[#表紙(表紙.jpg)] 山本一力 損料屋喜八郎始末控え 目 次  万 両 駕 籠  騙 り 御 前  いわし祝言  吹かずとも [#改ページ]    万 両 駕 籠      一  祭を翌日に控えた八月十四日、深川富岡は前夜半からの雨がやまず、昼前には表通りにも大きな水溜りができていた。  富岡八幡宮例祭を、土地のものは水かけ祭と呼んでいる。神輿《みこし》が近寄ると、手桶や天水桶の水を思いっきりぶっかけるのだ。祭の水を恵んでくれる雨を、地元の連中は喜んだ。  葦簾《よしず》囲いの御酒所《みきしよ》に据えられた神輿も雨に打たれっぱなしだし、祭半纏姿の神輿番は平気な顔で身体を濡れるにまかせていた。  しかし参道わきの江戸屋二階座敷では雨を喜ばない蔵前からの客が、興の乗らない顔で盃を重ねていた。 「深川八幡は神輿が豪勢だと言うから、わざわざ足を伸ばしたんだ」  相当に酒が回っているらしく、脇息《きようそく》に肘をあずけた男が遠慮のない大声を出した。 「ところがどうだね、粗末な小屋で雨に濡れたままだ。総金張りだかなんだか知らないが、うちの庭のお稲荷さんの方が、よほどましな扱われ方じゃないか」  男の回りで、幾つものあたまが大きくうなずいた。 「これでは景気づけの神輿見物が、すっかり当て外れだ。玉助師匠、傘屋はどうした」  師匠と呼ばれたのは、桃色の紋付羽織を着た幇間《ほうかん》だった。 「かれこれ永代橋を渡った見当でやしょう。そんなに口を尖らせないで、どうです旦那、深川八幡に平十郎小判を寄進して、御酒所普請の景気直してえ趣向は」  閉じた扇子をせわしなく掌に打ち付けながら、甲高い声で追従《ついしよう》を言った。 「そりゃあいい。女将《おかみ》を呼んでくれ」  玉助が畳を鳴らして駆け出した。階段わきの隅に座っていた二人連れの膳が揺れ、盃の酒が零《こぼ》れた。玉助は横目に見ただけで、詫びも言わずに階段を駆け降りた。  余所者《よそもの》連中の横柄さに、連れのひとりが目付きを鋭くした。が、向かいの男に目顔で抑えられて猪口を持ち直した。ほどなく玉助が江戸屋の女将と、両腕に蛇の目傘の束を抱えた職人|髷《まげ》の男を連れてきた。 「こちらさまは、蔵前では路地の奥にまで名の通った笠倉屋さん」  屋号を聞いても女将の顔色が動かない。鼻白んだ玉助は「札差《ふださし》の旦那でね」と、目一杯に声を張り上げた。札差と聞いて、座敷の目が笠倉屋に集まった。 「評判の神輿見物に旦那をお連れしたんでげすが、雨に打たれるままになってやしょう」  バリッと音を立てて玉助が扇子を開いた。 「あんまり気の毒だてえんで、御酒所普請に手を貸そうと言い出されたてえ寸法でして。そうでげしょう、旦那」  億劫《おつくう》そうに脇息から肘をはずした笠倉屋は、わきの手代にあごをしゃくった。すかさず七枚の小判が差し出された。笠倉屋は、ひたいに深い三本のしわがあり、眉が薄くて唇が分厚い。瞳が極端に上付きの三白眼は、相手を見下《みくだ》しているように見えた。 「幾らも手持ちがないが、それでもこれだけあれば屋根普請には充分だろう」  ぞんざいに突き出された金《かね》を玉助が受け取り、女将の膝元に置いた。 「これは並みの小判じゃありやせん。旦那が一枚ずつ、屋号を極印なすった平十郎小判てえ値打ちものでげす。蔵前でも吉原でも、ご公儀のよりも喜ばれるてえ代物《しろもの》なんで」  雨空で座敷はどんよりした明るさしかない。膝元の小判はそんななかでも輝いていた。 「それにもうひとつ」  運び上げてきた蛇の目傘の束を、職人が畳におろした。 「深川のひとたちは、あんまり傘を持っていなさらないようで。濡れねずみ姿を哀れにおもわれた旦那が、急ぎ取り寄せられやした。本石町吉羽屋の別誂えで、ものは本寸法だ」 「もったいないお心遣いでございます」  礼を言った女将は玉助には一瞥《いちべつ》もくれず、笠倉屋を正面に捉えた。 「せっかくのおこころざしですが、いずれも御無用に願います」  ぽかんと口を開いた玉助の向こうで、笠倉屋の唇がぴくぴくっと引きつった。 「蔵前のお大尽ぶりは、深川にも聞こえております。てまえどもの商いは札差衆の足元にも及びませんが、それでも祭の寄進に事欠くわけではございません」  絽の黒無地紋付を着た女将の背筋が、ぴんっと伸びている。笠倉屋は脇息に寄りかかったままだが、相手に気圧《けお》されていた。 「今年は陰祭《かげまつり》で大した普請ではございませんが、八幡宮の氏子連には木場の老舗旦那衆もおられます。奉加帳ひとつで、祭の費えは存分にまかなえますゆえ、お気持ちもお金もお持ち帰りいただきますよう、氏子総代としてお願いいたします」 「七両でげすよ、七両。いくら総代さんだと言っても、女将ひとりが突っ張って押し返せるお金ではありやせんでしょう」  玉助が取り成しを言ったが動かない。それを見て笠倉屋が立ち上がった。 「玉助、座敷にばらまきなさい」 「えっ……そんな……」  幇間が言葉を呑んだ。が、ひたいのしわを一段と深くした笠倉屋の顔を見て、渋々ながら小判を手にして立ち上がった。  座敷はとりどりの客で埋まっていた。雨空を厭《いと》わずやってきた八幡宮参拝客。年寄り連れの夫婦者《みようともの》、笠倉屋が引き連れてきた手代や芸者連中。祭半纏姿の鳶《とび》たち、それに階段わきのふたりだ。 「お聞きの通り、真夏のお年玉てえ具合になりやした。小判は拾ったもの勝ちだ……あたしもそっちで拾いたいね、まったく」  ひいの、ふうの、みいの、ほらあ……。  玉助が掛け声とともに七枚を放り投げた。最初に芸者衆が嬌声をあげて小判に走った。間を置かず夫婦者の片割れ、若い亭主が膳を引っくり返して飛び出した。あとは座敷の畳がへこむほどの騒ぎになった。  玉助が投げたなかの二枚が、鳶の膝元に重なって落ちた。 「てえげえにしろい、江戸の田舎もんが。蔵前じゃあどうだか知らねえが、深川《ここ》にゃあこんな目腐れ小判を欲しがるお手軽連中はいねえんだ。女将がそう言ってるじゃねえか、とっとと失《う》せやがれ」  手にした二枚の小判を投げ返した。鳶は加減したらしく、笠倉屋には当たらず、蛇の目傘の束に落ちた。すかさず拾った玉助は、さっさと帯の間に仕舞い込んだ。 「おもしろいものを見せてもらった。玉助、帰るよ」  笠倉屋は平気を装っていたが、話す声が裏返っていた。どたばた走った他の客も、足早に座敷から出た。 「江戸屋さん、客をそっくり追いけえしちまったようだ。どうにも面目ねえ」 「いいえ、かしら。ありがとうございました」  鳶に礼を言ったあとで膝をずらした女将は、座敷隅のふたりに向き直った。 「秀弥《ひでや》でございます。せっかくの御酒《ごしゆ》をまずくさせてしまいました。ただいまお取り替えいたします」 「気遣いはいりません。蓬莱橋たもとで損料屋を商う喜八郎《きはちろう》です。連れの嘉介《かすけ》ともども、ここに暮らし始めてまだ何年の新参者です」  夏の蚊帳、冬場の炬燵から鍋、釜、布団までを賃貸しするのが損料屋だ。所帯道具にも事欠く連中相手の小商いは、威勢の失せた年寄りの生業《なりわい》だというのが通り相場だった。  ところが紺木綿の胸元を崩して着た喜八郎は年若く、眼にも掠《かす》れ声にも力があった。細面の両目は深く窪んでおり、瞳は獲物に飛びかかる猫のように鋭い。  連れの嘉介は髪に白いものが混じっていた。しかし柳色の細縞を着た痩身からは、素早い身のこなしが感じ取れた。  猪口を干して立ち上がった喜八郎は、鳶たちに会釈をしてから女将のわきに座った。 「蛇の目を見せていただけますか」  言われた女将は膝に両手を置いたまま、小さくうなずいた。美濃紙に柿渋を重ね塗りした傘は、開くと渋に混ぜられた香りが座敷に広がった。 「吉羽屋別誂えだけのことはあります。よろしければ引き取らせてもらいましょう」 「ですが、この傘は」 「商いには出しません。十本まとめて銀十匁でいただき、その金を祭の寄進に加えてもらうということでいかがでしょう」  鳶の口添えもあって話がまとまった。 「米屋《よねや》に顔を出してくる」  あとの始末を嘉介にまかせた喜八郎は、一本の蛇の目を手にして江戸屋を出た。西空に雲の切れ間ができ、小糠雨に変わっている。 「これをお使いなさい」  炭屋の軒先で雨宿りをしていた母子に蛇の目を手渡した喜八郎は、紺木綿の胸元を合わせ直して歩き去った。      二  柳橋で雨が上がった。朝からの降りで御蔵通りもすっかり泥濘《ぬかるみ》になっていた。  通りの両側には札差が軒を連ねている。道幅は日本橋本通りに肩を並べる広さだが、蔵前の商家はどこも看板が出ていない。暖簾《のれん》もさがっていない。鼠色の空の下に渋くくすんだ大店《おおだな》が並ぶ様は、あるじの度外れた遊興ぶりとは裏腹に、華やぎに欠けていた。  米屋は、そのなかでもとりわけ店の見掛けが暗かった。間口は五間《ごけん》(約九メートル)とそこそこだが、いつも半分の雨戸が閉じられていた。米俵の積み重ねられた薄暗い土間は、商家の店先というよりも、かび臭い納戸のようにしか見えなかった。  昼過ぎまで雨だった夏の八ツどき(午後二時)は、気だるくてひとが動かない。通りに面した札差の店はどこも静かだった。ところが、もっとも商いから遠そうな米屋の店先から、男の怒声が漏れてきた。 「一年先まで限りとは、なんたる言い草だ。きさまでは埒《らち》が明かぬ、あるじを出せ」  怒鳴り声は通りの向かい側まで届いてくる。喜八郎は米屋の手前で足を止めた。 「まだ言うか、無礼者。おもてに出ろ」  間を置かず、あごひげの濃い二本差しが米屋の手代を引きずり出してきた。垢染みた黒羽二重に、筋目のよれた小倉木綿の縦縞袴姿は、ひと目で浪人だと見て取れた。 「畏《おそ》れ多くも御公儀より下される切米《きりまい》だ、万にひとつも違《たが》えるはずがない。それをなんだ、来年十月米限りまでしか用立てられぬとは」 「ですから何度も申し上げます通り、てまえどもが担保としてお貸しできますのは、一年先までとなっておりまして。これは米屋の決め事でございます」 「分からん奴だな、きさまは」  浪人の左手が手代の胸座《むなぐら》を鷲掴みにした。 「切米は、我が家《け》が途絶えぬ限り続くものだ。札差ごときに日限を切られる謂《いわ》れはない」  浪人は、御家人に雇われた蔵宿師《くらやどし》だった。  幕府直属家臣である旗本、御家人は年に三度、俸給の切米を支給された。自家の糧食を取り置いた残りは、市中で売却した。それを仲立ちするのが札差であり、米売渡しで得る金が武家には唯一の実入りだった。  が、法度《はつと》に縛られた武家は体面保持に費えを要し、ほとんどが手元不如意に陥っていた。不足の金子《きんす》は、先の日限で受け取る切米を担保にした、札差からの借金で賄うしかなかった。もとは切米売りさばきの仲介人だった札差だが、いまでは武家相手の金貸し業が商いのほとんどを占めていた。  札差が身代《しんだい》を大きくするには、貸し金を増やすのが一番の近道だ。さりとて完済せぬままの追い貸しには、金貸しは素直に応じない。貸し渋りに往生した御家人たちは、借金強要の助っ人を雇い入れた。それが蔵宿師である。連中の多くは食い詰め浪人だった。札差を脅して借り出した金の一部が蔵宿師の稼ぎに充てられたが、しくじると只働きになってしまう。 「よその札差なら、二年先、三年先の切米でも揉み手で貸すと言うではないか」 「それなら石田様、どうぞそちら様とお付き合いください。てまえどもがお願いしているわけではありませんから」  お仕着せの胸元を強く握られた手代が、開き直ったように口答えした。 「いまの言葉、聞き捨てならん」  手代を突き放した浪人が、右手を太刀にかけた。口を滑らせた手代は、慌ててぬかるんだ地べたに伏した。 「あるじに伝えますゆえ、なにとぞ今日はお引き取りを」 「二言《にごん》は許さんぞ。十七日に出直すゆえ、かならず伝えておけ」  怯えきった手代から言質《げんち》を取った浪人は、米屋の店先に、ぺっと唾を吐き捨て、肩をそびやかして歩き去った。  往来の騒動からしばらく間《ま》を置いたあと、喜八郎は勝手口から米屋をたずねた。商いが傾いたように見える店先とは異なり、離れの造りは欄間の透かし彫りだけでも、長屋の一棟が普請できそうな豪勢さだった。  喜八郎を離れに呼び寄せた二代目米屋政八は、渋い顔で待ち構えていた。五十に手が届く歳だというのに、ひたいに一本のしわもない。そのせいか、渋面が妙にちぐはぐに見える。髪も眉も薄く、小さな鼻が顔の真ん中にちょこんと載っていた。 「なにを企んでいるんだ、喜八郎」  いきなり政八が荒い声を投げつけてきた。 「お、おまえは亡くなった先代と顔見知りだったのか」  備えのなかった話を切り出された喜八郎は、返事をせずに睨み返した。 「いや、顔見知りなどという、なっ、生易しいものじゃない。もっと深いところでつながっていた、そうだろうが」  気が昂ぶった政八は、ことのほか気にしている吃《ども》りが出ても気遣うゆとりが失せているようだった。  政八と向き合った喜八郎は、薄い唇を閉じたままだ。曇り空からの光を背中が遮《さえぎ》っており、政八を見詰める窪んだ眼が黒鼠色の陰になっている。相手のだんまりに、さらに怒りを煽られた政八は、手にしたキセルを思いっきり煙草盆に叩き付けた。ぶつけられた雁首が鈍い音を立てた。  ちらりとキセルを見てから膝元に置いた政八は、文箱を引き寄せ、奉書包の書状を取り出した。『書置きの事』と、達筆に上書きされていた。 「これは確かに先代の手《て》蹟だ」  書状を出して大きな息を吐き出したことで、少しは気が鎮まったようだった。 「暑気中《しよきあた》りでもないが、このところ商いがつくづく嫌になっていたんだ。そこにもってきて昨夜《ゆうべ》は夜半過ぎから雨だ、蒸し暑くて眠れやしない。それで夜中に先代の行李を片づけ始めたら、底に仕舞った羽織のたもとにこの書置きが収められていた」  ふたたびキセルを持ち、刻み煙草を詰め直した政八は、溜め息のような煙を吐き出した。口調もかなり落ち着いていた。 「これを読んでからというもの、あたしは正直、腹のなかが煮え返っている」 「………」 「おまえにそうして黙ってられると、あたしは軽んじられているようで、胸の辺りがキリキリしてくる。先代は書置きのなかで、商いを閉じると決めたときには、本所の田島屋が引き合わせたはずの喜八郎に後始末を任せるようにと、あたしに指図をしている。先代がこう書き残したことを知っていたのか」 「知りません」 「だが喜八郎、おまえは先代とのかかわりをおくびにも出さなかった。おまえと引き合わせてくれた、亡くなった本所のご隠居もそうだ」 「………」 「あたしはお目出度いことに、おまえには色々と難しいことを頼んできた。その都度よくやってくれたが、その片方では、米屋の幕引き算段もやっていたということだな」  話しているうちに怒りがぶり返したのか、火の消えたキセルが震えている。吸い殻を吹き飛ばし、新しい一服を詰めようとした政八のたもとに、湯飲みが引っかかった。こぼれ出た茶が、じゅじゅっと音をさせて煙草盆の火種を消した。  畳の目を伝って喜八郎の方にも茶が流れてきた。が、喜八郎はぴくりとも動かなかった。  煙草盆と茶とを別のものに差し替えた八ツ半(午後三時)過ぎには、薄日が差し始めた。政八は染みになった座布団も新しいものに替えさせていた。 「朝の五ツ(午前八時)に店をあけると、金を貸せと凄む連中が束《たば》になって入ってくる。茶を出せの、煙草盆を寄こせのと散々にまくし立てた挙げ句、帰りぎわには店先に痰を吐き捨てる品のなさだ」  新しい茶を呑んだ政八は、喜八郎への含むところをひとまず鎮めたようだった。 「あすの十五夜寄合には、肝煎の顔が揃うから好都合だ。あたしが商いを閉じるとそう言えば、うちの株が欲しい伊勢屋は、手の平を返して擦り寄ってくるに決まっている」 「寄合には、わたしも出ましょう」  喜八郎の乾いた掠れ声を聞いて、煙草を詰めていた手が止まった。 「心得違いを言うんじゃない」  詰めかけのキセルを、政八が盆の縁に叩き付けた。髪の薄い丸顔に、またもや血が上っている。きっかけさえあれば、何度でも喜八郎への意趣が頭を擡《もた》げてくるようだ。 「あしたの顔ぶれはいまも言った通り、伊勢屋だの大口屋だのと、札差の組がしらが揃う大きな寄合だ。おまえごときが出られる場じゃない」  手元を震わせた政八がキセルを突き出した。 「わたしは顔が売れていません。米屋の番頭ということで、みなさんに引き合わせてもらいましょう」 「なんだ、その言い方は。おまえは、あたしが金を回している、たかが、そ、損料屋じゃないか。深川の貧乏人相手に鍋釜や百文ぽっちの銭を貸してるやつが、うちの番頭に成り果《おお》せるなどと、よくも思い付いたもんだ。分をわきまえろ」  振り回すキセルの吸口から脂《やに》が垂れている。舌打ちをして、盆の半紙で拭い取った。 「米屋さんの旗本貸付けは、少なく見積もっても一万四、五千両……話し方を間違えると、札差株を買い叩かれ、貸金も棒に振ります。札差を続けるも退くも米屋さん次第、わたしが口を挟むことではありません。ですが、先代には大きな恩を受けています。ことのほか掛合いの苦手な米屋さんが、したたかな連中相手に難儀するのを、知らぬ顔で放っておくわけにはいきません」  喜八郎が初めて茶に口をつけた。 「しかも貸付先の旗本は蔵宿師を抱えています。あの連中がどれだけ厄介かは、米屋さんもご承知でしょう」  政八が札差廃業を考えたのも、連中との掛合い疲れがもとだった。 「札差をおやめになるなら、わたしが幕引きのご奉公を務めます。先代もそれを指図しておられるようですから」  喜八郎の口調が、がらりと厳しく変わった。 「貸金と株の始末は請け負います。米屋さんはわたしとうちの嘉介とを、奉公人だということで引き合わせてください」 「そうは言っても、おまえ……」  政八の物言いが、頼み込むような調子に変わっていた。 「寄合の場に、膳の用意もしてない奉公人を座らせることはできないよ」 「それは無用です。引き合わせが済み次第、引き下がりますから」  金主として指図できる立場の政八が、いつも喜八郎には呑まれ気味になる。書置きのこともあり、渋々ながら申し出を受け入れた。 「先代が亡くなった年からの付き合いだから、おまえとは足掛け四年になる。それから今日まで、いつも品定めのようなことをされながら……いずれは商いを閉じる日が来るなどと思われながら来たかと思うと、あたしは気がどうにかなりそうだ」  政八の丸顔がいびつに歪んでいる。見開かれた両目の目尻が吊り上がっていた。 「先代の言いつけに背くわけにはいかない。任せるところは任せるが、あたしを差し置いたようなまねは承知しない。分かったね」 「明朝、嘉介を連れてこちらに来ます」 「そんなことは訊《き》いてない。勝手をするなと言うのが分かったのか」 「朝から伊勢屋にご一緒いただいて、寄合の根回しをお願いします」  話を打ち切った喜八郎は、立ち上がると紺木綿の裾をぴんと引っ張った。 「根回しなら頭取の大口屋相手が筋だろう」  出ようとした喜八郎に、憮然とした声を投げてきた。 「伊勢屋です。器量が違いますから」  軽くあたまを下げた喜八郎の胸元が、いまではすっかり乾いていた。      三  叢雲《むらくも》に遮られることもなく、丸盆のような月が夜空にあった。星を押し退けるほどに大きく、柳橋の料亭梅川まえの川面を照り返らせるほどに明るかった。 「月まで御機嫌伺いとは、さすが伊勢屋さんの仕切りだ」  床の間を背にした伊勢屋四郎左衛門に、大口屋八兵衛が追従を言った。座に集まった連中も、大きくうなずいた。  札差百九名を束ねる会所頭取は大口屋である。だが頭取とは名ばかりで、ひとりでは何も決められなかった。  いまの八兵衛は五代目である。先々代は札差株組合を御上《おかみ》に願い出て、翌年には認めさせたほどの器量を持ち合わせていた。仲間は大口屋の働きを多とし、以来、会所頭取は大口屋の座となってきた。  昨年来、奉行所から立て続けに金利引下げの指図がおりてきた。利に敏《さと》い金貸しが、稼ぎを細めるような触書を喜ぶはずがない。ところが五代目大口屋は、言われるがままに指図を受け入れ、そのまま仲間に諮《はか》った。  案の定、寄合は大揉めになった。 「米の担保見合いを厳しくして、貸金額を絞ろう。もっと貸せと騒ぐ連中には、相応の裏金利を上積みさせればいい。それに加えて証文の書替手数料を引き上げれば、利息を下げても損はしない」  伊勢屋の仕切りで収まった。これで大口屋は、仲間内の人望を一気に失った。  瓦町の札差、伊勢屋四郎左衛門は天王町組三十一人の組頭に過ぎない。しかし身代の大きさ、武家への貸金高ともに図抜けていた。仲間内に同じ屋号は幾つもあったが、伊勢屋で通るのは四郎左衛門だけ。他の伊勢屋は屋号に町名を付けて呼ばれていた。 「出がけに客が参りまして……遅くなりました」  酒肴に箸がつけられ始めた座に、喜八郎、嘉介をともなった政八が入ってきた。 「遅れたのは、ひとまずおいときましょう」  大口屋がきつく咎める口調で口を開いた。 「どちら様かは存じあげないが、米屋さんに連れがあるとはあたしの耳には入っていない。これはどういうことですかな」  鳥黐《とりもち》のように粘りのある問いかけだった。 「なんだ米屋さん、あんた、大口屋さんには使いを出さなかったのか」  扇子の手を止めず、左肘を脇息に置いたままの伊勢屋が引き取った。 「えっ、でもそれは伊勢屋さんが」 「それはもこれはもないだろう」  政八の不満声を伊勢屋が抑えつけた。肘をはずし身を起こすと、扇子を盃に持ち替えた。 「今朝方そこのふたりを連れた米屋さんが、ここで引き合わせをしたいと言って訪ねて来たんだ。そうは言われても大口屋さん」  言葉を切った伊勢屋が、大口屋に眼を置いたまま、ぐびっと音を立てて盃をあけた。 「天王町組のことなら何とでも言えるが、今夜はあんたの仕切りだ……いや、そうじゃない、あたしは梅川に顔を利かせただけで、頭取はあんたじゃないか」  ぞんざいな口調で頭取はあんただと言われて、大口屋の顔色が変わった。が、八兵衛は矛先を伊勢屋ではなく政八に向けた。 「固いことを言うつもりはないが、前もってあたしに通してくれないと、お連れさんの膳も用意できない。いまの伊勢屋さんの話だと、奉公人を引き合わせたいとのことらしいが、それなら慌てなくてもいい。来年の月見に、きちんと膳を調《ととの》えてうかがいましょう」  大口屋が、きっぱり断った。まわりから話し声が失せた。 「大口屋さん、そこまで固いことを言わなくてもいいだろう」  声を出したのは片町組の上総屋《かずさや》だった。艶のある白髪に謡《うたい》で鍛えた張りのある声をした上総屋は、粋人で通っていた。 「いささか手違いがあったようだが、米屋さんなりに筋は通した様子じゃないか。膳のことはひとまずわきに置いて、好きに話してもらったらどうだ」  思いがけない取り成しを言われて、政八は崩した丸顔を上総屋に向けた。 「おいおい米屋さん、勘違いされてはあたしが困る。伊勢屋さんの番頭お披露目なら、とてもじゃないがこうはいかない。しかし、言ってはわるいが米屋さんだ。口上でもなんでも、好きにすればいいと言ったまでだ」 「上総屋さんの言う通りだ。さっさと済ませてお楽しみを迎え入れようじゃないか。さっきから中村屋さんは、次の間ばかりを気にしているようだ」  笠倉屋の軽口で座が笑いにつつまれた。政八たちに気を払う者はいなかった。 「暑気|煩《わずら》いをこじらせてから、米屋政八は無理がききません」  あるじを差し置いて喜八郎が口を開いた。途端に、笑いを引っ込めた険しい視線が方々から飛んできた。 「出過ぎた振舞いは承知のうえで、米屋店仕舞いをこの場で申し上げます。長らくの御厚誼、ありがとうございました」  喜八郎の口上で座が騒然となった。 「米屋の番頭さん、そこでは話が遠すぎる。済まないがここまで来てくれないか」  張りのある上総屋の声で、場が静まった。紺縦縞のお仕着せを着た喜八郎は、羽織を右手にさげて上座に進み出た。 「おもいも掛けないことを聞かされて、だれもが驚いた。それはそれとして、一献受けてもらおう」  差し出された盃を片手で受けた喜八郎は、上総屋に目を置いたまま呑み干した。相手の窪んだ眼を見詰めていた上総屋は、返された猪口を膳に戻すと薄笑いを見せた。 「札差の番頭にしては随分若く見えるが、あんた、歳は幾つだ」 「二十八です」 「そりゃあ若い。その歳で番頭さんが務まるとは、大した器量じゃないか」  刺《とげ》を含んだ上総屋の声が、座敷の隅にまで透り渡った。となりの笠倉屋が舌打ちをした。 「どうにも米屋はいけない」 「なんだ笠倉屋さん、ひと言ありそうだが」  言葉と薄笑いとで、上総屋が煽り立てた。 「そんな尖った眼付きをして、番頭だと。笑わせなさんな。あんた、米屋の対談方《たいだんかた》だろう」  上に偏《かたよ》った笠倉屋の黒目が、喜八郎を睨《ね》め付けた。対談方とは、蔵宿師と渡り合う札差お抱えの用心棒だ。 「番頭だと言うなら、上方《かみがた》堂島の、仲買人のひとりでも名をあげてもらいたいもんだ」 「………」 「ここは蔵宿師相手の猿知恵が通じる場じゃない。今夜のことは月見の座興だと思って、咎めはしないが目障りだ。連れと一緒にさがってくれ」  言われた喜八郎は背筋を張って立ち上がった。 「空米《からまい》売りの得手なら、淀屋の伍兵衛か柏屋の清七でしょう。米の目利きは鴻池屋の善四郎が抜きん出ています。顔つなぎをと言われるなら、口をきかなくもありません」  笠倉屋を見下ろして話す喜八郎に、座敷が呆気に取られて静まり返った。政八も、唖然とした目を丸顔のなかに見せていた。 「米屋は所帯を仕舞うとあるじが申しております。このさきどうするかは、木枯らしが吹くまでには定まっているでしょう」  軽くあたまを下げた喜八郎は、下座の政八のまえで膝をついた。 「旦那様、おさきに帰らせていただきます」  嘉介をともなった喜八郎は、振り返りもせずに座敷を出た。梅川の仲居が、足音を立ててふたりを追った。      四  藪入りは朝から晴れた。まだ五ツ(午前八時)だと言うのに、富岡八幡宮本殿の唐金《からかね》屋根は朝の陽に照り返っている。 「早くから無理なお願いをしました」 「こちらこそ重ねてごひいきにあずかり、ありがとうございます。雨の折りには、まことにご無礼をいたしました」  喜八郎と江戸屋の女将とが、店の離れ座敷で向かい合っていた。 「御酒もお料理も、お出ししなくてよろしいのですね」  一見《いちげん》同然の、しかも損料屋という商いを知っていながら、秀弥は喜八郎の頼みを引き受けた。今朝の秀弥は薄紅梅地に菖蒲が描かれた、ひとえの手描き友禅を着ている。先日の黒無地紋付のときよりも、年若く寛《くつろ》いで見えた。秀弥の口調には、笠倉屋を撥ね付けたときとは異なり、潤いが感じられた。 「二度目の客の分際で勝手を言います。昼までには離れをあけますから」 「うけたまわりました。御用があれば、他のものは寄越さずに、わたしがうかがいます」  秀弥のまっすぐな目を、喜八郎もしっかりと受け止めていた。庭の鹿威《ししおど》しが乾いた音を立てた。それを潮に、秀弥は会釈をして座敷を離れた。  入れ替わるように、嘉介が客を連れてきた。上座に相手が座ると、喜八郎は前置きも言わず用件に入った。 「先代に借りを返すときが来たようです」 「店仕舞いをしたいと言い出したのか」 「昨夜、米屋の番頭という触込みで、嘉介を伴って寄合に出ました。木枯らしが吹くまでには仕舞うつもりだと、札差連中には伝えました」 「そうか……やはり畳むことになったか」  客は北町奉行所四番組上席与力、秋山久蔵である。四番組は米を扱う。奉行所諸掛のなかで、米方掛は筆頭だった。 「先代政八は、つくづく先の読める男だったようだな」  秋山は腕組みをして目を閉じた。  いまから八年前の北町奉行は、曲淵《まがりぶち》甲斐守であった。明和六年に奉行に就いた甲斐守は、将軍が家斉に代わった二年前の天明七年まで、十八年も奉行を務めた。  仕官以来、米方ひと筋の秋山を、甲斐守用人芝田克行は奉行に進言して、蔵米方与力に取り立てた。天明元年、八年前のことである。  喜八郎は秋山組の一代限りの末席同心だった。  本所相生町で浪人のひとり息子として生まれた喜八郎は、かつては大畑姓を名乗っていた。喜八郎の父親は、極貧の暮らしにあっても武士にこだわり、息子を奉公にも出さず道場通いをさせた。米代、油代を切り詰めて謝金を工面した。  が、喜八郎十五の年に父親は主家を得られぬまま病没し、母もすぐ後を追った。身寄りを失った喜八郎は、師範の好意で道場に住み込んだ。秋山とも、その道場で出会った。  道場に住み込んで五年後に、秋山が四番組上席与力に昇進した。配下選びの権を得た秋山は、おのれの裁量で喜八郎を一代限りの同心に採り、祐筆として手元に置いた。口数が少なく愛想もないが、卑しさが微塵も感じられないのと、道場での腕を買ってのことだった。  しかし秋山を上席与力に登用した芝田には私心があった。当時は田沼老中の絶頂期で、芝田は秋山の役目を利用し、米相場で私欲を肥やそうと企んだのだ。 「秋山さんは指図に従うつもりですか」 「それが宮仕えだ」  見詰める喜八郎の眼を、秋山は苦い言葉で払いのけた。喜八郎も口を閉じた。  当時の米屋は先代政八で、番頭ひとりに手代五人、それに小僧ふたりという小体《こてい》な札差だった。よそとは異なり米屋は売買から帳面付けまで、政八がひとりで始末をつけていた。  いまの二代目政八は当時すでに不惑を過ぎ嫁もいたが、本所の田島屋に出されたまま、畑違いの道具屋で商いの修業を続けさせられていた。  先代米屋政八は、両替相場や米相場の動きにも明るかった。見廻りに立ち寄った折りに聞かされる政八の見通しに、秋山は何度か膝を打つことがあった。  ゆえに米屋を売買手先に選び出した。 「ことは密なるが肝要だ。すべてをその方ひとりの始末で取り計らってくれ」 「うかがうまでもございません、お会いするのは店の外にいたします」  しかし米屋と決めながらも秋山は、信じ切れない思いを商人に対して抱えていた。  それは政八とても同じだった。米相場は玄人の戦《いくさ》だ。いち早く大坂堂島の動きを耳にできる用人といえども、所詮は役人に過ぎない。おのれの相場観をわきに置いて、素人の指図だけで臨むことを政八は危ぶんだ。  ところが不安を抱えて立ち上がった仕組が、存外にもうまく運んだのだ。 「大畑様はお若いのに大したご器量です。お伝えくださる言葉に、毛先ほどの揺るぎもございません」  秋山からの指図取次には、嘉介か喜八郎が立っていた。五度の空売りがすべて当たったことで、政八は奉行所の早耳に舌を巻いた。 「この先はてまえも乗らせていただきます。御無礼を承知で申しますが、秋山様のものも扱わせていただきましょう」  秋山は政八の目に、商人のしたたかな光を見た。が、申し出は拒まなかった。  芝田は空売りを得手とし、それに乗った秋山、米屋も、ともに儲けた。  それが天明三年、大飢饉で米が暴騰し、空売りの芝田は六千両もの負債を抱え込むことになった。年の俸給が金に直せば百両に満たない秋山は、途方もない損失を被った芝田を、半ば気味よく思っていた。 「預りをすべて相殺いたしましても、まだ二千両が札差の手元で不足だと言うことです」 「昨日も聞いた。くどくど申すな」 「さすればご決済を。月末《つきずえ》が五日の後《のち》に迫っております」 「いま手当をしておる。明日、いや明後日にもう一度、これに参れ」  が、結局は不足額の尻拭いを芝田は秋山に押し付けた。 「用人殿には、これ以上の金が作れぬとのことだ。済まぬが不足の穴は、その方の工夫で何とか埋めてくれんか」 「二千両に届く金を、でございますか」 「承知のうえでの頼みだ。いまでも用人殿はいささか尋常さを欠いている。このうえ追いつめると、すべてが露見し、腹を詰める者も少なからず出る」  とっぷりと暮れた鉄砲洲稲荷の境内で、秋山は苦しげに言葉を吐き出した。政八は、しばらく黙り込んだ。 「てまえも首が飛びましょうな」  夕闇のなかで政八の目が据わっており、口調には凄味があった。 「非は用人殿にある。しかし公儀は、奉行所用人を商人が誑《たぶら》かしたと断ずるだろう。そうなれば家族もろとも極刑は免れん」  保身に回った役人が相手を見捨てると決めたら、政八に逃《のが》れる手立てはなかった。 「致し方ありません。秋山様の六十三両もおまかせ願います」  米屋は、すべてをひとりの才覚で処理した。  ところが密に隠したはずの米相場の一件が、奉行所内で囁かれ始めた。芝田家の家僕が、中間《ちゆうげん》部屋で漏らしたことが発端だった。噂を耳にした芝田は先回りして話を摩《す》り替え、喜八郎御役不始末を咎めて蓋をした。役目柄、祐筆は京大坂の米事情に明るい。それを芝田は逆手《さかて》に取ったのだ。一代限りという不安定な身分も、切り捨てるには都合がよかった。 「武家暮らしには嫌気がさしていたところです。わたしひとりの責めで済むなら、何よりじゃないですか。気にしないでください、秋山さんには恩義しかありませんから」  喜八郎がどう言おうが、秋山は深い負い目を抱え持った。さりとて仕官の世話ができるわけでもない。思案に詰まった秋山は、重ねての頼みごとで気が咎めつつも、米屋をあてにした。 「大畑様なら、てまえにも思案があります」  意外にも、政八は喜八郎の世話を快諾した。  それがあるとき、伊勢屋の漏らした言葉から、秋山は米屋にどれほど負担を強いていたかを思い知った。  芝田、秋山の穴埋めに要した額が二千両余り。米屋の負け分が三千両。しめて五千両もの金が入用だった。旗本への貸金残は充分にあったが、手元には三千両をわずかに上回るほどしかなかった。  仲間内に融通を頼むと、すぐに内証が知れ渡ってしまう。さりとて町の高利貸では、二千両を調えるのは無理だ。思案の末、政八は座頭貸しに融通を頼んだ。  度外れた高利と、手段を選ばない取り立てで知られた座頭金《ざとうがね》には、まともな商人は近寄らなかった。政八はすべてを承知で用立てを頼んだ。  座頭金は『公儀上納金の一時的運用を官が認める』が建前である。ゆえに貸付けの元手も上納金に限るはずだった。しかし座頭たちは、公儀の庇護を売り物にして市中の豪商から金を集め、貸付額を太らせた。  その裏金主の筆頭が伊勢屋だったのだ。伊勢屋は座頭に指図して、五日後には、明後日にはと、散々に貸付け期日を延ばした挙げ句に断らせた。  目配りには抜かりのなかった政八だが、急ぎの金策に追われて脇が甘くなっていた。それで座頭の言うがままに、ずるずると引っ張られてしまったのだ。政八が行き詰まるのを見計らって顔を出した伊勢屋は、質の良い客を買い叩いた。 「四千三百両分の客を、二千両で手に入れることができました」  市中見廻りのあと酒席に招かれた秋山は、得意顔で話す伊勢屋のわきで苦い酒を呑んだ。途切れなく雨の降る夜だった。  喜八郎も先代には深い恩義を抱えていた。 「表通りじゃないが、仲町に損料屋の売りが出ている。店も元手もあたしが調えるから、やってみないか。こんどのことでは色々と思うところもあるだろうが、まだ若い。あたしの見るところ、あんたは役人勤めに縛られるのが性に合っているとは思えない。秋山様も同じことを案じておられた。この辺りで武家はすっぱり捨てたらどうだ」  詰め腹を切らされる形で同心職を失った喜八郎に、先代政八が生業世話を持ち掛けてきた。喜八郎への言葉遣いは変わっていたが、横柄さはかけらもなかった。 「元手として、ここに百両用意してある。金で返してくれなくてもいいが、頼みがある」  何年かのうちに息子に代を譲りたい、と政八が続けた。 「親の欲目で見ても、あれが札差稼業に向いているとは思えない。そこでだ、大畑さん。損料屋はおもて向きの看板にしておいて、陰から二代目を支えてもらいたい。あたしが死んだら、本所の田島屋という道具屋が、喜八郎さんと二代目とを引き合わせる手筈にしてある。そのときは知らぬ顔で付き合いを始めてもらいたい」  政八が心底から自分を見込んでのことだと分かった喜八郎は、役目の下働きに使っていた嘉介とともに引き受けた。  いまから六年前に代を譲った政八は、そののち一年を経ずに病死した。居抜きで損料屋を買い取り、後々までの算段をつけたときの米屋が、どれほど金策に喘《あえ》いでいたか。随分あとで秋山からあらましを聞かされた喜八郎は、金では返し切れない借りだと知った。 「札差の振舞いは目に余ります。とりわけ伊勢屋に笠倉屋」 「分かっている。分かってはいるが喜八郎、奴らの金なくしては、旗本、御家人は言うに及ばず、大名の多くも立ち行かん」 「わたしに思案があります。御政道にもかないますし、米屋は畳まずに済みます」 「………」 「秋山さんも、先代の政八さんには恩義を感じているでしょう」 「無論だ」 「米方掛筆頭としての差配がいります」 「おまえの思案次第だが、力は惜しまんぞ」  喜八郎の膝が前に出た。      五  秋山との話合いを終えた日の夕暮れどき、喜八郎はひとりで米屋をたずねた。 「かならず伊勢屋が使いを寄越すでしょうが、相手になってはいけません。動かなければ相手が焦《じ》れます。身代を大きくすることに躍起の伊勢屋は、ついには当人がここに出向いて来ます」 「来るというのは、いつのことだ」 「木枯らしが吹くまでにはと謎をかけました。大切米《おおきりまい》のあとが目安でしょう」 「大切米と聞いただけでも虫唾《むしず》が走る」  政八が顔を歪めて吐き捨てた。  御家人には年三回、米で俸給が払われた。二月、五月に四分の一、十月に残り二分の一が定《き》めである。喜八郎の言った大切米とは、十月米のことだ。  札差としては小所帯の米屋だが、それでも大切米では三千両近い商いになった。米は貸金の担保として、すでに米屋が押さえていた。  ところが御家人の多くは、返済しないまま追い貸しを求める。政八は、一年先の米までは担保として受け入れた。が、それすら使い果たしている借手は二年先、三年先の米で金を貸せと言う。しかし政八は、頑として先の担保は受け付けなかった。骨の髄まで先物には懲りていたからだ。  札差の貸金利息は年利一割八分。それに証文書替などの手数料を加えると、二割近くになる。米|捌《さば》きは相場次第で儲けが逆ざやにもなるが、貸金は違う。年に二割、五年で二倍も稼がせてくれた。  札差に米取扱いを頼む旗本、御家人を札旦那《ふだだんな》という。二十五年前に札差株を手に入れた先代政八は、買い取った札旦那をうまく仕分けし、よくない客は思い切って他の札差に売り渡した。これを繰り返したことで、商いを始めて十年目には、二千両の蓄えと九千七百両の貸金残を持つ身代を築き上げた。  先代を亡くしたあと、おのれの商才を奉公人に見せ付けようとして事を急《せ》いた政八は、よそから何十人もの客を買い取った。多くは伊勢屋からだったが、散々に恩を着せられた挙げ句、方々に借りを抱えた質《たち》のわるい客ばかりを押し付けられた。  政八が買い受けたのは四年前の秋である。客はだれもが申し合わせたように、三年先の大切米を担保として差し出してきた。政八はそれを受け入れ、相場の八掛で貸し付けた。ところが客たちは同じ三年先の大切米を担保として、すでに他の札差から金を借りていた。  去年の秋、切米受取りの段になって、初めてことが露見した。 「大変でございます、旦那様。箱崎町の石井様と麹町谷町の大田様の米は猿屋町野田屋に、清水町吉川様のはすでに伊勢屋に払い出されております」 「どういうことだ。おまえの持って行った切手は贋物だとでもいうのか」 「それは存じませんが、お役人から裏書が違うといわれて突き返されました」 「ばかをいいなさんな。裏書には、きちんと米屋の印形が押してある。それより何より、どうして野田屋も伊勢屋も、切手なしに受け取れるんだ。しかも清水町の吉川様は、伊勢屋から買った札じゃないか」  政八は息巻いたが、ことは三人では済まなかった。十月決済の客のなかで、まともに回収できたのは二十六人中、わずかに二人。ほかはすべて焦付きとなった。  役場から切米を受領する御家人たちは、自家の米を取扱う札差を役場に届け出ていた。役人は切手裏書の札差名と、仕切帳記載のものとを突き合わせ、合致した場合にのみ払い出した。  