山村美紗 京都殺人地図 目 次  第一話 少女は密室で死んだ  第二話 偽装の殺人現場  第三話 消えた配偶者  第四話 水仙の花言葉は死  第五話 几帳面な殺人者  第六話 溺 れ た 女  第七話 首のない死体  第八話 骨 の 証 言  第一話 少女は密室で死んだ     1 「検視官ていうたら、二十年、三十年、現場踏んでるベテランの捜査官やないと無理やで。女で、それも、二十九歳いうんやろ。死体みても、なにがわかるかいな」  京都府警の捜査一課の橋口部長刑事は、となりの、森部長刑事にぼやいた。 「来たら、我々の上司になるわけやな」 「そうや。警視やからな。警視は、ここでは、捜査一課長だけやよってな」  橋口は、衝立《ついたて》のむこうの一課長席をみた。衝立のこちらには、捜査一課の全員、四十ちかくの机が並んでいる。警部が六人、警部補が六人、巡査部長、通称、部長刑事が二十五人。平の刑事は、一人もいない。  これら全員よりも、階級の上の二十九歳の女警視が、今日、東京から着任するのである。 「捜査一課へ女の捜査官が来るのははじめてやな」 「捜査一課へ他府県から来るのもはじめてやで。警務課長とか、刑事部長とかのおエラ方は、東京から転任や転出があるけどな」 「さっき、一課長にきいたら、本人が希望したちゅうことや」 「東京や大阪に、女の警部がいるのは知ってたけど、警視がいるのは知らなんだなあ」 「大学出て、上級職の試験受かったんやな」  と、いくらか羨ましそうな森部長刑事。 「えーと、二十二歳で大学を卒業して、上級職受かって警部補、そのあと警察大学で一年勉強して、地方へ出て半年、警察庁に戻って半年したら警部や。そして、各府県での勉強を一、二年したら、戻って警視やな」 「ほんまに、最短コースやったら、二十六歳で警視になれるんやな、えらいもんや。二十九やから、それから、二、三年、実地の捜査しとるというわけか」  三十分後、捜査一課の全員は、一課長から、東大法学部出身の江夏冬子検視官を紹介された。  一課長に伴われて部屋に入ってきた女性を見て、みんな一様に、 「えっ」というような顔をした。  江夏冬子は、瞳が大きく、ほっそりとスタイルのいい、メロドラマの主人公のような美人だったからである。 「べっぴんやな」  誰かが、冷やかし半分に叫んだ。 「そやけど、若すぎてたよりないわ」  橋口は、横をむいてすねていた。無理もなかった。彼は、他の連中とちがって、この一年、検視官付きを命じられているのである。  検視官付きとは、検視官が死体を調べているそばで、検視官の言ったとおり、記録をとったり、死体の服をぬがせたり、色々と手伝い、補佐する役目である。机も隣りで、いわば、親分、子分の関係になるわけなのだ。  三十の男ざかりで、捜査にかけては、ベテランの部長刑事が、二十九歳の経験の浅い女の下で、命令されて働くのだから、フテくされるのは、尤もだった。  彼女は、橋口の横の席に着くと、 「よろしくお願いします。捜査のこと、死体のことなど、よくわからないので、教えて下さいね」  と、にこやかに言った。 (よくわからへんのやったら、わざわざ志願して、こんなところへ来ることないやないか)  と、言いたいのを呑みこんで、橋口は、黙って頭をさげた。  検視官というのは、正式の名前を、「刑事調査官」と言って、京都府警では昭和三十五年一月九日からはじまった職名である。  変死、又は、変死の疑いのある死体があると通報された場合は、この検視官が、現場に行って検死して、自殺、他殺、病死、事故死のうちどれであるか判定するわけで、大変重要な職務である。  はじめから、殺人事件だとわかっている時は、もちろん、パトカーや鑑識などと同時に、現場にかけつけ、解剖にたよらない外表所見から、死体をみて、死因などを調べるわけである。一般の人は、そういうことは、鑑識がやるように思っているが、鑑識は、検視官が調べている間、まわりの指紋をとったり、写真を写したりの科学調査を主にするのである。  だから、前任の検視官は、鑑識の神様といわれた五十歳の大森警視で、警察署の刑事、警部補をふり出しに、第一線の捜査一課にひきぬかれてからも、腕ききの警部としてならし、そのあと、鑑識課の次席を経て、この検視官を拝命したという経歴の持主である。  そういう人物のあとだけに、どう考えても、今回の女検視官は、現場経験に乏しく、頼りないようにみえた。  しかし、着任の翌日、早速、事件がおこった。     2 「容疑事件ガ発生シマシタ! 場所ハ、伏見区桃山正宗五八番地。出動ネガイマス」  府警本部の指令室から、事件発生の通知を受けたのは、たまたま電話の近くにいた橋口部長刑事だった。  橋口は、耳に神経を集中させて、事件の場所を確認しながら、ちらりと、女警視の方を見た。  こちらを見ていた彼女は、視線が合うと、にっこり笑った。恋人だったら、美しい笑顔だと思うかも知れないがと、橋口は、心の中で舌打ちをした。 (のんびりしている場合かいな。こっちの顔色で、事件が発生したことを察して、立ち上って来てくれなあかんやないか。ほんまにもう……)  前の検視官だと、大抵は、電話は自分でとるし、たとえ、こちらがとった時でも、事件じゃないかと、一瞬、耳を澄ませ、こっちの顔色をみていたものだ。  そして、事件だと感じると、こちらが受話器をおくより前に、上衣をとって立ち上り、そばへ来て、 「事件か?」 「はい」  と、短い言葉をかわして外へとび出し、場所は、車が走り出してからきくというように、一分の隙もなかった。  だから、現場へいくのも、他のパトカーや、鑑識車よりも、一足早く、手順が良かったのだが……。  橋口は、受話器をおくと、 「事件です」  と、声をかけた。 「えっ。あら、どこで?」 「伏見署管内です。早く車に乗って下さい」  橋口は、走りながら叫ぶと、階段をかけおり、中庭の覆面パトカーに乗り込んで待った。  いつもは、同時に車のところに到着し、こちらが車を走らせはじめると、検視官が、窓から手をのばして赤色灯を屋根につけるのだが、今日は、彼女を待つ間に、つけてしまった。  やっと、彼女が到着し、車を発車させたときには、大方のパトカーは、走り去ったあとだった。  殺人事件でも、指令室からの第一報は、決して殺人事件とは言わない。容疑事件という。事故や病死なら、これだけ多くのパトカーは出ないから、殺人事件であることは、間違いなかった。  橋口たちの車が、伏見桃山の現場に着いたとき、すでに、白黒パトカー五台、覆面パトカー五台、特別機動捜査隊の車、鑑識の車、所轄署のパトカー六台が、家のまわりに到着し、黒と黄のナイロンロープをはりめぐらせて、立入禁止の札をさげているところだった。  橋口は、苦笑いしながら、女検視官の方を見たが、彼女は、珍しそうに、あたりを見廻していた。  現場は、建売住宅の離れの勉強部屋で、この家の一人娘である中学三年生の女の子が、ビニールの袋をかぶって、横むけに倒れていた。あたりには、強烈なシンナーの匂いが立ち込めている。 (あれっ、シンナー中毒やないか。殺人事件とちがうのんか?)  橋口は、まわりに立っている捜査員たちをみまわした。 「父親から一一〇番に入った通報では、『中学三年の娘が、離れの勉強部屋で殺されてる』というのだったので、殺人事件扱いになったんだが、どうやら、シンナー中毒らしいな」  捜査一課|強力《ごうりき》班の中川警部が、橋口に教えてくれた。  鑑識のフラッシュが、何度も閃《ひらめ》く。刑事たちが、一発写真とよんでいる、事件現場に入って、最初の写真がとられているのだ。  少女のそばには、シンナーの瓶《びん》が転がり、頭からすっぽりとかぶった透明のゴミ袋の中にみえる彼女の瞳は、シンナーかぶれで、赤くなっていた。 「自殺か、事故やな」  所轄署の刑事たちの、囁《ささや》く声がした。  女検視官は、ゆっくりと死体のそばに坐り、検死をはじめた。  橋口は、ペンを握って、筆記の態勢についた。 「死体の姿勢は、右|側臥位《そくがい》。……死体に衣類の乱れなし。身長は、百五十五センチ、……体格は普通……」  江夏検視官の澄んだ声がひびく。  検死は、最初は、着衣のままで、死んでいる姿勢、着衣の様子、口から血が出ているとか、死斑が出ているとかの、外表所見を調べ、更に、服を脱がせて、目で見てわかる限りの調査をする。順番は、上から下へ、左から右への順である。  この少女の死体には、青酸性毒物による中毒死の時や、凍死のときにあらわれる鮮紅色の死斑もなく、首すじに、絞殺のときの青黒い索溝もなかった。  しかし、江夏検視官は、丁寧に調べていく。  一通り、外からみたあと、少女の白いレースのブラウスを剥ぐと、ふんわりと盛り上ったみずみずしい乳房があらわれた。学生らしく、体全体が日に焼けているのに、ブラジャーのところだけ、抜けるように白く、妙になまなましかった。殺人でないらしいと言うので、手持無沙汰にしていた刑事たちが、のびあがってみている。  江夏検視官は、なぜか、ちょっと首をかしげたあと、スカートを脱がせ、下着をとるように、橋口に頼んだ。  今日ばかりは、なんとなく気はずかしい思いで、橋口部長刑事は、わざと荒々しく下着を剥ぎとった。被害者と同じ女性なのに、検視官が、平気な様子なのが、腹立たしかった。  検視官は、下半身も丁寧に調べ、 「暴行のあとはないわね」  と、冷静に言った。 「暴行のあとなし」と書き、これで、やっと終ったと、橋口がペンをおいたとき、 「妊娠しているらしいとつけ加えておいて」  と、検視官の声がひびいた。 「えっ、どうして?」 「乳首をみればわかるわ。それに妊娠線も濃くなっているし、多分、三、四カ月目よ」  その言葉をきいて、捜査担当の中川警部が、母親のところへとんで行った。 「娘さんは、妊娠しておられたんじゃないかと思われるんですが、お心あたりはありませんか?」 「そんな……」  と、母親は絶句したあと、 「絶対そんなことはあらしまへん。そやかてまだ十五でっせ。外泊したことだって一度もありませんし……。いつも、離れに閉じこもって、勉強ばかりしてましたのに」 「お友達が、たずねて来ることはなかったんですか?」 「それはありました。勿論、女のお友達ですが。高校受験前で、時には友達と一緒に勉強したいというので、他所《よそ》へ行くより、うちへ呼んできなさいと言うて、勉強部屋も、二年のときに、建ててやったんです」 「夜、勉強をしているところを、襲われたということはないでしょうか?」  中川警部は、母親の気持を考えて、譲歩してきいてみた。 「それはないと思います。あの子は、用心深い性格で、いつも、中からしっかりカギをかけてました。私たちでさえ、外からインターホンで用事を言わないと開けてもらえへんかったくらいですよって」 「じゃ、カギは、娘さんがみんな持っておられたのですか?」 「はい、二本あるのですが、二本とも、本人が持っておりました」 「今までに、娘さんが、シンナーを吸っておられたことがありましたか? 本当のことを言って下さい」 「絶対にありません。だから、殺されたと電話したのです」 「発見されたときは、ドアは、どうなっていたんですか? 開いていたんですか?」 「いえ。完全に閉まっていました。今日は、期末試験の二日目だというのに、いつまでたっても起きてきやへんし、いくらインターホンでよんでも返事がないので、おかしいと言って、お父さんが、窓ガラスを叩き割って入ったのです」 「カギはどうでした」 「そこの机の引出しに入ってますやろ。その……」  母親が指さした机の引出しは、少しあいて、カギが二本重なるように入っていた。 「密閉された部屋の中で死んでいて、カギもこうしてあるのに、なぜ、お母さんは殺人だと言われるんですか? 娘さんは、妊娠したのを苦にして、自殺したか、気をまぎらわせるために、シンナーを吸っていて事故死されたとは思われませんか?」 「部屋が、どうして閉まっていたんかわからへんのですけど、とにかく、娘は殺されたんです。妊娠してるなんて誰が言ってはるんですか?」  母親は、刑事たちの視線をたどって、それが若い女の検視官の言葉だと知ると、いいかげんなことを言うと許さないというような顔で睨みつけた。女検視官はいたわるような目で母親をみて言った。 「妊娠かどうかは、あとでわかると思います。もし、私の間違いでしたら、その時、どんなにでもお詫びします」 「あとというと……解剖するんですか? イヤです、そんな残酷なことは」 「やめて下さい!」  いつのまにか、父親も、そばに来て言った。 「でも、他殺だと通報されたでしょう? 他殺の場合は、解剖しなくては、犯人がわからないのですよ」  中川警部が、両親をなだめた。 「じゃ、他殺じゃないんですよ。娘が、シンナーを吸って死んだんでもなんでもいい。これ以上、娘を切り刻むのはやめて下さい」  母親は、娘の死顔をみて、半狂乱になった。  その様子を見ていた江夏検視官が、静かに言った。 「娘さんは、自殺や事故死ではありませんよ。明らかに他殺です。誰かが、首を絞めて殺したんです」 「えっ、絞殺?」  今度は、橋口部長刑事の驚く番だった。喉《のど》には、絞殺特有の青黒い索溝も何もないからだ。 (そやから、慣れへん検視官は困るんや。よりによって絞殺やなんて。首に絞められたすじのないことぐらい、素人でもわかるのに)  案の定、父親が、くってかかった。 「解剖したいために、何が何でも殺人にするのは困りますよ。首には、なんの跡もないじゃありませんか。いくら私たちが、素人だからと言っても、絞められた場合は、首にスジがつくことぐらいは知ってますよ」 「いえ、本当に、絞殺だと思うんです。ほら、喉に、ぽつんと小さな点があるでしょう? これは、絞殺されたときの鬱血点《うつけつてん》ですよ」 「シンナーかぶれじゃないんですか?」  味方が裏切っちゃいけないと思いながら、橋口は、女検視官に囁いた。どこまでも言い募っていると、大変なことになると思ったからだ。  しかし、江夏検視官は、自信満々だった。 「真綿《まわた》で首を絞めた場合とか、手で絞める場合でも、こういう風に、親指と人さし指の間を広くひろげて、ゆっくりと、こちらの体重をかけて絞めると、首にスジがつかないことがあるのです。これは、その場合《ケース》だと思うのです。嘘だと思われるのなら、死後八時間ぐらい、つまり、あと三時間ほど、このまま置いておかれたら、必ず、首に、おっしゃるような青黒い索溝《すじ》が出てきますよ。私、東京で、一度、こういう事件にぶつかったことがあります。結果を早く知ろうと思えば、大学に冷蔵庫がありますから、そこへ入れさせて頂きますと、三時間も待たないで、四十分ぐらいで、首にスジが出ると思います。これは、血液の就下《しゆうか》作用というので、いくら、その時、首になにもつかないので、自殺にみせかけられると、犯人が安心していても、必ず、時間がたてば、あらわれるものなのです。殺人とわかれば、やはり、犯人をみつけたいとお思いになりませんか。でないと、娘さんは、シンナー遊びをしていて自殺されたということになり、不名誉なことになりますよ」  両親は、しばらく相談していたが、それでは、冷蔵庫に入れるのは嫌だが、このまま、三時間おいて、首の輪が出れば、お任せすると言った。     3  江夏検視官の言葉は正しかった。  それから三時間、正確には、三時間十分たって、死体の首には、鮮やかな、青い索溝が出た。死亡推定時刻の、午前三時から計算すると、約八時間後である。  直ちに、伏見署に、「伏見桃山における中学生偽装殺人事件」の捜査本部が開設され、捜査がはじまる一方、死体は、京大病院で解剖にふされた。 「いやあ、驚きました。妊娠四カ月でしたよ。やっぱり、女の目は鋭いですね、それに、死因は絞殺で、シンナーは吸っておりません」  解剖結果をみた中川警部が、感心したように一課長に言った。 「子供の血液型は、何型なんだ?」 「エーと、AB型です。MN式ではM型、Q式ではB型になっています」 「娘の身近にいた男性の血液型を調べなきゃいかんな」 「はい。被害者がA型ですから、赤ん坊の父親は、B型かAB型の男ということになります。それでは、これから、被害者の行っていた中学校へ行って、彼女の友達に、色々ときいてきます」  中川警部は、伏見署から、山手に車で五、六分の距離にあるM中学校の門をくぐった。  被害者の母親にきいていたので、彼女と仲の良かった女子中学生は、吉田まゆみと、岸美子の二人であることがわかっていた。  警部は、順番に、二人に会ってみることにした。  先に、応接間に入ってきたのは、吉田まゆみの方だった。中学三年生といっても、すっかり大人のサイズで、胸もふくらみ、体操の服装らしいぴっちりしたショートパンツからは、はちきれるような肢がのびていた。 「君は、亡くなった丘美知子さんと仲が良かったんだってね?」  中川警部がそう言っただけで、まゆみの瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれおちた。 「あの勉強部屋へ行って、いつも勉強していたんだそうだが、最近では、いつ行きました?」 「このごろは、あまり行ってません」 「どうしてですか」 「うーん、なんでやろか。彼女には沖田くんて恋人が出来たし、私や美子にもボーイフレンドがいるからかなあ。それに、二年のとき、大分遊んだから、今年は、勉強がんばらんと高校に落ちるでしょ。落ちて、ボーイフレンドと同じ高校へ行けへんかったら悲劇やもん」 「勉強は、やっぱり一人の方がよく出来ますか?」 「そうよ。三人でいるとどうしても喋ってしまうもん。三年になってからは、あんまりあそこには行ってへんわ」 「今、話に出た、その沖田くんと美知子さんは、どんな仲だったの?」 「Cまで行ったと思うけど」 「C?」 「あら、知らないの? Aはデート、Bはキス、Cはセックス、Dは妊娠よ」 「ほう、彼女は、発展家だったんですね」 「発展家というんじゃないわ。男だって、沖田くんがはじめてだし、大学に入ったら学生結婚するってきめてたんだからマジメよ」  まゆみは抗議した。 「じゃ、彼女には、他に男性はいなかったんですか?」 「あたりまえやわ」 「じゃ、彼女の方は思ってなくても、男の方から片想いをしていた人はいませんでしたか? 彼女がつきまとわれて困るというようなことを言っていたとか?」 「なかったわ。だって、彼女と沖田くんのことは、みんな知ってたから、誰もそんなこと考えないんじゃない」 「なるほど。ところで、あなたの恋人は、なんと言う名前ですか?」 「松川明夫というの」  さすがに、自分のこととなると、現代っ子のまゆみも、恥ずかしそうに、小さい声になった。 「もう一人の岸美子さんの恋人は?」 「谷和彦よ」 「松川くんや谷くんも、死んだ彼女の部屋に遊びに行ってましたか?」 「いいえ、一度も。彼女の家はきびしいので、女の友達だけしか駄目なの。沖田くんだけは特別よ」 「君と、松川くんは、やはりCまで行ったの?」 「ううん、Bまで。だって、私たち恋人というよりボーイフレンドやから、将来、もっといい人が出てくるかも知れへんからCまではいかへんの」  なかなかしっかりしていると中川は感心した。  次に、応接間にやってきた岸美子にきいたが、大体、吉田まゆみの言ったことと同じだった。  そのあと、警部は、被害者の恋人だった沖田賢一に会おうと思ったが、彼は、すでに学校を出たあとで、会うことが出来なかった。警部は、仕方なく、担任の教師に会ったり、保健室へ行って、健康簿をみせて貰ったりしたあと、一旦、捜査本部へ帰ってきた。 「被害者の友人たちにきいてきたんですが、死んだ丘美知子のボーイフレンドは、一人だけで、沖田賢一といって、この男だそうです」  中川警部は、一課長に、団体写真に写っている一人を、指さした。 「沖田賢一も、何度か、あの勉強部屋に出入りしていたと、女の友達が証言しています」 「知らぬは親ばかりだな」 「ついでに、中学校から、健康簿を借りて来ましたから、彼の血液型を見てみます。……ああ、やっぱり、沖田は、AB型です。MN式やQ式はわかりませんが、一応、血液型は合います」 「少女を殺したかどうかは別としても、お腹の子供の父親は、この男の可能性が強いな」  一課長が、受けとった健康簿を睨みながら言った。 「では、これから、彼の家へ行って調べて来ます」  三十分後、中川警部は、被害者の家からは、五百メートル位の距離にある沖田賢一の家の応接間で、彼と、向き合っていた。  沖田賢一は、百七十五センチぐらいのすらっとした、どちらかというと、ひよわそうな感じの少年だった。  小さな団体写真では、顔だけしかわからず、女と関係を結んだりするのだから、もう少し男っぽい、頑健な体をした少年かと思っていた中川は、ちょっと意外だった。  学校の成績は、トップクラスで、家庭もよく、あの子が、受験を控えて、そんなことをするはずがありませんよというのが、担任の評だった。  しかし、話しているうちに、中川警部は、少年が、みかけとは逆に、なかなかしぶとい性格で、頭がいいだけに、理屈っぽく、冷たい性格だと感じた。  中川は、少年と、しばらく話をしたあと、単刀直入に、事件のことに触れていった。 「ところで、今度亡くなった丘美知子さんとは親しかったそうですが、よく遊びに行っていたのですか?」 「他の女の子や、そのボーイフレンドと一緒に、何回か遊びに行ったことがあります」 「一人で行ったことはありませんか?」 「ありません」  沖田は、落着いて答えた。 「彼女は妊娠していて、その子供の血液型は、AB型なんですが、心あたりはありませんか? 学校の健康簿をみると、あなたは、AB型ですね?」 「僕とは関係ありませんよ。彼女は何型でしたか?」 「A型です」 「じゃ、僕以外でも、B型やAB型の男性はいるでしょう? 一緒に遊びに行った他の女の子のボーイフレンドたちはどうなんですか?」 「松川明夫くんと谷和彦くんですか?」 「ええ」 「でも、二人は、あの勉強部屋に行ったことがないと、吉田まゆみさんや岸美子さんが言ってましたよ」 「それは、彼女たちが自分のボーイフレンドをかばってるんですよ」 「じゃ、ちょっと待って下さい、健康簿を調べてみますから。えーと、……松川明夫くんはA型、谷和彦くんはO型ですから、この二人は、違いますよ」 「じゃ、他の誰かじゃないですか。B型やAB型の男はたくさんいるでしょう?」 「それでは、念のために、君の血液型のMN式とQ式を調べてみたいのですが、ご協力いただけますか?」 「いいですよ。でも、血を採るのは嫌だなあ」 「では、髪の毛をいただきましょう」  中川警部は、スムーズに、沖田の髪の毛を手に入れた。 「死んだ丘美知子さんは、君を恋人と思っていたそうだし、今のところ、他に男関係はないんですよ。これで、ABO式、MN式、Q式で、血液型が合致すれば、君と、彼女の関係は、周囲の状態からも、否定できないと思いますがねえ」 「たとえ、たとえですよ、その子が、僕の子だったとしても、だから、彼女を殺したとは言えないでしょう?」  沖田は、冷静に反撃してきた。 「でも、お腹の子が、君の子だとしたら、君には、動機が生まれるよ。君の家は、家庭のしつけもきびしく、ご両親が教育熱心で、君自身も、有名高校へ入り、さらに東京のT大へ入ることを目標にしているとすれば、今、彼女に子供が生まれたり、騒がれたりすると困るんじゃないかな?」 「………」 「それに、殺されたのは、夜中の三時なんだよ。彼女が、戸をあけて招じ入れるのは、君ぐらいしかないと思うんだがねえ」 「さき程からきいていると、彼女が殺された、殺されたと言われますが、彼女は、本当に殺されたんですか? 事故か自殺じゃないんですか?」 「検視官が判定したし、解剖の結果もある。殺されたことに間違いありませんよ」 「どんな殺され方なんですか?」 「それはちょっと……まあ、いいでしょう、どうせわかることですから。絞殺です」 「ほんとうですか」 「ええ、首に、青いすじが、くっきりとついていましたから間違いありません」 「………」  沖田は、ちょっと考えるようにした。 「ところで、君は、昨夜《ゆうべ》三時頃、どうしていましたか?」 「家で寝てました」 「友達の原君が、数学の解答をきこうと思って、三時に電話したが、君は、出なかったと言ってるよ。試験中は、電話で教えあえるように、夜分は君の部屋に、電話のスイッチを切りかえてあるんだろう?」 「昨夜は、スイッチを切り換えるのを忘れてしまったかも知れません。それに、寝入りばなだったら、ベルが鳴っても起きないかも知れませんよ」 「その時間、どこかへ出かけたということはないかね?」 「ありません。さっき、新聞記者の人が、うちの学校にききに来たとき、彼女の部屋は、カギがかかって密室になっていたと言ったけど、それだったら、他殺じゃないんでしょう? 絞殺だなんて本当ですか? 人を疑うなら、その密室の謎を解いてからにして欲しいな」     4  中川警部は、捜査本部にかえり、沖田の毛髪を鑑識に渡したあと、捜査一課長に、沖田のことを報告した。 「心証としては、クロいんですよ。恋人が殺されたというのに冷静すぎるし、子供のことも、驚かなかったし……。なによりも、首に索溝があるので絞殺だと言ったとき、一瞬、そんな筈はないという顔をしましたよ。あれは、死体に索溝がなかったのを知っている顔ですよ。それに、こちらの弱点が、密室の解明であることを知って、その点をついてきたのも、クロいように思うんですが」 「彼にも指摘されたその密室だが、あれは、本当に、犯人が考えた末に作った密室なんだろうか、それとも、偶然出来た密室なのかな?」 「今、ホテルや、一般の家庭で、よく使われている、ボタンを押して閉めると、自動的に閉まるセミオート錠や、ボタンをおさないでも、外側へ出てがたんと閉めるだけで、閉まってしまうオート錠ですと、簡単に、密室は出来るのですが、現場のは、一々、カギを閉めなければならないドアですので、殺しておいて外へ出てから、カギをかけたとすると、そのカギを返すことが出来なくなるんですが……」 「カギは、ちゃんと部屋の引出しの中にあった」 「はい」 「それも、娘の勉強室だというので、父親が、心配して、既製品のカギでなくて、特別製のカギをつけたという話だったな。つまり、合鍵が作れないタイプの鍵だという」 「部屋は南北に、サッシュの窓があり、東側は壁で、西側にドアがあって、しっかりカギがかかって閉まっていたわけです」  中川は、現場の見取図をかいた。 「煙突の穴とか、換気扇とか、郵便受けとか、隙間はなかったかなあ?」 「ドアは、郵便受けも、何もつかず、ガラスも入っていない、スチールのドアです。煙突の穴もなく、換気扇もついていません。ついているのは、ウインド型のクーラーだけです。これも、よく調べましたが、取りはずした様子はありません。穴と言えば、ウインド型の前には、セパレーツ型のクーラーがついていたとかで、壁に、その時、管を通した丸い穴があいていますが、この穴は、親指と人さし指で丸を作った位の穴で、中をのぞくことぐらいは出来ても、手を入れたりは出来ませんから、ドアのカギを閉めたり、中にいる人の首を絞めたりは出来ません」 「その穴は、俺も見たが、あそこから、カギを投げ入れても、壁ぎわに落ちてしまって、とても、引出しには届かないだろうな」 「穴のある壁とは、三メートルも離れた反対側の壁ぎわにある引出しには、とても届かないし、しかも、下から三段目の引出しの中に、二つのカギを重ねて入れることは、不可能だと思いますね」 「じゃ、やっぱり密室か?」 「でしょうね。……これが、刺されたり、毒を飲まされたりというのなら、犯人が逃げたあと、まだ生きていた被害者が、最後の力をふりしぼって戸を閉めるということも、あるのですが、死体は、完全に絞め殺されており、犯人は、相手が死んだあと、シンナーの袋をかぶせ、あたりにも、シンナーを撒《ま》くなどの工作をしてから逃げたと思いますから、これはあたりませんね」     5  久しぶりに、捜査一課へ戻ってきた中川警部と、しばらく話したあと、橋口部長刑事が、自分の席へ帰ってくると、昼食を終え、お茶を飲んでいた江夏検視官が、話しかけた。 「あの事件は、まだ解決しそうにないの?」 「今、中川警部にきいていたんですが、行き詰っているようですね。犯人は、大体、目星がついているようなんですが、決め手がないし、密室のトリックが解けへんので、どうにもならんそうですよ」  橋口も、彼女と話すときには、自然に、標準語に近い言葉遣いになる。 「密室というと、どういう風になってるのかしら?」 (密室の謎を解くつもりかいな。そら無理やわ。検死のときは、|まぐれ《ヽヽヽ》でうまいこといったけど、ベテランの中川警部が解けんもンがあんたに解けるかいナ)  心の中で、そう言いながら、それでも、表面は、真面目な顔で、少女の死んでいた勉強部屋の構造を説明した。 「サッシュの窓には、カギがかかっていた上に、近頃よく使われている敷居と窓を固定する器具で、しっかりと締めてあったそうで、窓ごと敷居からはずしたりすることは、でけへんかったそうです。それに、鑑識の調べでは、犯人が、窓ガラスを切りとって出て、外から新しいガラスを入れたというような形跡もなかったそうですわ」  橋口は、腰を下して、汗を拭いた。 「たしか、あの部屋には、ウインド型のクーラーがあったわね。あのクーラーをはずして出入りしたということもないの?」 「もちろん、それも調べたそうですが、あのクーラーは、内側からネジで止めなあかんわけやし、まわりに、パテをつめて壁とクーラーが固定してあるので、外側からつけることは不可能やそうです。それに、クーラーは、死体発見のとき、かかったままでしたから、よけい、付けはずしは難しいと思います」 「その点は、電源を切っておいて、クーラーをはずして、その穴から犯人が外へ出たあと、外からつけて、電源を入れるという風に出来ないかしら」 「電源スイッチは、母屋の中にあるので、家のものが、犯人である以外は出来ませんね」 「家のものが犯人だったら、そんな手間をかけないでも、殺したあと、カギを持って出て外からかけ、五時間ほどして、ガラスを破って入ったときに、カギを引出しに返しておけばいいのだから簡単よね」 「捜査本部では、念のため、家のもの、つまり、両親が犯人である場合も、調べたようです。例えば、父親が、娘が妊娠していることを知って、激怒し、誤って絞め殺してしまったというような場合です。そやけど、検視官も、ご承知のように、現場で、娘が妊娠したときいたときの両親の驚愕は嘘やないというのが、みんなの一致した意見ですわ。それに、家のものが犯人で、わざわざ偽装のため密室にしたのやったら、自殺だとか事故死だとか言う筈ですが、あの両親は、はじめから、他殺だと一一〇番してきましたし、娘が自殺だと言うのが、むしろ心外だという様子でしたからね」 「それに、父親が、激怒して、思わず絞め殺したというような場合なら、ちゃんと、首に、索溝が出ると思うわ。あれは、首を絞めたことがわからないように、よほど、計画的に、冷静に気をつけて、真綿《まわた》かなにかで、首を絞めたんだと思うわ」 「じゃ、やっぱり、捜査本部が、ホンボシと睨んでいる胎児の父親の中学生が犯人でしょうか? さっき、きいたところでは、ABO式、MN式、Q式で血液を調べた結果、お腹の赤ん坊の父親は、彼に、ほぼ間違いないとのことでしたが」 「とにかく、密室のトリックを解けば、自然に、そのやり方から、犯人がわかるんじゃないかしら。……ねえ、橋口さん、私、もう一度、現場に行ってみちゃいけないかしら」 「それは、まあ、行ってもいいと思いますが……」 「お願い! 一緒に行って頂戴。私、あの少女の死顔を見てるので、可哀そうでたまらないの。それも、可愛さあまって殺したというのならまだしも、索溝が出ないように気をつけて首を絞めたり、密室を作って自殺にみせかけようとするような冷酷な相手に殺されたのだと思うと、とても悲しいの。オネガイ! もう一度行かせて」 「はい、検視官」  やれやれという言葉を口の中で噛み殺して、橋口は、上衣をとり上げた。     6  桃山城の見える高台に、少女の家は、一軒ぽつんと建っていた。  この前来たときは、まわりをパトカーや鑑識の車が埋めていて気づかなかったが、少女の家は、角地に建っているので、裏の離れには、玄関を通らず、道から直接に行くことができるのだった。 「だから、母屋にいる両親は、離れに男の子が出入りしているのに気がつかなかったのね」  江夏検視官は、溜息をついた。  門構えになった玄関で案内を乞うと、この間から十歳も年をとったような、憔悴《しようすい》した少女の母親が出てきた。  母親は、二人を招じ入れると、あのとき、「娘は、妊娠などしていない」と、くってかかったことなど忘れたように、娘を殺した犯人を早く挙げてくれといって、涙を流した。  二人は、仏壇の前で、少女の霊に手をあわせたあと、母親に導かれて、裏の勉強部屋へ行った。  母屋の縁側には、この前と違って、大人用の白い洗濯ものばかりが竿に干されていた。 (この前に来たときには、ピンクのブラウスや、黄色いショートパンツなど、娘さんのものが、一杯干されていたのに)  冬子は、一人娘を失った親の悲しみがわかるような気がして胸が熱くなった。  母屋から、五メートルほど離れたところに、主のなくなった勉強部屋が、ひっそりと建っていた。  江夏検視官と橋口部長刑事の二人は、早速、密室の謎を解くために、部屋のまわりをまわってみた。 「どこも隙間はありませんね。穴といえば、この小さな穴だけだし……」  部屋の中も、あのときのままだった。  外に出たり、部屋に入ったりして考えていた江夏検視官が、突然大きな声を出した。 「橋口さん、わかったわ、密室の謎が! あの洗濯ものをみてごらんなさいよ。この間のときと、ちがうでしょう? カギはそれよ」  橋口部長刑事は、洗濯ものを眺めたが、一向になんのことかわからなかった。     7  取調べ室では、中川警部と橋口部長刑事の二人が、被害者の恋人だった中学生の沖田賢一と向き合っていた。 「……ところで、この写真を見てごらん。これは、事件の起った日の朝、鑑識が、現場付近をとった写真のうちの一枚だ。母屋の縁側に、洗濯ものがたくさん干してあるだろう?」  中川警部は、写真を沖田に見せた。 「ええ、そうですね、この洗濯ものがどうかしたのですか?」 「これは、家の人にきくと、前日が雨だったので、乾かなかった洗濯ものが、そのまま、軒に夜干しされていたんだそうだ。……それから、もう一枚、ここには、今日、同じ場所へ行って撮ってきた写真がある」 「同じ場所に、同じように、洗濯ものがかかっていますね」 「どこか違わないかね?」 「干してあるものは、日が違うんだから、違うのがあたりまえでしょう?」  沖田は、冷静な顔で答えた。中川警部は、その顔を、じろっと見てから言った。 「よく見てみなさい。干してあるものでなくて干し方が違うんですよ。事件の日の洗濯ものは、このブラウスにしろ、ワンピースにしろ、前ボタンや、胸のあきのある前身頃《まえみごろ》の方が写っている。それに比べて、今日写してきたのは、みんな、背中の方が写っている。これは、どういうことかと言うと、事件の日のは、庭側から干し、今日のは、家の中から干しているんだ。  家の人、つまり、被害者の母親にきくと、洗濯ものは、いつも、縁側に立って、庭を見ながら、軒にかかっている竿に干すと言い、今まで、庭の方から干したことはないと言うんだよ。  これは当然だ。死んだ娘にしろ、母親にしろ、身長百五十五センチ位の高さだから、縁側に立って、竿に干すのがやっとだ。庭に立つと、縁側の高さだけ、竿までの高さが高くなるので、とても干せない。それに、前日は、雨だったから、わざわざ雨にぬれながら、庭に立って、家の中を見ながら洗濯ものを干すはずがない。にも拘《かかわ》らず、洗濯ものは、庭から干されていた。ということは、洗濯ものは、夜の間に、一度、竿からはずされ、再び干されたときには、庭に立ったまま干されたということになる。つまり、竿は、夜中に使われたんだ。何故使われたかと言うと、密室を作るために使われたんだ」 「どういう風にして?」  沖田の声がかすれた。 「この犯人は、娘から、妊娠していることを告げられ、どうしてくれるかと迫られていた。そこで、娘を自殺にみせかけて殺すことを計画した。夜中の三時頃に忍んで行ってドアをあけさせ、中へ入ると、真綿か、ポリウレタンのような柔らかいもので、首にすじがつかないように、絞めて殺した。そのあと、ビニール袋にシンナーをたらして、それを頭にかぶせ、まわりにもまいて、シンナー中毒らしくみせたあと、机の引出しから、カギを二つとも持ち出して外に出て、部屋の外から、カギをかけた。勿論、犯行には終始、手袋をはめて、指紋には注意をしただろう。そして、そのカギを、今度は、竿を使って部屋の中の引出しに返したんだ」 「家の外から、どうして引出しに返せるんだ?」  沖田は、警部を睨みつけながら言った。 「あの物干竿は、ステンレスの管だから、中に節《ふし》はない。あれを、あの穴からさしこんで、引出しの中まで届かせ、二つのカギを水をつけてひっつけ、静かにその竿の中へ入れてやると、カギは、竿の中をすべって行って、引出しの中に落ちる。犯人は、それから、静かに、竿をひきぬいて、洗濯ものを干し、立ち去ったんだよ。残念なことには、庭の側から干してしまったんだな」  たまりかねたように、沖田が叫んだ。 「それは、想像だろう? 僕がやったという証拠があるのか?」 「あるよ、君は、カギを返す時までは、慎重に、手袋をはめてやっていたが、洗濯ものを干す時には、手袋をはずしたんだ。濡れていて干しにくかったし、まさか、物干竿まで調べるとは思わなかったんだろう。こちらで、竿を調べたら、竿の端と、竿の内側に、君の指紋が鮮明に出たよ」  中川警部は、竿に出た指紋を写した写真を沖田に見せた。 「それに、まだある。君は、洗濯ものを干すとき、彼女のパンティを一つ、庭の泥水の上に落してしまっただろう。洗い直している暇はないし、泥に汚れたまま干しておいたんではあやしまれると考え、とっさに、そのパンティを持って帰った。いずれ、処分するつもりだったのだろうが、暇がなくて、君の部屋にかくしてあった。ほら、これだよ」  中川は、机の下から、花模様のパンティをとり出して、沖田に突きつけた。 「このパンティが、彼女のでないとは言わせないよ。これには、彼女の手で刺繍《ししゆう》がしてあるし、ローマ字で名前も書いてある。それに、彼女は、このパンティを、あの夜の九時頃に、母親と一緒に入った風呂で洗い、竿の端に干しているんだ。  どうだ! あの夜、現場へ行ったものでなければ、このパンティは手に入らないぞ。それとも、あの夜、パンティ泥に入っただけと逃げるか?」 「………」 「ところが、パンティと一緒に、これもみつかったよ。マットレスなどに入っているスポンジのきれはしだ。これで、彼女を絞めたんやな? これには、彼女の髪の毛も付着してたし、唾液もついていた……」  横から橋口部長刑事が、細長いスポンジのようなきれはしを出した。  沖田は、がっくりと首をうなだれた。 「翌日は、期末試験の二日目だったから勉強してたのに、しつこく呼び出され、時間が惜しかったんだよゥ」  と、泣き出した。  橋口部長刑事は、静かに部屋を出ると、江夏検視官の待っている捜査一課室へ歩いて行った。  第二話 偽装の殺人現場     1 「夕刊来たぞォ!」 「あっ、出てる! 出てるぞ」 「どれどれ、どこに?」 「どっちが犯人や?」 「何言うてんのや。こっちに決っているがな。こっちに」 「こっちは、橋口部長刑事やないか」  一斉に、わあっという笑い声が広がる。  京都府警捜査一課室は、いつもと違った和《なご》やかな空気が流れていた。その筈《はず》である。ここ一カ月来、府民を脅やかしていた、婦女暴行殺人の凶悪犯が検挙《あが》り、捜査本部が解散されたからだ。  夕刊には、お手柄の橋口部長刑事が、前科四犯の堀内一男と、パトカーから降りて来たところが写っているが、凶悪犯人にしては、優男《やさおとこ》の堀内の方が、警察官にみえ、大男で、五分刈頭、柔道三段、剣道二段の橋口部長刑事の方が、犯人に見えてしまい、みんなに冷やかされているのである。  最後に廻って来た新聞を、部屋の隅で、静かに見ているのは、江夏冬子検視官である。  東京から着任して数カ月過ぎ、漸《ようや》く、捜査一課の荒くれ男たちとの生活にも慣れた江夏冬子だったが、やはり、こういう時には、一人とり残されてしまう。 