山田正紀 氷河民族(『流氷民族』に改題) 目 次  第一章 失 踪  第二章 追 跡  第三章 謀 略  第四章 逆 転  第一章 失 踪     一  バックミラーに傘《かさ》がひっかかっていた。骨を折られ、ボロ切れのようになってしまった傘は、おりから行き過ぎていった対向車にあおられて、パタパタと宙をたたいた。  私は慌《あわ》てて車を停《と》め、雨のなかを飛びだしていった。  黒いコートを着た女が、車道にうつぶせて倒れていた。長く伸ばした髪が、アスファルトに流れる水を反射して、青白く燐光《りんこう》を発しているように見えた。  正直、私は腹をたてていた。  センターラインに佇《たたず》んでいる女の姿は、かなり遠くから認めていたのだ。夜の雨が見通しを悪くしていたのは事実だが、それぐらいのことで歩行者との間隙《かんげき》をとり誤るほど、私は未熟なドライバーではない。  減速して、ホーンを鳴らしたとたんに、女の方から車の前にとびこんできたとしか思えなかった。ハンドルを切るのがもう一秒遅れていたら、傘ではなく、女の体がボロ切れのようになっていたろう。  若い女が自殺を思いたつ原因は、いくらもある。涙を流さないまでも、彼女たちに慰めのひとつもかけてやるぐらいのデリカシーは、私だって持ち合わせているつもりである。が、自殺の手段に私の車を選んだとなると、話は別だ。そんな女は、無人踏み切りまで送っていって、その場に置き去りにしてやりたくなる。この上、人身事故を起こすまでもなく、今のままで、私は充分すぎるぐらいトラブルを抱えこんでいるのだから。 「大丈夫か」  私は、女の体を抱き起こした。  女は昏睡《こんすい》していた。  私が息を呑《の》んだのは、女が気を失っていたからではなく、その思いがけないほどの美しさからだった。  まだ、二十歳《はたち》にはなっていまい。そのほっそりとした体つきは、どう見ても十代の娘のものだった。雨に濡《ぬ》れて光っている髪が、その白い顔をいやがうえにも際立たせていた。長いまつ毛、細く形のいい鼻、ふっくらとした唇《くちびる》——私には、彼女の美しさはほとんど完璧《かんぺき》であるように思えた。  だが残念なことに、今は、きれいな女を観賞するのに相応《ふさわ》しい時ではない。  私は女を抱き上げて、小走りに車まで戻っていった。  車にはねられた人間はなるべく動かさない方がいいぐらいのことは私も心得てはいるが、この雨のなかを放っておくわけにはいかない。実際、肺炎を起こしかねない寒さなのだ。  女をバックシートに寝かせて、私は車をスタートさせた。  第一国道を、国鉄品川駅に向かって、私の車は走っていた。時おり、陸送トラックが水煙を上げて通り過ぎる以外は、ほとんど車の姿はなかった。  二月の雨降り日——それも、深夜の零時を回っているのだから、車の往来が少なかったとしても、別にふしぎはない。こんな夜に外を出歩きたがるのは、自殺を決意した若い女か、私のような落伍者《らくごしや》だけなのだ。  私の眼は、「病院」の二字を求めて、いらいらと国道の両側をさまよった。  見つからなかった。  風が強くなったようだ。フロントを往復するワイパアの動きが、ガタガタときしみ始め、その上を流れる雨が複雑な水紋を描くようになった。  やむをえず、私は、車首を北品川の方角に向けた。  北品川には、昔、国立病院で内科医を勤めていたことのある、須藤一郎のアパートがあるのだった。須藤とは学生時代からのつき合いだったが、ここ二年ばかりは、ある事情から疎遠になっていた。  いや、ある事情などというおためごかしで、言葉をにごすこともあるまい。  二年前の夏、私は、聡子《さとこ》という女性と関係を持った。衝動的な激情に駆《か》られて、それもただ一回きりのことだったが、それが須藤と私との友情をとりかえしがつかないほど悪化させたのだった。聡子は当時別居していたとはいえ、戸籍の上ではれっきとした須藤の妻だったのだから——。  その後、私は、聡子とは一度も会っていない。  だが、バックシートに身を横たえている怪我人《けがにん》のことを考えれば、今は、須藤とのいきがかりにこだわっている時ではないようだった。須藤の顔を見たい、とも思った。私は、内気でセンシブルな須藤という男を、一人の友人として愛していたのだ。  須藤の部屋は、鉄筋の棟《むね》割りアパートの二階にあった。  私は女を両腕に抱えあげ、息を切らして、外に取りつけられている鉄製階段を登った。雨と汗とで下着までぐっしょりと濡れてしまい、下手をすると、私の方がカゼをひきそうだった。  須藤の部屋の前まで来て、私はホッと息をつき、女の体を床におろした。背を壁にもたせかけて、床に坐《すわ》らせてやり、ようやく私は腰を伸ばすことができた。  荒い息がおさまるのを待って、私はインターフォンのスイッチを押した。 「どなたですか」声が返ってきた。 「俺だよ。鹿島だ」私の声がわずかに震《ふる》えていたのは必ずしも雨にうたれた寒さのせいばかりからではないようだった。 「…………」  短い間、ほんの一呼吸か二呼吸する間、ドアのむこうは沈黙した。私は、なんの用だ、という須藤の荒らいだ声を、なかば耳に聞いていた。が——聞こえてきたのは、ガチャガチャというチェーンロックを外す音だった。 「やあ、どうした? 久しぶりじゃないか」  ドアが開けられ、須藤が顔を出した。 「ああ、こんな時間に申し訳ないが、実は、この近所で事故を起こしてしまってね」 「事故?」  須藤は軽くびっこをひきながら、廊下へ出てきた。彼は、幼児期に小児|麻痺《まひ》を経験していた。 「どうしたんだ? はねたのか」  女を見下ろして、須藤は眼を見張った。 「いや、かすった程度だと思うんだが……どういうわけか、気を失ったまま眼を醒《さ》まさない」 「とにかく、部屋に運び込もう」 「すまない」  私は、本心から、彼に礼を言った。須藤は照れたように笑って、腰をかがめ、女の体に腕を回した。私も慌てて彼に力を貸した。  聡子と別れた後、須藤は二DKの部屋に一人で生活していた。彼のきちょうめんな性格も手伝って、部屋はそれなりに整頓《せいとん》されていた。同じ一人暮らしでも、私の乱雑な部屋とは格段の違いと言える。だが、私たちの部屋に共通していることもある。ウイスキーの空き瓶《びん》がやたらにめだつことだ。 「きれいな娘だな」  女を自分のベッドに寝かせて、須藤は首を振ってつぶやいた。 「まったくだ。これだけの美人は、ちょっといない……混血かな。純粋の日本人にしては、肌《はだ》が白すぎるように思うんだが」 「なんだ。君の知り合いじゃないのか?」 「とんでもない。突然、車の前にとびだしてきたのさ。自殺かと思ったんだが、こう眠り続けるところを見ると、もしかして貧血でも起こしたのかもしれない……」  私の言った貧血という言葉が、須藤に医師としての使命感を思いださせたようだった。 「とにかく、体を暖めてやることだな」  須藤はガスストーブの火力を強くして、 「悪いけど、浴室に行って湯を沸《わ》かしてくれないか。それに、乾《かわ》いたタオルを二、三枚持ってきてくれ……明日の朝一番で、ぼくが働いているK病院に運ぶとして、それまでせめて凍え死にしない程度のことは、やっておかないとね……それから、君だが……」  ニヤリと笑って、 「熱いシャワーでもあびるんだね。着替えは、ぼくが用意する。シャワーから出たら、一緒にウイスキーでもやろう」  私が熱いシャワーにようやく人間らしい気分を取り戻して浴室から出てきた時、少女は素裸にされていた。 「…………」  少女のびっくりするくらい均整がとれた裸身に、声を呑んで立ちすくむ私に、 「まったく効果がない。体が冷えきっているんだ」  と言って、須藤はタオルで少女の体をこすっていた手の動きを止めた。額にうっすらと汗をかいていた。  私は椅子《いす》にかけられてある少女の衣類を手に取って、少しためらってから、そのポケットをさぐってみた。  身分証明になるようなものはおろか、財布すら入っていなかった。コートのポケットを総《すべ》てさぐった結果、見つけることができたのは、小さな紙切れ一枚だけだった。手帖を破ったような紙で、そこにはこう書かれてあった。     ラウラ医師とでも読むのだろうか。住所か、せめて電話番号でも書かれていないかと裏返してみたが、他にはなにも書かれていなかった。 「来てみろよ」須藤が毛布で少女の裸身をくるみながら、私に声をかけた。「この娘、泣いてる……」  須藤に言われるままに、私はベッドまで歩いていき、少女の顔を見下ろした。  なるほど、少女は泣いていた。意識を失くして、固く閉じられている目じりから、透明な液体が流れでて、その陶磁器のように白い頬《ほお》を滴り落ちていく——。  昏睡《こんすい》している少女が流す涙は、三十を越えて、疲れ、人生に倦《う》み始めている二人の男に、鮮烈な、なにか感動にも似た思いを惹起《じやつき》したようだった。 「なにが、そんなに悲しいんだろう」須藤がつぶやくように言った。「若くてきれいな娘が、なにを泣くことがあるんだろう」 「彼女の容態はどうなんだ」私は訊《き》いた。  う? というような声をあげて、須藤は少女から眼をあげ、私を見つめた。そして、ようやくなにを訊かれたのか覚ったように、 「ああ……ひどく体が冷えている。それに、右ももから出血している。大した傷じゃないから、血は今夜にでも止まるだろう」 「それだけかね?」 「それだけだ」 「それじゃ、どうして彼女は眼を醒《さ》まさない? おかしいじゃないか」 「まったく奇妙だ。頭を打ったような様子もないし……」  須藤は考えるような眼つきになった。なかなか外れないチエの輪を前にした子供のような表情だった。 (この男は、少しも変わらない)  私は須藤の痩《や》せこけた横顔を見つめながら、そんなことを考えた。彼と最初に顔を合わせたのはもう十年以上も前のことになるが、今も、その時受けた気弱な文学青年といった印象に、なんの変化もないように思えた。もちろん、それが私のひとりよがりの感傷にすぎないだろうことは、よく承知していた。この十年の間に、彼は、派閥争いにまき込まれて大学を追い出されもしたし、愛していた妻に裏切られもしたのだ。しかも、その裏切り行為には、親友であったはずの私もまた一役かっていたのだった——どうして、須藤が学生時代となんら変わることなく、生きてこられるものか。 「今夜は泊まってもらおう、と考えていたんだけどね」  ふいに顔を上げて、須藤は言った。 「どうやら、もう少しくわしくこの娘の症状を調べた方がよさそうだ。そうなると、やっぱり医師以外の男が同室にいるのはまずい」 「そうだろうな」私はうなずいた。「俺のことだったら気を使ってくれなくていい。おかげで体も暖たまったし、今夜は帰らせてもらうよ」 「久しぶりに酒でも飲もうと思ったんだが……」 「いいさ。こちらこそ、見ず知らずの怪我人なんか運びこんだりして、とんだ迷惑をかけたな。明日にでも病院の方に顔を出すよ」 「いいのか。仕事が忙しいんだろう? わざわざ病院まで来てくれなくても、はっきりしたことが分ったら、ぼくから連絡するよ」 「いや、今ちょうど仕事の方は暇なんだ」私は言葉を濁した。  暇という言葉に嘘《うそ》はなかった。不況のあおりをくって、私の事務所は閉鎖せざるをえない状態にまで追い込まれていたのだから。——が、二年ぶりに会った友人にそれをうちあけるには、私という男はあまりに依怙地《えこじ》にすぎるようだった。 「彼女のポケットからこんな紙切れを見つけたのだが……」話題を変えたいこともあって、私は例の紙片を須藤にさしだした。 「ラウラ……と発音するのかな」須藤は眉《まゆ》をひそめた。 「彼女の主治医かもしれない。医者仲間なら、なんとか探《さが》しだす手もあるんじゃないのか」 「それはできないこともないが……ラウラ、か。名前から察すると、インドか中近東あたりの人間だな。東京で開業しているとでもいうのならともかく、外国船の船医だったりすると調べるのにことだ……」 「まあ、調べる必要もないかもしれないな。彼女の容態もたいしたことはなさそうだし……」私はドアに向かった。「それじゃ、明日、病院で会おう」  私はアパートを出て、停めてあった車に乗りこんだ。そして、ルームライトを点けたまま、ハンドルに両手を重ねて、しばらくじっとしていた。——須藤と別れてみると、ありえないことのようにさえ思えるのだが、私と彼との間にはついに聡子という名前が持ちだされることはなかったのである。私に関していえば、彼女の名を思いだしもしなかったのだ。結局、時が総てを解決してくれるというのは真実なのかもしれない。真実であってほしかった。  私はふと私の車にはおよそ相応《ふさわ》しくない匂いを鼻に感じた。甘やかな、それでいて清冽な匂いだった。 (あの娘の香水だな……)  その匂いがなんとはなしに照れくさくて、私は慌てて車をスタートさせた。  激しい雨にさらされて、街は一様に蒼ざめて見えた。三日間降り続いて、なお雨足は衰えようとしないのだった。  天気予報を聞きたくなって、私はハンドルをあやつりながら、左手を伸ばしてカーラジオのスイッチを入れた。  ニュースを知らせる無機的な声が流れてきた。ニュースは、毎年春に行なわれる大西洋横断ヨットレースが今年は取りやめになった、という内容のものだった。英国ヨットクラブのメンバーが理事会に対して抗議文を手渡して釈明を要求した、ということだ。  結局、私は天気予報を聞くことができなかった。     二  私はタバコを捨てようとして、とまどい、そして苦笑した。鹿島デザインスタジオにはもう灰皿《はいざら》一つないのだった。  総《すべ》ての調度を取りはらわれてガランとした事務所に、雨明けの陽光がさしこんできて、まばゆい光をいっぱいにきらめかせている。雨の日に事務所をたたむのも惨めなものだろうが、これほど天気がいいと、なにかからかわれているような気分になる。  今さっき、家具屋がカーペットを巻いて出ていったところだ。後、取りはらわれるものといえば、もう私自身しか残されていなかった。  人によっては、コマーシャルデザインという仕事など所詮《しよせん》は虚職に過ぎないというかもしれない。が、私はこの仕事を愛していた。愛していたからこそ、青春のほとんどをコマーシャルデザインに費しても悔いはなかったし、冒険を承知であえて独立もしたのだ。  しかし、不景気を理由に、それまでなにかと仕事を回してくれていた広告代理店がそっぽを向き、駅弁のちらしや、ついには喫茶店のマッチのデザインまで引き受けねばならなくなった時、私のその愛もようやく褪《あ》せ始めたようだった。なんの明かるい見通しもないまま、事務所を維持していくのに疲れきってもいた。——本音を吐けば、私はしばらく生存競争の戦列から身を退きたかったのだ。再び戦列に復帰できるかどうか、今の私にはその自信さえないのだった。 「ま、ぐちは言うまいよ」  と私は声にだしてつぶやいた。事務員に退職金を払い、いくつかあった借金を整理して、それでも三十万近い金額が、私の口座には残っているのだ。  幸い私はひとり者だし、ここしばらくは静養するのも悪くない。身のふりかたを決めるのは、それからだって遅くはないだろう。  私は口笛を吹きながら、事務所を出た。曲は、イエスタディだった。  須藤が勤めているK病院は、調布市の富士見町にある。私立の病院としてはかなり設備も整っているし、名も通っている方だろう。  その地下の喫茶室で、せんぶりのようなコーヒーをすすりながら、私は須藤を待っていた。  顔から火がでるような思いをして途中の道で買い込んできた少女の衣類の包みが、なにか私を落ち着かない気分にしていた。まったくこの年になって、女性用の下着を買うことになろうとは夢にも思わなかった。  白衣を着た須藤が、せかせかとした足どりで喫茶室へ入ってきた。入口で足をとめて室内を見廻していたが、すぐに私の姿に気がついて、やあ、というように片手を上げて近づいてきた。 「顔色が悪いぞ。あまり無理するなよ」  向かい合いの席に坐った須藤に、私は言った。彼の顔にはうっすらと脂《あぶら》が浮かびあがり、まばらに伸びた不精髭《ぶしようひげ》もひどく憔悴《しようすい》した感じだった。 「いや、実はあれから一睡もしていない」 「一睡も? またどうして」 「君が運び込んできたあの娘さ。今まで見たこともない症状でね。とうとう、かかりっきりで一夜を明かしてしまった」 「まさか生命《いのち》にかかわるようなことはないんだろうね?」 「医者としては、ないと断言したいんだが……」  須藤は言葉をにごして、白衣のポケットからクシャクシャになったタバコの包みを取りだした。一本を抜き取って、唇にくわえる。 「くわしく説明してくれないか。俺《おれ》にしてみれば、事故を起こした責任がある」 「いや、あの娘は車のボディには触れていないよ。多分、傘《かさ》をひっかけられて、転倒したぐらいのことだろう」 「それで生命にかかわるかもしれない、というのはおかしいじゃないか。昨夜の君の話だと、頭を打った様子もないんだろう」 「ない」 「それじゃ、雨に濡《ぬ》れて肺炎でもひきおこしたのかね?」 「確かに、体温はいまだに正常に戻っていない。しかし、体温というのはかなり個人差があるものだからね……熱でもだしたというのなら肺炎の心配もあるんだろうが、逆に体温が低いんだから、ま、その可能性はないよ」 「それじゃ、君が一睡もしないほどの症状ってのは、一体なんなんだ?」 「血だよ」 「……?」 「右ももに小さな傷があるんだが、そこからの出血が止まらない」 「昨夜の今日だろう。二十四時間とたっていない。それぐらいの間血が止まらなくても、そんなに神経質になることはないんじゃないか」 「常識的に考えれば、まあそうだ。だが、血そのものが異常ということになると話は違ってくる」 「どう異常なんだ?」 「血小板がひどく少ない……」 「それが、そんなに問題なのか」 「だから血が止まらないんだよ。血小板には、血漿トロンボプラスチン因子を始めとして、凝血作用をつかさどる因子がいくつか含まれているんだ。そいつが少ないということは、血が固まらない、ということだ」 「待ってくれ。俺は素人《しろうと》だからくわしくは知らないが、血小板が減少する病気のことはどこかで聞いた覚えがある」 「ああ、紫斑病のことだろう」  須藤は、眉《まゆ》の間に縦皺《たてじわ》を寄せてうなずいた。 「血小板というのは、骨髄巨核球の細胞質から生成されるものなんだがね。血小板減少による紫斑病は骨髄巨核球数が正常ないし増加している群と、巨核球数減少による骨髄障害群とに区別されるんだ」 「あの娘の症状はどちらなんだ?」 「まあ、慌《あわ》てるなよ。順を追って話すから。まず、巨核球数が増加して起こる紫斑病だが、これは確かに若い女性に多い……しかし、その場合多くは子宮出血を伴うんだ。尿路、呼吸器、消化管などから大量出血することもある。あの娘はどうだ? そんな症状が一つでも見られるか? 答はノーだ。従って、巨核球数が増加しているとは考えづらい」 「…………」 「次に、巨核球減少を伴うものだが……白血病、大量出血によるもの、再生不良性貧血というところかな。そうそう、アンチピリンとかキニーネという薬品が巨核球障害をひき起こすこともある」 「いずれも、あの娘にはあてはまらないというわけかね?」 「そうだ。よく分ったな」須藤はニヤリと笑った。「となると残された可能性は、骨髄巨核球は正常で血小板の減少を伴うものだが、こいつも彼女にはあてはまらない。なにしろ、肝硬変、結核、梅毒、腸チフス、敗血症、急性感染症といった病気だからね。悪性貧血と考えるのも、少しおかしなところがあるんだ」 「それじゃ、あの娘は病気じゃない、ということになるぜ」  須藤が並べたてる病名にいささか閉口して、私はうんざりと首を振った。 「だから、今まで見たこともない症状と言ったじゃないか」 「どんな病気だか、まったくめどもつかないのか?」 「そうだな。脾臓《ひぞう》に、巨核球の血小板生成能力を抑制するホルモン様物質がある、と言われているんだが、こいつがなにか関係があるかもしれないな……それにしても道理の合わない話だよ。凝血能力に障害をおこすほど、この種のホルモンが分泌されなければならない理由となると、ちょっと想像がつかない」  私はタバコの火を点けて、 「まあ、病気のことは君にまかせるよ。それより、彼女の身元は分ったかい? できれば、ここの支払いを車にかけてある保険ですませたいんでね……あの娘の名前が分らないことには、どうにも手の打ちようがない」 「入院費のことなら心配するなよ。ぼくの方でどうにでもするさ……警察にも訊いてみたんだが、失踪《しつそう》人届けにも、彼女に該当するようなのはないらしい。まだ一日とたっていないからね。ふしぎはないんだが……ぼくとしても、できるだけ早くあの娘の身元を知りたいよ」 「彼女がすごい美人だからか」と、私はからかった。 「それもあるがね」須藤は表情も変えずに応えた。「あの娘の遺伝因子を知りたいんだ。なにか劣性遺伝子が関係していないか、両親を調べればはっきりする。確かに血小板が少ないことも少ないんだが、血液凝固因子にも異常があるみたいなんだ」 「血友病か? 女だぜ」 「女性にだって血友病患者はいるさ。血友病の男性と、因子伝達者の女性が結婚すれば、理論上女性血友病患者が出てもおかしくない。一例だけだが、日本でも女性患者が報告されているよ。それに、血液凝固因子異常で遺伝が関係するものは、血友病だけとは限らない。プロトロンビン血症とか、フィブリノーゲン血症とか他にいくつもあるんだ」 「血液組成とか機能そのものが違うなんて可能性はないものかね」私はほんの思いつきでそう訊いた。むしろ、話の調子を合わせるためにのみ吐かれた言葉だった。  が、その言葉に対する須藤の反応は、思いがけなく激しいものだった。  彼は、一瞬、あっけにとられたような表情で私の顔を見つめていたが、 「そんな莫迦《ばか》な。それは、あの娘が人間ではない、ということだよ。そんなことは絶対にありえない」  なかば叫ぶようにして、私の言葉を否定したのだった。 「おいおい、なにもそうむきになることはないじゃないか。たかが素人の思いつきだぜ」  私は彼のけんまくに驚いた。私の知っている須藤は決して声を荒げたりはしない男だったのだが……。 「そうだな」彼は頬《ほお》に気弱げな笑いを浮かべた。「ぼくはどうかしている」  確かにどうかしていた。その時を境に、彼は私の言葉にろくに反応を示さなくなり、ついにはコーヒーを見つめながら考えこんでしまったのである。険しい表情《かお》だった。  アナウンスが須藤の名を呼んだ。  彼はコーヒーから眼を上げようとさえしない。アナウンスが繰り返されている。 「君を呼んでいるよ」  業を煮やして、私は言った。 「う?」  須藤は顔を上げた。ようやく、アナウンスに気がついて、 「これで失敬する。患者らしい」  席を立った。 「大丈夫か? おかしいぜ」  と私が声をかけるのに、なにも応えようとしないで、ただニヤリと笑って見せた。ひどく不可解な笑いだった。  喫茶室を出ていく時、須藤は足をひきずるような歩き方をしていた。彼が人眼を気にせずにびっこを引いているのは、他になにか気にかかることがある証拠だった。  私が、須藤に少女の着替えを渡さなかったのに気がついたのは、かなり時間が経過した後のことだった。  彼の姿を見るのはこれが最後になるかもしれない、といういわれのない不吉な予感にうちひしがれて、私の思考はしばらく麻痺《まひ》していたのだった。  十年ぶりの静養にしては、私のそれはかなりささやかな芸のないものだった。  毎日、陽が高くなるまでベッドにいて、午後はたいてい近所の喫茶店で、ぼんやりと街路を眺《なが》めて時間をつぶした。見たいと思いながら機会がなくて見逃していた映画が、商店街の三流館にかかっているのを知って、下駄ばきで出かけていったこともある。夜は赤ちょうちんで過ごした。  正しく落伍者《らくごしや》の生活そのものだったが、私が気にしなければそれだけのことで、他に叱《しか》ってくれる人もいない。そして私はといえば、むしろそんな生活を気に入ってさえいたのだ。  例の少女のことが気にかからなかったわけではないが、医者でもない私が病室をうろうろしても、目障りなだけだろう。彼女の身元でもはっきりすれば、私のすべきこともいくつか出てくるだろうが、昏睡《こんすい》状態のままではどうにも手のつけようがない。 (ま、須藤にまかせておくさ)  私は、後ろめたい気持ちをことさらに無視して、そう自分を納得させた。  本音を吐けば、男一人の自堕落な生活にすっかり適応してしまい、他者と関係を持つのがおっくうになっていたのだ。それがたとえ二人と見つからないような美少女との関係でも、だ——。  だから、その日、もう久しく使わなかった電話が鳴りだした時、危うく私は部屋から逃げ出しそうになってしまった。  しばらく、そのままにしておいた。  電話は鳴り続ける。  あきらめて、受話器を取った。 「はい、鹿島です」 「もしもし、徹さん?」  そのかすれたような声には覚えがあったし、私を徹と呼ぶ人間は一人しかいない。私は電話を切ろうとした。 「待って、切らないで」  慌てて、聡子が言った。私は、しぶしぶ受話器を耳に戻した。 「どうしたんだ? ぼくたちはもう会わないし、手紙のやりとりもしない、電話もかけないと約束したじゃないか」 「二年も前のことよ」 「十年たっても、約束は約束だ」 「須藤のことを、まだ気にしているのね」 「友達の女房と寝るような奴は、人間のくずだ。友達を失くしてしまうだけじゃなくて、プライドまで棄ててしまう……」 「モラリストなのね」 「マゾヒストなのさ……用事がないなら切るよ」 「あいかわらずせっかちね。自惚れが強いのも変わってないわ。私があなたに電話したのは、須藤のことなのよ」 「須藤? 彼がどうかしたのか」 「今朝、警察から連絡があったの。彼が、麻薬取り締まり法違反で逮捕された、って。私を通じて、離婚の時に世話になった弁護士に会いたがっている、というのよ。なんといっても、御亭主だった人だからね。どうにかして、力になってあげたいと思って……もしもし、鹿島さん、聞いてるの?」  もちろん、私は聞いていた。  手のなかにある受話器を折れんばかりに握りしめて、一心に聞き入っていたのだ。ふいに私の脳裏に甦《よみがえ》ってきた、病院の喫茶室で須藤と別れた時のあの暗い予感に、懸命に耐えながら——。  こうして、私の静養は終りを告げたのだった。     三  須藤一郎が連行された警察署は、管轄に大きな繁華街を抱えていて、東京でも最も強持《こわもて》のする刑事が揃《そろ》っているという評判だった。その強持のする刑事たちに須藤がせめさいなまれているのかと考えると、私は居ても立ってもいられないような想いがした。  新宿で聡子《さとこ》と待ちあわせ、私たち二人はその足で警察署に向かった。  刑事課捜査係——これが須藤が取り調べをうけている課の名称だった。四人の係長、四人の部長、そして二十人の刑事によって構成されている。私たちの相手になってくれたのは、吉田という名の係長だった。 「こちらへどうぞ」吉田は愛想よく私たちを小部屋に誘った。  その小部屋では一人の男がボソボソと弁当を食べていて、私たちが入っていっても立ちあがろうとさえしなかった。 「こちらはうちの課の景山刑事です」吉田が言った。「こちらのお二人は、例の須藤のお知りあいだ……」  景山と紹介された刑事は、わずかに頭を動かした。もしかしたら、それが彼の挨拶《あいさつ》だったのかもしれない。髪を五分刈りにした、平板な顔だちの男だったが、その太い眉《まゆ》がいかにも彼を強情そうに見せていた。老けて見えるが、私とさほど齢《とし》は違わないだろう。 「それで?」吉田が私たちを促した。「須藤について、お訊きになりたいことというのはなんですかな」 「あの人が、麻薬取り締まり法にひっかかるようなことをするなんて、どうにも信じられないんですけれど……本当に気の小さな、虫も殺せないような人ですから」聡子がいった。  今日の聡子は、ミッドナイトブルーのシャツブラウスに、同色のパンタロンを穿《は》いていた。そんなシンプルな装いが自分に似合うことを、勝気な彼女はよく承知していた。そして、まだまだ男の眼を引きつける美貌《びぼう》を保っていることも——。 「いや、まだ有罪と断定したわけではないんです。今のところは、参考人というぐらいですかな」  聡子の大きな眼で一直線に見つめられた吉田は、驚いたことに頬《ほお》をうっすらピンクに染めた。純情な係長など、テレビでも見たことがない。 「なんといっても、医者という職業は、日常、麻薬をとりあつかってますからな。どうしても、誘惑が多くなるわけで……まあ、それで、あれこれ須藤さんにもお訊きしようと思いましてね」 「あいまいな言い方はやめたらどうですか? 麻薬をとりあつかっている医者は、なにも須藤に限らない。彼を勾留したからには、それなりの理由があったはずだ」私が言った。そんなつもりはなかったのだが、自然になじるような口調になっていた。  吉田はジロリと私を一瞥《いちべつ》して、 「こちらは弁護士さんですか?」  恐しく、冷やかな声音だった。 「鹿島さんという方です。あの人の親友ですわ。私一人では心もとないので、一緒に来ていただいたのです」と、聡子。 「なるほど、お友達ですか」吉田はうなずいた。そのお友達が何しに来た、といわんばかりの口ぶりだった。 「いや、不審に思われるのも、ごもっともです。実は、須藤さんが麻薬を横流ししている、という密告《タレコミ》がありましてね。私たちとしても放っておくわけにもいかないので、こちらへお越しいただいたような次第で……」 「中傷ですよ。須藤という男は、そんなことのできる奴じゃない」 「もちろん、密告の九十パーセントは、ねたみか中傷です。しかし、だからと言って、調べないわけにはいかない」 「とにかく、彼に面会させてくれませんか? 弁護士のことなんかを相談したい。彼には身寄りがないんでね。ぼくたちが力になってやらなければ、他に救《たす》けてくれる人間もいない」 「それはできません」吉田はそっぽを向いた。「いまはただ事情をきいているだけで、まだ逮捕に踏みきったわけではない。弁護士がどうこうという段階ではない」 「そんなばかな! 現に須藤は勾留されているじゃないか」  と私が抗議する声に、吉田はそっぽを向いたまま耳を貸そうともしなかった。いくら純情でも、男の私に声をかけられて顔を赤らめるはずがなかった。私にまかせておいては、かえって話がこじれると思ったのか、 「どうでしょう? 弁護士のことはともかく、あの人に会わせるだけは会わしていただけないでしょうか?」聡子が慌てて言った。 「お気持ちはよく分りますが、なにぶん尋問中ですので……事情がはっきりすれば、今日にでも帰っていただきます」  吉田は表情を和らげかけ、私の視線に気がついて、再びぶっちょう面をつくった。 「申しわけありませんが、ご用件がそれだけでしたら、お引き取り願えませんか。なにぶん、忙しいものですから」  その後五分ぐらい、会わせろ、いや会わせないのやりとりが続いたが、とうとう吉田は首を縦に振らなかった。  ついでに言えば、ばん茶一つ出なかった。  あきらめて、我々は席を立った。 「ご期待にそえなかったようで、申しわけありませんでしたな」  憤然として、調べ室を出ていく私たちに、吉田は楽しげに声をかけた。私は振り返って、吉田の顔を見つめた。何を言っても、こたえそうもない顔だった。私は、視線を吉田から景山に移して、 「いい上司を持ったな」  できる限りの皮肉を込めて言った。しばらく反応をうかがっていたが、景山の表情にはなんの変化もなかった。木偶《でく》人形のように無感動な眼をしていた。  私は調べ室を出た。  私のKO負けなのだった。  春さきの埃《ほこり》っぽい風に、喫茶店のデコラ張りのテーブルまでがざらついていた。もっとも、いくらか薄汚れている方が、警察の建物に隣接しているような喫茶店には似つかわしいのかもしれない。  非番の刑事たちが、鋭い眼を光らせてコーヒーをすすっているのでは、店主も店をきれいにしようなどという情熱は失くしてしまうことだろう。なにしろ、注文を取りに来るウェイトレスまでが鋭い眼をしているのだから。 「どうしたものかしら?」  聡子が訊いた。  私にしても、いい考えのあろうはずがなかった。 「ああ取り調べ中の一点張りじゃ、とりつく島もない。しばらく様子を見るんだね。案外、あの吉田とかいう係長が言ったように、須藤は今日にでも帰されるかもしれない」 「そうかしら。私は、どうも嫌《いや》な予感がするんだけど……」  聞き逃せない言葉だった。 「どうしてだね? 須藤は、絶対に麻薬を横流ししたりするような男じゃない」  聡子は含みのある微笑で、それに応えて見せた。翻訳すると、麻薬で儲《もう》けようと考えるほどかいしょうのある男なら、別れたりはしない、ということになる。彼女の現在のパトロンはスーパーマーケットを経営していて、女に洋品店をやらせてもびくともしない金満家らしい。ちなみに、聡子の店の名は、「フォンティン」という。金ならいくらでも湧《わ》いてくる、というしゃれでもないのだろうが。 「気を持たせるのは止めたらどうだ? ぼくたちはもうそんな仲じゃない。なにか心当りがあるのだったら、もったいぶらずに教えてくれ」 「実は、私三日ぐらい前に彼と会ってるの」落ち着きはらって、聡子は言った。 「会ってる? 彼から君に連絡してきたのか」 「そうよ。どう? 驚いた?」 「ああ、驚いた。須藤は気の弱い男だが、誇りだけは持っているはずだ。後ろ足で砂をひっかけて出ていった女に会いに行く、なんてとても考えられない」 「てきびしいのね」聡子は苦笑した。「でも、別によりを戻してくれと頼みに来たわけじゃないのよ。病気の娘をしばらく預ってほしい、と頼んできたの」 「なんだって」私は思わず声をあげた。「それで、きみはその娘を預ったのか」 「ええ。始めは断ったんだけど、あの人があんまり熱心に頼み込むんで、とうとう引き受けちゃったの。長い期間じゃないということだし、それに、その娘さんを車で連れてきちゃっていたのよ。否も応もなかったわ」 「ちょっと待ってくれ」  私はレジまで歩いていって、K病院に電話をかけた。電話に出た看護婦は、確かにあの少女は須藤の指示で自宅療法するということで退院している、と応えた。私は狐《きつね》につままれたような気分で、電話を切った。  自宅療法もなにも、あの少女の身元は分っていないはずだ。現に、須藤は、少女を預ってくれ、と聡子に頼みこんでいる——よしんば、治療の必要上どうしても病院ではまずい、という事態があり得たにしても、彼が少女を自分の部屋に置こうとしなかった理由が分らない。自分の部屋に若い娘を入れるのはまずい、などと考えるような男でないことは、私が一番よく承知している。  呆然《ぼうぜん》としながら席に帰った私に、 「どう? 納得がいった?」聡子がからかうような声で訊いた。 「まだだ」私は首を振った。「きみは嫌な予感がするといった。確かに、見知らぬ少女を預ってくれという頼みは、常軌を逸しているかもしれないが、しかし不安を感じなければならないほどではない。嫌な予感の根拠が、なにか他にあるはずだ」 「きれいすぎるのよ。あの娘は……」聡子はタバコに火を点けながら、投げるようにいった。「あんな美人に関わりを持つと、男はろくなことにならないわ。それに、あの人なにかに怯《おび》えているみたいだった。ギラギラした眼つきで、しきりに窓の外をうかがったりしていたわ」 「怯えていた……」私はつぶやいた。「なににだろう」  聡子は肩をすくめて、 「私が知ってるはずないわ。鹿島さんも、眠れる美女なんかに関わったりしないことね。身の破滅よ」 「…………」  聡子が知らなくて当然だが、私はすでに眠れる美女に関わりあいになっていた。だが、そうでなくとも、私はとっくに身の破滅を迎えている。その意味では、私には怯えるべきことはなにもないといっていい。——では、須藤はどうなるのか。確かに、彼は失業こそしていないかもしれないが、医師という職業をことさらに誇りにしているようにも見えなかった。彼もまた私同様失うものはなにもないはずだった。生命《いのち》以外は——  そこまで考えて、私は愕然《がくぜん》とした。なにか生命の危険に怯えなければならないことに須藤は巻き込まれているのだろうか。 「君は、須藤が警察に連行されたのも、あの少女になにか関係がある、と思うのか」私は訊いた。 「まさか」  その短い言葉をタバコの烟《けむり》と共に吐きだして、聡子は咽喉《のど》の底で笑った。 「そんなことがあるはずないでしょう。ただ私は、嫌な予感がすると言っただけ」 「どうだろう? 須藤は、少女の身元が分っていたようなことを言ってたかい」 「分らないみたいだったわね。でも私の勘では、あの娘《こ》よっぽどいい家の娘だわね」 「どうして?」 「香水よ。あの娘がつけている香水は、『|美しい女《ベラドンナ》』といってね。フランス製なんだけど、それは高価な香水よ。日本であの香水を使える女性といったら、二千人もいないんじゃないかしら」  私の鼻孔に、あの夜、車のなかに漂っていた香りが、フッと甦ったように思えた。  私はうなずいた。 「なるほど……良家の子女か」  無意識のうちに、がっかりしたような声音になっていたのだろう。聡子が、再び咽喉の底で笑った。 「良家の子女が見たいんだったら、今のうちよ。私の部屋で眠り続けているわ……でも、あんな病気聞いたこともないわ。なにも食べないし、トイレにも行かない。ずっと眠り続けているのよ」 「そういう病気なんだろう」 「私、お店に顔を出さなければならないから、これで失礼するわ」聡子は席を立った。「明日まで待って、それで須藤が釈放されないようだったら、もう一度相談しましょう」  私には彼女をひきとめる理由はなかった。 「そうだな。警察も、もう一晩泊めておくのが限度だろう。それ以上になると、事情聴取だけでは抑えきれなくなる。どちらにしても、明日は須藤に会えるわけだ」 「そうね」  扉《とびら》の方に歩きかけていた聡子は、突然振り向いて言った。 「あの人もあなたも優しすぎるのよ。いい気になってるのね。そういう男が一番ずるいんだわ。女に踏みつけにされて当然だわ」  私がその言葉の意味を考えているうちに、聡子は店を出ていった。彼女は、注文したコーヒーにほとんど口をつけていなかった。  私は首を振って、須藤のことに考えを集中させようとした。聡子の意見では、須藤と私は女に踏みつけにされる限りにおいて、同類だという。私はその同類を、かつて裏切ったことがあるのだ。今、須藤がなんらかの苦境に立っているのだとすれば、彼を救けるのは私にとって一つの義務でさえある。 (なんらかの苦境?)  私は苦笑いした。  須藤にとって当面の問題は、彼が勾留されているということだ。彼の釈放のために、私にできるなにかがあるとしても、総《すべ》ては明日以降のことになる。しかも明日になれば、もう須藤は自由の身になっているかもしれないのだ——。  今の私にできるのは、彼のために祈ってやることだけなのだった。  私は、上着のポケットからマッチ箱を取りだした。私には、なにかを決めかねている時、もしくはなにかを占いたい時、半ば習性のようにある儀式を行なう、という癖《くせ》がある。いや、儀式などとは言葉が大仰すぎる。要するに、その時持っているマッチ箱の軸木の数が偶数ならばイエス、奇数ならばノー、ただそれだけのことなのだ。 (須藤は釈放されるか)  と私は頭のなかでつぶやいて、マッチ箱の中身をテーブルにばらまいた。  軸木は十八本あった。  私は腕を組んで、しばらくテーブルの上のマッチを見つめていた。どういうわけか、今回に限り、マッチのお告げを額面どおりに受け取れないような気がした。  通りかかった眼つきの鋭いウェイトレスが言った。 「あら恋占い?」  いや、と私は首を振りかけて、 「ああ、そうだ」  うなずいた。 「こいつは、俺の恋占いだ」  ひどく乱暴なノックの音で、眼を覚まされたのは、十一時過ぎだった。昨日、聡子と別れた後、新宿のバーで前後不覚に酔い痴《し》れるまで飲んでいた私は、二日酔いのせつなさをしみじみ噛《か》みしめながら、やっとの思いでドアまで歩いていった。 「どなたですか?」  我ながら情けない声だった。  だが返ってきた返事は、酒ぼけした私の頭をしゃんとさせるのに充分なほど、緊迫感に満ちたものだった。 「警察の者です。お聞きしたいことがあるのですが、ドアを開けていただけませんか」  反射的に逃げ腰になった私は、しかし、警察を怖《おそ》れなければならない理由など一つもないのに気づき、いささかむかっ腹を立てながらドアを開けた。 「どうも朝から恐れ入ります」  と感情のこもらないフラットな声で、私に挨拶《あいさつ》したのは、景山刑事だった。彼の背後に立っていた見知らぬ若い刑事が、 「失礼します」  とつぶやくと、私の脇をすり抜けて部屋に入っていった。  洗面所のドアを開け、ベッドの下を覗《のぞ》きこむ——。 「おいおい、これはなんの真似だ?」  私はかっとして、景山刑事に詰め寄った。 「須藤をかくまってはいないでしょうね」  物憂《ものう》い声で、景山は言った。 「なにを言ってるんだ? 彼は、君たちに拘留されている」 「昨夜、釈放しました。結局、密告《タレコミ》はでたらめだった」 「釈放しておいて、さがすのか?」  それには応えず、私の肩ごしに、 「もういい。この狭い部屋だ。それだけさがして何も出てこなければ、なにもないということだ」景山は、若い刑事に声をかけた。  屑籠《くずかご》をかき回していた若い刑事はうなずいて、ゆっくりと立ち上がった。 「説明してくれるのだろうな」私の声は昂《たかぶ》っていた。 「今朝、高倉聡子さんが、彼女の店で死体となって発見された」 「…………」 「須藤は、病院から自宅謹慎を言い渡されて、やけになっていた。自分を捨てた聡子さんを恨んでもいた」  ようやく、私は景山がなにを言っているのかを覚ることができた。血が、一瞬のうちに逆流する思いだった。 「——聡子が殺されたと言うのか」  景山は黙ってうなずいた。 「そして、君たちは須藤を疑っているのか」 「聡子さんの死亡推定時刻は、須藤が釈放されてから二、三時間後だ」  景山は静かに応えた。  私は何か叫びだしたいような気持ちで、しかし何を叫んでいいのか分らないままに、呆然《ぼうぜん》と景山の顔を見つめていた。     四  その日の朝、「フォンティン」の売り子がいつものように店に出勤して来て、ショーケースの間で倒れている聡子《さとこ》を発見し、警察に通報したのが、事件の始まりだった。医師の診断を待つ必要もなく、聡子が殺されたのは一目|瞭然《りようぜん》だったのだ。  彼女の咽喉《のど》に喰い込んでいる青いスカーフが、おしゃれのために巻きつけられた、と考えるほど脳天気な人間は一人もいなかったわけだ。  それが、午前九時——。  一方、須藤が警察を釈放されたのは、午前六時、ようやく街が白み始め、一日の活動を開始した頃《ころ》のことだった。須藤の容疑を決定的にクロくしたのは、彼がそのまま行方をくらましてしまったことだ。朝のそんな時刻に、一体行くべき所などあるのだろうか?  警察は、別れた女房の所へ立ち寄った、という見解を取っている。そして、なんらかの原因で口論になってしまい、かっとなった須藤が手近に置かれてあったスカーフで聡子の首を絞めたのだ、と……。  ありそうなことだ。ありふれた話でさえあるかもしれない。  しかし、私は信じない。  私には、どうしても須藤が聡子の首を絞めている姿など、想像できないのだ。確かに、彼は人生にいくつかの貸しがある。不当な、返してもらうあてもない貸しだ。しかし、須藤はその貸しを聡子を殺すことで清算しようと考えるような男ではない。彼に相応《ふさわ》しいのは、貸し続けたままで黙って死んでいくことだろう。  須藤とは、そういう男なのだ。  が、警察が私を連行してまで訊きたかったのは、彼がどんな男であるかではなく、彼が立ち寄りそうな場所はどこか、ということだった。  知らない、と私は応えた。  本当に知らないのか、それとも言いたくないのか、と景山は訊いた。本当に知らないのだが、もし知っているとしても絶対に言わないだろう、と私は言葉を返した。  景山の眼が光った。  帰らせてもらう、と私が立ち上がっても、もう何も言おうとしなかった。  警察を出て、駐《と》めてあった車に乗り込んだ私は、しばらくタバコをくゆらしていた。  尾行者らしい人物は、見当らなかった。  車を発進させた。  明治通りへ出て、青山の方向に走らせる。  昏《く》れ始めた街に、装った男女が溢《あふ》れていた。私には、彼等の総《すべ》てが幸福でありすぎるように思え、ひどく腹だたしい気がした。  八つ当たりなのだ。  私が本当に腹を立てていたのは、あの須藤をここまで追い込んでしまった何かに対してなのだった。その何かのうちに、私自身も含まれていると考えるのは、ほとんど耐えきれないことであるように思えた。  誰《だれ》かを救けることで、自分のうちに重くわだかまっている負債を帳消しにしようとするのも、つまるところはエゴの一種に過ぎないであろう。その意味で、エゴイストと非難されても私には返す言葉がない。——が、だからといって、須藤がみすみす窮地に追い込まれていくのを、手をこまねいて見ているわけにはいかなかった。  私は須藤を救けたいのだ。 (とにかく、あの少女を引き取ることだ)  と私は考えた。未だ昏睡《こんすい》状態でいるのなら、誰かが世話しなければならないし、それに、須藤の失踪《しつそう》も、聡子の死も総てあの少女に端を発しているように思えたのだ。聡子は言ったではないか。