[#表紙(表紙.jpg)] 辰巳屋疑獄 松井今朝子 目 次  丁稚奉公  三代目の栄光  愚兄賢弟  焼け跡のなかから  掛屋指南《かけやしなん》  質屋転業  心を学ぶ  一家一門《いつけいちもん》の人びと  学堂始末  囲い者  手代総数四百六十人  遺言状  代判人《だいはんにん》  訴訟開始  勝訴の顛末《てんまつ》  京の夢大坂の夢  大樹の血  江戸の風  公事《くじ》の蠅  大岡|忠相《ただすけ》の憂鬱  裁決の行方  湖畔の晩鐘 [#改ページ]   丁稚奉公  元助《もとすけ》が世間というものと出会ったのは数えで十一歳。時に正徳《しようとく》六年(一七一六)、やがて享保《きようほう》元年に改まる年の春であった。  生まれ育った吹田《すいた》村から向かった先は大坂《おおざか》で、元助を乗せた舟は落花に染められた淀川の水面《みなも》を滑るように進んだ。舟には同じような年ごろの少年がほかに何人か乗っていて、いずれも日ごろの腕白ぶりはどこへやら、横に座った親たちの膝《ひざ》におとなしく手を置いて不安げな表情で行く手を見つめている。  大坂は川と橋の町である。天満橋《てんまばし》、天神橋と大きな橋をふたつくぐって舟は直角に向きを変え、東|横堀川《よこぼりがわ》に入ると岸辺には土蔵の白壁がそそり立ち、がぜん通行人が多くなった。とうとう着いてしまったという思いが少年たちをいっそう無口にさせていた。  川にはところどころに浜と呼ばれる舟着き場があって、乗客はそこでつぎつぎと降りてゆく。舟は東横堀川からまたもや直角に折れて長堀川《ながほりがわ》に入り、西の海へと向かいつつ丸太を山積みした多くの舟とすれちがう。難波《なにわ》名所の四ツ橋を過ぎて、西横堀川へ曲がったところで舟にはほかの乗客がいなくなった。高窓からもうもうと白い水煙を吐きだす銅吹屋《どうふきや》の前を通り過ぎて、木綿橋《もめんばし》が見えたあたりで元助父子はようやく舟を降りた。川に面して建ち並ぶ土蔵と納屋《なや》、どこまでも続く塀を前にして、ふたりはうろうろとあたりを見まわし、通りがかりの人にまず店の入り口をたずねなくてはならなかった。  農家の次男坊として生まれた元助に、丁稚奉公《でつちぼうこう》の話がもちあがったのは去年の暮れのことである。分け与えるほどの田畑《でんぱた》がない農家の弟は、小前《こまえ》百姓の身で兄の居候《いそうろう》として一生を送ることになる。それならいっそ町に出て商家に勤めたほうが将来《さきざき》に希望《のぞみ》がもてる、と勧めたのは遠縁の男であった。  その男はかつて同じ村に生まれ、大坂に働きに出て、今や自身で店を構えるまでに出世していた。黒|羽二重《はぶたえ》の紋付羽織で家を訪れた相手は、薄汚れた野良着《のらぎ》の父と兄にまず気おくれを感じさせた。母はすでに去年の夏、水あたりをこじらせてこの世を去っていた。  立派な身なりの男は自信たっぷりに説いた。 「あのまま田舎におれば、わしも一生汗水を垂らして働かねばならなんだ。店で十年も辛抱すれば、一廉《いつかど》の手代に引きあげられる。そこから先は己《おの》れの才覚と、運しだいじゃ。この子もきっとわしのように店がもてるようになるぞ」  男の語調は実に力強いものがあった。気弱な親父はただただ圧倒されていた。 「可愛い子には旅をさせよという。なまじ親もとで育つと、わがままになるだけで将来ろくなことはない。幼い子を奉公に出すのは酷《むご》いように思うじゃろうが、田舎では商いの知恵づけが出来《でけ》んよって、なるべく早う町に出したほうがええ」  男が奉公先として推奨したのは炭問屋である。炭は米と同様になくてはならないものであり、流行《はや》り廃《すた》りもないから商いとしては本道中の本道だという。  ガスや電気はおろか石炭、石油の使用がない時代、炭は最も質の高い燃料で、日常の暖房のみならず銅や鉄の精錬に不可欠である。この当時はことに精銅が日本最大の輸出品目とされ、銅を精錬する銅吹屋が大坂に集中していた。 「寄らば大樹の陰じゃ。同じ炭問屋でも大きな店に勤めるに越したことはない」  と、さらに男は大坂に十七軒ある炭問屋のうちで最大手と目される辰巳屋《たつみや》を奨めたのだ。  話に聞いていたものの、辰巳屋の宏壮な店構えはあらためて父子をたじろがせていた。遠縁の男は短い添状《そえじよう》をしたためたばかりで、付き添ってはくれなかった。 「ハハハ、寄らば大樹の陰じゃ。なあ、ぼんよ」  と、父は自らの不安を打ち消そうとして倅《せがれ》の肩を抱き寄せる。もしわが子がうまくここにもぐり込めれば、まさに大樹の陰で一生を安泰に過ごせるのだと信じて、ここは勇気を振り絞るしかない。  おずおずと暖簾《のれん》をくぐり、見世庭《みせにわ》と呼ばれる土間で添状を渡して、ふたりは広い板の間の隅で主人があらわれるのを待った。一軒の店に村総出のような大人数が立ち働くさまを見て、父はすっかりたまげてしまい、気おくれが高じてうつむくが、子は初めて見る商家の風景に心を奪われ、持ち前のくりっとした目玉をきょろきょろさせた。  小半刻《こはんとき》ほどして奥から人が出てきたとき、まわりが一斉にお辞儀をしたので父子は板の間に額をこすりつけて平伏した。が、元助はあとになってそれが主人ではなく番頭のうちのひとりだったのを知ることになる。  短い挨拶のあと、父は年季証文《ねんきじようもん》に判を押させられ、それが済むと早々に追い返された。元助は門口に見送りに出ることも許されず、父から受け取った風呂敷包みひとつを抱え、年長の丁稚のあとについて店の奥にある急な段梯子《だんばしご》を昇っていった。段梯子はいったん途切れて、少し離れたところからまた上に続くといったあんばいで、迷路のように入り組み、上にいくにつれどんどん幅が狭く、かつ急になる。  一番上まで昇りきって、きょうからここで寝るようにいわれた場所は、まだ幼い元助でさえまっすぐ立つのがやっとという天井の低さで、縦に細長い屋根裏部屋だ。蓆《むしろ》が敷かれた板の間は広さおよそ八畳分ほどもあろうか。小さな天窓から光りが射し込んで、折り重なった煎餅布団《せんべいぶとん》の横に、自分と同じ年ごろの少年がひとりで座っているのが見えた。 「ここで大勢が寝てるさかい、遅う来た者《もん》はほかの者の邪魔にならんよう、段梯子のそばで寝え」  と案内役の丁稚はふたりに告げて、店にいる丁稚の人数を明かした。店は毎年春に新たな丁稚を迎え入れるが、ふたりは少し遅れて来たらしい。この屋根裏部屋と階下《した》の部屋で寝ている丁稚の数は併せると三十人ほど、成人の手代の数はさらに多いと聞かされて元助は何やらそら恐ろしくなった。  案内役の丁稚が階下に去ると、先に来ていた男の子が立ちあがり、こちらに向かってにっこりと笑いかける。 「わては伊太郎や」  子供ながらに細面《ほそおもて》の切れ長な目をしたはしっこそうな少年で、色が白くて見るからに町の子だ。髪もうしろで束ねただけの元助とはちがい、中剃《なかぞ》りを入れた都会《まち》風の髪型である。  大坂の商家には元助のように近郊の農村から出てきた、いわゆる這出者《はいでもん》と、伊太郎のように家業を継ぐまでの修業として丁稚奉公をする者がいる。いかにも町の子らしい早口で伊太郎に名を訊かれた元助は、「も、も、茂吉」と吃《ども》りがちに答えた。この時点で、元助はまだたしかに茂吉という名前だったのだ。  夕方になって大勢の丁稚がどやどや部屋に戻ってくると、狭い屋根裏部屋はむっと汗くさい、埃《ほこり》くさい臭いが立ちこめて息苦しくなった。先ほどの案内役がふたたびあらわれて、「これを着ィ」と投げだしたお仕着せは、河内《かわち》木綿縞《もめんじま》の洗い晒《ざら》しで、裾《すそ》はすり切れ、膝に継ぎが当たっていた。伊太郎はいまにも泣きそうな表情で、家からの晴れ着を脱いでそれに着替えた。 「そっちの子のあたまはちょっと直せばすむが、こっちはなんとかせんならん」  といいながら、いつの間にか年上の丁稚が剃刀《かみそり》を手にして元助の背後にまわっている。  どこの店でも奉公人は服装と髪型をきめられて、丁稚はたいがい中剃りを大きく入れた刳鬢《くりびん》にして前髪を残し、前髪は束ねてうしろに流すといった髪型だ。似たような髪型でも、主人の子供は束ねた前髪の裾を髷《まげ》の元結《もとゆい》に結びつけ、奉公人は結ばせないなどして厳格に差別した。この夜、元助は水も満足につけてもらえずにぞりぞりと頭を剃られる痛みを堪えた。お古のお仕着せを着せられて、髪型まで直された伊太郎は、ふくれっつらでしゅんとしていた。  十余人もの丁稚は八畳ほどの部屋に折り重なるようにして眠りに就いた。元助は大勢のいびきのやかましさと明日からの不安で、まんじりともせずに一夜を過ごした。  朝まだ暗いうちから皆は起きだして、階下にぞろぞろと降りてゆき、新入りのふたりもあとに続いたが、まだどうしてよいやらわからず、広間の隅に突っ立ったままで初日の時はすみやかに流れていった。 「きょうは小《こ》ぼん様《さん》のお祝いじゃによって、ここを念入りに磨いておけよ」  と、板の間を雑巾がけする丁稚らはさかんに鼓吹《こすい》されていた。  ぼんは少年の愛称だが、主人の息子はぼん様で、長男は兄《あに》ぼん、次男は中《なか》ぼん、末っ子は小《こ》ぼん様というふうに、当人が相当な年齢になっても呼ばれつづけるのが大坂の商家の習わしだ。この日辰巳屋では、十四歳になる三男坊が元服《げんぷく》を迎えた。首《こうべ》に冠を戴き衣服を改めて成人を祝う元服の儀式は公家や武家からしだいに町家に及び、町家では少年の前髪を剃って月額《さかやき》をあらわすことや、嫁いだ娘が眉を剃って歯を黒く染めるのを元服というようになっていた。  ところで元助が奉公にあがった年の夏、年号は正徳から享保に変わり、秋にはいみじくも日本最良の炭の産地である紀州の藩主、徳川吉宗が八代将軍の位に就く。  もっとも商家の丁稚にとって幕府の将軍に当面だれがなろうと知ったことではなかったが、この日に元服した辰巳屋の三男坊とは初手から深い関わりを持つはめになる。幼名を久八といった少年は、元服を機に名を茂兵衛《もへえ》と改めて奉公人の前に姿をあらわした。  元助は大勢の奉公人が集う広間の隅で小ぼん様のご尊顔を拝していた。聞けば自分とわずか三つしかちがわないのに、元服した少年はひどく大人びて見えた。すました顔であたりを睥睨《へいげい》するようなふぜいは、年齢を超えて自分のはるか遠い彼方の人であることを幼な心に知らしめた。  前髪を剃って大きな頭鉢と秀でた額をあらわにした少年は、頬骨の張らぬさっぱりした顔立ちだ。子供ながらに鼻梁《はなすじ》が通って、奥二重の小さな眼と薄い唇がきわめて怜悧《れいり》な印象を与えた。  その小ぼん様が広間から姿を消して、ガヤガヤと一同が腰をあげにかかったとき、やおら小柄な男が前に飛びだして、つま先立ちの姿勢で「若いもんは、ちょっと待ちィ」と、男のわりに甲高い声を響かせた。新入りのふたりは前に呼びだされ、若い手代や先輩の丁稚らに改めてきちんと挨拶するよう命じられた。 「長堀平《ながほりへい》右衛門町《えもんちよう》の但馬屋《たじまや》から参りました。伊太郎でござりまする。皆様どうぞよろしう可愛がって下さりませ」  と、おないどしの子が先にこましゃくれた挨拶をしたあとに、元助はまたしてもうろたえながら「わ、わしは茂吉や」としかいえなかった。  辰巳屋では若い奉公人に「助」の字のつく呼び名を与え、ある程度の年齢になると「助」に代わって「兵衛」のつく呼び名にしていた。武家町家、身分の高下、自らが望むと望まぬとにかかわらず、この時代の人は一生のあいだに名前をいくつも持ってころころ変える。小柄な男は伊太郎に「これからそなたは伊助じゃ」とすんなり呼び名を与えたが、元助が親からもらった名を聞いてウーンと思案の腕組みをした。茂吉が茂助になるまではいいが、年を取ると同世代の主家の息子と名が重なるのは畏《おそ》れ多《おお》いとしながら、男はハタと膝を打った。 「そや、きょうの日を祝《いお》うて、元助がええ」  かくしてひとりの少年が元服を機に茂兵衛を名乗ったがため、もうひとりの少年は思いも寄らぬ名を与えられることになったのだ。 「ええか、元助のモトは元服のゲン、いや、今はまだ元旦のガンというたほうがわかりやすいやろ。よう覚えときや」  元助の肩に手を置いてそう告げた小柄な男の名は宗兵衛《そうべえ》という。  宗兵衛は浅黒い顔で額に太い皺《しわ》が一本くっきりと刻まれている。眉毛が濃くて先がぴんとはねあがり、眼は鋭い刃物のような切れ長だ。分厚い唇が真横に大きく裂けているから、陰では「鰐口《わにぐ》つぁん」と呼ばれていた。黙っているときはそれをぐいとへの字に曲げたおっかない人相だが、そんな男が元助には目を細めて妙にやさしい表情を見せた。 「で、そなた、どこの村から来た?」 「吹田《すいた》村や」 「ハハハ、そうか。わしといっしょで、やっぱり這出者《はいでもん》か。はじめのうちは鈍《どん》くさいというて、町の子にさんざんばかにされるじゃろうが、田舎の子は辛抱強いのが取り柄じゃ。せいだい気張って働きや」  このときの男のやさしい声は長く元助の耳に留まった。宗兵衛はその後もよく元助のからだをつついて「どや、気張ってるか」だの「しっかりせんかい」などと声をかけてくれた。ふだんが強面《こわもて》なだけに、目を細めて元助を見る表情にはなんともいえぬやさしさが滲《にじ》みでた。 「それにしても百姓の子はさすがに色が黒い。おまけに顔がまん丸で、炭団《たどん》を見たようじゃのう」  と宗兵衛が商売物によそえて評した一言によって、元助は仲間うちでガンちゃんと呼ばれ、また陰では炭団といわれるようになった。  色の黒い丸顔で、顔に負けず黒眸《くろめ》がちの眼をしたガンちゃんには、翌日から辛抱の日々がはじまった。表と見世庭の掃き掃除で箒《ほうき》を持つ手はすぐにまめだらけとなり、雑巾の絞り方がゆるいといって年長の丁稚に拳固《げんこ》を見舞われ、拭き方がのろいといって尻をけとばされる。寝る前にはのろまのお仕置きと称して算盤玉《そろばんだま》で剃りたての頭をごりごりされるような毎日だが、辛抱強い子はけっして泣きはしない。というよりも、涙は母が死んだときに涸《か》れ果てたのか、あれ以来ちっとも出てこなかった。  こうした辛い日々がたっぷり二年は続くと先輩に脅《おど》されて、元助はこの町にやってきたことをたぶんに後悔していた。辛抱すれば、やがてあの遠縁の男のように自分で店を構えられるのかもしれないが、それまでの年月はあまりにも長い。  片やわが家でぼん様扱いをされていた伊助も勝手のちがいに悲鳴をあげて、毎晩寝床の中でしくしくと泣いていた。家に帰ろうと思えばすぐにでも帰れる伊助は、ある日ついに店を抜けだしてしまい、翌日親父に連れられて戻ってきた。伊助の親父は辰巳屋から暖簾分けをしてもらって別家《べつけ》のあるじに納まっていたが、本家の番頭はその男を倅《せがれ》の前で子育てが甘いといってこっぴどく叱りつけ、伊助のぼん様気分はたちまち吹っ飛んでしまった。別家の子はかならず本家で修業を積ませるしきたりだから、つまるところ商家の子で丁稚奉公をしないですむのは辰巳屋のような大家のぼん様にかぎられている。  店の掃除がすんだあと、元助たちの居場所は広間の隅ときまっていた。広間には帳場格子《ちようばごうし》が並んで、手代たちはその中で算盤をはじいて帳付けをしている。丁稚はけっして中に入れない。広間の四隅に正座をさせられて、客が来ればすぐに座布団と煙草盆をもって立ちあがる。客だけでなく仕事をしている手代たちにも合間に湯呑みを持っていき、煙草盆の灰《はい》吹筒《ふき》がいっぱいにならないうちに始末する。  手代の上には重手代《おもてだい》とも、番頭とも呼ばれる者が何人かいて、広間の奥にある勘定部屋に何かと集まっては店の仕事について相談している。六畳間のそこは大切な文書類を収めた箪笥《たんす》が壁際に並んで、部屋の掃除はいつも年長のきまった丁稚がやらされていた。  どこの商家でも丁稚奉公は十一歳前後からはじめさせて、まず二年間は掃除ばかりで仕事らしい仕事をさせない。だがこの一見無駄とも思えるような年月に、丁稚は家人と客人をしっかり耳目にたたき込むばかりでなく、子供ながらに人の顔色を窺《うかが》って各人の気性のちがいや互いの駆け引きといったものをおのずとつかんでゆく。こうして幼いうちから大勢の人に揉まれて人情の機微を肌で知ることこそが、商いの道、金もうけの第一歩とされた。  二年たって十三歳くらいになると、ようやく店の使いで外に出される。丸二年ものあいだ店に閉じこめられていただけに、丁稚はみな喜んでお使いに出かける。はじめはちょっとした使いだが、だんだんと高額な金の受け取りをさせるようになる。そうやって幼いうちから金銭を肌に触れて覚えるわけだ。  ところでこの時代は贋金《にせがね》が横行していて、それを見分ける眼力も養わなくてはならないが、何よりもまずお金の種類が多くて扱いが厄介なためにそれを呑み込むまでが大変だ。元助が大坂に出てきたときはまさしく未曾有《みぞう》の通貨混乱期に当たっていたのである。  この当時ふつうに使われる金貨は一両小判と四分の一の額である一分判《いちぶばん》で、これらは形と重量が一定していて扱いやすいが、なまこ形をした丁銀《ちようぎん》と丸い小粒の豆板銀《まめいたぎん》は形や重さがふぞろいでいちいち目方《めかた》を秤《はか》って用いなくてはならない。なおかつ同じ日本のうちでも江戸は金、上方以西は銀の流通がもっぱらで、そのつど両替をする。銀貨は重量の匁《もんめ》(三・七五グラム)で額面をあらわし、当初は金一両が銀五十匁に換算された。これは現代だと十万円ほどの値打ちであろうか。  通貨が混乱したそもそものきっかけは元禄《げんろく》八年(一六九五)の改鋳《かいちゆう》で、金銀の含有率が著しく低下して、激しいインフレが引き起こされた。とりわけ金貨の品位低下は甚だしくて、おまけに金一両が銀六十匁に換算されるようになると、銀遣いをもっぱらにする上方の商家は大打撃をこうむった。元禄から宝永《ほうえい》になると、目方の少ない乾字金《けんじきん》や、きわめて品位が低い宝永二つ宝銀、永字銀、三つ宝銀、四つ宝銀といった悪貨が続々と発行されて、通貨不安にますます拍車をかけるかっこうだった。  高名な学者、新井白石《あらいはくせき》によって通貨の建て直しが図られ、正徳四年(一七一四)から旧に復した良貨が発行されたものの、市中ではかえって悪貨と良貨が混在するという事態を招いてしまう。かくして商家ではそれなりの自己防衛につとめ、四つ宝銀の一貫目(千匁)は品位の高い新銀の二百五十匁に換算するといったぐあいで通貨危機を乗り切ろうとしていたのである。  掛取《かけと》りにいった丁稚が先方から悪貨をつかまされて戻り、手代に叱られているのを元助は広間で何度か目撃した。手代は丁稚をさんざん叱りつけたあとでフンと鼻を鳴らし、 「まあ、しょがない。もとはといえば、お上自ら贋金造りをなさったようなもんじゃ」  とぼやくのだった。  猫の目のようにくるくる変わるお上の政策はあながち信用ばかりもしていられないといった風潮が、すでにこのころから大坂の町を支配していた。  丁稚のお使いは朝から昼までにきまっていた。夕方以降はさすがに物騒なので、使いに出ないかわりに読み書き算盤をみっちりと仕込まれる。  読み書き算盤の優秀な少年は十四、五歳で丁稚頭《でつちがしら》に取り立てられる。丁稚頭は剃り込みを入れた角前髪《すみまえがみ》という大人びた髪型をして、大勢の丁稚の束ね役をつとめたものだ。  十五、六になると若者と呼ばれ、手代に準じた仕事を任されて責任も大きくなる。二十前後で元服して手代になると、さらに十年ほど住み込みで勤めたあと、暖簾分けで別家として独立が許されるか、本家の番頭に納まる。そこまでの二十年が一人前の商人になるためのいわば修業期間であった。  修業を積んで一人前の商人となったあかつきには、立派に家や妻子が持てるようになる。そしてもし運好く大成功を収めれば、百万長者になれるかもしれない。店で働く少年たちはみな心ひそかにそうした夢を描いて日々の辛い勤めに堪えていたのである。 [#改ページ]   三代目の栄光  元禄以前に比べると、このころはさすがに起業家が減って、一代で成り上がる商人は少なくなっている。しかし武士や百姓とはちがい、商いの道は運と才覚しだいでどうにでもなるという気分がまだまだ濃厚だ。大坂ではさまざまな長者伝説がささやかれ、元助らは折にふれて先輩からその手の話をおもしろおかしく聞かされた。  なかでもよく話題にのぼるのは近年の一番出世を謳《うた》われた鴻池屋《こうのいけや》である。丁稚は天満《てんま》方面に使いにいった折などに、その今橋《いまばし》本店の前をよく通っていた。鴻池屋の本店は表間口が九|間《けん》もある巨大な屋敷であった。 「あそこは昔から行儀にうるさいという評判じゃが、奉公人に厳しうしたおかげで今日がある」  と先輩が前置きして聞かせた鴻池屋の出世譚《しゆつせたん》は、商いの道がいかに運に大きく左右されるかという例の最たるものだ。  鴻池屋はそもそも伊丹《いたみ》にほど近い鴻池村に開業した造り酒屋で、その当時はまだ世の中に清酒というものがなかった。あるとき奉公人のひとりが主人と口論して店を辞め、出てゆく際に腹いせで裏口に置いてあった灰を酒桶にぶちまけた。主人は何も知らずに数日たって酒桶を覗いてみたところ、濁り酒がきれいに澄んで、香りも一段とよくなっていた。悪意の灰が図らずも不純物を沈殿させたかっこうで、偶然に清酒を手に入れた鴻池屋は一代にして莫大な財を築くに至った、というような作り話がまことしやかに流れている。  大坂の町に進出した鴻池屋の清酒は遠い江戸の地でも飛ぶように売れた。陸路の輸送では間に合わなくなったので自ら海上輸送に乗りだし、そこからしだいに海運業に傾いて諸藩の年貢の輸送を請け負うようになった。元祖の新六から巨万の富を受け継いだ初代鴻池|善《ぜん》右衛門《えもん》は諸藩に金を貸し出して、金融業者の仲間入りをした。長者とも分限者《ぶげんしや》とも呼ばれた大坂の資産家はたいがいこうして金融に乗りだし、両替屋を兼業するかたちだったのである。  両替屋はもともと文字通り貨幣の両替をするだけだったが、寛永五年(一六二八)に天王寺屋五兵衛が「手形」を考案して金融業の端緒を開いたといわれる。天王寺屋が最初に振り出した手形は現行の預金通帳に似たもので、そこから振出《ふりだし》手形、為替《かわせ》手形、約束手形などさまざまな手形が生まれ、大手の両替屋は手形による金銀の融通をもっぱらとして、本来の両替業務は零細な店だけが行うようになった。金融業者としての両替屋はしだいにその数を増やし、幕府は天王寺屋以下の有力な金融業者を選んで十人両替と名づけ、帯刀を許すなどの特権を与えていた。  ちなみに両替屋は今日の銀行の濫觴《はじまり》ともいえるが、預金にはまったく利息をつけないどころか、顧客が自分のほうから頭を下げて金を預かってもらい、盆暮れの挨拶までしていた。なぜならば、銀貨は高額になると重量がかさんでやりとりに骨が折れ、またあまりにも精巧な贋金《にせがね》が出まわって素人では見分けがつかないために、専門家にゆだねるつもりで両替屋に預けたからだという。  元助が大坂に出てきた当時、鴻池屋のあるじは三代目善右衛門で、今橋に本拠を移して酒屋は廃《や》め、すでに両替屋を本業としていた。  この時代はまた鴻池屋のように急速な発展を遂げた店があるいっぽうで没落する旧家も多く、淀屋の例はその最たるものだ。中之島の竣工と開発に尽力して淀屋橋に名を残した名家は、元助が大坂に出るおよそ十年前の宝永二年(一七〇五)、五代目当主辰五郎の代で没落している。前代未聞の大富豪と謳われた淀屋辰五郎の住まいは大小の書院に極彩色の絵を描いた金襖《きんぶすま》をめぐらし、夏座敷はなんと天井を硝子張りにして金魚を泳がせていると噂された。こうした贅沢三昧《ぜいたくざんまい》が幕府に咎《とが》められ、淀屋は闕所《けつしよ》すなわち全財産没収の処分が下ったのである。  淀屋の没落が教訓となって、この時期の大坂はすでにどこの商家も浪費を忌み、質素倹約を旨としたが、なかでも辰巳屋は質素倹約において人後に落ちない家風がみなぎっていた。  丁稚は毎朝店の表と裏に分かれて掃除をするが、裏には炭俵を大量に収めた納屋があり、納屋のまわりは絶えず藁屑《わらくず》や炭の粉が地面を汚している。元助は初めて納屋のまわりを掃除したとき、チリトリに集めたそれらのゴミをあっさり棄てようとして先輩に頭を強く小突かれた。藁屑は焚《た》きつけに用いるのだという。炭の粉はどうするのかとたずねると、「汝《われ》を作るのやないか」といわれてしまった。  炭の粉を布のりで丸く固めた炭団《たどん》は手焙《てあぶ》り、炬燵《こたつ》、行火《あんか》、香炉《こうろ》に用いるすぐれた固形燃料で、これを製造する業者が炭屋とは別にある。辰巳屋では毎日出るゴミを掃き集め、炭団の原料として業者に払い下げていた。  表の掃除はまず朝の暗いうちに木綿橋まで足を延ばして欄干《らんかん》の隅々を見てまわり、吹き溜まりの紙屑や履き棄てられた古|草履《ぞうり》などを拾い集める。拾い集めたゴミは店と奥の住まいを分ける中戸口に置いた大きな箱に入れておく。ある日その大きなゴミ箱をガサゴソとあさっている男のうしろ姿を見て、元助はてっきり物乞いか何かが無断で侵入したと決め込んだ。 「何してんのやっ」  と箒《ほうき》の柄で尻をぶったところ、相手は笑顔で振り返り、 「こんど来た子ォか」  と鷹揚《おうよう》にいう。元助はあっけにとられて相手の顔をまじまじと見つめた。  丸頭巾をかぶり、袖無し羽織を着て、下男がはくような軽衫袴《カルサン》を身につけた小柄な老人は、からだつきと同様に顔も貧相だった。目鼻はちんまりとして、一面に散らばった茶色いしみに埋もれている。が、耳だけは異様に目立つ福耳で、眼は小さくとも力強い光りがあって黒眸《くろめ》がいきいきと躍っていた。 「これはまだ鼻緒《はなお》をすげかえたら十分はける」  と、手に汚い下駄をぶら下げたその老人が辰巳屋の隠居とあとで知って元助は仰天した。  辰巳屋の隠居、休貞《きゆうてい》を名乗る老人は家一番の早起きで、丁稚とよく顔を合わせていた。朝起きるとすぐにゴミ箱の中を覗いて少しでもましなものを選びだす。鼻緒をすげかえればなんとかなりそうな下駄や草履を自ら履く。休貞の吝嗇《けち》ん坊《ぼ》ぶりは近所でも評判で、大家《たいけ》のご隠居が何もあそこまですることはなかろうとの声があがるいっぽうで、それだからこそ辰巳屋が栄えたのだとする見方も多かった。家が繁栄するかどうかはよく三代目の肩にかかっているといわれるが、辰巳屋もまた隠居の休貞、すなわち三代目|久左衛門《きゆうざえもん》がほとんど一代で巨万の富を築きあげている。  ところで辰巳屋の創業者は鴻池屋と負けず劣らずのふしぎな好運に恵まれた伝説があった。もとは尻無川《しりなしがわ》の河口にほど近い辰巳村で渡し船の船頭をしていたという。  ある年の暮、日向《ひゆうが》の国から来た乗客が船に財布を落としていった。日向の国は古くから木炭の産地で知られ、その乗客も大坂で炭を売りさばいて帰国する途中だった。翌年、たまたま同じ乗客を迎えた初代の久左衛門は、手をつけずにしまっておいた財布を正直に差しだした。相手はいたく感激して謝礼金を出そうとしたが固辞したため、ならばというので帰国後に大量の炭を送ってよこし、初代に炭屋への転業を勧めた。  辰巳屋の初代はこうして正直が資本《もとで》で炭屋になったといわれている。それゆえに、商人は何よりもまず正直であらねばならぬ、というのが辰巳屋の家訓であった。  二代目には跡継ぎの男子がなく、同業者の木津屋《きづや》から迎えられた養子が三代目の休貞である。  商家は武家ほどきっちり定まっているわけではないが、概ね長男が家督《かとく》を相続して次男以下は分家する。さほど財産のない家で兄弟が多い場合は分家が難しく、そうなると長子以外は奉公人となるか、敷金《しきがね》を持参して婿養子になるしか道がない。木津屋の四男に生まれた休貞は早くに家を出て姉の嫁ぎ先の河内屋《かわちや》でしばらく勤めていたが、世話する人があって二代目辰巳屋久左衛門の娘と縁を結んだ。  休貞が辰巳屋に婿入りしたときの敷金はわずか銀五貫目で、持参した道具も五|荷《か》だったというのは近所や同業者のあいだの語りぐさだ。さほど少額の敷金では婿に入ってから遠慮が絶えなかったにちがいなく、大坂一の炭問屋となった今でも苦労人の面影が消えないのはそのせいだろうといわれている。もっとも同じ男が娘を嫁にやるときは五百両の持参金と五十荷の嫁入り道具を持たせたのだから、それだけでも当人の実力がわかろうというものだ。  養子は自分の代で財産を減らすわけにいかないから何事にも倹約を心がける。また昔からいる家人に大きな顔をするために独力で財産を殖《ふ》やそうとする。辰巳屋が大きく伸びた理由は、三代目に養子というかたちで他家から優秀な人材を迎えたからにほかならない。  とはいえ、いかなる商売も業界一となるためにはここ一番という勝負どころがなくてはならず、辰巳屋には五年前の正徳元年(一七一一)にそれがやって来た。  この年は日本が八度目の朝鮮通信使を迎えており、来日した総勢四百九十七名の一行は九月十六日に大坂に入港し、京に向かうまでの十日間を御堂筋本町《みどうすじほんまち》にある本願寺北御堂の津村別院で過ごしていた。台風の当たり年でもあり、通信使の一行は大坂に到着するまで何度も不便な島での待機を余儀なくされたが、それはほんの些細な出来事で、海上輸送が頼みの綱であった当時において、台風の襲来はあらゆる物資の供給を滞らせることになる。  この年はまた台風の前に春から夏にかけて雨が異様に多かった。休貞は毎朝きょろりとした目つきで暗い空合いを眺めながら、 「わしはこの世に生まれて五十年以上になるが、どこまでが春の長雨で、どこからが五月雨《さみだれ》か、見分けがつかんような年は初めてじゃ」  と洩らし、さっそく例の大きな福耳に各地の話を仕入れた。  この当時、西日本の炭の産地として名高いのは紀州、日向、肥前の三国。ほかにも樫《かし》を焼いた上質の炭の産地には土佐があり、阿波、安芸、伊予は雑木の炭で品質がかなり落ちるとされた。大坂近辺には摂州池田、泉州横山、河内の光滝《こうのたき》、狭山といったところが茶の湯に用いる枝炭の産地として知られた。休貞はまずなるべく多くの産地の噂を耳に入れようとした。  炭を製造する前には生木をしっかり乾燥させるから、炭焼き窯のある山地で雨が降り続けば生産が立ち遅れ、出来た炭もまた水に濡れると出荷ができなくなる。したがって雨量は炭の供給量に大きく関わってくる。  いっぽう炭の需要は季節によってかなりの差がある。陰暦十月から翌二月までの冬季は当然ながら需要がぐんと高まるから、お盆過ぎから秋口にかけてが小売商の仕入れ時期であり、勢い問屋の入出荷は五月末から六月にかけての盛夏が勝負となる。  辰巳屋は創業時の縁でもっぱら日向から仕入れていた。炭問屋はいずこも山手金《やまてきん》と称する前渡し金を貸し付けて炭山を抵当《かた》に取り、集荷時に精算する方式で商品を確保しているが、休貞はこの年、それまでの蓄えを吐きだすばかりでなく借金までして山手金をたっぷり用意した上で手代を日向に走らせ、買い手のついていない炭山を片っ端から押さえていった。  各地の炭は五百石積みの巨船で入津《にゆうしん》する。輸送の運賃は一俵につきその値段のほぼ二十分の一程度と定まって、これも問屋側の負担である。大坂に入津する炭は毎年およそ百五十万から二百万俵で、大坂側の荷主がいない炭は糶売《せりうり》となり、休貞はそこにも乗りだして買い占めを図った。 「武士は戦場で命を的《まと》に手柄を立てる。商人でもここぞというときに命を張らんでどうする」  と、ふだん慎ましすぎるほどの暮らしをする男には似合わない激しいせりふが飛びだして、辰巳屋は博奕《ばくち》にも等しい、伸《の》るか反《そ》るかの大勝負に打って出たのである。  ほかの炭問屋もただ手をこまねいていたわけではない。だが遭難した船や、水浸しで使えなくなった炭俵を抱え込んだ問屋が数あるなかで、辰巳屋は奇蹟のように船のほとんどが難を免れ、九月には炭を豊富に所有する数少ない店の一軒となっていた。  加えて朝鮮通信使の一件では地の利がものをいった。辰巳屋の店がある木綿橋西詰と御堂筋の津村別院は指呼《しこ》の間で、西横堀川によって水運の便がいい。舟に満載の炭俵が続々と津村別院に運ばれて、辰巳屋は幕府の出先機関である大坂町奉行所の信用を得た。炭を買い占めて得られたのはむろん役人の信用ばかりではない。実入りも十分にあった。  秋から冬にかけて炭の相場は高騰し、辰巳屋は一俵につき四つ宝銀で五|分《ぶ》の利益を得た。日向炭の値段は一俵あたり四|匁《もんめ》。それを四匁五分に売った勘定で、単価にしては小さいが、二十数万俵を売りさばいたもうけは莫大となって、いっきに数ある炭問屋の先頭に躍り出たのである。  果敢な采配《さいはい》を振るって巨利をもたらした辰巳屋三代目の久左衛門は、去年、還暦を機に楽隠居をして休貞と名乗り、家督を長男に譲っている。  妻に先立たれた休貞は息子三人娘一人、合わせて四人の子持ちだったが、娘はすでに内本町《うちほんまち》の古道具屋に嫁ぎ、次男は実家の木津屋を継いでいた。家にいるのは長男の現当主四代目久左衛門と三男坊の茂兵衛《もへえ》少年ばかりであった。  元助が店に来たとき、四代目久左衛門は弱冠二十歳の青年で、まだお飾りの当主にすぎず、仕事はほとんど店の者にまかせきりで、番頭たちは肝腎な決断になると隠居の休貞にお伺いを立てていた。父親とは似ず、長身で色白のふっくらした顔立ちの青年は店にもあまり姿を見せなかった。  休貞が若いころは絹物をいっさい身につけず、手代と同じような河内《かわち》木綿《もめん》の地味な縞物を着て、小倉の帯をきゅっと締め、どんなに寒い日でも革足袋《かわたび》をはかなかったという。しかしそうした苦労を息子たちにまで押しつけたりはしない。むしろ成り上がりにありがちな話だが、息子が多少の贅沢《ぜいたく》をするのは分限者らしい振る舞いと大目に見て、結句それが裏目に出たふしもある。  家にいてもさしてすることのない久左衛門は常に洒落着を身につけて、俳諧連歌の輩《ともがら》と物見遊山《ものみゆさん》に出かけてしまい、夜は夜で遊廓通いにいとまがない。毎晩わが家の前に横づけされる迎えの舟は、わずか三つの小橋をくぐっただけで新町にたどり着く。土手に降り立って大門をくぐれば、そこはこの世からなる男子の極楽浄土であった。  新町の北通りを走る九軒町《くけんちよう》の井筒屋という揚屋《あげや》が久左衛門の定宿だ。そこに大勢の仲間を招待して夜遅くまで遊興にふける。そのあとは中扇屋《なかおうぎや》の名妓、花頂太夫《かちようだゆう》と明け方まで過ごし、淫に窶《やつ》れてぼうっとした顔で帰宅する日が少なくない。  辰巳屋の金蔵を預かる番頭は、ある節季日に井筒屋の勘定書を受け取って腰を抜かした。二タ月でざっと十貫目近い銀《かね》が費やされたのを見ては、もう放っておけなかった。ほかの番頭らと鳩首談合《きゆうしゆだんこう》に及び、いっそ花頂太夫を身請《みう》けして囲い者にしてはどうかという案が出た。身請金がいくら高くついても、この先ずっと散財されるよりはましだという考え方である。さっそくそれを報告したところ、休貞はさすがに顔色を変えた。当主は仲間内の付き合いが大切だから、見栄で金をばらまくのはあるていど認めるとしても、女に溺れて金を遣うのではまったく話にならない。  久左衛門は辰巳屋の当主になってすぐに油問屋の森田屋からおみつという嫁を迎えている。おみつはかぼそくて見るからに虚弱な女であり、よく気分が悪いといって寝所に引きこもる。気ぐらいが高くて潔癖な性分らしく、あるとき夫が虎屋の饅頭をむぞうさに手で割って与えたところ、汚らわしいといった顔つきで断じて受け取らなかったのも休貞は目にしている。夫婦仲のよかろうはずはなく、倅《せがれ》の気持ちもわからないではないが、さりとて成り上がりの家が腰を低くして旧家から迎えた嫁をあっさり離縁するわけにはいかない。あの嫁なら夫が遊女を身請けしたことを理由に実家へ戻りかねないし、そうなればまた実家が黙ってはいないだろう。  この日の夕方、広間にいた手代らが帳付けを済ませ、交替で夕飯にありつこうと腰を浮かせたところへ、久左衛門が例によって鼻唄まじりで見世庭《みせにわ》を通りかかると、 「待ちおれ。おのれ、どこへゆくのじゃっ」  突然の落雷が人びとをびくっとさせた。手代や丁稚はみな呆然と声のした方角を見ている。日ごろ好々爺《こうこうや》の顔しか見せていないご隠居が、別人のごとく険しい形相で勘定部屋の前にいた。 「わしに御用でござるか」  と、久左衛門は口をとがらせて不服そうないい方をした。いかに相手が親父とはいえ、一家の主人たる者が奉公人の前で怒鳴りつけられるのは心外だという顔つきである。が、さらにきつい口調で「ここへ直れ」と命じられると、見世庭からゆっくりと板の間に上がって親父の前でおとなしく膝を正した。親父は立ったまま倅を見下ろすかっこうだ。 「話はすべて聞いた。女郎に溺れた穀潰《ごくつぶ》しに、もうこの店をまかせておくわけにはいかぬ」  久左衛門は父の言葉にがぜんうろたえた表情だ。いつの間にか休貞の横には何人かの番頭が膝を並べている。観念したようにうなだれて、「これにはちょっと……」といいかけたら、小柄なひとに似合わぬ親父の大声がそれをさえぎった。 「いいわけを聞く耳は持たぬ。おのれは久離《きゆうり》を切っての勘当じゃっ」  久左衛門はまさかといった顔つきで媚《こ》びるような薄笑いを浮かべた。が、休貞は取りつく島のない表情で河内縞のお仕着せをぽんと前に放りだす。 「それに着替えて、さっさと家を出てけっ」  と、こんどは横の番頭を顧みて、倅の着物を剥ぎ取るよう命じる。とたんに久左衛門の顔色がさあっと青くなった。  久離を切った勘当とはただの脅し文句ではない。町奉行所で帳付けされて戸籍から削除されたも同然で、財産が相続できなくなるばかりか、他の職にも就けず放浪するよりほかなくなるのだ。 「勘当を嘘じゃと思うな。おのれがいなくなっても、わしにはまだ倅がいる」  この言葉を聞いて久左衛門はますます青ざめた。いつの間にか弟が父のそばに来て兄貴を見下ろしているではないか。  茂兵衛少年はこのときえらくすました顔で立っていた。大人びた無表情は肚《はら》のなかで兄を強く蔑《さげす》んでいるかのように見えた。  奉公人たちが凍りついて見ている前で、久左衛門は唇を噛んで震えていた。やおら床に突っ伏して嗚咽《おえつ》を洩らしはじめたとき、一番年かさの番頭がそろそろと進み出て、休貞の前に両手をつく。 「大旦那様に申しあげます。若旦那様がこうおなりあそばしたのは、われらが目の不行き届きでござります。悪いのはすべてわれら奉公人じゃと思《おぼ》し召《め》し、何とぞ若旦那様の御勘気をお解きくださりますようお願いを申しあげます。この後は、若旦那様も廓《くるわ》通いをお控えあそばし、かならずや商いの道に精を出されるかと存じまする」  と、最後は休貞にではなく、久左衛門にいい聞かせるような調子である。これに続いてほかの番頭たちが一斉に両手をついて「何とぞお許しを」と哀れな調子で声をそろえた。 「左様にそなたらが詫びを入れるなら、勘当だけは許してつかわす。ただし今後は主人をしっかりと守《もり》して、二度と斯様《かよう》な不始末をしでかさぬように致すがよい」  休貞は番頭を叱りつけて倅をしぶしぶ許すといったふうで、目のふちを赤くした久左衛門は番頭たちひとりひとりの手を握って頭を下げるのだった。  元助は広間の隅でこの一部始終をあっけにとられて見ていたが、後になって、ふと芝居の一場面のように想いだし、なるほどあれはご隠居様が番頭と組んで打ったひと芝居だったのだと自身で気づくに至った。隠居は若旦那が番頭を信頼して素直にいうことを聞くようにしむけたのであり、たいがいの商家でこの手の俄芝居《にわかしばい》が一度はあることを元助は後年になって知った。 [#改ページ]   愚兄賢弟  俄芝居が功を奏して、次の日から若旦那は店にいることが多くなった。番頭らも扱いやすくなった主人に店のことを何やかやと教え、辰巳屋の経営は休貞の手からだんだんと離れて四代目|久左衛門《きゆうざえもん》が真のあるじとなる日も近いと感じられた。若主人の夫婦仲は相変わらずよくなかったが、逃げ場のない夫は努めて妻のご機嫌を取るようにしていた。  こうした主人一家のありさまは元助にはまだ無縁の話である。なにせ相手は丁稚《でつち》が直《じか》に口をきけない雲の上の人びとなのだ。ところがある日、その雲の上から突然にお声がかかった。  煙草盆の始末をしていたところにまず「よう気張っとるか」と親しげに背中を叩くのは宗兵衛だった。鰐口《わにぐち》の強面《こわもて》が目を細めてちょっと話があるという。何事かと思って聞いたところ、例の茂兵衛《もへえ》少年が読み書きを教えてくれるとのことだ。元助は目も口もまん丸に開けてしばし黙り込んだ末に、 「小《こ》ぼん様《さん》が、このわしに、でござりまするか?」  と、おずおず訊いた。一年近く商家に勤めたおかげで、言葉づかいはかなりまともになっていた。 「丁稚ならだれでもええという話やったで、わしはそなたを薦《すす》めたのや。丁稚の時分から可愛がってもらえば後の出世につながる。そなたは町の子ほど知恵がなかろうし、この際じゃから、なんでもよう教わるがよい。なにせ小ぼん様は神童じゃ」  と鰐口がいうように、小ぼん様は見かけ通りの賢い少年だった。  この当時まだ寺子屋の数は少なく、近所には一軒しかなかった。小ぼん様はそこで十歳のころから師匠に代わって教えるときもあったという。十二歳で師匠に何も教えることがなくなったといわれて、自宅で独学をはじめた。隠居の休貞《きゆうてい》は年取って出来たこの末っ子を孫のように可愛がり、日ごろの吝嗇《りんしよく》に似合わず高額な和漢の書物をたくさん買い与えている。  商人が学問をして何の得になろう、と兄の久左衛門がからかったとき、弟は即座にこう切り返していた。 「左様なことをいうておるから、とかく商人《あきんど》は武家に蔑《さげす》まれるのではござりませぬか」 「おのれは恐ろしいことをいうやっちゃのう。ゆく末が思いやられる」  と、兄は疎《うと》ましい目で弟を眺めたものだ。  女遊びにうつつを抜かした兄とはひと味ちがった弟だが、暇を持て余す身は同じである。学問に凝っておかしなことになられる前に、丁稚を相手に寺子屋ごっこをやらせようと周囲が巧みに持ちかけたのである。  この利発者の末っ子が跡継ぎならばという気持ちを、休貞はしばしば周囲に覗かせていた。もしそうなれば、辰巳屋はさらに大きくなるだろうと考える番頭もなかにはいた。ただし長男がよほどの呆気《うつけ》でもないかぎり、それをさしおいて三男坊が家督を相続することはまずない。 「いずれはご分家となられる身の上じゃが、ご隠居様の血を一番よく引いておられるお方だけに、ご本家をしのぐ勢いになられるかもしれぬ。そなたも今のうちにしっかりと顔を覚えてもろたがよい」  宗兵衛は元助にそう諭すかたわらで、小ぼん様には次のように紹介していた。 「這出者《はいでもん》で鈍《どん》な子でござりまするが、いくらきつうお叱りなされてもへこたれませぬ。せいだい厳しう仕込んでやってくださりませ」  つまりは自分と同じ田舎出の少年の立身出世を図ってやろうとするいっぽうで、主人の息子のおもちゃになるには辛抱強い子でないとつとまらないとの判断が働いたようである。  次の日の朝、元助は掃除を済ませてから宗兵衛のあとについて奥の縁側に足を運んだ。中庭で淡い陽の光りを浴びたみごとな紅梅を眺めるゆとりもなく、少年はただ前を歩く男の背中だけを見つめていた。が、頼りとするその男は離れ座敷の前で立ち止まると、障子の内にほんのひとことふたこと告げただけで姿を消した。  障子の内があまりにもきれいな畳座敷だったので、元助は自分の汚い手足を気づかいながら恐る恐る膝を進めた。座敷の真ん中にはこれもきれいな黒塗りの文机《ふづくえ》と、粗末な天神机が向かい合わせで置いてある。床の間に近い文机の前に、若い師匠が胸を張って座っていた。  茂兵衛はすでに去年の春に元服して成人の容儀《かたち》をとるとはいえ、自分とは三つしかちがわない。元助は宗兵衛に教えられた通りその相手に向かって「お師匠様よろしうお頼み申しまする」といって両手をつく。それがばかばかしいと思うほど世間ずれしていなかったせいもあるのだが、相手があまりにも大人びて見えるために、元助は本気で寺子屋の師匠にいうような挨拶をしてしまった。これにすっかり気をよくした小ぼん様は鷹揚にうなずいてみせる。  