万一切手を紛失したときは、受領する当人と、代理人の札差とが連名で始末書を差し出さなければならない。きつい詮議を受けたが、切手がなくても受領はできた。  逆に手元に切手があっても、裏書人と仕切帳の札差とが違うと切米は受け取れない。  先代が遺した客は、切手にかかわる不始末は一度も起こしたことがなかった。ゆえに政八は買い取った客についても相手のいうがままを鵜呑みにして、役場に確かめることを怠っていた。  奉公人たちは、政八が勝手に買い取った客にかかわるのは御免と、初めから知らぬ顔を決め込んできた。 「米屋さん、いまさら文句はなしだ。あんたに譲ったのは三年前じゃないか。それだけのときが過ぎる間、あんたはなにも確かめてこなかったのか。百歩も千歩も譲って、かりにうちから回した客の質がわるかったとしてもだ、あんたが始末をつける間《ま》は充分すぎるほどあっただろうが」  掛合いに行った伊勢屋に逆捩《さかね》じを食わされたことが知れ渡り、ますます政八は札差仲間から軽んじられることになった。  米屋の借金を踏み倒すつもりでいる相手を、奉行所に金公事《かねくじ》で訴え出ることはできた。金銭にかかわる争いごとは当事者解決が定めであったが、札差だけは受け付けられた。が、さすがにこれは政八も思いとどまった。おのれの不見識を公にするも同然であったからだ。  焦付総額八百十七両。政八は金も失ったが、先代が大事にしてきた番頭からも暇乞《いとまご》いを突きつけられた。  以来政八は、なにがあっても翌年以降の貸付けには首を縦に振らなかった。挙げ句、先代からの札旦那には見限られ、質のよくない蔵宿師たちには、明けても暮れても強談判で凄まれる羽目に陥った。 「貸付金と札旦那の帳面を見せてください」  言われた政八の丸顔に血が上った。 「な、なんでそんなものを。たしかにあたしは、商いを仕舞いたいとおまえに言った。言ったが、手伝って欲しいと頼んだわけじゃない。先代がなにを書き置こうが、帳面など見せられるもんか」 「先代からは色々と恩義を受けました」  怒りの鎮まらない政八に、喜八郎は穏やかな調子で話しかけた。 「あなたが商いを仕舞いたいと言いだしたら、引き止め無用だと。その代わり、できる限り浅い傷で閉じられるよう、力を貸せと言われました。わたしは米屋に、仇《あだ》をなす気はありません」  政八はしばらく黙り込んでいた。やがて喜八郎と合わせた目には力がなかった。 「あたしが四十五になって、やっとのことで跡を譲ってくれたが、やはり向いてないと思っていたのか」  気の早い鈴虫が、庭先で鳴き始めた。 「先代が亡くなってからは年々商いを細くして、案の定、仕舞うことになった。しかし親父は、どうしてそこまでおまえを頼みにして、おまえも始末を引き受けようとするんだ」  政八に詰め寄られて、喜八郎は座り直した。 「早桶のなかまで抱えて行くことで、ひとに話すことではありません。先代と米屋を大事に思われるなら、帳面を見せてください」  政八は、渋々ながらも離れに帳面を運び込んできた。喜八郎は帳面の札旦那百人を書き写した。  翌日夜、喜八郎の宿に十五人の棒手振《ぼてふり》、行商人が集められた。いずれも商いの元手を回してもらっている連中である。 「明日から五日の間は、指図通りに働いてもらう。配った紙にはどれも御家人の名と、ところが書いてある」  行灯ひとつの薄暗い部屋で、十五人がてんでに半紙を目でなぞり始めた。 「連中の内証向きがどんな様子か、しっかり聞き込んで来てくれ。節季の払いが溜まってないか、いつもなにを食べているか、奉公人の居着き加減はどうか。細かな指図は嘉介がするが、抜かりのない話を拾ってもらう」  小粒銀三十匁ずつの手間賃を受け取った十五人は、足早に深川を出た。  喜八郎がふたたび新旅籠町の米屋をたずねたのは、九月初旬の朝だった。大切米支給を控えた御蔵界隈は、日の出とともに、ひとと荷車とが通りを行き交っていた。ところが浅草橋までくると様子が違った。新旅籠町は朝の遅い札差の町だ。米屋もおもての雨戸はまだ閉じたままだった。 「最初の綴りは、どれも払いのきちんとしている十八人です。大口、小口合わせて六百五十両。この客には応分に貸しましょう」 「貸すとはどういうことだ。あたしは商いを続ける気はないよ」  喜八郎が用意した紙縒綴《こよりと》じの帳面を、ぱらぱら先までめくりながら政八が口を尖らせた。 「二冊目、三冊目の綴りはどれも内証のよくない連中です。とりわけ三冊目の三十六人はひどい。方々に借りを抱えています。二冊合わせて八十二人、締めて二千四百五十三両ですが、これらはほかの札差に回します」  先物担保に懲りて、一年先まで限りしか貸し付けないと決めたことで、米屋は質のよい札旦那を何十人も取りこぼした。いまの客の多くは酒、味噌、醤油から薪炭まで、払いを溜めに溜めている。しかも出入り商人から金子まで借りていた。 「札を回すと言えば、どの札差も飛びついてきます。少々|質《たち》のよくない客でも、よだれを垂らして受けるでしょう。要は幾らで譲るかの駆け引きです」 「そんなことは、いまさらおまえに講釈されなくても分かっている。親父も二十五年前、商いに嫌気がさしていた札差から、株と札とを捨て値で買って始めたんだ」 「先代は幾らで手に入れたのですか」 「帳面の二割だったと聞かされてきた。だから喜八郎、あたしが手放すときもそんなところだと胸算用している」  これを聞いて、喜八郎は開いたままの帳面を政八に差し出した。 「初めにも言いましたが、質のよい十八人の客は大事に残します。追い貸しを欲しがるなら半金を限りに応じてください」 「まだそんなことを言ってるのか」 「思案あってのことです。残る八十二人の貸付残金は、都合一万五千七百四十三両。このたびの大切米切手の受取りが、締めて二千四百五十三両です。確かめてください」  二度、算盤を弾いた政八が得心した目を喜八郎に向けた。 「揉め事を起こさないために、連中にも半金限りで追い貸しします」 「き、気でも違ったか、喜八郎。半金と言えば千三百両もの大金だ。おまえの口で言った通り、方々に借金を抱えて身動きがとれない連中ばかりじゃないか。そんな奴らに半金もの追い貸しだと。それも商いを閉じるというのに。それで米屋に仇をしませんとは、よ、よくも言ったもんだ」  政八が激しても喜八郎は眉一つ動かさず、相手の気が落ち着くのを待っていた。 「よそに回す札は一万五千七百四十三両です。これの一割だと千五百七十四両になります」 「それがどうした」 「わたしは帳面の三割で伊勢屋と話をまとめます。政八さんの胸算用より一割高く売れば、千三百両追い貸ししても、まだ残ります」 「決まってもいない算段を真に受けて、さきに出銭を呑み込む商人がどこにいる。駄目だ、話にならない」 「わたしはまとめます」  さらに開こうとした政八の口を、窪んだ眼が押さえつけた。 「蔵宿師とは、わたしと嘉介とで掛け合います。連中にしても、半金の追い貸しなら落とし所でしょう。十月を揉めずに収めてから、伊勢屋相手に話を進めます。このさきは、くれぐれも勝手な動きは慎んでください」  九月の柔らかな日差しが、離れに差し込んできた。憮然とした政八の丸顔に、畳の照り返りが当たっている。怒りで上気したのか、唇が小刻みに震えていた。      六  川風に凍《こご》えが含まれ始めた、十一月酉の日。背丈ほどの熊手を抱えた小僧を連れて、伊勢屋四郎左衛門が米屋に現れた。  熊手には小判が何十枚も吊るされていた。揺れるとチャリン、チャリンと音《ね》を立てる。店先でひとの足が止まると、自慢顔の小僧が熊手を揺らし続けていた。 「めっきり冷えて参りましたのに、ご足労いただき申しわけございません」  土間に積み重ねられた米俵の陰から、番頭が慌てて顔を出した。 「あるじがお待ち申し上げております。どうぞ奥へ。おい、小僧さんになにか甘いものを出してあげなさい」  番頭は伊勢屋の小僧にまで気遣って招き入れた。しかし政八が待っていたのは火の気もなにもない、帳場につながる北向きの八畳間だった。 「何度かお使いが見えたようですが、帳面始末に明け暮れておりまして」  薄い座布団に座った伊勢屋と政八は、文机を挟んで向き合った。 「何度かどころじゃない、ざっと十回は手代やら番頭を差し向けたはずだ」  憮然とした声で話す伊勢屋の襟元から、緋色の襦袢《じゆばん》が見えていた。六十に手が届く伊勢屋だが、赤黒の派手な身なりが似合っている。が、黒無地|綸子《りんず》の小袖には、すでに綿が入っていた。 「うちには梨のつぶての片方で、店仕舞いをするというのに大切米では追い貸しまでして、うまくあしらったそうじゃないか」  五尺七寸の大柄な伊勢屋は声も野太い。その声で、まっすぐ政八に突っ込んできた。 「あんた、月見のことを根に持っていなさるか……そうじゃないって言うなら、なぜ、うちからの使いには知らぬ顔かね」  政八は口を閉じたまま、目を逸らさぬように踏ん張った。喜八郎の指図だった。蔵宿師との大切米掛合いは、喜八郎が描いた絵図通り、揉め事もなく折り合いがついた。 「蔵宿師の連中に騒動を起こさせなかった、米屋さんの手際は大したものだ」  まわりから驚かれた政八は、すっかり喜八郎に従う気になっていた。 「いつぞやの喜八郎さんは居なさるか」 「生憎《あいにく》、猿屋町に出かけています」  伊勢屋の目が一段と険しくなった。猿屋町と、伊勢屋四郎左衛門の住む天王町とは町木戸を重ね合う近さである。しかも大口屋は猿屋町だ。 「猿屋町のどこに用だか知らないが、そこには行けても、うちに寄る足はないということかね」  言葉と底光りのする目とで押されて、政八は膝に置いた両手を握り締めた。閉じた唇に力がこもった。 「どうしたというんだ。そんな喧嘩腰の目をすることもないだろう」  ふっと調子を変えた伊勢屋は、胴乱《どうらん》からキセルを取り出した。挑みかかる龍を細工した銀の雁首は、伊勢屋自慢のものだ。おもわず政八もキセルに目を移した。 「そうだ。歳をとると、どうにも物忘れがひどくていけない」  胴乱を膝にのせた伊勢屋は、取り出した別のキセルを政八の文机に載せた。 「あんたにと思って、橋場の文治をせかせたんだ。急ぎ仕事で嫌な顔をしたが、拵《こしら》えはきちんとしている」 「あたしにですか」 「あんた、文治に断られただろう」 「………」 「そんな顔しなさんな、なにもあんただけじゃない。あの男は、あたしの誂えしか請けないんだよ」  伊勢屋の吹かした煙が政八に流れた。 「十五夜の詫びということでもないんだが、とにかく収めてくれると、あたしも急がせた甲斐がある」  政八はキセルに目がなかった。伊勢屋の言った通り、橋場の文治には誂えをにべもなく断られていた。それがいま、目の前にあった。やはり龍が爪を立てた見事な仕上がりである。薄暗くなった部屋でも銀が鈍く光っている。政八の咽《のど》が鳴った。 「気に入ってもらえたようだが」 「それは、もう」  膝の両手が、だらしなく開いていた。 「下心あってのことじゃない。気持ちよく収めてもらいたい」 「それでは遠慮なく」 「ああ、どうぞ……それより寒くないかね。どうも隙間風が入ってくるようだが」  障子戸がわずかに隙間を作っていた。これも伊勢屋に長居をさせない喜八郎の思案だった。ところがキセルに気が行った政八は、戸をぴたりと閉め合わせた。閉めてから、あっと悔やんだ。 「ところで米屋さん、あの喜八郎さんという男は、木枯らしが吹くまでには店をどうこうすると言ってたが、あたしが株を引き受けさせてもらうよ」 「………」 「売り値は決めてあるのかね」 「………」 「また、だんまりか」  伊勢屋が舌打ちをしても政八は黙ったままだった。余計な口を喜八郎から止められていたこともある。が、実のところは文治の龍細工に気を取られて、伊勢屋の話をまともに聞いていなかった。 「ま、これから年の瀬を抱えて、慌ててどうこうすることもない。春早々、正月の大寄合を済ませたところで膝を詰めよう」  立ち上がりかけた伊勢屋を見て、政八が我に返った。肝心な掛合いを済ませていなかった。 「ま、待ってください」 「なんだ、あんたにも口があったのか」  客が座り直した。帳面をどけて文机に煙草盆を載せた政八は、使い慣れた朱漆キセルに煙草を詰め始めた。次の言葉を待つ伊勢屋の顔が焦れている。 「折り入って伊勢屋さんに頼みがあります」 「ほう、聞きましょう」 「喜八郎が大寄合に出られるように、頭取に通していただきたい」  駄目だとは言わなかったが、伊勢屋が黙り込んだ。日が落ちて、障子戸越しに冷えが忍び込んでくる。気を張り詰め直していた政八が、ぶるるっと肩を震わせた。 「大方、あの男の思案だろうが引き受けよう。ただし」 「はい」 「下通りの末席、廊下につながる襖わきに、二ノ膳どまりで用意させる。料理、菓子の折詰はなしだ」 「かまいません」 「それともう一つ」  伊勢屋の口調が、がらっと変わった。 「松がとれたら、すぐさま株と札旦那帳を回してもらおう」  返事も聞かずに伊勢屋が立ち上がった。政八は、ふっと顔を崩すと文治のキセルを手にして伊勢屋を送りに出た。      七  元旦は昼を過ぎて雪になった。柳橋梅川には、札差株仲間すべての顔が揃っていた。  百九人それぞれが黒羽二重の紋付小袖に麻|上下《がみしも》の拵えで、白足袋履きの礼装である。大広間には、鬢《びん》付け油の香りが溢れていた。 「豪勢な膳だ。とても食い切れんな」  正面に座った北町奉行所四番組上席与力秋山久蔵に言われて、となりの大久保彦十郎が短く相づちを打った。大久保は下役の同心だ。  奇数月の札差会所は北町奉行所預りで、正月の大寄合には上席与力と下役とを招くのが習わしだった。 「ひらめの刺身は、初日の出とともに洲崎沖で釣り上げた縁起ものでございます。それだけは、なにとぞ箸をおつけください」  大きな身体の背を丸めた伊勢屋が、両手で秋山に酌をしながら話しかけた。大久保のわきでは、秋山の様子が気がかりそうな大口屋が、片手持ちの徳利を同心に差し出していた。  大広間には、向かい合わせの列が三本、都合六列に膳が並べられていた。奉行所役人と札差肝煎が座る上通りには、五ノ膳までが出されている。宴も半ばを過ぎたことで末ノ膳には、料理と引菓子の折詰が載っていた。 「大久保、雪が深くならぬうちに帰るぞ」 「うけたまわりました」  番組上席与力の年頭外出には、槍持、草履取など五人の供が付いている。素早く立ち上がった大久保は、支度を告げに控えの間に向かった。  会所頭取の大口屋は、伊勢屋に従うようにと目で促した。が、伊勢屋は知らぬ顔である。秋山もすすめられた刺身を口にしながら、伊勢屋に顔を向けている。険を帯びた目で伊勢屋を睨み付けてから、大口屋は大久保のあとを追った。 「お供の支度が整いますまで、まだご一献はいけましょう。どうぞ秋山様」  満座のなかで、上席与力接待役がだれであるかを伊勢屋は誇示した。 「帰りは雪道だ、ここまでに控えよう。それより伊勢屋」  盃を置いた秋山が伊勢屋を引き寄せた。 「おれの札を扱うおまえだから教えるが、他言は無用だぞ」 「はい」 「上様におかせられては、この月のうちにも改号をお考えであらせられる」  伊勢屋は顔色の変化をまわりに気取られぬよう、わざと目元を緩めてさらに近寄った。 「確かな筋から降りてきた話で、元号もすでに寛政と定められているようだ」 「かんせい、ですか?」 「声が大きい」  秋山が厳しく窘《たしな》めた。 「上様には家臣旗本の内証向き窮状がなによりのご心労だ。改号を機に、旗本|御扶策《おたすけさく》を敷かれるだろう」  秋山と伊勢屋の視線が縺《もつ》れ合った。 「御公儀のお考えにうまく乗ずれば、伊勢屋の身代がさらに太るかも知れんぞ」  座のざわめきのなかで、秋山の話し方は囁《ささや》きに近かった。隠し切れない笑みを伊勢屋が目元にこぼしていたとき、上通りの端で嬌声が湧き上がった。 「笠倉屋は相変わらずだな」  三味線を手にした地方《じかた》衆に仲居が加わって、ひとりの札差を取り囲んでいる。地方のなかには、裾が捲《まく》れて緋色の蹴出しを見せている者までいた。 「元旦の祝儀でございましょう。お目障りならとめますが」 「おまえもやるだろう。柳橋では大層に忙しいと耳にしたぞ」 「ほどほどに、でございます」  浮かべかけた笑い顔を伊勢屋が引っ込めた。  口をへの字に結んだ大口屋が、伊勢屋を睨《ね》め付けるようにして戻ってきたからだ。 「御支度が整いましてございます」  うむ、と短く答えた秋山は右手をたもとに入れたまま立ち上がった。瞬《まばた》く間もおかず、座の一同がさっと立ち上がり、深々と辞儀をした。笠倉屋のわきから、おんなたちが飛び下がった。  二百畳の大広間に上、中、下の膳列が隙間なく並んでいる。秋山は辞儀をしたままの札差の間を、ゆったりした足取りで抜けて歩いた。が、広間を出る寸前、下通り末席に立つ喜八郎のわきで足がもつれた。  咄嗟《とつさ》に、たもとの右手を喜八郎に突き出して体を保とうとした。その手を支えるように喜八郎が両手で受け止めた。  さっと宴席が張り詰めた。元旦早々、奉行所上席与力に粗相でもしたら、ただでは済まない。喜八郎のとなりでは、政八の丸顔から血の気が失せていた。 「いかがなされました。なにか粗相でも」  血相の変わった伊勢屋が、秋山のまえに飛び出してきた。 「足元がもつれたまでだ、大事ない」  秋山は喜八郎に目もやらず、廊下へと歩き出した。秋山の折詰を手に提げた伊勢屋が、急ぎ足で従った。  役人が出て行くと、まわりから幾つもの目が喜八郎に突き刺さってきた。が、喜八郎は気にもとめていない顔つきだ。茶献上の帯に手を差し入れて帯をしごく仕種《しぐさ》のあと、先んじて座った。立っていた札差連も座り始め、部屋に賑わいが戻ってきた。 「肩の凝る客も帰ったことだ、ここからは陽気にお楽しみといこうじゃないか」 「それはいいが上総屋さん、伊勢屋さんが戻るまで待ちませんか」 「ここは柳橋だ、帰ってはこないよ」  上総屋の言ったことに、座の何人もが含み笑いを見せてうなずいた。  喜八郎は手酌で盃を満たしていた。      八 「強気も結構だが、過ぎると毒になる」  伊勢屋自慢の龍の雁首が、煙草盆のふちを打った。 「株を売りたいと言うから名乗りをあげた。買い値も目一杯の値付けだ」  キセルをわきに置いた伊勢屋は、手焙《てあぶり》にかざした両手を揉み始めた。仕種は年老いて見えるが、喜八郎を見据える目は鋭い。 「米屋の帳面には番頭が三度も算盤を入れた。去年十月までの貸金残が、しめて一万五千七百四十三両。ところが大切米のあとで千二百四十両もの貸しが増えている。見掛けは商いが太った体裁だが、あたしはそうは見ない」  あとの言葉をおびき出そうとするかのように口を閉じたが、喜八郎はまったく動じない。手荒く炭火のうえで両手を擦《こす》り合わせてから、伊勢屋が言葉をつなぎ始めた。 「あんたは評判を高めたいばかりに、米屋に身銭を切らせて蔵宿師におもねっただけだ。引き換えに米屋は、千両を超える新たな焦付きを抱えてしまった。八十二人の客は、ことごとく質がわるい。取り立てには相当の腕力がいるだろう。あんたが増やした千二百両は、いっさい勘定には加えない。一万五千なにがしの二割、端数を丸めて三千二百両が買い値の限りだ」  三が日降り続いた雪が、築山の松に残っていた。七草のきょうは雲ひとつない。昼過ぎの陽が庭の雪で照り返り、伊勢屋の客間を白い光で満たしていた。 「そのうえ株に千両だ。これだけの金をすぐさま目の前に積める札差は、ざらにはいない。あんたが陰で掛合っている大口屋なぞは、積めと言われて千両出てくれば上出来だ。なんだ、その顔は。あたしの耳は通りがいいんだ、ほかにも色々聞こえている」  言葉を切った伊勢屋が、侮《あなど》るような笑いを喜八郎に向けた。 「この掛合いをまとめて、どれほど米屋から口銭を取る算段かは知らないが、一割抜いても三百両だ。あんた、深川の損料屋だろう」  喜八郎の窪んだ眼が、わずかに動いた。すかさず伊勢屋が嵩《かさ》にかかってきた。 「仲町に来るまえのことはまだ聞いてないが、あんたのことだ、突っつけばいやな埃も立つだろう。ここで手を打てば聞いた話は忘れてもいい。いやだと言うなら、十手を握ったうるさい連中が、御用の向きで顔を出すかも知れないな」  伊勢屋が口を閉じたあとは睨み合いになった。膝に両手を置いた喜八郎は、真正面に相手を捉えていた。  手焙にかざした手を揉む伊勢屋は、身体を動かしながらも目は喜八郎に張りついている。隙を見せた相手の喉元に食らいつく、金貸しの目だった。  突然、ドサッ、ドサッと続けざまの物音が庭から聞こえた。松の雪が落ちたのだ。  庭を見た伊勢屋が喜八郎に目を戻し、 「朝まで睨み合っても買い値は変えない」  さきに目を逸らした照れ隠しで、伊勢屋が凄んだ。 「株代は別にして六千両。これで手を打ちましょう」  冷めた茶に口をつけて、喜八郎が応じた。 「沙汰の限りだ」 「いやならよそに行くまでです」 「そんなさきが、あるわけないだろう」 「あるかないかはこちらの話です」 「痛い目に遭ってもだな」 「十手でも荒事でも、お好きなように。そのまえに帳面を返してもらいましょう」  窪んだ眼が細くなり、障子越しの光のなかに喜八郎が浮かび上がっている。伊勢屋の目も細くなった。 「米屋の八十二人は、たしかに質はよくありません。しかし担保に取っているのは一年先までで、そのさきは真《ま》っ新《さら》です。二年先、三年先まで押さえられているのが当たり前のご時世では、米屋の客は羊羹よりも甘い味です。欲しがる札差の数も片手では間に合いませんが、一番欲しいのは伊勢屋さん、あなたでしょう」 「どういうことだ」 「柳橋のおきょうさんにかかわること、と言えば分かるはずです」 「見当もつかないね」 「耳がいいのは、伊勢屋さんに限ったことではありません。おきょうさんにはふたりのこどもがいます。上が七歳の新太郎、下がおきみで五歳。おきょうさんの世話をしているひとが、行く末が安心できるように札差をやらせようとしています。こどもが大きくなるまでは、そのひとの店から手代を何人かつけるという話ですが、あいにく株の売り物がありません。まだ続けますか」 「もういい。分かったが六千両は論外だ。四千両出そう」 「六千両です。いやならよそと話します」 「四千五百に切り餅十個。それでいやならなしだ」  いきなり手文庫を引き寄せた伊勢屋は、二十五両包みの切餅十個を積み重ねた。 「手の打ち所を間違えなさんな。この話をほんとうに流したら、困るのはあんただ」  突き刺さる伊勢屋の目を、喜八郎は目元をわずかにゆるめて受け止めた。 「米屋が義理を抱えた客が十数家あります。いずれも百俵足らずの御家人様ですが、こちらから不義理はできません」 「それがどうした」 「いずこもご老体で、秋の大切米までは持たないでしょう。この客の始末がつくまで株はお待ちください」 「聞けないね、そんなあやふやな話は。それともあんたが、秋までには片をつけるのか」 「株を残して、四千五百両に切餅十個で売りましょう。蔵米方への札旦那書替は、この場で米屋の印形を押します」 「あたしの問いに答えてない。秋までだと言う確かなものはあるのか」  喜八郎は答えず、静かに伊勢屋を見詰め返した。また睨み合いになった。  さきほどは松の枝から落ちた雪音で、伊勢屋が先に目を逸らした。それを悔いているのか、いまの伊勢屋は瞬きすらもしたくなさそうに見えた。睨み付ける目の光を強めたり退いたりしながら、喜八郎から言葉を引き出そうとしていた。  喜八郎は表情を変えなかった。が、ふっと眼が動いた。伊勢屋に薄笑いが浮かんだ。 「十月米を限りで、引き延ばしは無用だ」  野太い声で念を押して、伊勢屋が折れた。  蔵米番所への札差書替すべてを終えたときには、すっかり暮れていた。  米屋の印形を押した証文を手文庫に仕舞うと、八百善の料理人を入れた。江戸会席の八百善は、一見客《いちげんきやく》を平気で追い返すという。ところが伊勢屋に呼ばれると、冬の日暮れた雪道でも花板を差し向けてきた。  喜八郎は摘入《つみれ》と椎茸の椀を口にしていた。箸で摘入を割り、すり身をゆっくり味わってから椀を置いた。 「伊勢屋さんにしかできないことでしょう」  盃を手にした伊勢屋の顔が、自慢そうにほころんだ。 「八百善を呼ぶぐらいは造作もない。さっきはあんたの耳のよさに感心したが、所詮は下世話な話を拾い集めただけだ」  笑いを引っ込めた伊勢屋が、追い詰めた鼠をなぶる猫のような目を見せた。 「印形を押し終わったいまだから聞かせてやるが、御上が旗本へのお助けをなさるということが、確かな筋から耳に入っている」 「………」 「それも知らずに、あんたは客のほとんどをあたしに売った。千数百両の上乗せを勝ち取った気だろうが、それぐらいなら、あんたが売り飛ばした客が一年のうちに稼がせてくれる。あたしに刃向かってきた度胸は買うが、存外、底が浅かったな」  伊勢屋が挑みかかる龍の雁首を突き出した。  深川の宿に戻ったのは、町木戸が閉じる四ツ(午後十時)近かった。 「株は残した。十八家も手付かずだ」  喜八郎が袱紗から、証文の束と和泉屋の為替手形とを取り出した。和泉屋は日本橋の本両替商で、伊勢屋の手形を一手に扱っている。脱いだ羽織の両たもとは、ともに小判の包みで膨れていた。 「四千五百両の手形に切餅十個だ。これなら先代に義理が果たせるだろう」  伊勢屋振出しの為替手形を、嘉介は行灯にかざして繁々と見詰めた。 「伊勢屋は、秋山さんの吹き込んだ話を、喉の奥まで呑み込んでいた」 「秋山様はなにを言われましたんで」 「これだ」  長火鉢の引出しから書き付けを取り出した。小さく折り畳んだ半紙を開いた嘉介は、いつもの癖で、声に出して読み始めた。 「伊勢屋を煽った。貸金は春切米までに始末、株は残せ。北町月番の九月に御沙汰」  漢字の苦手な嘉介の読み方はおぼつかない。途中で喜八郎が遮った。 「二月になったら聞き込みの数を増やせ」 「何人必要で」 「米屋を除いた札差すべての、確かな台所具合が知りたい。それに見合った数がいる」 「分かりました」 「それに加えて本両替に明るい男が三人と、帳面が読めて算盤に長《た》けている者を五人。給金に限りをつけず、素性の堅い者を取り込んでくれ。手に余るようなら野市屋《のいちや》さんをたずねろ」  野市屋とは、喜八郎と深い交誼のある本所の両替商である。思案顔を見せながらも、嘉介がしっかりとうなずいた。      九  一月八日もまだ雪が残っていた。しかし前日の晴天で解かされて、奉公人が歩いた米屋の庭のあちこちが泥色に汚れていた。  朝から不機嫌だった政八は、火鉢の火が少ないの、床の間の掛軸が曲がっているのと、奉公人に当たり散らしてきた。  小言の合間に番頭を呼びつけては刻《とき》をきく。終《しま》いには、呼ばれた番頭がすぐには顔を出さなくなるほど何度もきいた。  いまは真冬の低い陽が浅草寺《せんそうじ》の真上に来ている。政八が庭を見始めて、すでに半刻《はんとき》(一時間)が過ぎていた。  真綿のように純白だった庭の方々に、雪解けの穴があき、じわじわと汚れて行く。そのさまに何かを重ね合わせるような目で、政八は庭を見続けていた。 「旦那様……旦那様……」  二度呼びかけられて政八が振り返った。 「なんだ」 「喜八郎さんがお見えですが、いかがいたしましょう」 「す、すぐここに通しなさい」  一調子、声が高くて吃りが出た。慌てて咳払いをひとつ。 「茶もなにも出さなくていい」  番頭に案内《あない》されて入ってきた喜八郎は、雪が残っているというのに、素肌に袖を通した濃紺木綿のあわせ姿だった。細縦縞の綿入れ半纏を羽織ってはいたが、素足。右手には鹿の子絞りの巾着袋を提げていた。 「で、どうだった」  いきなり問い掛けた政八は、重ね着した襦袢に結城紬の綿入れを着ている。着膨れした身体に、丸顔。まるで狸の焼き物のようだが、目は血走っていた。 「始末を終えました」 「相手は、伊勢屋かい」 「そうです」 「そうか……そうなったか……」  政八の肩が大きく落ち、腕組みをして両目が閉じられた。静まり返った部屋に、溜め息だけが何度もこぼれ出た。しばらくして目を開いた政八は、独り言のように話し始めた。 「去年の夏、おまえが米屋の番頭に成り済ますと言ったとき、あたしが声を荒らげたことがあっただろう」 「………」 「あのあと、ほんとうにおまえが番頭でいてくれたら、と何度思ったことか。ところがその片方で、いまひとつ分からないおまえが気味わるくてね。先代の帳面を幾ら捲《めく》り返しても、おまえのことは何も出てこない。たとえ先代の書置きがあっても、にわかに信じられるものじゃないよ。顔を出してくれたいまだから言うが、うちの身代を売った金を持ち逃げされるんじゃないか、伊勢屋とぐるになったおまえに騙されたんじゃないかと、いやなことばかり考えていた」  一気にここまで話したところで、政八が大きな息を吐き出した。丸くなっていた背筋を伸ばし、結城の袖を引っ張ってから続きに戻った。 「焦げ付きそうな客を押し付けることで、伊勢屋に意趣晴らしをしようとしながら、そのくせおまえを信じ切れず、昨夜はまんじりともできなかった。とどのつまり、あたしはこの程度の器量だということだ」  言うだけのことを、やっとの思いで言い切った……湯飲みを手にした政八の顔が語っていた。 「米屋を畳む詫びは、来世に行ってから先代に言わせてもらうよ」  重たいものが取り除けられたような、晴れ晴れとした調子で政八が話に戻った。 「それで喜八郎、伊勢屋はおまえが請け負った通りに、帳面の三割を呑んだのかい」  巾着を開いた喜八郎は、伊勢屋振出しの、和泉屋あて為替手形を手渡した。 「よっ、四千五百両……ほんとうにおまえは三割を引き出したのか」 「四千七百五十両です」  言葉が出なくなった政八のまえに、さらに切餅十個が積み重ねられた。 「株と十八家の札旦那は米屋に残しました」 「ど、どういうことだ」 「米屋はまだ畳まれていないということです。先代への詫びを言うも言わないも、そちら次第ですが、差し当たりこれだけ手元にあれば、無理のない所帯が続けられるでしょう」 「あっ、あっ……」  なにか言おうにも言葉にならない。 「奉公人を選り分けるのに目利きが要るなら、嘉介を貸します。株をどうこうは、今年の秋口を過ぎてからでどうですか」  言い終えた喜八郎が立ち上がったあとも、政八の口は開いたままだった。また背中が丸くなっており、目も丸い。ますます焼き物そっくりになっていた。      十  寛政元年九月十三夜は、宵から雨になった。縁側の三方《さんぼう》には、組屋敷の妻女がこしらえた月見団子が載っている。が、空に月はなく、絹雨が縁側に飛び散って団子とすすきを濡らしていた。 「御老中方がご詮議なされた御沙汰が決まった。構わぬ、も少しこれに」  北町奉行|初鹿野《はじかの》河内守に言われて、四番組上席与力秋山久蔵と、江戸町年寄樽屋与左衛門のふたりが膝を進めた。  樽屋の初代は家康に従って江戸に入った。以来、町年寄世襲である。河内守は町方を統《す》べるにおいて、樽屋当主の具申を篤《あつ》く取り立てていた。 「松平様の御詮議は、ことのほか厳しくあられての。決裁直前まで再度の練り直しを言い立てておられた。御不興のわけはこれだ、ふたりともなんであるか知りおろうな」  河内守が取り出した三枚の小判を目にして、秋山、樽屋ともすぐに察しがついた。与力と町年寄が同時にうなずくのを見届けてから、河内守はさきを続けた。 「札差なくして旗本の暮らしが立ち行かぬことは、松平様にも重々ご承知であられる。さりとて、御公儀小判におのが屋号を極印し、平十郎小判と称するなど、不埒きわまりない。いかに御政道に役立とうとも、ここまで増長した札差には、一片の憐憫もいらぬ……かように厳しいお言葉であった」  酒が呑めない河内守は、厚めの湯飲みにたっぷり注いだ熱々の焙《ほう》じ茶を好んだ。奉行は膝元の湯飲みを手にした。 「棄捐《きえん》申渡しの額は、おおむねその方たちが算じた通りで決裁された。ただ笠倉屋平十郎だけは松平様の強い御指図で、さらに五千両が加えられた。秋山、それで笠倉屋が潰れたりはすまいな」 「お待ちくださりませ」  樽屋が持ち寄った顛末控を繰り、笠倉屋を引き出した秋山は、幾つかの数を読み上げて樽屋に検算させた。 「笠倉屋が日本橋本両替大坂屋に預け入れておりますものが小判五千九百両、銀七貫八百匁ござります。五千両加えられましても潰れる恐れはないと存じます」 「………」  奉行はしばし湯飲みを見詰めたのち、膝元に戻した。これでひとつ、話の区切りがついたようだった。 「ふたりとも茶漬けをどうだ。雨に濡れた団子でもなかろう」  膳所が素早く調えたのは、奉行好みの焙じ茶に揉み海苔、それに茄子の糠漬けだった。 「秋山から棄捐云々の思案を初めて聞いたのは、去年の秋口ではなかったかの」 「十五夜を三、四日過ぎて、と存じます」 「そうか、丸一年を過ぎたか」  膳が出て、堅さが和らいでいた。 「このたびは樽屋に難儀をかけた」 「もったいないお言葉でございます」 「奉行所の手を使うことは如何ほどでもないが、それでは相手に気づかれる。密やかに運んだその方の手際、見事であった」 「秋山様からひとを得て、初めて成し遂げたことにございます」 「ほう。それは初めて聞くが、まことか」  樽屋の口が滑ったわけではない。いずれ折りを見て、奉行に話す心積もりをしていた秋山は、あえて樽屋に口止めをしていなかった。 「喜八郎と申します深川の損料屋を、樽屋につけましてござります」 「損料屋とは……なにゆえ秋山が橋を渡したのだ」 「喜八郎は曲淵甲斐守様がご在職の当時、ここで同心職に就いておりました」 「曲淵殿は長らく北町奉行を御務めなされたはずだが、いつの頃の話だ」  河内守の問い方は、詮議ではなく、興が乗ってたずねているような柔らかいものだった。 「田沼様が治めておられました頃で、すでに九年を過ぎております」 「話が妙な方へと流れておるが、樽屋、続けても構わぬな」  樽屋は深々とあたまを下げた。が、秋山は顔を引き締めて奉行を見た。 「喜八郎とのことは、互いに口外せぬと約定いたしております。決して御務めに害をなすことではござりませぬゆえ、委細はお赦しくださりますように」 「金打《きんちよう》のうえか」 「畏れながら御意に」 「このたびの首尾に、その喜八郎と申す者はかかわりがあるのだな」 「存分にござります」  河内守は手を打って下男を呼び入れると、三人の膳を下げさせた。 「明々後日《しあさつて》の四ツ(午前十時)に、札差全員を奉行所に召し出せ。勘定奉行久世丹後守殿立ち会いのもと、棄捐を申渡す」  奉行は喜八郎のことには触れず、仕置き手順の話に入った。 「当日は六ツ(午前六時)に、差紙ではなく同心を差し向けることにする。手数《てかず》に不足はなかろうな」 「非番の者まで召集いたしますれば、数は充分と存じます」 「召し出すわけは、奉行より御用|労《ねぎら》いの言葉を貰う、としよう。差し向ける同心にも、仕置き云々は口外無用だ」 「しかと承りました」 「申渡しののち、札差と蔵前町役人とを樽屋役宅に向かわせる。その場で、この申渡書と仕法帳を手渡すように」  河内守は奉行所公印が押された、二冊の綴りを樽屋に渡した。 「申渡書には、札差各々の棄捐額が記してある。筆頭は伊勢屋四郎左衛門の八万三千両、それに伊勢屋喜太郎六万七百両、笠倉屋平十郎四万八千六百十両と続いておる」  いずれも幕府棄捐令で帳消しにする、旗本への貸金額だ。どの札差から幾ら棒引きにさせるかは、秋山と樽屋、それに喜八郎の三人で算出した。が、あらためて奉行の口から金額を聞いて、その途方もなさにふたりは押し黙っていた。 「総額で百十八万七千八百八両余りだ。この額には、御老中方もいささか驚かれておった。これでも潰れない札差とは、豪気なものだの」 「まことに」  話し終えた河内守は、樽屋に奉行所の供をつけて町役人役宅に帰した。部屋には秋山ひとりが残された。 「百十八万両もの額を棄捐させれば、さしもの札差も息が詰まるであろうな」 「棄捐されると申しましても、帳面上の貸金が消滅するのみで、貯え置いた金銀を召し上げられるわけではござりませぬ。とは申せ、これまでのような奢侈《しやし》に走った暮らしは、到底叶わぬものと思われます」  河内守は湯飲みを手にして、しばらく考え込んでいた。秋山は身じろぎもせず、続く言葉を待った。 「これで公儀家臣も暫時は息がつけようが、棄捐の後、札差はどのような挙に及ぶと思うか忌憚なく申してみよ」 「凄まじい貸し渋りが生じましょう」 「さもあろう」 「豪気に富を貯えた札差とは申しましても、百十八万両の棄捐は生死瀬戸際の額でありましょう。この先何年かは、貸そうにも元手そのものに窮する事態が出来《しゆつたい》いたすかと存じます」  秋山の返答を受け止めた河内守は、手に湯飲みを握ったまま目を閉じて黙り込んだ。時折、うむ、と声を漏らすのは、巡らせる思案のゆえと見えた。 「これにも松平様は、大いに異を唱えておられたが」  思案が定まったらしく、河内守の声には凜《りん》とした張りが戻っていた。 「ほかの御老中方は幾度かに分けて、都合五万両を札差に貸し下げろと申されておられる」 「五万両、でござりますか」 「御貸下げいただこう」 「ははっ」 「その方の申す通りだ。棄捐のあとでは、札差が締め貸しに転ずるは必定。それで困るのは、詰まるところ旗本だ。秋山、内状のよい札差を数名選び出せ」 「御意の通りに」 「その者たちに会所を新しく設けさせて、五万両を任せる。後見には樽屋を付け、会所作りのすべてをその方が指図いたせ」  秋山は畳にひたいを擦り付けた。 「ところで秋山、さきほどの喜八郎だが」  奉行の口調が変わっていた。張り詰めた顔の秋山を面白がっているかに見えた。 「目通りを赦す。その者の働きあって成し遂げ得たとあらば、労いもしよう」 「畏れ多きことでござります」 「鍔にかけた約定の相手も見たいし、の」  さらにひたいを擦り付ける秋山のおもてを上げさせた。 「十六日には、その方も何処《いずこ》かの札差に出向くのか」 「伊勢屋四郎左衛門を召し出しに参る所存にござります」 「そうか。暫時ひかえおれ」  秋山を残したまま奉行が部屋を出た。雨音が一段と強くなっている。ひとりになった秋山は、新設される会所をどうするかに思案を走らせていた。 (内状にもっとも優れた札差は米屋だ。なにしろ棄捐されるのがわずか四十二両に過ぎない。さりとて政八の器量では、到底無理だ。いま一度、喜八郎の知恵を求めねば)  奉行が戻ったことで、思案が中断された。 「樽屋の顛末書を読み返したが、伊勢屋は相当に阿漕《あこぎ》な振舞いが目立つの」  河内守が、吐き捨てるように切り出した。 「伊勢屋には奉行所の乗物を差し向けてよい。供揃いを調えて、丁重に出迎えろ」 「まっ、まさかに」  奉行の指図に秋山は絶句した。 「八万両もの棄捐をさせるのだ、ここに来るまでは得意満面な思いをさせてもよかろう。回りの札差には、伊勢屋よりも半刻遅く差し向けるように」  唖然とした秋山の顔を、河内守は心底から楽しんでいるようだった。      十一  九月十六日は朝から気持ちよく晴れて、空が真っ青に高かった。いつもなら野良犬しかいない天王町の通りだが、この朝は様子が大きく違っていた。  固く閉じられた伊勢屋の雨戸が、尻を端折《はしよ》った中間ふたりに乱暴に叩かれた。すぐわきに、黒塗りの乗物が降ろされている。濃紺無地のお仕着せ姿の舁《か》き手が、長柄の前後に立っており、警護役が四方を固めていた。  分厚い雨戸を叩く音がやっとなかに通じたらしく、潜り戸が開いて小僧が出てきた。眠そうだった顔が、乗物と、それを囲む武家姿を見て一気に醒めた。 「北町奉行所与力、秋山久蔵である。伊勢屋四郎左衛門殿をこれへ」  返事もしないまま、小僧がなかへ飛び込んだ。閉じられた雨戸越しにも、奥の大騒ぎが伝わってくる。伊勢屋が出てくるまでに暇はかからなかった。 「秋山様、これは一体……」  蒼白な伊勢屋の顔に、柔らかな朝日が当たっている。寝起きの伊勢屋は、元結《もつとい》がゆるんで髷がだらしなく撚《よ》れていた。 「旗本諸家に対し、常日頃から示される伊勢屋殿の厚情に奉行は深くお感じであられる」 「へっ」 「ついては奉行直々に労いのお言葉をくだされるとの仰せだ。先例のないことではあるが、奉行所乗物にて伊勢屋殿をお連れいたす。早々に身支度を調えられい」  蒼白い伊勢屋の顔に、見る間に朱がさした。 