山田太一 遠くの声を捜して     1  八年前、オレゴン州ポートランドで笠間恒夫《かさまつねお》は正常であることを激しく望んだ。以後の人生はその結果だが、願い通りに生きているとはいえない。ただ、いまだにその願望に支配されていた。  次第にこの物語の中心を占めて行く現象の最初の兆候は、去年の三月にあった。  その朝、恒夫は東京大手町の合同庁舎一号館三階の仮眠室で四時半に起きた。かなり早いが、こういうことが月に四、五回はあった。一緒に三人の男が起きて、シャツやズボンを身につけはじめる。みんな口をきかなかった。特別の意味はない。眠いだけである。  恒夫はライトグリーンの柄物《がらもの》のシャツのボタンを上までとめる。首のボタンをはずしていると無防備のような気がした。濃いグリーンのコーデュロイのズボンを穿《は》く。少し膝《ひざ》が抜けて来ている。セーターはモスグリーンだ。二十九歳の男が口にするのは気恥ずかしいが、溢《あふ》れるような緑の風景が好きだった。圧倒的な熱帯の緑。  しかしこの灰色のビルの中にそんなものはありはしない。そこでせめて恒夫が緑を持ちこんだわけだが、まさか誰かの潤《うるお》いになっているとは思わない。グレーや紺よりは多少ましではないかと自分で思う程度のことだ。  元は白かったスニーカーを履く。洗わなければいけないと履く時にはいつも思った。洗いこんだ白いスニーカーは気持のいいものだ。しかし大抵一度も洗わずに履きつぶしてしまう。  拳銃《けんじゆう》の入ったホルスターのベルトを肩にかけ、革紐《かわひも》をズボンのベルトに結ぶ。黒いジャンパーを着る。  四人を乗せたマイクロバスは、ほぼ午前五時に、庁舎の地下駐車場を出発した。  まだ地上は夜だった。曇った空だけに、熱のない白い光がひろがりはじめている。入谷《いりや》まで首都高速道路に乗った。太田警守が運転をし、他の三人はパンと牛乳の朝食をとる。  雲が厚い。ただ、しらじらと周囲が次第にむき出しになって行く。  日光街道へおりるところで、道の脇《わき》から十数羽の鴉《からす》がとび立った。朝の東京の日常の風景である。どうせとび立ったあたりに生ゴミが散乱しているのだろう。不吉なことはなにもありはしない。「おいおい、なにをいっている」と恒夫は無表情のまま自分に苦笑した。「そんな風に自分にいいきかせることすらおかしいくらい簡単な仕事じゃあないか」  それから、そういう内心の|やりとり《ヽヽヽヽ》が、摘発に出掛ける時の恒夫の習慣であることに気がつくのだった。  まず不吉な気分に襲われる。それを別の自分が苦笑して打ち消す。次にそういう|やりとり《ヽヽヽヽ》が、いつもの手順であることに気がつく。それから、そのように気がつくこと自体が、すでに何百遍もくりかえした儀式のうちだということに気がつく。気分や感情を抑圧するのには馴《な》れていた。今日もいつもの手順通りだった。 「太田よ」と恒夫は指揮官の声を出した。「そろそろ佐久間と替れや」 「替ります」と佐久間警守はすぐ中腰になった。 「カローラじゃねえんだぞ」  宮崎警守長が太い声で叱《しか》るようにいう。からかっているのだが、宮崎がいうと叱るように聞えた。  成田支局から異動で来たばかりの去年の四月、佐久間は逃げる韓国人の男を追おうとして、狭い道にマイクロバスをつっこんで身動き出来なくなったのである。カローラは佐久間のマイカーである。 「ネタが古いなあ、警守長は」  佐久間は、上司の鋭い声を軽く受け流した。「とっくに、こっちはベンツですよ」 「この野郎。出まかせにも限度があるぞ」  宮崎は大声で笑った。その笑い方にも太い声にも恒夫は圧迫を感じた。指揮官は自分の方がふさわしいと主張しているように聞えた。一歳しかちがわない。  太田が車を脇に寄せた。佐久間と替る。早めに交替しないと太田が朝食をとっている間に目的地に着いてしまう。 「出発進行」  余計なことをいって佐久間は車を動かした。この上司を上司とも思わぬ二十三歳の軽い男にも恒夫は圧迫を感じた。寡黙《かもく》な太田は太田で、なにを考えているのか分らない。しかし、そんな感情を抱いて、いいことはなにもなかった。三人とも有能な部下である。警備士補の恒夫が指揮をとることは、それほど多くない。大抵は警備士の誰か、更に規模が大きくなれば警備士長、警備長が陣頭に立つ。少ない機会にこの三人と摘発に向うことを一方で確かに喜んでもいるのである。他の組合せよりは、かなりましな筈《はず》であった。評価の高い三人であった。後ろの席にいる恒夫からは、頼もしい三人の後頭部が見えた。太田が紙パックに口をつけて牛乳をのんでいる。「俺《おれ》はこの連中を愛しているといってもいいくらいだ」まさか。しかし、頭の中で強引に呟《つぶや》くと、そういう気持もまったくないわけではないと思えてくるのだった。これもいつもの自己催眠の手順のひとつである。仕事にマイナスになるような感情は次々と抑圧しなければならない。不吉な気分も、部下へのひるみも。 「宮崎君よ」 「はいッ」  背を向けたまま宮崎は大声でこたえた。 「佐久間と正面から行ってくれるか」 「いいすよ」と宮崎はふりかえる。 「俺は太田と裏へ回る」 「聞えたか、太田」と宮崎はまた大声を出した。 「了解」 「了解じゃねえよ。はいっていうんだ。格好つけたまんまいい仕事した奴《やつ》はいねえんだぞ」 「分りました」 「分りましたじゃねえ。はいっていうんだ」 「はいッ」  それから宮崎は恒夫を見て、品のない笑いを浮べた。「だけど、気をつけて下さいよ。斉藤部長にいわれてるんだから」 「なんだよ、それ」  恒夫は苦笑した。 「またまた。部長がぺらぺらしゃべってるもん。かくしたって、おそいッスよ」  斉藤は総務部長である。先月彼の仲人《なこうど》で見合いをしている。信用金庫に勤める柴田《しばた》芳恵と交際をはじめていた。 「大事な身体《からだ》なんですから」 「バカいうな」  足立《あだち》区を抜け、草加市に入った。  内査は昨日、佐久間とすましていた。プレハブのアパートの一階の六畳に、バングラデシュの男が六人で暮らしている。「近所の住人」の通報を宿直の恒夫が受けたのである。「ああいう人達が近くにいると落着かないもんですから」と女の声がいった。住所も名前もいわなかった。しかし入国管理局は通報を大事にしている。翌日、内査に向い、その翌朝こうして民間から借り上げたマイクロバスで摘発に向っている。不法残留は、ほぼあきらかであった。  六時五分前に、アパートの脇に車を停《と》めた。もう夜は明けていた。すぐ宮崎がドアをあけ、恒夫が続いた。空気がつめたい。ところどころ畑の残る片側一車線の道の遠くを、自転車の男がやってくるのが見えた。他に人気《ひとけ》はなかった。  太田が続いて来るのを短かく確認しながら恒夫は道を横切った。低い生垣《いけがき》のあるアパートの敷地に細い丸太二本を立てた門から入ってすぐ裏手へ急ぐ。表は佐久間が先導して宮崎が続いているはずである。彼等が目標のドアに着くより前に、恒夫と太田は裏手の窓の外に立っていなければならない。  裏はブロック塀《べい》をへだてて墓場である。その先には寺がある。墓場や寺に逃げられると厄介《やつかい》であった。ブロック塀を越えられることがあってはならない。  ところが裏手の湿った土に足を踏み入れると、いきなり前方の窓があいた。足をかけ、とび出そうとする男がいる。 「動くな」  恒夫は英語で叫び、その窓へ走った。 「われわれは入国警備官である」  目の大きな、インド系の異国の青年が、英語でそのように叫ぶ恒夫を、窓辺に片足をかけたまま見下ろしていた。恒夫はくりかえした。 「われわれは、東京入国警備官である」  漸《ようや》く宮崎たちが、ドアをノックする音が聞えた。どうして、その前に摘発を知ったのだろう。もっとも、神経をとがらせていれば、静かな早朝のマイクロバスの停車音と四人のスニーカーの足音は小さいとはいえないかもしれない。 「ドアをあけなさい」と恒夫は英語で男にいった。「パスポートを見せて貰《もら》う」 「オーケー」と男がいった。諦《あきら》めたように、うなずいた。  ノックが続いている。 「オープン・ザ・ドア」とブロークンで太田が恒夫の背後から怒鳴った。  薄暗い部屋の中で、別の男が動き、立上り、ドアに向った。 「足をおろせ」と恒夫は目の前の青年に英語でいった。「その足を窓からおろしなさい」 「オーケー」青年はおだやかにジーンズの長い足をおろした。  ドアがあき、逆光でシルエットになった宮崎が部屋に入ってくる。日本語で「東京入国管理局です」といった。それから英語で同じことをいい「パスポートを拝見したい」とこれも英語でいいながら靴《くつ》を脱ぎ、上って寝床から身体を起している男たちを見下ろした。  八人いた。六人ではなく、もう一度数えても八人だった。六畳に八人。 「太田も入ってくれ。俺もすぐ行く」  窓があいているので、二人ではなれてはいけないと思った。 「はい」  太田が表へ向った。 「八人だな」と恒夫は口に出した。 「そうですね。あたりましたね」  佐久間が西瓜《すいか》でも余計手に入れたような声を出して靴を脱いでいる。 「君」と恒夫は窓際《まどぎわ》の青年に英語で声をかけた。「この窓を閉めて、鍵《かぎ》をかけなさい」 「オーケー」  青年はさからわなかった。窓を閉め、錠をかけはじめた。 「在留期間をとっくに越えてるね」  パスポートを見ながら宮崎が一人の男に英語でいうのが窓越しに聞えた。  恒夫は窓の向うの錠をかける青年を見ていた。青年はやがて手を止め、恒夫の方へ右手をあげた。  いいだろう。恒夫はうなずき、おそらく八人全員を連行することになるであろう仕事のために窓の外をはなれた。その時ブロック塀に接して、大きなブルーのゴミ用のポリバケツが置かれているのを見ていた。彼等の窓のすぐ前だ。昨日は、あんなものはなかったのではないか? 大体、裏とはいえ道路からかなり入ったあんな場所にアパートの共用らしい大型のポリバケツを置くのは不自然ではないか? あのバケツに足をかければ、ブロック塀は簡単に乗りこえられるのではないか? 二、三十秒のことだった。歩きながらそう思っていた。思っていながら、足は止らなかった。建物の角を曲りかけていた。事が起きる時は、そういうものだ。  背後でいきなり窓のあく音が聞え、ふりかえるともうあの異国の青年がポリバケツに足をかけていた。 「止れ」  英語で恒夫は叫んだ。しかし、青年はもうブロック塀の上にいて、瞬時も止らずに塀の向うに飛んだ。  宮崎の怒号が聞えた。 「オッケオッケ、オーケーッ」と恒夫は窓に向って走り「俺だけでオッケー。カッカするなッ」とポリバケツに足をかけ「他の奴を逃がすなッ」とブロック塀にとびついた。乗り越えながら墓場に目を走らせると、青年の姿がない。飛び降りた。寺までは五十メートルほどの距離である。あの素早さだから、たちまち境内の方へ走り去ったということもないとはいえない。しかし、それはかなり超人的なことだった。青年が塀を飛び越えて、数秒で恒夫の目はもう墓場を見ている。いくら素早くても、瞬間逃げ去る後姿を見るぐらいのことはあってもいいはずだった。かき消すようにいなくなっている。 「出て来るんだ。隠れているのは分っている」  英語でいいながら、林立する墓石に目を走らせた。動く気配はなかった。ジャンパーの胸に手を入れ、拳銃に触れる。ほぼ六年間の勤務で、一度も使ったことがない。今も無論使う気はないが、逃げる素早さが普通ではなかった。追いつめると、なにをするか分らない。おそらく体力では負けるだろう。拳銃の威嚇《いかく》が役に立つかもしれなかった。  それから、かすかな息づかいを感じた。冷気が身体を走った。近いのだ。拳銃を抜いた。飛び降りて、すぐ隠れたのだ。何故《なぜ》だろう? 少しでも遠くへ走るのが人情ではないのか? その逆手をとって、すぐ隠れる。追う者は、遠くへ走る。その隙《すき》に逃げる。もし、そう考えてのことなら、相当神経の太い男だろう。  気配はもうなかったが、いま短かく人の息を感じた方へゆっくり動いた。身をかがめ、墓石の陰から徐々に視野をひろげた。  すると墓石を二つほどへだてて、男の白いシャツがわずかに見えた。 「こっちは拳銃を持っている」  英語でいいながら恒夫は身体を起した。 「動けば撃つ」  拳銃をかまえたまま、ゆっくり男のいる墓石に近づいた。男は動かなかった。墓石の背後で、恒夫に背を向けて腰を落していた。右足をのばし、その腿《もも》を両手で掴《つか》んでいる。苦痛に耐えているのは、背中を見ても分った。 「どうした? 怪我《けが》か?」  青年は、のけぞるように恒夫を見て、耐《こ》らえていた苦痛の声をあげた。 「笠間さん!」  アパートから、佐久間の声が呼んだ。 「大丈夫だ。連行する」  恒夫は大声を出した。  その時、突然|それ《ヽヽ》がやって来た。不意打ちだった。まったく状況とは無縁の感覚だった。恒夫は小さく口をあけ、その激しさに膝《ひざ》を折りそうになるのを辛《かろ》うじてこらえた。訳が分らなかった。 「アイ・シー」と調子よくこたえる佐久間の声が遥《はる》か遠くで聞えた。一人で、その突風の中にいた。当惑する余裕もない。  青年がなにかいっていた。逃がしてくれ、といっている。いま送還されては、大金を使って日本へ来て働いた一年余りがすべて無駄《むだ》になってしまう。  それに答えるどころではなかった。手の力を失って拳銃《けんじゆう》を落してはいけない。それだけを考えた。こいつめ。とぼけているが、こいつがなにかしたのではないか。青年を見据《みす》えようとするが、焦点がうまく定まらない。周囲が静かなのは分っていた。渦中《かちゆう》にいるのは自分だけだと分っていた。  青年が礼をいっている。恒夫は拳銃をだらりと下げていた。それを青年は誤解して礼をいっている。冗談ではない。青年が足をひきずりながらはなれて行く。止るんだ。法は法だ。入国警備官が摘発に来て一人だけ見逃がす訳にはいかない。  しかし、その激しい感覚はまだ恒夫を捉《とら》えてはなさない。突風のように襲って来た|それ《ヽヽ》は、たちまち血管という血管を走る血を熱くし、恒夫の力を奪おうとしていた。なんなのだ。恒夫は屈服し、膝をついた。この淫蕩《いんとう》な感覚はなんなのだ? いきなり白い女の裸体に抱きしめられたような。いや、抱きしめられたって、三月の早朝の墓場である。仕事の緊張の中で、どうしてこんな感覚が湧《わ》くだろう。不意の嵐《あらし》だった。抵抗出来ない、激しい甘美の嵐——性欲とはもっとも遠いところにいるはずだった。少しもそのようなものを求めていなかった。突然、射精寸前の感覚が下半身を襲い、思わず腰をひき抑制しようとする全身を、圧倒的なあたたかさと甘さが走った。強引に他の意識が奪われ、恒夫は抗《あらが》った。拳銃を落すまいとした。落さなかった。それが精一杯だった。青年は逃げた。足をひきずりながら。しかし、追うことなど到底出来なかった。どうして? 奴は殴ったか? 凶器を持っていたか? 足を怪我したのは、どっちだ? 誰に説明出来る? こんな馬鹿気《ばかげ》た感覚を、誰が信用する?  両手を土についていた。犬のように。  荒い息が聞える。自分の息だった。  土が冷めたい。嵐は去っていた。ズボンが濡《ぬ》れている。奴め。なにをした? 他に原因を求めようもなく、異国の青年が立去った寺の方を見ていた。屈辱で動けなかった。殴られた方がましだった。収容すべき容疑者の前で膝をつき、色情に溺《おぼ》れたのだ。 「笠間さん!」  道路から佐久間の声が呼んだ。なんとかしなければならない。こんな失態は初めてだった。 「警備士補!」 「おう」  強がりの声をあげた。 「どちらですか?」 「ここだ」仕方がなかった。立上り、部下に身をさらしながら「足払いくらってな、逃がしちまった」と異国の青年がそうしたように、右足の腿を押えて、唇《くちびる》を噛《か》んだ。     2  庁舎に戻ると恒夫は本多警備士長に失態を申告した。  宮崎は帰りのマイクロバスの中で、申告の必要はないと、ややしつこくいっていた。「この三人が黙ってりゃあいいんだから。六人のつもりが七人収容したんじゃないですか」  しかし、そんなことで宮崎の恩を着たくなかった。  警備士長は「しゃあないな」といった。「収容した連中の違反調査で、そいつが特定出来るだろ。ひどい怪我をしなくてよかった」  恒夫のような入国警備官は全国で六百五十人ほどにすぎない。その人員が全力を集中して、年間の違反摘発は一万四、五千人である。しかし、潜在不法入国者は六万から七万と推定されている。警備官は時折無力感に襲われた。一人多く収容しようとすまいと、ほとんど大勢には影響がないのだ。しかし、この一人は恒夫には特別であった。今までこのような失態がなかったということもあるが、無論そんなことをいっているのではない。  異様な体験であった。それが、あの目の大きな、インド系の異国の青年と無縁とは思えない。一体|奴《やつ》は、なにをしたのか? 呪術《じゆじゆつ》か? そんな呪術は聞いたことがないが、ありえないともいえない。毎日、異国の人間を相手にしていると、どこの国の人間も同じ人情を持っていると胸をつかれることがある一方で、この世には見当もつかない他者がいると思い知ることも少なくなかった。  好意を侮辱ととられるというようなことは、馴《な》れれば対応出来ることである。異性の好みも国によって大きな差があり、ある国の美女が別の国では醜い部類に入ってしまうことを聞いて声をあげて驚いたこともあったが、いわれてみれば分らなくはないというものであった。しかし時折は、まったくその外国人がなにを考えているのかなにを感じているのか手がかりがないという思いに襲われることもあった。  もっとも警備官の前で被収容者たちが心を閉ざすのは当然であり、そんなことで大げさな感慨を抱くつもりはなかったが、いつの間にか底知れない他者の存在を信じているところがあった。  日本人に見当のつく世界はごく狭く、地球はむしろ日本人には分りにくい、結局のところ共感することの出来ない風習や感受性、信仰、意識のあり方のほうが多いのだという現実観が、意識の底にあった。呪術にどんな呪術があっても不思議はないという気がした。  しかしそんなものが、日本で使われはじめたら、入管の人間はたまったものではない。入管だけではない。どんな犯罪にだって結びつくだろう。そして警察官だって恒夫同様あの嵐には抵抗出来ない筈《はず》だった。あの激しい淫蕩の襲撃に抗える人間がそうそういるとは思えなかった。  午後になって恒夫は横浜支局の江本警備士補に電話をかけた。東京入国管理局は成田と横浜に支局を持っている。江本は恒夫と同期で昭和五十七年任官である。  夜、川崎あたりで逢《あ》えないか、というと「早いな。もう司会の心配か?」と早合点をした。柴田芳恵との縁談が伝わっているのである。 「そんなことじゃないんだ」 「そんなこととはなんだ。贅沢《ぜいたく》いうな。俺《おれ》にもいないかよ、誰か」  江本に話しても信じないだろう。しかし友人の中では一番柔軟のような気がした。他の連中は、まず事実そのものを受けつけないだろう。信じられないほど生真面目《きまじめ》で堅い男たちがいるのだ。恒夫だって職務には忠実だが、時には懐疑も抱くし投げ出したくなることもあった。そういう恒夫の傾向を友人たちは知っている。この話をすれば、彼等は恒夫の|たるみ《ヽヽヽ》だと思うだろう。もしくは悪い言い訳け。あるいは異常をきたしたと判断して見当ちがいの心配をしてくれるかもしれない。  見当ちがい? そうではないかもしれない。精神の異常ということもないとはいえなかった。しかし、あの襲撃は外から来た。内部の出来事というようには思えなかった。無論、異常をきたしているなら、事実とは関係なく、どのように感じることも出来るわけだけれど。 「そいつは、なんかやったのか?」と江本は聞いた。 「だから不法残留で——」 「そうじゃない。アバヘレハレホレとか」と江本は焼鳥屋のテーブルで呪《のろ》いをかけるように両手をひらつかせた。 「なにも。ただ礼をいっていた。礼をいって足をひきずって」 「溜《たま》ってたのか?」と江本は下半身を指す。 「独身だからな。しかし、まったくそんな気分じゃなかった」 「どうしたんだ?」 「どうしたって?」 「前が濡れたまま、バスに乗ったのか?」 「ズボンを土で汚して濡れたところは隠した。寺でトイレを借りてパンツは捨てた」 「水洗に流したりしないだろうな?」 「そんなことはしない。墓場の枯れた花を捨てる大きな木箱の中につっこんだ」 「その墓場だな。色情狂の無縁仏があるかもしれない」 「うむ」 「冗談だよ。真面目にうなずくなよ」 「そうだけれど、こんな馬鹿気たことの原因をさがすと、冗談みたいな理由しか浮ばないんだ」 「忘れちゃえよ」 「そうはいかない」 「お咎《とが》めなしなんだろう?」 「だからいいやってもんじゃない」 「どうして?」 「信じられないようなことだろう」 「疲れてたんだ。変に性欲が亢進《こうしん》するじゃないか」 「夜明けの墓場でか?」 「ないとはいえない」 「絶対にありえない。緊張してた。性欲が湧く訳がない」 「まあ呑《の》め。思いつめるな」  ふりかえるとあの時、確かに緊張していたが、その極にあったとはいえない。青年が怪我をしていることが分った。もう抵抗はない。連行するだけだった。緊張はむしろゆるんでいた。無抵抗の男を連行する。その圧倒的優位に快感がなかったか? ないとはいえなかった。踏みこんで違反者を連行する時、快感を意識したことがないとはいえない。しかし、今朝はそんな余裕はなかったし、大体襲って来た感覚は、その種の快感とは違っていた。かき立てられたのは、女に対する欲望だった。あの場所に女気はまったくなかった。そうか。色情狂の無縁仏か。それなら、ないとはいえない。女の墓はいくらでもあったろう。途方もないことなので、どんな理由もあり得るような気がした。 「様子を見るんだな。今度そういうことがあったら、その時は本気で考えようじゃないか」 「うむ」 「結婚しようっていう男が、墓場で無駄遣いしてどうするんだ? そんな物凄《ものすご》い快感はこっちへ回して貰《もら》いたいよ」 「うむ」  あとは勤務の話になった。人が足りない。どこの支局も出張所もハードワークだった。  物凄い快感だと? 呑気《のんき》なことをいうな。自分がそんな目に遭ってみろ。内心そう思っていたが、思い返すと確かにそれは圧倒的な快感の嵐なのであった。一度も体験したことのないほどの甘美さの銃撃だった。災厄《さいやく》というようにばかり思っていたが、求めてもすぐ得られる快感ではなかった。しかも、女なしで。  南武線の鹿島田《かしまだ》へ帰る江本と川崎駅で別れ、総武線のK駅にある官舎へ向いながら、心の奥にもう一度あの嵐を求める気持のあることを感じていた。無論、勤務中は困る。来るなら、独りの夜に来てくれ。それなら、いくらでも身をまかせよう。誰が抗うものか。  あの快美。ああ「陶酔の時よ、来い」だ。酔った頭で、朝の快感を反芻《はんすう》しかけると、閉じていた扉《とびら》がひらき、ポートランドの記憶が波のように寄せて来た。姿勢を正した。記憶に蓋《ふた》をして、扉に鍵《かぎ》をかけた。入国管理官は、私的生活でも品位を保たなければならない。明日、斉藤総務部長に、四月の大安の御都合を伺うのを忘れてはいけない。柴田家に結納《ゆいのう》を届ける日を決めなければいけなかった。     3  柴田芳恵とは見合いのあと四回交際し、結婚を決めた。申し込むと一日置いて、芳恵も同意した。彼女は二十五歳で、恒夫とは四歳の差である。身長は百六十三センチで、これは百七十五センチの恒夫とは十二センチ違うことになる。もっともヒールを履いているので、街を歩いてそれほどには思えない。色の白い小肥《こぶと》りの娘で、眉《まゆ》が少し黒くて太かった。笑うと歯茎が出るのを気にして、見合いの間、左手が口のあたりを終始ただよった。特別美しいとはいえなかったが、醜くはない。  入管職員になってから縁談はほとんどなかった。女と知り合う機会もあまりない。多忙もある。恋人が出来たが、法務省入国管理局警備官と知って逃げられたものもいた。警察官や税務署員も似たような思いをしているのだろうか、何処《どこ》が悪いんだ、俺たちは国のために働いているのだ、と自棄《やけ》酒をのむ同僚の相手をしたこともある。たしかに堅い仕事には違いないし、定時の午後五時十五分で帰るということは、まずない。大抵、八時か九時まではいるし、摘発、収容のために早朝の勤務もある。しかし、何処へ勤めても男の仕事はそんなものではないだろうか? 「ごく普通の男です」と斉藤総務部長は、見合いの席で恒夫に質問をしてみせた。 「趣味はなんだったかな?」「特にありません」「そういうことをいうな。映画ぐらい見るだろう」「三、四本は」「それだけ見りゃあ沢山だ」「年にです」「年か」「はい」「なにがはいだ。仲人《なこうど》を困らせるな、こいつ」 「レコード鑑賞って」と芳恵が口をひらいた。 「そう。いただいた履歴書にそう書いてあったわ」一緒に来た母親が、他所行《よそい》きの声でうなずいた。 「そうだったな」と斉藤は大きくうなずいた。「どんな曲が好きだ?」 「八代亜紀とか」 「レコード鑑賞というほどのもんじゃないな」  恒夫は、軽く頭を掻《か》き、みんなと一緒に笑った。