人に一生の出会いというものがあるとするなら、ふたりにとってはまさしくこの時がそれだろう。元助は両手をついたままで顔をあげ、師となる少年の秀でた額をまぶしそうに仰ぎ見た。相手はこれを見下ろすかたちで、炭団《たどん》のような顔にじろじろと見入り、黒眸《くろめ》がちの澄んだ目と目が合って、唇をかすかにほころばせた。 「そちは文字が読めるであろうな」  師匠にまずそういわれて弟子は「へいっ」と威勢よく返事をしたが、ならば声を出してそれを読んでみよ、と机の上を指さされて大いにうろたえてしまう。机には一冊の本が載っていた。文字が読めるといっても、村の和尚《おしよう》にイロハを習い、町に来て数字の壱弐参がやっとわかるようになった程度である。本の表紙に書かれた「実語教《じつごきよう》」の文字はむろん読めない。中を開けても漢字だらけで呆然とするばかりだ。ひとまず学力を試すつもりで、自分が寺子屋で使った易しい教本を与えた茂兵衛も、これには驚いた様子である。 「大きいなり[#「なり」に傍点]をして、左様なやさしい漢字《からもじ》も読めぬのか。不憫《ふびん》なやつじゃ」  けっしてばかにしたのではなく、心から同情したようにいって、茂兵衛は手にした本を朗々と読んで聞かせた。 「山高きが故に貴《たつと》からず、樹有るを以《もつ》て貴しと為《な》す。人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴しと為す。どうじゃ、意味はわかるか」  元助は団栗眼《どんぐりまなこ》を見開いてぶるっと首を振る。それがよほどおかしかったのか、茂兵衛は一瞬くすりと笑った。が、すぐ真面目な顔に戻る。 「わしはたまたま裕福な家《うち》に生まれた。おのれはたまたまその家の奉公人となったが、卑下はするまい。人の値打ちは金があるかどうかできまるのではない。これからは商人もただ金もうけをするだけではならぬ。智識を身につけて、世に敬われる人となれるよう、ここで共に学ぼうではないか」  茂兵衛がいう意味を元助は半分も理解できなかったが、その気持ちが真剣であることだけは感じ取れた。熱っぽい口調で奥二重の小さな眼をきらきらさせる少年を見て、元助もまたつぶらな眸《め》を輝かせている。  ふたりはこのとき主従の因《ちな》みに加えて、師弟の契りを結んだ。後に茂兵衛が木津屋吉兵衛《きづやきちべえ》と改名してからも、元助は初対面で聞かされた言葉を忘れなかった。  しかしながら、いざはじめてみれば、ふたりの寺子屋は当人たちにとってかならずしも居心地のよい場所とはならない。弟子は半年かかって「実語教」一冊さえあげられずにいた。毎朝早くからこき使われているせいで、いつも教わりながらうとうとする始末である。  いっぽう師匠は気を昂《たかぶ》らせやすいたちで、弟子をおおげさに誉《ほ》めるかとみれば、ときに癇癪《かんしやく》を起こして「阿呆めがっ」と殴りつけ、重い机を背中にくくりつけて立たせるといった罰まで与える。弟子は泣きもせずに我慢するから師匠はどこまでも厳しく責め立てる。元助はまるで折檻《せつかん》を受けるために読み書きを習っているようなもので、はじめに宗兵衛がにらんだ通り、根が辛抱強いたちだからこそなんとかもちこたえているのだった。  だが茂兵衛にとってこれは遊びでなく、ましてや奉公人いじめのつもりではまったくない。自分がものを学び、他人にも学ばせたいという願望に嘘はなかったが、裕福な少年はそれを成し遂げるだけの辛抱が足りず、熱意は常にからまわりしてしまう。何か少しでも自分の気に入らないことが起こると、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に青すじが立ち、薄い唇が歪む。この癇癖《かんぺき》の表情もまた後年に至るまで変わらなかった。  主人の息子に読み書きを教わるいっぽうで、元助は毎晩眠い目をこすりながら教わることがまだある。これは大勢の仲間と一緒に教わるのだが、その苦痛はひとりのときにまさるともいえた。  町の子とちがい、算盤《そろばん》というものを初めて手にした元助はまずそれを使いこなすまでが大変だ。やっと足し算引き算ができるようになっても、そこから先がもっと難しく、かけ算の九九まではまだよかったが、八算《はつさん》にはほとほと参ってしまった。「二一天作五《にいちてんさくのご》、九引《くつちん》が三引《さつちん》、六引《ろつちん》が二引《につちん》」という珍妙な唐語《からことば》でするわり算は、常に金銀銅貨の両替をしなくてはならない時代にあって、かけ算にまして欠かせないものである。  算術を教えるのはこれまた元助の少し年上でしかない平助という少年で、才がはじけたところを見込まれて丁稚頭《でつちがしら》をつとめている。角前髪《すみまえがみ》の髪型で鉢の開いた頭を誇示する少年に、幼い丁稚はみな尊敬の眼差しを送っていた。  時に平助は「塵劫記《じんこうき》」という算術書を元にして、炭問屋にふさわしい堅炭の原木を使った難問をひねりだす。 「ええか、姥目樫《うばめがし》が二本、櫟《くぬぎ》が五本で合わせて銀百九十四匁。姥目樫五本と、櫟四本では二百六十五匁七分。されば姥目樫十本では?」  というような元助が聞いているだけでも気が遠くなりそうな難問に、「へいっ」と勢いよく返事して真っ先に顔をあげるのは隣りに座る伊助であった。御名答をして周囲の賞賛を浴びる伊助にひきかえ、元助はごく簡単なわり算ですら間違ってしまい、「阿呆かっ」と一喝されて皆に嗤《わら》われる。「この、どん百姓がっ」と、平助は這出者にいつも軽侮のせりふを浴びせた。 「かりにも商人になろうという者《もん》が、算用くらい出来《でけ》んでどうするのじゃ。出来るまで寝かせてやらんからそう思え」  と叱られて、土百姓の小倅はただでさえ短い眠りがさらに短くなるのに堪えなくてはならない。  かくして元助は昼は昼、夜は夜で惨めな思いにさせられて、しょんぼりとうなだれる日が多い。自分が将来一人前の商人になれるかどうかも不安である。さりとて、もう田舎に逃げて帰りたいとは思わなかった。何くそ今に見ておれ、というような負けん気がことさら強かったわけではない。ただ町の子に比べて心の動きはゆっくりとしていたが、けっして愚かではなく、根気と粘り強さは人一倍で、宗兵衛の見込んだ通り、何があってもへこたれず、人前で涙はまったく見せなかった。なんでもはじめのうちさえ辛抱すれば、だんだん慣れて平気になるのを知っていたし、どんな仕事をしても辛いのは同じだと、幼な心に悟っていた。  夏になると丁稚は店の裏を日に何度も掃除させられる。裏にはずらりと納屋《なや》が並んでいる。納屋の中には上質の炭が入れてあり、入りきらない炭俵は外に山積みされている。湊《みなと》から上荷舟《うわにぶね》に積んでここに運ばれてきた大量の炭俵は、茶舟に小分け積みされてまたどこかに運ばれてゆく。荷揚げが多い真夏は納屋のまわりをいくら掃いてもすぐに藁屑《わらくず》が散らばった。  炭俵の大きさは産地によってまちまちながら、小さいものでも四貫目、大きいと六貫目からの重さがある。そうした重荷を運ぶのは日雇いの仲仕《なかし》であった。  薄い帷子《かたびら》を着た仲仕は常に両肌《もろはだ》を脱いで日焼けした上半身をさらしている。筋骨たくましい若い男たちばかりでなく、なかには白髪まじりの頭で肩にこぶができ、首の骨が歪んでいる者もいた。かんかんと照りつける日射しの下、重たい炭俵を肩にかついで桟橋と納屋のあいだを何度も往復させられている姿を見れば、元助は自分たちがよほど楽をしているように思えるのだった。  はじめにだれがいいだしたのか、幼い丁稚のあいだでは恐ろしい噂が流れていた。この店では昔から丁稚が毎年ひとり神隠しにあったようにいなくなる。それは空《あ》き俵《だわら》に押し込められてさらわれ、どこか遠い土地に連れていかれて仲仕にされるのだという。元助はその話を聞いてすっかり怯《おび》えてしまい、掃除をしているときに仲仕と目を合わせるのも怖くなった。  一番怖いのは特牛《こつてうし》の次郎兵衛《じろべえ》と呼ばれている頭《かしら》で、あだ名の通り猛々しい牛のごとき容貌をしていて、自らは荷運びをせず、炭俵の上にどっかりと腰を据え、割竹《わりだけ》で地面を叩いて手下の男どもを急《せ》き立てている。丁稚がちょっとでも荷運びの邪魔になりそうだと遠慮なく突き飛ばす。  この日、元助は当番でひとり残されて箒《ほうき》やチリトリのあと片づけをしていた。すると目の前を流れる川に女がひとりで乗る舟が見えた。田舎はともかく、町なかで女が舟の棹《さお》を操る姿はめずらしい。ぼんやり見とれていると、その女は辰巳屋の桟橋で舟を降りてこっちに向かってきた。  元助はその顔をまじまじと見た。今まで見たことがないような美しい女は、手に何やら小さな包みを提げて、左右を見まわしながら足をまっすぐこちらに運んでくる。裾《すそ》を大胆にからげていて、ときどき脚が膝の上まであらわになる。涼しげな羅衣《うすぎぬ》を素肌にまとい、豊かな乳房のかたちや桜色した乳首まで透けて見える。元助は幼な心に胸騒ぎがした。 「あかん。こっち来たらあかん」  とっさに大声で叫ぶと、女はかすかに首を曲げて立ち停まる。ぽってりした紅い唇から白い歯がこぼれた。 「若い女《おなご》がひとりでこんなとこへ来たらあかん。あいつらに何されるかわからへん」  ますます近づいてきた女に元助は声をひそめるようにしていった。 「ぼんは、ここの丁稚さん?」  女は少年の声を耳にも留めず一向に平気な顔だ。元助は懸命に声をふりしぼる。 「早よ逃げなあかん。あいつらは悪いやっちゃ」  女はますますふしぎそうな顔をする。 「悪いやつて、だれのこと?」 「悪いやついうたら、悪もんのこっちゃ。早よ逃げな、悪もんにやられる」  甲走った声で元助はもう自分でも何をいっているのかわからない。と、そのとき背後で野太い声がした。 「おい坊主。悪もんとは、いったいだれのこっちゃ」  元助は自分で振り返って見る勇気がない。着物の襟《えり》をつかまれて、からだが宙に持ちあがり、首をうしろに向けられると、そこに恐ろしい特牛の顔がある。小便を洩らしそうになりながら観念した。このまま自分は空き俵に詰め込まれてどこかに連れてゆかれ、一生辛い仕事をさせられるのだ、と。 「かわいそやないの。兄《あに》さん、手を放しておやりィな」  女がいうのを聞いて、急に目の前がくらくらした。襟髪から手が放されて、地面にばったり倒れ伏し、「おい、大丈夫か」という男の声と、自分のからだをやさしく抱き起こす女の心配そうな声を耳にした。  美しい女と特牛の次郎兵衛が実の兄妹であると聞かされても、元助はたやすく信じられなかった。片や肌は赤銅色《しやくどういろ》で、顔は頬骨が出っ張って、太いげじげじ眉に、獅子《しし》っ鼻《ぱな》、口が大きく横に裂けている。片や色の白い瓜実顔《うりざねがお》で、くっきりした二皮瞼《ふたかわめ》とぽってりした唇がなんとも愛らしい。たまたま妹は兄が忘れた弁当を届けに来たのであった。  この一件がきっかけで元助は特牛の次郎兵衛と打ち解けて、仲仕の連中をそう悪くは思わないようになった。そしてこれがまた後に長く続くお照兄妹との縁のはじまりだった。  お照はいい匂いがする。ツツジの花のようや、と元助は思ったものだが、はてさて肝腎のツツジがどんな匂いだったかはさっぱり想いだせない。ただ花びらに包まれた雌しべの根もとの甘さだけが心に強く残っている。  茂兵衛少年に従《つ》いて学ぶ離れの部屋では、手入れのゆき届いた奥庭がよく見える。庭の隅に植えられたツツジが満開になったとき、元助は連れられてそっと庭に降り立った。 「ええこと教えたる。これの先っちょを吸うてみい」  と、師匠はめずらしく子供っぽい口調で、紅い花をむしり取って弟子に渡した。  甘味といえば、手代がくれた残り物の饅頭を、仲間と喧嘩しながら分け合って、ほんの芥子粒ほどの餡《あん》を口にしたていどだから、花弁の根もとを吸ったときの感激は忘れがたい。それは弟子が師匠のありがたみを文字通り味わったときでもある。  しかしツツジにうっかり手を伸ばすと、葉のうぶ毛が肌にまとわりつくので、 「べたべたしよって気色悪い。まるで女《おなご》のようじゃ」  と師匠がうるさそうにいったのも耳に残っていた。  お照にツツジの花を感じたのはそういう理由かもしれない。  お照がツツジなら、御《ご》寮人様《りよんさん》は松葉や、と、元助はこれまた幼な心に思ったものだ。  御寮人様と呼ばれる当主の若妻はめったに店に姿をあらわさないが、離れに出入りする元助はしばしばお目にかかる機会があった。  離れの横は主人一家が住まう母屋で、そこには女中たちもいっしょに暮らしている。女中たちのあいだで元助は「気の毒な子ォ」で通っていた。それはあの鰐口の宗兵衛が、「小ぼん様にきつう折檻《せつかん》されよって、ほんまに気の毒な子ォでござります」と隠居の休貞に訴えたところによるものだ。訴えを聞いた父は息子にこんこんと意見をして、女中たちにも離れに気をつけるよう命じた。以来、女中たちが入れかわり立ちかわりお茶などを持って様子を覗きに来る。  あるとき女中が部屋に入ってすぐに「お玉、お玉っ」と甲高い叫び声が聞こえ、いきなりカラッと障子が開いた。 「お玉、これはそなたのじゃな」  と決めつける御寮人を見て、元助はあやうく腰を抜かしそうになった。こめかみに青すじが浮いて、ひきつった唇からお歯黒が覗いた顔は、般若《はんにや》の面もかくやといわんばかりの恐ろしさである。お玉と呼ばれた女中の前には安っぽい塗りごしらえの櫛《くし》が投げだされていた。 「そ、それは、前から捜しておりましたもので……」  しどろもどろにいいわけをはじめた顔に激しい平手打ちが飛んだ。御寮人はなおも女中の髻《たぶさ》をわしづかみにしてキャアキャア悲鳴をあげさせる。 「やかましい。女どもは出てけっ。ここは尊い男子の学問の場じゃぞ」  と茂兵衛は持ち前の癇癪玉を破裂させ、女たちが出ていって部屋が静かになってからも、ぶつぶつと独り言を洩らしていた。 「また兄貴の悪い癖が出よった。まあ女房があれでは、心がよそへ移るのも無理ないが……」  主人の悪い癖とはどのようなことか、幼い元助にはわかるはずもなかったが、茂兵衛が嫂《あによめ》を嫌っているのはなんとなく感じ取れた。そして自身も子供ながらに、触れると痛い松葉のような妻を持つ夫にいささか同情していた。  片やツツジの女《ひと》とは初対面の翌年からほとんど毎日のように顔を合わせている。お照は兄の口ききによって辰巳屋で水仕奉公《みずしぼうこう》をはじめたのである。  大きな商家にはお玉のように主人たちの身のまわりの世話をする腰元女中のほかに、飯炊きや洗濯といった水仕事をもっぱらにする女衆《おなごし》がいた。分家や近所の娘が行儀見習いで勤める女中は常にこざっぱりした装いで、髪をきれいに結って、ふつうは一年か半年で奉公を終える。それにひきかえ女衆は一軒の家に長く根を生やすから、辰巳屋に若い女衆が入ってきたのは久々のことだった。しかも女衆にしておくのはもったいないほどの美人だから、店の若い男たちはがぜん色めき立った。  奉公人同士の色恋沙汰は堅い御法度《ごはつと》で、男女が親しい口をきくのさえまずいとされるが、女衆は腰元ほどに周囲の目がうるさくないので、男たちは暇さえあれば裏の井戸端に群がった。お照は男たちが話しかけると気軽に相手をした。美人で、気さくで、おまけに親切だから、若い男たちのあいだでお照は一躍人気者になった。といっても実の兄が特牛の次郎兵衛だと知れば、さすがに怖がってだれも手を出そうとはしない。  女衆は奉公人と親しくしても、主人とはめったに顔を合わさないもので、もし顔を合わす機会があるとすれば、風呂焚きで湯加減をたずねるときくらいのものだろうか。とにかく何らかのきっかけでふたりは顔を合わせた。そして事が起きたのである。  お照はある日突然いなくなり、次の日の朝、辰巳屋では大騒動が持ちあがった。ふだん裏の納屋と桟橋を往き来している仲仕の連中が鳶口《とびくち》や棒きれを手にしてどっと見世庭になだれ込み、手代たちは総立ちで、幼い丁稚は泣きながら逃げまわる。  一行の先頭に立つ特牛の次郎兵衛はねじり鉢巻きをした真っ赤な顔で、 「若旦那に話がある。出てこいっ」  と大声で呼ばわる。手代がかわるがわる出てなだめても、相手は当主を出せの一点張りでらちがあかない。せっぱ詰まったひとりの手代が奥に駆け込むと、ご隠居の休貞が悠然とあらわれて、片肌を脱いだ次郎兵衛を一喝した。 「なんじゃそのざまは。不作法|千万《せんばん》」  気勢をそがれた次郎兵衛は素早く肌を入れて土間にひれ伏す。 「へい、大旦那様に申しあげまする。話というのは、わしが妹のことでござりまする。こちらさまには年百二十匁の給銀で水仕奉公はさせましたれど、身を売れと申した覚えはござりませぬ」 「まわりくどい言い方をせず、はっきりと申すがよい」  いらだつ声に催促されて、兄は妹が主人にむりやり犯されたことを物語る。 「いかに卑しい女衆でも、旦那のご威光で手込めにされては、もはやこの世に生きてはおられぬと申しまする。妹をあの世にやって、兄のわしだけがのうのうと生きておるわけにも参らず、同じ死ぬなら、いっそここにペンペン草を生《は》やして死にとうござりまする」  店を打ち壊すという脅し文句に、さしもの休貞が頭を抱え込む始末だ。 「けっして悪いようにはせん。きょうのところはひとまずこれで引き揚げてくれ」  と、丁銀をいくらか紙に包んで引き取らせたが、むろんこれで解決したわけではない。休貞はこの夜遅くまで番頭らと相談をした。 「相手にことかいて、女衆に手をつけるとは、そなたらの手前も面目ない。親の身として恥ずかしい」  と、ご隠居は番頭らの前で深く頭を下げる。 「女衆に手を出すというのは、どこの家でもよう聞く話でござりまする。うちはたまたま相手が悪かっただけのこと」  と、一番年かさの番頭は主人に同情したいい方で先方の思惑を臆断した。 「手をつけたからには、きっちりとした妾奉公《めかけぼうこう》をさせよと望みおるのでござりましょう。みすみす相手の思い通りにさせるのは業腹《ごうはら》なれど、花頂太夫を身請けしたことを思えば、安いものではござりませぬか」  その言葉で休貞は倅の悪い過去を想いだし、こうなればいっそ妾を持たせたほうがむしろ先々の心配が少なかろうとみた。辰巳屋へ養子に来た自分は妾を囲うことなど思いもよらなかったが、店が軌道に乗って、何もかも番頭まかせで運ぶようになると、父が骨身を削って作った財産を息子がやすやすと喰いつぶしてゆくのである。  休貞や番頭がよってたかって御寮人のおみつを説得し、なんとか蓄妾《ちくしよう》の件は納得させたものの、同居というわけにはいかず、お照は近くの堀江新地に妾宅をあてがわれて年に銀五貫目を支給される身分となった。たまたま奥に出入りをしていた元助は、お照兄妹とも親しいのを見込まれて、月々のお手当を運ぶ役目にありついた。  最初はいわば強請《ゆす》られたかっこうながら、久左衛門とお照の相性はよかったらしく、縁は意外に長もちをした。二年たち、三年たってもお手当を届ける役目は終わらず、この間に元助は幼い前髪からりりしい角前髪の若衆と変わっている。が、それよりもっと大きな変身を遂げていたのは小ぼん様の茂兵衛であった。  休貞は息子が三人いて、次男に自分の実家の木津屋を継がせていた。次男が夭折した後、娘婿に木津屋を継がせたが、それも娘ともどもに急死したので、こんどは三男坊が新たに木津屋を相続する身となったのである。  茂兵衛改め木津屋吉兵衛はすでに十八の若盛りを迎え、独り立ちするにふさわしい年齢だった。  木津屋は同業の炭問屋だが、近年格段に大きくなった辰巳屋の店とは比べものにならない。もっとも亡くなった娘婿の実家が古道具屋で、質屋株の持ち主だったところから、今では質屋との兼業に至っている。  木津屋の店は辰巳屋からほんの少し南に寄った橘通《たちばなどお》り二丁目にあり、日に何度でも往復できる場所である。茂兵衛改め吉兵衛はまず膨大な蔵書を荷車に積んでそこへ運ばせた。べか[#「べか」に傍点]車と呼ばれる幅の狭い荷車が何度も往き来して、辰巳屋の奉公人は小ぼん様の学問好きにあらためて舌を巻き、木津屋に古くからいる奉公人は肝をつぶした。  吉兵衛が木津屋の当主となるに当たっては辰巳屋の若い手代がひとりお供をした。このとき十五の丁稚だった元助に、吉兵衛は辰巳屋を去るに当たってだれよりもなごりを惜しんでくれた。 「せっかくそこまで読み書きが出来るようになったのじゃから、それを無駄にはしてくれるなよ」  と、しんみりした声で目を潤《うる》ませる師匠を見て、元助は自分の目から涙がこぼれないのを残念に感じた。  吉兵衛は兄と大いにちがって、少年のころから女好きではないようで、嫂をことのほか嫌い、女中たちにもやさしい声ひとつかけはしなかった。それは物心つく前に母を亡くしたせいのようにも思われた。同じく母を早くに亡くした元助とは、お互いにそこはかとなく通じる何かがあったのかもしれない。  もっとも世の通例にしたがって、吉兵衛は当主になるとほぼ同時に妻を迎えた。女色を好まぬ聖人君子であるかに見せて、祝言の翌年には早くも妻に懐妊の兆しがあらわれた。  次の年の春にめでたく誕生した男児を休貞は内孫のように歓迎して、綱次郎《つなじろう》と名づけられたその赤子を見るために、木津屋へ毎日のように足を運んでいた。  綱次郎の誕生は反面で人びとに深刻な事態を気づかせることにもなった。妻おみつとの折り合いが悪いせいか、それとも長年の女遊びが祟《たた》っているのか、肝腎の辰巳屋久左衛門にはいまだ子供がひとりもいないのである。当人も近ごろはそれを気にするせいか、周囲に不機嫌な顔を見せる日が多かった。  初霜が降りたこの日の昼過ぎ、元助は主人に召《よ》ばれて奥の座敷に飛んでいった。妾宅にお手当を運ぶ役目をいまだに引き受けてはいるものの、届けるのはいつも月始めときまっていて、月半ばを過ぎたきょうの用事はなんだか知れず、思いもよらぬことで叱られるのではないかとひやひやした。が、部屋の中に入れば久左衛門はいつにない上機嫌で、 「あいつにそれを持っていってやってくれ」  と、小さな手籠《てかご》を指し示す。籠の中には色鮮やかな蜜柑が三つ入っていた。  堀江新地のはずれにある妾宅は瀟洒《しようしや》な数寄屋普請《すきやぶしん》で、そこにまるでふさわしくない特牛の次郎兵衛も時おり姿を見せている。たまにバッタリ出くわすと、元助が襟首をつかまれて目をまわしたときの想い出話をして閉口させた。根は気のいい男のようだが、今は仕事をやめて妹に金をせびって暮らすらしく、いつも真っ昼間から酒臭い息をしていた。  きょうは玄関にあらわれた顔が一段と赤い色で、 「さあ、どうぞあいつの様子を見てやらっしゃい」  と、これまたいつにない上機嫌の出迎え方だ。  昼間だというのに、お照はめずらしく寝間に臥《ふ》せっていたが、こちらを見るとからだを起こして布団《ふとん》の上に座り直した。ほどいた黒髪を手でかきやるしぐさになんともいえぬ色気が感じられ、薄化粧をした顔は昔よりさらに美しい。が、相変わらず物言いはちっとも気取らぬ調子で、 「私《わて》、朝から気分が悪うてなあ」  と訴えるわりに、肌の色つやがよく、眼はきれいに澄んで笑っている。  兄は部屋の中をうろうろして何度も心配そうに声をかけ、背中を撫でさすったりするが、妹は泰然として顔が何やら自信めいた表情だ。  この日の奇妙な印象はあとあとまで元助の心にとどまった。  半年たった夏の終わりに、お照は出産を無事に済ませた。生まれたのは女の子とはいえ、初子《ういご》の誕生に久左衛門の歓びはひとかたならず、お照への愛着《あいじやく》がいっそう深まるようだった。  片や辰巳屋の奉公人は、ともかくも子ができてよしとする者もあれば、へたをするとあの特牛の姪が主人になるのではないかと案ずる者もいた。だがそれはまったくの取り越し苦労に過ぎなかった。懐胎中にお照との逢瀬が断たれ、女色を絶やせぬ男は妻を顧みたようで、妾の娘が誕生したときには妻の胎内にも子が宿っていたのである。  お照の娘お拾《じゆう》が誕生した翌年、おみつは難産に苦しみながらなんとか無事に出産を果たした。これまた女子で、丈夫に育つようお岩と名づけられて、辰巳屋の奉公人はここにようやく素直に祝福ができる主家の子の誕生をみたのである。  時に享保十年(一七二五)。元助はこの春に二十を迎え、前髪を剃り落として元服し、めでたく手代に取り立てられた。かつて炭団《たどん》のガンちゃんと呼ばれていたころとはすっかり面変《おもが》わりして、頬の肉がしまり、浅黒い精悍《せいかん》な顔つきだが、眼がくりっとして、笑うと歯並びのいい白い歯がこぼれるところには童顔の面影がうかがえた。 [#改ページ]   焼け跡のなかから  元服《げんぷく》で前髪に剃刀《かみそり》があてられたとき、元助は言葉にならないほどの深い感慨がこみあげた。ようまあ今日まで辛抱できたというばかりではない。あの火事でよくぞ生き延びられたとの思いがあった。ちょうど一年前の春、大坂は町はじまって以来の大火に見舞われていたのである。  昼飯を食べている最中に聞いた半鐘の音は急拍子で、火の手はかなり近いと感じた。ほどなくして木津屋吉兵衛の一家が店に駆け込んできて大騒ぎとなった。火元は木津屋の近所である。  折しも南風が強い日で、海から吹きつける西風が合わさって火はまたたくまに押し寄せてきた。身重《みおも》の御寮人が実家に戻っていたのは幸いで、隠居の休貞と久左衛門、吉兵衛の一家は女中や幼い丁稚を引き連れて裏から舟でひと足先に店を離れた。あとに残った店の者は手桶で堀の水を汲みあげて、納屋や家屋の壁に水をかけてまわった。土蔵は分厚い壁のような裡白《うらじろ》の戸でしっかりと鎖《とざ》された。  隣家の屋根に黒煙が立ち昇り、塀の向こうに紅蓮《ぐれん》の炎がひらめくと、年輩の番頭や手代は続々と店を離れだした。鰐口《わにぐち》の宗兵衛《そうべえ》の「残れるもんだけ残ってくれ」という必死の叫びに応じて、元助ら何人かの若者だけがあとに残った。一同は宗兵衛の指図にしたがって土蔵の屋根や周囲に大量の水を撒くかたわら、日ごろから用意してある壁土をあわてて練って、戸前の隙間を塗りふさいだ。  火がそこまで迫り、宗兵衛が「あかん。みな早う逃げェ」と叫んだあとは、もう何がなんだかわからなかった。家を飛びだすと同時に梁《はり》が崩れたような轟音がしたが、振り返って見る余裕もない。表通りはもうもうと白煙が立ちこめて、そこかしこに火のついた荷車が走っている。元助は人びとに倣《なら》って水に飛び込み、長堀の方角に向かって懸命に泳いだ。四ツ橋で岸にあがったあとは火の手に追われるようにして東に向かう。高台の上町《うえまち》まで来てようやく背後を振り向くと、火の手が凄まじい勢いで北に広がってゆくのが見えた。ともかくも丸ひと晩歩きつづけて吹田《すいた》村の実家にたどり着き、そこで大坂の町が壊滅したとの報せを耳にした。  堀江橘通り三丁目金屋の隠居妙智尼宅から出火して後世に「妙珍焼け」と称されたこの大火は、丸二日間燃えつづけて市街の三分の二を焼き尽くした。焼失戸数は六万余世帯、総人口約三十八万人のうち遺骸が確認されたものだけで死者七千五百人という未曾有《みぞう》の大惨事をみるに至ったのである。  元助は丸ひと月を実家で過ごしたが、母はとうに亡くして、父も去年の秋に死んでおり、兄夫婦に気がねする居づらさから逃げるようにして大坂に舞い戻っていた。市街は黒い廃屋と瓦礫《がれき》の山に満ちて、船場のど真ん中に掘立て小屋が建ち並ぶというみじめなありさまだった。  焼け落ちた木綿橋の横には仮普請《かりぶしん》らしき小さな家が建ち並び、一軒の中をそっと覗くと、大やけどを負った宗兵衛の横顔が目に飛び込んだ。相手もすぐにこちらの姿を見つけると、いきなり駆け寄ってものもいわずに強く肩を抱きしめた。  奉公人が続々と戻るにつれ、主人一家は仮本宅を提供した。久左衛門は妾《めかけ》のお照ともども難波《なんば》村の別荘に移り住んで、そこから毎日店に通ってきた。  若い手代のうちで、ふたりはとうとう帰ってこなかった。丁稚は戻らぬ者の人数がさらに多かったが、いずれも命を落としたのか、親元を離れられずにいるのかは不明である。ともあれ店は夏の初めに仮普請で再開され、年の暮れには立派な本普請の店が竣工した。  大坂にはこの当時千人からの大工がいたが、奉行所は田舎大工や木挽《こびき》の新規雇い入れ、問屋から材木の直買いを許すといった特例を認めて町家の迅速な再建を促した。だが再建の進捗はまちまちで、年が明けても町全体の復興はまだ半ばにも達していなかった。  災厄には運の分かれ目が付き物で、焼け太る材木問屋があるいっぽう、蔵ごと全財産が消滅して再建の資金繰りがままならず、手をこまねいて没落を待つしかない旧家が続出している。市中の大部分が焦土と化せば、焼け跡のなかから何がなんでも早く立ち上がった者だけが勝ち名乗りを許されるのだ。  幸い辰巳屋は宗兵衛の踏ん張りが功を奏して土蔵が残り、金銀の蓄えが無事だったので他店に先駆けて甦り、商売の見通しはきわめて明るいものがあった。元助は白木が芳しく匂う新家屋において、再興の気運がみなぎるなか、めでたく手代に昇進を遂げたのだった。  前髪のあるなしで昨日と今日が格別にちがうわけでもないが、目に見えるけじめによって、人の気持ちはずいぶんと改まる。もっとも仕事は毎日ほぼきまりきった銭勘定と、帳付けや掛取りに終始した。新米の手代は番頭らとの談合はおろか、得意先や仲買人の接待にも加われずに半年余りが過ぎている。ただし仕事の量はそこそこあって、夕飯を済ませたあとまで残業に追われていた。  秋の夜長に鳴く虫の音をさえぎるようにして、 「なあ、ガンちゃん」  と、昔のあだ名で呼びかけるのは伊助である。かつての泣き虫も今は同じく二十の若者だ。元助と打って変わり、こちらは色白で、月額《さかやき》と髭剃《ひげそ》り跡の青さが目立ち、頬骨とあごの張らない、どこか貴公子然とした風貌だ。共に机を並べて算盤《そろばん》を弾きながら、耳元でひそかに話しかけてくる。 「きょうはもう遅いけど、あしたの晩は帳付けをちゃっちゃと済まして、もういっぺんあそこへいこうや」  元助が眸《め》をうろうろさせると、伊助はすかさず畳みかけた。 「金のことは、心配せんでもええ」  番頭を除いた店の奉公人は商売を見習うという建前で、給銀と名の付くものはいっさい出ない。丁稚の時分からもらう小遣いの額がだんだんと上がってゆき、手代で長く勤めると年に三貫目くらいになるが、新米は月に三十匁と盆暮れの支給をふくめて、年にわずか銀半貫目を頂戴するに過ぎない。寝る場所と食べるもの、年に二度のお仕着せが支給され、衣食住が足りたとしても、男が若い身そらで女と遊ぶ金もないのは辛かった。  大火があった前年の春、元助は年上の手代に連れられて何人かの仲間といっしょに初めて新町の大門をくぐった。大門口から東西にまっすぐ伸びる通りを瓢箪町《ひようたんまち》といい、新町遊廓にはそれぞれに呼び名がついた通りが何本かある。久左衛門が大金を出して遊んだ九軒町《くけんちよう》の揚屋《あげや》もあれば、ひと夜さの契りに安い宿を貸す茶屋や呼屋《よびや》も数多い。  元助らが案内されたのは瓢箪町から少し南に入った細い通りで、そこは道者《どうしや》横丁と呼ばれ、旅人のような一見客《いちげんきやく》を相手にする場所だった。細い路地の左右は四尺半間口の長屋造りで、掛行灯《かけあんどん》にぼんやり照らされた門口には、それぞれ派手な衣裳を身につけて、首を真っ白に塗りたてた女たちが佇んでいた。顔の脂ぎった年輩の手代は尻込みする若者たちを笑いながら、露骨な言葉でけしかけたものだ。 「ええか。門口で値段を尋《たん》ねてみい。六匁はまあまあ。八匁もはずめば容貌《きりよう》のええ娼妓《よね》様が見つかるはずじゃ」  初手に道者横丁に案内したのは、稼ぎもない若いうちから馴染《なじ》みの女ができてはまずいという判断だろう。その判断は正しかったが、つまるところ店から歩いてもすぐにたどり着ける場所に桃源郷があるのを知ってしまえば、若い男心は夜な夜な切なく疼《うず》いて、店を抜けだす道理である。  大火で壊滅した新町もまた早くに甦り、今年になって元助は何度か足を運んだ。深い馴染みになるのは慎んだが、気に入った女のもとには二、三度続けて通うこともある。越後町の島屋という呼屋で会った女には出来ればもう一度会ってみたい。「もういっぺんあそこへ」と伊助の口から出ただけで、からだがこわばって脇の下にじんわりと汗がにじむ。あの女を呼ぶだけなら十五匁で済むが、酒やら何やらで払いは倍以上にかさむから、そうたびたび会えるものではなかった。  大坂の町では日が暮れると夜番が太鼓を打って時を報せる。初夜五ツの太鼓を聞く前に、ふたりは裏口からそろっと店を抜けだした。月が鋭い鎌のかたちをして、夜道は暗い。橋のたもとまで歩いたところで提灯に火を点《つ》ける。抜けだすのがばれたところで、丁稚のように罰を喰らったりはしないが、やはりわからぬに越したことはない。前に使い込みをして店から追いだされた手代と同類のように思われてはまずかった。  橋まで来てほっとしたのか、伊助は急にくすくすと笑いだす。 「ガンちゃんの目玉は大きいよって、闇の中でもぴかぴか光りよる」  提灯を持った元助は冗談の相手にはならず、早足でどんどんと先にゆく。その背中に向かって、伊助は少し心配そうに声をかけた。 「なあ、ガンちゃん、浄瑠璃《じようるり》芝居やあるまいし、あの女《おなご》に入れ込んで、心中するような真似だけは、せんといてや」  元助は憤然として立ち止まる。 「阿呆ぬかせ。何が心中じゃ。心中てな話、だれかに聞かれてみい。えらいこっちゃで」  元助が生まれる三年前に「曾根崎心中」という芝居が上演されて人びとの喝采を博して以来、人形浄瑠璃や歌舞伎ではさかんに心中物を上演した。心中という言葉はそもそも相手に対して真心を尽くすという意味だったが、芝居のおかげで心中という美名のもとに情死を遂げる男女が相次いだ。幕府《おかみ》はこれに手を焼いて二年前に心中物の上演を禁じている。そこにまるで追い打ちをかけるようにして、去年の暮れには「曾根崎心中」の作者近松門左衛門が他界した。 「近ごろは浄瑠璃もさっぱりじゃ。火事からこっち、劇場《こや》は建てかえで新しうなったが、肝腎の芝居の中身は古くさい説教じみた話ばっかりで、ちっともおもしろうない」  と伊助はぼやく。  伊助はときどき仕事の暇を盗んでは、道頓堀の芝居小屋を覗いている。元助も何度か誘われて、そのつど木戸銭は伊助が払ってくれた。店から同額の小遣いしかもらっていないはずの男は、親にたっぷり仕送りを受けていた。  伊助の実家|但馬屋《たじまや》は長堀の平右衛門町にあって、そこは大火の被害を免れた数少ない土地だったので、辰巳屋の分家のなかでも今や一番の繁盛を誇っている。辰巳屋をいつ辞めても、伊助には羽振りのいい分家の若旦那というご身分が待っており、店を辞めて実家に戻れば小前《こまえ》百姓になるしかない元助とはちがうのだ。 「伊助どんはいつまで店におるつもりや」  と、手代になってすぐに元助は訊いたことがある。伊助は笑って、あと十年は辛抱するつもりだと答えた。  親父が健在なあいだは家に戻っても窮屈な思いは変わらない。好きでもない娘といっしょにさせられて、家に縛りつけられるよりも、まだしばらくは気楽な勤め人でいて、羽を伸ばしていたほうがよいという。辰巳屋の当主久左衛門でさえ長いあいだ隠居の休貞に頭があがらず、好きでもない女房に苦しんでいるのを見せられていた伊助が、そう思うのは無理もなかった。もっとも辰巳屋のような大家のあるじなら、本妻のほかに好きな妾を囲ってもおけるが、並の男が本気で廓《くるわ》の女に惚れたら、芝居のように心中する気にもなるだろう。  かつては新町の大門をくぐると、見世格子《みせごうし》を透かす万灯会《まんどうえ》によって瓢箪町通りは昼どきのように明るく見えたものだが、甦ったとはいえ大火のあとはかなり寂れてしまい、安普請の小さな茶屋や呼屋がずらずらと並んでいた。瓢箪町から一本西に入った細い路地で「島屋」と書いた掛行灯《かけあんどん》を目にしたとたんに、元助は尻込みをした。 「あかん。やっぱり帰る」  いくら親しい友だちでも女と遊ぶ金をたかるようになってはおしまいではないかと感じたのだが、伊助は照れているとでも思ったのだろう。笑いながら腰を押して格子戸の中に入れる。こちらの袖を引いて座敷にあがり、さっさと酒や肴を注文して勝手に女の名まで告げた。女があらわれるのを待って、男同士で酌《く》み交わしながら、元助はどうしても訊かずにはいられなかった。 「なあ、伊助どん。お前なんでわしに、そないに親切にしてくれるんや」  杯を重ねた勢いで突っかかると、 「気になるならいうてやる。お前が百姓の子やからや」  相手はずばりといって、利口そうな切れ長の眼をすうっと細めた。元助がむっとした表情を浮かべると、即座に手を振って、 「勘違いしたらあかんで。なにもばかにしてるのやない。逆さまに、うらやましいのや」  と、ふしぎな弁明をする。 「日ごろは這出者《はいでもん》などとばかにしても、わしら町の子は心のどこかで、やっぱり田舎でものを作るお百姓が一番えらいと思うてる。それにひきかえ商人は、己れの欲心で、ものをただ右から左にやって利を稼ぐ輩《やから》じゃと、お侍やお百姓に蔑《さげす》まれてるのも知ってるで」  伊助はめずらしく殊勝な顔つきでいって、丁稚の時分から元助が翌日の天気をぴたりと当てるのに何度も感心させられた話をした。そればかりではない。今年の夏はあまり暑くならないだろうとか、冬は例年より寒さが厳しくなりそうだとか、元助は半年も前から口にして、たいがい当てた。はじめはただの偶然だと思っていたが、あるときからそれは一種の才だろうと感じ、たぶん農作をする百姓の子だからではないかと解釈した。  そういわれてみて、元助は死んだ親父がよく天気の話を口にしたのを想いだす。柿の実がたくさんなれば冬が寒いとか、欅《けやき》の高い枝に芽が吹けば夏が暑いとか、フクロウが夜明けに鳴けば次の日は晴れるし、畑にミミズがいっぱい出てくると翌日はきまって雨になるとかいったような話を、幼いときにさんざん聞かされた憶えがある。片や町家の伊助は、 「天気の話でよう聞かされたんは、十月の満月の日が晴れたら炭の値段が安なるいう話や」  伊助の家では陰暦十月十五日が晴れたら暖冬になるとのいい伝えがあった。暖冬か厳冬かで、炭の需要は極端にちがい、値段もそれによって乱高下する。町の子といえど、炭屋の倅ともなれば、季候に無頓着ではいられないのだ。 「炭屋は要は仕入れの腕しだい。ご隠居様がええ例や」  伊助はかつて休貞の判断で辰巳屋が大もうけした話を持ちだして、 「が、あれほどの運に恵まれることは滅多とない。利の薄い炭商売で大もうけをするのは、夢のまた夢や」  と、急に不機嫌に黙り込んで手酌《てじやく》した酒をいっきに呑み干す。 「そやけどガンちゃんのように天気の読みがうまいと、相場でひと山あてられるかもしれん」 「相場て……ああ、堂島の米相場か。あれはたしか、火事の前にお取り潰しになったんとちがうんか」  年貢と呼ばれる地方税の大半が米で納められた時代、米は単なる食糧の域を超えて、商取引の重要な指標となる。各地で徴収された米の多くは大坂にある諸藩の蔵屋敷に集められ、蔵元と呼ばれる商人が売買を代行した。蔵屋敷が密集する淀川中州の堂島では早くから米市が開かれて、蔵元が発行する米手形や米切手を使った「帳合米《ちようあいまい》」と称する先物取引が行われていた。凶作で米が値上がりするとみれば米切手や米手形を買い、豊作で下がるとみれば売るなどして現物取引時の差益を得るこの仕組みは、米価の騰貴《とうき》につながり、賭博《とばく》行為に通じるとみなされて、町奉行所はたびたび禁令を布告し、大火の三年前には米市に乗り込んで七人の仲買人を捕縛している。しかしながらいっぽうで武家の給与が米で支払われた時代、米価の下落を防ぐ目的で幕府は米相場を暗黙裡に容認する方向へと傾いていた。  かくして焼け跡には早くも米市が立ち、米相場が再開されつつあると伊助は語る。 「火事で丸裸になった者《もん》も、焼け太りした者も、みな一心不乱で金もうけに走ってよる。これからひと山当てようとする連中で、相場はますます賑わしうなるはずや。どや、ガンちゃん、わしと組んで、相場でいっちょもうけたろやないか」  伊助は実家を継いで店主に納まったあかつきは、仲買人を通じて米切手の売買に加わるつもりだという。市中にはいまだ掘立て小屋が建ち並び、夜になれば物騒な通りが少なくないのに、暗闇の先に早くも光明を見いだして熱っぽく語る男に、元助はただただ圧倒されていた。 「わしは相場でもうけて、うちの店を辰巳屋に負けんくらい大きうしてやる。倅《せがれ》には丁稚奉公《でつちぼうこう》をさせんでも済むようにしてやりたいのや」  幼いころ店を脱走したあとでさんざんな目にあわされた伊助は、丁稚奉公の辛さが骨身に沁みたという。 「ガンちゃんは平気な顔で辛抱してたが、わしは同じ町の子で、大家《たいけ》のぼん様に生まれるのと、小《こ》商人《あきんど》の倅に生まれるのとでは、こうもちがうのかと哀しうてならなんだ。ほんまに理不尽な仕打ちやと悔しう思うた。そやから相場でもなんにでも手ェ出して、金をぎょうさんもうけたるのや」  伊助は過去の雪辱を念じて将来に夢を託している。遊ぶ金に不自由をせず、才気煥発で、自らの野心を堂々と口にできる男が元助はうらやましく思われた。  理不尽だといいだせば、あの火事で大勢が焼け死んだこと、金を出さなくては好きな女にも会えぬこと、この世の中は何もかも理不尽に満ちているという気がした。  好きな女があらわれても、元助は不機嫌そうに黙々と杯を重ねた。 「どうぞなさんしたかえ」  と、やさしい声でたずねられて、いっそう切ない気持ちになる。  片や伊助は女を膝の上にのせて、人目もはばからず脇あけから手を差し込んで嬌声をあげさせながら、 「今や芝居のなかでは、こうした色ごとは御法度じゃ。物堅い忠臣が出てくる、つまらん芝居が多い。そういえば、辰巳屋にも怖い顔をした忠義者がひとりおったのう」  と皮肉な口調でいってにやっと笑った。 [#改ページ]   掛屋指南《かけやしなん》  大火後の辰巳屋《たつみや》にはひとつの大きな変化が訪れていた。それは休貞《きゆうてい》が店にいっさい口出しをしなくなったことで、古稀《こき》を過ぎてなお古参の番頭に何かと相談を受けていた老人も、いったん難波《なんば》村の別荘に引っ込んでしまってからは、真実隠居の身となれたようだ。今や三十路《みそじ》を目前にした久左衛門《きゆうざえもん》が文字通りの当主としての務めを果たし、こうした経営の代替わりに伴って、番頭らの勢力も移りゆく時節を迎えたのである。  市中で千九十七カ所もの土蔵が焼失したなかで、辰巳屋のそれが無事だったのは、火事場に最後まで踏みとどまって戸前の隙間に目塗りをしたことが大きい。新築された店の広間に奉公人一同を集めて、主人があっぱれな忠義者と誉めたことで、鰐口《わにぐち》の宗兵衛《そうべえ》は揺るぎない力を得た。思えばほかの番頭はいずれも近所の自宅に妻子がいて、店と心中する気にまではならなかった。宗兵衛は四十近い年齢で独り身だったからこそ、あのような無茶な真似ができたのだといわれた。 「ただでさえ嫁の来手《きて》がなかったのに、あんなご面相になってしもたら、気の毒じゃがもう望みはあるまい」  などと心ない陰口を叩く者もいる。忠義者は片鬢《かたびん》が焼けただれ、皮膚がひきつれて、鰐口の強面《こわもて》がいっそう怖い顔になった。  番頭のなかでは一番の若年ながら、宗兵衛はこれまでも他の番頭に一目も二目も置かれていた。番頭らの話し合いはたがいの思惑が微妙にからみ合い、時には意地の張り合いのようにもなって円滑に運ばないことがある。そんなとき、意外にも年の若い宗兵衛がまとめ役にまわった。常にまっとうな意見をいい、かりに相手が年上でも間違っているとみれば「お言葉ではござりまするが」と喰ってかかる。私利私欲がなく、断じて節を曲げない男が口にした正論には、だれしもが耳を傾ける気になるのだった。  再建された辰巳屋で宗兵衛は金《かね》番頭に取り立てられた。金番頭は蔵の鍵を預かる大切な役目である。ふだん裡白《うらじろ》の戸は開けておくが、内側の網戸はしっかり閉じて鍵をかけ、金銀の出し入れをする際には金番頭がそこを開けて、金銭の出納もしっかりと把握しておく。この要職を任されるのは親の代から勤める奉公人か、辰巳屋の縁戚ときまっていたのに、宗兵衛は元助と同じようなまったく縁故のない這出者《はいでもん》だったから、異例の抜擢《ばつてき》ともいえた。  同輩以上の者からは「鰐口つぁん」のあだ名で呼ばれていた男も、ここまで出世をすると、だれも面と向かってそうはいえない。