ切る道を選んだ。  食料品店が連なる中地下階。あんぱんや、神戸こっちゃらパン、ヒマラヤのケーキ、美濃味匠《みのみしよう》。また昇り階段が迫ってきた。ノーズを跳ねあげて階段を上昇し、踊り場をまわって、さらに上をめざす。  地下一階に復帰したとき、美由紀は読みが正しかったことを悟った。  喫茶店コンパルの前で、ちょうど五十嵐のマシンが別の階段をあがってきたところだった。美由紀はタッチの差で、先まわりに成功していた。  五十嵐が驚愕《きようがく》のいろを浮かべたのを、美由紀の動体視力は見てとった。  それも一瞬のことで、ブレーキも間にあわず、五十嵐のマシンは美由紀の停車させたマシンの後部に追突し、スピンした。  コンパルに側面から激突し、壁面を破壊して店内のテーブルを次々と空中に巻きあげてから、ようやく五十嵐のマシンは停まった。  美由紀は全身の痺《しび》れる痛みを堪えながら、コックピットから飛びだして五十嵐に駆け寄っていった。  破壊された喫茶店のなか、マシンは斜めになって停まっていた。五十嵐はコックピットから這いだそうともがいているが、ままならないようすだった。  近づくと、美由紀はすかさず五十嵐の胸ぐらをつかんで締めあげた。 「痛い!」五十嵐は苦痛のいろを浮かべた。「なにするんだ、きみは臨床心理士だろ。非常識じゃないか」 「それはこっちのセリフよ」美由紀は怒りを隠さずにいった。「酸素欠乏症を起こさせる爆弾はどこ? どの学校に仕掛けたの?」 「知ってどうするつもりだ」 「当然、爆発を阻止するのよ」 「やめとけ。間に合うもんか。うさぎとカメみたいなもんさ」 「なにそれ。どういう意味?」 「俊足《しゆんそく》なきみはうさぎ、私はカメだ。カメを打ち負かして、いい気になっているのかい? ここで油を売っているうちに、私はゴールに一歩ずつ近づいているってことだ」 「ようするに、もう時限式スイッチが入っているってことね」 「そうとも。いまさら無駄さ」 「ここから遠いってことね。どこなの? あなたのよく知っている学校?」 「それは……」  美由紀の目は、途切れた五十嵐の言葉の先を表情から読みとっていた。  核心に近いところを突かれた恐怖、それでも計画は水泡に帰すことがないという驕《おご》り。間違いなかった。爆弾は五十嵐哲治にとって土地勘のある場所にある。 「ねえ、五十嵐先生。あなたは小学校から名古屋市内の私立だったはずでしょ? 爆発までの残り時間はわからないけど、これだけの警察車両が繰りだしているなかで間に合わないと言い切るからには、市内じゃないはず。それ以外で、あなたにとって深い馴染《なじ》みのある学校といえば……」  はっとして、美由紀は口をつぐんだ。  五十嵐はあわてたように目を逸《そ》らした。 「まさか」美由紀は震える声できいた。「息子さんの学校?」 「さて……ね。どうして私が聡を危険な目に遭わすんだね。なんの得がある?」  理由など知ったことではない。いじめられていたという息子の通う学校に酸素欠乏症を引き起こし、生徒たちが凶暴になるさまを検証する、そんなありえない目的すらも、この男にかかれば真っ当な使命と思えるのかもしれない。  いまは父親の精神分析より、息子の身を案じるほうが先だ。  美由紀はいった。「聡君の通っているのは、たしか岐阜県立|氏神《うじがみ》高校ね? 資料で読んだわ」 「違うといっているだろう」 「結構よ。嘘をついているときの不安は見抜きやすい感情のひとつなの。まず間違いないわね」 「独善的だな」 「しょうがないの。当たってほしくないことでも、当たっているのが常だから。ところで、もうひとつ教えてほしいんだけど。爆発まであとどれぐらい?」 「きみならそれも見抜けるんじゃないかね? ……そうだな、一時間以上あるといっておこう」  美由紀は押し黙り、五十嵐を見つめた。  緊張が走る。五十嵐のこわばる顔に、本心を見たからだった。  すばやく踵《きびす》をかえし、美由紀は駆けだした。  五十嵐の怒鳴る声が背に届く。「やめとけ。いまさらどうにもならんぞ」  耳を貸す気になどなれない。美由紀は全力で階段を地上に向けて駆けあがった。警官らが、戸惑いながら降りてくるところだった。その脇をすり抜けて、外にでた。  彼は嘘をついている。すなわち、爆発までの残り時間はもう一時間を切っている。  わが子を危険にさらすなんて。動機など理解できるものではない。大勢の生徒たちの身が危ない。ならば、息がつづくかぎり走りつづけるだけだ。どうあっても爆発は阻止する。独善的と謗《そし》られようと、その行為に躊躇《ちゆうちよ》する必要などない。  子供たちの身を案じない大人などいないのだから。 [#改ページ]   迷える子羊  生徒の身を案じるなど、偽善にすぎない。  岐阜県立氏神工業高校の教師、綾葺涼子《あやぶきりようこ》はそう思っていた。 「フグを丸ごと切り刻んで、ほぼまんべんなく刺身にして食べたのに、死ねなかった。ただ満腹になっただけだった」  自殺を予告する手紙を市役所に送りつけた高二の生徒による告白。涼子が生徒から相談を受けた、唯一の事例だ。  その男子生徒は丸々と太っていて、ふだんからクラスメイトに馬鹿にされ、教師の目に触れないところではいじめも受けていたと思われる。  彼の実家は居酒屋だった。木造二階建ての家屋の一階が店舗だった。学校の教師も親も頼りにならないと感じた彼は、なぜか市役所の福祉相談課宛に遺書めいた手紙を送りつけ、その日に自殺をはかった。  深夜にこっそりと一階の店に降りていき、イケスに入っていたフグを見よう見真似で調理して、平らげたのだ。  ところが、朝になっても死ぬどころか具合が悪くなることさえなかったため、不安になって病院を訪ねた。こっけいな話だと涼子は思った。健康ゆえに医者に相談するとは。  イケスの養殖フグが無毒だということを、男子生徒は知らなかった。  海に育つ天然のフグは、毒性のある動物プランクトンや蟹《かに》、あるいは貝などを食べているせいで、体内に毒素を溜《た》めこむといわれる。居酒屋のフグとは、育ちからして異なっていた。  文部科学省の指導で、教師は可能な限り生徒の悩みを聞くこと、そう義務づけられていた。人にいえない悩みを背負っている生徒のために、放課後に時間を割いて相談に乗る。涼子はそういう方針を、生徒たちに伝えた。  おずおずと面接を申し入れてきたのは、そのフグで自殺未遂の男子生徒だけだった。市役所から転送されてきた遺書も、涼子の手もとにあった。高校の問題は高校で対処しろ、それが役所の判断のようだった。  涼子はどう反応したか。腹の底から笑った。こんなに笑ったのはひさしぶりというぐらい、息苦しくなるほど笑い転げた。  とりわけ、遺書のなかの一文が傑作だった。僕は友達の前ではいつも耳まで真っ赤になり、顔全体が蛸《たこ》のように赤く染まってしまいます。  蛸のように。居酒屋の息子だけに比喩《ひゆ》も食材にちなんだものだ。これが笑わずにいられるだろうか。  もちろん、生徒の前では笑みなどみせなかった。表情が緩むのを必死で堪えながら、また辛《つら》いことがあったらいつでも相談してね、そう告げた。  いかにもとろそうな、肥満しきったその男子生徒は小さくうなずいただけで、教室をでていった。だが涼子は、問題はさほど深刻なものではないと確信していた。  本気で死のうなんて思ってもいないはずだ。あの男子生徒に、自殺をはかるほどの勇気があるとは考えられない。  彼はただ流行《はや》りに乗っているだけだ。各地でいじめに遭っている生徒や児童が、文部科学大臣や政府閣僚宛に匿名の遺書を送ったことが大きく報道された。それによって、ふだん自分を虐げている身近な大人が、国からのトップダウンで叱責《しつせき》されることを望んでいるのだろう。  陰気で陰湿、忌まわしい流行。涼子はそう感じていた。  教師になってから五年。今年二十九になる涼子は、その教師生活のほぼすべてを、この岐阜の片田舎にある工業高校で過ごしてきた。  学校という教育の場を問題視するような昨今の風潮は、あきらかに大げさすぎる。それが涼子の見解だった。  地方の学校は、その土着の事情や人間関係に応じて、柔軟になることを余儀なくされる。文部科学省が声高に主張するような綺麗《きれい》ごとばかりでは、やっていけない側面もある。  たとえば、この氏神工業高校では、昨年全国的に問題になった世界史の未履修問題について、いまだに是正されてはいない。  学習指導要領では、地理歴史の教科において世界史が必修、そのほかに日本史、地理のうちひとつを履修するように定められている。だが、大学受験に必要な選択教科だけを集中して学習したいという生徒の思惑《おもわく》と、受験合格率を上昇させたいという学校側の利害が一致し、世界史も自由選択の授業としてきた。  一昨年前までは、高校としては常識的な判断だった。ところが文部科学省が横槍《よこやり》を入れてきて、マスコミがこれを過剰なほどに騒ぎ立て、世界史の履修が不足している生徒たちが卒業を危ぶまれているなどと、社会問題として煽《あお》った。  全国の高校が、地元の教育委員会の調査に白旗をあげて降参し、履修不足を認めて糾弾の矢面に立たされるなか、この氏神工業高校は、なおも隠蔽《いんぺい》をつづけた。  ここでは教育委員会までもが、沈黙を守ることに協力してくれた。誰が言いだしたわけでもない、自然にそういう成り行きに至った。  それが土着の風潮というものだった。お上に知れてはまずい事情は全員で隠し通す。  事実、生徒たちも学校のある意味いい加減な実情を知りながら、のんびりとしたものだ。この高校では教師と生徒の双方が、互いの義務や責任を追及しあわない。詮索《せんさく》もしない。波風の立たない共存関係を維持することが平和につながると、誰もが知っている。  それでいいのだろうと涼子は思った。工業高校という名称ながら、この過疎化した一帯の公立高校が合併し、普通科、工業科、農業科が混在する奇妙な学校。いずれのコースに進もうとも行く末は労働者だ。将来の希望などないに等しい。  生徒たちはその現実を知ればこそ、いまのうちから陰気になり内に籠《こ》もっているのだろう。  不条理で、不公平で、不安定な学校という場所での集団生活、共同作業。しかし、それが当事者にとっては逆に安定と呼べるものなのだ。  国にはそれがわかっていない。余計な手出しなど無用だ。ひとたび問題が浮き彫りになったら、誰にも対処できない事態になる。そのことを、当事者であるわたしたちは充分にわきまえているのだから。 [#改ページ]   タイムレース  依然として名古屋駅周辺の道路は封鎖されたも同然だった。  事故を起こした車両数だけでも数百台にのぼるだろう。あちこちに火の手があがっている。消防車すら、それら火災現場にまで達することができないありさまだ。  美由紀は駅の太閣《たいこう》通口に停めておいたリッターバイク、カワサキZRX1100に乗って、渋滞の道をすり抜けて名古屋高速道路に乗り、小牧《こまき》方面に向かった。  本当は現場に留《とど》まって警察に事情を説明したいところだが、やむをえなかった。ここで時間を浪費するわけにはいかない。  警視庁が今回の事態に関して協力を求めてきたとき、爆発物についての詳細な図面を見せてもらった。時限式発火で少量の火薬による爆発で、直径三十センチほどのプラスチック製球体を破裂させる、ただそれだけの仕組みだ。爆発力はきわめて小さく、すなわち爆発そのものが周囲に被害を及ぼすことを目的としているわけではない。球体に入っている生物化学兵器を散布するための爆弾なのだ。  五十嵐哲治は校舎内の酸素を減少させることを目的に、それが可能な化学物質の混合体を球体にいれ、仕掛けたと考えられる。彼のことだ、全校生徒に効果が及ぶように物質の量と散布場所を細かく計算し割りだしているに違いない。  小牧インターチェンジで下りて、名古屋空港方面に向かって走った。このままバイクで岐阜を目指しても、間に合うものではない。それなら、移動時間を短縮できる足を借りるまでのことだ。  名古屋空港に隣接する小牧基地のゲートへと直進する。平野だけに見通しがよく、ゲートの警備についている隊員もすでにこちらに気づいたようすで、小屋の外にでている。  面倒ね、と美由紀はつぶやいた。この基地には知り合いがほとんどいない。事情を説明するにも骨が折れる。  そう思ったとき、美由紀がとった行動は速度を緩めるのではなく、逆に速めることだった。  スロットルを全開にしてエンジンを吹かし、ゲートに突進する。隊員が顔をひきつらせて身構えた。  あわてているみたいね、美由紀は内心そう思った。隊員は、侵入者を阻止するためのマニュアル通りには動けていない。ゲートの脇に充分すぎるほどの隙がある。  美由紀は遠慮なくその隙を突いた。ウィリー走行で前輪を跳ね上げて、ゲート手前のスロープで跳躍し、柵《さく》の最も低いところを飛び越えた。  着地の衝撃を全身で受けとめる。バランスを失うことはなかった。  たちまち警笛が鳴り響いたが、基地全体まで警報が行き届くまではまだ時間があるだろう。美由紀は広大な基地内をバイクで駆け抜けていった。平時だけに隊員の数も少ない。百里《ひやくり》に比べれば、ずいぶんとのんびりしたものだった。  陸上自衛隊の戦闘ヘリ、アパッチがヘリポートの脇に見える。たぶん明野《あけの》駐屯地から飛んできたのだろう。メインローターが外されている。大規模なメンテナンスを必要としているらしいが、そこにもてきぱきとした動きはない。自衛隊基地とはここまで、緩慢なものだっただろうか。  しかし、そんな基地にあっても、滑走路前のエプロンに限っては備え万全の機体が存在していた。  これからタキシングに入るであろう第六航空団、三〇六飛行隊のF15J。一見して整備を終えたばかりだとわかる。|車輪止め《チヨーク》は外してあった。  テニスコート一面ぶんほどもあるその巨大な機体の下に、バイクを停める。  整備の隊員は、まだ遠方でぽかんとこちらを見ているだけだった。  機体側面の梯子《ラダー》を登り、コックピットに身を躍らせたころ、ようやく若い隊員が駆け寄ってきた。 「すみません。そのう……フライトジャケットは?」  バイクのつなぎを身につけて戦闘機に乗るのは初めてだ。美由紀は思わず苦笑した。「ごめん。忘れちゃった」 「忘れたって……? 失礼ですが、今川《いまがわ》二尉は?」 「さあ。そんな人がパイロットなの? 若い人?」 「今年着任したばかりで、二十八だと聞きましたが……」 「ふうん、わたしと同じね。ここって横に公園があって、夜のファイナルアプローチが難しそう。今川さんって人はじょうずに着陸できてる?」 「ええ……まあ、ふだんは問題なく……」 「そう。じゃ、同い年のわたしも負けられないわね」 「はぁ? 負けられないって、なにをですか。ちょっと。あなた隊員じゃないんでしょう? どこから入ったんですか。すぐに降りて……」  それ以上は聞こえなかった。キャノピーを閉じたからだった。またお馴染《なじ》みの個室に戻った、美由紀はそう感じた。  計器類をざっと眺め渡す。操縦|桿《かん》、エジェクションハンドル、ハーネスを確認。マスターアームスイッチ、オフ。燃料パネルをセット、フラップのスイッチをアップ。  隊員がキャノピーを叩《たた》き、なにか叫んでいる。  そこにいれば、とりあえずいまは安全だろう。エンジンが作動するときにインテイク周辺にいれば、大変なことになる。  エンジンのマスタースイッチをオンにした。JFSスイッチオン、スロットルの右エンジン接続スイッチを手前に引く。  轟音《ごうおん》が身体を揺さぶった。エンジンの回転三十パーセント、わずかに戻して十八パーセントのアイドル位置に固定。左エンジンも同じく調整をする。  無線、高度計、姿勢指示器をセット、レーダースコープをオン。航法コントロールをINSにセット。スイッチをいれて翼を拡張する。  ステアリングスイッチをノーマルからマニューバモードに切り替え、ゆっくりと動きだす。隊員はあわてて飛び降りた。  呆然《ぼうぜん》とする隊員を尻目《しりめ》に、二十ノットで前進していく。滑走路に進入した。  そのとき、警報が鳴り響いたのがキャノピーを通して耳に届いた。  やっと緊急事態だと悟ったか。きょうを教訓に、今後はこの基地もぴりぴりしたムードに包まれることだろう。  トリム位置、フラップ離陸ポジションよし。ピトー管ヒーター、エンジンアンチアイスをオン。BIT灯オフ。  エンジン点火。  轟音とともに身体が前方に押しだされる。アフターバーナーがひとつずつ点火し、五段階に加速していく。すさまじい推進力に身体がシートに圧着する。  フルアフターバーナーに達した。百二十ノット。  身体が浮きあがるのを感じる。視界には雲に覆われた空が広がった。  クイックにローテーションしてギアとフラップを戻す。昇降計の上昇ピッチを六十度に保ち、雲を突き抜けて太陽の下に踊りでた。  まばゆい陽射しのなかで操縦桿を前に倒し、吐き気をともなうほどのGに抗《あらが》いながら水平飛行に移る。  方位を確認して機首を北に向ける。なんの障害もない空を行けば、岐阜はもう目と鼻の先にある。  ゆっくりと高度をさげていき、濃尾《のうび》平野の天然の地図を目で確認する。木曾《きそ》川と長良《ながら》川がいい目印になっていた。  岐阜基地は氏神高校にきわめて近い。強制的に着陸して学校に直行するのが最短のルートだ。むろん、いままで以上にこっぴどく叱られることだろう。有罪になり、刑務所に入れられるかもしれない。  それでもかまわなかった。大勢の生徒たちの運命がかかっている。  時計に目を走らせる。ちょうどいま正午になるところだ。  岐阜基地が見えた。  氏神高校はそこから南南西、果てしなく広がる田地のなかにある。  地上が見えやすいように機体を傾けつつ、許されるかぎりの高度にまで降りた。  これより低く飛べば衝撃波で建物の窓ガラスが割れる、ぎりぎりの高度だ。むろん轟音は地上に響き渡っているだろう。  氏神高校、三棟の鉄筋コンクリートの校舎がみえる。その上空をかすめ飛んでいく。  だが、接近中に、美由紀の動体視力が奇妙な光景をとらえた。  ひとけのない学校周辺、門の外のあぜ道に、大勢の人々が集まっている。  色とりどりの服を着ているところをみると、生徒ではなさそうだ。  大人たちのようだった。保護者、もしくは教師か。手持ち無沙汰《ぶさた》そうにみえるが、なにをしているのだろう。  と、その直後、校舎に隣接する体育館に、青白い閃光《せんこう》が走った。  一瞬、ときが止まったようだった。  美由紀は高校上空を飛び去ってから、呆然と青空を見つめた。  つぶやきのように漏れた自分の声がきこえる。「そんな……」  爆発が起きた。  間に合わなかった。 [#改ページ]   その三十分前  午前十一時半。  やわらかい陽射しは降り注げど、伊吹山《いぶきやま》から平野に吹き降ろす風は冷たい。氏神工業高校は、そんな平野の荒涼とした田地のなかにぽつんと建っている。  全国的には暖冬だそうだが、この地域は冷える。温暖化に伴う異常気象の影響も、まるで受けていないようだ。  つい二か月ほど前、列島周辺の海が赤潮だらけになったというニュースを耳にしても、ここではまるで他人事《ひとごと》だ。海は遠い。地球環境より、明日の暮らしが気にかかる。  綾葺涼子はウィンドブレーカーを羽織って、すでに無人の職員室をでた。こんな寒い日にストーブを離れて外出とは耐え難いが、教員の義務だ、仕方がない。  今朝まわされてきたプリントによると、関東の大手私鉄会社である東急が中部地区にも進出し、このあたりに新しい鉄道路線を敷く計画があるのだという。  地元の名鉄や近鉄までもが見放した片田舎に線路を通すとは意外だったが、たぶん東急グループによる沿線の土地開発も並行しておこなわれるのだろう。すると、この近辺は新興住宅地となって活気づくのだろうか。  東急の業者が、高校にほど近い駅の建設予定地で説明会を開いているので、非番の時間帯を見計らって出向いてください。プリントにはそうあった。  昼休み前の四時限目、涼子は受け持つ授業がなかった。  玄関に向かったとき、校庭に目を向けた。体育館のほうが妙ににぎやかだ。ぞろぞろと生徒たちが校舎をでて、体育館のなかに吸いこまれていく。  全校生徒で千人足らずのこの高校、ほぼ全員が群れをなして歩を進めていく。なぜだろう。この時間帯、集会の予定はなかったはずなのに。  どうでもいいと涼子は感じ、靴をはいて外にでた。臨時の集会が開かれることは頻繁にある。  太陽の下ではそれなりの暖かさも保たれるが、日陰に入ると極端に気温がさがる。寒暖の落差のなかを歩きつづけた。  電動スライド式のその校門は、いまは二メートルほどにわたって開いていた。そこを抜けて、田畑のなかに延びるあぜ道に歩を進める。  プリントの案内に従って、高校の外壁に沿って歩き、角を折れた。  と、涼子は面食らって足をとめた。 「あれ……?」涼子はつぶやいた。「どうされたんですか、みなさん」  そこには教員全員が雁首《がんくび》を揃えて、途方に暮れたようすでたたずんでいた。  背の低い、頭髪のうすい初老の男が苦い顔で近づいてきた。「きみもか。かつがれたな」 「どういうことですか、校長?」  学校長の弘前秋吉《ひろさきしゆうきち》はため息をついた。「説明会なんかどこにもない。そのプリントはいたずらだよ」 「いたずら? これがですか?」  弘前よりも長身で、紳士的な振る舞いの白髪《しらが》頭の男がいった。「たぶん生徒がでっちあげたんだろう」  その男は、教頭の滝田軍造《たきたぐんぞう》だった。  校長に教頭、学年主任に各学級の担任。氏神高校のすべての教師が授業を放棄し、なにもない場所でたむろしていることになる。  生物の教師である白衣姿の木林厚保《こばやしあつやす》が、怪訝《けげん》そうな目を向けてきた。「綾葺先生らが、体育館に生徒たちを集めて健康診断の説明をおこなうので、私たちは外に出てもいいと思ったんですがね」 「そんなこと……。わたしもいまの時間は非番だから出てきただけですよ。集会の予定なんて聞いてません。校長が臨時に招集されたんじゃなかったんですか?」 「知らんよ」と弘前校長が首を横に振った。「教師をだますとはけしからん。すぐに戻って、プリントを作った生徒をあぶりださなきゃならん」  これが偽装……。涼子は呆気《あつけ》にとられてプリントに目を落とした。  文面といい、随所に挿入された地図や人口分布などのグラフ、東急の事業計画表といい、とても高校生が作りあげたものとは思えない。  涼子はいった。「こんなの、うちの生徒には無理ですよ。偏差値三十前後の生徒ばかりだってのに……」 「こら」滝田教頭が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「教え子をそんなふうに言うもんじゃない」 「でも、事実は事実ですし……」 「まあたしかに、生徒の平均的な国語力などを考慮すれば、こんな大人びた流麗な文章をひねりだせる者は少ないが……」  そのとき、雷鳴のような轟音《ごうおん》が上空に響いた。  見あげると、自衛隊の戦闘機が一機、かなりの低空を飛行していく。  こんなところで演習だろうか。岐阜基地を離着陸する機体は、この一帯を飛ばない規則になっていたはずだが。  と、涼子の視界のなかで、なにやら青白い光が瞬《またた》いた。  戦闘機の轟音は遠ざかり、辺りはまた静かになった。  妙に思って周りを眺める。  平穏無事。なにも起きていない。いつもと変わらない学校周辺の風景があった。 「なんだろう?」と滝田教頭がつぶやいた。「いま、なにか光ったみたいに見えたが」  木林も不安そうにうなずく。「あの戦闘機がかすめ飛んだ瞬間に、体育館のほうが青く光りましたよ。窓全体が、かなり明るく」 「まさか、なにか誤射では……」  弘前校長が首を横に振った。「ありえんよ。私も幼いころ、空襲を経験したことがおぼろげに記憶に残ってる。爆弾が落ちてくると、ヒューンと耳をつんざくような音がするんだ。だいいち、なにも壊れておらんじゃないか」  たしかにそうだ。涼子は体育館を眺めて思った。窓ガラス一枚割れてはいない。  それでも、青い光が瞬いたことは事実だ。複数の人間が確認しているのだから。  教師たちは、しばし当惑ぎみにたたずんで、体育館を遠目に見やっていた。  誰もなにも言いださない。  生徒が無事かどうか、気にかけるのが本物の教員だろう。しかしここには、そんな人間はひとりもいない。 「警察に……通報しましょうか」と木林がいった。 「そうだな」と弘前校長もうなずいた。「……それがいい」  全員が怯《おび》え、尻込《しりご》みしている。  しばらく時間が過ぎた。  ふいに校舎の屋外スピーカーから、若い男の声が聞こえた。 「教職員、および周辺住民に告ぐ」その声は一帯に響きわたった。「只今《ただいま》をもって、岐阜県立氏神工業高等学校は、生徒の自治による独立国家、氏神高校国として建国に至ったことを通知する」 「なに!?」弘前校長が目を見張った。「なんの話だ」  木林が咳《せ》きこみながらいった。「聞き覚えのある声です。たしか生徒会長の菊池克幸ですよ、三年A組の」  そうだ、菊池の声だ。涼子は息を呑《の》んだ。優等生で知られるあの生徒が、こんな悪ふざけをするなんて。  滝田教頭が歩きだした。「やめさせましょう」  しかし、菊池の声はつづいていた。「旧氏神高校の教職員は、総じて保守的な隠蔽《いんぺい》体質に甘んじ、文部科学省の指導にも従わず、履修不足問題やいじめ問題を放置してきた。このような教職員のもとでは、われわれ生徒は健全な成長と発育を保証されることがない。ゼロをいくつ掛け合わせようとゼロにすぎないように、無能かつ無力な大人たちの集団はその人数に関わらず、なんら頼りにできるものではない。よってわが旧生徒会役員は、氏神高校国行政庁となり、生徒自身による民主的な自治をもって、この高校を国家として独立運営することに決定した」  弘前は唇を噛《か》んだ。「馬鹿なことを。すぐにやめさせろ」  教員らはいっせいに駆けだした。涼子も走りだしていた。  なおも菊池の声が告げる。「わが氏神高校国は、イタリアのローマ市に位置するバチカン市国と同様、日本国内にありながら日本国とは切り離された主権国家であることを、ここに宣言する。統治、統括はわれわれ行政庁が責任をもっておこなう。なお、生徒全員の国籍は今をもって氏神高校国へと移った。今後はこの国の領内、すなわち校舎内で昼夜問わず集団生活を営むものとする」 「無茶な」木林が走りながらいった。「結局は未成年の集団|籠城《ろうじよう》か。断じて許さん」  菊池の声は動じなかった。「わが主権国家のライフライン、電気、ガス、水道について、暫定的に高校時代の精算会計方法を当面のあいだ維持するものとし、これらを絶つなどの行為はわが国の主権を妨害するものとして、戦争行為と見なす。わが氏神高校国は軍隊を持たないため、宣戦布告に対する戦力的報復は事実上不可能であるうえ、これを是としない。よって、別の手段をもって日本国への強制力を保つこととする」  校門が見えてきた。だが、その横滑り式のゲートは閉まりつつある。  職員室にあるセキュリティ関係の配電盤スイッチをいじっている者がいる。いたずらもここまでくると、あまりに悪質だ。  涼子たちが校門に達する寸前に、ゲートは閉鎖されてしまった。見あげんばかりの高さを誇る鉄格子の扉。よじ登るのは簡単ではない。  滝田教頭が顔を真っ赤にして、鉄柵《てつさく》にしがみついて怒鳴った。「いい加減にしろ! 菊池、いますぐにここを開けろ」  木林も大声で告げた。「こんなことで先生たちを懲らしめたつもりでいるのか? 騒ぎを起こそうとしても無駄だぞ。警察|沙汰《ざた》にならないうちに、早くこの門を……」  菊池の声が遮った。「わが氏神高校国への妨害行為がおこなわれるたび、国民一名を粛清する。それがわが国の防衛手段だ」 「粛清?」涼子はいった。「それって……」 「見ろ」と教員のひとりが校舎を指さした。「誰か出てきた」  下駄箱が並ぶ生徒用出入り口から、ひとりの女生徒が姿を現した。  ほっそりとした身体、肩にかかる長さの髪はうっすらと褐色がかっていて、色白の顔はかすかに青ざめている。  北原沙織《きたはらさおり》。生徒会の役員だった。  沙織の背後に、さらに五人の男子生徒が姿を現した。涼子の目には、彼らが誰なのかわからなかった。一様に小柄で無個性な少年たち。ふだん校舎でよく見かける、名もない生徒たちの一部。制服を着ているせいで、個々の判別は難しい。  五人はなぜか、オリンピックの旗の入場行進のように、一枚の大きな布を手にしていた。視聴覚教室の遮光カーテンを外したものらしい。  と、国旗掲揚塔の前にたたずむ沙織に、五人は布をすっぽりとかぶせた。  なにをするつもりだろう。涼子は言葉を失ってその状況を見守りつづけた。教員らも沈黙し、鉄格子のゲートごしに彼らの行いを見つめている。  男子生徒たちは沙織の身体を布でくるむと、ガムテープとロープでがんじがらめにした。  沙織は無抵抗だった。まるで放心状態のように、男子生徒らのなすがままに身をまかせているようだ。  さらに国旗掲揚塔のワイヤーで巻いたうえに、全員で力を合わせてハンドルをまわし、沙織の身体を塔に宙吊《ちゆうづ》りにしていった。 「なにをする!」弘前校長は大声をあげた。「やめろ! すぐに降ろせ!」  教員らはいっせいに怒鳴りだした。降ろすんだ、馬鹿な真似はよせ。これは犯罪だぞ。  それでも、ゲートをよじ登ろうという勇気をしめす者はいなかった。すでに菊池の口にした強制力が効果を発揮しつつある、涼子はそう感じた。  女生徒が危険に晒《さら》されている。いや、彼女が無事に地面に戻されても、校舎にいる生徒ら全員が人質も同然だ。うかつに手出しなどできようはずもない。  国旗掲揚塔は、その構造上、許容範囲以上の重さがかかって大きくしなっていった。歪曲《わいきよく》した塔に、布でくるまれた沙織の身体は吊《つ》るされていく。ほぼ頂点まで達しようとしていた。  ハンドルを操作する男子生徒は、誰もが無表情だった。言葉も交し合っていない。自分たちの行為を恐れているようすもなかった。  涼子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。なんだろう、彼らの不気味な心理状態は。  菊池の声が響いてきた。「わが行政庁の宣言に偽りがないことを、粛清の実行をもってここに表する」  まさか……。  息を呑んだその瞬間、涼子は戦慄《せんりつ》の光景をまのあたりにした。  男子生徒たちはハンドルから手を放した。  ふだん旗を支えるのみに設計されている塔のワイヤーは、女生徒ひとりの体重を支えきれず、たちまちハンドルは高速で回転し、沙織の身体は地上に落下していった。  どさりという鈍い音とともに、布にくるまれた沙織は地面に激突した。  赤いものが布から流出して、男子生徒らの足もとに広がっていく。  けたたましい悲鳴がきこえた。女性の教師の誰かが発したものか、あるいは自分の声か、それすらも判然としない。涼子はただひたすら凍りついていた。  パニックを起こした教員らをよそに、男子生徒らは臆《おく》したようすもなく、血の海に歩を進めて出入り口へと引き返していく。  いちばん手前の下駄箱、ちょうど横一列に並んだ男子生徒らとぴたり一致する列数だった。彼らは下駄箱の最上段に手を伸ばし、揃って上履きを取りだした。  男子生徒らはロボットのように一糸乱れぬ動きをしていた。同時に上履きを床に置き、同じ足から履き替えている。  まるで自分の意志を持たないかのように。  涼子に見えたのはそこまでだった。意識が遠のき、膝《ひざ》の力が抜けて足もとに崩れ落ちた。教員が大勢周りにいるのに、誰もわたしの身体を支えようとしてくれない。そればかりか、同じように倒れている者が何人かいる。  情けない。ゼロは何度掛け合わせてもゼロ。無力な大人たちは何人集まっても無力。意識が失われる寸前、涼子の頭のなかに浮かんだのは、そのひとことだった。 [#改ページ]   貴族・平民・奴隷  校舎のなかは戦場のようなあわただしさだ。いや、事実、ここはもう戦場なのだろう。  三年D組の生徒、五十嵐聡は二階の廊下に呆然《ぼうぜん》とたたずんでいた。  教室に駆けこんでいく男子生徒らが、机を窓ぎわに積みあげてバリケードを築きはじめる。一階は終わったから、次は二階ということだろう。辺りを見まわすと、どの教室でも同じことが起きているようだった。  そっちへ持ってけ。急げ。早く積みあげろ。荒々しい男子生徒の声と、どたばたという物音が校舎内に響きわたる。  ほかに音といえば、泣き声だった。すすり泣く声。女子生徒らは抱きあい、うずくまって泣いていた。邪魔だ、男子生徒にどやされ、ひときわ大声で泣き叫びながら壁ぎわに退く。そこでもまた厄介者扱いされ、場所の移動を余儀なくされる。そんな光景が、そこかしこにあった。 「聡」近くでクラスメイトの小沢知世《おざわともよ》がつぶやいた。「わたしたち、どうなるの?」  知世の顔に目をやる。五十嵐に身をすりよせながら、知世は大きな瞳《ひとみ》に涙をためていた。 「さあ……」五十嵐は自信なさげな自分の声をきいた。「どうなるかなんて、わからないよ。急なことだし……」 「逃げようよ、ね? すぐに逃げよ。こんなところにいたんじゃ、殺されちゃう……」 「馬鹿。声が大きいよ。逃亡を相談するのも犯罪だって、体育館で菊池が言ってたじゃないか」 「だけど……」  そのとき、ふいに男の野太い声が飛んだ。「おい」  びくっとして顔をあげる。五十嵐はきいた。「あ、はい?」  こちらを見つめているのは、たしか柔道部で主将をしていた塩津照彦《しおづてるひこ》という巨体の男だった。アフロのような天然パーマに丸い顔、ずんぐりとした身体つき。学ランを着ていなかったら、工事現場で働くベテランに見えるぐらいの風格がある。  塩津は外したすりガラスを何枚も重ねて抱えながらいった。「手が足りないんだ、おまえも来てくれ」 「……わかった、行くよ」  知世があわてたようすで引きとめてきた。「聡。行かないでよ」  だが五十嵐は、知世の手を振りほどいた。「やるしかないんだよ。きみはどこか安全なところにいてくれ」 「聡……」  その声に後ろ髪を引かれる。五十嵐は振り向かず、駆けだした。混みあう廊下を、人を避けながら先へと急ぐ。  塩津が歩調をあわせてきた。「おまえ、D組だっけ」 「そうだよ。あんたはA組だったよね?」 「まあな。おっと、クラス分けよりも、氏神高校国となったいまは役職のほうが重要なんだったな。A組の行政庁統治官は俺だ。よろしく」  行政庁統治官。かつてはクラスを取りまとめる立場は学級委員といった。今後は暫定政府である行政庁の直轄の役人として、統治官を名乗る。かならずしも、学校時代に学級委員だった人間が統治官となるわけではない。ふさわしくない人間はその任を解かれる。菊池はそう説明していた。 「統治官、か……」五十嵐はつぶやいた。 「なにか不満でもあるのか?」塩津がじろりとにらんできた。 「いや、ないよ……」  恐怖政治のもとでは、言論の自由などあるはずもない。五十嵐の立場はほかの大勢の生徒たちと同じく、ヒラの国民、すなわち民衆だ。刃向かうことなど、許されるわけはなかった。  とりわけ、北原沙織が粛清された直後とあっては、菊池に逆らうことのできる者などいるはずもない。  北原沙織は、生徒会の役員として菊池といつも行動を共にしていた。恋仲を囁《ささや》かれていたし、事実、登下校も一緒だった。それなのに、菊池は非情にも彼女を死なせた。  処刑を実行したのは菊池に同調するA組の男子生徒たち数人のようだが、詳しいことはわからない。体育館から校舎のなかへと移動させられ、外のようすは不明だ。携帯電話も取りあげられたし、パソコンがある視聴覚室への立ち入りは許されなかった。  運動部だった屈強な連中を中心に、菊池の手足となって立ち働いている勢力が、校内を急速に作り変えつつある。無力な五十嵐にできることは、その指示に従うことだけだった。  臆病《おくびよう》なんかじゃない。五十嵐は自分にそう言いきかせた。僕が菊池に楯《たて》突いたら、知世の身も危険に晒《さら》される。僕は、彼女の身を案じているんだ。自分のことだけ考えているわけじゃない。  廊下の突き当たり、三階につづく階段に、ひとりの女生徒が立っていた。 「連れてきたぜ」と塩津がその女生徒にいった。  五十嵐は彼女の顔を知っていたが、直接話すのは初めてだった。  幡野雪絵《はたのゆきえ》、三年B組。岐阜県議会議員の娘だと聞いている。  いかにも一般大衆の娘という感じの女生徒が多いこの高校にあって、雪絵は浮いた存在だった。いかにも育ちがよさそうな品のよさと、垢《あか》抜けない田舎臭さが同居している。親から、門限は夜八時とでも言い渡されていたのだろう。夜遊びなどとは無縁そうなお嬢タイプにみえた。 「ああ」雪絵は五十嵐をちらと見て、手もとのクリップボードになにかを書きこんだ。「あなたは……たしか、D組ね。名前は?」 「五十嵐聡」 「五十嵐君……ね。一階の購買部に降りていって、下級生の運搬員を指導してくれる?」 「運搬員?」  塩津が口をはさんできた。「食糧はぜんぶ三階に保管することになったんだ。一年生がパンを運びあげることになってる」 「それをどう指導するって?」 「パクる人間がいないように見張ってりゃいいんだよ。さあ、早くいけ。もうじき第一陣が上がってくる」  仕方がない。階段を下りようとして、五十嵐はふと足をとめた。  雪絵を見あげて、五十嵐はきいた。「あなたも行政庁統治官なの?」 「そうよ、B組のね」  ふうん。五十嵐は小さくうなずいてみせ、階段を駆け降りた。  すでに身分制度が始まっているのか。自由ばかりか平等さえも無縁らしい。  一階に降りてみると、二階を上まわる喧騒《けんそう》に包まれていた。右往左往する生徒たちは、まるで日本史の教科書でみた学徒出陣だ。あるいは、軍艦のなかの新兵たちの動きというべきかもしれない。  廊下の手洗い場には、おそらく女子生徒たちが所持していただろうヘヤードライヤーがかき集められていた。二年の男子生徒らがそれぞれひとつずつ手にして、排水口に風を当てている。 「しっかり熱風を当てろ」三年の男子が指示を送る。「詰まった配水管は熱風で通るようになる。パイプにこびりついた汚れは熱で剥《は》がれ落ちるからな。一時間以内に、この階のすべての配水管の詰まりを取り除くんだ」  根拠のない話ではなさそうだ。実際、一階の手洗い場のシンクには水が溜《た》まってばかりいたのに、作業の終わった場所ではスムーズに排水できているようだった。  さっき体育館の演説で菊池は、校内生活の知恵はどんな生徒からのものであれ受けつける、そういっていた。国のために尽くしてくれた労力が認められれば、行政庁の重要なポストに就くチャンスもある、そうもいった。  すでにいくつもの知恵が行政庁に提供され、実践する部署もそこかしこに設立されつつある。  一年C組の教室では、並べた机に女子生徒が横一列に座り、ボールペンをライターの火であぶっていた。  あれもなんらかの知恵か。妙に思って覗《のぞ》きこんでいると、五十嵐はほかの生徒とぶつかってしまった。 「あ、ごめん」身を退かせると、五十嵐はその相手が顔見知りだと気づいた。「石森」  背の低い丸顔の石森健三《いしもりけんぞう》は、いつものようにどこか卑屈なまなざしを向けてきた。「や、やあ。五十嵐か」  石森は段ボール箱を抱えていた。なかに、ボールペンがぎっしり詰まっているのが見える。 「ここは、なにをするところだ?」と五十嵐はきいた。 「書けなくなったボールペンを職員室や部室から運んできて、火であぶるんだよ」 「火?」 「固まってたインクが溶けて書けるようになる。二年生のやつの知恵らしい」 「へえ……。ライターの所持は禁止されてるんじゃなかったか?」 「この作業場内で、選別された女子生徒に限り持つことを許されるんだよ。タバコ吸ってたバカらも、全員持ってたライターを差しだしたからな。放火もできないってわけだ」 「ひとりぐらい、隠し持ってるやつがいるかも」 「冗談いえよ。北原沙織さんみたいな目に遭いたがってる奴はいない」 「まあこれで、当分ボールペンには不自由しないな」 「ところで、五十嵐。おまえ行政庁の役人になったのかい?」 「いや。まったくのヒラだよ」 「そうか……。おまえのことだから、いずれ役人に引き抜かれるかもしれないけど……。俺のことを悪くいうなよ」 「言わないよ。っていうか、いったいなんのことだ?」 「……べつに。なんでもない」  石森はむっとしたようすで、立ち去っていった。  おかしなやつだと五十嵐は思った。