「もったいないことでございます。すぐさま支度いたしますゆえ、暫時お待ちを。その間、みなさまに朝げでも」 「無用だ、支度を急がれよ」  伊勢屋が大騒動になった。三十枚の雨戸が素早く開かれ、手代が門口に紅白幕を張り始めた。畳み床几《しようぎ》を手にした女中衆が飛び出してくると、秋山たちに座り場所をこしらえた。湯飲みが出され、分厚く切られた羊羹、山盛の干菓子が幾鉢も運ばれてくる。  身繕いを整えた女中が茶を注ぎ甘味をすすめるが、中間ですら口をつけなかった。断られても茶を注いで回る女中のわきを、息を切らした男が走り抜けた。手に提げた道具箱は、髪結い職人のものだった。  やがて羽織姿の番頭が出てきた。秋山に深々と礼をしたあと、中間、舁き手に近寄ると祝儀を配り始めた。形だけ断る中間たちに、ぺこぺこあたまを下げた番頭は、素早い手つきでたもとに捻じ込んでいる。秋山は知らぬ顔で見逃した。 「まことにお待たせ申し上げました。髪結いに手間取りまして、ご無礼いたしました」  四半刻《しはんとき》(三十分)ほど過ぎて伊勢屋が出てきた。黒紋付に麻上下の正装である。白足袋、草履とも、おろしたてに見えた。脇差一腰までも帯びている。 「乗物まで案内つかまつる」  秋山がさきに立ち、すぐあとに伊勢屋が続いた。店先から乗物まで二十歩もない。それを秋山は、一歩ずつ確かめるように歩んだ。  反り返るほどに伊勢屋は胸を張っていた。奉行所差回しの乗物に向かう姿を、あたりに見せびらかすように、ゆったりと歩いた。  乗物の合わせ戸が秋山の手で開かれた。 「過分のお取り計らい、厚く厚く御礼申し上げます」  辞儀を終えて秋山と合わせた伊勢屋の目が、通りの向こうにぴたりと張り付いた。伊勢屋の様子を見て、秋山も振り返った。  唐桟縞を着流した喜八郎が立っていた。わきには嘉介の姿もあった。 「存知よりの者か」 「滅相もございません。まるで見ず知らずの者にございます」 「左様か」  秋山が伊勢屋を睨み付けた。 「確かに貴様のような下司《げす》には似合わぬわ」  いきなり吐き捨てられて、伊勢屋が棒立ちになった。が、すぐさま背中を押されて乗物に押し込まれた。 「出しましょおうう」  警護役が歌うような合図を発し、乗物が静かに動き出した。伊勢屋の奉公人が、総出で膝にくっつくほどの辞儀をした。  列のしんがりについた秋山は、左手を太刀に当てて、即座に居合える形で歩き始めた。正面を見据え、道端のふたりには一瞥もくれずに歩き過ぎた。  過ぎ行く後ろ姿に会釈をした喜八郎は、嘉介を促して伊勢屋の角を離れた。 「これから江戸中が大騒動になる」  わきの嘉介が小さくうなずいた。喜八郎の背に朝日が当たり、道に長い人影を描き出していた。 [#改ページ]    騙《かた》 り 御 前      一  冬を控えた蔵前に降り続く雨で、空地の奥に建てられた平屋までの道がすっかり泥濘《ぬかるみ》になっていた。  見るからに安普請の玄関格子戸は、雨を吸って左右がちぐはぐに膨れており、雑に打ちこまれた板塀は、でこぼこに波打っている。遠目には、大工がついで仕事で建てた大きな納屋のようにしか見えなかった。  ところが格子戸わきには、分厚い樫板の看板が吊り下げられていた。 『猿屋町貸金会所』  粗末な平屋には似合わない看板だった。表面の磨きも奢ったらしく、こぼれ落ちる雨粒を苦もなく弾き飛ばしている。  蔵前の札差《ふださし》が新築した会所だった。普請にあたっては、板一枚にまで「質素にすべし」と奉行所から指図をされた。看板の仕上げは、わずか二月《ふたつき》まえまで栄華の極みにあった札差連中の、せめてもの意地だった。 「大口屋さん、あんたは御上《おかみ》がこんな企みをしていたとは知らなかったの一点張りだが、あたしと同じなら、なんのために頭取をやってたんだ」  不景気に雨続きが重なって江戸が冷えていた。すでに綿入れを着た瓦町の山田屋から名指しで誹《そし》られて、代々会所頭取に就いてきた大口屋が顔色を変えた。板の間に茣蓙《ござ》を敷いただけの三十畳広間に、百人近い札差が詰め掛けた寄合は、のっけから荒れ模様だった。 「なにが棄捐令《きえんれい》だ、ご政道に名を借りた強盗も同然じゃないか。おかげでうちの金蔵《かねぐら》は空になった。ところが借り手の御家人連中は浮かれに浮かれている。なかでも御持筒《おもちづつ》与力の斎藤庄兵衛に至っては、ここだけの話だが、ひとを頼んで闇討ちに仕留めたいほど腹立たしいやつだ」  仲間内だけの気安さに怒りが加わり、山田屋が武家を呼び捨てにした。  札差からの借金で内証が行き詰まった斎藤庄兵衛は、二百両の持参金目当てに女郎茶屋との養子縁組を図ろうとした。話がまとまりかけたその矢先に、公儀が棄捐令を発布した。これで斎藤が山田屋に抱え持った百四十五両三分二朱の借金が帳消しにされた。女郎茶屋のあるじを呼び付けた斎藤は、ひとことの詫びも言わずに破談にした。 「それだけじゃない。昨日、勝手に奥まで上がり込んできたあいつは、あろうことか金を貸せと切り出したんだ。しかも、帳面がきれいになったから、目一杯まで貸せと吐《ぬ》かしやがった」  公儀から株仲間を認められた札差は、江戸市中でわずかに百九人。それに対して蔵前御蔵が一年間に払い出す切米《きりまい》は、およそ四十一万石。一石一両としても、百九人で年に四十一万両もの商いだ。札差が江戸でも桁違いの分限者たりえたゆえんである。  ところが公儀は、百十八万七千八百八両という途方もない額の札差貸金を、仕法書一冊で消滅させた。  桁違いの額の貸金帳消しを命じた公儀の仕打ちに、札差は徹底した締め貸し(貸し渋り)で応じた。借金が消えても武家の手元に金はなかった。ところが札差は一文たりとも貸そうとはしない。年の瀬を控えて武家が音《ね》をあげた。  事態を憂えた老中は、一万両の公金を武家への資金として貸し下げる旨を、江戸町年寄を通じ貸金会所に伝えてきた。猿屋町貸金会所は、棄捐令で金詰りを起こした札差への、公儀貸下げ金貸付けを取り扱う役場である。この日の寄合は、その貸下げ金取扱いについての談合だった。  座の札差連中はだれもが千両、万両の貸金棒引きを公儀から言い渡されていた。山田屋の腹立ちは、わが身のことでもある。座の気配がさらに険しくなった。 「みんな少し気を落ち着けてくれないかね。言いたいことは山ほどあるだろうが、今夜の寄合は御上を罵《ののし》るためじゃない」  キセルを突き出す形で伊勢屋が場を鎮めた。広間の上手《かみて》には、奉行所の指図で新設された猿屋町貸金会所の肝煎役、大口屋八兵衛、伊勢屋四郎左衛門、上総屋《かずさや》五郎衛門、笠倉屋平十郎、米屋《よねや》政八の五人が座っていた。  声を発した伊勢屋は、このたびの棄捐令で八万三千両もの棒引きを強いられた。この額は仲間内でも群を抜いている。ことのいきさつを知り尽くしている一座の面々は、伊勢屋には素直に従った。 「師走が目の前の物入りなときに、わずか一万両ばかりでは焼け石に水だ。それはだれもが分かっている」  会所の札差連中が、伊勢屋の言葉に聞き耳を立てていた。 「御上はこの先、都合五万両までを何度かに分けて貸し下げるというが、まるごと受け取ったとしても仲間内で分ければ五百両にも満たない。こんな端金《はしたがね》で帳尻が合うのは、ここにいる米屋さんぐらいのものだ」  いきなり引合いに出された上座末席の米屋が、居心地わるそうに顔を俯《うつむ》けた。米屋はわずか四十二両を棒引きされただけだった。 「御上は御家人連中の餅代の心積もりで貸し下げるというが、冗談じゃない。ここで申し合わせておきたいのは、鐚銭《びたせん》一文、客には貸し出さないということだ。よろしいか」 「その通りだ」  間《ま》をおかず、雄叫《おたけ》びのような返事が返った。 「ぎゅうぎゅうと締め貸しを続ければ、連中が先に干上がる。どれほど客が騒ごうが、ないものはないと突き放す。ここの後見人の樽屋が、貸下げ金をどう使ったんだと四の五の言っても、それは米屋さんが食い止める」 「ちょっと待ってくれ、伊勢屋さん」  細縞の結城紬を着流した増田屋が、座の中ほどで立ち上がった。 「伊勢屋さんに楯突くわけじゃないが、御番所の息のかかった樽屋との掛合いを、米屋さんに預けるのは承知できない。言ってはわるいがこの大事な折りの会所肝煎に、なにゆえ米屋さんが名を連ねているのかが分からない。たしか米屋さんは去年の月見の寄合で、番頭さんの口から店仕舞いをいわせたはずだ。生き死ににかかわる大事を奉公人にいわせるようなひとに、肝煎役が務まるのかね」  大方の札差が増田屋の言い分にうなずいた。  会所の新設を指図した北町奉行|初鹿野《はじかの》河内守は、後見人に江戸町年寄樽屋与左衛門を任じた。しかし貸付け実務は、札差の中から選り抜いた肝煎役に委ねた。それが上手に座った伊勢屋、笠倉屋、大口屋、上総屋、米屋の五人である。  他の四人に比べて米屋政八は、身代の大きさも札差の力量も大きく劣っていた。 「増田屋さん、いいから座りなさい」  伊勢屋に睨み付けられた増田屋が、渋々ながら腰をおろした。 「米屋さんを肝煎に加えろとの指図は、たしかに御番所から下りてきた。聞かされたあたしも笠倉屋さんも、もちろん頭取の大口屋さんもだが、面食らったのは間違いない。だが、やりもしないうちから、悪しざまに言うこともないだろう」  言葉はほどよく米屋を庇《かば》い立てしていた。が、話す伊勢屋の口元は明らかに歪んでいた。 「いいかね増田屋さん、米屋さんはこう見えても、さきの騒動をわずか四十二両の帳消しで切り抜けたひとだ。わきは喜八郎さんという、しっかり者の番頭さんが固めている。お役人は、あたしら下々のものには見えないなにかを、米屋さんに見出したんだろう。万にひとつ、しくじるようなことがあったとしても、そのときは手付かずの身代《しんだい》をなげうって尽くしてくれるに決まっている。そうだな、米屋さん」  満座の目に射られて、米屋政八は身の置き所をなくしていた。      二  師走|朔日《ついたち》は氷雨になった。 「どうしたというんだ笠倉屋さん、背中を丸めて言いにくそうだが」  身代が傾くほどの貸金帳消しを申渡されるまでは、金の力で相手を見下《みくだ》すばかりだった笠倉屋の三白眼が、いまは上目遣いに伊勢屋を見ていた。  浅草橋を北に渡り、左手の路地を突き当たると板塀囲いの仕舞屋《しもたや》がある。おもてからは屋根の高い平屋に見えるが、二階建てだ。ふたりは奥まった一階十畳間で向き合っていた。 「十五日に返してもらう金のことだろう」 「じつはそのことですが」 「なんだ。できないのか」 「………」 「元金二千両に利息が六十両だが、どれだけ足りないんだ。せめて半分はできたのかね」 「まことに面目ない」 「面目なんかどうでもいい。幾ら返してくれるのか、はっきり聞かせてもらおう」 「なんとか利息だけで、と」 「ばかいいなさんな、あんたも金貸しだろうが。十、二十の話なら、利息だけでといわれて待たなくもないが、あんたのは二千両じゃないか。それだけの金を師走にきてから当て外れにするというのは、あんた、うちを潰す気か」 「そんな、滅相もない」 「これまで気前良くばら撒いてきた、平十郎小判とやらを掻き集めれば、楽に二千両ぐらいは揃うだろう」 「情けないが伊勢屋さん、奉公人への給金にも事欠いている。いまは預り米を勝手に売りさばいた金でしのいでいるほどだ」 「貧すれば鈍するとは、いまのあんただ」 「なにもそこまで」  笠倉屋が堪《こら》え切れずに目を尖らせた。 「気に障ったようだが、そんな目をするのはお門違いじゃないのか。奉公人に給金すら払えないような相手に、あんた、二千両を貸すかね?」 「………」 「大きな金を無証文で貸したのも、いざとなれば笠倉屋の身代でどうにでもなると……なんだ、そんな顔をして。金貸しが算盤も弾かずに、二つも貸すわけないだろう」 「それはそうだが、あたしと伊勢屋さんとはもっと……」 「もっとなんだね。算盤を離れた付き合いだとでもいいたそうだな」 「……あたしはそう思ってきたつもりだ」 「なにがつもりだ。あんた、本気でそんな甘いことをいってるのか。だから貧すれば鈍するというんだ」  火の気は伊勢屋の手焙《てあぶり》だけの寒い部屋だった。茶も出ていない。笠倉屋から上目遣いが消えている。炭火にかざした手を揉む伊勢屋を、唇を閉じ合わせた顔で見詰めていた。 「金に詰まるまえのあんたなら、番所で十貫石を抱かされて責められても、奉公人の給金云々などとはいわなかったはずだ」 「………」 「期日までに金が返ってくると読んでいたら、ここではなく、うちの座敷に来てもらっただろう。おたくに限らず、どこもかしこも金詰りだ。この十五日には返ってこないぐらいの先読みができなければ、米屋にも劣る」  陰で散々にいってきた米屋を引合いに出されて、笠倉屋が気色ばんだ。 「腹を立てるまえに、あんたから匂ってくる貧乏臭さを消すことだ」 「………」 「こんな金詰りのときにこそ、掛合いの場では羽振りよく振舞ってもらわないと、あたしが嫌になる」  龍細工のキセルを手にした伊勢屋が、手焙の炭火で煙草をくゆらせた。 「あと二千両、用立てよう。それだけあれば給金だの節季の払いだのを済ませても、商いに回せるだろう」  笠倉屋が、えっ……と息を呑んだ。 「あ、ありがとうございます」 「それをやめろというんだ、笠倉屋さん。畳にひたいを擦《こす》り付けたりせず、堂々と借りてくれ。金は五日までに和泉屋から届けさせる」 「助かります」 「ただし期限は一年。利息はまえのと合わせて八百両もらう。半分は前利息で貸金から差し引くが構わないだろうな」 「………」 「次はなにがあっても待たない。それに今回は証文も入れてもらうよ」  渋々ながらも、うなずくしかない笠倉屋をねじ伏せたあと、伊勢屋は両手を打った。間を置かず、女がふたり入ってきた。  その女たちを、笠倉屋の三白眼が追い始めた。落ちていた肩が上がり、唇が生唾で濡れていた。 「それでこそ、あんたらしいというもんだ」  伊勢屋の軽口にも応えず、笠倉屋は女から目を離さなかった。  女ふたりは緋色の襦袢を細紐で締めただけだった。洗い髪が腰の上で揺れている。前に回った女は乳房が透けており、立膝になると襦袢の合わせ目が割れて、淡い茂みがちらちら見えた。笠倉屋に膳を据える段には、胸元が覗けるように大きく前かがみになった。  ふたりの膳を調《ととの》えたあと、女たちは薄い襦袢越しに、尻の丸みをたっぷり見せ付けてから部屋を出た。 「気に入ったようだな」 「金繰りに追われて、このところは吉原どころじゃなかったもので。ここはいったい……」 「襦袢茶屋だ。うるさい客も、ここでもてなせばかならず落ちる」 「こんな隠れ家があるとは知らなかった」 「あたしがひっそりとやらせているんだ、知らなくて当たり前だ。あれが敵娼《あいかた》でよければ二階で好きにすればいいが、まだ宵の口だ」  伊勢屋が徳利を差し出した。何杯かは気もそぞろな顔で受けていた笠倉屋だが、二本目の徳利を空けるころには腰が据わっていた。 「御上の仕打ちさえなければ、あたしから借金することもなかっただろう」 「よしましょう、その話は。酒がまずくなる」 「あんたのいう通りだが……御番所の秋山だけは許せない。あたしに札を扱わせておきながら、あの男はまんまとあたしに一杯食わせた」  乱暴な手付きで伊勢屋が盃を干した。 「一度、ゆっくりと伊勢屋さんにうかがいたかったが、米屋の株はどうなりました。秋には譲り受けるという話だったでしょう」 「………」 「それなのに、店仕舞いどころか会所肝煎に連なっている。一体、どうなっているんです」 「やめてくれ。思い出したくもない話だ」  伊勢屋の目付きに刺《とげ》が浮いた。慌てた笠倉屋がううん、と取り繕うような咳払いをした。 「都《みやこ》では御上も大変だそうですな」  おもねるような口調で話を変えていた。 「なにが大変なんだ」 「都から戻ってきた呉服屋手代の受け売りだが、御上と御門《みかど》とが揉めているらしい」 「御上と御門とが?」 「手代はそう言っていました」 「面白そうな話だ。詳しく聞かせてくれ」  伊勢屋の黒目が大きくなった。笠倉屋は相手の機嫌が直ったことに安堵したのか、この夜初めて脇息《きようそく》に寄りかかった。 「御門の頼みをご公儀が蹴ったという話だが、そっち向きのことはさっぱりでね。分かったのは、都の公家連中がご公儀をうらんでいるということだけだった」  御門との諍《いさか》いごととは、朝廷と公儀が対立している『尊号一件《そんごういつけん》』のことである。  京の光格《こうかく》天皇は、実父の閑院《かんいん》宮|典仁《すけひと》親王に太上《だいじよう》天皇の尊号を贈ろうとした。先例を調べさせた後、この年寛政元年に京都所司代を通じて尊号|宣下《せんげ》の承認を幕府に求めた。  しかし筆頭老中松平定信は、皇位につかない私親への尊号宣下は、名誉を私するとして反対した。が、定信の真意は別にあった。現将軍|家斉《いえなり》の実父、治済《はるさだ》への牽制である。  家斉は実父の一橋《ひとつばし》治済を江戸城西の丸に迎え入れ、将軍経験者ではないにもかかわらず、大御所《おおごしよ》の称号を授けようとしていた。定信は朝廷の頼みを却下することで、将軍家の抑え込みも図ったのである。 「いまのところは、松平様のお沙汰を呑んだふりをしているそうです。しかし伊勢屋さん、手代の話だと、公家というのはのっぺり顔をしながら相当に強《したた》からしい。ご公儀が何かへまをやらかすのを、爪を研ぎつつ待ち構えているんでしょうな」  手代からの受け売りを笠倉屋がしゃべっていたが、天井のあたりに目を向けた伊勢屋は、まともに聞いていない様子だった。笠倉屋が口を閉じたあと、しばらく間を置いてから伊勢屋が相手に目を合わせた。 「笠倉屋さん、その手代を連れてぜひとも明日、顔を出してくれないか」 「お安いご用だ」  いつもの横柄な口調で笠倉屋が引き受けた。      三  両国橋西詰の芝居小屋から、天王町の伊勢屋までは十町(約一キロメートル)もない。しかし小芝居の座頭《ざがしら》、尾上菊乃丞が店先に立ったときには、自慢の羅紗《ラシヤ》合羽《かつぱ》がすっかり氷雨に濡れそぼっていた。 「伊勢屋さんに、両国の菊乃丞が来たと通してくんなさい」  ゆるくなった土間に砂を振り撒く小僧に、気取った声で呼びかけた。  札差の店先には似合わない身なりの客だった。合羽を脱いだ菊乃丞は紋付の黒羽二重を着流していた。帯は赤地に黒の縞模様が織られた献上博多で、足駄は五寸の高さがあった。  ほどよく長い瓜実顔で、眉は薄く目は一重の切れ長、唇は薄くて小さい。大きくはない顔に鼻筋がぴしっと通った、文字通りの役者顔だ。背丈五尺六寸の菊乃丞だが、足駄で底上げされて六尺を上回っていた。  広い土間には明かりが回り切らず薄暗い。見慣れぬ客に暗がりで見下ろされて、小僧が竦《すく》み上がった。 「足元のおわるいなかをご苦労様でございました。あるじから言い付かっております、どうぞお履物と合羽はそこに残してお上がりください」  結界の奥から急ぎ足で出てきた番頭が、菊乃丞を招き上げた。帳場を過ぎて奥に入ると、いきなり明るくなった。二間《にけん》おきに百目蝋燭が吊り下げられた廊下は、菊乃丞の芝居舞台よりも明るい。磨き上げられた床が百目の灯を照り返していた。 「廊下の板から、いい香りがするようだが」 「檜の誂えでございます」 「それはまた豪気なことだ」 「よそさまは存じませんが、うちは五代続く札差ですから」 (札差の息の根が止まりそうだと、江戸中で評判じゃないか。贅沢《ぜいたく》もこれまでだろうが)  番頭の驕《おご》った口調に、菊乃丞が胸の内で毒づいた。が、もとより気づかぬ番頭は菊乃丞を従えるようにして先を歩き、奥の座敷へと案内した。 「あいさつなんかいい、はやく座ってくれ」  機嫌のわるそうな伊勢屋の声を耳にして、番頭はそそくさと部屋から出た。招き入れられた客間には膳が調えられており、先客が伊勢屋に並んで座っている。菊乃丞を品定めするような顔つきの男は、黒目が大きく上にかたよっていた。  庭に面した客間は、氷雨降りのなかで障子が一枚開かれている。泉水四隅の石灯籠は、雨を透して明かりを放っていた。 「昼間は役者さんを使いに寄越したそうじゃないか」 「このところ無沙汰をつづけておりましたもので、ごあいさつにうかがいたいと」  先客の目つきが気になる菊乃丞は、当たり障りのない返事を始めた。それを、聞くのも煩《わずら》わしいとばかりに伊勢屋が遮った。 「客が入らなくて祝儀のおねだりか」 「えっ……そんなわけでは……」 「あたしに見栄を張ってどうするんだ」  伊勢屋は先客の顔つなぎもせず、ぞんざいな手付きで徳利を差し出した。 「歌舞伎遊びの客には、まだ金がある。あの連中は一年や二年、商いが細くなっても芝居見物まで始末はしない」 「………」 「ところがあんたの客は、職人やら日傭取《ひようと》りばかりだ。このさき何年かは、江戸中が金詰りになる。気の毒だが小芝居には客の足が向かないな」  菊乃丞は、右手で盃を塞いで断った。 「なんだ、いらないのか」 「今夜の酒は、いささか苦そうですから」 「あとの喧嘩はさきに買えだな」  膳に音を立てて伊勢屋が徳利を置いた。 「なんのことで」 「いやなことは先に済ませるということだ。あんた、うちが傾いたと思ってるだろう」 「またいきなり、なにを言われますやら」 「まだ師走の中日《なかび》だというのに、使いが来たのは今日で五度目だ。これまでの年は、言われなくても師走興行の初日、中日、楽日の三度、うちから祝儀がとどいたはずだ」  菊乃丞がうなずいた。 「一献受けろ」  伊勢屋の勢いに押されて、菊乃丞は盃を両手持ちにして受けた。 「今年なにもしなかったのは考えあってのことだ。それなのに借金を返せといわんばかりに、三日にあげず使いが来る。随分うちも見くびられたもんだと、笠倉屋さんと話していたところだ。あんたも笠倉屋さんの名前ぐらいは、聞いたことがあるだろう」  あるどころではなかった。笠倉屋といえば、屋号を極印した小判を色町にばら撒くことで知れ渡った大尽だ。もっともさきの棄捐令では、伊勢屋に次いで五万両に届くほどの大金を帳消しにされている。いまでは笠倉屋も危ないと、江戸のあちこちで取り沙汰されていた。 「催促がましい使いに苛立ってたあたしを、鎮めてくれたのが笠倉屋さんだ。このひとがいなければ、今夜の場もなかった。話に入るまえに、きちんと礼を済ませてくれ」  あたまから決め付けられて腹も立ったが、図星だった。座り直した菊乃丞は両手を膝に戻して頭を下げた。 「あたしのも一献受けてもらおう」  笠倉屋が徳利を手にした。伊勢屋の酒を干してから、菊乃丞は押し戴くように盃を差し出した。 「客の入らない小屋の切り回しで、さぞかし頭が痛いだろう」 「はい」 「だがねえ、菊乃丞さんよ。伊勢屋さんが大きな儲け話を用意してくれている。あとはあんた次第だ」  傾きかけた札差ふたりに儲け話を持ちかけられても、にわかには喜べない。しかしそこは小芝居の座頭だ、如才のない顔を作った。 「あたしから話そう」  わきから話を引き取った伊勢屋の口調が、仕切は自分だと言っていた。 「あたしに擦り寄ってくる役者はいまでも数多くいるが、これをやれるのはあんたしかいないと思っている」 「役者冥利に尽きるお誉めです」 「礼はあとだ。ひとたびこの話を聞いたら、断ると命の遣《や》り取りになる。あんた、それだけの肚がくくれるか」  菊乃丞は黙り込んだ。虚仮威《こけおど》しには思えなかった。庭から師走の凍えた風が流れてくる。札差ふたりの目に射られた菊乃丞は、手酌で呷《あお》った。まだ気持ちは定まらない。 「どれほどの稼ぎになるか、それだけでも聞かせていただければ」 「箱詰めの小判だ」 「どんな箱です?」 「鋲打ちした樫の箱に決まっている」 「それを幾ついただけますか」 「図に乗るんじゃない」  笠倉屋が声を荒らげた。 「笠倉屋さん、声が大きい」  開かれた障子から見える庭に人影はないし、外に漏れるほどの声でもなかった。それなのに窘《たしな》めた、伊勢屋の顔が張り詰めている。そのピリピリした気配が、菊乃丞の迷いを深くした。もう一度盃を満たそうとした手酌の徳利が揺れて、菊乃丞の膳に酒がこぼれた。  手元が震えたことで、札差ふたりの目がさらにきつくなった。とりわけ笠倉屋の三白眼が、迷う菊乃丞を見据えている。盃を置いた菊乃丞は、笠倉屋を見詰め返してから伊勢屋と向き合った。 「うかがいましょう」  答えた菊乃丞は、舞台で見得《みえ》を切るときの顔つきになっていた。 「いま言ったことを承知のうえだな」 「小芝居ではありますが、尾上菊乃丞の名は安くはありません。念押しは無用です」 「しっかり聞かせてもらった。笠倉屋さん、あんたもこれでいいね」  わずかにうなずいた笠倉屋は、返事の代わりに大きく手を叩いた。二度目の手で客間のふすまが開かれた。 「今日《こんち》はまた、みなさんのお顔がぞろりとお揃いで」  桜色のあわせに菜の花色の紋付羽織。目がちかちかしそうな取り合わせを着た幇間《たいこもち》が、扇子を鳴らして入ってきた。 「玉助、始めていいよ」 「いただきました」  ぱちんと扇子でおでこを叩いた玉助は、踊るような足取りでふすまを取り払い始めた。 「おうい、お姐さん……長々お待たせしやしたが、旦那のお許しが出やした。目いっぱいご陽気にいきやしょう」  間をおかず、芸妓衆が座敷になだれ込んできた。三味線が二棹《ふたさお》に鉦《かね》、太鼓が加わり地方《じかた》だけで五人だ。それに芸者が五人、幇間がひとり。二十畳に広げられた座敷が、いきなり華やかになった。 「玉助さん、こっちに来てくれ」  玉助は笠倉屋抱えの幇間だ。伊勢屋は、さんづけで呼び寄せた。 「いっとき話がしたい。忍び音《ね》までとは言わないが、ひと調子落としてやってくれ」  伊勢屋が三枚の小判を握らせた。 「姐さん方、伊勢屋さんの旦那にいただきましたから」  芸妓衆が声をそろえて礼を言った。伊勢屋の顔がゆるんだ。それをすぐさま真顔に戻すと、膳をどけて菊乃丞を膝元まで近寄らせた。笠倉屋も伊勢屋に膝を寄せた。 「あたしも笠倉屋さんも金に詰まっているわけじゃないが、御上の手前、いまは派手なことはまずい。あんたへの祝儀を控えたのもそのひとつだ」  玉助に渡された三両を見ていた菊乃丞が軽くうなずいた。 「なぜこんな騒がしい座敷でと、いいたそうな顔だな」 「聞いたら断れない話には、いささか場違いな気がします」 「ところがそれは思い違いだ。あたしは今年の正月、秘め事には騒がしい座敷こそが打って付けだと、骨身で味わっている」  立方《たちかた》の舞いが始まった。玉助も羽織を脱ぎ捨てて、着物の裾を端折《はしよ》っていた。 「ところであんた、歳は幾つだ」 「つぎの正月で三十六になります」  煙草盆を引き寄せた伊勢屋は、雁首に龍が細工されたキセルの煙草に火をつけた。 「厄年の男に老けられるか」 「あたしは一座を張る役者です」  むっとして答えた菊乃丞の言葉が、煙草の煙を追い払った。 「いまから話すことは片手間でできる仕事じゃない。今日限り、しばらく小屋を畳んでもらうことになる」  伊勢屋が背をかがめて話し始めた。  端《はな》は調子を落としていた三味線が、三つ目の舞いでは鉦、太鼓と音を競い合っていた。その騒ぎのなかで、伊勢屋たちの密談は半刻《はんとき》(一時間)近くも続いた。菊乃丞の顔が次第に険しくなっている。締め括りでは、伊勢屋がめずらしく、くどくどと念押しをしていた。 「さあ、これからがお楽しみだ。玉助、しっかり騒いでくれ」 「へえ……」  騒ぎ続けていた玉助が笠倉屋に呼びつけられたときには、桜色の襟元をべったりと汗で濡らしていた。 「なんだ、その声は。久しぶりに投扇興《とうせんきよう》といこうじゃないか。だれでもいいよ、あたしに勝てば小判五枚だ。玉助、場を拵《こしら》えなさい。おまえもあたしに勝てば五枚やるよ」  五両と聞いて、芸妓衆が目の色を変えた。玉助を連れた笠倉屋が、大騒ぎの輪に加わった。ひと呼吸おいたあと、伊勢屋がたもとから二十五両包を取り出した。 「役者衆の餅代もいるだろう、当座のつなぎにしてくれ」  大枚を受け取ったというのに、菊乃丞の顔が強張《こわば》っていた。      四  寛政二年正月の浅草寺には、薦被《こもかぶ》りが一樽も奉納されていなかった。商いの遣り繰りに追われた蔵前の札差連中は、寄進どころではなかったからだ。  初詣客が投げる賽銭も一文銭ばかり。参道の物売りにもひとが寄らず、昼過ぎだというのに甘酒屋が葦簾《よしず》を畳み始める始末だった。  ところが深川門前仲町は様子が大きく違っていた。木場の旦那衆は不景気のなかでも目一杯の威勢を見せ、奉納提灯と四斗樽が八幡宮境内にずらりと並んでいた。  藪入りの富岡八幡宮は、遊び客に遅まきの初詣が重なり、参道にはひとが溢れていた。 「おうい、喜八郎さん。こども連れだてえのに素通りかい」  担ぎの汁粉屋が喜八郎に大声をかけてきた。屋台のまわりには、宿下《やどり》で深川に戻ってきた小僧たちが群がっている。人込みで逸《はぐ》れないように喜八郎の帯をしっかり掴んだこどもが、物欲しげな目を屋台に向けた。 「一杯もらおう」  まわりが着膨れしたなかで、素肌に紺木綿のあわせを着流した喜八郎が掠《かす》れ声で答えた。あいよっと威勢を返した親爺が、素焼きの碗に手早く汁粉を掬《すく》い入れた。差し出された汁粉は、器から溢れそうなほどに入っている。ほかの小僧たちが目を丸くして碗を見た。 「浩太郎、わきにどいて、ゆっくり食べろ」  素足に雪駄履きの喜八郎にいわれて、碗を両手持ちにした浩太郎が嬉しそうにうなずいた。屋台前の小僧たちが詰め合って、ひとり分の隙間を作り出した。あらかた食べ終わったひとりが、明らかに盛りの違う碗を羨ましげに覗き込んだ。 「この寒空でも、薄着が様になってるからかなわねえやね」  喜八郎が窪んだ目元をわずかにゆるめた。鍋、釜、布団などの所帯道具を日銭で貸す損料屋は、ほとんどが隠居した年寄の片手間商売だった。ところが喜八郎は、この正月でまだ三十と若かった。 「これからお参りかい」 「この子は八幡宮を知らないんだ」 「だったら江戸屋さんのわきの道から行った方がいい。まだしも歩きやすいだろうから」 「そうさせてもらおう」  喜八郎は一匁の小粒を渡した。汁粉屋は、喜八郎の裏の仕事を手伝っている。一杯十六文の払いに小粒は多過ぎたが、喜八郎は目で釣銭を断り、親爺も目顔で礼を言った。  汁粉屋が言った通り、料亭江戸屋からの堀沿いの道は、いくらか人波が少なかった。それでも細道の片側にはこども相手の物売りが連なっており、三歩とまともには歩けない。それに加えて、喜八郎の帯を握った浩太郎が、細工物に見とれて鈍《のろ》くなる。それでも喜八郎は、こどもの好きに歩かせた。  賽銭を投げ入れ、お参りを済ませたときにはすでに四半刻《しはんとき》(三十分)が過ぎていた。 「浩太郎、めしでも食うか」  並んで歩く連れが嬉しそうに足を止めた。前がいきなり立ち止まったことで、後ろの参詣客が浩太郎の背中を押した。不意のことで備えのなかった浩太郎は石段を踏み外した。  間がわるく、そこだけ人込みが途切れていた。よろけ落ちた身体が、五段下から上ってくる前垂れ姿のお参り客にぶつかった。男には枯茶色の道行を羽織った連れがいた。 「怪我はなかった?」  恥ずかしさで俯き顔の浩太郎に問い掛けた女の目が、近寄る喜八郎に移った。 「あっ……喜八郎さん……」 「無沙汰をしておりました」  喜八郎が軽くあたまを下げた。 「邪魔で歩けねえや、わきでやんなよ」  喜八郎の後ろから、半纏姿の職人が尖った声をぶつけてきた。 「あい済みませんでした」  連れを促した女は、喜八郎たちと一緒に石段を戻った。狛犬《こまいぬ》横にわずかな隙間を見つけた女は、そこで喜八郎に向き直った。 「うちの板場を任せている清次郎です」  江戸屋の女将、秀弥《ひでや》だった。 「蓬莱橋の喜八郎です。いつぞやは江戸屋さんにはお世話をかけました」  男ふたりが会釈を交わした。 「喜八郎さんのお子さんですの?」 「古い知り合いの息子です」 「そうでしたか」  秀弥の目元が束の間だが明るくゆるんだ。 「それで、これからどちらへ……ごめんなさい、久しぶりにお会いしただけですのに、立ち入ったことばかりうかがったりして」 「気遣いは無用です。昼飯を食おうと話していたところですから」 「それならぜひ、うちにお越しくださいな」 「江戸屋さんにこどもはご迷惑でしょう」 「それこそお気遣いはご無用です。お参りを済ませましたら、すぐに清次郎と戻ります」  喜八郎の帯を掴む連れの手に力がこもった。参道を出た先の飴屋の前で待っていた喜八郎は、お参りを終えた女将たちと一緒に江戸屋に入った。秀弥は相客のいない小部屋に席を調えた。 「鈴が鳴らなければひとを寄越しません。ごゆっくりお過ごしいただいて結構ですから」  ひと通りの膳が調ったところで秀弥も下がった。甘味をきかせた厚焼き玉子、いわしの味醂干し、紅白に切り分けた蒲鉾、それに熱々の炊き込み御飯に、そうめん具の味噌汁。秀弥の気配りで、こども好みの品々が並べられていた。  きれいに平らげた浩太郎は、手焙の丸網に載った餅で磯辺巻をこしらえた。 「あのきれいな女将さんと、喜八郎さんは知り合いなんですか」 「余計な気を回さなくていい」  きっぱり言われて、浩太郎が萎《しお》れた。 「腹は膨れたか」 「はい、磯辺が食べ切れなかったら米屋に持ち帰ってもいいですか」  喜八郎の目元がゆるんだ。 「いまは話をしっかり聞かせてくれ。あとで団子も買ってやる」  こどもの顔が生き返った。  当年十三歳の浩太郎は、本所相生町の両替商|野市屋《のいちや》福松の長男である。福松と喜八郎との出会いは、剣術道場だった。  当時、喜八郎はすでに師範格だった。商い柄、ごろつき連中から目を付けられやすい福松は、護身の修練として格違いの喜八郎に食らいついた。相手の懸命さを受け止めた喜八郎は、十二歳年上の福松に手加減抜きの稽古をつけた。以来十余年、途切れぬ交誼を続けてきた。  そして昨秋、福松は喜八郎から頼まれて、貸金会所肝煎役に就くことになった米屋に、浩太郎を奉公に出した。  奉行に肝煎として推したものの、秋山も喜八郎も米屋政八の器量を危ぶんでいた。ふたりは見張り役として浩太郎を付けたのである。  小僧であれば、政八に限らずだれもが油断する。六歳から福松に稽古をつけられてきた浩太郎は、いまでは父親を凌ぐ木刀さばきを見せた。しかも武家の子弟に混じって道場通いを続けたことで、言葉遣いも確かだ。お目付け役には最適だった。 「暮れから七草までの間に、四度も旦那様のお供で出かけました」  たもとから取り出した心覚え帳を繰りながら、浩太郎が話し始めた。 「初めて行ったのが師走の十七日です。このときは、伊勢屋さんと笠倉屋さんに呼び出されて出かけました」 「猿屋町の会所ではなかったのか」 「違います、根津権現です。帰り道はみぞれになったのですが、旦那様は随分とご陽気でした。二度目は暮れの二十五日、三度目が二十七日で、いずれも昼間のお供です。ここまでの三度は、どれも根津権現門前町わきの、城塚屋さんというお料理屋さんでした」 「米屋さんが会っていたのはだれだ」 「二度目、三度目とも伊勢屋さん、笠倉屋さんの小僧さんたちと一緒に待っていました。きっとその二軒だとおもいます」  いずれも肝煎連中だった。しかし会所の寄合とは思えなかった。合点のいかぬまま、浩太郎に先を促した。 「最後に出かけたのが七草の夕方からです。場所は柳橋の梅川さんという、大きな料理屋さんでした。小僧さんたちは二人とも同じでしたが、伊勢屋さんの小僧さんが、今夜はお節句の殿様がいるらしいって」 「節句の殿様だと?」 「そう聞きました。その日の伊勢屋さんは、出かけるまえから身なりをすごく気遣っていたそうです」 「………」 「旦那様は、お会いしたお殿様も、ご一緒にいらした御家人様も、とってもいい方だといいながら足元も見ないでふわふわ歩くものですから、何度も小石に躓《つまず》いていました」  心覚え帳を閉じた浩太郎が、固くなった磯辺巻を口にした。 「その場には、御家人様もいたのか」  掠れ声で問い掛けられた浩太郎は、慌てて餅を呑み込んだ。 「旦那様はそうおっしゃっておいででした。二月に入ったら、市ヶ谷神楽坂にある御家人様のお屋敷をおたずねなさるんだそうです」 「それはどちら様のことだ」 「分かりません。なにか分かったら、いつもの通り嘉介《かすけ》さんに伝えます」  喜八郎は目を閉じ腕組みをしたまま、いまの話をなぞり返していた。      五  深川蓬莱橋たもとの損料屋は、どこにでもある二間《にけん》間口の小さな店構えだった。しかし居抜きでここを喜八郎に買い与えた先代米屋政八は、多くの人数がひと知れず出入りできるように、店に続く空地も一緒に買い求めていた。高さ八尺の杉板塀で囲まれた百坪の地所内には、小さな蔵がふたつに、二十畳の広間を併せ持つ母屋が造作されていた。  二代目の才覚に危惧を抱いていた先代政八は、さらにもうひとつ、先を読んで手立てを講じていた。探りの費え捻出である。二代目政八を陰から喜八郎に支えさせるために、先代は五百両を本所の米穀仲買人に預けていた。  いわば仲買商への出資金である。米相場に張るのとは異なり、大きな儲けは生み出さない。それでも年に一割五分の分け前をもたらした。これを喜八郎は下働きへの費えに当てていた。  ひな祭を翌日に控えた三月二日早朝、広間には様々な身なりの手代や職人から、行商人、駕籠舁《かごか》きまで九人が集められていた。富岡八幡宮の桃は八分咲きだが、朝夕はまだ冷え込みがきつい。喜八郎は素肌に格子柄の紺絣一枚。わきに座った嘉介は、五十路《いそじ》男には見えない引き締まった身体つきだが、綿入り木綿の襟元から浅葱《あさぎ》色の襦袢がのぞいていた。 「二月初めから今日まで、寒い中をよく聞き込んでくれた。今朝はまだ眠いのもいるだろうが、朝飯ですっきり目を覚ましてくれ」  喜八郎の言葉でみんなが箸を手にした。箱膳には鰺の干物と分葱《わけぎ》を散らした味噌汁、それに浅蜊の佃煮、焼き海苔が載っている。朝から豪勢な膳だが、食が太くて早飯食いの連中は、幾らも刻《とき》をかけずに平らげた。 「それでは出入り商人の聞き込み首尾を、平吉からやってもらおうか」  大きな平仮名で書き綴った指図帳を捲《めく》りながら、嘉介が切り出した。言われて、粗い木綿の半纏を着た棒手振《ぼてふり》が立ち上がった。 「神楽坂というのは、先《せん》に嘉介さんにいった通り、高木左京様のお屋敷でやした。あっしは酒屋、炭屋に乾物屋をあたりやした。炭屋は油も納めてやしたんで、そいつも合わせて聞いてきやした」 「御鷹匠支配三番組与力格、家禄は二百五十俵五人扶持……これだな」  手元の御家人武鑑で、嘉介が高木の禄高などを確かめた。 「お屋敷は門構えもきちんとしたもので、下男が門番代わりに立ってやした。炭屋の話だと四代続く御家人さんだそうで、御家来衆が七人に下男が四人、それに賄い向きの女中を三人も抱えているそうです」 「それだけ奉公人を抱えたんじゃあ、内証は相当に苦しいだろう。溜めているのか」 「いっときは大きな借金が帳消しになったと、てえした喜びようだったそうです。ところが札差から銭がへえらなかったとかで、去年暮れの払いは勘定の二割しかもらえなかったてえやした」 「ほかの商人《あきんど》もおなじだったのかい」 「へえ……それが今年の七草明けに呼びつけられて、溜まってたのをそっくり貰えたそうなんで。酒屋も炭屋も、季節はずれの勘定がとれたてえんで、えらく喜んでやした」  喜八郎とうなずき合った嘉介は、ふたたび帳面に目を戻した。 「それじゃあ次は呉服屋だ」 「はい、高木様に出入りの呉服屋は、岩戸町一丁目の藤屋でした」  話し始めたのは、早朝から月代《さかやき》を青々とさせた手代風の男だった。 「この二年ほどは、洗い張りばかりで新しい誂えは戴かなかったそうです。それが正月早々、高木様の結城に帯と、御内儀様の御召《おめし》を立て続けにご注文されています」 「いくらの商いだ」 「おふたり分一式、仕立賃込みで三両二分二朱と聞きました」 「随分と値が張ってるじゃないか」 「急ぎ仕立で、御召は西陣の新柄だったそうですから。しかも高木様は前金でしたので、掛けに比べて一割値引きした商いです」 「前金だと?」  