色闇 山藍紫姫子 [#表紙(表紙.jpg、横92×縦144)] 目 次  色 闇   第一章 色若衆   第二章 男 寵   第三章 仕掛け餌   第四章 色はふたつ   第五章 疑 惑   第六章 裏切り   第七章 凶 賊   第八章 色 闇  狗  あとがき [#改ページ]   色 闇 [#改ページ]  第一章 色若衆      壱 「わたくしどもはみな、中郷主膳《なかごうしゆぜん》さまのお働きがあるお陰で、枕を高くして眠られるというものでございますよ」  牙神尚照《きばがみなおてる》の隠居所に呼ばれた近江屋曾兵衛《おうみやそうべえ》は、反物を、巧みな手さばきで展《ひろ》げてゆきながら、さりげない世間話の調子で切りだした。  呉服商近江屋の主人が讃《たた》えるのは、火付盗賊|改方《あらためかた》中郷主膳のことである。  中郷は、三年前に牙神の後任となって役目に就くなり、精力的に動きだし、江戸の夜を荒らす賊は一人も逃さない勢いで狩りたてているのだ。  めざましい活躍の中郷さまに比べ、現在《いま》の牙神さまは……と曾兵衛は続けたいのを怺《こら》え、黙った。  現在《いま》の牙神は、大《おお》河内《こうち》家に嫁いだ姉の次男で、十九になる惣次郎《そうじろう》を養子に迎えて当主とした後、自分は、別棟で隠居同然の生活に入っている。  近江屋曾兵衛には、それが残念でならないのだ。  春先に吹く、黄砂まじりの風を嫌って閉じられた座敷のなかには、牙神と曾兵衛だけだ。  荷を背負ってきた近江屋の手代は、台所で下働きのお民に茶を振る舞われているだろう。二人だけということもあって、牙神はさらりと言った。 「中郷殿とおれでは、元来のでき具合が違うのであろうな」 「そのような牙神さまのお言葉を聞きたいわけではございませんものを……」  豊かに老いた近江屋曾兵衛の柔和な表情に、困惑とも、憐憫《れんびん》ともとれる、かすかな歪《ゆが》みが起こった。  近江屋曾兵衛は、二十数年前、先代に連れられて牙神家へ伺候したときに、まだ前髪立ちの初々しい少年だった尚照に会い、いらい、成長を我が眼で見てきた。  家禄《かろく》五百石の旗本に生まれた尚照は、やがて父の家督を継ぎ、順調に立身を重ねて齢《よわい》三十《みそじ》の若さで火盗改方長官に任命された。  ところが、牙神は在任中に妻子を人質に捕られ、獄門を待つばかりの盗賊一味の解き放ちを要求されるという奇禍に遭遇したのだ。  牙神が、卑怯《ひきよう》卑劣な脅しに屈せず職務を遂行した翌日には、妻雪江の凌辱《りようじよく》死体が見つかり、一人息子仙太郎は行方知れずになるという最悪の結果をまねいた。  手を尽くして捜したが、四年経った現在《いま》も、仙太郎の生死はわからない。  この、妻と子を失った脅迫事件は、公にはされず、雪江と遺体なき仙太郎は、病死あつかいで葬儀が執りおこなわれた。  牙神自身は、降りかかった悲劇を誰にも気づかせず、前後して、犬面を着けて江戸中を荒らしまわる凶賊一味を一網打尽にするなどの活躍をみせた。  しかし、凶賊の首領二代目犬神の早太郎を追い詰め、寸前で逃がしたその大捕り物を最後に、牙神は、すこしずつ覇気を失っていったらしく、翌年にはお役目を辞した。  当時、頻繁に出入りしていた近江屋曾兵衛は、役目を第一に考え、妻と子を犠牲にした牙神の苦悩と哀しみを知る、ごく限られた者のうちの一人である。  深く牙神に同情する曾兵衛だが、能力もある働き盛りの男が枯れてしまったのを惜しみ、再起してほしいと願っているのだ。  それが昨日、春めいた振り袖《そで》の何枚かを仕立てたいので屋敷を訪ねるようにと牙神の使いがきて、曾兵衛は取って置きを持って駆けつけたのだった。  座敷のなかに、二枚と重ならない手際のよさで展げられた反物は、友禅から、惣鹿子《そうがのこ》、光沢のある緞子《どんす》に、縮緬《ちりめん》、錦紗《きんしや》、繍物《ぬいとりもの》と、どれも逸品ぞろいで値の張るものばかりだ。  思案げに見ていた牙神だが、錦《にしき》の河のような反物のなかから、薄い水色に桜花を散らした友禅と、やはり薄い桃色地の縮緬を手にとった。 「あれには…、柔らかい、優しい色を着せたいのだ」  反物を見比べる牙神の眼眸《まなざし》には、熱が宿っている。どこかに想う女ができたのだと察して、曾兵衛はそれとなく訊《き》いた。 「お年のころはお幾つくらいで?」 「はじめは、十七か八にはなったであろうと見ていたのだが、本当のところは十六だ」  年を重ねるとともに、若い娘に目がゆくのは男の性《さが》のようなものだ。  曾兵衛は心得たとばかりに頷《うなず》くと、すこしでも牙神と釣り合いがとれるものを考え、大人びて見える色を選んだ。 「この臙脂《えんじ》などはいかがなものでございましょう? お若い方でいらっしゃれば、少々濃い目の色合いをお選びになられますと、お顔立ちも引き締まり……」  気を利かせたつもりの曾兵衛を、牙神が遮った。 「いや、よいのだ。濃い色や、はっきりした色柄を着せちまうとな、人目を惹《ひ》きすぎるのでな」  長いつきあいの気安さもあり、曾兵衛にむけた牙神の口調は砕けている。  だが、何気なく答える牙神の横顔には、三十を過ぎた鰥夫《やもめ》が、若い後添えを迎えるときなどに垣間見《かいまみ》せる照れも、衒《てら》いもない。  曾兵衛は気づいたが、当たり障りのない相槌《あいづち》を打った。 「それはそれはご心配でございますねえ。して、どのようなお方でいらっしゃいますので?」  尋ねられ、反物から視線を曾兵衛へと移した牙神は、臆面《おくめん》もなく言った。 「ちょいとばかり凄《すご》いぞ。まっ白い牡丹《ぼたん》のごとく、高貴で美しいのだ。傍《そば》にいるだけで心が昂《たか》ぶってくる」  牙神の言葉は、曾兵衛に強い興味を抱かせた。 「まさか、牙神さまがそこまでおっしゃるとは——…」  曾兵衛を遮って、さらに牙神は秘密を打ち明けるかのように、低く、囁《ささや》く口調で言った。 「だがな近江屋。その白牡丹にはな、根に毒があるのだ。喰《く》らうたびにな、毒がおれの身体にまわる」  はて? といった顔になった曾兵衛を、牙神が笑った。  笑うと、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほど佳《よ》い男ぶりになる。  利発な少年だった牙神は、長じて役者にでもしたいほどの男前になり、妻と子を得て、大事なお役目に就いてからは、苦み走った魅力が備わっていった。  その、男としての魅力にいささかの衰えもないのだが、いまの牙神は、曾兵衛から見れば、物足りなかった。  新しい恋女ができて、あるいは後添えを迎えることで、奮起し、立ち直ってほしかったのだが、話しぶりを聴いていると、どうも怪しい。 「白牡丹に毒でございますか。はてさて、どのような女性なのやら想像がつきかねます」  困惑し、首をかしげた曾兵衛に、牙神は答える必要がなかった。  折りよく、廊下側から衣擦《きぬず》れの音が聞こえてきたのだ。  障子があいた気配に顔を向けた曾兵衛の方は、戦慄《おのの》き、言葉も、身動《みじろ》ぎさえも失うことになった。  入ってきたのが、目の覚めるような美貌《びぼう》の若衆であったからだ。 「名は月弥《つきや》といってな、半年ほど前から当家で預かり、おれの小姓《こしよう》として召し使っておる者だ」  桜に黄色を混ぜた朱鷺《とき》色の振り袖に、袴《はかま》は銀箔《ぎんぱく》の縦縞《たてじま》というきらきらしい出《い》で立ちの美小姓は、切れ長の眸《め》で曾兵衛を横目に見てから、牙神のかたわらに添った。  瞠目《どうもく》していた曾兵衛だが、驚いた己を立て直し、丁重に頭をさげた。 「てまえは、ご贔屓《ひいき》いただいております近江屋でございます」  充分な間をおいて頭をあげた曾兵衛は、あらためて目の前の月弥を眺めた。  年のころは、十六か七。前髪を立てた頭の後ろで髪はひとつに結んでいるので、女髪をいじっただけのようにも見えた。  一瞬、少女なのか……と疑ったが、ほっそりとした首筋、胸もとの薄さ、柳眉《りゆうび》の怜悧《れいり》さに、男子であるのは曾兵衛にも明白《はつきり》とわかった。  男子と判じたところでふたたび、牙神が色若衆《いろわかしゆ》に入れあげていることに、曾兵衛は呆然《ぼうぜん》とせずにはいられないのだ。  驚きのあまり、遠慮を欠いた曾兵衛の視線にさらされる月弥だが、動じたところはみじんもない。妖《あや》しい色若衆の魅力を放ちながら、牙神に寄り添っている。  牙神が白い牡丹といったのは、肌の白さ、そして美しさと可憐《かれん》さ、華やかさと雅《みやび》やかさからだろうが、近くにいるというだけで、曾兵衛も落ち着かなくなってきた。 「月弥、そなたの着物だ。好きなものを選ぶがよいぞ」  曾兵衛を困惑させたまま、牙神が部屋中に展《ひろ》がった錦の河を指し示すと、美貌の小姓はたおやかな腕を伸ばし、あっという間に三、四反選びだしていた。 「お、おい、おい、それくらいで勘弁してくれ」  ついには牙神が悲鳴をあげて制《と》めなければ、値の張るものばかりが根こそぎ選ばれてしまいそうだった。  それも、紗地に金銀錦の糸を織り込んだ錦紗縮緬、鮮やかな絵模様の染められた友禅、藤紫の光沢を放つ緞子…と、牙神の匿《かく》しておきたいという思惑をみごとに裏切る、華美なものばかりだ。 「これ、月弥よ、今日のところはこれだけにして、他はまた今度にしてくれ、な」  八色の染糸で模様|刺繍《ししゆう》を施した派手な縮緬はどうかと胸先に当てていた小姓は、ほしいままに購《あがな》ってはくれない情人を恨み、切れ長の眼で睨《にら》んだ。  眼眸《まなざし》には、男の芯《しん》を炙《あぶ》るような、凄《すさ》まじい色香がある。 「月弥は何事も殿さまの思《おぼ》し召しどおりにいたしましょう。昼も…夜も……」  当てつけがましいことを、美小姓の綺麗《きれい》な声が口にする。 「聞き分けてくれたか、ではな、近江屋とはまだ大事な話が残っておるゆえ、自分の部屋に戻っておれ、な、な月弥」  慌てて牙神が追い出そうとすると、色小姓は淑《しと》やかに従い、一礼の後に退《さが》っていった。  障子が閉められ、さやさやとした衣擦れの音が遠ざかってゆく。  かすかに残る伽羅《きやら》の香りが、夢を見ていたのではない証拠だった。 「いや、はや……」  曾兵衛は、汗ばんだ手のなかを持てあました。  半年ほど前から預かっていると牙神は言った。それでは現在《いま》の牙神は、あの小姓と二人きりで、本宅から離れたこの隠居所に暮らしていることになる。  だが月弥はどう見ても、なにかの事情で預けられた他家の次男、三男といった様子ではない。芝居小屋か陰間《かげま》茶屋から、牙神が金で落籍《ひ》いてきた色子としか思われない色香を漂わせ、その美貌はおそろしいほどだ。  もはや曾兵衛も、牙神が心配するのもわからないではなかった。  淡い色合いでくるみ、匿しておかなければ、華美な衣装と小姓の美貌とは相乗の効果を得、いっそう、もの凄まじい艶《つや》を放つだろうからだ。 「桜屋敷の花見に着せたいのでな、広袖《ひろそで》の振り袖に仕立て、いそぎ届けてくれ」  牙神の注文を聞き、またも曾兵衛は動転させられた。  桜屋敷とは、広大な園庭を所有する、さる大名家の下屋敷のことだ。  そのような場所に色小姓など連れていっては、後の騒ぎ、中傷が、そら恐ろしく思われてくる。 「お戯れが過ぎますのでは……」  身分を弁《わきま》えずに、つい意見が出てしまったのも、曾兵衛が牙神を思うあまりのことだ。  わかっていて、牙神はかるく払った。 「近江屋、どうせ堅苦しく生きても寿命は同じ、それならば、恋の闇に堕《お》ちてみるのもよいではないか……」  自分は恋の病に心が乱れて理性を失い、日ごろの分別をなくしているが、重々承知のことなのだと、牙神は言いたいのだ。  すると曾兵衛の困惑はなおも深まった。  少年のころから牙神には、男寵《だんちよう》のそぶりも、気配もなかった。二十二の歳には妻を娶《めと》り、跡継ぎに恵まれ、誰の眼にも幸せそうな夫婦だった。  鰥夫になったとはいえ、牙神と男寵が曾兵衛の裡《なか》では結びつかないのだ。 「しかし、なぜ…、色小姓とは——…」  あまりのことに曾兵衛から独り言が洩《も》れでてしまう。聞きつけた牙神は、察してくれとばかりに照れくさげな顔をした。 「それはな、おれにもわからぬのだから、どうしようもない。だが、あれは特別なのだ。いまも、想うてみただけでたまらなくなるほどにな」  苦笑をまじえて、牙神が頸筋《くびすじ》を撫《な》でている。  どう答えてよいのやらわからずに、開きかけた口をつぼめた曾兵衛は、いまだに牙神が、妻子を失った心の傷から立ち直れていないのだと推し量るしかなかった。  傷ついてできた心の穴に、あの美しい若衆の持つ毒が染み込んだのだ。  色小姓の華の時間《とき》は短い。あれほどの美質は稀《まれ》であっても、もう二年も経てば、骨も育ち、男のかたちを成してくるだろう。そうすれば自然と、牙神の『恋の闇』も明けるだろう…。  近江屋曾兵衛は、憂慮を抱きつつ、間もなく牙神邸の隠居所を後にした。  牙神は、かたわらに置かれた蒔絵《まきえ》の煙草盆を引き寄せると、煙管《キセル》にきざみ煙草を詰め、ゆっくりと一喫《いつぷく》した。  昔なじみの老人を驚かせ過ぎたかと気の毒に思いながらも、当惑と落胆、それから心配と同情へ変わっていった近江屋の表情に思いだし笑いがこみあげてくる。  月弥もなかなかのものだった。  かれは、牙神の意を体するかのごとくに、近江屋の前で、妖しく、淫《みだ》りがわしい色小姓であるというそぶりを示してくれたのだ。  だが、かつて牙神自身も騙《だま》され、惑わされたが、月弥は見かけ通りの色が売り物の若衆ではないのだ。  むしろ、従順を装う、野の獣だった。  月弥と会い、初めて抱いたのは、半年前、秋も終わろうとするころだった。  閻魔《えんま》堂に集う娼婦《しようふ》たちのなかに、際立って美しい陰間がいて、どうも夜鷹《よたか》相手に違法の自製堕胎薬を売っていると、密偵の助猿《すけざる》から聴かされ、興味を持ったのがきっかけだった。  牙神はこのとき、堕胎薬売買などは取り締まるつもりもなかった。  ただ助猿が、薬を買った夜鷹のその後を知りたがったがために出かけてゆき、屋根船のなかから、噂の陰間を見たのだ。  見た瞬間に、牙神は、場末の陰間に身を窶《やつ》した月弥と自分の間に存在する——運命的な絆《きずな》に気がついた。  さらに数年前のことである。  犬神の早太郎率いる盗賊どもが、十数人で徒党を組み、犬面を被《かぶ》って江戸の夜を荒らしまわっていた。  犬面を被った一味は、押し込み先で金品を奪うだけでなく、男は即座に殺し、女は強姦してから殺す。その上、家屋敷には火を放つという凶悪ぶりだった。  それが梅雨のころ、牙神が使っていた密偵により、犬神の早太郎が釘《くぎ》を踏んだ足傷がもとで死んだと聴かされたのも束の間、秋口に入るとふたたび、二代目早太郎が一味を率いて江戸の夜を修羅に変えた。  やがて、追うばかりでなく、あらかじめ罠《わな》をはって捕縛に備えた牙神の策が功を奏し、大捕り物の末に犬神一味は捕らえられたが、寸前で、二代目早太郎は配下の犬面どもに守られ、脱出してしまったのだ。  牙神にとっては一世一代の失敗《しくじ》りとなった。  だが、狩人《かりうど》と、獲物の関係には、断ちがたい結びつきが存在するという——。  三年近い月日を経ていたが、牙神は月弥の正体、——唯一取り逃がした凶賊一味の頭領、二代目犬神の早太郎であることを見ぬいた。  川縁《かわべり》で客を待っていた月弥もまた、闇の奥から自分に注がれる男の視線に感応した。  鋭い感覚で危険を察した月弥を、もはや牙神は逃がさなかった。  配下の小杉|左京太《さきようた》を使って月弥を助猿の屋根船に連れ込み、縛りあげてなぶり責めにかけたのだ。  敵と憎む男に買われ、身も心もどろどろに蕩《と》けるほどに弄《なぶ》り犯されても陥落《おち》なかった月弥だが、銀色に輝くすすきの原で狩りたてられて、ついには二代目犬神の早太郎であると認め、屈伏した。 「殺せ」とばかりに、蒼《あお》い燐光《りんこう》を放つ眼で牙神を睨んだ月弥からは、艶《なま》めかしい陰間のそぶりが消え失《う》せ、水晶のごとく、貴く、冷たい輝きがにじみでていた。  その玲瓏《れいろう》さが月弥の本質なのだ。  たまらない気持ちに衝《つ》きあげられて、牙神は捕らえた月弥をすすきの原で抱いた。  上位の獣が、仔《こ》どもを従わせるように犯してから、密偵になることを強要したのだ。  怨《うら》みがましい眼眸《まなざし》で睨《にら》んできたが、月弥は従わざるを得なかった。  いらい半年が経った。  牙神は月弥を隠居所に住まわせ、密偵というよりは、寵童として遇《あつか》い、男同士の官能を極めつくすまで分かちあっているのだ。  月弥との過去を思い起こしているうちに、むずがゆいような落ち着かない気分になってきた牙神は、煙管を置いて、立ちあがった。  欲望の抑えが利かなくなるのは危険な兆候だとわかっていたが、月弥の肉体を愉《たの》しみたくなったのだ。  狭い隠居所の、自分が使っていた奥座敷の一間を月弥に与えたので、二人の寝所は隣り合わせになっている。牙神はそちらへと向かい、廊下側から声をかけた。 「月弥……」  返事を待たずに、牙神は障子戸を開けた。  絶美の色小姓を囲っているにしては、殺風景な部屋だった。  そして月弥は、明かり障子の前で、手製の鞠《まり》に色糸を巻いていた。  遠慮なく部屋に入った牙神は、月弥の背後に迫ると、ほっそりとのびた背に向かって声をかけた。 「近江屋は、そなたを見て目を白黒させておったぞ」  何色かの色糸を集め、鞠に模様をつけていた月弥が、手をとめ、流れるような動作で振り返った。 「殿さま、それは良うございましたなあ」  媚《こ》びをからめた口調だが、うつくしい声はつめたかった。  いまごろ店にもどり着いた近江屋は、牙神が色小姓に入れ込み、正気を失いつつあると嘆いているだろう。秘密はすぐさま漏れでて、ひろまってゆくと思われる。 「態《わざ》と、おれを困らせてくれたのだな、…月弥」  近江屋の前から慌てて月弥を下がらせた牙神だが、あのときの狼狽《ろうばい》は、必ずしも演技ばかりではなかった。  思い起こすように、月弥が切れ長の双眸《そうぼう》を細めた。 「本当のことを言ったまででございます」  赤い口唇《くちびる》の端が左右に吊《つ》りあがり、皮肉めいた微笑がうかぶ。  いまの月弥には、色若衆としてのなよやかさ、猥《みだ》りがましさ、嬌《なま》めかしさというものがいっさい欠落していて、鋭い光を内蔵する玉のようだった。  だが、ぞっとさせられるほどに美しく、牙神は見惚《みと》れた。  魔が宿っているとしか思われない。さすがの牙神も、そう思うことでしか、月弥の美しさを理解することはできないのだ。 「憎いやつめ」  芝居がかった物言いをして、牙神は背後から月弥を抱きしめ、朱鷺《とき》色の振り袖《そで》の、水色の半襟をのぞかせる襟元から強引に腕を差し入れた。  絖《ぬめ》のごとくになめらかな肌に添わせて手をすべりこませ、胸の突起にたどりつくと、ゆるやかに指の腹で弄《もてあそ》んだ。  かすかに頤《おとがい》をそらし、背後の牙神に身体をあずけた月弥の手から、作りかけの鞠がこぼれ落ちて、二度、三度と畳の上を跳ねた。 「あ——っ…」  転がっていく鞠を追うように月弥が声をたて、牙神の意識も一瞬だけそちらへと逸《そ》れた。  その隙を衝いて、月弥は牙神の腕を払いのけると、抱擁から逃れ、立ちあがった。 「待て」  呼びとめる牙神を振り返らずに、月弥は素早く衣紋の乱れを直し、部屋を出ていこうとしている。 「待てと言っておる」  月弥は、廊下側の障子を開けたところで、狡《ずる》い猫のように眼をきらめかせ、牙神を睨んだ。 「小用でございます。ともに参られますのか?」  嘘だとわかる。拒絶された牙神は退き、出てゆくことを許した。 「申の刻までには戻って参れよ。それから、心得ておるとは思うが——…」 「女とは遊んでならないとのお申しつけでごさいますな」  牙神は捕らえた翌日から、月弥にはなに不自由なく与え、贅沢《ぜいたく》をさせ、可愛がっているのだが、ただひとつ、女犯を禁じていた。  女体を知ってしまった少年は、それまでのはかなさを失う。月弥がどう変わるかはわからなかったが、予測できないだけに、まだ、許さないのだ。  月弥の方も、女を必要とするそぶりはない。数えで十六歳になったばかりで、受け身に仕込まれた肉体は、まだ男としては開眼しないようだった。  犬面の凶賊たちが、押し入った先で女を犯すのに一人だけ加わらなかった二代目早太郎には、自身が女ではないかという噂もあったくらいだ。  いまにして思えばわかるが、先代の息子として二代目を継いだときには、月弥はまだ十二になったかならないかの稚《おさな》さだったのだ。  現在《いま》も、大人びて美しいが、うつむいた横顔などに、年相応の稚さと可憐《かれん》さを垣間見《かいまみ》ることができる。  男でも女でもなく、子供でも大人でもなく、清らかでもなく穢《けが》れてもいない。それが月弥だった。 「わかっておればよい。金は?」  出かけるのならば金が必要だろうと気を利かせる牙神に、月弥は噛《か》みつくように答えた。 「要りませぬ」  言うなり、月弥はすねた子供のようにぷいと横を向くと、そのまま振り返りもせずに牙神の前から遠ざかっていった。  屋敷を出て、月弥がどこへ行くのかはだいたいの見当が付いていた。  最初のころは、逃げるのではないかという危惧《きぐ》から、尾行させたこともあったが、もはやその心配はしていなかった。  もっとも牙神は、月弥の育ての親ともいえる老人、先代犬神の早太郎の弟、——病に冒され、盗賊稼業から身を退《ひ》いた蛾次郎《がじろう》を、半ば人質同然に隠しているため、月弥は逃げられないのだ。  部屋の隅に、月弥の手からこぼれ落ちた鞠がぽつんと残っていた。  取りあげた牙神は、何色かの色糸を巻きつけることによって描き出された模様を見た。  月弥を離れに連れてきた当初のことだ。  牙神は、新しい衣装を揃えてやり、髪結い賃を惜しんで括《くく》っただけにされていた髪も整えさせた。  腰のあたりまであった長い髪を、肩口で切りそろえさせたのだ。  月弥は抵抗はしなかったが、髪に未練があったのか、切られた髪を芯《しん》にまとめ、すこしずつ集めた綿やら、端布でくるみ、糸を巻きつけて鞠をこしらえはじめた。  そのうちに、何色かの染め糸を手に入れてきて、勘だけを頼りに組み合わせ、綺麗《きれい》な模様を表面に作り出していった。  偶然に見つけた牙神が、何かの細工が施されているのではないかと怪しみ、鞠を奪い獲《と》って中を改めたときに、はじめて月弥は、傷ついた子供の心にもどって涙ぐんだ。  芯まで調べ終わり、半ば元通りに復元された鞠が返されてきても、月弥は晴れなかった。牙神を恨み、鞠を見ては泣いていた。  誰の目にも、牙神が子供相手に思いやりのない行為をしたと映っただろう。下働きの者たちですら、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。  ついには、牙神が折れた。  牙神は、自分が疑ったことを、月弥に詫《わ》びたのだ。  赤い口唇が、つめたい微笑を浮かべてゆくのを見たのは、このときだ。  謀られたと悟った。  鞠を取りあげられた当初は、確かに傷つき、本当の涙を流したのだろうが、いつしか月弥の癒《い》えぬ心が、牙神に詫びさせるという行為を必要とし、愉《たの》しんでいたのだ。  だがこの出来事のお陰で、牙神自身も、色若衆に溺《おぼ》れていくという自分に臆面《おくめん》もなくのめり込めるようになった。  対して、盗賊仲間を獄門台に送られ、いらい頼った父代わりの叔父《おじ》を人質に捕られて、密偵になることを強要された月弥が、牙神を怨《えん》じているのは本当だった。  棒に追われ、石持て打たれたがごとくに追い詰められ、網で捕らわれた獣が、心から馴染《なじ》み、飼い主を慕うはずもない。囚《とら》われて、飼われている気持ちが強いだろう。  牙神は、手にした鞠を手のなかで玩《もてあそ》びながら、薄い口唇を小刻みに顫《ふる》わせ、声をたてずに泣いていた月弥の横顔を思いだした。  けれども、嗚咽《おえつ》を噛む口唇は、すぐさま左右に吊りあがって、邪悪な笑みが形作られる。  どちらが本当の月弥なのか、かれには二つの姿があるように心も二つあるようだ。  そして、月弥の身体のなかには、決して交わってはならない二つの血が混じっている。  産みの母は、貴い身分の姫君である。輿入《こしい》れが決まっていた姫を略奪して孕《はら》ませたのが、凶盗の最たる者、犬神の早太郎だったのだ。      弐  月弥がもどったのは、申《さる》の刻を大幅に過ぎた亥《い》の刻のころだった。  本宅から離れた隠居所には、牙神と月弥の他には誰も住んでおらず、特に夜は近づく者もいない。よって月弥は、誰かと出会う心配もなく、戸締りのされていない台所口から火の消えた調理場へと入った。  台所は、土間の部分に石組みの竈《かまど》と、井戸から筧《かけひ》を通して水を引いた流し場があり、食器棚を置いた板張りの間、それから畳敷きの座敷と続いている。  その台所の座敷に、鯉の甘露煮などを盛りつけた月弥の夕餉《ゆうげ》が用意されていた。  食事や掃除は、本宅の方からおきねという奥向きの女中と、お民が日中に来て、行ってゆくのだ。  心づくしの御膳《おぜん》を前に、月弥は戸棚から酒甕《さかがめ》を取りだすと、上蓋《うわぶた》を外して柄杓《ひしやく》を突っ込んだ。  柄杓で汲《く》みあげた酒に直接|口唇《くちびる》をつけて呑《の》み干し、灼《や》けるような刺激が喉《のど》を下り、臓腑《ぞうふ》へと沁《し》み込んで、やがてカッとこみあげてくる酔いの瞬間を待った。  台所には、壁掛けの燭台《しよくだい》がひとつ灯《とも》されているだけで、後は格子窓から入る星明かりくらいしかない冥《くら》さだ。  目もあやな小姓姿の美童が、夜中に酒甕をかかえ、柄杓で酒を飲んでいる姿を見る者があれば、妖怪《ようかい》のたぐいを連想するかもしれない。それほど異様で、奇《あや》しい姿だ。  ようやくほろ酔い気分になってきた月弥は、酒甕をもどすと、今度は廊下をはさんだ風呂《ふろ》場へ行った。  装束を脱ぐのももどかしく、脱衣の間に散らかしたまま、ぬるくなった風呂に入った。  ゆっくりと湯に浸《つ》かってから、髪を洗い、糠袋《ぬかぶくろ》で全身をこする。  やがて湯からあがり、用意されていた白綸子《しろりんず》の夜衣《よぎ》に着替えたが、すでに夜の鳥も鳴かない時刻になっていた。  廊下を渡って座敷へと向かう途中で、牙神の寝所から漏れる明かりに気がついた。  牙神が起きているのだとわかると、また台所へ引き返して酒でも呑みたくなったが、逃げたと思われては癪《しやく》に障る。苛立《いらだ》ちながらも、月弥はまっすぐに自分の部屋へ入った。 「月弥か…」  襖《ふすま》一枚を隔てて聞こえた牙神の声は、夜の湿り気を帯びて、どこかくぐもっている。 「参れ」  次に、当然のように発せられた命令に従って、月弥は襖をあけた。  牙神は夜具に腹這《はらば》い、煙草を喫っていた。  隠居の嗜《たしな》みだと嘯《うそぶ》いて、牙神は寝煙草を愉しむようになった。いまも、一眠りした後で、月弥が戻ってきた気配に目を覚まし、一喫しているといった様子だ。 「遅かったな」  部屋のなかは、行燈《あんどん》の灯心を長くしてあるので、やけに明るい。 「おれは、申の刻には戻れと言ったはずだな」  先ほどからの短い言葉の端々に、約束の刻限を守らなかったことを責める調子がある。  月弥は、牙神の枕元に居住まいを正して座ると、これ見よがしに、深々と頭を下げた。 「忘れておりました」  しれっと言ってのけるのを、牙神は煙管《キセル》を銜《くわ》えた口唇で笑った。  笑いながら、カツンと煙草盆の灰落しに煙管を叩《たた》きつけて吸い殻を捨てると、夜具のうえへと上体を起きあがらせた。  物憂い動作の牙神が、片手で煙管を煙草盆に掛けるのを見ていた月弥は、いきなりもう一方の手で左手首を掴《つか》まれ、強い力で夜具のなかへと引きずり込まれてしまった。  かつて、牙神の小柄《こづか》によって貫かれ、筋を痛めた右腕は、日常に障りはないのだが、いざというときに力がこもらない。  右手では弱い抵抗しかできないのを知っていて、牙神はいつも左手を封じるのだ。  だが、いまさら抗《あらが》って逆に嫌というほど思いしらされるのを選ぶほど、月弥は剛《つよ》くはなく、牙神の求めに従うように身体の力を抜いた。  夜具に押し倒され、上から圧《の》し掛かられ、心地よい重みとともに口唇が覆いかぶさってきた。 「酒臭いな…、酒の風呂にでも入ってきたか」  一時顔を離して眉を顰めた牙神だが、自分の口唇と舌には、苦い煙草の味が残っているのだからお互いさまだ。 「水を飲んで参ります」  そう言った月弥を、身体の下に圧《お》さえた牙神は、怖いような眼で睨《にら》んだ。 「ならぬ。さようなことを申して、また逃げる気であろう」 「逃げたりはいたしませぬ。さあどうとなり、お好きに月弥をお使いください」  挑むように月弥が言う。  それならば…と牙神は、組み敷いていた月弥の身体から夜衣をはがしてしまい、 「這え」  と言った。  全裸で絹の褥《しとね》にうつぶせた月弥は、命じられるがままに両|膝《ひざ》を立て、下肢を牙神へ向けて突きださせる。  屈辱的な、女犬《めすいぬ》の姿だ。  小ぶりな双臀《しり》は肉付きがうすく、硬く締まってて、谷間の切れ込みも浅い。四つん這いで腰をかかげた、無防備で、あられもない姿態《すがた》を強要されると、すべてが剥《む》きだしになってしまうのだ。  そこをさらに、牙神の手で双丘を左右にひらかれ、月弥は眼を閉じた。  月弥の敏感な部分に、夜の冷気が入り込んでくる。  つぼまった肉襞《にくひだ》の蕾《つぼみ》は、ひろげられて歪《いびつ》になり、いっそう悩ましく見える。  ひろげた牙神が、舌先を割り込ませた。 「あぅ…——」  媚肛を舐《な》められた月弥が腰を引きかけると、強い力が、ぐいともどした。 「じっとしておれ」  抵抗を封じて、牙神が淫《みだ》らな舌舐《したねぶ》りをはじめた。 「あ……ああっ…」  身体に酒気を帯びた昂揚《こうよう》も手伝い、とろけたようにふっくらとなった粘膜に、ぬめぬめ蠢《うごめ》く舌が侵入してきた。  ひろげられて歪《ゆが》んだ肉襞が、きゅうっと窄《すぼ》まり、ふわっと咲《ひら》く。蕾が咲《さ》くようにひらいた瞬間に、牙神は舌先で内奥をくすぐった。  肉がざわめき、快感のしびれが背筋を走りぬけた月弥は、取り乱し、牙神の男を口唇に迎えようと欲した。 「あぁ…うっ……わたしにも…、わ…たしに…もっ…」  秘所を牙神の舌で舐《ねぶ》りまわされると、月弥は余裕を失ってしまうのだ。 「だめだ。おれに喰《く》われていろ」  拒絶された月弥に、戦慄《せんりつ》にも似た顫《ふる》えが、つづけざまに起こった。  牙神は月弥の口唇の秘戯を受け容《い》れず、一方的に舌で翻弄《ほんろう》するつもりだ。  男娼《だんしよう》に身を堕《お》とし、一年あまりも肉体を売っていた月弥である。受け挿《い》れる身の打撃、心の屈辱感を避けたいばかりに、男客を満足させる口淫《こういん》の技巧を駆使してきた。  その技で、牙神を追いつめてやりたかった。  自分だけが乱されるのは、月弥にとっては悔しく、怺《こら》えられないからだ。  わかっていて牙神は、舐りにかかった。  たちまち、月弥の身体が淫らにくねった。  敏感な媚肛を舐め擦《ず》られ、急速に、過激なまでに、快感が募ってきたのだ。 「あ…ああ——…ッ」  甘美な波にさらわれようとした月弥を、寸前で牙神が突き放した。 「あ…んぅ……」  月弥は昇りかけていた高みからいきなり落とされ、夜具に崩れたが、その身体を横抱きにした牙神が、素早く下肢を押しつけた。  熱く、堅く、恐ろしい男の象《かたち》が月弥の背後に当たる。  牙神は月弥のおののきを感じながら、片足を持ちあげると、舌でとろかし、唾液《だえき》で潤した男色の受け入れ口へと、熱《いき》り勃《た》った男を突き挿れた。 「ウウッ」  容赦のない嵌入《かんにゆう》によってひろげられる月弥は、眉根《まゆね》をよせ、夜具に爪を立てた。  つめたく高貴に感じられる美貌《びぼう》が、苦悶《くもん》によって強張《こわば》っている。それがまた、牙神の征服欲をいっそう煽《あお》った。  洗って束ねただけの髪がほどけて夜具にひろがった様子も、男の芯《しん》を昂《たか》ぶらせるものがある。 「辛《つら》いのか、ん?」  肉襞の隘路《あいろ》が、猛々《たけだけ》しい男の柱によって掘削されて、路《みち》が通される。  深く入っているのを、さらに味わわせるよう揺さぶりながら、牙神は訊《き》いた。  惨《むご》いほどの抽送を繰り返され、揺さぶられるたびに月弥は、ビクッ、ビクッとのけぞってしまい、とうてい言葉では応《こた》えられない。 「身体の力を抜き、心をおれに向けて解《ほど》け……」  なだめるように言いながら、牙神は月弥に添わせる形で身体を横たえ、側臥《そくが》での背後攻めを加えはじめた。 「う、うう……」  呻《うめ》いた月弥の首筋に、牙神が口づけを浴びせた。 「まだ辛いか? よしよし、すぐに悦《よ》くしてやるぞ」  そう言った牙神だが、月弥の前方へは触れようともしなかった。  媚肛で喜《き》をやらせるつもりで、疲れをしらない頑強な腰を使い、月弥への出入りを繰りかえすのだ。 「はっ……はう…はっ……」  男茎による往復の摩擦を受ける月弥の方が、息切れを起こしたように、悶《もだ》えだした。  悶えとともに、抽挿《ちゆうそう》に対する内奥の抵抗がゆるんできた。 「やっと、おれに馴染《なじ》んできたな」  挿入されてくる牙神を阻んでいた肉壁が、今度はからみついてくる。男茎に巻きつき、突くと押しもどそうとざわめき、退《ひ》けば放すまいと吸いあげるのだ。 「しっぽりと咥《くわ》えられて、おれは堪《たま》らない気持ちだぞ、月弥」  精を搾《しぼ》りあげようとする素晴らしい蠕動《ぜんどう》を味わい、牙神が囁《ささや》いた。 「そなたの後門に、褒美をくれてやらねばならんな」 「ううっ、ううっ……」  拒絶して月弥が頭《かぶり》を振ったが、牙神は、抽《ぬ》き挿しの強弱に、内奥での揺り動かしと、掻《か》き回しを加え、それらを乱打に繰りだした。  肉筒をそのように責められては、耐えることなど月弥にはできなかった。 「あ…う、う…うむ…」  月弥の眸《ひとみ》が潤んできた。  牙神に突かれるたびに、「あっ、あっ、あっ」と間欠的にあがっていた、尖《とが》った息のような声は途切れがちになり、尾を引く呻きにかわった。 「あっああ…」  呻きが、なめらかで、うつくしい、音色を帯びた。快感がわきおこり、月弥を甘美に苦しめはじめたのだ。 「…ぁ…はぁ…はぁぁ…あ…うッ」  牙神を納めている月弥の下肢が、何度もくねった。  前方の愛撫《あいぶ》もなく後花だけで感じさせられると、脳髄まで痺《しび》れてしまう。 「ああ…ん……い…っ…」  洩《も》れでる嬌《なま》めかしい声が、すすり歔《な》きにちかづき、快楽をつたえる喘《あえ》ぎ声になった。  快感が集《つの》って、月弥は苦しんでいるような表情を見せる。  その苦悩に満ちた美しい貌《かお》を牙神は愉《たの》しんでいるのだが、月弥にすれば、あらぬことをしゃべらぬか、泣き言を洩らしはしないかと、自分と戦っている最中なのだ。 「うう……ああ、ああ…」  あさましい嬌声《こえ》を怺えようと、ぬがされた夜衣を口唇《くちびる》に噛《か》んだ瞬間、稲妻が走ったような鋭い快感が、月弥の肉体を貫いた。 「あッ、ああッ…」  放っておかれた前方から、悦楽が溢《あふ》れだしていた。 「いや……いやだッ!…も…もう…だ……め……ッ!」  心の叫びが口唇をついてでたと同時に、月弥の媚肛がひくつき、頭の裡《なか》までいっきに、真っ白になった。  牙神が満足するまでに、月弥は、次々と、男であり女である官能の極みへと追いあげられ、全身を陶酔のかたまりに変えられた。      参 「——…中郷…か」 「……し…かし、上州屋の金蔵に二百両ほどしかなかったとは、とうてい思われません。ゆうにその十倍からの蓄財はあったはず、それがどこに消えたのか……」  なにやらぼそぼそ人の声がするのに、月弥は眠りの底から呼びもどされた。 「斬られた盗賊連中の面を改めましたが、いずれも上方で鳴らした者どもばかり、不慣れな江戸でいきなりの大仕事を仕掛けるには、誰か詳しい者の手引きが必要だったはずです」  眸《め》をあけた月弥と、枕屏風《まくらびようぶ》の陰から夜具のなかの牙神に話しかけている男、小杉左京太の眼が、瞬間的に合った。 「斬り殺された盗賊のなかには、それらしき者はおりませんでした」  見下《みくだ》した視線が、快楽に溺《おぼ》れたあげく、しどけない眠りに就いた月弥に注がれている。 「それと、押しこんだ盗賊に殺されたと思われる上州屋の娘ですが、切り口の太刀筋から、梶原《かじわら》流の遣い手が下手人ではないかと…」 「梶原流か?」  石をも割ると言われる刀術である。 「はっ。それにつきまして、上州屋の者で、同じ太刀筋で殺されているものは他におりません」  視線を逸《そ》らさずに、月弥を観ながら小杉が答えた。  間もなく夜明けという時刻だ。  よほど急いでいたのか、小杉は牙神の寝所にまで立ち入り、見てはならない、知ってはならないような閨房《けいぼう》を目の当たりに、報告している。  いたたまれず、月弥は夜具を離れかけたが、牙神の足が、幹を締めつける蔓《つる》のように下肢にからみつき、押さえつけてきた。  牙神は現在《いま》、表だっては隠居の身である。  だがその実は、若年寄|篠井長門守《しのいながとのかみ》の密命を受け、裏で異変や事件を調べて廻《まわ》り、決裁する特殊な任務に就いているのだ。  狼四人衆と異名をとった配下の小杉たちも、同様だった。 「たしか中郷は、梶原《かじわら》流の使い手だったな」  牙神は、夜具のなかで月弥を押さえつけている素振りなどみじんも感じさせずに、腹這《はらば》いのままで煙管《キセル》を吹かしつづけて言った。 「中郷さまは、一刀流かと記憶しておりますが」  平坦《へいたん》な声で小杉が答えているが、かれの視線は月弥を見ていた。  月弥の下腹部には、まだ堅さのある牙神の男が触れている。  牙神に弄《もてあそ》ばれるのは、嫌で嫌でたまらなかったのだが、この凄《すさ》まじい男の部分に触れるたびに、このごろ、月弥の心は乱れるのだ。  いまも小杉左京太に、惑乱気味の表情を読まれているかもしれない——。  月弥が顔を反対側にねじ向けると、背けた首筋に、牙神の、大きな、あたたかい手が滑り込んできて、上体を抱き寄せられた。 「いや、元は梶原流なんだが、婿に入った中郷家が、代々一刀流の指南家筋でな、現在《いま》は両方つかえるはずだ」 「それは、また……」  流派の違う刀術を身につけるのには、どれほどの精進があったものかを慮《おもんぱか》って、小杉の言葉じりが途切れた。 「上州屋の娘が斬り殺されていたという場所はどこだった?」  次に牙神は質問の矛先を変えたが、すぐさま小杉は答えた。 「嫁入り道具を並べた奥座敷でございました。来月には祝言が決まっていたそうです」  祝言を目前にひかえた慶《よろこ》びから、夜半に眼が覚めたものか、眠れなかったのか、揃えた嫁入り道具を並べた座敷で一人物思いに耽《ふけ》っていたのだろう。そこへ侵入したものが、娘の未来を絶ち切ったのだ。 「咄嗟《とつさ》のときには、元々身についていた刀術が出てしまう。それか、偽装のためか……」  牙神の言葉に頷《うなず》いて、小杉が告げた。 「いずれにせよ、中郷|主膳《しゆぜん》さまのお働きには、なにやら腑《ふ》に落ちぬところがございます」 「…小杉」  愛撫する手つきで月弥の首筋をあたためてやりながら、牙神は腹心の名を、のんびりと呼んだ。 「はっ」  畏《かしこ》まって小杉が答えた。  能面じみた無表情な小杉左京太は、美男だが、性質は冷酷で、残忍な拷問も平気でおこなう。そして、牙神のためならば、真っ先に命を投げだす覚悟のある男でもあった。 「そろそろ、餌でも仕掛けてみるか……」  急所でもある喉許《のどもと》を優しく押さえられた月弥に、ふたたび眠気が襲ってきて、最後に耳にしたのは、そう言った牙神の声だけだった。 [#改ページ]  第二章 男 寵      壱  枕を外し、どこか苦しいようにうつ伏せていた月弥は、廊下を鳴らして近づいてくる跫音《あしおと》に、そろりと上体を起きあがらせた。  陽は高くなり、とうに目は覚めていたが、綿のように疲れた身体を夜具から引き離す気になれなかったのだ。  近ごろの牙神は、月弥と心と心が通じ合わない間柄であるのを、肉と肉との交合によってつなぎ合わせようとする執拗《しつよう》さだ。  夜ごと月弥は疲労|困憊《こんぱい》し、朝が遅くなるばかりだった。  牙神は甘やかして、何時までも休ませてくれるにもかかわらず、本宅から昼間だけ手伝いにくる女中のおきねが、起こしにくるのだ。  小走りの跫音に、女の苛立《いらだ》ちが感じられる。  脱がされた夜衣《よぎ》は、明け方ちかく、濡《ぬ》れ事の後始末に立ったときに羽織ったので裸ではなかったが、女中がいきなり部屋に入り込んでくるだろうことを考え、月弥は腰紐《こしひも》を締めなおした。  一度、乱れた姿を見られていらい、廊下側には枕屏風《まくらびようぶ》が立ててある。ゆえに、夜具のなかや寝姿を目の当たりにされる心配はないのだが、男に蹂躙《じゆうりん》された後の身体を、女に見られるのは我慢がならないのだ。  跫音が止まり、廊下側の障子がさっと開いた。 「何時まで寝てるんですよ。早く起きて、朝餉《あさげ》を召しあがってくださいよ」  いきなり頭ごなしに、おきねの喧《やかま》しい声が響きわたった。 「殿さまは、半刻《はんとき》も前に出かけられましたよ。まったく、あんた一人のお陰で台所が片づかないったら…」  牙神が、隠居所へ出入りさせる女中に、あえて堅苦しくない女を選んだせいか、古参のおきねは辟易《へきえき》するほど口が悪い。さすがに牙神の前ではこれほどではなかったが、月弥には遠慮がないのだ。 「それでも近ごろは、この前みたいに帰りが遅くないだけでもましかもしれませんがね」  月弥が晩《おそ》く帰った夜、——もう十日も前の夜のことだ。  せっかく用意した夕餉も食べずに、買い置きの酒を半分以上も飲んでしまったことを根に持っていて、おきねはいまだに言うのだ。  返事も返さずに、のろのろと月弥が夜具から離れると、入れ替わりにおきねは寝所に入ってきた。  寝所のなかには、草地を歩くたびに足下から立ちのぼるような、青い男たちの匂いが籠《こも》っている。  おきねは外へ追いだそうと障子を開け放ち、夜具を片づけはじめた。  