山村美紗 幻の指定席 目 次  幻の指定席  死人が夜ピアノを弾く  密会のアリバイ  新幹線ジャック  不 用 家 族  小さな密室  危険な忘れ物  幻の指定席     1  黒木一郎は、死体の傍で、呆然と立ちすくんでいた。  今、この手で、知沙子を絞め殺してしまったということが、どうしても信じられなかった。  三十分程前、家を出たときには、今日こそ結婚の日どりを決めてこようと、胸をはずませていたのである。  黒木と知沙子は、京都のS高校の同級生で、その頃から恋人同士だった。  黒木が、東京の大学へ行ってからも交際は続き、卒業と同時に結婚しようということになっていた。  そのために、黒木は随分今までに犠牲を払ってきた。  黒木の父親は弁護士で、彼も小さい時から、法曹関係に進もうと思っていた。  しかし、知沙子は一人娘で、家が医院であるため結婚相手は医者でなければいけないといわれ、黒木は京都の大学の法学部に合格したのを棒にふって、翌年、東京の大学の医学部に入学しなおしたのである。  大学生活の六年間、黒木は、東京と京都の間を、どれだけ新幹線で往復したことだろう。試験前日なのに、知沙子が、盲腸の手術をしたというので、日帰りで見舞ったこともあるし、東京から京都にかける電話代が毎月何万円にもなるので、その支払いのために肉体労働のアルバイトをしたこともある。  その彼女が、今日来てみると、突然、ちがう相手と結婚するというのだ。しかも、その相手は、彼女があれほど固執した医者ではなく普通のサラリーマンで、すでに一年前から深い仲になり、この夏には子供も出来るという——。  マンションの前をサイレンを鳴らして駆けぬけていくパトカーの音で、黒木は、はっと我にかえった。  パトカーのサイレンが、黒木の恐怖をかきたてた。今日、ここへ来たことは誰も知らない。一刻も早く逃げなければとあわてて指紋を消し、足を踏み出した途端に、死体にぶつかり、俯伏《うつぶ》せになっていた恋人の生気のない顔が、くるりと、彼の方を向いた。  黒木は、思わず小さな悲鳴をあげ、ドアの外へとび出した。  幸い誰にも会わず、家に帰ることが出来た。家には、藤川剛という近所の大学生が待っていた。二、三日前に、中古のギターをあげたお礼だといって、置時計を持ってきてくれたのだ。 「十一時頃来たら、京都駅に切符を買いに行っておられると聞いたので、ギターを弾きながら待っていたんですよ。指定席券はうまく買えましたか?」  藤川にきかれてはじめて、妹にそう言って家を出たことを思い出した。今朝九時頃、名古屋に帰省中の友人の早瀬から、明日一緒に帰らないかという電話があったのである。同時に、家を出ていた十時から十一時半までのアリバイが必要なことにも気がついた。 「うん、買えた。明日帰るよ。卒業ともなるといろいろ忙しいからね」  黒木は、短く答えて話をギターの方に持って行った。  三十分ほどして藤川が帰ると、黒木はあわてて京都駅のみどりの窓口に電話をした。 「明日のひかり東京までの指定席券、今から行って買えるでしょうか?」  何度も同じことを答えているためか、電話口のむこうからは、テープに入れたような抑揚のない声が返ってきた。 「大雪のため、列車が連日大幅に遅れております。指定席券は、今朝の午前十一時までで、発売を中止いたしました。どうか自由席をご利用下さい」  こちらの返事を待たずに電話は切れてしまった。黒木は、急いでもう一度ダイヤルをまわした。 「今日はだめでも明日の朝だったら、指定席が買えるでしょうか? グリーン車もありませんか? どうしても、明日指定席で東京まで帰りたいのですが……」 「今のところ、京都・名古屋間の関ヶ原が吹雪で、各列車二時間以上遅れておりますので、明日は、グリーン車も含め、指定席券は発売しません。自由席券も、延着承知の券しか発売できないと思います」  今度も、電話はむこうから切れてしまった。問合わせが相ついでいるのだろう。     2  昼食が出来たという知らせで、黒木はダイニングへ行った。知沙子の死体を思いうかべると食欲など全然ないが、あやしまれないため無理してでも食べることにした。テーブルには、母と妹がついていた。父は事務所に出ている。  箸《はし》をとりあげたとき、妹の夏子が、留守中に、名古屋の早瀬から再び電話があったことを告げた。早瀬は、黒木と同じ大学の友人で、去年の夏、家にも遊びに来たから、母や妹もよく知っている。 「早瀬さんは、明日の午後一時五十五分名古屋発の、ひかりで帰るそうよ。私が、兄さんも今、券を買いに行っているって言ったら、もう少し早く連絡すればよかったと言ってたわ。早瀬さんは、9号車なんですって。兄さん、明日、何時のに乗るの?」 「ああ、あとで切符を見てみるが、同じくらいの列車だ。京都発は一時頃だったと思うな」  こんなにダイヤの乱れているときだから、あとでなんとでも言えると考えて、黒木は適当に答えた。しかし、次の瞬間、「しまった」と思った。 「指定席だと、二時間以上遅れたら特急券の払い戻しが出来るんでしょう? 早瀬さんといっしょだと列車の中も、払い戻しを受ける時も、退屈しないでいいわよねえ」  と、妹が言ったからである。  明日買う切符には、延着承知のスタンプが押してあるから、東京駅で払い戻しをうけることは出来ない。同じ列車になって早瀬と出会うと、今日指定席券を買わなかったことがバレてしまう。  黒木は、長く喋《しやべ》っていると、カンのいい妹に、なにを感づかれるか知れないと思い、食事もそこそこにそそくさと席を立った。  自分の部屋に閉じこもって、炬燵《こたつ》に入っていると、今朝からのことが、夢のように思われてくる。知沙子が生きていて、今にも明るい声で電話をかけて来そうな気がしてならない。しかし、夢でない証拠に、夕方のテレビニュースでは、知沙子が殺されたことが報じられた。  今日、午後一時頃、京都市伏見区丹波橋「桃山レジデンス」五〇五号に住む園知沙子さんを訪れた婚約者の岸田秋夫さんが、奥六畳の間で、園さんが殺されているのを発見しました。園さんが、犯人を奥の部屋まで入れたと思われるところから、顔見知りの犯行ではないかとの見方もあり、警察では、岸田さんなどから事情を聞いています。  画面には、知沙子の顔写真も出ている。  黒木は、テレビの画面を見ながら恐怖におそわれた。高校時代から仲が良かったということで、今に、こちらにも刑事が聞きにくるだろう。刑事にアリバイを聞かれたら、何といって答えようか。必死になって考えているうちに、とにかく、今からでも京都駅に行って、今日の日付の新幹線の自由席券を手に入れておくことだと思いついた。  明日、新幹線に乗るまでに刑事が来なければ、切符まで見せなくてもいいが、もし、やって来て、家を出ていた十時から十一時半までのアリバイを聞かれた場合、京都駅に切符を買いに行っていましたといっても、切符がなければ疑われてしまうだろう。たとえ、自由席の券でも持っていれば、京都駅へ行ったという一応の証拠にはなる。それに、たしか自由席券でも延着承知のスタンプがなければ払い戻しがあるはずだ。  家から京都駅までは、約四十分かかるので、今朝京都駅へは、十時四十分頃ついたことになる。十一時まで売っていた指定席券を、なぜ買わなかったのかと聞かれても、ぎりぎりで間に合わなかったと言い抜けることも出来るだろう。また、列車が遅れているようなので、何時に乗ってもいい自由席にしたと言ってもいい。自由席ならいつでも買えるじゃないか、乗る前にでも買えばいいのにと言われるかもしれないが、それにはちゃんと答えられる理由がある。  こんなに、ダイヤが乱れているときだから当日に買ったのでは、きっと延着承知のスタンプが押されて払い戻しが受けられない。今日だとそういうスタンプが押してないから買っておいたのだと答えることが出来る。  思いつくと、黒木は少し元気になった。  母や妹には、本を買ってくると言って外に出た。  外へ出てからサングラスをかけ、なるべく目だたぬように駅に行き、自由席券を手に入れた。券を掌にのせてみると、一月七日という日付印が押してある。とにかく、これで、今日一度は京都駅に来たことになるのだ。  黒木は少し落着きをとりもどし、家のものに言った口実どおり本を買って帰途についた。歩きながら考えてみると、今、自由席券を買ったことは、もう一つ、有利な点があるのに気づいた。  もし、明日、新幹線に乗るまでに刑事がこなかったら、早瀬と同じ列車に乗るのだ。  早瀬は、名古屋からの指定席券を持っているから、予定通りの列車に乗り、指定席券の座席に坐り、降りたとき二時間以上延着していれば、特急券の払い戻しをするだろう。だから、こちらも彼と同じように行動するのだ。そうすれば、こちらも指定席券をもっているのだと、彼が錯覚して証言する。  同じ列車に乗り、彼が名古屋から乗ってくるまでに(京都から名古屋のあいだで)どこかの座席を見つけて坐り、早瀬にも坐っているところを見せ、降りるときには、いっしょにおりて、いっしょに払い戻しの窓口に並ぶ。自由席券で乗っても、今日買ったのには、延着承知のスタンプがないから、払い戻しは出来る。ただ、早瀬に指定席券で払い戻しを受けたように見せかけなくてはならないが、それはあとで考えよう。  家について自分の部屋に入ると、黒木はほっとしてなにげなくもう一度、自由席券を手にとって眺めた。が、そのうちに、彼の顔が、青ざめてきた。乗車券には、通し番号が打ってある。もし、刑事が今やって来て、この券を見たら、通し番号から、この券は、京都駅で、朝十時四十分頃に売られたものではなく、午後五時頃売られたということがわかるのではないかと思ったからである。  黒木は、明日、京都を離れるまでに、刑事がたずねてこないことを祈った。     3  電話のベルが鳴った。  黒木は、廊下を走り、急いで受話器をとりあげた。刑事からだと家のものが出てはまずいと思ったからだが、電話の相手は昔のギター仲間の大石学だった。黒木は、大石が、三月上旬の演奏会にいっしょに出演してくれと言って、東京の下宿に手紙をよこしていたのを思い出した。彼はいつも通りののんびりとした声で話しかけてきた。 「やあ、黒木。今日は折角来てくれたのに留守ですまなかったなあ。実は、散髪に行ってたんだ。散髪の椅子にこしかけたまま、ふと通りを見ると、君が俺の家の方へあるいていくじゃないか。あわてて呼びとめようとしたが、顔に石けんの泡をつけたままとびだすわけにもいかないので、手まどってしまったんだ。急いで家まで帰ったんだがとうとう会えなかったよ」  大石の家が、殺した知沙子のすまいの近くなのに気づいて、黒木は顔から血の気が引いていくのがわかった。まずい。黒木が黙っているのにおかまいなしに、大石は大きい声で続けた。 「すぐに連絡しようと思ったんだが、実はうちの近くに殺人事件がおこってね。テレビでも言ってたが、園知沙子という美人が殺されたんだ。それで刑事が近所に聞きこみに来てうちにも来たりしたので遅くなった。……で、演奏会出てくれるのか?」 「ああ、出さしてもらうよ」  黒木は、混乱から立ちなおれないままにことば少なに答えた。〈大石は、刑事に何と言ったのだろう、幸い、大石は、知沙子と俺との仲を知らない。でも、そのうちに、俺と知沙子が同じ高校で、しかも、仲がよかったと知ったらどう思うだろう〉 「東京にはいつ帰るんだい?」  大石の声で黒木は、とっさに決心をして言った。 「明日、昼から帰る。その前にもう一度伺うよ」 「そうか。そうしてくれるか。それじゃあ……」  大石からの電話は切れた。終って手を見ると、よほど強く受話器を握りしめていたのだろう。べっとりと、汗をかいていた。  部屋に入ると、黒木は、大石も殺さなければならないと、自分に言い聞かせた。彼がいる限り、どんなに細工をしても、自分のアリバイは成立しないからだ。  時刻表を調べると、名古屋から早瀬が乗ってくる列車は京都十三時五分発ひかり130号であることがわかったので、それに乗ることにする。母や妹にもその時刻の指定席券を買ったように言って、昼食をすませ、家を十二時二十分に出る。家から京都駅までは、四十分かかるから、京都駅には十三時について、十三時五分のひかりに乗っていれば、十二時二十分からあとのアリバイはたつ。  そうしておいて、実際には家を出て駅ではなく大石の家へ行く。  大石の家までは三十分かかるから、十二時五十分に大石の家について、彼を殺して十三時きっかりにそこを出て、京都駅にむかう。  大石の家から京都駅までは二十五分くらいだから駅には十三時二十五分に着く。  そして、十三時五分発のひかりに乗る。  なぜ二十五分について、五分発に乗れるかというと、このような雪で遅延がつづき、延着承知のスタンプまで押すようになると、午後からの列車は京都発ですでに三十分から一時間遅れて発車することを、六年間、東京・京都間を往復して新幹線の事情にくわしい彼はよく知っていたからである。  東京の友人たちは、関ヶ原が雪で、東京へ着くのが二時間遅れたというと、一様に、五時間も列車に乗っていて疲れただろうという。  関ヶ原が、京都・名古屋間にあるので、当然京都は定刻に出て、関ヶ原で二時間遅れて名古屋についたと思うらしい。が、しかし、本当は、京都ですでに一時間遅れて出発するのだから、乗っているのは四時間なのだ。  ただし、午前中の列車は、こういうことはない。始発から午前中ぐらいは、列車が車庫に入っているので、列車があるうちは、出るのはきちんと出るからだ。そして、京都を出て関ヶ原で停滞する。ところが、午後になってくると、列車が遅れて帰ってこないから、出るのも遅れるということになるのだ。  それでも、たかをくくって遅れてくるような人はめったにない。京都から乗る人で指定席券を持っている人は、みんな定時には駅に行ってホームで待っている。なにかの都合で定時に来たらと考えて不安だからだ。  だから、たとえ警察が、本当は、遅れることを計算にいれて、大石を殺しに行ってから駅に来たのだろう、と言っても、そんなことはない、としらを切ればいいわけだ。  一緒に帰る友達が名古屋から乗りこんでくるので、遅れてはいけないと思って、家からまっすぐ駅にきて、一時からずっと待っていたといえば、警察も違うとは言えないだろう。  黒木は、時計を見た。午後六時だった。幸い、刑事はまだ来ない。しかし、明日の昼、家を出るまでには、まだ時間がある。それまでに刑事に訪ねてこられては困る。  何とかして会わないで済ます方法はないか、しばらく考えた末、彼は、伯父の病気を見舞いに行くことを思いついた。  綾部にいる伯父は、肝臓が悪くて、ずっと寝たきりである。前から一度見舞いに行けと母に言われていたのだが、今までは帰省すると、知沙子とのデートに忙しくてほうっておいたのだ。  彼は、母に、これから伯父の見舞いに行くと告げ、明日、午前十一時ごろ帰ると言い残して家を出た。  綾部は京都府下だが、国鉄山陰本線で急行に乗っても一時間以上かかる遠隔地である。今の段階では、刑事は綾部まで来ずに、聞くことがあれば明日の十一時に帰ってくるのを待つだろう。その少し前に家に電話をかけて、刑事が来るようだったら、家に寄らない方法をとろうと考えた。  翌日の朝十時半に、黒木は、家の近くまで帰って来て電話をかけた。電話には妹が出て、かかって来た電話や訪ねて来た人がないことを告げた。刑事は来なかったのだ。  家に帰ってから十二時二十分に家を出るまで、黒木は今にも刑事が来るのではないかと心配したが、刑事はとうとう来なかった。  家にいる間に、黒木は、大石に電話をかけた。大石が黒木の来ることを誰かに言わなかったか、警察の方の調べはどうなっているかを聞き出したかったからである。話しているうちに、大石は思いがけないことを喋った。 「きのうちょっと話しただろう。うちの近所でおこった殺人事件のこと。殺された知沙子という人の婚約者の岸田秋夫という男が、僕の友達でギターがうまいんだよ。今は、婚約者が殺されたし、自分も調べられたりでとりこみ中だが、三月になったら、彼もいっしょに演奏会に出てもらおうと思うんだがいいだろう? 彼は、決して人を殺すような人じゃないし、妹さんの話では、犯人の心あたりがあるように言っていたから、きっと、今に犯人はつかまると思う。そのうち紹介するよ。……じゃ、待ってるから来てくれよ」 〈犯人の心あたりというのは、間違いなく俺のことだ。それを大石が知ったら、いやでも、その時刻に俺がその近くを歩いていたことと結びつけて考えるだろう。どうしても大石を殺さなくてはならない〉  電話を切ったあと、黒木は、改めて自分に言い聞かせた。  彼は、十二時二十分に家を出て、しばらく行くと、建物のかげで、リバーシブルのオーバーを裏がえし、無地の黒い方を着た。それから眼鏡をかけ、マスクをして、二つの黒い小さなカバンを手に持った。これは、犯行後駅に着いてから、空色の大きな旅行カバン一つにまとめるつもりだ。  タクシーを三つ乗り換えて、大石の家から少し離れたところで車を降りた。     4  大石を殺すのは簡単だった。彼のネクタイを使って、すきを見て絞殺した。二回目で慣れたわけでもないだろうが、それほどショックも感じなかった。  指紋や遺留品を残さなかったかどうか注意深く点検したあと、駅へ向った。途中でタクシーを乗り換えることも忘れなかった。  普通、新幹線に乗る場合は、八条口で車をとめて入っていくと近いのだが、黒木は、わざと、表側の駅の中央でおりた。  オーバーや眼鏡、マスクなど気をつかってはいるが、どこまで変装できたかは不安だった。この時間に、新幹線口に乗りつけたことをタクシーの運転手に証言されては困るからだ。駅の掛時計は十三時二十五分を指していた。その横には、黒木の乗る列車の二つ前のひかり22号の表示が出ていた。一つ前の列車は運休になったらしい、それに乗るのでなくてよかったと黒木は胸をなでおろした。十二時二十九分発だから五十分以上遅れている。 「予定通りだ」  黒木はつぶやいた。念のため、新幹線の切符の発売窓口をみると、〈本日は延着承知の券しか発売しません〉という札がかけてあった。  トイレに入って、服装とバッグを変えると、ホームへ上がるエスカレーターに乗った。頭上を轟音がすぎて行く。遅れていたひかり22号が出ていくところらしい。  ホームに上がると、発車表示が、ゆっくりと十三時五分に変った。次はいよいよ目的の列車が入ってくる。  9号車の停車位置まで歩いていったとき、アナウンスがあって、十三時五分発の上り東京行きのひかりは、五十分前後遅れる見込みだと告げた。  黒木は、ほっとしてあたりを見廻した。待っている人達は、寒そうに襟をたて、ホームに佇《たたず》んでいる。彼に注意を払うものはない。  腕時計を見ると十三時三十五分だった。  この分では、次の列車が入ってくるのは、十四時ごろになるだろう。  黒木は、近くの売店へ行って週刊誌と折詰めの弁当を買い、一万円札を出した。 「こまかいのあらへんの?」  と、売店の女の子に睨まれたが、結局はおつりを貰った。立ち去る時、黒木は、わざと旅行バッグを置き忘れた。すべて印象づけるためにやったことだ。  しばらくすると、売店の女の子が、バッグをもってやって来た。 「お客さん、バッグ忘れてはりますよ」  女の子は、さっきより親切だった。今日は売店も暇だからだろう。  礼を言ってバッグを受けとった時、まわりの人達が、じっと黒木を見ているのに気がついた。 〈これで、少なくともこの時間には俺がこの列車を待っていたという証人ができた〉  黒木はほくそえんだ。そのあと黒木は、じっと目をつぶって立っていた。  吹きさらしのホームに立っていても、寒さは感じない。あとは、列車が入ってきたら、うまく座席をとることだ。     5  十三時五十六分。ひかり130号はホームの右手から、ゆっくりと入ってきた。五十一分遅れである。  ホームから身をのり出してみると、にぶいへッドライトの光の中に、粉雪が舞っている。この分では延着払い戻しは間違いないだろう。このように延着が続く場合は、全車自由席になる場合もあるが、幸い今日は指定席制だった。  列車に乗ると、黒木は9号車の車内を見廻した。大幅に遅れるというニュースで、旅行を控えた人や、指定席券を買いながら、前の列車に乗って行ってしまった人があったためだろう、三割くらいの空席があった。  こんな場合、適当に空いた席を見つけて坐り、検札に来た車掌に、自由席券を提示して百円払って指定席券にしてもらうといいのだが、黒木はそうしなかった。  そんなことをすれば、まわりの人に、自由席から変更したということがバレてしまうし、それ以外にも、まずいことがあるからだ。  今までの経験だと車掌は、勝手に空いた席に坐りこんでいる客に対しては、あまり好意的ではなく、百円を受取り、指定席に変更したという伝票を書いてくれながら、必ず、「名古屋で、この席に乗ってくる人があったら立って下さいよ」と、念を押す。  もし、名古屋で、早瀬がこの9号車に入って来て喋っているときに、黒木の席に、指定の人が乗り込んで来てもめたりしては、なにもかも水泡に帰してしまう。  最悪の場合は、その席は、名古屋から乗ってくる早瀬の席かも知れないのだ。  それを防ぐには、どうしたらいいか。それには、こちらから、専務車掌のところに行き、どこか確実にあいている席をみつけてくれと頼めばいい。車掌は、考えた上で席を指定し、百円を受領した伝票に、列車番号と、何号車の何番という座席番号を書き入れてくれる。  勝手に坐らないで、礼儀正しく指示を仰ぎに来た客に対しては、車掌は好意的で、その席に名古屋から人が乗ってくるということはめったにない。この券があれば、座席指定券があるのと同じである。  指定された号車のところへ行き、眼で番号を探してスマートに坐ることが出来るし、料金払い戻しの時も、指定席券を示したのと同じようにすんなりと返してもらえる。  自由席券だと、形式的にしろ、どの列車に乗ったかとか、何時に出発したかなどと聞かれる。自由席券は、どの列車に乗るにも通用する代り、どの列車に乗ったかはっきりしない。一つ前に、あまり遅れないで到着した列車に乗っていたのかも知れないからだ。  前に、黒木が自由席券で払い戻しを受けたときには、どの列車に乗っていたかと聞かれたし、一度などは、指定席券と自由席券の人とは別の列に並ばされたこともある。  その点、今のような手続きを経ておくと、券に、列車番号とか席の番号がかかれているのだから、何も聞かれない。  ひかりは、1号車から4号車までは自由席だが、9号車は指定席の車輛だ。  名古屋から乗りこんで来た早瀬は、その指定席車輛の座席に黒木がちゃんと坐っているのを見、すんなりと払い戻しを受けているのを見て、自分と同じように、あらかじめ指定席券を買ってもっていたと思いこむに違いない。  早瀬が、電話して来たとき、黒木の妹が、兄も駅に券を買いに行っているといったのだから、よけいそう思うはずである。  しかし、この方法で、注意しなければならないことが二つある。  一つは、専務車掌にあとで証言されないように、印象をうすくしておくことだ。  車掌だって、毎日毎日、相当数の人の座席を変更しているから、一々おぼえてもいないだろうが、目立たないことは大切だ。  もう一つは、払い戻しを受ける時、早瀬に、指定席券でないことを気づかせないことだ。  黒木は、オーバーを脱ぎ、紺の背広姿になると呼吸をととのえて歩き出した。  7号車のデッキ近くへ来たとき、専務車掌と、乗客が言い争っているのが聞こえてきた。黒木は、ドアのかげに身をひそめて、立ち聞きした。 「僕たちは十人の団体旅行なんだよ。こんなに遅れてしまっては困るよ。東京に帰る人は、いくら遅くなっても辛抱するだろうが、こちらは北海道まで帰るのに、予約した飛行機に間に合わないじゃないか。あとの飛行機のキャンセルを待つにしても、十人も同時には取れないよ。特に、新幹線がこれだけ遅れてるんじゃ、飛行機の利用者は多いと思うからね。どうしてくれるんだ?」 「どうもすみません。でも、雪なんだから不可抗力なんですよ。どうしてくれるといわれても仕方がありませんよ」  乗客は、頭に来たらしく、声の調子をあげた。 「不可抗力、不可抗力って、さっきから何回も言うけどね。不可抗力じゃないよ。冬になったらいつも関ヶ原が雪で遅れるのはわかってるんだろう。ちょっとは改善方法を考えたらどうなんだ。その距離だけ、傾斜をつけた屋根で覆って人工トンネルにするとか、除雪車を走らすとか、そういうことを考えもしないで、駅員はみんな、雪だから仕方がない。不可抗力だという。乗る前に切符売場に貼ってあった、〈延着承知の券しか売りません〉って札は、ありゃなんだい。今までは一時間遅れたら払い戻ししてたのに、勝手に二時間以上にして……」 「延着承知の券は、はじめから割引いてあるから合理的なんですがねえ」 「とにかく、飛行機の座席十人分、とってくれよ」 「そんなこと、会社がちがうんだから、私におっしゃっても無理ですよ」 「じゃ、飛行機に乗れなかったらどうするんだよ。東京で泊まるのか。じゃ、そちらでホテルをとってよ。十人分」 「そんな無茶な……」  黒木はチャンスだと思った。  二人が、逆上している時に頼めば、そちらに気をとられていて、こちらのことを覚えてないだろうと思ったからだ。  黒木は、進み出た。 「お話し中、すみませんが……」  車掌はまた、文句を言う客が現われたかと思って、こわい顔をしてふりむいたが、黒木が、 「どこか空いている座席はないでしょうか、友達が名古屋から9号車に乗り込んでくるので、なるべく9号車がいいんですが……」  といって百円玉と自由席券を出すと、ほっとしたらしい。伝票を出して、ちょっと考えながら指定番号を書いてくれた。  書き終ると、 「この席だと、名古屋から乗ってきませんからどうぞ」  と、目の前の客へのあてつけか、黒木にやさしくいった。  車掌と言い争っていた客は、その間、横を向いたままだった。     6  黒木の手に入れた伝票は、みどり色の指定席券よりは少し大きめで、ベージュ色をしている。百円の領収と、一月八日という日付、そして、ひかり130号9号車の4Aという記載があった。 〈しめた。これで、自由席券は指定席券に変ったぞ〉黒木は、心の中でにやりとした。 「9号車の4A」と、つぶやいて、番号を頭にたたきこむと、紙片を財布にしまった。  9号車に入ると、大部分の乗客は、すでに自分の席についていた。  4番のAはやはりあいていた。 「9号車の4Aというと……ああ、ここだ」  わざと少し大きな声で、言いながら、黒木は席についた。一つ前の席の子供づれの夫婦がその声にこちらをふりむいた。  窓の外は曇って、雪がぱらついているようだった。  席についてから腕時計をみると、午後二時十分だった。普通だと名古屋まで約五十分だから二時にはつくところだが、関ヶ原で一時間は遅れるだろうからどうしても名古屋着は四時だなと黒木は考えた。四時になって早瀬が乗りこんでくるまでは、することもない。少し寝ようと思って頭を背もたれに押しつけたが、眠れるものではなかった。 〈そうだ。早瀬に電話をしよう、ここから電話をすれば、交換手が『ひかり号から電話です』というから、俺が間違いなくひかりに乗っていた証明になる、そして、早瀬が出たら、9号車の4番のAに乗ってると告げるのだ〉  電話は、5号車と9号車のビュッフェの横にある。黒木は、荷物を座席において、9号車のビュッフェに行った。  電話機には赤いランプがついたり消えたりしている。消えたときは話し中なので、ついている時をみはからって受話器をあげて百円入れなければならない。  黒木は、ふと、いつも東京からの往復に、ここから知沙子に電話をかけていたのを思い出した。知沙子の家ははじめ宇治市だったので、新幹線の中からは電話がかからなかった。だから、一年前に知沙子が家を出て京都市内で一人でアパート暮らしをはじめるといったとき、新幹線の中からでも電話がかけられるようにと変ってくれたのだと感激したのだった。しかし、本当は、違う男のために変ったのだった——電話機に赤いランプがついた。  黒木は、気持をふっきるように勢いよく受話器をとりあげた。電話はつながったが、電話口に出たのは彼の弟だった。 「あ、黒木さんですか? 兄は、一時五十五分のに乗るといって、一時半頃に家を出たんですよ。関ヶ原が雪なので、名古屋着は一時間か二時間遅れるだろうと家のものも言ったんですが、指定席券を買ってしまったから落ちつかないといって、時間通り出ていきました。だから、今頃は、名古屋駅のホームで待っていると思います。……黒木さんは、もう列車に乗っていらっしゃるんですか? 今、交換手の方が、新幹線ひかりからだと言いましたが……」 「ああ、兄さんが乗ってこられる同じ130号のひかりなんです。僕も、指定席券を買ったので、これに乗ったんですが、遅れてるので嫌になってるんですよ。僕は、9号車の4番のA席なんですが、兄さんといっしょに東京まで行けるといいと思ってかけたんです」 「兄から電話がありましたら、そのことを伝えておきます。母が、他のことで用事があるので、乗る前に電話するように言っていましたから、多分、電話があると思います」  電話を切って席に戻ると、黒木は窓の外に目をやった。田んぼや家、遠くの山など、見わたすかぎり、薄く雪が積っている。  黒木はふと、なにもかもすててあの雪の中へ歩いて行きたい衝動にかられた。  殺してからあと、罪から逃れることばかりを考えていたが、こうして落着いてみると、知沙子の顔が、目に浮かんでくる。  何故殺してしまったのだろうという後悔と同時に、何故、知沙子が他の男にというくやしさも湧き上がってくる。  久々に恋人に会えるうれしさに胸はずませていた来がけの新幹線と今とでは、窓外の景色まで変って見える。  暮に黒木が帰省したとき、知沙子はスキーに出かけてしまっていた。恋人がせっかく帰ってくるというのに、と黒木は不満だったが、もうすぐ結婚するのだから、彼女も、最後の独身生活を楽しんでいるのだと思い直して待っていたのだった。一月七日になり、東京へ帰る日が迫って来た。さすがに辛抱しきれなくなって電話をすると、彼女はすでに帰ってきていた。  帰って来たのならなぜすぐ電話をくれないんだと言いたいのをこらえて、黒木はすぐに、たずねていった。そして昨日——。  窓にぱさっ、ぱさっとあたる雪の音が激しくなった。  外はすっかり雪景色だ。すでに関ヶ原にかかったらしく、列車が徐行している。 〈そうだ。この列車に乗っていたことをよりたしかに証明するために、この景色をカメラでとっておこう〉  黒木は、カバンの中からカメラをとり出して、十センチも積っている雪の景色をとりつづけた。急に、なま暖かい手が膝にかかり、黒木は、びくっとして振り返った。ななめ前に親と一緒に坐っていた五つくらいの女の子が、そばに来て無邪気に黒木を見上げている。 「写真とってあげようか?」  と言うと、うれしそうにうなずく。  黒木は、巧みに窓の外の雪景色をバックに入れて、数枚のシャッターを押した。 「出来たら、送ってあげるよ。住所は?」  と、半分親の方へむかって言うと、若いサラリーマン風の両親は、恐縮しながら住所を書いて渡した。黒木も、自分のところを書いて渡しておいた。  いざとなれば、この夫婦が、黒木がこの列車に乗っていたことを証明してくれるだろう。  名古屋で早瀬が乗り込んでくれば、この列車に乗っていたことは、いやでもわかるのになぜ、そこまで気をつかうかというと、刑事の中には、午後一時に京都で大石を殺して、一時五分発の新幹線には乗れないから、殺したあと名古屋まで、飛行機か車で行って、このひかりに追いついたのではないかと、よけいなことを考えるものが出てくるかもしれないと、思ったからである。それに、早瀬が、名古屋駅で気がかわって、一つ前の列車に乗ってしまう恐れもあった。     7  名古屋駅で、早瀬が手にみどり色の指定席券をひらひらさせながら乗り込んで来たとき、正直いって黒木はほっとした。  彼は、目ざとく黒木を見つけると、人なつっこい笑みを浮かべて近づいてきた。 「電話の連絡受けたよ。うまいぐあいに同じ9号車に乗れたな」  早瀬の席は、7Bで、座席が近かったのも黒木にとっては、いい結果だった。  彼は、荷物をおくと、 「ビュッフェへ行こうか、待ちくたびれて喉がかわいちゃったよ」  と、黒木を誘った。ビュッフェは混んでいたが、五分ほど立ち話をしているうちに目の前の席が二つ空いた。  席についてビールとランチを注文すると、黒木は、腕時計を見ていった。 「今、四時五分だ。結局どれだけ遅れているのかな」 「二時間十分遅れだ。特急券払い戻しは確実だな」  早瀬は、黒木の言いたいことを先にいってくれた。ウエイトレスの持ってきたビールを飲みながら、早瀬は、盛んに最近出来たガールフレンドの話をした。その大川麗子という恋人は、二人と同じ大学の女子学生で、黒木も知っている評判の美人だった。 「今日、東京駅に迎えにくるんだよ」  早瀬は、うれしそうに言った。  長年交際して結婚を誓い合った恋人を殺してきた黒木には、うまくいっている恋人の話をきくのは辛かった。  しかし、早瀬は、黒木の心などに気づかず、夢中になって話しつづけた。 「恋人といっても、本当は、つきあいはじめて三カ月で、彼女の気持はまだ、はっきりわからないんだ。食事に行ったり、映画にもいったけど、結婚する気があるのかどうか聞いてないんだ」 「でも、今日連絡したら迎えにくると言ったんだろう?」 「ああ」 「迎えに来るぐらいだったら大丈夫だよ」 「そうかなあ」  馬鹿らしいと思いながら話しているうちに、彼女が迎えにくるというのは、こちらにとってもいいことだと気がついた。  改札口に彼女がいれば、特急券の払い戻しを受けるとき、早瀬が彼女の方に気をとられていて、黒木の券が、指定席券だったか、自由席券だったか見すごしてしまうだろうと考えたからである。  ひと通り麗子のことを話し終ったあと、早瀬はふと気がついたように、 「君の方はどうなんだ? 京都に誰かいるんだったかな」  と聞いてきた。黒木は、早瀬のようになんでも喋ってしまう性格ではないから、知沙子のことを言ったおぼえはないが、なんとなく早瀬は感じとっていたのだろう。  これはいけないと思い、黒木はあわてて出まかせを口にした。 「いや、京都には誰もいない。本当は、君の彼女の友達で西鮎子というのがいるだろう。あの人が好きなんだ。まだ話しかけるチャンスがないけど」  性格の単純な早瀬はすぐ乗ってきた。 「そういえば、彼女のことを君が、女優のような名前だなって二回ほど言ったのを覚えているよ。あの頃から関心があったのか?」 「まあな」 「じゃ、こんど、四人でいっしょに山へでも行こうよ。そうだ、それがいい」  早瀬は、浮き浮きといった。  黒木は、うなずいたが、高校時代、はじめて知沙子とハイキングに行ったときのことを思い出して心が暗くなった。  ビュッフェを出ると、二人は、それぞれの席で眠ることにした。黒木は知沙子を殺して以来、ほとんど眠っていない。この大事なときにとても眠れないだろうと思ったが、それでも座席の背にもたれて、列車の震動に身を任せているうちに、うとうとしたらしい。眼が覚めたときには、東京に近くなっていた。  東京駅に着いたとき、アナウンサーが、二時間三十分遅れたこと、特急券の払い戻しがあることを告げた。  ホームは混乱をきわめていた。構内アナウンスがひっきりなしに続く。  黒木は、早瀬とずっといっしょに行動した。改札口の手前の精算所が、特急券払い戻しの窓口になっていた。  やはり、今日は、自由席券と指定席券と二列に分かれて並ぶようになっていた。二人は、指定席券の列に並んだが、早瀬は落着かぬ風で、たえず改札口の外に目をそそいでいた。  列がすすみ、もうすぐ二人の番がくるときになって、早瀬が、「あっ」と声を出した。  改札口の方をみると、うすいみどり色のスーツを着た大川麗子が手を振っていた。  早瀬は、払い戻しを放棄してでも駆けていきそうな様子だったが、あと三人ぐらいになったので、辛うじて踏みとどまっていた。  払い戻しを受けたのは、早瀬が先で、金を受けとると、改札口から外へとび出していった。  勿論、次に払い戻しを受けた黒木の券が、自由席券か、指定席券かなど、見てもいなかった。     8  黒木が、刑事の来訪を受けたのは、東京に帰った二日後だった。  京都府警から来た久保田というその刑事は、背の高い、茶色の背広をきたおとなしい感じの男だった。 「一月八日に、大石学君が、亡くなったのをご存知ですか? あなたとお友達だと聞きましたが」 「えっ、大石君が死んだんですか? 知らなかったなあ。事故かなにかですか?」  黒木は、適当に驚いた顔をしてみせた。 「いや、殺されたんです。だからこうして私が京都からわざわざ来たわけなんですが」 「一月八日というと、僕が東京へ帰った日ですね。彼は何時頃殺されたんですか?」 「一月八日の午後一時頃です」 「じや、丁度、僕が新幹線のホームにいたころだなあ。一時五分発のひかりに乗ったものですから」  その時、刑事は、なぜかにやりと笑った。黒木は急に不安になった。 「雪だったから列車は遅れたでしょうね」 「ええ。二時間三十分遅れて、東京駅で、特急券の払い戻しをしてもらいました。……だけど、どうしたんですか、僕になにか疑いがかかってるんですか?」  久保田刑事は、否定せず、あっさりと、 「ええ、実は、その前の日に園知沙子という人が殺されたんですが、この人とあなたは、高校時代からの友人で、仲がよかったでしょう?」 「ええ。でも、恋人じゃありませんよ」 「その時、園さんの死体を発見したのが、岸田秋夫という人でしてね」 「ああ、テレビで見ました。婚約者だという人ですね」 「その人から、いろいろ事情を聞いていたんですが、その人の言うには、園さんは、あなたが恋人のつもりでいるので困ると言っていたそうです。今度会ったらはっきりと岸田さんと結婚することを言いたいと言っていたそうです。ですから、警察の中には、ひょっとしてその別れ話がこじれてあなたが園さんを殺したのではないかとみる人もいるわけなんです」 「そんな馬鹿な。それは、その岸田という男が一方的に言っていることでしょう。ひょっとしたら、その男が殺してなにかの時に園さんに名前を聞いていた僕に罪をなすりつけようとしてるんじゃありませんか?」 「園知沙子さんが殺されたのは、一月七日の午前十一時前後なんですが、あなたは、その時、どこにおられましたか?」  黒木は、ちょっと考えるふりをしてから、 「朝十時に家を出て京都駅に行き、翌日の午後一時五分のひかりの指定席券を買って、十一時半に帰って来ましたよ」 「あなたの家から京都駅までは、四十分くらいかかるし、ちょっとは並んだでしょうから、時間的にはきっちりですね。参考のためお聞きしますが、座席は何号車でした?」 「9号車の4Aでした。これは、名古屋から一緒だった早瀬くんに聞いてもらったらわかりますよ。彼も同じ号車の7Bでしたから」  刑事は、しばらく黙っていたが、 「切符を買いに行かれたとき、知っている人に会いましたか? 京都駅かどこかで」 「いいえ。でも、指定席券を売ったのは、その日の午前十一時までなんですよ。そのあとは、延着が続くので、指定席券は売ってなかったから、指定席券を買っていたということは、その時、駅に買いに行ったということでしょう?」  少し、喋りすぎたような気もしたが、黒木は説明しておいた。 「でも、それより前、たとえば一月六日にでも買えたわけでしょう。その指定席券は」 「母に、帰るからといって金を貰ったのが一月七日の朝で、前日まで僕は金を全然持ってませんでしたよ。とにかく、京都まで帰ってくる旅費がやっとでしたからね。妹も知っています。第一、暮に家に帰ってから殆ど一歩も外へは出ていません」 「ほほう」  刑事は、信じられないように黒木の顔を眺めたが、黒木は平気だった。知沙子から電話があるかと思って、家から一歩も出なかったのは事実だからだ。 「でも、新幹線の指定席券は、随分前から発売しますからね」 「帰りは早瀬と帰る約束をしたので、一月八日に帰ると決めたのは、一月七日の朝九時頃、早瀬が電話で、明日の午後一時頃帰らないかと言ってきた時です。早瀬は、そのすぐあとに、名古屋駅に買いに行ったらしく、こちらが京都駅に買いに行っている間に、切符が買えたと、もう一度電話してきました」 「もし、当日買った自由席券でも、座席があいていれば坐れるし、払い戻しもできるでしょう」  刑事は核心をついてきた。 「でも、自由席券で、空いた席に坐っていると、検札にきた車掌に注意されるから、まわりにいた人にはすぐにわかるでしょう。それに、当日は、延着承知の券しか売っていませんから、払い戻しはしません。僕は、早瀬と一緒に、ちゃんと払い戻ししてもらいましたからね」  黒木は、自分の座席の近くにいた子供づれの岡田夫婦と、早瀬に、聞き合わしてくれと言って二人の住所を教えた。刑事は、それを手帳に書きとめると、今度は、 「私も、京都から出てきていまして、また、聞きに来るというわけにもいかないので、御迷惑でも、この際、いろいろお聞きしたいのですが」  と言って、次には、大石の殺された日について聞いてきた。  黒木は、 「すると、大石くんを殺したのと、園さんを殺したのは、同じ犯人だと思っておられるんですね。どうしてです?」  と反撃した。 「二人の被害者の家が近い距離にあり、手口も同じです。絞殺です。殺された日時も接近しています。そこで、園さんを殺した犯人が、その姿を大石さんに見られたので、次の殺人をしたのではないかと思われるからです。そして、二人の共通の友人は、あなただから……」 「岸田秋夫という人も、二人の共通の友人でしょう、どうして彼を疑わないんですか?」 「ああ、あの人は、大石氏の殺された時には、前日の事件の調べで警察にいたのです」 「ああ、そうですか、でも、僕じゃありませんよ、大石くんが殺された時刻には、新幹線のホームにいましたよ」 「でも、あの列車は、京都駅で、すでに五十分ほど遅れていたでしょう」  京都の刑事だけあって、その点は、よく知っている。 