あの少女に関わり合う男はろくなことにならない、と——もっとも、ろくなことにならないのは男だけではなかったようだが。  車のフロントごしに、聡子の部屋がある十二階建てのマンションが、ゆっくり近づいてきた。  マンションの管理人は赤茶けた顎《あご》ひげをはやした中年男だった。受け付けから顔を出し、いかにも大儀そうに私の話に応じる。聡子の死は警察から連絡を受けて知っているが、まだマンションには刑事は姿を見せていないという。 「ぼくが部屋に入るのに立ち会ってくれませんか」私は頼んだ。 「どうなさるんですか」と管理人は訊いてきたが、なかば反射的な質問で、私に実際に興味を持っているようには見えなかった。 「彼女の部屋に病人がいるはずです。その病人を連れ出したいのですが……」 「失礼ですが、あなたは?」 「親戚《しんせき》の者です」そう応えるしかなかった。 「親戚の方ならもうお一人来てらっしゃいますよ」受け付けから管理人の顔が消えた。「その方のためにドァは開けましたから、どうぞご随意に……」 「…………」  私は唖然《あぜん》とした。親戚の者だと名のりはしたが、聡子に親戚などいないことを知っていたからである。誰かが身分をいつわって聡子の部屋に入っているのだ。  私は慌《あわ》ててエレベーターにとびのった。  聡子の部屋は九階にあった。私がドアの前に立った時、そのドアが内側に開かれて、一人の男が出てきた。  長身の、筋肉質の青年だった。なめし革のようなよく陽に灼《や》けた肌《はだ》に、沈んだ色をした眸《め》が印象的だった。髪は長く伸ばしているが、きちんとくしが入っていて、薄汚れた感じではなかった。——もし彼が聡子の若い燕《つばめ》だとでもいうのなら、彼女の男を選ぶ眼はここ一、二年のうちに急速に洗練されたことになる。 「そこどいてくれませんか」青年は穏やかな声でいった。  私は青年の前に立ちはだかっていたのである。 「管理人に親戚の者だと名のったそうだが、聡子には親戚なんか一人もいなかったぞ」私が言った。 「そこどいてくれませんか」私の言葉にまったく動じないで、青年はそう繰り返した。  どくしかないようだった。親戚を騙《かた》ったということなら、私も同罪なのである。下手に管理人など呼び出して、警察|沙汰《ざた》にでもなれば、私もまた無事ですむはずがなかった。  青年はゆっくりとした足どりで立ち去っていった。その後ろ姿を見送っている私の胸には、いずれ彼とは再会する時がくる、という確信じみた想いが浮かんでいた。それも、そんなに先のことではないように思われた。  聡子の部屋に入った。  指を伸ばして、照明のスイッチを入れる。  かなりゆったりとしたスペースの、二間続きのフラットだった。ひとつは居間兼ベッドルーム、もう一室はダイニングキッチンのようだった。  ベッドには誰も寝ていなかった。  私は部屋を横切り、ダイニングキッチンを覗《のぞ》いてみた。よく整頓《せいとん》のいきとどいたキッチンに、水道の蛇口《じやぐち》から洩《も》れる水滴が空《うつ》ろな音を響かせていた。  居間に戻って、押し入れから洋服ダンスまで開けてみた。もちろん、洗面所を調べるのも忘れなかった。  猫《ねこ》の子一匹いない。  よく考えてみれば、眠れる美女がそんな所に身を隠せるはずがないのだった。  少女はすでに眼を醒《さ》ましたのか。だが仮に、少女が自由に出歩けるほどの健康体にまで回復したとしても、書き置き一つ残さずに姿を消すというのはあまりに不自然であるように思えた。それに、昨日《きのう》の聡子の話を考えると、それほど早く少女が回復できた、とはとても信じられなかった。  素人探偵の仕事は早くも壁につきあたったようだった。藁《わら》にもすがりたいような想いで、私は部屋を見廻した。とにかく、少女がどこへ行ったのか、その手がかりだけでも掴《つか》む必要があった。  ふいにある記憶がきらめいた。  手がかりを見つけるのに、部屋を見廻す必要などなかった。 (日本であの香水を使える女性といったら、二千人もいないんじゃないかしら……)  その香りは、今、この瞬間にも、部屋に漂っている——「|美しい女《ベラドンナ》」の顧客のなかから、あの少女を見つけだすのが、それほどむずかしいとは思えなかった。  手がかりが唯一においだけとは、いかにも頼りなかったが、しかし不満を言っている場合ではなかった。文字どおり、少女の残した匂《にお》いをたどって、彼女の居所をつきとめるしか、今の私には方法がないのだった。  私は後ずさりにドアに近づきながら、もう一度部屋を見廻した。  この部屋で生活し、そして今はもう死んでしまった女に、かつて情熱を傾けた時があった、ということが私をいくらか感傷的にしていたようだ。  感傷は事実を見る眼を曇らせる、と言う。  しかし結果として、その時、私が感傷的になっていたのが幸いしたのだった。後も見ないでさっさと部屋を出ていったなら、まず、電話卓に置かれたメモ用紙なぞに眼を止めることはなかっただろうから——。  説明しようもない第六感に導かれて、私はそのメモ用紙を手に取った。  電話番号らしい数字が書かれてあり、その下にダッシュが引かれていた。  それだけで、後は何も書かれていない。  が、私の指は興奮で微《かす》かに震えた。  特徴のあるその文字を、私が見誤うはずがない。極端に右上がりのその筆跡は、確かに須藤が書いたものだ——何本もダッシュを引かなければならないほど、彼にとって重要だった電話番号を、私は手に入れることができたのだった。  メモ用紙を四つに折って内ポケットにしまうと、今度こそ、私は振り返りもしないで聡子の部屋から出ていった。  私の住いは俗に言う下駄ばきアパートだった。聡子のマンションに比べれば、まるで犬小屋同然の代物だが、世の不公平を嘆ずるには、私はあまりに疲れすぎていた。  実際、いつに変わらぬそっけなさで迎え入れてくれる部屋に、私はそれなりに満足しているのだ。  ガスストーブに点火し、FMのスイッチを入れ、ウイスキーの水割りをつくる。後は、上衣を脱ぐのが精いっぱいだった。水割りを持ったまま、ベッドに横になる。  しばらく眼をつぶってみたが、いつまで待っても、疲れはとれそうになかった。  あきらめて、電話帳を手に取った。  腹ばいになって、「|美しい女《ベラドンナ》」の営業所の所在地と、聡子の部屋で見つけたメモに該当する電話番号をさがした。 「|美しい女《ベラドンナ》」の営業所は六本木にあった——。  電話は、T理科大の名義になっていた——。  私には、その取り合わせが、どうにもちぐはぐなものに思えた。その二つをどうはめ合わせれば、噛《か》みがうまくいくのか、見当もつかなかった。  いや、須藤に関係する一連の事件が、あの眠れる美女になにかつながりがある、と考えるのがそもそも間違いかもしれないのだ。経験も組織も持たない私が、警察と張り合っているつもりで、まったくピントの外れた筋道をたどっているのだとしたら、これほど滑稽《こつけい》な話もないだろう。  私は水割りを一気に空けた。  考えてもしかたがないことだった。  私は、私のやり方で、須藤の冤罪《えんざい》を晴らそうとするしか、方法を知らないのだ。  頭のどこかで囁《ささや》いている声があった。 (本当に、須藤の冤罪を晴らすためだけで、動いているのかね?)  声は言った。 (実は、あの娘をさがしたいんじゃないのか?)  私は立ち上がって、二杯めの水割りのために、ピッケルで氷を砕き始めた。必要以上に音をたてたのは、その声を聞きたくなかったからだった。     五  私のなかばガタのきた車は、六本木の華やかな街路には、とてものこと似合いそうもなかった。いわんや、運転している薄汚れた中年男ときたら、なおさらのことである。ただし、その程度のことで気が差したりしないのも、また中年の強みなのだ。  私は、ガラスの城のようなフルーツショップの前に車を駐《と》め、ウェイターが文句を言いに来る暇も与えず、素早くその場を離れた。  すぐ眼の前に、新しい、細長いビルがあった。「|美しい女《ベラドンナ》」の事務所は、その三階にあるはずだった。  私はエレベーターで三階まで登り、廊下へ足を踏みだした。  フロアを借りきっているらしく、廊下の壁面いっぱいに、ヌードの黒人女性が寝そべっている画が描かれ、隅の方に小さく「|美しい女《ベラドンナ》」と金文字で記されていた。枯草色のカーペットを踏んで、正面の扉《とびら》まで歩いていき、ブザーを押した。  扉が開いた。 「どちら様でしょうか?」  顔を出した若い男が言った。私の風体を一瞥《いちべつ》して、悔んだような表情《かお》になる。 「こういう者ですが……」  私は、名刺を差し出した。  若い男は、キザな手つきで名刺を受け取り、眼を近づけてうなずいた。 「なるほど……デザイン屋さんですか」  今にも、間に合ってます、と言いださんばかりの表情だった。ブルーの絹シャツに、アイビーの上衣と、センスは悪くないが、いかんせん中身がひどすぎた。血色の悪い顔に、うっすらと脂《あぶら》を浮かべて、ごていねいにニキビまでできていた。 「いや、今日伺ったのは、仕事の話とは関係ありません。個人的に、教えていただきたいことがあって……」私は下手にでた。  男はチラリと上眼使いに私の顔を見て、 「どうぞ、お入りください」扉を大きく開けた。  私は中に入った。  部屋は、白の大理石に似た石で、総張りされていた。くるぶしまで埋まりそうなペルシャ絨毯《じゆうたん》がしきつめられ、飴色《あめいろ》のマホガニイテーブルが一卓、そのまわりにはソファやラウンジチェアが配置されていた。  みすぼらしかった私の事務所が脳裏に浮かび、それすら手離さねばならなかった自分の非力さがひどく悲しく思えた。ため息をつこうと顔を上げたとたんに、巨大なシャンデリヤが眼にとびこんできた。いささか、ばかばかしく思えてきた私は、男の勧めるままにソファに腰をおろした。 「私、早野といいます」男がいった。「ここの支配人《マネージヤー》の秘書をつとめている者です。さっそくですが、ご用件をうかがいましょう」  私は話した。  須藤のことには一切ふれず、雨の降る晩に一人の女性をはねてしまったこと、その女性が姿を消してしまい非常に困惑していること、その女性が「|美しい女《ベラドンナ》」を使用していたこと、後遺症の心配があるのでぜひとも見つけだしたいこと、そのために「|美しい女《ベラドンナ》」の顧客リストを見せてもらいたいこと——を、適当にフィクションを混じえて話した。  私は、もうそれ以上一言だってしゃべりたくないような気分で話を終え、 「どうでしょうか? お願いできますか」  軽く頭を下げた。  早野は、しばらく黙していた。彼の指にはさまれた外国タバコのあげるハッカの匂いが、私にはひどく忌むべきもののように思えた。  やがて、彼は私の眼を見つめて、 「お断わりします」短く言った。 「断わる? なぜですか」 「うちの『|美しい女《ベラドンナ》』を使っていただくには、お金があるというだけでは、充分ではないのです。お客様が『|美しい女《ベラドンナ》』を選ぶのではなくて、『|美しい女《ベラドンナ》』がお客様を選ぶのです……それだけに、私どもとしても、お客様を大切にしなければならない」 「それが、どうして顧客リストが見せられない理由になるのですか?」 「あなたが、警察の方だというのなら、話は別だが……そうでもない人間に、大切なお客様の名前と住所を見せるわけにいかない」 「人命に関することですよ。『|美しい女《ベラドンナ》』がそれほど高級な香水なら、若い娘で使っている者は、それほど多くないはずだ。その名前と、住所を教えてくれるだけでいい」 「だから、警察立ち合いの上なら、お見せすると言ってるじゃないですか。やましいことがなければ、それでもかまわないはずだ」 「一刻を争うんだよ」 「それは、私の知ったことじゃない」早野は席を立って、扉に向かって顎《あご》をしゃくった。 「ご用件がそれだけでしたら、おひきとり願えませんか。仕事が残っているもんですから……」  私はもう少しねばるべきだった。そうでなければ、この場は穏かに辞去して、次の機会を狙《ねら》うべきだった。——が、早野と名のった男の横柄な態度と、視界の隅に入っている「支配人室」と書かれたドアとが、私に最も無分別な行動をとらせたのだった。 「きみでは話が分らない」私はそう言ったのだ。「支配人に会わせてもらおう」 「支配人との話は総《すべ》て秘書の私を通すことになっています」早野は首を振った。 「その秘書が分らず屋だから、支配人に会わせろといってるんだ」 「できかねます」 「支配人に会わせろ」  私は歯をむきだして、思いきり凶暴な形相をしてみせた。私はこの貌《かお》にはいささか自信があって、過去、駐車違反の紙を手渡そうとした警官を撃退するのに成功したという実績があった。が—— 「できかねます」早野は動じなかった。  後になって考えれば、その時の早野の態度には当然不審を抱くべきだったのだ。彼は、私と支配人が顔を合わせるのを恐れているようにさえ見えたのだから。  幸いなことに、この「会わせろ」「会わせない」という不毛なやりとりは、当の支配人の登場によって、終止符をうたれることになったのだ。 「私なら、ここにいましてよ」  ふいに声がかかった。振り返った私の眼に、開かれた「支配人室」のドアと、一人の女、それに二匹の犬が映った。  女と二匹の犬とは、いずれも見るからに剣呑《けんのん》そうである、という点で共通していた。  女は髪を腰までたらしていた。  ぬめるような浅黒い肌、赤くふくらんだ受け口の唇、なにより男を射るようなその切れ長の眸《め》——スラリとした体に、クリーム色のサリーのような長衣をまとっている。この種の女に惚れてしまった男は、それこそ廃人になるまで精気をしぼり取られてしまう。遠くから眺めを楽しんでいる方が、無難な女なのだ。  それでは犬はどうかと言うと、こちらはちらとも見たくないような獰猛《どうもう》な顔つきをしていた。  ナチスの愛玩犬、天性の殺し屋、豹《ひよう》にさえ喰らいついていこうという、あのドーベルマンなのだった。そいつが二匹、牙《きば》をむき、よだれをたらしながら、私に向かってうなり声をあげている。女が一声命じるだけで、私の体は|挽き肉《メンチ》のようにひき裂かれてしまうだろう。 「きみが支配人か」女の美しさに圧倒されたのか、ドーベルマンの牙に圧倒されたのか自分でも判然《はつきり》としなかったが、私の声はだらしなくしわがれていた。 「そう、弥生しのぶといいますの」女は冷やかな声音で応えた。「どうぞよろしく、といいたいところだけど……見たところ、香水には縁がなさそうね」 「ぼくは鹿島徹という者です」  と私は自己紹介したが、できればドーベルマンも含めて、名刺を手渡したかった。二匹のドーベルマンは実に興味深そうに、私の咽喉《のど》を観察しているのだ。 「いい名前だこと」弥生は鼻先で笑って、私の名前をほめてくれた。 「実はお願いしたいことがあるんですが……」 「知ってるわ。顧客リストをごらんになりたいんでしょう?」 「なぜ知っている?」 「この部屋にはマイクがしかけられているの。スイッチさえ入れれば、支配人室でも、ここでの会話を聞くことができるのよ」 「なるほど……それで、リストは見せてもらえますか?」  弥生は低く笑った。妖艶《ようえん》な、眼眩《めくら》みするような笑いだった。 「それは、もう早野がお答えしたはずだわ」 「どうして、そんなにもったいをつける? たかが香水の客じゃないか」 「あなたが嘘《うそ》つきだからよ」 「嘘なんかついていない。ぼくが言ったことは総て本当だ」 「そうかしら」唄っているような口調だった。「意識して、なにかを黙っているというのも、立派に嘘の一種よ」 「ぼくがそうした、と言うのか?」 「違う?」  頭蓋の奥まで見透かれてしまいそうな弥生の強い視線に、私は自分がたじろぐのを感じた。 「図星だったようね」弥生は首を振った。「だから、男なんて信じられないのよ」  早野の押し殺したような笑い声が微かに聞こえた。  弥生は、しきりに凄《すご》んでいる二匹のドーベルマンの背に軽く手をふれて、 「行きましょう」私に背を向けた。 「そいつらだって男だろう?」  腹だちまぎれに、私は、歩きかける弥生に言葉を投げた。  彼女は振り返りもしないで応えた。 「女よ。リンダにヘレンという名前なの」  女性軍団は、一丸となって、白いドアの向こう側に消えていった。  私は首筋をなでた。ようやく、自分が白痴《こけ》あつかいされていたのに気がついたのだった。  しかし、だからといって、弥生を追って白いドアを開けたところで、せいぜいドーベルマンの熱いキッスを受けるぐらいが関の山だろう。  私はホッと息を吐いた。  どうやら帰った方がよさそうだった。これ以上ここにいても、なにか収穫があろうとは思えなかった。  扉の脇に立って、なにか考えこんでいる早野に、 「迷惑をかけたな」  と謝して、私は扉を開けてくれと手で合図した。早野は顔を上げて、扉を押した。私が彼の体をすり抜けて、廊下へ出ようとしたその時、 「あんたがさがしている娘に心当りがある」早野が囁きかけてきた。  私は驚いて彼の顔を見つめた。  彼の眸《め》からは何も読みとれなかった。あい変わらず、脂が顔に浮き出ている。 「明日の夜、ここで十時に……」  それだけを言うと、彼は私の手を掴んでなにか小さいものを握らせた。まるで恋のかけひきだが、たとえ彼にその気《け》があるにしても、私を相手に選ぶとは思えなかった。私だってまっぴらだ。  彼の真意を測りかねてあたふたしているうちに、私はていよく廊下へ押し出されてしまっていた。  私の背後で音をたてて扉がしまった。  掌を開けてみた。  バーの紙マッチだった。店の名と住所が、印刷されている。  店の名は「|X《エツクス》」となっていた。  私は、ことのなりゆきがどうなっているのか、自分なりに検討してみようとした。なにも分っていないのに、検討などできるはずもなかった。私にできるのは、ただなりゆきに身をまかせることだけのようだった。  それならそれで、いっそ気が楽というものだ——。  私はボタンを押して、エレベーターが降りてくるのを待った。     六  T理科大には医学部はない。ところが、聡子《さとこ》の部屋にあったメモには、須藤の筆跡ではっきりとT理科大の名義になっている電話番号が残されていたのである。その電話は誰《だれ》が使っているのか、須藤とその人物とはどんな関わりがあるのか、——それを知るためには、私自身でT理科大へ赴《おもむ》く必要があった。  むろん、徒労に終るかもしれない。だが運がよければ、須藤が失踪《しつそう》の直前に電話した人物に会えるかもしれないのだ。どうせその晩の十時には、「X」という名のバーで、早野と会わなければならないのである。東京をあちこち駆けずり回らねばならないのも、自分が失業中だということを考えれば、いっそ有難いようなものだった。  ……しかし、結局T理科大ではおもわしい成果をあげることはできなかった。その電話が西村研究室という部屋につながる直通ナンバーであることは、なんとか事務室でききだせたものの、肝心の部屋の主が留守だというのである。 「西村教授はいまアフリカに行ってらっしゃいます」事務室の女の子はそういった。  いかに私でも、はたして須藤の失踪と関係があるのかどうかさえも分らぬ人物を追って、アフリカまで行くほど酔狂ではない。なかば照れ隠しもあって、西村研究室ではどんな研究をしているのか、と私は女の子に尋ねた。  女の子は机の下から薄いパンフレットを取り出し、無言のまま私に手渡した。  つまり、その薄いパンフレットが、T理科大での私の唯一の成果なのだった。いよいよ、その晩の早野との会見に期待しないわけにはいかなかった。 「X」はどこにでもある、なんの変哲もないスタンドバーだった。  狭い室内の一方を彎曲《わんきよく》したカウンターが区切り、ボックス席が二つ、反対側の壁に押しつけられるようにして据《す》えられている。有線放送がしきりに歌謡曲を流していたが、信じられないほど音響効果が悪く、たんなる雑音としか聞こえなかった。  客は私一人だった。  カウンターの端で悠然《ゆうぜん》とお茶づけをさらえている女の子から推察すると、どうやらこの店はのべつ暇のようだった。  時刻は十時を回りかけていた。もうそろそろ、客が二人になってもいい頃《ころ》だった。  早野が何を話すつもりでいるのかは知らないが、少なくとも聞き手の私が酔っぱらっていてもかまわないような話であるとは思えなかった。それを考えると、どうしても五杯めの水割りをオーダーすることができないのだった。  私は溜息《ためいき》をついた。  手持ちぶさたのまま、今日の午後、T理科大の事務室でもらったパンフレットを取りだしてみた。  青インクで一行、タイトルが—— 『フリーザー・プログラム』  ページをめくると、扉《とびら》に、 �われわれは、無菌世界、無限の寿命、聡明《そうめい》な自己増殖機械といった抽象論を聞かされてきた。これらのものが完全に実現することはまずありえない。  しかし、そうしたことについて考えるということは、かならずしも意味のないことではない。こうした抽象論は、生命に打ち勝つ戦いやソーシャル・ダイナミックスをできるだけ明確な形で適用しようとするさいに、取り組まなければならない諸問題を提起してくれる�  太文字で印刷されている。  注によると、レーダーバーグ博士なる人物が、未来派生物学セミナーの自由討論の席上で発言した言葉だという……。  私は本文を読み始めた。  アメリカ、ミシガン州のハイランド・ポーク・カレッジの物理学教授ロバート・W・エッチンガーが、彼の著書『不死性の見通し』の中で、 �死体冷蔵保存�  の意味を論じたのがそもそもの始まりだった。彼は、医学的技術の進歩がいつの日かかならず死体|蘇生《そせい》を可能にする、と断言し、その時に備えて新鮮な死体を冷蔵すべきだ、と主張した。  その主張は、すぐさまアメリカ低温学会が結成されたことからも分るように、熱狂的に一般に支持されたのだった——現実に、一九六六年一月、心理学教授ジェイムズ・H・ベッドフォード博士の体が凍結され、アリゾナ州のフェニックスで、零下華氏三二〇度で保存されている。  しかし、�死体冷蔵保存�が実現されるには、乗り越え得べくもない大きな障壁が立ちふさがっていた。つまり、冷凍プロセスそのものが惹《ひ》き起す死体損傷が、しばしば致命的であった、というジレンマだった。  その結果、�死体冷蔵保存�はそのアイデアを、より困難ではあるが、しかし、より実現可能な、 �冷凍睡眠�  にそっくり譲りわたすことになった。  現代の医学的技術ではどうにも救いようのない患者を、生体のまま冷凍して未来へ送り込むことで、存命の可能性を与えてやろう、というのが、�冷凍睡眠�の目的である。 �冷凍睡眠�の実現にもまた様々な困難が待ちかまえている——体内環境の調整、エネルギーバランスの維持、心臓蘇生処置、消化器官の無菌状態維持、なにより冷却と加熱から脳細胞を防御すること、などである。  が、これらはそのほとんどが、技術的な問題でしかない。  たとえば、体内環境の調整のなかでとりわけ困難とされている冷却による酸素欠乏の問題は、結局、人工呼吸や人工血液循環のための機械が未だ完全ではない、という一事に集約される。これが、人体の水と塩のバランス、酸とアルカリの釣合い、という問題になると、そのまま人工腎臓《じんこうじんぞう》の開発|如何《いかん》につながってくる。  技術的問題は、それが技術的問題であるかぎり総て克服可能のはずである。  科学者の多くが�冷凍睡眠�を決して夢物語ではないと考えているのも、その成否がサイバネティクスの進歩に左右されているからにすぎない。サイバネティクスの進歩が何を可能にするか、科学者といえども断言できるはずがないからである。  西村研究室がはやくから�冷凍睡眠�の実現に全力を注いできたのも、その総合科学的な性質に、室員の全員が強く興味を覚えたからだった。  ある意味では、�冷凍睡眠�は小規模なアポロ計画だと言える。関連科学に与えるインパクトにどれだけの価値があるか、予測することさえむずかしいのである。  その先は、西村研究室が行なっている犬を使った�冷凍睡眠�の実験記録だった。  面白い読み物ではない。  だが、私がその先を読もうとしなかったのは面白くなかったからではなく、私のうちに一つのドラマがふくらみかけていたからだった。そのドラマのあまりの奇怪さに、私は圧倒されてしまったのである。  そのドラマとはこんなものだった。  マッドサイエンティストたちが、一人の美しい少女を�冷凍睡眠�の実験に使う。が、なんらかの理由で、少女は実験半ばにして、研究室を逃げだすのに成功する。実験のために意識が朦朧《もうろう》となりながら、少女は雨降る夜の街をさまよい歩く。そこへ、私の車がさしかかる。…… (それに気がついた須藤は、非人道的な実験が発覚して世論の弾劾《だんがい》を受けるのを怖《おそ》れたマッドサイエンティストの手にかかって、殺されてしまう……)  私は首を振った。  よしんば狂っているにしろ、たかがスキャンダルを怖れたぐらいで、科学者ともあろう者が須藤と聡子《さとこ》の二人を殺そうと考えたりするだろうか? あえて、彼等が人体実験に踏み切ったとしたら、そこには、被験者が不治の病いにとりつかれていた、という類いの事情がからんでいたと考えるべきだろう——確かに、私が組みたてたドラマはそれなりに筋は通っているかもしれないが、つじつまが合いすぎてかえって不自然だった。 「どうも想像力過剰のようだ」  口のなかでつぶやいて、私は苦笑した。  そうではなかった。実際には、想像力が不足していたのだ。後になって思い当ったことだが……。  時計を見る。  十時二十分——。  後十分だけ待とう、と私は考えた。それでも早野が来なかったら、あきらめて帰るしかない。  カウンターの向こう側の正面の壁にはめこまれている鏡に、私は自分の顔を映してみた。約束をすっぽかされて、酒を飲み足りなくて、その上いくらか寂しそうな中年男だった。試しにタバコをくわえてみた。なんとか間が持てる一人前の顔つきになった。こんなところで手を打つよりしかたあるまい。  ポケットから、紙マッチを取り出す。  男がタバコに火を点ける時の、あの一連の動作が没我のうちに続き、そして、軸木を発火させた時点でピッタリと止まった。紙マッチの背が異常に固すぎる。——紙マッチの重ねのところに、なにか小さな黒いものがテープで固定されているのだ。  マイクロフィルムのようだ。  それが早野が手渡した紙マッチだった、と気がつくのには少し時間がかかった。慌《あわ》てて、私は紙マッチを背広の内ポケットにしまった。  こうなってみると、もう私の頭には店を離れることしかなかった。早野はまずやって来ないだろう、という気がした——。  私がスツールから降りた時、店の電話が鳴って、女が受話器を取った。二言、三言、言葉を交わし、 「鹿島さん?」女が私に訊いた。  そうだ、と私は応え、女から受話器を受け取った。 「もしもし、鹿島です」  ひどく切迫した声が、私の鼓膜に響いてきた。 「早野です。遅くなってすまなかった。実は、ちょっとした手違いがあって……」 「よかったよ。ちょうど今帰ろうとしていたんだ。どうする? 今から、こっちへ来るかね」 「いや、それが『X』じゃ少しまずいことができたんだ。申し訳ないが、別の場所で会うことにしないか?」 「それはいっこうにかまわないけど……どこなら都合がいいのかね?」  早野は、「X」から少し離れたところにあるホテルの名を告げて、「そこの六〇二号室で待っているよ。勝手な言いぐさかもしれないが、できるだけ急いでやって来てくれ」  確かに勝手な言いぐさだが、電話口で怒ってみても始まらなかった。 「いいだろう」  と応えて、私は声を低めた。「ところで、あのマイクロフィルムのことなんだが……」 「それも会った時に話す」  電話が切れた。  私は受話器を戻し、勘定を払いたいと女に言った。女はびっくりしたような表情《かお》で私の顔を見ていたが、ようやく自分の役割りを思いだしたらしく、手早く計算して、たいして安くもない金額を私に告げた。言われただけの金を払い、 「また来るよ」  私はドアに向かった。いつでも大歓迎よ、と女も応えた。二人とも相手の言葉を信用していなかった。  早野の指定したホテルは、十二階建ての高い側壁を、夜空に白くそびえさせていた。落成してから二年とたっていないはずだが、薄汚れて、なにか巨大な墓石のように見えた。長かった一日を終えるには相応《ふさわ》しくない不吉な建物のように思え、私はなにかしら不満だった。  車を駐車場に入れて、私はホテルに入っていった。  六階でエレベーターからおりた時、実に厭《いや》なものを見た。私の郷里では黒猫は縁起が悪いとされているが、地方によっては吉運の兆ということになっているらしい。それでは骸骨《がいこつ》を見た時はどうなのか。骸骨は吉凶どちらの兆なのか。  エレベーターがあがってくるのを待っていたらしいその男は、私の顔を見て、歯ばかりがずらりと並んだ口をニヤリとゆるませた。生気のない痩《や》せた顔に、私を見る落ち窪《くぼ》んだ眼がギラギラと光っていた。黒猫が吉凶どちらの兆であるか迷うことはあっても、その男が凶兆であることには誰もが賛成してくれるはずだった。とにかく、私は私の人生においてそれほど無気味な男を見たことがなかった。  私といれちがいに骸骨男がエレベーターに入り、閉まったドアがその姿を隠した後も、私の心臓はしばらく激しい動悸《どうき》をうっていた。もしその男と会ったのが、暗い夜道ででもあったのなら、私は悲鳴をあげて逃げだしていたかもしれなかった。  いわれのない不安感が、私の背筋をちりちりと灼いていた。その不安感にせきたてられるようにして、私は早野が待っているはずの六〇二号室を探《さが》し始めた。  六〇二号室を見つけて、軽くノックした。  返事はない。  今度はいくらか乱暴にノックしてみた。  やはり返事はない。  いらだって、私は呼びかけてみた。 「俺だよ。鹿島だ」  声がドアごしに聞こえてきた。  ただし、返事ではなかった。苦しげな呻《うめ》き声なのだった。  反射的に私の体は部屋にとびこんでいた。  部屋には明かりがついていた。だが絨毯《じゆうたん》の上に転がっている早野に、その明かりが必要であるとは思えなかった。彼は眼をつむって、苦痛に顔を歪《ゆが》めていた。胸に果物ナイフが突きたっていれば、誰でも同じ顔になる。  私はさほど驚かなかったように思う。実際には、あまりの驚きに頭が麻痺《まひ》していたのかもしれないが、あの骸骨男と会った時から、こんな情景を見ることになる、となかば予感していたような気がした。いずれにしても、驚いている余裕はないようだった。  私は彼の上にかがみこんだ。 「おい! しっかりしろ」  早野はピクリと頬《ほお》を震わせた。ゆっくりと瞼《まぶた》を上げる。衰弱しきった、すでに死を受け入れた男の眸《め》だった。 「聞こえるか」私は叫んだ。「今、救急車を呼んでやる」  実際、私が彼にしてやれることは他になにもなかった。胸に突き立っている果物ナイフはいかにも酷いものに見えたが、しかしそれを抜いてやっても、早野の死期をはやめるだけのことだろう。  が、立ちあがりかけた私に、早野は必死にかぶりを振って見せた。 「う、う、う……」  舌がもつれたらしく、その生気のない唇《くちびる》からよだれがたれた。救急車を呼びにいこうとする私をひきとめてまで、自分の生命《いのち》を賭けてまで、早野にはなにか伝えなければならないことがあるらしかった。その眸《め》に必死の色が浮かんでいた。 「なんだ? なにが言いたいんだ?」私は自分の顔を相手に近づけた。  早野は何か言った。 「救え」と言ったように、私には聞こえた。 「だから、いま救急車を呼んできてやる」  私のその言葉に、早野は再びかぶりを振った。 「……違う」 「違う?」 「……パイヤを救え」激しい喘《あえ》ぎで、彼の声はなかば以上がききとれなかった。 「なに? なにを救うんだ?」  早野は溜息をついた。その眸に、昏い、空ろな色が拡がっていく。 「おい! しっかりしろ! なにを救けてほしいんだ?」  苦痛から、絶望、そして諦念へと、彼の表情はめまぐるしく変わっていった。私の肩を掴《つか》んでいた指から、しだいに力が抜けていった。  思わず、私は叫んでいた。 「早野!」  ハッとしたように、彼は大きく眼を見開いた。顔をきりきりと歪ませて、 「バンパイヤ」  はっきりした声音で言った。死に瀕《ひん》した男が、最後の気力をふりしぼって吐いた言葉だった。  私には、とっさになんのことだか理解できなかった。 「バンパイヤ?」  私はきき返した。  だが、無駄だった。  私は死人にきき返したのだ。  私の肩からはずれた早野の腕が、床に落ちて、乾いた音をたてた。早野のすさまじい死に顔を、私は呆然《ぼうぜん》として見つめていた。私の舌は、干あがって、スポンジのようになっていた。  私は、頭のなかで早野の言葉を繰り返した。(吸血鬼《バンパイヤ》を救え……)  それは、謎《なぞ》という以上に、あまりにばかげた言葉であった。断末魔の苦しみが早野を狂わせたのか? それにしては、彼の死に物狂いの形相が、あまりに真剣でありすぎたようにも思えた。  ドアが乱暴にノックされた。 「大丈夫ですか? お客さん! ここを開けてください!」  愕然《がくぜん》として、私は立ち上がった。  外に立っている男は、ノブを掴んで、しきりにドアをゆさぶっている。いつの間にか、ドアが中からロックされているのだ。  私は動転しながら、この部屋に入ってからの自分の行動を頭のなかで総ざらいしてみた。どう考えても、ドアに鍵《かぎ》をかける暇などあるはずもなかった。  ドアが更に激しくたたかれ、声が怒声に変わった。 「中にいる奴、ドアを開けないか! そこにいるのは分っているんだ」  私のこめかみはジットリと汗ばんでいた。  殺されて間もない死体と同じ部屋にいる男が、警察に電話もしないで、しかもドアに鍵までかけていたとしたら、誰が考えてもそいつが人殺しだ。  私は自分が窮地に追い込まれたのを知った。罠《わな》にはめられたことは明白だったが、しかしそれを証明する手だては私にはなかった。情況の総てが、殺人者は私であると指しているのだ。 (あいつの仕業だ……)  私はあの骸骨男の貌《かお》を思い浮かべないわけにはいかなかった。  逃げ道をさがして、私の視線は部屋をさまよった。徒労というべきであった。ホテルの、しかも六階の密室から、どうやって逃げだそうというのか。  部屋にいないはずの誰かがドアを内側からロックできたなら、私が霞のように姿をかき消したとしてもなんのふしぎもないかもしれない。ふしぎはないかもしれないが、しかし私にはとてもそんな芸当はできそうになかった。  あきらめて、私がドアに歩いていこうとした時、外の様子が変わった。  誰か別の人間がやって来たらしく、ヒソヒソとなにごとか囁《ささや》き合う声が聞こえてきて、廊下を駆けていく音がそれに続いた。  事態がよく掴めないままに、私はドアに顔を寄せて聞き耳をたてていた。  確かに、外に誰か立っている。もうなんの音も聞こえてこないが、人の気配がドアを通してひしひしと感じられるのだ。  私はハンカチで拳を巻いた。こうなったら、外にいる人間を殴りたおしてでも、逃げるしかない。  息をつめて、一気にドアを開けようとした私は、 「鹿島さん、なかにいるのは鹿島さんですね」  思いがけなく自分の名を呼ばれて、ほとんど棒立ちになってしまった。 「ボーイはマスターキーを取りに下へ降りていった」ドアの外に立っている人物は、言葉を続けた。「今のうちに、そこから抜け出た方がよくはないですか」  その人物のいうとおりだった。私までもが警察に眼をつけられてしまったら、須藤の無実を晴らすどころではなくなる。  私はドアを開けて、 「きみは……」思わず絶句した。  そこに立っているのは、なんと聡子のマンションで出会ったあの青年なのだった。 「非常階段から逃げましょう」青年の声は落ち着いていた。「まさか鹿島さんは高所恐怖症じゃないでしょうね」  ようやく人心地がついたのは、ホテルから辛くも抜け出して、車を十分ほど走らせてからのことだった。それでも、サイレンを鳴らして、ホテルに向かって走っていくパトカーとすれ違った時には、ヒヤリと首を縮ませた。  適当なところで私は車を路肩に停めた。極度の興奮で神経がささくれだっていた。まず一服しないことには、どんな事故を起こさないとも限らなかった。  タバコの烟《けむり》を大きく吐きだす私に、同乗しているあの青年がいった。 「かんたんなトリックですよ。あのドアはプッシュ式の鍵ですからね。ぼっちを押しておけば、後はドアを閉めるだけで、自動的に鍵はかかる……殺人者は部屋を出ていく時、ぼっちを押して、ドアが完全に閉まらないようにこのプラスチックを隙間《すきま》にはさんでおいたんですね」  青年の手には手帖ぐらいの大きさのプラスチック片があった。あの部屋のドアを開けた私は、間抜けにも床に落ちたそのプラスチック片に気がつかないで、鍵をかけてしまったというわけだ。だが……  あることに気がついて、私はタバコから眼を離し、そのプラスチック片を見つめ、そして視線を青年に移した。 「どうしてそいつをあの部屋から持ち出したんだ……」私の声はしわがれていた。 「いけませんでしたか」青年はけろりとしている。 「そいつがあの部屋に残っていれば、警察もおれが罠にかけられたということを信じたかもしれないのに……」 「そのとおりですね」青年は指でプラスチック片を弄《もてあそ》んでいる。「あの部屋のドアをたたいていたボーイに聞いたんですけどね。フロントに六〇二号室で殺人が起こると電話がかかってきたというんです。それで、ボーイが様子を見にきた、と……悪いことに、鹿島さんはフロントに顔を見られてますしね。それに、あの部屋にだって指紋が残っているだろうし……ぼくがあの殺人は鹿島さんの仕業に違いない、と警察に電話でもすれば、まず逮捕はまぬがれないでしょうね」 「疑われるのはきみも同じだろう」私はなんとしてでも反撃に出なければならなかった。「見張っているからといって、ボーイにマスターキーを取りにやらせたのはきみなんだから……」 「だが、鹿島さんはぼくがどこの誰だか知らない。名前も知らないぼくを、どうやって警察に密告するんですか」 「…………」私は言葉につまった。 「こうなってみると、昨日《きのう》聡子さんのマンションの前に停《と》まっていた車のナンバーをひかえておいたのは実に賢明でしたね。そのおかげで、鹿島さんの名前を知ることができたのだから……」青年は楽しんでいるようだった。 「きみはいったい何者なんだ?」むろん、私は楽しむどころではなかった。「おれを脅迫して、どうしようというんだ?」 「脅迫なんかするつもりなら、始めから救けたりしませんよ。ただ、鹿島さんがこの件について何を知っているのか、どれほど深入りしているのか、いずれお訊きすることになると思いますが、こうなった以上、鹿島さんはぼくの質問に答えないわけにはいかないでしょうね」 「この件……?」私は戸惑った。「この件とはどの件のことだ?」 「いずれ機会を改めて、ゆっくりお話ししましょう」青年はドアを開けて、車の外に降り立った。「こちらから連絡しますから……」  連絡なんかされたくなかったが、しかし青年の言葉には、私の意志とは関わりなくという響きが含まれているようだった。 「ああ、楽しみにしている」私は精一杯の皮肉をこめて言ってやった。  青年はかすれたような笑い声をあげて、ドアを閉めると、ゆっくりと歩きだした。 (あいつを轢《ひ》き殺してやろうか……)  ヘッドライトの明かりのなかを小さくなっていくその後ろ姿を見送りながら、私は本気でそう考えた。どこの誰とも知らぬ男に、自分の生殺与奪がゆだねられているのだと思うと、とても耐えきれない気がしたのだ。  その時、別の車が走ってこなければ、本当にそうしたかもしれなかった。  私はため息をついて、車のエンジンをかけた。  それにしても、吸血鬼《バンパイヤ》を救え、とはなんのことなのか?…… 第二章 追 跡     一  早野が殺された夜から、二、三日はほとんどアパートに閉じこもりきりで過した。間違っても警察から眼をつけられるような事態は避けたかったし、あの得体の知れない青年が私の周囲をうろついていない、とはっきり確かめる必要もあった。  正直なところ、動きようがなかったというのが本音かもしれない。  私が未だ名前も知らないでいる少女が、動ける状態ではないにもかかわらず、忽然《こつぜん》と姿を消した。少女の失踪《しつそう》と符丁をあわせるようにして、私がかつて関係した女が殺され、その亭主だった男もまた行方をくらました。少女がつけていた「|美しい女《ベラドンナ》」から、なにか彼女のことについて知っていそうな男と会えはしたが、その男もまた何も語らないまま殺されてしまった。いや、「吸血鬼《バンパイヤ》を救え」という不可解な言葉を残しはしたが……  私こそ厄病神ではなかったか。私があの少女をはねさえしなかったら、須藤がその人生を狂わせることもなかったろうし、聡子《さとこ》がその人生を断ち切られることもなかったのではないか。もしかしたら早野が殺されたのも、私に何事か告げようとしたためだったかもしれない。  私は臆病《おくびよう》になっていた。総《すべ》てを忘れて、部屋で呑《の》んだくれている方がいいのではないか。幾度もそう自問した。だが、返ってくる答は、いつも決まっていた。 (しかし殺された人間がいるのなら、殺した奴もまたいるはずだ……)  私は臆病だったが、しかし臆病者になりきることはできなかった。聡子を殺し、早野を殺した奴を忘れるには、臆病なだけではなく、卑劣漢にもなる必要があった。  私は卑劣漢にだけはなれそうにもなかった。  あの眠れる美女がどんな秘密を擁しているのか。それが未だまったく不明であることにはなんの変わりもなかったが、しかしその秘密に人殺しをなんとも感じない人間が幾人か関係しているのだけは確かだった。あくまでも秘密を探《さぐ》ろうとすれば、私自身の生命《いのち》が危うくなるかもしれないのだ。 (それがなんだ、と言うのだ?)  私は尻込《しりご》みしている自分を思いきり嘲笑《ちようしよう》してやった。そう、それがなんだ、と言うのだろう?  私はこの三日間をまったく無為に過したわけではなかった。懸命になって、ラウラという名の医師の所在をつきとめようとしたのだ。眼を醒《さ》ましたあの少女が主治医のもとに帰った、という可能性もあるからだ。電話帳にはラウラという名前は載っていなかった。そこで私は、東京で開業している外国人医師にかたっぱしから電話して、ラウラという名に心当たりはないかと訊いてみた。誰《だれ》もラウラを知らなかった。不本意ではあったが、この線をたどるのはあきらめた方がよさそうだった。  他にもたどるべき線がないではなかった。弥生しのぶである。早野があの少女について何事か知っていたのなら、そのボスである弥生もまた知っていることがあるはずだった。——が、いま下手に弥生に連絡して、早野殺しの件で動いているであろう警察にマークされるのはうまくなかった。弥生に連絡するのは、しばらくは自重すべきだった。  そんなわけで、この三日間に進捗《しんちよく》したことといえば、あのマイクロフィルムが現像されて届けられたことだけだった。早野が殺された翌日、知り合いの写真家に頼んでおいたのだが、三日めの朝になってそれができあがってきたのだ。  最初、八つ切りの大きさに焼きつけられたその写真に眼をおとした時、私は少なからずがっかりさせられた。まさか、暗号文や、秘密兵器の設計図が写されているとまでは考えていなかったが、マイクロフィルムに収められている以上、そこにはなにかしら眼を瞠《みは》るものが写されているはずであった。ところがそれは、東都新聞の一ページを撮《と》ったものに過ぎなかったのである。  古い新聞だった。  一九六二年十月三十日の日付けである。  一ページをさいてとりあげられている記事は、フルシチョフのミサイル引き揚げ声明に抗議してハバナで行なわれたデモに関するものだった。  一九六二年十月といえば、世界中を震えあがらせたあの「ミサイル危機」が起こった時である。  一九六二年九月、ソ連とキューバとの間の共同声明が出され、キューバが要求する武器と軍事使節団の派遣にソ連が同意したことが明らかにされた。その約一か月後の十月十四日、アメリカ政府は、キューバに攻撃用ミサイルが設置されているのを確認した。  その後二週間、世界は第三次世界大戦の恐怖におののくことになる。  十月二十二日、ケネディ大統領は、ソ連が攻撃用ミサイルをキューバに設置していることを発表して、これ以上のミサイル搬入を防ぐためにキューバを海上封鎖する用意があることを明らかにした。翌二十三日、ただちにミサイルを撤去されたいというアメリカの要求を、ソ連が拒否した。  二十四日、アメリカによるキューバ封鎖が開始された。  まさに一触即発の状態だったわけだ。  二十四日から二十八日まで、ケネディとフルシチョフとの間に書簡が交され、フルシチョフから提案された、アメリカがキューバを侵略しないと約束すれば国際管理のもとでキューバミサイル基地を解体する、という条件をアメリカが受け入れ、あやういところで米ソ衝突は回避された。二十八日には、フルシチョフは、キューバのミサイル引揚げを命じたことを、アメリカに知らせている。  この解決に際して、キューバの意志はまったく無視されたわけで、東都新聞の記事は、つまりそれに抗議してくりひろげられたデモを取材したものだった。  