半年前の朝。  牙神から月弥と引き合わせられ、隠居所で一緒に暮らすことにしたから面倒を見てやってくれと頼まれたとき、驚きと、腹立たしさに、おきねは泣きだした。 「あたしがお受けしたら、お亡くなりになった奥さまに申し訳が立ちません」  取り乱したおきねはそう叫んで、牙神の不実と、色の道を踏み外したことを嘆いた。  二十で縁付いたおきねだが、子が生まれずに離縁され、生活に窮した時期がある。そこへ、婚礼の決まった牙神家から、もう一度奉公しないかと声が掛かったのだ。  ゆえに、嫁いできた雪江に救われたと感謝していた。  そのおきねを、牙神はなんとかなだめ、「色小姓の世話など、若いお民には任せられない。秘密を守れて、古くから仕えてくれているお前にしか頼めないのだ」そう言って、ようやく承知させたのだ。  月弥は、放っておけばいくらでも小言を並べ立てそうな女の前から逃げだし、廊下を渡って風呂《ふろ》場へ行った。  隠居所には、縦に長い白木の大きめの浴槽に鉄釜《てつがま》をはめ込み、外から薪《まき》を燃やして水を温める鉄砲風呂が設《しつら》えてある。  身体に男の匂いを残したくない月弥は、頻繁に風呂を使う。牙神もまた、朝晩風呂に入るし、組屋敷に住む小杉も入りにくるので、浴槽にはいつも湯が張ってあった。  破格の贅沢《ぜいたく》と言えたが、牙神の入浴には、役目がら身体に染みついた血や罪の臭いを洗い落とすための厄払いの意味もあるのだ。  いまもまだ風呂の湯がさめていないのは、牙神が入って間もないからだ。  底の濡れた手桶《ておけ》を見ているうちに、月弥の身体が、うずいてきた。  愛撫《あいぶ》の手が、昨夜に限って思うようにならず、月弥は焦《じ》れ、もどかしさに喘いだ。  牙神も、苦しいくらいに昂《たか》ぶっていた。  ところが、いっこうに月弥の内へ納まろうとはせずに、二本の指で、肉襞《にくひだ》をこねくり、いびりまわすだけだったのだ。  月弥は、昂ぶらされた媚肛をひくつかせながら、牙神の男を想い、欲した。  触れて確かめた男の容《かたち》に、自分でも眼が潤んでくるのを感じたほどで、恥知らずにも、身体の内に入った指を締めつけ、熱くなった下肢を押しつけて、誘《いざな》う仕種《しぐさ》でこすった。  はやく男茎で貫き、犯して欲しかった。  月弥にとって、牙神は惚《ほ》れた相手ではない。むしろ、憎い敵と思っている。  仇敵《きゆうてき》に犯されるのは怺《こら》えがたい屈辱だったにもかかわらず、指淫《しいん》される快美に身も心も蕩《とろ》かされつづけ、もうそれだけでは満たされなくなって、牙神を身体の内に欲しがったのだ。  半年かけて、月弥は牙神の男による支配を受け、心よりも肉体が屈服させられてしまったようだ。  その予兆は、捕らわれ、屋根船の梁《はり》から吊《つる》されて、肛虐の拷問を受けたとき、すでにあった。  血が冷たいとからかわれるほど、抱かれてもなかなか燃えなかった肉体が、牙神に対して、どうしようもないほど、狂おしく反応したのだ。  求めていながら、請う言葉を口にできずにいる月弥の口唇《くちびる》を、牙神が吸ってきた。  激しく、歯がぶつかり合うような口接の繰り返しの間に、胸にこもり、喉で封じていた言葉を引きだされ、月弥は口走った。 「うう……も、もう…月弥にお情けを…っ…」 「おれが欲しいか?」  牙神の舌に口唇を愛され、たまらなくなった月弥は、求めた。 「あッ、あッ…もう……焦…ら…さないでッ……ほし…いっ」  月弥からの言葉を待っていた牙神は、いままで、鋼の意志力で抑えていた欲望を解放した。  餓えるだけ餓えさせられ、待ち焦がれたものを与えられた月弥は、溺《おぼ》れた。  蜜壺《みつつぼ》に落ちた蜂だと、月弥は自分を思うときがある。  戦うための針を使うこともできず、そうして、陶酔のうちに滅んでいく気がするからだ。  昨夜は、歓喜のなかで、夜毎身体を繋《つな》いでも溶け合わなかった二人の心が、ひとつに融合したかのように錯覚した。  欲しがる月弥に応《こた》えながら、牙神は優しい声で、甘い睦《むつ》みごとを耳許《みみもと》に囁《ささや》きつづけた。  本気で、牙神に愛《いと》しいと想われているのではないかと錯覚させられるほどだった。  心まで寄り添いあっているかのような、あたたかい気持ちに、月弥は陥ったのだ。  けれども、それを信じるのは危険だった。  情欲の記憶に烟《けぶ》りかけていた頭の裡《なか》が、冷たく冴《さ》え、澄み渡ってきた。  悦楽に沸騰した血が、その巡りをはやめた濡れ事の後には、古い傷が痛みを発する。  牙神の投げた小柄《こづか》に射貫《いぬ》かれ、筋を切られた右の腕。  いらい月弥の右腕は、重い物を持ちあげたり、抵抗の力もだせなくなっている。  この腕の傷があるかぎり、月弥は我を失わずにいられた。  棒もて追われた経験のある獣は、その痛みを忘れないのだ。  ましてや、仲間を一網打尽に捕らえ、獄門に処した牙神への恨みは、決して、忘れてはならないことだった。  ふたたび月弥の心は、牙神に対する憎しみに凝《こご》った。  湯を浴びた後で、月弥は着替えが用意された座敷へと移り、三日前に近江屋から届けられてきた振り袖《そで》を横目に、淡色で身仕度を調えた。  近江屋の主人を前にしたあのとき、牙神は、惚《ほ》れた色子のわがままに困らせられながらも、脂下《やにさ》がっている男を演じたかったのだと、月弥にはわかっていた。ゆえに、華美で値の張るものばかりを選んだが、本気で身につけるつもりなどなかった。  だが牙神の目論見通りに事は成った。  その証拠に、思いあまった近江屋曾兵衛は、大河内家に嫁いでいる牙神の姉であり、惣次郎の生母である奈津《なつ》に、月弥の存在を洩《も》らしたのだ。嫁いでからも、近江屋を贔屓《ひいき》にする奈津のもとへ、曾兵衛は足繁く出入りを許されていたからだ。  奈津は、牙神が唯一頭の上がらない人物である。  姉から誡《いまし》めてもらおうと、近江屋曾兵衛は考えたのだ。  さっそく奈津が乗り込んできて、くどくどしく誡めていったが、当人の牙神は、「以後慎みます」などと応《こた》えたものの、夕方には月弥を連れて船遊びに出かけた。  するとふたたび、日をおかずして奈津から、今度は書状と、貴《あて》やかな振り袖が月弥へ届けられてきた。  文は、牙神の趣味が洗練されていないことを嘆き、さらに、どうせ噂にされるのならば、嘲《わら》われる惣次郎や姉の立場も考え、小姓を相応に装わせよと書かれていたのだ。  手紙を月弥にも読ませた後、「姉上には敵《かな》わぬ」と笑いながら、牙神は丁寧に折りたたんで手文庫にしまった。  離れていても、あたたかく結びついた姉弟の絆《きずな》が感じられた。  胸奥に衝《つ》きあがってくる苦いものを振り払うように、月弥はかぶりを振ると、奥の座敷へもどった。  きれいに片づけられた座敷には、食膳《しよくぜん》が調い、おきねが月弥を待っていた。 「まったく、昼ちかくまで寝て、朝風呂に、上げ膳据え膳、贅沢をさせてろくな大人になりませんよ」  甲斐甲斐《かいがい》しく世話を焼きながらも、おきねは文句をやめようとしない。  月弥がきた最初のころは、場末の陰間が拾いあげられて身の冥加《みようが》と思わなければならないといった態度だったが、牙神の執心が尋常でないと知ってからは、諦《あきら》めた分だけ、愚痴がでるのだ。  けれども、接していれば、情は移ってくるものだ。  文句や愚痴がでるのは、それだけ月弥に対して気持ちが親しくなったためでもあった。  遅い朝餉の後で、月弥はおきねから髪を整えてもらうために、白銅鏡《かがみ》の前に座った。  白銅鏡は、しだいに曇ってくるので手入れが欠かせず、加賀の鏡研ぎが家々を回り、表面に金剛砂をつけて木賊《とくさ》で磨き、錫《すず》と水銀を使って鍍金《メツキ》しなおしてゆく高価なものだ。  月弥の鏡は、牙神が誂《あつら》えてやったもので、鏡台に付いた化粧道具をしまう抽斗《ひきだし》には、二枚貝の内側に塗って売られる紅や、白粉《おしろい》、練《ねり》軟膏《ぐすり》の他に、櫛《くし》や元結《もとゆい》、丈長《たけなが》に髪油といった髪結いの道具が納められている。  目敏《めざと》いおきねは、抽斗のひとつに、花髪挿《かんざし》があるのを見つけた。  ごてごてしい花飾りでなく、頂に一輪の桜花を付けただけの、慎《つつ》ましやかで、品のある簪《かんざし》だ。 「銀の細工ものだね、こんな贅沢《ぜいたく》なものを…殿さまにねだったりして……」  おきねから、ため息が洩れた。  高価な髪挿《かんざし》に対する女としての羨望《せんぼう》と、使用人の身ながら、牙神家の内情を心配する気持ちが複雑なため息となったのだ。  だが、おきねは知らないのだ。  極秘のお役目に就く牙神には、特別の扶持《ふち》があり、他人が思うほど生活に窮しているわけではないのだ。  そしてもうひとつ、おきねは気づかなかった。  美しい髪挿の桜花の下をいじると鞘《さや》が抜け、細く強靭《きようじん》な白金の刃が現われることを——。  月弥が、仕込まれた白金の細刃を使った錠前あけと、人を殺《あや》める術《すべ》を身につけていることなど、おきねには夢にも考えつかないだろう。  牙神は凶器を仕込んだこの髪挿を造らせると、必要があれば使えと言って、月弥に渡したのだ。 「ご自分が寝首を掻《か》かれるとは、お考えにならないのでございますか?」  そう挑んだ月弥は、その夜、牙神から思いしらされた。  縛りあげられ、目隠しされた状態で散々な口淫《こういん》を受け、昂《たか》ぶった先端から髪挿の刃を挿入されたのだ。  動けば裂けると脅されながら、月弥は氷のような刃《やいば》で鈴口を射し貫《ぬ》かれ、硬直した。  あまりのことに声も出せず、ただジッと怺《こら》えていたのだが、やがて、恐怖と快美とが鬩《せめ》ぎ合い、月弥を翻弄《ほんろう》しはじめた。  刃で精路を犯され、かきまわされているうちに、めくるめく陶酔がおこり、ついには極まってしまったのだ。  牙神は、快感に歔《な》いた月弥を嗤《わら》い、目隠しをとってから、挿入していた刃が、まったくの別物だったのを見せた。  髪挿に仕込んだ刃で、同じようにこねまわされたならば、即座に精路はずたずたに裂けていただろう。身も世もなく乱れてしまった月弥は、嗤う牙神を前にして、悪態をつく気力さえ失っていた。  そのようなことがあったので、月弥は髪挿から貌《かお》を背けたが、いざというときには必要と思いなおし、おきねが整えた髪に挿し、仕上げとした。  艶《つや》やかな黒髪に、一輪の桜の花が咲いたようになった。 「まあ……、さすがは殿さまだよ。あんたに似合うものをお選びなさるよ…」  おきねから、感心したとばかり声が洩れたが、月弥は鼻先で嘲笑《あざわら》っただけで、スッと立ちあがった。 「あれ、どこか行くんですか?」 「出かけてきます…」  問われた月弥は、慎みをにじませ、遠慮がちに言ったのだが、おきねの方は容赦がなかった。 「帰りは、まさか、また夜中なんてことはないでしょうね。鍵《かぎ》を開けておくのだって、物騒だったらないんですからね」  またしても、十日も前の遅い帰宅が持ちだされる。  買ったばかりの酒を、あらかた飲んでしまったことへ及ぶ前に、月弥が、この世のものとは思われないような美貌《びぼう》の小姓姿で、ぞんざいに言った。 「うるせぇな」  口唇《くちびる》から乱暴な男言葉がでた。  その対比があまりに鮮やかで、心に突き刺さるような魅力がある。 「ばぁさん、金」  月弥は、さらなる衝撃をあたえて、おきねの愚痴を封じた。 「ば、ばば、ば…ばあさんって……」  横面を張り飛ばされたように、おきねは眼を剥《む》いたが、すぐさま現実に立ち返った。 「そ、それに、金って、ありませんよ。あんたは、渡したら最後、全部つかっちまうんだから」  月弥は、金があればあるだけ使い切り、なければないで、喉《のど》の渇きも、ひもじい思いも我慢してしまう。 「だったら、いらねぇよ」  言うなり月弥は、部屋の隅に転がっていた鞠《まり》を片足で蹴《け》り飛ばし、ふいと廊下へでた。 「あっ、お待ち、お、お金……」  おきねは慌てて追いかけたが、月弥の足の速さには敵わない。廊下を曲がった先から、もう姿形が見えなくなっていた。  これで一日中、つまらない口論で金を渡しそびれたことを、おきねは後悔してしまうのだ。  月弥は、金があるなしにかかわらず、また、行くあてがあるわけでもないのに、こうして毎日出かけた。  捕らえられ、連れられてきた当初は、蛾次郎の行方を捜す目的があった。  けれども、牙神によって隠された叔父《おじ》の蛾次郎は見つからず、いまでは、隠居所に閉じこめられた憂さ晴らしのための外出だ。  髪を島田に結い、野草に蝶《ちよう》模様の振り袖《そで》など着た女姿で出かけたこともあったが、それでは与太者に絡まれることが多くて面倒とばかりに、近ごろは小姓姿にしていた。  目もあやな小姓姿は、それはそれで危険なほど人目を惹《ひ》くのだが、女の形《なり》でいるよりは動きが楽で、煩わしい相手をやりこめるのにはちょうど良かったのだ。  月弥は、右腕が使えずとも急所を狙って立ち向かう喧嘩《けんか》技くらいは、蛾次郎から仕込まれていた。  四年前になる。  先代犬神の早太郎の実弟にあたる蛾次郎は、胸を病み、盗《つと》めから身を退《ひ》いた生活を送っていたが、仲間を失い、利き腕を痛めた月弥を匿《かくま》ってくれた。 「おまえさまは二代目犬神の早太郎だ。腕が鈍っちゃいけねえし、できねえことがあってもいけねえよ」  そして、生き抜くために身につけねばならない多くを教えてくれた。  いずれまた、江戸の夜を犬神の早太郎が荒らしまわるのを夢見る蛾次郎から、徹底的に仕込まれたのが、錠前破りだった。  手下に優秀な者を集め、月弥が錠ぬけの技術を持っていれば、犬神は復活する。利き腕を傷めた月弥に、蛾次郎はそう言いつづけた。  他にも、薬草の知識を授けてくれ、男娼《だんしよう》として閻魔《えんま》堂で身を売るまえに媚肛の仕立てを行ってくれた。  肛交のための緩和の訓練を施し、精の路が通るまで、導いてくれたのだ。  この同じ空を蛾次郎も見ているだろうと思うと、月弥の裡《なか》で、老いた育ての親を人質にとった牙神への怨《うら》みが増してきた。  烈しい、恐ろしい憎悪に心が喰《く》らい尽くされるまえに、月弥はかぶりを振って払いのける。そうして、誰にも邪魔されない場所を求めて歩きだしたときだった。  隠居所と本宅の庭を区切るためにたてられた垣根の向こう側に、牙神が家督を譲った養子の惣次郎と、松井小十郎が話し込んでいる姿が見えた。  とっさに身を隠し、月弥は二人の様子をうかがった。  どうやら惣次郎は非番で休みらしく、松井は昼の弁当を受けとりにきて、偶然にも顔をあわせたという様子だ。  牙神ら狼衆の任務については、養子となった現当主の惣次郎にも極秘の事柄である。  だが、人懐こい松井は惣次郎と出くわしてしまい、お互いに無視できなかったのだろう。立ち止まったまま、すっかり話し込んでいるのだ。  耳を澄ませてみれば、「…茶屋…の山里」と言う松井の声が聞こえた。 「……お立場を慮《おもんぱか》れば、料理茶屋で遊ぶほうが無難でしょうな。いやなに、『山里《あそこ》』は出合茶屋と変わらぬ座敷になっておりましてな、料理を運び終えればもう誰も顔を出しませぬよ。試しに一度、お供いたしましょうか」  女遊びに一家言ある松井が、若い惣次郎を唆し、表向きはいかがわしさのない料理茶屋を勧めているのだった。  月弥はそっとその場を離れ、裏門から屋敷を脱けだした。      弐  編み笠《がさ》に着流し姿の武士が跡をつけてくるのを、月弥はとうに察していた。  いままでならば、すれ違いざまに想いを掛けられて、どこまでもついてくる男たちは適当なところで撒《ま》いていたが、いまはそうしなかった。  編み笠の男が、牙神の養子である惣次郎とわかっているからだった。  松井と話し込んでいたはずの惣次郎だが、どこかで月弥を見つけたのだろう。そして、尾行をはじめた。  その理由まではわからないが、暇つぶしにはなる。  気づかれていないと思っている惣次郎を、月弥はとある場所へ向かって、導くように歩いた。  やがて、山王権現の境内まで跡をつけさせた月弥は、そこでいきなり走りだし、追って足早になった惣次郎を、人気のまばらな辺りまで誘導してから、掴《つか》まえた。 「なぜに惣次郎さまは、月弥の跡をつけたりなさるのでございますか…」  編み笠を取った惣次郎は、一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、すぐに真顔にもどり、月弥と向かいあった。  二人とも、すれ違うことはあり、同じ座敷で顔をあわせることも一度、二度はあったが、面と向かいあうのははじめてだった。  幼いころに患った疱瘡《ほうそう》の痘痕《あと》がのこる惣次郎の顔立ちは、実父に似て美男とは言いがたいが、愛嬌《あいきよう》がある。 「そなたのような者が、供も連れずに外出されるとは不用心すぎますぞ」  すこし怒ったまじめ顔の惣次郎に、月弥は可笑《おか》しくなった。  義父の寵《ちよう》を受ける小姓の身を心配して、護衛のつもりで付いてきたのだとわかったからだ。 「お気持ちはありがとうぞんじますが、ご心配には及びませぬ」  間近で向かいあい、惣次郎は目がくらんだのか、数歩|後退《あとずさ》った。そこを月弥が身を乗りだし、追いつめるように迫った。 「それとも殿さまのお言いつけでございましょうか?」 「いいや、義父《ちち》上から頼まれたわけではない。そなたを一人にさせてはおけないと思うたからだ」  ことのほか力んで否定するのが、なにやら思わせぶりでもあり、月弥は面白がりながら、しおらしげに言った。 「殿さまのお屋敷ではみなに厭《いと》われておりますのに、惣次郎さまはお優しい方……、月弥は嬉《うれ》しゅうございます」 「だれも、そなたを厭うておるわけではないと思うぞ」  牙神尚照を知る者たちはみな、驚き、呆《あき》れ、いまだに困惑していた。  そして、月弥の存在は、妖《あや》しい夢で、いつか牙神が夢から醒《さ》めてくれることを願っているのだ。 「…いいえ、月弥にはわかります」  うつむき加減に貌《かお》を背け、涙ぐんで瞬《まばた》きを繰りかえせばもう、惣次郎は自分が泣かせた気持ちになってしまい、離れていた身体がぐっと月弥に近づいた。  すると今度は月弥の方が身を引いた。 「惣次郎さまのようなお方が、わたしになどお声を掛けてはならないと、誰にも言われませなんだか? お立場にかかわりましょうに…」 「なにを申すのだ。そなたは、義父上が大切にお世話されている者ではないか、わたしとて心配するのは当然のことだ」  あくまでも惣次郎は、月弥をか弱い色小姓と信じている口ぶりだ。  その上、「義父上が大切にお世話されている者」などと思われているのが、内心では癪《しやく》に障る。それならば、「牙神が養子にした大切な惣次郎」を、暇つぶしにからかってやろうという気持ちになった。  ささやかだが、牙神への仕返しにもなるだろう。 「どうか月弥のことは放っておいてください」  あくまでも振り切るように言ってから、月弥は身を翻し、境内の奥へと入ってゆく。放っておけない惣次郎の方は、その後ろ姿を追ってきた。 「ま…待たぬか…どこぞへ腰掛けてゆるりと話を聞こうではないか……いや、そうだ、そなた、腹は空《す》いておらぬか? 昼飯はもう食べたのか?」  神社の近くには参拝客を当てこんだ食事処が軒を連ねている。昼どきでもあり、立ち話よりはと、惣次郎が月弥を誘った。  ここぞとばかりに振り返り、月弥は悲しげに微笑んでみせた。 「月弥は金子《おかね》の持ちあわせがございませぬし、ひもじいのには慣れております」  金を与えられていないという月弥に、惣次郎の方はわかっていると肯き、それではと切りだした。 「誘ったのはわたしだ。金子の心配などせずともよい。そなたの好きなものでも食べようではないか、なにがよい? 甘いものでもよいぞ」  水茶屋ならば団子や甘酒などもあつかっている。だが月弥は、かぶりを振ってそれらを拒絶し、口をつぐんだままでいた。  するとますます気になる惣次郎が、親切心から迫った。 「なんなりと、控えずに言うてみよ」  二度、三度と迫られてようやく、月弥は口をひらいた。 「月弥はいちど筍飯《たけのこめし》が食べとうございます」 「筍飯か、おお、それは旨《うま》そうだな」  若く、食欲の旺盛《おうせい》な年ごろでもある惣次郎が、心を引かれないはずがない。さっそくその気になった。 「では筍飯を食わせるところを探すとしよう」  望みを聞いてくれた男を、蕩《とろ》かすような眼眸《まなざし》で凝視《みつ》めながら、月弥が指でさした。 「あそこならば、筍飯が食べられます」  まぶしいほどまっ白い月弥の二の腕に視線を奪われた惣次郎だが、次に、指された方向へ眼を向け、ぎくりとなった。  月弥が指さしたのは、それこそが、先ほど松井が惣次郎に教えていた料理茶屋の『山里』だったのだ。 「あ、あそこはいけない」  仰天して、惣次郎が落ち着かなくなった。かれはまだ、月弥が態《わざ》と『山里』へ誘導してきたとは思ってもいない。  月弥の方は、ひとしきり惣次郎をどぎまぎさせてから、言った。 「裏参道に寂れた水茶屋がございますが、そちらでも筍飯が食べられます。惣次郎さまさえよろしければ、月弥はそちらで食べとうございます……」  その月弥の誘いを、惣次郎は渡りに船とばかりに聞いた。 「わたしはそこでもかまわぬぞ、そ、そうだな、そちらへ行こうではないか」 『山里』からすこしでも遠ざかろうとしながら、惣次郎は月弥に連れられ、薄暗く、人気のない裏参道へと、迷い込むように入っていった。  さらに惣次郎が狼狽《うろた》えたのは、水茶屋とは名ばかりで、出合茶屋そのものである座敷に通されてからだった。  確かに、店の造りは水茶屋ふうだった。軒先に腰かけ、湯茶などが飲めるようになっているのだが、店のなかは奥が深く、いくつもの座敷が並んでいたのだ。  あれよあれよという間に、筍飯と酒が運ばれてきて、惣次郎と月弥の前に置かれたばかりか、心得ておりますとしたり顔の店主が、隣室に夜具を敷いて去った。 「こ、ここは——…」  困惑する惣次郎に、月弥がしらばくれて言う。 「店のものがよけいな気を回したのでございましょうか?」 「困ったことになったが、そうなのであろうな…、なににせよ、はやく食べてここを出ることだな」  惣次郎は肯《うなず》くと、御膳《おぜん》にのった酒には目もくれず、皿のかわりに蓮《はす》の大葉に盛りつけられた筍飯に箸《はし》をつけた。 「そなたも早う食べるのだ」  せっせと食べながら、惣次郎は月弥を急《せ》かした。 「わたしとこのような場所に居たと、後で義父上がお知りになれば、なさらぬでよい心配をなさるやもしれぬのでな」  言われて筍飯を食べはじめた月弥だが、朝餉《あさげ》をすませたばかりなので、本当のところは空腹ではないのだ。  箸の運びもおそくなり、それよりも、狼狽えながら急いで食べる惣次郎の様子がおかしくて、腹をよって笑いたくなるのを、怺《こら》えなければならなかった。  そうしているうちに、惣次郎はすっかり平らげてしまったが、月弥の前はほとんど手つかずという状態になっていた。 「どうしたのだ、もう食べぬのか?」 「お赦《ゆる》しを——…先ほどから、なにやらここが痛みます…」  腹部を押さえた月弥は、笑いを怺えたくぐもった声で答える。すると単純に、惣次郎は信じてしまい、慌てて席を立ってきた。 「それはすまぬことをした。あまりに腹が空いていたのであろう、そこへ急いで食べさせたわたしが悪かったのだ」  疑う気持ちなどみじんもない様子の惣次郎が、子供にしてやるように、いきなり月弥の腹部に手で触れてきた。 「どこが痛むのだ?」  惣次郎の手に自分の手を重ね、月弥は身体を撫《な》でさせた。 「この奥がきりきりと痛みます……う…うう…」 「ここか?」  月弥は呻《うめ》いたり、腹を抱えたり、必要があれば涙ぐんでみせる。怺えているのは、笑い出さぬようにということだ。 「は…はい…、惣次郎さま……月弥は苦しい……」 「いかん、店の者を呼ばねば!」 「す…すぐに治ります…ですから……このま…ま……どうか、このままで……」  芝居がかって空々しいにもかかわらず、夢のように美しい小姓に、若輩の惣次郎はすっかり欺《だま》され、右往左往しだした。 「やはり店の者を呼んでくる」  離れたかけた惣次郎を、月弥はしがみついて引きもどし、切ない声を洩《も》らして慌てさせるの繰りかえしだ。 「い…いけませんっ…騒ぎたてては、惣次郎さまのお立場がっ」 「わたしのことなど心配いたすな」  とは言ったものの、惣次郎は、うつむいた美しい横顔に惹《ひ》きつけられ、長い間、月弥から眼を離せなくなっている自分にハッとなった。  小刻みにあえぐ口唇《くちびる》を、つい、吸ってみたくなり、その欲望を怺えると、じーんと下腹部の奥が痛むのだ。  荒くなった自分の鼻息すら聞こえてきそうだ。  だが脳裏には、義父《ちち》の端整な顔がちらつき、落ち着かなくなった。  養子縁組みの前に、母の奈津から、 「そなたの義父上になる方は、いまは人々に誹《そし》られ、狼の牙がぬけたなどと嗤《わら》われていますが、養子となるからには、叔父《おじ》上のなさることすべて、ゆめゆめ疑ってはなりませんよ。きっと、なにかお考えあってのことです」  そう言い含められてきたのだ。  牙神の話題がでるたびに、ていたらくを嘆き、男寵《だんちよう》に走ったと騒ぎたてていた母とは思われない口ぶりだった。  こうして月弥を介抱していることが、義父への裏切りにも思われて、心が慄《ふる》えてくる。  額に汗を浮かべた惣次郎は、瘧《おこり》にかかったように震えだし、抱いていた腕から月弥を放して後退《あとずさ》った。 「わたしとしたことが、義父上の想われ人であるそなたに触れるなど、あってはならぬ過ちだ」  突然、我に返った惣次郎だが、取り乱すあまりに、言わずにおけばよいことまで口にしていた。 「松井どのから頼まれていたというのに——、わたしは苦しんでおるそなたに付け込んで、怪《け》しからぬ振る舞いをしてしまった。すまぬ、赦してくれ」  月弥は眸《ひとみ》を冷たく光らせて、惣次郎を凝視めた。  事の真相がわかってきた。  おそらくは牙神が、松井小十郎に命じて、惣次郎を唆したのだ。 「義父上が、寵愛する小姓の漫《そぞ》ろ歩きを心配している。昼間どこへ行くか跡をつけてくれ」とでも頼めば、惣次郎はその気になるだろうし、あるいは、「与太者にからまれないよう、見守ってくれ」でもよいのだ。  だが月弥には、なぜ牙神が惣次郎を使ってこのようなことをやらせたのか、理由がわからなかった。  わからずに、苛立《いらだ》ちを感じていた。      参 「お許しください、義父上。いま考えれば、飯など食べずにすぐにあの水茶屋を出ておればよかったのですが…、咄嗟《とつさ》に頭が働きませんでした」  漆器の銚子《ちようし》をかたむけ、惣次郎の盃《さかずき》に酒を注いでやった牙神は、養子としたかれが呑《の》み干すのを見届けてから、口を開いた。 「もうよい。腹をさすってやっただけであろう? おれは気にせぬぞ、惣次郎」 「申し訳ございません」  酉《とり》の刻に隠居所にもどったところ、月弥は出かけていておらず、神妙な顔をした惣次郎が暗がりで待っていた。  座敷にあげて、昼間の出来事のすべてを、聞き終えたところだった。 「そなた、月弥をどう思う」 「縹緻《きりよう》のよい、かわいらしい子だとは思いましたが」  月弥をかわいらしいと言ったのは惣次郎が初めてだった。  昼間、水茶屋では際どいことがあったものの、関わりあう人々のなかで、惣次郎がもっとも月弥と遠い位置にいるために、違う面が見えるのかもしれない。 「かわいらしいか?」 「はい。それに…なにやら義父上とは、いつも競い合っているような感じがありましたので、不憫《ふびん》に思うておりました」 「不憫か…、そうかもしれぬな……」  見ていないようで見ているものだなと、牙神は首をすくめ、内心で苦笑した。 「ところで惣次郎——」  うまそうに盃を空けてから、牙神はまだ恐れ入った様子の惣次郎を、二言三言からかい、どうにか、笑顔を引きだした。  正直ものの惣次郎に気の毒なことをさせてしまったという気持ちもあって、牙神も放っておけなかったのだ。  間もなく惣次郎は牙神の前を辞して、本宅へもどって行った。  小杉左京太は、惣次郎が隠居所から出てゆくのを見届けてから、牙神のいる座敷へ向かった。  廊下側で声をかけ、障子戸を開け、なかへ入る。  酒膳《しゆぜん》を前に、牙神が一人で呑んでいた。 「月弥はまだもどりませんか?」 「じきに帰ってくるだろう。松井がつけているはずだ」  そう答えた牙神に、なにもかも承知の小杉が肯《うなず》いた。  素人同然の惣次郎に月弥を尾行させたが、それをさらに松井が追っているのだ。 「惣次郎さまがお見えでしたか」  小杉に水を向けられて、牙神は苦笑した。 「いましがた、昼間あった月弥とのことを全部、おれに話して行った」 「隠さずに?」  水茶屋で、二人が半刻《はんとき》あまりも過ごしていたことを、小杉は知っている。 「ああ、不器用なやつだ。気持ちがうわずってしまったと、おれに打ち明けてから、しばらく大河内へもどっていると言いだした」 「それで牙神さまは?」  牙神がどう答えたのかと、小杉が問い返した。 「大河内へもどられては、おれが姉上に締めあげられる。なにがあったのか、すべて白状させられるだろうさ、どうか、そんな恐ろしいことにしてくれるなと、おれから惣次郎に頼んだ」  笑いながら、牙神がつづけた。 「それに、月弥を抱いてもよかったのだ……むしろ、抱いて欲しかった。どうだ? 今夜は、三人でしっぽりと——と言ってみたら、惣次郎のやつめ、赤くなって狼狽《うろた》え、逃げだしたというわけだ」  表情のない小杉が、切れるような眼眸《まなざし》で牙神を見て、訊《き》いた。 「本気で、月弥を抱かせてもよいと思うておいででしたか?」  盃のなかみを一気に空けてから、牙神は小杉に答えた。 「惣次郎に抱かれた後の月弥を見てみたかった。そして、そのとき、おれがどんな気持ちになるか、ちょいと知りたかったのだ」 「牙神さまらしくもない」  月弥が帰ってきたのか、廊下づたいに物音が聞こえてくる。急《せ》かされたように、牙神が小杉に向かって言った。 「確かに、おれらしくもない。本気で惚《ほ》れたかもしれぬ」  抑揚のない声が、冷たく答えた。 「惚れた方が、負けです」 「きついことを言う」  牙神は苦笑してから、脇息に凭《よ》りかかった身体を、心持ち小杉の方へかたむけ、囁《ささや》いた。 「小杉、おまえが抱いてみるか?」 「いずれ、始末なさるときにでも」  そう答えて、小杉は立ちあがった。 [#改ページ]  第三章 仕掛け餌      壱  ここのところ雨が降らず、地を乾す晴天つづきで開花した桜の花が、春の夜を明るくしている。  月弥は帰りが遅いと咎《とが》められないぎりぎりの、酉の刻にはもどってきたが、座敷の方がいつになく騒がしいのに気がつき、自然と眉根《まゆね》の辺りが険しくなった。  表向き隠居した牙神の住む離れに、いまだに集う者といえば、かつて狼四人衆と異名をとった、部下の佐々木、大川、松井、小杉たちである。  しかし、極秘の役目に就く牙神に従う四人が、一日の報告と晩酌をともにするのは密談が洩《も》れない屋根船のなかと決まっていた。  夜盗あがりで、牙神の密偵になった助猿が船頭を務める屋根船だ。  ——月弥が囚《とら》われ、牙神に犯されたのも、その船のなかだった。  いつもは帰っていない時刻に、それも部下を呼んでいるのは普通ではない。  なるべく関わりたくない月弥は、自分の夕餉《ゆうげ》をあきらめ、居室の方へ行こうとしたのだが、さっと座敷の障子が開いた。 「おっ、やっと、帰ってきたな」  顔をだしてそう言ったのは、童顔の松井小十郎だった。  先日のことがあり、月弥が睨《にら》みかえすと、松井がにやにやと笑った。  つづいて、のっぺりとした大川|金之助《きんのすけ》の顔が、ぬうと現われ、野太い声が月弥を呼んだ。 「殿がお待ちかねだぞ、早くこちらへこい」  月弥の立つ廊下から通しで見える台所の方では、若い下働きのお民が、なにやら心配そうな顔を向けている。今夜は、おきねだけでは手が回らずに、お民も呼ばれたのだ。 「はやく、はやくせぬかッ」  焦《じ》れて機嫌の悪い声になった大川に急かされ、月弥は廊下を座敷の方へと曲がった。 「ただいまもどりました……」  敷居の前で両手をついた月弥は、容《かたち》ばかりはしおらしげに、牙神をはじめ、なかにいる四人の男たちに頭を下げた。 「もどるのが晩《おそ》すぎる。この時刻までどこへいっていたのだ」  いままでに比べれば咎められる時間ではないのだが、大川が責める口調で言うのを、上座から牙神が遮った。 「まあ、よい、ここへ参れ」  自分のかたわらへこいと手招かれ、月弥は座敷のなかへと入ると、牙神の横に腰を下ろした。  四人が平服であるのに、牙神は、いまにも茶屋遊びに出てゆけそうな、粋《いき》な着流し姿であり、機嫌もよい。  座った月弥の前に、お民が御膳《おぜん》を運んできた。  他の男たちは、中足の短い酒膳に並んだ肴《さかな》を摘《つま》みながら手酌で酒を呑んでいる。月弥だけが足高な食事の膳だった。  食事の前に、まずは喉《のど》を酒で潤したいと思っている月弥にすれば、不満だった。 「朝食べたきりであろう。まずは、腹ごしらえしてからだ」  酒は後だというふうに牙神が言うのを聞きつけた松井小十郎が、脇から付け加えた。 「子供の癖に、すきっ腹に呑むと眼が回るぞ」  そう言う松井自身は、かなり酒が入っている様子だ。  堅物の佐々木|主馬《しゆめ》は、つぶした蟹《かに》を思わせる容貌《ようぼう》を、酔って、まさに茹《ゆ》で蟹に見えるほど赤くさせている。  大川金之助が怒りっぽいのも、酒がまわっている証拠だ。  ただ一人、あからさまに月弥を蔑視《べつし》して憚《はばか》らない小杉左京太だけは、常と変わらず、崩れたところが微塵《みじん》もなかった。  この四人に、月弥は一恨あるが、なかでも小杉が一番憎かった。  屋根船に連れ込まれ、はじめて牙神の手に落ちた夜、小杉の残忍な手口で玉茎を責められた屈辱が、怨《うら》みとなって残っているのだ。  こんな男たちに、凶賊と恐れられた犬神一党がことごとく捕らわれ、獄門に送られたとは、信じがたい。  だが、ひとたび狩りとなれば、五人は変化するのだ。  狼の群に——。  かれらの前で、月弥は仔犬《こいぬ》あつかいでしかない。  憎しみに疼《うず》く心を隠し、月弥が食膳の方へと意識を移したところへちょうど、おきねが、燗《かん》をつけた徳利を七、八本も盆に載せて入ってきた。  おきねは、まず牙神の空いた徳利を交換すると、男たちの中心に盆を置き、なかの一本を月弥の方に向けて、受け取るように差しだした。  牙神が、酒は後で…と言ったのを聴いていなかったのだが、知っていても、おきねは月弥に差しだしただろう。ところが、受け取ろうとした月弥は、渡された瞬間に、がくんと上腕のあたりから力がぬけて、徳利を落としかけた。  咄嗟《とつさ》に、横から伸びた牙神の手が徳利を掴《つか》み取った。 「あれっ」  素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげたおきねは、大事にならずにすんだことでほっとなり、はぁ…とため息をつづかせてから、身を退いて出て行った。 「酒は後だ」  徳利を奪い取ったかたちで、牙神はもう一度言ったが、当人の月弥は、自分を裏切った右腕を忌々しげに凝視《みつ》めるばかりだ。  牙神に筋を切られた月弥の腕は、ときに酒徳利すら持ちあげられないのだ。  座敷のなかが、妙に静まり返った。  視線が自分に集まっているのに気がつき、右腕を隠すように下ろした月弥は、 「喉が渇きましたゆえ、水を飲んでまいります」  と言うなり、さっと立ちあがろうとした。  だが、今度もすばやい牙神の手が、振り袖《そで》の袂《たもと》を掴んで強く引いた。  月弥の袂には、鞠《まり》が入っている。鞠の丸みが、逃がすまいと掴んだ牙神の手許《てもと》を、いっそう確かにした。 「わかった、わかった、好きなだけ飲ませてやるから、ここにいろ」  立ちあがれなくなった月弥は、座りなおすしかなく、横目で睨んだが、怒った貌《かお》も美しいばかりで、牙神を歓《よろこ》ばせるだけだった。 「甘やかしすぎはいけませんなァ」  結局は、奪い取った酒徳利を返すことになった牙神を、にやにやしながら松井が冷やかした。 「先だっても、買い置きの酒を、一夜で呑《の》んでしまったと聴きましたぞ」  何時の間にか話が大きくなっている。  大川が本気にして眼をむいたが、松井が怺《こら》えられずに声をたてて笑いはじめたので、どこまでが本当か疑わしくなり、むっつりと押し黙った。  牙神も苦笑しながら、月弥の袂に手を入れ、鞠を取りだした。  昨日見たときと、表面の模様が変わっている。  今日一日、どこかで鞠を造っていたのかと牙神は見当をつけ、知られた月弥の方は面白くなさそうに酒を呷《あお》った。  鞠をかたわらに置くと、牙神も手酌で呑みはじめた。  男たちの関心が月弥から離れ、膳の上の肴か、酒、あるいは他愛もない話題にもどっていくのに、それほど時間はかからなかった。  月弥も、徳利の酒をあらかた飲んでしまうと、ようやく食事の箸《はし》をとる気になった。 「そういえば、夕刻、助猿にあいましてな、妙なことを申しておりました」  おきねとお民が交互に、追加の酒を運んできて、宴も闌《たけなわ》になったころに、大川が思いだしたかのように言った。 「助猿がなんと?」 「はっ、それが、中郷主膳殿の役宅に出入りする商人のなかに、夜烏の銀次が混じっているとか——…」  表の構えや、使用人の数、客の出入りなどから、その店の蔵にある金の嵩《かさ》を推測するのに長《た》け、夜烏の異名をとる情報屋銀次の噂は、江戸を荒らす盗賊で知らない者はいなかった。  食事を終えていた月弥が貌をあげ、大川を見た。  大川の方は牙神へと意識が向いていて、月弥には気づいていない。  しかし、すぐに月弥は、その牙神の視線が、自分にそそがれているのに気がついた。  夜烏の銀次について、訊きたいことがあるのか、自分の反応を探っているのかと、心の裡《うち》で構えた月弥に、のんきな声がかかった。 「月弥、あの振り袖に着替えて参れ。これから、皆で花見に行こうぞ」 「夜の桜はまた格別のものですからな」  すぐさま松井が乗り気になり、話の腰を折られた大川も、肯《うなず》いている。佐々木も、小杉も異存はない様子だった。  月弥だけが、不審を感じた。  それでも言われるがままに、近江屋から届けられたきり一度も袖を通していない煌《きら》びやかな振り袖に、揃いで見立てた袴《はかま》を着けて装うと、座敷にもどった。 「おお、これはこれは…、眼に痛いほどの美しさだな、月弥」  このときばかりは、臆面《おくめん》もなく口にする牙神を、冷やかす声もあがらなかった。男たちはみな圧倒され、目を奪われて、その場に釘付《くぎづ》けとなっていたのだ。  それほど、月弥の裡に潜む魔が顕《あら》われてしまっていた。  月弥は、優しい、やわらかい色にくるめると、この上もなく典雅な胡蝶《こちよう》のように見えるが、派手な色彩を身に着けると、害あるとわかっていながら惹《ひ》きつけられずにいられない毒蛾へと変化するのだ。  今夜の月弥は、毒の蝶。  あるいは、燃えあがる炎色の、牡丹《ぼたん》だった。  毒の鱗粉《りんぷん》をあびせられるとわかっていても、あるいは火傷《やけど》するのではないかと恐れを感じても、無視できない存在だ。 「出かけるか」  満足げに頷《うなず》く牙神の一言で、全員が席を立った。      弐  夜桜見物が、単なる牙神の思いつきでなかったと月弥が知るのは、門前に駕籠《かご》が呼ばれているのを見たときだった。  警戒したものの、どこへ連れて行かれるのかわからないまま乗せられた。  見当をつけるために数をかぞえはじめたのだが、それが無意味に思われだしたころ、駕籠は止まった。  夜桜を観賞するために牙神が選んだのは、桜屋敷と有名な、さる大名の下屋敷だったのだ。  春の一時、桜屋敷では縁ある人々に自慢の桜を見せるため、庭園の所々にぼんぼりを立て、散策をゆるしているのだ。  駕籠を降りると、他にも数人の客がきているとみえて、人々のざわめきが聞こえた。 「おお、賑《にぎ》わっておりますな」  堅物であり、普段から無駄な話も、動きもみせない佐々木が、牙神に耳打ちしたのを月弥は聴いた。 「うむ、今宵《こよい》は、篠井さまもお見えのはずだ」  何気なく牙神が呟《つぶや》いたが、それは月弥に聴かせるものでもあった。  若年寄篠井長門守は、牙神に密命を下した幕府の実力者だ。その男の前に自分を連れてきたのには、なにか理由があるのだと、月弥は察した。  警戒する月弥に、牙神はさりげなく言った。 「噂の色小姓を一目ご覧になりたいそうだ」  そして月弥は、牙神に連れ回されるがままに、桜並木の下を歩かされた。  春の夜の闇は、甘く暖かく、狂おしいものを含んでいる。  そこへ出現した美しい小姓に、すれ違う人があれば、みなが、必ず振り返っていった。  桜の花明かりが、闇のなかから緋《ひ》牡丹のように咲いた月弥を炙《あぶ》りだして見せ、——まさか、夢ではないかと人々の心をさわがせるのだ。  けれども、前を行く牙神は、先ほどまでの機嫌の良さが消え失せ、むっつりとして、月弥に話し掛けてもこなくなった。  どこからか篠井長門守も観察《み》ているからかもしれない……。  歩いているうちに、いつしか、四人の姿は見えなくなっていたが、二人きりになるよう気を利かせてくれたという風でもなかった。  しばらく桜並木の道筋に沿って行くと、大きな蓮池《はすいけ》になり、中央に架かった桃山造りの欄干橋が見えてきた。  水面《みなも》の上を、夜の風が渡ってくる。  すこし前まで散っていた四人が、ひとり、ふたりと、集まってきた。 「さきほど中郷主膳さまの姿を見かけたのですが…」 「おお、佐々木も見たか、実はおれも見たのでな、お知らせしようと思ってきたのだ」  松井が声を潜めて言う。 「どうやら、今宵は中郷さまも招かれておいでだったようですな」  遠くを見やるように視線を巡らせながら、小杉も会話に加わった。  中郷主膳は、三年前に牙神の後任となった火付盗賊改方長官であり、その名を度々耳にする月弥は、かれらが相当に中郷という男を意識しているのだと思った。  意識しすぎるとそれが敵《あだ》となる。  運の悪いことに、出会わぬようにと避けたつもりが、蓮池の欄干橋を渡りはじめたところで、向こう岸から渡ってくる当人の姿が見えた。 「まずいぞ、中郷主膳だ」  大川が言い、松井が受けた。 「一緒にいるのは、横内平九郎ですな」  橋の反対側からこちらへ、供を連れた武士が歩いてくる。  