「ええ、でも、はじめから遅れるかどうかわからなかったから、ちゃんと時間には京都駅に行ってましたよ。名古屋から、その列車に早瀬が乗ってくるのがわかっていましたから、乗り遅れてはいけないと思って。早瀬だって、定時には、名古屋駅のホームまで行って待ってたんですよ、こちらは確実に二時間ほど遅れるとわかっているのに。……私を、その時間に大石の家の近くででも見た人がいるんですか?」 「今のところありません」  刑事は、そのあとも、いろいろと質問していたがやがて帰っていった。  黒木は、ふとんに寝ころがって、まずいことを言わなかったかどうか考えた。今のところ失敗はないようだった。黒木は、これでいいのだと思った。黒木が、京都駅に券を買いに行ったことも、一時に、ホームにいたことも、また指定席券を持っていたのも見た人はないから積極的に証明することは出来ない。しかし、反対に、指定席券をもっていなかったと証言することも出来ないのだ。  黒木は、9とか4とかいう数字はきらいだ。9号車の4Aというのは、なんとなく不吉な番号のような気がしたが、決してそうではなかったのだと、黒木は思った。     9  久保田刑事は、黒木の言ったことの裏づけに廻っていた。  まず最初は、早瀬隆である。久保田刑事は、話していて、早瀬の素直で単純な性格から、彼が決して黒木と共謀などしていなく、本当のことを言っているなと感じた。  早瀬は、一月七日の朝、黒木に、明日の一時頃の新幹線で帰ろうと電話したこと、しかし、その時は、指定券が買えるかどうかわからなかったので、名古屋駅で切符を買ってすぐ、そのことを電話したが、黒木は駅に行っているということで彼の妹が出たことなどを話した。しかし、そのあと黒木から電話はなく、翌日、自分が、名古屋駅に出かけてしまってから、9号車の4Aに乗っているという電話が家にかかってきた。電話に出た弟の話では、それは、ひかり号からだったので、彼は、すでにその時、列車に乗っていたのだろうということを喋った。 「どうして、黒木さんは、京都駅に行って指定席券を買ったあと、まる一日も電話してこなかったんでしょうねえ」 「僕もどうなったかと思って待ってたのですが、あとで聞くと、伯父さんの見舞いに、綾部へ行ったり、いろいろ忙しかったんだと言ってました」  黒木を疑っている刑事は、内心、黒木は、その時点で、指定席券を買っていなかったのだと感じていた。もし、早瀬に指定席券を買ったと電話をかければ、何時の列車で、何号車の何番ということまで言わなければいけないから掛けなかったのだろう。刑事は、園知沙子殺しの現場の様子から、この事件が、前もって計画されたものだとは考えなかった。従って、事件より先に指定席券を買ったとは思えず、むしろ、指定席券は買えずじまいだったとにらんでいる。黒木が、指定席券を持っていたことを殊更強調したからでもある。  案の定、払い戻しの時も、車内でも、早瀬は黒木の指定席券というものを見ていなかった。刑事が帰ろうとすると早瀬は、 「でも、黒木が、その人が好きでたまらなくて殺したとは思えませんよ。だって彼は、うちの大学の西鮎子という女子学生が好きなんですから」  と、黒木をかばう発言をした。刑事は、黒木がもしこんないい友達をだましてアリバイの証人に利用したのなら許せないなと思った。  次に行ったのは、黒木の乗った座席の近くに坐っていたという、子供連れの夫婦の家である。  岡田というその夫婦の家は、港区の元麻布にあった。夫婦が、黒木とはなんのつながりもないことは予想通りだった。夫婦は、黒木が9号車に入ってきた時からよく知っていた。 「4番のA……といって探しながら入ってこられましたし、そのあと検札の車掌が廻ってきた時にも、百円をとったり、注意している様子はありませんでしたから、指定席券をお買いになってたと思いますわ。子供の写真をとって下さったのだって、わざわざむこうから言ってこられたのではなくて、窓の外の写真をとっておられるとき、うちの子が、そばまで行ったので、とって下さったのです」  と、奥さんの方が好意的な証言をすると、夫の方もうなずいた。  その指定席券を見たかという刑事の問いには、夫婦は二人とも、首を横にふった。特急券の払い戻しの時には、自分たちの少し前に早瀬と二人で並んでいたようだと答えた。  やはり、誰も彼の指定席券は見ていない。しかし、彼が持っていなかったと証明することはむずかしい。刑事は、何もつかめなかったことにいらだちながら、今度は、東京駅へ行ってみた。  駅員に、一月八日のひかり130号で降りた客の回収した乗車券はないかと聞いた。結果は、改札口で回収した乗車券は、あとから渡し違えたといってききにくる場合もあるので、五日間保存するが料金払戻し窓口で受け取った券は、すでに確認ずみの分なので、翌日処分してしまう。つまりないという返事だった。  久保田刑事は宿へ帰ってから、京都府警に連絡をとった。  しかし、むこうでも黒木については、何の証拠もつかめてないようだった。園知沙子が殺された日、黒木が家に帰ってきたのが十一時半であったことが、ギターをひいて待っていた藤川という学生によってわかったことや、大石が殺された日の午後一時頃、黒木が、新幹線ホームにいたかどうかを聞いて廻った刑事が、ホームの売店で、買物をし、旅行カバンを忘れた客が黒木らしいという聞きこみをしてきたことぐらいである。その時間が、一時か、一時より少し前なら黒木はシロなのだが、時間は一時三十分ぐらいだということだった。  久保田刑事が、食事に行って帰って来ると、京都府警から電話が入った。  それによると、園知沙子の死体を発見した岸田秋夫は、犯行時刻の十一時に、アリバイが証明されて、シロになったということだった。  久保田刑事は、やはり犯人は、黒木だと直感した。そして、何とか、彼の犯行を証明しようと考えこんだ。     10  黒木は、大石の初七日に、京都の大石の家にいた。  京都に帰るのはあぶない気がしたが、ギター仲間からの誘いもあったし、手袋をはめて注意はしたが、大石家から、黒木の指紋が出たとき、言い逃れるために、行くことにしたのだ。  法事が終ったときに、久保田ともう一人の刑事が黒木のところにやってきた。黒木は緊張したが、大丈夫だという自信があった。  知沙子の家の近所や、大石のところで目撃されたのなら、もっと早くそう言ってくるはずだと思おうとした。  久保田刑事は、みんなの前で、黒木にむかい、確認するように言った。 「あなたは、園知沙子さんが殺された時刻の前後、つまり、一月七日の午前十時から十一時半までの間、京都駅に新幹線の指定席券を買いに行っていたということですね」 「そうです」 「その券は一月八日の午後一時五分京都発東京行きのひかり130号の券ですね」 「そうですよ」 「座席番号は?」 「9号車4番Aです」 「間違いないね」 「ありません」  黒木がうなずくと、なぜか久保田刑事はにやりと笑った。 「これで、園さんの殺された時刻に、君は、京都駅に、ひかり号の指定席券など買いに行かなかったことがわかったよ」 「行きましたよ。行ったから、指定席に坐り、払い戻しも受けたんじゃないですか。あの指定席券がニセだとでも言うんですか。9号車の4Aの座席の」 「ああ、ニセだね。9号車の4Aというのは、ひかり号ではコンピューターに入れてない座席だよ。コンピューターのミスで、席がだぶったり、病人が出たときのために、各列車あけておく番号なのだ。ひかりでは、普通車十座席、グリーン車八座席がそのためにあけてあるのだ。だから、あんたが、前もって買おうと思っても、買えない座席なんだよ」 〔作者注〕  この作品に書いたように、新幹線には、座席発売のコンピューターに入っていない座席があり、専務車掌の裁量に任されているのは事実ですが、作品では、番号を変えました。  死人が夜ピアノを弾く     1  芦川夕子は、その家の前に立つと、心を落着けるために深く息を吸い込んだ。  時計を見ると午後六時半。まわりはすっかり夜の気配に包まれている。  同じような建売住宅の並んだ中でも、タレントである池まゆみの家は、一段と明るく、華やいだ感じに見えた。ベルを鳴らすと、キンコンカンと澄んだ音がして、「はーい」と軽やかな足どりで出て来たのは、池まゆみ当人だった。二十歳《はたち》前後のスタイルのいい、若さが溢れるような美人だ。 「芦川の家内ですけど、お話がありまして」  というと、途端に、まゆみの顔が翳《かげ》り、緊張するのがわかった。それでも、 「どうぞお入りになって下さい」  と言って、彼女はスリッパを揃えた。  通された十二畳ほどの洋室には、毛足の長いブルーの絨緞《じゆうたん》が敷きつめられ、真白いピアノが置かれていた。  ピアノの上にも、テーブルにも、真紅のバラが生けられ、甘い香りが漂っている。  ソファに腰を下ろして向き合うと、夕子が何も言わないさきに、まゆみが挨拶をした。 「はじめてお目にかかります。池まゆみです。先生には、ピアノのレッスンで大変お世話になり有難うございます。一度、お宅のほうにもお伺いしようと思いながら、つい仕事に追われていまして……」  お世話になったのは、ピアノのレッスンばかりではない筈だ。  まゆみは、夕子の夫、芦川とのことをしらばくれて通すつもりになっているらしい。 (それならそれでいい。彼を愛してると居直られるよりいいかも知れない)  夕子も、仕方なく、 「ピアノは、どこまで進まれましたの? バイエルですか? ソナチネ? 私も少しは弾くものですから」  と、あたりさわりのないことをきいた。 「あら、恥ずかしいわ。私、あまり弾けないんですのよ。先生にいつも叱られてばかり」  まゆみは、体をくねらせるようにしてピアノの傍へいき、右手で、遊び半分のように、ピアノを叩いた。  ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ…… 「ソナチネの六番ですの、やっと」  夕子は、優越感を覚えて微笑した。彼女は、同じソナチネでも三十番が弾ける。 「今日も、九時からレッスンなのですが、芦川先生は、いらっしゃらないんでしょうか?」  まゆみは、不安そうにきいた。二人のことがバレて、夫人が乗りこんで来たからには、今まで通りのレッスンは望めないのだと思ったらしい。 「いいえ、来ると思いますよ。何も連絡がありませんから……」 「はあ、そうですか」  一瞬ほっとしたような顔をしたが、じゃなぜ来たんだろうと相手の気持をはかりかねて、まゆみは、まぶしそうに、夕子の顔をみた。 「お一人でお住いですか?」  夕子は、奥のほうを見ながら、関係のないことをきいた。 「ええ。一人で住んでいます。お昼から六時までは通いのパートのおばさんが来るんですけど、もう帰ってしまって」  そう言いながら、まゆみは、夕子に帰って欲しい様子をみせた。  その時、ふと飾り棚をみた夕子の目に、木彫りの象がみえた。夫の芦川が、タイ国みやげに買ってきた筈の象である。  最初、三つになる娘の光子に買って帰ったもので、光子がとても喜んで抱いて歩いていたものだった。それを、二、三日たって、校長に土産がないからどうしても要るといって、娘の手からとり上げて行ったのだ。  象のまわりを見ると、芦川が、買ってきたタイみやげが、殆どそのまま全部飾ってあった。  木彫りの象や壁掛け、銀細工のブローチやペンダント、仏像を形どった金色の栓抜きや、タイダンスをしている人形、それに、気がついてみると、彼女がナイトガウンの下に着ているのは、見覚えのある白地に空色の刺繍をしたロングドレスだった。  夕子の顔に血がのぼった。 「あなた、夫とは、ピアノを習っているだけの関係だとおっしゃったけど、このタイみやげは、芦川が、この間、タイに行って買ってきたものでしょう。普段お世話になっている方や、お餞別を頂いた方に差し上げないといけないからといって、殆ど持ち出していったのだけど、みんなあなたのところに来ていたのね。これでも、なんでもない関係だとおっしゃるの? 金額にしたって相当なものだわ。一つや二つならとにかく、これだけ取り上げるなんて、怖い人ね」 「先生から貰ったのじゃないわ」 「嘘よ。その服だって見覚えがあるわ。彼が、私に買ってきてくれたものよ」 「先生は、あなたが着るより、若い私のほうが似合うと思ったのじゃない」  冷笑されて、夕子はカッとした。彼女は、二十八歳の芦川より二つ年上の三十歳である。いつもそれを弱味に思っているのに、正面からライバルに言われ逆上した。彼女は、二十歳ぐらいだから、夕子より十歳も若いのである。 「それに、さっき言ったように、先生から全部貰ったわけじゃないわ。私の買ったのもあるんですもの」 「私も買ったというと……もしかしたらあなたも?」 「そうよ。私も一緒に行ったのよ、先生に誘われて。新婚旅行のつもりだって先生は言ったわ」  芦川と夕子は、旅行らしい旅行もしてない。まして、新婚旅行など……。  そのあと、女同士の激しい罵り合いが続いた。そのあとで、 「帰ってよォ。彼のこと言う権利は、あなたにはない筈よ。正式の奥さんじゃないでしょう? 私たちは、正式に結婚するのよ、ほら」  池まゆみは、得意そうに、ハンドバッグから一枚の紙を出してみせた。  婚姻届という字が、夕子の目に飛び込んできた。  彼女と芦川晴彦の名前の横には、くっきりと印がおしてあった。それが、いつも彼が持ち歩いている実印であるのを認めたとき、夕子は、目まいがして、その場にしゃがみこんでしまった。  まゆみは、それを気持良さそうに眺めていたが、急に、 「あっ、お風呂……」  といって、奥へ駆け込んで行った。  遠くで、出放しの水の音が聞えてくる。風呂の水を止めに行ったのだろう。  やさしかった夫を捨て、小さな子供を残してまで走った愛の果ての、男の裏切りだった。  彼が、あの女と結婚する……  殺してやりたい!  殺意が胸一杯にふくれあがり、夕子は夢中で、まゆみを追いかけた。  水音で、相手は、夕子が背後に迫るまで気がつかなかった。水を止めて振りかえったとき、夕子は、浴室の棚にあったヘアドライヤーで、思いきり、彼女の頭を殴りつけた。  ぐわっという音がして、まゆみがくずおれたあとも、夕子は気狂いのようにヘアドライヤーをふるいつづけた。  しばらくして、夕子が手をとめたとき、ヘアドライヤーや手には血がとびちり、まゆみは完全にこと切れていた。  夕子は、死体を見下して、呆然と突っ立っていた。     2  我にかえった夕子は、急に怖くなった。広い部屋の中は、しんとしている。逃げ出そうとしたが、このまま逃げても、すぐ捕まるということに気がついた。  夕子が、この時間に、ここに来たことを知っている人がいるのだ。  それは、この家の近くの薬局の主人である。夕子は、きがけに、この家がわからなくて、そこで尋ねたからである。薬局の主人は、わざわざ外まで出てきて、教えてくれたのだ。  それから数分後、必死になって逃れる道を考えた夕子は、決心すると死体の服を脱がしはじめた。死体をすっかり裸にし、ピンク色の浴槽につけた。一杯になっていた水が、ざざっと音をたてて流れた。  鏡の横にあったレモンの輪切りを浴槽に浮かべ、石鹸をこすりつけて泡だたせたタオルを洗場のタイルの上においた。桶に、水も汲んだ。そして、最後に、ガスの種火を点けた。 〈発見されるのは、多分、明日の朝以後になる。この季節では、たとえ、今、暖かくわいていた湯であっても、水になっているだろう。タオルに石鹸がつき、浴槽にレモンが浮いている状態で死んでいるこの死体をみて、警察は、お風呂に入っているところを襲われたと思い、死亡時間を計算するとき、四十度近いお湯に死体が浸っていたと考えて計算するだろう。本当は、冷たい水で、むしろ冷やされていたのだけれど、どちらにしても、死亡時刻は、一時間や二時間あとだと思われるに違いない。  それに、どうせ、はじめから、死亡推定時刻というのは、何時から何時までの間というように、二時間位、幅があるということだから——〉  夕子は、趣味のピアノと共に、推理小説を読むのも好きだったから、その位のことは知っていた。  死体を始末したあと、夕子は、自分が指紋をつけたと思うところを丹念に拭いてから、ゆっくりと家を出た。  ふり返ると、照明をつけてきた彼女の家は、他の家より一段と明るくみえ、家の主人が死んでいるとは思われない平和なかんじだった。  薬局へ行って、夕子は、風邪の薬を買い、さきほどの礼を言った。四十歳ぐらいの白衣を着た薬局の主人は、 「ああ、すぐわかったでしょう? 大きい家だから。お忙しい人だそうですが、池まゆみさんはおられましたか?」  と、テレビのコマーシャルで有名な風邪薬を渡しながら、あいそよく聞いた。 「ええ。会えました。おかげさまで」  お金を払おうと、ハンドバッグを開けたとき、夕子は、ぽんと肩を叩かれて、びっくりしてふり返った。 「夕子じゃないの?」  にこにこしながら立っていたのは、高校時代の友人の次子だった。 「あら、あなた、こちらのほうに住んでたの?」  仕方なく夕子は言ったが、まずいことになったと心が騒いだ。 「そうよ。五年程前から。それより、どうしたの? 今時分」 「そこの池まゆみさんを訪ねてらしたんですよ」  薬局の主人が、横から口をはさんだ。 「そうなの。主人が、あの人にピアノを教えているの」 「じゃ、今日はあなたがご主人の代りにピアノを教えにきたの? あなたもピアノはうまかったわね」  そういうことにしておこうかと一瞬迷ったが、いや駄目だとすぐに思いかえした。どうせ明日になって彼女の死体が発見されれば、夫との仲もわかるに違いない。その時、疑われないためにも、かえってこちらから打ち明けておいたほうがいい。 「そんなのだったらいいけど、実は、うちの人と、彼女が怪しいのよ」  夕子は、声をひそめて囁いた。 「怪しいというと浮気してるの?」  案の定、次子は話にのってきた。 「それで、今、どなりこみに行ってきたの」 「そしたら?」 「そしたら、相手は、自分には他にちゃんと恋人がいて、結婚するつもりだというの。嘘だと思ったら、明日、今日と同じ時間に、その人を呼んでおくから見て頂戴っていうの。その時あなたのご主人も連れてくるといいわって。一応、そうかなと思って引き揚げてきたんだけど、本当かしら。明日行く時、あなたもついてきてくれない?」 「いいわ。行ったげる。大体、あの人は、テレビに出るときはにこにこしてるけど、近所じゃ評判悪いわよ。夜中にピアノを弾くし、友達を集めてどんちゃん騒ぎをやることもあるの。それで、この間、近所のみんなで夜中に騒ぐのはやめて下さいと言いに行ったのよ。ねえ?」 「友達と騒ぐのはやめるといったけど、ピアノのほうは、仕事に関係あるんだからやめられないと強気でしたね」  薬局の主人も相槌を打った。 「それでも、この頃は、十二時頃まででやめるようにしてるみたいよ。でも、私たちは十時頃寝るのに音が耳について眠られないこともあるわ。……あら、でもおたく、ピアノの先生なのにごめんなさい」 「いいのよ。うちなんかは、夜十時以後は、絶対に弾かないようにしてるんですもの」  薬局の主人は、客商売のためか、あまり積極的には悪口は言わないが、それでも、 「そのピアノも上手だといいんですがねえ」  といって笑った。  やがて夕子は、二人に別れを告げ、帰途についた。家に帰って時計をみると、七時半だった。     3  八時になるまでの三十分を、夕子は、緊張して過した。池まゆみに関する週刊誌の切り抜きを注意深く読み、彼女が、夜、寝る前に必ず風呂に入ること、美容のために毎日十個もレモンを買っていること、ピアノは、ここ一年あまり前から習いはじめたのであまりうまくないが、それでも、バイエルを卒業して、ソナチネに入ったことなどを知った。最新号では、ピアノは、今、どのへんを習っていますか? というインタビューに、「ソナチネの六番」と答えている。確か、今日、彼女もそう言っていたと思う。夕子は、ソナチネの楽譜を出して来て、六番を見た。彼女があの時右手で何気なく弾いたメロディを探す。 〈ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ……〉 「あった!」  夕子は、思わず叫んだ。三十二ページ、ソナチネ六番の中ほどに、そのメロディがあった。 〈間違いない。彼女が今習っているのはソナチネの六番だ。それを、夜、もう一度彼女の家に行って弾くのだ。そうすれば、彼女が、その時間まで生きていたことになって、七時頃私が訪れたことは関係なくなる〉  夕子は、楽譜を膝の上において、ピアノを弾かずに練習した。長い間弾かなかったが、うまく弾けそうだった。夕子は、ほっとして楽譜を手さげバッグにしまった。  今日は、娘の光子は、さとに預けてあるのでいつもとちがって静かだった。  八時ちょっとすぎに、芦川が帰ってきた。  彼は、いつもこの日は、八時に一旦《いつたん》帰って来て、黙々と食事をすませ、九時に間に合うようにレッスンに出かけていくのだ。  彼が、食卓についた時、夕子は、はじめて声をかけた。 「さっき、池まゆみさんから電話があったわ。今日は、急に仕事になったから、レッスンは明日にして下さいって」  芦川は、ちょっと疑わしそうに夕子の顔を見たあと、黙って電話のダイヤルを廻した。  しばらく受話器を耳にあてていたが、相手が出ないのを確かめると納得したように受話器をおいてテレビをつけた。  彼は、相変らず、夕子には物も言わず、ウイスキーの水割りを飲んでテレビを見ていたが、九時半になると、さっさと先に寝てしまった。  彼が眠ってしまうと、夕子は、ソナチネの楽譜を入れた手さげ袋を持ち、こっそりと家を抜け出した。  ウイスキーには、睡眠薬を僅かだが溶かしておいたので、ただでさえ、眠りの深い芦川が目を覚ます気づかいはなかった。  夕子は、自転車で三十分走り続け、今度は、誰にも見られずに、彼女の家に着いた。自転車は、少し手前の倉庫のかげに隠し、カギをかけずにおいた裏のキッチンの入口から音をさせずに入った。  キッチンのテーブルには、これから食べるように用意されたトーストとトマトと牛乳がおかれていた。今、読んできた週刊誌の記事に、彼女は最近太りぎみなので、食事は、毎食、パンと牛乳ですますと書いてあったのを思い出した。  多分、六時半に夕子がこの家を訪ねたとき彼女は、夕食を食べる直前だったのだろう。  彼女が、食事をした直後だったら、解剖の結果、胃の中から、パンやトーストが出て来て、一ぺんに死亡時刻がわかるところだったと、夕子は、胸をなでおろした。そして、あわてて、牛乳を流して水の入った桶《おけ》につけ、ビニール袋に、トーストとトマトを包んで、手さげに入れた。そのあと、皿も桶に入れた。  彼女は、幸い、空腹のまま死んでいる。ということは、死んだときは夕食を食べて、相当時間がたっていたということになる筈だ。  キッチンを出ると、夕子は、風呂場に向った。  誰もいない家で、夜中に死体に会うのはいい気持じゃない。まして、自分が殺した死体に対面するのは心臓が凍るほど怖かったが、夕子は、顔を蒼白にひきつらせながらも、それに耐えた。  やはり、死体がどうなっているかみておかないと、心配だったのである。  夕子は、風呂場にきてみてよかった、来なければ大変なところだったと気がついた。  風呂場はまっ暗で、電灯がついてないのである。死体を水につけた時には、確かにあかりをつけていたのだが、帰るときにうっかりと消してしまったらしい。  夜遅く風呂に入っている時に殺されたとみせかけるつもりなのに、あかりがついていなければ、一ぺんにばれてしまう。  夕子は、指紋をつけないように気をつけて、静かにあかりのスイッチを押した。  死体は、もと通りのかたちで水に浸っていた。びっしょりと濡れた長い髪が、浴槽のふちにへばりついて、妙になまなましかった。  意を決して、水に手を浸してみると、種火は点いているが、予想通り水は冷たかった。  脱衣室にあった彼女の服のポケットから、婚姻届をとり出して手さげに入れた。こんなものがあっては、よけい夕子が疑われることになるだろう。  指紋に気をつけて風呂場を出ると、今日訪れた時通された洋間へ入っていった。  がらんとした洋間には、さっきと同じように白いピアノがおかれ、血のように赤いバラが、壺にさされていた。  夕子は、注意深くピアノを開け、自分で持参した楽譜を立てて、三十二ページをあけて静かに、ソナチネの六番をひきはじめた。 〈ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ……〉  長いこと弾いたことのないところなので、演奏はスムーズとはいえなかった。しかし、あまりうまく弾くのはまずいので、丁度いい加減だと思った。  一回弾き終ったとき、夕子は、恐怖のため、すぐにとんで帰りたかったが、心をとりなおして、もう一度繰返した。一度ぐらいでは、近所の人が、きいていないかも知れないと思ったからだ。しかし、弾いている間中、誰かが来たらどうしよう、死体が生きかえって入ってきたらどうしようと考え、汗が、頬を伝って落ちた。  二回目を弾き終ってほっとしたとき、突然、ピアノの横の電話が鳴りひびいた。  夕子は、背すじが凍るような気がした。そのままにして帰ろうとしたが、出なければ、そのとき不在だった、または死んでいたという印象を、かけた人に与えるのではないかと心配になった。かけた人が、心配して駆けつけるかも知れない。今、すぐに死体がみつかるとまずい。死体のみつかるのは、なるべく時間がたってからのほうがいい。死亡時間がごまかせるからだ。  おびえた顔で、電話機をみつめていた夕子は、思いきって受話器をとりあげ、何も言わずに横におき、もう一度、ピアノを弾き続けた。  弾き終ってから、受話器をもとにもどした。  こうしておけば、ピアノを弾いている最中だから、電話に出なかったといういいわけもたつだろう。  彼女は、もう一度、注意深く、ピアノの蓋や、鍵盤の指紋を拭き、ピアノを閉めて、楽譜を手さげに入れ外に出た。  家に帰ると、芦川は、なにも知らずにぐっすりと眠っていた。     4  池まゆみの死体が発見されたのは、翌日の昼前だった。十一時に電話しても、まゆみが出ないのを不審に思ったマネージャーの藤田が、車で駆けつけてきて発見したのである。  藤田は、浴槽の死体をみつけると、真先に、プロダクションに電話を入れ、指示をあおいだ上で、一一〇番に連絡した。  通報してから、十分後に、所轄署のパトカーと、鑑識車が到着し、少し遅れて、捜査一課の見城《けんじよう》警部がかけつけた。  検死の結果、死因は、頭蓋骨破砕による脳損傷であり、凶器は、脱衣室にあったヘアドライヤーであることがわかった。  現場検証が行われている傍で、見城警部は死体の発見者であるマネージャーの藤田から事情をきくことにした。  藤田マネージャーの証言によると、彼は、昨夜十時半に電話しており、その時、彼女は、いきなり、ピアノを弾いてきかせたというのである。毎晩十時半に、電話をかけることは、日課になっており、大抵は、「体、大丈夫?」「ええ」「明日起きるのは八時だよ。じゃ、おやすみ」ぐらいの会話を交わすのだという。  しかし、毎日で、少々マンネリになっており、彼女のところに、男がいるようなときには、一応受話器を取り上げても、「はい」だけで、何も言わずに切ることもあり、気がむけば、長々としゃべることもあって、気まぐれな性格なので、昨夜も気にしなかったと言った。  彼女は、今までに、一度だけだが、失踪したことがあり、みつかった時、彼女は、仕事のあるのを知らなかったと言いわけしたので、マネージャーが、プロダクションの社長から叱責されたことがあった。  それから、毎晩、十時半にチェックすることにした。その会話は、毎日録音しているという。  昨夜のことも、録音してあるというので、刑事は、早速それをかけてみた。  ——ベルの音が五回ほどしたあと、受話器がとりあげられ、やがて、ピアノの音が流れる。ピアノがおわると、受話器がかけられた——  それだけのものだが、刑事は、それを、専門のものに調べさせた。電話口にテープレコーダーを置いておいて、誰かが、受話器をとりあげ、テープをまわしたというようなことはなく、音は、そのピアノから流れてくる生のものであったことが、現場で、ピアノの音を電話に入れて録音したりしてわかった。  しかし、それが、昨日とられたテープであるかどうかということはわからなかった。  もし、マネージャーがクロならば、他の日にとったものを、昨夜のだということもある。  刑事たちは、そこで、近所にきき込みにまわった。  その結果、十時半頃に被害者の家でピアノが鳴っていたのを何人かの人がきいていた。  刑事は、その人たち一人一人に、根気よく録音されたピアノの音をきかせた。勿論、その曲だけきかせるのでなくて、全然関係のない他の曲も、二、三曲まぜてきかせ、昨夜なっていたのはどの曲だったかをきいた。  大部分が問題の曲を指してこの曲のような気がするがはっきりしないといった中で、一人だけ明解に答えたものがいた。それは、隣家に住む、小学校六年の女の子で、昨夜十時半頃に聞えていたのは、確かにこの曲、ソナチネの六番だと言い、私は、丁度六番が、一カ月程前にすんだところだからよく知っていると証言した。  マネージャーの言ったことは、近所の人によって裏づけされたわけである。尚、マネージャーは、ピアノは全然弾けなかった。  次に、見城警部は、昼に出勤して来たパートのおばさん、吉田しげ子にも事情をきいた。  吉田しげ子は、毎日、昼から夕方六時まで通ってきて、洗濯や掃除や食事の支度をするのが日課で、昨日も、午後六時に帰ったが、その時、池まゆみさんは、洋間のソファにすわってドラマのセリフを覚えていたと言った。なお、六時頃、支度しておいた、パンとトマトと牛乳が食べられていることも証言した。  その日の午後行われた解剖の結果、胃、十二指腸内には、食物|残渣《ざんさ》がなく、死者は、全く空腹状態で殺されたことがわかった。  普通の場合、胃が空虚になる大体の時間は   軽い食事の場合——一時間〜一時間半   普通の食事の場合——三時間〜四時間   多量の食事の場合——四時間〜五時間  また、食物が回腸下部に達するのは、普通六〜十二時間くらいである。  さらに普通の人が、普通の食物を食べた場合、食後死亡までの経過時間は大体、次のようになる。   1、胃に未消化の食物が充満しておれば——食後間もなく死亡   2、胃に軟化した米飯などが多量にあれば——食後一時間前後   3、胃および十二指腸にかなり消化された食物があれば——食後二〜三時間くらい   4、胃に食物がなく、十二指腸内に固形の食物残渣があれば——食後約三〜四時間くらい   5、胃、十二指腸内に食物残渣がなければ——食後少なくとも五、六時間以上  ということになっている。  これからいくと、六時半に夕食を食べたとすると、死亡したのは、十時半から十一時半の間ということになる。  十時半には、ピアノが鳴っていたのだから、死亡時刻は、そのあとというのが、大まかな推定だった。  捜査本部では物盗りの線を調べると共に、被害者と親しかったもののリストを作っていった。その時、リストの第一番目に上ってきたのが、被害者にピアノを教えていた芦川晴彦とその妻の夕子だった。  芦川と被害者は、不倫の関係を結んでいたことが、事件後発見された被害者の日記によってわかったし、芦川の妻夕子は、事件当夜、被害者を訪ねていることが、近所の薬局の主人、その他の証言で明らかになったからである。     5  芦川晴彦の勤務先へ、見城警部がやってきたのは、死体が発見された日の翌日だった。  見城は、芦川に会うと、単刀直入に事件のことを訊ねた。 「殺された池まゆみさんに、ピアノを教えておられたそうですね」 「ええ、ここ一年あまり教えていました」  芦川は、眼を伏せて元気のない声で答えた。 「どういうきっかけで教えることになったのですか?」 「彼女は、私が、現在教師をしているここの高校を卒業した生徒で、高校二年の時、音楽を選択して私の授業に出ていました。そのころ、ピアノはほとんど弾けなかったのですが、声はよく、歌はうまいほうでした。三年生になってすぐテレビ局で募集した娘役に採用されてタレントになり、学校にもあまり出てこないようになりました。欠席日数も多くなり、先生方も卒業できるかどうか危ぶんでいました。そんなある日、街でばったり本人に会ったので、もう二十日ほど出てこないと卒業出来ないぞといってやりました。彼女は、『あら、あと二十日出たら、卒業できるんですか? 私は、もう駄目だと思ってあきらめてたんです』といって、それから、一生懸命出席して、無事卒業しました。彼女は、卒業した日、私のところに報告にきてくれました。それから、一、二回学校に遊びにきてましたが、しばらくたって、ピアノを一から教えて欲しいといってきました。将来、歌もうたっていきたいので、譜も読めるようになりたいし、ピアノも少しは弾けるようになりたいということでした。一応タレントとして顔も知られているのに、一般のところじゃ〈バイエル〉からやるのは恥ずかしいし、自分の時間も不規則だからということでした。夕子にも相談した結果、引受けることにしました。妻は、月謝が高いのも気に入っていましたし、タレントにピアノを教えているのはカッコイイといってよろこんでいました」 「時間は、いつ教えていたのですか?」 「普通ピアノのレッスンは週一回ですが、早くバイエルを上げたいということで、週二回、夜九時から十時まで教えにいっていました」 「特別な関係になったのはいつですか?」 「特別な関係なんてそんなことはありません」 「この際そんなことを言ってもらっては困りますよ。亡くなった彼女の日記にも、あなたのことは詳しく書いてありますから」 「じゃ、いつからときかなくてもいいでしょう、日記をみれば」 「確認しただけです。日記には、ピアノを習いはじめてから、約半年たった九月三日と書いてありますが、その通りですね」 「………」 「彼女とは、これからどうするつもりだったんですか?」 「結婚するつもりでした」 「今の奥さんはどうするんですか?」 「彼女とは、正式に結婚したわけではないので、そのうちに別れようと思っていました」 「夕子さんが、すんなりと別れてくれると思っていましたか?」 「いいえ、大分もめるだろうと思っていました。それに子供もありますし」 「それでも結婚するつもりだったんですか?」 「はい」 「池まゆみさんのほうはどうだったんですか? 本気だったんでしょうかねえ。タレントで、交際も派手だったと思いますが」 「彼女は、学生時代からの初恋だから、絶対に結婚するといってました」 「あなたの昨日の夜の行動を教えていただけませんか?」 「学校が終ってから、一軒教えにいって帰ってきたのが八時でした。食事をすませて彼女のところへレッスンに行こうとしたら、夕子が、池さんから断わりの電話があったといいました」 「なんといってきたんですか?」 「今日は急に仕事になったので明日にして下さいと電話があったというんです。それで、行くのをやめて九時半頃までテレビを見て寝ました」 「池さんに確かめなかったのですか?」 「電話をしましたが出なかったので、本当に仕事に行ったのだと思いました」 「九時半に寝たとき夕子さんと子供はどうしていたのですか?」 「子供は、数日前から、夕子の実家へ行っております。夕子は、私が帰ったとき居ましたし、私が寝たときも居りました。私が、三時頃目が覚めてトイレに行ったときは、ぐっすり眠っておりました」 「六時半頃、奥さんが、被害者のところへ談判に行ったのを知っていますか?」 「えっ、本当ですか? 知りませんでした。それでどうしたんですか? まさかそのとき、夕子がまゆみを殺したんじゃ……」 「いえ、そのあと、夜十時半頃に、被害者の家からピアノの音がきこえていますし、解剖結果からも、死亡時刻は、夜十一時頃だと思われるんですが」 「じゃ、うちでは、二人とも眠っていたと思います」  芦川は、ほっとしたように答えた。 「でも、眠っていたのを証明できる他人がいないと、完全にシロだとはいえませんがねえ」  警部は渋い顔をした。     6  夕子は、自分の部屋で、まゆみのところから持ってきた婚姻届の用紙をじっと睨んでいた。  自分には、子供まで出来ながら、どうしても書いてくれなかった婚姻届を、こんなにやすやすと彼女に書いてやったことに、夕子は深い絶望を感じていた。それは、彼女、つまり池まゆみを殺してしまっても消えるものではなかった。  三年前、彼女は、サラリーマンの家庭の平凡な主婦だった。三歳の女の子とエリート社員の夫と姑の四人暮らしで、よそ目には平和な家庭生活を送っていた。  しかし、夫は、仕事に熱中していて殆ど家にいる時がなく、厳格な姑と鼻をつきあわせての生活は、息がつまるような毎日だった。  そこへ、三歳の娘のピアノの先生として現われたのが、芦川だった。  夕子も、娘時代にピアノを習っていたので、趣味の合う芦川と話すのは、唯一のリクリエーションとなった。芦川は、無口だったが、整った顔で、聡明な感じのする男だった。  娘のレッスンが終ったあと、夕子に乞われてショパンやベートベンの曲を弾く芦川の横顔は、普段のおとなしい芦川からは考えられないほど情熱的で男性的だった。  夕子は、次第に芦川にひかれていった。芦川が来る日は落着かず、朝から髪のセットに行ったり新しい服を着てみたりした。  姑が、子供をつれて旅行したある日、しらずにレッスンに来た芦川と、夕子は間違いを犯してしまった。たった一回の間違いだったが、近所のつげ口で姑の知るところとなり、夕子は家を追われた。  なりゆき上、夕子は芦川と住むようになった。芦川は、夕子にあまり心を開かなかった。  六カ月すぎても結婚の届けを書いてくれず、子供が出来ても、同棲のままだった。  子供がせめて幼稚園に入るまでには、正式の婚姻届を出したいというのが、夕子の昨今の願いだったのだ。  しかし、最近、二人の間は、一層冷たくなっていた。二人の仲というよりは、芦川の態度が一方的に冷たくなったというべきだろう。  ここ一年ほど、夕子の躯に触ったこともなく、帰ってきても、ものも言わない日が続いた。  どうしたのかときいても、学校が終ってから、ピアノのレッスンをいくつもやっているので疲れるのだというばかりだった。  その彼が、池まゆみと深く愛し合っているのを知ったのは、三カ月程前だった。  夕子が、ある日買物をして帰って来ると、珍しく早く芦川が帰っていて、奥の電話でしゃべっていた。夕子は、邪魔にならないように足音を忍ばせてキッチンに入ったが、聞えてくる電話の会話をきいて、顔から血の気が引いていった。  最近、疲れた疲れたといって、あんなに無口で陰気だった彼が、同じ人とは思えないほど、やさしく甘い声で、楽しそうにしゃべっているではないか。  最後に、 「じゃ、今日の九時にレッスンに行ったときにね。寒くなってきたから、カーディガン着なさいね。愛してるよ」  といって電話を切ったとき、初めてその相手がわかった。  電話のあと、繰り返されたいさかいの数々。  彼は、池まゆみと愛し合っていることは認めたが、結婚はしないと言っていた。むこうもこれから売り出すタレントなんだし、こっちだって子供もいるから考えてるよ、大人の恋愛なんだ、あまり喧《やかま》しく言われると、帰って来ないぞと言われ、夕子は沈黙した。  しかし、週刊誌などでインタビューされたときなどにも、池まゆみは、好きな男性はという問に、〈長身で一八○センチくらい。目の澄んだ人、芸能人じゃない人で、しかも私の尊敬するなにかを持っている人、音楽のわかる人〉と、明らかに彼のことを挙げているのをみると不安はつのった。そして、とうとう耐え切れなくなって彼女を訪ねたのだった。  そこで見たのが、二人の印のおされた婚姻届と、一緒にタイ旅行に行って買った土産の数々だった。     7  見城警部は、芦川を勤め先の学校に訪ねた帰り、夕子の家にきて、彼女にも質問を開始した。 「ご主人が今度亡くなられた池まゆみさんと恋愛関係にあったのはご存知でしたか?」 「はい、知っていました」 「それで、昨日、午後六時半頃、彼女の家を訪ねられたわけですね」 「そうです。よくご存知ですね」 「被害者の近所の方にきき込みにまわってきました。ところで、その時のやりとりはどんなことでしたか?」 「私は、はじめて会うので随分気負っていったんですが、あの人は、にこやかに迎えて、ピアノを教えてもらっている礼を言ったりするので、ペースが狂ってしまいました。やっと、主人のことを切り出したんですが、全然関係ないと笑って言うんです。それでも疑わしそうな顔をしていましたら、私の結婚する相手は芸能界の人で、もう決ってるし、明日その人が来るからお見せするって言われました。なんだったら、ご主人も一緒にきて下さってもいいわといわれ、本当かもしれないと思いはじめました。そうして、本当にそうだったらいいなあと思いました。うちの主人が勝手に思っているだけで、むこうはタレントだし、本当に好きな人が、芸能界にいるのかも知れない、という気がしてきたのです」 「でも、彼女にそんな相手はなく、ご主人との仲は、本物だったんですよ。残された彼女の日記にも書いてありましたが……」 「じゃ、だまされたのかも知れません。とにかくそのときは、少し気が楽になって帰って来たのです。だから、帰り道で、友人に会った時も、その話をしたのです」 「その時、言い争いになって殺してしまったということはありませんか?」 「ありません。彼女は、じゃ、また明日、今時分に来て下さいといって送り出してくれました」 「あなたが行ったとき彼女は何をしていましたか? 食事の前だとか、あとだとか言ってませんでしたか?」 「食事がすんだところで、お出しするものがないといってました。だから、お茶でも出しますと言ってましたが、私が、もういいといって止めたのです。