TITLE : チョウたちの時間 チョウたちの時間 山田正紀 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 プロローグ 第一章 時は過ぎゆく 第二章 時はとどまり 第三章 われらは過ぎゆく エピローグ プロローグ  夏だった。  ぼくはいつものように、朝、家を出ると、図書館に向かった。  バスに乗って三十分ぐらい、図書館のあるT—神社に着いたときには汗ビッショリとなっていた。  公園はひろく、茂った樹々がちょっとした森のようになっていた。梢《こずえ》をわたる風はさわやかで、ほてった肌にヒンヤリと心地よかった。  遠くのプールから、子供たちのはしゃぐ声がきこえてきた。  すでに、図書館のまえの石段には、学生たちが列をつくっていた。ほとんどが受験生で、小脇にバンドでたばねた参考書をかかえている者が多かった。なかには、こうしている間も惜しいというように、英語の単語帳にしきりに読みふけっている者もいた。  ぼくは列の最後尾についた。  あつかった。  まだ朝の十時まえだというのに、気温はゆうに三十度をこしているように思われた。そうして立っているだけでも、全身から汗がふきだしてくる感じなのだ。  日ざしが強烈で、アスファルトの道路を燃えあがらせているようだった。強い照りかえしに、思わず眼をとじると、瞼《まぶた》のうらに赤く、青く、ちらちらと光の輪がおどった。  セミの鳴き声がうるさく、鼓《こ》膜《まく》にはりつくみたいだった。  やがて十時になり、図書館のドアがひらいた。  受験生たちは従順なヒツジのように、ひとりひとり図書館に足をふみいれ、入り口で待ちかまえている係り員から整理カードをわたされた。整理カードには数字が記されていて、それがそのまま利用者たちの座席番号になるのだった。  ぼくの座席番号は二五一だった。  二階の、読書室だ。  ぼくは二階にあがり、座席につき、参考書とノートを机のうえにひろげた。  今日は、苦手な数学を重点的に勉強するつもりだった。そのつもりだったが——しばらく、ノートの空白をにらみつけているうちに、眠気がおそってきた。  いつもこうなのだ。  クーラーのほどよくきいた読書室にすわり、ノートに鉛筆を走らせる音を耳にしていると、自然に眠たくなってしまうのである。  よくないこととは思うのだが、図書館にくるのも、半分は昼寝をしたいからのような気がする。冷房のきいた図書館でうつらうつらとするのは、まったく気持ちがいいのだ。 (午後にいっしょうけんめい勉強すればいいじゃないか……)  ぼくはそう自分にいいきかせると、そのまま机に顔を伏せた。  ——気がつくと、もう昼食の時間になっていた。  まわりの学生たちの数もだいぶ減っている。勉強を中断して、それぞれ下の食堂におりていったのだ。なかには、家から持参したサンドウィッチをほおばりながら、参考書をにらみつけている奴もいたが、さすがにその数は多くなかった。  ぼくはといえば——もちろん、なんのためらいもなく、下の食堂におりていった。  図書館の食堂だから、できるものはかぎられている。A定食、B定食、ラーメン、カレーライス……だいたい、そんなところだ。  ぼくはB定食をたのみ、それだけでは足《た》りないような気がしたので、いなり寿《ず》司《し》をいくつかとり、食事をはじめた。  午前中は寝ただけなのに、けっこう腹が減っていたらしく、きざみキャベツの最後の一本までもきれいにたいらげ——それでも満足できずに、カレーパンを一個追加した。  そして、セルフ・サービスのお茶を飲みながら、ボンヤリと窓の外をながめた。  窓の外は、夏だった。  そうとしか表現しようがない。  みずみずしい樹々の緑が、陽光をキラキラとはじいていた。公園の喫茶店の軒先につるされた〓“氷〓”の旗が、いかにもものうげに揺れていた。公園の外の道には、奇妙に遠い感じで、黄いろいバスが走り、ミニ・スカートの娘たちが歩いていくのが見えた。  窓の外をながめているうちに、ぼくはフッとおかしなことを考えた。  この瞬間は、このときかぎりのものであるが、しかし永遠にここにありつづける、というようなことを考えたのだ。——ぼくたちは錯覚しているのだが、時間は決して過ぎ去っていくものではない。どんな短い瞬間にしても、永遠の一部であることに変わりはなく、そして永遠という言葉が不滅を意味しているのであれば、瞬間もまた消滅してしまうはずがないではないか。  そんなことを考えたのである。  時間はつねにそこにありつづける。うつろい、変化していくのは、時間ではなく、ちっぽけな生き物であるぼくたちのほうなのだ、と……  今、この瞬間、ぼくが眼にしている夏の光、耳にしているセミの鳴き声は、永遠にここにとどまる。そして、ぼくだけが老いていき、死んでいくのだ。  もちろん、あとになって想いかえせば、陳《ちん》腐《ぷ》な、とるにたりない考えにすぎなかったかもしれない。しかし、そのときのぼくには、それはひどく新鮮なおどろきと、なにか甘ずっぱいような悲しみをともなった考えだったのである。  ぼくは呆《ぼう》然《ぜん》として、しばらく窓の外を見つめていた。  気がつくと、食堂にはめっきり人の数が少なくなっていた。昼食の時間はとうにすぎ、勤勉な学生たちは勉強にもどっていったのである。  ぼくは午前の時間をいねむりですっかりつぶしてしまっている。午後には、なんとしてでも参考書の一ページなりと読み進まなければならない。そうでないと、こうして図書館まで来た意味がないではないか。  ぼくはあたふたと食堂を出ていった。  だが、——机のまえにすわっても、どうしても勉強に身が入らなかった。なにかひじょうに崇《すう》高《こう》な真理にふれたような気がして、数学などいまさら勉強するつもりになれなかったのだ。  むろん、錯覚だった。ぼくは、たんに興奮していたにすぎないのだ。  それでも、三十分ほどは、机のまえにすわっていたが、参考書の問題をただの一問もとくことができなかった。  ぼくはついにあきらめて、机からはなれ、図書閲《えつ》覧《らん》室《しつ》のほうへ歩いていった。  気分転換に、ミステリーでも読もうかと考えたのだ。  閲覧室はひろく、うす暗かった。  天井ちかくに嵌《は》めごろしの窓があるのだが、巨大な書架が光をさえぎり、長い影をあちこちにのばしていた。針のようにほそい光が、本のあいだからさしこみ、ただよう埃《ほこり》を浮かびあがらせていた。  ぼくは書架のあいだをあてもなくうろつき、眼についた本を抜きとり、二、三ページ読んでは、また元にもどすということをくりかえしていた。  なんの気なしに抜きとった詩集の、たまたま開いたページの一節が、ぼくの眼を引きよせた。  そこには、こう書かれてあったのだ。   時は過ぎゆくとなんじは言うのか。   さにあらず、ああ、時はとどまり   われらは過ぎゆく。  作者の名前は、オースチン・ドブソンと記されてあった。  その詩は、ついさっきまでぼくが考えていたことと、同じことをいっているように思えた。ぼくはなにかしら怖《こわ》いものでも見たかのような気持ちにおそわれ、あわててその本を書架にもどした。  そして、——閲覧室の奥のほうに、白いもうろうとした人影が浮かびあがっているのに気がついた。  ぼくは眼をこらし、それが一人の少女であることを知った。少女……だったと思う。そのやわらかな体の線、微妙なかげりには、どことなく性を超越したようなところがあり、豊かな髪がなければ、少年に見えないともかぎらなかった。  もちろん、見知らぬ少女だった。見知らぬ少女だったが、——ぼくは奇妙に強く惹《ひ》きつけられるものをおぼえた。  内気なぼくは、同級生の女の子と顔をあわすのさえ苦手だった。それが、自分でもふしぎに思えるほど、その少女をジッと凝《ぎよう》視《し》しているのだった。  なにかおののきにも似た、それでいてなつかしくてたまらないような、一種説明しがたい感動が、ぼくの胸をしめつけていた。  少女は、鏡に映っているかのように存在感が希薄だった。そこにいるように見えて、実ははるか遠くに身を置いているみたいなはかなさが感じられるのだ。  ふっと、閲覧室の書架が、水の波《は》紋《もん》がひろがっていくように、ぼくのまわりから遠ざかっていくのを感じた。すべてのものが、その固い外殻をやぶって、大気ににじみ、ゆらめき始めたみたいだった。  少女がゆっくりと足を踏みだし、ぼくに向かって腕をさしのべた。  ぼくはなにかにとり憑《つ》かれたように、反射的に腕をのばして、少女の手をにぎった。  ヒヤリとした、冷たい感触が少女の手から伝わってきた。  ぼくは眼をとじた。なぜか、眼をとじずにはいられなかったのだ。  ——気がついてみると、少女の姿はもうどこにもなく、ぼくはただ呆然と閲覧室に立ちつくしていた。  ながい夢を見たあとのように、頭の芯《しん》にかるいうずきをおぼえた。  ぼくはソッと掌をひらいた。  そこには、チョウが…… 第一章 時は過ぎゆく 1  トボット(Time Robot)が、〓“純粋時間〓”の海をつき進んでいく。  時間粒子をかきわけ、ゆっくりとつき進んでいくのだ。  後方へ? ——いや、〓“過去〓”に向かっているのだ。 〓“純粋時間〓”の海には、青い光が満ちていた。  トボットは、その青い光のなかを、あたかも一隻の小型潜航艇のように進んでいく。時間粒子を後方に押しやり、超高速粒子《タ キ オ ン》を水泡《 み な わ》みたいに残しながら、ひたすら〓“過去〓”に向かっているのである。 〓“純粋時間〓”の青い色——その色は、われわれの世界の色彩とは似て非なるものであった。  空間における色彩が、人間の眼、人間の意識を通じてしか存在できない、いわば主観的色彩であるのに比して、これは純然たる客観的色彩なのだった。  空間においては、色素分子は四十〜五十ぐらいの原子からできている。そのさまざまな構造形態によって、ある波長の色を吸収し、ある波長の色を反射する、ということが決定されるのだ。  そして、——ただ、それだけのことだ。  空間に身をおくものにとって、色彩はさほど重要ではない。世界がたんに明暗だけで構成されていても、それほど不自由を感じないにちがいない。  じっさい、空間に生きる生物の多くが、色彩を知覚していない。それなりに進化をとげた人間は、かろうじて色彩をみわけることができるが——それにしても、色彩の一属性を知っているにすぎないのだ。 〓“純粋時間〓”に身を移したとき、はじめて色彩のなんたるかを知ることができる。  それは、徹底した客観性……主観の入る余地のない、まったくの客観性なのだった。  人間の進化が停滞せず、空間のくびきから脱して、〓“純粋時間〓”に入ることができたなら、その認識論は大きく前進するはずだった。  かつて仏教徒は、物質と精神を五類に分けた。その「五《ご》蘊《うん》」のうちルーパ、はからずも色と訳された、まったく客観的な対象がここにはすべて存在するのである。  ここ〓“純粋時間〓”では、いかなる歴史学者、思想家も異をとなえることのできない、歴史そのものを見ることができるのだ。  それが、空間に対応する色彩と、〓“純粋時間〓”に対応する色との、唯一の、しかし大きなちがいだった。  その〓“純粋時間〓”の青い光が揺らめいている。  空間的な最小単位は1/101313センチ……つまり、陽子もしくは電子の有効直径である。その空間最小単位を光が通過するのに要する時間、1/102424秒が時間粒子の値《あたい》だった——その時間粒子が、やわらかく、しかし強《きよう》靭《じん》なゴムのように、トボットの前進をはばんでいるのだ。  トボットは超高速粒子《タ キ オ ン》を推進力にしている。1/102424秒の時間粒子は、超高速粒子《タ キ オ ン》によって、いわばその寿命を縮められる。それが、〓“純粋時間〓”に乱れを与え、時間粒子に軋《あつ》轢《れき》を生じさせ、トボットを空間化させるとともに、〓“過去〓”へと向かわせるのである。  トボットは大きさをもたない。  空間的には、存在しないと断言してもさしつかえないのだ。  ただ、超高速粒子《タ キ オ ン》を噴射し、いったん空間化させたときの残像が、いうならば素粒子にきざまれた記憶となって、〓“純粋時間〓”に残されているのだ。超高速粒子《タ キ オ ン》を噴射していることで、かろうじて形態をたもっているにすぎない。  過去につき進むとき、トボットはより多くのエネルギーをついやした。——たしかに、〓“エントロピー増大の法則〓”が支配する宇宙空間においても、瞬間的には、エントロピーが減少しつつあるような谷間が存在する。しかし、〓“純粋時間〓”を過去に向かうということは、その谷間を作為的に、しかも永続的につくりだすのを意味しているのだ。そのエネルギーの膨大さたるや、とうてい重力圏脱出時のロケットなどの比ではなかった。  奇妙なことだが、過去を後方に、未来を前方にとらえる〓“時間感覚〓”は、ここでは現実のこととなっていた。〓“過去〓”に向かうトボットは、あきらかに後方に移動しているようにみえた。  そして、はるか前方、〓“純粋時間〓”の彼方《 か な た》には、紫色の〓“時平線〓”が横たわっていた。  トボットは、カメに似ている。六角形のボディに、時間探査の触手が四本、後尾には超高速粒子《タ キ オ ン》を噴射するノズルがつきでている。頭部に見える部分が、操縦席だった。  トボットが停止した。  超高速粒子《タ キ オ ン》を逆噴射し、あやうく慣性をたもち、空間化を固定させたのである。 「プラットホーム〓から連絡が入ったわ」  マヤがいった。「α系第一三五六四二に時間粒子の乱れが生まれているそうよ」  ——トボットの操縦席は、完全に空間化されていた。音声が現実の声としてつたわるほどの完璧な空間化だった。  さらには、この操縦席にかぎって、どこにも存在しない時間、いわゆる〓“形而上的時間〓”が適用されている。観測者が〓“純粋時間〓”に同調してしまえば、いっさいの観測が不可能になる。たとえ、時間粒子が逆流するようなことがあっても、そのなかに身をおいている観測者にとってそれをたしかめる術《すべ》はない——いったん〓“形而上的時間〓”に身をうつして、観測系を確保する必要があったのだ。  もちろん、誤差は生じるが、単純な数値的誤差にすぎず、さほど修正のむつかしいものではなかった。三次元空間における歴史学者たちのまちがいとは、文字どおり、次元を異にするのである。 「〓“ファシスト〓”たちの仕業か」  シンがきいた。「最近、やつらの攻撃がめだっているそうじゃないか」 「〓“ファシスト〓”か……」  マヤはクスリと笑った。「やつらのことをそう呼ぶのはあなただけね」 「きみはどう呼んでいるんだ?」 「————」  マヤはひじょうに短い単語を口にしたが、発音が複雑で、シンにはよくききとることができなかった。ただ、それがマヤにとって、〓“悪魔〓”を意味する言葉であることだけは、かろうじて理解できた。 「要するに、そういうことだ」  シンが苦笑しながらいった。「やつらの正体は誰にもわかりゃしないのさ。誰もが、自分にとって、最悪を意味する言葉で、やつらをてんでに形容しているだけのことだ……」  二人の地球人は声をあわせて笑った。  そのしなやかに発達した体からは、第二次性徴がことごとく失われ、にわかに男女の区別がつけがたかった。しかし、会話の調子から、おのずと男女の別がはっきりしてくるようだった。  シンは指をのばし、コンソールにふれた。  スクリーンに、ミンコフスキー時空間が提示され、それはさらに、ある瞬間における三次元空間の描像に翻訳された。シンがコンソールのうえの指をめまぐるしく動かすにつれ、その三次元的切断面は時間軸にそって、しだいに動いていく。  じっさいには、三次元的切断面は電子の世界線ともいうべきもので、それこそ無数の点が数値化されているのだった。えんえんとのび、ひろがった電子の糸は、その時間切断面に応じて、電子として、あるいは陽電子として、三次元空間にあらわれていた——充分に訓練されたシンとマヤの二人には、これだけで、その瞬間における三次元空間をはっきりと理解できるのだ。  ふいに、シンが指の動きをとめた。 「……α系第一三五六四二か……」  そして、しずかにいう。「一九四五年八月六日……」  シンの顔がこころなし、こわばったみたいに見えた。その眼がなにか遠くを見ているようだった。 「どうかしたの?」  マヤが不審げにきいてくる。 「いや——」  シンは掌でブルンと顔をなでおろし、気をとりなおしたようにいった。 「α系第一三五六四二の、修復可能点はあるのか」 「ふたつ……」  マヤは眉《まゆ》のあいだにしわをよせ、スクリーンを見つめながらいった。「一九三七年四月十六日……それに、一九四一年九月……」そして、シンをふりかえった。「どちらの修復可能点も、同じ人物に関係しているわ。物理学者の、ニールス・ボーアよ——」 「知っているよ」  シンがいかにも憂うつげにつぶやいた。「ぼくは知っているんだ」  ——トボットから、二匹のチョウが飛びたった。  彼らは翅《はね》をひろげ、時間粒子を風のように受けながら、〓“純粋時間〓”のなかを飛んでいった。  α系第一三五六四二に向かって…… 2  ——真与新介はすこしためらってから、〓“酒丸〓”に足をふみ入れた。 〓“酒丸〓”は全国の地酒をおいてある、ということを看板にしている店で、まあ、いささかそれは誇大広告のきらいはあるにしても、五十種ぐらいの地酒をそろえているのは事実だった。 「いらっしゃい」  若い衆の景気のいい声をききながら、新介はカウンターに腰をおろした。いい呼吸で、おしぼりと突き出しがでてくる。 「なんにしますか」  新介はゆっくりと両手を拭《ぬぐ》いながら、店内を見回した。  店の天井には、梁《はり》のように太い竹がわたされ、各地の地酒の小さな樽《たる》がくくりつけられてある。樽の数は二十個ほど、東北から九州まで、いずれもこの店で比較的よくでる銘柄だった。  しかし、新介の好みは決まっていた。店内を見回したのは、ある種の儀式のようなものでしかなかった。 「〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”をもらおうか」  新介はいった。「ヒヤでいいから……」 「へい——」  若い衆の大声が、ややカラ元気のようにきこえた。  まだ、六時をすぎたばかりで、新介のほかに客はなかった。夏、酒を飲む時刻にしては、いささか早すぎるからだ。この時刻、アルコールのほしい人間は、むしろビヤ・ホールに直行するにちがいない。  だが、新介は徹底して「日本酒党」だったし、——どうせ、アパートにまっすぐ帰ったところで、女房は実家に行っていて、留守なのだ。  新介は中学の英語教師である。  三十代にさしかかっているが、童顔のせいか、まだ学生のような雰囲気を残している。ちょっと日本人ばなれした彫りのふかい顔も、彼を若くみせている要因のひとつだ。生来、ノンキで楽天的な性格で、立派な教師とはとうていいえないが、頼りない兄キみたいな存在として、ややバカにされながらも、生徒たちから愛されていた。  新介自身も、教師という仕事に不満をいだいてはいない。出世のためにバリバリ働くようながらではなく、とてもサラリーマンとしては使い物にならない、と、自覚していたからである。  結婚はしているが、子供はいない。いや、まだいない、というべきかもしれない。来年の春には、子供が生まれる予定になっているからだ。  もちろん、自分が父親になる、という実感はない。嬉しいのか、それともうんざりとしているのかも判然としない。ただ、子供が生まれるとなると、さしあたって広いアパートをさがす必要があり、それだけが父親になる実感といえばいえないこともなかった。  今は夏休みだが、受験をひかえた三年生たちの補習を受け持たなければならず、週に三回は学校にかよう義務がある。これが終わったら、すこし本腰を入れて、アパートをさがそう、と、新介は考えていた。 「忙がしくなるな…………」  新介がそうつぶやいたとき、コップ酒がとどいた。  新介は突き出しのいわしをつつきながら、ちびりちびりと飲みはじめた。  いつもながら、〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”の味には感心させられる。これこそ、絶品というべきではないだろうか。  べたべたした甘口の酒などとは比較するのさえおろかしい。さらりとした辛口で、しかもこくがあるのだ。酔《よ》い心地もすばらしく、日本酒特有のあの悪酔いも、〓“天の甜酒〓”にかぎっては、まったく心配いらなかった。  この味わいをなんと形容したらいいだろうか。そう、清《せい》楚《そ》な佳人のような、とでも…… 〓“天の甜酒〓”はほとんどといっていいほど関東には出まわっていない。ふつう、地方の蔵元の多くは、自社ラベルの酒をなんとか販売ルートに乗せようとして、大手全国銘柄に〓“桶売り〓”をするのだが、〓“天の甜酒〓”の蔵元はいっさいそんなことはしていないようだった。  商売に欲がないからなのか、それともプライドがたかいからなのか、もちろん、新介にそのわけがわかるはずはない。わかるはずはないが——新介には、〓“天の甜酒〓”の方針がひじょうに好ましく思えるのだ。  自分でも吝《りん》嗇《しよく》漢《かん》になったみたいでおかしいのだが、〓“天の甜酒〓”がどこでも飲めるようになったときのことを考えると、なにか大切な宝物を失った気持ちになるのだ。それに、全国販売ルートなんかに乗ってしまえば、〓“天の甜酒〓”のまろやかな味がそこなわれてしまうことは眼に見えている。  たしかに、たしょう不便かもしれないが、〓“天の甜酒〓”はこのままの状態がいちばんいいのではないだろうか……  ——そうだ、そうに決まっている……と、新介がうなずいたときには、すでに二杯めの〓“天の甜酒〓”がカラになっている。  なにか、体の奥にポツンと火がともされたようだった。しだいに、その火は大きくひろがっていき、やがては全身をトロトロと溶ろかすにちがいない。 「悪くない」  新介はそう声にだしていい、しゃっくりをした。「これは、まったく悪くない」  そして、三杯めを注文した。すこし考えてから、突き出しのお替わりも注文する。いわしと生姜をかさねて、醤油、砂糖、みりんで煮たもので、この突き出しもまた悪くないのである。  それから、ふたたび〓“天の甜酒〓”を知った喜びをかみしめる。——だいたい、〓“天の甜酒〓”は、ここの主人が関西の蔵元からとりよせて、自分一人でコッソリと楽しんでいたものなのである。ところが、〓“天の甜酒〓”はよほどの品薄らしく、ここの主人にしてからが思うように手に入れることができないで、苦労していたらしいのだ。  それを、たまたま新介が小耳にはさんで、いわばあっせんの労をとったというわけなのである。  というのも、新介が六つになるまで育った村が、どうやら〓“天の甜酒〓”の蔵元の村と同じ場所らしい、ということがわかったからだった。  主人のグチをきいているうちにそうとわかって、新介もおどろいたしだいだが、とにかくそんなコネがあるなら利用しないてはない、と、話がまとまってしまったのだ。  正直、新介にはいささか迷惑な話だった。新介は〓“天の甜酒〓”などという酒があることすら知らなかったぐらいなのだから、もちろん、村には誰ひとり知り合いのいるはずもなかった。二十年以上もまえに地元にいたからという理由で、蔵元が酒を送ってくれるとは、とうてい考えられなかったのだ。  しかし、意外なことに、新介の手紙にこたえて、蔵元は〓“酒丸〓”に〓“天の甜酒〓”を送ってきてくれたのだ。それも、半年ごとに、六本ずつ——むろん、そうおうの代金とひき替えにではあったが、それにしても品薄のはずの〓“天の甜酒〓”を、まったく無関係の〓“酒丸〓”に分けてくれるのは、たいへんな好意といわねばならなかった。 〓“酒丸〓”の主人はひじょうな喜びようで、それからは〓“天の甜酒〓”を、新介と、ごくかぎられたなじみにだけ出すようになったのだった。  そして、そのおかげで、新介は今やまったく〓“天の甜酒〓”の虜《とりこ》となってしまったのである。どちらかといえば、みずから好んで虜となったきらいはあったのだが……  ——新介が三杯めの〓“天の甜酒〓”を飲みほし、陶然としはじめたとき、かたわらから声がかかった。 「〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”とはまたたいへんな名前ですな……」 「え……」  新介はコップから顔をあげ、酔《すい》眼《がん》をすえて、なんとか声の主を見さだめようとした。  いつから、そこにいるのか、ひとりの男がヒッソリとカウンターの端にすわっていたのである。 「だって、そうでしょう」  男はからかうようにいった。「〓“天の甜酒〓”といえば、木《この》花《はな》之《の》開《さく》耶《や》姫《ひめ》が出産したとき、その祝いとして、みずから米をかんで、つくった酒の名前じゃないですか。たしか、『日本書紀』でしたか……その酒の蔵元はたいへんな自信の持ち主なんでしょうな」  酒場で見知らぬ人間から声をかけられるのは、決してめずらしいことではない。めずらしいことではないが——その男の態度には妙に押しつけがましいところがあり、たんに酒飲みのなれなれしさから声をかけてきただけではないようだった。  どことなく、得体のしれないものを感じさせる男だ。一見、若者のようでもあるし、それでいてその身のこなしにはへんに老成したところもあった。要するに、年齢不詳なのだが、凄いほどの美《び》貌《ぼう》の主であることが、その男の年齢をさらにわかりにくいものにしていた。——長い睫《まつげ》、澄んだ眸《ひとみ》、ぐみのように赤い唇……まったく、男にしておくのは惜しいような美貌なのだ。  それでいて、いや、それだからこそかもしれないが、その男から受ける印象は必ずしも好ましいとはいえなかった。口調こそ、ひどく親しげだが、唇にはっきりと冷笑を浮かべているのである。  夏のさかりだというのに、黒い上着をきちんと着こんでいる。国民服——とでも呼べばいいのか、首までボタンのかかる上着だ。  日本人ではないように思われた。ただし、それにしては、日本語があまりに達者すぎるようで……けっきょく、得体のしれない男、としか表現しようがないのである。  しかし、いいかげん酔っぱらっている新介には、そんなことはいっこうに気にならなかった。 「そうですか、いやァ、ぼくはそんなことは知りませんがね……」  新介はややろれつのまわらない声で、わめくようにいった。「知らないが、ですよ……こいつは、その名に値《あたい》する名酒じゃないでしょうか。ぼくはそう思いますね。ねえ、あんたはそう思いませんか」 「そうでしょうな……」  男はうすく笑い、うなずいた。「いや、まったく、私も同感ですよ」  新介は笑い声をあげた。  男の同意をえられたことがひどく嬉しく、誇《ほこ》らしいことのように思われた。  視界がグルグルと回りだし、なにかはしゃぎたくて仕方ないような気持ちになってくる。とつぜん、〓“天の甜酒〓”がききはじめたようだった。  ——おかしい……とは思ったのだが、そんな疑惑もすぐに忘れて、新介は急速に泥《でい》酔《すい》の淵に沈んでいった。どうにも、抵抗しようがなかったのだ。  新介は何度も〓“天の甜酒〓”をお替りし、一方的にしゃべりまくった。  主に、自分のおいたちにかんする話題だったようだ。  視野が急速に暗く、小さくなっていき、そのなかに男の顔がポツリと浮かびあがっていた。  男はあいかわらず冷笑していた。  新介はしゃべり、さらにしゃべり——そして、ついに酔いつぶれた。  ——店の者にタクシーに乗せられたようだが、どうやって帰ったのかは、よく憶えていない。  気がついたときには、アパートの自分のベッドで、服を着たまま横たわっていた。  台所に行って、水を飲んでから、下着だけになって、ふたたびベッドに潜りこんだ。  そして、あの男のことを想いだした。 「おかしな男だったな……」  新介は口にだして、そうつぶやいた。  まったく、おかしな男だった。はたして実在の人物だったかどうか、疑わしく思えてくるほどだ。もしかしたら、泥酔が生みだした幻覚だったのかもしれない……  そんなことを考えているうちに、今度こそ本当に、新介は朝までの眠りに入っていったのだった。 3  ——終業のチャイムが鳴って、生徒たちがガヤガヤと教室を出ていった。  新介は教材をカバンに収めながら、今夜はどうしたものか、と、考えている。  妻の葉子は今夜も留守だった。  つわりがひどいので、夏が終わるまで、千葉の実家のほうに帰っていることになっているのだ。  したがって、どこかで外食をするか、それとも酒を飲んで過ごすかを、決めなければならないのである。  本当なら、一も二もなく飲みたいところだが、昨夜の泥酔ぶりを考えると、いささかちゅうちょせざるをえない。  学生時代からこれまで、正体もなく酔っぱらったことは数えきれないほどあるが、昨夜みたいに、しゃべった相手がはたして実在したのか、それとも酔いがもたらした幻覚にすぎなかったのかが、わからなくなるようなことはかつていちどもなかった。  自粛すべきだろう。  とはいっても、補習授業も今日で終わり、あとは名実ともに夏休みなのである。一年のうちで、今日ほど、酒を飲むのにふさわしい日はないはずだった。  ——まあ、ゆっくり考えればいいさ……新介はそう思った。今はとりあえず、職員室に顔をださなければならないのだ。  ようやく補習から解放された生徒たちが、いかにも嬉しそうに廊下を駆けていく。しかし、生徒たちの誰よりも、新介の表情はノビノビと、解放感にあふれて見えた。  新介は、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下をゆっくりと歩いていく。  午後の日ざしがカッと照りつけ、渡り廊下は今にも燃えあがらんばかりだった。  たちまち、新介のひたいには大粒の汗がふきだしてきた。新介は開《かい》襟《きん》シャツの襟《えり》をひろげ、バタバタとノートであおぎながら、それでも楽しげに足をはこんでいた。 「先生——」  背後から、声がきこえてきた。  新介はふりかえり、 「おう」  相好をくずした。  新介が担任しているクラスの、高沢という生徒だった。  成績は決していいとはいえないが、すなおな、頭のいい子だった。美術の先生の話によると、デッサンなどでキラリと光る才能を示すそうだ。へんなほうにねじ曲がらなければ、そちらの分野で名をなすことになるかもしれない、ということだった。  ただし、それだけに、よくいえば感受性のするどい、悪くいえばやや神経質なところのある生徒だった。 「どうした? なにか用か」  新介がきいた。 「ちょっと相談したいことがあるんですけど……」 「——そうか」  新介はうなずき、いった。「それじゃ、どっかそこらの教室に入ろう……」  新介は自分を優秀な教師とは思っていないが、生徒の話をきくことにかんしては、ほかの誰にも負けない自信があった。英語を教えるよりも、むしろ、そちらのほうが自分の天職ではないか、と、思っているぐらいなのである。  ましてや高沢は、その顔になにか思いつめたような表情を浮かべているのだ。すこしぐらい職員室に顔をだすのが遅れたとしても、話をきいてやるべきだったろう。  ちかくの教室に入り、新介は高沢と向かいあってすわった。 「…………」  しばらく、高沢はうつむいたまま、しゃべりだそうとはしなかった。どんなふうに話したらいいものか、頭のなかでひとつひとつ言葉を選んでいるにちがいない。  新介は待っている。  こういう場合は、へたにうながしたりしないほうがいいことを、新介は経験からこころえていたのだ。  やがて、高沢は顔を上げ、意を決したようにいった。 「このごろ、何をするのも、無意味なような気がして仕様がないんです」 「うん……」  新介がうなずく。 「このあいだ、ちょっと興味があったんで、宇宙のことを書いた本を読んでみたんですけど……」  高沢はややどもるようにして言葉をつづけた。 「そしたら、七十億年もたったら、太陽は直径三億キロもある赤色巨星になっちゃって……その、地球なんかも燃やされてしまうって書かれてあったんです……」 「————」 「……それに、あの……その本には、ブラックホールなんかのことも書かれてあったんです。知ってるでしょう? ブラックホールのこと——太陽よりもずっと重い星が、自分自身のなかにのめり込んでいって、どんどん小さくなって……そのなかからは、光さえも出れなくなっちゃうんです……それで、あの、自転するブラックホールだと、〓“エルゴ表面〓”っていう名の、星の表面が永久に停まって見えるところがあるんですって……そこだと、ええと、時間の流れがパッタリ停まって見えて……要するに、永久に時間がとまってしまうんだそうで……」  高沢は、考えていることの半分も表現できないで、苦しんでいるようだった。そのひたいにこまかい汗がいっぱいふきだしていた。 「あとで、その本の書名を教えてくれないか。先生も読んでみたいから……」  新介はそういい、しずかにうながした。「それで、その本がどうかしたのか」 「怖いんです」  高沢はうつむいた。「太陽が燃えつきたり、永久に時間が停止したり、なんてことを考えていると、なんだか気が遠くなってしまいそうで……人間なんてちっぽけな生き物が、あくせくと生きているのがバカバカしくなっちゃって……いえ、やっぱり怖いんです。どうせいつかは人類なんて滅びちゃうんだ、と、思うと……その……何をするのも無意味なような気がして……なんだか力が抜けちゃうような……むなしくて——」  高沢は口をつぐんだ。 「うむ——」  新介は腕をくんで、うなった。  どうせ初恋かなんかのことだろうと思っていた新介には、これはいささか予想外の相談だった。——思春期をむかえようとしている生徒が、〓“人生論〓”めいた考えにとりつかれ、なやむのは決してめずらしいことではない。しかし、これは厳密にいえば、〓“人生論〓”ではなく、哲学の領域にぞくすることではないだろうか。  だとすると、とても新介なんかの手におえる問題ではなかった。新介は生まれてこのかた、哲学書など、ただのいちどもひもといた憶えがないのである。  ほかの教師だったら、運動をしろとか、あまり思いつめるな、といったたぐいの適切なアドヴァイスをするにちがいない。しかし、新介は生徒がなにかになやむのを必ずしも悪いことだとは思っていない。考えて、なやんだあげくに到達した結論が、どんなに幼稚なものであっても、それはそれでひとつの成長と呼べるのではないか、と、かたく信じているのだった。  その場合の教師の役割りは、生徒が自分の殻にとじこもって、万にひとつも自殺などという極端な行動に走らないように、見守ってやるだけで充分なのではないだろうか…… 「むつかしい問題だな……」  と、新介はいった。「じつは、先生にもよくはわからない……どうだ? こうしないか。先生もそのことにかんしてよく考えてみるから、きみも考えてみるんだ——それで、壁にぶつかって、どうしても先へ進めなくなったら、先生のところに電話してくるなり、訪ねてくるなりすればいい。いつでも、話し相手になってやる。これで、どうだ?」 「——はい」  高沢の表情は明かるくなっていた。自分ひとりでクヨクヨと思いなやむことに、いいかげんいきづまっていたにちがいない。  新介は自分の電話番号と住所を教え、最後にはいかにも教師らしく、こうつけ加えることも忘れなかった。 「だけど、いいか——夏休みのあいだに、勉強のほうもきちんとしておくんだぞ」  ——けっきょく、新介は酒を飲むのをひかえることにした。  なにしろきのうの今日であり、やはり用心するにこしたことはない、と、思ったのだ。昨夜のあの男が幻覚だったとしたら、もちろん今夜は飲むべきではないし、——よしんば実在の人物だったとしても、〓“酒丸〓”に足をふみいれて、再会するようなはめになるのはねがいさげにしたかったのである。  どうして昨夜は、あれほど饒《じよう》舌《ぜつ》になったのか、自分でもよくわからない。あとになって想いかえせば、なんともむしずの走るような、いやなやつではなかったか。  とにかく、二度と会いたくない男であることはまちがいなかった。  しかし、駅の近くのラーメン屋で食事をすませて、アパートに帰ってきた彼を待っていたのは——昨夜のあの男だった。  ドアのまえで立っていた男は、新介の姿をみると、ニヤリと笑いかけてきた。そして、思わず立ちすくむ新介に、こういったのである。 「やあ……お言葉にあまえて、さっそく押しかけてきましたよ」 「…………」  機先を制された感じだった。  男の言葉から察するに、どうやら新介は彼をアパートに招待したようなのだ。またそうでなければ、男が新介のアパートを知っているはずがない。いまさら、昨夜は酔っぱらっていて、なにも憶えていないから、おひきとりください、ともいえないではないか。 「——どうも……」  新介はもごもごと挨《あい》拶《さつ》らしい言葉を口にしながら、とにかくドアをあけて、男を部屋に入れることにした。 「失礼しますよ——」  まったく遠慮ということを知らない男だった。さっさと部屋に入ると、ダイニング・テーブルの椅《い》子《す》に腰をおろし、なんとなくためらっている新介に声をかけてきたのだ。 「あなたもおすわりになったらいかがですか」 「————」  完全に、主客転倒していた。  新介は男の勧めにしたがって、椅子に腰をおろしたのである。自分の部屋なのに、ひじょうに居心地が悪かった。 「さて、と……」  男は新介の眼をのぞきこむようにしていった。「さっそくですけど、昨夜の話は考えていただけましたか」 「は……」  新介はとまどった。 「昨夜のお話ですよ——」  男はことさらのようにおどろいた顔をしてみせた。「まさか、お忘れになったというんじゃないでしょうね」 「その……酔っぱらっていたものですから……まことに申しわけありませんが、どんなお話だったでしょうか」 「関西に行っていただく件ですよ」 「————」 「いやだな。本当に忘れちゃったんですか……あなたが〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”の蔵元と同じ村の出身だとおっしゃったから、それではわたしの仕事を手伝ってくれないか、と、おねがいしたんじゃありませんか——そしたら、ちょうど学校のほうも休みだから、と、心よくひきうけてくださったので、こうしてわたしが参上したんじゃないですか」 「ちょ、ちょっと待ってください」  新介は男の言葉をさえぎった。  放っておくと、話がとんでもない方向に発展しそうで、いかにノンキな新介としても、いささかあわてざるをえなかったのである。 