私が記憶している限りでは、以上が「ミサイル危機」の経過だが、分らないのは、どうして早野がこのデモの記事をマイクロフィルムに収めて、紙マッチに隠さねばならなかったか、ということだ。確かに大事件には違いないが、「ミサイル危機」は周知の歴史的事実ではないか。  隅から隅までルーペを動かして、記事を調べてみたが、そこにはこれといって特別なことは書かれていなかった。となると残る可能性は新聞写真というわけだが、抗議の拳《こぶし》を振り上げたデモが大きく写されているだけで、別になにも……  私の手からルーペが落ちた。  あまりの驚きに、脳髄が麻痺《まひ》したようになり、しこりのような異物感が咽喉《のど》に拡がっていった。その異物をどうしても嚥下《えんか》することができず、私は金魚のようにパクパクと口を喘《あえ》がせた。  ようやく気持ちを静めて机の下からルーペを拾い上げた私は、今、自分が眼にしたものをもう一度確かめてみた。  その写真は、デモを写した報道写真の多くがそうであるような、高い位置から撮ったものではなかった。沿道の群集に混じって撮影したものらしく、対象物であるデモ隊とカメラとの間に何人かの人間が入っていた。いかにも素人《しろうと》っぽいアングルだったが、それがかえってデモの生々しい臨場感をかもしだしていた。  問題はその群集の方にあった。  見物人のなかに一人の娘が立っている。どうやらカメラマンと知り合いらしく、こちらを振り返って優しく微笑している。ドキッとするほど美しい笑顔である。  眠れる美女なのだ。  私はルーペを手にしたまま、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた。  ありえないことだった。一九六二年といえば、もう十年以上も前のことになる。あの娘はその頃《ころ》六つか七つ、どう考えても小学生以上であるはずがない。ところが、写真に写っているのは、どう見てもあの雨降り日に私が車に運びこんだ少女に間違いないのだ。  母娘姉妹でもここまでは似ないだろう。それに、母親と考えても、姉と考えても、年齢のつじつまが合わない。  あの少女は年をとらないのか?  私はルーペを置いて、こめかみを指で押した。  タバコに火をつけた私は、膝《ひざ》の上に電話帳を開いて、東都新聞のナンバーをひいた。とにかく、この写真を撮った人物に会ってみよう、と考えたのだ。  東都新聞のナンバーはすぐに分った。  教えられた麻雀《マージヤン》屋は、モルタルづくりの小さな店で、飲食店にはさまれてひどく窮屈《きゆうくつ》げに建っていた。後ろ手にドアを閉めて、私は店内を見廻した。麻雀卓はいっぱいで、誰が私の目指す人物なのか、ちょっと見当がつかなかった。  お茶を運んでいる女の子に、 「東都新聞の神谷壮介さんというのは、どの人だね?」  私は訊いた。その女の子がなにか応えかけるより早く、 「神谷はおれだけど、なんか用かい」  すぐ眼の前でパイをかきまわしていた男が振り向いた。四十を二つか三つ越えたぐらいの、大柄な男だった。私の好きな俳優にW・マッソーというアメリカ人がいるが、眼尻のさがったところや、鼻の大きなところがその俳優に似ていなくもなかった。いかにも食えない感じも両者とも共通していた。ただ、マッソーが常に倦怠感《けんたいかん》のようなものを漂わせているのは、彼の演技力だろうが、その神谷という男はしんそこ総《すべ》てに疲れきっているように見えた。壮年の新聞記者という言葉から受ける印象とはおよそほど遠く、なにかしら落伍者《らくごしや》のような感じさえうけた。 「鹿島という者だけど……今、東都新聞の資料室の方に行ったら、あんたは多分ここにいるだろう、と教えられてね」 「教えたのは、若い奴かね?」 「いや、禿《は》げた恰幅《かつぷく》のいい人だった」 「じゃ、主任だ……俺《おれ》がどこでさぼってるかまで知ってやがる」顔を卓の方に戻しながら、彼はかすれた笑い声をあげた。 「で? 俺になんの用だね?」 「あんたに訊きたいことがあるんだ。時間はとらせないつもりだが……」 「あんた、麻雀は?」 「いや、やらない」 「じゃ知らないのも無理はないが……こいつを始めたら、親が危篤《きとく》でも、抜けられない」  神谷と同じ卓を囲んでいる他の三人が、迎合するような笑い声をあげた。いずれも、どこか崩《くず》れた感じのする男たちだった。  私はたじろがなかった。  どうせ誰に会っても、私は歓迎されないのだ。 「だから、時間はとらせない、と言っている」 「まあ、終るまで待ちなさいって——今、むずかしいところなんだ」  私はハトロン紙の大型封筒から例の写真を取りだし、 「この写真のことなんだが……」  神谷の顔につきつけた。チラッと写真に眼を走らせて、神谷はゆっくりと顔を上げた。 「あんたもしつっこい人だね。確かに、この記事を書いたのは俺だが、こんな古いことを持ち出されてもあらかた忘れちまってるぜ」  声が怒気を含んでいた。 「訊きたいのは記事のことじゃない、なんでも、ここにのっている写真をとったのも、あんただってね」 「ああ、カメラマンが病気だった」 「それでこの写真なんだが……」  持っていたパイを卓にたたきつけて、神谷は立ち上った。 「いいかげんにしないか。俺は待てと言ってるんだぜ」  かまわず、私は続けた。 「この写真なんだが、ここに写っている若い女の名前を知っていたら、教えてもらえないだろうか?」  神谷は眉をくもらせた。 「若い女? 言ってることがよく分らんが……」 「この笑っている女だよ。どう見ても、写真を撮っている人間と知り合いって感じなんだがね」 「…………」  神谷はしばらく私の指差した少女を見つめていた。その口もとに皺《しわ》が深く刻まれ、眸《め》に暗い光が宿っていた。やがて、 「悪いが、十分ほど席を外さしてもらう」  振り返って、仲間たちにそういった。彼らが一斉に舌打ちしたりぼやいたりするのを気にもとめないで、 「ちょっと外へ出ないか」神谷は私を促した。いまさっき同じ男が怒声をはりあげたのだとは信じられないほど、平静な、むしろ湿ったような声だった。  食えない男だという私の印象はさらに強まった。  連れだって外へ出た私たちは、そのまま喫茶店に入った。私はコーヒーを、神谷はビールを、それぞれにオーダーして、 「さて、話を聞こうか」神谷が私に向き直った。 「話を聞くのはこっちの方だ。ぼくはただこの娘のことを知りたいだけだ」 「だからさ。どうして、その娘のことを知りたいのか、それを先に言ってくれないか」  もっともな質問だったが、私にはまともに答える気はまったくなかった。まともに答えれば長い話になる。時間がないのは、神谷だけではないのだった。 「ひと月ぐらい前のことだが、若い娘を車ではねてしまった。たいした傷ではなかったが、一応、近くの病院に運んでおいた。ところが、どういうわけか、彼女、病院から姿を消してしまった。ひき逃げじゃなく、はねられ逃げだ。後でやっかいなことになると困るんでね。なんとかみつけだして、示談の話をまとめておきたい」  私は嘘《うそ》巧者ではないかもしれないが、この嘘は早野にも使ったことがあり、いわば研《みがき》がかけられていた。自分でも、無理のないよくできた嘘だと思っている。ところが、どういうわけか話し終えたとたんに、私は神谷が私の言葉をまったく信用していないのを覚っていた。 「あんたは若い娘と言ったが、その写真が撮られたのは六二年だぜ。その写真の娘ももういい齢《とし》になっているはずだ」ビールをすすりながら、神谷が嘲《あざわら》った。「あんたがはねたのが若い娘だというなら人違いだな」 「若い娘と思ったのはぼくの勘違いかもしれない」私はかんたんにひきさがるわけにはいかなかった。「人身事故を起こして気が動転していたし、それでなくとも美人の齢は分かりにくい」 「なるほどな。……さっきの写真はどうやって手に入れたんだ?」 「図書館で見つけた。キューバのことを調べていたら、たまたま古い新聞のとじこみのなかにあったんだ」 「どうして、キューバのことなんか調べていたんだ?」 「失業の身でね。暇つぶしだよ。……人違いなら人違いでかまわないんだ。ぼくの気持ちがスッキリするからな。とにかく、彼女の居所を教えてくれないか」 「おれがスッキリさせてやるよ」 「どういうことだ?」 「彼女は死んだんだよ」 「死んだ?」 「ああ、癌《がん》だったときいている。……あんたが彼女の写真を見せた時、おれはまたあんたがキューバから帰ってきたばかりの人だと思ったのさ。商社員かなんかで、彼女の遺品を届けにきたんじゃねえかって、ね……それで、一緒に外へ出る気になったんだが、お互いに勘違いだったな」  神谷も嘘をついていた。が、どこをどう嘘をついているのか、私には指摘することができなかったし、自分もまた嘘をついているという弱みがあった。私の勘はしきりにこの男が何かを知っていると囁《ささや》きかけてくるのだが…… 「もしさしつかえなかったら、彼女のことをなにか話してくれないか」私はくいさがった。 「さしつかえはあるな」神谷はにべもなく言った。「それに、新聞記者《ブンヤ》ってのは、いつもなにかを忘れていくことで、どうにか続けていける仕事なんだ。十年以上も前につきあっていた女のことなんか憶えているはずがないさ」 「そうだろうな」私はうなずいた。「資料室ってのは、資料の整理や他人の書いた記事をスクラップするんだろう? いかにも忙しそうだ」  意地の悪い言葉というべきであった。新聞社のことはよく知らないが、外地に駐在していた男が資料室に回されるのは、やはり左遷《させん》されたとしか思えなかった。神谷のような男の口を開かせるには、怒らせるしかないと考えたのだが…… 「帰ってくれないか」神谷はそっぽを向き、ボソリとそれだけを言った。  あきらめるしかないようだった。コーヒー代をテーブルに置き、私は席を立った。  店を出ていく時に、私は振り返って神谷を見た。ビール瓶《びん》を前に置いて、神谷はぼんやりとタバコをくゆらしていた。不逞《ふてい》な、人を人とも思わない男が、まるで迷子のような表情《かお》をしていた。     二  その翌朝、警察から電話がかかってきた。景山刑事という名を受話器のなかにきいた時は、てっきり早野の件がばれたのだとはやとちりをして、私は蒼《あお》くなってしまったのだが、しかし彼が口にしたことはそれとは比較にならぬほど驚愕《きようがく》すべきことだった。  須藤一郎が自殺したというのだ。 「彼の死体が見つかったのか」 「いや、渺《びよう》ケ崎にとびこんだということになっている」 「なっている? なっているとはどういうことだ?」 「詳しい話をききたかったら渺ケ崎に来ないか」 「分った。……いまからすぐに出発する」 「待っているぜ」景山は電話を切った。  景山の口調は奇妙に奥歯にものがはさまったような感じだったし、考えてみれば、須藤が自殺したからといって、彼が私に連絡してくるのも理屈があわなかった。  だが、そんなことを忖度《そんたく》している余裕は私にはなかった。私は身仕度もそこそこに、風をくらったようにアパートをとびだした。  渺ケ崎は房総半島南部に位置し、南房総国定公園のうちでも、特に断崖《だんがい》の様相が絶景であることで知られていた。場所は鴨川に近く、とびこみ自殺の多いことでも名が通っている。  断崖に穿《うが》たれたトンネルを抜けると、国道は片面を房総の海にさらすようになる。海を右手に見ながら、さらに車を走らせると、国道はやがて切り岸縁に達する。  渺ケ崎である。  潮を含んだ風が吹いていた。  崖《がけ》の上に警察や民間の車が何台か駐《と》まっていて、四、五人の人影がいかにも寒そうに肩をすぼめて、そのあたりにたたずんでいた。  そのなかに景山の姿を認めて、私は車を停《と》めた。景山も私に気がついたらしく、手をあげるとこちらに向かって歩いてきた。 「あの崖からとびこんだということになっている」挨拶《あいさつ》もしないで、景山が言った。 「ことになっている? 電話でもそう言ったな」私は景山のもってまわったような口ぶりが気にいらなかった。「どういう意味なんだ?」 「歩きながら話そう」  景山は私を崖に促した。歩きながら、彼はそれまでの事情の経過を重い口調でボソボソと説明してくれた。  今朝、景山の所属する署に、須藤から電話があったというのだ。これから渺《びよう》ケ崎で自殺する——須藤はそれだけを告げると、電話をきった。署から連絡を受けて渺ケ崎に急行したパトカーは、一台の乗り捨てられたブルーバードを発見した。そのナンバーから、ブルーバードは東京のレンタカーであることが判明した。直ちに二人の刑事がそのレンタカーの会社に駆けつけ、社員に見せた写真によって、ブルーバードを借りた人物が間違いなく須藤であったことを確認した……。  景山の話が終った時には、すでに私たちは崖縁までたどりついていた。そしてその時には、景山が何を考えているのか、ようやく私にも理解できていた。 「狂言だというのか」私は海面を見下ろしながら、呆《ほう》けたようにつぶやいた。  崖の下では波が白く泡《あわ》だっていた。波|飛沫《しぶき》が霧のようにたゆたって、海面に小さな虹《にじ》をかけていた。ビールの空きカンがひとつ、波に呑《の》まれ、押されしながら、それでも沈まずに漂っていた。  景山が応えようとしなかったので、私はもう一度尋ねた。 「どうなんだ? 狂言自殺だというのか」 「間違いなくそうだ」景山は断定した。 「…………」  私の体は冷えきっていた。必ずしも風のせいばかりからではなく、しんそこ冷えきっていた。 「俺《おれ》があんたをここへ呼びだしたのは、こいつが狂言に過ぎないということを知ってもらいたかったからだ」景山がいった。「いや、正確には、おれが騙《だま》されてはいないことを知ってもらいたかったからだ」 「なぜそんな必要がある?」 「あんたは俺になにかを隠している。俺は隠し事をされるのが嫌《きら》いだ。俺を騙すのはむずかしい」 「脅迫するのか。狂言自殺にも騙されないほど利口なあんたに、隠し事をしようとするのは剣呑《けんのん》だ、と……」 「脅迫じゃない。専門家からの忠告だ」 「誤解だよ」 「何が誤解なんだ?」 「誤解でなければ、考え過ぎだ。ぼくはあんたに隠していることなんかない」 「俺を騙すのはむずかしいと言ったはずだ。同じことを二度言わせるな」  我々の話は平行線をたどっていた。景山は私がなにかを隠していると言い、私はなにも隠していないという。——事実、私には自分が隠し事をしているという意識はなかった。景山は眠れる美女のことを何も訊かない。だから私も何も言わない。ただ、それだけのことだ。 「彼の自殺が狂言だというのは、あんた個人の意見なのか」私は話を変えたかった。「それとも警察の見解なのか」 「誰が見てもこの自殺は茶番だ」 「だったら、あんたがそんなに不機嫌《ふきげん》になることはないだろう」 「…………」 「この自殺は狂言であるという見解を警察が取っているのなら、その機動力をもってすれば、いずれは須藤を探《さが》しだすことができるだろう。あんたがなぜそんなに不機嫌になっているのか、そのわけが分らない」 「警察の見解については、俺は一言だってしゃべっちゃいない」 「今、誰が見てもこの自殺は茶番だ、と言ったばかりじゃないか」 「そのことと、警察の見解とは関係ない。捜査はこれで打ち切られる。多分、本部は明日にでも解散するだろう」  私には景山の話は支離滅裂であるように思えた。 「誰もが信じていない自殺のために、捜査を打ち切るのか?」 「聡子は須藤に殺された。須藤は罪の意識に耐えかねて自殺した……よくある話だ。世間は疑いもしないだろう」 「なぜだ? なぜ捜査を打ち切る?」  険しく眼を光らせると、景山は堰《せき》を切ったようにしゃべりだした。 「この事件《やま》は最初からおかしかった。須藤が麻薬を横流ししているという密告にしてからが、まったくのガセだった。もともとが勾留なんかできるはずはなかったんだ。ところが、誰かの意向で、彼を二晩も勾留しておく。聡子殺しにしてもそうだ。須藤には聡子を殺す明確な動機がない。我々が聞き込みをした限りでは、彼はカッとしたからといって女の首を絞めるような男じゃない。そのくせ、なんだかんだじゃまが入って、思うように他を当ってみることさえできない」 「……じゃま?」 「即座に捜査を打ち切れ、という圧力だよ。それも、ひどく強い圧力だ」 「誰からの圧力だろう?」 「雲の上のことだ。俺には分るはずがない。だが、上層部のびびり方から見ても、相当なえらい様からのお達しであることはまず間違いない」 「だから、捜査を打ち切るのか?」 「……俺は厭《いや》だ」景山の声はなかば呻《うめ》いているようだった。「もしかしたら須藤が殺したんじゃないかもしれない。だが、女がひとり死んでいるのは事実なんだ。……そして、須藤が聡子殺しの鍵《かぎ》を握っているのは間違いない。俺はどうしてもあいつの口から真相をききだしたいんだ」  ここにもひとり、須藤の行方をつきとめ、ことの真相を確かめたいと考えている男がいた。頼もしいというべきか、それとも強敵というべきか。いずれにしろ、私はこの景山という男が気に入り始めていた。彼の職業が刑事でなかったら、好きにさえなっていたかもしれなかった。 「なるほど」とりあえずほめてやることにした。「あんたは刑事の鑑《かがみ》というわけだな」 「…………」  景山は応えなかった。そこに自分の探している犯人が潜んでいるとでもいうかのように、細い眼をまばたかせもしないで海を見ている。ほめた方が照れるというのも間尺に合わない話だが、事実、私は自分の吐いた言葉の処置に困っていた。不用意に他人をほめたりするものではない。相手が景山のような男だったら、なおさらのことだ。やむなくタバコを唇にはさんで、私は言った。 「火を持っていないかね?」  景山はゆっくりと顔を私に向けた。そして——私の唇からタバコをはたき落としたのだ。 「とぼけるな」  決して大声ではなかったが、それがかえって彼の怒りをよく物語っていた。唇を一文字に結んで、鼻翼をふくらませていた。  私は地に落ちたタバコを見つめた。泥にまみれて、タバコは半ば二つにちぎれかかっていた。  意に反して、私のうちには怒りらしいものは湧《わ》いてこなかった。  首を上げて、私は言った。 「帰ってもいいかな……」  景山は私から顔をそむけた。 「帰るがいい」そして、言った。「だがこれだけは覚えておいてもらおう。あんたが何を隠していようと、俺は必ずそいつを暴いてみせる。須藤の行方も必ずつきとめる」  私は覚えておくと応えた。景山はもう私を見向くことさえしないで、足早にパトカーの方に歩き去っていった。  私はなにかしら淋《さび》しいような気持ちだった。  私が自分の部屋に戻ってきた時は、もう夜も十一時を回っていた。  例によって、アルコールで脳神経を充分に麻痺《まひ》させてのごきげんな帰宅だった。そうでもしなければ、須藤のことで気を滅入らせて、枕《まくら》に顔を埋めて泣きかねなかったのだ。  部屋に入った私は、朦朧《もうろう》とした酔眼で室内を見廻した。なにか部屋の様子に違和感があるような気がした。  それが酔いのせいではないか、と疑った私は掌で顔をこすろうとした。  そのとたんに後頭部が炸裂《さくれつ》した。頭のなかでファンファーレのラッパが鳴り響き、くす玉が二つに割れ、紙吹雪が舞った。鳩《はと》が飛んだかどうかまでは確める余裕がなかった。  ポッカリ口を開けて待っている穴にすべり落ちていく時になっても、私はそれが安酒がすぎたせいだと信じて疑わなかった。     三  目覚ましが鳴っていた。  どんな仕事にも就いていないはずの今の私が、未だ目覚ましになやまされるというのは、ひどく理不尽なことのような気がした。  腕を伸ばして目覚ましを止めようとして、ようやく私は気がついた。  鳴っているのは目覚ましではなかったし、私が寝ているのもベッドの上ではなかった。  蛇《へび》のようにかま首をもたげて、私は床の上から鳴り続けている電話を睨《にら》みつけた。もう十秒待って、それでも鳴っているようだったらコードを引き抜いてやる、と、三度めに私が決意した時、電話は鳴り止んだ。  運のいい電話だった。数少ない財産を破損せずにすんだ私もまた運がよかった。運のいい二人組を祝しながら立ちあがりかけて、私は小さな悲鳴をあげた。  後頭部が割れるように痛んだ。二日酔いの痛みではなかった。第一、二日酔いで瘤《こぶ》ができるはずはなかった。  私は後頭部を刺激しないように、ソロソロと立ち上がった。  部屋は荒らされ放題に荒らされていた。机の引き出しはことごとく乱雑にとりだされ、書類や衣類が床に放り出されている。ベッドのシーツさえ剥《は》がされていて、どういうわけか冷蔵庫のドアまで開けっ放しになっていた。  誰《だれ》かが私の部屋で何かを探《さが》し回っている時に、運悪く私が帰ってきたというわけらしい。もちろん運が悪かったのは殴られるはめになった私の方である。  誰か、というのは見当もつかないが、何かという方はすぐに分った。例の、東都新聞の写真がなくなっていた。多分、その誰かが欲しかったのはマイクロフィルムの方なのだろうが、あいにくそちらは私の靴《くつ》のかかとにしまいこまれている。  ふらつく足で洗面所まで歩いていき、傷の具合を調べてみた。出血している様子はないし、指で押してみた限りでは内出血の心配もなさそうだった。  理想的なたんこぶなのだった。  コーヒーをいれて、ベッドに坐《すわ》ってたて続けに二杯飲んだ。  朝の光のなかでそうやってコーヒーを飲んでいると、派手に夫婦|喧嘩《げんか》をやらかしたあげく、女房に逃げられてしまった男の気持ちが分るような気がした。  私は溜息《ためいき》をついて、部屋の整理を開始した。疲労しきってはいたが、部屋がこの有様では寝ることもできない。床に放り出されてあるものを片っ端から引き出しに投げ入れ、無理やりにその引き出しを机に収める。衣類はタンスの中に放りこみ、入りきらないものはベッドの下に蹴り入れた。  どうにか人間の住みからしくなった頃、再び電話が鳴り始めた。  私は頭のなかで呪詛《じゆそ》を唱えながら、受話器を取った。 「はい。鹿島です」  今にも消え入りそうで、我ながら三十をすぎた男の声とは思えなかった。 「ぼくです。……この前の晩ホテルでおめにかかった男です」  私は反射的に電話をきりそうになった。だが、きるわけにはいかなかった。彼は私の弱みを握っているのだった。 「朝帰りとは隅におけないですね」青年の声は屈託がなかった。「二十分ぐらい前にも電話したんですよ」 「何の用だ」私の声は大いに屈託があった。 「今晩にでもおめにかかりたいと思いましてね。ご都合はどうですか」 「都合は悪い」 「悪くても会っていただきます」 「だったら、都合なんか訊かなくてもいいだろう」 「たんなる社交辞令です」  実際、気にさわる男だった。 「それで、どこへ行けばいい?」 「今晩九時に、六本木の『|美しい女《ベラドンナ》』の事務所へ来てもらえませんか」 「『|美しい女《ベラドンナ》』……」私は意外だった。「きみはあの弥生とかいう女と、なにか関係があるのか」  が、私の耳に聞こえてきたのは、カチリという受話器を置く音だった。私には質問すら許されていないということらしい。  あの青年と、弥生しのぶ——確かに、両人《ふたり》ともひどく謎《なぞ》めいているという点では共通していた。が、どういう理由《わけ》か、あの両人《ふたり》が仲間だったとはとっさには信じ難かった。  いずれにしろ、今夜になればはっきりすることだった。それに、瘤のできた頭でなにを考えてもたかが知れていた。私は躊躇《ためら》わずベッドにダイブした。  あの青年は回転|椅子《いす》に逆に坐っていた。長い両の足で絨毯《じゅうたん》を蹴《け》り、椅子を回し、ぎしぎしと軋《きし》ませていた。彼の着ている革のサファリ・スーツは、この豪奢《ごうしや》な部屋にも、窓の外に鮮かな夜景を見せている六本木にもよく似合っていた。少なくとも、数えきれないほど水をくぐり、いかなるアイロンも頑《がん》として受けつけなくなっている私の背広よりは数倍も似合っているようだった。  峰次郎。——彼が寄こした名刺にはそれだけが印刷されていた。 「あなたもまがりなりにも経営者だったんだから、その名前は知っているでしょう」机の向こうから、弥生が言った。  まがりなりにだけはよけいに思えたが、確かに私も事務所を持っている時、峰次郎の名前はきいたことがあった。彼はそれなりに有名人だったのである。その巨躯から鯨の異名をとった総会屋の大物に峰令一郎という人物がいる。峰次郎はその息子で、親父が発行していた株式業界の業界紙をうけつぎ、やはり総会屋の名のりをあげた。親子二代の総会屋というのも珍しいが、次郎がたんに親の威光をかりた凡庸な二代目ではないのは、その異名が鯱《しやち》であることからも分る。親父の鯨さえ食いかねない男だというのである。——遺憾ながら我が友峰次郎くんは経済界のあらゆる分野で好ましからぬ人物としてうけとめられているのだった。 「名前はきいたことがある」私は弥生に言った。「だが、その有名人である峰くんがどうして『|美しい女《ベラドンナ》』の支配人室に出入りしているんだ?」 「それは弥生さんの話が終ってから説明しますよ」峰が応える。  そう、ここは「|美しい女《ベラドンナ》」の支配人室であった。——女が、特に弥生のような女が働くのに相応《ふさわ》しくなく、チーク材の大きな机も、来客用のソファもしっとりと落ち着いた品で、大金がかかっていてもそれを感じさせない実用的な部屋だった。扉《とびら》一枚へだてた応接室には巨大なシャンデリアさえぶらさがっていることを想うと、二つの部屋の落差に戸惑うほどだったが、ある意味ではその落差が弥生という女の複雑な性格を表わしているのかもしれなかった。 「早野が殺された時、同じ部屋に鹿島さんがいたことは、峰さんから訊いて知っているわ」弥生がいった。 「つまり、脅迫者が二人になったわけだな」私は憂うつだった。「峰くんと、きみと、……それはかまわないが、頼むから協力しなければ警察に訴えるなんて威《おど》かさないでくれよ。その台詞《せりふ》は、峰くんから充分にきかされているんだ」 「それが分っていればいいのよ」弥生は嫣然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。「それじゃ、まず私の知っていることから話すわね。……私が『|美しい女《ベラドンナ》』の日本での販売権を手に入れたのはね。『美しい女』が女のステイタス・シンボルだったからよ。あの香水が使えるというのは、上流階級に属していると宣言してるも同じだし、金のかかる女でいられる、と周囲に明らかにすることでもあるんだわ。それも、とびきり金のかかる女でいられる、と……そして、上流階級の女たちを左右できる人間は、結局、その国の社会をも左右することになるのよ。私はこの支配人室で機会を待ったわ。待って、待って、待ち続けたわ……」  今日の弥生は和服を着ていた。藍色《あいいろ》のくすんだ着物に、綴錦《つづれにしき》の帯をしめているのだった。髪をアップにしているのが、その蒼光《あおびか》りするような肌《はだ》の美しさをいやがうえにも際立たせていた。——ただし、ヘレンとリンダがその両側にはべっているのはこの前と同じだった。彼女たちが私に好意を持っていないらしいのも変わっていなかった。 「なんの機会を待っていたんだ?」私が訊いた。 「言ったはずよ。この国を左右できるようになれる機会よ。……そう、女王《クイーン》になれる機会ね。東南アジアの小国の大統領と結婚した成りあがりなんかじゃなく、本物の女王になれる機会を……」弥生は昂然《こうぜん》と頭をもたげて言った。  多分、弥生の幻想のなかでは、彼女はもうすでに女王なのだろう。二匹のドーベルマンは、彼女が女王になった時その足元にはいつくばるであろう臣下たちの、代用品なのかもしれなかった。 「そして、とうとうその機会が巡ってきた。……『|美しい女《ベラドンナ》』の客たちの間に奇妙な噂《うわさ》が流れているのを聞き取ったのよ。齢《とし》をとらない人間が存在する、という噂をね。始めは、駐留米軍の高級将校のかみさん連中の間で囁《ささや》かれていたらしいんだけど……」  齢をとらない人間……それは私にとってたんなるたわ言以上の意味があった。現実に、私は齢をとらない人間をこの眼で見ているかもしれないのだ。ひとりの眠りつづける美少女を。……私は反射的に顔を伏せていた。表情を読みとられたくなかったのである。 「そのうちに、今度は男たちの間で、齢をとらない人間のことが話題にのぼりだしたの。政界財界のトップクラスのお爺ちゃんたちが禿《は》げた頭を寄せ合って大真面目に齢をとらない人間のことを囁き合っているのよ……もしかしたらこの噂を本当かもしれないと、私が思ったのはね。そんなVIP連中でさえ、本当のところどうなのか知らなかったからよ。彼等にしても、時おり耳に入ってくる噂の断片を不細工につなぎ合わせて、ただ推測することができるだけなのよ……こういう噂は根が深いわ。そして、おうおうにして真実であることが多いものなのよ……」 「齢をとらない人間が存在するとして、それがなんだというのかね?」 「エルゼベエト・バトリーという名前を聞いたことがあって?」 「いや」 「十六世紀ハンガリアの『血まみれの伯爵夫人』よ……若い娘たちを、内部に無数の棘《とげ》の生えた格子づくりの鳥籠《とりかご》に押し込め、彼女たちが流す血を、床に横たわってシャワーのように浴びた美しい女——一度に三人四人の娘たちの血を搾《しぼ》って、その血をたたえた浴槽《よくそう》に体をひたした伯爵夫人よ。彼女が殺した娘の数は、六百人を越えると言われているわ」 「怖《おそろ》しい話だな。淫血症の、サディストだったわけだ」 「それに、同性愛で、たぶん冷感症でもあったわ……でも彼女は本物の女だった。本物の女はね。自分の若さと美しさを保つためだったら、恋人の咽喉笛《のどぶえ》にだって噛《か》みつくものなのよ」 「なるほど……」そううなずくしかなかったが、弥生の言葉が真理をついているのだとしたら、私は本物の女などには生涯《しようがい》会いたくなかった。恋をうちあけたとたんに、咽喉笛に咬《か》みつかれたのでは間尺にあわない。第一、咽喉に穴をあけられてしまっては、将来の設計さえ語れないではないか。  が、私の意志如何に関わりなく、私はもうすでに本物の女に会ってしまっているようだった。 「齢をとらない人間……その秘密を掴《つか》むことができれば、この社会を意のままに動かすことも可能だわ。『|美しい女《ベラドンナ》』の販売網を利用すれば、女たちを通じて政治と経済を自由に操れるのよ」本物の女が言った。 「それで、その齢をとらない人間とやらにどれぐらい接近することができたんだ?」私は訊いた。 「鹿島さんは稲垣大造という名前をきいたことがあって?」弥生が訊き返してきた。 「与党委員の稲垣大造のことか? 与党内反主流のなかでも、どちらかというと孤立している人物だ。政治的立場は極右……党歴は長いが、政治家としてはそれほど業績を上げていない。まあ、俺《おれ》の知っていることといえば、それぐらいかな」 「それだけ知っていれば上等よ。もともとが、でっちからたたきあげたというだけがとりえの、二流の政治屋ですからね」 「その稲垣がどうかしたのか?」 「ちょっとした勇み足がもとでね。党を除名になりかけているの……そこで先生、なんとか勢力回復をはかろうと、八方手を回したらしいわ。そして、齢をとらない人間のことをなにか掴んだらしいの」 「なにかって、なんだ?」 「私だって詳しいことは知らないわ。知っていることだけ申し上げますとね。齢をとらない人間は、今、日本に来ているってこと——」 「日本に来ている? どういう意味だ。彼等は齢をとらないから、退屈して世界を歩き回っているとでもいうのか?」  弥生は腹だたしげに首を振った。 「あなたも分らない人ね。私はたまたま耳に入れることができた言葉をご披露しているだけよ。それがどんな意味であるかは、これから三人で考えるんじゃないの」  三人というのは弥生と峰、それに俺のことなのか、と私は頭のなかで絶望的に自問していた。 「それにもう一つ分ったのは、齢をとらない人間というのは、どうやら吸血鬼《バンパイヤ》のことらしい……」 「吸血鬼《バンパイヤ》……」私は今度こそ驚愕《きようがく》を隠しきれなかったようだ。  齢をとらない人間といい、吸血鬼《バンパイヤ》といい、一月《ひとつき》前の私だったら、一笑にふしていたかもしれない言葉だった。が、現在《いま》の私は齢をとらないとしか考えられない娘を目撃しており、また吸血鬼という言葉も、早野の死に際の言葉として、恐怖映画の代名詞以上の意味を持つようになっていた。 「なにか心当たりがあるようね」弥生の眼が妖《あや》しく光った。「とにかくね。齢をとらない人間というのは、昔は世界中に生息していたらしいの。考えてみれば、吸血鬼伝説がこれほど世界に分布しているのは不自然だわ。バルカン諸国はもちろん、ポーランドのウピル、ギリシアのプルコラカス、ドイツのドルド、アラビアのグール、古代まで遡《さかのぼ》れば、バラモン教のガンダルヴァ、ギリシアの妖怪ラミア——日本でも|※[#くさかんむり+「茶」]祇尼天《だきにてん》というのが知られているわね。これほど世界に共通している妖怪《ようかい》というのは、他にはいないわ。昔、吸血鬼と目されるなにかが、生存していたと考える方が自然じゃないかしら」 「待ってくれ」  話がとんでもない方向に飛躍しそうなのに驚いて、私は口をはさんだ。 「|※祇尼天《だきにてん》というのは、インドのダーキーニが伝来したものだと、なにかで読んだ覚えがある。多分、屍肉《しにく》を啖《くら》うジャッカルから思いついたものだろう、とその本の著者は言っていた……鬼子母神《きしもじん》だの、尻から血を吸う河童《かつぱ》だの、確かに吸血鬼を連想させる妖怪は多いかもしれないが、たいていはどこからか伝来したもので、根は一つなんじゃないかな。それを吸血鬼が生存していたと決めつけるのは……」 「それじゃ、低部ギニアのカマ族やコミ族に信じられているオヴェンガは? ボルネオのダイアク族に信じられているブアウは? どこから伝来した妖怪だと言うの?」  私は言葉につまった。正直なところ、オヴェンガだのブアウだの、それまで聞いたこともない名前だった。エルゼベエト・バトリーとかいう伯爵夫人を信奉するだけあって、弥生の吸血鬼に関する知識はなまなかなものではないようだった。 「いいだろう。仮に吸血鬼が生息していたとする」私はしぶしぶ譲歩した。「それでどうなんだ?」 「齢をとらない人間というのは吸血鬼のことらしい。……当然、私はそれ以上のことを知りたくなったわ。そこで、早野を使って稲垣大造の身辺をさぐらせようとしたの」 「どうして、早野を?」私はもう驚きには不感症になっていた。 「幸いなことに、早野の父親が稲垣と中学の同級生だったの。それで父親が亡くなってからは、稲垣に色々と生活の面倒をみてもらったのね。学費なんかも援助してもらったそうよ。そのつてを使えば、稲垣からなにかさぐりだすことができる……そう考えたんだけど、ろくな報告もうけないうちに早野は誰かに殺されてしまったというわけ……」  弥生はひと息言葉をきって、 「私の話はこれでおしまい。これから先は、峰さんが話してくれるわ」  私は弥生から峰に視線を転じた。 「ぼくの方はそれほど話すことはありませんがね」あいかわらず回転椅子をきしませながら、峰が快活な口調で言った。 「ぼくがこの件に噛むきっかけになったのは、とある財界人グループから調査を依頼されたからでしてね。財界人グループといっても、ようやく一部上場になったぐらいで、戦前から続いている幾つかの巨大企業にはとても太刀打ちできないでいる——その程度の企業主の集まりなんですがね。彼らが入手した情報によると、政府が率先して経済を再編成しようという動きがあるらしい」 「経済再編成?」話の意外な進展に私はついていけなかった。「しかしいくらザル法とはいっても、独占禁止法というものがあるだろうに……」 「独占とか寡占とかそんな規模の話じゃないんですよ」 「どういうことだ?」 「総《すべ》ての企業を国家事業のために再編成させる。第二次大戦下の日本を考えてくだされば、話がはやいと思いますがね」 「…………」私は唖然《あぜん》とした。 「ぼくに調査を依頼した財界人グループは、バスに乗り遅れたくないの一念だったんでしょうがね。また財界が派手に動いてくれればくれるほど、ぼくら野良犬のおこぼれも多くなる理屈でしてね。一も二もなく調査をひきうけたんですけど……肝心の国家事業というやつが何なのかまったく分らない始末でしてね」 「その経済再編成というのはどれぐらい話が進んでいるんだ?」 「各巨大企業の間にようやく根回しが済んだ、という程度だと思います。政府が率先していると言っても、保守党にも幾つかの派閥がありますからね。どうやら、——」峰はかつて首相をつとめあげ、現在《いま》も保守党の間に厳然とした勢力を持つある大物の名前を口にした。「——あたりが中心になって動いているらしいですがね。……しかし、保守党の内部にも、どこの派閥にも相手にされないが、さりとてつんぼ桟敷《さじき》におかれるのは大嫌いというトラブル・メーカーがいる」 「稲垣大造か」 「稲垣大造です」峰はうなずいた。「稲垣は経済再編成について非公式に首相に質問しています。そして首相が言葉を濁すと、こうせせら笑ったというのです。儂《わし》だって齢をとらない人間をひとり抱えている……」 「どういう意味だ?」 「さあ……ぼくにしても、齢をとらない人間なんて知ったのは、その情報をきいた時が最初だったんです。とにかく、ぼくは稲垣を徹底的にマークすることにしました。そして、稲垣の身辺をうろついている早野という男に気がついたんです」 「私は甘かったわ」いっこうに甘くない口調で、弥生が言葉をはさんだ。「ミイラ取りがミイラになったのよ。稲垣の家に出入りしているうちに、早野は私の命令を無視するようになったの。つまり我が有能なる秘書どのは、いつからか稲垣のために動くようになってしまったのね」 「ところが早野の後を跟《つ》けていたら、おかしな男にぶつかった。それも二度までもね。もっとも、二度めの時には早野氏が死んでいましたけどね」峰が話をつづけた。 「なんだって……」驚きに不感症になったというのは私の自惚《うぬぼ》れに過ぎなかった。「それじゃ、早野が聡子《さとこ》の部屋を訪れているというのか」 「聡子?……」と峰は眉宇《びう》をひそめたが、「ああ、高倉聡子さん、あの殺された女《ひと》でしたね。ええ、そうなんです。早野は聡子さんのマンションを訪れています。訪れてはいますが、知り合いのようには見えませんでしたよ。針金なんか使って、コッソリ部屋に入っていましたからね」 「そこで早野が出ていった後、きみも部屋に入ってみたというわけか」 「ええ、ひどく興味がわいてきたものですから、早野の尾行は部下にまかせて……むろん、ぼくは早野と違って、管理人にきちんと断わって入りましたけどね」 「…………」  どうやら親戚《しんせき》を騙《かた》って、他人の部屋に入るのが、峰にとっては、きちんと断わってということになるらしい。とにかくあの夜、聡子の部屋は千客万来だったわけだ。部屋の主はすでにその朝死んでいたというのに…… (早野も眠れる美女をさがしに来たのに違いない……)  私はそう直感した。直感しはしたが、それで何が分ったというわけではなかった。ことの前後関係が幾つか明らかにはなったが、やはり謎《なぞ》は謎のまま厳として残っていた。  あの少女は齢をとらないのか。吸血鬼《バンパイヤ》なのか。——あの少女が吸血鬼であると考えるのは、なぜか私にはひどく耐え難かったが、仮にそうであるとして、それでは吸血鬼とは、齢をとらない人間とは、いったい何なのだろうか。……なにより須藤はどうして姿をくらまさなければならなかったのか。聡子を、早野を殺したのは誰だ?……  考えこんでしまった私に、弥生が鋭い声でいった。 「早野が死んだ翌日、峰さんから電話がかかってきたの。お互いに情報を交換しあおうってね……今夜は仲間を二人から三人に増やそうというわけ。今度は鹿島さんが私たちに情報を提供する番だわ」 「ああ」私はうなずいた。  私には彼らの要求を拒む力はなかったし、その意志もなかった。彼ら二人の力を利用すれば、私が劇画の探偵よろしくうろつきまわるより、はるかに能率的ではないかという計算も働いていた。——なんのために能率的だというのか。……ほんの一瞬ではあったが、そんな逡巡《しゆんじゆん》が私の胸をよぎらないでもなかった。須藤が狂言自殺までして、行方をくらましたいというなら、ソッとしておいてやるのが本当の友情ではないだろうか。だが…… 「ぼくがこのことに関わるようになったのは、ある雨の夜に、ひとりの娘を車ではねてしまったからだ……」  私はすでに語りだしていた。  こうしてその夜、お互いがお互いをまったく信用せず、機会あらば仲間をだしぬこうと考えている三人が、めでたくチームを結成したのだった。     四  ゴルフ場の建設にとりかかったのは去年のことだという。それが、丘をきりひらき、ブルドーザーで整地をしているうちに、土地の所有者であった不動産業者が不渡りを出してしまった。以来、この土地は売りにだされ、ゴルフ場建設もなかばにして放置されることとなった。  私はゴルフには詳しくないが、このゴルフ場が完成しさえすれば、千葉県という地の利も手伝って、東京近郊のプレイヤーをかなり吸収することができ、その不動産業者も不況をのりきれたのではないか。運が悪かったとしかいいようがない。  ともあれ、ついに根づくことのなかった枯れ芝生と、露出した赤土とが、汚く斑《まだら》にひろがっている建設なかばのゴルフ場は、見る者の意気をかなり消沈させる眺《なが》めだった。 「どうしてこんな所を会見の場所に選んだんだ?」私はコートの襟《えり》をかきあわせながら峰に尋ねた。 「盗聴よけですよ」峰はタバコをくゆらしていた。「現代《いま》の盗聴技術をもってすれば、どんな部屋の会話でも録音することができますからね」  なるほど、それはそうかもしれなかった。ゴルフ場には盗聴マイクを取り付け得る壁も床もないのだから。——それに、ただひとり、顔も定かに見えないほど遠方でクラブを振り回している男を除いては、だだっ広い敷地には猫《ねこ》の子一匹見えなかった。 「遅いわね」風を避けて、車のなかに坐《すわ》っている弥生がいった。「三時の約束でしょう」 「なにしろ稲垣大造氏は大物ですからね」峰は落ち着いていた。 「来た……」私が言った。  晩冬の寒々とした陽光のなかに、セダンが黒点のようにおとされ、我々にむかってゆっくり近づいてくる。  弥生も車からおりて、私たちと肩を並べて立った。  セダンは私たちの前方十メートルぐらいの地点で停《と》まった。  車からひとりの男がおりて、私たちに向かって歩いてきた。誰《だれ》に紹介されるまでもなく、その男が稲垣大造であろうことはすぐに分った。私が脳裡に描いていた稲垣大造のイメージそのままだったのである。——健康そうに肥った老人で、眼も鼻も大きく、一文字にむすんだ口がいかにも強情そうだった。浪花節《なにわぶし》が好きなのではないか。 「儂《わし》は忙しい躯《からだ》だ」稲垣は怒ったように言った。「話ははやく済ませてもらおうか」 「承知しております」峰はいんぎんだった。「そう考えまして、私どもの調べた情報は総《すべ》て書類にまとめておきました」  その書類は封筒に入れられて、いま私が手に持っていた。稲垣は私を一瞥《いちべつ》すると、 「信用してもいいんだろうな」不快げに鼻を鳴らした。 「信用していただくしかありませんね。私も峰令一郎の息子です。決して、先生にご損をかけるような真似はしません」 「……分った。じゃ、それを渡してもらおうか」稲垣は手を出した。 「その前に先生からお話をうかがう約束になっていますが……」出された稲垣の手を、峰は平然と無視した。 「…………」稲垣の額に癇症《かんしよう》らしい青筋が浮かんだが、しかし峰は怒鳴りつけたところでこたえるような男ではなかった。 「なにを訊きたいのだ?」ようやくそう吐きだした稲垣の声には、無念の響きが含まれていた。 「齢《とし》をとらない人間について、先生のお知りになっていること総てを」 「……齢をとらない人間について儂の知っていることなどほんの僅《わず》かなものだ。その存在が我が日本の国運に大きく関係しているらしいこと、さらにこのことと関連して、政府の間に経済を再編成しようという動きがあるらしいこと、それぐらいに過ぎん」 「先生は首相にご自分も齢をとらない人間を抱えているとおっしゃったそうですね」 「誰から聞いた?」 「地獄耳が私の商売です」 「いかにも儂の邸《やしき》にひとり住まわせておった。ありていに言えば軟禁しておったということになるかな」 「誘拐したわけですか」 「人を見てものを言え。儂は稲垣大造だ。昔少し面倒をみてやった者が、儂の政治生命を気づかって、どこからか連れてきただけのことだ」 「どこからか、とはどこのことです?」 「知らん」 「先生ほどの方が、ご自分の部下にそれを尋ねなかったとは思えませんがね」 「たとえ知っていたとしても、総会屋ごときに言えることではない」 「それではこの取り引きはなかったことにしましょう」峰は平然とそう言ってのけると、私たちに眼で合図をした。  弥生が車のドアを開けて、座席に滑り込もうとした。 「待たんか」稲垣が呻《うめ》いた。その顔が怒色で醜く染まっている。 「教えていただけますか」峰はまったく臆《おく》する様子を見せなかった。 「久里浜の沖にあるとかいう埋めたて島から連れだしたということだ」稲垣は平静を保つのにかなり苦労しているようだった。