[#表紙(表紙.jpg)] きっと君は泣く 山本文緒 [#改ページ]   きっと君は泣く      1  椿《つばき》、という名前は祖母が付けた。  刀で切り落とされたごとく、ぽとりと首を落とすこの花の名前を付けることに、母は反対だったという。けれど、祖母はためらいなく私を椿と命名した。  私は子供のころ、この名前が嫌いだった。古臭く感じたし、何よりこの名前を好いていない母は、ほとんど私を名前で呼んではくれなかったから。  母は今でも私を名前で呼ばない。「あなた」とか「ちょっと」とか、倦怠期《けんたいき》の夫婦のようなぎごちない呼び方をする。  私が自分の名前を好きになったのは、十五歳の冬だった。  その日は誰かのお葬式だった。私は初めて名付け親である祖母に会った。それまでは、変わり者だからと母は私を祖母に会わせなかったし、顔も見たことがない年寄りに、私もそれほど強く会いたいとは思っていなかった。  ただ、興味はあった。母がいやがった名前を強引に付け、親戚《しんせき》たちから変人扱いされている年寄りを見てみたい気持ちはあった。だから、会ったこともない遠い親戚の葬式に、私は雪の中、出掛ける気になったのだ。  今思えば、あれは予感だったのだろう。あの祖母に会ってもいい年齢に、自分が成長したことを感じとっていたのかもしれない。  小さな古ぼけた寺で行なわれた葬式だった。今では誰が死んだのかも忘れてしまったが、喪服を着た祖母の美しさだけは鮮明に覚えている。  刺すような冷気、氷のような寺の床板。その上に祖母は背筋を伸ばして座っていた。まわりの大人たちが指をこすり合わせたり、肩を震わせているその真ん中で、祖母は厳しい目をして前を向いていた。  私は祖母がこれほどまでに美しい人だとは知らなかった。もちろん祖母は年をとっていた。顔には皺《しわ》があり、首筋には弛《たる》みが見える。けれど祖母の美しさは、そんなことで損なわれる種類のものではなかった。ちょっとでも触ったらすぱっと手が切れてしまいそうだ。あれは刃物の美しさだ。  十五の私は、祖母が自分と同じ人間であるとはとても思えなかった。そして私は祖母が皆に嫌われる理由を知った。人に好かれる人間というのは、どこかに隙《すき》を持っている。その隙を無意識に、あるいは故意に人前に晒《さら》すことができるのが好かれる人間だと思う。祖母にはかけらも隙がなかった。  そんな祖母の横顔に、私はずっと見とれていた。退屈なはずの葬式がもっと続けばいいと思った。五つぐらいの子供が寒さと退屈にぐずりだすと、祖母は露骨にいやな顔をした。子供なんか大嫌いだという慈悲のない視線だ。  そのとき、ふいに目が合ってしまった。がっちり合った視線を私はそらせなかったし、祖母はそらそうともしなかった。 「椿、かい?」  読経の最中だというのに、祖母は小声など使わなかった。ちらりとお坊さんが振り返る。私はこっくり頷《うなず》いた。すると祖母は立ち上がり、先ほどのぐずる子供を乱暴に押し退《の》けて、いちばん後ろに座っていた私の所へやって来た。 「お母さん。後にしてください」  私の隣りに座っていた母が、自分の母を慌てて諫《いさ》めたが祖母はまるで相手にしなかった。 「椿、大きくなったね」  母を無視して、祖母は私の隣りに腰を下ろした。祖母の顔に笑顔が広がった。大きく咲いた菊のような迫力のある笑顔。 「はじめまして」  私も笑顔でそう言った。 「はじめてじゃないだろ。あんたに名前を付けたのは、あたしだよ」  流れるお経の中、こちらに背中を向けた親戚たちが全員耳をそばだてているのがよく分かった。まるでわざとやっているように、祖母は大きな声で話す。 「いくつになったの? 高校生かい?」 「中三です」 「へえ、そうか。でもその様子じゃ、もう処女じゃないだろう」  親戚たちの肩が一斉にがくっと傾くのが見えて、私は吹き出しそうになった。 「はい。おかげさまで」  祖母に負けず、私も大きくそう答えた。今度は黒い背中が一斉に振り返る。 「何を言っているの」  母が私の手の甲をピシャリと叩《たた》いた。その向こうに父の表情のない横顔があった。  母は私の手首を乱暴に掴《つか》むと、とにかくこの場から退場しようと、私を廊下のほうへ引っ張った。振り払おうにも、母の力はびっくりするほど強かった。 「やだ。離してよ」 「いいから来なさい」  もみあっている母と私を見上げて、祖母は呑気《のんき》に笑った。そしてこう言ったのだ。 「きれいになったね、椿。あんたはあたしの若いころにそっくりだ」  祖母の黒い喪服の向こうに、激しく降る純白の牡丹雪《ぼたんゆき》が見えた。そのときの風景を、感動を、私は忘れない。  私は、祖母のように美しくなれるのだ。二代目の杯を、私は祖母から受けたように感じた。 「面白いおばあちゃんだね」  私の話を聞いて、雛子《ひなこ》はくすくす笑った。 「でしょう」 「でも椿。本当に中三のとき、もう処女じゃなかったの?」 「おかげさまでね」 「すごい。不良。かっこいい」 「別に不良なんかじゃないわよ。子供ながらもちゃんと恋愛してるつもりだったんだから」 「それにしても、すごい」  雛子があまりすごいすごいと繰り返すので、私は面倒になって話題を戻した。仕事先での休憩時間に、私達は名前の由来について話をしていたのだ。 「雛子は? どうしてそういう名前が付いたの?」 「私は簡単。誕生日が三月三日なの」 「覚えやすいね」 「椿みたいに強烈なエピソードがなくて悔しいな」  雛子はヒールから踵《かかと》を外して、足の親指を揉《も》んだ。私も白いハイヒールを脱いで、ぶらぶらと振りながら言う。 「あと三時間かあ」 「長かったね」 「だいたい、休憩がお昼合わせて四十分だけなんて契約違反もいいとこだわ。絶対文句言ってやる」 「ほーんと」  雛子はストッキングに包まれた足を、ぴんと伸ばした。同じユニフォームから出た四本の足。雛子よりも私のほうが、ほんの少しだけ白くて太い気がする。  私と雛子は、あるオフィス家具会社の展示会にコンパニオンとして派遣されていた。期間は一週間。今日がその最終日だ。  私達は、コンパニオン専門の派遣会社に所属していて、事務所の人が斡旋《あつせん》してくれる催し物にこうして仕事に来るのだ。企業の展示会もあれば、芸能人がやって来るようなパーティもあるし、街角で新製品のキャンペーンもやる。頼まれれば簡単なナレーションや司会もする。  雛子と私は、半年前にこの仕事を通して知り合った。  コンパニオンには珍しいショートカットの雛子は、最初から屈託なく私に話しかけてきた。同性には敬遠されがちな私は、雛子の無邪気さに最初は戸惑った。腹の内が見えない人間など、私には初めてだったのだ。  何度会っても、雛子にはまるで悪気というものが感じられなかった。ボーイッシュなわりにのんびり者で、おっとりしているかと思えばいやなことはいやとはっきり言う。そんな彼女が何か企《たくら》みを持って私に近付いているとは思えなかった。  気を許してしまうと、私達はあっという間に親しくなった。仕事もなるべく同じイベントを選び、週に一度はいっしょに遊びに出掛けるようになったし、先月は温泉旅行にもいっしょに行った。私にとって雛子は、生まれて初めてできた女友達だ。 「そろそろ時間だよ。戻ろう」  空になったジュースの缶を持って雛子が立ち上がる。私も煙草《たばこ》をもみ消し、仕方なく立ち上がった。  私達は休憩室を出て、朱色の絨毯《じゆうたん》が敷きつめてある廊下に出た。 「終わったら打ち上げる?」  会場の前まで歩いて来ると、雛子がそう聞いてきた。 「あ、ごめん。今日は約束があるの」 「なあんだ、デート?」 「ううん。グンゼと待合わせ」 「じゃあ、デートじゃない」  からかうように笑うと、雛子は先に会場へ入って行った。私も大きく開かれた白い扉の中へ足を踏み入れる。  見上げる天井には巨大なシャンデリア。その下にうごめく大勢の人間。甲高いナレーション、笑い声、汗とコーヒーの匂《にお》い。  その中へ私は入って行った。背広の海を滑るように進んで行く。目が合った人間には大袈裟《おおげさ》なぐらい微笑《ほほえ》みかけた。  私の持ち場は、役員室のモデルルームだ。床より一段高くなっているそのスペースに私は上がった。革張りのソファの傍らに立ち、お客様を迎える。最終日のせいかずいぶん客足は落ちたが、それでもまだ気は抜けない。  都内某高級ホテルのバンケットを使ったその展示会には、想像以上に大勢の人間がやって来た。私が受け持った所は、商品の性質上かなり年配で地位のある人もやって来る。そういう方にお茶を出したり、社員に頼まれてパンフレットを取りに行ったり、ときにはお客様の煙草まで買いに行く。要するに雑用をやっているのだが、いかに感じよくテキパキとできるかで、ちゃんとお給料が違ってくるのだ。  ただニコニコしているだけで人の倍の時給を貰《もら》えるなんて女は得だねと、どこかの親父《おやじ》に言われたことがある。確かに人の目にはそう見えるだろう。事実、時給は高校時代ウェイトレスのバイトをしていたときの三倍だし、手を抜こうと思ったら、本当にただ笑顔を張り付けて突っ立っているだけでお金は貰える。  けれど、そのただ突っ立っている状態だけでも、七センチのハイヒールを履かされ、一日九時間、一週間連続となったら楽だねとは言えないだろう。いいお客様だけではないし、雇う側の社員だっていい人だけとは限らない。  男の人の中には、私達のような�きれいどころ�には、いくらでも気軽に触っていいものと思っている人間がとても多い。私の場合、肩も背中もお尻《しり》も、もう触られ慣れて何ともないのだが、さすがに初対面の人間からいきなり胸に触られることがあるとびっくりする。それでも別にきゃあきゃあ騒いだりはしない。お客様、わたくしは展示物ではございませんのでと微笑めば、どうかすると五千円札をぺらりとくれたりする変な親父もいる。  肉体的にも精神的にも端《はた》で見るよりずっとハードな仕事だ。それでも私は、この仕事が嫌いではなかった。 「桐島《きりしま》さん」  呼ばれて私は振り返った。同じスペースを担当している女の子が、おずおずと私を見ている。 「はい。何でしょう」 「あちらのお客様が、あの……」  彼女が視線で示した先に、あまり柄のよくないふたり連れの男が、こんな椅子《いす》が三百万円もするなんて考えられないと大声で話していた。年は二十代後半というところだろうか。ふたりとも縦縞《たてじま》の入ったダブルのスーツを着て、宝石の付いた腕時計をしていた。 「……橋本《はしもと》さん呼べば?」  私は小声で社員の名前を言った。 「それが、休憩しに行っちゃっていないんですよ」  内心舌打ちをして、私はそいつらに近付いて行った。 「いらっしゃいませ。こちらのソファ、お気に召していただきましたか?」  私が微笑むと、彼らはきょとんと目を丸くした。それから慌てたように口を開く。こんなひどい革を使って三百万も取るなど詐欺同然だとひとりがわめく。もうひとりは意地悪そうに私を眺めていた。  どんなイベントにも、必ずこういう難癖をつける客がいる。私はそのふたりに上客にしか出さない陶器のコーヒーカップ(普通のお客には紙コップを出す)を出し、購入する意思のありそうなお客にだけ渡す分厚いパンフレットを渡し、そのひどい革のソファに腰掛けて一時間も話をした。商品の説明などではない。ただの適当な世間話だ。彼らは家具の輸入業者だと言った。自分たちの商売がどれほど才覚が必要で、どれほど儲《もう》かっているかをさんざん自慢していた。私が大袈裟に感心してみせると、彼らは満足して帰って行った。要するに構ってほしかっただけなのだ。いい大人が馬鹿じゃなかろうかと思いながら、私は彼らの背中を笑顔で見送った。 「あの、桐島さん。すみませんでした」  先ほどの彼女が寄って来てそう言った。私は彼女の顔を冷たく一瞥《いちべつ》すると、無言で顔をそらす。彼女がむっとするのが手に取るように分かった。  彼女の年は十九歳だそうだ。肌も髪もつやつや光り、顔の真ん中にある上を向いた鼻でさえキュートに見える年齢だ。私とは別の会社から派遣されて来ているらしい。こういう仕事は初めてなのでいろいろ教えてくださいと、初対面のとき彼女は愛想よく頭を下げた。  ——ババアが威張ってしようがないんだよ。ちょっと美人だと思って。  その舌の根も乾かないうちに、彼女が洗面所で仲間に言っていた言葉だ。  私は驚かなかった。私も十九のときは二十三の女をババアだと思っていたし、そういう言葉遣いもした覚えがある。  同性とはとかくそういうものだということを、私は本当によく知っていた。子供のころは、そういう同性たちと仲よくやっていくために、思ってもいない優しい言葉をかけたりしていた。椿ちゃんは可愛《かわい》くてうらやましいなどと言われると、私なんか成績も運動神経も悪いのよと卑下してバランスを取っていた。  けれど、そんなことはやめてしまった。美人を鼻にかけていると言われても、威張ったババアと言われても、私は同性に媚《こ》びたりするのはやめたのだ。  だから彼女の反応に私は驚かないし、怒りもしない。ただ、そんなことを言われてまで優しくしてやる義理はないので、この一週間、私は彼女を無視し続けた。  彼女がスケベ親父にお尻《しり》を触られても、言葉遣いが悪いと社員に叱《しか》られても、大事なお客の膝《ひざ》に熱いコーヒーを倒しても、私は慰めの言葉をかけたりはしなかった。  つんと向こうを向いた彼女の横顔を、私はちらりと見た。自分からこういう仕事に入ってきただけあって、彼女も美人の部類に入るだろう。彼女に限らず、この会場にコンパニオンとして働いている女性全員が�美人�なのだ。  小さいころから可愛い可愛いとチヤホヤされ、きれいと言われることに照れたことがなく、明るい未来が約束されていると信じてきた美人たち。  今はどの子も若くて同じようにきれいだけれど、本当の勝負はまだこれからなのだ。  私は自分の容姿を、才能だと思っている。能力だと信じている。  私は早く走れない。私はテストで百点を取ったことがない。私はいい人ねと言われたことがない。  私の能力は、きれいだということだけなのだ。強いてそれに加えるならば、営業用の愛想笑いぐらいなものだ。  私は年をとるのが恐くない。私は自分の傲慢《ごうまん》さが恐くない。私には祖母がいる。肌の張りが失われてくるにつれて、私はあの威厳と張りつめた美を手に入れることができるのだ。そこで不貞腐《ふてくさ》れている団子っ鼻の女も、あと二十年もすればただのおばさんになっているだろう。私は決して、死ぬまでただのババアなんかにはならないのだ。 「あのう、すみません」  か細い男の声がして顔を上げると、くたびれたトレーナーに古い形のジーンズを穿《は》いた若い男が立っていた。 「写真、いいでしょうか」  首から下げた望遠レンズ付きのカメラは、本人と反比例して最新型のようだ。モーターショーなどのとき、車ではなくハイレグ水着の足の付け根ばかり撮っていくカメラ小僧がこういうタイプだ。家具の展示会なんかには珍しいが、たまにこうやってまぎれ込んで来ることもある。 「はい、喜んで」  断わる理由もないので、にっこり笑ってポーズを決めたとき、そいつはこんなことを言い出した。 「あの、違うんです。あなたじゃなくて、そちらの若い方といっしょに写りたいんですけど、シャッター押していただけますか?」  うつむいて背中を向けていた彼女が、ゆっくりこちらを振り向いた。  彼女の顔に、悪魔の笑みが広がった。  そのホテルのティールームで、群贅《ぐんぜい》は雑誌をめくりながら私を待っていた。 「今日も今日とて、ご機嫌斜めなようで」  私の顔を見たとたん、彼は芝居がかった口調で言った。私は無言でどさりと座る。 「今日で仕事終わりなんだろう? もっと嬉《うれ》しそうな顔したら?」 「ああ、嬉しい」 「椿なあ。俺《おれ》だからいいけど、他の男といるときはそういうぶすったれた顔すんなよ。女は一に笑顔、二に笑顔。ここぞというときポロリと涙が鉄則だぜ」 「あんたは女衒《ぜげん》か」  群贅の言い方に私はくすりと笑った。満足したように彼も笑う。 「で、雛子ちゃんは?」 「で、って何よ。あなたは私を迎えに来たんでしょう?」 「ああ、そうだった。今日は椿とデートだっけ?」 「デートじゃないの。買い物なの」  にやにや笑う群贅を、私は睨《にら》んだ。今日の彼はグレーのセーターに濃紺のスラックスというシンプルな恰好《かつこう》だ。けれど、どちらもその辺で売っているものとは一|桁《けた》値段が違った。  髪も爪《つめ》も短く切り揃《そろ》えられ、歯も白くてぴかぴかだ。耳にピアスもないし、厭味《いやみ》な高級腕時計もしていない。仕事だって立派な公務員だ。  そんな彼が女衒……ではないが、それと同じぐらいの罪は犯している。彼は見た目どおりの人間ではない。いや、ある意味では見た目どおりなのだ。  たとえば今の服装のまま職場の市役所へ行けば、清潔感のある真面目《まじめ》な青年で通るし、このままディスコへ行けば、金髪も茶髪もきゃあきゃあ言って寄って来る。彼はその場その場でフェロモンを出したり引っ込めたりできる器用な男なのだ。 「買い物って何? またどっかの親父にプレゼントかよ」 「えへへえ」  思わず顔が緩んでしまうと、群贅は鼻で笑った。 「椿がそんなに貢ぐタイプだとはな」 「貢いじゃないわよ。愛情表現」 「愛情が聞いて呆《あき》れるよ。海老《えび》で鯨釣ろうって女が」 「あなたに言われたくないわ。とにかく行きましょう。待ってるから車回して来てね」  私はテーブルの上の伝票を掴《つか》んで、彼の胸ポケットに押し込む。コートを持ってさっさと歩き出すと、後ろで彼が「何様だてめえは」とぶつぶつ言うのが聞こえた。  広いロビーを斜めに突っ切り、私は正面玄関に向かう。  ちょうど車寄せが見える位置にソファがあったので、私はそこに腰掛けた。目の前のガラスに自分の顔が映る。前髪を掻《か》き上げ、胸元のリボンをきれいに結び直す。化粧と服の具合を点検しながら、私は彼に贈るプレゼントのことを考えた。  今の恋人は一回り年上の妻帯者だ。レストランや小物の店を経営していて結構羽振りがいい。彼とは一年ほど前仕事で行ったパーティで知り合った。薬指に指輪があるのは最初からチェックしていたけれど、そうやって堂々と結婚指輪をしている人のほうが私は好きだった。  彼はいわゆるハンサムではない。私にとって男の人は顔ではないのだ。そりゃルックスがいいにこしたことはない。お金だってないよりあったほうがいい。  それよりも何よりも、私に興味をもって私を好きになってくれる人がいい。妻がいようと子供がいようと、頭をよしよしと撫《な》でてくれて、可愛いねきれいだね一番好きだよと言ってくれる人がいい。  来週の週末は、彼の誕生日なのだ。奥さんが留守とかで、彼のマンションに招待されている。プレゼントの他にシャンペンやオードブルも買って行こうか。そうウキウキ考えていると、群贅のポルシェが乱暴に車寄せに入って来るのが見えた。 「大変よくお似合いで」  ハウスマヌカンの男版はいったい何と言うのだろう。ハウスマヌカン・オム? まあとにかく、自分のところの服をばしっと着込んだ若い店員が、着替えた群贅を見てそう言った。 「そう? 似合う?」  まだ二十歳そこそこに見えるマヌカン・オムに群贅は目配せする。 「あなたのじゃないんだから、似合ってもしようがないの」  腕組みをして冷たく言うと、彼はつまらなそうに肩をすくめた。 「プレゼントでございますか?」  聞かれて私は頷《うなず》いた。 「この人じゃなくて別の人にね。これでいいわ。包んでください」  私の彼氏と群贅は、背丈がちょうど同じぐらいなのだ。スラックスとワイシャツのサイズも調べてみたらいっしょだった。だから群贅に着てもらって、彼へのプレゼントを選んだというわけだ。 「はい、ありがとうございます。お支払いのほうは?」 「キャッシュで」  ブランド物のシャツとパンツ、そしてジャケットで締めて十八万五千円。一万円札を十九枚財布から取り出すと、私はそれを手渡した。  試着室から元の服に着替えて出て来ると、群贅はからかうように言った。 「着るもんはまずいんじゃないの? そいつ妻子持ちだろ?」 「いいの。放っといてよ。グンゼが心配するようなことじゃないわ」  そこでさっきの店員が、ショップの大きな紙袋をふたつ持って戻って来た。黙っていても群贅が受け取る。ありがとうございましたとマヌカン・オムの声が背中に響く。群贅が振り返ってその子に手を振った。 「あなた両刀なの?」 「え?」 「男の子にまで色目使って」 「ああ、可愛《かわい》い子はみーんな好きさ」 「気持ち悪い。変な病気移さないでね」  デパートの通路をすたすた歩き出すと、群贅が後を追い掛けて来る。 「まあ待てよ」 「帰りましょう」 「冷たいなあ」  私はくるりと振り返って、彼を睨《にら》みつけた。 「あなたに冷たいなんて言われたら終わりだわ」  群贅はにっこり笑って、私の肩を抱き寄せた。そして耳元で甘く囁《ささや》く。 「変な病気、移してあげるよ」  ポルシェで乗り付けたそのホテルで、私は裸のままぼうっと天井を見上げていた。ホテルといっても休憩二時間四千円のほうのホテルだ。  私の横で群贅は、缶ビールを飲みながらテレビで競馬中継のダイジェスト版を見ていた。その背中を見ながら私は呟《つぶや》いた。 「私、セックスって好きじゃないなあ」 「さんざんした後で何を言うか」  私はむっくり起き上がると、群贅と並んでテレビの画面を見つめた。やっとこちらを見た彼は、私に飲みかけのビールを手渡した。 「倦怠期《けんたいき》の夫婦みたいね、私達」 「十年も寝てりゃあ、倦怠期もいいとこだよ」  そうなのだ。中三のときの初体験の相手は、この男なのだ。一年先輩の彼は、ファーストキスと同時に初体験まで一気にくれた。私はそのとき、学校中の女の子が憧《あこが》れている先輩に選ばれたのだと舞い上がっていて、彼がどういう男だか考えもしなかった。  群贅が、可愛い子になら誰にでも手を出す男だと気が付いたのは案外早かった。冗談じゃないとすぐこちらから手を切ったけれど、一年もたたないうちに私は群贅と縒《よ》りを戻すことになった。  自他ともに認めることだけれど、私には女友達ができにくい。少女漫画のようにハートを目に浮かべて片思いを語るクラスメート達に、私は馴染《なじ》むことができなかった。好きな男がいるならば、なぜそんなにグズグズしているのか私には分からなかった。そしてなぜいつも大勢で固まっては、出し抜く奴《やつ》がいないかと牽制《けんせい》し合っているのかが分からなかった。  かと言って、私だって当時はまだまだ子供だったから、新しい恋人とのうまくいかないセックスや、来ない生理のことを相談する相手が欲しかった。祖母はガキの相談は受け付けてはくれなかったから、必然的にそういう悩みは以前馴染みのあった男に持ち込まれることになる。  考えてみれば、相談だけなら寝る必要はないのだけれど、つい群贅に誘われると私はいやとは言えなくなってしまう。つまり、いやではないのだ。たかがセックスをするだけなのだから、断わるほうが面倒くさい。  そんな風にして、十年近くたってしまった。今ではもう群贅はセックスフレンドとさえ呼べないような気がする。友人でもなく恋人でもなく、かと言ってセックスだけのつながりでもない。他人でもない、肉親でもない。かけがえのない存在でもない。 「ねえ、グンゼ」 「ちょっと待て」  彼は掌《てのひら》で私を制して、テレビに見入っている。画面では競走馬がゴールを駆け抜けるところだった。大きなレースらしく、競馬場はものすごい人の山だ。 「あー、やられた。やっぱり本命かよ」 「また穴|狙《ねら》い?」 「本命なんかちまちま買ってどうする」  群贅はどさっとベッドに背中から倒れてそう言った。でも私は知っている。いつでも彼はちゃんと本命の馬券も買っていて、勝たなくても負けないようにしていることを。 「ねえ、グンゼ」 「はいはい。何ですか」 「グンゼもさあ、若い子のほうが好き?」 「若きゃいいってもんじゃない。今二着になった馬なんか六歳だぞ」 「茶化すんなら、もういい」  顔を背けると、壁一面に張られた鏡に自分の姿が映っているのが見えた。ただまっすぐなだけの長い髪。ちょっと吊《つ》り気味の両目、閉じるとにっこり笑っているように見える唇。  毎日毎日、繰り返し鏡で確認しているその顔。上品か下品かと聞かれたら、正直言って上品ではないと思う。顔のパーツがどれも大振りだし、よく見るとそばかすもある。髪も中学生のとき、上級生や先生に染めてるんじゃないと苛《いじ》められたほど茶色い。  それでも私は誰よりもきれいなはずだ。そういう呪文《じゆもん》をかけたのだから。椿は世界で一番きれいだと。  なのに、どうしてだろう。なぜこんな思いをしないとならないのだろう。 「どうした? 自分の顔がそんなに面白いか?」  じっと鏡を見ている私に、群贅が呆《あき》れたような調子で言った。私が答えないでいると、ベッドが揺れて彼が近寄って来た。 「椿は可愛いよ。俺が知ってる女の中で一番きれいだ」  後ろから私を抱いて、急に優しい声を出す。 「……嘘《うそ》言わないで」 「嘘じゃない」  肩先に唇を付けた群贅が言う。私はそれでやっと少し自信を取り戻す。 「お前の彼氏は幸せもんだな。こんなきれいな女を独占できて」 「そうでしょうとも」  冗談めかして言うと、群贅はふふんと鼻で笑った。 「あんな男に、椿はもったいない」 「失礼ねえ」 「あんな奴《やつ》には、モグラかアザラシでもあてがっておけばいいんだ」  群贅は私に新しい恋人ができると、必ずどんな男か見に来るのだ。彼が合格点を出した男はひとりもいない。  彼は私のからだをベッドに倒すと、また胸を探り始めた。 「椿はどうして、男の趣味が悪いのかなあ」  私の乳首を口に含みながら、群贅はまだそんなことを言っていた。  群贅に送ってもらう途中、私は家の合鍵《あいかぎ》を忘れて来たことに気が付いた。  時計を見るともう十二時近い。母は寝てしまった時間だ。チャイムを鳴らせば起きて鍵を開けてくれるだろうが、仏頂面の母と顔を合わすのは気分が悪い。私は祖母の家へ送ってもらうことにした。  うちのマンションと祖母の家は、駅ふたつ分ほど離れている。初めて祖母に会ったあのときから、私は母が止めるのも聞かず、しょっちゅう祖母の家に遊びに行った。本当なら、自分の家なんか出て祖母といっしょに暮らしたかったのだが、それは祖母が撥《は》ねつけた。ひとりで気楽に暮らしてるのを邪魔されたくないと。その言葉が私の母に気を使って言ったことなのか、本心なのかは未だに分からない。  祖母の家は、古い平屋の日本家屋だ。焦げ茶色の壁板と指紋ひとつ付いていない磨かれた縁側の窓。庭木も玄関の格子戸も、年季は入っているがよく手入れされたものだ。私は踏み石をたどって庭に回った。十月末の夜風は驚くほど冷たい。 「おばあちゃん? おばあちゃん、いないの?」  気難しい祖母は、機嫌が悪いと相手が私でも居留守を使うので、私はガシャガシャと大きな音をたてて縁側の戸を叩《たた》いた。すると廊下の向こうの真っ白な障子がすっと横に開いた。 「うるさい子だね。野良猫だってもう少し静かに入って来るよ」  祖母はそう言いながら、硝子《ガラス》戸の鍵を外してくれた。私はパンプスを脱いで縁側から廊下に上がる。 「寝てた?」 「そろそろ寝ようかと思ってたとこ」 「じゃあ起きてたんじゃない」  祖母は私が前にプレゼントした絹のパジャマを着込み、その上にカーディガンを羽織っていた。簡単にまとめた髪が、よく見るとあちこちほつれている。私は改めて祖母の顔を見て、あれ? と首を傾《かし》げた。目の縁が赤く、顔色がいつもよりくすんで見える。 「おばあちゃん、寝てた?」 「まだ寝てないって言っただろう。その年でぼけちまったのかい?」 「でも何か元気ないみたい。どっか具合悪いの?」 「具合なんかどっこも悪くないよ」  不機嫌そうに言うと、祖母はさっさと廊下から部屋の中へ入って行った。私は気のせいかなと思いながら後に続いた。  祖母の家は六畳の和室が三つと、小さな台所というシンプルな作りの平屋だ。三つの部屋のひとつをお華の教室に使い、あとのふたつを居間と寝室に使っている。  この家は、祖母が若いころ愛人が建ててくれたという。ということは築何十年になるのだろう。そんな家に年寄りがひとりで住んでいても、あまりみじめな感じがしないのは、手入れのよさと祖母が現役でお華の先生を続けているからだろうか。 「紅茶でも入れておくれ。なんだい、お茶菓子も持って来なかったのかい? ここはあんたの家じゃないんだからね。手ぶらで来るんじゃないよ」  祖母はソファに腰を下ろすと、カシミアの膝掛《ひざか》けを拾いながら文句を言った。  はいはいと適当に返事をして、私は台所にお茶を入れに行く。おいしく入れないと祖母は本気で怒るので、私はお湯の温度に気を付け、祖母のお気に入りのカップにお茶を注いだ。  お茶を持って部屋に戻ると、祖母は戸棚からお菓子の缶を出しているところだった。 「食べるだろ?」 「私、ダイエットしてるのよ」 「ああ、そうかい。ご苦労なこってね」  祖母は意地悪く笑って、頂き物らしいリーフパイの袋を開けた。バターと砂糖の匂《にお》いが鼻をくすぐる。 「やっぱり食べようかな」 「デブになってもいいのかい?」 「よくないんだけど」 「じゃあ一枚お食べ。二枚目に手ぇ出したらあたしが叩《たた》いてあげるから」  私は祖母の気が変わらないうちに、急いでパイに手を出した。さくさく齧《かじ》ると幸せの甘い味がする。 「椿は太る体質なんだから、気を付けなきゃいけないよ」 「おばあちゃんはいいなあ。いくら食べても太らなくて」 「まあね。若いころは得した気分だったけど」  けど、の後の沈黙がちょっと重かった。今の祖母は少し痩《や》せすぎている。年をとったらある程度お肉が付いているほうが若く見えることを、祖母も承知しているのだろう。  それでも祖母はきれいだった。七十五歳には見えない。今は化粧をしていないけれど、唇に紅をさしただけで祖母はびっくりするほど色っぽくなる。  祖母は普段着物を着ない。糊《のり》の利いたキャラコのシャツや、淡い色のフレアースカートを穿《は》いている。部屋も洋風に飾るのが好きで、アンティークのテーブルや飾り棚が置いてある。混じり気のない銀髪の祖母がそういう恰好《かつこう》で座っていると、まるでヨーロッパの貴族のように見えた。  お華の先生である祖母は、教室のあるときだけ着物を着る。言うまでもなく、和服姿の祖母は高級料亭の女将《おかみ》か、大物政治家の愛人のようだった。  譬《たと》えではなく、祖母は本当に一生を妾《めかけ》の身で過ごしてきたそうだ。いったいどういう男の人の愛人だったのか、私は知りたくてしようがないのだが、なぜかそのことについて祖母は語りたがらなかったし、母の口も祖母以上に重かった。 「さっき家の前で車の音がしたけど」  紅茶|茶碗《ぢやわん》を置くと、祖母は横目で私を見た。聞いていないようで、何にでも耳をそばだてているのだ、このばあさんは。元気がないと思ったのはやはり気のせいか。 「送ってもらったのよ」 「男にかい?」  男の人、という意味ではない。お前の男かという質問だ。 「違うわ、グンゼよ」  私は正直に答えた。 「まだ、あんな男と付き合ってるのかい、椿は」 「付き合ってたのは中学生のときよ。それからはただの友達」 「何言ってんだ。男と女がお友達なんかになれるかい」  馬鹿にしたような口調で祖母は言う。私は返す言葉がなかった。  今では自分の恋人を祖母に見せたりはしないけれど、十代のころは彼氏をよく祖母に会わせたりした。私としては、自慢の彼氏と自慢の祖母だ。会わせたくなって当然だった。でも祖母のお眼鏡にかなう男はひとりもいなかった。特に祖母は群贅が嫌いだった。というより、すっぱり群贅と手が切れない私に苛立《いらだ》っているようだ。 「まともな結婚がしたいんなら、ああいう女たらしとはもう手を切るんだよ」  祖母の言葉に、私は唇を尖《とが》らせる。 「まともな結婚って何よ」 「口答えする気かい」 「おばあちゃんだって、まともな結婚しなかったじゃない。私にそんなこと言うなんて変よ」 「だから言ってるんだよ。お前みたいな何にもできない人間は、ひとりじゃ生きていけないんだ。地味でもちゃんとした家庭を持ったほうがいいんだよ」 「はいはい。分かったわよ」  説教のわりには、言葉に力が入っていなかった。まるで独りごとのように祖母は呟《つぶや》く。私が生返事をしながらパイへ手を伸ばすと、ピシャリと手の甲を叩かれた。祖母は缶の蓋《ふた》を無言で閉めると、立ち上がってそれを戸棚の上に載せた。 「おお、冷えること」  手をすり合わせて、祖母は座り直す。 「そろそろストーブ出せば?」 「そうしようかね。椿、明日は暇かい?」 「うん。手伝ってあげる」  祖母は私の答えに微笑《ほほえ》むと、真鍮《しんちゆう》のシガレットケースから煙草《たばこ》を取り出した。日本語の名前が付いたその煙草に、祖母はマッチで火を点《つ》けた。  私は祖母が煙草の煙を天井に吹き出す様をそっと横目で見ていた。死ぬほど恰好《かつこう》がよかった。私は祖母の前では煙草を吸わない。怒られるからでもいい子ぶってるわけでもない。祖母に比べたら私など、不良がトイレでくわえる煙草程度にしか見えないことが分かっているからだ。  しばらく私も祖母も黙ったままお茶を飲んでいた。頭の上の電灯がいくら部屋を明るく照らしても、祖母のいる部屋はどこかしんと沈んでいる。そういう静かな祖母の傍らは、とても居心地がよかった。普段の私はだらだらとテレビを見たりもするし、音楽は大きい音でガンガン聞く。けれど、この家にいるときに限っては何もそういうものが必要ではなかった。 「何を落ち込んでるんだい?」  ふいに聞かれて、私は顔を上げた。 「……分かる?」 「当たり前だろう。機嫌のいいときのあんたは、人が聞いてようが聞いていまいがきゃんきゃん喋《しやべ》ってるじゃないか」 「まあね」  親指の爪《つめ》を噛《か》もうとすると、また祖母の手が私を叩《たた》いた。私は黙って手を膝《ひざ》へ下ろす。 「もうすぐ私、二十四なのよね」 「何だ。そんなことかい」 「そりゃ、おばあちゃんに比べればまだヒヨコだわよ。でもね、聞いてよ。今日バイト先でさ、どっかの童貞丸出しのカメラ小僧が、私に写真いいですかって聞くのよ」 「いいじゃないかい」 「そうよ、いいわよ。写真撮られるの好きだもん。そうじゃなくてそいつ、あっちの若い子と撮りたいからシャッター押してくれって言うのよ」  私の剣幕をよそに、祖母はふうんと軽く流した。 「その子なんか、こーんな上向いた鼻でさあ。髪の長さで七難隠してるタイプよ。ああ、どうして男ってブスでも若いほうがいいわけ?」 「あんたの鼻だってあぐらかいてるし、髪型で下膨れの顔を隠してるじゃないか」  祖母の非情な台詞《せりふ》に、私は唇を噛んだ。言ったのが祖母でなかったら許さなかっただろう。 「返す言葉がないようだね」  くすくす笑って、祖母は煙草をもみ消した。 「ひどーい。おばあちゃん」 「そう思うのは本当のことだからだろ。本当のことを言われて怒るようじゃ、まだ椿も子供だよ」  何も言い返せなくて、私はそっぽを向いた。すると祖母は私の頭にそっと手を伸ばす。 「椿は美人だよ」  さっきホテルで群贅に言われた台詞と重なる。子供をあやすようなその口調。 「……よく言うわ」 「鼻が上を向いてても、少々脂肪がついてても、あんたは誰よりも美人だよ。あたしの若いときにそっくりだ」  私は上目遣いで祖母を見る。 「いいかい、椿。美人なんていうのは、雰囲気なんだよ。ハッタリなんだよ。いくら形が整ってたって貧乏臭かったり卑しかったりしたら何にもならないんだ。あんたのその僻《ひが》み根性はどう見ても卑しいよ。心の卑しさはちゃんと顔に現われるんだ」 「……うん」  しおらしく返事をすると、祖母も満足気に頷《うなず》いた。私が今日のことを愚痴ったら、祖母が何と言うか私には分かっていた。分かっていて言ったのだ。繰り返し繰り返し何度も聞かされた祖母の�美人論�をまた改めて聞けば元気が出ると思っていたのだ。けれど、憂鬱《ゆううつ》な気持ちは思ったよりも晴れなかった。世界中の人間に椿は美人だと言われても、きっとこの重い気持ちは救われないような気がした。 「おお、寒い。そろそろストーブを出すかねえ」  祖母の独りごとに、私は軽く吹き出した。 「だから明日出そうってことにしたでしょ。しっかりしてよ」 「え?」  祖母が不思議そうに私を見た。それから「ああ」と息を吐く。 「そうだったね。どうも最近物忘れがねえ……」  睫毛《まつげ》を伏せる祖母を、私はちょっと緊張して見つめた。確かに祖母は元気がない。気のせいじゃなかった。そんな弱気なことを言う祖母は見たことがなかった。 「ねえ、泊まっていっていいでしょ?」  わざと甘えるようにして、私は祖母を覗《のぞ》き込む。祖母は何か言いたげにこちらを見た。 「何?」 「いや……」 「変なの。何よ」 「家には電話したのかい?」 「えー? するわけないじゃん」  私は思わず大きな声を出した。