「〓“天の甜酒〓”の蔵元の村というと……関西の『一《かず》明《あき》村《むら》』のことですか」 「そうですよ」 「そこへ、ぼくが行くといったのですか」 「ええ……」  男は平然とうなずいた。 「——なんのために?」 「おやおや、それも忘れておしまいになったんですか。どうも、困りましたな……」  その言葉とは裏腹に、男はまったく困っているようにはみえなかった。むしろ、新介のろうばいを楽しんでさえいるようだった。 「わたしは、秋山という者で、主に料理関係の雑誌などで仕事をしている……まあ、フリーライターといったところですか。もちろん、わたしの名はご記憶でしょうな。昨夜は、名《めい》刺《し》もおわたししたことですし……」 「はあ……」  新介は小さくなっている。じっさいには、男の名前はおろか、名刺をもらったことさえ記憶に残っていないのだ。 「——そんな仕事をしている関係で、K—酒造に何人か知りあいができましてね……K—酒造はご存知でしょう? 清酒業界では一、二をあらそう大どころですよ……そのK—酒造のおえら方が、ある日、なんとか〓“天の甜酒〓”の蔵元と接触する方法はないか、と、わたしに相談を持ちかけてきたんですよ。要するに、〓“天の甜酒〓”の品質に眼をつけて、〓“桶売り〓”の交渉をしたい、と、まあ、そういうことなんでしょうな……しかし、ご承知のように、〓“天の甜酒〓”の蔵元は、全国販売ルートには、まったく関心がない。もちろん、代理店のたぐいも東京にはない——わたしもどうしたものかほとほと困っていたところへ、あなたと会うことができた。これは、本当にいい人に会った、と……」 「すこし、待ってもらえますか」  新介が言葉をはさんだ。「今、お茶をいれますから……」  じつは、お茶など二の次でしかなかった。なにはともあれ、秋山と名のった男の饒舌から、とりあえず逃げだしたかったのだ。  男の饒舌には奇妙な吸引力があるようだった。えんえんとつづくその話をきいているうちに、なんだか頭がグラグラとしてきて、しだいに判断力がマヒしてくるみたいなのだ。  新介はいまだかつて催眠術をかけられたことなどないが、もしかしたら催眠術にかかるというのは、こんな状態をいうのかもしれない。秋山の言葉にあらがおうとすると、なにかしらとても疲れる感じなのである。  ヤカンをガス・コンロにかけながら、新介はしきりに昨夜のことを想いだそうとしている。しかし、——どんなに頭をしぼってみても、秋山と自己紹介しあったことも、「一明村」へ出掛ける相談をしたことも、いっかな記憶の淵に浮かんではこないのだった。  とはいうものの、現に、新介の経歴などをかなりくわしく知っているようなのだから、秋山の言葉をまったくの嘘と断じるわけにもいかなかった。  ——たしかに、新介と「一明村」の縁は決して浅くない。  じつのところ、新介の素姓はもうひとつはっきりしなかった。  というのも、父親は新介が生まれるまえに、母親は新介を産んですぐに、ともに病死しているからなのだ。いや、病死した、と、新介はきかされている。  新介は自分の両親がどんな人たちだったか知らない。  新介は戸籍のうえでは、「一明村」のとある老夫婦の養子ということになっている。その老夫婦に六つの年まで育てられた後、東京の施設に送られたのだった。  なにぶん新介は幼すぎて、両親とその老夫婦がどんな関係にあり、どういう事情から自分が養子にされたのか、まったく理解することができなかった。その老夫婦も死んでしまった今となっては、それをつきとめる術《すべ》はさらになく、——両親がどんな人たちだったのかをたしかめることは、ますます困難になったといえた。  ただ、新介の両親は、「一明村」にとっていわば恩人ともいえる存在だったように思われる。そうでなければ、新介が大学を卒業するまで、毎月、「一明村」の村役場の名で生活費が送られてきたいわれがわからない。  新介がいまにいたるまで、「一明村」をおとずれる気持ちにならなかったのは不自然なようだが——少年時代、青年時代には、なんとなく両親の素姓をつきとめるのがおそろしく、結婚後には、そんなことはどうでもよくなってしまったのだ。  要するに、新介は昔のことにかかずりあっているには、あまりに健全な青年でありすぎたようなのである。 「一明村」が故郷である、という意識もあまりない。大学を卒業してからもしばらくは、村役場あてに年賀状などを書き送っていたのだが、それもいつしかとだえてしまっていた……  そう、たしかに、新介と「一明村」の縁は浅くない。しかし、そこにどんな因縁があろうと、今の新介にとっては、「一明村」は遠いよその世界にすぎなかったのである。  新介はお茶をだすと、そのことを理をつくして、秋山に説明しようとした。昨夜は酔っぱらっていたから、つい口をすべらせてしまったかもしれないが、自分には「一明村」に行く気はまったくない、と、ことわろうとしたのだが……どういうわけか、秋山と面と向かうと、気持ちがひるんでしまうのだ。  新介が口をもごもごとさせているうちに、秋山は一方的に話を進めてしまっている。 「もちろん、旅費のほうはK—酒造からださせるつもりでおります。失礼ですが、話がまとまったときには、そうおうの報酬をお約束します……真与さんは、たんに打診する、というぐらいの気楽な気持ちで行っていただければよろしいのです。脈があるということになれば、べつの人間を行かせますから……」  じっさい、手のつけられない感じなのだ。新介の意志など介入する余地はまったくなく、話はドンドン先に進んでいく。——新介はなかばやけくそのようになってしまい、 「わかりました——」  ついに、そう答えてしまったのである。「お役に立てるかどうか、とにかくやってみましょう」 「そうですか。それはありがたい」  秋山はことさらのように喜んでみせた。  ——二十四年ぶりの里帰りか……新介は頭の隅で、ボンヤリとそんなことを考えていた。 4  ——バスは黒い排気ガスを残して、ヨタヨタと走り去っていった。  新介はバッグを地面におき、しばらくあたりを見回していた。  緑濃い丘陵をきりくずした道が、なだらかな勾配をえがいて、白く、えんえんとつづいていた。  夏草の、ひなたくさいようなにおいがツンと鼻をつく。都会生活を送っているうちに、久しく忘れていたにおいだ。——アブのとびまわる羽音がきこえてきて、なんとはなしに眠気をさそわれる。  日ざしは強烈だが、都会のそれのようないらだたしさはおぼえない。むしろ、大気が強い陽光のなかにたゆたって、トロトロと午睡を楽しんでいるみたいだった。  記憶にうったえるものはなにもない。  すべてが、はじめて接するかのように、やや距離をおいて、よそよそしく映った。故郷に帰ってきたという実感はうすかった。  もっとも、たとえ新介が子供のころ、このあたりを走り回ったことがあったとしても、二十数年以上もまえのことだ。憶えているはずがなかった。  たちまち汗がふきだしてきたが、都会にいるときのような、必ずしも不快な汗ではなかった。むしろ、スポーツのあとみたいな爽《そう》快《かい》感をおぼえた。  二十分ほど歩いた。  やや道が平坦になりかかったあたりに、食料品と日用雑貨をあきなっている小さな店があった。裏のほうから、鶏の鳴く声がきこえてくる。  新介は店先に立ち、奥に向かって声をかけた。  奥の障子がひらき、いかにも人のよさそうな、五十がらみの太った女がでてきた。  新介はコーラをもらい、その場でラッパ飲みした。コーラはなま温《ぬる》かったが、喉《のど》のかわいている新介には、それでもひどくおいしく感じられた。 「まだ、『一明村』は遠いですか——」  新介の質問に、女はじつに親切に答えてくれた。あと五分も歩けば、「一明村」がみえてくるという。  新介は礼をいい、バッグを持ち直して、ふたたび歩きだした。  丘陵の林がきれ、麦の段々畑にかわっていった。土のにおいがむせかえるようだ。  さらに歩いていくと、視界がひらけ、小川にさしかかった。小川には、木の橋が架《か》けられ、橋の向こうに入《いり》母《も》屋《や》造りの家がたち並んでいるのがみえた。  ついに、「一明村」に着いたのだ。  急に、手にしているバッグが軽くなったように思えた。新介はいったん立ちどまり、ひたいの汗をぬぐうと、また歩きはじめた。  橋のうえからのぞく小川の水は、ひどく清らかに澄んでいるようにみえた。  新介はややちゅうちょしたが、その水に両手をひたしてみたいという誘惑にはかてなかった。炎天下をてくてくと歩いてきた人間には、自然の清らかな水が、なにより魅力的に思えて当然だった。  ここまで来れば、「一明村」に入るのが数分おくれたとしても、べつにどうということもなかった。  新介は橋をわたると、土《ど》手《て》をおりて、腰をおろした。  しばらくは、動く気持ちになれなかった。さすがに汗を流しながら、山道をえんえんと歩いてきたことが、体にこたえているようだった。  それでも、新介は大きく息を吐くと、ズボンからハンカチをとりだし、水にひたしはじめた。そして、顔をふき、首筋をくりかえしぬぐった。 「————」  思わず、声がもれた。  生きかえるような、という言葉が実感として迫ってきた。水は身を切るように冷たく、あつさで弛《し》緩《かん》した体を、きりりと引き締めてくれるみたいだった。  新介は充分に首筋をぬぐうと、今度はシャツのボタンをはずし、胸をふきはじめた。 「その水は体をふくのに使ったりするとおこられるよ——」  ふいに、背後から声がきこえてきた。  その言葉こそとがめているようだったが、口調はじつにやさしく、ノンビリとしたものだった。  土手のうえに、ひとりの男が立っていた。  中年の、全体に丸まっちい感じのする男だった。いまどきめずらしい、丸い眼鏡をかけている。よく陽に灼《や》けた顔が、おだやかに笑っていた。  ズボンを膝《ひざ》までおりかえし、腰からは手ぬぐいをさげている。手には、昆虫採取の網を持っていた。 「その水は、酒をつくるのに使うからね」  男はさらに言葉をつづけた。「ぼくも門外漢だから、よくは知らないんだけど、なんでも鉄分がすくなくて、硬度がたかくて、リンが多い水なんだそうだよ。シャキッとした酒をつくるのには、欠かすことができないということだ……だから、その水で体なんかをふいたりすると、土地の人はおこるよ。水がけがされたって、ね——体をふきたかったら、うちにおいでよ。井戸を使わせてあげるからさ……」 「どうも——知らなかったものですから」  新介は立ち上がり、あわてて頭をさげた。  その土地にはその土地のしきたりがある。よそ者だからといって、それをやぶっていいという法はなかった。 「うちへ来るかい? 麦茶ぐらいはごちそうするよ」 「はあ——」  新介は恐縮しながら、もういちど頭をさげ、すこし考えてから、きいた。「この村で、どこか泊めてくれるようなところはないでしょうか」 「ほう……ここに泊まるつもりなんですか」 「ええ」 「それは難問だな——」  男は人差し指で頭を掻きながらいった。「なんせ、このとおりの小さな村だからね。宿泊設備なんてものはないんだよ……まあ、県庁の役人なんかが来たときは、村役場に泊まっているみたいだけどね……失礼だけど、この村には仕事かなんかでいらっしゃったんですか」 「いえ——」  新介は首を振り、ややためらってから、いった。「ぼくはこの村に、六つになるまでいたんです。父や母もこの村で死んだ、と、きいています……ずーっとご無沙汰していたんですが、急にこの村を見たくなって……」 「六つの……」  一瞬、男は遠くをみるような眼つきになった。そして、その眼をもどし、あらためて新介をまじまじとみなおした。 「そうか」  男は笑い声をあげた。「あんたは、〓“異人さん〓”の子じゃないか」 「〓“異人さん〓”の……」  新介はあっけにとられた。 「いやあ——俺たちはそう呼んでいたんだよ。俺は岸本ってんだ。憶えているかな? 岸本んとこのダイゾーだよ」  男は口早にそういい、気がついて、苦笑を浮かべた。「もっとも、二十数年以上もまえのことだ……憶えているはずがないか……俺はガキ大将だったんだよ。いつも、近所の子供をひきつれて遊んでいたんだ。そのなかに、〓“異人さん〓”のチビも……いや、あんたもいたんだよ。俺が中学に入ったとき、あんたはこの村から出てっちゃったけど……」 「————」  新介はしばらく男の顔をみつめていた。遠い昔の、しかもろくに物心もついていない子供のころの話だ。男がいったとおり、憶えているはずがなかった。——しかし、あいまいな、夢みたいな想い出にすぎないが、何人かの年上の子供たちといつも遊んでいたような記憶が、どこかにかすかに残っていた。  そう、たしかにそんなことがあった…… 「——はっきりとしませんが、なんとなく憶えているような気がします」 「そうか」  岸本は笑い、新介をまねいた。「それじゃ、早くあがってこいよ。なにも村役場なんかに泊まることはない。俺のところに泊まればいいじゃないか」  たんに子供のころ一緒に遊んだというだけで、二十数年会ったこともなく、今、なにをしているのかもわからない人間を、自分の家に泊めようというのだ。よほどの好人物でなければ、できることではなかった。  新介も思わず微笑みながら、 「でも、とつぜんおじゃましては、ご家族のかたに迷惑がかかりませんか」 「ないない、そんなものは」  岸本は顔のまえで手を振った。「——いまだに独身ですよ。お袋と一緒に住んでいるんだ……小学校の教師なんかしてるものだから、つい子供がいっぱい居るような気になっちゃって、とうとう嫁さんをもらわずじまいだよ」  岸本は快活な笑い声をあげた。  新介は、岸本が自分と同じ教師だと知らされて、ふいに親しみが増すのをおぼえた。  故郷に帰ってきたという喜びが、今、ようやく実感となって、胸にわいてきた。  だが、——とりあえず新介は村役場に向かうことにした。  両親のこと、養父母のことなどをたしかめたかったし、どうして自分が施設に送られることになったのか、そのわけも知りたかったからだ。生活費を送ってくれる手つづきをした人に会えれば、その人にお礼もいいたかった。  岸本はこころよく、新介を村役場まで案内してくれた。荷物を持ってやろうか、とまでいってくれたが、そこまで岸本の好意に甘えるわけにはいかなかった。  しかし、村役場での収穫はまったくといっていいぐらいなかった。  いかにも実直そうな助役さんが、記録をたんねんに調べてくれたのだが、〓“真与〓”という姓はどこにも見あたらなかった。新介に送金した件にかんしては、当時の経理担当者が引退し、すでに死亡しているので、これもすぐにはわからないという。  かろうじて養父母のはっきりした死亡年月日がわかっただけで、新介の出生については、なにひとつ知ることができなかった。 「ご両親の姓が〓“真与〓”だったことはまちがいないのかね」  みるにみかねたのか、岸本がそうきいてきた。 「たしかだと思います……」  新介は力なくうなずいた。「施設のほうには、そうとどけられていたんですから」 「どうも申し訳ないこって——」  助役が恐縮したようにいった。「なにしろ、これだけの村ですから、たいていの記録は残してあるはずなんですが……まの悪いこってすなァ」 「なに、時間はまだあるんだろう? ゆっくりと調べればいいさ——俺のお袋なんかにきけば、またなにかわかることもあるかもしれないじゃないか」  岸本がなぐさめるように、新介の肩をたたいた。  ——村には、全体におだやかな、眠っているみたいな雰囲気がただよっていた。食料品、雑貨などの店をのぞけば、ほとんどの家が畑作と酒造りで、生計をまかなっているということだった。路上の車、テレビ・アンテナなどをべつにすれば、おそらくこの村は二十年このかた変わっていないのではないか。  道ですれちがう人たちは、ひとりの例外もなく岸本に声をかけ、岸本もまたいちいちていねいに挨拶をかえしていた。  それが、いかに岸本がこの村の人たちに敬愛されているかを示しているようで、新介は歩きながら、微笑を浮かべていた。  たそがれが迫っていた。  家々に明かりが点《と》もり、夕食の支度をする包丁の音があちこちからきこえてきた。  家がとぎれるあたりに、小さな、一棟だけの分教場があった。たぶん、全学年で一クラス程度の人数しかいないにちがいない。 「ここだよ——」  岸本が大きな声でいった。「この裏に、俺の住んでいる家があるんだ」  ——岸本の母親は、みるからに人のよさそうな女だった。岸本の年を考えても、とっくに六十をこしているはずなのに、まだ五十代にしかみえず、めまぐるしいほどよく働く人だった。  新介が、息子と同じ教師をしていることを知ると、たいへんな喜びようで、風《ふ》呂《ろ》をわかすやら、浴衣《 ゆ か た》をだしてくれるやら、それこそ痒《かゆ》い所へ手が届くような、世話をしてくれた。  しきりに恐縮する新介に、岸本は笑いながらいった。 「気にしなくていいよ……うちのお袋は人の世話をやくのが好きなんだから」  食事を済ませ、新介は岸本とならんで縁側にすわって、涼しい風に吹かれている——畳のうえにおかれたお盆には、ビールと枝豆がのっていた。  生垣にかこまれた小さな庭では、かすかに虫が鳴いていた。 「悪いけど——」  台所で食器を洗いながら、岸本の母親がいった。「わたしも新介さんのことはよう憶えておらんわね……たしかに、〓“異人さん〓”の子、いうのがおったような気するけど、もうひとつはっきりしよらんのよね……なんせ、昔のことだから……」 「どうして、〓“異人さん〓”の子って呼んだのかな」  岸本が首をかしげる。 「それは、ぼくにはよくわかるような気がする」  新介がいった。「今はそんなことはないけど、ぼくは子供のころ、ひどくバタくさい顔をしてましたからね……混血じゃないかっていわれていたらしい。まあ、混血でも、そうとわからないような人も大勢いるみたいだから、もしかしたら……でも、まさかなあ、〓“一明村〓”に当時、外国人がいたわけないからなあ」 「いや、それはわからんよ」  台所から、岸本の母親がいった。「……そういえば、昔、この村に外国人がかくれているという話をきいたことがあるような……戦争中やあるまいし、なにからかくれておったんかしら……でも、誰かからコッソリ耳うちされた、なんだかはっきりとせん噂《うわさ》話で……そういうことなら、おやじさんがよう知っていなさるのとちがうかな」 「おやじさん?」 「杜《とう》氏《じ》のことだよ」  岸本がいった。「蔵《くら》人《びと》の最高責任者のことさ」  ——それから、岸本はこの村の蔵人たちの、特殊な組織のことを説明してくれた。  ふつう、酒造元と蔵人との関係は、冬場だけの、臨時の雇用関係である。蔵人たちの多くは、農村漁村からの出稼ぎ組で、冬の五か月間だけ、酒造りの専門家集団として、酒造元に雇われるのだ。それでも最近は、蔵人を常雇いにする酒蔵元が増えてきつつはあったが、まだまだ日本の酒は、出稼ぎ組によって支えられているといえた。  そして、杜氏を最高責任者とする蔵人たちは、その出身地によって、それぞれ越後杜氏、但馬杜氏などと呼ばれている。 「だけど、〓“天の甜酒〓”にかんしては、事情がことなるんだ……」  岸本がいう。  この〓“一明村〓”は戦後になって開《かい》墾《こん》された村で、村人たちも全国から集まってきた人たちである。〓“一明村〓”の人たちに比較的、方言がすくないのはそのためなのだ。  新介もそれをきいて意外だったのだが、〓“天の甜酒〓”はまだ三十数年の歴史しかないという。  開墾作業はきびしく、冬のあいだ、なにもすることがなかった村人たちが、ほとんど手探りのような状態でつくったのが、〓“天の甜酒〓”なのだった。したがって、ここには、通常の意味での酒造元は存在しない。村人たちが杜氏組を結成し、そして、それがそのまま酒造元となっているのだ。  おやじとは杜氏のことであり、いわばこの村の長老のような役をはたしているということだった。 「そうだな——」  岸本はうなずいた。「おやじさんにきけば、なにか教えてくれるかもしれないな……なに、長老といっても、やさしい人だから、あれこれ教えてくれるにちがいないよ」 「それはありがたい。明日にでも、さっそくその人に会ってみますよ——」  新介はそういいながら、頭の隅をちらりと秋山の顔がかすめるのを意識した。  多少、うしろめたく思わないでもなかった。秋山の依頼の件には、まったく力を入れるつもりになれないでいるのだ。K—酒造が、〓“天の甜酒〓”を獲得できようができまいが、どうでもよかった。——今の新介には、両親のことを調べるほうが、はるかに大切なことだった。  ——明日、その杜氏に会ったとき、機会があるようだったら、K—酒造のことをちょっと話してみよう……新介はそう考え、かすかにあった罪悪感をふりすてた。 「どうですか」 「あ、どうも、いただきます」  新介はビールをうけ、ふと想い出して、きいた。「さっき、昆虫採取の網をお持ちでしたね。昆虫採取がご趣味なんですか」 「いやあ——」  岸本は照れくさそうに笑った。 「いちどは、大阪に出て、働いたんだけど……昆虫が好きでね。どうにも、コンクリートの街にはなじめんかった——たまたま教師の資格を持っていたんで、こちらへ帰ってきて、小学校の先生になったようなわけで——若い連中は、みんな街に出ていってしまっているから、なんとなくさびしくて……それで、あんたが幼なじみだとわかったとき、つい嬉しくて、強引にひっぱってきてしまったんですよ」 「おかげで、こちらも大助かりです」 「そうだといいけど……」  岸本はビールをぐいと飲み、口についた泡《あわ》を、手の甲でぬぐった。 「——とくに、チョウが好きなんですよ。まあ、どんな虫でもそうだけど、チョウの一生は脱皮、蛹《よう》化《か》、成虫への羽化と、肉体的な危機の連続でしょう。それこそ、ほんのちょっとした失敗が、死につながってしまう……いつも考えるんだけど、どうしてそんな危険をおかしてまで、昆虫は変態しなければならないんでしょうかね? どんな自然の摂理が、彼らに変態をうながすんでしょうかね……サナギと成虫じゃ、まったく別の生き物みたいだからな。ふしぎだよ、ね」 「はあ……」 「カバマダラチョウというのがいるんだけど、そのサナギにはとってもきれいな斑点がいっぱいついているんだ。金色の斑点が……カナダのある昆虫学者が、この斑点はなんのためについているのか、しらべてみたことがあるんだ。そしたら、その斑点が一種の感覚器官の役割りをはたしていることがわかったんですよ。光の感覚器官——まあ、露出計というところですかね。サナギはその斑点を通じて、羽化するのにもっともふさわしいときを選びとるわけだ…… 蛹《クリサリス》という言葉は、ギリシア語の黄金という意味からきてるの、知ってますか」  岸本はウットリと眼をほそめていた。  ——その夜、新介は自分が巨大なサナギになった夢をみた。  サナギになって、そしてなにかを待っているのだ。  日光を?  いや、おそらくは、なにかべつのもの、もっとすばらしいものを、だ。—— 5  ——よく朝、新介は岸本に案内されて、おやじさんの家へ行った。  道すがら、岸本はあれこれとおやじさんのことを話してくれた。  名前は小林卓司——妻にさきだたれ、ながく娘と二人だけで暮らしてきたが、去年、その娘も町に嫁にいってしまい、今はまったくのひとり暮らしだという。  七十歳をとうにこした今でも、杜氏として酒造場に立ち、酒造りの指揮をとっている。年寄りあつかいされるのがきらいで、老眼鏡なしで新聞を読むことができるのを、なにより自慢にしている、ということだった。  新介は、村の長老格というから、てっきり重厚なわらぶき屋根の家にでも住んでいるのか、と、考えていたのだが——予想に反して、小林氏の住居は、都会の分譲住宅によくみられるような、小さな、新しい家だった。  あらかじめ、岸本が電話をしておいてくれたおかげで、小林氏はこころよく二人を家に招き入れて、八畳の居間に通してくれた。  小林氏はいかにも律儀そうな、小柄な老人だった。よく陽に灼けた、しわのめだつその顔は、笑うと実にいい表情になった。日本の、農民の顔だった。  東京から持参した菓子折りをわたすと、かえってこちらが恐縮するほど、小林氏はふかぶかと頭をさげた。  長老、という言葉からうけるいかめしさは、どこにも感じられない。それでいて、ながく接していると、いつのまにか相手に尊敬の念をいだかせてしまう——小林氏はそんな老人だった。  しばらくは、小林氏と岸本のあいだに雑談がとりかわされた。主に、小学校のオルガンをとりかえるべきかどうか、というような話だった。  そして、ようやく話題が新介の件にうつった。 「さて、と……」  小林氏はお茶をすすりながら、遠くをみるような眼つきになった。 「あんたの養父母の石川さんご夫婦のことはよく憶えているんだが……あんたがどこからもらわれなすったかはきいとらんなあ。わしら、親戚からでももらいなさったか、と、よく噂はしたもんじゃが……なんとのう、石川さんにきくのは悪いような気がして」 「ぼくを養子にしたというのは、あくまでも形式上のことにすぎなかったと思います。ぼくの実父母からあずかった、というのが真相じゃないでしょうか……そうでなければ、石川さんが、六つになったぼくを、東京の施設に送りこんだりするはずがない、と、思うんですが」  小林氏は、新介を興味ぶかげにみつめた。 「まさか、石川さんご夫婦をうらんでいなさるんじゃないだろうね」 「とんでもない」  新介は首を振った。「それどころか、よく赤の他人のぼくを六つになるまで育ててくれた、と感謝しているぐらいです」 「そんならええが……」  小林氏は微笑した。「石川さんご夫婦は、まじめな、ええ人たちじゃった……あんたを東京の施設に送ったのには、なにかわけがおありなすった、にちがいないよ」 「はい……」 「ただ、あんたの本当のお父さんお母さんのことは——」  小林氏は首をかしげた。「むつかしいなあ……石川さんご夫婦が土砂崩《くず》れの事故でおなくなりになってから、もう二十年以上もたつからね。いまから、ご両親をさがすのはちょっと骨じゃないかなあ……」 「そうでしょうね」  新介は唇をかみ、すこし考えてから、きいた。 「石川さんご夫婦がなくなったのは、施設の先生からききました。小学校の四年のときだったように思います。子供だったし、石川さんとはもう何年もお会いしてなかったので、それほど悲嘆にくれるというようなこともなかったのですが……ただ、子供心にこれからどうなるんだろう、と考えたことは憶えています。子供ってけっこうなんでも知っているし、現実的なんですね。生活費が送られてこなかったらどうしよう、と、不安にかられたんですよ。ところが、それからも村役場の名で、毎月、きちんと生活費が送られてきた……」 「ああ、それはわたしらがやりました」  小林氏はうなずいた。「といっても、べつにわたしらが自分のふところを痛めたわけではない。——石川さんにはほかに係累がいなさらんかったし、死ぬまぎわに、奥さんにくれぐれもそうしてもらいたい、と、たのまれもしたし、で……石川さんの畑地を村で買いあげたんですわ。わたしら相談のうえで、その代金を、あんたの学費、生活費として、毎月、均等にわって送っていただけで……いってみれば、当然のことです——」 「とんでもない」  新介は頭をさげていた。「そのおかげで、なんとか一人前になることができました。ありがとうございました……本当は、もっとはやくお礼にうかがうべきだったんですが」 「いやいや——」  小林氏は照れたように手を振った。 「礼をいわれるようなことじゃない。畑を買ったら、その代金を支払うのは、あたりまえのこってしょうが——」 「————」  新介はあらためてふかぶかと頭をさげた。  たしかに、送金だけではとうてい足りず、新介は高校時代から、アルバイト、アルバイトで、忙しい毎日を送ってきた。卒業してからだって、ひとりぼっちの身のうえということで、さまざまなハンディキャップをかせられ、それをはねのけるために、人一倍勉強しなければならなかった。しかし、——それにしても、故郷をおとずれるぐらいの時間はつくれたはずなのである。  それをあえてしなかったのは、やはりどこかで自分は故郷から追放された身だ、とひがんでいたからではないだろうか。じっさいには、石川さんご夫婦にしても、この村の人たちにしても、赤の他人にしかすぎない新介に対し、精いっぱいの好意を示してくれた、というのに……  ——もう両親のことはいい……と、新介は思った。いまさら両親が誰かをさぐっても、どうなるものでもない。それより、自分に新しい故郷ができたことを、すなおに喜ぶべきではないだろうか……  新介は、秋山の依頼の件もはたす気持ちがなくなっていた。東京にもどったら、秋山にわけを話して、旅費を返せばすむことではないか。せっかくすばらしい故郷をみいだしたというのに、商談なんかもちかけて、それをぶちこわしにはしたくなかった。  沈黙してしまった新介を、しばらく小林氏は注視していたが、 「ところで、あんた、こちらのほうはいける口ですか——」  酒を飲む手つきをしながら、そうきいてきた。 「はあ……おつきあい程度には」 「それはよかった」  小林氏は嬉しそうに笑った。 「じつは、今夜は、あんたのために一席もうけたいと思うんじゃが…………どうだろう? 出てもらえんだろうか。なにしろ、若い連中は、みな町に出ていってしまってからに、いっこうに顔をみせようとはせん……だから、たまに里帰りする者があると、わたしら、嬉しくて仕様がないんですよ」 「でも、そんなことをしていただいて、ご迷惑をおかけするのでは……」  新介がそういいかけるのを、 「遠慮しなくていいよ」  ニヤニヤ笑いながら、岸本がさえぎった。 「ここのお年寄り連中にはのんべえが多いからね。なんだかんだ口実をつくっては、みんなで集まって、飲みたがるんだよ」 「これですからな」  小林氏は大仰に嘆いてみせた。「たまに村に残る者がいるかと思うと、こんな悪タレばかりで……」  新介は、ほかの二人と声をあわせて笑いながら、本当にこの村に来てよかった、と、しんそこから思った。  ——この村には、寺がない。  寺がなくても、人は死ぬから、山をきりひらいて、小さな墓地がつくられている。墓地を山のなかにつくったのは、仏がいつでも好きなときに村をみることができるように、という配慮からだという。  新介は養父母の墓参りを思いたち、岸本とわかれて、ひとりで山道を登っていった。  日ざしはあつく、道は急だったが、新介はそれほどつらいとも思わなかった。ひとつには、新介の気持ちが昂揚しているからであり、もうひとつには、山道の景観が眼を楽しませてくれたからである。  細い道の両側には、夏草がもりあがるように生い茂り、咲きみだれる灌《かん》木《ぼく》の花のあいだを、ハチがしきりに飛びかっていた。ハチの翅は陽光をキラキラと反射し、まるで金粉がまっているみたいにみえた。  ときに、日の光が樹々の緑に濾《ろ》過《か》され、青くそまっているような場所にさしかかることがある。すると、ほてった肌からすっと汗がひいていき、じつに心地よく、それも楽しみのひとつだった。  十分ほども歩いたろうか。  道がなだらかになっていき、前方にブナの林がみえてきた。その林のなかに、肩をよせあうみたいにして、墓石がひしめいていた。  女たちの声がきこえてきた。  村の女たちが何人かで、墓地を掃除していた。水をまいたり、竹ボウキで地面を掃いたりしながら、女たちは声高にしゃべりあい、陽気に笑っている。  新介は微笑して、足を進めようとして——その、女たちの会話に、自分の名がはさまれるのを耳にして、その足をとめた。 「〓“異人さん〓”の子が帰ってきたらしいね」  年輩の女がいう。 「それ、誰?」  若い女がきいた。 「あんた、知らんのかね? ほら、そこに墓があるやろうが——石川さんご夫婦が、養子にしたというか、あずかって、六つのときまで育てなすった子よ」 「なんで、〓“異人さん〓”の子いうん?」 「お父はんが外国人やったんやと」  べつの女がいった。「わたしもお母はんからきいたんやけど——ほれ、あの小林のおやじさんが、ある日、そのご夫婦を村に連れてきなはったそうや。なんでも、山のどこやらで倒れているのをたすけなさったとか、で……それで、蔵《くら》人《びと》の男はんたちが集まって相談した結果、そのご夫婦を村でかくまおうということになったんやと」 「かくまう?」  若い女がすっとんきょうな声をだした。 「そのご夫婦、なんか悪いことしたんか」 「だったら、あのおやじさんがかくまおうといいだすわけないわ」  年輩の女がいった。「なんか、ふかいわけあったんとちがうか……それで、気の毒にご主人のほうはすぐに死なはって、奥さんのほうも、子供を産むと、どこかへ行ってしまはったんやと」 「子供、おいてか」 「そうや」  年輩の女はうなずいた。「それで、子供のおらん石川さんがあずかったということや」  新介は今の今まではれやかだった胸のなかに、急速に暗雲がひろがっていくのを感じていた——たしか、小林氏は新介の両親のことについては、なにも知らないといったはずではなかったか。それでは、小林氏は嘘《うそ》をついていたのだ。 「どんな事情があるにせよ、じつの子供をおいていくなんて……」  若い女は首を振りながら、そういいかけ、墓地のそばに立っている新介に気がついて、ギョッとした顔になった。ほかの女たちも新介の姿に気がついて、なにか怯《おび》えたようにおしだまった。 「石川さんのお墓はどちらでしょうか」  新介はしずかにそうたずね、女たちが一《いつ》斉《せい》に指差した墓に、歩き寄っていった。  墓に手をあわしているあいだも、新介は平静な気持ちではいられなかった。 6  ——新介はくりかえし辞退をしたのだが、とうとう上座にすわらされてしまった。  二十畳ほどの座敷に、黒塗りのお膳がコの字型にならべられ、十数人の村人たちがそのまえにすわっている。蔵《くら》人《びと》たちが酒造りをおえたとき、祝いの酒宴をひらくための座敷だそうで、今、ここにすわっている村人たちも、そのほとんどが蔵人だという。  したがって、老人が多い。  老人が多いのだが、これがみんな元気いっぱいの老人たちなのである。しずかだったのは最初のうちだけで、盃が何度もやりとりされるうちに、しだいに座がにぎやかになっていき、ついに飲めや歌えのドンチャン騒ぎになってしまった。  この村の老人たちはなにかにつけ、口実をもうけて、酒を飲みたがる、といった岸本の言葉は嘘ではなかったようだ。それだけに、気のおけない、ひたすら陽気な宴会だった。  だが、——新介は酔えなかった。飲めば飲むほど、奇妙に酔いが内向していくみたいで、逆に頭が冴《さ》えてしまう感じなのである。  理由はわかっている。  今日、墓地できいたことが気にかかっているのだ。新介の実父母に会っていながら、知らないと答えた小林氏のことを考えると、この宴会をひらいてくれたことにも、もうひとつすなおに感謝できないのである。  もちろん、小林氏を好人物と思う気持ちにかわりはない。新介の実父母のことをあえてしゃべらなかったのには、それなりのわけがあるにちがいなかった。しかし、——そう自分を納得させようとしても、どうしてもわりきれない気持ちが残るのだった。  酔った老人たちが、しきりに新介のまえにきて、酒を飲ませようとする。新介は酒をうけ、適当に調子をあわせてはいたが、その表情は決して浮かれていなかった。  どうやら、小林氏はそんな新介の様子を遠くからうかがっていたらしい。ふいに腰をあげると、新介のそばまでやって来て、 「ちょっと外へ出てみませんか」  そう、ささやいてきた。 「え……」 「お話したいことがあるんですが」 「————」  新介は、あらためて小林氏の顔をみなおした。  小林氏はいささかも酔っていないようだった。新介をみている表情は、真剣そのものだった。 「ええ——」  新介はうなずいた。「おともしましょう」  座敷をでるとき、新介は岸本をふりかえった。岸本はとなりの老人に向かって、興奮したように、チョウの求愛活動のことをしゃべっていた。  ——懐中電灯の明かりがちらちらと揺れていた。  こうして歩いているぶんには、さほどに感じないのだが、山のほうではかなり強く風が吹いているようだ。ときおり、森のざわめく音が、ザーッと海鳴りみたいにきこえていた。  小林氏は懐中電灯で足元を照らしながら、黙々と山のほうに向かって歩いていく。新介もまた口をとざして、ひたすら小林氏にしたがっていた。  酔いが急速にさめていき、山の冷気が身にしみはじめた。 「女たちからきいたのですが」  歩いていきながら、ボソリと小林氏がいった。「ご両親のことをおききになったそうですな……」 「————」  新介はうなずき、相手が前方を向いたままなのに気がついて、あわてて口にだしていった。 「ええ、決して盗み聞きするつもりはなかったのですが……」 「さぞかし、わたしのことをけしからん爺《じじ》いだと思ったでしょうな」 「…………」 「わたしはご両親のことはなにも話さんほうがええと考えた」  小林氏はしずかにいった。「弁解するわけではないが……そのほうがあんたのためにええ、と、考えたんですよ」 「なぜですか」 「なぜかな……ご両親はなにか問題をかかえておいでのようだった。そう、誰かから追われているようにみえましたな。追われて、それでこの世界に一時避難してきた——そんな印象をうけましたよ」 「この世界——」  新介には、小林氏の言葉がおおげさにすぎるようにきこえた。 「避難……」 「ただ、そんな印象をうけたというだけのことです。くわしい事情を知っているわけではない……もう三十年もまえのことだし、いまさらそれをつきとめる術《すべ》はないんじゃないのですかな」  小林氏はそういい、ふいに立ちどまり、新介をふりかえった。 「わたしがはじめてご両親にお会いしたのはここなんですよ」 「……で……」  新介は無意識のうちに一歩をふみだし、小林氏が懐中電灯を向けたさきを、ジッとみつめた。  眼のまえにきりたった崖《がけ》がそびえ、その崖にポッカリと大きな洞《ほら》穴《あな》があいていた。なにかに使われている洞穴らしく、電気の引き込み線が入っていて、入り口は板戸でしっかりとふさがれていた。 「三十年まえ——わたしはこの洞穴のなかで二人の男女が倒れているのをみつけたんですわ……」  小林氏は板戸をあけながら、いった。「男のほうは外国人、女のほうは日本人のように思えましたが……はっきりとは断言できません。とにかく、二人ともひどい衰弱ぶりで、そのうえ女はみごもっていました……」 「それが、ぼくの父と母ですね」  新介がそうたずねるのには、なにも答えず、小林氏は洞穴のなかを照らしだした。  奥ゆきはそれほどでもなかったが、洞穴のなかは意外に広く、きれいに地面が掃ききよめられているのがわかった。