「だが誤解せんでもらいたい。儂は決して私利私欲のために、齢をとらない人間を誘拐させたのではない。いまさら統制経済など国を滅ぼすだけのことだし、その目論見《もくろみ》をうち壊すためには、どうしても事実を国民につきつける必要が……」 「いまもその齢をとらない人間をお邸に置いてらっしゃるんですか」峰が稲垣のらちもない演説を遮《さえぎ》った。党内での己の勢力を回復するために、部下に誘拐までやらせて、それを恥じいるどころか、国民という錦《にしき》の御旗をふりかざしてなんとか体面を保とうとするところなど、むしろあっぱれな政治家ぶりと誉《ほ》めるべきなのかもしれないが…… 「もうおらん」稲垣は苦い口調でいった。「首相からの圧力が強くなってな。邸内に置いとくのは危険になった。それで都内にマンションをかりて、早野にその世話をしろと命じたのだが……早野がちょっと眼を離した隙《すき》に、娘は部屋から逃げだしおった……」 「娘?」峰の声が緊張したものになった。「その齢をとらない人間というのは娘だったんですか」 「そうだが……」  私もまた自分の顔が強張《こわば》るのを感じていた。それでは稲垣が誘拐させた齢をとらない人間というのは、あの眠れる美女のことだったのか。私が車ではねた時、あの少女は逃亡中だったのか……。  弥生もまた新しく分った事実に興奮しているようだった。稲垣を見つめているその表情《かお》には、かすかに赤みがさしていた。 「最後にもうひとつ、早野が誰に殺されたか心当たりはありませんか」 「儂は人殺しには知り合いはおらん。確か、最後といったな」 「ええ……」 「すると、もうその封筒を貰《もら》ってもかまわんのだろうな」 「勿論《もちろん》です。どうも失礼なことばかりお訊きして……」 「…………」  詫言《わびごと》をならべる峰には見向きもしないで、稲垣は私の手から封筒をひったくるようにして取った。そして、そのまま車に向かって歩きかけたが、 「そうそう、きみに会いたいという人物を連れてきたのを忘れていたよ」ふいに振り返ると、峰にそう声をかけた。 「ぼくに会いたいという人物ですか」峰は眉《まゆ》をひそめた。 「そうだ」稲垣はうなずいた。「ぜひ会いたいという人物をな」  車のドアを開閉する音が聞こえてきた。セダンからひとりの男がおり立ったのだ。——年齢は稲垣とさほど違わないのだろうが、その男を老人と呼ぶのは、いささか抵抗感を覚えた。長身の、よく引き締まった体躯をしていた。ふさふさとした銀髪と、鷹《たか》のような鋭い容貌《ようぼう》が、その老人に尋常ではない雰囲気《ふんいき》を与えている。 「父さん……」峰がかすれたような声をあげた。  これには、私も驚かされた。峰の父親といえば、総会屋きっての顔役、峰令一郎ではないか。  弥生も唖然《あぜん》として二人の男を見つめている。 「儂は車のなかで待っている」いかにも人の悪そうな笑いを浮かべながらそう言うと、稲垣はさっさとセダンに戻っていった。  そんな稲垣に軽く黙礼すると、令一郎は再び視線を峰にかえした。そして、言った。 「次郎、この件から手をひけ」地鳴りのような声だった。 「父さんの言葉とも思えないな」峰の表情《かお》に強張ったような笑いが浮かんだ。「そいつは同業者の仁義に反しやしませんか」 「おれはおまえのことを思って言ってるんだ。今度の件はおまえのような若僧に歯のたつことではない。大怪我をしないうちに、手をひいた方がいい」 「甘い汁を吸うのは自分ひとりで沢山、息子に吸わせるのも厭《いや》というわけですか」 「なんだと……」 「ねえ、父さん、父さんのような大物が本気で稲垣と組むはずがない。いずれはあの男の失脚を手みやげに、巨大企業に食らいつくつもりでしょう? それとも今度は、保守党の主流が相手ですか」 「莫迦《ばか》を言え。そういうのを下衆《げす》のかんぐりと言うんだ。……おまえなどには分るまいが、これは国家的な話なんだ。おれはお国のために働いているつもりだ……」 「総会屋がお国のために働いているというのですか」 「だから、おまえなんかには分るまいと言った」 「いや、分りますよ」 「どう分ったと言うんだ?」 「父さんはいつも総会屋は必要悪だと言っていた。この資本主義社会が滑らかに動いていくための欠くべからざる潤滑油だと……今度はお国のための潤滑油になろうというわけですね。お国のために、多くの人間を陥れ、幾つかの弱小企業を潰《つぶ》し……」 「黙らんか」 「だが、ぼくは違う。同じ総会屋でも、父さんのように強い奴のおこぼれを拾って歩くのは性に合わない。その逆に、強い奴、大きい奴のむこうずねを蹴《け》とばして歩きたい。それも総会屋にしかできない真似だ」 「その相手がお国でもか」 「なおさら面白いですね。今度の件は、どうやら思ったより規模が大きそうだ。うまくやれば、お国がむこうずねを抱えて、とびあがるかもしれない」 「おまえは一人前の男ではない。いつまでたっても、学生時代の革命ごっこを忘れられない子供なんだ」 「いや、忘れましたよ。いくら貧之人や学生が騒ぎたてても、強い奴は痛くも痒《かゆ》くも感じない。強い奴、悪い奴に痛いめをみせるには、こちらも強く悪くならなければ駄目だ——はっきりそう知らされましたからね」 「もういい。おまえのたわ言など聞きたくもない。つまり、この件から手をひくのは厭だと言うのだな」 「厭ですね」 「ひとりの総会屋としておれに牙《きば》をむこうと言うのだな。おれに潰されても泣きごとを言わんと……」 「父さん、あなたは少し永く働きすぎた。もう隠居したらどうですか。総会屋にも世代交替の時がきたとは思いませんか」  まさしく鯱《しやち》と鯨だった。彼らは父子という関係を忘れて、それぞれにひとりの総会屋として、激しく対立しているのだった。  私と弥生は言葉もなく、両人《ふたり》のやりとりを凝視《みつ》めていた。ここでは、私たち二人はたんなる傍観者にしか過ぎなかった。 「好きにするがいい」そして、令一郎が言った。「ここらで痛いめにあった方が、おまえのためにもなるかもしれん」  それには、峰はなにも応えようとはしなかった。ただ、ニヤリとひどく太々しい笑いを浮かべただけだった。  令一郎は踵《きびす》を返すと、稲垣が待ちうけているセダンに乗りこんだ。  セダンのエンジンがかかった。枯れ芝生に二筋の深い轍《わだち》を刻んで、車はゆっくりとバックしていった。その時……  私の視界の隅になにか奇妙なものがとびこんできた。いや、たとえ建設なかばといえ、ここがゴルフ場であってみれば、それを奇妙なものと呼ぶのは私の間違いかもしれない。——凍てついたような空に、輝く放物線をえがいて、ゴルフ・ボールが飛んでくるのだ。 「父さん!」峰が叫んだ。  が、その叫び声は、ほとんど同時に起こった轟然《ごうぜん》たる爆破音になかばかき消されてしまった。熱く灼《や》けた爆風に、私の躯《からだ》はきりきりと舞った。 「父さん!」峰の悲痛な叫びが再び聞こえてきた。  セダンは黒く部品をまき散らしながら、いま凄《すさ》まじいほどの焔に包まれている。ガソリンをなめる赤い焔に蹂躪《じゆうりん》されながら、セダンはなおも瀕死《ひんし》の甲虫《かぶとむし》のように後退を続けていた。  セダンに向かって駆け寄ろうとする峰に、私は躍りかかり、その躯を芝生のうえにひきずり倒した。 「離せっ」峰は私の腹を蹴りつけてきた。  その蹴りは充分にこたえたし、彼の気持ちも分らないではなかったが、しかし離すわけにはいかなかった。セダンを包む焔は第二の爆発を誘発する危険があった。それに、いずれにしても峰の父親を救けることは不可能であった。 「早くここを離れた方がいいわ」これは、いつも冷静で実際的な弥生からの提案だった。「警察が来る前に……」  もっともな提案というべきだった。私は、なおも幼児のようにその手を振り払おうとする峰を、無理やりに車のなかに押し込んだ。無理からぬことではあったが、さすがの峰も眼前で起こった父親の死にほとんど自失しているようだった。  車のエンジンをかけた時、私はようやく最前からクラブを振っていた男の姿が消えていることに気がついた。  総会屋の怪物と、保守党の古兵《ふるつわもの》とを一時《いちどき》に葬った焔は、バックミラーを赤く染めて、いつまでもいつまでも私たちを追ってきた。  久里浜に、 「水中武器(魚雷など)及び水中器材(音響器材など)に関する技術的試験」  を行なうための、いわゆる臨海試験場が開かれていることはよく知られている。だが、削出土を埋めたててつくった島がその沖あいにあり、そこに実験部隊が常時駐留しているという事実は、あまり世間に知られていないようだ。  一つには、通信器材、監視器材、対通信装置を開発するという比較的地味な実験場の性質もあったし、もう一つには、住倉産業がこの島の事実上の所有者であり、自衛隊につきものの住民問題の起こりようのないこともあって、話題にのぼりにくかったのだろう。防衛白書によると、この実験場が開設されてから二年ほどが経っているが、その間、埋めたて島の「電子実験場」の名が新聞に載せられたことは一度としてなかったのである。 「ぼくは埋めたて島に潜入しますよ」と、峰は言う。「稲垣の部下にできたことなら、ぼくにできないはずはないですからね」  弥生のマンションだった。  ゴルフ場で峰令一郎たちが殺されてからすでに三日が経過していた。彼らの死は落雷による事故と報道されている。珍しい事故でもあるし、その犠牲者たちが大物であったことも手伝って、かなり世間の関心を集めはしたが、しかしその件に疑惑を抱く者は少ないようだった。ましてそれがゴルフ・ボールに仕掛けられた爆弾による殺人だなどとは、たとえ私たちが声を大にしてふれまわったところで、誰一人として信じる者はいなかったろう。  峰の思いつめる気持ちも分らないではなかった。だが…… 「鹿島さんはどうするの?」弥生がそう訊いてきた時、私は即答できなかった。  私たちが相手にしている敵の、あまりの酷薄さ強大さに怯《おび》えを感じたこともある。それもあるが、それよりも事態がこんな形で進展していくことに、なにか後ろめたさを覚えたのだ。須藤の無実を晴らしたい——そのために必要なら聡子を殺した奴をつきとめてやる、という私のごく個人的な願いはいつしか片隅に追いやられて、気がついてみると、事態は私の須藤に対する感情などとはまったく無関係な様相を帯び始めていた。埋めたて島に潜入する?……それが須藤を救うこととどう関係があるのか。 「どうするのよ」いっこうに返事をしようとしない私に業を煮やしたのか、弥生の声が険しくなった。  峰も私の表情《かお》を凝視《ぎようし》している。  なかば追いつめられたような気持ちで、私はポケットからマッチを取り出し、中身を掌《てのひら》にぶちまけた。埋めたて島に潜入するかどうか……そう頭のなかでつぶやきながら。  溜息《ためいき》が出た。改めて数えるまでもなく、マッチの軸木は八本しかないのだった。 「なんの真似よ? それ」弥生が不審げに尋ねてきた。  私はその質問を無視した。そして、言った。 「ぼくも埋めたて島に潜入するよ」     五  船は東京湾を横切り、観音崎を回り、久里浜にさしかかっていた。  海を覆う工場廃液が、沈んでいこうとする陽を紅《あか》く反射して、なにか血膿《ちうみ》のような凶々《まがまが》しさを見せていた。油膜に汚れたカモメの死骸《しがい》が、なにかを祈っているように首を折り、そんな血の海に漂っていた。死んで、それ以上もなく無力な存在と化し、それでもなお祈らずにはいられないカモメの姿は、なにか私たちの運命を暗示しているように思えた。——塵芥《ごみ》運搬船に乗り、何を求めているのか、そこで何が待ちうけているのか知らないまま、埋めたて島に向かう私と峰の運命を。……  船腹に収められた塵芥タンクを覆っている甲板に立ち、私は海を見ながら、タバコをくゆらしていた。潮風に吹かれて、と形容したいところだが、あいにく廃液の放つ異臭に顔を打たれながら、であった。  久里浜の方角に低く連なっている山なみが、しだいにその稜線《りようせん》を空の暗みに溶かしていく。  機関室から声がかかった。 「もうそろそろ埋めたて島に着くよ。下にひっ込んだ方がよかねえか」  私はタバコを海に捨て、峰の姿をさがした。  彼は一段上の船尾甲板に立っていた。  私は下から呼びかけた。 「おい、降りる時間だぞ」  私を見下ろし、峰はうなずいた。低いタラップを降りてきて、私と肩を並べる。 「ずいぶん長い間、あそこに立っていたな。なにを見ていたんだ?」私は訊いた。 「横須賀港に、魚雷艇が何隻か停泊していましたね……」 「ああ……それで?」 「あのうちの一隻だけでも爆破できないものか、と思いましてね」  驚いて、私は峰の横顔を見つめた。  峰の表情《かお》は暗く、その頬《ほお》に刻まれている皺《しわ》は深かった。父親の死を境にして、彼のうちで何かが変質したようだった。いま私の眼前にいるのは総会屋峰次郎ではなく、復讐《ふくしゆう》の黒い焔に身を焦がしているひとりの青年に過ぎないのだった。  首を振って、私はマンホールの上にかがみこんだ。 「さあ、なかに入るぞ」  重い鉄の蓋《ふた》を開けると、塵芥のすえたような臭いがたちのぼってきた。私と峰は、水で湿したハンカチで覆面して、穴に体を滑り込ませた。私たちが塵芥の上にそれぞれの足場を定めてうずくまった時には、上に立っている誰《だれ》かが鉄蓋をしっかりと閉めていた。  私はペンシルライトをつけて、塵芥タンクの内部をひとわたり照らしてみた。  高さは三メートル、広さは四メートルといったところだろう。  弥生の話だと、ほとんどが紙屑《かみくず》であるからさほど臭いは気にならないだろう、ということだったが、どうして多種雑多な屑の山だった——その多種さに比例して、当然、異臭の方も強くなる。 (塵芥運搬船に話をつけたわ。あなたたちは屑のなかに姿を隠して、埋めたて島に上陸するのよ)  とまるで飛行機の座席がとれたとでもいうように、あっさり言ってのけた弥生が恨めしかった。男二人をゴミの山に追い込むには、それなりの後ろめたさがあってもしかるべきではないか。もっとも、そんなことを口に出そうものなら、誰が資金を出したのよ、と反駁《はんばく》されるのは分りきっているのだが……。  エンジンの響きが、塵芥の山を通して微《かす》かに伝わってくる。私は側壁に背をもたせかけ、膝《ひざ》を抱え、眼を閉じた。波と機関音の双方がもたらす単調なリフレインが、私に遠い昔のことを想い出させていた。  その当時は、それなりに喜んだり苦しんだりしたでき事が、年月にさらされ、感情を濾過《ろか》され、一様に無色透明なものになっている。今の私は、美術館に飾られた絵を眺《なが》めるように、それらの想い出を眺めているのだ。距離をおいて、いくらか悲しげに——。  感傷にふけるには、相応《ふさわ》しい時ではなかったし、相応しい場所でもなかった。だが私には、この耐え難い臭いと、私を待ちうけているであろう危険との、二重の意味で逃避の必要があったのだ。  眼を開けて、私は峰に顔を向けた。  彼もまたなにか考えごとにふけっていた。手足がそれぞれ一本ずつもげているフランス人形を手に取って、そこに人生の秘密が隠されているとでもいうように、まばたきもしないで見つめている——。  波のうねりがしだいにゆるやかになっていき、やがて|縦ゆれ《ピツチング》だけを残し、クスンという不満げな音を最後に機関音も聞こえなくなった。  着いたのだ。 「消すぜ」  と峰に言って、私はペンシルライトを消した。  暗闇《くらやみ》に、私たちの息遣いだけが聞こえていた。  長くは待たされなかった。ガクンと衝撃が床から伝わってきて、塵芥タンクがゆっくりと動き始めた。塵芥タンクそのものがコンテナ様になっていて、取り外しが可能なのだ。  私たちの頭上に星空が拡がっていった。東京のスモッグに曇った空を見慣れている人間には、ほとんど畏怖《いふ》感を覚えるほどの、澄んだ星月夜《ほしづきよ》だった。この空と一体となっていたはずの海が、なぜあれほどに汚れることができたのかふしぎに思えた。  今や塵芥タンクは完全に船腹から分離された。ガタガタときしみながら、どこやらへ運ばれていく。やがて、星空がゆっくりと百八十度回転して、再び床から衝撃が伝わってきた。タンクを運んできた車の離れていく音が、聞こえてくる——。  ずいぶん長く感じられたが、時間にして五分ぐらいのものだったろう。さらに五分ほどを待ち、私たちは塵芥タンクから這《は》い出した。  私たちが隠れている茂みは、船着き場と基地とを区切る斜面の中腹にあった。すぐ眼の前には塵芥タンクが黒々とそびえていて、その周りにはブルドーザーだのパワー・シャベルだのが幾台か置かれてある。そんな工事現場のような空き地に平行して低く防波堤が築かれていて、発育不全の骨のような埠頭が海に突き出している。その埠頭に据えつけられている投光器が照らし出しているのは、私たちが乗ってきたちっぽけな塵芥運搬船だ。  船は一時間ぐらい停泊して、塵芥タンクを島に残したまま出港していく。だが明朝にはここに戻ってきて、夜の間に積み込まれた島のゴミで満腹になったタンクを回収して、再び海に出ていく。そして、むこう一週間はここには立ち寄らない——。  つまり、今夜一晩が我々の勝負というわけだった。  峰が私を促した。 「行きましょう」  塩がジクジクと滲んでひどく足場の悪い斜面を、我々は息を切らして駆け上がった。  斜面を登りつめると、すぐ眼の前に柵《さく》があった。高さは三メートルというところか。八本よりの有刺鉄線の柵で、上端が外側に張り出していた。  柵は蜿蜒《えんえん》と続いていた。その柵を見る限りでは、この島に設けられているのが、ただの「電子実験場」であるとはとても信じられなかった。その柵の内側で行なわれているのが、たんなる実験であるはずがなかった。少なくとも自衛隊が常時この島につめているという弥生の情報はガセではないようだった。  地に体を低くうずくまらせながら、私たちはしばらく柵のむこう側を窺《うかが》った。  どこからか犬の吠《ほ》える声が聞こえてきた。  だが、動いているものは何も見えなかった。  月光が斑《まだら》に闇を染め、プランクトンのように漂っているだけだった。 「明るすぎるな」峰が吐きだすように言った。  だが不平を言ってみても始まらなかった。暗ければ暗いで、有刺鉄線を切るのに懐中電灯を使用しなければならず、やはり見張りに発見される危険があった。  運を天にまかすしかなかった。私たちは柵にとりつくと、それぞれにペンチで鉄線を切断にかかった。  十分後、私たちはどうにか柵の内側に入ることができた。  茂みのなかを二十メートルほど前進すると、雑木がまばらになり、かまぼこ屋根の背の低い長い建物が幾つも闇のなかにうずくまっているのが見えた。  峰が低い声で言った。 「それじゃ仕事にかかりましょうか?」 「ああ」  と私がうなずいた時には、彼はもう背を丸めて斜面を駆け下りていった。闇にまぎれて、たちまちのうちに彼の姿は見えなくなった。 「気をつけてな」  彼が消えていった闇に向かって、私はそうつぶやいた。  私たちはこの島で何を見ることになるのか、何を見たいのか、はっきりとは分っていなかった。さしあたり、齢をとらない人間でも発見することができれば、その正体を掴《つか》みうるかもしれないという程度の見込みはあったが、それすらも目的と呼ぶにはあまりに実現が困難でありすぎるように思えた。  とにかく、二手に別れてこの島をくまなくかぎまわり、明朝ここで再びおちあう——それだけが私たちの計画の総《すべ》てだった。  あまりに無謀な計画というべきであった。だが、緻密《ちみつ》な計画をたてようにも、私たちにはこの島に関する情報が徹底的に不足しすぎていた。万に一つの僥倖《ぎようこう》を期待するしかないのだった。  私もまた斜面を駆けおりていった。     六  時がむなしく過ぎていった。何を探《さが》しているのかも分らない探索《たんさく》ほど、神経を消耗させる仕事はない。誰《だれ》にも見られてはならないという制約が、その疲労にいっそうの拍車をかけているようだった。  かまぼこ屋根の建物を窓から覗《のぞ》きこむことから私の探索は始まった。自衛隊が軍隊でないというなら、その建物を兵舎と呼ぶのも正確ではないことになる。だが、寝台が並び、時にはその寝台のうえで制服姿の男が機銃を分解しているような建物を、他のどんな名称で呼んだらいいのか私には分らなかった。  ともあれ、兵舎は幾棟《いくむね》か並んでいたが、そのいずれでも別に興味をひかれるようなものにはぶつからなかった。どの兵舎にも人影は少なく、まったく無人の建物も幾つかあった。  私はしだいに奇異の念にうたれ始めていた。これだけの敷地と、これだけの建物がありながら、あまりに人間の数が少なすぎるように思えたのだ。探索者としての私の立ち場からいえば、人間の数が少ないのは有難いようなものだったが、しかしそのことになにかしら不気味さを覚えたのもまた事実であった。なにより、肝心の「電子実験場」がどこにも見当たらないのだ。  最後の兵舎にも誰もいなかった。拍子抜けしたような想いで建物を離れた私の眼に、なかば地に埋れたような小さなトーチカ様の建物が映った。まさかとは思ったが、念のため覗いてみることにした。  重い鉄扉《てつぴ》を開けたとたんに、すえたような湿った臭いが鼻をついた。六メートル四方ぐらいの広さで、床はなく、地面がむきだしになっていた。裸電球が一つ、わびしく点《と》もされている。  中に入ってみるまでもないようだった。肩をすくめて扉を閉めようとしたその時、どこからか低くモーター音が聞こえてきた。扉《とびら》に手をかけたまま、私は首をかしげて、音がどこから聞こえてくるのかつきとめようとした。  音は壁のなかから聞こえていた。  私が音の正体に気がついて、慌てて鉄扉から首を引っこめようとした時、正面の壁が二つに割れ、左右にスライドしていった。  幸運だったのは、エレベーターには誰も乗っていなかったことだ。内装合金が冷たく光っているだけだった。  私はトーチカに足を一歩踏み入れて、しばらくエレベーターを見つめていた。死刑台のエレベーターという言葉がなんの脈絡もなく私の頭に浮かんだ。そのエレベーターは無視した方がいい、私の第六感がそうも囁《ささや》いていた。あまりに危険だから……  私は溜息《ためいき》をついた。どうやら好奇心に殺されるのは猫ばかりではないようだった。  私はトーチカを横切って、エレベーターに乗り込んだ。  開、閉の二つのボタンがあるだけだった。私は閉のボタンを押した。  ドアがスルスルと閉まり、落下感覚が私を包んだ。  かなり長い時間をエレベーターは降下し続けたが、やがて軽い震動と共に、その動きをとめた。ドアが静かに開いた。  コンクリートを打ち抜いただけの短い通路が、弱い明かりに照らされていた。通路の突き当たりには、青く塗られたペンキがかさぶたのようになっている鉄扉があった。木箱が雑然と両脇に積み上げられていて、なにか物置きのような雰囲気《ふんいき》だった。  扉を開けた。  強弱のモーターのうなりが、交響曲《シンフオニー》のように私の耳に流れ込んできた。その騒がしさもさることながら、下方にポッカリ口を開けている空間の広大さに、私は危うく眩暈《めまい》をおこしそうになった。  一見したところ、そのつくりは、巨大な工場を連想させる。それも、不景気のあおりをくって操業を停止せざるを得なかった工場を、だ——大小のパイプが幾重にも重なり縦横に走っていて、鉤《フツク》があちこちからぶらさがっている。そのパイプと鉤に埋もれるようになって、私には名前も分らない機械がいくつも置かれている。  私が立っているのは、側壁に取りつけられている稲妻型の非常階段の、その中央ぐらいに位置する出っ張りだった。下までの高さは十五メートル、多分それ以上あるだろう。  非常階段をおりていきながら、私は、操業停止中の工場という印象を受けたのは、必ずしも人影がまったくないからばかりではない、ということに気がついた。  寒いのだ——。  それも、異常に寒い。  気をゆるめると歯がカチカチと鳴りだしそうで、その音を誰かが聞き咎《とが》めはしまいかと奇妙なことを心配した私は、顎《あご》の筋肉に強く力を入れた。考えてみれば、ばかな話だ。そのくせ私は、工場に響きわたる自分の靴音に、ほとんど頓着《とんちやく》していなかったのだから。  下におりた私は、左右に気を配りながら、工場を進んでいった。失業中の私が、操業停止中の工場を歩いているのだからいっそ気が楽になりそうなものだが、さすがにいささかびくついていたようだ。ここで誰かに見つかったら、どう言い開きをしても、まず解放されることはあるまい……といって、これだけ錯綜《さくそう》しているパイプの陰に身を潜めながら這《は》い回っていたりしたら、何かを探すどころか、私自身が迷子になってしまうだろう。  このまま先へ進めば取り返しのつかないことになりそうだ、という予感がした。が、引き返すには、私のプライドが強過ぎた。プライドという言葉が鼻につくというなら、好奇心といいかえてもいい。  とにかく私は引き返さなかったのだ。  唐突、という感じで、工場は終っていた。  いや、終りではなかった。いかにも、これで終りなんだ、という表情でそびえ立っている鉄壁は、しかし、その腹に小さな窓を開けていた。窓にはガラスがはめこまれていて、そこから鈍い光が洩《も》れていた。  とすると、その向こう側には部屋があるということになるのだが……私は首をめぐらして、ドアを探した。だが、蜘蛛《くも》の巣のように積み重なっているパイプと、その間隙《かんげき》に置かれてある大小の計器類とに遮《さえぎ》られて、ドアらしいものは見つからなかった。  私はあきらめて、窓に歩み寄り、中を覗きこんだ。  かなり広い部屋で、床がこちらより何メートルか低くなっているらしかった。窓が小さくてひどく見づらいのだが、どうやら内部には相当数の人間がいるようだった。  彼等がなにをやっているのかを確めたくて、私は更に顔を窓に近づけた。  私の吐息で、ガラスが白く曇った。  私は顔を窓から離して、指を伸ばして曇りをぬぐおうとした——ガラスは氷のように冷たかった。  向こう側は恐しく寒くなっているらしい。こちら側でもこれだけ寒いのだから、多分、その部屋の温度は零度を大きく下まわっているだろう。  それがなにを意味するのかは、考える必要もないことだった。窓を覗けば答えを見いだすことができるはずだ……。  答は見いだせなかった。  窓を曇らせないように、細心の注意を込めて顔を寄せた私の眼に映ったのは、自衛隊基地で見るのになんのふしぎもない光景——軍事訓練なのだった。三十人ほどの自衛隊員が二列横隊に並び、教官の指導するままに機銃らしきものを組み立てているのだ。  私は拍子抜けした思いで、窓から顔を離した。  室温の低さを異常と呼べないことはないだろうが、それも訓練の一つと考えれば納得できる。現に、彼等は防寒具に身を固めているのだ——多分、寒冷下における戦闘という状況を設定した上での、軍事訓練なのだろう。  訓練?  なぜかこの言葉は、私の胸にはひどく坐りが悪いもののように思えた。  再び窓を覗きこんだ。 (これは違う……)  と私は頭のなかでつぶやいた。  今、私が眼にしている軍事訓練には、大真面目で戦争ゴッコをしている、というあの自衛隊に共通した雰囲気がまったく感じられないのだ。  確かに訓練には間違いないだろうが、これは、どう見ても戦時下の軍事訓練だった。第二次大戦の頃、私はまだろくに口もきけない幼児だったが、その時期に深く刻みつけられた記憶の一つに、やはり軍事訓練がある。その記憶が、眼前の光景にオーヴァ・ラップして、どうやらピッタリと合致しそうなのだ。  なんの根拠もない、漠然《ばくぜん》とした勘だった。  しかし私はほとんど盲目的に、その勘が事実を言い当てている、と確信した。窓の向こうの訓練が、その確信になんらかの肉づけをしてはくれないか、と私は考えて再びガラスに顔を寄せた。  ガラスはやはり冷たかった。が、私の後頭部にピタリと当てられたなにか固いものは、その数倍も冷たく思えた。 「覗き見はよくねえな。お里が知れるぜ」  溜息《ためいき》のようなひっそりした声だった。  私の全神経が後頭部に集中した。モーターのうなりが増幅されたように、私の耳に大きく聞こえてくる——。  歯を喰いしばりながら、私はゆっくりと首をめぐらした。  最初に眼に入ってきたのは黒い拳銃だった。続いて、拳銃を握っている手と腕……長い長い努力の後に、ようやく私は一人の男と真正面から向かい合うことができた。  私は自分の顔から血の気がひいていくのを感じた。|※[#「魚」+「師」のつくり」]《かますという魚に似て、歯ばかりがずらりと並んだ口をニヤニヤとゆるませているその男は——早野が殺された時、ホテルの廊下ですれ違った骸骨《がいこつ》男だった。 「恥かしいとは思わないのかね? いい齢《とし》をして、覗き見をするなんて……」骸骨男が言った。  あんたも自分の顔を恥かしいとは思わないか、と訊いてやりたかったが、危ういところで私はその言葉を呑《の》みこんだ。拳銃は冗談ごとではなかった。——骸骨男が私の顔を憶えているとは思えなかった。ここはなんとか言いつくろって、とにかくこの場をきりぬけるしか方法はなかった。 「すいません……私、塵芥《ごみ》運搬船の者なんですけど、トイレを探しているうちに迷いこんじまって、別にどうこうしようって気はなかったんで……どうか見逃してやってくださいな」  私の声は卑屈に震えていた。別に演技だったわけではない。心の底から解放されたかったのだ。 「見逃すわけにはいかねえな……」 「そこをなんとか」  と頭を下げかけて、私はギクリと体を強張《こわば》らせた。暗がりになっていてよく見えなかったのだが、骸骨の後ろに、もう一人男が立っていた。機械に背をもたせかけて、昏《くら》い眼つきで床を見つめているその男は——東都新聞の神谷だった。  骸骨は私の視線に気がついて、 「どうした? 芝居を続けないのか」ニヤニヤと乱杭歯《らんぐいば》をむきだした。  私は応えなかった。なぜ神谷がここに、という疑問と、これで俺《おれ》もお終いだ、という思いが頭を交叉《こうさ》して、私は呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。  骸骨は神谷を振り返って言った。 「この旦那《だんな》、よっぽどショックだったらしいぜ。神谷さん。ろくに口もきけねえ」  双眼の銃口が首をうなだれた。ほとんど反射的に、私の腕が拳銃を下から横なぐりに叩きあげていた。が、骸骨は拳銃を離そうとしなかった。よろめくことさえしなかったのだ。彼はステップバックして、耳ざわりな笑い声をあげた。サッと横にはらわれた拳銃が、私の頬《ほお》をしたたかに殴りつけた。私の体は壁まですっとんで、バウンドして床にたたきつけられた。遠くなっていこうとする意識をなんとか引きずり戻そうと、私は必死に首を振り続けた。その首を、二彩色《ツートンカラー》の靴が蹴りつけてきた。三回までは数えていたが、四回めに後頭部を蹴りつけられて、私の意識は急速に薄れていった。  金臭いものが口内に溢《あふ》れてきたのを覚えている。血は、悔恨の味がした——。 第三章 謀 略     一  気がついて、まず眼に映ったのは、天井からぶら下がっている縄の切れ端だった。首をつるには短すぎ、無視するには長すぎた。私はぼんやりとした眼で縄を見ていたが、やがて再び気を失った。  二度めに眼を開けた時、私の視界には靴《くつ》が大写しになっていた。見覚えのある二彩色《ツートンカラー》の靴だった。その靴に噛《か》みついてやろうかと思ったが、靴の持ち主が|※[#「魚」+「師」のつくり」]《かます》のような口をしていたのを想い出し、考え直すことにした。  いずれにしても、拳銃には歯がたたない。  靴が私の肩を軽く蹴《け》った。 「いつまで寝てる気なんだ? 起きろ」  うめき声を一つあげてから、私は頭をもたげた。他の誰《だれ》を期待していたわけでもないが、私の脇《わき》に立っているのが骸骨《がいこつ》だとはっきりしたのには、やはりいくらかがっかりした。  頭が重く、胃がむかついていた。かなり長い時間コンクリートの床に放りだされていたらしく、身を起こす時、体のあちこちが痛んだ。できればもう一眠りしたい気持ちだったが、これ以上骸骨に蹴とばされでもしたら、逆上してそれこそなにをするか分らなかった。逆上するのは怖くないが、その結果が怖かった。  ふらつく足で、ようやく立ち上がった私の肋骨《ろつこつ》を、 「さっさと歩くんだ。ここで年を越すわけにはいかねえ」骸骨が拳銃でつついた。 「分ったよ」と応えて、私は拳《こぶし》で顔をぬぐった。顔にぬらついていたのは、汗だけではなかった。  狭いコンクリートの部屋だった。家具はおろか、窓さえなかった。ただ、天井からもうすっかりおなじみになった縄がぶら下がっているだけだった。  拳銃に追いたてられて部屋を出ていく時、私は振り返って骸骨に訊いた。 「あの縄はなんに使うんだ?」  骸骨は応えた。 「洗ったシャツをほすのに使った奴もいるし、首をつるのに使った奴もいる」  気のきいた返事というべきであった。私は納得して部屋を出た。  なんの予備知識も与えられずに、今、私たちが歩いている廊下に放りだされたら、誰もがここをどこか大会社のビルの内部《なか》である、と断言するに違いない。窓が一つもないのにいささか奇異な感じを受けるかもしれないが、それも、間接照明の発達した最近のビルではさほど珍しいことではあるまい。見るからに有能そうな制服姿の女性たちが、小脇にファイルを抱えて、しきりに廊下を行き来しているのも、大会社の内部という印象を強めるのに一役かっている——顔を腫《は》らした男が拳銃をつきつけられて歩いていくのに、誰一人として関心を払わないような会社があればの話だが。  ここは、埋めたて島の地下なのだ。  骸骨がまた私の肋骨を拳銃でつついた。私が呼び鈴だったら、のべつベルを鳴らし続けねばならなかったろう。 「ここだ」  私の眼の前で、自動ドアがスルスルと開いた。  私は骸骨の顔を振り返った。骸骨は銃身を振って、中に入れ、と私を促した。  部屋に入った。  最初に私の眼に入ってきたのは、円筒型のガラス容器だった。ドアと真正面の位置に壁がくりぬかれていて、その中に二つ、ガラス容器が並んで収められているのだ。直径こそ多少大きいようだが、高さはせいぜいが一升|瓶《びん》ぐらいだった。液体がいっぱいに入っていて、その液体になにか臓器のようなものが漂っている。  横手から、私に声がかかった。 「二つとも腎臓《じんぞう》だよ」  柔らかいバリトンだった。  私は声がした方に顔を向けた。  息を呑《の》んだのは、そこに巨大なスクリーンがあったからだ。その下には、制御卓《コンソール》がしぶい銀色を放っている。隅にあるのは、テレタイプライターと呼ばれる装置だろうか。始めての部屋に入ると、反射的に頭のなかで自分の部屋と較べてしまう性癖を持つ私も、今度ばかりは調子がでないようだった。これでは比較しようにも、その規準が見つからない。もう七年越し使っている冷蔵庫を、そろそろ新しいのと取り換える必要があるな、とフッと考えた程度だった……。  もちろん、私に声をかけたのは、スクリーンでもなければ、テレタイプでもない。それらの装置の前に、クラシックスタイルのソファとテーブルが配置されていて、三人の老人が腰をおろし、私を見つめているのだった。  首をねじ曲げて、私は部屋の反対側に眼をやった。  反対側の壁にも巨大なパネルがかけられていて、世界地図が映しだされていた。私が顔を老人たちに戻した時、溜息《ためいき》のような音をたてて自動ドアが閉まった。  骸骨の姿が消えていた。  自動ドアに顎《あご》をしゃくって、 「どうして、あんなサディストを使っているんだ?」私は訊いた。  返答しだいではごねるのも辞さないつもりだった。拳銃をつきつけられてさえいなければ、これで私はけっこう強持《こわもて》のする男なのだ。  まん中に坐《すわ》っている老人が応えた。 「あれで、彼はなかなか有能な男なんだよ。現に、君を毀《こわ》さないように捕えて、気がつきしだい私たちの所へ連れてくる、という役目を立派に果たしたじゃないか……あの顔つきで誤解される。彼にしてみれば、営業用と、私用の二つの顔がほしいとこだろうがね」  声音から察するに、部屋に入った私に声をかけたのは、どうやらこの老人らしかった。  長身の、鶴《つる》のように痩《や》せた体に、ダークスーツをきちんと着こなしている。オリーブ色のネクタイが、彼の陽に灼《や》けた褐色《かつしよく》の肌《はだ》に、実によくマッチしていた。ウエーブがかった見事な銀髪さえなければ、三十代と言っても通りそうだった。すさまじいほどの知力をうかがわせる眸《め》と、高い鼻、強靭《きようじん》な意志力を示して一文字にむすばれている唇《くちびる》——私の眼の前にいるのは、正しく男の理想像だった。  彼に較《くら》べれば、その両側に坐っている二人の老人は影のような存在だった。私から向かって右側の老人は、禿《は》げて太っていて、左側の老人は、眼鏡をかけて口髭《くちひげ》をはやしている。どちらも、大学教授によくある型《タイプ》だ——。  頬を彼等に見せて、 「これでも、毀さないように捕えた、と言えるのかね?」  私は皮肉な口調で言った。 「三日もすれば、腫《は》れはひく……もっとも、我々との話し合いがお互いの納得がいくような結果にならなければ、それも保証できないが……」 「脅迫するのか」 「弱みがある人間なら、他人《ひと》を脅迫する必要もあるだろう……だが、我々にはなんの弱みもない。ただ事実を言ってるだけだ」 「…………」 「坐りたまえ」銀髪の老人は、ソファに私を誘った。  言われたままに腰をおろして、私はズボンのポケットをまさぐった。 「タバコなら、これを喫《す》いたまえ」  銀髪の老人は、机上にあったタバコ入れを私に示した。  首を振って、私は応えた。 「名前を知らない人から、物をもらっちゃいけない、とおふくろによく言われた……」  銀髪の老人は低く笑って、 「事情があって、名前を明かすわけにはいかない……そう、私のイニシャルはKだ。どうだろう? 君のお母さんは、イニシャルが分っている人から、物をもらっていけない、とはお教えにならなかったんじゃないかね?」 「教えられなかった」私の強情もそこまでだった。  私は手を伸ばして、タバコ入れから一本を抜き取った。最初の一服を吸いこんだ時には、思わず溜息が洩れた。  むさぼるようにしてタバコを吸い終った私に、 「落ち着いたら、少し話をしたいんだが……」Kが言った。  タバコを灰皿《はいざら》にねじつけて、私は応えた。 「まだ落ち着けない。訊きたいことが、二つ、三つあるんだ。そいつを知らなければ、とても落ち着けない」 「言ってみたまえ。質問によっては、答えてあげられるかもしれない」 「まず東都新聞の神谷だ……どうして、彼がここにいる?」 「次の質問は?」 「どうやら、あんたたちは俺《おれ》がここに忍びこむと、あらかじめ承知していたようだが、どこから情報を手に入れた?」 「それだけかね?」 「もう一つある。俺の相棒はどうなった? まだ生きてるんだろうな?」  Kは両手を膝《ひざ》の上に重ねた。ガッシリと肉づきがよくて、そのくせスラリと長い指だった。ショパンを奏《かな》でるにも、人の首を絞めるのにも、よく働いてくれそうな指だ——。 「残念だが……」Kは皮肉な微笑を唇に浮かべて、ゆっくりと言った。「答えてあげられそうな質問はひとつもないようだ」  子供をあやすような口調だった。私がすねたら、飴玉《あめだま》のひとつもくれそうだった。 「それでは話にならないな」飴玉をくれるかどうか、私はすねてみることにした。 「あの腎臓のことだが……」Kはふいに口調を変え、親指でガラス容器を指した。「あんなものがどうしてこの部屋にあるのか、ふしぎには思わないかね?」 「思わないね……俺の友達に、高校時代に抜けた歯をいまだに持っている奴がいる」 「腎臓は抜けない……あれには学術的な意味があるんだ。正確には、あのうちの一つだが……」 「どういうことだ?」 「あのうちの一つは、なんの変哲もないただの腎臓だ。だがもう一つは……」 「もう一つは?」 「吸血鬼《バンパイヤ》の腎臓だ……」  突然、私は時計の音が鳴っているのに気がついた。Kの頭上に電気時計がかかっているのだ。気がつかない方がよかった。秒針の音ほど、神経をじらす音はない。そのチッ・チッという一刻みごとに、部屋の空気が張りつめていくようだった。  咽喉《のど》になにかからんだような声で、私は言った。 「ヨタじゃないだろうな。俺には、どちらの腎臓もまったく変わりがないように見えるがね……」 「外見にはほとんど違いがない」Kはうなずいた。「ヒトの腎臓も、吸血鬼の腎臓も、赤褐色でそら豆の形をしている。大きさは長径十一〜十二センチ、幅五〜六センチ、厚さは三〜四センチぐらい……重さは百三十グラムというところだろう。だが、機能単位に違いがあるんだ……」 「機能単位?」 「そう……形態上の違いをまず先に言うと、吸血鬼の腎臓の腎単位《ネフロン》は、百三十万個以上ある。この腎単位《ネフロン》というのは、一個の盃状のボウマン嚢と、その内腔が開口している細尿管からできているんだが……まあ、機能名称をあげつらねて、君を退屈させるのはやめよう。君に覚えておいてほしいのは、ヒトの腎臓には百万個の腎単位《ネフロン》しかない、ということだ」 「覚えるのはいっこうにかまわないが、だからどうだ、ということがまったく分らない……その腎単位《ネフロン》とやらが多いと、いったいどうなるんだ?」 「一個の腎単位《ネフロン》の長さは二センチから四センチあるから、二つの腎臓を合わせると、細尿管の長さは四十から八十キロ以上の長さになる……細尿管の直径は小さいから、かなりの表面積がイオンや代謝物質の交替に利用できるわけだ……百万個の腎単位《ネフロン》しか持たないヒトでさえ、こうなんだよ。それが百三十万個の腎単位《ネフロン》を持つ吸血鬼となると……」  と言いかけて、Kはふいに口調を変えた。 「ところで、君は腎臓の機能がなんであるかは知ってるんだろうね?」 「詳しくは覚えていない…… 確か尿をつくるんじゃなかったかな?」 「そうだ……もう少し厳密に言えば、脊椎《せきつい》動物の腎臓は、体液調節の機能も果たしている……代謝老廃物および異物の除去、体液の浸透濃度の調節、異なったイオンの濃度調節、血液のPHの調節、体液量の調節の五つの機能だがね」 「吸血鬼の話をしているとばかり思っていたがね」 「もう少し黙って聞きたまえ……腎単位《ネフロン》が多いということはね。吸血鬼の腎臓の能力が、ひとより高いということなんだ。理由は単純、吸血鬼にはその必要があったからだよ」  黙って聞いていたくはなかった。このKと名のる老人は、吸血鬼が存在するのになんのふしぎがある、と言わんばかりに淡々と話を続けている。私もまた、なんの疑惑も持たずに、彼の言葉を受け入れている——だが、吸血鬼なぞ存在するはずがない。  存在してたまるものか。 「吸血鬼が、腎臓の能力を高くしなければならなかったわけを教えてもらおうか」 「先に言った体液調節だよ……だが、話はおいおい進めていこうじゃないか。腎単位《ネフロン》に話を戻すがね。腎単位《ネフロン》の数を増やすことで、腎臓の能力を高めるというのは、大型脊椎動物ではさほど珍しいことではない。なにしろ細尿管の直径には限度があるし、その長さを下手に変えると、一定速度で液体を押し流すための静水圧まで変わってしまう……個々の腎単位《ネフロン》の長さを変えるより、腎単位《ネフロン》の数を増やす方がより合理的なわけだ」  私は辛抱強く同じ質問を繰り返した。 「吸血鬼が、腎臓の能力を高くしなければならなかったわけを教えてもらおう」  まばたきさえしないで、Kは言葉を返した。「話はおいおい進めていこうと言ったのは、君のためを思えばこそなんだよ……ヒトはなんの準備もなしに、未知のことを受け入れることができるほど、融通のきく生き物ではない。君の理解を、よりすみやかに完璧《かんぺき》にするために、私は回り道をして話してるんだ……分ってもらいたいものだね」  分らないのは、どうして私に理解させたいか、ということだった。私は彼の真意を測りたくて、その眸《め》をジッと見つめた。  まったくの徒労だった。  Kの表情は壁のように変わらない。壁の感情を読みとることは、誰にもできない。 「吸血鬼の腎臓には、もう一つ大きな特色がある……腎臓のボウマン嚢の内部には、ひとかたまりの毛細血管すなわち糸球体が包まれている。この糸球体とボウマン嚢とを合わせたものをマルピーギ嚢と呼ぶわけだが、吸血鬼の腎臓では、このマルピーギ嚢にある種のホルモンを分泌する分泌腺があるらしい」 「どんなホルモンだね?」 「そう……名称を与えるとすると、冬眠ホルモンということにでもなるかな」 「……冬眠?」 「元来、眠るという営みは、活性ホルモンの分泌が抑制されて惹《ひ》き起こされる、と長く考えられてきた。だが、昆虫《こんちゆう》が眠る時には、そのためのホルモンが分泌されているらしい、と最近になって分ってきた……冬眠ホルモンが存在するとしても、別にふしぎはないだろう」 「吸血鬼は冬眠すると言うのか?」 「冬眠という言葉は誤解を招くかもしれないな……彼らの眠りは、一冬だけではない。十年、二十年、いや、多分三十年もの長い期間を彼等は眠り続けるのだ……」  私もまた眠り続ける一人の少女を知っている、長い黒髪の、陶器のように白い肌の、非常に美しい少女を知っている——。  私はつぶやいた。 「嘘《うそ》だ……」  私のつぶやきにかまわず、Kは話を続けた。 「このホルモンには、もう一つ重要な機能がある……つまり、体液に含まれているアンモニアを無毒化する機能だ。なにしろアンモニアという物質は、血液中にたった二万分の一のアンモニアが入っただけで、動物を殺してしまうぐらい毒性が強いものだからね。吸血鬼に限らず、ほとんどの陸生動物が、なんらかの処理方法を持っている。ただ、他の動物がアンモニアを尿素や尿酸に変えて一時的に体内にためておくという方法をとるのに比して、吸血鬼はアンモニアを完全に分解してしまうというより徹底した方法をとっている、ということだ……」 「吸血鬼とはいったい何なんだ? なぜ彼らは冬眠する必要がある?」 「当然な疑問だな……まず吸血鬼という単語に問題がある。鬼という言葉には、様々な誤解がつきまとうからね。私なら——そう、吸血亜人類とでも呼ぶかな……」 「……亜人類? 彼等は人類なのか?」 「むろんだよ。ただし血を吸う……なぜ血を吸わなければならないかということからまず説明しよう。彼らが何で、なぜ冬眠しなければならないかは、その後から説明した方が分りやすいだろう」 「それにもう一つ説明してもらいたいことがある」 「なにかね?」 「あんたたちが何者で、ここで何をしているか、ということだ……それにくだくだと俺に説明する、その狙《ねら》いはなんなんだ?」  私としては、一気に不満を爆発させたような気持ちだった。あくまでも自分のペースで話を進めていこうとするKに、一矢を報いるというような気持ちもあった。  が、私の狙いに反して、狼狽《ろうばい》したそぶりを見せたのは、Kの両側に坐っている二人の老人だけだった。Kは、といえば——私の言葉にまったく反応しなかった。その眸は確かに私に向けられているのだが、私を透かして、どこか遠くを見ているようだった。  抑揚のない声で、Kは応えた。 「あんたたちという言葉に、私も含まれているのなら、残念だが私の本名を明かすわけにはいかない……ここに坐っておられるお二人の名前なら話の都合で明らかになることもあるだろう。それに付随して、ここで何をしているか、ということもはっきりするはずだ。なぜ君に説明するか、は私が教えてあげる性質のことではない。君自身考えるべきだ……平たく言えば、今の君に許されているのは、そこに坐って私の話を聞くことだけだ……」  もう少し平たく言えば、私の生殺与奪は今やKの思うがまま、ということだった。鎖《くさり》がつけられていないからといって、私が囚人である、という事実にはなんの変わりもなかった。  私はタバコ入れからもう一本タバコを抜いた。  火をつける指が、微かに震えていた。 「話を聞こう」  私の言葉に、Kはうなずいた。 「体液調節は、総《すべ》ての動物に課せられた十字架だ……体細胞の要求に合うように体液の組成や濃度を維持できる能力がどの程度のものであるかが、その動物の生息環境をも定めることになる。実際、自然が体液調節に見せてくれるバリエーションの豊富さには、眼を見張るものがある……たとえば、水のほとんどない砂漠《さばく》で生息しているカンガルーネズミの場合だが、食物の代謝から得られる水分より水の損失が少なくなっている、という信じられないような生体メカニックを備えている。汗腺がない代りに、正常の体温よりセ氏六度高い四十一度になっても耐えることができるという。またカンガルーネズミは非常に濃縮された尿をつくることができ、湿度が十パーセントを越える空気中では、単にその尿量を増加することで水分の平衡を保つことができる。その糞さえも、乾燥重量あたりの含水量が白ネズミの約三分の一と推定されるほど、乾いている……」 「カンガルーネズミに知り合いはない。ましてその尿や糞にはなんの興味もない」 「ラクダはどうかね?」 「ラクダにも知り合いはいない……」 「知り合いがいなくても、話は聞いてもらう必要がある。それとも吸血亜人類のことにも興味がないと言うのかね?」 「そうは言ってない」  くやしいが、むざむざ彼の手に乗せられると分っていても、その話を黙って聞いているしか仕様がなかった。 「それではラクダのような大型動物はどうか——ラクダはカンガルーネズミのように湿度の高い空気を呼吸することはできないし、呼気中に失う水を制限することもできない。尿の最高濃度はそれほど高くはないし、また汗腺も存在している……もちろん、胃や背中のこぶに特殊な貯水槽を持っている、というのもまったくのでたらめだ……それでいて、冬場ともなれば、ラクダは水を飲まずに六十日間も歩き続けることができる。まるで魔法のような話じゃないかね?」 「俺にその魔法をとけ、と言われても無理だよ……皆目、見当もつかない」 「ラクダには、二つの点でユニークな特性がある。体温変化に対する抵抗力と、体の含水量の変化に対する抵抗力だ……ラクダは汗をかくことで体温を調節しているのだが、体の水分が少なくなると発汗を抑制することができ、その結果体温がセ氏六・二度上昇しても耐えられる。つまり、体温上昇に耐えることで、水分を節約しているわけだ。これだけで、体重四百キログラムのラクダでは、一日に約五リットルの水を節約することができる。夜になると、体熱を放射して、体温は正常値に下がる。明け方には血管系に変化が起き、熱の放散速度が高まり、体温は正常値以下に下がる……日中の体温上昇のために準備するわけだ。ついでに言えば、あの厚い毛皮は、断熱材として非常に効果的なんだよ」 「面白いとは思うが、吸血亜人類とカンガルーネズミやラクダとはあまり関係ないんじゃないかね?」 「予備知識だよ。体液調節のしくみが、いかにバリエーションに富んでいるかを、君に納得してもらうための、ね……よくそのことを頭にたたき込んでおかないと、なぜ吸血亜人類が血を吸うのかが、理解できない」 「分ったよ。頭によくたたき込んだ……さあ、もういいだろう。いいかげんに吸血亜人類のことを説明してもらえないか」 「冬眠する人間をまず想起したまえ……それを想起できるかどうかが、吸血という生態を理解できるかどうかを決定する」 「冬眠する人間を想起するのは、さほどむずかしいことではない……だが一方に冬眠しない我々がいて、もう一方に冬眠する人間が存在するというのが事実なら、彼らには冬眠しなければならない理由があったはずだ」 「その理由ならはっきり分っているし、君に話すこともしよう……まず、冬眠する人間を素直に受け入れることだな。そうでないと、私の言葉を何一つ信用できないだろう」  Kがこれほど自分のペースに固執するのには、なにかわけがありそうだった。私は、蜘蛛《くも》の網にしだいにからみとられていく羽虫の姿を、脳裡《のうり》に思い浮かべていた。からみとったそのあげくに、私をどうしようというのだろう?  私は依然Kがなぜ説明するのかということが気がかりだったし、その話がどこまで真実かという疑いも消えてはいなかった。だが、待ちうけているのが罠《わな》だとしても、囚人である私にはどんな選択も許されていない。  罠にはまるしかないのだ——。  私はうなずいた。 「分った。冬眠する人間を受け入れよう」     二  Kのような怜悧《れいり》な男が、私の内心の葛藤《かつとう》に気づいていない、とは思えなかった。私が迷った末に、結局、彼のペースに乗るのを承諾するだろう、とあらかじめ計算していたと考えるべきだった——それにしても、決して感情を顕《あら》わにしようとしない彼のポーカーフェイスぶりには、ある種の爽快感《そうかいかん》さえ覚えた。 「カンガルーネズミやラクダのことをくどいほどに話したのは、哺乳類のあるものはかなりの体温変化に耐えられることを分ってもらいたかったからだよ……通常、冬眠時の哺乳類は、体温が低くなっている。亜人類だけが、熊《くま》や狸《たぬき》と条件が異なるとは考えづらいから、当然彼らの体温も低くなっているだろう。だとすると、亜人類が冬眠に入る時には、大量の褐色《かつしよく》脂肪を蓄積しているはずだ……」 「なんだね? その褐色脂肪というのは……」 「その多くは、高度不飽和脂肪酸で構成されている……極端に流動性の高い、まあ、冬眠動物の非常食とでも考えてもらおうか」 「分った……で、その褐色脂肪が大量に蓄積されていると、どうなるんだ?」 「君は計算が得意かね?」 「数学をしくじって、国立大をすべってしまった」 「なるほど……だが、これは大学の入試問題ではない。小学生にも分る簡単な引き算だ。いいかね……ヒトの場合、一リットルの酸素を消費するのに必要な呼気中に、約○・八立方センチの水が失われる。そして、百グラムの脂肪を水と炭酸ガスに分解するためには、二百リットルの酸素を必要とする。つまり、約百六十立方センチの水が失われるわけだな。その一方、百グラムの脂肪からは、百五グラムの水が生じる……さあ、百グラムの脂肪を分解するのには、差引きどれだけの水が失われることになるだろう?」 「確かに、簡単な計算だ……」私は憮然《ぶぜん》とした。「差引き五十五立方センチの水が失われることになる」 「そう……もちろん、この計算はヒトの場合のことだ。冬眠に入った状態の亜人間では呼気に消費される水の量は微々たるものだろうし、第一、褐色脂肪と通常の脂肪とではかなり条件も違う……だが、水が失われていくことに、変わりはないだろう。そのうえ冬眠状態では、水をまったく摂《と》ることができない……つまり、脱水作用がしだいに進んでいくわけだ」 「便秘にでもなるのかね?」 「血液が濃縮される」 「…………」 「先に話したマルピーギ嚢から分泌されるホルモンだが、アンモニアを無毒化することが分っているだけで、無毒化されたアンモニアがどうなるのかははっきりしない。つまり、他の動物の場合、脱水状態が進むと、尿素の処理が大きな問題になってくるのだが、亜人類にはその心配はまったく必要ないわけだ。問題となるのは、体液の塩濃度が増加していくことだけだと断言してもいいぐらいだよ」 「血液が濃縮されると、どうなるんだ?」 「これは亜人類に限られたことではないが、通常、二つのステップを踏むことになる……血液から水分が取り除かれると、その蛋白質《たんぱくしつ》濃度が増加するから、当然、血圧が低くなる。その結果、細胞間隙から浸透的に水を回収することが容易になる。更に水分損失が長びけば、細胞外液の濃度が上がり始め、つまるところは、細胞内液と細胞外液の浸透濃度が同じになるまで、体細胞の水分が吸出されることになる……更に血液濃度が増加していけば、人間だったらまず渇き死にはまぬがれないだろうがね」 「渇き死に?」 「そう……ヒトだったら、その血液濃度が細胞の含水量を一〜二パーセント減少させる程度に増加すると、もう『渇き』が感じられる……血液濃縮が進行していくということは、とりもなおさず渇き死にをも意味する……」 「だが、亜人類の血液濃縮は続いていくんだな?」 「冬眠中とはいっても、やはり生存しているんだからね。褐色脂肪はやはり分解されていく。脂肪が分解されれば、水を失わざるを得ない。しかし、水を摂取することは不可能だ……いやがうえにも血液濃縮は進行していく」 「それでも彼らは死なないのか」 「死なない」 「なぜだ?」  たとえポーカーフェイスに熟練してはいても、眸《め》には、その人間の感情の——言わば基調《ベース・トーン》とでも呼ぶべきものが顕われているはずだった。Kの話が続いている間、私は彼の眸からその基調を読みとろうと懸命になっていた……虚無であるように思えた。あまりに多くのことを見過ぎた人間が往々にしてそうなるような、自身の優しさと寂しさをも突っ放してしまう深い、救いのない虚無であるように思えた。  少し間を置いて、Kは応えた。 「君は、海産の爬虫類《はちゆうるい》が海岸《おか》に上がって、泣くのを見たことがあるかね」 「映画でなら……ある」 「彼らはなぜ泣くのだろう?」 「俺の見た映画では、陸で卵を産み落としたカメが、海に戻っていきながら泣いていた。ナレーターは、卵と別れるのがつらくて泣いているのだ、と説明していた。その少し後で読んだ本に、やはり爬虫類の涙のことが書かれてあった。その本には、眼の砂を洗い流すために泣くのだ、と載っていた……俺は、卵と別れるのがつらくて泣く、という説の方が好きだ」 「残念だが、両方の説とも間違っている。別れがつらくて泣くというのではまるでメロドラマだし、涙は砂を洗い流すどころか、表面をねばつかせて、逆に砂がくっついてしまう」 「ネズミとラクダの次は、爬虫類の話か」 「必要じゃないことは話さないよ」 「そうだろうさ……それじゃ、爬虫類はなぜ泣くんだ?」 「余分な塩を排出するためだよ」 「…………」 「爬虫類の腎臓《じんぞう》では高浸透の尿をつくることができない……なんらかの方法で塩を排出する必要がある」 「涙が塩を含んでいると言うのか」 「血液より高濃度の塩を含んでいる、というレポートが発表されている」  誰が、どんなレポートを発表しようと、私の知ったことではなかった。爬虫類が涙を流す理由《わけ》を知らなかったからといって、恥じいる気にもなれなかった。 「それで?」私はKを促した。 「冬眠下の亜人類が、血液濃縮を食い止める方法としては、涙を流すということはなかなか気がきいているとは思わないかね」淡々とした声で、Kは応えた。「現に、冬眠に入った亜人類がおびただしい涙を流すのを目撃した、という報告が幾つも入っている」 「…………」私は絶句した。  頭蓋のどこかで、須藤の声がエコーを伴って響いていた。 (なにがそんなに悲しいんだろう……若くてきれいな娘が、なにを泣くことがあるんだろう……)  泣く理由はいくらでもある。若くてきれいな娘だからこそ、泣かなければならないということもあるだろうし——単に生理的な理由で、涙を流す場合もあるのだった。 「涙を流し始めた時点で、亜人類の血液組成が変化していくらしい。涙が|引き金《トリツガー》になって、血液循環速度をおとしていく、ともいわれている……とにかく血液の循環障害が内分泌腺の機能を低下させ、甲状腺、副腎は休止状態になる、ということに間違いはない。ふしぎなのは、この状態で冬眠ホルモンの分泌だけは続いている、ということだ。もっとも冬眠ホルモンの分泌まで止まったら、完全な死亡状態だが……」 「血液循環に変化が起って、内分泌腺の機能が低下しただけでも、充分に死亡状態と呼べると思うんだがね」私は自然に揶揄《やゆ》するような口調になっていた。  実際には、それが冬眠であろうが死亡であろうが、私にはどうでもいいことだった。どうでもいいことを口にしたのは、なにかしゃべっていないと、眠れる美女はやはり吸血鬼だったのか、という想いにうちひしがれてしまいそうだったからだ。  Kだけには弱みを見せたくなかった。 「確かに、仮死状態と呼んだ方が、より正確であるかもしれない。そうでなければ、十年も二十年もの間、意識のないまま生きながらえるわけがない……これは、私見だがね。ギリシア人たちが怖れたヴルコラカス、あるいはヨーロッパに黒死病が流行した時、民衆の間に拡がった『歯がみをする死人』の噂《うわさ》——こういった腐敗しない屍体の幾例かは、仮死状態の亜人類から派生したのだと考えられないだろうか。もちろん、その大部分は『早すぎた埋葬』によるものだろうがね……さあ。もう分ったんじゃないかね?」 「なにが?」 「彼等亜人類がなぜ血を吸うか、ということだよ」 「いや」私は首を振った。  Kは話を続けた。私の返事などは始めから期待もしていなかったのだ。 「動物には、失った水を取りもどそうという衝動に加えて、失った塩分を取りもどそうという衝動もある……従って塩気の少ない土地、たとえば、内陸部の牧草地に生息している動物は、塩を補充するのに非常に苦労することになる。多くの動物は、含塩度の高い土壌——いわゆる『塩なめ場』に周期的に移動するし、東アフリカのカモシカは塩気の多い土地を求めて旅をする。塩気のある土を掘り返す象の話は、君も聞いたことがあるだろう……だが、たとえわずかでも、ナトリウムや塩素を含む草が生えている土地はまだいい。亜人類が生きていかなければならなかった環境には、その程度の塩さえなかったのだ……いいかね? そこで君に想い出してもらいたいのは、冬眠下の亜人類が、涙を流すという方法で、体液の塩を排出している、ということだよ。濃縮されていた血液は、一転してひどく薄いものになっている……過酷な環境下で冬眠から目覚めた亜人類の体がまず要求するのは——塩だよ。どこから塩を補充すると思うかね?」  私は黙っていた。  Kは自分の問いに、自分で応えた。 「血だよ。他者の血を吸うことで、塩を補充するわけだ……百歩譲って、彼らを鬼と呼ぶのを認めるとしても、吸血鬼という呼び名を認めるわけにはいかない。私なら、吸塩鬼と呼ぶだろうね……」  時計は律義に鳴り続けていた。  Kの言ったことを考えながら、その一方で、私は水割りを飲みたいと思っていた。自室のベッドに寝ころんで、なにもかも忘れて酔いしれるのだ。多少ガタがきてるからといって、あの冷蔵庫を新しいのに買い代えようなどと一瞬でも考えたことを、私は恥ずかしく思った。恩知らず呼ばわりされても、反論のしようがない。  Kが言った。 「どうした? ばかに考えこんでいるようじゃないか」 「あんたは、俺にできるのは、ここに坐って話を聞くことだけだ、と言った……だから俺は考えない。あんたの話を待っているだけだ」 「どの話を、だね?」 「彼らがなぜ血を吸うのか、ということは大体|俺《おれ》にも理解できた……この次には、彼らが何で、なぜ冬眠しなければならなかったか、を教えてくれる約束だった……」 「そうだったな。だが——」  Kは禿《は》げた老人に眼を向けた。禿げた老人は居心地が悪そうにもじもじしていた。 「その話は、西村さんからしてもらった方がいいんじゃないかな」 「いや、私の専門はあくまでもサイバネティックスだから……」  消え入りそうな声だった。  私は驚いた。 「西村? あなたが、T理科大の西村教授ですか。冷凍睡眠を研究なさっている——」  大学の名を持ち出されて、威厳を保つ必要を感じたのか、 「そうです。私がその西村です」急に背を伸ばして、彼は応えた。 「確かアフリカに行かれた、と聞いていた」 「行ってきました。先日帰国しました……」 「どうしてアフリカに行かれたのですか?」  風船がしぼむように、彼の元気は消えていった。 「それは……」と口ごもって、隣のKをうかがうように盗み見る。  苦笑して、Kが言った。 「どうやら、私から説明した方がよさそうだな……君は、アウストラロピテクス・アフリカーヌスという単語を聞いたことがあるかね?」 「ない……」 「ヨハネスブルグ・ウィットワーテルスランド大学のレイモンド・ダートが一九二四年、南アフリカで発見した化石の学名だよ。彼はたまたま比較解剖を専攻していた。彼の推論では、その化石は類人猿とは異なり、きわめてヒトに近いものである、ということだった……大人の身長は約百二十センチ、姿勢は直立で二足歩行、ゴリラ程度の脳を持つ……これが当時の学会で、どれほどの科学論争を呼ぶことになったかは、君には想像もできないだろうね」 「できない……」白痴のようにただ黙って話をきいているしかないという自分の立場に、私はいくらか依怙地《えこじ》になっていたようだ。 「ダートは、その化石から、アウストラロピテクス・アフリカーヌスは肉食性で、大きなヒトの脳こそ持っていないが、狩猟生活をしていたサルとヒトとの移行的存在である、と学会に発表したわけだ。ところが、当時の学会では、人類アジア起源説が優勢でね。しかも大きな脳が、ヒトの進化を促す最初の資質だった、という固定観念があった……白痴の、狂暴な肉食猿が、人類の先祖だったなどとんでもないたわごとだ、というわけだな」 「白痴の、狂暴な肉食猿だったら、俺の先祖にピッタリという気がする……」 「学者は君ほど謙虚ではない……学会は、ダートの発見を無視しようとした。ところが、一九五〇年代の後半になって、リーキ夫妻が東アフリカから次々に化石を発掘し始め、無視しきれなくなった。その化石に混じって粗雑な石器が発見されるに及んで、論争は頂点に達した……なにしろ、それらの石器は、他の大陸で知られた石器のどれよりも数十万年は古いものなのだからね」 「そのアウストラロピテクスとかいうのが、地球上を歩き回っていたのはいつ頃《ごろ》のことなんだ?」 「地質学で第四紀と呼ばれている時代……それも初頭には、もう出現していたと思われる。二百万年前ということになるかな……」 「気の遠くなるような話だな」 「そうでもない……アンフィピテクスとかポンダウンギアという霊長類のはしりが出現したのは、約四千万年前のことだからね。それを思えば、二百万年という数字は微々たるものだよ……人類は非常に着実に進化してきた、と言えるだろう」 「まだよく理解できないのだが、アウストラロピテクスが人類の先祖である、という説がどうしてそれほどの論争を惹《ひ》き起こしたんだね? 俺たちが、どのサルの直系だろうと、たいした問題じゃないように思えるんだが……」 「確かに、草食性の類人猿のなかから名のりをあげた切歯と犬歯の発達した肉食猿、というだけのことだったら、さほどの問題はなかったかもしれない……ゴリラ並みの脳しか持っていなかったということで先祖として尊ぶには多少品格に欠けるきらいはあるが……まあ、それぐらいのことだったら、眼をつぶることもできたろう……」 「他になにかあったのか?」 「アウストラロピテクスを発見したダートだが——類人猿の化石を発掘した同じ場所から、ヒヒの骨を何十体かと、カモシカの上腕骨を幾本か発見している。そのヒヒの頭骨のいずれにも二重のへこみがあったことから、アウストラロピテクスはカモシカの上腕骨を武器にしてヒヒを捕食したのではないか、とダートは考えた。ヒヒの頭骨がへこんでいるのは、類人猿に殴られたからだ、と……ダートは一九五三年に『類人猿からヒトの捕食的移行』という論文を発表したが、その中で彼はこう主張している……人類が類人猿から進化発展できたのは、殺戮者《さつりくしや》だったからだ。一本の骨を武器として使用するには、筋肉、触覚、視覚の協調を必要とするため、神経系に多方面の要求を課すことになる。これが、大きな脳を生む原因になった……武器が人間をつくった、というわけだ。どうだね? いかにも、もっともらしい話じゃないか」  その時、始めてKの声音に変化があったように思えた。その口調に自虐のようなものを感じたのは、単に私がそう感じたがっていたからかもしれない。 「確かにもっともらしいが、そのことと亜人類とどう関係がある?」私は訊いた。 「直接の関係はない……だが、アウストラロピテクスが捕食という習性を得たのが天候のせいだった、ということが亜人類の正体に一つの示唆を与えてくれる」 「天候の……?」 「第四紀の初期にアウストラロピテクスが出現したのは、それ以前の鮮新世があまりにも悪天候だったからだと推測できる……その時代、降雨量がしだいに減少していき、東アフリカ高地の緑はほぼ完全に消え去ってしまった……残っている密林といえば、中央アフリカ中心部の僅《わず》かな地域《エリア》だけだったろう。その密林の果実を、地上性類人猿と森林性類人猿の二種が争い——そして、地上性類人猿が敗れた……その時の勝者がゴリラの先祖で、敗者がアウストラロピテクスだった。アウストラロピテクスの上に、長い飢えの時代がやってきた。果実はどこにもなく、森の草も限られている——眼の前にあるのは、カモシカの肉だけだった。肉食と捕食という習性をアウストラロピテクスが得たのは、こういう事情からだったのだよ……」 「亜人類はどうした? 彼らの先祖はどこにいたんだ?」 「北半球にいた」 「…………」 「やがて、第四紀がやってきた。アフリカには雨期がおとずれ、北半球には氷河がおとずれた……氷河は繰り返し北半球を襲い、霊長類のほとんどが、絶滅した……」 「ほとんど……? それじゃ、その生き残ったのが、亜人類の先祖だというのか?」  Kはうなずいた。 「徹底した乾燥が、アウストラロピテクスに肉食と捕食という方法を選ばせたように、氷河が、我々が名前も知らぬ類人猿に、ある方法を選ばせた。その方法が——」 「……冬眠」 「そのとおりだ……アフリカで我々の先祖が棒と石を持ち駆けめぐっていた時、地球の反対側では、別の種族がヒッソリと眠っていたのだよ……他の生き物を殺戮しようなどとは、それこそ夢にも考えずに、ね」  私のうちに、長い旅から帰ってきたような疲労がよどんでいた。二百万年の、長い旅だった。  しかし、まだ旅を終えるわけにはいかなかった。 「亜人類の話は単なる推測かね? それともなにか確証があるのか」 「現に彼らが生存しているのが、なによりの証拠じゃないかね……それに、アウストラロピテクス・ロブストスがいる」 「ロブストス?」 「アフリカーヌスと同じアウストラロピテクス科に属しているが、こちらはどうやら菜食主義者らしい……切歯や犬歯が小さくて、臼歯が大きい。第四紀初頭のヴィラフランカ階という時代に生存していたと思われる」 「そのロブストスというのが、亜人類の先祖だというのか?」 「違うね——」  Kは首を振って、 「多分、傍系ですらないかもしれない……だが、彼らにまつわる一つのミステリーが、興味ある事実を教えてくれるのだよ。そのミステリーとはこういうものだ——ロブストスよりは、アフリカーヌスの方がより人類に近い形態をしていた。ところが、原始的と思われるロブストスの方が、アフリカーヌスより新しい地層から発見されるんだよ……それどころか、一方のアフリカーヌスの方は百万年ほど前にホモ・エレクトスに進化したと思われるのに、ロブストスの方は五十万年前の地層から、まったく進化していないものが掘り出されている……これはどういうことだろう? なぜ、ロブストスの進化は止まってしまったのだろう?」 「見当もつかない……」 「ヒントを与えよう。アウストラロピテクスが生存していたヴィラフランカ階は、ドナウ寒冷期と呼ばれる時代と一致している……もっとも氷河期ほどきびしい寒さではなかったらしいが……」 「ロブストスも冬眠したというのか」 「そう考えれば、アフリカーヌスとの前後関係が逆転していることも、彼らの進化がストップしたことも説明がつく」 「だが、亜人類の進化はストップしなかったのだろう?」 「だから、傍系でさえなかったと言っている。それに、北半球と南半球とでは条件がずいぶん違う……だが、このことから霊長類の冬眠がさほど特異なことではない、という推理がなりたつじゃないか? たまたま、冬眠しない種が生き残ったにすぎない」  そこまで話すと、Kのあらゆるものを超脱しているような表情《かお》に、一種不可解な変化が浮かんできた。それは、人類の先祖が兇悪な殺戮者だった、と語った時の顔つきになにか通じるものがあるようだった。  なぜか、私はKを怖い男だと思った。 「ロブストスが冬眠習性を持っていた、という推測を裏づける強力なデータが、実は先月アフリカで発見されている……西村さんにアフリカに行ってもらったのは、そのためなんだが……タンザニアのアルヴァイナ峡谷のアルヴァイナ第一層《ベツド・ワン》といわれる地層から、二百体にのぼるロブストスの化石が発掘された——その化石のほとんどが、やはりカモシカの上腕骨らしいもので、額を割られている。いいかね。ヒヒの場合は頭骨がくぼんでいたんだよ。それが額を割られていたというのは……」 「眠っているところを襲われた……アフリカーヌスが、冬眠中のロブストスを殺した」  なかば反射的に私の口を出た言葉に、 「そう」Kはうなずいた。その表情《かお》は明らかに笑っていた。「捕食のために、ね」  私は慄《ふる》えた。  人類が同胞《はらから》を啖《くら》った、という事実にではない。どうせ、アベル殺しは人類の業なのだ。今更、新しい事実がもう一つ加わったからといって、眼を覆うこともあるまい。  私が心底慄えあがったのは、Kの笑いのせいなのだった。 「これは私の想像——いや、妄想《もうそう》と考えてもらってもけっこうだが、ロブストスを啖ったアフリカーヌスには、兄弟喰いの罪悪感が後ろめたくつきまとったのではないだろうか。その罪悪感は、やがて人類の記憶共同体に組み入れられて、奇妙に屈折することになる……覚醒時の冬眠霊長類が仲間——多分、多くは家族だったのだろうが——から提供された血を吸っているのを目撃した記憶が、人類のなかで忌むべき吸血鬼というイメージになっていく。反転した罪悪感は憎悪となって、イスラム教徒はイスラム教徒なりの、キリスト教徒はキリスト教徒なりのおぞましい怪物をつくりあげていった……実は、自分たちこそ兄弟殺しの怪物だった、という事実をきれいさっぱり忘れ去って、ね……」  Kの声は終始淡々としていたのだが、私にはまるで彼が哄笑《こうしよう》しているかのように聞こえた。  私の手は痛いほどきつく椅子のひじ掛けを握りしめていた。ただKの言葉を遮《さえぎ》りたいという一念から、 「分った……それで、どうしてあんたたちは亜人類に興味を持っているんだ? 彼等を探しだして、名誉人類の勲章でも授けようというのか?」私は訊いた。 「そうじゃない。また同じことをしようというんだよ」Kは静かに応えた。「彼らを追いつめて、その最後の一人まで地球上から抹殺《まつさつ》する……」     三  Kの言葉は、私の意表をつくものだった。  眠っているだけで、人類になんの害意も抱いていない亜人類をどうして皆殺しにしなければならないのか——それとも害意を抱いていないと考えたのは私の早とちりで、実は、亜人類は人類に対してなんらかの陰謀をたくらんでいる、とでもいうのだろうか?  私はKの眸《め》を見つめた。  Kはあいかわらず無表情だった。 「なぜだ?」と私は訊いた。  それには応えようともしないで、 「疲れた……少ししゃべり過ぎたようだ」Kは、隣りに坐《すわ》っている眼鏡と口髭《くちひげ》の老人に声をかけた。  私がこの部屋に入ってきてから、一言半句も口をはさもうとしなかった老人は、やはり無言のままうなずくと、立ち上がった。  席を離れて、世界全図が映しだされているスクリーンまで歩いていく。  我々を振り返って、 「スクリーンを見てもらえますか」老人は声を張り上げた。しわぶいてはいるが、講義慣れした口調だった。  私は椅子《いす》をずらして、スクリーンに向き直った。  世界全図に重なって、スクリーンに赤い曲線が浮かび上がってきた。曲線は弧を閉じて、不定形なひょうたん模様をつくっている。そんなひょうたん模様がいくつか、年輪のように外側に拡がっていた。 「この曲線は七月の等圧線です……ただし、氷河最盛期の気圧配置を推測したもので、現在のそれではない……」老人は噛《か》んで含めるような口調で、私に言った。 「現在の気圧配置と比較して、まず眼につく特徴は、等圧線の数が多いことです。当然、偏西風帯、貿易風帯が強くなっている……極地の周辺部では南北方向に気温差がありますね。つまりそこで偏西風がもっとも強くなっている。ここでぜひとも記憶しておいていただきたいのは、現代では極地の氷床が大きく後退していて、この偏西風最強軸はもっと北の方にある、ということです……さてそれでは、現在の——そうですね。ここ六十年間の七月の気圧配置を、氷河最盛期の気圧配置と較べてみましょうか……西村さん、お願いできますか?」  振り返った私の眼に、制御卓《コンソール》にかがみこむ西村教授の姿が映った。 「スクリーンをよく見てください……」いらだった声で、老人が言った。  私は苦笑して、顔をスクリーンに戻した。たった一人の生徒が私では、老人も講義のしがいがないだろう。 「始めましょう」  老人の言葉と同時に、スクリーンに青い曲線の等圧図が浮かび上がった。その青い曲線はスクリーンの上で稲光りのようにひらめいて、急スピードで形を変えていった。始めはでたらめのように見えた、その曲線の推移が、大ざっぱにではあるが、あるパターンをとっていることに私は気がついた——。  六十年はすぐに経過した。  今や、スクリーンの世界全図の上には赤と青との二つの等圧線が、大きくずれて重なっていた。 「これが、去年の七月の気圧配置です……どうです? なにか気がついたことはありますか」 「偏西風最強軸が南下しているようだ……」  私の答えに、老人は驚いた顔をして見せた。よほどできの悪い生徒だと、思っていたらしい——。  老人はうなずいた。 「そう……つまり、極地を覆う氷床が拡大している、ということですね」 「地球が寒くなっているというのか?」 「地球全地域の気温が低下している、とは一概にはいえません。地球的規模の気候変化は、地域によってひどく異なった影響を与えます……暴風の吹き荒れる地域もあれば、旱魃《かんばつ》に襲われる地域もある……ただ、国際氷山監視隊の報告では、大西洋の北西部における流氷の数が年々増えてきている、ということらしいですね。ふつうこの方面で冷夏の時は、北大西洋北部から北東風が吹いていたはずなんですが、最近になって、グリーンランドから西北西ぐらいの風が吹きこんできて、多くの流氷や氷山が大西洋に押し流されてくるようになった、というわけです……この気圧配置は、明らかに氷河最盛期のそれに近づいている……」  私はいつかどこかで聞いたニュースを思い出していた。今年は大西洋横断のヨットレースが取りやめになった、というニュースを——それが流氷のせいである、とは聞かなかったが。 「氷河時代型の気圧配置がおとずれるとして、そのもっとも大きな影響を受けるのは、なんといっても北大西洋沿岸のヨーロッパと北アメリカで……」  と、なおも老人が話を続けようとするのを、「もういい」私は遮《さえぎ》った。そして、再びKの方ヘ振り返った。 「これが、亜人類たちを皆殺しにしようという理由なんだな」私は詰問するような口調になった。「氷河期に地球が向かっている、というのが……」  Kは組んだ両手に顎《あご》を乗せて、私の顔を見返した、私の反応を推し測っているような、冷たい眼《まな》ざしだった。 「そうだとしたら、君はどちらの味方につくつもりだね?」 「どちら……?」  私はとっさにKの言った言葉を理解できず——そして、理解して慄然《りつぜん》となった。 「どちらというのは、人類と亜人類という意味か?」 「そういう意味だよ」 「ばかな——なにがあっても、罪のないものたちを皆殺しにしようという側に、力を貸せるものか」 「人類が、優勢種の座から蹴落とされることになっても、かね」 「…………」 「人類が歴史時代に経験したいかなる気候変化より、はるかに大きな地球的な寒冷化が、早ければ来世紀にもやってくる……氷河期に適応することで進化した亜人類と、乾燥期に適応することで進化した人類と、どちらにより大きな生き残る可能性があると思うかね」 「人類が滅びるというのか」 「いっそ滅びてくれれば、と思うがね……人間という奴は、実にタフな生き物だよ。氷河期がやってくれば、それなりの生き方をあみだすだろうな。地球が二つに裂けでもしない限り、人類が滅亡することはまずあるまい」 「それじゃ亜人類を皆殺しにする必要はないだろう」 「皆殺しにする理由は二つある……人類の自我《エゴ》は、他種と共存するのを許容できないほど肥大しきっている、というのが理由の一つだ。人類が地球における最優勢種であるということを土台にして、近代は築かれてきたんだ。それを今更、他の優勢種を認めろといったところで、受け入れられるはずがない。一人の心的破綻は次々と連鎖反応を惹《ひ》き起こし、やがては集団《マス》ヒステリーを招くことになるだろう……もう一つの理由は——」  Kはわざとらしく言葉を切り、その眼を西村教授に向けた。Kと眼が合うのを怖れるかのように、西村教授は深くうなだれた。見事に禿《は》げ上がっているその頭から汗がしたたって落ちている。  私に眼を戻して、Kは言った。 「冷凍睡眠を実現させるためには、亜人類の生体機能を解明することが、非常に有意義なんだよ……」 「本音を吐いたな」私は声をあげて笑ってやった。「そこにいるのが西村教授だと教えられた時、そんなことだろうというさっしはついていたよ」  無念なことには、その笑いは不自然に高く、声はひきつっていたようだ。 「氷河期がやってくるとはっきりした現在《いま》、冷凍睡眠の実現がどれほど重要であるかは、説明するまでもないだろう……ある種の人間を保存することは、そのまま文化の保存につながるんだからね」Kは平然としていた。 「文化か」私の声は激していた。「罪もない亜人類を解剖台にしばりつけて、その体をメスとハサミでズタズタに切り裂いて……それで、なにが文化だ」 「別にとりたてて騒ぐほどのことでもないだろう」Kはことさらに私の怒りをあおりたてるような、揶揄《やゆ》的な口調になっていた。「他の種を殺戮《さつりく》することで、人類は進化してきたんだよ……そして、進化にはいかなるモラルも関与しない。進化という一事から見れば、翼を獲得するのも、他種を殺戮するのを覚えるのも、まったく違いはない——進化に正義が存在するのだとしたら、その正義は適応し生き残ること……ただ、それだけだ」 「…………」私は言葉につまった。  確かに、進化に正義という概念は無縁かもしれない。いや、生き残るのがそのまま進化の正義だというなら、この場合は、むしろ亜人類を殺戮することが正義でさえあるかもしれない。——だが、私はこの眼で眠れる美女を見ているのだ。あの少女を切りきざんでまで生き残りたくはない、と考えるのもまたもうひとつの正義ではないだろうか。 「だから、人類が亜人類を殺戮するのは当然だというのか」私はほとんど最後の気力をふりしぼって訊いた。 「当然だ」Kはうなずいた。 「嘘《うそ》だ。あんたはそうは思ってはいない」 「ほう、どうしてかね」 「本当にそう思っているのなら、あんたがそんなに悲しそうに見えるはずがない」  Kの眸《め》をなにか翳《かげ》りがよぎったように見えた。図星をさされて狼狽《ろうばい》したのか、それともとっぴょうしもないことを言われて嘲《あざけ》ったのか——私はKが狼狽したのだと考えたかったのだが……。 「とんでもない誤解だな」現実には、Kが沈黙していたのはほんの十秒ほどの間だった。「私が誰《だれ》のために悲しまねばならないというのかね? 亜人類のために……? それとも人類のためだろうか」 「…………」私には応えることができなかった。  重苦しい沈黙が部屋に満ちていた。  やがて、私はつぶやいた。 「それで?」  意味のないつぶやきだった。  ただ沈黙が耐えきれなかったにすぎない。 「それで——」とKは私の言葉を復唱して、「君は、今や亜人類の正体を知ることができた。なぜ、彼らを皆殺しにしなければならないかも、理解してくれたと思う……そのうえで、君に頼みたいのだが——我々に情報を提供してはくれないだろうか」 「情報? どんな情報だね」 「君の友人の須藤君のことだよ……彼はどうやら亜人類と非常に密接な関係があるらしい。どうだろう? 彼と亜人類とがどんな関係にあるのか、教えてはくれないかね……それに、できれば彼の所在地も知りたい」  私は首を振った。 「見当違いもいいところだ。俺自身が須藤の行方を探《さが》しているのだし、彼が亜人類と深い関係があるとも思えない……俺は、須藤はあんたたちに誘拐《ゆうかい》された、と考えている」 「下手な隠しだてはやめた方がいい」 「隠すことなんかなにもない……おかしいじゃないか。あんたは総《すべ》てを心得ている男だ。俺《おれ》が須藤がどこにいるのか知らないぐらい、承知しているはずだ」 「これが最後だよ。須藤君はどこにいるんだね?」 「いいかげんにしてくれ。知らないことは応えようがない……」  私は追いつめられていた。  私が須藤の行方を知っている、としんそこKが疑っているのなら、その疑惑を解くことも不可能ではなかったろう。だが、Kともあろう男が、私もまた須藤の行方を探していた、ということを知らないとは思えなかった。それでいて、須藤はどこにいる、と私に尋ねてくるのだ……Kの狙《ねら》いがどこにあるのか見当もつかないだけに、どうにも返答のしようがなかった。 「いいのかね?」Kの無表情な顔には、能面のような美しさと、凄《すご》みが漂っていた。「君をこの部屋に案内してきたあの男だが、いざ仕事となるとひどく熱心な性質《たち》でね……誰かから何かを訊きだしたいと私が一言命ずるだけで、その持てる能力の総てをふりしぼってでも、結局は訊きだしてしまう……」 「脅迫するのか?」 「忠告しているんだよ……君さえ素直になれば、誰も嫌《いや》なめに合わずにすむ」 「あんたには、俺から訊きだしたいことなど一つもないはずだ——」私はゆっくりと言った。「あんたの本当の狙いはなんなんだ? まさか、俺を拷問したくて、こんな講義を受けさせたわけじゃあるまい」 「時間はタップリある。ゆっくり考えるんだね」  Kのその言葉に呼応したかのように、自動ドアが静かに開いて、骸骨《がいこつ》が部屋に入ってきた。 「来いよ」骸骨は実に嬉《うれ》しげだった。  私は呆《ほう》けたように席をたった。私の頭には、これから自分を待っているであろう拷問のことより、Kの存在が大きく占位していた。そう、なんなら彼に魅せられていたと言ってもいい。  骸骨に腕をとられるままに、部屋を出ていこうとした私に、 「待ちたまえ」  Kが声をかけて、椅子から離れ、私にゆっくりと近づいてきた。体が触れ合わんばかりの位置に立って、私の顔を真正面から覗き込む。 「君が、亜人類に関わるようになったのは、友情のためなのか」  とKは私に囁《ささや》いた。ひっそりとした、それでいて、なにかしら背筋を凍らせるような声だった。 「どうなんだ? 須藤という友人のためなのかね」 「それもある——」私はうなずいた。「もちろん、そればかりでもないだろうが……」 「それでは、君が拷問を受けるはめになったのも、その友人のせいである、とは思わないか」 「……思わないね。こいつは俺が自分で選んだことだ。誰のせいでもない」 「君は思い違いをしている。誠実な男ほど、そんな思い違いをするものだ……」  Kは低く含み笑いをしながら、その右手首を私の眼の高さにあげた。彼の右手首には、ひきつったような傷痕《きずあと》が交叉していた。息を呑《の》む私に、 「拷問される人間は、必ず誰かを恨《うら》むようになるものだ。その恨みが、執拗《しつよう》で深いほど、彼は拷問によく耐え得る……肉体的な苦痛は総てを凌駕《りようが》する。君も拷問に耐えようと思うなら、その須藤という友人を恨むことだ。恨み続けることができたなら、もしかして、君は沈黙を保つことができるかもしれない。だが、拷問の後で、君は気づくだろう。もはや、沈黙を続けなければならない理由など、なに一つ残されていないことに、ね……拷問を受けた人間は、拷問を受けたというそれだけで敗北することになるんだよ」 「あんたは誰なんだ?」  私は喘《あえ》いだ。ふいに私に襲いかかってきた恐怖に、身体中をめぐっていた血の流れが停止して、しだいに冷えていくかのように思われた。 「あんたのような人が、なぜ、こんな仕事をしている?」  Kは私の問いに応えようとしなかった。急に私に興味をなくしたかのように顔をそむけて、連れていけ、と手ぶりで骸骨に命じただけだった。  骸骨に引きたてられて部屋を出た私の背後で、自動ドアが閉まった。 「さあ、今度はしばらくおれにつき合ってもらうぜ」骸骨は声をあげて笑った。  背中を押されるままに廊下を歩いていきながら、私はKのことを考えていた。  Kのことなどではなく、自分がこれから受けなければならない拷問のことでも考えるべきだったのだ。どうせ、その後、繰り返し、彼のことを想いだし、時には夢にまで見ることになったのだから——その夢のなかでKは悪魔になって現われたり、また、どういうわけか天使の姿をとったりするのだ。  どちらが彼の正体なのだろう?  あの部屋だけは忘れられない。  合金で内壁を総張りされた小さな部屋で、床はわずかに傾斜していて、一筋の溝《みぞ》がつくられている。天井には蛍光灯《けいこうとう》がつるされていて、部屋を蒼《あお》く照らしだしている。  一言で表現すれば、病院の手術室のような部屋だった。  その部屋で、私は繰り返し殴打され、床に転倒した。指錠をはめられ、ろくに腕を動かすこともできない私は、もろに骸骨の拳《こぶし》と蹴りを受けとめるしかないのだった。  骸骨は、実に巧妙に、正確に、私の体を痛めつけていった。  私は犬のように喘《あえ》ぎ、苦痛に悲鳴をあげ、しかも気を失うことさえ許されなかった。  執拗にくりだされてくるラビットパンチに、私は唇を切り、瞼《まぶた》を切り、鼻血を流した。だが痛みが臨界点に達し、私の理性が灼《や》け切れそうになるその瞬間には、骸骨はボデイブロウという名の覚醒剤を与えてくれるのだ。内臓が裏返ってしまいそうな苦痛に身をよじり、胃液を吐きだしながら、私は再び現実へと引き戻される——苦痛と汚辱《おじよく》が待っているだけの現実へと。  何度そんなことが繰り返されたろう。  私はとうとうボロ切れのようになってしまい、床を這《は》うことすらできなくなったのだった。  口の中は腫《は》れ上がり、血が咽喉《のど》をふさいでいた。ハアハアという荒い息が、なにか私の吐いているそれではないかのように聞こえていた。赤く霞がかかったようになっている視界に、私の体から流れ出る血が、床を伝い、溝にしたたり落ちるのが、ボンヤリと映っていた。  実に合理的に設計されている、と私は感心した。  もちろん、そんなことに感心している場合ではなかった。おなじみの二彩色《ツートンカラー》の靴が、私の脇腹を激しく蹴りつけてきた。肉をえぐられるような鈍痛に、意識がうすれ——そして、よみがえった時に、ドアの閉まる音が聞こえてきた。  骸骨は一休みすることにしたらしい。  もし、苦痛がいっぱいにつまったズダ袋というものがあるならば、今の私がまさしくそうだったろう。