「さあ、帰って、今日は、ゆっくりと風呂に入って、テレビでも見るか」  橋口の隣りに坐っていた酒見警部が、そう言って、席を立とうとしたとき、事件を知らせる電話のベルが、部屋中に鳴りひびいた。     2  現場は、伏見区|醍醐《だいご》の造成地にぽつんと建った、プレハブ住宅の、春山という家だった。  通報があってすぐに白黒パトカー、覆面パトカー、鑑識車、特別機動捜査隊の車などが出動し、二十分後には、江夏検視官と、橋口部長刑事も、現場に立っていた。  新しいプレハブ住宅の八畳の洋室には、二十二、三歳のワンピースに、エプロンがけの女性が、滅多《めつた》切りにされ、血だまりの中に倒れ、部屋の隅に、凶器と思われる、血のついた出刃庖丁が転がっていた。  鑑識が、現場写真をとっている間、江夏検視官は、立ったままで部屋の中を見廻した。  この部屋に入ったとき、ふと、何か、違和感を感じたからだ。  八畳の洋室の西北二方は壁で、一方には、応接セットが置かれ、北側には、飾り棚と、入口のドアがある。東と南の二方は、障子二枚の大きさのサッシュのガラス戸が入っているが、東側のは、実際には、出入りには使ってないらしく、ブルーのカーテンが引かれ、本棚が並んでいる。南側は、庭へ出られるように、ガラス戸が開けられていた。  応接セットの横の白いプラスチックのプランターには、冬子もよく知っている赤い花をつけたベゴニヤやアンスリュウムなど、観葉植物の鉢が並び、天井につるされたオリヅルランの鉢からは、つるが垂れ下っている。  被害者は、北側のドアの近くに、南側に頭をむけて倒れ、血痕が、点々と、南側のガラス戸を通りぬけて、庭まで続き、ガラス戸には、かすかに、血のついた手の跡が残されていた。 「検死願います」  の声に、江夏冬子は、死体の傍に、膝《ひざ》をつき、服をきたままの外表所見から視《み》ていった。  まず、身長や、死んだ時の姿勢、血の流れている箇所、量、傷口の状態などが、詳しく調べられ、口述されるのを、横で、橋口部長刑事が筆記していく。  次に、服を脱がせ、もう一度、傷口の大きさ、切られている方向や死斑、暴行されていないかなどが調べて、筆記がされた。  一通り終るのを待って、捜査一課長とのやりとりが始まる。 「やはり、他殺ですか?」 「そうですね。着衣の上から刺している点、致命傷だと思われる傷が、三本もある点、ためらい傷などのない点……などから、他殺の疑いが濃いですね」 「手に、防衛傷もあるし、これだけ、滅多切りにしてあるのは、他殺だろうな」 「それから、肩のこの傷は、自分で、この角度に切ることは出来ないと思いますわ」 「なるほど。ところで、死亡推定時刻は?」 「死後硬直が、まだ、融《と》けておりませんし、腸内温度、その他からみて、死後、約二十時間前後と思いますが……」 「というと、今が、午後九時だから、死亡は、昨夜の八時から九時ということになるかな」 「そのあたりだと思います。解剖すると、夕食後、二〜三時間の食物が、胃や腸にあるんじゃないでしょうか」 「暴行されたあとは?」 「ありません。着衣も乱れていませんし、そのことで争ったような様子もみられません」  江夏検視官は、検視所見を、一課長に渡した。一課長が、それに、目を通していると、酒見警部が、報告にきた。 「今きいたところでは、この家庭は、結婚してここへ移ってきて二カ月で、近所も離れていますし、つきあいもなかったようです。たまたま、ガス湯わかし器を、洗面所の方にもつけて欲しいと言われていたので、やって来たガス会社の人が見つけたということです」 「家族構成は、どうなんだ?」 「夫婦二人暮しなんですが、その夫の方が、昨夜から帰っていないようなんですよ」  一課長は、部下の刑事が、郵便受けから、朝刊と夕刊をとり入れて来たのをみながら、うなずいた。  一課長は、次に、鑑識の技官をよんだ。 「指紋の検出はどうだ?」 「はい。凶器から、鮮明な指紋がとれました。それから、庭へ出るガラス戸についた指紋も、いくつか採りましたので、これから、照合しようと思います」 「血痕のほうはどうなんだ? 死体のまわりにも、相当飛び散っているし、南側のガラス戸付近から庭まで続いているな」 「ここまでは、被害者が、殺されるときに飛び散った血だと思われます」  加藤技官は、死体のまわりから、部屋の中央あたりまでの血痕を指《さ》して言った。 「しかし、ここから庭の外へかけての血痕は、殺したあと、犯人が、自分のコートかなにかについた血を払いながら出て行ったための血だと思われます。血のとび散り方の方向がいろいろで、死体の傷とは、全然関係ない感じですから」 「とにかく、両方の血液型を調べてくれ」  一課長は、そう言ってから、部下の捜査官たちを集めて指示をした。 「昨夜、この家をたずねてきた人物を見たものがないかどうか近所のきき込みに廻ってくれ。それから、行方不明の主人を探し出すこと。残ったものは、この二人の友人とか身内に、二人のことについてきいてくれ」  指示を終ると、一課長は、南側のガラス戸のところに立って、庭を見廻した。  庭は、一面の銀世界で、足跡もなにも消えてしまっている。検死の筆記を終った橋口部長刑事がそばへ来て、 「雪が、昨夜から降って、足跡を消してしまいましたなァ」  と言った。     3  翌日の朝、伏見署では、「醍醐における若妻殺人事件」の捜査会議が開かれていて、担当の酒見警部が、経過を報告していた。 「被害者の春山静子は、二十三歳。夫の春山四郎は二十七歳で、府立図書館に司書として勤めております。この春山四郎は、昨夜より行方不明であります。  解剖結果によりますと、死因は、胸部、脇腹の二つの切傷が致命傷で、出血多量のため死亡しております。死亡推定時刻は、昨夜の八時から十時までということになっております」  警部は、一旦、言葉を切ると、もう一枚の紙をとりあげて、報告を続けた。 「被害者静子の近くにあった出刃庖丁は、傷口と一致し、凶器と認定されました。被害者の血液型は、ABO分類でB型、MN式でM型で、庖丁に付着しておりました血液型も、被害者のまわりに、とび散っておりました血液型も同じです。また、南側のガラス戸から庭に続いていた血液も同じですが、注意すべきは、この中に、数滴、AB型の血痕があることです」  きいている刑事たちの中から、「ほう」という声があがった。 「庭へ続いていたこの血痕は、犯人が、かえり血を浴びたレインコートかなにかを、ふり払いながら逃げていった跡と思われますが、その中に、AB型の血痕がわずかに混っていたことは、犯人も怪我をしたのではないかと思われるのであります」 「行方不明の夫、春山四郎の血液型は、何型ですか?」  若い松原刑事が質問した。 「春山の勤め先の職員健康簿によりますと、彼は、AB型となっております。また、彼は、五年前、献血をしたことがありまして、その時の記録によりましても、AB型となっております」 「それでは、その血液は、夫のものである可能性が強いわけですね」 「そうです。それから、凶器の柄《え》についた指紋、並びに、ガラス戸から採取しました、血のついた指紋は、春山四郎の指紋であることがわかりました」 「彼の指紋であることは、間違いないな」 「彼は、五年間勤務しておりますが、その間に、二度ほど、給料日に、印鑑を忘れて拇印をおしていましたので、彼の指紋はわかりました。家の中で採取された彼の持物や、本などから出た指紋も同じですし、間違いありません」 「それでは、被害者の夫の春山四郎が、新妻を殺し、逃げていると考えられますね」 「今のところ、そう考えられても仕方がない状況です」  酒見は、自信ありげにうなずいた。 「春山が、もし、妻の静子を殺したとしたら、動機はなんでしょうか?」 「春山と静子は、職場での恋愛結婚ですが、もともと、静子は、春山の同僚の郷信夫と恋仲だったようです。それが、なぜか、突然、春山と結婚したということです。結婚後、静子が、郷と会っていたという噂《うわさ》もあり、そんなことで、二人の間にトラブルがあったのかも知れません」 「郷信夫は、その点についてどう言ってるんですか?」 「郷は、突然、静子が心変りした時は、ショックだったが、今は何とも思っていないと言っています。もちろん、最近会っているとかそういうことはなく、昨夜も、自分のアパートで、今、話題になっている映画の原作を読んで、十時には寝たと言っています」 「はっきりしたアリバイはないわけだな。しかし、今の段階では、動機だけで、彼が犯人というわけにはいかない。とりあえず、夫の春山四郎を全国に指名手配して探すようにしよう。現場に残された凶器の指紋と、ガラス戸についた血の指紋は彼のものであるし、彼と同じ型の血液が、犯人の逃走経路に落ちていた点から、彼が、犯人である可能性は大きい。どうしても、重要参考人として、彼に話をきく必要がある。本人が、自殺または他殺で、死んでいる場合も含めて、とにかく、彼の行方を探そう」  捜査一課長が、締めくくって、捜査会議は終了し、捜査官たちは、四方に散った。     4  それから、一週間経った。しかし、春山四郎の行方は杳《よう》としてわからなかった。  どこかの山奥で、自殺しているのではないかと言うので、日本全国、津々浦々の派出所まで指令がとび、人のあまり行かない林や森まで捜査されたが、成果はなかった。  江夏冬子は、捜査本部の空気が、暗く沈んでいる中で、じっと、検死に行った日のことを思い出していた。 (被害者が、倒れていたあの部屋へ入ったとき、ふと感じた違和感は、何だったのだろうか……)  いくら考えてもわからなかった。  冬子は、検視官付きの部長刑事、橋口に、たのんだ。 「ねえ、橋口さん、事件の現場へ、もう一度、一緒に行って下さらない」 「どうしたんですか?」 「あの部屋へ行ったとき、気になったことがあったのよ。それが何だったのか、確かめてみたくて」 「また、始まりましたね、いいですよ」  橋口は、笑いながら、立ち上った。  三十分後、二人は、春山家へ着いた。表札も、そのままで、一週間前と違っているのは、地面に、雪が積っていないことだけだった。  二人は、派出所の巡査に貸してもらった鍵で、中へ入った。 「どこが、おかしいんですか?」  洋室の入口で、橋口が、冬子の顔を見ながら言った。彼の関西弁も、冬子といるときには標準語に近くなる。 「死体がないだけで、あの時と同じね」  冬子は、そう言って、部屋を静かに見まわした。 「どうしたのかしら。今日は、何も、感じないわ。あの時は、確かに変だと思ったのに」 「それやったら、死体に、何かおかしいところがあったんやありませんか?」 「いいえ。ちがうわ。死体じゃないわ」  いくら見渡しても、違和感は感じなかった。仕方なく、冬子は、持参したポラロイドカメラで、部屋の中を何枚か写し、橋口に面倒をかけたことを詫びて、帰途についた。  府警本部へ帰って、ぼんやり考えこんでいると、橋口部長刑事が、一課長の机の上から、写真の束を持って来てくれた。 「これは、あの日の現場写真ですが、よかったらみて下さい」  写真は、カラーのため、流れ出た血の色や、死体の傷口などが、実際以上になまなましく出ていて、検視官の冬子がみても、気味が悪かった。  何枚か見ていくうちに、突然、冬子は、「あっ」と小さな叫び声をあげ、急いで、今日とって来たポラロイド写真を出して、同じ現場と見くらべた。 「やっぱりね、わかったわ!」  冬子は、捜査一課長と橋口部長刑事が立ち話をしている席へ行って、写真を前に説明をはじめた。 「この部屋には、観葉植物の鉢がたくさんおいてありますでしょう? 天井には、オリヅルランかなにかの鉢がつってあって、つるが垂れ下っています。私が、違和感を感じたのは、部屋に入ったとき、向日植物のはずの彼等が、みんな、光の入る南側の方を向かずに、東側の本箱の方に向かっていたことなんです。花も南側になく東側ばかりに咲いています。  特に、この、垂れ下ったランのつるの向かっている方をみると、南側のガラス戸の方に向かうのは簡単なのに、わざわざねじ曲ってまで、東側を向いています。これは、ごく最近まで、東側から光が入っていたということを示しているんじゃないでしょうか。それが証拠に、今日、行ってみますと、植物は、みんな、南側のガラス戸の方を向いていて、私に、違和感を感じさせませんでした」  冬子は、今日写してきた方の写真を二人に見せた。 「あの部屋は、南側と東側が、ガラス戸ですが、東側は、カーテンが引かれて、本箱が背の高さに並べられていましたなア。本来は、南側が本棚で、東側が、出入口やったんやないでしょうか?」  橋口部長刑事が勢いこんで言った。 「そうだと思います。それを犯行と、全然関係なく、当日にでも、あのように並び変えたのか、犯行後、都合の悪いことがあって、あのようにしたかですね」 「犯行後、都合の悪いことというと、あの出入口のところに、何か、重要な手がかりになるものが、隠されているとか、あそこが、出入口であったことがわかると困る、なにかがあったことになるな」  と、一課長。 「私は、ある仮説を持っているのですが、それは、あの現場へ行ってから言いますわ」  江夏冬子は、心に、何か期することがあるようだった。 「とにかく、現場へ行こう!」  一課長の命令で、江夏冬子や橋口をはじめ、一課室にいたものは、覆面パトカーに乗って、現場に直行した。     5 「なるほど、この部屋の配置で、向日植物が、みんな、東側の本箱の方を向いていたというのは、おかしいな」  現場に立って、一課長が腕組みして呟いた。  すぐに、もう一度、その付近の写真がとられた上で、本箱がのけられた。 「あ、血だ! 血が、本箱の下の床から、敷居のレールヘ続いている」 「犯人は、この血を隠したかったのでしょうか?」 「それはおかしいな。犯人は、南側の入口から外へ逃げていった血痕を残しているくらいだから、別に、こっちから出ていったのがわかっても、構わない筈だよ」 「じゃ、春山静子を殺した現場は、部屋の中じゃなくて、ここなんでしょうか?」 「現場の血の飛び散り方、傷の具合から、死体を移動した様子はありませんわ」  冬子が言った。 「おやっ、この血は、ガラス戸の外の方が多く、室に入るに従って僅かになっています。これは、怪我をしていた犯人が、ここから入って来て、被害者を殺し、南側から出て行ったということになるんじゃありませんか。それで、自分の血液型を知られたくなかったから、自分の血が、落ちたところに、本箱をおいたというような……」  酒見警部が言った。 「そういうこともありません。これだけの怪我をしていれば、被害者を殺したときに、被害者の血と一緒に、犯人の血も、飛び散っている筈ですからね。それが、一滴もないということは、犯人は、怪我はしていなかったといえると思います」 「じゃ、この血は?」 「そのガラス戸の外の土地を掘り返して下さい。私の考えでは、もう一つ、死体があると思うのです」 「えっ、死体? 誰の?」 「とにかく、掘って下さいませんか?」  殺人事件があった日には、雪が降っていて、そのあたりは、すっかり、雪が積っていたが、今は、雪は融《と》けて、黒い土が出ている。しかし、地面が凍《い》てついていて、近々に、掘ったあとがあるかどうかはわからない。  半信半疑で、掘り返しの作業がすすめられていくうちに、約五十センチ程の深さに掘ったとき、人間の足が見え、続いて、腕が露出した。  二十分後、完全に、死体が、掘りおこされた。年齢三十歳前後、背広をきた男性である。凍った土の中にあったためか、まだ、腐蝕《ふしよく》されていず、原形を保っている。 「あ、これは、春山さんや!」  傍で見ていた派出所の巡査が、大きな声をあげてから、あわてて言いなおした。 「これは、この家の主人、春山四郎さんであります」  妻を殺した犯人と目されていた夫は、すでに殺されていた。  江夏冬子は、死体を、丁寧に検死したあと、一課長に、記録をみせながら、要点を説明した。 「この死体は、全身が硬直していて、死後約二日ではじまる、融解がまだ始まっておりません。腐敗の方も、すすんでおらず、皮膚が緑色を帯び、静脈像がみえるという死後二日の状態には、まだ間があるようですし、直腸内の温度や、死斑の様子をみても、死後約一日の状態だと思われます。  ご承知の通り、カスペルの法則では、死体の腐敗進行の速度は、空気中を一とすると、土中にあったものは、その八分の一しか腐敗が進行しませんので、この死体は、空気中では、八日経った死体と、ほぼ同じ状態だと思われます。つまり、簡単に言いますと、これは、一週間前に、春山静子が、死亡した時刻と、大体同じ頃、死亡したものと思われます。いずれ、詳しいことは、解剖によりわかると思いますが……」 「なるほど。致命傷は?」 「春山静子の方は、庖丁による滅多切りの切傷でしたが、この被害者の場合は、野球バットかなにかのような鈍器で、頭部を殴打した脳損傷が、致命傷になっております。そのため、流血は少ないです。傷の大きさ、深さなどの詳細は、ここに書いておきましたが、そんなわけで、凶器も、致命傷も、両人は異なっております」 「では、二人とも、殆《ほと》んど同じ頃に死亡したが、犯人は、同一人でないかも知れないというわけだね?」  一課長が、むつかしい顔で質問した。 「いいえ、私は、両者を殺害した犯人は、同一人だろうと推定しております。理由は、傷が左から右へ走ってる状態から、二人とも左ききの犯人に殺されていること、加えられた力の強さ、どの位の高さから、どの角度でというようなことを考えますと、犯人の力、背恰好などが、殆んど同じように思えるからです」 「一人の犯人が、二人を殺したとしたら、どちらを最初に殺したかということだが、私の考えでは、周囲の状況から、女の方が先で、男の方があとだと思うんだが……」 「私もそうだと思います。何故なら……」  酒見警部が口をはさんだ。 「両者とも、防衛傷が少なく、それほど抵抗のあとがなく殺されています。もし、男の方が、先に、ガラス戸のすぐ外で殺されたとしたら、女は、騒ぎたてて、ドアから外へ逃げるなり、すぐそばにある電話で一一〇番をしたと思うのです。ところが、女は、不意を襲われた感じで、多少の抵抗はしながらも、絶命しています。これはやはり、女が先に殺され、そのあと、何も知らずに外から入って来ようとした男が、部屋に入るまえに殺されたんじゃないでしょうか?」 「その通りですわ。血のとび散り方も、犯人が、室内から、外の男をおそった形になっています。部屋から逃げる男を、犯人が追いすがって、うしろから殴りつけたのでないことは、男の傷が、顔の正面にあることでわかります」 「ところで、なんで、犯人は、二人を同じ凶器で殺さんと、別々の凶器で殺したんでっしゃろなア。これは計画的にそうしたんでしょうか?」  橋口が一課長と冬子の二人の顔を見比べながら言った。 「はじめは、女だけ殺すつもりが、男が帰って来たので、あわてて、別の凶器で殺したということはあるかもしれませんが、私はこれは、はじめから、女の死体だけは、室内にのこして、男が逃亡しているように見せたかったのだと、思います」  酒見警部が言った。 「もし、そうでなければ、男を殺すのに、近所にさわぎがきこえるかもしれない戸外で殺すようなことはせず、男が、室内に入ってくるまで待って殺しただろうからな」  一課長が、考えながら言った。 「そうですね。じゃ、はじめから順を追って整理しますと、犯人は、女だけが、部屋にいるときに侵入して、女を切り殺し、庖丁を棄《す》て、血まみれたレインコートかオーバーをぬぐ」  みんなが、うなずくのを確かめてから、酒見警部は、言葉をついだ。 「やがて、男が、東側の庭から歩いてきて部屋に入ろうとしたとき、犯人は、外にとび出して、鈍器で殴り殺す。そして埋める。なるべく、血がとび散らないように、鈍器にしたのではないでしょうか」 「血を出さないためには、首を絞めるのが、一番いいわけですが、これは、正面から、大の男に向かってやるにはむつかしいので、鈍器にしたんでしょうな」  橋口部長刑事が、あいづちを打った。 「埋めてしまうと、丁度、雪が降って来て、翌日までには、地面に積もり、埋めたあとは、わからなくなったというわけです」 「ところが、外で殺した筈が、ガラス戸の敷居から、部屋の入口にかけて、血がとんでいるのをみて、これはしまったと思ったんだろうな」  と、一課長。 「そうです。このままにしておくと、この血液が検出され、女の血液型とはちがうことがわかり、血をたどって、すぐに土が掘りかえされるでしょう。それで、急遽、出入口を南にかえたのです」 「カーテンを閉め、本箱を移し、新しい南側の入口に、最初の犯行のときについたレインコートの血をおとしながら外へ逃げていったちゅうわけですね」  橋口も感心したようにため息をついた。 「大体そんなところだと思いますが、一つだけ、つけ加えますと、男の死体を埋める前に、犯人は、彼の指紋を、女を殺した庖丁の柄と、南側のガラス戸につけておいたのだと思います」 「死体を引っぱって行ったわけじゃないでしょうね」  酒見警部が、皮肉っぽい調子で言った。彼は、どうも、江夏検視官に、対抗意識を持っているようだ。 「ええ。死体を動かすと、痕跡が残るので、死体を動かさずに、庖丁や、ガラス戸の方を、死体のところまで持っていったのだと思います。ガラス戸も、簡単にはずれますからね」  冬子は、ほほ笑みながら答えた。  丁度その時、死体の出た穴を調べていた刑事の一人が、手にスパナを持って、 「凶器が出ましたァ」  と、走って来た。 「死体を埋めてあった土の下に、これが埋めてありました。血痕も付着していますので、これが、男を殴り殺した凶器だと思いますが……」  一課長はスパナについた血痕を調べるように鑑識に廻してから、散らばっていた捜査官を集めて言った。 「さあ、この夫婦を殺す動機のあるものを探すのだ」     6 「春山四郎、静子を殺す動機のあるものということなので、まず、春山四郎自身のことについて、事件が起ってから調べました事を申し上げます」  翌日行われた捜査本部の会議で、この事件の担当警部である酒見警部が立って、報告をはじめた。 「春山四郎は、京都市内の私立K大学を出て、京都府立図書館に就職し、図書館法に規定される司書の免許をとって、京都府立図書館の、U市分館に勤めておりました。同じ職場の事務員、桑田静子と恋愛し、二カ月程前に結婚し、現住所に新居を持ったものです。当日は、高校のときの同窓会があり、友人三人が、タクシーで送り、九時頃、自宅の前でおりております。静子は、二十三歳で、京都市内の女子短大を出て、図書館に勤めたもので、彼女は、同じ図書館の司書の、郷信夫という男と、三年越しの恋仲だったのですが、突然、春山と結婚したわけです。  郷信夫は、ショックを受け、二週間近く、図書館を休んでいたそうですが、現在は、出勤しております。しかし、次の年度には、U市以外の図書館に代りたいと、転勤を申し出ています」 「容疑者の一号は、郷信夫だな」  一課長が、傍の黒板に、郷の名前を書いた。 「ところが、今回の捜査で、もう一人、夫婦に恨みを持っているものがみつかりました。荒木光一という三十歳の工員で、彼は、妻と離婚し、五歳の女の子供と二人で暮していたのですが、その子供が、静子の運転していた車にはねられて四カ月前に死んでおります。  目撃者の話では、犬を追いかけていた子供が、突然、とび出して来て、車は、ハンドルを切ったが、よけ切れなかったという事故です。静子の方も、運が悪かったわけですが、荒木は、可愛がっていた子供が死んだことで、気も狂わんばかりに恨んでいたそうです」 「第二号は、荒木光一か……」  一課長が、郷信夫の隣りに、荒木の名前を書いた。 「静子が、子供を轢《ひ》いたのは、結婚する前で、丁度その時、ボーイフレンドの一人だった春山が、車に乗っていたのです。事故を起したことでショックを受けている静子を慰め、事故処理も、すべて春山がやったことで、急速に、二人の仲がすすみ、結婚するようになったようです」 「動機は、荒木の方が深刻だな」 「それで、当夜のアリバイについて、調べてみたのですが、どちらも、家で、テレビを見ていたとか、本を読んでいたとかで、はっきりしないのです」 「郷信夫については、春山の死体が出る前にも、きいたんだったな?」 「そうです。彼は、自分のアパートで、今映画化されて評判の推理小説の原作を、読んでいたということでした。その時は、夫の春山が、犯人らしいということで、その行方を追うのに全力をあげておりましたので、そのままになったのですが、今日、改めてきいてみましたが、やはり、同じことです」 「荒木光一は、どうなんだ?」 「荒木は、今回、はじめて調べたのですが、これも、似たりよったりなんです。当夜は、テレビの洋画劇場で、『スカイジャック』を見ていたというのです。ストーリーもはっきり覚えておりますが、この洋画は、もう三回も上映されており、私も、見ている位ですから、あてになりません」 「こういう自然なアリバイが、捜査当局としては、一番困るんだなァ。アリバイ工作をしてくれた方が、そこから割れやすいんだが……」 「郷信夫は、図書館員ですから、本を読むのは自然ですし、荒木はいつも、酒を飲みながら、洋画をみていたということですから、おかしいところはないわけです」 「それ以外に、容疑者はいないのか?」 「今のところ、動機のあるのは、その二人だけです。流しの物盗りという線も、弱いようです。これだけの殺しをやりながら、何も盗まれていませんし、暴行されていません」 「流しの強盗なら、あれだけ手間をかけて、男の方の死体を隠したりせず、放っとくはずだなあ」 「しかし、あれだけの血がとび散っているんですから、相当返り血を浴びたと思うんです。家宅捜索できれば、何かあがるんじゃないかと思いますが……」  酒見警部が残念そうに言った。 「今の段階では駄目だな。少なくとも、二人のうちの一人にしぼれないと。それに、犯人の自白とか、服についた血痕というものだけで、あげるのでなしに、それ以外のすっきりしたもので、犯人を挙げ、自白とか血痕は、それの、だめおしという形にしたいな」 「そうですね。たとえ、血痕のついたシャツがみつかっても、自分の血だと言われれば、犯人と被害者の、血液型が同じだということもありますしねえ」  いつも強気の酒見警部も、ため息をついた。 「とにかく、二人をもう一度、調べてみよう。それに、被害者の傷から、犯人は左ききということがわかっているので、それも、気をつけてみてみよう」  捜査一課長の命令で、容疑者の二人、荒木と郷が呼ばれることになった。  江夏冬子もその場に同席することになった。     7  先に、部屋に入ってきたのは、工員の荒木光一である。黒いレザーの上衣をきて、細面ながら、意思の強そうな顔をした男だった。 「あなたは、荒木光一さんですか?」  一課長は、おだやかな笑みを浮かべてきいた。 「そうです。でも、僕は、何のために呼ばれるんでしょうか。この間も、ある日時のアリバイのようなことをきかれましたが、不愉快でしたよ。どういうわけで、こういう調べを受けるのか言って下さい」 「それは失礼しました。実は、あなたのお子さんの事故を起した、春山静子さんが、殺された事件についてなんですよ。ご存知ですか? この事件については」 「知っています。折角、子供のことを忘れようとしていたのに、新聞に、大きく彼女の写真が出ていたので、数日は、子供のことを思い出して、イヤな感じがしました。……僕がその事件の容疑者というわけですか?」 「いいえ、そういうわけでは……」 「私は、あの女に、子供を殺された上に、殺人犯にまでされようとしているわけですね?」 「いや、そういうことではありませんよ。春山静子さん夫婦に、関係のある方全部に、話をきいているわけです。ご協力下さいませんか?」  一課長は、荒木をなだめながら、お茶をすすめ、自分も、一口すすった。左ききか、右ききかを確かめたかったのだが、荒木は、すすめられた茶に、みむきもせずに言った。 「協力といったって、つまり、あの女が死んだ夜に、僕がどうしていたかということでしょう? この前、調べに来た刑事さんに言った通り、僕は、家で、テレビの洋画劇場を見ていたんですよ。僕は一人ものだし、誰も証明する人はありませんが、でも、今、大抵の日本人は、夜になったら、めし食って、風呂に入って、テレビを見てるんじゃないですか」  一課長は、うなずいてきいていたが、話題をかえて質問した。 「あの家には、最近、行かれましたか?」 「最近かどうかわかりませんが、あの家には、一、二回行きました。事故の保険の書類とか、慰謝料の請求のことでです。顔をみてると腹が立つので、用事をすますと、いつもすぐに帰ってきましたよ。お茶も飲まずに」  そう言ったあと、気がついたように荒木は、手をのばして、茶碗をとると、一気に飲み干した。右手だった。  一課長は、内心、がっかりしながら、もうしばらく質問を続けた。しかし、結局、特にこれという話もきけず、荒木を帰す時間がきた。     8  荒木が帰ったあと、十分ほどして、郷信夫がやってきた。  郷は、府立の図書館に勤める公務員らしく、きちんとした紺の背広に、レンガ色のネクタイを締めた男で、神経質そうな顔で入ってきた。背は高く、一メートル八十センチくらいある。 「郷信夫さんですね?」 「そうです」 「度々、話をお伺いして申しわけありません。あなたと、亡くなった春山静子さんのご関係について、おききしたいのですが……」  一課長は、柔らかく、しかし、単刀直入にきいた。 「彼女が、学校を卒業して、うちの図書館に入って来たとき、私が、直属の上司になり、いろいろと指導したものですから、親しくなり、そのうち……恋愛関係になりました」 「結婚を約束したんですか?」 「その頃、私には、親戚の娘で、由紀子という、幼なじみの婚約者のようなものがおりました。私の母も、その子と結婚するのを楽しみにしておりましたが、静子さんが、そんな人がいるのなら、交際するのをやめるといったので、決心し、由紀子には、結婚する意思がないことを、手紙で書き送りました」  一課長は、うなずいてききながら、お茶をすすめた。彼は、素直に茶碗をとって飲んだ。しかし、残念ながら、彼も右ききだった。 「そのあと、静子さんに、由紀子と別れたことを話し、正式に婚約したいと言ったのですが、彼女は、その人に恨まれるといやだから、もう少し、あとにして欲しいと言いました。しかし、そのあと、すぐに、特別な関係になりましたし、私の家にも遊びに来て、母にも引きあわせましたので、私は、彼女が、結婚することを承知したものだと思っておりました」 「静子さんには、ボーイフレンドが多かったそうですね?」 「ええ。学校時代の友だちや、同じ職場の春山さんや石川くんなどとも、よく、お茶を飲んだり、スケートに行ったりしていましたが、いつも、平気で、誰々とお茶を飲んだと話をするので、安心していました。僕たちは、男女共学で育っているので、そういうことは、あまり気にしていなかったのです」 「でも、結局、静子さんは、春山さんと結婚しましたね。どうしてですか?」  一課長は、大よその事情はきいていたが、知らない顔でたずねた。 「去年の夏、私の母が、病気で入院したので、私は、毎日のように、病院へ行かねばならず、いつものように、彼女とデートすることが出来ませんでした。そのことを、彼女になじられ、喧嘩して、三、四日、口をきかなかった時に、彼女は、春山さんと、ボートに乗りに行き、帰りに車の事故を起したのです」 「子供を轢き殺したんだそうですね?」 「はい。私は、あてつけのように、春山さんとボートに乗りに行ったことに、腹をたてていましたし、事故を起したのも、二人がふざけあってでもいて、注意がそれたのではないかと思い、彼女に冷たくあたりました。しかし、春山さんは、その時、彼女をいたわり、事故の交渉をすべて引き受けて奮闘し、彼女の信頼を得たようです」  さすがに、郷は、苦にがしい顔をした。 「彼女が、春山さんと結婚すると知ったのは、いつですか?」 「入院していた私の母が死に、葬式やなにやかがすんで、はじめて出勤した日です。彼女は、葬式には、みんなと一緒に来てくれましたが、手伝いにも、通夜にも来なかったので、私は、内心怒っていました。しかし、他の人の手前、そうも出来なかったのだろうと思いなおし、久しぶりに、勤務がおわったら、デートしようと思っていましたら、彼女が、結婚のため退職するという発表があり、驚きました」  郷は、そのときのことを思い出したのか、こぶしを握りしめた。 「それでも、まだ、春山さんと結婚するのだとは思わなかったのですが、休憩時間に、彼女自身の口からそれをきいて、頭を、ガンとなぐられたような気がしました」 「そのあと、二週間ほど、休まれましたね?」 「ええ。やはり、精神的ショックと、母の看病や葬儀の疲労で、病気になったものですから」  そこで、一課長は、煙草を出して、火をつけた。郷も、同じように右手で煙草をはさんで吸いはじめた。 「ところで、静子さんの新居へ行ったことがありますか?」 「………」  今まで、すらすら答えていた郷が、急に、沈黙してしまった。やはり、事件と関連するようなことには、慎重になるのだろう。  しかし、黙ったということは、認めたということと同じである。一課長が、 「行ったことがあるんですね?」  と、重ねてきくと、彼は、うなずいた。 「彼女が、私が、近々、転勤することを聞いたからといって、突然、電話をかけて来たのです。一度会って、お詫びを言いたいし、あなたから頂いた手紙やプレゼントなど、お返ししたいので、一回だけ会って欲しいと言われ、家の方へ行ったのです」 「それは、いつですか?」 「……事件の前日です」 「で、どういう話になりましたか?」 「彼女は、恋人同士のときのような、屈託のなさで、世間話をしてきました。あなた、まだ、結婚しないの? と言ったり、夫の春山が、几帳面で、部屋の掃除や整頓など、うるさく言うのでやりきれないとも言ってました。そして、私の手紙やプレゼントを返し、私が持って行った彼女からの手紙を渡して帰りました。行く前は、抵抗があって、随分色々考えましたが、行ってみると、あっけないような会合でした。彼女の気まぐれの一つかも知れないし、今、考えると、手紙など整理したりして、彼女も、虫が知らせたのではないかとも思います」     9  郷信夫を帰したあと、一課長と、酒見警部は、捜査一課室で、討議をしていた。 「一課長は、どちらがホシだと思われますか?」 「どちらにも、動機はあるし、右ききだし、アリバイも同じようなものだ。二人とも被害者の家へ行ったこともあるというので、判定は困難だなあ」 「子供を殺されたという、荒木の動機の方が、動機としては大きいし、行動的な性格のようにみえますが、インテリの郷が、職場のみんなの前で、恋人をとられるという恥をかき、新婚家庭から通ってくる春山を毎日目にして感じていた苦痛と憎悪も怖いですからね」 「いざというと、あんな静かな男の方が、残酷な殺しをやるのかもしれないな」 「それに、彼は一課長には言わなかったと思いますが、彼が、静子のために捨てた、婚約者の由紀子という女は、そのあと、車で、事故死してるんですよ」 「ほう。自殺か?」 「自分で、車を運転していて、名神高速道路で、トラックを追い越し損った事故死ですが、自殺したのかもわかりません」 「なるほど」 「それに、荒木の方も、きき込みによりますと、被害者との交渉は、円満に終っていたわけではなく、彼が、被害者の家へ行ったときも、彼が、言っていたように、冷静に、用事をすませて帰るというようなものではなく、子供を返せ、人殺しと、激しい口調で、どなっていたというのが実情です」  二人が、ため息をついたとき、しばらく席をはずしていた江夏検視官が、本を片手にかえってきて言った。 「犯人の見当がついたのですが……」     10 「犯人は、静子に、最愛の子供を轢き殺された荒木光一の方だと思います。彼は、静子も憎かったが、その時、一緒の車に乗っていた春山も憎かったのでしょう。示談金がもつれていたこともあって、その憎しみは倍加し、二人を殺すことにして、被害者の家にやってきました。  まず、静子を殺して恨みをはらし、そのあと外から帰ってきた夫の春山を待ち受けて、庭で殺しました。はじめから、春山の方は、土に埋めて、夫が、妻を殺して、失踪したようにみせるつもりだったのでしょうが、予想外に血が遠くまでとび散り、部屋の敷居から入口の床まで、血痕がついたので、そのままでは、春山の死体を埋めても、すぐにわかると思い、入口を変えることにしたのです。ここまでは、ご承知の通りです。  荒木は、南側の壁にたててあった本箱を東側に移し、南側を入口にしてあけ、静子を殺すときに着ていたビニールのレインコートの血を、わざわざ、ふり落して、いかにも、ここが、出入口であったかのようにみせかけたのです。その上、春山の指紋を、静子を殺した庖丁や、新しく作った南側の入口のガラス戸につけて、犯人は、春山であるように偽装したのですが、ここで、大きなミスを二つしています」 「一つは、室内にあった鉢植えや、水栽培の植物を、南側に向きかえなかったことだね?」  一課長が言った。 「そうです。そのため、入口が、今までは、東側であったことがわかってしまいました。もう一つは、本箱を移し変えたとき、急いでいたため、本の並び方が、前と少し変ってしまったことです」 「どういう風に?」 「春山四郎は、図書館の司書です。しかも、生前に、静子が、なげいていた通り、とても几帳面で、整理好きだったのですから、勤め先の図書館の本だけでなく、自分の本も、すべて、図書館の分類と同じ並び方で、並べていたのです。ご存知でしょうか、図書館の十進分類法を?」 「ええ。知ってますよ。たとえば、文学は900番台のところにあるでしょう?」  珍しく、酒見警部が、協力的な態度で言った。 「そうなんです。今、その分類法の本を本屋で買ってきたのです。歴史は200番台、数学や物理などの自然科学は400番台、絵や音楽などの芸術は700番台というようになっていますし、今おっしゃった文学でも、日本文学は910番台、フランス文学なら950番台の番号がついています。そして更に、『源氏物語』なら、913−36というふうに、細かな分類があるわけなんです」  カンのいい捜査一課長と酒見警部は、冬子の言おうとすることが、なにか、大体わかったようだ。 「ところが、犯人の荒木は、工員だし、本はきらいだといっているので図書の分類法など、全然知らないわけです。だから、そんなに、厳密に、分類番号順に並んでいたとは知らず、もと通りに並べたつもりでも、ところどころ間違えてしまったんです」  一課長が、机の中から出したのは、事件発生のときの現場の写真で、本箱のところが写っている分である。冬子は、その一枚をとり、説明した。 「例えば、新居の庭に、何かを植えるつもりだったのか、『日本の庭園』という本や、『フレームおよび温室栽培』という本など、園芸関係の本が、何冊かありますが、一冊は、900番台の文学のところにあり、一冊は、200番台の歴史のところに入っているでしょう? これは、本来、600番台のところになくてはいけない分なんです。それに、この五木寛之の『戒厳令の夜』の上巻は、900番台のところにあるのに、下巻が300番台の政治のところにあるのはおかしいでしょう?」 「きっと、900番台の文学は、本が多くて、ぎっしりつまっているので、本箱の空いている300番台のところに持っていったんだろうな。それとも、戒厳令とあるので、なんとなく政治の本の並んでいるところに持って行ってしまったのかな」  一課長が、虫めがねで、写真に写っている本の題名を確認しながらにやりとした。 「そんなふうなまちがった並べ方をしてあるのが、十冊以上あります。これは、同じ図書館で、司書をしている郷信夫が、犯人だったら、絶対やらない間違いだと思います。それから、もう一つ、郷が犯人でなくて、荒木の方が犯人だということがあります」 「それは?」 「荒木が左ききで、郷が右ききだからです」 「どうしてそれがわかりましたか? 二人とも、さっきは、右手で茶碗をとって飲んでいましたが……」  酒見警部が、驚いたような顔をした。 「私たち検視官は、死体を見て、生前、その人物が、左ききだったか、右ききだったかということも、判定しなければなりませんので、その方法に従って、二人の男を見たのです。まず、拇指の爪ですが、これは、利き手の方が、大きく厚いし、手首のサイズも、利き手の方が太いわけです。