以前からこちらを避けているのは知っていたが、その理由がわからない。どうしていじけた態度をとるのだろう。  人混みを掻《か》き分けながら廊下を歩いていった。購買部はすぐ近くだ。  一年生らがパンのおさまった業者用トレイを抱え、歩を進めてくる。浮かない顔だが、黙々と作業に従事していた。  案外、誰もがすなおだ。そう五十嵐は感じていた。混乱は起きず、喧嘩《けんか》もない。かといって、無気力になって座りこむばかりでもない。そういう虚無に浸った生徒たちの姿もないわけではないが、大部分はいわれるままに労働に勤《いそ》しんでいる。  無論、そうせざるをえないという事情もある。誰でも命は惜しい。  だがふしぎなことに、菊池に対する怒りや、反抗心よりも、労働に身をまかせることを選んでいる自分たちがいた。  なぜだろう。さっきの演説に、心から共感したわけでもないのに。本気でここで暮らそうと決めたわけでもないのに。  と、ひとりの一年生がほかの生徒と揉《も》みあいになっていた。パンを運んでいるその一年にちょっかいをだしているのは、同学年の男子生徒たちだった。 「よこせってんだ」図体のでかい男子生徒がパンを奪おうとしている。「さっさと差しだせ、クソチビ」  別の男子生徒も同調している。「よこさねえと、いつもみたいにバケツに顔突っこませるぞ。チビ」  真っ赤な顔をして抵抗する男子生徒は、床にねじ伏せられ、殴る蹴《け》るの暴行を受けた。  廊下の人通りは激しい。だが、誰もが見てみぬふりをして通り過ぎていく。五十嵐も、その傍観者のひとりになりつつあった。  見過ごしたくはない。しかし、これはいまに始まったことではない。この高校ではよくある風景だ。どの学年にもある。  災いに、こちらから関わりたくはない。  ところがそのとき、甲高い笛の音がした。  三年の生徒らが駆けつけてきた。手には金属バットを握りしめている。  ひっ、声をあげて、いじめていた一年生らが身を退かせた。  だが、もう遅かった。三年らは容赦なく彼らにバットを振りあげ、一撃を食らわせた。  いじめっ子らはひとり残らず、三年らのバットにめった打ちにされた。悲鳴とともに床に這《は》い、のたうちまわりながら、必死で許しを請う。  たちまち、口もとから血を噴きあげた。ひとりはもうすでにぐったりとしている。あとの連中は泣き叫んでいた。  そこに、ゆっくりと歩み寄る人影があった。  五十嵐は、身体が硬直するのを感じた。  廊下にいたほかの生徒たちも同様だった。バットを手にした三年らも動きをとめ、かしこまるように直立不動の姿勢をとる。  菊池克幸は、そのほっそりとした長身から、異様なほどの威圧感を周囲に放っていた。鋭い眼が、床に転がった一年たちを見下ろす。  表情ひとつ変えず、菊池は告げた。「独房、一週間」  はい。三年らがいっせいに返事し、一年のいじめっ子らの腕をつかむと、廊下をひきずって運んでいった。  重い沈黙が流れる。五十嵐は呆然《ぼうぜん》としながら、治安部隊の立ち去るのを見送っていた。  まのあたりにした壮絶な暴力。そのショックはなかなか消えなかった。バットを持った三年生らが、手加減したようすはなかった。いささかの迷いも感じられなかった。彼らは、殺してもいいと思っていたのだ。  いじめられていた一年生も、ただ怯《おび》えきった顔で床にへたりこむばかりだった。パンはあちこちに散乱している。拾おうとする者は、誰もいない。 「おい」菊池の声がした。「おまえ。そこの三年」  それが自分に向けられたものだと知り、五十嵐はあわてた。「な、なんだよ」 「この一年を手伝ってやれ。パンを拾い、一緒に三階まで上がってやるんだ」 「なんで僕が……」 「早くやれ! おまえはもう氏神高校国の国民だ。働かないのなら生きている資格すらない」  高圧的な態度。五十嵐にとって、最も嫌悪すべき相手の態度だった。菊池に対する憎しみがこみあげる。刃向かうことはできないと知っていながら、反発と憤りが全身を支配していく。 「ほう」菊池は冷ややかな目を向けてきた。「なにか文句があるのか」  自分でも驚くほど、情けない声が五十嵐の口をついてでた。「いえ。べつに……」  ふんと菊池は鼻を鳴らした。「さっさとやれ。終わったら、クラスの統治官の指示に従って新しい仕事を見つけろ」  張り詰めた空気のなか、菊池は悠然と立ち去っていった。  辺りにざわめきが戻り始める。誰もが憂鬱《ゆううつ》な表情を浮かべながらも、それぞれの仕事を続行した。  五十嵐は床におちたパンをかき集め、トレイに戻していった。尻餅《しりもち》をついたままの一年生に声をかける。「だいじょうぶか?」  その一年生は、見るからに脆弱《ぜいじやく》そうな小柄の男子生徒だった。びくついたようすで、はい、とつぶやくと、身体を起こして残りのパンを拾いはじめる。 「きみ、名前は?」五十嵐はきいた。 「植谷翼《うえたにつばさ》です。一年B組」 「さっきの連中、いつもきみをいじめてたのか?」 「はい。……あ、いいえ……」 「怖がらなくていいよ。もうあいつらが報復してくることなんかないんだ。ちくったことを咎《とが》められることもない。この氏神高校国とかいう制度のもとではね」 「そう……ですね。ええ……」  五十嵐はふと、トレイのなかに天然素材の手提げ袋がおさまっているのに気づいた。  美術の授業で、スケッチブックなどをおさめるために使うものだ。その手提げ袋から、白いケント紙が飛びだしていた。 「これは……」と五十嵐は手を伸ばした。 「あ、そ、それ。ほっといてください……」  ケント紙には、インクで漫画が描かれていた。きちんとコマを割り、スクリーントーンも使った本格的なものだ。 「へえ」五十嵐はつぶやいた。「巧《うま》いじゃないか」 「どうも……」 「漫画家めざしてるの?」 「そういうわけじゃないけど……」 「これだけ巧ければ、雑誌に投稿すりゃ採用されるんじゃないか? これ、行政庁に進言したほうがいいよ」 「え? でも、こんなこと、取りあげてくれるかな」 「いまは助け合うことが大事だよ。さ、立って。一緒に運ぼう」  はい。植谷は小声でつぶやいて、トレイを手に立ちあがった。  独房、一週間。そう菊池はいっていた。少なくとも彼は、一週間以上この校舎での籠城《ろうじよう》をつづけ、独立国という馬鹿げたごっこ遊びをつづけるつもりだ。  そんなに長く付き合うつもりはない。それでも、いまはこの場のしきたりに馴染《なじ》み、生きる道を見つけることがなによりたいせつだ。  歩きだそうとしたとき、近くに立っていた知世に気づいた。  ようすを見に来たのだろう。そして、いまの知世はあきらかに軽蔑《けいべつ》のまなざしを向けてきていた。  仕方がないんだよ、平民なんだし。  内心つぶやきながら、五十嵐はトレイの端を持って運搬を開始した。 [#改ページ]   日本政府  テレビはどのチャンネルも、同じニュースを伝えていた。  映しだされているのは、田畑が広がる平野のなかにぽつんと建つ、三階建ての鉄筋コンクリート。岐阜県立氏神工業高校の校舎だ。  少年院のように高い塀を警察車両がぐるりと取り囲んでいる。報道陣の数も尋常ではない。  カメラが空撮に切り替わった。ヘリまで飛んでいるようだ。校庭にはひとけはなかった。 「お伝えしていますように」とリポーターの声がした。「きょう正午すぎ、ここ岐阜県立氏神工業高校で、生徒らが教師を敷地の外に閉めだし、籠城をきめこむという事態が発生しました。犯行声明とも受けとれるアナウンスを流したのが、三年生の生徒会長だったことから、この生徒が首謀者とも見られていますが、校内のようすははっきりしません。その後、校務員や施設管理員など職員すべても校舎から退去するよう強制され、現在校内にいるのは全校生徒のみとみられます。どれだけの数の生徒が籠城に加担しているかは不明であり、生徒の誰が加害者で誰が人質なのか、あきらかになっていないというのが現状です」  カメラは校庭にズームアップした。国旗掲揚塔の根元あたりから、赤いものが周囲にひろがっているのが見える。  リポーターの声がいった。「すでに一名の女生徒がリンチされ、おびただしい出血を伴う重傷を負ったことを、敷地外から教師たちが目撃しています。この女生徒の身体は校内に運びこまれたため、現在どのような状況にあるのか不明ですが、出血の量から察するに重体もしくは死亡と考えるのが妥当という消防庁の談話もあります。人質となった生徒の命が危険に晒《さら》されていることから、一刻も早く警察も強行突入してほしいという声と、人命を尊重し外からの説得をつづけてほしいという声の両方が保護者や周辺住民からあがっており、警察は対処に苦慮しているようです」  テレビは消された。  それを合図とするかのように、閣僚たちの怒号が飛び交いだす。  須田佳久《すだよしひさ》総務大臣は、軽い頭痛を覚えた。総理官邸の緊急閣僚会議はいつも騒々しいが、きょうは特にひどい。 「強行突入しかない!」永沢仁円《ながさわじんえん》法務大臣が声高にいった。「氏神高校は岐阜基地にも近い。陸上自衛隊の部隊もおるんでしょう?」 「動かせませんよ」八真文雄《やまふみお》防衛大臣は苦い顔をした。「これは警察の仕事だよ。それともなにかね。永沢法務大臣は、氏神高校国の独立国家としての主権をお認めになったのかね? 侵略行為だから自衛隊の出番だとでも?」 「茶化《ちやか》さんでいただきたい。私は一刻も早く事態を解決すべきだと申しあげておるんです。これは前代未聞の集団人質事件だ。警察が塀の外で手をこまねいているのなら、特殊な訓練を受けた者に侵入させるべきで……」  そのとき、耳に馴染んだ男の声が響いた。「いっそう国家主権を認めたように聞こえるな。北朝鮮への先制攻撃を認めろという言いぐさによく似ている」  閣僚たちが立ちあがる。須田もあわてて腰を浮かせた。  矢部信三《やべしんぞう》内閣総理大臣はやや疲労感を漂わせながらも、しっかりとした足どりで中央の席に歩み寄った。総理が着席すると、ほかの閣僚らもそれにならう。 「総理」永沢は納得いかないようすでまくしたてた。「未成年者とはいえ、テロも同然の悪質かつ凶悪な事件であることは明白ですぞ。対応が遅れてまたひとり生徒に死亡者でも出たら……」 「まだ死んだとは確認されてない」矢部は落ち着いた口調でいった。「そうだな?」 「はい」と額賀義春《ぬかがよしはる》厚生労働大臣がうなずく。「その疑いが濃厚ではありますが、教師たちの目撃談のみが根拠であり、北原沙織という女生徒の安否は不明です」  城山泰久《しろやまやすひさ》内閣官房長官が唸《うな》った。「そうはいっても、もし瀕死《ひんし》の重体という状況で、救出が遅れたら……」  永沢がふんと鼻を鳴らす。「官房長官は拉致《らち》問題担当でもあられる。救出が遅々として進まないことへの言い訳なら、おまかせできると思ってましたが」  棘《とげ》のある物言いに、城山は表情を硬直させた。「なんだと」 「諸君」矢部は手をあげて論戦を制した。「感情が昂《たか》ぶっているのはわかるが、鬱積《うつせき》した不満をぶつけあっている場合ではない。大勢の生徒が人質となっている現状では、実行犯が同じ生徒であっても、突入には慎重にならざるをえない」 「そうです」須田は同意してみせた。「二〇〇四年のロシア学校人質事件の二の舞は避けねばなりません」 「しかしだ」永沢は身を乗りだした。「今回の実行犯らしき生徒は、チェチェン独立派のように明確な要求をしめしていない」  木村雄太《きむらゆうた》警察庁長官が手をあげた。「よろしいですか。さきほど報告しましたとおり、この籠城事件の主犯は生徒とは言いきれません。五十嵐哲治医師が校舎内に爆弾を仕掛け、空気中の酸素濃度をわずかながら低下させたものとみられます」  永沢がきいた。「酸素欠乏症になった生徒たちが、たちまち異常行動に走り、意味不明のことを口にしているというのかね。そんなことがありうるのか」 「ええ」額賀厚生労働大臣はいった。「人間と動物の違いは、脳の額の部分です。いわゆる前頭葉というやつです。ここは知能と行動、いわゆる自我を司る部位だとわかってきました。酸素欠乏症でここの細胞が機能を失うと、人は動物に逆戻りです」  矢部はうなずいた。「文明以前の生物ってことだな。たしかに動物は群れをなして、ボスにより統率され、刃向かう者には粛清をもって対処し、外部すべてを敵とみなす。いまの氏神高校の生徒たちは狼の群れというわけだ」 「パスカルのいうように、人間は考える葦《あし》ですからね。優れた思考力を持つところが人間と動物を分け隔てる唯一の点といっても過言ではない。それが失われたんです」 「噂では、その五十嵐哲治という医師は、息子のいじめ問題と酸素欠乏症を結びつけたがっていたとか……」 「はい。私も彼の論文に目を通したんですが、正確には、脳の異常がいじめにつながる可能性を示唆するもので、必ずしも原因を酸素欠乏症に限ったものではありませんでした。酸素欠乏症はわかりやすい一例として挙げたかったんでしょう」  木村警察庁長官は咳《せき》ばらいをした。「酸素欠乏症は、前頭葉の脳細胞の破壊だけに限られるわけではない。悪くすれば死ぬ者もでるだろう」 「そうです」額賀厚生労働大臣はうなずいた。「脳細胞の破壊が大脳皮質のみに留《とど》まれば植物状態、さらに進んで脳の髄質に達すると脳死です。しかしながら、五十嵐医師の起こした化学反応は絶妙な度合いで酸素を減少させたらしく、そこまでの事故には至っていないようです。生徒たちはたちまち異常な行動に及んだ。彼の狙いどおりだったわけです」  沈黙を守っていた篠山弘《しのやまひろし》文部科学大臣が、おずおずと片手をあげた。「感心してる場合じゃないでしょう。なんにせよ、生徒たちは自分たちの意志に反し、籠城《ろうじよう》という行為に及んでいると考えられます。こんな状態がつづけば、生徒たちは卒業に必要な単位を取得できず、全員落第ということに……」 「それはない」木村警察庁長官が告げた。「刑法三十九条一項に『心神喪失者の行為は、罰しない』とあります。東京地方裁判所は平成十二年、地下鉄サリン事件など多数の事件に関与したオウム真理教の元幹部について、死刑の求刑に対し無期懲役と減刑の宣告をしている。特殊な状況下での異常行動が心神喪失にあたると判断されたわけです。この減刑の前例があることから、生徒たちの行為は心神喪失下のものと判断される公算が大きい」  永沢がいった。「生徒たちが本当に乱心していれば、の話だがな。本気で大人たちに反抗し、籠城したのかもしれん」  閣僚たちがざわついた。 「まあ待て」矢部はため息をついた。「その氏神工業高校というところは、以前にはなんの問題も引き起こしていないのか?」 「ええ」と篠山は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「記録上はそうです。いじめについての報告も一件もなければ、いじめを苦にした自殺なども起きていない。去年の世界史履修漏れ問題についても、同校はきちんと履修させていると回答していました。しかしながら、このことがかえって同校に対する疑念を生じさせています」 「どういうことかね?」 「つまり、綺麗《きれい》過ぎるということです。地方の工業高校のわりには問題が少なすぎます。いじめについての報告を隠蔽《いんぺい》する傾向は全国の公立高校にみられますが、氏神高校では教師ばかりか生徒、その保護者らも含め、地域ぐるみで問題を隠そうとしてきたと考えられます。このように地元のマイナス面の発覚を逃れようとする集団意識は、ここ特有のものでなく、地方には散見されるものです。しかも住民たちは総じて、そのことに罪悪感を抱いていない。その場しのぎは義務みたいなものだと信じて疑わないのです」  矢部総理がこちらに目を向けてきた。「須田君、なにか意見あるかね」  列席者の視線がいっせいに須田に注がれた。  須田は困惑しながらいった。「そのう……。民主国家においては、事態の解決は対話によって図るべきです。生徒会長の菊池克幸が教師らに伝えたところによれば、彼らはただ籠城しているだけではなく、独立国家宣言をしたわけです。日本政府としては、彼らを国として認めるか否かを前提に話し合いに応じたい、そのように申し伝えるべきでは?」  閣僚たちはブーイングを発した。 「くだらない!」永沢がひときわ大声でいった。「高校生たちの戯言《ざれごと》に付きあおうというのかね。実行犯の生徒たちをつけあがらせるのがおちだ」  賛同する声が矢継ぎ早にあがる。  矢部も真顔で告げた。「特定の高校だけを特別扱いにはできない。国家は普遍的に平等、画一化された国民の集合体であるべきだ。異端はいずれ、排除せねばならない」  閣僚たちが満足げな顔を浮かべる。  では、これで。矢部がそういって腰を浮かせた。  列席者たちも立ちあがって、ざわつきながら部屋をでていく。  須田だけはその場に居残っていた。  どうも胸にひっかかる。  国家は普遍的に平等、画一化された国民の集合体であるべきだ。総理はそういった。閣僚らも、ほぼ全面的に同意をしめした。  けれどもそれは、民主国家とはいえない。少なくとも、この国の総理にふさわしい台詞《せりふ》とは思えない。  いつの間に概念が変わってしまったのだろう。日本はいつから社会主義国家への道を歩みだしたというのか。 [#改ページ]   処刑の真実  午後四時をまわった。陽が傾きかけている。  スーツに着替えた岬美由紀は、憂鬱《ゆううつ》な気分で氏神高校の目と鼻の先にある�待機所�の外にたたずんでいた。 �待機所�とは、学校の敷地周辺の田畑のなかに取り急ぎ建てられた三つのプレハブ棟を指す。警察や生徒の保護者が地主に頭を下げにいって、土地の使用許可を取りつけるやいなや、業者がすばやく着工。わずか数時間で完成に至った。  いまだ無数の警察車両が取り巻く氏神高校を眺めることのできるこれらプレハブ棟は、警察の前線基地ともいうべき捜査本部と、記者会見場が設けられた報道関係者の詰め所、そして美由紀がずっと軟禁状態となっていたこの保護者らの詰め所の三つに分かれていた。ほかに、岐阜基地から出向してきた陸上自衛隊第三四八施設中隊のテントがある。  そのテントから歩を進めてきた沖原周蔵《おきはらしゆうぞう》二等陸佐が渋い顔でいった。「岬。予想はついていると思うが、航空自衛隊の上層部は怒りに我を忘れて、戦争でも始めかねないほどだ。ま、それは冗談だが、幕僚長の頭に血が昇っているのはたしかのようだな」 「すみません……。すべてわたしの責任です」 「防衛大臣も、要撃戦闘機はレンタカーじゃないとわめき散らしてたらしいぞ。きみも岐阜基地に着陸してから、絞られたとは思うが……私としても、感心できるような行為じゃないな」 「はい。しばらく身柄を拘束されてもおかしくない状況でした。反省してます……」  沖原は咳ばらいした。「とはいえ、情状酌量の余地があることは防衛省も認めている。あの学校の生徒たちが危険に晒《さら》されてたんだ、誰でも駆けつけたくなるのが人情ってもんだ。百里基地のほうでは、今回のような事態は初めてじゃないとそっけない態度をとる者もいるようだ。たしか少し前に、航空祭のゲスト機だったミグ25を飛ばした元幹部自衛官がいたと聞いたが……」 「……お察しのとおりです」 「本当かよ。あきれた人間だな、きみは。自衛隊の装備はきみの私物じゃないぞ」 「わかってます。でも……」  さっと手をあげて、沖原は美由紀の弁明を制した。「まあいい。きみが勝手に飛ばしたF15Jにしろ、名古屋駅周辺の惨憺《さんたん》たるありさまにしろ、事情が事情だけにやむをえないとする声もあがっているからな。ただし、警察の取り調べにはすなおに応じろ。それに、この件については最後まできちんと責任を果たせ。一匹狼は気取るなよ」 「わかりました。どうもいろいろ、申し訳ありませんでした」美由紀は深々と頭をさげた。  硬い顔のまま、沖原は立ち去りかけた。  だが、美由紀にはどうも気になることがあった。「あのう、すみません。ひとつだけお伺いしたいんですが」 「なんだ?」 「岐阜基地に降りたとき、滑走路周辺に緊急車両らしきものが見えませんでした。連絡なしに接近し、着陸を試みる機体があれば、それなりの対処法があると思いますが……。それから、小牧基地でも妙に警備が手薄でした。ゲートを越えたら、F15Jが待機するエプロンまで、ほとんど障害らしきものもなく……」 「無断でゲートを越えるほうが問題だろ? きみが自衛隊にいたころは、たしかにもっと警戒厳重だったな。しかし、このところ過剰な警備は内部の人間からも疎ましがられるようになった。こんな世の中だ、無茶をしてまで基地に侵入しようとする輩《やから》はいない。きみ以外はな」 「はあ……。沖原さん、こんな世の中って、どんな世の中でしょうか?」  沖原はじれったそうに首すじを掻《か》いた。「平々凡々、控えめで厳か、国民総中流階級。常識だろ。よくわからなければ、新聞でも読んだらどうだ」 「……そうですね。どうもお手数をおかけしました」  美由紀がもういちど頭をさげると、沖原は歩き去っていった。  腑《ふ》に落ちない気分だった。  国民総中流階級。ひさしぶりに聞いた表現のようにも思える。それはずっと昔のこと、美由紀にとっては幼少のころの一般常識だったと記憶している。  けれども、現代の社会はたしかにそんなふうに表現されることが適切に思える。  いつから世の中は変わったのだろう。貧富の差が拡大し、格差社会と呼ばれる世になっていたはずなのに。いつの間に時代は元に戻ったのだろうか。  しばらく考えたが、結論めいたものは見いだせなかった。  美由紀は歩きだした。世の動向を気にかけるよりも、いまは解決の糸口を見つけねばならない問題がある。  待機所のひとつに足を踏みいれ、衝立《ついたて》に囲まれた一角に歩を進める。  そこは簡易的に設けられた医務室だった。  看護師の世話になってベッドに寝かされているのは、綾葺涼子という、氏神高校の女性教師だった。  綾葺はぼんやりとした目でこちらを見た。「あなたは……?」 「臨床心理士の岬です。よろしく」美由紀はベッドの傍らに腰を下ろした。 「あ……。岬先生……。あの、いま、学校が……」 「落ち着いてください、状況はわかっています。ショックでしたでしょうね。生徒がリンチされる現場をまのあたりにしたなんて……」  ふいに涼子の目に涙が浮かんだ。「わたしが……わたしがいけなかったんです。わたしは学校を……教師という仕事をなめていた。いい加減な指導しかしてこなかったし、いつも自分のことしか考えなかったし……。自殺するって相談を受けても、内心笑い飛ばしたりして……。わたしなんか教師にふさわしくない。教師になんか……」 「興奮しないで。いまは自分を責めるべきじゃありません」  その涼子の反応が、すなおな反省の弁でないことに美由紀は気づいていた。これは適応機制における合理化と退行にほかならない。自分を貶《おとし》めた物言いをすることで、責めを受けることから逃れようとする本能の働きだ。 「綾葺先生。ひとつずつ、ゆっくりと想起していきましょう。どうしてあなたたち教師は、揃って学校の外に出たんですか?」 「東急の……新しい線路ができるから、その説明会があるとかで……。プリントがまわってきたから。よくできてて、誰も疑いは持たなかった」  看護師が一枚の紙を差しだしてきた。「これです」  美由紀はその紙片に目を落とした。  もっともらしい文面だ。だが……。 「これ、東急という企業の説明欄に間違いがありますね。ほら、ここです。|自由ヶ丘《じゆうがおか》駅とあるけど、正しくは自由が丘駅です。東急は助詞の『が』を略字にはしないきまりです」  涼子は困惑ぎみにつぶやいた。「そんなの……。岐阜に住んでるわたしたちには、わかりっこないし……」 「そうですね。このプリントを作成した人物も同様ってことです。本物っぽく見せてはいるけど、徹底できてはいない」 「いったい誰が……。生徒ですか?」 「いえ。都内のことに疎い大人でしょう」 「誰なんですか? 岬先生はご存じなんですか?」  美由紀は口をつぐんだ。  この書類を作成したのは、五十嵐哲治とみてまず間違いない。爆弾が爆発する前に教師たちを外に誘いだし、生徒たちだけを体育館に集めたのだ。  だが、その事実をつたえるわけにはいかなかった。酸素濃度を低下させる爆発物についての情報は、捜査中ゆえ機密扱いになっている。 「ひとつだけいえることは」と美由紀は告げた。「生徒たちは酸素欠乏症になり、前頭葉の脳細胞が機能を失ったことから、今回の行為に及んだという見方が有力だということです。ただし、どうにも理解できないこともあります」 「なんですか?」 「前頭葉が働かなくなれば、人は動物に退化するといわれてますが……。その動物の群れにしては、生徒たちの行動は知性に支えられたものです。無慈悲な行為に及びながらも、それによって大人たちが強制突入してくることを防ぎえている。決して動物的な粗暴さや凶暴さをのぞかせているわけじゃないと思うんです」 「でもわたし、見たんですよ。D組の北原沙織が……布にくるまって、国旗掲揚塔から落とされて……」 「ええ、状況は聞きました。どうか落ち着いて」 「五人の男子生徒たちは、表情ひとつ変えずにリンチを実行したんです。終わったあとも、行進のような足どりで校舎の玄関口に戻って……。手前の下駄箱の前に並んで、うわばきに履き替えるんです。下駄箱の蓋《ふた》が横一列、すべて開けられて、一糸乱れぬ動きでうわばきを取りだして……なにかに憑《つ》かれているとしか……」  妙に思い、美由紀はきいた。「すべて開けられた? 綾葺先生、それほんとですか?」 「ほんとよ。機械みたいに無駄がないと感じたから、はっきり記憶に残ってる」 「あのう……さっき、テレビ局のカメラがズームレンズで玄関付近を撮影してたんです。放送でそれを見たんですが、下駄箱はひとつにつき、横に六つ、縦に八つでした」 「そんなの、見間違いじゃありません? 岬先生はうちの学校に来たことはないんでしょう?」 「そうですけど、間違ってはいないはずです。ひとクラスの人数がどれだけいるか気がかりで、下駄箱が映ったときにしっかりと観察したから……。綾葺先生。五人の男子生徒って言いましたよね? 下駄箱の前に並んで同時に開けたなら、ひとつ余るでしょう?」 「……だけど……いえ、たしかに見たのよ。ぜんぶ開いたの。気持ち悪い光景だったし、目に焼きついてる。ぜったい間違いじゃない。わたしは嘘なんかついてない。ほかの先生方も見てるし……」 「ええ。あなたが嘘をついていないことはわかってる。お顔を見ればわかるから」  涼子は意味がわからないようすで、きょとんとして見かえしてきた。  美由紀は推論を口にした。「最初の人数を見間違えていたのでは? 五人じゃなく六人の男子生徒だったのでは?」 「……いいえ。それも違う。五人が布を持って校舎から出てきた。間違ってない」 「変ですね。……その男子生徒が誰かわかりましたか?」 「それがさっぱり……全員が小柄で、帽子を深く被《かぶ》っていて、無個性で……」 「布というのは視聴覚室の遮光カーテンだったそうですが、それを五人ないし六人で運んできたんですね?」 「五人よ。折りたたんだカーテンを校舎から運びだしてきたの」 「それで北原沙織さんをくるんだ、と……。無理やりにですか?」 「いいえ。北原さんは、ただ立ちつくしているだけだった。広げられた布が、北原さんの頭上からすっぽりとかぶせられて、男子生徒らが布の端を持って周りを走り、ミイラのように巻いていったのよ。そのあいだ、北原さんは無抵抗で……」 「国旗掲揚塔に吊《つ》るされ、落とされたあと、彼女の怪我の状態を見ましたか?」 「いえ。わたし、そこで失神してしまったし……。でも血が広がっていくのが見えた……」  看護師が告げてきた。「ほかの教師の話では、女生徒は布に巻かれたまま校舎内に運ばれたそうです」  ふうん、と美由紀は腕組みをした。「それじゃ、すべては偽装の可能性もあるってことね」  涼子は目を見張った。「偽装? どういうこと?」 「リンチというか粛清というか、とにかく女子生徒が無残な目に遭ったと見せかけるためのパフォーマンスだったってことです。男子生徒らはみんな小柄で、教師たちにも誰なのかわからないぐらいに帽子を深く被っていた。もし彼らが持ちだしてきた布のなかに、学ランの上着とズボン、それに帽子がおさまっていたら? 布をすっぽりと被せられた時点で、女子生徒はそれらに着替えることができる。そして、トマトケチャップの入ったビニール袋が、布のなかに用意されていたんでしょう」 「トリックだったってこと?」 「そう。大きな布をひとりの人間に巻きつけるなんて作業は、誰もが布の下に潜ったり這《は》いだしたりで、どたばたとしたものになる。女子生徒が着替えて外にでるのは造作もない。血糊《ちのり》袋を布でくるんだにすぎない物体を国旗掲揚塔で引き揚げて、落下させただけ。そちらに気を取られているから、男子生徒がひとり増えていることに気づく人間は、まずもっていない」  涼子は唖然《あぜん》とした面持ちで美由紀を見つめた。「そんなこと……ありえない。常軌を逸してる」 「いえ。生徒らがいきなり残虐行為を実行したというよりは、信じられる仮説だと思います」 「それって、いったいどういう……。なんのために……?」 「さあ、ね。まだなにもわからない……」 [#改ページ]   統治官・補佐・平民  夜になった。  五十嵐聡は、小沢知世の肩を抱いて、体育館の床に座りこんでいた。  ほかの生徒たちも周りで数人ずつのグループをつくっている。ほとんど会話は聞こえない。かつての集会では、あれほど教師が怒鳴っても静まりかえらなかった生徒の集団は、いまや極端なほど無口な群れと化している。  疲労しきって何も話す気になれない。なにひとつ考えられない。それが実状だと五十嵐は思った。  突然の変化が訪れ、従うべきものが変わっても、どうすることもできない。集団がそちらに向かえば、ひとりだけ流れに逆らって生きることはできない。気づけば、驚くほど柔軟な自分がいた。  誰もが、そう感じているのだろうか。逃げだそうとする者はいない。  もちろん、懲罰が待っていることを知りながら、愚行に及ぶ輩《やから》がいないというだけかもしれない。  じっとしていると、また恐怖が募る。忙しく立ち働いているときにはなかった、怯《おび》えという感情が支配的になってくる。  さきほど校舎から体育館に移ったとき、黄昏《たそがれ》をわずかに残した暗い空に、赤い明滅があった。塀の向こうにずらりと並ぶパトランプがどれだけの数か想像もつかない。報道陣のざわめきや、保護者のものと思える声も聞こえる。わが子の名前を呼ぶ声。  五十嵐はしかし、自分を呼ぶ声などないとわかっていた。父も母も、僕の名を叫んだりはしない。あの人たちは、そういう人たちなのだ。  いまは体育館の扉も堅く閉ざされ、外の喧騒《けんそう》はここには届かない。  さいわいだった。家庭から切り離されたことに、どこか安堵《あんど》している自分がいる。認めたくないが、ここの支配下に置かれているほうが、どれだけ気が楽かわからない。  そんな思いもつかの間のことだった。  舞台に菊池が現れると、体育館のなかには張り詰めた空気が漂った。  菊池は、行政庁統治官らを引き連れて舞台に立ち、マイクを通さず地声を張りあげていった。「そのままで聞いてくれ。諸君はいまや、わが氏神高校国の国民だ。よって、帰るべき家はそれぞれのクラスということになる。来週予定されていた教育委員会の泊まりこみの集会のおかげで、たくさんの毛布がレンタルされて倉庫に保管されている。これに体育用のマットやカーテンなどを合わせれば、五分の一ほどの人数のフトンがわりになる。ほかの者は、悪いが床にゴロ寝だ」  場内がざわついた。女子生徒のすすり泣く声も聞こえてくる。 「僕は頭など下げない」菊池は告げた。「われわれ生徒にとって必要なことを、みずからおこなうだけだ。異議がある者は申しでるがいい」  ざわめきはすぐにおさまった。沈黙だけが辺りを包んだ。 「よし」菊池はうなずいた。「異議はない、そういうことだな」  耐えがたい静寂だった。  本気で文句がいえる状況をつくらず、意見を持たないようだと断じるやり方。五十嵐にとっては、父親の言いぐさとうりふたつに思えた。父もいつもそうやって自分の価値観を押しつけてくる。  うんざりだった。  気づいたときには、五十嵐は静寂を破っていた。「リンチされて独房にぶちこまれたくないってだけだろ」  周りの生徒たちがいっせいにこちらを振りかえる。どの顔にも、驚愕《きようがく》と恐怖のいろが浮かんでいた。 「聡」知世もひきつったような声でささやいてきた。「正気なの?」  その反応に、今更ながら事態のまずさを悟った。五十嵐は、困惑しながらいった。「いや。あの、僕は……」  菊池の鋭い視線は、すでにこちらに釘《くぎ》付けになっていた。「おまえ、たしか昼間会ったな。名前は?」 「い……五十嵐……」 「五十嵐。意見があるなら堂々といえ。立て」  知世が不安そうにつぶやいた。「聡……」  だが、もう知らぬふりなどできなかった。膝《ひざ》の震えを抑えながら、五十嵐はゆっくりと立ちあがった。 「こんなのは、そのう……恐怖政治だよ。習ったろ、世界史で? ナポレオンにしろヒトラーにしろ、政権は長続きしなかった。こんな統治の仕方、無理がある」 「ほう。おまえは世界史を履修したか。ほかに世界史の授業を受けた三年、どれだけいる?」  まばらにしか手が挙がらない。実際、五十嵐が知る世界史のクラスは二十人ていどのはずだった。  菊池はいった。「あいにく、この学校では必修科目のはずの世界史を選択していない。昨年、あれだけ社会問題となった履修漏れだが、この高校では校長らによる隠蔽《いんぺい》がつづき、是正されないままとなっている。五十嵐が恐怖政治という言葉を口にしても、きょとんとした顔をしている者が多い。嘆かわしいことだ。こうしたことも、わが国家は改革していく。学年末まで残り三か月、生徒である国民みずからの力で切り拓《ひら》いていくのがわが国の趣旨だ」  対話のはずが、菊池の一方的な政見演説に挿《す》げ替わっている。  五十嵐がそう思ったとき、菊池の目がまた鋭く光った。 「不満があるようだな。五十嵐。こう思っているんだろう。殺人者の理屈など聞くに値しないと」  返答に迷う一瞬だった。五十嵐は不安を覚えながら立ち尽くすしかなかった。 「いいだろう」と菊池は微笑を浮かべた。「その懸念だけは、そろそろ解消してやろう。北原、出てこい」  ざわっとした反応が生徒らにあった。  そして、ひとりの女子生徒が袖《そで》から舞台に登場したとき、悲鳴に似た甲高い声がいっせいに発せられた。  怪我ひとつ負ったようすのない、北原沙織がにっこりと笑って手を振る。  衝動的なものなのか、手を振りかえす女子生徒らが少なからずいた。叫びは、ほとんど歓喜の響きを帯びたものだった。  沙織はいたずらっぽい笑みを浮かべながらいった。「ご心配かけてごめんなさい。わたし、国旗掲揚塔に吊《つ》られたこともなければ、落とされたこともないの。ぜんぶ、外にいる大人を騙《だま》すためにそう見せただけのこと。こうしておけば、誰も手出ししてこないからね」  感極まって、泣きだす生徒たちもいた。  知世さえも、しきりに指先で涙をぬぐいながらうなずいている。「よかった。よかった……沙織さん」  すかさず菊池が大声を張った。「諸君。われわれは外の世界と切り離され、完全自治の国を手にした。三年生は世界史を履修していない以上、残る三か月を無欠席で済ませようと、卒業できない状況にあったんだ。二年と一年にもそれぞれ、大人たちの怠慢による問題や軋轢《あつれき》が生じている。われわれはこれらの問題を解消する。いじめについては、統治官および風紀委員直下の治安維持部隊が乗りだし、加害者側を徹底的に罰することで根絶をめざす。わが行政庁側の懲罰については、国民諸君の生命を奪うこともやぶさかではないという事実を心得よ。それから自殺も許されない。みずから命を絶つ者があったとき、そのクラスの全員および統治官は厳罰に処せられる。すなわち誰も、仲間が思い悩んでいることを見過ごすことはできない。かといって、就労を逃れ、義務を果たさない人間は真っ先に独房送りとなる。この氏神高校国は、高校生のあるべき姿を実現するために建国した。われわれにはそれをまっとうする義務がある」  五十嵐は、自分を含む生徒たちの内面の変容ぶりに、愕然《がくぜん》とせざるをえなかった。  沙織が生きていたという驚きが、一瞬の思考停止をもたらし、いまの自分たちが喜んでいるのか、悲しんでいるのかさえも曖昧《あいまい》になった。その隙を突いて、菊池は演説をした。抗《あらが》いようのない理論、徹底した正義。わずか数秒で、そんなふうに感じている自分がいた。  驚くべきことは、生徒たちのあいだに、奇妙な連帯感が瞬時に生じたことだった。少なくとも五十嵐はそのように思った。  やるしかないんだ、そんな空気が辺りに蔓延《まんえん》しつつある。誰もが意外なほど、運命には従順だった。決められたことには自分を合わせていこうとする。逆らう道は選ばない。  涙を流して感動している連中がいる。いや、むしろ、そんな連中がほとんどだ。  あの演説に感動しているのか。安易に涙を流しているのか。感傷に酔いしれ、運命に従う道を選んでいく。  菊池は咳《せき》ばらいした。「それでは、今後についての話し合いを統治官および統治官補佐のみでおこなうものとする。その他の国民はそれぞれのクラスに戻って就寝の準備をせよ。……五十嵐」 「……はい」 「おまえ、世界史は得意なのか?」 「いや。たいして……」 「得意教科はなんだ」 「数学とか……」 「ほう。数学か。末尾の四を頭に移動すると元の四倍になる整数は?」 「ええと……。一〇二五六四」 「よろしい、まずまず使えそうだ。おまえを三Dの統治官補佐に任命する。舞台にあがれ。では解散」  戸惑いが五十嵐を支配した。  理由をたずねようとしたが、すでに周りはざわつき、生徒たちの移動が始まっている。  知世が震える声で聞いてきた。「聡。どうして……?」 「わからないよ。でも、行くしかない……。先にクラスに戻ってて」 「あ、聡……」  振りかえらずに突き進んだ。ちょうどいい。菊池に少しでも身近な立場の役職を与えられたのなら、直接文句を言う機会も増えるはずだ。  ところが、短い階段を昇って舞台にあがってみると、そこはとても苦言を呈することのできる雰囲気ではなかった。  沙織が厳しい声で告げた。「五十嵐君。統治官補佐はこっちの列よ。早く並んで」  さっき無事な姿をみせたときの愛想はどこへやら、いまやすっかりこの国の女帝だ。五十嵐はそそくさと、指示された場所に赴いた。  そこには馴染《なじ》みの顔がいた。 「あ、石森……。きみも補佐に選ばれたのか?」 「そうだよ」石森はまたいじけたような顔で五十嵐を見かえした。「やっぱり、おまえも任命されたのか。……じきに統治官に出世しちまうんだろな」 「よせよ。本気でここを国だとでも思ってるのか?」  そのとき、菊池の声が飛んだ。「国だ。おまえはまだそう思っていないのか、五十嵐」 「いえ……」 「では統治官および補佐の諸君。われわれはこれからの国民の学習について、指標を設けねばならない。むろんわれわれ自身も勉強せねばならないが、世界史の履修を果たすだけでなく、そのほかの教科もなおざりにできない。三年生は卒業を、そして下級生は進級を果たしえる授業数を履修し、単位を取得せねばならない」  教師のいない高校で勝手に授業ができるのだろうか。そして、単位が認められるものだろうか。素朴な疑問が五十嵐の脳裏をよぎった。  ほかの連中も疑いを持っていないはずがない。しかし、口をはさむ者はなかった。  沙織が全員を相手に発言した。「模擬試験などは外部から招き入れて、全国的にどれだけの学力に達したかを大人たちに知らしめる必要があるの。だから本気で勉強しなきゃいけない」  そのとき、軽い口調でひとりの男子生徒がいった。「カンニングすりゃいいじゃん。担任が見張ってるわけでもねえから、堂々とできるだろ」  その男は、E組の補佐のようだった。顔は見たことがある。不良気取りのやせ細った男だ。髪は長く、学ランの襟もとははだけて、ファッショナブルに装っているようでいて、ただだらしないようにも見える。すなわち洗練されていない男だった。  すると、沙織がつかつかと男の前に歩み寄った。「あなた、名前は」 「長島高穂《ながしまたかほ》ってんだ。よろしく」  いきなり沙織は平手で長島の頬を張った。 「いて!」長島は叫んだ。「なにすんだ!?」 「不正は許さない。カンニングは重罪に値する。そそのかした人間も懲罰の対象になる。わかった?」 「わ……わかったよ。