時実新子 有夫恋 [#表紙(表紙.jpg)] 目 次  背信の汽車  逃亡のアクセル  問わぬ愛  女のくらがり  有夫恋  除籍入籍   文庫版あとがき [#改ページ] 背信の汽車●一九五五─六〇 [#ここから2字下げ] 倖《しあわ》せを言われ言訳せずにおき イヤリングずっと子のない姉であり しあわせを話すと友の瞳《め》が光る 心読む目でまっすぐにみつめられ 女にはさびしい程の仕事好き 晶子|曼陀羅《まんだら》子らの寝顔に責められる 爪を切る時にも思う人のあり この思い煉炭《れんたん》の目にじっと堪え 心奪われ阿呆のような日が流れ 嫁ぎ来て十年恋はまだ知らず 覚めている人を想うて覚めている 困らせて泣かせてみたいそれも愛 死ぬほどの思いも逢えばあっけなし 箸《はし》重ねて洗う縁《えにし》をふと思う かたまりが火の色となり喉《のど》にあり 自信ほろほろと崩れて夜をひとり 決闘をさせたいこんな月の夜に 悲しさにぐしゃぐしゃぐしゃと顔洗う さみしさを言えばさみしい瞳《め》が答え 人は言う簡単に言う邪恋の名 放心へ正確に舞う扇風機 未練断ち切ろうと重い髪を振る 慕われているしあわせの髪を梳《す》き 熱帯魚わたしにはない価格札 花踏んで自責いよいよ増すばかり 永遠の愛誓わせて何になる 一杯のバケツがこんなに重たい日 年の差を思う夜道は石ばかり 柚子《ゆず》しぼる女の生命《いのち》ふと感じ 子を寝かせやっと私の私なり 孤独ではないけど 海へ石を投げ 頼る人なくて鏡の目をみつめ 誰も見ぬ部屋に心をさらけだし 熱の舌しびれるように人を恋う 瞳《め》の端で女の情が青く燃え だまされた唾《つばき》の味をすぐ忘れ 何も知らぬ人に羊の眼で見られ われに棲《す》む女をうとむ夜が来る 誰も知らぬこんな私がここに居る 居間へ来て泣き伏すことも許されず 阿呆になれる薬はないか春の夜に しあわせをひょいと感じるゴマがはぜ 力の限り男を屠《ほふ》る鐘を打つ 一束《ひとたば》の手紙を焼いて軽くなる 誰一人喋らぬ婦人科の小鳥 診察台人を愛した女なり 追いつめられた私へ踏切が上がる 指の傷吸うて烈《はげ》しく君を恋う 部屋いっぱいに蛍|放《はな》って眠りたし 子を連れず来て両方の手の置き場 前に手を下げて卑怯な目をしてる 嘘のかたまりの私が眠ります 百合の香《か》に包まれていて謀叛心 静けさが好きで嫌いで孤独です マリの惰性それがわたしの人生か どしゃ降りの今だこの恋捨てる刻《とき》 レジスタンス心は誰のものでもない 帰るところ月と定めてから微笑 爪|剪《き》ってやるを忘れた子と別れ 母で妻で女で人間のわたくし まみどりに菜を茹《ゆ》で罪から逃れよう 死刑囚の手記わたくしに無期の刑 別々の心どこまで夫婦線 下腹部の重さに蝉《せみ》は鳴きやまず まっすぐに煙が上がる日の孤独 背信のなまじきれいな眼が哀し 待針のように素直になってみる 背信の口が乾いて朝となる コスモスの前背信の歩を早め 動揺をかくすとっさの燐寸《マツチ》擦《す》る 心という厄介なもの眠らせず 子をなぐる蹴るよ男は子を産まず 透明な昼の不安のやり場なし ぬけがらの私が妻という演技 その上にまだ同情という侮辱 強がりを言う瞳《め》を唇《くち》でふさがれる そのひとの子を抱きしめてみる慕情 横顔に子は打ち明けぬものを持ち 拒絶せり机の花を楯として 掌《て》の上で蝶死すときの風の音 顔|歪《ゆが》む鏡敗戦時に嫁ぎ 男の凡を嗤《わら》って朝の風凍る 雪こんこ人妻という手にこんこ たわむれに似て真実の手を重ね 母という青いあきらめ抱いて朝 子に味方して夫に向く眼が化石 心奪う人を憎んで夫と坐す