荒木は、左手の方が、郷は、右手がそれぞれ、大きく、太くなっていました。次に、腕時計ですが、郷は、左手に巻いていましたが、荒木は右に巻いていました。これは、利き手でない方に巻くのが普通なので、それからみても、荒木は左ききです。次に、煙草ですが、荒木は、本当に吸わないらしく、わかりませんでしたが、郷は、右手の人さし指と中指の間が黄色くなっていたので、右ききは、本当だと思いました。  それから、荒木は、胸のポケットに、私鉄の定期券を入れてましたが、それが、右ポケットに入っておりました。出すときに、左手で出すから右ポケットに入れておくわけです。これで、荒木はいくら右手でお茶を飲んでも、左ききに間違いないと思いました」  直ちに、令状が出され、荒木の家が、捜索された。  その結果、春山静子と同じ血液型の血痕が袖口についたブレザー、春山四郎と同じ血液型の付着した靴下、現場で、自分の顔についた返り血を拭いたらしい春山家のテーブル敷がみつかった。  荒木は、今度は、意外なほどあっさりと、犯行を認めた。  第三話 消えた配偶者     1  江夏冬子は、珍しく、家で、テレビの朝のニュースショウをみていた。  京都府警の捜査一課へ、検視官として赴任して、はじめての休暇だった。ここ数カ月、捜査一課の全員がかかりきっていた事件が解決し、今日は、ゆっくりしていいと、一課長からの許しが出ていたからである。  気がゆるんだせいか、寝床から出るのが大儀で、冬子は、起きなければと思いつつ、ふとんに寝ころがって、テレビの画面をみていた。  蒸発した男女を、それぞれの夫や妻が、テレビを通じて探し、今回、その居場所がみつかって、テレビ局で対面しているフィルムだった。  蒸発した夫は、三原信夫と言って、三十過ぎの、顔は彫りが深くて整っているが、陰気な感じのする男だった。  それにひきかえ、色白、丸顔の妻は、いかにも明るく、積極的なタイプにみえた。妻は、夫の姿をみると、とりすがって泣き、子供のように、「帰ってェ、ねえ、帰って来て」と訴えた。しかし、夫は、黙ったままで、帰るとは、一言も言わなかった。 「ところで、一緒に蒸発された、池由美子さんは、どうなさったんですか? 昨日、テレビ局からお電話したときには、一緒に来ていただけるということでしたが……」  テレビ局員の野口が口をはさんだ。 「昨夜、いなくなってしまったんです。多分、ここへ来るのが嫌だったんでしょう。僕も嫌だったですからね」  三原信夫は、はじめて口をきいた。三原も、行きたくないと言ったのを、今朝テレビ局の車が迎えに行き、無理に連れてきたのだった。 「で、蒸発された理由なんですが、奥さんに対して、どんなところが不満だったんですか、おっしゃって下さい」  テレビ局員の野口が言うと、妻は、泣きながら、夫の腕をゆさぶった。 「ねえ、言って。私が悪いところは直すから、言って……」 「なにも……ないよ」 「じゃ、これで、家に帰っていただけるわけですね?」  野口が、念をおした。 「いや、帰りませんよ」  夫は、妻を冷ややかに見て、きっぱりと言った。 「でも、奥さんは、妊娠六カ月なんですよ。あなたが出られて三カ月ですが、そのとき、妊娠のことはわかっていたんでしょう?」 「ええ、だから、堕《お》ろしてくれとたのんだんですが、きいてくれなかったんですよ」 「あたりまえでしょう。なぜ、そんなこと言ったんですか、お二人にとっては、はじめてのお子さんでしょう?」  テレビ局員が、憤慨したように言った。 「もう、彼女と結婚を続けていく意志がなかったからです」 「どうして?」 「………」 「もうそのとき、一緒に蒸発された由美子さんと、深い関係になっていたからですか?」 「……まあ、そうです」 「それは、勝手じゃありませんか? 親しく、家同士でいききしている近所の奥さんなのに、相手のご主人や、自分の奥さんに申しわけないとは思われなかったんですか。今日は、由美子さんのご主人の池修三さんも、来ておられますよ。あとで会っていただきますが」 「………」 「あなたは、帰らないつもりでも、由美子さんの方は、ご主人が許すと言えば、元にもどるつもりだったんじゃありませんか。だから、あなたは、彼女を、ここに来させないようにした……」 「そんなことはありませんよ。彼女は、絶対に帰りません。帰るはずがないんだ」  三原が、叫んだ。  局員も、二人の話し合いは駄目だと判断して、由美子の夫を呼んだ。  池修三は、三原に比べると、年齢も上で、思慮深く、大人という感じがした。  三原の方は、彼の顔を見ると、身構えるようにしたが、池は、静かに話しかけた。 「三原さん。私が、今回、テレビ局にお願いして、あなた方を探したのは、もし、見つかれば、今までのことは、水に流して、由美子に帰ってきて欲しいからです。私と由美子との間には、子供も一人いることですから、もう一度、やりなおしたいのです。別れてくれませんか?」 「………」  三原信夫は、何か言おうとしたようだったが、思いなおしたようにプイと横をむいた。  池は、そんな三原を見ていたが、一層丁寧なことばづかいでたずねた。 「由美子は、どこにいるんでしょうか?」 「知りませんよ。昨夜、私が、仕事から帰ったら、彼女はいませんでしたよ。私は、ゆっくり、今後のことを相談しようと思って帰ってきたのに。きっと彼女は、今日あなたに会うのが怖かったんですよ」 「というと、会うと、決心がぐらついて、元へ戻るようになるかも知れないことが、怖かったんですか?」  テレビ局員が言った。 「いや、ちがいます。池さん、あなたは、表面そんなに紳士ぶってるけど、内面《うちづら》は悪くて、彼女を、殴ったり蹴ったりしてたでしょう? 彼女は、あなたを、そういう意味で怖がっているんです。彼女も、子供には随分、心を残していましたが、あなたが怖いので、絶対戻らないといってました。だから、テレビ局の人に、無理に説得されて連れてこられるのを恐れて、姿を隠したんだと、私は思っていますよ」 「いい加減なことを、言わないで下さい。私は、妻とは、年齢も離れているし、随分大切にしたつもりです。あんたは、自分の立場をよくしようとして、いい加減なことを言ってるんだ。もし、由美子と会って、由美子が、私と別れたいというのなら、私は、きっぱりと別れてやりますよ。そして、少し位のものは、彼女にやりますよ。とにかく、会わないと、むこうだってきりがつかないでしょう。彼女に会わせて下さい」 「じゃ、自分で探したらいいでしょう」 「あなたが隠してるんだ。私に会わせまいとして。あんたは、あれに夢中なんだ!」  冬子は、テレビから眼をはずして、ため息をついた。冬子は、まだ独身だから、こういう夫婦間のどろどろしたものはわからない。美しい恋愛をして結ばれても、結局、何年か経つうちには、こういうこともおこるのだと思うと、暗い気分になった。  画面に何度も写真の出た、由美子という女性の、美しく憂いを含んだ顔が、なんとなく印象に残った。  彼女は、本当は何処《どこ》にいるんだろうと思いながら、冬子は、テレビのスイッチを切った。     2  風邪気味らしく、一、二時間、うとうとしていた冬子は、電話のベルで、目を覚ました。  受話器を取ると、聞き慣れた捜査一課の橋口部長刑事のいきのいい声がした。 「なんだ、寝てたんですか。事件ですよ。場所は、宇治の木幡《こわた》です。こちらから、道になりますから、寄りますよ」 「そう、有難う。お願いするわ」  冬子が、慌てて飛び起き、髪を梳《と》かし、身じまいを終るのを待っていたように、橋口部長刑事の車が、玄関に止まった。  現場は、国鉄奈良線の木幡駅から、万福寺で有名な黄檗《おうばく》の方へ、少し寄った線路わきであった。  すでに、救急車やパトカーが、踏み切り近くに止めてある。  両側が、菜畑になった線路わきの草むらに、白い布をかけられた死体が横たわっているのが遠くから見える。 「列車に轢《ひ》かれたのかしら?」  江夏冬子は、踏み切りの横から入って歩きながら、橋口部長刑事にきいた。 「第一報は、列車からでなく、線路わきを通ってプールに行く児童が何人かで見つけたんだそうです」 「男? 女?」 「若い女だそうです」  江夏検視官は、死体のそばに到着し、そばに立っていた機動隊員にきいた。 「どんな状況ですか?」 「線路にそって、化粧品が、点々と落ちていました。死体のそばには、バッグがあり、線路わきの草むらには、揃えた靴の上に傘がきちんとおいてありました。一見、自殺風で、列車にとびこみ、引きずられて死亡したという状況です」  冬子は、うなずいて、線路わきに、点々と落ちている口紅、コンパクト、ふたの開いたバッグなどを見てから、死体のそばに屈《かが》み込んだ。橋口が、記録の態勢で控える。  今のところ、自殺か他殺か事故か、はっきりしないので、一課長は、まだ来ていない。  死体の白布が取られると、冬子は、その顔をのぞきこんで、はっとした。今朝のニュースショウで、写真の出ていた由美子という蒸発した人妻に似ているのだ。  アナウンサーが、特徴として挙げていた、眼の下のほくろもある。しかし、冬子は、そのことは黙ったままで、検死をはじめた。  死体の衣類には、血と泥がつき、所々裂けていた。頭部や腕、脚にも打撲傷があり、全身に、無数のかすり傷もついている。 「致命傷は、頭部の打撲による脳内出血、死亡推定時刻は、約十七時間前、つまり、昨夜の八時前後……」  江夏冬子は、はっきりと言い、橋口が、それを筆記した。 「列車に引きずられたんですか?」  橋口にきかれ、冬子は、もう一度、体中の傷を目であらためてから、 「いいえ、これは、列車に引きずられた傷じゃないわ」  と言った。 「列車に飛びこんで轢断《れきだん》されずに引きずられたとしたら、どこか列車に引っかかった支点からはじまって、流れる傷が一定方向にあるものだけど、この死体は、いろんな方向に、傷が走っています。それに、引きずられた場合は、引きずられた場所の、背中とかお腹とか、一面だけに傷があるものなのに、これは、胸にも、背中にも、足にも、腕にも傷があるでしょう。これは、多分、殴られるなどして人為的につけられたものね」 「それに、線路づたいに落ちている血痕も、丸くて、流れていませんね。速度の早い列車に引きずられた場合の血痕は、飛びますから、丸くなくて、エクスクラメーションマークの形に、流れますからね」  橋口も、現場検証には慣れているので、いくらか得意そうに言って、冬子の顔をみた。 「そうよ。だから他殺の疑いが濃いわね」 「じゃ、線路に沿って散っている化粧品や、揃えられた靴などは……」 「偽装じゃないかしら。これは、検視官の管轄じゃなくて、一課の仕事だけど」  すぐに、連絡がとられ、捜査一課の刑事や、鑑識たちが到着した。 「とうとう休みにはなりませんでしたな」  森下一課長は、冬子の顔を見ると、開口一番そう言って笑った。  冬子は、検死の報告と、この死体が、ニュースショウで言っていた蒸発した人妻ではないだろうかということを話した。 「それは、重大なことですね。すぐに、テレビ局に確かめてみましょう」  一課長が、テレビ局に連絡して、関係者が駆けつけた結果、死体は、池由美子に間違いないことがわかった。  他殺というのは、現場を見た森下一課長たちも同意見で、直ちに、宇治署に、「木幡における蒸発人妻殺人事件捜査本部」が開設された。  これからあとの捜査は、刑事たちがやることで、検視官の仕事ではなかったが、被疑者が呼ばれたり、捜査資料が持ち込まれて、激論がかわされている以上、冬子も、無関心ではあり得なかった。  まして、たまたま、ニュースショウで、人間関係を見ていただけに、誰が犯人かということは、興味があった。冬子は検死関係で、宇治の捜査本部へも、何度か顔を出した。  第一番目に、捜査本部へ呼ばれたのは、死んだ池由美子と一緒に蒸発した、三原信夫だった。最後まで、行動を共にしていた人物だけに、三原に対する調べは厳しかった。  取調べには、一課長自らあたった。  ──あなたが、昨夜、家に帰ったとき、由美子さんは、いなかったそうですが、それは、何時ごろですか? 「午後八時すぎです」  ──そのあと、あなたは、どうしましたか? 「家で、ビールを飲んでいました」  ──外へは出ませんでしたか? 「出ました。いつまで待っても、彼女が帰ってこないので、外へ捜しに出て、駅前で、スナックに入りました」  ──それは、何時頃ですか? 「八時半頃です。一時間ほど飲んで、九時半頃帰って来ましたが、彼女は帰っていなかったので、気をまぎらわすためテレビをつけていましたが、見る気もしないので寝床でごろごろしてました」  ──由美子さんは、その頃、あなたの家からそう遠くない線路のわきで死んでいたわけですが、帰ってこない理由を、あなたはどう思いましたか? 「今日、テレビに出るのが嫌で、どこかに隠れたと思いました。彼女は、夫に会うのがいやだと言ってましたから」  ──由美子さんの夫が、テレビのニュースショウで、あなた方を探されたわけですが、それを知ったのはいつですか? 「二、三日前です。テレビは二人ともみていなかったのですが、近所の人が通報したらしくて、突然、テレビ局の人が、訪ねてきました」  ──あなたは、由美子さんと別れて家に戻るつもりで、由美子さんと争いがあったのではありませんか? 「私は、絶対戻るつもりはありませんでした。彼女も、戻る気はありませんでした。子供のことは、気にしてましたけど」  ──じゃ、あなたは、彼女が、テレビ局で、夫や子供と会うと、心がぐらついて戻るんじゃないかと思い、出るなと言って、言い争いをしているうちに、殺してしまったんじゃありませんか? 「絶対ありません。僕は、僕だけ、テレビに出て、相手と話をつけ、妻には、帰らないことを宣言して帰ってくれば、彼女は、戻ってくると思ってたんだ」  ──じゃ、八時前後のアリバイは? 「だから、さっき言ったように、家を出てあちこち探して、八時半ごろには、スナックに入ったんですよ」  ──あなたが、由美子さんを殺し、八時に家を出て、線路に捨ててきたとしたら、ぴったりの時間ですね。 「ひどいことを言うな! 俺は絶対殺してないっ。彼女を愛してたんだ!」  三原の由美子に対する愛は、相当激しく、それだけに、テレビで探し出されたことがきっかけで、彼女が家に戻りはしないかと心配するあまり、殺してしまったのではないかとも思われた。  しばらく、問いつめているうちに、三原が、口走ったことは、もし本当だとしたら、重要なことだった。  ──最後にききますが、あなたは、奥さんのお腹の中にいる、六カ月の赤ん坊が、可愛くはないんですか? 「あれは、僕の子じゃない」  ──えっ、じゃ、誰の子なんですか? 「池修三の子だ」  ──何を言うんですか? あなたが、蒸発するとき、すでに、三カ月だったんですよ。あなたがいなくなってから出来た子じゃないんですよ。 「だから、妻と、池とは、僕が蒸発する前から、関係があったんだ。それを知ったから、僕は、妻に、何も言わず堕ろせといい、妻が、どこまでも、しらをきるので、同じ悩みを持っていた彼女と出来てしまって、蒸発したんですよ」  ──それは、あなたが、自分たちの立場を正当化しようとして言ってるんじゃないかね。 「ちがう! だから、僕たちが蒸発したら、残された二人で、うまくやっていると思ってたんだ」  ──じゃ、なぜ、池さんは、あなた方を探したんでしょうねえ。 「僕は知りませんよ。自分たちの仲を、正当化するためか、由美子に未練があったんじゃありませんか」  ──信じられませんね。あなたの言う通りだったら、二人は、あなた方を探さないと思いますがねえ。 「………」  そのあとは、何をきいても答えず、仕方なく、捜査本部では、彼を一旦帰した。  そして、今度は、池修三を呼ぶことにした。  池は、沈痛な顔であらわれた。  ──由美子さんが亡くなったこと、どう思われますか? 「悲しいの一語につきます。今となっては、テレビで探さなければよかったと、悔やまれてなりません。たとえ、行方がわからなくても、どこかで生きていてくれさえしたらよかったのに……。たった一目だけでも会いたかったです。住所がわかったとき、テレビ局などにまかせず、訪ねていけばよかった……」  池修三は、そう言って、はらはらと落涙した。  ──本当に、由美子さんのところへ、訪ねていきませんでしたか? 「行ってませんよ、行ってたら、うむを言わさず、連れて帰ってますよ」  ──それが、どうしても嫌だと言われ、かっとして殺したということはありませんか。 「馬鹿なこと言わんで下さい。あれだけ愛していた由美子を殺すはずがないでしょう。恥を忍んでテレビで呼びかけた位ですから」  ──だが、あなたは、三原信夫さんの奥さんと関係があり、奥さんのお腹の子は、あなたの子だといううわさがありますよ。 「そんなことはありません。三原家と、私の家は、近所で、家同士、仲よくいききしてましたが、突然、それぞれの配偶者に蒸発され、ただ、呆然としました。それで、お互い同じ立場なので、相談したり、一緒に探しにいったりしましたが、それだけの関係です。男と女だから、すぐにそういう卑しい想像をするんでしょう」  ──人がうわさしているだけでなくて、三原信夫さん自身が言っていますよ。だから、自分は蒸発したのだと。 「それはひどい。ひどいことを言う人ですねえ。それが本当だったら、蒸発しないでも、話し合って、妻を交換すればすむことだし、私だって、テレビで探したりはしませんよ」  ──テレビで探すことは、三原杉子さんは、反対だったんじゃありませんか? 「どっちかと言うとそうです。テレビなどで呼びかけたら、たとえ、みつかっても、あの人は、意地でも帰ってこないんじゃないかっていうのが理由ですが、本当は、夫に逃げられたなんて、天下に公表するのが、カッコわるかったんじゃありませんか。カッコわるいと言えば、夫に蒸発された妻よりも、妻に逃げられた夫、つまり、私の方が、よほどカッコわるいのですが、私は、どうしても由美子に戻って欲しかったので、恥も外聞もかまわず、テレビにたのんだのです」  ──三原さんの奥さんの予想通り、ご主人は、テレビで、帰らないと言いつづけましたね? 「でも、こうして、由美子が、いなくなれば、彼は、帰るでしょう。結果としては、テレビで探してよかったと言えるんじゃありませんか。それに比べ、私の方は裏目に出てしまいましたよ」  ──由美子さんを殺した犯人は、誰だと思いますか? 「三原信夫か、杉子かどっちかでしょう。三原が殺したとすれば、由美子が、テレビに出れば、世間の思惑もあるし、子供もあるので、最終的には帰ることになるかも知れないと思って、言い争っているうちに殺してしまったか、もう、由美子にはあきて、奥さんのところへ帰りたいと思っても、由美子が、別れないというので、邪魔になり殺したのかどちらかでしょう」  ──三原杉子さんが、由美子さんを殺したとしたら? 「由美子が憎かっただろうし、夫に、家に帰って貰いたい一心でしょうね」  ──最後にききますが、あなたは、昨夜、八時前後どうしていましたか? 「七時頃、三原の奥さんがやってきて、明日、本当に、蒸発した二人は出てくるだろうかとか、どういう風に喋ったらいいだろうかとか、どうでもいいようなことを、いつまでも言っているので、この調子では、一晩中でも喋っているだろうと、少しうるさくなり、七時半頃になって、パチンコヘ行くからといって立ち上ると、私も行くといって、ついてきました。一時間あまりやっていて、九時半頃帰って来て、田舎にあずけてある子供に電話してから、寝ました。ですから、寝たのは、十時頃です」     3  警察では、次に、三原杉子を呼んだ。  三原杉子は、白いワンピースの袖から、肉感的な太い腕を出し、顔の汗を拭きながら入ってきた。  ──池由美子さんが亡くなりましたよ。  捜査一課長は、開口一番、そう浴びせて、杉子の顔をみた。 「ええ。さっききいて、びっくりしました。やっぱり、テレビで、探したりせなんだらよかったと思います」  ──そんなことはないでしょう。これで、はっきりと、あなたのご主人は、あなたのもとへ、帰ってくるでしょう?  一課長が、皮肉っぽく言った。 「いいえ、これで、彼は、永久に帰ってこなくなったと、私は、思っています」  ──どうしてですか? 「夫と由美子さんと二人で、何年か一緒に暮して、お互いに、幻滅を味わった頃、テレビで探すなり、自分で帰ってくるなりして、戻ってきたら、本当の意味で帰ってきたことになりますが、今はまだ、由美子さんに、強く魅《ひ》かれているときで、そのときに、彼女が死んでしまったら、彼は、永久に帰ってこないでしょう。彼は、そういう人ですわ」  ──なるほど。  一課長はため息をついた。  ──それで、あなたは、テレビで呼びかけるのを、ためらっていたわけですか? 「はい、まさか、こんなことになるとは思ってはいませんでしたが、今、呼びかけても、彼は、由美子さんに夢中で、帰って来ないだろうと思ってました。それに、今は、お腹の大きい、こんな恰好ですから、ただでさえ美人の由美子さんと並んでテレビで比べられるのは恥ずかしかったし……」  ──でも、そんなカッコウをつけてる場合じゃないんじゃありませんか。もう六カ月にもなり、働けなくなるだろうし、赤ん坊も生まれるというのに。 「今の職場は、生まれるぎりぎりまで働くことが出来るし、生まれて二カ月もたてば、保育所に預けて、また働くつもりでした。そして、子供と二人、つつましく生活しているところを、彼が見たら、きっと、いじらしく思って帰って来てくれると思ったのです。由美子さんは、自殺して、私に、永久に勝ったのですわ」  杉子は、涙を流した。  ──由美子さんは、自殺じゃありませんよ。殺されたんです。  一課長が、杉子の反応をためすように言った。 「えっ、じゃ、夫が、あの人を殺したんですか?」  ──どうしてそう思うんです。 「夫なら、彼女を、池さんに帰したくないと思って、殺すかも知れないと思ったのです。それとも、池さんが、殺したんですか?」  ──いや、それは、まだわかりません。 「なぜ、殺されたとわかったのですか?」  ──それは、法医学的にみて、列車に引きずられたか、殴ったりして殺したかということはわかるのです。例えば、引きずられると、傷が、同じ方向に走るはずですが、そうはなってなかったし、血の飛び散り方とか、いろいろあるわけです。  一課長は、子供をさとすように説明した。 「とにかく、自殺でも、他殺でも、私にとっては同じです。由美子さんは、死ぬことによって、夫の心の中に、永久に生き続けることになるのですから……。夫は、随分、ショックを受けているでしょう?」  ──そうですね。お会いになってみたらどうですか。駄目で、もともとでしょう? 「そうしてみます」  ──ところで、これは、殺人事件なので、ご主人にも、池さんにも、おききしたのですが、昨夜、八時前後、あなたはどうしておられましたか? 「アリバイですか。私は、七時頃、池さんのところへいって、テレビのことを打ちあわせしたあと、池さんが、パチンコに行くというので、私もついていきました。一時間あまりして、少したまったので、池さんを探すと、池さんは、玉が、殆んどなくなっていました。そばに立ってみていましたが、すぐに、全部なくなったので、私のだけ景品にかえて、帰りました。家につくと、九時半でした」  ──それから? 「翌日着ていく服にアイロンをかけたり、もし夫が帰ってきた場合のことを考えて、部屋を片付けたりして寝ました」  ──で、ご主人には、何時《いつ》会われますか? 「今すぐだと、由美子さんが死んで、興奮しているでしょうから、二、三日たってから行きたいと思います。家がわかりませんので、テレビ局の人に、一緒に行っていただくつもりです」  それで、三人に対する、一応の事情聴取は終った。刑事たちは、その事柄について、裏づけをとるため、捜査に散った。     4  江夏冬子は、捜査一課室の中にいて、これらの捜査過程を眺めながら、自分なりの推理を組みたてていたが、まだ、推理を決定的にするきめてはなかった。  翌日の昼前、捜査員は、ほとんど出はらって、一課室には、江夏検視官と、二、三の刑事しかいなかった。  十一時四十分。第二の事件をしらせる電話が鳴りひびいた。  場所は、宇治市木幡の一軒屋で、死亡者の名前は、三原信夫ときいたとき、江夏冬子は思わず、受話器を握りしめて、いつもの検視官らしくない質問をしていた。 「他殺ですか? 死因は?」  受話器のむこうの声は、京都府警の機動隊員だと名乗ったあと、 「寝床の中で、服毒して死亡しており、遺書らしきものもあって、自殺のようですが、そちらで扱っておられる殺人事件の被疑者であることがわかりましたので、検死をおねがいしたいと思ったわけです」  と言った。  江夏冬子は、すぐに、パトカーで、現場に駆けつけた。コンビを組んでいる橋口部長刑事は、前の事件の捜査で、宇治署管内をききこみにまわっているので、すぐに、連絡をとってもらった。  まわりを、茶畑と、夏草の生いしげった野原にかこまれたその一軒屋は、もともと、茶摘みさんが食事をしたり、摘んだ茶をおいたりするために、建てられたもので、五月中旬から、末にかけての茶摘みの時期以外は、空いているのを、蒸発した二人が、頼んで借りていたものだった。  部屋は、六畳と三畳の間以外は、土間になっている。その六畳にふとんが敷かれ、男が横たわっていた。  部屋は、きちんと整理され、白いシーツのかかったふとんが南むきに敷かれ、上ぶとんが、死者の鼻あたりまでかかっていた。  江夏検視官は、そばにひざまずいて、まずふとんをめくった。  確かに、一度見たことのある三原信夫の、少し紅みを帯びた顔が、そこにあった。 「テレビ局の人が、訪ねてきて、死んでいるのを発見したんです」  宇治署の林田警部が、冬子に説明した。 「青酸性毒物による中毒死ですね」  冬子はそう言って、死者の唇に鼻を近づけた。かすかに、アーモンドのかおりがした。  丁度その時、遅くなってすみませんといって、橋口部長刑事が駆け込んできた。  冬子は、ほっとして、いつものペースで、検死をすすめていった。  検死が終ると、橋口は、書きとめた記録をみながら、 「死亡推定時刻は、昨夜の十一時頃となってますね、というと、自殺するつもりで、寝床へ入って、毒をあおったんでしょうか?」  ときいた。 「一応そういうことになるでしょうね。枕もとには、遺書と、青酸カリ入りのコーヒーカップがありますからね」  冬子は、そう言いながら、コーヒーカップを手袋をはめた手で持ちあげ、匂いをかいだ。そして、指紋その他の検出をするため鑑識にわたした。  次に、冬子は、遺書を開いてみた。 僕は、二度と家にはもどりません 由美子のところへいきます どうか幸せにくらして下さい さようなら  白い紙に、きちんと書かれ、四つに折ってあった。 「本人の筆跡でしょうか?」  橋口が、冬子にささやいた。 「本人の字は、他にありますか?」  冬子の問いに、宇治署の林田警部がこたえた。 「先日の、池由美子殺害事件のとき、この三原さんに、事情を書いてもらった紙がありますから、照合しましょう」 「蒸発がみつかって、私の方のショウに出ていただいたとき、サインしていただいたものがあります」  そばから、テレビ局員も口を添えた。 「では、筆跡鑑定は、鑑識さんにお任せすることにして、たとえ本人が書いたのだとしても、それが、いつ書かれたものか、本当に遺書なのかということも、調べなければならないでしょうねえ」  江夏検視官は、そう言って、もう一度、死体をじっとみた。それから、橋口に、死体をかかえあげてもらって、死体の下になっていたふとんを、めくってみたりして、詳細に調べ出した。 「ねえ、橋口さん、この敷ぶとんの、足もとの方の匂いをかいでみてくれない」  橋口は、不思議そうな顔をしたが、すぐに言われた通り、ふとんに顔を近づけた。 「別に変った匂いはしませんよ。ポマードの匂いがするだけですよ」  冬子は、ほほえんだ。 「そうなのよ。よくみると、白いカバーの足もとの方が、少し、薄汚れしていて、毛髪などもついているでしょう。これは、ふだんは、こちらを頭にして寝ていたんだと思うの。だから、いつも、髪の毛があたる方に、ポマードがつき、よごれているのよ。それに、ふとんをめくって裏をみると、赤い糸でしるしがついているでしょう。これは、几帳面な主婦がやる方法で、ふとんを敷くとき、頭になる方の印をつけているわけなの。これからみても、足と頭の方が反対になっているから、これは、他殺で、殺したあとで、勝手をしらない犯人が、ふとんに寝かしたということになるのじゃないかしら」 「なるほど、本人が死ぬのだったら、いつも通りに寝ますね」 「それに、この寝床は、ここしばらく、多分、由美子さんが死んでから、万年床になっていたと思うの。ふとんの下に手を入れると、この夏のあつさなのに、じとっと、つめたいし、その上、ほら、こんな紙が入ってるでしょう」  江夏冬子が、手にもった広告のチラシをみせた。それは、新聞折り込みの大売出しの広告で、日づけは、四日前のだった。敷きっぱなしだったふとんの下に入ってしまったのだろう。 「毎日敷きかえているふとんなら、死ぬ前で、心が動転しており、上と下を間違えて敷いてしまうこともあるが、万年床なら、いつもと反対の向きになって寝るというのはおかしいですね。どうしても、そうしたいときには、ふとんをぐるっと回す筈ですね」  橋口部長刑事が勢いこんで言った。 「そうですね。これが、もし、死体の向きが、西向きとか北向きというのだったら、死ぬつもりなので、いつもとちがった向きにねるということもあるけど、いつもは、北向きなのに、わざわざ南向きにねるのはおかしいわ。きっと、なにかの都合で、枕が、足もとの方に転がっていたので、いつもの習慣を知らない人物が、こちら向きに寝ていたと勘ちがいしたのね」  冬子の説明にうなずいていた橋口は、張りきった。 「じゃ、これは、自殺とみせかけた他殺ですか?」 「多分ね。このふとんのこと以外でも、いろいろ不自然なことがあるわ。例えば、吐いたあとがあるのに、嘔吐《おうと》物が、ふとんには全然ないこと、苦しんで死んだはずなのに、上ぶとんを、鼻の上まできちんとかけていること、それに、ほら、隣りの三畳のたたみの上に一カ所蟻がたくさん死んでいる場所があるでしょう? あれは、あの場所で、毒入りコーヒーを飲まされて、コーヒー茶碗がひっくりかえったところだと思うのです。コーヒーに入っていた砂糖に蟻がたかって、青酸の毒で死んだのですわ。三畳で死んだ筈なのに、六畳の枕元のコーヒー茶碗に、なみなみとコーヒーが入っているのはおかしいわ」 「捜査一課に連絡しましょう」  橋口部長刑事が、勢いよく立ち上った。     5  宇治橋を渡って右へ折れたところを、真っ直ぐに行くと、宇治警察署がある。  ここの二階に、池由美子と三原信夫殺害の合同捜査本部が設けられて、京都府警からも、多くの捜査員が出向してきている。  今回は、江夏検視官も、橋口部長刑事や、森下一課長と一緒に、やってきて、捜査会議に加わった。どちらの事件も、自殺に偽装した他殺であることがわかったのが、検視官としての冬子の科学的推理によるところが、大だったからだ。  第一の事件の池由美子殺しの容疑者として、捜査本部では、池修三、三原杉子、三原信夫の三人を考えていた。流しの犯行だとしたら、ハンドバッグのものを線路に沿って、点々と残したり、靴を揃え、傘をおくなどの偽装をしないだろうという見方からである。  現場を、一刻でも早く、離れる方が、みつかる可能性が少ないのに、危険をおかして、わざわざ偽装するのは、よほど、疑われやすい人物だと思われるのである。  しかし、第二の事件で、容疑者の一人、三原信夫が死んでしまい、第二の事件の容疑者は、三原杉子と池修三の二人になってしまった。では、第一の事件の犯人も、この二人のうちの一人かと言うと、そうは言いきれなかった。三原信夫が、池由美子を殺したのを知った人物が、復讐のため三原を殺したともいえるからである。 「……とにかく、池修三と、三原杉子の二人のうちのどちらかが、三原信夫を殺したということは間違いないと思います。この場合も、現場を偽装して、由美子を殺した自責の念から、三原が自殺したようにみせかけています。ということは、自殺でなく、他殺だとわかれば、当然疑われる立場にある人物が犯人だという線が強くなってくるからです」  宇治署の林田警部がいった。 「第二の事件の時の両人のアリバイはどうですか?」  一課長がきいた。 「それが、二人とも就寝中だというのです。事件の発生が、午後十一時なので、そう言われても仕方がありませんが、両方とも一人で住んでいてアリバイはありません」 「池には、子供がいたんでしたね?」  橋口がきいた。 「ええ、でも、妻が蒸発してから、田舎の両親のところへあずけていて、今は一人です」  林田警部が答えた。 「犯人が、十一時という時間を選んだとしたら、なかなか利口だな」  と一課長。 「そうです。前の事件のときは、三原が殺したのでないとすれば、犯人は、三原が帰ってくる午後八時より前に、由美子を誘い出さねばならず、午後七時という時間になったのです。このときのアリバイは、二人とも、パチンコに行っていたということでしたが、これも、はっきりしたアリバイにはなりません。一方が、パチンコに熱中していれば、もう一方は、途中でも、抜けることも出来ますからね」 「二人が、共犯ということはありませんか?」 「あり得るとは思いますが、その場合の動機が、邪魔ものを殺して、自分たちが、一緒になりたいというのだったら、ちょっと弱いですね。テレビで探さなければ、蒸発した二人はみつからなかっただろうし、そうすれば、あとに残った二人が、一緒になっても、誰も、とがめだてはしないでしょう」 「それに、共犯だったら、もう少し、うまいアリバイをつくるんじゃないかなあ」 「では、今後の方針としては、池修三か、三原杉子の、どちらかの単独犯ということで、第二の三原信夫殺害事件の方を中心に調べることにしよう。そして、どちらかが、犯人ときまった時点で、もう一人の人物も共犯なのかどうか、前の事件も同一犯なのか考えればわかるのじゃないかと思うな」  一課長が、そう言って締めくくった。  それから何日か、捜査が続いたが、これというきめ手はみつからなかった。  久しぶりに、捜査一課室に帰って来た森下一課長に、江夏冬子は、犯人がわかったかどうかきいたが、一課長は、疲れた顔で首をふった。 「駄目ですなあ。第一の事件のとき、線路に散乱していた化粧品や、並べられた靴や傘、第二の事件のコーヒーカップや遺書など、どれからも、犯人と思われる指紋は検出できないし、二つの事件とも、夜ということもあって、目撃者もないんですわ。犯人が、三原杉子の方だとすれば、二人の男が、愛しているのは由美子の方で、自分ではないことを知ったのが動機だろうし、池修三の方だとすれば、折角探しても由美子が、自分のところへ帰ってこないことがわかって、二人を殺したのだろうと想定されるのですが、とにかく、今のところどっちかわからへんですなあ」  一課長は、そう言って汗をぬぐった。 「とにかく、二人のうちのどちらが犯人か自信があれば、こちらへ呼んで、ハッタリもかけられるし、家宅捜査《ガサイレ》して調べることもできるんですがねえ」  一課長は、ため息をついて、冬子の顔をみた。冬子は、一課長の顔をしばらくみつめていたが、やがてはっきりと言った。 「犯人は、わかっていますわ。女の方です。私が責任を持ちます」 「えっ、本当ですか?」  冬子は、一課長に、理由をつげた。一課長が、大きくうなずいた。     6  その日と、その翌日、二日続けて、三原杉子が、捜査本部に呼ばれた。杉子は、不快をあらわにしていた。 「どうして、私が、呼ばれるんですか。知っていることは、みんな言いましたわ」 「今日は、事情をきくためでなく、何故あなたが、二人を殺したかききたくて呼んだわけですよ」  一課長がゆっくりと言った。 「私が、二人を殺したというんですか? そんな馬鹿な!」  テレビでみせた、やさしい女という印象をかなぐりすてて、杉子は、不敵な顔をした。 「ええ、そうですよ。あなたは、池さんと、一緒に行ったパチンコ屋で、三百円だけ玉を買うと、それを、紙に包んで、バッグに入れたまま、外へ出た。そして、テレビ局の人からきいていた、二人の隠れ家へ行った。翌日のテレビに、由美子さんが出そうもないということを、局の人にきいていたから、何とか、話をつけようと思ったのですね?」 「私は、パチンコ店にいたんですよ」  一課長は、かまわず、続けた。 「はじめあなたは、お腹の大きい自分が、必死となって頼めば、由美子さんは、別れてくれると思ったのだろうが、彼女の決心は堅かった。ある時点で、あんたは、由美子さんに、哀願することはあきらめ、あらかじめ、駄目だった場合を想定して考えていたとおりに、彼女を殺すことを決心した」 「………」 「それだけ、かたく思っているのなら仕方がない。私の方が、ひきましょうと、ききわけのいいとこをみせ、その代り子供が生まれるので、お金がほしいと言って相手を安心させた。そして、その話をしたいので、駅まで送って欲しいといったのじゃないかね」 「もしも、そうだとしても、彼女が外に出ないでしょう」 「それは、あんたが、巧妙に言って連れ出したのだ。ここで話していて、彼が帰ってきて顔をみると、私も、決心がにぶるから、外へ出て話したいと言えば、由美子さんの方でも、彼に会わせたくないので、外へ出るんじゃないかね。相手は、身重の女だし、警戒せずに出てくるだろう」 「私は、パチンコをしてたんですよ。八百円分もとろうと思えば、よほど熱中しなければできませんよ」 「昨日、おききしたところでは、五十三番の台だとかいうことでしたね?」 「ええ。九時すぎまでずっとそこでがんばってました」 「おかしいなあ。調べたところ、その台は、八時半頃、打止めになったはずなんですがねえ……」 「………」 「あなたは、それで、何個とったんですか? 八百円分とか、言われましたね」 「ええ、玉二百個です」 「景品は何と換えましたか?」 「人形です」 「玉は、足りましたか?」 「ええ……あ、一九九個で、一個足りませんでしたので、その分、お金ではらいました」 「あなたが行ったパチンコ屋で、計算の紙を貰ってきましたよ。これでしょう? 一九九+一と書いてあり、裏に、換えた景品の名前が書いてあります。Bの人形ですね」 「ええ。そうよ。だから、ひょっとすると、台は、五十三番じゃなかったかも知れないけど、とにかく、あの店で、私がパチンコをしてたことは確かなんですよ」 「いいや違うね。あんたは、池さんと一緒に、店に入ったとき、池さんの目の前で、三百円分の玉を出したあと外へ出て由美子さんを殺しに行き、そのあと、帰ってきてから、五百円分、玉を出したんだ。両方あわせて、八百円の玉をもって、池さんのところに行き、それを見せて、景品に換えたんだよ」 「証拠がありますか?」 「由美子さんの死体のあった線路わきに、パチンコの玉が、一個落ちていた。店の人にみせたところ、あんた達が行った店のものだった。だから、あんたが、換えようとしたとき二百あるはずの玉が、一個たりなかったのだ」 「うそでしょう!」 「本当だよ。あんたは、パチンコに、そう何回も行ったことはないのに、自分の持っている玉が、いくつあるか知っていたらしいね。普通だったら、玉がいくつあるか機械に入れて数えてもらってから、その数にあった景品をとりにいくのに、あんたは、迷わず、人形のところへ行って、人形をとってから、景品交換所へいった。そして、換えようとしたら、一個たりないと言われ、そんなはずはないというような顔をして、首をかしげたそうじゃないか。これは、一緒にいった池さんが証言している。それはそうだろう。一度もはじいていないのだから、三百円と五百円分を足した八百円分、二百個があるはずだと思ったんだよ」 「池さんが、落したかも知れないでしょう」 「もし、池さんが、犯人なら、玉をゼロにしないと思うよ。犯人の心理として、一時間半、じっとやっていたと思わせるために、玉をためておくと思うんだがね」  そのとき、杉子は、急に、椅子を立ち上った。 「さっきからきいていれば、心理だとか、なんだとか、みんな推測ばかりじゃないの。私が二人を殺したという、ちゃんとした証拠がなければ、帰らせて貰うわ」 「ちょっと待ちなさい。ちゃんとした証拠もありますよ」  一課長は、杉子をもう一度、すわらせた。 