筋肉は熱っぽく波うち、骨はギシギシときしんでいた。  私はわずかな余力をふりしぼって、ようやく体をあおむけにすることができた。あおむけになったからといって、なにが変わったというわけでもない。ただ、私自身の血と吐瀉物《としやぶつ》を見ないでもすむようになっただけだ。  私の意識を律しているサーモスタット回路は、今にもふっきれそうになっていた。ただ怒りが——骸骨から一打されるごとに凝縮していき、混じりっけがなくなっていった怒りだけが、かろうじて私の意識を支えていた。  これほど理不尽な話もないだろう。  むろん私はいかなる拷問にも反対する者だが、しかし拷問されるからには、なにかこれだけは喋《しやべ》るわけにはいかないという秘密のようなものを持っていたい。それが、世間の常識というものではないだろうか。しかるに私は、応えようにも応えようのないことで、拷問を受けるはめに陥ったのだ。いくらかでも頭の働く人間なら、私が須藤の所在地を知るはずがないことぐらい、分りそうなものだった……あの頭の働きすぎるほどのKが、なぜいいがかりにも似た理由で、私を拷問者の手にひきわたしたのか?  苦痛で頭の回転が鈍くなっていた。  Kのような得体の知れない男がなにを考えているのか、とてものことつきとめられそうな状態ではなかった。だが、現在《いま》の私の頭脳でも理解できることがあるにはあった——情況がこのまま変わることがなければ、私は間違いなく殴殺されることになる、ということだった。  私の身内をめぐっていた怒りが、しだいに、恐怖にとって変わられていった。  恐怖は最も単純な感情だ。それだけに、他のあらゆる感情を圧して、人間のうえに君臨することができるのだった。  華やかな色彩が交叉する夢だった。  その色彩だけが記憶に残り、夢の内容はどうしても想いだすことができなかった。  私はつぶやいた。 「どうして想いだすことができないんだろう?」  ふいに私の視界に醜怪な顔が出現して、 「なにが想いだせないというんだ?」からかうような声で訊いてきた。  骸骨だった。  私は呻《うめ》き声をあげた。たとえそれがどんな悪夢であろうと、この男が待ちかまえている現実より数倍ましであった。 「消えてくれ——」私は言った。「夏になったら、映画館で会おう」  もちろん、骸骨は消えなかった。それどころか、両肩をつかんで、私を無理やりに引きずり起こそうとするのだ。 「だらしのない奴だ」ガクリと膝《ひざ》を折りそうになる私の体を壁に押しつけて、骸骨は舌打ちした。「お客さんだぜ……ちっとはシャンとしたらどうだ」 「……客?」  確かに骸骨の後ろに誰か立っているのだが、腫れあがった瞼が眼をふさぎ、なかなか焦点が合おうとしないのだ。 「またひどくやられたもんだな……」と客が言った。聞き覚えのある声だった。  焦点が合った。 「あんたか……」われながら友好的な声とは思えなかった。  そうだ、というように神谷はうなずいた。  私の顔を平手でたたいて、 「神谷さんがお話があるんだそうだ……しっかりしねえか」骸骨が毒づいた。  よけいな世話だった。さんざん痛めつけておいて、しっかりしろもないもんだ。  悪態のひとつもつこうと、私が口を開きかけたその時、 「う!」  と小さな悲鳴をあげて、骸骨が床に膝をつき、前のめりに倒れていった。  神谷は無表情に骸骨を見下ろしている。その手に握られている拳銃——。  神谷が拳銃の台じりで骸骨を殴り倒したのだ、と私が覚るまでには、かなり時間がかかった。  私は、唖然《あぜん》とした。 「どういうことだ?」  と私がろれつの回らない舌で訊きかけるのを、神谷は手を振って制した。 「話は後だ……ここを脱けるのが先だ」 「脱ける? 俺を助けてくれるというのか」  私の声は、一オクターブあまりも高くなっていた。生命《いのち》への渇望で、私の身体《からだ》はあさましく震えていた。  ニヤリと笑って、 「遊びで、この男を殴り倒したとでも思ったのか」神谷は言った。くたびれて、少々年をとりすぎているが、正しく彼は私の救世主だった。 「さ、行こう」神谷は私の腕を自分の肩に回し、歩きだそうとした。  私はかぶりを振った。 「大丈夫だ……自分で歩ける」  正確には、二、三歩なら自分で歩ける、と言うべきだったろう。いざ足を踏みだしてみると、体が鉛のように重く感じられ、どうかするとへたりこんでしまいそうになるのだった。  足がふらついて転倒しそうになった私の体を、 「一人で歩くのは無理だぜ」  神谷が両腕で支えてくれた。意外に力のこもった、暖かい手だった。 「すまない……」  と私は応えたつもりだったが、実際には声にならなかったようだ。  意識が急速にうすれていった。  だが、ほとんど気を失いながらも、私は自分の足で歩こうと、懸命にもがき続けていた。     四  私の体力がどうにか一人前に回復するまでには、丸々三日を要した。  過労と全身に受けた打撲傷とで、私はその期間のほとんどを昏睡《こんすい》にちかい状態で過ごしたのだった——かろうじて記憶に残っているのは、モーターボートのエンジン音とか、顔にかかる波の飛沫《しぶき》の冷たさ、といった断片的な意味を成さないことばかりであった。  だが、そんな半死人のような状態であっても、自分が埋めたて島から脱出したのは知覚していたらしく、神谷の部屋で眼醒《めざ》めた時もさほど驚きはしなかった。  笑いを含んだかすれ声で、神谷は言った。 「よお、気がついたか」 「…………」私は無言のまま、ベッドから身を起こした。それまで気がつかなかったのだが、私の左腕は添え木があてられていて、包帯でつられていた。 「折れたわけじゃない」神谷が言った。「骨にひびが入っただけだ。それも、医者の話じゃたいしたことはないらしい……」  私はほとんど神谷の話をきいていなかった。なかば虚脱したように、部屋を見廻しているだけだった。  学生が住むような、狭い、何もない部屋だった。  カーテンに薄く陽がさしていた。  畳のうえにそれだけポツンと置かれた骸骨《がいこつ》をかたちどった灰皿《はいざら》が、この部屋の住人の荒廃した心理をよく物語っていた。 「ここはあんたの部屋か」そして、私は訊いた。 「ああ、ごらんのとおり汚い部屋だがね」 「独身《ひとり》なんだね」 「まあな……気楽なもんだよ」  電車が走る音が微《かす》かに聞こえてきた。  ブランケットから足を抜いて、私はベッドからおりようとした。 「う」  私は顔をしかめた。  神谷がニヤニヤと笑いながら、 「一応、医者には診《み》てもらったがね……ここしばらくは、あまり動かない方がいい、ということだったぜ」  私はズボンだけの半裸にされていた。その上半身が、痣《あざ》と塗り薬とで、赤青のぶちになっている。 「ひどいもんだ……」私は溜息《ためいき》をついた。 「なに……生命《いのち》が救《たす》かっただけめっけものさね」  他人のことだと思って、ずいぶん簡単にかたづける。 「そういえば、あんたには礼らしい礼もまだ言ってなかったな」 「礼なんかいいさ」  と神谷は笑い顔を見せて、半畳ほどの台所に歩いていった。音をたてて沸騰《ふつとう》している薬罐《やかん》を火からおろして、 「お茶にするかね……コーヒーもあるにはあるが、インスタントでね」私を振り返った。 「坐ってくれ」私は応えた。「なにより、まずあんたの話を聞きたい」 「どんな話だね」 「あんたと、あの埋めたて島にいた連中との関係なんかを、さ……それに、奴らの正体なんかも聞かせてもらいたいものだな」  生命《いのち》の恩人に対して、あまりに非礼な言葉というべきだったかもしれない。だが、容易に肚《はら》のうちを見せようとはしない神谷という男を、私は無条件に信じるわけにはいかなかった。 「あきれたもんだな」神谷は苦笑いを浮かべた。「あんなめに合っても、少しも懲《こ》りていない」 「懲りたさ。だからめったなことでは他人《ひと》に気を許さない。たとえ生命《いのち》の恩人でも、釈明を聞くまでは信じるわけにはいかない」 「分ったよ」  神谷は、盆に湯呑みを二つ乗せて、台所から運んできた。畳の上に盆を置いて、自分もあぐらをかく。 「説明するから、お茶でも飲みながら聞くんだな……」  二つの湯呑みをはさんで、私たちは向かい合った。二人の独身男がうらぶれた部屋でお茶をすすっている姿なぞ、とても見られた図ではなかったろうが、誰《だれ》が気にするわけでもなかった。 「キューバの駐在員だった頃、俺《おれ》に接近して来た一人の娘がいた……俺は若かったし、娘は魅力的だった」 「写真の娘だな?」 「ああ」 「俺が訊いた時には、あんたは覚えがないと言ったぜ」 「おたくとは初対面だったんだよ……警戒するのが当然だろう」 「そうかい? そんな風には見えなかったが——ま、いいさ。話をキューバに戻そうじゃないか」 「俺は娘に夢中になったよ……娘が用があったのは俺ではなく、新聞記者という肩書きだったと気づきもしなかったんだから、まったくおめでたい話さね……」神谷は小さく笑った。 「それで?」 「気がついた時には、とんでもないことの片棒をかつがされた後だった……娘はどこかに姿を消しちまうし、俺は本国に送還されちまうしで、いいところなしよ」 「とんでもないことってのは、どんなことなんだ?」 「そいつばかりは、口が裂けても言うわけにはいかない……」 「なぜだ?」 「俺だけのことじゃないからさ……まあ、なんだかんだで、結局、冷や飯をくわされることになっちまった。資料室といえば聞こえはいいが、体《てい》のいい島流しだからな」 「なるほど……それで、自分で娘のことを調べようという気になったのか」 「よく分ったな。そのとおりだ……資料室勤めは時間だけはタップリあるからな。キューバから帰ってからこっち、娘のことを調べるんでずいぶんあちこち歩き回ったぜ」 「それで、とうとう嫁さんももらわずか」 「冗談じゃない。女には懲りている……それに、あの娘が人間じゃない、と分った時には、俺はもうのっぴきならない状態になっていた……」 「奴らのことだな」私は念を押した。  自嘲《じちよう》しているような表情《かお》で、神谷はうなずいた。 「そうだ……娘のことを独力で嗅《か》ぎ回っていたつもりが、いつの間にか、あの連中の手先のようになっていた」 「奴らは、政府機関に属しているわけか」 「運営がどうなっているかは、俺にもよく分らない……日本のために働いているようでもあるし、|国 際 組 織《インターナシヨナル・オーガナイズ》の性質を帯びているようでもある。仕事は、冷凍睡眠の開発、亜人類の抹殺《まつさつ》、氷河期下での治安|計 画《プロジエクト》——つまり、いざ氷河期がやってきたら、あの連中がそのまま行政機関に移行する、ということらしいな。規模の大きな、怖い組織だよ……今じゃ、政界財界のトップリーダーたちも彼らに逆らうことができない、と聞いたことがある」  私は湯呑みを手にとって、残っていたお茶を一気に飲み乾した。今更ながらに、自分があの埋めたて島を脱出できたのがどれほど幸運だったかに思い当たり、咽喉《のど》にひりつくような乾《かわ》きを覚えたのだった。  お茶は生温《なまぬる》くなっていた。 「もう一杯どうだ」神谷が訊いた。 「頼む……」私は湯呑みをさしだした。  湯呑みを受けとると、神谷は気軽に台所にたっていった。 (あの男を信じていいものだろうか)  私は自問した。なるほど、確かに神谷の話はそれなりにつじつまは合っているが、しかし肝心な点になると巧妙に逃げをうっているようにも思えた。——私は一度は神谷を訪ねはしたものの、その後ほとんど彼のことを失念していた。神谷が眠れる美女について何かを知っていそうだと直感しはしたが、まさかこれほど事情に通じているとは想ってもいなかったのである。私がうかつだったといえばそれまでかもしれない。しかし神谷のこのにわかな変貌《へんぼう》ぶりには、どうしても納得しきれないものがあった。  台所から戻ってきた神谷に、 「ぼくを殴って、例の写真を奪ったのも奴らの仕業か」私は訊いた。 「例の写真?」神谷は眉《まゆ》をしかめた。 「ほら、麻雀屋でぼくがあんたに見せた写真さ」 「ああ……あれが奪《と》られたのか」 「あんたと会った翌日の晩に、な」 「奴らの仕業じゃないな」神谷は首を振った。「そんな話はきいていない。第一、あんな写真、見たければいくらでも東都新聞の縮小版に載っているぜ」 「…………」  そうなのだ。あの夜の強奪者は実際にはマイクロフィルムを狙《ねら》っていたのだが、それが果たせず、やむなく写真を奪っていった——一度は私もそう考えたのだが、しかしそれがマイクロフィルムであろうがなかろうが、あの写真にはなんの価値もないといっても過言ではなかった。神谷の言うように、市中でいくらでも手に入れることができるからである。あの夜、私を殴った奴の、本当の狙いはなんだったのか。…… 「なぜ、俺を救けた?」私は話を変えた。 「別に理由はない……しいて言えば、巨大な組織にいいように動かされている自分に、嫌気《いやけ》がさしたということだろうな。俺があちこち動き回っていたのは、あくまでも個人的な理由からだった。あの娘には関心があるが、亜人類なんかに用がない」 「いいのか? 奴らのことをそこまで知っているあんたが、まったくトラブルなしに組織を脱けられるとは思えないんだが……殺されるようなことはないだろうな」 「連中はマフィアじゃないぜ。秘密裡に活動はしていても、合法組織に違いはない。それに……」 「それに?」 「新聞社に飼い殺しにされているような男に、なにができると言うんだ?」神谷の声は暗かった。  だが私は、彼の言葉に同調する気にも、反駁《はんばく》する気にもなれなかった。戦列から外された新聞記者になにもできないというなら、無力な点では私はそれ以上の存在ではないだろうか。ただ私と彼との相違は、私の方にはどうしても須藤の無実を晴らしたいという執念があることだけだった。 「須藤一郎という名前を聞いたことがあるか?」私は訊いた。 「あんたの友達だろう。どうも亜人類に関わって、失踪《しつそう》することになっちまったらしいな。聡子《さとこ》という別れた女房が殺されたのも、どうやら亜人類になにか関係があるようだ……」 「よく知ってるな」 「あの組織の内側にいれば、知らないことなんかなくなるさ」  神谷の反応をうかがいながら、私は言った。 「どうだろう? あの組織が、須藤を誘拐して、聡子を殺した、ということはありえないだろうか?」  神谷は首をひねった。 「さあ……なにしろ、あれだけの規模を持つ組織だからな。俺なんかが知ることができるのは、活動のごくわずかな部分なんでね。やらなかったと断言はできないが……そいつをやったと考えると、ちょっとつじつまが合わないような気もする」  本当に知らないのか、それとも知っていてとぼけているのか——彼の表情からは、なんとも判断できなかった。  もちろん、私の推理がまったく的を外れている、という可能性もある。  ゆっくりと立ち上がった私が、 「それから——」  更に言葉を続けようとするのを、神谷は笑い声で遮《さえぎ》った。 「おいおい、まだなにか訊こうというのか」  私を見上げている彼の眸《め》には、邪気はなかった。つられて私も笑いながら、 「いや、そうじゃないんだ」首を振った。「外出したいんだが、着ていくものがない……悪いが、なにか貸してくれないか」  洋服ダンスに向かって、神谷は顎《あご》をしゃくった。 「好きなのを着てくれ」  言われるままに、私は洋服ダンスを開けた。  適当なものを物色している私に、 「これからどうするんだ?」神谷が訊いてきた。 「ひとまず自分の部屋に帰る——そうだ。あんたには世話になった礼をしなければいかんな。医者に払った金も、返したいしな」 「そんなものはどうでもいいが……まだ、あまり動き回らない方がいいぜ。部屋でしばらく静養するんだな」 「そうもしてられない——」シャツの袖《そで》に手を入れながら、私は返事をした。「行かなきゃならん所がある」  ——信濃町のそのマンションは、南欧風の瀟洒《しようしや》なつくりだった。そのマンンョンに住むには、若くて、才能があって、その才能に見合うだけの収入がある、というようないくつかの資格が要求される——正しく弥生のためにつくられたような住居《すまい》であった。  私は南側の階段を登り、弥生の部屋のブザーを押した。 「どなた?」  インターフォンから、弥生の声が流れてきた。 「鹿島——」  ぶすりと私は応えた。  しばらくドアが開かなかった。  タバコに火をつけて、私は待った。  ドアがようやく開いて、弥生が顔を出した。  私の顔を見るなり、 「ひどい顔」弥生は、拳を口に当てて言った。 「ご挨拶《あいさつ》だな——」私は苦笑した。「中に入れてもらえるかな」  彼女はしばらく躊躇《ためら》っていたが、 「どうぞ」意を決したように、私を招き入れた。  弥生はひどくやつれたように見えた。  私の眼の前にいるのは、驕慢《きようまん》で、あでやかだったあの弥生ではなく、すさまじいほどの荒廃した美を漂わせている、まったく別の女性であるように思えた——もっとも、彼女が危険な女であることには、なんの変化もないようだったが。  部屋に入った私は、眉《まゆ》をひそめた。  テーブルの灰皿には吸殻がうず高く積み上げられ、床にはジンの空《あ》き瓶《びん》が転がっていた。  弥生はソファまで歩いていき、自堕落に身を投げた。私の来訪なぞ忘れてしまったかのような、放心した眼つきだった。  椅子に腰をおろして、私は言った。 「どうしたんだ? 何も訊かないのか」 「訊きたいことなんか何もないわ」弥生はあくまでも無関心だった。  その時になるまで気がつかなかったのだが、彼女はどうやら酔っているようだった。 「こいつのこともききたくはないか」私は肩から包帯でつるされた左腕をわずかに動かしてみせた。 「ひどいめにあったのね」 「驚かないようだな」 「驚いているわ。泣きくずれろとでもいうの?」 「いや、きみは驚いてはいない」私は大きく息を吸った。「埋めたて島でなにがあったのか知っているんだ」 「…………」  弥生は応えようとはしなかった。ソファの下に置かれてあるグラスを手に取って、透明な液体を咽喉に流しこむ。  私も酔っぱらいたいような気分だった。 「峰はどうした? 帰ってこなかったのか」 「帰ってこなかったわ……あなたと一緒じゃなかったの?」 「島で別れたきりだ。無事でいるかどうかも分らない……」 「同情するわ」  私は席を立って、弥生が横たわっているソファに歩いていった。今、ようやく私がいるのに気がついたというような表情《かお》で、弥生は首をめぐらして、私を見上げた。  私たちはしばらくお互いの顔を見つめ合っていた。  やがて、私が口を切った。 「君はひどい顔だと言ったが、俺がこんな顔になったのは、君のせいだ。峰にもしものことがあったら、それも君のせいだ……同情して済むことではない」  多分、私の顔色は尋常なものではなかったろう。  弥生の眸《め》に怯《おび》えたような翳《かげり》が走った。ふいに彼女は私から顔をそむけて、テーブルに腕を伸ばした。ジンの瓶を取ろうとしたのだろうが、私がそうはさせなかった。  弥生は小さな悲鳴をあげた。 「なにをするの! 腕が折れるわ」  実際には、私がしたのは、彼女の手首を軽く掴《つか》んだだけであった。それだけのことで、慄《ふる》えあがってしまうほど、弥生は怯えきっているのだった。  畜生の眼には、私が弥生に乱暴を働いているように見えたとしても無理はなかった。聞き憶えのある唸《うな》り声二重奏に、狼狽《ろうばい》して振り返った私の眸《め》に、隣室からとびこんでくる二匹のドーベルマンが映った。  続く私の動きは、満身|創痍《そうい》の中年男としては、その敏捷性《びんしようせい》をほめられてしかるべきだったろう。とびかかってきたドーベルマンに、右手だけで渾身《こんしん》の力を込めて椅子を叩きつけたのだ。  椅子はバラバラになり、犬の躯もふっとんでいた。  が、二匹めの攻撃をかわしきることはできなかった。左腕が熊罠《くまわな》にかかったように、ドーベルマンの顎《あぎと》にくわえこまれてしまったのである。幸いなことに、そいつの牙《きば》は添木と石膏《せつこう》にくいこんだのみで、未だ肉にまで達してはいなかったが、しかしドーベルマンの体重を考えるとその幸運も長くは続きそうになかった。私はドーベルマンの巨体を左腕にぶらさげたまま、必死に躯を揺らしたが、ついに力かなわず押しきられてしまった。  テーブルをはねとばし、私が床に倒れても、なおドーベルマンはその牙を離そうとはしなかった。私は自由な右手で、ドーベルマンの脇腹《わきばら》を殴り続けた。殴り続けながら、もう一匹のドーベルマンがゆっくりと頭の方に回りこんでくるのを、絶望的な想いで見つめていた。  高く口笛の音が聞こえてきた。嘘《うそ》のように左腕が軽くなった。気がついてみると、ドーベルマンは私を解放してくれていた。  ノロノロと立ちあがりながら、私は弥生に言った。 「実に利口で可愛い犬だな……」私の声はかすれていた。  弥生は詫《わ》びようともしなかった。 「少なくとも私を裏切るような真似は絶対にしないわ」 「だが、きみはぼくたちを裏切った」 「…………」 「なぜだ?」私は激さないではいられなかった。「なぜ罠と分っていて、ぼくたちを埋めたて島に送りこんだ?」 「取り引きだったのよ……」弥生は再びジンのグラスを手にしていた。 「取り引き?」 「鹿島さんと、あの峰という男を、埋めたて島に送りこめば、私のスキャンダルはなかったことにしてやる、と言われたの」 「スキャンダル?」 「私は、『|美しい女《ベラドンナ》』の客に……男を世話していたのよ」 「売春を斡旋《あつせん》していたというのか?」 「金銭は受け取っていないわ。欲求不満の上流階級の奥さまたちに、若い男を提供してやっただけよ……そうやって恩を売っておけば、いざという時になにかと役に立ってくれるのよ」 「君という女《ひと》は——」私は言葉に窮した。  弥生は微笑した。鼻の先で、私が絶句するのを嘲《あざけ》るような、そんな微笑だった。 「お上品ぶってたって、あの連中ぐらい汚い人種はいないんだわ……男と部屋とを提供してやりながら、内心私は舌を出していたのよ。いつの日か、この女たちは私の足元にひざまずくようになるんだって、毒づいていたのよ……」 「そうまでして、這《は》い上がりたかったのか」 「そうよ」弥生の声は暗い情熱に満ちていた。「どんな手段を使っても、這い上がった方が勝ちなのよ……あいつらに負けてたまるもんですか」 「あいつら?」 「そうよ。あいつらにだけは負けたくないわ」弥生は偏執狂《パラノイヤ》めいた口調で、言葉を繰り返した。  弥生の言うあいつらが誰を指すのか私に分るはずもなかったが、その言葉に込められている憎悪が、彼女の過去を如実に物語っているように思えた。——私は弥生の眼に涙を見るのを期待していた。泣きさえすれば、彼女の気持ちも幾分かは楽になるはずだった。  が、弥生は泣かなかった。弥生は決して泣かない女なのだった。 「教えてくれるだろうか」私が言った。「取り引きの相手が誰だかまだ聞いていないんだが……」  彼女は睫毛《まつげ》の長い眼を閉じて、 「検察庁よ……」吐きだすように言った。  思わず私は唸っていた。  埋めたて島の組織はあくまでも合法機関である、という神谷の言葉が強い実感を伴って私の胸に響いてきた。その活動には検察庁さえ一役かっているというのか。 「取り引きしたのはいつのことだ?」私が訊いた。 「埋めたて島に潜入するつてを探して、東京中を奔走していた時よ……突然、検挙されて、理由も教えられずに検察庁まで連れていかれたわ」 「それで、俺たちを売ったわけか。自分の無事と引き替えに——」 「私だって無事には済まなかったわ……検挙されなかっただけだわ」 「どういうことだ」 「脱税よ——全額払い込むには、かなりの財産を処分しなければならなかったわ」 「していたのか」 「誰でもしていることよ」  私は腕を組んだ。 「なるほど……検察庁の方じゃ、この際、君の力を奪っておこう、と考えたんだな」 「それだけじゃないわ……『|美しい女《ベラドンナ》』だって——」 「『|美しい女《ベラドンナ》』がどうかしたのか」 「パリの本社から、日本の販売委託権をキャンセルしたい、と言ってきたのよ。業績から考えても、本社が私に不満を持っている、とは考えられないわ……どこかから圧力がかかったのよ」  芸のない話だが、私は唸り続けるしかなかった。  女ひとりを潰《つぶ》すのに、ずいぶん徹底した方法をとったものではないか——もっとも、これは連中が彼女の力をあなどり難いと考えていた証拠であって、埋めたて島に潜入するというのにほとんど手をうたれることもなかった私などは、まったく問題にもされていなかった、ということかもしれなかった。  弥生を責めようという気持ちはすでになくなっていた。が、慰めうべき言葉もまた私にはなかった。本当なら、苦境に立っている弥生を力づけるため、せめてその肩ぐらい抱いてやるべきだったかもしれない。しかし彼女をそれまでになく近しい存在と感じていたことが、それすらも私にさせなかった。——弥生にしてみても、私のような男からの憐《あわ》れみは、自分に対する侮辱《ぶじよく》とうけとるはずであった。 「……もう私に訊きたいことはないでしょう?」やがて、弥生が言った。「私は、明日パリに発つわ。なんとしてでも『|美しい女《ベラドンナ》』の販売委託権だけは確保しなければね」  あいかわらず沈んだ声だったが、しかしキッパリとした口調だった。  部屋を出ていってくれ、という意味らしかった。  うなずいて、私は彼女から離れた。気のきいた別離の言葉一つ思いつかないほど、私は野暮な男なのだった。  ドアのノブに手をかけた私に、 「鹿島さんはこれからどうするの?」弥生が訊いてきた。  私は振り返らなかった。彼女の顔を見るのが、なぜかつらかった。 「友達の行方を探す……あいつからも訊きだしたいことが、幾つか出てきた」 「執念ね」 「どうかな——君と違って、俺にはどうしても守らなければならないものがないからね」  弥生は黙っていた。  私はドアを開けた。 「これは、あまり当てにはならない情報だけど……」独り言のように、弥生がつぶやいた。「齢をとらない人間たちは横浜に停泊している船に隠れているそうよ」  私は廊下に踏みだしかけていた足を止めた。だが、やはり振り返る気にはなれなかった。それが、弥生の別離の言葉であることは、よく分っていた。 「すまない」と私は言って、後ろ手にドアを閉めた。  廊下を歩いていきながら、弥生が日本を留守にしている間ドーベルマンの世話は誰がするのだろう、と私は考えた。  その後、彼女には会っていない。     五  分っていることが、横浜に停泊している船というだけでは、どうにも手のうちようがなかった。  弥生が教えてくれた、 「齢《とし》をとらない人間が隠れている」  という言葉も、取りようによってはどうとでも解釈できる。日本に来ている亜人類が十人に充たない数であれば、観光客船に客として乗り込んでいるとも、貨物船の船員になっているとも考えられる。しかし、彼らの数が百人を越えているとすれば、これはもう巨大な船を一艘チャーターでもしなければ、とても収容しきれないだろう。そこまで考えると今度は、彼らが分散しているという可能性もないではない、と思い当たる。  つまり、それが外国船でさえあれば、あらゆる船が該当してしまうのだ。  これが、警察官か麻薬調査官ででもあれば、しらみつぶしに当っていくこともできるだろうが、あいにく私は一介の民間人にすぎない。いかなる権限も与えられていないのだった。  どう考えても、私一人の手には余る仕事だった。  そこで、船を見つける方は、新聞記者というこの種の調査に多少は有利な肩書きを持っている神谷にまかせて、私は前から気にかかっていることを確めることにした。  他でもない、早野が死ぬ前日に私に手渡したあのマイクロフィルムのことだった。  さほど入手が困難であるとも思えない古新聞のコピーを、なぜ暴力を使ってまで私から奪おうとしたのか、という疑問は片時も忘れたことがない——幸い、盗られたのは写真だけで、ネガの方はまだ私の手元にあったから、この機会に、その疑問を氷解させよう、と考えたのだ。  思いついたことがあったので、私はそのむね調べてくれるように手紙を添えて、現像してくれた同じ写真家に、マイクロフィルムを郵送した。  その仕事を済ませると、もう他にはなにもすることがなかった。神谷が船を見つけだしてくるか、写真家が返事をくれるか——いずれにしても、私にできるのは待つことだけであった。  私は、銀行口座のもういくらも残っていない預金からいくばくかの金額を引き出し、ウイスキーを唯一の伴侶《はんりよ》として、再びアパートに閉じ込もった。酔いが回り始めると、顔の腫《は》れが熱をもって痛んだが、それも、二、三日そんな生活を続けているうちに、しだいに治まっていった。  左腕もどうにか治り、顔の造作も打たれ弱かった元ライト級ボクサーぐらいまでには回復した頃《ころ》、 「ラウラ医師を見つけたぜ」  神谷から思いがけない電話がかかってきた。  ラウラ医師……私はほとんどその名前を忘れていた。ごくおざなりにその名の主をさがそうとしたことはあったが、しかし事件が展開していくにつれて、いつしかラウラ医師の名は私の頭から消えていった。  なるほど、ことの経過を神谷に説明した時、確かに、ラウラ医師という名もついでのように伝えはした。伝えはしたが、神谷もその名前にこれといった心当たりはなさそうだったし、さがしてみようかとも言いだしはしなかった。それが、どうして?……  すぐに横浜のホテルまで来てくれ、ということだった。彼に言われたとおり、私はすぐさま横浜に車を走らせた。  神谷の指定したホテルは、横浜の港を見下ろす高台の中腹に建てられていた。どこにでもあるようなビジネスホテルだが、そこから臨む横浜港の夜景は、それほど捨てたものではなかった。  神谷の部屋は六階にあった。 「あれがドクター・ラウラだ…………」  窓ごしに、神谷は横浜港に向けて指を伸ばした。  横浜港の遥《はる》か沖あいの方に、一艘の巨船が停泊している。港の淡い光華に包まれて、その船は、黒く突堤のように長かった。微動だにしないで、海にうずくまるその巨大な船影は、周囲を航行する大小の船に、無言の圧力を加えているように見えた。 「あれが……」私は絶句した。 「ああ、ドクター・ラウラというのは船名なんだよ。おれの考えじゃ、齢をとらない人間たちはまず間違いなくあの船に隠れているね」 「…………」  多分、神谷の推測は当たっているだろう。眠れる美女もかつてあの船に隠れていたのだとしたら、その名を記した紙片をコートのポケットに入れていても、なんの不思議もなかった。 「とにかく得体の知れない船なんだ」神谷が言葉を続けた。「もう半年以上もあそこにああやって停泊しているんだが、いったいどんな船であるのか、誰《だれ》ひとりとして知らない。横浜一の情報通といわれている男も、あの船のことになると首をかしげる始末でね」 「貨物船なのか?」 「さあ、そいつがまず分らない。あのつくりから考えると、油槽船《タンカー》なんだろうが……タンカーが、こんなに長い間、横浜でなにをやろうというのかね? 貨物船と考えると、荷待ちしているとも、荷の相場が上昇するのを待っているとも理由はつくが——それにしても、船員が上陸していないのはおかしいやね」 「客船ということはないだろうな」 「ない」神谷は首を振った。  ビールを瓶《びん》からラッパ飲みする。口を手の甲でぬぐって、 「ないよ……」再び首を振った。「分っているのは、あの船が香港からやってきたこと、持ち主は華僑《かきよう》らしいこと、その二つだけかな——これだけ聞きだすのが、一苦労さ……どういうわけか、あの船のことを口にするのをはばかる、というような雰囲気《ふんいき》なんだ。税関の方でも、あの船にはひどく神経を使っているらしい。といっても麻薬を警戒しているというわけじゃなく……まあ、黙殺している状態らしいな……」 「なるほどね」  私は蛍光灯《けいこうとう》を見上げた。確かに、怪しいといえば、これほど怪しい船もなかったろう。だが—— 「だが、何かもうひとつぐらい、あの船と齢をとらない人間を結びつける材料がほしいところだな」私が言った。 「うむ」  と唸《うな》って、神谷はビールを手に取った。瓶は空だったらしく、非常に寂しげな表情《かお》をした。 「しかし、それ以上のことは、あの船に乗り込みでもしない限り、分りっこないぜ」 「合法的に乗船する方法はないんだろう?」 「まずないだろうな」 「危い橋を渡って船に乗り込んだはいいが、まったくの見込み違いでした——というんじゃ目も当てられないよ。それだけの危険を犯すからには、もう一つなにか欲しいところだがね」 「まったくだ……しかし、どこをどう歩き回っても、ドクター・ラウラ号に関する新事実は出てこないよ」  神谷は、半ばふてくされているようだった。 「ドクター・ラウラ号か……」と私はつぶやいて、腕を組んだ。  頭蓋の奥をふいに叩きつけられたような気がした。  私は呻《うめ》いた。 「そうか——」  そんな私を不審げに見ながら、「どうかしたのか?」神谷が訊いた。  それには応えないで、「悪いが、ドクター・ラウラとなにか紙に書いてくれないか」私は言った。自分でも、声の興奮しているのが分った。  神谷はしばらく私の顔を見つめていたが、やがて肩をすくめると、胸ポケットから手帖を取りだした。手帖を開いてペンを走らせると、そのページを破って、私に寄こす。  そこにはこう書かれてあった。   DC.Laura  うなずいて、私は言った。 「間違いない……あの船には亜人類が乗っているよ」 「どうして、そんなことが分る?」神谷は眼を丸くした。 「ペンを貸してくれ」と私は応えて、同じ紙にペンを走らせた。  神谷は唸《うな》った。 「な、分ったろう?」  と私が尋ねるのに、 「なるほど……|文字遊び《アナグラム》か」神谷はうなずいた。  そうなのだ。ごく単純なアナグラムで、二つを並べて書けば、一目瞭然《りようぜん》にそうと知れるのだった。   DC.Laura   Dracula 「あの船に乗り込む手はずを考えようぜ」  神谷の声は呻きのように聞こえた。  男の名は青木といった。  爽《さわ》やかな眸《め》をした、実直そうな中年男で、肌《はだ》が赤銅色に潮灼《しおや》けしている。彼のような男が、神谷との取り引きに応じたのが、なにか信じ難いような気がした。たとえ、神谷が約束した三万円の礼金が、ちょっとしたアルバイトで稼《かせ》ぐには、決して少なくはない額だったとしても、だ——。  金が入った封筒をポケットにしまうと、 「それじゃ、明日三時に——」  青木は腰を浮かして、急ぎ足で喫茶店を出ていった。  後に残された私と神谷は、どちらからともなく顔を見合って、互いに溜息《ためいき》をついた。  とにかくこれで、ラウラ号を探索する手段《すべ》ができたのだ。  青木は、横浜にある王徳・トレイディング・カンパニィという会社に勤務していて、入港中の船に食料品や日常品を納入するという業務についていた。俗にいうシップ・チャンドラーというやつだが、彼が働いている王徳・トレイディング・カンパニィは、横浜に入る定期船の注文をほとんど一手に引き受けているという話だ。それに、ラウラ号のような不定期船の注文も……。  色が濃いだけで、香りのほとんどないコーヒーを、顔をしかめてすすりながら、 「いよいよ、大詰めだな……」神谷が言った。 「どうかな」  私は、彼ほど楽観的にはなれなかった。 「どうしたんだ? 心配することはないさ。あんたの友達は、あの船にいるって——捕っているのか、自分の意志でいるのか、そいつは分らないがね」  私は神谷の言葉を咎《とが》める気にはなれなかった。須藤の消息がこれほど長期にわたって知れない以上、確かに彼が自分の意志で身を隠しているという場合も考えておいた方がよさそうだった。それに咎めるよりも、私には神谷に訊くべきことがあった。 「あんたは、ラウラ号に乗り込んでどうしようというのだ?」  神谷はデコラ張りのテーブルに肱《ひじ》をつき、ぼんやりと窓の外を眺めた。窓の外の舗道を歩いているのは、圧倒的に若いカップルが多い。  私は彼の答を促した。 「キューバで俺《おれ》をだました娘だが——まだ十八、九にしか見えなかった、とあんたは言ったっけな……あんたが車ではねた時にさ」  と神谷は応えて、私の顔を見つめた。 「それで?」 「俺も見てえのさ……まあ、四十男の感傷とでも考えてくれよ」神谷はかすれたような笑いで、話をしめくくった。  私には納得できなかった。  だが、彼のことだ。これ以上なにか訊いたところで、ぬらりくらりと言い逃がれされるのがおちだったろう。  いずれにしても、明日になれば、総てがはっきりするのだ。     六  税関のチェックが終り、発動機船は運河から港湾へ出た。積まれているのが食料品ばかりだったから、税関吏の検査もさほど時間をとらなかった。  午後の陽光に、海は明かるかった。  私は木箱に腰をおろし、ボンヤリと海を眺めていた。  漠然《ばくぜん》とした既視感《デ・ジヤ・ブ》があった。それが、塵芥《ごみ》運搬船で埋めたて島に向かった時の記憶に由来したものだとは分っていたが、意識のより深いところでは、まったく別の遠い過去につながっているようにも思えた。  船は湾を出た頃から速度をあげ、大きく上下に揺れるようになった。  エンジンルームで船長の青木と話し合っていた神谷が、危っかしい足どりで私に近づいてきた。 「どうした? やけに考え込んでいるじゃないか」  荷箱に腰をおろしながら、神谷は言った。  私は応えた。 「海を見ているだけさ」  実際、この海は見るに価いした。  舳に砕かれた波が飛沫《しぶき》をあげ、花弁型に拡がっていく。三稜鏡《プリズム》のように色が変わる、きらめく花弁だった。  海は、あくまでも青く、静謐《せいひつ》そのもののように横たわっている。  振り向けば、すぐそこに横浜港が見えるというのが、なにか悪い嘘《うそ》のように思えるほどであった。  神谷が言った。 「海を見るのもいいが、ラウラ号はもうすぐそこだぜ」  ふいに陽が翳《かげ》った。  顔を上げた私の視界に、ラウラ号の舷側がのしかかるように入ってきた。錨《いかり》が下がっている舳先《へさき》がみるみるせりだしてきて、艫《とも》の部分を覆い隠してしまう——粒子の粗いペンキで灰色に塗られた船腹がラウラ号を老いた象のように見せていた。  発動機船がタラップの際に寄せられた。  エンジンルームから出てきた青木が、私と神谷にチラと眼を走らせると先にたってタラップを登っていった。  私たちも、その後に従った。  タラップを登りつめたすぐ左手に、ウィンチが二基並んでいて、救命艇をぶら下げていた。上甲板には、夥《おびただ》しい数のパイプが束になって走っている。上甲板の遥《はる》か遠くにはハウスが見え、その上にレーダーアンテナが取りつけられていた。  矛盾した表現ではあるが、人けがまるでなくガランと広い上甲板は、なにか屋根のない雨天体育場を連想させた。  神谷が、私の肩を叩いて言った。 「見ろよ。面白いものがあるぜ」  彼の言った面白いものは、Uの字型に彎曲《わんきよく》した艫の、わずか左舷側寄りのところにあった。  捕鯨砲である。  チーク材の手すりが一メートルほど中断していて、砲座と砲架がナットで固定されている。砲架の上に乗せられている砲身は、長さは百二十〜三十センチ、口径は百ミリに満たないだろうと思われた。筒先から挿入されて首だけのぞかせている銛《もり》から、縄がたれ下がっている——その縄が短くちぎれているのが、この捕鯨砲が使われていないことを示していた。  私たちの背後に立っている青木が、 「ラウラの船員に、昔、捕鯨船に乗っていた奴がいてね……そいつの、まあ、記念品というところだな」  子供が自分のおもちゃを自慢するようなくったくのない声だった。 「なるほどね——」それを受けて、神谷が言った。「たいした記念品だ……なにより男らしいやね——ところで、あんた船長に会いにいくんだろう? 品物の照合やなんかで、さ」 「ああ」 「じゃ、行っといでよ。俺《おれ》たち二人は、その間、適当にやるからさ」 「それが、そういうわけにはいかない」 「なんだって?」と神谷は声を荒げた。「そういうわけにはいかない、とはどういうことだ? 始めからの約束だぜ」 「こんな言い方はないかもしれないが、金だったら返すよ——」  私たちを等分に見ながら、青木は落ち着いた声で言った。その髪が、海から吹いてくる風にそよいでいた。 「あんたたちには、俺と一緒に船長室まで来てもらう」  私は苦笑した。 「そんなことだろうと思っていたよ。金で動くような男には見えなかった」 「冗談じゃねえ」神谷は血走った眼を、青木から私に移して、その眼を再び青木に戻した。「そんなことになったら、計画がおじゃんになるぜ」 「だからといって、俺たちにはどうしようもないだろう? 青木さんを叩きのめすのはかなりむずかしいだろうし、彼が一声あげるだけで、この船の人間が集まってくる」  青木は白い歯を見せた。 「いや、私はタフに見えるけどね——喧嘩《けんか》となると、まるっきり意気地がない」  私たちはしばらく睨《にら》み合っていた。  いがみ合うには、相応《ふさわ》しい環境ではなかった。まぶしく、青い、のどかな水の世界が、私たちをとり囲んでいるのだ。  やがて肩を落として、神谷が言った。 「分ったよ……船長室へ行こうじゃないか」  船長室は、上甲板から二層下の、どうやら左舷の後方と思われる場所にあった。  ハウスから昇降階段をおり、清潔な長い通路を抜け、 「ここだ——」  青木は、よくみがきあげられたチーク材の扉《とびら》の前で立ち止まって、私たちに言った。  ノックする。  穏やかなバリトンが返ってきた。 「|どうぞ《カム・イン》」  扉を開けて、青木は私たちのために道をあけた。  最初に神谷が、次には私が、部屋に足を踏み入れた。  大西洋横断の豪華客船もかくやと思えるようなキャビンだった。ワインレッドの毛足の長いカーペット、暗紅色のカーテン、燻《くす》んだような色の樫《かし》の木の梁《はり》、椅子やソファは、総《すべ》て緑色の革張りで統一されていた。  そのキャビンには、三人の男がいた。  白人、黒人、黄色人の三人組だった。  だが、キャビンに一歩踏み入れた時から、私の眼は黄色人種ただ一人に吸い寄せられていた。 「よお——」と私は彼にうなずいた。  今度こそ須藤に会えるのではないかと期待していた私だったが、その期待に反して、思いもよらぬ人物に会うことになっても、さほどがっかりはしなかった。いや、その思いがけなさが、かえって私には嬉《うれ》しく感じられたのかもしれなかった。  峰次郎はあのなつかしい快活な声で挨拶《あいさつ》を返してきた。 「やあ、お久しぶり」 第四章 逆 転     一  我々の前にはワインが置かれてあった。  私には水割りが、神谷にはビールが、それぞれ最もよく似合う飲み物であって、ワインが似合う男たちに混じっていると、自分がひどく場違いな人間に思えてくる。もっとも、だからといって、その場を逃げだすわけにもいかなかった。  たかが飲み物ではないか。  ワインが似合う男たちを紹介すると、白人の方が、このラウラ号の船長で、ティム・ハリントン、黒人は、医師のハーマン・ブラドックといった。ティム船長は六十歳ぐらい、すな色の髪、ブルーの眸《め》、赤ら顔、という海の男のイメージそのままの巨漢である。一方のハーマン医師は、白いもじゃもじゃの髪の毛が褐色《かつしよく》の額にかかって、更に縁なしの眼鏡にまでかかっているという、哲学者めいた風貌《ふうぼう》の老人だった。長身ではあるが、哲学者《フイロソフイア》相応に痩《や》せている。  この二人は私と神谷とに向かい合って坐《すわ》っている。彼らの背後には、ワインを水のように飲みながら、神妙な面持ちで峰が立っている。青木は私たちの逃亡を警戒しているのか、ドアに背をもたせて立っていた。  ティム船長が咳払《せきばら》いして、 「どうだろう? 話は、やっぱりあんたからしてもらった方がいい、と思うんだが……」  とハーマン医師に言った。なまりの強い英語で、どうやらティム船長はねっからの英語国民ではないように思われた。  ハーマン医師は軽くうなずいて、梟《ふくろう》のような眼差《まなざし》を私と神谷に向けた。 「それは、話さんこともないが……どの程度まで話したらよいものか……わしは、このお二人を存じあげないので、な」  かん高い、鼻にかかったような声だが、英語そのものは非常に聞きとりやすい。多分、どこか英語圏植民地の出身だろう。  峰が言葉をはさんだ。 「鹿島さんの身元はぼくが保証します……お友達の行方を探《さが》しているうちに、亜人類と関わらざるをえなくなっただけで、まったくの民間人です。ただ、そちらの神谷さんとは初対面なので、ぼくにはどうとも紹介しかねるのですが……」  ボソリと神谷が言った。 「新聞記者だよ。俺は——」  峰の英語も流暢《りゆうちよう》だったが、外地駐在員の経験があるだけあって、神谷もかなりいけそうだった。  どうやら、会話は終始英語で運ばれることになるらしい。私は憂うつな思いで、頭のなかに英単語を並べていた。 「なるほど——それで、どの程度のことを知っておられるのかな?」とハーマン医師が私に訊いてきた。  私は応えかけたが、思い直して、峰に通訳をたのんだ。聞く方ならなんとかなるが、話すのは苦手だった。私が英語でしゃべったひには、|なんとおっしゃいましたか《パードン・ミー》、のやりとりだけで夜になってしまう。 