あたしの恋を蔑《さげす》む涙なら 母よ 焦立ちの少しおさまりパンを切る 好意厚意すっかり私は疲れました 夜の底の池の底なる夫婦鯉 失意の日|鋸《のこ》の目立ての音を抜け 絶望へ明るい車内アナウンス 朝の子が母の悩みを寄せつけず 蛙鳴く恋を恋した日のままに 一人|在《あ》れば闇は味方にあらず脈打つ 悲しみの極まれるむしろ歓楽 この闇に一個の肉の安《やす》んずるなし 闇の中わたしの芯《しん》が哭《な》いている 狂う眼はこうか鏡に訊《き》いてみる 息小さくわが抵抗の限りとす この眼が夫 生ある限り私の夫 なまごろしのわたくしが生きて万才 夫よ起きてこの尽くるなき涙を吸うや 沖をゆく船あり思慕が載せきれぬ 処女寮の灯り小さくまだ消えず かなしみは遠く遠くに桃をむく 終りよと女が言ったから激し 逢いたしと口にも出せり字にも書く 花びらの冷たさと居て人を断つ 一人殺せと神の許しがあれば君 相愛の秘密を友の眼にさらす 読んでゆく三枚目から恋となる 母の指妻の指わたしの指がみつからぬ 風に散る煙草のそんな愛かとも ひとつひとつ崩れる夢の中に坐す 主婦という名の腕時計何度見る ミルクが溶けるすでに犯されたる心 欲しいものひとつずつ消し夜を眠る 靴音が近づき胸を踏んで過ぎ 心渇いてただ北風を北へゆく 中途半端そんな私だから眠る ひややかに人を愛して虫を飼う 貨車切れて視野に孤独がまた戻り 手を探るお互いの手の冷たさに 触れ合えば即ち罪となる指の 別れてのこの解放感何だろう めくるめく闇に言葉は生きて刺す さびしいと言えぬ寂しさ爪を剪《き》る 十七の花嫁なりし有夫恋《ゆうふれん》 夜は夜の心となりて人を恋う 塔を仰ぐ無ではないかも知れない死 この家の子を生み柱光らせて ぬかるみを越えたら言おうその言葉 かなしみの背を這《は》いあがる虫となる ナイフ砥《と》ぐ一心|虐《しいた》げられて居《い》し 昂《たか》ぶりを人には告げず物を煮る 或る決意 動物園の檻《おり》の前 憎いその腕《かいな》の中で敗けてゆく 自らを削るほかなき思慕である どちら向いても壁は味方にあらず壁 きらきらと哭《な》いて無実の闇に佇《た》ち 明日逢える人の如くに別れたし 背信の汽車なら走れやみくもに 野良犬の目となり愛を乞う日あり 星になりたい生殖の灯を抜けて 三十歳満つるいのちが湯をはじく 三十歳感情線が浮き上がり 逆光線即ち三十歳の乳房 青春挽歌それはきかないことにする 解放の今ごくごくと水を飲む 抱擁に霊肉という時差ありて 子と対す時が私か 何か嘘 伏す畳匂うて野性戻りくる 新しい棚を心に吊る日あり ほんとうの愛は愛はとくどい人 感情列車暴走無人駅無策 紅《べに》引くと生きてゆく気がする不思議 ブラックコオヒイ女がさめてゆく過程 明日の腐蝕をすでに約して夜が来る 孤独ではない恋人を見た孤独 去ってゆく足に乱れのない憎さ 女ふたり春のみかんに骨がある 瞳孔をひらいて嘘を見ています 昼の灯を消し忘れたる如き思慕 耳の形が思い出せない好きなひと とかげの背光り夫の手が這《は》うよ 蝉《せみ》の声拒絶のあとへ鳴きしきる 意識して火蛾《ひが》となる夜のありはあり 逢うて来て素麺《そうめん》の束ほぐすなり 花火の群れの幾人が死を考える 忘れたきことに卵をぽんと割り 風を見ていると答えた女なり 足裏に火を踏む恋のまっしぐら 夜の髪ほぐし生命《いのち》をみつめたり 茶碗伏せたように黙っている夫 張りつめた糸を渡って逢いにゆく 脱線の叶《かな》わぬ汽車に似て走る 逢うた心のあと幾日を彩《いろ》どるや 失神の夢しろがねに不貞たれ 凶暴な愛が欲しいの煙突よ みつめねばならない獣道《けものみち》がある 