黙って聞いていた喜八郎の問いに、話し手がしっかりとうなずいた。 「そのうえ二月に入ると、お大名の腰元が着るような、正絹のお仕着せを賄い女中に誂えたそうです。これもやはり前金でした」 「途中で口を挟んでわるいが、いまでも勘定がもらえていない商人はいなかったのか」 「こちらにうかがう道々、みんなで話を突き合わせながら来やしたが」  さきほどの平吉が再び口を開いた。 「正月からさき、いきなり金回りがよくなった様子なんでさ」 「おれも話があるんだが、いいかい?」  平吉のうしろから担ぎ汁粉屋の源助が声を出した。 「おれは奉公人の聞き込みをしてきた。平吉が仕入れた話と数は合ってる。下働きが四人に女中が三人、この連中はみんな葭町《よしちよう》の桂庵《けいあん》扱いだった」  源助が湯飲みを口にした。 「ところが給金があんまり安いてえんで、去年の暮れに次の出替《でがわ》りでは、みんなが上がりてえと桂庵に泣きを入れてたそうだ」  年に二回、三月と九月に桂庵(周旋屋)は口入れした奉公人の入替えを行った。それが出替りである。 「高木様の給金じゃあ、替わりたがるのも無理もねえって桂庵でも思案していたところ、藪入りを過ぎたら、がらっと様子が違ったてえんだ」 「給金の積増しでもあったのか」 「あったなんてもんじゃねえんだ、喜八郎さん。高木様は、七人合わせて二十八両の迷惑料と引替えに、そっくり連中を引き抜いたてえのよ。ひとり四両といやあ、年の給金以上だぜ」  額の大きさに広間の連中が目を剥いた。 「これがお店《たな》相手なら、たとえ銭をもらっても七人も抜かれたりしたら、桂庵だって黙っちゃいねえさ。ところが相手は鷹匠組の御家人様だ。それに奉公人連中もころっとあちらに寝返っちまったらしくてね。揉めてもしょうがねえってんで、けりをつけたとさ。世の中、どこも金詰りだてえが、あちらさんは別らしい」 「たしかに親爺さんの言う通りだ」  魚の担ぎ売り屋、勝次が話を引き取った。 「二月半ばから、三度も鯛の誂えを言われたんだよ。あっしと辰とはみんなと違って、高木様のとこは古いお馴染みだ。去年の暮れは鯖が安いと売り込んでも、賄い女中は銭がねえからと断りしか言わなかったのにさ。そうだろ、辰っぺも」  青物売りの辰平が何度もうなずいた。 「それが一昨日《おととい》の夕方には、御家来さんがわざわざ台所に顔を出してさ、明日はでえじな客が来るから何としても見栄えのいい鯛を仕入れてくれてえんだ。しかも前金で二分も渡された。こんなのは初めてだ」 「その鯛はおまえが下ろしたのかい」  座り直した嘉介が話に割って入った。 「それが違うんだよ、嘉介さん。昨日は柳橋から料理人がへえったらしくてね。あっしは日本橋で仕入れた尺ものを届けただけさ」  喜八郎の目くばせを受けた嘉介は、棒手振連中の話を中断させて喜八郎と座を立った。 「さすがは嘉介の指図だ、浩太郎の伝えてきたことを見事に調べ上げている」  喜八郎に礼を言われた嘉介が、面映《おもは》ゆげに膝をずらした。 「ただ、じかに聞くとかえってものが見えにくくなりそうだ。わたしは座を外すから、あとでまとめて聞かせてくれ」  連中の聞き取りを終えた嘉介が、ことのあらましを喜八郎に伝えたのは、昼近くになってのことだった。 「浩太郎が急ぎ知らせてきた通り、昨夜はいずれもお供なしの米屋さんに伊勢屋、笠倉屋と、お節句の殿様が、夕方から高木様の屋敷に集まっていました」 「それで節句の殿様の素性は分かったのか」 「聞いた通りに伝えますから、謎解きは喜八郎さんにお願いします」  帳面を繰りながら、嘉介が話し始めた。  場所は牛込御門から神楽坂を登り切った、行元寺わきの高木左京屋敷である。すでに陽が傾き始めた三月一日七ツ(午後四時)、高木邸に四挺の駕籠が着けられた。 「米屋さんのを担いだ寅吉が、ほかの舁き手から仕入れた話ですが、殿様と呼ばれたひとは伊勢屋から一緒です。駕籠宿は柳橋の浜庄で、そこには一挺だけ宝仙寺駕籠があるそうです。伊勢屋は並みの駕籠で、殿様が宝仙寺駕籠に乗りました」 「伊勢屋から一緒に出たということか」 「そのようです。ところが帰りは伊勢屋と笠倉屋が先に屋敷を出ました。殿様は半刻(一時間)も遅れて、米屋さんの駕籠と前後して屋敷を出ています」 「どういうことだ」 「ご機嫌顔の米屋さんから寅吉が聞かされたことですが、殿様は米屋さんが大層気に入ったらしくて、伊勢屋と笠倉屋を先に追い返したそうです」 「先に追い返しただと?」 「はい、屋敷から出た伊勢屋と笠倉屋のあとを、町飛脚の俊造が追いました。二丁の駕籠はともに伊勢屋の店先に着けられました」 「それで殿様はどこに帰ったのだ」 「伊勢屋にです」 「なんだと……自分で追い返しておきながら、伊勢屋に戻って行ったのか」 「その通りです。俊造は笠倉屋が伊勢屋を出るまで見張っていましたが、殿様の宝仙寺駕籠が伊勢屋に戻ってきたんで驚いたと言ってます」 「それで殿様の身なりは?」 「俊造は暗闇から見ただけですが、それでも寅吉と同じようなことを言いました。ふたりが口をそろえて言うには、絵草子の牛若丸に出てくるお公家さんのようだった、と」  喜八郎は目を閉じた。ときどき口を動かしては「節句の殿様」と呟くのがこぼれ出る。嘉介は黙って相手を見詰めていた。が、重たい気配を払い出そうとしたのか、庭に面した障子を開いた。桃が満開だった。 「明日はお節句ですね」  嘉介が呟いた言葉で、喜八郎の窪んだ眼が大きく見開かれた。 「そうか、節句ではなかった。浩太郎はお節句の殿様と言ったんだった」 「あたしもそう言いましたが」 「おれは、おの字を抜かして、節句の殿様で考えていた」  めずらしく喜八郎が声を弾ませていた。 「嘉介、謎が解けた」  障子のそばから嘉介が駆け寄ってきた。 「お節句ではない、五摂家だ」 「なんです、ごせっけというのは」 「御門に仕える近衛、九条、二条、一条、鷹司の五門を五摂家と言うんだ。奉行所の祐筆当時、京都の御蔵帳で何度も目にしたことがある」 「それじゃあ米屋さんたちは、ほんとうにお公家さんに会ったということですか」 「それは分からない」 「でもどうしてお公家さんが、大名でもない御家人の屋敷に、それも札差の宿から出向いたりするんでしょうね」 「おそらく伊勢屋が絵図を描いている」  短く言い捨てたあと、喜八郎は黙り込んだ。春風が桃の香りを運んできた。      六  喜八郎は北町奉行所与力、秋山久蔵に次第を漏らさず話して手形の便宜を頼み、嘉介を京に上らせた。祐筆下役当時の伝手《つて》をたずねさせて、公家の聞き込みにあたらせたのだ。  それと同時に、みずから下働き連中に指図を下し、伊勢屋を見張らせるとともに、神楽坂の御家人高木左京の聞き込みを続けさせた。  京の嘉介から、誂えの飛脚便が届いたのが四月二日。 『こちらのお公家さんで、江戸とかかわりのありそうなのは、近衛家だけでした。年に二度、日本橋通り一丁目の呉服卸結城屋の手代庄次郎が、西陣仕入れのつど近衛家に出入りしているとのことです』  すぐさま呉服調べの永吉と、小間物行商の清七が探りに動いた。 「庄次郎さんはお得意先の笠倉屋に連れられて、去年の暮れに伊勢屋をたずねています。そこで公家のことを根掘り葉掘り、一刻《いつとき》(二時間)もの間、訊かれたそうです」  これをもとに、手配りした連中からすべてを聞き終えたのが四月十二日。喜八郎が米屋を訪れたのは、四月も半ばを過ぎてのことになった。 「なんだ、この忙しいさなかに」 「………」 「店をあければ、五月切米を当て込んだ借金を口にする連中しか来やしない。江戸中が金詰りのこんなときに、貸せの貸さないのの掛合いがどれほど難儀か、おまえにだって分かるだろうが」  前触れもなく朝五ツ(午前八時)に顔を出した喜八郎に、米屋政八は不機嫌さを隠そうともしなかった。 「忙しいのは承知です。近衛の殿様の一件も重なっているでしょうから」 「な、なんで知ってるんだ」  喜八郎の読みが当たっていた。  政八の問いには答えず、居住まいを正した喜八郎は相手を見据えた。その気迫に押されて、政八もキセルを煙草盆に戻した。 「米屋さんの会所肝煎は、御番所の秋山さんが強く推されて実ったことです」 「そ、そんなことは、いまさら言われなくても分かっている」 「ここで米屋さんに不始末を起こされたら、秋山さんも無事では済みません」 「いい加減にしろ、喜八郎。あたしだって、秋山様には足を向けては寝られないのは、重々承知だ。うちが軽い棒引きで済むように、おまえもよく働いてくれた。だからと言って、あたしになにを言ってもいいわけじゃないだろうが」  政八の丸顔が怒りで真っ赤だった。が、喜八郎は眉ひとつ動かさない。相手が動じないのでさらに昂ぶったらしく、政八がキセルを振り回した。 「金詰りの会所のために、身を粉にして尽くしているのを知りもしないで、料簡違いも甚《はなは》だしい。まるであたしが不始末をしでかしたような言い方が、よくもできたもんだ」  言い終わって煙草を詰めようとしたが、器が空だった。大きな舌打ちをした政八は、蹴るようにして立ち上がり、煙草を取りに出た。  障子越しに春の朝日が差し込んできた。床の間が明るくなった。見慣れた山水の軸のまえに、朱塗りの三方《さんぼう》が据えられている。喜八郎が立ち上がった。  三方には棗《なつめ》が載っていた。黒漆が朝日の返りを浴びて艶々と光っている。喜八郎は家紋を凝視していた。花弁が重なり合った菊が、金粉でくっきりと描かれていた。 「さわるんじゃない」  戻ってきた政八が甲高い声をあげた。 「それは近衛様が御門から賜った茶器で、世にふたつというほどの品だ」  せかせかと喜八郎に近寄った政八は、袖を引いてもとの座に着かせた。 「あたしはいま、近衛様を通じて御門の御剰余金お貸し下げのお願いに明け暮れている。ありがたいことに、近衛様はあたしを気に入ってくれたらしい」  伊勢屋、笠倉屋、それに御家人高木のまわりをどれほど聞きこんでも掴めなかったことに、政八が踏み込んできた。喜八郎は口を閉じて、相手の喋りにまかせた。 「市ヶ谷神楽坂に、高木左京様とおっしゃる鷹匠与力の御家人様がいらっしゃる。このお方が、近衛様に引き合わせてくださった……」  落ち着きを取り戻した政八が、長い顛末《てんまつ》を話し始めた。  高木左京は伊勢屋の札旦那だった。棄捐令で巨額の棒引きを強いられた札差連中は、貸金の元手も失った。これで困るのは武家だった。いっときは借金が消えて喜びもしたが、札差以外に金の融通を頼める相手がいないからだ。  高木は以前、京都所司代の同心職に就いていた。所司代は公家目付も任務のひとつである。その折りに高木は近衛家とかかわりを持った。江戸に所用のあった近衛当主は、むかしの誼《よしみ》をたどり、高木屋敷に滞在したという。  夕餉の膳を囲んだある夜、札差が干上がってしまい、江戸中が金詰りだと高木がこぼした。それを聞いた近衛は、札差なら素性が確かだから御門の御剰余金を回してもいいと言い出した。  御門の賄いは近衛家が一手に司《つかさど》っているそうで、蔵には四百万両が積まれているらしい。大坂の鴻池、松坂の三井、それに名の通った大名に限って貸付けを行っているが、江戸の札差なら金を回してもいい。どの貸付先も利息は年に一割だが、裏表がなく、隠し事のできない米屋さんの人柄が気に入ったから、米屋さんがすべての差配をすると約定するなら、年利八分で五十万両まで貸してもいい、とまで言われた……。 「近衛様は、高木様に引き合わされた伊勢屋ではなく、あたしが差配するなら貸そうと言われるんだよ」  政八があごをぐいっと突き出した。 「おまえはなにかといえば、あたしの口が軽いの、商いには向いてないのというが、分かる人にはあたしのよさを、きちんと分かってもらえる。それに引き替え、面目丸潰れの伊勢屋は、真っ赤な顔で高木様の屋敷から出て行った。あたしは命懸けでこの話をまとめてみせる。五月切米を目前に控えたこの時期に、五十万両の金が仕込めたら、どれほど仲間が喜ぶことか」  丸顔の真ん中にちょこんとのった鼻の穴を、政八が大きく膨らませていた。 「さきに高木様から引き合わされていた伊勢屋も、あとにくっついていた笠倉屋も近衛様から遠ざけられて、いまでは目通りも許されなくなった」 「政八さんだけが会っているのですか」 「だからそう言ってるだろうが。近衛様に会えるのはあたしだけだ。このところ何度も、近衛様と高木様から呼び出しを受けている」  小柄な政八が、目一杯に反り返った。 「高木様のお屋敷に、ですか」 「いや、そうじゃない。浅草橋のわきを入った仕舞屋だが……」  言いかけた政八が、慌ててあとの口を閉じた。咳払いをひとつしたあと、顔つきを無理に厳しいものに変えた。 「手柄を独り占めにするつもりは毛頭ないが、たとえひと言でもこの話をわきに漏らしたら、すべてはご破算になると高木様からきつく口止めされている。だからあたしは家内にも話してないんだ」 「しかし、わたしはいま聞きました」 「いやなことを言うんじゃない。おまえをだれよりも信じたからじゃないか。あたしはこれをきちんと仕上げて、秋山様への恩返しにする。おまえに妙な言いがかりをつけられて、あたしが怒り狂ったわけが分かったかね」  喜八郎は鎮まった眼で、政八の睨みを受け止めていた。      七 「都の公家が、三百俵足らずの御家人と交誼を結ぶものかどうか……その前に、公家が町方の札差ごときと会うわけがないぐらいは、前髪のとれない小僧でも分かるだろう。そんな途方もない騙《かた》り話を鵜呑みにするとは、米屋は度し難い呆気者《うつけもの》だな」  春の宵闇に包まれた鉄砲洲稲荷の境内で、秋山久蔵が吐き捨てた。奉行所からも組屋敷からも近いここの稲荷は、日暮れると人気《ひとけ》が絶える。人目を避けて会うには恰好の場所だった。 「しかも御門と御公儀とが諍いごとを抱えているこのときに、よりにもよって公家を騙るとは、伊勢屋め、気でも違ったか」  京の朝廷は、いまのところ表だった動きはしていない。とはいえ、まことに微妙なこの時期に、公家を騙った企みが幕府お膝元で露見すれば、札差の首を刎《は》ねる程度で収まるはずもなかった。 「伊勢屋がどこまで意図して絵図を描いたか知らぬが、御家人まで加担しているとなれば、おれはもとより、奉行も無事では済まぬかも知れんぞ」 「まさにそのことです。伊勢屋の企みは金目当てではありません。米屋さんと秋山さんを潰すことが狙いです」 「なぜそんなことが言い切れる」 「このような騙りを企む連中は、貸金を餌に狙う相手から金を毟《むし》り取るのが、なみの遣り口です。秋山さんも奉行所の裁きでご存じでしょう」 「………」 「野市屋の福松さんが調べたところ、伊勢屋はいまでも三万両を上回る蓄えを、二つの本両替に預けています。金に詰まっているとは思えません」  口数の少ない喜八郎が、いまはひとりで喋っていた。秋山から相槌は出ないが、闇を通して喜八郎をしっかりと見詰めていた。 「しかも伊勢屋はこの企みを密かに進めるために、神楽坂の御家人や小芝居の座頭に、相当の金を投じています」 「小芝居の座頭だと?」 「近衛様に成り済ましているのは両国広小路の役者です。これは汁粉屋の源助が突き止めました。公家を騙るなどは、仕置場で首を差し出すようなものです。しかし死ぬまで遊んで暮らせる金をぶら下げれば、小芝居の役者なら転ぶと伊勢屋は読み切ったのでしょう」 「うむ……伊勢屋なら、それぐらいはやる」 「神楽坂の御家人も、七草あたりから急に金回りがよくなっています。武家の矜持《きようじ》を捨てて、伊勢屋に加担することで得た金に間違いありません」 「利に敏い伊勢屋が、そこまで金を遣ってでも意趣晴らしがしたい、か」 「八万三千両の恨みは、浅くはありません。あの男のことですから、いずれ算盤もきちんと合わせるでしょう。しかしいまは、常々見下してきた米屋さんが肝煎として横に並んでいるのが、腹に据えかねるのでしょう」  棄捐申渡しの朝、伊勢屋は奉行所差回しの乗物に嬉々として乗り込んだ。そのあとで、身代が傾くほどの貸金棒引きが控えているとは夢にも思わずに、だ。伊勢屋召し出しには、秋山が自ら出向いていた。 「騙りに乗った米屋さんを責め立てて潰し、政八さんを推した秋山さんまでも道連れにさせる肚《はら》でしょう。公家がからめば、かならず騒ぎが大きくなります」 「露見すれば伊勢屋も同罪だぞ」 「悪知恵に長《た》けた伊勢屋は、三月に入って一芝居《ひとしばい》打っています。公家に伊勢屋と笠倉屋を追い返させて、あとは米屋さんとだけ進めると言わせたのがそれです」 「米屋ひとりに押し付けようというわけか」 「公家の剰余金云々は、米屋さんの作り話だと言って伊勢屋は言い逃れるでしょう。秋山さんが言われた通り、公家が町人と会うわけがありませんから」 「………」 「米屋さんと一緒に居合わせた笠倉屋は、近衛様など会ったこともないと口裏を合わせるに決まっています。それに神楽坂の高木という御家人は、米屋さんとは札のかかわりがありません。こちらも米屋など知らぬと突き放すはずです」 「………」 「詮議の場で米屋さんが迂闊《うかつ》に公家のことを持ち出したりすれば、まさに微妙なご時世です、公儀に累が及ばぬようにと、米屋乱心を咎めてすぐさま仕置するでしょう」 「そしておれには、目配り不行届きの沙汰が下されるということだな」  足元の小石を秋山が強く踏みつけた。 「笠倉屋はどんな役回りだ」 「金に詰まっています。去年秋の大切米は、伊勢屋に回してもらって乗り切れたと聞き込みました。笠倉屋は恨みというよりも、伊勢屋に持ちかけられて断り切れなかったのかも知れません」 「まだひとつ分からないことがある」 「なんでしょう」 「米屋にはおまえがついていることを、伊勢屋は知り抜いているはずだ。早晩おまえが出てくると伊勢屋は考えないのか」 「わたしのことは米屋に集《たか》る損料屋だと思い込んでいます。たとえわたしが顔を出しても、儲け話に食らいついてきたと思うのが落ちです」 「そう言い切るには、わけがあるな」 「冬木町のかしらが力を貸してくれました」 「おまえ、鳶《とび》とも付き合いがあるのか」 「正月の藪入り過ぎに、蔵前の岡っ引きが深川で煩《うるさ》くわたしのことを探っていました。それを若い衆から聞きつけたかしらは、蔵前の鳶仲間に筋を通したうえで、手荒く脅したそうです。一月の末近くになって、その目明しがたずねてきました」 「おまえの店に、か」  暗闇で喜八郎がうなずいた。 「いまでも米屋さんとはかかわりがあるが、今年は相手が忙しそうでまだ会ってはいない、と聞かせました。間違いなくあの男は、こちらが聞かせた通りのことを、伊勢屋に話しています。かしらの脅しが相当に利いていましたから」 「………」 「わたしと奉行所のかかわりについては、秋山さんが塞いでくれたお陰で知られてはいません。知っていたなら伊勢屋のことです、聞き込みの手間などかけずに、真っ先にわたしに闇討ちを仕掛けてきたでしょう」  宵闇が深くなっていた。ふたりが境内に入ってから、すでに半刻が過ぎていた。 「今日は四月十八日、五月切米目前で始末は急を要します。まかせていただけますか」 「言うまでもない。ただし、なににも増して表に出さぬ工夫がいるぞ」 「肝に銘じます」 「なにか手を貸せることがあるか」 「ふたつあります。ひとつは捕方装束を都合してください。捕り縄、提灯、刺股《さすまた》もお願いします」 「いかほど入り用だ」 「同心装束が三人、下役のものが五人。道具も同じ数だけ調えてください」 「奉行所道具はすべて、日本橋正木町の三浦屋雅吉に取り扱わせている。今夜のうちに払出手形を御用便で回しておく」 「嘉介はまだ戻り旅の途中です。汁粉屋の源助にひとをつけて差し向けます」 「それでいい。もうひとつは何だ」 「伊勢屋、笠倉屋を成敗するのは容易《たやす》いでしょうが、あのふたりが潰れて困るのは札旦那衆です」 「それはふたりに限ったことではない。札差なくしては武家の息の根が止まる」 「さりとて秋山さん、このようなはかりごとは二度と起こさせてはなりません」 「………」 「骨の髄まで懲りさせるために、このたびは秋山さんが表に出てください」  暗闇でも分かるほど秋山の顔色が動いた。 「いま少し詳しく話せ」  それから四半刻ほど、喜八郎の話が続いた。宿への帰り道、喜八郎は五ツ(午後八時)の鐘を永代橋の橋番小屋わきで聞いた。大きく盛りあがった橋の中ほどから深川を見ると、商人が費えを惜しんで灯を始末した町は暗かった。  闇に溶けた広い道を、喜八郎は提灯も持たずに江戸屋へと急いでいた。      八  寛政二年四月二十三日、深川富岡八幡宮の空には細い月があった。おぼろな光が降る江戸屋の裏口に、一杯の大振りな猪牙舟《ちよきぶね》が着けられた。  舟から降りたのは高木左京に伊勢屋、笠倉屋の三人だった。江戸屋の船着場で女将の出迎えを受けた三人は、人目に触れない潜り戸から離れに案内された。泉水に面した障子戸がすべて閉じられた二十畳の座敷の床の間には、秘蔵の雪舟が掛けられていた。  障子を背にする右列の上座に高木がすわり、伊勢屋と笠倉屋がわきに並んだ。軸正面の座にはまだ客が着いていなかったが、花冷えを案じたのか、高木、伊勢屋、笠倉屋、そして軸前には、それぞれ熾火《おきび》の埋められた大きな火鉢が用意されていた。  喜八郎を見ても伊勢屋は、目を合わせることもしなかった。 「どうしたというんだ、米屋さん。あたしも笠倉屋さんも、御前《ごぜん》様から目通り無用を言い渡されたのは、あんたも承知だろうが」  離れに女将も仲居もいないことを見定めた伊勢屋が、尖った声で切り出した。 「さりとて荷が重過ぎるから降りたいなどと、あんたが言い出したとあっては、放っておくわけにもいかない」 「伊勢屋さんのいう通りだ。米屋さん、一体どういう料簡だね」  伊勢屋にかぶさるようにして、笠倉屋が怒鳴り始めた。 「御前様から目通りを止められたあたしたちには、その後の成り行きは分かってない。だがねえ、五月切米は目と鼻の先だ。話はきちんと煮詰まっているのかね」 「それはもう……しっかりと……」 「だったらなおのこと、この期に及んで降りたりしたら、御前様にも高木様にも、取り返しのつかない不始末をしでかすことになるじゃないか」 「まあ待ちなさい、笠倉屋さん。一方的に畳み込んでは、米屋さんも口が開けない」 「そうはいうが伊勢屋さん……」  言いかけた笠倉屋が口を閉じた。襖が開かれて女将が顔を出した。 「お見えでございます」  髪をすべて引き上げ、頭上に髻《もとどり》を結んだ男が、錦の羽織を着て入ってきた。腰元ふたりが付き従っていた。  羽織の裾をさばき、公家がゆったりと腰をおろした。が、一重の瞳は所作とは不釣合いに尖っていた。 「知らぬ顔がここにあるが、たれぞ麻呂に聞かせおれ」  腰元が竦《すく》み上がったほどに、公家の声は怒気を帯びていた。伊勢屋が公家に向き直った。 「米屋の番頭で、喜八郎と申す者です。この男が来るとは手前どもも知りませんでしたが、素性は請け負います」  言い終えた伊勢屋は、細めた目で喜八郎を刺した。動きを封じるような目付きだった。伊勢屋の取り成しを公家も受け入れたらしく、鷹揚な仕種《しぐさ》で羽織のたもとを直した。 「そ、それでは手早く済ませまして、ご、御前様にもおくつろぎ願えますよう、取り計らいますので」  政八が閊《つか》えながら切り出した。すかさず喜八郎が袱紗の包を手渡した。政八が手元を震わせつつ袱紗を開くと、黒漆の棗が出てきた。  伊勢屋が咎めるような目で喜八郎を睨《ね》め付けた。また余計なことを、とその目が舌打ちをしていた。 「御前様から頂戴いたしましたが、手前ごときの床の間には、まことに不釣合いでございます。それに加えて、盗まれはしないかと夜も落ち着いて眠ることができません。なにとぞお返しさせていただきとうございます」  おもいもかけなかった話を切り出されて、伊勢屋の顔が大きく歪んだ。 「あんたの話はそれだったのか」 「………」 「あたしらを呼び集めた本筋は、降りる云々ではなく、そんな話をするためだったのか」  公家のまえであることも構わず、伊勢屋が色をなして怒鳴りつけた。 「どこまであんたは間抜けなんだ。御前様がくだされたものを返すことが、どれほどの無作法になるか、わきまえてのことだろうな」 「まさにその通りだ」  伊勢屋に重なって高木が口を開いた。 「拝領物を返すなど、尋常の沙汰ではない。その方がこうして四人を呼び集めたのは、これゆえのことか」  広い狩場で指図を下す与力だけあって、高木の声には張りがあった。 「御前様がお気に召されておるその方が、あろうことか御役御免を願い出ると聞いたがゆえに、深川まで足を運んだ。それがなんだ、御前様がくだされたお品を返したいだと」  ぐいっと高木があごを突き出した。 「拝領物を断るは無礼。わけを謀《たばか》って我ら四人を呼び出すとは、さらなる無礼だ。次第によっては捨て置かぬぞ」 「なにとぞ、なにとぞお聞き届けください」  なにを言われても、政八は退かなかった。退こうにも退けなかったのだ。 「てまえどもと古い付き合いのございます本所の道具屋が、御門の御紋入りの御品を町人が持つなど、とんでもないことだ、盗まれでもしたら首が飛ぶと申しますもので」  政八が棗を返すように諫《いさ》められた道具屋とは、喜八郎と連れ立って米屋に顔を出した本所の田島屋二代目である。ここは先代の言いつけで政八が商い修業に出された先だった。いわば親も同然の田島屋から、棗を盗まれたら首が飛ぶと言われて政八は震え上がった。  棗を返すために、御役御免を願い出たいとの方便で一同を江戸屋に集めたのは、喜八郎の知恵だった。 「盗まれるのが心配だというが、いま江戸に暮らすものはだれでも札差には金がないと知っている。うちらの宿を狙う間抜けな盗人《ぬすつと》など、いるものか」  伊勢屋は政八ではなく、喜八郎を睨み付けて話していた。 「ありもしないことを案じるよりも、目先に迫った五月切米の金の工面が先だろう」 「伊勢屋さんのいう通りだ。いまは御前様へのお願い事に、命懸けで当たるときだろうが」  笠倉屋、伊勢屋、それに高木の三人は、口では御前様と言うが、口調には畏れが欠片《かけら》もなかった。 「米屋さん、これは押問答することじゃない。戴くものは有難く納めないと、御前様がどう言われようが、高木様に成敗されるよ」 「でもこれだけは」  伊勢屋の駄目押しに逆らおうとする政八の膝を突つき、喜八郎が押し留めた。 「なんだ喜八郎、そもそもおまえが……」  さらに喜八郎に突つかれて、政八が憮然として口を閉じた。 「さすがは番頭さんだ。ものの道理が分かっている」  伊勢屋が見下したような誉め方をした。仏頂面の政八から棗を受け取った喜八郎は、膳のまえに袱紗を敷いて棗を載せた。 「どうやら片付いたようだな」  公家と御家人を前にして、伊勢屋がぞんざいな言葉を口にした。 「気が張っていて気づかなかったが、火鉢が四つもあって何とも息苦しい。笠倉屋さん、障子を少し開けてくれ」  手代に指図するような口調で言われて、笠倉屋の顔色が変わった。それでもすぐに表情を戻すと、障子を開けに立ち上がった。  二十畳間とはいえ、障子まで十歩もない。笠倉屋が障子を開くまでのわずかな間、公家は脇息に寄り掛かっていた。高木は膝に手を置いて政八を見ており、政八は相変わらず目を伏せたままだ。伊勢屋は笠倉屋を気にかけもせず、キセルを手にしていた。  障子を開いた笠倉屋は、片手を桟に残したまま棒立ちになった。  捕物装束に身を固め、道具を手にした捕り方が庭を埋めていた。御用と墨書きされた高張り提灯が三張り、まっすぐ座敷に向けられていた。 「御用の筋だ、そのまま動くな」  凜《りん》と張った声に制された笠倉屋は、膠《にかわ》で固められたように動けなかった。声から間を置かず、土足のまま捕り方が踏み込んできた。  腰元が悲鳴をあげた。伊勢屋の手からキセルが落ちた。米屋は余りのことに事情が呑みこめず、呆気にとられて丸顔の両目が定まっていない。笠倉屋は捕り方に囲まれて座り込んでいた。 「北町奉行所与力、秋山久蔵である」  名乗ってから伊勢屋に目を合わせた。 「伊勢屋ではないか」 「あ、秋山さま……」 「公家を騙り金品をだまし取る一味が、深川に出没しているとの訴えが、番所から上がっておる」 「へっ……」 「見たところ、そこにいるのは紛《まぎ》れもなく公家装束を身につけておる。町方のこのような場所に、まことの公家がいるはずがない。騙りの一味とは伊勢屋、貴様のことか」  秋山が伊勢屋を詰問した。すかさず捕り方が伊勢屋を取り囲んだ。伊勢屋の顔から血の気が失せた。さらに詰め寄ろうとした秋山が、伊勢屋の隣で腕組みをし、口を固く結んだ武家に目を置いた。 「失礼だがそちらは」  高木は憮然と座したまま返事もしなかった。 「そこもと、まことの武家なら姓名の儀をうけたまわりたい」 「まことの武家かとは、なんたる言辞だ」 「町場にいるはずのない公家がおる。ゆえにまことの武家かとおたずねした」 「公儀鷹匠番与力、高木左京だ」 「うけたまわった。しかし高木殿、なにゆえ鷹匠与力のそなたが、公家装束の者やら、札差やらと同席しておられる」 「伊勢屋に招かれて来たまでだ」 「ならば公家は如何に」 「知らぬわ。伊勢屋に訊《き》かれるがよかろう」  高木が隣の伊勢屋を睨め付けた。 「あれは座興に呼んだ役者でございます」  乾いた舌を引きつらせながら伊勢屋が答えた。聞いた政八が飛びあがった。 「役者だと……まことか」 「構えて偽りではございません」 「それなら狂言のひとつも見せてもらおう」 「かしこまりました。おい、菊乃丞、秋山様になにかお見せしなさい」 「麻呂に向かってそのような……」 「それはもういいと言っているだろうが。公家の騙り者ではない証《あかし》を、芝居で立てろと言ってるんだ」 「えっ……なんの備えもないここでですか」 「くどいぞ、菊乃丞。とにかくお見せしろ」  追い詰められた伊勢屋が、なりふり構わず役者を急《せ》き立てた。  肚をくくった顔で立ち上がった菊乃丞は、腰元を邪険に押し退けて座敷の真ん中に出てきた。立ったまま秋山に深い辞儀をしたあと、息を整え顔つきを拵えた。 「いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、十五の年より御近習《ごきんじゆ》勤め、百五十石を頂戴いたし……」  仮名手本《かなでほん》忠臣蔵六段目、勘平切腹の場の声色だった。雑多で騒がしい小芝居客を相手に鍛えた声は、透りがいい。しかし公家のなりで演ずる勘平は、なんとも間抜けに見えた。 「もうよい、分かった」  菊乃丞を座に戻したあと、秋山はふたたび伊勢屋に近寄った。 「さりとて伊勢屋、六段目の勘平をやるのになぜ公家装束が入り用だ」  伊勢屋が言葉に詰まった。秋山がさらに詰め寄ろうとした。それを高木が押し止めた。 「秋山殿にうかがいたい儀がある」 「なにかの」 「北町奉行所は、この月は非番のはずだ。それがなにゆえあって、ここに踏み込まれたか、そこのところを聞かせてもらおう」  詮議を遮るかのように、高木が矛先を秋山に向けてきた。秋山が胡座《あぐら》に座り込んだ。目配せされて、他の捕り方たちも膝をついた。 「高木殿の申される通り、この月の北町は非番である。しかし公家を騙る一味とあっては捨てておけず、奉行の指図で助けておる」 「うけたまわった」 「八幡宮界隈は北町の持ち場での。要所に立てた見張りのひとりが、公家らしき身なりの者が、腰元ふたりを従えて江戸屋に入ったと告げてきた。町方の料亭に公家が姿を現すわけがない。さては一味かと、駆け付け申した」 「………」 「ところがさすがに料亭の女将は口が固い。番所に引立てると脅しても、頑として客の素性を明かさぬ。仕方なく、離れであろうと見当をつけて庭に潜んでいたところ、そちらが障子を開かれた。その刹那、床の間を背にして座った、見紛《みまが》いようもない公家装束が見え申した。ゆえに踏み込んだわけだが、こんなところでよろしいか」 「委細、得心いたした」  高木が硬い顔のまま答えた。 「互いに御公儀に務める身だ。御役目大事ということでこちらは治める。公家の素性に得心されたなら、秋山殿にもお引取りいただきたい」  高木が引き下がった。秋山は黙ったまま高木から目をはずさなかった。秋山の目を、高木は両手を膝に置いて真正面から受け止めた。武家が眼だけで斬り合う様に息苦しくなったのか、伊勢屋が畳に両手をついて膝をずらした。 「うけたまわった」  秋山が答えた。高木が小さく息を吐いた。  座敷の気配が大きくゆるんだ。伊勢屋と菊乃丞とが畳にひたいを擦り付けて辞儀をした。  立ち上がろうとした秋山が、喜八郎の膳の前で目を止めた。一瞬にして目付きが変わった。 「なんだ、これは」  棗に描かれた金粉の十六重弁菊紋が、百目の明かりに照らされていた。 「伊勢屋、これも座興だと言い張るのか」  奉行所与力の口調に戻った秋山が、伊勢屋のまえで仁王立ちになった。 「公家装束と菊の御紋とで、なにを騙ろうと企んでおる。伊勢屋、有体《ありてい》に申せ」  伊勢屋は伏したまま動かなかった。畳に伏した身体は、秋山ではなく助けを求めるかのように高木に向いていた。が、高木にはまるでその気がなさそうだった。 「わたしが話しましょう」  下座《しもざ》から声が出た。 「だれだ、その方は」 「深川で損料屋を商う喜八郎と申します」 「損料屋が、なにゆえこの場におるのだ」 「すべては伊勢屋さんが、札差仲間を案じて取り計らったことです。断じて騙りなどではありません」  当の伊勢屋がだれよりも驚いた。障子のわきに座り込んでいた笠倉屋も、這うようにして座に戻ってきた。 「五月切米が目前だと言うのに、札差会所には貸し付ける金がありません」 「損料屋が、なぜそのようなことを知っておるのだ」 「伊勢屋さんからうかがいました。もっとも、札差衆が金に詰まっていることは、江戸で知らない者はいないでしょう。侠気《おとこぎ》に富んだ伊勢屋さんは、蓄えのなかから会所に金を貸しつけようと考えました。しかしこの金詰りのご時世のなかで、うっかり金を出すと仲間内のやっかみを買ってしまいます。そこで今夜の一幕になったわけです」 「そのことと公家と、何のかかわりがあるのだ」 「伊勢屋さんは都のお公家さんから融通されたことにして、蓄え金を会所に貸そうとされたのです。なにしろ一万両の大金です、よほどの相手から借りたことにしなければ、まわりが得心しませんから」 「伊勢屋、それはまことの話か」  伊勢屋は返事をせず、燃えるような目で喜八郎を睨み付けていた。それを秋山に見咎められると、慌てて目を伏せた。 「伊勢屋、返事をいたせ。喜八郎とやらの話はまことであるのだな」  渋々ながら伊勢屋がうなずいた。ぎりぎり音を立てる歯軋《はぎし》りが、喜八郎にまで聞こえた。 「それは殊勝である。さりとて損料屋の話だけでは、なぜここに高木殿が招かれておるのか得心がゆかぬ。高木殿、答えられい」  高木は返事もせず、憮然として欄間の透かし彫りを睨んでいた。さらに問い詰めようとしたとき、伊勢屋が両手づきの形で秋山を見上げた。 「高木様には公家話に箔を付けるため、てまえがご無理をお願い申し上げました。一万両はかならず調えますゆえ、なにとぞここまででお収めください」 「そうか……」  秋山がわずかに顔を和らげた。 「その方の奇特なこころがけに免じて、このたびに限り、この上の詮議立ては無用にする」  政八が口を開こうとしたが、秋山に睨み付けられて顔を伏せた。 「ただし棗だけは捨て置くわけにはいかぬ。預かり置いたうえ、この先の次第如何では奉行所にて、あらためて詮議をいたす。高木殿もそれでよろしいな」  高木はうなずきもしなかった。その高木に伊勢屋が手を合わせた。 「伊勢屋」  長虫でも見るような目を向けた高木が、鋭く尖った声を出した。 「はい」 「さっさと一万両を調えろ」 「へっ……」 「金を運ぶ人手がいるなら、出入りの車屋を回してやる」 「………」 「両日のうちに片付けろよ」  伊勢屋は真っ赤な顔で口をつぐみ、返事をしなかった。 [#改ページ]    いわし祝言      一  小糠雨が参道の紫陽花《あじさい》を濡らしていた。薄紫の花弁の端から、水の粒が転がり落ちている。雨蛙の小さなからだが、花の真下で水滴を受け止めていた。  梅雨どきは日が長い。すでに暮れ六ツ(午後六時)の鐘が鳴ったというのに、富岡八幡宮には明るさが残っていた。  喜八郎が損料屋を商う蓬莱橋は、八幡宮表通りから五町(約五百メートル)と離れていない。深川に暮らして足掛け六年、喜八郎はできる限り八幡宮参拝を欠かさないできた。  狛犬《こまいぬ》に挟まれた石段を登り、本殿につながる玉砂利を踏んだ。夕餉《ゆうげ》どきで、境内には人影がなかった。たっぷり雨を吸い込んだ小石が、喜八郎の雪駄を濡らす。構わず歩いていたが、拝殿の手前で足を止めた。  賽銭箱のまえで、ひとりの男が傘もささず、一心に手を合わせていた。雨脚がわずかに強くなっている。番傘を手にした喜八郎はその場を動かず、男の後ろ姿を見詰めていた。  長い願い事がやっと終わった。振り返った男と、喜八郎の眼が合った。八幡宮わきの料亭江戸屋の板場、清次郎だった。男の目に一瞬だが、慌てた色が浮かんだ。が、すぐさまいつもの料理人の顔に戻った。 「毎度ご贔屓《ひいき》をいただきまして、ありがとうございます」 「こちらこそ、その節はご迷惑なお願いをしました」  清次郎は細縞紺木綿のお仕着せが似合う、見るからに律儀そうな男だ。仕事の合間にお参りに来たのか、足駄を履いていた。  四月の捕物騒ぎでは、江戸屋に大きな世話をかけていた。その礼を言おうとした喜八郎に、目を合わそうともせずに清次郎が離れていった。さほど親しい間柄ではなかったが、あいさつすらも拒むような清次郎のよそよそしさに、微かなざらつきを覚えた。それを仕舞いこみ、お参りを済ませて脇の参道から八幡宮を出た。  堀沿いに一町も歩くと江戸屋に出る。よほどに足を急がせたのか、清次郎は見えなかった。途中の豆腐屋の辻を左に折れて、蓬莱橋に出るのが喜八郎の帰り道である。  夏の明かりもようやく落ちて、小雨の町が薄暗い。辻に薄紅色の紫陽花が咲いていた。花のわきの路地から、おんなが裾を気遣いながら喜八郎に近寄ってきた。 「よく降りますこと」  江戸屋の女将《おかみ》、秀弥だった。 「思いがけないところでお会いしました」 「喜八郎さんはお参りの帰りに、この道を歩かれますでしょう」 「………」 「何度かお見かけしましたものですから、こちらでお待ち申し上げておりました」 「路地で、ですか」 「うちの者が通りそうでしたので」  清次郎のことだろうと察した。が、いましがた八幡宮で出会ったことを口にするのは、なんとなく憚《はばか》られた。 「四月の騒動のお礼も、きちんといえないままでした」 「それはもうご無用に願います。それより喜八郎さん、一刻《いつとき》(二時間)ほどお手隙《てすき》ではございませんか」 「あとに格別の用はありません」 「助かりました。まことにご面倒ですが、離れまでご一緒くださいまし」  江戸屋の女将は、界隈では顔が売れている。しかし秀弥は人目を気にもかけず、喜八郎と蛇の目を並べて江戸屋に向かった。      二  二月《ふたつき》ほどまえに、捕り方に扮した汁粉屋の源助たちが潜んでいた離れの築山が、細かな雨に濡れていた。  あらためて喜八郎が四月の礼を口にした。秀弥がそれを端緒に用向きを話し始めた。 「板場を任せている清次郎のことで、喜八郎さんにお力を貸していただきたいことがございます」  秀弥がまっすぐに切り出した。 「うかがいましょう」  八幡宮での清次郎の振舞いに違和感を覚えていた喜八郎に異存はなかった。秀弥はときおり目を膝元に戻しつつも、清次郎が江戸屋に奉公を始めた経緯《いきさつ》から話し始めた。  清次郎の宿は、江戸屋裏から堀伝いの細道を、大川に五町ほど歩いたさきの裏店《うらだな》だった。長屋は藤助店《とうすけだな》といい、木戸わきには小さな船着場があった。  清次郎が藤助店に住み始めたのは、七年前である。家主に差し出した人別控えも請書もきちんと整っていたので、藤助は六畳に三坪の土間付きを、月七百文の店賃《たなちん》で貸すことにした。  清次郎の在所は浦安、生業《なりわい》は漁師だった。兄ひとり弟ふたりの四人兄弟で、清次郎は今年二十七歳になった。長兄壮介は三十五、弟参吉が二十五、末っ子悟郎は二十四である。  