牙神と中郷は、距離の空いているうちから存在に気がついていたのだが、いまさら路《みち》をそらし、すれ違うのを避けることは、お互いに意地でもできないといった様子だ。  近づくにつれ、中郷からは、威圧的なまでの自信と、見下す視線が感じられてきた。  対して牙神の方は、色子を連れて夜の桜見物に繰りだした、脂下《やにさ》がった男の、色香のようなものを漂わせはじめた。  なまじ水のしたたるような男ぶりゆえに、牙神が軟派を装うと、美男役者がお忍びで出歩いているようになる。  それが、強面《こわもて》の四人衆を背後に従え、さらには、美麗な色小姓を連れているのだから、いやでも興味を引くことになった。 「これは、牙神殿ではござらぬか」  すれ違うまでに数間という距離にきて、先に声を掛けたのは中郷の方だった。  咄嗟《とつさ》に牙神は、しまったといいたげに苦笑を頬に張りつかせ、帯に差していた扇子を抜いて、口許《くちもと》を掩《おお》い隠した。  遊び人の風情がいっそう漂い、もはや狼ではなく、化け狐のようだ。 「いや、これは……、中郷殿には、とんだところを見られてしまいましたな」  自然と牙神の身体は、月弥を隠そうとする。  その背の陰から、月弥は中郷と、かれの供である目つきの悪い男を盗み視た。  中郷主膳は、四十前後といった年齢《とし》で、骨格のはっきりとした、なかなかの男前だった。  牙神は、狼の本性を隠すために色男の顔を持つ。この中郷という男が、どのような地金を隠し持っているのか——、月弥は興味を覚えた。  ひたと凝視《みつ》める月弥の視線を、中郷も受けとめ、好奇の眼を返した。 「風が出てきたようですな」  牙神が、のんびりとした調子で言うのに、中郷が応えた。 「せっかくの桜が散ってしまうやもしらぬ…」  視線は月弥を捉《とら》えたままだった。 「中郷殿は、散らぬ花など、この世にあると思うておられるのですかな?」  いきなり牙神が反撃にでたのを、月弥は感じた。  いまや沖天の勢いにある中郷に対し、降職の落伍者と噂される牙神が、散る花に喩《たと》えて——明日はわが身とは思わないのか…と言ったも同然なのだ。  ところが、中郷は口許でせせら笑っただけで余裕をみせ、 「散ってしまう前に、もう一巡りいたすとしようかな」  そう言い、これ以上は向かい合うのも不快だとばかりに、踵《きびす》を返した。  牙神も背を向けたので月弥も従ったが、つい、中郷が気に掛かり、すこし行きかけてから、顧みた。  すると視線を感じたのか、中郷も歩みをとめ、供の男ともども振り返った。  牙神はその視線を背中で受け、身じろがなかったが、月弥の方は眼が合ってしまった。  鋭い視線を受けた月弥には、男の裡《うち》に匿《ひそ》む昏《くら》い輝きが、視えた。  中郷の方は、月弥を見ぬいたかは、わからない。  いきなり、月弥は右手首を、冷たい手にぐいと掴《つか》まれた。  手を掴んだ牙神の双眸《そうぼう》が、射るように、炯《ひか》っていた。      参  桜屋敷からもどる途中で、駕籠《かご》はそれぞれの辻《つじ》でひとつ、ふたつと別れてゆき、四谷に着いたときには、牙神と月弥、小杉の三|挺《ちよう》だけになっていた。  門前で組屋敷に帰る小杉と別れたが、牙神はまっすぐに隠居所へは行こうとしなかった。  月弥の手首を強い力で掴むと、半ば引きずるように、荒れた庭を横切った。  行き先は、屋敷内の拷問蔵だった。  お役目を降りてからは、役所の施設はほとんど使用されなくなり、拷問蔵の辺りはいっそう荒れ果てている。  月弥は、まるで物でも放り込むかのように突き飛ばされて拷問蔵のなかへ押しやられると、 「そこでまっておれ」  そう言われ、一人きりに置かれた。  拷問蔵のなかは真っ暗だが、夜眼がきく月弥には、小窓から入ってくる星明かりで、周囲を探ることができる。  間もなく、提灯《ちようちん》を提げた牙神がもどってきて、おかれた百匁蝋燭《ひやくめろうそく》に火を移した。  さほど広くない拷問蔵だが、百匁蝋燭の炎といえどもすべてを照らしだせはしない。  炎に陰影を濃くさせた牙神は、背後にいる月弥を振り返り、今度は、 「脱げ」  と言った。  どのような情欲がわいて、夜半に拷問蔵などで求めてくるのか——。  だが月弥は、牙神が全身にまとっている昏色《くらいろ》の気配を感じて、逆らわなかった。  こういうときの男には抗《あらが》わない方がいいと、肉体で知っている。思い知らされていたからだ。  春めいた夜とはいえ、土壁の拷問蔵のなかは暗く、寒かった。  艶やかな装いをほどいてゆき、肌襦袢《はだじゆばん》姿になった月弥の背筋を、寒さばかりでない、危険を察知した悪寒が、さざ波のように走った。 「ここへ参れ」  言われて牙神に近づいた途端、月弥は、眼から火花がでるほど激しく頬を打たれ、次の仕打ちを避ける間もなく、反対側の頬も打ち据えられていた。 「なにをなされます…」  いきなりの激情を咎《とが》めるように、月弥は抑えた声で、やんわりと言ったが、牙神の双眸に睨《にら》まれ、ハッと身を竦《すく》ませた。  いつもの牙神ではなかった。  裡に匿《かく》した獣の部分が、滲《にじ》みでてきていた。  一刻《いつとき》前は狐に化けていたのが、もう恐ろしい狼に見える。そして月弥は、白い、柔らかい、仔犬《こいぬ》だ。  喰《く》われてしまう——。 「手をだせ、手だ」  しかたなく、月弥が右手をだすと、牙神は左手ともども掴み取り、羽織の袂《たもと》に忍ばせていた白い細引縄を掛けた。  縛られるとわかったが、身体の前であれば解くのも容易と高を括《くく》り、されるがままになった月弥を嘲笑《あざわら》うかに、牙神は縄目が軋《きし》むほど強く締めてから、言った。 「先ほど、そなたは中郷に色目を遣ったであろう」  声が清涼感を失い、妙に乾いていた。 「ま…さかっ、それは、いいがかりというもの」  驚きに双眸をみひらいた月弥は、次の瞬間、さっと足を払われて、受け身の余裕もなく板間の床に転ばされていた。  転んだ身体の上に、牙神が手にした太縄が振り降ろされてきた。 「う——っ…」  月弥は肩から背中にかけてを打たれ、目の前が暗くなるほどの痛みに襲われた。  牙神は、一本の太い縄の両端を掴んでいて、その輪になった部分で打ったのだ。 「おれがいながら、あの男に惹《ひ》かれたか?」  応《こた》える間も与えられず、つづいての打撃が牙神から繰りだされた。 「あの男に、抱かれることを想像《おも》うたであろう」  痛みも然《さ》ることながら、牙神の口を衝《つ》いてでる言葉に、月弥の驚愕《きようがく》が増した。 「どこから、そのようなお考えをひねりだされたのです」 「隠すな、わかっておるのだぞ、…月弥ッ」  ばんっと、今度は勢いよく頬を張られて、月弥は口唇《くちびる》を切った。 「いつぞやの、惣次郎と出合茶屋へ入ったことも知っておるぞ」 「あれは——…」  元は牙神が仕組んだことだと、月弥は叫ぼうとしたが、打たれて、声が出なかった。  惣次郎に跡をつけさせた理由は、ずっと曖昧《あいまい》だった。まさか、今夜のために準備された罠《わな》だったのか?——と、戦慄《せんりつ》を覚えた。 「月弥ッ!」  打ち下ろされる縄鞭《なわむち》の一撃を、運良く避《よ》けられても、すぐに次が襲ってきた。  身体に痣《あざ》が残るだろう。逃げようと後退《あとずさ》る月弥を、牙神が追った。  かわして逃げながら、ときに打ちのめされ、月弥は床に蹲《うずくま》って呻《うめ》いた。  牙神は、皮膚を裂いてしまわないために襦袢を着させているのだが、それは打ち据える力を容赦のないものにするためでもあった。  手を身体の前で縛られた月弥は、腹部は庇《かば》えるが、無防備な背中は捧《ささ》げているようなものだ。  背筋から尻《しり》にかけてを打たれ、痛みにのけぞったところで、腹部から、さらには下肢へと縄の鞭が飛んだ。  平手で頬を打たれ、こぶしが腹部を抉《えぐ》って、月弥を苦痛に呻かせる。 「やめろっ」  月弥は土間に蹲り、身悶《みもだ》え、苦痛に痺《しび》れる身体を喘《あえ》がせながら叫んだ。 「いつだって、言うとおりにしてるのにっ」  牙神は、うつむき加減になった顔の、眼だけをそろりと上目に遣い、月弥を睨《ね》めつけた。  二人で睨み合うが、狂気に支配された男の方が、恐ろしかった。 「おれが好きにできるのは、そなたの肉体だけだ。尻をつかうだけだ」  覆いかぶさってきた牙神の手が、首筋にかかった。  月弥は絞められながら、昏い囁《ささや》きを聴いた。 「正直に申せ、ああいう男が、そなたの好みか?」  嫉妬《しつと》に狂う男の邪推で、牙神は正常を失ったかのようだ。 「違うっ」  月弥が叫ぶと、わずかに首を絞める力が緩んだ。 「ならば、おれが好きか?」  おもねりが含まれた声がそう訊《き》いてきたが、月弥は貌《かお》を背けた。 「…なぜ、いまさら、そんなことを……」  心で繋《つな》がっている二人ではないのだ。牙神もわかっていると思っていた。  首を絞めていた手を外した牙神は、月弥の髪を掴んで顔を上向かせ、狂気を宿した双眸で睨めつけた。 「答えろ、おれを好きかと訊いておるのだ」  繰り返された月弥は、置かれた立場の危うさを顧みることもなく、はっきりと拒絶を口にした。 「こんなことされて、好きなはずがない……」 「そうか、おれが嫌いかッ」  牙神から、憤怒《ふんぬ》の呻きとも、嘆きともとれる声がほとばしりでたのを耳にした月弥は、ほとんど本能的な身体反射で床から飛び起き、隙をついて拷問蔵から遁《のが》れでた。  すでに門は閉まっているから、屋敷外へ逃げることはできない。けれども、いまの牙神は危険だった。  離れなければならない。  すこしでも時間を稼ぎ、牙神が冷静になるのを、あるいは朝になって、本宅の方からおきねがくるのを待とうと思ったのだ。  身を潜めておくには、手入れをおこたり、荒れはてた庭は好都合だった。  防犯用の溜《た》め池沿いに逃げた月弥だが、気配に振り返るのと、頭上から捕縛の網が、まるで意識を持った生き物、——蜘蛛《くも》の糸のように被《かぶ》さってきたのは、ほとんど同時だった。  遠い日の記憶がよみがえり、月弥は呪縛《じゆばく》をうけたように固まった。  耳の奥、脳の一部で、呼び子の鳴る音が聞こえる。  四年前の、漆を流したような夜。  薬種問屋の金蔵に押し入った直後のことだ。  捕り方に囲まれ、蜘蛛網を掛けられた瞬間、近くにいた手下《てか》の佐平治が小刀で網を切った。なかに銅線が編みこんであり、簡単に切れる網ではなかった。  血まみれになりながらも佐平治は、子供の身体が抜けだせるだけの穴を開けてしまうと、そこから月弥を押しだした。 「おかしら、逃げて、逃げ延びて、蛾次郎のところへ行きなせえ。はやくっ」  月弥を逃がすために、網を掛けられた男たちが、ひとつの意志となって、岩のように捕り方たちを阻んだ。 「早く、逃げるんだ。おれたちにだって、弔ってくれる人は必要だからな」  女子供も容赦なく殺す盗賊の佐平治を見た、それが最後だった。  同じ蜘蛛網が、生き物のように月弥の身体に絡みついてくる。あの夜の無念が、月弥の脳を灼《や》き、射貫《いぬ》かれた右腕の疵《きず》を疼《うず》かせた。  我に返った月弥は、星明かりをあびて立つ小杉左京太を見た。  門前で別れ、組屋敷にもどって行った小杉は、とうに就寝したころと思われたのに、装束を解いてもいなかった。  この男は、牙神が言いがかりをつけて月弥を責めなぶるのに、最初から荷担していたのだ。  こみあげてきた強い憎しみに、月弥は心も脳も侵された。眩《くら》みそうになりながらも、なんとしても網から遁れでようと身体をひねった。  急がなければ、ふたたびあの夜の記憶に囚《とら》われ、心を蝕《むしば》まれるとわかっていたのだ。  ところが、足場が悪かった。  小杉と対峙《たいじ》した向きを変えようとしたその拍子に、網に搦《から》められた月弥の身体は重心を失い、黒々とした水を湛えた溜め池の傾斜を滑り落ちた。  アッと思ったときには、口許《くちもと》まで水がきていた。  溺《おぼ》れるとわかり、なにかに縋《すが》ろうとしたが、縛られた手は網を掴《つか》んだだけだった。  息を継ごうとすると、水が、一気に喉《のど》から肺にかけて押し寄せてきた。  視界が暗くなる前に見あげた夜空は、風で雲が払われて、銀河が冴《さ》えていた。  ——死に方としては、惨めだ。  そう月弥は思ったが、一瞬、記憶の途切れがあっただけで、すぐに、呑《の》んだ水を嘔吐《おうと》する苦しみに、死を免れたことを知った。  濡《ぬ》れた草地に蹲り、咳《せ》き込んで、肺と内臓を喘がせる月弥を、網もろとも池から引きあげた小杉が見下ろしていた。 「怖かったとみえるな」  日ごろ抑揚のない小杉の声に、網を掛けられて狼狽《ろうばい》した月弥の恐怖を嘲笑《あざわら》う調子が感じられる。  月弥は、咳き込みの苦しみに自然とこみあげてくる涙を拭《ぬぐ》うこともできずに、小杉を上目づかいに睨《にら》んだ。  まだ歯向かう気持ちの月弥を見て、仄白《ほのじろ》い、能面を思わせる顔が笑った。 「立て、牙神さまが拷問蔵でお待ちだ」  小杉の眼眸《まなざし》にも、いまは妖《あや》しい光が射しているようだった。 [#改ページ]  第四章 色はふたつ      壱 「殿、御免つかまつります——…」  書院で書き物をしていた中郷主膳のもとへ、側近の横内平九郎が、そろりと入ってきた。 「いかがいたした?」  間もなく申《さる》の刻。  職務が一段落して終わりになるころであった。  この時間、中郷は報告を聴き、まとめられた書類に目を通し、自分なりの覚え書をつくる。邪魔されるのを好まない中郷の元へ、側近の横内がきたのには、相応の理由があるとみた。 「いかがいたしたと申すのだ」  すぐに用件を切りださない横内に焦《じ》れて、中郷は目線をあげ、もう一度|訊《き》いた。  横内は、なにやら不謹慎な、それでいて意味深げな顔つきをしている。  用心深い中郷の裡《うち》を、猜疑《さいぎ》がかすめた。 「問題が起きたのか」 「……いえ、…いや、問題と申せば問題でございますが……」  日ごろ、はっきりと物を言う横内にしては歯切れが悪く、その上に、嫌な感じがする。 「早う申してみよ」 「それが、昨夜牙神さまが連れておられた小姓が参りまして、殿へのお目通りを願い出ておるのですが……」  門番から、なにやら尋常でない様子の者が、中郷を訪ねてきたと報告を受け、出て行った横内は、そこに牙神尚照の色小姓が立っているのを見た。  凄《すご》いような美貌《びぼう》を、憶《おぼ》えていたのだ。 「牙神の?」  興味をそそられたのか、中郷の眼の奥が光った。 「牙神の色子が、わしになに用があると申すのだ」  興味をいだいたのだが、反して、中郷の声音には不快げな響きが混じっていた。 「はあ、それがどうも、妙な成り行きとなったらしく……」  横内は、中郷の裏の仕事を知り尽くした立場にいるが、弁《わきま》えており、そのために長く使われている男だ。  黒ずんだ顔色に加え、目つきが鋭く、鉤鼻《かぎばな》もあって一見恐ろしげな風貌で、いまのような、にやらにやらした様子を見せることなどなかったのだ。 「煩わしい。早く申せ」  焦れた中郷が声を荒らげたにもかかわらず、横内は、はっきりしない。 「は、それが…あの者、月弥と申すそうでございますが、どうやら、桜屋敷にてすれ違《ちご》うたおり、殿に、その、妄《みだ》りがわしき目つきをなしたとやらで、牙神さまに手ひどく折檻《せつかん》され、こちらへ逃げ込んで参った由にございます」  横内の妙な態度の理由がわかったと同時に、中郷は、かれらしくなく呆気《あつけ》にとられたが、すぐに、くくくっと笑った。 「その者、わしの部屋へ通しておけ、これを書きあげたらゆく」  庭先へ回らせ、廊下越しの謁見ではなく、中郷は自分の私室へ通せと言った。 「お居間の方でございますな、離れの?」  念を押し、横内が下がってから間もなく、したため終わった覚え書を決済箱に納め、中郷は別棟にある私室へと向かった。  牙神同様に、中郷も長官に任命された年、屋敷地内に役所の設備を調えたが、さらに最近になって、私的な部屋を棟つづきで増築させた。  新たに離れを増築したのには理由があった。  軌道に乗ってきた裏の仕事の、機密性を高めるためだった。  密談を聴かれるおそれのない部屋を造らせる必要が出てきたのだ。  その部屋のひとつに中郷が入って行くと、艶《あで》やかな振り袖《そで》姿の小姓が、両手をつかえ、頭を下げていた。 「わしが中郷だが、用向きを申してみよ」  事情を聴かされていない口ぶりで声をかけた中郷の前で、牙神の色小姓、月弥が顔をあげた。  一目見るなり、中郷に驚きが走った。  昨夜見た牙神の色小姓は、身にまとった派手な装束と相俟《あいま》って、夜の錦《にしき》とも思われるほどに妖《あや》しく、美しかった。  それがいまは、美しい顔が青ざめ、憔悴《しようすい》し、やつれきっている。白い肌も艶《つや》をなくし、病んでいるように、陰の部分が青黒かった。 「お願いがございます」  いまは弱々しいが、声もうつくしいと、中郷は感じた。この声で、男、——牙神に抱かれて、どのように鳴《な》くのだろうかと、つい考えてみた。 「申してみよ」 「はい。中郷さまから、…牙神さまにおとりなしいただきたきことがございます」  美小姓は、急《せ》くあまりに息を詰まらせながら、昨夜のすれ違いざまに、自分が中郷に色目を遣ったと牙神に邪推され、どんなに違うと言っても信じてもらえない。このままでは責め殺されてしまうので助けて欲しいと言いだした。 「どうかッ、牙神さまに申しあげてください。そんなことはなかったと」  繰り返す口調が悲鳴まじりに聞こえる。 「これ、中郷さまに向かって言葉を慎まぬか」  脇に控えた横内に咎《とが》められ、びくりと怯《おび》えた牙神の色小姓は、ふたたび恐縮したように平伏した。 「お赦《ゆる》しくださいませ」  前で揃えた両手の、細い手首に縄目の痕《あと》が刻まれている。  中郷は視線で合図を送り、阿吽《あうん》の呼吸で意味を解した横内は、小姓が纏《まと》う煌《きら》びやかな装いに手を掛けた。 「ああッ」  果実の皮を剥《む》くような横内の手際に掛かり、色小姓は、抵抗らしい仕種《しぐさ》もできないうちにすべてを奪われて、折檻の痕も生々しい裸体をさらした。 「なんということだ——…」  細いため息が中郷から洩《も》れ、横内ですら眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。  惨《むご》たらしい打擲《ちようちやく》の痕が身体中にあった。  縄目に擦《こす》られて血の滲《にじ》む肌、縄の痕は股《また》の内側にも走り、まだ生え揃わない若草が火で炙《あぶ》られたのも見てとれる。  昏《くら》くたぎった牙神の内面を見た思いがして、中郷はあざけり嗤《わら》いを悟られぬように、渋く言った。 「男同士の嫉妬《しつと》は凄《すさ》まじいと聞くからな…。もうよい、早く直せ」  中郷は、力ずくで剥ぎ取らせておきながら、今度は早く着ろと命じ、牙神の存在を透かし見るように、小姓へ向けた眼を細めた。  相手の秘め事、その異常性を知ると、それだけで優位に立ったも同じだった。  身繕いを調えて、またも牙神の色小姓は畳に平伏《ひれふ》した。  髪に挿した銀細工の髪挿《かんざし》が、キラリと光った。  小姓は、豪華な振り袖と袴《はかま》に、絹の足袋《たび》、履いてきた草履の類《たぐ》いまで高価なものを身に着けている。潤いあるとは思われない牙神家の台所事情を鑑《かんが》みても、小姓へのいれこみの深さ、激しさを推し量ることができるほどだ。 「お助けくださいませ。わたしの潔白をお晴らしくださいませ、そうでないと…責め殺されてしまいます……」  色小姓は、伏し目がちにしていた眸《ひとみ》に媚《こ》びをからめ、うかがってきた。  まなじりになにやら尋常でない色香がある。その眼眸《まなざし》の呪力《じゆりよく》で、自分が誘惑されているのを感じた中郷は、いっそう面白可笑《おもしろおか》しくなってきた。  牙神の色小姓からは、身を任せ、渡っていく男を見定めている様子がありありとしていて、前の情人を裏切ることも平気と思わせる妄《みだ》りがわしさ、不実さが感じられるのだ。  だが、色を売って生きる術《すべ》しかもたない女や男とはそういうものと、中郷は許容できる。それよりも、裏切られる前の情人が牙神であるということに、関心があった。 「そなたの恐れも、申したきこともわかった。だがな、わしも立場上、迂闊《うかつ》なことは言えぬのでな、牙神殿にそなたをとりなすことは致しかねるが…、しばらく、そうだな、身体の傷が癒《い》えるまで、当家に身を寄せておるがよい」 「ま、本当《まこと》でございますか…」  沈んだ美しい声に弾みがついたのを聞き取って、元よりそのつもりで自分を頼って来たのだろう…と、中郷は眼に笑いを含ませてから、横内に向き直った。 「この離れに部屋を用意してやれ、それから、手当てを受けさせ、着替えさせるのだ。かような姿《なり》では、目立ち過ぎるゆえにな」  命じられた横内は、月弥を連れて立ちあがったが、どこか不本意といった様子を隠さなかった。 「返さずともよろしいのでございますか?」 「さればとて、むざむざ返すのも惜しいほどの美童ではないか」  先ほどは、文句も、問い返すこともなく従った横内だが、すぐにもどってくると、感じた懸念を中郷に問うた。 「あのような色子と関わりあわれては、殿の御名に傷が付くのでは…」 「逆手にとって、牙神の色子狂いを暴くことができるではないか。もっとも、もはや誰もあの男のことなど憶《おぼ》えてはおらんかもしれぬがな」  後任についた中郷は、牙神に対し、著しく競争意識を持っている。腹心の部下である横内の前では、隠す必要はなかった。 「しかし、お側ちかくに置かれますのは……」  さらなる心配、——裏の仕事について横内が持ちだした。  火盗改方でありながら、中郷主膳にはもうひとつの顔があった。  それは、捕り物に出張った先で、押し入った盗賊を成敗すると同時に、盗賊が奪った金品を略奪するというものだった。  最近になって、予測の立たない押し込みを待つよりも、手下に引き込んだ盗賊に、一人仕事や江戸に不慣れな流れ盗賊を集めさせ、金のありそうな店を襲わせる自作自演の捕り物を行いはじめていた。  すべての罪を、集めた流れ者の盗賊を現場で殺すことでなすりつけ、ときに、目撃者を消すために家人を皆殺しにする場合もあった。  蔵の金のすべてを奪うわけではない。不審がられない程度に残していたが、面白いように金が手に入ると同時に、中郷の評判も高まる一石二鳥の裏稼業だった。  荷担するのは横内を筆頭に数名の腹心だけだ。  そして中郷は、舅《しゆうと》夫婦や妻子に気づかれないようにとの注意から、新たに建て増した別棟の離れに、自分だけの居室を移したのだ。  横内は、その別棟に、選《よ》りにも択《よ》って牙神の色子を入れるとは無用心すぎると言いたいのだ。 「心配いたすな、わしが用心を怠ったことがあったか?」 「拙者が心配するのはなにも牙神ばかりではございません。あのような色子をお側に置かれて、奥方さまのお耳にでも入ることがあれば…」  元は六十石の微禄《びろく》を食《は》む遠田家の次男に生まれた主膳は、二十四の年に、縁あって九百石の中郷家へ婿に入り、いらい運気が向いてきた。  妻の音羽《おとわ》は主膳より歳上で、醜女《しこめ》ではないが、あまりに内気すぎて陰気、性の営みが苦痛という女だった。  それもあって子に恵まれなかったことから、分家から迎えた養子の成長だけを楽しみに、いまは奥に引きこもって人前には出てこない。  中郷が音羽の侍女に手をつけたときも、外に女を持たれるよりはましと諦《あきら》め、騒ぎたてることはなかった。 「横内、いらぬ心配をするな。わしと音羽の間柄は知っておろうが」  いつにないほど機嫌よく、中郷が横内をあしらった。  中郷はきわめて用心深い男でもある。横内も用心深さでは引けをとらない性質ゆえに、一言が出てしまうのだ。 「いまの者の手首を見たか? あの縄目の痕は、生半《なまなか》なことではつけられんぞ、身体中の傷、大腿《もも》の内側にな、噛《か》みついた歯形まであった。ふふっ…牙神の嫉妬心の凄《すご》さがわかるというものだ」 「右腕に古い傷跡が残っておりましたな」  すかさず横内が、気持ちを切り替えて言う。 「うむ、刀創のようにも見えたが、後で問い質《ただ》してみるか——」  表面が肌色に再生された小さな傷だったが、二人は見逃していなかった。 「持ち物は改めたか?」 「よほど慌てて逃げてきたのか、身に着けたもの以外にはなにもございませなんだ。しかし、今度は殿に取り入るつもりではありますまいか…」  疑《うたぐ》り深い性質に凝り固まった横内が次にそう口にすると、中郷の口許《くちもと》が持ちあがり、にやりとした笑い顔になった。 「色はふたつと申すではないか、あの牙神が夢中になったのだ。味わってみるのも悪くはあるまい」  溺《おぼ》れて見境が無くなるほどではないが、男盛りの中郷は色にも強い。特に、裏の仕事をはじめてからは、いっそう激しくなった。  牙神が自分を取りもどしに来たと月弥が知らされたのは、中郷のもとに匿《かくま》われて三日目のことだった。  今日の夕刻まで、月弥は微熱に苦しめられ、臥《ふ》せった身体を起きあがらせることができなかったのだ。  医師の診たてもあって、中郷も休ませていたが、熱も下がり、食欲もでたと聞き、牙神が訪ねてきたことなど教えるために、居間へ召し出した。  酒の席だった。  月弥は、あたえられた小袖《こそで》と袴を身につけ、髪は頭の後ろで結っただけという清楚《せいそ》な姿でありながらも、裡《うち》から妖《あや》しい色香を光り輝かせて、中郷の前に平伏した。  逃げ込んできたときには、しおれた花のように憔悴《しようすい》していたのが、手当てされ、より強い男に守ってもらえるという安心を得たからか、大輪の花に返り咲いたのだ。  同席するのは、事情を知る横内平九郎だけだ。  牙神は、夕刻の淋《さび》しげな時間を見計らって、供も連れずに一人で現われた。  取り次ぐ中郷家の用人もどうあつかってよいか戸惑った。  とりあえず書院のある座敷へ通したものの、今度は中郷が、意図的に四半刻《しはんとき》あまりも待たせてから、ようやく応対に出た。 「あの男の顔を、そなたにも見せてやりたかったぞ。わしが、そなたを返さぬといった途端、青ざめた顔が、見る見る赤く膨れてな、卒中でも起こすかと思うたぞ」 「い…いや——怖い……」  怯《おび》え、身を強張《こわば》らせた月弥は、か弱く、美しいばかりの生きものとして、中郷の眼に映った。 「ときに、そなた、牙神殿とはいかにして知り合うたのだ?」  酌をしろと盃《さかずき》を差し出しながら、中郷が問うてきた。  偽りや誤魔化《ごまか》しがないかと、男ふたりの視線が自分に集まっているのを自然に受け止めながら、月弥はこのような場合に用意した何時もの口上を述べにかかった。 「数年前までは、芝居小屋で役者見習いをしておりましたが、あるときに、わたしに良い役が付いたのが、いまから思えば不運の始まりだったのでございます……」  看板役者と役の取りあい、贔屓《ひいき》客の奪いあいで、商売ものの貌《かお》を創《きず》つけられる寸前にまでなった。  このとき、貌は守ったが、右腕の筋を痛めて芝居がつづけられなくなってしまったこと。  それからは、昼間は同じ芝居小屋で働く者たちから凌辱《りようじよく》を受け、夜は客を取らされるという地獄の日々。  逃げだして、夜鷹《よたか》相手に私製の堕胎薬を売って父子ふたり、なんとか暮らしていたが、今度は牙神に見咎《みとが》められた。  難癖をつけられたあげくに、肉体を奪われ、そのまま囲われるようになったのだと、月弥は話し終えた。 「牙神さまは、老いた父をどこぞに隠してしまい、会わせてはくれません。わたしは…父を人質にとられてしまい、どんな仕打ちをされても耐えて参りましたのに——…もう殺されてしまいます……」  泣き崩れた月弥から、中郷と横内はそれなりに納得した様子だった。  疑うのであれば、閻魔《えんま》堂の夜鷹たちに訊《き》き込めば、堕胎薬を売っていた月弥の噂は確かめられるだろう。  さらには、半年ほど前の夜、目つきの鋭い男が、月弥を屋根船に連れて行ったと憶《おぼ》えていて、証言してくれる者も、まだ居るかもしれない。あのような場では、小杉左京太は印象的な男なのだ。 「そなたは、牙神殿に恨みがある様子だな」  ハッと月弥は貌をあげ、自分を探っていた中郷を見た。  月弥はいま、虐《いじ》めぬかれた半年前の、あの夜の記憶に心を支配され、表情を取り繕う術《すべ》を忘れていたのだ。  けれどもそれが幸いした。  月弥に対する疑いの、最初の薄皮が男から剥《は》がれ落ちたのがわかった。 「…牙神さまは鬼のようなお方でございます。心に面白くないことが起こると、何時もわたしに酷《ひど》い仕打ちをなさって、ご自分の憂さを晴らしていらっしゃるのです」 「それはいかぬな。牙神殿が悪い。そなたのようなか弱き花は、大切にあつこうてやらねばならぬだろうに」  本気で言っているのか、戯《ざ》れ言《ごと》かは月弥にはどうでもよかった。ただ、いまの言葉に縋《すが》るように、身体を中郷へと近づけ、膝《ひざ》を崩した。 「殿さまならば、……わたしを大切と、可愛がってくださいますか」  容貌《ようぼう》の美しさも然《さ》ることながら、月弥には、女にない魅力がある。中郷は興味を隠さずに視線を向けていたが、はぐらかした。 「さぁてな、わしはいままでそなたのような花を手折った経験《こと》がないゆえにな、その美味がわからん」  言い紛らせた中郷を、月弥は憑《と》り殺さんばかりの流し眼に睨《にら》み、けれどもすぐに、花びらのような口唇《くちびる》をすうっと左右に引いて寂しげな笑みをつくった。  誘いをかけ、しなだれかかってくるかと思わせておいて、だが月弥は身を退《ひ》いたのだ。  容《かたち》の美しい口唇をキッと結んだ貌に、まだ十六になったばかりの稚《おさな》さが宿っている。  しおらしげになった月弥からは、牙神の愛寵《あいちよう》を受けていた自分を羞《は》じている様子が垣間見《かいまみ》えていた。      弐  この夜の後、月弥は連日のように召し出され、中郷たちの酒席の相手を務めた。  横内や、他の者が同席するときも、中郷と二人きりの夜もあったが、いずれにしろ、捕り物があればすぐさま出張らねばならないかれらの酒は、度を越すことがなかった。  中郷がもうすこし酔ってくれたならば、——もっと早くに月弥と肌を合わせていたかもしれない。  勧められた酒を呑《の》み干した月弥が、盃を返そうとした手を掴《つか》まれたのは、中郷の許《もと》に移ってから半月も過ぎた夜だった。 「わしの閨《ねや》へ参れ」  はっと、驚いた眼で月弥は中郷を見あげた。 「殿さまには、嫌われているとばかり思うておりました…」  次第に眼眸《まなざし》を潤ませていく月弥に、中郷の方もそそられたのか、声音が優しくなった。 「なぜに、そう思うた?」 「だって…」  甘えをからめ、月弥の口ぶりに拗《す》ねた調子がまじる。 「牙神さまに汚された身と、厭《いと》わしく思っていらっしゃるのだと……」  むしろ、主《あるじ》のある花を奪う楽しみの方を中郷は感じているのだが、半月もの間、酒の相手だけさせられていた月弥にすれば、そう考えたのも無理はないだろう。  中郷は笑った。 「そなたの身体をいたわってやらねばならぬと思うたからだ。牙神がどうと、わしはそれほど狭量な男ではない。それよりも、牙神は、そなたと、いかが致すのだ?」  ふたりきりだったが、いきなり訊かれ、月弥は貌を伏せてしまった。 「お聞きくださいますな、そのような…羞ずかしい……」  目許《めもと》が赤く変わっていく月弥の、その美しい貌を愉《たの》しもうと中郷が頤《おとがい》に手をかけて仰《あお》のかせようとした。  いやいやと、月弥が頭《かぶり》を振って抗《あらが》うのに、中郷が言い聞かせる調子になった。 「わしはな、そなたのような花を手折ったことがないと申したであろう。わからぬのだ。……あつかい方がな」  言われて月弥の抵抗がやんだ。  羞じらいと、媚《こ》びが綯《な》い交ぜとなって、妖《あや》しい輝きに変わった眸《ひとみ》で中郷を凝視《みつ》める。 「同じでございます。殿さまと、わたしの肉体はおんなじ造り…、殿さまが気持ちのよい所を、可愛がってくださりませ……」 「わしの気持ちのよい所か」  面白がって繰り返した中郷に、月弥がにじり寄った。  もの欲しげに口唇がうすく開き、心持ち身体を横に崩した姿は、いまにも帯を解かれんと待ちかまえる嬌姿《きようし》に見える。  淫《みだ》らな媚びを含んだ眸で凝視めながら、月弥は、中郷の膝に手をかけてゆき、腰へと指をすべらせた。 「ご存じなければ、わたしが……、わたしが教えてさしあげます…」  言うなり、月弥は躊躇《ためら》いもなく中郷の前を押し開き、ほっそりと白い首筋を伸ばして股間《こかん》へと貌を埋《うず》めたのだ。  思いがけない成り行きに中郷は面食らった様子だったが、すぐに口淫《こういん》されるのを愉しみはじめた。  口腔《こうこう》に招き入れた男の硬さで、月弥にも相手の官能の昂《たか》ぶりは察せられる。  月弥は頤をそらし、呑まれてゆく肉塊を中郷本人に見せてやるように計らった。  息を吸いながら、喉《のど》を衝《つ》くほどに深く、付け根まで含んでしまうと、すでに硬く兆した男茎《おとこ》の内側に舌を巻きつけ、筋をなぞった。  それから、尖《とが》らせた舌先で裏筋をなぞりあげながら、ゆっくりと、口腔から中郷のすべてを引きだした。  中郷は、名工に刻まれたかと思うほど容《かたち》の美しい口唇が淫らにすぼまり、締めつけてくるのを味わいながら、引きだされてくる自分の肉塊を見下ろしている。  唾液《だえき》に濡《ぬ》れ、光沢を放ってあらわれる肉茎は、凶器のように硬く、天を衝いてそびえ勃《た》つ。自分の、男としての力を見ている気分になる。  月弥は、鼻を鳴らして甘える仔犬《こいぬ》のような呻《うめ》きを洩《も》らしながら、ふたたびむしゃぶりついた。  尖らせた舌先で中郷の先端にある鈴口の溝を掘りながら、口唇と並びの整った歯の列で肉茎を締めつけ、甘噛《あまが》みし、ふたたび付け根まで呑みこんでゆく。  中郷は感嘆した。  女の口を犯すときとは、全然違う。あきれるほど、気持ちがよいのだ。  月弥が貌を動かす度に、髪に挿した銀の簪《かんざし》が光を放った。  光が、次第に星の瞬きに見えるほどの煌《きらめ》きになると、中郷の息遣いが、変わった。  月弥の眸も、夢見ごこちに閉じられた。  いま、口淫の秘戯を尽くされる中郷以上に、銜《くわ》えた肉茎で、口唇に、舌に、頬に刺激を受けていることになる月弥の方も、快美を感じていた。  甘美で濃厚な刺激を自分でつくりだし、味わっているのだ。  熱い口腔に包まれた中郷は、巻きつき、吸いあげ、蠢《うごめ》いていた月弥の舌先が幾重にも分かれ、別々の生き物になったかと錯覚させられた瞬間に、かすかに下腹部を上下に喘《あえ》がせた。  射精の瞬間、声はこらえたが、脳天まで痺れるような快感が走り、中郷は息が詰まった。  月弥は、喉に叩《たた》きつけられた粘液を、肺に息を吸い込むように身体のなかへと入れた。 「ああぁ…、嬉《うれ》しい」  中郷の股間から貌《かお》をあげた月弥は、細い指先を口唇にあて、いまだ余韻を愉しむかのようにうっとりとなっている。 「まだ、訊いたことには答えておらぬ。牙神はいかにしてそなたを抱くのだ? そなたは、牙神にもいまのごとく、いたすのか」  喉をすべり降りていった男の精に酔っていた月弥が、ハッと双眸《そうぼう》をみひらき、心外だというふうに中郷を睨んだ。 「好いたお方以外に、誰が——…」 「さようか? 牙神はそなたの口、舌の美味を知らぬと申すか?」  しなだれかかってくる月弥の肩を抱いた中郷は、信じていない口ぶりだが、声音は優しいままだった。 「牙神さまの話は嫌」  月弥は身をくねらせ、美しい憂い顔になった。 「嫌でございます」 「いやか——…」  中郷の手が、月弥の袴《はかま》をほどき、裾《すそ》を割って下肢へと入ってきた。  男の象《かたち》が整い、露《あらわ》になっているのを見られてしまう。 「あ…っ…」  兆したその前方を捉《とら》えられて、月弥に慄《ふる》えが走った。 「そなたは、わしを銜えただけで、かようなさまになるのか?」  指先が絡みつき、月弥をこすってきた。 「ああ…んっ…」  男の精を吸った口唇《くちびる》から、すすり泣きに似た喘ぎが洩れはじめるのに、時間はかからなかった。 「お…お手を汚してしまいます……っ…」 「構わぬぞ、まずはわしの手で達《い》かせてやろうぞ、月弥」  中郷の巧みな手淫にかかって、たちまち月弥は渫《も》らしてしまい、腰が抜けたようになった。  その月弥を畳の上へと押し倒して、中郷は双丘へも手を入れてきた。  秘花を探りあてられ、おののいた瞬間に指先の侵入を許してしまった月弥が、またもあられもない声をたてた。 「いじられるのが悦《い》いのか?」  女の花園を弄《いら》う手つきで媚肛をなぶりながら、中郷が囁《ささや》いた。  淡く、沈んだ桃色の肉襞《にくひだ》が、弄《いじ》られているうちに充血して、花開く前の蕾《つぼみ》のように柔らかく、色も、ぬれぬれとした紅色|珊瑚《さんご》に変わってきた。 「ふふっ…そうか、悦いのだな?」  肉襞を愛撫《あいぶ》される月弥はたちまち催情《もよお》して、甘くすすり歔《な》き、緩慢に下肢をうねらせている。 「牙神にも触れさせるのだな?」  巧みな指戯が月弥の肉も、脳も混乱させた。 「ああっ、言わないで…、憎い、あの男が憎くてたまらないッ」  惑乱のあまりに、月弥が口走った言葉を中郷は聞き逃さなかった。 「そなたは、わしが牙神から守ってやろう。その代わりに、身も心もわしの物になるのだぞ」 「は、はいっ…」  言葉の証《あかし》とばかりに、月弥は中郷の男を身の内側へと求め、指とは違う雄大な逸物《いちもつ》を咥《くわ》えて、とろけるような喘ぎを立てはじめた。  この夜いらい、中郷は月弥を愉しむようになり、月弥は衆道の秘技をもちいて仕え、淫らな美しい花を咲かせた。      参  明日から皐月《さつき》というが、雨の降る肌寒い夜だった。  なにやら夕刻から役所の方が騒がしく、亥《い》の刻になっても中郷はもどってこなかった。  月弥は待ちつづけたが、やがてあてがわれた座敷をでて、役所へと通じる廊下に入り込んでいた。  立ち入ってはならないと禁じられてはいたが、今夜ばかりは、一人きりにされた心細さに衝き動かされ、叱られることも覚悟で覗《のぞ》きにきたという言い訳も立つだろう。  だが、棟全体が不自然なほど静まり返っているのに気がつき、新たな胸騒ぎを感じた。  当直の者の姿も見えず、部屋の灯火も消えて、暗い洞窟《どうくつ》にも似た静けさがあるのだ。  牙神の役所と間取りは大きく変わらないのを幸いと、見当をつけながら進んでいるうちに、調理場の方に人々の立てる声、物音を聞いた。  足音を忍ばせ、近づいて行った月弥は、竈《かまど》に火を入れ、夜食の準備に追われる奉公人たちを見た。  かれらの忙しげな様子、人気のない役所のなかから、今宵《こよい》、急の捕り物があったことは間違いない。  急ぎ退《ひ》き返そうとした月弥は、途中の部屋に、先ほどは居なかった当直の同心倉田新助を見つけた。  倉田は一人きりで、背を丸め、書物机に向かっている。 「あの…、な…にかあったのでしょうか……」  あたりを窺《うかが》いながら、月弥は声をかけた。 「な、なんだ」  ギョッと肩をあえがせ、倉田は振り返った。  ひと月半ほど前に、牙神尚照のもとを逃げ、中郷を頼ってきた小姓が廊下に立っているのを見つけ、慌てて表情を険しくさせた。 「何をしに参った。ここは、そなたなどの来るところではないぞ」  いま驚いた自分を誤魔化《ごまか》すかのように、声に凄《すご》みが加わった。  嚇《おど》しつけられ、怯《おび》えて後退《あとずさ》った月弥が、泣きださんばかりに貌を歪《ゆが》めると、今度は倉田の方が狼狽《うろた》えた。  倉田は、噂で聴いた小姓の美しさ、艶《あで》やかさを確かめようと、他の同心に混じって離れを盗み見に行ったことがある。  さらに、月弥が、外出を許されて出かけて行くときなどは、供に一刀流の達人、吉村|欣也《きんや》をつけてもらい、守られていくのも知っている。  吉村に不都合ができたならば、その役目は自分に回ってくるのではないか…などと、同じ一刀流を以《も》って仕えるというだけで夢想したことがあったのだ。  遠目に見てときめいた麗しい花が、いまは手の届く、目の前に咲いている。 「なにか、用か? おれにできることか?」  言葉|尻《じり》を和らげ、月弥に訊《き》き返した。 「殿さまが、まだおもどりになられないのです…」  月弥がそう言うと、ひとつ咳払《せきばら》いをしてから、倉田新助は答えた。 「皆はお役目で出かけたのだ」 「……捕り物…でございますか?」  声に怯えをからませて月弥が訊き返す。 「そうだ」  不安げにうつむいた月弥を見て、色小姓とは、女や子供と同じで、心の弱い者なのだ——と、倉田は受けとめた。 「心配いたすな、すぐにもどられる」 「遠い所へ行かれたのでしょうか? もう、亥の刻もとうに過ぎましたのに……」 「中郷さまならば心配はない。部屋にもどってお待ち申しあげておればよいのだ」  月弥はかぶりを振って、このままでは不安を拭《ぬぐ》い去れないとばかりに、縋《すが》るように膝《ひざ》を折り、倉田の前ヘと膝行《いざ》った。 「どちらへおいでになられたのかだけでも、お教えください。そちらに向かって無事のお帰りをお祈りしとう存じます」  健気《けなげ》なものだと思ったのか、そうそう隠す必要も感じなかったのか、倉田はあっさりと出張った先を口にした。 「日本橋の近江屋だそうだ。しかし、近ごろは物騒になった。中郷さまがおられなくば、大変なことになっているであろうな」  内心の驚きを隠し、月弥は日本橋の方向へと視線を巡らせた。  近江屋曾兵衛の顔を思い出しながらも、まったく別のことを口にする。 「本当に、殿さまは頼り甲斐《がい》のある心の広いお方…、ですが、お役目のときは厳しいのでございましょう?」  倉田は、牙神の寵童《ちようどう》だったと聴かされた月弥が、いまは中郷を頼みに思い、なおかつ敬う気持ちを持っていると感じたのか、いっそう上役自慢が饒舌《じようぜつ》になった。 「何事も徹底しておられるお方だ。おそらくはいまだとて、捕り方に周りを固めさせ、賊の一匹たりとも逃がさない構えを廻《めぐ》らせた上で、ご自分の危険を顧みずに踏み込まれておられるであろうな。中郷さまおんみずから突進され、まずは刃向かう盗賊どもを有無をいわせずに叩《たた》き斬っていくのだ」 「盗賊を、斬り殺すのでございますか…」  またも怯えた様子を見せる月弥を、倉田は笑った。 「当たり前だ。押し入った先の家人を皆殺しにする凶賊どもだ、生かしておく必要はないのだぞ」  捕らえ、余罪を白状させるなど、経費を必要とする手間を省いていることにもなるが、倉田は中郷のやり方を当たり前と支持して、自慢げに話すのだ。 「それにな、中郷さまは任命されてすぐに、江戸中の大店《おおだな》にご自分から出向かれ、防犯についてご指導されたばかりでなく、いざ賊が入ったときなど迅速に動けねばならんと申されてな、立ち入って店の間取りをお調べになられた。そこまで徹底されるお方なのだ」  江戸中というのは大げさだった。これはと目をつけた大店を軒並みという意味だった。 「間取りまでお調べになられたのでございますか?」  たとえ防犯のためと大義をつけても、かなり強引なやり方があったのではないかと思われるが、月弥は、ひとつひとつに驚いてみせている。  そのように、怯えたり、驚いたり、感嘆しながら話を聴いている月弥に、つい倉田も調子に乗っていた。 「偶然だがな、それがしは、中郷さまが簡単な絵図にして書き付けておられるのを見たことがある。いくらなんでも、憶《おぼ》えきれるものではないからな」 「絵図に……、それを盗賊に奪われましたら大変ではございますまいか」 「なにを申すか。この役宅に盗賊が入り込めるものか。それに、中郷さまであれば、人目につかない場所にしまっておられるだろうしな……」  月弥は、話を打ち切らせる目的を持って、後れ毛にからめた指を、首筋にそわせ、自らを愛撫《あいぶ》するかのような仕種《しぐさ》でねっとりとかきあげた。  ほっそりと長い首の美しさ、まぶしいまでの白い肌に、倉田は眼を奪われ、関心が月弥へと移った。 「まさかと思うが、そなた、中郷さまと——…」 「そんな…っ、殿さまはわたしのようなものにお目をとめられる方ではございません…」  寂しげな風を装って、月弥は関係を否定する。単純に倉田は信じた様子だった。 「さようであろうな、それはそれはお美しい奥方さまがいらっしゃるのだ」  遠目には、中郷の妻は美しい女なのだ。そして、同心たちは、ほとんど顔を合わせる機会などないのだ。 「わたしが、こちらへ参ったことを知られると、叱られてしまいます。どうか、今夜のことはご内密にお願いいたします…」  次に、そう哀願する月弥に対し、わかっているとばかりに倉田は肯《うなず》いた。 「それがしも叱られるであろうな。お互いに秘密にしておくのが賢明だ」 「はい。それでは、わたしは部屋へもどっております…」  言いかけて月弥は、媚《こ》びを含んだ眼で倉田を凝視《みつ》めた。 「あの…、お名前をお聞かせくださいませぬか」 「う、うむ。それがしの名は倉田新助じゃ」  月弥は、倉田の耳たぶが赤く火照っているのを見た。  中郷がもどったのは子《ね》の刻も過ぎた深更だった。  役所の方の騒がしさに気づいていた月弥だが、眠ったそぶりでいると、部屋に入ってきた中郷に、勢いよく夜具を引き剥《は》がされた。 「アッ」  声を立てたところへ圧《の》し掛かられて、夜衣《よぎ》の襟を左右に開かれた。  絖《ぬめ》のごとく白い肌が露《あら》われ、なめらかな胸が剥《む》きだしになると、身体の上から迫った中郷が、まぶしいものを見るかのように双眸《そうぼう》を細めた。 「そなたの肌の白さは、格別のものだな」  細く灯《とも》した行燈《あんどん》の明かりが、男の双眸に宿った欲望を映しだし、ぬらりと光らせている。  中郷の身体から、血の酸臭が感じられ、月弥は本能的に身を強張《こわば》らせた。 「いかがいたした」  組み敷いた月弥の身体を走った戦慄《せんりつ》に気づき、中郷は動きを止め、訊いた。声音は何時もと変わらないが、熱っぽさが加わっている。 「今日の殿さまは…怖い……」  表情を読まれまいと、月弥は怖いと口走りながら、逆に中郷の身体にしがみついた。 「いや、いやいやっ、怖いっ」 「怖いとな?」  懐にしがみついた月弥から腰紐《こしひも》を引き抜き、前を開いて剥き出しにさせた中郷は、足の間に入り込んでゆきながら、面白がった口調で繰り返した。 「そうか、いまのわしは怖いか…」  灼熱《しやくねつ》に猛《たけ》った男の肉塊が、月弥に押しつけられてきた。 「そなたを、とって喰《く》うつもりだからかな」 「ああぁ……」  思わず月弥の口唇《くちびる》から呻《うめ》きが洩《も》れでた。  腹部を圧迫する中郷の熱さ、堅さ、巨《おおき》さに、脳髄が痺《しび》れた。  ——これを味わわされるのかと思うだけで、色子と仕込まれた肉体は疼《うず》くようになってしまった。  牙神に囚《とら》われて、月弥の裡《うち》に眠っていた淫《みだ》らな血が目覚めさせられ、引き出され、培われてしまったからだと思う。  男の肉体ほど正直なものはない。  月弥の兆しを、中郷は掌《てのひら》のなかで確かめた。  ゆっくりとさすってやると、月弥の腿《もも》の内側が痙攣《けいれん》するのを中郷は知っている。  だが今夜の中郷は、一仕事を終えた後の興奮を鎮めるためにも、性急に月弥を求めた。  膝に手をかけて立たせると、膝頭を月弥の胸につくほどに折り曲げさせ、双丘の狭間《はざま》に先端をあてがったのだ。 「アアッ」  狼狽《ろうばい》にちかい声をあげた月弥に、中郷が挿《はい》り込んだ。  施《ほどこ》されていない肉体を貫かれる衝撃に身体をのけぞらせた月弥だが、下肢は両|膝《ひざ》を押さえられていて、自由にはならず、侵入を許すしかなかった。 「ううっ………」  さらには、胸元まで膝頭を圧《お》しつけられ、持ちあがった下肢は、中郷に貫かれるがままになった。  潤滑油は、中郷の先端から溢《あふ》れる透明な粘液だけだ。 「あうっ、あっ……ひいッ…」  柔らかいがきゅっとつぼまった肉襞《にくひだ》をこじあけられる痛苦と、狭い肉筒の内を、もの凄《すさ》まじい勢いで埋めてくる、堅く太い異物の感触が、月弥を呻かせた。 「うっ…、ううッ……くッ…」  中郷の手が膝から離れ、月弥の足首を掴《つか》んだ。  入りきらずにいた肉塊がズズッと、付け根まで月弥の内に納まった。 「ああッ、もう……もう…ああッ——…」  内奥の快美を味わう余裕もなく、中郷が激しく腰を使い、月弥を叫ばせた。 「いやッ、いやいや、や……破れるッ……」  腸を内側から破られるような勢いに、月弥が悲鳴をあげるが、中郷の勢いは鎮まらなかった。  荒々しい抽送で月弥を苦しめながら、やがて、「うっ」と太い声とともに、中郷が極まった。  もっとも身体の奥深いところで、灼熱の氾濫《はんらん》が起こった。 「ひ…きぃ……」  奇妙な声を洩らした月弥だが、総身を激しく突っ張らせ、キリキリと揉《も》み絞るように悶《もだ》えさせた。  付け根まで押し込まれ、月弥を塞《ふさ》ぐものが、悦楽の放出を終え、退いてきた。 「あううッ」  それも、おそろしい雁首《かりくび》のひろがりで、肉襞をかきむしるように引っ掛けながら、内筒をこすって動くのだ。 「うう…うう…く…くうう…っ」  狭い肉筒を押しひらきながら退いてくる中郷を、灼熱の奔流が追って流れ下がってくる。  満足した中郷が抜き取ってくれるのかと油断が生じた月弥へ、出口を塞いでいる肉の楔《くさび》が、ふたたび打ち込まれてきた。 「ああッ……」  退いてゆく途中で中郷は、男の勢いを回復したのだ。  貫かれるたびに、泣き声にも聞こえる呻きが、月弥の口唇からとめどなくこぼれだした。 「…ああ、ああ、ああ……」  だが、肉襞をひらき、入り込んできた中郷の肉塊に、狭隘《きようあい》な筒内をこすられ、えぐり、かき回されているうちに、今度は月弥の快楽が弾《はじ》けた。 「あっ、あっ、あひぃ……い…いい……」  足首を掴んで下肢を持ちあげながら抽送を繰り返していた中郷が、のぼりつめた瞬間に硬直し、小刻みな痙攣を起こす月弥を見下ろした。  触れられることなく、後花に加えられる刺激だけで極みへと到達してしまった月弥を、さらに追い詰めるかのように、中郷が腰を入れ、激しく突いた。 「ひっ」  陶酔から引きもどされて、月弥は悲鳴を放ったが、中郷の男が深く挿ったことで鋭い快感が起こった。 「あうっ…あうう……ひぁ…あうう…うッ…」  感度が深まり、面白いように反応する月弥を、ぐいぐいと中郷がえぐりあげた。  悦と苦の律動が起こる。 「う、う、う……」  細い頤《おとがい》を反り返らせて、月弥が獣のように呻いた。 「あ——…あああ……あうッ、あうう」  抜き挿しを繰り返されるうちに、快感が身体中を走り、突きぬけて行く瞬間が頻繁になってきた。 「あぁ…い、いいッ……悦いッ……」  あられもなく月弥が声を洩らし、喜悦を隠さず悶え、絶頂の痙攣を放った。  中郷の精力は、相手を務める月弥の気が遠くなるほど、強い。  剛く、激しくて、求められているうちに、月弥の裡から牙神という存在が消し飛んでしまうような迫力がある。  抱かれ、意のままにあつかわれていると、月弥自身が、どこまでが演技で、どこまでが本当なのかわからなくなってしまうほど、極まってしまうのだ。  ふたたび、深く番《つが》ったままで中郷は、月弥をこねくりまわし、えぐりあげた。 「こ…壊れる…っ……」  敏感な月弥の内を塞ぐ肉茎に、ゆする動きが加わった。  ひとたまりもなく昇り詰めた月弥に、息をつく間もなく次の快感がわきあがった。 「あうッ——」  絶頂感がひかないうちに、さらに、ただれるような肉の快楽が襲ってきた。 「ああッ、かんにんして……ま…また——…」  血の匂いに酔わされながら、月弥は中郷主膳にも酔わされ、惚《ほ》れていくのではないか…という、息苦しい想いを抱いた。  ドクンッ、ドクンッと、脈打つ中郷の凶器が捻《ねじ》り込まれて、敏感な核を刺激してゆく。 「ひいッ、も、もう…ッ…悦《い》かせないでッ!…」  月弥は、快楽を貪《むさぼ》るかのように、中郷の動きに合わせ、腰をうねり舞わせながらも、悲鳴を放っていた。 「あっ、あっ、ああ、気が狂ってしまいますッ……ひいッ……ひいいぃぃ……」  激烈なまでの快感が、月弥に叫ばせた。 [#改ページ]  第五章 疑 惑      壱  屋根船をあやつる船頭の助猿は、牙神が使っている密偵の一人である。かつて、猿のごときの敏捷《びんしよう》さで夜盗稼業に精をだしていたのを牙神に捕らわれ、改心したのだ。  現在《いま》の助猿は、若年寄篠井長門守の命を受けて働く牙神たちの密談の場として、夕刻から河川に船を走らせている。  障子戸を閉めきった屋根船のなかには、牙神はもとより、小杉左京太、佐々木主馬、大川金之助、松井小十郎の狼四人衆と、今夜はもうひとり、若い女が乗っていた。  しっとりと脂がのった白い肌に、優しげな美しい貌《かお》をした女は、近江屋の主人曾兵衛の愛妾《あいしよう》でお芳《よし》といった。  お芳は、一刻《いつとき》あまり前の酉《とり》の刻、辺りが薄暗くなるのを待ちかねたように、泥に汚れた夜衣《よぎ》に、乱れ髪といった尋常でない姿で牙神の屋敷へ助けを求めてきたのだ。  あいにく牙神たちは出払って留守だったが、お芳は、着替えと髪を結い直した後に、在宅していた惣次郎が直々に付き添い、屋根船へと送り届けられた。  惣次郎は、義父となった牙神尚照が任じられた影の役目は知らされていないが、かといって何も感づいていないほど愚鈍でもなかった。  ただし、なにやら知ってはならぬことがあるのだと、探ろうとしないでいるのだ。  だがさすがに、お芳の様子から、誰にも任せられないと判断し、自分から義父の許《もと》へ向かったのだ。  案の定、屋根船のなかには、殺気立つものがあったので、惣次郎はハッとした。 「すまぬな、惣次郎。今夜はそなたも、どこぞで羽根《はね》をのばすがよいぞ」  眼と眼とでお互いに理解し合った後で、牙神は懐から金子を取りだすと、惣次郎に遊郭へでも行って遊んでこいと言った。  いまごろ、ああだ、こうだと使用人たちが余計な詮索《せんさく》をめぐらせている屋敷に、すぐにもどるのも面倒くさいだろうという牙神の配慮だ。  素直に受け取り、惣次郎はなにも見なかったような顔で屋根船を離れた。  牙神たちが屋根船に詰めていたのには理由があった。  昨夜、近江屋に凶賊が押し入り、主人の曾兵衛から、若夫婦、手代、下女に到るまで全員が皆殺しにされたのだ。  曾兵衛の遺体は、逃げようと這《は》いずった血の跡をたどってようやく、客間の廊下で見つかった。  押し入った盗賊は、六人。いずれも出張った火盗改方に刃向かって来たために、捕縛が困難と、現場で斬り殺されていた。  ところが、近江屋の者で、一人だけ助かったのが、お芳だった。  お芳は、牙神たちを前に、昨夜|晩《おそ》く、曾兵衛に呼ばれて客間で用事を済ませた後、手水場《ちようずば》に立ち寄ったところから話しはじめた。  客間の手水場は裏庭側にある。  身を屈《かが》めようとしたときに、母屋から聞こえた悲鳴と、慌しい足音、聞き覚えのない男たちの声に異変を感じ、咄嗟《とつさ》にお芳は後架《こうか》の穴に飛び込んで身を隠した。  ちょうど昼過ぎに、相模《さがみ》の農家が下肥を買い取りに来て、すっかり浚《さら》っていったのを知った上での気転だったが、思い切った行動がお芳の命を助けた。  近江屋に押し込んできた強盗たちは、すべての部屋を見て回り、最後には後架も開け、隠れている者はいないかと探したのだ。  さすがに、なかまでは調べなかった。  生きた心地もしなかったお芳だが、じっと身を潜めているうちに、一時静まっていた怒声やら、足音がふたたび激しく聞こえてきたことで、町方が駆けつけたのかと思い、急いで這いだした。  真っ先に眼に入ったのは、廊下の隅に倒れた曾兵衛の、血まみれの姿だった。  曾兵衛は、お芳を見つけると、這いずってきた。  お芳が助け起こそうと駆け寄ったところ、虫の息の曾兵衛が、 「隠れて逃げろ、みんな仲間《ぐる》だ。牙神さまを訪ねろ」  と言った。 「みんな仲間だ」と言われて怖くなったお芳は、急いで裏庭から外扉を開けて、逃げた。  雨のなかを走って、必死で逃げているうちに力尽きてしまい、河原に伏せてあった漁師の船の下にもぐり込んで、休んだ。  すこし休むつもりが寝入ってしまい、目覚めたのが朝だった。  女が髪振り乱し、夜衣姿で出歩くのは人目を引きすぎ、かえって危険だ。  仕方なく夕刻まで隠れていて、夜の漁に出る漁師が船を取りに来る前にぬけだし、牙神の屋敷を訪ねたのだ。 「みな共謀者《ぐる》だ。近江屋は確かにそう申したのだな?」  牙神が、念を押すよう問い返した。 「はい。確かでございます。ですからもう、あたしは、誰が敵か味方かわからなくなって、とにかく牙神さまの許へ行こうと考えたんでございます」  近江屋は、死の瞬間になにを見たのだろうか——。  聴いただけで鼻腔《びこう》に酸臭が感じられる話だったが、話し終えてほっとしたのか、お芳の声に落ち着きが出ていた。  美しい貌の、黒目勝ちの双眸《そうぼう》に生気がもどり、頬には赤みが入って、肌の色が、舐《な》めたら甘いのではないかと感じさせるような乳の色に近い白さになっている。  昔、近江屋は牙神の前で、「江戸の女子《おなご》は色が黒くて、どうも、いけません」と、口を滑らせたことがある。  お芳は、そろそろ隠居を考えた曾兵衛の身の回りの世話を務めるという名目で、近江から江戸へ連れてこられた妾女《めかけ》なのだ。 「貴重な話を聴かせてもらったな、礼を言うぞ。ところで、しばらくの間、身を寄せる所はあるのか?」  近江屋の生存者がいると知られ、命を狙われるのではないかという恐怖を感じているお芳の声に、ふたたび強張《こわば》りが生じた。 「江戸に知り合いは一人もおりません…」  答えを聴いてから、牙神は次の采配《さいはい》を振るった。 「向島《むこうじま》の寮に、いまは胸を患った爺《じい》さんを一人養生させておるのだが、そこに身を隠しがてら、その爺さんの面倒を看てやってはくれまいか。なに、見張りはしかとつけておくゆえ安心してよい」  命も、貞操も、見張り役が守ってくれるという暗喩《あんゆ》が含まれているが、いずれにしろ、お芳には願ってもない牙神の申し出だった。 「はい。お世話になります…」  両手を揃え、お芳は深々と頭を下げた。  向島で、お芳と付き添いに佐々木を降ろした助猿の船は、今度は隅田川を下って、日本橋方向へと走っていた。 「月弥めは、なにをしておるのだ」  屋根船のなかに残った誰が言いだしてもおかしくはなかったが、開口一番は大川だった。  中郷主膳の屋敷に密偵として入り込んで、すでにひと月半が経つというのに、月弥は昨夜の近江屋奇襲の件を報《しら》せてこなかった。  もし、近江屋を襲った夜盗たちと中郷との間に何かしらの繋《つな》がりがあるとすれば、事前に不穏な動きがあって然《しか》るべき。それを探って報せるというのが、今回、月弥を送り込んだ理由だった。  半年以上前から調べをはじめていた牙神たちは、頻発する凶悪な押し込みと、中郷主膳率いる火盗改方には何かしらの相互関係があると確信して動いているのだ。 「まさか、裏切ったのではありますまいか」  月弥は、必要とあれば、色香が売り物の淫《みだ》らな若衆にも、高貴な美姫《びき》のごとくたおやかで弱々しい存在にも化けるが、ときに忍術を究めた者のように身を翻す姿は、稚《おさな》いながらも夜盗の頭と呼ばれた片鱗《へんりん》をかいま見せる。  犬神の早太郎として暗躍をつづけていれば、どれだけの悪事を働いたか、想像に難くない。 「有り得ますな。元々、あやつの素性を考えれば……」  松井も頷《うなず》いて大川と同意見である旨を示したが、思いがけない人物、小杉が二人を否定した。 「いや——、まだ月弥は内情を探る機会に恵まれないのだろう」  眼を剥《む》いて、松井は声の主を見た。 「驚いたな、おぬしが月弥を庇《かば》うとは…」  しかし、小杉は表情も変えずに返した。 「事実を言っただけだ。特に、中郷の慎重さは生半可ではない。月弥を身近に置いて間もなく、閻魔《えんま》堂の夜鷹《よたか》たちにあたって、月弥の素性を調べたほどだからな……」 「なに、それは本当《まこと》か?」  表情のない小杉の、だが辺りを払う威力をもった双眸が、大川を見た。 「堕胎薬を買った夜鷹の何人かも突きとめたであろうな。実際に動いたのは中郷の腹心、横内平九郎だ」 「夜桜のときに一緒だった男だな」  目つき鋭く、けわしい顔つきの供を連れていたのを思いだし、大川が相槌《あいづち》を打った。 「されど、ぬかりはないのであろう? 実際に月弥は閻魔堂の陰間であったのだ。私製薬も売っていた。それを殿がお目に留められて——…」  この後は、松井らしくなく、言葉を濁した。  牙神が眼をつけて、無理やりに囲い者にしたが、結局は逃げられたというのが、かれらの描いた筋書きなのだ。  しかし、月弥が裏切った可能性も捨てきれない。  牙神はどう思っているのか、その考えを聴こうと、松井と大川は視線を向けた。  部下の視線を感じた牙神は、「ううむ」と、唸《うな》り声をあげた。 「はやひと月半を過ぎたが、あの中郷が、おれの色子にそうそう気を許しはせぬだろうな。それに、月弥は巧みに入り込んだが、連絡《つなぎ》の方法がうまくゆかんのだろう…」  牙神は自分の手筈《てはず》の悪さ、中郷の用心深さを部下たちに告げねばならなかった。  実際、小杉が調べたように、あれだけの折檻《せつかん》の痕《あと》を見ても、中郷は、すぐに月弥を信用しなかったのだ。  閻魔堂の夜鷹たちから月弥の素性を探りだし、手をつけたのは、半月も経ってからだった。  中郷が月弥の外出を許したのは、さらに後になってからで、出かける際にはかならず、腹心の一人で一刀流の遣い手、吉村欣也を供として張りつけさせていた。  牙神も放っておいたわけではなかった。  助猿をはじめ、他の密偵たちに月弥との接触を図らせた。  いずれも叶《かな》わなかったのは、吉村の守りが完璧《かんぺき》なまでに強固だったことと、月弥自身、伝えられる情報を掴《つか》んでいなかったからだと推測している。 「着きやした」  障子戸の外側から、船を操っていた助猿が声をかけてきた。 「こっからですと、近江屋さんへ行くのも近うございます」  すかさず、脇においた刀を取りあげ、大川が腰を浮かした。  殺された盗賊たちの検屍《けんし》場には、明日にならなければ立ち入れなかったが、近江屋の遺体に関しては、親族が郷里で弔いたいと葬儀を急がせていることから、検《あらた》めるのは今夜しかなかった。 「近江屋の死体検めに行って参ります」 「では、わたしも一緒に」  つづいて小杉が立ちあがりかけたのを、松井がとめた。 「おれが行く。おぬしは美《よ》い男すぎて目立つからな」  何時もの冗談めかした言い方だったが、小杉には、牙神の相手を任せたというふうに合図をすると、松井も一礼して大川の後につづいた。 「助猿、酒の用意はあるか?」  二人が降りた後に、牙神は船頭の助猿を呼んだ。 「へい」  すかさず用意されていた酒と、盃《さかずき》が差し入れられてくる。 「ついでに、そこいら辺の棒手振《ぼてふ》りから、肴《さかな》になるものを買ってきてくれ」 「へいっ」  短い返事とともに、船がかすかに揺れて、助猿が船を接岸した川岸に移ったのが感じられた。  牙神は盃に酒を注ぎ、ひとつを小杉へと手渡した。 「近江屋の弔い酒だ。つきあえ」 「頂戴《ちようだい》つかまつります」  盃を受け取った小杉が、かれにしてはしみいるような調子で、次に、牙神が心で思っているとそっくり同じ言葉を口にした。 「仔犬《こいぬ》に、逃げられたやも知れませぬな」 「うむ……」  唸ったきり、牙神は応《こた》えられなかった。  牙神の怖さがわかっている月弥は従順で、よく意をくみ、従っていたが、共に暮らした半年の間でも、決して心から打ち解けてはこなかった。  むしろ、怨《えん》じていた。  心につもった憎しみを悟られまいとして、ひたすら従順にしていたところがあったのだ。  裏切りの予感は、誰もが抱いていた——。      弐  五月雨《ながあめ》の晴れ間が見えたのをきっかけに、座敷は襖障子《ふすましようじ》を開け払ってある。  牙神は、庭に面した縁側で助猿から報告を聴いた後、月弥に与えた部屋の方へと入って行き、ぽつんと置き去りにされた鞠《まり》を取りあげた。  月弥の鞠は、巻きつけた何色もの色糸で、三角や多角形などを組み合わせた模様が描かれている。  鞠を手に縁側へとでた牙神は、磨きぬかれた床に放ち、弾ませて掌《てのひら》にもどすと、ふたたび弾ませた。  反抗するかのように、鞠は弾力を持って手に返ってくる。 「……今宵《こよい》一夜は…」  牙神の口から歌がでた。 「信州|信濃《しなの》の光前寺、ヘイボウタロウにゃ報せるな、すっ、てん、すっ、てん、すってんてん……」 「義父《ちち》上」  奇妙な歌を口ずさんで鞠を突く牙神へ、廊下を渡ってきた惣次郎が声をかけた。後ろには、茶器を捧《ささ》げ持ったおきねの姿もある。 「惣次郎か、いかがいたした」 「おきねが菓子をこしらえましたので」  それは口実で、牙神の機嫌を伺いにきたのだ。 「奇妙な鞠突き歌ですな」  次にそう言った惣次郎に、牙神は思案げに首を傾げた。 「ん…む。妙か?」  おきねは、鞠を抱えて縁側に腰を下ろした牙神の脇に、茶器と若竹の筒に入った菓子を置いてから、そっと後退《あとずさ》った。  入れ違いに、惣次郎が牙神の横に片|膝《ひざ》をついたが、話の継ぎ穂を探しあぐね、ふたたび問うた。 「いまのは、信州の鞠突き歌でございますか?」 「まぁ…な」  曖昧《あいまい》に答えて、牙神は鞠をかたわらに置くと、茶器の蓋《ふた》を取り、渋めに淹《い》れられた茶をすすった。 「美味《うま》い茶だな」  すかさずおきねが応《こた》えた。 「大河内の奥方さまからの賜りものでございます。お茶の他に、高価な砂糖を壺《つぼ》ごと頂戴いたしました」  それでおきねは、赤小豆《あずき》に砂糖と葛粉《くずこ》を練りあわせた蒸菓子——羊羹《ようかん》をつくったのだ。 「姉上がおいでになったのか」  なにやら落ち着かなくなって、牙神は首筋を掻《か》いた。 「いえ、今日はお使いのかたでいらっしゃいました」 「そうか…」  どことなしに、ほっとした様子を隠さない牙神を、惣次郎が楽しげに見た。二人とも、奈津が恐いのだ。  嫁いだ姉の奈津は、実家の内情を心配するあまり、珍しい品、高価な品物などをたびたび届けてくれる。特に牙神が月弥を囲ってからは、京から取り寄せた下り物の菓子や、砂糖、蜂蜜《はちみつ》などが増えた。  男の寵《ちよう》をうけるか弱き稚児《ちご》小姓は、甘い菓子が好きだろうとの心配りなのだ。  ところが当の月弥は、甘味物は好まず、うわばみの化身かと思われるほどの大酒|呑《の》みだ。だが、この事実を誰一人として、奈津に伝えられずにいた。  また最近では、おきねが大河内家へ呼ばれ、奈津から内情を訊《き》かれたりもしている。  牙神が、入れあげた色若衆に愛想《あいそ》をつかされ、逃げられたとの巷《ちまた》の噂を聞いているからだった。  弥生の半ばに月弥は姿を消し、はや皐月《さつき》も終わろうとしていた。  奈津の話題は、そのまま月弥への連想に繋《つな》がる。下がろうと立ちあがったおきねの口から、つい、愚痴がこぼれた。 「でも、あの子、どこへ行ってしまったのでございましょうか…、殿さまのお情けを仇《あだ》で返すとは、このことでございますよ」  おきねにすれば、贅沢《ぜいたく》を許し、わがまま放題に暮らさせていたのに、恩を返さずにどこかへ行ってしまったように見えるのだ。 「直に、帰ってくるであろう」  あっさりと言った牙神は、茶器を置いて立ちあがると、ふたたび鞠突きにもどった。 「こよいひとよは、しんしゅうしなののこうぜんじ……」  タンと、床を叩《たた》いて鞠が跳ねあがった。 「へいぼうたろうにゃしらせるな…」  月弥の鞠は弾んで、手のなかに飛び込んでくる。もう一度、突いて、もどった鞠を牙神が両手で包み込んだ。 「本当に、あの子、もどってくるのでございましょうか…」  鞠と月弥とが重なって見えたのか、おきねが呟《つぶや》くように言った。 「さて…な」  今度、牙神からもたらされた答えは、先ほどの明快さを欠いていた。  下がって行くおきねの背後から、たぁん、たぁんと、鞠の跳《は》ねる音がいつまでも聞こえてくる。日ごろ潔い牙神らしくない気がする。  ——諦《あきら》めきれないのか…と、おきねは心を痛めていた。 「惣次郎、そなたは訊かぬのか、月弥《あれ》のことを——…」  理由もなく隠居所にくる惣次郎ではないのだ。言いたいことがあるのならば聴いてやろうと牙神が水を向けた。 「いえ、わたしは、あの子につきましては別段……」 「隠さずともよい」  牙神は惣次郎を見た。 「周りがなんと言っておるか、おれも知っておるのだ」 「義父上が、入れあげていた色小姓に逃げられた——ということでございますか?」  逆に惣次郎が、世間の噂を自分も問わねばならないのかと言いたげに、訊いてきた。  牙神は苦笑した。 「そうだ。本当に逃げられたかもしれぬ…な」  ふいに、惣次郎が庭の方へと顔をあげた。小杉が入ってきたところだった。 「わたしはこれにて、失礼いたしまする」  惣次郎は立ちあがったが、去りぎわに、一言付け加えていた。 「義父上、もしあの子が見つかりましても、どうか、お叱りなきように…」  むっつりと、牙神が答えた。 「それは…そのときにならねば、わからぬ。約束はできぬ」  仕方がないか、と言いたげに惣次郎は頭を掻《か》きながら、本宅の方ヘともどっていった。 「あれは、なかなかよい男だぞ。そろそろ嫁を探してやらねばなるまい」  近づいてくる小杉に、牙神が惣次郎をさして言った。 「どこまでご存じでいらっしゃいましょうか?」  惣次郎が、屋根船にお芳を送ってきたときから、小杉は警戒を深めている。牙神の方は、幼いころから見てきた甥《おい》の気質がわかっており、鷹揚《おうよう》に構えていた。 「心配するほどではない。それよりも、いかがであった?」 「動きはございません」 「そうか…、先ほど助猿もきたが、月弥とは連絡《つなぎ》がとれなんだそうだ」  小杉は頷《うなず》いた。それから、牙神の手にある鞠へと視線を移した。 「月弥の鞠でございますか」 「ん」と一言だけ発して、牙神は手のなかで鞠を玩《もてあそ》んだ。 「それで、月弥のことはいかがいたしましょう。これ以上、連絡《つなぎ》をとってこないのであれば、裏切ったとも……」  中郷の許《もと》に入り込ませるのには成功した。  月弥は巧みに取り入った様子で、ふた月経っても追いだされずに居るが、近江屋の件は差し引いても、一度も連絡がないのは寝返りを疑わずにはいられないことだった。  月弥の裏切りを指摘する小杉に直接応えず、牙神は手にした鞠を突いた。 「嬉《うれ》しいぞ、嬉しいぞ、祭りは近い、すぐくるぞ、今年の生贄《にえ》はどんな子だ。今宵《こよい》一夜は、信州信濃の光前寺、ヘイボウタロウにゃ報《しら》せるな、すっ、てん、すっ、てん、すってんてん……」  鞠突き歌を、小杉は暗記するように聴いた。いきなり牙神が唄《うた》いだしたのには、意味があるとわかっているからだ。  案の定、繰り返し唄ってから、牙神は小杉に指示をだした。 「佐々木に、数日間|風呂《ふろ》を断ち、垢《あか》じみた物売りの恰好《かつこう》をさせ、中郷の屋敷側でこの歌を唄わせてみよ。仔犬《こいぬ》っころの血が騒ぎだすはずだ」  声音に、面白がる調子と、凄《すご》みが混じった牙神だが、すぐに穏やかさを取りもどして、竹筒の蒸菓子を小杉の方へ押しやった。 「食ってゆけ、おきね自慢の羊羹だ。食わぬと、後がやっかいでな」  甘味にも辛味にも強い牙神が、辟易《へきえき》した様子でいうのを、小杉は聞き逃さなかった。 「殿の好物ではございませんか…」  牙神は身体を崩して胡座《あぐら》をかき、苦く笑った。 「おれは、どうもいけない。ここのところ、なにを食しても胸が痞《つか》える」  小杉は秀麗な面をあげて牙神を見たが、 「佐々木に持っていってやりましょう」  と言っただけで、懐からだした懐紙に竹筒を包んで立ちあがった。      参  中郷邸の表門は、役目がら護身用の六尺棒を手にした門番が内と外に二人ずつ立ち、出入りを厳しく監視しているが、裏門は内側に一人詰めただけだ。  その裏門辺りには、紅色のつつじが満開に咲き誇っている。  降りつづいた雨があがり、一日中閉じこもっていた月弥は、息抜きとばかりに部屋を出て、つつじの前へと近づいた。  裏門番を務める堀井|康之助《こうのすけ》が、落ち着かない素振りをみせた。  堀井は、いまだに門番どまりの、うだつの上がらない四十男で、月弥を間近に見るのは初めてなのだ。  同じ男に生まれたとは思われない美しい貌《かお》だち、肌の白さに、まずは驚かされた。  濡《ぬ》れた眸《ひとみ》と、うっすらとひらいた口唇《くちびる》には、誘いかけられているのではないかと不安になってくる。  だが、男の端くれと思わせるきりっとした光のようなものも、眉《まゆ》の辺りに見え隠れする。  この不調和が、見る者の心をかき乱す魅力となっているのだと、堀井なりに納得した。  月弥はそのような堀井の視線を無視すると、つつじの花を摘んでは、持ってきた茶碗《ちやわん》に花汁を搾りはじめた。  春にはつつじ、秋には鳳仙花《ほうせんか》の花を搾って溜《た》めた色汁で、女たちは爪を染めた。  一心に花を摘む月弥を見て堀井は、気楽なものだと、今度は軽んじる気持ちを抱いた。  事実、中郷の許《もと》にきたばかりのころ、美貌《びぼう》に驚き、畏《おそ》れ入った男たちも、月弥が、算術はおろか、読み書きも覚束《おぼつか》ず、刀も持ちあげられないと知り、侮蔑《ぶべつ》するようになった。  この世に生を享《う》けるのであれば、美しい貌だちの方がよいと心で理解していても、人間の真価は別の部分にこそある。堀井もそう考え、月弥を見ていた。  妾《めかけ》も色子も、遊んで捨てる物という意識の中郷は、配下の与力同心たちが月弥をどう噂し、考えているのか察していたが、美味なる果実の間は手放すつもりはないようだった。  そう仕向けた月弥の方も、自分を侮った男たちの意識を利用しながら、巧みに立ち回った。  留守を狙って諸室に入り込み、中郷が絵図で残したという覚え書を探したのだ。  やがて、積まれた漢籍のなかに紛れ込まされていたのを見つけだした。  そこには、中郷が目をつけたと思われる店の間口から間取り、規模、家族と使用人数などの他に、祭事の日時が記されていた。  記されている二十一店のうちの九店は、すでに襲われていたが、残り十二店の名前を牙神に教えることはできる。  しかし、中郷の見張りが厳重で、牙神が近づけてくる者と接触する機会がないまま日々だけが過ぎていくうちに、月弥の心に、力ずくで従わされた怨《うら》みが、新たな発酵をはじめていた。  怨みが発酵し、裏切りの美酒を造り、月弥の心を酔わせる。  敵の敵は、味方——…。  つつじを摘みながら、牙神を恨んだことが引き寄せたのかもしれない。  月弥は、唄声を耳にした。  嬉しいぞ  嬉しいぞ  祭りは近い  すぐくるぞ  今年の生贄はどんな子だ  今宵一夜は  信州信濃の光前寺  ヘイボウタロウにゃ報せるな  すっ、てん、すっ、てん、すってんてん  思いがけない歌を聴いた月弥の動揺が、手の茶碗を取り落とさせてしまい、足元で瀬戸物の割れる音に、ハッと我に返った。  堀井も不審を抱いたのだろう、急ぎ、門の横の潜り戸から、唄声が聞こえた外へと出て行った。 「今宵一夜は、信州信濃の光前寺、ヘイボウタロウにゃ報せるな……」  繰り返し聞こえていた奇妙な唄声が、ふいに熄《や》んだ。  間もなくもどってきた堀井は、内側から潜り戸を閉め、月弥には「物売りだった」と教えた。  我に返った月弥は、これ以上門番に怪しまれないうちに割れた茶碗のかけらを拾おうとしたが、心の慄《ふる》えが禍《わざわい》してか、指を切ってしまった。  急いで手を引っ込めたものの、すでにおそく、鮮やかな色の血が指先から滴った。 「いかがいたした?」  近づこうとした門番を遮るように、中郷の声が掛かった。  堀井は畏《かしこ》まって受け持ち場所にもどり、月弥の方は、つい険しくなっていただろう目許《めもと》を和ませて、中郷を凝視《みつ》めた。  二人を交互に見ていた中郷は、懐紙を取りだし、血の出ている月弥へと渡した。 「なにがあったのだ?」  そこへ、中郷の後ろから追いついた横内が口をはさんだ。 「は、いま信州の物売りが参りまして、いきなり大声で歌など唄いだしたのに驚かれたかと思われます」  月弥が指を切るに到った原因を堀井が説明した。 「物売り?」  横内が繰り返したのに、ふたたび堀井が答えた。  いまはまだ黄昏時《たそがれどき》ではなかったが、辺りが薄暗くなるのを待ち、裏門専門に回っている怪しげな物売りは珍しくはないのだ。 「はっ、それが、狒々《ひひ》の髭《ひげ》だとか申しまして…、なんでも、灼《や》いて灰にし、酒に混ぜて服むと精がつきますそうで……」  わずかの間に、堀井は怪しげな物売りを掴《つか》まえ、売り歩いている品が何であるのか、詳しく聞いていたのだ。  いきなり、中郷が頤《おとがい》を解いた。  ひとしきり笑った後で、割れたかけらを拾おうとしていた月弥を立ちあがらせた。 「片づけはよい、それよりも手当てさせるゆえ、参れ」 「狒々の髭などと馬鹿らしい。騙《かた》りものであろう」  従って行く月弥の背後で、嘲《あざけ》る口調になった横内の声が聞こえた。 「白い指に、赤い血というのは、なにやらそそられるものがあるな」  離れの座敷にもどった中郷は、血の滲《にじ》む月弥の手を取りそう言うと、いきなり、指を口に含んでしまった。 「ああっ」  突然のことに月弥が身悶《みもだ》えを放つのを見て、ますます面白がり、中郷の口弄《こうろう》は執拗《しつよう》になった。  玉茎にみたてたかのように、丹念に舐《な》めて歯を当て、吸いしゃぶりながら、付け根まで口腔《こうこう》に銜《くわ》えてゆき、指と指の股《また》を、舌先でくすぐるのだ。  月弥の下肢に、熱い血が流れ込み、口淫《こういん》を受けているかのような快美が走った。 「あぁっ、あっ、あっ」  中郷は空いた方の手を使って、下肢をもじらせ、艶《なま》めかしげな声を洩《も》らす月弥の腰から帯をほどき、袴《はかま》を奪ってゆく。  本気で、快感に翻弄されている月弥は、されるがままだ。 「だ…だめ……」  ようやく中郷の口唇《くちびる》が指を放したときには、血は止まっていたが、月弥の腰から下が熔《と》けたように崩れて、しどけない姿になってしまっていた。 「美味《うま》いぞ。だが喰《く》いたりぬ」  血を見たからか、中郷は欲情していた。  畳にくずおれた月弥の、乱れた裾《すそ》の隙間から、絖《ぬめ》のごとく艶《つや》のある青白い肌がかいま見えている。  張りつめてしまった前方を隠すかのように、寄せた両|膝《ひざ》をもじもじとこすり合わせ、火照った身体をもみしぼる月弥の前に、中郷の手がかかった。  足首を掴まれ、月弥はひろげられた。  ひろげて、しげしげと見下ろした中郷が、にやりと笑った。 「まだ、本当の大人《おとこ》にはならぬな」  稚《おさな》さが残っていると言いたげな男に、屈辱と羞恥《しゆうち》の綯《な》い交ぜになったものを覚えて、月弥は抗《あらが》った。 「いやっ」  抵抗も面白いとばかりに、中郷の獣欲が増した。  月弥は足首を持って引きずられると、下肢に中郷の口唇をあてがわれ、深く、吸い込まれたのだ。 「ああ…ん、ああ…んっ…」  含まれた瞬間に、歓《よろこ》びの歔《な》き声が、月弥の口唇を衝《つ》いて、音色のように流れた。  月弥は、すでに昂《たか》ぶっていた前方に口唇の愛撫《あいぶ》を受けるなり、あまりにあっけなく、達してしまった。 「う…ううっ……と…のさまっ」  弾《はじ》けて迸《ほとばし》った若葉の香を、中郷は味わい、嚥下《えんか》する。 「あっ…、あっ、お赦《ゆる》しをっ、お赦しをッ……」  快楽の発作で腰をびくつかせながら、月弥の吐精はとまらない。  最後の一滴までも中郷に吸いあげられ、ようやく口唇をはずされたときには、媚肛《びこう》までもが浅ましいことになっていた。  中郷の手が腰にかかり、月弥の身体を反転させ、畳の上へとうつぶせに押さえ込む。  這《は》わせられた月弥は、裾をまくって双丘をあらわにされると、頂にかけた両手で左右へひらかれた。  肉付きの薄い狭間《はざま》は、隠していた桃花色の蕾《つぼみ》をさらけだし、そこへ中郷の舌が入ってきた。  媚肛の円襞を、ぐるりと舐められる。  脳が眩《くら》むほどの羞恥と、快感に囚《とら》われて、月弥は喘《あえ》いだ。 「はやく、はやく、殿さまのお情けを……もう、もう月弥は……」  顔をあげた中郷が、まだ弛《ゆる》みのない、堅く窄《すぼ》まった肉襞を見ながら揶揄《やゆ》するように言った。 「裂けてしまうぞ」 「い…いえ……、月弥はもう、もう、殿さまが欲しくてたまりませぬっ」  くくくっと中郷は笑った。  月弥の内側がしとどに濡《ぬ》れ、男茎を求めているのがわかったのだ。  女のように内洩れの状態となった月弥を笑いながら、中郷は袴の前をくつろげ、細腰を引き寄せた。  先端をあてがうと、窄まっていた肉襞が開花の兆しをみせる。そこへ下腹に力をたわめ、一気に押し込んだ。 「うっ」と月弥はうめいたが、吐きだされる息には甘い旋律が混じった。  背後から突いてくる中郷を受けながら、畳に両手をついて上体を支え、痛苦と快美を交互に感じて喘ぎだした。  やがて月弥は、男を受け入れている下肢に心を集め、快楽を得るために没頭しはじめた。  身も心もこなごなに砕け散るために、腰を使って引き入れ、男を絞りたて、押し出しながら、からみつかせた。 「いかがした?」  一段と激しく、積極的になった月弥を愉《たの》しみながら、中郷は、腰骨にそわせて腕を差し入れ、月弥の前方をてのひらで掴んだ。  掌《てのひら》で揉《も》みくちゃにされると、たちまち象《かたち》が変化してしまい、月弥はあえいだ。 「いや……いじらないで……いじ…らない…でっ」  だが中郷の手は、付け根から先端へむかって、しごきはじめた。 「あ……うう…んっ…」  月弥は、声を怺《こら》えるために袂《たもと》を噛《か》み、甘えるように畳に頬をすりつけた。  それでも腰を動かすことは止めず、中郷も下肢を打ち込みながら、指戯で追いつめにかかった。  肉筒を犯されながら、先端のくびれを爪の先でいびられて、月弥から雫《しずく》が滴った。  中郷に嚥下されたばかりだというのに、もう、月弥の精は溢《あふ》れかけている。 「あうっ」  脳の奥が、快楽の閃光《せんこう》をとらえた。 「ああ…たまらないッ……」  光は広がって、月弥を追いあげた。 「あッ——ああッ」  光の彼方《かなた》から、歌が聞こえた。 「今宵《こよい》一夜は、信州信濃の光前寺、ヘイボウタロウにゃ報《しら》せるな……」  旧《ふる》い伝説の歌だ。  遠州府中の天神社祭りの前日、年ごろの娘を人身御供《ひとみごくう》に差しださねば村にわざわいが降りかかるため、人々は嘆きながらも従ってきた。  それがある年、旅の僧が密《ひそ》かにうかがっていると、夜中に三匹の狒々《ひひ》があらわれて、奇妙な歌を唄《うた》いだした。 「今宵一夜は、信州信濃の光前寺、兵坊太郎にゃ知らせるな、すってんてん」  唄いながら、狒々どもは生贄《いけにえ》の娘をさらって行った。  そこで旅の僧は、狒々の歌にでてくる兵坊太郎を探し、信州信濃の光前寺を訪ねると、兵坊太郎は人ではなく、寺で飼われている山犬の早太郎のことだと知る。  さっそく早太郎を借りて、一年後の祭りの日、僧は猿神《ひひ》退治に成功する。  しかし、瀕死《ひんし》の怪我を負った早太郎は、遠い道のりを旅して光前寺へもどったところで力尽き、後に人々に霊犬として祭られるようになったという。  月弥の父である先代犬神の早太郎は、この狒々退治の早太郎の名にあやかったのだ。  子守り歌で聴かされた唄を、門外から月弥の耳に届くよう唄わせたのは、あの男——牙神だ。  二代目犬神の早太郎である月弥に向けての警告なのだ。 「こわい……」  口唇《くちびる》を衝《つ》いて洩《も》れた言葉を中郷が聞きとがめた。 「今度は、なにが怖いのだ。わしの許《もと》におって、なにを怖いと思うことがある。守ってやると申したであろうが」 「ほ、ほんとうに……」 「本当《まこと》だ。そら、美《よ》い声を聴かせよ。もう一度、悦《い》かせてやるぞ」  優しげに囁《ささや》きながら、中郷は深く腰を沈め、ふたたび月弥を喚《わめ》かせにかかった。 [#改ページ]  第六章 裏切り      壱  水無月《みなづき》の酉《とり》の刻は、まだ明るいはずだが、降りつづく雨が辺りを暗く、湿らせていた。  中郷のもとに、今宵四人の男たちが集まり、話し込んでいるが、雨音がかれらの声も、気配も消してしまう。  部屋から出てはならないと言われたものの、月弥は気配を殺し、客のいる座敷の廊下まで来ていた。 