影法師の中で背骨の折れる音 人や憂《う》し鰯《いわし》はザルに溢《あふ》れいて [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 逃亡のアクセル●一九六一─六五 [#ここから2字下げ] ごうごうと心の火事を抱き眠る 夜の窓拭いて見えないものを見る 切手の位置に切手を貼って狂えない 狂犬の如く水呑む日がありぬ 蛇の皮たけのこの皮わたしの死 恋成れり四時には四時の汽車が出る 五月闇《さつきやみ》生みたい人の子を生まず 放心は隠しおおせし夕の膳 一人になると紫のつばき吐く 円周を歩く悪魔の指示通り 眼は節穴 だから他人は大好きだ 欲望はダリの絵となる部屋を閉ず うつむいて歩くと神の毛脛《けずね》見え 百合みだら五つひらいてみなみだら 掌《て》の中に響き鳴く蝉《せみ》握りしめ 蛇の衣《きぬ》吐かぬ思いは沼と化す ねじ伏せる荒き手を待つ夜もありぬ 孤独きわまり動物園に立っている しゃくり泣く男を足の下に見る 何を弾《はず》みに起き一日の序となすや セーターの腕ぶらぶらと恋に倦《う》む 男の嘘に敏感なふしあわせ 灯の下に闇に夫の手をおそれ 現実を破る一つの窓はあり わが心貫き流る一河 冬 北を指す雁《かり》が五六羽巣くう胸 裁《た》ち鋏《ばさみ》シャリシャリ人を忘れたく 三十をいくつ過ぎたと父が訊《き》く 口中に果実の匂い恋は果《は》つ 男の肩をゆする哀しや愚かしや 男の眼きのうはきのう今日は今日 別れねばならない人と象を見る 妊《みごも》りを拒む真深い闇の底 死顔の美しさなど何としょう 愛妻記神話のごとく読み終わり をんな火の芯《しん》となり早暁《そうぎよう》に坐す 男一人を埋ずめる穴を掘り急ぐ 蛍の匂い死臭となった過去のその 嫌い嫌い嫌い二の腕まで洗い 足指をぎしぎし洗うさびしい日 白昼夢女はつねに抱《いだ》かれる 風呂に水張って女に野望あり 人のかたちに押しつぶされて愛よ 瞳孔をしぼって嘘を見ています 百舌《もず》の舌裂けて私も眠り落つ てのひらで豆腐を切って思慕を断つ 今をただ深き眠りに憧れる 曼珠沙華《まんじゆしやげ》視野いっぱいの悔いである 花燃して残忍の自慰極まりぬ 女が女を見ていると淋しいね みんなうそつき吊皮がゆれている ある夜は多情の牝《めす》を身のうちに 劣等感|一途《いちず》に烏賊《いか》のわたを抜く 背信の夜明けの闇のその重き 思慕久し魚《さかな》は深い海に棲《す》む 包丁で指切るほどに逢いたいか 雪は汚れる プライドというは何 それでも刺すと日記には書いておく 落ちつけ落ちつけまずは茶碗を洗うこと 完敗のああにわとりは丸裸 はずむ日の猫ぎゅッと抱きぎゅッと抱き 魚《うお》よりもさとく心をひるがえし 男ののぞむ通りに生きて死にますか 靴の紐 男の帰心見ていたり 山は照る希望というはあのような 奪う愛きらきらとして海がある 三角に三角に未来図を折ろう 伝染《うつ》ってもいいかと愛は愛は愛は 女の髪を荒海と化す快感か くずされし髪を束《つか》ねて母となる 男に懲《こ》りて女に懲りてめぐり逢い 奪いつくしてよこの憎きもの女 決意する夜は人形のひとかわ目 この夫を愛そうとした昔 今 夫を愛せない刑罰は何ですか こぶしにしても女のまるいこぶしかな 自己愛の中氷片を噛《か》み砕く つらなってわたしを去ってゆく電車 あばかれる墓わが句帖夫の手に サタンになれぬ貞女ゆめゆめ時計巻くな 伏目の位置に男を置いてふしあわせ 罪あればあかつきの汗満身に 指が告白をしそうで握りしめ 脱いで脱いで脱いでどこまで女かな あきらめのバドミントンを高く打つ かなしみの遠去かる日は梨をむき ヘアピンで殺す男を視野に置く 夫が眠れば醒《さ》める鳥あり胸の奥 あたし答えましたその眼に答えました 開けゴマ愛の言葉のからまわり ガス栓を左に締めて夜は終わる 理解する限度男は靴を履き 理解する限度女は髪を梳《す》く 愛は春の豆の葉裏の白だった パセリ噛《か》む口惜しきことの次々に 寒いから寒いと言ったきり 夫婦 うなずいて男の知らぬ夜へ還る 貝になりたい爪十枚を放ちやる 突っ立って母を見おろすかなしい日 石投げて投げて波紋を休ませず 妻ですという美しき怒り見し こちらあなたの夫と死ぬる女です 泡消える 泡のようなる愛|欲《ほつ》す 地下街の売れない花に逢いにゆく 泳ぐ泳ぐ金魚はしあわせなのだろうか 逃亡のアクセル踏まれ燃える曇天 すべて正常ピエロは唇《くち》を耳まで裂き 遠い船 わたしは死んでいるのかな 腕の中 一本の花になりきる すでに女のいのち黄色《おうしよく》 晴天つづく 石を積む狂えぬまでに狂いたく 神サマ愛とはこんなに寒いものですか 人形の自問自答に歯が生える 思いきり獣になれよ棺ふさぐ 黙想の猫にキリキリ爪がある 身の奥の牙《きば》砥《と》ぐべきや秘すべきや 美文捧げまつる精神的娼婦 妻を愛すと人は言いにき乱反射 淋しいビルだよ山よりも今を聳《そび》えて 病夫の夢を盗んで戻りとぎれ笛 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 問わぬ愛●一九六六─七〇 [#ここから2字下げ] 沖を指す男の指に従《つ》いてゆく ビルの谷間でどうでもいいって淋しいね 泣いた泣いた沢山泣いたたくあんかじる 売らんかな悪女の白い膝がしら ほんとうに刺すからそこに立たないで 海に打つ杭《くい》 男の言葉聞いてはいない 夫にもう隠すものなし滅ぶのみ 始動音積木の崩る音より先 雄であるだけの男と見ている沖 腕立ての腕で支える恥の屋根 別れの季節今年の蝉《せみ》は耳朶《じだ》に鳴く 視界ぼうぼう八月の雪舞いはじむ 乳房つんつん逢いたくないと言うことも 眠ったふりで思慕は抜き手を切る如し 二人共すこしずつ老い時々逢い 一夜語り明かす電車に軋《きし》む家 山脈光り異性としての父は憎し みんな善人で銃殺刑である 打ち明けた悔い はなけれどころそうか 憎む日の犬に与える肉片太し 鴎《かもめ》の声重なる 愛に単色なし セーターの弾《はず》む偽りきのうより 心のどこか船を組む音|企《たくら》む音 花鉢抱いて小さな幸《さち》がいやになる 一月に生きて金魚の可能性 二ン月の裏に来ていた影法師 三月の風石に舞うめくるめき 四月散り敷いて企《たくら》み夜に成る 美しい五月正当化す別離 六月の雨まっさきに犬に降る 七月に透ける血脈陽を怖れ 八月の蝉《せみ》からからと完《おわ》りける 脈うつは九月の肌にして多恨 十月の藍《あい》の晴着に享《う》く光 あくまで白し十一月の喉《のんど》かな 極月《ごくげつ》のてのひらなれば萼《うてな》です 放心も四日に及びとがめられ 逢わぬゆえ言葉まみれの束《つか》ね髪 道しるべあれから狂い幸福です 愛もろし卵を割れば傷つく指 にんげんの背中の遠い物語 あの人を思いこの人見ています 雨の日のダイヤル通じそうで切る 夜ごと夜ごと乳房に旅人の棲《す》めり 走りつぐ駅駅 女とは何ぞ 美しい眼だよ悪事を知りつくし 忘れねば再びの日は約すまじ 男の洗う女の墓が炎《も》えてくる 乳房つんつん私に背き恋をする 何でも二つ並べてしまう淋しがり 女々《めめ》しさも女々し一途《いちず》の人の眼は 女への手紙|糊壺《のりつぼ》たっぷりと 火刑待つ すでに独善かもしれぬ 滝音よいつまで人の妻ならん 野火|這《は》わせひとつの愛を秘め通す 恋はうたかたよ湯気立つ栗ごはん 顎《あご》ぐいと持ちあげられている優位 こみあげるものも三十代後期 私には私の道のまっくらがり 寒椿女を捨てる日が近し ゆっさりと花あり騙《だま》しきれそうな 花ゆさりゆさりあなたを殺そうか 身売りの意志を喪失のマヌカン やさしさの限りの岸で人を断つ 梅雨を越す金魚と頒《わか》つ暗い朱《あか》 逢うて来て夜の西瓜《すいか》を真っぷたつ みつめ合うこの確かさは何だろう 粉々に女を砕く女が砕く 死ねぬ高さの崖で見ているものがある 彼も四十の屈折見せて昼の影 真夜中の女のいのち水欲しや 投げられた茶碗を拾う私を拾う 淵《ふち》を這《は》いあがる女は突きおとせ 淵を這いあがる男は見ていよう 菜の花菜の花子供でも産もうかな あきらめの大きな蝶を放つのだ 今があるのみいちどきに花降れよ 去年の私ではないハイビスカス咲いた 呑み干してしまった赤い椀の赤 愛から戻り魚を焦がす裏表 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 女のくらがり●一九七一─七五 [#ここから2字下げ] 累々と越えた男の一人と死ぬ 泣くほどの軽い別れは昔あり 灯の底であしたの爪を剪《き》りそろえ なつかしい顔よと思うひとごろし 起きて寝て 芋虫ならば蝶になる 別れ話の割箸につく口紅 視野の端いつも夢|食《は》む鳥が居て 窓みんなキララ 裏切りきっとある 男の家に赤い三輪車があった 長い塀だな長い女の一生だな 塀を曲がると蝙蝠《こうもり》になる いわし雲人に逢いたし逢いたくなし 考えているコスモスは薙《な》ぎ倒せ くり抜くとクラゲの形して 心 暁のマリアを同罪に堕《お》とす 神に答えんと一本の棒になる 投身の鏡にゆれ揺れるマリア 罪よ罪よと月の河童《かつぱ》が十匹ほど 一夫一婦を底から嗤《わら》い傾く屋根 ガム幾万吐き捨てられて沖縄よ 妻のこころに象の鎖が鳴っている 象を見ている静かで寒い時間だな 手が好きでやがてすべてが好きになる 産めるかもしれぬ女のいのち瀬戸際 川端康成自殺 背のない椅子に居る 欠伸《あくび》して四十歳が夢のよう シーソーに子のない夫婦浮き沈み 青いみかん人語を解すおそろしさ 草の駅あのころ汽車は恋だった 青春へ杏《あんず》一個を置き忘れ 生き残りたる青春は口にせず 姉もまた三年言わぬ愛のかたち 何だ何だと大きな月が昇りくる 拒《こば》み通す 私は誰の妻でもない 心欲しがる女は海に捨つるべし 斬《き》っても斬っても女のくらがり 顔洗う顔が小さくなっている おまえたまたま蜘蛛《くも》に生まれて春の中 浮袋沈む男に投げはせぬ 手の蛍握りつぶせば死ぬけれど 続くコンテナ恋のおわりは爽やかよ 蓑虫を叩き落としたほどのこと かの子には一平が居たながい雨 逢う人も逢いたき人もなし虫闇《むしやみ》 舟虫よお前卑怯でうつくしい 草に伏し いのちの音は男のもの 行く末を激しく問いぬキリギリス 一椀置かれ情けに死んでなるものか 河口烈風 産んで別れてきた女に 涙せず 人を嫌いと言い切るとき けだものの心ごころの満月よ わが恋の鳥獣戯画も古《ふ》りにけり ほんとうに泣いてくれたは獣たち 中年や不発の弾は温《ぬく》みもつ かつて乳房は古墳の形して在りし 疑いの長い九月の鯖《さば》の色 未定しずか 厨《くりや》に魚《うお》の血を流す 惜命《しやくみよう》の乳房おどけて湯に浮いて 何を流そうかと橋の上にいる いろいろ流れ岸の男も流れたり 一生に一度のいいえですあなた 人間の生《な》る樹の下で静かだな 