ちゃんと勉強しろってことだな……。わかった、わかった」  菊池は無表情のままだった。「学業以外にも、国民は集団生活のため務めを果たさねばならない。これについては生活担当の幡野統治官から説明してもらう」  五十嵐が昼間、校舎の階段で会った幡野雪絵が進みでた。 「入浴は五日に一回。職員当直室にある風呂《ふろ》を使うものとする。食糧については購買部から運びだしたパンがあるけど、一日一回の食事としても二日と持たない。だから農業科の畑で自給自足するなどの方法を考えなきゃならないの。なにより、ライフラインが維持されることが重要ね」  沙織がうなずいた。「わたしが殺されたと世間が信じてるうちは、水道もガスも絶たれずに済むかもしれないけど、学校側が料金を未払いにしてしまえば、合法的にこれらのライフラインを絶つこともできる。電気が点《つ》かなくなれば、夜間の警備も危うくなる」 「そうね。なにより、学校側の支払いに甘んじているうちは独立国家とは呼べないし。これらを恒久的に維持する手段を考えなきゃならない」  五十嵐は面食らい、思わず声をあげた。「なにも決まってないんですか?」  菊池が醒《さ》めた目を向けてきた。「決められている生活を送るのは楽だ。自治とは、そういうものではない」 「そんな……自治って。僕らは、巻きこまれただけだし……」 「もう当事者だ。傍観者を決めこみたいのなら、なにか騒動でも起こせ。独房に監禁してやる」  独房。校舎裏の体育用具倉庫がその役割を果たしていると聞いた。すでに十人近くの生徒がそこに閉じこめられているという。  結局は強制か。五十嵐のなかに、また憤りと苛立《いらだ》ちがこみあげてきた。 「ぜんぶ、きみの考えなのか? 菊池君」五十嵐はきいた。  菊池はじろりと五十嵐を見かえした。 「意志はわれわれにある。方法をきめるのも僕たちだ。それが僕たちの運命だからな」  それだけいうと、菊池は背を向けた。  運命。生まれながらにして、流されるだけの人生。  その意味では、なにも変わっていない。初めから僕たちは、運命をもてあそばれる生き物だった。五十嵐はぼんやりとそう思った。  午後八時半。  美由紀は氏神高校の�待機所�で忙しく立ち働いていた。  生徒たちが解放されなくても、臨床心理士としてやるべきことは山ほどある。その大半は、生徒の両親に対するカウンセリングだった。美由紀は次から次へと、わが子の身を案じる親たちとの面接をこなし、不安を払拭《ふつしよく》するために最大限の努力をした。  自分ひとりでは手に余る。美由紀はカウンセリングの合間に携帯電話で東京の臨床心理士会事務局に電話したが、いつも留守番をしている舎利弗浩輔《しやりほつこうすけ》がきょうもひとり、居残っているだけだった。  美由紀にとって、カウンセリングの師のひとりでもある舎利弗は、驚きの声できいてきた。「氏神高校にいるのかい? いまニュースでやってる……」 「ええ、そう」と美由紀は答えた。「正確には高校の外の待機所だけどね。ショックを受けてる親が大勢詰めかけてるし、生徒が解放されたら真っ先に心のケアにあたらなきゃならない。わたしひとりでは、どうなるものでもないの」 「地元の臨床心理士は派遣されてないの?」 「それが、このニュースが報じられてから、ほかの学校がいっせいに臨床心理士の派遣を要請したらしくて。無関係の学校の生徒たちにも動揺が広がっていて、精神的不調を訴える未成年者が後を絶たないって」 「ああ、それは全国的なことらしいよ。専務理事もあちこち駆けずりまわってるみたいだけど、肝心の氏神高校に行かせる人員がいなきゃ話にならないね」 「舎利弗先生。専務理事に連絡をとってくれない? なんとかこちらを優先してもらえるように、頼んでほしいんだけど」 「わかった。すぐ電話してみる。あ、ところで、美由紀」 「なに?」 「眼科医の島崎先生が最終的な検査結果を知らせてきたよ」 「あ……」美由紀は思わずこめかみを押さえた。「どう言ってた?」 「信じられない、そのひとことだった。いま具合はどう? 眼圧があがったり、視力がさがったり、視野が欠けたりすることは?」 「ないわ。それどころか、動体視力の低下が再発するきざしさえないの。F15Jの操縦でも、なんの不自由も感じなかった」 「乗ったって? パイロットに復帰したの?」 「いえ、ええと、話せば長くなるから……。でも、ほんとに不思議。島崎先生は、視神経が壊死《えし》したって言ってたのに」 「そうだよ。だから脳に視覚情報の一部が伝わらないはずなんだ。治ることはまず考えられないってさ。痛みもないの?」 「全然。それで、島崎先生の見立ては?」 「虚血性視神経症に近い症状だったはずが、いまは完治というよりほかはないってことらしいよ。美由紀がアクシデントでさした目薬は活性酸素によって、たんぱく質や脂質を酸化させ、眼球の細胞を破壊する成分が入ってた。事実として、最初の検査では視神経の動脈硬化や目詰まりが確認されていたんだ。それが回復するなんて、まったく不可解としか言いようがない。奇跡だよ」  奇跡か。  科学的に生きることを信条とするのなら、最も頼りがたいものだ。それでも事実として、わたしの動体視力は回復している。  願わくば、この奇跡がつづいてほしい。少なくとも、氏神高校の生徒たちが無事解放されるまでは。そう祈るしかない。 [#改ページ]   青酸カリ  氏神高校国は、国民の就寝時刻を午後九時にさだめている。  すでに全校の教室は消灯し、生徒たちはそれぞれの教室で寝静まっている。机を合わせてベッド代わりにして、その上に毛布を敷いて寝ることが許されている立場の者と、上着かジャージにくるまって床にゴロ寝する者の二極化が進んでいる。平等を重んじるクラスではそれら二者が日ごとに交代するシステムになっていると聞くが、いずれにしても各クラスの統治官の裁量によって決定されることだ。ここに自由はない。  三年C組の岸辺和道《きしべかずみち》は、唐突に訪れたこの状況にただ呆然《ぼうぜん》とするばかりだった。  女子生徒が泣いていたり、男子生徒のなかにも暴言を吐いて抵抗の意志をしめす者がいるかと思いきや、実際に菊池の校内アナウンスが流れる段になると、誰もが驚くほどの従順さをしめして行動する。刃向かう者は誰もいない。  それは、マラソン大会で仲間たちがみんな『ゆっくり走ろうぜ』と言っておきながら、本番になるとスタートから結構飛ばすという不条理な状況に似ていた。  どうしてこんな状況でも周りに合わせようとするのか。いきなり親元から切り離されてこの校舎に閉じこめられて、不本意でないというのか。  面倒は御免だった。さっさと脱走して家に帰り着く、それだけがいまの望みだ。そのためには手段を選んでいる場合ではない。  岸辺は、友達の安土祐樹《あづちゆうき》を連れだって教室を抜けだし、暗い廊下に歩を進めた。 「やばいって」安土は、すっかり怖気《おじけ》づいたようすでささやきかけてきた。「行政庁の見張りは一時間ごとに来るらしいぜ? 外にも監視が立ってるらしいし、逃げられっこない」 「だまれ」岸辺は前進しながらいった。「なにが行政庁だ。こんなとこに一分たりともいられるかよ。俺は家に帰ってメシを食う。ゲームもするしDVDも観る。ベッドでぐっすり眠れるし、明日からは実質的に登校も不可能なわけだから、休みの日がつづくことになる。平日に休めるんだぜ? こんなおいしいことがあるか」 「だけどよ……。みんなで決めたことだし……」 「どこがだ。少なくとも俺は賛成してねえ」 「けど、どうする? 走って逃げようたって、校庭にでりゃすぐバレるぜ?」 「それなら心配ねえ。ほら、これだよ」と岸辺はポケットからビンを出してみせた。 「おい……そいつは……」 「工業高校ってもんは便利だよな。溶接工の実習室にこんなものまで置いてある。この薬品の成分、何か知ってるか?」 「知ってるけどよ……。青酸カリなんて何に使う? まさか……」 「俺たちゃ生きるか死ぬかの瀬戸際だぜ? どんなことをしようが正当防衛だろ」 「……何日かはみんなに調子をあわせて、ようすを見たほうが……」 「馬鹿いえ。俺は共同作業や集団生活が嫌いなんだよ」  岸辺はA組の前で足をとめた。  就寝時は、男女ごとに教室が分かれている。ここではA組とB組の男子生徒が寝ていて、隣のB組ではそれらの女子生徒が眠りについている。  A組の教室のなかに、足をしのばせながら侵入した。  呑気《のんき》にいびきをかいている者がいる。こんなふうにたちまち全寮制の学校に変わっても、適応できる人間がいるとは信じがたかった。いったいどんな神経をしているのか。  目当ての男は床に寝ていた。小柄でやや太りぎみのその生徒、今中雄三《いまなかゆうぞう》の額を叩《たた》いて、岸辺は小声で話しかけた。「おい雄三。起きろよ」  今中はぼんやりと目を開けた。 「あ……。岸辺君。な、なに……?」  いかにも鈍そうな、寝起きの返事。岸辺は苛立った。いつものことながら、こいつのトロさに付きあうには強烈な忍耐を強いられる。 「ちょっと外にでろ。話がある」 「駄目だよ……。朝まで廊下に出ちゃいけない規則で……」 「知るか。さっさと起きろ。ほら」  周りの何人かが声を聞きつけたらしく、身体を起こした。岸辺は人差し指を口もとにあてて、静かにするようにうながした。  どうせA組とB組の男子は腰抜けばかりだ。チクる勇気のあるやつなんか皆無に等しい。  廊下にでると、岸辺と安土はさっそくいつものポジションについた。今中の正面に岸辺が立ち、安土は背後にまわる。 「雄三」岸辺はビンを今中の鼻先に突きつけた。「おまえ、いまから生徒会の役員連中のところに行って、パンにこれをかけてこい」 「え……」今中は怯《おび》えた顔でつぶやいた。「これ……青酸カリ?」 「見りゃわかるだろ。生徒会の奴ら、職員室にいるから、気づかれないように忍びこめ」 「生徒会……じゃなくて、行政庁だよ」  岸辺のなかに憤りがこみあげた。 「なんだと。なめてんじゃねえぞ、なにが行政庁だ。俺らにわかった口をきくつもりか? もう俺らは怖くねえってのか。その行政庁が守ってくれるからか?」 「そんなこと、言ってないよ……」 「俺らに楯《たて》突く気かよ?」 「そうじゃないし……」 「なら、この薬品を持ってさっさと職員室に行け」 「……やだよ。そんなことできない」 「命令が聞けねえってのかよ。駅前のスーパーでも何度も万引きしたろ。万引き坊主」 「あれは……岸辺君がやれって言ったから……」 「おまえが勝手にやったんだよ。俺らのせいにすんな。通報されてえのか?」  と、今中が黙って見かえしてきた。  その反抗的なまなざしを、岸辺は初めて目にした。  通報できるものならしてみろ、そんなふうに瞳《ひとみ》が語りかけてくる。  今中は、こちらの権力が揺らぎつつあることを認識している。  生意気な坊主めが。岸辺は怒りにかられて、今中をこぶしで殴った。  今中は床に突っ伏した。すぐさま、岸辺は今中の横っ腹を蹴《け》った。安土も同じ行動をとる。ふたりで今中を蹴る。いつものことだった。いや、普段よりずっと力が入る。  岸辺は今中の髪をつかみ、顔をあげさせた。  ひいひいと泣く今中の声が神経を逆撫《さかな》でする。情けない奴だ。こんな奴がいる高校に自分も生徒として通っているという事実が、余計に腹立たしさを助長する。 「てめえ。いい気になんなよ。拒否するつもりなら、このビンの中身をてめえが飲め」 「やめろよ……」今中は震える声でいった。「いじめは行政庁の規則で禁止だって、菊池君が言ってたじゃないか……」  猛然とした怒りが岸辺のなかに燃えあがった。  いじめ。その事実が半ば公然化していたものの、今中の口からその言葉が発せられたことはなかった。岸辺も言わなかった。安土も同様だ。  世間のいう、程度の低い『いじめ』という現象と、自分たちの行いは同一ではない、そうみなすことにしていた。実際は同じかもしれないが、それを認めることに意味があるとは思わない。だから認めない。岸辺はそう心にきめていた。  こんなつまらない高校に入らざるをえなかった自分、それ以前に中学校で教師と同級生に爪弾《つまはじ》きにされ、孤立させられ、嘲笑《ちようしよう》を受けた自分。世の中は間違っている。俺もそんな世の被害者のひとりだ。負の状況にある以上、こちらは本能の赴くままに行動してやる。実利はなくとも、少なくともすっきりとするという効果があるなら、ためらわずに実行する。今中のような奴を見下し、成敗することは自分の務めだ。そこに自分の存在意義がたしかめられるのだ。  一貫した理屈なのか、混沌《こんとん》とした思考なのか判断がつきかねる。それでも岸辺は、自分を疑おうとはしなかった。俺は頭にきている。だからこのクソ坊主を蹴る。それ以外に説明などいらない。理由など必要ない。 「ほら」岸辺は蓋《ふた》を外したビンの口を、今中の顔に近づけた。「飲めよ」 「い……嫌だよ」 「飲めってんだ!」  岸辺は今中の口を無理やり開かせ、そこにビンの口をねじこんだ。ビンを傾けると、今中はブハッと液体を吐きだした。 「汚ねえな!」安土が怒鳴った。 「だが」岸辺はいった。「何滴ぶんか飲み下しただけでも致死量だぜ? おまえ、もう終わりだな。クソ坊主」  今中は青い顔をして、その場に崩れ落ち、仰《あお》向けに寝転がった。ぜいぜいと苦しげに呼吸している。  安土が不安そうに岸辺に告げてきた。「おい……。いくらなんでもやばくねえか」 「どこがだよ。さすがに死人が出たら、生徒会の奴らもビビリが入って、こんなわけのわからねえ独立国家ごっこも終わるだろ。正義ってのはこのことだ。さっさとずらかろうぜ」  ところがそのとき、廊下の明かりがふいに点灯した。  一瞬、まばゆさに目がくらむ。岸辺はたじろぎながら立ちすくんだ。  視界に入ったものに焦点が合ったとき、岸辺はぎょっとした。  生徒会役員、いや行政庁幹部だったか、北原沙織と幡野雪絵のほか、治安部隊の連中がずらりと顔を揃えている。 「あ……」岸辺は後ずさった。「あの、これは……」  沙織はつかつかと歩み寄ってきて、岸辺の手からビンを奪った。  冷ややかな目つきをしながら沙織はいった。「友達に飲み物を分け与えるとは感心ね。あなたも飲んだら?」 「いや。それは……」 「飲みなさいよ。早く。飲めっての!」  治安部隊が岸辺の背後にまわった。気づいたときには、安土ともども両腕を固定され、羽交い絞めにされていた。 「なんだよこれ!」安土は悲鳴をあげていた。「やめてくれよ。俺にそんなもの……。岸辺、なんとかしてくれよ!」 「なんとかって……。冗談だろ、やめろよ。よしてくれよ!」  それなりの美人として知られていた北原沙織の本性を、岸辺は垣間《かいま》見た気がした。  悪魔だ。夜叉《やしや》だ。不敵な微笑を浮かべながら、氷のように冷たい目でこちらをじっと見つめ、ビンを口もとに捻《ね》じこんでくる。 「飲みなさいよ!」沙織が怒鳴った。「さっさと飲みくだせ!」  その勢いに押され、瞬時に岸辺はごくりと液体を飲みくだしてしまった。  激しくむせて、嘔吐《おうと》しながら、岸辺はその場にうずくまった。  安土も同様に青酸カリを飲まされ、苦しみあえぎながら床にのたうちまわっている。  地獄だ。こんなものは地獄にほかならない。  動物のように呻《うめ》きながら、涙が自然に溢《あふ》れてくる。岸辺は焼けそうな痛みを放つ胸を押さえて、転げまわった。  沙織がじっとこちらを見下ろす。「どう? 気分は?」 「死ぬ」岸辺は絶望の響きを帯びた自分の声をきいた。「死ぬう……」 「ふん」沙織はあきれたように鼻を鳴らした。「工業科じゃなく普通科の生徒だったにしても、知識がなさすぎね」  雪絵がクリップボードに目を落としながらいう。「三Cの岸辺和道、安土祐樹。どちらも化学の成績はクラスでも最下位グループね。ずさんな犯行もうなずけるわね」  意味がわからず、岸辺はつぶやいた。「なに……?」 「岸辺」沙織はいった。「青酸カリの致死量はたった二百ミリグラム。その毒性は細胞の呼吸を停止させる働きがある。青酸カリが水に溶けCNになると、金属イオンと結合するため、酵素のなかの鉄と一緒になってしまうからよ。大脳の細胞が停止すると昏睡《こんすい》状態に陥る。それから呼吸中枢も麻痺《まひ》する。あなた、まだ息できてるんじゃなくて? 二百ミリグラム以上飲んだのに、おかしいと思わない?」 「え……。それって……」 「実習室の青酸カリは蓋をしないで放置されることが多くて、炭酸カリに変質して毒性が失われてしまってる。そんなことも知らない人間は氏神高校国において知性を提供する立場にはならない。しかも、労働者としても反社会的で使いものにならないなんてね。必要のない人間だわ。独房に入れておいて」  岸辺は唖然《あぜん》としていた。  安土とともに、首の後ろをつかまれ、廊下をひきずられながら連行される。その自分の現状だけは認識できていた。  だが、そこに至るまでの状況は、充分に把握できていない。  なぜ俺は罰せられることになったのだろう。必要ないとまで言われた。俺は、世に不必要な人間だ、そう断じられた。  やっぱり、そうだったのか。その思いだけが頭をかすめた。それ以上は、なにも考えられなかった。こうなるべくしてなった、諦《あきら》めとともにそう感じた。 [#改ページ]   適材適所  沙織は、まだ床に倒れていた今中を助け起こした。「だいじょうぶ?」 「は、はい……」 「吐き気がするなら、保健室に行ったほうがいいけど」 「いえ……。心配なさそうなので……どうも」  憂鬱《ゆううつ》な気分とともに、沙織はふうっとため息をついた。「いじめはきょうの建国以降、激減していたのにね。まだやる人間がいるなんてね」  雪絵が肩をすくめた。「いじめって、日本の文化とまで言ったら語弊があるけど、江戸時代と明治時代の初期にあった惣村《そうそん》社会の名残りのようなものだから」 「惣村社会? いじめと関係ある?」  そのとき、今中がぼそぼそと沙織に告げてきた。「惣村社会では、人々の結束力はかなり重要なこととされてたから……。それを維持するために村八分っていうシステムが生みだされたんだよ」  面白い考えを持つ一年生だと沙織は思った。日本史にも詳しいようだ。 「たしかにね。学校なんてものは、意味もなく団体行動を重視してきた。惣村社会に似てるかもね」 「そうよ」と雪絵がうなずいた。「団体なんて、本当は目的がなければ結束力は生まれない。でも、学校教育における団体行動教育は、生徒に目的を持たせない。目的を持たない集団に目的を持たせる方法、それが村八分。つまるところ、いじめってわけね」  なるほど、そうかもしれないと沙織は感じた。  修学旅行も、学徒が兵役に出るときの団体行動の予行のためにおこなわれたのが始まりだ。出陣という目的があったころは、まだ集団も統率がとれていた。しかし目的を失い、形式だけが残って、団体教育は行き詰まった。 「これからは、氏神高校国では歴史教育にも力を注ぐべきね」と沙織はいった。  雪絵も同意した。「世界史の履修不足も解消できるしね。そういえば、行政庁のほうで世界史の受験対策用プリントを作ってるんだけど、いくつかわからないところがあって」 「へえ。どんな?」 「たとえば、スキージャンプが十七世紀のノルウェーで始まったことは参考書にも記載があるんだけど、当時のノルウェーには冬季オリンピックのような競技会はなかったはずなの」 「そんなことまで受験に出る?」 「だけど、東大の受験問題なら近代オリンピック史を含んでいたこともあるし……」  今中がいった。「競技会じゃなくて、処刑場だったんだよ。スキージャンプはもともと囚人の処刑用に発案されたものだから」 「それほんと?」 「うん……」  雪絵は今中を見つめた。「あなた、世界史も勉強してるの? 成績は?」 「ずっと九十点以上……」  沙織は笑った。「すごいわね。どうやって学習してるの?」  しばしのあいだ今中は、戸惑ったような顔をした。  独学で好成績をおさめる秘訣《ひけつ》を明かしたくはないらしい。  だが、行政庁統治官らに危ないところを救われた直後だけに、恩返しすべきと考えたのか、今中は教室に向かっていった。「ちょっと待ってて。すぐ持ってくるから」  教室内では、廊下の騒ぎを聞きつけて生徒たちが起きだしているようだった。  雪絵が戸口のなかを覗《のぞ》きこんでいった。「関係のない人は寝ること。睡眠をとることも国民の務め」  今中が戻ってくるのを待つあいだに、沙織はふと、廊下の電球のひとつが切れていることに気づいた。 「これ、交換しなきゃね」と沙織はつぶやいた。  その声を聞きつけたらしい石森統治官補佐が、治安部隊のなかから駆けだしてきた。  石森は電球を見あげていった。「外すことができれば、すぐ復活させられるんですけど」  すると、同じく補佐の長島がにやつきながら近づいてきた。「なら、肩車してやるぜ」 「頼みます」 「よし、ほら」長島がかがんだ。「乗んな」  長島に肩車された石森は、天井の電球を外すと、そのソケット部分を配線ごと引っ張りだした。それからまた電球をソケットにはめて、大きく左右に振る。  と、電球はいきなり点灯した。 「へえ!」沙織は純粋に驚きの声をあげた。「切れたと思ったのに、また点《つ》いた」 「いえ、切れてたのはたしかです」石森は床に降り立ちながら、照れくさそうに笑った。「ああやって振ると、切れたフィラメントが接触した瞬間に熱で溶接されてくっつくので、また通電するようになるんです。生活の知恵ですよ」 「すごーい。これなら当分、電球のリサイクルが効きそうね」 「まあね。切れた電球があったら、いつでも呼んでください」  沙織は、石森が補佐の役職で並んでいる五十嵐に対抗意識を燃やしていることを知っていた。早くも彼らは、新しい社会のなかでライバル関係を構築しつつある。僻《ひが》みあったり、貶《おとし》めあったりする卑屈な敵対関係ではない。積極的に技能のしのぎを削りあう、理想的なものだ。  このまま誰もがうまくいけばいいけど。そう思いながら沙織は長島にきいた。「夕方、菊池君がまともに使えるプラスチック容器を集めてくれって頼んでたけど、見つかった?」 「それがさっぱりでね」長島は飄々《ひようひよう》とした態度で告げた。「でも、実習室にある歪《ゆが》んだ容器の再利用法が見つかったんで、当分はそれで持つだろうよ。あの手の容器って、湯につけておくとだんだん形状が戻ってくるんだ。元どおりになったところで冷水に入れれば、そこで固まっていっちょあがり。二年のやつの知恵だが、十人で徹夜作業してる」 「よかった。引き続きお願いね。ほかに問題は?」 「メモや書類に使う紙が不足してるって、五十嵐が言ってたっけな」 「不足? 書道室から大量に白紙が見つかったって聞いたけど」 「それがさ。あれ、水書き習字練習紙ってやつなんだよ。ほら、書道の時間に先生が手本で書いてみせるやつ。無色透明の水をつけた筆でも黒く書けて、乾くとまた白くなるってやつだよ。メモとしては使いにくいらしくてな」 「そう……職員室のわら半紙かコピー用紙をあたるしかないわね」 「あとで見てくる。ま、なんとかなるだろ」  今中がカバンを手にして戻ってきた。「あのう。僕の世界史の勉強法だけど……」 「ええ。ぜひ秘訣を教えてくれる?」 「秘訣ってほどでもないけど」今中はごそごそとカバンをまさぐって、一冊の本を取りだした。「これを使ってるだけだよ」  沙織は雪絵とともに、その本を見つめた。 「ああ、これか……」雪絵はつぶやいた。「でもこの方法、いけるかもしれない。全三年生に、三か月で世界史を習得させるには……」 「そうね」沙織も納得してうなずいた。「たぶんこれが最も有効な方法よね」 [#改ページ]   教育の行方  午前零時をまわった。  美由紀はコートを着て、待機所の外でクルマが近づいてくるのを待っていた。  そのミニバンは、美由紀の前で停まった。  運転席から降り立ったのは、三十代後半ぐらいの小太りの男だった。髪は七三分けで、口のまわりにひげをはやしている。不精ものにも見えるが、どこか上品な印象もある。 「こんばんは、舎利弗先生」と美由紀は声をかけた。  臨床心理士の舎利弗浩輔は寒さに身をちぢこませながら、いつものようにおどおどとした態度で辺りを見まわした。「専務理事に電話したけど、人手が足りないからおまえが行けって言われて……。とりあえず飛んできたよ。だいじょうぶかい? このところ大事件となると、必ずきみが関わってるね」 「もともと警察に依頼されたことだったんだけどね……。爆発に間に合わなかった。残念だけど……」 「きみのせいじゃないよ。怪我はない? 名古屋駅周辺もたいへんなことになってたみたいだけど」 「そうね。わたしって迷惑かけてばかり……」 「けど、犯人は捕まえたんだろ? それならよかったじゃないか。太閣通口のほうには被害はなかった?」 「テルミナ地下街とは逆側だから……。先生、名古屋にも行くの? 太閣通口に行きつけの店でも?」 「ま、まあね。アニメイトっていう店に涼宮ハルヒの限定もののフィギュアが……。まあいいや」  ふうん。美由紀は気のない返事をした。あいかわらず舎利弗の趣味は、自分とは接点がないようだった。  そのとき、赤いパトランプを光らせた警察車両が滑りこんできた。  私服警官らによって連れだされたのは、五十嵐哲治だった。手錠をはめられている。腰縄もつけられていた。 「ちょっと待ってて」美由紀は舎利弗にそう告げると、五十嵐のほうに駆けていった。  昼間見たときより、ずっと老けこんでみえる。地面に視線を落とすさまは、意気消沈した老人そのものだった。  その顔がこちらに向けられた。  だが、五十嵐は表情を変えなかった。ぼんやりとした顔でつぶやいただけだった。「ああ。きみか」  ひとりの中年の刑事が美由紀に歩み寄ってきた。「岐阜県警の中志津《なかしづ》警部補です。失礼ですが、どちらさまで?」 「岬美由紀です。臨床心理士の……」 「ああ、あなたが……。そのう、この男の逮捕に協力してくださったそうで、感謝申しあげます」  甚大な被害を及ぼした愛知県警の所轄区域とは違うからか、岐阜県警の警部補の態度はわりと温和なものだった。  美由紀はきいた。「どうして五十嵐さんをここへ……?」 「むろん、説得させるためですよ。息子さんらをね」中志津はいった。「それに、全校生徒を異常行為に走らせた張本人でもあります。保護者らに対する説明責任もあるでしょうしね」  それでは非難を一身に浴びることになってしまうだろう。美由紀は困惑を覚えながら、中志津にたずねた。「弁護士は?」  五十嵐哲治が口をきいた。「断ったんだよ。私みずからね。弁護など必要ない」  中志津は苛立《いらだ》ったようすで、五十嵐の背を押した。「じゃあ、さっさと始めよう。その小屋で保護者への説明会がおこなわれている。入るんだ。あ、岬先生も一緒にどうぞ」  美由紀は舎利弗を振りかえって手招きした。こんな状況だ、意見を述べられる専門家はひとりでも多いほうがいい。  中志津と五十嵐が戸口をくぐり、美由紀はそのあとにつづいた。  いきなり男性の怒声が耳に飛びこんできた。「どうして警察は踏みこんでくれないんだ!」  同調する保護者たちの声が沸き起こる。  演壇に立った私服警官が事情説明に追われている。保護者たちはパイプ椅子におさまり、血相を変えながら口々に申し立てをしていた。 「そのう」私服警官がおずおずといった。「突入の結果、生徒がひとりでも命を落とす結果になることは避けねばなりません。現在、岐阜県警と本庁とで綿密な協力体制をとり、慎重な協議を……」  いっせいにブーイングの声があがった。 「なにが協議だ!」男性が憤りをあらわにした。「うちの娘はまだ一年、十六歳だぞ! 教師のいない校舎にひと晩たりとも寝泊まりさせられるものか! 男女生徒を一緒くたにしておいたら、なにが起きるかわからん。警察はどう責任をとってくれるというんだ!」  ほかの男性も立ちあがった。「だいたい、その行政庁だかなんだか、元生徒会の役員の親たちはどうして姿を見せない。菊池君の親はどこにいるんだね。殺されたかもしれない北原沙織さんのご両親は?」 「その件ですが……」私服警官は手もとの紙片に目を落とした。「生徒会役員の両親らには、身の安全を保つためにも自宅待機し、いっさいの取材に応じないよう勧告してあります。菊池君のご両親も同様です。さらに、北原沙織さんの母親はショックで寝こんでいるようで、連絡がつかない状態にあります」  またしても不満の声がひろがる。  部屋の隅で固まって座っている教師らのなかから、初老の男が立ちあがった。  それが教頭の滝田軍造という人物であることを、美由紀はニュースを通じて知っていた。  滝田はいった。「みなさま、心よりご同情申しあげます。しかしここは冷静になって、保護者、教師、警察関係者、それから、そのう、スクールカウンセラーの臨床心理士と、全員が一丸となって協力しあい、解決策をみいださねば……」  教頭の演説も保護者らの神経を逆撫《さかな》でしたようだった。  ひとりの女性が怒鳴った。「先生方がしっかりしてないから、こんなことになるのよ!」  そうだ、まったくだ。同意をしめす声が飛び交うなかで、教頭はしきりにハンカチで額の汗をぬぐっていた。 「しかし」と滝田教頭はいった。「われわれとしては適正な指導をおこなってきたはずですし、生徒たちに今回のようなことの前兆などみられませんでした。なんの問題も起きてませんでしたし……」  ふいにひとりの男性の声が響きわたった。「はん!」  全員が口をつぐみ、その男性を見つめた。  人々の目を釘《くぎ》付けにしたのは、五十嵐哲治だった。 「なんの問題もない? ふん」五十嵐は鼻で笑った。「茶番とはこのことだ」  中志津警部補があわてたようすで制止にかかる。「おい、五十嵐……」  滝田が不快感をあらわにした。「失礼ですが、どちらさまでしょうか」  五十嵐は物怖《ものお》じしたようすもなくいった。「三Dの五十嵐聡という生徒の父、哲治だよ。うちの子は一年のとき、いじめにあった。蛍野《けいの》とか蒸原《むしはら》っていう傍若無人な生徒にね。ここにも親がいると思うが」  該当者なのか、男が立ちあがっていった。「言いがかりはよしてくれ。なにか証拠でもあるのか」 「証拠だって! 息子の背中にいまも残るやけどの跡がなによりの証拠だ。私は息子にうまく立ちまわるように言ってきかせ、いじめっ子どもの求めるものはなんでも差しだして、ご機嫌をとれと教えてやった。息子はテスト期間中、解答を紙片に書いていじめっ子どもにまわした。連中はその貢ぎ物を気にいって、以来息子に手をださなくなった」 「なんて親だ」 「口の利き方に気をつけろ。あんたの子供に対する教育が間違っているのがそもそも問題なんだぞ。とにかく、この学校は腐りきってる。いまだに世界史を履修してないじゃないか!」  喧騒《けんそう》はすさまじいものになった。保護者のほぼ全員が立ちあがり、なんらかの言葉を発していた。  女性の声が甲高く響く。「やっぱりそうだったの? うちの子に聞いたら、先生が心配ないって言ってたって……」  学校長の弘前があわてたように釈明に入った。「そんなことをいう教師は、うちにはいません。世界史の履修不足は、そのう、全国的な問題で……」 「それは去年のことだろう!」とひとりの男が叫んだ。「あれだけ履修不足が騒がれていたのに、まだ是正していないとはどういうことだ。発覚するまで隠蔽《いんぺい》しつづければそれでよしとでも考えていたのか」  滝田教頭が弁護する。「あのですね、うちは田舎の工業高校で、問題を解決するにも、すぐというわけには……。この件は、保護者のかたもご存じだったはずですし、いまさら私どもにのみ責任を押しつけられても……」 「なにが責任だ! とにかく、いい加減なことを口にした教師をここに連れてこい。綾葺涼子先生はなぜここにいない? どこにいる!?」 「綾葺先生は、体調を崩されまして、病院に運ばれまして……」  抗議の声がひときわ大きくなる。まるで騒音だった。  保護者のなかで男性がいった。「だいたい、校長から教師まで全員が外に閉めだされるなんて、こんな情けない話があるか。生徒たちがそのときどんな状態にあったか、把握している教職員はいないのか」  五十嵐が声高にいった。「体育館に集まってたんだよ。私が画策した。生徒たちに集会があると思わせるために、事前にプリントを配布しておいたんだ」  衝撃を受けたようすの保護者たちが、いっせいに動揺をしめした。 「なんだってんだ!?」男性がわめき散らした。「いったいおまえはなにをやらかしたんだ。うちの子はどうなった?」 「あなたたちは」五十嵐は演説のように声を張りあげた。「いじめをなくそうと本気で考えたことがない。人間のあらゆる問題は科学で解決すべきだ。いじめなどという、野蛮で、非常識な行為に及ぶ生徒は、まぎれもなく脳に異常部位を抱えている」 「うちの子が異常だっていうのか!?」 「自分の子がいじめっ子だと認めているようなものだぞ。いいか、いじめなんてものは、弱者相手に強者の力を見せつけようとする、低能な動物の習性みたいなもんだ。なぜそんなことが起きる? 前頭葉の働きが鈍っているからだ。人間の脳には百四十億の細胞があるが、実際に使われているのは十五億ていど、そしてそれらも毎日減少していく。私はその進行の度合いには遺伝的特性はさほどないと考えているが、どうやらそうばかりでもないようだ。愚かな子供にはやはり愚かな親がついているのだからな」  保護者たちは顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、五十嵐のほうに詰め寄ってきた。  中志津が五十嵐を戸口の外に引っ張っていった。部下に声をかけているのが聞こえる。「いったんパトカーに乗せろ、すぐにだ」  つかみ合い寸前の混乱から外れて、美由紀は困惑とともにたたずんだ。舎利弗と目を合わせる。舎利弗も戸惑いのいろを浮かべていた。  解決にはほど遠いわね。美由紀はそうひとりごちた。 [#改ページ]   貨幣経済とは  白々と夜が明けた。氏神高校国の建国以来、初めての朝陽が昇った。  五十嵐聡はすぐに起きだして、教室をでた。生徒たちも一部はすでに活動を開始している。掃除をしている者もいるし、各教室に配られた備品の点検作業をしている者もいる。ただし、ほとんどは行政庁統治官かその補佐ばかりだった。一般の生徒、いや国民らは、まだ眠ったままのようだ。  隣りの教室にいる小沢知世が気になる。女子生徒とは分かれて寝るのが決まりだ。  きのうの晩、女子生徒のすすり泣く声が聞こえていた。それも夜半すぎには途絶えたように思う。沈黙のなかで眠りについた五十嵐は、ふしぎとこの朝を迎えるのが当然のことのように感じていた。建国という名目での籠城《ろうじよう》、その一員に加わっていること、果たさねばならない義務、すべてが。  使命などという重いものを感じているわけではない。いつの間にかこうなっていた、そしてやらざるをえなくなっていた。  いつか戦争が起きたら、否応《いやおう》なくそこに巻きこまれるのだろう。意識しないうちに銃を持ち、軍服を着せられて、戦地に駆りだされるのだろう。ぼんやりとそう感じる日々もあった。予想とはかなり異なった状況ではあるが、非日常的な環境はふいにやってきた。僕はそこに適応を求められているのだ、五十嵐はひとり静かに思った。  無人島に取り残されても、人は唐突に取り乱したり精神の異常をきたすことはなく、どんな環境にあっても適応的に生きていけると言ったのは、保健体育の教師の鱒沢《ますざわ》だったか。雨で体育の授業がつぶれた日、教室で保健の教科書を片手に鱒沢はたどたどしくそう告げた。  あの男は、体力自慢なばかりで頭のほうは働くとは思えなかった。実際、教科書を数多くの箇所で読み間違えていた。しかし、生徒は誰も異議を唱えなかった。腕力に自信があるゴリラは怒らせないにかぎる。  鱒沢というのは元不良少年だったことを自慢げに鼻にかける輩《やから》で、五十嵐が苦手とする教師のひとりでもあった。彼の面目がつぶれるというだけでも、この籠城を維持するだけの充分な理由になりうる。そんなふうに思う自分がいた。  校庭の外から、スピーカーで呼びかける声がする。きみたちのお母さん、お父さんは心配しています。できることなら、大人を信用し、もういちど話し合いの機会を持ってほしい。誰もが待ち続けています……。  廊下の洗面台の前で、石森と出くわした。石森は上着を脱いで顔を洗っていた。 「おはよ」と五十嵐はそっけなく声をかけた。 「ああ。おはよう」石森はタオルで首すじをぬぐいながらいった。「あの声、日の出とともに始まったな。やっぱ夜は、近隣住民に配慮してるのかな」 「そうだろうな。国境の向こうからの声。まるで朝鮮半島だね」 「プロパガンダが混じっているかも。ぜんぶ本気にしないほうがいいな」 「……だな」五十嵐は憂鬱《ゆううつ》な気分でいった。「両親が心配してるなんて……」  石森がたずねるような顔でこちらを見た。五十嵐は視線を逸《そ》らした。  他人に同情してほしいなんて思っていない。それに、石森とはそれほど親しい間柄でもない。  と、長島高穂がぶらりとやってきた。「おっはよう、おふたりさん。まだ寝ぼけてるのか」  五十嵐は面食らった。長島はもう上着をきちんと身につけて、手にしたサインペンを何本も流しに置き、水をかけるという作業に従事している。 「なにやってるんだい?」と五十嵐はきいた。 「これか? サインペンってのはな、底の部分が開くんだよ。歯でガリっとやればな。で、なかは空洞。インクが切れたなら、きれいに洗って、また墨汁でもなんでも入れておきゃ使えるようになる。ペンの先から液体が染みだすだけっていう構造だからな」  石森が面食らったようすでつぶやいた。「よく朝っぱらから働けるね」 「なんだ、知らねえのか? 労働に応じて通貨みたいなものが給与される決まりになったんだぜ」 「通貨?」と五十嵐は長島に聞きかえした。 「国っていえば金があるだろ。単位はウジガミールだってさ。十ウジガミールで新しい毛布がゲットできるってよ」 「一ウジガミールは……日本円に換算するといくらなの?」 「それがな、俺たちゃもう日本人じゃないんだから、そんな基準で考えるなってさ。ここでの生活を通じて、物の価値の基準が決まる。その基準も流動的なものだってな。レア物は早めに入手しといたほうがいいぜ」 「ここの水道代は?」 「そんなものは……公共経費だろ」  そのとき、校内アナウンスが響きわたった。  幡野雪絵の声が告げる。「三年の統治官および補佐はただちに行政庁第二本部に出頭してください」 「ええと」石森が頭をかいた。「第二本部って……」 「旧視聴覚教室」長島が五十嵐を見つめてきた。「だろ?」 「そう。行こうか」五十嵐は歩きだした。  ああ、いこう。ぶつぶつとつぶやきながら、石森と長島もついてきた。  無人島でも適応的に生きられる、か。あながち間違いでもなさそうだ。こんな風変わりな事態であっても、誰もが順応し始めている。  なにが自分たちのやる気につながっているのだろう。わからない。積極的だという実感もない。  それでも、足を踏みだすのは苦ではなかった。やらなきゃいけないことがある。そう思えるだけでも楽になる。理由は不明だが、五十嵐はたしかにそう感じていた。 [#改ページ]   数値と漫画  五十嵐は第二本部、すなわち旧視聴覚教室に駆けつけた。そこには、いつもの行政庁の幹部らのほか、見慣れない下級生がいた。  今中雄三というその生徒は、小柄でいかにもおとなしそうな性格の持ち主のようだった。緊張のせいか顔をこわばらせて、椅子に座ったままずっとうつむいている。 「なるほど」と菊池が手にした本を眺めながらいった。「漫画世界史か……」 「ええ」北原沙織がうなずいた。「今中君は世界史に関しては、大学受験の模擬試験問題でもかなりの成績なの。どうやって歴史の流れをつかんで暗記するかだけど、彼の場合はこの漫画を繰りかえし読んでいたのよ」  幡野雪絵も同意をしめした。「漫画なら気軽に何度でも読めるからね。絵やジョークとともに、そこに書かれていた情報を記憶するようになる。誰でも漫画のことならすぐに詳しくなるでしょ? 世界史も漫画なら頭に入るってことね」 「ただなぁ」菊池は唸《うな》った。「たしかに記憶はできるかもしれないが、歴史の本質っていうところまで思考が及ぶかどうか……。この漫画のキャラクターたちのセリフや動きを通して、模擬的な知識が得られるにすぎない」 「いいんじゃないの?」雪絵は笑った。「受験では思考の道筋までは見抜かれないんだから」  長島がにやつきながらいった。「幡野さんはいい家に育ってるお嬢さんだから、寛容だねえ。もともと頭がいいから、そんなものに頼らなくても勉強できるんだろうけど」  菊池が表情を険しくした。「おい。発言には気をつけろ」 「はいはい。