祖母の家に限らず、外泊するとき家に連絡をするなんて高校を出てからぴったり止めた。いちいちそんなことをしていたら、面倒でしようがない。祖母もそんなことはよく知っているはずだ。 「たまには電話しときな。心配してるかもしれないだろう」 「おばあちゃん、どうしたの? ぼけちゃったのー?」  私は祖母の肩に手を乗せ、ふざけて肩を揺すぶった。 「ああ、いや。この前あんたのお父さんに会ってね」 「へええ。どこで?」 「偶然駅でね。そしたら、どうも具合が悪そうだったから。お父さんはどうだい? 最近は元気にしてるかい?」  私は驚いて目を瞠った。偶然駅で、なんてあからさまな嘘《うそ》をついたうえに、あんなに折り合いの悪かった私の父を心配するなんて。 「最近会ってないから知らないけど」 「そう」 「明日帰ったら、お母さんに聞いてみる」 「ん」  そっけなさを装って、祖母は横を向いた。何かあったのは確かだが、祖母を問い質《ただ》しても本当のことが聞けるとは思えなかった。母に聞いてもそれは同じだろう。  けれど、私はそれほど真剣に探りを入れようとは思っていなかった。祖母のことは大好きだけれど、祖母と私の両親の間にあるいざこざには興味がなかった。私には関係のないことだし、関係になりたいとは爪《つめ》の先ほども思っていなかった。 「さて、そろそろ寝るかね」  欠伸《あくび》をひとつすると、祖母はだるそうに立ち上がる。 「まだお湯も冷めてないだろう。風呂《ふろ》に入るかい、椿」 「あ、いいわ。シャワー浴びてきたから」  言ってしまってから、はっとした。祖母が私を黙って見下ろしている。 「……怒った?」  恐る恐る聞く私に、祖母は口の端だけで笑って言った。 「あたしの孫だもの。仕方ないやね」  その次の週末、父が運転する車が事故を起こした。  助手席には、祖母が乗っていた。 [#改ページ]      2  父と祖母が乗った車が急カーブでハンドルを切り損ね、ガードレールに衝突したと警察から連絡があったのは、土曜日の午前中だった。  私はまだベッドの中でぬくぬくと眠っていて、母の慌てた声に起こされた。夜明け前まで遊んでいてまだ寝足りない私は、母の言葉を理解するのに少し時間がかかった。 「何をぼんやりしてるの。お父さんとおばあちゃんが交通事故にあったのよ。早く支度しなさい。病院へ行くわよ」 「おばあちゃんが?」  寝ぼけた頭がやっと回り始める。私はベッドから飛び起きた。 「どうしてお父さんといっしょになんか事故にあうのよ。それより容体は? おばあちゃんはどうなのよっ」  早足でドアから出て行く母を私は追い掛ける。 「ふたりとも無事だって。大した怪我《けが》じゃないそうよ」  母は振り返らず淡々と言った。私は力が抜けてその場にへたりこむ。 「先に行ってるわよ。あなたはどうせ、着替えたりお化粧したりで時間がかかるんでしょう」  母はてきぱきと何やらバッグに詰め込むと、病院の名前を言い残して玄関から出て行った。 「わ、私も行かなきゃ」  そう言って立ち上がったものの、頭の回路はまだちゃんと回らず、私は呆然《ぼうぜん》とリビングの真ん中につっ立ったままだった。  おばあちゃんが事故にあったのだ。無事だと聞いても、とにかく顔を見に行かなくては。出掛けるにはまず、シャワーを浴びてこのくしゃくしゃの髪をブローして、顔を洗って化粧をして、ええと、何を着て行こう。そういえば、今日は彼のマンションへ招待されてるんだった。いや、そんなことを言ってる場合じゃない。早く病院へ行かなくては。  私はやっとするべきことを把握して、パジャマを脱ぎ捨てながら急いで部屋に戻った。病院になんか何を着て行ったらいいか分からなかったので、とにかくジーンズを穿《は》き、家でしか着ない綿のポロシャツをかぶった。鏡を見てざっと髪を梳《と》かし、日焼け止めクリームだけ大急ぎで顔に塗った。  母から聞いたその病院は、子供のころ、扁桃腺《へんとうせん》を腫《は》らしたときにかかったことがある。ここから車で十五分というところだろうか。  お財布だけ掴《つか》んで、私は急いで家を出た。エレベーターを待つのももどかしくて、五階から地下の駐車場まで階段を駆け下りた。  駐車場への鉄の扉を開けて、私は足を止めた。うちが借りているふたつの駐車スペースは、どちらもぽっかり空いている。片方は父が乗って行って事故を起こし、もう片方は今母が病院へ乗って行ったのだ。  悪態をついて私は地上へ上がるスロープを上った。十一月の明るい日差しが寝不足の両目を射抜く。私は駅までの道を懸命に走った。すっぴんで外に出ることも、全速力で走ることも、何年ぶりか分からなかった。 「何だい、椿。わざわざ来ることなかったのに」  祖母は病院のベッドの上に半身を起こし、つまらなそうな表情でそう言った。首にぐるっと白いギプスが巻かれている。 「鞭打《むちう》ち?」  勢い込んで聞くと、祖母は不機嫌そうに目だけで頷《うなず》いた。 「大したことない。すぐ取れるってさ」 「本当に?」 「ああ」  祖母は思ったよりもずっと元気そうだった。心底心配して駆けつけたので、私は思わず責めるような口調になる。 「もう、おばあちゃんたら。心配させて」 「あたしが悪いんじゃないよ。まったくこの年になって、こんな目にあうとは思わなかった。あんたの父親は、あたしに生命保険でもかけてんじゃないかい」  私は少し考えて頷いた。 「それは、あるかもね」 「そんなに死んでほしけりゃ、窓から飛び下りてやるよ。もう生きてたって楽しいこと何にもないんだから」 「死ぬなら、あの家私にちょうだいね」 「冗談じゃない。だったら、死ぬ前に火ぃ点《つ》けて燃やしてからにするよ」  私と祖母がそこで笑い出すと、遮るように後ろから母の声がした。 「個室じゃないんだから、ふたりとも静かにしてくださいよ」  抑揚のないその声に、私と祖母は白けて天井を見上げた。  母は売店で買って来たらしい新聞と雑誌をベッド脇《わき》の棚に置くと、無表情に祖母を見下ろした。 「浴衣と洗面道具の他に何か持って来てほしい物ありますか?」 「別にいいよ。必要な物があったら椿に頼むから」 「じゃあ、ちょっと行って来ます」  実の親子だというのに、ふたりはいつも他人行儀な話し方をする。祖母と母は、まったくと言っていいほど顔が似ていないので、本当は血が繋《つな》がってないんじゃないかと私は長いこと思っていた。以前、祖母にそう聞くと、あれは確かにお腹を痛めて産んだ子だと教えてくれた。誰に似たんだかと、祖母は苦笑いを浮かべていた。  母のやぼったい背中が病室の外へ出て行くのを、私は黙って見送った。半端なパーマのかかった髪に、どこで買ってくるのか、わざとそうしているような安っぽい洋服。丸めた肩に化粧っ気のない唇。  とにかく華がなかった。色気やら媚《こび》やら、それによって得られるすべての楽しいことをとっくに母は放棄してしまっていた。いや、もしかしたら、母は自分の母親を見て、そういうものを深く憎んだのかもしれない。私が母を見て思ったように、ああはなるまいと思って育ったのかもしれない。  不幸な人生だと思った。何が楽しくて、母は生きているのだろう。私には分からない。母の考えていることが、私にはこれっぽっちも分からなかった。  私は母のことなんか考えるのはやめ、祖母に顔を向けた。 「どのくらい入院するの?」 「さあねえ」  祖母は力なく言う。今まで気が付かなかったが、それなりに落ち込んでいるようだ。私は慰めるように明るく言った。 「大したことないんでしょ。きっとすぐ出られるわよ」 「そうだといいけど」  私は改めて病室の中を見渡した。ベッドは全部で六つあり、その間隔はかなり狭い。見舞いや付き添いの人、歩き回る看護婦で、病室はお世辞にも静かだとは言えなかった。  同室の患者たちは、顔が見える範囲では全部老人だった。祖母より十歳も二十歳も上に見えるよぼよぼの老人が、どこかあらぬ方向に視線を向けている。扉も窓も開いているのに、病室の中には今まで一度も嗅《か》いだことのない異様な匂《にお》いが漂っていた。 「個室に入ればよかったのに」  こんな場所は祖母には似合わない。いくら短期間とはいえ、祖母がこんな所でおとなしく寝ていられるとは思えなかった。 「今、個室が空いてないんだとさ」  特に不満でもなさそうに祖母は答えた。 「病院、変われば?」 「いいよ、別に。ここへ担ぎ込まれちゃったんだから仕方ない。我慢するさ」 「そうだ。お父さんは?」 「ありゃ、ピンピンしてるよ。あたしと違ってシートベルトしてたからね。さっき警察に呼ばれて事故現場に行ったみたいだよ」  目を合わさないように、祖母は言った。私は祖母がそらした顔を、首を曲げて覗《のぞ》き込んだ。するとまた祖母はふいと目をそらす。 「どうしてお父さんの車に乗ってたのよ」  低く聞くと、祖母は素知らぬ顔をする。 「悪いかい?」 「悪かないわよ。でも変よ。この前もお父さんに偶然会ったなんて嘘《うそ》ついてさ。あんな奴《やつ》に、どうして何度も会ってるわけ?」  私の問いに、祖母は両腕を組むとゆっくり瞼《まぶた》を閉じた。黙秘権だ。 「いいわよ。別に私、あんたたちの揉《も》めごとには興味ないもの。もう二度と聞かないから安心してちょうだい」 「あんた、とは何だい。偉そうに」  私の悪態に、祖母の目がぎろりと見開かれた。 「偉そうなのはどっちよ」 「誰に口をきいてんだい、椿」 「おばあちゃんによ。何よ。心配してやってるのに。お父さんなんかとこそこそ会って、何の相談してるのよ。どうせお金のことでしょうけどね。あんたたちの話題って言ったら、財産だの遺言だのそんなことばっかりで」 「静かにしなさい!」  エキサイトしだした私を止めたのは、祖母ではなかった。声のするほうを振り向くと、後ろに大柄の看護婦がぬっと立っていた。  椅子《いす》に座っていた私は、その大魔神みたいな顔をした看護婦をぽかんと見上げた。びっくりするほどブスだった。鰓《えら》の張った大きな顔には、横に開いた大きな鼻と口が付いていた。ボブというより、手入れをしていない伸びっぱなしのおかっぱ頭をして、一度も鋏《はさみ》を入れたことのなさそうなぼさぼさの眉毛《まゆげ》の下に、左右に大きく間隔のあいた丸っこい両目があった。その顔を私はどこかで見た覚えがあるように感じた。向こうも私の顔を見ると、そのげじげじ眉毛をひそめて何か考えているようだった。  すると突然、彼女はうろたえたように一歩足を引いた。 「……ここは病院なんですからね。他の患者さんに迷惑です」  早口に言うと、彼女は大きなからだを翻して歩き出す。急に勢いをなくした大魔神の背中を祖母といっしょに唖然《あぜん》と見ていると、彼女はドアの所で入って来た医者らしい男と正面衝突した。  がつんと音がここまで聞こえた。彼女のほうはよろけただけで体勢を立て直したが、細身の医者のほうはあっけなく床に尻餅《しりもち》をつく。看護婦は慌てて医者を引き起こし、大袈裟《おおげさ》にからだを折って何度も謝っていた。白衣姿の医者は、照れくさそうに頭を掻《か》いて笑っている。  何度も頭を下げた末、彼女が廊下へ消えると、その医者はこちらに向かって照れ笑いを浮かべたまま歩いて来た。 「担当医」  ぶっきらぼうに祖母は私に言った。私はずっと開けっ放しだった口を慌てて閉じ膝《ひざ》を揃《そろ》えた。 「桐島さん、具合はどうですか?」  銀縁眼鏡の向こうの細い両目が、さらに細められる。私は両手をももの上に重ねにっこり笑う。 「おばあちゃんがお世話になります」  いきなり祖母思いの優しい孫に変身して、私は会釈した。 「え? おばあちゃんってことは、桐島さんのお孫さんですか?」  祖母はいやーな顔でしぶしぶ頷《うなず》く。 「こんな大きいお孫さんがいるなんて驚きだなあ。ええと、あなたは学生さん?」 「いいえ。もう働いてます」 「本当に? すごいなあ。おばあちゃん、いくつのときに産んだんですか?」 「あたしが産んだのはこの子の親だよ。それに孫でもない人間から、おばあちゃん呼ばわりされるいわれはないね」  無邪気に感心している医者に、祖母は冷たくそう言い放った。彼の笑い顔が微妙に固まる。 「おばあちゃんたら。そんな言い方失礼じゃないの」  私が祖母を諫《いさ》めると、医者が慌てて頭を下げた。 「いや、僕が悪いんです。確かに桐島さんの言うとおりだ。これからは言葉に気を付けます」 「すみません。おばあちゃん、病院が嫌いだから機嫌が悪いんですよ。ごめんなさいね」 「いやいや、こちらこそ」  私と医者は、わざとらしく声を合わせて笑った。祖母がふんと鼻を鳴らす。私は聞こえない振りで彼に話しかけた。 「先生、お名前聞いてもいい?」 「あ、ああ。僕は中原《なかはら》といいます」 「私は椿です。桐島椿」 「椿って、花の椿?」 「そうです。椿姫の椿。おばあちゃんは牡丹《ぼたん》で、お母さんは菖蒲《あやめ》なの」 「お花シリーズだね。いい名前だ。覚えやすいし気品がある」  中原先生はそう笑いかけたが、祖母は返事をしなかった。彼はぐほんと咳《せき》をする。 「じゃあ、何かありましたら呼んでください」  会釈をして病室を出て行く中原先生に、私は胸まで上げた掌を小さく振ってみせた。彼の姿が見えなくなったとたん、私は後頭部を強く叩《たた》かれた。 「いたっ。何すんのよ」 「でれでれしちゃって、まあ。この猫被りが」 「おばあちゃんに、そんなこと言われる筋合いはないわ」 「あんな性欲のなさそうな男が、好みのタイプなのかい」  私は唇を尖《とが》らせて横を向く。 「まったく椿は、どうしてそう男の趣味が悪いんだろうね」  どこかで聞いたことのある台詞《せりふ》を、祖母は呟《つぶや》いた。そしてゆっくりと目を閉じる。祖母の顔に浮かんだ疲労の色に私は気がついた。 「早くよくなってね。おばあちゃん」  取って付けたような私の台詞に、祖母は返事をしなかった。  恋人のマンションに着いたのは、約束の時間を一時間半もオーバーしていた。  あれから家に戻ってお風呂《ふろ》に入り、きっちり化粧をして髪を整えた。いざ出掛けようとしたら、やっぱり着ていた服が気に入らなくて着替え直し、急がなきゃと母から無理に借りてきた車で家を出たら高速道路が事故で渋滞していたのだ。  チャイムを押すと、しばらく間があって静かにドアが開いた。いつもにこにこ笑っている彼の顔に表情がない。怒っているのだ。 「遅くなってごめんなさい。車で来たんだけど事故で渋滞してたの」 「そう」  そっけなく言うと、彼は背中を向けて部屋の奥へ入って行く。いつも礼儀正しい彼の様子がちょっとおかしかった。私が遅刻するのはいつものことで、彼もそんなことで怒ったことは今まで一度もない。ということは、何か別のことで怒っているのだろうか。  彼の後についてリビングへ入ると、テーブルの上に一抱えもありそうな花が飾ってあった。 「うわあ、きれい」 「女房がこういうの好きでね。しょっちゅう何か生けてるよ。コーヒーでいい?」 「え? あ、うん」  セーター姿の彼がキッチンへ行くのを見送って、私はソファに腰を下ろした。名前の知らない色とりどりの花がガラスの花瓶いっぱいに生けられている。それを眺めながら私はいやな予感を感じていた。  いつもと違うあの硬い態度。今まで私の前では奥さんの話をほとんどしなかったのに、今日に限ってあんなことを言うなんて。そのうえいきなりコーヒーときた。彼はいつ会っても私にお酒を飲ませたがった。酔っぱらったほうがセックスに持ち込みやすいからだ。  私はこれまでも何度か、結婚している男の人と付き合ったことがある。だから彼のそういう態度が何を示すサインか、簡単に想像することができた。 「お誕生日、おめでとう」  コーヒーを持って来た彼に、私は素知らぬ顔で笑ってみせた。彼もやっと笑顔を見せる。 「もう、めでたい年じゃないんだけどね」 「そんなことないわ。はい、プレゼント」  群贅に試着させて買った件《くだん》のスーツを、私はショップの袋ごと彼に渡した。彼はこのブランドの上着を一枚持っていて、それを高級な店に行くときには必ず着ていることを私は知っていた。包みを開ける彼の、動揺と嬉《うれ》しさを隠しきれない様子を、私は少し皮肉な眼差しで眺めていた。 「おい、これ……」 「気に入ってくれた?」 「こんな高い物、貰《もら》えないよ」 「いいのよ。あなたにはいつも奢《おご》ってもらってばかりだもの。ね、着てみて?」  私がそう言うと、彼は立ち上がってセーターを脱いだ。年のわりに若いオックスフォードのシャツの上からジャケットを羽織る。ああ悔しいけど群贅のほうが似合っていたなと私は思ってしまった。 「似合う似合う」  パチパチ手を叩《たた》くと、彼は照れくさそうに上着を脱いだ。 「どうもありがとう。大切にするよ」  服を畳んでもとどおり箱に詰めると、彼はコーヒーを飲み始めた。 「お夕飯はどうするの? 出掛ける? それとも私が何か作りましょうか?」 「君は料理ができるのかい?」  意地悪く笑って彼が聞く。 「できないわ。言ってみただけ」 「夕飯は済ませたよ。君はもう来ないのかと思ってね」  その何気ない一言に、私は彼の顔をじっと見つめた。三十五にしては幼いその顔だちにセルフレームの丸い眼鏡(私は眼鏡をかけた人が好きなのだ)。やや淋《さび》しい額の生え際と少し贅肉《ぜいにく》の付きはじめた肩のあたり。群贅がモグラかアザラシと言っていたことを思い出す。確かに似ている。その害のなさそうな感じが、私は好きだったのだ。この人ならきっと、私を責めたりしないと思っていたのだ。  私は黙ってバッグから煙草《たばこ》を出した。くわえてライターで火を点《つ》けたとたん、彼の声が飛んでくる。 「人の家で煙草を吸うのはよせ」 「あら、あなただって煙草吸うじゃない」 「女房が嫌いでね。家の中は禁煙なんだ」 「この前は何にも言ってなかったわよ?」  彼のマンションに来るのは二度目だ。以前も�女房�が留守の隙《すき》に招待されて、夫婦のベッドで愛し合った。  彼は黙って私の手から煙草を取り上げる。テーブルの下から灰皿を出すと、そこへもみ消した。 「せっかくのお誕生日だっていうのに、どうしたの?」  あくまで無邪気に聞くと、彼はゆっくりソファに寄り掛かった。眉間《みけん》に皺《しわ》をよせ、指先で揉《も》んでいる。そんなポーズをとっても私は騙《だま》されない。苦しんでなどいないくせに。 「誕生日は昨日だ」 「知ってるわ。奥さんとお祝いしたんでしょ?」 「君は、他に付き合っている男がいるみたいだね」  突然彼は話を切り出した。 「なあに、急に」 「急じゃない。僕は三回君が同じ男と歩いているのを見かけたよ」 「ふうん」 「一度目はディスコ。二度目はホテルのバー。三度目はそのホテルの部屋に入って行くところだ」 「興信所でも雇ったの?」  私がくすくす笑うと、彼は首を振った。 「僕は本気だった。女房と別れることも考えた。だけど君は……」  言いかけた彼を私は掌《てのひら》で制す。 「やめて。私に言わせて」 「…………」 「別れましょう」  捨てるように言って私は立ち上がる。上着を着ると私はバッグを持って歩き出した。リビングのドアに手をかけて、私は彼を振り返る。 「ねえ、ひとつだけ教えて」 「……何?」 「私の、どこが好きだったの?」  彼は少し考えて、目を伏せた。 「きれいだから」 「そうでしょうとも」 「でもそれは外側だけだったようだ」  私は彼の所まで取って返し、ソファの傍らに置いてあったスーツの袋を取り上げた。 「あなたより似合う人にあげることにするわ」  露骨に残念そうな顔をした男を、私は死んだ犬を見るように見下ろした。  車のメーターがキンキンと耳障りな音をたてる。その音がいやでカーステレオの音をボリュームいっぱいに上げた。アクセルを踏み込み、とろとろ走っている赤い軽自動車を追い抜いて行く。  くれぐれも運転には気を付けるんだよ、椿。  免許を取ったとき、祖母は真剣な目でそう言った。群贅などは決して私の運転する車には乗ろうとしなかった。私の運動神経の悪さをよく知っているからだ。自分でもときどき本気でひやりとするときがある。  ハイウェイの連なるライトがどんどん後ろへ飛んで行く。ステアリングを握りしめ、私はさらにアクセルを踏み込んだ。このままあのカーブを曲がり切れなかったら。無理に追い越したあのトラックに接触したら。きっと私は死ぬだろう。このドイツの頑丈な車も私を守ってはくれまい。フロントガラスが弾《はじ》け、からだが宙を飛び、アスファルトに激突して私はぐちゃりと潰《つぶ》れて死ぬのだ。  いくら自分の死に様を想像しても、ちっとも恐くならなかった。怒りが恐怖心を包み込み、私は妙に冷静だった。どんどん狭くなる視界のその真ん中をじっと見据え、私は車を走らせた。  こんな気分になったことが、過去何回かあった。そのときはどうやってこの真っ暗なトンネルから抜け出したのだろう。怒りと悔しさと不甲斐《ふがい》なさで見えなくなった視界を、何で照らして歩いたのだろう。お酒を飲んだ? 誰かと寝た? 思い出せなかった。何度もこんな暗闇《くらやみ》に閉じ込められた記憶があるのに、どうやって抜け出したかうまく思い出すことができなかった。  気が付くと目の前に馴染《なじ》みのインターの表示が出ていた。私は慌ててウインカーを出す。インターの出口はいつもどおり混み合っていた。それが一層怒りに拍車をかける。私は携帯電話を取り上げて、群贅の番号を押した。「留守にしています。メッセージをどうぞ」と彼の声が応えた。 「この前のスーツ、あんたにあげるから取りに来てよ」  留守番電話にそれだけ吹き込んで、私は乱暴に電話を切った。前の車のテールランプを見ながらもう一度電話を取り上げ、私は雛子の部屋に電話をかけた。 「あら、椿」  ツーコールで雛子が出た。 「猛烈に腹が立ってるんだけど」  いきなり切り出すと、雛子はころころ笑った。 「なあに? どうしたの?」 「渋滞してる」 「車?」 「遊びに行かない? 迎えに行くからさ」  雛子は一人暮らしなので親のご機嫌を伺《うかが》う必要はない。そうねえと彼女は曖昧《あいまい》に返事をする。 「怒ってるときの椿は、何するか分からないからなあ」 「遊びに行こうよ」 「はいはい。わたくしが歯止めになってあげましょう」  行きつけのクラブは、ちょうど終電の時間になったせいか、あまり人がいなかった。雛子とふたりでカウンターに腰掛ける。顔なじみのバーテンがやって来て飲み物の注文を取った。 「ターキー。ロックで」 「椿、車でしょう?」 「ああ、そうだった。じゃあツボルグ」 「私も同じのでいいわ」  グラスに注いだビールがやって来ると、私はそれを一気に飲んだ。怒りのせいで相当|喉《のど》が渇いていたようだ。ビールにして正解だった。 「何をそんなに怒っているやら」  雛子がナッツをつまんで片頬《かたほお》で笑う。 「それがさー。聞いてよ。ああ、頭来る。後藤《ごとう》と別れてきたわ」 「後藤さんと?」  雛子は目を丸くしてこちらを見た。 「不倫にしては、ずいぶんうまくいってるみたいだったじゃない」 「私だってそう思ってたわ。だから、誕生日に二十万近くもするスーツ買って行ったのよ。そしたら、君は他に付き合っている男がいるんだね、だって。どうもグンゼと歩いてるとこ見られちゃったみたいなのよ」 「でも後藤さんなんか、奥さんがいるじゃない」 「でしょう。自分のことは棚の上で、椿がきれいなのは外側だけだって。それでそのスーツはちゃっかり貰《もら》おうって根性よ。親父《おやじ》のせこさは侮れないわ」  カウンターに肘《ひじ》を突いて、雛子がくすくす笑う。 「それで荒《あ》れ狂ってるわけだ」 「荒れてなんかないわよ」  雛子は笑いながら手で二杯目のビールを注文した。外見は清楚《せいそ》に見えても、そういう仕種《しぐさ》が堂に入っている。今日だって渋っていたわりには、迎えに行くとちゃんと着替えてお化粧していた。お酒を飲むピッチも同じ、遊び慣れているのも同じなのだ。 「ターキー」  バーテンに言うと、彼はどうでしょうかという顔で雛子を覗《のぞ》き込んだ。 「分かった。死ぬまで飲んでいい。どうせ椿の払いなんだし。帰りはタクシーで送ってね」 「もち。任せて」  早速差し出された強いお酒を私は口に含んだ。喉からおなかがじわっと温かくなって、やっと怒りが収まってくる。 「何度も聞くようだけどさ、群贅さんとは本当に付き合ってないの?」  雛子が疑り深げにそう聞いてくる。 「何度も言うようだけど、付き合ってないわよ。あんなの恋人にするぐらいなら……」  言いかけて私は雛子の顔を見た。 「まさか、雛子。グンゼに気がある?」 「まっさかー。やめてよ」  群贅と雛子は、一度だけ会ったことがある。私と群贅がどこかのファミレスで食事をしていたとき、雛子が他の男の子と現われたのだ。四人で一時間ばかりお茶を飲んだだけだったが、勘のいい雛子はそれだけで彼の性格をほぼ見抜いた。  雛子は群贅が私の恋人ではないことを確認すると、あの人相当遊んでるでしょうと眉《まゆ》をひそめて言った。 「本当に恋人じゃないなら、あんまり群贅さんと出歩かないほうがいいんじゃない? 誤解されてもしようがないよ」 「……うーん」 「それに恋愛するなら、やっぱり独身の人にしなよ。結局損するのはこっちなんだからさ」  優しい口調で雛子が言う。雛子には分からないのだ。私がなぜ傷ついたか、その本当の理由を。恋が実らなかったから荒れてるんじゃない。男の勝手な独占欲を怒ってるんじゃない。そうじゃない。 「いいんだ。私、次の人見つけたから」  けろりと言うと、雛子は今日会って一番驚いた顔をした。 「なあに、そうなの。心配して損した」 「損ってことないでしょう。今度はいいわよ。お医者様ですし」 「椿もやっぱり、医者か弁護士か青年実業家と結婚したいタイプなわけね」 「違うわよ」  私は大きな声を出した。雛子がびっくりした顔でグラスを置く。 「その辺の小娘といっしょにしないで。お金なんかいらない。だって、いっぱい持ってるもの」  私の強い口調に雛子が絶句していると、後ろから誰かが肩を抱いてきた。 「その辺の小娘のくせに」  その感触に群贅かと思って振り向くと、知らない男がふたり立っていた。いや、よく見ると私の肩に手を置いているほうは見覚えがある。 「こんばんは」  誰だか思い出せないまま、私は微笑《ほほえ》んだ。 「久しぶりだね。こちらは友達?」  雛子はきょとんとしながらも、そいつらに会釈した。その間に記憶の糸をたぐり寄せていると、どこかのラブホテルのネオンにたどり着く。  ああ、そういえば、こいつと一回寝たことがあったっけ。そうそう、どこかの商社に勤めてて自分の会社の自慢ばっかりしていた。 「よかったら、いっしょに飲みませんか?」  礼儀正しさの向こうに、ちゃんと下心を見せてくれる言い方だった。私には、そういう人のほうが分かりやすくていい。寝たいなら行けばいいし、いやなら断わればいい。難しいことは何もない。 「そうねえ。どう、雛子?」  半分行きたいような顔をすると、雛子が冷たい眼差しを向けた。私はその視線にどきりとする。 「悪いけど、今日は久しぶりに会ってるから、ふたりで話したいの」  雛子がやんわり断わると、彼らは仕方なさそうに肩をすくめた。 「そう。じゃあ、また今度ね」  私の肩に置いていた手をそいつはやっと離した。ほっとするのと残念なのとが微妙に混ざる。彼らがいなくなると、雛子がくるりとこちらを向いた。 「椿」 「え?」 「私だって、あなたのことそう責められたもんじゃないけど」 「なあに、回りくどい」 「こういうことしてるから、ふられるんじゃない?」  こちらに真っ直ぐ向けられた雛子の瞳《ひとみ》を、私はじっと見つめた。そしてゆっくり首を振る。何も言葉が出てこなかった。  何もする気になれず、どこへも出掛けないでもう一週間以上も家でごろごろしていた。  調子が悪い。何かが違う。こんなはずじゃなかった。  そんなことを思い始めたのは、いつからだろう。先月? その前? それとももっとずっと前?  目が覚めたとき、窓の外から雨音が聞こえていた。ヒーターとテレビのスイッチを入れ、私はベッドに戻った。  テレビではお昼の番組をやっていた。コメディアンが客席を笑わせる。横になったまましばらくテレビを見ていたけれど、ちっとも面白くなかった。  お腹《なか》は空いているのだけれど、何か作るのも面倒くさい。気力がまったく湧《わ》かなかった。理由は分かっている。男と別れたからだ。  このやる気のなさ。全身のだるさ。胸の上に石を置かれたような苦しさ。そうか、私は落ち込んでいるのかと、枕《まくら》を抱き締めてようやく気が付いた。  考えてみれば、十四歳のときから恋人がいなかったことなど一度もなかったのだ。誰かと別れるときは必ず次の人を確保してからだった。  ということは、あの妻子持ちのアザラシとは結構無防備に付き合っていたことになる。ああ、いつから私はそんなに迂闊《うかつ》になったのだろう。  それに、認めたくはないけれど、私は以前ほどもてなくなっていた。ちょっと前までは、夜になるとじゃんじゃん電話が鳴り響いて、手帳はデートの予定でいっぱいだった。  それがどうしたことだろう。私がこんなに暇だというのに、誰からも電話がかかってこないなんて。そりゃ、私から連絡すれば遊んでくれる人はいくらでもいる。けれど、そういう気にはなれなかった。 「……椿も年貢の収め時かね」  何気なく呟《つぶや》いた独りごとに、私は目をぱちくりさせた。そしてむっくり起き上がる。部屋に置いた大きな鏡にぼさぼさ髪の自分が映った。  それは案外、いい考えかもしれない。  結婚をするのだ。誰かの奥さんになってこの部屋を出るのだ。誰か気のいい旦那《だんな》さんの、のんびり者のよい奥さんになって、料理をしたり掃除をしたりするのだ。家事なんてやる気になればちょろいもんだろう。家事をさっさと済ませたら、遊びに行こう。人妻だからもてないなんて時代じゃない。私が妻子持ちの男の人が好きだったように、男の人も人妻のほうが結婚を迫られる心配がなくていいと思うはずだ。  結婚しても恋愛はできる。ばれないように気は使うだろうけど、そんなことは気が付きもしないような素朴なあんちゃんを旦那様にすればいい。そしてその素朴なあんちゃんを愛するのだ。私を幸福にしてくれる、そのお人よしの天使様を。  やっとやる気が出てきて、私はベッドを下りた。お人よしの天使様は病院にいる。私はご機嫌でパジャマを脱いだ。  雨の中、車を運転して病院へ行くと、祖母のベッドのまわりに三人も看護婦がいた。  ふたりは点滴の用意をし、ひとりは祖母の腕に注射針を刺していた。只事《ただごと》ではない雰囲気だ。そろそろ退院できるころかなと思っていたので、びっくりしてしまった。 「おばあちゃん? どうしたの?」  呼びかけると看護婦たちが一斉にこちらを向く。その中に先日の大柄な看護婦の顔があった。 「今、お宅に電話をしようかと思ってたところなんですよ。ああ、いらっしゃってよかった」  注射をしていた看護婦が立ち上がって私に言った。美人というのではないが、顔やからだ全体が小振りで、しゃきしゃきした感じの若い女の子だ。 「おばあちゃん、朝から熱を出されましてね。九度近いんですよ」 「九度も?」 「ええ。風邪だと思うんですけど」  病院に入っていて風邪なんか引くだろうか。それとも病院だからこそ、誰かの風邪をもらいやすいのだろうか。 「それで、大丈夫なんでしょうか」 「今、お注射しましたから、じきに熱は下がると思います。でもお年ですからちょっと様子を見たほうがいいですね」  それだけ言うと、看護婦たちはあっという間に引き上げて行った。私は点滴の管を繋《つな》がれ、ぽつんと取り残された祖母を覗《のぞ》き込む。祖母は目を開けていた。 「おばあちゃん、大丈夫?」  問い掛けても、祖母の顔には何も表情が浮かばない。私は祖母の肩に手をかけて、揺すぶってみた。 「どうしたのよ。椿よ。分からないの?」 「病人に何をしてるのっ」  突然後ろから大声で言われて、私は飛び上がった。見上げると、この前と同じ位置に大魔神顔の看護婦が立っていた。何度見てもすごい顔だ。それに白衣がはち切れそうなほど太っている。もっとサイズの合う白衣はないのだろうか。 「静かにしてあげてください」 「はあ。どうもすみません」 「大事な家族をほったらかしにしておくから、こういうことになるんです。みんなそうよ。お見舞いに来るのなんか最初だけ。本当は心配なんかしてないのよ」  敵意を丸出しにして彼女はそう言った。私は彼女の巨大な胸に付いた名札を見てその名を呼んだ。 「ええと、魚住《うおずみ》さん?」  名前を呼ばれて、彼女は微かに怯《ひる》んだ。 「何でしょう?」 「あなたね、私がこの人を心配してないって言ったわね。ああ、よーく言ってくれたわ。何にも知らないくせに」 「知ってるわ」  不敵にも魚住はそう言った。 「病人の見舞いに来るときに、そんな恰好《かつこう》をして来る人がどんな人間かぐらい知ってるわよ。入院が長引けば、きっと自分の身内が病院のベッドに置き去りにされてることすら忘れちゃうのよ」  私は自分の服を見下ろした。確かに色はベビーピンクだし丈も短いけれど、それとこれとどういう関係があるというのだ。 「あんた、外見で人を判断しちゃいけないって小学校で習わなかったの?」 「人間は外見どおりよ。まともな人はそんな服は着ないし、他人のことをあんたなんて呼ばないわ」  そう言い捨てると、魚住はくるりと後ろを向いて歩き出した。 「ちょっと待ちなさいよ。言うだけ言って逃げる気?」 「あなたと違って忙しいの。病人のそばでぎゃんぎゃんわめかないで」  捨て台詞《ぜりふ》を言うと彼女はさっさと病室から出て行った。喧嘩《けんか》を売っておいて、先に逃げるなんていい根性じゃないか。反射的に追って行こうとした足を私は止めた。急に阿呆《あほ》らしくなったのだ。あんな顔面も性格もブスな女をかまって何になる。それよりも問題は祖母の熱だ。  私は白い布団から覗く祖母の顔をもう一度見下ろした。瞼《まぶた》はもう閉じられていた。熱のあるわりには頬《ほお》に赤みがない。病院のベッドに寝かされた祖母は、まるで見知らぬ老人のようだ。あの輝くような威厳はどこへいってしまったのだろう。  私は何をするべきか考えた。ここは病院なのだから、薬を飲ませたり注射をしたりは医者や看護婦がしてくれる。私は何をしたらいいのだろう。こうしてじっと顔を見ているしかすることが思いつかなかった。  祖母のことは大好きだし、本気で心配なのだけれど、十分も顔を見ていたらもう飽きてしまった。私は人の看病などしたことがないのだ。途方に暮れかけたとき、私は病院にやって来た当初の目的を思い出した。そうだ、私は中原先生に会いに来たんだっけ。  祖母の様子が変わらないことを確かめると、私は立ち上がって廊下へ出た。ぶらぶらと何気なさを装って廊下を歩き、ひとつひとつ病室を覗いてみるが彼の姿はなかった。普段お医者様というのはどこにいるのだろう。外来の患者を診たり、詰め所で休んだりしているのだろうか。  廊下の先にナースステーションと書いてある看板を見つけて、私はそこを覗いてみた。白衣姿の女の子たちは、そこでは寛《くつろ》いだ表情を見せていた。つつき合ったり、お菓子の袋を開けたりしている。私は先ほどの小柄な女の子を見つけて声をかけた。 「はい、何か?」 「あの、中原先生は……」 「ええと、どこに行ったかしら。その辺でうろうろしてたと思ったけど」  彼女の言葉に、二、三人の看護婦が意味ありげに小さく笑う。部屋のいちばん奥に、大きな背中を向けている魚住の姿もあった。 「先生に何か?」 「いえ、別に。両親も呼んだほうがいいかなって思って」 「ああ、どちらでもいいですよ。じきにお熱も下がると思うし」 「じゃあ、私も帰っていいのかしら」  私のこの発言に、看護婦たちは複雑な笑顔を浮かべた。ふうとひとつ息を吐いて、小柄な看護婦が言った。 「お帰りになられても結構ですけど」  言葉を切って、彼女は言う。 「うちは完全看護ではないので、できるかぎりご家族のどなたかにいらしていただきたいんです」 「はあ」 「今日はご苦労様でした」  そっけなく言うと、彼女たちは一斉に私に背中を向けた。魚住だけが私の顔を見ている。何か言われるかと思って身構えたのに、彼女はふっと視線をそらし自分の仕事に戻ってしまった。  厭味《いやみ》とも取れる看護婦の言葉に、私はそれから一時間ぐらい祖母の横にいた。けれどそのぐらいが限界だった。売店で買ってきた雑誌も読んでしまい、枝毛を捜すのも飽きた。祖母はあれからずっと寝入っている。私は欠伸《あくび》をして立ち上がった。 「おばあちゃん、私帰るね」  目をつぶった祖母から返事はない。 「明日は来られるかどうか分からないけど、たぶんお母さんが来ると思うよ。早くよくなってね」  ぽんとベッドの端を叩《たた》くと、私は上着を持って病室を出た。エレベーターに乗って一階へ下り、外来の受付を抜けようとしたところで、私は前から中原先生がやって来るのを見つけた。 「中原先生っ」  私は嬉《うれ》しくて彼の所に走り寄る。 「こんにちは、先生」  彼は不思議そうに目を見張り、私の頭から爪先《つまさき》へ向けて視線を動かした。それで私は少々むっとする。 「椿です。