「峰から話は聞いたと思うが、ぼくは彼と一緒に久里浜の埋めたて島に潜入したことがあった……そこの連中から、吸血鬼という名で知られている存在が、実は冬眠習性を持つ亜人類であることを教えられた。そして、氷河期が近づいていること、亜人類を皆殺しにする計画があることも知った。ぼくは彼らを信じてもいないし、疑ってもいない……どうでもいいことだよ。ぼくが関心のあるのは、あくまでも友人の行方だ」  私の言葉がかなり気負ったものに聞こえたのだろう。峰は片頬に苦笑を浮かべながら、ティムとハーマンにゆっくりと通訳した。  自分が急に重要人物《V・I・P》になったような気がした。  峰の言葉が終ると、ハーマン医師は私に顔を向けて、 「お友達の名は、なんといわれる?」 「須藤一郎です……職業は、あなたと同じ医師でした。心当たりはありませんか?」 「須藤……?」ハーマンは拳《こぶし》で額を軽く叩いた。「……思いだせんようだが——どうかね? あんたは聞いたことがあるかね」 「ない」ティムはそっけなく首を振った。  ハーマンは再び私に顔を向けた。 「お聞きのとおりだ……我々に須藤という知り合いはない。日本人の知り合いは多いが、須藤という名前に記憶はない」 「てっきり、この船にいると思ったんだが」 「あんたの見込み違いだ」  ハーマン医師は私がこの事件で出会うことになった誰《だれ》よりも、誠実そうな人物に見えたが、しかし彼の言葉を全面的に信用するわけにはいかなかった。私に真実を語った人物など未だかつていないからだ。——須藤の行方をさがし始めてからの私は、著しく懐疑的な人間になっているようだった。 「齢《とし》をとらない人間……亜人類はこの船に隠れているのか」神谷が訊いた。  意外なことに、あっさりと、 「この船にいる——」ハーマンが認めた。  ティムが、一瞬、咎《とが》めるような眼でハーマンを見たが、すぐにワインに視線を戻した。どうやら、ハーマン医師は全面的に信頼されているようだった。 「まさか、あんたたちが——」  と神谷が声を昂《たか》ぶらせるのに、 「いや、わしたちは人間だよ。残念なことに、な」ハーマンは首を振った。「ただ、亜人類がこの船に乗り込んでいる、という表現は正確でないな……彼らはこの船で眠っている……それ以外のことはなにもしておらん」 「冬眠しているというのですか?」と私。 「そう——ラウラ号は、いうならば彼らの寝室のようなものでな。わしたちの役目は、彼らが誰からもじゃまされず、安らかに眠れるように世話してやることじゃ……まあ、わしらは保母さんみたいなものだな」  ハーマンは、ホッ・ホッと咽喉《のど》を鳴らして、笑い声をあげた。眠っている赤ん坊が、ひきつけを起こしそうな保母さんだった。  私は言った。 「筋が通るように、順を追って話してもらいたいものだな」  ニヤニヤ笑いをしながら、峰は通訳を続けた。  ハーマンはうなずいて、 「話はいくらでもしよう……だが、その前にこれだけは頭に刻み込んでもらう必要がある……生物学的には、亜人類などというものは存在しない。地球上に生息しているのは人類だけだ、ということだよ」  私は首をひねった。 「よく意味が掴《つか》めないのだが……生物学的には、亜という冠詞がつこうがどうしようが、とにかく彼らを人類という名で呼ぶのは間違いだ、と言われるんですか?」 「まったく逆だよ……わしが言っているのは、彼らは人類以外のなにものでもない、ということなんだがね」  私はハーマンの顔を見つめた。  この老人はなにを言おうというのか? 「しかし、彼らは冬眠する……」なかばつぶやくように私は言った。 「それがなんだ、というんだね?」けろりとした表情《かお》で、ハーマンは応えた。「だからといって、彼らが人類である、という事実に変わりはない……たとえば、ニホンザルを考えてみたまえ。本来、サルというものは、熱帯、亜熱帯に生息するものだ。それがニホンザルに限って、下北半島、津軽半島あたりの積雪のなかで、餌《えさ》を探し歩いている……それでも、ニホンザルもサルであることに間違いあるまい」 「しかし、亜人類は体の構造に至るまで、人類と異なっている」 「だから?」 「……人類ではない、ということにならないだろうか?」 「まだ、よく分っていないようだな……いいかね? 人類の歴史はわずかに千五百万年しかないんだよ。千五百万年という時間は、種が確実に形成されるには、まだまだ短かすぎるといえる——人類という種のなかで、われわれがエリートである、という保証はどこにもないんだよ」 「…………」私は絶句した。  神谷が口のなかでつぶやくのが聞こえた。それが、祈りであったか、呪詛《じゆそ》であったかは分らなかった。  ハーマンはいきいきとしていた。  われわれが人類のエリートではないかもしれない、という仮説が、彼のお気に入りの話題であることは間違いない。私は、Kの顔をフッと想い浮かべた。彼もまた、人間は殺戮《さつりく》することで進化してきた、と口にするのに淫靡《いんび》な楽しみを得ていたようだ——いずれの知性も、人間に絶望しているのだった。  私たちに希望はないのだろうか?  ハーマンは話を続けた。 「類縁が非常に近いように見える二つの生命体が、同種であるか、それとも異種であるのか、を判断する最上の方法がなんであるかを考えてもらいたい……交配させることだよ。交配可能である。交配不能である。交配可能ではあるが、その間に生まれたものには子供ができない——一代雑種というやつだね……まあ、そんなことから、同種であるか否かを判断できるわけだ」  そこまでハーマンが話した時、 「おい、船が動いてるじゃねえか」神谷が日本語で叫んだ。  驚いて、私は椅子から立ち上がった。  なるほど、ほとんど感じないが、確かに床が揺れているようだ。横浜港に戻るはずの青木が同室しているのに安心して、船が動くかもしれないという可能性などまったく考えていなかったのだが……。  私は青木に言った。 「平気な顔をしているようだが、あんたの船はどうなったのかね?」 「誰か持って帰ったんだろうね」と青木はこともなげに応えた。  私と神谷が慌《あわ》てふためいているのを、面白そうに眺めながら、 「心配ない、心配ない」ティム船長が繰り返した。  大いに心配だった。  峰が慰めるような口調で言った。 「船長の言うとおり、なにも心配することはありませんよ……日本もだんだん居づらくなってきたので、彼らは移動することにしたんです。ぼくたち四人の日本人は、どこか東北の港にでも、おろされるはずです」 「君は彼らと行動を共にするんじゃないのか」私が訊いた。 「まさか、日本を離れるまではね」峰は首を振った。「ぼくも鹿島さんと同じですよ。埋めたて島からどうにか脱出して、ラウラ号の存在をつきとめましてね。潜入して、発見されて——なんとなく一緒にいるだけです」  突然、ハーマン医師が大きな咳払いをした。驚いて、われわれは一様に彼に眼を向けた。  なにごともなかったような表情《かお》で、ハーマンは話を始めた。  まったく、人を喰ったじいさんだった。 「それでは、彼らとわれわれとではどうか——交配可能だよ。一代雑種でさえない。子供は子供をつくることができるし、その子供もまた子供をつくることができる……冬眠という習性も遺伝する。冬眠が遺伝すれば、覚醒時に塩を必要とする、という生理的欲求から血を吸う、という例の習性も当然伝わっていく。もっとも、現在《いま》では、血を与える、というのは愛情の表現以上のものではなくなっているがね——吸血鬼に襲われた人間は、その人間もまた吸血鬼になってしまう、というあの伝説はそこの事情を物語っている、とわしは推理するんじゃが……賛成してもらえるだろうね」  最後の言葉は社交辞令とうけとるべきだった。ハーマン医師が私たちの反対など問題にしていないことは明らかだった。 「賛成します」とにかく、私はそう応えることにした。 「ふむ」ハーマンは満足げに鼻を鳴らして、クスクスと笑いだした。「まあ、そんな伝説が残っているということは、逆に考えれば、彼らと我々の交配がかなり頻繁《ひんぱん》に行なわれていた、という証《あか》しでもあるわけだ」  あきれたことに、彼は猥談《わいだん》をしているつもりなのだ。ハーマン医師のユーモア感覚はひどく独りよがりなものだ、と言えそうだった。本当は、ユーモアのセンスがまるでない、と言いきってもよかったのだが、それではせっかく悦にいっているハーマン医師があまりに気の毒な気がした。 「これで、亜人類などというネーミングはおよそナンセンスである、とご理解いただけたと思うがね。存在するのは人類だけだよ……彼らとわれわれの異なる点は、ただ一つ、氷河期がやってこようとしている現在《いま》、彼らの方が人類という種の正統な伝承者になる可能性が大きい、ということだけだ——なにしろ、氷河期に適応することで進化してきた連中だからね」  ハーマンは言葉を切って、私と神谷の顔を等分に見つめた。なにか訊きたいことがあるか、という表情だった。  彼には申し訳ないが、私がその時考えていたのは、Kのことだった。Kとハーマンとでは、共通している部分が一つもなかった。そのくせ、この二人は結局同じ型《タイプ》の人間であるように、私には思えるのだった——同じ型《タイプ》のネガとポジであるような気がするのだ。  分らないのは、どちらがネガで、どちらがポジか、ということだった。  静かに席を立つと、 「失礼《エクスキユーズ・ミー》」神谷がキャビンを出ていった。トイレにでも行こうというのだろう。  ごくさりげなく、青木が神谷の後に従って、キャビンを出ていく。  ハーマンになにか尋ねるべき人間は、もう私しか残されていなかった。  私は訊いた。どうせ訊かなければならないことなのだ。 「彼らが種の正統な伝承者である、ということが、あなたたちが彼らを保護する理由なんですか?」  通訳する身にもなってみろ、といわんばかりの顔つきで、峰が私の言葉をハーマンに伝える。  ハーマンは応えた。 「もちろん、それだけではない……われわれの先祖が、武器を使うことを覚え、他を殺戮することで進化してきたというのは、なんといっても残念なことだ……だが、残念だと思うこと自体、多分、エゴイスティックな感傷なんだよ。進化とモラルとはいかなる関係もない。適応の手段が、冬眠であろうが、殺戮であろうが、そこにはなんの違いもありえない……それはそうなのだが、われわれは少し殺し過ぎるんじゃないだろうか。殺戮が適応だったとしても、われわれは過適応の状態にあるのではないか——少なくとも、ある種が『棲《す》みわけ』を許容できなくなっている状態というのは、断じて正常《ノーマル》とは言い難い」 「……棲みわけ?」 「生物学の方の言葉でね——類縁の近い二つの種は、同じところに分布しないで、互いに住む場所をずらして、それがなるべく重ならないようにしている、ということだ。あらゆる種がこの原則には従っておる。ただ、われわれだけが、人間だけがこの原則を踏みにじって、平然としている……」ハーマンは辛そうだった。  Kも辛かったのではないか、と私はフッと考えた。 「歴史が始まって以来、われわれが彼らの存在を許したことは、一度としてなかったのだからね……しかし、自然が、彼らにスポットライトをあびせようというのなら、われわれにそれをじゃまする権利はないんだよ……それだけはすべきじゃない。たとえ、その結果、われわれが滅びていくことになっても……人類という種は生き残る——彼らが遠い未来この種を完成することができるかどうか、それは知りようもないだろうが……」  ハーマンは昂然《こうぜん》と頭をもたげていた。このひからびた老人が、その生涯《しようがい》も終りに近づいて、結局、自分の良心だけを唯一の拠りどころにしなければならなかった、ということがなにかこの上もなく恐しいことのように思えた。  私には、自分の良心と直面しようという勇気はなかった。できれば、死ぬまで忘れていたい——そのためになら、好きでもないワインだって利用してやるつもりだ。  ワインを一気に飲み乾《ほ》して、私は訊いた。 「しかし、彼らに生き残る可能性があるんですか……その——生き残るに充分な数がいるんですか?」 「いる」ハーマンは深くうなずいた。「充分とはいえないかもしれないが、とにかく可能性はある……現在、彼らの推定総数は二万人というところかな。全世界いたるところに、それだけの数が散らばっているんだ。人眼につかないのも当然といえば当然の話だな……」 「ラウラ号には、何人収容されているんですか?」 「二百人……冬眠期が近づくと、彼らはラウラ号の寄港地までやって来る。それをわしらが拾いあげるわけだ。幸い、彼らの冬眠期間はひどく個体差が大きいんでな……常時、この船に収容されているメンバーは入れ替るし、まあ、二百人分のベッドを用意しておけば、冬眠している彼らの総数を引き受けることができる……もっとも、こうなると、冬眠という言葉は適当でないな。なにか別の言葉を考えつかないと——」  終りの方になると、彼の言葉はほとんど独り言のようになっていた。なにか考えこむ眼つきになっている。  私は、彼の注意を会話に引き戻した。 「あなた方は、どうして彼らの保護という職務にたずさわるようになったんですか?」 「それは、色々な理由からだよ。道義心からという人間もいるし、単に冒険が好きだからという人間もいる——この船の乗り組み員の国籍を知れば、あんたも驚くだろうて。ちょっとした国連みたいなものでな。それこそ、全世界の男たちが寄り集まっている……また、世界のあちこちにいる彼らのシンパのなかには、ユダヤ人の海運業者だの、穀物取り引きの華僑《かきよう》だの、けっこう金持ちが多いんでな。どうにか、ラウラ号も世界をさまようことができるわけだ……」  ハーマンが顔をクシャクシャにした。また、なにか冗談を思いついたらしい。今度こそ笑ってやろうと、私も身がまえた。 「もっとも、金持ち連中が考えていることは、いずれは商売《ビジネス》になる雪男の保護とか、いざ氷河期がやってきたら自分も財産を抱えて彼らの仲間に入って冬眠しようとか、まあ、そんなところらしいがの」  ハーマンは、ホッ・ホッと体を揺るがして笑った。  私は笑わなかった。笑えるはずがない。  心なしか、峰とティム船長の表情《かお》も憂うつげだった。  ハーマンの笑いが収まるのを待って、 「しかし、各国政府がよくラウラ号の寄港を許していますね……俺には、彼らを歓迎しようなどという国家があるとは想像できない。いくら人眼につかないからといって、彼らの存在はどこの政府にも知られているんでしょう? 少なくとも、日本政府は総《すべ》てを知りつくしていた……」私は訊いた。  ハーマンはうなずいて、 「諜報機関というものを甘く見てはいかんよ。奴らはその気になれば、国家首脳部のベッドテクニックまで探りだすことができるんだからな……もちろん、彼らの存在を知らない国家などない。またそうでなかったら、いくらわしだって、ここまではあんたにしゃべらんよ——なにしろ、彼らの平均寿命は二百歳を越えるからね。その上、氷河期がやってくるとなったら、これはもうどの国も、彼らを手に入れたくてうずうずしてるだろうて……歓迎どころか、生体解剖さえしかねない」 「それがどうして、手を出さないんですか?」 「保険がかけてあるんでな」 「保険?」  と私がハーマンの言葉を復唱した時、キャビンの隅で電話がなった。ティム船長が席を立って、電話を取る。 「なに!」ティムの赤ら顔が、ますます赤くなった。「よし、分った——すぐ全員に命じて、捜索を開始しろ」  荒々しい動作で受話器を置くと、彼はゆっくりと私たちを振り返った。ブルーの眸《め》がギラギラと光って、顎《あご》の筋肉がふくれあがっていた。 「何かあったのか」ハーマンが尋ねた。 「部下から頭を割られて倒れている青木を発見したという報せが入った」意外に平静な声で、ティムは言った。「青木の話によると、殴ったのは神谷だということだ……調べなかった我々がうかつだったが、神谷は拳銃を持っていたそうだ。拳銃を持って、しかも今どこに隠れているのか分らない」     二  船はジグザグに航路をとりながら、北上していた。十四ノットという速度を維持しているそうだが、波長の長いゆるやかなうねりが感じられるだけで、上甲板にでも上がってみなければ、船が動いているとは分らなかった。  それどころではなかったのだ。  ブリッジで船を操作しているわずかな連中を残して、ラウラ号の乗り組み員が総出で、あるいは拳銃を持ち、あるいは銛《もり》を握り、一人の男を探し回っていた。彼の名は、神谷壮介——私の生命《いのち》を救ったことさえある男だった。  私もまた探索に加わっていた。  私に向けられる疑惑の眼差《まなざし》を撥《は》ねのけるためには、どうしても私自身の力で神谷を見つけだしたかったし、なにより、彼がなんの目的で青木を気絶させ、船のどこかに身を隠すなどという行為におよんだのかを知りたかった。  いかに巨船とはいえ、周囲は海である。しかも、神谷がこの船に足を踏み入れたのは、今日が始めてであって、内部がどうなっているのかは、まったく知らないはずだった。探索が開始された時には、神谷が発見されるのは、時間の問題であるように思えた。  ところが予期に反して、神谷の行方はようとして知れなかった。しだいに、焦燥感が、探索者たちの間に拡がっていった。  実際、誰《だれ》か第三者が、その時のラウラ号の騒ぎを目撃したなら、笑いだしていたことだろう。  国籍さえ分らない荒らくれ男たちが、食堂、調理室、配膳室、船員用ラウンジ、甲板倉庫、船倉、を口々に喚《わめ》きたてながら走り回っているのだ。凹甲板に向かう昇降階段ですれちがったアメリカ・インディアンは、上半身裸で銛をかまえていたし、食堂にいたフランス人のコックは肉切りナイフとフライパンで武装していた——だが、もちろん、私たちにしてみれば笑いだすどころではなかった。  神谷は拳銃を持っているのだ。  船倉から出てきた峰が、 「いませんでしたよ」私の顔を見て、首を振った。  私は唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「いったい、どこに消えちまったんだろう」  私たちは、肩を並べて歩きだした。 「あの人が、新聞記者というのは間違いないんですか?」峰が訊いてきた。 「間違いない——」 「どうも、正体の分らないようなところが、あの人にはあったな」 「正体が分らないといっても、きみほどではない」 「きびしいことを言う」峰は苦笑した。 「正体が分らないさ」私は繰り返した。「きみは総会屋だ。そして、どう考えても、亜人類の件は総会屋にどうこうできる話ではない。むろん、どこからも金はひきずりだせないだろうし、きみの言葉をかりれば、この件を利用して、強いやつ大きいやつのむこう脛《ずね》を蹴とばすのもまず不可能だろう……それでもきみはこの件から手をひこうとしない。なぜなんだ? まさか親父さんの仇討ちをしようというわけでもあるまい」 「親父は総会屋として情況判断を誤りました」峰がボソリと言った。「どれだけ親父が亜人類のことを知っていたか疑問ですが、氷河期に備えての経済再編成というレベルでしかこれを掴《つか》むことができず、とうとう身を滅ぼしてしまった。自業自得と言えるでしょう。少なくともぼくが仇を討つような話ではない」  息子の台詞《せりふ》としては、かなり酷い、つっぱなした言葉かもしれない。しかし、その言葉には、父親をひとりの同業者として認め、その死をそれなりに評価しようという決意が込められているようだった。——鯱《しやち》はついに鯨を追いこしたのである。 「親父さんを殺した奴らの見当はついているのか」私が訊いた。 「親父も稲垣もかなりの大物でした。その大物二人を殺して、しかもそれを落雷事故にしてしまうような力を備えている組織……といえば見当はつくじゃありませんか」  私はうなずいた。組織……むしろ権力と言うべきかもしれない。 「それでは、どうしてこの件から手を引かない?」私は最初の質問に戻った。 「分りません……」 「分らない?」 「どうしてか亜人類にひかれるものを感じるのです……彼らを殺戮《さつりく》するなどとんでもないことだとは思うが、そうかといって、彼らのために人類がみすみす劣等種に陥っていくのを、手をこまねいて見ているのが正しいとも思えない。そんな自分の矛盾も含めて、なぜか彼らにひかれるものを感じるのです」 「…………」  私は沈黙した。峰の言葉はそのまま私にも当てはまっていた。須藤の無実を晴らす……そう自分にいいきかせ、その動機をほとんど疑うこともなく、これまで私は動きまわってきたが、しかし意識の深部には常に眠れる美女の白い裸身が横たわっていたことも、また否めない事実であった。須藤に対する後ろめたさが、その感情を圧殺し続けてきたが、私もまた亜人類にひかれ、もしかしたらあの少女を愛してさえいるのかもしれないのだった。たった一晩その姿を見て、それも眠り続けるのみでついには言葉を交すことさえなかったあの少女を……  ふいに低い電気音が聞こえてきた。そして、 『船長に緊急報告です。船長に緊急報告です』  各階層通路にとりつけてあるスピーカーが、逼迫《ひつぱく》した大声でがなり始めた。 『三番船倉で異常が発見された、という報告が入りました。至急、三番船倉までおいでください。繰り返します——』 「行ってみよう」  私は峰を促して、通路を走りだした。  船倉におりていく鋼製の垂直|梯子《ばしご》は、慣れない人間にとっては、かなりあつかいにくい代物《しろもの》だった。手を滑らせたり、足を踏み外しそうになったりで、ようやく床までたどり着いた時には、冷や汗をグッショリかいていた。  船倉はひどく乱雑だった。  一ダース以上の木箱が床に放りだされていて、スパナややっとこなどの工具が散らばっている。遮蔽板《パツフル》と隔壁との間には、防水帆布がたたまれもしないで放り込んであった。  明らかに、誰かが後始末のことなど考えもしないで、ここで一仕事やらかしたのだ。  隅の方に、私たちに背を向けた数人の男が半円を描いて集まっており、床の上のなにかを見つめていた。  私と峰とが彼らに近づいていくと、靴音ががらんとした船倉に反響して、その音に男たちがゆっくりと振り返った。なにか穴居族の葬儀に参列するような気分になった。  彼らのなかには、当然のことながら、ティム船長とハーマン医師の姿が混じっていた。  峰が声をかけた。 「なにがあったんです? 神谷を発見したんですか」  ティムが長い震えがちな溜息《ためいき》をついて、 「彼がしたことを発見したんだよ——」うんざりとしたような声で応えた。  私と峰も、彼らに加わって、彼らが見つめているものを見つめた。  床の上に、長方形の合金製の箱が置かれてあった。その箱の中に、長さ二メートル、直径三十センチぐらいの筒が、囲りをきっちりパッキングされて、収められていた。筒は、アルミニウムの外被に覆われていて、その頭部には、耐熱磁器《パイロセラム》のノーズキャップがかぶせられていた。  これを、巨大な鉛筆と見る人間がいたら、お眼にかかりたい。  ミサイルなのだ。  私は思わず声をあげていた。 「どうしたんですか? これは——」ハーマンがジロリと私に眼をくれて、「どうしたかって、これが、わしの言った保険だよ……どうやら、契約更新の時期が来たようだがね」  私は聞き違えたかと思い、峰に通訳を頼み、彼が私の聞いたとおりに訳してくれたその後でも、なおハーマンの言葉が理解できなかった。  もう一度、訊くしかなかった。 「保険って——これをどう使うんですか?」 「使いはせん。使わんから、保険じゃろうが——ただ、各国に、ラウラ号に手だししたら、こいつを容赦なくぶちこむぞ、と警告してやるだけのことだ。アメリカも、ソ連も、中国もやっとることだよ……こいつを所有しているだけで、わしらの安全は保証されているわけだ。なにしろこいつは、ハウスの上に置いてある可動式のロケット・ランチャーからどこへでも発射できるし、TNT三千トンに匹敵する破壊力を持っているんだからな」 「しかし、どうやって、こんなものを手に入れたんですか?」 「マーケットから手に入れたわけがないじゃろう——」ハーマンの口調は、辛辣《しんらつ》をきわめていた。「盗んだんだよ」 「どこから?」  と私が尋ねたのにはもう応えようとしないで、ハーマンは床に膝《ひざ》をついて、しきりにミサイルをいじり始めた。  眼をつぶりたいような眺《なが》めだった。  代りに峰が教えてくれた。 「キューバからですよ」 「キューバ……? あのミサイル危機の時にか」 「ええ」峰は驚いたような表情《かお》をした。「よく分りましたね。——正確には、こいつを盗みだしたのは、キューバ危機が終った時ですがね。フルシチョフがミサイルを回収し始めた直後に、そのうちのひとつをちょろまかしたらしい……どういう方法で、ということは連中も教えてくれませんでしたけどね」 「ちょっと待ってくれ」私は峰の言葉を遮《さえぎ》った。それまで意味をなさない断片にすぎなかったものが、私の脳裡にしだいにある形をとり始めていた。 「その、キューバからミサイルを盗みだすのに、現地に駐在していた新聞記者を利用した、というようなことはなかったろうか? たとえば、情報を流してもらうとか……」 「どうですか」峰は首をひねった。「そこまで詳しいことは、ぼくにも分りませんが……なにしろ、当時は、各国がそろそろ亜人類の存在に気がつき始めて、下手をすると、彼らを皆殺しにしかねない、という情況だったらしいですからね。亜人類も、ここにいるような彼らのシンパも、それこそ必死になってたんじゃないですか——利用できるものは、総《すべ》て利用したと考える方が自然でしょうね」 「…………」  峰の問いかけてくるような視線に気がついてはいたが、私は何も話す気にはなれなかった。ひとつには自分の考えを追うのに夢中だったからであり、もうひとつにはむやみに他人に話すべきことではなかったからである。  こうは考えられないだろうか。  神谷は、とんでもないことの片棒をかつがされた、と言った。確かに、ミサイルを盗みだす以上のとんでもないことは、まずあるまい——あの眠れる美女は、そのための情報を手に入れようと、神谷に接近した。当然のことながら、ミサイルを盗みだすのに成功すると、彼女は神谷の前から姿を消した。それで、神谷は……  それで、神谷はどうしたのだろう? 「あの神谷という男を見つけだすんだ——」腰を伸ばして、ハーマンが言った。「あの男、これ以上自由にしておいたら、なにをしでかすか分ったものじゃない」 「セットは、やはりどうにもならんかね?」  とティムが訊くのに、 「どうにもならん」吐きだすようにハーマンは応えた。  二人の会話に聞き入っていた男たちの間に、動揺が走った。興奮したような声で、互いに囁《ささや》き合う。  耐えかねて、私は訊いた。 「いったい、なにがあったというんですか? 神谷が、ミサイルをぶち壊しでもしましたか?」 「やっとことスパナでかね——」  ハーマンは鼻を鳴らして、 「そんなことができるわけがない。彼がしたことは、カプセルをこじ開け、なかのミサイルを時限《タイマー》に切り替えて、四十八時間後に爆発するようにセットした——それだけだ」 「爆発!」  私と峰とは同時に叫び声をあげていた。 「とめることはできないのですか」峰の声は緊張で強張《こわば》っていた。 「できる——」あっさりとハーマンは言った。「爆発二十四時間前になれば、タイマーを切ることが可能だ。もともとが時限装置なんていうものは、四十八時間後などという長時間セットされるようにはつくられていない……」  峰はホッと息をついて、 「それじゃ、別に心配することもないじゃないですか……どうして、こんなに大騒ぎしているのか分らないな」 「そうかね? 後、二十四時間——」と言いかけて、ハーマンは腕時計を見た。「いや、正確には、後、二十三時間二十分ちょっとは、こいつは絶対に爆発することはないんだよ。殴っても、蹴とばしても、もちろんどこかへ射ちこんでも、ひたすら、タイマーの命令に従って、眠り続けるだけなんだ……タイマーを切ることが可能になるのは、明日の今頃だということを想いだしてもらいたいもんだな——つまり、今のわしたちは、まったく丸腰なんだよ。首を賭《か》けてもかまわんが、日本政府は、この時を狙って攻撃してくるだろうて——」  唖然《あぜん》として、私と峰は顔を見合わせた。  ひからびた黒人の年寄りの首をもらったところで処置に困るだけだろうが、しかし日本政府の攻撃を受けるようなことにでもなれば困るどころの騒ぎではない。——一国家がその総力をあげて襲いかかってくれば、ミサイルで脅迫することもできないラウラ号などひとたまりもないだろう。 「それで、どうするつもりなんです?」  誰にともなく、私は尋ねた。  ティム船長が応えてくれた。 「このまま北上して、間宮海峡へ抜けるしかないだろう……ロシア領へ入ってしまえば、なんとか時間を稼ぐことができる。日本政府が、ラウラ号は丸腰である、とロシアに報せるとは思えない」 「しかし、ロシア領に入る前に、日本の自衛艦にでも発見されたら……?」 「…………」ティムはそっぽを向いた。  応えを聞くまでもなかった。その時には、ラウラ号は——いや、ラウラ号で眠っている二百人の亜人類は、まず救からないだろう。  靴音が聞こえてきた。  振り返った私たちの眼に、三等航海士のメキシコ人が船倉におりてくる姿が映った。彼は垂直梯子の中ほどで足を止め、片手でぶらさがりながら、 「船長!」  狼狽《ろうばい》した大声だった。  メキシコ人に劣らぬ大声で、ティムはどなり返した。 「なにごとだ!」 「あの日本人が見つかりました」 「捕えたのか」 「まだです」 「なにをぐずぐずしているんだ」 「それが……あの野郎、一番船倉にたてこもっちまって」  その言葉と同時に、私の周囲に、怒りとののしりの声がまき起こった。まっ先にティム船長が駆けだして、他の男たちもそれに従った。あっという間に、三番船倉に残っているのは、きょとんとしている私と峰——それに、再びミサイルをいじりだしていたハーマン医師の三人だけになっていた。 「どうしたんですか?」と私はハーマンに訊いた。  振り返りもしないで、 「君の友達は神出鬼没だね。それに、喧嘩《けんか》のやり方もよく心得ている……」不機嫌な声でハーマンは応えた。 「え?」 「二百人の亜人類が眠っている場所は、神谷がたてこもった一番船倉なんだよ」     三  すでに夜に入っていた。  左手に横たわっているはずの陸地も、巨大な舳にかきまわされて泡《あわ》だっているはずの海も、ただ黒一色に塗りつぶされていた。風の強い、星も見えない、航海には相応《ふさわ》しくない夜だった。  だが今夜のラウラ号には、操舵手も含めて、天候のことを気にとめる者はひとりもいないはずだった。船内を吹きまくっている風の方が、はるかに強いのだから。  神谷がたてこもっている一番船倉は、船倉という名で呼ばれてはいるものの、実際には、電子装置《エレクトロニクス》にコントロールされた巨大な冷凍室《フリーズ・ルーム》である、ということだった。従って、他の船倉に入るように、甲板のバッテンをゆるめて……というわけにはいかなかった。巧妙に船室を似せてつくられているAデッキのエレベーターを使うことでしか、そこにおりることはできないのだった。  そのエレベーターの前——Aデッキの中央通路は、今や、船員たちでごった返していた。  誰もが怒りに我を忘れていた。  誰かが言った。 「あの野郎は、エレベーターが少しでも動いたら、遠慮なく端から亜人類を射殺する、とぬかしやがった。冬眠中の、なんの抵抗もできない彼らを、だぜ」  神谷をののしる声が、男たちの間で一際高まった。  男たちに混じりながら、私もまた、頭のなかで大声で悪態をついていた。神谷に向かってではなく、自分自身に対してであった。  Kはどうしてあそこまで話したのか、という私を悩ませ続けていた疑問が、今になってようやく解けたのだ。総《すべ》ては、神谷をラウラ号に潜入させるためにしくまれたことではなかったのか。あの無意味に思えた拷問も、私からなにかを訊きだすためにではなく、実は、私が神谷を信用するようにしむけるために行なわれたのだった。考えてみれば、なんの確証もないくせに、この船が怪しい、と神谷がラウラ号を告げた時に、彼を疑ってみるべきだった……。  神谷は、埋めたて島の連中と切れてなどはいなかったのだ。 (俺は、神谷をカムフラージュするために利用されたのか……)  屈辱感《くつじよくかん》で、私の頭は熱くなっていた。  一等航海士らしいブロンドの若い男が、ティム船長に話しかける声が聞こえてきた。 「どうするつもりなんですか? 船長」 「うむ」 「神谷の要求するとおり、横浜に船を戻しますか? それとも、亜人類に犠牲がでるのを承知で、思い切って踏みこみますか?」 「うむ」  ティム船長は唸《うな》ってばかりいた。  私の肩を誰かが叩いた。  峰だった。  彼は顔を寄せて、私に囁《ささや》きかけてきた。 「神谷を倒すいい手があるんですけどね……一人じゃできない。手伝ってくれませんか」 「倒す……? 彼を殺すというのか」 「場合によっては、ね」峰は、その若さに似合わないしぶとい笑いを浮かべた。  私は言った。 「俺が殺させない……」 「なぜです? 鹿島さんは、あの男に利用された。ただの新聞記者が、こんなまねをするはずがない。彼のバックには、組織がついている」 「分っている」 「分っていて、なぜ……」と言いかけて、峰は眼を外らした。「甘いな」 「そうだろうか」  私は自問した。幾つになっても、私は甘ちゃんなのだろうか。  溜息《ためいき》をついて、峰が言った。 「分りました。殺さないと約束します……手伝ってくれますね?」 「手伝おう」私はうなずいた。  峰はクルリと私に背を向けて、そのまま先にたって歩きだした。私も黙って彼に従った。  昇降階段を登って、上甲板に出る。  まったくの闇夜《やみよ》だった。  強い横なぐりの風と、船の走行で生じる十四ノットの風とで、ウインチにからげてあるロープがパタパタと舷側を叩いていた。  ウイングには当直が出ていない。風のせいではなく、下の騒ぎのせいだろう。 「こちらです」峰は私を促した。  その時になってようやく、峰がどこをめざしているのか、私には分った。  ボートデッキだ。  ボートデッキでは、少年と呼んでもいいような若い男が、ライトを持って私たちを待っていた。メキシコ人か、スペイン人——とにかくラテン系で、サロンボーイの白い上っぱりを着ている。 「よかった——」私たちの姿を見ると、彼は嬉《うれ》しそうに言った。「あんまり遅いから、もう来ないのかと思ったよ」 「悪かったな」とサロンボーイに詫《わ》びると、峰は私を振り返った。「ウインチに吊《つ》るされている救命艇が見えますね。あの救命艇の二メートル下ぐらいに、小さな窓がある……一番船倉の窓ですよ」 「救命艇をおろして、窓から船倉にとびこもうというのか」 「ええ」 「神谷は拳銃を持っている」 「拳銃なら、ぼくだって持っている」  峰はジャケットの前に手を入れて、ベルトからそれを抜いて、私に見せた。 「殺さない約束だ」 「約束は守ります——足か、腕を狙う」 「俺はなにをすればいい?」 「サロンボーイ一人じゃ、救命艇をおろすことができない……彼を手伝って、ワイヤーを伸ばしてほしい」 「それだけか」 「それだけです」  私は峰の顔から、彼が持っている拳銃に視線を移し、その眼を再び峰に戻した。  海をかきまぜるプロペラの音と、ブツブツという泡だちの音とが、下の方から聞こえていた。  私はポケットに指を入れた。私が欲しいものはポケットにはなかった。  苛《いら》だった声で、峰が訊いた。 「どうしたんです?」 「どうもしない——」  と私は応えて、 「マッチを持っていないか?」訊いた。 「マッチ?」一瞬、峰の表情《かお》が険しくなったが、思い直したように首を振ると、ポケットからマッチを取りだして、私に手渡した。  白い小さなマッチで、『水晶球』と店の名が緑の花文字で印刷されてあった。私も、今度の占いばかりは安手のマッチではなく、本物の水晶球がほしいところだった。  頭のなかでつぶやいた。 (神谷の手から、亜人類を救けだすか……)  中のマッチ軸を、掌《てのひら》にぶちあけた。  七本しかなかった。  私はしばらくマッチ軸を見つめていた。  理由もない喪失感が、私を徐々に蝕《むしば》んでいった。私の内側で、なにかがひっそりと崩れ落ちたようだった——私は、掌からマッチ軸の一本をつまみ上げ、そいつを指で折った。  マッチ軸は六本になった。  峰がじれたように言った。 「なにをしているんですか? 時間がないんだ。早くとりかかりましょう」  顔を上げて、私は言った。 「下には、俺がおりる——君は、ワイヤーを伸ばす方をやってくれ」  峰はあっけにとられたようだった。しばらく黙って私を見ていたが、 「なぜです?」低い声で訊いてきた。 「なぜということもない……ただ、これは俺の仕事のように思える」 「鹿島さんは、こういった仕事には慣れていない。ぼくがやった方が、はるかに成功率が高い」 「そうかもしれないが、だからといって、俺の仕事であることに変わりはない」 「この手は二度は使えない。失敗したら、もうチャンスはないんですよ」 「失敗はしない」 「やはり、俺がやった方がいい」 「俺の仕事だよ」 「…………」  峰は唇を噛んだ。なにを言っても、私の意志を翻えすことはできない、と覚ったようだった。 「俺と神谷は知り合いだ。彼を説得することができるのは、この船には俺しかいない」私は慰めるような口調になっていた。  峰は、自分が手にしている拳銃を見つめながら、 「ぼくが、神谷を殺さない、という約束を破ると思っているんですか?」 「そんなことじゃない」私は首を振った。実際、そんなことではなかったのだ。 「分りました……」峰は溜息をつくと、私の手に拳銃を握らせようとした。「それじゃ、こいつを持っていってください」 「こんなものを預っても、どうせ俺は使い方を知らない」私は峰の手を押し戻した。 「引き金を引くのは誰にでもできる」 「いらないよ」 「使う必要はない。持っているだけで、相手が言うことを聞く」 「使うつもりもないし、脅かすつもりもない……そんなものには手を触れたくないんだ。できれば、死ぬまでさわらずにすませたい」 「あんたって人は——」峰はあきれたように言った。「どうしたら、そんな頑固者《がんこもの》になれるんですか?」  ニヤリと笑って、私は応えた。 「年をとればいいのさ……」  私たちのやりとりを分らないままに聞いていたサロンボーイが、シュッシュッと舌を鳴らした。  急げ、ということらしかった。  私は手すりに歩いていって、バーに片足をかけた。真下には、宙に揺れている救命艇があった。海はまっ暗だったが、時おり、波が白く光って見えた。  あい変わらず、風が強い——。  私は峰を振り返って、 「じゃあな」  手すりをのり越えた。後ろ手にバーを握って、しばらく救命艇との距離を目測した。それほど、難しいこととは思えなかった。  飛んだ。  救命艇には防水帆布がかぶせられていた。それは分っていたが、その下にたたまれた網が入っているまでは知らなかった。幾重にも重なった網が、これほど弾力性に富んでいるとは思わなかった。  私の体はバウンドして、危うく救命艇から飛びだしそうになった。とっさにロープを掴《つか》むことができたからよかったものの、それでも下半身は救命艇の外へ飛びだしていた。  風は強くて冷たいが、海の水はもっと冷たいだろう。  私は拳《こぶし》で顔をぬぐった。汗もまた冷たくなっていた。  私が飛びおりたショックで、救命艇は大きく揺れていた。舷側《げんそく》に当って、ゴツン、ゴツン、という鈍い音をたてる。そんなことがあるはずもないのだが、神谷がその音に不審を抱きはしないか、と私は心配した。  救命艇がゆっくりと下がり始めた。  ゆっくりすぎるように思えたのだが、十秒後には、私は丸窓を覗《のぞ》き込んでいた。  丸窓はかなり大きく、体を突っこむのには問題はないようだった。問題は、暖かそうな光が洩《も》れているというのに、内部《なか》がまったく見えないことだった。一面に霜がこびりついているのだ。  だが内部《なか》が見えないからといって、躊躇《ちゆうちよ》している暇はなかった。  試しに窓を押してみた。  もちろん、開くはずがない。  救命艇と舷側との間隙《かんげき》は、十センチと開いていない。これでは、頭から丸窓に突っこんでみても、はじき返されるのが落ちだろう。  ガラスを破って内部《なか》に飛び込むには、充分にはずみをつける必要があった。  私はまず上着を脱いで、頭からかぶった。そして、両腕をいっぱいに拡げて、それぞれの手にロープを掴んだ。けんすいの要領で、両足を浮かして、舷側につけた。膝《ひざ》を徐々に伸ばしていく——救命艇が舷側から離れ始めた。ももがビリビリと震え、足の腱《けん》に灼《や》けるような痛みが走った。私は脂汗《あぶらあせ》を流し、歯を喰いしばった。  足が伸びきった。  今や、私の身体は、一個の発条《バネ》のようになっていた。力をいっぱいにはらみ、救命艇に加重されてきりきりとたわんでいるのだ。  手を離せば、それだけで私の身体は前方にすっとんでいくだろう——が、それでも丸窓が割れなかったらどうなる。いや、なにより、身体が丸窓にうまくぶつかってくれるかどうかが、まずおぼつかなかった。  他に自殺の方法はいくらでもあるだろうが、猛スピードで舷側に頭を叩きつけるぐらい、確実で、こっけいな死に方もないように思われた。  私は息をつめて、だいだい色に光を放つ丸窓を凝視した。あそこに突っこむ、ガラスは割れる、と頭のなかで念じた。  手を離した。  一瞬、風切り音が私の耳をかすめ、身体はとんぼを切っていた。大小のガラス片が私にふりかかってきた。  ガラスが割れた、と思った時には、もう私の身体はしたたかに床にたたきつけられていた。息がつまりそうな苦痛に、うーんと唸《うな》ったきり、私は気を失いそうになった。  だが、長々と眠りこむような贅沢《ぜいたく》は、今の私には許されていなかった。  私は必死に首を振って、どこやらへ消えていこうとする意識を、ようやく引き戻すことができた。奇妙な話だが、最初に気がついたのは、頭からかぶっていた上着が消え失せていることだった。月賦が終ってから、まだ三か月とたっていないのに——。  私はやっとの思いで立ちあがって、周囲を見回した。  広い、広い部屋だった。  私のすぐ背後には、電子装置《エレクトロニクス》が据えられていて、パネルの上でライトが点滅していた。部屋の両側には、透明なプラスチック板で上部を覆われたベッドともカプセルともつかない銀色のボックスが、ズラリと並べられていて、通路のスペースが中央にわずかに残されている。眼を上げると、ちがい棚《だな》のようにパネルが壁からつきでていて、そこにもボックスが置かれてある。いずれのボックスからも、赤い被膜で覆われたコードがたれ下がっていて、壁に吸い込まれていた。  サナトリウムを連想させるような、清潔で、真っ白な部屋だった。サナトリウムと違うのは、この部屋には一条ほどの陽光もなく、ひどく寒いということだった。  部屋にはひとりの男が立っていた。  神谷だった。  彼と私との距離は二十メートルぐらい——当然、私がとびこんできたのに気がついているはずだが、なぜかこちらに顔を向けてさえいなかった。ボックスの一つを前にして、虚脱したように立ちすくんでいるのだ。その眼は、ボックスの上をぼんやりとさまよっていた。  私は声をかけた。 「神谷——」  彼は、私の声に身じろぎさえしなかった。聞こえているかどうかも怪しいものだった。  やむなく、私は彼に近づいていった。  彼の脇で足を止め、 「どうしたんだ?」その肩に手を触れた。  彼はゆっくりと私に顔を向けた。老犬のように寂しい眸《め》をしていた。  ボソリとした声で、彼は言った。 「やっと会えたよ」 「うん?」 「彼女だ……」  と神谷が顎《あご》をしゃくるままに、私はボックスに眼を向けた。  そのボックスに、眠れる美女が横たわっていた。  シルクの薄ものをまとっているだけの、裸身だった。  プラスチック板ごしに、その雪花石膏でつくられているような滑らかな身体が、仄白《ほのじろ》く浮かびあがって見えた。その完璧《かんぺき》な乳房が、囁くような息吹きに、静かに上下していた。重ねられた両手が、翳りのあたりに置かれている——その姿は、正しく神話時代の仙女《ニンフ》そのままであった。  須藤の失踪《しつそう》と時を同じくして、聡子《さとこ》の部屋から姿を消した彼女が、どういう経過をたどって、ラウラ号にその身を横たえるようになったのか、という類《たぐい》の疑問は、ふしぎなほど頭に浮かんではこなかった。  私は、ただひたすら、少女の姿に見いっていた。  セックスを感じさせる裸身ではなかった。  だが、美しかった。このうえもなく、美しかった——。 「この娘《こ》と寝たいと思ったことはなかった」と神谷がつぶやくように言った。「すれっからしの新聞記者で、女と同棲《どうせい》しては別れる、というような生活を送っていた俺が……この娘にだけは本気になった。日本に連れて帰って、結婚したいと考えていた」 「分るよ」私は応えた。  神谷がかすれたような笑い声で、 「十年以上も前の昔話さね……」感傷を断ち切るように言った。  断ち切れるはずがなかった。その感傷だけが、この男の生を支えてきたのだ。  感傷を断ち切るには、それ相応の方法がある。たとえば、拳銃を使うというような……。 「どうするつもりなんだ?」  と私は、ベルトから拳銃を抜いた神谷に訊いた。彼は私を見向くことさえしないで、 「殺すのさ」短く応えた。 「殺してどうする?」 