敵地でお茶を飲んでもおいしくないし、毒でも入れられたら大変だと思ったのです」 「彼女のところから帰ったのは何時でしたか?」 「七時半でした。それから食事の支度をしているところへ、主人が帰ってきました。八時頃だったと思います。そのあと、九時半まで主人がテレビを見て眠りましたので、私も休みました」 「池まゆみさんから電話があってレッスンを明日にしてくれといったとご主人に言われたそうですが、そんな電話があったのですか?」 「いいえ。そんな電話はありません。でも、すぐに行かれると、私が彼女をたずねていったことがバレるし、出来れば翌日行って欲しかったのでそう言いました。でも帰りぎわに、彼女も今日のレッスンは休みますと言ったんですよ」  警部は、もっとききたいことがあるような気がしたが、礼をのべて一旦、捜査本部へ帰っていった。捜査本部では一課長を中心に事件についての討議が活発になされていた。 「今、もう一度、マネージャーに話をきいたんだが、彼は、あの夜十時半に池まゆみのところへ電話をかけたとき、彼女の横に誰かがいたんじゃないか、というんだ。彼女は気まぐれで、電話に出てもあまりしゃべらないことはあっても、今までマネージャーの言う翌日の予定だけはしっかりきいていたというんだ。それを、何もきかずにピアノの音だけ入れて切るのは、いつもとはちがうと言うんだな」 「彼女の死体は、他の部屋で殺されて風呂場に運ばれたものでなく、風呂場で殺されたのは確かなんです。とすると、やはり、風呂場まで尾《つ》いてきても、なんともないほど親しい人物が犯人ということになりますね」 「マネージャーが犯人というのは?」 「それはないんだ。マネージャーが電話をかけたのは、友人とマージャンをやってる途中で、側には、三人ものタレントがいたんだから」 「じゃ、やっぱり芦川晴彦が怪しいということになりますね」 「芦川夫人のほうだと、池まゆみが風呂場まで一緒に行ったりしないだろうし、ピアノを弾いているような悠長な関係じゃないからな」 「もう一度、芦川を調べてみましょう。そうだ、一度、彼女が死ぬ前に弾いたピアノをきかせてみたらどうでしょう、どういう反応を示すか?」  というわけで、警部は、芦川を今度は捜査本部へ呼んだ。     8  しばらく事件のことを喋ったあとで、見城警部は芦川に言った。 「ところで、彼女が最後に弾いたピアノの曲をきいてくれますか? これは、たまたま、事件当夜マネージャーが電話したとき、彼女が、受話器をはずしてきかせたもので、彼が、録音していたものなのです。マネージャーは、彼女が一言も言わなかったので、この時、そばに、男でも居たのではないかと言っているんですが、まさかあなたがいたわけじゃないでしょうねえ?」  警部が、スイッチをおすと、カセットから曲が流れ出した。 〈ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ……〉  しばらくじっと聴いていた芦川は、次第に顔色を蒼ざめさせ、やがて曲が終るとぽつんと言った。 「弾いているのは彼女に間違いありません、この時、そばにいたのは私です。この電話のあと、私が殺しました」  捜査本部は騒然となった。まさか、こうあっさりと彼自身が自白するとは思わなかったからだ。参考人としての事情聴取は、直ちに、犯人の取調べにかわった。警部の言葉遣いもあなたからおまえに変る。 「じゃ、おまえは、九時半に寝たと言ったが、十時半には池まゆみの家にいたんだな」 「はい。一度寝床に入ってから抜け出しました」 「奥さんはその時どうしてたんだ?」 「私がテレビを見終る頃から寝てました」 「池まゆみを殺した動機は何だ?」 「私が、妻を捨てることが出来なくてぐずぐずしているので揉めていました。彼女が別れたいと言ったので、かっとなって殺したのです」 「何故、風呂に入れたのか?」  という質問に対しては、 「死体が冷えて行くのが可哀そうで……」  と返事した。芦川は、そのまま逮捕されて留置場に入れられた。  新聞は、芦川は死者を愛していたので、彼女が死ぬ前に弾いたピアノの音をきいて動揺したのだろうと書いた。  事件は落着した。しかし、犯人の芦川は、自白した翌日、留置場の中で自殺した。  看守のすきを見て、シーツで首をくくって死んだのである。  あとには、妻夕子にあてた一通の遺書が残されていた。遺書には、 「子供がせめてソナチネの一番を弾くようになるまで生きていたかった。子供をたのむ」  と書いてあった。     9  夕子には何だかわからなかった。  なぜ、彼が犯人だと自白したのか、そして死んだのか。  ただ、彼は、死んだ彼女を熱愛していて、あの世で添いとげようとしたような気がした。彼が死んだあと、夕子は、ぬけがらのようになっていた。  夕子は、芦川が池まゆみを愛したように、芦川を熱愛していたから、彼をとられまいとして彼女を殺してしまったのだ。  なのに、彼は死んでしまった。  夕子は、彼が犯人だと自白したとき、何故自分が犯人だと名乗り出なかったかと悔やまれてならなかった。  今となっては、自分が犯人として獄につながれても、彼が生きていてくれたほうがよかったと思った。彼が死んだのは、自分に対する一番手痛い復讐のような気がした。  ある日、夕子のところへ二人の刑事がやって来た。刑事は、カセットのテープレコーダーを持ってきた。 「これは、死んだ池まゆみさんが死ぬ前に弾いた曲ですが、きいて頂けますか?」 「どうして私がそれをきかなければいけませんの?」 「あなたのご主人はこの曲をきいてショックを受けて、私が犯人だと自白されたんですが、もし、ピアノの先生がそばにおられたら、彼女はこんなに間違った弾き方をしないんじゃないか、そばにいたのは、ピアノのわからない男だったのではないかという説が出てきました。すると、ご主人は犯人でなくなるかも知れないんです。ところが、担当の私は、音楽にはウトくて、これがなんという曲かもわからないんです。それで、奥さんも、ピアノを少しお弾きになるとききましたので、ちょっときいて頂いて曲名なども教えていただきたいのです」  何か罠がありそうな気もしたが、夫が犯人でなくなるかも知れないというのに、テープをきかないわけにもいかなかった。夕子は、しぶしぶうなずいた。  カセットのボタンがおされた。  電話のベルが五回。受話器をとりあげるカチッという音。  やがて、ピアノの音がきこえた。池まゆみが弾いていると刑事は思っているが、実際は自分が弾いているのだ。  夕子は、その時のことを思い出して、体がふるえてきた。  刑事が間違って弾いているといったが、どこを間違えたのかわからなかった。自分としては、思ったよりむしろうまく弾けていると思っているうちに、曲は終った。気がつくと、夕子は、膝の上でピアノを弾くように指を動かしていた。あわてて手をおさえたがそれを警部がじっとみていた。 「なんの曲でしょうか?」  警部は、本当に知らないのか夕子の顔をのぞきこみながらきいた。  知らないと言おうかと思ったが思いなおして丁寧に答えた。 「さあ、ソナチネの中にある曲じゃないかしら。私も最近はあまり弾かないのでよくわかりません」  夕子は、警部たちが週刊誌の記事に気がついてくれればいいのにと思った。週刊誌に池まゆみ本人が今、ソナチネの六番をやっていると喋っているから、この曲も同じであることがわかれば、これは、いよいよまゆみ自身が弾いたのだということになるからだ。  そのとき、今まで黙っていたもう一人の刑事が急に口を開いた。 「警部はご存知ないと思いますが、これは、ソナチネの六番なんだそうですよ。私も被害者の隣に住んでいる小学校六年の女の子にきいたんですがね、彼女もピアノを習っていて、丁度おなじあたりを弾いているんだそうです」 「ソナチネの六番ですか? そうでしょうね、そのくらいのやさしさの曲ですね」  夕子は、余裕をもって相槌を打った。 「彼女は、毎日、隣のお姉ちゃんのピアノをきいていたそうで、あの夜も、宿題がおそくなって十時半にきいていたそうですが、たしかにソナチネの六番だったといっています。ところが、不思議なことがあるんですよ」  刑事は、そこで言葉を切った。 「なんですか?」  不安を感じながら夕子は刑事を見上げた。 「池まゆみは、あの日まで一回もソナチネの六番を弾いたことがないんだそうです」 「どうしてかしら?」 「女の子が言うには、あの人は、バイエルがやっと終って、前の日にソナチネ一番に入ったところだと言うんですよ。ソナチネの一番と六番では、番数で言うと五番しかあいてませんが、ページ数は、約三十ページもあとのレッスンでむずかしいわけです。今まで一回も弾いたことがないのに、さらっと通しで弾けるわけがないから、あれはきっと先生が弾いたんだと思うけど、先生が弾いたにしては下手だなあというんです。何しろ、女の子は、一カ月前に自分が六番を終ったところなので、よく曲を覚えているんです。これはどういうことでしょうか?」 「じゃ、これは、池まゆみ自身が弾いたんじゃないということになる」  警部が呟いた。 「そんなことはないわ。私、今思い出したんだけど、彼女が、ソナチネの六番を弾いていると喋っている週刊誌をみた覚えがありますわ」  夕子は、必死になって言った。六番が弾けないなんて、そんな筈はないのだ。現に、彼女が、私の目の前で、六番の一節をピアノで弾いてみせたではないか。  しかし、捜査員は動じなかった。 「私もその週刊誌を見たものですから、マネージャーにきいてみましたら、やはりあれは、ウソなんだそうです」 「ウソ?」 「インタビューで、何が弾けますかときかれて、バイエルだとか、ソナチネの一番とは言いにくかったので、ミエを張って六番だとサバをよんだんだそうです」 「でも……」 「でも、なんですか」 「私が六時半頃行って洋間で話しているとき、ピアノの話が出たら、彼女は、今、ソナチネの六番ですの、といって右手でメロディを弾きましたわ。ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ……と。あれは、確かに六番にあるメロディですわ」  喋れば喋るほど破滅していくのだとわかっていても、夕子は、喋らないではいられなかった。 「あ、それでわかりました。なぜ、あなたが彼女が六番を弾いていたとかたくなに思いちがいしていたかが」  二人の捜査官は顔を見合わせてうなずいた。 「実は、ピアノの専門家に、ソナチネの一番と六番を比べて貰ったところ、不思議なことに、一番にも六番にも、同じメロディのところが一カ所だけあるのです。こういうことはめったにないんですがねえ。それが、今、あなたがおっしゃったメロディです」  刑事は手帳をみながら言った。 「ミレ ドシラソ フソラソ フミレド シドレ……ですが、ちょっとここを見て下さい」  警部は、持ってきたソナチネの楽譜を出した。 「一番では、第三楽章のはじめのほうにあり、六番では、一楽章の後半にあるでしょう。ちがうのはさいごがシドレミになるかシドレドになるかのちがいだけだ。彼女は、芦川さんからでもそれをきいていて、あなたの前で、ミエをはってみせたのですよ。六番を習っているようにみせたくて。それであなたは思いちがいをしてしまった」 「………」 「死亡推定時刻も鑑識で新しく検討しなおされて、七時前後という数字が出ています。あの風呂の湯が水だったとすれば、そういうことになるのです。あなたはここでも思いちがいをしていますよ。被害者は風呂に入るとき、レモンを風呂に浮かべるのではなくて、湯につかりながらかじって食べていたのです。それに、夕食が本当に食べられたのだとしたら、残されているはずの、食パンの端や、トマトのヘタもない……まあ、いろいろと不合理なことが出てきたわけです」 「何故、私だと言うの? 芦川だって、彼女を殺したあと、彼女の代りにピアノを弾けるわ」  芦川の代りに獄につながれたかったという先程までの殊勝な気持はどこへやら、夕子は絶叫した。 「悪あがきをしないで下さい。芦川さんなら、彼女が今、ソナチネの一番だということを誰よりもよく知っていますから、六番など弾きませんよ」  そうだ。芦川は、テープをきいたときに、犯人が夕子であることを悟ったのだ。夕子の乱れた頭に、彼の遺書の文字が、意味をもって蘇ってきた。 「子供がせめてソナチネの一番を弾くようになるまで……」  と書いてあった。彼は、最後に、夕子に言いたかったのだろう。池まゆみが弾けるのは、六番でなく、ソナチネの一番だよと……。  その時、警部の声が、だめおしのように響いた。 「第一、あの家には、事件後調べたが、ソナチネの楽譜はなかったんですよ。マネージャーにきくと彼女は、まだ楽譜を買ってなくて、今度来るときに芦川さんが買ってくることになっていた。  バイエルがあがったばかりの未熟な腕の彼女が、譜もなく、まだ習ってないソナチネの六番を弾けるでしょうか……」  密会のアリバイ     1  三浦剛は、家の前に着くと、料金を払って、タクシーを降りた。  久しぶりに飲んだ酒で、上気した頬に、若葉の匂いのする夜風があたって快い。  三浦は、しばらく、そうやって、門のところに佇《たたず》んでいたが、ゆっくりと、玄関のほうへ歩いていった。  家全体が、暗闇に包まれている。妻の悠子は、まだ同窓会から帰ってないらしい。子供もいないから、こういう時には、四十六歳にもなった大学教授が、カギで戸をあけなければならない。三浦は、苦笑したが、決して、不快な気持ではなかった。  戸をあけて、六畳の居間に入ると、電気をつけて、服を着がえはじめた。いつもの習慣通りである。時計をみると、十時をすぎている。 「着物よりパジャマがいいな」  一人で呟いて、三浦は、奥の寝室へ、パジャマをとりに行った。  電気のスイッチをおし、ドアをあけた途端、三浦の目にとびこんできたのは、床に倒れている悠子のワンピースの、目もさめるようなオレンジ色だった。 「悠子、悠子! どうしたんだ!」  あわてて駆け寄り、抱きおこしたが、悠子の体は、すでに冷たくなっていた。死体のまわりに、赤や青、黄色の銀紙につつまれた、小さなチョコレートが、花のようにちらばっていた。  三浦は、電話にとびつき、ふるえる指で、番号をまわして、一一〇番した。  パトカーが来るまでの何分かの間、三浦は、死体のそばに、ぼんやりと突っ立っていた。酔はすっかりさめていた。  遠くに、パトカーの音がきこえたとき、我にかえった三浦は、もう一度死体を見下ろした。すると、そばの床に、カフスボタンの青い石が落ちているのに気がついた。悠子が、海外旅行のとき買ってきたもので、今日も、ワイシャツにつけていった分である。悠子を抱きおこすときに落ちたらしい。  三浦は、あわててそれを拾い、ひき出しにしまった。  やがて、三浦家の前には、パトカーや、鑑識車がかけつけ、家の中は、刑事たちで一杯になった。  検死や現場の調べが一通り終ったあと、三浦は別室で、大村という警部から事情をきかれた。警部は、まず、 「今日、奥さんと最後に会われたのは、何時ですか?」  ときいた。 「今日は授業のない日で、昼の十二時から教授会があったので、家を十一時に出ました。そのとき以来、会ってません」 「その時、奥さんになにか、いつもと変ったところがありましたか?」 「いいえ。玄関まで送ってきて、帰りは何時頃かときくので、私が、友人と飲む約束があるし、夜十時頃になるだろうというと、私も、今日は同窓会がありますから、帰りは遅くなるかも知れませんといいました」 「教授会が終ったのは、何時でしたか?」 「三時頃です。それから、大学の前のコーヒーショップで、同じ教授仲間の矢沢や杉とお茶を飲んだあと、五時まで、学生のコンパに出ました」 「それから」 「大学時代からの友人で、商社に勤めている森が、海外勤務になるので、その送別会があり、そのあとみんなで、二次会、三次会に行って、帰ってきたのが、十時すぎでした」 「今、近所の人にきいたところでは、奥さんは、昼から外出され、夕方帰ってこられたようなんですが、亡くなったのは、検死の結果午後八時前後ということになっています。死因は、チョコレートに入った青酸性毒物によるものです」 「自殺ですか? 他殺ですか?」  三浦は、それが、一番知りたかった。 「それはわかりません。奥さんが、自分で買ったチョコレートに、毒を入れて食べられたのか、誰かから貰ったチョコレートを知らずに食べたら、毒が入っていたのかは、今の段階ではわかりません」  警部は、冷たく言ったあと、 「奥さんは、チョコレートが、お好きでしたか?」  と、きいた。 「ええ、とても好きでした」 「このチョコレートは、今朝、あなたが出られるまでにありましたか?」 「なかったように思います。最近は、太るのを気にして、チョコレートは、買わないようにしてましたから」 「なるほど、では、人から貰った確率が高いということになりますねえ。それも、お宅のようなゆたかな家庭で、見知らぬ他人から貰ったチョコレートを食べられるはずがないし、親しい人から貰ったということになりますね……」  警部は、しばらく考えてから、今度は、改った調子できいた。 「ところで、お子さんがないようですが、奥さんとの仲は、うまくいってましたか?」 「結婚して十五年もたちます。うまくいっていたと思ってました」 「最近、奥さんに、男の人が出来たというような感じはありませんでしたか?」 「感じませんでしたよ」  三浦は、失礼なと怒鳴りつけたいのを我慢して答えた。警部も、その気配を察したのか、その問題については、それ以上きくことはせず、悠子の交友関係や、二、三の質問をして引揚げて行った。  それからの二日間、三浦は、弔問客や葬儀や警察の調べで、目のまわるような忙しさだった。  悠子が、どうしてチョコレートを手に入れたのかは、結局わからず、新聞やテレビなどでは、おおむね、自殺の線で扱われていた。  悠子が死んで三日目、三浦は、クリーニング屋の預り証を探していた。悠子が、生前にワイシャツを何枚か、近所のクリーニング屋に出しておいてくれたらしいのだが、預り証がないために、とることが出来ないのだ。  預り証は、なかなか見つからなかった。探しくたびれて坐りこんでいた三浦は、ふと思いついて、ハンガーにかかっている悠子のスーツやレインコートのポケットを探してみた。  いくつめかに、紫のレインコートに手を入れた三浦は、「あった!」と声を出した。  しかし、手にさわった小さな紙は預り証ではなく、同じ位の大きさの新聞の切りぬきだった。よく見ると、貸マンションの広告である。 「どうしてこんなものが……」  と、手にとって眺めているうちに、あの日は曇り空で、昼頃、小雨がぱらついていたことに気がついた。あの日、悠子は、このレインコートを着て、家を出たのではないか。  もう一方のポケットをさぐってみると、探していたクリーニングの預り証が出てきた。日付けをみると、悠子の死んだ十四日になっている。  三浦は、押入れから、新聞の束を出して、ここ数日の不動産の広告のところをみていった。やはり、十四日の朝刊の貸マンションのところが、同じ大きさに切りとられていた。  悠子は、あの日、昼から、この貸マンションを見に行ったのだろうか。  三浦の家は、父の代からのもので、少し古いが、敷地百坪の二階屋である。どうして、貸マンションなどを見に行く必要があったのだろう。     2  三浦は、妻の悠子が持っていた、新聞に載っていた貸マンションを廻ってみることにした。  同じ業者が扱っている四角いスペースには、三つのマンションが、書かれている。   京阪丹波橋歩二分 2LDK 賃六万   国鉄稲荷駅近 3DK 賃七万   京阪四条大宮五分 4DK 賃十万  三浦は業者に電話して場所を聞き、まず、一番近い、稲荷駅近くのマンションに行ってみることにした。稲荷神社と同じ、朱色に塗った京阪電車の稲荷駅に降りると、そのマンションは、すぐにみつかった。出てきた四十すぎの管理人に、 「十四日の新聞に出てました貸マンションの広告は、ここなんですね?」  というと、みなまできかず、 「ああ、あの部屋は、もう 塞《ふさ》がりましたよ」  と、言った。 「いや、マンションをお借りするのではないんですが、この女の人が、あの日、借りに来ませんでしたでしょうか?」  悠子の写真をとり出して見せると、管理人は、ちらりと写真に目を走らせてから、 「あ、この人でしたら、あの日の二時頃にこられましたよ」  と、こともなげにいった。 「来ましたか?」  三浦は、顔を輝かせた。 「誰かと一緒でしたか?」 「いいえ。お一人でしたよ」  管理人は、けげんな顔をした。嘘を言っているようには見えない。 「で、どんな様子でしたか?」 「どんな様子といっても……、この新聞の切り抜きを見せて、部屋をみせて下さいといわれたので、見せただけですけど」  管理人は、少しうるさそうに答えた。しかし、三浦は、かまわずたずねた。 「自分が借りるような感じでしたか?」 「ええ。ゴミを出すのは、何曜日かとか、ダストシュートはどこにあるかとか、管理人室のこととか、色々きかれましたから」 「………」  三浦は考えこんだ。やっぱり本気で借りるつもりだったらしい。 「誰のために?」  思わず声にして言うと、管理人が、不審そうな顔をして、反対にきいた。 「あなたは、誰なんですか?」 「………」 「どうして、この女の人のことをききたいんですか? あの女《ひと》は、ここには、入ってませんよ、本当ですよ」 「契約はしなかったんですか?」 「はじめは乗気だったんですが、途中で急に気がなくなったみたいでね、結局、考えてからお返事するといって帰られました。それっきりですよ。長年のカンで、これは駄目だなと思ったので、夕方来た別の方におかししました」 「何でやめたんでしょうね」 「さあ、わかりません。色々都合もあるでしょうから。でも、部屋代や敷金などについては問題はないみたいで、今にも払いそうにハンドバッグをあけてみたりしてたんですけどね」 「じゃ、何か臭いがするとか、音がやかましいとか気がついたんじゃないかなあ」  三浦が、つい思ったままを言うと、管理人が、怒り出した。 「あんた、そんなことを言って貰っては困りますよ。なんの臭いもしないし、こんな静かなところはありませんよ、いいかげんにして下さい。多分、あの人は、隣が、新聞記者だときいたんでやめにしたんですよ。一緒に暮らす相手の男が、公金横領か何かやってて、世間にかくれて暮らしたかったんじゃないんですか。あ、まさか、あんたが、その相手じゃないでしょうね」  管理人は、うさんくさげに、三浦をみた。  三浦は仕方なく名刺を出し、急死した妻が、このマンションの貸室広告をもっていたので、ききにきたのだと、事情を打ちあけた。  管理人は、興味をもったらしく、さっきとは打ってかわって、身を入れてきいていたが、 「ご主人さんには悪いけど、奥さんには、男の人がいたんとちがいますか。その男と昼間会うために、ここを借りに来はったんやないかなあ」  といった。  三浦もそうかも知れないと思った。しかしそういうことを、他人から言われるのはいい気がしなかった。  とにかく、このマンションはやめにしたのだから、次のマンションを見に行った可能性があると思い、三浦は、礼を言って外へ出た。  外へ出ると、今度は京阪電車に乗って、丹波橋のマンションに向った。  それは、京阪丹波橋の改札口から、ほんの少し山手に上ったところにある、緑の木にかこまれた白いマンションだった。  一階の管理人室と書かれたドアをノックしたとたんに、中から勢いよくとび出してきたのは、中学生位の男の子だった。 「管理人さんいますか?」  ときくと、 「いま、父さんは留守です。かあさんが五階の501号にいるから、そこへ行ってよ。僕、ちょっと出るので失礼します」  と、いってカギを締めて行ってしまった。  501号は、エレベーターで五階まで上って、一番端の部屋だった。ドアが、開き放しになっていて、管理人の奥さんらしい三十過ぎの女性が、ガラスを入れにきている職人と、話しているところだった。丁度、入れ終ったところらしく、職人は、道具をまとめると、お辞儀をしてすぐ出て行った。 「どうも、お待たせしました。部屋を見に来られたんですか?」  女性は、愛想よく言った。三浦は、 「いや、ちょっとおききしたいことがありまして……」  といって、再び写真を出して、この人が、広告を出した日、部屋をみに来なかったかときいた。写真を手にとって眺めた彼女は、すぐにうなずいた。 「この方なら来られましたよ。三時頃だったと思いますよ」 「部屋を貸してくれと言ったんですか?」 「ええ。私は、この部屋の掃除をしてたので、管理人室のドアに『501号室にいます』と書いて貼っておいたんです。そしたら、二人が上って来られました」 「えっ? 二人で?」  三浦は驚いた、と同時に、やっと、つかまえたと胸がおどった。 「はい。男の人と二人でした」 「どんな男でしたか?」 「若い……二十五歳位の人でしたね」 「で、どんな話をしたんですか?」 「新聞に広告の出てたのは、この部屋でしょうかと女の人が言われました。この部屋と503号と404号と三つありますといいましたら、この部屋を見たあと、503号室と404号室も見に行かれました。大分長いこと帰ってこられないので、404号に行ったら、二人で話しこんでましたよ」 「何を話してたんでしょうか」 「さあ、借りるかどうしようかと相談してるんだと思いましたが……」 「結局、借りなかったんですか?」 「考えてから返事しますといって帰られました」 「それだけですか?」 「ええ。あ、それから、帰りぎわに、この近所の『ララ』という喫茶店はどう行ったらいいのかときかれました。そこで相談するのだと思いましたから、教えてあげました」 「『ララ』という喫茶店ですね?」  三浦は、手帳に書きとめた。それを見ていた管理人夫人は、 「お宅は、刑事さんですか?」  と、きいた。 「ええ、まあ……」  三浦は、曖昧にうなずいたあとで、もう一度、その男の人相をきき、外へ出た。 (妻の悠子は、男、それも若い男と二人で貸マンションを見に行った)  外へ出ると、日光がまぶしく、汗ばむような暑さだった。三浦は、上衣を脱いで、手にかけ、『ララ』を探した。 『ララ』は、通りを入った、ちょっとわかりにくいところにある喫茶店だった。中は薄暗く、アベックの客が多かった。  カウンターにすわってコーヒーを注文してから、三浦は、店の主人らしい男に声をかけた。 「ちょっと、おききしたいのですが……」  マスターは、顔をあげて、なにかというような目をした。 「この女性が、十四日の午後三時すぎに、若い男性とこのお店に来なかったでしょうか?」  マスターは、コップを拭きながら、写真に目を落した。 「さあ、覚えてませんね」  とりつくしまもなかった。三浦は、事情を打ち明ける決心をした。 「実は、これは、私の家内なんですが、ここを出て数時間後に、殺されてしまったんです」  そこで、三浦は、一度言葉を切った。殺されたときいて、さすがにマスターはコップを拭く手を止めた。 「午後三時に、この近所のパークマンションまで、若い男と部屋を見に来たことまでわかっているんです。帰るまぎわに管理人に、『ララ』という喫茶店へはどういくのかときいたというのです。お願いです。もう一度、思い出してみて下さい。いずれ、警察もききに来ると思いますが……」  マスターは、三浦には何も言わず、手をあげて、二人のウエイトレスを呼んだ。そして、写真の女性が、店に来なかったかと小声できいた。  ちょっと太目だが、可愛い顔をしたウエイトレスは、好奇心にあふれた様子で、写真を手にとった。 「……一番奥のボックスにいた紫色のレインコートを着た人かしら……」 「そうです。それです。どんなことを話してたか覚えていませんか?」 「さあ……」  そのウエイトレスが、首をかしげると、もう一人の背の高い娘が、顔をあげた。 「私が、レモンスカッシュをもっていったとき、なんだか、京南大学のことを話してたみたいですよ」 「京南大学ですか?」  京南大学というと、三浦が勤めている大学である。 「そうよ。あの男の人は、きっと京南大学の学生さんやわ。指に、カレッジリングをはめてたもの」 「カレッジリングというと?」  三浦がきいた。 「あら知らへんのどすか? 大学生がはめてるでしょう。針金みたいに細い金の指輪。カレッジリングを一番よくはめてるのが、洛京大と京南大で、洛京大は、銀で、京南大は金だから、きっと、京南大だと思うわ」  三浦は、考えこんだ。京南大の学生は、家によく遊びに来る。その中の一人が、マンションを移る相談をしたので、悠子が、新聞でみたマンションを教えてやり、ついでに、母親のようなつもりで、ついていってやったのかも知れない。  でも、それなら、何故殺されたのだろうか。それとも、やっぱり、彼等二人は、恋愛関係だったのだろうか。  家に出入りしているうちに、恋愛関係になり、二人のためのマンションを見に行ったのだろうか。  とにかく、その学生が、誰かを突きとめなければならない。  三浦は、二人のウエイトレスに、詳しく、その男の特徴をきいた。 「そうですねえ、女の人のほうは、よく覚えてないけど、男の人のほうは、覚えてます。髪は長くて、鼻が高くて、タレントのKみたいな感じでした」 「背も高かったわ」 「とにかく、ちょっと目立つようなハンサムな男だったわ」  三浦は、一層心が暗くなった。三浦の家に出入りする学生に、心あたりはない。それに、それだけいい男なら、妻と、ただの仲だったとは思えない。 「もし、その男性をみかけるか、この喫茶店に来ることがあったら、是非知らせて下さい」  三浦は、二人にそうたのんで、店を出た。  広告に出ていた三つ目の四条大宮のマンションには、悠子は行っていなかった。     3  翌日、三浦が、朝昼兼用の食事をしている時、電話のベルが鳴った。相手は女で、とても興奮していた。 「もし、もし、あ、三浦さんですか?」 「はい。そうですが、あなたは?」 「立石洋子です。喫茶店『ララ』の……」 「ああ、昨日のウエイトレスさん、何かわかりましたか?」 「あのう、今、テレビのニュース見なかったですか?」 「まだ見てませんが……」 「あの人が殺されたんですよ、この間、奥さんと一緒にお店にきた人が」 「本当ですか?」  三浦は、思わず、大きな声を出した。 「ええ、本当ですよ。あの人は、やっぱり京南大学の学生さんで、青木明という人なんだそうです。あ、今だったら、テレビの違うチャンネルで言うかも知れませんよ」 「どうも有難う。じゃ、また、あとで……」  三浦は、受話器をおくと、テレビにとびついて、ガチャガチャとチャンネルを廻した。  やっと、最後に廻したチャンネルで、青木明という男の顔写真をみることが出来たが、詳細はわからなかった。 (悠子が死ぬ日、一緒にいた男が、死んだ。悠子と、この青木という男の関係は何だったのだろう。  二人は、あの日、マンションを見に行って、何かを目撃し、消されてしまったのだろうか。それとも、悠子は、青木に殺され、青木は自殺したのか——)  次のニュースの時間が、待ち切れなかった。  三浦は、ふと思いついて、大学の学生課へ、電話をしてみた。自分と同じ大学の学生なのだから、様子をきいてもおかしくはないだろうと思った。  電話口に、顔みしりの山口学生課長をよび出すと、今、テレビで見て驚いたが、青木明というのは、どんな学生なのかときいた。  山口課長は、別に不審がる様子もなく、すぐに答えてくれた。 「今も、警察から、いろいろ問い合わせがあったので、同じ学部の学生をよんできいているところなんですが、過激派だとか、そういうほうの組織には入ってないようです」 「何学部ですか?」 「法学部政治科です。大阪に住んでまして、成績は上位です。これで見ますと、先生の授業には出ていませんね。何か、ご関係のある学生ですか?」 「いや、私のゼミか何かだったら、警察から問い合わせがあるかと思って、気になったものだから」 「ゼミは、矢沢教授のところのようです。あ、それから、同じ学部の学生にきいたところ、青木君は、結婚すると言って、部屋を探していたようなんです。現住所は大阪です。その相手に話をきこうと思って探しています。……今のところ、その程度しかわかっていません」 「どうも有難う」  三浦は、電話を切って、窓際に立った。悠子が好きで植えていたバラが、一面に咲いている。 (青木は、結婚すると言って、マンションを探していた。その相手は、悠子なのだろうか、青木が結婚するマンションを探してやる程、悠子が、青木と親密だという話はきいたことがない。青木には、授業も教えてないし、三浦家とは一切関係ない学生なのだ。  青木が、結婚して住むマンションを見に行ったのだとすれば、一緒に見に行くのは、結婚する相手にきまっているではないか)  不意に、玄関のチャイムが鳴った。こんな日には、誰にも会いたくなかったが、居留守を使うわけにもいかず、のっそりと立ち上った。  玄関には、二人の男が立っていた。戸をあけると、年嵩《としかさ》の方が、警察手帳を示した。 「京南大の三浦さんですね?」  ときいた。 「そうですが……」 「ちょっと、失礼していいでしょうか?」  三浦は、仕方なく、二人を応接間に招じ入れた。  椅子におちつくと、年嵩の男は、大阪府警の沖警部だと名乗ったあと、やつぎばやに質問をしてきた。 「昨日、青木明という京南大学生が死んだこと、ご存知でしょうか?」 「はい、テレビでみました」 「三浦さんは、京南大の教授でいらっしゃいますが、青木君をご存知ですか?」 「いいえ。同じ大学と言っても、学生が多いことですし、私のゼミでもないので知りませんよ」 「さきほど、うちの刑事が行っているときに、大学の学生課に電話して、青木君のこと、色々ときかれたようですが、何故ですか?」 「いや、うちの大学の学生なので、ふと思いついて、きいてみたんです」  と、三浦はしらばくれた。 「それだけですか?」 「それだけです」 「じゃ、今まで、京南大生の事件がおこると、いつも問い合わせておられたわけですか?」 「………」 「この前、京南大生が、一人住いのOLを襲ってさわがれて殺した事件や、名神高速で、京南大生が轢《ひ》き逃げされたときは、やはり、学生課にききあわされましたか?」 「いいえ」 「おかしいですね。名神高速轢き逃げ事件の学生は、先生のゼミの学生でしょう。それでも、あまり関心をもたれなかったのに、青木君にだけ興味をもたれるとは」 「………」 「彼に、関心があるのは、彼が、あなたの奥さんと一緒に、マンションを見に行った仲だと知ったからでしょう?」  突然、今まで黙っていた、もう一人の刑事が言った。三浦は、むっとした。 「知っていたら、廻りくどいことを言わずに、最初からそう言ってくれたら、いいじゃないですか。私も、喫茶店の子に口どめしたわけじゃないし、いつか知れると思ってましたよ」 「あなたは、奥さんと青木君が、恋仲だったのを知って、かっとなって、青木君を殺したんじゃないですか?」 「何を言うんですか。私は、青木という学生と会ったこともありませんよ」 「でも、昨日、随分、青木のことを詳しくきいていたそうじゃありませんか。喫茶店のウエイトレスが、今日、あなたに知らせたあと、店のマスターに、あなた自身が犯人かも知れないぞと言われ、あわてて、こちらに知らせてきたんですよ」 「私は、今日、ウエイトレスが知らせてくるまで、妻と逢っていた男が、青木という名前だということすら知りませんでしたよ」 「昨日の夜は、どこへ行かれましたか?」 「どこへも行きませんよ。家にいました」 「一人でですか?」 「妻が死んだんだから、一人でいるより仕方がないでしょう。私は、犯人じゃありませんよ。犯人は、私の妻を殺した男です」 「奥さんが亡くなったとき、あなたは、何をしていたのですか?」 「その日は、友人の送別会に行ってましたよ。詳しいことは、京都府警の刑事さんにきいて下さい」  三浦は、憤りをおさえて、刑事たちに言った。     4  翌日のニュースショウに、青木の恋人だという女性が出ているのを見て、三浦は驚いた。  青木が借りていたアパートの近所に住んでいる夏代という娘で、青木と結婚するはずだったと言い、新聞などで、青木が、大学教授夫人と恋仲であったように言われているが、そんなことは絶対にないと否定していた。 「じゃ、青木さんは、何故、その女《ひと》と、マンションなど借りに行ったんでしょうねえ」  司会者が当然な質問をした。 「マンションを見にいくとき、彼は、私と一緒に行こうと言ったのですけど、私は、仕事があったので、彼に、先に見てきてほしいといいました。彼のほうは、学生で時間的には自由だし、私は勤めているからです。もし、あなたがみて、いいと思ったら、私も、仕事を終えてから見に行くと言ったんです。あの女の人には、そのマンションで、ばったり出会ったんだと言ってました」 「でも、管理人は、二人一緒にきたと……」 「丁度、管理人室の前に、501号にいますという貼紙がしてあったので、見ていたら、その女の人が来て、『管理人さん、いないんですか?』ときいたのだそうです。彼が、その貼紙を指して、『501号にいるようですね』ということで、二人で上ったんだと言ってました」  そこまでは、事実かも知れないと、三浦は思った。 「じゃ、ただ、偶然、その場で一緒になった人だというんですね。それにしては、別の部屋で話しこんだり、帰りに喫茶店へ行ったのは、どういうことですかね?」  司会者が意地悪くきいた。 「それは、その女の人を、彼が、以前に見たことがあったからですわ」 「ほう、それは何時《いつ》ですか?」 「一カ月ほど前、彼と私が、山科のモーテルヘ行ったとき、その女の人をみかけたのです」 「みかけたというと……」 「その女の人が、男の人とモーテルから出てくるのに会いました。相手の男の人が、京南大学の教授だったので、彼が、驚いて見送っていたのを覚えています。それで、彼は、マンションを見にいって、別の部屋に行ったとき、彼女に、そのことを言ってやったんだそうです」 「なるほど」 「『あんたが、この間、山科のMモーテルから出て来るのをみましたよ。相手が、京南大の教授だったんで、びっくりしたなあ』って。すると、その女《ひと》は、驚いて、色々と弁解してたそうです。あれは、私の主人で、気分を変えるために行ったんだとか。そのあと、女の人が、喫茶店に行こうと誘ったそうです」 「あなたは、それを、いつ彼からきいたんですか?」 「その日の夕方、彼と会ってききました。マンションのほうは、たいしたことなかったけど、そこで、思いがけない人にあったよって、笑いながら話してくれました」 「その女の人は、そのあと亡くなったんですが、なにか、そのことに関係あるようなこと言ってませんでしたか?」 「いいえ」 「ところで、そのモーテルでみかけたという京南大学の教授というのは、誰だったんですか?」 「知りません」 「彼が名前を言わなかったんですか?」 「そのとき言ったようにも思うんですけど、覚えてません」 「顔は、あなたも見たんでしょう?」 「それが、ゆきすぎてから、彼が、しきりに、ふり返ってみているので、どうしたのときいて、はじめて知ったのです。だから、後姿で、背が高かったことと、車しかみていません」 「車の種類は?」 「わかりませんが、色はグリーンでした」 「なるほど、京南大学の教授で、グリーンの車に乗っている人が、その女性の相手というわけですね。でも、ひょっとすると、その女性が言っていたように、夫婦できていたということも考えられますね?」 「そんなことはありません。彼が、笑っていってましたもの。あの教授の家には、遊びに行ったことがあるから、知ってるけど、奥さんはいないって」 「では、この事件をまとめてみると、こうなりますか」  司会者が、ちらと腕時計に目を走らせてから、喋り出した。 「その女の人と、京南大学の教授は、不倫の関係を続けていた。そして、それをあなた方に見られた。その話を女からきいた教授は、まずいことになったと思って、まず、女を殺し、次いで、あなたの彼である青木君を殺したということになりませんか。もし、この推理が間違いで、殺してないのなら、教授! 是非、名乗り出て下さい、テレビ局でなくて、警察でもいいですから」  司会者はメモをみて、言葉をついだ、 「それから、もう一つ、考えられる推理があります。それは、その女性と青木君が、マンションか、または、喫茶店、もしくは、そこへ行く道で、何かを目撃された。それで、消されたのではないかという推理です。もう一度おききしますが、なにか、そのことについて、青木さんは言ってませんでしたか? 変なものをみたとか……」 「いいえ」  テレビは、まだ続いていたが、三浦は、スイッチを切った。静かにして、考えてみたいことが、一杯あったからだ。  あの娘が、どこまで本当のことを言っているか知らないが、悠子と青木という学生は、恋人ではないような気がした。  あの娘が言った、背の高い、グリーンの車に乗った京南大学の教授というと……と考えているうちに、ふと何の関連もなく別のことを思い出した。それは、あの死体のそばに転がっていたカフスボタンだった。  あの夜——、  服を脱ぎながら、寝室に入っていったので、全く、自分のカフスボタンの石が落ちたのだと思った。それで、あわてて片付けたのだが、本当は、犯人のではなかったろうか。  あのカフスボタンは、悠子が一年程前、海外旅行に行ったとき買ってきたものである。仏像がすかし彫りになった青い石が、金の台にはめこんである特殊なものだから、自分のものだと思いこんでいたが、あの時、悠子は、あと、一組か二組買ってきて、誰かに渡したような記憶がある。ちょっと待てよ、と三浦は考え込んだ。  そうだ、あの時、矢沢と杉が遊びに来ていて、その場で土産といって渡したのだった。二人とも、京南大の教授で、三浦の友人だった。  三浦は、急いでカフスボタンやタイピンなどの入った引き出しを抜いてきて調べた。  間違いなかった。