桐島牡丹の孫の、椿。忘れちゃいました?」 「あ、ああ。君かあ」  やっと分かったらしく、彼は笑顔になる。私は一度会った人に忘れられるなんて経験はないので、何だか気分が悪かった。 「忘れちゃうなんてひどいですね」 「いや、あんまり感じが違うもんで」 「え?」 「この前はお化粧してなかったしジーンズだったろう。今日はずいぶんおめかしなんだね」  その台詞を聞いて、私は倒れそうになった。なんてことだろう。そういえばこの前、私はすっぴんだった。ぼろぼろのシャツを着て髪もちゃんとブローしていなかった。自分の恰好《かつこう》を忘れて澄ましてたなんて。私は心底恥ずかしくなった。 「あのときは、その、祖母が事故にあったって聞いて、急いでたし動転してたし、えっと」 「ああいう恰好のほうが可愛《かわい》いけどなあ。あ、そういうのもきれいだけど」  中原は簡単にそう言った。 「……今のはお世辞ですか?」 「いや別に。お世辞に聞こえましたか?」 「嬉しい。先生、私と結婚してくれません?」 「ああ、いいですよ。こんなきれいな人がお嫁さんになってくれるなんて嬉しいなあ」  はははと中原は笑うと、さて、と言って背筋を伸ばした。 「じゃあ、ちょっと時間がないもので。すみませんが」 「また来ますね」 「ええ。失礼」  ぎごちなく頭を下げ、白衣の裾《すそ》をぺらぺらいわせて彼はエレベーターへ向かって歩いて行った。その後ろ姿はしきりに首を傾《かし》げている。  私は彼の姿が見えなくなるまで、そこに立って天使様が仕事に戻るのを見送った。  本当に結婚してね、先生。  家へ帰ると、自分専用の電話に派遣会社から留守番電話が入っていた。頼みたい仕事があるので電話をくれということだった。  この前のイベントの仕事が終わってからもう十日以上たつ。そろそろ次の仕事をしてもいいころだ。派遣会社の番号を押そうとした手を私はふと止めた。私のところに来る話は、雛子のほうにも回っているケースが多い。  雛子とはあの夜以来会っていない。別に喧嘩《けんか》したわけでもないのだが、あの晩ふたりでタクシーに乗り、あまり口もきかず気まずいまま別れてしまったきりだ。  私は電話を見つめて腕組みをした。恋人となら、仲直りする方法を百も二百も知っている。けれど、同性の友人と仲直りする術《すべ》を私はまったく知らなかった。  雛子はいい子だ。服を見たり、仕事のエージェントの悪口を言ったり、ケーキを食べたりするには楽しい相手だった。私は悪いことをしたなんてこれっぽっちも思っていないが、雛子はとても怒っている様子だった。嘘《うそ》でも何でもたった一言謝れば、またいっしょに仕事をしたり遊んだりできるかもしれない。私はためらう指先を電話に向けた。  短縮ダイヤルの番号を押す。三度のコールで電話が繋《つな》がった。 「椿? 久しぶりだね。元気だった? ねえねえ、ショールームの仕事の話聞いた?」  私が名乗ったとたん、雛子は元気よく喋《しやべ》り出す。 「ちょっと待って。雛子」 「なあに?」 「怒ってないの?」 「何を?」  逆に聞き返されて私は言葉に窮する。すると雛子は笑いながら、この前のことか、と言った。 「ちょっとは呆《あき》れたけど、別に怒ってなんかないよ」  あっけらかんとした彼女の言葉に私は心底ほっとした。これでまた今までどおりふたりで楽しくやっていけると思うと、とても嬉しくなった。 「もうその話はいいよ。それより、仕事の話聞いた? システムキッチンの会社のショールームだって」 「あ、そうなの。電話くれって留守電が入ってただけだから」 「それが一年やってほしいんだって」 「一年も?」  私は驚いて聞き返す。 「どうする、椿。時給は結構いいんだよ。ボーナスもあるみたいだし」 「そんな長くひとつのところに勤めるのは、気が進まないなあ」 「どうして? 私、やりたいな。短い仕事ばっかりだと、いつも面白くなってきたところで終わっちゃうじゃない。勉強にもなると思うよ。ね、椿もやろうよ」  うーんと私は唸《うな》った。 「週四日だって言うし、用事があるときはふたりで調整して休んでいいって言ってたよ。条件いいじゃない。そりゃ椿はお金なんてどうでもいいかもしれないけどさ」  最後の一言が、少々|癇《かん》に触った。 「そんなことないわ。私だって自分で稼いだお金が欲しいもの。いいわ、私もやる」 「本当に?」  雛子は嬉しそうに聞き返した。 「結婚資金も貯《た》めたいしね」 「結婚って……、するの?」 「したいなって思って」 「うそー。相手は? この前言ってた人?」  私は祖母の担当医のことを、詳しく雛子に話した。そういう地味なタイプを好きになるなんて椿も大人になったのね、と言って雛子は笑った。  彼女と私は夜中まで、そのことで盛り上がって話した。何だか何もかもがうまくいきそうな気分になり、私は幸せな気分で電話を切った。  その後シャワーを浴びて、ご機嫌でベッドにもぐり込んだのは夜中の二時過ぎだったと思う。その電話はうとうとし始めたころに鳴った。  居間で鳴った電話に母が出た。どうせ酔っぱらった父が迎えに来いとか言ってるんだろうと思っていたら、母が私の部屋のドアをノックもせずに開けて言った。 「病院へ行くわよ。おばあちゃんが階段から落ちたんだって」  私は、またもやすっぴんにくしゃくしゃ髪のまま、家を飛び出すことになった。 「もう、やめてよ。事故も入院も一回で充分じゃないの。いいかげんにしてよ」  私は車を運転しながら悪態をつく。助手席に座った母は、何も言わずにじっと前を見ていた。 「何でこんな時間に、階段から落ちるのよ。おばあちゃん、夢遊病か何かなわけ?」 「……ぼけたみたいね」 「え?」  ずっと黙ったままだった母が、ぽつんと呟《つぶや》いた。 「まっさかー。あのおばあちゃんがぼけるわけないじゃない」  笑い飛ばしても、母の表情は変わらない。 「夜中に歩き回ってたそうよ」 「え?」 「夜中になると、泣きながら病院中を歩き回るんだって」 「うそー。オカルト」 「他の患者さんから苦情が来てたのよ。夜勤の看護婦さんたちにもだいぶ迷惑かけてね。おばあちゃん、泣きながら『帰りたい、帰りたい』って言うんだって。だから退院させようかって言ってたんだけど」 「……そんなこと」  私はハンドルを握り締めた。そんなこと、私は全然知らなかった。  そりゃ入院してからの祖母は、ずいぶん元気がなかった。でもそれは病人なんだから当たり前だと思っていた。  そんなことになっているなんて、思いもしなかった。正気をなくし、夜な夜な歩き回っていたのなら、風邪を引いても階段から落ちても不思議じゃない。  病院へ着くと、当直の医者と看護婦が申し訳なさそうな顔で待っていた。今日の祖母は熱があったせいか、わりと早い時間に寝ついたらしい。それで安心していたら、警備の人が階段の下で祖母が倒れているのを発見したそうだ。  祖母は右手首を折り、足を捻挫《ねんざ》していた。もちろん命に別状はない。けれど、これでいつ退院できるか分からなくなってしまった。  祖母は救急用の個室に寝かされていた。痛み止めの薬を打ったせいか、すやすやと眠っている。私は枕元《まくらもと》に座り、放心してその寝顔を見ていた。 「帰りましょう」  母の声がして、私は顔を上げた。 「……おばあちゃんが起きるまで、ここにいるわ」 「そう。お父さんが帰って来るかもしれないから、私は帰るわね」  母の言葉に私は思わず立ち上がった。 「自分の母親よりあんな男が大事なの? 今日だって、どうせ愛人の所かソープにでも行ってるんだわ。あんたは母親よりそんな男のほうが大事なの?」  狭い個室に、私の声が響き渡る。母は無表情に私を見返した。 「おばあちゃんのこと、頼むわね」  長い沈黙の後、母はそれだけ言って部屋を出て行った。  窓の外が明るくなるのと同時に、病室の外が騒がしくなってきた。台車を押す音、看護婦たちが小走りする足音、呼び出しの放送、惣菜《そうざい》の匂《にお》いもかすかにする。私は貸してもらったエキストラベッドの上で、しばらく天井を見ていた。  こんな硬いベッドと黴臭《かびくさ》い毛布じゃ眠れるわけないと思っていたのに、どうやら三時間ぐらいは気を失っていたようだ。私は立ち上がって、祖母のベッドの脇《わき》に立った。まだ祖母は眠っていた。 「おはようございます」  ノックの音と同時にドアが開き、年配の看護婦が入って来た。 「ええと、お孫さん?」 「そうです」 「ずっと付いててくださったのね。ご苦労様。いいお孫さんを持っておばあちゃんも幸せね」  優しく言われて私は下を向く。そんなことを言われるのは、とてもくすぐったかった。 「あら、おばあちゃん。目が覚めましたか?」  そこで祖母の目がぽっかりと開いた。私は笑顔を作って祖母を覗《のぞ》き込む。 「おばあちゃん、大丈夫? 痛い?」  話しかけても祖母はただきょとんとして、私の顔を見るだけだ。 「覚えてないの? おばあちゃん、昨日の夜階段から落ちたのよ。それで怪我《けが》したの」 「……階段?」 「そうよ。どうして夜中にふらふら歩いたりするのよ。心配ばっかりかけて」  責めるように言うと、祖母は看護婦のほうに救いを求めるような目をした。 「お孫さん、一晩ずっと付いててくれたのよ」  にっこり笑う看護婦に、祖母は言った。 「……あのね、聞きたいんだけど」 「はい、何でしょう?」 「この子は誰だい?」  祖母が指さしたのは、私だった。 「ど、どうしちゃったのよ。私よ。椿よ」 「椿?」 「椿だってば。やめてよ。とぼけてるんでしょう」  私が祖母の肩を掴《つか》むと、看護婦が慌てて割って入った。そのとたん、祖母が「ああ」と小さく声を漏らした。 「椿か。そう、悪かったね。心配かけたね」 「……分かるの? 私のこと分かる?」 「当たり前だろう」  私は大きくからだ中で息を吐いた。 「なあんだ。分かるんじゃない。お母さんがさ、おばあちゃん、ぼけちゃったなんて言うから、どうしようかと思っちゃった」 「今日は学校は休みかい?」  祖母は笑って私を見た。 「その恰好《かつこう》はなんだい。ちゃんと制服着て行かないと駄目だろう」  膝《ひざ》が小さく震えだす。私は祖母の左手を握り、言葉を区切ってはっきり言った。 「おばあちゃん、私もう学校は出たの。もう二十三歳なのよ。働いてるの。分かる?」 「ああ、そんなことより、お父さんはどうしてる? ちゃんと仕事はしてるかい? 喧嘩《けんか》してないかい? 大事な婿なんだからね。あんたが選んだ男なんだからね。うまくやっていかなきゃいけないよ。お前は器量が悪いんだから、多少のことは我慢しなきゃいけないんだよ」  私が包んだ自分の手をじっと見下ろして、祖母は独りごとのようにそう言った。 「……どうして?」  私はそっと祖母の手を離した。振り返ると看護婦が気まずそうに目を伏せた。  祖母が元の六人部屋に移されるのを、私は半ば放心して眺めていた。  中原先生は非番の日らしく、他のお医者さんが祖母の症状を説明してくれた。怪我のこと、ぼけのこと、これからのこと。機械的に話す中年の医者に、私はからだ中の力が抜けたまま相槌《あいづち》を打った。まるで悪い夢を見ているようだ。  病室に戻ると、早いお昼が始まっていた。それぞれのベッドに食事が届けられ、患者たちはらくだのようにモソモソと口を動かしていた。  祖母のベッドの脇《わき》に看護婦がひとり座っていた。色気のない後ろ姿で、魚住だということが分かった。彼女は祖母にご飯を食べさせていた。祖母の口に、魚住はスプーンを持っていく。祖母はいやいやという感じで口を開けた。おいしい? と魚住が笑顔で聞くと、祖母は黙って首を振った。  私は何と言って声をかけたらいいか分からなくて、じっとその様子を見ていた。視線に気が付いたのか魚住が振り返った。私を見ると、彼女は慌てて立ち上がる。仕方なく私は頭を下げた。 「どうもすみません。私が食べさせます」 「あ、いいえ。えっと、じゃあ、お願いします」  スプーンを受け取り、私は祖母の前に座った。私の顔を見ても、祖母の表情は変わらない。  お盆に載った食事を見て、私は眉《まゆ》をひそめた。プラスチックの食器に、煮崩した豆腐とかぼちゃとお粥《かゆ》が入っていた。お茶碗《ちやわん》にはその三つを混ぜたものが入っている。魚住が混ぜて、それを祖母に食べさせていたのだろう。見るからに不味《まず》そうだ。 「大変だったわね」  とうにいなくなったのかと思っていたら、後ろから魚住の声がした。 「朝来たら、おばあちゃん階段から落ちたっていうから驚いたわ」 「…………」 「最近、言うこともちょっと変だったから、みんなでぼけたんじゃないかって言ってたのよ。でもアルツハイマーじゃないんでしょう? 先生はなんて言ってました?」  私は振り返って、彼女の顔をしみじみ眺めた。このブスは親切で言ってるんだろうか。それとも厭味《いやみ》を言ってるんだろうか。彼女の遠慮のない話し方が、神経を逆撫《さかな》でした。 「こうなると、きっと長引くわ。転んだのをきっかけに寝たきりになるお年寄りって多いのよ。なるべく早くリハビリを」 「うるさいよ」  私は魚住の言葉を遮った。彼女は自分が何を言われたか分からないらしく、目をぱちくりさせている。その顔が余計カチンときて、私は吐き捨てるように言った。 「うるさいって言ってんのよ。ブスが」 「……何ですって」 「人の不幸を嬉《うれ》しそうに喋《しやべ》ってんじゃないわよ。アルツハイマーだの寝たきりだの、誰に向かって言ってんのよ。私のおばあちゃんをよくもぼけ老人扱いしたわね。言葉に気を付けなさいよ」  魚住の顔が、あっという間に真っ赤になった。さっと右手が振り上げられる。 「叩《たた》きなさいよ。十倍にして返してやるから」  睨《にら》みつけて言うと、彼女は震える手をぎごちなく下ろした。魚住が何か言おうと口を開きかけたとき、誰かが「椿」と私の名前を呼んだ。 「なんだ、ひどい顔だな。化粧してない椿なんて久しぶりに見たよ」  にこにこ笑ってこちらに向かって来る男を見て、私は目の前がくらっとした。 「どうしてグンゼがこんな所に来るのよっ」 「来ちゃ悪いかよ。スーツくれるって言うから電話したんだぜ。そしたらお袋さんが病院にいるって言うんで何事かと思ったぜ。何? 牡丹ばあちゃん、死にそうなんだって?」  群贅は一気にそこまで喋って、そこにつっ立ったきりだった魚住を見た。群贅があれ? と声に出して言う。  魚住は口許《くちもと》を両手で覆い弾《はじ》かれたように踵《きびす》を返す。逃げようとした彼女の腕を、群贅が素早く捕まえた。 「あー、お前、大魔神だろう。俺、群贅だよ。覚えてない? 何だお前、看護婦になったのか」 「離してくださいっ」  魚住は必死で彼の手を振り解《ほど》くと、ものすごい勢いで逃げて行ってしまった。突然の展開に私はぽかんと口を開けた。大魔神って言った? 「なあに、グンゼ。知り合い?」 「中学のときのクラブの後輩だよ。あ、確か椿と同じ学年のはずだぜ。お前こそ覚えてないの?」 「えー? どっかで見たような顔だとは思ってたけど」 「あんなインパクトのある顔、普通覚えてるんじゃない?」  そう言って群贅はくすくす笑った。そうか、同じ中学にいたのか。私は昔から他人の顔や名前を覚えるのは苦手だった。でも、さすがにあの強烈な顔は、記憶の隅っこに残っていたのかもしれない。 「大魔神ってあだ名だったの?」 「おう。見たとおり。それ以外なんて呼べって?」  私は得意そうな群贅を見て、ちょっと笑った。 「それにしてもあの慌てようは何なの? もしかしてグンゼ、昔、手ぇ出したとか?」 「冗談じゃねえよ。俺は筋金入りの面食いだよ」 「ああ、あんたは面食いなのかい」  無邪気なその声に、私と群贅は同時に祖母を振り返る。祖母はにこにこ笑って私達を見上げていた。 「ばあちゃん? 俺だよ。群贅だよ」 「これはこれは、はじめまして」 「分かんないの? ばあちゃんの嫌いな群贅だよ。椿ちゃんのお友達のグンゼ」 「椿ちゃんってのは、あんたの彼女なのかい?」  群贅は私に視線をやった。頭の横で指をくるくる回し、私に答えを求める。私はしぶしぶ頷《うなず》き、頭の上で手をパーに広げた。 [#改ページ]      3  そのショールームでの仕事は退屈だった。  何しろお客様が来ない。システムキッチンのショールームだけあって、休日は家族連れや新婚カップルが多少は冷やかしに来るものの、場所がオフィス街にあるものだから、そうそう大勢はやって来ない。  今日のような、ぱらぱら小雨の降り出した十二月の平日には、誰ひとりシステムキッチンなんか見に来なかった。欠伸《あくび》したって誰も見ていないので、私は手で覆いもせず大きな欠伸をした。 「でかい口だねえ」  いつの間に来たのだろう。目の前に課長の園田《そのだ》という男が立っていた。 「すみませんでした」  私は慌てて口を閉じる。 「別にいいよ。こんな暇じゃあ、欠伸ぐらい出るさ」  園田課長はわははと大きな声で笑った。でかい口はお前だろ、と胸の中で呟《つぶや》く。 「今日は冷えるなあ。桐島さん、そんなストッキング一枚で寒くないの? 靴下かなんか穿《は》けば?」 「ええ、まあ。大丈夫です」 「若いうちに冷やすとなあ、子供が産めなくなるんだぞ」  そう言って彼はまたがははと笑った。可笑《おか》しくも何ともなかったけれど、つい条件反射で微笑《ほほえ》んでしまう。  園田課長は四十を超えているらしい。けれど年よりずっと若く見える。一日おきにジムに通い、休日はウインドサーフィンをしているそうだ。なるほど肩や腕の膨らみは脂肪ではなく筋肉だし、真冬だというのに顔もこんがり焼けている。  彼は社内で人気があるらしい。爽《さわ》やかで優しいところが素敵と社員の女の子が言っていたが、私には�馬鹿に明るい元気な親父《おやじ》�にしか見えない。 「桐島さんは、派遣じゃなくてちゃんと就職しようとは思わないの?」  お客様用の椅子《いす》にどっかり座ると、課長は笑顔で私を見上げた。こうやって彼は、日に一度は私にちょっかいを出しに来る。 「そうですねえ。今は別に考えてません」 「そんなんじゃ駄目だよ。いつまでも若いわけじゃないんだから」 「はあ」 「履歴書見たけど、何も資格持ってないじゃないか。秘書検定とかワープロなんかは、そう難しくないみたいだから受けてみれば? そうすりゃ時給も上がるだろうし、社員にしてもらえることもあるんじゃない?」  変な柄のネクタイの上に、どうだい? とばかり眉《まゆ》を上げた園田課長の顔があった。私は笑顔を張りつけたまま彼を見下ろした。  女の子をお金で買っておいて、いつまでもこんな商売してちゃ駄目だとか言うタイプだな、こいつは。  彼は私と寝たいのだ。親切で世話を焼きたいわけではない。ただ私をベッドの上で裸にしてみたいのだ。それはもう確信だった。 「僕の友達がOAスクールに勤めてるんだけどね」 「あ、そうなんですか」 「そこ良心的でいいみたいだよ。よかったら、今度見学に行ってみないか。飯ぐらいご馳走《ちそう》するよ」 「そうですねえ。どうしようかな」  そしてその後いっしょにお酒を飲むのだろう。酔っぱらった私を、何とかできたらいいと思ってるんだろう。  けれど、その見え見えの誘いに嫌悪感があるわけではなかった。私はこの男を好きではないが、別段嫌いでもなかった。 「桐島さん、お昼にしません?」  女の子の声がして、私と園田課長は同時に振り向く。ショールームの奥のドアから、社員の女の子が顔を覗《のぞ》かせていた。 「課長駄目ですよ。こんな所でさぼって」 「いや、桐島君があんまり暇そうだから、話し相手になってたんだ」 「ほんとは自分が構ってもらいたかったくせに」  彼女と課長は声を合わせて笑った。私はさすがに白けて、無言で事務所へ上がるドアへ向かった。  この会社は雑居ビルの一階をショールーム、二階と三階を会社の事務所として使っていた。と言ってもワンフロアのスペースは驚くほど狭い。システムキッチンの会社というから自社製品を作っているのかと思ったらそうではなく、ヨーロッパのキッチン家具を輸入して販売している貿易会社だった。  いざ働いてみると、派遣会社から聞かされていたのとは違うことはよくあることだ。雛子は話が違うと怒っていたけれど、私にしてみれば時給や勤務時間が違わなければ、どんな会社だろうが関係ない。  そう、お金さえきちんと貰《もら》えれば、どんな会社でもいいと思っていたはずだった。  会議室のドアを開けると、制服姿の若い女の子がふたりテーブルを囲んでいた。私の後ろから、呼びに来た先ほどの女の子が続いて入って来る。 「桐島さんは今日もサンドイッチ? じゃあコーヒーのほうがよかったかしら」  湯飲みに日本茶を注ぎながら、ひとりが聞いてくる。 「あ、お茶でいいです」 「さ、食べましょ」  三人は、花柄やらスヌーピーやらの布巾《ふきん》に包まれたお弁当を食べ始めた。私は朝、駅で買ったサンドイッチを開け、小さな音で点《つ》けてあるテレビを見ながら食べた。三人は昨日見た連続ドラマの話をしている。 「ねえ、桐島さんは見てる?」  急に聞かれて、私は一瞬何のことかと思った。今彼女たちが話していたテレビドラマを私も見ているかと聞いたのだ。 「たまに見てるわ」 「面白いわよねえ、あれ」 「別に」  自分でもそっけない返事だったと思った。私の冷たい反応に、彼女たちがぎょっとしたようにこちらを向く。それで私は慌てて付け加えた。 「最終回はどうなるのかしら。ふたりは別れちゃうのかしらね」  多少わざとらしかったけれど、私の明るい声にお嬢様たちはほっとした様子だった。やっぱりハッピーエンドがいいわよねと言ってまた話が盛り上がる。私は内心どっと疲れて、サンドイッチの最後の一切れを口に入れた。 「そういえばさ、園田課長のネクタイ見た? すごいよね。浮世絵柄」 「見た見た。あれキヨスクで買ったんだって言ってたよ」 「えー? どうして?」 「昨日、酔っぱらってカプセルホテルに泊まったら、ネクタイどっかいっちゃったんだって」 「それにしても、もう少しマシな柄売ってないわけ?」  三人は一気に喋《しやべ》ると弾《はじ》けるように笑った。  私もそう思う。課長のネクタイはひどいと思うし、テレビドラマも好きだからいろいろ見ている。そういう話題は嫌いじゃない。むしろ、きゃあきゃあ騒いで盛り上がるタイプなのだ、私も。  なのに、どうしてだか、この子たちを前にすると私は硬くなってしまう。もちろん恥ずかしがってるわけでも、恐がっているわけでもない。  彼女たちは、皆私より二つか三つ年が若い。同じように長く髪を伸ばし、きちんと髪止めでまとめている。いつぞやの展示会で私をババアよばわりした子みたいに、目がぎらぎらしていない。ごく一般的な家庭で両親に愛され、すくすくと育ったのんびり者のお嬢さんというところだ。  私は最初から、彼女たちに違和感を感じていた。  私ひとりが黙ってお茶を啜《すす》っている前で、彼女たちは楽しそうに喋り続ける。その話題は健康的で、たとえ人の悪口であっても可愛気《かわいげ》があった。  彼女たちは紺の事務服を着、私はショールーム用のレモン色のワンピースを着ている。けれど、野暮《やぼ》ったい制服を着ている彼女たちのほうがとても清楚《せいそ》に見えた。他の人が見たらどうかは分からないが、少なくとも私はそう感じる。  ふっくらと白い指先や薄化粧の頬《ほお》、母親の作ったお弁当。そういうものが、私と彼女たちの間にきっちりした線を引く。何か違う。何を言ってもわざとらしくなってしまう。  彼女たちは最初から友好的だった。お昼ご飯に誘ってくれ、午後にはお茶とお菓子を持って来てくれた。けれど、三日ぐらいで私は本気で疲れてしまったのだ。  かみ合わない空気に居心地の悪い思いをしているぐらいなら、休憩時間ぐらい別にとってひとりでゆっくりしたい。そう思って、お昼は外へ食べに出るようになった。  すると、雛子がすぐ私のところに電話をしてきた。 「会社の女の子たちは、私達が早く慣れるように気を使ってくれてるんだよ。しばらくは、みんなといっしょに食べたほうがいいんじゃない」  優しく諭すように言う雛子に、私はうまく反論できなかった。今までの私ならそんなの私の勝手よ、とためらいなく口にしただろう。  けれど、私は雛子の言うことを聞いた。別にこの子たちが嫌いなわけじゃない。ただ、どう馴染《なじ》んでいいか分からないのだ。雛子の言うとおり、しばらく我慢すればうまく馴染めるかもしれないと思った。 「桐島さんって彼氏いるんでしょ? どういう人? かっこいい?」  さっき私を呼びに来た女の子が、首を傾《かし》げて聞いてくる。彼女は三人の中でいちばんあどけない顔をしていた。 「桐島さんの彼だったら、きっとすごい素敵なんじゃない」 「そうよね。桐島さん美人だもの」  にっこり笑った顔がみっつ、こちらを見ている。どう答えたら無難か私は考えた。 「この前まで不倫してたんだけど、奥さんにばれちゃって別れたの。今狙ってるのはお医者さん。素敵じゃないけどお金は持ってそうよ」  つい一番無難でない答えが口をついて出てしまって、私は自分自身にうんざりした。この性格を直さなくては、きっといつか身を滅ぼすだろう。  ぎょっとした三人の目が、私をじっと見つめていた。  祖母が入院してから一カ月がたった。  鞭打《むちう》ちになった首は最初からそう重症ではなかったので、もう痛まないようだ。けれど階段から落ちたときの怪我《けが》が思わしくない。もう歩けるはずだとリハビリをするのだが、祖母は痛がって一歩も歩こうとはしなかった。右手のほうも、痛むからなのか生きる気力がなくなってしまったからなのか、祖母は自分で箸《はし》を持とうとはしなくなった。  頭のほうは、完全にぼけたというわけではなさそうだった。ぼけたというより、強力にぼんやりしているという感じに近い。私の顔も忘れたわけではないのだ。ただ、ときどき私が大人になったことを忘れたり、私の母と混同したりする。そうかと思うと突然正気に戻って、ずっと休んでお華の生徒さんたちに申し訳ないなんて言ったりもする。 「おばあちゃん、今日は具合どう?」  仕事の帰り、私は遊びに行かないかぎりは病院に顔を出していた。頭の上の蛍光灯が妙に煌々《こうこう》と病室を照らしている。その分、カーテンの隙間《すきま》から見える夜の闇《やみ》が、深く冷たいものに見えた。 「……ああ、椿」 「今日はちゃんとご飯食べた?」 「まあね」  祖母は力なく答えた。病院のご飯なんか不味《まず》くて食べられないよ、と毒づいてくれたらいいのにと私は唇を噛《か》む。  あいかわらず元気はないが、それでも今日は比較的調子がいいようだ。ちゃんと会話になる。私はベッドサイドに花が飾られているのに気がついた。白い百合がかすみ草と共に生けられている。 「昼間、お母さん来たの?」 「……いや」 「じゃあ、誰かお見舞いに来てくれたの?」 「…………」  祖母は答える気力もないのか、背中を丸めてうつむいたきりだ。 「このお花、誰が持って来てくれたの?」  私は耳元で大きな声を出す。祖母はゆっくりこちらを見た。 「……知らない人が」 「え?」 「知らない女の人が来たんだ。あんた、あの人知ってるかい?」  あの人と言われても、全然見当がつかなかった。 「どんな人?」 「見たことがない人だよ」 「それじゃ、分かんないわよ」 「中年の女の人だったわよ」  声をかけられて私は顔を上げた。いつぞやの小柄な看護婦が笑顔で立っていた。 「あ、こんばんは」 「いつも大変ね。仕事帰りなんでしょう?」 「ええ。でも、どうせ家に帰ってもすることないし」  彼女の名字は儘田《ままだ》という。からだが小さいので仲間たちにチーママと呼ばれているようだ。そう言われれば、どこか色気のある顔をしている。 「昼間、おばあちゃんのところに来た人、親戚《しんせき》だって言ってたわよ。椿さんのお母さんより、もうちょっと若そうな人」 「ふうん。誰だろ」  百合の花の花粉が、サイドテーブルの上に零《こぼ》れ落ちていた。私はティッシュで花粉を拭《ふ》きながら首を傾げた。親戚たちは祖母が入院したばかりのころ、ちょろっと顔を見せ、それで義務を果たしたと思っているのだろう、二度と見舞いになんか現われなかった。  それにしても匂《にお》いがきつい。きれいはきれいだけれど、何となくいやな感じがした。白一色の花束を病人に持って来ていいんだっけと私は考えた。マナーや常識に弱い私には考えたところでよく分からなかった。 「今度いらしたら、名前聞いておいてあげるわ」 「すみません。お願いします」  チーママは私に好意的だ。最初のころは疑り深そうな顔をしていたのに、私と母がしょっちゅう顔を出すのを見て、態度を軟化させた。彼女の態度はとてもはっきりしている。よく顔を出す家族とたまにしか来ない者とでは、明らかに応対の仕方が違った。 「おばあちゃん、おなか空いたんじゃない?」  声色を変えて、チーママは祖母に話しかけた。 「ご飯沢山残したんだってねえ。駄目ですよ、ちゃんと食べなきゃ。食べないとお通じも悪いんですからねえ」  彼女は赤ん坊にするように祖母の顔を覗《のぞ》き込んだ。私は思わず立ち上がる。 「売店でパンでも買って来ます。おなか空いたままだと、夜中に起きて騒ぐでしょ」  チーママの返事も聞かず、私はすたすたと病室を出た。  何だかすごく腹が立った。祖母は赤ん坊ではないのだ。私の何倍も生きていて、私の何倍も美しい畏《おそ》れ多い人なのだ。それを何なの、あの態度は。人の大事なおばあちゃんをぼけ老人扱いしないでほしい。  エレベーターで地下まで下り、怒りに任せてずんずん歩いて行く。廊下の角を曲がると、売店のシャッターは下りていた。頭に来ている時は、こんな些細《ささい》なことすら死ぬほど腹が立つ。  私は何か蹴飛《けと》ばす物はないかとあたりを見回した。けれど、破れかけたソファの横にあるスタンド式の灰皿しか見当たらなかった。こんな物を蹴り倒してもあとで掃除が大変なだけだ。それよりも煙草《たばこ》でも吸おう。  私は髪を掻《か》き上げてソファに座る。バッグから煙草を出して一本くわえたとき、廊下の向こうから人の足音が聞こえた。顔を上げると、ちょうど角を曲がって来た看護婦と目が合った。魚住だった。 「逃げることないでしょう」  私を見たとたん、慌てて踵《きびす》を返した彼女を呼び止める。彼女の大きな背中が止まった。そしてしぶしぶ振り返る。 「コーヒー買おうと思って」  気まずそうに魚住は言った。 「じゃあ買えば? 休憩?」 「……まあね」  彼女は私の前を通って自動販売機に向かった。煙草に火を点《つ》けながら、私は彼女の大きなお尻《しり》を見た。あと十キロ、いや五キロでも体重を落とせば、もう少し見られるようになるのに。それに、白いストッキングの中の、手入れしていない脛毛《すねげ》を何とかしてほしい。同じ年数だけ女をやってきた人間とは、とても思えなかった。この前彼女は、人間は見た目どおりと言っていたけれど、では自分はどうなんだと私は苦笑いをする。 「お隣り、どうぞ」  私が掌《てのひら》を見せると、彼女は一瞬ためらってから諦《あきら》めたように私の隣りに座った。 「何時まで仕事なの?」 「今日は夜勤だから、朝までよ」 「へえ。大変なのね」 「別に。仕事だから」  そこで会話が途切れる。廊下の電気は病室に比べてずっと暗い。暖房もあまり効いていないし、何の物音も聞こえない。だから、魚住がコーヒーを啜《すす》る音が耳に障った。 「グンゼの後輩なんだって?」  私の言葉に彼女は突然むせだした。げほげほ咳《せ》き込んでいる彼女を、私は呆《あき》れて眺める。 「そんな過激に反応しなくてもいいわよ」 「……その話題はやめない?」  むせながら彼女は言う。 「中学のとき、同じ学年にいたんでしょう? 覚えてなくて悪かったわ。何組にいたの?」  私はもう一本煙草をくわえると、ライターを手に持った。すると魚住が素早く私の口から煙草を引っこ抜いた。 「何するのよ」 「私の近くで煙草吸わないで」  むせたせいか怒りのせいか、彼女は少し涙ぐんでいた。 「でも、ここ灰皿あるわよ。禁煙じゃないんでしょう?」 「煙草には発癌《はつがん》物質が含まれてるのよ」  甲高い彼女の声に、私はうんざりと首を振った。 「癌になろうがどうしようが、私の勝手でしょう?」 「あなたの健康なんて別にどうでもいいわ。でも他人の吸った煙草で自分が殺されるのは我慢ならないのよ」 「何を大袈裟《おおげさ》な」 「大袈裟じゃないわよっ」  魚住の悲鳴のような声は、長く延びた廊下の先まで響き渡る。私はぽかんと口を開けた。 「知らないなら教えてあげる。煙草の中にはニトロソアミンとベンツピレンっていうのが沢山入ってるのよ。それをマウスの皮膚に塗ると、何カ月かで皮膚癌になるの」 「え? ニトロとベンピ?」 「黙って聞きなさいよ。そばにいる人が十本煙草を吸うと、そこにいただけで一本吸ったことになるんですって。あなた、私が肺癌になったら責任取ってくれるわけ? 私だけじゃないわ。あなた、煙草吸うとき、まわりの人間のこと考えたことある?」  彼女の剣幕に、私は言葉を失った。煙草の害を聞かされて驚いているのではない。魚住の病的なまでの健康崇拝に驚いていたのだ。 「十本も吸ってないじゃない」  驚きのあまり、私は怒るのも忘れて見当違いのことを言った。 「そんなことを言ってるんじゃないわよ。ああ、そうね、分かったわよ。じゃあ、あなたみたいな馬鹿でもピンとくるように言ってあげる」  馬鹿とは何よ、と言い返そうとしたとたん、先に彼女がまくしたてた。 「煙草を吸うとね、からだの中のビタミンCが壊されるの。そのうえニコチンは中性脂肪とコレステロールを増やすから、吸い続けていくうちにお肌ぼろぼろのデブになっちゃうのよ」  これは発癌物質の話よりも応《こた》えた。いくらダイエットしても体重が落ちないのも、最近化粧の乗りが悪いのも、みんな煙草のせいなのだろうか。しかし、デブにデブと言われるのは気にくわない。  私は黙ったまま、おもむろに煙草をくわえて火を点けた。それを見た魚住の目がつり上がる。罵倒《ばとう》の言葉が口から飛び出る前に私は彼女の顔に思い切り煙を吹きかけた。 「な、何するのよ。信じられないっ」 「魚住さんの言うことはごもっともかもしれませんけどね。私はあなたが嫌いだわ。あんたの言うことが気にくわないわ。煙草ぐらいでカリカリしちゃって馬鹿みたい。人のこととやかく言う前に、その足の毛を何とかしたら? 大魔神じゃなくて人間なんだから、もう少しきれいになって人から好かれようと思いなさいよ」  大魔神と言われて、魚住の顔色が変わった。私は見せつけるように、自慢の足を組んでにっこり笑う。 「……信じられない」 「え? なあに?」 「信じられないって言ったのよ。人に面と向かってそんなこと言うなんて、あなた性格異常だわ」  性格異常。私はいろんな悪口を言われたことがあるけれど、性格異常というのは初めてだった。 「私だってあなたが大嫌いよ。昔からあなたはいやな女だったわ。みんなもあなたを嫌ってた。あなたは私のことなんか覚えてないでしょうけど、私は覚えてるわ。あなたは友達ひとりいない嫌われ者だった」  私は分厚い唇を震わせ毒づく魚住を見上げた。 「あなたと群贅さんのことは有名だったわ。それなのにあなたは、平気な顔していろんな男の人と付き合ってた。女の子の前じゃつんつんしてるくせに、男の子と話すときだけ猫撫《ねこな》で声を出してた。嫌われて当たり前よ」  卑屈に笑って彼女は言った。 「大人になってもあなた全然変わってない。デリカシーのかけらもない年中発情期の馬鹿女のままよ。あなたみたいな人こそ、死ねばいいんだわっ」  肩で息をしながら彼女は続ける。だんだん声のボリュームが上がってきた。 「病院に勤めてるとね、沢山人が死ぬのを見るわ。何も悪いことしてない、真面目《まじめ》に生きてきた人が死んでいくのよ。生まれてから一度も歩いたことがなかった五歳の女の子の代わりに、家族を残して癌で死ぬお父さんの代わりに、あなたが死になさいよっ!」  魚住の離れた両目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。大きな背中をくるりとこちらに見せて彼女は駆け出した。  私は魚住の背中が角を曲がって見えなくなると、今度こそ本当に灰皿を蹴《け》り倒した。  夜の病院の廊下に、その音が響き渡る。私は奥歯を噛《か》みしめてずっと立ち尽くしていた。 「群贅です。留守にしていますのでメッセージを」  そこまで聞いて、私は公衆電話の受話器を乱暴に戻した。  ここのところずっと群贅と連絡が取れない。仕事先に電話されることを彼は嫌うので、一日おきぐらいに彼のマンションに電話をしているのだが、ずっと留守番電話になったままだ。本当にいないのかもしれないし、居留守かもしれない。どちらにしろ、誰とも話したくないという意思表示なのだ。  私は諦《あきら》めて電話ボックスを出た。十二月の夜の冷気が、あっという間にコートの中まで入り込み、背中にぞくっと鳥肌が立った。  誰かに迎えに来てもらおうか。車を持っていて、頼めばどこでも迎えに来てくれる男の子が何人か頭に浮かんだ。けれど、しばらく考えて私は舗道を歩き出した。私鉄の駅まで歩いて五分だ。今日はおとなしく電車で帰ろう。