ただね、俺もその本なら買ったんだよ。三冊出てるだろ? 世界史総合と、ヨーロッパ史と、中国・アジア史と。まあ画力はひと昔前の同人誌レベルで、しかも作者が女ときちゃ画風に馴染《なじ》むのも苦労するが、問題はもっとほかにあってね。テストに出るような暗記事項が、けっこう抜け落ちてしまってるわけよ」  沙織が本を長島に差しだした。「これ、見てみたら?」 「持ってるって言ったんだけどな。人の話聞いてる?」そういいながら本を開いた長島は、ふいに顔を硬くした。「こいつは……」  五十嵐は石森とともに、その本を覗《のぞ》きこんだ。  欄外や空白の部分などに、手書きの書きこみがある。フキダシを描きいれて、セリフにしているところもあった。 「わかる?」沙織がいった。「世界史の教科書で太字になっているような暗記事項のうち、その漫画に掲載されていない情報は、すべて今中君が自分で書き入れている。漫画のコマの進行を損なわないようなかたちでね」  菊池が今中にきいた。「書き加えた情報は、なにを基準にして選択した?」 「えっと……一問一答式の問題集です。それらの部分は、最初のうちは自分の書いたものだと感じるんですけど、読みかえすうちに自然に流れに溶けこんできて……。違和感なく頭に入るんです」 「これを生徒数ぶん、コピーして活用させてもらってもいいかな? 行政庁がきみの身柄を保証するよ。二度ときみはいじめられない。いじめをおこなうような連中は、絶対的権力による制裁には弱い。小賢《こざかし》く、表層だけでも改心したふりをする。こちらとしてはそれで充分。きみに危害を及ぼす者はいなくなる」 「それは……もちろん。うれしいです」 「では、塩津。彼の身辺警護を頼む」  大柄の塩津はにやりと笑った。「いいとも。任せな」 「それと、今中君。この漫画世界史のコピーについてだが、きみが創意工夫した書きこみを活用させてもらうわけだから、一部につき二から三ウジガミールの印税をきみに支払おうと思う」 「ちょっと」長島が口をとがらせた。「それは優遇しすぎじゃねえの? だいいち、この元の漫画家さんや版元さんの権利は? 無断コピーはいけないぜ」 「これは日本国の出版物だ。現在のところ、氏神高校国は日本国との正式な国交がない。よって、相手国の著作権も保護の対象とならない」 「ちぇっ。虫のいい話だな」 「異論があるのか」 「いや……そういうわけじゃないけど。でもさ、その漫画って教科書のぜんぶの章を網羅してないはずだぜ?」  今中が困惑したようにいった。「そうなんです……。始まりはギリシャ世界からですから、メソポタミア文明とか、その前の旧人とか原人とか、すっぽり抜け落ちてるんです。後の時代でも、東南アジアとかはなくて……。シャイレーンドラ朝とか、ボロブドゥールとか模擬試験に出たときには、さっぱり答えられませんでした」  雪絵が残念そうな顔になった。「そのあたりのことでさえ判らないの? それはちょっと……」  五十嵐の頭にふと考えが浮かんだ。「欠落してる章があるなら、描かせたらどうだろう? 一年B組の植谷翼っていう生徒が、漫画を描くのを得意としてるけど」 「ふうん」菊池は顎《あご》に手をやった。「それはいいな。後で連れてきてくれ」 「できれば、植谷にも身辺警護をお願いしたいんだけど。彼もいじめられっ子だったし」 「わかった。国益につながる人材を捨て置くことはない。通貨として使う紙幣も植谷に描かせてもいいだろう。他人に偽造できない複雑な絵を描いてもらい、コピー機で紙幣を発行しよう。複製できないように、いろいろ策を講じる必要はあるが」 「どうも……」つぶやきながら、五十嵐はほっと胸をなでおろした。きのう知り合ったばかりの下級生に、ようやく上級生らしい責任を果たしえた。 「ところで」菊池は雪絵を見た。「風紀委員のほうはひと晩がかりで巡回をおこなったと思うが、みんなのようすは?」 「疲れきっているせいか、すっかり寝静まってたわ。修学旅行みたいに男子が部屋を抜けだして女子に会いに行くっていう状況を想定してたけど、ほとんど起きなかった。独房送りっていう抑止力のせいかしら」 「まあな。性的衝動も暇だから起きる。きょうから通貨制度に入るから、労働の度合いによって所得格差が生じるようになる。異性の気を惹《ひ》くには豊かになる道を選ばざるをえないだろう。そこに競争が生まれ、社会は活気づく」 「でも」石森が不安そうにつぶやいた。「国内だけで通貨がまわっていても、インフレになるとしか……」 「そのとおりだ。国として維持するためには対外貿易が必要になる。電気、ガス、水道の料金も、いつまでも前学校組織の世話になっているわけにはいかない。日本国からの輸入品として、こちらは代価を払わなければならない」  塩津が肩をすくめた。「校長室のテレビでチェックした限りじゃ、外の世界はただ戸惑ってばかりで対話の準備さえ進んでないみたいだがな。総理大臣の記者会見もなかったし。警察を突入させるか否かで論争が起きてる。ニュースはそんなのばかりだ」 「だからこっちから貿易を始めて、外貨を稼ぐ」と菊池はいった。 「だけど、どんなものを売る? 工業高校だからそれなりに道具は揃ってるが、材料がなければなにも作れんだろ。農業科のほうの畑仕事も、収穫までには時間がかかるし……」  菊池は首を横に振った。「木彫りの民芸品や大根を売っていたんじゃ、まるで刑務所だ。もっと金になる無形物を売らなきゃならん。そこでだ、五十嵐」 「はい?」  雪絵が取りだした書類を、菊池が受けとりながらいった。「これはきみが古文の授業で提出した作文だな? 『源氏物語』についてだが」 「……そんなの、どこで見つけた?」 「職員室にあるものを片っ端から調べてる。人材探しの一環だ」  いい気分はしなかったが、この体制下では仕方がないのかもしれない。 「まあ……ね」と五十嵐はため息まじりにいった。「評価はDマイナス、書き直せっていわれたよ」 「僕の評価は違う。おまえは数学が得意なんだな、五十嵐? この作文でもユニークな分析がしてある。『源氏物語』のセンテンス百文につき、名詞が使用されている頻度の平均を数値化すると百十一、標準偏差は十二・一。ところが源氏が死んだあとの物語である『宇治十|帖《じよう》』の、ある部分以降は唐突に平均九十一、標準偏差六・五八に転ずるとある。つまりここで紫式部が死んで、他人が引き継いだと数学的に仮説を立てているわけだな?」 「仮説じゃなくて……事実だよ。紫式部自身が書いて、そんな変調が起きる可能性自体を計算すると〇・七一パーセント、つまり限りなくゼロに近いんだから」 「そしてきみは、こういう計算法を駆使すれば、誰が書いたかを探り当てることができると主張してるな」 「句読点の使用頻度とその割合とか、名詞と代名詞の頻度とか……。ぜんぶプログラム化して、テキストデータを読み取るようにすれば、ふたつの文章を同一人物が書いたか否かを判断するソフトぐらいは開発できるんじゃないかって……」 「面白い。きょうから取り掛かってもらおう。この部屋にあるパソコンを自由に使ってくれ」 「え……」  長島が眉《まゆ》をひそめた。「そのソフトが出来たとして、CD—ROMにでも焼いて販売するのかい?」 「いや」と菊池は首を横に振った。「それではコストがかかる。インターネットを通じて、シェアウェアでダウンロードできるようにする。氏神高校国の専用口座は日本国の銀行に作ってあるから、そこに振りこませる」 「そんなの、たいして需要ないんじゃない?」 「そうは思わない。現代は誰もがパソコンで文章を作っているから、筆跡鑑定なども過去のものになりつつあるという新聞記事を読んだ。数学的な算出法で当人か否かが判断できるソフトがあれば、欲しいと思う人も出てくるだろう。メールの差出人が本物かどうか鑑定したい場合に重宝する」 「待ってください」石森が口をはさんだ。「五十嵐はそんなに数学が得意じゃないですよ。たしかに計算は速いけど、成績は平均点を下まわることもあったし、それにパソコンもフリーズさせてばっかりだし……」 「学校での成績など参考にすぎない」 「でも……」 「石森。数の単位を言ってみろ。一、十、百、千、そのあとは?」 「あ、あの、万、億、兆……ええと、京……それから……」  菊池が目で五十嵐をうながしてきた。  五十嵐はいった。「垓《がい》、|※[#「禾+予」、unicode79ed]《し》、穣《じよう》、溝《こう》、澗《かん》、正《せい》、載《さい》、極《ごく》、恒河沙《ごうがしや》、阿僧祇《あそうぎ》、那由他《なゆた》、不可思議《ふかしぎ》、無量大数《むりようたいすう》」 「よし」菊池はさらにたずねた。「小数点以下は?」 「分《ぶ》、厘《りん》、毛《もう》、糸《し》、忽《こつ》、微《び》、繊《せん》、沙《しや》、塵《じん》、埃《あい》、渺《びよう》、漠《ばく》、模糊《もこ》、逡巡《しゆんじゆん》、須叟《しゆゆ》、瞬息《しゆんそく》、弾指《だんし》、刹那《せつな》、六徳《りつとく》、空虚《くうきよ》、清浄《せいじよう》……」  我慢ならないようすで石森が抗議した。「そんなの雑学みたいなもんじゃないか。受験に必要な数学は……」 「だまれ」と菊池がぴしゃりといった。「風変わりで独自性のある知識と考え方こそが求められてるんだ。きみも補佐に留《とど》まりたくなかったら、なにか提案してみることだな」  石森は不平そうな顔をしたが、なにも言えないらしく黙ってうつむいた。  彼がなにを不服に思ったか、五十嵐にはわかる気がした。賃金の格差が生まれようとしている。出世の競争も始まっている。後れをとりたくない、とっさにそう思ったのだろう。  これからは誰もが、油断ならないライバルとなりうる。生きていくためには、レースに参加するしかない。 [#改ページ]   独立国の女たち  午後二時すぎ、幡野雪絵は校舎二階の美術室に向かった。  そこでは植谷翼のほか、数人の一年生らが机に向かって作業をしていた。ケント紙にインクで描かれたその漫画の原稿は、印刷されたもののように美しくみえた。 「植谷君。すごいわね、今朝からの作業で、もうこんなに……」 「いえ」植谷は照れ笑いをしながら、Gペンを片手に顔をあげた。「アシスタントが大勢いますから……。こんなにやる気のでる作業は初めてですよ」 「きのうの晩、今中君が言ってた東南アジアの歴史ね? このボロブドゥール遺跡、写真みたいに綺麗《きれい》……。こういうところは、教科書に載ってる写真をコピーして貼りつけてもいいのに」 「いえ。全体のトーンを崩したくないですから。コピーのインクも用紙も貴重品だと菊池さんにも言われてますし。まあ、登場人物の服装なんかは想像が混じってますけど」 「そう。じゃ、頑張ってね。わたしたちに手伝えることがあったら、なんでもいって」 「ありがとうございます」  雪絵は室内の一堂に軽く頭をさげて、美術室をあとにした。  廊下にでると、二年生の男子生徒が緊張した面持ちで駆けてきた。 「あのう」とその生徒はいった。「は……幡野さんですね。行政庁、風紀委員長の……」 「そんなに堅苦しくならないで。あなたは?」 「二年C組の夏木新平《なつきしんぺい》といいます。世界史を漫画にする仕事があるときいて、折りいってご相談が……」 「ああ。希望者はたくさんいるんだけど、いまのところアシスタントは充分足りてるみたいよ」 「いえ。漫画づくりに参加したいというんじゃなく……。視聴覚室のライブラリに、歴史ものの映画がたくさん含まれていることはご存じでしょうか? シーザーとクレオパトラ、三国志もあれば、太平洋戦争がらみの作品もDVDソフトで数多く備わっています」 「そうね。それがどうかした?」 「あれらを世界史の学習のために役立てたらどうかと」 「どうかな……。映画は歴史のほんの一部を映像化してるにすぎないし、時代背景の説明も充分でない場合が多いしね」 「だからそれを、作り変えるんです。複数の作品からシーンやカットを抽出して、編集して、見るだけで世界史の暗記事項が頭に入る物語を作ります」 「そんなこと、ほんとにできるの?」 「ええ。僕らは将来、映像関係で働くことが夢でしたから……。編集は、視聴覚室のパソコンでおこなえます。それから、セリフをオリジナルの音声で吹き替えて、教科書の学習内容に沿うようにします。声優志望の生徒も多いですから、募集して放送室でアテレコさせ、適当なCDからBGMをダビングして……」 「それはいいけど、面白い作品がつくれる? 観るのが苦痛な作品じゃ繰りかえし鑑賞する気にはなれないし、世界史の勉強にも役立たない」 「まかせてください。絶対おもしろい作品にします。生徒の誰もが何度も観たくなる二時間作品にして、リピート鑑賞するごとに世界史が自然に頭に入るようにします」 「なるほどね。わかったわ。まずは企画書を提出して」 「き……企画書ですか?」 「そう。企画意図とあらすじ、登場人物、それから製作過程のスケジュールをまとめたものを、十枚以内で提出して。それが承認されたら、次は台本を作ってもらうことになると思うの。作品が完成したらあなたたちにはウジガミールで報酬が払われるわけだし、こちらとしても無駄な出費はしたくない。完成度が高いことを、前もって証明して」 「……わかりました、すぐに企画書に取り掛かります」 「頼んだわね」  夏木は身を翻して走り去っていった。  雪絵はため息をついて歩きだした。  校舎のなかを巡回していると、さまざまな提案を受ける。誰もが自分のしたい仕事を申しでて、承認されようと切磋琢磨《せつさたくま》している。取るに足らないものも多かったが、なかには納得させられるものもあった。いまの世界史映像化などはその一例だ。  生徒たちは新しい生活に順応しつつある。家に帰りたいという相談を受ける数も激減していた。廊下を右往左往する生徒たちは、誰もがなんらかの仕事に手を染めている。  この国でも貨幣経済という掟《おきて》があると知り、豊かになりたいと望む心が、生徒たちに働く意欲を与えている。  わたしの仕事はなんだろう、と雪絵はふと思った。誰もがわたしを頼り、判断を仰ぐ。しかしそれは、わたしが行政庁の統治官だからだ。決定権を持っているからだ。  県議会の議員をしている父親が、先生と呼ばれることに生きがいを感じていたことや、取り巻きを引き連れて飲み歩くことに喜びを覚えていたことを、雪絵は知っていた。父は、仕事そのものよりも、あるいは家族よりもそうした瞬間を好んでいたようだった。  母、そしてわたしは、父にとっては取るに足らない存在だった。父は権力によって得られる甘い感触に、果てしなく魅せられていた。  わたしは父と同類ではない。権力などよりも、重い責任を感じている。この学校が国家となった以上、国を平和に発展させる、それだけがわたしの務めだ。  美しい国にする。わたしにはその義務がある。だから家には帰れない。帰らない。そもそも、帰りたくなどない。  ほかの生徒たちも、大多数がそう思っているのだろう。これだけ熱心に、新たな生活に適応しようとしているのだから。  視聴覚室の近くまで来たとき、小沢知世と出会った。 「あ、幡野さん」と知世は微笑を浮かべた。 「こんにちは。五十嵐君、いる?」 「ええ」知世は視聴覚室のなかに入った。「聡。幡野さんが来たよ」  雪絵が戸口を入ると、五十嵐は忙しくパソコンのキーボードに指を走らせていた。 「すみません」五十嵐はちらと顔をあげた。「区切りのいいところで小休止をいれようと思ってるんですけど、なかなかそうならなくて」  知世が心配そうにいった。「聡、朝からずっと作業してるんですよ。ご飯も食べてなくて……」 「きみが食べればいいだろ」 「もう。身体壊したら、困るのは聡でしょ」  どうやら邪魔をしただけのようだ。雪絵は苦笑しながら告げた。「五十嵐君の管理はあなたにまかせたわ、小沢さん。パンは貯蔵室から運んであげてね」 「はあい」  しかし五十嵐は困惑したようにいった。「幡野さん。そんなお気遣いしていただかなくても……」 「あら、そう? 鈍いわね」  きょとんとした顔の五十嵐をその場に残し、雪絵は視聴覚室を出た。  気遣ったのは五十嵐に対してではなく、知世にだ。あの子が五十嵐の世話を焼きたがっていたのは一目|瞭然《りようぜん》だった。  いまのところは似合いのカップルといえるだろう。風紀に乱れがあったとしたら困りものだが。  窓からは、校舎裏の畑が見えた。ビニールハウスのなかで土を耕す作業をしているのは、力自慢の男子生徒たちだった。  以前なら、学校という場所はある意味で彼らの独壇場だった。たとえ成績が悪くても、腕力に勝る者が他者を圧倒する空間だった。  しかしいまは違う。脳みその働かない者は、体力でまかなうしかない、そんな世界になった。  行政庁に知性や特性を買われ、特殊な仕事に就くことができれば、高い報酬を得られ生活にゆとりがでる。社会的地位も高くなる。そこから零《こぼ》れ落ちた連中は、鍬《くわ》を片手に土仕事に従事するのみだ。  第一次産業はしかし、日本国においては誇り高い仕事だ。国民に必要な食物を作りだす立場なのだから。氏神高校国でも彼らがそこまでの誇りを築けるかは、彼ら自身の働きにかかっている。  階段を下りて家庭科室に入ると、ここでも女子生徒たちがそれぞれの仕事に従事していた。  折れた口紅はライターであぶって切断面を溶かし、密着させてから、冷蔵庫におさめて冷やす。これで復活させることができる。グラスがわりに利用されている化学実験室の試験管を洗うには、卵の殻が用いられた。殻が砕かれて、わずかな洗剤と温水とともに試験管のなかに入れられる。この試験管を振れば、底の部分まですっかり綺麗《きれい》になる。  雪絵はそこにいた行政庁の官僚に声をかけた。「沙織。調子はどう?」  女子生徒たちの働きを見守っていた北原沙織が肩をすくめる。「見てのとおり、みんな真剣に働いてる。けど、そろそろ食糧がやばくなっていると思うんだけど」 「五十嵐君のソフトが完成して、売れてくれることに期待するだけね」 「そんな悠長なこと言っててだいじょうぶなの? 物を売ってお金を得るなら、校内にある備品を売りだすべきだと主張する人もいるけど……」 「だめよ。それらはあくまで学校の備品。わたしたちにすべての所有権があるわけじゃない。わたしたちの力でビジネスを作りださないと」 「そうね……。でも……」  そのとき、菊池の声が響きわたった。くぐもった音声。校内に向けたものではなく、校舎の外のスピーカーから発せられている。 「日本国に告ぐ。わが氏神高校国でも生徒の学習はおこなわれている。生徒の学力を推し量り、貴国も公平な目でその学力を検討できるよう、外部業者による模擬試験は定例どおり実施したいと思う。ついては次週の三年生向け模擬試験を業者に発注したく……」  沙織が眉《まゆ》をひそめた。「模擬試験?」 「ええ」雪絵はうなずいた。「わたしたちが生徒の試験を採点するだけじゃ、その学力を外の世界に知らしめることができないって、菊池君が」 「まだお世辞にも自慢できるような学力レベルじゃないと思うけど。それに、業者の模擬試験って、当然支払いが必要でしょ?」 「そう。それまでに現金を得なきゃいけないってことね……。お金がなければこの国は経済|破綻《はたん》。国家といっておきながらお金の問題で行き詰まるなんて、目もあてられない」 「失敗したら大人たちに笑われるでしょうね」 「まず間違いないわね」またしてもため息が漏れる。雪絵は神妙につぶやく自分の声をきいた。「独立を掲げた紛争なんかじゃなく、ただの高校生の籠城《ろうじよう》事件として一笑に付されるだけでしょうね……」 [#改ページ]   学校、友達、日常  小沢知世は視聴覚室で、五十嵐聡の作業を見守っていた。 「聡。だいじょうぶ? ずっと休みなしで働いて、疲れてるんじゃない?」  五十嵐はパソコンのキーボードを叩きながらつぶやいた。 「僕に限ったことじゃないよ。みんな疲労しきってる。それに、腹もすいてる」 「そうね……。食糧の配給も止まったままだし」 「止まってるんじゃなくて、底をついたんだよ。もうひと切れのパンも残っていないありさまらしい」 「じゃあわたしたち、このまま飢えていくしか……」 「だからさ。飢えないように、みんなが頑張るしかないんだよ」 「頑張るって……いったい何を?」 「さあね。僕も知らないうちに国家の一員にされて、統治官補佐とか言われて、仕事を与えられちまってる。誰もがそんな感じだ。逆らったらバットで天誅《てんちゆう》、独房入り。だから従うしかない」  虚《むな》しさが知世のなかにひろがっていった。  わたしたちはいったい何をしているのだろう。いままで忙しすぎて疑念を抱く暇さえなかった。突然の変革にどう対処しようかと躍起になり、気づいたときには、その状況に順応し従う道を選んでいた。 「わたしたち」知世はささやいた。「これからどうなっちゃうのかな」 「わからないよ……。とりあえずいまは、これが売れてくれないと」  知世はパソコンのモニターを覗きこんだ。「聡が出品したソフトのオークション画面?」 「そう。菊池に指示されたとおり、ネットオークションに出してはみたけどさ……。あんな付け焼刃で仕上げたソフトを欲しがる人いるのかな」 「ニーズはあるわよ。句読点数や文体のクセを数値化して、誰が書いたテキストかを判別するソフトでしょ? 偽メールとかも一瞬で見抜くなんて、わたしだったら絶対買うけどな」 「でも価格、六千円に設定してるんだよ? どうかな」 「きっと大人でも欲しがるわよ。社会人なら六千円ぐらい、どうってことないんじゃない? ……それよりさ、聡」 「ん?」 「このパソコン、いまネットにつながってるんでしょ? メールか掲示板か、外部に助けを求められない?」 「駄目だよ。禁止されてるし……。視聴覚室のパソコンは、職員室でもモニターできるんだよ。ここが学校だったころ、先生たちが生徒の不正使用に気づくことができるようにしてあったんだ。いまも統治官か誰かが見張ってるよ」 「ここが学校だったころ、か……。ずいぶん前のことみたいに言うのね」 「……そりゃ実際、過去だから……」  と、そのとき、パソコン画面に反応が現れた。  ピッ、という音とともに、入札履歴に(1)と点灯した。  知世はあわてていった。「聡! これって……」 「ああ」五十嵐の顔が輝いた。「入札した人がいる。やったよ! 誰かが買ってくれた!」 「よかった! おめでとう、聡」 「ありがとう」と五十嵐は微笑しながら、マウスを操作した。  その横顔を見るうちに、知世は空虚さを深めていく自分に気づいていた。  喜ばしい事態だというのに、なぜわたしはすなおになれないのだろう。聡がわたしから離れていってしまうような気がする。彼だけではない、学校、友達、日常。なにもかもが遠ざかっていった。  わたしにはいったい、何が残されているというのだろう。 [#改ページ]   希望を繋《つな》ぐ者  岬美由紀は�待機所�で何度目かの朝を迎えた。  プレハブ小屋の窓から差しこむ朝陽。室内に詰めている保護者や教員の数も、当初の半分ほどに減っていた。連日の徹夜による疲労で家に帰らざるをえなくなった人や、病院に運ばれた人など、リタイアした理由はさまざまだ。  なかには出戻り組もいる。校長の弘前秋吉と教頭の滝田軍造は、いずれも二日目の夕方に保護者の反対を押しきって帰宅したが、そこで報道陣のインタビュー責めにあい、またここに帰ってきた。逃げこめる場所がここしかなかったというのが正解かもしれない。  マスコミがシャットアウトされた�待機所�以外に身を置けば、世間の非難の矢面に立たされる。それが彼らの置かれた環境だった。  学校のトップふたりを含む教員たちは、毛布にくるまってパイプ椅子に掛けたまま、眠りこけている。保護者たちも同様だった。以前は朝までずっと目を開けている人が多かったが、さすがに疲れが溜《た》まっている。  そう思って舎利弗に目を向けた。  と、舎利弗は起きていた。椅子の背に身をゆだねたまま、美由紀をじっと見かえした。 「どうかした?」と舎利弗はきいてきた。 「いえ。先生、ずっと休んでないでしょ?」 「べつにかまわないよ。どうせ、臨床心理士会事務局にいても留守番ばかりだからさ。人と話すのは苦手だし」 「することがなくて退屈じゃない? 事務局ならDVDを観てられるでしょ?」 「ぼうっと想像していれば、よく観た映像は頭に焼きついてるからさ、想起できるんだよ」 「ほんとに?」 「そう。さっきも、クレクレタコラを一話からずっと脳内で再生してた。これ、人の話が退屈なときなんかにいいんだよね」 「わたしと話しているときもそうなの?」 「いや、きみは特別だよ。……なあ、思うんだけど、どうもあの五十嵐哲治って人の説明は、しっくりこないよな。酸素欠乏症が引き金になって、生徒たちが籠城《ろうじよう》したなんて……」 「やっぱり、舎利弗先生もそう思う?」 「ああ。生徒たちは凶暴になったわけじゃなく、むしろ理性を働かせているみたいに思えるんだよ」 「でも、生徒たちがみずからの意志で籠城を選んだという合理的な説明は難しいわね。小集団による脱走が試みられてもおかしくない状況なのに」 「アメリカの心理学者ゴールドスタインとローゼンフェルドによれば、心になんらかの弱みを持った人は、同じ境遇の人たちの仲間に加わることで安心を得ることができるらしい。生徒たちを支えているものが同胞意識だとすると、そこまで生徒たちを追いこんだものがなんなのか、はっきりさせる必要がある」  美由紀は教員らに目をやった。校長以下、全員があどけない顔で眠りこけている。保護者のほうも同様だった。  責任が大人たちにあると言っても、彼らは互いを非難しあうだけだろう。ここでも万人の納得のいく説明がなければ、問題の解決には至らない。 「だけどさ」と舎利弗は伸びをしながらいった。「そろそろ生徒も音をあげるはずだよ。食べ物が底をついているだろうからな」 「こちらに食糧を要求してくるだけかも」 「それなら生徒たちの独立心に傷がつくことになる。遅かれ早かれ迷いが生じて、対話を求めるだろう。そのときには……」  ふいに、わあっという歓声が聞こえてきた。  舎利弗の顔がこわばる。教員や保護者たちも、何事かと起きだしている。  美由紀は立ちあがって戸口に向かった。外にでると、ひんやりとした空気が身体を包む。吐息も白く染まった。  騒動を聞きつけたらしく、警察関係者や報道陣も繰りだしている。彼らの肩ごしに、美由紀は信じられない光景をまのあたりにした。  校門が開き、何台ものトラックが校庭へと乗りいれていく。それらの車体には『ヤマギシパン』『ほかほか亭』などの食品デリバリー業者名が刻まれている。  大量の食料品の搬入。生徒たちが校庭の窓に鈴なりになって、歓喜の声をあげている。両腕を振りあげている者もいれば、拍手する者もいた。女子生徒らの顔に笑顔が広がっているのが、この距離からでもわかる。  生徒たちは打ちひしがれてなどいない。学年、性別を越えて、心がひとつにまとまっているではないか。  校舎のスピーカーから、菊池の声が流れてきた。「日本国に告ぐ。わが国の公正かつ公式な取り引きにより、それら食料品は搬入されている。妨害行為、もしくは彼らに便乗してわが国の領土に侵入することは許されない。以上、お含みおきいただきたい」  駆けだしてきた滝田教頭が、信じられないというように目を見張っていった。「公正な取り引きだと? 業者に出前を頼んだだけだろうが」  別の教員が憤ったようすで告げた。「学校のツケにしたに決まってますよ。それにしても、氏神高校への出前に応じる業者がいるとはね。ニュースを観てないんでしょうか」  そんなはずはない、と美由紀は思った。  ひょっとして、業者も脅されているのか。生徒の一部が残りの全員を人質に籠城した、世間の氏神高校における現状への解釈はそんなところだ。人質に危害を加えると脅迫されて、食糧の搬入に応じたのか。  すでに校内で荷卸しを終えた惣菜《そうざい》会社のトラックが、校門から出てきた。たちまち報道陣がそのトラックの行く手をふさぐように取り囲む。  トラックの運転手にマイクが突きつけられた。矢継ぎ早に質問が飛ぶ。どうして食糧を運んだんですか。生徒からどんな要請があったんですか。  運転手が口を開くと、辺りは聞き耳を立てるように静まりかえった。 「べつに」と運転手はいった。「振りこみがあったから、搬入した。それだけですよ」 「振りこみですって?」と記者のひとりがたずねる。 「そうですよ。ネットで当社のホームページに注文があって、口座に代金が振りこまれました。だから運んできたんですよ」  美由紀の近くで、警察関係者らがあわただしく動きだした。ただちに調べろ。どこから振りこみがあったのか洗いだせ。そんな声が飛び交っている。  おそらく、振りこんだのは生徒たちだ。ネットバンキングを使ったのだろう。生徒たちはついに、自活する道を得た。  籠城は長期化する。半永久的に。 [#改ページ]   正午の市場  長島高穂は、統治官補佐としての午前の巡回を終えてぶらりと校舎一階に降りた。  メロンパンをかじりながら階段を下っていく。もともと食の細い長島だったが、食い物にありつけることが、ここまでありがたく感じられたのは初めてだった。  食糧の配給を受けたおかげで、生徒たちは一様に元気を取り戻したようだった。一階は祭りのように騒々しい。誰もがパンと牛乳の紙パックを片手に談笑している。 「長島」野太い声が呼びとめた。  振りかえると、巨漢の統治官、塩津照彦がそこにいた。この男だけは食糧を手にしていないようだ。 「おやおやどうしたんだい」長島は少しばかりおどけてみせた。「最低限、パンと牛乳だけは支給されるはずなのに、塩津君はメシにありつけなかったの? ひょっとして何かやらかして、菊池君を怒らせちまったとか?」 「ぬかせ。メシならもう食っちまったよ。俺は統治官のなかでも抜群の成績だ」 「その身体じゃパン一個じゃ物足りないだろ? 金持ちは羨《うらや》ましいよな。三階の雨漏りを直したC組の高瀬《たかせ》って、パンを三個もせしめたらしい」 「ふん。目先の食い物に全額使うなんて馬鹿げてる。俺はしばらく貯金しておくよ。そのうち、しこたま食い物を買いこんで、腹いっぱい食ってやる」 「てことは、きのうもらった給料は使ってないのかい?」 「当然だ。ほら」と塩津は、コピー機で作られた紙幣を数枚取りだした。  氏神高校の校舎と、氏神高校国の国旗デザインが使用されている。複雑な絵柄だ。五ウジガミールと表記されているが、長島の持っている同額の紙幣とは異なっていた。 「新札かよ。初めて見た」 「三年女子生徒の持ってた匂いの出るノートの紙が使われててな。同様のノートを持っている生徒が校内にいないことが確認されたから、紙幣用の紙に採用された。偽造防止ってことだな。ほら、イチゴのにおいがするだろ」  長島はそれを嗅《か》いでつぶやいた。「まあ、たしかにな……。で、前の札はどうなる?」 「なんだ。おまえ知らないのか。けさまでに銀行の代わりになってる大教室で換金しないと、使えなくなるんだぜ?」 「なに!? マジかよ。じゃ俺の金は……」 「気の毒だったな。ま、統治官補佐である以上はパンと飲み物それぞれ一個はタダで手に入るんだから、そう落ちこむな」  だが長島は、ショックから立ち直れない自分を感じていた。  せっかく十七ウジガミールを貯めこんだのに、すべてパーだなんて……。こんな不条理がまかり通っていいのか。国家のくせに……。 「それより、長島」塩津がいった。「世界史のテキストは手にいれたか?」 「まだだよ。もう完成したってのか?」 「その教室で配ってる。三年は無料だから、早めにもらっておくんだな」 「はいよ。タダで貰《もら》えるものが教科書だけとはね……」  その場を離れて、長島は人混みのなかに歩を進めた。一年B組の戸口に『行政庁公認・世界史テキスト配布会場』とある。  さらに混みあうその教室のなかに入った。  黒板を背にして横一列に机が並べられて、カウンターが作られている。その周辺は、テキストを受け取ろうとする大勢の生徒たちで賑《にぎ》わっていた。なぜか男子生徒の数が女子に比べて圧倒的に多い。 「ちょっとごめんよ」長島は混雑のなかに割って入った。「テキスト、一部くれや」  カウンターのなかにいた女子生徒が顔をあげた。  初めて見る顔だった。大人びた美人顔。涼しい眼がこちらをじっと見つめる。  長島はたちまち凍りついてしまった。 「あなたは、行政庁の人間?」女子生徒がきいてきた。 「そ、そうだよ。補佐の長島」 「わたし、きょうから統治官に任命されたの。よろしく」 「こちらこそ……」  差しだされたテキストを受け取るや、次の生徒が長島を押しのけるようにして彼女の前にでた。  ようやく長島は気づいた。  この混みぐあいは、彼女と対面したい男たちが群れをなして押しかけているせいか。たしかに美人ではあった。校内ではダントツだろう。  校内で暮らすようになって、もう何日経っただろうか。三日か、四日めを迎えたか。よく思いだせない。  いずれにしろ、男女の交わりは禁止されている。そのせいで誰もが欲求不満を募らせているのだろう。どうやら俺も、例外ではないようだ。  長島は頭を振って、その考えを追い払った。  いかん。妄想を走らせると、かえって苦しいことになる。  テキストを開いた。それは両面コピーされた紙を数百枚|綴《つづ》った分厚いしろものだった。ほとんどが目に覚えのある『漫画世界史』のページに書きこみがなされたものだが、随所に植谷の描いた章が挿入されている。たいしたできばえだった。まるでプロそのものだ。  ふうん。これなら夢中になるとまではいかないが、何度か通して読む気にはなれそうだ。長島はつぶやいた。 [#改ページ]   ジェネレーション・ギャップ  美由紀は�待機所�のなかで、舎利弗、教員、保護者らとともに、一台のパソコンを囲んでいた。  そのパソコンを操作しているのは、県警のサイバー犯罪対策室から出向してきた咲沼《さきぬま》という若い私服警官だった。 「ご覧のとおりです」と咲沼はいった。「食料品デリバリー業者、七社への支払い額は合計八十七万六千二百五十六円。岐阜市内の銀行にある�氏神高校国�名義の口座からの一括振りこみです」  画面に表示されているのは、各社の注文受付の記録をまとめたものらしい。たしかに送金元はウジガミコウコウコクとなっている。  滝田教頭が頭をかきむしりながらいった。「個人扱いの口座か。誰か生徒がこしらえたってのか? 本当の氏名はわからないのか」  咲沼は首を横に振った。「銀行へは問い合わせ中ですが、個人事業主が店舗名などで口座を作るときと同じく、これが正式名称ですから……。裁判所の開示命令を待つしかないかも」  保護者のひとりの女性が怒鳴った。「そんな悠長な! これは誰か大人が支援してるに決まってます。お金の出所を調べて元を絶たなきゃ」  別の保護者の男性もいった。「口座を凍結することはできないのか」 「現状では難しいと思います」と咲沼はいって、キーを叩《たた》いた。「この氏神高校国の口座にあった金は、れっきとした合法的な事業収入ですから」  切り替わった画面にはネットオークションが映しだされた。  出品されている商品名は『テキスト文章書き手解析ソフト フー・ロート・イット バージョン1・1』となっている。  咲沼はそれを指差した。「匿名の出品ですが、このソフトを落札し購入すると、氏神高校国の口座への振り込みが指示されることが確認されています。つまりこれが生徒たちの収入源ということです」  舎利弗が唸《うな》った。「ソフトをダウンロードさせて、その代金もオンラインで払わせるわけか。校内に居ながらにして、金を稼ぐことができるわけだ」 「そうです。商品の最低落札価格は六千円。すでに百数十人の需要があったヒット商品になってます。メールやサイトのテキストを複数読みこませると、同一人物が書いたものかどうかを瞬時に判断してくれるという優れものです。うちの部署でも検証してみたんですが、よくできてるんですよ。句読点の数や誤字脱字の傾向、文体の癖などを数値化して照合するものらしいんです。文章の分析に数学的な視点を持ちこんだという着想が素晴らしい」  保護者の女性は怒りをあらわにした。「感心してる場合ですか。こんなの、どこかのソフトの海賊版でしょう。違法コピーでお金を稼いで、食糧の調達をはかるなんて……」 「いや」と男性の声が告げた。「これは海賊版ではない。おそらく生徒が独自に考えたものだ。たぶんうちの子がね」  ざわっとした反応がひろがる。 「あなたの子?」保護者の女性がきいてきた。  眼鏡をかけた学者風の中年男。刑事らに挟まれて立ち、両手首には手錠が光っていた。  五十嵐聡の父、哲治が苦笑ぎみにいった。「息子は本の漢字の数を数えあげたりする、変な癖があってね。なんのためにそんなことをするのかと聞いたとき、書き手が見えてくるとか、おかしなことを言うんだ。それをこんなふうに役立てるなんてな。いや、予想外だったよ」  どこか息子の手柄を鼻にかけるような物言いに思えた。保護者たちも同じように感じたらしい。いっせいに反発の声があがった。 「わかっているのか」男性が声を荒げた。「そもそもあなたのせいで、子供たちはおかしくなったんだ。酸素欠乏症とかで粗野になった原因はあなたにある。うちの子は、あなたに殺されたも同然だ」 「ふん。短絡的な。まだ生きてるじゃないか」 「しかも今度は、あなたの息子のせいで籠城《ろうじよう》が長引く可能性がでてきた。いや、間違いなくそうなる。どうしてくれるんだ」 「そうよ」と女性も大きくうなずいた。「これじゃ無限に収入を得られて、あらゆる生活費を生徒たちが自分で工面できるようになっちゃうじゃない」 「それが悪いことかね?」五十嵐哲治は悪びれたようすもなくいった。「聡は独創性のあるソフト開発で利益を得た。その事実に変わりはないだろう? 籠城に賛成はせんが、飢える友達を救ったことは事実だ。あなたたちの子供らは、うちの子に感謝すべきかもしれんよ」  挑発的な姿勢に、保護者たちが怒りの声をあげる。五十嵐哲治はむしろそんなふうに騒ぎを煽《あお》り立てて、楽しんでいるかのように感じられた。  偏屈者ね。美由紀は思った。だが、この父親は今までも息子の独創性をそんなふうに評価してきたのだろうか。  むしろ逆ではないのか。だから息子は父に反発し、自分の研究の成果を実証できるこの機会を生かそうとしたのではないのか。子供たちが自活できると主張する。それはすなわち、親への対抗意識にほかならない。  顔を真っ赤にして怒鳴る保護者の男性がいた。「すぐにでもやめさせるべきだ。口座凍結が叶《かな》わないのなら、高校につながってるネットの回線を絶つとか、オークションの管理者に削除させるとか、打つべき手はいくらでもあるだろう!」 「いや……」教頭の滝田が困惑ぎみにつぶやいた。「それは難しい」 「なぜだ」 「学校で契約しているネット事業者に、誰かが職員室のパソコンからアクセスしたらしい……。契約内容が変更されていて、名義は菊池になり、氏神高校国の口座から支払いがおこなわれているらしい」 「なんだって。それじゃネットのほうでも先生方は閉めだしを食ったってのか。まさか、そんなに簡単に……」  教員のひとりがおずおずといった。「アクセスにはIDとパスワードが要るんですが……。まさか生徒がそれに触るとは思わなかったので、パソコンのクッキーに記録してあったんです。クリックひとつで繋《つな》がるようになってました。こんな事態になるとは……」  そこからは、もう何度も目にした保護者たちの憤激の嵐だった。すぐ突入しろ。なにを手をこまねいている。子供たちを助けだせ。知能犯の菊池の横暴を許すな。  美由紀は重苦しい気分になった。  どうやら、生徒たちが牙《きば》を剥《む》いた相手は学校というわけではなさそうだ。むろん教職員に対し腹も立てているのだろうが、実際には親への実力行使とみるべきか。  だが、それが生徒らの目的なら、いまのところ効果はゼロに等しい。  親たちは責任転嫁に忙しい。自分たちのせいだなどと、疑ってみる気配さえしめしていない。  やはりおかしな世の中だった。人はいつからこんなに無責任になったのだろう。 [#改ページ]   試験の裏技  午後の陽射しが窓から差しこんでくる。北原沙織は三年A組の教壇に立ち、教室のなかにひしめきあっている生徒たちに受験のこつを伝授していた。  ほとんどの生徒は工業科、農業科で、世界史の履修どころかろくに勉強さえしてこなかった連中だ。試験を前に、なにをどうやったらいいか糸口すらつかめない者が多い。  そこで、試験対策に自信のある統治官は、交代で彼らを教育することになっていた。きょうは沙織の番だった。 「それで」と沙織はチョークを手にして、問題集の文章を黒板に書き写した。「このカルシウムイオンを含まない人工海水中のウニ受精卵の実験、それからスクロース溶液に移し替える実験結果を踏まえて、この問いに答えること……」  正しいものに○、間違っているものに×をつけよ。  