若い手代たちは本人のいないところでも宗兵衛殿とうやうやしく呼ぶようになった。が、伊助だけは相変わらずで、 「ガンちゃんは昔から鰐口のお気に入りやで」  と事あるごとに元助をからかう。なにせ鰐口はガンちゃんの名付け親であり、元助を可愛がるのが傍目《はため》にもありありとわかった。  丁稚《でつち》の時分の元助は辛抱強さが取り柄なだけで、算盤《そろばん》もできなければ、先輩の手代らにお愛想のひとつもいえないような、鈍《どん》くさい子であった。算盤はなんとかなっても、口べたは一向に直らず、人付き合いをひどく苦手にしている。かつては大声ではきはき返事ができたのに、自分は大声で丁稚を叱ることができなかった。  呉服屋などに比べれば、炭問屋はさほどおしゃべりがうまくなくても勤まるものの、元助ほど寡黙な手代は少ない。鰐口は逆にそこを買ってもいるらしく、節季ごとに届く挨拶の品をおすそわけするときにも、「元助ちょっとおいで」とわざわざ遠くから呼んで皆に配らせるから、ああ見えて意外に出世は早いのではないかとの憶測を生んでいる。いっぽうで近ごろ辰巳屋では新規の召し抱えが増え、この分では主人や有力な番頭の引き立てがないと、出世はおぼつかないとする見方もあるのだった。  大火の打撃から立ち直れぬ商家が多いなか、辰巳屋のような甦《よみがえ》りの早い店は、この時期に没落した他家の奉公人を雇い入れている。そうした新規召し抱えの奉公人には算盤や帳付けに熟達し、従来の奉公人より仕事のできる者がいくらもいた。  なかに与兵衛という男がいて、年齢は三十そこそこだが、背丈は丁稚と変わらず、年齢よりもうんと若く見える。腰の低い男で、古くからいる者にはよく気をつかい、年下の元助に対してもていねいな口をきいた。常に笑顔を絶やさず、軽い冗談をいって皆を笑わせる。「あいつは顔だけ見ててもおもろいやないか」といわれるように、丸顔の鼻ぺちゃで口もとが前に突きだして見えるところから、さっそく豆狸《まめだ》のあだ名がついた。 「いつもにこにこしとるのは腹黒いやつが多いさかい、豆狸には気ィつけなあかんで」  と、伊助はこの男のことをなぜかいつも悪くいい、鰐口の腰巾着《こしぎんちやく》だとけなした。  与兵衛は以前に過書町《かしよまち》の両替屋に勤めていた。辰巳屋の人びとが与兵衛をただのおもろい男でないと知ったのは、金勘定の腕前を見せられたときである。  丁銀や豆板銀はそれぞれに重さがちがって、いちいち天秤にかけないとその額が知れない。辰巳屋にも天秤は置いてあるが、正確を期す場合には両替屋に持ち込んで確かめなくてはならず、与兵衛がその両替屋の天秤を辰巳屋に持ち込んだので宗兵衛は大助かりだった。当人は十|匁《もんめ》くらいの差だと目で見ただけでわかり、手にすれば一匁の差も判断できる。銅銭も銭緡《ぜにさし》を数えずに束をざっと見るだけで何貫文かをぴたりと当てた。  与兵衛が勤めていた両替屋は諸藩の掛屋を兼ね、中之島にある蔵屋敷に出入りをしていた。諸藩は年貢のほとんどを大坂に回送して売買し、売り払った代金を預かるのが掛屋であり、たいがいは売買を代行する蔵元や、金銭の扱いに馴れた両替屋が兼業している。  掛屋が諸藩から預かった金を他に融通して金利を稼ぐいっぽうで、諸藩は江戸藩邸の経費がかさんでしだいに支出過多となり、だんだんと掛屋に借金することのほうが多くなっていった。融資金利は年に四、五朱(〇・四、五パーセント)の低金利だったものが、元金が返済されぬまま金利はしだいに上昇し、翌年の年貢を担保に貸し越した場合は一割から二割の利子を取るようにまでなった。これは俗に大名貸しと呼ばれ、掛屋は要するに今日でいう地方自治体の税金を対象にして、自らに安全かつ有利な金融を営む銀行のようなものである。  与兵衛はときどきふらっと店を出ていって、帰ってくると奥の勘定部屋や土蔵に続く廊下のあたりで宗兵衛をつかまえてひそひそ話をしており、遠目にはまるでふたりが悪だくみをするかのように見えた。元助はあるときたまたま両人のやりとりを身近で聞くはめになった。  店の裏には三棟の土蔵が建ち並ぶ。うちのひとつは金箱を山積みにした蔵で、そこに出入りできるのは当主と金番頭のほかごくかぎられた者たちだ。あとのふたつは諸道具や書類を納めた蔵で、毎年夏の土用には大掃除して虫干しをする。炭問屋が繁忙をきわめるのは夏至のころに始まる仕入れから小暑《しようしよ》時分の売り出しのあいだまでで、土用に入ると少し手が空くから、掃除の前に金番頭が手代を使って不要な書類を始末しておく。この年は鰐口が元助にその仕事を命じた。  蔵の中は真夏の昼間でも薄暗くてひんやりしている。一番奥にある大きな箪笥《たんす》には鍵がかかっており、宗兵衛は自らの手でその鍵を開けて証文《しようもん》を取りだしていた。証文が虫に喰われているとまずいので、奉書《ほうしよ》包みにしてあるものはそれを解いて検《しら》べる。入念に中身を見て、何枚かを元助に廃棄させた。  朝からはじまった書類検べは昼飯で中断したあとも続き、高窓から射し込む光りの帯が長くなったころ、網戸が突然ガラガラと音を立てた。蔵にいるのは元助と宗兵衛だけで、人払いをしてあったはずだ。にもかかわらず与兵衛が遠慮なく入ってきた。秘密にしたい用事らしく、元助のほうをちらっと見て、宗兵衛に目配せする。 「かまわん。この男は口が堅いによって別条《べつちよ》ない」  と鰐口に用件を催促され、与兵衛は黙って布にくるんだ細長い箱を前に置いた。包みを解いて、桐箱のふたを取ると、そこに金ぴかの刀があらわれた。 「みごとな蒔絵《まきえ》じゃのう」  宗兵衛は素直に感嘆の声をあげた。梨子地《なしじ》に紅葉と流水の蒔絵をほどこした美しい拵《こしら》えの鞘《さや》で、長さ尺八寸あるかなきかの小脇差を、与兵衛は丁重な手つきで取りだしている。 「柄頭《つかがしら》と鐺《こじり》が竜、目貫《めぬき》と鍔《つば》は虎で、対の絵模様をなし、いずれも金無垢《きんむく》でござりまするぞ」  宗兵衛はほうっと唸った。与兵衛は続けて刀の鞘をするりと抜く。 「銘は来国次《らいくにつぐ》とござります」  宗兵衛は身を乗りだして、与兵衛が目の前に差しだす刀身にじっくりと見入る。 「嵐に逆巻く波を見るような刃文《はもん》じゃのう」 「国次ならではの乱れ刃にござりまする。御家重代のお宝じゃそうにござりまする」  豆狸が誇らしげに刀をかざせば、 「こういうてはなんじゃが、そなたのような者にのう……」  と、鰐口は首をかしげる口ぶりだ。 「へへへ、私のような軽い身分なればこそ、向こう様は気をお楽にしてお預けになれるのでござりまする。いわば御家の恥を、表沙汰には出来《でけ》ませぬ。何かのときには紛失《ふんじつ》の体《てい》にして、どなたかが腹をお切りなされるのでござりましょう」 「こうした御家重代のお宝を拝見する機会《おり》は滅多とない。そなたもよう見ておいたがよい」  鰐口にいわれて元助も刀を覗き込んだが、炭問屋に勤める三人がそろって刀剣に群がる図を、自身はいささかふしぎに思わないでもなかった。 「折紙は付いておらぬのか。折紙がなければ、いかなる名剣も二束三文じゃと聞くぞ」  宗兵衛は元助にわざと聞かせるようにいった。折紙とは奉書や檀紙に刀銘と出所を記して横ふたつ折にした鑑定書である。 「折紙は、例のものとひきかえにお渡しなさるとのお約束で」  と与兵衛はひそやかな声で応じる。 「で、いくら貸せと仰せなのじゃ?」  ここまでのやりとりを聞かされると、元助もほぼ事が呑み込めた。与兵衛はどこかの藩の蔵屋敷に出入りして、金を貸す抵当《かた》に家宝の刀剣を預かってきたらしい。 「先様《さきさま》は……」  といいさして、いくらなんでもそこまで聞かれるのはまずいと判断したのだろう、与兵衛は素早く耳打ちし、宗兵衛はたちまち渋い顔つきになる。 「相当な値打ちのお宝であるのはたしかじゃろうが、脇差一本で、そこまでお貸し出来るもんかのう……」  鰐口の顔に似合わぬ自信なげな声で、与兵衛は突きだした唇を真横に引いてにんまりとし、 「そりゃお貸し出来まへんわなあ」  と、これまた意外なことをいう。一見お人好しふうの豆狸の顔が、今やこずるい狐の目をしていた。 「先様には、これをいったんお預かりして主人に見せは致しまするが、恐らくこれだけでは無理でござりましょうから、お使いになっておられぬ屋敷か明地《あきち》を家質《かじち》になされませとお勧め申しました」  大名貸しをする掛屋は年貢を担保に融資をするが、年貢がすでに何年も先まで担保に入っていると別の担保を用意させる。当時すでに一番の担保物件は土地家屋とみられ、これを家質といい、建造物のない更地でも家質と呼ぶことに変わりはなかった。 「こんど辰巳屋《うち》の御主人がお会いなさるるときは、先様がかならずや家質をご用意なされておりましょう。されど一度手に入ったこの刀を返すには及びませぬ。家質と併せて抵当《かた》に取らせていただきますと申しあげれば文句はいえぬはず。一石二鳥とはこのことでござります」  与兵衛は得意げに胸を反らせて、宗兵衛は舌を巻いたというふうに唸り声をあげた。この間のやりとりを元助はそばで聞きながら、すべてを理解はできないまでも、与兵衛はどうやら大名貸しの根回しをしているらしいと気づくに至った。  先年の大火で被害をこうむったのは町家ばかりではない。尾張、紀伊藩を筆頭に類焼した大名や旗本の蔵屋敷は三十数カ所に及んだ。屋敷の再建に出費がかさむのはいずこの藩も同様で、蔵元や両替屋だけで足りぬとみれば、辰巳屋のような異業種の豪商にまで金を借りようとする。豆狸の与兵衛はかつて両替屋でやっていた掛屋のあの手この手を鰐口の宗兵衛に伝授していたのである。  その場に居合わせた元助もまた、宗兵衛からそれとなく仕込まれているのを察した。こうして仕事の知識や知恵は折に触れていわず語らずのうちに先輩から後輩へ受け継がれてゆくものだ。が、このときの元助は刀の鑑定がわが仕事に結びつくなどとは思いも寄らない。  いっぽうこの時期の辰巳屋は与兵衛のほかにも両替屋の手代を何人か雇い入れ、炭問屋の本業は残しながらも新たに掛屋というかたちで資産を運用しはじめている。  炭は手に取れば原木や品質のちがい、季節の流れ、作り手ひとりひとりの顔といったものまでもそこにはっきりと浮かびあがる。片や両替商は金銭という得体の知れぬ化けもの相手の商売だから、双方にたずさわる人間の気質はおのずとちがってくる。それゆえに炭屋と掛屋の兼業は店をまっぷたつに割る危うさを常にはらんでいた。 [#改ページ]   質屋転業  元助が手代に取り立てられて三年目の春、鰐口《わにぐち》の宗兵衛《そうべえ》がめずらしく新町に誘った。昔から店では何かと目をかけてくれる相手だが、自身の女遊びはだれにも窺《うかが》わせない男だから、廓《くるわ》の茶屋で共に過ごすのは初めてだ。  二の膳付きのごちそうを前にして、 「わしは不調法じゃが、あんたはせいだい呑《や》ってや」  と相手がさかんに酒を勧めるので、元助は立て続けに何杯か重ねたものの、用件を聞くまでは箸を取る気になれない。杯を伏せてじいっと相手の目を見つめたところ、 「小《こ》ぼん様《さん》がのう……」  と、さりげない言い方で鰐口は久しく忘れていた人の名を出した。 「そなたを引き取ってもええというお話じゃ。辰巳屋《うち》でもうひと通りの仕事は覚えたじゃろうから、どや、木津屋へいってくれんか」  元助は目を剥《む》いた。口は半開きで声が出ない。どうやら辰巳屋から追いだされるらしいということはわかったが、あまりにも突然で、自分の何が至らなかったのか見当もつかなかった。震える手で杯を黙って呑み干すと、相手はわざとらしい笑顔を見せ、 「心配せいでもええ。辰巳屋にはいつでも戻れるようにしとく。なあ、これはわしからの大切《だいじ》な頼みじゃと思うてくれ」  と、甘い猫なで声を聞かせた。  小ぼん様こと辰巳屋の三男坊でかつての茂兵衛《もへえ》少年、今の木津屋吉兵衛《きづやきちべえ》は、先年の大火で全財産を失った。しばらくは妻子ともども難波《なんば》村の別荘に居候をしていたが、隠居の休貞《きゆうてい》が二度目の財産分与をしたかっこうで、辰巳屋とほぼ同じころに店を再建した。  木津屋の本業はいうまでもなく炭問屋だが、先代から質屋を兼業しており、貸した金は質物が焼失して回収が望めなかった。そのことに同情して、辰巳屋は家屋の建築費ばかりでなく当座の資金《もとで》まで提供した。ところがかえってそれが裏目に出たのかもしれない、と宗兵衛はいう。  休貞の隠居所は裏の離れで、店を通らずに入れるから、吉兵衛はときどきひとりでそこに押しかけて直《じか》に無心をするらしい。休貞に命じられると、宗兵衛も蔵の鍵をあけないわけにはいかなくなる。このことは今のところ当主の久左衛門に伏せて、帳面上は木津屋への貸出しにしているが、どこかで歯止めをかけたいと考えていた。  そこへつい先日、木津屋に古くからいる番頭が辰巳屋に資金を貸してくれといってきた。驚いて理由をたずねると、吉兵衛はいったい何を思うのか、去年の春から仕入れの金をいっさい渡そうとしないのだが、それを今の今まで訴えられなかったとの話である。商売の資金繰りで辰巳屋の金蔵があてにされているのだとばかり思い込んでいた鰐口は、ここに来て愕然《がくぜん》となり、 「こんな話はめったに出来ぬ。そなたじゃからこそ打ち明けた」  と、額に手を当ててため息をつくようにいう。  元助は大変なことを聞いてしまって動揺し、からからになった喉《のど》を潤すように黙ってまた杯を重ねた。それを見て宗兵衛は満足そうな微笑を浮かべた。 「町で育った者はいらんことまでべらべらとしゃべりよるが、そなたはわしと同じ這出者《はいでもん》で、律儀な男じゃから信が置ける。小ぼん様もお気に入りやった。お目付役を頼めるのは、やっぱりそなたしかおらん」  元助は何もいわずに相手の顔をただじっと見つめている。右の鬢《びん》から額にかけてひきつれた火傷の痕《あと》は、かつてこの男が死にものぐるいで辰巳屋を守った忠義の証《あかし》だ。いくらかつての小ぼん様でも、他家《よそ》に出た男に辰巳屋の財産を喰い荒らされては困るという気持ちは、宗兵衛においてなんの矛盾もない。では木津屋にいく自分は果たしてこの先どちらに忠義を尽くせばよいのかという疑問に軽くぶちあたり、元助はえらく厄介なことに巻き込まれた気持ちがしていた。  辰巳屋と木津屋は通りを三本隔てただけで、会おうと思えばいつでも会える。それに向こうへいくのは一時のことで、すぐに戻ってこられるとの話だったから、皆にたいそうな挨拶はせずに済ませて、伊助ともさほどなごりは惜しまなかった。夜半に花あらしが過ぎ去って、朝からすっきり晴れ渡る青天の下、元助は辰巳屋の暖簾《のれん》にほんのしばしの別れを告げたつもりだった。  木津屋は橘通《たちばなどお》りに面していた。周辺はいまだに仮普請《かりぶしん》の家が多くて新築の立派な構えは目につきやすい。塀で囲われた敷地はかなり広いのに、炭置き場にたっぷり使っているのか、二階建ての家屋と白壁の土蔵とが窮屈そうに並んでいる。  暖簾の中を覗くといやに閑《しず》かで、辰巳屋とはまるで様子がちがう。見世庭《みせにわ》が狭くて目の前に帳場があった。風呂敷包みを抱えた元助が客に見えたのだろう、丁稚が黙って上がり框《かまち》に座布団を置いた。帳場に座った男は柱にぶら下げた長細い紙の房に手をかけて、こちらに軽く会釈をする。元助がおずおず名乗れば、丁稚はあわてて奥に駆け込んだ。元助は中戸口を通って奥の玄関で新たな主人と対面した。  吉兵衛に面と向かうのは久々で、元助はあらためて無礼なまでにその顔をしげしげと拝見する。秀でた額。高い鼻梁《はなすじ》。奥二重の小さな眼。薄い唇。相手は昔とちっとも変わらず、かつては大人びて見えた人相も、今や一家のあるじ、一児の父として眺めれば意外に若々しい感じがした。 「そなたがわしに恩義を感じ、木津屋《うち》に奉公を望んだと聞いて、嬉しう思うたぞ」  と先にいわれては、なんともきまりが悪い。寺子屋ごっこのときは宗兵衛の指図通りに元気よく挨拶できたが、今は「へえ、よろしう……」と口のなかでぼそぼそいって、相手の目も見られなかった。このまま黙っていれば相手の気持ちを裏切ることになる。さりとて何をどういってよいものやらわからない。元助は己れの口べたが心ならずもこうしてだれにでもいいように誤解されるのが、常にもどかしく、切なかった。  主人についで挨拶をさせられたのは、吉兵衛が辰巳屋を去るときに従った惣助《そうすけ》と、先代の主人が実家から連れてきた佐助《さすけ》という手代である。木津屋にはほかに先々代からの古い奉公人がいるはずだが、 「役立たずの年寄りどもに挨拶はいらん」  と、主人はけんもほろろのいい方をした。  大火のあと大坂の町は一変し、それは木津屋のありようにも響いている。吉兵衛は以前にまして質屋業に力を注いでいた。惣助に案内されて店の裏を見せてもらうと、炭置き場であるはずの広い敷地はがらんとしていて、納屋の数がえらく少ない。積み置きされた炭俵の量も微々たるものである。 「本業をもっと大切《だいじ》にしてほしいというて、古い連中があんまり騒ぎよるので、旦那はもうこうなったら連中を放りだしてしまう肚《はら》じゃろう」  との過激な話を聞かされて、元助は吉兵衛が子供のころに癇癪《かんしやく》を起こして|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に青すじを立てたときの表情を想い浮かべた。  木津屋は質屋の経営で金を貸出していたからこそ火事で全財産を失うはめとなったのに、吉兵衛はそれに懲《こ》りるどころか、質屋業をさらに拡大しようとして古くからの奉公人と深刻な対立をみていた。創業時の炭屋と先代からの質屋。ここでもまた異業種が店を二分するかっこうだ。  大坂では担保がいらない信用貸しを素銀《すがね》、担保を取る抵当貸しを並合《なみあい》と呼んで、素銀は並合に優ると考えられた。素銀の融資をもっぱらとする両替屋の金利はおよそ月七、八朱止まりとされ、並合をする質屋では、衣類の質草が月二分、刀剣や諸道具は月三分といった取り決めがある。この時期の大坂で質屋株仲間に属する店は四百軒以上に及び、木津屋もそのうちの一軒に数えられる。  もっとも質屋はぴんからきりまであった。衣類や鍋釜といった日用品の質草でちまちま貸す店も多いなか、火事のあと早くに立派な店構えで甦った木津屋には諸処ほうぼうから内々でかなりの多額の融資が求められた。市中の大半が焼けて多くの家が再建に乗りだす折から、吉兵衛は先見の明を任じて金融業に望みがあると判断した。高額の借金をけっして断らず、資金が底をつくと辰巳屋に走って調達した。鰐口の宗兵衛が心配していた金の使い道はそれだったのを、元助は惣助の口からあっさりと聞かされたのである。  しかしながら、そこからまた木津屋の古い奉公人と同様の懸念を遠慮がちに口にしたところ、相手はにやりと笑った。 「蔵ごと焼けるのはもうこりごりじゃから、衣裳や道具を抵当《かた》にしたときは一貫目も貸さん。それに町が焼けたから、一貫目を貸すほど値打ちがあるもんはあんまりない」 「では、何を抵当に?」 「家質《かじち》や」  惣助の返答は、以前豆狸の与兵衛から聞かされたせりふと同じだ。  木津屋は高額融資の際にかならず家質を取る。家屋の再建のために借金する人びとには敷地を担保に入れさせる。安くとも六、七分の利子で、ときには一割以上の利子でも借りたいという連中が今の大坂にはごろごろしている。木津屋は隣家の質流れでまず自宅の敷地を広げ、ほかにも市中で十カ所に及ぶ土地を家質にしているのだという。  この時代は持ち家のある者だけが町人とみなされて、借家暮らしの庶民は家主同伴でないと公《おおやけ》の場に出られない。つまりは持ち家のあるなしがいわば市民権にも関わるだけに、土地家屋を担保に入れるときは親類縁者と町内五人組の連判、さらに名主《なぬし》や町年寄《まちどしより》といった町役人《ちようやくにん》の連署まで要る。にもかかわらず、大坂は家質がさかんで、土地家屋を担保に金を借りる慣習が早くから定着していた。 「あの火事でよそに流れた町の連中が遠からず大坂に舞い戻ってくるじゃろう。そのときに質流れで手に入った地所を売ったら、きっと大もうけが出来るはずやと、旦那はおっしゃる」  もはや吉兵衛は机にしがみついて本ばかり読んでいた少年のころとはちがうようで、お目付役としてここに送り込まれた元助も少しはほっとしていた。 「たとえ家屋敷が焼けても地所は残る。これほど心丈夫な質草はないとの仰せじゃ」  と、惣助はあたかも吉兵衛の熱心な信者のごとくに明言した。  元助はこれらの仔細をすぐに鰐口の宗兵衛に報告したところ、 「ご隠居様の実家《おさと》が炭屋を廃《や》めるとはもってのほかといいたいとこじゃが、あのような聡《さと》いお方には、何を申し上げても、すぐにいい負かされるのが落ちじゃろう。いずれ折をみて、ご隠居様か旦那様にご意見していただこうと思う。そなたはすぐに去るというわけにもいかんから、せめて一、二年は辛抱してくれ」  という話であった。  木津屋は通常の質屋も営んでいるが、それには質草の値打ちを素早く見定めて、盗品に気づく目がなくてはかなわないので、古道具屋から先代に従《つ》いてきた佐助が一手に引き受けている。よほど大量の品が一時に持ち込まれでもしないかぎり、店番の丁稚がいれば間に合った。大口の融資先には吉兵衛と惣助が会うので十分だ。  片や炭屋のほうは源兵衛と加兵衛という古い番頭が仕切っていて、その下にも何人かの手代がいたが、吉兵衛が仕入れの金を出さないために、もはや開店休業のありさまで、人手が要るどころか余ってどうしようもない。  というわけで、元助はさしあたって丁稚といっしょに店番をしているしかなかった。  質草は預かる際に持ち主の名前をコヨリの先に書いて結びつける。元助は暇つぶしに反古《ほご》を断ち切って細長い紙の束をいくつも作ったが、三日もすれば紙そのものがなくなった。時に簡単な催促状を書かされたりもするが、仕事らしい仕事はほとんどない。こんなことになるのなら豆狸《まめだ》に刀の鑑定《めきき》を習っておけばよかったと思えるくらいだ。  辰巳屋の蔵で刀の鑑定を見せられてからちょうど丸一年たって、こんどは木津屋の土用干しを手伝うことになり、久々にからだを使って、元助は少し気が晴れるところもあった。  焼け跡から再建してまだ三年しかたたないのに、元助は質蔵に足を踏み入れて品数の多さに肝をつぶした。辰巳屋の蔵を満たしていたのは所詮は一軒の持ち物で、諸処の家から品物が集まる質蔵とは比べものにならない。一番多いのはやはり衣裳で、高価なものは衣桁《いこう》にかけて風を通し、虫に喰われた痕《あと》を丁稚が丹念に検《しら》べてゆく。何かの行事があるときしか着けない裃《かみしも》の類は、大きな一閑張《いつかんば》りの葛籠《つづら》にぎゅうぎゅう詰めになっている。  二階棚や厨子《ずし》はほこりをざっと払うだけで済むが、箪笥《たんす》や長持《ながもち》、唐櫃《からびつ》の類は面倒でも中を開けて見ないといけない。桐箱に入った掛け軸も衣裳と同様いちいち展《ひろ》げて虫喰いの穴がないかを検べる。蔵の奥からは衝立《ついたて》や屏風《びようぶ》、刀剣、弓矢はもとより戦国の世の馬標《うまじるし》や采配《さいはい》までぞくぞくとあらわれてくる。  細い枝木で編んだその柳筥《やないばこ》を手にしたとき、あまりの軽さに、元助はてっきり空だと思ってふたを開けると、中には神主が頭に着けるような黒い冠が入っていた。こんなものまで質に入れるのかとおかしくなり、この男にしてはめずらしく自分から軽口を叩いた。 「これを預けた罰当たりは、どこの神主でござりましょう」  と、冠を取りだせば、 「ああ、手荒に扱うまい」  佐助がこちらを見ていきなり叫んだので、びっくりして取り落としそうになり、だらんと垂れた纓《えい》をあわててつまむ。駆け寄ってきた佐助は透額《すきびたい》を掌に押し戴いて、 「これは忝《かたじけ》なくも堂上方《どうじようがた》の御品じゃぞ」  と怖い顔で叱りつけた。 「われら難波《なにわ》の者《もん》は、京のお公家さんといえば、昔と同じように冠装束でお暮らしなさると思うておるが、今では行事のときだけおかぶりになるらしい。ここにずっと預けておいて、ちょくちょく引き取りの使いをよこしなさる。この冠はここから出ていっては、すぐまた舞い戻ってきよる」  佐助は揶揄《やゆ》気味に語ったあとに、この冠の質草で貸した金額が相当なものであることを明かした。 「目ェ剥いたらあかんでえ。銀十貫目や」  といわれて元助は唸った。家質を取らずに貸す金は一貫目までと聞いていたから、驚きは大きい。先方がわざわざ大坂《ここ》に足を延ばすのも、地元で悪い噂を立てたくない理由に加えて、木津屋ほど高額の金を貸す質屋は地元で見つからないからだろうと思われた。その冠を持ってきたのはさる公家に仕える侍で、吉兵衛が直に対面して貸出しの金額を定めたのだという。 「京のお公家さんはみな貧乏で、年がら年じゅう借銭乞いに追われてなさるが、そんじょそこらのお武家よりも御位はうんとお高いのじゃから、大切にして差しあげねばならんと旦那は仰せじゃった。わしらにはさっぱりわからんが、あの賢い旦那のお考えにまちがいはあるまい」  公家の姿をいまだ目にしたこともない元助は、佐助よりもさらに吉兵衛の気持ちがわからなかった。ただ家質といった形あるものでしか金を貸さないはずの男が、御位という正体不明のものに金を貢いでいることに一抹の不安があった。  質商売は順調でも自分が役立つことはほとんどなさそうだから、元助は心ひそかに炭屋の再開を待ち望んでいた。が、あのあと鰐口が主人にどういったのかは不明のまま、炭商売に携わっていた源兵衛、加兵衛をはじめ何人かの奉公人たちは木津屋を去って辰巳屋に引き取られるかたちとなった。ここに至って木津屋はとうとう質屋に転業したのである。 [#改ページ]   心を学ぶ  木津屋に来て半年ほどたち、さしたる仕事もないことに苛立《いらだ》ちを覚えたころ、主人から元助にようやくお呼びがかかった。  元助が襖《ふすま》を開けたとき、吉兵衛は庭に面した文机で熱心に書き物をしていた。挨拶しても振り返ろうとはしなかったが、しばらくして筆を置き、立ちあがって従《つ》いてこいというふうにあごをしゃくる。元助はかつて小ぼん様とツツジの蜜を吸った昔が懐しくなりながら庭に降りた。  隣家の敷地を加えて広くなった庭は植込みが半ばにも達していない。ガラクタの物置場と化した更地を前にして、吉兵衛は思いもよらぬことをいいだした。 「ここにガクドウを建てようと思う」 「額堂……でござりまするか……」  元助は神社や寺で見かける絵馬堂を想い浮かべて眼を白黒させた。吉兵衛はくすっと笑って、額堂ではなく学堂、すなわち学問所であると説くが、元助はまだふしぎそうな顔つきだ。小ぼん様はまたしても寺子屋ごっこをはじめるのだろうか。 「商いは罪深いもんじゃのう」  と、吉兵衛は唐突にいって大げさなため息をつく。  炭屋のころはさほどに思わなかったが、質屋に転じて金貸し業をはじめてから吉兵衛はよくそう思うようになったという。最初は知り合いに頼まれて、人助けのようなつもりで大金を貸した。だが他人に金を貸すというのは、むろんそんなきれい事では済まなかった。 「こうして金を追いかけ、金に追いまわされて一生を終えたら、死んでからも欲界に留まって、天魔の眷属《けんぞく》となるような気がする。それゆえ罪滅ぼしのつもりで、金もうけと無縁な、人のために役立つことを何かしたいのじゃ」  熱っぽく語る男の横顔に、元助はかつての小ぼん様の気高い顔つきを見た。もっとも吉兵衛は今やさすがに自分が教えようとするわけではなく、ここに学堂を建てて立派な講師を招聘《しようへい》し、志ある者に聴講をさせたいという。 「幼いころに読み書きを教えただけのそなたが、わしを慕うて木津屋《うち》に来てくれたと知って、今さらながら学問の尊さに感じ入ったのじゃ」  そういわれて、元助は自らの嘘を後悔した。 「そなた論語は読んでおろうなあ」  元助はぶるっと強く頭《かぶり》を振る。この際に嘘をはっきりとさせなくてはならない。が、吉兵衛はこの男のいつもの癖で、身近にいる者の様子など少しも見ずに、目を遠くにやっている。 「あの大火のすぐあと、淀屋橋《よどやばし》の近所に学堂が出来た。論語の『君子は徳を懐《おも》い、小人は土《ど》を懐う』の教えを引いて、懐徳堂と名づけたそうじゃ。焼け野原になった土地を見て多くの者が途方にくれるあいだにも、人としての生きる道を説こうとした立派な方々がある。及ばずながら、わしもそれを見習って、この堀江の地に学堂を建てようと思う」  五人の町人が出資して創建された懐徳堂は初代の学主に三宅|石庵《せきあん》を迎え、すでに創建二年目にして幕府《おかみ》の認可を得ていた。江戸の昌平黌《しようへいこう》が武家の学舎であるのに対し、こちらはあくまで町人の学習に重きを置いて、後に多くの人材を輩出し、明治の世に至るまで存続する。  否応をいわせぬ主人の命令で、元助は次の日さっそく今橋通りと御堂筋の交差するあたりに建つそのお手本となるべき学堂を見にいくはめになった。  広い玄関を恐る恐る覗いたところ、すぐに奥から人があらわれて「初めてのお方か」とたずねられた。例によってうまく返事ができずに困っていると、相手は壁の張紙を指してにっこりとした。ここは書物を持たずに来ても聴講が許される。また用事があれば途中で退席しても構わないということが張紙に書いてある。  とやかくいう隙もなく案内された広間では、大勢の人びとが車座になって何やら座談を楽しんでいる様子だ。だれも羽織は着ていないが仕立てのよさそうな着物ばかりで、いかにも良家の若旦那の集まりといった感じである。案内の男が部屋をまちがったものと思い、そっと顔を窺《うかが》ったところ、 「万年先生のご講義はいつもこうでござりまする」  と、相手は涼やかな声で応じた。  よく見れば車座の正面に総髪に結った男がいて、皆はそちらに顔を向けている。万年先生と呼ばれる男が学主の三宅石庵だというのを元助はあとで知った。  こうして見学に来る者もちょくちょくあるのだろう、案内役が車座のなかに戻っていったあとはだれもこちらを気にしない様子で講義が進んでいた。万年先生は語るいっぽうではなく、門弟にも意見をいわせ、ときどき笑い声が混じるなどしてなごやかな雰囲気なので、元助はひとまずほっとした。が、いざ耳を傾けてみると話は意外と難しく、自分がここにいるのはやはり場ちがいだと感じた。才気煥発なあの伊助なら、こういう場にも平気でいられるのかもしれなかった。  受講の謝礼は五節句の前に銀一匁を世話役に渡すだけでいい。それが無理なら一折の半紙か一対の筆を持参するだけでも入門を受け付けると案内役の男は説明した上で、、去り際に、 「ぜひまたお越しなされ。教え有りて類無しでござる」  と、さわやかにいった。 「教え有りて類無し」は論語の一節で、人間には生まれつき定まった種類などなく、教えを受ければだれでも立派な人間になれるという意味である。この時期の大坂は先年の大火によって貧しくなった者が多いために、こうしたある種の平等観が門弟のあいだに広く浸透していた。が、そういわれた当人は意味もわからず、調子のいい文句だけが耳に残ってしまった。  帰るとさっそく主人に報告をさせられて、学舎の外観、謝礼の件、受講の模様はぽつぽつとでも話せたが、肝腎の講義の中身を問われて閉口し、 「思いまするに、教え有りて類無しでござりましょう」  と苦しまぎれでいったところ、なるほど、と、相手が感心して膝を打ったのには驚いてしまった。 「満足に漢字《からもじ》さえ読めなかったそなたにして、そこまでのことがいえるようになったとは……」  と、いきなり手を握り、目を潤ませる男を見て、元助は何もいえなくなった。師は相変わらず気を昂らせやすいたちで、弟子はただ呆然としている。誤解を解くどころか、誤解を生じさせた文句の意味すらわかっていないのだから解消のしようがないのである。 「望みの通り、しばらく懐徳堂に通うがよい」  といわれて、元助は自分でもなぜこんなにおかしなことになるのかと首をかしげながら、主人に一年分の謝礼を出してもらって懐徳堂に通うはめになったのである。  門弟はかならずしも裕福な者ばかりではなかったが、対等に口がきける相手とは思えなかった。元助は自ら他人に話しかけることをせず、たまに話しかけられてもごく短い返事ですませた。座談風になるのは最初に見た万年先生だけで、あとはみな書見台を前にしたあくびを催す講義である。講義の中身に気がいかない分、周囲の様子を眺めていた。ここには向学心に燃えた若者ばかりではなく、悪さをしないよう親に預けられたといった感じのどら息子もいるのだった。  門弟のあいだで一番人気があるのはもちろん万年先生の講義である。話はけっしてやさしいものではなかったが、先生のひょうひょうとした人柄が皆の気持ちを楽にさせた。先生は貴賤貧富や学才の有無は問わぬといって門弟を分け隔てしなかった。人を分け隔てしないのは生まれつきの性分もあるのだけれど、先生はそれを学問の道をきわめた人徳と見せていた。箸にも棒にもかからぬ感じのどら息子でさえも、先生の前では子供のように素直であった。  講義中に先生に意見を求められると門弟はのびのびと発言をした。時に門弟同士が論争となり、だれかが才走って他人を侮る発言をしたようなときだけは、 「学問は己れを立派に見せて他人を非難するための道具ではない。自らの心を学び、心を修めるために用いるものじゃ」  と、厳しいお叱りの声が飛んだ。  心を修めるとはいったいどういうことか。先生が最もわかりやすい例をあげた話は、元助の胸に後々までしっかりときざまれた。  それは元助が先生と直に口をきけた最初であり、最後でもある。 「よいか。ここに饅頭が三つあると想え」  といわれて元助は丁稚のころに皆と分け合って食べた虎屋の饅頭のことを想いだしていた。 「一つを食べ、二つ目を食べた。さあ、残りあと一つは、食べずに我慢するがよい。どうじゃ、それくらいなら出来よう」  元助は思わず大声をあげてしまった。 「それは無理でござります」  人びとが一斉に振り返る。 「なぜ、そう思う」  先生の顔が微笑《わら》っていた。  われを忘れて声をあげ、元助は後悔した。だが、丁稚のころに大勢で一つの饅頭を奪い合った経験がある者は、こういわずにいられない。 「なぜて………三つあったら、自分が早よ食べてしまわな、ほかの者に食べられて、きっと嫌な思いをいたしまする」  先生の顔は微笑が消えて、怖いほどの真剣な表情に変わっていた。 「そうじゃ。その通りじゃ……。そなたは人の心というものをよく学んでおるのう」  元助は自分が誉められているのか叱られているのかさえわからなかった。 「饅頭が三つあれば、独りですべて食べてしまいたいのが人情じゃ。それを二つにとどめたら、残りの一つはだれかの口に入る」  と、先生は厳かな口調でいう。 「人が己れの欲心をちょっとずつ削《けず》っていけば、この世の中に飢える者はいなくなる。心を修めるとはそういうことじゃ。人の欲心は極まりない。三つ食べてしまえば、こんどは他人の分に手を伸ばしたくなる。だれかが欲張って先に三つ食べてしまうと、こんどは別の者が負けじと四つ食べたくなる。そうした具合に、貪《むさぼ》る心が世の中をまわしてゆけば、争いは絶えず、人はやがて悪鬼と化し、果ては互いに殺し合うようになる」  先生の断言は恐ろしかった。  元助は後日そのことを友人の伊助に話してきかせたことがある。話し方がへただったせいか、伊助は途中で何度も首をかしげた。 「なんやわかるようで、さっぱりわからん話じゃが、わしなら饅頭をもっと増やしたらええと思うで」  と、才気走った男にあっさり話を雑《ま》ぜ返されて、鈍くさい男は何もいい返せなかった。 「なあ、ガンちゃん、わてらは商人や。人が饅頭をちょっとでもたくさん喰いたいと思うてこそ、商人の生きる道があるのとちがうか。それが皆に我慢なんかされてみい。わしら上がったりやで」  伊助のいい分もまたもっともだと思われた。人が何を貪りたいと思うのか、どうすれば貪りたいと思わせられるのか、そうした心を学ぶのが商人の道であろう。それと先生がいう心を修めることとは、どこまでも交わらない道かもしれない。  果たして先生は本当に貪りたくなるほどに飢えたことがあるのだろうか。元助は年がら年中ただひたすら食べ物に飢えていた少年のころを想いだす。百姓の小倅だったころは町に出れば腹いっぱい飯が喰えるように思ったものだが、商家の丁稚になっても、ひもじい思いに変わりはなかった。あんなひもじいときに、三つある饅頭を他人に譲るなんて、とても無理だとしか思えない。  やはり伊助がいうように、飢えないためにはまず饅頭の数を増やすことだ。しかし饅頭の数を増やせば、果たして人は本当に争わなくなるのだろうか。  先生はまたあるときこうもおっしゃった。 「もしかりに帝王と生まれて、天下の富をほしいままに出来たとしよう。あるいは孔子や孟子のように後世に名を轟かせたとしよう。それでも、人はみな如露亦如電《によろやくによでん》。朝露のごとく、稲妻のごとく、一瞬のうちに消え去る儚《はかな》い命じゃ。己れに貪る心が少しでも生じたら、そのことをよく想いだすがよい」 [#改ページ]   一家一門《いつけいちもん》の人びと  鰐口《わにぐち》の宗兵衛が約束を忘れてしまったのか、はたまた吉兵衛が手放そうとしないのか、元助は辰巳屋に呼び戻されることなくいつしか三年の歳月が流れていた。  ただし辰巳屋の当主久左衛門とは月に一度顔を合わせている。理由はほかでもない。妾宅にお手当を届ける役目がいまだに続いていたのである。木津屋に来て最初にその話を告げたところ、 「悪性《あくしよう》な兄貴のあと始末とは、またご苦労なこっちゃのう」  と吉兵衛は皮肉にいいながらも、その役目を断らせはしなかった。  大火の直後、吉兵衛は難波《なんば》村にある辰巳屋の別荘にしばらく身を寄せており、そこでお照といっしょに暮らしていたこともある。 「兄貴は前にわしに打ち明けよった。あの女は、死んだお袋にちょっとばかり似てるのじゃそうな」  と、自身もまたお照には少なからず好感をもったように打ち明けて、当時生まれたばかりの娘お拾《じゆう》のことを懐かしそうに語った。 「そういえばあの娘《こ》はたしかうちの綱次郎《つなじろう》と一つちがいじゃから、もう大きうなったであろう。きっと母親に似て容貌《きりよう》よしであろう。一度会うてみたいもんじゃのう」  妾腹《しようふく》の子であるとはいえ、吉兵衛とお拾は叔父と姪の間柄になる。  かつて幼い元助にツツジの甘さを想わせた女も今は早や七つになる子の母親だった。堀江新地の妾宅も大火のあとに建て直され、そこには相変わらず特牛《こつてうし》の次郎兵衛が押しかけており、これまた姪になるお拾を目の中に入れても痛くないほど可愛がっている。姪が生い立つにつれて、こちらの伯父の人柄はだんだんと丸くなっていくようだった。  元助が木津屋に来て新たにぼん様と呼ぶ綱次郎は、お拾の一つ年上の従兄である。八歳という腕白盛りのわりにはおとなしい少年で、父によく書や読み方を習っている。  綱次郎の母親、すなわち木津屋の御寮人はお妙といい、道修町《どしようまち》の紙屋という薬種屋から嫁いでいた。良家に生まれた女子の習いで店には滅多に姿をあらわさず、たまの外出にも黙って静かに見世庭《みせにわ》を通ってゆく。小柄だから、店の者は気がつかないときがあるほどで、挨拶してもその返事はよく聞き取れないほどのか細い声だった。  盆と正月、五節句の折などで夫婦がそろって奉公人の前に姿をあらわすときも、妻は陰に隠れるようにして、絶えず夫に眼差しを向けていた。色白の細面で、派手な美人とはいいがたいが、控え目なこの妻を夫もそれなりに気に入っている様子である。兄の悪性ぶりをさんざん見せられて、弟は女嫌いの癖《へき》もあったから、少し物足りない感じがするくらいの妻でちょうどいいのかもしれなかった。  木津屋の一家は吉兵衛と、このやや影が薄い女房のお妙、おとなしい倅の綱次郎の三人だが、この時代の一家とはもっと広く同族を意味しており、年中行事や大切な事あるごとに一家が本家に集う習わしだ。木津屋はそもそも休貞の実家ながら、今では辰巳屋を本家と仰ぐかっこうで、こうした辰巳屋を本家にする家は存外その数が少なかった。  休貞は四人の子をもうけたが、偉大な父を持つ子は短命に終わりやすいという俗説を地でいって、木津屋を最初に継がせた次男を早くに亡くし、次いで継がせた娘婿もまた娘ともども他界している。したがって今は木津屋のほかに辰巳屋に集う親族が、当主の妻おみつ御寮人の兄森田屋藤右衛門、吉兵衛の妻お妙の実家紙屋吉右衛門、休貞が若いころに勤めていた姉の嫁ぎ先の河内屋太郎右衛門、辰巳屋の二代目の縁者に当たる布屋|卯之松《うのまつ》というわずか四人にすぎない。  親族にまして盆暮れの挨拶を欠かさないのは、かつて辰巳屋に奉公して暖簾分けされた一門の人びとで、こちらは数が多くて今後もますます増えそうな勢いだが、目下一門を束ねるのは大火後に店を大繁盛させた伊助の親父、但馬屋《たじまや》伊左衛門である。  ところで本家の辰巳屋にはお岩という娘しか生まれておらず、これも綱次郎にとって従妹に当たるのだが、吉兵衛は嫂のおみつを昔から毛嫌いするせいか、話に出てくることはめったとない。  木津屋に来て三年目の暮、恒例となった伊助との年忘れの宴で、元助はその長らく忘れていたお岩の名を聞かされている。 「なにせあの御寮人の胎《はら》から産まれた子じゃによって、案のじょう、ひがいす[#「ひがいす」に傍点]なお娘《むす》やで」  と伊助はのっけから口の悪さを発揮した。ひがいすとは痩《や》せて虚弱なことをいう。  御寮人のおみつは産後の肥立ちが悪くてぶらぶら病いとなり、いまだに寝たり起きたりのありさまだから、次子が産まれる望みは絶たれたといってもよい。つまり辰巳屋はもう男子の跡継ぎがないと定《き》まったも同然なのである。  久左衛門は愛妾のお照に男子が誕生するのを期待しているようだが、特牛の次郎兵衛を知る奉公人はそれをひどく恐れていた。 「ご隠居様もわが目の黒いうちに、あとでごたごたが起きんようにしておきたいのやろ。今年の春に、うちの親父まで呼ばれてご相談があったが、そのお相手がやっと見つかったらしい」  明けてようやく七つになる少女に早くも縁談が起きていると聞かされて、元助は唖然とせずにはいられなかった。で、そのお相手は、とたずねて伊助の返事を聞けば、 「唐金屋《からかねや》て……ああ、あの汐見橋《しおみばし》の船問屋かいな」  と、驚きの声がさらに大きくなる。  道頓堀の河口に架かる汐見橋の北詰に、唐金屋という大きな廻船問屋があるのは大坂の者ならだれでも知っている。唐金屋は大昔に大通丸《だいつうまる》という四千石の巨船を海に走らせていた。その船のなかには米を脱穀する唐臼《からうす》部屋や野菜畑まであったという。ちなみに井原西鶴の「日本永代蔵」に登場する神通丸《じんつうまる》とはこの船のことである。  炭の運搬を通じて以前から深い付き合いがあったから、辰巳屋と唐金屋の縁談にさほどのふしぎはないとしても、同業の相手でないのはいささかふしぎに思われた。おまけに縁談の相手は汐見橋に店を構える唐金屋ではなく、泉州佐野の本家だという。  泉州佐野浦の元祖唐金屋は辰巳屋とは格ちがいの旧家であった。古くは角倉了以《すみのくらりようい》、茶屋|四郎次郎《しろじろう》らと同じく海外に朱印船を派遣した貿易商で、汐見橋のほかにも分家があって、一家一門で江戸廻りの菱垣廻船《ひがきかいせん》八十余|艘《そう》、北国廻船五十余艘、併せて百三十余艘を擁する上方随一の海運業者だ。 「あれほどの名家と縁続きになったら、辰巳屋の将来はまず安泰や。特牛が乗り込んでくるのとはえらいちがいやで」  と、伊助は笑っていったあとに、どうやらその縁談は妾腹の子に家督を譲らせたくない御寮人の実家森田屋と、森田屋と同じ町内で親しくしている河内屋の両家から持ち込まれたらしい、と穿《うが》った見方を披露した。相談に与《あずか》った一門のまとめ役である伊助の親父の但馬屋伊左衛門は諸手を挙げて賛同していた。 「うちの親父はかねてからご隠居様の目の黒いうちに、なんとかしっかりした跡継ぎを定めてほしいというてた。昔あった淀屋が今はもう無いように、商人の家はいつなんどきころっとひっくりかえるやわからんよってなあ。そやけど、ひがいすなあの娘《いと》さんに、ちゃんと赤子《ややこ》を産んでもらわんと、余計にややこしいことになりよるで」  伊助にお得意の駄洒落が飛びだすのは無理もなく、当のお岩がまだ六つでは、そんな先のことまで真剣に心配してはいられない。 