生まれつき舟に弱かった清次郎は、弟ふたりが漁に出ても、母親のおせきと一緒に陸《おか》で待つことがほとんどだった。漁舟が小さかったがゆえに、清次郎が漁に出なくても格別責められることもなかった。  その代わり、賄い手伝いには精を出した。四人目の悟郎を生んでから、めっきり身体を弱らせた母親に代わって、清次郎は洗い物から台所までを進んで受け持っていた。  浦安にあがる魚は、いわし、アジなどの小魚が多かった。それらの魚を清次郎は煮たり焼いたり、ときには小骨を抜いてお作りにしたりと目先を変えた。十五歳の正月、清次郎はお年玉に包丁をもらった。そのころには、父親総悟郎も次男の魚さばきを認めていた。  母親が先に逝き、総悟郎もあとを追うように亡くなった。いずれも清次郎十九の年である。父親の四十九日を済ませたところで、清次郎は江戸に出て板場になりたいと長兄に話した。五日の間を置いた後に、壮介は弟の願いを聞き入れた。参吉、悟郎も笑顔で清次郎を浜から見送った。  藤助店に越して五日後、長屋の船着場に一杯のべか舟が着けられた。小名木《おなぎ》川、横川と上ってきた川舟には兄弟三人が乗っており、浦安の浅蜊と朝獲りの穴子が積まれていた。  引越しのあいさつをたっぷり振舞われ、兄弟仲の良さと身許の確かさが分かった家主は、清次郎を江戸屋の先代女将に引き合わせた。家主の藤助は八幡宮氏子世話役の寄合で、女将とは顔見知りだったからだ。  当時の清次郎はすでに二十歳で、板場の追い回しで雇うには歳が行き過ぎていた。しかし魚の目利きができることを先代は買った。板長の謙蔵は、女将のまえで清次郎に包丁を持たせてみた。 「浜料理の荒っぽい使い方ですが、筋がいい。仕込めば充分ものになるでしょう」  板長のひとことで、その日から奉公が叶った。こどものころから魚介の賄いに馴染んできた清次郎は、昆布や削り節、魚の粗《あら》を使った出汁《だし》のとり方に秀でていた。板場に入って三年目で、清次郎は煮方に引き上げられた。  二年前の春先、風邪で調子を崩した江戸屋先代は、その年の祭まえに秀弥に跡目を継がせて隠居した。同時に謙蔵も暇乞《いとまご》いを願い出て、清次郎をあとの板長に推した。  若女将の秀弥が切り盛りしやすいように、古顔が身を退いたともいえるが、清次郎の腕を見込んでのことでもあった。  二十五で板長に就いた清次郎は、謙蔵の味を守りつつも、新しい趣向を採り入れた。そのひとつが浜吹雪である。  大皿に小石を敷き詰め、真ん中に串を打って形を整えた鯛を載せた。身には包丁が入っており、そのままお作りになった。仲町の旗屋に誂えさせた小さな大漁旗を、鯛のわきにあしらった。葉蘭と熊笹を小石の上に敷き、あわびやさざえなどの貝を重ねた。さらに旬の野菜炊き合わせと、切り口が見えるように飾り付けた太巻きとで彩りを加えた。  浜の番小屋で漁師たちは、砂利に木々の葉を敷き、魚介の刺身を載せて酒を楽しんだ。清次郎はそれを思い描きながら工夫を加えたのだ。飾り付けの妙味と、ひとつの大皿で様々な味が楽しめるということで、浜吹雪は江戸屋名物になっていた。とりわけ大漁旗は縁起を担ぐ商家の旦那衆に大受けした。  秀弥から江戸屋の味を任された清次郎は、七月十五日に祝言を控えていた。相手は江戸屋奥勤めのおゆき、十九歳である。八幡宮の祭まえの祝言を、女将の秀弥も心から喜んでいた……。 「五月の寄合で、日本橋|魚定《うおさだ》のご主人が清次郎を大層誉めてくださいました。板場を預かるひとの多くは、魚や青物から酒屋さんにまで、割戻しをねだるそうです。江戸屋では、魚定さんだけでも月に三十両は仕入れていますから、それなりの得意先だと思います」 「大きな商いです」 「ところが清次郎からは、ただの一度もお金でも魚でもいやしいことをいわれたことがないと聞かされました。先の板長の謙蔵も同じだったそうです。魚の目利きは、魚定さんの納め先でも清次郎が図抜けているそうですから、うちには選り抜きだけが入ってきます」 「………」 「腕にも人柄にもすぐれた板場が続いて、江戸屋さんがうらやましいと、大した誉められ方でした」  喜八郎を見詰める秀弥の瞳が見開かれた。 「清次郎に限っていわせていただきますが、お金だとか女のひとだとかで、間違いをおかすことは考えられません」 「それでも様子がおかしい、と」 「はい。なにか辛いことを抱えています」  背筋をまっすぐに伸ばした秀弥が、膝元を直して喜八郎と正面から向き合った。 「四月のあれほどの騒動が、だれの口にも上らずに収まりました。あれは喜八郎さんのなされたことでしょう」 「………」 「清次郎とおゆきが添い遂げられますように、なにとぞお力をお貸しくださいまし」  喜八郎は短い言葉でしっかりと引き受けた。  江戸屋から蓬莱橋までは八町余りだ。さほどでもない道のりを、喜八郎は四半刻(三十分)もかけて歩いた。嘉介にどう切り出せばいいか、その思案が重かったからだ。  江戸屋には公家の一件で大きな借りがあった。その江戸屋の女将からの頼まれごとだ、引き受けることには、いささかのためらいもなかった。しかし、ことを進めるには嘉介の手と、探りの連中をわずらわせることになる。それで喜八郎は迷っていた。  このたびのことは、米屋にも札差にもかかわりのないことだった。それなのに、片付けるには先代政八が遺してくれた仕組みを使わざるを得ないのだ。探りの面々は、嘉介が大切に育ててきた繋がりでもある。  いかに借りがある相手とはいえ、それらを勝手に使うことが許されるだろうか……。  戻る道々、幾つも思案を重ねた。が、行き着いたところは、やはり真正面から嘉介に話そうということだった。その夜の五ツ半(午後九時)まえ、喜八郎は嘉介を呼び寄せた。 「手の空いているものに、江戸屋さんの清次郎さんを当たらせてくれ」 「それはまた、どうしたことで」 「女将から頼まれた」 「えっ……」  案の定、嘉介は言葉を詰まらせた。が、すぐに表情を戻し、あらましを聞き取る段では要所を漏らさず書き取った。  話を聞き終えた嘉介は、筆を矢立に戻してから喜八郎を黙って見詰めた。喜八郎も静かにそれを受け止めた。嘉介の目がわずかに潤んで見えた。 「よくぞ引き受けてくれました」 「………」 「これで江戸屋さんにも借りが返せます」  喜八郎の胸のうちを掬い取るような嘉介の応え方だった。喜八郎の窪んだ眼が何度か瞬《またた》いた。 「茶でもいれてきましょう」  照れ隠しなのか、高い調子の声を残して嘉介が立ち上がった。土瓶を手にして戻ってきたときには、喜八郎も嘉介もいつもの顔に戻っていた。 「清次郎さんは、なにかで切羽詰まっている。それは女将だけではなく、わたしも八幡宮で感じたことだ」 「………」 「女将が問い質《ただ》せば済むことだが、清次郎さんは気付かれないようにと、懸命に振舞っているそうだ。その気持ちを思うと、できればなにごともなかった顔で、祝言を挙げさせてやりたいといわれた」 「すぐさまかかりましょう」  嘉介がきっぱりと請け負った。 「いまの話でも分かる通り、女将は清次郎さんを大事にしている。聞き込みさきで妙な噂が立たないようにと、念押しをしてくれ」 「分かりました。うまい具合に、汁粉屋の源助が商い替りの合間で手が空いています。源助にひと選びを含めて預けましょう」 「この探りは米屋さんにはかかわりがない。費えは蓄えから出してくれ」  指図帳と矢立とを格子柄の木綿袋に収めた嘉介は、雨のやまない夜の町に、提灯も提げずに出て行った。      三  源助が指図して動いた聞き込みは、四日でおよその話を拾い集めてきた。 「清次郎さんが住んでるのは北本町の代地なもんで、回りには店が出てこねえんだ。そんなわけで担ぎ売りが重宝がられてね、豆腐屋の平吉と青物売りの辰平とは、かみさん連中とも顔なじみだ。しかも拍子のよいことに家主の藤助さんは、ガキのころおれと同じ町内に住んでいてさ、かれこれ四十年の付き合いだ。おかげでしっかり聞き込むことができた」  腕の藪蚊を、源助がぴしゃりと叩き潰した。雨のやんだ梅雨どきの夜は蒸し暑かった。 「この手の話を拾って歩くと、どんな奴でもひとつやふたつは、ざらざらしたことがこぼれるもんさ。ところが清次郎ってひとは、どこで聞いても、わるくいうのが出てこねえ」  清次郎の評判を話し終えた源助が、湯飲みを手にした。賄いのおたけが源助好みにいれた、ぬるめの茶だった。 「ただ、ひとつだけ妙なことを聞き込んだ。はっきりしねえこともあるんで、そのつもりで聞いてもらいてえんだが、いいかい?」  喜八郎が源助の目を見てうなずいた。 「清次郎さんは、銭に詰まっているんじゃねえかと思うんだ。平吉が藤助店の易者から聞き込んだ話だが、平野町の富岡橋のたもとで清次郎さんが渡世人風の男と座頭《ざとう》三人から、きつい脅しを受けてたてえんだ。それを易者が高橋《たかばし》の辻に出る途中に見かけたらしい」 「いつごろのことだ」 「梅雨にへえる少し前の夕暮れどきだてえから、五月の終わりごろだろうよ。その易者は、江戸屋とはまるっきり違う場所で見かけて、しかも様子がただ事じゃなさそうだったんで、次の日清次郎さんに、じかにきいたらしいんだ。そしたらいつもは愛想のいい清次郎さんが、人違いでしょうって、えらく素っ気ねえ返事をしたそうだ」 「易者なら、ひとの見分けは確かだろう」 「そのことさ。祝言も近いのにって易者も心配したらしくてね、頼まれもしねえのに易を立てたてえんだ。そしたら喜八郎さん、なんでも銭にかかわる厄介ごとを抱えてると出たらしい」  喜八郎がわずかに眉を動かした。 「裏店に暮らす易者のいうことさ、まるごと真に受けることもねえが、平野町には金貸しの座頭が群れになって住んでるんだ。やつらの取り立てがどれほどえげつねえか、喜八郎さんだって知ってるだろう。堅気に暮らしている者は、座頭貸しなんぞは相手にしねえもんさ。そのうえ渡世人までが加わってるとなりゃあ、あれがほんとうに清次郎さんなら放ってはおけねえやね」  喜八郎は黙ったまま眼を閉じて思案をめぐらせていた。その眼が開いたのは、源助が音を立てて茶をすすったときだった。 「祝言まで二十日しかない」  日が迫っていることで、喜八郎の顔がいつになく厳しいものになっていた。 「四月の公家騒動では、江戸屋さんには大層世話をかけた。奉公人仲間の口を抑えてくれた、清次郎さんにも借りがある。手を惜しまずに当たってくれ」  嘉介と源助が同時にうなずいた。      四 「このところ毎日おまえが手伝ってくれるもんだから、支度が早くできて助かるよ」 「祝言まであと幾日もないからって、大奥様が早く帰してくれるのよ」  狭い流しに並んだ、おゆきと母親のおまさの肩がぶつかりそうだった。 「江戸屋さんは女将も大女将も、よくできた方だねえ」 「ほんとうにそうなの。今日だって大奥様から、祝言の席はうちを使っていいからねって念押しされたんだもの」 「そういえばおゆき、清次郎さんとそのことをきちんと話したのかい。おとっつあん、何も言わないけど気を揉んでるよ」  魚を洗うおゆきの手元が乱れた。 「おまえ、清次郎さんとはうまく行ってるんだろうね」 「どうしてそんなことをいうの」 「いまだってそうだよ。ふっと、塞ぎこんだ顔を見せるじゃないか」 「そんなことないわよ。このいわしだって、おとっつあんにって出入りの魚定さんから、わざわざ取ってくれたんだから」  指の腹でいわしを開きながら、おゆきが明るい声を出した。江戸屋奥に勤めるおゆきは、洗い物、庭掃除に拭き掃除と、四六時中身体を動かしている。話し声も陽気で、隠居した大女将のお気に入りだった。細く引いた紅が、浅黒い顔を引きたてていた。 「生でも食べられるいわしがいくらするか、おっかさん知ってる?」 「知ってるわけないだろ、そんなの買ったことないんだから」  口を尖らせたおまさのわきで、開いたいわしをおゆきが包丁で叩き始めた。 「なにが始まったんだ、おゆき。まな板がへこみそうな音じゃねえか」  鏝《こて》を焼く仕事の手を止めて、順造が板の間に寄ってきた。 「清次郎さんから教わった、いわしのなめろうをこしらえてるの。もうすぐだから」 「なんでえ、なめろうてのは。足の早い魚《うお》を生で食おうってのか」 「おっかさんにもいったんだけど、清次郎さんが河岸から取ってくれたのよ」  細かくなったいわしに分葱《わけぎ》を散らし、壺から出した味噌を加えたおゆきは、包丁でいわしをすくい取った。娘の器用な包丁遣いに、順造とおまさが驚きながらも見惚《みと》れていた。 「おまちどおさま。おっかさん、ごはんは炊けたの?」 「それだけ包丁が使えるなら、所帯を持ってもやってけそうだね」  おまさが、へっついのおき火を火消し壺に移し始めた。火箸を握った母親の目が寂しげに見えた。  今日は六月二十七日、おゆきが嫁ぐまであと十八日だ。流しで心配顔を見せたおまさも、家族三人の膳では何度も大きな笑い声を出した。父親の順造は、いわしの皿から箸が離れなかった。 「おとっつあん、今夜も夜なべをするの?」  順造は返事をしない。代わりにおまさが箸を止めた。 「祭が近いだろ。今日も半纏と浴衣の誂えが十人分も持ち込まれたんだよ。なかの三枚は、鳶《とび》の政五郎さんがどうしてもおとっつあんにって、名指しなんだってさ」 「すごいじゃない」 「そりゃあね、腕を買ってくれるのはありがたいんだけどさ。本当のところ、絹仕立てのおとっつあんに木綿物はありがた迷惑なんだよ。それに清次郎さんの紋付も、まだ手付かずだしねえ」 「余計な心配はいらねえ」  ぞんざいな口調とは裏腹に、順造の目はやわらかだった。おゆきの顔が明るく崩れた。 「おとっつあんの腕だもの。心配なんか、初めっからしてませんって」 「分かったような口きいてねえで、さっさと食っちまいな」  母親とおゆきが笑い顔を交わした。そのとき、入口の腰高障子戸が乱暴に開かれた。 「冬木町の順造さんてえのは、ここだな」  細縞木綿の胸元をゆるく合わせた、見るからに渡世人風の男が入ってきた。さらにひとり、腹にさらしを巻いた男があとに続いた。 「なんだ、おめえらは」  静かに茶碗を戻した順造が立ち上がった。五尺八寸の順造が板の間に立つと、相手を見下ろす形になる。先に入ってきた男が、細くした眼で順造を見上げた。 「おれは平野町の伸好《しんこう》てえ座頭から頼まれた、平田一家の伝吉だ。おめえさんが順造さんかい」 「なんでえ、いきなりひとの家にへえってきて。座頭だの、おめえっちのような連中だのに用はねえ」 「ところがそうはいかねえんだ。江戸屋の清次郎って板場を知ってるな」  おゆきが息を呑んだ。 「そっちのひとがおゆきさんだろ」 「てめえ、いい加減にしねえと」 「待ちねえ、とっつあん。騒ぎに来たわけじゃねえや。今夜は清次郎のことであいさつさせてもらやあ、引き上げるからよ」 「そんなものを受ける筋合いはねえ」 「あんたの息子になろうてえ男の話じゃねえか、邪険なことは言いっこなしだ。おゆきさん、清次郎は変わりなく働いてるかい?」  母親と身体を寄せ合っているおゆきに、わざと声の調子を優しくした伝吉が問い掛けた。順造が土間に降りようとして足を動かした。 「待ちなてえんだ。清次郎には、四十両の貸しがある」  順造の動きが止まり、親子三人の顔色が変わった。 「言っとくがこいつは、からすカアで夜が明けりゃあ、一朱ずつ利息が増える座頭の烏金《からすがね》だ。四日に一分の利息を払うてえ決めが、ここんとこ三度もご無沙汰でね。心配《しんぺえ》した伸好さんが、うちにこぼしに来たてえわけさ」  薄笑いを浮かべた伝吉がおゆきを見た。順造の両手が固い拳《こぶし》になった。 「あと四日だけ待つが、それを過ぎたら、ここにも江戸屋にも、あんたよりも気の短けえのが顔を出すぜ。そこんとこを、きっちり話し合っといてくれてえのがあいさつさ」  言うだけ言った伝吉は、戸も閉めずに出て行った。入れ替わりに、湿り気をふくんだ夜風が入り込んできた。      五  喜八郎と嘉介の前に座った源助が、荒い息を整えていた。 「雨でゆるんだ夜道の早駆けは、年寄には酷だ。落ち着くまで、ちっとばかり待ってくれ」  大きな湯飲みのぬる茶を飲み干したら、ようやく源助の息が収まった。 「早く手を打たねえと、幾ら聞き込んでも手遅れてえことになりそうだ」 「清次郎さんになにか起きたのか」 「平田屋が、ずっぽりとからんでる。喜八郎さんは知らねえだろうが、博打で引っ掛けた客を骨の髄までしゃぶり尽くす、ごろつきの巣でね。そこの伝吉てえ質《たち》のわるい代貸しが、半刻ほどめえに冬木町に来たてえんだ」 「なんだ源助、おゆきさんとこにもだれかが張り込んでいたのかい」  口を挟んだ嘉介に源助がうなずいた。 「昨日までの聞き込みで、易者が言った渡世人は平田屋の身内だと割れてたんだ。あいつらの遣り口は、むかしっから変わらねえ。本人をじかに脅さずに、一番知られたくねえところから始めやがるのよ。清次郎さんだと江戸屋さんか、おゆきさんとこだ。本人が口を割らなくたって、祝言が近いの、相手がだれだのを探り出すのは朝飯めえさ」 「先を続けてくれ」 「早晩、連中が押しかけると読んで昨夜《ゆうべ》からひとり、冬木に張り付けといたんだ。そしたら案の定さ、伝吉が若いのを連れて来た。伝吉てえやつは、平田屋のなかでも指折りのわるだ」 「随分、平田屋には詳しいじゃないか」 「嘉介、口を挟むのはあとにしろ」  喜八郎が、さらに先を促した。 「伝吉がけえると、間をおかずにおゆきさんの親父さんが、血相変えて飛び出したそうだ。行った先はもちろん、藤助店さ。じつは、そこにもひとり張り付けてあってね。冬木から追った奴は、あとを代地で張ってる男にまかせて飛んで来たてえわけさ」  一区切りついたところで源助が湯飲みを手にした。が、空《から》だ。すかさず立ち上がった嘉介が、土瓶を手にして戻ってきた。 「大した手配りだ。嘉介もいってたが、源助さんが手隙でまことに助かった」  さん付けで誉められた源助が、しわが深くて黒い顔を照れくさそうに歪めた。 「いまの話だと、清次郎さんは賭場の借金に追われているように聞こえるが」 「そんなとこだろうさ。とっても博打に手を出すような男にはめえねえが、ひとは分からねえもんだ」 「ひとつ腑に落ちないことがある。賭場の借金は、その場ではないのか」 「その通りさ。熱くなったやつが、あとさき考えずに火傷しそうな銭を博打場で借りるんでさ」 「清次郎さんは、座頭三人と渡世人とに脅されていたはずだ。座頭の役回りはなんだ。清次郎さんは賭場のほかに、座頭からも借りているのか」  問われた源助が思案顔になった。 「たしかにひとは外面《そとづら》だけでは分からない。しかしあの秀弥さんが、朝に晩に顔を合わせて江戸屋の味を任せた男だ。博打で身を持ち崩す男と、清次郎さんの人柄とは重ならない」  三人がそれぞれの思案を巡らせて黙り込み、部屋が重たくなった。それをおたけが掻き混ぜに入ってきた。 「飛脚の俊造さんが急ぎの用だそうですが」 「喜八郎さん、藤助店を張ってたのが俊造だ。なにか掴んだにちげえねえ」  部屋に入ってきた俊造は、ひたいに汗もなく、息ひとつ乱れてなかった。 「駆けつけ早々で済まねえが、なにがあったかおせえてくれ。源助の言い方じゃあ、順造さんは血相変えて飛び出したてえことだったが、ひでえ話になったんじゃねえか」  俊造が大きくかぶりを振った。 「順造さんと清次郎さんは、船着場にしゃがみ込んで、ついさっきまで話してやした」 「話してただと?」 「ぼそぼそ声だが、しっかり聞きやした」 「ちょいと待ちねえ。喜八郎さん、俊造は足も早《はえ》えが、耳はもっとすげえんだ。こいつが聞いたことは、百にひとつも狂いはねえ」  喜八郎は黙って源助にまかせた。 「これから娘を嫁がせようてえ男が、賭場の借金抱えてると分かったんだ。娘はやれねえぐれえは言っても当たりめえだろうさ」 「ところがそうじゃねえんだ、親爺さん。それどころか、二十両なら蓄えがあるから、娘に心配かけねえように始末をつけてくれって……順造さんてえひとは六尺の大男だが、そのひとがしゃがんだまま、清次郎さんにあたまを下げたんでさ」 「………」 「おゆきさんが、清次郎さんは博打なんかに手を出す人じゃない、なにかの間違いに決まっているからと、泣いて説き伏せたそうです。娘はとことんおめえさんに惚れてる、あいつを幸せにできるのは、この世でおめえしかいねえって……腹んなかは煮えくりけえってたのかも知れやせんが、話の終《しま》いまで怒鳴りもせずに、頼む頼むで通してやした」  順造の胸の内を推し量ったのか、しばらくはだれも口を開かなかった。 「嘉介、いま何どきになる」  喜八郎の窪んだ眼が光っていた。 「かれこれ五ツ半(午後九時)の見当でしょうが、なにか」 「唐突な呼び出しで清次郎さんは渋るかも知れないが、ぜひにと頼んで連れてきてくれ。木戸が閉じるまでには帰れそうもないから、明日はうちから江戸屋さんに出てもらう」 「分かりました」 「嘉介さんは藤助店を知らねえだろ。俊造を連れてったほうがいいぜ」  源助の勧めを受け入れた嘉介は、俊造を伴って藤助店に出向いた。  連れて来られた清次郎は口を開かなかった。しかし喜八郎から、ここまで聞き込んだ中身を聞かされて顔色が変わった。 「清次郎さんが江戸屋さんを大事に思っていることは、わたしにも分かります。しかし相手は渡世人です。手遅れにならないうちに片付けましょう」  促されても、清次郎が口を開くまでには暇がかかった。何度か大きな息を吐き出し、出された茶を飲み干したところで、ようやく気持ちが定まったようだった。  話を始めると、根が律儀なだけに省くことをしない。ひとの名前が幾つも出てきて入り組んだ話になったが、みんなが得心できるまで何度でも繰り返した。東の空がぼんやり明るくなったころ、長い話が終わった。 「順造さんとおっかさんへの詫びは、生涯かけてかならずやります。お店にご迷惑がかかりませぬよう、力をお貸しください」 「分かりました。江戸屋さんには気付かれることなく、両日のうちに始末をつけます」 「ありがとうございます」 「板場仕事に差し支えるでしょう。少しだけでも休んでください」  渋る清次郎を無理やり床に就かせたあと、喜八郎、嘉介、源助、俊造の四人が膝を突き合わせていた。 「ここからはわたしの指図で動いてくれ」  喜八郎の言葉に、三人が気を張った顔でうなずいた。 「探りの費えは要るだけ嘉介が用意する。ひとから話を聞くにも金は必要だ、遠慮なしに遣ってもらいたい」 「喜八郎さん、そいつはねえだろう」  源助の顔が強張《こわば》っていた。 「今度のことは、いままでの探りとは違って喜八郎さんの侠気《おとこぎ》から出たことだ。ことの始まりに、江戸屋と清次郎さんに借りをけえしてえからって、そういったじゃねえか。ならさ、おれたちにも恰好つけさせてもらいてえやね」  わきに座った俊造が、源助の言葉に何度も大きくうなずいた。 「さっき話の途中で嘉介さんが、なんで平田屋に詳しいんだときいたでしょうが」 「覚えている。話の腰を折るなと、わたしが止めた」 「あれは嘉介さんが、うまく水を向けてくれたんでさ。嘉介さんは口がかてえから言ってねえだろうが、おれが平田屋に詳しいのにはわけがあるんだ」  喜八郎が静かな眼を源助に向けた。 「十五年ばかりめえまで、おれは相当なわるだった。この俊造は当時まだ十五まえのガキだったが、おれにくっついて盗みに博打と、ひと通りのわるさはやってきた」 「………」 「平田屋のあたまの満蔵は、陰で鰻《のろ》の満蔵と呼ばれている食えねえ奴だ。あすこの賭場は、いかさまありの半端な盆さ。それに気付くまで、おれも相当に毟《むし》られてきた。今度の清次郎さんのことで、おれはてめえの仇討ができそうなんだ。いまでもいうことを聞く若いのが平田屋にいる。聞き込みにはお誂えさ」  源助と俊造とが喜八郎に向き直った。 「今回ばかりは銭のことは言いっこなしで、おれたちにも恰好つけさせてもらいてえ。この通りでさ」  手を合わせる源助に、居住まいを正した喜八郎があたまを下げた。      六  清次郎は朝の五ツ(午前八時)に蓬莱橋を出て行った。四半刻(三十分)も間を置かず秀弥が喜八郎の宿に来た。朝早くに、源助が喜八郎の言伝《ことづて》を伝えていたからだ。  秀弥は深川の夏場に一番目立たない、白地に井桁柄の絣《かすり》を着ていた。おたけが焙じ茶を出したあとは、広間に近寄る者はいなかった。 「お金がらみの面倒を抱えていました」 「そうでしたか」  返事した秀弥の声はしっかりしていたが、目元が曇っていた。 「清次郎さんが自分のために遣うお金ではありません」 「どういうことでしょうか」 「いま話します。いかにもあのひとらしいわけがありました」  江戸屋の離れで向き合ったときとは逆に、今朝は喜八郎が秀弥を見詰めて話し始めた。  毎月|朔日《ついたち》は富岡八幡宮の縁日である。江戸屋も縁日は大賑わいになる。その客がすべて引いた五月朔日の夜、清次郎は秀弥におゆきと所帯を構えさせて欲しいと願い出た。  本祭の年にめでたい話ですと秀弥から快諾された翌日、清次郎は二日の休みをもらって在所に帰った。兄弟たちから、とりわけ兄の壮介から許しを得るための里帰りだった。  自分ひとりが江戸で板場に納まったうえ、さらに女房をもらう身勝手を、どう分かってもらえるか……気重な顔で話を切り出した。ところが壮介は、聞くやいなや潮焼け顔を崩した。 「江戸でかかあを見つけたか。やっぱりおめえは出来が違う……いやあ、めでてえ。明日の漁はうっちゃってもいい、朝まで呑むだ」  両親《ふたおや》は清次郎が二十歳になるまえに病没しており、壮介が家長だった。その壮介は三十路《みそじ》半ばで、まだ独り者だった。弟ふたりも、もちろん嫁はまだだ。そんな兄弟が、清次郎の嫁取りを我がことのように喜んだ。  しかし、七年の歳月は短くなかった。一升酒でびくともしなかった壮介が、五合の酒も堪《こら》え切れずに横になった。 「あにさん、弱くなったでねえか」  清次郎から浜言葉が出た。 「江戸の景気がよくねえもんでよう、魚を揚げてもさっぱりだ」 「売れねえってか」 「そんなわけじゃねえけど、浜の売り値が二年前の半分になっちまってよう。なんぼ獲っても買い叩かれる。そんでも海に出ねえと食えねえべ」 「………」 「舟も網もそろそろ替えてえけど、とっても銭はねえ。そんだことが重なって、大《おお》にいちゃんはめっきり酒がへえらなくなっただ」 「でもよう、にあんちゃん」  末弟が大徳利を清次郎に差し出した。 「江戸で板前やってる弟がいるってのが、大にいちゃんの自慢だべ。にあんちゃんが江戸でおっかあ決めたから、また浜で言いふらして張りきるって」 「こっちは三人で踏ん張ってっから、にあんちゃんもしっかりやってくれ」  翌日の昼過ぎ、漁を休んだ壮介たちは、小名木川の砂村まで清次郎を舟で送った。おゆきの実家《さと》と江戸屋、謙蔵、それに家主あてに持たされた干物と海苔を両手に提げて、清次郎は砂村から一里の道を歩いた。  みやげ物が大きな風呂敷にふたつ。嵩《かさ》はあっても重たいものではなかった。それでも浜の景気がいまひとつのなかで託された海産物には、兄弟の気持ちがぎっしり詰まっている。前夜からの出来事を思い返しつつ歩く、清次郎の足取りは重かった。  祝言と新所帯を構える費えとして、清次郎には十二両三分の金《きん》に、銀二十匁の蓄えがあった。それなりの祝言を挙げて、二間《ふたま》続きの角部屋に移ったとしても、なんとか賄える額だった。  しかし……と清次郎の思案が駆け巡った。おゆきの両親にわけを話して、身内だけのひっそりとした祝言にさせてもらう。宿もしばらくは六畳土間付きから移らない。それで浮いた残りを浦安に回せば、舟の修繕代の足しにはなる。浜の暮らしぶりを目の当たりにし、めっきり弱った壮介を見てきた清次郎は、そうでもしなければ気持ちのやり場がなかった。  ところがそう決めたことを、おゆきの両親には言い出せないままに終わった。順造は、深川でも指折りの仕立て職人だ。娘さんの晴れ姿をご近所にもお披露目してくださいと、得意先の呉服屋から白無垢を勧められた。順造も娘の白無垢を仕立てるのを楽しみにしているようだった。  あわせて清次郎の紋付も、結納返しに仕立てさせて欲しいとの申し出もされた。とても身内だけの祝言では済まなくなった。  兄弟たちになんとか蓄えを回したいが、それは叶いそうにない……清次郎が出口の見えない悩みに悶々としていたとき、出入りの米穀屋手代のつなぎで、蔵前の札差、伊勢屋手代の長之助に引き合わされた。 「うちが米を卸してもらっている伊勢屋さんが親になって、身許の確かなひとだけに勧めている頼母子講《たのもしこう》があるそうだ。清次郎さんも、いずれは店を持つ心積もりだろうが」 「そんなことは、万にひとつあったとしても遥か先の話です。いまは江戸屋さんと謙蔵さんへの、ご恩に報いるだけですから」 「そうは言っても、所帯も構えることだしさ。損な話じゃなさそうだから、あらましだけでも長さんから聞いてごらんよ」  手代は長之助をつないだだけで座を外した。 「初回には十両をご用意いただきますが、それで四十両が落とせます。あとは月々一両の掛け金を三十四回返していただければいいのです。こんな無尽は、てまえども伊勢屋が親に立って初めてできることです。江戸中さがしても、ふたつとはありません」  四十両あれば浜でも一番の舟が造れる……。  兄弟に新造船を何とかしてやりたいとの思いが先走ったばかりに、堅く暮らしてきた清次郎が騙《かた》りに嵌められた。元金の十両を巻き上げられただけではなく、座頭に大きな借金を背負い、渡世人から追われ始めたのだ。 「伊勢屋さんというのは、あの騒動のときにいらしたお客様ですね」 「そうです」 「蔵前のお大尽が、どうしてうちの板場を騙りにかけたりしますのでしょう。このまえのことで、江戸屋に恨みでもありますのでしょうか」 「違うと思います」 「………」 「伊勢屋は商いの場では、相当に阿漕《あこぎ》な振舞いもします。しかし札差の生業とかかわりのない者を嵌めるような男ではありません。おそらく金に詰まった手代が仕組んだことでしょう。確かなことは伊勢屋に訊くしかありませんが」 「えっ……喜八郎さんが伊勢屋さんに出向かれるのですか」  真っ黒な秀弥の瞳に、喜八郎を案じる色が浮かんでいた。 「清次郎さんには、両日のうちに、江戸屋さんに気付かれないように片付けると約束しました。秀弥さんは知らぬ顔でいてください」  秀弥の両目が潤んでいる。その目で喜八郎を見詰めていた秀弥の膝が、わずかにまえに出た。 「喜八郎さんは、もとはお武家様ではありませんか」  答えを求めるでもなく相手を見詰める秀弥の帯の間から、淡い白檀の香りが漂っていた。      七  降ったりやんだりの六月晦日、昼前。座っているだけで汗ばむ時季は、川遊びが流行《はや》りだった。  しかし江戸をあげて不景気な折りに、靄《もや》のかかった大川に出る酔狂者はいないらしい。伊勢屋に向かう喜八郎が両国橋から大川を見たが、一杯の屋根船も走ってはいなかった。 「深川の喜八郎です。奥の都合をうかがってくれますか」  土間で呼びとめられた小僧が手代に取り次ぎ、手代は番頭に伝えた。帳場から喜八郎を窺い見た番頭のひとりが、店先に出てきた。 「てまえどものあるじに、どのようなご用がございましょうか」 「深川の喜八郎が、折り入ってお話をしたいと伝えてください」  喜八郎は飴色の縞木綿に青墨の細帯を締めていた。髭剃りあとも月代《さかやき》も青々としている。手入れの行き届いた身なりに安心したらしく、番頭は笑顔を残して奥に向かった。が、都合を聞いて出てきたときには様子が違っていた。 「こちらへどうぞ」  番頭は二階に喜八郎を招き上げた。廊下の両側には、借金強要の蔵宿師と伊勢屋手代とが掛け合う、障子仕切の小部屋が並んでいる。番頭は雪隠わきの六畳間に喜八郎を案内した。 「あるじの手があきますまで、暫時お待ちください」  ほどなく小僧が入ってきたが、あるじの煙草盆を運んできただけで、喜八郎には茶も出なかった。通された部屋といい、扱いといい、喜八郎に対する伊勢屋の意趣がよく分かった。  四半刻も待たせてから伊勢屋が顔を出した。 「あたしも陰で強面《こわもて》だといわれたりもするが、あんたも相当なもんだ」 「都合もうかがわずに顔を出しました」 「いまさら白々しい口上は無用だ」  小便の臭いが流れ込んでくる部屋で、伊勢屋と喜八郎とが向かい合っていた。 「あんたがその場の思いつきでいったことで、一万両もの金を塩漬けにさせられた。それでいて、よくもあたしに会おうなどと思いついたもんだな」 「あと知恵なら、なんとでもいえます。しかし御番所の捕り方に踏み込まれた、あの場のことです。始末のつけ方に、礼までもとはいいませんが、恨まれる筋合いはありません」 「あたしの店で遣り合おうというのか」 「喧嘩腰なのは伊勢屋さんでしょう」  人払いをしたらしく、まわりの小部屋は静まり返っていた。ふたりとも、あとの口を開かなかった。伊勢屋が銀のキセルに詰めた煙草をふうっと吐き出した。煙がまともに喜八郎に流れてゆく。それでも眉ひとつ動かさない喜八郎をたっぷり見詰めてから、伊勢屋が盆にキセルを置いた。 「あたしも歳だ、睨み合いは堪《こた》える」  伊勢屋の打った手で、すかさず障子が開かれた。顔を出した女中に伊勢屋が茶を出すようにと言いつけた。 「なぜあのとき、米屋さんと一緒に顔を出したんだ。儲け話の匂いでも嗅ぎ付けたのか」 「伊勢屋さんが言われた通り、大きな金がそちらから出て行った話です。蒸し返しても面白くないでしょう」  茶と干菓子が運ばれてきた。伊勢屋は追いたてるように女中を部屋から出した。膝元から煎茶が香っている。粗末な部屋には釣り合わない茶だった。しかし、すぐさま雪隠の臭いが茶の香りを覆い潰した。また伊勢屋がキセルを手に持った。 「今日はあんたが押しかけてきたんだ。用があるなら、さっさと言ったらどうだ」  火皿が赤く見えるほどに煙草を吸い込んでから、ゆっくりと煙を吐き出した。 「もしも金儲けの相談ごとなら、いっそのことあたしに付いてみないか」 「………」 「損料屋の片手間に米屋を助《す》けても、大した実入りにはならないだろう。あたしに付くなら、年に百両出してもいい。うちの番頭の五倍だが、あんたなら惜しくない」  伊勢屋の膝がわずかに動いた。 「知っての通り、一万両を会所に貸しても、うちの屋台はびくともしない。この先、江戸はますます金詰りになる。札差の潰れ株が出たら、あたしが買い叩く。そうなれば手が足りなくなるのは目に見えている。おめでたい米屋を見限るには、いい潮時だろう」  キセルを叩《はた》き、新しい煙草を詰める伊勢屋が、薄笑いを喜八郎に見せた。 「おめでたいのは伊勢屋さんです」 「なんだと」  伊勢屋の手が止まった。 「長之助という手代がいるでしょう」 「それがどうした」 「空米《からまい》相場で大きな穴をあけています」  今度は伊勢屋が黙り込んだ。 「その穴埋めのために、深川平野町の金貸し座頭や、平田屋という渡世人とかかわりあっています。もっともいまでは、手代の方がごろつき連中にあしらわれているでしょうが」 「とても本気には聞けないな」 「このまま放っておけば、遠からず御番所の耳にも届くことでしょう。そうなれば伊勢屋さんから縄付きが出ます。御上《おかみ》のなさり方を見ていると、札差には容赦がありません。しかもこの不景気です。苦しいなか、真面目に働いている町方のものに、札差の手代が手出しをしたと知れたらどうなるか……よその潰れ株を買う前に、伊勢屋さんが潰されるかも知れません」 「そんなことを言うために顔を出したのか」  喜八郎が眼だけでうなずいた。 「おまえは損料屋を名乗っているが、素性はいまひとつ分からない。しかもあたしは二度も煮え湯を呑まされている。そんな男の言うことを真に受けると思うのか」 「………」 「長之助は十年の間、金の間違いごとはひとつもない。なにが縄付きだ、たいがいにしろ」  座を蹴って立ち上がった伊勢屋が、乱暴に障子を開いた。 「このさき二度と顔を合わせることもない」  怒鳴り声が廊下の臭いを追い散らした。  伊勢屋を出て両国橋西詰に差し掛かったところで、嘉介が肩を並べてきた。 「伊勢屋は動きますか」 「わたしのまえでは見得を切ったが、伊勢屋は奉公人を信じるような男ではない。すぐさま帳面を穴のあくほど検算させるに決まっている。たとえ間違いが見つからなくても、長之助をかならず問い詰める」  橋を渡り切ったたもとで、喜八郎が足を止めた。 「源助はどう動いている」 「今夜か明日の夜、平田屋の若い者に会うそうです」 「気持ちはありがたいが、歳も歳だ。無理をしないようにかならず伝えてくれ」  薄くなった雲の奥に、夏の日が透《す》かし見えていた。      八  伊勢屋が喜八郎を店から追い出した六月晦日の昼過ぎ、札旦那を回っているはずの伊勢屋手代長之助は、平野町の仕舞屋《しもたや》にいた。 「相も変わらぬ空模様ですが、ようこそお集まりいただきました」  菱形に座った四人の真ん中で、長之助が懐から掛取り帳のようなものを取り出した。膝元には上に丸い穴のあいた、黒塗りの箱が置かれていた。 「みなさまのお名前は申し上げますが、詳しいお住まいと生業はお差支えもございますので、この場では控えさせていただきます」  四人が互いに会釈を交わし合った。 「まずこちらが、葭町《よしちよう》の与ノ助さんです。さるお店《たな》の二代目を継がれる方です」  黒の絽を着た男が照れ笑いを浮かべた。 「つぎにこちら様は浜町のご新造様です。お名前は」 「おきょうと申します。よろしくお見知りおきくださいまし」  長之助を遮《さえぎ》り、おきょうがみずから名乗りをあげた。うなじを見せる襟もとの崩し方は、新造というよりも、だれかの囲い者のような艶があった。 「三人目のこちらのお方は、なんと申しますか……ご自分で商いをなすっておられる大川端佐賀町の佐吉さんです」 「気取ってもしゃあねえさ。あっしは両国から蔵前辺りを流して商う、担ぎ蕎麦屋の佐吉ってんでさ」  手拭いでひたいの汗を押さえた佐吉が、みんなの顔を順に見まわした。 「こちらの長之助さんから、ありがてえ話を持ちかけてもれえやしてね。ことによると、てめえの店が出せるかも知れねえってんで、ゆんべっから眠れねえんでさ」 「佐吉さん、それはあとでゆっくりと……最後のおひとりは、橋場の六右衛門さんと申されます」  白髪混じりの痩せた男が軽くあたまを下げた。佐吉が笑いかけたが愛想も返さない。佐吉の笑みが行き場をなくして宙に浮いた。 「それでは籤《くじ》に入ります前に、いま一度、講の決め事を確かめさせていただきます」  さきほどの掛取り帳のようなものを手にして、長之助が座り直した。 「まず講の親ですが、これはてまえども伊勢屋が引き受けさせていただきます」  長之助の膝元には、伊勢屋の屋号が見えるように、半纏が四つに畳まれていた。 「みなさんにお持ちいただいた十両は、初回の掛け金です。これを籤にかけ、一番籤の方に四十両をそっくりお持ちいただきます。籤は四番まであります。最後の四番籤の方は九月晦日に四十両をお渡しします。ただし親が二分五厘をいただきますので、お手元には三十九両をお渡しします。これは初回から四回目まで、いずれも同じです」  佐吉が汗を拭きながら喉を鳴らした。長之助は知らぬ顔で続けた。 「二回目からの掛け金は一両となります。これを三十四回お支払いいただきます。つまり皆様には四十両を四十四両でお買い求めいただくわけですが、二回目の方からはわずか一両の掛け金で、四十両が落とせるわけです。これほどの大金が手にできる頼母子講は、江戸中どこを探してもございません」  話がひと通り終わったようだった。佐吉が身を乗り出してきた。 「それではさっそく籤に入らせていただきます。このなかに折り畳んだ半紙が四枚入っております。それを順に引いていただきますが、どなた様から参りましょうか」 「後生だから、最初はあっしに引かせてくんなせえ」 「勝手ばかり言いなさんな。顔つなぎされた順に、与ノ助さんから始めるがよろしい」 「そんなことで揉めないでくださいな。あたしは佐吉さんが端《はな》でも構いませんよ」 「あたしも結構です。六右衛門さん、佐吉さんに譲ってあげましょう」  ふたりから言われて、六右衛門も渋々ながらうなずいた。長之助が黒塗りの箱を佐吉の前に置いた。佐吉は拍手《かしわで》を三度も打ってから箱に手を突っ込んだ。 