「あんたが、由美子さんを殺した日、着ていた服を、昨日あんたがここへ来ている間に鑑識で調べたら、線路わきに生えていたトキワススキの穂がついていたよ。あのススキは、太平洋諸島から、日本の関東南部までの海岸地方にしか生えていない珍しいススキで、多分旅行者が、窓からすてでもしたのが生えたのだろうが、ここらへんではもちろん、関西ではみられないススキだよ。  それに、あんたは、蒸発した二人が住んでいた家へ、一度も入ったことがないということだったが、あんたの毛が一本、死体が寝ていたふとんに、くっついていたよ」 「でも、私が、コーヒーに毒を入れたという証拠はないわ!」  そのときまで、そばで黙ってきいていた江夏検視官が、突然言った。 「あなた、いつもここへくると、喉がかわくと言って、お茶をがぶがぶ飲むでしょう。だのに、さっきからそのコーヒーに手をつけないのは、彼を殺したことを思い出すからじゃないのかしら。コーヒーは飲めないんじゃない?」  杉子は、冬子を睨みつけた。 「あなたは誰よ? コーヒーを飲まなかったのは、今日はあまりにも、心外なことを言われて腹が立ったからよ」 「じゃ、お飲みなさいな」 「飲むわよ、飲めばいいんでしょう?」  杉子は、眼をつぶるようにして、がぶっとコーヒーを飲みこんだ。 「お砂糖は?」 「いらないわ。太ると嫌だから、私は、昔からお砂糖は入れないの」  杉子は、一息に飲みおわると、カップをかちんと机の上においた。  江夏冬子はにっこり笑った。 「あなたは、やっぱり左ききね。そして、お砂糖を入れずにコーヒーを飲むのね。これは重要なことよ」 「………?」 「死体の枕もとに置いてあったコーヒーカップの写真が、ここにあるけど、ほら、カップの把手《とつて》が左側にいっているでしょう? これは、左ききの人がおいたのよ。池さんも、殺されたあなたのご主人の三原さんも、右ききだから、置くとしたら、カップの把手を右におくと思うわ」 「死んだ彼が、左手で持ったかもしれないでしょう? 左ききだけが左で持つとはかぎらないわ」  杉子は、反撃した。 「カップの把手には、死者の右手の拇指の指紋がありましたよ。でも、そのとおり指を置くと、カップが持てない場所にあるので、これは、偽装で、あおむけに寝かせてある死者の右手をとって捺《お》したものだと思われるのです。そして、枕元のコーヒーには、毒は入っているけど、お砂糖が入ってない。三畳で、蟻が死んでいたところのコーヒーには、お砂糖が入っていた。死体解剖の結果も、砂糖入りコーヒーを飲んでいるのよ。ということは、犯人は、三畳で、三原さんに、砂糖と青酸入りのコーヒーを飲ませて殺し、死体を六畳のふとんの上に運んだ。三原さんが飲んだコーヒーは、本人が死ぬとき、落してこぼしてしまったので、もう一度、あわてて作って、青酸を入れ、枕元においた。しかし、カップに砂糖を入れるのは忘れた。蒸発したときにおいていった手紙を、遺書として置いたり、指紋をつけたり、色々しなければならぬことが多かったので、うっかりしていつもの習慣で、砂糖を入れるのと、カップの向きを、右ききにするのを忘れたことになりますね。そして、これに、合致する人物は、あなたしかありません」  冬子は、更に続けた。 「私が、一番最初、あなたに目をつけたのは、線路に散らばっていた化粧品を見たときなのよ」 「………」 「あれは、女じゃなければ出来ない偽装だったわ。列車に引きずられた人のバッグの口があいて、中身が線路沿いにこぼれたという感じで、化粧品が、点々と落ちていたけど、最初が、化粧水、それから、ファウンデーション、頬紅、コンパクト、アイライン、口紅というように、|化粧する時の順《ヽヽヽヽヽヽヽ》になっていたわ。あなたは、女だから、バッグから出すとき、無意識に、化粧する時の順になっていたのよ。男だったら、手につかんだ順に捨てていく筈だわ──」  杉子は、二人の男が愛しているのは由美子で、自分は、どちらからも捨てられたと知り、殺人を犯したのだった。  第四話 水仙の花言葉は死     1  午前九時三十二分。  京都府警本部通信指令室に、変死の一一〇番が入った。直ちに、ここから、捜査本部、機動隊、鑑識、所轄署に連絡がとられ、緊急配備が敷かれた。 「容疑事件ガ発生シマシタ。場所ハ、伏見区深草西出町ノ一軒屋。至急出動セラレタシ」  捜査一課にいた検視官の江夏冬子は、事件発生の知らせをきくと、検死用のカバンを持って、階段を駆け降りた。そして、待機していたパトカーの一つ、調査官車にとび乗った。すでに、コンビの橋口部長刑事は乗り込んでいて、間髪を入れず車は発車する。  車の中で、冬子は珍しく、橋口部長刑事に話しかけた。 「深草西出町というと、私の友達がお嫁に行ってるところなんだけど、一体どんな事件かしら?」 「こんなに朝早くの事件というと、たいてい、夜中に死亡したのを、朝、発見したというのが多いですなあ」 「殺人かしら?」  容疑事件というだけで、内容は知らされないから、何が起ったのかは、さっぱりわからない。 「これだけの緊急配備ですよって、殺人事件か、殺人の疑いのある変死体ですわ」  柔道三段で、いかつい顔をした橋口部長刑事が、前方をみつめたままで答えた。  直違橋《すじかいばし》八丁目を西に上った山手にその家はあった。  冬子たちが到着するのと同時に、十台以上のパトカーや機動隊の車、鑑識車が入口にとまった。  死体のあったのは、玄関を入ってすぐの八畳の和室で、内障子がしまり、東側の床には、水仙の花がきれいに生けてあった。  死体は、二十七、八歳の和服の女性で、中央におかれた座敷机によりかかるようにして倒れ、その横に、ココアの入ったコーヒー茶碗がひっくりかえっていた。 「松原雪子さん、二十八歳で、一人ぐらし。昼は、会社につとめ、夜は、お花を教えている人だそうです」  伏見署の警部が、そばに来て言った。  冬子はうなずいて、死体のそばに坐り、検視をはじめた。検視官付き部長刑事である橋口が、横で記録をとる。 「死体の姿勢は、横臥位、身長百六十センチ、やせ型、着衣の乱れ、特に裾の乱れなし、顔面鮮紅色……」  と、まず、外表所見を調べていく。  途中で府警の捜査一課長がやってきて、一段落するのを待って声をかけた。 「原因は何ですか?」 「青酸性毒物による中毒死ですわ。多分、この中に入っていたのだと思います」  冬子は、そう言って、傍のコーヒー茶碗を指《さ》した。 「死亡推定時間は?」 「今から十三時間から十四時間前、つまり、昨夜の七時から八時の間だと思いますが……」 「自殺か他殺かはわからないでしょうな」  一課長は、緊張した顔できいた。 「他殺ではないかと思います。着物の裾が、この姿勢では乱れるはずなんですが、きちんと合わされていますし、この姿勢は、死んだあとから動かされたらしく、ひじの張り方や、足指の立て方などが、今むいている恰好からは不自然なんです」 「発見したとき動かしたのかな?」  一課長が、発見者にきこうとするのを冬子はおしとどめて続けた。 「いえ、死斑が、今の姿勢の通り出ていますから、動かしたとしたら、死んでから、三十分か一時間の間です。左手の甲に、べったり口紅がついていますから、多分、死亡時は、うつ伏せで、手の甲の上に唇がくっついていたのだと思うのです。それを、何かの都合で、三十分か一時間たってから、ごろりと横むけにしたのだと思います。体の下に、何か落ちてないか探したのかもしれません。とにかく今は、唇と手は、離れた場所にあります」 「なるほど、実は、こちらも、気がついたことが一つある」  と、一課長は、座敷机の上を指さした。 「あの机にかけてあるテーブル掛けのむかい側に、ココアが一、二滴こぼれているんだが、これは、むかい側にも、ココアの茶碗があって、人が坐っていたということになると思うんだ」 「つまり、他人がむかい側にいたということですね?」  冬子はうなずいた。 「そのコーヒー茶碗は?」 「洗って籠《かご》に入ってる。もし犯人がいたとしたら、客のあったことを隠そうとしたんだろう」  刑事たちは、方々に散って、盗まれたものはないか、遺留品がないか熱心に調べている。  冬子も、今度は、衣服をぬがせ、丁寧に検死を続けた。  一通り視《み》終って、検視の書類が出来ると、死体は、解剖のためにタンカに乗せて運び去られた。冬子も帰り仕度をしているところへ、刑事の一人が、死体の発見者を連れて来た。     2  それは、赤ん坊を抱いた若妻だったが、なにげなくその顔を見て冬子は驚いた。むこうも驚いた。 「江夏さんでしょう?」  それは、江夏冬子とは、高校が同じで、仲の良かった石野洋子という友人だった。 「あら、あなたが発見したの?」 「ええ、私の家は、この近くなのよ。朝、ゴミ当番の木札を廻しにきて発見したの。びっくりしたわ。朝なのに、電灯がついているんで、おかしいと思って縁側からのぞいたの」 「死体に触った?」 「いいえ。亡くなってること、縁側から見ただけでもわかったので、すぐ、一一〇番したわ」  冬子と発見者が友人とわかったので、捜査一課長は、二人に話させておく方が、自然に話がきき出せると判断したらしく、何も言わずそばでじっときき耳をたてている。それを察したので、冬子も話を捜査のたすけになるような方へ持って行った。 「亡くなったのは、昨夜の七時から八時頃の間だと思われるんだけど、その頃誰か見なかった……」 「さあ、ここは一軒屋で、近くといってもちょっと離れているから気がつかなかったわ。でも、お花のお弟子さんは、ゆうべはどうだったのかしら。大抵夜は八時までお花のおけいこよ。昨日は、水仙だったと思うけど」 「水仙?」  そう言って、冬子は思わず床の間の水仙へ目を走らせた。石野の方からは、見えない位置にある。 「ええ、そう、水仙なの。いつも子供がお菓子を頂くので、夕方、もらいもののココアをさしあげたら、水仙を少しいただいたわ。あと一人いらっしゃる方の分だけのけておけばいいので、あまったのあげますわとおっしゃって」 「ココアは、昨日の夕方、あげたものなの?」  思わず、冬子の声が高くなった。 「ええ。こんなことになって困ってるの。でも、私、口をきってない新しいココアの罐をあげたのよ。もらいもので、箱に、コーヒーやらお砂糖やらとセットになって入っていた中からとり出して持っていったので、絶対毒なんて入ってないわ。あとで、ココアの罐調べて頂戴。おねがい」  洋子は、真剣な眼をして冬子を見た。 「大丈夫よ。この部屋の屑籠に、罐切りで丸く切り取ったふたが入ってたわ。それに、あなたが毒入りのココアを渡したのだったら、私があげたのだと言わないでしょう」  そうは言ったが、冬子は、もし、この友人が犯人だったら……と考えて、不安になった。高校時代、明るく、純粋で、無邪気な性格だったが、それから十年もたっている。どんな心の屈折があったかわからないのだ。やらないという保証はどこにもない。  冬子の気持を一瞬の沈黙から察したらしく、一課長が横から言葉をはさんだ。 「昨日の夕方まで、このココアがなかったことがきけて、大変たすかりましたよ。すると、いよいよ、このテーブルかけのシミは、昨夜出来たものということになりますなあ。鑑識が、コーヒーや紅茶ならこんなシミにはならないと言ってますので」 「で、お花のお弟子さんというのは、何人くらいいたのかしら?」  冬子が、石野に質問した。 「私も、最初の頃習っていたんですけど、この子供が出来たのでやめたの。今は、大体、十二、三人じゃないかしら。土曜、日曜の日中が多くて、夜分は一人か二人でしたよ」  泣き出した赤ん坊をあやしながら石野は答えた。 「昨日来る予定だった人を知らない?」 「さあ……この近くの沢田さんにきいたら知っていると思うわ。ずっと習ってる人ですから」 「ところで、この人は、ずっと一人ぐらしだったんですか?」  一課長が、横からきいた。 「お母さんと住んでらしたんだけど、三年前に亡くなって、ずっとお一人ですわ」 「つきあってた男性はいなかったんですか?」 「いましたよ」 「いた? 誰ですそれは」 「同じ会社に勤めている佐伯秀夫さんという人です。同じくらいの年齢ですが、もう五年間ぐらいつきあっていると言ってました」 「あなたは会ったことがありますか?」 「ええ。背が高くて鼻の高いハンサムな人でした。カメラがうまくて、展覧会に出したお花の写真をとってパネルに引きのばしてあげたり、とてもきさくな人でしたわ」  そのあと、いくつかの質問をしたあと、捜査一課長は、礼を言って石野を帰した。江夏冬子も、それをシオに捜査一課室に帰ってきた。  あとの捜査は、刑事たちの仕事だからである。     3  翌日の昼前、冬子は、捜査一課室の自分の机のところで、ぼんやりとしていた。捜査一課室の刑事は、ほとんど出払ってしまって、仕事のないのは、検視官の冬子だけだった。  昨日の事件は、どうやら、冬子の見込みどおり、他殺という線に意見が一致し、殺人事件として捜査されることになったようだが、自殺という場合も考慮して、まだ、捜査本部は設けられていない。  他殺だと判断された根拠は、冬子の指摘した死体の姿勢の不自然さや、一課長のみつけたテーブル掛けのシミ以外にも、青酸カリを包んだと思われる薬包紙とか容器がどこにもないことや、ここ数年つけていたといわれている日記帳がないことなどからである。  冬子は時計を見た。十一時十分である。昼になると、戻ってくる刑事も何人かあるが、それまでには時間がある。  冬子は、事務の女の子に声をかけてから、府警本部の外へ出た。  ちょっと歩いたところに花屋が一軒ある。  冬子は、そこで、チューリップを五本と、雪柳を少し買った。  昨日、現場の六畳で見た水仙が美しくて、久しぶりに、花を買いたくなったのだった。  冬子は、買った花を持って交差点を渡りながら、ふと、昨日会った友人の石野洋子の幸福そうな若妻姿を思い浮べた。二十九歳というと、友達はみんな結婚して子供の一人や二人ある年齢である。よりにもよって死人を引っくり返して、血痕だ、指紋だというような仕事にあけくれている独身の自分が、いかにも殺伐としたものに思われて気が沈んだ。  その気分は、府警本部へ帰ってからも続いていたが、部屋のあちこちから、一輪挿しの花瓶を集めてきて、チューリップと雪柳を一本ずつ入れおわると、少し気持がやわらいできた。  十二時十分前に、隣りの席の橋口部長刑事が外出から戻ってきた。 「おう、花ですか? きれいですな」  橋口は、いつものようにからかいもせず素直に花に見とれていたが、やがて弁当を出して食べ出した。 「捜査の方はどうですか?」  冬子が自分の湯のみにお茶をつぐついでに橋口にもつぎながらたずねると、 「もう少ししたら、芦川美子、佐伯秀夫がここへやってきますよ」  と言った。 「芦川美子というと?」 「事件当日の七時に、被害者のところへ生け花を習いに行くはずだった女性ですよ」 「行くはずだったというと、行かなかったんですか?」 「本人は行かなかったと言っています」 「誰かそれを証明できるのかしら」  冬子がそう言ったとき、入口のドアがあいて、二十二、三の女性が姿をあらわした。  橋口が、冬子に、あれだというように合図を送ってから、立って連れて来た。 「あの日、あなたは、七時すぎから八時まで、あの家に生け花を習いに行くことになってましたね?」 「はい。でも、行かなかったのです」 「どうしてですか?」  橋口も取調べのときには、標準語に近いことばで喋る。 「百貨店のつとめがおわって、京阪の稲荷駅で、急行からおりて、普通に乗りかえようと、ホームで待っていると、むかい側のホームに佐伯秀夫さんが立っていて、こちらに笑いかけていたんです」 「佐伯さんを前から知っていたんです?」 「お花の先生のところでも何度か会いましたし、途中で会って、映画につれていってもらったこともあります」 「それで?」 「こちらのホームにまわってきて、友達の家でパーティがあるから一緒に行かないかと言われたので、ついて行きました」 「それは何時ごろでしたか?」 「七時半頃です」 「生け花の先生にはことわらなかったんですか?」 「ことわろうかと思いましたけど、佐伯さんと一緒にパーティに行くとは言えないし、だまって休みました」 「佐伯さんと別れたのは何時ですか?」 「十時頃です」 「七時半から十時までそのパーティに行っていたことは証明できますか?」 「ええ、そのパーティに出た人にきいて下さい」  そう言って、美子は、何人かの住所と電話番号を教えた。 「あなたが行かないときは、おけいこの花はどうなるのかしら?」  横から、冬子がきいた。 「え?」  と、美子は、顔をあげて冬子を見たが、 「先生は、八時まで待って、おけいこの人が来ない時は、花を自分で生けて床の間におき、戸じまりをするときいています」  と、言った。 「どうも有難う。もう結構です」  橋口が言うと、美子は頭をさげて帰っていった。  約三時間後、芦川美子の言ったことの裏づけをとりに行った橋口が、捜査一課室に帰ってきた。 「彼女の言った通りでしたわ。七時四十分くらいから十時まで、二人は、山野一夫という友達の家に行ってました。何人もの証人があって確かです」 「じゃ、二人は事件に関係がないわけ? それとも、殺してからパーティに行ったのかしら」  冬子が言うと、橋口は、メモを出してひろげた。 「芦川美子は、百貨店づとめなので、六時半に勤務がおわってから同僚と一緒にうどんをたべ、京阪に乗っているのですから、稲荷駅まで友人と一緒に行動してます。その友人にあったところ、ホームにいた佐伯を見つけたとき、芦川は本当にびっくりした顔をしたと言ってました。打合せした感じではなかったということです。それから二人は話がまとまってパーティに行くことになり、稲荷駅に常駐しているKタクシーに乗って行ったというんで、そのタクシーの運転手にもきいてみたんですが、二人は、どこへも寄らず、まっすぐパーティ会場へ到着しています」 「では、芦川美子は、ずっと誰かと一緒だったわけで、アリバイがあるわけね」 「そうです。そこで、佐伯の方ですが、彼が、芦川に会う前に、殺してきたとするとおかしいことになるんですわ」 「その時点まで、殺された松原雪子の方は、花を習いに来ると思っているから、水仙は、バケツに入ったままでおいてあるはずですよね」 「それが、死体を発見したときには、水仙が生けられていた──これは、八時まで、彼女が生きていて、芦川美子が来ないので、自分で花を生けたあとに死んだということを示してますなあ」  橋口は、首をかしげた。 「または、殺した人物が、花を生けたことになるけど、佐伯秀夫は、男だし、花を習っていないのであんなにきれいに生けられないでしょうねえ。私もちょっとお花をやったことがあるけど、あれは、生け花の作法にかなった生け方だったわ」  冬子もそう言って首をかしげた。 「どちらにしろ、佐伯秀夫は、アリバイがあるということになりますな」 「じや、犯人は誰かしら?」 「|刑事たち《みんな》は今、彼女と交友関係のあった人物について、動機のある人物がないか調べにまわってるところです。五時からその報告の会議があるはずですわ」  橋口はそう言って腕時計を見た。     4  五時からの会議で、新しい事実が報告された。それは、死んだ松原雪子の近所に住み、同じ流派の生け花教室を開いている牧優子という女性が、特に、雪子と仲が悪く、動機があるというものだった。  牧優子のことを調べた野口警部が、詳しい事情を説明した。 「死んだ松原雪子と牧優子は、同じ生け花の流派に属していて、最初は仲が良かったのですが、生け花界での生活が長くなるにつれて犬猿の仲になっていったようです。家元主催の年一回の生け花展での、いい展示場所のとりあいもあったようですし、松原雪子の方が、年も若いし、あとから入ってきたのに、手をまわして、いい花材をもらったというので、牧優子がヒステリックに泣きわめいたこともあったそうです」 「牧優子というのはいくつなんだ?」  一課長がきいた。 「三十五歳です。それで、さっきのつづきですが、展覧会用にと、松原が、シンガポールから特別にとりよせた蘭の花が捨てられていたり、展覧会場で、牧優子の生けた花が、ひき抜かれていたりというような状態で、松原雪子が殺されたとき、華道関係者は、一様に牧優子がやったのだと思ったようです」 「牧優子の弟子は、何人くらいいたんですか?」  若い刑事がきいた。 「彼女の方は、つとめたりせず、生け花教室だけでやっているので、延《のべ》にすると百人ぐらいいるんじゃないかと思います。会社や学校などにも教えに行っていますし、教室をあちこちにもっていますから。ところが近々松原雪子が、会社をやめて本格的に生け花を教えることになったんです」 「ほう」  一課長が体を乗り出した。 「松原雪子は、二十八歳で、会社ではハイミスの部類に入り、居づらくなったのと、貯金も出来たので、近々、今の家を改築して、大々的に生け花教室を開く予定をしていたようです。そして、五年来の恋人、佐伯秀夫と結婚するのだと友達に言っています。今まで、会社にいたのも、プレイボーイの佐伯の気持がはっきりかたまらないので、心配でやめられなかったようなんですわ」 「では、いよいよ、佐伯が、結婚を約束したんだな」  と、一課長。 「でも、パーティに他の女の子を誘っていくのは、あまり、雪子を愛しているといえないんじゃないですか?」 「そのことについて、佐伯にききましたら、雪子もこれから生け花教室を大きくしていくのだから、雪子の弟子の機嫌をとっておいた方がいいと思って、連れて行ったと言っています」  佐伯を担当した森警部が立ち上って言った。 「でも、折角、雪子が待っているのに、すっぽかして若い子をパーティに連れて行くというのは、雪子にとって忠実だとはいえないじゃないですか?」  今、恋愛中の若い刑事はむきになっていた。 「佐伯秀夫と芦川美子の仲が進んでいて、雪子が邪魔になったということはありませんか?」  考え深そうな顔をした吉永部長刑事が左のすみから手をあげてきいた。 「それだったら、七時、まず佐伯が、雪子を殺して、美子と落ち合い、パーティのあと、芦川が、雪子の家に行って、水仙を生けたという共犯説が成立するんですが……」  なるほどというように、みんなが顔を見合わせたとき、冬子の隣りの橋口が立ち上った。 「いや、そういうことはないと思いますね。芦川には、同じ勤め先に、片思いしている男性がありますから、雪子を殺してまで、佐伯と一緒になりたいということはありません。親友にも、その悩みをいつも打ち明けていたといいますから」  橋口は自信を持って言った。 「とにかく、話をもとに戻そう。その牧優子には、アリバイはあるのかね?」  一課長が、大きな声できいた。 「当日夜、七時四十五分に家に帰ってきているので、そのアリバイはあります。家には住みこみの弟子がいますから。でも、それまでの時間は、あちこちの教室を自分の運転する車でまわっているので、犯行は可能です」 「七時四十五分というと微妙な時間だな」  一課長が、腕を組んだ。  冬子は、横できいていて、彼女なりに考えてみた。 〈七時すぎに、牧優子が、雪子をたずねると、表の戸があいていた。芦川美子がきたと思って顔をあげた雪子に、牧優子は、別の場所で教室を出してくれないかとたのむ。雪子も、一応表面上は、おだやかに、応対しながら、ココアなどを出す。時間を稼いで何とか懐柔してしまおうという気持だ。しかし、強い決心をしてきた優子は、雪子の油断をみすまして、コーヒー茶碗に青酸を入れた。  雪子が死んだあと、優子は、水仙を生けて床へかざっておく。  雪子の口から、八時になったら花を生けて出かけるのだときいたのかもしれない。  同じ流派ではあるし、人に教えている牧優子であるから、水仙を生けるぐらいは簡単だ。すぐ生け終って外へ出ようとする。  しかし、何か落してないかと気になったので、雪子の死体をひっくりかえしてみたが、何もなく、急いで家に帰る。帰り着いたときが七時四十五分〉  冬子が、考え込んでいる間も討議がかわされたらしい。 「しかし……」  という大きな声で、冬子は我にかえった。 「しかし、牧優子が犯人だとしたら、水仙を生けたりしないで一刻も早く現場から逃げるんじゃないでしょうか。本来なら芦川美子が、その最中にきあわせているはずですからね。花を生けておく方がアリバイがたつと計算出来るくらい、雪子の家の事情に通じているなら、当然、七時半頃、習いにくる弟子があることを知っているはずです。芦川がこなかったのは本当に偶然ですからね」  言っているのは、池警部である。彼は、学生時代幾何が好きだったというだけあって、なかなか理論家だ。 「牧優子が九時頃外出したということはないんですか?」  橋口が質問する。 「もし、七時四十五分に帰ってきたとしても、そのあとで外出できたとすると、松原が弟子が来ないので自分で花を生け、床へかざってテレビでもみているところへ牧優子がやってきて、殺したということになるんですが……」 「それは全然だめです。牧優子は、家に帰ってからのアリバイははっきりしています。何人もの人が見ていますし、電話口にも出てますから」  捜査本部の中はしんとなってしまった。  黒板には、佐伯秀夫と牧優子の名前がかかれている。どちらかが犯人の可能性が強いのだろうが、どちらだといいきれるきめ手はないものだろうかと、冬子は黒板をみつめた。     5  翌朝出勤した江夏冬子は、捜査一課があわただしい動きに包まれているのを感じた。 〈犯人が逮捕されたのかしら〉  しかし、それだったら、新聞記者が詰めかけてくる筈である。  橋口がいれば様子がわかるのだが、橋口もどこへ行ったのかわからない。  冬子がいらいらして待っていると、十時すぎになってやっと橋口が顔をみせた。 「何があったんですか?」 「被害者の家を捜索していたら、ゴミバケツの中から、水仙の葉くずと一緒に、花バサミの|かぶせ《ヽヽヽ》が出てきたんですよ」 「|かぶせ《ヽヽヽ》というと、刃先があぶなくないようにはめておくもののこと?」 「そうです。皮製の上等のものです。ところが、内側にイニシアルがありましてね、Y・Mと」 「松原雪子さんが使ってたものなの?」 「最初みんなそう思ったんですが、お弟子さんにきいてみると、違うというんです」 「じゃあ……」 「そうです。牧優子のものなんです。最初ききに行ったら、本人は違うというんですが、住込みの弟子が先生のに間違いないというんで、問いつめたらやっと、自分のだが春の生け花展で使っていてなくなったんだと言いましてねえ」 「では、死体が死後動かされていたのも、犯人が、それを探したためかしら。水仙を生け終って帰ろうとしたら、ハサミのかぶせがないので必死になって探した。いくら探してもないので死体までのけて探しまわったということかしら? だったら犯人は牧優子に決定ということになるわね」 「水仙の葉の切れっぱしや茎なんかと一緒に捨ててあったのですよって、そう思うのが当然ですねえ。でも、本人は、強硬に否定しています。花バサミもたくさん持っているし、そのうちの一つのかぶせがなくなったからって、一々気にしていられないといって」 「花器に指紋は?」 「それがないんです。死んだ松原雪子の指紋だけしか検出できませんでした。しかし、花器を調べた結果、花器の外側にココアが付着していることがわかったのです。水の中にも入っています。ココアは座敷机の上にもこぼれていましたが」 「あれっ、おかしいわ。床の間と、死体があった場所とは離れているでしょう? ココアは座敷机の上で作られたと思うけど、そのとき花器は、そばにあって、あとで、床の間に運ばれたということになるわね」 「つまり、ココアを作って飲んで、そのあと、そばにあった花器に水仙を生けて、床の間に持って行ったということになりますな」 「でも、ココアには毒が入っていたから、飲んで死んでしまったあとで花を生けるというわけにはいかない。誰かもう一人の人物がいたということになるわね」  二人が喋っていると、入口から警部がかけこんできて、一課長と立ち話をしはじめた。他の刑事たちも寄って行って話をきいている。 「何かしら?」  冬子が言うと、橋口は、そばを通りかかった大野部長刑事をよびとめた。 「なにかあったんか?」 「いや、佐伯秀夫の実家の隣りがメッキ工場やということがわかったんや」 「へえ、入手経路ばっちりやな」 「それともう一つ、佐伯には、会社にもっと若い恋人がいたということもわかったわ。佐々木由美というて十九歳や」 「佐伯は二十七歳やったな。十九歳の恋人が出来たら五年もつきあった年上の女とは別れたいのが人情やな」 「でも殺さんでもいいと思うけどな」 「で、結局、朝から、牧優子が本命という線にかたまっていたのが、また、佐伯の方へもどってきたちゅうわけやな」  男達二人の関西弁の会話をききながら、冬子は、窓から外をみた。  春になって木々の枝が新芽をふいているのがみえる。  京都府警へ赴任して一年近くなる。最初は随分張りきって仕事をしたし、事件の解決に役立ったことも何度かあった。はじめのころ、女のくせに警視だというので反感をもっていた捜査一課の連中も、次第に打ちとけてくれて、最近では一目おいてくれるようになった。  しかし、冬子には、今だに京都弁は出来ないし、男同士の話には入っていけない。  検視官付きの部長刑事である橋口以外には、あまり話をする機会もないし、橋口も、一定の距離をおいてしかつきあってくれない。  京都人の彼等にとって、自分はやはり他所《よそ》ものなのだろうか。 「問題は、佐伯が水仙の花を生けられるかどうかということや。江夏検視官どうですやろ?」  突然、橋口に自分の名を言われて、冬子は、びっくりしてふりむいた。 「ええ、むつかしいと思うわ。他の花だったら、例えば、菊だとか百合だとかチューリップなんかだったら、三本とか五本とかを、そのまま長短つけて切って、剣山に刺せばいいから楽だけど、水仙は、葉があるから大変なの」 「葉というと、花のついた茎の両側にのびてるあれですか?」 「ええ。あれは|はかま《ヽヽヽ》と言うんだけど、一旦そのはかまをとって、適当な長さに切って、組み直すわけなの。一本、一本についてみんな組み直さなければならないから大変だわ。そして、茎や花の高さも、大体割合がきまっているから私のようにちょっとかじったものにとっては、水仙は苦手だわ」 「へえ、花を生けるとき、長さの割合があるんですか?」  感心したように大野部長刑事が言うので、冬子は少しうれしくなって、花瓶のチューリップをとって具体的に説明した。 「チューリップを三本生けるとしたら、三本の長さは、一番長い中心になる茎を一としたら、もう一本が、その三分の二、もう一本がその半分、つまり、九センチ、六センチ、三センチの割合になるんですよ。大体ですけど。そして、五本だったら、その三本の間へ入る長さというふうに、きまっているのです。だから、お花の生け方をしらない人が生けた花と、お花をやっている人が生けた花とは、すぐわかりますわ」 「佐伯が、前もって水仙の生け方だけを被害者に習っていたらどうでしょうか?」 「それだったら生けられるでしょうねえ。前日、遊びに来て生けてある花を見てきれいだからほしいと言えば、彼女はよろこんで抜いて渡し、生け方も教えてくれるんじゃないかしら」 「翌日ひそかにそれを持っていき、雪子を殺したあと、花器にそれを生け、バケツにあった花はもってかえってくるというわけですね」  大野が感心したように言うと、橋口がそれをさえぎった。 「それやと、ゴミ箱にすててあった水仙の切り落した屑はでないことになるやないか、あれがあるということは、やっぱりあそこで切って生けたということになるのとちがうかなあ」 「あの日はおけいこの人はなかったのかしら、前日の切り落しということもあるわ」  冬子が言うと、橋口はにっこりして言った。 「あの日の朝、ごみあつめがあって、前日までのゴミは全部出しています。そして、あの日、おけいこのあるのは、二人だけで、そのうち一人は、昼すぎに、今日は行けないので休ませて下さいと連絡しているのです。だから、不用になった水仙一人分を、江夏さんのお友達の石野洋子さんに夕方あげているのです」 「それでは、実際に生けてあった水仙をはずしてみて、その切りくずと、切り口が合うかどうかみてみたらどうかしら」  冬子は、冗談半分に言ったのだが、行動力のある橋口は、しばらくすると両方を冬子の前にもってきて並べた。  刑事たちの見守る中で、冬子は、両方を照合することにした。  水仙は、青磁の花器に入っていい匂いをただよわせていた。 「私、一度はずしたらもと通りにするの自信ないから、ちょっとこのポラロイドで写真とっとくわ」  冬子はそう言って、愛用のカメラをひきよせてシャッターをきった。  一本ずつ剣山からはずし、切り落された茎と合わせていく。 「えーと、ここにたてのすじがあるから、この茎のつづきは多分これね……それから、これは……」  冬子は、一本ずつ合わせていった。全部の茎がきっちりと合った。 「間違いなく、この切り落されたのは、今生けてある分のだわ」 「誰が一体生けたんでしょうなあ」 「死んだ松原雪子か佐伯秀夫か牧優子のうちの一人やな。発見者の石野洋子には動機はないのかな?」  刑事たちが、口々に言うのをききながら、冬子は花をきれいに直し終えたが、なんとなく心にひっかかるものがあった。それが何かは、はっきり自分にもわからなかった。     6  その日の夕方、冬子は、東京へ帰った。  翌日が日曜だし、一課長が、また、忙しくなるかもしれないから、この日曜日は休んで下さいと言ってくれたからである。  東京の両親のところへ帰って、一日のんびりとして、月曜日の朝早く京都へ戻ってくるつもりだった。  突然の帰宅に、両親は喜び、冬子は、夜おそくまで喋っていた。そして、やはり家庭というものはいいもんだと思った。  翌朝、久しぶりにゆっくり寝て十時ごろ朝食をたべていると、父親が、新聞を見ながら、結婚はしないのかときいた。 「二、三日前、京都で結婚して赤ん坊を抱いている友達に会ったの。そしたら、急に羨やましくなって、いい人があったら結婚しようかという気になったわ」  冬子が、笑いながら言うと、父は、じゃ、これはどうだと言って写真を見せてくれた。  一流商社員で三十二歳。初婚。顔も好感のもてる感じだったので、冬子は、会ってもいいと言った。二十九にもなって、これ以上いい縁談があるとは思えない。  次はいつ帰ってくるかわからないというので、話は意外に早く運んで、四時に、新宿のホテルで会ったのだが、予想した通り、おだやかな、やさしい人だった。捜査一課の荒くれ男たちとはちがって、言葉づかいも丁寧だった。  彼も、冬子が気にいったらしく、盛んに将来の設計を話してくる。我々は年がいっているから早く子供が欲しいとか、郊外に家を買うつもりだというようなことである。  そういう話をきいているうちに、冬子は、あの京都の活気のある捜査一課が、むしょうに懐かしくなってきた。  事件発生を知らせるあの緊迫した電話、パトカーのサイレン、犯人が挙《あが》ったときのどよめき、乾杯のコップをあげる一課長、橋口部長刑事──。  あのすべてを失うのかと思うと、冬子の心は激しく揺れ動いた。  結局、冬子は、この話を断ることにした。  もう少し仕事をして、そのうち恋愛をして、どうしても結婚したくなったときでいいではないか。  翌朝、冬子は、定時に府警本部へ出勤した。たった一日だけなのに、とても長いこと休んでいたような気がしてならなかった。 「やあ、見合いはどうでしたか?」  橋口が、冬子の顔を見るなり言った。 「え?」 「やっぱり見合いでしょう? みんなと言ってたんですよ」 「まさか、見合いのはずがないでしょう。ここに一生いすわるつもりなんだから。それより、そのアルバムはなに?」  橋口の机の上には、うず高くアルバムがつまれていた。 「花の写真ですよ。一昨日、水仙の花を写真にとられたのからヒントを得て、水仙の写真がないか調べてみようと思いましてね」 「生けてある水仙を見て佐伯が、花を生けたというの?」 「そうです。彼は、随分まめに花の写真をとってやってましたからね。写した写真を大きくひきのばして横において生けたんではないかと思うんです」  喋りながらも、橋口はページをめくっている。カラーなのでとても美しい。  水仙の写真はいくつもあった。花器がちがっていることからみて、それぞれ違うときに写したのだろう。 「横にかいてあるのは、写した年月日ね?」 「そうです。水仙、水仙と……」  めくっていた橋口は、突然大きい声を出した。 「これやっ」  のぞきこむと、なるほど目の前の鉢と全く同じである。他の写真が、遠目から全体を写したり、横から写しているのに対して、その一枚は、真正面から大きく写してあった。 「これを見れば、俺だって生けられるわ」 「見れば見るほど同じかんじね。いったいいつ写したのかしら? 一月一日ね」 「でも、これが見つかったからといって、佐伯をすぐひっくくるわけにはいきませんしな」  橋口は、くやしそうに言った。 「あら、一昨日までは、牧優子と佐伯とどちらが犯人かわからないと言ってたのに、佐伯の方にしぼったんですか?」  冬子がきくと、橋口はそうだというようにうなずいてから、 「佐伯が、三百万も被害者に借りていたことがわかったんですわ。松原雪子はなかなかしっかりした女で、同僚に小金を貸していたんです。昨日、給料をもらった同僚が、どこへ返したらいいだろうと相談にこられてわかったんです」 「じゃ、佐伯には、いずれ結婚する相手だからと思ってたくさん貸していたのね」 「ところが、今度、会社をやめて大々的に生け花教室をやるようになった。それで、お金の催促をする、同時に結婚の催促だったかも知れません。しかし佐伯には金はないし、新しい恋人が出来ていて結婚する気はない。そこで争いになって……と考えたんですがね」 「彼には、青酸カリを入手することも出来たし、わざわざ、その時間に弟子をさそってパーティにいくという不自然さもあるわけね」 「いくら考えても、片一方の牧優子の方は、動機がうすいですわ。ライバルが近所で生け花教室をするといっても、自分の教室はあそこだけでなくあちこち教室をひらいているのだから、生徒をとられたとしても知れているわけですよ」 「それに、私が思うのは、牧優子がたずねてきても、ココアを出して飲むような雰囲気にはならないということなの。それに、彼女が花を生けていったというのがわからないし……」  橋口と喋っているうちに、いつもの調子が戻ってきた。冬子はほっとした。  その一日、冬子は、生け花の本をよんですごした。そして、花屋へ行って水仙を買ってきて、本をみながら生けはじめた。生けおわったとき、冬子は、この間から心にひっかかっていたものが何であるか知ることが出来た。     7  一時間後、冬子は、牧優子の生け花教室の中にいた。彼女は、優子に、水仙の花を水盤に生けてくれるようたのんだ。優子は、私のことを疑っているのかとか、ハサミのかぶせはおとしたものだとか色々言っていたが、渋々花を生けはじめた。さすが、手慣れたもので、心がのってなくても、それは手ぎわよくきれいに仕上った。  仕上ったその生け花を見て、冬子は、大きくうなずいた。思った通りだったからである。  更に一時間後、冬子は、橋口や一課長と一緒に、佐伯秀夫とむきあっていた。 「君の動機は、新しい恋人が出来たことと、金だ」  と、一課長がまず言った。 「君が、彼女から借りたお金は、つもりつもって三百万円にもなった。君には返すあてはない。彼女は、きびしく督促する。それで結婚するとだまして彼女の督促から身をかわしたが、本当に結婚すれば、新しい恋人が承知しない。それに、死んだ彼女は、たとえ、結婚しても、借金は借金だからはらってくれと言ったのだろう」  一課長の話は続くが、佐伯は黙ったままだ。 「それで君は、アリバイを作って彼女を殺すことに決め、水仙の花の生け方を練習した。主にやったのは、君が、前に写した写真を大きくひきのばして、それを見て同じように生けることだった。そして、葉の組み方なども、彼女が生けるのをさりげなく見て覚えた。さて、当日だが……」  一課長は、そう言って佐伯の顔をみてから続けた。佐伯は、冷笑をうかべている。 「さて当日、君は、適当な長さに切り、葉組みをした水仙と、その切りくずを持って、彼女の家へ行った。多分、夜七時前だろう。そして、彼女の隙をねらって、ココアに、青酸カリを入れて彼女を殺した。青酸は、君の実家の隣りの工場から持ってきたものだ。そして、練習用に用意してあった花器に、水仙をさして、そこにあったまだ切っていない水仙をかばんに入れた。