「ちくしょう、わしがもうちょっと若かったら、お岩はんの婿になれたのになあ」  と笑い飛ばすしかないであろう。  片や元助はその話を聞いて少々気がかりなことがあった。辰巳屋が同業者との縁組を避けるのは一門の結束がかえって崩れるのを恐れるためと見られるが、当主の久左衛門と隠居の休貞の意向はかりにそうだとしても、ふたりと血のつながる吉兵衛が相談に与ったのかどうかは定かでなかった。  伊助の話でさらに心配されたのは休貞の身の上だ。早や喜寿を越した今はさすがに耄碌《もうろく》して、手代の端々までしっかり顔を覚えていた男が、近ごろは番頭の名前すら想いだせなくなるほどだという。  辰巳屋は三代目の休貞が一代で築きあげたも同然である。辰巳屋に勤めた者はこの男の定めた家風に従い、大半が丁稚からこの男に躾《しつけ》られて一人前の商人に育っている。自らもかつては他家で奉公した苦労人で、冬も足袋をはかずにいた男。茶屋遊びはいっさいせず、ひたすら商いに打ち込んで、辰巳屋を大坂一の炭問屋に押しあげた男。一門の人びとはこの男をわが師と仰ぎ、商人の鑑《かがみ》と讃えてきた。皆の心の拠り所であるご隠居様がいなくなるのを想うと、元助のような末輩さえも胸が切なくなるのだった。ましてや古い番頭や一門の故老たちの心配は察するにあまりある。また何よりも休貞は辰巳屋と木津屋を結ぶ扇の要《かなめ》なのだから、それが失われることの危惧が大きい。  この夜、伊助のほうは以前から関心を寄せている堂島の米市が幕府《おかみ》の認可を受けたという話もして、さかんに米価の行方を気にしていた。  翌年六月二日、炭問屋が繁忙をきわめる最中に辰巳屋三代目の休貞は息を引き取った。行年七十八の大往生でありながら、一門の嘆きはただごとならず、人びとは争うようにして棺桶のまわりに群がっていた。  休貞が亡くなった直後から猛暑が続き、豊作になるとの見通しが広がって大坂の町には幕府《おかみ》から買米《かいまい》のお触れが出た。買米は課税の一種で、文字通り米を買わせて米価の低落を喰い止める手だてである。町奉行所がこのとき買米を命じた大坂の商家上位百三十軒のうちには、辰巳屋久左衛門はむろんのこと木津屋吉兵衛もふくまれている。  翌享保十七年、幕府のなりふり構わぬ米価操作がまるで天の怒りを買ったごとく、西国は未曾有《みぞう》の大|飢饉《ききん》に襲われて一万二千人の餓死者を出した。市中でも米価が急騰し、多くの庶民が困窮して飢える者が相次いだ。  そこで辰巳屋は諸藩の蔵元で名望を一身に集める大和屋《やまとや》三郎左衛門《さぶろざえもん》、両替屋の雄、平野屋五兵衛《ひらのやごへえ》、日本一の銅吹屋として名高い泉屋こと住友|吉左衛門《きちざえもん》とともに貧民救済の寄付を町奉行所に申し出た。このときすでに辰巳屋は諸藩に銀七、八百貫目、金にして一万二、三千両の巨額を貸付ける大富豪であった。大坂の町奉行所は寄付を申し出たこの四人組に東国から回送された幕府米の貸付と返済の世話役を命じ、以来、四人組は町役御免《ちようやくごめん》すなわち市税免除の特権を得ている。  いっぽう休貞の死と飢饉の騒ぎで一時中断したかにみえた縁談はふたたび進行し、享保二十年には唐金屋からついに次期当主となるべき十一歳の少年が養子に迎えられた。辰巳屋のひとり娘お岩よりも一歳年下の少年は名を乙之助《おとのすけ》という。  この当時、乙之助の実父唐金屋|右衛門佐政則《うえもんのすけまさのり》は相続名をはばかって与茂作《よもさく》を称している。八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武が右衛門督《うえもんのかみ》に叙任され、将軍と幕閣のあいだで話が出るときに音が紛らわしくて混乱するというのが改称の理由で、自身は牡丹作りに凝って、その噂を聞いた将軍のもとへ牡丹の株を届けさせたという逸話の持ち主だ。  かくして大坂で四指に入る豪家の辰巳屋は、将軍にさえ知られた名家中の名家を一家《いつけ》に取り込むかたちで将来に揺るぎのない地盤を固めようとしていたのである。  いっぽう木津屋では、飢饉の翌年、大火直後に懐徳堂が発足した顰《ひそ》みに倣《なら》って、吉兵衛が念願の学堂を建立した。これまた家質の金融をはじめたときと同様で、だれにも相談はせず、店を再建した大工にひとりで話をつけて、落成した建物を前に目を潤ませながら、ようやく家人一同に真意を明らかにしたのである。 [#改ページ]   学堂始末 「なあ、お前の口からもなんとか申しあげてくれや」  と惣助《そうすけ》に泣きつかれたときは、元助もさすがになんとかせねばならぬと焦った。非難の矛先は二年前に誕生した学堂に向けられていた。  吉兵衛はまずそこに自らが蒐集した和漢の書籍を陳列して他人が閲覧できるようにした。次に儒者や僧侶を招いて講義させようとしたが、穂積以貫《ほづみいかん》をはじめ何人かの著名な学者はいずれも招聘《しようへい》に一、二度応じてくれたばかりである。そこで自ら売り込みに来た諸国|行脚《あんぎや》の禅僧や浪人者を頼んだところ、長々と居座られたあげく、隣りに厨房《くりや》まで増設するはめとなり、今や学堂の入費は半端なものではなくなっている。 「どうせまともな口にあぶれた連中が、旦那をうまいことおだてて喰いもんにしよるだけや。ええ加減にやつらを追いだしてしまわんと、しまいにはこっちが丸裸にされてしまうで」  惣助にいわれるまでもなく、元助は食客の世話にほとほと手を焼いていた。なかには学堂で真っ昼間から酒を呑んで赤い顔をしている者もいる。なまじ学識の自負がある吉兵衛はそうした連中と半可通の議論を交わして、ふだん使えない難解な言辞を弄することに大いなる喜びを覚えているようだった。 「学問は外に着飾るものではない。己れの心の内を照らすものじゃ」  と、かつて万年先生に教えられた元助は、こうした様子をおかしいとは感じているが、さりとて問答に割って入るだけの弁舌も勇気もなく、ただ手をこまねいて見ているしかない。自分に一から読み書きを教え、懐徳堂にまで通わせてくれた主人に対して、自分ごときが口幅ったいことはいえないように思われるのだ。  大火の直後に家質《かじち》をたくさん手に入れた木津屋の経営は、当初かなり順調にまわっていた。先見の明を誇った吉兵衛は、日々の細かな商いに手を染めなくても大勢の家人が養えたのである。  元助は書斎で机に向かう主人の涼しげな顔を眺めつつ、死んだ親父が田畑で額に汗して働く姿をまぶたに浮かべ、人には生まれながらの差がいかんともしがたくあるように感じた。裕福な商家に生まれた聡明な小ぼん様と、鈍《どん》くさい百姓の子はどこまでいっても同じ地面に並んで立ちようがない、と、つい思ってしまうのだった。  しかし実のところ木津屋が家質を手に入れられたのはほんのわずかのあいだに過ぎない。炭屋を廃業してからは、実父の休貞とも折り合いが悪くなって辰巳屋の金蔵をあてにできなくなり、新たな家質を手に入れるどころか、質流れの分をつぎつぎと手放すかっこうで資金繰りを余儀なくされていた。唐金屋との縁談もほとんど知らされず、いわば創業の本道を棄てたことが一族のあいだでの孤立を招いたかたちである。  家質をすべて手放してしまえば、木津屋は資本《もとで》の少ないただの質屋でしかなくなる。主人が呑気に学問道楽にうつつを抜かしている場合ではなかった。  そんな折も折、辰巳屋から使いが来た。近所で学堂の悪い評判が立ち、それを耳に入れた鰐口《わにぐち》の宗兵衛が心配して元助を呼んだのだ。  鰐口は今や数いる番頭の筆頭株と目されて、泣く子も黙る強面の男だが、勘定部屋でふたりきりになると相変わらず目を細めて開口一番「どや、気張ってるか」とやさしくいう。が、そこから急に厳しい表情に変わって近所の悪い噂を聞かせた。 「どういうこっちゃねん」  と責められて、 「堪忍しとうくれやす。わしではもう……どないもこないもなりまへん」  元助はわれしらず甘ったれた口調になった。そもそも吉兵衛のお目付役は一時のことだったはずではないか。辰巳屋に戻してくれるという約束はいったいどうなったのかと逆に問い返したいくらいである。学堂の件についてはありのままを語った上で、自分ではいかんともしがたいことを訴えずにはいられなかった。 「お前もたいがい苦労なこっちゃのう」  と、鰐口は声をしんみりさせたものの、その場ではこちらにどうしろとも、また自分がどうしてやるとも聞かせてはくれなかった。  三日ほどたって、町年寄が木津屋を訪れて奉行所の召喚を告げたときも、それが鰐口の差し金によるものかどうかはわからなかった。ただ元助は、宿屋業でもない家が他国者をみだりに宿泊させると罪になるのをこのとき初めて知って、恐ろしさに顔がこわばった。学堂には大坂以外の土地の者が何人か住みついている。だが当の吉兵衛はちっとも動じぬばかりか、むしろ得意満面の表情で、 「ちょうどよい。あの懐徳堂のように、お上にお許しを願う絶好の機会《おり》じゃ」  といい放って憶病者を驚嘆させたのだった。  大坂の町奉行所は東町と西町とに分かれ、吉兵衛が召喚されたのは京橋の畔《ほとり》にある東町奉行所である。元助は主人のお供をして舟で大川に出た。京橋で舟を降りて大坂城の偉容を間近で拝すれば、お上に対する恐懼《きようく》がいやましに募ってくる。城門に隣接した奉行所のいかめしい長屋門を見あげると、恐れ心は頂点に達した。  まともに口をきけずにいる情けないお供に代わって、吉兵衛自ら門番所に御用の趣きを告げた。案じていたような御白洲《おしらす》に引きずりだされるといったことではなく、詮議所《せんぎしよ》の一間に通されてひとまずはほっとしていた。そこにあらわれたのは永田官兵衛《ながたかんべえ》という与力であった。月額《さかやき》がてかてかした温厚そうな円顔の男は板の間に平伏した両人に向かって、 「まあ、顔をあげえな」  と、思いのほか物柔らかな口調でいった。  大坂の町奉行には江戸の旗本が赴任するが、下僚の与力や同心は地元の侍がほとんどで、永田もその例に漏れない。江戸訛りの強い武士を相手にするのとちがって何かと話しやすいから、吉兵衛は尋問に対してひるまずに堂々と渡り合った。 「宿屋でもなく他国の方をお泊め申したのは誤りながら、余の儀については自らにはばかるところは少しもござりませぬ」  吉兵衛はここぞとばかりに得意の弁舌を振るう。 「文を以《もつ》て友を会し、友を以て仁を輔《たす》くるとの言葉もござりますれば、町人といえど、学を好んで集うことに、お咎《とが》めをこうむるいわれはござりますまい」  と押しまくられて相手はたじたじとなる。  吉兵衛はさらに難解な文句を並べ立てた。眸《め》をきらきらと輝かせ、まるで何かに取りつかれたように話す男をぽかんとした表情で眺めながら、 「身どもはそこまでの学がないによって、ようわからんがのう」  と、相手は気弱そうにいった。元助はこのとき部屋の隅から主人にあらためて尊敬の眼差しを向けていた。  永田は見るからに正直なお人好しに思われた。そしてお人好しは、ついに根負けしたようにいった。 「そのほうが申すこと相わかった。書物の披見《ひけん》は好きに致せ」  ところが吉兵衛はなんとそれだけでは満足しない。自ら建てた学堂を懐徳堂と同様にお認めくだされといい張って、相手をますます閉口させる。元助はその厚かましい申し出をはらはらして聞いていた。懐徳堂と比べものにならないのは知っていても、自分がこの場でそれをいいだすわけにはいかなかった。 「身どもの裁量ではいかんともしがたい。御奉行のお裁きを願うしかない」  逃げを打とうとした相手に、 「ならば永田様のお口添えをもって、御奉行様におとりなしくださいますよう願いあげまする」  と吉兵衛はあくまでも喰い下がる。 「身どもの口添えではどうにもならぬ。われら大坂の与力が何を申そうが、御奉行の耳には入らぬ」  相手がうっかり愚痴を聞かせると、吉兵衛はすかさず問う。 「では、どなたにお頼みすれば」 「御用人なれば……」  お人好しはまたしてもぽろりと本音をこぼした。  大坂東町奉行の下には三十騎の与力と五十人の同心がいて、彼らは江戸と同様にその身一代限りのお抱えながら実質は世襲に近く、ほとんどが大坂土着の武士であるだけに、江戸から入れ替わり立ち替わりやってくる奉行とは馴染《なじ》みが薄い。奉行は自らの家臣の一部を公用人という秘書官にして江戸から連れてきている。 「永田様とご懇意の御用人のお方はござりませぬか?」 「懇意とまではいえんが、馬場殿とは割合よく話をするかのう」  と永田は最後まで正直に答えた。  地元の与力と江戸から来た公用人のちがいは、木津屋に古くからいて追いだされた源兵衛や加兵衛と、辰巳屋から来た惣助やこの自分とどこか似ているのかもしれない、と元助は感じた。それならばたしかに公用人を通したほうが話は早そうである。  大坂の町奉行所に勤める与力や同心の組屋敷は天満《てんま》の川崎村にあって、公用人|馬場源四郎《ばばげんしろう》の役宅もその一角を占めていた。吉兵衛と元助は大川の材木蔵に近い桟橋で舟を降りて、まず探したのが岸和田《きしわだ》藩の蔵屋敷である。そこを起点に、どれも似たような塀囲いを一軒ずつ数えてようやく目当ての役宅を探し当てた。最初の日は、永田にむりやり書かせた添状と願書を玄関で家人に渡し、逃げるようにして引きあげた。  元助は吉兵衛にいわれて二度ばかり酒樽を先方に持参した。三度目に吉兵衛と同行すると、家にあがって主人の帰宅を待つよう促された。玄関の小部屋で一刻近く待たされて、相手はようやく姿をあらわした。  座敷に入ってくるときに頭が鴨居《かもい》につかえそうなほど馬場源四郎は大柄な男であった。年齢は吉兵衛よりやや上で、肩幅の広いからだと、あごの張った顔を併せて全体に四角い箱のような感じがする。着流しだが、襟元はくつろげずにいて、座に着くなり背すじを伸ばした姿勢でまず、 「たびたび足を運ばせてすまんが、願い上げの儀は罷《まか》りならぬ」  と素っ気なくいい、江戸訛りが上方者の耳には至って堅く響いた。  馬場の四角い顔は表情がわかりずらく、唇の動きも乏しくて、却下の理由をごく簡単に述べる。 「問い合わせてみたが、江戸でも一例あるのみだ。そのほうの志は誉めてとらすが、諸国の浪人を逗留させる儀は、向後堅く慎むがよい」  懐徳堂以前に江戸深川で会輔堂《かいほどう》という学問所が幕府の認可を得ていたが、私学の認可はこの二校のみであり、馬場源四郎は頭から吉兵衛の申請を却下したのではなく、この間いろいろと調べた上の結果であった。いくら声が無愛想でも、相手はけっしていい加減にあしらっているわけでないと感じられ、吉兵衛もここではさすがにあっさりと引き下がった。  奥方に進物として持参した縮緬《ちりめん》の反物を玄関で返そうとする家人と押し問答を繰り返したあげく、吉兵衛は手間を取らせたお礼だとして強引に受け取らせていた。役宅の門を出るとすぐに嘆息を洩らした。 「残念じゃのう、もうちょっと早くに建てておれば……」  そんなふうにいわれても、学堂の実状を知っている元助は素直に相づちを打つことはできなかったが、 「わしはなんでも遅れてしまう」  ぽつりと洩《も》れた淋しそうな主人のつぶやきは鋭く耳を刺した。  思えば吉兵衛は兄にまさる才知に恵まれながら、遅れて生まれたばっかりに辰巳屋の主人になれなかった男ではないか。いかんともしがたいその悔しさが、次男坊に生まれて家を出た元助には少しわかるような気がした。当初の志はともかくも、自らの建てた学堂をお上に認められたいとする胸のうちには、兄に対抗して功名を求める気持ちがたぶんに含まれていそうだった。  それが証拠にというべきか、認可が得られないと知ってから、吉兵衛は学堂に傾けた情熱をいっきに失った観があった。ひとりであと始末をさせられる身は、食客らのひどい抵抗にあって往生した。やっと半月後にひとり残らず追いだして、がらんとなった学堂を見てまわりながら、元助は安堵の思いとは裏腹にいいようのない淋しさに襲われていた。吉兵衛に見捨てられた学堂はそっくりわが身の上のように思われた。木津屋に来てから仕事らしい仕事もせず、学堂の世話ばかりしていた自分はもうお払い箱になってもおかしくなかった。  しかしながら吉兵衛は元助を手放したりはしなかった。相変わらず店の仕事はさせず、自分がどこへいくにも連れ歩いている。お遊びのお供ならもっと気の利いた相手のほうがよさそうだが、吉兵衛は自身でよく気がまわるから、口べたで鈍くさい男といっしょにいるほうが気の安まるようなところがあるらしかった。  かくして元助は武家でいう用人のようなかっこうで主人に仕え、本物の用人である馬場源四郎との縁もあのあと切れてはいなかった。 「馬場様はたいしたもんじゃ。江戸のお武家様は皆ああして真っ直ぐな気性の方が多いのじゃろうなあ」  と吉兵衛はさかんに相手を誉め讃えた。無駄口をきかず、それでいてこちらを納得の上で退散させた馬場のやり方に心底感じ入ったようだ。  以来、節句のつど元助に何かと進物を届けさせ、最初は頑《かたく》なに辞退していた先方も再三断るのは面倒になったらしく、しだいにあっさり受け取るようになった。一度ご縁ができれば四季折々の挨拶をするのは町家の習わしだから、向こうもそれをしいて断る理由はないのである。  いっぽう馬場を紹介した永田官兵衛にもその後の挨拶は一応した。  円顔でいかにもお人好しといった感じの永田官兵衛、四角い顔をした謹厳な馬場源四郎。両人との縁はこうして学堂をめぐるひょんなきっかけではじまっていた。 [#改ページ]   囲い者  享保二十一年(一七三六)は四月末に元文と改まる。同時に大きく変わったのは幕府の経済政策で、米価の下落をくい止めるために通貨を改鋳《かいちゆう》し、二十年以上続いたデフレ状態からインフレに誘導しようとした。通貨の切り替えは江戸で六月十五日、大坂で十九日から実施され、両替は遅々として進まなかったが、秋のころからはしだいに世間の風向きが変わっていた。長らく質素倹約を美徳とした時代がそろそろ終わりを迎えつつあったのである。 「人はだれしも三つの欲を抱えている。色の欲、名の欲、利の欲。この三つをすべて抑えるのは至って難しい」  と、元助はかつて懐徳堂《かいとくどう》で万年先生に教わったものだ。  いかに学問を修得した人も、この三欲すべてから逃れる術はないことを実感したのはやはり元文元年の秋からである。様変わりした世間の風潮に足並をそろえて、木津屋吉兵衛はがぜん人が変わったように茶屋遊びをはじめた。そもそものきっかけは特牛《こつてうし》の次郎兵衛《じろべえ》と親しくなったことにある。  前年の春、辰巳屋久左衛門の妾腹の娘お拾《じゆう》がお歯黒|初《ぞ》めを祝った折に、鉄漿親《かねおや》をつとめたのは吉兵衛の妻お妙だった。お歯黒初めは男子の元服に当たる女子の成人式で、鉄漿親は元服の烏帽子親《えぼしおや》に匹敵する。堀江新地の妾宅で行われたその式には実父の久左衛門に代わって吉兵衛夫妻が顔をそろえ、お照兄妹はそれを深く恩義に感じて嬉し涙をこぼしたものだ。  お拾にとって共におじ[#「おじ」に傍点]となる吉兵衛と次郎兵衛はおよそ肌合いがちがうにもかかわらず、以来どういうわけか親しく付き合うようになった。人は時として自分とまったく異なる他人をそばに置きたがるもので、吉兵衛における元助と次郎兵衛はその好例ともいえる。  強面で腕っぷしの強い次郎兵衛が用心棒の役目を果たして、吉兵衛はこれまで足を踏み入れなかった道頓堀《どうとんぼり》界隈の盛り場を訪れるようになった。界隈には風呂屋に籍を置くかたちで男の相手をする女たちがいた。女たちは新町の廓《くるわ》にいる女とはかなり雰囲気がちがって、無地の着物に黒|天鵞絨《ビロード》の帯という粋な装いで夜な夜な茶屋に召《よ》ばれた。  吉兵衛は岩井風呂に籍を置くお里という女に熱をあげた。お里は着物の上からも伸びやかで豊満な肢体が窺《うかが》えて、薄化粧の下にのぞいた肌はきめ細やかで浅黒い。妻のお妙とは見かけばかりでなく何もかもが正反対で、吉兵衛に遠慮なくずけずけとものをいう。時に女からえらそうな口調で大杯を強いられて、途中で呑めなくなって叱られながら嬉しそうに笑っている吉兵衛に元助は唖然とした。  女嫌いだった少年の昔からは想像もつかないが、早くに母を亡くして叱られた覚えのない男は、案外その手の女に弱いのかもしれなかった。ともあれ堅物はいったん女に溺れると怖いことになる。  吉兵衛はついに道頓堀裏の坂町でお里を囲い者にした。吉兵衛とお妙は似合いの夫婦で、けっして仲が悪そうには見えなかっただけに、元助はまたぞろ新たな妾宅の世話を仰せつかって当惑させられていた。もっとも学堂を閉じる前あたりから夫婦仲はかなり冷え込んでいたふしもある。  躾《しつけ》の厳しい旧家から輿入《こしい》れしたお妙は男の奉公人とはよほどの大切な用でもないかぎり挨拶以上の会話は交したことがない。それがあるとき学堂の前で元助とばったり出くわし、すれちがいざまに何を思ったのか独り言のようにして、 「世間様はうちの旦那《だん》さんがえらい金持ちとお思いやろけど、内証を知ったらきっときつう嗤《わら》いますやろ。ほんまに私《わて》はええ恥さらしや」  と、驚くほど聞きづらい愚痴をこぼしたのだった。  辰巳屋の兄弟はともに旧家から嫁いだ妻とは正反対の女を囲い者にしている。それはいわば成り上がりの歪《ひず》みのようなものかもしれない。もっとも同じ囲い者といえど、お里はあの慎ましやかなお照とは大ちがいだった。  吉兵衛は近ごろよくお里に誘われて道頓堀の劇場《こや》近くの芝居茶屋で役者遊びをする。遊びをほとんど知らない男は女のいいなりで役者や幇間《たいこもち》に大枚の祝儀をはずみ、茶屋の支払いはいつしか大きくふくらんでいた。  陰暦六月は大坂の各社が相次いで夏祭りを催す。期間中は町でもさまざまな余興を繰りだすが、近ごろは洒落で演じる俄芝居《にわかしばい》が流行し、吉兵衛とお里は近松の芝居に出てくる恋人同士に扮した。白塗りの化粧をして派手な衣裳を身につけた吉兵衛が女と手を取り合って道頓堀の通りを練り歩くさまはたちまち世間で評判となり、辰巳屋では兄よりも堅いと思われていた弟の信用がここに来ていっきに失墜した。吉兵衛がひとりの女によってかくも変貌を遂げたことで、元助はこれもいつぞや懐徳堂で聞いた紂王《ちゆうおう》と妲己《だつき》の話を想いだしていた。賢明な紂王が妖婦の妲己に魂を奪われて殷《いん》の国を滅ぼしたように、お里がいずれ木津屋にただならぬ禍いをもたらすのではないかと心配された。とはいえ主人に野暮な口出しなんぞできないばかりか、近ごろ遊びの席ではそばに近寄ることさえままならぬありさまだ。  茶屋遊びにいつも加わるのは辰巳屋木津屋の両家に出入りする相模《さがみ》という医者で、ほかにも儒者の穂積以貫や茶人の大口|恕軒《じよけん》といった著名な人士がいた。いずれも世間の聞こえがよい人びとながら、まるで幇間のように吉兵衛を取り巻いて放さないのである。吉兵衛の目には、それらの人びとがお里と同じで自分の世話する囲い者のように見えているのではないかとすら思われるのだった。  寺子屋ごっこの昔から、吉兵衛には人の世話を焼く一種の癖《へき》のようなものがある。それは裕福でかつ聡明だといわれつづけた男の傲慢さがもたらしたものといえなくはない。しかしながら手に負えない女や著名な文人を掌《てのひら》に載せて遊ぶ快楽のためには、生半可ではすまない財力が要る。  大火の直後には五間間口の家屋敷と土地百坪の抵当《かた》で銀五十貫目を貸すのが木津屋の通り相場で、一割を超える利子を取っても借りてくれる客が大勢いて、質流れでかなりの地所と屋敷を手に入れていた。ところが町の復興によって高利では家質が手に入れにくくなったあたりから、吉兵衛はかなりいかがわしい質草で金を貸すようになった。 「この天国《あまくに》の剣《つるぎ》もとうとう流れてしもたが、果たして本物かいなあ」  と、あるとき佐助がぼやきつつ見せたのは、日本刀工の祖といわれる天国《あまくに》が千年も昔に作った大刀という触れ込みで預かった質草だ。吉兵衛がそれを抵当に貸した銀五十貫目はついに戻らず、刀の転売もかなわなかった。  木津屋はいつの間にか家質をことごとく手放して大口の貸出しはおぼつかず、世間並みのちまちました質屋に落ちぶれている。かつてのような贅沢はとうてい望めないにもかかわらず、主人の浪費癖が止まないために、自店舗の維持さえ困難になりつつあった。  お妙はしばしば実家に戻って借金をする様子だが、ある日たまりかねたように膝を突き合わせると、日ごろにない激しい剣幕で、 「元助どん、そなたからも旦那さんに意見をしてくだされ。私《わて》はもうこれ以上|実家《さと》に借りを作りとうない」  と、きっぱりいった。それから急に気が抜けたのか、いきなり顔を覆《おお》って泣きだしたので、倅《せがれ》の綱次郎がそばに駆け寄って肩を抱いた。  いったん傾きはじめた身代《しんだい》を立て直すのは容易ではない。融資を依頼されても元手が乏しいなかでは引き受けられないことにもなり、 「ご隠居様がご存命なら、本家にかけ合うて融通してもらう手もあったけどなあ」  と惣助は事あるごとに嘆く始末だ。 「つまるところ木津屋には旦那の器《うつわ》が大きすぎたのや。もしご本家をお継ぎになっておれば、きっとええ旦那で通ったにちがいないのじゃが……」  その惣助の見方には元助も大いに同感だった。そして当の吉兵衛自身、それを思わぬ日はなかったであろう。 [#改ページ]   手代総数四百六十人  この時代の大坂は人口調査の記録がどこよりも詳しく残されており、元文元年(一七三六)の総町人数は三十八万九千八百六十六人とある。同時期の辰巳屋は手代総数四百六十人、資産総額金二百万両、銀高にして十二万貫目という、当時としてはまれにみる大企業であった。一石は一両に換算されるので二百万石の資産を有していた勘定だ。ちなみに忠臣蔵事件当時の赤穂浅野藩には三百八名の家臣がいたとされるが、ここにはそれよりもはるかに大勢の人びとが勤めていたことになる。  この年、木津屋に移って早や十年になる元助は伊助と催す年忘れの宴で辰巳屋の様子をたっぷりと聞かされた。元助とおないどしの伊助は三十《みそじ》を越えてとっくに実家の店主に納まってもよいはずだったが、いまだ辰巳屋に腰をすえて独り身を楽しんでいた。親父が三年後に還暦を迎えて隠居するまでは勤めるのだという。 「いまどきの年寄りはみな達者でぴんぴんしとるさかい、うっかりしてると、こっちが先にあの世へやられてしまうで」  伊助はお得意の悪い冗談を飛ばしたあとに、御寮人のおみつが産後の患いが癒《い》えぬまま三十半ばで今夏に逝《い》ったあとの話をした。  正妻亡きあとも、妾のお照が別宅に置かれたままであるのはむろん元助も知っている。かつて毎日のように通っていた久左衛門は近ごろめったにそこを訪れず、「旦那《だん》さんはさすがに房事が過ぎて腎虚《じんきよ》になられたか」と奉公人に噂される始末だという。父休貞と比べればあきらかに虚弱の質で、今や店の仕事はほとんど人まかせのありさまだが、店は相変わらず順調にまわっている。それどころかむしろ商い幅が以前より大きくなって、販売の方法も徐々に変えつつあった。 「わしはお前も知っての通り、昔から米相場の話をしてたが、アハハ、なんのこっちゃない、気がついたら炭相場をやらなあかんようになっとったがな」  と、伊助は照れくさそうに笑っていった。  長堀と西横堀の周辺は昔から銅吹所が多いので、これを得意先とする炭屋がおのずとまわりに集まって、辰巳屋もそのうちの一軒である。かつて大坂中で十七軒だった炭問屋も今では六十軒を数え、問屋に出入りする仲買人の数はざっと二千人にものぼる。そこでいっそ木綿橋近くの浜に炭市を立ててはどうかという案が若い手代たちのあいだで持ちあがった。  炭市がうまくいけば、炭商売は相場を定めて取引するのが主流となり、各問屋が仲買人を傘下に収めるいっぽうで、問屋に入る口銭も安定して手堅い商いとなるはずだ。 「それを横合いから邪魔しようとしたやつがいよった。あのべちゃ[#「べちゃ」に傍点]萬や」  伊助はその名を吐き捨てるようにいう。  何によらず商売は仕入れと販売に大きく分かれる。辰巳屋で販売を受け持つのは伊助のような町育ちで、色白のおしゃべりが多い。それを束ねる番頭は饅頭を平べったくつぶしたような顔をしているので、口の悪い伊助はべちゃ萬とあだ名して、以前から忌み嫌う萬兵衛という男である。 「べちゃ萬は出入りの仲買に炭を安う卸《おろ》してやる代わりに、割戻しをよこせというて、上前《うわまえ》をはねておるのや。俺は前からそれを知って、獅子身中の虫とはあいつのことじゃと思うてた。炭市の話をあいつが陰でつぶそうとしよったとき、俺は丁稚の時分あいつにやられたように、こんどはこっちがあいつの頬げた[#「げた」に傍点]をぶん殴ってやろかと思たで」  柄に似合わず勇ましい言葉で萬兵衛をさんざん非難したあと、 「そこへいくと、あの鰐口《わにぐ》つぁんは、なかなかたいしたもんやで」  と、こんどはめずらしく素直に相手を誉める。  鰐口の宗兵衛は今や辰巳屋の総番頭にして支配人と呼ばれ、店を一任されている。若い手代たちが炭市の案を出したときも、鰐口は率先して他店の番頭とかけ合ってくれた。鰐口が支持したところから、萬兵衛もさすがに邪魔はできなくなり、炭市はやる気のある若手だけで発足に向けて事を進めている最中だという。  いっぽう炭の仕入れを受け持つ手代は、伊助らとちがって産地との往来で日焼けして真っ黒になっている者が多い。店を長く離れるときもあり、また店にいるときもふだんは至ってもの静かな連中だが、たまに大勢で寄り集まって各地の炭の出来高や出来ばえを語るときはえらく声高なのでびっくりさせられる。この連中を束ねているのは鰐口よりも古くから店にいる半兵衛という番頭で、元助は自分が将来目指すべき大先輩として、苦み走った人相で渋半《しぶはん》とあだ名されていた男のことはよく憶えている。 「べちゃ萬と違《ちご》て、渋半は律儀で悪いことはしてへんと思うけど、これからは昔通りにこだわらんでも、産地《むこう》の仲買を活かしたら、いちいちこっちから足を運ぶ手間も要らんはずや。そこの理屈が、あの古くさい連中にはわからんのや」  と、これまた伊助の見方はなかなかに手厳しい。  仕事の質がまるきりちがう渋半とべちゃ萬の両派はおのずと気質のちがいがはなはだしくて、ふだん仲がいいとはけっしていえない。しかるに両派とも辰巳屋の本流という自負と同志の念は強く、木津屋から追いだされた源兵衛や加兵衛らもそれぞれに組み込まれ、両派の手代を併せると人数は店の過半数をはるかに超える。だが仕入れ先にしろ得意先にしろ、所詮はかつて休貞が開拓した分を守ろうとしているにすぎず、古くからいる番頭や手代は鰐口を除いて利口者はいないと、若い伊助はてんからばかにしている。  辰巳屋が急速に大きくなったのは掛屋という金融業に乗りだしたからでもあるが、それに携わる手代は三十人足らずで、炭屋業両派の人数とは比べものにならない。もっとも人数は少なくても一騎当千の切れ者ばかりで、貸出し先も武家に留まらず今や商家にまで及んでいる。金貸し派一番の古手は例の豆狸の与兵衛だった。 「ただしあいつは仕事はようするが、へらへらした見かけ通り、腰が軽うて仲間をまとめる器量がないし、肚《はら》で何を考えとるかようわからん。まあ、相変わらず鰐口の腰巾着や」  仕事の上では以上の三派に分かれるが、辰巳屋にはそれとは別に一家一門《いつけいちもん》派とでも呼びたいような親睦の集まりがあって、仁兵衛と喜兵衛というふたりの番頭が肝煎《きもい》り役《やく》を買って出ている。口の悪い伊助は目が大きく飛びだして見える仁兵衛を出目《でめ》、反っ歯の喜兵衛を出歯《でば》と呼んで、 「出目と出歯はだいたいが仕事もでけんくせに、番頭になったやつらや」  と、だれにも増してぼろくそにいう。  両人は辰巳屋の遠縁に当たるので親類縁者や一門とのつなぎ役に徹してきた。奉公人は元助のようにさしたる縁故もなしに雇われた者よりも、親類縁者の口ききで入ってきた者や、一門の子弟が修業に出されている場合のほうが多かった。 「わしも一門の端くれやけど、あんな能なしの出目と出歯の仲間に見られるのはえらい迷惑やで」  と伊助はしかめっつらをするが、自身が辰巳屋の内情にいたく関心を持ち、かつ詳しいのは一門出身だからにほかならない。長堀にある実家の但馬屋《たじまや》は大火からこっちえらく繁盛して、実父の伊左衛門は一門のとりまとめ役にもなっているのだ。  以上四派のどれにも属さないのが新六という男で、元助はその顔に見覚えがないが、それもそのはず唐金屋《からかねや》から乙之助《おとのすけ》が養子に入った際に付き添ってきた者だ。乙之助は「爺《じ》ィ」と呼び、髪はかなり白いが、からだは至って頑健そうで、眉毛の濃い赤ら顔はいささか強情な人相と見受けられた。 「なんせ和子様《わこさま》やからなあ。こっちは太刀打《たちう》ちできんで」  伊助は新六が乙之助を「ぼん様」ではなく古めかしい「和子様」という呼び方をするのに辰巳屋の人びとが驚いた話をした。唐金屋は辰巳屋とは段違いの旧家であることを思い知らされたという。 「えらい大層《たいそう》な家《うち》から御養子を迎えたもんやというて、皆びくびくもんや。へたしたら、向こうに丸呑みされるのやないかと心配する者までいる」 「それで肝腎の和子様はどないや?」  と、元助がこの男にしてはめずらしい軽口をきけば、伊助も興に乗って応酬した。 「どないもこないも、まだ海のもんとも山のもんともつかへん十二歳の子供やで。お娘《むす》を抱いて寝ることなんか出来《でけ》へんがな」  辰巳屋に勤める奉公人は養子の乙之助を一応大切にはしているが、あくまで他家から迎えた中継ぎ役という見方は抜けない。 「辰巳屋の血すじが絶えんよう、あのひがいす[#「ひがいす」に傍点]なお娘《むす》に頑張って赤子《ややこ》を産んでもらわんと困るで」  伊助らしい不遜な戯《ざ》れ口《ぐち》ではあるが、そこには真剣な響きがこもっている。辰巳屋の家はもはや血族にとってのみならず、そこに関わる大勢の人びとにとって何がなんでも存続させなくてはならないものなのだ。伊助にかぎらず辰巳屋に勤める四百六十人もの手代たちは、いずれも同じような気分に基づいて各自さまざまな思惑をめぐらしているにちがいない。 「そういうたら、丁稚頭をつとめてたあの平助を憶えてるか?」  伊助は急にまた話を変えた。 「平助て……ああ、あの才槌頭《さいづちあたま》の」  算術が苦手だった元助は頭鉢が大きくておでこの飛びだした少年にいつも叱られていた苦い想い出がある。 「あいつは平兵衛《へいべえ》と名を改めよった。今ではなんと鰐口つぁんの後《あと》がまで立派な金番頭やがな。鰐口つぁんもあの男になら安心して金勘定を任せられる気になったのやろ。それにしても若いのに、たいした出世やで」  わずかしか年のちがわぬ男が本家の金番頭に昇進したと聞いても、元助にはさほどの驚きはなかった。少年のときからああいう利口な男と、鈍くさいと嗤《わら》われていた自分とでは、人間そのものの出来がちがうとあきらめもつく。とはいえあれだけ目をかけてくれた鰐口の宗兵衛が約束を反故《ほご》にして、自分をまったく顧みてくれないのは辛かった。 「鰐口つぁんは相変わらずや。ひとたび捨て身になった者《もん》は強い。あの火傷を負うた怖い顔でにらまれたら、だれも口答えは出来《でけ》ん。だれも勝てんというわけや。ご隠居様が亡くなってからの辰巳屋は鰐口つぁんで保《も》ってるようなもんや。しかしなあ……」 「しかし、なんやねん?」  伊助の不安げな声に元助は思わず反応する。  伊助は当主の久左衛門の体調が近ごろ本当にかんばしくない様子を訴えた。店にもあまり顔を出さなくなり、諸事万端は支配人の判断に委ねられ、独断で決めかねる大切な用件だけは宗兵衛が自ら奥に駆け込んで主人の意志を一同に伝えるというかたちを取る。各番頭の意見が喰いちがってたがいに譲らぬときは、これが実に多大な効果を発揮した。 「旦那にお伺いを立てて決まったことは、だれも文句がいえん。うまいやり方や」  伊助は穿《うが》ったふうにいってにやっとする。が、そこからまた少し憂い顔に戻った。鰐口は元助と同じような這出者《はいでもん》の叩き上げで、一家一門のだれとも縁はない。古くからいる番頭や辰巳屋の親族に遠慮があるのは当然だろうという。 「かたちだけでもええさかい、旦那にいてもらわな困る。もし万が一のことでもあったら、辰巳屋は扇の要《かなめ》がはずれたようにバラバラになってしまうで」  あまりにも不吉なその発言で、元助は持ち前の大きな目玉をぎょろっとさせた。 「縁起でもない。お主《しゆう》に対して言葉が過ぎるで」 「な、なんや、ほんまのこというただけやないか」  伊助は泡を喰った顔つきで杯を手にしながら、ため息まじりでいう。 「ああ、ガンちゃんは鰐口が名付け親だけあって、あいつによう似とるわ。お前もそのうちきっと木津屋の忠義者と呼ばれて、煙たがられるようになるで」  このとき伊助からいわれた言葉を元助はあとになって実に皮肉なかたちで想いだすはめになった。  元文三年の夏祭りに当たって、吉兵衛は妻子に辰巳屋への出入りを控えるよう命じた。盆暮れ、五節句、夏祭りの折はかならず挨拶に出向くのが習わしなのに、今年はそれをしなくてよいといい、 「相模《さがみ》に聞いた話やと、兄貴はたぶん労咳《ろうがい》や。近ごろはお岩までが嫌な咳をするそうな。こっちまでうつされたらたまらん」  と冷たい理由を明かしたのである。  本妻を喪《うしな》ってからしだいに元気をなくしていった久左衛門は昨年の秋から床に就いたきりで、日を追うに連れて容態が悪くなり、今では痰《たん》に血が混じりだして死病といわれる労咳の疑いが濃くなったという。伊助の心配は当たったのである。  妻子に出入りは禁じても、吉兵衛自身は見舞いを欠かさなかった。むしろ以前より頻繁に出入りをしている。元助はお供でついていくが、奥の病床には吉兵衛がひとりで見舞った。血のつながった兄弟が人払いをして何を話し合うのか、辰巳屋の奉公人はだれしもひどく気がかりな様子で、奥から吉兵衛が出てくると皆が一斉にそちらを窺《うかが》う。  元助が店で待たされているあいだ丁稚《でつち》の時分と同じように背中を軽く叩いて「どや、気張ってるか」というのは鰐口の宗兵衛で、こちらにしてみれば何かもっといってほしいところだが、毎度それ以上の言葉は聞かしてもらえなかった。  渋半、べちゃ萬といったほかの番頭は声もかけずに黙視を決め込んで、伊助を除いたかつての同僚もやけによそよそしくてあまり話しかけてくる者はいない。なのにどうしたわけか、さほど親しかったとは思えぬ豆狸の与兵衛がやたらに近づいてきて、昔と変わらぬ腰の低さでにこにこして話しかける。時にそこへ割り込んでくるのは苦手にしている才槌頭《さいづちあたま》の平兵衛《へいべえ》で、どうやらふたりは仲が良いらしい。元助の見ている前でもよくひそひそ話をする。  吉兵衛が兄と話すのはたいがい小半刻《こはんとき》ほどで、奥から出てくると元助のそばにいる豆狸と才槌頭が何かと探ろうとする様子だが、元助自身はなるべくそのことに関心を持たないようにしていた。死に瀕《ひん》した兄が弟に何を託し、弟がまたそれにどう応えようとするのかを、いちいち他人が詮索するいわれはないのである。  ただあるとき、吉兵衛は帰り道でふとこう洩らしていた。 「あの子のことは、わしが死ぬまでちゃんと面倒を見るから心配すなというておいたのや」  あの子とはお照が産んだお拾《じゆう》のことで、昔からお照と親しい元助に己《おの》れの気持ちを伝えて、おのずと当人の耳に入るようにしたらしい。もうひとりの姪にはひどく冷たい叔父が、昔から妾腹のお拾にはなぜかやさしかった。  そのお拾は会うたびに美しくなって、ツツジの花を想わせた母親によく似てきた。今はもう十六の娘盛りを迎え、ふつうならそろそろ縁談の声が聞こえてもよい年頃だが、なまじ大家の主人が妾に産ませた娘は婿選びも難しい。父が元気でおればまだしも、寝たきりでは頼りにならなかった。  もっともお照は根が気さくなたちだから、娘を強いて玉の輿《こし》に乗らせたいとは思わないようだった。  お照が主人に手をつけられて妾になろうとしたとき、辰巳屋では見かけによらずあくどい女だったと噂され、兄ともどもいまだにけっして評判はよろしくないが、直に接している元助の目には昔と少しも変わらぬ美しさと、心根のやさしさが窺える。兄に尻を押されて妾となった、つまりは無心で流れに身を任せた浮き草ながら、いつしか手込めにした男にさえ深い情の根を下ろす。お照にはそうした生まれもっての女の強さというものをあらためて感じさせられるようなところがあるのだった。  妾宅では通い下女をひとり雇っているが、お照は今でもときどき尻をからげて井戸端で洗いものもすれば、縁側の拭き掃除もいとわない。籠の外に出て羽ばたけぬ囲い者の身は、楽をすることだけがせめてもの慰みなのに、 「からだを動《いご》かさずにおっては、かえってしんどい。根が貧乏性に出来《でけ》とります」  などと笑っていう。ねだればいくらでも買ってもらえるはずなのに、着るものにもあまり頓着せず、およそ贅沢とは縁遠い質《たち》であるのはたしかだ。  お拾もまたそんな母親に倣《なら》ってか、若い娘のわりには地味につくろい、自ら進んで針仕事や炊事を身につけているから、きっとどんな男が相手でも立派に女房がつとまるであろう。 「いっそお前様がもろうてくだされば、私《うち》も兄《あに》さんも気楽でええのやがなあ」  時にお照は冗談だか本気だかわからぬ口ぶりでいって、元助をうろたえさせる。  元助はいまだ独り身だが、年齢が離れすぎている上に、妾腹とはいえ主人の娘に対して畏れ多いという気持ちが強い。さりとて二度、三度同じようなことをいわれると、いかに律儀な堅物とてついつい甘い夢を見てしまう。なにせ相手は初恋の人の娘であり、顔も気だてもそっくりなのだ。  しかし形《なり》は大きくなってもお拾の心は相変わらずねんねのままで、十七も年上の元助は子供のころと同じように「小父さん」と呼ばれていた。  妾宅には特牛の次郎兵衛があがり込んでいるが、伯父は可愛い姪のために、仲間のならず者は遠ざけている。したがってあるじの久左衛門が床に就いてからこの家を訪れる者はほとんどなく、ときどき姿を見せるのは元助と鉄漿親《かねおや》をつとめた吉兵衛の妻お妙ぐらいのものだろう。  お妙にはいつも母親似のおとなしい息子が付き添っていた。お拾にとっては従兄に当たるその綱次郎《つなじろう》も早や十七を迎え、すでに前髪を剃った立派な成人男子であった。 [#改ページ]   遺言状  秋に入って久左衛門の容態が急にひどくなったと医者の相模《さがみ》から聞かされても、吉兵衛は顔色ひとつ変えなかった。元助もほどなく伊助に会って同じ話を耳にした。伊助はそれに加えて、 「出目《でめ》の仁兵衛がしゃしゃりでよってから、いっきにおかしうなったわい」  と、辰巳屋の内情を語りはじめた。  仁兵衛という番頭は辰巳屋の遠縁に当たって久左衛門とは幼なじみである。この男が鰐口《わにぐち》の宗兵衛《そうべえ》に代わって夏の終わりごろから奥の寝所に出入りするようになったのは、病人がもはや商い向きの難しい話を聞く元気は失せて、幼なじみとたわいのない昔話をしていたくなったのだろうと思われる。  仁兵衛が寝所に出入りをしはじめたころからちょうど久左衛門の従兄河内屋太郎右衛門と、亡くなったおみつ御寮人の兄森田屋藤右衛門が頻繁に見舞いに来るようになった。病人は見舞客に毎度会うのが大変なためか、何度か断りをいわせたところから、仁兵衛の権限がにわかに大きくなった。近ごろそれと張り合うように出歯の喜兵衛が河内屋や森田屋と勘定部屋にこもって何かと話をしている。辰巳屋の家督相続に関して直に口を出せるのがこの一家一門《いつけいちもん》派の連中だ。  いっぽう各地で炭の仕入れをしていた手代たちも今はみな店に戻っており、近所の煮売屋《にうりや》に集まってこれまた何かと話し合うらしい。一年の半分近く店を離れるこの連中は、ふだんてんでばらばらに仕事をしていても、渋半《しぶはん》を軸にして結束は案外堅そうだ。二年以上も前から山手金を渡している先があったりするから、当主がどうなろうとも、従前通りに仕事が続けられることを願っている人びとでもある。  べちゃ萬が率いる手代たちは当主の代替わりを機に顧客への挨拶まわりがうまくいくかどうかだけを心配している。一代前の休貞のときとちがって、こんどはだれが当主になっても先代の付き添いがないのはたしかで、顔つなぎがないとこれまでの付き合いをぽんと打ち切られる恐れもあるから気が気でない。ともあれこの連中も代替わりがなるべく穏便なかたちで済むのを望んでいた。  辰巳屋の古参連中が保守に傾くなか、今夏の六月一日にようやく初の炭市を開いた若い手代たちは代替わりを機に相場立てが加速するのを望み、片や豆狸《まめだ》の与兵衛のような金貸し派はさらに手を広げようとしている。 