私はマフラーに顔を埋め、自分の爪先《つまさき》を見ながら歩いた。  群贅はときどき、私の前からいなくなる。普段の彼は、しつこいぐらいまとわり付いてくるのに、周期的に私から離れていくのだ。電話も通じないし、偶然街やクラブで見かけても、怒ったような顔で私を無視する。失礼しちゃうわと私も腹を立て、しばらく放っておくと、やがてまたいつもの群贅に戻り私のまわりをうろつくようになる。  私には、群贅が分からない。どうしてそういうことをするのだと聞いてみたこともある。すると彼は、ときどき俺《おれ》を知ってる人間に会いたくなくなるときがあるんだと言った。それ以上は何も話してはくれなかった。  私も今は、誰にも会いたくなかった。そういう気分を私は初めて知った。群贅に電話をしたのだから、彼には会いたかったのかもしれない。けれど、お酒を飲んだり踊ったり、誰かとセックスしたりする気にはなれなかった。むしゃくしゃしたときの私は、そうやっていやなことを忘れてきたはずだったのに。  あなたが代わりに死ねばいい。魚住の言葉が耳の奥で何度も響く。思い出すたび、猛烈に腹が立った。そんなことを、他人に言われる筋合いはない。八つ当たりもいいところだ。  けれど、怒りの底のほうに何か違う感じのものがへばりついていることを私は感じていた。  悔しい。認めたくない。けれど、どうしようもなかった。私は落ち込んでいるのだ。自分で自分を持て余していた。  群贅もそうなのだろうか。自分が間違っているような気がして、物事がうまく運ばないのは自分が悪いからだという気がして、自信をなくしているのだろうか。誰かと話をしたいのに、そうするのが恐くてひとりで夜の道を歩いているのだろうか。  私は目の前が明るいことに気が付いて、足を止めた。駅の改札口が夜の中に明るく浮き上がっている。私は大きく息を吐いた。  どうかしてる。感傷に浸るなんて私にも群贅にも似合わない。だいたい群贅が私のいない所で何をしているかぐらい、本当は知っているのだ。  珍しくものを考えたので疲れてしまった。早く帰って眠ろう。私は気を取り直して、改札口に向かった。  翌朝、私は父の声で目を覚ました。  居間で父が電話をしているようだ。ドア越しなのでよく内容は聞き取れないが、誰かを罵《ののし》っているような感じだ。 「休みだっていうのに、やめてよね」  私は毛布を被りなおしもう一度目をつぶった。けれど、父の苛立《いらだ》った声がまとわりついて落ちつかない。しばらく電話が終わるのを待っていたが、私は辛抱しきれずがばっと起き上がった。  わざと大きく音を立てて自室のドアを開ける。リビングのソファに座った父が、電話の子機を持ったまま振り返った。 「ああ、また電話する。いいか、勝手なことをするんじゃねえぞ」  口汚なくそう吐き捨てると父は電話を切った。私は何も言わずに、父の後ろを足音を立てて通り過ぎようとした。 「お茶入れてくれ」  父はこちらも見ないで言った。 「……お母さんは?」 「病院」  私はパジャマ姿のまま仕方なくキッチンへ行った。やかんに水を張り、ガスにかける。お湯が沸くまでの間、私は流し台に寄り掛かり、リビングにいる父の姿を眺めた。  中年にしてはそう脂肪が付いていないし、髪も生え際が少し白くなったぐらいでハゲていく兆候はない。パジャマの上にガウンを羽織った姿もだらしなくは見えない。ときどきクラブやバーで声をかけてくる脂ぎった親父《おやじ》たちに比べれば、かなりいい線いっている。  けれど、私は父が嫌いだった。世の中で一番嫌いな人間は父だ。  父は汚ない。あいつが母の子宮に精子を送り込み、そこから私が生まれたのかと思うと真剣に鳥肌が立った。  父は自分の汚なさを、隠そうともしない。父は自分で事業をやっていて、相当羽振りがいいようだ。社員旅行と称して、毎年東南アジアへ旅行に行っている。中年の親父が十人ほどでタイやシンガポールへ毎年何をしに行くと言うのか。誰が見たって分かる。当然母だって気が付いているはずだ。  それでも父は知らん顔だ。あれは私が高校生ぐらいのときだったろうか。父が休みの日、母が買い物に出掛けた隙《すき》に、父はどこかへ電話をかけた。私が試験休みで、まだ部屋で寝ていることを知らなかったのだ。父は友人らしい人と裏ビデオの話を始めた。ダビングするから三万で買わないかと父はその人に勧めた。相手が渋っている様子を聞くと、父はそのビデオが無修整でどんな激しいものかということを話し出した。父の口から出る汚ならしい言葉。私はもっと小さいころから父の本性に気が付いていたが、それでもドアの中で愕然《がくぜん》と立っていた。  一見紳士に見えるだけに、私は余計父が許せなかった。俗物ならば俗物らしく、家庭など持たずにいればいいではないか。  父は母など愛していない。父は女を人間だと思っていない。若いころは貧乏で、祖母の財産目当てに婿入りしたと誰かに聞いた。お金目当てに母と結婚したのなら、もう母は用済みだろう。さっさとこの家を出て行ってほしかった。  父は愛人宅に泊まるか、夜遊びをするかで、家にいることは少なかった。ところが最近、妙にこうやって家にいることが多いのだ。女に愛想を尽かされたか、仕事が振るわないのか、こうしてリビングでぐったり座っている姿が目につく。祖母が以前、父の具合がよくなさそうだと言っていたのは、あながち嘘《うそ》ではなかったようだ。  けれど、そんな姿も私には目障りなだけだ。同情するどころか、ざまあみろとさえ思う。父のような人間は、必ず泣きをみるに決まっているのだ。いつまでもやりたい放題生きていられるわけがない。  私はお茶を入れると、それを父の前に持って行った。無言で置いてさっさと行こうとすると、また父が私を呼び止めた。 「おばあちゃんはどうだ?」  父の顔を正面から見たのは久しぶりだった。目が黄色く濁っている。吐き気を覚えて私は顔を背ける。 「どうって?」 「母さんは、ぼけたと言ってたけど」 「ぼけちゃいないわ。お医者さんもアルツハイマーじゃないって言ってたし。心配なら自分で病院へ行けば?」  父が祖母を心配するわけがない。心配するとしたら、祖母が死んだときの生命保険の額ぐらいだろう。 「この前、父さんの口座から金を下ろしたのはお前か?」  急に話が変わって、私は返事をするタイミングを逃した。 「お前ももう働いてるんだから、親の口座から金を盗むようなことはするな。いいな」  命令だった。私はくるりと背中を向けると、自分の部屋へ戻る。大きな音をたててドアを閉めた。  頭にきた。この前、別れた男にスーツを買ったときは十万しか下ろさなかったけど、今度は百万ぐらい下ろしてやる。  父とふたりで家にいるのもいやだったので、私は車で家を出た。空がからりと晴れているせいで、少しは気分がよくなった。とりあえず祖母のところへ顔を出して、父の口座から下ろしたお金で遊びに行くかと私は考えた。  病院の駐車場に車を入れて、私は病院のそばにある銀行へ歩いた。鼻唄《はなうた》まじりにキャッシュカードを入れると、現金の代わりに残高不足と書かれた明細表が機械から吐き出された。  くそ親父め。他の口座に移しやがったな。  舌打ちをしてから、私は仕方なく自分の口座からお金を下ろす。コンパニオンをやって稼いだお金はほとんど使っていないので、自分の口座にはちょっと驚くほどのお金が入っていた。何となく嬉《うれ》しい気分になって私は銀行を出た。  病院の入口で、私は母にばったり会った。母は帰るところだったらしく、コートを着て洗濯物が入った紙袋を持っていた。 「あなた、車で来た?」  にこりともせず、母はそう聞いてくる。 「うん」 「買い物して帰りたいから車貸して」 「えー? やあよ。私だってこの後予定が」  母は黙って私に右手を差し出した。非難の眼差しに、私はしぶしぶ車のキーを渡す。あの車はもともと父が母に買い物用にと買い与えた車なのだ。  祖母の具合もじゃあねもなしに、母は私から目をそらして歩き出す。母の愛想のない後ろ姿が病院の自動ドアから出て行こうとするのを私は何気なく見ていた。すると母が急にこちらを振り返った。 「お父さん、家にいた?」 「いたよ」 「そう」 「なんで最近、あの人よく家にいるのよ」  責めるように私は聞く。母は私の顔を無表情に見たかと思うと、何も言わずに外へ出て行った。 「……くそばばあ」  口の中で小さく呟《つぶや》くと、私も母と反対方向に歩き出した。  病室に上がると、祖母より先に中原先生の姿が目に入った。 「先生。お久しぶりです」  嬉しさのあまり駆け寄って行くと、彼は首を上げて困ったように笑った。見ると、祖母の隣りの患者さんに、点滴の針を刺そうとしているところだった。 「あいたたたっ。痛いよ。下手くそだね」  うちの祖母より十は年がいっていそうな老婆が声を上げる。やせてしわしわなわりには大きな声だ。 「先生、そこじゃありません。もっと奥」  後ろに立っている看護婦が、腕組みをして中原先生の手元を見下ろしている。彼は頷《うなず》いてもう一度針を刺した。老婆がさっきよりもっと痛がった。  私は目をぱちくりさせて、その様子を見ていた。私が見ていただけで三回チャレンジしたけれど、針はうまく血管に刺さらない。けれど看護婦はただ黙ってじっと見ている。  人の気配がしてふと横を見ると、チーママがいつの間にか隣りに立っていた。 「先生、苦労してるみたいね」  くすくす笑って私に囁《ささや》いた。 「どうしたの、あれ。代わってあげればいいのに」 「自分でやらなきゃ、うまくなんないの」 「あれで本当にお医者様なわけ?」  私は多少がっかりして聞いた。 「医者は医者だけど、まだ研修医だもの。理論はしっかりしてても注射もろくに打てないのよ」 「へええ」 「この前なんて、手術の途中で貧血起こして倒れたんだから」  うそお、と私は口の中で呟いた。そこでやっと、針が入ったらしく中原先生がよろよろと立ち上がった。 「先生、次は内科の方の点滴もお願いします」  チーママが追い討ちをかけるように言うと、彼は肩を落としたまま首だけで頷いた。 「先生? 大丈夫?」  病室を出て行く姿があまりにも哀れで、私はそっと声をかけた。彼は今初めて私に気が付いたように、おやという顔をした。 「やあ、椿さん」 「大変なんですね」 「ええ、まあ、点滴当番なんですよ」  いろんな当番があるもんだなあと感心していると、それじゃと呟いて中原先生が歩き出す。私は慌てて彼を引き止めた。せっかく会えたのに、この機会を逃してなるものか。 「あの、先生。今日は何時までお仕事ですか?」 「ええと……今日は夕方には帰っていいんだけど」 「よかったら、お食事しません?」  彼は眉毛《まゆげ》を上げて私の顔をじっと見た。 「食事? 僕と?」 「ええ。何か予定でもあるんですか?」  悲しそうな顔をしてみせると、彼は首を振る。 「弁当でも買って帰ろうかと思ってただけです」 「じゃあ、決まりね」 「はあ……ええと、じゃあ、どこで待っててもらおうかな」  彼は指でこめかみを揉《も》み、何やら必死で考えている。待合わせ場所もスムーズに出てこないなんて、これはかなり純朴だ。 「裏に喫茶店があったでしょ。そこで待ってます」 「ああ、そうだね。裏の喫茶店ね」  ぼんやり呟くと、彼はコロンボのように片手で目頭を押え、白衣を翻して病室を出て行った。  やった。デートだわ。これでもう、半分階段上がったようなものだ。 「おばあちゃん、聞いてた? 聞いてた?」  一部始終をベッドに寄り掛かって見ていた祖母に、私はうきうき話しかけた。けれど祖母は、じっと前を見たままぴくりとも動かない。 「おばあちゃん?」  話しかけても、祖母はどろんと前を見ているだけだった。  中原先生は私を、病院の近所の居酒屋に連れて行った。おでんの匂《にお》いがするその店の戸に手をかけた彼を見て、私は内心がっかりしていた。ずいぶん軽く見られてるんだなと思うと悲しかった。  けれど、中に入ってみると、そこは思ったよりもきれいな店だった。居酒屋というより小さな割烹《かつぽう》という感じがする。 「イタリア料理とかのほうがよかったのかな?」  何も考えてないのかと思ったら、中原先生はおしぼりを使いながら私の顔色を窺《うかが》った。 「いいえ。こういう所のほうが落ちつきます」 「でしょう? ずっと湯豆腐が食べたいと思ってたんだけど、ひとりじゃねえ」 「いっしょにお鍋《なべ》してくれる女の人、いないんですか?」 「いませんよ。僕みたいな野暮《やぼ》な男には」  ビールを私のコップに注ぎながら、彼は照れくさそうに笑った。皺《しわ》の寄った目尻《めじり》と意外とがっちりした肩を間近に見て、私は軽いめまいを起こした。唐突に、強烈に、目の前にいるこの人が愛しいと思った。 「私、先生が好きなの」  コップをテーブルに置くと、私はそう言った。とたんに先生はつるっとビール瓶を落とす。 「わっ。すいません。あーあ。おしぼり、おしぼり」  テーブルの上にぶちまけられたビールを、彼は慌てておしぼりで拭《ふ》き始める。店員が気が付いて、ダスターを持って走って来た。 「あー、スカートにかかっちゃったな。これで拭いて。ほんとにすみません。クリーニング代もちますから」  先生のポケットから現われたくしゃくしゃのハンカチを受け取ると、私は急に鼻の奥がつんとするのを感じた。あれ? と思ったときには両目から涙がぽろぽろと落ち始める。 「つ、椿さん?」 「あれ? 私、どうして泣いてるのかしら?」 「どうしてって、こっちが聞きたいですよ。何だか分からないけど、謝ります。だからこんな所で泣かないで」 「……はい。すいません」  私は先生のハンカチで涙と洟《はな》を拭《ぬぐ》った。そのうち可笑《おか》しくなってきてくすくす笑ってしまう。 「可笑しいですか……?」 「ごめんなさい。私、どうかしてるみたい」 「まあ、いいや。とにかく飲みましょう」  新しくもらったビールを注いで、私と先生はグラスを合わせた。 「ねえ、先生。本当に私と結婚してくれないかしら」  今度は心の準備ができていたらしく、彼は何も倒さなかった。その代わり不審げな視線をこちらに向ける。 「あのね。椿さん」 「はい」 「僕をからかってます?」 「いいえ」 「じゃあ、どうしてそういうこと言うの?」 「先生が好きだから」  彼はしばらく唇を尖《とが》らせて、何やら考えていた。そこでテーブルに湯豆腐が届く。 「その話は保留にしましょう」 「ええ。私、おなかすいちゃった」  しばらく私達は黙って豆腐を食べていた。柚子《ゆず》の香りと、湯気で曇った先生の眼鏡を見ていると、また両目の奥が熱くなる。  私が泣くなんてどうしたんだろう。そりゃテレビや映画を見て泣くことはある。そういうときは私は簡単に泣くのだ。だけどこんな風に、嬉《うれ》しくて幸せで感動して泣いたことなんて今までなかった。  目の前でふうふう言いながらお豆腐を食べている男の人が、私は好きだと思った。そうか、私は野暮な男が好きなのだ。天使様のように清らかな心を持った、素朴な人が好きなのだ。好きだと思うだけで、何だかじわっと泣けてくる。 「椿さんは恋人いないの?」  ふいに先生が口をきく。 「いないわ」 「そんなに、きれいなのに?」  私は黙って微笑《ほほえ》んだ。 「あのさ、君は僕のことが好きだって言ったね」 「ええ」 「でも、君は僕のことを知らないだろう? 年とか、どこでどうやって育ったとか、好きな食べ物とか」 「研修医で注射が下手で、お豆腐が好きなことぐらいしか知らないわ」  中原先生は箸《はし》を置くと、私の目を見て尋ねた。 「僕が医者だから? 君は結婚を焦っていて、ちょうどいい具合に金を持ってそうな野暮な男が現われた。そういうところかい?」  危うく頷《うなず》きそうになった。いけないいけないと胸のうちで唱えてから、私は掌で顔を覆う。 「ひどいわ。どうしてそんなに疑るの?」  泣き真似《まね》も本当に泣いた後だと簡単だった。嘘《うそ》なのにちゃんと緩んだ涙腺《るいせん》から涙が溢《あふ》れてくる。 「あー、すいません。泣くのだけはやめて。僕はあんまりもてたことないから、そうストレートに言われると逆に信じられないんだよ」 「分かるわ」 「だろう?」  私は先生のハンカチで涙を拭きながら、戸惑った彼の横顔を窺い見る。 「でもなあ。いきなり結婚と言われても」 「じゃあ、お付き合いしてください」 「うーん」  悩むな、ぼけ。付き合えばいいでしょう。何が不満なのよ。 「僕は君のこと、ほとんど知らないし」 「付き合ってれば、いやでも分かるわよ」 「そりゃまあ、そうだ」 「先生はどうしてお医者さんになったの?」 「別に深い理由はないよ。実家が開業医だから何となくね」  先生はあまりお酒が強くないらしい。コップ三杯のビールで顔を真っ赤にしている。お酒のせいで少しリラックスしたのか、自分のことを彼は話し始めた。  実家は東北にあること。東京で何年か病院勤めをしたら、最終的には実家に帰って病院を継ぐ予定だということ。研修医の身分なので人が思っているほどお金はないこと。病院が借りてくれているアパートに住んでいること。 「椿さんは? OLなの?」 「ううん。派遣会社に登録しててね、コンパニオンやってるの」 「おお、ほんまもんのコンパニオンかあ」 「今はシステムキッチンのショールームに行ってるわ」 「仕事は面白い?」  無邪気に聞かれて、私は言葉に詰まった。つまらないから辞めたいなんて言うと、呆《あき》れられるかもしれない。 「ええ面白いわ。いろいろ勉強になるし」 「そうかあ。そのうち見に行くよ。ショールームなら行ってもいいんでしょ」 「ほんと? ほんとに来てくれるの?」 「システムキッチン買うわけにはいかないけどね」  私はやっと和んだ顔をした先生を見て、本気で嬉《うれ》しくなった。  これでもう大丈夫。この人は私を助けてくれる。システムキッチンだってマンションだって今に私のために買ってくれる。泣き出した私に、いつだってハンカチを差し出してくれるのだ。 「祖母が退院しても、またデートしてくださいね」  私は念を押すように言った。すると先生の顔が微妙に曇った。 「先生?」 「あ、いや。今日、椿さんのお母さんと話したんだけど……」  彼は言葉尻《ことばじり》を濁した。 「おばあちゃんのこと?」 「ああ。退院はちょっといつになるか分からないなあ」 「そんなに悪いんですか?」  思わず乗り出すと、先生はゆっくり首を振った。 「年とってから怪我《けが》するとね。特に足はなかなか戻らないんだよ。体力も落ちてきてるしね。おばあさんはひとり暮らしなんだって?」 「ええ」 「あの状態じゃひとり暮らしは無理だろう。君の家で同居するわけにはいかないのかい?」  心臓がいやな音をたてて鳴り始める。 「アルツハイマーではないようだけど、だいぶぼけが進行してるようだ。ひとりじゃご飯も作れないだろうし、トイレだって行けないだろう。本当は家に戻ったほうがいいんだ。病院に長くいればこのまま寝たきりになっちゃうからね。でも君のお母さんは自宅で看護するのは無理だから、病院に置いておいてくださいと言ってたよ」  言いにくそうに先生はそう口にした。私はじっと食べかけの豆腐を見つめた。 「椿さん?」  呼ばれて私は、先生に目を向ける。 「どうして、おばあちゃん、ぼけちゃったのかしら……」 「まあ、年も年だし」 「でも、ついこの間までぴんぴんしてたのよ。突然つっかえ棒が折れちゃったみたいに、元気がなくなっちゃったの。どうしてこんなことになっちゃったのかしら」  感情の波が胸の中で大きく渦を巻き始める。ここはどこで、自分が今何をしているのかまるで分からなくなる。ただ悲しかった。息が止まりそうに苦しかった。 「おばあちゃんはね、私の憧《あこが》れだったの。いくつになっても恰好《かつこう》よくて、お母さんより何倍も厳しかったけど、何倍も愛してくれた。私のことを本当に考えてくれるのは、おばあちゃんだけだったの。誰もおばあちゃんより、私を愛してくれないわ。こんなの、死ぬよりひどいわ。どうしたらいいのか分からない。私ひとりじゃ何もできないわ」  先生の右手がそろそろと伸びて来る。ためらいがちに彼は私の手を上から握った。  その温かい手を見下ろして、私は唇を噛《か》んだ。もう泣きたくなかったのに、涙が溢《あふ》れて止まらなかった。  中原先生が住んでいるアパートは、病院から歩いて十分ほどの所にあった。車で送って行くからと、ふたりで先生の家まで歩いた。歩いている間中、きっと酔い醒《ざ》ましのお茶でもと言って部屋に上がって、そのまま押し倒されるに違いない。今日は安全日だったかしらとあれこれ考えていると、先生はアパートの下に私を待たせて、本当に車庫から車を出して来た。  そのまま本当にまっすぐ家まで送ってくれて、キスもしないで先生は帰って行った。私はマンションの前で、気が抜けたまま彼の車のテールランプを見送っていた。 「そうか、天使様は婚前交渉はしないのか」  独りごとを呟《つぶや》くと、後ろで誰かが含み笑いをする声が聞こえた。びっくりして振り返ると、植込みの陰にある階段に人が座っていた。 「……誰?」 「今度の男はカローラか。ずいぶん妥協したもんだな」  笑いながら言うと、そいつはゆっくり立ち上がった。暗闇《くらやみ》から、黒いジャケットを着た群贅が電灯の下へ出て来た。 「グンゼっ」 「よう」 「そんな所で何してるのよ」 「何って、椿を待ってたんだ」  彼の吐く息は白く、短い髪から出た耳は寒さのせいか真っ赤になっていた。どのくらいあそこに座っていたのだろうか。 「どうして私のこと待ったりするのよっ」  わけもなく腹が立って、私は声を荒らげる。 「別に。遊びに誘おうかと思って」 「何言ってるの。こっちが捜してるときはいないくせに」 「ああ、留守電聞いたよ」  軽く言うと、群贅は私の手を握って歩き出した。 「ちょっと待ってよ。離して」 「何だよ。行くぞ。路上駐車してんだ。駐禁でも貼《は》られたら、もう点数ないんだよ」 「行かないわ」  群贅の手を振り解《ほど》いて私は言った。せっかく幸せな気分なのに、群贅と遊びたくなんかなかった。 「あのカローラ男とは、いつから付き合ってんだ?」  責める風でもなく、彼はさらりと聞く。 「今日よ」 「ふん。タイミングがわりいな」  群贅はもう一度手を伸ばすと、肩を抱くようにして私を引っ張った。 「やめてよ」 「うるせえな。黙って付いて来いよ」  低く唸《うな》られて、私は抵抗するのをやめた。笑っているけれど、群贅は相当機嫌が悪いようだ。私は諦《あきら》めて彼の車に向かった。  ポルシェに乗り込むと、彼は住宅地の中をものすごいスピードで車を走らせた。乱暴な運転。冷たい横顔。私は顔で何気なさを装っても、電柱すれすれで曲がるカーブを足を踏ん張って耐えていた。こんなところで群贅といっしょに死にたくなんかなかった。  だから高速に乗ったときはやっと少し息がつけた。信号も歩行者もなければ、よほどのことがないかぎり事故らない。 「ねえ、どこ行くの?」  聞いても彼は答えない。その代わり港へ向かうインターでウインカーを出した。 「今からじゃローズベイぐらいしかやってないわよ」  よく行くバーの名前を言うと、群贅は唇の端で笑った。 「ローズベイって言えばさ。昨日、ひとりで飲みに来てた女がいて、ひっかけたんだよ」 「……あ、そう」 「簡単なもんさ。ひとりで飲みに来てる女なんて、やってくださいって看板下げてるようなもんだからな」  返事をする気にもなれなかった。群贅の楽しそうな横顔を、私は呆《あき》れた気分で眺める。 「ブスのくせして、何が『ひとりで飲みたい気分なの』だよ。誰かが声かけてくれんの、ずっと待ってたくせに。じゃあって立ち上がれば、一杯ぐらい奢《おご》ってくださってもいいわよなんて言いやがる。おめえが奢れってんだ」  彼の顔に、やがて苛立《いらだ》ちの影が見えてきた。 「ホテルに連れ込めば、澄ましてたくせに、いきなり俺のもんくわえこむんだ。てめえだけ何回もいきやがって、ブスがひーひー喜んでんじゃねえよ」 「やめなさいよ」  私は彼の言葉を冷たく遮った。  いつでもそうだ。群贅は私の前からいなくなると、夜な夜なバーやクラブを徘徊《はいかい》して女の子を拾っている。そして私のところへ帰って来ると、自慢とも悪口ともつかない体験談を披露するのだ。  群贅は大勢の知らない女をものにすることを楽しんでいる。彼の頭にはステディを持つことなど浮かびもしないのだろう。  別にそれはそれでいい。群贅は私の恋人ではない。彼がそうしたいのなら、いくらでもそうすればいい。けれど、やりたいことをやっているのに、何をそんなに苛立っているのだろうか。 「どうした。焼き餅《もち》か?」 「馬鹿じゃない。そんな話されて誰が楽しいって思う?」 「そうだな。まるでお前のことだもんな」  反論しようと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。私はひとりでバーに行くこともあるし、そこで知らない男に誘われるまま付いて行くこともある。群贅は私のことを言っているのだ。今まで何百回も聞いてきた見知らぬ女の悪口は、私のことを言っているのだ。 「降りるわ。どっかその辺で止めて」  胸がむかむかして、私は早口でそう言った。 「何だよ。怒ったのか」 「当たり前よ。あんたの顔なんか見たくもないわ。車止めなさいよ」 「駄目だ。降ろさない」  平気な顔でそう言うと、群贅は埠頭《ふとう》へ向かってハンドルを切った。コンテナの間を走り抜け、人気のないドックの前に車を止めた。  エンジンを切ると、コンクリートに波がぶつかる音が聞こえた。巨大なクレーンや貨物船には、輪郭をなぞるように小さな明かりが灯っている。車の中はその光で暗いオレンジ色に染まっていた。  どうやって群贅を宥《なだ》めて家まで送らそうかと考えていると、彼は私にのしかかってきた。群贅にキスされながらも、私は冷え冷えと帰り道のことを考えていた。 「グンゼ、もう帰ろう? 明日も仕事なんでしょう」  抱きついてくる彼の背中を撫《な》でながら、私は優しい声を出した。 「お正月にでもどっか遊びに行こうよ。そうだ、一泊してスキーでもしようか。グンゼ、新しい板買ったって言ってたじゃない」  顔を上げた群贅を見て、私はぎょっとした。土色の顔の中にある両目に、激しい憎悪があった。 「ど、どうしたの? 何怒ってるのよ」  群贅は何も言わず、私のセーターの中に手を入れてきた。乱暴にブラのホックを外し、スカートをたくし上げる。 「こんな所でやめてよっ。ちょっと、グンゼ。やめないと本当に怒るわよっ」 「うるせえんだよ。メスブタが」  まるで首でも絞めかねないような口調で彼は唸《うな》った。私は逃げようとして、反射的に彼の頬《ほお》を引っかく。  がりっと音がして、彼の頬に一筋赤い傷が走った。そのとたん、頬を張られた。最初は痛みよりも頭がくらっとして、目の前が暗くなっただけだった。  殴られたのだと気が付いたのは、群贅が私の下着を靴で乱暴に脱がせたときだった。抵抗する間もなく、彼が私の中に入ってくる。  群贅が動くたびに、車も上下に揺れた。私は彼の肩越しに、貨物船の上に浮かんでいる真冬の月を見上げる。その月は涙で歪《ゆが》むこともなく、最初から最後までくっきり私の目に映っていた。 [#改ページ]      4  近いうちにショールームの仕事を辞めようと思っていることを雛子に告げると、彼女は大袈裟《おおげさ》に首を振った。 「辞めたら駄目だよ。絶対、駄目」 「えー? もういいよ。面倒くさいから辞めるわ」  私と雛子は、比較的来客の多い日曜日だけはふたり揃《そろ》って出勤することになっている。それで毎週日曜日は、夕飯がてらいっしょに飲みに行くようになっていた。 「椿ね、ここで辞めたら皆の言うこと、認めることになるんだよ。そんなの悔しいじゃない」 「別に悔しかないってば」 「そんなんだから、椿は誤解されるのよ」  焼き鳥の串《くし》を振り回して、雛子はぶつぶつと文句を言った。 「言いたい奴《やつ》には言わせておけばいいのよ」 「そう思うんだったら、辞めるなんて駄目だよ。こんなのセクハラだよ。セクハラって男の人がするもんだと思ってたけど、そうじゃないのね。女の敵は女だなんて、やんなっちゃう」  私は自分のことのように悔しがっている彼女が、少々うっとうしかった。人のことなんだから放っておけばいいじゃないか。本人が辞めると言ってるんだから、気持ちよく辞めさせてほしい。  最初っから、ひとつの所で長く働くのは気が進まなかった。こんなことになるような気がしていたのだ。  数日前、ショールームに出勤すると、私の仕事用のパンプスが片方なかった。片方だけないなんてどう考えてもおかしい。誰かが悪意をもって隠したのが明白だったからこそ、私は知らん顔でそのまま仕事をしていた。  けれどその日、運悪く私はブーツで来ていたのだ。どう考えてもショールーム用のユニフォームにブーツは合わない。だから着替えをせずお店に出ていると、園田課長が案の定寄って来た。 「どうして今日は着替えないの?」  聞かれて私は肩をすくめた。どうしようかと思ったけれど、ロッカーに置いてあるパンプスが片方なくなっていたことを正直に告げた。課長はしばらく考えると、私に足のサイズを聞いた。答えると彼はそのまま奥の事務所に戻って行った。  昼休み、いつもと同じように三人の女の子たちと食事をした。パンプスを隠したのが彼女たちであることはもちろん分かっていた。彼女たちはいつものように私にもお茶を入れてくれて、いつもと同じに明るく振る舞っていた。けれど、私がユニフォームに着替えない理由を聞かなかったのだ。とぼけるならもっとうまくとぼけろと、私は内心むかむかしていた。  それだけならそう事態は悪くならなかったかもしれない。笑顔の奥でお互い牽制《けんせい》しながら昼食を取っていると、園田課長がそこへ現われたのだ。 「おい、桐島。プレゼントだ」  そう元気に言って、彼は手に持った紙袋を開けながらこちらへやって来た。 「履いてみろ。そう高くなかったから気にするな。やっぱりその恰好《かつこう》じゃ困るからな」  明るく笑って彼は私に黒のパンプスを手渡した。テレビを見ながらきゃっきゃと笑っていた三人がしんと静まる。  有難くも何ともなかった。それどころか、課長のあまりの無神経さに腹が煮えくり返った。それでも私はにっこり笑って課長にお礼を言った。  それからはもう、靴を隠されるぐらいの騒ぎではなかった。書類に判子を押そうと思えば印鑑がないし、湯飲みには雑巾《ぞうきん》がねじ込まれているし、部長には『園田課長と桐島さんはできている』というファックスが送られてきた。課長はもちろんその噂《うわさ》を全面否定したそうだ。それから、課長の態度が掌《てのひら》を返したように冷たくなった。私の顔を見もしないし、挨拶《あいさつ》しても返事もしない。 「あんなに椿ちゃん椿ちゃんってベタベタしてたくせに、何なのあの態度は。本当に椿とできてたならいざ知らず、迷惑なのはこっちだよ。ああ、頭にくる」  自分のお猪口《ちよこ》にお酒を注ぎながら文句を言う雛子を、私は頬杖《ほおづえ》をついて眺めた。  実は園田課長と私はできていた。一回だけだが、例のOAスクールを見に行って、誘われるままホテルに行ったのだ。その後すぐ、あの三人のいやがらせが始まったから目撃されたのかもしれない。  本当のことを言えたら、気持ちがいいだろうなと私は思った。  噂が本当であることを雛子に告げたら、彼女は何と言うだろう。それでは椿の自業自得ではないかと怒るだろうか。それでも同情してくれるのだろうか。  自業自得だなんて私は思っていない。私が誰と寝ようが私の勝手だ。課長に奥さんがいようがいまいが、そんなことは知らない。誘われたとき、寝てもいいと思ったから寝たのだ。そんなことは、仕事とは何も関係ない。誰からも責められるいわれはない。 「私が辞めなくても、きっと派遣会社のほうから首切られるわ」  投げやりな口調にならないように気を付けて、私は雛子にそう言った。  派遣されて働くのと、その会社にアルバイトとして雇われるのではそこが大きく違った。会社側もひとり人間を辞めさせるには、もっともらしい理由をひねり出さないとならない。けれど、派遣の人間の首を切るのはとても簡単だ。あの子は気に入らないから、他の人を回してほしいと言えばいい。すると派遣会社から、明日から行かなくてもいいと連絡が入る。それで終わりだ。  こういう問題を起こせば、たぶん派遣会社のほうに連絡がいっているだろう。噂の真偽など派遣会社は考えない。原因が何であれ、いざこざを起こした人間は迅速に引き上げる。 「派遣だからって、理由もなく辞めさせられるなんておかしいわ。椿が何したって言うの?」  だから課長と寝たんだってば、と喉《のど》まで出かかって、私は何とか飲み込んだ。 「そんなに真剣にならなくってもいいって。しばらくのんびりして、また別のところで働くから」  涼しく言うと、雛子は酔いで赤くなった目を私に向けた。その目に哀れみが見える。それが不愉快で、私は黙ったままあたりめを食い千切った。  あと数日でクリスマスだ。今年はどうやって過ごそうかと私は考えた。  去年は主催者が誰かも知らない大きなパーティに行った。その前は当時付き合っていた恋人と北海道にスキーへ行った。その前のことはもう覚えていない。  今年はできれば中原先生と過ごしたかった。先生の部屋においしい豆腐を買って行こうか。それとも港近くにできたばかりの、新しいホテルで食事をしようか。  うきうき考えながら病院の玄関を入ると、前から魚住が歩いて来るのが見えた。この前の派手な喧嘩《けんか》から、顔を合わせたのは初めてだった。ふたりとも合った視線を反射的に外す。  お互い知らん顔をしてすれ違った。やれやれと肩の力を抜いたとたん、後ろから魚住が怒鳴るように言った。 「桐島さん、紙オムツがもうありませんよっ」  いきなり紙オムツと言われて、私は絶句した。魚住は早口に言う。 「なくなったらちゃんと買い足しておいてくれないと困ります。あれだってただじゃないんだから。それに浴衣の替えももうないわよ。まめに洗濯して持って来てくださいね。こっちは患者さんの洗濯物まで洗う時間はないんだから」  ぽんぽん言われて、私はやっと言い返す態勢を整えた。 「そんなにガンガン言わなくても分かったわよ。もうちょっと優しく言えないの?」 「あなたみたいな人には、このくらい言わないと分からないのよ」 「分かったから、もうあっち行ってよ」 「本当にあなたって失礼な人ね。親切に言ってあげてるのに」 「どこの誰が親切だって?」 「この前は言い過ぎたわ」  話の流れと無関係に、いきなり魚住はそう言った。何を言われたのか分からなくてぽかんとしていると、彼女はどすどすと歩いて行ってしまった。  もしかして、あれは謝ったつもりなんだろうか。私は彼女の背中が廊下の角を曲がるのを見送った。 「今の見た? すっげえブス」  後ろからそういう男の声がして、私は振り返る。若いカップルがエレベーターの前に立っていた。 「そんなこと言うのやめなさいよ」  女の子のほうが男を諫《いさ》める。けれどその声には含み笑いがあった。 「お前、あんな顔に生まれたらどうする?」 「どうもしないわよ」 「せめて少しは痩《や》せればいいのになあ。それにあの厭味《いやみ》な口調。ブスだとやっぱ、虐げられて育つから性格も悪くなっちゃうんだろうなあ」 「下らないこと言ってないで。ほら行くわよ」  女の子は楽しそうに言うと、男を促してエレベーターに乗り込んだ。私は閉じていく扉の前に立ち、露骨にそいつらを睨《にら》んでやった。女の子のほうが私の視線に気が付いて眉《まゆ》をひそめる。その子が何か言おうとしたときにエレベーターの扉が閉まった。  私は髪を掻《か》き上げ、不愉快な思いを抱えて階段へ向かった。  誰でも思うことはいっしょだ。魚住はブスだし性格もいいとは言えない。せめて痩せればいいと思う。男の言葉はそのまま私の気持ちだった。  男の言ったことよりも、私は隣りにいた女の子が気に入らなかった。男の言葉に、自分がブスに生まれてこなかった優越と安堵《あんど》を感じていた。大した顔ではない。普通のその辺にごろごろいる顔だ。けれど、明らかに魚住を見下していた。私だって人のことは責められない。なのに、どうしてこんなに頭にくるのだろう。  苛々《いらいら》したまま病室に入ると、祖母のベッドの回りにぐるりと白いカーテンが掛けられていた。どうしたんだろうとカーテンの中を覗《のぞ》くと、チーママが祖母のからだをタオルで拭《ふ》いてくれていた。祖母は浴衣の両肩を落とし、上半身裸だった。 「あら、椿さん」 「どうもすみません。こんなことまで」 「いいんですよ。これも仕事なんだから」 「手伝います」  チーママはそれじゃと使ったタオルを渡して来た。私は洗面器に張った熱いお湯でタオルを濯《すす》ぐ。絞ったタオルを持って、私は祖母の裸の胸を見下ろした。  こんなになってしまって、というのが正直な感想だった。もともと祖母は痩せてはいたが、入院生活が、祖母をただの年寄りにしてしまった。しゃんと張っていた両肩が落ち、肌の色は暗くくすんで皺《しわ》だらけだ。胸のふくらみはほとんど皺と見紛《みまが》えるばかりだった。  祖母は恥ずかしがるでもなく、ただ黙ってされるがままになっていた。