八代亜紀のレコードもCDも持っていなかった。持っているのはモーツァルトのピアノ曲、ベートーヴェンの交響曲が数枚といったところである。それもよく聞くわけではない。趣味の欄に書くことがなかったので、そう書いた。以前はジャズやポピュラーを嫌《いや》というほど聞いたが、それらはポートランドの記憶と結びついてしまう。  いまは実際にどういう音楽が好きかということはどうでもよく、どういう曲を好きだと答える男でいたいかということが問題だった。モーツァルトでは嫌らしい。このごろのロックの知識はほとんどなかった。八代亜紀とこたえて芳恵がどういう反応を見せるか分らなかったが、面倒のない男には見えるのではないかという気がした。 「私は」と芳恵が口をひらいた。一緒に来た母親の方へ身体《からだ》を傾け、こっそり打ちあけるように「森進一」といった。 「そいつは気が合うなあ」と斉藤部長は大きく笑った。  二度目に二人だけで逢った時、芳恵は信用金庫に勤める人間たちの裏表の激しさを語った。 「窓口ではぶりっこしてるから、ああいう娘さんをお嫁に欲しいなんていってくるお客さまがいるけど、とんでもないの。休憩室に入ったら、あのババア、クソジジイの世界。ロビーで案内やってるパートの主婦がいるんだけど、四十代のそういう人に、二十五、六の娘が、なんのためにつっ立ってるのよ、少しは動けよって平気で怒鳴りつけるのよ。  男子行員はもうお金の額で人間を見るように調教されてるでしょう。解約に来たお客なんか平気で三十分以上も待たせるし、一億どんと預金とって来た若い行員には支店長までごますっちゃうし」  その中で芳恵はなんとか「普通」に生きようとしているというように聞えた。  三度逢い、四度目に逢うと、そろそろ返事をする時期が来たという空気が流れた。  奇妙なものだった。これからの半生を一緒に暮らす相手を、多くの人間が一、二ケ月の間に決めているということが改めて不思議な気がした。結局のところ人間は、相当いい加減な存在なのかもしれない、などと思った。  有楽町で映画を見て、日が落ちたばかりのうすら寒い日比谷公園を歩いた。人は少なかった。  平凡かもしれないが、おだやかな家庭をつくる相手としては、それほど悪い人ではないというように考えていた。 「あんまり結論を長びかせても迷惑でしょうから」というように口をきった。「ぼくの方は話を進められればと思ってるんだ。結婚できたら、と思ってる」 「私は」と芳恵はいった。「いいと思ってるけど、親とかと、ちょっと——」 「そりゃあそうだよ。相談して返事を下さい。急がない。でも、いい答えを待ってるよ」 「はい」  それから少し黙って歩くと、芳恵が身体を寄せて来た。その肩を恒夫は抱いた。桜田門に近い、人通りのない細い脇道《わきみち》で唇《くちびる》を求めると急に「アハ」というように芳恵は笑って顔を離した。その短い笑いが、ひどく蓮《はす》っ葉《ぱ》に聞えて恒夫はどきりとした。 「ごめんなさい」と芳恵はいった。その声は、もういつもの金融機関の窓口にいる声だった。「笠間さん、煙草《たばこ》をすわないでしょう。私すうもんだから、口が臭《にお》うんじゃないかと思って」 「平気だよ。ぼくも前にはすってたんだ」 「やめられるの、えらい」  それからキスをした。煙草の臭いがした。それまで芳恵が煙草をすうことに気がつかなかった。まだまだ知らないことがあるのだろう。芳恵は舌を入れて来た。  信用金庫の裏話が恒夫の頭を横切った。芳恵は傍観者のような口をきいたが、ことによると自分も「クソババア」というようなことをいっているのかもしれない。休憩室で煙草をふかし、パートの主婦を叱《しか》りつけているのかもしれない。そうだとしても特に芳恵が悪い女とか嫌な女とかいうことはないのだろうと思った。たぶん誰もが、そんなものなのだ。「平凡で、おだやか」なだけの人間などいるわけがない。生身の人間である。現代を生きているのだ。煙草をふかし、多少の男関係があり、意地の悪いところ下品なところがあったからといってなんだろう。そんなものなのだ。俺《おれ》だって、そんなもんだ。みんな、きっとそんなものなのだ。誰と一緒になろうと、そんなものなのだ。 「お父さんに、お目にかからなければいけないな」 「そうね」  歩き出すと急に芳恵の膝《ひざ》が折れてよろけた。組んでいた腕でささえると、「はずかしいわ」と芳恵は恒夫の肩に額をうずめるようにした。  そうなのか、感度いいんだ、と恒夫は思った。思わず蓮っ葉な声を出して地金を見せてしまったり、はじめてのキスで舌を入れて来たりするのは、初心《うぶ》の証拠かもしれなかった。すれっからしなら、もっと上手に「品のいい娘」を装うだろう。「いいひとなのだ」と恒夫は芳恵の肩を抱く手に力をこめた。欲望が湧《わ》いた。  それだけだった。ホテルへ誘うようなことはしなかった。誘えば多分芳恵はついて来ただろう。芳恵のもたれ方には、そういうところがあった。しかし、そんなことはしたくなかった。  ポートランドから七年もたっているのに、「正常」へ傾斜したがる気持が消せなかった。結婚までは「綺麗《きれい》」でいたかった。それは恒夫の勝手で、芳恵はそれを馬鹿気《ばかげ》た我慢と思っているかもしれないけれど。  新玉川線の用賀へ帰る芳恵を銀座四丁目の地下鉄まで送った時、改札口を入って振りかえった芳恵の顔に物足りなさがあったような気がする。いや、その時はそんなことを考えもしなかったが、思い出すと、そういう気がした。  芳恵だろうか? 芳恵のひそかな欲望が、今朝の墓場で嵐《あらし》のように恒夫を揺さぶったということはないだろうか?  深夜になっても眠れずに、六畳一間の独身寮の自室で、恒夫は灯《あか》りをつけたまま天井を見ていた。  結婚承諾の返事は、芳恵の母親から仲人の斉藤部長のところへ伝えられた。五日置いて、次の日曜日の夕刻、芳恵の家へ挨拶《あいさつ》に出掛けた。母の死後、父が再婚して三重県の津におり、すぐには上京出来ないというようなことを話した。芳恵の両親と妹と弟と一緒に夕飯を食べ、九時すぎに辞した。用賀の駅まで芳恵が送ってくれたが、まさか駅でキスは出来ないし、握手だけで別れた。すぐデートが出来ればよかったが、勤務が込んでいた。  それにしても、芳恵がそれほど欲望にかられていると考えるのは無理があった。見合いをした男に対して、そんなに強い感情を持つことはありそうになかった。  やはり自分だろうか? 抑制の多い生活だった。圧迫がすぎて無意識の領域が叫び声をあげたということだろうか?  しかし何度思い浮べても、内側からの叫びというようには感じられなかった。予期せぬ他者の襲撃というように思えた。  国道と平行した一方通行の狭い道路を二筋入った寮だったが、夜更《よふ》けには幹線を通るトラックの音がよく届いた。その音を聞いていた。  二時すぎだった。急に背筋になにかが近づくような冷気が走った。意識より身体が先にそれを察してぞくりとした。  なにかが? 何処から? 不安がこみ上げて思わず部屋に目をめぐらせたが、なにもなかった。ただ訳もなくさしせまったような思いがこみ上げて身体を起そうとした。すると呪縛《じゆばく》されたように動けない。夢だ。夢を見ているのだ。そうではなかった。夢ではなかった。はっきり目をあけている。それから、夜の彼方《かなた》から矢のような冷気が自分を狙《ねら》って見る見る近づいて来るという感覚が走った。来るぞ来るぞ来るぞ。しかし、なにが来るのかは分らない。ただ避けようもなく、なにかがせまって来るという思いだけが、とり乱してしまいそうにこみ上げて来る。矢のように思えた冷気は近づくにつれて太くなりひろがり巨大になり大波のように聳《そび》えて、恒夫をめがけて砕けて来るように思えた。波が崩れる。崩れて来る。なんなのだ。抗《あらが》いようもなかった。砕ける。砕けてくると思う間もなく恒夫は波に呑《の》まれ翻弄《ほんろう》され声もあげられず、掴《つか》む物を求めて激しく|※[#「手へん+宛」]《もが》いた。  ※[#「手へん+宛」]きながら分っていた。身体はただベッドに静かに寝たままでいることを。小さな部屋はなにものにも襲われず、塵《ちり》ひとつ動かず、灯りは一つぽつりと天井に灯《とも》り、何事も起っていないことを。  どうかしてしまった。しかし、どうかしてしまったことを自分は分っている。醒《さ》めている。自分は醒めているから大丈夫だと思いながら波浪の中にいた。ひきずりこまれまいとした。目を大きく開き、口を開き、意識を維持しようとした。  それから急速に波は過ぎて行った。  来た時と同じに見る見る遠くなって行く。すべては架空の感覚だ。現実にはなにも起っていないのだから。  もう大丈夫だ。切り抜けた。波は遠くなって行く。大きく目をあけて天井を見ているのに、闇《やみ》の空に波がひいて行くのが見えるような気がした。白い大きな布が巻きとられて行くように、見る見る遠ざかって行く。  すると、その波を哀惜《あいせき》するような気持がこみ上げて来ていた。なぜ惜しむのか? 自分を翻弄した波をなぜ惜しむのか?  意識をはっきりさせようと、ほとんど声にしてそんな感情に抗おうとした。  波ではなかった。惜しんでいるのは波ではない。そう感じた。しかし、なにに対する感情なのかは分らなかった。ただ悲哀のようなものがひたひたと胸を満たしてきた。  すると、その悲哀の底から、激しい欠落感が声をあげて|※[#「手へん+宛」]《もが》くようにのぼって来る。とりかえしのつかない思いが刺すように走る。  訳も分らず目に涙が溢《あふ》れて来る。気がつくと嗚咽《おえつ》をあげていた。  自分の悲哀ではない、と思った。こんなに深くて濃い悲しみは自分のものではない。このように悲しむべき時があったが、それにふさわしく自分は悲しまなかった。  ああ、ああ、ああ、ああ、と恒夫は泣いた。  それからその悲哀は恒夫を見捨てるように遠ざかって行く。待ってくれ。一体なんなのだ? 朝の奴《やつ》だな。俺になにをしようというのだ? 待て。こんなことは許せない。人の内部に入り込んでひきずり回すような呪術は許せない。  天井を見ているという自覚がありながら、同時に遠い暗い空を見ていた。深い悲哀が、空に大きく衣を翻《ひるがえ》して遠ざかって行く。小さくなって行く。闇に消えた。  その闇を見ていると、遠い雲の中で音もなく稲妻が息でもつくように鈍く光った。 「ダレ、ナノ?」  なんだと? 稲妻の光ったあたりから、声が聞えた。片言だった。遠い声だった。しかし、恒夫に向って呼びかけているというように聞えた。囁《ささや》くような声だった。そんな馬鹿な話はない。あんな遠くの囁くような声が聞えるわけがない。  聞えたというのは正確ではないかもしれない。感じたのかもしれない。 「ダレ、ナノ?」  どんな声だったかと耳に蘇《よみが》えらせようとすると、俄《にわ》かにとりとめなく、どのような声でもあるように思えた。子供の声、少女の声、女の声。 「ダレ、ナノ?」  その意味だけが恒夫の心に残った。  どういうことだ? 誰なの? 俺が誰だというのか? 冗談じゃない。それはこっちが聞きたいよ。自分の方からやって来て、誰なの、もないもんだ。  しかし敵意のようなものは湧かなかった。過ぎ去った悲哀が深かったので、その悲哀が声の主のものなら、敵意を向けるのは残酷のような気がした。  待てよ、待て待て。朝の淫蕩《いんとう》な嵐はどうなのだ? あれも今の声の主のものではないのか? だとしたら、とんでもない悪魔だ。「ダレ、ナノ?」知るものか。悪魔に答えるほど人はよくない。  悪魔だと? なにをいっている。冷静にならなければいけない。巻き込まれてはいけない。朝の体験も夜のそれも、結局のところ外部の現実とは関係がないのだ。幻覚に本気になってはいけない。たぶん、神経科へ行くべきことなのだ。  どうかしてしまった。それを認めなければいけない。強そうなことをいってて、結局まいってしまったのだ。しかし、あまりまいっているような気がしなかった。病気のような気もしなかった。神経症は、そういうものなのかもしれないが、やはり朝の嵐も夜の波浪も、外からやって来たように思えた。     4 「朝の話は、すごいね」と四十代の精神科医は、注意深く表情を殺して口をひらいた。「めずらしい体験だな」 「はい」 「夜のほうはね、分るんだ。はっきりした理由がなくて悲しくなるっていうのは、鬱《うつ》病の人にはよくある症状でね。薬もいいのがある」 「はい」 「自分ではどう思っている? どうしてそんな幻覚を見たのかって」 「疲れているのかなって」 「たとえばこういうことはないかな? あなたはそのバングラデシュの青年に逃げられてしまった。それを自分でも認めるのが嫌《いや》で、そういう物語をつくった」 「絶対にそんなことはありません」 「失礼。怒らせるのもテクニックでね。それをきっかけに、しゃべり出す人もいるんだ」 「しゃべっているつもりですが」 「高校を卒業して大学受験に二度失敗した」 「はい」 「二年目の冬に、アメリカへ渡った」 「はい」 「西海岸で二年すごして帰国して高卒の公務員試験を受けた」 「ええ」 「アメリカの話を避けたような気がしたな」 「そうでしょうか。昔のことなんで、関係ない気がして」  目を伏せた。話してしまうのもいいような気がした。すると医者は壁の時計をさり気なく見上げた。 「軽い抗鬱剤をあげましょう。それで充分だと思うけど、希望があれば、うちと連携している分析の先生を紹介しますよ。週一回そこへ行って分析を受けて、その結果で治療が必要なら私どもで治療を考える。どうですか? それで」  紹介もなしに来た患者にしては丁寧に対応してくれたというべきかもしれなかった。待合室は込んでいた。礼をいって薬を貰《もら》って庁舎へ帰った。練馬区の工場の聞き込みに手間どったということにした。人に話さずに病院へ行くには他に方法がなかった。  そのまま庁舎で仕事を片付けていると、夜八時すぎに芳恵から電話があった。苗字《みようじ》の「柴田です」といわず、はじめて「芳恵です」といった。 「斉藤さんから、二十九日の祭日に結納《ゆいのう》ということ聞きました」 「他の日、部長があいてなくてね」 「まだ仕事?」  上目づかいに聞くような声になった。 「そう。どうしても、こんな時間になって」 「覚悟しなくちゃ。結婚しても毎晩遅いんだって」 「こればっかりは、そう変らないな」 「いいの。私も勤めを続けるし、こっちの方が遅いこともあるかもしれないから」 「電話します」 「え?」 「その——今じゃなくて」 「あ。ひやかされるんだ?」 「そう」  可笑《おか》しそうに芳恵は笑った。「じゃ、切る」とくすくす笑っている。 「はい——では」 「うわ。すごいぶっきらぼう」 「すみません」 「土日のどっちかで逢《あ》えないかって思ってまアす」 「はい」 「やっぱり随分周りを意識するのねえ」 「そういうわけでもないんだけど」  電話が切れると、思いがけなく甘い気分が残っていた。はじめて芳恵に娘らしさのようなものを感じていた。  これまでは逢っていても二人ともどこかで値踏みをしているようなところがあった。緊張もあった。話を決めてからの用賀の駅でも、まだどこかぎこちなかったが、いまの電話は婚約者と話す娘の甘さと幸福感のようなものがあった。俺《おれ》の方はまだなんだか結婚に現実感が湧《わ》かないけれど、向うは素早いなあ。どんどんその気になっているんだなあ。そういうもんなんだなあ。  不意に微笑が浮びそうになって、恒夫は眉《まゆ》を寄せ小さく咳《せき》をした。  はじめて逢って一ケ月ぐらいで、一人の女がこれからの人生を自分と共にする気になっているということが不思議な気がした。  しかし、そういう人を得たことをはじめておだやかに喜んでいる自分に気づいた。動機はどうあれ、この人生を選んだのだ。選んだ人生に喜びを見つけなくてどうするのだ、と思った。もうあんな幻覚は見ない。抗鬱剤なんて、とんでもない。はじめから精神の弱りというようには思えなかったのだ。精神科へ行ったのが間違いだった。なぜ幻覚を見たのかは分らないが、少なくとも俺の精神のせいではない。たぶんやはりあの青年のせっぱつまった呪術だったのだ。しかし、そうなら、逃げおおせた夜にまで、どうして俺に幻覚を見せる必要がある? 嫌がらせか? そんな余裕があの青年にあるだろうか? 「ダレ、ナノ?」  もういい。忘れよう。あんな声は、忘れてしまえばいい。 「ダレ、ナノ?」  忘れるんだ。なにを、こだわっている。 「アナタハ、ダレ、ナノ?」  ぞくりとして報告書を書く手を止めていた。周囲にまだ四、五人が残っている。  ひとり女性の警備官もいたが、彼女でないことは分っていた。正確にいえば、声を聞いたのではないのだから。言葉を感じたのだ。すると言葉がくりかえした。 「アナタハ、ダレ、ナノ?」  よしてくれ。何故《なぜ》俺に話しかける? そっちこそ誰なんだ? 結婚を前にしてるんだ。幻聴みたいなものにかかずらわっている暇はない。行っちまえ。行くんだ。  声に出していうわけにはいかなかった。目立たないようにかぶりを振り、強引に報告書に集中した。それきり、声はなかった。     5  二日後、庁舎に横浜入管支局の江本から電話があった。 「あのあと、なにかあったか?」 「特にない」 「なんだ? 特にって」  仕事場で話すことではなかった。 「ないよ」 「じゃあ、その男だな。呪文《じゆもん》でも唱えたんだろう。まったく外国の人間は、どういう力を持ってるか見当がつかない。インドには宙に浮ぶ連中もいるんだろ? 奴《やつ》らを受入れるっていうのは、そういうことも受入れるってことなんだ。底知れない全然ちがう生活を受入れるってことなんだ。その覚悟が出来てるかっていうんだ」 「なにをいってる?」 「いつもの奴らさ。収容所の前で俺たちを鬼みたいにいいやがる。どうして捕まえて追い返すような残酷な事が出来るんですか、と来た」 「相手にするな」 「してないさ」  摘発される外国人が抵抗したり策を弄《ろう》したり力を持っていたら、どんなに気持が楽だろうと思うことはよくあった。無抵抗で勤勉で日本にいてもほとんど最低の生活をしている連中を収容することが多いのだ。なんの感情も湧かないわけがない。いつも感情は抑圧していた。入国の門扉《もんぴ》を無制限に開いたらひどいだろう。最初に言葉を失うのはおそらく浅薄なヒューマニストなのだ。そのくらいのことは恒夫も考えていた。使命感もなくはなかった。しかし、この仕事を愛しているというわけにはいかない。六年前、外国人と一番はなれていたかった時期に、この仕事を得たのだった。高卒の国家公務員の試験で、英語のあるのはこれだけだった。避けられないもののように、この仕事についた。なにものかが、そう命じているような気がした。自分を痛めつけたかった。 「逃げた男は、どうした?」と江本がきいた。 「みんな口が固くてな。名前も分らない」 「収容したら逢いたいな」 「どうして?」 「弟子をとるか聞きたいんだ」  笑って電話を切った。  このまま何事もないなら、忘れてしまえばいいことだった。青年の呪術か、無縁仏のいたずらか、恒夫の気の弱りかに結論を出すこともなかった。はっきりしないと気持は悪いが、こだわっているとろくなことはないとも感じた。「アナタハ、ダレナノ?」そんな問いに、うっかり答えると、向うの世界に巻きこまれそうな気がした。  向うの世界? 向うの世界って、なんだよ?  夕刻、内査をしていた警備士の指揮で、新宿区大久保のマンションに三人で踏み込んだ。令状通り、フィリピンからの女性五人を大手町庁舎に収容した。四十八時間以内に調書をつくり、証拠物と一緒に容疑者を入国審査官に引き渡さなければならない。  審査し退去強制令書を発付するのは彼等であり、上級職員である。審査官になることは、警備官の目標の一つであった。ついでにいえば、審査官によって令書が出ると、横浜入国者収容所へ彼女たちを護送しなければならない。  もっともその日は調書をとるだけで十二時をすぎた。帰るのをやめて、仮眠室に入ったのが一時であった。  寮の一人の部屋で寝ることに、ひそかに怖《おそ》れがあった。前日もその前日も、また幻覚に襲われるのではないかという身構えを振り払えなくて、眠りが浅かった。疲れていた。今日は三人ほどが寝ているこの部屋で一気に眠ってしまおうと、カップの日本酒をのんで横になった。それでも、どこかで構えている。来るなら来てみろ。今度はそう簡単に翻弄されないぞ、といつの間にか耳をすましていた。眠ったのが何時か、分らない。なにも起らなかった。  朝の勤務に入ると、恒夫は軽い失望を感じていた。三日間なにもなかったことに、物足りなさを抱いているのである。またあの嵐《あらし》や波や囁《ささや》きを待つ気持があった。振りかえれば、幻覚はたしかに恍惚《こうこつ》の時間ともいえるのだった。抗《あらが》いようのない屈服、翻弄には、恐怖や屈辱の思いと共に、一種の魅力があった。恒夫の日常からは得られぬものであった。 「アナタハ、ダレナノ?」  あれは内心の声などではなかった。誰かが話しかけて来たというのが、その時の感じに一番近いのである。やはり、向うから話しかけて来たのに、話しかけながら相手が誰だか分らない、ということなのではないだろうか?  また巻き込まれている、と恒夫は苦笑した。  しかし昨日とは違い、巻きこまれていることから、すぐ離れようとはせずにいた。あの朝の墓場の圧倒的快感にまさる性的快感を体験したことがなかった。巨大な波に翻弄され、手足をまるで人形のようにふり回されたことにも、一種のやすらぎを感じていた。 「アナタハ、ダレナノ?」  こいつは簡単にこたえられない。向うが恒夫を誰だか知らないということは、恒夫にとって有利なカードのはずであった。あれほどの幻覚を起す力を持った相手である。それ以上のカードを手渡すべきではなかった。二十九歳の平凡な男だよ。それ以上のことはいえないね。 「ニジュウキュウサイノ?」 「ああ、二十九歳の、独り者さ」 「ステキ。私タチ、話ヲシテイル」  大きな音をたてて調書のバインダーを閉じたので、何人かが顔を上げた。その視線をはねつけるように「佐久間」と恒夫は大声を出した。「ちょっと力貸してくれ。田端の日本語学校の職員からの通報を受けたの、お前だよな」  いいながら廊下に向っていた。 「はい。でもあれ、腹いせにたれ込んだのミエミエで」 「ミエミエで結構」と廊下を階段に向った。「動機なんかどうだっていいんだ」 「時間かかりますか?」  時間などかからなかった。佐久間に用はなかった。動揺を抑えたのだ。  話をしていた。あの声とまた話をしていたのだ。 「ステキ。私タチ、話ヲシテイル」 「いいよ」と階段の途中で恒夫は急に停《とま》った。「オッケーだ。一人でやるよ」と振りかえると、 「やりますよ。なんですか?」と佐久間は階段を降りかけていた。 「いいんだ。一人でやる。サンキュー」と二階へ降りた。 「気分こわしたんですか?」  佐久間の困ったような声が追って来た。 「一人でやるからいいんだ」 「すねないで下さい」  止らずに一階へ降り、エレヴェーターを待つ外国人たちの脇《わき》を通って表へ出た。二階に入管の外国人在留管理のカウンターがある。在留期間の更新、在留資格の変更などの申請に来る外国人で庁舎の一、二階はいつもひどい込み方だった。長椅子《ながいす》など忽《たちま》ち一杯になり人々は廊下に溢《あふ》れていた。  わざとそうしているという説もあった。気分のいいカウンターにすると申請者が増えてしまうからというのだが、それは少し「せこすぎる」方法だった。対日感情をよくしたいなら、人員を増やし、カウンターをひろげるべきである。日本の何処《どこ》が金持なのだ、と混雑を見るたびに思った。あのカウンターへ申請に来る大半の外国人は、日本に悪感情を持つだろう。無理にそのように考えながら、ビルの街を歩いた。     6 「コンバンハ」と女がいった。  部屋には誰もいない。恒夫はいま帰ったところで、ドアを入り、部屋の灯《あか》りをつけ、靴《くつ》を脱がずに閉めたドアに寄りかかっていた。十時半をすぎていた。  頭の中で、女の声がいった。 「コンバンハ」  こたえたものかどうか、ためらっていた。  帰り道でそう思っていたのだ。部屋で一人になると、また女が声をかけて来るのではないか、と。その予感は、寮が近づくにつれて次第にふくらんで、予感通りに頭の中に女の声を聞くと、それは本当に女の声なのか、恒夫が予感するあまりに産み出した偽《にせ》の声なのか、よく分らなかった。 「トドイテイルノデショウ?」と女がいった。「私ノ声、トドイテイルノデショウ?」 「ああ」とためすように恒夫は声を出した。 「コンバンハ」と女の声がはずんだ。  そのように恒夫が願ったから、そのような声が聞えて来たというだけのことではないのだろうか? 結納《ゆいのう》を交そうとしている女性がいるのだ。そんな時、どうして別の女の声を求めるのだろう? 軽くそんな欲求が湧《わ》くことはあるかもしれないが、こんな風になまなましく聞えて来るほど切実な欲求として別の女の声を求めているわけがないではないか。 「聞きたいことがある」と恒夫は誰もいない部屋に向って小さく口をひらいた。 「ハイ」と女がこたえた。 