「あの鴻池が酒屋を廃《や》めたのと同じことで、辰巳屋《うち》もいっそ炭屋を廃めて両替屋にしたらええとまでいいきるやつがおる。ほんま、とんでもない話やで」  と、一門出身の男はやはりそれに頗《すこぶ》る難色を示した。  こうして辰巳屋の各派がそれぞれに結束を強めるなか、養子の乙之助について来た新六はおのずと孤立感を深めて旧主を頼る気持ちになるらしく、さかんに泉州の唐金屋《からかねや》本家と書状のやりとりをする様子だという。 「で、鰐口《わにぐ》つぁんはどうしてんのや」  と、元助は自分のほうからたずねたものだ。 「あの男《ひと》はやっぱりたいしたもんやで」  と、伊助は今や心底から敬服しているような顔つきだ。  鰐口の宗兵衛は秋も深まる九月の末に、久左衛門の容態が少しもちなおしたのを見はからって奥の寝所に出向いた。侍医の相模や看護をする女中も部屋から追いだして主人とふたりきりで対面した。部屋から出てくるとすぐに久左衛門の命令と称して大和屋《やまとや》三郎左衛門《さぶろざえもん》を呼びにやった。  大和屋は例の西国飢饉の折に寄付をして町役御免《ちようやくごめん》の栄誉を共にした四人組の筆頭である。当主の三郎左衛門は諸藩の蔵元で武家と縁の深い商売がら、豪気な人物として市中にその名が聞こえていた。中之島の邸宅は城郭のごとき大門を備え、大名のようにお抱え力士も大勢いて自前で相撲興行が打てるほどだという噂があったが、辰巳屋にもその力士を何人かお供にして乗り込んできた。日ごろ仲仕の荒くれどもを相手にしている手代たちも、これにはぎょっとしたものだ。  三郎左衛門は自身かなりの大柄で、鬢《びん》の白さに比して肌つやがよく、鷲を思わせる中高の鋭い顔《かんばせ》ながら、笑うと目尻の下がったやさしい表情になり、見た目からしていかにも信頼に足る人物に思われた。  久左衛門を半刻《はんとき》ばかり見舞ったのち、三郎左衛門は奉公人一同を広間に召《よ》び集めて病人の意志を伝えた。後事《こうじ》は自身が託された旨を告げ、辰巳屋のうしろ盾として今後は存分に力を貸すといって人びとを安心させた。 「大和屋の旦那は鰐口つぁんのええ重石《おもし》になった。もちろん初手からその肚《はら》でお招きしたのやろ」  と、伊助はまたしても穿《うが》った見方をしている。  大坂一の名望を集める大和屋がにらみをきかせれば、面倒なお家騒動が避けられると判断したにちがいない。叩き上げの奉公人は一家一門や乙之助の実家を相手に太刀打ちできぬとみて、背後に大和屋の重石をちらつかせる手に出たのだろう。ただの律儀者ではない、したたかさを備えた人物として、若い手代のあいだでは近ごろ宗兵衛の評判がますます高まっているという。 「鰐口つぁんは今すぐに旦那に死なれたらえらいことになると思うたのや。なんせ十四の和子様では、家督の相続も出来《でけ》んからのう」  大坂町方の定法では家督を継げるのは十五歳以上の男子に限るとされて、その年齢に満たないときや女子の場合は代判人《だいはんにん》が要る。 「本来ならば、叔父が代判人になって後見《こうけん》をして少しもおかしうはない。だれも異存はないはずや。そやけどお前の旦那に乗り込まれたら何されるかわからんいうて、びくびくしよる連中が大勢おるで」  伊助はそういって笑った。元助も苦笑いで受け流しはするが、辰巳屋側の警戒心をあらためて思い知らされた感じだ。本来なら兄の身に万が一のことがあれば、弟は真っ先に頼られてしかるべきとはいえ、吉兵衛はなにしろ本業の炭屋を廃して木津屋の古い奉公人を放りだしたという前科がある。加えて学堂の件や遊蕩《ゆうとう》が悪評に輪をかけていた。  年が明ければ乙之助はめでたく十五を迎える。世間並の商家なら支配人の宗兵衛が若き当主を守り立てて店を切り盛りすれば事は済むが、辰巳屋ほどの豪家になると、当分のあいだは後見人を置くのがふつうであろう。吉兵衛がその後見人として乗り込んでくるのを辰巳屋の人びとは極度に恐れている様子であった。  秋の終わりにいったん落ち着きをみせたかに見えた久左衛門の容態は、寒気が募るにつれて深刻さの度合いを増した。ただでさえ慌ただしい年の暮れは辰巳屋に例年以上の混乱ぶりが窺えた。十二月十三日に煤掃《すすは》きを終えた宴にあるじの姿はなく、代わって養子の乙之助と青白い顔をしたお岩が床の間の前に並んで奉公人一同の挨拶を受けた。  十五日に訪れた吉兵衛は、兄の容態が思わしくないのを理由に面会を謝絶された。 「相模殿が申されるには、年が明けて陽気が増せば、おのずとからだも陽気に満たされて回復の兆しもあろうかと。それまではなるべく人を遠ざけて、病人に余計な気を遣わさぬようにとのことでござります」  と告げたのは、伊助が出目とあだ名した仁兵衛である。寝所には昼夜を分かたず医者の相模が張りついていて、容態があまりにも悪い日は立ち入りを禁じるのだという。  吉兵衛はむっとした表情を見せはしたが、意外におとなしく引き下がった。翌日、辰巳屋から使いが来たのであらためて見舞ったところ、久左衛門は眠っていて、顔だけを見て引きあげるかっこうだった。年内の見舞いはそれきりで、あとは初春を待つしかなかった。  例年のような年始の挨拶もできないまま三ヶ日が過ぎ、七草を祝った次の日に吉兵衛は木津屋の店でようやく辰巳屋の使いから書状を受け取って、開き見るなり、 「こんなばかな話があるかっ」  と凄まじい怒りの声でその場に居合わせた人びとをすくませた。  目と鼻の先に住んでいながら、弟が兄の臨終に立ち会えなかったという異常さには、だれもが驚きを隠せなかった。主人にいわれるまでもなく、元助は自らさっと腰をあげて辰巳屋に走った。そこでは早くも葬儀のしたくがはじまっていた。  一同は忙しげに立ち働いて、こちらのことはまったく無視を決め込んでいる。元助は見世庭の前を通りかかった伊助の袖をとらえて「これはどういうこっちゃ」と耳元で怒鳴りつける。伊助はおおげさに首をすくめて広間の奥に見える仁兵衛の姿を指す。仁兵衛もすぐこちらに気づいてつかつか歩み来ると、立ったままの姿勢で傲然と見下ろしていった。 「にわかのことで、うちもえらい騒ぎや。明け方に急にお苦しみになって、あっという間の出来事やった。お報《しら》せしたところで、どうせ間に合わんかったやろ」  元助は憤りでからだが震えた。非礼を通り越して無情に過ぎる仕打ちに主人の無念さが思いやられる。こんな肝腎のときに口べたで相手にいい返せないのが悔しかった。  が、当の吉兵衛は思いのほか冷静に事に当たった。元助が木津屋に戻ると「この分では恐らくあそこにも報せはいっておるまい」と判断して、堀江新地の妾宅に使いを命じた。お照もただただ呆然として訃報を受け、元助は主人のいいつけ通り母子に身じたくをさせて木津屋に同道した。  夕七ツ近くになって、吉兵衛は自らの妻子とお照母子を伴って辰巳屋に乗り込んだ。大人数を引き連れるのは敢えて避けたようで、お供は元助ひとりである。  通夜の席で焼香の順番を決めるのがいかに難しいかを、元助はこの夜あらためて痛感した。それはあたかも大きな戦《いくさ》がはじまる前の矢合わせを思わせた。  第一番は養子の乙之助、二番目は娘のお岩とまでは衆議一決のところだが、そこから先は妾腹の娘お拾《じゆう》の扱いをめぐって難航した。妻のお妙が鉄漿親《かねおや》をつとめた立場で吉兵衛が発言し、お拾をお岩の次に焼香をさせるよう強く主張した。これにはお岩の伯父に当たる森田屋藤右衛門が難色を示したが、胎《はら》は借りもので父の胤《たね》を重んじるのが至当と理屈をつけられてしぶしぶ承知をした。  焼香の順番はかならずしも故人との血のつながりだけで決まりはしないものである。だがお拾が割って入ったことにより、次はごく当たり前に実弟の吉兵衛、続いて甥の綱次郎《つなじろう》の順番となった。綱次郎の次は従兄の河内屋、妻の兄の森田屋、先々代の縁者である布屋卯之松、紙屋吉右衛門という順で、お妙以下それぞれの妻があとに続いて、お照は女たちの最後にようやく焼香を果たしていた。  奉公人の順番は身内のそれに輪をかけて難しそうに思われた。が、鰐口が自分より古くから店にいる渋半《しぶはん》に先を譲ったところから、あとはおのずと奉公の年次に従うことになり、主に炭屋派の連中が面目をほどこした。元助は辰巳屋に勤めていたころの順で早いめに済ませることができた。  おしまいのほうで若い手代に混じって焼香をする白髪あたまの人物は、乙之助の守役《もりやく》として唐金屋《からかねや》からきた新六だった。肝腎の唐金屋が通夜の席上に見えないのは、久左衛門の急死がやはり本当だったようにも、また木津屋と同様にわざと報せを遅らせたようにも考えられる。なにせ亡くなったのが七日正月明けとはあまりにもできすぎで、元助のような世智にうとい男でさえ素直には受け取れずにいた。  通夜の翌朝は手まわしよく用意されていた棺が菩提寺《ぼだいじ》に向かった。葬列の先頭では無紋の麻裃《あさかみしも》を身につけた乙之助が位牌を捧げ、白い喪服姿のお岩が香炉を手にしていた。親族や奉公人のほかに駆けつけた弔問客がぞろぞろとあとに続いて、行列の長さは一町を超えた。が、ここにも唐金屋の姿はなかった。  それにしても通夜から葬儀までの手配万端は実に速やかに滞りなく運ばれて、早くから用意されたものとおぼしい。文句をつけるとすればただひとつ、近所の木津屋に報せが遅れたことだから、それは手抜かりというよりも、明らかに意図したものではないか。癇癖《かんぺき》の強い吉兵衛がここに来て憤りを見せないばかりか、お拾の件を除けばなんら注文もつけず、鳴りをひそめているのがかえって不気味に感じられた。  葬儀が済んだあとも、元助の知るかぎり辰巳屋からは何もいってこなかった。初七日に吉兵衛は元助ひとりをお供に連れて本家に向かったが、その顔にはさすがに意を決したような堅い表情が浮かんでいた。  ひと通りの仏事を終えると、集まった人びとは奥と店の広間に別れて会食に臨んだ。奉公人のほとんどは店の広間にいったが、元助は吉兵衛のお供で奥に残された。奥の座敷では乙之助とお岩が床の間の前に並んで、上座に一家一門の人びとが、下座に主立った奉公人が腰をおろしたかたちだ。下座には鰐口、渋半、べちゃ萬、出目、出歯、豆狸のほかにも何人か並んでいるが、いずれも元助とは目を合わさず妙によそよそしい態度である。  親族では布屋卯之松老人、河内屋太郎右衛門、森田屋藤右衛門、また伊助の親父但馬屋伊左衛門を筆頭に一門の連中が数人来ているが、今宵はいずれも妻を同伴していない。お妙の実家、紙屋吉右衛門の姿もなかった。  何よりもふしぎなのは乙之助の実父、唐金屋|与茂作《よもさく》がここにも顔を見せていないことだ。仏事には名代《みようだい》を参列させたが、それもさっさと引きあげていった。思えば今の養子の立場は実に微妙で、実家がへたに出しゃばると、かえって居心地が悪くなるのを用心しているふしもありそうだ。付き人新六もこの席には遠慮して、乙之助はかわいそうなことに独りぼっちで辰巳屋の一家一門の前に身をさらしている。  会食はなごやかな雰囲気で幕を開けた。一家一門の挨拶や故人の想い出話に花が咲いていた。むろん事はそれで納まろうはずがない。  床の間に一番近い席に陣取った吉兵衛が、ふいに聞こえよがしにいう。 「懐かしいのう」  座敷をゆっくりと見渡しながら、違い棚の脇柱を指さす。 「あそこの柱に疵《きず》をつけて、親父殿にきつく叱られたものじゃ」  とたんに座敷の空気が堅くなる。たしかにこの家は吉兵衛の生家であった。かつてはここで小ぼん様としてかしずかれていたのだ。さりげなくそれを持ちだした当人が次に何をいいだすのかを人びとは注目した。 「乙之助殿はもう左様に腕白な年ごろではあるまいが、さりとてまだ帳面を見るのは心もとなかろう」  床の間の前に座った少年はおっとりと首を縦に振る。人びとはざわめいている。 「心配はいらぬ。この叔父がしかと後見つかまつろう」  吉兵衛はここぞとばかりに宣言をした。座敷は一瞬にして深いあきらめの静寂が支配したかにみえる。これに異を唱える者などいようはずはない。ところが突如、 「しばらくお待ちくださりませ」  と下座で声をあげたのは出目の仁兵衛、出歯の喜兵衛両人だ。死んだ御寮人とよく似て険のある目つきをした森田屋がすぐさまふたりに話を促す。 「亡き旦那のご遺言がこれにちゃんと書いてござりまする」  と、出歯の喜兵衛は得意げにいって手にした紙をひらひらさせる。 「印判《いんばん》もちゃんと押してござりまするぞ」  出目の仁兵衛は紙をひったくり、座敷中に轟く声でそれを読んで聞かせる。 「一つ、木津屋吉兵衛儀は実弟なれども、不行跡《ふぎようせき》のはなはだしきをもって、辰巳屋|跡式《あとしき》断じて相構《あいかま》い申させぬ旨きっと心得《こころう》べし」  座敷はたちまち騒然となった。吉兵衛は膳を蹴立てんばかりの勢いで立ちあがり、堅く握った両こぶしを震わせていた。朱に染まった顔でぐるりと見渡し、元助の目を見てあごをしゃくった。  廊下に出て、まるで逃げるような早足で歩く主人の背中に、元助は自らの憤りをぶつけた。 「ここまで踏みつけにされて、黙ってお逃げなされまするのかっ」  その声で吉兵衛はぴたりと足を止めた。ほんの少し間を置いて、ゆっくりと首《こうべ》をまわし、こちらを見た顔には淋しそうな微笑《わら》いが浮かんでいた。 「そちとは長い付き合いじゃが、左様に怒った顔は初めて見たぞ」  人は一方が熱くなれば、ふしぎともう一方は冷めるもので、このときの両人はまさにそれだった。癇癪持《かんしやくも》ちの茂兵衛少年を知る元助にとっては、満座の中で恥をかかされた吉兵衛がじっと我慢したことの驚きが大きかったのかもしれない。わが主人がというよりも、かほどの人物が世間で悪く見られることにある種の悔しさを感じずにはいられなかったのである。 [#改ページ]   代判人《だいはんにん》  屈辱の初七日から三日がたって、木津屋は思いがけない珍客を迎えた。  こそこそと人目を避けるようにして入ってきた男は、店番の丁稚《でつち》に質屋の客だと思われてなかなか奥に話を通してもらえず、元助を呼びだしていた。 「へへへ、ご機嫌さん。ちょっと旦那《だん》さんにお会わせ願えまへんか」  と、にこにこしていう豆狸《まめだ》はいくら用件をたずねても旦那にお目にかかってからの一点張りだ。あのあと辰巳屋がどうなったのかは皆目わからなかったが、それにしても吉兵衛に馴染みの薄いこの男があらわれたのは意外であった。  ふたりはさっそく奥の間で人払いをして対面した。元助はその場に同席せず、豆狸が帰っていったあとに入れ替わりで召《よ》ばれ、 「あの遺言は謀書《ぼうしよ》じゃった」  と驚くべき真相を告げられて、元助は相づちも打てないでいる。 「あの与兵衛という男も、これはいくらなんでもまずいと考えて注進に及んだらしい。辰巳屋は大変な事をしでかしたもんじゃのう」  吉兵衛の声には心底意外な響きがあった。  謀書と謀判《ぼうはん》すなわち文書並びに印鑑偽造の罪はこの時代きわめて重いものとされ、悪質な場合は死罪に処せられる。もしあの遺言状が本当に謀書であるなら仁兵衛、喜兵衛はもとより関わった大勢が罪を追及され、辰巳屋はまちがいなく闕所《けつしよ》となるだろう。 「印判は本物じゃが、どうやら仁兵衛が奥の女中と仲良うなって盗ませたらしい。与兵衛がそのことを訴え出れば、謀判の罪は免れぬ」  吉兵衛は腕組みをしていかにも困ったというふうに首を振るが、表情はむしろ心なしかいきいきとしている。 「ひとまずあの男がお上に訴え出るのは止めておいたが、すべては明日の話しだいじゃのう」  という顔には薄笑いさえ浮かんで見えた。  次の日の午刻を過ぎたころ、吉兵衛は元助と特牛《こつてうし》の次郎兵衛をお供に従えて辰巳屋に乗り込んだ。特牛は一行の先頭を切って暖簾《のれん》をくぐり、老いたりとはいえ相変わらずの強面《こわもて》であたりをにらみまわして「早よだれぞ出てこんかいっ」と、どすの利いた声を張りあげる。丁稚が悲鳴をあげて騒ぐなか、あわてて歩み寄ってきた鰐口《わにぐち》に、 「そちに折り入って話がある」  と吉兵衛は穏やかに告げた。  店の勘定部屋で小《こ》ぼん様《さん》と忠義者がふたりきりで話し合うあいだ、元助は障子の外で待たされていた。部屋の様子を気にしながらも、多くの手代は知らんふりで帳付けにいそしんでいるが、伊助はさすがにそばに寄ってきた。 「ガンちゃん、いったい何があったのや」  元助は思わずぎょろっとにらみつけ、 「逆さまにこっちが訊きたいわい」  大声で怒鳴り返すと、相手は耳を押さえて逃げてゆく。  初七日の一件といい、謀書といい、元助はもう辰巳屋のだれも彼もが信じられない気持ちだ。謀書は少なくとも一家一門《いつけいちもん》派の連中がすべてぐるになって仕組んだものと思われた。むろんそのなかには但馬屋《たじまや》伊左衛門《いざえもん》も入っていたはずで、長年続いた伊助との仲は、もうこれでおしまいだった。  勘定部屋の話し合いはさほど長引きはせず、小半刻《こはんとき》ほどたって豆狸が召《よ》ばれ、そこからまた小半刻ほどして三人がそろって障子から出てきた。吉兵衛のすました顔にひきかえて、ただでさえ怖い鰐口の顔はこわばって、さらに一段と恐ろしく見えた。  その鰐口に袖を引かれ、吉兵衛の顔色を見て元助はひとりであとに残った。主人と入れ替わりに勘定部屋に入るかっこうだ。  ふたりになると鰐口は例によって目を細めたやさしい表情で「どや、気張ってるか」と昔通りの挨拶をする。それから急に眉をひそめて、ぼやくような調子でいう。 「えらいこっちゃ。世の中いったい何が起こるかわからん。だれがどこで何をしよるかわからんのう」  相手は遺言状の偽造に自分はいっさい関わりないというふうにとぼけている。まさか……いや、案外それもあり得ない話ではない。なるべくならそうあって欲しいと元助は願った。もとを糺《ただ》せば目の前にいる男こそが、自分を吉兵衛と結びつけた張本人ではないか。 「今後しばらくのあいだ、木津屋の旦那は二軒の店を往ったり来たりでお忙しうなる。くれぐれもおからだを大切にあそばすよう、そなたもせいだい気を配ってや」  と、相手はなれなれしい調子でこちらの肩をぽんぽんと叩く。気を配れとは、単にからだのことを気遣えというのではなく、吉兵衛におかしな振る舞いをさせぬよう、しっかりお目付役を果たせとの意味に相違ない。  元助は自分のほうからもこの相手にいいたいことが山ほどあった。遺言状の偽造には関わっていなかったとしても、鰐口は吉兵衛を辰巳屋に迎えたくない気持ちは同じで、だからこそ初七日の席で黙ってこちらを見送ったのだ。もしかすると、うすうす偽造と承知の上で黙過したのではなかったのか。  元助は鰐口の顔を喰い入るように見つめていた。こんどの件ばかりは何かもっとはっきりしたことをいってほしい。ここでお互い本音を打ち明けずに何もかもうやむやにしてしまえば、今後に大きな禍根を残すであろう。だから今ここで、自分には本心を打ち明けてほしい、と、切なる願いを込めて。  しかしながら鰐口は無情にもすうっと目をそらせる。そればかりか文書|箪笥《だんす》の引出しをあけてこちらを部屋から追いだしにかかる。目をかけてくれた恩人だけに、強くなじることもならず、元助は黙って引き下がらざるを得なかった。  次の日は辰巳屋からなんの報せもないままに過ぎ、夜番の太鼓が鳴りだすと同時に伊助が裏口にあらわれていた。元助はもうこんりんざい会って話す気がなかった相手に強引に誘われるかっこうで、馴染みの茶屋に向かった。 「えらいこっちゃでえ。店の中はもう蜂の巣をつついた騒ぎじゃ」  道すがら伊助は早くも一杯機嫌の調子で、辰巳屋のごたごたをまるで他所事《よそごと》のように物語ってくれる。  あれからまず鰐口は中之島の大和屋三郎左衛門に使いを走らせた。向こうからはさっそく主人の代人が来て勘定部屋で話し合いがもたれた。次に伊助の実父、但馬屋が店に呼ばれ、ほかの番頭も続々と加わって長い談合があった。きょうになって出目の仁兵衛、出歯の喜兵衛の両人がそろって店を辞め、店じまいの少し前に木津屋吉兵衛を辰巳屋の代判人に迎える話を聞かされて、手代一同はみなびっくり仰天したという。  伊助の話を聞くかぎり、謀書の件はあの場で声をあげたふたりだけが責めを負って闇に葬られたかっこうだ。伊助は親父から何も聞かされていなかったという。  初七日の会食で伊助は店の広間にいた。翌日になって、どういうわけか今後は木津屋と疎遠になるらしいと噂話のようにして聞くばかりだったので、元助の口から初めて奥の出来事を知った驚きの表情に嘘はなく、 「そりゃどうみても出目と出歯だけでこしらえた筋書きとは思えんなあ。ほかの番頭や一家の連中はもちろん、わしの親父も加担《かとうど》してたんはまちがいない」  とまで断言するので、元助もようやく相手に心を許す気になったのである。  次いで騒動の火付け役を知る身としては、相手にこう訊かずにはいられない。 「あの豆狸、与兵衛はどうしてる?」  伊助はぽかんとした表情だ。 「……あの男がこんどの件に、なんぞ関《かか》り合いがあるんか?」  と、逆に問い返されるはめになる。  その話にはさすがの伊助も首をかしげた。豆狸が辰巳屋に勤めだしたのは元助や伊助よりもうんとあとで、かつての小ぼん様に義理立てする理由は見当たらない。そもそも豆狸が知っているくらいだから、偽造は番頭の大半が承知の上だろうが、ほぼ衆議一決で事がうまく運びながら、豆狸が敢えて孤立を恐れずに裏切った理由は謎だ。しかしこれで木津屋に大きな恩を売ったのはたしかで、吉兵衛が代判人となったあかつきはさぞかし羽振りがよくなるにちがいない。 「ああいう、にこにこして近づいてくるやつにはだれもが油断する。またぞろ寝返りされんともかぎらん。よう気ィつけてなあかんで」  と、伊助はかねてからの持論ともいうべき豆狸悪人説を持ちだした。  それにしても、寝返りとはおよそ形勢が有利な側にころぶもので、辰巳屋の大多数を裏切って吉兵衛に味方した気持ちは読みづらい。伊助はしばらく黙って杯で唇を湿らせていたが、突然アッと叫び声をあげた。すぐに声をひそめて、 「もしかすると、鰐口つぁんの差し金かもしれんぞ」  と、口を耳に近づけるようにしていう。 「まさか……もしそやったら、一体どう考えたらええのや……」  鰐口は聡明な小ぼん様を高く買っていた。とはいえ金遣いの荒さをだれよりもよく知っている。だからこそ本家には迎えたくない肚《はら》で、初七日に吉兵衛が踏みつけにされたのを黙って見過ごしたのもそのせいではなかったのか、と元助は考える。片や鰐口は忠義者だから、一家一門派が謀《はか》り事《ごと》までして吉兵衛を排するのは内心にがにがしく思いながらも、叩き上げの遠慮があって阻止することができなかったのではないか、と伊助はいうのである。しかしこのままだと河内屋、森田屋に乗り込まれて、いいようにされてしまう恐れがある。そこでだれとも縁が薄い豆狸を手先に使って、謀り事を裏から潰しにかかったのではないか。 「出目と出歯の邪魔者ふたりが消えよったし、一家一門の連中も当分は口出しがでけんようになった。鰐口つぁんにしたら万々歳やがな」  伊助は自信満々の顔つきで謎解きを語った。こんどの騒ぎをどことなくおもしろがるふうでもあるが、元助は憮然たる面もちでそれを聞かされていた。辰巳屋では各人の思惑と利害が入り乱れ、今後もたぶんこうした奇怪な出来事がつぎつぎと起こりそうな気配がして不安でたまらなかった。もっとも不安といえば、辰巳屋の奉公人のほうが元助よりもはるかに大きかったにちがいない。  吉兵衛が二七日《ふたなぬか》の法事に招かれて辰巳屋の暖簾をくぐったとき、店にいた奉公人はほぼ一斉に立ちあがってお辞儀をしたが、よく見ればみな落ち着かない表情やそぶりを示していた。初七日と異なり、仏間に集《つど》ったのは遺児のお岩と乙之助《おとのすけ》のほか、番頭と主立った手代だけの小人数である。  法事が済んだあと吉兵衛が仏間に残って乙之助とお岩に何をいい聞かせたかはだれも知らなかったが、座敷を変えた話し合いの席には元助も加わっている。渋半《しぶはん》、べちゃ萬、才槌頭《さいづちあたま》、豆狸のほかに何人かが居並ぶなか、鰐口の宗兵衛が前に進み出て、 「今後しばらくのあいだ辰巳屋の代判人をお願い申しあげまする」  この声と同時に一同がそろって吉兵衛に頭を下げた。  印判は戸籍に当たる人別帳《にんべつちよう》に載せ、また商取引のために印形帳《いんぎようちよう》に捺《お》して毎月かならず町内に届け出るが、戸主が女子か幼少の場合は代判人が自らの名を書き添えて捺印《なついん》するきまりである。人別帳はさらに現行の戸籍とちがい、血族のみならず同じ屋根の下で働く従業員の人名も載せるもので、この時代の「家」は文字通り今日の家庭と組織の両面を併せもつかたちだ。したがって代判人の立場もそれ相応に重いといわなくてはならない。 「大和屋の旦那様からもなるべく早いうちにといわれておりますので、乙之助様は四十九日の忌明けに元服の上で五代目辰巳屋久左衛門に改名をなされまする」  鰐口がもったいぶった口調でいうと、吉兵衛は唇に不敵な薄笑いを浮かべた。 「ならばわしは辰巳屋吉兵衛を名乗るとしようか」  冗談とも本気ともつかない言葉に鰐口はうっと呻き声をあげた。渋半、べちゃ萬ともに絶句した様子で互いに目を見合わせている。豆狸はとぼけた表情で素早く左右に目を走らせ、才槌頭は目を伏せて広いおでこの脂を拭う。ほかの者もみなざわざわとして、吉兵衛が辰巳屋に軽く投じた一石はかくも大きな波紋を描いた。  元助はこのときの様子を木津屋に戻って淡泊に物語ったが、聞く惣助は意外にも真剣な表情で、 「これでうちは助かるかもしれん」  と、洩らしたのである。  木津屋の店舗と宅地がすでに家質《かじち》に取られていることを、元助は惣助の口から初めて聞かされて愕然《がくぜん》とした。なんとか資金を調達しなければ店が潰れると思われた矢先に、この代判人就任だったのだ。  代判人を依頼された翌日から吉兵衛は辰巳屋の店に毎日顔を出し、奥の勘定部屋で数々の書類に目を通して印判を捺すのが日課となった。そこはふだん番頭のたまり場だったが、吉兵衛が来ているときは用事以外だれも寄りつかず、元助だけが主人のそばにいた。  部屋に出入りして書類をまとめて差しだすのは鰐口の宗兵衛にかぎられた。金の出し入れの相談では才槌頭の平兵衛がそこに加わる。吉兵衛はその才槌頭を時に部屋の外へ連れだして、蔵に続く廊下の隅でひそひそ話をしていた。豆狸の与兵衛もときどき部屋に顔を見せて吉兵衛に何かと耳打ちする。  一家一門派を追い払ったまではいいが、ここに来て鰐口の求心力が衰えたのは傍目《はため》にも明らかだ。豆狸にしろ、才槌頭にしろ、これまでのようなうまい制御がきかなくなっており、渋半やべちゃ萬らはさらに遠ざかってしまった。伊助がいった通り、亡くなった久左衛門はたしかに扇の要《かなめ》だったのである。  扇の要は風をあおぐのにさして役立ちはしないように見えるが、それがはずれたとたん骨はバラバラになって扇自体が用をなさなくなる。店を取り仕切っていたのは実際のところ鰐口でも、久左衛門在世中はそのご託宣を伝えるかたちだったからこそ皆を束ねていけたのだろう。  辰巳屋の人びとは今やそれぞれに新たな扇の要を見つけようとしていた。そのひとつが木津屋吉兵衛で、もうひとつが五代目久左衛門を名乗ろうとする乙之助少年だった。  あるとき伊助は柱の陰で元助をつかまえて、店と奥をつなぐ長い廊下の一隅を指さしたものだ。 「見てみい。さんざん煙たがって邪険にしてた連中が、あのざまや」  そこで立ち話をしていた白髪頭の男は乙之助の付け人の新六で、こちらを振り向いて目をそらしたのはかつて木津屋に勤めていた源兵衛と加兵衛だった。新六のまわりに集まるところを見れば、炭屋派の連中はがぜん乙之助を御輿《みこし》に担ぐ肚《はら》になったらしい。  もっとも当の吉兵衛は生家に戻ってきたという余裕なのか、この間まわりの思惑や動きにはわりあい無頓着の様子で、代判人の認可が早く下りることだけを願っていた。代判人になる場合はまず町会所に申請し、惣会所《そうかいじよ》を経て町奉行所の認可を得なくてはならない。  大坂の市中は大きく三郷に区分され、船場の本町通りを挟んで南組と北組、さらに大川を隔てた北部の地域を天満組と称する。各郷には惣年寄と呼ばれる町役人がいて惣会所で執務に当たった。各郷はまたそれぞれの町に分かれ、町内ごとに町年寄がいて同様に町会所がある。吉兵衛が堀江吉野屋町の町年寄に届けを出したのは二十二日だったから、町奉行所に達するのは正月も終わるころかとみられた。  東西に分かれた町奉行所は一ト月替わりで開庁し、正月の当番は東町奉行所であった。当番の役所が願書の受け付けを行い、非番の月に審議をする。吉兵衛は認可ができるだけ早く下りるのを期して、元助を学堂の件で世話になった東町奉行の用人、馬場源四郎《ばばげんしろう》のもとへ使いに出した。  晦日の晩に新町の茶屋へ姿を見せた馬場源四郎は顔つきと同様の几帳面さで、まず手短かに用件を聞こうといった。吉兵衛はそばへにじり寄って耳元で何事かをささやき、相手は無表情にそれを聞いていた。話が済むと酒と料理が運ばれて、同時に何人もの芸妓があらわれた。脂粉の甘く匂う女たちに代わる代わる酌をされ、四角張った男の顔つきが徐々に丸くなってゆくのを元助は座敷の隅で眺めていた。  月が変わってすぐの二月二日に、東町奉行所は代判人を認可した。吉兵衛の歓びはひとかたならず、 「こんなに早うお許しを願えたからは、なんぞお礼をせねばならぬかのう……」  勘定部屋でふと独り言のように洩らしたところ、たまたまそこに居合わせた豆狸がすかさず口をはさんで、 「そら、なんぞしたほうがよろしうござりましょう」  と、いつものへらへらした調子ではなく、わりあいきっぱりいった。  大坂町奉行はかねてから年頭、八朔、五節句に惣会所と町会所、同業の株仲間から礼金を受け取る習わしだった。なかでも稲の実り間近な陰暦八月|朔日《ついたち》には「田の実」が「頼み」に通じるところから多額の礼金が贈られていた。当時これらは賄賂《わいろ》とは見なされず、いうなれば中央から派遣された官僚に地元が企業献金をする建前なのだが、いつの時代も賄賂と献金の区別は実に微妙で難しい。  町奉行の下には東西併せて六十人からの与力がいた。そのうち水帳《みずちよう》と呼ばれる登記簿の改正や株仲間の取り締まりなど、直に商家に関わった行政を手がける地方《じかた》与力はほんの数名で、礼金は奉行のみならず彼らにも贈られていた。  かつて過書町の両替屋に勤めて武家の内情に詳しい豆狸は、 「知行は二百石でも、内証は二千五百石じゃそうにござりまするぞ」  と、地方与力の裕福さを吉兵衛に物語るのだった。二百石の知行だと金八十両、銀五貫目足らずで辰巳屋の番頭より少ないくらいの年収だが、十倍以上の暮らしができるのは、何かにつけて礼金を受け取っているからにほかならない。  豆狸に進言された翌日、吉兵衛はさっそく元助をお供に従えて自ら東町奉行所に出向いた。非番で閉ざされた門の潜り戸から中へ入り、以前に学堂の件で世話になった永田官兵衛を玄関先に呼びだしていた。  永田とはあれきりだったが、幸いこちらのことはよく憶えていて、代判人になった内祝いとして酒樽を前に置くと、柔和な顔をいちだんとほころばせた。次にお肴代と称して十両の大判金を差しだしたところ、ならばひとまず預かるといって案外あっさりと受け取った。これから頼み事をするというわけではないので、差しだす側も受け取る側も、うしろめたいそぶりはつゆほどもない。奉行所を出たあと、元助は馬場源四郎の留守宅にも内祝いを届けるために、吉兵衛と別れたその足で天満の川崎村に向かった。  馬場の自宅に元助は何度も使いにいった。そのつど途中の大きな蔵屋敷の前を通って三つ巴《どもえ》の定紋《じようもん》を目にしている。  三つ巴は岸和田《きしわだ》藩主|岡部美濃守《おかべみののかみ》の紋所だが、その男が木津屋の運命を大きく左右することなど、一介の商家の手代には到底想い及ぶところではないのだった。 [#改ページ]   訴訟開始  代判人の認可が下りた数日後、豆狸《まめだ》の与兵衛《よへえ》はひとりの男を勘定部屋に案内して、 「このお方は具足屋治兵衛《ぐそくやじへえ》様と申しまする」  と、わざわざ吉兵衛に紹介した。勘定部屋は融資先との密談によく使われ、具足屋もまた辰巳屋に多額の借金をする男だった。吉兵衛は自らも質屋業を営むだけに、そこらあたりの事情はいわれなくとも察していた。  具足屋は五間間口の屋敷を家質《かじち》に入れて銀五十貫目を借りたが、どうしてもあと十貫増しで借り受けたいと前からいってきており、豆狸は相手がかなりせっぱ詰まっている様子を匂わせた。 「当家は忌中でござるゆえ一応はお断り申しましたが、なんでも急なお入り用らしく……」  商家があるじを亡くすと忌中のあいだは主人不在として本業の商取引さえなるべく手控える。ましてや辰巳屋は金貸しが本業とはいいがたく、豆狸があっさり突っぱねてしかるべきところを、吉兵衛に話を通した裏にはそれなりの魂胆がありそうだった。 「されば、いかがでござりましょう。辰巳屋《うち》が貸し越すにあたって、具足屋《あちら》様が証文の宛名をお書き替えなさるということでは」  と、豆狸が吉兵衛の耳元でささやくのを元助はそばで見ていたが、話の中身まではよく聞いていない。  借用書の宛名を書き替えればもちろん横領の罪になる。が、豆狸は例のへらへらした顔で、それをさしたる悪事とは気づかせなかった。吉兵衛もすました表情で、 「さほどにお困りならば、そうして戴いてもよいのではないかのう」  と他人事のようにいってそれを暗に認めた。 「へへへ、旦那《だん》さんは話が早わかりで結構。こんどまたこの手のことがございましたら、同じようにお願い申しあげまする」  と豆狸はずうずうしくいった。  こうして吉兵衛が自らの手を汚す自覚もなしに、だんだんと悪事に染まってゆくのを、元助はそばにいながら気づきもしなかったのである。  主人に代わって木津屋を守る惣助も、ときどき辰巳屋を訪れては金蔵を預かる才槌頭の平兵衛と直に話し合う様子だが、元助は何をかけ合っているのか知らされなかった。ただ平兵衛に一度こっそり金蔵の中を見せてもらった惣助が、小判の収蔵量に驚かされて「まぶしうて目がつぶれそうやった」と大げさに吹聴するのを聞いた。  上方は銀遣いがもっぱらで、黄金の小判はたいてい蔵に寝かせておくが、辰巳屋の小判は二月半ばに蔵の外に出て世間を大いに騒がすところとなる。  吉兵衛は代判人の認可が下りてから気がゆるんだものか、その日は忌中にもかかわらず、愛妾のお里を同伴してまたぞろ道頓堀の茶屋に繰りだしていた。  そもそもはお里が人気役者の瀬川菊之丞《せがわきくのじよう》をごひいきだったことにはじまる。  菊之丞は「無間《むけん》の鐘」という舞踊劇で一世を風靡《ふうび》した女形だ。  小夜《さよ》の中山にある無間の鐘を撞《つ》けば、来世は地獄に堕ちても現世は裕福になるという伝説を元にしたこの舞踊劇には、身内の困窮を知らされて独り悩む遊女が庭の手水鉢を鐘になぞらえて打つ場面がある。すると、奇跡のように天から小判が降ってくるというたわいもないすじだてだが、遊女に扮した菊之丞の「ああ、金が欲しいなあ」という切実なつぶやきは当節の流行り言葉にもなって、世間では何かというと冗談めかしてこれを口にした。  吉兵衛は道頓堀《どうとんぼり》の枡屋《ますや》という芝居茶屋に菊之丞を召《よ》んで「無間の鐘」を演じさせた。舞台ではむろん小判に模した小道具を使うところだが、お里の注文通りになんと本物の小判を辰巳屋から運ばせていた。才槌頭の平兵衛は今やかくまで小ぼん様のいいなりだった。  菊之丞の踊りに合わせて天井に吊るされた籠から小判がバラバラと降ると、人びとから悲鳴に近い叫び声があがった。畳の一角がたちまち山吹色に染まって、幇間芸妓はもとより上品ぶった茶人、もっともらしい学者や医者までが腰を浮かせた。燭台の灯は黄金の照り返しで倍の明るさとなって、欲の脂でぎらつく人びとの顔、それを見る主人の傲慢な微笑を照らしだす。座敷の隅で黙って杯を重ねていた元助が急に吐き気をもよおして部屋を飛びだしたのは、酒酔いのせいばかりではなかった。  百両の小判はすべて無事に回収されて辰巳屋の金蔵に戻ったが、この一件はたちまち世間に知れるところとなる。辰巳屋の危機が叫ばれて、一家一門派をふたたび勢いづかせたのは当然のなりゆきだ。  果たして真相はどうだったのか、と元助は思わずにいられない。死人に口無しとはよくいったもので、四代目久左衛門が死ぬ間際にどこまで冷静に物事を判断して、それをどこまで周囲に伝えられたかはあくまで謎だ。ともあれ当事者がそれぞれの思惑で故人の遺志をねじ曲げる恐れがあるなか、部外者のほうがかえって信が置けると見られなくはない。ましてや大坂中に名を轟かす大和屋三郎左衛門の発言ともなれば相当な重みをもつため、乙之助は二月二十六日の忌明けを待って五代目辰巳屋久左衛門に改名する運びであった。鰐口《わにぐち》が大和屋を担ぎだしたのも、ひとつは木津屋吉兵衛の頭が抑えられるのは、大坂の町広しといえどこの男しかあるまいとの期待があったはずである。  ところが二月に入ってすぐに当の大和屋を大変な事態が襲っていた。自宅の厠《かわや》で急に倒れて半身不随の身となった三郎左衛門は、もはや他家の揉め事に首を突っ込んでいるどころではなく、自らの当主の座を倅《せがれ》に譲らざるを得なくなったのだ。二十七日に執り行われた元服式には、倅に肩を抱かれて杖を突いた無惨な姿であらわれ、かたちばかりの烏帽子親《えぼしおや》をつとめるに終わった。  改名や相続の際は婚礼と同様に町礼と称する内祝金を町会所に納めてお披露目をする習わしだ。辰巳屋のような大家ともなれば、町会所のみならず惣会所《そうかいじよ》にも届け出なくてはならない。この日めでたく元服を済ませた乙之助は昼過ぎに南組の惣会所がある農人橋《のうにんばし》方面に向かった。  乙之助に付き添ったのは新六のほかに数人の番頭や手代にすぎず、支配人の鰐口は店に留まっていた。吉兵衛もこの日は元服式に姿を見せただけで、さっさと木津屋に引き揚げてしまった。いくら乙之助が五代目久左衛門を名乗っても、後見人の立場は揺らぐまいと高をくくっていたふしがある。  しかしながら事は少しも楽観を許さない。元助はこの夜またしても伊助に誘いだされて「えらいこっちゃでえ」を聞くはめになった。 「とうとうお上に訴えよるぞ」  と、伊助はいかにもおもしろそうにいう。  農人橋の近所には西町奉行所がある。惣会所の帰りにたまたまそこを通りかかった一行のなかに、いっそお上に駆け込もうといいだした者がいたらしい。あてにしていた大和屋が頼れなくなり、あとはもうお上のご威光を借りて吉兵衛を追いだすしかない、と、人びとの気持ちが急速に固まったのだという。 「番頭の連中は、お前の旦那に辰巳屋を乗っ取られてたまるもんかと、さかんに息巻いとるぞ」  伊助はいつもながらの茶化したものいいだが、元助はむっとしてこんどばかりは軽く聞き流す気になれなかった。吉兵衛はそもそも現在この世に生きているだれよりも辰巳屋とは縁が深い。乙之助を跡継にしたのはいくら故人の遺志にもせよ、実の弟にしてみれば、あかの他人に実家を乗っ取られたように感じてもおかしくはないのだ。  伊助と別れて戻ったときは夜もかなり更けていたが、おもしろ半分の告げ口であれなんであれ、主人を起こしてそれを告げないわけにはいかなかった。吉兵衛は眠そうな目で黙って話を最後まで聞いた。行灯の火影で揺れる顔には持ち前の癇癪《かんしやく》を堪えているのがありありと窺えた。  翌朝は何も聞かなかったような顔をして、吉兵衛はいつも通りに辰巳屋を訪れていた。月額《さかやき》の剃り跡が青々しい五代目久左衛門こと乙之助が挨拶にあらわれるとにこやかな笑顔で接し、番頭らともごく自然な会話を交わした。番頭らもみな反旗をひるがえすようにはとても見えず、辰巳屋はまさしく嵐の前の静けさといった空気に包まれていた。  この時代の裁判は大きく吟味筋《ぎんみすじ》と出入筋《でいりすじ》に分かれ、今日でいう民事訴訟は出入筋に該当する。原告のことを訴訟人《そしようにん》、被告は相手方という。出入筋の場合はまず訴訟人が目安《めやす》と呼ぶ訴状を奉行所に提出し、受理するときは書式を整えた本目安《ほんめやす》にして再度提出させる。受理された本目安に奉行が裏書きした上で相手方に届けてこれが召喚状の代わりとなる。  幕府は民事への介入をなるべく避ける方針で、当事者同士の話し合いによる解決を望み、たいがいは開廷の前に内済《ないさい》と呼ぶ和解を勧告した。内済を命じる場合は本目安の裏書きを用いずに差紙《さしがみ》で召喚する。  三月に入ってすぐ東町奉行所の差紙を受け取った吉兵衛は、来るべきものが来たといった感じでさほど驚きもせず、五日の御用日に元助を連れて出頭した。待っていたのは例の永田官兵衛で、こちらを見るなりやれやれといった表情を浮かべ、 「なるべく奉行所の手を煩《わずら》わさぬように願いたい。なんとかならんもんかのう」  と、お定まりの文句を聞かせた。  商都の大坂では金銭にまつわるもめ事があとを絶たず、町奉行所はただでさえ厄介な訴訟をたくさん抱えている。どこの家にも起こりそうなこの種の跡目《あとめ》騒動は本来なら町役人が片づけてしかるべきで、奉行所に持ち込まれるのは筋ちがいともいえるのだった。 「お上をお煩わせするつもりは毛頭ござりませぬ」  と吉兵衛はひとまず畏《かしこ》まってみせた上で訴状の中身をたずねた。  まず意外なことに訴訟人は姪のお岩であった。女子が出訴する場合は代人と差添人《さしぞえにん》の連署が要る。差添人は町年寄で、代人は当然というべきか、はたまた意外にもというべきか、乙之助の付け人である新六だった。  先代当主の実弟と対決するには血のつながる実の娘がふさわしいという判断であろうが、治世の根幹に儒教をすえる幕府としては、奉公人が主人を訴えることはもとより、目上の親族を相手取った訴訟も通常は却下している。 「姪が叔父を訴えるのは許しがたき所行《しよぎよう》じゃが、いろいろと話を聞けば、そのほうにまるで落度がないともいえぬしのう……」  と、温厚そうな円顔の男は困ったふうにいう。 「そのほうを代判人として認めたこちらも放っておくわけにはいかぬ。どうじゃろう、ここは先方のいう通り、当主がめでたく元服した上は代判をやめて直判《じきはん》とし、後見人の座を降りてやってはくれぬか」 「そもそも辰巳屋はわが実家《さと》でござりまする。叔父が甥と姪の後見をして、何が悪うござりましょう」  と、吉兵衛がお得意の理屈をこねはじめたのを見て、永田は閉口気味に微笑《わら》った。 「向こうがあくまでも御白洲のお裁きを望むなら、当方も受けて立つ所存にござりまする」  吉兵衛がきっぱりした口調で内済をはねつけると、永田もさすがに渋い表情に変わった。  奉行所から戻って吉兵衛はただちに辰巳屋の支配人を木津屋に呼びつけていた。敵陣の部将をわが陣中に招いたかっこうだが、鰐口の宗兵衛は早くも軍門に降《くだ》ったかのような恐懼《きようく》のていで、かつての小ぼん様の前に膝を折って両手をつく。それを見て吉兵衛は急に居丈高になった。 「そちが辰巳屋にいて、なぜお岩を止めなんだっ」  癇癪声で怒鳴りつけると、忠義者はふたえに屈した身をさらにすくめた。お岩を御輿《みこし》に担ぐのは新六のほかにも大勢いるはずだと責め立てられて、 「いやしくも、お主筋《しゆうすじ》のあなた様を訴えるような真似はせぬようにと、皆にさんざん申しましたが、聞く耳を持ちませなんだゆえ、せめて自分たちの名は出すまいと申しつけました」  と存外あっさり底を割った。  唐金屋出身の新六ひとりに訴訟を押しつけたのは鰐口の差し金によるものだった。にもかかわらず、そのことをまたここで相手方の吉兵衛に明かすのは、他の番頭に対する大いなる裏切りで、つまるところ鰐口は忠義者の域から一歩も抜けだせないでいるようだ。  かつての小ぼん様と、その前に両手をついて震える鰐口。生まれ落ちた瞬間からけっして埋めることのできない深い溝を挟んで立つふたり。元助は鰐口の裏切りを卑怯だとするいっぽうで、溝を挟んで同じ側に立つ人間としてある種の同情を覚えていた。  吉兵衛は訴訟の首謀者の名をことごとく聴きだした上で、辰巳屋のうしろ盾を自任する大和屋へこの件をすぐに報告するよう鰐口に命じた。 「かりにも主《しゆう》を訴えるのがどれほど大それたことか、大和屋殿もきっとおわかりのはずじゃ。されば、この吉兵衛の手並みをとくと拝見なされと申しあげよ」  吉兵衛の常になく凄んだいい方に元助は胸をどきっとさせたが、それが次にどういう事につながるのかまでは想像もつかなかった。  辰巳屋の一件は三月十二日の御用日に初|公事《くじ》を迎えた。