「丸屋に、どうも、引き込みじゃねえかと思われる女が、一年ほど前《めえ》から働いておりますんで」  記憶にある夜烏の銀次の声が、月弥の耳に届いた。 「どうやら別口が狙ってるんじゃねえかと…、いかがいたしやしょう」  駿河《するが》町の丸屋は、筆を商う、間口の狭い店だ。  店先が小さいのは、主に寺社を回って筆を置いてもらい、翌月使った分だけ補給と集金という商い方法を採っているからだが、大げさでなく、江戸中の神社と寺を得意先に持ち、繁盛を極めているのだ。  店の主人は老夫婦で、二人の息子と、手代や丁稚《でつち》を多数かかえ、かれらの衣食を賄う下働きが数人。  夜烏の銀次は、下働きの一人が、盗賊の『引き込み役』ではないかと疑っているのだ。  ひとしきり、丸屋についての報告を聴いた後で、腹心の横内が中郷に代わり、決断を下した。 「我らで先に行うのだ。別口に襲わせてもよいが、万一にも取り逃がしがあってはならない。この梅雨の間に稼げるだけ稼いでしまわないと、夏場は仕事がやりづらいからな」  夏は、黄昏《たそがれ》が長くなり、夜の時間が短いばかりでなく、暑苦しいために人々の眠りも浅いのだ。  夜盗たちにとっては、働きづらい季節だった。 「人数は集められたのか」  中郷の声が、聞こえた。 「へいっ、殺すにゃ惜しい気もするが、生かしてもおけないてぇ連中を三人ばかし集めてありやす」  またも夜烏の銀次が報告している。  銀次が、犬神一味の許に情報を売りにきたのは、先代早太郎がまだ元気で、月弥が八つか九つのころだった。  夏の暑い夜、蚊帳《かや》のなかで眠っていた月弥は、隣の部屋から漏れてくる男たちの会話と酒の匂いで眼が覚めたのだ。  銀次は、独特の声の持ち主だ。だから、烏というのかと、子供心に解釈したのだが、実際には、金の臭いに敏感で、本来の烏が光り物を集める習性があるところから付けられた渾名《あだな》だった。  結局、先代早太郎は銀次の情報を買わなかったので、いらい出会うこともなかったのだが、月弥の記憶は一度聴いただけの声を憶《おぼ》えていた。 「しっかし、丸屋は男所帯。できればあと二人、三人欲しいところでさぁ。なにしろ、錠前破りの源爺を殺しちめえやしたからね、お陰で、錠前を開けられそうな奴も探さねぇとなりやせんしねぇ…」  人集めを任されている夜烏の歯切れが悪くなっていた。急ぐのはまずいと言いたいのと、もったいをつけて、すこしでも自分の取り分を増やしたいがためでもあった。 「丸屋の錠前に合う鍵は、手に入れてあると申したのではないか」 「横内さま、そいつァ、都合がよすぎますぜ。おんなじ鍵はそう簡単にゃ手に入らねえ。あっしが手に入れたのは、丸屋の金蔵の型と似た型の鍵ってことですぜ。そいつを使って、ほんとうに手先の細けえ感覚でもって、鍵穴をだまくらかして開けるのが、錠前破りの名人ってもんでさぁ」  わかりきった講釈をたれる銀次を、中郷も横内も不快に感じたのか、沈黙が起こった。  座敷のなかにいるのは、中郷と横内、夜烏の銀次、それからもう一人、盗み聴く月弥には、声を発しないその一人を特定するのは難しかった。  まさか、吉村欣也ではないか……と、月弥が思いついたと同時に、襖《ふすま》が勢いよく左右に滑って開き、暗かった廊下に座敷の明かりが射した。  炙《あぶ》り出されたように、月弥の姿が男たちの視線に囚《とら》われた。  気配を殺していたにもかかわらず、吉村のことを考えて緊張がそれた瞬間に、気づかれたのだ。  座敷のなかに居るのは、月弥の予想した通りの顔ぶれだった。  中郷、横内、夜烏の銀次、そして吉村欣也だった。 「月弥か、そこでなにをしておったッ」  例によって横内が真っ先に怒鳴りつけてきた。  横内の勢いにはじかれたように月弥はおののき、よろめいて廊下に座り込んでしまったが、ふたたび怒鳴られる前に、懐から一通の手紙を取りだした。 「こ、これが…い…ま……」  ざっと読んだ横内が、忌々しげに、チッと舌打ちを洩らすと、中郷へと文を渡した。  中郷の口許が歪《ゆが》み、嘲笑《あざわら》いのかたちに変わってゆく。  手紙には、『もどってこい、来なければ、何としてでも奪い返す。二度と逃げられないように、手を折り、足を折ってくれる』といった旨が書いてあったのだ。 「誰が持って参ったのだ?」  確かに見覚えのある牙神の文字だと思いながら、それではどうやって月弥の手に渡ったのかを中郷は問うた。 「はい。裏門で花を摘んでおりましたところ、…また、あの狒々《ひひ》の髭《ひげ》売りが参りまして、つい、出てみましたら——…」  狒々の髭が見たくて外に出てみると、浪人風の髭売りとは別に、月弥が出てくるのを何日も前から待ち構えていた様子の男が走りよってきて、手紙を握らされた。  そう、叱られるのを恐れるように、おどおどしながらも月弥は説明した。  裏門は酉の刻に閉め、門番がいなくなる。知らずに狒々の髭売りは、また買ってもらえると訪ねてきたのだろう。  無人のところを、偶然にも月弥がちかくに居合わせ、強壮剤になる髭に興味を持って門を開けてみた。  牙神の使いの男が、これ幸いと近づいた。  特に不自然さは感じない。納得したのか、中郷はそれ以上は問わずにいたが、横内の方は治まらなかった。 「堀井めが、購《あがな》ったからですな。まったくの騙《かた》りもの、狒々に髭などあるものかッ、今度くるようであれば厳重に罰してやらねばなりますまい」  以前、裏門番の堀井が狒々の髭もどきを買ったことを横内は知っていたのだ。そのとき見逃してやったのを、自身で悔やむような口調になった。 「しかし、月弥はこの雨のなか、花を摘んでおったのか?」  次に、中郷の方は、部屋から出てはならないと言っておいた月弥が、裏門へ行っていたことに疑問とこだわりをみせた。 「もう、花が散ってしまいます…」  思いつめた声が、月弥から洩《も》れた。  爪を染めるつつじの花は盛りを過ぎ、散りはじめている。残ったわずかの花を惜しんで、月弥は約束を守れなかったのだ。  いまも、恐ろしい手紙に怯《おび》え、密談最中の座敷へ来てしまったように…。  色若衆とは、目の先のことしか見えず、考えの浅い、心の弱いものなのだと理解してやらねばならないのだ。  ところが横内は、仁王像かと思わせる恐ろしげな顔になった。 「下らぬ、さようなことで殿の御言いつけを破ったのかッ」  声を荒らげる横内を、当の中郷が遮った。 「横内、これ以上、月弥に怖い思いをさせるな」 「は…はぁ…」  自分のせいで月弥が怯えていると言われ、横内は黙ったが、釈然としない様子は隠せなかった。  無遠慮に夜烏の銀次が笑いだした。 「黙らぬかッ」  すかさず、八つ当たりするかに、横内は銀次を睨《にら》みつけた。  だが、痩《や》せた情報屋は笑うのを止めようとしなかった。  笑い声は甲高く、横内でなくとも耳障りだった。  月弥は、夜烏の銀次が、夜の闇に融《と》けて見えなくなる烏のように、肌が黒いのを知り、渾名は色黒からきているのかもしれないと認識を新たにした。  幸いにも銀次の方は、二代目犬神の早太郎であった月弥の顔を知らなかった。  笑いつづける男と、怒る横内の隣で、吉村欣也だけは憮然《ぶぜん》としていた。  小柄で、癇症《かんしよう》な性質を思わせる狐顔の吉村は、まだ三十前だが、若くして一刀流を極めた使い手だ。  中郷の裏稼業に荷担している以上、まっとうな人間ではないのだが、武術の冴《さ》えは際立ち、冷静な男でもある。  この男を供に付けられたために、月弥は稀《まれ》に外出を許されても羽根を伸ばせず、牙神との連絡《つなぎ》もとれなかったのだ。  そして、心酔した男のためならば、悪事にも荷担するという忠義心の持ち主。  牙神にとっての小杉のような存在なのだろうと思うと、月弥はいっそう、吉村が嫌いになった。      弐  月弥のせいで中断してしまった密談は、そのまま散会となり、銀次と吉村は帰って行った。  残った横内は、酒を運ばせ、かたわらに月弥をはべらせた中郷とともに酒膳《しゆぜん》を囲んだ。  本来ならば、丸屋襲撃を打ち合わせた後で、四人で呑《の》み交わす固めの盃《さかずき》だったのが、晩酌となってしまったのだ。  身体に酒を流し込んでも、釈然としない気持ちでいる横内は酔えない。呑むごとに、怒りと疑念が濃くなるばかりだ。  丸屋への押し込みの計画を聴かれただろうとわかっていながら、中郷はそのことに触れずにいる。月弥も、受け取った手紙に怯えていた様子が、いまは微塵《みじん》も感じられず、落ち着きがあり、静かだ。  最初から、横内はこの美しい小姓が好きになれなかった。  なにか、危険なものを感じたのだ。  人と人とが惹《ひ》かれていく前兆として心が不安になり、危険と錯覚するときがあるなどと、愛だ恋だと現《うつつ》を抜かす連中は口にしたりもするが、冷静に考えても、横内の場合は違っていた。  色はふたつ——と、中郷は女悦も男色も受け容《い》れて愉《たの》しむことにしたようだが、月弥ほどの美童を前にしても、また、ときに中郷と月弥との言語に絶する行為を見てしまうことがあっても、横内の肉体は騒がなかった。  だが、心は穏やかではなかった。  あの牙神尚照が、月弥に溺《おぼ》れて、ついには狂気の沙汰《さた》としか思われない手紙を書いて遣《よこ》したように、妖《あや》しい美童に耽《ふけ》って溺れる者は身を滅ぼすのではないか…、中郷もそうなるのではないか…と恐れたのだ。  いずれ、わざわいとなる前に、摘み取らねばならない。  それこそが、中郷の信頼を受け、懐刀として仕える者の、真の役割であり、忠義だ。  横内がそう決心したかたわらで、月弥が甘えかけるような仕種《しぐさ》で中郷の手から盃をいただき、酒で口唇《くちびる》を濡《ぬ》らしている。  濡れた口唇が赤さをまして、可憐《かれん》な花がひらいたかのような艶《なま》めかしさだ。  中郷は煙草盆を引き寄せ、銀の煙管《キセル》で一服つけながら月弥を見ている。双眸《そうぼう》を細め、上機嫌といった様子がある。 「さぁ、もっと呑め、呑んで酔うと、そなたの色が、いっそう鮮やかになる」  機嫌がよいのは、牙神の手紙を読んだからだ。  牙神に対する中郷の対抗意識には、横内も納得できる部分があった。  若いころから不遇を託《かこ》っていた中郷が、ようやく火付盗賊改方の前任者|浦澤左衛門《うらさわさえもん》の引きで役に就けるかといったところで、牙神に先を越されたのだ。  あげくに、牙神は目覚ましい活躍で人々の賞賛を受け、異例に任期が延びた。  次を狙う者としてはじりじりするほど長い時間を待たされたことになる。ところが、その後の牙神の為体《ていたらく》がまたも中郷にわざわいをもたらした。  今後、いかなる就任者に対しても任期の延長は取り止め、再任の場合も期間を措くと定められてしまったのだ。  中郷の出世は、横内にとっても悲願だった。  不遇時代、中郷の怨《うら》み、中郷の歓《よろこ》びを、我が身の怨み、我が身の歓びとしてきた横内なのだ。  牙神尚照は、共有の敵だった。 「い…けません。もう……」  しなをつくって抗《あらが》う月弥を、押さえつけて、中郷が口移しで酒を呑ませている。 「…ああ…だめです……も……」  目許《めもと》をうっすらと染めて、くなくなと月弥の腰が崩れた。  男と女、あるいは男と男が、酒席で睦《むつ》みあうようにじゃれている場に居合わせるなど、もっとも馬鹿らしい。 「……拙者は、これにて御免つかまつります」  このまま二人は、妖しい衆道の色闇へ進むのだろう。ならば席を立っても失礼にはなるまいと、横内は辟易《へきえき》の体を隠さず、出て行こうとした。 「待て横内」  ところが、鋭く呼びとめられ、中郷に手招かれた。 「はっ」  畏まって引き返した横内を、脇息に寄りかかった中郷が、さらにちかくへと招き寄せた。 「まだ宵の口ではないか、急いでもどらねばならぬ理由でもあるのか」 「いえ、拙者は、今宵《こよい》、話を詰める心づもりでおりましたゆえ、他に約束などはございませぬ」  その大事な話し合いを、月弥が邪魔したのだ。そう横内は言っている。  中郷は苦笑を浮かべながら、次に、 「以前から思うておったのだがな、横内、おまえはまだ、月弥の舌の味を知らぬ」  と、言い出した。  思わず絶句した横内を、中郷が見ている。 「許すぞ、試せ」 「拙者は……」  かぶりを振って横内は拒絶を表したものの、すでに月弥もその気になっているのが、眸《ひとみ》の輝きでわかった。  男同士の口淫《こういん》は、受ける身はもとより、与える方にも快感が強いと聴いたことを、ふっと思いだし、貪欲《どんよく》に快美を婪《むさぼ》ろうとする色小姓への嫌悪が横内の裡《なか》で膨れあがった。 「拙者には、嗜《たしな》みがございませぬゆえに、遠慮いたしとう存じます」  いまにも逃げださんと膝立《ひざだ》ちになった横内に、中郷の方も譲らず、ほとんど命令口調に変わった。 「試してみよ。横内」  進退|谷《きわ》まったかのごとく、横内は動けなくなった。 「——…は…っ…」  長い間の主従関係で身に染み付いた服従心が、このようなときと場合でも横内に作用する。ましてや、中郷と自分とは、同じ恨み、同じ歓びで結ばれた間柄なのだと、思い起こした矢先のことだった。  寵童《ちようどう》を共有する。これこそが、同一化の極みではないのか——。  横内の前に、猫のように月弥が這《は》いよってきた。  すかさず袴《はかま》の前紐《まえひも》がほどかれ、白い指が入り込んで、萎縮《いしゆく》した肉が探りだされた。  煌《きらめ》く眸で上目づかいに横内を見ながら、月弥が口唇をひらいた。  ぽってりと熟した女の口唇とは違い、刻んだように容が整っているせいか、固そうに見える口唇が、萎《な》えた横内を吸い込んだ。 「おおっ」と、声とも息ともつかない濁音が、横内の喉《のど》から漏れた。  固く見えた口唇は、花弁の柔らかさであり、心地よい熱さを持っていたのだ。  口いっぱいに横内を銜《くわ》えていく月弥の、白い頬が奇妙にくぼんだ。  苦しいのか、切ないような貌《かお》つきも、いままでにない妖しさがあり、どうしたことか、心が揺さぶられる。  月弥は、萎えていた横内の男茎ばかりでなく、皺袋《しわぶくろ》の付け根まで口唇に迎え入れていた。  すべてを呑むように含んでから、舌を巻きつけて吸いあげ、今度は裏筋を舐めた。  横内の股間《こかん》から月弥が貌をあげてゆくに従って、銅色《あかがねいろ》の柱と変わった男茎があらわれてきた。 「おっ、おっ」と、声に出して戦《おのの》きながら、横内は、瞬く間に変化を遂げたおのれの下肢と、月弥とを交互に見た。  腰から下に、痺《しび》れるほど重く苦しい男の快楽が溜《た》まっている。  ふたたび、月弥の口唇が横内を銜えて、呑みこんでゆく。  萎えていたときとは違い、勃《た》ちあがった横内のすべては、月弥の口に納まりきらなかった。  だが、深い官能を探りあてられた横内には、充分過ぎる刺激だった。  身体のなかで、血が、湧きたってくる。  月弥の息遣いも、うわずっていた。  執拗《しつよう》なまでに濃厚な月弥の口淫奉仕によって、やがて横内の裡で、うねり動くものがあった。  それは、ずっと身体のどこかで眠っていて、いま、目覚めさせられたような感じだった。  目覚めて、納まるべき場所を探して蠢《うごめ》きまわり、いっそう横内を煽《あお》ったのだ。  瞬間、女とでは味わえない男同士の交流、——あるいは融合が、接点から起こり、宙へ弾《はじ》き飛ばされたかのような絶頂に、横内の脳が眩《くら》んだ。 「おおっ…」  横内の呻《うめ》き、痙攣《けいれん》を、月弥は受けとめ、嚥《の》み下した男の精に酔ったように、細い肩を上下に喘がせた。 「ふふふ」  中郷から、含みのある笑いが洩れた。  やがて、月弥はうつむいていた貌《かお》をそろりとあげ、双眸《そうぼう》を炯《ひか》らせて横内を睨《にら》んだ。  妖しい双眸の蠱惑《こわく》に、稲妻が走るような動悸《どうき》を覚え、横内はあらたな狼狽《ろうばい》を感じた。  眼眸に、媚《こ》びとなじりの色を含ませ、「横内さま、なんやかやと偉そうに言っておられましたのに、結句愉《けつくたの》しまれたのではありませんか?」と責めているようにも感じる。  眼眸に呪力のような威力がある。  絶美の色若衆だが、色香だけではない硬質な靭《しな》やかさが、月弥にはあるのだ。  近づくと、息苦しい。  ——これは魔物だ。  このままでは、月弥という名の色小姓に魅入られてしまうのではないか。  横内の心——魂の部分が、拒絶を放った。  そのとき、だらしなく床に頽《くずお》れていた月弥が身を起こすと、中郷と横内を前に居住まいを正し、両手を揃えた。 「殿さま、横内さま。月弥は、先ほどの話を聴いてしまいました」  快楽に浸ったばかりの声が濡れている。 「う…むう」  中郷が唸《うな》りを洩らした。  月弥が、聴かなかった素振りを貫くのであれば、許そうと思っていたのだ。それを、はっきりと本人が聴いてしまったと白状しては、口を封じないわけにはいかない。  それを口にして、自分の身に危険が迫ると、考えが及ばないほどの愚か者であれば、それはそれで、処分に値する。まさか、中郷の寵愛を頼みに傲慢《ごうまん》になっているのか……と、端で聴く横内に、不快感が湧いてきた。  ところが、次に月弥からもたらされた言葉は、二人の男を驚愕《きようがく》させるものだった。 「どうか、今度《こたび》のお仕事《つとめ》に、わたしも加えていただきとうございます」 「馬鹿を申すな、そなたになにができる」  咄嗟《とつさ》に言葉を失った横内とは違い、余裕の笑いを持って、中郷が答えた。 「いいえ、お役に立ってごらんにいれます」  真剣な眼眸《まなざし》が、中郷を凝視した。先ほどの妖しい輝きではなく、いまは、蒼《あお》いほどの光が月弥の双眸に宿っている。 「隠しておりましたが、わたしは以前、盗賊の仲間に加わっていたことがございます」  この、二つとないような美貌《びぼう》の、蠱惑的な色香を漂わせる色小姓が、盗賊稼業に身を置いた過去があるなどと、とても信じられなかった。  口封じに殺されるのを免れたいばかりに、懸命に考えたあげくの出任《でまか》せにしか聞こえないのだ。 「ならば、その盗賊の頭の名を言ってみよ」  快楽の余韻もすっかりと醒《さ》めて、横内が口をはさんだ。 「めくらましの仁五郎《じんごろう》親分でございます」  思いがけない名前を月弥から聴き、一瞬だが、二人の男に緊張が走った。  仁五郎は、大坂《おおざか》出身の、仕掛けの大きな仕事で有名な盗賊だった。牙神が火盗改方就任後まもなく挙げた最初の手柄で、仁五郎は獄門になったが、元々は牙神の前任者、浦澤右衛門が眼の敵とした盗賊だった。  当時、浦澤の意を受け、中郷が追っていた盗賊だったのだ。  牙神に手柄を横取りされた思いがある。こうして、牙神に対する恨みが、幾重にも、薄皮のように中郷の裡に積もって、いまや厚い層をなしているのだ。  牙神と、おそらく中郷たちしか知らない仁五郎の秘密がある。  中郷と横内は目配せで、お互いの意思を通わせあった。 「では訊《き》こう。なぜ、仁五郎がめくらましと異名をとっていたか、下で働いたことがあるならば、そなたは知っておるだろうな?」  穏やかだったが、中郷の視線が鋭く月弥を見据えていた。  相対するかたちの月弥は、その眼を見て、答えた。 「仁五郎親分は、双子だったのでございます」  乾物問屋の主人を装った仁五郎は、双子に生まれたが、たえず一方が影に生きることでお互いの立場を守りながら成長し、盗賊稼業に就いたのだ。  中郷は頷き、つづいて、 「それではなにゆえ、仁五郎の仲間になったのか、聴かせてもらおうか」  と、訊いた。 「色子のときに買われたのが縁でございました。親分の懐から落ちた錠を、悪戯《いたずら》にかまっていたら外れたことがあったのです」  月弥にすればまんざら嘘ではないのだ。  稚《おさな》いころのことだ。仕事を頼みに来た仁五郎と、先代早太郎のかたわらで錠を構って遊んでいると、「この子は、錠前破りの素質がある。わしン所に預けないか」と言われたのだ。  先代は断ってから、後で、仁五郎は実は双子で、行けばとって食われるぞと月弥を嚇《おど》して、からかったことがあった。 「仁五郎親分は、わたしが腕の怪我が原因《もと》で芝居小屋を出た後も、わざわざ探してまで買いに来てくださって…、そのころ、寝たきりだった父のためにもまとまった金が欲しくて無理な身売りをしようとしておりますと、親分が色々な錠前を持ってきて、開けた分だけ金をくれると言ったんでございます……」  金になるとわかって、そして元々の素質があったのか、月弥はまもなく、蝋型《ろうがた》どりの必要があるものから、先を細工した金串《かなぐし》一本で開くものまで、どんな錠も開けられるようになったのだと、説明した。  犬神の早太郎とわかれば、中郷もこのまま放っておくはずはないだろう。月弥は巧みに話を創ったのだ。  にわかに信じ難いが、試してみるだけの価値はあると、中郷は考えた様子だった。 「道具はなにが必要だ?」  次にそう問われ、月弥はとりあえず鋼の串があればと口にした。髪に挿した簪《かんざし》がその役割も持っているのだが、手の内を知らせる気はなかった。  それから一刻ほど、月弥は左手で、役宅にあった錠の掛かる物をほとんど開けてみせた。 「なんと、……驚いたぞ月弥。見事なものだな」  先を細工した金串一本で開けられるのを、中郷が頷《うなず》きながら見た。 「蝋型から取ったおおよその形があれば、もっとはやく開けられます」  月弥は、嫣然《えんぜん》と微笑んで言った。  丸屋の金蔵では、門扉の閂《かんぬき》を、堅牢《けんろう》さを誇る海老《えび》錠で施錠している。海老錠は、半円形の海老に形が似ていることから名づけられた古い時代からの錠で、先の曲がった鉤《かぎ》を差し込んで開閉する。月弥の技は使えるのだ。 「牙神は、この技を知って、そなたを囲ったのか?」  視線に新たな猜疑《さいぎ》が混じった中郷を、やんわりと、月弥が否定した。 「いいえ、ご存じありません。教えるつもりもございませんでした。牙神さまは、仁五郎親分の敵でございます。そればかりか、また陰間稼業にもどるしかなかったわたしを、言いがかりをつけて無理やりに……」  月弥の面に、牙神を怨《えん》ずる表情が流れたのを、二人の男は見逃さなかった。 「いかがでございますか、試しに使ってみては…」  言い出したのは、横内だった。 「まてまて、そう急《せ》くな横内。それで月弥、そなたは仁五郎とはどの盗《つと》めを働いたのだ?」  めくらましの仁五郎が仕掛けた押し込みについては、すべて調べあげている中郷なのだ。もし、月弥が嘘を口にすれば、すぐに見抜ける。 「親分は、わたしを一度も連れて行ってはくださいませんでした。ただ、鍵開けの腕を磨いておけと言うだけで……」  無難な答えを、月弥は意図的におこなったのだが、中郷は納得して頷いた。 「そうであろうな、仁五郎が連れて行くには、そなたは稚《おさな》すぎただろうからな。いずれ役立たせるつもりであっただろうに、牙神が獄門へ送ったのだな」  牙神が獄門へ送ったのだと繰り返されて、その度にチリチリと反応する月弥に中郷は気づいている。ふたたび月弥は頭を下げた。 「どうか、お連れくださいっ」  凄艶《せいえん》な色若衆だった月弥が、いまは、年齢相応の、むしろ稚くも見えるほどの一途《いちず》さ、可憐《かれん》さを漂わせて、じっと中郷を凝視している。  しかし、中郷はすぐには答えなかった。  あきらかに乗り気ではないのだ。そこへさらに、横内が口を添えて勧めた。 「これほどの技をもつものが、殿のお膝元に隠れていたとは思いませなんだ。運が開けるということは、放って措いても逸材が集まり、力になってくれるのでございますな」 「おまえらしくもないことを申すな、横内」  中郷がからかって言うのに、横内の方は平然と答えた。 「拙者は、常々感じておりましたことを申しあげたまででございます。物事が好転する時期というものは巡ってくるものだと。逆もまた、然りでございますが……」  絶頂から奈落《ならく》へ転落したも同じの牙神を、当てこすった言い方だ。 「では、牙神は命運尽きたと申すか」 「いかにも」  月弥もその言葉に飛びついた。 「お願いでございます。牙神さまへの復讐《ふくしゆう》のためにも、月弥をお使いください」  目許《めもと》に執念がこもっていた。 「それほど、牙神が憎いか」 「はい。牙神さまは、仲間の敵でございます…」  そこまで思い詰めた月弥に、中郷も心動かされた様子である。 「我らの手立は皆殺しだぞ。集めた流れ働きの夜盗どもに金蔵を破らせたところでこちらから乗り込み、家人もろとも殺して金品を横取りするのだ。そなたは、血を見るのは怖いか」 「……いいえ…」  喉を喘《あえ》がせ、懸命に答えた月弥を、中郷は好意的に見た。 「恐くない」などと強がってみせる方が、信用がならなかった。 「よかろう。そなたの決心をみてやろう」 「拙者、月弥殿を見直し申した」  横内が真面目腐った顔でそう言いだしたのには、思わず中郷から失笑が漏れた。 「月弥殿か、おまえも現金なものよな」 「はっ、畏《おそ》れ入りましてございます」  堅苦しく横内が答え、頭を下げる。 「果たして、見直したのは鍵開けの技か、それとも別の技ではあるまいか?」  珍しく、中郷は愉しんでいる様子で、口数が多くなっているのだ。  横内は困った顔をみせ、曖昧《あいまい》な返答をかえした。 「いや…そればかりは、その——…」  だが、このときすでに、横内の肚《はら》は決まっていたのだ。  丸屋の盗みに月弥を加えるよう中郷に勧めたのは、現場で、隙をみて殺してしまおうと思っているからだった。  始末する夜盗たちと一括りに、手違いという名目で、——魔を絶つのだ。  いずれ必ず、月弥は中郷のわざわいとなる。  横内は、もはや、そう信じて疑わなかった。  褥《しとね》の上に全裸で這わされた月弥は、下肢へと手燭《てしよく》が近づけられ、炎に照らされるのを感じて慄《ふる》えた。  横内が去って後、すぐさま寝間へと引きずり込まれ、裸に剥《む》かれたのだ。  褥に両|膝《ひざ》、両手をついた月弥は、さらに腰を持ちあげられ、ほとんど秘所を突きだした恰好《かつこう》になっている。  前をはだけ、男を屹立《きつりつ》させた中郷が、開かせた両足の間へと割り込んでいった。  中郷は、なめらかな陶器のように冷たいが、裡《うち》には熱を宿している肉体を支配下に置いたのだ。 「あっ…」  後花の蕾《つぼみ》に、灼熱《しやくねつ》の先端が触れた。  敏感な肉襞《にくひだ》の蕾を、中郷の先端から溢《あふ》れてくる悦液が、ぬるぬるとなぞりだす。羞恥《しゆうち》よりも、なぞられる感触の方に、月弥は心を奪われ、肉体は反応を示した。 「うっ…ううう……」  絞ったように窄《つぼ》まっていた肉襞が、透明な粘液でこねられているうちに、淫《みだ》らに弛《ゆる》みだした。  獣の形をとらされた月弥は、恍惚《こうこつ》と眼を閉じ、とろけるような声を洩《も》らしている。 「あっ……んっ…」  妖しい花を開花させるために、中郷の動きに突きが加わった。 「あ…う——…」  新たな快感をおぼえた月弥から力が抜け、それが同時に、かたくなに締まる肉襞の緊張を弛めた。  はやく中郷を迎えたいと、肉の襞でかたちどられた花が開いたのだ。 「う…う…んっ…」 「不思議じゃな、硬い蕾であったものが、こうしただけで、際限なくひらくぞ」  柔らかさを増した肉襞に、中郷の男が入ってきた。 「ああ、ああ……」  美しい貌《かお》に陶然とした艶《つや》を刷《は》かせた月弥は、下肢の力をゆるめ、男を迎えいれた。  関門を潜りぬけた中郷を、強烈な締め付けが待っていた。 「う…むっ」  中郷が呻《うめ》きを洩らした。  月弥の内奥は、蠕動《ぜんどう》する生き物と変わり、中郷を引きずり込むかのように呑《の》み込んだ。  それでいて、中郷が腰を進めると、月弥の内部は押しだそうと抵抗する。  退けば今度は、放すまいと肉襞がからみついて、中郷の男をきゅうぅと絞りたてた。  絞めつけは女陰の比ではなかった。  中郷は、月弥の肉体に溺《おぼ》れている自分に気づいている。男と男でなければ感じあえない陶酔を、知ったのだ。  いましばらく、愉しむつもりだった。いつでも抜け出せると思っているからだ。  どんなに深く溺れても、中郷の心を支配している真の欲望は、別のところにある。権力欲であり、金銭欲だ。 「殿さま……も、もっと、もっと突いて」  淫らに下肢をうねくらせながら、月弥が欲した。 「ああっ…、月弥を虐めて……」  求められるがまま、中郷が攻撃を加えた。 「あッ、ひいッ」  四つん這《ば》いの月弥が、伸びあがって、のけぞった。  のけぞった腹腔《ふくこう》の内に、堅い異物が納まっている。それが、腹を破らんばかりに動きだした。 「ひぃ、ひいッ、壊れる……」  悲鳴しながらも、月弥は自分から吸いあげ、搾りたて、腰を使うのをやめようとしない。 「うむ、よい味じゃ、月弥、よい味じゃぞ」  悦楽に恍惚となった中郷が、なおも肛虐の美味を愉《たの》しもうと、激しくなった。 「あ…ふぅ……あ…ん……」  むせぶような声が、月弥から洩れだした。  繋《つな》がった二人の肉体が争いあうようにもつれた。  揉みあって、この世のものとも思われぬ快美を醸成し、愉悦に酔いはじめる。 「あう、あうっ」  快感がとめどなく湧き起こり、月弥は翻弄《ほんろう》され、苦しげな息遣いで喘ぎだした。 「い……いいっ」  歓びの高まりに、月弥は悩乱して、あえいだ。      参  また雨が降るのか、一日もった曇り空は、申《さる》の刻を過ぎて灰色の薄闇に覆われていた。  月弥が仲間に加わると決まった翌夕のことである。  もどった中郷は、与えられた自分の部屋で、剃刀《かみそり》を使って振り袖《そで》を引き裂く月弥の姿を見て、足を止めた。  すでにふた月以上前になる。牙神の許から逃げてきたときに着ていた、華美な振り袖だった。  月弥は、中郷からも、派手さはないが、新しい衣装を不自由なく与えられていながら、大切にしていた一揃えなのだ。  それを、細い眉《まゆ》と眉の間を険しく寄せ、切れあがった美しい眦《まなじり》に異様な光を輝かせた月弥が、一心に引き裂いている。  手許《てもと》に、針道具を納めた箱と、鋏《はさみ》が置いてあるが、そんなものでは物足りなかったのか、剃刀の方を選んだのだ。  牙神との訣別《けつべつ》を決めた意志のようなものが感じられた。  月弥は、牙神が購《あがな》ってくれた振り袖を、すこしずつ刻んでいって、かたちを失わせることで、男の記憶を、心と肉体から消し去ろうとしているのだ。  声を掛けるべきではないと判断した中郷は、そっと部屋を後にして、座敷の方へともどった。  座敷には、横内と吉村が来ていた。  昨夜の密談のつづきと、月弥が丸屋の仕事に加わることになった経緯を説明するために、吉村と夜烏の銀次を呼んだのだ。  横内も吉村も、役所から直行すればよかったが、銀次が掴《つか》まらなかった。  銀次は、昼間はどこかにしけ込んでいて、酉《とり》の刻を過ぎなければ巣から出てこないとも噂される夜の烏だ。  あるいは、人集めに精を出しているのかもしれないと見当をつけて、とりあえず、吉村には横内が説明することになった。  さすがに吉村も、か弱いばかりの色若衆と思っていた月弥が鍵開けの名人とは、信じ難い様子だったが、中郷が認めたのであればと納得した。  横内が、自分の密《ひそ》やかなる決心——心の裡《うち》を吉村に気づかれてしまわないよう話し終えたところで、中郷が言った。 「吉村、おまえは月弥を守れ」  聴いた横内は、おののいた。 「思いもかけぬ拾いものだったが、仕事は初めてと言っておる。昨夜見た手際では、しくじりはないと思うが、なに分、物騒でもあるしな、任せたぞ」 「はっ」  畏《かしこ》まって承り、頭を下げた吉村の脇で、横内は動揺を悟られぬように顔を背けていた。  剣の達人である吉村に守られた月弥を殺すのは、かなり困難が予想される。かといって、吉村を企《たくら》みに引き込むわけにはいかなかった。  たとえ一時でも、中郷を欺くことなど、吉村にはできないとわかっていたのだ。 「誰だ?」  過敏な吉村が、人の気配に反応して立ちあがったので、横内も我に返った。  すばやく開けられた襖《ふすま》の向こう、縁側の外に、裏門番の堀井康之助が立っていた。 「堀井かッ、いかがした」 「はあ…」  吉村の剣幕に堀井は驚いた顔をしたが、これ以上怒鳴られる前にと、手に持った包みから月弥の振り袖を取りだして見せた。 「これを、月弥さまが持ってこられて、四谷の牙神尚照さまの御屋敷に届けてくれと言われましたので…」  使いを頼まれたが、言う通りにしてよいものか伺いをたてに来たのだと、堀井は説明した。 「どうしたのだ、これは?」  横内が出てゆき、堀井の手から、ぼろぼろに引き裂かれた振り袖の残骸《ざんがい》を奪うように受け取った。 「なんでも、牙神さまに直接、『これが手紙の返事だ』と言って渡すよう、頼まれましたが、いかがいたしましよう」  座敷のなかの三人が沈黙したのに、堀井は困惑しかけた。自分が、まずいことを口走ったのかと、思ったのだ。 「持っていってやれ」  中郷が、堀井に向かって言った。 「そして頼まれた通りに、牙神殿に伝えてやるのだ」 「は、はっ」  自分が責められていないと知って、堀井の声に弾みがついた。  なぜ、月弥がこんな無残な、もったいない真似をしたのか、理解できなかったが、訊《き》くこともできないので、考えるのはやめていた。 「これからすぐに、行って参ります」  堀井は、受け取った振り袖を布に包みなおしてから、頭を下げると、辺りがすっかり暮れて、雨が降る前にもどってきたいとばかりに、急ぎ出て行った。  背後から笑い声が起こったのを聴いたが、振り返らなかった。  牙神邸で、引き裂かれた振り袖を受け取ったのは、小杉左京太だった。  すぐに小杉は、助猿の屋根船にいるだろう牙神のもとへと、走った。 [#改ページ]  第七章 凶 賊      壱  闇に満たされた空の下、獣の心を持った男たちの集団が目的の丸屋に向かっていた。  霧雨降る今夜が選ばれたのは、夜烏の銀次が、丸屋の主人夫婦が奉公人を連れ、湯治に行くと聴き込んできたからだ。  湯治といっても、小石川にある薬湯宿への一晩泊まりである。  小石川には薬草園があり、将軍家へ納める薬草を栽培していたが、それらの効力を利用して、薬湯の風呂《ふろ》を沸かし、特別の許可をとって湯治客を泊める宿屋があったのだ。  他にも、有名な温泉地の湯花を取り寄せ、溶かして沸かしなおす再生温泉というのがあった。  こちらは、箱根や、熱海といった温泉地へ出かける手間や時間を節約できる上に、一般の湯屋との値段差は二倍から三倍程度だったので、たいそう賑《にぎ》わっていた。  薬湯宿での湯治となると、宿泊費に食費が加わり、薬草によっても値段が違う。誰もが気楽に逗留《とうりゆう》できるものではなかったのだが、丸屋では、主人徳衛門の持病である神経痛が、梅雨時の湿気で悪化したために、思い切ったのだ。  ちょうどよい機会と、手代以上の奉公人もお相伴に与《あずか》ることになった。  主人夫婦は連泊の湯治になるが、商いを休むわけにはいかない奉公人たちは一晩の湯治だった。それでも、連日、足を棒にして得意先回りをつづける奉公人にとっては、あり難い骨休めだったのだ。  店に残っているのは、下働きの女たちと、あとは数人の丁稚《でつち》だけである。  家人が少ないということに加え、霧雨が闇を濃くさせ、適度な湿り気が足音を消してくれる。  押し入る決行の時刻は、深夜の子《ね》の刻。  丸屋の裏口を破って入った後、二手に別れ、一方が店のものを殺害する間に、月弥が蔵の鍵《かぎ》を開ける。  家の方に回った者たちは、殺しが終わりしだい蔵に集まり、金箱を運びだすのに加わる。  半刻《はんとき》後には、中郷が横内ら腹心の部下を連れて乗り込み、夜盗たちを殺して金を横取りする手筈《てはず》だ。  盗人の始末が終わってから、店を包囲させていた捕り方たちを呼び寄せ、その騒ぎに乗じて奪った金を隠して運ぶ。  かかわる中郷の部下は、横内平九郎、吉村欣也を含めて五人足らずだが、すでに慣れたもので、強い連帯感で結ばれていた。  銀次が集めたのは、四人の流れ働きの盗賊たちだった。  別口に丸屋をさらわれる前に、押し入るとの中郷の判断で、急がされ、越後、最上あたりから調達《あつめ》てきたために、言葉には訛《なま》りがあった。  もっとも、近ごろ江戸の夜盗たちは、うむを言わせず現場で処刑するという中郷のやり方に恐れをなして鳴りを潜め、迂闊《うかつ》な仕事には加わらないのだ。  集めた四人に、月弥と、月弥を護衛するという名目で吉村が加わり、さらに、人数の不足を補うためにか、今夜は銀次自身も加わっていた。  全員が黒装束に黒頭巾の姿で、懐に匕首《あいくち》を呑《の》み、吉村と銀次がそれぞれ龕燈《がんどう》を手に持った。  月弥も黒装束に身を固めていたが、吉村だけは、賊と混同されないように、黒の小袖《こそで》と袴《はかま》に、顔を隠す黒頭巾《くろずきん》を被《かぶ》っていた。  丸屋は、その狭い店の間口からは想像できないほどに、奥行きがある。  主人一家が住まう母屋と、赤い鳥居の稲荷祠《ほこら》が建つ苔庭《こけにわ》、それから奉公人用の長屋の棟がつづいているのだ。  母屋の軒から吊《つ》り下がる唐銅燈籠《からかねとうろう》の常夜灯が、ぼんやりと庭を照らし、苔を黒々と光らせる。  稲荷祠の脇に、丸屋の蔵が建っていた。  霧雨のなか、音もさせずに入り込んだ七人は、闇を縫って進み、手筈どおり二手に別れた。  店の方から、女の悲鳴と、つづいて男の声が聞こえたのを耳に、月弥は金蔵の鍵に取り掛かった。  一間ほど離れた背後で吉村が見張りとなり、月弥の手許は、夜烏の銀次が手伝った。  龕燈《がんどう》で照らしながら、自分が手に入れた鍵の具合を探るように、見ている。  人手不足からばかりでなく、最悪、月弥が鍵を開けられなかったときには代わるつもりで付いてきたのかと思われた銀次だった。  しかし、首尾よくいった。  月弥の指先にカチリと手応《てごた》えがあり、鍵の外れる音がした。  同時に月弥の裡を、得も言われぬ昂揚《こうよう》と、快美感が走りぬけた。  魂の部分からの陶酔。  そう呼ぶのに相応《ふさわ》しい一瞬が、月弥を包んだのだ。 「さすがは、二代目犬神の早太郎だ」  歓喜を、銀次の声が現実に引きもどした。 「男をたぶらかす手口も見事だったが、まんまとこの鍵を開けちまうとは、血は争えねえなぁ」  ハッとした月弥を、黒い顔のなかの、黄ばんだ眼が笑っていた。 「へへ、あっしは、あんたを知ってんでさぁ」  にやにや笑いながら、銀次は話しだした。 「むかし、犬神の盗人宿へ仕事の話を持ってったときだ、先代が、自慢げにあんたを見せてくれたのさ。おれの倅《せがれ》で二代目だってな、そんときあんたは、無邪気な顔で眠ってた。犬神じゃなくて、ちっせぇ、白い子猫みたいにかあいらしかったぜ。先代も自慢だったのさ」  代が替われば、仕事の遣《や》り方も変わってくる。自分は情報は要らないが、息子は必要とするかもしれないと、先代は銀次に月弥を見せたのだ。 「おっと、おっかねぇ顔するなよ。誰にも言ってねぇぜ。中郷さまにもだ」  今夜の盗《つと》めに、情報屋の銀次が加わったのは、月弥の手際を見届けるためだったのだ。 「なぜだ?」  訝《いぶか》しんだ月弥の耳許《みみもと》へ息を吹きかけるように、へへへ……と夜烏が笑った。 「あんたは、大物だ。わけあって牙神の旦那《だんな》もたらしこんでたんだろう? あっしはね、この先、あんたと組むのがいいと踏んだんだ」  このまま中郷に付いていてもそうそう甘い汁は吸えないだろう。下手をすると、口封じに殺されるおそれもあるのだ。  その点、月弥を抱き込んでおけば、もしものときに乗り換えられる。そればかりか、中郷が自分を始末しようとしたときに、いち早く知らせてくれるだろうからな……と、早口に言った夜烏の銀次を、月弥が冷たく睨《にら》んだ。 「虫の良い考えだな」  あげくにべらべらと手の内をしゃべるなど、軽率過ぎると月弥は言いたいのだ。  対して銀次は、月弥の軽蔑《けいべつ》など頓着《とんちやく》しなかった。 「そうかい? 世渡り上手といってほしいぜ、犬神の」 「犬神の」と呼ばれて、ふたたび月弥に歓喜が走る。  そこをさらに、銀次が煽《あお》った。 「あっしにゃわかるぜ、あんたは、犬神の血を引いてるんだ。いずれ、江戸の夜を荒らしまわりたくなるさ」  烏は、人が死ぬのを事前に察知し、鳴いて報《しら》せると言い伝えられる。いま、夜烏の銀次も、予言者のように月弥に囁《ささや》いた。  月弥の心が、——魂が、戦慄《せんりつ》を放った。 「そういうあんたなら、この銀次さまの値打ちがわかるはずだ」 「確かに、おまえは使えそうだな」  月弥も頷《うなず》き返した。  けれども、この銀次の変わり身の早さに、月弥は嫌悪を感じていた。  たとえ組んでも、いずれ自分も裏切られるだろう。それがわかるのだ。  なびいてきた手応えを感じたのか、銀次が馴《な》れ馴《な》れしさを増した。 「この仕事《つとめ》の後に、ちょっくら逢《あ》ってくんな。男二人をとろかしたあんたを、あっしも愉《たの》しませてもらいたいね」 「おまえが、わたしの秘密を守れるのであれば、いつでも愉しませてやるよ」  月弥の方も思わせぶりに応じる。いまここで、銀次を敵に回して秘密を漏らされるのは得策ではなかった。 「もちろん。あっしは口が堅《かて》えんだぜ」 「どうしたのだッ。うまくゆかんのかッ」  二人で囁きあっているのが眼に入ったのか、吉村が声を掛けてきた。  中郷たちが踏み込んでくる前に、金蔵を開け、千両箱を運び出しておかねばならないという焦りが声に混じっている。 「へい、見事に開きやしたぜ、この通りでさあ」  自分の手柄のように、銀次が言った。 「ほお……」  覗《のぞ》き込み、我が眼で確かめた吉村が、感心した声をあげた背後で、母屋の雨戸を蹴破《けやぶ》って、丁稚《でつち》と思われる子供が飛び出してきた。 「うわぁ——ッ」  叫んだ小僧は、襟首を掴《つか》まれて引きもどされ、姿が見えなくなったと同時に、断末魔の呻《うめ》きが聞こえ、静かになった。  母屋のいたる所から、血の臭いをまとわりつかせた四人が姿を現わし、ぞろぞろと庭に集まってきた。 「首尾よくいったのだな」  盗人たちの姿が黒い塊のように見える。 「こちらも蔵が開いた。全員で手分けして金箱を運び出せ」  つづいて吉村に命じられた黒い塊は、いっせいに金蔵へと入って行き、金箱を運びだしてきた。  金箱には、千両箱、百両箱などの種類があるが、実際には千両以上の小判が入る大きさで、重さもかなりある。 「あるぜ、あるぜ、ありますぜ。あっしの見立てた以上にお宝の山だ」  次々と運ばれてくる金箱を見て、銀次が上ずった声をあげた。そのかたわらで、冷静な吉村が、なかの小判を改めた。  黄金の輝きが、龕燈《がんどう》の明かりに照らされて眩《まぶ》しいほどだ。 