チーママが腕をごしごしと擦ると、気持ちがいいのか少し顔が笑ったように見えた。考えてみれば、ずっと祖母は入浴していないのだ。こうやって、看護婦さんが拭いてくれていたのだろう。 「ずっと、お風呂《ふろ》入ってないのよね」  独りごとのように呟《つぶや》くと、チーママは顔を上げて笑顔で言った。 「あら、週に二度入ってるんですよ」 「え? そうなの?」 「足がこうだから、普通のお風呂にざぶんってわけにはいかないけど、ちゃんとそういう人用のお風呂があって、からだや頭を洗ったりするの」 「知らなかったわ。すみませんでした」  私は思わず頭を下げた。彼女はまた「仕事だから」と明るく笑った。 「魚ちゃんがね、おばあちゃんにとってもよくしてくれてるの。髪洗うのなんか、あんまり頻繁にはできないんだけど、おばあちゃん髪長いでしょう。魚ちゃんが時間みつけてまめに洗ってくれてるのよ。結うのも、魚ちゃんがやってくれてるの」  私がそれを聞いて、すごく驚いた顔をしたからだろう。チーママはタオルを使いながら小さく笑った。 「意外でしょ。あの子、椿さんのことは目の仇《かたき》にしてるもんね」 「ええ、まあ、そうね」 「聞いたわよ」  私はチーママの悪戯《いたずら》っぽい目を見てどきりとした。魚住が私の素行のことを言い触らしたのだろうか。 「中原先生とデートしたんだって?」  からかうようなチーママの言葉に刺《とげ》はなかった。私は胸をなで下ろす。 「いっしょにご飯食べただけよ」 「いい雰囲気だったって、見た人が言ってたわよ」  返事の代わりに、私は適当に笑っておいた。 「でもさ、魚ちゃんの耳に入ったらまずいかもね」  声を落とし、チーママは私を手で呼んだ。裸の祖母を挟んで、私と彼女は顔を近付ける。 「魚ちゃん、中原先生|命《いのち》、だから」 「あ、そうなんだ」  そんな気はしていたから、私は大して驚かなかった。 「悪い子じゃないんだけど、あの子って思い詰めるタイプでさあ。ちょっとでも、私達が中原先生の悪口言うと、むきになって怒るのよ」 「ヘええ」 「あの魚ちゃんが、先生の前だと声が一オクターブ高くてさ、両目に星がきらきら出ちゃってるの。私、あの子と看護学校でいっしょだったんだけどね、ずーっと輪ゴムで髪結わえてたのよ。そんなんだから、化粧したとこなんて一度も見たことなかったの」  輪ゴム。あの茶色の輪ゴムで髪をしばっている女の人なんか、私は一度も見たことがなかった。そりゃあすごい。 「その魚ちゃんが、中原先生がここに来てから、お化粧するようになったの」 「ちょっと待って。あれ、お化粧してるの?」  私は魚住の顔を思い出して、そう言った。 「してるのよ。だって、前は眉毛なんか真ん中で繋《つな》がってたもん。ちゃんと産毛|剃《そ》って、ファンデーション塗って、口紅引いてるのよ」 「あれで?」 「あれで」  チーママは大|真面目《まじめ》に頷《うなず》いた。 「それが泣かせるのよ。私とふたりで夜勤になったときにね、すごく恥ずかしそうな顔して、スカートを買おうと思うんだけど自分でうまく選べないから、いっしょに来てくれないかって言うの。あの魚ちゃんがよ。輪ゴムで髪しばってて、スーパーで売ってるトレーナーしか着てなかった魚ちゃんが」 「恋が彼女を目覚めさせたわけね」 「そうなのよ。可愛《かわい》いじゃありませんか」  私とチーママは、ふざけて泣き真似《まね》をした。 「そんな魚住さんが、初めて恋した相手に、私ったら手を出してしまったのね」 「そうねえ。でも気にすることないわよ。あの子って独占欲は強いわりに、結局何も行動できないんだから」  急にドライにチーママは言った。 「私達がちょっと中原先生と話をしてると、鬼のような目で睨《にら》むのよ。仕事の話でもそうなんだから。誰もあんなの取らないって言うのに」  本音がぽろりと出た。そうか、彼女たちの間では、中原先生は「あんなの」なのか。 「お茶にも映画にも誘えないの。そんなに好きなら、もっといろいろ話しかけて親しくなればいいのに、真っ赤になるだけで冗談も言えないんだから。可愛いって言えば可愛いけどさ」  そこで、祖母がくしゅんとくしゃみをした。 「ああ、おばあちゃん、裸のまんまだったね。ごめんね」  私達は笑って、祖母に浴衣を着せかけた。そのとき、ベッドを取り囲んでいたカーテンが勢いよく開かれる。びっくりした私達の前に魚住が立っていた。  全部聞かれたかと緊張すると、彼女はこう言った。 「桐島さん。すぐ帰って」 「え?」 「お父さんが倒れられたそうよ。危篤なんですって」  父が入院した病院は、祖母が入っている所よりも何倍もきれいで大きかった。  父が危篤だと聞いて、私はわざとゆっくり電車で病院に向かった。父なんか死ねばいいと思っていたのだから、そう焦って駆けつけることはないと、私は自分に言い聞かせた。  母は危篤だからすぐ来いと伝言しただけだったので、私は電車の中で父が倒れた理由をあれこれ想像した。若いころからの暴飲暴食で、コレステロールが溜《た》まっていると聞いていた。医者に何を言われても、アルコールや夜遊びを控えるような人ではなかったから、どんな成人病にかかっていてもおかしくない。あるいは、この前みたいに交通事故を起こしたのかもしれない。  だから、その病院の廊下で父の病名を聞かされても、私はちっとも驚かなかった。父は急性肝炎だった。母は目を伏せたまま「B型」と呟《つぶや》いた。  父は劇症肝炎という重い肝炎にかかっていた。まる二日|昏睡《こんすい》状態が続き、大量の血を入れ換えた。医者に覚悟するように言われたので、私はこの機会にいい喪服を作ろうかと考えていた。私が葬式のことを考えているのに、母は親戚《しんせき》に電話すらしなかった。母は一度も自宅に帰らず、二日間病院に泊まった。  父は死ななかった。けれど、正常な意識を失った。うっすらと黄色い目を開けてはいるが、誰が何を言っても理解している様子はない。祖母のほうが会話になるだけまだ正常だった。  主治医が母と私を呼んで、父の病状について話した。  ウイルス性の、それもB型の肝炎がどういうものであるかということから、今後どういう治療をしていくかということまで、何も知らない子供に噛《か》んで含めるように医者は説明してくれた。私と母は、相槌《あいづち》も打たずじっとうつむいていた。  話はとても長かったが、私に分かったことはふたつだけだった。これから父は長く寝つくこと、その原因であるウイルスは、多分東南アジアでの売春ツアーで移されたのだろうということ。母は顔色ひとつ変えず、よろしくお願いしますと医者に頭を下げた。 「私、お父さんの看病なんかしないからね」  廊下ヘ出たとたん、私は母にそう宣言した。そして返事も待たずに歩き出す。 「待ちなさい」  呼び止められて、私は露骨にいやな顔をした。 「何言ったって無駄よ。お父さんなんか死ねばいいって、私いつも思ってたんだもん。本当に死ねばよかったのよ。遊び回ってこうなったんだから、お父さんも本望でしょうよ」 「話があるわ」 「だから何よ」 「お父さんの会社はね、先月倒産したの。借金もだいぶあるから、マンションを売ったわ。年内には引っ越すから、荷物をまとめておきなさい」  簡潔にそう言うと、母は廊下を歩き出した。今度は私が止める番だった。 「ちょ、ちょっと待ってよ。倒産って何よ。そんなこと全然知らないわよ」 「あなたが知るわけないでしょう。毎日遊び歩いて寝に帰って来るだけなんだから」 「どうして言ってくれなかったのよ」 「話したところで、あなたに何ができるの?」  いつも死んだ魚のような目をしている母が、私を正面から睨みつけた。通りかかった看護婦が、怪訝《けげん》な顔で私達を振り返る。 「食堂にでも行きましょう」  母はそう言ってエレベーターに向かって歩いて行った。私は少しためらった後、仕方なく母の背中を追い掛けた。  病院の最上階にある喫茶室は、半端な時間のせいかほとんど人がいなかった。隅のほうで、白衣姿の医者が三人ばかり談笑している。私と母は、窓際の日当たりのいい席に向かい合って座った。  注文を取りに来た女の子に、母がクリームソーダと告げたので私は真剣に耳を疑った。甘いものが食べたくなっちゃってと母は苦笑いで言い訳する。 「お母さんは知ってたの?」 「会社がうまくいってないことぐらい、お父さんの様子を見れば分かるわ。危ないのかなって思ってたら、お父さんがいないときに会計士さんが来て教えてくれた」  会社のことではなく私は病気のことを聞いたのだ。けれどついでだから話を聞いた。 「今年の始めに、実務を任せてた人が、取引先を全部連れて独立しちゃったそうなの。お父さんは裏切られたのよ。それからあちこちでお金借りて、新しいことをしたらしいけど全部駄目だったみたい。事務所の家賃も何カ月も溜まってるから、家にいくらお金があるか、会計士さんが聞きに来たの」  そこでクリームソーダがテーブルに届いた。着色料のどぎつい緑に、純白のアイスクリーム。その向こうで地味なセーターを着た母がスプーンを持った。母と今の状況にまったく似合わない色だった。 「そんなときにまで、タイへ女の人買いに行くなんて、お父さんも大したもんね」  母は何も答えず、アイスクリームを口に入れた。 「ずいぶん、呑気《のんき》じゃないのよ。これからどうするの?」  父は以前にも一度不渡りを出したことがある。だからなのか、母は大して危機感を持っていないようだ。けれど、今度は以前と状況が違うのだ。父の命は助かったが、もう働くことはできないだろう。 「どうするって言っても、なるようにしかならないわ。あなたももう大人なんだから、自分の食い扶持《ぶち》ぐらい自分で稼ぎなさい」  そう言われて、私はようやく父と会社が共倒れしたことの意味を実感した。この前見た、残高ゼロの父の口座が頭をよぎる。いったいうちには、いくらお金があるのだろう。それどころか、借金しかないのだったら、私のこれからの生活はどうなるのだ。 「お母さん、さっき引っ越すって言ったわよね。どこへ引っ越すの? おばあちゃんの家?」 「あそこもマンションといっしょに売ったわ。引っ越すのはこの近くよ。アパートだから、あんまり荷物持っていけないわよ。あなた、あの大きいステレオなんか売っちゃいなさい」 「売った? 売ったって、あのおばあちゃんの家を?」  私は思わず立ち上がる。 「信じられない。何の権利があって、お母さんがあそこを売るのよ。あそこはおばあちゃんの家よ? 知ってるでしょ。いくら娘だからって、やっていいことと悪いことがあるじゃないっ」  声を荒らげ抗議したのに、母は知らん顔でストローをくわえる。 「おばあちゃんの許可ならもらったわ」 「嘘《うそ》よ。おばあちゃんがいいって言うわけないわ」 「言ったわよ」 「ぼけてるからよっ。あんたは汚ないわ。頭がパーになっちゃったのをいいことに、おばあちゃんから家を取り上げるなんて、それが娘のすることなの? おばあちゃんがどんなにあの家、大切にしてたか分かってるの?」 「それじゃあ、どうしろって言うの? おばあちゃんだってただで入院してるんじゃないのよ。借金だって沢山あるのに、今度はお父さんが寝たきりだわ。誰がお金を出してくれるの? あなたが働く? 月に五十万稼いでくれるなら、あの家買い戻してもいいわよ」  母が声を荒らげたことなど、ここ何年もないことだった。私は返答に困っておずおずと腰を下ろす。 「そんなにうちって、お金ないの?」  聞くと母は黙って首を振った。私はテーブルに両|肘《ひじ》をついて頭を抱える。 「どうすりゃいいのよ。ねえ、誰かお金貸してくれる人いないの? こういうときのために親戚がいるんじゃないの?」  母は黙って、ストローでソーダを飲んだ。溶けたクリームの甘ったるい匂《にお》いが鼻をつく。 「あなたは、お金やお父さんのことは心配しないでいいわ。おばあちゃんのことだけ頼みます」  最後に母はきっぱりそう言った。考えてみればこんな悲惨なことはないのに、母の目には力が漲《みなぎ》っていた。溶けたクリームソーダの向こうの母は、どうかすると幸せそうにも見えた。 「だからって、うちに来るなよなあ」  群贅は、私と足元の大荷物を見て顔をしかめた。 「だって、そのアパートっていうのが木造でさあ。駅から徒歩二十分で、バスも通ってないの。そんなところにあのババアとふたりで住みたくないわ」 「だったら、どっか部屋借りろよ」  強く言われて、私は唇を尖《とが》らせ下を向いた。確かに最初はそうするつもりだった。けれど実際そうするとなると、敷金や礼金、引っ越し代なんかで百万ぐらいかかってしまう。百万円ないわけではなかったが、それを使ってしまうともう大して残りがない。できれば、それは結婚費用にとっておきたかった。 「ああ、悪かった悪かった。泣くなよ」  群贅は私が泣いたと思ったらしく、急に優しく肩に手を置いた。 「しばらくいていいよ。その代わり、ここには男を連れ込むなよな」 「……悪いわね、グンゼ」 「しようがねえよ」  群贅の部屋は、祖母が入院している病院に比較的近い。それも彼の部屋に転がり込んだ理由のひとつだ。  群贅の部屋は、狭いベッドルームとリビング、申し訳程度にキッチンが付いているだけの部屋だ。ふたりで住むには狭いが、ひとりなら充分な広さだろう。  私はここに来たのは初めてだった。群贅は自分の部屋には、女の子を連れ込まない。理由を聞くと、一度知り合ったばかりの女を部屋に上げたら、こっそり合鍵《あいかぎ》を作られてひどいめにあったからだと言った。  まだ群贅が実家にいるころは、ときどき彼の家に遊びに行った。彼の部屋は壁にアイドルのポスターがあるわけでなく、本や雑誌が床に落ちているわけでもなくて、若い男の子の部屋とは思えないほど、いつもきちんと片付けられていた。その印象は、ひとり暮らしになっても同じだ。窓ガラスにも汚れひとつ見えない。  ここは彼の父親が税金対策用に買ったマンションだそうだ。だから彼は家賃なしでここに住んでいる。それほど高給取りでない群贅が遊び回れるのは、そういう理由からだ。  群贅の家は金持ちなのか、そうでないのか、私にはよく分からなかった。実家は大して立派でもない普通の二階建て住宅だし、父親も普通の国産車に乗っている。私の家みたいに、成金趣味なところはまるでない。なのに、税金対策にマンションを買ったり、息子にポルシェをぽんと買い与えたりする。 「ね、ハンガー余ってない? お洋服掛けたいの」 「何がお洋服だ」  群贅は舌打ちすると、クローゼットからハンガーをいくつか出してきた。私はサムソナイトのスーツケースに詰め込んできた、服やら化粧品やらを取り出す。 「早く養ってくれる男を捕まえな」  群贅に言われなくてもそうするつもりだった。我が家にお金がなくなったということが、重い実感となってのしかかってきていた。要するに、もう今までみたいな浪費はできないということだ。浪費どころか、毎日の生活のために自分でお金を作らないとならない。  こうなると、あのショールームの仕事を辞めるのは惜しい。楽なわりに時給はいいし、交通費だってちゃんと出る。向こうから来ないでいいと言われるまでは勤めようか。  そんなことを考えているうちに、だんだん惨めな気持ちになってきた。やりたくもない仕事をお金のためにするなんて、それでは売春と大して変わらないのではないか。それならからだでも売ったほうがもっとお金になる。  いや、同じ売るなら死ぬまでずっとお金をくれる人がいい。好きでもない男と寝て何枚かお札をもらうより、好きな人といっしょに住まわせてもらうのがいい。奥さん、という名前をもらえれば、私は一生お金のためになんか働かなくていいのだ。なるべく早く、中原先生にプロポーズさせなければ。 「当てはあるのかよ」  煙草《たばこ》に火を点《つ》けながら、群贅が聞く。 「もちろん」 「この前のカローラか」 「うん、お医者様なのよ。まだ研修医だけど、実家が開業医なんだって」 「さすがは椿姫。いくらださくても金のある男が好きか」 「当たり前よ。貧乏なんてまっぴら」  私はそう言ってハンガーに掛けた服を群贅のスーツの横に押し込んだ。軽蔑《けいべつ》の視線を背中に感じる。分かってはいたが、私は何も言い訳しなかった。 「もう少し大きい鏡ないの? 全身映るぐらいの」  私は乱れた前髪を手で直しながら、壁にかけてある小さな鏡に向かった。 「鏡なんかいらねえだろ。どうせ、見てないんだから」  群贅はソファに腰掛けたまま、こちらを見もしないでそう言った。 「え?」 「椿は鏡なんか見てねえんだよ」  突然彼は立ち上がったかと思うと、私の後ろに立って両肩を掴《つか》んだ。丸い鏡の中に、私と群贅の顔が並んで映る。 「よく見てみろ。自分の顔がどういう風に見える?」 「やだ。どうしたのよ。何怒ってるの?」 「いいからよく見ろ。その自慢の鼻やら、目玉やら肌の色がどういう風に見えるか言ってみな」 「……普通だわ。いつもどおりよ」  群贅は私から手を離すと、壁に寄り掛かって私を見た。 「なあ、椿。鏡っていうのは、ありのままの姿を映すんだよ」 「そうよ。何言ってるの。変なの」 「お前さあ、写真写りが悪いってよく言ってるだろ」 「……そうだったかしら」 「そうだよ。どの写真を見ても、あんまりよく写ってないとか文句言うだろ。写真も鏡もいっしょだ。他人が見たとおりに写ってるんだよ。違うと思ってんのはお前だけだ」  私は群贅が何を言っているのか、全然分からなかった。どうやら今日も機嫌が悪いらしい。この前みたいに変なことをされてはかなわない。 「何だか知らないけど、気に障ったなら謝るわ」 「お前は白痴かっ!」  群贅が力任せに壁を叩《たた》いた。その拍子に鏡を吊《つ》ってあったピンが取れた。私の足元で音をたてて鏡が割れる。 「危ないじゃないの」  さすがに腹が立って、私は彼を睨《にら》みつける。 「いいか、よく聞け。お前みたいな奴は、きっとそのうち泣きを見るぜ」 「偉そうに。グンゼに説教なんかされたくないわ」 「うるせえな。よく聞けよ。お前は日に何度も何度も鏡で自分の顔を見てるけどな、お前の目には全然違うもんが映ってるんだよ。金持ちで美人で誰からも好かれるゴージャスな椿ちゃんが映ってるんだ。けどな、そんな風に見ている奴はひとりもいねえんだぞ」  群贅が私に顔を寄せる。私はもがくように一歩下がった。 「よく考えてみろ。どうして、いくつも応募したミスコンに一度として通ったことがないか。タレントやモデルのオーディションに引っ掛かりもしないのか。お前はゴージャスでも何でもない。ただのその辺のねえちゃんだ。俺がバーで拾うサセコといっしょだ。今のお前は頼みの綱だった親父《おやじ》の金もない。寝たきりのババアとジジイが家にいちゃもう働くしかねえだろう。ソープにでも勤めろよ。そこそこ美人だし、人気者になるよ。俺もひいきにしてやるよ」  そこで群贅の頬《ほお》が鳴った。考えるより先に手が飛んで行った。 「……じゃあ、あんたは何なのよ。あんたなんか、あんたなんか」  私は言葉を捜した。けれど唇が震えるだけで、罵倒《ばとう》の言葉は見つからない。  群贅は殴られた頬を掌でさすると、ポケットからキーホルダーを出して、私に差し出した。 「合鍵《あいかぎ》作っとけよ」  それだけ言うと、群贅はドアを開けて出て行った。彼が行ってしまうと、私はスリッパを履いた足で、割れた鏡を踏みつけた。何度も何度も、粉々になるまで私は鏡を踏み潰《つぶ》した。  私は祖母の家の前でタクシーを下りた。二台あった家の車も、母が売ってしまったのだ。  夜の中に、電気が消えた平屋のシルエットがぼんやり浮かぶ。この家のまわりはこんなに暗かったかなと首を傾《かし》げたが、その理由に私はすぐ気が付いた。夜になると必ず点《つ》いていた玄関の電灯が消えているのだ。  三段ある石段を上って、私は玄関の前に立った。開き戸に不動産屋の名前と、売り家と書いた紙が貼《は》ってある。  私は祖母の財布から取ってきた鍵で玄関を開けた。下駄箱の上に祖母が生けた花がそのままの形で枯れていた。そんなに長い間留守にしたわけではないのに空気が黴臭《かびくさ》い。  私は冷たい廊下を歩いて、部屋に入った。手探りで電灯の紐《ひも》を捜して引っ張る。闇《やみ》しかなかった空間に、突如懐かしい祖母の部屋が現われた。  部屋からは、まだ何も持ち出された気配はなかった。家具はそのままだし、祖母の膝掛《ひざか》けもちゃんとソファの上に畳まれて置いてあった。 「さむうぃ」  家の中でも吐く息が白い。私は座って石油ストーブに火を点けた。祖母が大切に使っていたアラジンのストーブ。毎年手入れを手伝った。  私はしばらくストーブに手を翳《かざ》して暖を取った。ストーブの青い炎を眺めながら、何をどのくらい持って帰ろうか考えた。  この家に買い手がつけば、家の中の物は皆整理しなければならない。あの母のことだ。売れる物は売って、売れない物は捨ててしまうに違いない。祖母が何を大切にしていたかなんて母は知りはしないのだ。  いちばん気に入っていたドルトンのティーカップ、肥前焼の花器、レースのエプロンに翡翠《ひすい》の帯留。膝掛けだってお箸《はし》だってスリッパだって、祖母は気に入った物しかまわりに置かなかった。  そう考えると、私は途方に暮れた。本当は家ごとこのまま大事に取っておきたかった。捨ててもいい物など何もない。家そのものだって、買った人がこのまま住むとは思えない。よほどのアンティーク趣味の変人でないかぎり、全部壊して建て直すだろう。  私にお金さえあれば、ここを売らずに済むのに。私がここに死ぬまで住むのに。いったいいくらあれば、ここを丸ごと買えるのだろう。  私は首を振って立ち上がった。うじうじしてても仕方ない。できないものはできないのだ。感傷に浸るのはもうよそう。  台所ヘ行って私は脚立を出して来た。祖母が寝室に使っていた部屋へ持って入る。脚立に上がって、私は押入れの天袋を開けた。  祖母がそこに、古い写真や手紙をしまっていたのを私は知っていた。段ボール箱の後ろに見覚えのある手文庫を見つける。  脚立を下りて、畳に腰を下ろす。初めてここへ来た日、私は祖母に若いときの写真を見せてくれとねだった。うるさい子だねと文句を言いながらも、祖母はこの漆塗りの箱を出して来た。  私は玉手箱を開けるように、そっと両手で蓋《ふた》を開けた。心臓が高鳴る。あのとき、祖母は箱から一枚写真を取り出した。大振り袖《そで》を着た二十歳の祖母。モノクロの写真なのに、唇が薔薇《ばら》色なのが分かる。意志の強そうな瞳《ひとみ》が宝石のように輝いていた。  その写真がいちばん上に載っていた。それ一枚しか祖母は写真を見せてくれなかった。その引き伸ばした大判の写真の下から、サービスサイズよりもう少し小さい写真が何枚か出てきた。私はそれらを手に取って「あっ」と声を上げた。  この家の玄関の前で、若い祖母と同年代の男の人が、少女を挟んで立っている写真だった。七五三のお祝いなのだろう。少女は着物を着て千歳飴《ちとせあめ》の袋を持っていた。  少女は母だった。一重瞼《ひとえまぶた》も狭いおでこも母のものだ。七歳の女の子なりに可愛いが、美少女というわけではない。それに引き換え、祖母の美しさはすごかった。肌が陶器のようだ。 「……そっか。ここに住んでたんだ」  私は写真を見ながら唸《うな》った。今まで考えてもみなかったが、母は祖母の娘なのだから、ここでいっしょに暮らしていたのだ。母にとって、ここは生家なのだ。  この男の人がきっと祖母の愛人なのだろう。ずんぐり太っていて人のよさそうな顔をしている。私は祖母の恋人なら、きっと背の高い美男子だろうと思い込んでいたので少々面食らった。けれど、着ているスーツは仕立てがよさそうで、いかにも金持ちという感じはする。  こうして見ると、裕福で幸福な家庭のスナップに見えた。妾《めかけ》と隠し子の写真には見えない。  私は他の写真もめくってみる。海辺で遊ぶ水着姿の祖母と少女の母。笑顔の祖父。旅行に行ったのだろう、有名なお寺の前で三人|揃《そろ》ってのスナップ。  この人は、まだ生きているのだろうか。私は祖母の隣りに立った、モグラみたいな顔をした男をもう一度眺めた。  妾の子であろうと、一応母の実の父親だ。娘が困っていることを知ったらそれなりに援助してくれるのではないか。この家ぐらい買い戻してくれるのではないか。  私の知っている親戚《しんせき》たちで、本当に助けてくれそうな人はいない。母には兄弟はいないし、祖母の姉とその人の家族がいるが、祖母が入院しても顔さえ出さない。父親のほうの親戚たちも似たようなものだ。  けれど、この人ならば私を助けてくれそうな気がした。祖母を愛した人だ。私を見れば分かるはずだ。私は祖母の血を継いでいる。きっと助けてくれるはずだ。  この人を捜してみよう。今の祖母に聞けば、何の抵抗もなく居場所を教えてくれるかもしれない。いくらぼけても、夫婦同然だった男のことぐらい覚えているだろう。  寒気がしてふと見ると、ストーブの炎が消えていた。もう石油がないのだ。私は悲しい気持ちで消えたストーブを見る。  突然、今日は十二月二十四日であることに私は気が付いた。クリスマスイブをひとりで過ごすなど、考えてみれば初めてだった。結局中原先生を誘うことができなかったなと、私は溜息《ためいき》をついた。先生は今日はどこで何をしているのだろう。  寂しかったし、人恋しかった。けれどこれからどこかに遊びに行こうという元気はなかった。最後になるかもしれないから、この家に一晩泊まっていこうか。  しばらく、コートを着たまま私は畳の上に座っていた。そのうちからだの芯《しん》が冷えてきて、私はのろのろと立ち上がる。  手文庫の中に写真を入れ、それを持って私は電気を消した。私を歓迎してくれる場所はどこにもない。けれど、ここにいるのはもっとつらかった。  翌日の土曜日、私は出勤日ではなかったけれど、朝からショールームへ行った。  父が倒れたことで、木曜金曜と雛子に仕事を代わってもらったのだ。昨日の夜遅く、雛子に電話をすると彼女は留守だった。私は留守番電話に、明日は私が出勤するから雛子は休んでくださいと入れておいた。朝会社に来ると雛子の姿は見えなかったので、伝言は伝わったようだった。  もうこの仕事は辞めたかったけれど、条件のいい次の仕事が見つかるまでぶらぶらしているのも勿体《もつたい》なかった。もう家のお金を頼りにできない以上、せっかくある仕事を棒に振るわけにはいかない。  私がいやいや出勤すると、社員たちの態度がいつもと微妙に違った。  課長とのことが噂《うわさ》になってから、皆私によそよそしくなり挨拶《あいさつ》さえしなかった人が多かったのに、今日に限って皆がこわごわという感じで朝の挨拶をしてくる。 「桐島さん、おはようございます」 「……あ、おはようございます」  出勤して一時間ぐらいたつと、社員の女の子のひとりが私の所にやって来た。三人の中でいちばん地味でおとなしそうな子だ。 「お父さん、大変だったんですってね」 「え?」 「もう大丈夫なの?」 「……ええ、ご心配おかけしました」  私は仕方なく頭を下げた。会社には、ただ急用で休むとしか私は伝えていなかった。家族のこと、それも病気のことを赤の他人に知られるのはいやだったからだ。喋《しやべ》ったのは雛子だろう。口止めしておけばよかったと後悔する。 「おばあさんも、入院してるんですってね」  声を落として彼女は言う。 「皆心配してたのよ。桐島さん、辞めちゃうんじゃないかって」  私は息が止まりそうになるほど驚いた。なぜ祖母の入院までこの人は知っているんだろう。 「寝たきりになると、あっという間に弱っちゃうでしょう。実は私の祖父も、八年も寝たきりだったの。去年やっと亡くなってね、両親とも疲れてぼろぼろになっちゃったわ」  愕然《がくぜん》としている私の前で、その子はどんなにぼけ老人の看護が大変だったか、どんなに親戚《しんせき》たちが冷たかったかを淡々と話した。返事をしない私を見て、彼女はうっすら微笑《ほほえ》んだ。 「困ったことがあったら相談してね」  その目に同情と連帯感のようなものがあるのを見つけた。私は彼女の整えられた眉毛《まゆげ》を見る。勝手に親近感を持つなと怒鳴りつけてやりたかった。  社員たちは知っているのだ。家族がふたりも寝たきりになったことを。哀れみと同情から、皆私に声をかけたのだ。  雛子が全部喋ったのだ。悪気はなかったのは分かる。けれど、この場に彼女がいたら、あの可愛《かわい》い顔を思い切り叩《たた》いていただろう。余計なお世話とは、こういうことを言うのだ。 「……広瀬《ひろせ》さんのことなんだけど」  彼女はあたりを見回してから小声で言った。広瀬とは、彼女たちの中でいちばん可愛い顔をしている子だ。私をお昼に誘いに来るのはいつもその子だ。 「あの子は桐島さんのこと悪く言うけど、私は桐島さんのこと嫌いじゃないのよ。誤解されてるみたいだから言っておこうと思って」  膝《ひざ》をもじもじ動かして、彼女は言う。 「靴を隠したのも、変なファックス流したのも広瀬さんなの。あの子、園田課長と付き合ってたことあるから、きっと悔しかったのよ」 「え? 広瀬さんと課長って付き合ってたの?」  私がそう聞き返すと、彼女は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。 「まる一年ぐらい続いてたみたいなんだけど、課長の奥さんにばれちゃったらしいの。広瀬さんは別れたくなかったらしいけど、課長が逃げたみたい」 「……ふうん」 「広瀬さんは、人のことをとやかく言えるほど真面目《まじめ》なわけじゃないのよ。桐島さんのこと遊び人だなんて言ってるけど、自分だって相当なもんなのよ」  普段よっぽど鬱積《うつせき》していたのだろう。彼女は力を込めてそう言った。彼女は私と親しくなりたかったようだけれど、それを聞いて私は広瀬という女の子のほうによっぽど親近感を持った。  遊び人と告げ口女、どちらがマシかと聞かれたら、そりゃもう答えは決まっていた。 「あ、お客様みたい」  そう言って彼女は立ち上がる。やっと告げ口女のお喋《しやべ》りから解放されるかと、私も椅子《いす》から立ち上がる。  いらっしゃいませと頭を下げ、笑顔を作って顔を上げると、そこには私の天使様が立っていた。 「中原先生っ」 「やあ、椿さん。働いてるねえ」  はにかんだように笑って、中原先生がショールームの入口に立っていた。 「本当に来てくれるなんて」  尻尾《しつぽ》をびゅんびゅん振って喜ぶ犬のように、私は彼の所へ駆け寄った。 「午後から他の病院で研究会があってね。場所を聞いたらこの近くだったもんだから、ちょっとついでに」 「ついでだなんて、ひどい」  媚《こ》びた視線で、私は彼を睨《にら》む。 「あ、違うよ。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。えっと、参ったな」 「嘘《うそ》よ、先生。来てくれて嬉しい」  今日の彼はスーツを着ていた。この前飲みに行ったときは、毛玉の付いたセーターを着ていかにも若造という感じだったけれど、さすがにスーツを着るとちゃんとお医者様に見える。 「ええと、商品の説明を聞かないといけないのかな」 「いいのよ。お客様なんて午後にならないと来ないんだから」 「へえ。きれいなもんだなあ。うわ、こんなに高いのか」  先生は飾ってあるシステムキッチンを、動物園のパンダを見るように眺めた。値段を見ては子供のように驚く。 「やっぱり、あれかね。女の子はこういうのがいつかは欲しいとか思うんだろうね」  親父くさい言い方に、私はぷっと吹き出した。 「そうね。先生の奥さんになれたら、こういうキッチンで沢山お料理作ってあげるわ」 「こんなのが入るような、大きい家には住めないよ」  先生は笑いながらショールームの中をゆっくり歩いた。食器洗い器や戸棚の扉をいちいち開けては感心している先生の後を、私は同じ歩調で付いて行く。 「ねえ、先生。本当は昨日のイブ、お食事にでも誘おうと思ってたんだけど」  そう言うと彼はこちらを振り返った。 「いいんだよ。お父さん大変だったんだろ」 「誰に聞いたの?」 「看護婦たちが言ってたよ。劇症肝炎だって聞いたから、正直もう駄目だと思ってた。だから助かったって聞いてほっとしたよ」 「……よく知ってるのね」 「ああ、魚住君が椿さんのお母さんから聞いたそうだ」  魚住ぃ? どうしてそこで魚住が出てくるのよ。 「困ったことがあったら相談しなさい。僕にできることがあれば何でもするから」  お医者様の顔になって中原先生はそう言った。さっき告げ口女が言ったのと同じ台詞《せりふ》だったが、言う人が違うだけで涙が出るほど嬉しい。 「先生、今晩予定ありますか? クリスマスだしお食事でもしましょうよ」  私は先生の腕を取ってそう言った。考えてみれば、私は先生とまだキスもしていない。プロポーズさせるためには、早く既成事実を作らなくては。 「ああ、悪いけど研究会の後、忘年会なんだ」 「えー、残念。せっかくクリスマスなのに」 「クリスマスは昨日したからいいよ」 「え?」 「いや、昨日ね。イブだっていうのに急患がふたつもあって夜中まで病院にいたんだ。やっと帰れると思ったら、魚住君も偶然帰るところでね」  う、魚住ぃ? 「イブだっていうのにお互い情けないねえって言ってね、情けない同士、ちょっと飲んだんだ」 「……うそー」  先生が目の前にいなければ、私はその辺にあるものを何か蹴《け》り倒して地団太を踏んだことだろう。  本当に偶然だろうか。チーママに聞いたかぎりでは、魚住が先生を飲みに誘える勇気を持っているとは思えなかった。けれど、あのとき私とチーママの話を聞いていたとしたら? どちらにしろ、やられた。親父《おやじ》さえ倒れなければ、絶対昨日のイブ、私と先生はベッドインしていたはずだったのに。 「椿さん?」  黙ってしまった私を、先生が不思議そうに覗《のぞ》き込む。慌てて私は笑顔を作った。 「いいなあ、魚住さん。私も混ざりたかったなあ。どこで飲んだんですか? あの辺夜中でもやってる店があるの?」 「ああ、ちょっと捜したんだけど、どこも開いてる店がなくてね。結局ビールとつまみを買って僕のアパートで飲んだんだよ」  明るく先生はそう言った。からだ中の血が逆流する。アパートですって? 私だって部屋に上げてもらえなかったのに。 「まさか先生、魚住さんのこと好きなの?」  さすがに冷静でいられなくなって、私は低く聞いた。 「ええ? まさか。いい子だとは思うけどさ」 「どこがいい子よっ」  思わず大きな声が出る。先生は仰天した顔で私を見た。 「ひどいわ、先生。自分の彼女の前で、他の女の子を部屋に入れた話をするなんて。私のこと何だと思ってるの?」  だらりと下がったネクタイを掴《つか》んで、私は先生にくってかかる。彼は口をぽかんと開けたまま私を見下ろした。 「ちょ、ちょっと待った」 「何よ。言い訳するならちゃんとしてよね」 「僕って、君と付き合ってるんだっけ?」  私は仕事が終わると、まっすぐ病院へ向かった。苛々《いらいら》すると自然と足が早くなる。すれ違う人の肩を突き飛ばして冬の舗道を歩いた。  何度思い出しても腹が立つ。中原先生のとぼけた洗い熊《ぐま》のような顔。鈍感にも程がある。まさか私の気持ちを全部分かっていて、わざと純情ぶっているのだろうか。  案外手ごわいのかもしれない。私は白い息を吐きながらそう考えた。  中原先生みたいな、女の子に言い寄られたことのない人間をものにするのはちょろいと思っていた。けれど、純情だからこそやりにくい部分もあるのだと私は気が付いた。さあどうぞと据《す》え膳《ぜん》を差し出しても、毒でも入っているのではと箸《はし》を付けないタイプなのかもしれない。 「調子狂うなあ……」  独りごとを言って、私は首を振った。もしかして、中原先生が結婚してくれなかったらどうしよう。今は先生にだけ入れ込んで、他の男の人には全然連絡を取っていない。恋人どころか控えのボーイフレンドさえいない状態だ。  少し保険をかけておいたほうがいいかもしれない。私は心細くもそう思った。もちろん私は中原先生が大好きで、先生と結婚したいと心から思っている。けれど、状況が状況なだけに駄目だったときのことも考えておかなければいけない気がした。  そんなことを考えながら、私は病院の自動ドアの前に立った。やたらゆっくり開くドアを苛立《いらだ》たしい気持ちで見ながら、私は前へ進む。もう何度ここへやって来ただろう。受付の終わった外来の前を通り過ぎる。いつもの風景、いつもと同じ消毒薬の匂《にお》い。  その暗い廊下の先に、明るい色のコートを着た若い女の子がいた。どこかで見たコートだなと思ったとき、その子は私のほうを振り返った。 「ああ、椿。よかった、会えたわ」  雛子だった。私は立ち止まったまま動けなくなる。 「……どうして?」 「ちょっと近くまで来たから寄ってみたの。椿、毎日おばあちゃんの病院へ行ってるって言ってたから、会えるかと思って。心配したのよ。お父さんの具合どう? 大変だったね」  雛子の質問に答えず、私は全然別のことを考えていた。  母とアパートなんかで暮らすのがいやで、私は群贅の所に転がり込んだ。けれど考えてみれば、雛子の所へ行けばよかったのだ。群贅といっしょに住んでいることが、もしも中原先生にばれてしまったときのことを考えると、雛子の部屋に居候になるべきだったのだ。  