青いカフスボタンの石は三つあった。こわれた一個と、こわれてない一組とが。やはり、こわれた一個はあの日誰かがおとしていったのだ。  では、二人のうちのどちらかが?  矢沢か杉か?  三浦は、二人に会って、カフスボタンを持っているかどうか調べることにした。  大学へ出てみると、矢沢も、授業に来ていた。  講義が終るのを待って、三浦は、矢沢を研究室に訪ねた。矢沢は、一人で、学生のレポートを読んでいた。 「やあ、君が研究室にくるなんて珍しいなあ、どうだ、少しは、元気になったか?」  矢沢は、何の屈託もないような声をかけてきた。 「まあ……な」 「犯人はあがったのか?」 「まだだ」  三浦は、カフスボタンのことを、どう切り出そうかと思い、下をむいた。それを、気が沈んだためと勘ちがいしたのか、矢沢は、あわてて、話をかえた。 「まあ、いいや、今日は一緒に飲もうや、授業はまだあるのか?」 「いや、今、終ったところだ」  二人は、連れだって外に出た。  先週、目がさめるように、鮮やかにみえた新緑も、今日は、天候の加減か、かげってみえる。カフスボタンのことを、言い出せないままに、三浦は、矢沢と一緒に、何軒かの店をまわった。最後の店で、矢沢は、カウンターに、うつ伏して、寝てしまった。  三浦は、酔うことも出来なくて、ぼんやりと、盃を口に運んでいた。ふとみると、カウンターに投げ出された矢沢の袖口に、あのカフスボタンが、光っている。はっとして、もう一方の袖口をみたが、こちらにも、きちんと、同じカフスボタンがついていた。 (矢沢は、一組、ちゃんと持っている。彼は犯人ではない。正面から、カフスボタンのことをきかなくてよかった。もし、一刻《とき》でも、疑われたと知ったら、矢沢の性格だから、どんなに怒ったか知れない)  ほっと、肩から息を抜いたとたんに、今までせきとめられていた酔が、一気に出た。  三浦は、久しぶりに、何もかも忘れて酔い、その夜は、ぐっすりとねた。  翌日、三浦は杉の家を訪ねた。悠子が探していた丹波橋や稲荷のマンションからは、同じ京阪電車の沿線にあって、比較的近い。  杉は、昨夜遅くまで本を読んでいたとかで、ねむたそうな顔であらわれたが、気持よく三浦を部屋に招じ入れた。奥さんと子供は、買物に出かけて留守だった。  矢沢がカフスボタンを一組もっていた以上、杉のが揃っている筈がない。ということは、杉が犯人なのだから、何も遠慮することはないと思い、三浦は正面からたずねた。 「今日は、ちょっと、たずねたいことがあって、やってきたんだが、君は、悠子が買ってきたカフスボタンを持っているかい?」 「ああ、いつか、土産だといって、もらった分だろう。あることはあるけど……」  杉は、ちょっと、言葉をにごした。 「じゃ、見せてくれないか。これは、非常に重大な話なんだ」  三浦の気迫に押されて、杉は、立ち上がりカフスボタンをもってきた、案の定、片方は、青い石がとれていた。 「これ、使いやすいので、気に入って、いつもつけてたんだが、つい最近、石をなくしてしまったんだ。折角もらったのにすまん」  杉は、頭をさげた。 「最近て、いつだ?」 「それがわからないんだ。朝しようと思ったら、なくなってたんだ」 「十四日じゃないか?」 「さあ」 「悠子が死んだ十四日の夜、君は、うちへ来ただろう?」 「いいや、行ってないよ、ここ二、三カ月ほど行ってないね、どうしてだ?」 「悠子の死体を見つけたとき、これが、転がってたんだ」  三浦は、ぱっと、手をひらいて、青い石をみせた。 「丁度帰ってワイシャツをぬいだところだったんで、自分のだと思ってしまったんだが、あとで、落着いて考えてみたら、ワイシャツをぬぐ前に、カフスボタンははずして、引き出しにしまったはずなんだ。昨日、おかしいと思って、調べてみたら、僕のはちゃんと一組そろってる、となると、この石は、その日、誰かやってきて落としていったということになるじゃないか」 「つまり、俺がその日、君の家へいき、悠子さんを殺し、それを落としたというのか」  杉が、気色ばんできいた。 「そうだ。悠子は、毎日、部屋をきれいに掃除して、掃除機をかけていた。その日以外におちるはずはない」 「しかし、僕は行っていない。勿論、悠子さんを殺してもいない。そのカフスボタンは、矢沢だって同じときにもらっただろう」 「矢沢は、昨日、ちゃんと、両腕に、はめていたよ」  杉はしばらく黙っていたが、 「今だから言うが、俺は、君の奥さんとなにかあったとしたら、それは、矢沢だと思うよ」  と、いい出した。 「去年の秋、矢沢と俺とで、学生何人かつれて、和歌山のほうへ行ったことがあっただろう。あのとき、ちょっと、おかしなことがあったんだ」 「おかしなことというと」 「旅館で、夕食後、俺が、矢沢の部屋にいったら、矢沢がいなくて、電話がなっていたんだ。俺が、受話器をとりあげると、女の声で、『もし、もし、私よ』というんだ。何のことかわからず、『え、誰のことでしょうか?』というと、『どうしたの? 誰かそばにいるの?』というんだ。そのとき、矢沢が入ってきて、ひったくるように受話器をとったんだ。そして、『今のは杉だよ。なんで、電話なんかするんだ』といい、あとは、何か二言三言小さい声で喋り、電話をきった。俺が、あとで、はったりで、『あの声はきいたことがあるな』と笑いながらかまをかけると、矢沢は、あわてて、『三浦が、俺たちと一緒に行くといって出たらしい。本当かどうか悠子さんがきいてきたんだ。三浦に言うなよ』と言うんだ。そのとき、はじめて悠子さんだとわかって、びっくりしたよ。あの電話のやりとりは、どう考えても、普通の関係じゃないからね。それに、君に言うなというのもおかしい……。でも、ま、人のことだと思ってそのままで忘れてしまっていたんだ」 「作り話じゃないのか?」 「本当だ。信じられないなら仕方がないが」 「じゃ、カフスボタンはどうしたんだ、矢沢が、君のを盗んだのか?」 「そうとしか考えられない」 「矢沢が、最近、ここへ来たのか?」 「いや、ここ一年ほど来たことはない」 「じゃ、いつ盗んだんだ?」 「考えられるのは、大学の職員の健康検診のときだな」 「悠子が死んだ翌日だったかな。葬式やなんかで忙しかったので、ぼくは受けなかったんだが……」 「例年通り、レントゲン検診などがあったが、あのとき、ワイシャツを脱いで、控室にしばらくおいていたから、彼が、このこわれたほうと代えようと思えば代えられる」 「でも、それは、証拠がないことだ。君が、矢沢に、罪をなすりつけているのかも知れない」 「じゃ、どうして証明すればいいんだ、悠子さんが、死んだ時のアリバイがあったらいいのか? あの日は、教授会が終って、君たちと別れたあと、一旦、家に帰って夕食をすませ、そのあと、家にやってきた堀野と一緒に飲みに行ったんだ。家に帰った時間や出た時間は、家内や子供にきくとわかるし、堀野は君も知っているだろう」 「悠子は、頸を絞められたり殴られたりして殺されたわけじゃないから、死亡時間のアリバイは、それほど重要じゃないんだ。犯人がおいていったらしいチョコレートを食べて、彼女は死んだのだから」 「それにしても、カフスボタンを落としてきたのだから、犯人は、一度は君の家へ行ってるわけだろう。俺は時間的に絶対行けないよ、矢沢はどうなんだ?」 「彼とは、昨夜飲みながら、色々きいてみたが、彼も、いくつもの会合に出ているので、一応は、うちへ寄れないことになるんだ。しかし、会と会の間を利用したら、少しぐらいの時間は、どうにかなるかもしれないな」 「じゃ、青木という学生が殺された時のアリバイはどうなんだ。あれは、しめ殺したということだから、アリバイが必要だろう」 「君はあるのか?」 「ある。俺は、高坂部長のところで、うたいの会があって行っていたから、五時間しっかりアリバイがあるよ。あれは、一分も座をはずせないからね」  三浦は、考えこんでしまった。  重苦しくなった空気を柔らげようと、杉が、窓をあけた。  小降りになった雨の中を、車が連なって走っていく。  三浦はつと顔をあげると、杉にきいてみた。 「君は、車持ってるんだったかな?」 「いや、持ってない。免許もないよ。子供に、車を買って乗せてくれとせがまれるんだが、昔から運動神経がにぶいし、この齢になっては、免許もなかなかとれないだろう」  車の運転が出来ないとすると、悠子とモーテルに行ったのは、杉ではないということになる。三浦は、続けてたずねた。 「矢沢は運転できるのか?」 「彼は、昔から車持ってるじゃないか。俺も何回か乗せてもらったが、うまいものだよ」 「車の色は何色だ?」 「さあ、何回も買いかえているから、今は何色かな。紺かグリーンのようだったけど」  杉も、はっきりとは覚えていないらしかった。三浦は青木が殺された時の、矢沢のアリバイを確かめてみようと、心の中で決心した。  杉夫人が、子供を連れて、買物から帰って来たのをしおに、三浦は席を立った。  大学へ行って、顔みしりの学生の一人をつかまえてきくと、矢沢先生の車はグリーンに間違いないと言った。どんな型で、どこの社の車かと重ねてきくと、 「なんだったら、友達に写真を貰ってきましょうか。矢沢先生のゼミの連中で、奈良へ行ったときの写真をもってましたよ」  といってくれた。  三浦は、是非、その写真をもらってきてくれと、学生にたのんだ。  グラウンドを横ぎって階段教室の前まで行くと、丁度、授業が終ったらしく、大勢の学生が、はき出されてきた。女子学生が、圧倒的に多い。一体、誰の授業だろうと思ってみていると、学生と話しながら出て来たのは、当の矢沢教授だった。  矢沢は、三浦をみると、学生との話を打ち切って、傍にやってきた。 「この間はどうも。……ところで、なにか僕に用か?」 「うん。ちょっとききたいことがあって」  三浦が、むずかしい面持でいうと、矢沢は、黙って歩き出した。誰もいない廊下の端までくると、くるりとふり返り、 「君のききたいことはわかるよ。青木君が死んだ、十八日の僕のアリバイだろう」  といった。 「今朝、警察の人が来て、車のほうから割り出して、グリーンの車の持主で、三浦教授とも親しいという点で、該当するからといって、アリバイをききにきた」 「で、どうだったんだ?」 「青木という学生は、大阪で、十八日の午後五時半頃殺されたらしいが、僕は、そのころ、京都の駅近くの、自分のマンションにいたといったよ。一人暮らしだから、証明するものはないけど、丁度、五時半頃、焼めしの出前をとったから、そちらにきいてくれればわかると言って、店の電話番号と、場所を教えたよ」 「なるほど、じゃ、こちらにも、教えて貰おうか」  三浦は、そう言って、矢沢の顔をみつめた。一瞬だが、矢沢は目をそらせた。直感で、三浦は、矢沢が犯人だと感じた。しかし、証拠がない。矢沢は、 「友達にまで疑われちゃおしまいだな」  と、呟きながら、店の場所と電話番号をかいてよこした。  グラウンドへ出ると、さっきの学生が待っていて、写真を渡してくれた。  みると、三台ほどの車と一緒に、矢沢が、学生たちと写っていた。矢沢のよりかかっているのは、グリーンの車だった。  三浦は新聞に出ていた住所へ、青木の恋人をたずねて行った。彼女はテレビでみた時は、はきはきとして、元気にみえたが、近くでみると、やはり、やつれがめだった。  三浦が、名前を名乗って、モーテルで見た車はこれかといって、写真をみせると、彼女は、 「あ、この車です。それに、あの時、奥さんと来た人は、多分、この人ですわ。背の高さや、ちょっと背をまげたかんじが似ています」  と、矢沢の顔を指して叫んだ。  念のため、三浦が、家からもってきた杉教授の写真をみせたが、彼女は、即座に首をふった。 「こんな背の高い、やせた人じゃないわ」  たしかに、杉は、若い時、胸を患っただけあって、やせて、体格が貧弱だった。  これでは、いくら、不意を襲ったとしても、若い青木を絞め殺すのは、無理だろうと、三浦は思った。  彼女に礼を言って、外へ出ると、今度は、京都駅の近くの矢沢のマンションの前まで、車に乗った。  矢沢が、出前をとったという店は、思ったより大きな中華料理店だった。  三浦は、店に入り、焼めしを注文してから、店長をよび、事情を話して、矢沢のところへ出前をもって行った人に、会わしてくれとたのんだ。  店長は、そういう話なら、といって、三浦を奥の部屋へ通し、店員をよんでくれた。  その店員は、原田と言って、二十歳ぐらいの背の高い男だった。原田は、警察にも、同じことをきかれたと言って、三浦の問に、すらすらと答えてくれた。  ギターをもたしたら、そのまま歌手で通りそうな若者だった。 「そうですねえ。あそこへは、割とよく出前にいきますからねえ。よく覚えてます。あの日は、注文の電話があったんで、五時二十分頃、焼めしを一つ持って行きましたよ。ドアをあけて入っていくと、先生は、奥で、電話中のようでした。何か、外国の本を注文してるみたいでしたよ。来客中とか、電話中ということは、よくあるので、声をかけて、下駄箱の上に皿をおいて帰りました。六時頃に、同じマンションに、ついでがあったので、器《うつわ》をもらいに寄ったら、全部たべたきれいな器と、そばに四百五十円、代金がきっちりおいてありましたから、もらって帰りました。えっ、五時半に、先生は、大阪にいたはずだって言うんですか。そんなことはないでしょう。たしかに、声がしていたし、もし、いなかったら、あんなにきれいにたべて、お金を出しておくことは出来ないでしょう」  三浦は、うなずいて店員に礼をのべた。自分のテーブルにかえり、焼めしをたべながら、事件のことを考えた。  大阪の青木の死んでいた場所と、矢沢のマンションとの距離は、いくら早く行っても、一時間はかかるだろう。往復二時間である。  矢沢が五時二十分に焼めしを受け取って、すぐに出かけたとしても、大阪には、六時半にしかつかない。  ところが、三浦のきいた話では、六時には、もう青木の死体が発見されているのだ。青木は、アパートで、友人とマージャンをしている時に、呼び出され、いつまで待っても、帰ってこないので、待ちくたびれた友人が、外に出てみると、殺されて転がっている青木を発見したということだった。  呼び出されて行ったのは、五時三十五分だった。  矢沢が犯人なら、四時半には、マンションを出て、帰りつくのは、六時半以後になる。  その間に、どうして、皿の焼めしをなくし、四百五十円の金を出しておけるのか? 出前をした店員の話では、四百五十円の金は、最初、出前をもっていった時には、絶対なかったと言う。  それに、電話中らしい矢沢の声もきこえたというのは、どういうことだろう。  三浦は、焼めしを食べおわると、店を出た。  家へ帰るまでのタクシーの中でも、三浦は、考え続けた。  家に着くと、まず、河原町の『丸善』に電話してみた。  洋書の注文をするとしたら、京都では、ここしかないと思ったからだ。十八日の夕方に、京南大の矢沢教授から、洋書の注文があったかときくと、女の係員は、私が受けましたといい、書物の名前をあげた。 「それは、何時頃でしたか?」  三浦は、きいた。 「五時二十分頃にかかってきたと思います。私は、五時半に交代しますので、時計を見ましたから間違いありません」 「五時二十分頃から、何分位、話されましたか?」 「えーと、電話を切って、メモをつけ終った時が五時三十分でしたから、六、七分、話したでしょうか」 「矢沢教授の声は、ご存知ですか?」 「はい。いつも、ご注文を受けておりますので……」 「どうも、有難う」  三浦は、電話を切ると、少しがっかりした。  三浦の考えでは、矢沢は、自分の声をテープに吹きこんでおいて、留守の間廻し、電話中とみせかけたのだと思っていた。また、本当に、『丸善』にかけたとしても、それは、四時か四時半頃で、そのときのやりとりを、テープにとって、留守の間、廻したのだと考えたのだ。  が、矢沢は、五時二十分に、きちんと電話している。  矢沢は、やはりシロで、あのとき家にいたのだろうか。  しかし、この謎は、すぐに解けた。  矢沢は、あらかじめ『丸善』にかける予定のセリフを喋り、テープにとって、そのテープを、五時十五分頃から流れるようにセットし、四時半頃出かける。  そして、五時二十分に、大阪についてから、丸善に、本当に電話をして、本の注文をする。  そのあと、五時三十五分頃、青木を呼び出して、路上で絞め殺し、すぐに京都にひきかえす——。  こう考えると、矢沢の電話の声の謎はとけるのである。  しかし、肝心な、空になった皿と、四百五十円の代金がおかれていた謎は、どう考えても解けなかった。  それからの数日、三浦は、この謎を解くのに没頭した。  何度も、矢沢のマンション附近をうろついて、ききこみをつづけ、大学の構内でも、色々と情報を集めた。  自分を裏切った妻の敵《かたき》をとっても仕方がないと思う時もあったが、何かに熱中してなければ、たった一人になった淋しさをまぎらすことが出来なかった。子供は出来なかったが、十五年間、三浦には、家庭があった。しかし、今は、家は、寝るだけの場所でしかなかった。  四日目に、三浦は、きちんとした服装をして、矢沢をマンションに訪ねた。  すべての謎が解けたからだった。  矢沢は、どこかへ行く前らしく、むしタオルをあてて、ひげを剃っていた。 「やあ、ちょっと待ってくれよ。ワイシャツを着てしまうから」  矢沢が、ワイシャツをきて、前のボタンをかけ終ったとき、三浦は黙って、カフスボタンをさし出した。あの現場に落ちていたこわれたカフスボタンだった。  矢沢は、一瞬、ぎくっとしたように、それをみつめたが、すぐに、なにげない風で言った。 「どうしたんだい? それは、こわれてるじゃないか? 僕のはここにあるよ」  と、テーブルの上の一組を指さした。  三浦は、その一つをとると、ポケットヘしまい、こわれている一つを、テーブルに返した。 「こちらは、杉に返しておくよ」  三浦が、ポケットを叩くと、矢沢が反撃してきた。 「どういうことなんだ。僕が、杉のカフスボタンを盗んだとでも言うのか」 「そうだ。このこわれたほうが君のだ。これは、悠子が死んだとき死体のそばにおちていたよ。帰ってから、カフスボタンの石をおとしてきたことに気がついた君は、職員の健康検診のときに、脱いであった杉のワイシャツから、一つを盗んで、こわれたのと代えた——」 「何を馬鹿な。もし、死体のそばに、それがおちていたのなら、杉が犯人だろう。僕が、代えたという証拠はない」 「それがあるのだ。悠子が死んだ翌日の十五日、つまり、検診の日、杉が、完全な一組のカフスボタンをしていたのを何人もの学生がみている。杉は暑くなったので、授業の途中でカフスボタンをはずし、ワイシャツをまくりあげて授業をしていたのだ。そして、そのまま、カフスボタンを教卓の上に忘れた。それを、女子学生がみつけて、あとで、彼に届けに行ったんだよ。悠子が死んだあとも彼は、こわれていない一組のカフスボタンをしていたんだよ。女子学生は一人でなく何人もみている」 「じゃ、僕が、悠子さんと青木の両方を殺したと考えているのか?」 「そうだ」 「少なくとも、青木のときは、僕は、この間言ったようにアリバイがあるよ。出前の子にたしかめたんだろう」  矢沢は、けわしい顔で言った。 「その謎も解いたよ。君は、最近、部屋の中でかっていたサクセスという犬を保健所へもっていって処分しただろう。それは、あの犬がいると、君のアリバイづくりがバレるからなんだ。君は、大阪にいく途中に、電話をかけて出前をたのんだ。下駄箱の上においてかえった出前の焼めしは、お腹をすかしていた君の犬が、ペロリと食べてしまった。普段から、あの焼めしののこりをあたえていたから犬はたべてもいいと思ったのだ。あとで、とりに来た出前持ちの子は、きれいになった皿をみて、君が食べたと思いこんだ」 「嘘だ!」  と言ったとき、このあいだの出前持ちが、同じ焼めしをもってきて、三浦にわたしてかえった。  三浦が、窓をあけてよぶと、弾丸のような早さで、白い犬がとびこんできて、三浦のもった皿の焼めしをたべはじめた。みているまに、皿の焼めしはなくなった。  呆然としていた矢沢が、犬の顔をみて、思わず叫んだ。 「サクセス! サクセスじゃないか!」  犬は、捨てられた飼主に、よろこんでとびついていった。 「そうだよ、君のかっていたサクセスだよ。僕が、保健所でもらいさげてきたのさ。これで、焼めしの皿の謎はとけただろう?」 「じゃ、四百五十円の金はどうなんだ。共犯がなけりゃ、金をおくことが出来ないじゃないか?」  矢沢は、顔をひきつらせて叫んだ。 「あの謎も解けたよ。君は、昼食に別の店で五百五十円の寿司をとって、千円渡したんだ。いつも、つりをもってないのを知っててだ。そして、つりは、夕方、隣の大学生に寿司をとどけるついでに、もってきて、下駄箱の上においておいてくれとたのんだ。隣の学生が、必ず六時に、夕食をとって、七時からのアルバイトに出かけるのを知ってたからね。  だから、五時二十分頃出前をもってきたときには金はなくて、六時すぎに、器をとりに来た時には、少し前に、寿司屋が持って来たおつりの四百五十円が、あったわけなんだ。  寿司が五百五十円、焼めしが四百五十円なのを、うまく利用したわけだよ。なんなら、寿司屋を呼んでもいい」 「………」 「それから、電話をしているようにみせかけて、流しておいたテープのことだけど、あれに、ちょっとミスがあったよ。君は、五時に、焼めしを注文したら、いつもの例から、五時二十分から三十分の間に持ってくることを知っていた。だから、その間、テープを流し続けたんだが、ひょっとして、ちょっと早くか、ちょっと遅く来たときのことを考えて、五時十五分から、五時四十分まで、テープをかけていたのだ。本の注文を、延々とくりかえしてね。次に六時すぎに焼めしの器を取りに来たときには、もうテープはきれているという寸法だ。そこまでは、よかったんだが、寿司屋が、いつも通り六時十分前か、十五分前位にこなかったのが、誤算だった。あの日は、少し早く、五時三十五分頃に来てしまったのだよ。それで、寿司屋も、テープをきいてしまった。そして、君が電話で洋書の注文をしていたと証言している。ところが、これはおかしい」 「なぜだ?」 「五時二十分に焼めしを持って来た男が電話をきいて、五時三十五分に、つり銭をもってきた寿司屋がやはり電話をきいたとすると、君は、二十分近く丸善に、電話をかけていたことになる、しかし、丸善の女の子は、君の電話は、七分位だといっている。これは、ミスだったね」  新幹線ジャック     1  新幹線のひかり24号が、新大阪を東京に向って出発したのは、十四時五十分、予定より四十分おくれていた。  関ヶ原附近の激しい雪のためだった。  一月二日。年末から続いた連休の中間の日というものは、人々は、郷里に帰ってしまっているせいか、年末に、二倍、三倍の客を詰めこんだ車内も、意外にすいている。  値下げ以後、客足を元に戻したといわれているグリーン車も、今日は、六十パーセント程度の乗車率だった。それでも、晴れ着姿の若い娘の姿が見えたりして、車内が華やかなのは、いかにも正月という感じだった。  国鉄に奉職して二十年になる、車掌長の小池は、列車が、新大阪駅を離れるとすぐ、検札のために、12号車についている乗務員室を出た。  洗面所の鏡に向って、軽く、帽子とネクタイを直す。小池のくせであると同時に、検札をする際の車掌としての、最小限の身だしなみだと考えていた。  ワイシャツも、よく、のりがきいている。廊下へ出てもう一人の車掌の野村を待ちながら、客席のほうへ眼をやったときだった。  ドアが開いて、客席のほうから、背の高い男が出て来て、ぶつかった。  風邪をひいているのか、大きなマスクをし、サングラスをかけている。長髪の二十五、六歳に見える男だった。小池は、身体をずらせるようにして、 「どうぞ」  と、その男に声をかけた。  だが、どうしたのか、男は、小太りの小池の前に、立ちふさがった形で、動こうとしない。 「どうぞ」  小池が、もう一度、言ったときだった。ふいに、脇腹に、堅いものが突きつけられるのを感じた。  小池の顔から、すうっと血の気が引いていく。 「車掌室へ戻るんだ」  と、男は、押し殺した声で、小池に命令した。 「え?」 「車掌室へ戻れ。ぐずぐずすると、射殺するぞ」  男の手に力がこもると、小池の脇腹に突きつけられた拳銃が、小さく動いた。 「何をする気だ? 詰らんことはやめなさい」  と、小池は、努めて冷静に、相手に話しかけた。 「われわれは、12号車、11号車、二つのグリーン車を占拠した」  男は、相変らず、押し殺した声で言った。  小池は、一瞬、男のいった意味が理解できなくて、「え?」と、相手を見つめた。 「何をしたと言ったんですか?」 「トレインジャックだよ。われわれは、このひかり24号をトレインジャックしたと言っているのだ」 「トレインジャック?」  小池は、まだ半信半疑だった。航空機の次は、新幹線ではないかといわれ、トレインジャックを想定して、ひと通りの訓練も実施したが、それが、現実になることを、想像したことはなかったからである。  それに、訓練を通じて、出された一つの結論は、十六輛編成の列車、平均して、千名近い乗客を制圧し、人質にするのは、数人のゲリラでは、難しいということだった。  一輛に、一人の犯人としても、十六人は必要だからである。  列車に、爆弾を仕掛けて、金をゆするということはあり得ても、正確な意味の新幹線ジャックは、あり得ないだろうというのが、訓練の結果、考えられた結論だった。  それなのに、眼の前の男は、このひかり24号をトレインジャックしたといっている。 「早く、車掌室へ行け!」  と、男は繰り返した。 「トレインジャックしたというのは、本当なのかね?」 「よく見ろ」  男は、客車に通じるドアを開けた。  小池の眼に、12号車の車内の様子が飛び込んで来た。  四列に並んだ座席。浅黄色のシート、白いカバー、全て、小池が、新幹線の開設以来、見なれた光景だった。  進行方向に坐っている乗客。だが、銃を構えて、通路や、入口に突っ立っている二人の男の姿も、同時に、眼に入った。  どの男も、サングラスをかけ、大きなマスクをしている。  さっきの男は、すぐ、ドアを閉めてしまった。 「わかったな」  と、男は小池にいった。 「隣の11号車も、われわれが制圧した」 「他の車輛は?」 「他の車輛だって」  と、男は、急に、サングラスの奥で、ニヤリと笑った。 「そんなもんは、関係ない。われわれは、グリーンの二輛を占拠したのだ。命令に従わなければ、この二輛に乗っている乗客を、射殺し、爆破するぞ」 「………」  小池の顔が、青ざめた。新幹線をトレインジャックするのに、十六輛の全車輛を占拠する必要はなかったのだ。男のいう通り、一つの車輛を占拠すればいいのだ。  一輛や二輛の乗客なら、その人命を無視できるというわけにはいかないし、グリーン車が爆破されれば、時速二百キロで走る列車は、ひとたまりもなく脱線、転覆する。  小池は、乗務員室に、押し込まれた。 「総合指令所に連絡しろ」  と、男は、小池の眼の前に、拳銃を突きつけて命令した。 「ひかり24号が、トレインジャックされたと」     2  東京駅の新幹線ホームの北端にある白堊の総合指令所は、重苦しい緊張に包まれた。  新幹線ジャックという、予期されているが、一方で、あり得ないのではないかと、楽観もされていた事件が、遂に、起きてしまったからである。  総合指令所長の牧田は、眼の前の巨大な表示盤を見つめた。  そこには、東京——博多間の各駅構内、駅間の路線構成の全てが表示され、表示盤の前には、信号設備の制御盤があって、これで、全ての駅のポイントや信号機をリモートコントロールできる仕組みになっている。  今日のように、雪のためにダイヤが乱れても、コムトラック(COMTRAC)と呼ばれるコンピューターシステムが、警報を発し、自動的に、待避や、ダイヤの変更を判断してくれる。  問題のひかり24号は、今、新大阪と京都の中間地点にいる。時速約六十キロと、ゆっくりした速度だ。 「犯人は、グリーン車だけを占拠しているんだな?」  と、牧田は、指令員の一人に、確認するようにきいた。 「車掌長は、そういっています」 「犯人の人数は?」 「私が、車掌長に、君は大丈夫かと質問したところ、胃が痛むが、大丈夫だという返事でした」 「痛むのは胃か」  トレインジャックを想定して、連絡用の暗号がいくつか考えられていた。  犯人側の人数は、身体の各部によって、示されることにしたのも、その一つだった。  身体の上から、頭なら一人、喉なら二人といった具合で、十人まで表示され、身体全体が痛むという場合は、犯人が、十人以上を意味している。胃は五人である。 「五人ということは、二つの車輛に二人ずつで、五人目が、乗務員室で、車掌長に命令しているということかも知れんな。ひかり24号を呼び出してくれ。車掌長の名前は?」 「小池信二。新幹線始って以来、乗っている男です」 「彼なら知っている。冷静な男だ」  牧田は、自分で、マイクを取った。 「ひかり24号か。こちらは、総合指令所長の牧田だ」 「車掌長の小池です」  という声が、入って来た。  テープレコーダーが回転して、その応答を録音していく。 「犯人の要求は何だね?」 「ちょっと待って下さい」  小池車掌長が、小声で、犯人と話し合っているが、その内容は、聞きとれなかった。  突然、小池に代って、若い男の声が、とび込んで来た。 「われわれは、この列車を占拠した。要求が入れられなければ、グリーン車二輛の乗客全員を射殺し、爆破する」  やや甲高いが、冷静な感じの声だった。 「君たちの要求とは、何だね?」 「われわれは、国鉄総裁と、日本国政府に対して要求するのだ」 「わかった。伝えよう。ひかりが、トレインジャックされたことは、すでに、電話で、総裁や、運輸大臣に伝えてある」 「よろしい。まず、この列車の運転を、手動に切りかえろ。われわれの指示によって動くようにするのだ」 「一つの列車だけを、ATC(自動列車制御装置)のシステムから除外するのは難しい。全ての新幹線列車が、ATC、CTC、コムトラック、ATSというようなコンピューターによって、コントロールされているのだからね。一列車だけが、手動になっては、混乱する」 「馬鹿なことを言うな」  と、相手は、せせら笑った。 「何か異常があった場合は、運転士は、ATSのスイッチを切り、手動にして、適当に走らせることになっている筈だ」  犯人は、新幹線のシステムについて、熟知しているようだ。 「運転室!」  と、犯人が大声で呼ぶのが聞こえた。車掌室から、運転室へは、電話が通じている。  犯人は、それを使っているらしい。 「聞えたら返事しろ」 「聞えている」  と、運転士が答えている。 「よし。すぐ、ATSのスイッチを切り、手動に切り換えるんだ。そして、速度五十キロにダウンしろ」 「わかった」  そうした、やりとりを傍聴しながら、牧田は、ハンカチで、吹き出してくる汗を拭きとった。 「ひかり24号」  と、牧田は、呼びかけた。 「応答してくれ」 「われわれは、青い牙だ」  と、犯人がいった。 「どうすれば、乗客を解放してくれるのかね?」 「われわれの要求が受け入れられれば、乗客は、解放される」 「どんな要求かね?」 「われわれが戦うための資金と、現在、不当に逮捕拘禁されている赤軍兵士の釈放だ」 「君たちは、グリーン車二輛を占拠しているといったね?」 「そうだ」 「それなら、人質は充分だろう。他の十四輛に乗っている乗客を、次の京都駅で解放してくれないかね?」 「ウエイト・フォー・ヒュー・ミニッツ」 「え?」 「ウエイト!」 「オーケイ」  牧田も、つられて、英語でいってしまった。  犯人が、急に英語を使ったのは、国際的連帯を誇示する赤軍だからだろうか。 「ひかり24号が、手動で走っている。それを、コンピューターに記憶させておいてくれ」  と、牧田は、指令員に、大声でいった。  犯人の声は、まだ、戻って来ない。 「大臣からの連絡は?」  牧田が、別の指令員にきく。 「佐藤政務次官が、こちらに向かわれているそうです」 「総裁には、まだ、連絡がとれないのか?」 「はい、しかし、副総裁が、間もなく見えられる筈です」 「総合指令所」  と、犯人が呼んだ。 「君の申し入れを検討した結果、次の京都駅で、他の十四輛の乗客を解放することに同意する」 「ありがとう」 「ただし、警官や、公安官が、乗り込むようなことがあれば、われわれは、容赦なく、グリーン車の乗客全員を射殺する。それを忘れるな」 「わかっている。それは約束する」  牧田は、マイクを置くと、表示盤に眼をやった。 「ひかり24号が、京都に着くのは、何時だ?」 「現在、時速五十キロで走行中ですから、このままでいけば、あと十九分で、京都駅に到着します」 「すぐ、京都駅に連絡してくれ」     3  国鉄京都駅は、緊張に包まれた。というより、混乱したといったほうが、いいかも知れない。  七名の鉄道公安官と、十五名の駅員が、上り新幹線ホームから、列車を待っていた約二百人の乗客を排除しようとして、こぜり合いになった。  理由を聞かされないままに、ホームから立ちのいてくれといわれて、全員が、騒ぎ出したのだ。 「このホームのどこかに、時限爆弾が仕掛けられているという報告が入ったのです!」  と、気をきかした公安官が、マイクで、乗客に怒鳴った。 「爆発まで、あと数分しかありません。早く、このホームから、立ち去って下さい!」  とたんに、今度は、乗客たちが、先を争って、昇降口に殺到し、階段を駆けおりた。  悲鳴があがった。押されて、若い女性が、転げ落ちたのだ。  しかし、公安官たちには、それを助け起こしている余裕がなかった。  突然の新幹線ジャックの知らせで、ひかり24号が、ホームに入って来たら、どうしたらいいのかという対策が、たっていなかったからである。  主任の井上は、ホームの時計に眼を走らせた。あと九分で、ひかり24号が、ホームに入って来る。 「とにかく」  と、井上は、部下の六人の公安官を見廻した。 「十四輛の乗客を、無事におろすことが、まず第一だ。その間に、犯人たちの隙を見て、グリーン車に突入する。そこは、臨機応変でやって欲しい。グリーン車に隣合っている13号車と、10号車から突入してもいい」  彼が、話している間にも、時間は、どんどん過ぎていく。 「全員、拳銃を点検しろ!」  と、井上は命令した。  グリーン車に突入したとき、犯人が抵抗すれば、射殺する気だった。相次ぐ同じような事件で、国民の間に、強行措置も止むを得ないという空気が強まっている。犯人を射殺しても、マスコミに叩かれることはないだろう。  七人の公安官は、一斉に拳銃を取り出して、安全装置を外した。  グリーン車が止まる位置に分散して、待機する。駅員は、解放される十四輛の乗客を、安全に、素早く、列車からおろさせるために、ホームに散らばった。  井上は、また、時計を見上げた。あと五分。  京都駅の新幹線ホームには、下から吹きあげてくる風で、寒いこと、この上ないのだが、今日は、全く寒さを感じなかった。それどころか、拳銃を持つ指先が、じっとりと汗ばんでくる。 「二番線に上りひかり24号が到着します」  と、アナウンスが、ホームに流れた。  ホームから身を乗り出すと、白い車体のひかり24号が、ゆっくりと、近づいてくるのが見えた。 「来たぞ!」  と、井上が叫んだ。  だが、ひかり24号は、先頭の16号車が、ホームに入ったところで、停止してしまった。 (どうしたんだ?)  と、井上が、いぶかる間に、その先頭車輛から、次々に、乗客がおり始めた。  井上は、顔色を変えて、ホームの端に向って、走り出した。  ひかり24号は、先頭車だけが、ホームに着き、あとの十五輛は、ホームの向こうだ。 「どうしたんだ?」  と、ホームにおりて来た乗客を掴まえて、井上が、大声できいた。 「何が何だかわかりませんよ」と、三十五、六歳のサラリーマン風の男が、首をふった。 「突然、車内放送があって、16号車から13号車の乗客は、16号車に行けと命令されたんです。ぐずぐずしていれば、列車を爆破するといわれました」 「どうしたんだ?」  と、井上は、同じ質問を、運転席の二人の運転士に浴びせかけた。 「犯人の命令です」  と、運転士が、蒼ざめた顔で言った。 「先頭車が、ホームに入ったところで止めろといいました」 「君たちが降りてしまえば、この列車は動けなくなる」 「それは出来ません。われわれが降りたら、グリーン車の乗客は、射殺すると、犯人はいっています」  井上が歯がみしたとき、突然、ドアが閉まった。  列車が動きだした。  グリーン車が、近づいてくる。  だが、犯人たちの占拠している二輛のグリーン車の窓は、全て、カーテンがおりていた。これでは、ホームから、内部の様子を見ることが出来ない。  井上の前を、ゆっくり通過していった列車は、今度は、最後尾の一輛が、ホームに残っているところで、再び、停車し、ドアがあいて、乗客たちが、降りて来た。  これでは、グリーン車にとび込むことが出来ない。  七人の公安官は、ホームの端に向って、また駆け出した。 「どうしますか?」と、公安官の一人が、息をはずませながら、井上にきいた。 「列車に乗り込みますか?」 「やめよう」  と、井上は、いった。 「これだけ用心深い犯人たちだ。われわれが乗り込んでも、グリーン車に近づいたら、グリーン車の乗客を、容赦なく殺してしまうだろうからな」     4  総合司令所には、国鉄副総裁と、運輸政務次官の佐藤が到着した。 「どんな状態なんだ?」  と、佐藤次官が、牧田にきいた。 「現在、ひかり24号は、京都駅で、十四輛の乗客をおろし、名古屋に近づいています」 「グリーン車だけを占拠しているそうだが、何故、犯人たちは、そんなことをしたのだろう?」 「そこが、犯人たちの巧妙なところです」  と、牧田はいい、ひかりの編成図を、佐藤次官に見せた。 「これをよくご覧になって下さい、グリーン車二輛には、洗面所、トイレ、それに、飲料水が設備されていて、日常行動に困りません。それに、乗務員室があるので、外との連絡、運転室への命令も出来ます」 「なるほど。それで、グリーン車二輛には、何人の乗客が乗っているんだ?」 「今、切符の売れた数は、コンピューターではじき出しておきました。それによると、博多、新大阪間で、ひかり24号のグリーン車で売れた切符は、八十九枚です。切符を買っても、何かの都合で乗らなかった人もいるでしょうし、また、六歳以下の幼児は、切符なしで乗りますから、八十名から九十名の間と考えています。ただし、飛行機と違って、乗客の名前も、男女別もわかりません」 「犯人たちについては?」 「要求の中に、金と、逮捕された赤軍兵士の解放をうたっていますから、やはり、日本赤軍関係かと考えられます」  牧田は、無造作にいったが、政務次官の佐藤は、眉をしかめた。拘留中の赤軍を解放させるかどうかということになれば、また閣議で激論が闘わされるに違いなかったし、人質と交換させても、相手の要求を拒否して、人質の乗客に死傷者が出ても、政府は、批判されることになる。 「ひかり24号とは、常に連絡がとれているのかね?」  と、副総裁の阿部が、口をはさんだ。 「回線はあけてあります」  と、牧田が答える。 「相手の武器は、拳銃かね?」 「それに、列車を爆破するともいってますから、爆薬も持っているとみていいと思います」 「飛行機と違って、新幹線の乗客の荷物は、チェックできんからなあ」  阿部が、溜息をついた。新幹線で、チェックをしたら、大混乱に落ち込んでしまうだろう。  今のところは、荷物の持ち込みは、フリーパスに等しい。  それだけに、牧田は、今度の事件の対応の重要さを、感じずにはいられなかった。  犯人を逮捕できれば、新幹線ジャックの再発を阻止することが可能だが、彼等に成功させてしまったら、また、新幹線が狙われることになるだろうからである。  指令所内の電話が、さっきから鳴り続けている。  その一つにかじりついていた若い沢本が、メモを片手に、 「所長」  と、牧田の傍へ寄ってきた。彼は、そこにいる阿部に、礼をしてから、 「今、京都駅から、連絡が入りました」  と、牧田にいった。 「犯人たちについて、何かわかったのか?」 「いえ。それはまだわかりません。ただ、京都駅で、食堂車の従業員も、解放されました。その中に、車内販売の売り子がいたわけですが、その一人が、トレインジャックの起こる直前に、グリーン車の中を、往復しています。彼女は、何人かの乗客の顔を覚えていましたが、その結果、有名人が、何人か乗っていることがわかりました」 「有名人て、誰なんだ?」 「女性歌手の工藤晴子」  と、沢本が、メモを見ながらいった。 「そういえば、テレビによく出ているような気がするな」 「今や若者のアイドルです。新人賞を貰い、去年の紅白にも出場しています」 「他には?」 「ジョージ・アレン夫妻」 「日本を演奏旅行中のアメリカのピアニストだな。昨日、テレビで見たよ」 「外国人も乗っているのか」  佐藤が、うなり声をあげた。それも、有名人となると、対処の方法が、一層、むずかしくなってくる。 「今のところ、これだけです」  と、沢本がいったとき、 「総合指令所、こちら、ひかり24号の小池車掌長です」  待っていた無線電話が入ってきた。  指令所の空気が、また緊張する。 「牧田だ」 「われわれの要求を告げる」  と、聞き覚えのある声が、車掌長にとって代った。さっきの犯人の声だ。 「どんなことだ」 「いいか、よく聞くんだ。グリーン車二輛には、九十二名の乗客が乗っている。人質は、九十二名というわけだ。この中には、有名人もいる、もし、死ねば、マスコミの格好の材料になるだろうな」 「君たちの要求をいいたまえ。ここには、国鉄副総裁も、運輸政務次官もおられる」 「まず、人質九十二名に対する身代金だ。次の停車駅名古屋で、現金三億円を、三つのケースに詰め、13号車の12号車寄りの入口からのせるのだ。