どうやら酒造場として使われているらしく、人間の背丈ほどもある大桶がいくつも置かれてあった。 「あれは、仕込み桶ですよ……」  小林氏がいった。 「〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”は昔ながらの酒造りをしてましてねえ。もっとも、近代設備をとりいれようにも、そんな金はどこにもありゃせんのですが……仕込みは、ああして仕込み桶でやるんですよ。醪《もろみ》を発《はつ》酵《こう》させるんですが、ね——まあ、だいたい常温を七度ぐらい、十五日めに十五度ほどに調節できれば、よい醪《もろみ》ということになりますかな。生きている微生物が相手ですからな。そりゃあ、あんた、神経をつかいますよ。温度ももちろんだが、時間をみはからうことも大切でしてな——わたしら、酒造りとしては素人ですわ。なんせ、戦後、ここへ移ってきてから、酒造りをはじめたんですものね。とてもとても、ほかの杜氏衆のようにいくはずがない……ところが、この洞穴を仕込み場として使うと、ふしぎに仕込みがうまくいく。そりゃあ、わたしら蔵人も、桶のまわりをむしろでくるんだりはしますが……なんの、〓“天の甜酒〓”がおいしゅうできるのが、わたしら素人のせいでありますものか。わたしは、この洞穴のおかげと信じています……」 「…………」  新介は、どうして小林氏がふいに酒造りのことなど話しはじめたのかわからないまま、それでも熱心にその話をきいていた。 「——じつは、この洞穴がそんな力をさずかったのも、あなたのご両親のおかげだと、わたしら蔵人はみんなそう感謝しておるんですわ……」 「え……」 「理屈にもなっておらん話だということは承知しております……」  小林氏は新介をみて、やさしく笑った。 「ですが、あんたのご両親が現われるまでは、ここを仕込み場に使っても、ろくでもない酒しかつくれませんでした。あんたのご両親がここで倒れていたその冬から、〓“天の甜酒〓”ができるようになったんですわ……さっきわたしが、ご両親はこの世界に一時避難してきた、といったとき、あんたはおかしな顔をなさったが、それがわたしらの実感なんですよ……。ご両親はどこかべつの世界からここへやって来なさった。この洞穴はいわばその通路として使われ……そのおかげで、それ以前の洞穴とは変わってしまった……わたしら、そう解釈しております」 「どう変わったとおっしゃるんですか」 「時間が——」  小林氏はそう答え、ちょっと口ごもるようにしていった。「この洞穴のなかでは、外界とくらべて、時間がゆるやかに流れているような気がするんです。それが、醪《もろみ》の発酵にどうしていい影響を与えるのか、わたしら無学なもんにはわかりませんが……」 「…………」  新介はあらためて洞穴をみなおした。  懐中電灯の明かりのなかに浮かびあがっている赤っぽい岩《いわ》肌《はだ》には、どこといって変わったところはないようだった。むろん、時間がどんなふうに流れているかなどわかるはずがなかった。 「信じられません……」  新介がいった。 「そう……信じられないでしょうなあ。あの人たちに、いや、ご両親に会われてはおらんのだから……」  小林氏はなにか遠くをみるような眼つきになった。 「——じつに、ふしぎな人たちでした。ものしずかで、それでいてどこか強い……二人ともわたしらにはなにもしゃべってくれませんでした。もっとも、二人とも日本人でなかったとしたら、なにをしゃべってもわたしらには通じん道理ですが……いや、子供のあんたをみれば、そんなはずがないことはあきらかですが……すくなくとも、お母さまのほうは日本人だったんでしょうな——それにしても、なにもしゃべってくれなかった。しゃべってはくれなんだが……なんとなく、こちらに通じるものがありました。わしは、ご両親は一時避難して来たといいました。あくまでも、一時にすぎなかったのでしょうな。静養して、体がもとどおりになったら、最初はお父さまが、次には、あんたを産んでから、お母さまがもどっていきなさった……女たちは、あんたのお父さまが死んで、お母さまは子供のあんたを残してどこかへ行ってしまった、というふうに思いこんでいるようですが、事実は、わたしのいったとおりです……」 「どこへ? どこへもどっていったんでしょうか」 「わかりません……」  小林氏は新介をみすえて、いった。 「だが、ご両親がどうしてあんたをおいて、姿を消されたのかは、わかるような気がします……ご両親は、あんたにはしずかで、平和な生活を送ってもらいたい、と、望んでいらしたのではないでしょうか。それがわかっているからこそ、わたしはあんたにあえてご両親のことを話さなかったのです……わたしらは、あんたのご両親には、〓“天の甜酒〓”をさずかった恩義がある。だから、あんたが大きゅうなるまで、できるかぎりの援助をさせてもらったし……どうやら、しあわせに暮らしていなさるらしいあんたの生活を、ご両親のことを話して、かき乱したくはなかったんですわ」 「…………」  新介はただ呆《ぼう》然《ぜん》としている。小林氏の言葉が頭のなかでさまざまに交錯して、とっさにはどう理解したらいいのか、自分でも判断をつけかねていた。  とつぜん、背後の茂みがガサガサと音をたて、「おい、こら、なにをしておるか」と喚く声がきこえてきた。  小林氏が、声のした方向に懐中電灯を向けて、ひとりの男の顔を闇から浮かびあがらせた。その男は、——岸本だった。 「いま、おかしな男があんたらの様子をうかがっていたんだ。俺が叱《しか》りつけたら、どこかへ消えちまって……」  岸本は興奮したようにそういいかけ、二人の表情に気がついて、頭を掻《か》いた。「いや、ちょっと二人のことが気にかかったもんだから、悪いとは思ったけど、あとをつけさせてもらって……実は……その、立ちぎきしてたんだ」  新介は苦笑しながら、きいた。 「その、ぼくたちをうかがっていたというのは、どんな奴だった?」 「女みたいな、いや、女でもあれだけきれいなのはめったにいないな。とにかく、すごいほどの美男子だったよ……」  岸本は勢いこんでそういい、いかにもふしぎだというように、首をかしげた。「それにしても、よほど逃げ足の早い奴なんだな。俺が声をかけたとたんに、宙に消えてしまったみたいに……」  ——秋山だ……と、新介は思った。秋山と名のったあの男にちがいない……考えてみれば、あの秋山と名のった男には不審な点が多すぎる。K—酒造のために働いているといいながら、そのくせ誰一人として、K—酒造の人間を新介に紹介してくれはしなかった。それに、あの話術——あの話術には一種催眠術のような力がそなわっているのではないだろうか。思えば、まったくその気もなかった新介が、あの男の言葉にあやつられたようになってしまい、フラフラと「一明村」にやって来たのも、奇妙な話ではないか……  しかし、今の新介には、秋山の正体も、その行動の意図するところも、いっさいどうでもいいことだった。  両親が新介のことを愛し、その将来を案じていたのは、たしかなことのように思われる——それで、よしとすべきではないだろうか。たとえ両親が誰だかわからなくても、新介がおだやかに、平凡に毎日を送っていければ、それで充分に親孝行をしたことになるのではなかろうか…… 「すこし、寒くなってきた」  小林氏がいった。「そろそろ、もどりませんか」 「ええ……」  新介はうなずいた。「そうしましょう」  ——山道をくだっていきながら、新介は生まれてくる子供のことを、しきりに考えていた。  ——こうして、事件と呼ぶのもためらわれるような、ささやかなこの事件は、とにもかくにもひとつの結末をむかえた。  しかし、それはちょうど水底に起こった渦《うず》巻《まき》が、小さな泡《あわ》を水面に浮かばせるような……あくまでもこの世界での結末にすぎなかった。  水面の泡をみたかぎりでは、決して水中の渦巻をみさだめることができない。それと同じように、時間と空間を異にする別の世界では、結末をむかえるどころか、すさまじい闘争がえんえんとくりひろげられていたのである。 第二章 時はとどまり 1  時間流に乱れが生じていた。  たとえば——宇宙のあらゆる方向からやってきて、ひとつの星に収束する輻射があった。  その輻射は、原子核反応を逆向きにおこした。原子核反応がエネルギー源としてではなく、エネルギーの吸い口となっているのである。  おそらく、反世界においては、これは当たりまえの現象であるだろう。しかし、この世界ではありうべきことではなかった。ちょうどフィルムを逆回転させたみたいに、時間の逆転がおこっているのだった。  もちろん、この現象は〓“純粋時間〓”の、しかも〓“形而上的時間〓”に身をおく場合にかぎって、観測が可能だった。観測系そのものが、現象のなかにくみこまれている〓“空間指向〓”の三次元世界においては、時間流の乱れを観測することはむつかしかった。  α系第一三五六四二——すべての時間流の乱れは、この座標位置から生じていた。  シンとマヤは、とりあえずプラットホーム〓へ向かった。  ——〓“プラットホーム〓”とは、時間流のなかに設置された基地の呼称である。  この基地の形、機能を理解するには、大海にただようブイを想起するのが、もっともわかりやすいと思われる。  ブイは波に揺られながらも、ある一定の位置にとどまらなければならない。それと同じく、プラットホームもつねに〓“現在〓”にとどまることを要求される。そうでなければ、基地としての機能をはたせないのだ。 〓“未来〓”に流れていく時間粒子のなかで、プラットホームは〓“過去〓”をいわば逆噴射させて、ようやく〓“現在〓”を確保しているのだった。  言葉をかえれば、それは〓“現在〓”というスリットを恒常的につくることを意味していた。  ——プラットホーム内部のエネルギー源としては、時間粒子の造波抵抗を用いている。いうならば、波力発電のようなものだ。事実、虚空に浮かぶ巨大な波力発電ブイ、といった印象をそなえているのだった。  シンとマヤは、トボットをランプに収容すると、その足で〓“時《ブ》間《ラ》管《フ》理《マ》者《ン》〓”のもとにおもむいた。  プラットホームの内部は、いちおう〓“形而上的時間〓”に制御されているが、なにぶん構造が複雑にすぎて、完璧に制御されているとはいいがたかった。1/102424秒の時間粒子の侵入を完全におしとどめることはできず、生理時間にして二十秒ほどではあったが、時間流の影響をうけていた。ここでは、前後二十秒の過去と未来が同時に、重層的に存在しているのである。  したがって、シンとマヤが歩を進めるにつれ、残像が、あるいは二十秒さきの未来像が、いくつも浮かびあがってくる。慣れているとはいえ、自分の背中をみながら歩くのは、やはり奇妙な気持ちにさせられるものだ。シンとマヤは、なんとなく爪先立ちになって、歩いていた。 〓“時間管理者〓”の姿がみえてきた。 〓“時間管理者〓”をブラフマンと呼ぶのは、その身は一定の場所にとどめながら、意識を全時間にはりめぐらすことができる能力が、インド古代宗教の万物創造の神、すなわち〓“梵天《ブラフマー》〓”と同一視されているからだった。〓“時間管理者〓”はメタモルフォーゼではなく、瞑《めい》想《そう》によって、時間粒子の流れを知った、唯一の人間なのである。  シンとマヤは、〓“現在〓”に固定されている椅子に腰をおちつけ、〓“時間管理者〓”と向かいあった。 「——スクリーンをみたまえ」 〓“時間管理者〓”の声がきこえてきた。  スクリーンに映しだされた〓“時間〓”はいちじるしい乱れをみせていた。たとえば、一個の電子、一個の陽子、一個の中性微子が正確に、同じ原子核にうちこまれ、一個の中性子を生みだすという信じられない現象まで起きているのだ。  ここでは、スクリーンだけが鮮明にみえていた。重層する過去と未来が、すべての事物の輪郭をとかし、あいまいもことしたものにかえていた。〓“現在〓”に固定されているものにしてからが、霧のなかにつきでた尖塔のように、暗く、遠いものにしかみえないのだ。 「これも、彼らの仕業ですか——」  音声マイクを〓“現在〓”に調整して、シンがきいた。 「そうだ……」 〓“時間管理者〓”がいった。「まちがいなく、彼らの干渉だ……」 「————」  シンは沈黙した。  いつものことながら、彼らの想像を絶する能力を考えると、やりきれない無力感をおぼえるのだ。  はるか時平線の果てに身をひそめながら、人類に対して、不断に攻撃をしかけてき、ついにはその歴史をボロ切れのようにおとしめてしまう彼ら……たかみに昇ろうとする人類の営為をあざわらい、そのいとなみをこそくな因果律のなかにとじこめようとする彼ら……シンがファシストと呼び、マヤが悪魔と呼ぶ彼らの正体は、いまだに解明されないままになっていた。  遠い昔——シンはいまと同じような気持ちをあじわった憶えがあった。石畳のうえを、ザッザッと踏みならしていくファシストたちの軍靴のひびき——その靴音を、息を殺しながら、なんともやりきれない気持ちで、きいていた記憶があるのだ。  遠い、遠い記憶…… 「——ですが、およそ人類とは縁のない島宇宙の一角に、時間流の逆転をひきおこしたとしても、それがわれわれとどんなかかわりがあるというんでしょうか……」  マヤがきいた。 「わからない……」 〓“時間管理者〓”が首を振った。「しょせん、人類には時間流の本質を理解する能力が欠けているのだ——しかし、彼らにとって、時間とは大きな河の流れのようなものであるらしい。首をあげさえすれば、水源から河口まで見とおすことができるのだ……われわれのように、時間観測のために、〓“形而上的時間〓”という、いわば擬似時間に身をおく必要も、ましてや瞑《めい》想《そう》の必要もない。無限の過去から、無限の未来まで、時間はつねにそこにあるのだ……」  ——そうとも……と、シンは苦々しく考えた。だからこそ、彼らはなんのためらいもなく、人類の時間に干渉してくるのだ。あるいは河をせきとめ、あるいは水路の幅をひろげ、人類の歴史の流れを、いいように決定してしまうのである……  複雑に交錯した因果関係をみさだめ、決定的な影響をおよぼすことは、人類にはとうてい不可能なことだ。  しかし、時間粒子の性質を知りつくした彼らにとって、それはいとも容易なことであるらしいのだ。彼らは、いうならば〓“時間構築者〓”のようなものだった。時間はたんなる素材にすぎない……  彼らは人類の時間に干渉し、その歴史をあさましい弱肉強食のそれにかえてしまう。ジンギスカンの遠征から、アウシュビッツまで、〓“狂ったサル〓”の歴史にかえてしまうのだった——人類は本来、ひじょうなたかみにまで昇りつめる可能性をふくんだ存在なのだ。すぐれた徳性を発揮し、すべての生き物の庇護者たりうる資格をそなえた存在なのだ。それが、生態系の頂点に位置するものの、進化の帰結なのである。  だが——彼らの干渉があるかぎり、人類がその進化をきわめることはできない。それどころか、未来永《えい》劫《ごう》、破壊と殺《さつ》戮《りく》の歴史をくりかえさなければならないのだ。  彼らがどうして、人類の時間に干渉するのかはわからない。  人類がたかみに昇りつめることを警戒しているのか。嫉《しつ》妬《と》しているのか。それとも、たんにおもしろがっているだけなのか。  それが、どうしてもわからないのだ。 「——われわれにとって、時間とは、つねに情報量の増加という形でしか理解できないものなのだ。ちょうど樹木の年輪のように、過去の記憶をふくんではいるが、未来の記憶はまったくふくんでいない……」 〓“時間管理者〓”が言葉をつづけた。 「そう……もちろん、予測することはむつかしくない。しかし、予測はあくまでも予測であって、つねに不確定なものだ。とてもとても、彼らのように、時間を構築することなどできない相談だよ……残念なことに、われわれは徹底して、〓“空間指向型〓”の生物なのだからね」 〓“時間管理者〓”の言葉には、苦い述懐がこめられているようだった。なみはずれた徳性を示し、瞑想によって、時間粒子の存在を感知するにいたった彼も、ついに時間の本質に迫ることができない人間の限界に、あわい失望をいだいているのかもしれない。 〓“時間管理者〓”は、なにごとを教えるのにも比《ひ》喩《ゆ》をもちいた。彼は、三次元世界に身をおいているとき、教育を欠いた人たちを相手に、自分の教えをつたえなければならないことが多かった。そのためには、たとえ話がもっとも有効だったのである。  たとえば——時間は大きな河にたとえられる。  波高がいっときたかくなろうと、水かさが増そうと、大河そのものが変質をとげるわけではない。それと同じように、過去と未来との間に、どんな矛《む》盾《じゆん》が生じようと、時間はとうとうと流れつづけ、ついにはその矛盾すらのみこんでしまう。人間のこざかしい知恵が生みだしたタイム・パラドックスなど、どこにも介入する余地がないのだ。  なるほど、たしかに、それはそうであるかもしれない。しかし、〓“時間を構築する〓”彼らと、時間を修復する自分たちとの奇妙な闘争を、いざ論理的に分析しようとすると、いくつもパラドックスが生まれてくるようで、どうにも収拾がつかなくなってしまうのである。  したがって、シンは事実を事実としてうけとめるにとどめ、時間流の本質にかんしては、つとめて考えないようにしている。そうでないと、パラドックスにがんじがらめにしばられ、動きのとれない状態になってしまうからだ。〓“時間管理者〓”のいうとおり、人間とは徹底して、〓“空間指向型〓”の生物なのかもしれなかった。  しかし、いかにもこれでは、あたかも人間が空間に接するごとく、時間を自由に使いこなす彼らと戦うのには、たよりないといわねばならなかった。 〓“時間管理者〓”は、時間流と人間とのかかわりを、さらに明確に理解させるために、こんなふうに教えることもある。  ——時間粒子は、いわば仏教でいう刹那滅のようなものである。一刹那一刹那の明滅が1/02424秒の時間粒子にそうとうするのだ。そして、時間流は、未来世から、現在世、過去世へと流れていく……未来世には法《ダルマ》なるものが多くたくわえられている。仏教においては、法を事物、存在——すなわち、いっさいのものと解釈している。  これを、ありうべき可能性のすべてと解釈しても、必ずしもまちがいではない、と、〓“時間管理者〓”はいうのだ。  すべての可能性は未来世にたくわえられている。その可能性をひきだし、現在世に顕在化させるものこそ、過去世に投企された業《カルマ》にほかならない。業《カルマ》——つまり、人間の行為のことである。  しかし、業《カルマ》と法《ダルマ》とは、一本の因果関係でむすばれているわけではない。もちろん、ある範囲のなかのことではあるが、さまざまな因果関係が存在し、法《ダルマ》もまた多様な発露をみせるはずなのだ。だからこそ、可能性なのである。  だが、——彼らは人間の時間に干渉し、その因果関係を、つねに破壊と殺戮という形でしめくくろうとする。彼らは、いうならば人間から可能性を略奪しているのだ…… 「未来世には、豊かな法《ダルマ》の貯蔵庫がある」  と、〓“時間管理者〓”はいう。 「われわれは、人類のためにその貯蔵庫の鍵《かぎ》をあけてやらねばならないのだ」  が、いかに〓“時間管理者〓”が言葉をつくしても、比喩はしょせん比喩でしかなく、もうひとつ時間流の本質をあきらかにできないきらいがあった。  そして、そのことが、たまらなくシンを不安な気持ちにさせるのだ。はたして、戦場の様子すらろくに知らない兵士が、満足に戦えるものだろうか……  シンはその不安を〓“時間管理者〓”にうったえないではいられなかった。 「わかっている——」 〓“時間管理者〓”はうなずいた。「それはわかっている。人間の時間理解にはおのずとかぎりがある。おそらくわれわれだけでは、彼らと戦うことは不可能だろう。しかし……」 「しかし?」 「さいわいにも、われわれには味方がいるのだ」 〓“時間管理者〓”の指がスクリーンに向けられた。  ふいに、スクリーンがまばゆく銀白色にきらめいた。  それは、ちょうど一枚の鏡がスクリーンに映しだされたようなあんばいだった。しかも、その鏡はスクリーンに対して平行ではなく、べつの鏡を映しだしていた。さらに、そのべつの鏡にも、またもう一枚の鏡が映しだされているのだ。そして、その鏡にも……どこまでいってもきりのない、無限のあわせ鏡なのである。  奇妙なことではあった。  反射角がことなるからなのだろうか。現実に映っているものがあるわけでもないのに、たしかにそこには無数の鏡が存在する、と、感じさせるなにかがあった。二次元のスクリーンが気の遠くなるほどの奥行きをしめし、はるか彼方《 か な た》にまでのびているのだった。  シンは眼をしばたたかせ、スクリーンを凝視した。  ついには、ただ一点に収《しゆう》斂《れん》されてしまう鏡の通廊の、その一点が動いているようにみえるのだ。いや、——なにかが、鏡の通廊をこちらに向かってくる! 「反銀河の知性体だ……」 〓“時間管理者〓”がいった。「反物質の生命体だよ。すべてが反転していて、時間さえ逆に進んでいる世界の住人だ。もちろん、反転しているというのは、こちらからみればの話であって、あちらにしてみれば、こちらが反転しているということになる。鏡像生命体ということにでもなるかな……知っていると思うが、反銀河の生命体とわれわれが接触することは不可能だ。接触したとたんに消滅してしまうことになるからな……だが、あちらの生命体は、われわれよりも反世界の探査に熱心だった。ちょうど、人間が宇宙進出に熱中するように、反世界……つまり、われわれの世界に入りこもうと、ながく方法を模索してきたのだ。そして、ついにその方法をみつけた。彼らはCPT反転の鏡におのれを映し、いわばその鏡像を実体化することができる……もちろん、これは比喩的な表現にすぎないが……」 「…………」  シンは呆然としている。  鏡像を実体化できるとはどういうことなのか。鏡に映った自分の像がとつぜん、勝手に動き、しゃべりはじめたとしたら、人はどんな反応をしめすだろうか。しかも、そこでは時間までもが反転していなければならないのだ——いや、そんなかんたんなことではすまされないかもしれない。わからない。人間であるシンには、反世界に鏡像を投影し、それを実体化させるということが、じっさいにはなにを意味しているのか、しょせん理解できっこないのだ。  鏡の通廊をこちらに向かってくる影が、しだいに輪郭をあらわにしはじめた。みたところ、ネコに似ているようだ。 「あれが……いえ、あの人がわたしたちに味方してくれるのですか」  マヤが混乱したようにきいた。 「そうだ」 〓“時間管理者〓”がうなずいた。 「反世界においても、また彼らの干渉がはじまっているのだ……わたしたちの世界とは逆に、反世界では無秩序律《エントロピー》はしだいに減少しつつある。したがって、万物は秩序化の方向に向かい、すべてがひからびた、硬直したものになっていく……わたしたちが、エントロピーが増大していく世界のなかで、秩序を確立することで、かろうじて命を、文明を維持していくのと同じように、反世界の生物は無秩序を確立することで存在しているのだよ——」 「無秩序を確立する……」  シンがうめいた。「しかし、それは言語矛盾じゃないでしょうか。どんな無秩序にしても、作為的になされれば、それはもう無秩序とはいえません。第一、生物の基本条件は、システム化、秩序化だと思うのですが……無秩序を基本とする生命体などとても考えられません」 「どうして、考える必要がある?」 〓“時間管理者〓”はやさしく笑った。「考えなくても、そこにいるじゃないか。しょせん、考えても理解できない……人間は時間を感知することはできる。しかし、時間の本質を理解することはできない。人間は四次元世界の三次元的断面に生きているが、決してその〓“空間指向性〓”はあらたまることがない……時間においてさえそうなのだ。ましてや、反世界のことなど理解できるはずがない。考えるのはおろかなことだ。ただ、無秩序を基本とする生命体が存在することを受け入れればいいのだよ……」 「…………」  シンは沈黙している。たしかに、シンに理解できなくても、反世界の生命体がそこにそうして存在しているのだ。 「——彼らは、反世界に対しても干渉をはじめている」 〓“時間管理者〓”は言葉をつづけた。 「無秩序化をさまたげているのだ。時間が秩序化を圧倒的におし進めようとしている……ちょうど、われわれの世界とは事情が逆になるわけだな……」 「…………」 「これはよけいなことかもしれないが、反世界は、光を放出するのではなく、吸収する銀河系からつくられている……だからこそ、光を反射するという機能が、生物の遺伝子のなかに組み込まれているのかもしれない。〓“鏡像化〓”が本能となっているのかもしれないのだよ」 「あの人がわたしたちに味方してくれるというのですか」  マヤが質問をくりかえした。 「そう、その話だったね……」 〓“時間管理者〓”は微笑した。 「彼らは、反世界、この世界の生命体の、いわば共通の敵だ……反銀河の生命体にとっても、時間が謎《なぞ》であることにかわりはない。しかし、反世界の生命体はわれわれの、われわれは反世界の生命体の、時間にかんする知識をそれぞれおぎなうことができる。彼らを相手にするときには、強力な援軍となってくれるはずだよ」  スクリーンに映っていた猫のようなものが、親しげに前肢? を振ってみせた。そして、スクリーンから銀白色の光が消え、いつもの濃い藍《あい》色が画面にもどってきた。 「…………」  シンとマヤは呆然としている。 「おどろかせてすまないが」 〓“時間管理者〓”はあいかわらず微笑をたたえて、いった。「きみたちの味方は、彼だけではないのだよ——」 「え——」  シンとマヤがそろって〓“時間管理者〓”を見つめたそのとき——ふいに、プラットホームの内部に異変が生じた。  プラットホームを律していた〓“形而上的時間〓”に圧力が加えられたようなのだ。なんといったらいいのか、狭い部屋におしこめられたときにおぼえる窒息感が、空間にではなく、時間にたいして与えられたように感じたのだ。  二十秒ほどの時間のずれが1/102424秒の時間粒子に圧縮された感覚。——矛盾しているみたいだが、すべての夾《きよう》雑《ざつ》物がとりのぞかれ、凝縮された瞬間になって、周囲をがっしりとかためられたように思えたのである。  時間がとまった——そう、しいていうならば、そういうことになるかもしれないが、しかしシンとマヤがおどろき、こうして息をしている以上、厳密には時間がとまったとはいいがたかった。たしかに、時間の流れはとまったかもしれないが、瞬間は持続しているのだった。  この感覚を正確に表現する言葉は、シンもマヤも知らなかった。近視的ともいえる生理時間に支配されている人間には、しょせん表現不可能な感覚なのだった。 「あれがきた」 〓“時間管理者〓”がしずかにいった。「あれもまた、時間にかんして新たな知識を与えてくれて、彼らと戦うのに役立ってくれるはずだよ」 「————」  シンは歯をくいしばっている。1/102424秒の時間粒子に凝結された視界は、おどろくほど鮮明で、すべてがひどく鋭角的にみえた。なにかしら事物がはっきりと人間に敵対し、ひしひしと押し寄せてくる感じなのだ。 「なんだというのですか」  そして、ようやく声をふりしぼっていった。 「それがどこにいるというのですか」 「今はまだみえない」 〓“時間管理者〓”はそうこたえ、逆にシンにききかえしてきた。「きみは、ブラックホールの〓“事象の地平線〓”という言葉を知っているかね?」 「ええ——」  と、シンはうなずいた。「星が収縮し、ブラックホールと化したとき、あまりに万有引力が大きいため、そのまわりの空間をひん曲げてしまう——光さえも逃げだすことのできない、閉鎖空間をつくってしまうわけです。たしか、その空間とほかの空間とのしきりを称して〓“事象の地平線〓”と呼ぶんじゃなかったですか」 「そのとおりだ……一つの銀河系ほどの大きさを持ったブラックホールを想起してみたまえ。そして、その近くを通過しようとしたある生命体の宇宙船が、ブラックホールに引き込まれ、ついに〓“事象の地平線〓”を過ぎてしまったと考えるんだ」  一瞬、〓“時間管理者〓”は遠くをみるような眼つきになった。 「〓“事象の地平線〓”に接近しつつある宇宙船を、誰かとおくの人間が目撃していたら、時間が凍結してしまったか、と、思うにちがいない。なにしろ、歪《わい》曲《きよく》した空間での出来事だからね。ちくいち観測しようにも、だいたい光が観測者のもとにとどかない……しかし、宇宙船の内部においても、長い、気の遠くなるほど長い時間が過ぎていった。さいわい、その宇宙船は基地と呼んでもさしつかえないぐらい規模の大きなものだった。食糧の自給自足はもちろん、エネルギー機関も半永久的なものだった。その生命体は世代交替をくりかえし、ついにブラックホールの内部に適応した。いわば進化をとげたのだよ」 「そんな……」  シンは絶句した。「考えられません」 「また、考えられないかね」 〓“時間管理者〓”は皮肉な、しかしやさしい視線をシンに向けた。「わたしは考える必要はないといったはずだよ。ただ、事実をすなおにうけいれればいいのだ……それとも、これまでわたしがいちどだって、嘘をついたことがあったかね」 「いいえ」  シンとマヤが同時に首をふった。 「そう……これは事実なのだよ」 〓“時間管理者〓”は自分にいいきかせるようにいった。 「——そのブラックホールは電気的には中性で、自転している。しかも、それが銀河系ほどに大きいのだ。そんなブラックホールの〓“事象の地平線〓”を通過した生物は、いったいどうなるか……時間と空間が入れ替わってしまうのだよ。さらにその宇宙船が落下をつづけたとき、ふたたび特異点を通過して、正常な、時間は流れ、空間はそこにある、領域に入っていくことになる。しかし、そこはもう以前の空間ではない。まったく未知の空間なんだよ……以下、そのくりかえしだ。宇宙船の生命体は永遠にブラックホールの内部をさまよわなければならないのだ……」 「その生命体もまたわれわれに味方してくれるというのですか」 「——ブラックホールの内部で、時間と空間が入れ替わったときにのみ、その生命体は〓“純粋時間〓”のなかを移動することができるのだ。いや、時間をあやつることが可能になるのだ。まちがえてはいけないよ。われわれのように歴史に手を加えるということではない。時間粒子そのものを操作することができるんだ。だからこそ、こうして……」  ふいに〓“時間管理者〓”は言葉を切り、虚空に視線をすえた。そして、ボソリとつぶやいた。「いってしまったようだな」 「…………」  なるほど、たしかに1/102424秒の時間粒子におしこめられているみたいな、あの窒息感はもう感じられなくなっていた。正常な〓“形而上的時間〓”が、ふたたびプラットホームの内部に腰をすえたようなのである。 「あれは、その生命体がわれわれに送ってきた、いうならばあいさつのようなものなのだよ…………」 〓“時間管理者〓”は微笑し、いった。 「その生命体は、時間と空間が入れ替わった領域で彼らと対《たい》峙《じ》した。そして、はっきりと彼らがすべての生命体を敵視していることをさとったのだそうだ……その生命体は、自分たちがブラックホールの内部をさまよわなければならないのも、究極的には彼らの悪意に原因がある、と、信じこんでいるようなのだよ……そう、その生命体もわれわれに味方して、彼らと戦うのに手をかしてくれる」 「…………」  シンとマヤは顔をみあわせた。鏡像生物にブラックホール生物……これはまた、なんという奇妙な味方であることか。 「どちらの種族からも、一個体がわれわれに手をかしてくれるそうだ」 〓“時間管理者〓”の声がややするどくなった。「さあ、さしあたっての戦場はどこということになるのかな……」 「はい——」  シンはわれにかえったように、ピクリと身をふるわせ、大きな声でいった。 「時間は一九三七年四月……場所は、東京です」  ——彼は眠れなかった。  パーティがひどく体にこたえたらしく、あまりに疲れすぎて、かえって眼がさえてしまっているようだった。  だが、彼をこの国に招待するのに力をつくしてくれた歓迎委員会の主催とあれば、出席しないわけにもいかなかった。どこの国に、歓迎されている当の本人が欠席する歓迎パーティなどがあるだろうか。  それにしても、疲れた。  デンマークをたったのは一月のことだ。途中、バークレイに四週間ほど滞在したとはいえ、三か月にもおよぶ船旅が、五十三歳の彼の体にこたえないわけがなかった。  じっさい、妻のマルガレーテと息子のハンスを同行させたからよかったものの、そうでなければ、途中でねこんでしまうはめとなったろう。  マルガレーテの寝息をききながら、彼はしばらく今夜のパーティのことを想い出していた。  盛会だった。  じつに、盛会だった。長岡半太郎博士を会長とする歓迎委員会は、パーティを成功させるべく、最大限の努力をはらってくれたようだ。  感謝しなければならないと思う。  そう思うが——しかし、彼はしんそこから感謝しきれないでいた。歓迎委員会を援助したのが、三井、三菱、住友など、この国の大財閥であることがなんとなく気持ちのうえでひっかかるからだ。  この国の事情には決してくわしくないが、おそらく資本家たちがファシズムを育て、肥《こ》えふとらせる土壌になっているのは、ドイツやイタリアとかわりないだろう。ヨーロッパを吹きあれるファシズムの嵐《あらし》のことを考えると、自分が資本家の援助をうけたことにどうしても平静ではいられないのだ。  だが、それは考えてもしょせん仕方のないことだったかもしれない。  彼は苦笑を浮かべると、眠るのをあきらめて、ベッドからはなれた。となりの部屋の椅子に腰をおろして、しばらく放心したように窓の外をみつめている。  彼——高名な物理学者ニールス・ボーアには、似つかわしくない孤独な姿だった。  ニールス・ボーアはデンマークに生まれ、コペンハーゲン大学教授、理論物理学研究所所長、アカデミー総裁を経て、一九二二年にはノーベル物理学賞を受賞した、量子物理学の第一人者である。あらゆる意味で、物理学を古典力学から原子物理学におし進めるのに功績のあった人物といえる。  そのニールス・ボーアが不眠にくるしんで、今、東京の帝国ホテルの一室につくねんとすわっているのだった。  ここのところ、ボーアは漠然とした不安感になやまされていた。  世界情勢が悪化の一途をたどっていることはあきらかだ。戦争突入はもうさけられないように思える。ナチは着々と地盤をかため、軍の強化につとめる一方、スペインでのフランコの勝利を確実なものとし、イタリアとの関係をふかめつつある。  悪い時代だ。まったくもって、最悪の時代だ。  ユダヤ人であるがために、アインシュタインはナチに追われ、アメリカに亡命した。またドイツ人であるハイゼンベルクは、〓“相対性理論〓”を支持したために、ナチの機関紙から〓“白いユダヤ人〓”呼ばわりされ、これも苦境にあるという……たしかに、彼ら仲間の物理学者たちの運命も、ボーアにとっては気がかりなことであった。  しかし、ボーアの不安感は必ずしもそんなことばかりが原因ではなかった。はっきりとしない、もやもやとした不安感——言葉にして表現することはできないが、もっと根源的な、ほとんど恐怖に似た不安感のような気がするのだ。  たんに、物理学者が迫害されているだけのことではすまない。物理学者みずからが、重大な、おそろしい決断を迫られるときがきっとくる……そんな予感がしてならないのである。  もちろん、かくとした根拠のある不安ではない。たんに、ボーアの神経がやや消耗しているだけのことにすぎないのかもしれない。しかし、それにしても……  ニールス・ボーアの、それでなくても悲しげな顔は、ますます悲しげに、憂うつげになっていくのだった。  ふっと気がついたように、ボーアは窓から視線をそらし、 「わたしは疲れている……」  苦笑しながら、そうつぶやいた。  疲れているから、こんな悲観的な気持ちになるにちがいない。  それにしても、ちょっとだらしがなさすぎるのではないか。まさか、もうとしだからというわけでもあるまい。——いくら疲れているといったところで、たまたま同じ『浅間丸』に乗りあわせて、日本にやって来たヘレン・ケラー女史の比ではないだろう。日本人はよほど彼女を敬愛しているようだ。いや、もう、その熱狂的な歓迎ぶりときたら、もみくちゃにされる彼女がみてて気の毒になるぐらいだった。  ——そう、彼女にくらべれば、疲れているといってもたかがしれているではないか……ボーアは自分にいいきかせると、椅子から腰を浮かして、寝室にかえっていこうとした。  かえっていこうとしたのだが——ふいに視界がにじみ、焦点がぶれたようになってしまい、あわててその腰をもとにもどした。かるい、立ちくらみでも起こしたのか、と、考えたのだ。  そして、部屋の隅にひとりの男が立っていることに気がついた。  奇妙なことに、ボーアはおどろきもしなかったし、怯《おび》えもしなかった。夢をみているみたいに、異常なことが起こっても、それを異常とも思わず、しごく当然なこととしてうけとめていたのである——男のとつぜんの出現よりも、ボーアのこの反応のほうが、むしろふしぎといえたかもしれない。  ボーアは椅子に腰をおちつけ、ただその男をみつめていた。頭の片隅で、どこかで会ったような男だ、と、考えていた。  男はボーアに向かって歩を進めてくる。そのしずかな足どりをみるかぎりでは、男にボーアに対する害意はまったくないようだった。 「きみはたしか……」  ふいにボーアが混乱したように口走り、そして首を振った。「いや、そんなはずはない。きみが日本にいるわけがない」 「原子物理学を方向転換させる必要があります」  男がいった。ふかい穴の底からきこえてくるみたいな、奇妙にエコーのともなった声だった。「このままだと、とんでもないことになります」 「方向転換?」  ボーアは眉をひそめた。「なんのことかね」 「ちかいうちに、それもごくちかいうちに、物理学者は核分裂に到達することになります。原子核に質量として貯蔵されているエネルギーが大量にときはなたれ……それは、すさまじい破壊力を持つ兵器となることでしょう」 「…………」  ボーアは男を注視していたが、やがて微笑を浮かべた。 「バカな……たしかに、さまざまな元素を使い、原子核に中性子を照射する実験は、あちこちで行なわれている。中性子照射によって、より安定した原子核が生成され、その過程で、エネルギーの一部がガンマ線の形で放出されたり、電子やほかの基本粒子が放出されたりするのも事実だ——だからといって、それが核分裂の可能性につながるわけではあるまい。わたしは核分裂は不可能だ、と、断じてもまちがいではないと……」 「来年」  男はボーアの言葉をさえぎった。