「本当に君はいるのか? それとも、ぼくの幻想の産物か?」 「本当ニイマス」  という返事も、恒夫の幻想が産み出すことは可能だった。 「証明出来るかな?」 「待ッテ」  恒夫は動かなかった。なるべく頭を空《から》にしようとした。「待ッテ」といって自分で返事を考えたのではなんにもならない。あきらかに自分以外の人間が考えた証明方法でなければならない。 「コチラムケ」と女の声がいった。  ぞくりとした。 「どこ?」  いるのか? この部屋にいるのか? 「どこにいる?」 「チガイマス。ハイク」と女がいった。 「はいく?」 「ハイク」 「俳句?」 「コノ俳句、知ッテイマスカ? コチラムケ」 「知らない」  俳句などまるで知らなかった。 「私モ。コノ句ダケ、オボエテイルノ。時々、口ニスルノ」 「こちら向け?」 「ソウ。ソノアトヲツヅケテミテ」 「見当もつかない」 「芭蕉《バシヨウ》ナノ」 「誰だろうと分らない」 「下《シモ》ノ句ヲイエル私ハ、アナタデハナイ」  その通りだった。 「いってみてくれ」 「ワレモサビシキ」 「それから?」 「思イ出シマセンカ?」 「はじめから知らない」 「アキノクレ」 「こちら向け——」 「ハイ」 「我もさびしき秋の暮」 「ハイ」 「はじめて聞いた」 「モウダメ」 「なにが?」 「疲レルノ——トテモ、コレ」  急に周囲の空気から緊張がことんと消えた。現実だけが残った。そういう気がした。  恒夫はゆっくり靴を脱ぎ、部屋に上り、膝《ひざ》をつき、尻《しり》を落した。 「こちら向け我もさびしき秋の暮」  聞いたことのない俳句だった。確かに、そう思えた。いることになる。女がいることになる。ひとりの女と話をした。奇妙なやり方で。  気がつくと、とても疲れていた。よく働いたので、仕事のせいかもしれない。女との会話のせいかもしれない。両方かもしれない。  灯りも消さずに、そのまま倒れて眠っていた。朝になって、それに気づいた。     7  人は愛がなくても結婚出来る。見合い結婚はその証明のようなものだから、恒夫が芳恵を愛しているかどうかを気にするのはおかしかった。そんなことを問いただせば、愛していないに決っていた。  はじめて逢《あ》って一ケ月余りで、心の領域でも愛し合ってしまう男女もいないわけではないだろうが、見合い結婚の多くは、そういう現実には目をつぶるか、急いで愛していると錯覚してしまうかで、きりぬけるものなのだろう。  結納《ゆいのう》の前に、一緒に婚約指輪を選ぶという用事があった。日曜の午後、渋谷の喫茶店で待合せた。その店で恒夫は予算を口にした。  結婚指輪と両方で三十万のつもりだけれど、長く持つものだから十万ぐらいのオーバーは喜んで覚悟しているといった。 「そんなに出して貰《もら》っては悪いわ」と芳恵は思いがけないほど、すまなそうな顔になった。 「これでも二十九だから、そのくらいのことは出来るから」と恒夫はそんな芳恵に好意を抱いた。  しかし芳恵がすまなそうにしたのは、そのあときり出すことのためだった。 「いいにくいわ」と芳恵は目を伏せて笑った。 「なに?」 「私もォ」と芳恵はいつもより「も」に力を入れるいい方になり「高校出てからァ、信用金庫だからァ」と今度は「ら」に力を入れた。 「なんでもいってよ」と恒夫は微笑した。  家には月々三万入れるだけだったので、貯金が多少ある。婚約指輪は一生の記念だから、自分の二十万を足して予算五十万で選んではいけないか、というのであった。「怒られたら仕方ないけど」 「怒らないさ。じゃあ君のお金を足して、婚約指輪だけで五十万の予算にしよう。覚悟していたオーバー分十万円で、結婚指輪を買う。それで、どうかな?」 「うん」  甘えたように、うなずいた。愛情で結ばれるわけではないのだから、指輪などどうでもいいというわけにはいかないのだろう。そういうところで金をかけ、少しずつ結婚を重いものにして行きたいという気持は分るように思った。  彼女の勤める信用金庫は三軒茶屋にあり、取引先の宝石店だと二割引いてくれるという。新玉川線でその店まで行った。プラチナに〇・八カラットのダイヤのついた指輪を買った。結婚指輪もプラチナということになるが、それは改めて、ということにした。 「どんどん用事を片付けるみたいなの嫌《いや》だから」と芳恵は店の主人に笑っていった。  どこか恒夫の態度に「どんどん用事を」すまして行くようなものを感じたのだろうか、と背を向けて聞いていた。  しかし多忙な勤務の間に結婚の準備をすすめて行くのである。どうしても「用事を片付ける」というようなせわしなさはつきまとうだろう。結局は手続きなのだから、あまり甘さを求めないで貰いたいと思ったが、芳恵の気持だってよく分るのである。  また渋谷へ戻るために地下駅のホームに立った。 「フランス料理と、和食の店と、一軒ずつ本を見て見当をつけてあるんだ。どっちがいい?」 「凄《すご》いの買って貰ったから、私がおごる」 「いいんだ。五分の二は君が出したんだし」 「それは忘れて。父たちにもいわないでね」 「五十万出せれば、よかったのだけれど」 「ううん。そっちの予算がいくらでも、私の二十万を足して貰うつもりだったの。二十万だけ見栄《みえ》をはるの」 「へえ」  あけすけな感じもしたけれど、そんな自分に苦笑しているところもあるので、不快ではなかった。「割り切ってるなあ」と思った。ちゃんと二割引きの店をさがして、見栄をはるところははって、まだ愛するとかいうわけにはいかない男との結婚を着々と準備している芳恵を急にとても哀《かな》しいというように感じた。俺《おれ》だって同じだけれど。  和食の店に入り、隅《すみ》のテーブルで本がすすめていた瀬戸内コースという定食をとった。  日本酒をのんだ。結構芳恵は強くて、二人で四本のんでも少し声が大きくなるくらいのことだった。  また信用金庫の人々の話をした。客に渡す景品でパートの主婦を口説こうとしている四十代の支店長代理の話などなかなか面白かった。人をよく見ていた。面倒のないしっかりした女房になるだろうと思った。 「合うかもしれないわねえ」と芳恵もいい出した。「私がおしゃべりで、そちらは無口で」 「そうだね」  なにしろ知らない同士が一緒に暮しはじめるのだから、思いがけないことも沢山出てくるだろうが、変に夢見がちな女よりはいいと思った。 「なにか話して」と芳恵はそつなく酌《しやく》をした。 「この頃《ごろ》あったことやなんか」 「この頃あったことね」 「そう。この頃あったこと」  それはなによりあの嵐《あらし》であり波であり声であったが、そんな話を芳恵は受けつけないだろう。恒夫を不気味に思うだけだろう。芳恵のよさはそういう「バカバカしい話」は頭から信じないところにあるような気がした。 「このごろ時々ね」 「うん」 「どこかから声が聞えるんだ」 「声って?」 「こんばんはって。誰もいないのに、こんばんはっていう声が聞える」 「どこで?」 「あちこちで。こんばんはって」 「酔ってる?」 「ああ、急に酔うんだ。急に足をとられたり」 「なんなのかと思った」  笑ってそれだけにした。本気で話しても信じないだろう。それは、芳恵に限らない。こんな話は誰だって信じない。人に話したい気持はあるが、受けとめてくれる人は少ないだろう。芳恵と結婚しても、こんな話は出来ない。ポートランドの話と一緒に闇《やみ》に沈めておく他はないだろう。 「こんばんは」  十一時すぎに寮へ戻って、冗談のように恒夫は自分の部屋に向ってそういった。「こんばんは」  ベッドに倒れ込み、小さく笑い声を上げた。誰もいないこの部屋で女と話したといったら、ほとんど信用をなくすね。こいつは余儀なく秘密にしなければならない。 「それにしてもどうして俺なんかを選んだんだ? 俺にはありそうもないことを好きになる趣味なんかないし、特別面白いところがある男でもない」 「ドンナ人?」 「誰が?」 「アナタ——」  恒夫は黙った。気がつくと、また声の女と話している。「驚いたね」深く息をついた。「俺がどんな男か、だって? そっちが声をかけて来たんだ。分ってるだろう?」 「私ハタダ願ッタノ。誰カト、コウシテ話ガ出来タラッテ」 「じゃあ俺を選んだのは誰なんだ?」 「タブン、アナタダケガ、私ノ願イニコタエテクレタノ」 「俺はなんにも答えたりしないし、あんたがそんな信号を出していることを知らなかったし、ただ不意打ちをくらって、ひどい目にあったんだ。そうだった。確認したいね。墓場もあんたの仕業か? あんたのやったことか?」 「墓場ッテ?」 「墓場におぼえはない?」 「私ハナニモワカラナイ。アナタガイマドコニイルカモ、ドンナ顔カモドンナ姿カモ分ラナイ。タダコウシテ話ヲシテイルコトニ驚イテイルノ」 「どういったらいいか。はじめは、とてもエロティックだった」 「エ?」 「思い当らないかな? エロティック——男と女の、つまり」  ふっと空気が変った。緊張が消えた。自分をとり巻いている空気から、薄い被膜が一枚だけするりと抜け落ちたような、微妙だがあきらかな変化。 「逃げた」  逃げたな。酔っている恒夫はくすくす笑った。あんたなのか? 墓場もあんたなんだ。 「いいじゃないですか」といってみた。「ああいうの結構じゃないですか。もう一回、頼みますよ」  しかし、もう答えはなかった。 「お体裁屋なんだ。都合が悪いと、黙っちゃうタイプなんだ」  そんなことをいいながら、眠りに落ちた。  ところが翌朝、太田警守と二人で足立区扇の印刷工場の内査に出掛けながら、昨夜の声を思い出すと、どんな声だったのか不思議なくらい掴《つか》めなかった。  あれほど話していたのに、高い声だったと思えばそのようにも思え、太い低い声だったと思えばそのようにも思えた。そんなことは普通はあり得ない。誰かと話せば、その声の質は耳に残っているはずだった。結局のところ、しゃべっていなかったのだ。しゃべっていないということはない。確かにしゃべっていたが、なにか電波のようなものが意味だけを届けて来たのだ。いや、意味だけともいえなかった。  言葉のひとつひとつが、しぼるようにゆっくり発音される独特のテンポが一種の甘さとして心に残っていた。  別に現実離れをした言葉を使っているわけではないのだが、他では聞けない、ひそやかな味があった。それに比べると芳恵の声は、なまなましく現実的で、乱暴にさえ感じられた。幼児のたどたどしい無力な訴えに耳をすましている時、突然横あいから中学生ぐらいの女の子の声がなめらかに割り込んで来たら、それはとても荒々しく聞えてしまうだろう。芳恵が特にどうだというのではない。あの声が独特なのだ。決してたどたどしいというようなことはないのだけれど、一語一語を発する集中度が違うような気がした。当然だろう。どこにいるのか知らないが、おそらく物理的にはとても声の届くはずのない距離を、一語一語放射して来るのだから。 「寝不足ですか?」  無口な太田が、たまりかねたように口をひらいた。 「怒るなよ。考えていたんだ。質問はなんだ?」 「質問なんかしてません。水溜《みずたま》りがあったんです」 「あらま。濡《ぬ》らしちゃったな」  左の靴《くつ》が濡れていた。 「今頃気がついたんですか?」  気を許すと、すいこまれるように夜の声に心を奪われていた。 「私ハナニモワカラナイ。アナタガドコニイルカモドンナ顔カモドンナ姿カモ」  面白い。凄い。誰かがひそかに心をこめて思いを放射して、それが届いてしまったという訳だ。しかし、どうして俺に届いたのだ? こっちが同じ思いというなら分る。こっちはそんなことは思ってもいなかった。思っても? それはどうか分らない。本当は心をひらける相手を求めていたということはないだろうか? よく分らない。思いを抑制する癖がついてしまった。急に深層の心理などをさぐっても、自分でも分らない。  分らないことはないだろう。少し耳をすませばいい。本当は求めていたのだ。お前は気持に蓋《ふた》をして職業につき、気持によく聞かずに結婚の相手を決めた。そいつは心をなめている所業だといえなくもない。抑制すれば大抵のことはきり抜けられると思っている。 「うん?」と恒夫は太田を見た。 「周りで聞き込みしますか?」 「そいつは近所のつき合いをこわすからな。まずは観察をしようや」  パキスタン人を「相当数使っている」と同業者らしい男から電話のあった工場の内査にとりかかった。荒川の土手に上った。春らしいあたたかな朝だった。     8 「アナタハナニヲシテイル人?」と女がきいた。 「君のほうは?」と恒夫がきき返した。 「私ハイエナイ」 「どうして?」 「謎《ナゾ》ノ女デイタイカラ」 「こっちも同じだ」 「トッテモ疲レルトイッタデショウ?」 「ああ」 「ソチラカラモ助ケテ」 「どうしたらいい?」 「私ト話シタイト思ッテ」 「思っているつもりだけど」 「モット」 「やってみよう」 「アア、イイワ。楽ニナル。肩ノ力ガ取レテイクワ」 「ひとつだけ聞きたい」 「ドウゾ」 「年はいくつ?」 「フフフフ」 「誰だか分らない同士だ。いいでしょう」 「十八」 「嘘《うそ》だな」 「二十一」 「年が分らないと、しゃべりにくい」 「二十六」 「それなら分らなくもない」 「二十六デス」 「いいでしょう」 「ドウゾ」 「どうぞ?」 「話ヲシテ下サイ」 「そちらからの方がいい。話がしたかったんでしょう?」  返事がなかった。耳をすました。 「もしもし」 「ハイ」 「まるで電話だな」 「ソウネ」 「回線の故障かと思った」 「困ル」 「なにが?」 「謎ノ女デイヨウトスルト、ナニヲ話セルノカ」 「じゃあとりやめて、知らない男に洗いざらい話すことにしたら?」 「アライザライ」 「ああ」 「ホントネ」 「こんなつき合いは、めったにない。利用したりはしない」 「利用?」 「つまり、聞いたことを種に、あなたをゆすったりはしない」 「ソンナコト思ッテモイナカッタ」 「それなら結構」 「海ガ綺麗《キレイ》」  思いがけないことを女がいった。 「海?」 「ソウ。海。遠クマデ一艘《イツソウ》ノボートモナイ。コンナ夜明ケノ海ガ大好キ」 「夜明けの?」 「波ノ音モ好キ。夜ノ波ハ、ナニカノ音ヲ波音ガ消シテイルノデハナイカト息ヲ殺シテシマウ。誰カガ階段ヲ上ッテクル音ヲ、ドアヲ開ケル音ヲ、波ノ音ガ消シテイルノデハナイカト、不安ガコミアゲテクルケレド、コノ夜明ケノ波ノ音ハ好キ」 「でも、いまは夜明けではない」 「ソウネ。スッカリ朝ネ」  恒夫は動かなかった。  ベッドに仰向けになったまま、閉じていた目をゆっくりあけた。 「モシモシ」と女がいった。  大きな掌《てのひら》が恒夫の胃を鷲掴《わしづか》みにして、じわりと締め上げて行く。 「モシモシ」  時計を見なくても、あきらかだった。いまは夜中の十一時をすぎたばかりだ。夜明けなわけがない。朝なわけがなかった。 「何処《どこ》にいる?」 「何処ダト思ウ?」 「分ってるさ。勿論《もちろん》、分ってる」 「モチロン?」 「あんたは女じゃない。はじめから、なにか変だと思っていた。生身の女の匂《にお》いがない。手の込んだ脅し方をしてくれるじゃないか。時差か。時差でヒントを与えてくれたってわけか。楽しんでるじゃないか、エリック。そうとも、あんたはエリックだ。人の頭に入りこんで、今更なにをしようというんだ? 出てってくれ。あれは俺《おれ》のせいではない。あんたと奴等《やつら》の行き違いだ。俺がなにもしなかったとはいわない。しかし、仕向けたのは、あんただ。追いつめたのは、あんただろうが」  音がしていた。分っている。ノックの音だ。怒った叩《たた》き方だ。誰かが気にしている。たぶん隣の農林水産省だろう。国家公務員の官舎なので、いろんな連中がいるのだ。 「笠間さん」  やはり隣の男だった。 「はい」  出来るだけ普通の声を出そうとした。 「どうかしました?」 「なんでもないんです」 「ほんとに?」 「すいませんでした」 「誰かいるんですか?」  しつこい男だ。「いませんよ、誰も」と殊更《ことさら》明るい声を出して、ドアへ走り、いきなり大きくあけた。隣の三十四歳は、そのドアをよけようとしてよろけながら悲鳴のような笑い声をあげた。 「ちょっと朗読の稽古《けいこ》をしていて、熱が入って」 「顔が青いですよ」  余計なお世話だった。 「ひどい汗だ」 「熱が入っていたもんで、すみません。静かにします」 「いいけど——」  いいなら行けよ、と風を立ててドアを閉めた。  七年もたって、俺はなにを気にしてるんだ。まったく深層心理なんてものは手に負えない。こんな形でエリックが顔を出すとは思いもかけない。  エリック・ラーボ。変な苗字《みようじ》だった。ROOB。ミシガン湖のあたりで生れたといっていた。とっくに死んでいる。しかし亡霊なら、もっと早く出て来るはずだった。今になって現われたとすると、これは自分の心の問題と思うべきなのだろう。それにしても、あのエリックを女の声にして登場させるとは、俺の無意識も随分手がこんだものだ。時差を持ち出すなんて——。たしかにポートランドは、いま朝だった。心の底で、いまだにポートランドは何時だとか考えていたのだろうか? そんなことは思いもよらなかった。自分の中に、それほど複雑な屈折があるとは、思ってもいなかった。  また眠れなかった。眠りかかると深層を目覚めさせてしまうような不安がちらついた。突然死んだように眠れればいいのだが、そんなことは出来そうもない。  三時すぎ急になにかが忍び寄る気配を感じた。ぎくりとして全身に汗がふき出し、夢か? と素早く判断しようとして身体《からだ》を起しかけると動けない。「金縛りというやつだ」といおうとしたが声も奪われていた。冷静になろうと目を大きくあけた。 「聞イテ下サイ」  耳元であの声がした。 「エリック」  叫び声をあげたが、声にならない。 「エリックッテ誰?」 「消えちまえ」 「私ハエリックデハナイ」 「いいから消えてくれ」  声は出ないが、女に届いていることは分った。女ではない。女を装ったエリック。 「嘘ヲツイタノ。私ハ東京ニイマス。思イツキナノ。秘密メカシタカッタノ。夜中ナノニ朝ダトイッタラ驚クダローッテ、嘘ヲツイタノ。驚イタノハ私。アンナコトニナルナンテ思ッテモイナカッタ」 「咄嗟《とつさ》に時差だなんて思いつくはずがない」 「思イツクノ。フレズノニ叔父《オジ》ガイテ、手紙ヲクレルノ。日本ノ時間ニ七時間足シテ、昼ト夜ヲヒックリカエスト、カリフォルニアノ時間ニナルッテ知ッテルノ。時々、今アメリカハ何時カナナンテ思ッテイタノ」 「なんとでもいえばいい」 「信ジテ」 「消えてくれ」 「私ハエリックジャナイ」 「じゃあエリックのなんなんだ?」 「ナンデモナイ。エリックナンテイウ人ヲ知リマセン」 「無害な声を出さないでくれ。大の男をおさえ込むなんて、たいした力じゃないか。放すんだ、悪魔」 「悪魔ダナンテ」 「二度と来ないでくれ。俺はもうじき結婚をする男だ。あんたの相手をしている暇はない」 「結婚?」 「ああ、結婚さ」 「嘘——」 「なにが嘘だ?」 「ソンナ幸セナ人ニ、私ノ声ガ届クハズガナイ」 「だったら、なにかの間違いなんだ。別の方を向いて他の人間を掴まえてくれ」 「結婚ヲスルハズガナイ」 「明後日《あさつて》の一時に結納《ゆいのう》を交すんだ。出まかせでもなんでもない。もう結納品も買ってある。婚約指輪も買ってある」 「デモ、本気デハナイ」 「本気じゃなくて、そんなことをする人間はいない」 「ソウトモイエナイ」 「少なくとも俺は冗談で婚約をしたりはしないんだ」  強く大声で——といったって内心のことだが、会話を打ち切るように乱暴にいった。言い返す声がなかった。  沈黙が来た。  いなくなったのではない。周囲の空気が変らない。ためしに片手をあげようとすると、セメント詰めにあったように動かない。一ミリも動かないのだ。自分の無力が分った。 「聞いてくれ」  返事がなかった。おさえていた恐怖がじわりと背筋に行きわたって行く。 「乱暴な口をきいたことは許して貰《もら》いたい。誤解があった。あんたはエリックじゃない。分った。勝手に逆上した。詫《わ》びたい。すまない。あんたは力を持っている。俺など相手にしなくても、どんないい奴だって見つかるはずだ。思いがけない、凄《すご》い経験だった。こういう可能性を人間が持ってるなんて思ってもいなかった。こんな会話が可能だなんてほんとに驚いた。調子のいいことをいうようだけれど、あんたには、なにか独特の魅力があった。正直いってあんたと話した後では、フィアンセとしゃべっても味気なく思えたほどだ。でも、もう引き返せない。分って貰いたい。結婚してから、あんたとこうやってしゃべる訳にもいかないし、こんな事はやめなければならない」  急に両腕が銃にでも撃たれたように振れた。突然金縛りが解けたのだ。気付かずに力を入れていたのだった。  いなくなっていた。周囲の空気で、それが分った。案外簡単に諦《あきら》めたな、という拍子抜けの思いと、怒らせてしまったのかもしれない、またなにをしかけてくるかも分らないという不安が入り混って、動かずにいた。     9  翌日はなにもなく、結納の日がやって来た。  あれで終りなわけがない。恒夫はどうしてもそう思えて、こんなにそう思えてしまうのはひそかに終りにならないことを願っているのではないかと心をのぞき込むような気持になった。  午前十一時に、寮を出た。  またやって来るなら結納の日にちがいない。うっかり結納の時間を口にしていた。油断をしてはいけない。みんなのいる前で、あの声がなにをいって来ようとこたえてはいけない。しかし来るたびに接近して来る方法がちがうので、どう身構えていいのか見当がつかず心もとなかった。  十二時半すぎに芳恵の家に着いた。仲人《なこうど》の斉藤部長夫妻も五分ほど恒夫におくれて到着した。  もう亡《な》くなって十四年になる恒夫の祖父はお経をあげる時の声と普段の声が別人のように変った。  三重県の松阪にあった祖父の家へ、夏休みに東京から泊りに行くと、朝晩祖父が仏壇の前でお勤めをする声を聞いた。それは何度聞いても不思議な気がした。小さな米屋を開いていた祖父は肥《ふと》った穏やかな人で、いつも微笑を浮べて「ほうか」といっていた。なにを話しても「ほうか」と微笑してうなずき、それ以上の感想はいわなかった。  ところがお経の声は太くて底力があって、侍のようだった。まるめた背筋が仏壇の前ではすっくと伸びて、怒っているような大声になった。はじめは同じ人とは思えなかった。同じ人だと分ってからも、祖父の中に別の人がいて、お経の時だけその人になるような気がした。  結納の日、芳恵の家でそんな祖父を思い出したのは、斉藤総務部長が急にがらりと声を変え、背筋をのばしたからだった。  雑談をしていたのが「さあ、はじめますか」といった途端、寸前まで浮んでいた笑顔が消え「ただいまより」と野太い声になった。どきりとして、あの声の女がなにかしたか、と思ったが、そうではないことはすぐ分った。部長の公的な挨拶《あいさつ》はいつもそういう声なのだった。  片側に芳恵の両親と芳恵、向き合って斉藤夫妻と恒夫が正座していた。部長はみんなが自分の変化に合せて真顔になるのを待ち、もう一度「ただいまより」と八畳間をホールかなにかと間違えているような大声を出した。多少異常だが、「声の女」のせいではなく、部長自身の持っているものだった。部長は声をはり上げた。 「笠間家長男恒夫と柴田家長女芳恵に関する結納の式を、始めさせていただきます」  みんな一斉《いつせい》に頭を下げた。  顔を上げながら芳恵を見ると、生真面目《きまじめ》な顔をゆっくり上げている。その隣の母親も、更に上座の父親も別人のように表情を消していた。 「本来なら、恒夫の父親幸一郎も同席すべきでございますが、諸般の事情これあり、不肖斉藤と妻正子が付き添い、結納の御品を御配達——」  斉藤は絶句した。御配達はおかしい。それから、「御拝受」といった。それだっておかしいが斉藤は続けた。「御拝受たまわりませんかと思いまして」言葉がぐずぐずになった。しかし、斉藤はゆるがなかった。みんなも、少しも動かない。「ここに参上つかまつりました。本日は御日柄《おひがら》もよく、おめでとうございます」  すると芳恵と両親がおどろくほど声を揃《そろ》えて「ありがとうございます」と大きくいって頭を下げた。  みんなすっかり生真面目で、それは半分は恒夫のためなのだから、勿論《もちろん》可笑《おか》しいなどと思うべきではなかった。  すると「本日は」と斉藤夫人が武家の女房のような重い声を出した。恒夫は意表をつかれ、唇《くちびる》を強く結んだ。鼻がひらいた。 「おめでとうございます」  夫人はゆっくりそういって、畳に手をついてお辞儀をした。恒夫も一緒に頭を下げる。とにかく斉藤夫妻と一緒に頭の上げ下げをするようにといわれていた。  夫人は、ゆっくり立上り、脇《わき》に置いた昆布《こんぶ》やするめや|のし《ヽヽ》紙をのせた結納の盆の前へ行き、座ろうとしてよろけて短く四つん這《ば》いになった。  しかし、誰もそんなことには気がつきもしないように平静だった。夫人はすぐ立直り、盆を持ち、それをかかげて立上ろうとして、今度は立ちくらみのように一、二歩よろけた。  これには思わずみんな小さく「あ」と声を出して腰を浮かしたが、夫人はすぐ踊るように尻《しり》をくねらせて盆の水平を維持した。みんな、正面を向いた。  恒夫の鼻は、ひらいて、唇はまた強く結ばれた。  