意志はもう隠しようなき足袋《たび》の先 愛などと爪きる音のひびく部屋 流れつつ美しい日がまれにある 胸に深き土足のあとは四十の愚 花は女よ鍋かたむけて煮つめる花 私ですか ユーフォーを待っている ふたたびの男女となりぬ春の泥 泥のやさしさとしばらく遊ぶ気に 四時の家|秘《ひそ》かなものは煮えつづける 幾万の目に蔑《さげす》まれ歩き出す つきつめてゆくと愛かなてんと虫 包丁の細き殺意も梅雨の入り 妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来《こ》よ 間違いは間違いとおせ桐の花 紐をかけられた心は独楽《こま》になる ころしたき死にたき煙 呆《ほう》と立つ 恋は終わったが乳臭きこのいのち 逢いたしとみつめて猫に逃げられる 憎しみとフォークの先はすぐ曲がる あいつを塗りつぶす黒かな黄色かな 生涯胸を去らざるものに黒|揚羽《あげは》 日ざらしの洗濯バサミ不意に泣く この世のことはこの世で終るバス走る 愛があり大きなキャベツたべつくす 手紙は三日前の心で濡れて着く 人生のこんなところで笑う人 中年やぱッと火がつくセルロイド みつめられてあなたの憐れみに耐える きのう燃えたのは一抱えの藁《わら》しべ 一日置いて思い直しはしない猫 まだ咲いているのは夾竹桃《きようちくとう》のバカ 狂ってもちゃんと出来ます廻れ右 生んだ覚えのある子が敵になってゆく 命がけのじゃんけんぽんもありぬべし [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 有夫恋●一九七六─八〇 [#ここから2字下げ] 抱かれたくなる 不意打ちのロック 象が膝折る 涙が湧いてくる それも百体 人形が目をひらく 愛はそのとき物乞いに似たるかな 杏《あんず》咲き自愛きわまるわがメンス 菜の花菜の花疲れてしまうコトバたち 波の宿 別れてあげることにする まして女の中を流れた十年よ 飛行機の昇る角度は恋に似る 飛行機の降りる角度は愛に似る 青梅を叩き落として夫婦かな 煮えすぎた素麺《そうめん》がある女の死 しずかに別れたかったけれど砂塵 君は日の子われは月の子顔上げよ 火の女とて昼の戸を閉ざされる チベットへ行きたや豆の鍋煮える 愛も果てかな墓掘りを志す 人また勁《つよ》しやがて失意を飼い馴らす 獣姦求む急いで森の奥へ来《こ》よ 獣姦輪姦強姦この身まだ美し 男を脱ぐ青のしたたる朝なりし ああいのちエロスの海に捧げきる 波のまにまに今ぞ女に生まれしよ 昇天のかもめを抜けて更に更に 光あまねく一瞬の身を貫くよ 梨の芯かなしいせっくすがおわる きりきりと女極道《おんなごくどう》月影踏む 人を信じた舟を一|艘《そう》焼き尽くす ポケットの手を出しなさいお別れです さくら咲く一人ころして一人産む 相愛の五月 血の音聴き給え 百匹の蛍を握りつぶすかな 麦ばたけ健気《けなげ》に朽ちる猫の骨 毬《まり》はもう戻らぬ旅の坂落し 結び目の三十年の瘤《こぶ》の垢《あか》 親は要《い》りませぬ橋から唾《つば》を吐く 血の中に今百匹のキリギリス 舌端《ぜつたん》を朝日に向けて恥多し 一生かけて一個のバケツつぶせるか 夕焼けの部屋抱きしめるものがある わが日々はサーカスもどき梅もどき 秋から冬へ急ぎ 母には逢いたくなし 木犀《もくせい》の匂う近道 父に遇う 膝がしら涙受けむと生まれしか わたしから散る散る紅《くれない》の山茶花 清冽《せいれつ》な川がわたしを貫《つらぬ》くよ 裂ける雷《らい》ただひたむきの裸身たり 母からの手紙を焼いて放火罪 墓の下の男の下に眠りたや 