名古屋の上り新幹線ホームから、全ての人間を遠ざけておけ。そして、駅長一人が、三億円入りのスーツケースと一緒にホームに立ち、列車が停車し次第、のせるのだ。もし、ホームに、他の人間がいるのがわかれば、直ちに、九十二名を射殺し、列車を爆破する」 「三億円払えば、人質は解放してくれるのか?」 「現金を確認してから、各車輛の客を十人ずつ解放する」 「他の者は、どうなるんだ?」  牧田が、思わず、マイクに向って怒鳴った。 「そうあせるなよ」  と、犯人は、電話の向こうで冷笑した。 「名古屋からは、『こだま』と同じく、各駅停車にする。名古屋で三億円がのせられれば、次の豊橋までの間に、確認してから、約束に従って、11、12号車から十名ずつ解放する。次の浜松で、また三億円積み込むのだ。その三億円を静岡までに調べて間違いなければ、静岡駅で二十人を解放する。それを繰り返すのだ。三島駅で、三回目の三億円、熱海で二十人の解放、小田原で四回目の三億円、そして、新横浜で、更に二十人が、解放される」 「車掌二人はどうなるのだ?」 「新横浜で、最後の仕上げが行われるからよくきくのだ。この列車が、新横浜に着くまでの間に、拘留中のわれらの同志、赤軍兵士三人を解放し、車で、新横浜へ連れて来ておくこと。われわれは、そこで合流し、東京駅から羽田空港へ向う。羽田空港には、ジェット旅客機を用意しておくのだ。二人の車掌と、残りの乗客十二名は、人質として、羽田まで、連れていく。従って、東京には、五十人乗りのバスを用意しておくのだ」 「すると、君たちは、合計十二億円と、赤軍三名の解放を要求するということか?」 「それに、国外脱出用のジェット旅客機だ」 「無茶な要求だ」 「国鉄は、一年間に、一千億円近い、赤字を出しても、悠々と営業しているじゃないか。十二億円ぐらい、何でもないだろう。現在拘留中の赤軍兵士の解放にしても、前例のあることだ。ジェット旅客機は、われわれが、無事、国外へ脱出すれば返還される。これでも、無理な要求だというのかね?」 「何故。一度に十二億円を要求しないのだ?」 「第一に、三億円ずつのほうが、そちらにしても、払い易いだろう。われわれも、その札が、ニセモノでないか、続き番号でないかを点検した上、次の段階へ移りたいからね。それに、身代金の支払い、人質解放といった繰り返しが、スムーズに行われ出せば、われわれと、君たちの間に、信頼感が生まれてくる筈だ」 「信頼感だと——」 「では、最初の三億円を支払うかどうか決断したまえ」 「所長」  と、指令員の一人が、口をはさんだ。 「ひかり24号が、長良川の鉄橋上で停止しました」 「何故、停止させるんだ?」  と、牧田は、犯人に向ってきいた。 「最初の三億円が用意されるまで、列車は、この鉄橋に停めておく。用意できたら、連絡するのだ。そして、さっきいったように、駅長だけがホームに残って、三億円を、13号車にのせる。わかったな。われわれを長く待たせれば、乗客の中から死人が出るかも知れないが、それは、全て、君たちの責任だ」     5  十六輛の列車が、長良川鉄橋の上に停車している。  粉雪が舞っていた。  ひかり24号が、停止してしまったため、他の列車も、停止するか、徐行せざるを得なかった。  警察庁からも、富田刑事部長が、総合指令所に駆けつけてきた。犯人の要求に対処するためだった。新幹線車内の犯罪である限り、国鉄の問題であり、鉄道公安官の仕事だが、今や、事件は、犯人対政府の問題になった。 「身代金の支払いは、人命尊重の見地から止むを得ないとしても、現在拘留中の赤軍幹部は、絶対に解放したくない」  と、佐藤政務次官が、顔を赤くしていった。それは、彼個人の考えというより、政府の考え方であった。  前の日航機事件のとき、犯人たちに支払われた六百万ドルについての、政府批判はなかったのに、赤軍幹部の解放については、日本国内はもとより、世界の批判が集中した。今回の新幹線ジャックに対して、政府が、赤軍兵士の解放について、神経質になっているのは、当然であろう。 「その点は、警察としても同感です」  と、富田刑事部長も肯《うなず》いた。 「幸い、今回の犯人は、現在レールの上におり、高飛びの恐れはありません。従って、彼等が、新横浜に来るまでが勝負と考えます。犯人たちは、三億円ずつ、四回に分けて支払えと要求しています。巧妙に見えますが、あれは、われわれに、時を稼がせてくれることになります。新横浜到着までに、なるべく時間をかせぎ、その間に、対策を立てることが必要です」 「そのためには、何よりも、正確に、犯人の人数と、どんな連中なのかを知りたいものだな」  と、佐藤がいった。 「それについては、どの程度、わかっているのですか?」  富田が、牧田にきいた。  牧田は、自分の作ったメモに眼をやってから、 「車掌長は、犯人は、五人といってきていますが、現在、二人の車掌は、乗務員室に閉じ込められているので、五人に間違いないとはいい切れません。11号、12号の二輛のグリーン車を制圧していることから考えて、五人ないし七人と考えています」 「七人以上ということはないのかね?」  と、副総裁がきく。その質問には、富田が答えた。 「日本赤軍にしても、他のゲリラ組織にしても、その多くが、チェ・ゲバラに心酔し、彼の書いたゲリラ戦の教程を信奉しています。それによると、ゲリラの最小単位は、八人を越えてはならないと書かれています。統制をとりにくいということでしょう。従って、私も、七人までだと思いますね」 「現在、ひかり24号には、何人の人間が乗っているのか、その正確な人数は、つかめているのかね?」  政務次官の佐藤がきいた。そうした質問の全てが、牧田に向けられてくる。 「グリーン車以外の乗客は、全て、京都駅でおろされましたから、現在、ひかり24号の乗客は、グリーン車の九十二名だけです。それに、車掌二名、運転士二名、そして、犯人たちです」 「現在、長良川鉄橋上に停っているが、車内の温度が、低くなるというようなことはないかね?」 「電気が正常に送られているので、暖房はきいていると思います」 「水は?」 「飲料水は、グリーン車以外にも、一輛おきにあります。トイレも同様です。従って、事件が長引いても、旅客機のハイジャックの場合のように、飲料水が不足したり、トイレが、あふれるようなことはないと考えられます」 「すると、こちらが、交渉を引き延ばしても、乗客の苦痛は、あまり強くならないということですね?」  富田刑事部長が、眼を光らせて、牧田にきいた。  牧田は、一瞬、答えに迷った。今のところ、病人が出ている様子もないし、車内の温度も、適当に保たれているようだが、ひかり24号が停車している長良川附近は、小雪が降っている。もし、電気系統が故障したら、車内は、たちまち、五〜六度の低温になってしまうだろう。  だから、牧田は、答える代りに、 「警察は、どのくらい引き延ばす積りですか?」  と、きき返した。 「政務次官は、身代金の支払いは、止むを得ないと言われましたが、警察としては、それも、出来れば阻止したいのです。従って、第一回の三億円が積み込まれる名古屋駅で、犯人たちを逮捕したい。ですから、名古屋に、万全の態勢が敷かれるまで、犯人たちに対する回答を遅らせて欲しいのです」 「あと、どのくらいかかりますか?」 「向こうの警察が、目下、対策を練っている筈です。従って、あと、一時間は欲しいですね」  富田がいったとき、沢本指令員が、また、メモを持って、牧田のところへやって来た。 「京都駅から、新しい報告が入りました。グリーン車の乗客について、新しくわかったことがあります」 「先刻の三人の他に、有名人が乗っていたのかね?」 「いえ、そうじゃありませんが、松葉杖をついた身障者四人のグループが、乗っていたのを、車内販売の売り子が思い出したそうです」 「身障者四人?」  と、佐藤政務次官が、眉を寄せた。 「そいつは、まずいな。犯人に対して、強硬措置をとれば、そういう弱い人を、危険にさらしたということで、国民の非難を受けることになる。あまり、回答を遅らせられないぞ。これは」 「しかし、一時間は必要です」  富田刑事部長は、頑固に主張した。  日航機事件のとき、海外でのハイジャックであったため、捜査は、手をこまねいていなければならなかった。  切歯扼腕《せつしやくわん》したといってもいい。それにも拘らず、警察は、批判の的にされた。  今度は、国内の事件である。ここで、犯人全員を逮捕できれば、警察の面目が立つ。そのためには、対策を立てる時間が必要だった。  政府としては、乗客の中に身障者がいたことで、政治的配慮が必要だと考えたらしいが、富田にとって、それは、問題ではなかった。日本赤軍によるハイジャックに、苦汁をなめさせられてきた警察としては、どうしても、勝たなければならないのだ。奴等を叩きのめさなければならない。射殺してでも。 「三億円は、どのくらいで用意できますか?」  と、佐藤は、副総裁にきいた。 「三十分もあれば、名古屋駅で用意できます」  と、副総裁はいった。     6  雪が止んだ。が、上空は、まだ灰色の厚い雲におおわれていた。  いつ、また、雪が降り出すかわからない。  愛知県警のヘリコプターは、急遽、ヘリポートから舞いあがり、ひかり24号が停車している長良川鉄橋に向った。  機首を西にむけてすぐ、白く光る長良川が見えてきた。  川の周辺は、一面の銀世界だ。  赤く塗られた長良川鉄橋と、白と青のツートンカラーのひかり24号の車体が、視界に入って来た。 「もっと近づいてくれ」  と、捜査一課の刑事が、操縦士にいった。  操縦士が、慎重に、機首を下げていく。もし、鉄橋に接触すれば、このヘリだけでなく、下に停っているひかり24号も、破壊しかねないからである。  ひかり24号の位置まで、ヘリコプターがおりていく。車輪は、長良川の水面に浸かりそうだ。  機長は、空中停止の状態に保つ。  刑事は、五十メートルほど向こうの鉄橋の上に停っているひかり24号に、双眼鏡をむけた。  運転席の窓に、二つの顔が並んでいる。運転士だ。こちらに向って、手を振っているところをみると、運転室には、犯人はいないらしい。  刑事は、一つ一つの車輛を見ていった。  グリーン車以外は、窓から、明りのついた車輛がよく見えるが、人の気配はない。  二輛のグリーン車の窓は、全て、カーテンがおろされ、車内は見えなかった。 「もっと近づけないかね?」 「無理です」  と、操縦士がいった。 「これじゃあ、中の様子が、全くわからんなあ」  刑事が、唇をかんだ。  犯人が、こちらに向って、威嚇射撃でもしてくれれば、相手の持っている銃の性能がわかるのだが、相手は、沈黙したままだった。  ヘリが、ぐらりと揺れた。  また、雪が降り出した。 「仕方がない。帰ろう」  と、刑事がいった。  一方、名古屋を発車した下り博多行、ひかり159号には、刑事二人が、望遠レンズつきのカメラを持って、乗り込んでいた。  ひかり159号は、時速五、六十キロで、のろのろと走って行く。  右側の窓際の席から、全ての乗客に立ちのいて貰っていた。その右側の窓際の席に、刑事二人は腰を下し、高感度フィルムをつめたカメラをかまえた。  長良川鉄橋にさしかかる。右側の窓から離れるようにいってあっても、乗客の中には、自然に、ひかり24号を見ようとして、腰を浮かす者がいる。四人の車掌が、それを制止している。  ひかり159号は、鉄橋に入ると、ひかり24号に平行して停車した。  相手のグリーン車の向かい側に腰を下した、二人の刑事は、窓ガラスに、顔を押しつけるようにして、カーテンの閉っている相手側の窓を凝視した。  カーテンのわずかな隙き間から、腰を下している乗客の姿が、ちらりと見えた。が、これでは、向こうの様子はよく見えない。  刑事の一人が、12号車の中ほどの窓に、白い紙が貼りついているのに気がついた。  もう一人の刑事に、指で教え、望遠レンズをつけたカメラで、シャッターを切った。二十枚近いシャッターを切ったとき、専務車掌が、青い顔をして、二人の傍にやってきた。 「向こうの運転士が、すぐ、発車してくれといっています。犯人が、さもなければ、乗客の一人を射殺するといっているそうです。発車が遅れれば、次々に、人質を殺すと」 「何とか、もう少し停めておけませんか?」 「駄目です。向こうの運転士が、必死でいっているところを見ると、犯人は、本気のようです」 「仕方がない。出発して下さい」  と、刑事は妥協した。  ひかり159号は、動き出した。刑事二人は、自分の眼の前を動いていくひかり24号の窓を、じっと見すえていた。グリーン車の窓という窓は、いぜんとして、カーテンが引かれたままである。乗客も、犯人も、顔をみせようとしない。  ひかり159号が、次の岐阜羽島に臨時停車すると、二人の刑事は、直ちに、待っていた県警のパトカーに飛び込み、写真の現像引伸しを依頼した。  県警が、全力をあげて、協力してくれたおかげで、写真は二十分で出来上った。  撮影者の二人の刑事はもとより、県警の刑事たちの顔も、出来上った写真に集中した。  大学ノートを破った紙に、ボールペンで書かれたものだった。 〈この車輛の犯人は三人。  三人とも、年齢二十歳〜三十歳。背広、長髪で、サングラスをかけ、白く大きなマスクをしている。  片手に拳銃。片手に手投弾らしきものを持っている。  仲間同士で話すときは、英語を使っている〉  そして、三人の顔が、スケッチしてあった。あまり上手い絵ではないが、長髪の若者の顔が三つ、描いてある。それぞれに、A、B、Cと書かれ、簡単に、身長や、くせまでが書き込んである。  A——一六五センチくらい。乱暴  B——入口を警戒。一七〇センチ  C——一七〇センチ。黙っている  乗客の一人が、犯人たちの顔を盗んで書き込み、外部の者に見せようと、窓に貼りつけ、カーテンを引いてかくしたものと思われた。  書かれていることが簡単すぎて、犯人たちの身元がわかるとまではとうていいかないが、一輛に三人の犯人ということは、これで、確認できたことである。それに仲間同士で英語を使っているところをみると、やはり赤軍派らしい。  写真は、すぐ、東京の警察庁と、名古屋の愛知県警に電送された。  県警では、今度の事件の責任者に、本部長が、自らなり、三十七名の刑事が動員された。彼等は、すでに、名古屋駅にもぐり込んでいた。  駅長になりすまして、犯人たちに三億円を渡すのは、年齢が似合う甲山警部補と決まり、駅長の服装になっている。  他の刑事たちも、駅員のユニフォームに着がえていた。  新幹線上りホームには、犯人の指示どおり、駅長と三億円しか置いておけないが、下りのホームには、列車を待つ乗客や駅員がいてもおかしくはないだろう。  近藤本部長は、駅長室に刑事たちを集めた。壁には、名古屋駅の構内図が掲げてある。 「三億円は、すでに用意されている」  と、近藤は、テーブルの上に並べた三つのスーツケースを強く叩いた。そんな動作にも、彼が、興奮していることが示されていた。 「犯人は、七人前後と考えられる。武器は、拳銃と手投弾だろう。問題は、どうやったら、人質を傷つけずに、彼等を逮捕できるかということだ」 「ドアが開いたら、一斉に車内になだれ込んだら、どうでしょう?」  刑事の一人が、顔を紅潮させていった。 「しかし、どうやって、なだれ込むのかね? ホームには、駅長姿の甲山警部補しかいられないのだよ。それに、二輛のグリーン車は、片方が二カ所、もう一輛が一カ所しか、ドアがない。そのドアも、一人が入れるぐらいの幅しかない。もう一つ、ドアから突入しても、そこは廊下で、客室に入るには、更に、もう一つのドアを開けなければならん。どっとなだれ込むわけにはいかんだろう」 「列車がホームに入ってから、最後部の車輛に乗り込むより仕方がないんじゃありませんか。犯人は、グリーン車だけを占拠しているようですから、他の車輛にかくれて、機会を見て、彼等を逮捕することは、可能だと思います」 「それには、外から、ドアが開くという伏線が必要だね」 「それは大丈夫でしょう。犯人は、グリーン車の隣の13号車のドアを開けて、そこから、三億円を入れろと要求しています。13号車のドアを開ければ、ほかの車輛のドアも自然に開く筈です。その時、最後尾の車輛に乗り込みます」 「乗り込んだのを見つかったら、グリーン車の乗客は殺されるかも知れんのだぞ」 「11号車のグリーン車から、最後尾まで、十輛あります。かくれるところは、かなりあると思うのです」 「では、数人を選んで、乗り込むことにしよう。乗り込んでも、チャンスがあるまで、絶対に手出しはするな」  近藤は、ベテランの刑事五人を選び出した。  東京の総合指令所へ、連絡がとられた。指令所から、更に、長良川鉄橋に待っているひかり24号に、無線電話が、かけられる。  午後三時五十七分。ひかり24号は、名古屋駅に向って、動き出した。     7  名古屋駅の上り新幹線ホームから、人影が消えた。  駅長の格好をした甲山警部補一人が、13号車が停止する位置に立った。彼の足元には、三億円が詰められたスーツケース三つが並んでいる。  ホームの京都寄りの出口には、選ばれた五人の刑事が、じっと息をひそめている。ひかり24号がホームに入り、ドアが開くと同時に、地下階段を飛び出して、最後尾の入口に、殺到する手筈になっていた。  ホーム近くの線路上には、作業服姿の刑事が、散開して、いつでも、ひかり24号に飛びつける姿勢をとった。  しかし、全てが、全車輛のドアが開くことにかかっていた。もし、ドアが開かなければ、五人の刑事は、ひかり24号に入れないのだ。  二十八分後、ひかり24号が、ホームに滑り込んできた。  刑事が、定位置につく。  13号車のドアが一つだけ開いた。他の車輛のドアは開かない。そのドアだけを、内部から、手動にして、開いたのだろう。  白いマスクをし、サングラスをかけた長髪の男が、ホームに立っている甲山に向って、拳銃を向けた。 「早く、そのスーツケースをのせろ!」  甲山は、わざと、一つずつ持って行こうとした。とたんに、相手が怒鳴った。 「三つ一緒に引きずってくるんだ! 乗客が死んでもいいのか」  階段にかくれていた五人の刑事は、列車がとまると同時に、背を低くして、最後部の1号車に向って駆けた。  だが、ドアが開かない。 「運転席から入るんだ」  と、一人が叫んだ。  刑事たちは、運転室のドアに手をかけた。が、そのドアも、開かなかった。普段なら、外から開けられる筈なのに、長良川鉄橋に停っている間に、犯人が、内から錠を下ろしてしまったらしい。  その中に、列車は、動き出してしまった。  歯がみをする五人の刑事の視界から、ひかり24号は、みるみる遠ざかっていった。  東京の総合指令所では、名古屋駅の状況を、刻々と、報告を受けていた。  ひかり24号に、愛知県警の刑事が、もぐり込むことに失敗したことも、すぐ、報告されてきた。  牧田は、それを聞いて、かえって良かったと思った。  ルフトハンザ機の場合は、強行突入が成功したが、今度の場合も、成功するとは限らない。条件が違うのだ。  最後尾の車輛にもぐり込み、犯人たちに知られずに、11号車に近づくのは可能だろう。しかし、犯人たちは、11号車と12号車の二輛を占拠しており、この二つの車輛の間には、三枚のドアがある。11号車で、犯人を制圧できたとしても、騒ぎがおきれば、12号車で、犯人たちが、乗客を殺すかも知れないからである。  しかし、警察庁の富田刑事部長は、明らかに、失敗を口惜しがっていた。 「ひかり24号を、ストップさせ、動けないようにする方法はないですか?」  と、彼は、牧田にきいてきた。 「停めてどうするんです?」 「間もなく、夕暮《ゆうぐれ》がくる。電気を止めれば、新幹線の車内は、真暗になる筈だ。その闇に乗じて、ドアをこわし、中に入り込む」 「そんなことをしたら、混乱が起きますよ。車内温度も低下して、乗客が騒ぎ出すでしょうし、暗闇は、人を恐怖におちいらせますから、犯人が、やみくもに発砲するかも知れません。私としては、絶対に反対です」  いつもは、寡黙《かもく》な牧田だが、愛する国鉄の車内が、血で汚される不安から、強い調子で、反撥した。 「やはり、勝負は、新横浜でということになりそうだね」  運輸政務次官の佐藤が、二人の間に割って入るようにして、自分の考えをいった。 「それに、次の豊橋駅で、相手の出方を見ようじゃないか」  その時、また、ひかり24号から、連絡が入ってきた。 「小池車掌長です。犯人からの命令を伝えます」 「犯人は、そこにいないんですか?」  と、牧田がきいた。 「この乗務員室には、私と、専務車掌の新井君だけが閉じこめられています。しかし、犯人は、外にいて、外に出れば、射殺するといわれました」 「大丈夫ですか?」 「私は大丈夫ですが、新井君は、反抗的だといって、拳銃で殴られて、今、横になっています。血が止まっているので、大丈夫だと思いますが。とにかく、犯人の命令を伝えます。この通り実行されなければ、人質を殺し、列車を爆破するといっています」 「彼等の要求を聞かせて下さい」 「第一、三億円の確認し次第、次の駅で、一輛十人ずつ、合計二十名を解放する。その際、刑事をもぐり込ませるようなことをしてはならない」 「うむ」 「第二、ホームは、無人にしておくこと。一人でもホームに人影を見たら、人質は、解放されない」  小池は、犯人からメモを渡されているとみえて、棒読みにしていった。 「犯人の正確な人数はわかりませんか?」  と、牧田はきいた。 「私が見たのは、この乗務員室に入って来ていた一人と、12号車の二人だけです。11号車のほうは、わかりません。何しろ、乗務員室を出ることが許されませんので」 「彼等の持っている武器は、拳銃と手投弾ですか?」 「そうです。それに、グリーン車の車内に、爆弾も仕掛けたといっています。あ、犯人が来ました」 「総合指令所か」  という犯人の声が入ってきた。 「そうだ」 「三億円は、今、確認した。われわれの指示通りに行動してくれたことに感謝する。われわれも、約束どおり、次の豊橋で、二十人の人質を解放する。12号車の十人は最前部のドアから、11号車の十人は、最後尾のドアからだ」 「身障者四人がいる筈だ。彼等もそのとき一緒におろしてくれないかね。二十人の他にだ」 「いいだろう」  意外にあっさりと、犯人は、OKしてから、 「豊橋以後は、スムーズに行きたい。われわれも、約束を守るから、君たちも、下手な策を弄さずに、身代金と、人質の交換を、繰り返して欲しいものだね」 (勝手なことをいいやがる)  と、牧田は、腹を立てたが、相手は、九十二名の乗客を人質にとっているのである。犯人たちを怒らせるのは、今は、得策ではなかった。 「われわれとしても、血は見たくないよ」  と、牧田はいった。 「それでは、すぐ、豊橋駅に伝えるのだ。ホームには、誰も入れるなと。そろそろ、浜松駅には、二回目の三億円を用意しておいて欲しいな」  連絡が、向こうから一方的に切られると、どうします? というように、副総裁、佐藤、それに、刑事部長の顔を見た。 「豊橋駅に連絡したほうがいいな。ここは、犯人たちの要求を入れておき、油断させて、新横浜で勝負だ」  と、佐藤がいった。  直ちに、豊橋駅に連絡がとられた。数分で、豊橋駅のホームから、人影が消えるだろう。 「どうもわからないことがあるんですが」  牧田は、さっきから疑問に感じていたことを口に出した。 「どんなことだね?」  と、副総裁がきく。 「犯人が、何故、11、12の二輛のグリーン車を占拠したかということです。片方だけの占拠でも、乗客四、五十人が人質にとれるわけですから、事態は同じだったと思うのです」 「トイレや、外部に連絡できる乗務員室が必要だったからじゃないのかね?」 「それでも、12号車一輛で事は足りた筈です。12号車には、乗務員室もついているし、トイレ、飲料水の設備もついています」 「単純に、人質が多ければ多いほどいいと思ったからじゃないかねえ」  と、副総裁がいった。  牧田も、答えを見つけ出したわけではなかったから、それなりに黙ってしまった。しかし疑問は、そのまま、彼の胸に、根強く残った。     8  豊橋駅のホームから、完全に人影が消えた。  名古屋駅のように、変装した刑事が、車内へもぐりこむチャンスを狙うこともしなかった。新横浜まで、あと六駅、ここでは、様子を見て、新横浜に着くまでに、対策を立てようということに決ったからだった。  ひかり24号は、名古屋から、三十九分かかって、ツートンカラーの巨体を現わし、ホームの定位置に停止した。  まず、最後尾1号車のドアが開けられて、四人の身障者が、身体を支えられるようにしておりて来た。身障者の他に、乗客十人。それぞれ、ほっとした顔でおりたち、怖いものから、一歩でも早く離れようとするように、出口に向って、歩き出した。  ほとんど同時に、最前部の16号車のドアが開き、十名の乗客が、飛び出して来た。  彼等がおりると同時に、ドアが閉まり、ひかり24号は、再び、走り出した。  解放された乗客から、車内の様子が、聴取され、それは、直ちに、東京へ知らされた。 「犯人側は、一応、約束を守ったようだね」  と、総合指令所で、佐藤が、ほっとした顔でいった。  豊橋からの電話連絡を受けていた沢本指令員が、 「解放された乗客の話を総合すると、犯人たちは、相当、きびしく、乗客に対しているようです。私語を禁じ、周囲を見廻して、殴られた乗客もいます。また、トイレに行くときも、いちいち、犯人が、つき添い、目かくしをしてつれていくそうです」 「つまり、犯人たちは、乗客相互が連絡し合うのを、極度に嫌っているということだな」  と、富田刑事部長がいった。 「日本赤軍が、よくやる手口だが、トイレに行くのに、いちいち、目かくしをさせるというのは、徹底しているね」 「豊橋で解放された乗客は、どういう基準で選ばれたのかね?」  と、牧田が、沢本指令員にきいた。 「乗客には、三億円のことも、最初に十人ずつ二十名が解放されることも、知らされなかったそうです。豊橋が近づいてから、急に、犯人たちが肩を叩き、お前と、お前というように、指定して解放したようです」 「乗客には、徹底して何も知らせなかったということだね」 「それが、彼等の手口なんだ」  と、富田がいった。 「乗客が一致して立ち上がるのが、犯人にとって一番怖いことだからね」 「11号車の十人と身障者が、一番後尾の1号車からおろされたというのは、どういうことでしょうね?」  牧田は、首をかしげて、富田を見た。 「それも、乗客同士を分離するためでしょうね」 「しかし——」  といいかけて、牧田はやめてしまった。分離するのはわかるが、一番端の1号車まで行かせて、そこからおろしたのは、少しばかり極端すぎるのではあるまいか。しかし、牧田にも、何故なのか、見当がつかない。それに、何故、犯人たちがグリーン車一輛ではなく、二輛を占拠したのかという謎が、まだ解けていないのである。 (何か、この事件には、奇妙なところがあり過ぎる)  と、牧田は思いながら、その先が見つからなくて、彼は、いらだっていた。  牧田は、その答えを見つけようとするように、表示盤に眼をやった。ひかり24号は、浜松に近づいている。  浜松でも、すでに、一億円の入ったスーツケース三つ計三億円が用意されている筈だった。名古屋駅での潜入失敗から、犯人逮捕は新横浜駅という方針が確認され、それまでは、犯人側のいう通りにして、相手を油断させることに努力することも、再確認されていた。  従って、次の浜松駅だけでなく、静岡、三島、熱海、小田原の各駅のホームからも、乗客と駅員が遠ざけられている筈だった。 「こちらは、ひかり24号です」  という小池車掌長の声が、また、無線電話に入って来た。 「あと七分で、浜松駅に到着しますので、命令を伝えます。名古屋駅と同じように、ホームには、三億円入りのケースと、駅長だけが残って、他は退去して下さい。列車が停止すると同時に、13号車のドアが一つだけ開きますから、三億円をそこから車内へ入れて下さい」  相変らず、メモを読んでいる様子だった。 「了解した」  と、牧田はいった。浜松駅ホームから、人影が消え、三億円入りの三つのスーツケースと、駅長だけが残った。今度は、本物の駅長である。  しかし、新幹線ホームを見下せる場所には、二〇〇〇ミリの望遠レンズ付カメラを携えた刑事が潜んでいた。犯人が一人でも顔を出せば、カメラにおさめるつもりである。  ひかり24号が、ホームに入ってくる。  モータードライブのついたカメラが、ほとんど自動的に、シャッターを切っていく。  グリーン車二輛は、相変らず、全ての窓に、カーテンが引かれている。その窓の一つに、長良川鉄橋で、愛知県警の刑事が写真にとった紙片が、まだ貼りついている。  13号車のドアが開く。  駅長が、三つのスーツケースを重そうに、引きずって列車に近づき、一つずつ、開いたドアから、車内に投げ込んだ。犯人の手が伸びて、それを、引きずり込む。  刑事は、二〇〇〇ミリの望遠レンズに、この犯人を捕えて、シャッターを切った。最初は、手しか写っていなかったが、駅長の動作に、いらだったのか、犯人は、ホームに出て来て、三つめのスーツケースに手をかけ、車内に運び込んだ。  今までに知らされていた犯人の格好をした男だった。長髪で、サングラスをかけ、大きな白いマスクをつけている。右手に、黒く光る拳銃を持っていた。  その男が消え、ドアが閉まると、ひかり24号は、また動き出した。  刑事の写した写真は、直ちに現像に回され、出来上ると同時に、東京に電送された。モノクロ写真だが、犯人の一人の全身像がとられたのは、これが初めてだった。  総合指令所にも、電送された写真が送られてきた。  牧田をはじめ、そこにいた人々は、珍しい動物でも見るような眼で、その写真を見つめた。  表示盤には、ひかり24号が、すでに静岡駅に近づいていることが示されている。 「こちら、ひかり24号です」  と、無線電話から、小池車掌長の声が流れてくる。 「あと十分で、静岡駅に到着します。ここで、新たに、二十人の乗客が解放されます」  前と同じように、犯人に渡されたメモを読みあげている感じだった。 「どうもおかしいな」  ふいに、写真を見ていた富田刑事部長が、声をあげた。 「何がおかしいのかね?」  と、佐藤政務次官がきいた。 「この犯人が、右手に持っている拳銃は、S&Wの三八口径だと思われます」  と、富田は、写真を喰い入るように見つめながらいった。 「この拳銃の重量は九五〇グラムあります。約一キロ。重い拳銃です。それなのに、犯人が、左手で、一億円入りのスーツケースを持っている写真をみて下さい。右手で、拳銃をつまむように持っています。九五〇グラムの重量があり、しかも、実弾が入っている拳銃を、こんなに無造作に持てるものではありません」 「すると、犯人たちは、モデルガンを持っているということかね?」  佐藤の顔が赤くなった。もし、そうなら、犯人たちに、愚弄されていたことになる。 「この男の持っている拳銃は、明らかに、オモチャです。精巧に作られたモデルガンでしょう。しかし——」  と、富田は、また、首をかしげた。 「しかし、何だね?」 「これほど計画的な犯人が、何故、肝心の武器を、モデルガンで間に合わせたのか、それがわかりません。今の日本なら、金さえあれば、拳銃が手に入ります。拳銃が手に入らなくても、猟銃なら入手可能の筈です」 「本物の拳銃が全員に行き渡らず、この犯人が、たまたま、モデルガンを使っていたんじゃないのかね?」 「かも知れませんが、列車からホームに出るというのは、犯人にしたら危険な行動です。そんな危険な行動をする役目の男には、本物の拳銃を持たせると思いますが——」 「私の意見をいっていいですか」  と、牧田が、口をはさんだ。 「いいとも。いってみたまえ」  佐藤が、促した。 「私も、この写真の犯人は、ちょっと変だと思いました。しかし、私は、拳銃の知識はありませんから、モデルガンとは気付きませんでした。私が、変な気がしたのは、この犯人が、のこのこと、ホームへ出て来ていることです。犯人たちは、占拠したグリーン車の全ての窓に、カーテンを引き、京都、名古屋、豊橋では、全く姿を見せませんでした。非常に統制のとれた連中です。それなのに、この男は、全く無警戒な態度で、ホームヘ出て来ています」 「君は、何を言いたいのかね?」 「大胆な仮説かも知れませんが、この男は、犯人ではないのではないかと思います」 「何だと?」  佐藤が、眼をむいた。 「犯人たちは、乗客の中から、長髪の若者を選び、彼等にモデルガンを持たせ、サングラスをかけさせ、白い大きなマスクをさせて、車内に立たせておいたんじゃないでしょうか。一言でも口を開いたら、背後から射殺すると脅してです。ひょっとしたら、車内に男の妻とか子供がいるのかも知れません」 「しかし、君。そんなことをしたら、他の乗客にばれてしまうだろう。さっきまで一緒の車輛にいたんだから」 「一緒の車輛に乗っていればです」 「え?」 「私は、犯人たちが、何故、11号車、12号車の二つのグリーン車を占拠したのか、不思議でならなかったのです。一輛だけで充分ですからね。その謎が、やっと解けた気がします。つまり、11号車の乗客は、12号車で何が起きているか、どんな乗客がいるか、どんな犯人か、全くわからず、逆に、12号車の乗客は、11号車のことが、全くわからないわけです。二つの車輛の間には、三つのドアがあり、犯人たちが、通行を禁じてしまっているからです」 「続けたまえ」 「12号車の乗客の中から、二、三人の若者を選び、犯人の格好をさせ、11号車に連れていけば、11号車の乗客は、犯人は、他にもいたのかと思うでしょう。その逆も可能です」 「犯人たちは、何故、そんな真似をしたのかね? 五、六人の人数なら、それ以上作らなくても、充分だろう」 「理由は、一つしか考えられません。逃走のためです。長髪、サングラス、白いマスクという格好は、あまりにも目立ちすぎるスタイルです。ということは、逆に、サングラスをとり、マスクをとり、長髪のかつらをとったら、誰一人、犯人と思わず、乗客の一人と思うでしょう。扮装をとり、解放される乗客の一人として、すでに、列車からおりているのではないでしょうか。もちろん、その時にも、12号車を占拠していた犯人は、11号車の解放される乗客としてです。中間にあるトイレや洗面所、それに、乗務員室が、化ける場所に使われたに違いありません。それに、はじめから乗客になりすましていた仲間の一人や二人いたかもしれませんね」 「じゃあ、窓に貼られた紙は?」 「恐らく、犯人の細工に違いありません。われわれに、犯人について先入感を与えるために」 「すると、犯人たちは、すでに、豊橋でおりてしまっているというわけかね?」 「三億円と一緒にです」 「しかし、犯人たちは、あと三回、三億円を渡せと要求しているじゃないかね? 現に、二回目の三億円を、列車に運び込んでいる」 「犯人たちの狙いは、最初から、三億円だけだったのです。それだけでも、充分、大金ですからね。しかし、それでは、途中で逃げるとわかってしまう。そこで、赤軍に見せかけたり、三億円ごとに二十名ずつ解放するのだという芝居を打ったのです。こうしておけば、誰も、新横浜までの間に、犯人が逃げるとは、考えません。豊橋でなどとは、なおさらです」  牧田は、表示盤に視線を移し、ひかり24号を呼び出した。 「ひかり24号の小池車掌長です」 「そこに、犯人がいるかね?」 「いえ。乗務員室にはいません。私と専務車掌が、乗務員室に閉じこめられているのです」 「そして、犯人が、メモを渡し、駅が近づくごとに、運転士やこちらに連絡しろといっているんじゃないのかね」 「その通りです」 「乗務員室を出て、乗客室を見て来てくれないか」 「それは出来ません。ここを出たら射殺するといわれているのです」 「お聞きの通りです」  と、牧田は、政務次官たちを見た。 「ひかり24号を支配しているのは、今や、犯人たちではなく、恐怖だけです」  不 用 家 族     1 「お客さん、次の信号を、どちらに曲るんですか?」 「えーと、左よ。左に曲って、もう一度左へ曲がると、赤い屋根の家がみえてきますから」  亜紀子は、うしろから伸び上がるようにして、中年の運転手に、丁寧にたのんだ。浮気旅行をして帰ってきたというひけ目が、運転手にまで、やさしい言葉になってあらわれた。  夫と、小学生の子供には、同窓会で、東京へ行くと言って出たが、本当は、恋人の、九州大学助教授の杉村洋一に会うために、福岡まで行ってきたのである。  道は、なだらかな上り坂になって、両側に、新しく建った住宅や、商店がみえてきた。 「そこを、曲ったところで降ろして頂戴。近所の手前があるから」  亜紀子は、旅行鞄を引きよせ、ハンドバッグの口をあけた。メーターは、大阪空港からこの京都伏見の家までで七千二百円を示している。  がくんと音をたてて勢よく曲ったため、横だおしになった体をおこしながら、 「じゃ、ここで……」  と言いかけた亜紀子は、前方を凝視して絶句した。  見慣れた、赤い屋根がそこにはなかったからである。 「どうしたのかしら?」  運転手にきくまでもなく、目に入ってきた光景で、その理由は、歴然としていた。  家の前の人だかり、パトカーや救急車、濡れたホースをひきずっている消防士——  家は燃えてしまったのだ。  どういう風にして、運転手に金を払ったのか、旅行鞄を、どこに放り出してしまったのか、覚えがなかった。  亜紀子は、燃え落ちた残骸のくすぶる四角い空間を前にして、立ちつくしていた。  地上には、何も残っていなかった。ただ、焼跡に、炭化した柱が、何本か横たわり、消火器の白い液が、濁った水たまりを作っていた。  もとの形がなになのかわからない黒いかたまりの内から、しぶとく煙が立ちのぼっている。 「アキオちゃん! アキオ! どこにいるの?」  亜紀子は、子供の姿を求めて、焼跡を気ちがいのように走りまわった。だが、誰も答えてくれない。  亜紀子は転び、灰の上にとび出した釘で、足をひき裂いた。不思議に痛みは感じなかった。怪我の痛みより鋭い痛みが、胸をつらぬいていた。 「三田良一さんの奥さんですか?」  背広を着た精悍な感じの男が、近寄って来て、警察手帳をみせた。 「ご主人とお子さんは、残念ながら、亡くなられました。現場検証がすんだので、ご遺体は、車の中ですが、ご確認ねがえますか?」  薪でいぶしたやかんのように、すすにまみれ、陥没した小さな頭蓋骨、炭化した腕、小さな足に、焼け残ったパジャマがからみついている子供の死体をみた瞬間、亜紀子は、その場に気を失って倒れた。  やがて、気がついた亜紀子は、その山辺という警部から、いろいろときかれた。 「ご覧になったように、あなたの家は、今朝の六時頃、出火して全焼しました。失火の原因は、今、調べ中ですが、お心あたりありませんか?」 「ありません。主人は、随分、火の用心には、気をつける方なんですが、どうしたんでしょう?」 「周囲の状況を総合してみると、部屋には、ガスが充満していて、それに引火して爆発し、火事になったのではないかと思われます。近所の人も、ドカンという音をきいて外へとび出しています。ところが、お子さんも、ご主人も、逃げられた様子が全然ないところから、失火当時には、すでに、ガス中毒で死亡しておられたのではないかと考えられます。まあそのことについては、あとではっきりすると思いますが、ご主人には、自殺されるような動機がありましたでしょうか?」 「……わかりません」  亜紀子は、小さな声で答えた。その様子をじっとみてから、山辺警部は、 「ところで、あなたは、昨日、どこへ行っておられたんですか?」  と、きいた。 「私は、旅行をしておりました。それは、主人も承知していたことですし、今日中に帰ってくることになっていたんですが、虫が知らせたのか、今朝の飛行機で帰ってきたのです」 「どちら方面へ行かれたのでしたか?」 「東京へ、同窓会で……」 「それはおかしいですね。あなたが、東京のホテルニューオータニで、同窓会があり、泊まりもそこでするからと、隣の奥さんに言って出られたというので、すぐ、そのホテルに連絡をとりましたが、昨日、そんな会はなかったし、宿泊客の中に、あなたの名前はないということでしたよ」 「………」 「それに、日頃、あなたの同窓生には、今、テレビで活躍の歌手、美川純一がいるといっておられたので、隣の奥さんは、是非、サインを貰って来て欲しいとたのんだというのです。それで、歌手の美川さんにも問いあわせましたが、昨日、同窓会だというのはきいていない、同窓会は、一年に一度で、多分、あと一カ月ほど先だという返事でした。さあどこに行ってたんです?」 「………」 「言って頂かないと、大変なことになりますよ、これは、殺人事件になるかも知れませんのでね」  警部におどされて、亜紀子は蒼くなった。 「そんな、殺人事件だなんて。そんなら言います。私は、本当は、福岡に行っていたのです。理由は言えませんが、昨日、土曜日の昼の便で福岡に着き、今朝まで、天神町の博多Tホテルに泊っていました。朝、八時三十五分の飛行機で帰って来たのです」 「博多Tホテルですね?」  警部は、手帳に控えると、 「誰とですか?」  ときいた。 「一人です」 「ほんとうですか? じゃ、なぜそんなところに一人でいったんですか?」 「博多の海がみたかったからです」 「なぜ、ご主人と子供さんと一緒に行かれなかったのですか? 土曜日から日曜日にかけてだったら、子供さんも連れていったら喜ばれたんじゃないですか?」  亜紀子は、昨日、出がけに、子供が、何度も、行かないでくれと、しがみついたのを思い出して、胸が熱くなった。 「失礼ですが、ご主人との仲が、うまくいってなかったというようなことは、ありませんでしたか?」 「そんなことは……ありません」 「しかし、ご主人と子供さんが、自殺にしろ、事故にしろ、亡くなられた日に、妻であるあなたが、東京で同窓会だと嘘をいって、福岡にいかれたということは、どう考えても、何か事情があるとしか思えません。