「そなた、よくやったぞ。殿からお褒めいただけるだろう」  月弥に向かって吉村は声をかけると、顔を隠していた黒頭巾を脱いだ。  黒頭巾を脱ぎ、紋の入った羽織を着れば、吉村は火盗改方の与力姿に変わる。これからが、吉村の腕の見せどころだ。 「こっちへ来なせぇ」  勝手知ったる銀次が、月弥の腕を掴んで、稲荷祠《ほこら》の陰へと下がった。賊と一緒くたに斬り殺されては敵《かな》わないからだ。  馬の嘶《いなな》きが、塀の外から聞こえた気がした。 「運び終わったか」  佩刀《はいとう》に手をかけた恰好《かつこう》の吉村が、金箱を下ろした盗人の一人に訊《き》いた。 「へい、そろそろ終わりです」  夜盗の答えに、ふっと、吉村は怪訝《けげん》な顔をした。  訛《なま》りがなかったのだ。 「まて、貴様は——…」  叫ぶなり、やおら佩刀を抜き放った吉村へ、盗人の方が襲いかかってきた。 「な、なにやつッ」  すばやく避《よ》けたが、不審な盗人と対峙《たいじ》することになった吉村は、背なかにじっとりと冷や汗が浮かぶのを感じた。  夜烏の銀次が集めた流れものではないという、冴《さ》えた確信とともに、間を置かず、剣先に殺気を凝集させながら踏み込んだ。  瞬間、相手のすさまじい抜き打ちで、吉村は脾腹《ひばら》を打たれ、息が止まった。  地面に倒れた衝撃で息を吹き返したが、あばら骨と、腿《もも》の骨も折れたか、砕かれたかして、身体の感覚がなくなっていた。  大腿《だいたい》部の方は、いつ打たれたのかまったく記憶になかった。  這《は》い蹲《つくば》ったまま、唯一動かせる視線をめぐらせた吉村に、黒覆面を被《かぶ》った流れ盗人の顔が見えた。 「貴様ッ、き…牙神……」  声をだしたつもりだったが、口のなかに、湿った苔《こけ》の味が広がっただけだった。 「な、な、な、なんだ?」  吉村が倒されたことにおののき、泡を食った銀次が、我が身が大事とばかりに月弥を置いて逃げだそうとした。 「銀次ッ」  月弥は叫んだとほとんど同時に、反射的に振り返った銀次へめがけ、懐からだした簪《かんざし》を投げていた。 「ヒェッ」  短い息を放った夜烏は、つづいて夜を明けさせるかと思われるほどの大声で悲鳴した。 「ギャアアアアッ」  月弥の投げた簪が、銀次の右眼を深く貫き、脳に達していたのだ。  喚く夜烏を、袈裟懸《けさが》けに、盗人の一人が斬り殺した。  地面に這い蹲ったまま動けない吉村は、目の前で、見覚えのある鮮やかな太刀筋、——昔、道場にこの人ありとの噂を聴いて覗きに行き、垣間見《かいまみ》た松井小十郎の技を思いだしていた。  魂切《ことき》れた銀次の前に屈《かが》んで、銀細工の簪を抜き取った松井が、振り向きざま、月弥へと放ってやる。左手で受けとめた月弥は、ふたたび懐に仕舞いこんだ。  まさか……と、混乱しかかった吉村だが、このとき、表で扉が蹴破られるすさまじい音と、馬の嘶きが聞こえ、中郷が乗り込んできたのを知った。      弐  予定の時刻。  馬で乗り込んだ中郷は、横内を従え、すでに家人が皆殺しにされているはずの屋敷内を移動して、庭へと足を踏み入れた。  まだ蔵から運びきれないらしく、盗人たちが金箱を抱えている。  吉村の姿が見えなかったが、蔵のなかにでもいるのかとさして気にもとめず、積みあげられた金箱の山を、ざっと眼で数えた。  思わず、頬が弛《ゆる》んでくる。 「終わりましたぜ」  盗人の一人が、中郷の前に進みでて、報告した。 「うむ、ご苦労だったな」  言うなり、中郷は抜刀して盗人に斬りかかっていた。 「なっ、なにしゃがるんでえッ」  伝法な調子で罵《ののし》ったのは、大川の声だったが、そうとは気づかずに、中郷は巧みにかわした盗人を追った。 「悪く思うなよ、うぬらにはここで死んでもらう」  刀を抜いた横内も、すばやく追ってきた。 「くそ、騙《だま》しやがったのか、ちくしょうめッ」  佐々木も盗人の口真似が板に付いている。 「いまごろ気がついたか田舎泥棒め、所詮《しよせん》、うぬらは捨て駒なのだ」  中郷に与《くみ》する者どもが、次々と姿をあらわしてきた。  丸屋の外側を包囲しているのは、なにも知らない捕り方たちだけだ。  いままでも、|捕り方《かれ》らには、中郷みずから先陣を切って危険な場に乗り込んでいると見せかけて、金箱を横取りしてきたのだ。 「金箱を運べ、こやつらは、わしらが始末する」  手下に命じた中郷だが、今夜はいままでのようにはゆかなかった。  寄せ集めと思われた流れ盗人たちが、抜刀を手に、一筋縄でいかない強さで抵抗してきたからだ。  加勢に加わる部下が、次々と討たれて、「アッ」とも、「ウッ」ともつかない呻きひとつとともに倒れてゆくのだ。  刀を振りかざして踏み込む寸前に、盗人連中の方が、疾風《はやて》のごときの早業で、脾腹に刀身の峰を打ち込んでいる。  身体を折り曲げ、地面に転がりながら嘔吐《おうと》する者、意識を失っている者と、たかだか四人ほどの、田舎盗人を相手に信じられない光景が繰り広げられ、横内も平静を失った。 「どこだ、吉村はいかがした。どこにおる」  吉村を頼みと探した横内だが、踏み込んできた黒い影によって、肩を斬られ、返す刀の峰で脾腹を打たれていた。  相手が自分を殺すつもりがないのは、いまの峰打ちでわかったが、息が詰まりかけて地面に片|膝《ひざ》を落としてしまった。  背後に回ってきたもう一人の盗人が、横内を後ろ手にねじりあげ、白細引を掛けた。  不審を感じる間もなく、手際よく縄を打たれ、横内は濡《ぬ》れた地面に転がされた。  そこではじめて、目の前の闇に、かすかにうごめく蟠《わだかま》りがあり、それが、同じく地面に倒れた吉村だと気づいた。  眼だけをギラギラさせて何事か訴えかける吉村だが、声がでないのか、横内には理解の術《すべ》がない。ただわかるのは、盗人たちをはめたつもりが、逆に計略にかけられたということだった。  ——命運が、尽きたのだ。  横内は、中郷の姿を探した。  いまや仲間で立ちあがっている者は、二人だけしか見えない。  そのうちの一人が、中郷だった。  中郷の方も、盗人一人に苦戦していた。 「その方らのやり口は、とくと見せてもらったぞ、中郷主膳」  驚愕《きようがく》した中郷の声が闇を震わせた。 「貴様、牙神だったのかッ」  応《こた》えるように、盗人が黒頭巾《くろずきん》を剥《は》いで素顔を顕《あら》わした。  紛れもなく、牙神尚照だった。  仇敵《きゆうてき》の顔を見たとたんに、中郷はすべてを察した。  ——罠《わな》を仕掛けられたのだ。  おそらく、丸屋夫婦の奉公人連れの湯治も、牙神の指図なのだろう。 「小賢《こざか》しいまねをッ」  苛立《いらだ》ち紛れにそう口走った中郷だが、逃げる余地はあった。  丸屋を囲んでいるのは配下の捕り方たちである。牙神たちを、扮装《ふんそう》した通りの夜盗として葬ってしまえばよいのだ。  すばやく懐から呼子笛を取りだした。 「貴様などここで始末してくれるぞ、牙神ッ」  吹く寸前に、飛んできた銀色の矢のようなものが、中郷の手から呼子笛を奪って、取り落とさせた。 「なにッ」  飛んできた方向を見ると、闇を払うような美しさで月弥が立っていた。  ほとんど思考と行動は同時に行われた。  跳び込むような疾《はや》さで移動した中郷は、手にした刀の切っ先を、月弥に向けながら牙神へと挑んだ。 「貴様の色子を斬るぞ、牙神ッ」  牙神が哄笑《こうしよう》を放った。 「そやつは、あんたには殺せぬぞ」 「なんだと?」  闇のなかから牙神が、中郷に告げた。 「なにしろ、おれにも捕えられなんだ、犬神の早太郎だからな」  新たな駭《おどろ》きに中郷の注意が切っ先から逸《そ》れた瞬間のことだった。  月弥の身体がスッと沈み、次に気づいたときには、稲荷祠《ほこら》の屋根に、そのほっそりとした身体が立っていた。  瞬発的な、みごとな跳躍力だったが、眼を奪われるべきは身のこなしばかりではなかった。  閨《ねや》では、淫《みだ》りがわしいほどに艶《あで》やかな美しさを持っていた月弥の貌《かお》に、ぞくりとするような冷たさが垣間見《かいまみ》えた。 「おまえは…、おまえが? あ…あの犬神の早太郎だと申すかッ」  自分の逃げ道をつくるため、中郷は月弥に刃《やいば》を向けておきながら、月弥の正体を知った途端に、なじった。 「わしを謀っておったのかッ」  双眸《そうぼう》に青い燐光《りんこう》を輝かせた月弥は、一瞬だけ中郷を睨《にら》むと、稲荷祠の屋根から消えた。 「世を欺く姿をもっているのは、なにも、その方だけではないぞ、中郷主膳」  凜《りん》と発せられた牙神の声に、我に返った中郷は、もはや一時の驚愕、失意、不面目感といったものから立ち直っており、不敵な笑みを口許《くちもと》に浮かべた。 「それがどうだというのだ、失脚者めッ。わしは、貴様のようにはならんぞ」  牙神は平然と中郷の罵りを受けとめたが、次に発せられた声は、不気味に沈んでいた。 「中郷主膳、いかなる申し開きも不要、これより若年寄篠井長門守さまの命を受け、牙神尚照が成敗する」  言うなり、右手下段に構えていた牙神の剣が、閃《ひらめ》きあがり、身体は滑るように中郷へ打ち込んできた。 「ま…さか貴様が…ッ」  咄嗟《とつさ》に跳ね返した中郷だが、交わし合った刃から、火花が飛ぶような殺気がお互いを突きぬけた。  瞬間、身体を入れ替えて、牙神が正眼から一気に、踏みこんだ。  強張《こわば》った顔のまま、中郷の身体がぬかるみに頽《くずお》れた。  闇を薙《な》ぐように切っ先の血を払った牙神が、鞘《さや》に収めたところで、大川が呼子を吹き鳴らし、突入の合図を送った。  十を数える間もない速さだった。  丸屋を囲んでいた捕り方が、一斉に踏み込んできた。 「横内が、舌を噛《か》み切りました」  変装装束を剥ぎ取った小杉左京太が、急ぎ牙神に伝えてきた。 「捨ておけ、地獄まで中郷の供を務めるつもりであろう」  いかに、両手を拘束されているとはいえ、武士が舌を咬《か》み切って死んだことに、牙神も小杉もそれぞれの思いを抱いたが、心情は理解できた。  一刻も早く、横内は中郷に殉《したが》いたかったのだろう——。  牙神は、地に蹲《つくば》っていた他の者どもが、不様に這《は》いずってまでも逃げようとするのをみて、鋭く叫んだ。 「全員を召し捕れ」  采配《さいはい》を振るう牙神の一言は、稲荷祠の陰に身を潜めようとした月弥にも、例外ではなかった。  まさかと後退《あとずさ》った月弥を、捕り方が乱暴に地面に押し倒した。  腕を捻《ねじ》りあげられ、抵抗しようとしたところを撲られて、容赦なく捕縄をかけられた。  引き立てられる月弥は、信じられずに、牙神を振り返ったが、すぐに、すべてを悟り、喉《のど》の奥から自嘲《じちよう》の笑いを溢れさせた。  自分もまた、牙神にはめられたと気づいたのだ。  牙神は、中郷を罠に掛けるついでに、かつて取り逃がした犬神の早太郎を、同じ盗賊あつかいで捕らえ直したのだ。  憎しみと、諦《あきら》めに、月弥は今宵《こよい》はじめて、霧雨に濡《ぬ》れた身体を、寒いと感じた。      参  月弥が入れられた牢の向かい側に、吉村欣也が横たわっている。  中郷に与《くみ》したその他の者どもも、それぞれ口裏を合わせられないようにと、一人ずつ収容され、警備には帯刀の武士が当たっていた。  深更だというのに、穿鑿所《せんさくじよ》において町奉行が直々に詮議《せんぎ》に加わり、順に牢から呼び出されてゆく。自白しない者は、夜が明けたと同時に、責め問いがはじまるのだ。  見張りがいるために、吉村は言葉にだして罵《ののし》ることはなかったが、怨《うら》みがましい眼で、向かい側から睨みつづけている。  けれども、いまの月弥には、この男の憎しみなどどうでもよかった。  今回の押し込みを牙神に報《しら》せたのは、月弥だった。  いぜん中郷に見せた、血迷ったような牙神の手紙は、満足に文字も書けない振りをしてきた月弥が、達者な筆跡を真似て作りあげたものだ。  その後、返事と称して、引き裂いた振り袖《そで》に糸で『丸屋』と縫って隠し、堀井を使って牙神の屋敷へと放り込ませた。  牙神には、中郷の許に入り込み、情報を報せ、押し込みに加われと指示されていたから、そう従ったのだ。  巧みに命令を実行したつもりが、月弥は、自分で、自分の首を絞めたのだ。  ——牙神に裏切られたのだ。  腹が立ち、悔しい気持ちと、悲しい気持ちに苛《さいな》まれて、涙がにじんでくる。  悔しいのは当たり前としても、悲しいのはなぜだろう……それを考えようとすると、胸が苦しかった。  雨に濡れ、心から冷えてしまった身体を抱くようにして、月弥は壁に凭《もた》れかかった。 「おい、そこのもの、そこのもの、起きろ」  間もなく、鍵《かぎ》役同心によって呼ばれ、月弥は眼を覚ました。  身体が熱っぽく、うとうとしていたらしいところを、呼び起こされたのだ。  夜明け前で、一段と牢舎のなかの闇が濃かった。  蝋燭《ろうそく》を翳《かざ》され、貌《かお》を覗《のぞ》きこまれる。 「月弥というのはその方だな?」  声をだすのが億劫《おつくう》で、月弥はかるく肯《うなず》いた。 「よし、出ろ。お調べだ。急げ」  急《せ》かされて牢からでた月弥は、いきなり腕を取られ、身体の前で縄を架けられると、さらに後ろから、鍵役同心に肩を突き飛ばされた。 「さっさと歩け」  よろめいた月弥は、数瞬の間、向かいの牢にいる吉村と視線が合った。 「貴様、牙神の密偵だったのか」  そう吉村の口唇《くちびる》が動いたのが読み取れた。 「あの世で待ってな、借りは返してやるよ」  吉村に答えた月弥を、鍵役同心が聞きとがめた。 「なんだ。いま、なにを言った」 「なにも申しません」  しれっと惚《とぼ》けて、月弥は先に立って牢舎の廊下を歩きはじめた。  けれどもそれでは気が済まないのは、鍵役同心の関沢弥吉郎《せきざわやきちろう》の方だった。 「偽りを申すな、いま、なにか口走ったであろうが」 「いいえ、こなたさまのお聴き違いでございましょう」  取り澄まし、月弥は馬鹿にしたようにあしらった。 「なにをッ、盗人の分際で」  からかわれたと怒った関沢が、前を歩く月弥の足を払い、転びかけたところへいきなりの足蹴《あしげ》りを加えた。  月弥が痛みに蹲《うずくま》ると、今度は背後から蹴ってくる。  関沢は、今宵、市中で何が起こったのか詳しいことを知らない。  ただ、引き立てられた者たちを見て、幕府の威信に関わる、尋常でない事態が起こったのだろうと察した。  そして、漠然とした不安と、苛立《いらだ》ち、好奇心を抱いたが、情報が入ってこないので、そのどれも解消できず、もやもやと蟠《わだかま》っていたのだ。  鬱憤《うつぷん》晴らしの気持ちが、月弥をなぶる力に加わった。  拷問の前のひと蹴りだという、気持ちもある。 「止めぬか、関沢ッ」  なおも撲《なぐ》ろうとした関沢は、廊下端の入り口から覗いていた吟味与力《ぎんみよりき》に怒鳴られ、ハッと我に返った。 「吟味の前になにをしておる」 「はっ、申し訳ございません。しかし、この者が、牢内の仲間と示し合わせを行いましたので」 「関沢ッ」  言い訳する関沢を、格上の与力が黙らせた。 「その者に手だしはならん。早く連れて参れ」  関沢は、なにが吟味与力の気に障ったのかと、恐れおののきながら、月弥の縄尻《なわじり》を掴《つか》んで起きあがらせ、引きずるように廊下を歩かせた。  廊下の先にある潜り戸の所で、吟味与力が待ち構えているというのも、異例だと思いながらも、月弥をそちらへと引き渡した。  吟味与力に連れられて、さらに長い廊下を歩かされた月弥を、出口で待っていたのは、牙神だった。  与力は、牙神尚照が直々に迎えに来た月弥を、一度だけ振り返って見たが、あとの興味は慎むことにしたのか、なかへもどっていった。  牙神は、縛られている月弥を見ると、自分から近づいてきて、縄を切った。 「なにをしに来た」  棘《とげ》を含んだ月弥の声に、牙神が苦笑する。 「ご苦労であったな。さぁ帰るぞ」  そう言われた月弥は、苛立ちのまま、貌を背けた。 「なんだ怒っておるのか? それはすまなんだな」 「うるさい」  かぶりを振って、月弥は牙神の謝罪を拒絶した。 「そう怒るな、迎えに来てやったであろう。明日からまた、どのように噂されるかな…、ふっふっふっ」  笑いながら身体を抱こうとする牙神を払いのけて、月弥が距離をおいた。 「…あんたを、ぜったいに許さないからなッ」 「だから、悪かったと言っておるではないか。それに、それほど怒るのは、おれを信じていたからであろう? まさか、見捨てられたと思うたのか?」 「いい気になるな」  何故だか、裏切られたと感じたときよりも怒りが増している気がして、月弥は苛立ち紛れに、先に立って出口から牢屋敷をでた。  夜明けには、まだ半刻《はんとき》ほどあった。 [#改ページ]  第八章 色 闇      壱  牙神の隠居所にもどり着いたときには、すでに夜は青白く明けていた。  沸かされていた風呂《ふろ》に入って身体をあたためた月弥は、中郷の許《もと》で暮らした記憶を剥《は》ぐように肌を磨いてから、久しぶりに自分の部屋へ入った。  部屋のなかに鞠《まり》を見つけて、拾いあげる。 「……信州信濃の光前寺…早太郎には報《しら》せるな…」  背後で唄《うた》った牙神に、柳眉《りゆうび》を逆立てた月弥が、思い切り鞠を投げつけた。 「おっ…と」  大きな手が鞠を受けとめ、両手で抱くように包んだ。  その鞠が、牙神から逃げられなかった自分の姿のように感じられて、月弥は貌《かお》を背けた。  身体をひねったとき、痛みが走った。鍵役同心に、加減なしに蹴られたのだ。 「くそっ、身体が痛え…」  悪ずれた乱暴な物言いをする月弥を笑いながら、牙神は鞠を袖《そで》にしまって手を空かせ、すばやく抱きしめた。 「おれが舐《な》めて、治してやるよ」 「は、はなせっ」  羽交い締めに抱きしめられた月弥は、もがいた。  もがいて、逃れでようと必死になった。 「は…離せっ、具合が悪いんだ。触るなっ」  確かに、抱いた身体がすこし熱っぽい。 「よしよし」  なだめるように言ったが、牙神は力をゆるめず、逆に月弥を抱きあげてしまうと、隣の部屋へと連れ込んだ。  外は夜が明けはじめたというのに、座敷のなかはまだ薄闇に覆われて、夜のままだった。  枕元に、角切り膳《ぜん》に載せられた寝酒用の漆器|銚子《ちようし》と盃《さかずき》があり、煙草盆が並んでいる。  いぜんと変わらない牙神の寝所だ。 「疲れてて眠い…」  のべられた夜具に横たえられた月弥が、今度はそう言ってみた。 「次は酒を呑《の》みたい、腹が減ったと、おれを焦《じ》らすつもりであろう」  取りあわずに、牙神は上から圧《の》し掛かって、顔を近づけた。逃げられないように夜具に張りつける恰好《かつこう》で、両手首を押さえている。 「おれが好きか?」  低い声で牙神が訊《き》いた。  月弥は瞬《まばた》きをして、そんな男を見た。 「好きと答えなければ、また牢《ろう》に放り込むおつもりですか?」  口調を改めた冷たい声が、逆に訊いてきた。  今度は牙神が苦笑する。 「そう言うな、あの場では、ああするよりなかったのだ。すぐに迎えに行ったであろう」 「嘘です——…」  自分を犬神の早太郎として処刑するつもりだったのだろう……、そう言いかけた月弥を、牙神が遮った。 「それは、違うぞ」 「違わない」  否定した月弥の声が、かすかに顫《ふる》えた。  月弥は、自分が泣きだすかもしれないという恐れで、目を伏せた。 「おれを信じろ。縄をかけねば、入ってきた捕り方がそなたを賊の一味と間違え、荒々しくあつかったやもしれぬからな。そなたの身を守るためであったのだ」  牙神の言葉など聞き入れるつもりはないと、月弥は貌を背けている。その整って美しい横顔に見とれながら、牙神は、隠していた自分の心の一部を吐露した。 「それにそなたは、おれを振り返りもしなかったな…、おれは内心では、そなたに助けてと、縋《すが》ってほしかったのだがな」  自分は絶対に、そんな言葉は口にしない——と言いたげに、月弥は口唇《くちびる》を噛《か》んだ。  目を細めて月弥を見ていた牙神が、耳許へ囁《ささや》いた。 「そなたこそ、おれを裏切りたかったのではないのか?」 「半分は……そう…思っていた」  偽らずに答えを返した月弥に対して、今度は、牙神も偽りのない言葉を返した。 「おれは、今度《こたび》のことで懲りたぞ」 「懲りた?」  なにを言っているのかと、月弥が聞き返してきたので、牙神は告白した。 「そなたを手放すのではなかったとな」  思いがけない牙神の言葉に月弥は困惑したが、怒りを感じ、また貌を背けてしまった。  牙神が迎えにきているのを見たときから、なぜか、月弥は怒りばかりを感じているのだ。  そして、この男の顔がまともに見られない。  横を向いてしまい、答えない月弥の頬に、牙神が自分の頬を押しつけた。  親犬が頬擦りするような仕種で、二人は触れあい、しばらく凝《じ》っとお互いのぬくもりを確かめあった。 「もう…どこへも行くな」  自分で中郷の許へと送り込んでおきながら、いかにも月弥がでて行ったかのような牙神の言い方だ。 「勝手なことを仰せられますな。お陰で、わたしは毎日、あの男にいいようにされておりましたのにっ」  またも、月弥が憤りを放つと、視線をあげた牙神が、じっと凝視《みつ》めてきた。 「おれに嫉妬《やきもち》を焼かせて愉《たの》しいか?」 「やきもち? なぜでございます」  言わせるのかと、牙神が苦笑した。  困ったような男の顔を、月弥はちらと横目に見た。 「そなたに、惚《ほ》れておるからだ」 「惚れた振りをしているだけ、わたしにはわかっております」  やわらかな声だったが、信じてなどいないという冷たさ、乾きが感じられる。  ただひたすらに、牙神の方が下手にでるしかなかった。 「素振りではないぞ。そなたが居らぬと、胸が痞《つか》えるのだ」  月弥は背けていた視線を牙神へともどし、意外に真面目な顔で言うものだと見ている。 「飯も喉《のど》を通らず、夜も眠れなかったのだぞ」  まじろぎもせずに見つめ返しながら、牙神が言葉を継いだ。 「おれは、そなたなしでは患ったも同然だ。苦しくて、怺《こら》えられぬ……」 「ならば…、もうしばらく辛抱なされませ」  嫣然《えんぜん》と、頬を笑みに崩して、だが、眸は牙神を凝視めたまま、月弥が言った。 「なに?」  牙神の片|眉《まゆ》だけが、つりあがった。 「わたしに、本当に惚れておいでならば、しばらく辛抱なされませ。もう、男は懲り懲り、男に肉体《からだ》をいいようにされるのは、まっぴらでございます」  月弥にとって、男たちに肉体をあたえるのは、情がからんでのことではなかった。  肉が昂《たか》ぶり、感じてしまうのは、心では制御できないどうしようもないことだったが、男娼《だんしよう》だったときも、牙神に囚《とら》われての後も、抱かれるのは月弥の務めだったのだ。  ゆえに、惚れたと口にする牙神に、自分がその気になるまで欲情を怺えてみせろ、我慢しろと、言いたいのだ。 「わかった、わかった」  月弥の拒絶には、肉体ばかりでなく、心も疵《きず》ついているのがうかがわれ、牙神は受け容《い》れて、退いた。 「だがな、こうしているくらいはよいだろう?」  けれども往生際悪く、牙神は月弥のかたわらに入り込んで、夜具をひきあげた。 「約束する。何もせぬから、安心しろ」  牙神らしくもなく、阿《おもね》るような言い方で、月弥の機嫌をとりながら身体を寄せてきた。 「三月ちかくも離れていたのだからな、今日は一日中、おれはそなたと一緒におるぞ、そう決めたのだ」  ひじ枕で月弥の横に横臥《おうが》した牙神から、胸に差し込むような言葉がもたらされた。  月弥の心に、顫えが起こった。  反して、口唇を突いて出た言葉は素っ気のないものだった。 「お役目を疎かにされますと、小杉さまがお怒りになられましょうに…」  いきなり小杉左京太の名前が出たことに驚いたのか、牙神の方は怪訝《けげん》そうな顔で月弥をのぞきこんだ。 「月弥は、小杉が気に入らぬか?」 「小杉さまが、わたしをお気に召さないのです」 「悪く思うな、小杉はあれで、そなたに気を遣っておる方なのだ」  腹心の部下を庇《かば》う牙神を、月弥は呪うような眼で睨《にら》みつけながら、いつぞやの恨みを口にした。 「池に落とされましてございます」  あの夜の、銀河の冴《さ》えた輝きと、覚悟した死の冷たさ、冥《くら》さ、それにも増して、身体に架けられた蜘蛛《くも》網によって呼び起こされた記憶——。  恐ろしくて、月弥は忘れられないのだ。 「う…ん、まあ、あれは、予定外であったな。溺《おぼ》れさせるところだったと後で悔やんでおったぞ」  月弥は知らない。  溺れた月弥を池から引きあげた小杉は、水を吐かせ、蘇生《そせい》のために何度も息を吹き込んでくれたことを——。 「小杉さまは愉しんでおられました」  こうもきっぱりと言われてしまうと、牙神の方は、どうしたものかと思案げになった。  確かに、月弥は、小杉に犯されたことがないだけで、打たれ、まさぐられ、炙《あぶ》られる……と、有りとあらゆるいたぶられ方を加えられているのだ。  呪いたくもなるだろう。  だがすべては、牙神の意を汲《く》んだ小杉が行ったことなのだ。  ——小杉が愉しんだかどうか…は別にしても、月弥に怨《うら》まれ、責められるべきは、牙神自身だ。 「済まぬな、月弥……」  答えずに背を向けてしまうことで、月弥はこれ以上の恨み言は口にださない代わりに、牙神の言い訳、あるいは小杉を庇う言葉など聞きたくないという意思表示をおこなった。  元々、恨み言など口にしたら、弱みを告白しているも同然と思っている月弥なのだ。  つい口にでてしまったのは、月弥の心の奥に秘められた、寂しい、哀しい、——独りきりにされてしまった子供の魂に、牙神の言葉が触れたからだ。  だが、よりそい、勝手に腕枕してくる男から背を向けたまま、月弥は眼を閉じた。  牙神の手が、月弥の手に触れた。  上から包むかたちで握り締められる。  毀《こわ》れものをあつかうように優しく抱かれ、じっとしていると、安心と、あたたかな眠りがやってきた。  まだ月弥は、心も身体も、抱いて、暖めてくれる誰かが必要な歳だったのだ。      弐  どれくらい眠ったのか、牙神が離れたことで感じた肌寒さが月弥の睡《ねむ》りを妨げ、目覚めへと導いた。  視線をめぐらせると、静かに閉まってゆく廊下側の障子が眼の端に引っかかった。  枕屏風《まくらびようぶ》で廊下は見えないが、雨戸が開けられていて、障子を通して入る陽光が部屋のなかまで射してくる。  縁側で、牙神が誰かと話し込んでいる声が聞こえた。  耳を澄ませると、「吉村」と、小杉の声が聞こえ、さらに、よく聴きとれなかったが、「自白」か「自害」のどちらかの言葉と、「篠井長門守」という言葉が、つづいた。 「吉村といい、横内といい、あの世でまた、中郷と徒党を組むつもりなのだな」  冗談めかした牙神の声が聞こえ、月弥は吉村もまた自害したのだと悟った。 「すぐに行く……」  次に牙神がそう答えて、立ちあがった気配がした。  月弥は寝返りを打って背を向けてしまうと、眠っている素振りで眼を閉じた。  ほとんど同時に、廊下側から、障子がうすく開き、牙神が月弥の様子を確かめた。  眠っていると見たのか、障子は閉まり、静かに遠ざかっていく跫音《あしおと》が、臥《ふ》した月弥の耳に届いた。  牙神は行ってしまったのだ。  独りにされた途端に、否応《いやおう》無しに、——現実に引きもどされた気持ちがした。  現実の月弥は、容色美麗なるを頼みに、そして、妖《あや》しく淫《みだ》らな性の秘戯を武器に生きる色若衆であり、牙神に捕らわれた、夜盗あがりの密偵だ。  しくじれば命を落とし、用済みとなれば、顧みられることなく、うち捨てられるのが密偵の運命だ。  牙神との間に、絆《きずな》と呼べるものは、存在していない。  悪しき事柄での繋《つな》がりながら、中郷たちの絆をみた月弥は、かつて、自分と仲間たちの絆を断ち切ったのが牙神であるのを、あらためて思った。  牙神によって月弥は、帰るべき場所を失い、家族同然の仲間を失ったのだ。  置き去りにされた月弥は、いま強く、それを感じた。 「惚れた」と言い、「今日は一緒にいる」と、甘い言葉を囁《ささや》かれて、その気にさせられるところだったのだ。  心が、凍える気がする。  夜具に起きあがった月弥は、枕元の酒膳《しゆぜん》を引き寄せると、漆器銚子を取りあげた。  取手《つる》を傾け、盃《さかずき》になみなみと酒を注いでから、口をつけて一気に身体のなかへと流し込み、強い酒が臓腑《ぞうふ》にしみてゆき、心の寒さを忘れさせてくれるのを待った。  けれども、凍えてしまった心に、酒が足りなさ過ぎた。  瞬く間に空になった漆器銚子を提げて、月弥は寝間をでた。  陽の高さを見て、巳《み》の刻ごろだと思えた。  この時刻であれば、おきねがいるだろうが、女の小言よりも、いまは酒が必要だった。  だが運良く、台所には誰も居らず、月弥は買い置きの酒甕《さかがめ》から銚子に酒を移してしまうと、寝所へ引き返した。  その途中、庭の、木戸の陰に、牙神を待っていると思われる小杉左京太の姿が見えた。  月弥は小杉に気づかれないように、寝所へもどった。  どこで入れ違いになったのか、障子を開けると、ちょうどそこに牙神が立っていた。 「アッ」  小杉の方に気を取られていた月弥は、ぬうっと立ち塞《ふさ》がった牙神を見るなり、驚きで声がでた。 「酒か——…」  察した牙神が、口許で笑った。  牙神は、まだ先ほどと同じく着流し姿のままで、出かけるために装束を改めていない。  抱かれて囁かれた睦言《むつごと》の呪縛《じゆばく》が解けてしまった月弥は、無視して夜具へもどると、一人で酒を呑《の》みはじめた。  平型の盃に口をつけると、月弥の口唇《くちびる》の端は、笑みあがったように美しい形となる。  呑みっぷりも、気持ちがよいくらいだ。  惚《ほ》れ惚《ぼ》れと見ながら、牙神も夜具の脇に腰を下ろし、胡座《あぐら》をかいた。 「とんだ蟒蛇《うわばみ》だな、中郷のところではどう過ごしておった?」  酒を我慢していたのかと、訊《き》いているのだ。 「うふっ…ふふふ…」  喉《のど》を顫《ふる》わせ、月弥が思いだし笑いに鈴のような声をたてた。 「どうした、酔ったのか?」  月弥らしくない朗《ほが》らかさに、牙神は面食らった様子だ。 「ふふっ……」  まだ笑いを納められずに、しなやかな手で口許《くちもと》を掩《おお》い隠した月弥は、眼眸《まなざし》の力を使って、誘うように牙神を凝視《みつ》めながら、淫らな言葉を口にした。 「中郷さまは、酔うと月弥は色づくと申されて、……それは、もう——……」 「んっ…」  牙神から唸《うな》り声が洩《も》れた。 「ふふっ、もう呑めないと断ろうものなら、口移しでむりやりに…うふ…ふふ……」 「それで月弥は、口を吸わせてやっただけでなく、見せたのか?」  つづいてそう訊かれると、月弥は口許を隠したまま、またも「ふっふっふっ」と、笑っていた。 「おまえは、あの色を…、おれ以外の男に見せたのだな」  肯定はしないが、赤い口唇《くちびる》を、うっすらとひらき、月弥は思わせぶりに笑っている。  濡《ぬ》れ濡《ぬ》れと赤い口唇が、見せたという秘所を思わせる色あいだ。  男は、奪う相手がいると思えば征服欲を掻《か》きたてられ、手に入れば独占欲を覚える。他の相手との密事は、最大の関心事でもあるのだ。 「うう…む、益々《ますます》もって許せん男だ」  片|眉《まゆ》を顰《ひそ》め、口許を、怒りとも、苦笑にともとれる形に歪《ゆが》めて牙神が言うのを凝視めながら、月弥は足を崩して、裾《すそ》を左右にさばいた。  夜衣の裾が乱れ割れて、絖白《ぬめじろ》い足が、きわどい位置まで剥《む》き出しになる。  誘惑するように、月弥はすこしずつ足をひらいて、奥の暗がりをあらわにしていった。 「よさぬか、いまは——……」  牙神は制止しようとしたが、その口調には、厳しさがなかった。  月弥は妖しく煌《きら》めく眸で牙神を刺激する。 「いまの色を、見ていただきとうございますのに……」 「男に玩具《おもちや》にされるのは懲り懲り」と、拒絶を放った月弥が、いまはむしろ積極的に迫ってくるのだ。  牙神は、月弥の心境の変化が意味するものを探ろうとしながらも、三月ぶりに手中にもどった、この甘美なる肉体への傾倒を止められない状態になってきた。  絹の褥《しとね》で、足をひらいて牙神を誘惑しながら、月弥は片手で酒の入った盃を取りあげた。  酔うと粘膜が充血して、鮮やかに色づくのだと口にしたばかりか、目の前で酒を呷《あお》ってみせているのだ。 「ふふ……月弥は——中郷さまの酒に漬かったような舌で舐《ねぶ》られるのが好きでございました。つんと沁《し》みるような舌が内まで入って…舐めて、…は…ぁ……悦《い》くまで…月弥が悦くまで、赦《ゆる》してはくださいませなんだ……殿さまも……ね…え…月弥を……」  落ち着かないそぶりになった牙神が、障子の向こうへ視線をむけ、困ったように眉を寄せた。  小杉を待たせているのが気になっている様子だ。  月弥は、牙神の絆、——狼四人衆との信義篤き繋《つな》がりを壊したかった。  束の間でも、牙神を信じた自分を罰するように、そして、裏木戸で待つ小杉を苛立《いらだ》たせるため、牙神に役目を疎かにさせるために、自分の肉体を抱かせて引きとめることにしたのだ。 「本気にするぞ、月弥」  牙神の声が、低くなり、寂《さび》のある感じに変わった。  欲情とともに上擦る男もいるが、逆に声が沈むのだ。  上擦る男ほど性急で、浅いが、かれのような男は、強くて、恐い——。 「えっ…ええ……」  月弥が認め終わらないうちに、衣擦《きぬず》れの音もさせずに胡座を崩した牙神が、足首に手を触れた。  そのまま手先をすうっとすべらせて、裾から奥へ腕を入れ、月弥がハッとしたときには、腰を両手に抱いていた。  腰骨の辺りに手をそえて、月弥を引きずりよせる。  ふたりの身体が、すれすれのところにまで切迫した。  だが不意に、月弥は気持ちが萎《な》えるのを感じた。  いまのように、傷ついた心を癒《いや》すため、その度に意趣返しを行っていたのでは、何時までも牙神に振りまわされるばかりでしかないのだ。 「もうおやめくださいませ。外で、小杉さまがお待ちでございました」  迫った牙神の身体を押しのけ、月弥はそう言った。  自分では、冷たい声で、突き放すように言ったつもりだが、声は掠《かす》れて弱々しく、小さかった。 「その気にさせておいて、おれを追い出すのが、目的であったか」  牙神は、月弥の手首を掴み取って押さえつけると、眼に睨《にら》みを利かせた。 「はやくお出でになりませんのか? 小杉さまのところへ…」  挑み返す眼眸《まなざし》で、月弥が牙神を凝視する。 「先ほど小杉が報告にきたのが聞こえたか?」  その眼に応《こた》えて、牙神が口にした。 「吉村も牢内で自害した。よって、中郷主膳は病死あつかい。横内と吉村は、昨夜、押し込みがあり、捕縛に向かった先で殉職とされるであろうな……」  威光と信望に関わる真実は隠され、操作された情報が巷に流布されるのだ。牙神の妻が殺され、子が行方知れずになったときと同様に——。 「昨日の今日で大変な様子だが、おれは出仕しないと伝えてある」  聞き違いだったのか、戸惑う月弥に、牙神は身体ごと圧《の》し掛かり、夜具へと押し倒した。  手首を掴《つか》まれた月弥は、磔刑《たつけい》の形にされ、さらに、両足の間に入り込んだ牙神に、夜衣を踏まれて、いっそう動けなくなった。  牙神が、吟味するような眼を向けてくる。  表情を読まれまいと、月弥は身体ごとひねって牙神から貌《かお》を背けたが、強い力がそれを許さなかった。 「おれは、今日はそなたと一緒《とも》におると言ったはずだ」  怒りを交えた口調で牙神が口にした瞬間、眦《まなじり》の切れあがった月弥の眸《ひとみ》に、かすかな揺らぎが起こった。  一瞬、牙神は月弥が泣きだすのかと思ったが、そうではなかった。  月弥が眸の裡《うち》に見せた感情はすぐさま治められ、消えていった。 「木戸のところに小杉さまが……」  情動を抑え、またも小杉にこだわる月弥を見下ろした牙神の眼眸には、優しい光が入っていた。  月弥の気持ち、——秘している心がわかったのだ。 「小杉が待っておるはずはない。…いや、待てよ。篠井さまの屋敷に佐々木と大川が詰めているはずだ。昼の弁当をおきねに頼んでいたのではないか?」  口うるさい女が居ないのをこれ幸いと、月弥は酒を注ぎ足してきたのだ。  数人分の弁当をこしらえるとすれば、本宅の方の台所を使うので、おきねの姿がなかったのも納得できる。 「小杉のことはもうよいであろう? それよりも、何もせぬとの約束は反故《ほご》にしてもらわねばならんな」  掴んだ月弥の手を、牙神はそろりと、自分の下腹部に触れさせた。 「そなたのせいだぞ」  熱を帯びた隆起を確かめさせて、にやりと笑う。 「いまさら、いやとは言わせぬからな」  触れた熱さ、硬さに、月弥の裡で埋《うず》み火《び》となっていたものが、いきなり炎を噴きあげた。  密着させた身体で、牙神は月弥の変化を感じ取った。 「抱いて……」  月弥は、牙神の首筋から後頭にかけて手を差し入れ、自分の胸元へと引き寄せるようにしがみつき、そう言った。  自分から口にした言葉の意味に、月弥の心は慄《ふる》えている。  牙神は月弥の腰紐《こしひも》をほどいて抜きとり、夜衣の前をひらいた。      参  月弥を夜具に組み敷いたまま、牙神が口唇を求めてきた。  ふたりは、放《はな》れていた時間、索《はな》れていた心、離《はな》れていた肉体を確かめあうかのように、激しく、熱心な口接に没頭する。  牙神から加えられる、息が苦しくなるほどの接吻《せつぷん》は、やがて口唇《くちびる》をそれて、顎《あご》や頬に移った。  白く長い頸《くび》と、青白いくぼみに見える鎖骨のあたりを、嗅《か》ぎまわるように愛撫《あいぶ》しながら、首筋から喉《のど》を舐《な》め、胸もとへと差しかかる。  つんと凝《こご》った桜の色を交互に舐め、小刻みに嚼《か》んで、吸う。 「あっ…んっ…ん…んっ……」  その度に、月弥から短い声があがったが、愛撫が下肢へ到達したときには、感じている快美を振り払うかのように、抗った。  それを牙神が力で封じる。 「あっ…」  よじろうとした腰を押さえられ、膝裏にかかった手でグイと下肢を持ちあげられ、兆しているすべてを牙神に見られてしまった。  先ほどまで、「男はもう懲り懲り」だから「抱かせない」と意地を張っていたのに、月弥の肉体は、牙神の口唇と舌の愛撫だけで昂《たか》ぶりきっている。  羞恥《しゆうち》に悶《もだ》える月弥を押さえつけ、牙神は潤んだ先端に口づけ、そのまま顔を下げ、吸い込むように銜《くわ》えた。  銜えられた前方から、狂おしい快感が沸き起こり、脳髄にまで駆けあがってきた。 「わ…わたし…にも——…」  一方的に弄《もてあそ》ばれるのは嫌だとばかりに、月弥も牙神の男を求めた。  牙神は応えて、月弥の身体から離れる。  すかさず二人の身体は反転し、今度は月弥が牙神の上にのし掛かると、お互いを口唇に迎え入れた。  男と男の官能の極み、ふたつ巴《どもえ》の双口淫の姿になったのだ。  念入りな口吸淫を受けながら、さらには後庭の花蕾をまさぐられる月弥が、苦しげにも聞こえる、くぐもった呻《うめ》きを洩《も》らしはじめる。 「ん…ふ……ん…ん…くふ……」  牙神に捉《とら》えられた二つの芯《しん》の部分から、月弥は痺《しび》れてゆき、とろけそうなのだ。  うねりをもって下肢を悶えさせる月弥を、牙神は逃がさなかった。  遂精を促すように、付け根から内側を舌でくるみこみ、しごきあげて、くびれに歯をあてがい、先端を吸いあげたのだ。  とろけるような甘美は、一気に、鮮烈な、脳を侵す快感に変わった。  月弥は泣きだしたい、叫びたいほどに追いあげられて、口腔《こうこう》の牙神を取り落とした。 「はあっ、うう……ああ……」  瞬く間に、月弥の息遣いが乱れ、切なげな、心を揺さぶる吐息となって、口唇から洩れだした。  牙神は、舌先の刺激をゆるめない。 「あっ——…っ」  極まった喘ぎが、月弥の口唇を衝《つ》いてでた。  最後の一滴までも啜《すす》りあげられる喜悦の渦のなかで、月弥は腿《もも》の内側を突っ張らせ、痙攣《けいれん》性の発作を放ちつづけて、息が止まりそうだった。  ようやく、牙神の口唇が離れ、ゆるやかに高波が引きかけたところで、脳にまで達した悦楽の余韻を払いのけるかのように、月弥は激しくかぶりを振った。 「ぬ——ぬいて…、指を…抜いて…」  今度は後ろだけで悦かされるとわかっていて、月弥は哀願を洩らしたが、牙神は無視した。  秘所に入り込ませた指を、地を這《は》う生き物のように、のたくらせた。 「あっ、あうっ……」  肉筒で指をうねりまわしながら、牙神は月弥の媚肛をひろげてゆき、繊細で敏感な肉襞《にくひだ》をめくりあげると、尖らせた舌を使って内側を舐めた。  牙神の舌先で、月弥の媚肉が淫《みだ》らな収縮を起こし、歓喜をむさぼりだした。 「ああ——っ…」  ふたたび月弥が反応した。  ひくんっと勃ちあがった前方から、蜜が滴ってくる。  もう怺《こら》えられなかった。  月弥の身体には小さな痙攣が走りはじめ、肉の愉悦がたかまると同時に、硬直し、官能的によじれた。 「ううっ…ぁ……」  快楽に痺れた脳は、正常な思考を停止したかのようだ。  やがて、肉の快美に眼眸《まなざし》を虚《うつ》ろにさせ、姿態をしどけなく、開いた花のように弛緩《しかん》させた月弥から、牙神はうごめかしていた指を引きだして、解放した。 「はぁはぁ…はぁ…」  つづけざまに、前と後で気をやらされた月弥は、総身を揉《も》みしぼるように悶えさせながら、すすり歔《な》きを洩らしている。 「おれとて、中郷には負けぬだろうが」  からかうような牙神の言い方に、月弥は潤んだ眸《ひとみ》を向け、睨んだ。 「ま——だ…喰《く》ろうてみなければわかりませぬ」  身に受けてみなければ判断できない。そう月弥は言い返すと、牙神の男へと指をからめた。  付け根を掴むと、掌中にどくどくと脈動が感じられ、目許が熱くなってきた。  月弥は、その男象《かたち》の調った上へ自分から乗りかかってゆき、秘花の蕾《つぼみ》にあてがい、ゆっくりと腰を下ろしていった。  急激な嵌入《かんにゆう》を怖れて、夜具についた両|膝《ひざ》に力をかけている。  月弥が調節しながら行おうとする交接を、下から牙神は辛抱強く待っていた。  いましがたまで指を呑《の》まされていたのだが、それとは桁違《けたちが》いの太さ、長さ、官能的な象《かたち》の男茎なのだ。  繊細な媚肉は、開花を躊躇《ためら》っている。  月弥は、細くて長い首の、白い喉をのけぞらせ、牙神を受け挿《い》れるために口唇を開いた。 「ううっ…」  詰めた息をすこしずつ吐きだしながら、月弥は男の昂りを身体の内側へ迎え入れてゆく。  