神様に許されたくて兎跳び わたくしも電車も人を吐きつづけ 身のどこか激しく芽吹く窓を閉ず すべての男一人の男 沼の照る 鬼と暮らして鬼のふんどし洗いおり 輪姦の村傾いて十三夜 ころしてよ頸《くび》に冷たい手を巻いてよ こおろぎの顔つくづくと四十すぎ 姉妹で母をそしりし海が見え わが胸で伐採音の絶え間なし ぬけぬけと金魚の墓のいつまで朱《しゆ》 桃の雨人の背中は押しやすし 菜の花の風はつめたし有夫恋《ゆうふれん》 浮かれごころは作りごころよ花の下 豆が煮えている魔の刻は横すべり 暖冬にうまく女を捨てましょう 守宮《やもり》やわらかし私もやわらかし 大花火そして約束忘れきる よその男と命の芯をみつめ合う レモンぱりッとすべてを信じ切ることだ 指で梳《す》く髪あしたからまたひとり 酒呑童子《しゆてんどうじ》の汗噴く胸がふるさとよ 秋の日はつるべ落としよ重ね婚 秋の夜はとろりとろりと褒《ほ》めごろし 小さいほうがわたし二匹の鮪《まぐろ》寝る 一枚の海見届けて妻になる 離婚前王手王手の詰将棋 カザノヴァに逢いたや指の反《そ》るほどに ビール缶ぺこんと暮らし荒れてゆく 答えはいつも生きていたいという汽車だ 千人の男ねむらせまだ沖へ じゃんけんの好きな男の妻になる 愛果てて蟻《あり》百匹と眠るかな 暗い火を瞳孔に見て別れられぬ かなしみを見たので伏せる洗面器 すかんぽのぽかんと今があるばかり さようなら心をこめて怨《えん》こめて 別れたらチロリン村へ行くつもり 日が昇るようにも信じたは何か [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 除籍入籍●一九八一─八七 [#ここから2字下げ] 新しい男しばらく鹿の艶《つや》 どうあろうとも半生は過ぎにけり よき別れ春の畳に大の字に わたくしは遊女よ昼の灯を点《とも》し 頭を並ベ魚《うお》のかなしみ動かざる 狂えねば五月の花を食いつくす 今日届く手紙とつばくろを信ず 十人の男を呑《の》んで九人|吐《は》く 愛はもう問わず重ねたパンを切る じゃあというハイという永遠の別れ 雷神の女房志願まだ捨てず こんないのちでよろしいならば風呂敷に 黙って黙って二匹の魚《うお》になるまでは 一つだけ言葉惜しめばまた逢える 智恵子の千鳥わたしの千鳥|啼《な》きもつれ うしろから目かくし神か仏かな やさしさに髄《ずい》から哭《な》いて遊女たり シャワー室 肉の落ちゆく音といる ああと声洩らして一人 野には花 荷が届く 友の思いの固結び あやまちを愛と見定めねむること 鏡には現在《いま》が映りぬ さみしかり 愛咬《あいこう》やはるかはるかにさくら散る 逢えば死にたし応えて頸《くび》が細くなる 夜明けかな美は乱調にありて 乱 引越してわが跫音《あしおと》の高き部屋 この町の鬼に一礼して住みぬ どうぞあなたも孤独であってほしい雨 五十を過ぎて天神さまの細道じゃ こいびとをねむらせ暗黒へ嫁ぐ 傷口にこツんと触れるお月さま 子を生みしことは幻 天高し 死のような快楽《けらく》覚えし洗い髪 わたくしの野焼き始まる夕焼よ 去年いちばん愛らしかったのはおへそ 今ぞ今 死は生きること生きて死ぬこと 君は天馬よ打ち跨《また》がりて鞭《むち》当てん 鮟鱇《あんこう》の肝《きも》喰らわんか人喰うか 神様と別れるかしわ手を二つ 花に目を細め細めて男好き テニスして妻抱くことは忘られよ 小波《さざなみ》の田に何植えん人植えん 春あたらし男をちょいと遠ざけて 流し目や軌道を外れてゆく電車 水底《みなぞこ》のあなたを掴《つか》むやわらかき 男軽し軽し力点ずれてくる 