「あっ……あああ……ほんとうに一番を引きやがった、ありがてえ、ありがてえ……」  いきなり立ち上がった佐吉は、畳をどすんどすん鳴らして、部屋のなかを走り回った。拍子抜けした顔の残り三人は、てんでに手を入れて籤を終えたが、だれもが半紙を開こうともせずに部屋を出た。残ったのは長之助と佐吉だけになった。 「おめでとうございます。望みが叶いましたですね」 「あっしの蕎麦を食ってくれた客てえだけの長之助さんに、こんなありがてえ話をまとめてもらって。生涯、この恩は忘れねえから」 「佐吉さんが真面目に商いを続けたからですよ。ところで、店の目星はついたのですか」 「ああ、飛びっ切りのがあった。永代橋を深川に渡ったすぐの辻に、名の売れた団子屋があるんだ。その隣さ」 「その辺りなら、八幡様へのお参り客があてにできますね」 「そのことよ。場所がいいだけに、居抜きで三十七両と値も張らあね。だがさ、寝ねえで稼ぐから毎月の掛け金は心配《しんぺえ》ねえよ」  一番籤を引き当てて気の昂ぶった佐吉が、一気に捲《まく》し立てた。 「そのことなんですがね、佐吉さん」  長之助が佐吉の膝元に近寄った。 「商いは始まりが大事です。お得意さんがきちんと付くまで、どれほど場所がよくても、そこそこは暇がかかるものです」 「そんなこたあねえさ」 「そうおっしゃらずにお聞きください。いままで佐吉さんが流して歩いたのは、両国と蔵前です。永代橋にお得意先はないでしょう」 「………」 「蕎麦屋の商いはお天気次第です。雨が続いたり、雪が降ったり野分に祟《たた》られたりした日には、思うような稼ぎにはなりません」 「始めるめえから縁起でもねえ」 「佐吉さんのためを思えばこそです。万にひとつでも、掛け金が工面できないことになっては一大事です。少なくとも手元に十両のゆとりがないと、商いの切っ先が鈍ります」 「言い分は分かるが、そんなこたあ端っから出来ねえ相談さ」 「ところが出来るんですよ、佐吉さん」  さらに長之助が近寄った。あと一歩で鼻と鼻とがくっつきそうだった。 「空米相場をご存じですか」 「なんでえ、からまいてえのは」 「御上の蔵米を売り買いする相場のことです。大坂の堂島というところが本場ですが、江戸にもございます」 「へっ……それがなんだてえんだ」 「米は一石一両の相場を真ん中に挟んで、高くも安くもなります。米の先行きを読んで、売り買いするのが空米相場です。うまく相場に乗れば、ひと晩で何十両、何百両と稼げます。佐吉さんにもおすすめしたいのが、この空米相場です。これで稼いで四十四両を返しましょう」 「ばか言ってんじゃねえよ。空米なんてえ言葉も知らねえ素人が、なんで相場で稼げるんでえ。話にならねえって」 「てまえどもは江戸でも図抜けた札差です。任せていただくだけで、かならず佐吉さんが儲けられるように取り計らいますから」 「無理だって、そんなこたあ。なによりおれっちは死んだ親父に、博打にだけは手え出すなって、きつく言われてんだ」 「相場は博打ではありません。どうしても駄目となれば、このたびの頼母子講も流れてしまいます」 「なんてえことを言い出すんだよ。それとこれとは、まるで違う話じゃねえか」 「同じです」  長之助が冷たく佐吉を突き放した。 「いまも申しましたが、佐吉さんの商いには不安が残ります。掛け金がいただけなくなると、てまえがあるじから暇を出されます。十両から二分五厘を差し引いた九両三分をお返しします、これを持ってお引き取りください」 「待ちなよ、長之助さん。おれはもう周旋屋と話をきっちり詰めてんだ。いまさら流したら、手付の倍付けを食らっちまう」  取り合わずに立ち上がった長之助は、預かり集めた金のなかから、一両小判九枚と一分金三枚を佐吉の膝元に差し出した。 「残念ですが、佐吉さんとはご縁がありませんでした。どうぞお持ち帰りください」  佐吉の顔から血の気が失せて、虚ろな目が欄間を見ていた。汗の消えたひたいが手拭いで何度も擦られて、赤くみみず脹れになっていた。 「その空米相場てえやつは、ほんとうに儲けが出るのかい」 「なんですか、いまさら。そんなことを聞いてどうするんです」 「やなこと言うなって。おれは店が欲しいんだ、話に乗るしかねえだろうが」  佐吉が渋々ながら観念していた。 「ただねえ、佐吉さん。さっきは言い漏らしましたが、相場を張るには四十両では足りないんですよ。空米相場は四百俵、つまり百石でひと区切りです。百石の米を買うには、少なくても八十両の元手がいります」  佐吉には、文句をいう気力もなさそうだった。その顔を見て長之助が畳み掛けに出た。 「次の間で、足りない四十両を用立ててくれる検校《けんぎよう》さんがお待ちです。いささか利息は高めですが、そんなものはあっという間に返せますから」  呆けたような佐吉は、長之助の言うがままに借金証文に爪印を押した。 「それではこれが八十両の預り証文、こちらが四十両の借金証文です」 「………」 「預り証文は、なくすとすべてが駄目になってしまいます。危ないですから、てまえどもの蔵に仕舞っておきましょう。借金証文は佐吉さんがお持ち帰りください」 「えっ、それじゃあ三十九両は、受け取れねえままけえるのかよ……そいつは駄目だ。七月十日までには、周旋屋に銭を払わなきゃあならねえんだ。一日でも遅れたら、流れてえれえことになる」 「大丈夫ですよ、佐吉さん。次の相場が八日に立ちます。そうすれば、その日のうちに儲けを手にできますから」  なにを言っても口では歯が立たなかった佐吉は、金の代わりに借金証文を持たされて佐賀町に帰って行った。 「なんとか片付けたじゃねえか」  銅壺《どうこ》から徳利を取り出した平田屋満蔵が、長之助にあごを突き出して話しかけた。満蔵のわきには与ノ助、おきょう、六右衛門、それに座頭の伸好が座っていた。 「相場が崩れたと脅しつけりゃあ、あの蕎麦屋ならおめえが言う通り生かさず殺さずで、何十両かは絞れるだろう」  地黒の顔に小さな目をした満蔵が、盃の酒をちびりと嘗《な》めた。 「だがよう長之助、ふたりばかり引っ掛けても、まだまだ足りねえ。性根を入れてかからねえと、仙台堀に沈むぜ」  三角顔の満蔵が、身体をくねらせながら脅しを吐いた。長之助は気味がわるくて、伏せた顔があげられなかった。      九  長之助が伊勢屋に戻ったのは、六ツ(午後六時)の鐘のあとだった。 「旦那様がお待ちだ。一緒に来なさい」  帳場で待ち構えていた一番番頭の喜平次が、眉根にしわを寄せて立ち上がった。長之助の足が竦《すく》んだ。  あるじに呼ばれることなど、年に一度十月大切米の手前で、札旦那の様子をきかれるときしかなかったからだ。それも手代みんなが集められて、ほんのひと言を伝えるだけである。番頭に付き添われて奥に入ったことなど、一度もなかった。  夕暮れの明るさが、まだ庭に残っていた。磨き上げられた檜の廊下を、長之助は仕置場に引き出される咎人《とがにん》のように重い足で歩いた。 「ご苦労さん、こんな時季のおもて歩きは骨だろう。構わないからこちらに寄りなさい」  あるじから思いもかけない労《ねぎら》いをいわれて、長之助は拍子が狂った。驚いたことに座布団まで出ていた。 「はっきりしない天気だというのに、まめに外回りをしてくれてるそうじゃないか。さぞかし汗をかいただろう」  麦湯が運ばれてきた。 「おまえは梅雨の長雨も嫌がらず、朝の五ツ半(午前九時)には飛び出すと喜平次から聞いた。いい心がけだ」  悪事がばれたわけじゃなかった……長之助から重たいものが足早に消えた。神妙にしていた顔が少しだけゆるんだ。 「それで長之助、今日はどちら様をおたずねしたんだ」  伊勢屋がやさしく問いかけた。 「出がけに番頭さんにお伝えしました通り、紀尾井町と番町のお得意先を回らせていただきました」 「おお、そうか。あの辺りは坂が多い。ぬかるんだ道はさぞかし歩きにくかっただろう」 「いささか辛くはございましたが、これが手前の役回りでございます」 「なんとも見上げたもんだ。どうだね喜平次、長之助のような奉公人で、うちの身代が持っているわけだろう」 「まあ……左様でございます」  番頭から曖昧な返事がこぼれ出た。 「ところで長之助、坂町を回ってきたわりには、お仕着せの裾も足袋も汚れてないようだが、歩き方に工夫でもあるのか」  すぐには思案の及ばないことを訊かれて、長之助が言葉に詰まった。 「あの辺りは長年のお客先ですから、足の運びもそれなりに……」 「それなりにどうした」  伊勢屋の顔つきが変わった。 「まだ嘘が通せると思っているのか、長之助。おまえは勘定に手を付けて、空米に手出しをしているだろう」 「えっ……」 「平野町の平田屋にも出入りをしているな」  言葉を失った長之助の顔色が、真っ青になった。部屋の襖が静かに開き、紺木綿をきちんと着こなした六十年配の男が入ってきた。 「お、おとっつあん」  父親の甚吉がいきなり出てきたことで、長之助が座布団から転げ落ちた。息子に近寄った甚吉は、右手で拳をつくり長之助の顔をしたたかに殴りつけた。座ったままの身体がよろけて、喜平次に倒れ掛かった。 「それは駄目です、甚吉さん」 「ですが、このままでは余りに申しわけが」 「それで殴りつけたというのなら、心得違いです。旦那様はお腹立ちを仕舞い込まれて、穏やかに話をなすっておられます。長之助に手をあげるなら、旦那様が先でしょうが」  喜平次は苦い顔のまま、甚吉と長之助を伊勢屋の向かいに座らせた。もちろん座布団は取り払われていた。 「旦那様のお指図で、大方の調べはついている。おまえが勘定に手をつけ初《そ》めたのが、今年の二月からだ。間違いないね」 「さようでございます」  やはりばれていた……観念した長之助は素直に答えた。 「お利息をいただきながら、帳面付けされていない札旦那が……」  喜平次が手元の抜書きに目を落とした。 「四谷坂町御持筒組の山田伊三郎様から七両三分、北新堀町御船手組屋敷の鏑木彦七様の八両二分二朱、南本所御石置場組頭久永弥十郎様の十両三朱、それに牛込若松町御賄方大縄地の根岸猪八郎様より六両二分三朱。都合三十三両一分だが、漏れはないか」 「山田様、鏑木様、久永様、根岸様……そうです、その御四方様で間違いございません」  伊勢屋は黙って銀のキセルをいじっていた。長之助から伊勢屋に目を移した喜平次は、あるじからの目顔の指図を受け止めた。 「これは甚吉さんにこそ、肝に銘じて欲しいことだが」  甚吉が食いつくように喜平次を見た。 「お許しをいただけたから、このたびの不始末を御番所には訴えないことにした。三十三両をくすねた長之助は、間違いなく首刎《くびは》ねのお仕置だ。縄付きを出すだけでもお店にはご迷惑だが、それが死罪人となっては、御番所の呼び出しに応ずるだけでも、ひと仕事になってしまう。だからこそ、業腹きわまりないが届け出ることはしない」 「………」 「長之助に甚吉さん、ようく覚えておいてくれ。今度のことは、目が届かなかったあたしの不始末だ。それを旦那様は、今回に限り目をつぶってくださるというんだ。ご恩に報いるためにも、このうえの嘘や隠し事が分かったら、あたしはどんな言いわけも聞かない。ひとを雇ってでも、その日のうちにおまえの首を掻き切るよ。あたしはそれだけの肚をくくっている。性根を据えてもう一度答えてもらうが、ほかに隠し事はないだろうね」  目を伏せた長之助の背中が小刻みに震えている。甚吉に肘で突っつかれて顔をあげた長之助が、途切れ途切れの話を始めた。 「お店のお勘定に手をつけたのは、御四方様のほかにはございませんです。ただ……」 「聞こえない、はっきり喋りなさい」 「板場の職人と担ぎ売りの蕎麦屋を、騙りにかけました」 「なんだ、騙りにかけたとは」 「待ちなさい」  声を荒くした喜平次を伊勢屋が止めた。 「おまえは他人様《ひとさま》のふところに手出しをしたのか」 「………」 「黙ってないで、はっきり答えろ」  五代続いた大店のあるじのみが出せる、威厳に満ちた叱声だった。長之助が背筋を伸ばして、はいと答えた。 「どんな騙りにかけたのか、なにひとつ省かずに聞かせなさい」  喜平次から手荒く先を促されつつ長之助が話し終えたときは、四ツ(午後十時)近くになっていた。 「町木戸が閉じるかも知れないが、いま限りおまえは伊勢屋とはかかわりのない者だ。荷物をまとめて出て行ってくれ」  番頭にいわれて、長之助と甚吉がともにあたまを下げた。 「お店に穴をあけた三十三両一分については、きちんとした証文を入れてもらう。払い方は旦那様のお指図で決めるが、利息は年に一割八分だ。いいね」  荷物を手にしたふたりが町木戸を出るまで、喜平次は見届けた。奥に戻ると伊勢屋は酒を始めていた。 「先の棄捐令《きえんれい》では、あらかたの札差が手傷を負った。潰れが出るのも遠くはない」  伊勢屋の前で喜平次が背中を丸めていた。 「心得違いをしでかしている手代や番頭は、長之助だけじゃないはずだ。金が回っている間は隠し果《おお》せて来ただろうが、いまは違う。どの札差も、奉公人の不始末を歯を食い縛って隠しているに違いない」  空になった徳利を膳に戻した伊勢屋が、喜平次を目で呼び寄せた。背を丸めたまま、番頭がにじり寄った。 「今夜のうちから、全部の帳面をおまえひとりで調べなおしてくれ」 「はい」 「それと明朝、木戸が開いたらすぐさま本所の永寛《えいかん》をたずねてくれ。座頭連中は横でしっかりとつながっている。平野町の始末も、永寛なら思案があるだろう」 「かしこまりました」 「それにつけても忌々《いまいま》しい」 「へっ……」  伊勢屋の調子が変わって、喜平次が首をすくめた。 「得体の知れない損料屋ごときに、うちの奉公人の不始末を云々されたのが腹立たしいというんだ。しかも図星じゃないか」 「………」 「ここまで気付かなかったとは、おまえは一体、どこに目を付けていたんだ」  怒りがぶり返した伊勢屋のまえで、喜平次は草履虫《ぞうりむし》のように小さく丸まっていた。      十  七月二日、梅雨は昨日の昼前に明けていた。強い西日で涼味を抜かれた夕風が生ぬるい。冷や水売りの白い幟《のぼり》が斜めからの陽を浴びて、枇杷《びわ》の実《み》色に染まっていた。  平田屋満蔵の宿は、細い路地の突き当たりにあった。二階屋を囲む黒板塀に、沈む手前の夕日がへばりついている。喜八郎が格子戸を開けると、土間に淀んでいた暑さが押し寄せてきた。 「なんでえ、てめえは。ここがどこだか分かってて開けたのかよ」 「うちの源助を返してもらおう」 「なんだと、この野郎」  三和土《たたき》に立つ喜八郎めがけて、平田屋の三下連中が奥から飛び出してきた。 「どきな」  若い者を押し退けて伝吉が出てきた。 「おめえか、源助が歌った喜八郎てえのは」 「やはりここか」  雪駄を脱いだ喜八郎が框《かまち》に上がった。取り囲んだ連中が、止める間もないほどに素早い身のこなしだった。五尺七寸の喜八郎に並ばれた伝吉は、あたまひとつ低かった。 「満蔵さんに会わせてくれ」 「勝手に上がりこんで、気安く親分の名を口にするんじゃねえ」 「取り次ぎたくなければ、わたしが探す」 「てめえ、上等な口をききやがって」  身構えた伝吉が怒鳴り声をあげた。それにかぶさるように、奥から「連れて来い」と声が飛んできた。大きな舌打ちをした伝吉は、素手であるのを確かめてから、あごをしゃくって入れと示した。  満蔵は神棚を背にして座っていた。稼業柄、縁起担ぎにはまめらしく、注連縄《しめなわ》は夏だというのに青々としていた。 「呼びにやろうかとかんげえてたとこだが、てめえから来るとは手間いらずってもんだ」 「源助を返してもらおう」 「聞いたか、伝吉。おれに向かって返してもらおうだとよ……あとで行儀のひとつもおせえてやれ」  喜八郎の背後に座った伝吉が、へいっと眼に力を込めた。 「ゆんべ遅くなってのことだが」  満蔵が薄い唇を嘗めて話に戻った。 「爺さんは若《わけ》えのが引っ張ってきた。煩《うるさ》くうちのことを聞きたがるんで放っておけねえと、やっこが気を利かしたわけだ」  満蔵の目配せで、伝吉を含めて五人が喜八郎を取り囲んだ。 「昨日《きのう》今日と、金貸しの座頭が泣きを入れに来やがった。奴らが貸し出す銭の、一番でけえ金主が伊勢屋だてえが、その伊勢屋が座頭のかしらをこっぴどく脅したてえのよ。おれと手を切らねえ限り、元手をそっくり引き上げるそうだ」 「………」 「座頭連中は、伊勢屋にきんたま握られてんだろうが、こっちは屁でもねえ。ところが震え上がった座頭は、なにをいっても聞きやしねえ。挙げ句の果てに、いままで仕込んだ儲け話も、そっくりお蔵入りだ」  長火鉢の引き出しから匕首《あいくち》を取り出した満蔵は、抜身にしてもてあそんだ。 「長之助も伊勢屋から叩き出されたてえ話だが、糸をたぐると源助も座頭も、こんどの騒ぎはみんなおめえに繋がっちまう。そこでおれは思案したよ、こいつの落とし前はおめえにつけさせるしかねえだろうと……これが粗筋《あらすじ》だが、きちんと呑み込んだかい」 「しっかりと聞いた」 「なら、どうする」 「源助を連れて帰る」 「なんだと」  立ち上がりざまに、喜八郎が右足で長火鉢を蹴飛ばした。銅壺の湯をまともに浴びた満蔵が、情けない悲鳴をあげた。  右脇から、匕首を手にした男が飛びかかってきた。腕を掴んだ喜八郎は、右膝を台にしてへし折った。間を置かず、左右から素手の男達が掴みかかってきた。右からの男の鳩尾《みずおち》に、喜八郎は拳を叩きこんだ。同時に左肘が別の男のあごを捉えた。がつん、と鈍い音が男のあごから出て崩れ落ちた。  騒ぎを聞いて、さらに五人が駆けつけた。しかし八畳間では動きが取れず、廊下につながる襖のわきを男達が固めた。素早く横に動いた喜八郎は、神棚下でわめく満蔵の襟首を掴んだ。 「源助を連れてこい」 「ふざけんじゃねえ」  帯がゆるんで前がだらしなく開いた満蔵が、精一杯の怒鳴り声を出した。引っくり返った火鉢から、熾火《おきび》が畳にこぼれていた。ぶすぶすと畳を焦がしている。襟首を掴んだまま、満蔵の顔を赤い炭火に近づけた。 「待て……ばかやろう……おい、分かったからやめろ」  両手をばたばたさせながら、満蔵がくぐもった声をあげた。 「源助を返せ」 「分かったといってんだろうが」  満蔵に指図されて、若い者がすぐさま源助を連れてきた。陽が落ちてすっかり暗くなっている。しかし源助の顔が脹れて、ひとまわり大きくなっているのはよく分かった。 「これ以上こちらに構わなければ、わたしも余計な動きはしない」  薄暗い部屋で、喜八郎が伝吉に眼を置いて話し始めた。息ひとつの乱れもなかった。細くした両目で喜八郎を睨み返す伝吉は、刃先を下に向けた匕首を右手に握っていた。 「この先、清次郎さんやおゆきさん、それに江戸屋さんにひとことでも話しかけたら、すぐさまわたしが成敗する。もちろん源助に手出しをしても同じだ」  喜八郎の右手に力が込められた。満蔵の両手がばたばたと前に突き出された。 「分かったといってるじゃねえか。爺いを連れて、とっととけえれ」 「いや、まだ分かってなさそうだ。もう少し付き合ってもらおう」  源助を先に出してから、喜八郎は満蔵の襟首を掴んだまま土間におりた。 「源助、先に行ってくれ」  わけを察した源助は、脹れあがった顔でうなずき、急ぎ足で宵闇のなかに消えた。通りまでは細い路地一本だけだ。源助のあとを追う者がいないことを確かめる間、喜八郎は襟首を掴む力を緩めなかった。  黒塀に竹箒《たけぼうき》が立てかけてあった。源助に追手が出なかったと分かった喜八郎は、箒のわきで満蔵の襟首を放した。すかさず伝吉が飛び出してきた。  匕首の切っ先が、鎌首をもたげた蝮《まむし》のように喜八郎に食らいつこうとした。間合いを見切った喜八郎は、身体をわずかに引いて刃をよけた。  が、伝吉の匕首は敏捷に動いた。真横に闇を切ったあと、すかさず下から突き上げた。これを繰り返しながら、路地を背にして逃げ道を塞ぎ、喜八郎を板塀に追い詰めた。  じりっ、じりっと摺《す》り足で迫り、箒から喜八郎を遠ざけた。突き出せば、刃物が喜八郎を抉《えぐ》る間合いに詰まった。手を伸ばしても箒には届かない。薄笑いを浮かべた伝吉の匕首が、喜八郎の胸元を抉りにきた。  喜八郎は匕首から逃げず、刃先に向かって踏み出した。驚いた伝吉の切っ先が揺れた。すかさず喜八郎が左腕で相手の右手を払いのけた。伝吉の身体が崩れて喜八郎にわき腹を向ける形になった。その刹那、拳が伝吉の献上帯に叩き込まれた。匕首を握ったまま、身体がふたつに折れた。さらに喜八郎の右肘が伝吉の横面を捉えた。  これで伝吉が吹っ飛んだ。わき腹を抱えて息を詰まらせている。若い者が伝吉に駆け寄ったが、立ち向かう気力が失せていた。喜八郎が伝吉に近寄ると、連中が飛び下がった。  半身を引き起こし、背中に活を入れた。詰まった息を伝吉が噴き出した。 「つぎは手加減なしでゆくぞ」  歩み去る喜八郎を、追いかける者はいなかった。      十一 「幾度となくここで会ってきたが、きょうのおまえは顔がやわらかいぞ」  六ツ(午後六時)を過ぎても、鉄砲洲稲荷の境内はたっぷりと明るい。人目を遮ることのできる祠裏《ほこら》の置石に、喜八郎と北町奉行所与力、秋山久蔵とが並んで座っていた。 「晩春の借りを江戸屋さんに返すことができました」 「明日が祝言か」 「はい。わたしも招かれています」 「それだけの働きをしたのだ、招かれて当たり前だろう。それで江戸屋の女将には喜ばれたのか」  頼りなく残った明るさのなかで、秋山がうなずいただけの喜八郎を見詰めていた。目元がわずかにゆるんでいる。 「どうかしましたか」 「おまえもやるものだ」 「………」 「艶話には縁遠いやつだと、いささか案じておったが、そうか……おまえにも気になる人ができたか」 「なにを言い出すんですか」  喜八郎の掠れ声が微妙に崩れている。秋山の目元がさらにゆるくなった。 「話はかわりますが、伊勢屋の喜平次という番頭をご存じですか」 「よく知っている。あの男にだけは伊勢屋も腹蔵なく話しているようだ。清次郎の宿をたずねた番頭というのは喜平次か」 「藤助店の木戸口で行き違いました。長之助に騙り取られた十両に加えて、いままで支払った利息と迷惑料だということでさらに十両。都合、二十両を伊勢屋が負ったそうです」 「あの伊勢屋がのう」 「しかもこの先、平田屋がなにか仕掛けてくるようなことがあれば、すぐさま知らせて欲しいとまで、清次郎さんに言い残して帰ったそうです。まことにひとは分かりません」 「そう言えば、毎年どこかの祭に伊勢屋がまとまった寄進を続けているらしいと、何年か前に喜平次から聞かされた覚えがある」 「らしいというのは、定かではないということですか」 「店の勘定からは出ていないということだった。あの伊勢屋がおのれの懐を痛めるわけがない、忠義立てした番頭がつまらぬ作り話をと聞き捨てていたが、今度のことを重ねると、あながち有り得ぬことでもなさそうだな」  古い話を思い出して黙りこんだ秋山の横顔を、次第に宵闇が包み始めていた。 「伊勢屋はおれの切米を扱う札差だ。十数年前に総領息子を亡くして以来、伊勢屋については阿漕《あこぎ》な振舞いしか聞こえて来なかったが、稀ではあっても、あの男の善行を聞くのはわるくない心地だ」 「息子を亡くしたのですか?」 「そうか……あれはおまえの仕官がかなうまえのことになるのか……いつか折りがあれば聞かせよう」  口を閉じた秋山に、喜八郎もそれ以上の問いはしなかった。 「明日も晴れそうです。余り暑くならなければいいのですが」 「そうだ、祝言の場所を聞いてなかったぞ」 「藤助店の船着場わきです」 「なに?」 「身の丈に合った場所で挙げたいと、おゆきさんの両親を説き伏せたそうです」 「江戸屋はどうした」 「秀弥さんに異存のあるはずがありません」 「秀弥さん、か」  またもや秋山の両目がゆるんでいた。  すべてが片付いた夜、清次郎はおゆきの宿を訪ねた。ことの次第を端折《はしよ》らずに伝え、手作りの祝言にさせて欲しいと頼み込んだ。 「戻って参りましたこのお金ですが……まことに勝手な言い分ですが、なんとか身内に回させていただけませんか」 「それは構わないけど真夏のことだしねえ。白無垢を着てお天道さまの下では、おゆきにきついんじゃないかと思うけど」 「あたしなら平気よ。それにおとっつあんが仕立ててくれた衣装だもの、お天道さまの下でみんなに見てもらいたいから」 「いいことだ、清次郎さん。たった半日の祝言にばかな銭を使うよりは、兄《あに》さんたちの舟に役立ててもらったほうが、おゆきもこれから浦安と付き合わせてもらいやすくなる。江戸屋さんさえ得心してくれるなら、銭のかからねえ工夫をしようじゃねえか」  これで船着場での祝言が決まった。 「祝いの料理は、謙蔵さんと女房連中の手作りだと聞きました」 「長屋の者が手伝うのか」 「祝儀不祝儀とも、同じ長屋に暮らす者なら、だれのことでも我がことです」  ひっきりなしに藪蚊が飛んでくる。首筋をぱちんと叩いた秋山が、喜八郎を見た。 「深川はいいな」  秋山が立ち上がった。 「わたしもそう思っています」  言ってから喜八郎が顔を引き締めた。 「秋山さんにお聞かせした思案がもとで、棄捐令が敷かれました。そのことで札差は相変わらず金に詰まっています」 「………」 「江戸の町も、すっかり威勢がなくなりました。聞こえてくるのは不景気な話ばかりです。このさきも、金にまつわる揉め事は、きりがないほど出てくるでしょう。清次郎さんが騙りに遭ったのも、畢竟《ひつきよう》するに棄捐令が引き起こした金詰りが元かも知れません。わたしの浅知恵が、浦安に暮らすひとたちまでも苦しめているのではないかと……二年前の思案を何度も思い返しています」 「喜八郎」 「はい」 「これまでにも、ご政道といえども過《あやま》ちは数多くある。たったいまも、松平様の舵取りに口さがないことをいう輩《やから》は、奉行所のなかにもいる」 「………」 「ひとの器量は、どこまでをおのれの責めに帰することと捉えるか……その大きさで決まると考えている。おれも数え切れぬほど、このたびの棄捐令が正しかったかと問い直してきた。ところが何度問い直しても答えは出ない。いや、おれたちに出せるはずがない」 「………」 「おまえもおれも、おのれへの問い直しを忘れさえしなければいい。そう割り切れ」  喜八郎の肩を軽く叩いた。秋山は、あたかもおのれに言い聞かせているかのようだった。 「いま確かなことは、おまえの働きで、めでたい祝言を迎えられる男もいるということだ。伊勢屋にも知らない顔があるということも分かったではないか。ものごと、良くも悪しくも半々だ」  星の瞬きがはっきり分かるほどに、鉄砲洲が暮れていた。      十二  清次郎、おゆきの祝言は夜明けから晴れた。  藤助店船着場まえの空地は、祝言の支度で六ツ(午前六時)から戦場《いくさば》のような騒ぎになった。  長屋の大工が、雨戸の四隅に高さ二尺の丸太を三寸釘で縫い付けたものを八台作った。これを二枚ずつ向かい合わせに置き、木綿の白布をかけて料理台に仕上げた。  客が座る席は、夕涼みの縁台を集めてきた。長屋の女房連中が集まったときには、すっかり宴席が出来上がっていた。  五ツ(午前八時)になると、大漁旗を飾り付けたべか舟が三杯、横付けされた。指の先まで潮焼けした男三人が、船着場を駆けあがってきた。 「家主《いえぬし》さんはどちらにいらっしゃるんで」  みんなに呼ばれて、人だかりのうしろから藤助が顔を出した。 「えれえご無沙汰でごぜえやした。また今日は清次郎のために、家主さんやらみなさんに、手間なことをねげえやして」  清次郎の兄がひと通りのあいさつを済ませると、べか舟から魚があげられた。鯛は形の揃ったものが三十枚と刺身用に二枚、ほかによその浜で仕入れたさざえ、伊勢海老、とこぶしに、浦安の浅蜊が網ごと運び上げられた。  三杯目のべか舟には、舟べりからこぼれ落ちそうなほどのいわしが積まれていた。川面がすでに照り始めている。その返りを浴びて、いわしの背が瑠璃色に見えた。 「朝網で獲ったばかりのを、浜で軽く塩漬けしてきた。食う分のほかは、味醂干しと丸干しにするべ」 「そいじゃあ、あたしたちも手伝わせてもらわなくちゃあね。いまから干したら、祝言の手土産に持ち帰ってもらえるよ」  いわしに大騒ぎしているさなかに、謙蔵が顔を出した。 「きょうの料理番をやらせていただく謙蔵です。活きのいい魚《うお》をありがとうございます」  あいさつもそこそこに、謙蔵は手早く料理に取りかかった。料理場には家主の台所と、隣家五軒の流しが当てられた。長屋中の七輪で、うろこを落とした鯛の塩焼きが始まった。  四ツ(午前十時)になると、夏の陽が船着場に届き始めた。手開きにされた五百枚ほどのいわしが、味醂の瓶に漬けられた。塩を洗い落とされた丸ごとのいわしが、女房連中の手で戸板に並べられていった。  蒸籠《せいろ》の赤飯が勢いよく湯気を吹き始めたとき、木遣《きや》りが先に立った花嫁行列が到着した。紋付に着替えた家主の藤助夫婦が、長屋の木戸で出迎えた。行列のうしろには、喜八郎と江戸屋の女将、秀弥が並んでいた。  清次郎、おゆきは、ともに順造が夜なべ続きで仕立てた婚礼衣装を身に着けていた。 「にあんちゃん、すっかり色が白くなってるだ。器量良しの嫁さんと並んでも見劣りしねえべ」  浜から来た兄弟が、清次郎の晴れ姿をまぶしそうに見詰めていた。壮介と清次郎の目が合った。口元をぐっと引き締めた清次郎があたまを下げた。漁場で焼けた兄の顔が、何度も何度も上下に揺れた。  おゆきの白無垢の襟元に陽が当たり、絹の織目がきらきら輝いている。切れ長の瞳が、ときどき清次郎に流れた。相手を愛《いとお》しむ目を見せるおゆきに、長屋の住人が吐息を漏らした。  列のうしろに立った秀弥は、茶の井桁絣に桑染めの縞帯という、老舗の女将にしては地味な拵《こしら》えだった。花嫁よりも目立たぬようにとの心遣いだろうが、凜とした秀弥の美しさは隠しようもなかった。  媒酌人役の冬木町鳶がしら政五郎が、夏の陽を浴びながら口上を始めた。 「清次郎、おゆきのふたりは、ここに来るめえに、八幡様でしっかり夫婦《みようと》の固めを済ませやした。今年は八幡様本祭の、めでてえ年だ。行く末永く、このふたりをでえじにしてやってくだせえ」  政五郎のわきで、半纏姿の鳶が柝《き》を打った。これが合図になって、みんなが縁台に腰をおろした。  上座下座のない宴席だった。伊勢海老が飾られた真ん中の席に清次郎とおゆきが座り、その両側には媒酌人が腰をおろした。あとはだれもが好き勝手に座っていた。喜八郎は船着場に近い端に座を取った。長屋のかみさん連中が、秀弥を喜八郎のとなりに連れて来た。  赤飯にいわし汁、それに鯛の塩焼きが銘々に出されたが、あとの料理は大皿に盛られていた。壮介たちが運び込んだ鯛を江戸屋の大皿に飾り付けた、浜吹雪も出されていた。 「わっしょい、わっしょい」  木戸のさきから威勢のいい掛け声が流れてきた。冬木町から祝いの薦被《こもかぶ》りを、神輿《みこし》のように担いできた長屋の連中の掛け声だった。  湯飲みや茶碗、さらにはどんぶりを手にした祝い客が、四斗樽のまわりに群がった。鏡を抜いた順造とおまさが、礼をいいながら真新しい柄杓《ひしやく》で酒を注いだ。  鯛の塩焼きを終えた二十の七輪が、樽の近くに運ばれてきた。 「浜から届いたばかりの、祝い酒の肴だよ」  真っ赤な熾火で、いわしの丸焼きが始まった。脂が落ちて、凄まじい煙が立ち昇った。七輪が二十個、一度に焼かれるいわしが六十尾。風がなくて煙が逃げない。船着場が、いわしを焼く煙に包まれた。 「本日はまことにおめでとうございます」  煙の向こうから口上が聞こえた。灘の下り酒四斗樽を酒屋に担がせた、伊勢屋番頭の喜平次だった。 「伊勢屋も粋な計らいをやるものだ」  番頭を見ながら喜八郎が小声を漏らした。煙がしみるのか、喜平次の顔がわずかに歪んでいる。 「えっ、あの方が?」 「伊勢屋の一番番頭です。清次郎さんの宿で出会いました」 「蔵前から、わざわざ祝い酒を……」  秀弥が腰をずらすと、肩が喜八郎に触れそうになった。 「喜八郎さん、ほんとうにありがとうございました」  潤みを帯びた目で喜八郎を見詰めてから、野菜の炊き合わせと、とこぶしの煮付けを取り分けた。秀弥は寄り添うようにして、喜八郎に銘々皿を手渡していた。 [#改ページ]    吹かずとも  寛政二年七月十六日。前日に引き続き、江戸は夜明けから空が高かった。品川沖から昇り始めた陽を遮《さえぎ》る雲はひとつもなく、六ツ(午前六時)には青空が広がっていた。      一  二年の陰祭《かげまつり》を経て、三年に一度、深川富岡八幡宮には本祭が巡ってくる。今年がその本祭だった。紀伊国屋文左衛門が奉納した三基の宮《みや》神輿《みこし》と、氏子の町内神輿とが一緒になって大川を渡る神輿|渡御《とぎよ》が本祭の華だ。  大祭は八月十五日だが、七月に入ると深川界隈は、どの町内も祭の備えで活気づく。なかでも、初めて町内神輿が出せることになった、深川冬木町の意気込みは尋常ではなかった。  祭まで、まだ一月《ひとつき》もあるこの朝。冬木町の材木卸|矢野柾《やのまさ》の空地は、明け六ツから賑やかだった。 「かしら、早くからわるかったねえ」  誂えおろしの町内半纏に白木綿の股引で身を拵えた矢野柾徳兵衛が、鳶の政五郎に話しかけた。半纏は鼠色の地に大きな格子柄が染め抜かれており、背には太い赤で冬木と町名が描かれていた。  陽はすでに勢いがある。朝日を浴びた新調の半纏を、政五郎が眩しそうに見た。その表情に満足したのか、矢野柾が笑みを浮かべて空地に積んだ竹の山を指差した。 「昨日の朝方、茂原の山から切り出したあと、うちの川並(いかだ乗り)が大事に守って運んできた竹だ」 「えっ……これを御酒所《みきしよ》普請に使っていいんですかい」 「気に入ってくれたらうれしいよ」 「孟宗竹《もうそうだけ》の御酒所なんてえものは、どこの町内にもありゃあしねえやね」  感じ入った政五郎の声で、徳兵衛の顔が大きく崩れた。 「やっと冬木も町内神輿が出せるんだ。御酒所に銭を惜しんでどうする」 「そいつあそうだが、この不景気のさなかだてえのに、徳兵衛さんの豪気にはあたまが下がりまさあね」 「考えてもごらんよ、かしら。神田から富蔵さんが越してきたことで神輿も造れたし、作法もわきまえることができるんだ。神輿にしても御酒所にしても、半端をやったら町内の恥だろうさ。たとえ身代が傾いても、今年はやるよ」 「それはでえじょうぶだ、徳兵衛さん。昨日のおゆきちゃんの祝言のけえり道、江戸屋さんの女将から、奉加帳に名を連ねさせてもらいてえって言付かってやすから」 「それはありがたいが、江戸屋さんは宮元じゃないか。町が違うだろう」 「あっしもそう言ったんですがね、八幡様の氏子神輿が増える祝い事に、宮元も冬木もありませんと、きっぱり言われちまいやした。差し出がましくなければ、江戸屋さんが筆頭《ふでがしら》になって、仲町のお茶屋に奉加帳を回しますてえことなんで」 「だがねえ、かしら……この不景気によその町内のことで奉加帳を回されたりしたら、お茶屋さんには迷惑じゃないか」 「そこが江戸屋さんの行き届いたとこでやしてね、筆頭が加減して書きますからご心配はご無用ですてえんでさ。神輿が増えて祭が賑やかになれば、見物客が増えて仲町も喜びますと言われやした」 「へええ……まだ若い女将なのに、たいした器量じゃないか」  徳兵衛と政五郎が互いにうなずき合った。 「それで富蔵さんは」 「仕上げに付き合うてんで、昨夜《ゆうべ》から芝神明の卯之助さんとこに泊りがけだよ。木戸が開き次第に運んでくるというんで、うちの若い衆五人と車を富蔵さんに付けてある」 「そんな段取りなら、あっしがあごをしゃくりゃあわけねえのにさ」 「それはそうだろうが、今回だけはあたしがやりたかったんだ。勘弁しておくれ」 「そんな……勘弁なんてとんでもねえやね、ありがてえことでさ。そうだと分かりゃあ、神輿が来るまでに仕上げやしょう」  気合に充ちた政五郎の掛け声で、十人の鳶が持ち場についた。  蔵前札差は、ほかの商人《あきんど》に比べて朝が遅かった。五ツ(午前八時)の鐘で、小僧が御蔵大通りに朝の打ち水を始める。店の一番番頭があるじに朝のあいさつをし、前日の商いを伝え、その日の奉公人指図を確かめるのが五ツ半(午前九時)ころだ。  ところがこの朝の笠倉屋は、番頭とあるじとが夜明け前からひたいを寄せ合っていた。番頭が弾く珠の音に、浅草寺の鐘が重なった。 「なんだ、もう五ツか」  両の目頭を揉みながら、笠倉屋平十郎が疲れ果てたような声を出した。まだ朝が始まったばかりだというのに、笠倉屋の三白眼が赤く、目の下のたるみが隈になっていた。 「それで幾ら足りない」 「前の二千両に加えて、去年師走に二千両を借りました。もっとも先払いの利息四百両を差し引かれましたので、手元には千六百両しか入っておりませんが、借金は都合四千両でございます」 「………」 「その内の二千両分は、五月切米の手前で札旦那を回して消しましたので、帳面に残った借金は二千両でございます。三度算盤を入れましたが、どう弾いても師走までに二千両は調《ととの》えられません」 「二千両じゃない。二千四百両だ」 「そうでした、残りの利息がございました」  あるじにきつい目で睨まれて、番頭の芳蔵があたふたと算盤を入れ直した。 「二千四百両となりますと、ざっと弾いただけでも九百両がところは足りません」 「九百両とは、多目に見てなのか控え目なのか、どっちだ」 「十月大切米の勘定が、目一杯に取れたとしてのことです」 「この金詰りで、御家人連中が素直に払うはずがないだろう。この期に及んで、おまえから気休めを聞いても仕方がない。正味のところで幾ら足りないんだ」 「千五百両です」  芳蔵がきっぱりと答えた。千五百両と聞かされた笠倉屋が、天井を仰いで溜め息をついた。三度、重くて深い息を吐き出してから、億劫そうに立ち上がった。  庭に面した戸が朝の力強い陽を浴びて、障子紙の白と桟の焦茶色を際立たせている。笠倉屋がぞんざいに障子戸を左右に開いた。あるじの気配を感じたのか、泉水の鯉が縁側に集まってきた。威勢のよいのが飛び跳ねた。 「芳蔵」  呼ばれた番頭が急ぎ近寄った。 「千四、五百両の不足は胸算用通りだ。おまえには言わなかったが、あたしは橋場の家を売れないかと周旋屋に持ちかけてみた」 「旦那様……」 「ひとの足元を見た大野屋は、百両なら引き受けましょうとほざきおった。総檜造りの二階屋に百坪の土地が付いてだぞ。おまえも知っての通り、茶室と築山だけでも三百両をかけた造りだ」 「………」 「周旋屋のほかにも口の固い金貸し何人かに当たりをつけたが、どこも話にならない。千両どころか、百両借りるにも札差株と、ここの沽券状《こけんじよう》まで担保に出せと言われた」  庭を向いて話すあるじの足元で、芳蔵は言葉をなくしていた。 「尋常な手立てで金を工面するのは、いまの江戸ではできそうもない」  振り返った笠倉屋の目は芳蔵を見ておらず、瞳も定まってはいなかった。 「利息込みで二千四百両の返済については、札のやり取りは受け取らないと伊勢屋に突っぱねられた。このままでは乗っ取られる」  芳蔵も充分に分かっていた。分かってはいても、ことがことだけに返事が出なかった。 「たかが二千四百両のかたに、うちの身代をむざむざ差し出す気は毛頭ない」 「………」 「札差のふの字も知らない、伊勢屋の囲いものに横取りされてだ……抜け殻のように生きるぐらいなら、いっそ仕置場で首を刎ねられた方がすっきりする」  朝日を背に受けた笠倉屋は、三白眼の白目が真っ赤に血走っており、口元がぴくぴく引き攣《つ》っている。物《もの》の怪《け》だったあるじを見て、芳蔵の膝が後ずさりした。 「肚さえくくれば怖いものはない。今日のいまからなんでもやる。おまえも一緒だぞ」  口を半開きにした芳蔵の顔が、庭越しの朝日を浴びている。血の気の失せた顔は、陽が当たっても真っ白だった。  呉服橋北町奉行所のあたりは、江戸城からの松林が続いていた。二千六百坪の広大な奉行所に吹く風は、敷地内の松並木を渡るなかで濃い松葉の香りをはらんでいた。  二十畳の御用部屋は、奉行所なかほどに設けられていた。障子戸を開くと一間《いつけん》幅の広い廊下があり、そのさきには老松が重なった庭が広がっていた。  毎朝五ツ半(午前九時)になると、与力の面々が御用部屋に顔を出す。