夫人はゆっくり芳恵の前へ行く。  すると芳恵が、中腰になり、そのままあとずさって、敷いていた座蒲団《ざぶとん》をはずした。  夫人が座る。芳恵も座る。  夫人が結納品を一度高くかかげてから畳に置く。芳恵が平伏する。 「これは」と夫人がまた重い声でいった。「笠間恒夫からの御結納品でございます。どうぞ、幾久しくお納め下さい」  すると芳恵が負けないくらいの構えた声を出した。 「ありがとうございます」宝塚《たからづか》の男役の声のようだった。「幾久しくお受けいたします」  夫人がなにかいっている。  可笑しいことはなにもなかった。儀式とはこういうものだ。儀式を笑う年ではなかった。むしろ悲しいくらいだった。自分に儀式の滑稽《こつけい》さを笑う資格はない。むしろ人より、儀式に近い人生を送っているし、これからも送るだろう。結納が終り、結婚式が終っても自分は儀式のように気持に蓋《ふた》をして役割りを演じ続けるだろう。  急に芳恵の両親が声を揃えて「ありがとうございます」といった。平伏した。「御役目御苦労さまでございました」  すると、意識とはほとんど無縁に笑いがこみ上げて来た。恒夫は、また唇を結び、鼻をひらいた。  芳恵が驚いたように恒夫を見ていた。隣で芳恵の両親も小さく口をあけて恒夫を見ている。 「笠間君」  大声で部長が呼んだ。しかし、返事が出来ない。顔が歪《ゆが》んでいた。笑っていた。止まらなかった。顔に掌《てのひら》を強くあて、腹を折るようにして抑えこもうとしたが、身体《からだ》が震えて、笑い声が洩《も》れた。「声の女だ。あの声の女の仕業だ」と真顔をつくろうとするのだが、あとからあとから笑いがこみあげる。式が始まってから、何度か可笑しかった。あの時本気で抑えこんでおけばよかったのだ。あれは自然な可笑しさだと思っていた。しかし、考えれば、自分の結納で少々仲人の大声が唐突だろうと、夫人が四つん這いになろうと可笑しいというのは、どうかしていた。現に芳恵は、ひどく真面目な顔だった。いや、そうだろうか? 可笑しくなる方が自然ではないだろうか? 真顔であの滑稽を受入れている方が滑稽というべきで。  左の耳のあたりを殴られた。それは強い力だったので、恒夫は畳に音をたててころがった。 「無礼者」と部長が叫んでいる。 「お父さん」と部長夫人が首を激しく横に振っている。 「斉藤さん」と芳恵の父親がおろおろと中腰で動いている。  部長と部長夫人と芳恵の両親の声が入り乱れ、部長の足が倒れている恒夫の腹を蹴《け》った。 「おめでたい席よ。おめでたいのよ、お父さん」と部長夫人が叫んだ。  恒夫は、ゆっくり起き上った。狐《きつね》が落ちたように笑いが消えていた。 「あやまれ、笠間君。仲人さんに、あやまれ」 「そうよ。あやまりなさい」  芳恵の両親が大声でいっていた。芳恵の声は聞えない。 「申訳けありません」  恒夫は大声を出した。平伏した。声の女に負けてはいけないと思った。 「不謹慎だ。不真面目だよ」  部長の黒い靴下《くつした》が、目を伏せている恒夫の視野の端で地団駄《じだんだ》を踏んだ。 「あやまってるんだから」と夫人がいう。 「誰のための式だと思ってるんだ」 「お許し下さい」  恒夫は部長の大声に負けない声をあげた。 「斉藤さん、許してやって下さい」 「お願いします」  芳恵の両親が、恒夫の傍《そば》で膝《ひざ》をつき、畳に両手をついた。 「あんたらが、あやまることはないよ。筋が違うでしょう」部長の声は、まだ震えていた。 「でも、じきに親子になる人間です。こっちにも責任があります」と父親がいうと、「私らも悪いんです」と母親が続いた。 「なにをいってるんです」部長は苛立《いらだ》つようにいった。「あんたらは悪くない。悪いのは笠間ですッ」 「申訳けありませんッ」  恒夫はもう一度叫んだ。 「芳恵。なにしてるの? あんたからもあやまりなさいッ」と母親の声がいう。 「どうして?」とはじめて芳恵が口をひらいた。 「どうしてってことがあるか」と父親が怒った。「亭主になる人のことじゃないか」 「そんなこといったって、私があやまりようがないでしょう」 「理屈をいうなッ。あやまればいいんだ」 「あやまりなさいッ」と母親も同調した。 「いいですよう」と斉藤夫人がとりなすようにいった。「芳恵ちゃんが、あやまることはないわよ」部長夫妻は、四年ほど前まで芳恵の家の隣に住んでいたのである。 「お父さんも大人気ない」と夫人は続けた。「芳恵ちゃんにあやまらせて、どうするの?」 「いつ俺《おれ》が」と部長は気をそがれたような声になった。「芳恵ちゃんに、あやまってくれっていったよ」 「笑いっていうのは、これは生理現象なんだから」と夫人が部長に、いいきかすようにいう。 「ほんとに」と芳恵の父親が合槌《あいづち》を打った。「ありますよ。可笑しくもないのに、笑い出して止らないということが」 「いいや」と部長がいう。「笑うなどということが、純粋な生理現象のわけがない。たるんでるんです。精神の問題だよ」 「申訳けありませんッ」と恒夫はまた叫んだ。 「いいのよ、もう」と夫人がいう。「こういうこともあるわよ」 「あるもんか」と部長の声がまた少し大きくなる。「こんなことあるもんか」 「でも笑うのならいいですよ」と父親がいっている。「祝いの席で笑いが止らないというのは、これは見方によっては、おめでたいともいえるんで」 「そうよねえ」と斉藤夫人。「泣くよりはずっといいわ」 「ええ、怒るよりも、ずっと」と芳恵の母親が続ける。すると、 「そうよ。お父さんの怒鳴り声の方が余程場違いよ」と夫人が受けたので、 「そんなつもりでいったんじゃないんですよ」と母親が慌《あわ》てている。 「そうだ。その通り」と部長が漸《ようや》く気をとり直した声を出した。「いい、もういい。笠間、顔をあげなさい。私も少し大人気なかった」 「そうよ」と夫人が大きくうなずく。 「しかし、こんな時に笑い出す奴《やつ》があるか」 「相すみません」  恒夫は平伏したまま、もう一度大声を出した。すると、急に涙がこみ上げて来た。 「芳恵」と母親が呼んでいる。「さあ、お膳《ぜん》を出さなくちゃ」 「すいませんね」と父親がいう。「狭い家なもんで、ちょっと茶の間へ移って貰《もら》って、その間にここへ席をこさえますんで」 「恒夫さんも」と母親がいう。「部長さんとちょっと隣へ行ってて」  しかし、恒夫は動かなかった。 「笠間君、こっち」と斉藤夫人がいった。 「はい」  動けなかった。涙が溢《あふ》れていた。顔をあげられず、畳に手をついたまま嗚咽《おえつ》がこみ上げてくるのを、おさえていた。奴め。声の女め。分っていた。分っていたが、さからえなかった。 「いいから、もう。なに泣くの。こっちこっち」と夫人が恒夫の肩を叩《たた》いた。  唇を噛《か》みながら、恒夫は茶の間へ動いた。 「分った。よせ、もう。子供じゃないんだ」と部長がいう。しかし、嗚咽が洩れてしまう。  ここにいる人々みんなが悲しく思えた。人間が、もっともらしくこんな儀式をして生きていることが悲しく思えた。娘の相手が結納《ゆいのう》で笑い出してしまい、それをなんとかなんでもないことだと思おうとしている両親も、ふくれて何もしない芳恵も、逆上した部長も、その部長をたしなめる夫人も、自分も、なにもかもが寂しくて悲しくて気がつくと声を出して泣いていた。 「いい加減にしないか」と部長が呆《あき》れたようにいった。 「笠間君」と夫人が間近に座って畳を叩いた。「泣くことはないでしょう。悪いと思ったから、あやまったんでしょう? それでいいわよ。泣きやみなさい。泣きやみなさいったら」  しかし、笑いが止められなかったように、泣くことも止めることが出来ない。 「殴って下さい」と嗚咽の中で恒夫はいった。「もう一回俺を殴って下さい」そうすれば、笑った時のように止めることが出来るかもしれなかった。 「よく聞えない」と夫人がいう。「泣きながらじゃ、分らないわよ」 「分るだろうが」と部長。「殴ってくれっていってるんだ」 「この上、あなたを殴ってどうするの? 結納ですよ。仲人《なこうど》が、お婿《むこ》さんになる人をそんなに殴れますか? それとも殴る? お父さん、殴る?」 「冗談じゃない。もういい」 「ほら、部長ももういいっていってるわよ。世話焼かせないでよ。泣くより笑う方がいいっていってるそばで泣き出して、どうするの? とまりなさい。泣きやみなさい」  しかし嗚咽が止らない。  部長も夫人も、もて余したように黙りこんだ。  芳恵の両親も、なにもいわなかった。ただ黙々とお膳を置き、白いビニール・クロスをひろげていた。  恒夫の、嗚咽をおさえようとして洩れてしまう声だけが流れた。それから芳恵の母が小さくいった。 「芳恵。ビールだけ先に持って来て」  立ちつくしていた芳恵が、のろのろと台所に向った。しかし、途中で足が停《とま》った。 「なによう」と腹の底から押し出すような太い声で芳恵が唸《うな》った。 「え?」と母親が驚いたように芳恵を見るのが分った。 「なんなのよ、これ」と芳恵が怒鳴った。 「お前まで」とすかさずおさえ込もうとでもするように父親が大声を出した。「お前まで、そんなことをいって、どうするんだ」 「この人なによ?」と芳恵は恒夫を見下ろすように立って叫んだ。「一体なによ? めちゃめちゃじゃないの。どうなってるのよ? 仲人は、責任とりなさいよッ」 「バカいうんじゃないよ」と母親が叫ぶ。 「バカはどっちよ。バカはどっちだよッ」と芳恵はせい一杯の声を出し「こんなもの、こんなもの」といいながら床の間の結納品に行き、手当り次第に掴《つか》んでほうった。 「芳恵ッ」 「芳恵ちゃんッ」  叫び声がとぶ中で、恒夫は嗚咽をこらえようと、身体を震わせていた。女め。声の女め。     10  斉藤総務部長の運転は無駄《むだ》がなく安定していた。自分ならこんなに落着いてはいられないだろう、と恒夫は思った。ただ、芳恵の家を出てから、二十分ぐらいは口をきかなかった。用賀の入口から首都高速道路に入っていた。江戸川区にある恒夫の寮まで送って行くというのである。固辞したが「いいから乗るんだ」と命令するようにいわれた。夫人は芳恵の家に残った。  自分が仲人なら、騒ぎを起した男を寮まで送るなどということは思いつきもしないだろう。勝手に帰れ、というだろう。頼まれ仲人ではないのだ。「真面目《まじめ》で暖かいところもある好青年」が庁舎にいると、部長の方から芳恵の家に話を持ちかけたのである。いま頃《ごろ》夫人も大変だろう。「ほんとにねえ。どうしちゃったのかしら」「そんな人じゃないのに」と恒夫を車に乗せる部長の後ろで、独り言のようにくりかえしていた。今頃、芳恵と両親の前で平伏しているのだろう。すまないと思った。  渋谷をすぎ、青山トンネルを抜けたあたりで漸く部長が口をひらいた。 「笠間」 「はい」  もう嗚咽のあとの震えも消えていた。 「シートベルトを締めろ」 「はい」  それからまた部長は二十分ぐらい黙ったままになった。恒夫が口をひらくべきかもしれなかった。「とんでもないことをしてしまいました。申訳けありません。部長御夫妻の顔に泥《どろ》を塗ってしまいました」  しかし、そんなことを口にするのは、調子がよすぎるような気がした。いまは言葉を失って打ちひしがれているという態度の方がふさわしいと思った。無論心からすまないと思っていれば、どういう態度がふさわしいかというような判断の入る余地はないのだが、どうしても自分のせいではないという気持があった。声の女め。  部長の好意を裏切ってしまった。  それにしても、部長はどうしてこんな自分を送ってくれているのだろう? 自然に振舞えば、顔も見たくないはずだった。感情を抑え込み、部長として仲人としてふさわしいと判断したことをしようとしているのだろう。しかし、怒りの感情が強いので、それを抑えるのと運転とで口をきく余裕がないのだろう。  両国の手前で渋滞した。動かなくなった車の中で、漸く部長は二度目の口をひらいた。 「俺も——」  おだやかな声だった。 「はい」 「警備官あがりだから、分らないわけじゃない」 「はい」  なにが分らないわけではないのかと質問する時ではないような気がして、ただうなずいた。 「入管の仕事は、摘発する相手を犯罪者だと思えないことも多いからな」 「はい」 「まいっちまう時もある」 「はい」 「気がつかなかった俺も悪いが、おかしかったら、結納をのばせばよかったんだ」 「ほんとに御迷惑を——」 「いいんだ。今日はなんとか眠るんだ。明日一緒に医者へ行こう」 「いいえ。一人で行けますから」 「医者に心当りあるのか?」 「はい。前に一度——」 「そうか——」 「その時はなんでもないということで」 「なんかその時あったのか?」 「自分をコントロール出来ない気がして」墓場の話は出来なかった。「いろいろな事が悲しく思えて」 「俺にもあった。不法入国者には悲しいのがいるからな。心を動かさないようにしていても、たまらなくなることがある」 「はい」 「あったよ、俺にも」  思い出すような声で部長はいい、ゆるく車を動かした。 「はい——」 「疲れだな。明日から二、三日休むんだ。警備士長にはいっとくよ」 「いえ。自分で——」 「そういう律義《りちぎ》な奴がやられるんだ。仕事のことは忘れてしまえ。ひとまず、結婚の話もストップしよう。あの娘が怒り出さなきゃ進めた方がいいんだが——」 「怒るのが当り前です」 「あの調子じゃ君の慰めに、なりそうもない」 「はい」 「そうなんだ。悲しいと思えば人間なんて、することなすこと悲しいからな」  それからまた沈黙が来た。一之江のインターで高速を降り、環七を蔵前橋通りまで走って右折した。 「誰かよこそうか?」  寮が近くなってから部長はそういった。 「いえ、一人で頭を冷やします」 「大丈夫かな?」 「大丈夫です。もう落着いています」 「お父さんに連絡するというのは——」 「しても忙しいですし——」再婚して結納にも来ない関係だということは部長も承知している。 「そうか」 「ほんとに今日は緊張して、どこか回線がおかしくなりました。奥様にも御迷惑をかけました」  寮の前で恒夫が降りると、部長は念を押した。 「医者へ本当に一人で行けるな」 「行けます。ありがとうございました」  部長のアコードが遠くなり、自分が病気だという役割りを、途中からすっかりその気で演じていたことに気づいた。  病気などではないのだ。あの声の女に、うっかり結納の日と時間を口にしていた。どういう攻撃をしかけて来るかと思ったが、笑いとは虚を突かれた。次には、おなじみの悲哀だ。念の入ったことだ。 「出て来い」  部屋に入ると、ドアを閉めて、すぐ恒夫は怒鳴った。といっても心の中でだ。休日である。隣の農林水産省がいるかもしれない。邪魔されたくなかった。 「出て来い。どこにいるか知らないが、なにをしたか分ってるか?」  耳をすました。心をすました。こたえはなかった。 「それはないだろう。俺《おれ》をこんなめに遭わせて、知らん顔はないだろう」 「——」  なにかいわれたような気がした。怒鳴っていたので、はっきりしない。周囲の空気がわずかに濃くなる感じがあった。 「あんたは俺をほとんど知らない。ところが、ろくに知らない人間の幸福でもあんたは気に入らなかった。結納《ゆいのう》をめちゃめちゃにした」  聞いているのが分った。部屋にいるというのではない。遥《はる》か遠くにいるのだが、恒夫の声に集中しているという気がした。 「思うようになって嬉《うれ》しいだろう」 「アナタノ——」  漸《ようや》くあの声がした。 「いじらしいような声を出さないでくれ。したことにふさわしい声を出して貰《もら》いたい」 「アナタノ」とくりかえす声は少し挑戦《ちようせん》的だった。いいだろう。冷静でいられるよりずっといい。「アナタノ幸福ヲコワシマシタカ?」 「結婚はたぶんこわれるだろう」 「ソレガ幸福ヲコワシタコトニナリマスカ?」 「なんといういい草だ。こわしたにきまってるじゃないか」 「私ハタダ思ッタダケデス」 「こわれろって」 「チガイマス」 「少なくとも祝福はしてくれなかった。ただ思った。ちょいと思った。そうかもしれない。しかしあんたは、自分でどう思っているか知らないが力を持ってるんだ。ひとの人生をぶちこわす力を持ってるんだ。こうやって話しているのがいい証拠だ。こんなことを誰もが出来るわけじゃない。そしてこれは、俺の力じゃなくて、あんたの力だ。あんたにとっては軽い嫉妬《しつと》かもしれない。面白半分かもしれない。ところがこっちはきりきり舞いだ。一体、なにを思ったっていうんだ?」 「私ハタダ、アナタガ自分ノ気持ニ正直ニナルヨウニ——」 「今日の一時に?」  返事がない。 「わざわざ今日の一時に?」 「ハイ」 「それはもうただ思ったなんてものじゃない。明らかに悪意だろう」 「少シ——」 「少しなんてものじゃない。こっちは結納の真最中だった。そんな時に正直な気持だなんて」 「ドウナリマシタ?」 「どうなったか、本当に知らない?」 「知リマセン」 「だから結納はめちゃめちゃだよ」 「ドンナ風ニ?」 「どんな風だと思うんだ?」 「アナタガ憎ンダ」 「誰を?」 「相手ノヒトヲ」 「結納の相手をどうして憎むんだ?」 「嫌《キラ》ッタ?」 「嫌うもんか。嫌いながら結納を交す奴《やつ》はいない」 「ジャア、ナニ? ドウシテ、メチャメチャニ?」 「笑ったんだよ。結納の手順が可笑《おか》しくて笑ったんだ。まったく恥さらしだ。儀式なんてものは滑稽《こつけい》だと思えば滑稽だよ。確かに内心笑うこともあるさ。しかしそれを表に出す奴はいない。出さなかったからといって不正直というもんじゃない。ところがあんたのせいで俺はその下らない正直な気持を表にひき出されたんだ。大笑いをしちまったんだ」 「思イモカケナイコト」 「思いもかけない? よくそんな事がいえるな」 「私ハ——」 「なにが起ると思ったんだ?」 「聞イテ」 「儀式で挨拶《あいさつ》が長いの足がしびれたの、そんなことは誰だって思ってる」 「相手ノヒトノコトヲ思ッテイルト」 「そりゃあ思ってたさ」 「ドンナ風ニ思ッテイルノカト——」 「そんなことが、どうしてあんたと関係がある?」 「私ノ声ガ、他ノ人デハナク、何故《ナゼ》アナタニ届イタノカ——」 「こっちの知ったことじゃない」 「タダ幸セナ人ノ筈《ハズ》ガナイト」 「余計なお世話だ」 「アナタハ相手ノヒトヲ憎ンデモイナカッタ。嫌ッテモイナカッタ。喜ンデモイナカッタ。ナニモ思ッテイナカッタ」 「ゲームに勝ったような声を出すじゃないか。見合い結婚なんだ。はじめて逢《あ》って二ケ月足らずだ。相手のことばかり思いつめている筈がない」 「ソンナ結婚ヲドウシテスルノ?」 「そのくらいの方がうまく行くのさ。のぼせて一緒になって段々現実が見えてくるより醒《さ》めてるぐらいの方が永保《ながも》ちするんだ。大体どういう結婚をしようとあんたにとやかくいわれる覚えはない。ぶちこわされる覚えは更にない」 「アタシノ声ハ何故アナタニシカ届カナイノ?」 「知るわけがない」 「私ハ孤独ナ人間」 「そんな人間は、どこにでもいる」 「アナタモキットナニカヲカカエテイル」 「買いかぶらないで貰いたい。かかえるような負債も財産もない。平凡な男だ。片隅《かたすみ》で穏やかな世帯が持てればいいと思っているだけの」 「エリックッテ誰?」 「聞いたこともない」 「イッタワ」 「忘れた」 「イイエ」 「消えてくれ。二度と声をかけないでくれ。いいか。こっちはもうこたえない。どう声を掛けて来ても抵抗する。これ以上人の生活をかき回すな。やめないなら、突きとめるぞ。あんたが何処《どこ》の人間か突きとめて、それ相応のことをしてやるぞ。行っちまえ。行ってくれ。行っちまうんだ」  大声が出ていた。気持が高ぶって内心の声ですますわけにはいかなかった。またノックの音でもするかと思ったが静かだった。  それきり女の声は消えた。いつものようにことりと空気が変ったかもしれない。興奮があって、そんな微妙な空気を感じとる余裕がなかった。上着を脱ぎ、ネクタイをはずした。  正直にか。気持に正直にか。「相手ノヒトノコトハ何モ思ッテイナカッタ」だと? なにをいってる。それはそうかもしれないが、儀式の最中なんてそんなものだ。芳恵がどういう気持でいるのかとか、これで結婚へ大きく一歩踏み出したのだとか、そういう感慨は確かにいわれてみればほとんどなかったけれど、大抵の男はそんなものではないのか?  一張羅《いつちようら》の背広のズボンを脱いでハンガーに掛け、下着でベッドにころがった。  芳恵か。芳恵は今どうしているだろう? どんな気持でいるのだろう? そう思ってみたが、なにも浮ばなかった。心も動かない。結局その程度の気持しかなかったといえばその通りだと天井を眺《なが》めながら思った。それで結婚をしようとしていたのだから、幸福がめちゃめちゃになったような口振りで声の女を怒鳴るのも滑稽といえば滑稽かもしれない。少しみっともなかったかもしれない、とは思った。  確かにはじめから芳恵との結婚にそれほどの期待はなかったが、それは相手が芳恵だからというのではなく、結婚などというものはそんなものだという気持だった。いや特に結婚に限らない、人生はそんなものだと思ってしまうのだ。はためにはよく見える生活も、当人たちにはそれほどのことはないというのが現実だと——そう思った上で人並のことをしようとしたのだ。だからこれで話がこわれても、それほど俺は傷つかない。芳恵や両親にはすまないが、向うにしたって愛しているとかいうのではないのだから、そんなに深い傷にはならないのではないか? どっちにしても、こっちが悪いのだから詫《わ》びるしかない。あの指輪を受けとって貰うことで許してはくれないだろうか?  こんなことになってよかったのかもしれない。結婚は、もう少し気持がこもってもいいのかもしれない。少し諦《あきら》め過ぎていたのかもしれないのだ。どの女と一緒になったって似たようなものだと思っていたけれど、どの女も同じというのもあまり現実的な考えとはいえない。いろいろな女がいるのだから、いろいろな結婚があるはずだし、そうだとすれば自分にも万が一にせよ、夢のように幸福な結婚の機会がないとはいえないかもしれない。もう少し、そういう奇蹟《きせき》を待ってもいいのかもしれない。この人以外にはないと思い、その思いが一緒になって一年たっても五年たっても十年たっても変らなくて向うもそう思っているような結婚が——おいおい、なにをいってる——そんな結婚がもしあったら、その二人はどうかしているのだ。現実から逃げ回っているのだ。鼻持ちならない夫婦に決っている。馬鹿《ばか》な夢を見てはいけない。そんな奇蹟を待っていたら、大抵の人が手に入れる平凡な幸福までとり逃がしてしまう。芳恵と一緒になろうとしたのは、とても現実的な行為だったのだ。女め。声の女め。それをこわして、どう生きろというのだ? 「ドウシテソウナノ?」  ぎくりとした。まだ、いた。答えないことにした。息をひそめた。 「ドウシテソンナニ、夢ヲ見ナイノ?」  動かなかった。 「ドウシテソンナニ現実ハ味気ナイト決メテイルノ?」  なにも思わないことにした。 「モシモシ。コノ声、届イテイル」  別のことを考えようとした。そうなのだ。明日は、ジャカルタの日本大使館へ出向している同期の川合が帰って来るはずだった。恒夫も二年前バンコクの大使館へ出向しないかといわれている。一期下の浜野が切望していたので、それをいって辞退した。外国で暮したくなかった。 「ドウシテ?」と女が聞いている。「ドウシテ現実ハ味気ナイト、ソンナニ諦メテイルノ?」  諦めてはいない。しかし、現実に現実が味気ないのだから仕方がない。他の現実にぶつからないのだから仕方がない。 「ソウダトシテモ」  部長に約束したことは、どうしたらいいだろう? つまり明日医者へ行くということだ。行ったといえばいいだろうか? なんでもなかったといえば、すむことだろうか? 「ソウダトシテモ、私ハ」  芳恵の家へは、どうする? あやまりに行かなくていいか? 行くべきだろう。明日行くか? 一人で行っていいか? 仲人《なこうど》に話してから行くべきだろうか? 「夢ヲ持トウト思ッタノ」  それはつまり、自分がこの結婚を進めたいと思っているかどうかだ。こわれてもいいなら仲人と行くべきだろう。そうかな? そうともいえない。ただ、一人で行くと事実以上にすまないという感じになってしまわないだろうか? 向うも、ほろりとしたりしないだろうか? 水に流そうということになる。結婚ということになる。それで本当にいいのか? 「ヨクナイ」 「あんたの知ったことじゃない」 「私ハ願ッタ。願ッテ奇蹟ガ起ッタノ」 「奇蹟?」 「ソウ」 「どんな?」 「アナタト話シテル」 「これが奇蹟?」 「奇蹟ジャナクテ、ナニ? 私ハ心カラ願ッタノ。誰カ私ノ思イヲ受ケトメテクレルヒトハイナイカト。毎日毎日毎日、モシモシッテ空ヲ見テ呼ビカケテイタノ」 「性能がよくなかった」 「セイノウ?」 「奇蹟を起す機械がくたびれていた。見当違いの人間に、声が届いちまった。そいつはあんたの話を聞いている暇はないし、あんたの奇蹟的介入を迷惑にしか思わない」 「ホントニ?」 「毎日、空を見上げていじらしくモシモシといってたって? とんでもない。こっちに届いたのは、そんなものじゃなかった。いうをはばかるような下半身への攻撃だった。