「どうもしない——ただ、殺すだけだ」 「彼女は、人類という種の正統な伝承者に属しているかもしれないんだよ。その可能性をつみとるような真似は、誰にも許されない」 「それじゃ、俺の人生をめちゃめちゃにする権利が、彼女にあったとでもいうのか」 「彼らは必死になっていた。皆殺しにされるかどうかのせとぎわだったんだ——悪いのは彼らじゃない」 「そうかもしれない……だが、この娘が俺を利用した、という事実に変わりはない」 「殺せば、死ぬまで後悔する。二度と、安らかに眠れない——」 「どうせ、俺は、この十年以上を安らかには眠っていない……放っといてもらおうか」  神谷は、銃口をボックスに向けた。親指が安全装置を外す。  私は、彼の手首を押さえた。 「やめないか」  神谷は首をねじ曲げて、私の眼を真正面から見つめた。その表情《かお》に、奇妙に陶酔したような色が浮かんでいた。 「手を離してもらえないか。鹿島さん——」熱にうかされているような声だった。 「離すわけにはいかん」私は応えた。  私たちは、しばらくお互いの顔を見つめ合っていた。  ふいに、神谷が腕に力を入れ、私の手をもぎ離そうとした。そうはさせまい、と私は彼の手首をねじりあげようとした。  もみあうことになった。  子供がおもちゃを奪い合うような、たわいもない力競いだった。が、私たちは子供ではなかったし、奪い合っているものもおもちゃではなかった。どちらかが泣きだして、それで喧嘩を止めるわけにはいかなかったのである。  ひとりが死ぬことになったのだ。  くぐもったいやな銃声が聞こえて、私は手首に痺《しび》れるような痛みを感じた。  私はつぶやいた。 「神谷、お前——」  神谷はなにも応えなかった。その身体から力が抜けていき、彼はグッタリと私にもたれかかった。拳銃が床に落ちて、乾いた音をたてた。  彼の穏かな、むしろ晴々とさえした眸《め》を見た時、私は総《すべ》てを了解した。 「ひどい男だ——」私は神谷をなじった。「俺に、自殺を手伝わせたな」  神谷は唇を動かして、それに応えようとした。声にはならなかったが、すまないという言葉が、私には確かに聞こえた。  彼の身体が私の腕からずり落ちて、床に崩折れていった。どす黒いしみが、床にゆっくりと拡がっていく。  私が今見下ろしているのは、もうすでに一個の死体でしかなかった。  何も考えることはなかった。  神谷は最後まで私を利用した——ただそれだけのことだった。  彼はなぜ死を選んだのか、という疑問がフッと脳裡《のうり》に浮かんだが、私はその疑問をむりやりに頭から追いやった。分りきったことでもあるようだったし、永遠に分らないことであるという気もした。  いずれにしろ、考えてどうなることでもなかった。  私は眠れる美女に眼をやった。  彼女は眠っている。  ふいに、彼女の唇に触れたいという衝動が、私をつき動かした。腕を伸ばしかけたが、プラスチック板に遮《さえぎ》られた。  私は自分の愚かさを嘲《あざけ》った。  苦い、苦い笑いだった。  私は長い通路を歩いていき、エレベーターに乗った。     四  ラウラ号に、稚内《わつかない》ノサップ岬の米軍レーダー・ソナー基地からの無電が入ったのは、一番船倉の騒ぎがようやく収まりかけてきた頃だった。無電の内容は、ただちに小樽《おたる》港に入港すべく進路を変えよ、というものであった。  ティム船長は無電を黙殺した。  入電があった時には、すでにラウラ号は津軽海峡を抜けていて、「そうでなかったら、絶対に逃げられないところだが——」  ティムは額をぬぐうジェスチュアーをして、ピューッと口笛を鳴らした。実際、海峡を機雷封鎖されていたら、ラウラ号は日本領海で立ち往生せざるをえなかったろう。  だが、楽観するのは早かった。  無電室からの報告が入って間もなく、今度はレーダー室から、レーダースクリーンにいくつかの光点《ブリツプ》が見える、という報告が入ってきた。疑いようもなく、ラウラ号を捕獲すべく、海上自衛隊が出動したのだった。  報せを受けたティムは、進路をある方角に向けるよう、ただちに全乗り組み員にアナウンスした。 「どうして、ティム船長はあんなコースをとることにしたのだろう?」峰は、口をとがらして、ハーマン医師に言った。「大きく、迂回《うかい》して、ロシアに入ることになる——とてつもない時間のロスだ」  ハーマンは応えた。 「最短距離をとったところで、どうせ日本海軍から逃げられはせんよ。向こうはプロじゃからの——わたしたちに脱出の可能性があるとしたら、ティムがとったコースに向かうこと……それが唯一の可能性だよ」 「なぜだろう」 「今に分る」  ハーマンは言葉をにごして、私たちから離れていった。  峰は私に眼を向けて、分るか、というような表情《かお》をした。私にできるのは、肩をすくめて見せることだけであった。  日本海に、夜明けがおとずれようとしている。  鉛を流したような、暗うつな灰色の海に、ポツンとだいだい色の弱い光が点《と》もり、その光がゆっくりと水平線に拡がっていく。だが、その光はいつまでたっても弱く、眺《なが》めにいっかな明るさを与えようとはしないのだった。  職務についていない乗り組み員は、全員、上甲板に登って、水平線の一点を凝視《ぎようし》していた。いずれは、その一点から自衛艦の船影が現われ、しだいに大きくなってくるはずだった。  私と峰も、艫《とも》の、左舷側に並んで立ち、その一点を見つめていた。  風は強く吹き続け、時に、氷が混じっているのではないか、と思えるほど、寒かった。  峰が言った。 「とうとう、日本の港でおろされずじまいでしたね——ま、事情が変わったんだから、しかたがないけど……」  私はなにもしゃべりたくないような気分だった。事実、神谷が死んでから、私はほとんど口を開いていなかった。なにか虚無感に似た思いが私の胸に重くわだかまり、周囲でなにが起ころうと、本気で関心を抱けなくなっていた。  だが、峰が、そんな私の気持ちをひきたたせようとして話しかけてくるのだ、ということだけはよく理解できた。  やっとの思いで、私は口を開いた。 「ロシアに入ったら、なんとかっていう小さな港で、おろしてくれるそうだ——そこから、ナホトカ港はそんなに遠くないということだよ。ブラックマーケットのパスポートを二つ用意してくれるそうだから、ロシアの漁船に潜りこむなり、ナホトカ航路の横浜行きの船に潜りこむなり——まあ、どうにでもなるだろう……」 「うまく、ロシアヘ逃げこむことができたら、の話ですね——」 「自衛艦にでも捕まったら、なおさら問題はない……うむを言わさず、日本へ引っぱっていかれる——」 「いやなことを言う」  と峰が苦笑した時、 「|見えたぞ《ゼアー》!」ウイングから叫びがあがった。  上甲板に立っている男たちの間に、サッと緊張が走った。ブリッジに向かって駆けだす者もいたし、マストに登っていく者もいた。  だが、私と峰には、なに一つできることはなかった。ただ、その方角に眼を凝《こ》らして、自分自身の眼で敵の姿を見定めよう、とするばかりであった。  頭を半分ほど水平線からのぞかせている太陽は、あい変わらず、暖かさも明かるさも不充分にしか与えてはいなかった。強い風が、灰色のちぎれ雲を吹きとばし、灰色の海をうねらせていた。  そこには、どんな変化も起こりようがないように思えた。  だが、あった。  水平線に小さな黒点が——それも一つではなく、三つ見えたかと思うと、それがグングンとアップしてくるのだ。  峰が眼を細めた。 「三隻か——喧嘩《けんか》になったら、とても勝ちめはなさそうだ……それにしても、あちらさん、ずいぶん早いじゃないですか。ティム船長、本当に逃げきる自信があるのかな」 「どうかな?」と私は首を振った。  現実に、それらの黒点は、視界のうちに急速に大きさを増しているのだ。ティムにどんなつもりがあるのかは知らないが、とても逃げきることが可能とは思えなかった。 「どうかな……」私は繰り返した。  黒点でしかなかったそれらは、しだいに陰影を見せ始め、やがて、はっきりと船の形をとりだしていた。  峰がかすれた声で言った。 「一隻は、海上自衛隊の『あまつかぜ』だが——他の二隻は、アメリカ第七艦隊の駆逐艦ですよ。気をつけないと、あいつらは追尾魚雷を備えている……」  アメリカ第七艦隊——オホーツク海、日本海全域を常時パトロールしているという、極東最大の海上軍団が、むこうなん時間は何があっても絶対に爆発しないミサイルを一つ抱えているだけのラウラ号に、襲いかかろうとしているのだ。  それらの軍艦に、私ははっきりとKの意志と力とを見た。私を利用して、神谷を利用して、計画どおりにラウラ号が無力になったと判断するやいなや、今度は第七艦隊まで出動させる……恐ろしく精密で、徹底した作戦ではあった。  私は、Kを自分の敵だと考えたことは、一度もなかったように思う。いや、自分に課せられた運命から一歩として退こうとしないその態度に、ある種の共感さえ覚え、むしろ称賛の念さえ寄せていたのだった。  だが、Kの男らしさが神谷を死に追いやり、今またラウラ号を破滅させようとしているのだとしたら——彼ははっきりと私の敵なのだ。  今や、くっきりとその細部に至るまで、威圧的な艦鼻を見せている「あまつかぜ」が、高く汽笛を鳴らした。停船を命じたのだろうが、もちろん、ラウラ号がその速度をおとすことはなかった。  カチリ、という拳銃の安全装置を外す音が聞こえた。  峰が、拳銃を三隻の軍艦に向けて、その手をまっすぐに伸ばした。左手で、肱《ひじ》を固定する——。  峰のこんな昏《くら》い表情を、かつて一度だけ見たことがある。埋めたて島に向かう途中、横須賀で魚雷艇を見ていた時の彼が、やはりこんな表情をしていた。  なにを狙《ねら》っているのか、片眼をつぶり、腕を伸ばしたまま、峰は身じろき一つしようとしない。ピクリと眉《まゆ》が上がった。  銃声——。  しかし、その銃声は、蒼茫《そうぼう》と拡がる海にむなしく吸い込まれていき、反響《こだま》一つ返してこようとしないのだ。  頭のなかで、誰《だれ》を狙い、なにを倒しているのか、峰はたて続けに引き金をしぼった。  私は彼の腕に手をかけた。 「もうよせ——」  自分が撃った弾丸のあまりの無力さに呆然《ぼうぜん》としたような表情で、峰は拳銃を持った腕をダランとたらした。眼が血走り、頬《ほお》がピクピクとひきつっていた。  三隻の軍艦は隊型を変え始めていた。 「あまつかぜ」だけを残し、二隻の駆逐艦は船首の向きを変え、前進微速《スロー・アヘツド》で左右に別れていく——ラウラ号を追いつめるのに、三角包囲の型をとろうというのだ。|潜水艦狩り《ハンター・キラー》を得意とする第七艦隊の、これは最もポピュラーな戦術だった。  方向を定めた後の駆逐艦は、実に速かった。まるで野に放たれた二匹の猟犬のように、全速力で海を走り、たちまちのうちに「あまつかぜ」を頂点とする巨大な二等辺三角形をつくった。その三角形が、ラウラ号をスッポリと包みこめば、その時が詰め《チエツク》なのだ。  互いに汽笛を鳴らし合う。 「得意になっていやがる」  と吐きだすように峰が言った。すでに、拳銃はジャケットに収めて、手には持っていない。 「得意にもなるさ——」私は応えた。「こちらはろくに抵抗もできないんだからな。向こうにしてみれば、ちょっとスリリングな演習というところだろう——」  だが、私は間違っていた。  ろくに抵抗もできないのではなく、その時のラウラ号には、まだ抵抗する必要がなかったのだ。  突然、激しい衝撃が船体を揺るがして、ラウラ号の上甲板が傾斜した。反射的に手すりを掴《つか》んだ私たちは、続いて襲ってきたうねるような浮揚感に、危うく転倒しそうになった。——ばりばりというすさまじい裂音が耳をつんざいて、みぞれが私たちの体にふりかかってきた。  ようやく体勢をたて直した私たちの眼に、そそりたつような氷壁が映った。その輝く氷壁に、まっ黒く亀裂が走っていて、そこからみぞれがシャワーのようにふりそそいでくるのだ。  ラウラ号は前進を止めようとしない。  鋼板|舷側《げんそく》を、ピシッ・ピシッというような炸音が包み、上甲板の傾斜がしだいに急になっていく。手すりを掴んでいてさえも、立っているのが困難になりかけた時、 「見ろ!」  興奮した声で、峰が叫んだ。  氷壁が、スローモーションフィルムの一こまのように、奇妙にゆっくりと、音もたてずに崩れ落ちていく。きらきらと光を放ち、大小の氷塊を宙に放り投げながら、氷壁は海中に没していった——一個の楔《くさび》となって、ラウラ号は氷壁をまっぷたつに裂いたのだ。  みぞれにずぶ濡れになりながら、 「流氷だ——」私は口のなかでつぶやいた。  利尻島の、北緯X度・東経X度の海上に、浮氷がひしめき、氷塊が山をなす流氷原が、まるで幻のように、突如として出現したのだった。その流氷原が、強風にゆらゆらと漂い、波のうねりに地震のようにもり上がる光景は、圧巻というほかなかった。  峰が昂《たかぶ》った声で言った。 「氷河期ですよ——氷河期の影響がこんなところにまでやってきているんだ」 「ティムが、このコースをとったのは、流氷を利用して逃げるためだったのか——」手すりを掴んでいる私の指関節が、白くこわばっていた。「しかし、こんなむちゃをして、ラウラ号は大丈夫なんだろうか」 「びくともしませんよ。ちょっとめには分りませんけどね、ラウラ号には、特殊鋼製の衝角のお化けみたいなものが、とりつけられているんです。ティム船長に、あれはなんに使うのか、と聞いたことがあるんですけどね。笑うだけで、教えてはくれなかった——まさか、砕氷に使うんだとは、思いませんでしたよ……見なさいよ。これで、ラウラ号は逃げきれる」  峰の言うとおりだった。  三隻の軍艦は、そのいずれも、ゆらゆらと移動する城砦《じようさい》のような氷山に前方を遮《さえぎ》られて、著しく減速していた。突っこめば艦の破損はまぬがれないし、迂回すれば結局は獲物をとり逃がしてしまう、というところだったろう。 「だが、ここらを常時パトロールしているはずの第七艦隊が、この流氷原の存在を知らなかったのはなぜだろう?」 「流氷の存在は知ってたでしょうよ——オホーツクまでいけば、流氷なんて珍しくもないですしね。多分、氷塊がここらまでやってきているという情報は入っていても、それがこんなに大規模なものだとは思いもしなかったろうし……まして、流氷の正確な位置なんか、その気にならなければ、とても確めてなんかいられないでしょう——」 「なるほど——」私はうなずいた。「あれで、ティム船長はなかなかの策士だというわけか」  今度は、ラウラ号が汽笛を鳴らす番だった。  ほとんど凍結し合って、まるでスケートリンクのように見える浮氷群にのしかかり、水路をむりやりに切り開きながら、ラウラ号はとにもかくにも前進を続けていた。白一色の流氷原に稲妻型の裂けめが走り、黒々とした海面が露出する——船腹を氷が噛《か》むがりがりという音を気にさえしなければ、まずは順調な船足と言えるだろう。  ほとんど停止してしまっている追跡艦のことを考えれば、スピードが遅いだの、乗り心地が悪いのだのと、贅沢は言えない——。  気がつくと、上甲板にいるのは、私と峰の二人だけになっていた。  当然だろう。  みぞれにずぶ濡れになって、しかも、倒れかかってくる尖塔《せんとう》のような氷の下じきになる危険まで犯して、誰が上甲板なんかに残っていたいものか。  私は峰を促した。 「下におりよう——もう大丈夫だ。ラウラ号は逃げきるよ」 「まだ、そう断言するのは早いようですよ」  と静かに応えると、峰は腕を伸ばして、空の一角を指差した。私もまたその方角に眼をやって、 「うっ」  思わず声をあげた。  灰色と白色の銅板画《エツチング》のような空を、今、一台のヘリコプターが音もなく上昇していく。尾翼がわずかに上がっているのが、なにか獲物を狙う猛禽《もうきん》を連想させて、ひどく不気味な感じだった。  私は訊いた。 「あれを、知ってるか?」  峰は眼を空に向けたまま、 「駆逐艦に搭載《とうさい》されていたんでしょう……手強いですよ。あいつは——」咽喉《のど》に痰《たん》がからんだような声で応えた。 「なんなのだ?」 「無人戦闘ヘリコプター」     五  私たちと時を同じくして、ブリッジの搭乗員もヘリコプターを発見したらしく、かん高い警報ベルがラウラ号のあちこちで鳴り始めた。  しかし、警報ベルが鳴ったところで、なにをどうできるというものでもなかった。ラウラ号の速度を上げるのは不可能であるし、ヘリコプターを迎え撃とうにも砲門一つない——。  ラウラ号にできるのは、ただ待つことだけであった。しかし、なにを……?  私は頭に浮かんだ疑問を、そのまま口にだした。 「彼等は、ヘリコプター一台でこのラウラ号になにができると思っているのだろう?」 「どうですか? まさか、爆撃はしないでしょうがね——」  ラウラ号を撃沈させてしまっては意味がない。いずれは殺すつもりだとしても、今のところ、Kたちが望んでいるのは無傷の亜人類のはずだ。  無人戦闘ヘリコプターは、非常な低空で、流氷原の上を飛んでくる。あい変わらず、プロペラ音は聞こえてこない。なに一つ動くもののない氷床の上を、これも無人のヘリコプターが飛んでいる光景には、それなりに魅せられるものがあった。 「とにかく下におりよう——」と私は峰に声をかけた。  爆撃はしないまでも、機銃掃射ぐらいはしかけてくるかもしれない。そうなったら、私たちは格好の的にされることだろう。 「ちょっと待ってください——」  行きかけた私を、峰が冷静な声で呼び止めた。大体が冷静な男だったが、さっき追跡艦に発砲してからは、その反動でか、冷静さに更に拍車がかかったようだった。もちろん、彼が冷静な男であるのはいっこうにかまわないのだが、敵のヘリコプターが今にもやって来るという時に、ちょっと待ってくれ、と他人《ひと》を呼び止めるのはいささかいき過ぎであるように思えた。 「冗談じゃないぜ——」私はあきれた。「あいつがやって来るまで、ここで待っているつもりか——上甲板にいるのは俺たちだけなんだよ」 「そうじゃないんです」 「なにが、そうじゃないんだ?」 「ヘリコプターが狙《ねら》っているのは、どうやらラウラ号じゃなくて、浮氷の方らしい」 「浮氷を……?」  峰の言葉に、私はヘリコプターに眼を戻した。なるほど、そう言われれば、ヘリコプターはラウラ号に接近して来ようとはせず、低空のまま流氷原の上をゆっくりと旋回している——。  私と峰は、再び手すりに並んでヘリコプターを見つめるという格好になった。爆撃も、銃撃も、さしあたっては心配なさそうだと分ると、後には好奇心だけが残った。  ヘリコプターが遠くでうろうろしている間にも、ラウラ号は着実に前進していた。氷が割れる音、船体がきしむ音、綱具に鳴る風のうなりとの三つが不協和音となって、高く、低く、響いてくる——決して愉快な響きではないが、これらが聞こえているうちは、とにかく、追跡艦と水をあけてる、というわけだ。  私は首をひねった。 「どういうつもりなんだろう?」  ——と、その疑問に応えるかのように、ヘリコプターがぐーんと急上昇した。  私たちが思わず声を上げたその時、ヘリコプターの底部から、なにか煙尾をひくものが発射された。  爆破音——。  砕氷が宙に舞って、水しぶきが高くあがった。黒煙がぱっとあがる。  汽笛を鳴らすと、一隻の駆逐艦が、爆撃された地点に突っこんできた。ついさっきまで頑《がん》として駆逐艦を受けつけようとしなかった氷壁が、その船首に裂かれて、海に崩《くず》れ落ちていく。  ヘリコプターが駆逐艦を追い抜いた。  再び、氷床に向かって煙尾が走った。  砕かれた浮氷が、白い霧のようになって海面を覆った。  駆逐艦が氷床に突っこむ。  後は、その繰り返しだった。  徐々にではあるが、駆逐艦とこちらとの距離がつまってきたようだ。私は手すりに半身を乗りだして、ブリッジ越しに、舳先《へさき》の方角に眼をやった。低く、重くたれこめている灰色の雲が、ある一線を画して、更に暗いものになっている。その一線から、群氷の反射光がとだえているのだった。それも、それほど遠くではない——流氷原が駆逐艦を悩ますのもそこまでだった。  私は頭のなかで計算してみた。  駆逐艦が流氷原を突破するのは時間の問題だった。確かに、流氷原のおかげでラウラ号は駆逐艦との距離をかなり稼《かせ》ぐことができた。ラウラ号に逃げきれる可能性があるとしたら、その距離をつめられてしまう以前に、ロシア領に入ってしまうことだけだったろう。  その望みはあまりないように思えた。流氷原さえ突っ切ってしまえば、駆逐艦がその程度の距離をつめるのは、ものの三十分もあれば充分だろう。仮に一時間と考えても、とてもそれだけの時間では、ロシア領に入ることはできない——。  私はがくがくと震えていた。  寒さも寒さだったが、それ以上に、憤怒とも恐怖ともつかない感情が、私の体を震わせていたのだと思う。  ヘリコプターの浮氷爆砕作業は、着々と進行していた。そして、その作業が進行しているということは、あきれるほどノロノロとではあっても、ラウラ号と駆逐艦との追跡劇はやはり続いていることを意味していた。  その劇の結末がどうなるかは、すでに分っていた。  気がつくと、脇《わき》に立っていたはずの峰が、いつの間にか姿を消していた。  驚いて上甲板を見廻したが、削られた氷が氷雨のようにしぶいているだけで、彼の姿はどこにも見えなかった。私に声をかけずに下へおりてしまう、ということもないではないだろうが、峰という男にはそんな行為が似つかわしくないように思えた。  ヘリコプターの浮氷爆砕ぐらいで動転するようなたまではない。  はっきりしていることが一つだけあった。どうやら、私も下へおりた方がよさそうだ、ということである。  私はハウスの方に歩きかけて——足を止めた。  確《しか》とは分らないのだが、ラウラ号になにか異常が起きたように感じられた。聞き慣れない音がしたわけでもないし、マストが折れたわけでもない。そのくせ、どこか異常であるという感覚が、私の神経を責めさいなむのだ。  私は全身を緊張させて、その感覚がどこからくるものかを探《さぐ》ろうとした。  分った。  スクリュー音が止まっている。  ラウラ号は停船しているのだった。  私は呆然《ぼうぜん》とした。ラウラ号にいったい何が起こったというのだろう? 凍結した浮氷についに行手を遮《さえぎ》られたとでもいうのか。それとも、とうてい逃げられないと観念して、自殺行為に等しい停船に踏みきったのか——?  私はブリッジに向かって走りだした。  ラウラ号は、そのぎりぎりの瞬間まで、逃げ続けねばならない。私や、乗り組み員のためにではなく、人類の可能性を保つために、停《と》まってはならないのだ——。  ブリッジの昇降階段から、ふいに峰が姿を現わして、私の方へ早足で歩いてきた。ノルウェー人の髭面《ひげづら》の船員が、彼の後からついてくる。 「なにがあったんだ!」私は大声で叫んでいた。  それに応えて、来てくれ、というように峰は腕を振った。  私は走った。  息を切らしている私に、 「闘うんですよ——」峰が言った。 「闘う……? 駆逐艦とか」 「まさか。それこそ自殺行為だ——そうじゃなくて、あの無人戦闘ヘリコプターを撃ち落とすんですよ。あいつさえなくなれば、駆逐艦は浮氷で動きがとれなくなる」 「それはそうだろうが……どうやって、ヘリコプターを撃ち落とすというんだ? こちらには臼砲《きゆうほう》一つないんだろう?」 「ありません」 「じゃ、どうやって……?」  私は、とうとう峰が自暴自棄になったか、と考えた。拳銃でヘリコプターを撃ち落とせると考えているなら、それこそ気違いざたもいいところだった。  峰は艫《とも》に向かって顎《あご》をしゃくった。  そちらに眼を向けて、唖然《あぜん》として、私は峰に顔を戻した。 「本気で言ってるのか?」 「他に方法はない」 「不可能だ——」 「だから、ブリッジの船長に頼みこんで、ラウラ号を停船させた——無人戦闘ヘリコプターは、広角度のカメラアイを備えつけているはずだ。ラウラ号が停まれば、必ず、偵察《ていさつ》にやってくる。百メートルまで接近してくれれば、可能性はありますよ」  可能性がある?  捕鯨砲でヘリコプターを撃ち落とそうという作戦に、どんな可能性があるというのか。  だが、私たちが会話をしている間にも、ノルウェー人の船員は、黙々と捕鯨砲をセットしていた。鋳鋼鍛造の銛《もり》を片手で砲座に支えて、内部の空洞《くうどう》に火薬をつめる。中心部のリングワイヤーを滑らせて、捕鯨綱を通す。ゆっくりとやっているように見えるが、仕事の手順によどみがなく、総《すべ》てセットし終わるのに五分とかからなかった。 「|いいよ《レデイー》——」ノルウェー人の船員は、髭面をほころばせて言った。「本当は中間綱を結ばなければいかんのだが……ヘリコプターが食べられるわけじゃないしな——要は、銛がまっすぐ飛んでいけばいいんだろう?」 「ああ——」  とうなずいて、峰は捕鯨砲のつまみを握って、両足を開いた。  本気でやるつもりらしかった。  考えてみれば、このまま手をこまねいて駆逐艦に追いつめられるのを待つより、それがどんな荒唐無稽《こうとうむけい》な手段に見えようと、少しでも救かる可能性があるものなら、試してみるべきであった。  急に、周《まわ》りが静まりかえったように思えた。  時おり、氷の炸音が聞こえてくるだけで、今は風さえも凪《な》いでいた。  私は駆逐艦に眼をやった。  ヘリコプターも爆撃を中止していた。なにかラウラ号をうかがっているような感じで、空を旋回している。  私は言った。 「偵察に来るだろうか?」  峰は応えた。 「ティム船長が、降伏すると打電したはずです——奴らにしてみれば、百パーセントはとても信じられないでしょう。まず、ヘリコプターに偵察させるのが、自然じゃないですか?」  沈黙——。  私は祈るような気持ちで、ヘリコプターの動きを凝視《ぎようし》した。  ヘリコプターは旋回を続けていて、こちらに飛んで来そうな気配も見せない。  私たちは待った。  五分、十分……。 「どうした?」耐えかねたように、峰がつぶやいた。「なぜやって来ない?」  そう、なぜやって来ないのだろう?  こちらの動きを怪しんでいるのか。  いや、それより心配なのは、ヘリコプターが浮氷爆砕作業を再開して、駆逐艦が前進を始めはしないか、ということだ。そんなことになったら、峰の計画は、逆にラウラ号の破滅を早めることになる。駆逐艦に銛を打ちこんでみても始まるまい——。  峰が小さな声で叫んだ。 「来る!」  ヘリコプターが低空で、こちらに向かって礫《つぶて》のように一直線に飛んでくる。すさまじいスピードで、来る、と気がついた時には、もう眼の前までせまっていた。  峰は捕鯨砲をグルリと回転させた。  閃光《せんこう》が走った。  耳を圧する砲声が聞こえた時には、銛は捕鯨砲をとびだしていた。銛綱が宙を蛇行《だこう》して——ヘリコプターの中にとびこんでいった。 「当たった!」  と私たちが叫んだのと同時に、ヘリコプターからぱっと炎があがった。黒煙を尾翼から噴出させながら、ヘリコプターは失速していった。一度、バランスをたて直したかのように、機体を上に向けかけたが、すでにプロペラが作動しなくなっていた。  浮氷に激突した。  轟音《ごうおん》と共に、炎の玉が宙に噴きあげられた。ねじれたプロペラが炎に呑《の》みこまれて、二つに裂けた機体が高く水しぶきをあげて海に没していった。  ラウラ号が高く汽笛を鳴らした。  デッキといわず、ブリッジといわず、男たちが喚声《かんせい》をあげながら上甲板にとびだしてきた。有頂天になりながら、男たちはこちらに向かって駆けてくる。  ラウラ号が発進した。  ヘリコプターが撃墜された今、駆逐艦は一メートルといえども前進できないはずだった。この浮氷では、魚雷も役にたたない——。  ラウラ号は汽笛を繰り返しながら、ゆうゆうと浮氷群のなかを前進していった。  二時間後にはロシア領に入っていた。     六  峰とはナホトカで別れた。知るべきことは総《すべ》て知り、私たちにはもう行動を共にする必要がなくなっていた。  峰は総てに疲れきっているように見えた。ようやく総会屋という仕事に疑問を抱き、自分の非力さに絶望を感じたようだった。かつての私がそうであったように、峰の青春も突然に終りをつげたのかもしれなかった。  シベリア経由でこのままヨーロッパにのぼるつもりだ、という峰の言葉を、私は必ずしも全面的に信用したわけではなかったが、しかし彼とはもう二度と会えないことだけははっきりと分っていた。——峰は必ず来ると言っていたのだが、横浜行きの船が出港する時、彼の姿は見送り人の間には混じっていなかった。  日本は、もう新緑がめだつ季節になっていた。  横浜に着いた私は、すぐその足で銀行へ行き、預金を総ておろした。たいした金額ではなかった。部屋代を払うと、半分が消えてしまう程度の額だった。  深く思い悩みながら部屋に戻った私を待っていたのは、例のマイクロフィルムに関して写真家が書いてよこした手紙だった。短い、便箋《びんせん》一枚ほどのものだったが、私の推理を裏づけるにはそれで充分だった。  翌日、私が聡子《さとこ》の墓参りを思いついたのには、さほど深い理由があったわけではない。  いや——理由はあった。  須藤の失踪《しつそう》にばかり心を奪われて、聡子の死をほとんど顧みることのなかった自分に、ようやく罪悪感を覚えたのだった。ことの輪郭がおぼろげながらも形をとり始めてみると、聡子だけが本当の意味での犠牲者ではなかったか、と思えた。  よく晴れた日だった。  山門脇の墓参者相手の店で、花と線香とを買い整えて、私は聡子の墓を探《さが》した。  聡子の墓は、墓地もひっそりと奥まったところにあった。彼女の実家の方の墓だが、おとずれる人もほとんどいないらしく、墓石は苔《こけ》むして、欠けてさえいた。自分が死ぬと、彼女の家の直系は一人もいなくなるのだ、と聡子がいつか洩《も》らしたことがあったのを想いだした——だからといって、彼女が不幸であったとは限らないが、少なくとも墓石は寂しげに見えた。  しかし、そこにいけてあった花は新しく、線香からは煙さえたちのぼっていた。明らかに、ついさっきまで、誰《だれ》かが彼女の墓に参っていたのだ。  私は自分の花を添えて、線香を加えた。  瞑目《めいもく》した。  どこかから、読経の声が聞こえてきた。  墓地を出て、喫茶店から、聡子のパトロンだった人物に電話をかけた。まったく未知の男からの電話に、相手はいくらか不審を感じたようだったが、それでも、聡子の墓にはここ一月《ひとつき》ばかり参っていない、と私の問いに応えてくれた。  礼を言って、私は電話をきった。  その日の午後、私は若い時に働いていたことのあるデザインスタジオに行って、仕事の世話を頼んだ。考えてみる、という返事だった。  一か月ほどたった頃、思いがけない人物から電話があった。  景山だった。 「先月の末ぐらいに、二、三度、おたくの部屋に行ったんだぜ——いつでも留守だったな。たまには、俺《おれ》にも顔を見せるもんだよ」 「冗談じゃない——」私は苦笑した。「刑事に、たまに顔を見せなければならない義理はない」 「義理がなくても、会わなけりゃならんこともある——ちょっと出てこないか」 「あいにく、前ほど時間が自由にならないんでね。今も急ぎの仕事を一つ抱えている……抱えなくても、あんたとデートする気にはなれないかもしれないが——」 「つれないこと言うじゃないか。時間はとらせないから……実はあんたに会ってもらいたい人物がいるんだ」  景山はいつになく機嫌《きげん》がいいようだった。その浮わついた饒舌《じようぜつ》も彼には似つかわしくなかった。——私はそのなめらかな口調に隠されたある種の緊張を感じとっていた。 「会わせたい人間——? 誰だ?」 「出てくれば分る」 「訊きもしないことはペラペラとしゃべるくせに、肝心なことはなにもしゃべらない。悪い癖《くせ》だ」 「あんたに教わったやり方だ」  受話器を叩きつけるようにして、私は電話を切った。  デスクに戻ったが、もう仕事は手につかなくなっていた。  電話が鳴った。  受話器をとった私に、 「出てくるかね?」景山が訊いた。  溜息《ためいき》をついて、私は言った。 「どこに行けばいい?」  景山は東京でも有数のホテルの名を告げて、そこのロビーで待っている、と言って電話を切った。まるでそのホテルを常用してでもいるような口調だったが、むろん一介の刑事が利用できるようなホテルではなかった。——ということは、私に会わせたい人物というのはそのホテルの宿泊客なのか。  私は車を走らせた。  仕事は新しくなったが、車はあい変わらず中古のスクラップ寸前の代物《しろもの》だった。  金モールの制服を着たボーイが、私の車を見て顔をしかめた。もちろん、扉《とびら》を開けてくれようとはしなかった。  扉ぐらい自分一人で開けられる。  私はホテルのロビーに足を入れ、景山の姿を探した。恐しく周囲にそぐわない男がいると思ったら、その男が景山だった。  景山も、私から同じような印象を受けたらしく、ニヤニヤと笑いながら歩いてきた。 「ぼくに会わせたい人物というのはどこにいる?」私は不機嫌になっていた。「仕事を中断してきているんだ。早く済ませてくれないか」 「ここに泊まっている人間だ。名前は佐川則夫……毎日、今ぐらいの時刻になると、どこかヘ外出する。当然、ホールヘ出てくるから、その時に会えるだろう」 「佐川……? 知らない名だ」 「誰も知らない——」景山は唇をゆがめた。「だからといって、逮捕するわけにはいかないが……俺は、ほんの少し前まで、その男は別の名前で呼ばれていたと思う」 「どんな名前だ?」 「だから、そいつをあんたに確めてもらいたいのさ」  景山は私に先入観を与えるのを怖《おそ》れているようだった。多少は、驚かせたいと思っているのかもしれない。  やむなく、私は佐川という男が現われるのを待つことにした。ポケットからタバコを取りだして、一本を抜いて、唇にくわえた時、 「来たぜ」景山が囁《ささや》いた。  エレベーターから一人の男が出てきて、入口に向かって、ゆっくりとホールを横切っていく。  見覚えのない男だった。  きちんとネクタイをしめて、ライトブルーの背広を着ている。年齢は三十から四十の間——かけている濃いサングラスが、その服装にも、年齢にも、似つかわしくないように思えた。  途中で立ち止まって、タバコをくわえて、火を点けた。立ち止まられて始めて気がついたのだが、男は軽いびっこをひいていた。  どうだ、と問いかけてくるような景山の視線を無視して、私は立ち止まっている男に近づいていった。  声をかけた。 「すみませんが、火をかしてくれませんか」  ピクリと肩を震わせて、男はゆっくりと私に顔を向けた。濃いサングラスにかくれて、男がどんな表情をしているかは分らなかった。  顎《あご》に細い傷が走っていた。メスで切り裂いたような細い傷だった。 「タバコの火を——」私は繰り返した。  男は無言のままライターの火をさしだした。その指が、微《かす》かに震えていた。  私はタバコに火を点けて、最初の一服を大きく吐きだした。  苦いタバコだった。 「どうも——」  と言った私の礼に、男はわずかにうなずいて、入口に歩き去っていった。  後ろ姿がひどく年寄りじみたものに見えた。  私はタバコをふかし続けた。  業を煮やした景山が、近づいてきて私に訊いた。 「どうだ?」 「なにが?」私は訊き返してやった。  景山は舌打ちして、 「とぼけるんじゃないよ——あんたに、あの男が誰だか分らないはずがない」 「知らんよ」私はそう応えるしかなかった。「始めて見る顔だ」  景山は顔色を変えた。逆上したように、手をあげて私の襟《えり》を掴《つか》んだ——いや、掴もうとしたのだが、結局は拳《こぶし》を握っただけで、私の体には手を触れなかった。  私から眼を外らして、 「行ってくれ——」景山はしわがれた声で言った。「あんたを気に入りかけていたのだが……どうも俺たちは巡り合わせが悪いようだ」  景山にしては、ひどくあっさりとしたあきらめようだった。それが、彼の失望の深さをよく物語っているように思えて、私にはなにかしら辛《つら》かった。  罪人のようにうなだれて、私は景山から離れた。  酒を飲むには早過ぎる時刻だったが、私が総てを忘れるまでに飲んだくれるのには、まだまだ時間が不足しているようだった。  私は、たまたま眼についたスタンドバーに入った。バーテン一人、ホステス一人の小さなバーだった。ただ一人の客である私も含めて、誰もが飲んだくれなければやりきれないという表情をしていた。  私はウイスキーを瓶《びん》ごと買って、一人で飲み始めた。氷も、水も、女もいらなかった。  私の飲み方を見て、ホステスが笑った。 「誰かいい人にふられたのね——可哀想だから、慰めてあげようか」  放っておいてもらいたかったので、私は慰めてくれる必要はないと応えた。私のにべもない返事に、女は自分が慰めてほしいという表情になった。  それも願いさげだった。  私はひたすらウイスキーを咽喉《のど》に流し込んだ。  いつかはこうやってやけ酒を飲む時がくる、という予感はあった。  須藤の行方を追うのを止めたのも、こんな風に酒を飲むのだけはしたくない、と思ったからであった。自分が信じていたものが根元から崩れ落ちる音を、誰があえて聞こうと考えるものか。  聡子を殺したのは須藤だった。直接手を下してはいないかもしれないが、少なくとも、聡子が殺されることになると知っていて、なんらそれを防ごうとする手を打たなかった。  二つの巨大な組織が錯綜《さくそう》して動いていたことが、全体を混沌《こんとん》としたとらえどころのないものにしている——だが、これだけははっきりしていると思う。早野を殺したのはKの側で、聡子を殺したのはティムの側だということである。  そう、あの気持ちのいい男たち、亜人類を守ろうとしている連中の手もまた、血で汚れているのだ。それがどんな人間の集まりであろうと、一つの集団がある目的のために動けば、いずれは腐臭が漂う部分が出てくるのはやむをえないことかもしれない——それはそうであるかもしれないが、聡子は彼らの手にかかって殺された、と考えるのは、やはり辛く、耐えきれないことであった。  実に、明解なことなのだ。  亜人類を皆殺しにしなければならないと考える組織と、亜人類をなんとしてでも存続させようと考える組織と、ここに二つの集団があるとする。いや、ことは人類の未来に関わるのだから、二つのイデオロギーがあると言いかえた方がいいかもしれない。  考えるべきことは、どちらの集団が聡子を殺す動機をより多く持っているか、それだけで充分なのだった。  稲垣が、どんな手段を使って眠れる美女を手に入れたのかは分らない。また、彼女がどうやって稲垣の手から逃れることができたのかも知ることはできない。  わずかに推測できるのは、私が車ではねた時、彼女は逃亡中であったろう、ということだけだ。あの時、すでに彼女は冬眠期に入りかけていたのだろう。最後の気力を奮いおこして横浜まで帰ろうとしていた彼女を、私の車がはねて、そして、そのショックが一気に冬眠状態を誘発した——須藤が、診察のどの段階で、彼女が冬眠しているのではないか、と疑い始めたのかは、今となっては想像することさえできない。だが、冬眠ということを思いつけば、冷凍唾眠の実験を連想するのは、ごく自然ななりゆきだったろう。  須藤が早野と出会ったのは、西村教授と連絡をつけようとしていた時だろう、と私は思う。  須藤と早野は互いに知り合いだったはずだ。そうでなければ話が合わない。そして、彼らが知り合う機会があったとしたら、それは、西村研究室を通じてでしかあるまい。  須藤は、眠れる美女に関してのなんらかの情報を手に入れることができないか、と考えて西村研究室に出かけた。早野は、眠れる美女に逃げられた後、西村研究室が彼女を軟禁でもしてはいないかと疑って、様子を探《さぐ》りに出かけた——そんなことが重なって、二人は知り合うことになったのではないだろうか。  早野の行動がひどくヌエ的に見える。  しかし、これは単純に、彼は、マンションを借りて眠れる美女をかくまっているうちに、しだいに亜人類に同情を寄せるようになったのだ、と考えれば納得できる。弥生の秘書を勤めながら、その一方で稲垣のために働くというような男でも——いや、多分そんな男だったからなおさら、亜人類の存在になにか夢のような思いを託したのだとは考えられないか。もしかしたら、早野は眠れる美女を愛していたのかもしれない。  以上は、なんの確信もない想像にしかすぎないが、しかしそれほど的を外れた想像であるはずがなかった。ことのなりゆきが私の考えたとおりであるのなら、聡子、早野と続いた一連の殺人事件も、更に誰が私を殴ってマイクロフィルムを奪おうとしたのかまで、容易に推察することができるのだ。  亜人類を守ろうとしている連中が、聡子を殺した。理由は、警察に須藤を逮捕させるというような姑息《こそく》な手段を使ってまで亜人類の行方をつきとめようとする敵に、怖れをなしたからだろう。聡子が、なんらかの情報を敵に洩らすようなことになる前に、いちはやくその口を封じてしまったわけだ——多分、この時点で、須藤と早野はラウラ号に通じる連中とコンタクトしたのだろう——。  亜人類を皆殺しにしようと考えている連中が、早野を殺した。理由は、考えるまでもないだろう。早野は稲垣の右腕的存在であり、またラウラ号にも通じている。彼等にしてみれば、これ以上|眼障《めざわ》りな人間もいまい——ホテルに出かけていった私が、危うく殺人犯にされかかったのは、別に私という特定な個人を狙ってしかけられた罠《わな》ではなく、捜査を混乱させるためなら誰でもよかったのだろう。  私を殴ってマイクロフィルムを奪おうとしたのは……須藤ではないかと思う。  私があの新聞記事のコピーを持っていることは、神谷の口から誰かに伝わるという可能性もあるだろう。しかし、私があのマイクロフィルムを持っているのを知っているのは、早野一人しかいないはずだった。そして重要なのは、どこの図書館でも読むことができる新聞記事なぞではなく、マイクロフィルムそのものだったとしたら——これを奪おうとするのは、早野から私がマイクロフィルムを持っていることを聞いた誰かであったはずだ。その誰かが須藤ではなかったかと考えるのは、簡単に殺せたはずの私を、気絶させただけで、それ以上なにをしようともしなかったからである——あれが、早野を殺した人間のしわざだったとしたら、とてもこぶ程度ではすまなかったろう。  通常、マイクロネガフィルムは、粒状性がきわめて小さい、高解像力の特殊なものが使われる。  だが、調査を頼んだ写真家の報告では、あのマイクロフィルムには、ネガと性質が類似したなにか生体細胞質のようなものが使われている、ということだった。腎臓《じんぞう》を想いだしてみるまでもなく、それが亜人類の一人の細胞であろうことは、容易に想像がつく——早野は、多分、西村研究室から、亜人類が生体解剖されているという証拠として、この細胞片を盗みだしたのだろう。それを、稲垣が国会で与党を弾劾《だんがい》するのに提供するつもりだったのか、それとも他になにか考えがあったからなのかは分るはずもないが、マイクロフィルムとして加工したのは、単なる擬装だったのだとは断言してもいいと思う。  どうして、早野が私にそのマイクロフィルムを手渡したのかは分らない——身辺に危険を感じることでもあったのか。  これだけが、私の推理の総てである。  他にも分らないこと、つじつまが合わないことはいくつかあろうが、二つのイデオロギーが激突するその経過を知りつくすことが、一人の人間に可能だとは思えなかった。  ただ、私は推理できた範囲に関しては、ほぼ間違いはあるまい、という自信があった。ああして、須藤が生きていて、多分、亜人類を存続させるためのなんらかの仕事をしている、という事実がある以上、少しは私の推理能力をいばらせてもらってもばちは当たるまい——。  無論、とてもいばりたいような気分にはなれなかった。  須藤の半生が喜びに満ちたものだったとは思えない。名前を変え、整形手術を受けてまで、亜人類になにかを賭《か》けたくなった気持も分らないではない。  だが、そのために聡子を見殺しにしたのは、どうしても許せない。 (許せない……?)  私は苦笑いした。  かつて友人を裏切った私が、同じ友人から裏切られて、許せないと言うのか。贖罪《しよくざい》きどりで頼まれもしなかったことに首を突っこんで、その結果が裏目にでたからといって、友人をなじるのか……。 「お客さん、泣いているんですか?」  ホステスが驚いたような声で言った。  とんでもない話だった。  いい年をした男が、酒を飲みながら泣いたりするはずがない。  私はカウンターを離れた。今夜は長い夜になるだろう、という気がした。  その後、事件の関係者に会うことはなかったし、新聞に、亜人類という言葉が載せられることもなかった。人類の運命をめぐって、二つのイデオロギーが正面から対立しているなどと誰からも聞いたことはないし、事実、社会は表面上平穏に動いていた。  今年の夏はひどく寒く、農作物の冷害が案じられる、と報じられたことはあったが、それすら都会の喧噪《けんそう》に呑みこまれて、翌日にはもう忘れ去られていた。  私もまた、食うことに毎日を追われて、亜人類を想いだすことはほとんどなかった。  だが、どうかした拍子に、フッと眠れる美女の裸身が頭に浮かぶ時がある。そんな時、私は決まってなにかもの哀しい気持ちに襲われるのだ。 角川文庫『氷河民族』昭和52年11月10日初版発行           昭和53年2月25日3版発行