前日に元助は公事宿に出向いて訴状に対する簡略な返答書を規定の書式に則って二通したため、一通を奉行所に提出している。当日は吉兵衛本人が町年寄に付き添われて朝四ツ(十時)前に奉行所に出頭した。訴訟人のお岩は病気を理由に欠席し、新六が代人として出廷していた。この日は初公事の恒例で、奉行みずからが御白洲に姿をあらわした。  東町奉行|稲垣淡路守種信《いながきあわじのかみたねのぶ》は二千石の旗本で、この役目に就いたのは享保十四年、三十六歳のときである。こうした働き盛りの年齢で目付から大坂町奉行に転出した場合は、そこからさらに江戸の町奉行か勘定奉行に栄進する。つまり幕府の官僚としてはまさに順風満帆の航路にあった。  訴訟人の代人である新六は奉行に向かって左側に、相手方の吉兵衛は右側に着座していた。ともに羽織袴の正装ながら、足袋《たび》をはかず裸足である。白皙《はくせき》の貴公子然とした淡路守は訴状を手に、まず新六に向かって、 「そのほうが願い書面にこれあり候《そうら》えども、なおまた申せ」  と声高に命じた。新六が手元にある訴状の控えを読みあげると、こんどは吉兵衛に「返答書の趣《おもむ》き、なおまた申せ」という紋切り型で初公事は速やかに進行した。  とにもかくにも、これでいよいよ決戦の火蓋が切られたのである。  この夜、辰巳屋は夜番の太鼓が聞こえる直前に大勢の珍客を迎えた。  まず中之島の大和屋から主人の名代として作兵衛という男が店に入ってきた。次に店じまいで大戸を降ろしかけたところへ、どやどやっとなだれ込んだ者たちがいた。  がらの悪い男たちの乱入で丁稚は悲鳴をあげて逃げ、手代はみな総立ちで震えている。騒ぎを聞きつけて勘定部屋から飛びだした元助は、闖入者《ちんにゆうしや》の中に特牛《こつてうし》の次郎兵衛を見つけて少しほっとした。しかしほかの連中と同様、何が起こったのか見当もつかない。  気がつけば吉兵衛がいつのまにか勘定部屋から出て広間の真ん中に立っている。 「静かにせい。みな聞くがよい」  と高らかに呼ばわって特牛に目で合図をすると、特牛がこんどは手下に指図をした。荒くれ者の手でいきなり羽交締《はがいじ》めにされたのは新六のほか渋半とべちゃ萬、もと木津屋にいた源兵衛と加兵衛の炭屋派四人組である。板の間に引きすえられた五人を冷然と見下ろす吉兵衛のそばには、大和屋から来た手代の作兵衛が呆然たる面もちで立ちすくんでいた。  大和屋の名代の立ち合いのもと、吉兵衛は五人に本日かぎりで暇を出すと宣言した。  次の日から辰巳屋は吉兵衛の天下となった。 [#改ページ]   勝訴の顛末《てんまつ》  辰巳屋の勘定部屋は三方が壁で、出入り口は店と奥を結ぶ廊下に面している。吉兵衛《きちべえ》は出入りの大工に頼んでその廊下の一隅に錠前付きの扉を作らせた。鍵がないとそこは開かない。これで乙之助《おとのすけ》は奥と店との往き来が勝手にできなくなった。持ち前の癇癪玉《かんしやくだま》が破裂したのだとしても、こうしたやり方は常軌を逸している、と元助ですら思ってしまう。  もっとも、だれよりも知恵が早くまわる吉兵衛は今までもすべて独断で事に及び、他人につけいる隙を与えなかった。元助は何も知らされず、主人の命じた通りに動くのが精いっぱいで、あげく思いがけない結果にいつも驚かされるはめになる。こんどのことも、吉兵衛には周到な思惑があり、勘定部屋の封鎖はあながち怒りまかせとはいえないようだ。  新六と炭屋派の四人組が店を追いだされたいっぽうで、この間に豆狸《まめだ》の与兵衛と才槌頭《さいづちあたま》の平兵衛は辰巳屋が所有する家作を一軒ずつ与えられ、宿持ちの奉公人という実にうらやむべき好遇を得ていた。それは吉兵衛に尻尾を振ったご褒美と解釈されて、ほかの手代たちも追随しようとする気配が濃厚だ。  支配人の鰐口は「だらしないなあ。見損のうたで」と伊助がぼやくように、今や借りてきた猫同然で、辰巳屋は吉兵衛ひとりが牛耳っている。ただし今後の御白洲によって風向きはまたどう変わるかわからなかった。  二回目の公事合《くじあい》は三月十八日で、稲垣奉行は姿をあらわさず、場所も御白洲より狭い詮議所に移されて、御支配方の与力と地方《じかた》の与力がひとりずつ出て吟味《ぎんみ》に当たった。  辰巳屋側は乙之助が前髪を剃った成人姿で出廷し、代判人はもはや不要であることを匂わせた。  三回目は渋半以下店を追いだされた番頭たちがそれぞれの自宅から出頭して不当な解雇を訴えた。  四回目は森田屋と河内屋が証拠人《しようこにん》として立ち、道頓堀での人騒がせな振る舞いを例にとって吉兵衛の驕慢《きようまん》と浪費癖を暴露し、一家一門は断じて認められない後見人だと主張した。この陳述によって代判を認可した東町奉行所の与力たちもさすがに顔を曇らせていた。四面楚歌《しめんそか》で追いつめられたかっこうながら、弁が立つはずの吉兵衛はなぜか一言の反論もなく、それでいて妙に落ち着き払った構えは崩さなかった。  二十七日に月最後の公事合を控えた前夜、吉兵衛はついに例の馬場源四郎《ばばげんしろう》を新町の茶屋に招いていた。馬場はかなり馴れた調子で座敷に入ってきたが、酒と女が出る前に用件を律儀に問うのは変わらない。 「不徳のなせるわざとはいえ、困ったことでござりまする」  と、吉兵衛は殊勝な顔で嘆いてみせる。  一家一門の連中はあとさきを考えずに自分を後見人の座から引きずり下ろそうとしているが、もしここで自分が退けば、辰巳屋はかならずや唐金屋に乗っ取られてしまう。大坂屈指の豪家が泉州の軍門に降《くだ》ることは必至だ。 「さすれば大坂《このまち》の面目はいかが相成りましょう」  と実にもっともらしくいう。  吉兵衛には昔から物事を大仰に説く癖《へき》があり、己れの言葉に酔いしれてつい本音を自分でもどこかへ置き忘れたような話し方をする。馬場は杯を傾けてしばし煙に巻かれた顔つきで話を聞いていたが、とうとうたまりかねたように杯を膳に置いてカチャンと音をいわせた。 「辰巳屋の下人どもは、何故にかくまでそのほうを忌避致すのだ」  と、これまたもっとも至極な疑問である。 「まずお聞きなされてくださりませ」  待ってましたとばかりに吉兵衛は膝を進める。 「向こうは恐らく謀書《ぼうしよ》の件で負い目があるゆえと存じまする」 「謀書……とは穏やかでないのう」  表情に乏しい相手の顔に驚きの色が浮かんだのを見て、吉兵衛は初七日にはじまる一件を詳しく述べ立てた。 「あまりの事で、辰巳屋のために訴えまいとは存じましたが、明日は最後となりますので、こちらも存分に申しあげねばなりませぬ」  それはみごとに満を持して放った反撃の矢であった。  二十七日は稲垣淡路守《いながきあわじのかみ》がふたたび御白洲に姿をあらわした。ひたすら沈黙を通していた木津屋側はそこでがぜん攻勢に転じた。  急きょ木津屋側の証拠人に立ったのは豆狸の与兵衛である。豆狸は先代久左衛門が亡くなる数日前に辰巳屋の番頭たちのあいだでだれからともなく謀書の企てが持ちあがり、出目の仁兵衛《にへえ》が自分の親しい女中に主人の印判を盗ませてみようかといったのは、ほかにも大勢聞いているはずだと主張した。ただしそれは酒が入った席での話で、密議といえるほどのものではなかった。だから初七日の席で仁兵衛が本当に声をあげたとき、自分はただただびっくりしたので、実際に加担したのはだれかはっきりしたことはわからないという。豆狸の証言は巧みに己れの立場をごまかし、仁兵衛以外の番頭に怨みを買わない程度の曖昧なものに留まった。  次にようやく吉兵衛が進み出て証言した。与兵衛の注進を受けて、ただちに支配人の宗兵衛に問いただしたところ、三日後に自分が代判人《だいはんにん》として迎えられたのは、やはり辰巳屋になんらかのやましい点があったのを物語るのではないかとの、お得意の理詰め口調であった。  謀書という重大な犯罪が明るみに出たことで、詮議はただならず紛糾した。これを確かめるには辰巳屋の女中や鰐口《わにぐち》の宗兵衛といった新たな証人が待たれ、本日中に結審するめどは立たなくなった。土壇場で逆転された辰巳屋側は、稲垣奉行にきわめて悪い印象を残したかたちで退廷した。これすべて吉兵衛が想い描いた図面通りの運びである。  月最後の御用日に片づかなかった一件は当然ながら裁決が持ち越される。翌月は東町奉行所が非番となって御白洲は開かれず、辰巳屋側は丸ひと月のあいだ反証する機会がない。御白洲での吉兵衛優位を知った辰巳屋の奉公人は、わが身かわいさでなだれを打ってすり寄りはじめたから、次の公事合で有利な証言をする人材には事欠かなかった。  ところがここにとんだ落とし穴がひそんでいた。土壇場で吉兵衛が優勢に立ったのはむろん豆狸の功労を抜きに語れない。  その豆狸に対して、あるときを境に、吉兵衛は露骨に不愉快な表情を見せるようになり、陰で「あいつは好かん」と子供っぽく毒づいて、元助をひどく不安にさせた。知恵はあっても根がわがままな小ぼん様はへそを曲げやすい。片や伊助がいったように寝返り癖のある男なら、とんだしっぺ返しを喰う恐れがあった。  豆狸は御白洲で有利な証言をしたご褒美として、またぞろ新たな家屋敷を求めており、こんどの家は自らが住むのではなく他人に貸すためである。大きな商家では番頭に家作を与えて給金とは別に家賃収入を得させる場合があって、豆狸はそれをさかんにねだり、ある日ちょっとばかり恫喝《どうかつ》じみたいい方をしたらしく、 「図に乗るんもたいがいにせいっ」  と、ついに吉兵衛が癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させた。とたんに相手はへらへらした表情をがらっと変えて、黙り込んだのが不気味だった。  それから数日たって、伊助の「えらいこっちゃでえ」をまたしても聞かされた元助は、今やそれをいう相手の心境が疑わしい気分である。  店を辞めた一家一門派と炭屋派の四人組は御霊筋《ごりようすじ》平野町の四つ角にある饅頭屋の二階で寄合《よりあい》を重ねており、そこはもともと伊助の親父但馬屋伊左衛門が親しくしていた家だという。倅は相変わらずの野次馬気分で親父から仕入れた話をこっそりおすそ分けするつもりだろうが、 「豆狸が西町に訴え出よったぞ」  といわれては聞き捨てならない。  寝返り癖のある豆狸が、なんとこんどは西町奉行所に駆け込んで吉兵衛の非を訴え、一家一門派、炭屋派はこれまでの遺恨を水に流して豆狸の肩を持つ構えだという。もっとも本当のところは話が逆で、東町で敗訴に終わったときのために、彼らが豆狸の尻を押して出訴させたようにも思われた。  東町の審議が長びいて西町に持ち越され、豆狸が辰巳屋側にまわれば木津屋側の不利になるのは火を見るよりも明らかで、吉兵衛としては何がなんでも早く一件を落着させたいところである。  非番で門を閉ざした東町奉行所をふたたび訪ねて呼びだしたのは、例によって温厚な円顔の男だった。 「永田様のご意見に逆らいまして、お奉行様をお煩わせしたお詫びでござりまする」  と、酒樽を前に置いて肴代《さかなだい》と称する金子《きんす》を差しだしたところ、相手はさすがに困惑の表情を浮かべた。 「まだ御白洲が済まぬうちはのう……」  永田はやんわり拒もうとしたが、吉兵衛はむりやり押しつけるかたちで奉行所の門を出て、また例のごとく元助を馬場源四郎の元へ使いにやった。  馬場がいつもの茶屋にあらわれるなり、吉兵衛はめずらしくのっけから折り入っての頼みと正直に訴えた。ただし話の中身はかならずしも正直なものではない。 「謀書の件がことごとく明るみに出ますれば、辰巳屋は闕所《けつしよ》を免れず、悪くすれば死罪となる者が出るやもしれませぬ。せっぱ詰まってあの件を持ちだしてみたものの、今となって私は深く後悔をいたしております」  深刻な芝居がかった口ぶりは、話に多分の嘘が混じるのを巧みにごまかしていた。この間の経緯を知る元助ですら、そばで聞いていてなるほどと納得させられるのだから、嘘を見抜く手がかりのない相手がすっかり丸め込まれたのは無理もない。 「それでそのほうは謀書の訴えを取り下げて、後見人の座を明け渡すつもりか」  吉兵衛はここでいかにも無念そうな表情を見せた。 「むざむざと城を明け渡すのは悔しう存じますれど、こうなればやむを得ませぬ。わが実家《さと》の家来どもを死罪にして、店を潰しとうはござりませぬ」  自らの言葉に酔いしれて眼を潤ませる男に、片や一本気な男は深い同情の声を聞かせた。 「本来ならばそちは辰巳屋の跡を継いでもおかしうない身の上だ。城を明け渡す苦衷《くちゆう》は察する」  この間、元助はふたりのそばで終始やりとりを見ていたにもかかわらず、肝腎の話がどちらから先に出たのかは、あとではっきりと想いだすことができなかった。 「殿になんとか申しあげてみるか……」  と先にいったのは馬場だったような気もするが、それとても初めはただ単に同情してつぶやいたのかもしれない。阿吽《あうん》の呼吸で吉兵衛が「どうぞ殿様によろしう」といったのはたしかである。対する馬場がその場で何かを求めた様子はなかった。  翌日、日が落ちてから元助は主人のお供で川崎村の馬場宅を訪れた。吉兵衛は玄関の間で袱紗《ふくさ》をかけた縁高《ふちだか》の折敷《おしき》を差しだした。折敷には菓子代と称する三つの紙包みに分けた金子が載っていたが、それは三十両と十両が二包みで、併せても五十両という、さほど多くもない金額だった。 「一つは殿様に。一つは馬場様に。一つはほかの御家来衆に」  と、細やかな気配りを見せられて馬場は無言でうなずいている。  元助はこのとき折敷の金が実のところだれの手に渡り、それがどういった効き目をあらわすのかをまるで知らず、主人が望むのは奉行所がただ早い裁決を下してくれることだと信じていた。もとは一家一門派の連中が吉兵衛を疎んじて遺言書を偽造したことに端を発する。それをこちらから敢えて不問に付すよう働きかけるのは、実家に対する心づかい以外の何ものでもないと思われた。  五月一日、東町奉行所の門がふたたび開くと同時に、訴訟人と相手方に立つ者が残らず御白洲に召喚された。そこで下されたのは辰巳屋側にとって実に厳しい裁決である。  結審に臨んだ稲垣奉行はいきなり謀書の疑義を不届きなりと決めつけて、辰巳屋側に反論の隙を少しも与えず、ただしこの件は不問に付すと申し渡した。謀書があきらかとなれば重罪は必至だから、辰巳屋側は沈黙せざるを得ないかっこうだ。  淡路守はさらに叔父に当たる吉兵衛が養子乙之助の後見人となるのは至当であるとの見解を示して、もし叔父が気に入らない場合は養子縁組の解消もあり得るとの判例を挙げた。目上の親族を訴えたお岩は儒教の教えに背くものとしてその罪が問われた。お岩の代人である新六には即刻|入牢《じゆろう》が申し渡され、その場で羽交縄《はがいなわ》に縛られた男は白髪頭を震わせ、赤ら顔に無念の表情を浮かべて引き立てられた。辰巳屋側は新六ひとりにすべてを負わせたかたちで、犠牲を最小限に止めた観がある。  ともあれ木津屋側の全面勝利で東町奉行所の公事が終わりを告げたのは西町に大きく響くと予想され、大和屋があいだに入って訴訟を取り下げた。かくして吉兵衛の天下は揺るぎないものとなった。  五月の節句を間近に控え、今や実家でわがもの顔にふるまう吉兵衛は、木津屋から質草の鑑定に長けている佐助を召《よ》んで辰巳屋の蔵を物色させた。佐助は細長い桐箱を蔵から持ちだして、 「これがよろしうござりましょう」  と主人に薦めた。箱の中身はぴかぴか光る短刀で、鞘全体に美しい装飾がほどこされたその金無垢の小脇差はどこかの武家から質草として預かったというよりも、掠《かす》めとったとおぼしいお宝である。吉兵衛は刀身をためつすがめつ見ながら折紙の有無をたずね、 「折紙が付いておらぬと、かほどの名剣も二束三文じゃのう」  と、かつてだれかがいったのと同じようなせりふを聞かせた。  次の日の暮れ方、元助は主人のお供でその桐箱に入った刀を携えて天満《てんま》の川崎村を訪れた。端午の節句に町人が知り合いの武家へ祝い物を届けるのはさしてめずらしいことではない、吉兵衛は何年も前からきまって馬場源四郎宅に伺候《しこう》している。  だがこの元文四年五月五日の訪問には格別の意味があった。 「ご子息の御差料《おんさしりよう》に」  と桐箱のふたを開けたとたん、四角い顔の男からほうっと深いため息が洩れた。 「此度《こたび》のことでは、馬場様に大きなお力添えを賜りまして、その御礼かたがた持参つかまつりました」 「このような立派な刀を、身どもの倅にくれるというのか……」  馬場の声には多少の驚きと当惑が感じられた。吉兵衛はさらに懐中から袱紗《ふくさ》包みを取りだしている。 「お骨休めに、これで湯治にでもお出かけなされたらよろしかろうと存じまして」  金子五十両を目の前に置かれた男は、唇をほとんど動かさずに「かたじけない」とつぶやくようにいう。  元助はこれまたそばで一部始終を見ていながら、主人が重い罪を犯していると気づくようなことはなかった。  いっぽう乙之助の付け人新六は、蒸し暑いさなか松屋町の牢舎で半月近く苦痛を堪え忍んだ末に放免された。それからすぐ泉州に旅立ち、長らく静観していた唐金屋与茂作《からかねやよもさく》に公事《くじ》の顛末《てんまつ》を報告した。  唐金屋の庭はかつて将軍吉宗の目に触れたこともある優れた品種の牡丹で埋め尽くされている。その牡丹の花がことごとく散り失せたころ、眠れる獅子はようやく目覚めの時を迎えようとしていたのである。 [#改ページ]   京の夢大坂の夢  陰暦五月の梅雨が過ぎれば、炭屋はいずこも活気を増す。各地から大坂の湊《みなと》に運ばれた炭俵は茶舟に小分け積みされて、ここ西横堀と堀江の浜にぞくぞくと集まってくる。丁稚《でつち》のころから見慣れているはずの光景を眺めながら、元助は今やいささかふしぎな気持ちになるのだった。  炭屋派の主立った番頭が辞めたあとも辰巳屋はほぼ順調にまわっていた。仕入れの連中は渋半《しぶはん》の指図がなくても、時季が来ると一斉に飛び立つ渡り鳥のように各地へ散らばっていった。若い手代はべちゃ萬がいなくなったのを幸いに、ここに来て古株の連中を巻き込みながら炭市を軌道に乗せるべく、来る六月一日の発会に向けてしたくを怠らない。  金貸し業のほうは町家ばかりでなく在郷の百姓にも田畑を抵当《かた》にひそかに金を貸しはじめ、才槌頭《さいづちあたま》の平兵衛と豆狸《まめだ》の与兵衛は勘定部屋で常に相談している。数ある証文に目を通して判を捺《お》すのは吉兵衛ひとりで、当主の五代目久左衛門こと乙之助《おとのすけ》には毎度何も知らされずに金蔵の鍵が開けられる。  乙之助は早や元服を終えた十五歳。その妻となるべきお岩も十六の娘盛りを迎えているが、せっかく丈夫に育つよう岩と名づけられたにもかかわらず、父母の血を受け継いでひがいす[#「ひがいす」に傍点]なからだは年々弱まるいっぽうだ。今や日の射さぬ奥の部屋に寝たきりで、絶えず忌まわしい咳を襖《ふすま》の外に洩らし、顔は透き通るように白くなって、このまま消えてしまいそうである。  訴訟で叔父に負けてからは、気の毒なことに世話をする女中すらごくわずかとなり、かつてさかんに来ていた医者の相模《さがみ》もあまり姿を見せず、薬湯の匂いがかなり薄まっている。夫となるべき少年は病いがうつるのを恐れて部屋の中にはめったに足を踏み入れず、もとより店の者たちはすっかりないがしろにする御寮人を、忠義者の鰐口だけは毎日のように見舞っていた。 「公事のことでお腹立ちはもっともなれど、御寮人様は先の旦那様の血をひいて、お前様にとっても実の姪御に当たるお方でござりまする。病いは気からと申します。ここは叔父様からやさしい言葉のひとつもおかけくだされば、お心持ちのほどもずいぶんとちがって参りましょう」  鰐口は何度もそんなふうにいってお岩の病床を見舞うように勧めた。が、吉兵衛は頑として受け付けなかった。 「つれないお方じゃ。どれほど利口でも、ああ情が薄うては、まわりの者がついていけん。そなたもさぞかし苦労じゃのう」  と、忠義者は眼にうっすら涙さえ浮かべて元助に嘆いてみせたものである。  木津屋の店は惣助《そうすけ》と佐助に任せっぱなしだが、その質蔵には以前に元助が神主のものとまちがえた公家の冠がいまだに質草として眠っていた。  五月も末近く、その冠の持ち主から吉兵衛の噂を聞いたという人物が突然に木津屋の店を訪れた。早瀬鳴滝介《はやせなるたきのすけ》と名乗る男で、作りものじみたその名前を聞いただけで、元助は何やらうさん臭い気がした。早瀬は自らを京の烏丸大納言《からすまるだいなごん》に仕える身だと称しているが、 「ありゃきっと山師やで。また金をむしり取る魂胆やろ」  と、惣助も用心したのは、吉兵衛が勝訴してから何かと理由をこじつけて木津屋に寄付を求めに来る人があとを絶たないからである。  もっとも早瀬はあまり卑しげなところはなく、面長で品のいい顔立ちをしていた。黒の絽羽織《ろばおり》を涼しげに着こなして、扇をゆったりと使いながら、 「われらは根からの侍ではござらぬ」  と、初対面で正直に打ち明けていた。  実家は京の西北にある鳴滝村で植木屋を手広く営み、禁裏《きんり》や諸公家の御用達をもって任じている。家は兄が継ぎ、弟の自分は烏丸卿の家来になったという。  京の公家はいずれも高位に見合うだけの知行を得ておらず、烏丸卿は紀伊や尾張の徳川家にも匹敵する大納言という高位にあって、知行はわずか千五百石に過ぎない。 「表向きはどうあれ、内証は火の車。じゃによって、われらごとき下賤の者が家来となれる」  植木屋の倅が苗字帯刀を許されて、諸大夫《しよだいぶ》の称号が得られたのも烏丸家に多額の寄進をしたからだという。早瀬は自身の話をいとも正直に物語るのだった。  烏丸家のような堂上公家に仕えれば五位の諸大夫という称号が得られる。大名の多くが五位諸大夫で、つまり早瀬は金の力にものをいわせて大名に匹敵する名誉の称号を得たのであった。  早瀬は自らが京を案内すると請け合って、月が変わってすぐにはじまる祇園会《ぎおんえ》の祭り見物をさかんに勧めた。上洛に難色を示したのは元助ばかりではない。惣助もまた、今や両家を背負って立つ旦那に遊んでいる暇はないはずで、しかも勝訴した直後だから世間の聞こえもはばかられるといってさんざん止めた。が、まるで耳を貸してもらえなかった。  最後までしつこく諫言《かんげん》したのは鰐口《わにぐち》の宗兵衛で、しばらく鳴りをひそめていたこの男がこんどばかりは猛然と喰ってかかった。  鰐口が諄々《じゆんじゆん》と説くのは仕事のことでも外聞でもない。いかにも忠義者らしく、御寮人のことをもっと大切《だいじ》になさってほしいというのである。お岩の病状は日増しに悪くなり、恐らく先も長くはない様子だ。それを放っておいて京へ遊びにゆくとはもってのほか、と強い調子で責め立てる。 「いくらお嫌いあそばしても、血のつながる実の叔父と姪の間柄ではござりませぬか。最期のときが来るまでに、どうか仲直りしてくださいまし。お岩様が安らかなお気持ちで旅立てるようになさるのが、人の道でござりまする」  鰐口は火傷で醜くなった顔を泣きそうに歪めて懇願する。 「何事も運命《さだめ》じゃ。情に溺れずと、理屈でものを考えてみよ。わしがそばについておれば、あの娘《こ》の命が助かるというわけではあるまい」  吉兵衛はすました表情で冷ややかにいい放ち、鰐口の顔は一瞬にして凍りつく。元助はここで何かいうべきだと切に感じた。人の気持ちは理屈だけでは済まないという当たり前のことを、賢いはずの人がなぜわからないのだろう。心のなかで何度もそう思いつつ、面と向かってそれをいえる自信はついに出てこなかった。  周囲が諫《いさ》めた甲斐もなく、吉兵衛は炭市が終わりを告げた六月五日に京へ出立した。木津屋からは元助のほかに身のまわりの世話をする女中や若い者が何人かお供をした。それにまして多いのが取り巻きの連中だ。医者、絵師、茶人、俳諧師といった面々がいずれも自分はかつて京に遊学した経験があるとの触れ込みで同行を願い出た。妻子は残して妾のお里を同伴したため、お里がひいきにする道頓堀の芸人まで従《つ》いてきて、一行およそ二十余名の旅費はことごとく吉兵衛の財布、ひいては辰巳屋の負担となるのだった。八軒屋の船着き場で三十石船を丸ごと一|艘《そう》借り切った旅立ちに、辰巳屋の人びとはみな眉をひそめるしかなく、世間はまたそれを嗤《わら》って見送ったのである。  京に到着した一行はひとまず三条小橋近くの旅籠《はたご》で草鞋《わらじ》を脱いだ。滞在する宿の心配は無用といわれて来ただけに、なかなか姿をあらわさない相手に吉兵衛は気を揉んでいた。 「京の者は口がうまいが、肚で何を考えておるかわからん」  と元助の前で不安を洩らした次の日ようやく相手は訪れて、さっそく自ら用意したという宿に案内した。  そこは洛中の北端を走る上立売《かみだちうり》通りと大宮通りとが交わるあたりの観世辻子《かんぜのずし》と呼ばれる閑静な土地で、そばを堀川が流れ、妙蓮寺、本隆寺といった日蓮宗の寺院が甍《いらか》を連ねていた。そうした付近の大寺院にも負けぬ築地塀で囲まれた大邸宅を見せられて、一行は気を呑まれてしまった。塀の内は壮麗な書院造りの屋敷で、庭には堀川から引いて小舟を浮かべられそうなほどの泉水がこしらえてある。ここはいったいどういう家なのか吉兵衛がおずおず訊けば、早瀬はすました顔であっさりと応えた。 「この屋敷は近きころ、というても百年は遡ることになろうが、徳川初代の東照大権現が伏見《ふしみ》で将軍|宣下《せんげ》を賜《たまわ》られしころに建てられて、さる堂上家が別荘にお使いじゃったと聞き及ぶ。京にはこうした明き屋敷がいくつもござる」  陰陽道の方違《かたたが》えによって、昔は洛中洛外いたるところに別荘を構える公家が多かったが、いずこもだんだんと内証が苦しくなって、維持できずに放りだしてしまった。早瀬の家は先祖代々公家に出入りする植木屋で、見捨てた家主に代わって明き屋敷の手入れをしてきた。どんなに立派な普請でも放っておけばただのあばら屋と化すところを、年に何度か塵をはらって人が住めば、わりあい損なわれずに済むのだという。 「まだところどころ修理も要る。庭は荒れ放題じゃが、もう少し手を入れたら、お迎えするにふさわしい屋敷となりましょう」  広縁に立つ早瀬が周囲を見まわしながらそういうのを聞いて、吉兵衛がこの男にしてはめずらしくぽかんとした表情になった。 「……ここにいったいどなたをお迎えしますので?」 「知れたこと。烏丸|光栄《みつひで》卿にござる」  即座の返答で吉兵衛は思わずヘヘエと恐懼《きようく》の声をあげた。  そもそも吉兵衛が早瀬という男にひかれた最大の理由は、彼のあるじ烏丸光栄卿その人にある。烏丸家は代々優れた歌人を出すので知られた名家だが、なかでも現当主の光栄は歌聖の柿本人丸《かきのもとのひとまろ》になぞらえて「今人丸」と称されるほどの傑出した歌詠みであった。歌の道にも多少あかるい吉兵衛はかねがねその名声に憧れていたのである。 「卿に拝謁《はいえつ》を賜わらば、そこもとも身どものように地下《じげ》の身分を離るることになるやもしれぬ」  と、早瀬は実に何げない調子でいった。  憧れの烏丸光栄卿に対面できる上に、ひょっとすると素町人の身で朝廷の官位を授かることになるかもしれないという夢物語には、吉兵衛もその場で笑って眉に唾をつけたほどである。 「ハハハ、京の夢大坂の夢じゃ。あまり本気にはすまい」  と自身でいったにもかかわらず、しかしながら祇園会が終わってすぐには京の町を引き揚げようとしなかった。それどころか元助は、祭り見物もそっちのけで屋敷の手入れに奔走しなければならなかった。  見かけは立派でも屋敷はかなり傷んでいるから、いざ賓客を迎えるとあらば、屋根の修理、床の張り替え、壁の塗り直し等々の相当な手入れが要る。早瀬はその手間賃をすべてこちらに負担させた。おまけに知らない土地では地元の男を頼るほかなく、職人は彼を通じて雇うために、元助は京の町中がぐるになって大坂者の自分たちから金をむしり取ろうとしているような気がしたものだ。  京の夏はきわめて蒸し暑いが、北西の山々に近い観世辻子の屋敷はわりあいに涼しく感じられた。お盆の夜に五山で焚かれる大文字の送り火では、妙見山に描かれた舟形が近くに眺められるという。その大文字の夜に烏丸卿をお連れすると告げられた吉兵衛は、まさに夢見心地でお迎えのしたくを急がせていた。  大坂からはお盆の前にはかならず戻ってこいと矢の催促で、鰐口は頻繁に書状をよこしたが、お岩が何度か喀血して、この夏が越せるかどうかも危ういと書かれた手紙にも、吉兵衛はいっかな心動かされる様子はなかった。  烏丸卿なぞあらわれるはずがない、と元助はひそかに思い、そうなれば吉兵衛も目を覚ましてくれるだろうと信じていた。だが案に相違して、七月十六日の宵には数台の牛車が屋敷に押し寄せた。吉兵衛はかつてない取りのぼせようで、初めて見る本物の牛車に震えだす始末である。車から降り立った人びとはいずれも仰々しい烏帽子《えぼし》装束ではなく、薄手の羽織を召した気楽な装いで、気を張りつめて出迎えた地下人《じげびと》たちをひとまずほっとさせた。  早瀬鳴滝介が連れてきたのは烏丸卿その人ではなかったが、卿に近い人びとだと教えられ、吉兵衛は黄金五枚と巻絹十本を献上し、返礼に烏丸卿の御染筆を賜って満足した。五山の送り火はあっという間に消えてしまい、短い宴が済んで卿の一行が帰館したあと、吉兵衛は拝領した烏丸卿の書軸を何度も披《ひら》き見ては子供のようにはしゃいでいた。この男は昔から賢いといわれている反面ばかばかしいほどの幼な心をたっぷりと残していて、それが噴きだしたかっこうの一夜であった。  次の日あらわれた早瀬に吉兵衛は金子をもって謝意を表し、相手は例によってすました顔でそれを懐ろに納めていた。早瀬は次に烏丸卿が昨夜の話をお聞きになって、この屋敷にたいそう興味を持たれたご様子だといって吉兵衛を喜ばせ、 「この家をご寄進なされば、あなたも諸大夫となれましょう」  と、急にびっくりするようなことをいいだしている。  自分の屋敷でもないのに寄進するもなにもあったものではないから、まずはここを買い求めよという話だと思い、吉兵衛もさすがに落ち着かない表情になった。早瀬はそれを見て上品に笑った。 「ハハハ、大名にも等しき位を頂戴するには、いと安き贈り物かと存ずる」 「で、値はいかほど……」  と、吉兵衛はかすれたような声でたずねる。 「さて、五百貫もあれば」  相手は平然とした顔つきですかさず応え、吉兵衛はほうっと深いため息を洩らした。  町家なら店付きでも銀十貫目からあり、五十貫目も出せばそこそこ大きな家屋敷が手に入る。書院造りの御殿なら五百貫目でおかしくはないにしても、右から左へやすやすと動かせるような金額ではない。しかも買ってすぐそれを寄付するというのでは、尻込みしないほうがおかしい。  だが早瀬はそれが至極当然のことのように勧めるのだった。 「ご寄進を申しあげたところで、卿がこれにお渡り遊ばすことは年に一、二度あるかないか。あとは好きにお使いになれる。ご来駕《らいが》を賜った節は、屋敷を預かる臣下としてご挨拶が出来よう」  この巧みないい方は吉兵衛の心をぐらつかせるに十分だった。そもそも学を好み、文才を誇る男にとって、当代一の歌人といわれる烏丸光栄卿の臣下となり、朝廷の官位を賜る栄誉は銀五百貫目やそこらには代え難い魅力がある。  かつて万年先生に聞かされた人間の抱える三欲のうちで「名の欲」は元助に最も無縁であり、謎だから、主人がそれゆえに五百貫もの大金をはたいてしまうなどとは思いもよらず、元助はここでも口がはさめなかった。けれど、もし口を出したところで、相手に聞く耳があったかどうか。  身代《しんだい》十万貫目を超す豪家の代判人《だいはんにん》は、多額の金を京為替で決済するのも難しくはなかった。とはいえ取り立てがゆくであろう辰巳屋に、事の次第をどう説明すればよいかは悩むところだ。元助は真実を明かす勇気がなくて、大坂で家質を取って金を貸すのと似たようなことを京でもしたように書き送った。鰐口の返書はなぜかそれについてひと言も触れず、お岩が明日をも知れぬ命であることだけを綿々と訴えて、一刻も早い帰坂を求めていた。  早瀬はこんどもしっかりと約束を守ってくれた。吉兵衛は十日ほどして烏丸邸に伺候《しこう》した。そこで御簾《みす》越しに遠く離れてはいたけれど、憧れの人と対面できた。さらに従五位下の官位と鳥井|図書介《ずしよのすけ》の仮名《けみよう》を記した大高《おおたか》檀紙の御教書《みぎようしよ》に加え、風折烏帽子《かざおりえぼし》と麻の狩衣《かりぎぬ》を下賜《かし》されて、意気揚々と観世辻子の屋敷に引き揚げてきた。  銀五百貫の寄進で叙位叙官の栄誉を手に入れた吉兵衛は有頂天となって、この夜遅くまで祝いの酒宴を催し、元助は主人の浮かれ騒ぐさまを黙って見ていた。  京の夢大坂の夢。人は自分が見たふしぎな夢を他人に話すときにかならずこの呪文を唱える。烏帽子装束を身につけて子供のように無邪気にはしゃぐ吉兵衛もまた、後に今宵の出来事を物語るときは、きっとその呪文を唱えるであろうという気がした。 [#改ページ]   大樹の血 「わしはもうただの町人やない。かたじけなくも京の朝廷《おかみ》から位を授かった身じゃぞ。相応の振る舞いを致さねばかえって無礼となる」  吉兵衛は帰坂の際に至極当然のようにそういって太刀と乗馬を買い求め、木津屋から連れてきた若い者を草履取りや挟箱《はさみばこ》持ちの中間《ちゆうげん》に仕立てた。  京大坂の往来は淀川を使わずに陸路《くがじ》をとる手だてがある。伏見《ふしみ》の湊《みなと》から舟に乗ればひと晩で帰り着くところを、駿馬《しゆんめ》にまたがった男は京街道をわざとゆっくり下った。馴れぬ乗馬に疲れきって、大坂にあとひと息という守口宿でさらに一泊をした。  たまたま守口には吉兵衛の顔見知りが来ていて、一行のものものしい到着に仰天し、大坂に戻ってたちまち話を広めた。その夜のうちに噂を耳にした大和屋の隠居は、病中とはいえ事の重大さを気づかぬほど呆けてはいない。 「お上のお許しなく帯刀に及ぶとはもってのほかじゃ」  と震え声で周囲にいって、守口宿に使いを急行させた。  百姓や町人に苗字帯刀を許すのはその土地の領主にかぎられており、大坂の住人はたとえ京の公家から苗字帯刀を許されても、町奉行所に届けずにその姿で市中を闊歩《かつぽ》するのは許されない。大和屋の使いにそう聞かされた吉兵衛は、 「町奉行が何ほどのものじゃ。わしは五位の諸大夫《しよだいぶ》じゃぞ」  と広言してあわてさせ、まわりはなだめるのに丸一日を費やしている。  この間に辰巳屋からは頻《しき》りに使いが来ていた。そしてついにお岩の訃報を聞いて吉兵衛はようやく重い御輿《みこし》をあげたのだった。  後見人たる叔父が姪の臨終に立ち会わなかったことで、 「人面獣心とはこのことじゃ。きっと自らの最期も良うあるまいぞ」  と忠義者は呪詛《じゆそ》に満ちた毒づき方をするほどに憤激した。  お岩の密葬が済んだ夜、鰐口の宗兵衛は自らの暇を願い出てさすがに吉兵衛をうろたえさせた。辰巳屋が今日までなんとか無事にまわっているのは、やはり支配人の力に与るところが大きい。  かつての小《こ》ぼん様《さん》と忠義者は夜遅くなって勘定部屋で話し合い、元助もその場にいた。いつもはどこにいても場ちがいな気がして腰のひけてしまう男だが、そこにいることだけは当然のように感じていた。 「なあ、宗兵衛、考えてもみてくれ」  と小ぼん様は忠義者に向かってどこか甘ったれた口調だった。 「お岩が亡くなったいま、辰巳屋の血を正しう引くのはこのわしだけやないか。わしをさしおいて、縁もゆかりもない唐金屋《からかねや》の小倅《こせがれ》に跡を継がすのはどうかしてると思わんか」  鰐口は返事をせず、ただ黙って怖い顔で吉兵衛を見ている。今さら一族の絆を持ちだすくらいなら、なぜ実の姪を見捨てたのかといいたげな表情だ。 「事のはじまりはあの遺言状じゃ。あれさえなければ、わしもここまで意地にはならなんだ……」  そのしみじみとしたいい方は元助の耳に本心らしく響いた。そうだ、あの初七日の一件さえなければ、自分もここまで主人に同情することはなかったかもしれない。ここに来てまたあらためて万年先生に聞いた饅頭の話が想いだされる。だれかが欲張って先にたくさん食べてしまうと、別の者は負けじともっと食べたくなる。人の心とは左様なものだと先生はおっしゃったのだ。 「それにしても宗兵衛、おぬしは怖い顔をしておるのう」  吉兵衛は甘える調子から一転、揶揄《なぶ》るような調子に変わった。顔には薄笑いが浮かんでいる。 「アハハ、怖いのは、その顔ばっかりやないぞ」  と笑いながらも、奥二重の小さな眼をきらりと光らせる。 「遺言状の件といい、訴訟といい、お前は皆を止めんかった。土壇場で忠義面をして皆を裏切り、このわしを御輿《みこし》に担いだのも、ほんまは辰巳屋から邪魔者を追い出すつもりやったんとちがうか」  鰐口のただでさえ怖い顔がさらに歪んだ。 「お前様は、な、なんちゅう恐ろしいことを……」  その声は甲高く震えている。  元助は呆然としてその顔を見守りながら、なんとかいい返してくれと願った。だが鰐口からそれ以上の言葉はない。逆に吉兵衛が勝ち誇ったようにいう。 「なあ、宗兵衛。御輿を担ぐつもりなら、最後までこのわしを担いだがよい」  鰐口は決然と立ちあがり、黙って障子の外に出た。元助はあわててあとを追う。 「ああまで疑われたら、もう店におるわけにはいかん」  という声がまだ震えていた。元助はそこに一縷《いちる》の望みをつないでいた。  鰐口が吉兵衛のあと押しをしたのは血縁を重んじてのことだったのはたしかである。お岩の無惨な最期を看取って、辰巳屋一族に対する厚き情《おも》いが怒りに変わったのだと思いたい。ならばどうかもう少し我慢してくれといいたいし、それがいえるのは自分しかない。なにせ相手は自分と吉兵衛を結びつけた張本人なのである。  元助は門送《かどおく》りする体《てい》にして鰐口といっしょに表へ出た。外は皓々《こうこう》と初秋の月が輝いて家の中よりも明るい。夜更けの路地は人通りも絶え、集《すだ》く虫の音が聞こえるばかりで人の話を遮るものとてない。ひんやりとした夜気の助けを借りて、相手の気持ちをなだめなくてはならなかった。これまでさして主人の役に立つとは思えなかった自分だからこそ、今ここでなんとかしたいという気持ちがある。 「わしも悪うございました。どこかで旦那を諫《と》めんならんと思いつつ、とうとうここまで来てしもて……」  元助は自分のほうからまず詫び言を口にしながら、声がとぎれた。  学もあり、賢い主人がどこでどう道を踏みまちがえて、三欲の亡者と化したのか。そばで見ていながら、それをなぜ止められなかったのか。あのときこうもすればよかったのか。いや、あそこでこういうべきだったのか。などと元助は詮無《せんな》き自問自答に陥っていた。 「しょうがない。いくら賢いようでも相手は所詮ぼん様じゃ」  と、這出者《はいでもん》の叩き上げは、えらく突き放したようにいう。それはこちらを慰めるためのせりふではなさそうだった。 「あのお方は利口すぎる。ぼん様でなまじ賢いのは、困ったもんや」  鰐口は皮肉な口ぶりでそういった。そして火傷を負った顔の片側に一瞬ぞくっとするような笑みを浮かべた。 「そ、宗兵衛殿は、こ、これからいったいどうなされるおつもりで」  元助はどもりがちにいって、喰い入るようにその横顔を見つめている。 「わしはどんなことをしてでも、辰巳屋の暖簾《のれん》を守る」  鰐口は淡々としながらも力強い語調で応じた。確信に満ちたその表情は月明かりに照らされて時に気高くも、また醜くも映る。 「まさか……あの……」  相手がこんどは乙之助を担ぐ肚《はら》だと、元助は感じた。鰐口は手に負えなくなった小ぼん様を放りだすつもりなのだろう。しかし吉兵衛は手に負えない悪さもするいっぽうで、商いの才覚は十分にあるはずだ。片やまだ少年で、悪さはしないが善いこともしない。要するに何もしない主人ではないか。 「店がここまで大きうなったら、あとは勝手にまわってゆく。御主人様はもう何もなさらいでええのや」  その声にはやけにおもおもしい響きがあった。 「何かをなさるようなお方では、かえってわしらが困る」  御輿を担ぐならいっそ形ばかりの軽いほうがよいのだと、鰐口は最後の最後でその肚のうちを明かしてみせたのである。 「今までそなたにはえらい苦労をさせたが、もう辛抱せんでええ。なあ、元助、これからもわしに従《つ》いてこい。けっして悪いようにはせん」  男は昔と同じように目を細めて、こちらの肩に手をかけた。元助はとっさにその手を強く振り払っていた。  鰐口は忠義者を装って、この自分ばかりではない、吉兵衛をまんまと利用し、さらにこんどは乙之助を使おうとしている。が、この男はこの男でやはり忠義者なのだろう。ただしそれは主人に対する忠義というものではない。すべては大樹のためなのだ。元助は漠然とそんなふうに感じた。この店の前に初めて立ったとき、寄らば大樹の陰といった父の言葉が胸に甦る。当時は少しもわからなかったが、今やその意味がよくわかる。  鰐口は辰巳屋という大樹に水をやり続けてきた。そしてこれからもやり続けるだろう。大樹に流れる血は守りたい。だが大樹をさらに大きくするために、要らぬ枝葉はどんどん切り捨てていくのだろう。  元助はふとその忠義の根底にあるものが疑わしく思われた。忠義といいながら、所詮それは大樹に寄ったわが身かわいさから出たものではないのか。だとすれば今や大樹のために切り捨てられようとしている吉兵衛の身が哀れであった。  若い男は老獪《ろうかい》な怪物を相手に精いっぱいの虚勢を張った。 「もうこうなったら、やぶれかぶれじゃ。わしはとことん旦那のお供をつかまつりまする」  きっぱりとした決別の辞で元助はようやく胸がすいた。こうした自分の気持ちはけっして相手にはわかるまいと思われた。  若い男の眼は月明かりできらきらと輝き、古狐はそこからまぶしそうに目をそらす。 「きっと後悔するぞ」  と、捨てぜりふをつぶやいて、逃げるような早足で遠ざかってゆく鰐口が通りの闇に消えた一瞬、「ガンちゃんはあいつによう似とるわ」という声が元助の耳に甦るのだった。  鰐口が店を辞めてから、吉兵衛は才槌頭《さいづちあたま》の平兵衛を支配人に取り立てた。これによって金番頭の座に空きができたため、 「元助、本来ならお前が吉兵衛様の片腕になって金番頭をつとめるとこじゃろうが、フン、算盤もまともに出来んかった者《もん》に、この大切《だいじ》な仕事は任せられんわい」  と、平兵衛はわざとのように皆の前でこき下ろし、庄右衛門という元助よりも若い手代にその座を譲った。庄右衛門はほっそりしたからだつきのおとなしい男だが、両替屋の出身だから算盤と帳付けの腕にかけては群を抜いていた。  かくして新たな支配人から役立たずと決めつけられた元助は、これまで以上に店の仕事をさせてもらえず吉兵衛の私用にばかり使われている。例のお照母子のもとには京土産の反物をどっさり持っていかせられたものだが、お照は想ったほどの喜びようではなかった。 「ああ、こんなにもったいない」  と眉さえひそめるありさまで、着飾る欲というものがまるでない、めずらしい女だと思われた。  娘のお拾《じゆう》はかつての母そっくりで、美しくまた気だてもよい。嫁にもらってくれという話を何度か戯《ざ》れ言《ごと》のようにして聞かされたせいで、あるとき唐突に吉兵衛が、 「どや、似合いの夫婦になるとは思わんか?」  と訊いたときは、一瞬自分のことかと思ってどぎまぎしたほどだ。  吉兵衛がお拾の婿にと考えた相手は元助ではなく、倅の綱次郎《つなじろう》であった。  いとこ夫婦《みようと》はよくある習いで、なんのふしぎもないが、木津屋のぼん様ならほかにいくらでも良縁がありそうだ、と伊助に洩らしたところ、 「ほんまに鈍いなあ、ガンちゃんは」  と頭からいわれてしまい、元助はあらためてわが身の疎さ加減を思い知らされた次第である。  五代目久左衛門を名乗るのは乙之助だが、将来の妻を亡くした今となっては当主の座に就く根拠も薄い。頼みの番頭はことごとく辞めさせて、奥の一間に飼い殺しも同然の身の上だから、吉兵衛はもはや歯牙《しが》にもかけない様子だが、さりとてすぐに追いだして自らが六代目を名乗るのは唐金屋と世間の手前さすがにはばかっている。  お岩亡きあと四代目久左衛門の遺児はお拾しかいない。綱次郎をお拾に娶《めあわ》せたら、血のつながらない乙之助よりも辰巳屋の跡を継ぐにふさわしい人物となる。まさか吉兵衛は最初からそれを狙ってお照母子に親切だったのではあるまいと思われる反面、こうなってくると辰巳屋乗っ取りの野望がないともけっしていえない気がした。  いずれにせよ、綱次郎とお拾の縁談は秋の深まりとともに進んで年明けには祝言となる運びであった。