そうしなかった理由が分かった。無意識に私はこの子を避けていた。父のことも祖母のことも、深く知られたくなかったのだ。心配という言葉の裏に、知りたがりの卑しさが見えた。人の不幸を知る快感。自分がそうであるだけに、雛子の心の中が私には見えてしまった。 「椿? どうかした?」 「あ、ううん……」 「本当に心配したのよ。お父さんまで倒れたって言うから、さすがの椿も落ち込んでるだろうと思って」 「……うん、そうね」  気がない返事をしながら、私は廊下を歩き出す。不愉快でたまらなかった。けれど雛子はぴったり横に張りついて話しかけてくる。 「大変なときはいつでも仕事代わってあげるからさ。ショールームは辞めないんでしょう?」  ああ、うっとうしい。私は答えず階段を上がる。 「いつ引っ越すの? ね、お母さんと暮らすのがいやだったら、私の部屋に来てもいいよ。うちは二部屋あるから」  はたと私は足を止める。父の病気のことは話したけれど、引っ越さなければならない事情まで雛子に話した覚えはなかった。 「ちょっと待って、雛子。どうして」 「あら、椿さん。こんばんは」  廊下で立ち止まっていると、チーママがそこを通りかかって話の腰を折った。 「……あ、こんばんは」 「おばあちゃん、さっぱりしたわね」  元気よくチーママは言う。 「は?」 「あれ? まだ見てないの? 髪切っちゃったのよ。ショートカットですごく可愛《かわい》くなっちゃったんだから」  何を言われたのか、私はすぐには理解できなかった。髪? 祖母が髪を切った? まさか。祖母は長い銀髪が自慢だった。いつもきちんと結い上げていた。女の子のショートカットは大嫌いで、私の髪も絶対肩より短くさせなかった。  雛子とチーママを置いて、私は走り出す。病室に駆け込むと、祖母が私をどろんとした目で見た。  祖母の髪は、耳の下でざっくり切られていた。素人が鋏《はさみ》で切ったのだろう。あちこち不揃《ふぞろ》いな毛先が飛び上がっていた。銀狐のような髪は、今やただの白髪《しらが》頭だった。 「誰が切ったのよっ!」  私は我を忘れて大声を出した。病室の老人たちがきょとんと顔を上げる。 「見てたんでしょうっ? 誰が切ったのよ。教えてよっ」  道端の酔っぱらいを見るような目で、患者たちは私を見た。誰も私の質問に答えない。私は窓際の、この部屋でいちばん若そうな女の人のベッドに駆け寄る。 「あなたなら見てたでしょう? ねえ、誰がうちのおばあちゃんの髪を切ったの?」  六十代中ほどに見えるその女性は、うつむいたまま首を振った。 「お嬢ちゃん、その人に聞いても駄目だよ。糖尿で目が見えないんだから」 「え?」  向かいのべッドの老人が、諫《いさ》めるようにそう言った。私はその場に立ちすくむ。天井がぐるぐる回るようだ。 「何をそんなに怒ってるんだね。髪なら魚住さんが切ってくれたんだ。さっぱりしたじゃないか。あの子はいい子だよ」  魚住? また魚住なのか。  私は弾《はじ》かれるように、病室を飛び出した。薬やピンセットを乗せたワゴンにぶつかり、後を追って来た雛子とチーママを危ういところで避けて、私はナースステーションに走る。 「廊下を走らないっ」  角を曲がろうとしたところで、誰かが私の肩を掴《つか》んだ。魚住だった。 「小学生じゃないんだから、どたばた廊下を走らないでよ。ほんとにあなたって」  魚住が全部言い終わる前に、私は彼女の顔を張り倒していた。 「な、何するのっ」  廊下に倒れた彼女に、私は馬乗りになる。そして容赦なく拳《こぶし》を振り下ろした。魚住が悲鳴を上げる。 「誰がおばあちゃんの髪を切っていいって言ったのよっ! 余計なことするんじゃないわよっ!」  そう叫んでもう一度拳を上げたとき、私のからだに何本かの腕が巻きついてきた。 「椿っ。やめなさいよっ」 「どうしたの、椿さんっ。落ちついてっ」  雛子とチーママが、私を魚住から引き離す。 「あんたたちには関係ないでしょう。放しなさいよっ」  そう叫んでもがいていると、目の前に魚住の太い足がぬっと立った。大きな手が伸びて来て私の襟元を乱暴に掴み上げる。あっと思ったときには、いやというほど頬《ほお》を張られた。 「魚ちゃんっ。あなたもやめなさいよっ」 「うるさいっ。あんたたちには関係ないっ」  同じ台詞《せりふ》を彼女は怒鳴った。そして私のからだを力まかせに壁に突き飛ばした。 「そんなにおばあちゃんの髪が大事なら、毎日来て洗ってみなさい」  地鳴りのような太い声が私を襲う。 「洗って乾かしてきれいに結うのに、どのくらい時間がかかるかあんた知ってるの? そんなの看護婦の仕事じゃないのよ。他にしなくちゃなんないことは山のようにあるのよ。でも不潔にしたら可哀相《かわいそう》でしょう。あんた一度だって大好きなおばあちゃんの髪を洗ったことあんの? 大好きなおばあちゃんのおむつを取り替えたことあんの? 誰があんたのおばあちゃんのうんちを片づけてるか分かってんの?」  魚住の顔が、間近に迫ってくる。その醜い顔がなぜだか群贅の顔と重なった。お前は鏡を見ていない。お前はきっと泣きをみる。  魚住の肩越しに、いつの間にかパジャマ姿の野次馬たちが集まっているのが見えた。好奇の目が私達を取り囲む。 「偉そうなこと言わないで。あんたなんかには私の気持ちは分かんないのよっ」 「分かりたくもないわっ。整形してまで美人になりたい人の気持ちなんか!」  魚住の言葉に、皆の動きが止まったように見えた。誰も何も言わない。魚住は息を乱して私を見下ろした。 「したわよ。整形したわよ」  私は壁に手をついて立ち上がる。 「何が悪いの。整形して前よりもっときれいになったわ。隠してなんかない。誰に知られたって平気よ」  魚住は顔を歪《ゆが》めて笑った。 「あんた頭がおかしいのよ」 「うるさいわねっ。あんたこそ整形してもっと見られる顔にしなさいよっ!」  怒鳴ったとたんに、魚住が飛びかかって来る。まるで子供の喧嘩《けんか》のように、私達は拳を振り上げた。野次馬たちが一斉に声を上げるのが聞こえた。 [#改ページ]      5 「おい、どうしたの? 起きて、起きて」  誰かが私の肩を揺する。私は膝《ひざ》に埋めていた顔をゆっくり上げた。 「あー、先生。お帰りなさい……」 「お帰りなさいじゃないよ。こんな所で寝てたら風邪引くだろう。あーあ、冷えちゃって。うわ、何本飲んだんだ?」  中原先生は、足元に転がったビールの空き缶に呆《あき》れた声を出した。 「……だって先生、なかなか帰って来ないんだもん」 「そんなに酔っぱらって。ほら、入った」  先生は溜息《ためいき》をつきながらも、私を立たせて部屋の中に入れてくれた。彼が電気を付けると、想像したとおりの雑然とした部屋が現われた。 「ふうん。ここでセンセーは魚住さんとセックスしたのかあ」 「してないよ。掃除してなくて悪いけど、炬燵《こたつ》にでも入って」  電灯の下で私の顔を見ると、先生は「あーあ」と呟《つぶや》いた。 「ひどいな。目の上|腫《は》れてるぞ」 「まあね。ちょっと妖怪《ようかい》に襲われて」 「聞いたよ。今病院に寄って来たら、皆が教えてくれた」  私はコートを脱いで炬燵に入った。まだ温まっていない。私は炬燵布団を顎《あご》の下まで引っ張って背中を丸めた。しばらくがたがた震えていると、目の前に湯気のたった湯飲みが置かれた。 「お酒のほうがいい」 「怪我《けが》したときは酒飲んじゃいけないんだよ」 「どうして?」 「傷口が開く」  私は仕方なく番茶を啜《すす》った。隣りにもう一部屋あるらしく、先生はネクタイを解きながらそちらへ消える。私は改めて部屋の中を見渡した。梁《はり》に掛けられたジャケット、うっすら埃《ほこり》をかぶったオーディオセット、本棚いっぱいの医学書や雑誌。同じ独身男性の住む部屋でも、群贅の部屋とは何から何まで違った。  テレビ台の下にクリスマス模様の包装紙を見つけ、私は手を伸ばしてそれをめくった。下から下手くそな編み目のセーターが出てきた。 「……ふうん」  そこで先生がよれよれのスウェットに着替えて戻って来た。手には救急箱と絞ったタオルを持っている。 「顔は冷やすしかないな。それにしてもすごいミミズ腫れだなあ。ほら、手ぇ出して」 「やだ」 「どうして」 「ヤブだから」  先生は怒った風でもなく、私の腕を取った。消毒薬を浸した綿をピンセットでつまみ傷口に塗った。 「うー、しみる」 「首にもあるな。そっち向いて」  先生は淡々と私の傷の手当てをした。 「あとはどっか痛いとこある?」 「からだ中痛いわよ」 「二、三日おとなしくしてれば治るよ」  救急箱を片付ける先生を見ながら、私は言った。 「優しいのね。先生」 「普通だよ」 「誰にでも優しいんでしょう」 「それが普通です」 「魚住さんの傷も、こうやって手当てして来たの?」  先生は苦笑いで肩をすくめると、立ち上がって台所へ行った。帰って来たとき持っていたコンビニの袋を炬燵の上に置く。 「食べる?」  ポテトチップの袋を取り出し私に見せた。 「太るからいい」 「あれだけビール飲んだんだ。もう遅いよ」  笑いながら先生は袋を開けた。私は口を尖《とが》らせてそっぽを向く。 「あれ、昨日魚住さんにもらったんでしょ?」  私は顎でセーターを指した。 「うーん」  否定も肯定もしないで先生は唸《うな》った。けれど頬《ほお》がほんのり赤くなる。 「先生って嘘《うそ》つけない性格なのね」 「いや、まあ、正直言ってびっくりしたよ」 「鈍感ねえ」  魚住はきっと何カ月も前からあのセーターを編んだのだろう。渡す勇気があるかどうかは自分でも分からなかったはずだ。初めて編んだセーターの不揃《ふぞろ》いな編み目を見て悩み、鏡で自分の姿を見てはまた悩み、告白してふられるぐらいならこのままでいたほうがいいのではと悩んで悩み抜いたのだろう。そんな魚住の背中を押したのは、もしかしたら私なのかもしれなかった。 「椿さんみたいにはっきり言う人もいれば、魚住さんみたいな人もいるんだなあ」 「もてますねえ、先生」 「こんなにもてたのなんて、生まれて初めてだよ」  ポテトチップを摘《つま》みながら、先生は嬉《うれ》しくなさそうに言った。 「私、整形したの」  突然の私の言葉に、先生は不思議そうな顔をした。 「きっとすぐ耳に入ると思うわ。だから先に言っておく。私の顔、整形手術したの」  先生の顔に驚きが広がる。私は炬燵から手を出して、ポテトチップを摘んだ。 「十九のときよ」  私が美容整形の手術を受けたのは、二十歳になる一カ月前だった。十代のいちばん最後に私は人生を賭《か》けた。失敗するかもしれないという恐怖はもちろんあった。けれど、私はその後の人生をすべてその手術に賭けたのだ。  天使のように可愛《かわい》い子供がときどきいる。完璧《かんぺき》な、人形のような美しさだ。どんな大人もその子の頭を撫《な》でずにはいられないほど、愛らしく美しい子供。けれど、子供時代の美しさと大人になってからのそれはまったく違うものだ。幼少の時代が可愛ければ可愛いほど、成長するに従ってその美は色褪《いろあ》せる。子役で売れたタレントがいい例だ。  私は、そういう子供だった。  自分で言うのも何だけど、子供のころの写真を見ると本当に愛らしい。後で聞いた話だけれど、何度も芸能プロダクションにスカウトされたそうだ。けれど、母はきっぱりそれを断わった。  母は私によく言ったものだった。ちょっとぐらい顔がきれいだからって思い上がってはいけないと。小学生のころ、私はよく母に顔を打たれた。私が人の悪口を言ったり、先生に可愛がられたことを自慢すると母は容赦なく私を叩《たた》いた。  私は内心、母に大きな反発を覚えていた。それでも小学校を出るまでは、私は母に押えつけられていた。母が機嫌がいいと私も嬉しかったのだ。だから母の言うことを聞いた。なるべく目立たず、友達と話を合わせ、男の子が意地悪してきても相手にしないようにしていた。  中学に入って私は変わった。いや、変わったのは私ではなく男の子だったのだろう。ただ意地悪で小汚ない存在でしかなかった彼らが、制服を着たとたんに変わった。  親切になり、楽しませてくれるようになり、私を好きだと皆が言った。ラブレターが毎日のように届けられ、同級生だけでなく上級生も私を校門で待ち伏せしていた。  私はそれまで、人から好かれたという経験があまりなかった。小さいころは会う大人が皆私を可愛がってくれたけれど、それはすれ違いに頭を撫でる程度のことだった。同い年の子供たちは私とあまり遊びたがらなかった。  どうして突然人気が出たのか、最初私はよく分からなかった。クラスの女の子に素朴にその理由を聞いてみたことがある。今でも忘れない。その子は心からいやな顔をしてこう言ったのだ。「椿ちゃんは美人だから」と。  ああそうか、と私は思った。母が言っていたのはこういうことだったのかと、私は初めて実感をもって理解した。では母の教えを聞いたかと言うと、私はそんなことはしなかった。  男の子たちは私が好きだという。女の子たちは私を嫌いだと言う。どちらと付き合ったほうが楽しいかは明白だった。私には女の子の友達なんか必要なかった。  そして祖母との出会いが、私の生き方を決定的に方向づけた。きれいな外側も、傲慢《ごうまん》な内側も、祖母ははっきり肯定した。それで迷いが吹っ切れた。  私は芸能界に入るのが夢だった。女優でもいい、モデルでもいい、タレントでもいい。とにかくこのルックスと性格を活かせるのはあそこしかないと思った。私が普通のOLになってうまくやっていけるわけがないことぐらい、自分でもよく分かっていた。  高校生のとき、学校では友達と呼べる人はひとりもいなかったが、遊びに出掛けた先で何人か�親しい顔見知り�を持った。  皆美人で男の子にもて、お洒落《しやれ》と遊びが好きだった。そういう人の中に入ると、私は心からほっとした。その中のひとりの女の子に誘われて、私は初めてオーディションを受けた。ティーンズ雑誌の専属モデルのオーディションだった。  その子は大して美人じゃなかった。背が高くプロポーションはよかったけれど、どちらかというと個性的過ぎる感じの子だった。けれど、その子はグランプリを獲得し、私は二次予選で落ちてしまった。  背丈が足りないからだと私は思った。百六十に数センチ足りない私の背では、モデルは無理なのだ。ではタレントはどうだろう。レースクイーンは? アイドル歌手は? ミス・コンテストは?  それから私はありとあらゆるオーディションを受けた。受かったものもいくつかある。地元のミス浴衣美人、ローカルテレビ番組のアシスタント、デパートの広告モデル。そのどれも、私は授賞式にさえ出掛けなかった。そんなものを、私は求めていたのではなかったから。  生まれて初めて見る悪夢だった。どうして自分よりきれいでない子が大賞を取り、どうして私が最終審査で落ちてしまうのか分からなかった。繰り返される挫折《ざせつ》。そのたびにヒステリーを起こした。  本当は私は分かっていたのだ。自分が多くの人間を引きつける魅力がないことに。子供のころの輝くような美しさが、年とともに失われつつあることに。  それでも私は、道行く大勢の女の子たちに比べればまだきれいだった。このまま玉の輿《こし》でも狙《ねら》えば八十点の人生は送れるだろうと思った。  けれど、私は百点が欲しかった。女優になるほど演技力も根性もない。もうアイドル歌手になれる年も過ぎた。けれど、私にはこの顔しか持っているものがなかったのだ。どうしても自分の顔に百点満点をつけたかった。  私は思っていることを包み隠さず祖母に打ち明けた。整形手術をして、もっと自分の思ったとおりの顔が欲しいことを祖母に訴えた。  祖母は反対しなかった。沢山のリスクがあることを、私が覚悟していると分かったからだろう。祖母は雑誌やテレビに出ている有名なクリニックではなく、どこからかその病院を捜してきた。相場の倍以上お金はかかったけれど、祖母は文句ひとつ言わず払ってくれた。  母が賛成してくれるわけがないことは分かっていた。けれど説得しようとは思わなかった。母に許しを得る、という感覚はもう私にはなくなっていたのだ。そんな私の気持ちを祖母は察してくれて、お父さんとお母さんにはあたしから話しておくよと言ってくれた。  まるまる二カ月私は入院した。鼻をやや高くし、小鼻も小さくした。顎《あご》の脂肪を吸引してシリコンを入れた。目も頬骨《ほおぼね》も少しいじった。ついでにおなかの脂肪も吸引し、脇《わき》や脚の永久脱毛もした。手術後、考えていたよりずっと激しい痛みが続き、きれいになるどころかこのまま死んでしまうのではないかと思ったほどだった。けれど、手術は成功だった。痛みや腫《は》れが引くと、鏡の前に生まれ変わった私が立っていた。  退院して家に戻ると、母の冷たい目が待っていた。けれど厭味《いやみ》や説教はなかった。ただ必要なこと以外は、まったく口をきいてくれなくなった。たまにしか帰って来ない父は、微妙に変わった娘の顔について何も言ったりはしなかった。けれど、今までもそれほど会話があったわけではなかったので、私は母の軽蔑《けいべつ》しきった目を気に病んだりはしなかった。  整形したことによって、私は明るくなったと思う。何だか憑《つ》き物が取れたように楽になった。あんなに憧《あこが》れていた芸能界への思いは不思議と薄くなっていった。何気なく始めたコンパニオンの仕事は意外と楽しかったし、苦手だった同性とも以前ほど構えず付き合えるようになった。  私は美容整形をしたことに、罪悪感はなかった。悪いと思っていないから以前と顔が違うことを恥ずかしく思わない。けれど、手術をした後、ボーイフレンドの何人かは私から離れて行った。その中のひとりが言った。整形美人は陸上選手のドーピングと同じだと。ルール違反だと。私は鼻で笑った。何の何に対するルールだと言うのか。  群贅も多少は驚きはしたが、私が整形したことに特に何も意見はないようだった。手術後、久しぶりに彼と会ったとき、彼は私の顔を一日中ずっと眺めていた。そしてしみじみ、医学は発達してるんだなあと、的外れな感想をもらしていた。  魚住はきっと、何年かぶりに私の顔を見て、違和感を覚えたのだろう。卒業アルバムを取り出し、今の私の顔と比べて見たのかもしれないし、誰か知人に私のことを聞いたのかもしれない。どちらにせよ、彼女は私が顔を手術したことを知った。きっと鬼の首を取ったような気分を味わったに違いない。  群贅のことを抜かして、あとは本当のことを話した。私の長い話を、中原先生は煙草《たばこ》を吸いながら黙って聞いていた。私が口を閉じると、窓の外からぱらぱらと雨の音が聞こえてきた。私も煙草を吸いたかったけれど、先生の前ではまだ煙草を吸ったことがない。はすっぱな女に見られたくなくて、私は我慢をした。 「……それだけ。おしまい」  先生が何も言わないので、私はそう付け加えた。 「なるほど」 「何がなるほどなの?」 「いや、別に」 「変なの」  私と先生は意味もなく笑った。先生は煙草を消すと、炬燵《こたつ》に両|肘《ひじ》をついて私の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「それで、後悔してないの?」 「何を?」 「整形したこと」 「してないわ」  後悔はしていない。それは本当だった。 「でも、先生には知られたくなかった」  これも本当だった。整形してから初めて、私はそのことを隠しておきたいと思う人に出会った。煙草だって、祖母以外の人間の前で遠慮したことなんかなかった。私は先生に嫌われたくなかった。 「呆《あき》れた?」 「そんなことないよ。ちょっと驚いたけど」  いつの間にかなくなったポテトチップの袋を、先生は丸めてごみ箱に放った。そしてよいしょと立ち上がる。 「もう遅いから送って行くよ」  戸棚の上に置いた車のキーを取って、先生はジャケットに袖《そで》を通し始めた。私は唖然《あぜん》として彼を見上げる。 「ちょっと待ってよ。私帰らないわ」 「帰らないって……何を突然……」  私の宣言に、先生は戸惑って口をもごもごさせた。 「突然でも何でもないでしょう。前から好きだって言ってるじゃない。その子が酔っぱらって部屋の前で待ってたのよ。何しに来たかぐらい分かるでしょう? その気がないなら、部屋になんか上げずに送り帰しなさいよ。それともあなた童貞なの?」  手元にあったティッシュの箱を私は先生に向かって投げつける。ぼこんと音がして、それが彼の頭に当たった。 「椿さん」 「鈍感男っ。ヤブのカマトト医者っ」  炬燵の上にあった物を、私は手当たり次第に掴《つか》んで投げた。煙草、ライター、小銭、灰皿。そして最後に投げた湯飲み茶碗《ぢやわん》が、先生の肩先を抜けて壁に当たった。鈍い音をたてて湯飲みが割れる。  それを見て私は我に返った。先生が悲しそうな顔でこちらを見ている。私は泣き真似《まね》をしようかどうしようか迷った。 「椿さんの言ってることは分かるよ」  静かに先生はそう言った。私は立ち上がり、彼の目の前に立つ。先生は掌で私の頭をそっと撫《な》でた。 「どうして抱いてくれないの? 私が嫌いなの?」 「嫌いじゃない。面白い人だと思う」 「面白い?」  この前魚住に性格異常と言われたときと同じぐらい、新鮮な表現だった。 「抱いたら結婚を迫られるから?」 「そういうんじゃない。僕だって普通の二十六の男だから、やっちゃおうかなとも思うよ」 「やっちゃえば?」  私が笑うと、先生も顔を綻《ほころ》ばせた。 「君は男を誤解してる」 「……そうかしら」 「男はみんな、喜んで据《す》え膳《ぜん》食うものだと思ってるだろ」  その言葉に私は息を止めた。そうではないと言うのだろうか。群贅もそうだし、私が知り合った男の人は皆そうだった。男の人というのは、そういうものだと理解していたし、それが悪いだなんて思っていない。 「……不能なの? それともゲイ?」 「困ったお嬢さんだな。どっちでもないよ」 「じゃあ、どうして?」  先生はキーホルダーからひとつ鍵《かぎ》を外すと私に手渡した。 「あっちの部屋に、僕の布団が敷きっ放しになってるから使っていいよ」 「先生?」 「僕は病院の宿直室か何かで寝るから。鍵は帰るときにポストの中に入れてって」 「怒ったの?」  玄関で靴を履き始めた先生を、私は慌てて止める。 「怒ってないよ」 「でも」 「つまんない男だと思っていいよ。だけど僕はね」  だけどの後に、言葉はなかった。先生はいつもの人のよさそうな笑顔を残すと、傘をさして夜中の階段を下りて行った。  もうショールームへは行く気がしなかった。雛子の顔も見たくないし、どうせ働くのならもっと楽しくて割りのいい仕事を本気で見つけようと思ったのだ。  楽しくて割りのいい仕事とは、私にとってひとつしかない。誰かの奥さんになることだった。  中原先生はもう期待できない。彼は私を拒否したのだ。以前の私なら「ふん、失礼しちゃうわ」と思っただろう。そして据え膳にさえ手が出せない意気地なしのことなんか、無理にでも忘れただろう。  認めたくはなかったけれど、私はそれでも中原先生が一番好きだった。結婚したい相手は中原先生だった。  あの晩、先生が部屋を出て行ってしまうと、私は仕方なく彼の布団にもぐり込んで目をつぶった。もしかしたら、先生が戻って来てくれるかもしれないと期待して。けれどやはり先生は帰って来なかった。私は結局一睡もできず、朝日がさすまで冷たい煎餅《せんべい》布団の中で目を開けていた。  その長く冷たい夜の中で、私は生まれて初めて自分のしたことを本気で後悔した。顔を整形したこと、先生にそのことを打ち明けたこと、自分から先生を誘ったこと。嫌われたくなくてしたことだったのに、結局何もかも裏目に出てしまったようだ。  決定的に嫌われたわけではないのだ。だったら今は無理でも、時間をかけて先生の気持ちをほぐしていこうか。そう思わないでもなかった。  けれど、その時間が私には勿体《もつたい》なかった。恋愛するのは食い扶持《ぶち》を見つけてからだ。いつまでも群贅の部屋にいるわけにはいかないし、母のことだ、いつ祖母の分の入院費はお前が出しなさいと言うか分からない。  ショールームに電話をかけ、私は簡潔に辞めることを伝えた。そしてその受話器を持ったまま別のところに電話をかける。  私はアドレス帳にある独身の男の人全員に電話をかけ、デートの約束を取り付けた。数時間刻みのデート。まるで売春婦だわと、私はメモに書いた予定表を見て笑った。どうせならお金を取るか。  私は夜はもちろんのこと、昼間会った男の人ともセックスをした(もちろんお金は取らなかった)。彼らは皆久しぶりに会えて嬉《うれ》しいよと笑顔を見せ、私に食事とお酒をご馳走《ちそう》してくれた。事が済んだ後でさえ、皆優しく髪を撫でてくれた。  けれど、私が結婚を仄《ほの》めかすと誰もが逃げ腰になった。うまく話をそらせたり、まだ結婚なんかしたら勿体ないじゃないと変なお世辞を言ったりした。  数日の間に、私は両手の指でも足りない数の男の人に会い、全員に同じ答えをもらった。椿とは結婚しない。遊ぶのは楽しいけれど、椿とは結婚しないという答えだった。  年の瀬の押し迫った街を私は暗い気持ちで歩いた。誰もが早足で舗道を歩く。手には買い物の大きな袋を持ち、頬《ほお》を高揚させている。誰もが忙しく、誰もが目的をもって歩いていた。皆帰る家があり、待っている家族があるのだ。  私はアドレスに載った最後の人と会った帰りだった。その人はもう五十近い年の人だったけれど、独身だと聞いていた。そのつもりで結婚の話を持ち出すと、実は妻がいるのだと悪びれもしないで言った。露骨にがっかりした私に、愛人にならいいよと嬉しそうに言った。  悪くない話ではあった。考えてみれば住む所と生活費さえ頂けるのなら、別に正妻になる必要はないのかもしれない。祖母だってずっと妾《めかけ》だったのだから。そう思って私はその人の顔を見た。  私は頷《うなず》くことができなかった。その人が嫌いなわけではなかった。けれど、囲ってやってもいいよという、優越感いっぱいの表情に気分が悪くなった。私はリカちゃんハウスの中のリカちゃんではないのだ。気が向いたときにだけ取り出して、可愛がるのもなぶるのも自由にされるのではかなわない。それでも、いざとなったらお願いするわと言い残して、私はその人と別れた。  まだ午後の三時前だった。ここのところ、過密なデートスケジュールであまり眠っていない。道行く人に何度もぶつかりながら、私は駅への道をうなだれて歩いた。 「すみません。ちょっとお訊《たず》ねしたいんですが」  声をかけられて、私は顔を上げた。値の張りそうなコートを着た男の人が私の前に立っていた。きちんと髪を刈り込んだ若い男だ。どこか水っぽい匂《にお》いがしたが、ナンパや宗教の勧誘ではなさそうだ。 「はい?」 「失礼ですけど、モデルさんか何かですか?」  あー、やっぱり何か勧誘か。私は右手をひらひら振って歩き出す。 「ちょっと待って。話だけでも聞いてください。ビデオに出てくれる人を捜してるんです」  いつもの私なら足を止めたりしなかっただろう。けれど、疲れ果てた心が私を止めた。 「ビデオって?」 「女の子のプロモーションビデオです」 「それって、AVなんじゃないの?」 「実はそうなんですけど」  私が背中を向けて歩き出そうとすると、そいつは私の前に回り込んで慌てて付け加えた。 「本番もからみもなしで、一本百万ですよ。あなただったらもっと出してもいい」  私が黙っていると、彼は勢い込んで続けた。 「今はもうよほどの美人じゃないと、脱いでも価値がないんです。知ってるでしょう? その辺にいるような女の子が脱いだって、もう皆慣れちゃってるんですよ。あなただったら一回脱いだだけで話題になりますよ。そうしたらもう脱ぐ必要はない。タレントになれますよ」  そいつの言葉を信じるほど、私は馬鹿ではなかった。ただ、虫歯があるのを忘れてレモンを齧《かじ》ったような、そんな痛みが胸を走った。 「うちは大手なんです。女の人は知らないかもしれないけど、うちは信用できる会社です。よかったら事務所を見に来ませんか?」  熱心な彼を、私は依然黙ったまま見上げた。AV撮るのに大手も何もあるか、馬鹿者。  全然気持ちが動かなかったと言ったら嘘《うそ》だろう。私はここ何日間かしたくもないセックスを何回もして、一銭ももらっていないのだ。それをちょっと脱ぐだけで百万なんて言われたら悲しくなってしまう。喋《しやべ》り続ける男の顔が何かのフィルムを見ているように、現実感をなくしてくる。脳がじんじん痺《しび》れ、麻痺《まひ》してくるのが分かった。 「事務所はそんなに遠くないんですよ。僕の車がそこに停めてありますから」  なれなれしく肩に回してきた手を、私はやんわり押し退《の》けた。 「悪いけど行かないわ」 「そんなあ。お願いしますよ。絶対変なことしません。誓いますって」 「名刺ちょうだい」 「え?」 「あなたの名刺ちょうだいよ。その気になったら電話するから」  そいつが出した名刺をひったくるように取ると、私は道を駆け出した。少し走って後ろを振り返る。男が追って来る様子はなかった。  群贅に言ったら何と言うだろうと、私は思った。きっと賛成するに違いない。椿はAV顔だから、きっと人気が出るよと笑うに違いない。  私は電車に乗って、父が入院する病院へ向かった。  父が命を取り留めたあの日から、私は一度も父の所へは行っていなかった。だからというわけではない。母に用事があったのだ。  祖母の入っている病院と違い、つるつるに磨かれた明るい廊下を歩いて、私は父の病室に向かう。祖母は六人部屋に入っているというのに、父は個室を使っていた。重病人なのだから仕方ないにしても何だか釈然としない。  父の個室は、ドアが開け放ったままだった。首を伸ばして中を見るとベッドで父が眠っていた。母の姿はない。 「どうしましたか?」  通りかかった初老の婦人が、病室の入口でうろうろしている私に声をかけた。手には水を入れ換えたらしい花瓶を持っている。 「いえ、あの」 「桐島さんのご家族?」 「ええ、娘です」 「まあまあ、お母様にはいつもお世話になりまして」  婦人につられて、私も頭を下げた。 「わたくしの主人が隣りの部屋に入ってますのよ。ちょうど同じ日に入院したものですから、たまにお母様とお昼をごいっしょしたりしてるの」  祖母ほどではないが、きれいで明るい感じの人だ。笑顔が上品だった。 「お母様なら今日はお帰りになりましたよ。何かご用事ですって」 「そうですか。ありがとうございました」  もう一度頭を下げ、このまま病室に入らず帰るのも変に思われるかと、私は父の個室に足を踏み入れる。  父は私が近付いても目を開けなかった。白いシーツに包まれた醜く変色した肌。膀胱《ぼうこう》に管が繋《つな》がれているのだろう。ベッドの下に尿の入った袋が取り付けてあった。  父の姿よりも、私は小型の冷蔵庫の上に置かれた花に目を瞠った。花瓶いっぱいの百合の花。祖母の枕元《まくらもと》にもいつか置いてあった。母が持って来たのだろうか。それとも祖母の所に来た人がここにも現われたのだろうか。チーママは親戚《しんせき》の人らしいと言っていた。親戚ならば確かに父の見舞いに来てもおかしくない。けれど、その大きな百合の花は妙に気に障った。どうも、わざと不吉な花を持って来られているような気がしてならない。  鮮やかな白い百合の下で、父は死人のように目を閉じていた。もうこれでは、何もできまい。仕事も遊びも、自分ひとりで歩くことさえできないのだ。  当然の罰が下ったのだと私は思った。人を何かの道具にしか思っていなかった父。男は自分が金を稼ぐための道具に使い、女は性の道具に使った。  父は娘の私をもそういう目で見ていた。あれは私が小学校の五年生の時だったと思う。父の書類袋の中から写真が落ちた。私がそれを拾うと父が慌ててひったくった。けれど私ははっきり見た。夏に風呂場《ふろば》で水遊びをしたときの、私の裸の写真だった。一枚ではない。五枚ぐらい同じ写真があった。  そのときは、なぜ父が私の写真を持っているのか分からなかった。可愛いからいつも持ってるんだよと父はごまかしていた。  あの写真の意味を知ったのは、男の人と寝ることを覚えてからだった。父はあの写真を誰かにあげるか売るかしていたのだ。他人の子供、それも裸の写真を欲しがる人間がどういう人間であるか、私は男友達が見せてくれた、ロリータ雑誌というものを見て知った。激しい怒りと、耐えきれないような羞恥《しゆうち》。そのとき私は父を殺そうかと考えた。けれどできなかった。あんな奴《やつ》を殺して、自分の人生を台なしにはできないと思った。父が実際に私に手を出したりはしないぐらいの理性を持っていたように、私だってそのくらいの理性は持っていた。  けれど、ちゃんと天罰は下るものだ。死んでしまえば楽だろうけれど、何もできずに生きているのは苦しいだろう。 「ざまあないわね」  そう言い残して、私は病室を出た。  マンションを売ってから移り住んだそのアパートで、私は母を待っていた。  当然いると思ったら、母は留守だった。管理人に鍵《かぎ》を借り、私は部屋に上がり込んだ。  外見は古い木造アパートだけれど、部屋は案外きれいに内装されていた。  私は時間つぶしに部屋の中をあれこれ眺めた。カーテンも炬燵《こたつ》カバーも、明るい色のものが掛けられている。もう片方の部屋は寝室に使っているのだろう。白木の洋服ダンスがひとつ置いてあった。  そのうち、私は首を傾《かし》げ始める。よく見ると、マンションで使っていた家具がひとつもなかった。そりゃ、以前の家で使っていた家具は大きな物ばかりだった。ここへ持って来たら不釣り合いかもしれない。けれど、今うちはお金に困っているのではなかっただろうか。炬燵もタンスも食器棚も、小振りながらも皆新品だった。まるで新婚家庭のようだ。  そのとき、玄関の扉がかちゃかちゃ音をたてて開いた。荷物を持った母が入って来る。玄関に脱ぎ捨てた私のヒールを見て、驚いたように顔を上げた。 「……来てたの?」 「お帰りなさい」  私は立ち上がって母を迎えた。 「ちょうどよかった。あなたの服もあったわよ」  そう言いながら、母は大きなビニール袋を手渡して来た。マンションにいたとき使っていたクリーニング屋の名前が書いてある。 「ずっと取りに行く暇がなくてね」  針金のハンガーに掛けられた服を取り出し、私は部屋の梁《はり》に掛けた。母が昔から着ている化繊のコート。安く買ったぺらぺらの喪服。父のワイシャツが数枚。私のベビーピンクのワンピース。 「炬燵どうしたの? 買ったの?」  私はお茶の用意をしながら母に聞いた。母は隣りの部屋へ着替えに行ったらしく、返事がない。日本茶を入れ、炬燵に座って待っていると編み込み模様のセーターに着替えた母が戻って来た。 「どうしたの、それっ」  仰天して私は聞いた。そのセーターはトナカイと雪の結晶が編み込んである淡いブルーの可愛《かわい》いセーターだった。今までの母のワードローブとは対極にある服だ。 「クリスマスに買ったのよ。いいでしょう」  確かに私も着たくなるような、可愛いセーターだった。老けた母にも意外と似合っている。 「そうだ、大福があったっけ。あなたも食べる?」  母は立ち上がって冷蔵庫から豆大福を出して来た。炬燵に座り直すと、早速口に持っていく。にこにこ笑うわけではなかったが、母はずいぶん明るくなったようだ。 「うちはお金がないんじゃなかったの?」  私は厭味《いやみ》っぽくそう言った。新品の家具に新しいセーター、豆大福ぐらいはよしとしても、母が節約しているようには見えなかった。 「あなたが遊びに使うお金はないわよ」  大福を食べながら、母はさらりと言った。 「それにしても、この炬燵だってタンスだって新しく買ったんでしょう。あ、何、あの電話。前に家にあったやつじゃないじゃない」 「うるさいわね。あなたにあれこれ言われる筋合いはないわよ」  私はぎょっとして母を見た。無愛想ではあったけど、そんな口のきき方をする人ではなかった。私がびっくりしていると、母はお茶を啜《すす》ってこう言った。 「お父さんの病気は難病指定されてるから、思ったほどお金はかからないのよ。おばあちゃんのほうも特に何の治療をしてるわけでもないから、入院費だけだしね。それも確定申告するとだいぶ返ってくるみたいだし」 「えー? 話が違うじゃない」 「違わないわよ。まだ借金はあるしね。お父さんがもっと回復したら、私も働かなくっちゃ」  母の年を私は正確に知らない。けれど五十は超えているはずだ。そんな年のおばさんを雇ってくれるところがあるのだろうか。私の頭に、水色の上っ張りを着て掃除のおばさんになった母が浮かんだ。 「それで何か用事?」  聞かれて私は我に返る。 「おばあちゃんの愛人だった人って、まだ生きてるの?」  ご機嫌を取るように、私は声を落として聞いた。祖母に聞いても答えてくれなかったのだ。こうなると母しか本当のことを知っている人はいない。 「お母さんにとって、一応お父さんなんでしょう? その人には何も連絡してないの?」  さすがに母の顔色が変わった。母は不機嫌そうに指に付いた大福の粉を払う。 「知らないわよ。私はその人に会った記憶はないんだもの。父親だなんて思ったこともないし」  嘘《うそ》だ。