「ドイツで、核分裂が発見されます」 「ナンセンスだ」  ボーアは首を振った。「きみが何者かは知らないが、予言者めいた言葉を口にするのはやめたまえ——百歩ゆずって、きみの言葉が本当だとして、原子物理学はどう方向を転じるべきだというのかね?」 「時間粒子です」 「なに?」  ボーアがききかえした。「なんといったのかね」 「時間粒子と申しあげたんです——量子論や原子論が定式化されるにしたがい、物質やエネルギーを連続的とする考えは放棄されることになりました。それと同じように、時間の連続性もまたうちやぶられるべきなのです。時間は決して連続的なものではなく、時間粒子に埋めつくされているために、連続的に思えるだけなのです……物理学者は、核分裂につながる危険のある、いっさいの研究を放棄すべきです。そして、時間粒子の発見につとめることが必要です。それも今すぐに——さもないと、とりかえしのつかない事態をまねくことになります。本当に、とりかえしのつかない事態を……」  ボーアには、男の言葉はあまりにもさしでがましいようにきこえた。いやしくも学者に向かって、ああしろこうしろ、と、指図できるつもりでいるのだ。 「もういい、かえりたまえ」  そのつもりはなかったのだが、ついボーアの語気はあらいものになっていた。 「きみ、無礼じゃないか。わたしは眠るところだったんだよ——」  そのとたん、男の姿がフッと消えた。同時に、厚いレンズをへだてていたみたいに、奇妙にぼやけていた視界が、はっきりと正常にもどった。  すべては、一瞬のできごとだった。  ボーアは眼をしばたたかせ、何度も拳でこすった。そして、その拳をダランとたらすと、弱々しい声でつぶやいた。 「夢をみていたようだ……」  なかば、自分を納得させるためにつぶやいた言葉だった。——正直なところ、あの男が夢の産物だったとはとても思えなかった。しかしそうとでも思わなければ、ひとりの男が密室にとつぜん出現し、そして消えたことの説明はとうていつけられそうになかった。  あれが夢でなかったとしたら、ボーアは自分の正気を疑わなければならないことになるのだ。  ボーアはふたたび窓の外をボンヤリとみつめた。 「時間粒子か……」  そして、苦笑しながらつぶやいた。  まったく、とっぴなことを思いついたものだ。おそらく、湯川という名の日本人物理学者が発表した〓“中間子論〓”とかに刺激されてのことだったにちがいない。重量子と名づけられている仮説粒子が、核力を生みだし、ベーター崩《ほう》壊《かい》の媒介にもなる、という理論だった。  ボーアはかねてより、なにかというと新しい粒子をもちだしてこようとする、若い物理学者たちの風潮を苦々しく思っていた。たぶん、その反撥が逆に作用して、時間粒子などという、とっぴな新粒子の夢をみることになったのだろう……ボーアは新しい粒子がきらいなことで有名な人物だったのである。  ボーアはしばらく、核分裂のことを考えた。どう考えても、核分裂の可能性はないように思われた。漠然とした不安があるのは、無意識のうちに核分裂の可能性をおそれているからではないか、とも考えたが、もうひとつはっきりしなかった。  それから、夢のなかにでてきたあの男のことを考えた。  夢とは奇妙なものではないか。  ほとんど口をきいたこともなく、印象にさえ残っていない人間が登場してきて、ながながと語りかけてくるのだから……そう、たしかあれはハイゼンベルクがひじょうにたかくかっている生徒で……名前を、エットーレ・マヨラナといったはずだ。イタリア人の青年だった……  夢とは奇妙なものだ。まったく、奇妙なものだ……  ニールス・ボーアはそうつぶやきながら、ようやくトロトロとした眠気が自分を包みはじめたのを感じていた。  ボーアは二重の意味でまちがっていた。  その男は夢の産物ではなかったし、マヨラナでもなかったのだ。  たしかに、原子物理学の若き天才、マヨラナではなかったのだが、しかし一方では、マヨラナと呼べないこともなかったのである。 2  ——ファシストたちのおたけびが街路にこだましていた。 「エイヤ、エイヤ、アララ——」  少年団《  バ リ ー ラ》、イタリア女子青年団、イタリア婦人会などが熱狂的な拍手を送っていた。その拍手のなか、軍靴をザッザッと鳴らしながら、黒シャツのファシストたちは去っていった。  ファシストの姿がみえなくなると、もう義務は終わったといわんばかりに、人々はさっさと散っていった。自転車が走り、車が走り、市電が走っていった。  べつに、めずらしいことではなかった。  ローマにはいつも、黒シャツとファシスト少年団があふれているのだ。  カフェのラジオから、ムッソリーニの演説が、くりかえしニュースとなって、流れていた。  店の隅でぶどう酒を飲んでいた若い男が、ラジオのチャンネルをかえてくれないか、と、主人にたのんだ。主人はチャンネルを音楽にかえ、これでいいか、と客にきいた。ああ、それでいい、ありがとう、と客はうなずいた。主人はちょっと肩をすくめ、ふたたびグラスみがきにもどった。  若い男——といっても三十歳はこえていそうだが——は、ホッとしたようにぶどう酒を飲みはじめた。  ひどく神経質な印象を与える男だった。黒い髪、あさぐろい肌、おちくぼんだ頬——なんとなく、サラセン人を連想させる顔つきだった。  男はぶどう酒を飲み、ういきょうをかじっていた。そして、ときおり街路に臆病そうな視線をはしらせた。なにかにおびえ、追われている人間の視線だった。  男の名は、エットーレ・マヨラナ——三か月まえ、三十二歳の若さで、ナポリ大学の理論物理学の教授に任命され、そして今はもう、この世にいないはずの男だった。  彼の経歴をかんたんにしるすとこうなる。  ——一九〇六年八月五日、シチリアに生まれる。長じてのち、ローマ大学物理学研究室で、エンリコ・フェルミに教えをうけながら、物理学の研究をはじめる。二十三歳のとき学位をとり、二十六歳でローマ大学の私学講師の資格をとる。このころの仕事としては、主に原子スペクトルや化学結合にかんするものがあげられる。——一九三三年、ライプチヒのハイゼンベルクのもとをおとずれ、ここでは核力にかんする論文をまとめている。ライプチヒからローマにもどってきてからの四年間は、大学にもいかず、ほとんど隠《いん》遁《とん》生活を送った。この間の仕事といえば、わずかに『電子と陽電子とのシンメトリックな理論』という論文を発表しただけである。——今年、一九三八年に、ナポリ大学の理論物理学の教授に任命され、当地で三か月教師生活を送ったのち、三月二十六日、ナポリ=パレルモ間郵便船に乗り、消息を絶った。失《しつ》踪《そう》後、物理学研究所、カレーリのもとに、マヨラナからの自殺をほのめかしたような手紙がとどいている……  以上が、後世に残された、マヨラナの経歴にかんするすべてである。  しかし、マヨラナは死んではいなかった。たしかに、自殺をほのめかす手紙を知人に送りはしたが、その目的は姿をくらますことにあり、そして——首尾よく失踪に成功し、ここでこうしてぶどう酒を飲んでいるのである。  だが、失踪に成功したからといって、必ずしもマヨラナがうきうきしているとはかぎらない。  それどころか、マヨラナは死ぬほどの恐怖におびえているのだ。  なにに対して?  ファシストに対して、原子物理学の将来に対して、なにより自分が構築した理論に対して、だ。  ローマの街に、おびえている人間はすくなくない。反ファシズムを表明した人間は、ようしゃなく監獄にたたきこまれる。ヒトラーが訪問するというだけのことで、ローマの外国籍ユダヤ人はすべて、追放されるか、監獄におくりこまれてしまう。——まったく、この街には恐怖が充満している、といっても過言ではなかった。  だが、この街の、ほかの誰にも増して、マヨラナはおびえていた。ひとつには、たよるべき知人も、身を寄せるべき友人もいないことが、マヨラナの恐怖を、そして孤独をよりきわだたせているといえた。——もちろん、ローマに知りあいはいるし、数えるほどではあるが、友人もいないことはない。しかし、自殺を演出して、みずから姿を消した以上、マヨラナはむしろ彼らをさけなければならない立場なのだ。 「お替わり、いるかね?」  店の主人がカウンターのむこうからきいてきた。  マヨラナは壁の時計をみあげた。  ちょうど約束の時刻だった。 「いや——」  マヨラナは首をふり、金をテーブルにおいて、席を立った。  そして、ひたすら歩いた。  大きな広場にでた。  プラタナスの木立も、記念碑もない広場で、停車場の棒のしたでたくさんの人が電車を待っていた。  マヨラナは広場をよこぎり、ひとけのない路地に入った。  そこに、めざす店があった。  鉄砲店だった。  マヨラナはためらわず、店に足をふみいれた。  ナイフが陳列台に並べられていて、ガラス・ケースにはさまざまな拳銃がおかれてあった。カウンターのうしろのケースには、犬の首輪と呼笛が並んでいた。 「できてるかね」  マヨラナがソッときいた。  主人はマヨラナの肩ごしに、しばらく店の入り口をみつめていた。誰か、マヨラナのあとをつけてきた者はいないかうかがっているようだった。やがて、大儀そうにうなずくと、カウンターの下からパスポートをとりだした。 「あんたは穀物商だ……」  主人がいった。「名前、出身地、年齢……とくに、そこに書かれている両親の名前はよく憶えておくんだ、急にきかれても、スラスラと答えられるように……」 「…………」  マヨラナはパスポートを手にとり、なかをあらためてから、二百五十リラを払った。偽造パスポートの相場を知らないマヨラナには、それが高いのか安いのか判断のつけようがなかった。  主人はなにもきこうとしなかった。金をかぞえおわると、はやく出ていけ、というように手をふってみせただけだった。おそらく、マヨラナを反ファシストのひとりだとでも思っているにちがいない。  マヨラナは外へ出て、まっすぐホテルに向かった。  もう、外は暗くなっていた。  ミルヴィオ橋にほどちかい、汚い安ホテルだった。十階建ての家がたちならぶ、小さな広場に面していた。  マヨラナは部屋のベッドにねころび、しばらく自分の写真をながめていた。 「カルレット……」  その名を何度もくりかえしてつぶやいた。それが、新しい彼の名だった。  部屋がすっかり暗くなっているのに気がついて、立ち上がって、明かりをつけた。電球が切れかかっているらしく、かえって暗くなったように感じた。  そして、ふたたびベッドにもどり、こんどは恩師エンリコ・フェルミのことを考えた。  噂《うわさ》によると、フェルミはファシスト政権に不安をおぼえ、亡命を考えている、ということだった——うまくいけばいいが、と、マヨラナは思った。ほんとうに、うまくいけばいいけど……  壁紙のしたで油虫のカサカサと這《は》いまわる音がきこえてきた。どこか上のほうの部屋で、女が泣いていた——  ふいにマヨラナは身をおこし、ドアのしたの隙間をみつめた。バサリという音とともに、外からその隙間になにか突っこまれたのである。  雑誌だった。  マヨラナはこわいものでもみるように、その雑誌を凝視していた。そして、やおら立ち上がると、隙間から雑誌をひきぬいた。  ごく、ありふれた雑誌だった。週刊誌の『ラ・ドメニカ・デル・コリエレ』なのだ。  マヨラナはページをめくり、顔色をかえた——〓“ごらんになりませんでしたか〓”という欄に、マヨラナの写真と記事が載っていた。失踪人さがしの記事だった。  雑誌を支えている手がふるえはじめた。誰か、マヨラナがここにいることを知っていて、故意にこの雑誌を突っこんだにちがいなかった。  とつぜん、マヨラナはドアをあけ、廊下にとびだした。  じっと耳をすました。  カツーン、カツーンという、誰か階段をおりていく靴音が、人っ子ひとりいない廊下にこだましていた。——マヨラナはその靴音の主を追うべきだったかもしれない。しかし、追えなかった。靴音はしだいに小さくなっていき、やがてきこえなくなった。  マヨラナは部屋にとってかえすと、なにか熱にうかされたように、外出の支度をはじめた。  こわかったのだ。たまらなく、こわかったのだ。  ——マヨラナはさまよっていた。  劇場、映画館などのある街路はさけ、暗い路地から、路地へとさまよいつづけた。  街には多くの家族があふれていた。道に椅子とテーブルを持ちだして、夕食を楽しんでいる家族もすくなくなかった——そのまえを歩いていくマヨラナに向かって、陽気に手をふる男もいた。酔っぱらい、マヨラナにもぶどう酒を飲んでいけ、と、勧《すす》めているのだ。マヨラナはそのたびに身をすくめ、あいまいなうす笑いを浮かべると、さっさと立ち去っていった。  今のマヨラナは、誰かと同席することは苦痛でしかなく、そうかといって、ひとりでいることにも耐えられないのだ。  路地から、路地へ……  霧のたちこめている、小さな広場にでた。  広場の一角にカフェがあり、エスプレッソ・コーヒーの機械がしきりに蒸気をはきだしていて、それが霧となっているのだ。  頭上で、歯みがきの広告塔が赤く点滅をくりかえしていた。広告塔がつくたびに、霧が赤くそまった。  マヨラナはおずおずと歩を進めた。なんだか、赤く燃えさかる地獄に足をふみいれるような気がした。  広告塔がきえた。ほのかに白い霧が、暗い広場のなかを流れていた。  ついた。  赤い霧のなかに、ひとりの女が立っていた。マヨラナはピクリと身をふるわせ、その女の様子をうかがった。  きえた。  白い霧と、暗い広場—— 「道に迷《まよ》ってしまったの」  女の声がきこえてきた。「どこか、にぎやかなところへ連れていってくださらない」  道に迷った? この大都会のローマで……まさか……しかし、そういえば、マヨラナ自身も、いま自分がどこにいるのか、よくわからなかった。  広告塔がついた。  赤い霧のなかに、こんどははっきりと女の姿が浮かびあがった。  東洋人のようだった。中国人か、そうでなければ日本人にちがいない。黒く、長い髪が、いかにも繊《せん》細《さい》そうな、白い顔をきわだたせていた。若い娘にはめずらしく、しずかな、おちついた感じだった。 「どうかしら」  女はくりかえした。「連れてってくださるかしら」 「…………」  マヨラナはもうすこしで、娘のたのみをことわるところだった。しかし、彼女の眼をみているうちに、今夜はこの娘と楽しみたい、というふらちな考えがわいてくるのをおぼえた。うまくいけば、ゆきずりの男女として、おたがいの肌をあたためあうことができるかもしれないではないか……  マヨラナにはめったにないことだった。マヨラナはきまじめで、性にかんしては、どちらかというとおくてのほうなのである——だが、マヨラナは自分の衝動をいぶかしいとさえ思わなかった。それだけ、心理的に追いつめられていたということかもしれない。 「いいとも」  マヨラナはうなずき、やや口ごもるようにしてつけ加えた。「よかったら、今晩、ぼくとつきあってくれないだろうか……」  ——あとから考えると、どうしてあそこまで大胆になれたのか、自分でもふしぎとしかいいようがなかった。  娘にさそわれるまま、マヨラナはなんとリッツ・ホテルのダンス・ホールに入っていったのである。豪華なロビーをよこぎり、ダンス・ホールの脇で、入場券をかったとき、一瞬、マヨラナは気が狂ったのではなかろうか、と、みずからを疑った。  知人と会うのがこわくて、映画館にさえ入れなかったマヨラナなのである。それが、こともあろうに、ダンス・ホールに足をふみいれようとしているとは……  しかし、ダンス・ホールに一歩入ったとたん、そんなためらいはきれいにきえてしまった。  天《てん》井《じよう》が低く、細長いホールには、若者たちの熱気がむんむんとこもっていた。みんな、それぞれのパートナーを得て、それこそおどりくるっていた——マヨラナには、彼らがしだいに重くのしかかってくるなにかを忘れたくて、必死に〓“今〓”にしがみついているかのように思えた。  ステージでは、黒人のバンドが演奏していた。 「おどりましょう」  女がそういい、マヨラナをホールにひきずりだした。 「おどりは苦手……」  マヨラナがあわててそういいかけるのを、娘が笑いながらさえぎった。 「わたしの腰をしっかりと抱きしめて——大丈夫よ。わたしがリードするから」  次の瞬間、娘はじつに軽やかにステップをふみはじめた。そして——おどろいたことに、マヨラナ自身もふいに体重がなくなってしまったみたいに、おどりはじめていた。軽快で、しかもむつかしいステップだった。  視界がグルグルと回った。回転木馬のように、踊り子たちがマヨラナのまえをよぎっては、きえていった。  音楽は力強く、どこかに憂うつなひびきを残していた。すてきな、音楽だった。 「ね、かんたんでしょう」  娘がいった。  マヨラナは大声で笑い、きいた。 「きみの名前を教えてくれないか——」 「マヤよ」  娘はそくざに答えた。 「マヤ……かわった名前だね。中国の人かしら」 「ちがうわ」 「じゃあ、日本人だ」 「それもちがうわ」 「わからないな……それじゃあ、どこから来たんだろう」 「遠くよ」  マヤと名のった娘は、あざやかに一回転して、ふたたびマヨラナの手をとると、息もきらさないでいった。 「とても遠く……」 「謎めいているんだな。教えてくれないつもりかい」 「今のあなたには、教えたところで信じてもらえないわ」 「なるほど……」  マヨラナは笑った。どうしてか、すべてが楽しく、おかしくて仕様がなかった。この躁《そう》状態はやや異常なのではないか、と、自分をいぶかしく思うゆとりさえなくしていた。  ふいに、マヤが両腕をマヨラナの首にまわし、顔を寄せて、ささやきかけてきた。 「あきらめちゃだめよ」 「え……」  なんのことかわからなくて、マヨラナはマヤの顔をみなおした。  そのときの、マヨラナの状態をどう説明したらいいだろうか——マヤの白い顔を残して、視野が急速に暗くなっていく感じなのだ。そのマヤの顔さえも、望遠鏡を逆にのぞいたみたいに小さく、はるか遠いものにみえた。  そして、マヤの声以外は、なにもきこえなくなっていた。 「あきらめちゃだめよ」  マヤがいった。 「あなたの努力に、人類の将来がかかっているのよ。あなたは歴史の流れをかえ、何十万、何百万もの人の命を救うことができるのよ。——逃げまわるのはおよしなさい。ひとりで悩むのもおよしなさい……誰か、信頼のできる人に相談なさい。誰かに……」  マヤの顔が闇《やみ》に吸いこまれるように、フッときえた。とたんに、ダンス・ホールの喧《けん》噪《そう》がよみがえり、あかるくなった視界には、ふたたびおどりくるう若者たちの姿が映った。  マヤはいなかった。  どこにもいなかった。  ホールの中央でひとり立ちつくしているマヨラナをみて、まわりでおどっている娘たちがクスクスと笑った。マヨラナがパートナーに逃げられた、と、思っているにちがいなかった。 「マヤ……」  マヨラナは口のなかでそうつぶやいた。  妙なことには、彼女がきえたことを奇怪とも、ふしぎとも思わなかった。ただ、胸をしめつけられるような、ある種のなつかしさをおぼえただけだった。  彼女とは必ず再会できる、という強い確信めいたものがあった。  ドイツに行こう、と、マヨラナはとうとつに考えた。  ドイツには、ハイゼンベルク教授がいる。 3  ——ラジオをつけるのも嫌だった。  窓をあけるのも嫌だった。  ラジオをつければ、ヒトラーの金切り声がきこえてくるし、窓をあければ、白丸に黒の鉤《かぎ》十字をえがいた赤い旗が、街にはためいているのを眼にしなければならない。  公園を歩くのさえ苦痛だった。いやでも、ベンチの「ユダヤ人を禁ず《ユーデン・フエルボーテン》」という掲示をみなければならないからだ。 〓“出口なし〓”——今のマヨラナは、まさしくそんな状態だった。  下宿にこもって、ベッドに腰をおろし、ただ床の一点をジッとみつめているほかはなかったのである。  マヨラナがベルリンにきてから、すでに数か月が経過していた。そのかん、マヨラナはほとんどなにもしようとしなかった。ハイゼンベルクに会おうとする努力さえ放棄していたのだ。  ——ナチ体制下における、ハイゼンベルクの苦難の時代はとうにすぎていた。  たしかに、量子論、相対性理論からなる近代物理学の学徒たちが、一斉に非難攻撃された時期が、この国にはあった。  一九一九年にノーベル賞を受賞した実験物理学者シュタルクを中心とする、いわゆる〓“ドイツ物理学派〓”は、おそらくユダヤ人だからという理由で、最初はアインシュタインを攻撃し、そしてアインシュタインが去ったのちは、ハイゼンベルクをきちがいじみた勢いで攻撃したのだった。  たとえば、ナチ親衛隊の機関誌〈黒い軍団〉によれば、ハイゼンベルクは、〓“白いユダヤ人〓”であり、〓“物理学のオシェツキー〓”である、ということだった。  ハイゼンベルクに対する誹《ひ》謗《ぼう》、中傷の声はしだいにヒステリックにたかまっていき、そして、あるときをさかいにして、ピタリときこえなくなったのだ。  第三者であるマヨラナには、くわしい事情など知りようもなかったのだが、新聞、そのほかの刊行物を読んだかぎりでは、どうやらそこにある種の政治的配慮が働いたようなのだ。  つまりは、こういうことらしい——ハイゼンベルクの母親は、親衛隊総司令官ハインリッヒ・ヒムラーとちょっとした知りあいだった。そのコネをたよりにして、ハイゼンベルクはヒムラーに直接、手紙をだしたようなのだ。おそらく、ハイゼンベルクに対するいわれのない誹謗が、新聞に載らないように、なんとか措置をこうじてほしい、といった内容だったにちがいない。そして、親衛隊総司令官にあてたこの直《じき》訴《そ》状が、みごとに功を奏したらしいのである。  マヨラナにしても、これをもってして、ハイゼンベルクがナチ独裁政権にこびをうったなどと非難しようとは、もうとう思っていない。どんなきちがいじみた社会にあっても、人は生きていかねばならず、そのためにはある程度の妥協もやむをえない、と、考えているからだ。  しかし、そうはいっても、ハイゼンベルクがナチ体制にくみ入れられた、という事実にかわりはなく——マヨラナが相談をもちかけるには、ややふさわしくない人物となっていたのだ。  マヨラナがベルリンをおとずれたのは、自分が直面している苦境と、物理学の将来に対する不安を、ハイゼンベルクにうちあけるためだった。それが、永遠に果たせなくなった今、マヨラナが迷子みたいに途方にくれるのも当然だったのである。  だが、それだけだったら、マヨラナはまだしも、これほどの無気力状態におちいることはなかったかもしれない。  マヨラナの心配していたときが、ついにやってきたのだ。  オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが核分裂を発見したのである。  核分裂によって、おびただしい量のエネルギーが解放され、さらに中性子がひきおこす過程そのものが、新たな中性子を発生させることがあきらかになったのだ。ウランのなかで連鎖反応が起きるのだ。——一九三三年の夏から一九三七年の夏までの四年間、ローマの家にとじこもって、マヨラナは核分裂の可能性も研究していた。そして、核分裂は可能なのではないか、と考えたとき、ファシズムの波がヒタヒタと押し寄せてくる現在の世界情勢のなかで、それがどんな意味をもつことになるのか、ということにも思いをはせないわけにはいかなかったのである。  軍事目的に利用されることはあきらかだった。かつて誰ひとりとして想像したこともない、すさまじい破壊力をそなえた兵器が出現することになるのだ。  マヨラナが自殺をよそおってまで、姿をかくそうとしたのは、物理学のいきつこうとしている先に、おそれをなしたことも、理由のひとつとして数えられるのだ。  その核分裂がついに発見された。しかも、ヒトラーの国で、だ。——まさしく、最悪のケースといわねばならなかった。  じっさいには、核分裂エネルギーを実用的に利用できる、と、考えている物理学者はほとんどいなかった。核連鎖反応を制御できるようになるのは、ずっと先のことにちがいない——多くの物理学者はそう事態を楽観視しているのである。  しかし、ドイツには、原子物理学の開拓者ハイゼンベルクがいるのだ。彼の才能をもってすれば、ちかい将来、原子爆弾をつくりあげるのも不可能ではない。そして、その所有者は、ヒトラーになるのだ。  それが、マヨラナにはおそろしい。たまらなく、おそろしいのである。 「ああ……」  ふいにマヨラナはうめき声をあげ、両手のなかに顔を埋めた。  そして、しばらくその姿勢でじっとしている。  すでに、所持金はほとんど使いはたしてしまっている。逃亡生活をつづけようにも、今のマヨラナにはどこへ行くべきかさえわからないのだ。  やがて、マヨラナは顔をあげ、ふしぎなものでもみるように、自分の両手をみつめていた。そして、その両手をズボンにゴシゴシとこすりつけると、ため息をつき、ゆっくりと腰をあげた。  それは、なにかしら偏執的なものを思わせる動作だった。  事実、極度の心痛に、マヨラナの神経はややおかされていたのである——それも、当然というべきだったかもしれない。なにしろ、この若き物理学者は、たったひとりで人類の未来をになわされていたのだから。  マヨラナは口のなかでなにかブツブツとつぶやきながら、部屋をでていった。  タバコの煙りが部屋にこもって、明かりをこはく色ににじませていた。  たくさんの男たちが長いテーブルにむかってすわり、手風琴の調べにあわせて、陽気に声をはりあげていた。小走りにビールを運ぶウェイターたちが、のべつジョッキをカチャカチャと鳴らしていた。  木《き》屑《くず》のにおいがツンと鼻をつく。  ベルリンにはめずらしくない、板張りの地下室酒場だった。  マヨラナは隅の席にじんどり、ジョッキをつかんだまま、ボンヤリとした視線を店内にむけていた。  たしかに、体力がおとろえているようだった。わずか二杯のビールで、もう陶然となりかかっているのだ。  ——ドイツ人なんておかしな連中だ……マヨラナはかすみのかかったような頭で、しきりにそんなことを考えている。肉、砂糖、セッケン、マーマレードまでもが、ちかく配給制になるという、もっぱらの噂《うわさ》だ。そのくせ、どこでどうくめんをつけるのか、ビールだけは絶対に欠かすことがない……まるで、なにごとも起こっていないみたいだ。なにごとも起こっていないみたいだ……  誰か、となりの席に腰をおろす気配があった。  マヨラナはふりむきもしなかった。  眼のまえに、うすい雑誌がなげだされた。あの『ラ・ドメニカ・デル・コリエレ』だった。  マヨラナは自分の腹が冷たく、キュッとひきしまるのをおぼえた。  しばらく、その週刊誌をみつめ、それから、ながい、ながい努力の末に、ようやくとなりの客に視線を向けることができた。膝がふるえているのが、自分でもよくわかった。  若いのか、年取っているのか、ちょっと見当のつかない男だった。将校が着るような、首まである上着を着ていた——非常な、美男子といえた。  ただし、ブロンド、碧眼の、ゲルマン民族型の美男子ではない。東洋系の、どちらかというと女性的な顔だちをしている。なんとなく、美しいが、しかし毒を持つという、南国の花を連想させた。  マヨラナは必死に勇気をふりしぼって、その男をにらみすえていた。  男は、マヨラナの視線にもいっこうにひるむ様子をみせなかった。それどころか、ニヤニヤと笑っているのだ。 「きみは誰だ……」  マヨラナはかすれた声できいた。「なぜ、ぼくのあとをつけまわす? ローマで、この雑誌をぼくの部屋につっこんだのもきみの仕業だな。いや、それ以前から、きみはぼくのことをつけまわし、みはって……」  最後には、マヨラナの声はかんだかい、ほとんど悲鳴にちかいものとなった。「たのむから、ぼくのことは放っておいてくれっ」 「シィーッ」  男は人差し指を唇にあて、片眼をつぶってみせた。「そんなに大きな声をだすと、ほかの人がへんに思うじゃありませんか。そうでしょう? 教授——」 「誰なんだ……」  マヨラナは弱々しい声でくりかえした。「いったい、きみは誰なんだ」 「誰でもいいじゃないですか。あなたの友人とでもお考えください」 「友人……」  マヨラナはヒステリックな笑い声をあげた。 「こいつはいいや。そのお友達がのべつうろついていたおかげで、ぼくは自殺をよそおって、姿をくらまして……」 「それというのも、教授があんな理論をおたてになったからじゃないですか」  男がマヨラナの笑い声をさえぎって、いった。 「…………」  一瞬、マヨラナはギョッとした表情になって、それから、混乱をかくしきれぬ声でいった。「でも、どうして……ぼくはあの理論のことは誰にもしゃべらなかった。方程式をみせることもしなかった……きみが、あの理論のことを知っているはずがないんだ」 「時間粒子でしたね」  男はクスクスと笑いながらいった。 「たしかに、おもしろい思いつきだが、しょせんは思いつきにすぎません。ねえ、教授……わるいことはいいませんから、あんなことは忘れておしまいなさい。きれいさっぱり、忘れておしまいなさい——」 「たんなる仮説にすぎないんだ……」  マヨラナはややボンヤリとした声でいった。 「ぼくとしては、原子物理学の進むべき一方向を示すぐらいのつもりで……時間粒子の存在を実証する方法はまったくないし、理論としてもあまりにも穴が多すぎる。ただ、このままの方向で原子物理学が進んでいくと、いつかは核連鎖反応制御という、とりかえしのつかない事態をまねくような気がして……平和な時代だったら、それもいいだろう。しかし、今の時代は……今、核連鎖反応制御が実現するのは、あまりにも危険が多すぎる……だから、多少なりとも、原子物理学の進む方向をかえようとして……」 「人間は時間にふれてはならない」  男がピシャリとした口調でいった。「人間にとって、時間はあくまでも禁域なのです」 「核分裂よりはましなはずだ……今、この時代に、核のエネルギーが解放される危険を考えれば、時間粒子の存在を追求するほうが、数倍もましなはずだ——」 「いや、人類には核分裂の方向に進んでもらわなければならない……人類の歴史はそうでなければならないのですよ」 「いったい、何人の人間が死ぬことになると思うんだ。きみがなんといおうと、人類が核のエネルギーを持つのは早すぎる……」  そうわめきかけたマヨラナの腕を、ふいに男がつかんだ。マヨラナがうめき声をあげるほど、すさまじい力だった。 「人類なんかどうでもいいとは思いませんか」  男はマヨラナに顔を寄せ、奇妙にやさしい声でささやきかけてきた。 「彼らには、勝手に殺しあいをさせておけばいい……そうは思いませんか。あなたは優《すぐ》れた科学者だ。しかも、時間粒子に思いをはせるほど、時間に興味をおもちになっていらっしゃる……もし、時間粒子のことを忘れると約束していただけるようでしたら、時間がどんなものであるのか、その本質をわたしがおみせしてもいいのですよ。どうですか? 科学者であるあなたにとっては、わたしの申し出は非常に興味ぶかいものがある、と、思うんですがねえ」 「きみは誰なんだ」  マヨラナはあえぐようにきいた。「何者なんだ」 「ずっと昔の話なんですがね……やはり、時間粒子の存在に気がつきかけた人物がいるんですよ。なに、科学者じゃなくて、錬金術師なんですが……まあ、錬金術もひとつの科学といえないこともないですか。それなりに、独立した体系をそなえているのですから……とにかく、その人物にも同じような取り引きをもちかけたんです。この世のなりたち、ことわりをすべて教えると……さすがに、その人物は賢明でしたよ。一も二もなく、わたしの話にのってきましたからねえ。ご存知でしょう? 有名な話ですから……」 「……ファウスト伝説…………」  マヨラナは口のなかでそうつぶやき、ふいに男から身をしりぞけた。 「すると、きみは……まさか……まさか、そんなことが……」 「そうなんですよ」  男はニヤニヤと笑いながら、うなずいた。 「わたしが、彼なんですよ」  耳もとを、血液がドクドクと音をたてて流れていくのがきこえるみたいだった。眼がかすみ、なま唾《つば》をいくらのみこんでも、喉《のど》のかわきがなおらなかった。  ナチズムに支配されている、異常なこの世界がグルリと一転し、さらに異常な世界をのぞかせたように思えた。  理性が金切り声で抗議を発していた。  ——嘘だ……マヨラナは必死に自分にいいきかせようとしていた。この男は嘘をついているにすぎないのだ……しかし、それが嘘だとしたら、ほとんどマヨラナの頭のなかにしか存在していなかったはずの〓“時間粒子〓”のことを、この男が知っているのは、どう説明をつけたらいいものだろうか…… 「どうですか」  男が、マヨラナの顔をのぞきこむようにしてきいてきた。 「わたしの申し出をきいてはいただけないでしょうか」 「嫌だ……」  マヨラナは歯をくいしばり、首をふった。 「あんたが何者だろうと……時間粒子のことを忘れるわけにはいかない」 「ほう……」  男の唇にうすく笑いが浮かんだ。 「このままの方向に原子物理学が進んでいけば、いずれはたいへんなことになる……時間粒子の存在を探究することは、物理学者にとって、核連鎖反応制御におとらない、研究課題になるはずだ。原子物理学の趨《すう》勢《せい》が、時間粒子の探究にむかえば、すくなくとも、核エネルギーが戦争に使用されるような事態はさけられるにちがいない……そのためにも、ぼくはあんたの申し出をききいれるわけにはいかない」 「なるほど」  男はべつに気分を害しているようにはみえなかった。それどころか、マヨラナのやせ我慢をおもしろがってさえいるみたいだった。 「つまり、あなたは人類の未来を考えれば、原子物理学は核分裂ではなく、時間粒子をつきとめる方向に進むべきだ、と、確信なさっているわけですね……」  声を低めて、いった。「ファシストの手に、核エネルギーが入ればたいへんなことになる、と……」 「ファシストとはかぎらない。人類はまだ核エネルギーを使いこなせるほどの英智はそなえていない……そういってるんだ」 「だが、とりわけナチの手に核連鎖反応制御の方法がわたるのをおそれている」  男の唇からチロッと赤い舌《した》がのぞいた。「そうじゃないですか」 「…………」  一瞬、マヨラナは返事をするのをためらった。男の巧妙な話術によって、しだいに自分は追いつめられつつあるのではないか、と疑ったからだ。しかし、マヨラナの良心が、信念が、みずからに沈黙することを許そうとはしなかった。 「そうだ——」  マヨラナはうなずいた。  とたんに、男の表情が一変して邪悪なものとなった。その眼に歓喜の炎が燃えあがり、唇の両端がきゅっとつりあがった——男はいかにもしてやったりというように、両手をうち鳴らし、ゆっくりと立ちあがった。 「それじゃあ、あなたの信念がどんなに強固なものであるか、ひとつ、拝見させていただくとしましょうか」 「…………」  とっさに、マヨラナは男の言葉がなにを意味するのか理解できなかったのだが——次の瞬間、あわてて周囲をみわたした。  それまで意識していなかったのだが、男が話しかけてきたときから、酒場の客たちの姿、その話し声は遠くへ押しやられ、ある種の遠景みたいになっていた。感覚が妙なふうに働いて、マヨラナと男にだけスポット・ライトが当たり、うしろの舞台は暗くとざされていたかのようだった。  それが、男が席を立ったとたん、すべてが正常にもどったのだ。  マヨラナはただ呆然とするばかりだった。  いつからこんなことになっていたのか、酒場の男たちはそろって席を立ち、直立不動の姿勢をとって、〓“第三帝国の国歌《ドイチユラント・イーバー・アレス》〓”を斉唱しているのだ。ほとんどの男たちは陶酔したように眼をほそめ、片手をピンと挙げる、ナチ式の敬礼をしていた。  マヨラナは、男の意図をようやくのみこむことができた。  男は、もしマヨラナがナチズムに真に反対している者なら、この雰《ふん》囲《い》気《き》のなかで、すわったままでいられるか、と、挑戦しているのだ。酒場のドイツ人たちを刺激して、危険にさらされることになるのを承知で、あえて立たずにいられるか、と、挑《いど》んでいるのにちがいなかった。  自分の信念に忠実であろうとすれば、マヨラナはその挑戦を受けてたつほかはなかった。  マヨラナは歯をくいしばっていた。ズボンの膝をにぎりしめ、立ってしまいたい、という衝動に必死に耐えていた。——ドイツ人たちはマヨラナを凝視していた。彼らの怒りが、ヒシヒシとこちらの肌につたわってくるようだった。  歌が〓“ナチ党歌《ホルスト・ヴエツセル》〓”にかわった。  このあと、マヨラナが無事にすまないことはあきらかだった。  歌が終わった。  しばらく、奇妙に緊迫した空気が店にたちこめていた。ひとりの男がマヨラナに向かって足をふみだしたのをきっかけにして、ほかの男たちがゾロゾロとそれにつづいた。  いつのまにか、あの男の姿はマヨラナのかたわらからきえていた。  マヨラナはうなだれ、床の一点をジッとみつめ、——そして、待った。  雨がふりはじめていた。  マヨラナはしばらく街路にうずくまっていたが、やがてその雨に追われるように立ちあがり、ノロノロと歩きだした。  肋《ろつ》骨《こつ》が折れているようだ。酒場の床にたおれたマヨラナを執《しつ》拗《よう》に蹴りつづけていた男がいたから、おそらく、そのときに折られたものにちがいない。  いずれにしろ、痛みはほとんど感じなかった。  マヨラナは、フクロだたきにあい、店から放りだされた自分が、どれぐらいのあいだ、気を失っていたかわからなかった。今、どこを歩いているのかさえもわからない。そんなことは、もうどうでもいいことだった。  暗く、狭い路地で、あくどいにんにくのにおいが鼻をついた。  マヨラナは二〇メートルほど歩き、雨に足をすべらせて、あおむけにたおれた。そして、そのままの姿勢で、しばらく動かなかった。  いちど、褐色のシャツを着た突撃隊の若者たちが、たおれているマヨラナのまわりをとりかこんだことがあった。彼らはしきりに、酔っぱらいだ、いや、怪《け》我《が》人だ、などとしゃべっていたが、雨脚が激しくなると、さっさと立ち去っていった。  そのあと、マヨラナはかろうじて立ち上がり、神の名をとなえ、すこし咳《せき》込んでから、ふたたび歩きはじめた。  高架鉄道のレンガ塀《べい》に、なかば破れかかっているナチスの宣伝ポスターがはられてあった。  巨大な銀と黒のナチ十字章を背景にして、戦旗をかかげた兵士たちがズラリと並んでいた。中央の貴《き》賓《ひん》席には、ヒトラーと、ゲーリングがすわっていた。 「…………」  マヨラナはそのポスターをくいいるようにみつめていたが、ふいにバランスをくずし、塀に両手をつけた。ズルズルとくずれ、地に膝をつけた。  マヨラナはうなだれ、すすり泣きはじめた。  