きっと送信管に錆《さび》が出て質が変ったんだ」 「チガウノ」 「その次も呼びかけたなんてものじゃなかった。荒っぽくて抵抗のしようもない暴力的な襲撃だった」 「ミンナ私ナノ、私ノシタコト。ドンナニ心ヲコメテ呼ビカケテモ、誰ニモ届カナイカラ」 「普通は届かないのが当然だと考える」 「アタシノ全部ヲ、空ニ向ケテ投ゲツケタノ。ナニモカモヲ」 「そう。そんな言葉では全く足りない。濃厚な突風だった。熱帯の嵐《あらし》というかボイラーの爆発というか」 「誰カニ届イタトイウコトハ分ッタワ」 「それだけ? こっちは寺のトイレを借りて大慌《おおあわ》てをしたっていうのに」 「ナニガアッタノ?」 「知っていていわせてるな」 「ソンナコトハシマセン」 「すましてそういうことをいう。自分がどんな気持をこっちにぶつけて来たかを考えてくれ」 「ドウシテ、アンナ気持バカリガ届イテシマッタノカ」 「昔から男には一番届きやすいんだ」 「スグ、ソンナ気持ダケノ女デハナイト伝エタカッタワ」 「それであの夜か?」 「ドンナ風デシタ?」 「自分がしたことだろう」 「私ハタダ気持ヲ一生懸命アナタノ方ヘ向ケタダケ」 「たっぷり泣かされたよ」 「ドウシテ?」 「知るもんか。あんたが泣かせたんだ。こっちは理由もなしに悲しがったんだ」 「嬉《ウレ》シカッタワ」 「人を泣かせて?」 「泣カセタカドウカハ分ラナカッタ。私ノ気持ヲ受ケトメテクレル人ガイタトイウコトダケハ感ジタノ」 「受けとめたわけじゃない。巻きこまれたんだ」 「ドンナ人ダロウ? 誰デスカ? アナタハ誰デスカ、ト夢中デ聞イタワ」 「誰なの? っていうのだけ、遠くで聞えた。こたえる暇はなかった。いなくなった」 「疲レタノ」 「こっちも疲れた」 「デモ道ガ開ケタ。話ガ出来テイル。諦メナイデヨカッタ。コウシテ誰カト話ガ出来タラドンナニイイカト」 「なんの病気?」 「病気ッテ?」 「きっと長い病気だ」 「イイエ」 「じゃあコンクリートの中だ」 「フフ、独房ニイル終身刑?」 「そこまでいう気はない。刑期のことは分らない」 「私ハ今スグニデモ外出出来ルワ」 「じゃあ見当がつかない」 「謎《ナゾ》ノ女」 「勿体《もつたい》ぶってもなんにもならない。こっちはなんの関心もないのだから」 「ホント。疲レタワ。アナタガ、半分、斜メヲ向イテイルカラ。チャント、コッチヲ、向イテ、クレ、ナイ、カラ」  いい返そうと言葉を選びかけたが、いなくなっていた。斜めを向いているに決ってるじゃないか。行っちまえ、といっている男の前に割り込んで現われて、仕方なく相手をしていると、それを感謝するどころか『チャントコッチヲ向カナイ』と文句をいって打ち切るように消えるなんていうのは、一番|嫌《きら》いなタイプの女だ。 「二度と出て来るな」  小さくいってみた。多分、届いていないだろうと思いながら。  こたえはなかった。  気がつくと部屋が薄暗い。夕闇《ゆうやみ》が来ていた。結構長くしゃべっちまった。まったく俺《おれ》も人が好《よ》い。     11  翌朝は八時四十分に庁舎に着いた。  部長にまかせて無断で休んでしまうというわけにはいかなかった。第一休む必要はないのだ。とはいえ、部長に迷惑をかけたのだから、まったくなんでもないという顔も出来ない。昨日のことは、疲れて神経がまいっていたせいだということにした方がいいだろう。午後から医者へ行くぐらいはしなければならないだろう。しかし、それ以上仕事に迷惑を掛ける気はなかった。  部屋へ入ると、宮崎をかこんで佐久間たちが声をあげて笑っている。 「なんだい?」  ドアを閉めながら笑顔を向けると「お。顔が違って来たなあ」と宮崎が大声でいう。 「なんだよ?」 「結納《ゆいのう》だったんでしょう?」  まったく一期にせよ先輩の恒夫に、からかうような口をきく。 「関係ないだろ」といったが、そんな声は消えてしまうほど、佐久間たちが「あ」「そっか」「おめでとうございます」とやかましい。 「はしゃいでるじゃないか」と恒夫は声を押し戻すようにいった。「どうしたんだ?」 「前田です」と佐久間がいう。  いま前田警守にとても可愛《かわい》いフィリピンの女性が挨拶《あいさつ》に来たという。摘発した女性だったが、詐欺《さぎ》に遭っており、学生として在留期間を延長出来たのである。 「キスでもされたのか?」 「そこまで入管は愛されていません」  佐久間が嬉しそうに、コチコチの前田を真似《まね》てそんなことをいい、当の前田も「はい」といった。その時、本多警備士長がやや遅刻して入って来て、恒夫を見ると「あれ」と意外な顔をした。  それから十時すぎまで台東区のソープランド摘発の打合せが続き、終って総務部へ顔を出すと、斉藤部長は法務省へ出掛けていた。  午後から内査なので、午前中に昨日の詫《わ》びと礼を改めていいたかったが、留守では仕方がなかった。部屋へ戻りかけると、 「笠間君」と本多警備士長が、警備長室のドアをあけて、呼んだ。  そうなのだった。斉藤部長が昨日、警備士長に話しておくから休め、といったのである。「なんでもないので出て来ました」ともっと早く挨拶をすべきであった。  警備長は留守で、本多は応接用の椅子《いす》にかけながら「休まなくていいのか?」といった。 「総務部長から?」とすすめられた椅子に掛けながら恒夫が聞くと、 「ああ、昨夜、電話でな」と本多は恒夫から目をそらすようにした。 「なんでもないんです。大丈夫ですから」 「そうだろうが、一度医者へ行った方がいい」 「はい」 「現代病だよ。誰がなっても不思議はない」 「はい」 「紹介状を貰《もら》ってある。青山六丁目だ」本多は薄い封筒を出した。クリニックの医師|宛《あて》で、神原警備長の署名がある。「一人で行けるか?」 「行けます」 「これからだと昼になるな。一時に行くと電話しとこう」 「午後は内査が入っています」 「それはいいんだ。ゆっくり休め」 「総務部長が、どういわれたか分りませんが、たいしたことはないんです。病院も行く必要はないと思っています。ただ、それでは納得していただけないかと思っていただけで、仕事にさしつかえるような事はなにもありません。医者には参りますが、夜の摘発には入れていただきます」 「とにかく医者が先だよ」  本多は打ち切るように立上った。それは、とりたてて冷めたい挙止とはいえなかったが、恒夫は軽く傷ついた。本多は有能を愛する男だった。無能には冷めたかった。露骨ではなかったが、鈍感な部下を無視してしまうところがあった。そういう扱いを恒夫は受けたことがなかったが、人のことでは時々感じた。 「以後のことは、先生の指示に従うんだ」 「はい」  もうドアが閉まっていた。本多が廊下を行く靴音《くつおと》が聞えた。はじめて用のない人間の扱いを受けたという気がした。おいおい、それは少し敏感すぎるんじゃないのか? 暗示にかかって、少しおかしくなっているんじゃないだろうな? 閉じたドアを見ながら立上り、恒夫は無理に苦笑してみた。  クリニックは青山学院に近いビルの六階にあった。恒夫はそこでほぼ一時間半、五十代後半という印象の医師と話した。そばに看護婦ではなさそうな白衣の若い女性が座り二人の会話を記録していた。前に自分で行った時の精神科と同じに、子供の頃《ころ》からの略歴、家族関係などを聞かれ、兄弟はなく母は死んで父は再婚をしているというようなことを話していると、そんなことは実はなんの関係もないのだ、と声の女のことを口にしそうになった。  しかし、それをいい出したら完全におかしいと思われてしまうだろう。あんな事を信じてくれる人はいない。  聞かれるままに父親の再婚を喜んでいることなどを話し、一段落すると「でも、ただ疲れているだけだと思います」といった。「感情の抑制が少し出来なかっただけで」 「うむ」  それは座ってすぐ口にし、途中でまた二度ぐらいくりかえした。しかし三度とも医者の反応ははっきりせず、別のことを考えているように見えた。手にしたファイルを急に二、三|頁《ページ》音をたててめくったりした。「こいつの方が余程おかしいのではないか」そんなことを思っていると、 「ヨシコさんにさ」と不意に馴《な》れ馴れしい声で医者が口をひらいた。 「芳恵さんです」とすぐ白衣の女性が訂正した。「柴田芳恵さん」 「芳恵さんに、いったんだって?」 「なにをでしょうか?」 「あっちこっちで声がするって、コンバンハって声が聞えるって」  そんな事が伝わっているのか? 誰が一体芳恵から聞いたのだろう? それはまあ部長か部長夫人だろう。「そういえば、ずっとおかしかったのよ」と芳恵が思い出したってわけか? 「あれは冗談です」 「変な冗談だな」 「酔っていたんです」  するとファイルをめくって、医者はまた思いがけないことをいった。 「官舎の隣の人がね」 「はい」 「あなたが時々、大声を出したり泣いたりしているといっている」 「誰がそんなことを——」 「官舎の隣の部屋の人だよ」 「だから誰があいつにそんなことを聞きに行ったのか——」 「そこまでは知らない。心配して、あなたの上司が様子を聞いたのだろう」 「昨日の今日なのに」 「優秀なんだな、入管は」  農林水産省へ電話で聞いたのかもしれない。するとあいつは喜んで話した。「汗びっしょりで」「青ざめて」「大声で」 「あなたを心配してのことだから、悪くとってはいけないよ」 「朗読の練習をしていたんです」 「どっかで発表するの?」 「いいえ。趣味で。熱が入って大声を出して迷惑をかけましたが」 「摘発で、なにかあったんだって?」 「ああ、あれはただの失策です。足払いをくらって。昨日のこととは、なんの関係もありません」  いいながら横浜支局の江本には、かなりくわしく墓場での体験を話していたことに気づいた。しかし、まさか横浜にまで電話はしないだろう。江本もまた、あんな話を上司にはしないだろう。 「とりあえず一週間の休養を要するということにしましょう。明後日、また来て下さい。薬をちゃんと飲むこと」 「一週間も休む必要はありません」 「休めばいいじゃないの。なにもそこまで御国に尽すことはありません。休める時は多少ズルをしてでも休んで、自分の生活をつくっておかなきゃ駄目《だめ》です。仕事は生涯《しようがい》の頼りにはならない。仕事以外になにもない人は弱いよ。仕事で失敗すると、なかなか這《は》い上れない」 「摘発の時の失敗を苦にしてるわけではないんです」 「そんなことは、こっちも思っていません。疲れていることは、あなたも認めている。一週間ぐらい休んだって、誰も文句をいいません。よく眠ること。いいですか? ゆめゆめ必死でのんびりしようなどと努力しないこと」  待合室で薬を待っていると、本多から電話があった。 「先生から聞いた。指示通りに休め。なにも心配するな。元気になって出て来い。ちゃんと薬を飲めよ」  やや押しつけがましくしみじみした声だった。本多は合理的な男だったが、時折部下に向って人情主義を演じた。但《ただ》し、そういう芝居が効果的な相手に限っての筈《はず》だったが、それが自分に向けられていることに小さく侮辱を感じた。おいおい、またなんか変にひがんでいるぞ、結構俺も仕事に首までつかっているじゃないか。感情に蓋《ふた》をして生きてるつもりで、上司の声の調子にいちいち影響を受けているようでは、あまり俺の自己イメージもあてにならない。いつの間にか、ただの平凡な公務員じゃないか。  渋谷まで歩いた。  墓場の失策も寮での大声も結納の席での醜態も、すべて「声の女」のせいであり、こっちの精神とはまったく関係がないのだと思いながら、いつの間にか自分をのぞきこんでいた。周りの憶測とはちがうところでだが、自分もどうかしていたのかもしれないと思った。  ほとんど「誰でもいい」という気持で結婚をしようとしていた。少し俺も無理して夢を見まいとしすぎていた。幸福になることを避けようとしていた。しかし、そろそろ許されるのではないか? 平凡な公務員という現実を受入れて、平凡な夢を育てて、多少その夢に副《そ》った相手と結婚するというような幸福を願っても許されるのではないか? エリックも、もう目をそらしてくれるのではないか?  すると衣の下からざらざらした現実ばかりが顔を出す芳恵との結婚は、こわれた方がいいのだという気持が改めて湧《わ》いた。もう少し夢を見てもいい。多少は実現する夢もあるのだから。多少どころか、なにしろ声の女のようなことも、この世にはあるのだ。声の女。あれは、しかし、本当に俺《おれ》の内部がつくり上げた幻覚ではない、といいきれるだろうか? 「まだ疑っているのか?」  宮益坂をゆっくり下りた。  確認したではないか。こちら向け我もさびしき秋の暮。しかし、このことが本当に現実なら途方もないことだった。そして、現実ではなかったら、これまた自分にとっては途方もないことだ。あんなにはっきりした幻聴を聞き、長々とその相手をしているなどというのは、ほとんど廃人のすることだった。自分は廃人ではない。  映画館やビジネスホテルの裏側と山手線の高架にはさまれた小さな公園に入った。  二つほどのベンチで将棋を指す人がいる。それを何人かの男が見ている。やや離れたベンチに腰をおろした。  目の前に小さな花壇があった。赤や黄色の花が疲れたように咲いていた。陽《ひ》の当らないビルの裏側で、無理矢理咲かされているような痛ましさがあり、恒夫は目をそらした。  奇妙な静けさだった。  周囲には車の激しい流れ、雑踏の音が満ちていて、そちら側へ足を踏み入れれば、ほとんど音でさえなくなってしまうような小さな音——たとえば男たちの一人が姿勢を変えた時に地面を擦《こす》るサンダルの音が、便所の臭《にお》いのするこの小さな空間では、まだ音でいられるのだった。  ベンチの背にもたれて、のけぞるようにして空を見た。そうしなければ空は見えなかった。空は青く、よく晴れていた。ここにいると曇っているような気がしてしまうのだけれど。 「もしもし」と恒夫はその空に向っていった。口には出さない。気持を集中して胸のあたりでいってみた。  やるべきことは他にはないと思った。休んでいる一週間の間に、女の居場所をつき止めること。 「もしもし、もしもし」 「ハイ」と女の声がした。 「素早い」  恒夫は微笑してみせた。 「待ッテイタカラ」 「ぼくが声をかけると思っていた?」 「思ワナイ」 「じゃあ、なんで待っていた?」 「夜ニナルノヲ待ッテイタノ。アナタハ昼間キットオ仕事ダカラ、夜ニナッタラ声ヲカケヨウト」 「一つ約束をして欲しい」 「約束?」 「ぼくはエリックの話をしよう」 「エリックノ?」 「誰にも話さなかったことだ」 「イイノ?」 「その代り逢《あ》って貰《もら》いたい」 「——」 「分るだろう? こんな風にしゃべっているということは、異様なことなんだ。君が現実に存在するということを、ぼくは確認したい。そうじゃないと、ぼくはこんな会話に耐えられない。自分がどうかしているんだ、としか思えなくなってしまう。助けて貰いたい」 「エエ——」 「君の声が、ぼくにだけ届いた。それもただ偶然ではないかもしれない」 「エエ」 「君になら、エリックの話が出来るような気がする」 「エエ——」 「今晩だ。今晩、声をかけてくれ。話をする。そして、明日でもいい。明後日でもいい、逢って貰いたい」  返事がなかった。 「もしもし、もしもし」  いなくなっていた。 「にいさんよ」  いきなり斜め背後から声をかけられた。驚いて身体《からだ》が小さくはねた。そんなところに人がいるとは思っていなかった。事実さっきまではいなかった。 「クスリやってるのかい?」  太い声だった。 「やってないよ、そんなもん」  振りかえると、恒夫のベンチのすぐ後ろの花壇の辺《へり》に、六十を越しているような背広の男が腰掛けていた。浮浪者のような気がしていたので、身綺麗《みぎれい》な姿が意外だった。 「嬉《うれ》しそうに独り言をいってるからさ」  男は微笑した。 「気がつかなかったな」  恒夫は苦笑しながら立上った。 「若いのに、やばいんじゃないか?」 「おじさんも、ヤクなんかやるなよ」  辛《かろ》うじて、そんなことをいってガードの方へ歩きはじめた。 「年寄りは、なにしようと勝手よ。怖いもんは、なにもねえ」  背後で男が勝ち誇るように笑う声がした。     12  気づかずに声を出していたというのは小さな打撃だった。女に夜といったが、いますぐ声をかけ、エリックの話をし、いますぐ女と逢い、自分が幻覚の中にいるのではないことを確認したかった。「もしもし」と電車の中で女を呼んだ。返事はなかった。  部屋に戻ってからも「もしもし」と何度か心で女を呼んだ。こたえはなかった。  夕食はコンビニエンス・ストアへ弁当を買いに行った。その間も、耳をすましていた。  電話が鳴った時は、ベルの大きさに、とび上るように驚いた。 「どうしている?」と斉藤部長がいった。 「総務へ午前中伺ったのですが、本省へいらっしゃっていて」 「明日の六時すぎ、うちへ来ないか」 「はい」 「日曜を逃がすと、来週は福岡に出張するんでね」 「伺います」 「向うの、芳恵ちゃんが、つまり、あの調子で結論を急いでいる。君の気持次第で家内も話のしようを考えるといっている」 「悪いのは、こっちですから」 「それはそうだが、すぐこわしてしまうほど悪い事をした訳ではない。向うだって縁遠かったんだ。いまは怒っているが、話のもって行き方では、どうにでもなると家内はいっている」 「私としては、婚約の指輪をお詫《わ》びにさせて貰って、この話はなかったことにした方がいいのではないかと——」 「ばかに諦《あきら》めがいいんだな」 「自信がなくなりました」 「まあいい。明日、夕飯に来ないか。ゆっくり話そう」 「ありがとうございます」 「指輪はね、実は彼女、今朝、三軒茶屋へ持って行って事情を話して同じ金額で買い戻して貰ったそうだ。早くしないと、ああいう物は買った値段では引き取らないからね。そういう所は、あの子はしっかりしている。だから良縁だと思ったんだが」 「はい」 「三十万、家内があずかっている。二十万は彼女が払ったんだって?」 「はい」 「君の分の三十万を返すというんだ。慰藉《いしや》料を貰う気はない。これで、きっぱりなかったことにしたいと泣いていたそうだよ」 「そうですか」 「悪い子じゃあない。興奮が醒《さ》めたところで、もう一度話す余地はあると家内はいっている」 「明日、お邪魔させていただきます」  急にひどく疲れて、ベッドにころがった。昨日の今日で、もう指輪を金に替えてしまうというのは、異常な早さではないだろうか? 恒夫のあの結納《ゆいのう》の時の振舞いが、芳恵には結婚など考えられないくらい不気味で異様だったのだろうか? 「なにしろ彼女は、物凄《ものすご》く普通の人だからな」  声に出していた。これはいけない。気をつけないと、どんどん異様な人間になってしまう。  その夜、十一時すぎに漸《ようや》く小さく「モシモシ」と女が呼んだ。 「ああ、待っていた。待っていたよ」  恒夫はベッドで身体を起した。 「ホントニ?」 「ほんとさ。何度もこっちから呼んだんだ。聞えなかった?」 「聞エテイタケド——」 「何故《なぜ》こたえてくれなかった?」 「迷ッテイタノ」 「なにを?」 「アナタニ逢ウトイウ決心ガツカナクテ」 「逢ってくれるね?」 「——」 「エリックの話を聞いてくれるね?」 「明日ノ三時半、有楽町ノマリオンノ時計ノ下デ」 「ありがとう。ぼくはいま甘い口をきく気はない。君への気持はそれほど大きいとはいえない。なにしろ、まだ知り合っていくらでもないのだから。いまは、まだ、君が現実にいるということを確かめたいという思いの方が大きいけれど、エリックの話をしたり、そういうことをして行けば、君を特別の人と思わざるを得なくなって来ると思うし」 「始メテ」 「え?」 「エリックノ話ヲ」 「ああ、そうしよう。その前に、トイレへ行って置きたい」 「イイワ」 「勿論《もちろん》、トイレからだって話せるけれど、そうはしたくない」 「待ッテル」 「ああ。つまり、ぼくは大学を受験して失敗した」 「イツノコト?」 「十年ぐらい前のことだ」 「エエ」 「次の年も、また落ちてしまった。目標が高すぎたのかもしれない」 「トイレハ?」 「君が行ってしまわないかと思って」 「大丈夫」 「明日、三時半か」  フフ、と小さく女の声が笑った。     13 「つまり、ぼくは二年、浪人をすることになってしまった。父は許してくれた。いま再婚をしている相手と逢うようになった頃《ころ》で、父はうるさいことをいわなかった。ただ、ぼくの気力がなくなって来ていた。単に、くたびれてしまっただけだと思うけど、意識の上では、そういう時大抵の奴《やつ》が考えそうなことを考えていた。努力して大学に入って、その学校に見合った会社に入って、今度はそこでの競争に巻き込まれるというような人生は屈辱だ、などと。  自分は受験向きではないかもしれないが、人に負けない資質があり、それは結局大学から会社へというコースの中では評価されないのだ。学歴や会社で人を見ないで、生身の人間の値打ちを受けとめてくれる世界で生きたい。そういう場所で、どのくらいのことが出来るかたしかめてみたい。そんなことを思っていた。  二年目の初夏から晩秋まで金になるバイトを捜しては働き四十万ぐらい貯《た》めた。父に無理をいって五十万|貰《もら》った。大学を諦めたからといって。アメリカへ行く、といって。  その冬、その通りにした。ロスへ行った。二十歳だった。語学校へ入ったけど、英語をしゃべるということについては、普通より少し上達が早かったと思う。ダウンタウンで日本人が経営するファースト・フードに傭《やと》って貰った。あちこちのビルの事務所に注文をとって歩き、昼に配達をして行くという仕事だ。皿洗いより収入があった。アメリカへ来て二、三ケ月では誰にでも出来る仕事ではなかった。土地勘もついて、客の名前も結構早く憶《おぼ》えた。軽い冗談を白人や黒人に向っていえたりすると、やっぱり自分は普通の人間より能力があるのだと思った。自信がついた。こんな自信を日本という国は遂《つい》に持たせてくれなかった、アメリカへ来てよかった、と思った。  勿論、そんな気分は三ケ月も続かなかった。土地勘がついたといったって、軽い冗談がたまにいえたからって、そんなことは多くのアメリカ人が難なくもっと上手にこなしていることであり、感心して秘書つきのデスクを用意してくれる人はいなかった。  その日暮しが続いた。ちっとも先が見えなくなった。それから、不法労働をする日本人の一斉《いつせい》取締りがあった。際《きわ》どいところで逃げた。実際そういうところでは運がよかった。人より少し能力があったり少し運がよかったりはするが、大きな能力や大きな運はつかない人間なのではないかと落ちこんだこともあった。とはいえ、捕まらない方がいいに決っていた。  一年足らずでサンフランシスコへ移った。場所の悪い免税店の日本人相手の客引きの仕事についた。生活を変えたかった。しかし、たいして変りゃしない。客引きとしては、なかなか腕がいいというようなことにはなったけれど、先が見える仕事ではなかった。二度ほどひき抜かれて店を移った。時にはついて来る女もいて楽しいこともないわけではなかったが、ふりかえると我ながら安っぽい毎日だった。  気持の底では、いつも暗澹《あんたん》としていた。こんな事では、みじめだと思っていた。  ポートランドで日本料理店を開くのを手伝わないかと、ある板前に誘われた。仙台から福岡まで、若者向けのアメリカン・グッズの店十数軒の輸入のコーディネーターをしている男と共同出資で、板前もオーナーの一人だった。ロスやシスコで今更日本料理店でもないが、ポートランドなら、まだ成功率も高いというのだ。  ぼくの役割りは支配人ということだった。留学ビザで支配人はやばいといったが、いちいち調べるもんかといわれた。給料の高さにも魅《ひ》かれた。場所があまりよくなく、はじめは免税店まがいに街角で日本人観光客に声をかけて貰うかもしれないといわれ、なんだそれが目当てかと、かえって分ったような気がして引受けた。不安がないわけではなかったが、サンフランシスコから出たいという気持も強かった。  オレゴン州ポートランドは、こぢんまりした綺麗《きれい》ないい町だった。はじめに泊ったホテルの従業員に、大都会のとげとげしさがないのを板前と二人で喜んだ。  ところが、先に来ている筈《はず》のコーディネーターから連絡が入らない。聞いていた電話にかけても留守だった。  翌日、内装の出来上ったはずの店を訪ねてダウンタウンに行くと、その番地は駐車場になっていた。何度もその一画を歩き回り、やっと欺《だま》されたことに気づいた。くわしく話を聞くと、三十五、六の板前だったが信じられない人の好《よ》さだった。その板前の話に簡単に乗った自分も、信じられない世間知らずだった。詐欺《さぎ》に遭った人の話を聞くと、一体どうしてそんな子供欺しにひっかかるのかと不思議な気になることがあるけど、詐欺師は手品のように人の心を掴《つか》むのだ。掴みやすい人間を見分けるのだ。  板前のショックは激しかった。シスコへ来て、ほぼ六年の貯金の大半をはたいてしまったのだ。駐車場では『おいおい』と青ざめて笑っていたが、昼食に入ったレストランでは料理が一口も喉《のど》を通らなかった。外へ出て一ブロックほど歩いたところで、突然道へ昏倒《こんとう》して強く頭を打った。  