1 スクロース処理により、解離した細胞が元の位置に戻る能力は失われる。  2 カルシウムイオンは胚《はい》の細胞をまとめるために必要となる。  3 細胞の表面積が小さくなったことにより、胚の割球の接着が弱くなる。  4 カルシウムイオンは、解離した細胞集団がふたたび原腸胚になるためには必要とされない。  5 原腸胚期の細胞の一部は、位置を乱されても元の部位に戻る仕組みを持っている。  男子生徒のひとりがいった。「さっぱりわかんねえ。生物はさぼってたし」  茶髪の女子生徒がうんざりしたようにつぶやく。「あんたはどの教科もさぼってたでしょ」 「うるせえ。てめえこそ授業は早弁の時間と言い切ってたくせに」 「なによ」  沙織はいった。「落ち着いて。いい? この問題をきちんと解くときには、実験の文章をよく読みこまなきゃならないの。カルシウムイオンの有無によって、同じ時期の細胞数はほとんど変わらないし……」 「あー」別の男子生徒がけだるそうにいう。「カルシウムイオンって、ポカリスエットだっけ?」 「あれはイオンバランス……とかじゃなかった?」とさらに別の生徒。 「頭|痛《いて》えな。誰が教えても授業ってのはうざいよな」 「もともと頭悪いしな、俺ら」 「テストなんて赤点すれすれの低空飛行ばっかだもんな。いまさら勉強したところで……」  苛立《いらだ》ちがこみあげた。沙織は問題集を黒板に叩《たた》きつけた。  悪ぶっていた生徒たちが、びくっとして姿勢を正す。 「聞いて」沙織はあえて冷ややかにいった。「氏神高校国が独立を宣言した以上、その国民がどれだけ優秀かを日本国に知らしめる必要があるの。落ちこぼれることは許されない。あなたたちは模擬試験でも平均点以上をとらなきゃならない。そしてゆくゆくは、大学を受験して、そこにも合格する」 「大学受験?」太った男子生徒が甲高い声をあげた。「そんな無茶な。俺ら工業科は就職が前提だよ」 「そうだよ」と浅黒い顔の男子生徒がうなずく。「農業科でも、勉強なんかてきとうにやっときゃいいって先生が言ってた」 「だめよ」と沙織はきっぱりといった。「あなたたち、心の底からそれでいいと思ってる? 遊んで楽しくやりゃいいなんて強がってても、結果は如実に出てくるものよ。もうすでに、あなたたちはこの国内で低所得者層になりつつある。普通科の成績優秀者は、国のためになるなんらかのアイディアを提言して、採用されてその専門職に就き、毎日十ウジガミールから二十ウジガミールを得ているのよ。昼食の時間でも、ひとりでパンを十個も二十個もせしめてる人もいる。希少な牛焼肉弁当も毎日、食べている人がいるのよ」  生徒たちにどよめきがひろがった。 「そんな奴がいるなんて信じられない」と鼻にピアスをした男子生徒がいった。「朝から晩まで畑仕事しても一ウジガミールにも届きゃしない……。どうすりゃいいってんだよ。俺ら、頭悪いし……」 「悪くない。あなたたちは社会にでる準備をしようとして、工業または農業の専門分野に進み、手に職をつけようとしたけど、それ以外のものを切り捨てすぎた。端《はな》から貧困な大人になるつもりだったの? この小さな国でも社会の底辺なのに、日本という大海原でのし上がれるわけがないじゃない。そこのところ、よく考えてみたら?」 「けどさ。そんな生物のカルシウムイオンだか細胞だか、覚えたところでなんの役にも立ちそうにないから、身も入らないし……」 「覚えるべきは暗記事項のすべてじゃなくて、要領なの。受験教科だけでもいろいろあるけど、本当はそれらを勉強するうちに、自分が興味を持って臨めるジャンルを見つけて、そこに進めばいいのよ。でもいまの大人社会では専門分野以外のことも、それなりに要領よくやることが望まれてる。それならうまく試験で点数をとって、一目置かれる立場になったら? どうせ馬鹿だなんていじけているより、よっぽど可能性が拓《ひら》けるわよ」 「でもどうやって?」 「それをこれから説明するの。あなたたちにこれらの教科をイチから勉強しろなんて、行政庁はひとことも言ってない。国益のため、そして自分のために試験で点数をとり上位に食いこめと言ってるの。つまり、何であろうと設問に対し、まず正解をすることが求められているのよ」 「っていうと、カンニングしてもいいってこと?」 「いいえ。不正は絶対に駄目よ。それにカンニングペーパーに書ける情報なんて限られてるし、なにより不正で切り抜けることを覚えたら、以後の人生でもそれを繰りかえすことになっちゃうのよ。けどね、コツさえつかめば、こういう問題に正解することは楽勝なの。問題文なんか読まなくていい。出題者の心理を読むのよ」  心理……。生徒たちはざわついた。 「まず」沙織は黒板を指差した。「こういう○か×をつけさせる問題では、一問目は×の可能性が高いの。最初から正答を置くより、誤答で受験生を戸惑わせようとする出題者心理が働くから」  生徒たちが真顔になり、いっせいにノートを取りだした。  沙織はため息をついた。  こういう裏技は最後の手段だ。しかし、菊池は沙織にいった。彼らにそれを伝授してやってくれ。いまは少しでも生徒たちの平均点を上げるべく努力しなきゃならない。大人たちの管理のもとで学習していたことが、いかに無意味かを世間に知らしめなきゃならんのだ。 「次に」と沙織はいった。「正しいものをふたつ選べとか、間違っているものをひとつ選べとか指定してある場合もあるけど、この問題のように漠然と○×をたずねてくるときには、○より×のほうが多いと思ったほうがいいわ。これも出題者が、正答より誤答を多くして難易度を上げようとするからよ。それからもうひとつ、並び方も考慮に入れなきゃ。ぜんぶ○になったり、ぜんぶ×になったりすることはまずないの。一個だけ×もしくは○という可能性も低い。そして、○と×が交互に並ぶということも少ない。規則性のある解答は、偶然でたらめに書いた答えが正解してしまう可能性があるから、出題者が避けるのよ」  もはや生徒らは誰も言葉を発していなかった。ただ黙々とノートをとりつづけている。 「じゃあ、黒板の文章をよく読んでみて。設問は五つある。最初は×で、○より×のほうが多くて、○×どちらも一個にはならないとすると、×が三つ、○がふたつってことになる。×が三つ続いてから○ふたつとか、×と○が交互っていうものは規則性のある並びだから除外する。そうすると……」  沙織は黒板にチョークを走らせた。  A ×○××○  B ××○×○  C ×○○×× 「この三つしかないの。さて、設問を読むと、2と4がどちらも『カルシウムイオンは』っていう主語で始まってるでしょ? 文章の言いまわしで少しばかり判りにくくしてあるけど、ようするに2は『必要となる』、4は『必要ではない』と相反することを言ってるわけ。どちらかが○で、どちらかが×ってわけね。A、B、Cの並び方のうち、これが当てはまるのはAとCだけ」  説明しながら沙織はBの配列を黒板消しで消去した。 「いよいよふたつに絞られたわけね。ここでもうひとつ、上級者向けの法則を説明させてもらうわ。この手の問題では、正答がふたつだけしかないのなら、そのふたつは離れた場所にある」  男子生徒のひとりが目を丸くした。「ってことは……」 「そう」沙織はCを消去した。「Aだけが残る。そして答えは……これで正解。2と5が○で、あとは×」  感嘆のため息を漏らす者がいた。誰もが目を輝かせてこちらを見つめている。  沙織はきいた。「どう? これぐらいのことはテクニックの序の口だけど……。これでもまだ勉強する気にならない?」 「します!」坊主頭の男子生徒が立ちあがった。「裏技ってのをぜんぶ教えてくれ!」  女子生徒のひとりも笑っていった。「東大入れちゃったりしてね」 「夢でもないわよ」沙織は告げた。「この問題、センター試験の生物㈼で出題されたものだしね」  そのとき、生徒たちが真剣な顔つきに変わった瞬間を、沙織は見逃さなかった。  いい顔をしている。そう、わたしたちはいつもこんな表情を胸に秘めている。その希望を抑えて生きてきた。未来に夢を持つことはタブーであるかのように感じていた。  大人たちが歪《ゆが》んだ社会を作りだし、わたしたちの大半がそこで負け犬にならざるをえない境地に追いこまれる。不公平な世の中だ。それなら、わたしたちも裏技を使って逆転を図るまでだ。悪しき伝統など打ち壊し、希望を抱くことのできる世界を築くために。  わたしは兵を率いている。出陣のときは来た、と沙織は思った。もう後戻りはできない。 [#改ページ]   戦渦の発明品 �待機所�でじりじりとした時間を過ごすのはまさに地獄だ、と美由紀は感じた。  疲れきった保護者と教員らがときおり、言葉を交わしはじめると、たちまち責任のなすりつけあいになる。  仲裁に入った人間も加わって騒動が大きくなり、学校が悪い、ご両親も普段の生活には責任を持たれるべきだなどと相互に攻撃しあうばかりだ。  集団では常に、誰かを吊《つ》るしあげようという自然の力学が働くらしい。いまその対象は、五十嵐聡の父である哲治になっていた。  手錠を嵌《は》められ、私服警官らに身柄を拘束されていても、五十嵐哲治は強気な態度を崩さなかった。そのうえ天邪鬼《あまのじやく》な性格らしく、飄々《ひようひよう》とした態度でほかの保護者や教員の神経を逆撫《さかな》でする。一方的にやりこめられることはまずなかった。 「聡はおとなしくて無害なタイプだ」と五十嵐哲治はいった。「独立国家だかの中心メンバーに居座っているなんて考えられない」 「お言葉ですが」男性教師の木林がじれったそうに告げた。「お子さんはたしかに内気でしたが、理屈っぽいところがあって、反抗的な態度も垣間《かいま》見えたと思います。もし菊池と交友関係があったら、おそらく意気投合するでしょう」 「菊池なんて子は知らんよ。うちに遊びにきたこともない」 「お父さんは聡君の日常生活をご存じなんですか? そんなことはないでしょう」 「そうですよ」と女性の保護者がいった。「失礼とは思いますけど、お宅、奥さまとは離れてお住まいでしょう?」 「それがどうした」五十嵐哲治はむっとした。「聡は私のところにも来るし、妻だった留美子《るみこ》のほうにも行く。ほったらかしているわけではない」  五十嵐聡を主犯メンバーであるかのように追及することが、いまここにいる人間たちのうさ晴らしになっているのかもしれない。誰もが疎ましく思っている男の息子をスケープゴートにするのは、集団心理として自然な成り行きかもしれなかった。  座間《ざま》という国語の男性教師もその尻馬《しりうま》に乗ろうとしたらしい。鼻息荒く原稿用紙の束を振りかざした。 「これは私が家で採点しようと持ち帰ってた、三年D組の課題のひとつですけどね。『ジョニーは戦場へ行った』という反戦文学の感想文を書かせたんだが、五十嵐聡君だけは奇妙なものを提出しましてな。見てのとおり、ほんの一行だけ書いて、あとは真っ白。こんな生徒はほかにはいませんよ」  保護者たちが、わざとらしく思えるほどに大仰な驚きをしめす。誰もがスケープゴートをさらに不利な立場に追いこもうとしはじめているようだった。  美由紀は我慢ならなくなっていった。「待ってください。こんな状況、まるで欠席裁判じゃないですか。もしくは、いじめそのものだと思います。ひとりを標的にして不満をぶつけたところで、問題の解決にはつながりません」  保護者たちはいっせいに反発した。いじめなんかじゃない。事実を追及しているんだ。  そのとき、舎利弗が座間に手を差しだした。「ちょっと、その作文を拝見」  座間は無言で舎利弗に原稿用紙を手渡した。  舎利弗は原稿用紙に目を落とした。「へえ、たしかに一行だけですね。『戦争反対といいながら、先生は集めた原稿用紙の右肩をホッチキスで綴《と》じた』……それだけですね」 「意味不明ですよ」座間はいった。「五十嵐君だけ、作文をなかなか提出しなかったので、ひとりだけ居残りさせて書かせたんです。私はそのとき、ほかの生徒たちの作文をまとめていて、彼が書いたのは、ただその状況です。課題の意味がわからなかったとでもいうんでしょうか? なんていうか、ちょっとまともじゃないのかも……」  美由紀はいった。「座間先生。まともじゃないっていうのは、精神面のことですか? たったこれだけで五十嵐聡君の精神面に疑いを持つのはよろしくありません」 「でも彼は、現にこういうわけのわからない……」 「いいえ。わたしにはわかります。つかぬことをお尋ねしますが、先生はホッチキスがなにをきっかけに発明されたかご存じですか?」 「……いや」  誰もが一様に、困惑した顔を浮かべている。答えられる人間がいないことはあきらかだった。 「ホッチキスは」と美由紀は告げた。「E・H・ホッチキス社の製品なのでその名がついています。創始者エーライ・H・ホッチキスの兄、ベンジャミン・B・ホッチキスは、機関銃の発明者です。弟のほうは、機関銃の銃弾を装填《そうてん》する仕組みをもとにホッチキスを開発したんです。針をタマと呼ぶのはその名残りとも言われています。いわば人殺しの道具から生まれた文具用品です。それを踏まえて読みかえすと、聡君の言わんとしていたことがわかりませんか? 戦争反対といいながら、先生は集めた原稿用紙の右肩をホッチキスで綴じた」  室内はしんと静まりかえった。誰もが呆然《ぼうぜん》とした表情だった。  その沈黙を破ったのは五十嵐哲治だった。  高笑いしながら、五十嵐聡の父親はいった。「面白いな! 聡は、座間教諭が反戦文学の感想文にさも典型的な道徳っぽさを模範解答として望んでいると知って、皮肉ったわけだ。機関銃がなければそのホッチキスも発明されていなかった、戦争がなければ紙束を閉じることもできなかった。そんなことさえ知らない先生に習うことなどなにもない。聡はそういいたかったわけだ」  ここぞとばかりに反撃にでた五十嵐哲治に、教職員らが猛然と抗議をはじめた。  木林が顔を真っ赤にして声を張りあげた。「あなたのその態度が、息子さんに伝染したんでしょう! 人を見下す態度はおやめなさい。不愉快です」  座間も動揺したようすながらも、必死に弁明した。「そうだとも。たしかに、そのう、ホッチキスがそういう物だとは知らなかったが、作文は知恵比べじゃない。読み手にわかるように書くべきだし……あのう、とにかく、反抗的な態度が根底にあったことは疑いようがないし、こちらが対話しようとしてもこんな調子では……」  美由紀はいった。「座間先生。生徒との対話の努力は絶やすべきではありません」 「な……なんです、岬先生はいったいどちらの味方をされるつもりなんですか」 「そうだ」と言ったのは、屈強そうな二の腕の男、保健体育教師の鱒沢だった。「生徒たちのことをよく知りもしないのに、対話などと軽々しく口にしないでいただきたい。私はかつて、不良と呼ばれた男だった。いじめっ子として停学を食らったこともある。その立場で言わせてもらうが、生徒たちにはそれぞれの思いが……」  またしても五十嵐哲治が高飛車にいった。「元不良? 元いじめっ子だと? お馬鹿な自慢があったものだ。自分が人間のクズだと告白してどうする」  鱒沢の顔はみるみるうちに紅潮した。「なんだと? 私はな、長いあいだ生活指導を……」 「元不良が生活指導! 滑稽《こつけい》すぎる。なぜ人は、かつて外道と呼ばれた者が立ち直ったことを、過度に賞賛するんだね? 駄目人間だった者がまともな人間になったというだけだろう。赤字が収支トントンになったようなものだ。ちっとも威張れることじゃない」 「手錠を嵌められているあんたになにがわかる!」 「私はまだ容疑者だ。だが鱒沢先生、あなたはもう告白したじゃないか。不良だったんだろう? 聞くが、あなたが更正して教師になったのは結構だけれども、かつてあなたがいじめた生徒たちはどうなったね? 不良と公言するからには万引きのひとつも働いたことがあるだろうが、商品を盗まれた店主の被害は? あなたが威圧してまわった周辺住民たちの感じた恐怖や不信感は? あなたは教師になってからの人生を償いの日々と位置づけ、自分の給料を彼らに慰謝料として分け与えてるのか? どうなんだ?」 「そ」鱒沢は口ごもった。「それは……だな……」 「ほらみろ。どれだけあなたが真っ当な人間になったと主張したところで、過去にあなたが犯した罪は消えない。被害者たちの心の傷は永遠になくならない。あなたにいじめられた生徒は、いったいなんのためにそんな目に遭ったというんだね? あなたが将来立派な人間に更正するためのコヤシ、人柱にでもなったというのか? 笑わせてくれる。他人が傷つくより自分のほうが大事だと考えた時点で、いじめは始まる。あなたは何も変わっちゃいないということだ!」  また沈黙が降りてきた。今度の静寂は長かった。  保護者たちの軽蔑《けいべつ》の目は、どちらかといえば五十嵐よりも鱒沢に向けられていた。  鱒沢はなにも言いかえせないようすで、黙りこくって視線を逸らした。  美由紀は強い衝撃を受けながら、五十嵐哲治の横顔を見つめていた。  やはり彼は、息子のためにすべてをおこなったのだろう。そして、被害者の心を的確にとらえている。だからこそ保護者たちは今に限り、五十嵐に無言の同意をしめしたのだろう。  つまり、この父親もかつては……。  そのとき、戸口から中志津警部補が入ってきた。  中志津はいった。「みなさん、ご静粛に。県警の監視班による、望遠レンズによる長期の観察によって、いくつかの事実が判明しました。まず、重体と考えられていた北原沙織さんは……生きてます」  保護者、教員のあいだにどよめきが沸き起こった。  沙織の母親、北原|恵美《えみ》はけさからここに来ていた。驚きの表情を浮かべ、すぐに両手で顔を覆った。肩を震わせて泣きだした。 「たしかですか、それは?」と教員のひとりがきいた。 「ええ。医師にも確認してもらいました。北原沙織さんは、ごくふつうに校舎内で活動をしています。その動作やしぐさからも、頭部を強打したとは考えられません。きわめて健康な状態にあるということです」  やはり偽装か。美由紀は思った。これで、大人たちの氏神高校国を見る目は大きく変わる。  犠牲者はいなかった。すべてフェイクだったのだ。  北原恵美が泣きながら顔をあげた。「すみません、うちの子の無事を自分の目で確認したいんですが……」  中志津は硬い顔でいった。「申しわけありませんが、まだ捜査の途中なので……。しかし、監視によっていろいろなことがわかりました。生徒たちはたしかに国とまではいかないが、共同自治体を構成して行動しているようです。それぞれが決められた時間に受け持っている仕事をし、授業も自主的におこなわれ、自習もしています。就寝時間も徹底しています。なんというか……互いに笑顔をみせあったりして、ごくふつうの共同生活が営まれているという印象です」  また保護者たちからブーイングがあがった。 「十代の子たちをほうってはおけん」男性の保護者がいった。「危害を加える危険がないとわかった以上、すぐに突入すべきじゃないんですか」 「それはできません」中志津は告げた。「北原沙織に対するリンチ行為は偽装だったわけですが、暴力|沙汰《ざた》は皆無というわけではないようです。自警団のような連中がバットを持って校内を巡回しています。彼らはいわゆる行政庁、菊池をリーダーとする強制力を持つ一団の命令に従って動いているようです。治安が乱れた場合は、彼らによって当事者らが体育用品倉庫に監禁されたり、ビニールハウス内の畑で強制労働させられることがわかっています」  いっときの安堵《あんど》は失われ、保護者たちはまたも不安や恐怖のいろを浮かべた。  滝田教頭がきいた。「菊池のほかに、実行犯の連中は判明しているんですか」 「実行犯というか……。行政庁の主な役職に就いているのは三年生ばかりです。北原沙織もそのひとりとみられています」 「え……」沙織の母、北原恵美は愕然《がくぜん》とした面持ちになった。 「それから」と中志津は、懐から取りだしたメモを見ながらいった。「幡野雪絵」 「幡野? 県議会議員の幡野さんの娘さんですか」 「そうです。生徒会の役員だった連中がほぼそのまま、現在もリーダーシップを発揮してるわけです」 「信じられん……優等生ばかりなのに」 「学級委員だった生徒らも各クラスの代表になっているようで、塩津照彦という生徒も重要な役割を担っているみたいです。そのほか、おそらく菊池らトップに目をかけられて行政庁寄りの立場にあるのは、石森健三、小沢知世、五十嵐聡……」 「ほらみろ!」保護者の男性が怒鳴った。「やっぱり主犯格グループに加わってるじゃないか」 「静かに」五十嵐哲治は動揺したようすもなくいった。「主犯格とは語弊がある言い方だ。いま刑事さんもおっしゃっただろう。行政庁だ」 「なにが行政庁だ。警部補さん、うちの子はどうしてますか。私は三Cの岸辺和道の父ですが」  中志津はメモのページを繰った。「岸辺……たしかどこかにあったな。ああ、これだ。倉庫に二日間監禁。以降はビニールハウスで強制労働……」 「なんだって! うちの子がそんな目に……。すぐに救出してくださいよ!」 「もちろん、全力は尽くしますが……ただし、岸辺和道君はですね、最初の晩、下級生の今中雄三君に暴力を振るおうとし、自警団に捕まったと……」 「……和道が暴力? そんなことはありえん。和道はやさしい子だぞ」  保護者のなかに、ひそひそと話し合う声があった。 「それはちょっと……」女性の保護者がつぶやいた。「うちの子もよく言ってましたわ。岸辺君は乱暴だからあまり近づきたくないって……」 「なんだと!」岸辺の父親は憤ったようすだった。  と、手をあげて発言する女性がいた。「わたし、今中と申しますけど……。うちの子、いじめられてたんですか……? それでその後、どんな状況に……」 「ご安心を」中志津は真顔でいった。「監視班によれば、その後、今中君はとても優遇された状態にあるようです。当初は、いじめられていた子に対する慰安かと思われていたんですが、そうでもないようです。集団生活に役立つ才能なり知識なりを持ち合わせている子は、通貨を多く手にできているようで……」 「通貨?」 「そうです。これも監視班が見た状況から推察したものですが、生徒たちは自分たちの国で流通する紙幣らしきものを発行し、貨幣経済を築きつつあるようです。ネットでの自作ソフト販売で外貨を獲得、食糧を買い付けて、国内では独自の通貨で食事や生活用品の購入が可能なわけです。今中君には多くの報奨が支払われているようですね。視聴覚室に詰めている五十嵐聡君にもです。おそらく、ソフトを作ったのは彼とみて間違いないでしょう」  五十嵐哲治は愉快そうに笑った。「因果応報とはこのことだな! 身体がでかくて声がでかいだけが取り柄のいじめっ子は厳罰に処せられて、知恵のある子は豊かになっていく。社会はこうでなければならん」  岸辺の父親がすさまじい剣幕で怒りだし、五十嵐哲治に詰め寄ろうとした。今度は、五十嵐をかばって岸辺の行動を阻もうとする保護者も現れ、室内は混乱の様相を呈しだした。  子供たちの貧富の格差。社会での優劣。いずれは親が身をもって直面せねばならない、子育ての結果。それが唐突にしめされた。憤る親もいれば、どちらかといえばほっと胸を撫《な》でおろしているようすの親もいる。  外からクラクションの音が聞こえた。保護者たちの罵りあいはおさまり、誰もが聞き耳を立てているようすで沈黙した。  私服警官が中志津に告げた。「外で動きがあったみたいです」 「行こう」と中志津が戸口に向かった。  舎利弗がそれにつづき、美由紀も従った。一刻も早く外のようすを知りたい、全員がそんな思いに駆られている。たちまち戸口には保護者と教員が殺到した。  外にでると、報道陣が校門のほうに駆けだしていくのが見えた。  校門が開き、トラックが入っていく。だが今度は、食料品業者ではない。  荷台には、たくさんのパチンコ台が積まれている。中古品らしいが、まるで店が開けるほどの数だった。  呆然《ぼうぜん》とたたずみながら舎利弗がつぶやいた。「まさか……校内に店を持つのか?」  美由紀も驚きを禁じえなかった。「生徒たちのためのパチンコ店ね……。貨幣経済が機能してるのなら、余暇を楽しく過ごすためのレジャー産業も必要になってくる」 「賭博《とばく》が持ちこまれたってことか。世も末だな」  賭博。好ましくない事態だと美由紀は思った。氏神高校国は、現代の大人社会を忠実に模した縮図となりつつある。グレーゾーンすらも克明に写し取った、明暗の落差のある社会が築かれている。 [#改ページ]   カジノ部屋の悪夢  菊池は憂鬱《ゆううつ》な気分で二階の廊下にたたずみ、男子生徒らが特別教室へとパチンコ台を運びこむようすを眺めていた。  雪絵が隣りに歩み寄ってきた。「嘆かわしいわね。カジノなんて本当に必要?」 「貧富の格差が広がってる。低所得者層の不満を和らげるために、多少は一攫《いつかく》千金の夢も必要だろう」 「賭博が日常化しなきゃいいけど」 「そこは厳重に監視するさ」  ひとりの男子生徒が、ひときわ大きなパチンコ台を重そうに掲げて近づいてきた。「これ、どこに置きますか? カジノ室の設計図面にないんですけど」 「それは視聴覚室に持っていってくれ。五十嵐が必要としてる」 「わかりました」と男子生徒はゆっくりと歩を進めて、慎重に運んでいった。 「五十嵐君が?」と雪絵がきいてきた。 「なんでも研究に使うらしい。彼の案を文書で提出させたが、日本国との国交に有利になると判断した」  雪絵がふいにくすりと笑った。 「どうかしたか?」菊池がたずねた。 「いえ。ずいぶんさらりとそういう言葉がでるようになったなぁって。最初のころは学校と国、生徒と国民って言葉が混在してて、とても言いにくそうにしてたから」  ほかの生徒にいわれると頭にくるような物言いだが、雪絵が口にするととても柔らかいものに思える。  菊池は苦笑してみせた。「まあな。生徒会を行政庁にして国家建設なんて、想像力がなかなか追いつかなかった。でもいまになってみれば、やってよかったと思う」 「本当に? 当初は反対してなかった?」 「意図が理解できてからはそうでもない。周りをみろ。いじめ問題は過去のものとなってすでに忘却の彼方《かなた》だ。自殺を考える者もいない。誰もが生きて、よりよい生活を営むための競争に参加している。同一の目的を与えられた集団が、こんなにまとまるものとは思わなかった。共存と繁栄は、いつの世でも平和をもたらすものだ」 「演説もじょうずになったわね。虚勢を張るのは疲れない?」 「ば……馬鹿な。僕はもう虚勢とは思ってない。最初のうちは意識的に権威性をまとったつもりだったが、いまは違うよ」 「自然にリーダーシップを発揮できるようになった、っていうこと?」 「それはまだわからないが……皆にとって必要とされていたことを実行できている、そういう実感はある」  菊池はそこで言葉を切った。弱音を吐きたくなる自分がいる。これからどうなるかはわからない、そんな不安がいつも脳裏をよぎる。  だが、リーダーが及び腰になることが許されるはずもない。目的は最後まで果たすしかない。高校生のみによる自治。大人たちに、われわれのあるべき姿を見せつけねばならない。 「ねえ」と雪絵がいった。「この国は、いつまで存続させるの?」 「それは最初から決まってたことだ。僕ら三年生が校舎にいられるのは、高校生のあいだだけだからな」 「春の卒業までに、全部の目的が達成できるかしら」 「できるとも。僕は春を待つつもりはない。年内に決着をつける」 「年内? どうして……?」 「受験の願書を提出している者たちがいる。彼らに大学を受験させる。それから、就職活動も自由におこなわせたい」 「つまりそのころには、学校として正常化すると……」 「そうとも」 「で……わたしたちはどうなるの? みんなを率いたわたしたちは……」  菊池は答えなかった。  それは、時が答えをだしてくれる。いまあれこれと憶測してみたところで、事実が判明するものではない。  とそのとき、階段で激しい音がした。  雪絵が駆けだす。「どうしたのかしら」  そのあとを菊池も追った。  階段を見下ろしたとき、菊池は愕然《がくぜん》とした。  ひとりの男子生徒がパチンコ台を運搬中に、転倒したらしい。階段の踊り場では、パチンコ台の下敷きになった小柄な身体の下半身がみえている。  踊り場には赤いものがひろがりつつあった。出血がひどい。  これはフェイクではない、本当の重大事故だ。 「医療係を呼んで!」雪絵が叫んだ。「すぐに保健室に運ぶのよ。みんな手を貸して!」  あわただしくなった廊下で、菊池はその場に立ちつくした。  まずいな。これは国家問題になるかもしれない……。 [#改ページ]   薄らぐオーラ  午後六時すぎ。  五十嵐聡は視聴覚室の仕事を終えて、少しばかり遅れて行政庁の定例会議に向かった。  会議室にはほぼすべての統治官と補佐、そのほか行政庁がらみの役職に就く者が集まっていた。  このところ国内の状況が順調であることから、明るい話題も多い夕方の会議だったが、きょうは違っていた。いつになく重い空気に包まれている。 「遅くなりました、すみません」五十嵐は頭をさげて、会議テーブルのいつもの席についた。  隣りで知世がささやく。「遅いじゃないの」 「ごめん……。なにかあったの?」 「なにかって……事故の話、聞いてない?」 「ああ。一年生がパチンコ台を運んでて、階段を転げおちたとか……」 「それが重体らしいの。意識不明で……」 「え?」五十嵐は息を呑《の》んだ。  塩津がテーブルを叩《たた》いて発言した。「行政庁にとってはひとりの国民にすぎないが、彼も人間だぞ。一年C組、南山順平《みなみやまじゆんぺい》。保健室で手当てをしたぐらいじゃどうにもならん。彼の命を失わせるわけにはいかんだろ」  と、長島がうんざりしたように天井を見あげた。「そんなこと言ったってよ。この国は独立国家だろうが。外の大人たち……っていうか日本に頼らずに自治してるから意味あるんじゃなかったっけ?」 「だがこのままじゃ、南山は死ぬぞ」 「冷静に」石森がいった。「南山を助けてくれなんて大人たちに頼んだら、降参したも同然だよ」 「薄情ね」沙織は冷ややかな目で石森を見やった。「国家のためには犠牲者がでるのはやむをえないっての?」 「そういうわけじゃ……ないけど」  雪絵は神妙にいった。「言い争っている暇はないわ。南山君を助けるのは、この校舎内では不可能よ。医師がひとりもいないっていう現実が、ここまで重いものになるとは思わなかった……」  会議室はしんと静まりかえった。  なにを悩むことがあるのだろう、と五十嵐はじれったく思った。ひとりの生徒が瀕死《ひんし》の状況にある。救わなくてどうするというのだ。 「救急車を呼ぼうよ」と五十嵐は告げた。「それが常識だよ」  石森が抗議する口調でいった。「五十嵐。おまえな。そんなに簡単に……」  長島が遮った。「俺は五十嵐に賛成だな。南山ってのは見ず知らずの赤の他人だが、俺らも体調崩したり大怪我負ったりする可能性はあるわけだろ? そんなときどうすんだい? 行政庁の人間だから優遇されるのかい? 裏口からこっそり出て病院に行けるとかさ」  沙織が首を横に振った。「そんなことしたら、生徒たち……民衆の反発を買うわよ」  そのとき、沈黙を守っていた菊池が静かに口をきいた。「それをいうなら、脱出ではなく越境だ。こちらは氏神高校国、向こうは日本国。塀は国境だからな」  塩津が立ちあがった。「そんなこだわりはどうでもいい。死にかけてる下級生がいるってのに……」 「どうでもよくはない!」菊池が一喝した。  また会議室内に静寂が漂う。無音のまま、しばらく時間がすぎた。 「だが」菊池はぼそりといった。「人命には替えられん」 「え?」長島が意外そうな顔をした。「どうするんだい? 兜《かぶと》を脱いで降参か?」 「そんなことは断じてありえない。国家としての意地は最後まで貫く」  雪絵がうなずいた。「発展途上国に限らず、国内に充分な医療設備や治療手段がなかったら、それを持つ別の国に依頼をするでしょ? それと同じことよ」 「そうとも」と菊池はいった。「けっして日本国の軍門に下るわけではない。慎重におこなわねばならないが……」  五十嵐は妙な気配を感じた。  きょうの菊池には、いつものような圧倒的な権威性が感じられない。というより、彼の発するオーラはこのところ、少しずつ薄らいでいたような気がする。  迷いが生じているのか。そんなの、とんでもない話だ。五十嵐は内心そう思った。僕らをここまで引っ張ってきて、途中で挫折《ざせつ》されたのではたまったものではない。 [#改ページ]   悪しき平等  夜空に星はなかった。暑い雲に覆われ、雨がぱらつきだしていた。  美由紀は�待機所�を飛びだして、外にでた。くぐもったスピーカー音声がきこえる。校舎からだ。菊池が外の世界に向けてメッセージを発しているに相違ない。  報道関係もあわただしく動きだした。中継車から降り立ったスタッフがマイクで声を拾おうとしている。リポーターがカメラの前で実況を開始した。ただいま、校内からなんらかのアナウンスがなされています。  美由紀は聞き耳を立てた。判然としない声が、しだいに明瞭《めいりよう》に感じられてくる。 「……を要求する」菊池の声が響きわたる。「繰り返し、日本国に依頼申しあげる。わが氏神高校国の国民一名が重傷を負った。具体的には、階段から転落する重大な事故によるものであるが、わが国はこれを治癒する医療機関を持たない。よって人道的立場から、この怪我人を貴国に引き渡し、適切なる処置をお願いしたい。いまから三十七分後の午後七時ちょうどに、校舎裏の北門にて、貴国の使節団と面会する準備に入る。怪我人を受理する最低限の人員のみを派遣していただきたい。それ以外の強制力は、わが国への威嚇行為とみなし……」  近くで中志津が私服警官らに怒鳴っていた。接触を求めてきたぞ。ただちに人員を集めろ。白衣を着て、医者にみえるように工夫して、校内に……。 「まってください」美由紀は中志津にいった。「向こうの弱みにつけこんで侵入するつもりですか。それはどうかと思います」  中志津は面食らった顔でこちらを見た。「あのう……岬先生。どういうことですか。なにかまずいことでも?」 「生徒たちが覚悟をきめて籠城《ろうじよう》し、こちらは静観しつつも対話を求めてきました。相手がようやくこちらを頼ってきたというのですから、こちらは誠意のみをしめすべきじゃないでしょうか」 「なにを馬鹿な……。これは籠城事件ですよ。われわれ警察としては、隙を突いて人質を救う機会を逃すわけにはいきません」 「誰が人質で誰が主犯グループか、まだ生徒全員の立場がすべてあきらかになったわけじゃないでしょう。現段階では救出活動は無理と思いますけど」 「それでも、内情を調べるには好都合です」 「調べるだけなら誰にでもできます。わたしなら、相手の本心も見抜けるし……」 「捜査協力していただけるのはありがたいんですが、岬先生。ここはわれわれの仕事で……」  そのとき、口論を聞きつけたらしく舎利弗が駆け寄ってきた。 「美由紀。どうかしたのかい?」 「わたし、これを救出の突破口にすべきではないと思うの。生徒たちはあんなに頑《かたく》なに独立にこだわって、大人たちの支援をいっさい受けずに自活できるところを見せつけようとしてきた。その生徒たちがこちらを頼ってきた。よほど口惜《くや》しい思いをしているに違いないわ。いまは向こうの立場を尊重すべきよ。そうでなきゃ対話は生まれない」  中志津は顔をしかめていった。「冷静になってくださいよ。籠城の主犯格は酸素欠乏症に端を発する心神喪失状態にあるんです。さんざんわれわれを愚弄《ぐろう》し、翻弄《ほんろう》してきた。内部では暴力行為もおこなわれている。異常事態はまず打開し、生徒ら全員を安全な状況へと移し替えてから、じっくりと真相の解明に取り組むべきです。違いますか?」 「生徒たちは思いもよらない手段をとり、わたしたちの目を惹《ひ》きつけた。彼らにとっては、行動することがわたしたちへの対話だったのかも」 「言論の自由がある国で、人質をとって籠城することが対話のための手段だなどと、そんな話が通ると思いますか。それこそ生徒たちのわがままというものだ」 「いいえ!」美由紀はあくまで反論した。「実力行使こそが子供たちにとって唯一の対話法だったのよ。いつものらりくらりと問題から目をそむけてばかりの大人たちに対し、子供たちは発言の自由など感じてはいなかった。それで、どうあってもわたしたちが逃れられない状況をつくりだしてきた。子供たちはわたしたちに主張をしたがっているのよ。対話を重んじればこそ、彼らの作りあげてきたものをただちに壊すべきじゃないわ」 「体育用品倉庫に監禁されてる生徒がいるんですよ! バットでめった打ちにされた者もいる。こんな横暴を対話などとは、ナンセンスの極みだ。だいいち生徒たちは正常じゃないんだぞ」 「いや」と舎利弗がつぶやいた。「生徒たちは異常ではないよ」 「……それはあなたの意見ですか、舎利弗先生? 臨床心理士会は、籠城の主犯格が理性の働きに問題があるという見方をしめしているし、精神医学会も似たような見解を発表している。生徒たちはまさしく異端児です。平和を乱すものであることに変わりはない」  異端。このところ、美由紀の胸にたびたびひっかかる言葉だった。  いつの間にかこの世の中は、個性を尊重せず、平等主義に徹することが美徳とされるようになった、そんなふうに思う。  そのおかげで貧富の差は縮小し、国民総中流意識も復活した。だが、それが本当にいいことなのだろうか。  これが生徒たちの、社会に対する反乱だとしたら……。  美由紀はいった。「中志津さん。体制側に民意が伝わっていないと感じればこそ、大衆は武装蜂起《ぶそうほうき》するものです。つまり生徒たちは、本能ではなく理性に従ってこの状況を選んだ可能性もあるんです」 「やめてください。あなたは元国家公務員だが、規則や規律を無視しがちだという噂は聞き及んでます。社会にはルールがある。そこからはみだしてはならない」 「いいえ。社会の規範から外れているかどうかは、まだわからない。真実はまだ見えていないんです。だから警察関係者が介入すべきではありません。臨床心理士が生徒たちと接触するんです、この肩書きに誓って、わかったことを包み隠さず報告申し上げます。いまのところは、それで充分でしょう?」 「しかし……」中志津は口ごもった。「それは……」  と、ふいに別の男の声が割りこんできた。「私も同行させていただきます」  美由紀は振りかえった。後ろに、背の低いスーツ姿の男が立っていた。年齢は四十代半ばぐらい、見るからに役人気質を漂わせている。 「あなたは?」と美由紀はきいた。 「岐阜県教育委員会、教育総務課の沢渡《さわたり》幸雄《ゆきお》と申します。教職員やPTAを代表し、生徒たちへの説得にあたりたいと思います」 「説得? なにをどう説得するんですか」 「むろん、今回の事態を引き起こしたことへの反省、および謝罪をさせることが急務です」  舎利弗が眉《まゆ》をひそめた。「本気ですか。生徒たちの代表に謝らせることが何よりも先決ですって?」 「ええ、そうです。私たちのみたところ、籠城の主犯格グループは社会への責任感が欠如していて、今回の犯行も甘えが露呈したものと推察されます。なにをやっても大人たちは許してくれる、不満があれば閉じこもり、だだをこねていれば大人たちは要求を聞きいれてくれる。過保護な家庭で育った少年少女らの身勝手な犯行以外のなにものでもないのです。まずは責任の重さを痛感させることです」 「責任感がないですって? そのう、警察の監視によると、菊池君を筆頭に行政庁を名乗る生徒たちは、リーダーシップを発揮してうまく生徒たちの共同生活を取りまとめているようですが。たしかに肯定しきれない権力の強制執行もたびたび目につくが、生徒たちは総じて権力側に反感を抱いていないようすだと聞いてます」 「失礼ですが、あなたのほうこそ事実を認識しておられないようです。この岐阜県立氏神工業高校は、過疎化しつつある周辺地域のなかで、唯一残された公立高校でしてね。近隣の高校が次々と閉鎖されたのは地方財政の悪化によるところが大きいのですが、とにかく半径十キロ圏内の住民にとって、地元の公立高校といえばここしかない。よって、進学校でもないこの高校に、ただ地元だからという理由だけで十数人の飛びぬけて秀でた学力を持つ生徒が存在しています。中学時代に高い偏差値を誇りながら、私立に通うことを選ばなかったり、実家からここ以上に遠く離れた高校に通う気になれなかった生徒たちです。生徒会の役員となり、いま行政庁とやらに名を連ねている生徒たちは、全員がそのごく少数の優等生たちなのです。この意味がわかりますか?」 「いや」と舎利弗はいった。 