奥さん、どうですか、正直に言っていただけませんか? 誰と会われたんですか?」  警部は、執拗につっこんできたが、亜紀子が、答えないのを知ると、一旦、話を打ち切り、死体を運び去ることを命じた。 「とにかく、奥さん、まだ、いろいろとおききしたいこともありますし、調書も作らなければなりませんので、私と一緒に、所轄署の方へおいでねがえませんか?」  警部は、否やを言わせぬ強い口調でいい、亜紀子を車に乗せた。  近所の人たちの、刺すような視線を感じながら、亜紀子は顔を伏せて車に揺られていった。     2  亜紀子は、一時間ほど、部屋で待たされたあと、再び、先程の警部のとり調べを受けた。警部は、席にすわるとまず、机の上へ、小さな土くれのようなものをおいた。 「これに、覚えはありませんか?」  亜紀子は、不審な顔で、それをとりあげてみた。外側のすすが、ばさっと落ちて、中から、黄色と黒のしまもようがあらわれた。 「ああ、これは、虎のおきものです。私が子供に博多のおみやげに買ってあげた……」  亜紀子の眼から涙がこぼれおちた。 「お子さんは、これをしっかりと握って死んでいましたよ」  たえきれなくなって亜紀子が声を立てて泣き伏すと、警部は、 「これを、お子さんが、持って死んだということは、あなたは、昨夜、一度帰ってこられたんじゃありませんか? そして、みやげを子供さんに渡し、子供さんが寝たあと、ガスが吹き出たというような……」 「馬鹿なことを言わないで下さい。これは、多分、前に、福岡に行ったとき買ったものだと思います」 「その時は、いつですか、何の用で行かれたんですか?」 「………」 「今日と同じ用事ですか? 随分よく福岡に行かれますが、会う相手の人は、福岡の人ですか?」 「………」 「でも、前に買われた分だとすると、お子さんは、なぜ、それを持っておられたんでしょうか、気に入って、寝るときもはなさずに持っておられたんですか?」 「いいえ、私にも、なぜだかわかりません」 「この事件は、失火時、すでに、二人が、死亡していたということから、他殺の疑いもあります。子供さんが、このやきものの虎をもって死んでいたことから、あなたが、夜に帰ってきて、二人を殺したと思われても、仕方がないでしょう。あなたが、昨夜福岡にいたということを証明しなければなりません。ところが、博多のTホテルに問い合わせたところ、あなたの名前は、昨夜の宿泊名簿にないと回答がありました。どうしてですか?」 「ちがう名前で泊っていたのです」 「なんという名前ですか?」 「山田よし子です」 「男の人と一緒でしたか?」 「……ええ」 「何という人ですか?」 「それは、言えません」 「では、とにかく、その名前で、男女が泊ったかどうか、問い合わせてみましょう」  警部は、そばできいていた刑事に、メモを渡して、電話でたしかめるように頼んでから、向きなおった。 「ところで、今、住んでおられる家は、借家だそうですね?」 「はい。ご近所の不動産業の大池さんの所有で、私が嫁に来る前からお借りしています」 「家賃はいくらですか?」 「一万五千円です」 「割と広いですね、何坪ありますか?」 「十五間に四間で六十坪くらいです」 「それにしては、随分安い家賃ですね」 「それは、二十年も前から借りているからです」 「近所の人の話だと、最近、家を出てくれ、出ないということで、大池さんと、激しくもめていたそうですが本当ですか?」 「ええ、むこうは、私の家の建っている地面を含めて約二百三十坪ほどの土地を持っていらっしゃるのです。縦、横十五間の正方形の地面です、ところが、その正方形の地面は袋小路になっていて、三方に、他人の家があるので、道へ出ることも、家を建てることも出来ず、今まで、原っぱになっていました。その正方形の残る一方に、私の家があって、丁度、正方形に、蓋をしている形になっているんです。だから、私の家を立ち退かせて、家をつぶしてしまうと、道路に面した、二百三十坪の土地が、みんな利用できることになるんです」 「なにか、その空地に、建売住宅を建てるとかいう話ですね?」 「ええ、私の家がなくなり、正方形の一辺十五間が道路に面していることになると、中に道路をとっても、三十坪ほどに区切って、六軒の家が立つんだそうです。一軒千五百万から二千万円で売って一億以上の売上げになり、建てる費用が半分としても、約五千万円の儲けになるのです。それでむこうも必死になって追い出しにかかっているのですわ」 「立ち退き料は出さないんですか?」 「まるで、乞食でも追い出すような言い方で、アパートとかマンションを借りる権利金ぐらいなら出してやるというのです。そして、四十五歳の父親と、二十歳のやくざっぽい息子の二人が、イヤガラセばかりするのです。亡くなった主人の父は、大池さんのおじいさんと仲が良く、昔、お金を貸したりしたこともあったので、大池さんのおじいさんは、うちの主人にも、一生居てくれといっていたのです。それが、おじいさんが亡くなると、掌を返したように、立ち退きを迫ってきたので、一度は、言い争って、主人が、息子になぐられたこともあります。一昨日なども近所の人に、うちの前で、近々、ブルドーザーでぶっこわしてしまうなどと、きこえよがしに言うので、主人が血相をかえてとび出したんです」  家の話になると、日頃の鬱積があるので、亜紀子の話も、積極的になった。 「よくわかりました。では、これで、ひとまず、お引取り下さい。それから、両隣の家が、少し焼けていますので、一応、挨拶される方が、いいと思いますよ」  警部は、そう言って、亜紀子を解放してくれた。     3  家の前まで戻って来たとき、亜紀子は、おどろいて立ち止った。大池の息子や主人が、意気揚々と、焼跡に入り、ロープをはったり、測量をしているのだ。  亜紀子の顔をみると、大池は、大声をあげて、 「やあ、あんた、えらいことをやってくれたなあ。うちの家を焼いて、どうしてくれるつもりやねん、ええ?」  亜紀子が黙っていると、 「それにしても、あんたは、運よう助かってよかったな」  と、皮肉を浴せながら、 「この土地は、もともと、うちの土地やから、この機会に返して貰いまっせ。ほんまは、焼跡の始末や整理もしてもらわんならんのやけど、女手一つで無理やろから、うちでやりますけどな。それから、あたりまえやけど、立ち退き料は、出しまへんさかいにな。それどころか、うちの家、焼いてしもたんやから、弁償してもらわんならんとこや。ほんまに、死人の出た土地やなんて、使いようもあらへんわ」  と、いった。 「でも、せめて、今月中ぐらいは、このままにしておいて下さい。家賃だって払ってありますわ。主人や子供の魂だって、四十九日は、このあたりに、とどまっているんですから」  亜紀子が、抗議すると、 「主人や子供の魂やて? きいてあきれるわ。あんたは、浮気して、外で男と泊ってたんやろ? それで、主人が悲観して自殺しはったんやと、みんな言うてるわ。主人の魂があったら、あんたを恨んで出てくるわ」  遠まきにして見ていた近所の人が、そうだそうだというようにうなずいている。  亜紀子は、たまらなくなって、隣の中村家へとびこんだ。  今まで、一番仲よくしていた隣家である。五目寿司を作れば持って行き、買物に行くときは、なにか買ってきましょうかと、互いに声をかけあった仲である。東京へ行くと嘘を言ったが、その点は、むこうも大人なんだから許してくれるだろう——そう思って、チャイムをおした。  しかし、出て来た中村夫人は、亜紀子の顔をみると、何も言わずにひっこみ、代りに主人が出てきた。庭の垣根ごしに、花を切ってくれたりする気さくな人だったが、今日ばかりは、緊張した顔である。  はじめ、亜紀子は、それを、夫や子供を失った自分に、なんといって慰めていいかわからず、緊張した顔をしているのだと思ったが、それは、主人が、一言、口をきったときに、ものの見事に、くつがえされた。 「奥さん、うちの家も、お宅からの類焼で、一部分焼けました。ご覧のように、家の中も消火器の液で、どろどろです。どうしてくれますか?」 「どうもすみません、何とも申しわけなくて……」 「とにかく、ローンで、やっと建てた家なんですよ、火災保険も、かけてはいますが、全焼すればともかく、こんな、中途半端な類焼では、柱は半分しか焼けてないとか、壁も上の方だけだとか言って、全部けずられ、わずかしか出ないんだそうですよ。まして、消火液で、どろどろになった家財など、どうしようもありません。なんとか、責任をとっていただきたいんですがねえ」 「申しわけございません。なにもかも焼けてしまって、預金なども、出せるのかどうかわかりませんし、火災保険も、少しはかけてあるのですが、どれだけいただけるかわかりませんので、整理しまして、出来るだけお返ししたいと思います」 「ほんとでしょうね? なにしろ、うちの家内は、奥さんは、嘘つきだから、信用できないと言うんですよ。すみませんが、今のことばを、一筆、書いてくれませんか?」  亜紀子は、言われるままに書いて印をおし、中村家をあとにした。最後まで、主人や子供に対するくやみは、夫婦の口からきかれないままだった。  そのあとに廻った、もう一軒の隣家の西山家は、もっとひどかった。  夫人が出て来て、亜紀子の顔をみるなり、まるで、物売りが来たような顔をして、戸を閉めきってしまった。昨日までは、仲良く話しあっていたのにである。  行くところのなくなった亜紀子は、最近停年になって、京都へ移ってきた両親のところへ帰ったが、ここでも、家が焼失したとき外泊していたことは、知れわたっていて、父親から、激しく叱責された。     4  中川亜紀子は、東京で生まれた。  大学を卒業するまで、東京で暮らし、丸の内のOLになったのだが、見合結婚で、京都へ来たのである。  婚家には、当初、舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》 が同居していて、万事、京都風のしきたりの生活に、東京生まれの亜紀子は、窮屈さに息も出来ない感じだった。  しかし、夫が、おとなしく、やさしい人だったし、すぐに妊ったこともあって、亜紀子は、京都式に順応するように一生懸命努力した。  新婚旅行から帰って、すぐ作った昼食のうどんを、舅と姑は、ちょっと、箸をつけただけで食べず、立ち上ってしまった。  夫の良一だけが、やっと、半分たべたが、今日は、お腹がすいていないからと言って、食べ残した。夕食のすまし汁もそうだった。  舅と姑は、顔を見合わせて箸をおき、亜紀子だけが、おかわりして冷笑された。  すまし汁やうどんには、薄口の醤油を使い、うっすらと味をつけるのが関西風だとわかったのは、十日もたってからだった。  夕食の時に、他人の話として、姑が、辛い味付けは、下品だ、昔は、労働者階級の家ほど味が濃かったというのをきいて、はじめてわかったのである。亜紀子は、夫が、もっと早く、教えてくれたら良かったのにと、その薄情さ加減が恨めしかった。  姑と一緒に、近所の葬式に行き、仕上げに出された折詰を食べて、はしたないといって、みんなの顰蹙《ひんしゆく》をかったのは、その頃であった。  京都では、出された折詰や菓子は、その場で食べずに、包んで貰って、持って帰るのがしきたりになっているのである。  また、あるときは、夫の親戚の家へ行き、夕方ですよって、お茶づけでもどうぞと言われ、あまりすすめられるので、あがり込んで御馳走になって帰ったら、亜紀子が帰るより先に、電話で報告されていて、姑から叱られた。京のお茶づけといって、おあいそなのに、真に受けて食べて帰るのは、田舎ものだからと、いうのである。  そういう生活をしている亜紀子にとって、年一回の東京での同窓会は、たった一つの息ぬきだった。  新幹線が、動き出すと、誰に遠慮もなく、弁当を買って食べ、横浜を過ぎると、自分の家に帰ってきたような解放感を覚えるのだった。  夫は、いい人で、やさしかったが、両親に甘やかされて育った坊ちゃん育ちで、覇気がなく、頼りなかった。何よりも、亜紀子になじめなかったのは、そのねっとりとからみつくような京都弁だった。  女の京都弁は、可愛くもあったが、男の京都弁は、亜紀子に、外国語をきいているような違和感を感じさせた。  同窓会に行き、社会人となったボーイフレンドたちの、いきのいい東京弁をきくと、亜紀子は、同国人にあったような安心感を覚え、水を得た魚のように、いきいきとした。  しかし、おかしなもので、東京にずっといる男たちは、亜紀子が、気がつかずに喋ってしまう京都弁を珍しがり、姑に、きびしくしつけられた亜紀子の着物姿が、魅力的にみえるらしかった。  三年前の同窓会の時、亜紀子は、突然、杉村洋一から声をかけられた。 「去年は、君が来なくて淋しかったよ」  まえの年は、亜紀子は、子供が病気になったので、楽しみにしていた同窓会に出席出来なかったのだ。  亜紀子は、杉村に声をかけられて、胸が、どきどきした。彼は、大学時代、密かにあこがれていた男性だったからである。  彼は、福岡の国立大学の助教授になっていた。まだ、独身だった。  その夜、亜紀子は、独身時代にかえったように飲み歩き、飲み過ぎて気分が悪くなって、杉村に、ホテルの自分の部屋まで送ってもらった。というのも、二人とも、地方から出てきていて、偶然、銀座の同じホテルに泊っていたからである。  その夜、二人は、自然に結ばれた。  そのあとしばらくは、彼も熱くなって、毎月一回くらいの割で、京都にやってきた。  日曜日の早朝、家を出て飛行機にのり、朝十時には、京都について、夜八時すぎの最終便で帰っていくのである。  二年前に、姑が死に、あとを追うように、舅が死ぬと、亜紀子の方からも、福岡に出かけていくようになった。子供も小学校に入って、手がかからなくなったので、会うのは、ウイークデーにした。  子供は可愛かったし、夫も愛していたが、見合いで結婚した夫にはない魅力が、杉村にはあった。はじめての恋愛に、亜紀子は、我を忘れていった。  明るくて、よく喋る子供が、だんだん無口になってきたのは、一年程前からである。  学校の担任からも、近頃、元気がないと注意された。  子供は、母親の背信を本能的に悟るのか、亜紀子が彼と会う日に限って、熱を出したり、学校に行くのを嫌がるようになった。  子供の寝顔をみると、彼との関係を断つべきだと思いながらも、彼と会わないでしばらくいると、知りあいのない京都での空虚な一日は、耐えきれないように辛かった。それで、夫のいない日中を、亜紀子は、彼に手紙を書いたり、彼とのデートに着ていく服を縫ったりして過すのだった。  三カ月前、急に彼は、別れたいと言い出した。 「どうして? 私が嫌になったの?」 「嫌になったわけではないけれど、いつまでこうしていたって仕方がないし、君のご主人や、子供にだって悪いだろ? それとも、前から何度も言っているように、離婚して僕と結婚してくれるかい?」 「子供とは別れられないわ」 「では、僕は結婚するよ。もう三十だから、結婚しないと周囲がうるさいんだよ」 「誰か相手がいるの?」  亜紀子は、胸が、かっと熱くなるのをおさえながらきいた。 「この年だからね。見合いの話もあるし、つき合っている女の子も何人かはいるよ」 「じゃ、私はどうなるの?」 「君には、夫と子供がいるじゃないか」 「それじゃ、私に、夫や子供がいなくなったら、私と結婚するの?」 「あたりまえだよ、そのつもりがあるのか?」 「………」 「じゃ、今日限りで別れよう。その方が、おたがいにいいよ。もう三年もつきあったんだから、ここでどちらかに結末をつけなければ仕方がないだろう?」 「嫌よ、嫌」  そんなやりとりがあって、結局いつもより激しく求めあい、だらだらと今日まできたのだった。  しかし、男の熱が、三年前と比べると、さめてきたのは、亜紀子にもわかった。  そして、昨日も、結局、二時間ほどホテルへ来ただけで、泊まらずに帰ってしまったのだ。  一晩、一睡もせずに考えていた亜紀子は、ようやく、彼と別れる決心がついた。  朝一番の飛行機でかえり、もとのように、夫と子供を大切にした家庭を作っていこう。早く帰れば、子供が、どんなに喜ぶだろうと思って帰ってきたら、こういうことになってしまっていたのだった。  もし、自分が、昨夜、家にいれば、夫が自殺をはかるようなこともなかっただろうし、不注意で、ガスの栓がゆるんでいることにも気がついただろう。もし、殺されたのだとしたら、一緒に死ぬことも出来たし、防ぐことも出来たのではないかと考え、亜紀子は涙をながした。     5  その夜、亜紀子は、ほとんど一睡もできなかった。母は気を使って、枕カバーや敷布を、新しいものにかえて、寝かせてくれたのだが、眼先に、死んだ夫や、一人息子の顔がちらついてしまうのだ。  考えまいと、じっと、眼を閉じても、どうしても、何故、こんなことになってしまったのだろうかと、考えてしまう。  警察は、亜紀子が、愛人のために、夫と子供が邪魔になって、ガス栓をひねって殺したのだと疑っている。  違うといったところで、あんな状態で、夫と息子が死ねば、警察は、疑惑を消しはしないだろう。 (だが、いったい何があったのだろうか?)  明りを消した寝床の上で、亜紀子は、まっすぐ天井を見上げながら考えた。  夫が、彼女の浮気を知って、絶望し、子を道づれに自殺したのだろうか?  そうは考えられなかった。夫が、亜紀子の浮気を知っていたかどうかわからない。口数の少ない人だから、知っていたとしても、なかなか、それを口にはしなかったに違いない。  だが、夫は、優しく、無口だが、弱い人間ではなかった。京都人らしく、外見に似合わず、しんが強かった。その夫が、絶望から自殺するとは、到底考えられなかった。  夫が、彼女の浮気に気付いて、我慢がならなくなったとしたら、まず、離婚の話し合いをしたいというだろう。それを、いきなり、自殺するのは、夫らしくないのだ。  それに、二日前、夫と、子供が夏休みに入ったら、琵琶湖に連れて行こうと話し合ったのである。その時の夫は、本当に、嬉しそうに話をしていたのだ。自殺する気配など、全く感じられなかった。 (自殺なんかじゃない!)  と、思わず亜紀子は、闇の中で、口に出して叫んだ。  しかし、子供を道連れにした心中ではないとしたら、なぜ、あんなことになってしまったのだろうか。  夫が、ガスが洩れているのに気付かずに、子供と一緒に眠ってしまい、こんな大事を引き起こしてしまったのか。  だが、夫は、細心で、寝る前に、必ず戸締りと火の用心をみてあるくような人だから、ガスをつけ忘れて眠ってしまうようなことは考えられない。 (誰かに殺されたのだろうか?)  最後には、どうしても、考えが、そこへいってしまった。  まず、浮かんでくる犯人は、家主の親子である。亜紀子たちを立ち退かせると、五千万円の金がもうかるあの親子が、どうしても、亜紀子たちを、立ち退かせたくて、ガスをひねるという非常手段に訴えたのではないか。  それには、亜紀子の外泊している夜は、絶好のチャンスだったのだ。  あの強欲な親子ならやりかねないと思う。熟睡していた夫と子供は、戸がこじあけられ、ガス栓がひねられたのに気づかず眠りつづけ死んでしまったのではないか。  もし、家主の親子でないとすると——  いつの間にか、窓の外が明るくなっていた。  母が作ってくれた朝食も、食べる気になれず、寝床で、ぼんやりしているところへ、山辺警部が訪ねて来た。  家の中で話をするのが嫌で、亜紀子は、外で待って貰い、手早く、和服を着て、家を出た。 「この辺りは、まだ、だいぶ、緑が残っていますな。さっき、赤とんぼの群れを見ましたよ」  そんなことを、山辺は、周囲を見廻しながらいった。この、いかにも刑事らしい刑事にも、そんな優しい面があるのだろうか。それとも、甘いところを見せて、亜紀子に油断させようとしているのか。 「今日は、どんなご用でしょうか?」  と、亜紀子は、切り口上でいった。焼跡で、犯人扱いされた口惜しさは、一日では消えていなかった。 「博多のホテルを調べてみましたよ」  と、山辺は、相変らず、近くの雑木林に眼を向けた姿勢でいった。 「それで?」 「あなたのいった山田よし子という泊り客がいたことは確認しました」 「それが私ですわ」 「フロントやボーイが言う人相は、あなたに似ている。だが、念のために、あなたの写真を、向こうに送って確認させます」 「念の入ったことね」  と、亜紀子は、はれぼったい顔で、皮肉をいった。  山辺は、煙草をくわえて火をつけると、亜紀子の顔を見た。 「多分、写真も、ホテルの従業員によって、確認されるでしょう」 「当り前ですわ、なぜ私が、主人や子供を殺さなければならないんです?」 「近所の人たちは、あなたが、浮気をして、主人や子供が、邪魔になったのじゃないかといっていました」 「そんな。そんなことありませんわ」 「しかし、確かに、あなたは、嘘をついて、福岡で男に会っている」 「………」 「あなたが殺したのではないとして、その男の人が、殺すためにガス栓をひねったとは考えられませんか?」 「杉村さんが……?」  と、思わず口に出してしまった。山辺警部は、にやっと笑った。 「杉村さんといわれるんですか」 「知りません」 「その人が、ご主人と子供を殺すために、ガス栓をひねったとは考えられませんか?」  山辺は、執拗に、食い下った。 「そんな馬鹿な……」 「しかし、一昨日の夜、ずっと、その杉村さんと一緒にいたわけじゃないでしょう?」  そうだった、と亜紀子は思った。彼はいつもの通り彼女がチェックインしたあと、用心深く、外から亜紀子に電話してきて、部屋の番号をきき、ボーイの案内もなしにこっそりと部屋に入ってきた。しかし、それから二時間ほどたつと、用事が出来たから、出かけてくる、必ず戻ってくるからと行ってしまい、とうとう一晩中待たせて帰ってこなかったのだ。  彼が、京都へ来て、犯行をする時間は、充分にあったのだ。 (でも、杉村は、私に対して、別れ話を持ち出していたのだ。そんな彼が、夫や子供を殺す筈がない)  と、考えたが、山辺には、いわなかった。  自分が、男にふられた形になっているのを知られたくなかったのだ。 「杉村さんの住所と、フルネームを教えてくれませんか?」  と、山辺は言った。 「教えたら、どうなさるんです?」 「アリバイを調べます」 「福岡市中央区天神四丁目××番」  と、亜紀子は、杉村の住所と、電話番号を山辺に教えた。  教えながら、亜紀子は、杉村が彼女を捨てたことへの復讐をしているのだと考えた。     6  解剖を終った夫と子供の遺体は、夕方になって、帰されてきた。  亜紀子は、焼けた家の跡で、葬儀をやりたかったが、家主の大池が、入らせなかった。警察も、現場保存ということで、立ち入りを許可してはくれなかった。  仕方なく、亜紀子は、実家で、通夜をすることになった。  身内の者しか寄ってくれない寂しい通夜だったし、葬式だった。  五キロ離れた焼き場で、二つの遺体を焼いた。煙突から出ていく煙を見ながら、亜紀子は、涙が出てきて止まらなくなった。  それは、二人が死ぬとき、自分が遅れたことに、それも、他の男に会いに行っていたことに対する懺悔の涙だった。  自分も一緒に死んでいたら、幸福だったのにと思った。  近所の人は、誰も来てくれなかった。  二人の骨が、骨壺におさめられた。夫と子供が、小さな壺に納ってしまうということが、亜紀子には、不思議だったし、悲しかった。夫も、子供も、死んでしまったのだという実感が、改めて、彼女を責めさいなんだ。  夜になって、山辺警部がやってきた。 「私も、焼香させて頂きたいと思いましてね」  と、山辺はいった。  奇妙な男だと、亜紀子は思った。執念深く食いさがってくるかと思うと、神妙に、主人と子供の写真の前で手を合わせて涙ぐんでいる。どちらが、この中年の警部の本当の顔なのだろうか。  焼香を終えると、「奥さん、ちょっと」と亜紀子を、外へ連れ出した。 「あなたの写真を、福岡へ電送して確認させたところ、ホテルの従業員が、山田よし子に違いないと証言しましたよ」 「じゃあ、私の疑いは晴れたのね?」 「今のところはです」 「今のところ?」 「三日前に、あなたが、福岡のTホテルに泊ったことだけは、確認されましたがね、途中で抜け出して、京都に戻ったことも考えられますからね」 「そんな——」 「それから、杉村さんのことですが、あの日の行動がわかりましたよ。あなたと二時間ほど会ったあと、彼は、急用ができたといって出ていったそうですね」 「ええ」 「彼は、それから、ある女性と会って食事をし、夜十一時すぎまでナイトクラブへ行ってるんですよ」 「ある女性とは誰ですか?」 「彼と同じ大学の教授の娘ですよ。あなたには酷だが、彼は、その娘と結婚するようです。あなたとは、別れるつもりなんだといっていますが、本当ですか?」 「ええ」  と、亜紀子は、下を向き、自分の足許を見ながら肯いた。 「私も、彼と別れる決心をして、家に帰ってきたんです。本当です。それなのに、帰ったら、こんなことになってしまって。もう一度、やり直してみるつもりだったんです」 「まさか、二人でしめし合わせているんじゃないんでしょうな?」  と、山辺がきいた。一瞬、亜紀子は、相手のいう意味がわからず、 「え?」  と、きき返した。 「二人が、口裏を合わせて、別れることにしたという。別れる決心をした男女が、夫や子供を殺す筈がないと考えてしまう……」 「そんな……」  と、亜紀子は、思わず絶句した。 「どこまで疑ったら気がすむんです?」 「それが仕事ですのでね。因果な商売ですよ」  山辺は、笑った。が、冗談の口調ではなかった。  亜紀子は、唇を噛んだ。 「もう、あの人には会いません」  と、亜紀子は、激しい声で山辺にいった。 「本当に別れたんです。主人や、子供の霊に誓ったって、絶対に、あの人に会うことはありません。だから、そんなつまらない当て推量はやめて下さい!」  彼女の見幕に、さすがの、山辺も、一瞬、鼻白んだ顔になって、 「別に、あなた方がしめし合わせて、殺したといったわけじゃありませんよ。その可能性があるといっただけのことです。しかし、あなたと杉村さんが関係がないとすると、誰が、ご主人とお子さんを殺して、火をつけたことになるんでしょうな?」 「家主の大池さんはどうなったんですか? この前、言ったでしょう! あの人たちが、嫌がらせのつもりでやったんじゃないかって」 「あの親子ですか」  と、山辺は、にやりと笑った。 「あの親子なら、そのくらいのことはやりかねませんな」 「じゃあ、調べて下さい。あたしたちが、立ち退かないので、前からいろいろと、嫌がらせをされて来たんです。ですから、戸をこじあけてガスをひねったのかもしれないし、外からガスを止めて、嫌がらせをして、それをまたあけてしまったので、主人や子供が、ガス中毒で死んでしまったのかも知れませんわ。そのあと、充満したガスに、何かの拍子に引火して」 「もちろん、調べてみますよ。ところで、あなたは、問題の夜、本当にホテルから出なかったんですか?」 「ええ」 「それを証明できますか?」 「出来ます」 「どうやってです?」 「部屋にずっと待っていたんですが、彼がいつまで待っても帰ってこないので、ロビーの隣にあるスナックで飲んだんです。八時頃でした。私一人だったから、バーテンさんが覚えているかも知れません。三十歳ぐらいの背の高いバーテンさんでした」 「問い合わせてみましょう」  山辺は、約束して帰って行った。  亜紀子は、遺骨の前に戻った。が、落着けなかった。  花束を持って、ふらりと家を出ると、いつの間にか焼跡に来ていた。  火葬場で、二人の骨を拾って骨壺におさめた筈なのに、まだ、悪夢を見ているような気がして仕方がなかった。  ロープが張ってあるのを、くぐり抜けて中に入り、焼けた地面にひざまずいて、持って来た花束を、そこに置いた。  眼を閉じると、生きているときの夫や子供の顔が浮かんできた。特に九歳になる子供の笑顔を思い出してやり切れなかった。 (一時は、家庭を捨てようとした私を、夫や子供は、どう思っていたのだろうか?)  と、考えたとき、ふいに、 「そこで、何をしてるんや?」  という怒声が飛んできた。  月明りの中に、地主の親子が、仁王立ちで亜紀子を睨んでいた。 「どさくさに、何をしてるんや? これ以上家焼かんといてや」  と、いわれて、亜紀子は、思わず、かっとした。 「あんたたちが、主人と子供を殺したんでしょう?」 「何やて? 気でも違《ちご》たんか?」 「私たちを立退かせようとして、何時も嫌がらせをしたじゃありませんか。あの日だって、嫌がらせに、主人と子供が眠ってから、ガスを出したんでしょう? そうなんでしょう?」 「何いうねん。こいつ!」  父親の方が、亜紀子を突き飛ばした。  亜紀子も、かっとして、 「人殺し!」  と、家主の親子をののしって、つかんだ土を相手に投げつけた。  とたんに、背の高い息子の拳が、とんできた。  ぐわんと、強いショックと共に、亜紀子は、気を失って、焼け跡に倒れてしまった。     7  亜紀子は、子供と遊んでいる夢を見ていた。  三歳の時の昭夫、五歳の時の昭夫、七歳の時の昭夫、そして、九歳の昭夫が、きれぎれに現われるのだ。あどけない顔の昭夫、泣いている昭夫、怒っている昭夫、そして、妙に大人っぽい昭夫—— 「アキオー!」  と、声に出して呼び、自分の声で、亜紀子は眼を開いた。  誰かの顔が、上からのぞき込んでいた。が、その顔は、昭夫ではなかった。  山辺のいかつい顔だった。 「ここは?」  と、亜紀子はきいた。身体中が、ずきずきと痛む。 「病院ですよ。あなたが気を失ってしまったので、大池親子が、驚いて救急車を呼んだんです」 「子供の夢を見ていたんです」 「そうですか」 「辛い……」  と、呟き、ベッドの上に起き上がろうとして、また、横になってしまった。 「寝ていた方がいい。話すのは辛いですか?」 「なぜですか?」 「あなたのアリバイのことがわかりました」 「話して下さい。一刻も早く、嫌な疑いは晴らしておきたいんです。あのスナックのバーテンさんは、私を覚えていてくれまして?」 「覚えていましたよ。あなたが来た時間も覚えていましたよ。午後八時と」 「よかった……」  思わず、涙が出た。杉村という愛人がいたが、それでも、夫と子供は、大事な存在だったのだ。それを、殺したなどと疑われていては、いたたまれない。 「これで、あなたのアリバイは成立したわけです」 「じゃあ、あの家主の親子が、犯人に決ったようなものじゃありませんか。現場に花束を捧げていただけの私を、彼等は、殺そうとしたんですよ」 「あなたが、あの親子を告訴されれば、傷害罪で逮捕しますよ」 「そんなことより、あの親子は、犯人なんでしょう?」 「残念ながら、あの二人は、犯人じゃありません」 「でも、何度、嫌がらせをしたかわからないんですよ。うちに来る郵便物が川に捨てられたり、電源を切って真っ暗にしたり……」 「わかっています。あの二人は、渋々ですが、過去に、嫌がらせをしたことを認めましたよ。しかし、今度の件は、否定しているんです」 「そんな。否定したって……」 「もちろん、調べることは調べましたよ。おたくのご主人は、あの日、午後八時に表で、子供に花火をしてやっていた。隣家の中村さんと、話をしています。つまり、午後八時までは、生きていたいうことです。死んだのは、午後八時以降ということです。ところで、家主の大池親子ですが、麻雀が好きでしてね。あの日、午後七時から、近くの商店街の連中と卓を囲んで、徹夜麻雀をしているのです」 「それは、証明できたんですか?」 「出来ました。麻雀は、電機店主の家で、そこの主人、寿司屋の主人、それに、大池親子の四人でやっています。商店主二人の証言は信用できるものですよ。それに、電機店主の奥さんが、夕食や、夜食などを作って、四人がやっている二階へ運んでいますから、まず間違いありませんね」 「でも……」  と、亜紀子は、当惑した顔で、山辺を見た。 「あの親子がシロだったら、いったい誰が、あんなひどいことをしたんですか?」 「他殺の線が消えると、残るのは、過失か自殺ですが」 「自殺なんて、考えられません、主人は、子供を道づれに自殺するような人じゃありませんし、昭夫の手の届かないところに、ガスの中間スイッチがあるんです。だから、過失も考えられませんわ」 「そうですか……」  と、山辺警部は、首をふりながら帰っていった。  翌日、彼の姿は、亜紀子の前に、現われなかった。  次の日、亜紀子が、全快し、退院の支度をしているところへ、山辺が入って来た。手に大きなダンボール箱を持っていた。 「事件は解決しましたよ」  と、山辺がいった。が、なぜか、嬉しそうな顔ではなかった。解決したといいながら、妙に、暗い眼になっていた。 「どう解決したんですか?」  亜紀子がきくと、山辺は、黙って、ダンボール箱をテーブルの上にのせて、あけて見せた。  中に入っていたのは、焼けた木片だった。叩けば、ボロッといきそうなほど、炭化してしまっていた。 「これが何かわかりますか?」  と、山辺がきいた。 「いいえ」 「実は、この木片が、焼け跡の中心部、ガス栓のところに落ちていたんです。一体、何の破片なのか、何故、そこに落ちていたのか、全くわからなかったんですよ」 「………」 「やっと、今日になって、その理由がわかりました。これは、踏み台の破片だったんですよ」 「でも、それが、何の意味がありますの?」 「いいですか。今度の事件は、他殺の線が消えて、自殺の線が出て来たんです。では、自殺だとするとどうなるのか? ご主人が、ガスの中間スイッチをあけたとすると、踏み台なんかいらなかった筈です。充分に、背が届いた筈ですからね。とすると、残るのは、息子さんの昭夫さんだけです。九歳の子供には、手の届かなかったところに、ガスの中間スイッチがあるといいましたね。九歳の子が、自殺を図るとしたら踏台を持って来て、ガスの中間スイッチをひねる必要がありますからね」 「まさか、昭夫が……」 「お子さんは、あなたが、父親以外の男と親しくしているのを、子供の敏感さで知っていたんじゃないですかねえ。だから、東京へ行くといったが、本当は、福岡へ行っていることを知っていて、前に福岡から買ってきた虎を握りしめて死んでいた……」 「あの昭夫が……」  亜紀子は、打ちのめされて、声も出なかった。  彼は、母親を仲間はずれにして、父親と二人だけで死んだ。彼等にとって、亜紀子は、不用家族だったのか……。  小さな密室     1  マスターキーを入れてまわすと、 「かちん」  音をたてて、錠があく。コインロッカーの扉を開くと、中はからっぽである。念のため手を入れてみると手に一つ米粒がひっついてきた。大沢は苦笑して、その米粒をとりあげた。百円の料金を払って三日間、米粒がこの密室を占領していたわけである。  次には、新聞紙が一枚。  大沢は、錠を一つずつあけていく。これが大沢の朝一番の仕事である。   旅行鞄    一   骨つぼ    一   女性用かつら 一   米粒     一   新聞紙    二   雨傘     一   空《から》      二  が、今日の期限切れ遺留品である。  鉄道弘済会K駅営業所の大沢は、毎朝これらの品物を、遺留品置場に運びながら、一つ一つについて、どんな人間が、この品物を遺留していったのだろうかと考える。  前身が刑事だったことによるのかも知れない。  コインロッカーの係員といっても、普段は大した用事があるわけでもない。こうして、毎朝期限切れの品物を集めて来て記録したあとは、客が呼びにくるまでは暇である。  客が呼びにくる用というと、番号をまちがえてカギを入れていながら、カギがあかないとか、百円のコインをどこで両替したらいいかなどである。  たまに、隣のロッカーから腐敗臭がする、赤ん坊でも入っているのではないかと、大さわぎして呼びに来ることもあるが、大抵は、買物カゴに入った牛肉が、数日放っておかれて腐敗していたり、釣ってきた魚を忘れていて腐っていたりというようなことである。  一度、コインロッカーから煙が出ているというので、飛んでいったら、アイスクリームのまわりに詰めこまれたドライアイスから立ちのぼる煙であったこともある。  とにかく、日本に、アメリカからコインロッカーというものが、持ち込まれたのが昭和四十一年四月のことで、最初に設置された場所は、新宿の地下鉄駅と大阪の上本町駅である。  そのころから十年もこの仕事についている大沢には、色々と記憶に残る遺留品もある。  今日の品物などは、最も一般的な遺留品といえる。 「かつら 一」  口に出してつぶやきながら記帳しおわると、大沢は、かつらを手にとってみる。  最近、かつらの遺留品も多いが、真暗なロッカーの奥から、かつらの毛を引っぱってとり出すときは、未だにいい気持がしない。  今日のは、女性用の長くカールしたかつらである。 〈二十歳ぐらいの可愛い顔をしたOLが、毎日、勤めが終ると、ロッカーから、このかつらを出して変身して、ゴーゴー喫茶などに遊びに行っていた。そして、恋人が出来て、その恋人が、君にはショートカットが似合うといったので、このかつらは不要になった——〉  大沢は、一つ一つの品物について、そのように、つとめて明るい物語を考えるようにしている。このかつらをかぶっていた女は、もう殺されてこの世にいないのでは……などと悪い方に考え出すとキリがないからだ。  そのあと大沢は、順に記帳していき、記帳を終った品物を運んでしまうと、ほっとして、煙草に火をつけた。  こうした品物は、遺留品置場に二カ月間保管しておいて、それでも取りにこない場合は、競売にかけて処分される。  机の上には、米粒が一つだけ出ている。  右手で煙草をふかしながら、左手で米粒をつまみあげて捨てようとしたが、ふと、その手をとめた。なにやら小さい字がいっぱい書いている。大沢は、あわてて煙草を消し、虫めがねを出して、米粒の字をみた。 たれをかもしるひとにせむたかさこの まつもむかしのともならなくに 「たしか、百人一首にある歌だな……」  若い頃、百人一首のかるたをとる競技会に出たこともある大沢は、そう呟いた。それにしても、米粒一つによくこれだけの字を書きこんだものである。 〈なにも書いてなければ捨ててしまってもいいが、やはり、これだと記帳して保存しなければいけないかもしれないな〉  大沢が、そう思ってペンをとりあげた時、入って来たのは、久保田刑事である。     2  久保田は、大沢と同期に刑事になり、一緒に捜査活動をした仲間である。交通事故で、大沢の足が不自由になり、刑事をやめてからも、彼は、時々、遊びにやってくる。大沢も、久保田がやってくるのを心待ちにしていて、久保田から事件の話をきいたり、コインロッカーの遺留品の中で、犯罪に結びつきそうなものの話をしたりする。  久保田は、前にも、暴力団同士の殺傷事件の凶器が、コインロッカーに入れてあったのを、大沢の通報で手に入れたこともあった。 「やあ、何だい? 今日は暇で旅行にでも出掛けるのか?」  そうでないことはわかっていたが、大沢がわざとそういって声をかけると、久保田は、少し緊張した顔で、 「いや、仕事なんだ、新聞でよまなかったかい? 田村万造という一人暮らしの老人が自宅で毒入りのビールを飲んで死んでいたのを。一人暮らしとはいっても、一千万円も貯金はあるし、不動産もある金持だがね」 「ああ、読んだ。でも、新聞には、自殺のように出ていたと思うが……。老人は、毎日、夕食の時にビールを飲むのが習慣で、死亡時刻もその頃であり、客と一緒にビールを飲んだ様子はなく、部屋も荒らされてないということだな」 「ところが、自殺する場合は、普通、ビールをコップについで、その中に毒を入れて飲むだろう。そして、大抵の場合、そばに、毒を入れてあった薬包紙などが落ちているもんだ。今度の場合は、コップでなくビール瓶の方に毒が入ってたんだ。もちろん、薬包紙は、家のどこを探してもない。これは、老人が毎晩ビールを飲むのを知っている誰かが、あらかじめ、冷蔵庫の中に冷やしてあったビールに毒を入れて立ち去ったのだと考えることが出来る」 「なるほど。しかし、それだけでは、ちょっとむつかしいな。薬包紙のことは別として、本人が瓶の方に入れたのかもしれない。……とにかく、水死とか、毒死はむつかしいね。水死の場合、自分の意志でとびこんだのか、突き落とされたのかというのは、死体をみただけじゃわからないし、毒死だって、自分が毒を入れて飲んだのか、人に入れられて知らずに飲んだのかというのは、なかなかわからない。で、どうなんだ、自殺するような動機はないのか?」 「発見されたのは、翌朝で、近所の前川という家の奥さんが、前日、朝市で買ってくれと老人にたのまれた買物を、届けに行って、死んでいるのを発見したんだ。その奥さんも、近所の人も、老人には、自殺するような様子はなかったといっている。それに、死ぬ人が、翌日の買物をこまごまと頼まないだろうというんだ」 「しかし、それは、死んだあと、早く発見してほしいために買物をたのんだともいえるじゃないか?」 「そうともいえるし、買物をたのんだ時点では死ぬ気がなかったが、一人暮らしが淋しくなって、急に死ぬ気になったということもあるかもしれない……でも」 「でも? なんだ」 「老人には、札つきの甥がいるんだ。妹の子なので名前は田村でなく黒沼二郎というんだが、定職がなく、ギャンブル好きで、これまでも随分老人を困らせていたらしい。老人が死んだ今、財産は、その甥にわたろうとしている」 「なるほど」 「それに、銀行の方から言ってきたんだが、老人の貯金が、死ぬ前日まで、ここ一週間、毎日三十万円ずつ引き出されている。老人は、貯金する時、この金は絶対に引き出さないと、銀行員にいっているんだ」 「とにかく、老人の死ぬ前には、普段の生活とは、変化がおこっていたわけだ。で、その三十万円は、毎日、老人が引き出していたのか?」 「それがわからない」 「わからないって、毎日三十万円も引き出しに行ってれば、窓口の係が見ているわけだろう?」 