核分裂のことも、時間粒子のことも、できれば忘れてしまいたかった。おそらく、ネズミのようにおびえて、ナポリから逃げだしてしまったことがそもそものまちがいだったのだ。——たしかに、時間粒子の存在を推論したときから、のべつあの男の影におびやかされ、一種神経衰弱のような状態におちいっていたのは事実だ。核分裂が可能なことを予見し、それがこの世界におよぼす影響を考え、つよい厭《えん》世《せい》感《かん》にかられもした。  しかし、だからといって、逃げだすべきではなかった。  戦うべきだったのだ。  核分裂を発見した原子物理学者たちが、いやおうなしに体制にくみいれられ、いずれは戦争の道具として使われることになるからといって、それから眼をそむけてはならなかったのである。  核エネルギーが戦争に使われることになるのをおそれるのなら、なんとかしてそれがさけられるよう努力してこそ、ほんとうの学者といえるのではなかったか。  今になって、席を立ち、〓“第三帝国の国歌《ドイチユラント・イーバー・アレス》〓”の斉唱に加わるのを拒絶したからといって、それがなんの証しになるだろう。  逃げだすべきではなかった。逃げだしてはならなかったのだ。  たとえば、時間粒子だ。  時間粒子の存在を想定したとき、エンリコ・フェルミか、ハイゼンベルク、やや老いてはいるがニールス・ボーアにでも、その理論を話しておけばよかったのだ。必ず、彼ら原子物理学の巨人たちは、マヨラナの〓“時間粒子論〓”に興味をいだいたはずだ。この理論をもってすれば、もっぱら空間を対象にし、時間をなおざりにしていたきらいのある原子物理学は、大きく時間にきりこむことができるのだ。興味をいだかないわけがない。  マヨラナは原子物理学の方向をかえ、すくなくともこんな時代に核分裂が発見されるような事態になるのは、さけられたかもしれないのである。それを、もちまえの傲慢さから、〓“時間粒子論〓”をより完璧な形にするまでは、と発表をひかえ、ついにすべてを手遅れにしてしまったのだ。たんに、後世に、天才として名前を残したかったがために……  ——俺は有罪だ……マヨラナはしびれるような絶望感とともに、そう自分に宣告した。  人類に対して、許しがたい過ちをおかしてしまったのだ。どこからみても、情状酌量の余地はまったくない。有罪なのだ……  マヨラナはあえぎ、空に顔を向けた。  もう雨は冷たくなかった。なにも感じなかった。マヨラナは、そこでそのまま死んでいくはずだったのだが……  ふいに、マヨラナの視界に、ひとりの女の顔が映った。たしかに、みおぼえのある顔のようなのだが、どこの誰だかどうしても想いだすことができなかった。 「可哀想に……」  と女はつぶやき、マヨラナに向かっていった。「あなたはできるかぎりのことはしたわ……さあ、わたしと一緒に行きましょう」 「…………」  マヨラナはコックリとうなずき、意味もなく微《ほほ》笑《え》んだが、やはり女が誰だったか想いだせないでいた。  落ちてくる雨粒をみあげていると、まるで自分の体が浮かびあがっていくかのようだった。 4  自分がどこをどう運ばれてきたのかはわからない。  気がついたときには、ベッドのうえにうつぶせにねかされ、裸の背になにか香油のようなものを塗られていた。油はヒンヤリと肌に心地よく、傷とあざの痛みをやさしくしずめてくれていた。  マヨラナは首をめぐらし、まわりをみまわした。  なんの変哲もない、アパートの一室のようだった。——枕元のスタンドの光が、まるく家具や調度を照らしだしていた。飾り棚《だな》のうえに、リキュールの瓶《びん》、花模様の皿《さら》、中国風の焼物などが並べられていた。レースのカーテンごしにふりしきる雨がみえ、窓の下の暖房器に燃える火と、冷たさと暖かさとのきわだった対照をなしていた。  一言でいえば、きわめて居心地のいい、うす暗いあなぐらのような部屋だった。  それから、マヨラナは肩ごしにふりかえり、香油を背中に塗ってくれている娘に笑いかけた。 「きみはたしか…………マヤだったね」 「…………」  マヤは微笑した。  スタンドのほのかな明かりのなかで、マヤはうす暗さとしずけさを身につけてしまった生き物のように、ヒッソリと息づいていた。その手の繊細な動きが、マヨラナの体の芯《しん》までやさしくもみほぐしてくれるようだった。  マヨラナはウットリと眼をとじ、しばらくその快感にたゆたっていた。このマヤという娘の正体が何者であるのか、どうして自分のゆく先々に姿をあらわすのか、そんなことにはふしぎなほど疑問をおぼえなかった。  すべてが、ごく当たりまえのことであるような気がした。  ここ数か月間の、精神的な重圧感は、マヨラナをすさまじく面がわりさせ、ほとんど廃人の一歩手前まで追いつめていた。  ファシストが着実に勢力をのばしているのも、核分裂を発見した原子物理学者たちが、いやおうなしに軍部にくみいれられつつあるのも、いうならば歴史の流れのようなものだった。  マヨラナは〓“時間粒子論〓”を唯一のたよりにして、その歴史の流れをなんとかくいとめようとしたのだ。だが、——歴史の圧倒的な力のまえでは、しょせん個人の力などたかがしれていた。マヨラナが疲労困《こん》憊《ぱい》し、ついには押し流されることになったのも、当然だったかもしれない。  その疲労に加えて、ドイツ人たちから殴《なぐ》る蹴るの暴行をうけたことが、マヨラナから外部に対する関心をねこそぎうばいさっていた。いわば精神分裂症的な無感動さに包まれ、マヤの正体をたしかめるなど、思いもよらないことだったのである。  時間がゆったりと流れていった。  マヤのつぼをこころえたマッサージに、マヨラナは恍《こう》惚《こつ》とし、うつらうつらと眠りかけていた。 「あなたはよくやったわ……」  マヤの声がきこえてきた。 「人間にできる精いっぱいのことをしたわ」 「…………」  マヨラナは首をめぐらし、あらためてマヤの顔をみようとした。マヤの言葉は、彼女自身がまるで人間ではないかのようにきこえたのだ。  しかし、いったんは顔をあげようとしたマヨラナも、奇妙なほど執拗な眠気には抗しきれず、ふたたびその顔をベッドに埋めた。 「わたしは、なんとかあなたに〓“時間粒子論〓”を完成してもらいたかった。そのために、これまで力をつくしてきたつもりだったけど……〓“時間粒子論〓”が世にでれば、人類は時間から疎外されていることに気がつくし、原子物理学の方向をかえ、日本に原子爆弾がつかわれるのを阻《そ》止《し》することもできる……そう考えたんだけど……」 「日本……」  マヨラナはなかばつぶやくようにいった。 「すると、きみは日本人か」 「ちがうわ……わたしはマヤ民族の生き残りなのよ」 「マヤ民族……」 「わたしたちマヤは、時間にとりつかれた民族だったのよ……わたしたちの暦は、今、この時代につかわれている暦とくらべても、決して劣るものではないわ。グレゴリー暦は一万年に三日の誤差、わたしたちマヤの暦はたった二日しか誤差が生じないわ……それも、グレゴリー暦ができる一千年以上もまえにつくられていたものなのに」 「…………」  マヨラナはだまってきいている。なにかいおうにも、マヤ文明にかんしてほとんど知識をもちあわせていないのだ。——およそ三〇〇年ごろから数世紀のあいだ、南メキシコからグァテマラ、ホンデュラスにかけて栄えた文明で、金属を使わなかったためか、しだいに衰亡していき、十六世紀にスペインに侵略されるにいたって、ついに完全に滅んでしまった……せいぜいが、その程度のことしか知らないのである。  したがって、マヨラナにとって、マヤの話は遠い夢物語のようなものでしかなかった。夢物語のようなものでしかなかったが……なぜか、その夢物語が自分とふかくかかわっているような気がするのだ。  それにしても、現にこうして、二十世紀のベルリンに生きているマヤが、十六世紀に滅びたはずのマヤ民族の生き残り、と、みずから名のるのは解《げ》せなかった。なんとしても、計算があわないではないか。 「わたしたちマヤは、時間にとりつかれた民族だった……」  マヤはくりかえした。「わたしたちにとって時間は、過去、現在、未来へとつづいていくものではなく、二百六十年毎にくりかえされるものにすぎなかったのよ。過去、現在、未来は同じもので、つねにそこにありつづける——わたしたちはそう考えたんだわ……時間には終点も始点もなく、ある循環のなかを、日周期、月周期、年周期、それぞれの神が荷物をせおって、ゆきかえりをくりかえしているだけなのだ、と……」 「それは、ぼくの〓“時間粒子論〓”に似ている……」  マヨラナが頭をもたげ、いった。 「時間はつねにそこにある——ぼくたちは、四次元世界に身をおきながら、三次元断面でしかそれを感じとれないために、時間の本質を誤解しているんだ。時間は流れていくものではなく、空間のように、存在しているものなんだ……おそらく時間の本質を把《は》握《あく》したとき、人間はそのなかを移動することも可能になるはずだ——」 「そう」  マヤはうなずき、奇妙に意味ありげにマヨラナの顔をみつめた。  マヨラナはしばらくその視線の意味がつかめず、キョトンとしてマヤの顔をみかえしていたが——とつぜん、まったくとつぜんに、彼女がなにをいわんとしているのかを理解し、愕《がく》然《ぜん》としたのだった。  そうなのだ。そう考えれば、すべてのつじつまがあう。彼女が、十六世紀に滅びたマヤ民族の生き残りだとしても、なんのふしぎもないではないか。 「まさか……きみは……」 「そう」  マヤはふたたびうなずいた。「わたしは、マヤ・ティカルの神官の娘……歴代の神官たちが考察をかさね、ついに時間の本質をときあかしたとき、彼らに祝福されながら、〓“時間〓”に足をふみいれた最初の人間なのよ」 「…………」  マヨラナはマヤの顔をくいいるように凝視した。もし、マヤの言葉がほんとうなら、彼女こそ〓“時間粒子論〓”を展開するための、なによりの証しといえるのではないか。しかし、信じられるのか……  ——信じるべきだ……マヨラナはしびれるようなおどろきとともにそう考えた。今、はじめて気がついたのだが、彼女は決してイタリア語を話しているわけではない。マヨラナのまったく知らない言葉を話しているのに、それが彼の頭には意味をなして伝わってくるのである。  しかし、マヨラナがマヤを凝視していたのは、ほんのわずかなあいだのことだった。またしても、あの不可解な睡魔がおそってきて、マヨラナはグッタリとべッドに顔を埋めたのだ。 「……だけど、それがわたしの都にとっては不幸のはじまりともいえた……そのおかげで、マヤ文明は滅ぼされることになった。ありとあらゆる災厄がおそってきて、それらの災厄から逃がれようと、何度も都をかえたけど、ついに逃げきることができなかった……」  マヤの声が一変して、呪《じゆ》詛《そ》のひびきに満ちたものになった。 「人類を、いえ、ありとあらゆる知性体を、時間から疎外しようとしているなにかが存在するからよ。そのなにかが存在するかぎり、わたしたちが時間をありのままにみることは不可能なんだわ……彼らの干渉があるかぎり、わたしたちにとって、つねに歴史は受け入れるものでしかないんだわ。ほんとうは、空間がそうであるように、わたしたちが構築し、つくりかえ、ありうべき姿にと創造していく素材であるはずなのに……彼らは、わたしたちから時間をうばい、あたかも逆行ができないものであるかのように錯覚させているのよ」 「あの男……」  一瞬、マヨラナの胸を激しい憎悪がえぐった。——〓“時間粒子論〓”を考察しはじめたときから、いつも影のようにつきまとい、ついにはマヨラナをある種の精神失調のような状態に追いこんだあの男……ベルリンの酒場で、言葉巧みにマヨラナを罠《わな》に誘いこんだあの男…… 「あの男は人間じゃないわ……彼らの尖兵のひとり……わたしたちから時間をうばおうとしているなにか——その意志の三次元的具象なのよ」 「…………」  マヨラナは歯をくいしばり、あの男に対する憎悪の感情がおさまるのを待った。ようやく、平静をとりもどしたとき、まえにも増してものうい気分が、自分をトロトロと包みこむのをおぼえた。 「それで、ぼくはどうしたらいい?」  マヨラナはひどく平板な口調でそうたずねた。 「戦うのよ」  マヤがこたえた。 「彼らと戦える資質をそなえた人間はすくないわ……あなたは、そのかぎられたうちのひとりなのよ」 「資質?」 「人間は本来、空間にも時間にもひらかれている存在なのよ。それが、彼らの干渉によって、時間に対して盲目にされているだけ……その干渉をうち破って、時間の本質に気がついた人間は、それだけ時間に対する洞察力がすぐれているということになるわ。あなたや、わたしは、いうならば生まれながらの時間渡航者ということなのよ……」 「ぼくにも、時間をわたるのが可能だというのか」 「時間はそこにある、と、いったのはあなたじゃないの」  マヤは教えさとすようにいった。「本当は、人間なら誰にも可能なことなのよ。彼らにじゃまされて、その機能を発揮できずにいるだけなんだわ……でも、時間の本質をさとったほどの人間なら、時間粒子に満たされた〓“純粋時間〓”を自由に行き来することができるはずよ」 「時間をわたる……」  マヨラナはなかば一人言のようにつぶやいた。「そして、歴史を構築し、ありうべき姿へと創造していく……」  マヨラナは、絶望に暗くとざされ、鎧《よろい》をまとったように無感動になっていた心が、にわかにゆるむのをおぼえた。  もしそれがほんとうなら、なにも悲嘆にくれていることはないではないか——たしかに、核エネルギーが兵器として使われるかもしれないという可能性に恐怖した、マヨラナは、卑《ひ》怯《きよう》にも逃げだしてしまった。原子物理学の方向をかえるべく、なんの努力もしないで、ただひたすら逃げだしてしまったのだ。それが、人類に対する許しがたい裏切りではなかったのか、と気がついたときには、もうすべてが手遅れだった。いや、手遅れだと思ったのだが……やりなおしがきくのなら……そう、やりなおしがきくのなら…… 「ぼくは戦う」  マヨラナの声は泣いてるようだった。「今度こそ、戦うぞ」  人間の手に、時間をとりもどすために……憎悪と殺《さつ》戮《りく》に満ちた〓“歴史〓”を消去し、人間がみずからの手で、〓“歴史〓”をありうべき姿に創造するために…… 「人間が〓“純粋時間〓”に足をふみ入れるためには、それなりの準備期間が要るわ」  マヤがやさしくいった。 「ちょうど、地を這《は》っているイモ虫が、空を舞うチョウに変《メタモル》 態《フオーゼ》するためには、サナギの期間を経なければならないみたいに……今まで空間を這っていたあなたが、時間を飛ぶようになるんだから……しばらくは、マユをつむがなければならないのよ」  ——そうか、と、マヨラナは思った。さっきからの執拗なけだるさが、なにに起因していたのかようやく納得できたのだ。こうしてしだいに外界に反応していかなくなり、マヨラナはいわばマユに包まれていくのだ。そして、変《メタモル》 態《フオーゼ》していく……  マヨラナは〓“時間粒子論〓”を思いついたときから、一度として得ることのできなかった安らぎが、今、自分を包みこみつつあるのを感じていた。それは、必ずしも罪悪感から解放される喜びばかりではなく、完全な人間に生まれかわることのできるという至福感もふくんだ安らぎだったようだ。  ふかい眠りに入ってしまったマヨラナの頬に、マヤがソッと唇を寄せた。  マヨラナは微笑んでいた。 5  マヨラナは眠っていた。  ながく、ふかい眠りだった。体の奥底でなにかが溶けていくような、ゼンマイが巻きもどっていくような、奇妙な安らぎに満ちた眠りだった。  現実にか、それとも夢のなかでか、マヨラナはときどき眼をひらいた。すると、虚空のなかに自分がただよい、銀色の光がいくつか周囲を走っていくのがみえた。光ははるか高みの一点に集束され、そこに赤い炎が燃えあがっているのがみえた。  低く、音がきこえていた。ちょうどパーティのざわめきみたいに、その音は遠く背景に押しやられ、しかし絶えることなく、いつまでもつづいていた。  マヨラナはため息をつく。うめき、寝言をつぶやく——眠りながら、マヨラナはしだいに自分が変質していくのを実感している。〓“マヨラナ〓”という自我がポロポロと剥《はく》落《らく》していき、その下からきわめて異質で、存在感の希薄なもうひとりの自分が、確実に姿をあらわしていくのがわかるのだ。  マヨラナは変態しつつあった。時間と空間が逆転して、宇宙ははっきりとその様相をかえはじめていた。なにかが、おそらくは時間粒子の存在に気がついたことが、マヨラナの遺伝子を刺激し、人間の秘められた可能性、〓“時間人〓”としての可能性を開示しつつあるにちがいなかった。  たとえていえば、時間がマヨラナのマユだった。時間はマヨラナを包みこみ、やさしくはぐくみ、そしてその変態をうながしているのだ。  マヨラナは眠っていた。悠《ゆう》久《きゆう》の時の流れに包まれ、たゆたい、安らかに眠りつづけていたのだが……  ふいに、すさまじい苦痛がマヨラナをおそってきた。それは、神経の末端がすべて外気にさらされたみたいな、なんとも耐えがたい、ほとんど地獄の業苦を思わせるような苦痛だった。  マヨラナは泣きさけんだ。しかし、悲鳴は現実の声とはならず、苦痛にさいなまれているはずの体もまた、どこにも実在していなかった。なかば抽象的な存在と化したマヨラナが、いわば苦痛そのもの、抽象的な苦痛におそわれ、その痛みに泣いているのだった。  どこともしれぬ虚空のかなたから声がきこえてきた。 「あの男がわたしたちをつけねらっているわ」  マヤの声だった。 「わたしたちはいったん〓“純粋時間〓”に逃げこむわ。まだ〓“時間人〓”になりきっていないあなたには苦痛かもしれないけど、ちょっと我慢してね…………〓“純粋時間〓”からすぐにべつの時間に逃げこむから……」  ベルリンの酒場でであったあの男の、唇の両端がキュッとつりあがった笑い顔が、マヨラナの思念いっぱいにひろがっていった。マヨラナは恐怖にかられ、(非実在の)身をふるわせ、ほとんど泣くようにしてきいた。 「どこへ、どこへ……」 「そう……日本へ。一九五〇年の日本へ」  マヤはそう答え、ふいに口調をかえていった。 「いまのわたしたちはあの男と戦うことができないわ。あなたはまだ完全に変態を終えていないし……わたしのおなかのなかにはあなたの赤ちゃんがいるんですもの」  思いもかけない言葉だった。マヨラナの苦痛と恐怖にすくんでいた〓“意識〓”が、一瞬、マグネシウムがたかれたみたいに、明るく燃えさかった。——たしかに、なかば眠りのなかにたゆたいながら、マヤと愛を交した記憶はあるにはあったが、なんだかボンヤリした夢のような記憶で、まさかほんとうにあったこととは思ってもいなかったのだ。あれは現実の出来事だったらしい。しかも、子供が生まれようとしているところをみると、もう数か月も以前の出来事だったようだ。  マヨラナはわれ知らず微《ほほ》笑《え》んでいた。微笑みながら、マヨラナの体は急速に実体化していった。そして、一九五〇年の日本に墜《お》ちていった。『一明村』へ……  ——ふと眼をさますと、マヨラナは自分がどこか岩室のようなところで横たわっていることに気がついた。かたわらではマヤが同じように横たわり、宙の一点を凝視しながら、しずかに胸を上下させていた。  時間を超えたということにかんしては、意外なほど感動をおぼえなかった。すべてがしごく当然のことであるような気がした。なんだか赤ん坊にもどったみたいに、体に力が入らず、現実の事物がガラスを一枚へだてたようによそよそしく眼に映った。 〓“時間人〓”に移行しつつある今、マヨラナは人間としての正常な反応を急速に失いつつあるようだった。いうならば現在のマヨラナは、無力なさなぎにひとしい状態だった。  ふいに岩室の入口に人影が立ちはだかり、日光をさえぎった。その人物は倒れているふたりをみて、そうとうにおどろいたようだった。しきりになにか話しかけてくるのだが、マヨラナにはその言葉は一言一句も理解できなかった。  ただ言葉の端々から、どうやらその人物が〓“コバヤシ〓”という名前であるらしいことだけは推察がついた。  ——それから、この現実の世界で、数か月という時間が流れていった。  とある田舎《い な か》家《や》の囲《い》炉《ろ》裏《り》端《ばた》に、小さな籠《かご》がおかれていて、そのなかで産《うぶ》着《ぎ》にくるまった赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。  囲炉裏には火が入っていず、家はしんとしずまりかえっていた。障《しよう》子《じ》から淡く日の光がさしこみ、ただよう埃《ほこり》を浮かびあがらせていた。外からコッコッというニワトリの鳴く声がきこえた。  表戸をあけ、ひとりの女が入ってきた。  女は、マヤだった。  マヤは籠のわきに膝《ひざ》をつき、しばらく眠っている赤ん坊にみいっていた。ふいにその顔がゆがみ、なんだか激しい衝動につき動かされたかのように、マヤは両手を籠のなかにのばした。——しかし、マヤは赤ん坊を抱こうとはしなかった。指をふれようとさえせず、赤ん坊のすべてを記憶に刷りこもうとしているみたいに、ただジッとその無心な寝顔をみつめていた。  外から、マヨラナの声がきこえてきた。マヤを呼ぶ声だった。  マヤは立ちあがった。もういちど、赤ん坊の寝顔に眼をやると、なかば駆《か》けだすようにして、家から出ていった。  時間がゆったりと流れていき、囲炉裏にさしこむ日の光もしだいにかげっていった。  ふいに荒々しい足音がきこえてきて、家のなかにひとりの男がとびこんできた。男はすばやく土間に視線をめぐらすと、そのまま息せききって奥の座敷に走りこんでいった。  そして、ふたたび土間に顔をだすと、しばらく放心したみたいに、籠のなかの赤ん坊をみつめていた。 「行っちまった……」  男——小林はボソリとつぶやいた。「おまえのお父《とう》ちゃんお母《かあ》ちゃん、どこかに行っちまった……」  そう、マヨラナが完全に変態を終えたとき、ふたりの〓“時間人〓”は彼らと戦うべく、〓“純粋時間〓”にもどっていくことを決意したのだった。もちろん、子供には未練が残ったが、戦闘に赤ん坊を連れていくわけにはいかなかった。  ——一九五〇年、こうして〓“一明村〓”に、真与新介が残されることになる。  ふたりとも知らなかったのだ。  ふたりが時間の通路につたったために、〓“一明村〓”の仕込み場に時間の乱れが生じ、それが〓“天《あま》の甜《たむ》酒《ざけ》〓”なる名酒を生みだしたことも、三〇年ちかくたってから、息子が両親の素姓をたしかめたくて、この地へやって来ることも……知らなかったのだ。  ふたりとも、〓“純粋時間〓”を戦場にして、彼らを相手に必死に戦っていたのだから…… 第三章 われらは過ぎゆく 1  一九四一年秋——ひとりの男がコペンハーゲンの街を歩いていた。  三十代も後半のようにみえた。ひたいが広く、眼が思索的な光をたたえ、口のまわりにはふかいしわが寄っていた。  すれちがう人たちは、一様に、男にちらりと視線をなげかけ、すぐにその視線をそらした。誰もが、男と眼をあわすのさえ嫌っているようだった。  コペンハーゲンの市民たちにとって、それもむりからぬことであった。男はみるからにドイツ人然としていて、彼がそこにいるということが、そのまま市民たちにデンマークがドイツに占領されている事実を想い起こさせるからである。  たそがれだった。  錆《さび》色の空には、ほとんど光がなく、北欧特有のドンヨリした雲が全体をとざしていた。  街路樹は黄いろい葉を散らせ、にぶく光る運河のうえに舞わせていた。いかにも寒そうに行き交う、コートを着た市民たちの姿が、この街にも冬の到来がちかいことを示していた。  ——男もまた寒そうに肩をすぼめ、その足どりにも力がなかった。なにか思い悩んでいるように、自分の靴先をみつめながら、トボトボと歩いている。まるで、自分がドイツ人であることを恥じているみたいにみえた。  男の名は、ヴェルナー・ハイゼンベルク……二十代のはじめに量子力学を確立し、その後の物理学の方向を決定づけた、ドイツ物理学界の第一人者である。  ハイゼンベルクは街路をそれ、住宅街に足をふみいれた。  ——枯れ葉がカサカサと音をたてて、道のうえに舞っていた。数人の子供が、その枯れ葉を追いかけながら、笑い声をあげていた。  おとぎの国のように、レンガ造りの平家が建ちならぶ、清潔で、ヒッソリとした住宅街だった。  街燈がともりはじめていた。  ベンチに男がひとりすわっていて、ハイゼンベルクの姿をみると、ゆっくりと腰を上げた。  ハイゼンベルクの表情がパッと明かるくなった。その足が自然に早くなった。  だが、相手のほうは、ハイゼンベルクと会ったことをさほど嬉しいとも思っていないようだった。男は眼を伏せ、いくぶん背中を曲げて、まるで全身でハイゼンベルクを拒絶しているようにみえた。 「おそくなってしまいました」  ハイゼンベルクは英語でいい、右手をさしだした。「どうも申しわけありません、ボーア教授——」 「そんなには待たなかったよ」  ボーアは眼を伏せたまま、やや口ごもるようにそういい、それでもハイゼンベルクと握手を交わした。「研究所の私の部屋に来てくれないか。あそこだったら、ゆっくり話ができると思うよ」 「そんなには待たなかったよ」  ボーアは眼を伏せたまま、やや口ごもるようにそういい、それでもハイゼンベルクと握手をかわした。「ほんとうなら、研究所の私の部屋に来てもらうべきなんだろうが、なにぶん人眼がうるさくてね……わるいが、歩きながら話そうじゃないか」 「…………」  ハイゼンベルクは、ニールス・ボーアの態度、口調に、かつての恩師とは微妙に異なるものを感じていた。ハイゼンベルクはそれを悲しいと思ったが、決してボーアを責めようとは考えなかった。いや、責めるべきではないのだ——占領国の人間と、被占領国の人間との間に、以前のような友情が存続すると考えるほうがおかしかった。  わずか十年の時のへだたりが、二人の立ち場を決定的に異なるものにかえていた。  二人は肩をならべて歩きながら、しばらく共通の友人の消息のことなどを話しあった。  ハイゼンベルクは非常に用心しながらも、しだいに話の核心にちかづいていきつつあった。——最初は、同じ物理学者のフリッツ・ホウターマンズのことを話した。ホウターマンズは、物理学者としての業績はたいしたことはなかったが、それも彼の経歴をみればむりからぬことと納得できた。一九三〇年代、ロシアで働いているときに、スパイ容疑をかけられ、逮《たい》捕《ほ》された。ドイツに送還されたのちには、ゲシュタポに尋問され、ふたたび投獄されている。  ホウターマンズは、半分ユダヤ人の血が入っていた。  ホウターマンズは、原子爆弾がちかく実現するものと確信していた。そして、物理学のめざましい発展にうっとりとはしたものの、原子爆弾がつくりあげられたとき、それが世界にどんな災厄を与えることになるのか恐れてもいた。とりわけ、ヒトラーの手に原子爆弾がわたることを考えると、慄《りつ》然《ぜん》とするのだった。 「彼は、わたしとフォン・ワイゼッカーがコペンハーゲンをおとずれるのをききつけて、ワイゼッカーに連絡してきました……」  ハイゼンベルクはなんとはなしに、路上に舞っている枯れ葉を眼で追いながら、つぶやくようにいった。「ボーア教授に、原子爆弾のことを話してはくれないか、と、依頼してきたのです……」 「彼は、わたしとフォン・ワイゼッカーがコペンハーゲンをおとずれるのをききつけて、ワイゼッカーに連絡してきました……」  ハイゼンベルクは暖《だん》炉《ろ》の火に手をかざしながら、いった。「ボーア教授に、原子爆弾のことを話してはくれないか、と、依頼してきたのです……」 「…………」  ボーアは椅子にふかぶかと体を沈め、手に持ったコーヒーカップをみつめていた。その瞼《まぶた》が重くたれさがり、しかも照明のかげになっていて、彼がどんな顔をしているのかよくわからなかった。  ハイゼンベルクの胸に、フッと不安のようなものがよぎった。その不安がなにから生じたものか、自分でもわからないまま、ハイゼンベルクは言葉をつづけた。 「今や、われわれは原子爆弾をつくることが可能な段階にまで達しました」  ハイゼンベルクがそういうと、ボーアはようやく顔をあげた。その眠たげだった眼が、今、驚《きよう》愕《がく》で大きくみひらかれ、凍りついたようになっていた。 「ただし、原子爆弾を完成させるには、膨大な生産力を必要とし、それにかかる出費も莫大な……」  ハイゼンベルクはとうとつに言葉を切り、ジッとボーアの顔を凝視した。ボーアの顔には、ありありと恐怖の表情が浮かんでいたのである。  壁にかかっている時計が、澄んだ音をひびかせながら、時刻をつたえはじめた。  どこか遠くの学校からきこえていた鐘の音《ね》が、錆色の空に澄んだ余韻を残しながら、しだいにちいさく、ちいさくなっていった。  街燈のほの暗い明かりの下で、ボーアは恐怖にうちのめされたように、凝然と立ちつくしていた。現代物理学の第一人者であるニールス・ボーアが、まるで道に迷《まよ》ったみたいに、途方にくれているのだ。  一瞬、ハイゼンベルクはボーアの身になにが起こったのか理解できないでいた。心臓の発作でも起こったのか、と、心配したほどだ。まさか、原子爆弾という言葉が、ボーアにこれほどまでのショックを与えるとは想像もしていなかったのだ。 「そのことにかんしては、なにもききたくはない……」  ボーアはハイゼンベルクからつと眼をそらし、頬の肉をふるわせながら、いった。「なにもしゃべりたくはない」 「…………」  ボーアはかつて、こんなにも不作法な態度をハイゼンベルクに示したことはなかった。ハイゼンベルクは呆然とし、そしてようやくボーアが彼の来訪の目的を誤解していることに気がついたのだ。  たしかに、ハイゼンベルクはいわゆる〈Uプロジェクト〉に参加し、原子爆弾の開発を推し進めるのに一役かっていた。しかしそれも、原子爆発物質であるウラン235が自然ウランのなかにわずか〇・七パーセントしか含まれていないという事実があるからこそ、参加したにすぎない。たとえ原子爆弾が開発されるにしても、それは遠い未来のこと、戦争が終わったあとのことにちがいない、と信じていたからこそなのである。  プルトニウムを用いても原子爆弾は可能なのだ、とわかったとき、ハイゼンベルクたちは動揺した。だが、それも、開発に要する莫大な費用のことを考えれば、とうてい戦争に間にあうはずがないように思えた。どうまちがえても、ヒトラーの手に原子爆弾がわたる可能性はなかったのだ。  ハイゼンベルクはそのことをボーアにつたえにきたのだ。そして、指導的原子物理学者のひとりであるニールス・ボーアに、人間としてこのことから手を引くべきであるか、それともすべてを手中に収めて、不幸な事態を招かぬようにコントロールすべきか、を相談しにきたのである。  だが、ボーアはいわば敵側にぞくしているハイゼンベルクを頭から信用していないようだった。それどころか、なにか原子爆弾にかんする情報をうばいにきたのではないか、と、疑ってさえいるみたいなのだ。 「先生……」  ハイゼンベルクは落ち葉をふみしだき、一歩足を進めながらも、なんといったらいいのかわからなくて、苦しげに顔をゆがめた。「先生……わたしは……わたしは……」 「先生……」  ハイゼンベルクは椅子から身をのりだし、懸命にさけびだしたい衝動に耐えながら、しかしその一方では、なんといったらいいのかわからなくて、苦しげに顔をゆがめた。「先生……わたしは……わたしは……」 「…………」  だが、ボーアはハイゼンベルクの必死の呼びかけにもまったく反応しようとはしなかった。椅子のなかに身をすくめ、ひたすら無関心をよそおっているのだ。彼が疑心暗鬼にかられ、ハイゼンベルクをおそれてすらいるのはあきらかだった。 「先生……」  ハイゼンベルクはもういちどそうつぶやくと、力なく肩をおとした。いかに真意をつたえたくても、相手に話をきこうとする意志がないのでは、どうにもその術《すべ》がなかった。  それからしばらく、ハイゼンベルクとボーアのふたりは沈黙したまま、ただジッとすわっていた。  暖炉に燃えさかる炎をみながら、ハイゼンベルクは戦争が憎《にく》い、と、そればかりをくりかえし考えていた。十五年まえ、彼らふたりの物理学者はよきパートナーとして、またよき論敵として、量子論の問題に何か月もいっしょにとりくんだものだ。それが今、戦争にひきさかれ、国家という溝《みぞ》をとびこえられないまま、こうして対《たい》峙《じ》していても、おたがいの沈黙のなかにとじこもるはめとなっているのだ。  たんに、悲しいというだけでは言葉が充分ではない。ハイゼンベルクは強いいきどおりさえおぼえた。  たしかに、ハイゼンベルクの行動はやや軽率にすぎたかもしれない。先日、フォン・ワイゼッカーとともにボーアの家をおとずれたとき、ハイゼンベルクはドイツの勝利は確実だ、と、しきりにくりかえしたのである。ハイゼンベルクにとって、戦争の勝敗と原子爆弾の開発はまったく別の問題だったが、現に、祖国を占領されているボーアにしてみれば、そうとは受けとめられなかったとしてもふしぎではない。  ハイゼンベルクの不用意な発言が、ボーアを必要以上に警戒させることになったのはまちがいなかった。 「どうも、おじゃましました」  やがて、ハイゼンベルクは椅子から立ち上がると、ぎこちなく、いくぶん悲しげにいった。「どうか、奥さまによろしく」 「どうも、おじゃましました」  ハイゼンベルクはふいに立ちどまると、ぎこちなく、いくぶん悲しげにいった。「どうか、奥さまによろしく」  そして、きびすをかえして、暗い道をトボトボと歩き去っていった。  ——こうして、二十世紀を代表するふたりの原子物理学者の、もしかしたらその後の歴史を大きくかえることになったかもしれない話しあいは、みじめな終わり方をすることになったのだった。  この後、アメリカはドイツが原子爆弾開発を推し進めているという強迫観念にとりつかれ、いわゆる「マンハッタン計画」に着手することになる。そして、人類はいやおうなしに核兵器の時代を迎えることになるのである。  おそらく、ハイゼンベルクとボーアの話しあいがスムーズに運んでいれば、原子物理学者たちは原子爆弾の開発を急がず、核分裂連鎖反応は、純粋にエネルギー源としての見地からのみ開発されたことと思われる。そうだとしても、いずれ原子爆弾は開発されたろうが、とにかくその後の世界情勢がよほどちがったものになったのは、まずまちがいないのではないだろうか。  だが、デンマークがドイツに占領されていた以上、ボーアがいかなる情報もハイゼンベルクに与えないと決意したのも、またやむをえないことではあったのだ。  ただ、この話しあいにおいて、ささいな、しかしふしぎなくいちがいがあり、それが後世の歴史家たちを悩ませることになる。  ハイゼンベルクは暗い路上で、ボーアは研究所の自分の部屋で、この話しあいが行なわれたとそれぞれ主張し、たがいに譲ろうとしなかったのである。 「歴史のぶれが起こっている」  シンがいった。「任務は失敗だ」  血を吐くような声だった。——一九三七年四月、日本をおとずれたニールス・ボーアのまえに、シンが出現し、時間粒子の存在を示《し》唆《さ》したのも、マヤがヨーロッパを放浪するマヨラナと接触し、シンにメタモルフォーゼさせたのも、すべてハイゼンベルクとボーアの会見にそなえてのことだったのだ。(その下工作の段階で、すでにマヨラナが変態したシンが加わっているのだから、常識的には、ここでタイム・パラドックスが生じそうなものだが、〓“純粋時間〓”に身をおいているかぎり、その種の矛盾は起こりえない。〓“純粋時間〓”においては、時の前後関係などまったく無意味なものだからである)  ——だが、シンとマヤがさまざまに手をほどこしたにもかかわらず、やはりボーアとハイゼンベルクの話しあいはうまくいかなかったようだ。ふたりの努力は、たんに歴史のぶれを生む結果にとどまったのである。  ついに歴史は、原子爆弾を回避することができなかった!  もう、時間流の乱れを修復することも不可能だった。α系一三五六四二……一九四五年八月六日、この地球上に原子爆弾が炸《さく》裂《れつ》するのを阻《そ》止《し》することは誰にもできないのだ。  シンとマヤは無力感にうちひしがれていた。任務が失敗したのは、必ずしもふたりが非力だったからばかりではない。そこには、すべての知性体を滅亡へと導くために、時間に強引に干渉してくる彼らの意図が働いていたにちがいないのだ。  しかし、だからといって、シンとマヤは任務に失敗した自分自身を許す気持ちにはなれなかった。どう弁解の言葉をつらねてみても、原子爆弾を回避しきれなかったという事実にはかわりないのだ。  とりわけ、シンの失意には深刻なものがあった。原子爆弾の回避は、彼がマヨラナだったときからのいわば悲願だったのだ。——マヨラナだったときには、その悲願を達成するのに失敗した。そして、〓“純粋時間〓”をとびかう時間人となった今、ふたたびその悲願を達成するのに失敗したのだった。  マヨラナとシンはあらゆる意味で、べつの存在と解釈すべきだ。そこには、サナギとチョウの間にみられるよりも、さらに大きなちがいがあった——その外見からして、まったくべつの生き物のようだ。体はちいさく、しなやかにかわり、なによりその背に時間粒子をうけるための二枚の翅《はね》がついている。時間が可逆的である、と、身をもって知ったために、その思考法も大きく異なったものになっている。  ただ、しだいにうすれつつはあったが、マヨラナであったときの記憶は、かすかにシンの頭に残っていた。  だからこそ、なおさらこんどの失敗が悔やまれるのだった。 「とにかく、いちどプラットホームにもどったほうがいいわ」  ながい沈黙ののち、ようやく気をとりなおしたように、マヤがいった。「こんどの任務には失敗したけど、決してわたしたちは負けたわけじゃない……彼らの干渉があるかぎり、戦いつづけるしかないんだわ」 「あ、ああ……」  シンはうなずき、もういちど自分を納得させるように、強くうなずいた。「ああ、そうだな」  そして、コンソールに手をのばしたそのとき——スクリーンのミンコフスキー時空間が大きく乱れた。  三次元切断面の電子点がめまぐるしくパターンをかえ、ジグソーパズルのように、ひとりの男の顔を組みたてていったのだ。  あの男だった。  彼らの意志の三次元的具現——つねに歴史の曲がり角に姿を現わし、人類が時間の本質を理解しようとするのを強引にさまたげるあの男……マヨラナを追いつめ、破滅にいざなおうとしたあの男なのだ。  シンとマヤは呆然とスクリーンにみいっていた。電子点を再配置し、男の顔に組みたてるなど、とうていふたりには理解できない技術だった。  