「彼らを除けば、あとの生徒たちの平均偏差値など三十以下です。進学どころか就職すらも危うい、ニートやフリーター予備軍も大量に抱えています。一部のエリートたちにとって、あとの生徒たちを扇動し従わせることはさほど難しいことではありません」 「どうしてそう言い切れるんです?」 「学力の差を考えれば、当然……」  美由紀はいった。「教育委員会の人のご意見とは思えませんね。この高校の生徒たちの大半は、流されるままに生きるしかないていどの知能の持ち主ってことですか」  沢渡はむっとした。「私が役職にふさわしくない差別的発言を口にした、そのことを大仰に指摘して立場を悪くしようというおつもりなら、考え直されたほうがいいですよ。行政庁とやらでサブリーダー的な存在とされる幡野雪絵の父親は県議会議員であられますが、今回のことでは娘さんに対する同情の余地はないと憤っておられます。主犯格グループの親でさえ、子供たちの突然の行為には戸惑いと不信を禁じえずにいるのです」 「そんな親だから、子供たちは実力行使にでざるをえなかった。違いますか?」  沢渡が、さらなる反論を繰りだす素振りをみせた。  だが、美由紀は片手をあげてそれを制した。「言い争いはあとで。それより、重傷を負ってる生徒がいるのよ。時間どおりに北門に行かないと」  沢渡は心外だという顔をしたが、美由紀はさっさと背を向けて立ち去った。  舎利弗が横に並んで、歩調をあわせてきた。「きみのいうとおりだよ」 「なにが?」 「常々思ってたことだけどね。どうもこの世の中はおかしい。悪しき平等主義がはびこっているみたいだ」  美由紀は黙って歩を進めた。  やはり。わたしの感覚だけではない。社会はいつしか、誤った方向に舵《かじ》をとっている。修正できるのは、それに気づきえた人間だけでしかない。 [#改ページ]   たったひとりの使者  午後七時。校舎のチャイムが鳴った。  美由紀は校舎裏の北門の前に立っていた。  一緒に開門を待っているのは舎利弗と、教育委員会の沢渡幸雄だけだった。  日本国から氏神高校国に派遣される使節団。それがこの三人というわけだ。  少し後方に、救急車とふたりの救急救命士が控えているほかは、周辺はがらんとしていた。  警察の指示で、報道関係者らや保護者、教職員らは大きく後退させられ、遠くに人垣をつくって見守るだけになっている。  フェアな接触でないと門が開けられない可能性もある。そう踏んでのことだった。  すでに約束の時間には達している。ここからは超過するばかりだ。  そう思ったとき、門の扉が重苦しい音をたてて横にスライドしていった。  遠くで報道陣のカメラのシャッター音があわただしくなったのがわかる。  扉の向こうに立っていたのは、男女それぞれひとりずつの生徒だった。  美由紀は歩きだした。  門で待つふたりの生徒は対照的だった。女子生徒はきちんとした身だしなみをした優等生風、男子生徒のほうは学ランを着崩して、不良っぽく半身になってたたずんでいる。  こちらが門に達する寸前に、女子生徒がいった。「そこで止まってください」  静止せざるをえない。両者は、境界線をはさんで向かいあった。 「初めまして」美由紀は真顔で告げた。「日本国代表使節団として参りました」  女子生徒はちらと男子生徒と目を合わせてから、こちらに向き直っていった。「氏神高校国行政庁統治官、幡野雪絵です。彼は統治官補佐、長島高穂」  慇懃《いんぎん》丁寧な雪絵に対し、長島のほうは十代特有の気さくさをしめしてきた。「ま、よろしく」  舎利弗がきいた。「さっそくだが、怪我人は?」  雪絵が長島にうなずくと、長島が校舎を振りかえり、なにやら手話のような合図を送った。  その合図は、校舎の窓にいた生徒からほかの生徒へと伝達されていく。  やがて、玄関の扉が開き、医務用のストレッチャーのように車輪《キヤスター》がついたベッドが、数人の男子生徒によって運びだされてきた。その上にはひとりの生徒が寝ていて、シーツを被《かぶ》せられている。  よくみると、それらの道具は手製とわかる。ベッドは机やキャスター付きの椅子の部品などを組み合わせて作られ、シーツはカーテンの切れ端のようだ。  患者は門をはさんで向かい合う両者のあいだで止まった。  美由紀は近づいて、シーツをまくった。頭部に包帯を巻いた少年の姿がある。こめかみが紫いろにくすんでいた。内出血しているのだろう。  仰向《あおむ》けに寝ている男子生徒の瞼《まぶた》を開かせ、充血した目をしばし眺める。脳震盪《のうしんとう》を起こしているかもしれない。 「すぐに運んで」と美由紀はいった。  救急救命士がその指示に従おうと近づいてきた。  ところがそのとき、沢渡がベッドの前に立ちふさがるようにしていった。「怪我人を引き受けるには条件がある」  沢渡はじろりと幡野雪絵を見た。  雪絵は固唾《かたず》を飲んだようすで見かえした。  舎利弗が沢渡にきいた。「なにをしてる」  美由紀も抗議した。「一刻も早く運ばないといけないのよ。どいてよ」 「駄目です」沢渡はそういってから、雪絵に向き直った。「きみが出てきてくれたことは好都合だ。聡明なきみならわかるだろ? お父さんも心配してるよ」  雪絵の顔にあきらかな動揺のいろが広がった。  咳《せき》ばらいをして、沢渡はつづけた。「お父さんは、きみたちが今すぐ降参して外に出てくれれば、それほど厳しく叱るつもりはないといってる。お母さんも同様だ。お母さんは、きみがこの高校に入ることに反対してたな? たぶんきみが高校の悪友にそそのかされて一員に加わっただろうことは、ご両親とも察しがついているようだ」  美由紀は苛立《いらだ》ちを覚えた。「沢渡さん。いまは患者の引き取りが最優先です。そこをどいて」  沢渡は意に介さないようすでつづけた。「幡野雪絵さん。ご両親はきみのせいで世間に顔向けできないと悩んでおられる。辛《つら》い日々を送ってるんだよ。きみ自身の将来も非常に不安定なものになる」  長島が口をさしはさんだ。「おっさんの説教なんか聞きたかねえや。消えなよ」 「きみは黙ってろ」沢渡は雪絵に詰め寄った。「なあ、まずはきみが折れて、ほかの生徒に手本をしめしてくれ。きみが校舎を出て、馬鹿げた独立国ごっこをやめてくれれば、生徒たちも目を覚ますはずだ」  雪絵はしばらく黙っていた。戸惑いが生じているかのように、地面に目を落とした。  やがて雪絵は静かにつぶやいた。「それは……できません」 「おい。幡野さん……」 「この校舎に立て籠《こ》もる前から、両親とは意思の疎通などありませんでした。いまさら気に病んでいることなどありません」 「な……。するときみは、両親の顔に泥を塗ることを承知で、このまま籠城《ろうじよう》しつづけるつもりか」 「ええ。かまいません」 「それではこの患者は受け取れんよ。きみらは独立を宣言したんだろ? 自国の問題は自国で解決したまえ」  舎利弗が憤ったようすで沢渡に告げた。「なにをいってる。怪我を負った少年を見捨てるつもりか。相手の弱みを駆け引きに使うのはよせ」 「駆け引きしてきたのは生徒たちですよ、舎利弗先生。私は少年少女らに、自分たちが世間に対し何をやってきたのかを、受け身の側として痛感してほしいと思っているだけだ」  当惑のいろを浮かべていた雪絵が、重傷を負った男子生徒に目を向けた。その瞳《ひとみ》がかすかに潤んだように見えた。 「わたしは……。この学校を出るわけにはいきません」  沢渡は腕組みをした。「ほかの生徒たちの面目がつぶれることでも恐れてるのかね? 菊池君がきみに対して怒り、一生恨むとでも? ああ、そういう心配はわからないでもない。それならまず、世間に意志を公表したまえ。きみらは結局、私たちを頼った。大人を、そして日本の社会のシステムを。つまるところそれは子供の甘えでしかないのだが、まあいい。段階的に解決していこうじゃないか。きみの手で、一筆書きたまえ。この怪我人を引き取ってもらうかわりに、生徒たちを説得し、籠城をやめさせるべく努力すると」  籠城の主犯格メンバーとしては、雪絵がひどく生真面目な性格であることは、美由紀にも理解できた。  彼女は本気で悩んでいる。目の前の男子生徒を救いたい、それでも仲間たちは裏切れない。その両者の板ばさみになり、激しく葛藤《かつとう》している。  そのとき、長島があっさりといった。「いいじゃんか。幡野さん、一筆書きなよ」 「長島君!?」雪絵は驚いたように目を丸くした。 「どうせこの怪我人を校舎のなかに置いといても、足手まといになるだけだしさ。投降しろって言われたんじゃ承諾できねえが、手紙ぐらいなら安いもんだろ」  沢渡が釘《くぎ》を刺した。「幡野雪絵さんの書いたメッセージは、教育委員会からマスコミを通じて世間に公表するよ。そうでなくては意味がない。きみが生徒たちの代表として、皆を説得すると約束するわけだ。ご両親の顔も立つ。きみ自身も、籠城事件を内部から解決した功労者として評価されるだろう」  そんな説得がまったくの筋違いであることは明確だったが、沢渡は説き伏せられると自信を持っているようだった。  長島は校舎を振りかえり、また手でなにやら合図を送った。それから雪絵に向き直って告げる。「書くものを持ってこさせるよ。あとは幡野さん、頼むよ」 「正気なの、長島君?」と雪絵は泣きそうな顔でいった。「いままでみんなが努力してきたことを無にするつもり?」  小走りに駆けてきた男子生徒が、定形外の大きな封筒と、そこに折りたたまずに入るサイズの厚手の紙を携えてきた。それらとサインペンを雪絵に差しだす。  雪絵は困惑しながらも、ほかにどうすることもないようすで受け取った。 「こう書くんだ」と沢渡がつぶやいた。「わたしたちの不注意で怪我を負わせてしまった生徒を、引き受けていただき、心から感謝しています。わたしたちはまだ子供だということを思いだし、大人たちの支えを必要としていることを悟りました。校内の生徒たちはわたしから説得し、先生や両親と話し合うべく、みんなで揃って校舎を出ることを約束します。幡野雪絵」  そのとき、雪絵の表情に微妙な変化が生じたことを、美由紀は見てとった。  当惑のいろが消え、なんらかの揺るぎない決意を抱いたようにみえる。  なぜ瞬時にそんな感情が生じたのか、理由はわからない。ある意味で不自然な心境の変化だ。  沢渡はじれったそうに雪絵を急《せ》かした。「迷ってないで、早く書きたまえ。もう一度言おうか?」 「いえ。それには及びません」と雪絵は言って、白紙にペンを走らせた。  やがて、雪絵はその紙の表をこちらに向けてきた。  そこには、沢渡が告げたとおりの文面があった。わたしたちの不注意で怪我を負わせてしまった生徒を……。  いちど聞いただけの文章を頭に入れて、すんなりと記述した。やはり雪絵が頭のいい女子高校生であることは疑いの余地はない。  そんな彼女が、急に心変わりした。いまも揺るぎない自信に溢《あふ》れている。  美由紀はふと気づいた。  そうか。そういう手を使ったのか。たいした機転だ。  雪絵は紙を折りたたまずに封筒に滑りこませた。その封筒を沢渡に差しだす。 「たしかに」沢渡は満足そうに封筒を受け取った。「では、この怪我人を救急車に運ばせるとしよう。今回の約束事は、ここまでだな」 「まだよ」と美由紀がいった。「幡野さん。体育用品倉庫に閉じこめられてる生徒たちのなかにも怪我人がいるでしょ? バットで殴られて出血している人も何人かいるはずよ」 「へえ」長島がにやついた。「そこまで監視してたの?」  美由紀は雪絵をまっすぐに見つめた。「その男子生徒たちも一緒に治療するわ。こっちに引き渡して」 「……いいわ」雪絵はうなずいた。  今度は長島が面食らったように甲高い声をあげた。「おいおい、幡野さん。菊池君の意見聞かなくていいの?」 「かまわないわ。行政庁による治安維持とはいえ、怪我した彼らをそのままにしておくことはできない」雪絵は美由紀を見かえした。「いま連れてこさせます。彼らも一緒にお願いします」 「わかったわ。それと、頼まれついでに、もうひとつお願いしたいんだけど」 「なんですか」 「あなたたちが国家である以上、これを機会に日本との国交を樹立していくのも悪いことではないと思うけど。外貨を稼いでいる以上、永遠に鎖国というわけでもないんでしょ?」  沢渡が眉《まゆ》をひそめた。「なにを言いだすんです。岬先生。いま幡野さんは生徒を説得すると約束したばかり……」  だが雪絵は、沢渡の声が聞こえてもいないかのように、美由紀の問いに応じた。「国交樹立の可能性は否定しませんが、それには、まず日本が氏神高校国を国家として認め、意義や信念を理解していただかないと」 「国際理解ってことね。それも当然ね。提案なんだけど、その第一段階として、日本からの大使をひとり受け入れていただきたいの」 「大使?」 「そう。つまり外交官。あなたたちの国の実情や政治、経済を日本に理解してほしいと思うのなら、その大使の目を通じて伝えさせたほうが早いと思うわ」 「……大使は国家元首によって任ぜられるものと思いますけど。日本の総理か外務大臣が任命した人ってことでしょうか?」 「いえ。それではあなたたちが受け入れを拒否するでしょ。権力者の手先が乗りこんでくるとあってはね。だから国際法上の意味合いとは異なるけど、あなたたちにとって害がないと保証されている人間を送りこみたいと考えているの」 「そんな人がいるの?」 「ええ。わたしよ」 「あなたが……?」 「まだ名乗ってなかったわね。わたしは岬美由紀。臨床心理士なの」 「岬……さんですか。千里眼っていわれてる……」 「え」長島が仰天したようすで声を張りあげた。「マジ? 有名人じゃんか」  雪絵は頑《かたく》なな態度を崩さなかった。「表情から感情を正確に読みとることができて、嘘も見抜けるとか……。わたしたちが嘘をついているとお思いですか?」 「いいえ」美由紀は告げた。「あなたたちに隠しごとはない。だからこそ、わたしが赴いたほうがいいと思うの」  校舎のほうから、複数の怪我をした男子生徒らが運びだされてきた。とはいえ、罪人扱いのせいか、さっきの男子生徒とは違い、手製のストレッチャーには乗せられていない。全員が地面をひきずられてきた。  負傷者の手当てを急ぎたいと感じたのか、雪絵は早口に告げてきた。「わかりました。お引き受けします」 「いいのかい?」長島が不平そうにいった。「千里眼だぜ?」  美由紀は長島を見据えた。「見抜かれて困ることでもあるの?」 「いや……ま、まあ、どう考えようが勝手だけどさ。いいか、べっぴんさんだし。ただし、菊池君が承諾すればの話だけど」 「いいわよ。すぐに会わせてくれる?」  長島が雪絵に目でたずねる。雪絵は、複雑な表情を浮かべながらうなずいた。  周囲は、自然に動きだした。怪我をした生徒たちを、救急救命士らが運びはじめる。雪絵と長島は踵《きびす》をかえし、校舎に向かって歩きだした。  そして美由紀も、歩を踏みだした。  氏神高校の独立国家宣言以来、食糧などを搬入する業者以外で初めて、この門をくぐる立場になった。  ちらと門を振りかえると、舎利弗が立ち尽くしながら見送っている。教育委員会の沢渡も、腑《ふ》に落ちない顔をしながらそこに立っていた。  少なくとも氏神高校国は、日本の派遣使節団のひとりを受けいれた。生徒たちの心を開かせ、対話への道筋をつくる。それができるのは、わたししかいない。  なにをされるかわからない治外法権のエリアで、わたしは孤立無援だ。それでも、相互理解のための架け橋にならねば。 [#改ページ]   変異する伝言  夜の氏神高校、その校内に入ってから、美由紀は目に映るすべてのものに驚きを禁じえなかった。  たしかに建物は校舎にすぎないが、この空間は完全に街そのものだ。  玄関を入って靴脱ぎ場から階段、廊下に至るまで、辺りは市街地の活気に満ちている。  教室の廊下の窓は取り外されて商店となっている。扱っている商品のジャンルも店それぞれで、文房具や教科書、参考書類から、おそらくは生徒らが持ちこんでいたiPodやニンテンドーDS、漫画本なども高額商品として取り扱われ、さらには学校の備品とおぼしきDVDプレイヤーやパソコン、その周辺機器までが並んでいた。  美由紀は歩きながらいった。「学校の備品を売買するなんて……」 「問題ねえんだよ」と長島がにやつきながら振りかえった。「校内で人から人に所有権が渡るだけだからさ。もともと校内で使用することに限られた品物なんだし、文句はねえだろ? いちおう、これらの物の国外への販売は禁止されてる。つまり学校の外に売り払って日本円を稼いじゃいけないってことだ」  なるほど、と美由紀は思った。校内のみ限定の売買か。  そういえば、往来する生徒たちは見慣れない紙幣を手にしている。コピー機で作ったものらしいが、図柄は複雑で、ずいぶん本格的だ。  人が多く群がっているのは、やはり食品店だった。長持ちするパンが中心だが、惣菜《そうざい》や弁当まで各種取り揃っている。ときおり羽振りのよさそうな生徒が弁当をまとめ買いしていくが、低所得者層は味気ない食パンを購入するのみらしい。  各店舗にはバットを手にした警備員が立っていて、万引きなどの犯罪に抑止効果を発揮している。万引きは裁判なしで禁固十日、罰金二百ウジガミール、そう書かれた貼り紙もあった。  商用地帯を過ぎると、フロアに連なる教室は住居棟の役割を果たしていた。  教室内には複雑に間仕切りがしてあって、一見したところではホームレスタウンを連想しなくもない。  ただし、ここの生徒たちの暮らしは、家を持たない大人たちよりずっと清潔で、優雅で、穏やかなものだった。手製のベッドで読書をしている女子生徒もいれば、廊下で遊びまわっている男子生徒もいる。国民のプライバシーについても行政庁が目を光らせているのか、風紀の乱れはないようだった。  掃除はさかんにおこなわれていた。これも仕事なのだろう。その熱心さは、学校で義務づけられる清掃の時間とはまるで趣を異にしていた。専業の清掃員としてのプロ意識を感じさせる彼らの作業は、終始てきぱきとしていて無駄がない。  こうした住宅街には独特の施設も存在する。二階の大教室のひとつは銀行になっていた。氏神銀行という手書きの表札がかかっている。労働で得られたウジガミール通貨は銀行振り込みで支払われるらしい。驚いたことに、振りこめ詐欺に注意という但し書きが壁に貼ってあった。すでにここでの経済は、美由紀の知る社会となんら変わりのないものになりつつある。  銀行の隣りは不動産屋だった。貼りだされた物件に生徒たちが群がっている。住居となっている教室は切り売りされていた。畳一畳ほどの寝床は、土地を買うことで広げていける。そういえば、教室ひとつを丸ごと自分の住処《すみか》にしているようすの生徒の姿も見かけた。あれは億万長者に等しいのだろう。  美由紀はきいた。「教室ひとつ買うと何ウジガミールなの?」  長島がせせら笑った。「一生かかっても無理だね。特別な仕事で爆発的に稼げるようにならなきゃさ」 「一般的な職業では、狭い間仕切りのなかで暮らすしかないわけね……」 「それもローンだよ。土地は高いからさ。特に銀行に近い二階は人気でね。間仕切りもタダじゃないよ。三階にエクステリア専門店があって、そこでいろいろ工夫した間仕切りを売ってる。一番高いのはもともと体育用品倉庫にあった本格的なパーティーションでさ、一枚五十ウジガミールもする」 「あるていど裕福そうな人が、間仕切りのないところで寝てたりもしてたけど」 「男子と女子の住居が隣接している部屋では、間仕切りは地区条例で禁止されてんの。見えないところで何やってるかわからねえってことがないようにね」 「ふうん……。考えてあるのね」  実際、校内のあらゆるシステムは計算し尽されていた。  以前に当直室だった部屋は、その浴室を生かして入浴施設となり、銭湯のように金を払えば利用できる。狭いので予約制らしく、同性どうしなら三名までが同時に入浴可能、異性どうしの利用は禁止。湯沸かし室も重宝されている。パンなどと抱き合わせて輸入したのか、レトルトのカップ麺《めん》を手にした生徒らが長い列をつくっていた。  クリーニングも、ここの設備が利用されている。三台ある洗濯機は常時稼働状態だった。かごのなかには制服が山積みになっている。おそらく、洗濯も金がかかるのだろう。払えない生徒は、流しに制服を持ちこんで手で洗うしかないに相違ない。  それにしても、どこに行こうとも生徒たちにじろじろ見られるのは、あまり気分のいいものではない。  ここは高校生の天国、あるいは地獄、もしくは普遍的社会と呼ぶべき空間にほかならなかった。制服を着ない大人は部外者、異端者以外のなにものでもない。美由紀はそういう奇異なものを見る視線を向けられざるをえなかった。  階段を昇って三階に行き着く。さすがに美由紀も閉口した。  大教室のひとつがパチンコ店に改装されている。トランプでカード賭博《とばく》をおこなうカジノ設備も併設してあった。詰め掛けた生徒らからは歓声があがっている。ゲームの結果に一喜一憂しているようだ。 「これはちょっと……」美由紀はつぶやいた。「未成年者にギャンブルを斡旋《あつせん》するなんて」  すると、雪絵が振りかえっていった。「ここは行政庁の閣僚も含めて全員が十代だから、未成年なのは当たり前なの。それに、ギャンブルは日本でも公然とおこなわれているのではなくて? 賭博は法律で禁止されてるはずなのに、競馬や宝くじもある」 「それはそうだけど……国の公営だし……」 「ここでもそうよ。胴元は常に行政庁で、一般人が賭博場を開くことはできないの。貧しい層に夢を与えるには、一攫《いつかく》千金のチャンスもなきゃね。締めつけすぎたのでは労働意欲が減退するわ」  美由紀は、雪絵がとんでもなく大人びた存在に思えてならなかった。  知性だけではない、さっき教育委員会の沢渡の前で動揺してみせたこと自体、ただ子供らしく振る舞うための演技だったのではないか。そうも思えてくる。大人たちには計算された子供らしさを演じて油断させ、内部では狡猾《こうかつ》なほどの政治手腕を発揮している。おそらく、リーダーの菊池もそうなのだろう。  まさしくここは異国だ。日本語が通じ、民族としては同一のものであっても、異なる文化圏が構成された外国。ここに比べたら、外の大人たちの詰め掛けた�待機所�など、なんと稚拙なことだろう。集団としての統合的機能や役割分担など、ここには遠く及ばない。ただ混乱しているだけだ。  呆気《あつけ》にとられていると、雪絵と長島が廊下の突き当たりで立ちどまった。 「どうぞ」と雪絵が、壁ぎわの戸口を指差す。  緊張しながら美由紀はその戸口のなかに入った。「失礼します」  会議室風に複数の机を付き合わせて作られたテーブルを、男女の生徒たち十人ほどが囲んでいた。  一見して、それらが行政庁なる機関の面々だとわかった。威厳が違う。顔つきも、ほかの生徒たちとは異なっていた。美由紀を見ても冷静で、ただ探るような鋭い視線を向けるにすぎない。  警察に見せられた写真で、菊池の顔は覚えていた。会議の中心にいるのは議長席の菊池だ。当初は殺害されたのではと考えられた北原沙織もいる。あとのメンバーは、知らない顔ばかりだった。 「このひとは?」と菊池が雪絵にきいた。  雪絵がいった。「日本国からの大使。正式には政府筋の人じゃないけど、いちおう民間の外交使節ってとこかな。岬美由紀先生。千里眼ってニックネームで有名よね」  菊池は眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。雪絵がなぜ彼女を受けいれたのか、その理由をたずねようともしない。詮索《せんさく》するようすもない。ただ立ちあがって、一礼した。 「歓迎します」菊池は真顔でいった。「心ゆくまでご滞在をお楽しみください」  美由紀はおじぎをかえした。「恐縮です。お世話になります」 「ところで」雪絵が会議の面々にきいた。「いまはなんの話し合い?」 「ライフラインの運営費用だ」菊池が告げる。「高校に属していた光熱費はすべて、氏神高校国の口座からの引き落としに移行させることができた。これで名実ともにわれわれは自給自足の国家として機能することになった」 「それはよかったわね。五十嵐君のソフトのほうの売れ行きはどう?」 「現在も順調に推移している。近日中に3・1にバージョンアップする予定のようだし、新しいソフトも開発中らしい」  美由紀は戸惑った。  わたしの存在は半ば無視されているようでもある。子供ばかりの社会に大人が入ってきても、気にならないのだろうか。それとも、行政庁の生徒たちは、出会った大人が危険人物かどうかを見抜くほどの慧眼《けいがん》の持ち主だというのか。  雪絵が美由紀にきいてきた。「なにか気になります?」 「いえ。べつに……」  長島がにやついていった。「雪絵さんが一筆、念書をしたためたのを気にかけてるんだったらさ……」 「だいじょうぶ。それについては、わかってるから」 「へえ……さすが千里眼」  菊池が雪絵を見た。「念書?」 「ええ」雪絵はなおも落ち着いた口ぶりでいった。「そうしないと負傷者を引き取らないっていうから」 「国の代表者として公文書を発行するには、議会の許可を……」  長島が飄々《ひようひよう》としていった。「菊池君。だいじょうぶだって。なんなら、テレビつけてみたら?」  生徒のひとりが壁ぎわにあったテレビの電源をいれた。  ワイドショーのスタジオが映しだされている。司会者がこわばった顔で告げた。「たったいま入った情報ですが、氏神高校前で岐阜県教育委員会の代表者による記者会見がおこなわれているということです。現場から中継します」  画面が切り替わった。  待機所に詰め掛けた報道陣のフラッシュを浴びているのは、沢渡だった。  沢渡は、さっき雪絵から受け取った封筒をかざしながら熱弁を振るっている。「……ので、私は負傷者収容に同行し、その優等生として知られる女子生徒の説得にあたりました」  記者から質問が飛ぶ。「具体的に、どのような説得を?」 「ご両親がいかに心配しているかを申し伝え、悪ふざけをした仲間たちに加担することが、いかに罪深いことかを教えました。女子生徒は涙を流して、私の説得に耳を傾けてくれました」  美由紀は開いた口がふさがらなかった。沢渡は、念書を手に入れたことを自分の手柄のように吹聴《ふいちよう》している。 「そして」沢渡はいった。「その女子生徒は私に確約してくれました。生徒たちを説得し、改心させ、投降すると。これが、彼女による但し書きです」  報道陣にどよめきがひろがった。  別の記者がきいた。「氏神高校の生徒が初めて、自分の非を認めたということですか」 「そうです。教育委員会としましては、不安な日々を過ごされている保護者のみなさまと、この件に大きな関心を抱いている世論を考慮し、女子生徒のメッセージをここに公表するものです。ご覧ください」  ひときわカメラのフラッシュがあわただしく焚《た》かれるなか、沢渡は自信たっぷりに封筒から厚手の紙を取りだした。  ところが、大写しになったその文面は、雪絵の書いたものとは異なっていた。 「えー」沢渡が読みあげる。「アメリカ合衆国連邦議会で、性的または暴力的な表現を含んだゲームを……?」  沢渡はあわてたようすで、紙の表裏をたしかめた。裏は真っ白で、なにも書かれていない。封筒をのぞきこみ、びりびりに破いた。しかし、紙は沢渡が取りだした一枚きりで、ほかにはなにも入っていなかった。  記者の怪訝《けげん》な声が飛ぶ。「どうかされたんですか?」 「いや……あの……」 「その文面を見せてください」  ふたたび画面に大きく写しだされた文章。 『アメリカ合衆国連邦議会で、性的または暴力的な表現を含んだゲームを、未成年に販売すると罪になるという法案を提出した下院議員の名を、あなたに贈ります』 「な、なんでしょうか、これは……」沢渡はしどろもどろにいった。「どなたか、意味のわかる方、おられませんか」  しばしの沈黙のあと、記者のなかで手を挙げる者がいた。 「その議員の名ですね?」記者はいった。「バーカです。ジョー・バーカ下院議員……」  みるみるうちに沢渡の顔が真っ赤になった。文面をふたたび見つめて、さらにその顔は紅潮しつつある。  テレビを観る行政庁の生徒らは、いっせいに笑い転げた。 「バーカ!」長島がいった。「この言葉をおまえに贈るってんだ。どうだい、気の利いた一文だろ?」  菊池はほかの生徒ほど爆笑してはいなかったが、それでも口もとをゆがめていた。「あいかわらず皮肉屋だな、おまえは」  沙織が眉をひそめた。「雪絵さんが書いたはずの文章が変化したの? どうして?」  美由紀はいった。「変化したわけじゃないの。あれは水書き習字練習シートよね」 「そうとも」長島が得意げに胸を張った。「バーカ議員に関する文章は裏に油性ペンで書いてあったんだよ。そのうち悪戯《いたずら》に使おうって思ってね。で、表は白紙だけど、そこは水で書いても黒くなるんでね。インクを抜いて水だけ入ったサインペンで書くと、ちゃんとした文面になるんだけど、そんな状態はごく数分にすぎない。乾いたら真っ白。で、出てくるのは裏にあらかじめ書いてあったメッセージのみ」  甲高く笑いながら手を叩《たた》く生徒たちのはしゃぎっぷりは、大人びた行政庁統治官としての横顔とはまるで異なっていた。無邪気な高校生に戻り、心底この状況を楽しんでいる。  美由紀もつられて、くすりと笑った。呆《あき》れるほどの奸智《かんち》だ。これでは大人たちが翻弄《ほんろう》されるのも無理はない。 [#改ページ]   爆弾の在《あ》り処《か》  午前四時。生徒たち、いや、氏神高校国の国民たちのほとんどは就寝している。  美由紀は、生徒会長の菊池に案内され、薄暗い体育館に足を踏みいれた。  ひとけのない、どの学校にもある体育館。かすかに火薬のにおいが残っている。  菊池がスイッチを入れ、明かりが灯《とも》った。  がらんとした館内には、爆発をしめすものはなにも残っていない。見たところ、破片も痕跡《こんせき》も目につかなかった。 「ここで集まっていたときに、爆発があったわけでしょ? 無事だったの?」 「ええ」菊池は館内に歩を進めた。「いきなりだったので、よく覚えてはいませんが……。カメラのフラッシュみたいな光と、その直後に弾《はじ》けるような音がして、目が覚めました」 「目が覚めた?」 「はい……。それまで眠っていたわけでもないのですが、そんな感じでした。うまく表現できないんですが……」 「その目覚めた結果、ただちに独立国を建国したくなったわけ?」 「これは、なかなかご理解いただけないとは思いますが……。頭がすっきりして、いままで滞っていた思考が働くようになったとか、そんな感じなのです」 「それまでの思考の限界を超えて、別のものの見方ができるようになったってことね」 「はい。そしてふと冷静になってみると、われわれは学校側の隠蔽《いんぺい》体質に甘んじていたことで、取り返しのつかない事態を迎えようとしているんではないかと……。いまどき、世界史を履修しないまま卒業して大学入試に臨むなんて、考えられません。悪くすれば、入学取り消しになってしまうでしょう。ほかにも、いじめが日常化し深刻になっていましたし、ニート予備軍も大勢いました。このままでは大人社会の犠牲者になってしまう、強くそう思ったんです」 「すると、籠城《ろうじよう》というか、独立国建国は発作的におこなわれたってこと?」 「いってみれば、そうです。周りの大人たちには、いっさい助けを求められないと考えましたから。僕だけでなく、全校生徒の大多数がすぐさま同調してくれたんです。まずは社会の干渉を絶たねばならないということで、意見が一致しました」 「どうしてそう思ったの? 味方になってくれる人もいるかもしれないのに」 「いえ。あてにはできません。世の中には悪しき平等主義が蔓延《まんえん》しています。それではいじめは駆逐できません」 「暴力で押さえつけるのも、決して褒められたことじゃないけどね」 「そうですけど……。ほかに手段がなかったんです。警察力的な権限で締めつければ、いじめは必ずなくなると考えたんです。事実、そのとおりでした」 「ふうん……。あなたにその使命というか、悟りを開かせた爆発だけどね。どのあたりで起きたかわかる?」 「さあ……。僕は壇上にいたんですが、この中央あたりのように思えました。ただ、ほかの統治官らに聞いてみると、みんなまちまちで……」  美由紀は困惑を覚えながら、体育館のなかを見渡した。  爆発が起きたのに、その痕跡が皆無。どのように隠蔽したのだろう。  だいいち、爆発までのあいだ、不審物と思われることなく館内に存在しつづけたとは不可思議だ。  そのとき、足音がした。振り返ると、ひとりの男子生徒が近づいてくるところだった。 「ああ、五十嵐」菊池が声をかけた。「紹介する。こちらは臨床心理士の岬先生だ。岬先生、彼が五十嵐聡です」 「どうも……」と恐縮しながら、五十嵐は頭をさげた。 「こんばんは。っていうか、この時刻ならもう、おはようかな」  五十嵐聡はじっと美由紀を見つめた。「なにか、聞きたいことがあるとか……」 「ええ。お父さんのことなんだけど……」  少しばかりむっとして、五十嵐はいった。「父のことは、よくわかりません。あまり会ってもいないので」  菊池がその態度を咎《とが》めようとした。「おい、五十嵐……」 「いいの」と美由紀は菊池を制した。「ねえ、五十嵐君。お父さんはこの学校に姿を見せたこと、ある?」 「はい。ええと……建国の前の日。迎えにきたとかいって、校舎にいきなり姿を現したんだけど……」 「あなたはついていかなかった。そうね?」 「父とは、仲がよくないので……。母と別れてから、偏屈者の父は常に仕事漬けだったし、僕の顔をみても勉強しろとか、小言ばかりで……」 「この体育館で起きた爆発と、お父さんが関係あるといったら、どう思う?」  五十嵐は驚きのいろを浮かべた。「なんですって? あの爆発が……?」  菊池が五十嵐にいった。「きみのお父さんが酸素濃度を減少させる爆発物を仕掛けたらしい。僕らが意識改革に至ったのは、その直後だ」 「酸素濃度を減少?」五十嵐は眉《まゆ》をひそめた。「なら、酸素欠乏症になって、意識が朦朧《もうろう》とするはずですけど。そんな感覚じゃなかったし……」  美由紀はうなずいた。「けれど、みんなは突然の爆発にびっくりしたわけでしょ? どこでなにが起きたか、たしかめようとはしなかったの?」 「気にはなったけど……それより、頭のなかにどっと押し寄せてきた不安のほうが強くて。大人たちのいい加減さの犠牲になりつつあるって、その状況がとても明瞭《めいりよう》に理解できるようになったから……。気づいたら、周りの友達とも、そのことばかり話すようになってた。このままじゃ卒業できないんじゃないかとか、いろんな問題をひた隠しにしてるのはまずいんじゃないか、とか……。で、菊池君が独立国建国をするっていうから、なんていうか……みんな、それしかないって思ったんだよ。ふしぎだけど、それが事実なんだよね」 「いまもその思いは変わらない?」 「はい。ほかに方法があったとは思えない。僕らは自立して、自活できる道を選ばなきゃならなかった。誰が助けてくれたわけでもないし……。あのう、岬先生」 「なに?」 「父は、どうしてそんな爆弾を……。酸素欠乏症がいじめと関係あるとかなんとか、論文を発表してたみたいだけど……。なにが目的だったんでしょうか?」 「まだわからないの。だから、爆発物の残骸《ざんがい》をたしかめてみたいんだけど……。広い体育館だし、人手が要るわね」  菊池が告げた。「手を貸しましょう。ただ、明日は全校規模での行事があるので、その後なら……」 「ええ、助かるわ。わたしはいまから、ひとりで見まわっておくけど」 「わかりました。では、われわれはこのへんで……」菊池は頭をさげ、背を向けて立ち去りだした。  五十嵐もおじぎをしたが、やや当惑ぎみにたずねてきた。「岬先生……。父は、世間に迷惑をかけてないでしょうか?」  美由紀の脳裏に、名古屋駅周辺の惨状が浮かんだ。報道では、五十嵐哲治の名は伝えられていない。動機がいまだにはっきりしていないからだ。 「だいじょうぶ。心配いらないわ」美由紀は微笑みかけた。「いろいろありがとう。ゆっくり休んで」  そうですか。五十嵐はつぶやくようにいうと、もういちど頭をさげて、歩き去っていった。  美由紀はひとり、体育館に居残った。  生徒たちの表情から察するに、誰もが真実を語っている。しかも純粋な心に裏打ちされた行動ばかりで、陰謀めいたものはない。  氏神高校国という籠城手段を選んだ菊池の判断は正しい。それに追随したほかの生徒たちも同様だ。そんなふうに思える。  けれども、社会からみればこれはきわめて異常な行為だ。理解しがたい犯行だ。  なぜそんな意識のギャップが生じるのだろう。なにが理解しあうことを妨害しているのだろう。そして、爆弾はどこだ。どんな化学変化が起きたのだ。  わからないことだらけだ。それでもただひとつだけ、あきらかなことがある。  この学校の生徒は、誰ひとりとして、酸素欠乏症に陥っていない。 [#改ページ]   独立と敵対 �待機所�で仮眠をとっていた舎利弗は跳ね起きた。  プレハブ小屋の壁は薄く、外の音もはっきりと響いてくる。小規模の地震のような振動と、籠《こ》もった断続的なエンジン音。間違いなく、校舎になにかを搬入しようとする車両の音だった。  ほかの教職員たちも身体を起こしている。なかには、呑気《のんき》に眠りこけたままの人間もいた。食糧は毎朝運びこまれる。いちいち気にしてもどうなるものでもない、そう考えているのだろう。  舎利弗はそうではなかった。食糧の搬入は三日おきのはずだ。きのう運びこまれたばかりだというのに、けさも搬入とはおかしい。  上着を着て外にでる。早朝の肌寒さもすっかり馴染《なじ》みのものになっていた。この身を切るような風の冷たさは、むしろ恰好《かつこう》の眠気覚ましになる。  報道陣にも教職員らと同じ怠け癖がついてきているのか、クルマの音に起きだしてきているマスコミ関係者の姿はまばらだった。警察関係に至っては、夜通し警備にあたっている制服警官以外に動きはみえない。  籠城《ろうじよう》が長すぎて感覚が麻痺《まひ》してきているのだろう。当初のような緊張感がない。  危険なことだと舎利弗は思った。生徒たちは対話を求めているのに、その対象である大人たちが積極性を失ったのでは、事態は膠着《こうちやく》状態に陥らざるをえなくなる。  それでも人の少なさがさいわいして、けさは校門のあたりがよく見通せる。  入っていく十トントラックは、いままで見たことのない業者のものだった。側面には�習研ゼミ�とある。 「習研ゼミ……?」舎利弗はつぶやいた。  小走りに駆けてくる足音がある。振りかえると、ウィンドブレーカーを羽織った中志津警部補が、白い息を弾ませながら近づいてくるところだった。  中志津はいった。「きのう食糧を得たばかりなのに、またきょうもか。贅沢《ぜいたく》が身につきだしたみたいだな」 「食糧じゃありませんよ」舎利弗は告げた。「習研ゼミ、通信教育や塾経営で知られる企業です。いつものようにネットバンキングで代金を振りこんで、なにかを発注したんでしょう。いったい……」  そのとき、背後で弘前校長の声がした。「模擬試験だよ」  舎利弗は振り向いた。コートに首をすぼめながら、弘前が歩み寄ってくる。 「模擬試験ですか」舎利弗はきいた。 「そう」弘前がうなずいた。「習研ゼミの大学模試は業界でも最も信頼性が高いとされていてね。いい問題をつくるし、志望校の合格予想もきわめて適正だ。きょうはセンター試験用の模試の日だ。菊池が発注したんだろう」 「そうすると、国公立大学の受験を志望している生徒たち向けの模試ってことですね」 「ああ、たしかにそうなんだが……。国公立志望なんて、それこそ菊池や幡野らほんのひと握りの生徒にすぎんよ。十トントラックで搬入する必要はなく、宅急便で送れば充分のはずだ。あの分量なら、全校生徒にいきわたるだろうな」 「菊池君は生徒全員に受けさせるつもりですか。一年や二年も含めて? けれども、センター試験の模試なら五教科七科目あるはずですよね。私大の志望者や就職希望者には難しい試験になるのでは?」 「いかにも。文系にしろ理系にしろ、数学や理科から複数の科目を選択することになる。うちの高校の生徒たちには、そもそも縁の遠い試験……」  ふいに、朝の静寂を破って校舎のスピーカーから音声が流れだした。 「氏神高校国より日本国へ」菊池の声が響きわたる。「本日これより、習研ゼミのセンター試験向け大学模試を、全国民にておこなうものとする。なおこの模擬試験は、習研ゼミの徹底した管理のもとおこなわれることで知られ、事前に出題内容を知ったり、問題用紙や答案を手にいれることは不可能である」  舎利弗は弘前にきいた。「たしかですか」 「ああ」と弘前がうなずく。