「キャッシュカードで引き出してるんだ。あれだと、機械にカードを入れて希望の金額を押すと、札《さつ》が出てくるから、銀行の人に顔をみられなくてすむ」 「銀行の外壁にとりつけてある電話ボックスみたいなところへ入ってやる分だろう」 「そうだ。札の自動販売機だよ。金のかわりにカードを入れると、品物の代りに札が出てくる。しかしこの銀行で、キャッシュカードで、一日にひき出せる最高額は三十万円だから毎日三十万円ずつ出してたんだ」 「老人に女ができたとかギャンブルに凝るようになって金がいり、老人自身がひき出していた場合と、老人の知らない間に誰かが、カードを盗んで金をひき出していた場合とがあるな。あとの場合だと、老人が一週間たってひき出されていることに気がつき口論となり、その場はおさまったが、犯人がビールに毒をしかけて殺したということがいえる」 「そういうことだ。さっきもちょっといったが、銀行員にきいたところでは、老人が、一千万円を預金するといってもってきたのは、約半年前で、そのとき、係のものが、定期にして下さいとたのむと、自分は、昔、定期預金をした翌日、急に入院して金が要るようになり、解約してもらうのが言いにくくてこりたことがある。定期預金は絶対きらいで、普通預金しかしないというんだ。いくら利子がいいからとか、急にいるときは、いつでも解約するといっても駄目で、前の銀行でも、しつこく、定期にするようにすすめられたのがいやで、こちらの銀行にあずけかえるのだといったらしい」 「その老人が、どうしてキャッシュカードをつくったんだろうな」 「銀行員がキャッシュカードを作るようにすすめたときも、自分は、普段の生活は、家賃収入があってやっていけるから、めったに預金を引き出さない。キャッシュカードはいらないといったらしいが、これだと、普通の預金通帳で引き出すより、毎日二時間あとまで引き出せるというと、はじめてそれではつくってくれといったんだそうだ。そして、家は不用心だからといって、預金通帳の方は、係員にあずけたらしい。とにかく、一人暮らしだから、病気にでもなって、金がいるようになったとき、すぐ出せないのは困る。かといって手元に金をおいておくと、不用心だと思っていたんだろうね」  被害者のように年寄りではないが、妻も子もなく、やはり孤独な一人暮らしをしている大沢には、身につまされる話だった。大沢がだまってしまったのをみて、久保田は、あわてて話をつづけた。 「そして、老人は、言葉通り、この半年、一円もひき出していないのだ。女関係もギャンブルもこちらでしらべたところ全然ない。老人は、ほとんど家を出ないし、出るのは、食事の支度がめんどうだといって、駅に駅弁を買いに行くときぐらいだったらしい。これも近所の人の話だが」 「駅弁が好きだったのか、彼は」 「そうらしい。家に、たくさん駅弁のカラが積んであったよ。とにかく、老人は、あまりつきあいがなく、近所の人と、甥と、駅弁売りの人ぐらいしか、最近、老人と言葉を交わした人はないようなので、これから、駅に行って駅弁を売っている人にあたってみようと思うんだ。君も来ないかい?」  大沢は、一緒に行くことにした。     3  K駅には、駅弁を売る場所が、何カ所かある。一応、ホームの売店は除外して、大沢と久保田刑事は、老人の写真をみせてきいてまわることにした。  西口近くの弁当だけ売っている店できいたとき、二人は、目的を達することができた。そこの売店の四十すぎの太った婦人は、写真をみるとすぐにいった。 「ええ、この人でしたら、いつも駅弁を買って下さいましたよ。三日おきに」 「三日おきに?」 「ええ。三日おきにもう半年も。この駅に用事があるといって、来るたびに寄って下さいますよ。そういえば、昨日は見えませんでしたね。あの方になにかあったんですか?」  彼女は、老人が死んだことを知らないらしい。 「駅に用事があるってどんな用事だったかいってませんでした?」 「さあ、知りませんね」 「誰かと一緒にきたということはありませんか?」 「いいえ、いつもお一人でしたよ。ただ、お弁当は、時々二人分買っていかれましたが」 「えっ、二人分? 一人暮らしであまりつきあいがないはずなんだが、誰の分だろう。二つ買ってかえって、昼と夜と二食たべるのかな」 「いえ、甥御さんがくるということでしたよ。財産目あてでくるんだと笑いながらいってましたが」 「その甥について何かいっていませんでしたか?」 「いいえ」  礼をいって、忙しくなりかけた駅弁売場を離れて歩き出したとき、大沢がはじめて口をきいた。 「甥というのは調べたのか?」 「甥は、二十六歳で、定職がなく、ギャンブルに凝っていて評判のよくない男だ。老人もそれはわかっているんだが、なんといっても唯一の身内なので、金を盗まれないように気をつけながらも家に出入りさせていたようすだ。老人が死ねば、財産が手に入るし、一番動機のある人物だが、証拠がない。窓口で通帳で金を引き出していれば、窓口の係に面通しをすることも出来るんだが、キャッシュカードで引き出しているから誰も顔を見ていない」 「キャッシュカードか……。俺は、常々、コインロッカーを『顔をみられないモーテルみたいなもの』だと思っているんだ。これまでの手荷物預所のように、住所氏名を記入することも、引き出すとき、××番ですといったり、イヤな顔されることもないからな。同じことがキャッシュカードにもいえるな。……でも、キャッシュカードを盗むか拾うかしても、暗証番号がわからなければ出せないわけだが、どうして知っていたのかなあ」 「銀行の人にきいたんだが、暗証番号は、大てい生年月日か、その人の好きな数字にする傾向があるというんだ。ところが、ここのじいさんは7という数字がやたらに好きで4という字がきらいだったらしい。暗証番号も7777だった。これは老人を知っている人だったら見当がつくんじゃないかな」 「いよいよ、甥があやしいな」  二人は、コインロッカー置場のところで別れた。別れる時、久保田は、実は、老人のキャッシュカードがどこを探してもないのだと打ち明けた。  大沢は、ロッカーの前を通るとき、なにげなく、777の番号のところをみた。もう誰かが使っているが、今朝、米粒の入っていたロッカーである。 〈老人がうちのロッカーを使ったとしたら、きっとこの777を使っただろうな〉  事務所に腰をおろして大沢はそんなことを考えた。  長年ここに勤めていると、利用者のくせのようなものが自然にわかってくる。  平日で、ロッカーが比較的|空《あ》いているときだと、どういうわけか男性は、「222」「333」というゾロ目か、「234」「360」のカブのロッカーを使う。  女性の利用者は、特に奥の方のロッカーが好きで、コの字かヨの字になっている奥の死角に入れたがる。  そんなことを考えているうちに、ふと、三日ごとに、駅にくるのは、一つのコインロッカーを借り切っていて、三日目ごとに料金を入れにくるのではないかと思いついた。  だとすれば、777のロッカーが、期限切れになったのも、本人が死んでしまってコインが入れられなくなったからだと解釈できる。  しかし、半年間、米粒一つを入れて借りきっていたのは何故だろうか? そんなに大切な米粒なのだろうか、それとも遺言のようなものなのだろうか。大沢はもう一度米粒を出して眺めたが、とうとうわからなかった。     4  数日後、大沢は、この事件を、テレビのレポート番組でみていた。「一人暮らしの老人の死」という角度から最近のいくつかの老人の死をとらえた番組だった。  大沢が、おやっと思ったのは、レポーターが、米粒の大写しの写真をみせて説明した時である。 「この方は、今度取材してわかったのですが、実は、一年前、このテレビに出ていただいたことがあるんですよ。米粒に、いっぱい小さい字をかく特技をおもちなので」  米粒には、百人一首が一つずつ書いてあった。 「お宅に伺ったところ、引出しにたくさん字のかかれた米粒がしまってありました。私も許可をえて一粒ここに持ってきたのですが……、何か和歌が書いてあります。……はなのいろは……」  レポーターの声をみなまできかず、大沢は家をとび出した。 〈やっぱり777のロッカーは、老人が使っていたのだ。なにを入れていたのかはわからないが、なにかの拍子に、それに米粒がついて入ったのだと考えることもできる〉  カギをあけて事務室へ入ると、大沢は、帳簿をひらいてみた。  777番のコインロッカーについての記録をみるためである。  思った通り、777番には、ここ半年、何の記載もされていない。これは、一人の人物が、借りつづけている場合におこる現象だ。  他のコインロッカーのように、一日ごとに借りる人が変わる場合は、少なくとも一カ月に一回や二回ぐらいは、期限ぎれで品物を収納した記録があるはずだし、空いているロッカーをみつければ、中の掃除や点検をしておく習慣なので、その記録もあるはずだ。  それ以外にも、使用者がカギをまわしたが、開かないと言ってきたり、入れようと思ったが、中に何か入っているから見てくれとか言ってくるから、出入りの多いロッカーは印象に残るはずである。  大沢は、久保田刑事に電話をかけてみることにした。  大沢の話をきいた久保田刑事の声がはずんできた。 「それだと助かるなあ。あの時は、くわしい話をしなかったが、最初、現場をみた時、預金通帳や土地の権利証などがないので、これは他殺で、殺したあと、犯人に盗まれたのだと考えたんだ。しかし、あとの調べで、権利証は、知りあいの司法書士事務所にあずけ、預金通帳は、キャッシュカードを作った時、係になった銀行員にあずけたことがわかって、自殺説にもどったんだ。そのあと、預金が一週間前から毎日三十万ずつ引き出されており、引き出すのに使われたのが、預金通帳でなくキャッシュカードであることがわかった。更に、そのカードが、どこを探してもないということになって、再び他殺ではないかということになってきて、一生懸命こちらではカードを探してたんだ」 「キャッシュカードだけは、いざという時のことを考えて人に預けず、自分で持っていたんだな。……でも、家の中へはおかなかった」 「その通りだ。近所の人の話では、老人は、外出する時、戸締りをしないんだそうだ。不用心でしょうと言ったら、どうせ、大事なものは家においてないから大丈夫だといったというんだ」 「これは、やっぱりコインロッカーの線が強くなるね。三日おきに駅に来ていたということも、そのことを裏がきするよ」 「しかし、老人が、コインロッカーにキャッシュカードを入れていることを犯人が知ったとしても、そのコインロッカーのカギを手に入れることは出来ないだろう? カギは、老人が肌身はなさず持っているだろうから」 「それはそうだな。一週間、毎日、金を引き出していて気づかれなかったということは、毎日、自由に犯人がカギをあけてキャッシュカードを取り出して金をひき出し、すぐに、また戻しておいたということだと思う。毎日、そのつど、老人のカギを盗み出してということは考えられない。なんらかの方法で同じカギを持っていたということになる」 「一度だけ老人のすきをみて盗み出し、合カギを作ったのだろうか?」 「いや、それは違う。コインロッカーのカギだけは、複製できないようになっているんだ。でないと、百円入れては、片っぱしからカギをもち出し、合カギをつくって返し、次にそこに入れた人の荷物を盗むということになるからね。合カギ屋でも、商業道徳としてやらないし、技術的にも簡単には出来ないはずだよ」 「じゃ、どうしてカギを手に入れたのだろう?」 「わからない」  大沢は、電話をきると、考えこんだ。     5  その日の夕方、久保田刑事と若い秋山刑事が大沢のところにたずねてきた。 「カギを入手した方法がなんとか解決すると捜査も進展するんだが、今の状態じゃ、キャッシュカードもみつからないし、はっきり他殺だといいきれないんだ」  大沢は、 「キャッシュカードがつかわれはじめたのは老人が死ぬ一週間前ときいたが、正確にいえば何日なんだ?」  ときいた。 「十月一日だ」 「十月一日ね……」  大沢は、帳簿を繰っていった。 「あった。ここだ。えーと、この日には、別に変ったことはないな。期限ぎれのロッカーも十個でいつも通りだし、変った事件もおこっていない」  大沢は、パラパラとノートを繰っていたが、ふと、その手をとめた。 「おかしいな、これより二日後と三日後にやたらと期限ぎれのロッカーが増えている。二日あとは、二十五個、三日あとは十九個だ。いつもよりぐっと多い。そしてそのあとは、いつもの状態に戻っている。二日あとということは九月三十日に使用した分、三日あとというと十月一日に使用したことになるが、これがなにか事件と関連があるだろうか」 「期限ぎれで回収されたものはどんなものが入っていたんだ?」 「今、思い出したが、それが、不思議にほとんど空なんだ。だから、使用するためではなく、人に使わせないためにジャマをしているんだと思った。ウイークデーだから、いつもだったら、あいているのに殆どアキがなくて、客が文句をいって来た位だ」 「こんなことが、度々あるのか?」 「まあ、ないとはいえない。前に一度、百円玉を二十個ほどにぎって、片っぱしからロッカーをふさいでまわっている若者をみつけて注意したことがある」 「しかし、今度は、日にちが日にちだけに、何か事件と関係あるかもしれないな」 「まあ、一つ考えられることはあるんだが」  大沢が、気のすすまない顔でぽつんといった。 「実は、コインロッカーのカギは、三十個に一個同じ型があるんだよ」 「ええっ」  二人の刑事が、同時に声をあげた。 「いや、これは、どんなカギについてもいえることで、住宅の鍵などは、もっと種類が少ないんじゃないかな。だから、もし、その甥が犯人だとしたら、老人が、777番のロッカーにキャッシュカードをしまって、ここ半年間、三日ごとに来て、あけて確かめ、コインを追加して借りつづけているのを知って、いくつものロッカーを独占してカギをあつめ、777と同じカギを探したんじゃないかと思うんだ。一日目には、とうとう合カギにめぐり合えなくて、二日目にやっと成功した」 「なるほど」 「それからは、毎日、老人のロッカーを勝手にあけて、キャッシュカードを取り出し、三十万円出しては、カードを戻していたんだ。老人は、銀行からの通知で、一週間もつづけて金がひき出されていることを知り、すぐ甥だと見当をつけ、甥を呼びつけてただしたか、コインロッカーのところで張りこんでいて、甥が、自分のキャッシュカードを取り出して金を引き出そうとする現場を捕まえて、なじるなりしたんだと思うがどうだろう?」 「それだったら、現場を押さえたんじゃなくて、家へ呼びつけたんだと俺は思うな。もし、現場を押さえたのなら、キャッシュカードはとりあげてしまい、死んだ時、家にあったと思うんだ」  久保田刑事が、自信をもっていった。  秋山刑事も、それを裏づける発言をした。 「甥の黒沼二郎は、老人が死んだ日の昼頃、老人の家へきているんです。それは、近所の人も証言しているし、本人も認めています。その時が、呼びつけられた時だと思います」 「現場をつかまえて、警察に突き出していれば、じいさんも殺されずにすんだのに……」  久保田が、残念そうにつぶやいた。 「なんといっても、老人にとっては、たった一人の身内だから、警察に渡すなどの強い態度には出なかったのだと思うよ。老人としては、あくまできびしく叱り、おどかした上で許してやるつもりだったろうが、甥の方は、これで、老人の財産をつぐ望みがなくなったと思う一方、キャッシュカードで、もうしばらくは引き出せると思っていたのに、バレてしまって不可能になり、今すぐ入用な金にも困ったのだろう。それで、うまく殺して財産を相続しようと決心したのだな」  大沢の推測につづいて久保田も断定するようにいった。 「電話で呼びつけられたとき、バレたことをさとって、毒を用意していって冷蔵庫にしかけてきたんだと思うな」  三人は、大沢の出した冷えた茶をのんで続きを話しはじめた。幸い、今日は暇で、ロッカーが故障だといって呼びにくる客もないし、料金切れの荷物を受け取りにくる客もない。 「ところで、そのキャッシュカードだが、老人の家にないとすると、どこにあるんだろうな」 「甥の黒沼の家にあるんじゃないか?」 「老人の家は、隅から隅まで調べたが、黒沼の家はまだ調べるわけにいかないよ」  その時、大沢がゆっくりと口をはさんだ。 「俺は、黒沼の家にはないと思うな。自宅においておくと、見つかった時、自分が犯人だと白状するようなものだから。すでに、処分してしまったか、別の場所にかくしているだろう。今となっては、使用することもできないし、財産を相続すれば、カードの紛失届を出して、通帳の方でひき出すようにすればいいわけだから」 「別の場所といえば、例えば、ここのコインロッカーにあるというようなことはないだろうか?」  久保田が大沢の顔をのぞきこんでいった。 「うむ、考えられる」  大沢は、あっさりとうなずいて、机の上にノートを出した。このノートは極秘のノートで、どの番号のロッカーがどのカギであくのかを記してある。 「その場合、甥の黒沼の使っているロッカーは、老人の使っていた777番と同じカギを使っているロッカーだと思う。前にキャッシュカードをぬすむため777と同じカギのロッカーをさがして手に入れたが、そのロッカーを、今も借りつづけている可能性はある。なぜかというと、カギだけとって、期限ぎれでそのロッカーを放っておくと、カギが紛失したことがロッカー事務所にチェックされる。毎日三十万円出しているとき、伯父がきづいて警察に訴えたら、家の中を調べられる。出てきたカギが紛失したものだとわかれば、あやしく思われるのは当然だ。しかし、なにかつまらないものでも入れて借りつづけていれば、チェックもされないしロッカーをあけられてもなんということはないからな。そして、そのロッカーに、今度、老人を殺したあとは、キャッシュカードを入れておくというわけだ」 「老人が死んだあとは、老人の借りていた777番にキャッシュカードを返しておけばよかったんじゃありませんか。そうすれば、発見されても、老人が家に置かないで、こんなところに置いたんだと思われるでしょう。黒沼との関係は切れると思いますが、なぜ、そうしなかったんでしょう。」  秋山刑事が、遠慮がちに自分の疑問を述べた。 「それは、今の警察は、科学捜査が発達しているということが、テレビなどでPRされているからだよ。いくらカードの指紋を消したつもりでも、自分が一週間も毎日持ち歩いていたのだから、赤外線カメラかなにかで科学的に捜査されて、指紋が検出されるかも知れないと思うだろうな」 「とにかく、同じカギで開く番号のロッカーを、片っぱしからマスターキーで開けてみよう。関係のない人には申しわけないが仕方がない」     6  三人は、ノートに書かれた番号から、777番と同じカギであけられるロッカーを一つずつ開けてみることにした。  すでに夜も更けていた。  まず開いた第一番目のロッカーは、女子中学生の制服が入っていた。化粧品の箱も入っている。 「この時間に制服を脱いでどこへ行っているんだろう。校章からみると中学生だよ。親に連絡すべきじゃないか。あ、定期がある。名前が書いてあるぞ」  久保田刑事が職業意識にめざめて、定期の中を調べかかるのを、大沢はあわてて押しとどめた。 「久保田、駄目だよ。個人のプライバシーにタッチしちゃ。秘密が守られるものと安心してみんなが利用しているんだから。俺だって普段はよほどのことがないと開けないんだが、今回は特別だと思って開けてるんだ。こうして調べているところを見られただけでも大変なことになる。さりげなく早くやらなければ」  次に開けたロッカーには、大きな紙袋一杯にポルノ写真が入っていた。印刷されたものではなく、実際に普通の娘を家や庭で写したもので、大きく拡大されたヌードは息をのむような迫力があった。  若い秋山刑事などは、すっかり興奮してしまった。 「一枚や二枚ならとにかく、こんなにたくさんあるのはおかしいですよ。売るつもりじゃないでしょうか。きっと、素人の娘をだまして写したんですよ、ね、久保田さん、これなんかすごいですよ」  ロッカーに首をつっこむようにしてのぞいている二人に、大沢は苦笑しながら、わざと丁寧な言葉づかいでいった。 「期限ぎれならともかく、個人が借りきっているロッカーの中を、どうこういうわけにはいかんのですよ。探しているキャッシュカードがみつかった場合以外は、軽くみるだけにして下さい。でないと、次のロッカーをあけるのをやめますよ」  三人は、次々と777番と同じカギを持ってロッカーをあけていった。  ゴルフバッグ、電気ノコギリ、写真機、Tシャツ、週刊誌……。 「あった!」  452番のロッカーを開け、週刊誌をとり出したとき、三人は、思わず大きな声を上げた。  週刊誌の間にはさんであった、名刺ぐらいの大きさの青いカードがぱらりと落ちたのだ。  通し番号と名前がプレスで浮き上っている。  幸い、まわりにロッカーを利用している人はなかった。  タムラ・マンゾウ  513・0・677187・1 「間違いない。これだ」  久保田刑事が、手袋の手でつまみあげ、緊張した顔でいった。 「これ、証拠物件だから押収するぞ、いいな」  久保田が大沢に念を押すと、大沢は少し考えてから、 「いや、そのまま、ここに置いておいたらどうだ」  といった。  久保田はその顔をしばらくみつめていたが、 「そうか、彼は、このロッカーへやってくるんだな」  と、にやりとした。 「そうだ。このロッカーは、まだ、期限ぎれにはなっていない。期限ぎれになるのは、明日一杯だ。コインを補充しなければ、期限ぎれということで、ロッカーが開かれ、カードが発見される。それが怖さに、コインを補充しにやってくる可能性はある。もし、やってくれば、そこを捕《つかま》えるのだ。しかし、やってこない場合もある。その時は、期限ぎれを待って、正式に引きあげていったらどうだ」 「よし、そうしよう。彼が、このロッカーへ近づく危険性と、期限切れになってこのカードがみつかったあとの危険性の、どちらに賭けるかみものだ」     7  翌日、一日中、大沢は落着かなかった。  久保田刑事は、452番のロッカーの前をいったり来たりしながら見張っているし、秋山刑事は、黒沼二郎の家の前で張りこんでいる。  大沢自身も、452番近くのロッカーがあくと、自前で百円を放りこんで、使用できないようにして、いざという時の混乱を避けるように心を配った。  大沢や久保田にとって骨の折れることには、452番付近の十個のロッカーは、通りからコの字型の死角になっている。  大体、ロッカー一個の一日の回転率は、二・二人であるから、死角になった十個のロッカーには、二十人前後の出し入れがある。  夕方になると、大沢は、すっかり気疲れしてしまった。  夜になっても、彼が来ないで、ロッカーを開けてみたら、カラだったりしたらどうしようか、黒沼自身が来ずに、通りすがりの女の子などに頼んだのを見逃したらどうなるか。  自分が言い出しただけに、大沢は不安だった。  久保田刑事は、食事にもいかないで見張りを続けている。  午後七時。  電話のベルが鳴った。秋山刑事からだった。 「彼が出かけました。サングラスをかけ、黒いコートを着ています。尾行します」  短い言葉の中に、緊迫感があった。  約三十分後、黒沼は、コインロッカー置場に姿をあらわした。あたりをすばやく見廻すと、一直線に奥のコーナーへすすんでいった。黒沼が、452番のロッカーを開けて週刊誌をとり出し、カードをポケットに収めようとした瞬間、その腕を押さえて、久保田は声をかけた。 「警察のものですが、御同行下さい」  黒沼は、逃げようとしたが、コーナーのまがり角に、秋山刑事と大沢が立ちはだかっているのをみると、あきらめて肩を落とした。この場合は、452番のロッカーが、入口から死角にあることが、逆に逃げるのをさまたげたことになった。  大沢は、事務所に戻るとほっと息をついた。  二、三日したら、久保田が、元気な顔で報告にくるだろう。  大沢は、机の中から米粒を出して眺めた。老人が、キャッシュカードを777のロッカーにいれていたとき、ひっついて入っていた米粒である。  大沢は、もう一度虫めがねを出して、米粒にかかれた和歌をよんだ。   たれをかもしるひとにせむたかさこの   まつもむかしのともならなくに  自分は誰を友としたらいいのだろう。年をとったので、昔の友達や知人も、いまは一人もいなくなってしまった。せめて高砂のあの松でも友として語りたいが、松は人でないからそれもできない——そういう意味だろう。孤独な老人の淋しい境地をうたったうたである。  百粒のうち、たまたま、カードについてきたのがこのうただったことに、改めて大沢は感慨を覚えた。 〈しかし、この一粒のおかげで、老人が、このロッカーを使っていたことがわかり、ひいては、黒沼を逮捕することができたのだ。老人もあの世で喜んでいるだろう〉  大沢は、米粒をつまみあげて瞑目《めいもく》すると、丁寧にそれを机にしまいこんだ。     8  久保田刑事が、冴えない顔で、大沢の家へ姿をあらわしたのは、その翌日だった。 「黒沼は、白状したかい?」 「それが、駄目なんだよ」 「どうして? 老人のキャッシュカードを掴んでいるところをおさえたのに駄目だというわけないだろう」 「なかなかしぶとい奴でね。あのカードについても、老人から生前カギをあずかっていたというんだ。自分が死ぬようなことがあったら、これを開けてくれといって封筒をあずかっていた。おじが死んだときは、呆然として忘れていたが、昨日、ふと思い出したので封筒をあけてみたら、カギとロッカーのある場所をかいた紙が入っていたのでやってきたというんだ。じゃそのカギで、死ぬ一週間前からあけていたんだろうといったら、あの日の朝、伯父のところへ行ったときあずかった。だから自殺だというんだ。伯父さんのその手紙や封筒があるか、といったんだが捨ててしまったとつっぱねる」 「そんなものありゃしないよ。きっとこっちの推理した通りなんだよ。疑われていることは本人も知っているんだから、そんな封筒があれば、とっくに警察にとどけてるよ」 「なぜ、警察に知らせなかったといっても、ずっと忘れていて、気がついたのが昨日の夕方、とにかく、なにが入っているかあけてみてから届けようというんだ。まして、老人を殺したということについては、全然知らないと言いはるんだ。誰かが、ビールに毒を入れる現場をみたのかと、逆にくってかかるしまつだ。老人の家へ黒沼がやってきたのが老人の死んだ時刻と接近していれば、たとえ、知らないといっても、こっちも強気で出られるんだが、彼は午前中にきて帰り、老人が死んだのが夜で、そのあいだに近所の人が来たり、御用ききが来たりしているんだから、どうしようもないんだ」 「なるほど、黒沼という男は、なかなかの男なんだな。それをきいて一層彼が犯人である可能性が強くなったな。それにしても、老人の使っていた777番のロッカーのカギはどこにあるんだろう? それが出てくると黒沼の言い分は通らないんだが……」  久保田へ力なげにつぶやいた。 「さあわからないな。家のどこかに、老人がかくしているかもしれないし、老人によびつけられたとき、黒沼が持ち去ったのかもしれないな。……ところで、毒の入手経路はどうなんだ。そちらの方からは割れてこないのか?」 「もちろん、それは、老人が死んだとき、すぐに調べたさ。毒物は、シアン化カリ、つまり青酸カリで、致死量の〇・一五グラムをはるかにこす量が検出された。入手経路からいうと、むしろ、老人の方が近いんだよ」 「どこで手に入れたんだ?」 「老人の家の裏に大きな工場があるだろう。あれは、銅の電気|鍍金《めつき》をやっている工場で、敷地は老人が貸してるんだ。庭つづきだし、事務所は、離れに隣接している。老人なり甥なりが盗むことは容易なんだ。きいてみると、そういえば、ここ一カ月程前、青酸カリが盗まれたような心あたりがあるというんだ。ずさんな薬品管理をしている様子なので叱っておいたんだが、入手経路はどちらにしてもそのへんだ」 「本人が自殺する場合は、瓶の方でなく、コップの方に毒を入れると思う。これは、犯人が同席して一緒にのんでいる場合もだ。しかし、毒がビール瓶の方に入っていたのだからこれは、犯人が仕掛けて帰ったと思うと、最初君が言ってただろう。俺もそう思うが、ビール瓶は、一度、栓を抜いて毒を入れてもう一度しめても新しいものとわからないように出来るのかな。はじめ栓をあけた時に泡がふきこぼれてしまったり、ふたがまがってしまったりしないかなあ」 「それは、うちの刑事たちみんなで、実益をかねてやってみたよ。冷やしてないビールは、静かに抜けば、泡がたたないし、栓も、注意して抜けば、曲らない」 「一度あけた分は、夕食のとき老人があけても泡がたたないということはないだろうか」 「一度栓をぬいて再びしめたものでも、冷やしておけば、コップにつぐときには結構泡が出るよ」 「甥の黒沼二郎はビールを飲むのか?」 「いや、飲まないんだ。これは本当らしい。ギャンブルも女もやるくせにアルコールだけは駄目なんだ。彼の家の台所ものぞいたが、去年の暮のものらしいお歳暮と書かれたもらいもののビールが一ダース、カートンに入ってそのままおいてあったよ。それに反して、老人は、毎晩風呂へ入ったあと夕食に、一本ずつ飲むのが習慣だったんだ。だから、冷蔵庫にひやしてあるビールにしかけておけば、老人がそれを飲んで死ぬことはわかっていた」 「困ったことになったな。近所の奥さんがよく出入りしていたらしいが、甥がビールの栓を抜いているのを誰かみてないのかな」 「いないし、それどころか、発見者の奥さんは、老人の家に栓ぬきは一つしかなかった。それは、自分がタイ国へ行った時のみやげにあげた、仏像の形になった銅製のもので、常に、老人が、自分の手箱に入れていて、老人の目をかすめて台所に持ち出すことは出来なかったでしょうといっていた」 「栓ぬきと青酸カリ持参でやってきたか……」  二人はしばらく黙っていたが、やがて大沢が、 「ビールでも飲むか? それとも、この際、ビールはやはり気持がよくないか?」  というと、久保田は、はじめて笑った。 「そんな神経じゃ刑事は勤まらないさ」  大沢が、台所から持ってきたビールを、久保田のコップにつごうとしたとき、 「わかった!」  と、久保田は叫ぶなり、あっけにとられている大沢をのこして外へとび出していってしまった。     9  翌朝、久保田刑事と黒沼二郎は、捜査本部で、机を間に向かいあって坐っていた。  そばには、他の刑事たちもつめている。 「あなたは、あの452番のコインロッカーは、伯父さんの田村万造さんが借りていたものだというんですね」 「そうですよ。私は、あの時はじめて開けたんですからね」 「でも、あのロッカーの中に入っていた週刊誌には、伯父さんの指紋は全然ついてなくてあなたの指紋ばかりついていましたよ」 「それはあのとき、私がさわったからでしょう」 「こちらの調べでは、伯父さんは、777番のコインロッカーに、キャッシュカードを入れて使っておられた。あなたは、それを知って、777番のカギに合うカギを探して452番をみつけ、それで、777番をあけて、毎日キャッシュカードで三十万円をひき出してはもとに戻していた。ところが、一週間たったとき、銀行からの通知で、金が引き出されていることを知った伯父さんは、あなたを呼びつけて叱った。それで、あなたは毒入りのビールを冷蔵庫にしかけ——とこうなるんですが、どうですか?」  黒沼は、久保田が、777番のコインロッカーのことを言ったとき、どうしてわかったのかというように、少し顔色を動かしたが、すぐにたち直って答えた。 「777番のロッカーなど知らない。なにか、伯父が、そのロッカーを使っていた証拠でもあるのですか?」  久保田は、にやりとして、 「それは、こちらのきめ手になることだから今は言えません。しかし、それを別としても、どう考えても、452番を伯父さんが使っていたとは考えられませんよ」 「どうして?」 「あなたもよく知っているはずですが、伯父さんは、7の番号が好きだ。と同時に、4の数をひどく嫌っていた。年寄りだから4は死に通じるのでよけい嫌だったのかもしれません。ところが、452のロッカーは、4が入っているだけでなく、音でよめば、シゴニ、死後に、となり、いやな感じだろう。伯父さんが使う筈はありませんよ」 「でも、ロッカーが、空いてなければ仕方がないでしょう。そう自分の好きな番号があいているとは限りませんよ。……あ、そうか、そういうことから777番を伯父が借りていたはずだとカマをかけたんでしょう。そんなことで、こちらを陥れようたって駄目ですよ」  黒沼は、プイと横をむいてしまった。  その時、田村家に行っていた秋山刑事が久保田のところへ来てメモを見せた。  それには、〈冷蔵庫の製氷皿の下に777番のロッカーのカギがビニールにくるんで入れてありました〉とあった。  久保田は、にやりと笑うと、メモをポケットに入れ、黒沼に言った。 「じゃあ、ロッカーの件は、それとして、伯父さんの家へ行った時、毒入りビールを冷蔵庫の中へおいてきたことはみとめるな」 「何をいうんですか、全くデタラメですよ。伯父の飲んだビールに、僕の指紋でもついていたというんですか?」 「いいや、指紋はついていなかった」 「そうでしょう、じゃ、証拠がないじゃないですか?」 「君は、家で貰いもののビールの一本に毒を入れ、ふたをもとどおりにしてバッグに入れ、伯父さんの家に来たのだ。そして、帰りに冷蔵庫の中のビールとすりかえて行ったのだ」 「伯父が飲んだのが、僕が家から持ってきたビールだという証拠がありますか。伯父のビールがAビールで、僕のビールがKビールだというような」 「君の家にあったビールも、伯父さんの家にあったビールも、Aビールだったよ」 「でしょう? だったら」  久保田刑事はにやりと笑って言った。 「ところが、あなたのビールは、去年の暮に歳暮にもらった分で、伯父さんのは、買ったばかりの新しい分だった。あなたの家にあったカートン入りの十二本のビールを調べたら、その中に、一本だけ伯父さんのところの新しいビールが入っているんだ。そして、伯父さんのところの残りのビールは、すべて新しいのに、伯父さんが飲んで死んだ一本だけが、去年の古いビールなんだ」  黒沼は不安な顔をしたが、それでも強気に言った。 「新しいか古いかどうしてわかるんだ。分析した結果がどうこうと言ったって、俺は承服しないよ。誰でも納得する証拠がないとね」 「君は、まだ気がつかないのかね。普段ビールを飲まないからだろう。今、Aビールのレッテルには、製造年月が、紙に切りこんであるんだよ。君のところのビール十一本と、伯父さんが飲んで亡くなった一本の計十二本には、去年、つまり、十二月の上旬の切りこみがあり、伯父さんのところにあったビールと、君の家の十一本にまぜておいてあった一本には、すべて、九月上旬の切りこみがあったのだ。去年歳暮にもらったビールの一本が、今年の九月上旬製造のビールのはずがない」 「………」 「それに、君が取り替えて持って来たと思われるその一本の瓶の底からは、伯父さんの指紋が出たよ、注意深く手袋をはめて行動し、指紋も消したつもりだったんだろうが、瓶の底だけは、消し忘れたようだね」  危険な忘れ物     1  裁判が終った。  判決は、被告人は無罪、従って、慰謝料を支払う必要はないというものだった。  その瞬間|飛鳥《あすか》医師は、さすがに、嬉しそうに微笑し、弁護士と握手をした。  逆に、原告の大原は、じっと唇をかみしめた。予期されていた判決とはいえ、口惜しさは、かくしようがなかった。 「やはり、こういう事件に勝つのは難しいですな」  と、今度の訴訟を担当してくれた三田弁護士が、小さな溜息をついた。  大原は、黙っている。勝つのが難しいことは、彼にもわかっていた。わかってはいたが、死んだわが子のためにも、どうしても勝ちたかったのだ。いや、殺されたわが子のためにというべきだろう。 「慰謝料の全額は認めてくれなくても、二分の一程度の金額は、認められるんじゃないかと、ひそかに期待していたんですがねえ」  三田弁護士は、なぐさめるように、大原にいった。  大原は、黙って、首を小さく振った。これは、金額の問題ではないのだ。  彼が、誤診によって死んだ三歳のわが子のために、慰謝料一千万円を、飛鳥医師に要求して、民事訴訟を起こしたのは、その金が欲しかったからではない。  金などは、一銭も欲しくはなかった。出来れば、殺人罪で、飛鳥太郎を告発したかったのだ。  だが、誤診によって、医師が、刑事訴訟の法廷に立たされることは、めったにない。事件にすらなり得ないのだ。  だから、大原は、仕方なく、民事事件として、慰謝料を請求したのである。  一年前の冬だった。  三歳の長男、浩一が、夜半に、突然、発熱した。京都府警の刑事である大原が、殺人事件の捜査で走り廻っていた時だった。妻の綾子が、驚いて、近くの飛鳥病院に、浩一を背負って行った。飛鳥病院は、とかくの噂があったが、他に、病院がなかったのである。とにかく、叩き起こして、院長の息子で副院長の飛鳥太郎医師に診て貰った。  飛鳥は、面倒くさそうに診察してから、単なる風邪だといい、飲み薬をくれたが、朝になると、病状が変化し、四十度を越す高熱を出して、苦しみ出した。飛鳥は、今度は、肺炎だと診察し、あわてて、注射を何本もしたが、十時十分、浩一は、死亡した。  独りっ子だった。綾子は、ショックで寝込んでしまい、今も、勝浦の実家で、床についている。  飛鳥太郎は、以前にも、何度か、間違った診断をして、死ななくてもいい患者を、死に到らしめたことがあるといわれていた。  飛鳥病院に行って息子の方にかかると、治る病人も治らないという噂もあるくらいだったが、附近に病院がないことや、内科、外科の他、小児科もあるので、結構、繁盛していた。父の院長は市会議員にもなっていて、世渡りの上手《うま》い一家だという評判だった。  浩一の葬儀の時、飛鳥は、小児科医の研修会に東京へ行っているということで、看護婦に、香典を持たせてよこした。しかし、大原が、調べてみると、研修会というのは、でたらめで、同業の医師数人と、ゴルフのコンペに、志摩半島に行っていたのである。  飛鳥が、葬儀に出席してくれて、浩一の遺骸に手をついて謝ってくれていたら、大原は、相手を訴えるようなことはしなかったかも知れない。  だが、飛鳥の態度は、腹にすえかねた。大原は、看護婦の持って来た香典を叩き返し、訴訟に踏み切ったのだ。同僚の刑事の中には、勝ち目のない裁判は、やめた方がいいと、忠告してくれる者も多かった。誤診か誤診でないかの判断は、困難だし、勝ち目のないことは、大原にもわかっていたが、止むに止まれない気持だった。  家を作るために、営々と溜めていた貯金も、今度の訴訟で、あらかた使い果たしてしまった。  そして、敗北。  勝った飛鳥が、わざと悲しげな顔をして、大原に近づいて来た。 「大原さん」  と、飛鳥は、声をかけた。 「お子さんのことは、本当にお気の毒です。誤診の疑いは晴れましたが、それとは別に、お見舞金もさしあげたいし、お悔み申しあげます。どうですか、大原さん。今度のことは水に流して、握手して貰えませんか」 「ごめんだな」  と、大原は、首を振った。 「水に流すつもりは、全くない。それに、あんたにいっておくが、私は、まだ、あきらめたわけじゃない」     2  翌日、大原は、一日休暇を貰って、妻の実家がある勝浦に出かけた。  さすがに、ここは、京都に比べると、ずっと暖かい。  大原は、ようやく、回復に向っている妻の綾子と、初春の海辺を歩いた。 「やはり、負けたよ」  と、大原は、歩きながら、綾子に報告した。 「こちらに味方して、証言してくれる医者が、一人もいなくてね」 「もう諦めましょう」  と、綾子はいった。 「諦められるのか。浩一は、明らかに、あの若い医者の誤診がもとで死んだんだよ」 「でも、もう、どうしようもないことでしょう」 「おれは、絶対に諦めん」  大原は、足を止め、海に向って、強い調子でいった。飛鳥に、誤診を認めさせなくては、死んだ浩一が浮かばれないではないかと思う。 「あの日のことを、もう一度、話してくれないか」  と、大原は、綾子を見た。 「それはいいけど、腰を下していいかしら。少し疲れたんです」 「いいとも」  大原は、病気あがりの妻の身体を抱《だ》くようにして、近くに引き揚げられていたボートに腰かけさせ、自分の上衣を背中にかけてやった。 「あの夜、十一時半頃でした。浩一が、急に、苦しいといい出したんです。驚いて、熱を測ったら、三十八度もあって」  綾子は、話しながら、眼を伏せてしまった。思い出すのが辛いのだ。  家から、飛鳥病院まで、二百メートルはある。小雨の降る寒い夜だった。綾子は、浩一を背負って、その二百メートルを駆けた。 「飛鳥は、単なる風邪だといったんだね?」 「ええ。薬を二錠飲ませてくれて、家に帰って、温かくして寝ていれば、すぐ治るといったんです。友達が来て、奥でマージャンをしているらしく、薬をもらっている間にも、『おおい。まだか?』という声がして、飛鳥が、『すぐだから、ぬかさないで待てよォー』と答えてましたわ」 「だから、早くすまそうと思っていいかげんな診察をしたんだ」  大原は、こぶしを握りしめた。 「それで、連れてかえったんですが、明方近くになって、急に熱が高くなって、三十九度を越してしまって……」  綾子は、また、ぜいぜいと、苦しげに喘《あえ》ぐ浩一を背負って、飛鳥病院へ走った。  すると、今度は、飛鳥は、肺炎だと診断し、抗生物質の注射をした。しかし、手遅れで死亡。  この間の事情は、裁判の過程で、何度となく取りあげられたことだった。肺炎を起こしていたのに、単なる風邪だと診断したのは、明らかに、誤診ではないかという大原の主張に対して、飛鳥も、彼の側の証人になった医師たちも、口を揃えて、最初は、単なる風邪だったが、寒い雨の中を、母親に背負われて歩いて往復する間に、肺炎を併発したのだから、誤診ではないと、主張した。