それから京阪電車の稲荷駅に行き、芦川美子を待った。彼女がくると偶然のように見せかけてパーティヘ誘い、アリバイを作った。  こうすれば、死んだ彼女は、八時まで待って弟子が来ないので、自分で花を生けたのだと我々が思うと計算したんだ。少なくとも八時までは生きていたと。たとえ、誰かが生けたとわかっても、自分は生けられないから疑われないと思ったんだ。しかし、我々の目はごまかされんよ」  佐伯は、かすかに顔色を動かした。 「我々は、おまえが、この写真を見本にして、花を生けたのを知っているぞ」  橋口がそう言って、例の写真を出した。佐伯は笑った。 「その写真に似ているんだったら、やっぱり彼女が生けたんでしょう。生け方は、どうせ型にはまってるんですから、同じようになるもんですよ」 「ところが、彼女がこの花を生けるはずがないという証拠があるんだ」  佐伯はちょっとひるんだが、 「じゃ、牧優子とかいうおばちゃんが生けたんじゃないですか。あの人だったら花を生けるのは楽なことですから。それに、彼女の花ばさみのかぶせがみつかったと新聞に出てましたが……」 「あれは、君が、生け花展で拾ったのをわざとおいておいたんだ」 「とにかく僕じゃ花は生けられませんよ。花の生け方知らないんだから」  そのとき、一課長は、冬子の方を見てにやりとした。 「たしかに君は、花の生け方を知らない。だから大きなミスをしてしまったのだ。君が見本にしたこの写真は、一月一日に生けた水仙だった。ところが、水仙の生け方は、季節によって違うそうだよ。一月は、まだ寒いので、花を下の方に使い、二月、三月と春になるにしたがって、花を高く上に生けるんだそうだ。念のため、牧優子さんに生けてもらったら、彼女はちゃんと花を高くして生けたよ。  それに君が写真を見てやった証拠はもう一つある」  一課長は、写真を指して言った。 「この写真で、かげになって見えないところの花が君のにはないからね。大体、花を生ける時は、三本、五本、七本というように、奇数の数を使うんだそうだよ。君のは、写真で見えなかった一本がないから偶数になってるよ」  第五話 几帳面な殺人者     1 「あー、暑いなあ」  汗をぽたぽたとしたたらせながら、橋口部長刑事が、捜査一課室に戻ってきた。  九月半ばとはいえ、日中は三十度の暑さである。特に湿気のある京都の残暑はきびしい。 「何か、進展ありましたか」  ぬるいお茶をがぶのみしている橋口に、検視官の江夏冬子が声をかけた。 「いやあ、何もありまへんなあ。犯人からは何の連絡もないし、子供をみかけたという情報も入りませんわ」 「本当に子供どうしているのかしら。無事だといいけど……」  そういって、冬子が顔を上げたとき、橋口は、もうそこにはいなかった。  橋口たちが追っているのは、二日前の午後、幼稚園帰りの田中|洋一《ひろかず》という子供が誘拐された事件である。  五歳の田中洋一は、その日の午後二時二十分ごろ、幼稚園バスで、家の近くの四つ辻まで帰ってきて、バスを降り、バスの中の先生に元気にバイバイと手を振って自宅の方へ歩いて行ったきり、消息が絶えたということだった。  田中洋一の家は、共稼ぎ家庭で、洋一は、いつも、幼稚園バスを降りると、そこから五十メートル程先にある建売住宅の自宅まで歩き、自分でカギをあける。そして服を着がえ、手を洗っておやつを食べたあと、母親が帰ってくるまで外で遊ぶのが習慣だった。  しかし、その日の夕方、五時半ごろ帰宅した母親が、子供部屋をみても、洋一の黄色いかばんがなく、置いてあったおやつも食べてなかった。不思議に思い表に探しに出ようとしているところへ電話がかかってきた。相手は、押し殺したような男の声で、 「田中さんですか? 洋一くんのお母さんだね?」  と言い、そうだと言うと、 「洋一君をあずかっている。誰にも言わず、明日中に、五百万円用意しなさい。お金と引きかえに、子供は返す」  と言い、母親が何か言おうとしている間に、電話は切れたということだった。 「でも、なんでその後犯人は連絡してこないんでしょうね。警察に届けたことがわかったからかしら」  冬子が、向い側の早川警部補にきいた。  検視官になって京都へ来て一年半、今では、どの刑事とも気軽に話すことが出来るが、特に早川や橋口とは親しい。早川警部補というのは、捜査一課で一番背が高く、歌を歌うのが好きというハンサムな三十二歳の男である。 「金が目的なら、危険だと思ってもそのうちかけてくると思うんですが、かけてこないとなると、犯人はよく知っている人物で電話にしかけたテープで声を分析されるのが怖いか、他の目的があるということになりますね」  早川は、ゆっくりと煙草の煙を吐きながら言った。 「他の目的というと?」 「金が目的でなく、親に恨みがあって、子供を誘拐して苦しめるためとか、その子供自身が憎くて誘拐し、すでに殺してしまったとか……」 「子供が憎いというとどんな場合かしら」  冬子が首をかしげた。 「自分の子供と仲が悪いとか、自分の子供に比べて羨やましい点があって憎らしいとか、その子供がいつもガラスを破るので頭にきてるとかいうようなことでしょうな」  早川が考えながら答えた。歌がうまいだけあって、低音でなかなかいい声だ。 「もちろん、近所関係なんかも調べているんでしょう?」 「ええ。調べています。親同士仲が悪い家や、同じ時に幼稚園を受けて入れなかった家もありましたが、まだ、これという人物はあらわれてきませんね」  それだけ言うと、電話がかかったのを|しお《ヽヽ》に、早川警部補も外へ出かけて行ってしまった。     2  夕方の五時半、みんなが働いているのに、家に帰るのは気がひけると思いながら、冬子が手洗所で帰り仕度をしていると、通信指令室から事件発生の報せが入った。 「誘拐された田中洋一君と思われる少年の死体を発見。場所は桃山御陵の林の中」というものだった。  冬子は、折角化粧した顔を水でさっと洗いおとし、気分をひきしめてから、中庭のパトカーに飛び乗って、現場へ急いだ。  国鉄の桃山駅から山手の方へまっすぐ上ったところを左に曲ると桃山城への道になり、右の方に曲ると桃山御陵がある。うっそうと木が茂り、蝉が鳴いている林の中央には、太い道路が通っていて、通り抜けが出来るので、この道を通って宇治方面に行く車も多い。  子供の死体は、道路から少し入った林の中に横をむいた恰好で寝かされていた。  幼稚園の白いエプロンをして胸に名札をつけた子供の顔は、しばし、冬子に検視官の立場を忘れさせるほどあどけなく可愛かった。横に黄色いかばんが放り出してある。 「検死お願いします」  捜査一課長に促され我にかえった冬子は、急いで死体のそばにしゃがみ込んだ。  首のまわりにロープのあとや、扼殺したあともないし、毒死のように顔が赤くもない。血痕もない。  だが、幼稚園の白いエプロンにタイヤの跡がついているのが目に入った。 〈とすると、交通事故か……〉  そのとき、 「遅くなりました。幼稚園にききこみに行ってたので」  息をきらせて走ってきた橋口部長刑事が、横に筆記の態勢に入り、検死がはじまった。  冬子は、背の高さや服装、死体の姿勢など外表所見を視《み》終ると、着衣をとるよう橋口にたのんだ。  最近は、死体の人権問題がうるさいので、人前で検死をしないことになっているが、ここは、死体発見後交通|遮断《しやだん》された林の中で、人目もなく、死体も子供であることから、この場で検死をすることになったのだった。 「外傷はありませんが、下腹部のあたりがうすく紫色になっていますので、交通事故による轢断《れきだん》内出血または、殴打による打撲をしているのではないかと思われます。内臓破裂の疑いもあります」 「うーむ」  一課長が、死体を見下してうなずいた。 「死亡推定時刻は?」 「死後硬直も解けていますし、この状態から計算すると、丸二日たってますね。逆算すると、おとといの午後二時から四時ぐらいでしょうか?」 「ということは、二時半にバスを降りたあと、すぐに殺されたということになるな」 「親に電話がかかってきたのは五時半ごろということでしたが、そのときには、すでに殺されてたゆうわけですな」  と、橋口が言った。 「死体は、死後移動されてますか?」  一課長が、冬子の方に向いてきいた。 「ええ。多分、右手を下にして横たえられてましたが、うすい死斑が上になった左手の方にも出ていますから。死後六、七時間は、左手を下にした形で寝かせていて、ここにおいたとき、反対に寝かせてしまったんでしょう」 「どっちにしろ、子供の家の場所からここまでは距離があるから車で運んだに違いないな。……おい、みんな、車のタイヤ跡を調べてくれ」  しばらくそのあたりを探していた刑事たちが戻ってきて、口々に報告した。  それによると、そのあたりの道路は、一日に何十台もの車が通っているので、二日も前のタイヤ跡などわからないこと、足跡の方も、林の中なので、草や枯葉が積っていて、全くわからないということだった。 「ここに死体が置かれたのは、大体いつごろだと思いますか?」  一課長が、再び検視官の冬子に向って言った。 「死んだ日の夜、大体九時前後に、ここに運んで来たんじゃないでしょうか。死斑の状態からみて、死亡後六〜七時間経ってからあとは動かされてないと思います」  丁度そのとき、付近のききこみから帰ってきた早川警部補も口を添えた。 「今きくと、子供の死んだと思われるおとといは、近所の伏見中学校の写生大会があって、夕方五時頃まで、中学生がこのあたりに大勢来ていたそうです。そのあと、六時近くまで、先生方や生徒役員が後片付けをしていますので、少なくとも、その頃までは、この場所に死体はなかったと思われます」 「よしわかった。それでは、七時頃から、夜半にかけて、特に、九時から十時あたりに、不審な車が止ってなかったかききに廻ってくれ」  刑事たちが、一課長の命令で思い思いの方向に散ったあと、冬子は、現場に坐って、死体の握りしめた右手を開いてみた。そこには二すじの草が握られていた。それは、この林には生えていない、セイタカアワダチソウだった。     3  翌日午前中に行われた解剖の結果、腹部の打撲による内出血及び肝臓、脾臓破裂が死亡の原因であることがわかった。 「やっぱり、交通事故による死亡ですやろな。エプロンにタイヤ跡があったし、内臓が内出血と破裂をおこしているということは」  橋口部長刑事が冬子に言った。 「ええ、つまりこういうことかしら。彼の家の近くにはこの黄色い草がたくさん生えているので、彼が、幼稚園バスから降りて、家の方へまがり、セイタカアワダチソウを摘んでいるときか、摘み終って家の方へ向っているときに、車に轢《ひ》かれた。運転者は、病院につれていこうとして自分の車に運びこんだが、子供がすでに死んでしまっていたか、途中で死んでしまったので、怖くなって、夜になるのを待って、あそこへ捨てた」 「まあ、そういうことですやろうなあ」 「で、エプロンについていたタイヤの割り出しはどうなってるんですか?」  冬子がきいた。 「あれは、国産のB社のラジアルタイヤで、普通乗用車用のものなんです。比較的新しいE型のタイヤで、B社にといあわせたところ、M社が今度新しく出したブルースターのものじゃないかというんですがね」 「じゃ、あの日の午後二時半から三時頃に、あのあたりを走っていたその車を探せばいいということになりますね」  冬子は、これは比較的早く片付く事件だと思った。轢き逃げについては、特に優秀な検挙率を誇る京都府警だから、二、三日のうちには、犯人がみつかるだろうと思い、気が楽になった。  そのあと、一課長と打ち合わせしたり、電話をかけたりしていた橋口は、しばらくすると冬子のところへ来て、 「今からもう一度、被害者の家の方へ行くんですが、何やったら一緒に行きませんか?」  と、誘った。冬子が時間を持てあましているのをみてとったのだろう。 「ええ、お願いしますわ」  冬子は、そう言ってすぐに仕度をして外に出た。府警本部の前では、覆面パトカーに乗った橋口が、待っていた。  車の窓から風が入ってとても涼しい。  しばらく走ってから、冬子は、ふと心に浮んだ疑問を橋口にした。 「轢き逃げだったら、なぜ、誘拐したなんて電話をかけたのかしら? 黙っておいた方がいいのに」 「さあ、なんでですやろなあ。誘拐だと思わせて、被害者の家に恨みを持つものとか、素行のおかしいものにあたらせ、捜査方針を狂わすのが目的やったんでしょうか。私たちも、その方面のききこみに、二日もかけましたさかいな」  ポロシャツの橋口が運転しながらこたえる。柔道三段剣道二段のいかつい顔をした巨漢だが、妙にはにかみやで、やさしいところのある男だ。 「でも、死体の衣服にタイヤの跡があったら、すぐに轢き逃げとわかるでしょ。どうしてエプロンを捨てるとか、裸にして捨てるとかしなかったんでしょうね?」 「あの場所に捨てたら死体がみつからへんと思たんでしょうか。わかりまへんなあ」  喋っているうちに、被害者の家の前に着いた。  二人が案内を乞うと、つめかけていたらしい近所の主婦が出て来た。子供の親は、心労のため二階で休んでいるということだったが、二人が座敷に案内されて坐ると、母親がすぐに降りてきた。 「あの子の体は、いつ返していただけるんですか?」  母親は、橋口の顔をみるなりそう言って血走った眼でみつめた。 「多分、今晩にはお返しできると思います。それまでに、とにかく、調べの終った、かばんと帽子をお返しにあがりました」  橋口が丁寧に礼をして黄色いかばんと小さな帽子を渡すと、母親は、それをかかえて、わっと泣き出してしまった。死体が帰るまで、遺品でもないと、まいりに来た人たちもよりどころがないと思い、一課長が届けさせたものだった。  一しきり泣いたあと、母親は、早く犯人を捕《つか》まえて欲しいとたのんでから、どんなに可愛い子供だったかを、くどくどと話し出した。 「洋一さんは一人息子さんでいらしたわけですね?」  冬子が言うと、母親は、涙をふきながらうなずき、また、喋り続けた。 「私が、勤めに出えへんかったらよかったんです。そしたら、バスのところまで迎えに行ってやれたのに。子供が幼稚園に行くようになって手が離れたので、前につとめてた近所の会社に、会計の仕事に出るようになったんです。建売のローンの支払いもあったよってに」  冬子は、黙ってうなずいていた。 「あの子は、小児|喘息《ぜんそく》の気《け》があるので秋になると具合がわるうて、あの日の前二、三日幼稚園を休んだんです。私もそれで会社を休んで、丁度あの日から子供も幼稚園に出席し、私も会社に出勤したんです。もう一日だけ休めばよかったのに」  小児喘息ときいて冬子は、ふと気になったことがあった。というのも、冬子も、子供のころ小児喘息だったからである。 「お母さん、今、洋一君は、小児喘息だったと言われましたが、セイタカアワダチソウなどに触ると喘息になるというようなことはありませんでしたか?」 「セイタカアワダチソウというと、あの黄色い背の高い雑草ですか?」 「ええ、お宅の近くにも生えています。あの草の花粉でアレルギーをおこすという人もいるのです」 「よく知ってはりますねえ。私は喘息やないのでよくわからへんのですが、洋一は、あの草のそばを通っただけでも息が苦しくなるといって、絶対そばへ行かしませんでした」  橋口と冬子は顔を見合わせた。 「それはおかしいですね。洋一君は、亡くなったとき、手に、セイタカアワダチソウを二本持っていましたよ。しっかりと握りしめて。だから、私たちは、洋一君が帰り道であの草を摘んでいるとき車に轢かれたと思ったんですが」 「それはおかしいですわ」  と、母親は強い口調で言った。 「洋一はあの花が嫌いで、道を通るときも、反対の端を走って通るようにしていました。摘むなんてことは絶対にありません。見ただけでも息が苦しゅうなるとゆうてましたから」  セイタカアワダチソウで、喘息になるというのはよくある話で、冬子もよけて通った経験がある。それなのに、何故、被害者はそれを手に持っていたのだろう。  母親に別れをつげて外へ出ると、冬子は橋口と連れだってぶらぶらと、徒歩でその草の生えているところまできた。  冬子も、大人になってからは、喘息も治ったものの、やはりこの草は苦手なので少し離れてみていた。  再び洋一の家の前まで戻って車に乗り、表通りの方へ走り出そうとすると、近所の人が、 「一方通行やから、反対にしか行けませんよ」  と教えてくれた。 「警察車だから構《かま》わないんですが、どうします?」  橋口が車をとめてきくと、冬子は、ちょっと考えてから、さっきの草の生えているところまで走っていった。橋口が追いつくと、 「ねえ、橋口さん、おかしいと思わない。この道は、左折禁止の一方通行なのよ。だとすると、車は、どっちにしてもセイタカアワダチソウのところを通らないのよ」 「なるほどねえ。子供がバスを降りてこの道に入り草のところまで歩いてくるとすると、うしろからきた車は、草のあるところより手前で右へ曲ってしまうし、一方通行だから、子供が草をむしっているときとか、歩き出してから前方からくる車いうのはないわけですな」 「子供は、お腹を強く打って内出血しているから、もし車だとしたら、前方から来た車ということになるでしょう。おかしいわ」 「子供は草を摘んでから、なにかの理由でもう一度、表通りの方へ引き返したんとちがいますか? そのとき、丁度通りから入ってきた車にはねられたというような……」 「あの子が、アレルギーのおこるセイタカアワダチソウを摘むはずがないわ。これには何か作為があるわ。もう一度調べてみなくては……」  冬子はそう言いながら車に戻った。     4 「これはおかしいわ。このタイヤの車は、子供を轢いてないわ」  府警本部に帰って、子供の着ていたエプロンと、裸にした死体をとった写真や解剖所見を見くらべていた冬子は、大きな声で叫んだ。  早川警部補が大またに近寄ってきた。 「どういうことですか?」 「このエプロンについたタイヤ跡だと子供の胸をひくことになるんです。でも胸は何ともないでしょう? エプロンのお腹にあたるところは真白で、全然車のタイヤの跡がないんです。こんなことってあるかしら」  写真を手にとって眺めた早川が、うなずいてから、 「たしかにおかしいですね。でも、こうは考えられませんか。バンパーにお腹をつきとばされてころんだところへ、タイヤがのしかかった。それでエプロンの位置がずれていたと……。いや、これはおかしいな。エプロンの裾の方が、上にずりあがることはあっても、エプロンの胸の部分が、腹部にずり下がるわけはない」  と、自分で言って、自分の説をとりけした。 「検視官、これは本当に轢殺なんですかね? 腹をなぐって殺したのを轢き逃げにみせかけてるんじゃないでしょうな」  いつのまにかやって来た一課長が、冬子の顔をみて言った。 「そうですね。この場合子供の体に轢痕がないので、はっきり轢殺とは言えません……。私は、最初轢殺だと思ったんですが、それは、エプロンについたタイヤ跡が先入観になっていたのかもしれません。でも考えてみると、あれだけエプロンにくっきりとタイヤのあとがついているのに、その下のシャツとかズボンには、タイヤのあともないし、汚れてもいず不思議な気がします」 「轢いた場合でなくても、内臓破裂することはありますね? 例えば岩にお腹を打ちつけるとか」  と、早川警部補。 「ええ、お腹の上に人が乗って踏んだり、蹴ったり、重いものを落としても、内臓が破裂すると思います」  冬子は、むつかしい顔で答えた。  話をきいていた一課長は、 「エプロンについたタイヤあとは、捜査を混乱させるためにあとからわざわざつけられたのかもしれんな。とにかく、このタイヤの車をみつけ出すんだ。そうすれば、どういう事情かわかるだろう」  と言った。     5  それから一時間後、捜査本部へ、田中洋一の父親が出向いてきた。特に話したいことがあるというので、一課長と早川警部補、橋口部長刑事が同席した。  洋一の父親は、中学校の教師をしているという四十歳くらいの男で、疲れきった様子だったが、話のすじ道ははっきりしていた。子供を殺したと思われる人物がいるので調べてほしいというのである。 「で、それは、誰だと言うんですか?」  早川警部補が身をのり出してきいた。 「一軒おいて隣りの草本ですよ。子供がいなくなって以来、家内は、子供を誘拐したのは絶対草本だと言ってきかんのですよ。刑事さんが来られたときも話そうと思ったらしいですが、いつも近所の人がそばにいるので話せなかったらしいです。それに、私も、証拠のないことを言うなと言って止めてました。でも、子供が死んでしまって犯人がわからないとなると、もうだまっているわけにいきません。家内がどうしても話してきてくれというんで来たんですが、今度は、私も、そうじゃないかと思うことがあるんです」 「はじめから話してくれませんか?」  そう言って、一課長は、煙草を出して吸い、相手にもすすめた。父親は、煙草をとったが、火をつけず、興奮したようすで話しはじめた。 「この建売住宅へ来て五年になりますが、最初は家内同士仲が良かったんです。それが悪くなったのは、一昨年ある事件があってからです」 「事件というと?」 「母親二人がそれぞれ子供を連れて買物に行くので、近くの私鉄駅のホームで待っていたんですが、お互いの子供二人がふざけあっていて、うちの子供がおした拍子に、むこうの登という子が、ホームから落ちたんです。そして、電車が入ってきた」 「ほう」  と言って一課長が二人の部下をふりかえった。二人は黙って首を振った。その話は、初耳だった。 「それでむこうの子供が死んだんですか?」 「いいえ、奇蹟的に助かったんですが、頭を打って、意識不明になり、足も少し不自由になりました。二、三日して意識は戻りましたが、そのあと、少し頭がにぶくなったといわれるんです。私たちは、平あやまりにあやまって、見舞金も借金して百万円払いましたが気まずさが残りました。今年になって、幼稚園の入園試験があったんですが、うちの子は合格し、登君は不合格になったんです。それで、一層、険悪な関係になり、イヤガラセもされました」 「例えばどんな?」  一課長がメモをとりながらきいた。 「うちの庭においてあった砂あそびのおもちゃや三輪車がこわされていたり、子供のかばんの中にヘビが入ってたり……」 「それはひどいですね」 「その幼稚園へ行ったらただではすまないという脅迫電話がかかってきたこともあります」 「うーむ」 「で、その草本さんは車を持っているんですか?」 「いいえ。でも、今日、むこうの子供が、うちの子供の持っていたゴム跳びのゴムひもを持っていたと家内が言うんです」 「男の子がゴム跳びをするんですか?」  橋口がおどろいたようにきいた。 「はい。まだ幼稚園ですし、今の子は、男も女も同じような遊びをするらしくて」 「お宅の坊っちゃんの持っていたゴムひもだというのは、どうしてわかるんですか?」 「一本のゴムひもではなくて、昔からよくあるでしょう。輪ゴムをつないで長いゴムひもにするのを」 「ええ、こういう具合にですね」  早川が引出しに入っていた数本の輪ゴムをつないでみせた。 「でも、それは、どこの家でもつくれるんじゃないですか?」 「いいえ、うちのは、私が学校から、青や赤いゴムを持ち帰って、家内が一つおきに組んで作った特徴あるものですから間違いありません。家内が、それをみつけて、そのゴムをみせてというと、子供がとんで家に入ったといいます」 「一応調べてみましょう。で、根拠はそれだけですか?」 「うちの家内が言うには、うちの子供が、ふだんは嫌いなセイタカアワダチソウを持っていたのは、ダイイング・メッセージじゃないかって」 「どういう意味ですか?」 「死ぬ前に、相手の名前を知らせたんだろうって、相手の名前は草本ですから、草……」 「さあ、それはちょっと考えすぎじゃないですか? 五つの子供なんでしょう。いくらなんでも……」 「うちの子は特別|賢《かしこ》かったんですよ。だから、それくらいのことはやれます」  父親は、むきになって言った。 「殺された場所が、あの場所だというんですか? でないと、草がつかめませんからね。でも、あんな目に立つところで殺せば目立つし誰かに見られると思うんですがねえ……」  早川警部補が首をかしげると、 「なんでもいい、お願いします。洋一を殺した犯人を捕まえて下さい。草本を調べて下さい」  と、頭をさげた。     6  早川警部補と橋口が草本を調べにいく時、冬子も同行させてもらった。婦人警官の制服をきて一婦警としてついていったのである。  草本家へ行くと、すぐに出てきたのは、主婦の草本加寿子だったが、警察手帳をみると堅い顔をしてひっこみ、夫を連れてきた。草本は、やせた神経質そうな顔をした三十七、八歳の男だった。まず早川警部補が代表で質問した。 「御近所の田中さんのお子さんが亡くなったことはご存知ですね?」 「はい」 「それについて何度かうちの刑事が協力をおねがいによせてもらっていると思いますが、今日は、ちょっとお宅と田中さんのことについておききしたいと思ってやってきたわけです」 「何でしょうか?」  草本浩一は、言葉少なにきいた。 「ずばりおききしますが、お宅と田中さんのところは仲が悪かったそうですね」 「……子供のことがありましたからね」  そう言って、草本は、子供がホームからおとされて怪我をし、今も後遺症があることを述べた。事実については田中の言ったのと大体同じだった。しかし、後の処理については大いに不満があるようで、横から妻の加寿子が、泣きながら訴えた。 「あの子が病院にいる間も二回しか見舞いに来ないんですよ。……それに、あやまちだし、運が悪かっただけなのに百万円もとられたと近所に言ってまわっているんです。……幼稚園に入ったときだって少しは遠慮したらいいのに、制服を着せてかばんをかけさせて、家の前で派手にカメラでとったりして……。うちの子は、あの事故がある前は、あそこの子よりずっと頭もよかったのに」 「もう言うな」  突然、夫の方が、妻の話をさえぎった。 「恨みつらみを言えば言うほど俺たちが疑われるんだぞ」  草本はそう言うと、早川たちの方に向き直って、 「刑事さん、いくら恨んでいたって、僕たちは、あの家の子を殺したりはしませんよ。どうかいくらでも調べて下さい」  と言った。 「じゃ、念のためおききしますが、あの日の二時半頃から夕方までどこにおられましたか?」 「つまりアリバイですね。僕は会社にいましたよ。この会社ですから調べて下さい。家内は、……家にいたそうです。そうだな?」  草本は、名刺を早川にわたしてから妻の方に向いた。 「ええ、うちの子の行ってる幼稚園は、昼まででしたから、食事を食べさせたあと、私と一緒に二時頃から昼寝させました。私が目を覚ましたのは四時でしたが、子供はおきて、庭で遊んでいましたよ」 「それじゃ、ちょっとお宅のお子さんに会わせて頂けませんか? 別のことでおききしたいことがあるんですよ」  ゴム跳びのゴムひものことをきこうと思って、橋口がたのんだ。 「うちの子ですか?」 「はあ」 「ちょっと待って下さい」  加寿子は、奥にひっこんだが、すぐ出てきて、 「今、昼寝してるんです。おこすの可哀そうですから、明日にしてくれはりません?」  と言った。  結局、草本の家ではこれという手がかりも掴めぬまま、三人はパトカーに乗った。しばらく走ってから、橋口が早川に言った。 「どう思いますか、あの二人。本当に殺したんだったら、あんなに恨んでいることをべらべら喋らんでしょうなあ」 「さあ、それはわからんぞ。もし、犯人だとわかった場合に同情してもらおうと思って言ってるのかも知れんし、亭主の方の単独犯で、女房の方は知らないのかも知れん」  道で遊んでいる子供を器用によけて運転しながら橋口がきいた。 「子供は本当に昼寝してたんでしょうか。会わせるとボロが出るから会わせへんのですかね?」 「とにかく、アリバイを調べないといかんな。俺は草本の会社へ行ってみよう」 「女房のアリバイはどうしますか?」 「家で昼寝をしていたというのを証明するのはむつかしいな。明日子供にきくより仕方がないが、今日言いふくめられて本当のことは言わんかもしれんな」     7  翌日、早川警部補が、草本の勤めている衣料関係の会社に行って調べたところ、草本は、二時から六時まで会社にいて一歩も外出してないことがわかった。 「しかし、草本が事件と全く無関係だとはまだ言えない。女房の方が、幼稚園帰りの洋一を自宅に呼び入れて殺し、会社から帰った草本が、そのことを打ち明けられて、死体を運んだということはあるかも知れんな」  報告をうけた一課長は、そう言ってから、 「で、草本は、運転できるのか?」  ときいた。 「はい。会社の車を運転していますから、運転は出来ますが、自家用車は持っておりません。……しかし、レンタカーということもありますし、会社の車を使うということもありますね」 「念のため、その夜、草本がレンタカーを借りていないか、会社の車が持ち出されてないか調べてみてくれ」 「わかりました」  早川と一課長のやりとりをききながら、冬子は、別のことを考えていた。  それは、検死の時にみつけた子供の指と指の間についた黄色い花粉のような粉についてである。そのときは、同じ手に、セイタカアワダチソウを持っていたので、その花粉だろうと思ったのだが、ちょっと気になったので、検死のおわりに綿でぬぐってとっておいたのである。  冬子は、かばんの中から、その綿の入った封筒をとり出すと、鑑識課に出かけた。  ここには、冬子と仲のいい山本技官がいる。  山本は、五十歳で、冬子と親子ほど年がちがうが、話が合い、鑑識の話だけでなく、非常に広い知識を持った温厚な紳士である。 「山本さん、これ被害者の指についていたものなんです。花粉なのか何なのか分析して下さらない?」 「どれですか? いいですよ。でも、これは見ただけで大体何かわかりますよ」 「セイタカアワダチソウの花粉?」 「え? いや、これは、蝶の鱗粉《りんぷん》ですよ。調べると何という蝶かわかると思います。多分、なんとかアゲハ……というようなきれいな蝶でしょうな」 「蝶ですか……」  冬子は、礼を言うと、いつものように無駄話もせず、考えながら捜査一課室に帰ってきた。 〈では、あの子は、あの道を通ってきて、セイタカアワダチソウにきれいなアゲハが止っているのをみつけ、とろうとしたのかもしれない。蝶はとれなくて、草だけ引きむしったところへ車がきて轢いた。──ということなのだろうか。いや、指の間に鱗粉があったことから、蝶を掴まえたのかもしれない〉  橋口部長刑事が戻ってきて、一課長と喋っているのを横にみながら、冬子は考え続けた。 〈でも、あの場所を車は通らない。一方通行なのに間違えて入ってきた車があって、それが轢いたのかもしれないと思って橋口刑事がきき込みに行ったらしいが、誰も見てないということだった。ある主婦は、「一方通行を間違えて入ってきた車があったら、必ず、うちの前の道に並べてある植木鉢をひっかけて割っていくので、飛び出して行って怒鳴ることにしているけど、あの日は一台も通らず、植木鉢もこわれなかった」と言っている。  あの子供は、一体どういう風にして殺されたのだろうか〉 「随分むつかしい顔をしていますね?」  大きな声で気がつくと、机の前に橋口が立って笑っていた。 「ええ。今日は子供に会えました?」  橋口は、昨日は会わしてもらえなかった草本の子供に会いに行ったのだった。 「会いました。陰気なおかしな子でしたよ。事故で体が不自由になったのだから仕方がないと思いますが、子供の部屋で喋っていて、なにげなく机の引出しをあけたら、蝶の死骸が一ぱいつまっていましてね。百匹以上もいたと思います」 「まあ、蝶ですか?」  冬子は、顔色をかえた。 「母親にきいたら、友達とは遊ばず、毎日毎日蝶をとって引出しに貯めて楽しんでいるんだそうです。ぞっとしました。ゴム跳びのゴムひもは持っていないといっていますが、あきらかに嘘をついている顔でした」 〈洋一が幼稚園から帰ってきて、アワダチソウのところで蝶々をとった。それをみていた草本のところの登という子供が、蝶を欲しがり、奪い合いになって、石にお腹をぶっつけるか、けるかして洋一が死んでしまった。登は、蝶々の死体と、普段から洋一が持っていて欲しかったゴム跳びのゴムひもを奪って家に帰った。子供の異常な様子から、問いつめた母親は、おどろいて、洋一の死体を草むらにかくすか、家に運びこんで父親の帰りを待つ。父親は、夜、交通事故にみせるようにエプロンに細工して、御陵のところに捨ててきた──ということかしら〉 「でも、そんなら、何故、セイタカアワダチソウを手に握らせたままにしておいたのかしら。犯行現場はそこだと教えるようなものだわ……」 「えっ、何ですか?」  けげんな顔をする橋口に、冬子は、自分の考えを述べた。 「なるほどね。でも、あのあたりは、随分綿密に調べたんですが、大きな岩も石もなかったし、棒切れなんかもありませんでしたよ。それにアワダチソウの生えているところから、草本の家まで死体を引っぱって行くのは無理じゃないですか、その間に三軒も近所の家があるし……」 「乳母車に乗せて、上から何かかけて引っぱっていくなんていうのはどうかしら? それとも、セイタカアワダチソウの中に一時かくしたのかしら。でも、私は、この説を固持しているわけじゃないんだけど」 「セイタカアワダチソウの中へ隠したということはありませんね。衣服にも、かばんにもあの花の花粉はついてなかったし……」  二人が考え込んでいると、一課長が、大きな声で叫んで入ってきた。 「わかったぞ。エプロンのタイヤ跡の件が」 「車がみつかったんですか?」  橋口や他の刑事たちもすっとんで行った。 「当日の夜七時頃、桃山御陵の死体のあったあたりを走り去ったM社のブルースターがあったというので、地元警察の刑事がナンバーから持主を割り出して、今日話をきいたところ、面白いことがわかったよ」 「というと?」 「運転者は、K銀行重役の息子で、三浦一郎という二十八歳の会社員だが、そう言われると思いあたるところがあるというんだ」 「子供を轢いたというんですか?」  橋口がはずんだ声を出した。 「いや、あの日、つまり子供の死んだ日、午後七時頃、桃山御陵の中を抜けていたら、白いものをひいた。手ごたえから、多分紙だろうと思ったが新車なので車がいたんでいないか念のためドアをあけてみたら、道のくぼみに座布団が敷いてあって、その上に、白い子供のエプロンがおいてあったのを轢いたのがわかった。別に人や猫を轢いたわけじゃないので、そのまま行きすぎたが、それではないかというんだ」 「下に座布団が敷いてあったので、エプロンの裏が汚れていず、エプロンに小石のでこぼこもつかなかったわけですね」  と、早川警部補。 「そうしてタイヤ跡をつけたエプロンを死体にきせて、捨てたということですか」  橋口刑事は、そう言ってから、 「でも、その男の言っているのは本当ですかね? エリートなので、人を轢いたことを隠してそんな廻りくどいことを言うてるんやないですか?」  と言った。 「うむ、とにかく、今、エプロンのタイヤ跡についた砂と、被害者の家の付近のアワダチソウのあるあたりの土、それから、子供の靴の裏の土など、鑑識に頼んで、土の照合をやっているところだ」  今まで黙ってきいていた大林警部がそばへきて言った。 「砂の照合もいいですが、こんな場合も考えられますよ。誰かが子供を誘拐してしばるか眠らせておいて、あのあたりのお宮か何かの中に隠しておいた。ところが、子供は、気がついて、ふらふらと道に出て行った。そこを、関係のない三浦の車が轢いてしまった。エプロンは、子供がぬいで手に持っていたんじゃありませんか。そうすれば、タイヤの位置とずれていたと考えられます。……この場合だったら、砂の照合はあまり意味がないんじゃないでしょうか」  一課長はちょっとイヤな顔をした。  大林警部と一課長はあまり仲が良くない。  その空気を感じると、冬子は、黙って外に出た。死んだ子の通っていた幼稚園に行って、エプロンのことなどもきいてみたいと思ったからだ。     8  その幼稚園は、団地のそばにたった白くてきれいな建物だった。  花柄のブラウスを着た若い女性に案内されて、応接間で待っていると、三十二、三歳のきさくな感じの男が入ってきた。  園長は病気で入院しているので、副園長を呼んできますということだったので、これが副園長なのだろう。  男は、インターホンでジュースを注文してから、名刺を出して挨拶した。 「副園長の大垣でございます。このたびは、うちの園児のことで大変お世話をかけ申しわけないと思っています。……洋一くんは、おとなしく、賢くて、とても可愛いお子さんだったのに……」  と言って絶句し、うつむいた。  冬子は、洋一の性格とか友達関係、トラブルはなかったかなどきいたあと、当日の朝から帰るまでのことを教えていただきたいと頼んだ。 「当日のことでしたら、担任の池恵美子先生からおききになった方がいいと思いますので、教室へご案内しましょう」  大垣はそう言って、洋一のいた教室に案内してくれた。池恵美子先生というのは、さっき応対してくれた若い女性だった。 「あの日は、朝から二時間が体操で、鉄棒や、泥んこ遊びをして、そのあとお昼までお絵かきの時間でした。それからお弁当を食べ、昼から、歌をうたって帰りました」 「絵というとこれですか?」  冬子は、壁に貼ってあるたくさんの絵を見まわした。 「はい。洋一君のはあれです。音楽をきいてそれから想い浮べるものを絵にしたわけです」  兎や小鳥が描いてある絵や、わけのわからないもようのような絵もある。明るい色調の絵もあれば、暗い感じの絵もある。  洋一の絵は、オレンジや赤やクリーム色を使った明るく素直な絵で、のびのびと描かれていた。 「これだけ派手に絵の具を使ったら、エプロンも相当汚れると思うんですが、あのエプロンは真白で汚れてませんでした。どうしたんでしょうか?」  冬子がきくと、池恵美子は微笑して、ロッカーからガウンを出してきた。 「絵をかくときは、上からこのガウンを着るんです。エプロンと同じ長さですから、エプロンは汚れません。ほら、あの絵と同じ色の絵の具がついてますでしょう?」  なるほど、ガウンの方だけみても結構絵になるほど絵の具がくっついている。  冬子は、ふと洋一のきていた白いズボンやシャツの袖口に一つも絵の具がついていなかったのを思い出した。 「でも、ガウンのこの裾のところなど、友達が筆で横からいたずらしたのか、青い太い線が走っていますが、ズボンに、その続きがないのはどうしてでしょうか? 私は、洋一君の死体が着ていたシャツやズボン、エプロンなど、すべて犯行後洗濯された気がしてならないのです。朝からは、鉄棒や泥遊びがあったそうですが、洋一君のシャツには、鉄さびのあとも、泥のあともありません。ここじゃ、運動服を着てするんですか?」 「いいえ、小さな子供で着替えが大変なので、そのままやらせていますが……」 「やっぱりこれは、服を洗濯して乾かし、わざわざ関係のない車のタイヤ跡をエプロンにつけているとしか見えません。というのはタイヤのあとと検死結果の打撲のあとは合わないんです。何故そんなことをしたんでしょうね?」  相手が黙ってしまったので、何気なく顔をあげて二人を見た冬子は、はっとした。  大垣と池恵美子の顔が蒼い。冬子の頭にひらめくものがあった。 「ひょっとして洋一君は、送迎の幼稚園バスに轢かれたんじゃありませんか? それで、そのことを隠すために、衣類を洗ってエプロンには、違う車のタイヤ跡をつけたというような……」 「いいかげんなことを言わないで下さい。どこに証拠があるんですか?」  大垣がにらみつけた。 「それは……」  冬子が言いよどみ、考えをまとめようとしたとき、 「やあ、どうですか?」  と、入口から橋口が入ってきた。 「新しい事件がおこりましてね。検死をお願いにきました。パトカー待たしてますからすぐ乗って下さい」  うむを言わせず連れ出してしまった。車に乗ってから、 「事件はどこなの? 今、折角いいところまで追いつめたのに」  と冬子が不満げに言うと、橋口は笑い出した。 「事件なんてありませんよ。苦戦になりそうだから連れ出したんですよ」 「えっ?」 「その手さげの中に、盗聴器を入れておいたんですよ。あとから追いかけようと思って」  冬子は、あわてて手さげの中をみた。 「知らなかったわ、じゃ、話きいた?」 「ええ、車の中できいてました。これはまずいと……。