親や周囲の思惑とは関わりなく、かねてから仲良しだった若いふたりは心から自分たちの祝言を待ち望んでいるかに見えた。  さてこの間、辰巳屋の外ではさまざまな動きがある。  泉州では新六から報告を受けた唐金屋|与茂作《よもさく》がさっそく大坂での不当な裁決を地元の岸和田《きしわだ》藩に訴えていた。岸和田藩六万石は大坂と紀州和歌山に挟まれた要衝の地にあって、藩祖岡部|宣勝《のぶかつ》の生母は徳川家康の准妹に当たるという親藩に等しき家柄だが、泉州一の富豪である唐金屋はこれまでにその財政を何かと支援している。折しも七月に参勤交代で江戸に赴くことになっていた藩主の岡部|美濃守長著《みののかみながあきら》は唐金屋に江戸での出訴を勧め、新六がまずひと足先に江戸へと旅立った。  新六の同志は店を逐《お》われた炭屋派の四人組とあとから加わった鰐口である。出目の仁兵衛と出歯の喜兵衛は謀書の一件を恐れて出訴の仲間に加わらなかった。一同の寄合場所は御霊筋《ごりようすじ》平野町にある饅頭屋の二階で、新たな訴訟に向けての指揮を執るのは鰐口だった。  鰐口は常に勘定部屋に出入りして、辰巳屋の内証のみならずさまざまな証文や帳面の写しを取っており、木津屋が多額の負債に苦しんでいた事実も知っている。吉兵衛は実に厄介な人物を敵にまわしてしまったのである。  江戸に到着した新六は日本橋|馬喰町《ばくろちよう》の公事宿《くじやど》に逗留して出訴の手続きをはじめた。ひとたび下った裁定の再審を求めるには評定所《ひようじようしよ》の目安箱に訴状を投函する手だてが残されており、遡ること十八年前に設けられたその目安箱は評定所の門前に月の三日間に限って置かれていた。  江戸城の内堀と外堀間をつなぐ辰ノ口にある評定所は幕府の最高裁判所であり、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行がそこに毎月定まった日に寄り合って目付の立ち合いのもとで合議裁判を行っている。町奉行は南北ふたりのどちらかが出席し、常時四、五人いる寺社及び勘定奉行は月代わりで当番をつとめた。  評定所では時に老中と大目付が加わって重要な案件を扱うが、日ごろは多方に管轄がまたがる厄介な民事訴訟を扱っている。たとえば町奉行の管轄下にある江戸の町人が勘定奉行の支配下にある関八州の農民から訴えを受けた場合は軽い訴訟でも評定所で審議される。ただし通常は評定所への直訴は受け付けず、訴訟人はまず所轄の奉行所に訴状を提出して、そこから評定所にまわされるかたちであった。  新六は奉書数枚にびっしりとしたためた訴状を七月二日の目安箱に投げ込んで、当面はなしのつぶてで日が過ぎたものの、九月になってなぜか突然に評定所がこれを取りあげた。  元文四年九月における評定所の月番老中は松平|左近将監乗邑《さこんのしようげんのりさと》で、町奉行は石河土佐守政朝、勘定奉行は神谷志摩守文敬、寺社奉行はかつて名町奉行で鳴らした大岡越前守|忠相《ただすけ》である。  時に大岡忠相、六十三歳。この男は三年前まで南町奉行の職にあった。  ちなみに大岡は町奉行在任中一貫して江戸の諸物価を引き下げる方針を打ち出し、金一両は銀約六十匁という公定相場が崩れ銀高で推移してきた相場を是正すべく、三年前には職責を越えて自ら改鋳に乗りだしている。当時まだ上方から多くの物資を移入する江戸では、金高銀安だといわば円高で輸入品が安くなるのと同じ理屈で物価が下がる仕組であった。  ところが三井を筆頭とする上方に本拠を置いた江戸の両替商は、貨幣の交換を故意に減らすなどしてあくまでも銀高の維持をもくろんだ。大岡は金銀相場を操作した疑いで主立った両替商の支配人十人を捕縛し、即刻入牢させるという荒わざを繰りだしてこれと鋭く対立していた。ちょうどその時期に町奉行職を解任されて、処断未決のままで寺社奉行に転出させられたのである。  寺社奉行就任で加増《かぞう》と足高《たしだか》併せて一万石の大名になるという表向きは栄転ながら、これは実務権限の至って少ない閑職にまつりあげられたも同然だった。伊勢松坂出身の三井家は紀州藩と古くからの縁があって吉宗が八代将軍の座に就くに当たっても援助を惜しまなかったといい、また紀州藩出身者が多い吉宗の側近ともそれなりの親交がある。上方の財力は幕府のふところ深くに喰い込んで、もはや一介の町奉行が独力で排除できるしろものではなく、名町奉行大岡越前守はいわば幕府高官と大手両替商との癒着に敗れ去ったかっこうだ。  かくして辰巳屋騒動は皮肉にも寺社奉行となった大岡忠相の手にゆだねられ、彼の手がけた最後の大事件として伝わるところとなる。 [#改ページ]   江戸の風  大岡越前守を筆頭に他の寺社、勘定、町奉行ら併せて七名の裏判を捺《お》した召喚状が大坂の町奉行所に届いたのは、元文四年も押し詰まった師走二十六日の夜のことである。  翌朝ひそかに馬場源四郎《ばばげんしろう》からそれを知らされた吉兵衛は素早く打つ手を講じた。支配人の平兵衛は帳面と証文類の始末を指示されて、新たな金番頭の庄右衛門に改竄《かいざん》を命じた。庄右衛門はこれに唯々諾々と従って、勘定部屋にこもりっきりで帳面の書き直しに夜を徹している。  吉兵衛が次に手を打とうとしたのは例の豆狸《まめだ》の与兵衛《よへえ》である。そもそもこんどの騒動の火付け役であり、いうなれば辰巳屋に毒をまき散らしたような男だが、今後それを味方につけるか敵にまわすかは勝敗の行方を左右しそうであった。  辰巳屋を辞めさせられたあとは奉公先が見つからず、順慶町《じゆんけいまち》の知人宅で厄介になっていた豆狸はいともたやすく和解に応じた。吉兵衛とふたりきりで対面したあと、勘定部屋から出てきた豆狸は以前と少しも変わらぬへらへらした調子で「これからまたご厄介になりますよってよろしうに」と元助に挨拶したのである。  元文五年正月五日。年頭の御用日に当たって大坂東町奉行所は木津屋吉兵衛以外に次の人びとを召喚した。  まず病中の大和屋《やまとや》隠居|惣左衛門《そうざえもん》と倅《せがれ》の当代|三郎左衛門《さぶろざえもん》及び手代作兵衛の三人は辰巳屋の番頭が放逐された際の対応が問われていた。  具足屋治兵衛ほか三人は証文の書き替えや不正融資及びその周旋が疑われ、同町内の町年寄が辰巳屋のある吉野屋町の町年寄らと共に召喚を受けている。  世間を驚かせたのは医師の相模《さがみ》と共に召ばれた著名な茶人、大口|恕軒《じよけん》で、ほかに辰巳屋の一家では布屋|卯之松《うのまつ》が召喚されていた。  病床に臥《ふ》した大和屋の隠居を除く十四人の面々はそれぞれ町内の五人組のだれかと同伴ですぐさま江戸へ向かうことになった。つまりは一軒の跡目相続をめぐる騒動のために三十余名の人びとが家業を抛《なげう》って旅立つという前代未聞の事態に陥ったのである。  正月六日の早朝、吉兵衛は五人組全員の付き添いで江戸に向かった。訴状による召喚で家人の同行は許されず、元助《もとすけ》と惣助《そうすけ》は道中で追いつくつもりで出立を遅らせていた。長旅に別れの杯は付き物で、六日の夜、元助は久々に遅くまで伊助と酌み交わした。 「ほんまに、どいつもこいつも阿呆だらけじゃ。あの鰐口《わにぐち》までがいっしょになって、お上に訴え出よるとはのう。骨があるように見えて、所詮あいつもほかの阿呆どもと変わらんかった。今は喜んでおっても、あとできっとどえらい後悔をしよるぞ」  と、伊助は酔いにまかせて毒づいた。同じ悪口でもいつもなら軽い冗談のひとつも飛ばせる男が、この夜はまるで心の余裕を欠いたように酔眼を血走らせている。  かりに江戸の公事で吉兵衛に勝てたとしても、これほどの騒ぎを起こした辰巳屋も無事では済むまいと世間は見ている。へたをすれば喧嘩両成敗で木津屋もろとも闕所《けつしよ》になるだろうとの噂が飛んで、取引を断りに来る客や問い合わせに来る仲買人との応対で辰巳屋の手代は皆てんてこ舞いだ。むろんこれは木津屋の奉公人も同様である。 「お前の旦那も旦那やけど、そもそも辰巳屋《うち》がもっとしっかりしておれば、こんな厄介な騒動にはならなんだのや。店が潰れたら大勢の奉公人が路頭に迷う。わしら分家も共倒れや。辰巳屋の一家一門《いつけいちもん》が滅びたら、それこそ大坂の町が滅茶苦茶になってしまうで」  辰巳屋は手代の数だけでも四百六十人。丁稚《でつち》や女の人数を合わせればゆうに五百人を超す。一家一門を入れたらその何倍にもなり、出入りする千人近い仲買人や各地の山持ち、炭焼きにかかる迷惑は量り知れない。いわば意地と意地のぶつかり合いがこれほどの大騒動になるとはだれが思ったであろう。しかしながら、これはまだほんの序の口に過ぎなかったことなぞ知るよしもなく、元助は江戸に向けての旅立ちを余儀なくされたのである。  大坂から江戸までの道中はゆっくり往けば十四、五日ほどかかるが、召喚された急ぎ旅の一行は早くも一月十八日には江戸に到着していた。二日遅れでも夜を日に継いで歩けば途中で追いつけると思いのほか、元助と惣助は東海道で吉兵衛の姿を見ることはついになかった。懸命に足を急がせてようやっと品川宿にたどり着いたのが十九日の夜である。  翌朝は抜けるような青空が広がった。宿をあとにして東に向かった元助は目を開けていられないほどの風の強さに度肝を抜かれた。四方八方からびゅうびゅうと砂まじりの風が吹きつけ、自分たちの歩いている方角さえもわからなくなる。笠は飛ばされ、髪がたちまち埃で真っ白になり、肌が切れそうに痛い。  新橋を渡り、京橋を越えたあたりからしだいに賑やかな町並みに入ったが、大坂の町とはちがって道幅が広いのでやけに閑散として寒々しい感じすらする。  名にし負う日本橋に来るとさすがに人通りは激しい。元助は橋の上で寒風に震えながら、これが江戸かという思いで、澄んだ青空の彼方に浮かぶ銀白の富士を望んだ。  吉兵衛が投宿するはずの公事宿《くじやど》は日本橋|本石町《ほんごくちよう》にあった。ふたりはそこを訪ねてまず吉兵衛と同行した五人組に会い、たった一日の遅れが取り返しのつかないことになったのを知らされた。  一日早く江戸に到着した吉兵衛は今朝はやばやと呉服橋門内の北町奉行所に召しだされていた。御白洲に座らされて待つこと一刻あまり、足が痺れて動かなくなったころに奉行はようやく姿をあらわして訴状をいっきに読みあげた。 「これに相違ないか」  と、型通りの尋問がはじまるかとみれば、吉兵衛が顔を上げる隙も与えずに、 「相違なくば今日ただ今より牢舎を申しつくる」  との大声で、股立《ももだち》を取った侍が一斉に飛びかかって白の麻縄で縛りあげたのだという。 「公事はまだこれからはじまるはずで、罪人と決まったわけでもないのに、そんなむちゃくちゃな話があってたまるかいな」  と惣助が罵《ののし》れば、元助もからだを震わせて喰ってかかる。 「皆様はその場に居合わせて、何故にわれらが主人をお助け下されませなんだっ」  しかし今さら何をいってもあとの祭りであった。  思えば大坂東町奉行所での新六と同様のことが吉兵衛の身にふりかかったのである。あのときも新六があそこまで酷い仕打ちを受けるとはだれも思わなかったはずだ。一体どうしてこんなことになったのか。新六はあのとき理不尽な裁きだと感じたにちがいない。町家の揉め事を武家に持ち込んだら恐しい目に遭うのを、こんどは吉兵衛が自らの身をもって味わうことになったのだが、 「それにしても、あの旦那様が……」  元助は先に続く言葉を失っている。  早死した兄弟と比べればましなほうだとしても、吉兵衛とて子供のころからけっして根が丈夫な体質《たち》ではない。長旅さえ案じられたのに、旅の疲れも癒えぬまま御白洲に引きずりだされて、あげく牢屋に放り込まれるとは、あまりのことで信じられない気持ちだ。ましてやこの季節、火の気のない牢屋の中にいては肝腎の公事がはじまる前にからだが参ってしまう。  江戸に不案内な者ではらちが明かないので、惣助は宿のあるじに意見を聞こうとした。あるじの大黒屋清兵衛は頼りがいがありそうな恰幅《かつぷく》のいい中年の男で、公事宿を営む商売がら、さまざまな不幸を見聞きするのだろう、こちらの深刻な顔つきを見ても一向に動じない様子で、 「まあ、こういうこともあるかと存じ、木津屋さんに智恵はちゃんとお授け申しましたので、さほど酷い目には遭わずに済むはずで」  と、腹が立つほど呑気な調子だ。  出入筋の訴訟はふつう訴えられた者が宿預けになって公事宿に留め置かれるが、万が一の用心で入牢したときの心得を清兵衛はあらかじめだれにでも教える。小伝馬町の牢屋敷では罪状が確かでない者も皆と同じ大牢に入れられて、中に入るとき衣服をすべて脱がして検《しら》べるが、だからといって新入りの囚人が何も持ち込まないとあとが大変である。 「ツルと申しまして、なにがしかの金品を牢名主に渡さねばなりませぬ。ツルを持たずに入れば半殺しの目に遭わされます」  一分判や銀の小粒を呑み込んで牢内で糞をして取りだす者もあるが、自分はいつも着物の襟に縫い込んでおくことを勧める。吉兵衛も虫の知らせがあったのか、奉行所に出かける前に宿の女中を呼んでそれをやらせていたという。  新入りの囚人はキメ板で尻を強くぶちすえられて、丸裸のまま頭から着物をかぶって板の間で震えながらひと晩を明かす。畳のほとんどは古株で役付きの囚人が占め、平の囚人は大勢で畳一枚の上に座って夜もそこに寝なくてはならない。牢内が混雑すると一畳に十人以上も座らせられて、からだを満足に横たえることさえできなくなり、まさに地獄のようなありさまだ。 「もっとも地獄の沙汰も金しだいということがございます」  清兵衛は落ち着き払った声でいわくありげにいう。 「そ、それは、ど、どういうことで」  元助は気が動転して昔のどもる癖が甦った。  俗に牢見舞いと称して囚人に食べ物や寝具などの届け物をすることは割合大目に見られている。頻繁に届け物をして牢名主らに振る舞うと少しは待遇がよくなる。さらにこちらが届け物に金品を忍ばせて、牢名主にうまく渡れば、からだをゆっくり伸ばして寝られるようにもなると聞かされて、 「お金ならいくらでもございます」 「何とぞ主人の身をお助けくださりませ」  惣助と元助は板の間に両手をついてふかぶかと頭を下げた。  大坂を発つときにかなりの大金を持ちだしてきたので、当座の費用には困らなかった。さっそく大黒屋に連れられて小伝馬町に足を運び、牢屋敷の門前に軒を並べる差入れ屋で菜飯を買い求めたものの、それはむろん偽装の手だてにすぎない。  黒ずんだ練塀《ねりべい》にはさまれてちょっと不気味な感じがする牢屋敷の表門を、大黒屋はわが家に入るような足取りでさっさとくぐった。ふたりがおずおずとあとに続いて玄関先に立つと、急に奥のほうで人間のものとは思えぬ恐ろしい悲鳴が聞こえた。ぞっとして互いに目を見合わせ、大黒屋の顔を窺《うかが》ったところ、 「あちらが穿鑿所《せんさくじよ》で」  と、玄関の右手奥を平然と指さす。  そこの一角にはさまざまな責め道具が用意され、笞《むち》打ち、石抱き、さらには海老責め、吊責めといった酷い拷問が待ち受けているという。大黒屋から話を聞くたびに元助はどんどんと不安にかられていった。正常な判断が難しくなりつつあった。  大黒屋は馴れた挨拶で玄関番に届け物があると伝える。するとこんどは奥から別の役人が大きな笊《ざる》を手にしてあらわれた。菜飯の折詰を笊の中に入れながら、何やら耳打ちして袖口にそっと金子を滑り込ませると、役人は軽くうなずいて立ち去った。初回はこれでおしまいだと聞いて、元助は思わず大黒屋の袖を引っ張った。 「旦那様にお会いすることはかないませぬか」 「会うことはなりませぬが、こうしておけば、向こうから便りが届きましょう」  と、相手はこともなげに応じた。  翌日ふたたび三人で牢屋敷を訪ねたところ、役人はたしかに手紙とおぼしきものを渡してくれた。ごく短い手紙はひとまず本人の無事を報せつつも、漉《す》きの粗い安物の半紙に乱れた文字が躍るのを見ては、もはや手をこまねいている場合でないのがわかる。だがふたりはしばし呆然とするばかりだ。 「なんとかしてお上にお宿預けを願えませぬか」  と、惣助が先に気を取り直して大黒屋に詰め寄った。 「難しくはござれど、無理をすればなんとかなりましょう」  こうしたことにも馴れていると見え、大黒屋は実に落ち着き払った表情で、宿に戻ってすぐに近所の嘉兵衛《かへえ》という男を呼んだ。  嘉兵衛は宿を営まず訴訟の相談だけにあずかる公事師のような者だといい、江戸の地ならではの稼業であるらしかった。事情をひと通り聞かされて、 「よろしうござんす。わっちにまかしておきなせえ」  と、江戸|訛《なま》りのかるがるしい声を聞かせた男はからだつきも小柄で貧弱だった。 [#改ページ]   公事《くじ》の蠅  嘉兵衛がまず案内してくれたのは今川橋を渡った先にある町医者の宇田川正順《うだがわせいじゆん》という男の家だ。  医者はとかくずうずうしいと、元助は大坂で相模を見ていてよく思ったものだ。着ている衣は十徳《じつとく》ながら、徳はひとつもなくてやたらに金ばかり取る。目の前にいる坊主頭のもっともらしい顔つきの男も最初はちょっと油断のならない気がした。何しろ医者と公事《くじ》がどこでどう結びつくのかがまったくの謎だ。 「ご不審はもっとも。わしを訪ねてくるたいていのお人がふしぎにお思いになるようだが、医は仁術と申し、これもまた人助けの道かと存ずる。まあ、これをとくとご覧なされ」  と相手は何やら書いた紙を差しだした。  紙の上段には「石河土佐守様御組」、下段には「水野備前守様御組」とあって、それぞれに八名が列記されている。南北両町奉行所に勤める吟味方与力の名簿で、公事に関わるのはこの十六人なのだという。  嘉兵衛と正順が万端手はずを整えて、元助らは早くも二日後の夕方に南町奉行所の吟味方与力、福島|佐太夫《さだゆう》に対面することとなった。思いのほか速かな進捗にびっくりしつつ、嘉兵衛と大黒屋の同道で江戸に名高き吉原遊廓の大門をくぐっていた。  対面の場所は大門口を入ったところの引手茶屋《ひきてぢやや》で、宇田川正順は先に着いており、同行した喜八という男を新たに紹介した。浅草|聖天町《しようでんちよう》の住人である喜八は、正順に頼まれてよくここに奉行所の役人を案内しているらしい。  大黒屋清兵衛、嘉兵衛、宇田川正順、喜八と、いずれも親しげな笑顔でこちらを見る四人が、つい先日までだれも知らなかった相手だというのに気づき、元助は軽い驚きを覚えた。こうした得体の知れない連中が次々と公事に群がる蠅のようにしてあらわれる江戸の町に、ある種の不気味さを感じずにはいられなかった。  当の福島佐太夫は一番あとから黒い忍び頭巾をかぶって座敷に入ってきた。頭巾を取ると、意外にも若い顔で、元助は自分よりもあきらかに年下と見た。こんな若い男に頼んで大丈夫だろうかという気はするが、床の間の前で尊大に構えた相手に対しては取り敢えず平伏して見せなくてはならない。  ひと通りの挨拶が済んだあと、惣助《そうすけ》が事の次第を語りはじめたが、相手は杯を傾けるばかりで一向に話をちゃんと聞こうとする姿勢が見えず、あの馬場源四郎とはえらいちがいだと思わざるを得なかった。そのうちに禿《かむろ》と新造《しんぞう》を引き連れた花魁《おいらん》が座敷にあらわれ、とても真剣な話はできなくなっている。  幇間《たいこもち》までなだれ込んでドンチャン騒ぎがはじまろうとしたとき、元助はとうとうたまりかね、 「まず話をお聞きくださりませっ」  と大声で叫んでしまい、とたんに座が白けた。  若い役人は不機嫌な表情で立ちあがり、黙って座敷から姿を消した。正順と喜八があわててあとを追いかけたが間に合わず、元助は一同の冷たい視線を浴びながら惣助にこっぴどく叱られる始末だった。  正順と喜八に深く頭を下げて、次の日ふたたび同じ場所に佐太夫を招くことができたものの、こんどはけっして粗相がないようにときつくいいふくめられ、元助は座敷の隅で小さくなっていた。惣助も肝腎の話はほとんどできず、自らが幇間と化してせっせと酒をつぐばかりだ。正順と喜八がこしらえた段取りで、やがて一同は妓楼に向かった。  茶屋から妓楼へは誰哉行灯《たそやあんどん》に照らされた賑やかな仲之町《なかのちよう》を通る。廓はどこも似たようなもので元助は主人のお供でよく通った新町を想いだす。今はその主人が暗い牢屋にいるかと思えば、めまいを感じた。  廓内で最も格式の高い惣籬《そうまがき》に登楼した一行はすぐさま二階の広間で横に並んだ。七人の遊女がつぎつぎとあらわれて煙草盆を前に置き、片膝立ての艶めかしい姿勢で座ると、店の若い者が早口で順々に敵娼《あいかた》をきめてゆく。この先はもう話を聞いてもらえるはずがない。横に並んだ正順と喜八をにらみつけるようにして、元助は憤然と立ちあがったが、すかさず横の惣助が袖を引き、 「こちらが堅苦しうしておっては向こうが困る。なる話も、なるまい」  と耳元で叱りつけるようにいった。  登楼して女の部屋に入った男が何もせずにすませるわけにもいかず、元助らは慚愧《ざんき》の面もちで翌朝早くに妓楼をあとにした。茶屋での支払いは七人分の揚げ代のほか何やかやとふくまれて、ざっと二十両近い金が一晩で消えた勘定だった。 「まあ、これで旦那がお楽になるなら安いもんやで」  と、惣助は自らを慰めるようにいった。  しかし事はそうやすやすとは運ばない。吉兵衛の入牢を決めたのは北町奉行所で、南町の福島佐太夫はまず北町の与力に話を通さねばならないから、すぐに宿預けにするのは無理だといわれた。  そちらの話がつくのを待ちながら、念のために会っておいたほうがよいと勧められた人物は、正順と同業ながら、将軍家に仕える立派な奥医師であった。丹羽西伯《にわせいはく》というその老人の好みに従い、こんどは芝神明前の茶屋に男娼《やろう》を召んで福島のときと同じようなことが繰り返された。  こうして宿預けの件はなかなからちが明かないまま元助らは牢見舞いを重ね、牢屋敷の玄関に立つたびに奥の穿鑿所《せんさくじよ》から聞こえてくる悲鳴が気になった。吉兵衛は何度かそこに入って牢問《ろうどい》を受けはしたものの、さほどの傷は負わされずに出てきたと聞かされて、少しはほっとするしかなかった。  あの主人なら江戸の役人の前でも堂々と口がきけるはずだ。淀みない弁舌で圧倒し、御白洲の場ではかならずやふたたび勝利を得るであろう、と元助は信じたかった。だがそれはあまりにも楽観に過ぎた。月が変わって十日もたたないうちに大坂から早飛脚で届いた書状は、この一件がすでに抜き差しならない局面に陥ったことを報せていた。  大坂では二月二日にまた召喚があった。西町奉行所に乙之助とその実父唐金屋与茂作、森田屋をはじめとする親族や辰巳屋の奉公人が数多く召しだされ、そのなかには豆狸の与兵衛、才槌頭の平兵衛、平兵衛の後がまで金番頭になった庄右衛門までふくまれていた。  さらに愕然とさせられるのは翌三日に馬場源四郎が網《あみ》駕籠《のりもの》に乗せられて江戸に発ったという報せである。このことは奉行所の不祥事としてまたたくまに世間の知るところとなり、連座を恐れた与力の某が自害した噂まで流れているという。  書状を読みながら元助は腕が震えた。初めて会ったときの馬場の四角い顔と、馬場を紹介してくれた永田官兵衛の円顔が目に浮かんで胸が締めつけられた。  馬場源四郎が召し捕られて江戸に送還された理由は、本当のところ元助にはよくわからなかった。吉兵衛が馬場を酒宴に誘い、進物したのはそばで見ている。しかし最初はただの御礼にはじまっているから、そのことが罪に問われるとは思ったこともない。だからこそ江戸に出てきた今もまた同じようなことを繰り返すのである。  町人の通例として、元助は為政者の側に立つ武士が身につけているはずの倫理とは無縁である。吉兵衛もそれは同じなのであった。  ともあれ馬場まで罪人の扱いで召喚されたということは、大坂の裁決は覆されるのが目に見えている。あと残された道はただひとつ、吉兵衛がせめて重い罪に問われなくて済むようにすることだけだった。  もはやあまりあてになりそうにない宇田川正順に頼んでいる場合ではない。さりとて地元を離れたふたりが相談のできる相手はやはり大黒屋清兵衛しかないのだ。 「難しくはござれど……」  と相手はまたもや同じような調子で、こんどは大伝馬町の箔屋勘《はくやかん》右衛門《えもん》なる人物を訪ねてみるよう勧めた。武家を相手に口入れ稼業を営んでいる男だから、役人にも顔が広いはずだという。  本石町と大伝馬町は目と鼻の先で、ふたりはさっそく足を運んだ。勘右衛門は大黒屋清兵衛よりも年かさで、白髪混じりの頭を左右に傾けながら終始黙ってこちらの話を聞いていた。ひと通り聞き終わると、じろっとにらむようにして、 「厄介な騒動でござんすねえ。江戸じゃ滅多と聞かねえ、えらく込み入った話だ」  と舌打ちせんばかりの調子でいう。ふたりはもうそこで頼みの綱が切れ果てたように感じた。 「が、聞けば聞くほど、どっちが理分で、どっちが非分だか、皆目わからねえ気がしてくる。されば、まるで勝ち目のない公事とも思われねえ」  そう聞くとこんどはいったん沈み込んだ気分が急速に浮上した。 「わっちにゃ無理だが、あの和尚《おしよう》さんなら、どうにかなさるかもしれねえ」  との言葉に惣助は飛びついた。だが元助は、僧侶と聞いてまたぞろ嫌な予感がした。前に学堂の世話をしたとき、修行僧とは名ばかりの乞食坊主に長く居座られて追いだすのに苦労した覚えがある。とかく医者と坊主はたちが悪いと見たものの、頼る相手がほかにないとあってはしかたなく、ふたりはその日のうちに勘右衛門の案内で大川を渡った。  相手は深川|永代寺《えいたいじ》の門前町に住むとはいいながら、永代寺とはあまり関わりのない禅宗の僧侶である。禅僧は立派な寺院に住まない名僧も多いと聞くが、あまりにも粗末で薄汚い草庵の佇まいを見て、 「まずい、やめとこ」  と元助は惣助に耳打ちする。先に立って中に入ろうとしていた勘右衛門はそれに気づいて笑顔で振り向き、 「禅のお坊さんは見かけを気にしねえ方が多くて、ここの智岩《ちがん》和尚なんざいい例でござんすから、お姿を見てびっくりなさいますな」  と、あらかじめ釘をさした。  いがぐり頭で無精ひげの相手を見て、ふたりは驚きこそしなかったものの、すっかりあてが外れた思いで互いに顔を見合わせている。すると和尚はひとしきり豪放な笑い声を聞かせ、ぎょろっと大きく目玉を剥《む》いた。 「へへへ、また和尚さんのお力添えを賜りたくてやって参りやした」  勘右衛門がそういってこちらをしつこくうながしたので、惣助はやむを得ずといった調子で語りはじめた。智岩和尚は目を閉じてその長い話に耳を傾けていた。途中で何度か目を開けて惣助にぶつけた質問はそう的外れではなかったので、元助は少し相手を見直してもよいという気持ちに変わった。目をつぶると意外に上品な面差しで、あながちただの乞食坊主と決めつけるわけにはいかないのかもしれない。  惣助の話を最後まで聞いて、和尚はさらにいくつか問い質したあげく、さかんに首をかしげてみせる。 「どうもおかしい。おぬしらはそう思わぬか」 「何がでござりましょう?」  と、惣助はすかさず訊く。  そもそもこんどの騒動はおかしなことばかりだと思えてくるほどで、和尚が何にこだわっているのか元助は一瞬わからなかった。 「吟味もはじめぬ先から、おぬしらの主人を入牢させたのがえらく気にかかる」  そういわれてみて、たしかにおかしいとあらためて感じた。 「ひとたび下った裁決があっさり再吟味となった裏にも何かがありそうだ。恐らく向こうには、あと押しする強い味方があるのだろう」 「この江戸で、辰巳屋のあと押しをなさるお方が果して……」  と、惣助はいささかきょとんとした顔つきだ。元助も意外の面もちが隠せない。辰巳屋は諸藩の掛屋をつとめているが、そのことは江戸でどこまで通じるか。第一これまで辰巳屋を牛耳っていたのは吉兵衛だから、六人の訴訟人側に付く有力な味方なぞ見当もつかなかった。  和尚はわざと目玉を大きくまわして、そんなこともわからんのかといいたげに鼻先で笑う。 「フフフ、若き当主の実家《さと》を忘れてはなるまい。唐金屋の高名は愚僧ですら聞き及ぶ。あと押しをしてくれる連中には事欠かぬであろう」  元助と惣助は同時にハッとした表情で、こんどは自らの不明を恥じ入るように目を見合わせている。唐金屋が辰巳屋にまさる日本屈指の名家であるのは知っていた。が、こちらが大坂で公事に勝つべくあれこれと工作をしたように、向こうもそれをやらぬはずがない、というところにまでは考えが及ばなかったのだ。和尚の明察によって、ふたりは今ようやく強大な敵の正体がはっきりと見えた思いがした。それと同時に、 「いかがすればよろしうござりましょう」  元助はおろおろした声になった。 「もう勝ち目はござりますまいか」  と、惣助はすがるような目で和尚を見ている。 「評定所の裁きはこっぱ役人の手に負えるしろものではない。おしまいにはかならず将軍《うえさま》のご裁断を仰ぐものときまっておる。だれかが上様のお耳に入れれば、なんとかならぬこともなかろう」  将軍に直訴という話が出るに及んで、ふたりは事の大きさに恐れをなした。冷静な判断はすっかり失われていた。しかしながら、 「愚僧の知辺《しるべ》に、上様の御信任厚き加納《かのう》遠江守《とおとうみのかみ》と申す御仁がある」  と聞かされては、いくらなんでもすぐに信じるというわけにもいかず、元助はいぶかしげな目を向けた。 「不審はもっとも。さりながら、これがまんざら嘘でもない」  和尚はにやっと笑って勘右衛門にあごをしゃくった。勘右衛門は掌で首をぽんぽんと軽く叩きながら、 「はてさて上方《かみがた》のお人には、どっからどう話をすればいいか……」  と、少しためらう様子を見せたのち、この智岩和尚という人物の素性について語りだした。  智岩和尚はもとはれっきとした旗本の出だ。父は元紀州藩士で吉宗公に付き従って江戸に来た。父が早世したのちは順当に兄が家督を相続し、次男坊だった和尚は出家した。兄がこれまた早くに亡くなったあと、自身が家を継ぐべきだったが、禅の道に深く魅せられて還俗《げんぞく》する気にはなれなかった。よって家は断絶し、自身はこうして乞食坊主も同然に見られているが、それでも近しい縁者である小出《こいで》相模守《さがみのかみ》の屋敷にはちょくちょく顔を出し、加納遠江守とはそこで面識を得たのだという。  小出相模守|広命《ひろのぶ》は紀州藩の当時から今日に至るまで、常に吉宗の身辺に仕える小姓番である。加納遠江守|久通《ひさみち》は同じく紀州藩からの側近で、今は将軍と老中のあいだに立って文字通りの御用取次役《ごようとりつぎやく》をつとめている。 「御用繁多な御両所は逆さまに、和尚さんのような生き方がうらやましいと仰せだそうで」  と勘右衛門は注釈を加えた。小出も加納も紀州のころの質朴な雰囲気を懐かしんで、時に恬淡《てんたん》とした世捨て人智岩和尚との清談を楽しんでいる。勘右衛門自身もまた小出家に出入りしているうちに和尚と知り合ったのだという。 「愚僧が話をすれば、加納殿を通じて上様のお耳に届くこともある」  和尚がおもおもしい声でいったとたんに、惣助は土間にひれ伏した。実にもっともらしい話ではあるが、宇田川正順の件で懲りている元助はそうたやすくは信じられず、土下座した朋輩を憮然とした面もちで見下ろしている。その元助を和尚はじっと見すえていった。 「ちょうどよい。あすの朝、そなたらを会わせてやろう」  毎月|朔日《ついたち》と十五日は諸大名、諸役人が総登城する式日に当たる。二月十五日、元助らは早朝に八重洲河岸の和田蔵《わだくら》御門前で待つようにいわれた。つぎつぎと前を通過して御門の内に消え去る美々しい大名行列に圧倒されながら、ふたりはひたすら智岩和尚が来るのを待ちこがれた。  城中の太鼓が鳴り響いて大名行列がひと渡り済んだかに見えたとき、相手はようやく姿をあらわした。その背後からまた一台|駕籠《のりもの》が来ていたが、和尚はまるで気にかけるふうもなく悠然と足を運んでいる。供先の若侍が「無礼者っ」と声をかけ、和尚は振り向きざまに大喝した。だれかを呼べといったらしく、すぐさま年輩の侍が進み出ると、和尚に軽い会釈をして、互いに何やら一言二言交わした。  和尚が突然こちらを指さしたので元助はどぎまぎした。この間行列は止まらず、土下座したふたりの前を駕籠はゆっくりと通り過ぎてゆく。  門の内側に消えようとする一行に向かって、 「富樫《とがし》殿」  と和尚は大きく呼びかけた。  先ほどの侍が振り向くと、 「御前よしなに」  とふたたび大音声を発して元助らを指さした。かくして加納遠江守の用人である富樫弥助の名は、華やかな大名行列の絵模様と重なって元助の耳に留まった。  公事の件はいずれ自分の口から詳しく伝えるが、その前にこちらの姿が駕籠の内なる遠江守の目にちらっとでも触れたのは大きいと和尚はいった。さらに富樫を通じて遠江守に礼を尽くすことが求められ、ふたりは大坂から出てくるときに持参した金のなかから五十両を和尚に渡した。大坂で用人の馬場を通じて金を渡したことの繰り返しが江戸でも行われたのである。  ちょうど同じ日の夕方、北町奉行所は一台の網駕籠を迎えた。菱縄に厳しく縛《いまし》められた馬場源四郎はいったんここで降ろされて本人かどうかの確認を受けたのち、すぐさま小伝馬町の牢屋敷に送られた。  大坂で馬場が召し捕られたことを知るはずの元助らはまだ懲りていなかった。次の日も智岩和尚に連れられて、番町にある小出相模守の屋敷を訪れている。和尚は実にもの馴れた様子で門をくぐり、玄関に立って、まず主人の在宅をたずねた。非番でちょうど家にいた主人は色の黒い精悍な顔立ちをしていた。 「また御坊《ごぼう》か。きょうは何用じゃ」  相手の声は存外すげない調子だが、和尚はちっともひるまずに高笑いを響かせた。平伏した元助らにあごをしゃくって急にひそやかな声になる。 「きょうは音物《いんもつ》を届けに参った」  その言葉で惣助があわてて袱紗《ふくさ》をかぶせた折敷《おしき》を差しだす。中身は智岩和尚にいわれてまたしても用意した金子である。相模守はちらりとそれに目をやっただけで、不機嫌な表情のままうんともすんとも聞かせなかった。 「されば今宵は退散いたそう。後日また参る」  と、智岩は仔細を何も語らずに腰をあげた。  江戸の武家屋敷はいずこも大坂のそれとは比べものにならぬくらい大きい。知行はさほどでもない小出相模守の屋敷でさえ玄関から門までの距離がかなりある。石畳を一足ずつ踏みしめながら、元助はこんどこそなんとかなりそうに思えていた。少し落ち着いて考えれば、そもそも日ごろ和尚と清談を交わしているはずの加納、小出の両所に賄賂《まいない》を差しだすこと自体どこかおかしいと感じてもよいはずだ。が、江戸に来てからずっと悪夢のような出来事が続いたせいで、物事をじっくりと掘り下げて考えようとするこの男の取柄《とりえ》はもはやすっかり失われていたのである。  この日の夜は乙之助と唐金屋与茂作父子をはじめとする大坂の一行が江戸に到着してすぐに北町奉行所を訪れていた。かくして辰巳屋一件に関わる人びとはことごとく江戸に召び寄せられて、翌二月十七日、早くも評定所の詮議は開始された。 [#改ページ]   大岡|忠相《ただすけ》の憂鬱  元文五年二月二十二日。春らしい穏やかな日射しの下、おととい降り積もった季節はずれの大雪がいっきに解けだし、屋根からぽたりぽたりと雫が落ちて評定所の庭前を濡らしている。開け放たれた座敷で見るともなしにそれを眺めながら、男はふうっと深いため息をつく。顔には老いと疲労の翳《かげ》が色濃い。  大岡越前守忠相六十三歳。大柄で壮健なこの男といえど、寄る年波で近ごろはめっきり疲れやすくなった。五日前、ここで朝の四ツ(十時)から夜の四ツ半(十一時)にまで及んだ長い詮議によって、一件のあらましはなんとかつかんだと思ったものの、きょうになって、あれはまだほんの序の口にすぎないことが判明した。  その後の詮議で事は思わぬ様相を呈してきた。これはもうただの町家の跡目騒動にはとどまらない。 「ゆゆしき一大事じゃ」  と、同じ文句を幾度くり返しても飽き足らないほどである。  車座となって大岡を囲む三人も異口同音に相づちを打つ。 「左様。ゆゆしき一大事にござりまする」  こんどの辰巳屋一件は寺社奉行の大岡越前守以下、北町奉行石河土佐守、大目付松前安芸守、目付安部|主計頭《かずえのかみ》という四手掛《よんてがか》りの一座で詮議に当たり、だれよりも年長で、経験も豊富な大岡が自信をもって座長をつとめていた。その自信がここに来てぐらぐらと揺れている。  それにしても……と思う。  大岡は当初からこの一件にいささかふしぎな感じを抱いていた。吟味はおおかた北町奉行所内で行われ、石河土佐守から他の三人は事後報告を受けるかたちだが、出入り筋の訴訟でありながら、石河のやり方は訴訟人と相手方の扱いがえらくちがって、木津屋側に苛酷な面がありすぎるように思えてならない。  木津屋吉兵衛《きづやきちべえ》および辰巳屋で吉兵衛に与《くみ》したとおぼしき与兵衛、平兵衛、庄右衛門の三人は江戸に到着してただちに入牢《じゆろう》となり、牢屋敷の穿鑿所《せんさくじよ》で自白を強いられて辰巳屋横領の罪状はことごとく明るみに出た。それはそれでいい。だが片や辰巳屋側は仁兵衛と喜兵衛に謀書《ぼうしよ》の疑いがあったにもかかわらず、それがほとんど不問に付されたかたちで五代目久左衛門こと乙之助《おとのすけ》の相続が妥当とされた。評定所の詮議でも唐金屋与茂作《からかねやよもさく》に対する扱いは丁重きわまりないもので、彼の訴えによって江戸に召喚された辰巳屋の手代のうちの何人かは即時帰郷を許されたくらいである。  石河の致し方には何か裏があるのではないか。そう考えてゆくうちに、大岡はあることにはたと気づいた。  唐金屋は江戸にまで名高い泉州一の豪商である。そして泉州岸和田藩主の岡部美濃守|長著《ながあきら》は、たしか老中松平|左近将監乗邑《さこんのしようげんのりさと》の女婿《むすめむこ》ではなかったか。  もしかすると木津屋側に対する苛酷な詮議は石河が老中乗邑の指示を受けて、あるいは直に指示を受けないまでも、意向を呑んでのものと考えられた。が、今のところそれに気づいているのは当人同士と、この自分だけかもしれない。  とはいえ唐金屋の肩を持ったとおぼしき乗邑自身は、果たしてここまでの事態になることを予想したかどうか。  詮議で明るみに出たのは横領の罪ばかりではなかったのだ。 「木津屋吉兵衛と申す町人は恐ろしい男でござる。あれは正直に罪を白状したと申すのではない。己れが大それた罪を犯したとはつゆほども思わぬ顔つきで、実に澄んだ眸《め》をして、まるで何か憑《つ》き物《もの》にでも取りつかれたように御白洲でとうとうとまくし立ておった。いやはや、これにはかえって参りました」  と石河も苦笑いで途方に暮れた様子だ。  評定所の詮議でもおおむね石河が前面に出て御白洲に臨み、あとの三人はうしろに控えているから、大岡は木津屋吉兵衛と直に口をきいたことはなく、姿も一度見たきりである。縄を打たれた華奢なからだは悄然として痛々しく、顔もあまり目立たぬおとなしい人相だったように思う。少なくともこれほどの大騒動を引き起こすような人物にはとても見えなかった。ところがどうやら特異な人格であるらしく、何かしゃべらせるとがらっと人柄が変わったように活き活きとして、たずねもしないことまで自分のほうから進んで話しだすのだという。  吉兵衛の過剰なまでの自白によって、まずは稲垣淡路守《いながきあわじのかみ》の用人|馬場源四郎《ばばげんしろう》が送致され、ついで稲垣自身が江戸に召喚されて賄賂の詮議がはじまった。馬場はなかなか罪状を認めず、揚屋《あがりや》で何度か自害を図り、いまは手枷《てかせ》を打って留置してあるという。稲垣もまた最初は公事《くじ》に当たって収賄の事実はないといい張っていたが、吉兵衛は馬場を通じて淡路守およびその家臣に多額の金品を贈ったと強く主張したため、さらに稲垣を追及すると、酒樽に酒肴一品を受納したことはかろうじて認めた。  淡路守と家臣のみならず、永田官兵衛を通じて東町奉行所に勤める地方《じかた》与力にも金品が流れていたことがまた早くに明らかにされ、永田はすでに自害したとの報が入っている。昨日のさらなる供述で、永田と馬場には以前から金品が渡っていたことも判明した。  そればかりではない。吉兵衛はこんどの一件ばかりでなく、大坂では日ごろからごくふつうの慣習として東町、西町両奉行所の役人に金品が渡っていると強く主張し、自らの無実をいい立てたのである。評定所一座の四人はその驚くべき証言を聞かされてしばし呆然たる面もちだった。 「淡路守の供をして川島源吾という与力が大坂から参っておりまするが、其奴《そやつ》にもう少し詳しいことを問いただしてみてはいかがでござりましょう」  と、目付の安部主計頭が気を取り直したように進言した。 「だがもしそれが事実《ほんとう》だとすれば……事はもうわれら四人で軽々に進めるというわけにもいくまい」  と、松前安芸守はがぜん慎重論を唱えた。  大坂はまるで異国だ、というふうに大岡の目に映る。長らく江戸の町奉行をつとめてきたが、木津屋吉兵衛のようにおかしな理屈をいいだす者には出会ったことがない。東西両町奉行所に日ごろ町会所などから渡っている金品が賄賂に相当するものではないとしても、こんどの件で渡った金品がどのていど裁決を左右したかはあらためて詳しく詮議をせねばならないはずだ。  しかし、いくら評定所といえども大坂の町奉行所を丸ごと裁く権限はない。この判断はやはり老中に委ねるべきものと考えるしかなさそうだった。  翌朝いつも通り四ツ(十時)に登城した大岡ら四人は、さっそく御用部屋に押しかけて老中松平乗邑を取り囲んだ。石河がまず事の次第を報告したあと、残りのふたりが口々に意見を述べて、最後に大岡が進み出た。 「川島源吾の尋問を、いかが取りはからいましょうや」  と、ことさらにゆっくりした語調で迫る。  乗邑は御用部屋の隅に切ってある炉に向かっていたが、さすがに渋い表情で火箸を取って、白い灰をゆるゆるとかきまぜながら、 「はて、いかが致したものか……」  と返事を濁す。  時に松平乗邑、五十五歳。三十八歳の若さで老中という幕臣の最高位に就いた男は当然ながら事の重大さを認識している。川島源吾を尋問すべきかどうかといった四人のお伺いは表向きのものでしかない。本当のところは、こんどの件で大坂両町奉行所に勤める役人たちの罪にどこまで言及するかの判断を仰いだかたちだ。事はひとりやふたりに留まらず、悪くすると両町奉行所の大多数が罪を問われる始末になりかねないのである。  この日乗邑は敢えて即答を避けた。そして翌二十四日ふたたび四人を前にした男は、 「大坂におる多くの者をさしおいて、当地へまかり下った川島だけに訊いても仕方あるまい。その件は尋ねるに及ばぬ」  と冷ややかに言明した。それは大坂町奉行所の不祥事をいっさい不問にしようとする肚《はら》だと、大岡は読んだ。  老中が事なかれの判断を示した二日後の夜、小伝馬町の牢屋敷では馬場源四郎が手枷の金具をはずして自害を図り、またもや未遂に終わった。この件を翌朝さっそく石河土佐守の手紙で報された大岡は、馬場の罪を憎みつつも多少の憐憫《れんびん》を覚えた。武士にとって縄目の辱《はじ》を受け、獄屋に下され、あまつさえ手枷をはめられた不名誉はそれだけでも死を選ぶに値する。が、老中の判断で大坂町奉行所の糾弾が困難となった今、馬場に対する追及がさらに厳しくなり、武士としてさらに不名誉な拷問を避けようとしたとも考えられた。  ともあれ吉兵衛が罪状の数々を意外にすんなりと認めたため、辰巳屋一件は二月中にほぼ結審のめどがつき、三月の初旬には詮議書の作成がはじまっていた。評定所の裁決は詮議書をもって老中に提出され、将軍の承認を得てようやく申渡しに漕ぎ着ける。  三月七日に登城した大岡ら御用掛り四人は詮議書の帳面一冊と各人の御仕置《おしおき》を記した短い書付一通に、辰巳屋側の訴状を添えて松平乗邑に提出した。  十二日、九ツ半(午後一時)に四人はそろって御座之間で将軍と対面し、詮議の委細を物語って裁決の承認を得た。これで一件は落着し、あとは御白洲での申渡しを待つばかりであった。  ところがここで新たにとんでもない出来事が発覚したのである。  三月十六日。前夜に石河土佐守から手紙を受け取って朝早くに登城した大岡は、前よりもいっそう険しい表情で石河に面と向かい、 「ゆゆしき事じゃのう」  と嘆かずにはいられなかった。 「まことにもって、面目なき次第で……」  と石河は顔を伏せてつぶやくようにいう。大岡は耳元にささやくような声で念を押した。 「して、その元助とやら申す町人の話は、信がおけるのか」 「はあ。