ようやくすべてを肉体の内に埋めることができると、今度は自分から腰を使って、牙神の全長を抽《だ》し挿《い》れしはじめた。 「あ——う…ん……」  深く挿入させると、肉筒の奥には、月弥を狂おしくする核がある。  なるべくその部分に牙神が触れないように身体を歪《ゆが》めてみるのだが、退いてゆく肉茎の、張り出した先端が、引っかかる。  づぅんッと、衝撃的な快感が、頭の芯まで駆け抜けて、さらには、頭蓋《ずがい》を突き抜けて宙《そら》へと昇ってゆくようだ。  伴い、月弥の意識も、浮遊するように乱れる。  月弥の息が乱れはじめ、媚肉の襞奥が、妖しく蠕動《ぜんどう》しながら牙神をしぼりたててきた。 「あ…っ…う……くっ」  たまらずに、月弥は眼を閉じた。  柳眉《りゆうび》がこころもち寄り、苦しくはなく、むしろ逆であるのに、苦悶《くもん》の表情に変わった。  美しい貌《かお》が歪んでいっそう艶めかしく見える瞬間に、牙神は腰を使った。  下から突きあげられて、月弥はうめいた。 「だ、だめ…っ…あっ……あ、あうッ——…」  意識が飛んでしまいそうなほどの快感が、一突きされる度に身体の内を駆けめぐり、ふたたび月弥の脳を侵したのだ。 「いや——っ……」  敏感な部分を容赦なく突かれて、悲鳴のような喚きがあがる。 「アッ、ウウッ…」  叫《わめ》きながら、逆らおうとしながらも、ついには抗《あらが》えず、月弥の肉は快楽を呼吸しはじめた。  牙神が追いつめる。 「ああっ、あぁ…あぁ………」  ひときわ激しく叫んだ月弥は、断末魔のごとき痙攣《けいれん》を放ったかと思うと、身も世もなく全身をくねらせ、陶酔のなかに堕《お》ちた。  快感の高波に押しあげられるたび、せわしなくあがった呻きが、尾を引く咽《むせ》び歔《な》きの音色に変わってゆく…。  途切れることなく味わわされる快楽に、全身で溺れてしまい、月弥は牙神に乗りかかり、組み敷いたまま、妖《あや》しい、神懸りの巫女のように悶えていた。  月弥が身に受けた官能をたっぷりと味わいきるまで、牙神は待った。  歔き声が、あえかな息遣いにまで鎮まると、ふたたび牙神の反撃が繰り返されるのだ。 「ううう……っ…」  腰を下から強い力で掴《つか》まれたのにハッとなった次の瞬間には、月弥の身体は抱きかかえられて夜具に押し倒され、牙神と上下が入れ替わっていた。 「ああっ、い…や——っ…」  足首を持ちあげられて牙神の肩に掛けられ、いっそう結合が深まる形で、牙神主導の攻めがはじまった。 「うっ、う——っ…」  加減してくれるように、月弥は両腕を牙神の胸に突き、押しもどそうとする。  だが、くっと反ったつま先の、足裏のくびれに手をかけた牙神が腰を落とすと、月弥の深淵《しんえん》まで挿《はい》りこんだ。 「やっ——やめてっ……ああぁ……」  月弥が叫ぶと、牙神が動きを止め、腰を退きかけた。  はっと月弥の眸が瞠《みひら》かれ、牙神を凝視《みつ》めて睫毛《まつげ》が慄《ふる》えた。  牙神が離れてしまうと思ったのか、月弥はすがるように抱きついた。  首筋にしがみつきながら、顔を寄せてゆき、牙神の広く厚い胸に埋《うず》めて、苦いような男の香りをかいだ。  肉奥がひくつくのが自分でもわかる。止めようとしても、どうにもならなかった。  牙神が、耳たぶを噛《か》んできた。親犬がするように、耳から顎《あご》にかけてを、優しく舐められる。 「まだいやか?」  かぶりを振って、月弥は否定した。  深々と貫かれ、狭い肉筒の内をぎっしりと、硬く、熱く、巨きな肉楔《くさび》で塞《ふさ》がれてしまっているのだ。  苦しいのだが、——嫌ではなかった。  ふたたび、牙神が動きを開始した。  牙神の手が両|膝《ひざ》の裏にかかって、下肢を持ちあげられた月弥は、密接に繋がる形で、抽送を受け入れた。  だがまた、鋭く反応してのけぞった。 「……動かないでッ」  張り出した部分が、月弥の筒奥に隠されている秘密に当たっていて、その核だけを刺激してくるのだ。  わかっている牙神は、今度は聞き容《い》れない。 「なにを言う、悦《い》いのだろう?」  もっと歓《よろこ》ばせてやるとばかりに、牙神の動きが碾《ひ》くように変わると、たちまち月弥は痙攣しかかって、うわずった声をあげた。 「いや……気が、変になる」  腰をガクガクとあえがせ、月弥はかぶりを振って拒絶する。 「なってしまえよ、月弥……心から狂ってしまえ」  牙神の責めがいっそう巧みになった。 「んっ! あっ、あっ! ああっ…んっ!」  声にせっぱ詰まった響きをまじえて、月弥は歓びにすすり歔き、のけぞった。  官能を引きだされる月弥は、抽送にあわせて腰を揺すりあげるので精一杯だった。  自分から快楽をつくりだそうと懸命になる必要などなく、与えられる愉悦で、またも半狂乱に陥ってしまったのだ。  美しく歪んだ貌を見下ろしながら、牙神は深々と穿ち、抱えた腰を揺さぶった。 「う…あぁ…だ…め……だめ…もうっ、あうッ……」  白目を剥《む》くようにカッと双眸《そうぼう》を瞠いた月弥の口唇《くちびる》から、悲鳴ともとれる快楽の絶頂を知らせる声があがった。 「あッ、あうッ……」  快美の発作と、嗚咽《おえつ》が重なり、月弥の様子がいっそう悩ましいものになる。  前を濡《ぬ》らしてしまったが、まだ背後から送り込まれてくる歓喜は終わりがないようで、妖しい悦《よろこ》びが、肉体に、心に、しみとおってくる。  媚肉《びにく》の襞奥《ひだおく》が、妖しく蠕動《ぜんどう》しながら牙神をしぼりたてた。 「月弥——…」  牙神の声に陶酔があった。  下肢を嘗《な》めていた快感の炎が、月弥の身体を這《は》いのぼってくる。 「ああ…堕ちる」と、月弥はうめいた。  快楽が脳に達し、さらには魂が上へと昇って行き、頭からすり抜けてしまいそうだった。 「は……放さないで…、堕ち…てしまうっ」  ほとんど無意識だった。  どこから、どこへ堕ちるのかは、月弥自身もわかっていない。けれども、墜落する恐怖を感じるほどに高みまで、昇りつめようとしているのだ。  抱き締めてやりながら、牙神は、月弥の心の芯《しん》にあった冷たい鋼が、熱せられて熔《と》け、とろけた蜜《みつ》のようになって、したたり落ちてくるのを感じた。 「月弥、おれと恋の闇に堕ちてみるのも、悪くはあるまい?」  囁《ささや》いた牙神の声に、月弥はしがみつく力を強くして、こくんと頷《うなず》き、応《こた》えた。 [#改ページ]   狗 [#改ページ]      壱  長月《あき》に入ってからは夕暮れもはやい。  黄昏《くれ》てゆく町のそこかしこから、仕事から帰った男たちの立てるざわめき、子供たちの歓声、女親が叱る声などが聞こえてくる。  屋根船の船縁《ふなべり》に凭《よ》りかかった元火付盗賊|改方《あらためかた》長官|牙神左衛門之丞尚照《きばがみさえもんのじようなおてる》は、ゆったりとした川の流れに身を任せながら、人々の喧噪と、温かく漏れる家庭の灯を、酒盃《しゆはい》を片手に眺めていた。  船縁では、夜風をまともに浴びるが、それすらも構わない様子には、喪《うしな》った家庭への、牙神自身の渇仰が混じっているかのようでもあるのだ。  船の屋内に居るのは、小杉|左京太《さきようた》、佐々木|主馬《しゆめ》、大川|金之助《きんのすけ》、松井|小十郎《こじゆうろう》、かつて狼四人衆とも異名を馳《は》せた与力たちであり、かれらも手酌で飲んでいた。  船頭は、牙神の密偵を務めた夜盗あがりの改心者で、名を助猿《すけざる》という四十を過ぎた男だ。  密偵となり働くあいまに、助猿は宴を張れる屋根船を設《しつら》え、日銭を稼ぐようになった。  牙神が二年前に火盗改方長官を罷《や》めての後は、助猿も船頭が本業となり、いまでは片手にあまる固定の客も付いているくらいだ。  客の数には、むろん牙神と四人衆も含まれ、助猿は、夕刻には晩酌の用意を調え、かれらを乗せて気のむく方向《まま》に船をだすのが日課だ。  今宵《こよい》むかうのは、材木問屋の菱元《ひしもと》屋が資材を運ぶのに利用する水路の先にある閻魔《えんま》堂だった。  菱元屋の地所に建立された閻魔堂は、立てかけた木材の隙間、土手や橋の下など、客を連れ込む暗がりや物陰には事欠かないことから、夜鷹《よたか》や陰間《かげま》たちが集まりはじめて、いつしか夜の穴場となっている。  水路に入って間もなく、被《かぶ》った白手拭《しろてぬぐ》いの端をくわえて顔半分を隠すようにし、手には寝茣蓙《ねござ》をかかえた夜鷹の姿が見えた。  十六文で蕎麦《そば》が食べられるのに、二十四文で身を鬻《ひさ》ぐ最下層の私娼がむかう先は、閻魔堂の裏手だ。  今日の午後のことだった。  助猿は、商家の入り婿か、若旦那《わかだんな》ふうの男を、昼ひなかに閻魔堂まで運んだ。  待ちかまえていたのは、若旦那のなじみと覚しき女。  二人を屋根船に乗せて一刻あまり、閉め切った障子の奥で睦《むつ》み合う男と女の気配に悩まされた。  相応の船賃のほかに、心付けも受けとり、どんな痴態も見て見ない振りの助猿だが、秘事の合間の囁《ささや》きなどは嫌でも耳に入る。  後ですっかり忘れるつもりで、つい聴いてしまえば、どうやら女は若旦那の子を身籠《みご》もったと訴えている。昼間から夜鷹女を抱く若旦那が、途端に狼狽《うろた》えだしたのを、助猿は笑っていられなくなった。  女は若旦那にむかって、「堕胎薬を買う」ので金を工面してくれと言いだしたからだ。  赤子など生まれては困る若旦那の方は、闇で堕胎薬が買えるのならばそうしてくれとばかりに、懐から五両の金を取りだした。  障子で立て切られていても、元夜盗の耳には金の擦れあう音が数えられる。 「五両といえば大金でさぁ。あっしは、男が金を吹っ掛けられちまったんじゃねぇかと思いやしてね。いい御店の若旦那が、女遊びしたけりゃあ相応な場所と相手を選ぶべきだったんですよ」  助猿の言う相応の場所とは、吉原とまでいかなくとも、せめて遊女屋の、孕《はら》まぬよう気を配っている女たちのことだ。  結局、日ごろの遊ぶ金を安価で抑えたつもりの若旦那は、あとから高くついてしまったのだ。 「うむ、だがな、店に金が有っても、ふだんは自由に使えぬ場合もあるぞ。親が健在で吝《しわ》いか、入り婿だったりとも考えられるな」  助猿の話を聞いた堅物の佐々木が言うのに、横から、遊びに関しては一家言持つ松井が、口をはさんだ。 「若旦那とやらは、懐に五両も持ち歩いていながら、その夜鷹女でないとならない理由があるのでしょうよ。男と女の秘事《ひそかごと》には、余人には判らない格別の相性とやらが一番ものをいいますからな」  松井にそう返され、佐々木は黙ってしまったが、男女の機微を想像したのか、顎骨《あごぼね》の張った平たい顔を心なしか赤らめた。 「それは松井、おぬしの場合だけではないのか?」  顔だちは、どこにでもいそうな凡庸さだが、変装《ばけ》させると徒《ただ》ならぬ才を発揮する大川が揶揄《やゆ》をはさむ。  すると心外だとばかりに、松井は愛嬌《あいきよう》のある眼で大川を睨《にら》みつけ、険悪になるかと思えば、たちまちに笑いが起こった。  同僚のじゃれあいにも加わらず端然としているのは、能面じみた美顔を持ちながらも、四人衆のなかでも特に残忍さこの上もないと怕《おそ》れられた、小杉左京太だけである。  小杉が座興の席に加わらないのは何時ものことで、いまさら気にもとめずに三人は、話に興じている。  昼間の客の話を持ちだした助猿が、いままた閻魔堂の裏手へと船を向かわせるのには、訳があった。  助猿が改心する契機のひとつに、惚《ほ》れた女が、闇で売買される粗悪な堕胎薬で自らの命を落としたという不幸があり、つらい想い出が甦《よみがえ》ってしまったのだ。  昼間と様変わりしていく町の裏側を、ゆったりと遡行《そこう》する船のなかでは、『商家』『若旦那』から連想されたのか、押し込み強盗の上前を撥《は》ねる、さらに凶悪な強盗の噂へと移っていた。  押し込み強盗のなかでも、最も忌むべきは、押し入った先で金品を奪うばかりでなく、婦女子に乱暴を働き、家人を殺害し、あげくに火を放って証拠隠滅を図る者たちである。  一年ほど前からになる。  押し入って家人を皆殺しにし、金箱を運びだす最中の強盗団が、別の強盗団に襲われ、殺害されて、窃《と》った金をそっくり奪われる事件が起こっているのだ。  死骸《しがい》をあらためてみると、ほぼ一刀の元に絶命させられたと判る鮮やかさだ。  獲物を銜《くわ》えた獣が、さらに強い獣に横取りされた恰好《かつこう》である。どちらも行状《おこない》は非道だが、因果応報を喜ぶ江戸っ子の間では、密《ひそ》かな喝采《かつさい》を浴びているとも言われる。  話にも加わらず、興味もなさそうに、牙神は船縁に凭《もた》れて酒を呷《あお》っていた。  牙神尚照は、長身で、がっしりとした見目よい体躯《たいく》、苦み走って、役者にでもしたいほどの男前。いまが働き盛りの三十五という歳である。  しかし、火付盗賊改方長官として、狼四人衆と呼ばれる凄腕《すごうで》の部下を従え、目覚ましい功績をあげていたのは、もはや過去のことだった。  二年前、牙神は突然に長官の任を降り、いらい腑抜《ふぬ》けたようになってしまったのだ。  牙神の無気力は、妻と子を亡くする不幸にみまわれたのが原因と思われた。  心の拠《よ》りどころを喪い、日々凶悪な犯罪と対峙《たいじ》し、人間の裏側を見る激務に耐え抜く気力も喪ってしまったようだった。  いまの牙神は、昼夜回りという役職に就いているが、夜ごと屋根船で酒に溺《おぼ》れる日々であり、狩りをする狼のごとき働きをみせた男の面影はない。  それまでの功績は大きかったが、こうした軟弱な部分は、太平の時代の武士といえども、最も恥ずべきことだと、陰口を叩《たた》かれるほどだった。  だが牙神自身も、かれに従う四人衆もまた、他人の目など気にもとめず、ゆったりと構えて、日々を送っていた。  閻魔《えんま》堂のあたりは計画的に引かれた水路であるから、両川岸とも石積みで地固めされている。宵から朝方にかけては、漁に出ていた小舟がもどって川幅が狭まり、助猿の船はなかなか先へは進めなくなった。  しきりに恐縮する助猿に対し、牙神の方は鷹揚《おうよう》な構えで、むしろ、多少離れていた方が閻魔堂に集まる怪しげな男や女を見て、それを肴《さかな》に呑《の》めるとばかりに笑った。  かれらにとっては、酒の肴になりそうな目新しい風景、人々の様子などを眺められるのがなによりなのだ。  案の定、閻魔堂の境内から菱元屋の材木置き場全容が、距離を置いているがゆえに、目にはいった。  夕闇が降りてきた境内には、灯籠《とうろう》に入れられたほのかな灯によって、客を引こうと身を隠す娼婦たちの蠢《うごめ》きが感じられる。  川べりの小径を、急ぎ足で閻魔堂へお参りにくる者が、ここへくれば安く遊べると承知の客だ。  客の男たちは、かたちばかりに閻魔さまを拝んでから、境内をうろつく。その内に、やんわりと夜鷹《よたか》たちが歩み寄ってくる仕組みだ。  ないにも等しい灯籠の明かりでは、美女や老婆や、化け物の区別もつかないが、売女は、銭が入ればよし、男は、今夜の欲望が満たされれば、それでよいのだ。  男色を売る陰間の姿もあった。  陰間といっても、夜鷹を買いにきた男衆かと思われるほどに薹《とう》の立った者ばかりだが、それぞれに縄張りがあり、閻魔堂は不思議な共存共栄の場となっている。  見ていた松井が、感心したように言った。 「ここへくれば食いはぐれがなさそうですね。擦れ違いざま、みるみる話がついてゆく」 「閻魔さまも面白くはないだろうな…」  佐々木の声音には非難がましいものが混じったが、大川の方は、いらない心配を口にした。 「これだけ居ると、しけ込む先を探すのも大変でしょうな」  すると、それまで無関心の様子だった牙神が、空になった盃《さかずき》で、あたり構わず停泊された小舟を差し示した。  不自然に揺らいでいる舟がある。それも、一|艘《そう》、二艘ばかりではなかった。 「邪魔をしては悪いからな、灯を消せ」  配慮というよりは、自分たちも身を隠すために、船内の灯が吹き消された。  灯を消したとしても、かれらにはなんの障りもない。もともとの素質と、長年の夜の勤めで、夜目が利くのだ。  船を暗くしたことで、灯籠のおかれた閻魔堂のまわりが、いっそうよく見えるようになった。  大川たちは怪しい賑《にぎ》わいを肴に呑みはじめたが、助猿は昼間の女を捜して、落ち着かない様子だ。  昼間に逢《あ》い引きし、五両もの大金を手に入れた夜、女が肌を売りに出てくるとは思われないが、つい、視線で夜鷹たちを追ってしまうのだ。 「助猿よ。そう気になるのであれば、行って、捜して来てはどうだ」  落ち着かない助猿へ、のんびりと酒を呑んでいた牙神は水を向けてやるが、当人は頭を振った。 「いえ、昼間の女が居るはずねぇのは判ってるんですが、ねぇ…」  しゃがれた声がそう応《こた》えるものの、助猿の目は牙神を見てはいない。川向こうへとむいたままなのだ。  関わりあいのない女であっても、堕胎薬を服用しようとしていることで、亡くした自分の女の姿と重なってしまい、助猿には心配なのだ。 「別の夜鷹を掴《つか》まえて、堕胎薬の話を訊《き》いてはどうだ?」 「禁じられてる薬の売買なんて、奴ら、すっとぼけるに決まってますよ…」 「では、その薬は、危ねえ代物かもしれぬと、女の身を案じ、肩を持つ立場で訊き出してみろ、それか、金を与えてやれ」  くだけた調子で言った牙神が、懐中から金をだしてやろうとする。助猿は、滅相もないと引き下がった。 「よいさ、行って来い。それ、あそこの、客のついてねぇ夜鷹なんぞ、落としやすそうだぞ。それとも、川端に立っている振り袖《そで》の……」  牙神が差した方向に立っていたのは、あきらかに、夜鷹ではなかった。  振り袖をまとってはいるが、結いあげていない黒髪を頭の後ろで一纏《ひとまと》めに括《くく》った姿、すらっとした身体つきから、女でもない様子だ。  だが、闇のなかに咲く白い花のような美しさなのだ。 「なんだ、陰間か…?」  さらによく確かめようと牙神が眼を凝らすと、気がついたのか、その者は、振り返った。  場末に似合わない、細面の、目鼻立ちも華やかな美貌《びぼう》がこちらへ向いたばかりでなく、闇を射貫《いぬ》くような冴《さ》え冴《ざ》えとした青みのある眼眸《まなざし》が、牙神を視た。  目と目とが合った瞬間、かつて牙神は、闇のなかで同じ眼を見たことを思いだした。  切れ長の美しい眸《ひとみ》。  白目の部分が、青いほどに白く澄んだ眼には、はっきりと見覚えがあった。  だが確かめる間もなく、直ぐに男娼《だんしよう》は、牙神の視線を躱《かわ》すかのように背を向けてしまった。 「おい、誰か、あの陰間を呼んで来てくれ」  眼が離せないまま牙神が命ずると、すかさず小杉左京太が立ちあがり、手前に繋《つな》がれた小舟へと飛び移った。 「助猿、おまえも行ってきたらどうだ?」  まるで野猿《ましら》の身軽さで、小杉は次々と舟を伝い、川岸へとあがってしまった。  御株を奪われたような助猿は、苦笑しながら、頭《かぶり》を振った。 「あっしが気を揉《も》んでも、どうなるものでもないんで、もういいんでさぁ…。それよか見て下せえ、さすがは小杉さまだ。逃がしゃしねえ……」  川岸の方では、いきなり現われた黒紋付きの小杉に、手入れかと気色《けしき》ばむ者たちが右往左往しはじめた。  目的の男娼も闇に紛れようとしたのだが、がぜん、小杉の方が素早かった。  交渉している様子がうかがえる。  しかし、一本の酒徳利が空かないうちに、小杉はもどって来た。 「どうした小杉、振られたか?」  仲間内の揶揄《やゆ》を無視し、小杉は無表情のまま牙神の前に片|膝《ひざ》を折った。 「残念ながら、二本差しには身を売らないと、頑《かたく》なに断られました…」  牙神の意をくむ小杉ならば、脅し、すかし、あるいは懇願まで試みて、出来うる限りの交渉をしたはずである。それでも、場末の男娼一人、買って来られなかったのが、周りの者には意外だった。 「役人と思われたのが、よくなかったのではないか?」  松井がそう口にする。  小杉はわずかに視線だけ動かし、童顔だが、自分よりも二つは年上の同僚を目の端に捉《とら》え、答えた。 「警戒した様子はありましたが、断る理由はそればかりでなく、なんでも昔、色恋の悶着《もんちやく》があり、武士《さむらい》に腕を斬られたとのことです…」  傷口を見せられた小杉は、自分の右腕の、手首から肘《ひじ》に掛けての筋の部分を、すうっと撫でさすり、ここに酷《ひど》い傷があったと示した。  牙神の興味は、さらに増したが、いまは引き下がった。 「では仕方あるまい。縁があればまた逢《あ》うであろうからな」  川岸からは男娼の姿が消えていた。  客が付いたのか、けちが付いたからか、暗がりへと去って行ったのだ。 「なぜまた陰間なぞに?」  あっさりと牙神は引いたが、われらの御頭に男色趣味もあったのかと、松井たちは興味を持っておさまらない様子だ。  すると牙神は、苦みばしった男らしい貌《かお》を脂下《やにさ》げたように、にやりとさせた。 「どうもおれを知ってる様子だったからさ」  また牙神は口調を砕けさせて、冗談めかした答えを返した。 「御頭も隅に置けないお方だ」  盃で口許《くちもと》を隠し、大川がにたりと返したのとは逆に、松井は口舌をふるいだした。 「あれは、どう見ても役者くずれでしょうが、あれだけの縹緻《きりよう》が、こんな場所で商売するとはなにか疚《やま》しいところがあるだろうし、あんがい厚化粧の年増《としま》かもしれませぬぞ」  闇のなかで見る美しい貌には、どれだけの手が加えられているのか判らないと松井は言いたいのだが、そこへ小杉左京太が口添えた。 「年のころは十七か八かと思われますが、もうすこし、若いかもしれません」 「厚化粧では、さすがの小杉も年を計りかねるか?」  脇から大川が口をはさんだが、小杉は振り返らず、牙神に向かって答えた。 「貌の造りは、間近で見るといっそう凄《すさ》まじいものがありました」 「なんだそれは? 褒めてるのか、腐してるのか判らんではないか」  松井と同じく、大川も不満げに言い立てる。 「化け物か?」  牙神が、一言で訊いた。 「いえ、その容姿端麗なることこの上もなく。見ているだけで堪《たま》らないような気持ちになります」 「小杉がそこまで言うか」  面白がった牙神へ、表情も変えず、小杉が報告する。 「化粧どころか、紅もさしておりませんでした。肌からは伽羅《きやら》が香り、草履を履いた素足の爪は、整えられ、垢《あか》じみたところはみじんもなく」 「ほう…」と、感嘆とも驚愕《きようがく》ともつかない息が誰からともなく洩《も》れ、松井も感じ入った様子を隠さなかった。 「元は名のある茶屋の色子だったものが、その、斬られたのなんのの事情で、ここまで流れて来たのではないか? そんな珠ならいっぺんでいいから『角突き合わせて』もみたくなるな…」  女と女の『貝合わせ』の対語で、男同士の交合を『角突き合わせて』と、言う。 「なんだ松井、おぬしというやつは無節操なッ」  呆《あき》れ、怒った口調の大川に比べて、なにやら想像をたくましくさせた佐々木の顔は、もはや茹《ゆ》であがった蟹《かに》のようだった。  小杉は相変わらず無表情で、牙神は、笑っているばかりだった。  だが、いざの働きには、かれらは鬼が憑《つ》いたように豹変《ひようへん》する。  それが、牙神《おおかみ》四人衆なのだ——。      弐  牙神尚照の屋敷は、四谷の辻《つじ》一番町にある。  かつて自宅を役宅とした名残で、いまでも敷地内には、詰所、仮牢屋《かりろうや》、拷問蔵、白洲《しらす》のほかに、道場や与力同心の待合所、かれらの衣食住を賄う宿泊施設を備えていた。  自宅の一角を改装し役宅とするのは、牙神の後任となった中郷|主膳《しゆぜん》の屋敷でも同様だったが、いずれにしろ、支給される扶持《ふち》だけでは賄えず、持ち出しも多くなる。  牙神自身は五百石取りの旗本でもあるが、身分に応じて定められた使用人の数も揃わず、門番、供揃い、下働きの女など、ぎりぎりの人数だけ雇い入れ、いささか逼迫《ひつぱく》した状況に陥っているように見える。  最盛期には、人通りも絶えず、手入れも怠らなかった庭木も荒《すさ》み、当時かかえていた六十人あまりの与力同心がことごとく去った屋敷は、広ければ広いほど、不気味な静けさと、物寂しさが漂うものとなっていた。  組屋敷には、いまは小杉だけが住んでおり、妻子を持つ者佐々木、大川、独り者だが松井は、それぞれ自宅から通ってくる。  牙神も、増築した役宅用の離れで、気ままに暮らすという日々だ。  日ごろ本宅の方は、主人が寄り付かないために眠ったように静かだが、今日ばかりは違っていた。  年の離れた姉の奈津《なつ》が、久しぶりに嫁ぎ先から里帰りしてきたのだ。  望まれて、牙神家よりも家禄《かろく》も高い、内福な旗本へ嫁いだ奈津は、いまでは婚家のすべての者の上に君臨する奥方さまである。  その奈津の里帰りともなれば、供の者が列をなして従ってくる。よって、迎える牙神家の方では大騒動となるのだ。  ところが、今日ばかりは、いささか内密の要件とみえて、奈津は供の者を二人連れただけだった。 「尚照どのは、いまだにむさい役宅で寝起きしていると聴きましたよ。まずはその暮らしを改めねばなりませんね」  居間で向かい合うや否《いな》や、奈津に窘《たしな》められ、牙神は苦笑するしかなかった。 「むさい…とは、心外ですな、姉上」  大層な美貌《びぼう》の持ち主で、娘時代には大勢の崇拝者に囲まれていた奈津は、中年のころから太りだしたものの、五十を過ぎてもかなりの美しさである。  むしろ、健やかな三男三女の母となってからは、いっそう女としての自信に満ちて、なにやら『神々しさ』までもが加わったようで、さすがの牙神も、昔からこの姉には頭があがらないのだ。  奈津にすれば、ただ一人の弟が、まだ三十五の年で男鰥《やもお》をかこち、罪人の恨みつらみのしみ付いた役宅つづきの家屋で暮らすのが我慢ならない様子だ。  それを止めさせるには、弟を再婚させるのが一番と思ってか、今日訪ねて来たのは、そちらの話があってのことだった。 「縹緻もよく、なによりも性質がおとなしい。十八まで縁づかずに親元にいたのは、病身の母親の看病に手を尽くしていたからなのですよ。人柄にも間違いはありません」  奈津が訪れるというだけで、急ぎ買いにやらせた宇治の茶を淹《い》れ、奥向きの女中が入ってきた。  昔から奈津は、茶はどこそこの銘柄と決め、菓子は京から取り寄せた下り物しか好まず、毎日使う箸《はし》や、歯楊子にすら好みがうるさかった。  内福な旗本に嫁ぎ、思うがままの贅沢《ぜいたく》を約束されたときには、収まるべきところに収まったのだと、亡くなった両親が喜んで胸をなで下ろしたのを、牙神は憶《おぼ》えている。  女中が出て行くのを待って、奈津は弟を睨《にら》んだ。 「縁談を進めてよいのですね?」  姉を遮って、牙神は頭《かぶり》を振った。 「せっかくですが姉上、もう、妻は娶《めと》りませんよ」 「それでは、牙神の家が絶えてしまうではありませんかッ」  気色ばんで、奈津が声をうわずらせるのを聞き流し、牙神はなかば冗談のように言った。 「姉上のところから一人養子に下さればよいのです。できれば次男の惣次郎《そうじろう》を下さい。あれは聡《さと》く、なかなか肝が据わった男のようですから」 「なにを申すかと思えば…、養子などと簡単に適《かな》うはずがないではありませぬか、それに惣次郎などまだ世間知らずの半人前ですよ……」  いきなり養子の件など持ちだされた奈津は、強く拒絶はしなかったが、年の離れた弟を、慈愛の眼眸《まなざし》で見つめた。 「仙太郎が、どこぞで生きているやもしれぬと思うてはおらぬのですか?」  次にそう言った奈津に、応《こた》えないものの、牙神は気持ちを逸《そ》らすかのように、冷めた茶をすすった。  三年前のことである。  牙神の妻雪江と息子の仙太郎が、当時追っていた盗賊団によって攫《さら》われるという事件が起こった。  妻と子を人質にした盗賊どもは、捕らえた仲間の解き放ちと、一味の逃亡を黙認しろと脅迫をしてきたが、牙神はことごとく退けたのだ。  結果として、むごたらしい陵辱《りようじよく》を受けた妻の雪江は、屍《しかばね》となって屋敷に投げ込まれた。  雪江とともに囚われた一人息子の仙太郎は、生きていれば十歳になるが、行方知れずのままだ。  この事件は公にはされずに、牙神の妻子は病死扱いとされて葬儀も執り行われた。  そして牙神は、火盗改方長官を罷《や》めたのだ。  世の人々は、牙神の妻子に降り懸かった残酷な運命など知る由もなく、狼の牙が抜けたと、失望をあらわにした。  世間の評判を耳にして、奈津も心苦しく思うのだが、ただ一人の身内である自分までもが弟を責めてはならないと、怺《こら》えてきた。  だが、ふたたび弟に生きる気力と張り合いをもたせるためには、妻帯させるのが一番と、縁談を持ってきたのだ。  それを牙神は、頭から相手にしない。  さらに奈津が口説き伏せようとするのに、牙神は断りの念を押した。 「わたしは二度と妻は娶りませんよ。姉上が惣次郎を下さらず、牙神の家が絶えてしまうというのなら、その内に、仙太郎に良く似た子をどこぞから捜し出し、行方知れずの我が子が見つかったと騒いでみせましょう。おっと、それにはあの事件もすべて公にせねばなりませんな」  そこまで言う牙神に、奈津は言葉に詰まった。  本気とは思われないが、この弟ならば、もしかしたらやりかねないという危惧《きぐ》もあってのことだ。  追い詰めて、無体な結論を出させてしまわぬよう、奈津は話を打ち切るしかなかった。 「されど急がぬゆえ、いますこし考えておくれ。気立てもよく、尚照どののことは、なにもかも承知なのですから……」 「見込みのないものを待たせても、先方に悪いではありませんか、断ってくださいよ、姉上…」  溜《た》め息を吐き、帰って行く姉を見送った牙神は、すぐにその足で本宅から役宅の方へともどり、手ずから羽織を替えた。 「殿さま、どちらへ?」  金茶の羽織に着替えた牙神は、出がけに、下働きのお民に見咎《みとが》められ、しまったとばかりに苦笑した。 「いや、なに、ちょいとな…」  お民の目尻《めじり》が、心なしか吊《つ》りあがった。  部下である四人は、まだ外回りに出て職務に励んでいる時刻だというのに、牙神は茶屋へでも行くような羽織姿なのだ。  巷で芳しくない牙神の噂を、若いお民は心に痛く感じてきた。だからこそ、許せない気持ちになったが、主人に諫言《かんげん》することなど下働きの身分ではできない。 「そう堅いことを申すな、な」  お民の眼眸から心情を察して、牙神は逃げるように屋敷を出た。  出たのはいいが、行く当てがあるではなく、結局は助猿の屋根船に乗ることになった。  助猿の船は閻魔《えんま》堂へ向かっている。  あれから十日ほど経っていたが、この間に助猿は、暇をみつけては閻魔堂へ通っていた。  時には夜鷹《よたか》を買ってまで、『堕胎薬』について調べ、牙神と二人きりになる機会を待っていたかのように話しはじめた。 「やっぱり牙神さまは、お目の付けどころが違いやすねえ…」  船に乗せた夜鷹には二度と会えなかったが、からまる運命の糸と糸との端が、実は結ばっていたかのように、面白いことが判ったのだ。 「夜鷹相手に堕胎薬を売ってるのが、牙神さまが眼を止めなすったあの陰間だったんでございますよ」  助猿の声音がお役目のときのように改まっている。 「そいつは、奇遇だな…」  横臥《おうが》して腕枕になった牙神は、それほど驚いてはいない様子で、語調の方も砕けた調子で答えた。  牙神の口元が嗤《わら》っているように見えるのは、助猿の勘違いではない。  閻魔堂の美麗なる男娼に、牙神はなにか、特殊なものを感じとり、すこしずつ、薄皮が剥《は》がれる程度だが、その裏付けがとれてきたのだからだ。  隅田川へと出てから脇の水路へ入って閻魔堂に着くまでには、まだ時間もかかる。  助猿は、買い置きの酒を鋳物の燗鍋《かんなべ》に入れて、持ってきた。 「酒に燗をつけやしょうか?」 「冷や酒でかまわぬぞ」  寝そべった腕枕の姿で燗鍋を受けとる牙神の姿は、さすがに人目がはばかられた。  助猿は気を利かせて四方の障子を閉めたが、船尾に面した一枚だけはうすく開き、艪《ろ》を操りながら報告をはじめた。 「あいつは、月弥《つきや》と名乗ってるらしいんですがね、それが、どこに住んでいるのか、かいもく判らねぇ、うさん臭いところがありましてね」  一度は尾行したが、見失ってしまったと、助猿が付け加えた。 「うむ、もし、おまえが撒《ま》かれたというのならば、只事《ただごと》ではないな」  興味を持った様子で、牙神は猿と異名をとった元夜盗を見て言った。 「へ…え、それが、撒かれたというんでもないんで、本当に、見失っちまったというか…目の前で消えちまったというか」  歯切れの悪い助猿だが、つづいて、月弥が閻魔堂にくる日は決まっていないが、くればすぐに客が付き、姿を消すのだと告げた。  客は、商家の旦那《だんな》衆か、忍んで買いにくる僧侶《そうりよ》だけで、武士や職人など、気の荒い連中は相手にしない。その上、それなりに金も地位もある客ばかりとあって、露地で抱かれるのではなく、船宿か水茶屋あたりにしけ込んでいくらしいのだ。 「教えてくれた陰間の一人が、盛んに羨《うらや》ましがっておりやしたがね」 「それならば、閻魔堂なんぞで客を引くこともなかろう? 陰間茶屋か、あるいは囲われてもよいはずだ」  牙神の疑問に答えて、助猿は耳にした噂を口にする。 「病で臥《ふ》せってる父親がいるらしいんでさあ」  茶屋に拘束され、連日客をとらされる生活から逃げてきたのではないかと言う者もいた。 「いずれにしろ、あの月弥は高嶺《たかね》の花だそうで」  高貴さすら感じさせる美貌に、抱いて温めてやりたくなるような、ひんやりとした肌、華奢《きやしや》な骨格、男たちに荒らされていない肉体が、味わった者を心身共にとろかし、虜《とりこ》にしてしまうのだとは、客になった男から聞きだしたのだ。  夜鷹連中の評判も良かった。  縄張りを荒らさないばかりか、月弥の持ってくる堕胎薬は、たいして苦しまず、女体を痛めずに堕《お》ろせるのだそうだ。  値は張るが、すこしずつでも払っていけばよかったし、月弥からは金を催促されたことはないとのこと。  羨んでいる陰間連中にしても、商売の前に通路をつけるための潤滑剤に、媚薬《びやく》もどき、痔《じ》の薬と、月弥に頼るところがあるらしい。  月弥にすれば、身を傷める売春よりも、出来れば自家製薬とやらで日銭を稼ぎたいと思っているだろう。  探りだせたのはそれくらいで、もう一つは、右腕にあるという瑕《きず》だった。  瑕は隠し通せる程度ではないらしい。それとも嫌な客を断るために隠さないのか、小杉なども見せられ、断りの口実にされたのだ。 「たしか小杉さまも、色恋の悶着《もんちやく》で武士に腕を斬られたと聞いて来られましたな…」  助猿もそのことを思いだし、口にする。 「う…む」と牙神は唸《うな》り、空になった燗鍋を渡すためにだけ、起きあがった。 「なんぞ、肴《さかな》になるものでも買って参りやしょうか?」  川沿いに棒手振《ぼてふ》りが、夕餉《ゆうげ》の一品に添えられそうな焼き魚や、煮物、蕎麦《そば》などを売り歩いている。声を掛ければ、船を寄せる間にすっとんでくるだろう。 「いや、酒の肴に面白い話を聞かせてもらったよ。その月弥とやらに、なにがなんでも会ってみたくなったな。助猿よ、あとどれほどで閻魔堂に着くのだ?」  どこか楽しげで、興味本位な口振りの牙神が、助猿にも何か起こりそうな予感と期待を感じさせ、密偵としての心をうずかせた。 「へえ、もう直ぐでさぁ、ですが御頭…いや牙神さま、あの陰間が、今夜はいるとは限りませんぜ」 「そのときは、そのときだ。おれたちに縁があれば必ずや出会うであろうからな」  長月も半ばに差しかかると、申《さる》の刻になればもはや薄暗くなる。つい十日前までは、まだ文字も読め、人の顔の見分けもついたのだが、もう不可能だ。  穹《そら》には鎌のような三日月が傾いているが、月明りなど望めない。  助猿は、船首に提げた灯を頼りに艪《ろ》を操って閻魔堂へ通じる水路に入った。  今夜はまだ時刻もはやく、小舟の数も少ない。  だが、閻魔堂へむかう川べりの道には夜鷹の姿があり、助猿を手招く者もいる。女たちをやり過ごし、船を進めているうちに、渋色をした皺《しわ》だらけの顔に、笑みが浮かんだ。  名前の由来通り、猿に似て薄気味悪い笑顔だった。 「なんとも、牙神さまは好運《つい》てえらっしゃる」  しみじみ言った後で、助猿は船を川岸につけ、牙神にも見えるように障子を開けた。 「それとも本当に縁で結ばれてんですかねぇ? 柳の下をご覧なせえ」  助猿の指した方角、材木置き場から外れた柳の下に、地は黒だが派手な振り袖《そで》姿の男娼が立っていた。  まぎれもなく、月弥だった。  月弥は、二人の夜鷹に囲まれていた。  肌を売るもの同士、ほとんど横の繋《つな》がりはないものだが、月弥が堕胎薬売買も行っているとすれば、三人の関係も判ってくる。  興味深く見ていると、ふっと、月弥が頭をあげた。  薄く化粧した美しい貌《かお》のなかの、切れるような眼眸《まなざし》が、一直線に牙神の方へと向かってきた。  牙神はかなり距《へだ》たった屋根船の室内にいて、障子の陰から見ているのだ。  さらに、この暗さで牙神の姿が見えるはずもないのだが、またも月弥は、どこからか自分を射るように凝視《みつ》める視線に気がつき、反応したのだ。 「助猿、ここで待っておれ、あれを連れてくる」  腰を浮かしかけた牙神を、小杉の声が止めた。 「わたしが、連れて参りましょう」 「おう、小杉か、どこから付けてきたのだ?」  船を横づけた川端の道に、牙神は小杉左京太の姿を認めた。  表情のない能面じみた美顔と同じく、小杉は人としての気配にも乏しいようだ。  役目を終え、帰路についていた小杉は途中で助猿の船を見つけ、室内に牙神が乗っていることに気がついたのだ。そして、行き先は閻魔堂だと見当をつけ、陸路《くがじ》で追ってきた。 「よし、連れてきてくれ」  柳の下の月弥は、もはやこちらを見てはいなかったが、二人の夜鷹《よたか》を相手に、帯のなかからなにやら取りだし、手渡してやっている。  脅す種がみつかり、小杉は素早くそちらへと向かった。助猿の方は、芯《しん》を短くした蝋燭《ろうそく》に火を点《つ》け、船内に居る牙神のかたわらに置いた。      参 「どうか、お帰しください。今夜は約束があります」  小杉から力ずくで連れてこられ、屋根船の室内に押し込まれた男娼《だんしよう》の月弥は、困惑したように両手をつき、牙神に頭を下げた。 「先約があると?」 「…はい、約束を違《たが》えては、もう、あそこで商売できなくなりますゆえに…」 「どのような客だ? おれは倍の金を払うぞ」  そう言った牙神にも耳を貸さず、場末の男娼は断った。 「お赦《ゆる》しください。金子《おかね》の問題ではございません、約定を守るのは、人と人との仁義の問題でございます」  なよやかで、うつくしい声が、きっぱりと言う。  ふふ…と、牙神は嗤《わら》った。 「約定を違えぬのは仁義。そして嘘つきは泥棒のはじまりと言うからな……」  含みのある物言いは月弥には通じなかったとみえて、眼に見える反応は返らなかった。 「お前ほどの縹緻《きりよう》だ、なにもあのような所で客を引かなくてもよいであろうに…」  次に牙神から洩《も》らされたのは、半ば本心だった。  間近で見れば、貌に薄化粧を施していると思ったのは間違いと判り、なるほど、小杉が認めたほどの、溜《た》め息を誘うような美貌《びぼう》なのだ。 「いいえ、お武家《さむらい》さま。人には、それぞれ事情というものがございますゆえに」  逆らおうとする男娼を、牙神が鼻先で嘲笑《あざわら》った。 「では、その事情とやらを聴かせて貰《もら》おうか? まあ、ここへきて酌をしてくれ」  肴の一品もない畳の上に、おおぶりの盃と、燗鍋《かんなべ》が置かれてあるだけの酒席だ。 「そればかりは、どうかお許しください」  またやんわりと、男娼が拒絶を放った。  みるからに、なよなよとして力なげな美少年であるが、心の芯には強いものを潜めている様子がある。 「酒の相手はできぬと?」  聞き咎めた牙神が、声に凄味《すごみ》を加えた。 「なんだ、尻で男を悦《よろこ》ばせるだけか?」 「酌もして、床上手な陰間なら、茶屋へいらっしゃればおりましょう…」  媚《こ》びを浮かべている紅い口唇が、またも拒絶を口にする。 「…ですから、どうかお帰しくださいまし」  言うなり、逃げるように牙神の前から立ちあがった月弥は、出て行こうと障子戸を開けたが、呆然《ぼうぜん》となった。  巧みな助猿の舵取《かじと》りによって、いつの間にか屋根船は岸を離れ、川の流れに沿って水路を下っていたからだ。  船が動き出していると、まったく気がつかなかったのだ。  ほっそりとした後ろ姿の、肩のあたりが殺気走り、さっと強張《こわば》るのを、牙神は見た。  月弥の方は、船頭の他に船尾の方に小杉が控えているのを見て、美しい貌《かお》をひき攣《つ》らせ、船内《なか》の牙神を振り返った。 「お武家《さむらい》さま、あんまりではございませんか」  途方に暮れたように、切れ長の眸《め》をゆらめかせて叫んだ月弥を、牙神は手招いて、優しく誘った。 「諦《あきら》めてここへ座れ、悪いようにはせぬ」  どこへも逃げ場のなくなった月弥は、観念するしかない。言われるがままに、牙神の前へともどり、容《かたち》を改めて座り直した。 「ところで、おれが誰だか知っておるか?」  訊かれて月弥は貌をあげたが、判らない様子でぽかんと牙神を見た。 「申し訳ございません。お武家さまを存じあげませぬ…」 「ふ…ん、まあ、判らなければそれでよい。おまえは、名を月弥というのだそうだな?」  一夜限りの客と男娼の間に、名乗りあう必要はない。月弥は答えなかった。 「おれがお前を呼んだのはな、尋ねたいことがあったからだ」  次に牙神がそう言うと、月弥は弾《はじ》かれたように頭を下げた。 「薬のことならば、どうかお赦しを……」  畳の上に揃えられた手は、華奢《きやしや》で、美しく、かすかに顫《ふる》えているかのようにも見受けられた。  いまの月弥からは、川岸でサッと牙神を振り返ったときの冴《さ》えは微塵《みじん》も感じられない。  うなだれ、媚びるように身をくねらせる様子などは、いかにも嫋《たお》やかで、淫《みだ》りがわしい男娼そのものだった。  紅をさしたわけでもないのに、赤い口唇。  四季の草花模様の振り袖を着て、襟足から覗《のぞ》くほっそりと長い首筋のたおやかさも、尋常ではない。  絹の糸のような黒髪は、結わずに頭の後ろで束ねられ、額にたれた前髪が、息苦しいほど艶《なま》めかしかった。  