祖母の家で見つけたあの写真では母は七歳だった。覚えていないわけがない。 「名前ぐらい教えてよ」 「だから知らないって言ってるでしょ」  母は空になったお皿を持って立ち上がる。私は舌打ちしてその背中を見た。こうなったら、母は死んでも何も言わないだろう。  私は立ち上がってコートを羽織る。祖父のことを教えてくれないのなら、もう用事はない。 「あら、帰るの」 「うん。あ、そうだ。最近|親戚《しんせき》の人、誰かお見舞いに来た?」  私は百合の花を思い出し、そう母に聞いた。 「誰も来やしないわよ。あなた、もういい加減に親戚を当てにするのはやめなさい」 「違うのよ。おばあちゃんの所とお父さんの所に、花持って来た人がいるみたいなの。それが大きい百合の花でさあ。何となく気持ち悪くて」 「百合の花?」  母はしばらく何やら考える。 「さあ、誰かしら……」 「ま、いいわ。じゃあね」  私はヒールを履いて玄関のノブに手をかける。母が何か言うのではないかと思って、私は少しの間そのままの姿勢でいた。 「あ、椿」  珍しく母が私の名前を呼んだ。 「忘れ物」  クリーニングから戻って来た私のワンピースを、母は袋に入れて差し出した。 「じゃあね」  念を押すように私が言うと、母は黙って頷《うなず》いた。私は玄関を開けて外へ出る。師走《しわす》の風が吹きつけ、コートの裾《すそ》をめくった。  母は何も聞かなかった。私が今どこに住んでいるのか、何をして暮らしているのかと。明日は大晦日《おおみそか》でその次の日はお正月だというのに。  ああ、そうだ。もうお正月なのだと私は電車のシートに凭《もた》れて思った。  毎年お正月は祖母の家で過ごした。祖母はお節料理が大好きで、暮れから三日もかけて豪華なお節を作った。それをお正月の三日をかけて、私と祖母で食べ尽くすのだ。  もう二度と祖母のお節は食べられないのかと思うと、本気で悲しかった。買ったものは食べたことはないけれど、どう見てもおいしそうではない。  群贅の部屋に帰ると、彼はいなかった。考えてみれば、もうずいぶん群贅と顔を合わせていない。彼は服を出しっ放しにしたり、食器を洗わないままシンクに残しておくようなことはしなかったので、私がいない隙《すき》に帰って来ているのかどうかも分からない。  私が居候していることが、よほど気に入らないのだろうか。それならきっぱり断わってくれたらよかったのに。  私は服を脱ぎ群贅のパジャマに着替えた。彼のベッドに入り羽根|枕《まくら》に顔を埋める。何か考えようかと思ったけれど、何を考えていいかさえ思いつかなかった。そのうち強烈な眠気が私を襲う。気を失ったように、私は眠りに落ちていった。  目が覚めると、枕元の時計は十二時を指していた。カーテンに柔らかい日差しがあたっている。昼間の十二時なのだ。ということは、私は十五時間ぐらい眠ったことになる。さすがに疲れがとれてすっきりしていた。  群贅はやはり帰って来ていなかった。今日は大晦日だというのに、どこか別の女の子の所で過ごすつもりなんだろうか。  私はゆっくりお風呂《ふろ》に入った。バスルームを出ると強烈な空腹を感じた。冷蔵庫を開け、冷凍のグラタンとビールを発見し、私はそれを頂くことにした。  缶ビールを飲みながら、私はこれからのことを考えた。  誰かと結婚をして養ってもらおうと、そればかり考えてきた。今でもその気持ちは変わらない。けれど何だか疲れてしまった。もっと簡単にお金が手に入る方法はないのだろうか。  この部屋の居心地はとてもいいけれど、群贅がずっといっしょに暮らしてくれるわけがないことは分かっていた。最後の頼みの綱は祖母の愛人だ。何とか捜し出してみよう。誰かの愛人になるのも、AVに出るのも、それが駄目だったときに考えればいい。 「ファイト」  私は自分を叱咤《しつた》し、残りのビールをぐっと飲み干す。もう一度祖母にその人のことを聞いてみよう。  服を着替えお化粧を始めたときに、テーブルの上の電話が鳴り出した。私はしばらく電話に出ようかどうしようか迷った。  群贅本人だったらいいけれど、ガールフレンドだったら群贅に悪い。迷ったあげく、私は黙って受話器を取り上げた。女の子の声がしたら、間違いですと言って切ってしまえばいいと思った。 「群贅さんっ? 私よ。捜したのよっ」  勢い込んだ女の子の声がした。 「ねえ、どうして連絡くれないのっ? 変な噂《うわさ》がたってるのよ? 知ってるの?」  かなり切迫した感じのその声に聞き覚えがあった。私は思わず声を出す。 「もしかして、雛子?」  電話の向こうで相手は黙った。そして震える声で聞いてくる。 「……椿?」 「そうよ。そんなに焦っちゃってどうしたの?」 「どうして椿がそこにいるのよ」  私の質問に答えず、雛子は敵意を丸出しにして言う。むっとして私も言い返した。 「そういう雛子こそ、どうして群贅に用があるのよ。あんたたち、もしかしてできてたの?」  返事が返って来ない。なるほど、いつの間にか群贅の奴は雛子にも手を出していたわけだ。群贅が私の知り合いに手を出すなんて珍しいことではないのだが、何だか妙に腹が立った。群贅は私のことをぺらぺらと喋《しやべ》ったのだろう。だから雛子は、私の家の事情まで知っていたのだ。それでもさすがに、私が群贅の部屋にいることは伝わっていなかったようだ。  厭味《いやみ》のひとつでも言ってやろうとしたとき、雛子がわっと大きな声を出す。 「雛子? 泣いてるの?」  まるで子供のように、彼女は大きな声で泣いている。 「ちょっと、泣かなくてもいいわよ。別に群贅と私は付き合ってたわけじゃないんだから」 「でも寝てたんでしょうっ」  嗚咽《おえつ》を漏らしながら雛子が叫ぶ。 「寝てたけどさあ。別にいいじゃない。誰に迷惑かけてるわけじゃないし」 「かけてるのよっ。大迷惑だわっ」  あまりの大きな声に、私は受話器を耳から離した。何をそんなに興奮してるんだろう。 「椿、知らないのっ?」 「何を?」 「群贅さん、エイズだって噂がたってるのよ。捜してるのにどこにもいないの。きっとどこかに逃げたんだわっ」  私は受話器を耳に当てたまま、ぼんやり宙を見た。何なのそれ。 「あなたが群贅さんにうつしたのよ。私もうすぐ死ぬんだわ。椿のせいよっ。椿がエイズをうつしたんだわ!」 [#改ページ]      6  雛子はさんざん泣きわめいたあげく「死んでやる」と言って電話を切った。突然電話してきてエイズだの私がうつしただの、言いたい放題言ってくれたのには頭にきたが、さすがの私も何だか心配になってくる。本当に死なれたらいやだし、その群贅の噂《うわさ》も気になる。私は雛子の家へ行ってみることにした。彼女のマンションまで、そう離れていない。タクシーを飛ばして十分ほどで着くことができる。  彼女が住んでいるのは、ひとり暮らしには勿体《もつたい》ないほど広い部屋だ。ちゃんと聞いたことはないけれど、雛子は地方都市のかなりいい家のお嬢さんらしい。  私がチャイムを押すと、すぐに扉が開いた。泣き腫《は》らした目の雛子が飛び出して来る。 「何よ、椿じゃない」  露骨に肩を落として雛子は言った。 「グンゼだと思った?」  彼女は返事をせず、部屋の中に戻って行く。帰れとは言われなかったので、私は彼女の後に続いた。 「あー、もー、どうしようー」  そう言いながら、雛子はソファに崩れた。以前来たときは楽しそうにお菓子を出してくれたけど、今日はお茶も入れてくれる気配はない。 「ショールームはいつから休みだったの? 突然辞めちゃってごめんね」  一応私はお愛想を言った。すると雛子はふんと鼻を鳴らす。 「もうどうだっていいよ、そんなこと。椿ってどうせそういう人なのよ。期待した私が馬鹿だった」  期待と言われて私は顔をしかめた。勝手に期待なんかしないでほしい。 「群贅さんとのことだって、何でもないって言ってたのに大嘘《おおうそ》じゃない。あなたみたいな淫乱《いんらん》見たことないわ。それに何よ。整形してたなんて、本当にお笑いだわ」  真っ赤になった鼻を、雛子はティッシュを取ってかんだ。  言われた暴言の内容より、私は雛子の態度の豹変《ひようへん》ぶりに驚いていた。いつでもうっとうしいぐらい親切で、誰にでも当たりが柔らかかった雛子。何か困ったことがあったら相談してねと言っていたのは、ついこの間じゃなかっただろうか。  ボロが出たなと私は思った。友達面で親切の押し売りをして、いったい私に何を期待していたのだろう。急激に雛子への興味が冷めていくのを私は感じた。 「それで、グンゼがエイズだなんて誰が言ってたの?」  私は向かいのソファに座り、足を組んだ。 「ローズベイのバーテンよ。群贅さんと仲がいいのがひとりいるでしょう。あの人が言ってたの、グンゼの奴《やつ》発病したらしいって」 「デマじゃないの? だってこの前まで元気だったわよ。落ち込んでる様子もなかったし」  自分で言ってからはっとした。あの埠頭《ふとう》での夜も、私が群贅の部屋に押しかけた日も、彼は驚くほど苛《いら》ついていた。 「雛子の考え過ぎだって。もしそうなら、何か言ってくるはずよ。そんなことあるはずないわよ」  強く私はそう言った。勝てない勝負でも負けないようにしていた群贅。学生のころから、遊んでいる風に見せてもちゃんと試験前には勉強していた。だから成績もよくて、推薦で適当な私立大学に滑り込んだ。そして就職先は市役所だ。案外気が小さくて神経質な群贅。何があっても、ヘマをするような人間ではない。 「じゃあ、どうしてどこにもいないのよ。お正月はいっしょに過ごそうって言ってたのに、何で連絡がないの?」  私は腕を組んで雛子を見つめた。 「雛子とグンゼっていつからできてたの?」  静かに聞くと、彼女はそっぽを向く。 「怒りゃしないから言いなさいよ。いつからなの? もしかして会ってすぐなんじゃない?」  雛子は答えない。私は露骨に溜息《ためいき》をついてやった。 「よく白を切ってたもんね」 「椿に言われたくないわ!」  言葉とクッションが同時に飛んで来た。雛子は涙をぼろぼろこぼして私を睨《にら》む。 「私は椿みたいな尻軽《しりがる》と違うわ。ちゃんと恋愛してたのよ。群贅さんだって、雛子だけは特別だって言ってくれた」 「奴は誰にでもそう言うんだってば」 「違うわ。いずれ結婚する気でいたし、本当に愛してたのよっ」 「結婚? グンゼが結婚しようって言ったの?」  私が聞くと雛子は唇を噛《か》む。群贅がそんなことを言うわけがない。雛子が勝手に思い込んでいるだけだ。 「遊ばれたのよ。グンゼには、私や雛子の他にも沢山女の子がいるのよ」 「うるさい!」  髪を振り乱して、彼女は首を振った。 「あんたがどっかの男からもらってきたエイズが、私のところに回って来たのよ。どうしてくれるのよ。死んじゃうわ。どうしよう、私死んじゃうのよ!」  びっくりするほど大きな声で、雛子はソファに泣き崩れる。私はその姿を見ながら煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。指先で挟んだ煙草が小さく震える。  エイズと言われても、何だかぴんとこなかった。テレビや雑誌で特集していても、真面目《まじめ》に見たことなんかなかった。でも、そうそう簡単にうつらないことぐらい、私だって知っている。  それでも胸の中に、ざわざわといやな感じのものがこみ上げてくる。死んじゃうわと泣き続ける雛子を尻目《しりめ》に、私はバッグからアドレス帳を取り出した。  そこにあった電話を取り上げ、私は少し考えた。このままでは埒《らち》があかないので、プロの意見を聞こうと思ったのだが、事が事だけに人選に迷った。私は祖母の病院の電話番号を押し、事務の人にチーママを呼んでもらった。しばらく待つと、祖母のいるフロアのナースステーションに電話が繋《つな》がった。 「儘田は今、手が離せないんですけど」  しばらく間が開いて、唐突に誰かがそう言った。太くて無愛想な声。魚住だ。 「失礼ですけど、どちら様ですか?」 「ええと、あの、桐島です」  仕方なく私は名乗った。魚住が息を止めるのが分かった。私達はあの取っ組み合いの喧嘩《けんか》以来だった。 「何か用?」  ぶっきらぼうに彼女が聞く。考えてみれば、魚住は群贅のことも私の性格のこともよく知っているのだ。今さらどう思われようと彼女になら何ともない。気は進まないが、魚住に相談しようと私は腹を決めた。 「魚住さん、今日は仕事何時まで?」 「どうしてそんなこと聞くのよ」 「ちょっと、その、助けてほしくて」 「助ける?」  すごく驚いた声で彼女が聞き返した。 「そんなに驚くことないじゃない。この前は悪かったわ」 「あなたが謝るなんて、何かの罠《わな》かしら」 「失礼ねー。あのさ、友達がエイズに感染したって泣いてるの。私じゃどうしていいか分かんなくて困ってるのよ」  そこまで言うと、魚住の口調が急に変わった。雛子の部屋の住所と、どういう状況なのかを簡単に聞くと、すぐ行くわと言って電話を切った。頼んだほうの私が、その素早い対応にぽかんとしてしまった。  魚住は三十分後には、雛子のマンションのチャイムを押した。私が玄関に迎えに出ると、ださい灰色のコートを着た彼女がぬっと立っていた。 「早かったじゃない。仕事大丈夫だったの?」 「ちょうど申し送りが終わったところだったから。それよりその人は?」  私と魚住は、目を合わさないようにして話した。前に大喧嘩した後もそうだったけれど、魚住と喧嘩をするとなぜかその後とても照れくさいのだ。思う存分怒ったせいなのか、もうあのときの怒りはかけらもなかった。  雛子はまだソファにつっ伏してしくしく泣いていた。私はその背中に声をかける。 「雛子、友達の看護婦さんが来たんだけど」  看護婦と聞いて雛子は顔を上げる。魚住は会釈をすると、雛子の隣りに腰を下ろした。 「さ、もう沢山泣いたからいいでしょう。事情を話してちょうだい。どうしたらいいか、いっしょに考えましょう」  雛子は躊躇《ちゆうちよ》して魚住の顔を見た。 「……誰にも言わない?」 「あなたが言ってほしくなければ、誰にも言わないわ」 「絶対?」 「絶対よ」  ふたりの姿はまるで幼稚園児と保母さんみたいだった。キャラクターの描いてある子供みたいなトレーナーを着ている魚住がぐんと大人に見えた。  私はふたりから離れ、キッチンのテーブルでそこらにあった雑誌を広げた。新色の口紅やバーゲン情報の記事を見ながら、私は煙草を吸った。彼女たちの話し声は低く、時折り雛子の洟《はな》をすする音が聞こえるだけで話の内容はよく聞き取れない。  小一時間たったころだろうか。魚住が私のところへ来て小声で言った。 「悪いけど、駅へ行って新幹線の切符買って来てくれない?」 「ええ?」 「あの子、このままひとりにしておいたら危ないわ。親の所へ帰しましょう」  逆らう理由もなかったので、私は頷《うなず》いて立ち上がった。大晦日《おおみそか》なんかに新幹線の指定席があるのかなと思いながら駅へ行くと、案外空席はあった。雛子の田舎までの切符を買う。このお金は返してもらえるのかしらと私は頬《ほお》を膨らませた。  マンションに戻ると、もう雛子はすっかり荷物をまとめコートも着ていた。泣き疲れたのかぐったりソファに座っていた。電話でタクシーを呼び、私と魚住は新幹線の駅まで雛子を送った。三人でホームまで上がり新幹線が来るのを待つ。  大晦日の新幹線ホームは、木枯らしが吹きつけていた。私と雛子は微妙な間隔を開けて立ち、一言も口をきかずにそっぽを向く。後ろでは、魚住が雛子の実家に電話をかけていた。 「ええ、そうです。二十三分発の新幹線に乗せます。いえ、それほど悪くはないのですけど、仕事でだいぶ疲れがたまった様子で……ええ、迎えに来てくださると……はい、よろしくお願いします。お正月ですし、ご両親の所に帰られたほうが安心かと……」  よそゆきの魚住の声を私は感心して聞いていた。同い年とは思えない。  電話が済むと、魚住はこちらへ戻って来て雛子にメモを渡した。 「私の電話番号。お正月が明けたらすぐ検査してね。泣くのはそれからにしましょう。保健所だったら匿名で検査を受けられるから。少し本を買って勉強したほうがいいわ。知識がないからそうやって不安ばっかり先にたっちゃうのよ。分かったでしょう?」  さっきから電池が切れたように黙りこくっていた雛子が、こっくり首を垂れた。小さく「分かりました」と呟《つぶや》く。  そこで突風とともに新幹線が滑り込んで来た。人形のようにぎくしゃくと車両に乗り込むと、雛子は私達のほうを振り向きもせずに通路の中に消えて行く。  走り出した新幹線に、魚住だけが手を振った。 「あんたも飲みに行く?」  ホームを下りる階段の途中で、魚住が私にそう聞いた。私はびっくりして聞き返す。 「ええ? ふたりで?」 「違うわよ。今晩病院の人たちと忘年会するの。チーママも椿さん呼ぼうって言ってたからさ。来てもいいわよ」 「今日は大晦日よ。今ごろ忘年会?」 「予定があるならいいわよ。ああ、そうね。もてもてのあなたには、当然先約があるわよね。誘った私が馬鹿だったわ」  ふんと鼻から息を吐いて、魚住は階段を下りて行く。私はそのざんばら頭を見ながら後に続いた。群贅が帰って来ないなら、どうせ今晩はひとりなのだ。ひとりで紅白を見てても面白くもないし。 「私も行っていいの?」  がっちりでかい背中に聞くと、魚住が振り返る。 「ずいぶん謙虚じゃない」 「……別に」 「あんたでも落ち込むことがあんのね」  にやりと彼女が笑った。私は首をすくめ苦笑いを返す。  繁華街の裏手にあるそのスナックに、私達は六時ごろ着いた。ちょうど店のママらしい人が、入口をほうきで掃いているところだった。 「あら、大ちゃん」  厚化粧で少々太めのママが魚住に笑いかけた。 「ちょっと早かった?」 「いいわよ。みんなが来るまで先に飲んでなさいよ。こちらは初めて見る顔ね。新人の看護婦さん?」  私のほうを見てママは親しげに言った。 「いいえ、えっと」 「友達。コンパニオンやってんの」  魚住が無表情にそう言う。 「どうりで美人だこと。さ、入って入って」  店の中は狭く、お洒落《しやれ》でも何でもない普通のスナックだった。まだ開店時間前らしく床にはバケツと雑巾《ぞうきん》が置いてあり、カウンターの上にも配達されたばかりのおしぼりが積んである。  いちばん隅のソファに私と魚住は腰掛けた。ママがビールとナッツの小皿を持ってやって来る。 「大ちゃんさあ。誰か友達で暇そうな人いない?」  甘ったるい声でママが聞く。 「何で?」 「ヤスコちゃんが就職決まって辞めちゃったのよ。真っ当にOLするっていうんじゃ引き止められなくて」 「ふーん」 「ふーんじゃないわよ。まったく冷たいわね、この子は」  ころころ笑うとママはカウンターへ戻って行った。 「この店よく来るの?」  ビールを飲む魚住の横顔に私は聞いた。 「まあね。うちの病院のドクターがよく来てるんで、そのボトルを目当てにみんなで来るのよ」 「大ちゃんって言ってたけど?」  魚住はちっと舌打ちをし、こちらを見ないで言った。 「大魔神の大」  私は思わず大笑いをした。 「やーぱっ、誰の目にもそう見えるわけねえ」 「笑い過ぎよ」 「だってさあ、ああ可笑《おか》しい、これから私もそう呼ぼう」  魚住はビールのグラスを置くと、意外にもうっすら笑った。 「いいわよ。別にそう呼ばれるの嫌いじゃないから」 「え? そうなの?」 「中学のときさ、よく群贅さんが私のこと大魔神魚住って呼んでたわ。馬鹿にしてそう言う人も多かったけど、群贅さんは親しみ込めて言ってくれたから。それから分かったの。こんな顔でも親しみもってくれる人がいるんだって」  私は笑って話す魚住の顔を見た。 「……グンゼが好きだったの?」 「好きってほどじゃないわよ。いい人なんだって思ってた。だから私、あんたが大嫌いだったのよ。話したこと一度もなかったけど、私にはあんたが群贅さんのこと、いいように振り回してるみたいに見えたの」  いい人? 群贅がいい人だって? 他人にはそう見えるのだろうか。 「じゃあ中原先生は?」  私の質問に魚住は唇を尖《とが》らせる。店の照明が暗くてよく分からないが、どうも赤くなっているようだ。 「好きなんでしょう?」  重ねて聞くと魚住は微かに頷《うなず》いた。黙ってしまったかと思うと、突然話し出す。 「あんたには絶対分からないことよ。私だって好き好んでこんな顔に生まれてきたんじゃないわ。ブスとかデブだけじゃなくて、臭いとかブスがうつるから寄るなとか言われたこともあるわ。性格|歪《ゆが》んで当たり前よ」 「あんたが言うと、説得力あるわねえ」  ぎろりと魚住がこちらを見た。私は肩をすくめて目で謝る。 「とにかくさ、顔も性格も悪いから親も私のこと見離してたわ。早く家なんか出て自立したかった。だから看護婦になったのよ」 「へええ」 「普通のOLじゃあ、どうせまたブスだのデブだの言われるのが落ちだもんね。なりたくてなったわけじゃないけど、看護婦って私には合ってたみたい。病人って気が弱ってるでしょう。私みたいな、ドーンとした感じの人見ると安心するって言う人多いのよ」  そうかもしれない。私は素直に頷いた。 「看護婦やってるうちに、私分かったのよ。こんな顔に生まれてきて損したってずっと思ってたけど、人間損得だけで生きてるわけじゃないじゃない。そりゃ、もちろんあんたみたいな奴《やつ》を見ると腹が立つけどさ。本当に損得抜きで、誰にでも親切な人っているのよ。そういう人がいるかぎり、私は顔を整形したりしないわ」 「なるほど」  私は納得した。中原先生は、条件抜きで本当に誰にでも親切な人なのだ。きっと魚住や私は、努力してもそういう人間にはなれないだろう。妬《ねた》みや嫉《そね》みや優越感を超えて、誰にでも優しく当たれるなんて人間ではなく本物の天使様だ。そういうのって育ちなんだろうか、持って生まれたものなんだろうか。 「あんたが中原先生とデートしたって聞いて、私気が狂いそうなほど腹が立ったの。負けるまいって思ったの。だから」 「だから手編みのセーター渡す気になったってわけね」  驚いた顔で魚住がこちらを見る。 「アパートで飲んだんでしょ。先生に聞いたわ」 「……あんた、もう先生とできてるの?」 「残念ながらできてないのよ」  先生に迫って断わられたあの晩のことを、私は正直に話した。魚住はそれを聞いて何やらじっと考える。 「どうかした? 嘘《うそ》なんかついてないわ。本当に何もなかったんだから」 「うん、そうじゃなくてさ……あなた、もし先生が結婚してくれるって言ったら、いっしょに先生の田舎に帰るつもりなの?」  魚住の質問に私は笑った。 「そんなことまで考えてないわ。だってまだまだ先のことでしょう?」 「明日にでも先生が田舎に帰るって言ったら? そしたらおばあちゃんはどうするの? 代わりに面倒見てくれる人いるの? それともいっしょに連れて行くの?」  しつこく聞く魚住に、私は顔をしかめる。 「そんなことまで考えてないわよ」  ぶっきらぼうに言って私はビールを飲み干した。煙草《たばこ》が吸いたかったけれど、魚住が目の前にいたんじゃ吸うに吸えない。 「あんたに一番欠けてるもんが分かったわ」  冷めた声で魚住が言う。 「想像力よ。あんた先のこと、あれこれ考えたことないでしょう」 「失礼ねえ。これでも真剣に考えてるわよ」 「あんたがさっき、雛子って子を見ても冷静だったわけが分かったわ。自分には関係ないと思ってるんでしょう」 「悪かったわねえ。でも雛子よりはマシなつもりよ。何よ、あれ。ついこの間まで友達面してたくせに」  私が言うと、魚住は真面目《まじめ》な顔で首を振る。 「あの子を責めるのは間違ってるわ」 「ええー? なんでー」 「ちょっと被害妄想気味だけど、あれが普通の反応かもよ。親切にしてもらったことだってあるんでしょう? あんた雛子さんのこと、本当に友達だと思ってた? 冷たいのはどっちよ。あんたのほうがよっぽど冷酷だわ」  反論しようにも、あんまり本当のことで何も言えなかった。 「あんたは三歩歩くと、誰かが親切にしてくれたことなんか忘れちゃうんじゃない? 鶏よりひどいわよね。目先のことしか見えないの。先のことを想像する力がないのよ。幸せな人ね、あんたって」  私は赤く塗った自分の爪《つめ》を眺めながら、魚住の言葉の意味を考えた。 「すごく馬鹿にされた気がするんだけど」 「馬鹿にしたのよ」  しらっと魚住が言う。 「あんた、群贅さんとセックスするときコンドーム付けてた?」  明らかに処女に見える魚住からそんな露骨なことを言われて、私はビールを吹きそうになる。 「すごいこと聞くのねー」 「笑ってる場合じゃないわ。あなたこそエイズ検査受けなさい。あの雛子って子が言ってたこと、案外当たってるかもしれないわ。あなたがどっかで感染して、群贅さんにうつしたのかもしれないわよ」 「やめてよ。ひどいわね」 「ここまで言って笑ってられるのは、知識がないからとしか思えないわ。本貸すからお正月の間に読みなさい」  私はピアスをいじりながら、怒ったような魚住の横顔を見た。 「聞いていい?」 「どうぞ」 「エイズに感染してたらどうなるの? 私も死んじゃうの?」  何だか急に不安になってきた。かかったら治らない病気だとは知っている。本当に私が感染しているというのだろうか。こんなに元気でぴんぴんしているのに。 「本当に何にも知らないのね。テレビでも雑誌でもがんがんやってるじゃない。いい? エイズのウイルスがからだに入ると抗体ができるのよ。検査してその抗体を持ってる人が陽性なの」 「……はあ」 「でもこの抗体は病気を治す効果はもってないから、数年後には発病するわ。でもね、陽性って出ても感染してない場合もあるし、発病を遅らせる薬だってだいぶ進んでるのよ。発病したって、カリニ肺炎なんかはいい薬があってちゃんと治るそうよ」  返事をしない私を見て、魚住は重ねて言う。 「あんたもそうだし、さっきの雛子って子もそうだわ。自分には関係ないことだと思ってセックスしてたんでしょう。あんたたちみたいな人が多いから、どんどん広がるし差別だって生まれるのよ。うつるだの死ぬだの大騒ぎして。もっと考えてもの言いなさいよ」  私はもう一度、赤いマニキュアを塗った自分の手を見下ろした。自分でもきれいだと思う。白くて染みひとつなく、すんなり伸びた十本の指と細い手首。  エイズが発病した人の写真を見たことがある。からだ中に染みが浮かび、白いシーツの上で枯れ木のように横たわっていた。私のからだも、そうやって朽ち果てるのだろうか。  そのとき店の扉が勢いよく開いた。弾《はじ》けるような女の子達の声が入って来る。 「お待たせしましたー。あー、先に飲んでるなんてずるい」 「あれ? 椿さん来てくれたんだ。嬉《うれ》しい」  チーママを含めた女の子が四人、私と魚住を囲んで座る。ビールが並べられ、大騒ぎでメニューを見ては端から食べ物を注文した。  私服姿の看護婦たちは、その辺にいる若い女の子と見分けがつかなかった。けれど、私がコンパニオンの仕事で知り合ったどの女の子達よりパワーがあった。やけくそで騒いでいるようにも見える。  明日は元旦《がんたん》から仕事だと言いながら、皆大酒を飲んでカラオケを歌った。私もつられてはしゃいだ。  大きな声で笑い、グラスのお酒を一気に飲む。女同士でデュエットし、隣りのテーブルのおじさんたちとえげつない話で盛り上がる。  けれど、カラオケのマイクを離し、ソファに座った瞬間に、私は今まで感じたことのない感覚に襲われた。  息が苦しく、遠近感が狂う。目の前に繰り広げられる狂乱が何だかよく分からなくなる。大きな声で泣き叫びたい衝動にかられた。  もう駄目だと思った瞬間、誰かが私の手を握った。ものすごく強い力だったので、私は度肝を抜かれて顔を上げる。魚住の心配そうな目がそこにあった。 「言い過ぎたわ。ごめんね」  彼女の口がそう動いた。 「いっしょに検査に行きましょう。大丈夫。私がついててあげるから」  私はやっとの思いで小さく頷《うなず》いた。恐かった。こんな恐ろしい思いはしたことがなかった。魚住の手を握りしめ、私はぶるぶる震えているしか術《すべ》がなかった。  正月休みが明けるとすぐ、私は保健所に検査を受けに行った。魚住はいっしょに来てくれると言ったけれど、仕事を休ませるのも悪いので、私はひとりで行けると強がりを言った。  魚住に聞いたとおり、保健所での検査は匿名で受けることができた。ただ、血を採るだけだと聞いていたのに、簡単なカウンセリングがあった。  人のよさそうな女医が、基本的なエイズの知識を話してくれて、言いたくないのなら構わないと前置きをしてから、こちらの事情を尋ねた。私は何も言わなかった。というより言えなかったのだ。この数年の間、何人の男の人と寝たのか分からないし、その中には名前も連絡先も知らない人が大勢いる。そんなことは、とても口にすることができなかった。  結果は二週間後に分かるということだった。女医は必ず本人が結果を聞きに来てくださいと念を押した。もし、聞きに来られない場合は必ず電話を入れることを約束させられた。  門松が取り外され、街から正月気分が抜け始めても、私はまだ仕事を見つけていなかった。派遣会社が仕事をくれないのだ。  いくら問い合わせても、今は仕事がないからと言われてしまう。しつこく毎日電話をすると、とうとう担当者が他の派遣会社に登録したらと言い出した。それで私はぴんときた。ショールームでのいざこざが派遣会社の耳に入ったのだろう。もう会社は、問題を起こしそうな私を使う気はないのだ。  働かないわけにもいかなかったので、私はとりあえず、忘年会をしたスナックでバイトをすることにした。  店のママは機嫌がいいときと悪いときがあったし、親父《おやじ》が歌う下手くそなカラオケに拍手をするのもだるかった。けれど、仕事そのものは楽だった。お愛想を振りまいて、ちゃらちゃらしていればいいのだ。さすがコンパニオンをしてただけあって椿ちゃんは気がきくと、ママが褒めてくれたりもした。楽しくはあったけれど、ずっと続けたいとは思わなかった。  かと言って他の仕事を捜す気にもなれず、昼間はずっと祖母のそばにいた。スナックでのバイトが終わると、群贅の部屋に帰って寝た。群贅からの連絡を私は待っていた。  三が日が明けるとすぐ、群贅の仕事先に電話をしてみたが、暮れのうちに休職届が出ていると言われた。実家のほうに昔の知人を装って電話をしてみると、ひとり暮らしを始めたからと、私が今まさに使っている電話番号を教えられてしまった。あれこれ聞いて心配させてもいけないので、私はお礼を言って電話を切った。  群贅はどこにもいなかった。行きつけのバーにもクラブにも、関係があった女の子達に聞いても、誰も彼の行方を知っている人はいなかった。群贅がエイズだと噂《うわさ》を流したバーテンを問い詰めると、俺《おれ》も店の客から聞いただけだから本当のことは知らないよと無責任なことを言った。質《たち》の悪いただの噂であってほしいと、私は心から思った。  元旦からずっと私は祖母の世話をして過ごした。食事が来るたびそれを祖母の口に入れ、床擦れができないように寝返りを打たせてあげた。タオルを絞ってからだを拭《ふ》き、時間を見て祖母のおむつを代えた。食事は祖母がなかなか食べてくれないので一時間も二時間もかかるし、おむつを取り替えるのだって赤ちゃんをやるようにはいかない。大きいほうを見た後はさすがにげんなりする。祖母はめっきり口数が減った。一言でいいからちゃんとした祖母の言葉が聞きたくて、私は熱心に祖母に話しかけた。けれど返事は「うん」と「いや」しか返ってこない。  祖母の愛人だった人のことも、やはり聞き出せないでいた。写真を見せて「これはだあれ?」と聞くと、微かに動揺した表情を見せるのだが、手掛かりになるようなことは何も言ってはくれなかった。  十日もたったころだろうか、祖母に夕飯を食べさせているとき、私は唐突に思った。いっそ死んでくれればいいと。  祖母が怪我《けが》をして寝たきりになり、あっという間に正気をなくしても、私はまだ分かってはいなかったのだ。こんなことはきっとすぐ終わることだと思っていた。  終わらないのだ。容体が急変しないかぎり、これから何年もこのままなのだ。長く病人の付添い婦をやっているというおばさんも、看護婦やよその見舞い客たちも皆同じことを言った。こうなると長いよと。  今ごろになって、私はやっとそのことを実感した。これから祖母が死ぬまで、私は介護し続けなければならないのだ。想像力がないのよという魚住の言葉を、今になってやっと理解することができた。  愛する祖母は、今の私にとって重く大きな荷物だった。けれど古い洋服を捨てるようにポリ袋に入れてしまうわけにはいかない。この枯れ果てた老人は、昔私の敬愛する祖母だったのだ。誰よりも愛してくれた肉親だった。その人の死を願うようになるとは、想像もつかないことだった。祖母が死んだら本当に私はひとりぼっちになってしまう。けれど、今でも充分ひとりぼっちならいっそ重い荷物は下ろしたかった。  祖母が死なないのなら、私が死のうかとぼんやり思った。誰も結婚してくれなくて、仕方なく誰かの愛人になり何とか楽しく暮らしても、最後にぼけ老人になって、病院の硬いベッドの上で他人におむつを代えてもらうぐらいなら、いっそ今のうちに死んでしまおうか。盛りのうちにぽとりと花を落とす椿という名を付けたのは、もしかしたらそういう意味が込められていたのかとさえ思ってしまう。  いや、自ら花を落とさなくても、もしかしたらあと少しで私は死ぬのかもしれない。ベッド脇《わき》に伏せた魚住から借りた本に私は目をやった。読めば読むほど恐くなった。知らずにいたほうがよかったと真剣に思うぐらいだ。 「明けましておめでとう」  男の人の声で私は我に返った。顔を上げるとそこに中原先生の顔があった。 「先生っ」 「久しぶりだね」 「ええ。ずいぶん長いことお休みしてたんですね。どうしたんだろうって思ってたんですよ」  中原先生は暮れから休みをとって、なかなか病院に顔を出さなかった。先生の顔を見るのはあの夜以来だ。ものすごく昔のことに感じて、先生の人のよさそうな笑顔が懐かしかった。 「田舎に帰ってたんだ。はい、お土産《みやげ》」  そう言って先生はお菓子の箱をくれた。 「私に買ってきてくれたの?」 「そうだよ」 「すごーい。本気で嬉《うれ》しい」  私がはしゃぐと先生は照れたように頭を掻《か》く。そして祖母の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「調子はどうですか? ああ何だか痩《や》せちゃったなあ」 「最近、食べてくれなくなっちゃって」  溜息《ためいき》まじりに言うと、先生は私の頭を優しく撫《な》でてくれた。私は心底嬉しくて、猫のように目を細める。私がどんな気持ちで祖母を看病しているか、この人だけは分かってくれている気がした。 「本読んでたの? 意外だなあ」  そう言って先生がベッドサイドの本に手を伸ばす。私は慌ててそれを遮った。 「見ちゃ駄目。これエッチな漫画なの」  それを聞いて先生が楽しそうに笑った。私も笑顔を作りながら、冷や汗が浮かぶのを感じた。このことだけは絶対知られちゃいけない。 「椿さん」  急に真面目《まじめ》な顔になって、先生は私の名を呼んだ。 「あのですね、えっと、実は聞いてもらいたいことが」 「桐島さーん。桐島椿さーん」  そこで誰かがまた私の名前を呼ぶ。振り返ると事務の女の人が私を呼んでいた。 「お電話がかかってます。お母様から」 「え? 母からですか?」  驚いて聞き返すと、事務員は無表情に頷《うなず》いた。 「事務室にかかってますけど、どこかに回しますか?」 「あ、えっと」  何かを言いかけていた先生を私は見上げた。 「僕は後でいいから」  先生に促されて私は病室を出る。事務員の後を追い掛けて私は階段を下りた。母から電話だなんて、用事は父のことしか考えられなかった。とうとう死んだかなと思いながら、私は受話器を受け取った。 「もしもし? お母さん?」  私が出ると、唐突に母がこう聞いた。 「おばあちゃんの家から、写真を持って行ったのはあなた?」 「は?」 「おばあちゃんの家の整理をしてるのよ。あなた写真の入った箱を持って行かなかった?」  母の切羽詰まった声など、私は初めて聞いた気がした。 「持ってるわ」  私が言うと母は大きく息を吐いた。 「返しなさい」 「いやよ」 「あなたのものじゃないでしょう。返してちょうだい」  私が返事をしないと、母はもう一度言った。 「返しなさい」 「分かったわ。返してほしかったら、いっしょに写ってる男の人の居場所を教えて」  たっぷり一分以上母は黙っていた。  その人の住まいは、海の近くにあった。電車に一時間ほど揺られ、私はその駅に降り立った。高校生ぐらいのころ、一度海水浴に来たことがある。けれど季節外れのその駅は、以前来たときと別の場所かと思うぐらい寂れて見えた。  駅前でタクシーに乗り、母に聞いた住所を運転手に見せる。車は海岸とは逆方向へ五分ほど走った。坂道を上がり、くねくね曲がった小道を抜けて車は止まった。  私はその人の住んでいる、コンクリートの建物を見上げた。マンションというよりも一昔前の団地という感じだ。