あれだけじゃ無理ですよ、もっと裏づけをとり、つめていかないと。今度行くときは、私が一緒に行きますから」     9  翌日、冬子は橋口部長刑事と一緒に、副園長の大垣と池恵美子の前に立っていた。 「今日は、あなた方二人に警察に来ていただくために参りました。色々調べた結果、洋一君は、あの日、あなたが運転し、池先生がつき添っていた幼稚園バスに轢かれて死亡したという結論に達したからです」 「そんな、何を言うんですか? どこにそんな証拠があるんですか?」  あわてながらも、大垣の態度は自信に満ちていた。 「本当は、この間来て話をきいている間にわかったんですが、しっかりした裏づけをとるため、あの日は帰ったのです」 「理由を言って下さい」  池恵美子が叫んだ。 「第一の理由は、洋一君は、あの日バスを降りた大通りから、角をまがって行ったと言われましたが、そんなはずがないということです。角を曲って歩いていれば、必ず、キャッチボールをして遊んでいた少年二人に会った筈なんですが、彼等は見ていません。だから、洋一君は、バスを降りて、角をまがるまでのわずかな距離と時間の間に轢かれるか、連れ去られたということになります。それをあなた方が見ていないのはおかしい」  そんなことかというように、大垣がほほえんだ。 「それは、その子たちが、ボールを拾いに行ったとか、家に入っていたすきに、洋一君が通ったんでしょう。現に、洋一君は、セイタカアワダチソウを持って死んでいたというではありませんか。それだったら、家の近くまで帰っていたことは間違いないんじゃありませんか。私たちと別れるとき、手にそんな草は持っていませんでしたから」  今度は、冬子がにっこり笑う番だった。 「それでわかりましたよ。犯人が、洋一君の手に、何故アワダチソウを持たせたのかが。犯人は、大通りで洋一君が死んだのではなく、角を曲ってあの草の生えているあたりまで帰っていたと見せかけたかったんですね。近所の人だったら、そんなことをする必要はないですから」 「犯人がアワダチソウを持たせたときめつけることは出来ないでしょう? 本人が折りとったかもしれないわ」  と、池恵美子が冬子を睨んだ。 「彼がアワダチソウをとるはずがないのです。小児喘息で、あの花にはアレルギー反応があるので、普段から走って通るほど、嫌っていたそうですからね。それに大通りが現場だと思うのは、草本登という子供にききだしたところ、バスの止るあたりで、洋一君のゴム跳びのゴムひもと死んだ蝶を拾っているのです。きっと、洋一君は、バスのうしろにしゃがんで、蝶をとっていたとき、轢かれたんだと思います」 「では一歩ゆずって、洋一君が大通りで轢かれたのだとしても、うちのバスが轢いたとは限らないですよ。一旦角を曲った洋一君が、もう一度出てきて、他の車に轢かれたということもあるでしょう」  大垣は、心を落着けるためか、煙草に火をつけた。 「あれは、通りがかりの事情のよくわからないものには出来ない犯罪なんですよ。その理由として、第一に、洋一君の母親の帰宅時間を知っていて五時半きっちりに脅迫電話をかけてきたこと、第二に、田中という家は、あのあたりに、三軒あるのですが、他にはかけずあの家にかけてきたこと、洋一君のことを、洋一《ひろかず》と正確にかけてきたことでわかります。一の場合をもう少し詳しく説明すると、洋一君の家は、電話機を隣りの家との塀の窓際においているのでベルがなるとうるさくて必ずわかるが、その日は一度も電話がかかっていないのです」 「子供が死ぬ前に、そういうことを犯人にしゃべったんじゃありませんか。親は五時半にならないと帰らないこと、自分の名前はヒロカズ、そして、電話番号を」 「本人は、自宅の電話番号を知らないそうです。それに、もし、犯人が電話帳で見たとしたら、洋一君の家の電話番号は載っていません。草本家のイヤガラセを防ぐため、番号を最近変えてますからね。電話局に番号の問い合わせはなかったそうですよ」 「では、洋一君をよく知っている近所の人か知人が轢いたんでしょう。私たちとは限らない。もし、私たちだったら、すぐに警察を呼びますよ」  副園長は、だんだん不機嫌になってきた。 「いや、あなたは届けなかった。通園バスが園児をひいたということになると、新聞にものるだろうし、園児の父兄からも非難を浴び大変なことになる。あと二カ月もすれば、来年の園児を募集する大切な時期になりますからね。強引に土地を買収して新しく建設を予定している第二幼稚園も中止しなくてはならなくなる。その幼稚園の園長にはあなたがなるはずだった。何よりも、この幼稚園教育に一生をかけ、今、病床にある園長にこのことを知らせたくなかった。園長の姪であるこの池先生とあなたは結婚するつもりだったから」 「そんな馬鹿な……」 「いや、あなたと池先生が恋人同士であることぐらい園児はみんな知ってますよ。あの日も、最後の洋一君をバスから降ろし、ほッとして、あなたたちは冗談の一つも言いあいながらバックしていたんじゃありませんか?」 「いいかげんなことを言うな。さっきから話をきいているが、私たちが轢いたという証拠はどこにもないじゃないか」 「いや、ありますよ」  女なので馬鹿にしているのだと見てとった橋口が、ドスのきいた声で交代した。 「あんたたちは、洗い上って乾いたエプロンに、名札をつけようとしたとき、車に当ったのか名札が真二つに割れてしまっていることに気がついた。辛うじてくっついているが、怪しまれて調べられたら、車の塗料かなにかついているかもしれない。それで、新しい名札を作ってつけたんだ。そして、気がつくと、名札の上に二センチ五ミリあけて三センチの長さにつける規定の紫色の線《ライン》がない。これは、二年保育の藤組《ふじぐみ》のしるしですね? これも余分が幼稚園にあるので、ほッとして縫いつけ、出来たエプロンを子供の死体に着せた──」 「そんなことはありませんっ」  池恵美子が、ヒステリックに叫んだ。エプロンに名札や、ラインをつけたのは彼女なのだと、冬子は確信した。橋口は池の顔をじっとみて続けた。 「名札は、車にあたって割れたのじゃなくて、帰りのバスの中で落したのを舟山君というさいごから二番目に車を降りた男の子が踏んで割ったんですよ。その子は、家に帰ってそのことを母親に言っています。翌日先生にあやまって新しいのを貰ってくれって。それが、死体では新しい名札にかわっているなんておかしいと思いませんか」  そこで再び冬子がかわった。 「園で作らせている余分の名札を補充できるのは、あなたたちだけでしょう。たとえ名札はなんとかして手に入れたとしても、特徴のある副園長さんの字で名前を書くことは出来ない。新しい名札に名前を書いたとき、あなたは、犯人であるという署名をしたようなものです」 「それに……」と、冬子は言った。 「あの紫色のラインも市販されてないもので、補充できるのはあなた方だけです」 「なぜラインを補充したというんですか。はじめからエプロンについていたものでしょう?」  大垣が、たまりかねたように怒鳴った。 「そんなことはありません。ラインは、あの日つけ忘れていて、家に置いてあったんですよ。お母さんにエプロンを調べて貰いましたら、縫いつけ方が自分のつけ方とちがうというのです。探してもらったら、子供部屋におちていましたよ。ほら、これです」  第六話 溺 れ た 女     1  現場へ到着して、死体のある部屋のふすまをあけた検視官の江夏冬子は、思わず、「あっ」と小さな声を発した。  京都府警へ赴任して二年たち、相当ひどい死体をみても、いつも顔色一つ変えない冬子だったが、やはり、自分が女であるだけに、こういう女性の全裸死体をみるのは苦手だ。  検視官でなければ、目のやり場に困るところだろう。  しかし、冬子は、すぐに職業意識をとり戻し、死体のそばにすわった。  死体は、三十歳前後で、肌が白く、つやつやした肉感的な感じの女性である。全裸であおむけになり、片足をたてたポルノ写真まがいの恰好をしている。  唇を少し開いているのも妙になまなましい色気がある。 「えーと、最初から裸だったんですか?」  冬子は捜査一課の杉原警部にきいた。 「そうです。子供が小学校から友達と一緒に帰ってきてみつけたんですが、そのときからこの恰好で、この部屋に寝ていたそうです」  冬子は、隣りの部屋で、血の気の失せた顔をしていた髪の長い女の子を思い出した。あれがその子供だろう。 「脱いだ衣類は?」 「それが、どこにもみつからないのです」 「風呂場かどこかには?」 「風呂場は作りかえるところらしく、今はとりはらってしまってありません」  冬子はうなずいて検死をはじめた。  横で橋口部長刑事が記録をとる。 「……外傷なし。薬物斑なし。……首に索溝もなし……」  一瞬、病死ではないのかという疑いが冬子の胸をかすめた。  冬子は、心を落着けた。もう一度死体の顔をみた。目にわずかに溢血《いつけつ》点がある。  顔を近づけて鼻と口をみると、鼻から、白い小さな泡が出ているのがみられた。 「死因は何ですか?」  京都府警の森下捜査一課長が、冬子にきくが、冬子は考え込んだままである。 「なにか不審な点でもあるんですか?」  一課長が、重ねてきいた。 「……溺死ではないかと思うんですが、髪も濡れてないし、体に死斑が出てますし……」 「溺死ですか? うむ」  死斑というのは、血液循環が停止したとき、血液の自重によって、死体の下側にできるものだが、水死の場合は、波や風で死体が一定の姿勢を保つことが出来ないので、死斑ができないのだ。 「洗面器かなにかに突っこんで殺したんでしょうか?」  橋口部長刑事がささやいた。 「でも、それだったら、溺死にみせかけるために死体を川とか海へ捨てに行くんじゃないかしら?」  冬子も、小声で答えた。 「とにかく、死体を裏がえして下さい」 「わかりました」  橋口が、よいしょと死体をひっくり返すと、また、一しきり、鑑識のカメラのシャッター音がつづいた。 「やっぱり溺死ですね。口から水が少し出ましたわ。それに、背中がひんやりしているし、体の下になったところは少し濡れています」  冬子がいうと、杉原警部はよけいわからないというような顔をした。 「じゃ、水につけて溺死させたあと、すぐに引きあげてここに運んできて放置したのでしょうか? 死後三時間位たってからしか死斑は出ないので話は合いますが……」 「それとも、だれかがこの家にやってきて、彼女を洗面器の水につけて殺し、川に運ぼうと思ったが、人がきて運べなかったとか、外に人がいて運べなかったということも出来ますね」  橋口も横からいった。 「自殺ということはありませんか?」  と、杉原警部がきいた。 「ないと思います。女が自殺するときこんな恰好はしないでしょう」 「なるほど」 「どっちにしろ、水につかっていた時間は短いと思うな。体に、水中で、杭や石にひっかかって出来た小さな傷がないし、標母皮《ひようぼひ》がみられない」  一課長が自信を持って断定した。冬子も、うなずいた。  標母皮というのは、手足の指紋や足紋がでる側が、ふやけた状態をいうので、ちょうど長時間川遊びをしたり、お風呂に入ると、手足の先が白くふやけてくるのと同じである。 「死亡推定時刻はいつごろでしょうかね?」 「朝八時から、十時の間だと思いますが……」  冬子は、一課長に慎重に答えた。  死体現象の進行には、一対二対七、又は八という原則がある。腐敗や死後硬直などが空気中では一日かかるものが水中では二日かかり、土中に埋めたものは、七、八日かかるというもので、水につかったままの死体ならかえってやり易いのだが、水中にあったり、空気にさらされたりした死体の死亡推定時刻の判定はむつかしい。 「とにかく、解剖して、どんな水を吸っているとか、胃の中の食物の状態などをしることが先決ですね」  冬子はそういって立ち上った。     2  解剖の結果、水を飲んでの溺死ということがはっきりした。そして、その水は琵琶湖の水であることが、水質検査によりはっきりした。 「水道の水じゃないとすると、洗面器の水で殺したという説は崩れますね?」  杉原警部が冬子にいった。 「琵琶湖の水を汲んできて洗面器に入れて殺したということも考えられますが、それほど狡猾《こうかつ》な犯人だったとしたら、溺死体を座敷に放り出しておくのはおかしいと思いますし……」  冬子は、首をかしげた。 「琵琶湖で溺れ死んだ死体が、自分の家まで帰ってきたとなると怪談ですね」  橋口がいったが、みんなは無言のままだった。 「では、その問題はおいておいて、次に、食道と胃の内容物についてだが……」  一課長が解剖報告書をよみあげた。 「殆《ほと》んど、消化されてないパン、みかん、卵、牛乳……というと、これは朝食のメニューですね?」 杉原警部が誰にともなくいった。 「そうだ。朝食に間違いないだろう。被害者の家族、つまり、夫と子供にきいたが、前夜はカレーライスをたべ、今朝は、パン食で、この通りのものを食べたといっている。腸にはカレーの残滓《ざんし》があったし、このパン食は、朝食にまちがいない。したがって朝食のあとすぐ殺されたということになる」 「すると、死亡推定時刻は、八時前後ということになりますか?」  冬子がきくと、一課長は首をふった。 「いや、彼女が食事をしたのは、多分、午前九時か十時だと思うので、死亡時刻は、その頃になりますね。夫や子供の話によると、彼女は、夜スナックに働きに行っているので、朝は遅く、毎朝九時から十時頃しか起きなかったそうですよ。この家庭では、夫は、タクシーの運転手で、自分で食事をして六時半頃行ってしまい、子供はそのあと起きて、一人でパンを食べて八時頃小学校へ行っていたらしいのです。そのとき、母親は、まだ寝ていて、九時か十時に起きて食事をするのが常だったようです」 「昨日もその通りだったんでしょうか?」  冬子がきいた。 「そうらしいです。子供が小学校に行くときには、母親はまだ眠っていたといっています」 「家族は夫と子供と被害者の三人ですか?」  冬子が再びきいた。 「そうです。石上淳吉、子供の石上鈴子、それに被害者の石上和美の三人です。淳吉と鈴子はそれぞれ、会社と学校へいっていて九時とか十時にはアリバイがあります」 「つまり、誰かが、午前九時か十時頃あの家を訪ねたか、彼女自身が、琵琶湖の付近まで出かけたということになりますね」  杉原が被害者の顔写真を弄《もてあそ》びながら一課長にいった。 「近所の人で誰かそれをみたものはないのか?」  一課長に反対にきかれて、杉原は困ったような顔をした。 「ところが、あの家は、近所と離れている上に、つきあいがないんですよ。だから、今ききこみに廻っているんですが、まだ、何もつかめません」 「近所の線から人の出入りがチェック出来ないとすると、家族の人間関係を調べていくより仕方がないな。……ところで、被害者の男関係については、勤め先のスナックなどで、色々とうわさがあるようだな?」  一課長は、その方面を調べた小川警部補の顔をみた。 「はい。昨夜、そのスナックに行ってきましたが、男関係が乱れていたので、いつかこういうことになるのではないかという意見が圧倒的でした。営業中なので、詳しいことはきけませんでしたが、中でも、現在特に親密な関係にあるという人物二人の名前をきいてきました」 「それは?」  一課長が、チョークをとって黒板の前に立った。 「不動産会社を経営している戸谷勇五十歳と、短大講師で独身の宮下光夫三十七歳の二人です。このことは、夫である石上淳吉にも知れ、夫婦喧嘩がたえなかったようです。本人が同僚の女の子に打ちあけています」 「で、二人には話をきいたのか?」 「まだです。今朝、まず短大講師の宮下をたずねたのですが、二時間つづきの授業中だったので、この会議のため一旦帰ってきました」  小川は、そういって申しわけなさそうな顔をした。 「では、その宮下、戸谷、それに夫の石上の三人について手わけして昨日の行動を調べることにしよう」  一課長の言葉で、第一回の捜査会議はおわった。     3  江夏冬子は、捜査本部の一隅で、じっと考え込んでいた。 〈犯人は、ガイシャを琵琶湖で殺したのに、家で死んだようにみせかけたくて家に運んだのだろうか。それとも、反対に、家で殺したのに、琵琶湖で死んだようにみせかけたかったのだろうか……〉  考えあぐねてお茶を飲もうと、冬子が席を立ったとき、電話がかかってきた。  丁度、冬子の横だったので、受話器をとると、それは、滋賀県警本部からの電話だった。琵琶湖の浜大津で、被害者の物らしい衣類とハンドバッグが水に浮いているのをみつけたので、引きあげたから見にきて欲しいという。  すぐに、捜査員が大津にとぶことになり、冬子のコンビである橋口も行くので、冬子も同行することにした。  京都の三条京阪のところから、大津までは、京津電車が通っているし、車でも三十分とはかからない近さである。 「桜がきれい」  冬子は、道路の両側に咲き競っている桜をみながら呟いた。 「今が満開でみごろでしょうね、こっちは花見どころじゃありませんけど」  橋口部長刑事が運転しながら答える。 「変った家が建ってるわね。ほら、お城みたいだわ」  冬子が、のびあがるようにして、モスク風の建物をみていると橋口が笑い出した。 「アハハ、あれは全部モーテルですよ、アベックのいく」 「あら、本当? 橋口さんよく知ってるわね」  冬子は、あわててちょっと赤くなっていった。 「モーテルぐらい知ってないと捜査一課じゃつとまりませんよ。あ、あぶない!」  橋口は対向車とぶつかりそうになり、あわててハンドルをきった。  橋口と冬子は、普段からうまが合って、話をしていても楽しい。やがて、逢坂山《おうさかやま》を過ぎ、大津に着いた。  滋賀県の県警本部へ行くと、五、六人の刑事が出てきて、水から引きあげた品物をみせてくれた。 「えーと、これがワンピース、カーディガン、スリップ、パンティ、ストッキング、靴、そして、これがハンドバッグです。これだけが、ビニールのゴミ袋に入って、この紐で、こういう風に十文字に縛り、岸に近いところに投げこんでありました」  牧野という四十年配の警部が説明をし、ハンドバッグの中をあけてみせた。  中には、ハンカチ、チリガミ、スナック名の入った名刺、コンパクト、口紅、小さな櫛、財布、タバコ、百円ライター、携帯用吸殻入れなどが入っていた。 「被害者は、煙草を吸ったんでしたかしら?」  冬子が橋口にきいた。 「スナックに勤めるようになってから吸うようになったそうですよ。彼女の夫は吸わないので、家では、かくれて吸っていたそうですが」  品物の引き渡しがすむと、みんなで、それが浮いていた湖畔まで行き、現場をみた。  見渡す限りの蒼い湖には、ヨットや船がうかんでいて、岸には、ドライブインや旅館が間をおいてたっていた。 「横にモーテルがありますね」  冬子が、橋口にささやいた。 「そうです。ひょっとしたら、彼女は、ここを利用したのかも知れませんね」  そういって、橋口は、一人で、モーテルにききに入って行った。  帰り道の車の中で、冬子は、その結果をきいた。 「顔写真をみせたら昨日は来たかどうかわからないが、前には来たことがあるといってましたよ。なにせ、車で入ってきて、ガレージの中から部屋にあがるので、顔はあまり見ないというんです」 「男の人の顔もわからないんですか?」 「四十か五十の恰幅《かつぷく》のいい男だといってましたから、不動産業者の戸谷じゃないかと思いますが……」  死体に、セックスをしたあとはなかった。  だから、モーテルのところまで来たが、なにかで口争いになり、琶琵湖に顔をつけて殺されたのかも知れない。  でも、その場合、何故裸にしたのだろうか。     4  京都府警に帰ってくると、被害者の男関係を調べに行っていた杉原警部たちも、次々と帰ってきたので、両方の報告会がひらかれた。  まず、杉原警部が立ち上って、不動産業者の戸谷を調べた結果を報告した。 「戸谷は、石上和美との関係はしぶしぶ認めましたが、昨日は、客と家を見に行ったり、大阪へ行ったりして、彼女とは会っていないというんです。しかし、彼の行動を分《ふん》きざみで書かせ、裏をとったところ、午前十時から十一時の間がおかしいんです」 「どういう風にだ?」  一課長が身をのり出した。 「彼は、車を走らせているとき、お腹がすいたので、八条口の新幹線京都駅の駐車場に車を入れ、一階の名店街で食事をしたといっています。しかし、食べたという天婦羅定食の値段もまちがっているし、御飯は豆御飯だったのに、白い御飯だといっています。又、店は、混んでいたといってますが、店の人の話では、二、三人しか人がいなかったそうです」 「その点を追及したら、何といったんだ?」 「色々と仕事のことで、考えごとが多いので、うわの空で食べていたからだといいましたが、大分狼狽していました」 「なるほど。次に、短大講師の先生の方はどうなんだ?」  一課長がみまわすと、小川警部補が入口から駆け込んできた。 「すみません、遅くなりまして。短大講師の宮下は、昨日は、朝、十時まで授業で、そのあと二時まであいているので、昼食をたべに家に帰ったといっています。しかし、一人暮しなので、本当かどうかわかりません。彼は、最初、死んだ石上和美を独身だと思い込んでいて、随分かよっていたようです。最初の出会いは、卒業式のあと先生たちばかりで宴会があり、二次会に同僚の先生に彼女のつとめていたスナックヘ連れて行かれてからだということです。しかし、最近では、彼女に夫ばかりか子供もいるのがわかって、つき合いをやめたといっています。家にも、昼間、何回か行ったといっています。が、これは、家から指紋が出たときのためだと思われます。口数が少なく、なかなか喋ってくれないので手間がかかり遅くなりました」  被害者の夫については、今晩が通夜で、明日の葬式がすんだら、本人がこちらにお伺いするといったので、今日話をきくことは遠慮したと、長友部長刑事が報告した。  一通り報告が終ると、杉原警部が手をあげて質問した。 「ハンドバッグに入っていたという携帯用の煙草の吸殻入れの中をのぞいてみたら、吸殻が三本入ってますが、二本は、セブンスターで、吸口に口紅がついていますが、一本は外国煙草のモアで、口紅がついていません。これは、二人の人間が吸った煙草の吸殻ではないでしょうか?」 「ということは、口紅のついた方は、被害者の吸った煙草で、一本は、犯人のではないかという意味だね?」  一課長がきいた。 「そうです。一度外出から帰ったら、携帯用の吸殻入れの中の吸殻は捨ててきれいにすると思うんです。それが入っているということは、昨日どこか外出先で灰皿のないところ、たとえば琵琶湖の岸で二人で吸ったのではないかと思われます。それで、今、話の出た、不動産業者と、短大講師、被害者の夫の三人の中で、煙草を吸うのは誰かを考えてみたらと思いますが……」  一課長は、うなずいてから、 「えーと、石上淳吉は吸わんな。それから、戸谷と宮下はどうだったかな?」  といった。 「宮下は、確かマイルドセブンでしたが、戸谷は、外国煙草じゃなかったかと思います」  小川が杉原の顔をみながらいった。 「私もちょっと会っただけですが、戸谷が細長くて茶色い煙草を吸っていたように思うんです」 「よし、では、この吸殻を鑑識にまわして、唾液から血液型の判定をしよう」  一課長は、煙草をとりあげ、鑑識課員をよんだ。 「このライターにも指紋がついているかもしれんな」  そういって、ライターも鑑識にまわされた。  それらが鑑識に持ち去られたあと、冬子が、遠慮がちに手をあげた。 「今、被害者の衣類をみていて思ったんですが、ブラジャーがありませんね。彼女は普段からノーブラだったんでしょうか? こういうスケスケのワンピースを着るのにおかしいと思うんですが」 「なるほど、ブラジャーがないな」 「ブラジャーだけ犯人がかくしているんだろうか?」  みんなは不思議そうな顔をした。 「それから、上のワンピースがクリーム色なのに、スリップが黒というのもおかしいと思うんです。すけてしまうので、白かベージュが常識じゃないでしょうか?」  冬子がかさねて言うと、小川警部補が、 「ワンピースをぬいだとき、黒のスリップの方が、男が喜ぶからじゃないでしょうか? 裸に黒のスリップというのは、なかなか魅力的ですよ」  と、真面目な顔に似合わないことをいった。 「でも、それだったら、パンティも黒にすると思うのに、パンティはピンクだし……」  冬子は、もう二つほどおかしいと思うところがあったが、黙っていた。  しばらくして、杉原警部が勢いよく手をあげた。 「今の話から考えて、被害者は、白か、ベージュのブラジャーとスリップをきていたが、殺すときに、塗料がついたとか、インクとか血がとび散ったので、それをみられると、犯人が自分であることがわかってしまうので、それは処分した。そして、前のときにおいていったか、自分の持っていた黒のスリップを代りに入れたとは考えられないでしょうか?」 「なるほど。しかし、スリップにとび散って犯人がわかるものというと何だろうな? 戸谷は、不動産業だし、宮下というのは短大の講師だが……、彼は何の先生だ?」  一課長の言葉に、小川があっといった。 「彼は、染色工芸家ですよ。とすると、殺された現場は家の仕事場なんでしょうか?」 「かもしれんな。彼は、授業を終って一旦家に帰った十時すぎに、自宅に彼女をよび、服を脱がせてから洗面器にくんでおいた琵琶湖の水に顔をおしつけて殺した。しかし、その時、彼女があばれて、染色用の染料がスリップとブラジャーについた。それで、彼女をはだかにして車で彼女の家へ運び、琵琶湖の水ののこりを体にかけて逃げた。そして、ブラジャーとスリップは焼くか、きりきざんで捨て、のこりの衣類に黒いスリップを入れて、琵琶湖にすてに行った。こうしておけば、衣類が発見されても、彼女が琵琶湖で死んだということを印象づける……」  と、一課長が一息に喋ってみんなをみると、杉原が大きくうなずいて、 「でも、残念ながら証拠がありませんね」  と、ため息をついた。そして、冬子が首をかしげているのをみると、意見をのべてくれといった。 「私はまだスリップにこだわっているんですが、今の話の通り、黒いスリップがおあつらえむきに仕事場にあったとは思えないんです。彼は独身だし、奥さんのというわけにもいかないし、町で買ってきたのでしょうか? それだったら黒を買わないで、同じベージュ色のにするのではないかと思いますが」 「もし、彼が、昨日、これと同じスリップを買った店がわかれば、彼をくずすことが出来ますね?」  若い長友がはりきっていった。 「ええ、それだと一番いいんですが、そういう目立つことをするかどうかは疑問です。それだったら、死体を家に運びこんだとき、被害者のタンスから、ブラジャーとスリップをとり出せばいいと思うんです。でも、その場合も、なぜ、スリップだけ、それも黒のを持っていったのか。染色家だったら、色についても感覚が鋭いと思うのに」 「犯人は女なんじゃありませんか? 同僚のホステスだったら、自分のスリップも持ってるし。彼女のスリップに自分の口紅がべっとりついたので捨てたということも考えられますよ」  結論が出ないので、橋口が、勝手な意見をいった。しかし、一課長は真面目な顔で、その方面の捜査も必要だといった。  その日の会議は、そこで打ち切られた。     5  翌日の午前中、みんなは、被害者石上和美の葬儀に出かけて、捜査本部の中は静かだった。  葬儀にやってくる人物を観察していると、意外に緒《いとぐち》がみつかることもあるし、参列した人物に、自然に話をきけるという利点もあった。橋口は、ホステスたちに話をきくのだとはりきっていた。  昼前に、鑑識から、昨日まわしておいたライターの指紋と、吸殻の血液型が出た。  口紅のついた方の吸殻は、やはり被害者のもので、A型、外国煙草の方は、B型だった。  冬子は、容疑者のリストを調べた。B型というのは戸谷だけだった。宮下はO型で、夫の石上淳吉もO型だった。  みんなが帰ってきたのは、丁度十二時だった。葬儀が十時から十一時だったので、そのあときき込みにまわっていたのだろう。  杉原警部と小川警部補は、それぞれ、戸谷と宮下の指紋をとってきたのだといって、一足遅れて帰ってきた。勿論、さりげなくとったらしく、宮下のはライター、戸谷のは湯呑みを持ちかえってきた。二人は、すぐに鑑識室に飛びこんでいった。  冬子が昼食にとったそばをたべていると、杉原がそばへやってきた。 「すみませんが、さっき、鑑識が渡した指紋みせてくれませんか。これと照合しますので」  冬子が、引出しから紙を出すと、小川ものぞき込みに来た。 「わかった! あれ、戸谷の方や、おかしいな」  二人は顔を見合わせている。琵琶湖に浮いていた被害者のバッグから出たライターには戸谷の指紋が出たのだ。 「すると、昨日の宮下だという仮定は間違ってくるな。それとも、宮下が、わざと戸谷のライターを入れたんだろうか?」 「でも、吸殻からの血液型も戸谷さんのですよ」  冬子たちが、がやがやいっているところへ、耳よりな情報が入ってきた。  被害者の家付近のきき込みに廻っていた所轄署の刑事が、米屋の店員から、当日の午前十時頃、石上家のそばにとまっていた車のナンバーをきき出すことに成功したのだった。 「3333といういい番号だったのでおぼえているそうです。色はグレー、外車で車種は……」  すぐに、陸運局に電話して持主をきいたところ、これがぴったり戸谷の車だった。ナンバーのひらがなのところがちょっと曖昧だったが、車が外車で珍しい型のものなのでわかったのである。  午後から、本部に戸谷がよばれ、調べを受けた。冬子は、彼をみるのははじめてだった。筋肉質の恰幅のいい男で、不動産業というのは儲かる商売なのか、外国製のいい布地の背広をきて、オパールのタイピンとカフスをしていた。彼は、警察によばれたことを気にする風もなく、誰にも愛想がよく、冬子にむかっても、「警察にこんなべっぴんの刑事さんがいてはりますのか」といって、みんなを苦笑させた。  それだけに、犯人だとすれば手ごわい相手といえた。  一時間後、戸谷は、石上家へ、朝十時に行ったことを認めた。その日は会うことを約束していたので、むかえに行ったというのである。 「そやけど、いくらチャイムを押しても出てきませんのや。おかしいなと思いましたけど、近くへ買物にでも行ってるんかと思い、しばらく待ってましたんですわ」 「カギは持ってなかったんですか?」  杉原がきびしい顔できいた。 「カギ? カギは持ってません。そやかて、彼女が一人で住んでるわけやないし……」  冬子は、彼女のハンドバッグにカギがなかったのを思い出した。 「それからどうしたんですか?」 「仕方がないので、琶琵湖の方へ車を走らせました。客がきたか何かで家にいるわけにいかんようになり、外出するところやというて、外へ出てしもたんかと思ったわけです。行先はいつも琵琶湖付近のモーテルや旅館でしたよって、きいてみたんですが、来てないのであきらめました」 「それからどうしました?」 「それから? 帰りましたよ」 「彼女が、他の男と旅館にいるのを見たのとちがいますか? それとも、彼女が、他の男の車からおりてくるのを見てかっとしたとか……」 「そんなことはありません。帰りました」  戸谷は、はじめて怒ったように大きい声を出し、そのあといくら責めても、その日は、彼女と会ってないというばかりだった。  煙草の吸殻とライターのことをいっても、それは、今まで何度も会ったから、そのときのものだろうといい、取引き仕事があるから帰らせてほしいといって、強引に帰ってしまった。 「結局、戸谷か宮下かわからないままですね。二人とも証拠がないですから……」  みんながいっているところへ、橋口が帰ってきた。彼は、葬式の会場で同僚のホステスにあたり、一人疑わしい女がいたので大阪まで行ってきたが白だったといった。 「被害者の和美に、戸谷をとられたホステスがいて、店をやめたときいたのでたずねて行ったんですが、今は結婚して子供まで出来て幸せにしてるんですわ。今日もこれから、子供を予防注射につれていくところやとにこにこしてました。そのほか同僚ゆうても深くつきあってる子はあまりないみたいです」 「やはり、宮下か戸谷だな。いや石上かもしれんな」  杉原警部が考え込んだ。     6  夕方になって、石上淳吉がやってきた。容疑者として呼んだわけではないので、女の子供を連れてきている。父親から話をきく間、冬子が守りをしたが、おとなしいが利発な子である。  彼にきくことはたくさんあった。まず、夫婦喧嘩がどんなに激しかったかということである。彼は、きまじめな性格で、普段はおとなしいが、いざとなると何をするかわからないようなところがあった。体も大きかった。  彼は、妻がスナックに勤めるようになってから変ったと、刑事たちに訴えた。男関係も乱れ、朝がえりするようなこともたびたびだった。昼間、家に男がたずねてきていることも知っていたといった。 「子供が風邪で学校を休んでいるときに、男が来たので、子供を寒い屋外に追い出したこともあります。夕方、私が帰ってくると、子供が熱を出し、真っ青な顔をしてふるえているので、連れて入ろうとしたら、入ったらいけないのだと、どうしても入らないのです。妻は、男が帰ったあと疲れてねてしまい、子供を入れるのを忘れてしまったんです。この時は大喧嘩になりました」 「どうして別れなかったんですか?」 「別れるなら、子供を育ててやったのだから、まとまった金を出せというんです。それに、私も彼女に未練があって……」 「おや、お子さんは、和美さんと実の親子じゃなかったんですか?」  杉原が驚いてきいた。 「はい、あの子が五歳のとき、前の家内が亡くなったので、一年ほどして彼女と再婚しました。最初はよく可愛がってくれたのですが、最近では、随分辛くあたってたようです。子供は何もいいませんでしたけど、彼女も気まぐれなときがあって、突然、おもちゃを買ってやったり、猫かわいがりすることもあるのですが、最近は、いらだって、子供にあたってばかりいたようです」 「子供は出来なかったんですか?」 「二度ほど出来たんですが、死産だったり、途中で妊娠中毒でおろしたりしているうちに、子供が出来ない体になったんです。それで、気晴らしにとスナックに勤めたのが間違いで……」  石上の言葉をききながら、冬子は、鈴子というその子をつれて外へ出た。仕事も楽しいが、やっぱり結婚したいなという気持もわいてくる。子供の方も、冬子になついて、少しずつ喋るようになった。  あとできくと、そのあと、当日のアリバイのことになったらしい。彼の勤めている会社にききあわしたところ、当日は、七時から夜六時に妻が死んだからかえれという電話が入るまでちゃんと勤務していたし、タクシーにタコメーターもついているといったので、アリバイありとしていたのだが、タクシーなのだから、妻の姿をみかけて自分の車にのせることも可能だし、近くを走っているときに、ちょっと自宅へよるということも可能だ。ひょっとすると、琵琶湖のそばを走っているとき、モーテルヘ入っていく和美をみたのかもしれない。  その点について、杉原警部が、きびしく追及したが、結局、彼が犯人だというきめ手はないままに終ってしまったということだった。外へ出ていた冬子がもどってくると、丁度石上淳吉が帰るところだった。  冬子が彼に、奥さんは黒いスリップを持ってますかときくと、石上は、しばらく考えてから、持ってるような気がするといった。 「ブラジャーは外出のときでもしない方ですか?」  冬子が最後にきくと、石上は首をふった。 「そんなことはありません。ねる時以外は家でもしていました」     7  石上が帰ったあと、みんなで意見を交換した。 「今の話をきいていると、石上に一番大きな動機があるように思いますねえ」  杉原がいうと、小川が異論を出した。 「しかし、戸谷が、脅迫されていたとしたら動機がありますよ。夫と別れるから結婚してくれとか、奥さんにバラすなどといわれたら困るんじゃありませんか? 彼の方は、大きい息子や娘もいて、全く遊びのつもりだし」 「別れるについて、奥さんや息子さんにいわないからと、多額の金を要求されたのかもしれんな」  一課長も、戸谷の印象は悪いようだった。 「宮下だって、動機はありますよ。短大講師で、日展にも入選するほどの社会的名誉のある彼が、脅迫されたら、戸谷より困るかもしれませんよ。戸谷とちがって、彼の方は、最初本気だったので、証拠になるような手紙なども出しているかもしれないし、裏切られた気持も強いんじゃありませんか?」  みんなは、それぞれに、意見を述べた。  最後に、一課長が、冬子に意見をきいた。 「さあ……。石上淳吉のような気もしますが、もし、彼でなければ、あの女の子じゃないかしら?」  いってしまってから、ひどいことをいったと冬子は、後悔した。 「江夏さん、それはちょっと無理ですよ。あの弱々しい子が、もし琵琶湖で彼女を殺したとしたら、自宅につれてかえることは不可能だし、家で殺したとしたって、洗面器に首をつっこんで殺すのはよほど力がいるんですよ」  杉原が笑いながらいった。  それでも冬子が考えていると、実際に洗面器に水を入れて持ってきた。 「さあ、私がこうしてこの前にすわってますから、遠慮なく頭をおしこんで下さい」  杉原は、洗面器の上に頭をつき出した。 「本当にいいですか?」  といって、冬子が力一杯頭をおしたが、杉原は、首をふってはずしてしまう。 「これでまだ手を使ってないんですよ。手をつかえばもっと簡単ににげられますよ」  次に反対に、冬子が洗面器の前にすわり、杉原が頭をおしこんだ。しかし、冬子が、両手であばれ杉原の顔をひっかき、なかなか入れさせなかった。 「まあ、今は、ちょっと手加減したので、やる気なら、男ですからうしろから馬のりになってやれば江夏さん位おぼれさすことは出来ます。でも、これをみて下さい。こんなにひっかかれましたよ。あなたの手にも傷が出来たし」 「ほんとにそうですね。それに、洗面器を畳においていたとしたら、両手で畳につっかい棒をすれば、はずすことは出来ますね」  冬子もそれはみとめた。 「あんなに細いまだ子供の体をした女の子に五十キロもある大人は溺れさせられないでしょう」  一課長も、決断を下した。 「お風呂に入っていたり、泳いでいたりしたら割と楽ですね、溺れさすのは」  冬子は、またいった。 「でも、まだ泳ぐ季節じゃないし、被害者の家にお風呂はない。それに、お風呂でおぼれたら、死体解剖で琵琶湖の水は出てきませんよ」  一課長も、少々うるさくなったらしかった。  そのあと、事件は解決しないままに一週間たった。冬子はその間にすっかり、石上鈴子と仲良くなった。最初は警戒していた女の子も、次第になつくようになり、宿題などのわからないところをきくようになった。  冬子は、鈴子と遊びながら、いつも自分に問いかけていた。 (彼女と仲良くするのは、自分の満たされない母性本能からなのだろうか、それとも、彼女の家へ行って何かを探り出そうとする職業意識からだろうか)  捜査は進まず、死者のブラジャーもみつからなかったし、何故ちぐはぐな黒いスリップだったのかということもわからないままだった。     8  冬子は、鈴子が、学校の友達がきて、玄関で喋っている間、所在なげに庭を眺めていた。桜の木は花が散って緑の芽が吹き出していた。  話が長びくようなので、冬子は、思いついて鈴子の部屋に入り、本箱を開けた。一番奥に、アルバムがおいてあったので、パラパラと繰ってみた。  鈴子の赤ん坊の時の写真や、水遊びをしている写真、自転車に乗っている写真などがあったが、何故か、所々、随分たくさんの写真がはぎとられていた。一枚の写真の中から破りとられているものもあった。やがて、それが、鈴子の実母の写真だとわかった。  今度の母親が破ったのだろうか? それが、子供にとってはどんなに残酷なことだろうかと冬子は心が痛んだ。  せめて、新しいアルバムに貼りなおし、半分ちぎってあるようなのは、ハサミできれいに切りとって、トリミングするというようなことが出来なかったのだろうか。  途中から、新しい母親和美との写真がはってある。冬子は、彼女とは死顔でしか対面してないが、こうしてみると、思った以上に、現代的な美しい顔をしている。  しばらくみているうちに、ふと気がついたことがあった。彼女はどの写真でも、必ず前髪をおろしているのである。彼女が前髪をおろしている理由はわかっている。額に、比較的大きな傷跡があるからである。小さい時に、縁側からでも落ちたのだろう。すっかりうすくはなっているが、やはり目立つ傷である。