男は大口をあいて笑っていた。その拡大された美しい顔を、グロテスクにゆがめ、嬉しくてたまらないというように哄《こう》笑《しよう》しているのだ。なまじ笑い声がきこえないだけに、なおさら眼をそむけたくなるような奇怪さだった。  そして、その顔がフッとスクリーンから消え、攻撃がはじまった。  どこか時間流のかなたで、核分裂、核融合爆弾が炸裂し、破壊された時間粒子のエネルギーが、すさまじいしぶきとなって、トボットにふりそそいできた。超《タ》高《キ》速《オ》粒《ン》子《・》砲《ガン》が次から次に発射され、かろうじて〓“空間化〓”をたもっているトボットを、時間粒子に解体しようとしている。  スクリーンにはぎらぎらとした白光がはんらんし、視床下部破壊剤もまた攻撃に使用されていることを示していた。  トボットを包んでいる時間粒子が、赤く、青く色をかえた。そのしぶきが、スローモーションでとらえられた水滴のように、白く、黄いろく、トボットにふりかかってくる。まさに、破壊的なエネルギーの波だった。  トボットを〓“空間化〓”している全計器が、ようしゃなく超高速粒子《タ キ オ ン》に貫通され、急激に狂いはじめていた。〓“現在〓”にとどまるためのいかりが、高エネルギーにさらされ、しだいに時間粒子に解体されつつあった——このままの状態がつづけば、ついにはトボットは制御不能となり、時間粒子のなかをとめどもなく流されていくことになるだろう。 「逃げるんだ」  ほとんどコンソールにしがみつくようになりながら、シンは必死に計器を操作した。  時間粒子の抵抗がいつにも増して強いみたいに感じられた。〓“空間化〓”をたもつのが困難になっていくにつれ、超高速粒子《タ キ オ ン》を噴射するのに必要なエネルギー圧もしだいにたかくなっているのにちがいない。いうならば、冬の朝、路上にとめておいた車のエンジンをかけるようなものだ。  シンは歯をくいしばり、くりかえし推力レバーを引いた。  そして、——とうとうトボットが超高速粒子《タ キ オ ン》を噴射した。  一瞬、トボットはグラリと大きく揺れはしたが、どうにか〓“現在〓”のくびきをきりはなし、未来に向かって進みはじめた。〓“純粋時間〓”をつき進みながら、不断に〓“空間化〓”しているために、トボットはいわば明滅している状態にあった。存在と非在をくりかえしているのだ。残像がうすく、青く、尾をひいていた。  ときに、トボットが赤く燃えあがるようにみえるのは、エネルギーのしぶきに激しく刺激されるためだからだった。 「どこへ逃げるの」  マヤがきいてきた。 「〓“黒の領域《デス・ゾーン》〓”だ——」  シンがうめくように答えた。「あそこへ逃げこめば、彼らもわれわれを感知することはできないはずだ」  色彩——〓“空間化志向〓”にさまたげられ、人間は色彩のしんに意味するところを理解できないでいる。  色彩は、空間、時間に拮《きつ》抗《こう》しうる、ひとつのそれじたい独立した次元なのである。  すべての生物はなんらかの形で光を吸収し、生きている。だが、そのなかでもとりわけ知力のすぐれたものだけが、色彩を感知することができるのだ。  たぶんに比《ひ》喩《ゆ》的ではあるが、子供は光を吸収し、みずからをプリズムと化して、それを分光する。児童画が、描き手の成長段階、感情を正確に表現していることには、まったくおどろかされる。子供たちは、色彩がいわば自分の客観的表現であることを本能的に知っているのかもしれない。  それが、長じるにつれ、しだいに色彩と感情との相互関係に鈍感になっていく。〓“空間化志向〓”が人間の眼をくもらせ、そのいきいきとした感情反応をうばってしまうのだ。  そして、やがては、色彩は文字どおりのいろどりにすぎなくなってしまう。  だが、——ここ〓“純粋時間〓”においては、色彩はひとつの次元として、完全に自立している。いいかえれば、感情がいったん抽象化され、色彩として表現されているのだ。  したがって、その色彩の意味するところをよく理解すれば、感情をひとつの対象として客観視することが可能になる。〓“純粋時間〓”に身をおく者にとって、感情は必ずしも生物と不可分なものではない。それは、空間における縦、横、高さと同じように、客観的に観測することができるものなのだ。  だからこそ、〓“純粋時間〓”の住人たちにとって、徹底した客観性をたもつことが可能になり、歴史そのものをみることもできるようになるのである。  感情が客観的に存在する状態を、言葉で説明するのはむつかしい。それはちょうど、生まれながらに眼の不自由な人に、色彩とはどんなものであるかを説明するのに似ているようだった。 〓“純粋時間〓”には、さまざまな感情が存在する。そして、時間粒子をそれぞれの色に染めあげるのだ——白が自己否定、赤が敵意、青が生の衝動、褐色が飢《き》餓《が》、もしくは排出……黒が死の衝動だった。  今、——トボットはその〓“黒の領域《デス・ゾーン》〓”にふかく沈んでいる。この領域に潜んでいるかぎり、敵がいかに探査装置を作動させ、感知網をはりめぐらせても、まず発見される恐れはなかった。生体反応がことごとく断ち切られてしまうからである。  ただし、かつてフロイトが主張したように、人間のなかには死への願望が性欲におとらず、いや、場合によっては、それよりもつよくひそんでいる。〓“黒の領域〓”に身をおいた者は、当然、そこから影響をうけることを覚悟しなければならなかった。  生理時間に換算して、およそ一時間ほどが過ぎていた。  コントロール・チェアにすわって、スクリーンを凝視しているシンとマヤは、自分たちがとめどもない憂うつにのめりこんでいくのを感じていた。憂うつ症《ヒポコンデリア》の、悲哀と、絶望に満ちた精神状態だ。それが、たんに〓“黒の領域〓”から影響をうけているからにすぎないとわかっていても、いささかなりとも憂うつの度合いが減るわけでもない。まったく、今すぐにも首をくくりたいような心境なのである。 「……じっさい、しつこい男だな」  スクリーンにみいっているシンが、ほとほと嫌気がさしたようにつぶやいた。「あの男、ぼくたちをさがして、日本に向かったようだ……」 「わたしたちの……」  一瞬、マヤは口ごもり、それから思いきったようにいった。「わたしたちの子供に接触するつもりなんだわ」  その知識のない者がみたのではわからないが、たしかにスクリーンのミンコフスキー時空間は、あの男と、真与新介の姿を映しだしていた。どうやら、酒場のようだ。あの男は新介の隣りの席に腰をおろし、しきりに何事か話しかけている。  シンはいやでも、かつて自分がマヨラナと名のっていたとき、ベルリンの酒場であの男に話しかけられたことを想いださないではいられなかった。 「子供に接触すれば、わたしたちが姿を現わすと思っているんだわ」  マヤが鼻にしわをよせ、暗い笑いを浮かべた。 「誰がそんな手にのるもんですか」 「…………」  シンはスクリーンをくいいるように凝視していたが、やがてホッと息をつき、奇妙にものうい口調でいった。 「どうやら、われわれをさがすのはあきらめたらしい……スクリーンに、あの男の反応がみられなくなった」  そして、しんそこ疲れきったみたいな動きで、コンソールに腕をのばした。心が厚い鎧《よろい》をまとったように無感動になっている。はやく〓“黒の領域《デス・ゾーン》〓”から浮上しないと、それこそ底なしの憂うつにからめとられ、身動きできなくなる恐れがあった。  さいわい、あの男も追跡をあきらめ、攻撃も止んだようだ。とりあえず、プラットホームに向かい、次の作戦にそなえるべきではないだろうか……  シンはそう考えたのだが——それが、とんだまちがいだったのだ。 2 〓“黒の領域《デス・ゾーン》〓”からの浮上には、恐怖感がともなっていた。  それは、たとえば、母親からきりはなされるときの出《オツ》生《トー》外《・ラ》傷《ンク》に似ているといえるかもしれない。死とは、誕生まえのあの苦痛のない安らぎの世界へと回帰することであり、ふたたび胎児にもどることである。だからこそ、死は恐怖対象であると同時に、つねに人間のあこがれの的でありつづけたのだ。  その意味で、〓“黒の領域〓”からの浮上は、みずからを生む行為といえた。いわば、自分の意志で、完全に保護され、苦痛のない母親の胎内からはなれることになるのだ——それが、たんに〓“黒の領域〓”がもたらした錯覚にすぎないとわかっていても、耐えがたい苦痛、恐怖感をおぼえてしまうのだった。  シンとマヤはほとんどうずくまりながら、コントロール・チェアのなかで身をすくめていた。膝をかかえ、体をまるくしたその姿は、胎児を連想させた。憂うつだが、しかししずかな安らぎに満ちた〓“黒の領域〓”から浮上する苦しみが、無意識的な連想となってはたらき、ふたりに胎児の姿勢をとらせているにちがいなかった。  ついに、トボットは〓“黒の領域〓”から浮上した。 〓“純粋時間〓”に色がよみがえった。〓“生の衝動〓”をしめす、うすい緑だった——ぜんたいに光があわくにじみ、ちょうど浅い海底をただよっているみたいだった。  電池が再充電されるのに似ていた。生きる気力がふたたび湧いてくるのをおぼえ、シンはようやく顔をあげた。そして、頬が涙でグッショリぬれているのに気がつき、手の甲でくりかえしぬぐった——出生の悲しみが、シンを泣かせたのだ。  それから、なおも泣きじゃくっているマヤの肩をやさしくたたくと、コンソールに腕をのばした。  これで、プラットホームに帰れると思ったのだが……  ——プラットホームが腐りつつあった。  まるで、金属を強酸にひたしたみたいだった。みるみるうちに外殻がくずれ、めくれ、時間粒子の流れのなかに消えていくのだ。 〓“過去〓”を逆噴射させ、ようやく〓“現在〓”にとどまっているプラットホームが、その過去によって腐《ふ》蝕《しよく》されているようだった。  人間にとって、厳密な意味での〓“現在〓”はありえない。〓“現在〓”とは過去、もしくは未来と対置させることでしか、とらえることのできない概念なのである。 〓“現在〓”とはどれほどの幅を指していうものなのか。まばたきするあいだのことか。その半分なのか。それとも、さらにその半分だろうか……どんなに、〓“現在〓”をこまかく割っていったところで、それを〓“現在〓”としてとらえることは不可能だ。〓“現在〓”をとらえたとき、それはもう過去にぞくするものになっているからだ。  たとえ〓“純粋時間〓”にあるからといって、その事情にかわりはない。つねに過去から未来へとうとうと流れる時間粒子のなかにあって、〓“現在〓”を確保するというのは、不可能なことなのだ。  だからこそ、プラットホームは〓“現在〓”にとどまりながら、生理時間にして二十秒ほどのずれをどうしてもふせぐことができなかったのである。  いうならば、プラットホームはこれまでのつけを一《いち》時《どき》に払わされているようなものだった。 〓“過去〓”を逆噴射させて、かろうじて〓“未来〓”に流されるのをくいとめていたプラットホームが、こんどはその〓“過去〓”によって、〓“現在〓”を侵されているのだ。無機物にも生き腐れという形容が許されるのなら、まさにプラットホームはその生き腐れの状態にあった。  いずれにしろ、そのプラットホームがもう基地としての機能をはたせないのはあきらかだった。おそらく、生存者もひとりもいないにちがいない。 「いったい、どうしたの……」  マヤが、混乱したようにいった。「なにがあったというの」 「…………」  もちろん、シンにしてもその疑問に答えられるはずがなかった。ただ呆然と、スクリーンにみいるばかりだったのだ。  どうやら、シンたち〓“時間〓”と彼らの戦闘は新しい段階に入ったようだった。これまでの戦闘は、いわば歴史というゲーム盤のうえで展開されるチェスのようなものだといえた。たがいに、盤のうえでポイントを争いはするが、その争いが決してプレイヤーの身におよぶことはなかったのである。  彼らは、人類を破滅にみちびくべく、その〓“時間〓”に干渉する。そして、シンたち〓“時間人〓”の本質にふれることのできた〓“時間人〓”は、彼らの干渉をはねのけるべく、歴史にさまざまな修正をほどこす——彼らの正体がわからないだけになおさら、戦闘はあいまいな、奇妙に曲折したものにならざるをえなかったのだ。  それがとつぜん、まったくとつぜんに、プラットホームが襲撃されるという事態をむかえたのだった。  とっさには、シンとマヤがなにが起こったのか理解できなかったとしても、ふしぎではなかった。  なにより、あれほど堅《けん》牢《ろう》にみえ、ほとんど超自然的な力をそなえているかのように思えたプラットホームが、こんなにも容易に滅ぼされるとは、とても信じられないような気がしたのだ。いったい、どんな力が働けば、〓“過去〓”が〓“現在〓”を侵すというようなことが可能になるのだろうか。  腐蝕されつつあるプラットホーム〓は、シンとマヤにとって、前線基地の役割りをはたしていたといえた。その前線基地を失った今、ふたりは本隊からきりはなされ、〓“純粋時間〓”の孤児ともいうべき立ち場におちいってしまったのだ。  しかし、さすがにシンはわれにかえるのがはやかった。〓“時間管理者〓”の安否もたしかめたかったし、プラットホーム〓に替わる基地もさがさなければならない。未練たらしく、いつまでも破壊された基地をみつめているわけにはいかなかった。 「救《メ》助《ー》信《デ》号《ー》をだしてくれ」  スクリーンのエネルギーをきると、シンはマヤをふりかえっていった。「ここからは離れたほうがよさそうだ」 「…………」  マヤもようやく当初の衝撃からたちなおったようだ。だまってうなずくと、コンソール・デスクのまえにすわった。  とにかく、ここから移動することだ。移動しながら、不断に救《メ》助《ー》信《デ》号《ー》をだしつづけていれば、いつかは味方が助けにきてくれないともかぎらなかった。  だが、——ふたりに救助信号をだしている余裕《 ゆ と り》は与えられなかった。  ふいに、下からつきあげてくるような衝撃をおぼえた。つづいて、トボットが右に左に激しく揺さぶられた。まるで、目にみえない巨人がトボットを掴《つか》んで、激しくふりまわしているかのようだった。  コンピューターパネルがあわただしく点滅し、警報ベルが金切り声を発した。とっさのことで、シンもマヤもコンソール・デスクにしがみつき、転倒をまぬがれるのが精いっぱいだった。とても、なにが起こったのかたしかめている余裕はなかった。  ほんらい、〓“純粋時間〓”に上下のべつなどあるはずはなく、トボットは擬似重力によって制御されているのだが、あたかもその擬似重力に狂いが生じたような状態なのだ。  ありうることではなかった。  厳密な意味では、トボットは物体とはいいがたい。〓“空間化〓”され、つねに〓“現在〓”に固定されていることで、かろうじて〓“純粋時間〓”をわたることが可能になった、一種の現象とでも呼ぶべきものなのである。それだけに、物体としての性質ははなはだしく希薄で、物理的な影響をうけることもまれだといえた——そのトボットを、いったいなにがこれほどまでに揺らしているのか。  シンたちは歯をくいしばり、振動に耐えていた。  トボットは揺れに揺れ——そして、とつじょとして、その揺れがおさまった。うってかわったしずけさが、トボットのなかを支配し、計器もことごとく平静な状態にもどったようだった。  シンはしばらく荒い息をついていたが、やがてコンソール・デスクに手をのばし、スクリーンのスイッチを入れた。 「う……」  おもわず、おどろきの声をもらした。  スクリーンは、ぜんたいをやや赤みがかった褐色のつたのようなものでおおわれていたのである。  もちろん、〓“純粋時間〓”のなかでつたが育つはずはない。それは、感情のむすぼれ——〓“生の衝動〓”が枯れはてたものだった。  体内に侵入してくる病原菌は、抗体によって滅ぼされる。その〓“抗体〓”に似たものが、精神の領域にもある。ありとあらゆる精《ト》神《ラ》外《ウ》傷《マ》、死に対する不安などをしりぞけ、〓“生の衝動〓”をすこやかに育てていくには、精神の抗炎症機能とでも呼ぶべきものが必要になるのだ。  いってみれば、それは〓“死の衝動〓”という大地にねざし、〓“生の衝動〓”という太陽に向かってのびる人間精神の支柱のようなものといえた。  だが、ほんとうなら緑いろをしているはずの精神の抗炎症機能が、ここでは排《はい》泄《せつ》の褐色、無気力の青、死の黒にそまり、立ち枯れたようになっているのだ。枯れ葉剤を散布されたジャングルが、一草一木もあまさず、枯れはてているのに似ていた。  ちょうど、重症の精神分裂症患者の精神内部を絵にすれば、こんな様子になるかもしれない。——無気力に、暗くとざされ、時間の流れがとまっているのだ。老人の静脈のようにひからびた〓“精神の抗炎症機能〓”がからみあい、みわたすかぎり、えんえんとひろがっているのである。  しかも、それらのつたはじつにさまざまな構図を浮かびあがらせていた。人間の顔、女の胴、鳥、あるいは山《や》羊《ぎ》の首、なかば溶けかかっている摩天楼、車の残骸、羽飾りのついた帽《ぼう》子《し》……いずれも荒廃しきった精神の、いうならば狂気の浜辺にうちあげられたオブジェの数々といえた。  ここでは、精神が死に向かって緩《かん》慢《まん》に進んでいた。枯渇した感情が、褐色のつたと化して、その死の枝をはりめぐらしているのだ。  どうして、プラットホームの〓“現在〓”が〓“過去〓”に侵されたのかはあきらかだった。精神分裂症の無感動、枯渇した感情がプラットホームをとらえ、その時間を停止させてしまったにちがいない。そして今、シンたちが搭乗しているトボットにも、同じことが起こりつつあるようだった。  暗い〓“死の衝動〓”に向かってのびる、逆方向の〓“精神の抗炎症機能〓”が、あたかも病原菌をつつむ白血球のように、トボットをとらえてしまったのである。  シンとマヤは呆然とスクリーンをみつめていた。  たしかにそれは、暗うつで、いびつで、生理的な嫌悪感さえおぼえる眺《なが》めだったが、そこには奇妙に心ひかれるものがあったのもまた事実だった。  人間ならだれしも、暗い衝動、爪《つめ》をとぐけだもの、否定の情念とでもいうべきものを、無意識の領域にひめている。それは、眼をそむけたくなるような醜怪な領域にはちがいないが、精液と排泄物と血にまみれ、じだらくに寝そべっているみたいな安逸さ、ある種のなつかしさをふくんでもいるのだ——その具象化された光景に、心うばわれるのも当然のことだった。  ピシッピシッというガラスにひびが入るような音がつづけざまにきこえてきた。しだいに強くなっていくつたの圧力によって、トボットの外殻がたわみはじめているようだった。  トボットは〓“現在〓”を維持するために、〓“過去〓”を逆噴射している。つたは時間を停止させることによって、その〓“過去〓”にトボットを侵させようとしているのだ。この状態が進行すれば、〓“現在〓”をたもつことはおろか、トボットが〓“空間化〓”をつづけるのさえむつかしくなる。しだいに腐っていき、やがてはすべての機能がそこなわれることになるのはあきらかだった。  これが、あの男のかけた罠《わな》であることはまちがいなかった。トボットをみうしなってしまったあの男は、プラットホームの周囲になんらかの方法で、このつたを繁殖させたのだろう。そして、シンたちが搭乗しているトボットが戻ってくるのを、待ちかまえていたにちがいない。 「外へ出てみるよ」  シンがマヤにいった。「とにかく、ここでこうしていては自滅を待つばかりだからね……外へ出て、なんとか逃がれる方法を考えてみるよ」  マヤがあわてて反対しようとするのを、大丈夫だ、と、シンはさえぎった。大丈夫だ、絶対に危険な真似はしないことをちかうよ、と、くりかえしいった。  しかし、危険な真似をしないで、この窮状から逃がれられるかどうか、シンにもまったく自信がなかった。  ——時間粒子の圧力をうけて、シンの体は軽々と浮かんだ。そして、二枚の翅《はね》をムササビの皮膜のようにふくらませ、トボットにからみついているつたの一端から、はるかかなたのつたへと飛んでいった。  シンのうすい翅が、客観感情の放つさまざまな光を反射してキラキラとかがやいた。それはちょうど、せせらぎをかすめて飛ぶチョウか——もしくは、天使の姿のようだった。  つたは複雑にからみあい、いたるところに盛りあがって、精神分裂症の荒涼とした、救いのない心象風景そのままをかたちづくっていた。 〓“純粋時間〓”においては、方向感覚はほとんど意味をなさない。ここでねじれ、ひろがっているつたは、決して空間に根をはっているわけではなく、つたそのものが、〓“生の衝動〓”を断ち、腐りつつある時間を構成している、いわば〓“死んだ時間〓”なのである。  シンはその〓“死んだ時間〓”のなかを飛んでいる。なんとか、トボットをここから脱出させる方法はないものか、と、つたからつたへ飛びうつっているのだが、あいにくいい方法は思いつかなかった。  このつたは、感情におけるガンのようなものだった——しだいにみずみずしさを失っていき、ついにはまったくべつのものにかわってしまう。そして、異常な速度で増殖していき、まわりの感情までも変質させてしまうのだ。  リンゴの樽《たる》のなかに混じった腐ったリンゴなのだ。  ——シンは疲れをおぼえはじめていた。  たしかに〓“時間人〓”とは、〓“純粋時間〓”のなかを行き来する能力を開発した人間ではあったが、人間である以上、そこにはやはりおのずと限界があった。なにより、どうしても時間を行き来するということを実感できないのだ。いちど〓“空間〓”に翻訳しないと、ほんとうに理解できないきらいがあった。  たとえ〓“時間人〓”といえども、〓“空間志向〓”の強い人間の性格から逃がれることはできなかったわけだ。  したがって、〓“時間人〓”が〓“純粋時間〓”にながく身をさらすのは不可能だった。しだいに、時間感覚に狂いが生じてきて、ついには迷ってしまうはめとなるからだ。  なんとしてでも、トボットをふたたび航行可能な状態にもどさなければならなかった。さもないと、シンとマヤは命はてるまで、〓“純粋時間〓”のなかをさまよわなければならなくなるだろう……  つたが螺《ら》旋《せん》のように何重にもからみつき、尖塔《スツーパー》をかたちづくっていた。いかにも狂気の産物らしく、その尖塔は自転車のチューブに似ていた。  そして、尖塔のうえにあの男が立ち、ジッとシンをみおろしていた。  ——奇妙なことに、シンはあの男がそこに居ることに、さほどおどろきをおぼえなかった。  いつかはこうして、あの男と対《たい》峙《じ》するときがくる、という予感めいたものがあったようだ。シンがまだマヨラナの名で呼ばれていたころ、あの男とベルリンの酒場で会ったときから、こうなることが決まっていたような気がするのだ。  そんなはずはないのだが、シンは自分が強い風に吹かれているような錯覚にとらわれていた。  しばらく、ふたりの〓“時間人〓”はたがいをみつめあっていた。  ふたりのあいだには、必ずしも敵意とばかりもいえないような、一種微妙な感情があるみたいだった。  シン自身にも、その感情をどう名づけたらいいものかわからなかった。ただ、時間と空間をこえ、ながく戦いをくりかえしてきたことが、ふたりをたんなる敵同士という以上の存在にしているようだった。  なにかしら、なつかしさに似たものさえおぼえるのだ。  シンはふいに翅をひろげ、時間粒子の圧力をいっぱいに受けると、体を浮上させた。そして、尖塔のうえに乗り、男と真正面から向かいあった。  男もシンと同じようにちいさく、しなやかな体型をしていた。シンと異なる点はただひとつ、その背中から生えているのがチョウの翅というより、むしろコウモリの皮膜に似ていることだった。  だれか第三者がこの情景を目撃したなら、その人物は、天使と悪魔が対決していると思ったにちがいない。  男のすごいほどの美《び》貌《ぼう》にかわりはなかった。ただし、その顔にはいつもの冷笑はなく、なにかしら痛ましさをおぼえているような表情が浮かんでいた。 「とうとう、会えたな……」  ふいに、男の思念が声となって、シンの頭に流れこんできた。 「こうなることを恐れていた……なぜ、マヨラナのままで死んでいかなかった? なぜ、〓“時間人〓”となることを選んだのだ」 「わかっているはずだ」  シンもまた唇を動かすことなく、思念を相手に伝えていた。 「きさまたちと戦うためだ。人類から〓“時間〓”をうばい、歴史をねじまげようとしているきさまたちと戦うためだ……」  シンは、自分でもその言葉をややむなしく感じていた——じっさいには、それは戦うなどという勇ましいものではなく、歴史をわずかに操作し、関係者たちにちょっとしたアドヴァイスを与えるといったたぐいの、じみな努力のつみかさねでしかなかったからだ。しかも、彼らの干渉をしりぞけ、人類が滅亡にいたるのをふせごうとする努力は、これまでのところことごとく失敗に終わっている。 「人類から時間をうばう?」  男の唇の両端がきゅっとつりあがった。「きみたち人類は、あの地球という星をむさぼりつくしたじゃないか。しかも、それだけではあきたらず、ほかの天体にまで手をのばそうとしている……そのうえ、〓“時間〓”まで手に入れようとするのはあまりに強欲というものじゃないかね。〓“時間〓”までも地球のようにむさぼりつくそうというのかね」 「ちがう」  シンはおもわず口にだしてそうさけび、すこし考えてから、もういちどいった。「それはちがう……なるほど、人類はたしかに強欲な生き物かもしれない。だが、人類を強欲に、残《ざん》酷《こく》に、おろかにしているのは、きみたちがいるからじゃないか。きみたちが干渉しているために、人類は〓“時間〓”に対してめくらにされている。〓“純粋時間〓”がふくむ豊かな可能性に気がつかないで、〓“歴史〓”とはやり直しのきかないものと信じ、ニヒリズムにかりたてられているんじゃないか。もし、歴史とは、より美しく構築するための素材である、ということに人類が気がつけば……」 「勝手なことをいうな」  男がシンの言葉をさえぎった。「それがわれわれの責任だと……知性だ、知性が人類をこんなにも醜くしているのだ」  シンには、男の言葉がなにを意味しているのか理解できなかった。ただ、やみくもな怒りにかりたてられ、ふたたびさけぶようにいった。 「そちらこそ、いい逃がれをするな。ぼくが〓“時間粒子〓”の存在を推論し、その成果を発表しようとしたとき、さんざんじゃましたのは誰なんだ……あの時期、原子物理学が〓“時間粒子〓”の実在をつきとめる方向に向かっていれば、すくなくとも核分裂連鎖反応が爆弾として、じっさいに使われるような事態はさけられたはずなんだ」 「そして」と、男は歯をむきだした。「こんどは、〓“純粋時間〓”の領地権をめぐって、世界大戦が行なわれることになっていたにちがいないさ」 「…………」  一瞬、シンは言葉につまった。これまで、そんな可能性は考えたこともなかったからである——しかし、たしかにヒトラーが、ムッソリーニが、スターリンが、いや、チャーチルにしろ、ルーズベルトにしろ、〓“純粋時間〓”の存在を知ったならば、その獲得にやっきになることはまちがいなかった。おそろしくグロテスクな想像だが、〓“純粋時間〓”を占領した国家は、歴史をすべて自国に都合のいいようにつくりかえることができるのだ。たとえばヒトラーが〓“純粋時間〓”の侵入に成功すれば、彼はためらうことなく軍隊を有史以前に送り込み、ユダヤ人の抹《まつ》殺《さつ》にとりかかるだろう……  シンはいまだかつてそんなことを考えたこともなかった。  だが、ありうることだった。 「それが人間という代物だ……」  男はうなずき、いった。「いや、人間にかぎらず、知性をそなえたすべての生き物に共通した特質なんだ……だからこそ、われわれはいかなる知性体にも、〓“時間〓”を解放することはできないんだ……」  男の表情は、ろうばいしているシンをあざ笑っているようでもあり、また同情しているようでもあった。 「きみは誰なんだ……」  シンはあえいでいた。「いったい、何者なんだ」 「…………」  たしかに、男はその質問に答えるために、一瞬、口をひらきかけたみたいだった。  だが、——ふいにその視線を虚空に走らせると、バサリと翼をひろげ、尖塔《スツーパー》から飛びたったのだ。そして、いちどだけ旋回すると、みるみる遠ざかっていった。  あまりにとっさのことで、シンは男を追いかけることさえ思いつかなかった。ただただ、あっけにとられて、ちいさくなっていく男の姿をみおくっていたのだ。  それから、やおら翅をひろげると、自分も尖塔から飛びたった。トボットになにか変事が起こったにちがいない、と、思いついたからだった。  ——シンはトボットにかえりつくまえに、すでに何が起こったのか、はっきりと理解していた。  あの時間そのものが、1/102424秒の時間粒子に圧縮されてしまったような感覚には、まったく誤解の入る余地がなかった。時間がきょくたんに凝縮度を増し、持続する瞬間と化しているのだ——そう、あのブラックホール生命体がふたたび現われたのである。 〓“時間人〓”といえども、ブラックホール生命体をみさだめるのは不可能だった。あまりに、生命基質がちがいすぎていて、たがいに接触する方法がないからだ。おそらくブラックホール生命体と意志をかよわせることのできる人間は、〓“時間管理者〓”ただひとりにちがいなかった。  だが、その姿をみることはできなくても、ブラックホール生命体が現われたことははっきりと感知できる。ブラックホール生命体は、時間を重くする、という属性をそなえているからである。  ブラックホール生命体の登場は、逆方向の〓“抗炎症機能〓”——からまりあったつた——に微妙な影響をおよぼしているようだ。  精神荒廃から生じる時間停止と、ブラックホール生命体がもたらす時間凝縮とは、似ているようで、まったく異なるものだった。事実、枯渇し、ひたすら無感動に向かっているはずのつたが、ブラックホール生命体が現われたことによって、ザワザワと揺れはじめているのだ。 「どうしたんだ」  トボットにとびこんで、すぐにシンがきいた。 「彼がなにか伝えようとしているみたいなのよ」  マヤが答える。「いま、コンピューターに解析させているところだわ」 「…………」  シンはうなずき、コンソール・デスクに向かった。とりあえず、スクリーンの出力を最大にして、——そして、コンピューターの解析を待った。  ——救助スル……  やがて、なんの前ぶれもなしに、翻訳機がしゃべりはじめた。  一瞬、シンとマヤは顔をみあわせたが、すぐにスクリーンにみいった。スクリーンには、友好をしめす黄いろい光がなみうっていた。  ——救助スル。ワタシタチハ、今、キミタチニ座標ヲアワセテイル……ワガぶらっくほーるノ特異点ニ加速シナガラ突入スレバ、ワタシタチニトッテハ未知ノ宇宙、キミタチニトッテハ、ドコカ未来点ニハネトバサレルコトニナルハズダ……〓“空間化〓”ヲ、かっと・おふシテモライタイ。サモナイト、特異点ヲ通過シタトキニ、キミタチハ時間粒子ニ分裂シテシマウコトニナル……クリカエス、〓“空間化〓”ヲかっと・おふセヨ…… 「加速しながら特異点を通過する——」  シンはおもわずさけび声をあげた。「そんなことをしたら、あなた方はまったくべつの宇宙にとばされてしまう」  ——ソレ以外ニ、キミタチヲソコカラ救イダス方法ハナイ……  声がいった。  ——ワレワレハ、ベツノ宇宙ニハネトバサレルコトニハ慣レテイル……オソラク、キミタチト会ウコトハ、モウ二ドトナイダロウガ、ベツノ宇宙デモ、ワレワレガ彼ラト戦ッテイルコトヲ憶エテオイテモライタイ…… 「…………」  シンとマヤは顔をみあわせた。  いうべき言葉もなかった。生命基質、思考過程、おそらくはぞくしている宇宙さえ異にしている生命体が、身をていして、シンたちを救けてくれるというのだ——マヤは泣きべそをかいていた。  しかし、ちゅうちょしている余裕はなかった。  シンはやおら腕をのばして、〓“空間化〓”の出力をオフにした。そして、やさしくマヤの腕をたたいて——待った。 3  マヤは夢をみていた。  とおい昔の、夢だった。  いま、夢のなかで、マヤは冷水の浴槽から立ちあがったところだった。香油も、あかい顔料もすっかり洗いおとされ、マヤのちいさく、均整のとれた体は、かがやくばかりの健康美をはなっていた。  マヤは、この地のほかの娘たちのように、腰からうえに入墨もほどこされていず、また耳《じ》朶《だ》に穴もあけられていなかった。神官の娘であるマヤは、いわば人の子であって人の子ではない、という運命をはやくからになわされていたのだ。  聖なる樹脂ポムのかぐわしい香りが浴室にただよっていた。うすぐらい浴室の四方から腕がのびてきて、マヤに貫《かん》頭《とう》衣《い》を着せ、その髪の毛をととのえた。マヤは人形のようにされるがままになっていたが、やがてすべての仕度がととのうと、しずかに歩きはじめた。  神殿をただひとり歩いていくマヤの姿は、すでにこの世の人のようではなかった。日の光に浮かびあがり、影に黒く塗りこめられ、なんだか彼岸と此岸を行き来している女のようだった。  どこか遠くから、男たちの歌と演奏がきこえてきた。悲しげな歌であり、演奏であった。亀《かめ》の甲でつくられた楽器を掌《て》でたたく音が、ひときわ陰気に、悲しげに響いていた。アシ笛がすすり泣きのようにビョウビョウと鳴りわたっていた。  マヤは広間にでた。  広間の壁には一面に〓“時をになう神々〓”が彫られていた。神々は前額にまわしたベルトで、背中の荷を支え、あるいはうずくまり、あるいは立ちあがろうとしていた。〓“時をになう神々〓”は走りつづける。走りつづけて、千年紀、世紀、年、月、日などというそれぞれの荷物を、次から次にバトンタッチしていく。——かくして、時は流れていく。時は流れ、神々の善悪さまざまな属性によって、歴史の明暗がいろどられていく。  広間では、数人の神官たちがマヤが現われるのを待っていた。そのなかには、マヤの父親も混じっているはずだが、羽飾りと仮面が神官たちの顔をかくし、どれが父親だかみわけるすべがなかった。神官たちはそれぞれ両手に、火《ひ》鉢《ばち》、香と挽《ひ》いたトウモロコシを持っていた。  神官たちは口々になにごとかをモゴモゴとつぶやいた。ある神官は〓“白い人〓”の来襲をつたえた。ある神官は都の滅亡をつたえた。ある神官は次なる百年が悪神によって汚《けが》されていることをつたえた……すべてマヤがあらかじめ承知していることだった。そして、そこからみちびきだされる結論もすでに知らされていた。  マヤは神々と同じように、時間のなかを走りつづけねばならない。そして、都に滅亡をもたらす悪神と対決して、これを滅ぼさなければならない。  かつてなかったことだが、神官たちは神々にたいして憤っているのだ。無慈悲に都に滅亡をもたらそうとする神々にたいし、反逆をくわだてることを決意したのだ。すぐれた洞察力と、徹底した思索が、神官たちをして、時間の本質に気づかさせた。そして神官たちは、マヤをいわば神々にたいする尖兵として、〓“純粋時間〓”に送りこむことを決心したのだった。  神官のひとりがおごそかになにごとかをつぶやいた。神官たちは左右に体をひらき、マヤのために道をつくった。  マヤは歩を進めながら、漠然とした恐怖、実体のない悲しみのようなものを感じた。そのときのマヤには、もちろんまだ〓“時間人〓”という認識はなかったが、自分がふたたびこの地に生きてもどれないことだけは、はっきりとわかっていた。  夢だ。  とおい昔の、夢だった。  ——丘陵がなだらかに起伏して、地平の果てまでつづいていた。  地平線にほとんど接するようにして、ちいさな太陽が浮かんでいた。太陽は光にとぼしく、大気があわい紫いろに染まっていた。  とおく、いまにも沈もうとする太陽を背にして、たかい塔みたいなシルエットが浮かんでいた。  視野をさえぎるものとてない単調な草原に、その塔だけがわずかにアクセントを添えていた。その塔はときどきキラリと光るのだが、あまりに遠くにありすぎて、材質がなんであるかまではとてもたしかめることができなかった。  丘陵を一面におおっている短い草は、けむっているようなこはく色で、植物というより、動物の毛皮のような印象だった。事実、手をふれたかぎりでは、ちょうどペルシア猫の背をなでているような感触で、その体温さえ伝わってくるみたいだった。  その草を植物と断言してしまうのはためらわれた。といっても、地面はまちがいなくそこにあるのだから、それが巨大な動物の毛皮ということはありえない。植物とも動物ともつかぬものが地をおおっているとしか形容しようがなかった。  紫いろの大気のなかを、なにかまりのようなものがただよっていた。タンポポの冠毛のように、いかにもはかなげに、幾つもただよっているのだ。  指をのばすと、まるで難をさけようとでもするみたいに、ついっと遠ざかってしまう。おそらく、わずかな温度差を感知するのではないか、と思われたが、もちろんそれをたしかめる術《すべ》はなかった。  ——シンは眼をさますと、しばらく草のうえに腰をおろし、あたりのそんな情景をみまわしていた。  すぐ近くに、半透明の樹脂建材のようなものが散乱していた。それが、〓“空間化〓”したトボットの残骸だということはあきらかだった。ブラックホール生命体が特異点に突入したとき、トボットの大部分は時間粒子に還元されているはずだった。  そして、こうしてシンが生きているということは——ブラックホール生命体が意図したとおり、トボットが三次元宇宙のどこともしれぬ場所にはねとばされたことを意味している。 「地球ではなさそうだ……」  シンはボソリと口のなかでつぶやいた。  奇妙な動植物はべつにしても、光の屈折があきらかに地球とは異なっていた。ただし、大気組成、平均重力加速度、太陽からの輻射量などは、地球とさほどかわらないようだった。  要するに、人間が生きていくのに、これといった不都合はないということだ。  幸運というべきだろう。それこそ、硫酸の雨ふりそそぐ金星にはねとばされたとしても、文句のいえないところだったのだ。  どれぐらいのあいだ、気絶していたかはわからない。生理時間からいえば、およそ二時間というところだが、生理時間はあらゆる意味において、客観的な時間のめやすとはなりえなかった。 〓“純粋時間〓”から三次元宇宙にはねとばされたとき、シンの体もまた変化していた。ふたたび三次元的特質を与えられたというところか——かつてマヨラナと呼ばれていたころの体型にもどり、背中の翅も消えている。ピッタリと体に密着している時《タイ》間《ム・》服《スーツ》は、ところどころ破れ、なんだか普通の服みたいになっていた。  