「だから合格予想や偏差値の算出も精密なんだ」  菊池の声はつづいた。「午前中は行政庁と治安維持部隊を除く全国民に試験を受けてもらう。この間、治安維持部隊は各教室において監視を強化し、カンニングなどの不正がおこなわれないよう徹底的に目を光らせるものとする。日本国においても、警察機関が望遠レンズで各教室のようすを捉《とら》えておられることと思うが、わが国の国民らがいっさいの不正なく試験に臨んでいることをしっかりご確認いただきたい」  ずいぶん自信に溢《あふ》れた宣言だと舎利弗は思った。  たしかに生徒たちは籠城中も自主的な学習に励んだり、行政庁統治官らが教師の代役をつとめる授業を受けたりしていたようだが、果たしてそれがどれだけ点数に反映されるだろうか。 「なお」と菊池の声は告げた。「地理歴史科に関しては、全国民が世界史Bを選択するものとする。いうまでもなく世界史Bとは、近現代史を学ぶ世界史Aとは違い、通史を扱うものである。わが国の前身だった氏神高校では、今年に至ってもなお世界史の未履修がつづき、これをすら隠蔽《いんぺい》しつづけようとする体制が支配的だった。そうした過去を踏まえ、わが国の全員が世界史Bの試験に臨むことは、きわめて困難な挑戦であるとお解りいただけると思う」  弘前が苦い顔でつぶやいた。「余計なことを」  舎利弗は唸《うな》った。「どういうつもりでしょう? 彼らは、世界史Bで点数をとる自信でもあるんでしょうか」 「まさか。独学で勉強したのかもしれんが、ちょっとかじったぐらいの学習でものになるほど、受験問題は甘くない」  中志津が冷ややかな目で弘前を見た。「もとはといえば、校長。あなたたちが世界史を受けさせなかったのが問題だと思いますが」 「その件については……いま問題にすべきことじゃない」弘前は吐き捨てるようにいうと、歩きだした。「失礼する。きょうは午前から教育委員会に呼ばれているので」 「教育委員会?」 「先日、沢渡氏が恥をかかされて以来ご立腹だ。だまし討ちしたうえに、人を小馬鹿にした態度は許しがたい。生徒らの自主性を好意的に見る向きも、あれだけは眉《まゆ》をひそめざるをえなかっただろうな」  立ち去っていく校長の背を眺めながら、舎利弗はいった。「気が立ってますね」  中志津はうなずいた。「教職員がいなくても学校が無事に運営されてるからな、プライドが傷ついて当然だろう。ひと筋縄ではいかない生徒たちだよ」  まったくもってその通りだ。国旗掲揚塔や水書き習字練習シートを使った巧みなトリック。すべては周到な計算に基づくものだ。  大人たちへの反乱、それだけが目的ではないかもしれない。舎利弗は漠然とそう感じた。 [#改ページ]   賭博《とばく》分析官  五十嵐は模擬試験を午前中に終えた。行政庁統治官は監視の役割をおおせつかっていたが、補佐はその限りではないということだった。  試験の出来について、五十嵐は特に気にかけてはいなかった。やるだけはやった。志望校の合否判定がどうあれ、この独立国家ごっこに参加している以上は大学を受験できるかどうかさえ怪しい。卒業も危ぶまれることだろう。いや、とうに不可能かもしれない。  かまいやしない、と五十嵐は思った。ここで過ごす日々は、それなりに楽しい。心の底から喜びが沸きあがるというほどでなくとも、充実した毎日がある。  たぶん、ほかの生徒たちも同じような気持ちなのだろう。三階の廊下を歩きながら、ぼんやりと思った。  パチンコとカジノ部屋はあいかわらず賑《にぎ》わっている。校舎の廊下で、パチンコ店におなじみのチーン、ジャラジャラという音を聞くのは奇妙なものだ。ポーカー・テーブルの並ぶ部屋からは歓声がきこえる。むろん、勝者がいれば敗者もいる。悲嘆にくれている者もいるのだろう。  カジノの隣りの大教室は、いまでは映画館になっていた。視聴覚室の備品だったプロジェクターがパソコンに繋《つな》がれ、ネットから有料でダウンロードされた映画やドラマが上映されている。娯楽の乏しい校内では貴重な設備だったが、利用できるのはごく一部の人間だけだ。三ウジガミールの鑑賞料を払ってまで、ここで油を売ることができる輩《やから》はそうはいない。皆、暇があれば金を稼ぐためにアルバイトをするか、漫画世界史を読みふけっている。  こっちも稼がなきゃ。金がなければ話にならない。だが、労働といっても苦痛ではない。趣味と実益を兼ねた職業にありついたのだ、とりあえず不平などなかった。  階段を降りて二階の廊下に歩を進める。店の数は先週の倍以上に増えてひしめきあっている。午前の試験を終えた生徒たちが廊下に繰りだし、それを呼びとめて商品を紹介しようとする店員の声が飛びかっている。客引きは、この国では法律違反ではないらしい。  と、行く手から臨床心理士の岬美由紀が歩いてきた。  体育館捜索用に、菊池が選抜した男子生徒は二十人。その連中が取り巻きとなって歩調を合わせている。  男子生徒らは鼻の下を伸ばし、へらへらしながら美由紀を質問攻めにしている。  情けない奴らだ。あいつらの一員にはなりたくない。五十嵐は踵《きびす》をかえそうとした。  そのとき、美由紀が呼びとめてきた。「五十嵐君」  五十嵐は仕方なくその場に留まった。「なにか?」 「きょうの試験、どうだった?」 「んー。まずまずかな。数学以外はそんなに自信もないけど」 「そう。世界史はどう? 漫画世界史は効果あった?」 「あった……と思うよ。覚えなきゃならないところは、ぜんぶ漫画のなかで強調されてたからね。頭に浮かんでるのは漫画のコマだけ、でもいちおう試験の設問にはちゃんと解答できてる。これって、いいことなのかな。ほんとに歴史を学んだことになるの?」 「とりあえずは学習したことになるわよ。この勉強を通して歴史に興味を持ったなら、本格的な世界史の本を読み始めればいいんだし」 「そう……かな。まあ僕はそんなに興味も持てなかったけど……。それより岬先生。だいじょうぶ?」 「なにが?」 「こんなところで寝泊まりするなんて、不安じゃないかなって……」 「いいえ」と美由紀は微笑した。「ベッドもこしらえてくれてるし、なんだか宿泊するのが恐縮なくらいよ。みんな充実してるみたいだし……。ただ、そのう……」 「なに?」 「食べ物や毛布を分けてあげたくなる生徒もいるんだけど、治安維持部隊だっけ、制止させられちゃうから……」 「ああ。しょうがないね。稼ぎは労働の対価だから、施しは禁止されてるし……」 「五十嵐君は立派に働いてるのよね。いまからお仕事?」 「うん。視聴覚室のほうで……」  ふいに小沢知世の声が飛んできた。「聡」  知世が駆けてくるのが、美由紀の肩ごしに見える。 「あ、もうお邪魔のようね」と美由紀はいった。 「いえ、そんなことは……」 「お仕事、また今度拝見させてね。じゃ、がんばって」美由紀はそう告げて、立ち去りだした。  五十嵐とばかり会話している美由紀に不満げだった取り巻きの連中に、笑顔が戻った。また口々に話しかけながら、美由紀に付きまとう。  たいへんだな、岬先生も。と五十嵐は思った。 「聡」知世が近づいてきた。「早く。すぐお仕事始めることになってるでしょ」 「わかってるよ、そんなに急《せ》かすなよ」と五十嵐は視聴覚室に向けて歩きだした。 「あー」知世は並んで歩を進めながらいった。「聡も岬先生についてまわりたいと思ってる?」 「そんなんじゃないよ」 「なんだかねー。取り巻きの男子がどんどん増えてるのよね。そんなに大人の女の人に飢えてるのかな」 「まあ、ね。岬先生は美人だから」  知世が眉をひそめてこちらを見た。五十嵐は目を合わせないようにしながら、そそくさと視聴覚室の戸口を入った。  背面のパネルを外したパチンコ台に歩み寄る。延長したコードで連結された基板は、机の上にあった。  椅子に座り、その基板に目を落とす。ハンダごてを手にして、次はどの回路を試そうかと思案する。 「ねえ、聡。パチンコの分析なんてここじゃ役に立たないんでしょ? なんのためにやってるの?」 「さあ……ね。やりたいからやってる」 「はぁ。菊池君もよく許可してくれたね」 「この研究結果は日本のためになる。独立国としては、電気やガスを輸入している隣国の将来を案じるのも当然だって菊池君が言ってた。だから日本への適切なアドバイスは無償の輸出物として奨励されるってさ」 「へー。いつもながら小難しい。けどさ、なんていうか……」 「なに?」 「頼られてるのね、聡は」 「べつに。ほかにこんなこと、やる人間がいないだけだろ」 「ふうん……。なんだか……前は休み時間は、ずっとわたしと一緒にいたのに……」 「いまも一緒にいるじゃないか」 「そうだけど……。心が離れてるって感じ」 「え?」と五十嵐は顔をあげた。  知世はなぜかむっとしたような表情をして、背を向けた。「なんでもない」  戸口を出ていく知世を、五十嵐はぼんやりと眺めた。  どうしたというのだろう。このところの知世は、ひとり苛立《いらだ》っているように見える。 [#改ページ]   ベルヌーイの法則 �待機所�で中志津警部補が読みあげる監視班からの報告を、舎利弗は聞き流していた。  ほかの保護者らや教職員らは真剣な顔でうなずきながら耳を傾けているが、舎利弗にとっては重要なのはほんの一部だけだった。  美由紀の安全が保たれているかどうか。  その不安は、報告の最初のほうで払拭《ふつしよく》された。岬先生はいたって元気であられるようすで、校内を男子生徒らと巡回し、親睦《しんぼく》を深めているようすで……。  保護者の男性がさっそく不満をぶちまけた。「千里眼の岬先生が校内に入ったから、なにか変化があるかと期待したのに、なにも起きないじゃないか」 「まったくだ」と教師の木林もふくれっ面をした。「生徒たちを説き伏せてくれるかと思いきや、同調して友達面を振りまいている。これでは逆効果だ」  舎利弗は苦い気分でいった。「友達面をしているわけではありません。そのう、対話のために、まず信頼と友好の関係を築こうとしているのです」  教頭の滝田もやはり不服のようだった。「いいですか、舎利弗先生。生徒らと友達っぽく接する教師の受け持つクラスほど、いじめなどの問題が多発するという調査結果もあります。毅然《きぜん》とした態度をとるべきところはとらないと、生徒らになめられるということに……」  そのとき、五十嵐哲治が手錠をした両腕を振りあげ、伸びをした。 「いいじゃないか」と五十嵐はいった。「べつになめられても。生徒がそれだけ利口だってことだろ」  しらけた空気が辺りに漂う。  五十嵐哲治の横槍《よこやり》はいまに始まったことではない。天邪鬼《あまのじやく》な彼は、議論が起きはじめると決まって生徒の肩を持つ発言をする。  木林がいっそうむくれていった。「あなたは黙っててください、五十嵐さん」 「いいや。黙らんね。なあ皆さん、こうは思わんかね。子供たちは早くも私たちの手を離れ、自分たちの理想郷を築き、そのなかで成長しつつあると」 「馬鹿馬鹿しい。理想郷だなんて……。バットを持った連中が徘徊《はいかい》し、誰もが恐怖に震えながら眠る。どこが理想なんですか」 「まあ聞きなさい。いじめは社会問題だ。自殺者がでるくらいだから、見逃すことはできんだろう。ただし、いじめというものは私らの世代にもあった。いまほど陰湿じゃなかったが、それは上級生の下級生に対する�しごき�というものが公明正大におこなわれていたからだ。表面上、それが許されなくなって、いじめは地下に潜った。より陰湿になったわけだ」  保護者のひとりの女性が顔をしかめた。「そんなことはわかってます。だからいじめを追放しようと、PTAは最大限に努力を……」 「追放? 努力? はん! こう考えたらどうだ。いじめは犯罪だ。直接危害を加えるのは傷害罪。ひどい場合は傷害致死罪。いじめられっ子に服を脱ぐことを強制したり、さらし者にするのは強要罪。ゴミ人間とかバイキンマンとか罵《ののし》るのは侮辱罪。貧乏人とか泥棒呼ばわりするのは名誉|毀損《きそん》罪。暴行罪は最高で懲役二年、名誉毀損罪は三年、傷害罪は十五年、傷害致死罪にいたっては二十年だ。懲役二十年。わかるかな?」  いまやいじめっ子の親として認知されつつある岸辺が、憤ったようすでいった。「五十嵐さんは少年法をご存じないようだ」 「おや。そうかね? 未成年だから重大犯罪以外は適用をまぬがれるってか。思うんだが、それなら親が代わりに刑を食らいこむってのはどうかね。息子さんはまだ二日ほどビニールハウスで働いただけだろ? 父親のあんたが豚箱でくさい飯を食うか、タコ部屋で二十年働くってのはどうだい?」  岸辺の顔はみるみるうちに真っ赤になった。すさまじい怒号を張りあげたが、音量が大きすぎてよく聞き取れない。  たちまちほかの親も参戦し、教職員も割って入って、収拾のつかない騒ぎになった。  舎利弗はうんざりして顔をそむけた。初めのころは仲裁に入ったが、いまでは無駄だとわかっている。せいぜい保護者としての責任を棚にあげて、いがみ合っていればいい。  ところが、憤懣《ふんまん》やるかたないようすの保護者のひとりが、ふいに矛先を舎利弗に向けてきた。「臨床心理士の舎利弗先生は、いったいどっちの味方なんですか。あなたの部下の岬先生は生徒に媚《こ》びてばかりなんですよ」 「部下ってわけじゃないですけど……」 「責任逃れですか。同じ職場で働いておられるのに、無責任じゃないですか」  やれやれだ。こんな親のもとで育ったのでは、籠城《ろうじよう》ぐらいしたくなるのもわからないではない。 「よろしいですか」舎利弗は周囲を見渡した。人前で喋《しやべ》るのは苦手だが、仕方がない。「そのう……。生徒たちが自主性を持って改革をおこなっているのはあきらかです。乱暴なところも目につきますが、それは改革に犠牲が必要だと彼らが考えているからでしょう。カゴのなかにリンゴが満杯になっているとします。それ以上新しく追加することはできない。それなら、いちどカゴをぶちまけて中身を捨て去らないといけない。すべてを捨てる覚悟がないと改革はおこなえないということです。生徒たちはそうせざるをえないところまで来てたんです」  予想されたことではあるが、保護者も教員もいっせいに反対の声をあげた。  甲高い声で木林教諭が怒鳴った。「それは生徒たちが自分の意志で行動している場合だ。生徒たちは心神喪失状態の公算が大きいんですぞ」 「だから、それは……」  言いかけて、舎利弗は口をつぐんだ。  若い私服警官がノートパソコンを携えて、室内に入ってきたからだった。 「中志津警部補」警官はパソコンを差しだしながらいった。「これを見てください。氏神高校国の公式サイトに、ついさきほどアップデートされたものです」  受けとった中志津は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて画面を見つめた。「なんだ……? 『氏神高校国から日本国へ。パチンコなる事実上|賭博《とばく》遊戯が一般消費者にとって無意味であることの証明』だと?」 「そうです」と警官はうなずいた。「パチンコの当たり確率を数学的に詳細に分析し、いかに儲《もう》からないものであるかを具体的に数値化したものです」  保護者たちがざわめいた。  ふん、と滝田教頭が鼻を鳴らした。「そんなもの、珍しくもない。ギャンブルが儲からないようにできているなんてことは、大人なら百も承知だ」  警官はおずおずといった。「それが……そうでもないんです。マスコミもパチンコについて扱うときは慎重です。収益を妨げないよう、その表現には最大限に気を遣う。客離れが起きたのでは税収がダウンするからです。しかし、このサイトの掲載論文ではストレートに、しかも非の打ちどころのない検証がおこなわれています。パチンコ玉が一球四円から五円、一時間に発射される玉は平均五千二百十七発、大当たりでの換金額平均は六千六百七十八円。大当たりのでる割合は、平均三千四百五十六発に一回。その一方で収支がプラマイゼロになるためには一時間に三回以上の大当たりが必要です。ここに、統計数学ポアゾン分布を使った計算結果が載っています。一時間のパチンコで勝って帰れる確率、五・八パーセント。二時間は三・一パーセント。パチンコ客の平均遊戯時間は一回につき三時間から四時間、週二回なので、それを一か月間にわたり算出すると……〇・〇三パーセント以下。ようするにパチンコで儲かる可能性はゼロと、はっきり証明し公言しているんです」  五十嵐哲治の笑い声が響き渡った。「うちの息子だ。聡だよ。ヤコーブ・ベルヌーイの極限定理、大数の法則ってやつだ。私が聡に教えてやった。勝率をPとし、パチンコを可能な限り多くの回数試せば、実際の勝率はPに近づく。その研究結果は確率論の応用というわけだ」  保護者の男性のひとりが声を荒げた。「あんたは子供にろくなことを教えなかったんだな」 「いいや。きわめて意義のある教育だった。怒ってるあなたたちはパチンコが趣味かね? 子供のころ数学の成績はよくなかったんだろ? 息子の論文を読んで心を入れ替えるといい」  激しい怒声と罵声《ばせい》が五十嵐哲治に浴びせかけられる。五十嵐のほうは高らかに笑うばかりだった。  舎利弗は嫌気がさして黙りこみ、罵りあいの中心から遠ざかった。  事態はくるべきところまできた、と舎利弗は思った。とうとう日本の社会というシステムへの直接的批判が始まった。国が聞く耳を持ってくれるかどうか。生徒たちの築きあげた国の存亡は、その一点にかかっている。 [#改ページ]   青天の霹靂《へきれき》  須田佳久総務大臣は、国会議事堂の長い廊下に歩を進めていた。  矢部信三総理大臣の背がみえた。官房長官らを従えて、これから閣僚会議に向かうところだ。 「総理」須田は歩を早めた。「総理。お待ちください」  呼びかけられた矢部は足をとめたが、振りかえったその顔には苛立《いらだ》ちが表れていた。「なにかね。いまは忙しい。意見があるなら会議で発言したまえ」 「その会議の前に、どうしても伺いたいことがあるんです。警察庁長官に、氏神高校への強行突入の準備を整えさせているとか……」 「ああ。それがなにか?」 「なにかと言われましても……。総理。高校生らを危険に晒《さら》すわけには……」 「もうそんなことは言っていられない。きみはニュースを観ないのか」 「いえ。……例のパチンコの件ですか」 「そうだ。氏神高校国のサイトに掲載されたパチンコ業界に関する数学的分析が大反響を呼んでる。マスコミ各社がこれに追随して各媒体で特集を組む動きもみせてる。事実、パチンコ店の売り上げが激減したこともあきらかになった」 「それはメーカー側にとって、一時的な風評被害ていどでしょう。政府が守ってやらねばならないほどのことでは……」 「パチンコ業界は三十兆円産業といわれるが、実際には店舗に入る収益はさほどでもなく、政府の貴重な財源として生かされている。そのパチンコ業界の受けた打撃は、政府予算案の見直しに直結せざるをえない」 「パチンコはギャンブルではなかったのでは?」 「そんなものは建前にすぎん。パチンコ機器メーカーや店舗は、かつての射倖心《しやこうしん》を煽《あお》るようなギャンブル性の高さは昨今では鳴りを潜めていると主張しているし、液晶画面に展開する版権物のキャラクターの映像や展開の面白さで客を集めていると強調してるが、それは事実と食い違っている。人々がパチンコに惹《ひ》きつけられるのはやはり、そのギャンブル性あってのことだ」 「たとえそうだとしても、パチンコはそもそも戦後復興のために黙認されてきた賭博のグレーゾーンに属するものでしょう。見直しを迫られる時期がきたのでは? 早急に別の財源を考えるべきでは……」 「悠長なことを。いいか、氏神高校はいまや平和や平等を乱す存在となりつつある。即刻、排除せねばならん」  踵《きびす》をかえし、立ち去る矢部総理の背を、須田はその場で見送った。  即刻排除。  だが、正しいのは生徒たちだ。十代の子供たちが、社会の大いなる矛盾に疑問を突きつけている。われわれは、真摯《しんし》に耳を傾けるべきではないか。  それに、氏神高校は本当に平和や平等を乱しているのだろうか。  平和、平等。われわれの社会に、そんなものはあるのだろうか。たしかにかつては存在していた。だが、いまはどうなのだろう。  それらが存在するのは、むしろ氏神高校国のなかではないのか。  岐阜市のはずれにあるウィークリーマンションに泊まり、朝は雑務を済ませて、昼ごろ氏神高校前の�待機所�にクルマで立ち寄る。  それが舎利弗浩輔の、このところの日課だった。  あいかわらず膠着《こうちやく》状態はつづいているらしい。校庭と外を隔てる塀の周辺に変化はない。テレビ局の中継車に新聞社のワゴン、警察車両の数々。寒空の下、車外に出ている人間も少ない。すっかりお馴染《なじ》みになった光景がきょうもまた広がっている。  ところが、待機所に近づいてみると、そこにはささやかな異変があった。  いつも室内に籠《こ》もっているはずの保護者や教職員らが、外にでている。そして、壁に貼りだされた大きな紙を、そろって食い入るように見つめている。  舎利弗は近づいていってたずねた。「どうかしたんですか」 「あ、舎利弗先生」顔見知りの保護者がいった。「たいへんなことが起きたんですよ。こないだの習研ゼミ模擬試験の結果がでたんです」 「……それがなにか?」 「見てくださいよ、この世界史Bの欄。学校別の順位です」  細かな字でびっしりと全国の高校の名が縦に並んでいる。  そのいちばん上に記載された学校名を見たとき、舎利弗は思わず息を呑《の》んだ。 「岐阜県立氏神工業高校……」舎利弗はつぶやいた。 [#改ページ]   勝利宣言  菊池は校舎一階の放送室で、校内放送のマイクのスイッチをいれた。  記念すべき日ではあるが、それほどの気負いはなかった。むしろこれぐらいの結果、わが国の国民が果たしえないでどうする。  そう強がってはみたものの、やはり喜びはこみあげてくる。  室内にいる幡野雪絵と、北原沙織の目が気になる。国家元首たるもの、側近の前ではいかなるときにも冷静沈着でなければならない。  と、雪絵が穏やかにいった。「そんなに硬くならないで」  沙織も笑みを浮かべた。  面食らって菊池は口ごもった。「わ、わかってるさ。……チャイムを頼む」  雪絵がスイッチをいれると、校内放送を告げる鐘の音が短く鳴った。 「菊池より、全国民へ」菊池はマイクに告げた。「静粛に。作業中の者も手を休め、聴くように」  校内のざわめきがおさまり、静寂に包まれたのが壁ごしにわかる。  咳《せき》ばらいをして菊池はいった。「たったいま、習研ゼミ模擬試験の結果がファックスで送られてきた。三年生全員に関わる問題だが、下級生もぜひこの事実を知ってほしい。未履修だった世界史という教科、あえてわれわれは地理歴史に世界史Bを選択して臨んだ。そしてその結果は……学校別の生徒平均点順位で、堂々の一位だ」  一瞬は、沈黙だけが辺りを包んでいた。  しかし次の瞬間、校舎を揺るがす嵐のような轟音《ごうおん》が放送室の壁を揺さぶった。  それが全校生徒の歓声であると気づくまでに、数秒を要した。  沙織が廊下側の扉を開ける。  廊下から歓喜の声がそのまま流れこんできた。生徒たちは放送室の戸口に押し寄せてきて、満面の笑顔とともに沸いた。  男女の分け隔てなく、学年の違いもなく、誰もが喜びに満ち溢《あふ》れている。 「総合でも十七位だ!」菊池は声を張った。「諸君の努力に感謝する。わが国は日本国のあらゆる高校を追い抜いたのだ!」  生徒たちの興奮は絶頂に達し、ほとんど狂乱の域に達しようとしていた。  抱きあい、拍手し、小躍りして喜びを表す生徒らの姿がある。  雪絵が涙を指先でそっと拭《ぬぐ》っていた。沙織も、瞳《ひとみ》を潤ませていた。  きょうという日は永遠に記憶される。菊池は思った。この架空の国の歴史書ではない。日本史に永遠に刻みこまれる記念すべき日だ。 [#改ページ]   永遠を望む瞬間  校内放送に全校生徒が沸きかえったとき、五十嵐聡は補佐の面々と食事をとっていた。  校舎の渡り廊下でシートを敷いて、ピクニックのように食糧を並べる。それなりの贅沢《ぜいたく》が許されるようになったいま、いつしか身についた習慣だった。  小沢知世がピザを四等分し、仲間たちに配っている。石森健三、長島高穂が一緒に座っていた。  周囲にも同じように食事をとっていた生徒たちがいたが、いまはおとなしく座りこんではいなかった。誰もが立ちあがって沸きかえっている。全校は狂喜の渦に包まれていた。  座ったままなのは、すでに結果を知っていた五十嵐たち、補佐の面々だけのようだった。 「おーお」長島がにやつきながら辺りを見まわした。「えれえ騒ぎだな。うちの学校にこんな馬鹿騒ぎができるとは思わなかった」  石森がピザをぱくつきながらいった。「体育祭でも、この十分の一すらも盛りあがらなかったものな」 「はい、聡」知世がピザを手渡してきた。 「ありがとう」五十嵐はそれを受けとったが、口に運ぶ気にはなれなかった。 「……どうかしたの?」と知世がきいた。 「べつに。……なんだか、いつの間にかこの生活に馴染んでいるなあ、って。そう思っただけだよ」  長島がおどけたような顔で五十嵐を見た。「おやおや。さすが成功の人生を歩んだ男のいうことは違うねぇ。パチンコの論文とやらも日本で評判になったとかで、百ウジガミールの奨励金をもらったそうじゃないか」  石森が目を見張った。「百ウジガミール!?」 「しっ。声が大きいよ」五十嵐は恐縮しながらいった。「金がほしくてやったわけじゃないんだけどさ。菊池君に評価されたから」  このところ鳴りをひそめていた石森の嫉妬《しつと》が、また再燃したらしい。  石森は卑屈そうな目を向けてきた。「そういう言い方、五十嵐のお父さんに似てるよな。お父さんもお医者さんだし、そうやっていい成績をだすことを当然みたいに……」  ふいに苛立《いらだ》ちが募った。  気づいたときには、五十嵐は声を張りあげていた。「親父のことなんか持ちだすなよ!」  その声も、周囲の歓声に沸く生徒たちの耳には届いていないようだった。ただ石森や長島、それに知世だけが、居心地悪そうに下を向いた。  なんだよ、この空気は。五十嵐は心のなかで吐き捨てた。この国では成功しなきゃならないんだ、僕はそれをやっただけなんだ。 「聡……」知世がささやいてきた。「どうしたの? このところ、変にイライラしてばかりだけど……」 「イライラなんて……してないよ」  五十嵐はピザをかじり、フルーツジュースで流しこんだ。貧民にはせいぜい一日一本の牛乳が手に入るだけのご時世に、国民全員の憧《あこが》れの的、フルーツジュースを湯水のように扱った。  自分が短気を起こしているのはわかっている。そして、その理由もおおよそ気づいていた。  ここには理想の社会がある。努力によって成功の道を歩むことができるチャンスがある。真の平等、自由もある。かつてはそう思わなかったが、いまは理解できる。  世の中が失っていたものを、この学校のなかだけは取り戻した。  それを実現したのは、まぎれもなく僕たちだろう。しかし、そもそものきっかけは、あの体育館の爆発だった。  あれがなければ、僕らの意識は変わらなかった。  親父はいったいなにをしたというのだろう。僕らがいまあるのも、親父のおかげだというのか。 [#改ページ]   真実の代償  校内で生徒たちが上げた歓声は�待機所�付近にまで聞こえていた。  舎利弗はまだ呆然《ぼうぜん》と、その順位表を眺めていた。  信じられない。二位以下には全国でもトップクラスの進学校で知られる高校が名を連ねている。きわめて偏差値が高いとされる東京の私立大学の付属高校も出揃っている。  それでも、氏神高校はそれらに差をつけ、単独首位の座に君臨していた。  ほかの教科も決して悪くはない。全教科の総合は全国で十七位だった。世界史Bの正解率との格差が激しいが、それでも二十位以内に下げ止《とど》まっている。生徒全員がどの教科もそれなりの高得点を挙げることができた、そうに違いなかった。 「いかさまだ」弘前校長が苦虫を潰《つぶ》したような顔でいった。「カンニングしたにきまっとる。教師による監視もなくおこなわれたこの模試はフェアではない。このような試験結果を鵜呑《うの》みにできるものか」 「でも」保護者のひとりがいった。「習研ゼミの模擬試験は事前に答えが判るはずもないんでしょう? 教科書の覗《のぞ》き見や、隣りの生徒の答案を参照するような方法で、全員がここまでの高得点を獲得できるでしょうか?」 「なにかインチキを働いたにきまっとる。あの生徒たちが私たちにしたことをもういちど、思い起こしてほしい。女子生徒が死んだように見せかけたり、教育委員会に念書をしたためたふりをして愚弄《ぐろう》したり、姑息《こそく》にこちらの常識の裏をかく詭計《きけい》ばかりだ。今度もまた、そういう騙《だま》しの類《たぐ》いだろう」  そうではない、と舎利弗は思った。  警察の監視班が撮影した画像を、舎利弗は見ることのできる立場にあった。  この模擬試験の最中、生徒たちに不穏な動きはみられなかった。生徒たちは間違いなく、自力で試験に臨んだのだ。そして勝利した。全国で唯一、いまだに世界史の履修不足問題を是正していなかった高校の生徒たちが、この短期間の学習で逆転を果たした。  どんな方法を使ったのだろうか。いや、方法だけではない。いま氏神高校国なる場所に身を置くことが、いかに集中力を喚起させ、集団でひとつのことを成し遂げるのに適した状態を作りだすか。その成果をまざまざと見せられた気がする。  校舎から漏れ聞こえてくる歓声に、報道陣が動きだした。なにごとかと辺りを見まわしている。何人かの記者が、早くもこちらに目をとめた。  この事実がニュースとなって全国に広まる。  舎利弗はふと寒気を覚えた。  氏神高校の生徒が、ほかの高校の生徒を凌駕《りようが》した。きょうという日を境に、この高校を見る世間の目が変わる。  大衆は熱狂的に支持するだろう。だが、日本政府はそうではあるまい。 [#改ページ]   蜘蛛の巣  数日にわたって、二十人もの男子生徒の協力を得て捜索しているのに、爆弾の残骸《ざんがい》が見つからない。こんなことがあるだろうか。  美由紀は、体育館の真ん中に据え置かれたパイプ椅子に腰掛け、長テーブルに頬杖《ほおづえ》をついていた。  テーブルの上には、生徒らが方眼紙に描いた体育館の図面がある。  三人ずつの班に分かれて、怪しむべきところを隈《くま》なくチェックし、図面に印を書きこんでいく。当初はこのやり方で、少なくとも爆弾の破片のひとつぐらいはあぶりだせると考えていた。  ところが、図面すべてが印で埋まっても、目当てのものは発見できなかった。ふたたび最初からやり直したが、結果は同じだった。  石森健三が近づいてきた。顔は煤《すす》だらけで、真っ黒になっていた。「岬先生……」 「ああ、石森君。南側の通風ダクト、どうだった?」 「やっぱり駄目でした。それらしきものは見当たらないし……」 「そう……。みんなを集めてくれる?」  はい、とうなずいて、石森は笛を取りだして鳴らした。  体育館のあちこちから、男子生徒たちが駆け戻ってくる。  全員の学生服が埃《ほこり》で白くなり、顔は汗だくだった。  美由紀は立ちあがって、彼らを見た。ひどく疲れきっているようだ。 「ごめんね」美由紀はいった。「無理ばかりさせちゃって……」  長島高穂が手で顔をぬぐいながらつぶやいた。「いいっすよ、謝らなくても……。俺らも爆弾とやらを拝みたいし。実際、爆発があったのは確かなんだし」 「そうよね。でも……」 「もういっぺん捜索しなきゃな。今度こそ見つけださにゃ」 「いえ……。二度も探して見つからなかったからには、捜索の方法が間違っているのかも……。それに、みんなを危険な目に遭わせたくないし」 「危険って?」石森が肩をすくめた。「ダクトのなかを這《は》ってくぐらい、わけないですよ。勾配《こうばい》もそれほど急じゃないし」 「だけど、たとえばこの北西のダクトは? ほとんど垂直に、真上に伸びてる」  石森が図面を覗きこむ。「ああ、こりゃたしかに、たいへんそうだ。……こんなところを調べた奴がいるのか? すげえな」  長島も近づいてきて図面を見やったが、ふんと鼻を鳴らした。「ありえねえな。梯子《はしご》も入らないほど狭いダクトなのに、十数メートルもの竪穴《たてあな》をよじ登ったのかい? 南東の斜めになったダクトでさえ難しかったのに、こんなところ調べられるか?」 「でも」と石森が図面を指差す。「チェック済みの印がついてるよ」  美由紀はうなずいた。「そう報告を受けたはずだけど……」  石森は全員を見渡してたずねた。「北西のダクトを調べたのは誰だ?」  二年の男子生徒が恐縮ぎみに手を挙げた。「僕らですけど……」 「登って奥まで調べたのか?」 「……いいえ」 「いいえ、だと? なら、どうしてオーケーの報告をした?」 「そのう……ずっと使われなかったダクトらしくて、蜘蛛《くも》の巣がびっしり張りめぐらされてたので……」  鈍い感触が身体を駆け抜ける。美由紀はきいた。「蜘蛛の巣?」 「はい。長いこと誰ひとりとして侵入してない、と思ったんです」 「そうとは限らないわ……。蜘蛛はたった八時間で巣を作るのよ。数日もあればダクトを巣で埋め尽くすことぐらい、わけないはずよ」  美由紀は歩きだした。演壇のわきにある戸口を入り、階段を登って舞台の袖《そで》に入る。  その真上に、北西のダクトが伸びていた。 「懐中電灯、ある?」美由紀はきいた。 「ペンライトなら」と石森が差しだしてきた。  美由紀はそれを受け取り、真上を照らしだした。  生徒の報告どおり、四十センチ四方のダクト内には、白く光る蜘蛛の巣が縦横に張りめぐらされている。  だが、どれも新しいものだ。 「この中で爆発が起きたら」美由紀はつぶやいた。「光は体育館じゅうに達するわね。それに、空気も化学反応の影響を受ける」  長島が同意した。「位置的には可能性ありますよね」 「脚立、運んできて」 「よっしゃ」長島と石森、それに男子生徒らが駆けていき、すぐにアルミ製の脚立を運びこんできた。  その脚立をダクトの真下に据え置く。美由紀は登りだした。「わたしが行くわ」  石森がいった。「気をつけてください」  ダクトのなかには、メンテナンス用の足場がそこかしこにあった。そこに足をかけながら、慎重に身を捻《ね》じこませる。  蜘蛛の巣にまみれながら狭い竪穴を登るという作業は、不快きわまりないものだった。ペンライトを口にくわえ、たびたび頭上を照らしながら、ゆっくりと登る。  汗で手が滑りそうになる。足場も小さく、踏み外してしまいそうだ。  息苦しさを覚えながらも、なんとか頭が天井につくところまできた。ここから先は横穴だ。  ライトで行く手を照らしたとき、美由紀は息を呑《の》んだ。  直径三十センチほどの球体、半分ほど砕け散って、ダクトのなかに転がっている。あちこちに破片が散乱していた。まるで、不気味な生物の卵が孵《かえ》ったかのようだ。  美由紀はペンライトをつかみとると、下に向かって叫んだ。「あったわ!」  一瞬の沈黙ののちに、男子生徒たちの歓声が響いてきた。  とうとう見つけた。美由紀は横穴のなかに身を躍らせながら思った。生徒たちが劇的な変化を遂げた、そのきっかけとなった化学反応。なにが起きたのか、いまそのすべてがあきらかになる。 [#改ページ]   脱出  菊池らが行政庁第三司令本部と呼ぶ大教室で、岬美由紀は爆弾の残骸《ざんがい》を机の上に置き、ひとしきりの説明を終えた。  周りを囲む菊池、五十嵐、石森、長島のほか、雪絵や沙織もしばらくのあいだ深刻そうな顔のまま、黙りこくっていた。  やがて、静寂を破って雪絵がいった。「それが事実だとすると、わたしたちのやってきたことは……」 「いや」菊池がつぶやいた。「ある意味で、われわれの正しさが証明されたようなものだ。われわれが孤立し団結の道を選ばざるをえなかったのも、その状況ゆえのことだ」 「だけどさ」長島が声高にいう。「氏神高校国は、俺たち自身の将来を守るために建国したんだろ? これじゃ将来がどうとか、言ってられないじゃんか」  沙織は深刻そうにささやいた。「そうね。五十嵐君のお父さんの意図が、どこにあったのかはさだかじゃないけど……」  五十嵐聡は、呆然《ぼうぜん》とした面持ちで、ぶらりとその場を離れていった。部屋の隅の椅子に腰を下ろし、ひとり壁を見つめる。 「親父が……」五十嵐は小声でぼそぼそと告げた。「あの親父が……。そんなわけないよ。あんなに僕を憎んでたのに……」  石森が五十嵐にいった。「事実は事実だろ。受けいれざるをえないじゃないか」 「おまえになにがわかるんだよ!」五十嵐は怒鳴った。「あいつは、お母さんも僕も捨てて、勝手気ままに生きてきた。それがいまさら、なんだよ。それに……やってることだってフェアとはいえない。こんなやり方なんて……」  ふたたび沈黙が降りてきた。  美由紀は静かに告げた。「たしかにそうね。五十嵐君のお父さんが画策していることは、世のためになることとはいえない……。よく考えてみて、五十嵐君。あなたはこの氏神高校国では成功者のひとりになってる。そればかりか、あのパチンコの分析やソフトの開発で日本全体にも聡明《そうめい》なところを見せつけた。いまという時間が、永続することを望む気持ちはないの?」  五十嵐はしばし無言のままうつむいていた。  やがて、その顔があがった。美由紀をまっすぐに見つめて、五十嵐はいった。「自立も、自由も、成功も……夢でしかなかった。現実じゃなかったんだ」 「そうじゃないわ。いまあなたを取り巻く状況は、幻想じゃないのよ」 「でも作られたものだ。そうだろ? あんな親父の作りだした世界なんて……。僕はまともな世界に生きるよ。人々にとっても、そのほうがいいはずだし」 「それでいいの? 後悔はない?」 「わからないよ、先のことは……。けど、それしかないだろ」 「……岬先生」菊池が真顔で告げてきた。「現状を打開するためには、五十嵐のお父さんの意図をたしかめないと」 「そうよね。でも、向こうに対しても、あなたたちがいま何を考え、何を求めているのかを伝えなきゃならない。五十嵐哲治さんとわたしたちのあいだには、大きな意識のずれがある。それを埋めていかないと……」  雪絵がうなずいた。「この問題を解決しないままで放置したら、日本という国は衰退してしまうでしょうね。わたしたちが五十嵐君のお父さんに会って、状況を伝えなきゃ」 「どうやって?」長島が顔をしかめた。「こっちは周りをぐるっと警察に囲まれてる身だぜ?」 「手はあるわ」沙織がいった。「今晩、食糧の搬入をしてくるトラックの荷台にまぎれて脱出すればいい。ドライバーの何人かとは、もう親しくなってるからね。お金で買収すれば、なんとかなるわ」 「だけど、五十嵐んとこの親父さんは留置所のなかだろ?」 「いえ」美由紀はいった。「彼は毎朝、この学校の近くに身柄を移される。狙いどころがあるとしたら、そこね……」 [#改ページ]   友里《ゆうり》佐知子  翌朝、午前五時半。  氏神高校から北東に十七キロ、工業地帯のなかを伸びる未舗装の一本道は、まさしく昭和四十三年十二月の府中三億円事件の発生現場に酷似していた。  地図で警察車両が通るルートを検証した結果、ここしかないと美由紀は確信を持った。  三億円事件の襲撃犯は、一部でずさんな犯行を指摘されているが、そうではない。たしかに、報道されたような事件の表層からは、緻密《ちみつ》な計画とは信じがたい。  だが、美由紀は知っていた。粗雑に見える段取りは、それ自体が計算されたものだったのだ。単独犯の安易な犯行だと警察が高をくくれば、追跡の手を緩めることができる。  ほかならぬ真犯人の日記に、そのことが記されていた。あの日記を読んだからこそ、わずかな準備でこの計画を実行に移すことができる。 「来たぜ」と長島がささやいた。  美由紀は長島、石森とともに、道端に生い茂る雑草のなかに身を潜めていた。背後は塀で、その向こうの工場はまだ作業時間を迎えていない。  ひとけのない朝の路上を、一台のパトカーがゆっくりと近づいてくる。速度を上げないのは、未舗装ゆえに砂埃《すなぼこり》が舞うからだろう。 「あわてないで」美由紀は長島に告げた。「もっと引きつけてから。クルマの後輪が見える状態で実行しないと、運転手に気づかれるわ」 「わかってるって。まかせときなよ」  クルマが前方に滑りこんできた。後部座席には、ふたりの私服警官に挟まれて座る五十嵐哲治の姿が見える。 「いまだ!」石森が鋭くいって、発煙筒に点火した。  長島も発炎筒に火をつけて投げた。発煙筒は、クルマの下部に転がった。  もうもうと立ちこめる煙。クルマが減速した。  美由紀はすかさず路上に飛びだしていった。運転席に駆け寄り、ウィンドウをノックする。  