ぼくは多少の金を持っていた。安宿へ移り、怪我《けが》した板前と半月余り暮した。その間に仕事を捜して皿洗いをはじめたが、板前は頭が痛いといって働かずシスコへ戻って欺した男にきっと復讐《ふくしゆう》するといっては荒れた。これではいい顔ばかりは出来なかった。とうとういい合いになって、板前は出て行った。  それからひと月ほどあとに、いいことと悪いことが同時に起きた。といっても、いいことはほんの少しで、悪いことはそれの二、三十倍もの大きさだった。  三月の末だった。夕方、皿洗いに行くために安ホテルの部屋を出ようとしてドアをあけると、二人の黒人が、歩いて来たら自動ドアがひらいたとでもいうように興奮のない顔で入って来た。目の前にかかった蜘蛛《くも》の巣でも払うように事もなげに、ぼくを張り倒し蹴上《けあ》げ、声も出せないうちに背中を踏みつぶした。  気がつくと一セントも残さず金をとられていた。左の目がはれていた。口の中に血の味があった。背中と右足が痛んだが、ナイフで刺されるというようなことに比べれば幸運なのだとふらつきながら外へ出た。警察へ届けても無駄《むだ》なことは分っていた。そんなことで時間を使うわけにはいかなかった。一セントもないのだから店を休むことは出来ない。給仕ならつとまらないが、皿洗いなら顔がはれていても客の迷惑にはならない。右足をひきずりながら店に向った。  どうして郊外の安アパートではなく、ダウンタウンの多少割高の安ホテルにいたかというと、車がないせいだった。バスは本数が少なく、迂回《うかい》もするので、車で五分のところに三十分もかかってしまう。下町のレストランで皿を洗うには、結局下町の安ホテルが便利だった。  いいことがあったといったのは、それからだった。ロスでなんとか逃げられた外国人不法労働者の移民局の取締りに、ポートランドでもひっかからずにすんだのだった。部屋に入って来た二人の黒人のおかげだった。働いている日本料理店に近づくと、制服の移民官が、一緒に働いていた連中を大型の連行車の後部をひらいて乗せているところだった。  すぐきびすを返して戻りはじめた。これでは夕飯も食べられない。無論、明日の朝食も。一週間分前払いをしてあるので、ホテルだけはあと三日大丈夫だが、なにも食べずに三日すごすわけにはいかなかった。しかし、取締りのあとでは、すぐ働く口があるかどうか分らない。  なるべく身体《からだ》を動かさないこと。眠ってしまうこと。歩きながら他に方法はないと思った。ホテルへ戻り、ベッドに倒れこんで、先のことは考えないで目を閉じた。  しかし、いつまでもそうしている訳にはいかない。翌日は仕事を捜して歩いたが、案の定、暫《しばら》くは使う気がないという店ばかりだった。屈辱をこらえて、昨日まで勤めていた店で五十ドルの借金を頼んだ。腹が減って狂暴な気持になっていた。十ドル貸してくれた。  前置きが長くなったけど、エリックに逢《あ》ったのは、次の日の朝だった。こんな話、聞いててくれたかな?」 「聞イテイタワ、夢中デ」 「トイレへ行かなくていい?」 「近イノネ」 「ぼくは大丈夫」 「私モ大丈夫」 「ただ、一口、水をのみたい」 「ドウゾ。私モ目ノ前ノチョコレートヲ一個食ベマス」     14 「街の真中に、パイオニア・スクウェアという広場があった。コートハウス・スクウェアともいう裁判所がある広場だ。明け方、何時ごろだったろう。眠そうな朝の光が、うっすらとひろがりはじめて、街灯も灯《あか》りをつけたまま眠っているような時間だった。ひと気のない広場の一画にある階段に、ぼくは腰をおろしていた。  眠れなくなっていた。暗いうちに外に出て歩き回っていた。そんなことはしない方がよかった。物騒だし、パトカーにもなにかいわれそうだった。しかし、軽い閉所恐怖症にかかっていて、ホテルの部屋にいたくなかった。ベッドにいると、不安がもくもくとこみ上げて来て、いつの間にかあえぐように息をついていた。  どうせもう、取られるものは命ぐらいしかなかった。とりたければとればいい、という投げ遣《や》りな気持で、疲れて広場に腰をおろしていた。寒かった。でも部屋に帰るのも嫌《いや》だった。  エリックは、その薄明るい広場へ、河の方から現われた。といっても広場から河が見えるわけではない。河からやって来たとかいうのでもない。ただ山側ではなく、街の端を流れるウィラメット・リバーの方向から現われたという意味だ。  茶色い髪の、少し猫背《ねこぜ》の足の長い白人だった。実際には丁度四十歳だったが、日本人の感覚だと四十五、六に見えた。ベージュの少しくたびれたジャケットに茶色の長いカシミアのマフラーをして、うつむき加減にぼくの方へ歩いて来た。勿論《もちろん》、マフラーがカシミアだなどというのは、あとで知ったことで、その時はただ男が警官でもなく、強盗でもなさそうだと思っただけだった。  エリックは、広場の対角線上を、ぼくの方に向って歩いて来た。ぼくには気がついていないようだった。目を伏せて、なにか考え事をしながら大股《おおまた》にゆっくり近づいて来た。そして、一度もぼくの方へは顔を上げずに、ぼくから五メートルほどのところを山手の方向へ広場を抜けて行った。  そうぼくは思っていた。ところが、エリックはぼくを見ていたというのだ。『露骨に見ない訓練をしているからね』とあとで彼は笑った。  東洋人の少年が、明け方の広場に、ぽつんと座っているのは、夢の中の出来事のようだった、とエリックはいった。『どこかあり得ないことのように思えた。こんなことをいうと気を悪くするだろうが、とても無力でとても美しいものを見たような気がした』と。  エリックは近眼だし、ぼくはもう少年ではなく二十二歳になっていたし、左の目をはらし疲れ果てていて美しくもなかった。無力なことだけは確かだったけれど。  一度遠くなったエリックの靴音《くつおと》が、すぐまた戻って来るのが聞えた。ぼくは、それだけで|じわり《ヽヽヽ》と全身に汗がにじむのが分った。またか。またトラブルか。しかし、すぐさま反応して立去るという気力がなかった。エリックの姿から、それほどひどいことはしない男ではないかと感じていたからかもしれない。 『なにか』とエリックはいった。『困っているんじゃなければいいけど』 『ちっとも』と振りかえって、すぐぼくはいった。『朝の散歩です。万事オールライトですよ。ありがとう』 『どういたしまして。こっちも眠れなくて歩き回っていたんだ』  七、八メートル離れたところでエリックは微笑し、また大股で遠くなって行った。 『なにをいったのだ』とぼくは思った。『なにが万事オールライトだ』エヴリシング窮して、途方に暮れているんじゃないか。こんな朝、あんな男が通りかかって声をかけてくれるなどということは、一生に一回の僥倖《ぎようこう》かもしれない。それにすがらずに体裁をつくって『万事オールライト』とはなんてことをいったんだ。  ぼくは立上り、エリックの立去った方を見た。エリックは、もう見えなかった。すると、とり返しがつかないような気持がつき上げて、走りはじめた。角を曲ると、人通りのない灰色の街路をエリックの後姿が大股に歩いて行く。 『ソーリー。すいません』  エリックがふりかえった。ぼくは走り寄り、いくらも走っていないのに荒い息の中で『ぼくは本当はとても困っているのです』といった。  古道具というよりやはり骨董《こつとう》というべきなのだろう。エリックの店は古い照明器具ばかりの店だった。といっても燭台《しよくだい》などは少量で、大半は電灯器具だった。間口は二間ほどで、奥行が長く、ロンドンあたりの古い店を真似《まね》ているようなところがあった。といっても埃《ほこ》りが積っているようなことはなく、壁紙も新しく清潔で、表に面したガラスの金文字も少しも剥《は》げ落ちたりはしていなかった。その年輪のなさが、どことなくディズニーランドなどにある十九世紀風の建築を連想させたが、エリックはその店を気に入っており、大切にしていた。二階に居間と台所と二つの寝室があり、住人はエリック一人だった。  まだ暗い店を通って階段を上り、居間に通されると、これから朝食をとるが一緒にどうかといわれた。  もう体裁をつくることはなかった。歩きながら口早やに下手な英語で、強盗に遭ったこと、職を失ったことを話していた。『もし仕事があれば働かせて下さい』と頼んでいた。 『いくつか質問をしてから』とエリックは店の前でいった。そして、質問の前に朝食をとることになった。  台所でエリックは四個の卵を焼いた。あとは紅茶にシリアルとミルクだった。アメリカ人はよくシリアルを食べる。二年たってもぼくはそれに馴《な》れないでパンを欲しくなったが、その時はそんな贅沢《ぜいたく》をいう余裕はなかった。思いがけない好意に、小さな屈辱と大きな感謝の思いで胸がつまっていた。  朝食の途中でエリックがくすくす笑った。 『よく考えると、質問は一つでいい。いま聞いてもいいか?』といった。 『どうぞ』とぼくはせい一杯の笑顔をつくった。 『名前はなんていうんだ?』  ホワッチュアネイム。エリックはそういって、とっときの冗談でもいったように大声で笑った。 『ツネオか。チュネではいけないか?』 『いいですとも』  傭《やと》ってくれるなら、なんでもよかった。 『丁度よかったんだ。二年いた男が辞めたところだ。その寝室を使えばいい』  食事は、よければ一緒にしよう。土曜の午後と日曜日は休日だ。自分はキャノン・ビーチに小さな家を持っている。週末は大抵そっちだ。そこで特に一人でいたいわけでもない。一緒に来たければ来てもいい。まあそういうことは、その時々の気分にしよう。仕事は、はじめのうちは掃除と洗濯《せんたく》と料理だ。そのうち商品に就《つい》ての知識もついて来るだろう。そうしたら店にも立って貰《もら》う。その時は少し給料を上げるとしよう。しかし、はじめは住み込み食事つきだから、こんなもんだ。  そういってエリックが提示した週給は、間違いではないかと思うほど高かった。ぼくは思わず聞き返し、もう一度金額を確かめると、自分の幸運にひそかに興奮した。  エリックは魅力のある人だった。  商品の照明器具の、どう見ても金ピカでごてごてしているような古道具を、本気で客のいない時にも素晴らしいと見惚《みと》れていたり、フランク・シナトラとかトニイ・ベネットとかいう古風なポピュラーシンガーが大好きで、たまにクラシックをかけると、チャイコフスキイだったりして、はじめはどんな顔をしていいか分らなかったが、エリックの魅力はそこにあった。  たとえばチャイコフスキイ好きは底が深いのだ。同じ曲のレコードを驚くほど沢山の演奏で持っていて、義理で聞かされているうちに、自分は一度もきちんとチャイコフスキイのヴァイオリン・コンチェルトを聞いたことがなかったと分ってくるのだった。一ケ月ほどで、ぼくはチャイコフスキイが大好きになった。それはシナトラについてもベネットについてもそうで、丁寧に聞くと二人とも凄《すご》い唄《うた》い手だった。モダン・ジャズやロックとは違う大人の陶酔があることを教えられた。安っぽい照明器具だと思っていたものも、ヨーロッパ調の部屋にはむしろそれでなければならないのだった。自分の趣味の単純さに気がついた。エリックは素晴らしい教師だった。ぼくは一ケ月半あたりからはエリックに夢中になった。教科書の写真とかであまりに見馴れていて改めて見る気もしないような絵もエリックの目を通すと、本来の魅力をとり戻した。手垢《てあか》にまみれたようなホイットマン詩集とか『リップ・ヴァン・ウィンクル』とか、そんなものにも生命を吹きこむ不思議な力をエリックは持っていた。  勿論、週の大半は仕事をしていたし、商売は結構繁盛していて、エリックの話を聞くのは大抵夜の居間での二時間ほどだったが、エリックはそれをほとんど欠かさなかった。ぼくの反応がいいので張り合いがあるのか、今夜はどんな作品で意表をつこうかと朝から計画している気配もあった。それは、ぼくにも楽しみだった。  そして週末はキャノン・ビーチへ出掛けた。その太平洋に面した海岸は町から西へ車で二時間ほど行った砂浜で、海の中に大きな岩があった。引き潮には歩いて行けるので、時々目を向けると登っている人もいた。かもめが多かった。  エリックの小さな家は、海に面した、あまり高くない断崖《だんがい》の上にあり、そのヴェランダにポテトチップスをひと掴《つか》み置こうものなら、数十羽のかもめがとんで来て、あっという間になくなった。その上、次に置かれるのを待ち構えて、ヴェランダを取り囲むように浮遊して、暫《しばら》くはどかなかった。  その家に置かれたレコードのコレクションは凄かった。三、四十年も前の、知らないポピュラーシンガーのラヴソングが大切にされていて、それにシューマンとかブラームスとかが加わって、新しいものはなにもなかった。出始めたCDをエリックは嫌悪《けんお》していた。針の音のしない古いラヴソングなど三|文《もん》の値打ちもないといった。  あとから思えば、エリックは実に慎重だった。ぼくがかなりエリックを尊敬し、彼のいうことならなんでも感心して受入れるようになっていても二ケ月以上おくびにもその気配を見せなかった。  それからある夜、ビング・クロスビイのレコードを聞きながら二人でワインを一本あけ、さあそろそろ寝ようかという時だった。『お休み』といってエリックは長い手をひろげてぼくを抱いた。勿論そんなことは気にしなかった。日本人と違って、その種の身体的接触は気軽に行われていたし、少しは酔っていたんだし、ぼくも軽く抱き返して別れた。ただ、ちょっとした感じは残った。ぼくを抱いていた秒数が、ほんの少し一般的なそれより長かったような気がした。時折聞こうとしてやめていた『どうして結婚をしないのか? なぜ恋人がいないのか?』という疑問が短く横切ったが、それだけだった。  三、四日して、その夜は軽くブランデーを呑《の》みながらヒッチコックの映画で描かれる人物像がおおむねいかにひどい代物《しろもの》かというような話をエリックはした。十時すぎ、ぼつぼつそれぞれの寝室へ入ろうかと居間の灯《あか》りを消し、二人で廊下へ出た時、突然エリックはぼくを抱きしめ、唇《くちびる》にキスをした。深いものではなかったが、ぼくは仰天して彼の唇をつきはなそうと、かえって唇をとがらせて求めるような感じになってしまった。もがいたり腕を振り回したりしなかったのは、エリックが強く抱いていたせいもあるが、やはり世話になっているという気持と、敬意や好意のせいだと思う。短い間だった。すぐエリックは離れ、気がつくともう彼の寝室のドアは閉まっていた。  ぼくは手の甲で唇を拭《ふ》き、急に吐き気がこみ上げて、それをエリックに聞かれまいと自分の部屋に入ってドアを閉め、ハンカチの中へ口の中にある唾《つば》を吐けるだけ吐いた。ぼくにはそういう傾向は、まったくといっていいほどなかった。女の裸体が好きだった。  ところがその週末のキャノン・ビーチで、ぼくの尻《しり》はエリックの性器に突き刺されていた。それだけではない。突き刺されながら、ぼくの性器は勃起《ぼつき》し、心ならずも射精していた。  ひどい衝撃だった。ぼくは、こんな態度は最低だと思いながら、犯された処女のように打ちのめされて、日曜日一日、キャノン・ビーチのベッドで動けずにいた。  エリックは優しかった。行為については一言も弁解しなかったが、朝食も昼食もつくってベッドの側《そば》へ持って来た。ぼくは見向きもしなかった。しかし、夕食の頃《ころ》になると、いつまでも打ちのめされているのはいかにも弱々しいような気もして、曖昧《あいまい》な顔でキッチンのテーブルについた。エリックを受入れる気がないなら、そんなことはすべきではなかった。『これでお別れだ』といって家を出るべきだった。  しかし、キャノン・ビーチで車なしで外へ出て、ポートランドまで戻るのは結構|厄介《やつかい》だったし、それよりなによりエリックという人物とエリックとの三ケ月ほどの快適な生活に未練があった。思いがけない高給を捨てて、また路頭に迷うことにも恐怖があった。  微笑で話しかけるエリックに目を合わさずにうなずき、三回に一回ぐらいはジョークに顔を歪《ゆが》めて笑顔めいたものをつくり、結局エリックの車でポートランドへ帰り、月曜日の朝はショウウィンドウのガラス拭きから仕事を始めていた。  それから週末までに、ぼくは二度エリックの性器を受入れた。どうなってしまうのだろうと、内心動転し、うろたえていた。学校がどこだとか会社がどこだとか、そんなことがやたらにのさばる日本をとび出して、生身の人間の値打ちで勝負出来る世界を求めたというのに、成田へ戻って来た男はホモになっていたというのでは情けなかった。ホモの人がどうというのではない。現にエリックは立派な人物だと思うけれど、髭面《ひげづら》の男にキスされたり、毛だらけの足をこすりつけられたりすることを好きになって行くのはたまらなかった。そのくせ、ぼくは逃げなかった。  六月になっていたので、エリックは季節に合ったシャツやスニーカーを買ってくれた。ぼくはそれも受入れた。  受入れながら怖かった。自分が腹立たしかった。最低の男め。何故《なぜ》とび出して行かないのか? 日本へ帰る金はなかったが、ロスあたりまでの飛行機代は充分あったのだ。エリックは、これまでに増して優しく魅力的だった。顔は俳優のドナルド・サザーランドに少し似ていて、しかし彼のような不気味な感じはなかった。  ぼくは働きながら、夕食を食べながら、居間でレコードを聞きながら、時折エリックを美しいと思っていることにも慌《あわ》てていた。このままでいると、完全にその傾向の男になってしまうだろう、と思った。  次の週末が来た。二人でまた土曜日の午後キャノン・ビーチに向った。エリックはその週末を、とても楽しみにしていたといった。自分は無理強《むりじ》いをするようなことは嫌《きら》いなのだといった。つまりエリックは、その週末、ぼくが|でくの坊《ヽヽヽヽ》のように我慢をしているだけではなく、少しは積極的にエリックに抱きついたりすることを期待しているのだった。そんなことは、とても出来ない。でも、ぼくはやってしまうだろう。この週末はともかく、次の週末はそうしてしまうだろう。  キャノン・ビーチへの道は海沿いではなかった。森林をきり拓《ひら》いたような、両側に高い常緑林が続く道が長かった。単調な道だった。曇っていた。雨になるだろう、とラジオがいっていた。雨の多い土地なのだ。雨になったら砂浜に出ることもない。とじこもってエリックとどんな週末を送るのか? 怖かった。エリックが怖いというより自分が怖かった。男と世帯を持つような人生は考えたこともなかったのに。  なにか強い力が、この生活を打《ぶ》ちこわしてくれないかと願った。地震でもいい。火事でもいい。この車の事故でもいい。運転するエリックの横にいて、ぼくは突然ハンドルを掴んで車を森の樹《き》にぶつけてしまいたいという衝動を押えていた。  しかし、それだけのことだった。意気地なしめ。  車は何事もなく、いつものキャノン・ビーチに着き、エリックの小さな家の前に停《とま》った。  エリックが家のドアを開け、ぼくは食料やビールを入れた段ボールを持ってあとに続いた。キッチンのテーブルにその段ボールを置くと、背後にエリックが来て、ぼくを抱いた。首筋にキスをされ、向き合わされて唇にすぐ舌が入った。ぼくはエリックの胸を押し『ちょっとシー・サイドに行って来たい』といった。シー・サイドは固有名詞で、車で二十分ほど行った小さな町だった。 『どうして?』とエリックは少し不満な声を出した。 『買い物があります』 『シー・サイドでなにを買う? 買うものなどありゃあしない』 『でも行って来たい』とぼくは少し頑《かたく》なにいった。なにを買いたいかはいわなかった。買いたいものなどなかった。『ちょっと行って来たいんです。なにを買いたいのか、いちいちいわなくちゃいけませんか? 一時間もかからない』 『いいだろう』とエリックはぼくの怒った声にひるんだのかすぐ諦《あきら》めた。『その間に夕飯をつくっておこう。行ってくればいい』ズボンのポケットからキーを出して、ぼくの掌に落した。『その代り、君のショルダーを置いて行ってくれるかい?』  思わずエリックを見た。ショルダーには、ぼくのパスポートや財布が入っている。エリックは目をそらした。 『買い物に必要な金だけ持って行ってくれないか。嫌《いや》なことをいうようだけれど、不安なんだ。君がどっかへ行ってしまわないかと、いたたまれなくなることもある』  エリックが思い切ってそういっているのは、よく分った。 『いいですよ』とぼくはいい、ショルダーから財布を出し、有金全部をテーブルにひろげた。小銭も出した。そこまでしなくてもいい、というかと思ったがエリックは黙って見ていた。 『五十ドルだけ持って行きます』 『もっと持って行けよ』 『いいんです』  そういってショルダーを肩にかけ、外へ出た。きっとエリックは、どうしてショルダーを持って行く? といいたかっただろうが黙っていた。ぼくを怒らせたくなかったのだろう。  車を動かしはじめると、計画は駄目《だめ》になったという気持がこみ上げた。なんとか咄嗟《とつさ》にパスポートだけは確保したが、五十ドルではこのまま空港へ走っても何処《どこ》へも行けなかった。  今考えれば、それでもぼくはポートランドへ戻ってしまえばよかったのだ。金はなんとでもなった。そのあとロスでそうしたように、父に電話して、電信送金をして貰えばよかったのだ。  しかしそんな風には考えず、ぼくははじめてエリックに憎しみを抱いていた。彼は権力を行使したという気がした。金もショルダーも置いて行け。そうやって、ぼくをつかまえて離さずに、ぼくの人生を好きなようにおもちゃにするつもりなのだと思った。なんとかしなければいけない。エリックなど少しも愛していないし好きでもないし嫌悪しているといい渡さなければならない。  しかし、その勇気があるかどうか自信がなかった。エリックはナイーブだった。ぼくの言葉にひどく傷つくだろう。ところが、彼のしたことといえば宿なしのぼくを救い、愛しただけなのだ。そのエリックを正面から打ちのめすようなことはなるべくしたくなかった。出来たら、エリックの方でぼくを見限って欲しかった。なにか無茶苦茶をしたら、どうだろう? とてもぼくとは一緒にいられないと思うようなことをすればいいのだ。  錯乱の中にいたという他はない。ほんのいたずらのつもりだった。勿論《もちろん》エリックは怒るだろう。週末はめちゃめちゃになるだろう。しかし、その程度のことだと思っていたし、さしあたって週末の気分がめちゃめちゃになれば、何よりだと思ったのだ。  シー・サイドは、ほとんど一筋道で、それでも小さな映画館やレストランやゲームセンターやディスコもあって、週末は結構人が出ていた。車も列をなしていた。  しかし一本裏の通りは、もう商店もなく、人通りもまばらだった。車を駐《と》め、公衆電話で警察にかけた。  相手をした警官は、うんざりしたような声を出した。その声の調子は、キャノン・ビーチのエリック・ラーボの家にヘロインがあるといっても変らず『お前はそのエリック・ラーボと喧嘩《けんか》でもしたのか?』とせせら笑うようにいい『キャノン・ビーチの何処だって?』ときいた。ぼくは番地をくりかえし、相手が一向に驚かないことに挑発《ちようはつ》されて『いいですか。これは冗談ではない。トランク一杯のヘロインだ。それを数人の男が仕分けている』とばかなことをいって切った。  ハンバーガースタンドへ入って、コカ・コーラをのみ、車へ戻った。ふざけた電話だと無視されなければ、パトカーが来て家捜しをされるだろう。エリックは壁に向って両手を上げさせられ『数人の男だって? 馬鹿気《ばかげ》ている』とあの独特の少し吃《ども》るような調子で抗議するだろう。ひそかに、ぼくの仕業だと思うかもしれない。しかし、それは口にしないだろう。そしてヘロインなど元々ないのだから警官は帰って行く。入れ替りにぼくが帰る。そして電話をしたのは自分だという。エリックは怒る。そうなれば、いいやすいだろう。ぼくは週末をめちゃくちゃにしたかったんだ、と。こんな関係は耐えられないんだ、と。  時間を計って帰らなければならなかった。警官に逢《あ》って尋問されるようなことはごめんだった。車も公道に駐めるつもりだった。公道を曲ると断崖《だんがい》に向う土の道になり、その先にはエリックの家しかない。曲ってから警官と逢ってエリックとは関係がないとはいえなかった。電話に出た警官に多少の神経があれば、たれ込みは下手な英語で、ことによると日本人かもしれないというぐらいのことは連絡しているかもしれない。そこへのこのこ出て行ったらエリックよりこっちがひどい目に遭ってしまう。  そんなことを思いながらキャノン・ビーチに戻り、公道をエリックの家に近づいて行くと、数台のパトカーを降りる男たちが見えた。エリックの家に曲る場所だった。止らずに通過しながら見ると、四台のパトカーだった。警官たちが土の道を家の方へ向いはじめたのが見えた。  こんな大げさなことになるとは思わなかった。しかし、もともとヘロインはないのだし、数人の男もトランクもないのだから、仮にエリックが連行され、家の中が徹底的に調べられたとしても、それ以上のことは——つまりエリックが刑務所へ入ってしまうなどということはない筈《はず》だった。