年も、十七か八にはなっているだろうか、まだ骨も固まらぬような感じが漂い、ともかく、肌の色が異様なほどに白い。それは、内に青みをおびた初雪のようで、思わず踏みにじらずにいられない白さなのだ。  月弥は全身から、男をとろかす淫気《いんき》を匂わせる、根っからの男娼だった。  ふと、いままでのことは偶然で、牙神は気を回し過ぎだったのではないか…とすら思われてくるほどだ。 「咎《とが》めるつもりはない。だが、お前の製《つく》る堕胎薬は、なかなか良薬だそうだな」  眼で月弥を吟味しながら、牙神がそう切り出すと、先ほどよりも強張った声が、答えた。 「父の調合を、見よう見まねで憶《おぼ》えましたもので…」 「いま持っているのか?」  目の前の武士が堕胎薬に興味があるのならば、素直に差しだす方が無難と考えたのか、月弥は帯に潜ませた薬包紙を取りだした。  取りあげ、包みを開いて見れば、赤い粉末である。そっと、小指を舌で濡《ぬ》らし、粉を舐《な》めた牙神は、幼い昔、しゃぶった憶えのある鬼灯《ほおずき》の苦みを感じた。  鬼灯や、西瓜《すいか》の種には堕胎の作用があると聞く。他にも、怪しげなものが混ぜてありそうだ。  月弥は、息を殺し、裁きを待つ囚人のごとくに畏《かしこ》まっている。 「そう硬くなるな。それではこちらも話しづらい。酒でも呑《の》んで、すこしは気を楽にしろ」  自分が呑んでいた盃《さかずき》をあけ、差し出した牙神は、また声を凄《すご》ませた。 「呑むくらいは付きあえるのだろう?」  もはや逃げられない船の上で、禁止されている『堕胎薬』を売買していた弱みまでも握られては、これ以上怒らせることはできない。そう心を定めたのか、繊《ほそ》い指先が、牙神の手から盃を受けとった。  牙神が、燗鍋の取手《つる》を傾けてなみなみ注いでやると、重いほどに満たされた盃に口唇《くちびる》をつけ、月弥はどうにか呑み干した。 「さあ、もう一献」 「…いいえ、もう…」 「黙れっ、先ほどの不調法をつぐなうためにも呑め。それとも、おれの酌が受けられぬとでも申すのか?」  酒を無理強いされる月弥は、怯《おび》えて身を慄《ふる》わせながらも、おずおずと盃を差しだしてきた。  被虐的な艶《つや》をうかべた月弥を見て、牙神はほう…と胸の裡《うち》で得心する。  この男娼《だんしよう》に、男たちが高い金を払うのも判る気がした。  外見は、儚《はかな》く美しい風情でいながら、芯の強いところを垣間見《かいまみ》せるも、脅しつければ、たちまち頽《くずお》れてしまうのだ。  自分の力を振り翳《かざ》せる瞬間に歓《よろこ》びを感じる者ならば、この上もなく満たされるだろう。 「さあ呑め、呑まぬか」  脅され、注がれるままつづけて呑まされる月弥のかたわらへ、半帖《はんじよう》ほど障子を開けた助猿が、追加の酒と大ぶりの盃を差し入れ、すばやく戸を閉めた。 「今度は、おれにも酌をしてくれるか?」 「…はい」  言われた月弥は、指先で縁をぬぐってから盃を牙神へ返し、届けられたばかりの燗鍋を取りあげた。  鋳物の燗鍋はずしりと重い。それを両手で持ち支え、差しだされた牙神の盃へと酒を差す。  勢いよく呷《あお》った牙神は、つづけ様に酌することを要求し、その度に月弥は、燗鍋の取手《つる》を慎重に持ちあげ、細長く伸びた注ぎ口を盃のうえへと傾けた。  そのぎごちない仕種《しぐさ》を見ているうちに、いきなり牙神は月弥の右腕を掴《つか》むと、袂《たもと》を捲《まく》り、下膊《かはく》をむき出させた。  白肌に、惨《むご》い傷痕《きずあと》があった。 「どうしたんだ? この傷は…」  身体を強張《こわば》らせ、月弥が腕を隠そうとするのを、握りとった牙神の力がそうはさせない。 「鋭い刃物で刺し貫《ぬ》かれた創《きず》だな?」  検分するかのように、牙神は腕の傷痕を視ていたが、察しをつけた。 「酌を嫌がったのも、武士《さむらい》を客にとらない理由というのも、この傷の所為《せい》か?」  掴んだ腕の顫えがあまりに心地よく、扇情的だったからかも知れない。牙神の口調が、いつしか月弥をなぶる調子に変わっている。 「もともと陰間を買う趣味のないおれが、おまえを呼んで来させたのはな、秋の夜長に一人で酒を呑むのも侘《わび》しい、かといって女を買うのも煩わしいと思ったからだ。今夜は、おまえを相手に、昔話をしてみたくなったのさ」  牙神が腕に力をこめ、 「まずはおまえが話せ」  そう言うと、もう月弥は観念したのか、切れ長の双眸《そうぼう》を伏し目がちに落とし、身の上を語りはじめた。 「何も彼もが、わたしの持って生まれた運が拙かったせいでございます。わたしは、数年前までは、芝居小屋で役者見習いをしておりましたが、思いがけなく良い役が付いたのが、いまから思えば不運のはじまりだったのです……」  ——あるとき、月弥には大役が付いた。  すると途端に、同じ部屋子だった者の嫌がらせを受けるようになった。  役が付いたとはいえ、夜には客の相手をする生活は変わらない。むしろ舞台で見初められ、翌日にも障るほどに客が増えた。  月弥の身にすれば、屈辱感と、虐《さいな》まれることの方が多くとも、傍目《はため》からは羨《うらや》むほどの立身に見える。妬《ねた》まれ、ますます嫌がらせが執拗《しつよう》になった。  しまいには、馴染《なじ》みの客を寝とったとの言い掛かりをつけられて、看板役者に睨《にら》まれたのが、いっそう周囲の者を増長させる引き金になった。  衣装は裂かれ、三度の食事には汚物が混ぜられ、贈物の菓子も捨てられる。狐が憑《つ》いたのではないかと騒がれ、追い出すためと棒で叩《たた》かれ、突いて出すのだと誰かが言えば、秘所にまで捩《ね》じり込まれた。  あげくには、親方の目を盗んで、同じ役者仲間にまで輪姦《りんかん》される辱めを受けたのだ。  それでも病身の父を養わねばならず、歯を食いしばって怺《こら》えてきたが、ついに、酔った浪人者をけしかけられ、商売ものの貌《かお》を瑕《きず》つけられる寸前にまでなった。  咄嗟《とつさ》に、腕で貌を庇《かば》ったときに負ったのが右腕の瑕であるが、筋を傷め、物も満足に持てなくなり、結局は芝居どころではなくなってしまった。  仕方なく、夜の客だけを取らされたが、それはそれで、もはや芝居小屋の仲間からは同等の扱いは受けなかった。  役者見習いの合間に肌を売るのではないのだから、一段も、二段も低い、男娼の扱いでしかないのだ。  昼間は部屋子たちに犯され、夜は客をとらされる日々に、とうとう堪《たま》り兼ねて逃げだしたが、病身の父親を抱え、食うに困って閻魔堂に通いはじめた——。  被虐的な色香を滲《にじ》ませた月弥が、しっとりと語り終えるのを、牙神は双眸を細めて見つめた。 「それで武士に懲りて、坊主が相手か?」  客筋まで知っているのかと、月弥は驚きに眸《め》を瞠《みは》ったが、狼狽《ろうばい》と含羞《がんしゆう》が籠《こも》った、消え入りそうな声を洩《も》らした。 「お坊さまは、酷《ひど》い真似はなさいませんから…」  僧侶《そうりよ》相手であれば、いっときの我慢で、商売物の身体を痛めるほどの事態にはならない。むしろ、手練手管に長《た》けたかれらに慰まれているうちに、骨がとけたかと思われるほどの悦《よ》い目を味わわされて、金をけちられる心配もないのだ。 「寺の小姓《こしよう》にと、望まれたりはせぬのか?」  先々を考えれば、閻魔堂で客を引くよりも吉《よ》いはずで、月弥ほどの美質ならば、誘いも多いだろうと思われる。そう訊いた牙神の前で、月弥はうっすらと目許《めもと》を染めた。  眼も眩《くら》むほどの美しさと、淫《みだ》らさが綯《な》い交ぜとなり、妖しい夜の花が蕾《つぼみ》を展《ひろ》げたかのようだった。 「…そればかりは、身体が持ちませぬ」  いきなり、牙神は吹き出し、頤《おとがい》を解いて笑いだした。 「ははは、そうか、坊主どもに夜ごと挑まれては身が持たぬか」  ますます消え入りそうに頭《こうべ》を垂れる月弥の姿には、男の心を昂《たかぶ》らせるものがある。  掴みとったままの腕を自分の方へと引き摺《ず》り寄せながら、牙神はもう一方の手を、華奢《きやしや》な頤にかけ、うつむき、逸《そ》らそうとする貌を力ずくで上向かせた。 「おれの眼を視ろ」  かすかな戦慄《せんりつ》が手のなかで起こったが、白目の部分が澄んで青みがかった眸が、まっすぐに向けられてきた。  長い睫《まつげ》に縁取られた双眸《りようめ》は、涙ぐんだように潤んでおり、いささか常人よりも薄い色の黒目が、いかにも薄幸を物語っているかのようでもあった。  その、色の薄い黒目が、蝋燭《ろうそく》の灯に光って見える。  これが、ときとして牙神を睨んだように思われた原因なのかもしれない。  時の間、二人は凝視《みつ》めあったのだが、牙神に対し、月弥の眸のなかに格別のものはうかんでこなかった。  むしろ、月弥からたちのぼる女とは違う色香に、牙神の方が堕ちたと言ってもよかった。 「……幾らだ?」  音を立てそうなほどに長い睫が、瞬《しばたた》いた。 「陰間を買う趣味はないとの仰せでした。ただ、昔話をしたいと、だけ。次はお武家さまの番でございます……」  牙神は自分が使った口実を返され、苦笑をこぼした。 「憎いやつだ」  顎《あご》を掴んだ牙神の力が弱まった拍子に、すかさず月弥は身を引き、牙神から離れて後退《あとずさ》った。      四 「ところでもう一度|訊《き》くが、本当におれを知らぬのか?」  ふたたび牙神がそう訊くと、月弥は美しい貌をあげた。  月弥の眸は、正面からじっと牙神を凝視し、伏せられることも、逸らされることもなかったが、数瞬の後、深々と頭が下げられた。 「以前にどこかでお目にかかっておりましたならば、どうかお赦《ゆる》しを……」 「責めておるわけではない。むしろ、おれを知らない奴の方が、話しやすいからな」  それから牙神は、月弥に改めて盃《さかずき》をとれと眼で促し、なみなみと酒を注ぎ込んだ。  両手に支えた大盃《たいはい》を見ながら、月弥は戸惑っている感じがある。 「なにを迷っておる。酒の肴《さかな》に今度はおれの昔話をしようというのだ。呑《の》まずに話を聴くつもりか?」  脅されるように言われては仕方がない。月弥は白い喉《のど》を反らし、酒を身体のなかへと流し込んだ。 「いい呑みっぷりだ」  そう言う牙神も、口唇《くちびる》を濡《ぬ》らすためにぐいと呷《あお》ってから、 「江戸を騒がせる盗賊に、『犬神の早太郎』と名乗る一味がいてな」と口にして、月弥の反応を待った。 「……はい?」  無邪気なまでに真っ直ぐに、月弥は牙神へと視線を定めたままだ。 「先代の早太郎が死んじまって、息子が跡目を継いだんだが、若すぎる二代目というのは、古参のやつらからすればときとして有り難くない存在でな、余程じゃねぇと上手《うま》く行かない。だが二代目早太郎には、なにか特別のものがあったのだろうな、犬神一味の結束は揺らがなかった」  なぜ、今夜の客は、こんな話をするのだろうか? そう訝《いぶか》る様子を隠さずに、それでも月弥は凝《じ》っと耳を傾けている。 「なんでもな、二代目早太郎ってのは、先代が、どこぞの大名の、輿入《こしい》れが決まった姫君を略奪して孕《はら》ませ、産ませた子らしくてな。まあ盗賊にすれば一時の慰みもの、普通ならば拝むこともできない姫が、卑しい盗賊の子を産むまでが面白かったんだろうな。子が産まれたと同時に、大名家に大枚と引き替えで姫と子を送り返してしまったのさ。ところが数年してから、先代は大名屋敷の奥から、幽閉されていた自分の子を盗みだし、跡取りに仕込みはじめたのだ」 「それはまことの話でございますか? まるで、芝居の筋を聴かされているようで……」 「間違いはないさ、姫の産婆をした女が何も彼も白状したのだ」  注がれるままに酒を呑まされながらも、月弥は乱れることなく、そして、牙神の話に、いちいち驚いては眼を瞠《みは》っている。 「犬神のやつらは十数人で徒党を組み、全員が犬の面を被《かぶ》っての押し込みで、奪うのは金ばかりではないのだ」  牙神の方も、酒盃を空にしながら、先を継いだ。 「男は殺し、女はことごとく犯し、家屋敷には火を放つと、まあ、犬畜生に劣る強奪を繰りかえしてきたのだが、三年前に、犬神一味はそっくりお縄になったのだ」  当時、江戸に住む者ならば、知らない者はないだろうと言われる希代の大捕り物であった。  しかし、月弥からは反応がない。  先ほどの身の上話を信じるとして、昼は役者見習い、夜は陰間の生活であれば、客の枕話に捕り物の話題が出ないはずはなく、知らない方が訝しい…が、牙神は先をつづけた。 「一味は捕縛されたが、二代目早太郎だけは逃げてしまったのさ。配下の者が、捨て身で逃がしたのだ。だがそのときにな、捕り方が投げた小柄《こづか》でもって、早太郎は右腕を壁に縫いとめられ、一瞬、足留めをくらった」 「まるで、見てきたような仰せられ方をなさいますので……」  聞き入った様子だった月弥がそう口をはさむのを、待っていたかのように、牙神がにやりと笑った。 「おうさ、おれが、早太郎を張り付けた本人だからな」  驚きに瞠《みひら》かれた月弥の双眸《そうぼう》を、睨《ね》めつけるかのように牙神は見下ろし、さらに言葉を継いだ。 「犬神のやつらはな、押し入った先で、女とみれば見境なく姦《おか》し、辱めてきたのだが、どうしたことか、二代目早太郎だけは決して加わらなかったそうだ。配下の畜生どもが女を手込めにするのを、ただ、犬面の奥から見ているだけだった。それで二代目は女ではないかという噂もあったくらいだ。確かにあの夜もな、おれは張り付けたやつの腕の、真っ白い肌を見てしまってな、——おれらしくもない、その一瞬の気後れで逃がしたというわけだ」  牙神は突然、月弥の腕を掴《つか》み取った。  勢いで、手から盃が飛び、酒が畳を濡《ぬ》らすのも構わずに言う。 「おまえの腕の傷、おれがつけたものだ…」 「ま…まさかっ」  咄嗟《とつさ》に、月弥からは悲鳴にも近い声があがった。 「二代目犬神の早太郎。素直に白状いたせ」 「わたしが、盗賊などと……嘘ですッ」  頬に息がかかるほど牙神の顔が近づき、凄味《すごみ》のある声が、さらに脅しつけるように、責めた。 「月弥と名乗っているが、おまえは早太郎であろう?」 「ああっ、いや、いやっ…嘘です…っ…」  いきなり掴まれていた腕を放された月弥は、まろびでるように牙神の下から逃れ出て、狭い船のなかを後退《あとずさ》った。 「そんな恐ろしい者と間違われるなんて、いやですっ」 「役者くずれの陰間だと言い張るのか?」  船の揺れも手伝い、思うように逃げられない月弥に向かって、牙神は狼の本性をむき出したかのように、双眸を光らせ、追い詰めて行く。  障子戸を開ければ、外には小杉が控え、船頭も居る。  さらに川を下る船の屋内とあって、月弥は狼狽《ろうばい》を隠せない。 「は、はい…わた…しはっ……閻魔《えんま》…堂で身を売る……か…陰間でございます」  障子にしがみついたまま動けなくなってしまった月弥を、牙神は引き剥《は》がし、無理やりに立ちあがらせた。 「陰間と言い張るのならば、それらしく、おれの相手ができるはずだな」  身に覚えのない言い掛かりを付けられ、虐《いじ》められつづけてきたと身の上を話したばかりの月弥である。牙神は、それを真似た調子で、逃がした盗賊の頭だろうと決め付け、違うのならば相手をしろと脅しにかかった。  見方を変えれば、床入りの前の、ひとつの遊戯のようでもあった。  お互いが昂《たかぶ》るために、役を演じるのだ。 「帰してくださいッ、わたしを、帰してっ……」  だが、月弥の方は半ば本気で抵抗するので、牙神は、意図的に掴んだ左の手を軸にし、ほっそりと優美な身体を押し倒してのし掛かった。 「それとも早太郎、大人しくお縄に付くか?」 「ああッ、放して…違いますッ…」  背中に腕を捩《ね》じりあげ、組み敷いただけでは済まさなかった。  牙神は背に片|膝《ひざ》をあてがい、上体を起こせないように圧《お》さえ付けながら、羽織の袂《たもと》から取りだした細引きを使って、月弥を後ろ手に、縛りあげにかかった。 「く…うっ」  苦しんで、月弥が切ない呻《うめ》きを洩《も》らすが、容赦はしない。  首縄まで掛け、捕縛する罪人を地に這《は》わせるがごとくに荒々しく扱っているうちに、月弥はもがく力を失い、畳の上へと突っ伏してしまった。 「あ……あっ…なにをなさいます……非道《ひど》い……」  客になった男に、縛られて犯されたこともあるが、罪人に縄掛けると同じ仕打ちはあまりのことと、洩らされた恨みを、牙神は無視した。  なおかつ牙神は、船頭の助猿を呼び、船を繋《つな》ぐ太縄を持ってこさせると、月弥を縛った縄の間を通し、屋根の梁《はり》へと引っ掛けた。  後ろ手に縛られたまま吊《つる》されると判って、月弥は全身を捩《よじ》って抵抗しようとしたが無駄だった。  それでも、屋根の低い船のなかであるから、上体を起きあがらせただけで、縄尻《なわじり》は柱にくくり付けられた。  両膝は畳に付いたまま、上半身が浮いた恰好《かつこう》は、まさに犯してくれと下肢を差しむけた姿でもあった。  そうさせた牙神は、やにわに帯を解き、めくりあげた裾《すそ》から腕を進入させた。 「ああッ」  剥《む》きだしにされた月弥の肌は、絖《ぬめ》のごときの艶《つや》を放っている。  肉の薄い華奢な骨格ながらも、くびれた腰から尻にかけては、しなやかな張りと、雪の白さだ。  背後に回って月弥の腰を掴んだ牙神は、下肢を持ちあげ、幼子に手水《ちようず》をうながす姿に抱いてから、小杉を呼んだ。  牙神の声と同時に船尾の障子が開き、小杉左京太が入ってきた。  小杉は、室内の光景を見ても驚きもせずにいる。 「前方を括《くく》ってくれ」  そればかりか、月弥の腰を抱えて突きださせている牙神の命を受け、歩み寄ってきた。 「ぃ…やッ」  ひろげられた両足の間に入り込んだ小杉の手には、綿糸《きんし》が握られていた。  月弥は自分の身に何をされるのかを察し、吊られた全身を揺すって抗《あらが》おうとした。 「いやッ、…触らないで……うっ、ううっ」  背後から牙神が力ずくで押さえ、小杉の方は、まずは付け根で輪をつくると、そこから月弥の全容に糸をからめ、交差させ、組みはじめた。  綾取《あやと》りするかのような手つきから細かい網目が生まれ、瞬く間に、月弥の玉茎《すべて》は緊縛されてしまった。 「ウウッ…」  抵抗を封じられ、前方を緊《し》めあげられた月弥は、悲鳴を放つのみだ。 「いやッ…こ…こんな…目に遭わせられるなんてッ…あま…りなッ」  小杉は終えると同時に素早く離れ、入ってきたと同じ障子戸から、音もなく出ていった。 「さぁて、認めてしまえ、早太郎」  抱えた下肢をおろした牙神の声音は、怖いほどに変わっていた。  はッと、吊られた姿の月弥が振り返った。 「まだそのようなことをおっしゃいますのかっ」  閨房《けいぼう》では、男を昂らせるために様々な芝居を必要とする客は居るが、度を越していると訴えかける眼で、月弥は牙神を見たのだ。 「早太郎だな?」  背後から牙神の手が双丘に触れるや否や、ふたたび月弥は叫んだ。 「…い…やッ…ち…がう…っ…、違いますッ」 「そう簡単に口を割らないだろうが、下の口はどうだかな…」  手を掛けて双丘をひろげられるのを、月弥が、ギシギシと梁をしならせて、抵抗した。 「あ…あぁ…う…いや…いや…ですッ」  双丘の肉付きは薄いが、そこをさらに、あられもなくひらかされる。 「おやめくださいッ、いや…見ないでッ…」  狭間《はざま》で、ひっそりと閉じているだろう淡色の蕾《つぼみ》が、牙神の予測に反し、濡れてほころんでいた。  すでに、別の男の精を吸って咲いたのではなく、路傍で買われ、性急で荒々しい交合に身を傷めないための施しがなされていたのだ。 「裏庭の紅梅を、八分咲きに綻《ほころ》ばせておくのは陰間の嗜《たしな》みか?」  被虐的な艶《つや》が、媚肉《びにく》の襞《ひだ》からじっとりと滲《にじ》みでている。  牙神が人差し指で触れてみると、月弥がうわずった声をあげた。 「ああッ、いやッ」  拒絶の叫びも虚《むな》しく、潤み、とろけきった肉襞へ、牙神の指がズズッ……と挿《はい》り込んでいた。 「う——……」  瞬間、月弥は縛られた身体を硬直させたが、すぐに、頭の芯《しん》が眩《くら》んでしまったのか、くねくねと尻を揺すって身悶《みもだ》えた。 「具合も、よさそうだな」  牙神は指を付け根までおしこみ、内の様子を確かめながら、肉筒の妖《あや》しい構造を探りはじめた。 「…うっ…う…う…」  肉襞はとろけたように甘美な柔らかさで、内は熱くたぎっている。それでいて、牙神の指の付け根をしゃぶるように締めつけてくるのだ。  埋《うず》めた指で、牙神が抽《ぬ》き挿しを繰り返すと、いじられる月弥から哀願が洩れた。 「ゆ…ゆるしてッ…」  敏感な肉襞をなぶられているうちに、月弥の前方が、抜き差しならない状態に変じてしまったのだ。  だが、しなやかに若い男のかたちを顕《あらわ》したものの、月弥のすべては小杉によって網を掛けられた凄《すさ》まじい姿だ。  綿糸に括《くく》られ、兆した男の性を解き放てないばかりか、ぎっしりと緊めつけられ、苦しんでいたのだ。 「そうかい、ここが悦《い》いのだな?」  無視した牙神が、こねるように肉筒をいじくりまわしてみると、月弥がのけ反った。 「あッ、あッ」  官能的な呻《うめ》きが洩れた直後に、悲鳴にちかい喚《わめ》きがあがった。 「ひッ……ひいッ……」  月弥の前方が、いっそう惨《むご》い姿に変わってしまっている。  網にかかった人魚のような哀れさと、淫らさがあり、牙神ですら胴震いが起こった。 「早太郎だな?」  責め問う牙神の声にも、熱と力が入る。  あまりのことに、月弥は全身を身悶えにくねらせながら、すすり泣くように息を顫《ふる》わせる。 「言ってしまった方がよいぞ、早太郎ッ」  恫喝《どうかつ》されても、開いた口唇からは、かたくなな拒絶が、嗚咽《おえつ》とともに吐き出された。 「ああ……ひっ…ち…が…うっ…」 「強情な奴めッ」  挿入する指を二本に増やし、牙神は肉襞を貫いた。 「くうッ」  月弥の喉《のど》が鳴り、肉筒で蠢《うごめ》く牙神の指に踊らされて、細腰が悶えをはなった。  綿糸で緊められた月弥は、尻を弄れば弄るほど、血も噴かんばかりに張り詰めきって、無惨な象《かたち》に変わっている。 「…い、痛い…っ…」  涙に霞《かす》んだ月弥の眸《め》にも、背後の牙神が、床から酒の入った燗鍋《かんなべ》をとりあげるのが見え、身が強張《こわば》った。  月弥がしらを切りつづければ、何時までもなぶっていられるという愉《たの》しみを、牙神は感じているかのようだ。 「な…なにを…」  背後から牙神は、挿し入れた指と指との間にできる僅《わず》かな隙間へ、酒をしたたらせた。 「ひッ…」  冷たいと感じたのは一瞬だけで、すぐさま、焼け爛《ただ》れるような熱さと、しみる感触に、月弥は、腰をよじってもがきはじめた。 「犬神の早太郎、——そうだな?」  それでも月弥は、「違うッ」と言い張ったことで、さらに牙神は、媚肉をこじあけていた指を引き抜くかわりに、肉襞の孔へ燗鍋の注ぎ口を押し込んだ。 「アアッ…う——…」  閻魔《えんま》堂へ行く前に月弥は、父親が製《つく》る秘薬をもちいて秘所の搾襞《にくひだ》を丹念に寛《ひろ》げておいたのだ。肉体を男に捧《ささ》げるようになってからは、傷つけられないためにも欠かせない施しだった。  そう事前に途《みち》をつけておいた秘所を、牙神の指でいたぶられ、さらには鋳物の注ぎ口を突き立てられては、ひとたまりもなかった。 「そ…そんな…ッ」  傾けられた途端に、勢いよく酒が溢《あふ》れだし、身体のなかへと流れ込んできた。 「あッ…あッ、熱…い…焼ける…」  灼熱《しやくねつ》の液体に翻弄《ほんろう》されて、泣きじゃくるようにもがきはじめた月弥の首縄を掴《つか》んで、牙神が尋問《たず》ねる。 「いい加減に認めたらどうだ?」  首を絞めあげられるかたちで貌を上向かされた月弥は、身体のなかが焼けただれると悲鳴をあげながらも、牙神を睨《にら》み返し、かぶりを振った。 「ち…がうッ」  息が詰まりかけて眸がうつろになると、すかさず首縄は放されたが、あられもない姿の下肢に、つづけて酒が注がれた。 「かんにんして…あ…あう…あうう…つっ」  こぼれるのも多いが、それでも、面白いように、肉襞の口は酒を呑んでゆく。  まるで月弥自身が吸い取っているかのようだ。 「も、もう、やめて…変な気分に——…あ…ああ…」  腸管へと直接流し込まれた酒は、強い酩酊《めいてい》を起こさせるのだ。  後ろ手に高く縛られて天井から吊るされ、双臀をむき出しの月弥には、縛られた手で、精々が空をかきむしるくらいしか抵抗できない。酒が尽きるまで、肉筒に注がれてしまった。 「う…む…ううっ…う…くく…」  牙神は、かたわらの燭台《しよくだい》を片手で引き寄せると、酒壺にした月弥の耳許《みみもと》へ、囁《ささや》いた。 「せっかく呑ませてやった酒だ、こぼさず温めておれよ」  とろけきった柔襞には、まだ長い注ぎ口が埋まっている。牙神は鋳物の注ぎ口を抜きだしながら、蝋燭《ろうそく》の炎で月弥の前方——綿糸で雁字搦《がんじがら》めに緊めつけられた男の命の部分を、さあっと炙《あぶ》った。 「ひッ…ひッ、ひいッ」  一際甲高い悲鳴が、月弥の口唇《くちびる》をついて出たと同時に、注ぎ口を抜き取られた媚肉の襞が、きゅッと窄《すぼ》まった。  綿糸の焦げた匂いがたちのぼっている。 「それ、もっと窄めねば、腔《なか》の酒が漏れるぞ」  またも炎が、月弥の前方を舐《な》めていった。 「た…た…すけて…」  痛みはなかったが、もはや月弥は声を出すのもやっとの状態に陥っている。  その上、炎で炙られた恐怖ゆえにか、後庭の蕾《つぼみ》は花びらを引き縮めてしまい、牙神の思惑通りに、内奥から押してくる本流を塞《せ》き止めていた。  だが、いまにも花咲いて爆《は》ぜそうなほどに、ふるふると慄《ふる》えている。淫靡《いんび》で、可憐《かれん》な眺めだった。 「どうれ、おれの前方にも酒を呑ませてやるとするか」 「…そ…そん……なっ……いやっ……いけないっ……いやっ……」  月弥の抵抗が物憂いのは、酔いが回っているからだが、肉襞をひくつかせ、言いしれぬ悦楽の世界を一人で漂っているようにも見える。  双丘に手をかけ谷間をひらかせた牙神は、自らの下肢をくつろげると、月弥の蕾へ怒張をあてがった。 「早太郎、締めておれよ」  言うなり、牙神の怒張が窄まりきった肉襞をおしひらき、媚肉の蕾を咲かせた。 「ひッ」  瞬間に、月弥の方はわれに返ったように喚《わめ》きをあげ、自由にならないながらも、下肢を捩《ねじ》らせ、懸命に抗《あらが》おうとした。  力ずくで抗いを押さえつけ、牙神は男の先端をうずめる。  内奥で起こっている烈しい嵐が感じられるも、そのまま勢いで挿《はい》り込ませてしまう。  月弥の苦悶《くもん》を代弁するかのように、天井の梁《はり》に掛かった縄がギシギシ音をたてた。  牙神の男を咥《くわ》えた淡紅の粘膜は、褶襞《しゆうへき》が伸びきって色を失ってしまった。だが、深々と男の全容を埋められると、内奥の妖《あや》しい肉壁で復讐《ふくしゆう》をはじめた。  縊《くび》るばかりに締めつけ、絞りたてたのだ。  肉襞に絡みつかれた牙神は、いまだかつて味わったことがないような法悦境に、舌打ちし、負けじと腰を使った。 「あうッ…ううむ…」  むきだしの尻《しり》から、下腹にかけてをあえがせながら、月弥は呻《うめ》きを洩《も》らした。  こねくり回され、ひきずり出される感触には、細腰をよじって、声が高くなる。 「…うっ…う…う…」  怒張が入り込んでくるたびに、月弥は苦悶を放った。 「犬神の…早太郎だ…な…?」  背後から伸し掛かられながら、耳許に囁かれるほどの声で問われるのには、かろうじて答えられる程度だ。 「…な…んのことかッ…ぞん…じ……ま…せんッ」  ほっそりと容《かたち》のよい頤《おとがい》を後ろから掴みとって、上向かせると、牙神は上体を屈《かが》めてゆき、口唇を奪った。 「う……」  結合がいっそう深くなり、月弥は切なげに呻いた。  牙神は月弥との口契を愉《たの》しんでいる。  月弥もまた、苦しい姿勢で口唇を吸われ、内奥に収まった牙神の律動に翻弄されているうちに、狂おしい焔に包まれ、熱く昂ってくるのを制《と》められず、身悶《みもだ》えた。  苦しみからではなく、肉が極まってゆく悶え方だった。  さらに牙神の抽送が激しくなった。  荒々しく、深く、残酷になった。 「く…う…う…」  美しい貌《かお》には恍惚《こうこつ》がうかび、ぎしりと肉に食い込んで緊《し》めつけてくる綿糸すらも、月弥に虐悦の歓びをもたらしていると、牙神にも判るようになった。  細腰がよじれ、ときにみずから動き、牙神が下肢を引くと、追って、もの欲しげに突きあがってきた。  肉体の内側にあるもの——牙神の男を、放したくないのだ。  そこを牙神がこねるように擦《こす》りあげているうちに、月弥がうわずった声をあげた。 「あ…あッ、も…もう……いけな…い…ッ」  縛られた身体がガクガクと慄えだした。牙神の男によって掻《か》き乱され、抽《ぬ》き挿しで穿《ほじく》られる肉筒の酒が、なまぬるく月弥の内腿《うちもも》をつたっている。 「ああ……ああ……」  月弥の口唇からは快美の啜《すす》り歔《な》きが洩れでて、うわずった歓喜の嬌声《きようせい》へ変わってゆく。 「あうッ、あうッ…あッ……あ…、ああ……」  あられもなく喘《あえ》ぎ声をたてる月弥は、牙神を咥えた細腰を狂おしく揺すって、いま味わったものよりも、もっと強烈な快楽を貪《むさぼ》ろうとしだした。  牙神は下肢の男で応《こた》えてやり、荒々しくねじり込みながら、内奥でからみついてくる肉壁の締めつけを、えぐりあげた。 「はぁ…あっ……あは…あ……」  月弥の息がせきあがったかと思うと、ついには、上気させた貌を右に左に振りたくり、吊られた身体が弓なりに反った。 「い…ぃ…、いく…ッ…」  のけ反った月弥が、脳乱したかのように極まった喘ぎを放つと、むき出しの下肢に生々しい痙攣《けいれん》を走らせた。  肛悦《こうえつ》に達してしまったのだ。  だがそれだけでは終わらなかった。  倒錯の歓喜に侵された月弥の前方からも、悦楽が解き放たれて、床へと飛び散ったのだ。  火で炙られたときに一部が焼き切れていたのだろう綿糸が、極まった瞬間にほどけたからだ。  痙攣じみた身悶えのたびに、塞《せ》き止められていた悦楽が、青白い飛沫《ひまつ》となって渫《も》れるのだ。  牙神は攻め方をゆるめなかった。  背後から双丘を掴《つか》んでひろげきり、肉襞を出入りする男の刀を眺めながら、たっぷりと月弥を味わっている。  つづけ様の絶頂感に、月弥はのけ反りっぱなしの白い喉《のど》をしぼった。 「いって…しまうッ…」  快美の嬌声《きようせい》とともに、またもびくびくと月弥の内奥が反応した。 「…ま…また、うッ、ううっ……いい…」  快感で前も後ろも狂わされて、月弥は頭のなかが朦朧《もうろう》となり、心も痺《しび》れてしまったかのようだ。牙神に下肢をあずけきったまま、舌たるく、甘いあえぎを口唇《くちびる》で歌っているのだ。  情欲におぼれた月弥が、嬌態の限りを尽くしてようやく、がくりと頸《くび》が落ち、放心した体で細い肩を顫《ふる》わせるばかりとなったのは、半刻《はんとき》も経ってからだった。  よもや、犬神の早太郎が月弥であったとしたら、仲間をことごとく捕らえ、処刑した牙神尚照に抱かれ、これ程の痴態を演じられるとは思われない。  貌《かお》を近づけた牙神は、舌の先で月弥の耳を舐《な》めた。 「悦かったぞ、月弥。おまえも愉しんだようだな?」  牙神がそう問うと、身体中の力が萎《な》えてしまったかのように頽《くずお》れていながら、月弥は欲情に濡《ぬ》れ、とろりと煙《けぶ》ったような眸《め》を向けてきた。 「う…うう…、こんな想いをしたのは、はじめて」  はぁはぁと肩を喘《あえ》がせるも、月弥はしなをつくり、ねっとりと口にした。 「やはり、お武士《さむらい》さまは…おそろしゅうございます」      伍  夜露を含み、頭《こうべ》を垂れた萩のかたわらを通りぬけるとき、パラパラと露が散って、月弥は袂《たもと》を濡らしていた。  穹《そら》には曙の明星が鋭く輝いているが、まだ冥《くら》く、家路を急ぐあまりに、月弥は叢《くさむら》の獣道を選んだことを悔やんでいた。  やがて、うす闇のなかでも、一面を黄褐色に浮かびあがらせた芒《すすき》の原が見えてきた。  前方に広がる原をぬければ、住まいである水車小屋へも近いのだ。  小屋では、養父の蛾次郎《がじろう》が、遅い帰りを心配し、眠らずに待っているだろう。  月弥の懐には、牙神が包んでよこした十両の大金がある。この金を持って、しばらく江戸を離れて湯治にでも行こうと、歩きながら思った。  間もなく冬が訪れる。水車小屋での生活は、病んでいる蛾次郎の身体に障るだろうし、今夜のことがあり、月弥自身も閻魔《えんま》堂での商売に見切りをつけたのだ。  ならば、夜が明ける前に江戸を出なければならない。そう、気持ちが急《せ》いた。  月弥も、蛾次郎も、夜のいきものだからだ。  心は急いても、身体に入れられた酒の酔いがぬけずに、足許《あしもと》が縺《もつ》れた。  今夜のことは、思い出しただけでも怖気《おぞけ》が走る。 『犬神の早太郎』だろうと言い掛かりを付けられ、虐《いじ》めぬかれただけでなく、嘉《よ》がらせられつづけ、ようやく縄をほどかれたが、牙神の方は欲望を鎮めてはいなかった。  すべてを剥《む》かれ、裸にされた月弥は、ついいまし方まで、二交、三交と落花を強いられ、責めたてられていたのだ。  肉体の奥に眠っているなにかを引きだされるような、数刻だった。  それでも、いままたあの男に触れられたならば、肉体は達してしまいそうだった。 「牙神……っ…」  口にした途端に、腕が疼《うず》いた。  古い傷が、痛みを訴えかけるように、疼きだしたのだ。 「く……ッ」  口唇を噛《か》み締め、月弥は夜露に濡れるのも構わずに、歩いた。  秋虫たちが、月弥の気配に鳴きやむ。  だが、残り少ない夜の時間を惜しんで、また直ぐに鳴きはじめ、うるさいほどだ。  リー、リー、リー…と、すだく虫の鳴き声に、突然、脳を侵すような、鋭い音が混じった。  ハッと貌《かお》をあげた月弥は、瞬間、弾《はじ》かれたように走った。  不吉な黒い予感が、胸を衝《つ》きあげる。  走って、すすきの原に入った。  身の丈よりも高いすすきの花穂は、身体を隠すのに都合はよかったが、鋸歯《きよし》状の葉で、手の甲を切られた。  構わずに、月弥は先を急いだ。  音が、追ってくる。  高音過ぎて、通常は聴こえない音。  いつしか月弥は、痛めつけられた身体が嘘のように、野に放たれた獣の疾《はや》さで走っていた。  その月弥の一寸先を、すすきの葉を揺らし、一陣の風のように通り抜ける影が見えた。  見えたと思ったのは一瞬のことだ。  用心を怠らず、月弥は声を放ったりはせずに、急ぎ、前方のすすきを掻《か》き分けた。  そこには、牙神が立っていた。 「あッ」  さすがに、驚愕《きようがく》に声が洩《も》れた。  いまにも身を反転させようと構えた月弥からは、すでに尋常ではない緊迫感が漂っている。  一人で、得心したように頷きながら、牙神が口を開いた。 「犬笛が聴こえる耳を持っているとは、只事ではないな」  月弥は、牙神の前から真横へ飛び退き、まだ踏み締められていない原へと逃れ込んだ。  後退《あとずさ》って身を翻したのでは、すでに踏みしめ、掻き分けて来たことで倒れたすすきが、月弥の姿を隠してはくれないからだ。 「ハハ…、逃げろ、逃げろ、犬ころ」  背後から、牙神の哄笑《こうしよう》が追ってくる。  犬笛は、蛾次郎の耳にも聴こえただろう。いち早く異変を感じとり、逃げただろうが、病んだ身体ではそう早くは動けないかもしれない。牙神を自分に引き付けておくために、月弥は、水車小屋の方角を避けて、走った。  白みがかってきた穹《そら》に、すすきの原全体が、銀色に輝きだした。  まぎれこんだ夜の仔獣《けもの》を、浮かびあがらせるかのようにも見える。  すすきの葉が、頬を切った。  ザザと後方で葉鳴りがおこった。  ぎくりっとなり、振り返った月弥は、牙神の姿を見つけるなり、かれに対する憎しみが、美しい貌に滲《にじ》みでてしまった。  柳媚《りゆうび》がつりあがり、瞠《みひら》かれた双眸からは、青白い燐光《りんこう》が放たれているようだった。 「いい眼だ。その眼だよ。三年前、犬面のしたから見えたと同じ明眸《まなざし》だ」  酔っているのか、どこか熱っぽく、うかされたような牙神の声。  まわりは身の丈よりも高いすすきばかりで、武器になりそうな物は棒切れ一本みあたらない原っぱだ。  咄嗟《とつさ》に、逃げる前の抵抗として、月弥は懐から掴みだした十両を牙神めがけて投げつけた。  誰しもが、飛んでくる物に思わず怯《ひる》む、そのすきを突き、逃げようとしたのだ。 「お、おいおい、場末の陰間が、金を粗末にするな…」  だが、顔に当たる寸前に手で払い落とした牙神は、嗤《わら》いながら、ちらばった金を拾いはじめた。  不気味な余裕にも思われるが、月弥の方は、この間に逃れて走った。  原をぬければ、昔は蜆《しじみ》が獲《と》れたという河原にでる。その上流に水車小屋があるのだが、いっそ川にでて——と、手で払ったすすきの向こうに、いつの間に追い付き、先回りしたのか、またも、牙神が立っていた。  それでも、まだ後退って逃げようと身構えた月弥は、背後に迫ってくる小杉に気がつき、完全に動けなくなった。  二人に挟まれてしまったのだ。 「どこへ逃げても無駄だぞ、犬神の早太郎」  怪しい凄味《すごみ》のある牙神の眼が、闇のなかに姿を顕《あらわ》した月のように、光った。 「おまえからは、乳くさい仔犬《こいぬ》っころの匂いがするからな」  そう言った牙神の口元が裂け、狼の牙が覗いたように見えたのは、月弥が感じた恐怖の具現だった…のかもしれない。  牙神の放っているものに眩暈を感じ、よろめいた月弥は、すかさず腕を掴み把《と》られ、立ちあがらせられていた。 「ど…うして?」  騙《だま》せたと、月弥は思った。  もっともらしい創り話をし、責めたてられても認めずに、あげくには、正気を失ったかと思われるほどに、淫《みだ》らな姿をさらけだして見せたのだ。  芝居ではなかった。凌かされてあれほど極まったのは、初めてだった。  牙神が嗤った。 「おまえがあんまり強情だったからだ。適当に、自分を早太郎だと認め、あのまま喜《よが》っておれば、おれも人違いだったかもしれぬと思ったであろうがな…」  白眼が、青いほどに澄む月弥の双眸《そうぼう》に、恨みと、屈辱が、うかんだ。  牙神の前では、月弥などは、仔獣《こども》に過ぎないのだ。 「ところで…、なんという名であったかな、あのじいさん…」  まさかと眼をみはった月弥の背後から、小杉が答えた。 「犬神の蛾次郎、先代早太郎の弟です」 「そう、そうだった。お前の身の上話に出てきたお父っつぁん役だがな」  知っていながら、牙神は態《わざ》とらしく言う。腕を掴まれたままの月弥は、身を捩って抵抗を試みたが、敵《かな》わなかった。 「蛾次郎をどうしたッ」  もはや、牙神を睨んだ月弥からは、被虐の色香にけぶっていた姿は微塵《みじん》も感じられない。  水晶のような、冷たさと、硬質さ、そして貴さが漂うばかりだ。  この美しく危険な月弥は、希代の大盗賊と高貴な姫の血が混じりあい、生まれたのだ。  牙神は見惚《みと》れながら、言った。 「安心しろ、いまごろは助猿が自分の船に乗せているだろう」  他にも、配下の者を散らしていたのかと、月弥の方は諦《あきら》めた様子になった。  だが——、 「…殺せ」と月弥が口にする寸前に、牙神が顔を近づけ、すすきで切った頬の血を舌で舐《な》めとった。 「………っ」  月弥の、——声より先に、——心より先に、肉体の奥が反応してしまい、また犯されているような気持ちになった。  その月弥を抱きよせ、牙神が告げた。 「おれはいま、表向きは昼夜回りであるが、実はな、若年寄篠井長門守さまの命を受け、動いておる。そこで早太郎よ、もう野良犬はやめて、おれに飼われぬか?」  牙神の飼い犬になるということは、『密偵』になるということだ。  狼の牙が折れたと囃《はや》し歌にまで嘲笑《あざわら》われた牙神の為体《ていたらく》は、見せかけのものであり、かれらは、公では裁けない罪を断罪する役目を帯び、密《ひそ》かに動いていたのだ。 「なにを言う……誰がおまえの狗になどなるものかッ!」 「まだ威勢がよいな、責め足りなかったか?」  一瞬、月弥が怯んだのを、牙神は見逃さなかった。 「おれは本気だぞ、早太郎。おまえが欲しい。おれの手許《てもと》におきたいのだ」  真相を明かした牙神が、ふたたび口説くように迫った。 「だから認めろ。おまえの口から言うのだ。月弥、……いや、犬神の早太郎であるな?」  狼の眼に射られて、月弥は慄える。 「早太郎だな?」 「——は…はい……」  噛《か》み締めた口唇の合間から、月弥は呻きをこぼし、それは、かすかに夜気の残る朝靄《あさもや》のなかへと流れて、消えた。 「よしよし、認めた褒美に、もう一度悦いめにあわせてやろう」  すすきの原に這わされ、女犬の姿に押さえ込まれた月弥は、狼にむさぼられ、明けてゆく空の下ですすり歔《な》きつづけた。 [#改ページ]  あとがき——二〇〇五年、文庫化によせて。  月弥こと二代目犬神の早太郎捕獲の「狗」は、一九九六年にルビー・コレクション『花宴』に書いたものです。  凶賊の二代目として生まれた月弥は、十六歳の訳あり美少年です。  美少年というよりも美少女めいた可憐《かれん》さと、大人びたところが同居した妖《あや》しい存在として書いてきました。  牙神尚照の方は、狐(キツネもイヌ科)に化ける?こともありますが、端整な顔だちの狼。  月弥がどんなにがんばっても、かれはまだ仔犬《こいぬ》なので、狼の牙神にはかないません。 「狗」の後の、月弥放し飼いの物語『色闇《いろのやみ》』は、一九九八年に刊行されたもので、当時は『大江戸捕り物秘帖』と副題をつけていました。  月弥はもっと悪いこといっぱいしてしまい、牙神にたっぷりお仕置きされてしまえ! と思いながら書いていたのですが、テーマは『恋は曲者《くせもの》』とでも申しましょうか…、恋の闇路《やみじ》ならぬ、色の闇路になってしまいました。  男と男の色恋|沙汰《ざた》大江戸編です。  今回文庫になる前に、二編とも、大幅に書き直し、またワンエピソードを書き加えたりと、手間取ってしまいましたが、お愉《たの》しみいただければ幸いです。  二〇〇五年 一月 [#地付き]山藍紫姫子 本書は、一九九八年十月刊の単行本『色闇《いろのやみ》』と、一九九六年十一月刊の単行本『ルビー・コレクション 花宴』から「狗」を、大幅に加筆・訂正のうえ、文庫化したものです。 角川文庫『色闇』平成17年2月25日初版発行