ウィンドウが下がると、美由紀は怒鳴った。「爆弾よ。脱出して。早く、急いで!」  運転していた警官がドアを開け放って、外に飛びだした。  後部座席のドアが開く。私服警官は大慌てで、手錠をかけられた五十嵐を引っ張りだそうとしている。  そこへ石森が駆け寄った。「ここはわれわれが」  石森は学生服を着ていたが、その胸元を開いて内側に折りこみ、スーツに見えるようにしてあった。ワイシャツにはハンカチで作ったネクタイをしている。ふけ顔の石森は、統治官補佐のなかでは最も若手刑事の印象に近いというのが、行政庁の統一した見解だった。 「すまん」といって、ふたりの私服警官は五十嵐哲治を石森に預け、クルマから遠ざかっていった。  爆弾処理班が来たと思ったのだろう。こうした場合、連行中の容疑者の身柄を確保する専任の警官もいる。石森はまんまとその立場だと思わせることができたらしい。  美由紀はすかさず運転席に乗りこんだ。  助手席に長島が乗りこむ。後部座席には、五十嵐哲治と石森が並んでおさまった。  さすがに、私服警官たちも昭和四十三年よりは進化しているらしい。すぐさま異常事態に気づいたようだった。私服警官は血相を変えて駆け戻ってきた。 「なにしてる!」警官がわめいた。「どこへ行く気だ、すぐに降りろ!」  むろん聞く耳など持たない。美由紀はアクセルを踏みこんでクルマを急発進させた。  ルームミラーのなかで、あたふたと追いかけてくる警官たちの姿が、しだいに小さくなっていく。 「やりい」と長島が声をあげた。「ざっとこんなもんだ」  美由紀は後部座席を振りかえった。「おはようございます、五十嵐先生。またお会いしましたね」 「おやおや……」五十嵐は面食らったようすでつぶやいた。「またきみか。三億円事件とはまた、古い手を使ったもんだ。ぎりぎりの賭《か》けだったな。勝算はなかったんだろ?」 「そうでもないわ」美由紀はあっさりといった。「真犯人直伝の勘どころが備わってたから」 [#改ページ]   偽りのゴール  津島循環器脳神経医科病院。  五十嵐聡にとっては、過去にいちども訪ねたことのない父親の職場。きょう、初めて足を踏みいれた。  その診察室は、ひっそりと静まりかえっていた。経営者である父が逮捕されたのを受けて、ずっと休診日がつづいている。逮捕は公に報道されてはいないが、職員や患者たちにはすでに広まっていることだろう。  いつでも来なさい、見せたいものがあるから。父はそういって、聡に病院の裏口の鍵《かぎ》を預けてきた。  その鍵があったおかげで、ここに入ることができた。そして、なにを見せたがっていたのかも明確になった。  病院にこんなものを隠しておくなんて。非常識だ。医師失格だ。  沙織が廊下から室内に入ってきた。「来たわよ」  複数の靴の音がする。  まず最初に入ってきたのは、長島だった。それから石森。そのあとにつづいて、岬美由紀に引き立てられた五十嵐哲治の、憔悴《しようすい》しきった姿があった。  聡は父の姿をじっと見つめた。  哲治は上目づかいにこちらを見たが、また床に視線を落とした。  菊池と雪絵が立ちあがった。菊池が声をかける。「五十嵐君のお父様ですね?」 「ほう」哲治はつぶやきながら、室内を見渡した。「行政庁の主要な面々が雁首《がんくび》を揃えてるじゃないか。学校を抜けだしていいのかね?」 「ご心配には及びません。塩津という統治官に、舵取《かじと》りを任せておきましたから。われわれが戻るまで、国家はきちんと維持され、運営されます」 「なるほど。さすがは元生徒会長、言葉もしっかりしたものだ。聡。おまえ、こんな立派な人たちに囲まれて、幸せだな。私のアドバイスどおりに実践して、それなりに成功してるじゃないか」  聡はかちんときた。 「アドバイスだって? 僕はなにも助言を受けちゃいない。いきなり学校で孤立無援になって、生きる道を探しただけのことだよ」 「その結果、私の教えたベルヌーイの法則の応用や、ソフト開発の知識で切り抜けたじゃないか」 「たまたま知ってたことを生かしただけだよ。お父さんの世話になったわけじゃない」 「聡……。まだそんなことをいうのか」  美由紀が口をさしはさんだ。「五十嵐先生。わたしたちが出向いてきたのは、あなたに説明を聞くためです。病院に似つかわしくない、この物騒なしろものについて説明していただけますか」  床に置かれた一個の球体。体育館で見つかった爆発済みの物質と、同質のものであることは疑いようがなかった。 「ほう」と哲治は感心したようにいった。「よく見つけたな」 「爆発物探知機を交わすために放射線科に隠すなんて、テロリストのあいだでは常識よ」 「間抜けな警察は家宅捜索でも発見できずにいたわけだ。きみは真の意味で千里眼だな」 「で、これは何なの?」  ふんと哲治は鼻を鳴らした。「聞くまでもないだろう。きみが私を追いまわしてまで探していた爆弾さ。予備にもうひとつ、購入してあった」 「あっさりお認めになるんですね」 「いまやきみも追われる身だろうからな。警察の手から私を奪い去ったからには、私の共犯とみられてもおかしくあるまいよ」 「もとより覚悟のうえです。ねえ、五十嵐先生。テオクタギバシンとセンニトリンの混合物は、発火させることにより燃焼し空気中の酸素を数パーセント失わせる。あなたが時限式発火装置と一緒にそれらを購入した事実だけ見れば、酸素欠乏症を引き起こすための爆弾を製造したと警察が信じたのも無理はない。わたしもそう思ってたしね」 「真実は違ったのかな?」 「ええ。先生、そのふたつの物質をおさめるケースの製造に、酸化チタンを採用しましたね? 爆発の熱でテオクタギバシンとセンニトリンが過酸化水素水を精製したあと、強い光を当てることによってケースが触媒がわりとなり、高濃度の酸素を発生させる」 「ほほう。面白い。よく知ってるな。しかし、そんな爆弾がなんの役に立つ?」 「どこの病院にもある、高気圧酸素治療用のカプセルと同じ効果を得ることができるはずよ。高い気圧環境に収容した患者に高濃度酸素を吸入させて、増量した血液中の酸素を利用して患者の酸素欠乏症を治療する。あなたが体育館でおこなったことは、まさにそれだった。全校生徒たちへの、酸素欠乏症の治療。この爆弾は、大気中の酸素を奪うのではなく、増量させるためのものだったのよ」 「じゃあ、生徒たちは以前、みんな酸素欠乏症だったってことかね?」 「そうよ」美由紀は新聞をとりだし、哲治にしめした。「いまから五十七日前、日本列島を取り巻く海のほとんどに赤潮が発生した。プランクトンの異常繁殖で海水が赤褐色に染まった。これほど大規模な赤潮はそのときが初めてで、気象学者たちは温暖化と降雨の多さのせいで河川水が大量に海に流入、塩分が急激に低下したことが原因だとみてる。プランクトンの酸素消費量の増大によって、海ばかりか大気中の酸素まで、数分間にわたり濃度を三パーセントほど低下させた」 「その通りだとも!」だしぬけに哲治は声を張りあげた。「私は全国民規模での酸素欠乏症が、軽度ではあっても発症していると学会に訴えたが、一笑に付された。まるで、あらゆることをプラズマのせいにしたがる物理学者と同じように、私が酸素と口にしただけで、連中は笑い声をあげる。始末におえん奴らだ」 「お気の毒ね。けれど、人が自然の一部である以上、環境には絶えず微量ながらも影響を受けているのはたしかなこと」 「どうやってきみは気づいた?」 「偶然よ」美由紀はため息とともにつぶやいた。「何か月か前、わたしは誤って活性酸素を発生させる薬品を、目薬として点眼してしまった」 「そりゃ大変だな。細胞膜の脂質が酸化して、細胞が死んでしまうだろう。悪くすると失明だぞ」 「ところが、そうはならなかった。治るはずのないものが治った。活性酸素が消滅したとしか思えない。理由は……」 「なるほどな。そもそも活性酸素は、酸素原子から電子だけがペアになってできる酸素分子の、そのまた電子が複数組み合わさって生じる。人体内で少量ではあっても急激に酸素が欠乏すると、酸素分子が電子分解されるというハーズマンの学説もある。分解した電子は、きみの体内で酸素原子を再構築した」 「発生した酸素を吸ったわたしは酸素欠乏症に陥らなかった。一瞬、それもわずかな酸素量の違いでしかないけど、その事態がわたしとほかの人々を分け隔てた。稀《まれ》なことだけど、それ以外には考えられない」 「すごいな、きみは。身体にトラブルを抱えていたがゆえに、国民すべてを襲った異変をまぬがれたか」 「国民全員じゃないでしょ。でも、大多数の人々は、あなたが論文で指摘したとおりの症状に陥った。前頭葉の神経細胞が連絡機能を失ったことで、理性の意識水準を低下させ、動物的本能に頼りがちになった。動物……群れをなして、ボスに従い、弱者を痛めつけて力を誇示する。悪しき平等主義。それがこの二か月弱で、急激に日本じゅうに広がった」 「おお! ようやくわかってくれたようだな。そうとも、悪しき平等主義だ。突出する人間は忌み嫌われ、みんな横並びの生活に安堵《あんど》を覚える。こんな世の中がどうなると思う? まるでひと昔前の社会主義、共産主義じゃないか。中国やロシアが衰退したように、無個性な人々の群れなど無力に等しい。競争を是としない仲良しクラブ。馴《な》れ合いのなかで、国力は衰退の一途をたどるだけだ」  美由紀はうなずいた。「日本はそうなりつつある。いえ、もうなっていたのよ。国民総中流階級なんて呼ばれる時代に戻ってたし、小牧基地の警備が異常なほど手薄で、岐阜基地も無許可着陸に対しほとんど無防備だった……。犯罪は現に減少してる。社会の常識から外れることを極端に恐れる風潮が蔓延《まんえん》しているから」  雪絵がいった。「そこだけ考えれば、理想の世の中といえなくもないけど……」 「そうね。でも、人と人との信頼によって犯罪が駆逐されたわけじゃないの。悪しき平等主義は、無目的の画一化された集団社会を余儀なくされる。当然、不満が生じて、スケープゴートを仕立てて卑下することで、集団の結束を保とうとする。……世にいう、いじめのことね」 「喜ばしい!」五十嵐哲治は両手を広げた。「ついに完璧《かんぺき》に理解してくれたな。この二か月の、学校および職場でのいじめ件数の増大を見たまえ。すべては全国規模の酸素欠乏症によって引き起こされたんだ!」 「五十嵐先生。あなたは重大な発見をしていたんです。それにも関わらず、あなたのとった手段は、科学者の使命とはほど遠いものだった。あなたは自分の息子さんだけを症状から回復させることで、いまは誰にとっても難しくなっている個性的で独創的な考えによって出世できる道を与えようとした」 「聡だけじゃないぞ。息子ひとりでは頼りないからな、高校の全校生徒を対象にした。案の定、リーダーになったのは聡じゃなく、菊池君のように聡明《そうめい》な生徒だった」  聡は怒りがこみあげるのを感じた。 「大きなお世話だよ」聡は吐き捨てた。「僕がいつ出世させてくれなんて頼んだ?」 「おい、聡……」 「それも、世間が脳の病気にかかってるっていう混乱に乗じて、ひとりまともになって優位に立とうなんてさ。汚いったらありゃしないよ。医者ならみんなを助けたらどうなんだ? 放っておくばかりか、利用しようとするなんて。最低じゃないか」 「聡。軽度の酸素欠乏症は、しばらくすれば自然に治っていく。あと半年もすれば快復するだろう。こうしたことは歴史上、過去にも何度かあったと考えられる。かつてはそのことに気づきうるほどに科学は発達していなかったし、社会も未熟だったから、ささいな変化が問題にはならなかったんだ。私はな、利用できるチャンスを捨て置くのは愚か者がやることと……」 「そこが嫌なんだよ! なにがチャンスだよ。人の弱みにつけこむなんて卑怯者《ひきようもの》のやることだ。だからお父さんは、お母さんに逃げられたんだ。自分の出世のために他人の気持ちを踏みにじることを厭《いと》わない、そんな姿勢だから嫌われたんだ!」 「な、なんだと……この……」  そのとき美由紀が、穏やかな口調で哲治に告げた。「五十嵐先生。前に会ったとき『うさぎとカメ』の話をしたでしょう?」 「あん……? ああ」 「うさぎとカメが競走をして、うさぎがリードした。余裕を持ったうさぎは、道端で居眠り。そこにカメが追いついて……それからどうなりましたか?」 「追い抜いて先にゴールした。私が聡に教えたいと思うのはそこだ」 「それはちがいます」 「……なに?」 「レースというからには、一本道ですよね? カメはうさぎに追いついた時点で、そこで寝ているうさぎに気づいたはず……。黙って通り過ぎるべきだったんでしょうか。カメは、うさぎを起こしてあげるべきだったのでは?」 「そんなことをしたら、うさぎはたちまち疾走してゴールに一直線……」 「そうかもしれません。でも、勝者はカメでしょう? ……そうは思いませんか?」 「……いわんとしていることはわかる。だが、世間はそんなふうには思わん。愚かなうさぎは、自分こそレースの勝者だと触れまわるだけだ」 「けれども真実は違う。重要なのは真実よ。うさぎ自身がいちばんよくわかってる。自分は、本当は勝ってはいなかったんだって」  五十嵐哲治は、困惑したように黙りこくった。 「あのう」菊池が哲治に告げた。「そのうさぎの心境なら、私がいま味わっているところです」 「なんだと?」哲治は目を見張った。「どうしてだね? きみは立派にリーダーを務めあげたじゃないか」 「孤立無援の生徒たちを、なんとか統率せねばならないという使命感があったからです。……みんなで国家権力に打ち勝たねばならないという目標もあった。けれども、いまは虚《むな》しいだけです。勝利したはずの全国模試は……勝てて当然だったんです。世間は病に侵されていた。われわれは健康体だった。それだけの差でしかなかったんです」 「そうでもない。世間の高校生の思考が完全に鈍っていたわけじゃないんだ。学力はさほど変わらなかったはずだ」 「でも、悪しき平等主義に支配されていた。そうですよね? 突出することを好まないから、学習に身も入らない。……僕らは、そんな眠りこけたうさぎを打ち負かして喜んでたんです。ライバルたちが眠っていることに気づいていれば、起こしてやる道を選んだでしょう」 「なぜだ。理解不能だよ。菊池君、きみは名門の私立高校に入れるだけの学力がありながら、地域性と過疎の犠牲になって、あの複数の学校が合併した工業高校に通う羽目になった。大学に入る前に、結果をしめしておきたいだろう? 模擬試験で全国一位だった記録は永遠に残る。勝利は結果としてでてるじゃないか」 「偽りのゴールです」菊池の声は震えていた。「僕が望んでいるものじゃありません……」  哲治は、ひたすら戸惑ったようすで周りを見まわした。  同意を求めるときの、おどおどとした態度。離婚を間近に控えたころの家庭での顔を思いだす。聡は、忌まわしい記憶とともにそう思った。  やがて、誰もが菊池同様に毅然《きぜん》たる態度を崩さないと知ったらしく、哲治はがっくりとうなだれた。 「私は」哲治はぼそりとつぶやいた。「間違ってたんだろうか……」  美由紀はきいた。「聡君のことを、本当に心から思ってのことでしたか? それとも、聡君を自分の代理に仕立てて、世に打ち勝つ人間に育てようとしただけじゃないんですか? それではただのゲームですよ。お子さんは、あなたの操り人形じゃないんです」  しばらく時間が過ぎた。長い沈黙があった。  父、哲治は、聡のほうをじっと見つめた。  やがて、小さな声で、ささやくように告げた。「すまん」  聡はなにもいわなかった。  どんな言葉も意味を持たない、そう感じたからだった。  父が本心をのぞかせているかどうかなんて、まだわからない。そもそも、自分の将来を思ってやってくれたことかどうか、そこさえもあきらかでない。  理解しあえるまでには、時間がかかるだろう。  でも、ひょっとしたら、きょうがその始まりの日になるかもしれない。そんなふうにも思える。  うなだれた父。そんな姿を見るのは初めてだった。  診察室には、静寂だけが流れていた。  どれだけ時間が過ぎたか。携帯電話の着信音によって、沈黙は破られた。  沙織が携帯を取りだし、耳にあてた。「はい。……ああ、塩津君。……なんですって?」  菊池がきいた。「どうかしたか」 「警察が強行突入を開始したって……」 「なんだと!? それを貸してくれ」  血相を変えて電話にでる菊池を、行政庁の面々が緊張の面持ちで眺めている。  五十嵐聡も息を呑《の》んでいた。  強行突入。知世が……。  わかった、といって菊池が電話を切った。「戻らねば。機動隊による突入が開始されたらしい。非常時のマニュアルどおりに女子生徒は階上に避難し、男子生徒らがバリケードを組んで抵抗しているが……陥落は時間の問題だ」  雪絵がひきつった顔でいった。「事前の警告もなく突入だなんて。民主主義国家にあるまじき行為よ」  そのとき、五十嵐哲治が真顔で告げた。「いまや日本の国家権力は、社会主義国と同様ととらえたほうがいい。中国の天安門事件と同じ弾圧があるものと考えたほうがいいぞ」  室内の温度が下がったように感じられる。そんな寒気が襲った。  弾圧……。  聡は身を震わせた。これが悪しき平等主義、その極みか……。  石森が弱気な声をあげた。「いまさらいったところで、どうにも……」  長島は動きだしていた。「俺はいくぜ。みんなにゃ黙っていたが、彼女ができてたんでな。放っておくわけにゃいかねえ」  菊池がうなずいた。「いこう」  聡も歩を踏みだした。知世の顔が浮かぶ。無事でいてくれ。そう信じるしかない。  そのとき、美由紀がいった。「待って」  全員の足がとまる。聡は振りかえった。  美由紀は鋭い目つきで生徒たちの顔を順に見やった。「防衛戦はただやみくもに行えばいいってもんでもないの。物量で負けていても精神力で勝てるなんてのは非常識。世界史で習ったでしょ?」 「どうすればいいんです?」菊池がきいた。「武力行使が始まったんでは、われわれに勝ち目はない」 「そうでもないわよ」美由紀は不敵にいった。「国を守るのは得意なの」 [#改ページ]   地獄絵図  小沢知世は、ほかの女子生徒たちとともに、三階の教室に避難していた。  恐怖に身体が震える。みんなで身を寄せ合っていても、その震えがとまらない。  なにかが裂けるような音がした。次いで、突きあげるような衝撃が襲った。ドンという音が腹に響く。  窓辺にいた女子生徒のひとりが、甲高い声をあげた。「たいへんよ!」  室内の全員が窓に走り寄る。知世もそうしていた。  眼下には信じられない光景がひろがっていた。  校門が破られている。スライド式の扉は手前に押し倒されていた。  踏みこんでくる黒々とした男たちの群れがある。ヘルメットと同色の制服、プロテクターを身につけていた。  機動隊だ。  すでに校門近くで警備にあたっていた生徒たちが、次々と倒され、棒でめったうちにされている。早くも機動隊の先頭は、校舎玄関に達しようとしていた。  スピーカーから警報が鳴り響いた。 「緊急事態!」塩津の声が聞こえてくる。「隣国の警官隊が突入を開始。国民は総力を挙げて防御せよ。急げ!」  つづいて、別の声が響きわたった。「緊急事態、繰り返す、緊急事態。警官隊突入のもよう。男子生徒は引きつづき一階玄関付近に集結して死守せよ。女子生徒および統治官、統治官補佐は二階以上の所定の緊急位置について指示を待て。以上」  放送が終わらないうちに、階下から校舎全体を揺るがすような轟音《ごうおん》が響いてきた。それから叫び声、わめき声。  暴動だ。いや、戦争だ。戦争が始まったんだ。そう実感した。 「怖いよ」見ず知らずの女子生徒が、知世に抱きついてきた。 「だ、だいじょうぶよ」知世は、自分の声が震えていることに気づいた。  恐怖を鎮めるために、その女子生徒を強く抱きしめる。  窓の外には、地獄絵図が広がっていた。男子生徒は機動隊になぎ倒され、血まみれになりながら校庭に横たわっている。素手同然の虚《むな》しい防御に対し、圧倒的な攻撃力を誇る機動隊との戦いの行方は、もはやあきらかだった。  ガラスが割られ、機動隊が校舎内に侵入した。女子生徒さえもがつかみだされ、地面に放りだされる。悲鳴、絶叫、怒号が渦巻く。 「聡……」知世はつぶやいた。  膝《ひざ》が震えている。立っているのもままならない。  心底|怯《おび》えていた。氏神高校国が始まったときと同じだ。また恐怖にすくむしかない自分がいる。しかも、今度は絶望的な運命を伴っている。  ずっと共に暮らしてきた仲間たちが、暴力で打ちのめされていく。耐え難い光景が眼下にひろがる。  もうどうにもならない……。 [#改ページ]   地獄の終焉《しゆうえん》  中志津は戦場の悪夢をまのあたりにした。  機動隊が校門を破り、校庭になだれこんでいくのが見える。砂埃《すなぼこり》が巻きあがっていた。硬いもので殴りあう音がする。叫び声、怒鳴り声、なにかをわめきちらす声。すべてが渾然《こんぜん》一体となり、騒然とした戦場のありさまがつたわってくる。  脚立に昇り、双眼鏡を手に、塀ごしに校舎の一階部分を観察した。  玄関に達した機動隊員らと、下級生らが激しく争っている。  顔じゅう血だらけになっている者も多い。  男子生徒らは、唯一の武器である金属バットを手に参戦していた。機動隊員を殴打している者もいる。だが、そんな力技は長く持続せず、別の機動隊員が背後から襲いかかり、その生徒を押し倒して殴る、蹴《け》るの反撃を加える。  女子生徒は階上に避難したようだが、なぜかあちこちから女子の悲鳴らしきものが聞こえる。もはや無法地帯と化した校舎は、法の執行などという生易しい状況にはなかった。ガラスの破片が飛び散り、絶叫がこだまする。機動隊員が盾ごと生徒に体当たりしていった。鮮血がほとばしるのが、この距離でもはっきりと見えた。 「異常だ!」中志津は脚立から飛び降りながらいった。「これじゃ弾圧だ。すぐにやめさせるべきだ!」  だが、本庁からやってきた水元勇吉《みずもとゆうきち》警視正は、いささかも動じるようすもなかった。「口を慎め。県警はバックアップだけでいい」 「そうはいきません」中志津は水元に詰め寄った。「ここはわれわれの管轄です。なぜ本庁機動隊の第一機動隊が出張ってくるんですか。それも特科車両まで引き連れて、千人近くを動員するなんて……」 「生徒数が千人近いという情報だった。それだけのことだ」 「だからといって、あそこまで危害を加える必要があるんですか。玄関先に達したら、あとは対話を持ちかけるべきでしょう」 「手ぬるいことは言っていられない。ただちに危険分子を排除しろという上層部の命令だ」 「危険分子だなんて。相手は高校生ですよ」  だが、水元に側近のように擦り寄る分隊長の巡査部長が、中志津を突き放した。「下がってください。妨害すると逮捕しますよ」  中志津は怒りを燃えあがらせた。いきなり本庁から介入してきたと思えば、この傍若無人な振る舞い。民主国家において、断じて許せることではない。  とはいえ、どうすることもできない。組織において、上の命令は絶対だ。自分ひとりが逆らったところで、県警の命令系統は従ってはくれまい。  なにもできないのか。このまま生徒たちの血が流されるのを、手をこまねいて見ているほかにないのか。  そのときだった。甲高いキーンという音と、落雷のような爆音が轟《とどろ》きだした。  なにが起きたのか、と中志津が顔をあげた瞬間、嵐のような突風が吹き荒れた。  砂埃のせいで視界が遮られる。暴動の騒音も、すべてがその音にかき消された。  やがて、信じられない光景を中志津は見た。  校庭に飛来したのは、巨大な迷彩柄の戦闘ヘリコプターだった。機体の左右に飛びだした、角ばった翼のような部分には、ミサイルとおぼしき兵装を備えている。  ヘリはきわめて低空で校庭の上に空中停止飛行《ホバーリング》し、校舎を守るかのように、機動隊に向かって機首をさげていた。 「な……」水元警視正が驚愕《きようがく》のいろを浮かべていた。「AH64アパッチ? 陸上自衛隊のヘリが、なんでここに……」  自衛隊。まさか……。  中志津はヘリのコックピットを見た。ひとりの女が乗りこんで操縦|桿《かん》を握っている、それもスーツ姿で。  やはり。中志津は愕然《がくぜん》としながら思った。岬美由紀か。  臨床心理士に転職してからも、古巣の自衛隊基地からレンタカー気分で装備を拝借する、まさに人間凶器。何度となく基地および所轄警察で始末書を書かされながら、常に人命救助に貢献していることから罰せられたこともなく、また本人もいっこうに反省したようすもなく、同じことを繰り返す。  だが、いまは応援したい。警視正は暴君も同然だ。この男の命令に誰ひとりとして従わないほど、一帯に恐怖を蔓延《まんえん》させてもらいたい。  そう思った次の瞬間、鋭く弾《はじ》けるような音とともに、機体から煙が立ち昇った。  ロケット弾の発射だった。直後、大地を揺るがす爆発音とともに、火柱が校庭に噴きあがる。  またしても悲鳴があがったが、今度は大人の、しかも男性の野太い声ばかりだった。機動隊員たちは逃げ惑い、校門のほうに引き返してくる。  アパッチは牧場の羊を追いまわす犬のように、しきりに校庭を動きまわって機動隊員たちを散らす。  容赦なく、さらに数発のロケット弾が発射された。いや、対戦車ミサイルかもしれない。本庁が送りこんできた特科車両が続けざまに爆発を起こし、轟音とともに四散して消し飛んだ。  チェーンガンが連射されて、校庭に弾幕を張る。機動隊員のなかには、這《は》いながら逃げている者もいた。校舎に突入を試みた隊員たちも、あわてたようすで飛びだして逃走に加わる。  よく見ると、ヘリは決して隊員を標的にしていないことがわかる。着弾は常に人から離れた場所に、正確に撃ちこまれている。特科車両も、爆発したのは無人のものばかりだった。  ヘリがこちらに向かってくる。まさに周囲のものすべてをなぎ倒すほどの強風が吹き荒れ、辺り一面に雑多なものが舞いあがった。  頭上を越えると、ヘリは高度をあげて遠ざかりだした。  妙だ。機動隊員を完全に校舎から撤退させるための威嚇攻撃としては、まだ十分ではない。  ほかに狙いがあったのだろうか。なにか別の目的が……。  そんなふうに感じたとき、中志津は視界の端にうごめくものをとらえた。  ごろりと転がってくる、直径三十センチほどの球体。それが水元警視正の足もとで止まった。  いつの間にか、男子生徒たちが警官隊に紛れ、司令本部であるこの場所に侵入していた。球体を放りだしたその生徒たちが、大急ぎで逃げていく。  横顔を見て、誰なのか判別がついた。五十嵐聡、石森健三、それに長島高穂。三人とも監視班がマークしていた生徒だ。  どうやって校舎内から抜けだしたのか。いや、それより、この球体は……。  はっと気づいた中志津は、水元をつかんで地面に引き倒した。「危ない。伏せるんだ!」  直後、鼓膜の破れるような轟音《ごうおん》とともに、突風が襲い、そして青白い稲光が瞬《またた》いた。  ただし、それは一瞬のことだった。辺りはすぐに、平穏さを取り戻した。  中志津は身体を起こした。  ヘリは囮《おとり》にすぎなかったらしい。生徒たちはわざわざ危険を冒してまで、爆弾をここに運んだ。いったいどうして……。  おかしい、と中志津は思った。奇妙な感覚に包まれている。  空気が澄んでいる。空が青い。それに、静かだ。  爆発音で耳をやられたのか。いや、人々のざわめきは聞こえる。  どうしたというのだろう。目覚めたときのように、頭がすっきりしているように感じる。思考がふいに冴《さ》え渡ったかのようだ。  呆然《ぼうぜん》とした顔をしながら、水元が起きあがった。 「警視正」中志津は手を貸した。「ご無事ですか」 「ああ……」  辺りはすでに静かになっている。機動隊員らも、こちらで起きた爆発に気づいたらしい。続々と集まってきていた。  中志津は水元にきいた。「警視正、これからどうします?」 「……そうだな」水元は、呆然とした面持ちで周りを見まわした。自分の命令によって引き起こされていた状況が信じられない、そんな顔をしている。  やがて、水元は静かにいった。「撤収しよう……。機動隊は、ここには必要ない」 [#改ページ]   卒業証書  武力衝突から四日が過ぎた。  降りつづいていた雨はあがり、空気は澄みきっていた。氏神高校の校庭に、やわらかい午後の陽射しが降り注いでいる。  美由紀はその校庭に立っていた。  門の外には、まだ報道陣が詰め掛けている。警察車両も数多くある。  それでも、混乱はない。辺りはきわめて静かだった。  怪我を負った生徒たちは病院に運ばれ、それ以外の生徒らも夜間の帰宅の自由があった。両親に再会できた喜びから涙を流す生徒の姿があちこちで見られたのが、もうずいぶん前のことのように思える。  それだけ、生徒たちが籠城《ろうじよう》していたあいだは激動の日々だった。緊張が解けたいま、時間はひたすらゆっくりと流れている。  門は開放され、籠城は終焉《しゆうえん》を迎えた。それでも、生徒たちはまだ一日の始まりとともに、氏神高校国のなかに入っていき、国民として過ごす生活を選んでいる。  教職員たちは、依然として本来の仕事に戻ってはいない。ときおり校庭に足を踏みいれ、生徒たちと言葉を交わすことはあっても、校舎には立ちいらない。待機所で生徒たちのようすを見守るだけだった。  刺々《とげとげ》しい対立の構図が解かれたのに、まだ歩み寄りには時間がかかる。そんな奇妙な空白の時間が、ここには流れている。  しかしそれも、ようやく決着をみる手筈《てはず》が整った。  美由紀の呼びかけに応じて、学校長の弘前と、生徒会長の菊池の話し合いが持たれることになったからだ。  校門から、弘前が歩いて入ってくる。門の外に陣取っているマスコミが、さかんにカメラのフラッシュを閃《ひらめ》かせている。  対する菊池のほうも、玄関からでてきた。行政庁統治官の面々は、その玄関先に横並びに整列している。  菊池は、その統治官のなかから、五十嵐聡だけを従えて歩いてきた。  校舎では、状況を見守る生徒たちが三階の窓まで鈴なりになっている。誰もが固唾《かたず》を飲んで、話し合いの結着を待っているに違いなかった。  美由紀の前で、弘前、菊池、五十嵐が顔を合わせた。  弘前はまず、美由紀に頭をさげてきた。「このたびは、どうも……」 「いえ」美由紀もおじぎをかえしてからいった。「どうですか、校舎が前と違って見えますか?」 「……そうですね」弘前は緊張の面持ちながらも、かすかに笑いを浮かべた。「はっきりしたことはわからないが、病院に行ってから、考えが変わった。見えていなかったものが見えてきた。いや、見えてはいたのに、意味のわからなかったものが理解できるようになったというか……」 「おっしゃることはわかります。巷《ちまた》でよく聞く話ですし」  武力衝突の翌日、五十嵐哲治の論文は学会で再検討され、脳神経医学の研究団体がその重要性を認める声明をだした。サーモグラフィーによる詳細な調査で、いままで見逃されていた前頭葉の細胞の連絡機能が、わずかに減退している国民が多数存在することが確認された。  全国の病院は連日超満員で、高気圧酸素治療の患者に対応していて、ほどなく誰もがその効果を実感できるようになっていた。  日本国民を取り巻く悪しき平等主義は払拭《ふつしよく》され、自由主義が戻ってきた。人々が希望を持ち、努力し、将来に反映しうる社会が還《かえ》ってきた。 「ふしぎなものですね」弘前はいった。「あれほどの変化に、誰も気づきえなかったなんて……」  美由紀はうなずいた。「室内のガス漏れ事故も、なぜ当人がその匂いに気づかなかったのか、訝《いぶか》しく思われがちです。徐々に進行したことは、当事者たちにはわからない。結果として、恐ろしいほどの変化があっても、その場にいた人は気づくことができない」 「……格差を生む世の中は、完成された社会にはほど遠いが……。それでも、時代に逆行するよりはましだな」 「校長先生。日本国民の誰もが正常でなくなっていた状況下で、唯一、人間らしくあろうとしていたのが、ほかならぬ生徒たちです。氏神高校国の国民です」  弘前はようやく、菊池に目を向けた。  菊池は直立不動のまま、弘前を見かえしていた。 「学校長」菊池はいった。「氏神高校国行政庁最高統治官として、ご報告申しあげます」 「……聞こう」  しばし菊池は、空を仰いだ。かすかにその目が潤んでいる。  吸いこんだ息を一気に吐きだしながら、菊池は告げた。「ここに氏神高校国の解散を宣言し、校内のすべてのものをご返却いたします」  美由紀は、弘前が複雑ないろを浮かべているのに気づいていた。  籠城を是とするような発言をしていいものかどうか、迷っているのだろう。 「菊池君」弘前は喉《のど》にからむ声でいった。「私は、生徒たちが籠城した事件について、それを国と認めるようなことはできない。きみらは、私たち教職員の生徒だ。以前からそうだし、いまもそうだ」  菊池は黙りこくっていた。  五十嵐がいった。「でもそれは、あなたがたが教師にふさわしければの話だ」  咎《とが》めるように菊池がささやいた。「よせ、五十嵐」 「いえ。言わせてもらいます。世界史の履修不足を隠蔽《いんぺい》し、いじめを隠し通し、なにも認めようとしなかった。僕らは路頭に迷ったんです。なにもしなくても、このまま卒業を迎えて、社会に追いだされてしまう……。僕たちは、自分たちの手で将来を見つけようとしたんです」  弘前は困惑ぎみにつぶやいた。「それは……わかっとるよ。よくわかっとる。そうはいっても、きみらは家庭裁判所での審判を待つ身だろ?」  菊池と五十嵐は顔を見合わせ、戸惑いがちにうつむいた。 「いや」弘前はいった。「きみらを困らせようというんじゃない。国全体が異常ななかで、まともであったがゆえに反抗せざるをえなかった。きみらは、そんな立場にあった……。勇気ある行動だったよ。それに、われわれ教職員は、決してすべてを酸素欠乏症のせいになどできん……。われわれが、そのう、隠蔽というか、責められるべきことをしてきたのは……二か月などよりはるかに前からだった。きみらがどれだけ苦しんでいたか、いまになってようやく理解できた気がする」 「校長……」菊池がささやいた。 「今回のことでは、いろいろ教えられたよ。……五十嵐君。きみのお父さんがやったことは、決して正しかったわけではないのだが……。彼をそこまで追い詰めた世間にも責任があるだろう。世間は、彼の訴えに耳を貸さなかった。突飛に思えることでも、可能性を考えてみるべきだった」  五十嵐は首を振った。「父は偏屈者ですから……。人の気持ちもわからないし、身勝手な人物です。理解されないのも当然です」 「そうはいうが……考えてみてくれ、五十嵐君。そもそもお父さんがああいう研究に手を染めたのは、きみがいじめを受けていたからじゃなかったのか? きみをいじめから救いたいと思ったからじゃないのか?」 「……でも、校舎の酸素欠乏症だけが、いじめの原因じゃないはずですけど」 「それはそのとおりだ。しかし五十嵐哲治院長は、可能性の一例をしめしたかったのだろう。いじめっ子も家庭に問題を抱えているとか、心が病んでいるとか、そんな抽象論でなく、脳の物理的な欠陥も疑ってみるべきだと、そういいたかったんじゃないのか。彼は脳の専門家だった。その切り口で考えたことも、あながち突飛ではなかったはずだよ。そうでしょう、岬先生」 「ええ」美由紀はうなずいた。「聡君のために自分ができることは何なのか、お父さんは必死に考えたんだと思います。人格障害も、脳の障害に理由をみいだそうとするのが昨今の医学界の方針ですから……。臨床心理学の見地からも、お父さんの着目した点は間違っていない。いじめという問題をなくすために、いままで踏みこまなかった科学の領域にまで視野を広げていかねばならない。その使命感は、まぎれもなく科学者として正しいものなのよ」 「……そうかな」五十嵐はため息とともに視線を落とした。「まだ判りあっているわけじゃないけど……。少しずつ話しあいをしていきます。父には僕のことも判ってもらいたいけど、僕も父の内面を把握しきれているわけじゃないので……」 「そうね。言葉を交わすことで、その人の真実は見えてくるはずよ。まして親子なんだから……」 「しかし」弘前がいった。「籠城《ろうじよう》の最中、きみら生徒は心神喪失状態ということにされていた。だから必要な単位数を満たしていなくても、卒業できる法的解釈があった。けれども、きみらが正常な判断力を以《も》って籠城していたとわかったいま……」 「そうです」菊池は首を縦に振った。「僕らは、卒業できないでしょう」 「え?」五十嵐が驚いた顔をした。 「でも」菊池は辛《つら》そうな表情を浮かべた。「あのう……。籠城を働きかけた僕らは、罪に問われても仕方がない。いや、言いだしたのは実質上、僕だけです。この五十嵐も、幡野さんも、北原さんも……みんな必要に迫られてついてきただけのことです。僕は落第してもかまわないが、ほかの生徒たちは……」 「菊池君」五十嵐が穏やかに告げた。「そんなこと、いわなくてもいいよ」 「五十嵐……」 「きのう、みんなとも話した。みんな、もう一年同じ学年をやってもかまわないって、そういってたよ。氏神高校国で過ごした日々は、社会人としての毎日を前倒しにして経験したようなものさ。高校生としての三年間は、まだ満了してない。だから、もう一年やってもいいんじゃないかなって、みんなそういってた」 「……そうなのか?」 「うん。だから気にすることないって」  菊池は、校舎を振りかえった。  こちらを見守る生徒たちの表情が、穏やかなものになっていた。なにを話し合っているか、誰もが理解できているかのようだ。  美由紀はつぶやいた。「菊池君。いい友達を持ったわね」 「……はい」菊池は、一瞬泣きそうな顔を浮かべたが、すぐに真顔に戻って姿勢を正した。「仲間ですから……」 「深刻にならないで。家庭裁判所では、きっと情状も酌量される。それに、卒業だって心配いらない」 「え?」菊池は驚きのいろを浮かべた。「どういうことですか?」  美由紀は、弘前を目でうながした。  弘前はうなずき、菊池に告げた。「私が認めるといったんだ。きみらの卒業を……」 「でも……校長先生」五十嵐が戸惑いながらいった。「文部科学省が認める授業の出席日数や、単位数を満たさないと……」 「いいのよ」美由紀はいった。「文部科学省の『高等学校生徒指導要録』にこういう記述があるの。非常変災等、生徒|若《も》しくは保護者の責任に帰すことのできない事由で欠席した場合などで、校長が出席しなくてもよいと認めた日数は、出席に必要な日数から除外される」 「それって……」 「そう。校長先生の裁量で、単位はどうとでもなるの」  弘前は懐から紙片を取りだした。「さっき、そこであわてて書いてきた。用紙もプリンターも校内なんで、必要な設備がないんでな……。こんな薄っぺらい紙と筆ペンで恐縮だが、あとでしっかりした証書を作って交換させてもらうよ。まだ時期が早いが、確約事項として、前もって渡しておきたい。生徒の代表として、受け取ってくれ」  まだ呆然《ぼうぜん》としている菊池の前で、弘前は紙片を広げ、両手でささげ持った。 「卒業証書」弘前は、校内の隅々にまで響き渡る声でいった。「氏神工業高校第三学年。代表。菊池克幸」  菊池は直立不動の姿勢をとった。  喜びに目が輝き、その口もとも自然に緩んでいる。  校舎の窓を埋め尽くす生徒たちから、いっせいに歓声と拍手が沸き起こった。  どの生徒の顔にも笑いがある。勝利を勝ち取った瞬間の喜び。それが全校生徒を包みこんでいる。  どうやらもう、仲裁は必要なさそうだ。美由紀は背を向け、立ち去りかけた。 「岬先生」五十嵐が呼びかけた。  美由紀は足をとめ、振りかえった。  五十嵐は、目に浮かびかけた涙を指先でさっとぬぐって、微笑みとともにいった。「ありがとう。世間が正気に戻ったいまじゃ、僕も二度とトップをとるようなことはないだろうけど……。これで僕らは、自信を持って社会に歩を踏みだせるよ」 「ええ」美由紀も笑いかえした。「うさぎを起こしてレースに負けても、勝者はあなたたちよ。それを忘れないでね。真の勝者には、必ずなれるから」  美由紀はそう告げると、今度こそ踵《きびす》をかえし、氏神高校をあとにした。  立ち去る美由紀の背に、全校生徒の声援がいっせいに飛んだ。感謝を告げる叫び、別れを惜しむため息。それらが混然一体となって、校門へと送りだしていく。  美由紀は空を見あげた。  暖冬のせいか、もう桜が咲き誇ろうとしている。あの生徒たちが世に花を咲かせる日まで、そう遠くもないだろう。 この物語はフィクションです。登場する個人・団体等はフィクションであり、現実とは一切関係がありません。 角川文庫『千里眼の教室』平成19年5月25日初版発行             平成19年6月25日再版発行