もしそんなことになったら、出て行けばいい。こっちは相当脅かされるだろうがエリックは救われる。それで縁が切れるならそれもいいと思った。  二百メートルほど先へ走って、同じように断崖に向う道のある角を曲った。その道は舗装されており、両側と先端に四、五軒の家があった。曲ってすぐの空地に車を駐め、草叢《くさむら》をエリックの家に急いだ。  足音は忍ばせなければならなかった。警官たちは、おそらく拳銃《けんじゆう》を持ち、ストッパーもはずしているだろう。背後から走り寄る音などたてれば、発砲しかねなかった。  数十メートルに近づいてからは這《は》うようにして動いた。それでも草が動くのは避けられない。エリックの家が見えるぎりぎりの地点で止るしかなかった。家をやや見下ろす位置で、草に身体《からだ》を隠して五、六十メートル先を見ることになった。  エリックの家は、しんとしていた。  もう警官は中へ入ったのだろうか? 曇った空に夕闇《ゆうやみ》が近づいている。  海に面した居間の灯《あか》りがついていた。それからキッチンにも。  すると外で人が動いた。家の脇《わき》を低い姿勢で二人の警官が裏手へ急ぐのが見えた。随分また大げさな、と思ったが、トランク一杯のヘロインと数人の男を真に受ければ当然の行動なのかもしれなかった。  それから別の二人の警官が道をやって来た。彼等は真直《まつす》ぐ玄関に向って行く。その一人が小振りの斧《おの》を持っていた。ドアをこわそうというのか? それは無茶だ。そんなことをしなくたってエリックは開ける。  小柄《こがら》で小肥《こぶと》りの男が先で、斧を持った長身の男が続いた。小柄の方がブザーを捜すように顔をめぐらせた。ブザーはない。ノックをすればいい。ノックをした。返事がない。また、ノックをする。エリック、早く返事をしてくれ。早くしないと、こいつらは斧でドアをこわしてしまう。返事がなかった。キッチンにいたって居間にいたって、聞えない筈はないのだ。  波の音はしていたが、ノックの音を消すほどではなかった。小柄な警官は、今度は少し長くノックをした。叩《たた》きながら次第に力をこめて行く。それから、急に身をひいた。  構えていた長身の方が、あっという間にドアの鍵《かぎ》のあたりに斧を振り降ろした。ひどい音がした。もう一撃。その時、エリックの声があがった。外だった。 『なにをしている?』  断崖には砂浜へ降りる鉄の梯子《はしご》が取り付けてあった。その梯子をあがりながら、エリックは大声をあげたのだ。なにをしている、と。  エリックの身体が断崖の上に立つのと、なにをしている、という声はほぼ同時だった。それからもう一つ、同時に音をたてたものがあった。拳銃だった。  玄関の二人ではなかった。ぼくの視野からは見えない位置にいる他の警官だ。  エリックは、かき消すように、いなくなった。 『誰が撃った!』  玄関の小男が身を低くして叫んだ。斧の男は、ほとんど伏せていた。  それから誰も動かなかった。  波の音が聞えた。かもめの鳴く声も。  エリックと警官と、いま起ったことを忘れてしまえば、穏やかな夕方だった。忘れてしまいたかった。  エリックは、どうしただろう? ちょっと弾がかすっただけだろうか? 驚いてしゃがんだだけだろうか?  玄関で音がして、小柄と長身の二人が、大げさな構えで家の中へ飛び込んで行った。すぐ視野の外から二人の警官が走って現われ、腰を低くして家の中へ飛び込んで行く。  すると別の二人の警官がエリックの方へ拳銃を向けながら近づきはじめた。二人とも同じような高さに拳銃をかかげ、ゆっくりと近づいて行く。  ぼくは両手をあげてエリックが立上るのを待っていた。しかし、警官が傍《そば》まで行ってもエリックは起きなかった。倒れているエリックを見たかったが、草が高くてなにも見えない。  一人の警官がしゃがみ、もう一人の警官は拳銃をおろして見下ろした。 『どうした?』  玄関で声がした。小柄な警官だった。  エリックの傍で立っていた警官が彼の方を見て首を横に振った。小柄な警官は小さく罵《ののし》りの声をあげ、ポーチに唾《つば》を吐いた。  エリックは死んでしまった」     15 「ぼくは車に走って戻り、すぐポートランドに向った。エリックの車がポートランドにあったら警察はどう思うだろうと考えたが、バスなどあるかどうか分らなかったし、明日になればグレイラインのコーストツアーをつかまえて途中から乗ることが出来るかもしれないが、五十ドルしかなくて、警官が捜しはじめるかもしれないキャノン・ビーチでどう一晩過したらいいのかと思うと、こうするしかなかった。こうするしかなかったのだ、と不安にかられる自分を叱咤《しつた》して何度も口に出していた。  二十分も走ると雨になった。夜も来ていた。  不安定な強雨だった。狙《ねら》い撃ちされているように激しかったかと思うと、急に息をついて小雨になり、忽《たちま》ちまたワイパーも追いつかないくらいの降りになった。  その雨に負けないくらい、ぼくの感情も不安定だった。落着け。これで事故を起したら、ホモにならなくたってなんにもならない。  慎重に対処すれば、まだ充分回復可能な人生なのだ。パニックを起してはいけない。エリックの死んだのは事故なのだ。過剰に責任を感じて投げ遣《や》りになってはいけない。俺《おれ》は自分の人生を守ったのだ。どうすべきかを考えるんだ。この事態から、どうやって脱出するかを。  ポートランドには八時すぎに入った。無茶苦茶に飛ばすようなことはしなかったので二時間たっぷりかかっていた。しかし、行動は早ければ早いほどいい筈だ。  エリックがいつも駐める駐車場は避けて、やや離れた路上に車を駐めた。キャノン・ビーチから連絡が入って警官が待ち構えているということもないとはいえない。これはもう賭《かけ》のようなものだった。思い切ってやるしかなかった。ロスまで行ければいい。ロスへ行って何日か生きて行ける金があれば、と思っていた。  ショルダーから鍵を出し、雨の中をエリックの店に近づいた。ワンブロック手前で、短かく店の周辺に目を走らせたが人の気配はなかった。雨が激しく、それ以上慎重にする余裕がなかった。張り込んでいたら仕方がない。その時はその時だ。他人の家に忍び込むのではない。ここに住んでいるのだ。大体、エリックを殺したのは俺ではない。臆病《おくびよう》な警官が、突然の怒声にびっくりして発砲したのだ。本来なら起る筈のない殺人なのだ。あんなことまで想定していたずら電話をかける奴《やつ》はいない。  シャッターをあけ、ドアを入ると、エリックの愛した店内が何事もなかったように雨の外灯に薄明るく照らされていた。もっともそれは、今振り返ってそう思うので、その時は一息入れて眺《なが》めている暇はなかった。すぐ二階へ上り、自分の部屋のベッドの下のブーツの底に入れた小銭入れをとった。百ドル入っている。これは自分の金だ。緊急用に分けて入れておいた。  それから居間とエリックの部屋の現金を捜した。もし泥棒《どろぼう》が入った時、なにもなくて腹いせに店の商品をこわされるより、多少の満足をあたえた方がいい。いくらかの金は置いておくのだとエリックがいっていたのを思い出していた。それはそんな金をとるようなチュネ(恒夫)ではないからいうのだ、というニュアンスだったので、何処《どこ》に置いておくのかなどとは考えもしなかったが、その金をすがるように捜していた。机の中に故障したローレックスがあったが、金にかえるのは難しいという気がした。しかし、念のためにポケットに入れた。居間のペン皿の下から百ドル、寝室の灰皿(エリックはとっくに煙草《たばこ》をやめていたが、イタリヤのソレントで買ったという大振りのその灰皿を大切にしていた)の下から百ドル出て来た。あまり無造作で意表をつかれた。置き金としては高すぎる。もしかすると、これもぼくへの信頼の表現なのだろうかと思った。その信頼を裏切ってぼくは金をとり、私物をエリックの旅行カバンに入れて表へ出た。  私物にさして執着はなかったし量もなかったが、出来るだけ自分の痕跡《こんせき》を消したかった。エリックは交友が少なく、その少ない友人にも、ぼくをひき合わさないようにしていた。移民局を怖《おそ》れてぼくがそう望んだこともあるが、多少は黄色人種と暮していることを隠したい気持があったのかもしれない。いや、そんな風にエリックを悪くいう資格は、ぼくにはない。  エリックの車をいつもの駐車場に置き、離れた安宿に行って泊った。翌朝の早い便で、ぼくはポートランドを発《た》った。  これで全部だ。ぼくの話は終りだ」と恒夫はいった。「日本へ帰って、やたらに平凡でやたらにありきたりになろうとした」 「今ハドンナ仕事ヲ」と女が聞いた。久し振りに聞く声のような気がした。 「公務員をしている。国家公務員だ」 「分ッタヨウナ気ガスル」 「なにが?」 「私ノ声ガ何故《ナゼ》届イタノカ——」 「君の番だ」 「エ?」 「君が話す番だ」 「イイノ」 「どうして? 誰かと話したくて、一生懸命呼びかけてたんじゃないか。いくらでも聞くよ」 「免税店デ——」 「免税店?」 「オ客ヲ呼ブノガウマイトカ、エリックトノ事ヲ聞クト、キットアナタハイイ男ナノネ」 「話をそらした」 「私ノ話ハ——」 「君の話は?」  女は黙った。 「勿論《もちろん》」と恒夫はいった。「明日マリオンの時計の下で逢《あ》ってから聞いたっていい。ただ、長い間黙っていたことをしゃべったんでね。興奮している。君の話を聞きたいと思っている」  女は黙っていた。  それから深い感情がやって来た。それをなんと表現していいか分らない。はじめそれは遠い風の音のようにかすかだった。 「どうした?」と恒夫は聞いた。  女はこたえない。  風の音と思えたものは、泣き声のようにも聞えた。それから声は遠くで身を翻《ひるがえ》して、見る見る恒夫の方へやって来た。  叫んでいた。風は悲鳴のように叫んでいた。忽ち恒夫は、その風の中にいた。身をさらわれまいとして、恒夫は拳《こぶし》をつくり唇《くちびる》を噛《か》んだ。なんなのだ? これは、なんなのだ? 激しい風の中にいながら、目をあいている恒夫には何事もない寮の一室がたしかに見えていた。しかし、それらは一枚の写真のように頼りなく稀薄《きはく》で遠くにあるように思えた。風は砂粒を無数に含んで、その粒が激しく恒夫を打った。動けなかった。声をあげたかった。なにをするのだ? 女は一体、自分になにをしようとしているのだ? なにを訴えようとしているのだ?  それから風は遠くなって行った。動けぬまま恒夫は、風の遠ざかるのを見ていた。  気がつくと深い感情の中にいた。深い感情。曖昧《あいまい》ないい方だが、それを名づける言葉が見当らなかった。今まで自分が持つことがなかった深い感情の中にいることが分った。それはあらゆる感情を含んでいて、しかもそのどれもが濃密で深いというように思えた。静かだった。油のように静かな沼の中にいた。深く濃く暗い感情の沼だった。それは色という色を辛抱強く混ぜ合せた沼のように、あらゆる感情を含んでいて、その中からたとえば怒りだけをたとえば歓《よろこ》びだけを感じとろうとしても不可能に思えた。それから沼は静かに後退し、恒夫がとり残された。恒夫と共に、わずかな感情がとり残されたが、それは恒夫のものだった。その感情は、ひどく見すぼらしく、単純で平板に思えた。     16  翌日、マリオンには三時五分前に着いた。  有楽町マリオンは映画館が五館とデパートが二つ入っている新しいビルだった。それだけのものが入っているのだから、盛り場の一つの中心にはちがいなかったが、いかがわしさとか暗い快楽とは、ほとんど無縁で、清潔で薄手で味気ない場所だった。  約束は三時半である。一度、ビルの外壁につけられた時計の下まで行って立ったが、まだ三十五分もあるのでデパートの中へ入った。  いよいよ逢うのだと思うと、怖いような気もしたし、あっ気ない気持もあった。執念のように声を届かせてしまった女など気味の悪いような気もしたし、神秘的に想像していたのが生々しく目の前に現われたら、どんな人が現われても失望するのではないかなどと思った。しかし、逢わなければならなかった。幻聴ではないと確認しなければならない。その確信を持たなければ、徐々に自分の生活は崩れて行ってしまう。  薄いブルーのジャケットに、それよりやや濃い色のズボン、ストライプのシャツで来たのだが、ネクタイを締めた方がいいような気がして来て、デパートで三千円のを買って締めた。ところがトイレへ入って改めて鏡を見るとひどく野暮くさいような気がして来て、はずしてポケットに入れた。そういうことをして、三時二十分にもう一度時計の下に近づいた。  時計のすぐ下は通路だったので、その真中に立っている人はいない。ビルの側面につけられた時計を見ることが出来る外のスペースに、待合せらしい人々が、ざっと見ても十五人ぐらいはいた。そのうち七、八人が女性である。二十五、六歳ということになると四人ぐらいになってしまう。人を捜す目をしながら、ひと渡り見回したが、恒夫の視線にこたえる人はいなかった。これでは、分らない。声をかけてくれなければ分らないではないか。それから、そういえば向うも恒夫を知らないのだと気付いた。 「もしもし」と恒夫は心の中で女を呼んだ。「来ていますか? もしもし」 「ハイ」 「よかった。どの人かな? ぼくはブルーのジャケットで手ぶらです。いま、右手をベルトのあたりに持っていっています」  返事がない。 「もしもし。どの人かな? みんな知らん顔をしている。合図をして下さい。二十五歳ぐらいにしぼって見たけど、もう少し幅を広げた方がいいのかな?」 「イイエ」 「どの人だろう? どの人でも不思議はない気がする。どの人も孤独をかかえていると思えばそのように見えるけど——あ、一人いなくなった。男がやって来た。嬉《うれ》しそうだ。しかし、男の方には笑顔がない。女から目をそらしている」 「ゴメンナサイ」 「え?」 「ソコニハイナイノ」 「何処にいる?」 「日比谷公園ノ噴水ノソバニ——」 「どうして?」 「スミマセン」 「いいさ。三分もあれば行ける」  いいながら歩き出していた。横断歩道の青信号が点滅しているのを見て、走ってぎりぎりに渡り、日比谷公園へ急いだ。このくらいの躊躇《ためらい》は仕方がない。こっちも相当どきどきしていたのだ。いきなり前奏もなく逢ってしまうより、こういうことがあった方がいいかもしれない。それにしても、こういう身勝手は少しいらいらする。昨夜だってそうだ。自分のことを話したくなければそういえばいい。いきなり訳の分らない風のようなものを吹きつけて人を煙《けむ》に巻いて、どういうつもりなのだ?  帝国ホテルの前の横断歩道を公園の方へ走って渡った。どうしてこんな風に人を走らせて平気なのだと女の気持が分らない気がした。  噴水のある広場へ入り、すぐ円形の石の周囲を見たが、それらしい女はいなかった。老人が目についた。女といえば乳母車を脇《わき》に置いて腰をかけている白人の女だけだった。白人の女? そういうこともないとはいえないのではないか? 視線を感じたのか、大柄《おおがら》なその女が顔を上げて恒夫を見た。「君ではないね?」というように短かく見返すと、女は不快そうにすぐ目をそらした。 「もしもし、ぼくは来ている」  しかし、近くのベンチにも女ひとりの姿はなかった。 「ズーット」と急に女がいった。「桜田門ノ方ヘ歩イテクレマスカ?」 「なんの真似《まね》だい? 少し失礼じゃないか」 「アナタニ逢ウノガ怖イ」 「ひるむような気持はぼくだってあるけど、こんなことは子供染《こどもじ》みている」  いいながら桜田門口の方へ歩いていた。 「具体的にはなにひとつ知らないけど、君がしょっちゅう大勢の人に逢っているわけじゃないことは承知している。逢わないのには、なにか理由のあることも察している。その理由がどんなことでも、ぼくは驚かないつもりだ。こうやって無理に逢って貰《もら》うんだ。それ相応の覚悟はして来た。君と、これからもずっとつき合って行きたいと思う。声などということではなくて、ちゃんと逢って話をする関係をつくろうと——」 「ソコデ——」と女の声がいった。「停《トマ》ッテ」  低く刈り込んだ植込みの間に、ベンチの並ぶ歩道がデザインされている一画を桜田門口の方へ抜けかけていた。 「ソノ先ノ左ニ、テニスコートガアルノ」 「ああ」  知っていた。法務省が近いので、六年の間にはこの公園を通ることは何度もあった。 「ソコデ、テニスヲ見テイマス」 「ああ」  すくむような気持で、ゆっくり足を踏み出した。すぐ女が見えた。  二面のテニスコートがあり、道との間には高い金網が張られている。その金網の前に立ち、女はぽつんとテニスを見ていた。  遠い横顔は二十五歳より若く見えた。髪を短くし花柄のワンピースに黄色いサマー・カーディガンを羽織っていた。いや、羽織っているのではない。きちんと着ていた。赤いハンドバッグを腕にかけている。ヒールも赤い。少し田舎くさい印象だった。 「オ願イ」と声の女が囁《ささや》いた。「一度、ナンパサレタイト思ッテイタノ。ソンナ風ニシテミテクレル?」 「ああ」  しかし普通の人ではないか。どうしてそんなに孤独をかかえ込むことがある? 特別美しいとはいえないけど、とても若く見えるし、形のいい足をしているし。 「オ願イ」また女がいった。「知ラナイ同士ノツモリデ」 「ああ」  サンフランシスコのユニオン・スクウェアの周辺では、連日観光客の女に声をかけていたが、あれは仕事だった。ナンパに近いことになったこともあったが、日本ではそんなことはしたことがなかった。  やってみよう。ゲームだ。  女と並んで、テニスを見た。二人の男がやっている。 「テニス、好きなの?」と恒夫は微笑して聞いた。 「うん」ちっとも警戒せずにこたえる。 「もう少し」と心の中で女にいった。「なんだろう、この人っていう感じがあった方がいいんじゃないかな?」 「ソウネ」と女は苦笑している。 「昔、ぼくもやっていたけど、東京だと金もかかるし暇もない」 「そうよね」と女は球を追っていた。 「どういう男たちかな? こういうコートでやれる奴《やつ》は」 「あッ」と女がのけぞった。ボールが女の前の金網にあたった。 「下手糞《へたくそ》」と小さく恒夫がいうと「聞える」とボールをとりに来た男を気にして女はくすくす笑う。なんなのだ? こんな子が、孤独のあまり声を届かせるなんてことがあっていいのか? それともせい一杯、普通の子の芝居をしているのだろうか? 「コーヒーをのみませんか?」 「ほんとに?」 「ちょっと戻ると、公園の中にコーヒーショップがあるし、銀座の方へ歩いてもいいし」 「歩きたい」 「歩こう」  日比谷の交差点の方向へ恒夫が歩きはじめると、すぐ女は横に並んだ。 「変な話だけど」と恒夫はいった。「名前をまだ聞いていないな」 「名前?」  女は意表をつかれたような声を出した。 「知りたいな」 「鈴木だけど、そういうもん?」 「え?」 「名前を聞く? 普通」 「普通はどうか知らないけど、知りたいと思った。鈴木なに?」 「レイコ」 「麗《うる》わしい子?」 「アハ」と女は不器用によろけるような身振りをした。 「突っ込み、きつーい」  そういって笑った。  恒夫は青ざめていた。「何処《どこ》にいる?」と心の中でいった。「あんたじゃない。この女はあんたじゃない」 「ほんといって私、東京よく知らないの」  レイコという娘はそんなことをいっていた。声の女の返事はない。 「すまない」と恒夫はレイコにいった。「君は、ぼくを知らないよね?」 「なんのこと?」 「こちら向け、って俳句を知ってる?」  気がせいて、つまらない質問をしていた。 「俳句?」 「申訳けない。急用が出来た。一緒に行けない。すまない」  いいながらテニスコートの方へ走った。  声の女は俺《おれ》たちを見ていた。近くにいる筈《はず》だった。なんてことをするんだ。ここまでひっぱっておいて、関係のない女を押しつけるなんて、信じられない。  コートのあたりには誰もいなかった。しかし、コートの傍《そば》にいた恒夫を見ることの出来た位置にいたことは明らかだった。周囲に人影はない。  すると桜田門口に近い植込みの陰で人が動いた。すぐ走った。しかし、すぐ公衆便所があることに気づいた。そこから出て来た人が見えたのだ。足を停めかけて、ぎくりとした。現われたのは、灰色の上っぱりを着た小さな中年の女だった。ブルーのプラスチックのバケツを提げている。公園内の掃除をしている人のようだった。その色の白い横顔にどきりとしていた。勘のようなものが、この女だと思った。女は新橋方向への細道を恒夫のことなど気がつきもしないというように歩いて行く。二十五歳だと? 四十五、六歳にはなっている。これでは逢《あ》いにくいのも無理はない。女の後姿には、まぎれもなく孤独がまつわりついていた。そうなのか。こういう人なのか。だったら、そういってくれればいいじゃないか。俺が笑うとでもいうのか? 恋愛とかそういうわけにはいかないかもしれないが、優しくするぐらいのことは喜んでする。恒夫は五、六メートルはなれて女のあとを歩いた。何度も洗われたような灰色のズボンとズック靴《ぐつ》を履いていた。こんな小さな穏やかそうな人の内部に、あの淫蕩《いんとう》な嵐《あらし》があったのかと思うと、哀《かな》しい気がした。悲哀の波も分る気がした。彼女が希《のぞ》むなら、淫蕩の気持に応じたっていいのだと思った。 「怖がることなんかないのに」  恒夫は女に声をかけた。女は聞えなかったように歩く。恒夫は走って前に行き、 「はじめから」と立ちはだかり「正直にいってくれればよかったんだ」といった。  女の目に恐怖が浮んでいた。 「君だろ?」  俄《にわ》かに自信が揺らいで一歩前へ出ると、女はすくんだように身を小さく震わせてあとずさった。 「——君だよね?」  ちがうのか? と思わずすがるように目をのぞくと、 「来てよう」と女が大声を出した。その声は思いがけなく太くしゃがれていた。「誰かッ」持っていたバケツを恒夫に投げつけながら、また「誰かッ」としゃがれた声で叫んだ。 「あ」と恒夫は、手を振った。「ちがうんです。そんなんじゃないんです」  背後で馳《か》け寄る足音がして、振りかえろうとすると、竹|ぼうき《ヽヽヽ》が飛んで来た。 「ちがうんです」  大きな男がぶつかるように来て、恒夫の臑《すね》を蹴《け》った。思わず膝《ひざ》を折ると、頭を強く殴られた。 「ちがうんです」というのだが、男は容赦がなかった。「この野郎、この野郎」とところ構わずのように力をこめて殴りかかり、恒夫は一瞬くらりとして尻《しり》をついた。 「立て」と男が怒鳴った。「こんな真昼間なんてことをしやがる。つき出してやる。立てッ」  対抗して殴りかかるわけにもいかず、説明してもすぐ分る相手とも思えなかった。 「立てッ」 「ええ——」  いいながら両手を地面について、わざと四つん這《ば》いの姿勢で頭を振った。 「びっくりしたわァ」と女がしゃがれた声でいっている。 「ここらァよ。盲点なんだ。ほんとにまあ太え奴だ」と男が見下ろしている。  いきなり走った。  二人が息をのむのが分った。 「こらッ」「待てッ」  間があって二人の叫び声があがった。走り続けた。見る人もいたが、公園を一気に日比谷交差点へ抜け、信号が青になっていた濠端《ほりばた》の方へ走った。     17 「もう好意を持つことが出来ない。逡巡《しゆんじゆん》も度が過ぎれば我儘《わがまま》だ。君は自分の感情にばかり夢中になっている。こっちがどんな目に遭っているかを考えていない。聞いているのか?」 「ハイ」 「これ以上|関《かか》わるのは、うんざりだ。君には優しくしたいと思ったが、君にそれを受けとめる気がなければ限度がある。  ぼくは充分心をひらいたつもりだ。誰にも話さなかったことを君には打ち明けた。その代り君はなにをした? 心も開かない。逢うといって欺《だま》した。それも手の込んだからかい方をした」 「カラカッタナンテ」 「あれが、からかったんじゃなくて、なんだ? あんなことをする必要がどこにある?」 「エエ」 「どう考えても君の躊躇《ためらい》は甘ったれだ。うんざりするような自己|憐憫《れんびん》だ。いま何処にいる? ぼくはいま和田倉門の際《きわ》だ。濠の手前だ。ここへ来る気があるかどうかだ」 「行キマス」 「すぐにだ。こんな所で、十分も二十分も立っているのはたまらない」 「行キマス」 「すぐにだ」  心の中で叫んで、恒夫は日比谷の方を見た。女は日比谷にいる筈だった。だから皇居の濠端の歩道を、いま恒夫が走って来たようにやって来るはずだった。歩道に人影はなかった。目をこらして日比谷の方から、女の姿が現われるのを待った。  すぐ脇《わき》を車の流れが激しかったが、歩道を来る人はいなかった。なにをしている。すぐ来い、といったのに。  濠には白鳥がいたかもしれない。歩道の並木の若葉が風に揺れていたかもしれない。そういうものは目に入らなかった。歩道を見ていた。やがてその道の遠くに人影が現われた。女だった。彼女か? スーツを着ているように見えた。こっちへ歩いて来る。すたすたと歩いて来る。書類カバンのようなものを手にしている。白い顔が見える。どんな顔だろう? しかし、あの歩き方は、仕事中の人間のようにも思える。彼女ではないかもしれない。