まるで、責任は、母親の綾子にあるというようないい方だったし、それが、結果的には、認められてしまったのだ。 「あと、一カ月もすれば、京都へ帰れますわ」 「急がなくてもいいよ」  と、大原はいった。彼は、もう一度、飛鳥という男を、調べ直してみるつもりだった。そのためには、当分、独りの方がよいかも知れないと、考えたりもしていた。  その日は、妻の実家に泊まり、翌日、京都に帰ると、新しい殺人事件が、大原を待っていた。  若い女性二人が同じ日に、続けて頸《くび》を絞められて、殺されているという凶悪な事件だった。大原は、愛児を失った父親から、三十歳の捜査一課刑事に戻って、京都の街を走り廻った。  四日目に、犯人が逮捕された。犯人は、二十八歳になるK大出のエリート社員で、驚いたことに、マンションで逮捕された時、この男は、女装していた。口紅を塗り、マニキュアまでした彼を、刑事たちは、最初、本物の女と思い、危うく、取り逃すところだった。  一種の性倒錯者だった。沖田一夫というこの青年は、会社から帰ると、女装して夜の街を歩き廻ることに、ぞくぞくするような快感を覚えていたという。完全な女と見られることが嬉しかったともいう。  たまたま、本物の女性二人に、見破られ、笑われたとき、かっとなって、殺してしまったのだ。  沖田が話したところによると、彼ほどでなくても、女装愛好者の男は、驚くほどいて、口紅のつけ方や、ドレスや和服の着方を教えてくれる、クラブのようなものまであるということだった。  妙な時代になったものだというのが、この事件を担当した大原たちの気持だった。  密告の電話を、大原が受けたのは、その事件が終った日の夜である。     3  電話は、女の声で、自宅にかかってきた。 「大原さんですね?」  と、電話の主は、低い声で、確認するようにきいた。 「そうです」  と大原はいった。腕時計を見ると、十一時に近い時刻だった。 「お子さんのこと、お気の毒です」 「ありがとう」  大原は、話しながら、頭の中で、この女はいったい誰だろうと、考えていた。彼の子供が死んだことを知っている以上、どこかで会った女かも知れないが、こんな時刻に電話してくるというのは、どういう気なのか。 「あたし……」  と、女は言葉を切って、黙っている。 「何ですか?」 「あたし、大原さんのお子さんが、飛鳥病院で死んだことで、大変なことを知っているんです」 「え?」  大原は、思わず、大声を出し、受話器を握りしめていた。 「本当ですか? それ?」 「ええ」 「じゃあ、飛鳥病院の誤診の証拠を持っているんですか?」 「いいえ」 「違うんですか?」 「あれは、誤診じゃありません」 「それじゃ……」  何の足しにもならないと考えたとき、相手の女は、 「もっと、大変なことを知っているんです」 「どんなことです」 「それは、電話ではいえません」 「よろしい。どこへ行けば会って貰えますか?」 「あたし、お金が欲しいんです」 「なるほどね」 「でも、大原さんの役に立つ話です。嘘じゃありません」 「いいでしょう。どこへ行けば会えますか?」 「東寺の山門の前で明日の朝六時に待っています」 「六時ですね。何か目印になるようなものを持っていてくれますか?」 「あたしは、大原さんを知っています。ですから、あたしの方から、声をかけます」  と女はいい、電話を切ってしまった。  大原は、受話器を置いて、じっと考え込んだ。誤診のことでないというのには失望だが、もっと大変なこととは何だろうか。  財産はなくなってしまったが、幸い、二日前に貰った給料があった。  彼は、その中から、五万円だけ出して、封筒に入れた。  大原は、ほとんど眠れずに、朝を迎えた。  五時半に、アパートを出て、指定された東寺に向った。  まだ、夜は明け切っていない。  五分前には、東寺駅に着き、人気《ひとけ》のない山門の方へ歩いて行った。  ひどく寒い。大原は、コートのポケットに両手を突っ込み、白い息を吐きながら、山門前の道をゆっくりと歩いた。  電話の主らしい姿は、どこにもない。十五、六歳の少年が、トレーニングウェアを着て、駆けてくる。  六時を二十分過ぎても、相手は現われなかった。 (いたずらだったのか?)  と、舌打ちして歩き出したとき、 「大原さん……ですわね?」  と、背後から、声をかけられた。  オーバーの襟《えり》を立てた小柄な女が立っていた。 「電話をくれたのは、あなたですか?」 「ええ」  と、女は、くぐもった声を出した。 「お金は、持って来てくれましたか?」 「ええ」  大原は、封筒を女に渡した。  女は、中身を調べていたが、その顔には、明らかに、失望の色が浮かんだ。 「これだけ?」 「話の内容によっては、もっと払いますよ」  と、大原はいった。 「あたし、五十万円欲しいんですけど」 「いいでしょう。役に立つ話なら、五十万でも、六十万円でも払います。話してみて下さい」 「本当に貰えるんですね?」 「約束しますよ」 「あなたのお子さんは、本当に、風邪だったんです」 「………」  大原は、黙っていた。そうは思っていないからである。  女は、ちらりと街路樹に眼をやってから、 「あの時、飛鳥先生は、あなたのお子さんに、開発中の新薬を投与したんです」 「新薬?」 「ええ。風邪に即効性があるといわれているスワドリンという薬です。S製薬という小さな会社が作った薬なんです。即効性があるというだけに、劇薬に近く、大人用の薬ですけど」 「家内は、二錠飲まされたといっていた」 「それじゃあ、危険だわ」 「そのスワドリンという薬は、今、市販されているんですか?」 「いえ。副作用が強過ぎるということで、まだ、研究の段階です」 「そんな薬を、三歳の幼児に、二錠も飲ませたのか」  大原の顔が、赤く染った。もし、本当なら、人体実験ではないか。 「しかし、うちの子は、そのあと、肺炎と診断されているんだが……?」 「それは、本当の肺炎じゃないと思いますわ。スワドリンの副作用で、肺炎と同じような症状を見せて死亡したというのを聞いたことがありますから。飛鳥先生は、母校に無給の助手として昼間通っていますが、その大学の教授の機嫌をとろうとして、教授の研究しているスワドリンを投薬したんですよ」 「今までのことを、警察で証言してくれますか?」 「ええ。それに、飛鳥先生は、お父さんの院長が、莫大《ばくだい》なお金をつかって、医大に不正入学したんですよ。私は、その事も知っています。詳しいことは、明後日、お金を頂いたら話しますわ」 「明後日、お金は払います。そしたら、本当に話してくれるんですね?」 「ええ。本当は、あたし、お金のためじゃなくて、彼に恨《うら》みがあるのです」  多分、一時期、飛鳥は、この女性と深い関係にあり、今は、他の女に乗りかえたのだろうと大原は推測した。 「明後日、同じ時刻に、ここに待っています」 「じゃあ——」  女は、そそくさと、大原に背を向けて歩き出した。その背中に向って、大原は、 「あなたは、飛鳥病院の看護婦さんじゃありませんか?」  と、きいた。  返事はなかったが、背中のあたりが、ぴくんと動くのがわかった。 (やはりだな)  と、大原は思った。     4  翌日、府警本部に出ると、大原は、共済組合から、金を借りる手続きをとった。  一般の貸付では、給料の一カ月分が限度なので、大原は、住宅資金を借りることにした。これなら、十カ月分まで、借りられる。あの女が、金額を吊りあげてきたときの用心に、百万円にした。  山県捜査一課長の判を貰いに行くと、温厚なこの上司は、 「君も、いよいよ、家を建てることになったかね」  と、喜んでくれた。愛児を失くして、沈みがちの大原が、家を建てるような気になってくれたと、喜んでいる様子だった。  大原は、今日、金がいるので、金が出るまでの間、百万円を、会計で貸してくれとたのんだ。課長の口添えで百万円を手にし自分の机に戻ると、五十万円ずつ、別々に封筒に入れ、内ポケットにしまった。大原は、百万円払っても、女の証言を買う積りになっていた。  午後二時半、正確にいえば、二時三十七分に、殺人事件発生の知らせが、府警本部に入った。 「週休二日制になってから、土曜日の殺しが多くなったみたいだな」  と、同僚の郷田警部補がいい、大原と、京都駅近くの現場に急行した。  菓子屋の離れを間借りしていた若い女が殺されたという。  離れは、独立した1DKで、その六畳の畳の上に若い女が、細紐で首を絞められ、俯伏《うつぶ》せになって死んでいた。  死体が仰向けにされ、鑑識のフラッシュが一斉に焚かれる中で、大原は、「あっ」と、思わず、声をあげていた。  死体は、まぎれもなく、昨日の朝、会った女だったからである。  家主に会ってきた郷田警部補が、 「被害者の名前は、石川良子。職業は……」 「看護婦。飛鳥病院の看護婦じゃないか?」 「その通りだ。よく知っているな?」 「うちの近くの病院だからね」 「そういえば、飛鳥病院というのは、君の……」  といいかけてから、郷田は、あわてて、その言葉を呑み込んだ。  大原は、郷田を見ていなかった。彼の視線は、食い入るように、死体に注がれていた。  大事な証人が殺された。殺したのは、飛鳥医師に違いない。大原は、そう確信した。他に、誰が考えられるだろう? この看護婦は、飛鳥の弱味を知っているために、彼に殺されたのだ。 (絶対に、飛鳥を、殺人犯人として、この手で捕えてやるぞ) 「何かいったかい?」  と、郷田がきいた。 「いや。死体の発見者は?」 「外にいるよ」 「じゃあ、会って、話を聞こうか」  発見者は、中学時代、被害者の石川良子とクラスメートだったという若い女だった。  佐藤幸枝というOLは、まだ蒼《あお》い顔をしていた。 「今日、良子と映画に行こうと思って、彼女に電話したんです」 「時間は?」  と、大原がきいた。 「二時十五分ぐらいです。土曜日だから、うちにいると思った」 「石川良子さんは、電話に出ましたか?」 「はい。彼女、電話口で、どうしようかな、なんていってたんだけど、その中に、急に、誰か来たみたいだから、ちょっと待ってねといったんです」 「それから、どうなったんですか?」 「急に、『あっ、何をするんです!』とか、『うっ』という彼女の声がして、しばらくして、静かになったんです。そのあとで、電話が、がちゃんと乱暴に切れて——」 「それで?」 「どうしたのか心配になったんです。いくらダイヤルを廻しても、良子が電話に出ないし、タクシーで来てみたら、死んでたんです」 「それで、一一〇番したんですね?」 「母屋のお菓子屋さんに知らせて、一一〇番して貰ったんです」  死体を発見したときのことを思い出したのか、佐藤幸枝は、声をふるわせた。  大原は、家主の菓子店の主人に、誰か、怪しい者が、離れに出入りするのを見なかったかどうかきいてみた。が、返事は、ノーだった。離れには、庭から直接に入って行けるようになっているから、当然かも知れなかった。 「おれは、ちょっと出かけてくる」  と、大原は、郷田にいった。 「何処《どこ》へ?」 「飛鳥病院だ。副院長の飛鳥太郎に会ってくるんだ」 「しかし、勝手な行動は——」  いけないと、郷田が言いかけた時には、すでに、大原の姿は、離れから消えていた。     5  飛鳥に対する暗い怒りに、今、火をつけられた感じだった。  今度こそ、逃がすものかと、大原は、自分にいいきかせながら、歩いていた。殺人罪で、あの男を、刑務所にぶちこんでやるのだ。  飛鳥病院の大きなガラスの玄関には、〈午後休診〉の札が下がっていた。カーテンも閉っている。  大原は、ベルを鳴らした。返事がないと、待ち切れずに、こぶしで、ガラス戸を二度、三度と叩いた。 「待って下さい。今、開けますから」  と、中から、ヒステリックな女の声が聞えた。が、大原は、構わずに、もう一度、叩いてやった。  カーテンが開き、中年の女が、「叩かないでください。割れるじゃありませんか」と文句いいながら、ガラス戸を引きあけた。院長の妻の飛鳥千代子だった。  大原は、その鼻先に、警察手帳を突きつけた。 「副院長は?」 「息子は、東京に行っています」 「東京に? 嘘《うそ》じゃないだろうな」 「嘘じゃありませんよ。ああ、あなたは、大原さんでしょう? お子さんのことは、もうすんだ筈ですよ」  飛鳥千代子は、口をゆがめて、大原を見た。 「今日は、殺人事件のことで来たんだ」 「え?」 「ここで、石川良子という看護婦が、働いている筈だが」 「ええ。あの子がどうかしたんですか?」 「自宅で殺されたんだ。そして、あんたの息子が、容疑者だ」 「馬鹿なこといわないで下さい。息子が、何故、看護婦を殺さなきゃいけないんですか?」  千代子は、眉《まゆ》を吊り上げた。 「さあね。副院長は、何の用で、東京に行ったんだね?」 「明日から、小児科医の会合が、東京のホテルであるからですよ」  二人の話し方は、まるで、喧嘩《けんか》ごしだった。 「東京には何で行ったのかね?」 「もちろん、新幹線ですよ」 「乗った時間は?」 「午後一時五十三分のひかり106号です」 「何故、それに乗ったとわかるんだ?」 「わたしが、その指定券を買ってきて、息子に渡したからですよ」 「しかし、乗るところは、見ていないんだろう?」 「見ていなくても、乗ったに決っています。あなたは、無理矢理、あの子を犯人にしようとするんですか?」 「本当に知りたいんだ。東京の副院長と連絡はとれるかね?」 「ホテルにチェックインすれば、連絡して来ます」 「じやあ、連絡があり次第、すぐ、京都へ戻って来て、警察へ出頭しろと伝えるんだ。出頭しなければ、殺人の容疑者として逮捕するとな」  大原は、怒りをぶちまける調子でいった。  彼が、警察本部に戻ると、すぐ、捜査一課長の山県に呼ばれた。 「君について、苦情の電話が入ったよ」  と、山県は、大原にいった。 「飛鳥病院の院長夫人からですか?」 「そうだ。君が、息子の飛鳥太郎を、犯人扱いしたうえ、ヤクザ者のような乱暴な口のきき方をしたといって、大変なおかんむりだ。なんでも、彼女の兄さんが、公安委員をしているので、君を告発するともいっていたぞ」 「それで、どう返事されたんですか?」 「よく調べてから、返事をするといっておいたよ。どうなんだね? 彼女のいっていることは、事実かね?」 「事実です」 「ふーむ」  山県は、腕を組み、大きな身体を、椅子の上でゆすった。椅子が、悲鳴をあげた。 「君の子供は、確か、飛鳥病院で死んだんだったね。そして、君は、誤診で、飛鳥太郎を訴えていた」 「その裁判はもう終りました。私の敗けです」 「その恨みを、今度の事件にぶつけたのかね。私憤を」 「私情をはさまなかったとはいいません」 「もしそうなら、君には、今度の事件の捜査からおりて貰わなければならんな。いやしくも、刑事が、私情で捜査をすすめては、大変なことになる」 「課長。私が、飛鳥太郎を犯人だと考えるには、理由があるのです。私情だけで、犯人扱いしているわけではありません」  大原は、石川良子に聞いた新薬投与のことを、山県に話した。 「なるほど」  と、山県は、また、椅子をきしませた。 「それは、充分な殺人の動機になり得るな。充分過ぎるといっていいだろう。しかし、院長夫人の話では、飛鳥太郎は、アリバイがあるようじゃないか?」 「午後一時五十三分のひかり106号に乗ったといっています。本当に、その列車に乗っていれば、石川良子が殺されたのは、二時十五分過ぎと考えられますから、アリバイは完全です。しかし、その切符は買っていても、乗ったとは、断定出来ません。二時十五分に、石川良子を殺し、新しい切符を買って、東京へ向ったということも、充分に考えられるからです」 「すると、飛鳥太郎が、戻って来るのを待ってということになるな」  と、山県はいった。  大原は、飛鳥が犯人と確信していたが、捜査本部全体が、そうだったわけではない。  当然のこととして、石川良子の交友関係も洗われたし、物盗りの線も調査された。  二十三歳の若い娘の周辺には、前に、飛鳥太郎の愛人だったといううわさがあった。それと、彼女にプロポーズしていたといわれる男二人も探し出された。  一人は、飛鳥病院に来る患者で、もう一人は、近くの喫茶店で知り合った学生だったが、二人とも、簡単にアリバイが成立してしまった。  物盗りの居直りという線も、ハンドバッグから、五万円の現金が、盗まれずにいたことから消えていった。この五万円は、大原が、前日の朝、渡したものだった。 「そうなると、残るのは、飛鳥太郎ということになるな」  と、山県が、大原を見ていった。 「彼に決っています」  と、大原は、強い調子でいった。     6  翌日、飛鳥太郎は、府警本部に出頭してきた。  大原は、自分に訊問させて欲しいと頼んだが、山県は、許してくれなかった。彼が、個人的な感情をむき出しにするのを心配したのだろう。それでも、大原が、勢いこんで頼むと、 「一言も、口をはさまないと約束できるかね?」  と山県はきいた。 「約束します」 「絶対に、手を出さないことも約束できるかね?」 「約束します」 「じゃあ、一緒に来たまえ」  と、山県はいってくれた。  訊問は、山県自身が当ることになった。  大原は、横にすわり、黙って、飛鳥の横顔を睨みすえていた。 「わざわざ出頭して頂いて恐縮です」  と、山県は、丁寧にいった。  飛鳥は、ちらりと、大原を見てから、 「母からの連絡で、あわてて、帰って来たんですが、石川君が殺されたそうですね?」 「その通りです。驚かれましたか?」 「もちろんです。彼女は、明るい性格で、人に恨まれるような娘《こ》じゃありませんからね。いったい誰が、彼女を殺したんですか?」 (畜生! とぼけやがって!)  と、大原は、胸の中で舌打ちした。  山県は、さすがに老巧だから、笑って、飛鳥を見ている。 「まだ、犯人は見つかっておりません。気を悪くされては困るんですが、先生が、昨日、何時の新幹線に乗られたか、教えて頂きたいのですが」 「つまり、私が疑われているというわけですね」 「関係者全員のアリバイを調査しているだけのことでしてね。被害者が殺された時刻は、午後二時から二時半の間と推定されていますので、その間、どうしておられたか、話して頂きたいのですよ」 「その時刻には、新幹線の中でしたよ」 「それを証明できますか?」 「さて」  飛鳥は、天井を睨んで、しばらく考えていたが、 「私が乗ったのは、確か、午後一時五十三分発のひかり106号です。名古屋までとまらなかったから、アリバイは完全ということになりませんか。名古屋には、約五十分後、つまり二時四十分に着く。そこから引き返したのでは、あなたのいう時間に、彼女を殺せない、違いますか?」 「そうですな。しかし、それは、あくまでも、あなたが、ひかり106号に、本当に乗られたという前提が必要です。京都駅で、誰かに会われましたか?」 「ええと。ああ、駅前で、画廊をやっている沢田君に会いましたよ。彼は、神戸へ行くとかで、下りの新幹線ホームに上って行きましたがね。こちらの列車が、先に来たから、沢田君は、私が乗るのを見たんじゃないかな」 「画廊の沢田さんですね?」 「そうです。Sデパートの隣の画廊だから、すぐわかりますよ」 「他に、あなたが106号に乗っているのを見た人は、いませんか?」 「そうですねえ。私は、12号車のグリーンに乗ったのですが。……ああ、秋吉研太郎という歌手を知っていますか?」 「私も、秋吉研太郎ぐらいなら知っていますよ。若者では、今、一番人気のある歌手ですからね。彼が12号車に乗っていたんですか?」 「そうです。私の近くに乗っていました。四人一緒でした。こう座席を向かい合わせにしましてね」  と、飛鳥太郎は、机の上に、指先で、図を描いて見せた。 「大きな声で話し合っていたんで、聞くともなく聞いていました」 「どんなことを話していたか、覚えていらっしゃいますか?」 「ええ。全部じゃありませんがね」 「それを話してみて下さい」 「ライバルの悪口を言っていましたね。小森正和という歌手のことです。秋吉が、地方巡業のとき、小森が、例のマリファナを吸っているのを見たと、マネージャーらしい男にいっていましたよ。あれを、警察に知らせた方がいいんじゃないかと、秋吉研太郎がいったら、マネージャーが、まわりの席を気にして、同じ芸能人仲間なんだから、それは、やめた方がいいと止めていましたね」 「面白いですね」  山県は飛鳥の話をメモしながら、肯いている。飛鳥は、勢い込んだ恰好で、 「それから、車内の売り子が、名古屋近くで、秋吉研太郎にサインして貰っていましたね。大変ですね、芸能人も。もう一つ、秋吉研太郎というのは、ちょっといじ悪なところがあるようですね」 「どうしてですか?」 「食堂車の方から、顔みしりらしい芸能関係者が挨拶して行きすぎようとしたとき、その人のネクタイをからかっていました。その人は、黒いスーツに白いネクタイが鮮やかでしたが、その白いネクタイは、背広に合わないといってましたね。その人は、これが似合うと思ったんだがね、と残念がっていましたよ。ああ、それから、売り子に秋吉がサインしたときですが、彼等四人は、缶ビール二本とジュース二本、それに、みかんを買っていましたよ」 「随分詳しく観察されましたね」 「週刊誌を買うのを忘れましてね。退屈なものだから、何となく、彼等のことを見ていたんです」  飛鳥は、あははと、楽しそうに笑った。 「こんなところで、私のアリバイは成立しましたか?」 「秋吉研太郎か、マネージャーに聞いて、あなたの言葉の裏付けがとれれば、アリバイは成立したことになります」 「それを、是非やって頂きたいですね。私も、白黒をはっきりさせて頂きたくて、こうして、出頭したわけですから」  飛鳥は、相変らず、勢いこんだ調子でいった。  山県が、これで結構ですというと、飛鳥は、また、ちらりと大原に眼をやってから、帰って行った。  大原は、その後姿を睨みつけていたが、 「課長」  と、山県を見た。 「何故、新薬投与のことを、詰問して下さらなかったんですか?」 「君の息子さんが、死ぬ原因になった新薬のことかね?」 「そうです」 「私もきいてみたかったが、否定するに決っていると思ったからやめたんだ。否定されたら、投与したという証拠はないんだろう?」 「それはそうですが……」 「辛いだろうが、息子さんのことは、一時忘れて、飛鳥太郎のアリバイ調べに全力を尽してくれ。冷静にやるんだ」 「彼は、犯人ですから、アリバイは崩れるに決っています」 「しかし、なかなか、しっかりしたアリバイだよ。これを打破するのは、楽じゃないよ」 「作りもののアリバイなら、崩れるに決っています」  と、大原はいった。  飛鳥は、石川良子を殺した犯人なのだ。だとすれば、どんなに強固に見えるアリバイでも、崩れるに決っている。 「飛鳥のアリバイ調べは、私にやらせて下さい、お願いします」 「感情的にならないと約束できるかね。君は警官なんだ。万が一にも、でっちあげみたいなことはやるなよ」 「それは、約束します」 「それなら、郷田君と二人でやってみたまえ」     7  まず、画廊をやっている沢田という飛鳥の友人に会ってみることにした。  同僚の郷田刑事は、歩きながら、メモに、眼をやった。 「飛鳥の言った事が事実なら、こいつは、猛烈に強固なアリバイだよ」 「強固なことなんかあるものか」  と、大原は、吐きすてるようにいった。 〈沢田画廊〉と名付けられた画廊では、中堅画家の個展をやっていた。肝心の沢田はいなかったが、二十分ほどして、その画家と一緒にやって来た。  五十歳くらいの太った男で、柔和な眼をしている。その眼を、しばたたいてから、 「飛鳥君となら、昨日、京都駅で会いましたよ」  と、大原の質問に答えた。 「新幹線のホームで会われたそうですね?」 「ええ。飛鳥君は、上りホームに、僕は、下りホームでしてね。偶然、顔が合って、やあ、やあというわけですよ」 「それは、何時頃か覚えていますか?」 「ええと、あれは一時五十分頃ですね。僕は、一時五十三分発のひかりで、神戸に行くんで、京都駅に出かけたんだから」 「一時五十三分というと、上りのひかりも、一時五十三分発になっていますね」 「そうですか。同じ時刻に発車というのも、あるんですな」  沢田は、面白そうに笑った。 「それで、どちらの列車が先に来たんですか?」 「上りの方です。僕の方は、五、六分遅れましたからね」 「飛鳥太郎が、乗るのを見られたんですね?」 「ええ。見ましたよ」 「彼が、ひかり106号に乗って、座席に腰を下ろすのを見られたんですか?」  と、大原がきくと、沢田は、笑って、 「そこまでは見ませんよ。それに、西日が当っていましてね。僕の方から見えた上りの窓は、たいていカーテンが閉めてあって、車内は見えませんでしたよ」 「じゃあ、正確にいうと、こういうことじゃありませんか。飛鳥太郎がホームにいた。そこへ、列車が入って来た。そして、列車が通り過ぎると、彼の姿が消えていた。そういうことじゃありませんか?」 「ええ、正確にいえばね」 「じゃあ、飛鳥さんが、列車に乗ると見せかけて、ホームから階段をおりて行ってしまったということも、考えられるわけでしょう?」 「かも知れないが、飛鳥さんが、何故、そんな馬鹿なことをしなきゃいけないんですかねえ?」 「もちろん、アリバイ作りのためですよ」  と、大原がいったとき、同行した郷田刑事が、彼の横腹を突っついた。そこまでいわない方がいいという合図のようだった。  案の定、沢田は、変な顔をして、 「飛鳥君が、何か事件の容疑者にされているんですか?」 「いや、ただ、念のためにお聞きしただけです」  と、郷田が、代って答えた。  画廊を出て、捜査本部である府警本部に帰ると、大原は、すぐ一課長に、東京へ行かせてくれるように頼んだ。 「画廊主の証言も、今、報告した通り不完全なものです。列車の中のことも、きっと、いいかげんないいわけに決っています。ぜひ、秋吉研太郎に会いに行かせて下さい」 「二日待ちたまえ」 「何故、二日待たなければならんのです?」 「そんな眼をしなさんな」  と、山県は笑った。 「秋吉研太郎が所属するプロダクションに問い合わせたところ、あさってから、京都のN劇場で、ワンマンショウをやるということだ。だから、こちらへ来てから、ゆっくり会ったらどうかね」 「それでしたら、結構です」  と、大原はいった。たとえ、二日間といえども、飛鳥を、のうのうとさせておくことは癪だったが、上司の命令とあれば仕方がなかった。     8  その日になると、大原は、郷田と一緒に、N劇場に出かけて行った。  若手人気歌手のワンマンショウだけに、開演二時間前だというのに、劇場の前に、長いファンの列が出来ていた。  秋吉研太郎自身は、準備に忙しいということで、マネージャーの小野が、大原たちの応接に出てきた。うすく色のついた眼鏡をかけた、痩《や》せた男だった。 「八日のことを聞きたいのですがね」  と、大原は、手帳に書いたメモを見ながら、小野に話しかけた。そこには、飛鳥の証言が、全部書いてある。 「午後の新幹線で、東京に帰られましたね?」 「ちょっと待って下さい」  小野は、秋吉研太郎のスケジュールを、びっしり書き込んだ紙を広げた。 「確かに、その日、岡山から、帰京していますね。乗ったのは、ひかり106号で、岡山発十二時二十三分です」 「何号車に乗られました?」 「グリーンの12号車でしたよ。すいていましたね。東京に着いたのが、四時四十四分です」 「その12号車で、この男を見ませんでしたか?」  郷田が、横から、飛鳥医師の写真を差し出した。  小野は、その写真を、じって見ていたが、 「気がつきませんでしたねえ。何しろ、私たちは四人でしたが、自分たちだけで、話し込んでいましたから。この人が、殺人犯か何かなんですか?」 「かも知れないのです」  と、大原がいった。 「グリーン車の中では、あなた方四人は、どんな風に坐っておられたんですか?」 「向かい合って坐りました。いつもそうしています。長旅は退屈ですからね。向かい合って、トランプをしたりです。疲れているときは腰を下すなり眠ってしまうこともありますが」 「京都を過ぎた頃秋吉さんと、列車の中で、どんな会話をしたか覚えていませんか?」 「どんなことを話したかなあ」  と、小野は、宙に視線を泳がせた。 「そうだ。通りかかった堀くんのネクタイのことを、彼がくさしましてねえ」  小野は、苦笑いした。 「マリファナの話が出たんじゃありませんか?」  と、郷田がきいた。小野の顔色が変った。 「えっ?」 「小森正和が、マリファナを吸っているのを見たと、秋吉研太郎が、あなたにいったんじゃありませんか?」 「ああ、あれですか? 列車の中で、急に彼がいいましてね。彼は正直な男だから。見たというのは嘘じゃないんですが、同じ芸能人ですからねえ。そういうことは、いわない方がいいと注意したんです」  小野は、眼鏡を、手で押さえるような仕草をした。  大原は、飛鳥の言った事が、次々に裏打ちされていくことに、いらだっていた。そのいらだちを、努めて抑えながら、 「列車内で、秋吉研太郎がサインするようなことがありますか?」 「サインですか。時にはすることがありますよ」 「八日のひかりの中ではどうでした?」 「ええと。ああ、列車内を歩いてくる売り子にサインしましたよ。山口百恵に似た可愛い子でしたね。あれで、もう少しスタイルがよければ、タレントになれるなと思ったんで覚えているんですよ」 「その売り子から、何か買いましたか?」 「缶ビール二本と、ジュース二本と、みかんでしたね」 「よく覚えていますね?」 「マネージャーをやっていると、細かいことをよく覚えるようになるんですよ」  と、小野は、笑った。  逆に、大原のいらだちは、一層強くなった。  飛鳥の説明は、全て事実だったのだ。これでは、彼のアリバイは、完全ではないか。  二人の捜査官は、礼をいって、外へ出た。 「どうやら、飛鳥太郎は、シロなんじゃないかな」  郷田が、府警本部に向かって歩きながらいった。 「馬鹿な。犯人は、彼以外に考えられないよ」  と、大原は、顔をあかくしていい返した。 「しかし、彼がいったことは、全部事実だったじゃないか」 「共犯者がいるんだ。共犯者が。彼の代りに、ひかり106号に乗って、アリバイ作りをしたに決っている。飛鳥は、石川良子を殺してから、東京に行き、共犯者から、列車内の様子を聞いたんだ」 「共犯者か」 「不賛成みたいだな?」 「共犯者を使うというのは、犯人にとっても危険だからねえ。飛鳥太郎が犯人だったとしても、頭の切れる感じのあの男が、そんな危険な方法を使うとは思えないんだ」 「いや。おれは、絶対に、共犯者がいると思うね」  と、大原は、主張した。  翌日から、その共犯者探しが始まった。飛鳥の交友関係が、徹底的に洗われた。彼が一度遊んだだけの、バーのホステスまで、大原は訪問し、調査した。  だが、出て来ない。それらしい人間の影さえ出て来ないのだ。  共犯者がいなければ、飛鳥のアリバイは成立してしまうのだ。 「東京へ行かせて下さい」  と、大原は、山県に歎願した。  山県は、腕を組んで、大原を見た。 「君は、まだ、飛鳥医師が犯人だと思っているのかね?」 「彼以外に、犯人は考えられません」 「しかし、彼のアリバイは完全だし、共犯の線も消えたんだよ」 「そのアリバイには、何かトリックがある筈です」 「東京に行けば、何かわかると思うのかね?」 「私は、彼が、午後一時五十三分のひかり106号に乗らなかったと信じています。とすれば、そのしわよせが、東京に起きていると思うのです。彼は、東京のホテルTに泊ったといっていますが、電話で問い合わせたところ、あの日、ホテルTにチェックインしたのは、午後六時三十分です。ひかり106号に乗っていたとすれば、東京着が、四時四十四分。東京駅からホテルTまで、車で三、四十分ですから、遅くとも、五時三十分までにホテルに着いていなければおかしいのです。それなのに、彼は、一時間も遅れてチェックインしています」 「しかし、それだけじゃあ、ひかり106号に乗らなかったとはいえんだろう。ホテルヘ行く途中で、夕食をとったかも知れんし、人に会っていたかも知れんしね」 「それを調べたいのです。東京に行ってです」 「駄目だといったら?」 「休暇をとって、東京へ行って来ます」 「呆れた男だ」  山県は、声に出して笑ったあと、 「仕方がない。二日間だけ、東京へ行って来たまえ」     9  大原は、飛鳥が乗ったと主張しているひかり106号で、東京に行くことにした。  調べたところ当日と同じ専務車掌が乗務していることがわかったからである。  12号車のグリーン車に乗った。  京都駅を出て、すぐ、検札が来た。  大原は、専務車掌に、警察手帳を見せながら、 「八日の同じひかり106号にも乗っておられましたか?」  ときいた。 「ええ。その日のひかり106号にも、私は、乗車していましたが、それが何か?」 「この男を、12号車の9番の座席で見ませんでしたか?」  大原は、飛鳥の写真を見せた。専務車掌は、しばらく眺めていたが、記憶にないといった。乗っていたといわれるよりは、希望が持てたが、この答えでは、どうしようもない。 「その日のひかり106号ですが、車内で、何か変ったことはありませんでしたか?」 「そうですねえ。事件らしきものは、何もありませんでしたよ」  専務車掌は、首を振り、検札を続けて行ったが、急に、戻って来ると、 「どんなことでもいいんですか?」  と、大原にきいた。 「ええ。何かあったんですか?」 「犬の縫いぐるみの忘れ物がありましたよ。この12号車の9番あたりの網棚です」 「どんな縫いぐるみですか?」 「五、六十センチはありましたね。ビニールの袋に入って、のしがつけてありましたから、進物用だと思って、中はあけてみませんでしたが、チャックがついて、ハンドバッグのようになっているやつです」 「重いものでしたか?」 「ええ。かなりね。子供のお土産に、中に、菓子でも入れてプレゼントするんでしょう」 「その縫いぐるみは?」 「東京駅へ届けておきましたよ」 「今も、東京駅にあるんですか?」 「電話で聞いてみましょう」  専務車掌は、車掌室へ歩いて行った。  大原は、その忘れ物が、事件に関係があると考えたわけではなかった。ただ、12号車の9番付近の忘れ物だということに引っかかったのである。  大原が、煙草に火をつけて、考え込んだとき、専務車掌が、戻って来た。 「あの縫いぐるみは、当日、落し主が取りに来たそうです。ええと、その人の名前は、飛鳥太郎。京都のお医者さんということです」 「飛鳥……?」 「どうかなさいましたか?」 「いや。何でもありません」  と、大原は、興奮をかくしていった。 「その飛鳥医師は、何時頃、縫いぐるみを取りに来たんですか?」 「私が届けてから、一時間ちょっとして見えたそうです。ひかり106号のグリーン車の網棚に、犬の縫いぐるみを忘れたといって来たので、名前を伺ってお渡ししたといっています」 (共犯者がいたのだ!)  と、大原は思った。  人間ではない共犯者だ。機械の共犯者!  飛鳥は、次のようにしたに違いない。  犬の縫いぐるみの中に、小型のテープレコーダーを入れておく。  それを持って、京都駅に行き、一時五十三分発のひかり106号を待つ。その時、反対側ホームに、沢田を見つけて手を振る。列車が入って来ると、12号グリーン車に乗り込み、目立つ乗客の近くの網棚に、スイッチを入れたぬいぐるみをのせ、そっと列車をおりて消えてしまう。  飛鳥の代りに乗ったテープレコーダーが、秋吉研太郎たちの会話を残らず録音していく。  飛鳥自身は、京都駅から、石川良子の住む菓子店の離れに行き、彼女を絞殺。そして、新幹線ひかりで、東京に向かう。東京駅でおりると、すぐ、駅の遺失物係に行き、ひかり106号グリーン車の網棚に、犬の縫いぐるみを忘れたと申し出て受け取る。それから、ホテルに行き、チェックインしてから、縫いぐるみの中のテープレコーダーを取り出し、秋吉研太郎たちの会話を聞いて、アリバイに使ったのだ。  大原は、急遽、名古屋でおりると、京都へ引き返した。  突然の帰京に、びっくりする山県捜査一課長に向って、大原は、興奮した口調で、犬の縫いぐるみの話をした。 「これで、奴のアリバイは破れましたよ」  と、勢い込んで、大原はいった。 「飛鳥が、東京駅で縫いぐるみを受け取った時間から考えて、彼が本当に乗った列車は、午後二時五十三分、京都駅発のひかり108号の筈です。この列車の車掌や、売り子にきけば、彼を覚えているかも知れません」 「よし。その方は、郷田君に調べさせよう。君は、飛鳥医師に会って来い」  と、山県も、眼を輝やかせて大原にいった。  大原は、飛鳥病院の副院長室で、飛鳥太郎に会った。  飛鳥は、大原の追及を黙って聞いていたが、大原が話し終ると、にやりと笑った。 「それで、私をどう出来るというんですか?」  飛鳥のからかうようないい方に、大原は、むっとしながら、 「君のアリバイは崩れたんだぞ」 「果してそうかなあ。あの犬の縫いぐるみは、親戚の子にやるために持って行ったんだよ。港区元麻布の鷹松という家だ。嘘だと思ったら、そこへ行って、縫いぐるみを見てみたまえ。お土産の飴が入っている筈だよ。もっとも、子供が、もう食べてしまったかも知れないがね」 「ひかり106号の網棚に乗せてあったときには、テープレコーダーが入っていたんだ」 「君は、それを証明できるのかね? 私が、ひかり106号に乗っていなかったと、証明できるのかね? 忘れものをしたのはむしろ私が乗っていたことの証明になると思うのだがね」  飛鳥の顔は、相変らず、笑っている。自信満々の表情だった。  大原は、あせった。アリバイトリックを見破ったと思い、有頂天になってしまっていたのだが、冷静に考えてみれば、縫いぐるみの中に、テープレコーダーが入っていたことを証明するのは、容易なことではないのだ。その証明が出来ない限り、また、飛鳥が、ひかり106号に乗っていなかったことを証明しない限り、彼を、石川良子殺害の犯人として逮捕することは出来ないのだ。  大原は、引き退がるより仕方がなかった。  ひかり108号の調査に当っていた郷田刑事の方も、苦しいものだった。108号の四人の車掌に、飛鳥の写真を見せたが、記憶がないといわれたという。 「しかし、まだ、希望がないわけじゃないんだ」  と、郷田は、大原を励ますようにいった。 「この列車には、大阪の中学生三百人が、東京への修学旅行で乗り込んでいたことがわかった。明日、大阪へ行って、この生徒たちに会ってみるよ」 「おれも、もう一度、飛鳥の言い分を調べ直してみる。彼が、ひかり106号に乗っていなくて、テープレコーダーだけが乗っていたとすれば、何か不自然なところがあるに違いないからな」  と、大原も、自分を励ますように、声を強めていった。     10  三日後、大原は、郷田刑事と一緒に、再び、飛鳥病院を訪れた。  前の時のように、勢い込んではいなかったが、逆に、落着いて、自信にあふれていた。  飛鳥に会うと、大原は、黙って、逮捕令状を示した。  飛鳥は、顔色を変えながらも、 「私が、ひかり106号に乗らなかったと証明できるんですか?」 「出来るさ」  と、大原は、令状を突きつけたままでいった。 「あんたは、テープレコーダーを利用したアリバイを作った。一見、完全に見えるアリバイだが悲しいかな、耳で聞いて作ったアリバイの欠陥に気がつかなかった。あんたは、秋吉研太郎が、通りかかった芸能関係者の|白い《ヽヽ》ネクタイが背広に似合わないとからかったと言った。そして黒い背広に|白い《ヽヽ》ネクタイがあざやかだったとまでいった。ところがね。秋吉は、東京の人間で、|シ《ヽ》と|ヒ《ヽ》の発音が逆なんだ。秋吉は、|広い《ヽヽ》ネクタイは似合わないといったんだ。あんたは、眼で見ていたら、こんな間違いはしなかった筈だよ。あんたは、ひかり106号には乗らなかったんだ。あんたが乗ったのは、午後二時五十三分発のひかり108号さ」 「証拠があるのかね?」 「あるさ」  と、大原は、楽しそうにいった。 「四人の車掌は覚えていなかったが、それが当然だよ。あんたは、女装して乗っていたんだからね。女装といっても、今は簡単だ。男も、女も、同じようなカットの髪をして、同じようなジーパンの上下を着て、どっちが男か女かわからない時代だからね。ちょっと化粧して、口紅でも塗っただけで、すぐに女に化けられる。あんたは、うまくいったと思っていただろうが、あの列車には、大阪の中学生が、修学旅行で乗っていた。その中学生たちに会って聞いたところ、一人の生徒が、面白いことを話してくれた。13号車のトイレに行ったとき、並んで待っている友達と自分の間に、女の人がわりこんでトイレに入った。そのあと、入ると、洋式トイレの蓋が、二枚とも、上にはね上っていたというんだよ。女なら、絶対にそうはしない。女は腰かけなければ用を足すことが出来ないからね。だから、あれは、女装した男だったというのさ。ああ、わかっているよ。これだけじゃ、その女装男があんただったという証明にはならん。だがね、あんたは、そのあと洗面所で顔をなおして化粧道具を忘れていったんだよ。中学生たちが見ているんだ。使い馴れないものだから忘れたんだろう。  それを、中学生たちが、東京駅に届けた。面白いことに、その化粧道具から、あんたの指紋が検出されたんだよ」  〈了〉 初出誌  幻の指定席   小説宝石/昭和五十三年六月  死人が夜ピアノを弾く   月刊小説/昭和五十二年五月  密会のアリバイ   月刊小説/昭和五十三年六月号  新幹線ジャック   月刊小説/昭和五十三年一月  不用家族   小説推理/昭和五十二年九月  小さな密室   別冊小説現代/昭和五十一年新秋号  危険な忘れ物   オール讀物/昭和五十三年二月 単行本「幻の指定席」昭和五十三年十二月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 昭和五十八年十月二十五日刊