奉行所に出張ってくる髪結いに、月代《さかやき》とひげをあたらせ、ひたいを広く見せる与力特有の髪を結わせるためだ。毎朝の髪結いは与力の役得だが、単に身繕いのためだけではなかった。町場の床屋には、雑多な客が出入りする。職人が耳にした話の多くが、奉行所の務めに役立ってきた。  出張り髪結いは、八丁堀の組屋敷に出向くのが普通だった。しかし奉行所|宿直《とのい》番や、役目柄朝の出仕が不規則な与力たちは、御番所御用部屋で髪をあたらせた。  秋山久蔵の髪結いは、蔵前新旅籠町の新三郎が受け持っていた。米方与力の秋山が札差見廻りで拾い切れなかった生《なま》の話が、幾つも新三郎から伝えられていた。  前夜が宿直番だった秋山は、この朝は屋敷ではなく、御用部屋で月代をあたらせていた。吹き渡る風に含まれた松葉の香りを嗅ぎながら、秋山は浅かった眠りをおぎなっていた。 「居眠りとは、いい気なものですな」 「いかにも。さきの棄捐令《きえんれい》で奉行の覚えは目出たかろうが、直言すれば迷惑千万だ」  話し声は吟味方末席与力の原沢玄衛門と大塚平祐のものだった。声を聞いて秋山はすぐに目覚めた。が、話を続けさせるためにそのまま居眠りを装った。 「先日も四谷から遠縁の者が訪ねてきての、散々にこぼしていきおった」 「札差の締め貸しに、でしょう」 「その通りだ。代々|御持筒《おもちづつ》与力を務める家だが、どうにも内証が苦しいらしい」 「いまのご時世で、楽な家はありません」 「まさにそのことだ。家臣を助けるつもりで敷かれたことだろうが、いささか短慮に過ぎた。このまま札差が締め貸しを続けたら、首が締まるのは奴らではなく、こちらが先だ」  髪結いが整ったらしく、原沢が席を立った。相手がいなくなったことで、大塚も職人への指図のほかは口を開かなくなった。  目を閉じたまま、秋山はいま耳にした話をなぞっていた。 (髪結い職人の耳を気にせずにこぼすほど、棄捐令への不満は高まっているのか。こともあろうに奉行所のなかで……)  宿直の疲れに気持ちのざらつきが重なった秋山は、新三郎の剃刀をいつになく痛いものに感じていた。      二  笠倉屋が今戸町の賭場を訪れたのは、七月十七日の夜五ツ(午後八時)だった。  五色石の庄之助という、大仰な二つ名で呼ばれる男が仕切る賭場は、大店《おおだな》の旦那衆と吉原の大見世旦那衆だけに客を絞っていた。金離れがいい札差も、二年前までは上客だった。しかし金にあかせた横着な振舞いが目立ったことで、ほかの旦那衆が庄之助に捻じ込んだ。以来、札差は賭場から締め出されていた。  ところが去年九月の棄捐令で様子が一変した。江戸中が金詰りに陥り、商人も吉原も、いきなり商いが細くなった。とりわけ吉原の寂れ方は尋常ではなく、大見世の旦那衆は、ただのひとりも賭場に寄りつかなくなった。  商家のあるじは、この不景気でも少しは顔を出したが、吉原の客とは金の使い方がまるで違った。盆を行き交う一両の駒札《こまふだ》が消えて一|分《ぶ》(四分で一両)の小札になり、いまでは分を朱《しゆ》に両替しろと言い出す始末だった。朱(一朱が二百五十文)の賭けなら、本所界隈で日雇い職人相手にやくざ者が開帳しているサイコロ博打と変わりがない。  行き詰まった庄之助は、札差を呼び戻すことに決めた。いまでは札差も虫の息だというのが江戸中の噂だったが、連中の博打好きは知り尽くしていた。  とりわけ笠倉屋は、金遣いに限れば最上の客だった。賭場での振舞いは酷《ひど》いものだが、落とす金が桁外れだった。いまでも庄之助の手元には、笠倉屋の屋号が極印された平十郎小判が三枚残されている。呼び戻す札差の手始めに、庄之助はこの日の昼過ぎ、笠倉屋に使いを出した。  笠倉屋は辻駕籠でやってきた。おのれの読みが当たったことにほくそ笑んだ庄之助は、すぐさま奥の座敷に迎え入れた。 「ようこそお運びくだせえやした。お見受けしたところ、お変わりなさそうで」 「ほんとうに変わりがないと思うのかね」  ひとを見下《みくだ》すような目付きと物言いは、相変わらずじゃねえか……喉元まで出てきた言葉を庄之助は呑み込んだ。 「そっちから出入りを差し止めておきながら、また来てくれとの使いを寄越すとは、あんたも相当に詰まっているんだろう」 「久しぶりのごあいさつにしては、ちょいときつ過ぎやしませんかね」 「むきになるところを見ると、どうやら図星だな。それならあたしも話がしやすい」  夜に入っても暑さが退かない。涼しげな絽を着た笠倉屋のひたいが汗ばんでいた。 「おい、やっこ」  庄之助の声で、縞木綿の前を崩した若い者が飛んで来た。 「笠倉屋さんに直しと、井戸水をくぐらせた手拭いをお持ちしろ」 「へい」  若い衆が台所に消えたところで、庄之助が笠倉屋に向き直った。 「今夜の笠倉屋さんには、遊ぶ気がなさそうだ。聞かせてもらいやしょう」 「慌てることはない。冷えたのを一杯やってからにさせてくれ」  削り節をまぶした瓜の糠漬をあてに、直し酒を二本あけてから用向きに入った。 「あんた、うちの身代がどれほどのものか見当がつくかね」 「かんげえたこともありやせん」 「新旅籠町の店が四百坪、橋場のが百坪だ」 「橋場てえのはお妾さんので?」 「これに加えて御家人連中への貸金が、ざっと数えて二万両。こんどの騒ぎで少しは値が下がっただろうが、札差株が千両だ」  武家相手の貸金は、棄捐令であらかた帳消しにされている。二万両というのは笠倉屋の法螺《ほら》だった。 「おれには大き過ぎて、わけが分からねえ」 「あんたに七千両作れるか?」 「………」 「七千両で、身代の半分を譲ろう。橋場の家もくれてもいい。いま手元に沽券状はないが、あたしがいうんだ、間違いはない」  話を聞きながら、笠倉屋に使いを出したことを庄之助は悔やんでいた。三万両に届きそうな身代を、七千両で半分譲るというのは、内証が火の車だといっているも同然だ。  笠倉屋からは毟れねえ……。  庄之助は、どうやって笠倉屋を追い出そうかと思案し始めた。 「できそうもない顔だな」 「おれは渡世人だ。金が作れる作れねえよりも、商いなんざやりたくもねえやね」  興ざめした庄之助が吐き捨てた。 「そんな話なら聞くまでもねえ。駕籠のところまで送らせてもらいやしょう」 「まだ終わってない。あんたにもわるい話じゃないんだ、もう少し付き合ったらどうだ」  上客だと思うから横柄な口にも我慢していたが、金詰りの笠倉屋に用はなかった。 「わるいがおれは暇じゃねえんだ。どんな話か知らねえが、よそでやってくだせえ」 「明日にも五百両が手にできてもかね」  立ち上がりかけた庄之助が腰をおろした。去年までの賭場なら、半月あれば五百両は稼ぎ出した。ところが六月のあがりは、わずか二十七両三分三朱だけだった。  賭場を仕切る渡世人が見栄を捨てたら、すぐさま手下が離れてしまう。庄之助は隠し金を食い潰しながら若い衆を飼ってきたが、それにも限りが見え始めている。いまの庄之助に五百両は大きかった。 「せっかく足を運んでもれえたんだ、聞くだけなら聞きやしょう」  庄之助が座り直したことで、笠倉屋の三白眼にゆとりが浮かんだ。 「いつだかこの部屋で、小判師がどうだとかを聞かされた覚えがある。いまでも付き合いはあるのかね」 「そいつは弥助のことだ。もちろんありやすが、それがどうかしやしたかい」 「もう一度、小判師のことを話してくれ」  元禄の改鋳までの間、幕府は金貨の鋳造所を設けておらず、公儀が認めた職人の家に炉を構えさせて小判の元を作らせていた。その職人が小判師である。小判師が鋳造したのは、原判金と呼ばれた未完成の小判だ。これを金座後藤家に持ち込み、厳しく吟味したのちに後藤家が極印を打って小判とした。  元禄の改鋳を機に、公儀は小判師を廃止して、炉もすべて打ち壊しにした。小判特有の槌目を出す技と、炉を使って金銀を溶かす技を持った小判師の多くは、腕のよい飾り職人に生まれ変わった。  庄之助が口にした弥助も、父親に厳しく仕込まれた飾り職人である。知っている限りの話を笠倉屋に聞かせた。 「その弥助という男は連合いがいるのか」 「とんでもねえ。銭が入ったら入っただけ遊びてえ口だ、女房は生涯むりでしょうや」 「弥助に小判は打てるかね」 「なんだと」  庄之助が目を剥いた。 「おめえさん、てめえで言ってることが分かってんだろうな」  庄之助の口調が変わっていた。 「あたしは、その男に小判が打てるかときいたんだ」 「打てたらどうだてえんだ。贋金でも造ろうってのかね」 「その通りだ」 「ふざけんじゃねえ。ばれたら首が吹っ飛ぶじゃねえか」 「ばれなかったらどうする」 「なんでばれねえんだ」 「いま話す。落ち着いて聞いてくれ」  始まりは息巻いていた庄之助だったが、次第に笠倉屋の話に釣り込まれた。長い話が終わったときには、庄之助に薄笑いが浮かんでいた。 「あんたも相当なもんだ」 「どうだ、話に乗るかね」  庄之助は返事をためらっていた。が、立ち上がると長火鉢の引出しから黒い布袋を取り出してきた。 「この袋に手を突っ込んで、なかの石をひとつだけ摘《つま》み出してくれ」  わけが分からないまま、笠倉屋は言われた通りに小石をひとつ掴《つか》み出した。石はあずき色だった。庄之助の両目が光った。 「話に乗ろうじゃねえか」 「石がどうかしたのか」 「でえじな決め事は石にきくんだ。あんたが掴み出したのは、迷わずやれってことをおせえてくれる石よ」 「………」 「そうは言っても、ことがことだ。弥助の様子をしっかり見極めてからあんたに使いを出させてもらう。何日か待っててくんねえ」  わずかに酒が残っている徳利を庄之助が差し出した。      三  富岡八幡宮の氏子は深川一帯から、大川を渡ったさきの箱崎、湊にまでおよんでおり、町数も百を超えていた。三年前の神輿渡御では、八幡宮の宮神輿三基に、仲町、木場、佐賀町などの町内神輿七基が加わって氏子各町を巡行した。  宮神輿三基は、いずれも総金張りである。紀伊国屋文左衛門が奉納してから間もなく百年を迎えるが、夏日を弾き返す黄金の輝きには、いささかの曇りもなかった。  宮神輿を担ぐには、向かい合わせの鳩が八の字を描いた、八幡宮半纏を着るのが定めである。ところが町内神輿なら、自前の半纏を着ることができた。しかも宮出しから宮入まで、町内の者だけで担ぎ通せる。そのうえ御酒所には、宮神輿もよその神輿も、渡御の道筋として立ち寄ってくれるのだ。氏子各町は、町内神輿を持つことが大きな願いであった。  とりわけお膝元冬木町肝煎の矢野柾徳兵衛には、町内連中だけで冬木の神輿を担ぐことが、目を瞑《つぶ》るまでに何としても叶えたい夢だった。冬木には矢野柾を筆頭に数店の材木卸がいる。神輿を誂える金はどうにでもなった。  いないのが神輿の世話役だった。御酒所の造り方から、宮出し・宮入の作法を仕切り、神輿の先に立って担ぎ方と揉み方の指図を下すのが世話役である。担ぎ手は、矢野柾の川並衆だけでも三十人は揃う。しかし宮神輿を担ぐだけだった冬木には、世話役が育っていなかった。  ところが昨年初冬に富蔵が越してきたことで、徳兵衛の望みが手の届くところまで近寄ってきた。鍛冶町で小料理屋を営んでいた富蔵は、町内神輿総代を務めた男だった。  それを知って徳兵衛が舞い上がった。  大川を越えて深川に来た富蔵は、亀久橋たもとの縄のれんを居抜きで買った。その店の提灯に明かりが入って十日目の夜、角樽《つのだる》を提げた政五郎を従えて、徳兵衛が顔を出した。 「来年の夏に、この目で冬木の神輿が見られたあとは、いつお迎えが来ても思い残すことはないんだ。なんとしても世話役を引き受けてもらいたい」 「ですが徳兵衛さん、神田と深川とでは祭の仕来《しきた》りが違います。それにまだ冬木の路地も知らないような新参者が、かしらを差し置いて出しゃばるのは筋違いでしょう」 「あっしのことは、言いっこなしにしてくだせえ。町内神輿が担げるんなら、面子なんざぐるっと巻いて、焚付《たきつ》けにして燃しちまいやしょう」  冬木町肝煎と鳶のかしらが、心底から神輿世話役を望んでいる……肌身で感じ取った富蔵は、それ以上は渋らずに引き受けた。  しかし祭まで十月《とつき》を切っていた。神輿を誂えるには、ときがなさ過ぎる。世話役を引き受けたその足で、富蔵は芝神明の宮大工、六代目卯之助の宿に走った。卯之助とは神田祭で十年の付き合いがあった。 「分かったよ、富蔵さん。町内のかしらがおまいさんにあたまを下げたんだ、仕掛かり途中のをわきに置いてでも間に合わせるぜ」  卯之助が仕上げたのは、三尺の台に乗った八幡造りの華麗な神輿だった。そして孟宗竹造りの御酒所が出来上がったのが、三日前の七月十六日昼過ぎ。神輿はその日の八ツ(午後二時)に、冬木の御酒所に運び込まれた。  以来毎日、暮れ六ツ(午後六時)の鐘で神輿の担ぎ稽古がつけられていた。五尺七寸の富蔵が冬木の半纏を着ると、花道に立つ歌舞伎役者のように形ができていた。  神輿には横二本、縦四本の井桁に組まれた白木丸太の担ぎ棒が、白木綿で縛り付けられている。これで、一度に五十人が担げる神輿になった。 「どこの町内にも負けやしない」  胸を張った徳兵衛が言った通り、縦四本の担ぎ棒が渡された神輿は冬木だけだった。しかし担ぎ手の息が揃わないと、大きな神輿は担げない。稽古が始まって三日目。調子は揃いつつあったが、富蔵は手加減をしなかった。 「まえが落ちてるじゃねえか。三尺神輿だ、もっと思い切って肩を入れろ」  富岡八幡宮の神輿は、わっしょいのひと声で担ぐ。 「声が出てねえ。腹の底から出さねえと、すぐに喉が潰れちまうぜ」  稽古は半刻(一時間)休みなく続いた。熱くなった肌に、仙台堀からの川風があたると湯気が立つ。それほどに激しく担いだ。  稽古が終わり、御酒所に神輿を仕舞ったあとは、富蔵の店で酒盛りになった。声を出し通しだった連中は、冷やし酒で喉を労《いたわ》った。 「どうして富蔵さんは、神田から深川に越して来る気になったんですかい」 「ちげえねえや。富蔵さんほどのひとなら、神田で男を売ってる方がお似合いだ」  店に立った富蔵は、若い衆がなにをいっても笑いを消さない。ひと通り酒肴を出し終わると、酒盛りの輪に加わった。 「神田でよく当たると評判だった八卦見が、大川を越えて辰巳の方角に越せば、こどもが授かると見立てたんだ。それで思い切って越したんだが……」  四十を越した富蔵が言ったことに、呆気にとられた川並連中が盃の手をとめた。 「なんだい、おれの歳を知ってるだろうが……戯言《ざれごと》に決まってるじゃねえか」  ひと呼吸を置いて、どっと沸いた。それが鎮まるのを待って富蔵が口を開いた。 「大川を越す気になったわけは、ひとつやふたつじゃねえんだが、あえて言うならおれを贔屓《ひいき》にしてくれていた蔵前のお客が、去年九月にひどいことになった……というところだ」 「蔵前のお客てえのは、ことによると札差のことでしょう」  川並のひとりが言ったことに、富蔵が静かにうなずいた。 「伊勢屋さんという大店だったが、途方もない金を御上から帳消しにされたそうだ。それでうちにも来なくなった」  伊勢屋と聞いて、うしろで呑んでいた政五郎が、若い衆を押し退けて富蔵の前に座った。 「伊勢屋さんてえのは、天王町の伊勢屋のことですかい」 「政五郎さんは伊勢屋さんをご存じで?」 「じかに知ってるわけじゃねえんですが、あっしの知り合いの喜八郎さんてえひとのことで、ちょいとわけがありやしてね」 「そうですか……もっとも、あれほどの器量をお持ちの方だ、深川で伊勢屋さんを知っているひとがいても、不思議はありません」 「えっ……」  政五郎が驚いたような声を出した。 「なにか違うことを言いましたか」 「いや、そういうわけじゃねえんですが」  政五郎が途中で言葉を止めた。富蔵が静かに立ち上がった。 「大分に更けてきましたね」  富蔵がなぞを投げかけた。 「おい、今夜はこれでお開きだぜ」  政五郎がすぐさま応じた。幾らも間をおかず、富蔵と政五郎のふたりになった。 「いい折りですから、神田から越して来たわけを聞いてもらいましょうか」  座り直した政五郎がうなずいた。  富蔵は来年が厄年の四十一歳だが、去年の十月まで、神田鍛冶町で纏屋《まといや》という名の小料理屋を営んでいた。三十年前に父親が始めた店で、当時十一歳の富蔵も下働きとして手伝った。わずか七坪の小体《こてい》な店だったが、日本橋魚河岸に近いこともあり、安値で旨い魚が食えるということで客が付いていた。  富蔵はひとり息子だった。手伝い始めて十年過ぎた年の十一月、富蔵もそこそこ包丁が使えるようになっていた。 「ひと晩なら、おまえに任せられるだろう」  中村座に新しい狂言が掛かった夕方、両親《ふたおや》が連れ立って芝居見物に出かけた。ところが幕間に食べた弁当で食中《しよくあた》りを起こし、次の朝を待たずに亡くなった。  いきなり身寄りを失った富蔵は、ひとりで店を切り盛りする気になれず、売り払って鍛冶町から出ることを考えた。町内の周旋屋に買い手を探してもらったが、師走を控えた時機がわるかった。その年富蔵は、売れないままの宿で除夜の鐘を聞いた。  明けて元旦、墓参りを済ませての帰り道で、辻の八卦見に呼び止められた。 「家を捨てようとしておるようじゃが、おやめなさい」  見ず知らずの易者に図星を指された富蔵は、すがる思いで見立てを頼んだ。 「あんたは十年ごとに運気が変わる。この先十年は、なにがあっても動かないほうがよろしい。そのあとの節目でことが起きたときは、迷わず辰巳の方角に移ればいい」  前年に両親を失ったことを告げると、易者は父親が好きだったことを続けるのが供養だと言い切った。富蔵に思い当たる父親の好きなことといえば、神輿だった。  気持ちを入れ替えた富蔵は、ひとりで店を始めた。品書きは、出来る限り父親の真似をした。そうして過ごすうちに、両親を失って初めての祭がやってきた。  神田祭は山車《だし》が華である。三十三番も連なった山車のうしろで、声を限りに担いでいるさなかに、ふっと神輿のわきに父親を感じた。なにが見えたわけでもなかったが、富蔵には父親が感じ取れていた。  翌年の祭から、富蔵はさきに立って騒ぎ始めた。すっかり立ち直った富蔵を鍛冶町の肝煎連中も喜び、三年後には富蔵を神輿総代に据えた。深川から祭見物に来ていたおしまと出会い、二十五歳の富蔵と十七歳のおしまとが祝言を挙げたのもこの年である。  提灯職人の家で育ったおしまも、祭にかけての呑み込みはできていた。時季がくると夫婦で支度をこなした。店はほどほどに繁盛したが、子宝に恵まれないまま六年が過ぎた。  両親が亡くなってから十年過ぎた年の十一月晦日に、一見客《いちげんきやく》が纏屋に入ってきた。ほかに客のいない夜だったが、隅に座った男は徳利二本の酒と、ぶりの粗煮《あらに》を旨そうに平らげて出て行った。  それ以来、月に一度、決まって晦日の夜に男が纏屋に顔を出した。客がみずから素性を明かしたのは、翌年三月晦日のことだった。その夜、富蔵は早めに提灯を仕舞い込み、客と向かい合わせで酒を酌み交わした。 「あんた、神輿をやるのか」  壁際の大きな祭|団扇《うちわ》に目をやった男が問いかけた。 「死んだ親父への供養だとおもって、毎年、命懸けで担ぎます」  成り行きで、易者が見立てたあらましを富蔵は話した。 「そうか……あたしも八卦見の見立てで、神田明神にお参りしているんだ」 「それで毎月晦日にお見えになるんで」 「今日は長男の祥月命日だ」 「そうですかい……息子さんは若くして亡くなられやしたんで?」 「あんた、歳は幾つだ」 「この正月で三十一になりやした」 「やはりそうか。ずっとそんな気がしてたが、生きてればあんたと同い年だ」  言葉に詰まった富蔵は、新しい燗酒を取りに立ち上がった。酌を受けた客は蔵前の伊勢屋だと素性を明かしたあと、亡くした息子のことを語り始めた。 「先代に仕込まれた通りに、あたしも息子に商いを叩き込もうとしたんだが……厳し過ぎたのかも知れないな」  伊勢屋は過去四代にわたり、金貸しで身代を太らせてきた。現当主ももちろん同じである。蔵前でも図抜けた身代をさらに大きくするために、筋のよい客には天井を決めずに貸し込んだ。その評判を聞きつけて、他の札旦那が伊勢屋に鞍替えを申し入れてきた。  利息は年に一割八分。六年目には、利息が貸し金を上回った。が、高利貸しは肝が座っていなければ、客の恨みで、おのれの気が潰される商いだ。伊勢屋では肝の鍛錬として、真冬の水垢離《みずごり》が当主と総領息子に課せられていた。  伊勢屋の長男は生まれつき病弱で、しかも金貸しを嫌っていた。それでも世間の手前、帳場に座ることはした。しかし蔵宿師が店先で声を荒らげると、さっさと奥に引っ込んだ。伊勢屋はその都度息子を井戸端に引きずり出して、四半刻(三十分)もの間、井戸水を浴びせた。  二年前の三月下旬、桜は芽吹いていたが花冷えの厳しい日に浴びせた凍え水がもとで、息子はひどい熱を出した。家人や嫁がどう頼んでも、伊勢屋は医者を呼ばなかった。  床に臥《ふ》せって三日目、容態が急変した。さすがに伊勢屋も折れて医者に使いを走らせたが、すでに手遅れだった。三月晦日の昼前、息子は詫びの言葉を漏らしながら息を引き取った。 「出入りの八卦見から、真西に当たる明神様にお参りするのが供養だと言われた。それが神田明神だったというわけだ」 「………」 「年恰好が似ていたのと、八卦見の見立てがどうのと聞いて、ついあんたに埒もない話をした」  それ以後も晦日には顔を出したが、伊勢屋は余計な話を一切しなかった。ところが八月晦日、伊勢屋は客が退いたあとで祝儀袋に入った金を差し出した。 「差し出がましいようだが、祭の寄進に加えてもらえないか。使い切ってくれれば、親父さんの供養の手伝いになるだろう。あたしの名は言わずに、みんなで騒ぐ費えの足しに加えてくれ」  こんな付き合いが十年続いた。  その間、ひとの口から伊勢屋の評判を幾つも聞いた。桁違いのお大尽だということには、だれもの口が揃っていた。が、商いに関しては、いい話はほとんど聞かなかった。  しかし纏屋に来たときの伊勢屋は、威張るでもなく、隅で静かに二本の酒と、一皿の肴を平らげるだけだった。余分な心付けを残すわけでもない。富蔵も伊勢屋も、間柄を詰めようとはしないままに過ぎた十年だった。  去年の九月晦日、伊勢屋から名残を切り出された。 「あたしがこれっきり来なくなったとしても、神田祭の寄進は続けさせてもらう」  棄捐令で札差が息の根を止められそうになったことは、富蔵もひとの噂で充分に知っていた。その夜は浅草橋まで伊勢屋を送った。 「あんたの様子が変わったときには、かならず知らせてくれ」  伊勢屋の背中が闇に溶け込むまで、富蔵は橋の真ん中から見送った。  その翌日に、おしまの父親が倒れた。洲崎料亭の月見提灯作りで、夜なべ仕事を続けたことが堪《こた》えたのだ。おしまは亭主に気兼ねしながらも、毎日深川に足を運んだ。  月の中頃に時季はずれの野分が吹いて、魚河岸が休みになった。昼過ぎには風雨ともにあっけなく収まったが、仕入れができなくて店が開けられなかった。 「おれも見舞いに行かせてもらうよ」  正月以来会っていなかった舅の衰えた寝姿を見て、富蔵は言葉が出なかった。  おしまを深川に残し、日暮れた大川を富蔵はひとりで渡った。永代橋を渡りながら、おしまの両親を思い返していた。  富蔵は、看病をする間もなく両親に逝かれた。胸の奥底に封じ込めてきた思いが、おしまの実家《さと》を見舞ったことで噴き出した。それと同時に、易者の見立てを思い出した。  おしまの親を神田に引き取ろうとすれば、親父さんに深川と、大事な得意先を捨てさせることになる。さりとて生まれ育った神田を出るのは、身体に包丁を入れられるよりも辛い。神輿とも別れることになる。  それでも……と、富蔵の思案は続いた。  親が生きている限りは看病ができる。娘が深川に戻ってくれば、親父さんも持ち直すだろう。十年の間、うちを大事にしてくれた伊勢屋さんとの別れも、節目のひとつだ。深川は辰巳の方角、越すならいまだ。 「思い切って深川に越そうぜ」 「そんな……おとっつあんのために富さんが神田を出るなんて、絶対に駄目よ」 「そうじゃねえんだ。よく当たる易者が、辰巳に移ったら子宝に恵まれると見立ててくれたのよ。おめえはまだ三十二だ、親父さんに孫の顔を見せてやろうじゃねえか」  方便を聞かせて、おしまから気持ちの負い目を取り除いた富蔵は、居抜きで買える店を女房に探させた。その間に富蔵は、鍛冶町のなかをあたまを下げて回った。  木枯らしが吹き始めるまえに店が見つかった。大川を渡って深川に越す日の朝、富蔵は町内路地のひとつひとつに名残を伝えた。  冬木に越したあと、富蔵は町飛脚を仕立てて、伊勢屋にところを伝えた。 「政五郎さん、おれのなかでまだ燻《くすぶ》っている神田への思いを、この祭ですっきりさせたいんだ」 「………」 「引き受けたからには半端はやらない。かしら、よろしく受け入れてやってください」  富蔵があたまを下げた。伊勢屋の別の顔を聞かされた政五郎は、戸惑いながらも富蔵の目をしっかり捉えてあたまを下げた。      四  七月二十日は朝から雨になった。連日の日照りで干からびていた組屋敷の庭土が、むさぼるように雨水を吸い込んでいた。 「紅花がよく咲いたの」 「暑さが続きましたので、今年の摘みごろは九月の半ば過ぎでしょうね」  髪結いの新三郎が来るには、いま少し間があった。秋山久蔵と妻女の手結《てい》が、濡れ縁に並んで鮮黄色の紅花を見ていた。  手結の実家は麹町の薬種問屋、蓬屋《よもぎや》である。雨の庭を黄色く彩っている紅花は、秋山が四番組筆頭与力の組屋敷を与えられた十年前に、実家から株分けされたものだ。それがいまでは五十坪の庭を埋めるほどに育っていた。  秋の入口で赤く色替りする花は、陰干しすれば打ち身や腫れ物に薬効がある。手結が揉みほぐした花を煎じると、月のものの痛みにもよく効いた。評判が組屋敷に広まり、この七、八年は梅雨の手前で与力や同心の妻女が競うように秋山屋敷を訪れた。 「厚かましいお願いではございますが、ことしも三袋お分けいただきとうございます」  同心の家々はもとより、同格の与力も使いではなく妻女みずからが頼みに来た。手結は数のある限り応じた。十一月下旬には、蓬屋から取り寄せた数百の薬袋に、ほぐした花が詰められた。  実家の商いで紅花が安くないことを知っている手結は、薬花代の受け取りを固辞した。 「お役所からお借りしたお屋敷の庭があって、初めてできることです。金子《きんす》をいただくわけには参りません」  妻女たちは金に代えて干物や乾物、海苔、茶などを持参した。手結もそれらは気持ちよく受け取り、相手の負い目を軽くした。それでさらにひとが集まってきた。  ところが今年は様子が違った。  梅雨も明け、庭が鮮やかな黄に染まっても、だれひとり訪ねて来なかった。六月末に一度だけ、手結はそのことを口にした。 「お役目向きのことで、なにか大変なことでも起きているのですか」 「どうした……なぜそんなことを訊く」 「梅雨も明けますのに、今年はどなたも花を求めてお見えになりませんから」 「………」 「広乃《ひろの》の思い過ごしだと存じますが、お稽古さきで、ほかの方々との行き来が気詰りだと申しておりました」 「あれがそう言ったのか」 「はっきりと口にしたわけではありませんが、あんなに好きだったお茶席に出るのを、ためらうような素振りが見えますの」  広乃は今年十七になる秋山のひとり娘である。昨年までは、わずらわしいほどに婿入り縁談が秋山家に持ち込まれていた。それが今年の春先からは、ただのひとつも来なくなった。役所向きの話はしないわきまえできた手結だったが、広乃の様子を案じる気持ちに、紅花を求めて来ないことが重なり、つい問うてしまったのだ。 「案ずるようなことはなにもない」  もともと口数の少ない秋山だったが、手結への答えは短いものだった。その口調に含まれるものを汲んで、手結も口を閉じた。 「あと何年、この紅花を見ることができるものか……」  秋山の漏らした呟きで、手結の細い眉が動いた。口を開こうとしたとき、庭先に下男の吾助が顔を出した。 「新三郎さんが来ました」 「分かった。これに通せ」  吾助が下がった。問いたいことを呑み込んだ目を秋山に残して、手結も濡れ縁を立った。庭に現れた新三郎は、菅笠に蓑の雨具姿だった。髪結いの道具箱は重ね合わせの油紙を裏地に使った、新三郎手作りの風呂敷にくるんでいた。 「暑さがゆるんで心地よい朝だ。いささか濡れそうだが、今朝もここでやってもらおう」  雨具を軒下に吊るした新三郎は、手早く仕事に取りかかった。短い髷《まげ》の毛先を、器用な手付きで小さな銀杏に形作ってゆく。これは武士と町人のどちらにも素早く姿を変えることのできる、八丁堀特有の結い方だった。 「笠倉屋がよくありません」  櫛の手を止めずに新三郎が話し始めた。 「古株の手代がこぼしたのですが、このさきの追い貸しは、一両といえども一番番頭の預りと決まったそうです」 「手代では決められぬのか」 「そう聞きました。そのうえ、掛合いに来た蔵宿師に出していた弁当も、一切取りやめになりました」 「弁当を、のう」 「はい。十月に控えた大切米の掛合いは難儀をしているらしいのですが、このうえ追い貸しは番頭預りで、弁当も出さないとなったら、揉め事は避けられません」 「………」 「笠倉屋は伊勢屋から大金を借りているという噂が、桜の手前から蔵前では取り沙汰されてきました。昨日の手代の愚痴に、出入りの呉服屋が漏らしたことを重ねますと、笠倉屋は今年を越せないかも知れません」 「呉服屋だと?」 「日本橋本通りの結城屋が出入りしています。いつもは物腰の穏やかな手代ですが、昨日の夕方、験《げん》直しに髪を洗ってくれといって来たときは、目付きが違っていました」 「誂えでも断られたのか」 「秋の歌舞伎見物に誂えた友禅の一品ものを、そっくり流されたそうです。すでに裁《た》ちまで終わっているからと強く頼んだらしいのですが、それはおまえの早呑込みだと決めつけられて、相手にされなかったそうです」 「………」 「札差のなかでも飛び抜けて見栄を張ってきた笠倉屋が、ここまで明け透けな始末を始めたのは尋常ではありませんから」  髪結いを終えて新三郎の手が止まった。しかし秋山は縁側から動かなかった。思案を巡らせるとき、秋山は床几《しようぎ》に座ったまま庭を見詰めるのが常だった。  耳役として働き始めて久しい新三郎は、秋山の癖をわきまえている。道具箱を片付けることもせず、黙ってうしろに控えていた。  米方筆頭与力の秋山は、二百五十俵三人扶持の俸給があった。しかし二百坪の組屋敷には家来三名が詰めていた。毎日の出仕には、槍持、草履取などの供を五人揃えなければならない。そのうえ下男四人に女中三人の奉公人を屋敷内に抱えている。内証は楽ではなかった。  秋山の切米は伊勢屋が扱った。相場よりも高めに買い取ることは黙ってさせたが、融通の申し出は米方与力就任の年に「以後、一切無用である」と撥ね付けた。棄捐令発布の折り、秋山は伊勢屋への債務を完済していた。手結が懸命に内証を切り盛りしたことに加えて、先代米屋政八の空米相場に乗って得た百十二両を役立ててのことだった。借金のない秋山は、二百五十俵でなんとか暮らしの体面を保つことはできた。  しかし奉行所の役人は、ほとんどが札差に借金を抱えていた。彼らは他の旗本、御家人同様、棄捐令を大いに喜んだ。去年九月下旬、秋山が老中から恩賞金を拝領したときは、奉行所のだれもが心底から秋山に祝いを伝えたものだった。  ところが師走には様子が変わった。金詰りを起こした札差連中は、奉行所役人といえども金の融通には応じなかった。  他の御家人であれば、腕利きの蔵宿師を雇い入れて、腕力ずくの借金もできただろう。しかし奉行所役人には、それは無理だ。  札差も分かっていた。大金を棒引きにされた腹いせに、連中は役人にはことのほか厳しく出た。奉行所勤めの者には、散々な寛政二年正月となった。  年が明けても、札差の算盤は厳しくなる一方だった。金詰りがじわじわと深くなり、元手にも事欠く札差が続出し始めたのだ。身代が傾くなど考えたこともなかった蔵前の連中は、怨嗟の的を差配役人の秋山に絞っていた。  おなじことが奉行所のなかでも起きていた。借金が消えて秋山に向けた笑顔は、わずか二月《ふたつき》で消え失せた。いまは陰口どころか、聞こえよがしに秋山を責める者まで役所にいた。  武家には、札差が唯一金繰りを頼める相手である。いま札差に潰れ株でも出そうものなら、御家人、札差双方の内に溜まった不満が、一気に噴き出す恐れがあった。それも大店の笠倉屋が倒れたとなれば、江戸中が浮き足立ってしまう。 「新三郎」 「はい」 「書状を認《したた》める。すぐさま深川の喜八郎に届けてくれ」  居室に戻った秋山は、書き終わった書状に赤紙の短冊を挟み込んで封をした。      五  秋山の書状を、喜八郎は三度《みたび》読み返した。読み終えて巻紙に封をするとき、めずらしく溜め息を漏らした。嘉介と新三郎のふたりが喜八郎の言葉を待っていた。 「笠倉屋の話をわたしにも聞かせてくれ」  新三郎と喜八郎を秋山が引き合わせたのは、一昨年の九月だった。棄捐令の思案を喜八郎が話したあとで、秋山から耳役のひとりとして新三郎を預けられた。喜八郎より二歳年下の新三郎は、蔵前地着きの床屋である。年恰好、体付き、それに余計な言葉を端折る話し方のいずれも、喜八郎と新三郎はよく似ていた。髪結い職人が話すあらましを、喜八郎は口を挟まずに聞き取った。 「嘉介の考えはどうだ」 「新三郎と同じです。あの見栄っ張りの笠倉屋がそこまで始末するとは、よほどに詰まっているんでしょう」 「わたしに合点がいかないのが、まさにそのことだ」  嘉介と新三郎とが顔を見合わせた。 「一両以上は番頭預りというのは、一切の追い貸しをやめたと言い触らすも同然だろう」 「はい。昨日のうちに町内の札差には知れ渡ったはずです」 「笠倉屋の弁当は梅川の別誂えだと聞いた覚えがある」 「それは秋から年を跨いで梅雨の手前までのことです。いまの温気《うんき》には、橋場から職人が出張って蕎麦切りを打っています」 「蕎麦を打つって、笠倉屋のなかでかい?」  呆れ顔の嘉介の問いに、新三郎がそうですと目顔で答えた。 「梅川の弁当にしても蕎麦切りにしても、それを出すのが笠倉屋の見栄だったはずだ。わたしは四度しか笠倉屋とは会ったことがないが、あの男がみずからおのれの評判を貶《おとし》めることをするとは考えられない。さりとて新三郎が耳にしたことに間違いのあるはずもない。だとすれば、答えはひとつしかない」  嘉介と新三郎の膝が前に出た。 「潰す前に何かを企んでいるということだ」 「よく呑み込めません」 「あたしもです」  口を揃えたふたりに見詰められた喜八郎は、腕組みをして眼を閉じた。聞かせる話の道筋を整えているかのようだった。 「新三郎、おまえはなぜ笠倉屋がこの年を越せないと思ったのだ」 「借金を返せそうにないからです」 「幾らの借金がある」 「それは分かりません。噂は大金だというだけで、幾らとまでは聞こえてきませんから」 「確かめてみよう」  立ち上がった喜八郎は、奥から調べをまとめた帳面三冊と算盤を手にして戻ってきた。 「新旅籠町の表通りに面した、笠倉屋の敷地は四百坪ある。ほかに橋場に百坪。ここには総檜造りの二階屋が建てられている」  手にした帳面は、嘉介が京に上っていたときに喜八郎が指図して調べさせたものだ。 「去年までの蔵前で更地を買うには、坪三両でも周旋屋はありませんと言っただろう。いまは幾らだ、新三郎」 「両国広小路の角地が正月から売りに出ていますが、坪一両でも買い手がつきません」 「これほどの金詰りだ、土地代はさらに下がる。ということは、笠倉屋の沽券状は橋場と合わせても五百両に欠けるだろう」  言葉を切った喜八郎が、ふたたび帳面に眼を落とした。 「今年四月の調べでは、笠倉屋が日本橋大坂屋に預け入れてあるのは小判千二百五十三両に銀二貫三百となっている」 「たったそれだけですか」  嘉介のあとの言葉を喜八郎が眼で抑えた。 「去年の師走十日に、伊勢屋が振出した千六百両の和泉屋手形を組入れて、笠倉屋は年越しができた。四月に調べた折りの千二百両なにがしは、その残りだ。詳しくは福松さんに調べ直してもらうが、いまはさらに減っているだろう。伊勢屋からの借金というのは間違いなくこの千六百両のことだ。商いに厳しい伊勢屋がこの金詰りのなかで大金を用立てるからには、笠倉屋の身代を担保に取っているはずだ。ところが借り手の笠倉屋は、敢えて評判を落とすような振舞いに及んでいる。新三郎……」 「はい」 「笠倉屋の弁当取りやめを伊勢屋が知るまでに幾日かかる」 「もう耳に届いていると思います」 「だとすれば嘉介、伊勢屋はどうする」 「担保を押さえに……いや、そうじゃない……笠倉屋が手に入ると舌なめずりして、知らん顔を決めこむでしょう」 「わたしもそう思う。伊勢屋は熟れた柿が落ちるのを待つはずだ。笠倉屋にもそれは充分に分かっている。それでいてなぜ笠倉屋は、このたびのようなことをしたのだ」  ふたりは答えられなかった。 「棄捐令が敷かれてからは、あらたに札差株を欲しがる商人は大きく減っている。いま株を売りに出しても、五百両の値は無理だ。大雑把な算盤だが、いまの笠倉屋の値打ちは沽券状で五百両、株で五百両が限りだろう。それに加えて札旦那を幾らに取るかだが、棄捐令のあとで大きく追い貸ししているとは考えられない」 「………」 「伊勢屋からの借金が千六百両だとしても、利息がいる。伊勢屋のことだ、一割八分の利息を加えれば……」  帳面を置いた喜八郎が器用に算盤を弾いた。 「千八百八十八両だ。伊勢屋に隠れて借金しようとしても、この不景気だ。いまの笠倉屋の担保で、二千両の金を融通する金貸しはいない」 「そうか……それは笠倉屋が一番分かっていることですね」  嘉介が大きな音をさせて膝を打った。喜八郎がふたりにうなずいた。 「土地の値や札差株がどれだけ値下がりしようとも、伊勢屋には何の痛みもない。手に入れる笠倉屋の札旦那が、年を重ねるにつれて大きな儲けを生み出すからだ。それは笠倉屋にも分かっている」  嘉介と顔を見合わせた新三郎も、いまではしっかりわけが呑み込めた顔つきだった。 「いまの笠倉屋は、伊勢屋に内証が知れることも、おのれの評判が地に落ちることも恐れていない」 「どうせ担保流れになるからと、開き直っているわけですね」 「それは少し違うぞ、嘉介。開き直るだけなら有り金を散財して、空《から》の身代を渡せばいい。弁当の始末などは無用だろう。評判が落ちることも厭わず、切り詰め算段をしているのは、あわよくば乗り切ろうとしているからだ」 「なるほど……言われてみればその通りです」 「ところがいまの笠倉屋に、尋常な手立てで二千両に届く金が作れるわけがない。わたしが案ずるのはこのことだ。笠倉屋は小判に屋号を極印したような男だ。捨て鉢になると、及びもつかない振舞いにおよぶ怖さがある」  算盤を膝元に戻した喜八郎が、窪んだ眼を嘉介にあてた。 「秋山さんも赤紙を挟んできた。すぐさまひとを集めろ」  嘉介はすでに立ち上がっていた。      六  二十日は夜に入っても雨がやまなかった。今戸町で四手《よつで》駕籠を降りたとき、笠倉屋が着た薄手の合羽からしずくが垂れ落ちた。 「なんだ、この駕籠は。往来を歩くのと同じぐらい濡れたじゃないか」 「安駕籠に乗りながら、そいつは聞こえねえよ。なあ、相棒」 「ちげえねえ。ろくな酒手も出さねえでぐずぐず言うんなら、ここで相手をするぜ」  明かりのない細道で駕籠舁《かごか》きに凄まれた笠倉屋は、急ぎ足で場を離れた。月初めまでの笠倉屋なら、雨降りの外出《そとで》には浜庄から屋根付きの宿駕籠を誂えさせていた。それがいまは辻で拾った四手だ。笠倉屋に駕籠賃がないわけではなかった。しかし、気持ちが辻駕籠に向かってしまう。そんなおのれに舌打ちをしながら庄之助の宿に入った。 「遅いじゃねえか、笠倉屋さん」  庄之助の口調がすっかり横柄なものになっていた。笠倉屋は返事もせずに長火鉢の手前に座り、庄之助と向き合った。 「こいつが弥助だ」  庄之助のわきに座った男が目だけを笠倉屋に合わせたが、あいさつは出なかった。 「何日か様子を見たうえでと言った割には、随分早いじゃないか。この前の夜から、まだ三日しか経っていない」 「なんだい笠倉屋さん、えらく機嫌がわるそうだな。