シンはようやく立ち上がると、とりあえずマヤの姿をさがすことにした。  マヤはすぐにみつかった。  草のなかに横たわり、なにか放心したような眼を空に向けていたのだ。シンが近づいていくと、首をめぐらし、微笑を浮かべた。 「夢をみたわ」  そして、どことなくさみしげな口調でいった。「ずっと昔の夢よ……」  シンはだまって腕をさしのべ、マヤを立たせた。それから、しばらくあたりをみまわしていたが、やがて、なかば自分にいいきかせるようにいった。 「行こうか」 「どこへ……」  マヤが無邪気な声できいた。 「あそこだ」  シンが地平線を指差した。 「あの塔のあるところへ」  生物には、時間の経過をはかる独特の機能がそなわっているようだ。 〓“体内時計〓”の一言でかたづけるのはかんたんだが、しかしそれではなにひとつ説明したことにならない。ホルモンの分泌、筋肉の疲労、内臓感覚の変化、そして空腹……さまざまな要素が総合され、時間の経過をはかるめやすとなるのだ。  シンとマヤは、〓“生理時間〓”にして、すくなくとも五時間は歩いていた。  歩きだすまえには、地平線に林立する塔はすぐ間近にみえたのだが、おそらくそれは、地球とはことなる光の屈折率がもたらした錯覚だったにちがいない。  しかし、——〓“生理時間〓”と、〓“外時間〓”とのずれは、なんとも説明のつかないものだった。まちがいなく、〓“生理時間〓”は過ぎているのだが、紫いろのたそがれの光と影の微妙なバランスには、いささかの変化も生じていないのだ。  時間が凍結されたかのように、奇妙に透きとおった感じのする、あわい紫いろにそまった大気は、いつまでたっても暗くも、あかるくもならないのだった。  それは、たとえていえば、夢のなかを歩いているときの気分に似ていた。歩いても歩いても、まったくまえに進むことのできないあの悪夢だ——時間経過が意味をなさない〓“純粋時間〓”においてなら、それはむしろ当然の感覚だったろう。しかし、いつの時代の、どの惑星かもわからぬ地ではあっても、ここが三次元世界であることは、まちがいのない事実なのだ。  シンとマヤのふたりが執《しつ》拗《よう》な違和感に苦しめられたとしても、ふしぎではなかった。  だが、ふたりはほとんど歯をくいしばるようにして歩きつづけた。そして、ついに塔に達したのだった。  ——尖塔は、水晶でつくられているようにみえた。  いや、なにかシンたちの知らない鉱物が、みずから結晶していき、尖塔をかたちづくったのかもしれない。すくなくとも、そこには人工的な要素はまったくないようだった。  尖塔はあまりにたかく、どうかするとみすごしてしまいそうなのだが、その正方形の基底はかなりの大きさだった。ひじょうに細長く、たかいピラミッドを連想すれば、ちょうどいいのではないか——尖塔は半透明の材質でできていた。その内部は、霧みたいにミルク色にけむって、たえず赤や青の閃《せん》光《こう》がはしっていた。まるで、厚く雲にとざされた空にひらめくいなずまのようだった。  もしかしたら、人間の思考活動を光のパターンでみることができれば、こんな具合になるのかもしれなかった。なんとなく、荒野にひとりうずくまり、思索にふけっている行者の姿を連想させた。  尖塔は大地の牙《きば》のように、百メートルほどの間隔をおいて、整然とならんでいた。  そして、その尖塔のむこうに、巨大な墓所があった。  どうして一目みて、それを墓所と感じたのかはよくわからない。おそらく、その対称性に、タジマハールと通じるものがあったからではないだろうか——中央に大きなドーム、両翼にそれぞれちいさなドームが建ち並んでいるのだ。ドームは、尖塔と同じ材質でできているらしく、半透明でありながら、金属の光《こう》沢《たく》をはなっているのだった。  ドームにはいっさい装飾はほどこされていなかった。その冷え冷えとした外観も、それを墓所のようにみせている、ひとつの原因になっているのかもしれなかった。  暗うつな、紫いろの大気の底にしずんでいる三つのドームは、みる者の胸を冷たくとざし、奇妙に悲しみにも似た思いにひたすのだった。 「あれはなにかしら」  マヤがささやくようにきいてきた。 「わからない」  シンは首をふり、いった。「とにかく、行ってみようじゃないか」  シンとマヤのふたりは足をふみだした。  とにかく、情況を正確に把《は》握《あく》しないかぎり、ふたりに生き残る道はないのだ。その建物がたんなる墓所にすぎないとしても、すくなくとも、ここがどこであるかの手がかりぐらいはつかめるはずだった。考えたくもないことだが、この惑星の住人が人間であるかどうかも、たしかめなければならないことなのである。  だが、——ふたりはふみだした足を、すぐにとめなければならなかった。  ふたりが、尖塔をむすぶ線上に足をふみ入れたとき、澄んだ鐘のような音が、あたりに響きわたったのだ。  その音は尖塔からきこえていた。  ちょうど電線が強い風にふるえているみたいに、尖塔がかすかに震動し、ピーンピーン、と、音を鳴らしているのだ。音はたがいに共鳴し、次から次に伝播していき、やがてすべての尖塔が身をふるわせはじめた。  必ずしも、心地よいしらべとはいえなかった。  それは、たとえていえば、禁域に足をふみいれた闖《ちん》入《にゆう》者に対して、女たちが多勢で悲鳴をあげるのに似ているようだった。なんとなく警告をうけているようで、それ以上足を進めるのがためらわれるのだった——しかも、もう澄んだ音とは呼べなくなっていた。大伽《が》藍《らん》の下に立ち、たくさんの鐘が鳴りわたるのをきいているみたいに、物理的な圧迫感さえともなっているのだ。  シンとマヤは顔をみあわせ、やむなく身をしりぞけた。すると、すべての尖塔がピタリと鳴りやんだ。  とつぜんよみがえった静寂に、シンはジイーンと鼓《こ》膜《まく》が鳴るのをおぼえた。  シンとマヤはとほうにくれて、その場に立ちすくんでいた。墓所に足をふみいれようとしたのを、大声でさえぎられたようなものだった。これからどうしたらいいのか、わからなくなるのも当然といえた。  尖塔は、紫いろの大気のなかにヒッソリと立っていた。それは、任務に忠実な衛兵が持ち場をかため、怪しい人間をにらみすえている姿に似ていた。 「どうしてかしら」  マヤがかすれた声でいった。「あの音をきいたら、なんだかあそこから先へは進めなくなってしまったわ……」 「…………」  シンもまた、なにか追いつめられたような思いであたりをみまわした。しかし、むろんそこには、ただこはく色の草原がひろがっているだけで、墓所に入る手助けになりそうなものはなにもなかった。  シンはふたたび墓所に視線をもどし、自分にいいきかせるようにいった。 「とにかく、もういちど試してみよう」  そのとき——はるかかなたにそびえる尖塔のかげに、なにかちらりと動くものがみえた。かなり大きく、人間に似ているが、しかしどことなく異常ななにかが……そいつは前後にギクシャクと体を揺らし、まるで台座に車輪がついているような速さで、一直線にこちらに向かって走ってくるのだ。  マヤが悲鳴をあげた。  悲鳴こそあげなかったものの、悲鳴をあげたいような恐怖にかられたのは、シンも同じことだった。  ロボットだった。  しかし、それはなんという精巧なロボットであったことか。——シンは、そのロボットが足をあげ、ふみおろし、着実にこちらに向かってくるのを、畏《い》怖《ふ》の眼でみつめていた。  じつは、機械を人間のように歩かせることこそ、もっともむつかしいことなのだ。どんなに機械工学が発達したとしても、ロボットの脚を丸太のようにふとくし、人間もどきの歩き方をさせるのが精いっぱいのことにちがいない。それほど歩行とは、筋肉の複雑微妙な動きと、絶妙なタイミングを必要とする作業なのである。  だが、そのロボットは歩いていた。しかも、いささかも不自然さを感じさせずに、人間よりもなめらかな足の運びで——歩いているのだ。  青銅をきざんだようなその姿には、神殿に安置されたギリシア彫像が命を得て、そのまま動きだしたみたいな、ある種の荘厳ささえ感じられた。  そのロボットが、たんなる機械人形という以上に、象徴的な意味を与えられているのはあきらかだった。そうでなければ、そこまで「美しさ」に心を砕いて、たんねんに仕上げられているはずがなかった。  三メートルほどの体にまとっているギリシア風の衣服が、そのひだにいたるまで、克明にきざまれているのだ。夢をみているような微笑を浮かべているその顔には、若々しい残酷さと無邪気さがないまぜになっていた。  ロボットは左手に青銅の大鎌を、右手にこれも青銅のヘビを持っていた。ヘビは尾をくわえ、丸くなっていた。 「クロノスだ……」  シンはうめくようにいった。  父ウラノスをたおし、天地の支配権をえたが、その子ゼウスに滅ぼされたと伝えられているギリシア神話の巨神の名だった。クロノスはまた、時をつかさどる神としても、名前が知れわたっている。  クロノスは、シンたちから二十メートルほど離れた地点で足をとめた。そして、そのきざまれた眼で、ふたりをみつめた——シンとマヤは、凍りついたように、その場から動くことができなかった。 「時間を選べ」  ふいに、クロノスが英語でいった。あきらかに録音されているものらしく、かすかにノイズが混じっていた。 「時間を選べ」 「…………」  シンとマヤは顔をみあわせた。  マヤの表情には、恐怖と焦《しよう》燥《そう》の色があらわになっていた。おそらく、自分も同じ表情をしているにちがいない、と、シンは思った。そのロボットには、要求にしたがわなければ、なにをしでかすかわからない無気味さが感じられたからだ。しかし、——時間を選べ、とはなにを意味した言葉なのか。  それがわからない以上、彼らふたりにもどうにも抗する術《すべ》がなかったのである。  クロノスははっきりと、ふたりを敵対者と認めたようだった。ゆっくりと手にしている大鎌をふりあげ、頭上にかざし——そして、思いがけないスピードでこちらに迫ってきたのだ。  シンが思わず一歩をふみだし、マヤをかばおうとしたのと、そのマヤが声をはりあげたのとが、ほとんど同時だった。 「チョウが……」  シンはなかば反射的に首をめぐらし、マヤが指差す方向に視線を向けた。  なるほど、たしかに紫いろの空を背景にして、一匹のチョウがヒラヒラと舞っていた。そして、そのチョウに導かれ、出現したように、十人ほどの男女が丘にならび、シンたちをみつめていた。  彼らは一様に口をとざし、無機物をみるような、無表情な眼をしていた。  クロノスは大鎌をふりかざしたまま、その動きをピタリととめていた。 4  ——人類は宇宙にのりだしていくには、あまりにひよわな〓“種〓”でありすぎたようだ。  もともと銀河の辺境の、ちいさな惑星に生をさずかったにすぎない人類が、宇宙へ進出していくにはむりがあったのだ。たしかに、人類の適応力にはすさまじいものがあり、海底から氷河まで、あまねく支配するにいたったのだが——しょせん、その適応性も、地球にかぎられたものでしかなかったのである。  それでも、火星、金星、水星と、地球型惑星に足場をさだめているぶんには、さほど問題はなかった。問題は純粋に技術的なものにかぎられ、時間さえたてば、いずれは解決されるたぐいのものばかりだったからだ。  しかし、人類が木星、土星、天王星、海王星と進出していくにつれ、しだいに人類の〓“種〓”としての限界があきらかになっていった。  その限界は、一言で要約されるものだった。すなわち、〓“種の自閉症〓”である——人類という〓“種〓”は、じつはいまだかつてしんそこから宇宙進出を望んだことなどなかったといえるのだ。  なんと説明したらいいのか——人は快適に生きていくためには、〓“空間〓”に自己を投影しないではいられない生き物だ。自分の部屋、自分の職場、自分の町、自分の国、そして自分の惑《ほ》星《し》……だが、ついに自分の宇宙を実感するにはいたらなかったのだ。  たいしたことではないように思えるかもしれない。たとえ、人類にとって、宇宙が異境でありつづけたとしても、それがなんだというのか。たんに、不快をおぼえるというだけのことではないか——そう考えた人間はすくなくなかったが、しかし彼らは問題の本質を理解できなかったのだ。  人間の精神活動をいきいきとしたものにしているのは、じつは〓“自己投影〓”そのものにほかならなかったのである。  人間は自己を投影することで、部屋を、職場を、町を、国家を、いわば自分の内面としてとらえることができたのだ。そして、すべての精神活動はそこからはじまるといえた。 〓“種の自閉症〓”……人類は地球を、せいぜいが月をおのれの内面と考えるのが限界で、それ以上の精神的容量をそなえていない。月より遠方、なかんずく木星、土星、天王星、海王星へと足をふみいれようとした人間は、ひとりの例外もなく、登校拒否児童のような反応を示すことになった。壁にひたいをこすりつけ、ひたすらおのれの内面に逃げこもうとするのだ。  この〓“種の自閉症〓”は、アメリカが史上はじめて人類を月面に送りこんだとき、すでに兆候がみえだしていたのだ。そのとき、世界各地でまきおこった〓“人類はもっと地上に眼を向けるべきだ〓”という運動は、たしかに政治的な側面を多く持っていたが、いくぶんかはこの〓“種の自閉症〓”も関係していたようなのである。  いずれにしろ、はじめのうちは、宇宙開発の関係者たちはスペース・マンたちの精神障害をさほど深刻なものとしてうけとめていなかった。要するに、環境の変化から生じたノイローゼにすぎない、と、比較的のんきに考えていたのである。——したがって、その対処法も、原理的には、精神安定剤《トランキライザー》を与える域をでなかった。  それだけに、スペース・マンたちの精神障害が、種の限界にねざしたものである、とわかったときの関係者たちのショックは大きかった。 〓“種の自閉症〓”をうちやぶるための、さまざまなこころみがなされたことはいうまでもない。  埃《ほこり》をかむり、どこか片隅にうちすてられていたフロイト理論を、持ちだしてきた心理学者がいた。彼は、フロイト理論の基本をなす、〓“生の衝動〓”と〓“死の衝動〓”の対立を、地球と宇宙の関係にあてはめ、なんとか止 揚《アウフヘーベン》の可能性はないものかと考えた。可能性はなかった。  生態学《エコロジー》のテリトリー理論を、人類が宇宙に進出するさいの、有効な道具とすることはできないものか、と、考えた科学者がいた。できなかった。  つらいことだが、これを認めざるをえない——人間の精神はいわばかぎられた水《すい》槽《そう》のようなもので、しかもその容量は決して大きいとはいえないのだ。しょせん、人類は成熟した〓“大人〓”となりえないように、運命づけられた種だったのである。  それでは、人類は宇宙進出を断念するにいたったのか。  断念できれば、人類にとってどれほどしあわせだったかわからない。しかし、人類にそなわったもうひとつの要素——知能がそれを許さなかったのだ。すべてを知りつくさずにはおかないという執念、事物の本質をぎりぎりまでみきわめなければいられないという業が、人類をやみくもに宇宙進出にかりたてたのである。  この知識欲と精神のずれをどう説明したらいいのか——〓“種の自閉症〓”はなぜ精神活動に対してのみ壁をもうけ、知識欲を気ままにつっぱしるのにまかせているのか。それとも、「ものを知りたい」という欲望は、すべてを灼《や》きつくすのも辞さないほどに強烈な衝動なのか……  ついに、それがあきらかにされないまま、人類は宇宙進出をつづけ、——そして、当然のことながら、種の衰退をまねくことになったのだ。精神容量を大きく越えた〓“宇宙拡散〓”が、人類という種をいわば希薄にしていったのである。  二十八世紀……宇宙にひろがった人類は緩慢な滅亡をむかえようとしていた。知識欲が、その主体たる人間を侵しにかかったのだった。  そんなとき、なにが〓“種の自閉症〓”を生みだす原因になったのかを究明する手がかりが、地球の一哲学者によってもたらされることになった。彼の説によれば、それは〓“時間〓”ではなかったか、というのである。 「時間だって……」  シンは眼をみはり、相手の顔を真正面からみつめた。〓“時間人〓”たるシンは、〓“時間〓”という言葉には、いついかなる場合でも無関心ではいられないのである。 「そう……」  老人はうなずいた。「人類が〓“時間〓”の解明にもっと心をくだいていれば、〓“種の自閉症〓”などという無様な事態にいたることはなかったのではないか、と……」  シンとマヤ、そして老人を長とする十人ほどの男女は、車座になって、草のうえにすわっていた。  彼らはみずからを旅人と名のった。じっさい、彼らの服装、かもしだしている雰囲気は、その名称にふさわしいものといえた——おそらく、砂漠を放浪するベドウィンの姿を脳《のう》裡《り》にえがけば、彼ら旅人のイメージを適確につかめるのではないか。頭にターバンを巻き、マントで身をくるんだその姿はベドウィンそのままだったし、なにより彼らがただよわせている重い倦怠感こそ、砂漠を放浪する人たちに特有のものだった。  事実、彼らは二十八世紀のベドウィンといえないこともなかった。彼らは、遠く地球をはなれたこの地を、たぶん死ぬまで放浪する運命にあったからだ。  ——旅人たちは、マヤとシンのふたりを救けてくれたのだ。あのクロノスを模したロボットは、旅人たちの姿をみると、すみやかに後退し、ふたたび尖塔のかげに消えていったのだった。  そのあと、しばらくシンたちは旅人たちとみつめあっていた。 「ここはどこですか」  やがて、シンがきいた。相手がまちがいなく人類にぞくしている、と、みさだめたうえでの質問だった。  男たちのひとりがうなずき、なにか耳慣れない単語を口にした。ひじょうに微妙な発音から成る単語だった。それがこの星の名称であるのか、それともこの地域にかぎられたものであるのかは、たしかめる術《すべ》がなかった——とにかく、こうしておたがいのあいだに敵意がないことが立証され、友好関係がうちたてられることになったのだ。  さいわいなことに、旅人たちは英語を解した。おそらく、旅人たちのしゃべる英語は、シンたちのそれとは大きくかけはなれたものになっているにちがいないのだが、彼らはそんなことはおくびにもだそうとはしなかった。  そのうえ、旅人たちはみしらぬ人間と言葉をかわすことに慣れているようだった。シンがこの時代にかんして、おそろしく無知なところをみせても、その素姓を疑おうとさえしないのだ。たぶん、人類が宇宙に拡散してしまったために、おたがいの知識にへだたりがあっても、さほどふしぎではないのだろう。  いずれにしろ、シンとマヤは旅人たちから知識を吸収することにつとめ、——そして、話が〓“時間〓”のことにおよんだのである。 「——もし霊魂が存在しないとしたら、はたして時間は存在するのだろうか。しないのだろうか。これが疑問とされよう……」  老人は眼をとじて、なかば歌っているようにいった。「アリストテレスの言葉です……人類はここからはじめるべきだった。それがどういうわけか、〓“空間〓”にくらべて、〓“時間〓”にかんする考察は、ひどくおざなりになっていたかんがある……そうは思いませんか」 「…………」  シンとマヤはおもわずおたがいの顔をみあわせた——それこそ、〓“純粋時間〓”において、ふたりが彼らと戦っていた理由だったからである。人類が〓“時間〓”に対して、つねに冷淡だったのは、必ずしも怠《たい》惰《だ》だったからばかりではない。彼らがたえず干渉し、そうなるようにしむけたからだった。 「〓“種の自閉症〓”のそもそもの原因は〓“時間〓”にある、と看破した哲学者は、それをクロノス・コンプレックスと名づけました……」  老人は言葉をつづけた。 「彼は、人間の精神を生物分子にたとえたのです……われわれの生物分子の立体構造は、金星のような高温の星におかれれば、バラバラに分解してしまう。外惑星の極低温のなかにおかれれば、反対に固型化してしまい、有効な化学反応を起こすのが不可能になってしまう……同じことが、人間の精神に対してもいえないか、と、その哲学者は考えたのです。人間の精神はじつは地球にしか通用しないものではなかったか、と……そして、生物分子の化《ケミ》学《カル》結《・ボ》合《ンド》にそうとうするものが〓“時間〓”ではなかったのか、と……」 「クロノス・コンプレックス……」  シンが口のなかでボソリとつぶやいた。 「われわれはついに〓“時間〓”のなんたるかを理解しえなかった……われわれの精神を精神たらしめていた〓“時間理解〓”は、じつに浅薄な、もろいものだったのです……」  老人の声は悲痛なひびきに充ちていた。 「人類が宇宙に進出しようとするからには、いわば精神にも宇宙《スペース・》服《スーツ》をまとう必要があったのです。〓“時間理解〓”をより完璧なものにしてから、宇宙へとびだす必要があったんじゃないでしょうか……しかし、人類は不用意に宇宙へとびだしてしまい、〓“種の自閉症〓”をまねくことになってしまったのです。冷凍《コールド・》睡眠《スリープ》、ウラシマ効果……しだいに〓“時間理解〓”という精神の化学《ケミカル・》結合《ボンド》が腐《ふ》蝕《しよく》されていき、ついに〓“種の自閉症〓”をひきおこした……〓“時間〓”のなんたるかを理解しないまま、いたずらに拡散をつづけていくうちに、人類はおのれの〓“種〓”に対して、自己同一性《アイデンテイテイ》をたもてなくなってしまったのです……衰弱していくのも当然のことだったわけです」 「…………」  シンは沈黙している。  人類はついに時間粒子の存在に気がつかなかったようだ。彼らの干渉は成功をおさめ、人類は〓“時間〓”の本質に対して盲目にされたまま、滅亡にいたらしめられたのだ——〓“時間管理者〓”の言葉をかりれば、未来世にたくわえられていた可能性のうち、最悪のものが顕在化することになったのである。それこそ、シンたちがなんとしてでも防がなければならなかったことなのだが……  ——知性だ。知性が人類をこんなにも醜《みにく》くしているのだ……  シンの脳裡に、あの男の言葉がフッとよみがえった——たしかに原子爆弾を開発したのも、〓“種の自閉症〓”を承知のうえで、宇宙へ進出していったのも、知性のなす業だといえた。老人がいみじくもいったように、それは一種の業、あともどりを許さぬ推進力のように思えるのだ。  知能とは何なのか。どうして、同じ人間のなかにありながら、精神とのあいだにかくも大きなギャップが存在するのか……はたして、〓“時間〓”という観念をうけいれるのに、知能は適した器であったのか…… 「その哲学者の発表ののち、人類はクロノス・コンプレックスを解消するため、努力しようとはしなかったのですか」  シンがきいた。 「〓“時間〓”の本質をさぐろうとするこころみはなされなかったのですか」 「もちろん——」  老人は大きく両手をひろげ、あたりをさししめすしぐさをしたが、ふいにその両手を力なくたらした。 「人類は必死に〓“種の自閉症〓”から逃がれる術《すべ》をもさくしました。この星など、その試《し》行《こう》錯《さく》誤《ご》の好例といえるのではないでしょうか」 「この星が……」  シンは反射的にあたりをみまわした。  シンとマヤをとりかこんでいる旅人たちがわずかに動揺をしめした。ふたりがあまりにもものを知らなさすぎることに、ようやく不審をいだいたようだった。  しかし、すくなくとも老人だけは、その不審を表情にあらわすような、無作法な真似はしなかった。 「この星は恒星のまわりを二回公転するあいだに、三回自転します。ちょうど水星のような星といえますな……したがって、一日がひじょうにながい。地球時間になおせば、およそ一八〇日というところですか。太陽直下のある点が、ぐるりとまわって、ふたたび同じ場所にもどってくるまで、公転周期の二倍かかるというわけですから……」  老人はたんたんとした声で、言葉をつづけた。 「しかもこのとおり、大気組成、太陽からの輻射量などは、人間が生きていくのに、まったく不都合なところはない……いわば、ほかの条件をそのままにとどめ、〓“時間〓”だけを拡大したような、かっこうの〓“時間〓”研究場となっているわけです」 「なるほど……」  シンはうなずいた。いつまでたっても、紫いろのたそがれに変化がないわけが、いま、納得できたのである——要するに、一日がひじょうにながいというだけのことなのだ。 「記録にとどめられているだけで、すくなくとも二種類の実験が、この星でなされました……そのひとつは、さきほどあなた方がごらんになった〓“時間結晶《 クリスタイム・》都市《シテイ》〓”です」 「都市……」  マヤがこらえかねたかのように、はじめて口をはさんだ。「あれは、大きなお墓、ピラミッドのようなものじゃないんですか」 「あなた方があれを墓所とうけとられたのもふしぎではない」  なぜか老人はさみしそうな微笑をもらした。 「ある意味では、あれを墓所と考えられないこともないのですから……そう、〓“時間の墓場〓”といえるでしょう。尖塔は、いうならば〓“時間の墓標〓”といえるのではないでしょうか……あの〓“時間結晶《 クリスタイム・》都市《シテイ》〓”には、数千人の人間がねむっています。いや、ねむっているという表現は正確ではないかもしれません。代謝機能を完全に調整され、冷却された巨大な培養タンクのなかにただよっているというべきでしょう。ありとあらゆる外界の刺激から隔絶され、すべての生理反応を一定値に固定された人間たちが……」 「なんのために、そんなことを……」  シンはおどろかざるをえなかった。 「だから、〓“時間結晶《クリスタイム》〓”のためです……培養タンクにただよっている人間たちは、そうして自分たちを、ある一定の〓“時間〓”にしばりつけているのです……ご存知かどうか、あの墓所と尖塔をのせた地《ち》殻《かく》そのものが、コントロールされた〓“溶解《リキツド・》金属《メタル・》殻《コア》〓”によって、公転自転にあわせて、すこしずつ移動しているのですよ……〓“時間結晶《 クリスタイム・》都市《シテイ》〓”そのものも、つねに同じ時間、同じ紫いろのたそがれのなかにとどまっているわけです。かつては、あの都市も〓“時間〓”の実験場だったのです——魂がなくても、〓“時間〓”は存在しうるのか……〓“時間〓”が流れなくても、魂は存在しうるのか……アリストテレスの疑問に解答を与えるための実験場だったのです……それがいまでは、宇宙をただよい、粘《ねん》土《ど》のような〓“時間〓”に疲れてしまった宇宙飛行士《スペース・マン》たちの安息の場と化してしまっている……」 「あの尖塔は、あのクロノスを模したロボットはなんの役割りをはたしているのですか」 「ああ、あれはなんでもありません」  老人は手をふった。 「尖塔はいわば門扉の役割りをはたしているのです。音によって、都市に足をふみいれようとしている人間が、はたして〓“時間結晶《クリスタイム》〓”志向をそなえた者であるかどうか選別するのです。どういう原理によるものかはわかりませんが、〓“時間結晶《クリスタイム》〓”志向をそなえた者は、あの音に同調するとつたえられています。もし、同調しない場合には、侵入者とみなして、クロノスが排除にかかるわけです」 「…………」  シンは暗たんとして気持ちがとざされるのをおぼえた。  人類はついに〓“時間〓”から疎《そ》外《がい》されたまま、滅亡への道を歩んでいくのだ。豊かな可能性をはらんだ〓“純粋時間〓”に足をふみいれることもなく、それどころか〓“時間結晶《クリスタイム》〓”というデカダンスにおちこんでいくのだ。これをしも、彼らが人類の〓“時間〓”に干渉した結果というべきだろうか——おそらく、〓“時間結晶《 クリスタイム・》都市《シテイ》〓”にねむる男女の心象風景は、つたのからまった〓“純粋時間〓”に酷《こく》似《じ》したものであるにちがいない。なんの感動もなく、ひたすら枯渇にむかう褐色の世界……  沈黙してしまったシンにかわって、マヤがきいた。 「もうひとつの実験というのはどんなものだったのでしょうか」 「…………」  旅人たちのあいだにわずかにどよめきが走ったようだった。それは、奇妙に希望と絶望がないまぜになったどよめきだった。 「わたしたちは、それを〓“神殿〓”と呼んでいます」  老人はとおくをみるような眼をしていた。 「いまとなっては、その実験がどんなものであったのかたしかめる術《すべ》がないのです。なにしろ、その実験が失敗におわってから、もう二百年ちかくが過ぎているのですから……ただ、その実験のそもそものアイディアは、巨大加速器と核融合反応炉をくみあわせたようなものだった、と、きいています。わたしがお話ししているのは、あくまでもアイディアであって、じっさいにどんな装置がつかわれたのかはわかりません……その装置の究極の目的は、時間粒子を観測することにあったのです……」 「時間粒子……」  シンは呆然とし、マヤと顔をみあわせた。それでは、ついに人類は時間粒子の存在に気がつくにいたったのか。彼らの干渉にもかかわらず、〓“純粋時間〓”へ一歩をふみいれることができたのか。ぎりぎりのどたんばで、人類はかろうじて間にあうことができたのだろうか…… 「時間粒子そのものがたんなる仮説の産物にすぎなかったようです」  老人は言葉をつづけた。 「空間最小単位を光が通過するのに要する時間1/102424秒を時間粒子と仮定したにすぎないのです……当時、人類は残っていたエネルギーをしぼりつくして、その時間粒子を発見しようとつとめました。それには時間粒子をのぞくための顕微鏡が、いや巨大加速器が必要となりました……ちょうど、原子核や素粒子をしらべるためには、巨大加速器をつかい、電場や磁場のなかで、粒子を光の速度ほどに加速し、高エネルギーにすることが必要であるように……時間粒子をのぞくためには、特殊な状態をつくってやらなければならなかったのです。そのための装置が〓“神殿〓”だったというわけです」 「時間粒子を観測するための巨大加速器……」  シンは口のなかでつぶやいた。  思いもよらないことだった。なるほど、たしかに三次元空間に身をおく人間が、時間粒子の存在をつきとめようと考えれば、そのための装置が必要になるはずだった。おそらくは、どんな宇宙船、巨大加速器建造よりも大きなスケールをもったプロジェクトであったにちがいない——シンがかつてマヨラナというべつの人格をそなえていたときには、たんに時間粒子の存在を仮定したにとどまったのだが…… 「もちろん、それは巨大加速器とはまったくことなる装置でした……原理としては、むしろ核融合反応炉に似ているといえるかもしれません。水素、ニッケルをレーザー照射し、プラズマにかえ、それを磁気コントロールして、集積し、ある種の擬似ブラックホールをつくる装置だったようです。もちろん、ブラックホールをつくるだけのエネルギーが人類にまかなえるはずがありません。それはあくまでも、似て非なるものだったと考えるべきでしょう……いや、そういってしまっても正確ではないようだ。あいにく、わたしにはそれを説明するだけの知識はありません。よろしく想像してもらうよりほかに方法はないらしいですな。……ただ、その擬似ブラックホールが、時間粒子の存在をつきとめるのに、かなり有効だったことはまちがいないようです」 「…………」  シンはうなるばかりだった——地球がブラックホールと化すためには、絶対的に引力が不足しているのだが、よしんばそれが可能だったとしても、そのブラックホールの直径はわずか数センチにしかならないはずだ。それを考えれば、たとえ擬似的なものにせよ、ブラックホールをつくりえた人類の科学力には感嘆するほかはなかった。  いずれにせよ、ブラックホールの観測が可能になれば、人類の時間にかんする知識が、飛躍的に増大することはまちがいなかった。 「……ですが、その〓“神殿〓”は消滅してしまいました」  老人は眼を伏せた。 「あまりに膨大なエネルギーをついやしたために、どこかべつの宇宙へとばされてしまったとも、みずからつくったブラックホールに吸収されてしまったともいわれているのですが……とにかく、〓“神殿〓”は消滅してしまったのです」 「消滅した……」  シンには、それが人類にとって、どれほど大きな打撃であったか、容易に想像できるような気がした。たぶん、その装置は、人類が〓“種の自閉症〓”という袋小路を突破するための、最後の希望であったにちがいない。その装置が消滅したとき、人類の滅亡がはっきりと宣告されたのだ。  そして、あることに気がついて愕《がく》然《ぜん》とした。もしかしたら、その装置が消滅したのも、彼らの干渉だったとは考えられないだろうか。 「どうして、それを〓“神殿〓”という名で呼ぶのですか」  マヤが緊張の感じられる、極端に殺した声できいた。 「わたしたちにとっては、〓“神殿〓”そのものだからですよ」  老人がいった。〓“神殿〓”はたしかにこの星から消滅しました。しかし、どうやらこの地とかさなる、どこかべつの宇宙には厳として存在しているようなのです……そこに、なんらかの法則があるのかどうかはわかりませんが、〓“神殿〓”はときおり地上に出現するようなのです。そして、〓“神殿〓”に足をふみいれることのできた人間は、〓“時間〓”のなんたるかを理解できる、と、いいつたえられているのです……おわかりですか。わたしたちにとって、地上に出現した〓“神殿〓”と遭《そう》遇《ぐう》することが唯一の望みなのです。そのために、こうしてこの星をさまよいつづけているんですよ」 「すると、〓“神殿〓”とであったら、そのなかにお入りになるつもりなんですの?」 「そうできたら……」  老人は苦しげに口ごもった。 「ほんとうにそうできたらと思うのですが……おそらく、わたしたちにその勇気はありますまい。これもいいつたえなのですが、消滅したとき、〓“神殿〓”そのものが特異性をおびてしまったようなのです。たぶん、ブラックホールの特異点に似た性質ではないか、と思うのですが、くわしいことはわかっていません。いずれにしろ、人間が生きたまま、〓“神殿〓”のなかに足をふみいれるのが不可能であることはまちがいありません」 「それじゃ、どうしてあなたたちは……」  マヤはわずかに混乱したようだった。 「おろかなことです」  老人は自《じ》嘲《ちよう》するようにいった。 「〓“神殿〓”が出現しても、わたしたちはそのまえで祈るしかないのです。〓“神殿〓”がふたたび消え失せるまで、祈り、おそらくは泣きわめくしかないのです……ですが、あの〓“神殿〓”に〓“時間〓”の秘密がかくされているかぎり、わたしたちはそれをさがしつづけるのをやめることができないのです。この星には、わたしたちのようなグループが数えきれないほどありますが、どのグループの人間も同じ思いでいるはずです」 「…………」  マヤがもうほかにきくことはないか、というような表情でみつめていたが、シンはあいかわらず沈黙をつづけていた。じっさい、いたましさがさきにたって、なにをいうこともできなかったのだ。  いうならば、この人たちは聖地をもとめて遍歴をつづけている巡礼のようなものだ。しかも、彼らがいかに熱望しようと、その聖地は絶対に手のとどかないところにある——旅人たちが一様に沈うつな雰囲気をただよわせているわけを、シンはようやく納得したのだった。  たしかに、シンは個人的には旅人たちに好意をいだいている。あやうく、クロノスに襲われそうになったところを救けられたのには、いくら感謝してもしたりないぐらいだ、と、思っている。だが、——だからといって、彼らの生き方を認めるか、ということになると、おのずと話はべつだ。〓“時間結晶《クリスタイム》〓”を選んだ人間も、〓“神殿〓”をもとめて遍歴をつづける旅人たちも、その本質においてはいささかのちがいもない。  デカダンス——その一語につきてしまうのである。  いずれにしろ、ながく〓“時間〓”に疎外されてきたことが、人間をして、このうえもない無気力におちいらせていることはまちがいないようだった。二十八世紀の人類は、徹底して負け犬と化しているのだった。  シンたち〓“時間人〓”にとって、これほどやりきれないことはなかった。自分たちの無能ぶりを、〓“純粋時間〓”における戦いがすべて徒労でしかなかったことを、事実としてつきつけられているも同じなのだ。  シンもまた、口をとざしたまま、暗い絶望の淵にとめどもなく、のめりこんでいきつつあったのだが——ふいに起こった旅人たちのどよめきが、あやうく彼を現実にひきもどした。  旅人たちは立ちあがり、なにか口々にわめきちらしていた。このしずかな人々には、まったく似あわないことであった。 「どうしたのですか」  わけがわからないまま、自分も立ちあがりながら、シンがきいた。 「チョウがとびはじめたのです」  老人もあきらかに興奮しているようだった。 「チョウが?」 「そうですそうです……」  老人は何度もうなずいた。 「チョウには、〓“神殿〓”をみつける能力がそなわっているのですよ」 5  ——チョウは、〓“時間〓”にたいして特殊な能力をそなえている。  ある種のチョウの場合、秋のおとずれを知り、南へ移動しようとするさいのきっかけとなるのは、気温低下よりもむしろ日照時間の短縮に多くをたよっている、と、されている。  日照時間は、一日にしてわずか三分ずつしか短くならない。これは、日照時間の〇・四パーセントをしめす数値にしかすぎない。たとえば、人間が時計なしで、一時間と五十七分を区別できるかどうかを考えれば、これがどんなにおどろくべきことであるかがわかるだろう。  チョウが〓“時間〓”にひじょうに敏感であることは疑いようもない。——昆虫学者たちはこれを、世代交替がくりかえされるうちに、過去の記憶と現在を比較できる能力を獲得したためと説明しているが、はたしてどんなものであろうか。もしかしたら、その認識を根本からあらためる必要があるのではなかろうか。  ベルグソンが人脳を〓“時間把握〓”よりも〓“空間把握〓”にすぐれている、と、断じたのは有名な話だ。そのでんにならえば、昆虫は、〓“空間把握〓”よりも〓“時間把握〓”にすぐれた生命体である、と、考えることも可能なようである。  チョウが時間の短縮を本能的にさとる、と考えるのは、科学的なようでいて、じつはなにひとつ説明したことにならないのではないだろうか。  たとえば、カバマダラチョウの場合を例にとってみよう。カバマダラチョウのサナギが羽化するとき、その体の斑点が光の感知装置となっているという説は、なるほど、ありうることであるし、じっさいそうであるのかもしれない。しかし、光を感知するだけで、正確な羽化のタイミングをつかむことが可能なものだろうか。やはり、そこには昆虫の〓“時間志向〓”がなんらかの形で作用している、と、考えるべきではないのだろうか。  チョウは、いや、チョウにかぎらず、すべての昆虫は〓“時間把握〓”の能力を発達させることによって、生き残ってきたのかもしれないのである。