潮風に晒《さら》されているせいなのか、壁にはいくつも亀裂《きれつ》が走り、ところどころ苔《こけ》のようなものが見える。まわりに緑は多いが、それは手入れをしていない雑草だった。鬱蒼《うつそう》とした木々の中に立つその建物は、まるで幽霊屋敷のように見える。  私はコンクリートの冷たい階段を上り、303と書いてある部屋の前に立った。あちこち錆《さ》びた鉄の扉に、入江杏子《いりえきようこ》と書いた紙がセロハンテープで貼《は》ってあった。私は深呼吸をしてからチャイムを押した。  すぐその扉は開いた。中から中年の女の人が顔を出す。色が白くふくよかで温和そうな女の人だ。母が着ていたような、おばさんしか着ない色のセーターを着ている。 「はじめまして、桐島椿です。昨日は突然お電話しまして……」 「いいえ。いいんですよ。さあ、どうぞ。ここの場所はすぐ分かりました?」  にこにこ笑ってその人は言った。あまりの和やかさに拍子抜けしてしまうぐらいの笑顔だった。  狭くて暗い玄関を抜け、私はリビングに通された。リビングと言っても台所の延長線上に、安っぽいテーブルと椅子《いす》が置いてあるだけだ。  まず目についたのは、その部屋に不釣り合いなほど立派な仏壇だった。位牌《いはい》と写真がふたつずつ置いてある。片方は男の人でもう片方は女の人だ。線香の煙が鼻をくすぐった。 「お父さん。お孫さんが会いに来てくださったわよ」  写真に向かってその人は言った。私は黙って祖父である人の写真に見入った。  昨日、母からここの電話番号を聞き出した。そして祖父の死を知った。去年の十月に彼は亡くなっていた。  十月と聞いて、私は死ぬほどやり切れない気分になった。祖母が元気をなくし始めたのはそのころだったし、入院したばかりのころ、もう生きてたって楽しいことは何もないと言っていたことを思い出した。  電話に出た彼の娘は私の素性を聞いた。何も言わずに切ってしまうこともできたけれど、私は正直に話した。桐島牡丹の孫の椿だと。すると彼女、入江杏子はぜひ家に来てくださいと言ってくれたのだ。  お線香をあげて、私は両手を合わせた。私にとって祖父は最後の希望だった。死んじゃったなんてずるいと、私は胸の内で呟《つぶや》いた。 「どうぞ、座って。紅茶でよかったかしら」 「あ、はい。すみません」  私は勧められたテーブルの前に腰を下ろした。隣りの椅子の背にはエプロンが掛けっ放しになっているし、部屋の隅には新聞や雑誌が積んである。電気の笠には埃《ほこり》が積もり、紅茶はティーバッグだった。祖母も母も家の中を散らかす人ではなかったので、どうも落ちつかなかった。それにどう見ても裕福な暮らしぶりには見えない。祖父は金持ちなのではなかったのか? 「私なんかが押しかけて来て、ご迷惑じゃなかったですか?」  とりあえず私は彼女の顔色を窺《うかが》った。彼女はまたふっくら笑って首を振る。 「いいのよ。若い人がそんなことを気にしないで。それより父のお葬式では、お母様にお世話になりまして。よろしくお伝えくださいね」 「え? はい。どうも」  私は驚きながらも頷《うなず》いた。そうか、母は祖父の葬式に行ったのだ。だから喪服がクリーニングに出してあったのか。妾《めかけ》の子なのにいい度胸をしている。  頷いてしまうと、もう話すことが見つからなかった。相手が金持ちそうなら、嘘《うそ》泣きでもして祖父の遺産を少しでも取ってやろうと思っていたけれど、これではそんな話をする雰囲気ではない。 「失礼ですけど、おひとりでいらっしゃるんですか?」  表札に彼女本人の名前が出ていたことを思い出して、私は聞いた。 「ええ。何となく婚期を逃してしまってね。母も父もいなくなったし、とうとう本当にひとりきりだわ」  台詞《せりふ》の内容のわりに明るい話し方だった。 「……お母様はいつ?」 「一昨年なの。昔からあまり丈夫な人じゃなくてね。あの年まで生きたのが不思議なぐらいだった。母が死んでから、やっぱり父ががっくりきてね、あっという間に衰弱して一年で死んじゃったわ」  なるほど、正妻さんは愛されていたのだなと私は思った。 「あの聞いてもいいですか?」 「ええ。何かしら」 「私、祖父の名前を知らないんです。入江なにと言うんですか?」  私が聞くと、彼女はおやという感じで目を丸くした。 「父は入江じゃないわ。桐島よ。桐島|健二郎《けんじろう》」  今度はこちらが目を見張った。 「え? どうして?」 「あなた、もしかして知らないの? 何も聞かされてないの?」  私とその人はお互いの顔を見つめた。私は首を振る。どういうことなのだ。 「父と呼んではいたけど、桐島健二郎はあなたのおばあさんの旦那《だんな》さんよ。私の母は妾だったの」  世界がぐらりと揺れる。天と地が引っ繰り返ったようなショックを受けた。頭の中が激しく混乱する。私は歯を食いしばって平静を保った。テーブルの下で膝《ひざ》が震え、口の中がからからに渇いた。  祖母は正妻だったと言うのか。 「……嘘よ」 「嘘なんかつかないわ」 「でも、あなたたちはずっといっしょに暮らしてたんでしょう? だから祖父のお葬式もあなたが出したんでしょう?」  勢い込んで聞くと、彼女は悲しそうに目を伏せた。 「違うわ。父はずっとひとりで暮らしていたの。私達はいっしょに暮らしたかったんだけど、そうすると私達に迷惑がかかるって言ってね」 「……迷惑?」 「本当に何も知らないのね」  その人は立ち上がると、奥の部屋へ入って行った。そして古い手紙を一通持って来て、私に差し出した。 「母の遺品を整理してたら出てきたのよ」  宛名《あてな》は入江|百合子《ゆりこ》様と書いてあった。見覚えのある達筆に、私は封筒を裏返す。差出人に桐島牡丹と祖母の名前が書いてあった。 「百合子さんって……」  何かを思い出せそうになって、私は呟《つぶや》いた。 「私の母よ」  そう言って彼女は仏壇の写真を目で示した。夫婦のように並ぶ、祖父と百合子という女の人。 「百合……?」  私は突然ぴんときて、彼女の顔を見た。 「百合の花を持ってお見舞いに来たのは、もしかしたら……」 「ええ、私。白い花はお見舞いにはいけないって分かってたんだけど、母も私も大好きな花だったから。匂《にお》いもいいし、素敵でしょ?」  まるで悪びれず、彼女は少女のように笑った。私は何だかわけが分からず、その封筒から便箋《びんせん》を取り出した。  懐かしい祖母の文字。季節の挨拶《あいさつ》から始まるその手紙を私は読んだ。四行目に本題に入り、私は二枚目までを一気に読んだ。便箋は全部で五枚あった。どの便箋にもぎっしり文字が詰まっている。私は三枚目を読む気になれず顔を上げた。 「……これは祖母が書いたんですよね」 「そうでしょうね」  私は震える指で便箋を畳み、何とか封筒に押し込んだ。夫を返せ、泥棒猫、お前の子供なんか認知させない、死んでしまえとさえ書いてあった。私は両手で顔を覆った。正妻が妾に宛てた、厭味《いやみ》というより脅しに近い手紙だった。 「ごめんなさい」  謝ったのは私ではなく、手紙を出して来た本人だった。 「あなたにいやな思いをさせるために、読ませたんじゃないの。ただ本当のことを知ってほしくて」  私は何も言えなかった。ただ端の欠けたティーカップを見つめる。 「お葬式は父の実家のそばのお寺でやったの。喪主はもちろんあなたのおばあさんよ。いっしょには暮らしていなかったけれど、父はやはり私達の家族だった。週に何度も来て泊まって行ったし、週末はよくみんなで出掛けたわ。父と母は愛し合っていたし、私にはただひとりの父だった。だけど、妾の子だもの。親族の人たちといっしょに座るわけにもいかないし、それどころかお線香をあげに行ってもいいのかって悩んだわ。でもね、あなたのお母様がお葬式に出てくださいって言ってくれたの。それで悩んだ末に出掛けたわ。あなたのお母様は、妾の娘の私にとても親切にしてくださった。お骨まで分けてくださったのよ」  私は穏やかに話すその人の顔を見た。 「どうして、祖父は祖母と離婚しなかったんでしょうか……」 「あなたのおばあさんが承諾しなかったからよ。いくら説得しても離婚だけはいやだと言ったそうなの。それでも何とか別居して、父は毎月お金を送っていたみたい。かなり大きい額のお金を毎月要求されたみたいでね、ちょっとでもお金が少なかったりすると、父のところに押しかけて来て……」  彼女は言い淀《よど》む。きっと暴れたのだろう。気性の激しいあの祖母だ。ヒステリーを起こしたら何をするか分からない。 「そういう事情があって、父は私達といっしょに住んではくれなかったの。でもね、私も母もあなたのおばあさまを恨んだりしていないわ」  にっこり笑って、その人は言った。 「あなたのご家族にはとても申し訳ないことだけど、私達は幸せだった。結婚してるかしていないかなんて些細《ささい》なことよ。愛し合っている父と母に私は育てられたのだもの。戸籍もお墓もそんなことはどうでもいいわ。だからあなたもおばあさまを責めたりしちゃいけないわ。あれから、おばあさまの具合はどう? お父様も大変だったわね。私に何かお手伝いできることがあったら言ってね」  喋《しやべ》り続ける彼女の顔を私は呆然《ぼうぜん》と見つめた。話しているうちに、彼女の顔つきが変わってきたのだ。言っていることと反対に、顔中の筋肉が強張《こわば》り、両目が微かにつり上がった。その目に激しい憎悪が見えた。私は恐くなって思わず立ち上がる。  この人はどこかで祖母の入院を聞きつけ、自分の母親の名前の花を持って祖母の姿を見に来たのだ。  祖母にとって、妾である百合子という女は脅威だったに違いない。自分の夫を奪った女だ。恐ろしかったからこそ、あんな手紙を書いたのだ。それを知っていて、この人は百合の花を持って祖母の病床を訪れた。ぼけて醜くなった祖母を見て、笑いが止まらなかったに違いない。そして私の父のところにも、同じ快感を味わいたくて現われたのだろうか。 「あら、もうお帰りになるの」 「……ええ。お邪魔しました」  私は挨拶《あいさつ》もそこそこにコートを持ち、早足に玄関へ向かった。きっと私がここに来た理由も見透かされているのだろう。ここは本当に幽霊屋敷だったのだ。 「椿さん、でしたっけ」  急いでパンプスをひっかける私の背中にその人は言った。 「あなた、おばあさまにそっくりね」  穏やかで何気ないその一言に、からだ中に鳥肌が立つほどぞっとした。お礼も何も言わず私はその部屋を逃げるように飛び出した。  私は病院の階段を駆け上がった。廊下を走り抜け、父の個室のドアを開け放った。  母の驚いた顔がこちらを見る。母の手にはスプーンとヨーグルトの瓶があった。父に食べさせていたのだ。 「静かにしなさい」  母はスプーンを置くと、エプロンで手を拭《ふ》いて立ち上がった。父は私のほうなど見もしない。ぐったりとベッドに凭《もた》れ、焦点の定まらない目で前方の壁を眺めている。 「どうして教えてくれなかったの?」  私は乱れた息を飲み込んで、やっとの思いでそう言った。母は私の質問を無視して右手を差し出した。 「写真を返してちょうだい。約束でしょう」 「こんなものがどうして欲しいの?」  私はバッグから写真を取り出すと、力まかせに床に叩《たた》きつける。リノリウムの床に写真が散らばった。母と私の視線が絡む。何か言うかと思ったら、母は黙ってそれを拾い集めた。 「お母さんはおばあちゃんが憎いんでしょう? お母さんを捨てていったその男が憎いんでしょう? どうしてそんな写真が今さら欲しいのよ。こんなもの、妾の娘にでもくれてやればいいんだわっ」 「黙りなさい」  興奮する私に母は冷たくそう言った。写真を揃《そろ》えると、それをベッド脇《わき》のサイドボードに静かにしまった。 「これで分かったでしょう。あなたの大好きなおばあちゃんの正体が」  母はベッド脇のスチール椅子《いす》に腰掛けると、掌を父の布団の上に置いた。赤ん坊にするように父の膝《ひざ》のあたりをぽんぽんと叩く。そして突っ立ったままの私を見上げた。 「おばあちゃんはね、私がきれいじゃないからあんまり愛してくれなかったわ。でも別にそんなことはよかったの。父はとても私を可愛《かわい》がってくれたから」  懐かしそうに笑って、母は独りごとのように言った。 「だから父が家から出て行ったときは本当に悲しかったわ。父は私を残して行くのをとても不安がってたけど、でもしようがなかったの。子供まで持っていかれたら母のプライドはずたずたでしょう。それに私だって、父の新しい恋人をお母さんと呼ぶ気にはなれなかったし」  私は息をつめて、母の告白を聞いていた。 「父がいなくなってからも、私とおばあちゃんは特に喧嘩《けんか》もしないで平和に暮らしたわ。だってあの人は喧嘩するほど私に興味がなかったんだもの。外に恋人を作っては遊び回ってたしね」 「それが何だって言うのよ! 私には関係ないわ! 私は、私は」  言葉が続かない。私は頭を振った。からだ中の血管が膨れ上がり爆発してしまいそうだった。 「あなたは知らないでしょうけど」  頭を抱える私を見て、母は平然と言った。 「私とお父さんは恋愛して結婚したのよ。初めて会ったときと同じように、私はお父さんが好きなの」 「嘘《うそ》よ。どうしてこんな奴《やつ》が好きなのよ」 「少なくとも、おばあちゃんよりは私を愛してくれたわ」  母は愛しそうに、父の顔を見る。 「あなたには分からないでしょうけど、私達夫婦はうまくいってたのよ。お父さんが浮気してることぐらい私は知ってた。だけどそれは本当に浮気なの。本気じゃないのよ。だから別によかった。つらかったけど、失うよりはよかった。折り合いの悪い振りをしてたけど、おばあちゃんと縒《よ》りが戻っているのも知ってた。だけどお父さんにとっては、そのことも浮気だったから」  私は母の言っていることが理解できなくて顔をしかめた。何を言ってるんだろう、この人は。私の顔を見て、母は薄く笑った。 「知りたいのなら、何もかも教えてあげる。お父さんは最初、おばあちゃんの恋人だったのよ。私がおばあちゃんから奪ったの。あんなに気持ちのいいことはなかったわ」 「……何言ってるの?」 「本当のことよ。去年の十月、父が死んだとき、やっとおばあちゃんは誰を一番愛してたか気が付いたのね。よほど支えにして生きてきたんでしょうよ。あっという間にぼけちゃって。そんなに好きなら、どうして他の男の人と遊び回ったのかしら。頭が変なのよ」  母は投げやりな口調で続ける。 「自分の夫が死んでから、あの人支えになる人を必死で捜してたわ。昔付き合いのあった男の人に片っ端から電話してね。もちろんお父さんにも擦り寄って来たわ。知らん顔してたけど、私には分かってた。お父さんとおばあちゃんの乗った車が事故にあったでしょう。あのときだって逢引《あいび》きしてたのよ。会社が危ないのをどこかで聞いて、おばあちゃんはお金を貸すからと言ってお父さんの気を引いたのよ」  私にさえ正妻であったことを告げなかったプライドの高い祖母。その祖母が父に縋《すが》ったと言うのか。毅然《きぜん》と煙草《たばこ》を吸っていた祖母の内側は、真っ黒にむしばまれていたのか。  私はそろそろと後ずさりをする。もうこれ以上何も聞きたくなかった。本当のことなど何も知りたくはない。 「あなたを憎いわけじゃないわ」  母の声が私を追いかける。 「あなたが生まれたとき、おばあちゃんは誰よりも喜んだの。あなた本当に可愛らしい赤ちゃんでね。天使みたいだった。おばあちゃんが欲しいのは、そういう赤ちゃんだったの。だから私は必死であなたを守ったわ。名前だけはおばあちゃんが付けてしまったけど、あなたをおばあちゃんの手には渡すまいって頑張った。でも無駄だったみたいね」  母は私を見て、眩《まぶ》しそうに目を細める。 「あなた、本当におばあちゃんに似てきたわ。気性も顔も」 「だから、私が嫌いなのね……」  さらりと言ったつもりだったのに、信じられないほど声が震えていた。 「嫌いじゃないわ。娘だもの。正直に言えば嫉妬《しつと》はしてたと思う。私も椿みたいだったら、おばあちゃんも私を可愛《かわい》がってくれたと思うしね」  母は下を向いてくすっと笑った。 「でもね、もういいの」  母は顔を上げる。その表情は見たことがないほど明るかった。 「父が死んで何もかも終わったのよ。私はずっとこの年までいろんなことに縛られてたわ。あのおばあちゃんへのコンプレックスもそうだし、自分の娘であるあなたにもコンプレックスがあった。可愛がってくれたわりには、私を置いて行ってしまった父への恨みもあった。おばあちゃんから奪った男と結婚はしたけど、その人は浮気ばかりするし、本当に不幸な人生だと思ってた」  母はゆっくり立ち上がる。そして私の顔を正面から見た。 「父も死んだし、母もあのとおりぼけ老人よ。夫は重病人だけどこれ以上は悪くならないわ。この人はもう私なしでは何もできないの。私から離れていくことはもうないのよ」  母は解放されたのだ。私は生き生きと背筋を伸ばす母を見上げた。そして母の口が私の名前を呼ぶ。 「椿」  私は動けなかった。母の力強い視線にとらわれ足が動かない。 「おばあちゃんは、あなたが看取《みと》りなさい」  有無を言わせぬその言葉に、私は頷《うなず》くことすらできなかった。  群贅の部屋に戻った私は、電気も点《つ》けずに長い時間床の上に座っていた。  私は死ぬことを考えた。もう何も考えたくなかった。それが今の私にはいちばん楽な解決法だった。群贅の部屋は五階にある。窓を開け、ベランダから飛び下りれば何もかも終わる。  カーテンの引いていない窓を、私は眺め続けた。夕暮れの空が深く濃い闇《やみ》に変わっていくまで、私は死への入口を見ていた。  私は祖母になるのが夢だった。祖母と同じ道を行きたかった。その夢は叶《かな》っていたのだ。夢が叶ってしまったら、もうその先の人生はいらない。幸いにも私はまだ若くてきれいだ。花が萎《しお》れて枯れる前に、私は自ら首を落とそう。そうなる運命だったのだ。それを望んで、祖母は私に椿と命名したのだ。  明日エイズ検査の結果が分かる。もう結果などどうでもいいはずなのに、私はそのことを思うと心底恐ろしかった。あの窓から飛び下りてしまえば、結果を聞きに行かずに済む。死刑の宣告を聞かずに済む。  なのに私は、窓を開けるどころか立ち上がることすらできなかった。死ねないのだ。死ぬのが恐ろしいのだ。自殺は想像の域を出ず、私はじっとそこから動けないでいた。  そのとき、暗闇の中で何か光のようなものが点滅した。はっとしてそちらを見る。点滅したのは電話機だった。鳴り出したのと同時に私は受話器に飛びついた。 「もしもしっ?」  相手は無言だった。私は縋るような思いで問い掛ける。 「グンゼでしょう? 私よ。椿よ。お願い、答えてよ。グンゼなんでしょう?」 「……椿」  どこか公衆電話からかけているのだろうか。往来の音に紛れて微かに声が聞こえた。 「どこにいるの? 心配したのよ。ねえ、何とか言って」  群贅は答えない。 「私がこの部屋にいるから、グンゼは帰って来られないの? だったら出て行くから。だから帰って来て。お願いよ」 「椿、お前……」 「なあに? 何が言いたいの?」 「血液検査を受けろ」  受話器を持った手が凍りつく。 「受けたわ」  私は必死で言った。 「陰性だったわ。だから安心して。ねえ、グンゼも検査受けたの?」  私は必死で嘘《うそ》をついた。群贅を安心させたかったのだ。 「グンゼ? どうなのよ?」 「陽性だった」  私は目を閉じた。きっと群贅も瞼《まぶた》を閉じているだろう。同じ闇に私達は立ちすくんだ。 「……一回じゃ駄目なんだって本で読んだわ。疑似陽性のときもあるんだって。一度しか受けてないならもう一回受けて」  それでも私は何とかそう言った。黙ったままの受話器の向こうに、彼の痛々しい息づかいが聞こえた。 「帰って来て、グンゼ」  今にも彼が電話を切ってしまいそうで、私は必死に喋《しやべ》り続ける。 「私今ね、中央公園のそばにあるカレンっていうスナックでバイトしてるの。昼間はおばあちゃんの病院にいるし、バイトが終わったらグンゼの部屋にいるわ。いつでもいいから電話して。ずっと待ってるから」  電話の向こうで、微かに唸《うな》り声のようなものが聞こえた。まさか泣いているのだろうか。 「……俺はずっと、お前のことを殺してやりたかった」  震える群贅の声。 「殺していいわ。本当よ。グンゼが私のこと憎んでたのちゃんと知ってる。だから帰って来て」 「うつしてやろうと思った。だけど思うだけにしておけばよかったんだ。本当にお前にうつしちまうなんて……」 「だから言ったでしょう。陰性だったの。うつってないの。安心してよ。お願いよ」  群贅が電話の向こうでしゃくりあげる。 「どこにいるの? お願い、教えて。迎えに行くわ」  ひとしきり泣くと、彼は少し落ちついたようだった。大きく息を吐く音がして、彼は言った。 「なあ、椿。俺たちどうしてこんな風になっちまったんだろう。お互いガキだったころはちゃんとした恋人同士みたいだったのにな」  それはグンゼが他の女の子と寝たからよ。私は口に出さずにそう答えた。 「俺がお前以外の女にも、手を出したからか?」  私の気持ちを読んだように、群贅は言う。 「駄目なんだよ。分かってるのに、俺はどうしても駄目なんだ。お前ひとりだけじゃ満足できなかったんだ」 「いいわよ。分かってるわ」 「お前が泣いてくれたらよかったんだ。他の女と寝るなって。私だけを抱いてくれって泣いてくれれば俺は」  私は状況を忘れて、反射的に大きな声を出した。 「私のせいにするのっ?」 「お前は俺以外の男と何人寝たんだよ。考えてみれば、俺がうつさなくてもいつかどっかでうつっただろうな。そうだよ。俺のせいじゃない」  涙声になって言葉が消えていく。私は息を吸った。 「そうよ。グンゼのせいじゃないわ。自惚《うぬぼ》れないで。あんたなんかに人生左右されてたまるもんですか。そんなに私が憎いなら殺しに来なさいよ。どうせあんたにはできないでしょうけどね」  絶対何か言い返してくるだろうと思ったのに、受話器は沈黙したままだ。私はいやな予感を感じて叫ぶ。 「グンゼっ。待って、切らないで。私ずっと待ってるから。帰って来てっ」  ガチャンと音がして電話が切れた。私はがくりと肩を落として受話器を置いた。最後の言葉は聞こえただろうか。私は頭を抱えて床にうずくまる。  そのとき再び電話が鳴った。私は慌てて受話器を取り上げる。 「グンゼっ!」  私が叫ぶと、誰かが面食らったようにこう言った、 「……ええと、そちらに桐島椿さんはいらっしゃいますか?」 「わ、私ですけど?」  誰だろう。この声はどこかで聞いたような、と思っているうちに向こうが名乗った。 「僕です。中原です」  私は絶句する。裸で群贅と絡んでいるときにドアを開けられたような、ものすごいパニックが襲った。 「な、何で。あ、あの、私がここにいるのは、その」 「ああ、落ちついて。落ちついて」  優しい声で先生は言った。 「明日の夜はバイトですか? ちょっと話があるんだけど、飯でもいっしょにどうでしょう」  呑気《のんき》なその台詞《せりふ》に、私はからだ中の力が抜けた。  先生が指定した店は、立派なフランス料理の店だった。  私が店に入ると、蝶《ちよう》ネクタイをした中年の男が仰々しく私が脱いだコートを受け取った。持っている服の中で、いちばん上品な服を着て来てよかったと思った。  店のいちばん奥まった席に私は案内された。スーツ姿の先生が立ち上がり、いつものようにはにかんだ笑顔を見せた。  椅子《いす》を引いてもらって私は緊張気味に座った。ウェイターが行ってしまうと私はやれやれと力を抜く。 「どうしたんですか? こんな豪華な店で」  私が聞くと、先生は頬《ほお》を指で掻《か》きながら笑った。 「椿さんを食事に誘うなら、こういう所じゃないといけない気がしちゃって」 「この前は湯豆腐だったじゃない」 「いや、あのときは急だったから」  少し口ごもり、先生はまた頬を掻く。 「お話ってなあに?」 「食べてからにしましょう。途中で食べられなくなったら悪いから」 「そんなにすごい話なの?」 「いや、そういうわけじゃないんだけど」  まだ時間が早いせいか、広い店の中にお客はまばらだった。聞こえるか聞こえないかぐらいの音量でクラシックがかかっている。私達は勿体《もつたい》ぶって出されるコース料理をあまり話もしないで食べた。食器が触れ合う音だけがやけに耳に響いた。味なんかまるで分からない。私は居心地が悪くて、ワインばかりがぶがぶ飲んだ。 「カレンでバイトしてるんだって?」  メインのお肉がテーブルに来ると、先生はやっとまともに口をきいた。 「ええ。先生も飲みに来てね」 「コンパニオンのほうはどうしたの?」  責めるような聞き方ではなかったけれど、私は少々むっとする。仕事がもらえなくなったと言うのも悔しいので、私は肉を切り分けながらこう言った。 「夜の仕事にすれば、昼間はずっとおばあちゃんに付いててあげられるでしょう。看護婦さんに何もかも任せきりじゃ悪いから」 「なるほど。偉いね」  先生が本当に感心したように頷《うなず》いたので、私はちょっと罪悪感を感じた。お肉を食べてしまうと、ウェイターがチーズを載せたお皿を持ってやって来た。 「ワイン、もっとどう?」  先生が私に聞く。彼は最初の一杯しか飲まなかったから、いつの間にかひとりで一本開けてしまったようだった。 「お金持ちなのね、先生」 「そんなことないよ。これで給料の半分はパーだ」  先生はもう一本同じワインを頼んだ。私は酔いでぼやけた目で店の中を眺めた。漆喰《しつくい》の壁に本物のロートレック。間接照明の下の染みひとつないテーブルクロス。  まだ私が小学生だったころ、ときどき父が私と母をこういう店に連れて行ってくれた。もうそのころには、父があまりいい父親でないことは勘づいていたけれど、それでもレストランにいるときの父は親切で紳士で、父親らしく振る舞っていた。大人になってからは、いろんな男の人が私を高級な店に連れて行ってくれた。群贅でさえ競馬で儲《もう》かったりボーナスが出ると、ワイン一本二万円みたいなレストランに連れて行ってくれた。  もう、こんな贅沢《ぜいたく》な食事をすることもないのかもしれないと、私はぼんやり思った。 「この前、群贅君っていう人が僕を訪ねて来たよ」  新しいワインの栓が抜かれ私のグラスに注がれたとき、先生は話を切り出した。 「いっしょに暮らしてるんだってね」  私は何も答えず、グラスに口をつける。 「そんないやな顔をしないでくれよ。責めてるわけじゃないんだ。僕が椿さんのことを責める理由はないだろう?」  そう言われればそうだ。先生は私と付き合っているつもりはなかったのだから。 「グンゼは先生に何を言いに来たの?」  先生は眼鏡を指で押し上げ、困ったように微笑《ほほえ》んだ。グンゼのことだから、どうせ何かひどいことを言ったに違いない。 「ごめんね、先生」 「どうして椿さんが謝るの?」 「だってグンゼ、何か変なこと言ったでしょう?」 「君のことを愛してるって言ってたよ」  私は危うくグラスを倒しそうになる。びっくりした私に先生は続けて言った。 「だから、殺してやるんだって言っていた」 「あいつ、頭がおかしいのよ」  吐き捨てるように言うと、先生は静かに頷《うなず》いた。 「そのとおりだ。放っておいたら危ない」 「……え?」 「ずいぶん混乱してるようだった。できれば医者に連れて行ったほうがいい。椿さんは彼の居場所を知っている?」  私は首を振った。 「いないの。捜してるんだけど、どこにもいないのよ」 「連絡は?」 「この前先生、電話してくれたでしょ。あの少し前にグンゼから電話がかかってきてたの」 「どうだった?」 「変だったわ。泣いて謝ったかと思うと、突然ひどいこと言い出したりして」 「……何かあったのか?」  聞きにくそうな顔して先生は私に尋ねた。そうか、群贅はエイズのことは先生に言っていないのだ。 「……分からないわ」 「どちらにしろ、あの調子では自分も他人も傷つけかねない。ご両親や親しい友達に連絡したほうがいいね」 「傷つけるって……?」 「ナイフを持ってた。こんなことは言いたくないけど、椿さんも気を付けたほうがいい」  それを聞いて、私ははっとした。 「まさか先生、グンゼに何かされた?」 「ああ、平気だよ。ちょっともめたけど、どこも怪我《けが》しなかった」  先生は私を安心させようとしたのだろうが、その笑顔が余計私を不安にさせた。群贅がそこまで追い詰められているなんて、私は想像もしなかった。彼は本当に私を殺しに来るかもしれない。 「群贅君を、好きなのかい?」  テーブルの上で両手を組み、先生は真面目《まじめ》な顔で聞いた。私は答えずワインを飲む。 「本当は愛してるんじゃないのか?」 「愛してなんかないわ」  本当のことだった。愛してなんかいない。彼は女を人間だと思っていなかった。私を本当に大切にしてくれたことなんか一度もない。それが群贅の屈折した愛情なのかもしれないと思ったことはある。でも屈折した愛情なんて私は欲しくなかった。本当に欲しいものは、もっと素朴な感情だ。素直じゃない人間など真っ平だった。本当に欲しいものを欲しいと言えない人間など、私は大嫌いだった。 「今日はそんなことを言いに来たんじゃないんだ」  先生はワインの瓶を持ち上げて、自分のグラスになみなみ注いだ。それを半分ぐらい一気に飲んだ。 「先生? そんな、いっぺんに飲んで平気なの?」 「平気です。椿さん、結婚してくれませんか」 「は?」  みるみるうちに先生の顔が赤くなっていく。先生はそれを隠そうと煙草《たばこ》をくわえた。ライターを捜しているのかあちこちのポケットに手を突っ込み、見つからないのが分かると灰皿の上にあった店の紙マッチを手に取った。けれど今度はそれがうまく擦れない。 「大丈夫?」 「だ、大丈夫。女の人にプロポーズしたのは生まれて初めてだから」 「男の人にはあるの?」 「ないよ」  そう言っている間に、先生はやっと煙草に火を点《つ》けた。  私はあまりにも予想外のことを言われて、驚くどころか全然実感が湧《わ》いてこなかった。 「どうして急にそんなことを言うの? 私が迫ったときは逃げたくせに」 「……事情が変わったんだ」  先生はせっかく点けた煙草を、すぐ灰皿に押しつけた。そして悲しそうな目をして私の顔を見る。 「暮れに父が倒れた。心筋|梗塞《こうそく》だ」  ああ、また病気の話かと、私は内心うんざりする。 「二度目なんだ。前のときは何とか社会復帰できるまで回復した。だけど、今度は駄目だった。ほとんど自分でからだを動かせなくなってしまった。こんなことを言ったら罰が当たりそうだけど、父のためにも死んでしまったほうがよかったかもしれないと思う」  中原先生はそこで息をつくと、小さな声で言った。 「僕には母親はいないんだ。子供のころに離婚してね。僕は親父に育てられた」 「……それで?」 「田舎に帰らなくてはならない。いや違うな。自分の意志で帰るんだ。見捨ててはおけない。いっしょに来てくれないか?」  私はもう少しで笑いそうになってしまった。いちばん結婚したい人がプロポーズしてくれたのだ。 「君がおばあさんを見捨てていけないのは分かってる。だからおばあさんもいっしょに連れて来てくれていい」 「それで先生のお父さんと、並んでベッドに寝かすのね。両方のおむつを取り替えればいいのね」 「いや、そういうことは他の人に頼むつもりだ」  私は目の前で赤くなっているこの人が大好きだった。群贅を愛していないと確信するのと同じに中原先生が好きだと確信できる。病気の年寄りなんてあと何年か我慢すれば死んでくれるのだ。何をためらうことがある。 「魚住さんに頼んでみたら? 先生のこと本気で好きみたいだし、だいいち看護婦さんじゃない。本職よ」  私はバッグから自分の煙草を取り出した。そのとき、今朝保健所でもらった一通の茶封筒が手に触れた。私はバッグを閉め、テーブルの上の紙マッチに手を伸ばした。煙草に火を点けると、先生は少し驚いた顔をした。 「椿さんは」 「ええ。何?」 「子供のころ、いや、十代のころ、どういう人と結婚したいと思ってた?」  急にそんなことを聞かれて、私は考える間もなく答えてしまった。 「好きな人と」 「僕もそうだ」  沈黙がふたりの間を漂った。 「誰でもいいわけじゃない。好きな人と結婚したいから、プロポーズしたんだ」  私は煙を吐いて、その行方を目で追った。そしてバッグに潜ませた茶封筒を思った。  昨日は一晩中眠ることもできず、私は検査の結果のことを考えていた。もし陽性だったとしたら、それを聞いて私はどうするのだろうと思った。陰性だったら? 陽性だったら? 片思いを打ち明ける少女が花占いをするように悩んだ。陽性だったときのことを考えると気が狂いそうだった。それならいっそ、何も知らないほうがいい。このままじっと、何もせずにいるほうがいい。  夜明け前に、結果など聞かず成り行きのまま生きていこうと決めたのに、朝の光が差すと私は化粧をして群贅の部屋を出た。  保健所に着いたのは、九時ぴったりだった。検査をしたときと同じドアを開けると、この前の女医が白衣姿で立っていた。にこりともせず、私に一通の封筒を差し出した。 「椿さんが整形した話をしてくれただろう」  どこか遠いところから、中原先生の声が聞こえる。 「……ええ」 「あのときしようがない人だと思ったんだ。放っておけないと思ったんだ」  私はゆっくり目を伏せた。望みが叶《かな》ったのだ。 「ありがとう」  私は煙草を消すと椅子《いす》から立ち上がる。こちらを見上げる天使様に私は言った。 「グンゼがおかしくなったのは、エイズ検査で陽性が出たからよ」  天使様の顔に驚きが広がる。 「私も検査したの。今日、結果をもらったわ」 「……どうだったんだ?」 「陽性だった」  言葉を失った先生を残して、私は出口に向かって歩き出した。店に入って来たときコートを脱がせてくれた男が、逆回りのビデオを見るように、私にコートを着せてくれた。  店を出るとき、私は一度振り返った。ウェイターが慇懃《いんぎん》に頭を下げているだけで、先生の姿はなかった。  外に出ると、往来を隔てた向こう側に魚住が立っているのが見えた。バス停の陰の暗がりでポケットに手を入れ、マフラーに顔を埋めてこちらを見ていた。私の顔を見てもびくとも動かない。  私は小走りで横断歩道を渡った。魚住はやって来た私を無表情に見た。 「いつから、ここにいたの?」  白い息が夜の中に舞う。魚住の鼻の頭は真っ赤だった。 「プロポーズの返事は?」  魚住が低くそう聞いた。 「あんた……」 「昨日、先生が田舎に帰るって聞いて、それで私」  彼女は言葉を切って私を見た。 「私を連れて行ってほしいって頼んだのよ。そうしたら、椿さんを連れて帰るって言ったわ。今日プロポーズするって聞いて、先生の後をつけて来たの」  魚住は泣くでもなく悔しがるでもなく、そう言った。私はバッグを開け茶封筒を出して彼女に渡した。 「何?」 「検査の結果」  魚住は急いでそれを開ける。三つ折りにされた薄い紙を広げて大きく息を吐いた。そして私の顔を見る。 「よかったわね。そうだ、昨日雛子さんからも陰性だったって電話があったわよ」 「……先生には陽性だったって言っちゃった」  それを聞いて、最初きょとんとしていた魚住の顔が、お化けでも見たようなすごい顔になった。 「どうしてよっ。何でそんなこと」 「分かんない」  魚住は呆《あき》れたように首を振るとゆっくり歩き出した。私も彼女と並んで舗道を歩く。私の白いパンプスと彼女のスニーカーが枯れ葉を踏んだ。 「馬鹿もいいとこよ」  苛《いら》ついた口調で魚住が言う。 「どうしてそんな嘘《うそ》つくのよ。素直に先生と結婚すればいいじゃない。それとも、他人の親の看病まではしたくないわけ?」  私は立ち止まって魚住を見た。 「そんなんじゃない」 「だったら行きなさいよ。あなた、ひとりじゃ生きていけないんでしょう?」  魚住が冷ややかに私を見た。 「そうよ」  私は魚住を睨《にら》みつけて言った。 「ひとりじゃ生きていけないわ。誰だってそうでしょう?」 「じゃあ行きなさいよっ」 「だって先生、追っても来なかったじゃない!」  私の大きな声に、さすがの彼女も面食らったようだった。肩で息をする私をしばらく見つめてから、ふいに自分の手袋を外してこちらに差し出す。  私は魚住が貸してくれた手袋をして、また歩き出した。砂利を積んだトラックが埃《ほこり》をたてて通り過ぎる。国道沿いの舗道は、折れ曲がることもなくずっと先のほうまで続いていた。 「誰も助けちゃくれないわ」  黙って歩いていた魚住がぽつりと言った。 「そんなこと知ってるわ」 「あんたに言ったんじゃないの。自分に言ったの」 「あ、そう」  私と魚住は、そのまま何も言わず夜の舗道を歩き続けた。寒さで爪先《つまさき》が氷のようだった。いったいどこまで歩けばいいのだろう。歩き続ければ、いつか暖かい所にたどり着けるのだろうか。  私はそのうち独りごちた。 「待ってるって言っちゃったんだもん」 「え?」  魚住が不思議そうにこちらを振り向く。  私は笑おうとしたけれど、寒さで顔が強張《こわば》り、うまく笑うことができなかった。 角川文庫『きっと君は泣く』平成9年7月25日初版発行              平成17年12月25日33版発行