彼奴はこれまた正直なと申そうか、主人とちがい、弁舌は拙けれど、主人と同じ澄んだ眸《め》をして、ことごとく白状つかまつりました」  公事宿に逗留していた木津屋手代の両人のうち、二月十七日の公事開始前日にまず惣助が北町奉行所に召し捕られた。これは辰巳屋の支配人平兵衛の自白によって、横領の委細が判明した上でのことである。次に二十一日の吉兵衛の証言にからんで元助が召し捕られ、小伝馬町牢屋敷の穿鑿所で別々に厳しい尋問を受けた。  惣助は横領の事実をすぐに認めようとはしなかったが、平兵衛と対面で牢問をして難なく自白に漕ぎ着けた。片や元助は主人と同様、馬場と永田に金品を贈ったことをさほどの大罪とは思っていなかったようで、わりあい素直に白状をした。  主人が多額の金を持ちだしていた事実も知っていたが、それが辰巳屋の横領に結びつくとは考えておらず、商人としては愚鈍というべきなのか、見かけもめずらしいくらいに純朴な男である。その男がいうのだからまずまちがいあるまい、と石河土佐守は見ている。  だが北町奉行所の御白洲で突然それをいいだされたときはさすがにわが耳を疑って、 「待てっ。そのほう、ただいまの申し立ては真実《まこと》か」  と叫ばずにはいられなかった。 「南町奉行所の福島様にお目にかかり、主人の宿預けの儀で、何かとお頼み申しあげたのはたしかでござりまする」  相手は少しもためらわずに繰り返し、そこから新たな罪がつぎつぎと浮上したのである。  元助は主人とちがって訥弁《とつべん》ではあったが、人名や場所の記憶は実にたしかなもので、福島佐太夫に会うまでの経緯を詳しく物語った。  それにもまして石河を大いにうろたえさせたのは智岩和尚の話である。 「待て、待て。そのほうは智岩とやら申す坊主の手引きで、しかと小出相模守殿の拝眉を得たと申すか」  強い調子で何度か念を押しても相手は一向にひるまずに、 「へえ、左様で。加納《かのう》遠江守《とおとうみのかみ》様とやらの御家来、富樫《とがし》様にもお目にかかりました」  と、ますます大変な人物の名を持ちだしたのである。  小姓番の小出相模守だけでも厄介なのに、御用取次役《ごようとりつぎやく》の加納遠江守の名まで出てくれば、事はもはや一町奉行の手にあまる。  加納、小出の両人とも上様ご寵愛の側近で、大岡は昔から知っているが、まさかこんどの一件でその名を聞こうとは思わなかった。何かのまちがいではなかろうか。あるいは智岩なる僧侶の詐欺《しかけ》に名をうまく使われただけなのではあるまいか。かりに詐欺にもせよ、公事に関わって斯様《かよう》な不正を働く者がこの江戸の町にはびこっていたという事実は許しがたい。  おまけにもし万が一にも、加納、小出の両所が金品を受け取っていたとするならば、事は深刻で、そういうこともまんざらないとはいい切れない。ただし、それは智岩を召し捕って詮議した上で、なんらかの関わりが認められたならば、老中を通じて上様の裁断を仰ぐことになるだろう。そこに自分が出る幕はない。また今さら自分が両所を糾弾してもはじまらないように思える。  むしろ大岡が何よりも愕然とさせられて、これはなんとか手を打たねばならぬと思うのは三年前までいた旧巣《ふるす》の南町奉行所のことである。  あの福島がまさか、という思いがある。まだたしか三十前の前途ある若者で、奉行所ではたいそう真面目に勤めていたように見えたものだが……。  大坂の奉行所に垂れ流されていた毒が、ほんのわずかのあいだでこの江戸の奉行所にまで押し寄せて、そこに勤める若い役人を腐らせたのだとすれば実に恐ろしい。  そもそも鎌倉の開府以来、幕府の根幹は訴訟の受理と公正な法の裁きを司ることにある。司法が揺らげば、幕府のあらゆる信用は失墜してしまう。したがって公事における不正はかならずや厳しく断罪されなくてはならない。  彼の地ではすべてが金銭《かね》で動かされ、だれもかれもが金銭に振りまわされているように見える。歪んだ異郷だ、と、大岡はこんどの一件であらためてそのことの脅威を感じた。金銭による腐敗の毒がこれ以上お膝元の地に押し寄せるのはここで断じて喰い止めねばならぬ。ならば犠牲もまたやむなしとすべきなのか……。  まだ若い福島の顔を目に浮かべ、鬢《びん》が薄くなった初老の男はまたしてもふうっと大きなため息をつく。 [#改ページ]   裁決の行方  評定所《ひようじようしよ》で木津屋吉兵衛に遠島の刑が申し渡されたのは元文五年三月十九日のことである。  馬場源四郎は死罪。切腹を許されずに打ち首の死罪となるのは武士にとってきわめて苛酷な扱いだった。  馬場の主君である東町奉行の稲垣淡路守は罷免《ひめん》され、知行半減、併せて閉門。  西町奉行の佐々美濃守は訴訟を取り下げたことを理由に同じく罷免され、逼塞《ひつそく》の処分を受けた。  大坂の両町奉行所に対する断罪はかくして長たる奉行が責めを負い、用人の馬場源四郎ひとりが血祭りとなるかたちで終結した。永田官兵衛は自害したが、他の多くの与力や同心の罪は不問に付された。  五代目辰巳屋久左衛門こと乙之助、唐金屋与茂作、森田屋ほか辰巳屋の親族四名、新六、宗兵衛以下六名の訴訟人は無罪放免。乙之助が正式に跡目を相続をした上は六名を店に復帰させるよう勧告された。  謀書《ぼうしよ》の疑義がもたれる仁兵衛、喜兵衛の両名には町預けという名の自宅軟禁処分が下った。  与兵衛、平兵衛、庄右衛門の三人は入牢中にからだを患い、この日の申渡しが延引されている。  大和屋は戸締《とじめ》五十日。これは武士の閉門に似て、名望と店の信用を著しく損なう処分であった。同家の手代作兵衛は急度呵《きつとしか》り、今日でいうところの説諭及び書類送検である。  証文の書き替えや不正融資の周旋などで、横領に加担した具足屋治兵衛《ぐそくやじへえ》以下数名の者がいずれも町預けとなり、それぞれの町役人には監督不行届きとして五貫文の過料が課せられた。辰巳屋がある吉野屋町の町年寄はことに責任が重いとして急度呵りと併せて町預けの処分をこうむっている。  吉兵衛に座敷を提供した道頓堀の芝居茶屋|枡屋《ますや》の亭主も町預けとなった。  茶人の大口|恕軒《じよけん》及び医師の相模《さがみ》は無罪放免だが、吉兵衛から援助を受けた百両は辰巳屋に返済するよう命じられた。  江戸で起きた事件の裁決が申し渡されたのは月が替わって四月六日のことである。  禅僧智岩は市中引き回しの上、獄門。  宇田川正順と福島佐太夫はともに死罪。  吉兵衛の宿預けに関して福島から依頼を受けた北町奉行所の与力藤田、平塚の両名が罷免された。  小姓番の小出相模守は改易《かいえき》で家禄と家屋敷をすべて没収されて青山|大膳亮《だいぜんのすけ》にお預け。  御用取次役の加納遠江守は不問に付されたが、用人の富樫弥助《とがしやすけ》に暇が出された。  奥医師の丹羽正伯《にわせいはく》は解職されて小普請《こぶしん》入りした。  公事宿の亭主大黒屋清兵衛、公事師の嘉兵衛、口入れ屋の箔屋勘右衛門の三人は江戸払い。  浅草聖天町の喜八は正順と結託して多額の謝礼金をせしめようと企んでいたことが判明し、重追放が申し渡された。重追放は犯罪地、住国および関八州、山城、摂津、和泉、大和のほか三カ国と東海道筋、木曾街道筋の立ち入りを禁じた追放刑で、土地財産すべて没収される。  木津屋手代の惣助と元助もこの重追放に処せられた。  なお三月十九日の申渡しに出廷できなかった三人のうち、庄右衛門は同月二十八日に獄死を遂げて本件の最も割に合わない犠牲者となった。  才槌頭《さいづちあたま》の平兵衛と豆狸《まめだ》の与兵衛は重追放が定まっていたが、平兵衛はその後の調べによって七百両の着服が判明し、四月七日に重追放よりも格段に重い遠島を宣告された。  最後の申渡しで与兵衛に重追放が告げられたのは四月十二日の朝であった。  評定所の御用掛り四人はその日のうちに登城して老中の松平|乗邑《のりさと》に一件の落着を報告した。ただし座長をつとめた大岡越前守|忠相《ただすけ》はこれで一件を片づけるつもりは毛頭なかった。  四人の死罪、ということが大岡の胸に重くのしかかっている。町奉行所の役人から死罪が二人も出て、しかもそのうちの一人はかつてわが配下にあった男である。  そもそも町家の相続をめぐる一件がここまでの異常な騒動に発展したのは、訴訟人相手方双方が武家を巻き込み、武家が為政者の自覚を持たずして公事《くじ》に介入したことにある。それゆえに今後はこうしたことがけっして起こらぬようにしておきたい。それが見せしめとなって死んだ者たちの供養となるのではないか。  大岡は御用部屋で車座になった人びとを見まわしながら訴えかける。 「此度《こたび》の一件を無益《むやく》にせぬためにも、御老中に何らかの書付《かきつけ》を残して戴きたいと存じまするが、いかがでござる」  と正面に座った乗邑をまっすぐに見た。書付とは将軍や老中の命令を伝える公文書である。この提言に乗邑は鷹揚にうなずいた。大岡はその様子をいささか皮肉な目で眺めている。  辰巳屋一件は木津屋吉兵衛と東町奉行所の贈収賄で審理が歪められた。しかしいっぽうで、ひとたび下りた審判が覆《くつがえ》されて、再審を訴え出た側が全面勝訴に帰した背景には、乙之助の実家唐金屋の後ろ盾に老中乗邑の女婿岡部美濃守があったことを物語っているのではないか。 「とかく内々で頼み事をするのはようござりませぬ。またそれを聞き入れる奉行がいるのがまずい」  と、大岡は乗邑と石河の顔を交互に見た。これにはさすがの乗邑も憮然たる面もちで、 「あいわかった。今後は公事でけっして頼み合いをせぬようにということを、書付にすればよいのであろう」  と、いささかうるさそうにいう。 「そればかりでは物足りませぬ。喉《のど》もと過ぎれば熱さ忘るるで、時がたてばまた同じことの繰り返しとなりましょう」  大岡はなおも執拗に喰い下がる。かつての名町奉行にして両替商と幕府高官の癒着に敗れ去った男は、自らが持てる最後の力をふり絞るようにして老中乗邑の前に立ちはだかろうとした。 「公事を受け持った奉行がもし上司に頼まれたら、上様に申しあげる覚悟でそれを断固はねつけるべし、という一文をお書き加え願いとう存じまする。さもなくば、いかなる書付も反故同然とみなされて、此度《こたび》のような不祥事はけっして無くなりますまい」  老いたる獅子の凄まじい咆吼《ほうこう》に遭って、幕府の位人臣をきわめた男は端正な顔をかすかに歪めた。そしてふっとため息を洩らすようにいった。 「なるほど、もっともじゃ。余も今後はしかとそれを心得よう」  かくして丸ひと月後の元文五年五月十二日、寺社、勘定、町方の三奉行に対して大目付より通達された内証頼合之筋申間敷云々《ないしようたのみあいのすじもうすまじくうんぬん》の書付は、辰巳屋一件が徳川幕府にもたらした最大の収穫だったのである。  江戸の裁きは収賄がことのほか厳しく断罪されて、贈賄はやや寛大に扱われた面がある。女の接待を受けただけの与力が死罪となるいっぽうで、元助らは重追放にとどまっている。もっともふたりは故郷の大坂に戻れぬばかりか周辺の数カ国にも立ち入りを禁じられ、いつ果てるとも知れぬ刑期のあいだ無宿となって見知らぬ土地で放浪しなければならないのだ。  これよりさらなる酷刑は遠島で、大島や八丈島に流されて筵張《むしろば》りの小屋で風雨をしのぎ、島民の施しで露命をつなぐという悲惨な日々で、赦免船を待ちわびて一生を終える者が少なくない。刑の定まった者は大牢から出て遠島部屋と称する獄舎で流人船の出航を待つ。東西別々の大牢に入れられた主従は顔も合わさず、元助は吉兵衛が遠島部屋に移された話を人づてに聞き、乗船の噂は耳せぬままに出牢の時を迎えた。  出牢したふたりには辰巳屋の公事宿を通じて伊助の便りが届けられた。伊助は騒動が片づくまで実家に戻らぬつもりで辰巳屋に腰を据え、江戸の裁決をいち早く知って、播州にふたりの落ち着き先を見つけていた。道中の路銀や当座の入り用として江戸為替まで添えられた書状を受け取り、元助はあらためて相手を得難い友だと思い知ったのである。  重追放は東海道筋の立ち入りも禁じているが、草鞋履《わらじば》きの旅装で通り過ぎる分には咎められずにすむので、ふたりは来たときと同じ道をたどって京に入るひと駅手前で投宿した。  人びとが寝静まった真夜中に元助は突如むっくりと起きあがり、隣りで寝る惣助を揺り起こして、 「聞いてくだされ」  と、ひそやかに告げた。相手は寝ぼけ眼をこすって、びっくりした声になる。 「なんや、お前は。えらい怖い顔をして……」  有明行灯《ありあけあんどん》の薄明かりで浮かびあがった元助の表情は怖いほどに真剣である。 「これまでずっと長いこと、あれやこれやと思案しておりました。島送りになった者《もん》は生きて帰れんと聞く。旦那を死なせるわけにはいきまへん。なんとしてでもお助けしたい」 「わしかて思案せんかったわけやない。お助けしたいのは山々じゃが、それが出来るなら世の中に苦労はないわい。江戸であれだけ散財をして、あげくどうなったか想いだしてみい。今はもう何もかも無《の》うなったわしらに、何ができるというのじゃっ」  惣助の憤慨は暗闇に鋭い声となって響いた。元助は長らく胸中に秘めていたことを畏れ多いとしながらも思いきって口にした。 「京の烏丸大納言《からすまるだいなごん》様にお助けを乞うてみてはいかがじゃろう」  吉兵衛はかつて烏丸卿によって従五位下に叙位されている。烏丸卿の力をもってすれば、もしかすると吉兵衛のご赦免が願えるのではないか。  惣助は一瞬あきれたように絶句して、すぐにまたフンと鼻を鳴らした。 「阿呆くさいことをぬかすな。たしかに旦那はたいそうな貢ぎ物をなされた。しかしそのあと、こっちがこれほど大変な目に遭《お》うても、向こうは知らんふりやないか。つまるところ、金の切れ目が縁の切れ目ということじゃわい」 「やっぱりそうかのう……」  かすかな光明で大きくふくらんだ元助の胸のうちは急速にしぼんでゆく。所詮は京の夢大坂の夢と呪文を唱えるしかない、ばかげた夢物語なのだろうか。されど、 「わしは京でもう一度あの早瀬様に会《お》うてみよかと思う」  と、なおいわずにはいられなかった。 「早瀬……ああ、あのうさん臭い青侍か。やめとけ、やめとけ。会うだけ無駄というならまだしも、へたしたらお上に訴えられてもっと酷い目に遭わされるぞ」  そういって朋輩がさんざん忠告したにもかかわらず、元助は京の三条大橋で相手としばしの別れを告げたのである。  橋の上で初夏の日射しをまともに浴びて月額《さかやき》にじんわりと汗が噴きだす。なだらかな稜線をもつ蒼き山々に問いかけ、涼しげな加茂のせせらぎに耳を貸しても、はっきりとした答えは出てきそうにない。が、橋の下に目をやれば、やはりあのすました男の顔が浅瀬に浮かんで見える。  早瀬|鳴滝介《なるたきのすけ》という男に会ったところで、藁をつかむよりも虚しい気分になるであろうことは、惣助にいわれるまでもなかった。ただあきらめる前にどうしても彼に会っておきたいのは、このまま手をこまねいて主人を見殺しにするのは忍びないとの思いばかりではないのだ。  思えばあのうさん臭い男のために主人はどれほど散財させられたことであろう。まだ早瀬が独りで欺《だま》してくれたのであれば、こうもこだわりはしなかった。あの男は本物の烏丸卿に引き合わせてくれたはずだ。だからこそ吉兵衛は大枚をはたいて朝廷の官位を得たのではないか。それでもし何の御利益《ごりやく》もないのであれば、すべてはまやかしだったことになる。  眼前に迫る東山、遠くに霞む北山、西山と首《こうべ》をまわし、最後に川の流れの先を望んで、元助は心中深く期するところがある。美しい山々に囲まれたこの町がただの幻にすぎぬとわかれば、いっそせいせいした気分になるではないか。川下へ旅立つのはそれからでいい。  橋からまず向かった先の観世辻子《かんぜのずし》の屋敷は門扉に竿竹が十文字に打ち付けられて人が出入りする気配もなかった。早瀬と会うには介号の由来でもある鳴滝村の家を直に訪ねるしかない。道行く人にたずねながら元助は一条通りをひたすら西へと向かった。大きな寺の前をいくつか通り過ぎるとだんだんと人家が乏しくなり、小高い三つの峰を抱えた丘を左に見て、人けのない山道をさらに進めば、深緑の杉木立の合間からふたたび茅葺《かやぶ》きの屋根がぽつんぽつんとあらわれていた。町の喧噪は彼方に遠ざかり、あたりは激しい渓流の音が鳴り響いている。  町なかとちがって人をたずねるのはかえって難しい。暗がりからよそ者を窺う視線を強く感じても、なかなか相手は出てきてくれない。ようやっと訊きだした村一番の分限者《ぶげんしや》の屋敷は広大な緑の苗圃《びようぼ》に囲まれていた。立派な冠木門《かぶきもん》をくぐりながら、元助はなんとか早瀬がきょうここにいてくれることを念じた。  幸い縁があったというべきかどうか。 「これは、これは、久方ぶりでおじゃるのう」  と至ってのんびりしたその声を聞いたとき、元助はふしぎな気持ちに襲われていた。これはもしかすると夢なのかもしれない、あるいは今までがずっと悪い夢だったのだろうか。  早瀬はさして歓迎しているふうにも見えないが、さりとて嫌がっているわけではなさそうだ。京にいる男がこんどの騒動をどこまで知って何を思うのか、声と表情からはまるで窺えない。こうした鵺《ぬえ》のごとき相手にへたな駆け引きはしても無駄であろう。元助は自らも重追放のお咎めをこうむる身であるのを打ち明けて、すべてを正直に物語った。  早瀬は無表情に最後まで黙って聞いた。あげく、 「それはまた大変なことでおじゃったのう」  と、話を聞く前とちっとも変わらない淡々とした調子でいう。元助は腹が立つよりもいっそ笑いだしたいくらいの気分である。  情が通じる相手でもなさそうだし、この男に泣きついたからといってどうにかしてくれるものではなかろう。だが元助は、この男の心にほんの少しでもいいから何か痛痒を感じさせるような言葉をぶつけてやりたいのだった。  従五位下の官位を頂戴して鳥井|図書介《ずしよのすけ》を名乗る吉兵衛が島流しになっても、烏丸卿は黙って見ておられるつもりなのか。江戸の幕府《おかみ》に何をされても、苦情ひとついうことすらできないのか。京の朝廷《おかみ》に仕えるお公家様はさほどに腰抜けぞろいなのか。というような意味のことを、元助はとつとつとした言葉で相手に訴える。 「それで京の面目は立つのでござりましょうか」  と、鋭く迫ったとき、心なしか相手の表情がかすかに揺らいだかに見えた。しかし声はあくまでものんびりしていた。 「まあ、そないに気張らんでもよろしかろう」  おつにすました早瀬に元助はとうとう根負けした。またこれでやっとあきらめがつく気もしたのである。  欲深い連中にたかられた吉兵衛は鳥が羽毛をむしり取られるようにして全財産を失った。大坂と江戸ではむしり取った者たちも御白洲に召ばれてそれ相応の恥を世間にさらしたが、京の男はどこも傷つけられることなく上品に笑っていた。  去り際に、早瀬はこちらの背中を呼び止めた。 「のう、これだけは言うておく。京の町は大昔から人の世の栄枯盛衰を飽きるほど見て参った。この地では罪なくして罰せられ、怨みをのんで死んでいった人びとが大勢いる」  元助は怖い顔で振り返ってまともに相手をにらみつけた。何事もあきらめが肝腎だといいたいのだろうが、よくもそうぬけぬけと下手な慰めにもならないせりふが吐けるものだとあきれ果て、これまでなんとか堪えていた怒りがいっきに噴きだしたかっこうだ。  ところが、相手が聞かせた次のせりふは実に意外なものである。 「あきらめずに待っておられよ。京の人士はものの哀れを知る。こう見えて、情け深いたちじゃということを忘れずにのう」  さらりといって、早瀬の顔は相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。 「阿呆ぬかせっ。わしゃもうそんなたわごとにだまされはせんぞォ」  ありったけの大声で怒鳴りつけ、男はようやっと胸のつかえがおりた。その声は相手のからだをするりと通り抜け、茅葺きの屋根を飛び越え、鬱蒼とした森の梢を揺らし、やがて激しい渓流の響きに吸い取られていった。  元文五年九月九日。大岡越前守忠相は淡青色《はないろ》の紋付小袖に長裃という正装で登城して重陽の節句に臨んだ。こうした年中行事の礼装はいずれも京の朝廷から得た官位に准じており、幕府の寺社奉行職にある大岡はいっぽうで従五位下の官位を有する身分である。  その大岡が次の日に自宅で受け取った北町奉行石河土佐守の手紙には、長らく忘れていた人物のことが記してあったが、どうしても腑に落ちぬ点がある。それについて問い質したいのは手紙の主ではなく老中の松平|乗邑《のりさと》だった。  翌日はたまたま評定所月例の式日に当たって、早朝に老中が臨席した。午前中に退出しようとする乗邑の袖をとらえて大岡は面と向かった。 「木津屋吉兵衛のことについて、ちとおたずね申しとうござる」  と、あくまで抑えた声でいえば、相手は片頬をかすかに歪めてそら笑いを聞かせた。 「ハハハ、訊かれると思うておった」  半年近くも前に遠島と定まった男はいまだに流人船に乗ることなく小伝馬町の牢屋敷にいた。石河は何度か乗船の手はずを整え、そのつど老中に待ったをかけられていた。そしてついに、乗邑は意外な指示を下したのである。 「本来なら遠島はおろか、死罪となってもしかるべき者であろう」  と、乗邑はいささか自嘲気味にいったように聞こえた。もとが唐金屋の肩を持った再審だっただけに、無惨な敗者に対して仏心が湧いたのだとすれば、それはそれでもっと早くに相談があってしかるべきだった。  乗邑の口をついたのは、しかしながら意表を突いた驚くべき言葉である。 「さる方からのお頼みじゃ」  大岡は息を呑んだ。顔がかあっと熱くほてりだす。公事に当たっての心得が各奉行に通達されたのはほんの四月《よつき》前の出来事である。その通達をした老中が、舌の根も乾かぬうちに、だれかの依頼を聞き入れて減刑を容認するとは何事だろう。 「何方《いずかた》のお頼みでござる」  と、思わず声が大きくなる。相手はまたしても軽い自嘲気味の笑いを聞かせながら、扇の先でゆっくりと西の方角にあたる柱を指す。 「もしや頼んだお方とは………」 「左様。御名は出さぬでもよろしかろう」  先をぴしゃりと封じて、乗邑はその推量がほぼ当たっているのを認めた。 「向こうから再三再四ご赦免の申し入れがあってのう」  と西の方角を指しながら、乗邑はあくまでも曖昧に愚痴をこぼすようないい方に終始した。が、心のどこかで渡りに舟という気持ちはあったかもしれない。 「天下の大事にくちばしを入れられては困るが、たかが町人ひとりのことならば、この際はいっそあっさりと聞き入れるほうが得策とみた。時には、あちら様の顔も立てずばなるまい」  そのたかが町人ひとりによって奉行所の役人はふたりまでも死罪になったのだった。  死罪四人、牢死一人、自害一人。都合六人の死者がこれでは浮かばれまいと思われた。さりとて朝廷との駆け引きまでも広く眼中に収めた乗邑の判断には、文句のつけようがない。  前は大坂、こんどは京にしてやられたか……。大岡は苦く笑った。  大坂の財《たから》と古き京《みやこ》の飾り。そのふたつを取り込んでこの江戸の幕府は成り立つ。いずれはそれが命取りになるやもしれぬ。  大岡越前守忠相は胸中に長い嘆息を洩らしつつ、この日の夕方辰巳屋騒動の張本人である木津屋吉兵衛を評定所の御白洲に召《よ》びだしていた。 [#改ページ]   湖畔の晩鐘  元助がその朗報を受け取ったのは播州兵庫の納屋で炭俵の出し入れを手伝う最中である。  木津屋吉兵衛は遠島を免《ゆる》されて江戸十里四方、五畿内《ごきない》お構《かま》いの軽追放に減刑された。併せて元助らの重追放が解かれていた。ついで日にちをおかずに届いた辰巳屋からの便りには、ひとまず店に戻ってくるようにと記してあった。  兵庫の浦から出て、安治川《あじがわ》を遡るうちに元助はさまざまな船とすれちがった。凄まじい速さで通り過ぎてゆくのは幟旗《のぼりばた》を立てた番船で、一刻でも早く運べば高値で売りつけられるという荷主の思惑が船頭と水夫《かこ》を競わせている。大量の俵をどっさりと積んだ上荷船、小分け積みで急いでいる茶船、もろもろの船が川を上り下りしてこの町を支えている。  陸《おか》に上がれば上がったで、船の数にもまさる人、人、人の波。道ばたでものを売りつけ、セリ合う人びとが声高に罵り合い、笑いさざめく喧《やかま》しさで男は思わず耳を覆ってしまい、久々に戻ってきたこの町の活気にすっかり圧倒されていた。  堀江で舟を下りてすぐに向かった先は辰巳屋の店ではない。闕所《けつしよ》となって打ちこわされたであろう木津屋でもなかった。  おそるおそる訪ねた家にツツジの女《ひと》はいてくれた。昔と変わらぬ姿で縁側の拭き掃除をする女のそばに駆け寄ろうとしたそのとき、首根っこにあの懐かしい太い腕が巻きついて、ぎゅっとからだを締めつけられる。 「ほんまによう戻ったのう。元気そうで何よりじゃ」  自身は側杖《そばづえ》を喰わずにすんだ特牛《こつてうし》の次郎兵衛が老いの涙にくれて元助を歓迎し、 「小父さん、よくぞご無事で……」  と、すっかり大人びて美しくなったお拾《じゆう》が母ともどもに涙を添えた。  この娘と婚約《いいなずけ》をした綱次郎《つなじろう》は木津屋の闕所によって母のお妙もろとも道修町《どしようまち》の実家に引き取られていた。父の聡明さと母の穏やかな気性を受け継いだ若者はいずれ立派に独り立ちして木津屋を再興するであろうが、それまでにはまだ長い年月がかかる。  いっぽうのお拾《じゆう》は今や辰巳屋にとって大切《だいじ》な存在と思われているふしがあった。なにせ先代のたったひとりの遺児であり、木津屋一族を除くと辰巳屋の血を引く者は今やこの娘しかいないのだ。  辰巳屋の支配人に復帰した鰐口《わにぐち》の宗兵衛《そうべえ》は忙しい仕事の合間にちょくちょくここを訪れては、 「なあ、お照はん。頼りのない女の身はどっちにつくのが幸せか、お娘《むす》によういい聞かせなはれ」  と、執拗にかき口説くのだという。  妻となるべきお岩を喪《うしな》った乙之助に、こんどはなんとお拾を娶《めあわ》せるべく、鰐口は綱次郎との縁組の解消を求めていた。  綱次郎は一文無しの身の上で、いつ所帯が持てるようになるかさえわからない。それにひきかえ乙之助は十二万貫目の大身代《おおしんだい》に君臨する身分である。玉の輿《こし》に乗るとはまさにこのことではないか、と昔から今日に至るまで母子に月々の手当を捻出してきた男は遠慮のない調子でいうらしい。  話を聞いて、元助は実にあの男のやりそうなことだと思われた。  あくまでも大樹の血にこだわる男はなりふり構わぬ強引さで人の心を踏みにじろうとしていた。ひとたび亀裂《がた》の入った辰巳屋をなんとかもう一度わが手で束ね、唐金屋《からかねや》に呑み込まれぬようにするためには、もはやそれしか手だてがないと、あの忠義者が思案したあげくの賢《さか》しい判断なのだろう。 「なあ、元助はん、思うてもみなされ。木津屋の御寮人様にはお拾の鉄漿親《かねおや》になって戴いたという恩義もあり、どの顔《つら》さげて左様な変更《へんがえ》が出来《でけ》よう。いかに婢女《はしため》あがりとはいえ、そんな不義理を平気でするように侮《あなず》られたかと思うと、私《わて》はほんまに悔しい」  お照は頬を染め、身を震わせる。ツツジの女がこんなにも激しく憤ったところを男が見たのは初めてのことだ。 「そこでとうとうこないだのお盆に、私《わて》は旦那のご位牌の前できっぱりと宗兵衛《あいつ》にいうてやったんや。思いあがったいい方に聞こえるかもしれまへんけど、木津屋様のご一家が落ち目のときにお見捨てしては、あの世に逝かれた大旦那様や、兄御様がさぞかしお嘆きになることじゃろうとなあ」  男たちを次々とからめ取る鰐口の周到な思惑は、しかしながらこのお照という女にだけは通用しなかったようだ。 「アハハハ、うちの妹は女子《おなご》にはめずらしいといおうか、ほんまに欲のないやっちゃで。わしゃ、あきれてものがいえん。欲のない人間ほど怖いもんはないわい」  兄は巨体を揺すって心底おかしそうにげらげらと笑い、そばで満足そうな微笑を浮かべる美しい姪を見やった。人も怖《お》じる特牛にして、無欲な女たちにはかなわないという。元助はそれを聞いて、人の世に何か救いを見る心地《ここち》がしたのである。  当の鰐口もまた元助をえらく歓迎した。自ら袖を引いて勘定部屋に招き入れ、 「よう来てくれた。そなたの無事な顔を見て、わしはほんまにうれしいで」  と、以前のように目を細めて猫なで声を聞かせる男がわざわざ元助を呼び戻したのにはそれなりの理由がある。  吉兵衛が遠島を免れた話はたちまち大坂中の評判となり、辰巳屋との縁があるなしにかかわらず、意外にも多くの人びとがそれを朗報として受け取った。事の発端は家督相続で、どこのうちでも起こりやすい騒動だけに、当初からこんどの一件にはだれしも無関心ではいられず、大坂でいったん勝訴した吉兵衛が江戸で敗訴して、あまつさえ厳罰をこうむったことには多くの者が衝撃を受けた。おかしなもので、あれほど世評のかんばしくなかった男が江戸で罪に落ちたとたん、大坂中の同情を一身に集めるようになったのである。同情の多くは江戸に対する反感もあるが、吉兵衛の筋目《すじめ》のよさ、すなわち血統では辰巳屋を継ぐにふさわしい人物だということから来ている。また摂州屈指の豪家が泉州の名門に降《くだ》ったことにも、大坂者の矜《ほこ》りが傷ついているようだった。 「なにせ世間様の口は怖い。わしら訴え出た六人の者は、ヘヘへ、えらい肩身の狭い思いでのう」  と、鰐口はがらにもなく気弱に笑う。ちょっと見ないあいだに髪が白くなり、顔のしわも増えて、この男なりに苦労が多かったことを窺《うかが》わせる。 「あのお方を放っておけば、不人情じゃというて、ますます辰巳屋《うち》の評判が下がる。さりとて五畿内お構いとあらば、ここにお迎えするわけにもいかん」  そこで五畿内の外で家を借りて吉兵衛を住まわせるつもりだが、だれかにその面倒をみてもらわなくてはならない。 「これはどうしても、そなたに頼むしかないのや」  肩に手をかけられて、元助はすかさずその手を払った。 「今さらお前様に指図をされんでも、旦那のお世話はちゃんとわしが致しまする」  鰐口はその醜い顔に薄笑いを浮かべた。 「フフン、それで肝腎の金はどうするのじゃ」  ふたたび肩に手をかけて、ぎゅっとわしづかみで抑えつけると、元助の耳に口を寄せて勝ち誇ったようにいう。 「ええか。わしが月々きまった額をお渡しするによって、そなたがここへ取りに来るのじゃぞ」  鰐口はかつて妾宅へ金を届けていた男にふさわしい役目を与えた。それはせっかく目をかけてやったのに、最後の最後で逆らった男に対して罰を与えているようでもあった。  かつて大金をばらまいて数多《あまた》の眷属《けんぞく》を従えていた男は今やだれからも見捨てられ、仇敵の合力金《こうりよくきん》で露命をつなぐほかに道がない。そこまで落魄《らくはく》した男の世話をするという、実に割に合わない役目を元助は自ら進んで引き受けるつもりでいた。  それはこの町で勝ち残った、もうひとりの這出者《はいでもん》に対する意地ばかりではない。秀でた額、高い鼻梁《はなすじ》、賢そうな眼。子供のころに見ていた小ぼん様の顔を目に浮かべ、その男に読み書きを習い、曲がりなりにも人並みにものが考えられるようにしてもらったはずの自分だけは、最後までついてゆかねばならぬという覚悟をすでに固めていた。こうなる前に、主人をどこかで諫《と》めるべきだった。諫めなくてはならなかったのだと思いつつ。  辰巳屋の大きな暖簾《のれん》の外で待ち受けて、 「ガンちゃん、お前、ほんまにそれでええんか」  と、なじるようにいうのは長年の親友だった。  かつて頬のそげていた顔はふっくらとして、腰まわりもほどよく脂がのり、今やすっかり若旦那の貫禄を備えた男はいきなりこちらの胸ぐらをつかんで、 「鰐口にええように使われて、谷底の埋もれ木で一生を終える気ィかっ」  と吠えながら店の裏手へと導いてゆく。  秋も深まるこの季節、すでに納屋の大半は空《から》になって、桟橋につながれた舟は少ない。しかし半年も立てば、ふたたびここに大量の炭俵を載せた夥しい数の舟が集まる。来年の六月にはまた炭市が立って、あたりの浜一帯が大いに賑わうことであろう。若い手代が中心になってはじめた炭市は順調にまわっていた。 「ええか、ガンちゃん。商いのやり方は、こうやってどんどん新しうなってゆく。鰐口がどんなにえらそうにしとっても、そのうちにやつの出る幕はなくなる。もうちょっとの辛抱や。唐金屋のええようにさせんためにも、今こそわしら若い者《もん》が一丸となって辰巳屋の暖簾を守っていかなあかんのや」  親身になって怒鳴りつける友に向かって、元助は静かに口を開いた。 「伊助どん、お前のこれまでの親切は、身に沁みてありがたいと思うてる。そやけど、わしはどうしても……」 「まあ聞けっ。江戸でお咎めをこうむった身を、恥じることなんか少しもないぞォ。江戸の幕府《おかみ》がなんぼのもんじゃい。金は天下のまわりもの。いや、金が天下をまわすのじゃ。江戸で負けた腹いせに、この大坂で大もうけして、無茶しよった侍どもに吠え面《づら》かかせたるくらいの甲斐性《かいしよ》を持たんかいっ」  と相手はあくまでも叱咤する。 「伊助どん、お前はそれでええ」  元助はにっこりと白い歯を見せた。胸のうちで友に心からの声援を送っていた。  伊助はどこまでも己れの才覚を信じ、手足を存分に伸ばして、この町を泳ぎきってみせるであろう。金の流れに身をまかせるばかりか、流れを良くして世の中を豊かにしようとするのが、この町に生きる商人の心意気であるのを、元助は疑うつもりなぞ少しもない。だが自分はもう……。  いつぞや道頓堀の茶屋で芝居に見立てて座敷に小判がまき散らされたとき、元助は猛烈な吐き気に襲われながら万年先生の話を想いだした。饅頭の数がいくら増えても人は貪る心をなくしたりはしない。いやむしろ増えれば増えるほど貪る心が強くなる。そして貪る心が世の中をまわせば人はやがて悪鬼と化し、互いに殺し合うようになると先生は説いた。そう聞かされていたはずの自分が現実に見ていて、止められなかったのだ。そればかりではない。自分はもはや人並みの幸せな暮らしを望むわけにはいかない理由がある。 「わしはどうしても、あの旦那と一緒におらなあかんのや」  と、元助は口にこみあげてきた苦い汁を呑み込むようにしていった。  伊助は一瞬ぽかんと口をあけ、それから急におかしそうに笑いだした。その笑い声はだんだんと無理しているように聞こえ、最後には淋しそうな皮肉が混じった。 「ハハハ、やっぱりガンちゃんは、鰐口によう似て忠義者や」  それはちがう、と、元助は心のなかで叫ぶ。ちがうのや、伊助どん、そうやない。  元助はこの親友にいっそすべてを打ち明けたい衝動に強くかられた。だがそれはすぐに消え去った。深い悔恨に身をゆだねて黙りこくった胸のうちを、友は友なりに忖度《そんたく》していた。 「お前のような忠義者は、だれか尽くす相手がないと、淋しうてやっていけんのや。ほんまに阿呆で情けない男やで。そやけどわしは近ごろそういうガンちゃんが、少しうらやましいような気がしてる。だれしもわが事ばかりを大切《だいじ》に考えて、われがわれがと啀《いが》み合う世の中を見てると、お前のように自分のことをそっちのけで心底から他人《ひと》に尽くせたら、それはそれで納得のいく一生が送れるのかもしれん。と、まあ、わしのような者までがこんなふうに思うのは、きっと辰巳屋《うち》の騒動で浅ましい話を山ほど見聞きさせられたせいやのう」  かつての泣き虫は今も目にいっぱいの涙を浮かべている。 「わしは今年の暮にはいよいよ家の跡を継いで、但馬屋のあるじとなる。お前はきっとええ片腕になってくれると信じてたのになあ……」  辛抱強いガンちゃんは歯を喰いしばって涙は見せない。長年の友に深く首《こうべ》を垂れるのみ。 「伊助どん、力になれんで、すまん。堪忍してくれ」  炭納屋の背後を流れる横堀川には荷積みした数多の小舟が上《かみ》へ下《しも》へと往き交っている。進む速さ、荷の大小にかかわらず、舟はいずれも行く手を定めて楫《かじ》を取る。櫓櫂《ろかい》を無くした舟にこの川は渡れない。かろやかに目の前を滑りゆく一艘の小舟を見送って、元助は住み慣れた大坂の町に静かな別れを告げたのだった。  五畿内お構いは古くに王城が置かれた大和、山城、摂津、和泉、河内の五カ国に立ち入りを禁じたもので、吉兵衛はすでに江戸を発ち、山城の地に入る手前の近江の国で逗留を余儀なくされていた。山城と近江の国境《くにざかい》には古歌に名高い逢坂《おうさか》の山が立ちふさがる。その山を越えた大津の宿で吉兵衛と再会したとき、元助はしばし声が出なかった。それは懐かしさで胸がいっぱいになってというよりも、驚くあまりにといったほうが正しい。久々に会った相手はさほどに面変《おもが》わりしていた。  肌は張りも艶《つや》もなく、頬がむくんで垂れ下がり、秀でた額には一本の太い横じわが刻印されている。胡麻塩の鬢髪《びんぱつ》はそそけ立ち、月額《さかやき》をまばらな薄毛と湿瘡《しつ》の紅斑が覆っていた。  おどおどした目つき。どんよりと濁った眸《め》。黄色い歯を覗かせて媚びたように笑いかける唇。どれもこれも、かつて神童と呼ばれた男を偲ばせるものは何もない。  臓腑が大きくうねり、まるで吐き気のようにして物狂おしい声が飛びだした。声は言葉にならず、元助はただひたすら吠えまくる。突如、長いあいだ忘れていた涙の雫が頬を伝った。  主人を思い、自身を思い、男はただ泣かずにはいられなかった。  大津宿の西方には俗に三井寺と呼ばれる園城寺《おんじようじ》の荘厳な伽藍《がらん》が聳《そび》えている。寺は大きく北院、中院、南院に分かれ、中院の鐘楼は三井の晩鐘として名高い。  山腹にある南院の観音堂は西国三十三所の札所《ふだしよ》で知られ、常に多くの参詣人を迎えて香煙の絶え間がない。その観音堂の麓《ふもと》にある手狭な一軒家が木津屋吉兵衛の新たな住まいとされた。  その家では綱次郎とお拾のささやかな祝言が挙げられて、祝言のあと母親のお妙は新婚の夫婦についてふたび大坂に戻っていった。もうひとりの母親であるお照は兄といっしょに近くの貸家に移り住んで、吉兵衛を毎日のように見舞った。 「男手だけでは困ることがあるはず。私《わて》はもともと水仕奉公の女衆《おなごし》じゃによって、いろいろとお役に立つことがござんしょう」  そのけなげな申し出を男たちはありがたく受け取った。  貧しくとも平穏な暮らしのなかで、吉兵衛の心身は徐々に回復していった。  だが何事かをなし得る気力、それにもまして財力が蘇ることはもはやない。闕所《けつしよ》で家財はいっさい没収され、自ら蒐集した万巻の書を読む機会すら失われた。  死生に命《めい》有り、富貴《ふうき》は天に在り。人がいつまで生きられて、いつ死ぬか。財産、地位、これすべて天が定めた運命にほかならない。かつて文字で読んだ論語の教えを、男はすでに身をもって十分すぎるほど知ったともいえる。  万巻の書に芳しい花を見ていた男は、現実にそれを手に入れようとして泥濘《ぬかるみ》に足を取られた。書物を読み書きするだけの簡素な暮らしでは終わらせない莫大な財産が、男を騒動の張本人に仕立てあげ、六人もの命を奪う恐ろしい顛末《てんまつ》に導いた。  利口だったはずの男は犯した罪の深さにおののいて、 「辰巳屋《わがや》の家訓は正直であれということやった。わしは何もかも正直に申しあげたのや」  と幼子のように愚かないいわけを幾度となく繰り返した。  その愚痴を聞くたびに、元助はあの恐ろしい穿鑿所《せんさくじよ》の光景を目に浮かべた。厚さ三寸の伊豆石を膝の上に載せられて、割竹《わりたけ》の箒尻《ほうきじり》で背中をぶちすえられる苦痛。拷問蔵から洩れてくる断末魔の悲鳴。堪えがたい想い出をふたりはけっして口に出すことなく、互いの身の上に感じていた。  傲慢な役人や、売僧《まいす》や似非《えせ》医者にさほど同情をするいわれはなかった。だがまさか自白によって死に至らしめるとは思いも寄らなかった。  せめては彼らが迷わぬよう菩提《ぼだい》を弔《とむら》って、元助はこの先一生、子をなさず、妻帯もせぬ僧侶のごとき暮らしを自らに課すつもりだったのである。  朝な夕な、主従であり、師弟でもあったふたりは一歩ずつゆっくりと足を運んで山腹の観音堂に向かう。参道で時に弟子は師と肩を並べて歩き、かつて自分が聞いた話をとつとつと弁じたりもした。この話を、なぜもっと早く聞かせなかったのかと悔やみながら。  ここに饅頭が三つある。食べるのを二つで我慢すれば、もう一つはだれかの口に入る。だれもがそうすればまた人はだれも飢えなくてすむようになる。  たとえ欲張って三つ食べたとしても、所詮、人は朝露のごとく、稲光のごとく、つかのまに消える儚《はかな》い命ではあるまいか。  弟子は熱心に語り、師は素直に耳を傾けていた。やがて山腹の境内にたどり着き、観音堂に礼拝したあと、ふたりはきまって灌木《かんぼく》の林を抜け、草むらをかき分けて境内の裏にまわる。するとだしぬけに前が広がって、眼下に渺々《びようびよう》とした海と見まごう湖があらわれる。ようやっと師に追いついて同じ地面に並び立って望む景色に、弟子はいいしれぬ満足と安らぎを覚えた。  琵琶のかたちをした巨《おお》きな湖は見るたびにはっとするほど姿を変える。山襞《やまひだ》の色、風の息によって湖面は微妙に模様を違え、天《そら》を映す清澄な鏡にもなれば、時雨《しぐ》れて縮緬《ちりめん》のように漣《さざなみ》が立つ。霧が立ちこめて朦朧《もうろう》とするかと見れば、時に残照で金色《こんじき》に輝きもする。晴れた日は遠く彼方に鈴鹿《すずか》や伊吹《いぶき》の山波がくっきりと姿をあらわした。  ふたりは茫漠たる風景に見とれ、暗黙のうちに日々なにがしかの感興を得た。荒々しい外海とは異なり、湖岸で望む穏やかな森羅万象は見る人に自ずと内奥の扉を開かせるところがあった。  あるとき主人はふとした独り言で、 「おたがい、よう生きのびられたもんやのう」  と、つぶやいた。 「ほんまに、もうあかんかと、何べんも思いました」  と、相づちを打って家来はかすかに笑った。  師は時にまた苦渋に満ちた顔つきで、 「こんな恐ろしいことをしでかして、わしはよう生きてられるもんやのう」  と、自らを嘲るようにいった。 「それでも、生きてなあきまへん」  と、弟子は叱りつけるようにいうのだった。  麓に下りると、家では妹が水を汲み、兄が薪割りをして湯を立ててくれた。お照が日々せっせと飯を炊き、洗い物をしている姿は男たちに生きることのなんたるかを見せつけた。  無私に働ける女の強さは、人間だれしも生まれてから死ぬまでただ飯を喰らい、糞をして、汗を流し、やがては土に還《かえ》る器《うつわ》であって、余のことはみな器を飾るほんの彩りに過ぎないのだと教えるのだった。  晩鐘の重い響きが一日の終わりを告げればまた次の無為なる日々が訪れて、主従であり、師弟でもあるふたりに何年もの歳月が流れていった。  血筋によらず他家の養子によって受け継がれた辰巳屋は以後も長く栄えた。  辰巳屋久左衛門の名は三井八郎右衛門、鴻池善右衛門らと共に御用金上納者のひとりとして数々の文書に散見される。明治維新の際、三岡《みつおか》八郎こと由利|公正《きみまさ》が倒幕費用の寄付を課した富豪十五傑の顔ぶれにもその名が見え、すなわち幕末まで大坂屈指の豪商として世に知られていたのである。  木津屋吉兵衛は晩年に赦されて大坂に戻り、生家で息を引き取ったと伝えられる。主人を喪った元助がその後どうしたかの記録はどこにもない。 [#改ページ] 出典    大岡家文書刊行会編纂「大岡越前守忠相日記」       国書刊行会編輯/徳川時代商業叢書「町人後見録追加」 参考文献  新修大阪市史編纂委員会「大阪市史」       樋口清之「日本木炭史」       日本思想大系「石門心学」       黒羽兵治郎編「大阪商業史料集成」       石井良助「近世民事訴訟法史」       新燕石十種「浪華百事談」       脇田修「懐徳堂とその人びと」 松井今朝子(まつい・けさこ) 一九五三年京都生まれ。早稲田大学大学院で演劇学を専攻。松竹株式会社で歌舞伎の企画・制作に携わり、フリーとなって歌舞伎の脚色・演出・評論、歌舞伎解説書の監修などを手がける。九七年『東洲しゃらくさし』で小説家デビューし、『仲蔵狂乱』で第八回時代小説大賞を受賞。著書に『奴の小万と呼ばれた女』『似せ者』『一の富』『非道、行ずべからず』『家、家にあらず』『銀座開化事件帖』など。二〇〇七年『吉原手引草』で第一三七回直木賞受賞。  初 出 「ちくま」二〇〇一年六月号〜二〇〇三年五月号  本作品は二〇〇三年十一月、筑摩書房より刊行され、二〇〇七年九月にちくま文庫に収録された。