それにしても、どうして顔が見えない? 女はこっちを向いて、どんどん歩いて来る。だから、顔立ちは見る見るはっきりして来ていい筈だった。ところが、依然として白い顔はぼやけたままだ。おかしい、と目をこすって、もう一度その方を見ようとすると闇《やみ》だった。女め、なにをした? 「私ハスグウシロニイマス」  振りかえったが、なにも見えない。動けなかった。 「何故《なぜ》こんなことをする?」  女の手が恒夫の右腕を掴《つか》んだ。 「私ハココニイマス」 「しかし見えない」 「デモ、イマス。アナタノ手ヲ握ッテイマス」  腕を握った手とは別の手が、恒夫の左手を強く握った。 「どうして見せない?」 「アナタニハ耐エラレナイカラ」 「俺は子供じゃあない」  恒夫は首を振って、目の闇を払い落そうとした。 「昨夜、私ハアナタニ心ヲ開イタノ」 「なにも聞えなかった」 「デモ、私ハアナタニ心ヲ開イタ」 「ただ訳の分らない風が吹いて、訳の分らない気分がたちこめただけだ」 「ソウナノ。アナタニハ遠イ世界」 「分るように話さずになにをいってる」 「私ノ心ハ、アレガ精一杯。アレ以上分リヤスク話セナイ」 「そんなことをいって、自分にうっとりしてればいい」 「アナタニハ、私ノ醜サモ想像デキナイ」 「見せずに、なにをいっている」 「分ルノ。アナタノ明ルイ世界カラハ私ノ内部モ外見モ想像ガツカナイ」 「俺の何処が明るい? エリックの話の何処が明るい?」 「私ニハソウ思エテシマウ」 「侮辱してるのか?」 「羨《ウラヤ》ンデイルノ」 「目をあけろ。俺の目をあけろ。すいません。誰か、近くにいませんか」 「オ願イ。モウ、行クカラ」 「二度と来るな」 「モウ、決シテ声ヲ掛ケナイ」 「当然だ」 「タダ——」 「条件など聞きたくない」 「半年後ニ一度ダケ、声ヲ掛ケサセテ」 「いいたいことをいうな」 「ソンナ約束ガナケレバ、力ガ出ナイ」 「俺の目になにをした?」  恒夫は女の手を振り払った。さからわずに女は離れた。 「目をあけろ。そのまま行くな」  慌《あわ》てて恒夫は見えない相手に大声を出した。 「アナタニハ見エナイ世界ガアルノ」 「えらそうな口をきくな。俺になにが見えないっていうんだ?」  目をこすった。頭を振った。闇だった。 「おい。何処にいる」  恒夫は、振り払った女の手を捉《とら》えようと両手を大きくひろげた。  その腕を掴まれた。恒夫も、すぐその腕を掴み、間近に若い警官の顔を見て「ああ」と声がうろたえた。 「どうしました?」  若い警官は、恒夫の掴んだ手をひきはがしながら、無表情にそういった。 「いま、女が」と恒夫はいった。「女が此処《ここ》にいませんでしたか?」 「走って行ったけど——」 「どっちへ?」 「どうしました?」 「どっちへ走っていったんです?」 「向う」  警官は、東京駅の方を見た。  恒夫は、すぐ横断歩道に走った。しかし、信号が赤だった。目だけを先に走らせた。しかし、その方向に女らしい姿は見えなかった。足踏みをする思いで待った。  若い警官が近付いて来る。 「どうしました?」 「見たね? 君は女を見たんだね?」 「ええ——」 「どんな女だった?」 「どういう御関係ですか?」 「どんな女だったって聞いている」 「普通の——」 「普通とは、なんだ? そんないい方があるか。あんた警察官だろう」  若い警官は、恒夫の剣幕にひるんだような目になり「青です」といった。 「普通なんて、いい草があるかッ」  いいながら気がせいて、東京駅に向って走った。それらしい女はいなかった。それらしい女? どんな女だ? 想像もつかない醜い女? 普通の、といった。警官の目には普通に映ったのだ。大げさな女め。しかし、とにかく存在した。警官が見ている。俺の幻覚ではなかった。  それきり、女は現われなかった。     18  夏は雨が多かった。  八月の上旬、柴田芳恵は、新宿|歌舞伎《かぶき》町で夕方、恒夫とばったり逢《あ》った。結納《ゆいのう》がこわれた日以来だった。  その日も雨で、コマ劇場に向って歩いていると、グリーンのポロシャツの恒夫が白いビニールの安物の傘《かさ》をさして勢いよく歩いて来るのが見えた。どうしようかと思ったが、すれ違う時「しばらく」と小さくいってみると、すぐ恒夫は振り返って「やあ」となつかしそうな顔をした。 「少し肥《ふと》った?」と芳恵が聞くと、 「ああ。忙しくて肥るわけないんだけど」と笑って「和服なんて凄《すご》いじゃない」と芳恵の着物姿を少しおどけた感じで一歩ひいて眺《なが》めた。こんなことをする人だったかなあ、とちょっと意外だったが、 「元気になったって聞いてたわ」というと「ああ。あの時は本当に迷惑をかけました。いまは正常です」といい、人の流れの邪魔になるのを気にして脇《わき》へ寄った。  まだ時間はあったので「遊び?」と芳恵もそれに合せて動くと、 「仕事仕事。歌舞伎町へ遊びに来る気なんかないよ」と大きな声で笑った。 「忙しいんだ?」 「ああ、韓国バーがどんどん増えてるし、フィリピンも凄いし、減ったのはマレーシア、インドネシアぐらいかな。毎日、こき使われてるよ。もしかして、ここらで働いてるんじゃないだろうな?」 「失礼ねえ。コマ劇場よ」 「あ、森進一?」 「よく憶《おぼ》えてるゥ」 「わざわざ和服着て観《み》るの?」 「まさか。大体、森進一なんてやってないもの。『ピーター・パン』だもの」 「そっか」 「フィアンセと待合せ」 「うわ。出来たんだ?」 「周りが楽しんでいたわるから、少し急いじゃったわ」 「よかったじゃない」 「桜新町の小さな酒屋の跡継ぎなんだけど」 「入管よりいいよ」 「アパート四軒持ってるの、親のだけど」 「すっごい。俺《おれ》とこわれてよかったじゃない」 「そんなにいわないでよ。みじめになって来るわ」 「どうしてよ? 君はいい人だもの。幸せになって欲しいよ」 「そらぞらしい」 「逢えてよかった。いい話、聞いたよ。おめでとう」  そんなことで別れた。  やっぱり断られた人って、プライドがあるから、あんな風に元気に見せるのかしらねえ、と芳恵は思った。「少しはしゃぎ過ぎで、空《から》元気なの分っちゃうけど」  それでも夏の間、恒夫はよく働いた。  庁舎の階段を馳《か》け上って来る恒夫とすれ違った斉藤総務部長が「調子出してるな」と思わず声をかけたこともあった。 「正常です」  大声で恒夫はこたえて、もう三階の廊下に靴音《くつおと》をたてていた。  しかし、九月の下旬に、江本が官舎を訪ねた時は気力をなくしていた。 「一週間も休んでるっていうじゃないか」とベッドにころがっている恒夫を見下ろしていうと、 「ああ」と濃くなった不精髭《ぶしようひげ》で薄く笑った。 「気持の病気は季節の替り目がやばいっていうけど、薬のんでるんだろうな?」  小さなちゃぶ台にシューマイ弁当を二つ置きながら江本は散らかった部屋を見た。今夜訪ねるというと、横浜駅の弁当を食いたいと恒夫がいったのである。 「買い物してないからな」それでも恒夫は起き上って缶《かん》ビールを冷蔵庫から出した。 「これと弁当で我慢してくれ」 「出るか?」 「着替えるのが面倒だ」 「そんなこといってると、どんどん落ち込んで行くぞ」  二人で弁当をひらいて、ビールをのんだ。 「また、なにかあったのか? 墓場の話みたいな」  江本がそう聞くと「なにもない。全然なにもないよ」とないことにがっかりしているような声を出した。 「なら結構じゃないか」 「分って貰《もら》えそうもないけど」 「なんだ?」 「自分が薄っぺらに思えて仕様がない」 「薄っぺらって?」 「俺も人並に悩むし人並に喜ぶし人並に泣くこともあるけど、全部が薄っぺらに思えて仕様がない」 「分らなくもない」 「フィリピンの女を摘発するだろ。連行しながら、彼女たちの親や妹や弟を思う気持とか、金を心から欲しい気持とか、そういうものは、まともで強くて深くて、自分にはそんなものはなにもないという気持になってくる」 「なにもないことはないだろう」 「バングラデシュの男を収容するだろ。彼等が生れた土地のことを思う気持とか、自分の人生について思ってることとか、そういうものに俺はかなわないと思ってしまう」 「妄想《もうそう》だな。そりゃあ奴等の方が苦労してるから、俺たちより人間の裏を見てるかもしれない。しかし、なにも考えてるもんか。生れた土地なんて帰りたくもないと思ってる奴《やつ》いくらでもいるし、ずるくて欲張りで助兵衛で卑《いや》しい奴もいくらでもいるじゃないか。たいして変らないさ」 「可笑《おか》しくて笑うだろ。笑いながら、本当に可笑しいってのは、こんなもんじゃないって思ってしまう。腹を立てるだろ。本当の怒りはこんなものじゃないと思ってしまう。なにか食ってうまいと思っても、悲しいと思っても、本当にうまいってのはこんなものじゃない、本当に悲しいっていうのは、こんなものじゃない——」 「どんなもんなんだ?」 「え?」 「本当は、どんなもんなんだ?」 「分らない」 「分らなくて、そんな風に思うのは妄想の証拠だな」 「誰かの気持が、俺の中へ入って来たんだ」 「なにをいってる?」 「そいつの悲しみが俺の中へ入って来る。俺はものすごく悲しくなる。なにが悲しいんだか分らない。なにしろ俺の悲しみじゃないんだから。とにかく、ばかに深く悲しい。そのうち、その悲しみが遠くなる。俺から抜けて行く。すると、あとには俺の気持だけが残る。それは、ほとんど気持ともいえない貧弱な気持で、実のところ俺は本当に悲しんだことなんかないんじゃないかと思ってしまう。墓場の話をしたな。俺は、あの時ほどのいい気持を、自分の体験では味わったことがない」 「ズボンを汚したのはお前だろう? お前の体験だろうが」 「本当は誰かの気持なんだ」 「誰かって誰だ?」 「誰かの気持が俺を通りすぎたんだ」 「そんな話が信じられるか」 「信じられない。でも、そうなんだ。そいつの気持は、深くて底が知れなくて、あの女のいう通り」 「女?」 「分りやすく話せるようなものじゃない」 「女がいるのか?」 「濃くて深い気持が俺の中を通って行く。通って行ってしまう。あとには俺の薄っぺらで安っぽい気持が残る」 「具体的に行こうじゃないか。お前のどこが安っぽいんだ?」 「分らない。分らないくらい安っぽくて薄っぺらだ」 「なにをいってる?」 「正義の気持もある。罪の意識もある。まともになろうともして来た。その全部が安っぽい。まったく、あんなものが身体《からだ》の中を通りすぎると、まいっちまう。なにをしても、なにを感じても、本当は、こんなものじゃないと分るんだ。俺は下らなくまともになろうとして、むきになって下らなく自分をガードしている」 「お前を病気だとは思いたくない」 「病気かもしれない」 「お前が安っぽいなら、俺も安っぽい。そんな風にいって行けば、みんな安っぽい。警備士長も、警備長も、斉藤総務部長も、みんな安っぽい。ということは、人間なんて、そんなもんよ。特別お前が、どうということはない」 「病気かもしれない」 「思い切って三ケ月ぐらい休んだらどうだ?」 「診断書がいるだろう」 「くれるさ。お前が今いったようなことをいいはれば、いらないっていったって医者は出す」 「やっぱりおかしいか?」 「普通ではない」 「それをいいことに、三ケ月休むか?」 「どんな女だ?」 「女?」 「口をすべらせた」 「うむ」 「まさか恋の病いじゃないだろうな」 「その感じ、なくもない」 「ぬけぬけとこの野郎」  しかし恒夫がそれ以上話そうとしないので、江本も深く問わなかった。  翌日からさしあたって一ケ月、恒夫は治療に専念することになった。  十月下旬、恒夫は勤務に戻った。夏のころの元気はなかったが、真面目《まじめ》に働いた。夜の摘発が終って、みんなで京橋の焼鳥屋で酒をのんだ時、カウンターの席が恒夫の隣になったので、本多警備士長は励ましの言葉を口にした。 「人間、誰しもいろいろあるよ。それでもみんな頑張《がんば》ってるんだ。お前だけじゃない」 「はい」と恒夫は微笑して本多のコップに日本酒を注《つ》ぎ足しながら「ほんとに俺だけじゃないですよね」といった。 「そうさ。みんな、ずっとお前のことを心配してた。なんとか元気になってくれて、ほんとに喜んでるんだ。そうだよな、みんな」と本多が大声を出すと、他の連中も「喜んでます」「よかったよなあ」「ほんとによかった」と恒夫を励ました。それから、カラオケのあるバーへ行き、三時すぎまでみんなで唄《うた》った。  翌日、本多は警備長室へ行き、その夜のことを「ちょっと感動的に盛り上りまして」と話した。  神原警備長は「それはよかった」と微笑し、「うちの連中はなんだかんだいってもまあまあ気のいい奴らばかりだな」とうなずいた。 「はい」と本多も共感の声を出した。「いい奴ばかりです」     19  十一月の初旬、恒夫はまた一日休んだ。  部屋にいて女の声を待っていた。  あれから半年たっている。一度だけ声をかけるといった日が来ていた。彼女が「半年後」といったのが漠然《ばくぜん》とした意味でなければ、六ケ月後の同じ日付けということになる。恒夫は約束をしたわけではないし、向うがその後どういう気持でいるのか分らなかったが、あれから一度も声をかけて来ないのだから、「半年後」に多少の気持は託しているのではないか、と思った。  四ケ月を過ぎた頃《ころ》から、恒夫は何度か自分の方から声をかけようかと思った。女にすまないという気持が湧《わ》いていた。彼女の逡巡《しゆんじゆん》を甘えだの自己|憐憫《れんびん》だのといったのは自分の軽薄さで、もっと深刻な躊躇《ためらい》だったのだと思った。物理的な現実を無視して声を届かせてしまうほどの孤独に甘えの入る余地はないと思った。  しかし、すまないという気持のままにすぐ声をかけるということが大体安っぽいことなのかもしれないと思った。恒夫には「耐エラレナイ」という彼女の醜さがどういうものか見当もつかなかったが、見られたくないという強い思いが、おそらく恒夫の目をふさいでしまったのだとすれば、そのような世界に、恒夫の感傷を軽薄に持ちこむべきではないと思った。  半年後を待って、なんとか彼女と逢《あ》いたいものだと願った。見ることにも耐えられない醜さなどがあるとは思えなかった。しかし考えれば彼女の孤独も具体的にはどのような孤独か少しも想像出来ない。自分は、ほとんど人間の深い現実を知らないのではないか、と思った。  彼女の孤独や醜さを見たいと願った。それがもし、自分の想像を遥《はる》かに越えるものであったら、自分はきっと他のことについてもそのように無知なのだろうと思った。たとえば自分の想像を越えるような美しさ、見当もつかない幸福があるのかもしれないと考えた。  そういうものを知っている人の目から見たら、自分のエリックに対する思いや悩みなど、単純でむかむかするほど安っぽいことなのかもしれないと思った。  彼女に逢いたかった。  明け方から目をあけていた。昼になっても声はなかった。「恋の病い」という江本の言葉が浮んで来ても苦笑する余裕はなかった。息をひそめて待っていた。  しかし否応《いやおう》なく腹は空《す》いてしまう。  二時すぎに、少し遅い昼食をパンとコーヒーですまし、じっとしていたくなくてカップを洗っていると、 「コンニチハ」とまるで背後に立っているように声が聞えた。  顔を上げた。 「ああ——」と水を止めた。「待っていた」振りかえってもいるわけはないが、ゆっくり振りかえった。誰もいない。 「トテモ、声ガ楽ニ届イタワ」と女はおだやかにいった。 「半年、頭を冷やしていた。いろんな気持になったけど、いまは君を怒ったことを悔んでいる。すまないと思っている」 「私ガ悪イノ」 「逢って貰《もら》いたい。君は耐えられないといったが、これでも二十九歳だ。この世に、見ることも耐えられないものがあるとは思えない。いや、あるのかもしれない。あるんだったら見せてくれ。そのことで、ぼくがどうかなっても、それはぼくのせいだ。君を知りたい」 「今日デモウ決シテ声ヲカケナイ」 「いいんだ、かけてくれていいんだ」 「アナタヲコワシテシマウ」 「こわれるもんか」 「コンナ声ガ聞エテ、恋愛ガ出来ル? 結婚ガ出来ル?」 「そんなことは、どうでもいいんだ」 「声ダケノ女ナンテ、キット憎ミハジメル」 「だから逢いたい」 「コノ声ハ私ノ醜サ。私ノ勝手」 「なにを怖がっている?」 「一度ダケ」 「一度でもいい」 「今日ダケ」 「逢ってくれるんだね?」 「ソレデ、消エテシマウ」 「どうしてそんな風に考える?」 「二ケ月グライ前カラ、ソウ思ッテイタノ。一度逢ウ。ソシテ、消エル」 「逢うことが先だ」 「四時」 「今日の四時だね?」 「地下鉄ノ外苑《がいえん》前」 「充分行ける」 「青山通リカラ絵画館ニ向ッテ」 「公孫樹《いちよう》並木のある大通りだね、広い歩道のある」 「左側ヲ歩イテ」 「絵画館に向って左側だね?」 「気取ッタトコロヲ選ンダヨウダケド」 「きっと公孫樹の葉が黄色くなって綺麗《きれい》だろう」 「チョット好キダシ便利ナノ」 「逢おう」 「アナタガ見エタラ声ヲカケマス」 「ありがとう」  淡く気配が消えて行った。  仕度をはじめた。  怖くないとはいえない。たじろいで自分は逃げ出すのではないか? 逃げ出して、彼女をまたひどく傷つけてしまうのではないか? しかし一方で、自分には想像も出来なかった現実に直面できるかもしれないという興奮があった。  いまの自分の周囲に、想像を越えた現実があるとは思えない。たとえばベトナムの戦場でアメリカ兵を襲ったという恐怖とか無関心とかエゴイズムとか殺意とか錯乱とか、そういうものが今の日本にあるとは思えなかった。しかし、彼女の言葉を信じれば、この何事もないような東京の雑踏の中に、想像も出来ないような孤独とか悲哀とか醜悪がたたずんでいることになる。  新橋まで出て、地下鉄銀座線に乗り替えた。  ベトナムの戦場で、エリックとの出来事を話したらどうだろう? それがどうした? とみんな苦笑するだけではないか? 周囲にいくらでも、もっと荒っぽい倒錯がありいくらでも死体がころがっているところで、エリックとの出来事など、ほとんどなにものでもないだろう。  彼女もきっとそう思ったのだ。自分の現実に比べれば、恒夫の告白などなにほどのものでもない、と。  それは一体どんな現実なのか? エリックのことなど、とるに足りないことにしてしまうような現実とは、どんなものなのか? ことによると、俺《おれ》は、ただそういう現実を求めているだけのことなのかもしれない。エリックを忘れることが出来る激しい現実を求めているだけのことかもしれない。  そんなことはない。少なくとも、それだけではない。彼女の感情の深さに圧倒され、見当もつかない彼女の現実に出逢いたいのだ。俺の周りは、ただ薄っぺらで、やりきれなく安っぽい。  外苑前駅で降り、地上へのぼって行くと、よく晴れた空がもう夕方の色だった。  彼女が好きだといった絵画館へ至る長い公孫樹の並木は、かすかな風に黄色の葉を細かく震わせて、斜光線の中で豪奢《ごうしや》に輝いていた。人通りは少なかった。  女が立っているとすれば、すぐ目につくはずだが、それらしい姿はなかった。まだ少し時間が早い。往復してもいいと思い、ゆっくりいわれた通りの歩道を歩きはじめた。  ジョギングをする肥《ふと》った白人の男がやって来る。背後で自転車のきしむ音がして振りかえると、軽装の老女が、シェパードを伴走させて恒夫を追い越して行く。犬も自転車も見る見る遠くなる。ジョギングの男が、荒い息ですれ違って行く。すると遠くを一歩一歩、ゆっくりたしかめるようにやって来る老人が目についた。 「まさか、あの人じゃあないだろう」と思いながら、振りかえると「エエ」と女の声がいった。しかし、背後にも、それらしい姿はない。 「遠クマデアリガトウ」 「少し早く着いてしまった」 「ソウ思ッテ、コッチモ早ク来テイタノ」 「君らしい人は見えない」 「立止ッテ」 「ああ——」 「数エルカラ」 「なにを?」 「公孫樹ヲ」 「どうして?」 「ソコカラ絵画館ヘ向ッテ五本目。樹《キ》ノ陰ニイマス」  事もなげにそういわれると、拍子抜けのような気もした。 「歩いていい?」 「エエ」  五本目の樹を見ながら、ゆっくり歩きはじめた。一本、二本。通りすぎながら、息苦しくなって来る。心の中で笑ってみせた。 「近づくまで出て来ないつもり?」 「勇気ガナイノ」 「こっちも膝《ひざ》の力がなくなりそうだ。随分君が勿体《もつたい》をつけたから、すくんでしまいそうだ。ちらりと見えた。動いたね? 紺かな? セーターかな?」 「カーディガン。葡萄《ぶどう》色。|スカート《ヽヽヽヽ》モ。ソレト白イ|ブラウス《ヽヽヽヽ》」 「ああ、白いブラウス——」  いいさして恒夫は立止った。  女は目の前の樹皮を見つめているように見えた。それから、はじめて立止った恒夫に気がついたように白い顔を向けた。  三、四メートル離れた位置で、恒夫は息をのんでいた。美しい女だった。まだ二十歳にならないように見えた。 「ああ——」  恒夫は吐息のようにいって、うなずいた。 「こんにちは」と少女はいった。短かめの髪はただ切り揃《そろ》えているだけのように見える。化粧もほとんどしていない。淡い桃色の唇《くちびる》を小さくひらいていた。 「ああ、こんにちは」  そうこたえたが、恒夫は動けずにいた。女の目が恒夫を見ていない。やや焦点をはずしている。 「笠間さん?」 「そうだ——」  少女の目がなにも見ていないことは、すぐ分った。しかし、これは彼女ではない。 「またか。また、君はこんなことをするのか」  恒夫は心の中で叫んだ。「これは君じゃない。この子は目が見えないようだ。君にそんな不自由がないことは、日比谷公園で分っている。なぜ、こんなことをする? この子は、まだ十七、八じゃないか」 「どうしたらいい?」と少女が聞いた。 「ああ、少し——」  おだやかにいおうと、恒夫は大きく息を吸った。「すまない、少し待っていてくれ」声が震えた。 「いいわ」と少女はなにかを思い出そうとしているような目で、うなずいた。 「綺麗《キレイ》ナ子デショウ」  声の女がそういった。 「だからなんだ? こんなことをして、なにになる?」 「私ダト思ッテ」 「思えるはずがない」 「私ヲ思イ出シタラ、私ノ声ニコノ子ノ姿ヲ重ネテ」 「こんなことをして、なにになる?」 「アナタノ中デ、綺麗デイラレル」 「馬鹿気《ばかげ》ている」 「アナタハ私ノ姿ヲ他ニ思イ出シヨウガナイ。コノ子シカ見テイナイノダカラ」 「何処《どこ》にいるんだ?」 「捜サナイデ。コノ子ダケヲ見テ。コンナ綺麗ナ子トシテ、アナタノ目ニ残ルナラ、別レルコトガ出来ル。モウ声ヲカケナイデイラレル」 「どうしてそんな悲しいことをする?」 「アナタヲ好キダカラ」 「甘いことをいわないでくれ。君はそんな人じゃないはずだ」 「甘クナイ」 「綺麗な姿で残りたいなんて、甘っちょろい思いつきじゃないか」 「サヨナラ」 「駄目《だめ》だ。君に逢《あ》いたい。君を知りたい」  返事がなかった。 「何処にいる?」  周囲を見た。  ただ、少女が動かずにいるだけだった。 「何処にいる?」  声に出さずに叫ぶのが、むずかしかった。しかし、少女を怯《おび》えさせたくはない。 「とても逢いたい。逢いたいんだ」  心で叫んで、車道をへだてた対岸の歩道に目を走らせた。 「何処にいる?」  公孫樹を見上げた。ふり向いて、青山通りの車の流れを見た。 「返事をしろ。何処にいる?」  答えはなかった。耳をすました。  いるのかいないのか、高ぶった頭では分らない。動かずにいた。しばらく、動けずにいた。 「なにか、あったの?」  少女が首を少し傾けていった。 「なにもない」  恒夫は、首を振った。笑顔をつくろうとしたが、つくれない。 「それなら、いいけど——」  動くな、といわれたように、少女ははじめの位置を動かずにいた。 「どうして君は——」怯えさせまいとして、恒夫は少し離れたまま口をひらいた。「此処《ここ》にいるのかな?」 「頼まれて」  明るく少女はこたえた。 「誰に?」 「女の人に。散歩していて、ひと月ぐらい前」 「どんな風に?」 「ほんの十五分ぐらい、今日、此処に立っていてくれれば、一万円くれるっていわれたの。笠間さんという男の人が来たら、こんにちはっていうだけでいいって」 「変な頼みだとは思わなかった?」 「思ったけど、危険なことはなにもないって、何度もそういったし、昼間だし、お金を稼《かせ》げるのは嬉《うれ》しかったわ」 「どんな人だった?」 「目が見えないの、分るでしょう?」 「感じさ」 「いい人に思えたわ。声って正直だから」 「そうか——」 「いいのかな? もう」 「いいんだ。手を貸そうか?」 「平気。馴《な》れた道なの。家が近いの」 「お金は貰《もら》った?」 「前金でね」  少女は動かない目で、くすりと笑った。青山通りの方へ歩きはじめた。その動きのひとつひとつに魅《ひ》きこまれて恒夫は見惚《みと》れていた。 「さよなら」と少女がいった。 「ああ、さよなら」  杖《つえ》を使わずに、やや外股《そとまた》に行く後姿は、その気で見なければ、目の見えない人には思えなかった。たしかに、声の女を思い出す時、この美しい少女の姿を思い出すことになるだろう。  見捨てられた思いで、遠くなる少女を見ていた。 「何処にいる?」  もう一度呼びかけ、しばらく立っていたが、こたえはなかった。