そう考えれば、〓“空間指向〓”の強い人間が、アリやハチがいとなむ社会生活をついに理解しきれないわけもうなずけるではないか。  また、そうとでも考えなければ、チョウがいかにして〓“神殿〓”の出現する場所を正確に予知することができるのか、説明できないのである。  チョウはとんでいく。  ひろげた翅《はね》をほとんど動かさないで、紫いろの大気のなかを悠《ゆう》然《ぜん》とわたっていくのだ。  旅人たちが黙々とそのあとにしたがっている。まるでなにかにとり憑《つ》かれたように、ジッとチョウをみつめ、ひたすらその足を進めているのだった——彼らはこの日のために、チョウをここに持ちこみ、熱心に育ててきたのだ。チョウをやしなうべき蜜すらないこの星では、それがどんなに困難なことであったかは、想像にかたくない。  紫いろの大気と、こはく色の草原——そして、そのなかをとびつづけるチョウ……それは奇妙に静《せい》謐《ひつ》な、しかしどことなく哀しげなものを感じさせる光景だった。  もちろん、シンとマヤのふたりも、旅人たちに加わっていた。 「ねえ、おかしいと思わない?」  歩きながら、マヤが声をかけてきた。 「なにが」  シンはチョウに向けた視線を動かそうともしなかった。 「わたしたち〓“時間人〓”が、よりによってこんな時代の、こんな星にとばされるなんて……まるで、しくまれたことみたいだわ。あまりにも象徴的にすぎると思わない?」 「ああ……」  シンはうなずいたが、それ以上、そのことにかんしてはふれようとしなかった。 〓“時間結晶《クリスタイム》〓”といい、旅人たちといい、この星の住人はことごとく〓“時間〓”にとりつかれたような人たちばかりだった。〓“時間〓”のまえにひれふして、ひたすら許しを乞うているような印象さえあるのだ。  たしかに、〓“時間人〓”が偶然とばされたにしては、あまりにもすべてが象徴的にすぎるようだった。もしかしたら、ブラックホール生命体が特異点に突入したさい、あの男がなんらかの方法で、シンたちふたりがこの星にとばされるように工作したのかもしれない。あの男がベルリンの酒場で、マヨラナを罠《わな》にかけたことを考えれば、その可能性は大いにあるといわねばならなかった。  しかし、いまのシンにはそんなことはどうでもいいことだった。シンの脳《のう》裡《り》にはただ、〓“神殿〓”にいったん足をふみいれれば〓“時間〓”の本質を理解することができる、といった老人の言葉だけが、くりかえしこだましていた——もし、〓“時間〓”の本質にふれる資格をそなえた者がいるとしたら、それはシンたち〓“時間人〓”をおいて、ほかには考えられないのではないだろうか。たとえ、そのために死ぬはめになったとしても、シンは充分に満足だった。  ふいに、先頭にたっていた老人が足をとめ、しわがれた声でさけんだ。 「おお、〓“神殿〓”がみえるぞ」  ——紫いろの大気に、なかば輪郭をとかすようにして、〓“神殿〓”が浮かびあがっていた。  それは、ひじょうに巨大で、およそ〓“神殿〓”という言葉からうけるイメージとはほどとおいものだった。ここからでは材質まではみさだめることはできないが、直径数キロにわたる円盤形をしていて、どちらかというと、宇宙ステーションといった印象が強い。ただひとつ、宇宙ステーションとことなる点は、中央部がくびれていて、いわゆるメビウスの輪のかたちをしていることである。  たしかに、〓“神殿〓”はべつの世界にぞくしているようだった。そのあいまいもことした姿形には、かろうじてつま先だけをこの世に残しているような、ある種の危うさが感じられた。たとえていえば、水面に映っている影みたいに、いまにもかきみだされ、消えてしまいかねないという感じだった。 「おお……」  旅人たちはさけび声をあげ、まるで一本の糸にあやつられているかのように、その場にバタバタとすわりこんだ。そして、ひたいを地にこすりつけて、呪《じゆ》文《もん》とも祈《き》祷《とう》ともつかない言葉を口々にとなえはじめた——情けない情景といわねばならなかった。〓“神殿〓”をようやくみつけたことにひたすら感謝し、そのなかに足をふみいれようなどとは、夢にも考えていないらしいのだ。 「…………」  シンは旅人たちに眼を向けようともしなかった。口をとざしたまま、一歩をふみだした。 「待って」  マヤの呼びとめる声がきこえてきた。  ゆっくりとふりかえったシンの顔は、すごいほどの無表情になっていた。 「〓“神殿〓”にいくつもりなのね」  マヤの声はすがりつくようだった。「そうなんでしょう」 「ああ」  シンはうなずいた。「できれば〓“時間〓”の本質とかを、この眼でたしかめてみたいからね」 「死ぬことになるわよ」 「そうかもしれないな」  シンは微笑した。「でも、そんなことはたいしたことじゃない。そうだろう?」 「わたしもいくわ」  マヤはきっぱりとした口調でいった。「あなたひとりを死なせるわけにはいかないわ」 「それはだめだよ」  シンはかぶりをふった。「きみを連れていくことはできない」 「なぜなの」 「もし、きみまでもが死んだら、いったい誰が彼らと戦うんだ。それに、なにもぼくが死ぬはめになるとはかぎらないしさ」 「そんなの嫌よ。わたしもあなたと一緒に〓“神殿〓”に……」 「たのむよ」  ふいに、強い口調で、シンがマヤの言葉をさえぎった。「これはぼくの仕事だ。ぼくひとりでやりたいんだ。たのむよ、マヤ……ぼくのわがままをきいてくれないか」 「…………」  マヤはなにかいいかけ、思いなおしたようにその口をとざした。そして、しばらくシンの顔をみつめていたが、やがてあきらめたみたいな微笑を浮かべた。 「わかったわ」  それから、しずかにいった。「気をつけてね」 「ありがとう」  シンはうなずき、マヤに背を向けると、〓“神殿〓”の方角に歩きだした。その唇を一文字にむすんだ表情は、かたい決意のほどをしめしていた。  足を進めていくにつれ、しだいに重力が狂いはじめていった。  おそらく、〓“神殿〓”にはなんらかの重力装置がはたらいており、それが周囲の重力を変化させているのにちがいなかった。みたかぎりでは、たしかに大地は平《へい》坦《たん》なのだが、体だけがじょじょに傾いていくのだ——ちょうど川のなかを歩いているようなものだった。視野をさえぎっている水面は、ゆったりと流れ、あたかも平らのようにみえるのだが、じっさいにふみしめている川底は、大きく傾斜しているのだった。  光の屈折率もきょくたんにいびつなものになっていった。ガラスの円《えん》錐《すい》を内側から這《は》いあがっていくハエに似ていた。視界が一点にせばめられ、ゆらめき、屈折する反射光がその一点に集中していた。紫いろの大気も、こはく色の草原もすでになく、ただ青い光だけが狂おしげに乱舞していた。  シンの体は、ほとんどみかけの地面と接するようになっていた。〓“純粋時間〓”という上下の観念のない世界に慣れたシンには、これはひじょうに奇妙な感覚といえた。三《さん》半《はん》規《き》管《かん》がバランスの失調にギシギシときしんでいるようだった。  だが、シンは歩きつづけた。視線を〓“神殿〓”にすえ、ただひたすら歩きつづけた。  歩いていくうちに、シン自身にも変質が進行していきつつあった——〓“時間人〓”という、特定の時代にしばられない、それだけにやや希薄な存在であったシンが、しだいにマヨラナの人格をとりもどしはじめたのだ。抽象的存在ともいえる〓“時間人〓”は背後におしやられていき、ヘビが脱皮するように、はっきりとした一個の人格がよみがえってきたのだった。  傲《ごう》慢《まん》で、神経質で、臆《おく》病《びよう》で、しかしたぶんにやさしいところもあるマヨラナが……  いま、〓“神殿〓”に向かって歩いていくのは、もう〓“時間人〓”のシンではなかった。数百年まえ、地球に生をうけ、ファシズムの嵐《あらし》ふきあれるヨーロッパを、ちいさな子供のように怯《おび》えながら、さすらっていたマヨラナが復活したのだ。  マヨラナは歩きつづけた。歩きつづけて——そして、〓“神殿〓”の入り口ちかくで待ちかまえていたあの男とであったのだ。  ——光がはげしく交錯し、いなずまのようにひらめくなかを、なにかコウモリに似たものが、ゆっくりととんできた。近づいてくるにつれ、それが背表紙をうえにして、ページを翼のようにはためかせている雑誌であることがわかった。雑誌はまるで翼を休めるように、マヨラナのまえにしずかに着地した。  マヨラナはしばらくその雑誌をみおろしていた。それは、——かつてマヨラナの失踪を報じた週刊誌、『ラ・ドメニカ・デル・コリエレ』だった。  マヨラナはゆっくりと顔をあげ、乱舞する光に向かっていった。 「たしか、ベルリンでもこうだったな」  ふいに光が収斂し、七色のしぶきを散らした。それは、ガラス玉が割れるさまを収めたフィルムを、逆回転させたような、奇妙に硬質なものを感じさせるながめだった。いまにも、ピーンという、ガラスのふれあう音がきこえてくるようだった。  そして、そこにはあの男が立っていた。  ——たしかに、あの男であることはまちがいない。しかし、かつてマヨラナがベルリンで会い、〓“純粋時間〓”で対決したあの男とは、大きくかけはなれている点があった。  男は人間らしくよそおうとする努力をいっさい放棄しているようだ。そこに、男の像としてみえているのは、あくまでも仮象にすぎず、その実体はどこかとおくに位置していることが、はっきりとわかるのだ。〓“神殿〓”と同じように、ふたつの宇宙にまたがり、かろうじて人間の像をむすんでいるみたいにみえた。  もちろん、時平線の果てにひそみ、人類の歴史に干渉してくる彼らの、いうならばエージェントのような存在であるその男が、人間であるはずはなかった。だが、——男が自分を人間らしくみせようとするのに、これほど無関心であったことは、いまだかつてなかったことなのだ。 「待った……」  男の声がじかにマヨラナの脳裡にひびきわたった。「ずいぶん、待ったよ」 「やはり、罠だったのか」  マヨラナは自分が微笑を浮かべてさえいることに気がつき、かるいとまどいをおぼえていた。「まったく、たいへんなエネルギーだな。ブラックホール生命体が特異点に突入するのにも干渉できるなんて、夢にも思っていなかったよ」 「おまえには、その価値があると思ったからだ。おまえなら、人類がけっきょく〓“時間〓”のまえに滅びていくのを、みとどける資格があると思ったからだ」 「そして、ぼくたちが絶望するのをみて、赤い口をあけて笑おうというわけか」 「そう思うか」  男はマヨラナの眼を真正面からとらえていた。「ほんとうに、そう思うか」 「…………」  そうは思えなかった。マヨラナはすぐに自分の言葉を後悔した——男はたんに彼らの尖兵として、はたらいているにすぎない。男にとってそれは、義務感とか、使命感といったものではなく、もっと根源的な、むしろ本能にちかいもののように思われる。そこには、善悪の判断など介入する余地はなく、男の感情の動きもまた、人間のそれを規準にして測れるはずがなかった。  男はおそらく、憎悪とか、嘲笑といった感情とは無縁な存在であるにちがいない。いや、そもそも、感情をそなえていると考えること自体、あまりに擬人化しすぎているかもしれないのだ。 「どうして、人類の〓“時間〓”に干渉しようとするのだ」  マヨラナは頭のなかできいた。「誰が、なんのために、人類の歴史をいびつなものにし、滅亡させようとしているのだ」 「俺にそれをきくな」  男はかぶりをふった。「ハチがなぜ自分たちが蜜を集めるのか、そのわけを承知していると思うのか。おまえは、どんな偶然によって、自分が人間として生まれてきたのか説明できる自信があるか……同じことだ。俺にも彼らが何者であるかわからない。俺は人間にかぎらず、ありとあらゆる知性体の姿をとることができる。そして、その〓“時間〓”に干渉することを本能づけられているのだ……ただ、それだけのことだ」  なにか暗く、寂《せき》寞《ばく》としたものが、マヨラナの胸を吹きすぎていった。それは、自分もその男と同じだ、という一種無力感をともなった認識だったようだ——じっさい、人間の〓“空間志向〓”が決定づけられている以上、〓“時間人〓”の苦闘はむなしいものとならざるをえないのだ。  いったい誰が、深海魚に陸地で生きる術《すべ》を教えることができるだろうか。ほんらい、〓“空間把握〓”にすぐれている人類に、〓“時間〓”のなんたるかを理解させようとこころみるのは、それと同じぐらいに困難な、いや、むしろおろかしい行為とさえいえた。  それがわかっていて、なぜ〓“時間人〓”たちは戦いを断念しようとはしないのか。マヨラナは何度もそう自問し、そしてついに解答をえられないまま、いまにいたっているのだ。  そう、なぜなのか…… 「あきらめたら、どうなのだ」  男がいった。 「おまえは充分にやったではないか。〓“時間人〓”として、できるかぎりの手はつくしたはずだ……俺がおまえをここにみちびいたのは、人類が確実に滅びることをみせたかったからなのだ」 「誰が滅ぼしたというのだ? 彼らが人類の〓“歴史〓”に干渉しなければ、こうはならなかったはずだ」 「そうかもしれない」  男はうなずいた。「だが、歴史はすでに決定づけられてしまったのだ。〓“時間管理者〓”の言葉をかりれば、未来世にたくわえられていたさまざまな可能性のうち、滅亡が顕在化されてしまったのだ。いまさら、おまえが〓“神殿〓”に入ったところでなにがどうなるものでもないだろう」 「それじゃ、なにをしたらいい」  怒りと悲しみがないまぜになった、はげしい感情がつきあげてきて、マヨラナの唇をじっさいに動かしていた。ほとんど慟《どう》哭《こく》するのに似ていた。 「人類の滅亡を知ったいまのぼくに、ほかにすることがあるとでもいうのか」 「…………」  一瞬、男の眼に哀れみの色が浮かんだようにみえた。マヨラナの錯覚だったかもしれない。 「好きな時代を選ぶがいい」  そして、男がいった。「そこで、あのマヤという娘としあわせに暮らしたらどうだ……なあ、原子爆弾といい、時間粒子といい、ひとりの人間がになうには、あまりにも重すぎる問題だったとは思わないか。エットーレ・マヨラナ、たしかにおまえは天才的な理論物理学者だったが、それでもひとりの人間であることにかわりあるまい……どうして、おまえは知りたがるのだ。〓“時間〓”の本質が、人類の運命が、いったいおまえにとってなんだというんだ」 「知ってしまったからだ」  マヨラナはいいはなち、つづく言葉をさがしあぐねて、顔をゆがめた。「そう……知ってしまったからとしかいいようがない。知ってしまった以上、そいつを最後までみきわめたいのだ。ただ、それだけのことだ」 「知  識  欲《アクタイオン・コンプレツクス》……」  男はゆっくりと首をふった。 「人類が原子爆弾を開発したのもそのためだ。〓“種の自閉症〓”という障壁があることを知りながら、やみくもに宇宙に進出し、けっきょく衰弱をまねくことになったのもそのためではないか……おまえは、彼らの干渉が人類を滅亡にみちびいたといった。しかし、人類が滅びることになったのは、知識欲があったからだ……貪《どん》欲《よく》な、満足することを知らない知識欲が、人類を滅ぼすことになったのだ。いいのか。知識欲の命じるままに行動し、〓“神殿〓”に足をふみいれれば、おまえもまた滅びることになるのだぞ」  男の問いかけは増幅され、くりかえしマヨラナの頭に鳴りひびくことになった——いいのか、ほんとうにそれでいいのか……一瞬、マヨラナの胸を、マヤの面影がよぎっていった。そして、はるか昔、地球のちいさな島国におき去りにした子供のことも…… 〓“時間人〓”は、やはりその心的構造において、人間と大きくことなるところがあるようだ。悠久の〓“純粋時間〓”に身をおいているうちに、肉親の情に代表される人間的な感情が、きわめて希《き》薄《はく》になってしまうのだ——しかし、いま、ひとりの人間にもどったマヨラナは、マヤをいとしいと思い、マヤとのあいだにできた子供にもういちど会いたい、と、痛いほどに思った。 「滅びるのもやむをえない」  マヨラナはうなずいた。 「〓“神殿〓”に入り、〓“時間〓”の本質をみきわめることができれば、それで満足だ」 「…………」  男はマヨラナをするどく凝視し、それからあきらめたように、身を脇にしりぞけた。 「行くがいい」  男は疲れたような微笑を浮かべていた。 「行って、死ぬがいい」 「ありがとう」  思いもよらない一言だった。反射的に口をついてでたその言葉に、マヨラナは自分でもとまどいをおぼえていた。  男は、マヨラナから視線をそむけていた。  マヨラナは足をふみだしかけ、ふと思いついて、男にきいた。 「あんたの名前をまだきいてなかったな」 「俺には名前なんか……」  男はかぶりをふり、それから想いだしたようにつけ加えた。 「あんたの息子には、秋山と名のったよ。おかしな名前にきこえるかもしれないが、日本人ということになっていたんでな……」 「そうか」  マヨラナはうなずき、こんどこそほんとうに足をふみだした。 〓“神殿〓”に向かって…… 6  ——マヨラナは歩きつづけた。 〓“神殿〓”に近づくにつれ、重力波ばかりではなく、〓“時空間〓”そのものがいびつに変化していくのがわかった。 〓“神殿〓”はふたつの宇宙にまたがっているのではなかった。なんといったらいいのか、〓“神殿〓”はもうひとつうえの〓“超時空間〓”に位置し、かさなりあったふたつの宇宙に、影をおとしているのだった。  マヨラナは、プラトンが記した洞窟の比《ひ》喩《ゆ》を想いだしていた。実体は洞窟の外にあるのだが、入り口に背を向けている人間には、岩壁にうつる影しかみえない——旅人たち、そしてシンとマヤがみていた〓“神殿〓”は三次元の影にすぎなかったのだ。  光が、物理的な圧力と化していた。フォトンがようしゃなく、生物分子の化《ケミ》学《カル》結《・ボ》合《ンド》をつらぬき、破壊していくようだった。自分という存在が希薄になっていくのを、はっきりと感じることができるのだ。  マヨラナはあえいでいた。  マヨラナが一歩一歩ふみしめている大地は、牙《きば》のように内側に反《そ》っていき、〓“神殿〓”そのものは頭上に位置していた。それが、〓“超時空間〓”に足をふみいれようとするのを、人間にそなわっている感覚器官が最大限に表現しようとした錯覚にすぎないことは、よくわかっていた。  それにしても、〓“超時空間〓”に入ろうとするのが、肉体的な疲労をともなった行為であることはまちがいなかった。いや、それどころか、肉体そのものを消滅させかねない行為なのだ。  しかし、マヨラナは進むのをやめようとしなかった。わずかに足を進めただけでも、まったく新たな認識を得ることができたのだ。なんとしてでも、このまま進みつづけて、〓“神殿〓”のなかに入りたかった。 〓“純粋時間〓”すら、不完全な、〓“低次元《ロ ウ》〓”にぞくするものでしかなかったのだ。〓“純粋空間〓”とでも呼ぶべきものもまた存在したのである——〓“純粋空間〓”とわれわれの空間との関係は、たとえていえば、〓“純粋時間〓”にたいする人間の歴史に似ているようだ。重力波、輻射などの夾雑物に影響されない、空間そのものといえた。  そして、〓“純粋時間〓”と〓“純粋空間〓”とが止 揚《アウフヘーベン》され、一体と化したものが、〓“超時空間〓”なのだった。  ——よし、それはいい、それはわかった、それから先はどうなんだ……マヨラナは歯をくいしばり、認識能力のぎりぎりまでみきわめようと、ひたすら足を進めた。それは、死が間近に迫った老人が、眼をみひらいて、この世のすべてを脳裡におさめようと願う姿に似ていた。事実、マヨラナはますます自分の存在が希薄になるのを感じていたのだ。 〓“超時空間〓”は、〓“次元の胚〓”のようなものだった。〓“空間志向〓”にしろ、〓“時間志向〓”にしろ、しょせんその胚から育つ枝葉のようなものにすぎないのだ。そして……  そのとき、マヨラナは自分の体が解体するのをおぼえた。  いままさに消滅しようとしている自分の意識が、〓“超時空間〓”に投影されるのを、マヨラナははっきりとその眼でみた。光のしぶきが輪をつくり、急速にちいさく絞られていくのだ——俺は死ぬ……マヨラナはしびれるような諦《てい》念《ねん》とともに、その事実を受け入れようとした。仕方がない。人間の認識能力にはおのずと限界があるのだ……  ふいに、マヨラナは自分の意識がクルリと裏返しにされるのを感じた。おかしな表現だが、ほかに適当な表現は思いつかない。まるで手袋が裏返しにされるように、まっさらな意識がとびだしてきたのだ。  マヨラナはとまどい、そして自分によりそうようにして、あの〓“反世界生物〓”がいることに、はじめて気がついたのだ。  どことも知れぬ虚空から、あの無限鏡がのびていて、銀白色にきらめく、二次元の通路がつづいていた。そして、その通路にすっくと四肢をのばして、〓“実体化された虚像〓”、あの猫のような〓“反世界生物〓”が立っているのだ。  ——キミノ体ヲ虚像化シタ。ソウシナケレバ、キミノ体ハ解体サレテイタトコロダ……今ナラ、マダマニアウ。引キ返セ、サモナイト、復元ガ不可能ニナル……コレ以上サキニ進ムトえんとろぴー、でえんとろぴートイウ概念サエ〓“超時空間〓”ニ吸収サレテシマウ。ソウナッテシマウト、〓“虚像〓”モ〓“実像〓”モ等価ニナッテシマウノダ……引キ返セ、引キ返…… 「そうすると、まだいくらかは先に進めるのだな」  マヨラナは〓“反世界生物〓”から伝えられてきた思念を、じっさいに声をだしてさえぎった。いや、マヨラナが〓“虚像化〓”されているのがほんとうだとしたら、それもけっきょくは思念にすぎなかったのかもしれない。 「そうなんだな」  一瞬、〓“反世界生物〓”は沈黙した。おそらく、解体することがわかっていて、なお先に進もうとするマヨラナの執念が、この異星人の理解を絶していたにちがいない。たしかに知識欲は、人類にも〓“反世界生物〓”にも共通したものだろうが、その業の深さにおいて、はるかに人類のほうがまさっているようだった。  マヨラナは、とつぜん〓“反世界生物〓”が現われたことにおどろきもしなかったし、その救援に感謝の念さえおぼえなかった。ただ、知りたい、認識能力のおよぶかぎりのことを知りたい、というはげしい衝動が、いまのマヨラナのすべてを律していたのである。  ふたたび歩きはじめたマヨラナを、〓“反世界生物〓”の思念が追ってきた。  ——ぷらっとほーむ〓ハ破壊サレタガ、〓“時間管理者〓”ハ無事ダ……キコエタカ、〓“時間管理者〓”ハ無事ダ…… 〓“反世界生物〓”の思念は、落雷のように大きく、力強く響きわたった。  ——我々ハマダ負ケタワケデハナイ。スベテノ希望ヲ失ッタワケデハナイ……  それが、〓“反世界生物〓”の、いわば戦友に送る激励の言葉であることはあきらかだった。  マヨラナはふりかえり、うなずいた。そして、歩きはじめた。  もちろん、言葉の厳密な意味では、マヨラナは歩いているわけではなかった。肉体の残像記憶というようなものが、マヨラナの先に進みたいという欲望を、歩くという形に実体化させているのだった。  三次元世界の概念からいえば、いまのマヨラナは死んでいるも同然だったのだ。  ——〓“超時空間〓”は、さながら〓“時空間〓”のヴァギナに挿入された巨大なペニスのようだった。 〓“超時空間〓”そのものが湾曲し、じょうごみたいにふくれあがっているのだ。〓“時空間〓”は側壁に重層的にならび、あるいは衝突し、あるいははなれ、さまざまな生命体、種、文明を生みだしていた。そして、生みだされたものはすべて〓“超時空間〓”に吸いあげられ、一瞬、けいれんをみせると、次から次に消滅していった。 「手術台のうえで出あったミシンとコウモリ傘《がさ》」のように、およそかけはなれ、対極に位置している思念が、あざやかな火花を散らして激突し、じょうごのうえに新たな〓“可能性〓”のにじをかけていた。  すべてが、あまりにもうつろいやすく、美しかった。腸と胃がのたうち、糞便をはきだしているとしか思えない生命体があったが、それすら美しかった。  ときどき、じょうごが急速にせばまることがあった。すると、ありとあらゆる〓“時空間〓”は暗くとざされ、〓“ニルヴァーナ〓”のしずけさに包まれる。そして、次の瞬間、ふたたび〓“可能性〓”のかがやきを放ちはじめるのだ。  マヨラナから、急速に肉体の残像意識が失われつつあった。それまで、〓“超時空間〓”から生みだされた現象はすべて、いったんマヨラナの残像意識に濾《ろ》過《か》され、なんらかの抽象として形を得ていたのだが、それがしだいに意味そのものとしてみえはじめてきた。 〓“神殿〓”はすでに、マヨラナの頭上に大きくかぶさり、巨大なリボンのように虚空にただよっていた。  マヨラナは自分が一個の意識と化したとき、意識こそ〓“時空間〓”をつらぬく、唯一絶対の存在であることを知った。  マヨラナはかつて有機物と無機物を区別し、生命現象を〓“エントロピーの法則〓”に対する、デエントロピーの戦いと定義していたのだが、それは大きなまちがいだった。無機物にもいわば〓“意識の胚〓”というようなものがひめられていて、無機物と有機物はあくまでも連続的な存在なのである。 〓“超時空間〓”に、恒星のようにかがやく〓“超意識〓”があった。その〓“超意識〓”は、生命の輻射を惜しみなく〓“時空間〓”に与え、さまざまな意識を賦《ふ》活《かつ》していた——生命現象そのものは、〓“超時空間〓”にとって、なにほどの意味も持っていなかった。それは、たとえていえば、意識をいきいきと躍動させるためのうつわ、支持脚のようなものにしかすぎなかった。  意識とは……意識とは……  マヨラナの意識がもだえ、認識能力の限界にぎりぎりと締めつけられていた。  識るということは、たんに知識の獲得を意味してはいない。それは、対象を自分のなかに引き込むこと、咀《そ》嚼《しやく》し、おのれの血肉にかえることを意味しているのだ。それだけに、人間というかぎられた容器のなかに、〓“超時空間〓”の認識をすべてそそぎこむことには、おのずとむりがあった。  ふいに、〓“超時空間〓”、〓“時空間〓”をつらぬいて、銀いろの矢がはしった。それは、意識を照らしだし、ときに破壊しながら、〓“時空間〓”のかなたにちいさくなっていった。  なぜかマヨラナは、その銀白色の矢が〓“知識欲〓”にちがいないことを直感していた。それは、ありとあらゆる可能性が織りこまれ、ぜんたいとして無限にひろがる絨《じゆう》毯《たん》のようなパターンをあやなしている〓“超時空間〓”にあっても、いちじるしく異質なものに思えた。  ちょうど、絶妙な調和をなしている絨毯にみいっているとき、その裏側からようしゃなくハサミを入れられるのをみるに似ていた。あまりに異質なため、銀白色の矢を眼にすると、ほとんど生理的な痛みをおぼえるほどだった。  ——知性だ。知性が人類をこんなにも醜《みにく》くしているのだ……ふたたび、あの男の言葉があざやかによみがえってきた。たしかに、〓“知識欲〓”は原子爆弾を開発し、不用意な宇宙進出を推し進めはした。そのかぎりにおいては、あの男の糾《きゆう》弾《だん》もあながち的はずれとはいえないかもしれない。だが……  だが、それではどうしてこの宇宙に知的生命体なるものが存在することになったのか……マヨラナの意識はそう抗議を発しざるをえないのだ。  知識欲が人類にかぎられたものだとしたら、自分たちはこの宇宙に発生したガンのようなものだとして、あきらめることもできるかもしれない。しかし、〓“超時空間〓”、〓“時空間〓”にレベルの差こそあれ、知的生命体は数えられないほど存在しているのだ。  ——知能とは思考手段を道具として使いこなす、広義な意味での、精神的順応能力とはいえないだろうか。そうだとしたら、ほんらい知能にはなんら責められるべきいわれはない。知識欲にしても、きわめて自然な機能ではないか……第一、知識欲が罪悪だとしたら、どうしてこれほど普遍的に、宇宙に存在することを許したのか。 〓“超時空間〓”に位置する〓“超意識〓”が、あまねく〓“時空間〓”の意識を照らしだして、いきいきと育てあげる。よろしい。それはわかった——だが、知識欲をこれほど広く宇宙に遍在させたからには、なにかそれなりの理由があってしかるべきだ……。 〓“超時空間〓”もまた知能を必要としていたのではないか。 〓“超時空間〓”がたんに意識を必要としていたのなら、知能など生みださなければよかったのだ。知能を定義することはむつかしいが、生存するためのさまざまなメカニックが、単純に遺伝子に組み込まれているだけなら、おそらく知能とはいえないだろう。意識が存在するためだけなら、それで充分なはずではないか。  そうだ。遺伝子だ。 (マヨラナ)は歓喜の声をあげた——遺伝子は〓“時間粒子〓”によって賦活され、〓“空間化〓”する物質とはいえないだろうか。そう考えれば、知能の異質性がはっきりしてくるような気がする。知識欲によって獲得されたもろもろのことはまったく遺伝しないのだ。  生命体にあって、知能は時間粒子に賦活されることもなく、反応もしない、唯一のものではないのか。  だから、どうなのか……  だから、どうなのか。 (マヨラナ)はすでにじょうごの内壁からはなれ、〓“超時空間〓”のなかを駆けのぼりつつあった。  ああ、あまりに多くの認識が、あまりにもはやく流れこみすぎている。人間の意識というフィルターは、めがあらすぎて、そのほとんどを逃がさざるをえないのだ。  だが、能力のおよぶかぎりは、意識が意識として結合されているかぎりは、〓“超時空間〓”を上昇するのをやめるわけにはいかない。至福だ。これはまぎれもなく至福なのだ。 〓“超時空間〓”に入ったときから、すべての〓“時空間〓”は消え失せていた。 (マヨラナ)は、宇宙の進化を逆にたどりつつあった。  宇宙は収縮し、収縮し、三度の黒体輻射が三〇〇〇度になり……さらに(マヨラナ)がさかのぼっていくうちに、水素とヘリウムがはじめて生みだされた時点にいたり、ついにその温度は一〇億度に達し、そして……  われわれはためされていたのだ。  いまや(マヨラナ)の意識は拡散し、かろうじて結合をたもっているにすぎない。その〓“亜意識〓”がそう歌声をあげた。  ——われわれはためされていた。彼らの干渉は、じつは知能を淘汰し、より完全なものへと跳躍するためのテストだったのだ。  知能もまた時間粒子に賦活され、反応するようになってこそ、完全なものとなるのだ……いや、そうではない。そういってしまうと、正確さを欠く表現となる。では、どういえばいいのか。しょせん、不完全な人間の語《ご》彙《い》では、それをいいあらわすことはできないのだ。 〓“超時空間〓”の〓“超意識〓”は、〓“時空間〓”に意識を育てあげる。その意識は知能をはぐくみ、彼らの干渉——〓“時間〓”——によって選りわけられ、淘汰される。そして、時間粒子に反応をしめした知能だけが、〓“超時空間〓”に吸い上げられ、それから……それから、どうなるのか。  もしかしたら、〓“超時空間〓”そのものが、〓“超意識〓”と完全な知能をそなえた生命体となるのではないだろうか。  そうではない。そればかりではない。それはあまりに人間に引き寄せすぎた解釈というものだ。しかし……  いまや温度は一〇〇億度に達した。そして、さらに上昇していく。  一〇〇〇億度!  ついに、(マヨラナ)は〓“神殿〓”の門をくぐった。   ビッグ・バン!  無限にちいさく、しかしその密度は無限大の宇宙が、いま、大爆発《ビツグ・バン》にうながされて、膨張を開始した。大爆発のすさまじいエネルギーにさらされながら、(マヨラナ)は歓喜のさけびをあげていた。  わかったのだ。  ひらかれた書物を手にとったように、はっきりとわかったのだ。  大爆発《ビツグ・バン》とはつまり……  しかし、すでにそのとき、(マヨラナ)の意識は消滅していた。  消滅する瞬間、ついに彼らとは会うことができなかったな、という思いが、(マヨラナ)の意識をよぎった……  ——こはく色の草原に、ひとりの女が立っていた。  その女の肩のあたり、ややはなれたところに、銀白色の光が浮かび、その光のなかに猫のような生き物がうずくまっていた。  ——〓“時間管理者〓”ノモトニ戻ロウ……  猫のような生き物の思念が、女の頭に流れ込んできた。  ——しんハ死ンダ……彼ノ死ヲ無駄ニシナイタメニモ我々ハ戦イツヅケル必要ガアル…… 「ええ……」  女はうなずき、唇を噛《か》んだ。そして、ふと草地に視線をおとし、二、三歩進むと、なにか拾いあげた。  旅人たちを〓“神殿〓”へといざなった、あのチョウだった。  チョウは死んでいた。 「〓“時間管理者〓”に会うまえに、このチョウを渡したい人がいるの」  女はうったえるようにいった。 「このチョウを、シンのかたみとして受けとってもらいたい人がいるの。あなたなら、わたしをその人のところへ連れていくことができるわ」  そして、その星から、女と猫のような生き物の姿は消えた。 エピローグ  ——アパートのまえにちいさなトラックがとまっていた。  どうやら、どこかの部屋が引っ越しをするらしく、トラックの荷台には、箪《たん》笥《す》や、冷蔵庫などが積まれてあった。  いま、アパートの外の階段をおりてきたのは、真与新介だ。  アンダーシャツにジーパン、首に手《て》拭《ぬぐ》いを巻いているという格好だった。ダンボールの箱を抱えているところをみると、新介が引っ越しの主のようだ。  新介はダンボールの箱をトラックの荷台に積むと、思いついたように、郵便受けのなかをのぞいた。  手紙と葉書きがそれぞれ一通ずつ入っていた。  手紙は〓“一明村〓”の岸本から、葉書きは生徒の高沢からきたものだった。  新介はまず岸本の手紙から読みはじめた。自然に顔がほころんでくる——岸本は新介に子供ができたことを祝い、小林氏がその子の顔をみたがっているから、つぎの夏休みにでも村に来たらどうか、と、書いていた。  そう、新介の生まれた土地なのだから、子供にとっても故郷のようなものだ。いちど、妻子ともども里帰りするのもわるくないかもしれない。  つづいて、新介が高沢の葉書きを読もうとしたとき、細君が赤ん坊を抱いて、階段をおりてきた。そして、新介がさぼっているのをみて、ひとしきり文句をならべ、赤ん坊をおしつけて、ふたたび二階にあがっていった。  新介は苦笑し、赤ん坊を片手に抱きながら、高沢の葉書きを読みはじめた。  それは、信州のキャンプ先からの絵葉書きで、空気が澄んでいること、みんなでつくるカレーがうまいことなどが、かんたんに書かれてあった。  一時は、太陽が燃えつきることにおびえたり、ブラックホールとかにとりつかれたりで、ノイローゼにでもなるのではないか、と、心配したのだが、どうやら高沢は心の健康をとりもどしたようだった。 「よかったねえ」  新介は、愛と名づけた女の子のほっぺたを指でつっついた。赤ん坊はいかにも嬉しそうに笑い声をあげた。  その笑い顔をみているうちに、新介はフッとおかしなことを考えた。——高沢は、太陽が燃えつきたり、永久に時間が停止したり、なんてことを考えていると、なんで生きていかなければならないのか、わからなくなってしまう、と、いった。その答えは、いや、宇宙のすべての現象をときあかす答えは、赤ん坊の笑顔のなかにふくまれているのではないだろうか……  どうして、そんなことを思いついたのかわからなかった。一瞬、ボンヤリとしてしまった新介を、ふたたび細君のかけてきた声が現実にひきもどした。 「ちょっとタンスを運ぶのを手伝ってよ」  新介はあわてて階段を昇っていった。  子供が生まれて、すこし大きな部屋にうつることになって、細君は非常にはりきっている。あまり新介がなまけていると、そのうち本気で怒りだすかもしれない。ここはひとつ真面目に仕事をしたほうが賢明というものだった。  新介は赤ん坊をベビーベッドに寝かせると、細君といっしょにタンスを運びはじめた。タンスは意外に重く、細君がよろめいた拍子に、いちばんうえの引き出しがとびだして、ちいさなボール箱が畳に落ちてきた。  細君はひとまずタンスを下におき、そのボール箱を拾いあげた。そして、けげんそうな表情でいった。 「このボール箱、新しい部屋に持っていくの」  そのボール箱にはチョウの標本が一匹だけ収められていた。 「ああ」  新介はちょっとくすぐったいような顔で、うなずいた。 「持っていくよ。なにしろ想い出のチョウだからね」  ベビーベッドのなかで、なにが嬉しいのか、赤ん坊が笑いつづけていた。  ——とっくに、閉館時間は過ぎていた。  森は黒く、闇の底にしずみ、そろそろ夕涼みのゆかた姿の人たちが、公園を散歩しはじめる時刻だった。  図書館のシャッターをおろす音がきこえてきて、ようやくぼくはあきらめた。どうしてだかわからないが、あの少女は図書館からでてこなかったのだ。もしかしたら、閉館になるずっとまえに、図書館をでていったのかもしれない。  ぼくも、家《ホーム》に帰らなければならない時刻だった。  ぼくはそれまでだいじに掌に乗せていたチョウを、ソッと本のあいだにはさんだ。そして、大通りの方に歩きだした。  もう二度と、あの少女には会えないかもしれない、と、思った。すこし泣きたいような、なんだか甘ずっぱい、おかしな気分だった。  この物語を書くにあたって、次の書を主に参考にさせていただきました。ここに明記して、お礼申しあげます。 「マヨラナの失踪」 レオナルド・シャーシャ著 千種堅氏訳 出帆社 「ハイゼンベルクの思想と生涯」 アーミン・ヘルマン著 山崎和夫氏・内藤道雄氏訳 講談社 「部分と全体」 W・ハイゼンベルク著 湯川秀樹氏・山崎和夫氏訳 みすず書房 「時間 その性質」 G・J・ウィットロウ著 柳瀬睦男氏・熊倉功二氏訳 文化放送 「講座 現代の哲学1・時間・空間」 村上陽一郎氏ほか著 弘文堂 「タイムマシンの話」 都筑卓司氏著 講談社 「ブラック・ホール」 ジョン・テイラー著 渡辺正氏訳 講談社 「色彩生理心理学」 浜畑紀氏著 黎明書房 「チョウの季節」 ジョージ・オーディッシュ著 中村凪子氏訳 文化放送  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 (角川書店編集部) チョウたちの時《じ》間《かん》  山《やま》田《だ》正《まさ》紀《き》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年11月8日 発行 発行者  福田峰夫 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Masaki YAMADA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『チョウたちの時間』昭和55年5月20日初版発行