真夜中の守宮《やもり》あをしと誰に書く ただそこに在りゆうぐれの月見草 あの世からヨイショと橋を架けられる 逢いたしと秋風《しゆうふう》に鈴吊るしけり 赤い実を食べてたかだか五十すぎ 弓なりの背中からまた虹立つよ 秋薔薇《あきそうび》 黄昏《たそがれ》 別れられそうな 靄月夜《もやづくよ》 金魚は寝たか 君寝たか ののしりの果ての身重ね 昼の闇 春や春 男愛して明《めい》たらず 嫉妬せり世の黒青《こくじよう》を掻き集め しずかなしずかなつまらない夜明け いのち三文こころ三文ひとり坂 死に体を抱かれていたり桜いろ 八重桜まぶた重たき共暮らし 不意に愛 男のような眉になる 入っています入っていますこの世です 出て行かぬ男と女 池の鯉 離婚こんこん雪やこんこん人の世に あとすこしなれば許されずに歩く われよりも命つめたき花|欲《ほつ》す 古|箪笥《だんす》むかしのお手紙がわんさ 戸籍簿にあれよあれよと世帯主 骨ひろい誰かおもしろがっている またの夜は酒を煮立ててみたりする 臥床《がしよう》乱 起床《きしよう》乱乱 音もなし いっぴきの男|葬《ほうむ》る目に力 慣れぬ町きょうはポストに会釈《えしやく》して ガス点じひとりぐらしの隅のくらさ 七草や男の数は言わぬこと 爪立ててこの数日は猫に似し れんげ菜の花この世の旅もあとすこし ぞんぶんに人を泣かしめ粥《かゆ》うまし 冬の野は真紅《しんく》わたしは嫁にゆく 深鍋に魚《うお》の声して新所帯 雪舞いのついでよ天に抱き取らる 人の世に許されざるは美しき 体内にオリオン誕《う》まれたるを秘す 某年の悲苦忘れまじ桃の花 子離れも男離れも雲の中 除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中 ももいろの猫抱きこれからがおぼろ [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   文庫版あとがき 『有夫恋』が出てから十年目の冬を迎えました。  現代の川柳は、古川柳時代の「穿ち」「軽み」「笑い」の三要素から大きく脱皮して、心象風景のあるがままを吐ける文芸になっています。『有夫恋』もそうした時代背景の中で生まれました。  十七歳で嫁ぎました私が、女として自立し、恋を恋し、人を恋して生きますには、常に有夫の身であることを自覚しなければなりませんでした。  五・七・五の川柳の世界。そこだけが私にとって自由に生きられる世界でした。私は川柳の中でのみ、存分に生きてきたように思います。 『有夫恋』は、『時実新子一萬句集』の中から、朝日新聞社のスタッフによって選びだされたものです。それだけに、私自身があっと息をのむほど、新鮮な本になって世の中に出ていきました。  短詩型文芸は売れないというジンクスを破ることができましたのも、そのおかげだと感謝しています。もちろん、私の川柳を、人の思いの極限のところで受けとめ、求めてくださった読者のみなさまへの感謝は、筆舌につくせないものがあります。  もしも、『有夫恋』の背景と申しますか、新子の川柳人生に興味をもってくださるお方がありましたなら、現在、店頭にあります朝日文庫の『花の結び目』に克明に書いておりますので、併せてごらんいただければうれしく思います。  このたび『有夫恋』が角川文庫になって、より多くの方々に読んでいただけることになりました。その幸せをかみしめる中で、お世話になった河野恵子さんはじめ、スタッフの方々に厚くお礼を申しあげます。  一九九六年 冬 [#地付き]時実新子    本書は一九九二年五月、朝日新聞社刊行の文庫を収録したものです。