だから、彼女は、丸顔なのにいつも前髪をおろしていたのだ。  ところが、死体では、はえぎわにピンをたくさんとめて、額を出している。どうしてだろうか?  アルバムをしまったとき、鈴子が入ってきた。  冬子は、鈴子とトランプをしながら、さりげなく、和美お母さんはいつも髪をおろしていた? ときいた。  鈴子は、「はい」と素直に答えた。前のお母さんはどうだったのときくと、覚えてないという。嘘をついているのではなかった。  結局、冬子の疑問は解けないままだった。  鈴子が、晩御飯のおかずを買いにいった間に、冬子は、うしろめたさを感じながら、そっと、彼女の日記を読んだ。事件の日からずっと空白が続いていたが、最近のところは、又、学校のことや冬子のことがかいてある。  昨日のところをみると、「おっぱいがちょっと大きくなった。うれしい」と書いてあった。冬子は微笑んだ。六年生ぐらいになると、大人と同じ位乳房が大きくブラジャーをしている子もいると、新聞でよんだおぼえがある。ひ弱そうな彼女も今までぺちゃんこだったが、少し大きくなってきたのだろう。  しかし、冬子の微笑みは途中で消えた。死体にブラジャーがなかったことを思い出したからだった。  犯人は、鈴子ではないかと直感的に思った。  殺したのはこの家で、琵琶湖で死んだようにみせかけるため、琵琶湖の水を汲んできて溺死させ、あとで衣類を捨てにいったのではないか。そのとき、自分の生活体験の中に、ブラジャーがないので入れるのを忘れたのではないだろうか。  冬子が、死体をみた時、もう一つ不思議に思ったのは、死体が盛装していたはずにもかかわらず化粧をしていないことだった。同僚のホステスや夫にきいたところでは、彼女は濃化粧が好きで、客がいるときや、外出するときは、十分おきに鏡をのぞいたり、口紅を塗り直すほど顔をかまうということだった。その彼女が、琵琶湖まで盛装して出かけるのに、化粧しないというのはおかしかった。  家にいて、ネグリジェ姿で、パンでもたべているときに殺されたのではないだろうかと思われた。  しかし、もし鈴子がやったのだとしたら、二つの大きな壁にぶつかる。  一つは、彼女は八時頃家を出て、九時とか十時には学校にいて一歩も外へ出てないというアリバイがあること。  もう一つは、他の刑事たちもいっていたように、あのか細い子供に、どうして、大人を溺死させられたのだろうかということである。  死体の手には、抵抗したような傷もなかったし、鈴子の顔などにも、傷はなかった。  捜査本部へ帰ってから、冬子が物おもいにふけっているのをみつけて、橋口がどうしたのかと何度も心配そうにききにきた。冬子は、最初は何でもないといっていたが、思いあまって鈴子のことを打ちあけた。  すると、橋口は笑っていった。 「ブラジャーの生活体験のない人物だったら、同じ環境でも、もう一人いるじゃありませんか。石上淳吉もそうでしょう? 男ですからブラジャーをしたことはないわけです。彼が犯人じゃないんですか?」  と、いった。 「彼が犯人だったら話が合うと思うんですよ。彼は、力も強いし、溺死させるのは簡単です。また、アリバイの点も、タクシーにのってるんですから、小学校に行っている子供よりごまかしがききますよ。彼が、九時すぎに帰ってきたら、和美が裸になって体をふき、男とデートに出かける用意をしていた。それで腹が立った彼は、あらかじめとっておいた琵琶湖の水を洗面器に入れて彼女を殺し、その水を死体にふりかけ、適当な下着と服を持って琵琶湖に捨てに行った。その折、吸殻入れとライターは、疑いが彼女の男にふりかかるようハンドバッグに入れておいた。男なので、ブラジャーも忘れ、スリップも黒で、ちぐはぐだったというわけです」  冬子は、しばらく考えていたが、翌日、一緒に石上の家に行って欲しいとたのんだ。     9  翌日、橋口と石上家へ行った冬子は、台所の戸をこじあけて中へ入った。非合法な方法だが仕方がなかった。  家の中をみてあるいた冬子は、遂に、あるものを見つけ出した。それは、電気を入れると、丸い容器に入れた水に水泡が立ち、そこへ顔をつけると、皮膚の中に入りこんだほこりや垢がとれ、美しい顔になるという美顔器だった。 「あの日、和美さんは、これをしている最中に頭をおさえられて死んだんだわ。勿論、水はあらかじめ琵琶湖の水になっていたと思うわ。水の中に、顔をつけてしまっているので、子供の力でもおさえつけて殺すことが出来たのだわ。顔をひたすので、和美さんは、ピンで毛を上にとめて額を出していたのだし、化粧もしてなかったんだわ」 「そのあと、衣類を琵琶湖まで捨てに行ったんですね。でも、十時のアリバイはどうなったんですか?」  橋口がきいた。 「犯行時刻は、小学校へ行く前、午前八時だと思うわ」 「でも、その頃、和美は寝ていたんじゃありませんか?」 「その日は、デートなので、きっと早く起きて、食事をし、顔の手入れをしていたんだと思うわ。鈴子は、その様子から、彼女が男と会うことを知って、美顔器に顔をつっこんでいるとき殺すことにしたんだと思うわ。常々、彼女が琵琶湖畔で会うことを知っていたので、琵琶湖の水を、水筒にでも入れてとっておいたんじゃないかしら。彼女の衣類をまとめて荷造りし、駅のロッカーにでも入れておいて、放課後、琵琶湖に行き、もう一度学校に帰って、友達と帰ってきたのよ。黒いスリップは、彼女が裸でそれをまとって男とたわむれている場面をみて、それが心にやきついていたんだと思うわ。小学生なりに、一生懸命考えたんでしょう」 「そういえば、荷造りの紐の掛け方が、学生が本をさげるときのスクールバンドのようなかたちになってましたね」  二人が、暗澹とした顔をしたとき、表の方で、鈴子の帰ってきたらしい軽やかな足音がした。  第七話 首のない死体     1  六月四日、午前十時十分。  京都の西南にある長岡京市の小高い林の中で、バラバラ死体が発見された。  京都府警に一一〇番が入ると、検視官の江夏冬子は、捜査一課の刑事たちと、直ちに現場へ急行した。  ロープを張りめぐらした現場に着き、パトカーから降りると、むっとするような強い腐臭が鼻をついた。しかし、江夏冬子は、たじろぐ様子もなく、穴の淵に立って、中をのぞき込んだ。五十センチほどの深さに掘られた細長い四角形の赤土の中に、バラバラに切断された死体が横たわっている。 「あ、首がない!」  検視官付きの刑事である橋口部長刑事が、思わず叫んだ。たしかに、死体には首がなかった。  しかし、女性であることは、投げ出された腕の骨の細さや、盛り上った乳房などから、すぐにわかった。  冬子は、鑑識が現場写真をとっている間、じっと死体に目をこらした。  死体は、大きくわけて、左腕、右腕と乳房のついた胸の一部、そして、左脚、右脚の五つの部分に切断されてはいたが、ジグソーパズルの完成品のように、きちんと人間の形におかれていた。そして、欠如している頭の部分には、ワンピースやパンティ、ストッキング、ハンドバッグなどが散乱していた。 「首はありませんが、髪の毛が相当散っています。一本や二本なら犯人のだということもあるでしょうが、これだけ多くだと、まず、この被害者のものでしょうなあ」  橋口も、さすがに気味悪そうである。  冬子は、毛髪を手にとってみた。根元から脱け落ちた長い毛もあるし、ばっさり切られた毛もあるが、いずれもパーマのかかった栗色の毛だった。  鑑識の現場写真の撮影が一通り終ったところで、冬子は検死にかかった。  通常は、まず、死体の身長を計るのだが、今日は、完全な体でないので、腕や脚など、それぞれの部分の長さを計る。 「バラバラ死体といっても、相当遺留品が多いので、身元を割り出すのは楽だろうな」  一課長と杉原警部が話しているのが冬子の耳にもきこえてきた。  たしかに、死者の右指には指輪がはめられ、ハンドバッグや眼鏡もあるし、足には、白いハイヒールもはいている。 〈これだけ遺留品を残しながら、何故、首だけ持ち去ったのだろう〉  冬子は、心の中で呟いた。普通、首なし死体というのは、被害者の身元がわからないようにするため首だけ隠すのである。 「それは結婚指輪ですかね?」  冬子が、死体の右手にはまっていた金のかまぼこ型の指輪をはずしかけると、一課長がそういいながらそばにやってきた。 「さあ、結婚指輪というのは、左手の薬指にはめるんじゃありませんか? これは右手の薬指なのですけど」 「なるほど。女は細かいところに気がつくんだなあ」  一課長は、ちょっと敬意を表してから、 「それでは、犯人が、あわてたので右手にはめさせたということになりますか?」  ときいた。 「かも知れないし、被害者自身が独身にみられたくていつも右手にはめていたのかも知れませんね」  冬子は、そういって指輪のない自分の手をちらっとみた。  検視官などという職業で指輪をはめていては仕事にならないし、今のところ指輪を贈られるような相手もいない。 「身長はどの位の女性ですかねえ?」  杉原警部が、目測で死体の身長を計るようにしながらきいた。  冬子は、死体の足が履いていた白いハイヒールをぬがせて底をのぞき、引っくり返して踵のところをみてから、 「この靴のサイズは23で、大体女性の標準寸法です。この靴が少し大きめですから、多分、一メートル五十五前後じゃないかしら」  と、答えた。 「体重は?」 「この乳房からみて、バストが八十センチ前後ですから四十五キロから五十キロの間でしょうか」 「つまり、中肉中背か、やや小柄というところですかね」  一課長はむつかしい顔をした。特に大女とか肥満体でないので、特徴がないというわけだ。  冬子は、そばにあったワンピースをとりあげてみていたが、 「このワンピースのサイズは9ですね。このワンピースが、この被害者のものだとしたら、やはり標準的なサイズですね」  といった。  次に冬子は、切断された切口を調べた。 「腐敗しているのではっきりはいえませんが、家庭にある庖丁とか、大工道具のノコギリを使ったのではないでしょうか。外科医とか肉屋のような専門家が切ったようなきれいな切口でなく、随分何度もきりなやみ、ひきちぎってあります」  冬子が、死体の腐敗や切口、血痕のようすなどを調べている間に、死体の発見者がよばれてきた。犬をつれた若いアベックで、今日は休日なので、犬の散歩をかねてハイキングに来て、犬がほえるのでみつけたという。杉原が、名前や年齢、職業をきいてかきとめたあと、発見したときの様子をきいた。 「さっき、向日町《むこうまち》署の刑事さんにもいったんですけど、犬が吠えるので来てみると、この手首が、土の上に出ていて……」 「左手ですか、右手ですか?」 「右手です。指の先は、他の犬に喰いちぎられたのか、ぐちゃぐちゃになってました。でも、指輪をしてるし、血もついていたし、吐きそうな臭いがしたので、ああ、人間の手やとすぐわかりました」  北川信子という二十二、三歳のその女性は、顔をしかめながらも、はきはきと答えた。男の方は、怖そうな顔をしてふるえていた。  二人の発見者が帰っていったあと、一課長は、再び、死体に目をむけた。右手は、肩から切断された上、肘の所からも、もう一度切り離されていた。そして、人さし指、中指、薬指、小指の四本の指は、指先がなかったし、親指のところは、根元から切りとられていた。 「指紋はとれんなあ」  一課長が残念そうにいった。左手の方も、手首がきりとられてなかったからである。 〈発見者がいっていたように、これは犬が喰いちぎったというようなものでなく、犯人が指紋をとらせないために、意識的に指先を叩きつぶしたのだろう〉  冬子が思っていると、しゃがみこんで、ストッキングのあたりを探していた杉原が、大きな声を出した。 「あ、ありましたァ、親指が! ストッキングにひっかかってました」  杉原がつまみあげたのは、親指の第一関節だった。勿論、指紋は充分とれる。 「そうか、それはよかった」  一課長が、心からうれしそうな顔をした。  冬子もほっとした。 「犯人は、死体をここへ運んできて埋めようとしたとき、指紋のことに気がついたのかもしれんな。首を処分してしまっても、指紋を調べれば、身元がわかるからな」  一課長がいうと、杉原があとを引きとった。 「それで、慌てて、現場で手首から切り落そうとしたのかも知れませんね。左手首を切り落すだけで時間がかかり過ぎたので、右手はあきらめて、指だけ切り落そうとした。が、これも時間がかかりすぎ、早く現場を立ち去りたくて、親指を切り落しただけで、あとは、四本の指先を、指紋がとれないように叩きつぶした──とこういうことでしょうか」  杉原のいうとおり、右手の手首は、一旦切り落そうとしたらしく、途中までちぎれていた。 「検視官、死後約何日ですか?」  一課長が冬子にきいた。 「さっきから、それを考えているのですが、土中の死体の腐敗進行は、空気中の八分の一ですから、それを計算に入れて、大体、一カ月程前の死亡ではないかと思います」  冬子は、慎重にいった。  一時間あまり検死を続けたあと、死体は、所轄の向日町署に運ばれた。  冬子たちも、向日町署に引き揚げた。     2  向日町署に置かれた捜査本部では、直ちに、バラバラ死体の身元調べを開始した。  家出人や失踪者の名簿を調べる一方、テレビや新聞を通じて、心あたりの人物はいないかを呼びかけた。  静かな京都の町に、バラバラ殺人事件というニュースはショッキングで、報道されると、すぐに、反応があった。  それは、伏見市桃山に住む、五十部《いそべ》敏夫という会社員の妻、マキ三十三歳で、約一カ月前の四月二十七日に姿を消し、失踪者として届出がされている女性であった。  本人の身長は、百五十七センチ、体重四十九キロで、髪の毛は、パーマをかけた栗色で、失踪当時の衣類や靴、眼鏡、ハンドバッグ、指輪など、すべてが、現場にあったものと一致した。 「しかし、首がないので、他人の死体に五十部マキの衣類や持ちものをおいて偽装したということも考えられる。指紋の方はどうなんだ?」  一課長が、大声で、鑑識にきく。 「はい。現場にあった右手親指は、五十部マキの指紋とわかりました。近所の配達センターの係員が、品物を配達した時、彼女がおした拇印とか、五十部の家にあったものからとった指紋がすべて一致しました」 「それは、本人が拇印をおすのを目の前でみていたのですか?」  冬子が、横から質問した。もし、本人が死んだようにみせかけて蒸発しようとして、少し前から計画を練っていて、他人の指紋をつけるということも考えられるからだ。しかし、鑑識員は笑いながら、 「本人が目の前でおしたのを何人もみていますので、間違いありません」  と、はっきりいった。 「髪の毛はどうだ?」 「死体に散っていた髪の毛も、家の三面鏡のところにあったブラシにからまっていた毛髪などから五十部マキのものと一致しました」 「血液型は?」 「A型です。これも、死体の各部分の血液、現場に流れていた血の血液型と一致しております」 「では、本人に間違いないな」 「今までの調べではそういうことになります」  鑑識が行ってしまうと、冬子は、一課長に話しかけた。 「ちょっと待って下さい。まだわからないことがあります。どうして犯人は、首を持ち去ったにもかかわらず、身元のわかるものを、色々おいていったのでしょうか。指紋をけすのに手首を切ったり、指を切ったりする位なら、なぜ指輪をはずさなかったのでしょうか。これほど身元のわかるものはないはずなのに、指輪には、名前が書いてあります『TOSIO・MAKI』と。牧敏夫かと思いましたが、敏夫とマキという二人の名前なんですわ。つまり結婚指輪なんです」 「殺人者というのは、時として、考えられないようなヘマをすることがあるからね。細心の注意をしてトリックを作りながら、定期券を落していくやつもいるし、死体を細かく切って焼き、灰を川に流したくせに、首だけ、後生大事に押入れに入れておく犯人もいる……」  一課長は、そういったあと、 「しかし、私も、ちょっとひっかかるところがあるんだ。腹部がないからね」  と、いった。 「腹部がないので、死亡時に食べた食事がわからず死亡時刻がはっきりしないんです」  二人が話しているところへ、五十部敏夫が出頭してきた。捜査員たちは、早速、話をきくことにした。  五十部敏夫というのは、やせた、陰気な感じのする四十歳位の男だった。  近所の人の話では、夫婦仲が悪く、喧嘩が絶えなかったという。二人の間に子供はない。一通り悔みを述べたあと、一課長は核心にふれていった。 「あなたは、奥さんと仲が悪かったそうですが、理由は何ですか?」 「些細なことです。どこの家でもあるでしょう、そういうことは」  五十部は不機嫌にいった。 「近所の奥さんからきいたとこによると、あなたには、別の女性がいたとか。本当ですか?」 「そんなことありませんよ。その女性というのは一体誰ですか?」 「野上美知子さんです。あなたと同じ会社の」  一課長は、そういって、五十部の顔をみつめた。彼は激しく首をふった。 「違います。彼女とは何でもありません。妻が死んだときに不謹慎ですよ。帰っていいですか?」 「まって下さい。帰られると、かえって彼女と何かあったのだと我々は疑いますよ。もし、何でもないのだったら、奥さんがいなくなった時のことを話して下さい」  杉原が、そばへ行って、五十部を椅子に坐らせた。五十部は、しばらく黙っていたが、一課長たちが何もいわないので、しまいにはたえきれなくなったように、話し出した。 「四月二十七日の午後、日曜なので、私は家にいたんですが、彼女が昨夜はどこに行っていたのだとうるさくきくものですから、喧嘩になったんです。それで、外へ出てとうとう帰らず、翌日そのまま仕事に出て夕方に家にかえると、妻がいなかったのです。彼女も怒ってどこかへ行ったのだろうと思い、外で食事をして帰ってきましたが、そのまま朝まで帰ってきませんでした。それで、その日は二十九日で休日だったので一日、競馬にいったりしてすごし、三十日になってから、あちこち電話しましたがわからず、連休がすぎてから警察に届けたのです」 「では、二十七日の午後から、奥さんの姿はみていないんですね?」  一課長が眼をひからせた。 「ええ」 「なんでもっと早く探さなかったんですか?」 「私へのあてつけで帰ってこないのだと思いましたから、二、三日したら帰ってくると思ったのです。ですから、もう少しほっておこう、警察に届けることはないと思ったのですが、電話をあちこちかけたものですから、その人たちがさわぎ出して届けろというので届けたのです」 「何を着て出て行ったかよく知っていましたね?」  一課長がきくと、五十部は、 「届けを出したら、どんな衣類をきていたかしらべろといわれたので、家へ帰って調べたのです」 「あなたは、家を出たあと、どこへ行っていたのですか?」 「だから、競馬へ行ったり、パチンコをしたり……」 「夜はどうしました?」 「旅館にとまりました」 「どこの旅館ですか?」 「……」 「野上美知子さんのアパートじゃありませんか? あのあたりで、あなたをみたという人がいるんですよ。それに、あなたの車が、彼女のアパートの前の野っ原にとめてあるのをみた人もありますが」  杉原が、かまをかけると、五十部は、美知子といたことを、しぶしぶみとめた。 「ところで、参考のためにきくのですが、奥さんには保険金がかけてありましたか?」 「え? 保険金ですか?」  五十部はちょっと口ごもってから、五百万円ぐらいかけてあったと答えた。  杉原たちが調べたところでは、満期額は確かに五百万だが、今回のような事故死のときには、五倍の二千五百万円の金が受けとれることになっていた。  五十部敏夫は、疑われたことに腹を立て、なんなら、家の中も、車も調べてみろと捨てぜりふを残して帰っていった。  その言葉を盾にとって、刑事たちが、彼の家を調べたが、風呂場にも部屋にも死体を処分したようなルミノール反応は出なかった。車からも同様である。 「彼は、犯人ではないんでしょうか?」  疲れて帰ってきた杉原が、一課長にいった。 「さあ、今のところ、彼以外に、怪しい人物は浮んでこないんだがなあ。彼には動機があるし、被害者の生きている姿を最後にみたのも彼だ」 「ひょっとすると、現場は、恋人の美知子のところじゃありませんか?」  橋口部長刑事がいった。 「しかし、今の段階では彼女の家を家宅捜索できんしなあ」  一課長は、ため息をついた。     3  向日町署に置かれた捜査本部では、最初、この事件は早く解決するだろうと考えていた。どちらかといえば、慎重な見方をする杉原も、早期解決と踏んでいた一人である。  遺留品の多いことも、理由の一つだが、他にもいくつかの根拠があった。  一見、派手な事件だが、事件そのものは、簡単だと、杉原は考えた。  夫婦がいて、夫に若い愛人が出来た。  夫は、十年連れ添った妻よりも、若い愛人の方に夢中になった。彼は妻にかくれて彼女のアパートにかよう。  典型的な三角関係なのだ。  当然、夫婦喧嘩になる。夫の方は、妻と別れたいと思うが、妻は承知しない。これもよくあるケースだ。こうなると、夫は、愛人と共に失踪するか、妻を殺害するかのどちらかの手段に訴えることになる。 「こんなところじゃないかなあ」  杉原は、同意を求めるように、橋口部長刑事に話しかけた。 「私も、そう思います。五十部がひとりで殺《や》ったか、愛人の美知子も協力したかですが、問題は、妻のマキを殺して、バラバラにした場所ですね。それがどこかわかれば、その場所には、血痕なり、毛髪なり、うまくいけば首もあり、逮捕できるんですが」 「五十部の家は、隅から隅まで調べたが、そんな形跡はみつからなかったからな」 「とすると、やはり、美知子のアパートということになりますね」  橋口は、一課長にいった言葉をくり返した。 「彼女に会ってみよう」  と、杉原はいった。  二人は、東山区山科にある美知子のアパートに出かけた。 「殺しておいて、遺体をバラバラにしたのは、やはり、運ぶのに便利だからでしょうか?」  橋口は、初夏の陽射しの中を歩きながら、杉原にきいた。 「他には考えられないな。バラバラにしてから、長岡京市の林の中へ運んだんだろう。あのくらいバラバラにすれば、ボストンバッグにも入るからね」 「首だけ別の場所に捨てたのは、あのバラバラの死体が見つかっても、首がなければ、身元がわからないと計算したんでしょうか?」 「多分ね。だから保険金の方は、副産物だと俺は思ってるんだ。保険金目当ての殺人なら、死体は、すぐ見つからなければならんし、本人とわかるようにしておかないとならないからね。その証拠に、額も五百万円と少ない。殺されたということで、結果的には、五倍の金額が支払われるらしいが」  そんなことを喋っている中に、美知子のアパートに着いた。  アパートといっても、高層でないだけでマンション風で、部屋には、バス、トイレがついている。  杉原は、どんな女だろうかという興味があった。  彼の想像が当っていれば、五十部が、妻を殺してまで一緒になりたいと思う女である。  写真でみると、マキは、どちらかというと、理知的で、冷たい感じを与える。とすると、愛人の美知子は、反対のタイプだろうか。  野上美知子は、スリットの入った黒のスカートに、フリルのついたピンクのブラウスという恰好で、杉原たちの前に現れた。  色白の可愛い顔立ちで、年齢は、二十五だといった。 〈やはり五十部マキとは、反対の感じだな〉  と、杉原は思った。 「五十部マキさんが、死体で発見されたことは知ってますね?」  と、杉原は、まず、確認する形できいた。 「ええ、新聞に出ていましたから」  美知子は、表情を変えずにいった。可愛い顔をしているが、意外に、図太い神経の持主かもしれないと思いながら、 「五十部さんが、あなたのことで、奥さんのマキさんと、しょっちゅう、喧嘩をしていたのを知っていましたね?」  ときいた。 「彼は、もう奥さんを愛してェヘんかったんです」  美知子は、断言するようにいった。 「だが、マキさんは、別れることを承知しなかった?」 「彼は、そのうちに、離婚するとゆうてましたわ」 「五十部さんは、四月二十七日に、奥さんがいなくなったといっていますがね」 「私にも、そういってましたわ。マキが出て行ったって」 「それで、どう思いました?」 「正直ゆうて、これからは、彼が帰る時間を気にしないでいいし、気がねなく会えるからいいなあって」 「あなたは、奥さんが、もう絶対に帰って来ないのを知っていたんじゃありませんか?」  杉原は、ちょっと意地悪な質問をぶっつけてみた。  美知子は、むっとした顔になって、 「まるで、私が、奥さんを殺したみたいにいわはるけど、証拠があるんですか?」  と、杉原を睨んだ。  橋口が、そのとき、とぼけた声でいった。 「ちょっと、トイレを貸して貰えませんか」 「この奥ですわ、勝手に使って下さい」  美知子は、怒った声のままいった。  橋口は、立ち上って、奥へ消えた。もちろん、風呂場を調べるつもりである。  彼は、戻って来ると、黙って、杉原に、首を横にふった。  五十部マキの死体をバラバラにしたのは、ここでもなさそうだった。  杉原が、少しばかり、がっかりしていると、今度は、美知子が、意外なことをいった。 「刑事さんたちは、さっきから、まるで、私と彼ばかり悪いようにいわはりますけど、奥さんにだって、恋人がいたんですよ」 「え? 本当ですか?」  杉原は、盲点をつかれたような恰好になって、美知子をみた。 「名前はわからへんのですけど、いつやったか、背の高い三十五、六歳の男の人と、親しそうに、四条河原町を歩いてはりましたわ」 「三十五、六歳の男の人とね」 「ええ。こういう風な髪の形です。奥さんは、昼の間、パートで病院の看護婦をして働いていたでしょう。だから、その病院の人と違うかしら」 「パートで、看護婦を?」 「刑事さんは、知らへんかったんですか?」  美知子は、へえという顔をした。 〈病院か〉  と、杉原は、考えた。 〈病院なら、死体をバラバラにするのは、恰好の場所だな〉     4  五十部マキが、働いていたのは、四条にある田川病院という総合病院だった。  杉原と橋口は、野上美知子に会っての帰りに、この病院に寄ってみた。  鉄筋の三階建の大きな病院である。救急病院でもあるので、時々、救急車が、サイレンを鳴らしながらやってくる。  杉原たちは、事務員に会って、五十部マキのことをきいた。 「今は、看護婦不足なので、彼女のように、前に経験があり、家庭を持ってからもきている人が、ここにも何人かおります」  と、事務長はいった。 「彼女は、いつから、来なくなったんですか?」 「四月二十八日には、出勤する予定になっていたんですが、見えませんでした。それからです」  それなら、二十七日の夕方からいなくなったという五十部敏夫の証言と一致する。 「この病院に、背が高くて、三十五、六歳のこういう感じの人はいませんか?」  杉原は、美知子からきいた特徴を述べた。 「外科の岡本先生かな。百八十センチぐらいありますし、年齢は、確か三十六歳の筈です」 「会わせて頂けますか?」 「いいでしょう。ここへ呼びましょう」  と、事務長は、いってくれた。  しばらくして、応接間に現れた岡本は、確かに背が高く、白衣がよく似合っていた。 「五十部マキさんをご存知ですね?」  と、杉原がきくと、岡本は、眉を寄せて、 「新聞で事件を知って、びっくりしています」 「彼女と親しかったんですか?」 「それは、どういう意味ですか?」 「あなたが、彼女と、親しげに四条河原町を歩いているのをみたという人がいるんですよ」 「それがどうしました?」 「あるんですね? 一緒に歩いたことが」 「そりゃあ、手術のときに、よくやってくれたので、お礼に、ご飯をご馳走したことぐらいはありますよ」 「失礼ですが、結婚していらっしゃいますか?」 「ええ。子供も一人いますが……」  と、いいかけてから、岡本は、急に、杉原の顔をじっとみた。 「まさか、私が彼女を殺したなんて、考えているんじゃないでしょうね?」 「ただ、ちょっと、おききしただけですよ」 「私は、看護婦としてしか、彼女をみていませんでしたよ。それが、なぜ、殺したりしなければならんのですか?」  岡本は、冷ややかにいった。  杉原と橋口は、病院を出てから、顔を見合わせた。 「容疑者が一人増えましたね」  と、橋口がいった。 「病院なら、死体の処置に最適だな。しかも、岡本は、外科だ」 「それにしては、死体の切口が、素人がやったみたいでしたね」 「わざと、そうしたのかも知れないよ。看護婦と医者の関係というのは、よくあるし、特に、マキは、夫に不満をもっていたから、岡本にすがったのかも知れない」 「五十部が、邪魔になった妻のマキを殺したか、愛人の美知子がやったのかと思ってましたが、岡本医師が、看護婦で関係のできたマキをもてあまして殺した可能性も出てきましたね」 「どちらにしろ、被害者は、可哀そうだよ」  と、杉原はいった。  二人が、捜査本部に帰り、一課長に報告しようとしているところへ、検視官の冬子が、首をかしげながら入ってきた。 「杉原警部、おかしなことがあるんです」  と冬子がいった。     5 「どんなことですか?」 「例のバラバラ死体ですが、念のために、各部の骨格を調べてみたんです」 「それで?」 「腕の方ですが、つなぎ合わせて測ったところ、左腕の方が、右腕より、二センチ長いんです。次は、足ですが、これは、右足の方が、左足より三センチ長いんです」 「どういうことですか? それは?」  一課長が、のり出してきた。 「足についていえば、被害者は、一方を引きずっていたことになります。手についていえば、左ぎっちょで、テニスのような運動を小さいときからしていたために、左腕の方が発達したということになりますわ。でも、そんなことは、全然きいていないので、おかしいと思うんです」 「ちょっと待って下さい」  杉原は、あいている電話にとびつくと、田川病院のダイヤルを廻した。  事務長や、マキと一緒に働いていた同僚の看護婦と話していたが、受話器をおくと、直ちに冬子のところに走ってきた。 「五十部マキは、右ききで、足も悪くはなかったし、テニスのような運動もやっていなかったそうです」 「やっぱり。指輪が右にはめてあったのも左手は少し大きいのであのサイズでは左手の薬指にははまらなかったのだと思います」 「すると、どういうことになりますか? あのバラバラの死体は、別人ということになるんですか?」  杉原は、冬子をみつめた。  捜査一課長も、意外な事の成り行きに、顔色をかえていた。 「でも、親指にはマキさんの指紋がありますし。しかし……」 「しかし、何です?」 「少し待って頂けませんか。バラバラになっている部分の血液型を調べてみますから」 「しかし、A型なんでしょう?」 「ええ。一番簡単な検査方法では、各部分ともA型でした。でも、もっと詳しい検査もしてみたいのです」 「どのくらいで結果がわかります?」 「一、二時間あれば、結果が出ると思いますわ」  冬子は、解剖の行われた京都府立医大へ行った。  冬子は、ある推理を持っていた。その推理が、当っているかどうかは、これからのテストでわかる。  血液型を調べるのには、いくつかの方法がある。一番簡単なのは、A、B、O、ABの四つの分類である。  最初、その方法で、A型としたのは、バラバラ死体が、一人の死体にちがいないと思っていたし、五十部マキだという見当もついていたからだった。  しかし、別人の可能性が出て来た今は、もっと詳しく調べる必要があった。  冬子は、解剖を担当した小山教授の許可を得て、MN式、Eq式などで、もう一度血液型を調べはじめた。ついでに、皮膚とか骨格についても詳しいことを調べた。  死体のすべての部分から、検査すべき血液を抽出するのに暇がかかった。  一時間ほどたったとき、窓の外に、杉原の顔がのぞいた。  結果を待ちかねている表情だった。  冬子は、微笑して、杉原を部屋に入れた。 「もうすぐ、結果が出ますわ」 「煙草を吸ってもいいですか。どうも落着かなくて」 「どうぞ、構いませんよ」  三十分して、結果が出た。 「どうやら、私の推理が当ったようですわ」  と、冬子は、満足そうに、杉原にいった。 「どういうことですか?」 「右手、左手、それに、左右の足は、同じA型でも、MN式、Eq式では違うんです。それから、骨の太さや足の指紋、皮膚の栄養状態なども調べました。つまり、四種類の手足ということになりますわ」 「違う?」  と、呟いてから、杉原は、 「つまり、四人の違った人間の手足ということですか?」 「そうですわ。だから、長さが違っていたんです」 「しかし……」  杉原は、思わず絶句した。 「何人もの人間の手足を寄せ集めたなんて信じられませんが……」 「でも、事実ですわ。右手、左手、右足、左足、全部、若い女性のものですが、別人ですね。乳房のついた胸については、全く別人かどうかちょっとわかりませんが」 「うーん」  と、杉原は、腕を組んでしまった。     6  事件は、意外な方向に動いてしまった。  今まで、五十部マキが、何者かに殺され、バラバラにされて、林の中に埋められたと考えていた。  しかし、実は、四人か五人の若い女の腕や足を、あたかも、ひとりの人間のもののように見せて、犯人は、一カ所に埋めておいたのだ。 「どういうことだ? これは」  一課長が、困惑した顔で、杉原や、橋口の顔を見た。  杉原は、考えてから、 「夫の五十部や、愛人の野上美知子が、マキを殺したのなら、こんな面倒なことはしないと思います。犯人が、岡本医師でも同じことです」 「しかし、一緒に埋っていた右手の親指は、マキのものだったんだろう?」 「そうです、指紋が、彼女のものと確認されています。毛髪もです」 「まさか、若い女ばかり狙う殺人犯人が、大量殺人を犯したというんじゃないだろうね」 「それなら、四体分か、五体分の死体があるはずですね。その場合こんな埋め方をするでしょうか?」 「それで、君の考えは?」 「ひょっとすると、五十部マキは、まだ、生きているのかも知れません」 「何だって?」 「マキが殺されたという根拠は、発見されたバラバラ死体でした。しかし、バラバラにされた各部分は、別人のものでした。マキであることを証明するものは、毛髪と、親指だけしかないことになります。肝心の首の部分がありませんから。毛髪を切るのは簡単です。親指を切断するのは大変でしょうが、自分が死んだことにするのならと考えて、切断したのかもしれません」 「君は、五十部マキ自身が、やったことだというのか?」 「あるいは、恋人の岡本医師と共謀ではないでしょうか? 自分を裏切った夫が、自分を殺した罪でさばかれるのをみたかったのかもしれません。うまくすると、美知子も共犯にとわれ復讐できると思った。そして、自分は、なにくわぬ顔で、のうのうと、岡本と生活する。岡本の奥さんもこのことに気づいてやかましくいったのかもしれません。それに、五十部夫婦には、サラ金からの借金もふくらんでいました。これからも逃げたかったのではないでしょうか」 「それで、あのバラバラ死体は、どこから持って来たんだ?」 「恐らく病院です。マキの働いていた田川病院は、大きな救急病院で、救急車も、ひっきりなしに、やって来ています。マキは、あの病院で死んだ人間の中から、若い女で、A型の血液型の各部分を集めて、自分の毛髪や親指と一緒に埋めたんだと思います。一人の遺体を、丸ごと持ち出したのでは、わかってしまいますからね」 「それが当っているかどうか、すぐ調べてみてくれ」  と一課長が、はずんだ声を出した。     7  橋口と、もう一人の刑事が、田川病院に急行した。  橋口が、そこで知ったのは、死体の管理が、意外にずさんだったということだった。  交通事故で、運びこまれて来た患者を、すぐ手術して、時には、手、足を切断するような手術をしなければならない救急病院では、仕方のないことかも知れなかった。  近くで、大きな事故があれば、十人、二十人という重傷者が運びこまれることもあるという。  丁度、一カ月ほど前にも、R電鉄の八両編成の電車が脱線転覆した。ラッシュ・アワーだったので、死者三十二名、重軽傷者八十九名という惨事になった。そしてこの病院にもそのうちの約三分の一がはこびこまれてきた。 「あの時は、まるで、戦場でしたよ」  と、事務長は、橋口にいった。  次々と血みどろの重傷者が運ばれてきて、手術の途中でも、次々に、死んでいったという。 「手、足が、ぶらさがったまま、かつぎ込まれて来た人もいましたね」 「切断した手足は、どうしたんですか?」 「一応、縫い合わせて、棺の中に入れた筈なんですが……」  そのいくつかを、看護婦の五十部マキが、かくして、今度の事件に使用したのかも知れない。  通勤時の事故なら、若いOLの死者も多かった筈である。手術には、輸血しなければならないから、死者の血液型もわかっていただろう。 「現に、その時、遺族の方が、棺を調べたら、娘の右腕か左腕かが無くなっていると、いって来たことがありました」  と、事務長は、いった。 「その時、どう返事されたんですか?」 「そんなものを盗む人間もいる筈ないから、事故の時、すでに、腕が切断されて、うちへ運びこまれたんだと答えたのを覚えています」  しかし、盗む人間がいたのだ。  橋口たちの報告で、はっきりした答えが出たようだった。 「五十部マキは、生きていると考えるべきだな。手や足の部分はメスのあとをけすためもう一度きり直したのかもしれないな」  と、一課長がいった。 「場所は、外科医の岡本が知っているに違いありません」  杉原は、岡本の冷酷な顔を思い出しながらいった。 「よし。すぐ、岡本医師に会おう」  一課長がいい、杉原と橋口が立ち上ったとき、刑事の一人が、飛び込んできた。 「宇治警察から、只今、連絡が入りました。宇治川の川岸で、女の死体が見つかったそうです」 「女の死体?」 「その死体は、右手の親指が切断され、顔は、五十部マキによく似ているとゆうています」     8  すでに、夜になっていた。  杉原たちは、現場に急行した。  川岸の草むらの中に、その死体は、仰向けに横たわっていた。  投光器の明りの中に浮び上った死体は、はだけた胸を、めった突きにされていた。胸だけではない。腹部も刺されていて、血まみれだった。  顔も、何カ所か切られている。  しかし、その顔は、まぎれもなく、五十部マキだった。  検視官として同行した冬子は、右手の親指が、切断されているのを確認した。 「致命傷は、左胸部の刺傷ですね」  と、冬子は、杉原にいった。 「この傷は、心臓に達しています」 「すると、犯人は、彼女が死んでから、胸や腹を、めった突きにしたということですね」 「ええ」 「よほど、被害者を恨んでいたということになりますね」 「そうですわね」  冬子は、肯いた。  橋口は、小さな溜息をついて、杉原を見た。 「五十部マキが、本当に殺されていたとはおどろきですね」  杉原たちは、すぐに、田川病院にかけつけた。岡本医師が、マキと何かのことでトラブルをおこし、殺したのだと思ったからだ。しかし、調べの結果、岡本医師には、ここ二日間の完全なアリバイがあった。院長夫人が入院したので、その手術を担当し、昼夜病室につきそっていたことがわかったのである。  がっかりした杉原たちは、とにかく、マキの夫の五十部の家へ出かけた。夫なのだから妻の死を知らさなければならない。  五十部の家には、美知子もいた。  杉原は、何となく不機嫌になっていた。 「五十部さん。あなたの奥さんが、殺されましたよ」  五十部は、平気な顔で、 「そのことなら知っていますよ。この間知らせてくれたでしょう」 「いや、あれは別人です。今、宇治川の川原で、めった突きにされて殺されている奥さんの死体を見て来たんですよ。右手の親指のない死体です」 「……」  ふいに、五十部の顔が大きくゆがんだ。 「嘘じゃありません。あなたの奥さんは、殺されたんです。今度こそ、本当にね」  杉原は、重ねていった。  五十部は、呻くように、「まさか……」といった。  それから、美知子を見た。 「まさか、お前が……?」  美知子が、蒼い顔になって、眼をそらせた。五十部が、顔をおおって号泣した。最初、マキの死体がみつかったことを知らせたときも一応悲しそうにしていたが、それとは、雲泥の相違である。  杉原たちの胸にピンとくるものがあった。  マキは、岡本医師と組んだのではなくて、夫とグルだったのだ。最初十万円、家計のたしに借りた金が、一千万以上にふくれあがり、やかましく催促され、二人は死ぬことを考えたに違いない。しかし、保険金が入れば、借金をかえしておつりがくることに気がついたマキは、この演出を考え出したのだ。だから、夫が美知子と仲よくなり、マキが岡本と親しそうにしたのは、すべて偽装なのだ。万一、夫が殺人犯として裁判にでもなったときにはマキは姿を現すつもりだったろう。  しかし、そのマキが何故殺されたのか?  そのとき、五十部が美知子の肩をつかんだ。 「お前なんだな? お前が、マキを殺したんだな?」  五十部が、吠えるようにいって美知子の肩をゆすった。  突然、美知子が、開き直った。 「ええ、あたしよ。あたしが殺したのよ」 「なぜ、そんなことを?」 「みんな、あなたが悪いのよ。バラバラ死体がみつかって新聞に出て、それが奥さんらしいと知ったとき、あたしは、怖いゆうより嬉しかったわ。あたしのために、奥さんを殺してくれはったんやと思ったからやわ。でも、全部、嘘やった。あなたの態度がおかしいので、尾《つ》けていったら、生きている奥さんがいた。二人で抱き合っている姿をみたとき、全てがわかったのよ。あたしは、あなたたち夫婦に利用されていただけなのね。あなたは、私など全然愛してなかった……そのあなたを、私はどんなに愛していたか。あなたのため、婚約者とも別れ、私の貯金はすべて、あなたのサラ金返済にあてたわ。だから、裏切られたと知ったとき、私は、あなたの奥さんを殺してやったの」 「畜生!」  と、五十部が叫んで、美知子の首をしめようとしたのを、杉原が、羽がいじめにした。 「奥さんを殺したのは、本当は、あんたなんだ」  第八話 骨 の 証 言     1  女性検視官の江夏冬子は、非番の時には、原則として、昼までベッドにもぐり込んでいる。事件になれば、時間に追われる冬子にとっては、これは、ささやかな贅沢《ぜいたく》だった。  新聞も、ベッドで寝ころんだまま読む。これも悪くないものだった。新聞だって、事件が始まれば、ほとんど読むことが出来ない。だから、非番のときは、隅から隅まで読む。  今日は、読者の投書欄に面白い記事があった。いや、面白いといっては、いけないかも知れない。投書の主は、まじめで、深刻に違いなかったからである。 私に代って、サイパンヘ行って下さる方はいませんか? 宮川健作(80)  私の一人息子は、今度の太平洋戦争中、サイパン島で死にました。陸軍上等兵でした。役場からは、戦死の公報が来ただけで、遺骨はおろか、遺品一つありませんでした。  私も、もう八十歳です。私が死んだときには、一人息子の遺骨か遺品を一緒に埋めて貰いたいのです。私は、病身で、息子の遺骨を探しにサイパンヘ行くことが出来ません。それで、私に代って、サイパンヘ行き、息子の遺骨や、遺品を探して下さる方はいないでしょうか? 往復の旅費と、向うでの滞在費は、当方で持ちます。私の家の電話番号は、新聞社に知らせてありますので、もし、行ってもよいと思われる方は、連絡して下さい。  冬子の伯父も、サイパンで戦死していた。父の兄である。戦後生れの冬子は、顔を見たことのない伯父だったが、今から十年前に、伯母が、遺骨収集団に参加してサイパンに行き、ばらばらの小さな骨と、朽ちた軍靴の片方を持って帰って来たのは、よく覚えている。その骨も、軍靴も、果して、伯父のものかどうかわからないのだが、それでも、伯母は、去年の夏に死ぬまで、夫の遺骨、遺品と、かたく信じていたようだった。  そんな伯母のことがあるだけに、この投書の主の気持が、冬子には、よくわかった。きざな言い方をすれば、宮川健作という八十歳のこの老人にとって、一人息子の遺骨が戻らない限り、戦後は終らないということだろう。 〈果して、この老人の呼びかけに応じる人がいるのだろうか?〉  新聞を開いてから、ベッドに腹ばいになって、冬子は、そんなことを考えていた。  冬子のまだ行ったことのないコバルトブルーの南の海が、魅力的な姿で、彼女の脳裏に描き出されてくる。そんな美しい海へのあこがれだけで、この老人に近づく若者がいるかも知れない。  食事の時も、冬子は、しばらくは、その投書のことを考えていたが、翌日は、再び、血なまぐさい殺人事件の渦中に放り込まれ、投書のことも、老人のことも、自然に忘れてしまった。     2  K女子大三年の小林麻木子は、学生食堂で、老人の投書を読んだ。  二十歳の麻木子にとって、戦争は、遠い存在だった。サイパンで、どんな戦争があったかも、ほとんど知らなかった。サイパンという言葉が、麻木子の頭にイメージするのは、ジェット機で四時間ほどで行ける島、真っ青な空と海、ハイビスカスの花といったものだった。 〈学校を休んで、行ってみようかな〉  と、麻木子が、思いたったのも、投書の老人の気持に応えようという考えからではもちろんなく、タダでサイパンに行けるということが、気に入ったからである。  思い立つと、麻木子は、すぐ、新聞社に、老人の住所と電話番号を聞いて、会いに出かけた。  宮川健作は、宇治の小さな市営住宅に住んでいた。 〈本当に、旅費や、滞在費を出して貰えるのかしら?〉  と、不安になりながら、麻木子は、玄関のベルを押した。  宮川健作は、小柄な、平凡な顔立ちの老人だった。心臓が悪いといい、そのせいか、低い小さな声で話した。それでも、一人息子のことを話し出すと、興奮して、時々、苦しそうな息遣いになった。 「本当に、サイパンに行ってくれはりますねんな?」  老人は、首を突き出すようにして、麻木子を見た。 「ええ。往復の旅費と、向うでの滞在費は、出してくれはるんでしょう?」  麻木子がきくと、宮川は、奥に立っていき、一冊の預金通帳を持って来た。 「ここに、わたしが、貯めた百万円があります。この中から、旅費も滞在費も出しますし、わたしの息子の遺骨なり、遺品なりを探して来てくれはったら、残りはあんたにあげます。老い先の短いわたしは、金なんか持ってても仕方がないよってにな」  その通帳には、確かに、百万円余りの預金額があった。こつこつと貯めたらしく、一万円たらずの小さな金額が、何回にもわたって、入金されている。 「もし、息子さんの遺骨とか、遺品が見つからへんかっても、お金を返せやなんていわはらへんでしょう?」  麻木子は、その通帳を返しながら、きいた。 「そんなことはいわへんつもりやけど、なんとかして見つけて持ってきて欲しいんや。お願いやよって。息子の名前は、宮川昭一。死んだ時は、二十一歳やった。公報によると、サイパン島の北部の山中で死亡したことになっているよって、探してみて下さい。お願いします」  老人は、麻木子に向って、何度も、頭を下げた。  麻木子は、そんな老人を見ながら、南の青い海を思い浮べていた。     3  日本は、すでに秋が深いというのに、サイパンの空港には、酷熱の太陽が照りつけていた。  サイパンは、所要時間三時間四十分の直行便が出るようになってから、グアムと共に、手近な外国として、日本人観光客が増えてきた。それに、サイパンにだけ行く場合は、ビザも、予防接種の必要がないのも、人気のある理由だろう。  麻木子の乗った飛行機も、ウイークデイだというのに、日本人で、満席に近かった。  老人には、三泊四日の滞在費を貰って来ていたが、第一日目も、二日目も、青い澄み切った海を眼の前にすると、遺骨収集などというシンキ臭いことをする気にはなれず、ホテルに入ると、海辺で遊びくらした。  熱帯の直射日光は、帽子をかぶり、パラソルの下に入っても、麻木子の肌をまっかに焼いた。  楽しかった。夜、陽焼けした肌を、海から吹いてくる風になぶらせていると、なんともいえず気持よかった。  若いだけに、同じホテルに泊っていた他の若者たちとも、すぐ親しくなった。休暇をとってやってきたというOLもいたし、大学生もいた。彼等とヨットに乗り、ディスコで踊っている時は、遺骨収集のことも、宮川健作のことも、麻木子の頭から消えてしまっていた。  しかし、三日目になり、明日は、帰らなければならないというときになって、やはり、気になって来た。 〈とにかく、一日ぐらいは、遺骨を探してみなくては……〉  と思った。誰のでもいい、骨なり、遺品なりを持って帰れば、あの老人を、何とか、納得させられるだろう。  ホテルで朝食をすませると、フロントで、地理を聞いてから、麻木子は、老人のいった北の山へ入っていった。  この近くには、戦争のとき、民間人が多数飛び込み自殺したバンザイ・クリフがある。  低い山だが、深い密林が、その山をおおっていた。  細い道が通じていたが、進むにつれて、日光が射さなくなり、薄暗くなってきた。ところどころに、赤さびた日本軍の戦車や、高射砲の残骸が、無残な姿をさらしている。  人の気配がないので、まるで、廃墟の中を歩いているような気がした。道路を離れて、深い草むらの中に入ってみたが、人骨や、兵隊の遺品らしいものもみつからなかった。まさか、こわれた戦車の破片を持って帰るわけにもいかない。  だんだん、心細くなって来たとき、ふいに、がさがさと音がして、左手の草むらから、人影が飛び出して来た。  一瞬、悲鳴をあげそうになったが、相手は、日本人らしい若者だった。  向うも、こんなジャングルの中に、若い女が一人でいることに、びっくりした様子で、 「道に迷ったんですか?」  と声をかけてきた。まさか、若い女が一人で、遺骨を集めに来たとは思わなかったのだろう。  男の方は、防暑帽をかぶり、登山靴といった恰好だった。  麻木子は、ハンカチで汗を拭きながら、答えた。 「人に頼まれて、遺骨を探しに来たんです」 「驚いたなあ」  と、若い男は笑った。 「僕も、遺骨と遺品を探しに来たんですよ。ここで戦死した遺族に頼まれましてね」 「まさか、京都の宮川健作というおじいさんに頼まれたんやないでしょうね?」  と、麻木子はきいた。あの老人が、彼女一人では頼りないと思って、この男にも頼んだのではないかと、ふと考えたからだった。しかし、その若者は、首をふった。 「宮川健作って誰ですか?」 「私に、遺骨の収集を頼んだ人」 「そうですか。僕は、伯父に頼まれたんです」  男は、ポケットから名刺を出して、麻木子に渡した。 〈大阪製機株式会社 営業課長 上羽文彦〉 「大阪の方ですか?」 「梅田の近くに会社があります」 「若いのに課長さんなんてすごいわ」  と、麻木子がいったのは、相手が二十五、六歳に見えたからだった。  上羽は、照れたように笑って、 「伯父が、社長をしている会社ですからね」 「じゃあ、その社長さんに頼まれたわけですか?」 「ええ、いってみれば、社長命令というわけです」 「その社長さんて、お金持ちなんでしょう?」 「まあね」  と上羽は、微笑した。 〈大へんな違いだわ〉  と、麻木子は思った。  何年もかかって、やっと百万円を貯めた老人と、会社の社長をやっている老人との違いを、麻木子は考えた。麻木子が、遺骨なり、遺品を見つけて帰っても、宮川健作から貰えるお礼は、百万円の残りである。だが、相手がこの名刺の社長だったら、何百万円もくれるかも知れない。 「この奥に、日本軍が立てこもった洞窟があるということだから、行ってみませんか」  と、上羽がいった。  だが、そこへ行くまでが大変だった。  道がなくなり、熱帯の樹林が、行手をさえぎり、進むにつれて、無数の小さな虫が、襲いかかって来たからである。  上羽は、さすがに男で、先に立ち、折った太い枝を振って、道を作ってくれた。彼が、一緒でなかったら、その洞窟まで行く気にはなれなかったろう。  洞窟は、深く、暗かった。上羽が、用意して来た懐中電灯をつけて、先に、中へ入った。  麻木子は、それも持って来なかったのである。彼女が、用意して来たのは、遺骨や、遺品を入れるための大きな袋だけだった。  洞窟の中は、じっとりと空気が湿り、頭上から、ぽたぽたと、水滴がしたたり落ちてきた。 「気味が悪いわ」  麻木子がいうと、その声が、反響した。 「奥へ行ってみましょう。多分、兵隊たちは、奥へ、奥へと逃げたでしょうからね」  上羽は、麻木子に、ライターを貸してくれた。彼女は、それをつけた。炎がゆらぐと、一層、不気味な感じがした。  先に行く、上羽の足元で、がさっという音がした。  上羽が、懐中電灯で、足元を照らすと、白骨が散乱していた。赤さびた鉄かぶとなども落ちている。 「ありましたよ」  と、さすがに、上羽が、押し殺した声でいった。  洞窟の少し広くなった場所だった。米軍に追いつめられて、この洞窟に入った兵士たちは、この広い場所で、食事をしたり、寝たりしたのかも知れない。  二人は、それぞれに、求める遺骨や、遺品を探すことになった。  十五、六分もすると、麻木子は、 「私は、もう見つけたわ」  と、袋をがさがさいわせた。  上羽は、まだ、地面を這うようにしながら、探している。 「僕の方は、なかなか見つかりませんよ。羨やましいな、そんなに早くみつかるなんて」 「私は、運が良かったのね。きっと」  麻木子は、地面に腰を下し、疲れた声でいった。  ライターは、ガスがなくなったのか、火が消えてしまった。上羽は、まだ、探し続けている。     4  一つの事件が解決すると、一瞬だが、警察の中に、空白感が生れる。  冬子も、そんな空気の中で、ぼんやり煙草をくわえていると、コンビの橋口部長刑事が、 「江夏さんも、煙草を吸うんでしたか?」 「たまですわ。本当に、たまに、だけ」 「ちょっと、お願いしたいことがあるんですが……」 「なにかしら? 誰かを完全犯罪で殺してくれというんじゃないでしょうね」  冬子は、笑いながら、橋口の方をみた。 「そのうちにおねがいするかもしれませんから、その時はよろしく。今日は、三十何年たった骸骨から血液型を調べたいんですが」 「二、三年位たった骸骨で、骨の中に、髄液があるようなのだと、血液型はわかると思うけど三十何年たった骸骨からは、無理だと思うわ」 「やっぱりね」  橋口は、がっかりしたようにうつむいた。 「実は、ある老人に頼まれたんです。一人息子をサイパン島で死なせて、今は、天涯孤独な人です。その老人が、一人息子の遺骨を手に入れたんですが、果して、息子のものかどうか、調べてほしいといっているんです」 「その骸骨に、毛髪はついてないかしら。わずかでも付着していると、毛髪からは、いくら昔のでも、血液型が検出できますけど」 「それは、ちょっときいてませんでした。すぐに、電話できいてみます。もし毛髪がついてたら、いくら古くても、血液型はわかるんですね?」 「ええ。エジプトのミイラの血液型だってわかるんですから。……ところで、その人、宮川健作さんという人じゃありませんか?」 「驚いたな。なぜ知ってるんです。僕の近所に住んでいる老人なんですが」 「二週間位前だったかしら。自分の代りに、一人息子の遺骨や遺品を集めに行ってくれる人がいないかと、新聞の投書欄でいっていましたわ」 「そんなことは、何もいってませんでしたね。じゃあ、誰か、応募者があったわけですか」  橋口は、老人に電話し、しばらくすると、紙に包んだ毛髪をとってきた。 「下になったところに、この毛がついていました。これでわかるでしょうか?」 「ええ。科捜研に持っていって、調べてみましょう」  冬子と橋口は、科捜研に出かけた。  毛髪から、血液型を調べる方法は、かなり面倒である。  問題の毛髪を三等分し、それぞれ、圧挫《あつざ》する。簡単にいえば、金具で叩いて、平たく延ばすのだ。  次に、抗A、抗B、抗Hの各血清を試験管に用意し、その中に、三等分した毛髪をそれぞれ入れて三時間ほどおく。  そのあと、血清をとり去り、D食塩水で洗う。  それに、普通の食塩水を加え、五十度のお湯を入れた器に、試験管を入れて、十分間程つけてあたためる。  そのあと、抗Aを加えたものには、A型の血球を加え、抗BにはB型、抗Hには、O型の血球を加える。  こうして、三本の試験管をみてみると、凝固するものとしないものがある。  抗Aが凝固すると、A型で、抗Bが凝固するとB型で、抗HだけだとO型ということになる。みんな凝固すればAB型である。  冬子が、科捜研の設備をかりて、仕事している間、橋口は、じっと待っていた。  やがて、結果が出た。  抗Aの試験管の中味が凝固したのだ。 「わかりましたわ。この毛髪の主は、A型の血液型です」 「間違いありませんか?」 「ええ」 「そうですか」  橋口は、がっかりした顔になった。 「違うの?」 「ええ、老人の一人息子の血液型は、B型だったそうです。あのじいさん、残念がるだろうなあ」 「じゃあ、B型だったと、いってあげたらいいじゃない? 別に、犯罪に関係しているわけじゃないんだから。嘘をついても構わないでしょう? それで、その人が、喜ぶのなら、B型といってあげる方がいいと思うけど」 「そうですねえ」  と、橋口は、しばらく迷っていたが、 「じゃ、じいさんを喜ばしてやりましょう」  と、電話の方へ駆けて行った。  そんな橋口の後姿を、冬子は、笑顔で見送ってから、実験に使った道具を片付けていたが、それをすませて立ち上ったとき、橋口が、駆け戻ってきた。 「一緒に、すぐ、宇治まで行って下さい」 「宮川健作というおじいさんを説得してくれというのなら駄目よ。私は、嘘をつくのが、うまくないから」 「その宮川さんが、死んでしまったんですよ。庭で、火をつけて」     5  その市営住宅には五坪ほどの小さな庭がついていた。  宮川健作は、孤独な老人らしく、その小さな庭に、手まめに草花を植えていたが、その庭で、焼死したのである。  午後四時という時間が、発見を遅らせたといえる。  サラリーマンは、会社で、奥さんたちは、夕食の買物に出かけていて、近所の人たちは、ほとんど留守だったからである。  最初に、塀越しに立ち昇る煙をみた通行人も、焚火《たきび》と思って、通り過ぎてしまった。  何となく、うすら寒い日だったからである。  それから、十二、三分して、近くの主婦が、買物から帰って来て、同じように、塀越しに立ち昇る煙を見つけた。  彼女は、通行人のように、焚火だとは思わなかった。老人が、火事に神経質で、焚火が嫌いであるのをよく知っていたからである。  彼女は、塀の隙間から、老人の家の庭をのぞき込んだ。  そして、人が燃えているのを見て仰天し、悲鳴をあげた。  彼女の悲鳴で、近くの人たちが駆けつけ、水をかけ、消火器の泡を注いだ。だが、燃えあがる灯油は、なかなか消えず、やっと、消火に成功した時、黒焦げになった老人を見つけたのだった。  橋口と冬子が駆けつけたとき、狭い庭には、小さな老人の焼死体だけがあった。  肉の焼ける匂いと、灯油の匂いが入り混って、強烈に鼻をつく。  地面も焼けている。髪の毛は焼けてしまっていて、着物の焼け残った部分が、ところどころ、肌にこびりついている。  冬子は、焼死体を見るのは、三度目だった。放火された家の焼け跡から、逃げ遅れた焼死体が見つかったときもあるし、盗みの疑いをかけられた四十歳の主婦が、抗議の焼身自殺をとげた時にも、冬子は、立ち会っている。  焼死体は、他の死体と違っている。  まず、高熱のために、全身が小さくなってしまう。  両手両足が、縮まったような恰好になる。  口が開き、舌を突き出した状態になる。  だが、検視官である冬子にとって、大事なのは、生きながら焼かれたか、死んでから、焼かれたかの区別だった。  一般的には、解剖して、喉、気管、肺などに、すすが発見されれば、生きながら焼かれたことになる。  京都府警本部から駆けつけた杉原警部は、橋口に向っていった。 「覚悟の焼身自殺じゃないのか。身寄りのない老人だったというし、病身だったので、前途を悲観しての自殺というところじゃないかな」 「しかし、警部。私は、この近くに住んでいるんですが、どうしても、自殺とは思えないんです」  と、橋口は、遺骨の血液型を調べてくれるように、老人から頼まれていたことを、杉原に話した。 「その結果を、知りたがっていましたから、その前に、自殺する筈がないと思うんですが」 「しかし、この老人に恨みを持っているような人間はないらしいし、物盗りでもないようだよ。つつましく、細々と、暮していたようだから」  杉原は、首をかしげてから、焼死体の傍に屈み込んでいる冬子に向っていった。 「どうですか? 江夏検視官。生きたまま焼かれたのか、死後焼かれたのかわかりますか?」 「解剖の結果をみないと、断定は出来ませんが、ちょっと、ここを見て下さい」 「どこですか?」  杉原は、橋口と冬子の傍に屈み込んだ。  冬子は、手袋をした手で、真っ黒に焼けた老人の顔をなでるようにしてから、眼のところに、指をあてた。  指先に力を入れて、両眼を大きく押し開けた。 「生きながら火をかけた時は、どうしても、眼を閉じてしまいます。それも、固く、ぎゅっとです。そうすると、眼玉もやけないし、まつげの根元もやけません。ところで、この遺体ですが、よく見て下さい。まつげの根元まで燃えているし、眼の奥まで黒くなっています」 「つまり、眼を開いたまま、焼けたということですか?」  橋口が、勢い込んできいた。 「ええ」 「つまり、死んでから焼かれたということですね」  杉原が、せっかちにきいた。 「ええ、このおじいさんは、灯油をかけて燃えたとき、死んでいたか、気を失っていたのかのどちらかだということです。少なくとも、自分で灯油をかぶって火をつけたのではありませんわ」     6  八十歳の老人の死は、他殺と断定された。解剖の結果も、気管や、肺に、すすが発見されず、冬子の推理を裏書きした。  橋口は、冬子と、六畳、三畳に二階があり、細長くていかにも京都の家らしい家の中を見廻した。 「犯人の目的は何でしょうか?」  と、橋口は、首をひねった。 「一体、何のために、犯人は八十歳の老人を殺し、焼身自殺に見せかけて、焼いたんでしょう?」 「盗られたものが、わからないから?」 「いや、盗られたものは、わかっていますよ。金も、預金通帳も盗られていませんが、サイパンから持って来た遺骨と、遺品が、なくなっているんです」 「本当?」 「ええ」 「毛髪をもらって来たときにはあったんでしょう?」 「ええ。その時、骸骨の他に、ばらばらになった骨、赤さびた鉄かぶとだとか、軍靴だとか、ゴボウ剣と呼ばれた銃剣だとか、水筒だとかが、大きなビニール袋に入ってありましたよ。自分が死んだら、息子の遺品だから、一緒に棺に入れて欲しいといっていたんですが、それが、袋ごとなくなっているんです」 「犯人は、それを盗むために、老人を殺して、灯油で焼いたのかしら?」 「他に盗まれたものがないので、他に考えようがないんですが、老人にとって大切なものでも、他の人間にとっては、ただのガラクタですからねえ。そんなものを、なぜ、犯人が欲しがったのか、全くわからないんですよ」 「サイパンヘ、実際に、遺骨や、遺品を探しに行った人に会ったらどうかしら? 何かわかるかも知れませんわ」  冬子がいうと、橋口は、肯《うなず》いた。 「彼は、新聞に投書していたということでしたね?」 「ええ。確か、私が非番の日だったから、九月二十五日の朝刊ですわ。あれに応募した人は、新聞社に、老人の住所と電話番号を問い合わせた筈ですわ」 「京都新聞でしたね?」  橋口は、確認してから、部屋にあった電話で、京都新聞社のダイヤルを廻した。  電話口に出た相手は、 「あの投書には、五人の男女が、電話して来たので、老人の住所と電話番号を教えましたが、そのあと、老人にきいたところ、最初にやって来た女子大生に頼んだということでした」  と、いった。 「その女子大生の名前は、わかりますか?」 「わかりますよ。念のために、五人の住所氏名を聞いておきましたからね。ええと、東山区山科の花洛アパートに住む小林麻木子という女性です」  その住所と名前をメモしてから、橋口は、電話を切った。  橋口が、そのメモを見せると、冬子は、 「私も、一緒に行きますわ」 「すみません。いいんですか?」 「今、急ぐ仕事はありませんし、サイパン島に、老人の代りに遺骨や遺品を探しに行ったのは、どんな女性だろうか、興味がありますから」  と、冬子はいった。  二人は、パトカーを飛ばした。  メモした住所には、花洛というアパートがあり、入口の郵便受けには、「小林」という名前があった。  二階の端の部屋である。  二人は、二階にあがり、ドアをノックした。  ジーパンに、ブラウス姿の若い女が、顔を出した。真赤に陽焼けしているのは、サイパンに行って来たからだろう。 「小林麻木子さん?」  と、橋口は、警察手帳をみせて確認した。 「宮川健作さんのことで、おききしたいことがあるんですが……」 「どうぞ入って下さい」  麻木子は、二人を部屋に入れた。  六畳の壁には、サイパンで買って来たらしい、腰みのをつけた木彫りの人形が、ぶら下っていた。 「宮川健作さんに頼まれて、サイパン島に行きましたね?」  と、橋口がきいた。 「ええ。息子さんの遺骨と、遺品を探しに行ってくれと頼まれたの」 「それで、遺骨と、遺品を持って来た?」 「ええ」 「渡すとき、ビニールの袋に入れて渡したんですか?」 「そうよ」 「遺骨の他に、鉄かぶとや、水筒がありましたね?」 「ええ」 「なぜ、それが、宮川さんの息子さんのものだとわかったのかしら?」  横から、冬子がきいた。  麻木子は、ちらりと、冬子を見た。 「あなたは、婦人警官?」 「ええ」  と、冬子は、面倒くさいので、肯いた。 「確か、水筒に、宮川って書いてあったし、鉄かぶとなんかは、その近くにあったからやわ」 「ところで、宮川健作さんが死んだのは、知っていますか?」  と、橋口がきいた。 「ええ。テレビのニュースで見たから。焼死なんでしょう? でも、私とは関係ないわ」 「しかし、あなたが、サイパンから持って来た遺骨と遺品が、なくなっているんですよ。他に、盗まれたものがないところをみると、犯人は、それを盗むために、宮川さんを殺して、焼いたとしか思えないんだ」 「でも、刑事さん、あんなもんを、誰が欲しがるやろか? 今は、アンチックブームやけど、穴があいて錆びてる鉄かぶとやとか、へっこんだ水筒なんか、売れへんわ」 「確かに、そうだがねえ。犯人は、欲しがった。人殺しをしてまでもね。何か心当りがありませんか?」 「ぜんぜん」  麻木子は、そっけなくいった。 「本当に、心当りはないの?」 「私は、戦争を知らない世代よ。あんなものを欲しがるのは、おじいちゃんばかりやわ。そんなおじいちゃんに、私、知りあいないもん。宮川さんのたのみを引き受けたんだって、タダで、サイパン島へ行けると思ったからやわ。正直いって、遺骨にも、遺品にも、興味なかったわ」 「まさか、君が持っていったんじゃないだろうね?」 「私がァ?」  麻木子は、笑い出した。 「なんで、私が、あんなもん盗むの? 盗むくらいやったら、わざわざサイパン島から持って来《き》いへんし、むこうには、あんなのいくらでもあるわ。部屋を調べてもええわ」  といい、おもしろそうに、また笑った。  橋口は、負けたというような顔で、黙ってしまった。     7  パトカーに戻ると、橋口は、溜息をついた。 「彼女は、犯人じゃないような気がしますね?」 「私も、そんな感じがするわ」 「となると、容疑者はゼロですよ。わけがわからなくなりましたね。流しの犯行なら、遺骨や遺品を持っていく筈がないし、わざわざ、焼き殺したりはしないでしょう。しかし、誰が、遺品や遺骨を欲しがるかということになると……」 「なぜ、宮川さんは、遺骨の血液型を、橋口さんに調べてくれといったんでしょう?」 「それは、つまり、本当に、自分の息子かどうか、知りたかったからでしょうね」 「橋口さんが、宮川健作の立場だったら、血液型を調べて貰います?」 「僕が?」  橋口は、びっくりしたようにきき直してから、 「さあ、僕だったら、多分、怖くて、調べられないでしょうね。サイパンから、わざわざ持って来た遺骨と遺品でしょう? それが、他人のものとわかるかも知れないんですからね。それなら、息子のものだと、信じて持っていた方が幸福ですから」 「宮川さんだって、きっと、そう思っていたに決っているわ。女子大生の話では、水筒には、名前も書いてあったっていうんでしょう? それなら、息子さんのものだと、信じるのが普通だと思うんですけど」 「しかし、宮川さんは、僕に、血液型を調べてくれと頼んだんですよ」 「なぜかしら?」 「さあ」 「きっと、何か、疑問に思うことが、急に起ったんだと思うんです。第一、あの女子大生が、簡単に、息子さんの遺骨や遺品を見つけて来たというのも、あやしい気がするわ。どう考えても、遊ぶことしか考えてないような感じだもの。顔が、真赤に陽焼けしてたでしょう? 日本軍の遺骨や遺品は、ジャングルの中や、洞窟の中に散乱していると聞いたことがあるわ。だから、もし、彼女が、真面目に、遺骨さがしをしていたら、あんなに陽焼けするはずがないわ」 「それはそうですね。ブラウスの襟から、水着のヒモの形に、肌が白くなっているのがみえましたから」 「きっと、いいかげんに探して、あったものを袋に入れて持ち帰ったんじゃないかしら? 水筒の名前は、彼女が書き込んで」 「宮川さんは、それを知って、怒って、血液型を調べる気になったんでしょうか?」 「でも、それぐらいなら、あの女子大生が、宮川さんを殺す筈がないわ。詰問されても平気みたいだし、また、血液型がわかる前に殺されたんだし……」 「そうですね」 「やっぱり、遺品と遺骨を、どうしても欲しい人間が、宮川さんを殺したことになりますね」 「それが、誰だが、全く見当がつかないんですよ」 「犯人は、どこで、それを見たのかしら?」 「宮川さんは、僕にしか見せてないといってましたが……」 「じゃあ、あの女子大生が、誰かにしゃべったか、サイパンから持って帰るまでの間に、人に見せたんだわ」  二人を乗せた車は、捜査本部の近くまで来ていた。 「戻って、もう一度、彼女に会ってみましょう」  と、橋口がいった。     8  冬子たちは、すぐ、花洛アパートヘ引き返したが、彼女は、部屋にいなかった。管理人にきいても、隣室の若夫婦にきいても、行先はわからなかった。それに、これから、学校へ行くという時間でもない。  仕方なく、二人は、捜査本部に戻った。花洛アパートの管理人には、麻木子が帰ったら、すぐ連絡するように頼んでおいたのだが、夜が更けても、連絡はなかった。  翌日の午前九時過ぎ、捜査本部に、電話が入った。  嵐山の大堰《おおい》川に、若い女の死体が浮んでいるという知らせだった。  年齢二十歳ぐらいで、一見、女子大生風という死体の服装をきいたとき、橋口は、思わず、冬子と顔を見合わせてしまった。  二人は、他の刑事たちと、現場に駆けつけた。不安は適中した。水に濡れた死体は、間違いなく、小林麻木子だった。  冬子は、死体を調べてみて、すぐ、溺死でないとわかった。喉に、絞殺の痕《あと》があったからである。  犯人は、絞殺しておいて、大堰川に投げ込んだのだ。 「死んでから、十時間は、経っていますわ」  冬子は、橋口や、杉原警部にいった。 「すると、昨日の深夜に、殺されたということですね?」  と、杉原は、ちらりと腕時計に眼をやってからきいた。 「宮川さんが殺された事件と、関連があると思いますか?」 「あると思います」  と、橋口がいった。 「被害者は、宮川健作を殺した犯人に会いに行って、殺されたに違いありません。原因は、サイパンから持って帰った遺骨と遺品です」 「つまり、彼女は、犯人も知ってたし、その犯人が、なぜ、宮川健作の遺骨と遺品を持ち去ったかも知っていたということだな?」 「そうです」 「それで、犯人を恐喝したのかな?」 「多分、そうだと思います」  橋口は答えると、部下の山下刑事と小林麻木子のアパートヘ、車をとばした。  管理人に立ち会って貰って、彼女の部屋に入った。  まず、手紙を調べたが、それらしきものは見つからなかった。  電話の近くに、メモもない。  だが、電話の傍に、カレンダーがぶら下っていて、その空白のところに、大きな字で、電話番号が、走り書きしてあった。電話の位置からみて、そのナンバーを見ながら、ダイヤルを廻したのだろう。大阪のナンバーだった。  橋口は、電話機を取って、そのナンバーにかけてみた。 「こちらは、大阪製機株式会社ですが、何課におつなぎしましょうか?」  と、若い女の声がいった。交換手が出たのだ。  大阪製機株式会社といえば、二部上場の有名な会社である。小林麻木子は、そこの誰かにかけたのだろうが、それがわからない。橋口は、曖昧にいって、電話を切ってしまった。  橋口たちは、捜査本部に戻ると、杉原に報告した。杉原は、眉を寄せて、 「大阪製機といえば、社員は千人はいるだろう。その一人一人に当るのは大変だぞ」  と、いった。  橋口は、にっこりした。 「その心配はないと思います。本人なり、その息子なりが、サイパンの玉砕に関係しているとすれば、年齢は、まず五十歳以上と考えられるからです。会社では、課長クラス、いや、部長クラス以上かもしれません。だからこそ、小林麻木子も、相手をゆする気になったんだと思いますよ」 「よし。大阪府警に頼んで、大阪製機株式会社の部・課長級の人間を調べてみよう。その中に、サイパン島で戦死した兵隊に、何らかの意味で関係している人物がいたら、問題だというわけだな」  杉原も、眼を輝かせていった。  ただちに、手続きがとられた。  大阪府警からの返事が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。  大阪製機KKの部・課長クラスで、該当する人物は、三名だけだった。 社長=深沢重太郎(八十一歳) 長男淳一(当時二十歳)が、昭和十九年七月サイパン島で戦死 営業部長=土田昭夫(六十歳) 兄功一(当時二十六歳)が、昭和十九年六月サイパン島で戦死 輸出部長=小山修造(六十三歳) 弟次郎(当時二十四歳)が、昭和十九年六月サイパン島で戦死 「この三人に一人一人、当ってみるか?」  と、杉原がきいた。  橋口は、メモを読み返してから、 「いや、社長の深沢重太郎に会うだけで、充分だと思います」 「なぜだ?」 「私も、戦争体験はありませんが、宮川老人から、よくサイパンのことを聞かされていたので、あの島の戦いのことは、よく知っています。米軍は、昭和十九年六月、サイパン島の南端のインベージョン・ビーチに上陸し、日本軍を北へ追い詰めていったのです。一カ月の激戦の後、北端に追いつめられた最後の日本軍が全滅して、サイパンの戦いは終りました。宮川老人の息子さんが戦死したのは、サイパン島の北部だといっていました。つまり、七月に戦死しているわけです。老人に頼まれた小林麻木子も、サイパン島の北部で、遺骨と遺品を見つけて来たんだと思います。そうなると、十九年六月に戦死した二人には関係がなくなります。サイパン島の南部で、戦死しているからです」 「なるほど、君は、すぐ、大阪へ行ってくれ。問題の遺骨と、遺品を見ているのは、君だけだからな」 「私も、同行させて頂けませんか?」  と、冬子は、捜査一課長にいった。 「君が?」 「私は、最初から、今度の事件に関係していましたし、伯父が、サイパン島で戦死しています。遺骨も、遺品も、とうとう届きませんでした。だから、どんなものか、見てみたいんです」 「いいだろう。行って来なさい」  と、一課長が許可してくれた。     9  午後五時十七分京都発の「ひかり一三九号」に乗って、冬子と橋口は、十七分後に、新大阪に着いていた。  五時過ぎとしたのは、会社ではなく、自宅の方で、社長の深沢重太郎に会いたかったからである。  電話で、あらかじめ、承諾をとってから、二人は、守口にある深沢の自宅を訪ねた。  敷地が千坪近い邸だった。  深沢は、八十一歳にはとてもみえない精悍な様子で、冬子たちを迎えた。  広い邸は、ひっそりと静かだった。  深沢は、冬子が捜査官とは信じられないというような顔をして、じろじろ見てから、何の用かときいた。 「今日は、サイパン島で戦死されたご子息のことで伺ったのです」  と、橋口がいった。  この老人は、元気だが、宮川健作や、小林麻木子を殺したりはしないだろうと、冬子はカンで思った。  深沢の顔が和やかになった。 「あれのことですか。あれのことでは、今度うれしいことがありましたよ」 「遺骨と遺品が見つかったんじゃありませんか?」 「よく知ってるねえ。その通りで、やっと見つかったんで、嬉しくてねえ」 「拝見できますか?」 「見てくれたまえ」  深沢は、嬉しそうに立ち上り、風呂敷に包んだ鉄かぶとや、水筒などを持って来て、一つ一つ、丁寧に、テーブルの上に並べた。 「同じものです」  橋口が、小声で冬子にささやいた。 「水筒に書いてあった宮川という文字は消してあります」 「なぜ、これが、息子さんのものだとわかったのですか?」  と、冬子がきいた。 「その鉄かぶとの裏を見てみなさい」  深沢がいった。  冬子は、穴のあいた鉄かぶとの裏側を見た。そこに、小さな|みょうが《ヽヽヽヽ》が、刻明に彫りつけてあるのが見つかった。 「それは、うちの家紋の�抱きみょうが�だ」  と、深沢がいった。 「水筒の底にも彫ってある。戦争中、大事な支給品に、彫ったりするのは禁じられていたが、息子は、かくれて彫っていたんだ。戦死したとき、自分だとわかるようにといっていたよ。現代戦では、顔も何もわからなくなるような死に方をすることが多いからね。息子は、彫刻が好きでね。見事なものだろう?」  確かに、見事だった。ナイフの先で、こつこつと、彫りつけたのだろうか。  やはり、小林麻木子は、いい加減に、見つけた鉄かぶとや水筒を持って来たのだ。それが、偶然、この深沢社長の息子のものだったということになる。 「あなたが、ご自身で、サイパンヘ行かれて、見つけられたのですか?」  橋口がきいた。 「いや、仕事が忙しいんで、甥に行ってもらったんですよ」 「甥御さんといいますと?」 「うちの会社で、営業課長をやっている男だ。名前は、上羽文彦。妹の子なので名前はちがうが、しっかりした男でね、私のために、サイパンヘ行って、苦労して、一人息子の遺骨や遺品を見つけ出してくれた」 「甥御さんは、いつ行かれたんですか?」 「十月一日から五日間だ」  それなら、小林麻木子と、サイパンで一緒だった可能性がある。  麻木子が、いいかげんに拾い集めてきた遺品の中に、自分の捜している遺品があるとは、文彦は、気がつかなかったのだろう。  麻木子は、それを宮川老人に渡したあと、何かの時に、サイパンで知り合った上羽文彦に、自分の持って来た鉄かぶとと水筒に、抱きみょうがの家紋が彫り込んであることを話したのだろう。若者同士だから、電話をかけ合ったのかも知れない。  上羽文彦は、あわてて、宮川老人を訪ね、遺品を渡してくれと頼んだ。しかし、老人は、拒否した。上羽文彦にとって、社長に頼まれた仕事である。出世のきっかけになるかもしれないのだ。そこで、老人を殺して、奪い取った……。 「その甥なんだが」  と、深沢は、にこにこした。 「サイパンで戦死したのは一人息子で、その後、子供に恵まれなくてね。それで、家内と相談して、甥を養子に迎えることにしたんだよ。息子の遺骨や遺品を見つけてくれたのも、何かの縁だろうということでね。実は、昨日、養子の手続きをしたんだ」 「そうですか」 「いずれ披露パーティがある。その時には君たちも来てくれ」 「そろそろ、おいとましましょうか」  と、冬子が、橋口にささやいた。 「そうですね」  橋口は、肯いて、腰をあげた。  二人が、礼をいうと、深沢は、首をかしげながら、 「君たちは、一体、何の用で来たんだ?」  と、きいた。 「私の伯父も、サイパンで戦死したものですから、遺品を見せて頂きに来たんです」  冬子がいった。  二人は、深沢邸を出た。 「助かりましたよ」  と、橋口が、小声でいった。 「ああいうとき、本当のことは、いえませんねえ」 「あの社長さんも可哀そうね」 「そうですね」 「彼は二度、息子さんを失ってしまったのね。最初の息子さんは、戦争で。そして、今度の息子さんは、殺人事件で」 初出掲載誌『問題小説』  第一話 少女は密室で死んだ 昭和五十二年九月号  第二話 偽装の殺人現場 昭和五十三年一月号  第三話 消えた配偶者 昭和五十三年九月号  第四話 水仙の花言葉は死 昭和五十四年四月号  第五話 几帳面な殺人者 昭和五十四年九月号  第六話 溺 れ た 女 昭和五十五年四月号  第七話 首のない死体 昭和五十五年七月号  第八話 骨 の 証 言 昭和五十五年十月号 単行本『京都殺人地図』  昭和五十五年十月徳間書店刊 底 本 文春文庫 昭和六十三年三月十日刊