弥助の見極め方が早《はえ》えから、気にいらねえってことかね」 「………」 「ひとつはっきりさせとくが、この仕掛けに素人の出る幕はねえ。元手だの何だのの、銭を工面するのはあんただが、仕切はおれだ。それで揉めるてえなら、この場で流すぜ」 「ああ、流そうじゃないか」  駕籠を出たところから腹立ち続きだった笠倉屋が、我慢が切れて売り言葉を買った。庄之助の眼が細く尖った。 「流しの相場は三百だが、あんたも銭に詰まってるだろう。弥助を引っ張り込んだ迷惑料込みで、二百で目をつぶるぜ」 「なんだ、それは」 「二百両で流してもいいと言ったんだが、聞こえなかったかね」 「戯《たわ》けたことを言うんじゃない」 「このまえの夜、あんたはだれを引っ掛けるかは言わなかった。相手は伊勢屋四郎左衛門てえ札差だろう」 「………」 「あんたはそいつから、義理のわるい借金を抱えて火の車だ。橋場はお手当てが届かねえんで拗《す》ねてるようだし、店は店で昼の弁当まで始末を始めたてえじゃねえか。うちらの稼業は、三日もあれば色々と調べがつくんだよ、笠倉屋さん」  渡世人を甘く見過ぎたと笠倉屋は悔いたが、話は転がり始めていた。  伊勢屋に蔵前から追い出されて生きるぐらいなら、たとえ獄門に晒されてもやりたいことをやる……そう決めたことだと思い返した笠倉屋が、庄之助に目を戻した。 「乗ってきた駕籠がひどくて腹を立ててたが、それを引きずってあんたに突っ掛かった。滑った口は勘弁してもらいたい」  わずか何日かの間に、ひとにあたまを下げるのが苦痛ではなくなっていた。 「呑み込んだよ。おれも言い過ぎたが、ことは命懸けだ。仕切はおれに任せてもらうぜ」  笠倉屋がうなずくのを見定めてから、庄之助が弥助にあごをしゃくった。長火鉢の向こうから、弥助が出てきた。 「贋小判を三千両欲しいと、そちらさんが言いなすったそうで」  弥助は爪で板を引っ掻くような、きいきいした声だった。笠倉屋は目だけでうなずいた。 「おたくの屋号を極印した平十郎小判てえのを親分に見してもれえやしたが、だれが打ちなすったんで」 「ひとに任せるわけがないだろう」  笠倉屋は小判の裏に、おのれの屋号を極印した。これが平十郎小判である。笠倉屋が目利きを済ませたということで、色里では並の小判以上に喜ばれた。しかし公儀通用金を勝手に傷つけたことで老中松平定信の激怒を買い、さきの棄捐令では厳しく仕置きされた。 「何枚ほど打ちなすった?」 「あんたにはかかわりのないことだ」 「笠倉屋さんよ」  わきから庄之助が口を挟んできた。 「いま言ったばかりじゃねえか。そんな喧嘩腰じゃあ、話がさきに進まねえ。弥助はわけがあって訊いてるんだよ、きちんと答えてやってくんなせえ」 「ざっと三千枚、いや、四千枚になる」  弥助が上唇を嘗《な》めた。行灯の明かりでもはっきり分かるほどに舌が赤かった。 「打つのに幾日かかりやした?」 「小判を傷つけずに極印するのは骨だった。一日に二十枚というところだろう」 「てえことは四千枚打ち上げたとして、ざっと二百日の仕事だ」 「いや、違う。あたしは一年がかりで極印した覚えがある」 「こまけえこたあどうでもいいが、あんたが言った通り、極印だけでも手間はかかる」  火鉢の銅壺《どうこ》から、弥助は庄之助に断りもせずに徳利を取り出した。手酌で満たした盃を呷《あお》っても、庄之助は好きにさせていた。 「笠倉屋さんは一枚の小判に、極印が幾つ打ってあるか知ってやすかい」 「いや、知らない」 「表には五三の桐紋がふたつに、金座後藤|光次《みつつぐ》やなんかで都合四つ、背には後藤やら金座の棟梁やらが少なくても五つだ。しかもそれらは、どれも別物ときている。そのうえに槌目だ。たとえおれが名人連中を束にして集めたとしても、三千枚を打ち上げるにはざっと二年の仕事だ。言っとくがこいつは、混ぜものをした地金をこさえるのとは別に、二年かかるということですぜ」 「………」 「腕を見込んでくれたのはありがてえが、それだけの数をこさえたら仕上りが雑になる。両替屋に持ち込むまでもなく、すぐに贋金だとばれちまうさ」 「なんだ、できないのか」 「ああ、小判じゃできねえ」 「……小判でなければできるのか」 「そういうことさ」 「とりあえずそこまでにしな」  庄之助が割って入ってきた。弥助の耳障りな声が消えて、笠倉屋がほっと息を抜いた。 「伊勢屋てえ奴は強欲かね」 「骨の髄まで欲で凝り固まっている」 「それじゃあ、儲け話には目がねえな」 「それは間違いないだろうが、簡単には乗ってこない」 「話に筋が通ってればどうだい」 「いまさらくどい。だからあたしは小判で引っ掛けようとしたんだ」  弥助と顔を見合わせた庄之助が、火鉢の向こうから身を乗り出した。 「さっきも弥助が話したが、あんたの企みじゃあ駄目だ。どれだけ相手を乗せたとしても、小判を和泉屋のような本両替に持ちこまれたら、その場でおじゃんになる。この騙《かた》り話ででえじなことは、贋金を他人の目には触れさせずに、てめえだけで抱え込ませることだ」  庄之助が目配せをすると、弥助が桐の箱を差し出した。受け取った庄之助が蓋を開けると、鈍く輝く大判が見えた。 「あんた、大判を持っていなさるかい」 「いいや、一枚もない」 「あんたほどの大尽が、一枚も持ってねえのはどういうわけでえ」 「あれは御家人連中が、上役への袖の下に使うものと相場が決まっている。あたしら札差には役人が擦り寄ってくるんだ、もらうことはあっても使うことはない」  笠倉屋が胸を反らした。幕府は一両小判と一分金を基準通貨と定め、このふたつは常に同品位で鋳造した。大判は家康が鋳造を命じた慶長大判から、流通貨幣としてではなく恩賞・贈答貨幣として用いられてきた。ゆえに一枚、二枚のように、単位は枚で数えられた。 「伊勢屋はどうだい」 「たしかなことは知らないが、あたし以上に大判なんぞに用はないだろう」 「なら、決まりだ。大判の贋金でいくぜ」 「いきなり言われても呑み込めない」 「大判一枚で七両二分の値打ちだ、三千両こさえても小判よりは少なくて済む」 「それは駄目だ。伊勢屋が二千四百両もの金を大判で受け取るわけがない」 「いいや、筋の通った儲け話をこさえたうえだ、強欲なやつほど受け取るさ……なんだい笠倉屋さん、得心してねえな」 「するわけがないだろう。第一、大判の表には後藤の墨書《すみがき》があるじゃないか。だれが描くんだ、こんな絵のような文字を」 「飛びっ切り腕のいい印形屋にあたりをつけてあるさ。ついでに言っとくが、大判を入れる桐の箱も四百ばかり手を打った。細工は心配いらねえよ」  伊勢屋をだまそうというのに、なんという雑なことを……と、気落ちした笠倉屋が溜め息をついた。 「小判なら混ぜものをしても、なんとか黄金《こがね》色を保つことができるだろうが、そこにあるような大きなものを造って、どうやってそんな金色を出そうというんだ……たとえ墨書がうまくできても、伊勢屋は色を見ただけで見抜くに決まっている」 「あんたは自分の口で、大判は持ったことがねえって言ったじゃねえか」 「持ったことはなくても見れば分かる。あたしが調える元手は、七百両の金と二貫の銀だ。どれほど巧く造っても、とてもこの大判のような色味が出るわけがない」 「なにか勘違いしてねえかい。こいつが贋の大判だぜ」 「なんだと……」 「弥助の受け売りだが、仕上げのところで色揚《いろあ》げてえことをやるそうだ。薬を塗って焼きにかけて、金屑を束ねた楊枝で磨きをかけりゃあ、ぴかぴかの大判が出来るてえことさ」 「………」 「いつまでもそんな面《つら》をしてねえで、いいからおれの思案を聞いてみな」  弥助に注がせた燗酒を呑みながら、庄之助が話し始めた。数日まえ、嫌がる庄之助を笠倉屋が説き伏せたのと逆の成り行きだった。最初は斜めに構えて聞いていた笠倉屋が、締め括りでは正面から庄之助と向き合っていた。 「小判を溶かす炉はどこにある」 「余計なことは知らねえほうがいい」 「なにが余計だ。小判七百両に銀二貫を出すのはあたしだろうが。だいいち炉の在《あ》り処《か》が分からないで、金をどこに運べというんだ」 「七百じゃねえ、千両だぜ」 「それは分かっているが、三百は仕上がった大判と引き換えだ。手間賃の払いは、物と引き換えが商いの常道じゃないか」 「うちらに、あんたの仕来りは通じねえ。そうまで呑み込みがねえんじゃ、やっぱりこの話は流すかね」 「………」 「千両と銀二貫が届き次第、十一月の中頃までには三百枚の大判を仕上げると、弥助はおれに請け負った。伊勢屋との掛合いに使う見本二十枚は、月末《つきずえ》までにはあんたの手元だ。金の運び所が分からねえてえが、あんたがてめえで運び込む気かい?」 「こんなことを、だれかに任せられるわけがないだろうが」 「どうやって運ぶんだ、千両に銀二貫を。四手に乗せて幟《のぼり》を立てて、蔵前から見せびらかしながら来ようってのかね」 「………」 「これは素人が出しゃばることじゃねえと、端《はな》にそう言ったぜ。あんたがやることは、一日も早く溶かす元手をこさえることだ。両替屋から銭が届いたら、使いでも飛脚でもうちに飛ばしてくんねえ。目立たねえように引き取る算段は、おれがやる」  大判の入った桐箱を、庄之助が長火鉢の端に押し出した。 「あんた、小判大判の目利きができて、口の固《かて》え両替屋と付き合いがあるかね」 「そんな者は幾らもいる」 「だったら、これを持ち帰《けえ》って見してみねえ。それでうまくいきゃあ、あんたも得心がいくだろう」  それを談判しようと考えていた笠倉屋は、相手から切り出されて顔が緩んだ。 「分かった。うまく行ったら金は調えるが、もしも気付かれたらどうする」 「町場の両替屋に気付かれるような仕事じゃあ、おれも所帯を張ってられねえ。そんときはおれの名を口にすりゃあいい」  笠倉屋の三白眼が大きく見開かれ、何日かぶりの笑いが浮かんでいた。      七 「たった今、厨子《ずし》を背負った六部《ろくぶ》(巡礼)ふたりが笠倉屋の裏口にへえっていきやした。辰平が今戸町からつけてきたそうです」  階段を駆け上がってきた棒手振《ぼてふり》の平吉が、ひたいの汗を拭いながら伝えた。 「やっぱり来たか」  雨戸が一枚だけ開かれた新三郎の宿の二階で、源助と俊造とが顔を見合わせた。 「笠倉屋には何人へばりついてんだ」 「表にふたり、裏口に辰平とあっしです」 「その六部は、九分九厘、大坂屋が運び込んできたものを今戸町に持ちけえるだろうが、念を入れてたしかめてえ。出てきたら勝次に追わせて、そのうしろに辰平をつけろ」 「がってんで」  平吉が音を鳴らして階段を降りていった。  五日まえの七月二十日から源助をかしらにした探り連中が、新三郎の宿を根城にしていた。初日、雨降りのなかを笠倉屋が四手を拾って外に出た。町飛脚の俊造と駕籠舁きの寅吉が、雨のなかを今戸町まで追った。  笠倉屋が入った宿を見定めた俊造は寅吉をその場に残して、吉原、今戸町界隈を扱う飛脚仲間から、宿主のあらましを聞き込んだ。 「笠倉屋の出向いた先は、五色石の庄之助てえ名の賭場でした」  翌朝、新三郎が出るまえに戻ってきた俊造は、聞き込んだ話をふたりに聞かせ始めた。 「笠倉屋は、とことん懲りねえ野郎だな。弁当まで始末する片方で、鉄火場通いかよ」 「親爺さん、それは見当違いかも知れねえ。寅の話じゃあ、その夜はだれも客を入れなかったてえんだ」 「この不景気だ、時化《しけ》もあるだろうさ」 「いや、そうじゃねえんで。何人か、旦那風のが宿に入ろうとしたらしいんですが、みんな玄関先で追い返されたそうなんで」  源助は新三郎の口から伝えさせて、喜八郎に判断を預けた。 「しばらくは庄之助と笠倉屋の両方に目を配ろう。遠からず動きがでるはずだ」  喜八郎の指図で、今戸町にもひとを置くことになった。幸いにも庄之助の宿につながる細道の角に、商い休みの焼き芋屋があった。持ち主との掛合いは嘉介がまとめた。  なにごともなく四日が過ぎ、五日目の今朝、笠倉屋に動きが出た。四ツ(午前十時)前、下帯一枚の車力四人が取り囲むようにして引いて来た荷車を、笠倉屋に着けた。わきには、真紅の大坂屋半纏を着た手代ふたりが付き添っていた。  四半刻のうちに、笠倉屋から黒田屋の飛脚が飛び出した。それからさらに半刻後、今戸町を張っていた寅が駆け戻ってきた。 「町飛脚が届いたんですが、そのあとすぐに六部のなりをしたふたりが宿を出やした」 「飛脚は黒田屋だろう」 「え……なんで親爺さんが知ってるんで」 「もとは笠倉屋から出たやつさ。それで六部はだれが追ってるんだよ」 「青物売りの辰平でさ」 「そいじゃあ今戸町は空《から》かい?」 「へえ、その通りで」 「暑いなかを済まねえが、おめえは向こうに戻ってくんねえ」  瓶の水を柄杓《ひしやく》で二杯やったあと、寅吉は今戸町に戻って行った。 「どういうことだと思うよ、俊造」 「今朝方の大坂屋は、おそらく銭を運んできたんでしょうね。それも手代ふたりに車力が四人だ、半端なものじゃねえでしょう」 「だとしたら、六部はそれの受け取りだな」 「あっしもそう思いやすが、なんだってそんな手の込んだことをやるんで」 「大坂屋にも店の奉公人にも、銭の行き先を知られたくねえんだろうよ」 「やっぱり親爺さんが言った通り、あの夜の笠倉屋は博打でいかれたんですかね」 「ほかの客を追い返して、差しでかい」 「伊勢屋にけえす銭を、博打で稼ごうと焦ったのかも知れやせん」 「そいつはねえな。おととい、古い馴染みに五色石のことを聞いてみた。いっときは中《なか》(吉原)の大見世旦那衆で賭場も盛ってたらしいが、ここんところは虫の息らしい」 「道理で宿が暗かったわけだ」 「笠倉屋が抱えた伊勢屋への借金は、あらかた二千両だてえじゃねえか。とてもじゃねえが、いまの五色石に二千両の盆は受けられねえだろうさ」 「だったらなんでしょうね」 「おれの知恵じゃ解けねえ。読み通り六部が笠倉屋に来たら、おれは蓬莱橋に行ってくる。おめえもあとで来てくれ」  こんな話をしていたところに、六部が裏口から入ったと平吉が伝えてきた……。  白装束の巡礼ふたりが、重たそうに厨子を背負って歩いていた。二日前に雨が上がり、地べたはすっかり乾いていた。真夏の昼下がりで風がない。真上から照りつける陽が、短くて濃い人影を六部のうしろに描いていた。  その影から四半町(約二十五メートル)下がって、魚売りの勝次がいた。杖を突き立てて歩く六部の歩みが鈍《のろ》い。急ぎ足しか知らない勝次は調子が合わなくて、しきりに汗を拭いながら追っていた。  吾妻橋を過ぎると、御蔵前通りの道幅が狭くなった。ここから日本堤までは寺町が続く。両側に並ぶ白壁からの照り返りで、勝次の顔が汗まみれだ。人通りが減って、あとをつけるのが難儀そうだった。  壁が切れた辻に、冷や水売りが出ていた。六部には売り声もかけなかったが、あとの勝次には愛想笑いの顔を向けた。 「どうだいにいさん、ひやっこいのを一杯……なんだ、勝次じゃねえか。おめえ昼間っから、こんなとこでなにやってんだい」  辺りをはばからない親爺の声で、さきを行く六部が振り返った。舌打ちをした勝次は、すぐあとをついてきた辰平に、さきに行けと目顔で示した。辰平は知らぬ顔で冷や水売りのわきを行き過ぎた。 「とっつあんに声をかけられたんじゃ、素通りはできねえや」 「あたぼうさ、白玉をおごっといたぜ」  手桶から汲み入れた水に、白玉を浮かべた茶碗を彦六が差し出した。勝次は四文と引き替えに茶碗を受け取ると、一気に飲み干した。 「なんだって彦六とっつあんは、おれのさきを行った六部に声をかけねえんだよ。あいつらなら、一遍に二杯売れたかも知れねえぜ」 「ばかいうんじゃねえ、六部なもんかよ。あいつらあ渡世人だ」 「渡世人だって?」 「おめえ、それも知らねえであとをつけてたのかい。いま通り過ぎてったのは、青物売りの辰っぺだろうが」 「………」 「神楽坂がお得意先のおめえと辰が、渡世人が化けた六部のあとをつけてるてえのは、なにかわけがありそうだな。ひとをつけるのは、素人には荷が重いだろうよ。おれでよけりゃあ、力になるぜ」 「ありがとよ、そんときは頼みに行くぜ。宿は先《せん》のところから変わってねえな」 「ああ、高橋《たかばし》から動いちゃあいねえ」 「とっつあん、こいつはよそで漏らさねえでくれよ」 「だれにもの言ってやがる」  睨みつける彦六に軽くあたまを下げて、勝次は駆け出した。新旅籠町から、のろのろ歩きを強いられてきた勝次は、小気味よさそうに駆けた。辰平には九品寺の角で追いついた。  すぐ先で道が二股に分かれており、左に行くと吉原につながる日本堤、まっすぐ行けば山谷堀に架かった今戸橋を渡って橋場に入る。その分かれ道で六部が二手に割れた。今戸町に戻ると思い込んでいたのか、辰平が慌てた。 「ひとりは今戸町にちげえねえ。おれはそっちを見るから、勝は山谷堀に行くやつを追ってくれ」 「がってんだ」  今戸橋を渡った六部は、右に折れて大川端の土手に上った。照りつける陽に焦がされて、草むらから陽炎が立っていた。五町先にある白髭の渡し場からの客が、群れになって歩いて来た。  これだけひとが歩いてりゃあ、気付かれることもねえ……寺町から気を張り続けてきた勝次が、立ち止まって手拭いを広げた。拭いたそばから汗が噴き出してくる。土手のわきに寄った勝次は、顔と首筋を忙《せわ》しなく拭った。  さあ、追うぜ……と気を張り直した勝次の顔色が変わった。手拭いを使うので目を離したわずかな間に、半町も離れていなかった六部が消えていた。右手は大川に降りる土手の草むらが続いている。勝次は懸命に目を凝らしたが、どこにも白装束は見えなかった。  左手下には棟割長屋の屋根が連なっていた。土手の石段を駆け下りた勝次は、長屋の路地に飛び込んだ。  重なり合った屋根に陽が遮られた路地は、昼間でも薄暗かった。どの家の障子戸も開けっ放しだが、風が通り抜けない軒下の風鈴は、ちりんとも鳴らない。気怠《けだる》さが覆い被さった真夏の長屋を、勝次ひとりが走り回っていた。  路地から路地を何度か駆けてから、はっと勝次は我に返った。  番太郎に断りを言ってねえ……。  木戸番が昼寝をしていたのと、六部を見失った焦りとで、勝次は断りなしに長屋に飛び込んでいた。  急ぎ足で木戸口まで戻ったら、六部が立っていた。わきには唐桟縞のまえを開《はだ》けた渡世人風の男が並んでいた。 「ちょいと面《つら》あ貸しな」  二人に挟まれて、勝次は土手下の小さな稲荷の境内に連れ込まれた。 「おれっちに用かい?」  眼を細くした渡世人風の男が、きいきい声を出した。勝次は言葉が出なかった。 「おめえ、笠倉屋の雇われもんだな?」  厨子をおろした六部が、勝次の正面に立った。 「えっ……」 「驚くこたあねえ、ネタは割れてんだ。笠倉屋にどんな義理を抱えているかは知らねえが、素人が慣れねえ真似をするんじゃねえ。おめえがついて来てるのは、笠倉屋を出てすぐに分かってたぜ」  六部が人差し指で勝次の胸元を突いた。 「二度とこんな真似をしやがったら、話を流すだけじゃあ済まねえ……親分がそう言ってたと、笠倉屋にきっちり伝えときな」  六部と渡世人風の男は振り返りもせずに境内を出た。ふたりが見えなくなると、勝次の腰が砕けた。      八  秀弥に身振りで示されて、屋根船の船頭が舫《もやい》を解いた。岸に残った秀弥と板長とが、離れる船にあたまを下げた。江戸屋裏手の船着場から一町ほど先で、堀は大きく左曲がりになる。女将たちが見えなくなると、探り働きの面々が腰をおろした。  舳先《へさき》に近い座の真ん中に喜八郎が座っていた。右の列には嘉介、新三郎、青物売りの辰平、小間物行商の清七、それに駕籠舁きの寅吉が並んだ。左には嘉介と向かい合わせに源助が座を取り、町飛脚の俊造、魚売りの勝次、呉服伺いの永吉、棒手振の平吉が座っていた。  この日の昼過ぎ、源助から話を聞き取った喜八郎は、考えをまとめるつもりで八幡宮に向かった。鳥居下の参道わきには、宮元の御酒所が出来ていた。葦簾《よしず》の隙間からこぼれた日差しを、神輿の鳳凰《ほうおう》がキラキラと弾き返している。  通りを隔てて立った喜八郎にも、神輿の輝きが見えた。暑いさなかに半纏をきちんと着た神輿番がいた。向かいには、赤|矢絣《やがすり》のひとえにぼたん唐草の塩瀬帯を締め、三つ巴紋の描かれた団扇を手にした秀弥が座っていた。通りを渡る喜八郎の足がわずかに速くなった。  気配を感じたのか、秀弥が喜八郎の方に目を向けた。大きな瞳が艶を帯び、すぐさま立ち上がると喜八郎に近寄った。 「お参りですの?」 「そんなところです」 「いつもよりお早くありませんか」 「思案をまとめようと思ったものですから」 「ご一緒させていただくのは、お邪魔でしょうか?」 「わたしは構いません」  神輿番に会釈を残した秀弥は、喜八郎に並びかけるようにして鳥居をくぐった。  真夏の木洩れ日が、参道の石畳にくっきりとふたつの人影を映し出した。左側の短い影が、弾むように石畳を滑って行く。石段を登る影は、重なり合うほどに寄り添っていた。 「清次郎のことでは、ほんとうにお世話をおかけいたしました」 「幾分かでも、返しができたのであれば何よりです。清次郎さんたちはうまくいっていますか」 「清次郎の盛付に、艶めいた華やぎが加わってきました。所帯を構えるのもいいものだと思えてしまいます」  声が甘えていた。木陰で歩みを遅くした秀弥のわきに、喜八郎も立ち止まった。秀弥が喜八郎に向き直った。そよとも風がない。八幡宮の杜に繁る杉や橡《とち》の濃い精気が、喜八郎と秀弥を包み込んでいた。  向かい合ったふたりの間に、耳をつんざくほどの蝉時雨が割って入った。 「おまとめになる思案というのは、またむずかしいことなのですか」  清次郎の抱えた厄介ごとを片付けてもらったことで、秀弥は喜八郎との隔たりを詰めたがっているかのようだった。しかし、ぶしつけな問いを恥じたのか、気まずそうにあとの口を閉じた。 「いささか厄介です。今夜あたり、ひとを集めることになりそうです」  窪んだ眼で相手を見た喜八郎が、みずから踏み込んだ答え方をした。秀弥の黒目が大きくなり、胸のまえで団扇を両手抱えにした。 「それなら、なにとぞうちの屋根船をお使いください」 「………」 「船頭は耳が不自由ですから、お案じになるのはご無用です。みなさんにお返しができれば、清次郎もどれほど気持ちが楽になりますことか」 「分かりました、甘えさせていただきます」  秀弥と清次郎なら、下働き連中の顔が割れても案ずることはない……探り連中の呼び集めには嘉介が走った。  七月二十五日、長い夏の陽が沈み切った五ツ(午後八時)に、酒肴が調えられた屋根船が大川に出た。  いつもの七月下旬なら、屋根船や猪牙舟《ちよきぶね》、それに物売り舟で大川が埋まる。ところが今年の様子はまるで違った。  いろ鮮やかな提灯を吊るした船影が、ほとんどなかった。川面の闇は深く、明かりを倹《つま》しくした両岸も暗い。左岸の松並木も、いまは闇に溶けていた。  目立つことを嫌った屋根船は、提灯を間引きしていた。が、明かりは足りなくても酒肴の味を損ないはしない。仄《ほの》かな灯のもとで酒が進んでいた。箱崎河岸を過ぎたあたりで、喜八郎が盃を置いた。 「野市屋の福松さんに急ぎ調べてもらったことだが、笠倉屋は小判千両に銀二貫を大坂屋から引き出したそうだ」  徳利と盃が膳に戻されて、みなの目が喜八郎に集まった。 「六部のことは、わたしも源助が判じた通りだと思う。大坂屋の金はすべてが今戸町に運び込まれたはずだ。それは新三郎の話からも明らかだが、笠倉屋の手代がこぼしたことを、もう一度みなに話してくれ」 「承知しました」  新三郎が座り直した。上背のある新三郎は、並んで座っていても肩ひとつ分高かった。 「きょうの店仕舞い近くなったころ、笠倉屋の古い手代が膨れっ面で入ってきました」  愚痴を言った手代の名は三木ノ助といった。  朝四ツに着けられた大坂屋の荷車には、分厚い樫板の四隅を鋲打ちした、錠前つきの箱が載っていた。店に運び込まれた箱の錠前ふたつを、付き添いの手代が別々の鍵で開いた。取り出したのは二十五両包で千両と、常是包《じようぜづつみ》の銀二貫だった。  急に追い貸しの番頭預りや弁当取り止めなどを言い渡されて、店の先行きに不安を抱いていた矢先だっただけに、運び込まれた大金を見て奉公人は喜んだ。  なかでもこの日の昼、内藤新宿の蔵宿師と厄介な掛合いを控えていた三木ノ助は、安堵もひときわ大きかった。  ところが番頭には、にべもなく拒まれた。 「あれは旦那様のご都合で使われるもので、おもて(店)には一切かかわりのない金だ」  三木ノ助は一両の追い貸しも許してもらえず、蕎麦切りも出せずで、蔵宿師には散々に脅かされた。 「そんな次第ですから、大坂屋の金は一両残らず六部が運び出したに違いありません」 「勝次を脅した連中の振舞いを見ても、連中には笠倉屋とことを構える気はない。そうでなければ、勝次は無傷では済まなかった」 「そんな……いざとなりゃあ、おれだって相手をただではけえさねえって」  乏しい明かりのなかでも勝次の黒々とした眉は、はっきりと分かる。それを逆立てて息巻く勝次を、みんなが笑いで抑えこんだ。ひとしきり騒がせてから喜八郎が話に戻った。 「千両の金を六部が庄之助の宿まで持ち帰った。手代の話からも明らかな通り、笠倉屋と庄之助は示し合わせている。分からないのは、渡世人と札差が組んでなにを企んでいるか、だ。寅吉、庄之助の宿の動きはどうだった」 「六部ふたりが別々に戻ってきたあと……あれは七ツ(午後四時)の鐘から間もなくだったと思いやすが、抱茗荷《だきみようが》紋の半纏を着た手代が、でえじそうに風呂敷を抱えてへえっていきやした。出てきたときは手ぶらでやしたが、ひとの出入りはそれっきりでさ」 「嘉介、紋で店《たな》の見当はつくか」 「宿に戻って調べてみます。いずれにしても渡世人の宿に出入りする商人ですから、大店ではないでしょう」  喜八郎がうなずいた。が、眼の色がなにかひっかかるものを残していた。 「笠倉屋は間違いなく追い詰められている。御上から株を許された札差が、渡世人とかかわりを持っているのがなによりの証《あかし》だ。しかし、いまのところなにを企んでいるかの見当はつけられない。暑いさなかにご苦労だが、より一層の目配りが必要だ。源助、手数《てかず》は足りているか」 「ぜえたくいうつもりはねえが、あとひとりふたり、跡追いのうめえやつがいればありがてえやね」 「嘉介、心当たりはあるか」  嘉介が返事をためらった。それを見て、散々にからかわれていた勝次が手をあげた。 「冷や水売りのとっつあんがいますぜ」 「だれだい、それは」  嘉介に問われて勝次が立ち上がった。 「なんだい、船が揺れるじゃないか。座ったままで話しなさい」 「へえ……じつは高橋に住んでる彦六てえとっつあんなんですが、おれと辰っぺが六部をつけてたのを見抜いたんでさ」 「おめえなら、だれだって見抜くぜ」  向かいの寅吉が雑《ま》ぜっ返したが、嘉介に睨まれて口をつぐんだ。 「だが勝次、おまえはどうして彦六さんがいいと思ったんだ」 「力を貸すっていわれたんでさ。とっつあんは水道橋が仕入れ場でやしてね、おれも辰も担ぎ売りを始めたとき、神楽坂の客を何軒も口利きしてもれえやした。彦六とっつあんならおめえも請け負えるだろ?」  辰平がせわしげにうなずいた。勝次と辰平の様子を見ていた喜八郎が、嘉介に眼を移した。 「明日にでも会ってみたらどうだ」  喜八郎の指図にうなずく嘉介の向かい側で、源助が手をあげた。 「おれも嘉介さんに付き合わせてもらいてえんだが」 「新旅籠町は大丈夫なのか」 「俊造がいればでえじょぶでさ……それより水売りは朝がはええんだ、高橋には夜明けめえに行ってきやす」  嘉介と源助が目を交わし合った。 「首尾よくいきゃあ、勝次のどじも帳消してえことだ」  真っ暗な大川に笑い声がこぼれ出た。      九  八月二日の八ツ半(午後三時)まえは、まだ暑い盛りだった。泉水に面した二十畳間の障子戸を一杯に開け放っても、首筋から汗がひかない。伊勢屋の座敷であるじと向き合った笠倉屋は、絹の汗拭いを放さなかった。 「暑さに加えて江戸中どこも金詰りだ。この夏の過ごしにくさといったら、並ではありませんな」 「あんたも詰まっているんだろう。宿師への弁当もやめたそうじゃないか」 「もう聞こえましたか……まったく不景気でいやになる。当節いいのは、川向こうだけでしょう」 「なんだ、川向こうというのは」  伊勢屋に問われて、笠倉屋が思いっきり渋面を拵えた。 「四月にひどい目にあった、深川ですよ」 「深川がどうした」 「このご時世に、浮かれ町内のひとつが神輿を誂えたそうです。十五日には宮神輿に町内のが加わって、大川わたりをやるらしい」 「それが蔵前まで聞こえてくるとは、大したものじゃないか。あんたが神輿に八つ当たりすることもないだろう」 「それはそうですが……あたしは深川と聞いただけでも奥歯がぎりぎりしてくるのに、伊勢屋さんは平気らしいな」 「いまさらあれこれ言っても仕方がない。それよりあんたの用向きはなんだ。朝方の使いが言うには、人払いをして欲しいとのことだったが、何事かね。ひとは寄せないが、障子は開けたままでもいいな」 「もちろんです。この暑さに戸まで閉めた日には息が詰まる」  笠倉屋が革袋を膝元に取り寄せた。上部が細皮紐の巾着になっている。紐には笠倉屋の家紋が象嵌《ぞうがん》された根付が付いていた。紐をゆるめた笠倉屋は、桐箱二個を取り出した。大仰な手付きで蓋を開けると、大判が出てきた。 「人払いをお願いしたわけが、この享保《きようほう》大判です。どうぞ手にとってご覧ください」 「大判がなんだというんだ、あたしは別に見たくもない」 「随分と渋い顔ですな……三千両の元手で千五百両の儲けになるんだが」 「そんな旨い話なら、あたしに聞かせるよりも、あんたが自分で稼げばいい」 「それはそうだが、伊勢屋さんにも儲け話のお裾分けができればと思ってね。こんどの話ばかりは、伊勢屋さんといえども聞こえてないはずだ」 「………」 「あたしにも伝手《つて》はある。それも、相当に御上の深いところにつながっている伝手だ」 「だったら、あんたがしっかり儲ければいい。分かっているだろうが、師走に受け取る二千四百については、一両たりとも札で受けるつもりはない」 「そうですか。そうまで気乗りがしないのなら、ここでやめにしましょう」  笠倉屋が桐箱の蓋を閉じた。相手の勿体ぶった物言いが癇に障った伊勢屋は、まるで気乗りしない顔で煙草盆を引き寄せた。  一旦は突き放して、笠倉屋に上目遣いをさせようと思案した伊勢屋だったが、笠倉屋はあっさりと片付け始めた。 「暑いなかをわざわざ来てくれたんだ、このまま帰すわけにもいかないだろう。まだ日が高いが冷やし酒でもどうだ」 「いただきましょう」  伊勢屋が酒肴を調えさせた。盃が重なり、四本目が空になると笠倉屋が座り直した。 「話を蒸し返すようだが伊勢屋さん、この大判の儲け話は元の素性が確かだ。新たな出銭が生じるわけじゃないし、あたしへの貸し金を充てるだけで三百両の儲けになる。どうだろう、話だけでも聞いてはもらえないかね」  盃をキセルに持ち替えた伊勢屋は、煩わしげに笠倉屋を睨みつけると、深く吸った一服を吐き出した。 「そこまで言うんじゃ仕方がない。聞かせてもらおう」  女中を呼び寄せた伊勢屋は、膳を片付けさせたあと、大き目の卓を用意させた。黒漆塗り一間幅の贅沢な拵えだ。  笠倉屋がふたたび享保大判を取り出した。泉水の向こうから差し込む西日が、卓の黒漆と大判の黄金色をくっきりと際立たせた。 「うちの札旦那に、御畳奉行の河田安衛門様がいます」 「あまり聞かないお役目だな」 「名前は奉行ですが、御作事奉行御支配の御家人で、七十俵五人扶持の大した家柄ではありません」 「お屋敷はどこだ」 「赤坂黒くわ谷です」  立ち上がった伊勢屋は、須原屋の寛政武鑑役職編を手にして戻ってきた。河田を確かめると、付箋を貼って武鑑を閉じた。 「あんたが人払いをさせたほどの話だ、ひとつずつ確かめながら聞かせてもらうよ」 「そうした方が、話が早いでしょう。続けてもよろしいか」  伊勢屋が目で促した。 「河田様の遠縁に、御膳奉行の川勝平左衛門様がおります。こちらは禄米四百俵に御役料二百俵を取る御家人様で、小日向馬場には三百坪のお屋敷があります」  言葉を切った笠倉屋は、伊勢屋が川勝を調べるのを待った。確かめ終えた伊勢屋の目の色が、わずかながら真剣味を帯びていた。 「御膳奉行というのは、諸国商人から禄米の数十倍もの付け届けを懐にできる、旨味の大きいお役目です。しかも御支配が御若年寄衆ですから、上《うえ》つ方《がた》で交わされる内密の話も耳に入ります」 「………」 「川勝様のお手元には、方々から付け届けされた大判が六百枚もあるらしい。それも元禄のご改鋳《かいちゆう》のあとに造られた、質のよい享保大判ばかりだそうです」  百年さかのぼった元禄八年、五代将軍綱吉の側用人柳沢|吉保《よしやす》らは、枯れそうになった御金蔵を充たす奇策を編み出した。それが元禄の改鋳である。  金に混ぜものを加え、二枚の小判から三枚の小判を鋳造した幕府は、五百万両にものぼる出目《でめ》(差益)を手にした。しかし質のわるい小判は商人から嫌われ、値打ちを下げた貨幣は物価の高騰を招いた。しかも基準通貨の品質をみずから劣化させた幕府は、御金蔵枯渇の憶測を生じさせ、公儀威信に陰りが出た。  元禄の改鋳から三十年を過ぎた享保十年、八代将軍吉宗は大判・小判・一分金の三金貨の品位を、元禄以前のものに戻した。様々な改革を将軍みずから指図して行ったなかのひとつである。金貨鋳造の前年にあたる享保九年には、百九名に限定した札差株組合も認めていた。  享保という年号は、札差にはことのほか意味深いものがあった。 「伊勢屋さんは、こんな落首を見たことがありますか」  笠倉屋が革袋の底から瓦版を取り出した。 『白河の清きに魚も棲みかねて、元の濁りの田沼恋しき』と刷られていた。  白河とは、老中松平定信の領地奥州白河のことであり、田沼とは賄賂政治の咎《とが》により失脚した前老中、田沼意次を意味した。 「よくできている。田沼様なら、間違っても棄捐令などは敷かなかっただろうし、不景気を招くこともなかったはずだ。こんな刷りものが江戸中に広まったら、松平様もおだやかではないだろうな」 「まさにそのことだ。川勝様が言われるには、金詰りのことが御上にまで届いたらしく、松平様はきついお叱りを受けたらしい」 「当たり前だろう。いまの落首じゃないが、土の中から田沼様に返り咲いてもらいたいぐらいだ」 「話はここからなんだ、伊勢屋さん。松平様は、締付けをゆるめようと決めたらしい」 「ほんとうかね、それは」  伊勢屋が大きく身を乗り出した。 「川勝様はそう言われた。景気を盛り返させるために、田沼様がやっていた印旛沼埋め立てを、もう一度始めるそうだ。これには二百万両の金を注ぎ込むということだ」 「印旛沼なら江戸から遠くはない。二百万両の金が投げ込まれたら、間違いなく景気はよくなるな」 「ところが大きな悩みがひとつある」 「なんだ、それは」 「金です。御上には金がない」  笠倉屋が謎をかけて黙った。伊勢屋はしばらく相手を見詰めていたが、問いはしなかった。両目を閉じて腕を組み、笠倉屋の謎を解こうとした。風が流れ込んできた。西日が揺れて、大判の輝きが伊勢屋の閉じた目を刺した。いきなり伊勢屋が目を開いた。 「ご改鋳をやる気だな」 「さすがは伊勢屋さんだ、呑み込みが早い」 「それでいつだ」 「定かな日取りは分かりませんが、近々ということで、遅くとも一年以内でしょう」 「どれほどのご改鋳になる?」 「川勝様のお話では、元禄と同じ出目だしを決めたそうです。この享保大判なら、ご改鋳で五割の増歩《ましふ》がつきます。三千両で千五百両の儲けとは、このことです」 「大判の元は川勝様か」 「そうです。御家人様でも増歩はもらえるそうですが、幾らなんでも六百枚の大判は出せない。そんなことをしたら、すぐさま勘定吟味のお取調べを受けます」 「ところが札差なら平気というわけだな」 「伊勢屋さんなら五百枚が千枚でも、和泉屋といえども文句はつけないでしょう。あたしは川勝様から、すべての段取りを預けられています。この師走までに、伊勢屋さんから借りた二千四百両分の大判を持ち込みます。増歩は五割ですから、大判一枚七両二分が、十一両一分になります」  算盤を運ばせた伊勢屋は、三度検算してから笠倉屋に話を続けさせた。 「あたしは一枚十両で二百四十枚を伊勢屋さんに渡します。こうすれば一枚あたり一両一分、締めて三百両の儲けになる」 「あんたは千五百両と言ったはずだ」 「川勝様の手元には、まだ三百六十枚が残っています。これを一枚八両で回します」 「八両だと……そんな額で、どうして川勝様が首を縦に振るんだ」 「いまも言いましたが、御家人様がご自分で大判を小判に取り替えるのは、色々とむずかしいことがある。一枚八両でも、三百六十枚なら二千八百八十両です。これだけの大金が人目を気にせず手に入れば、文句をつけるわけがない。掛合いはあたしがやります」 「あんたが請合う通りに運ぶなら……」  伊勢屋が忙しく算盤を弾いた。 「一枚三両一分の儲けとして、三百六十枚なら千百七十両……さきの三百両を加えれば千四百七十両、か」  算盤を膝元に戻した伊勢屋の喉が鳴った。 「なんであんたは、そこまであたしに儲けさせようとするんだ」 「世話になったお礼です」 「なにがお礼だ、ばかばかしい。蕎麦切り職人まで切り詰めたあんたから、見え透いた世辞なぞ聞きたくもない。正味のところで何を狙っているんだ?」 「この話がまとまれば、うちの身代を流さずに済む」  ふたりが見詰め合う形になった。が、伊勢屋がすぐに目を逸らした。 「分かった。ほんとうに百枚が運び込めたら、この話を受けよう」 「それで構いませんが、ひとつ大事なことを約束していただきたい」 「なんだ」 「このことは伊勢屋さんだけの胸に秘めてもらうということです。ご改鋳が表沙汰になるまでは、大判を本両替の連中に見せたり、小判に取り替えたりするのは、構えて慎んでもらいたい。おたくの一番番頭相手といえども、他言は固く無用です。少しでもこの話が漏れたら、あたしも伊勢屋さんも川勝様に斬られます」 「もとより承知のうえだ、こんな話をほかにできるわけがない。それより、あたしにも言い分がある」 「うかがいましょう」 「一年以内というが、あんたから大判二百四十枚を返してもらう師走には、まだご改鋳には至っていない見込みが大きい」 「それがどうしました」 「たとえあんたの借金が消えたあとでも、増歩が五割に届かなかったときには、不足分を払ってもらう。それは承知だな」 「結構です」  笠倉屋は二個の桐箱を残して帰った。薄闇が泉水にかかり始めたころ、伊勢屋は一番番頭の喜平次を座敷に呼び入れた。 「笠倉屋がおもしろいことを言いに来た」  ことの次第をすべて話したあと、喜平次に桐箱を開けて大判を見せた。夕暮れのなかでも、大判の輝きはいささかも落ちていない。 「話としては筋が通っているが、あの笠倉屋にしては、妙に欲のないのが気にいらない。まさかとは思うが、これが本物かどうかも分からない」 「そんな……よもや贋金などとお考えではございませんでしょうね。万にひとつ、これがいけないものでしたら、持っている旦那様の首が飛んでしまいます。うっかり和泉屋に目利きをさせるわけにも参りません」 「………」 「もしも迷っておいででしたら、旦那様のためにも店のためにも、なにとぞこの話はお断りください」  伊勢屋は夕空を見ていた。陽が沈み切ってはおらず、西空が鼠色と茜色のまだら模様を描いている。日暮れの様に見入っていた伊勢屋の顔が急にゆるんだ。 「ひとつ思案を思いついた」  喜平次が膝元まで呼び寄せられた。      十  祭まであと十日となった八月五日の昼下がり。喜八郎は本所の野市屋福松と八幡宮境内にいた。鳥居をくぐった参道わきの御酒所には、三基の宮神輿が飾られていた。  八月の深川には、ひとしずくの雨も降っていなかった。暑さは厳しいが雨なし天気に誘われて、御酒所まえには見物客が群れをなしていた。 「評判だけは聞いていましたが、見るのは初めてです。この三基とも十五日には、ひとに担がれるのですか」 「担ぐだけではなく、いたるところで神輿と担ぎ手に水が浴びせられます」 「あの総金張りの神輿に?」 「かしらに聞いた受け売りになりますが、海辺町から先では大川の水を掛けるそうです」 「黄金《こがね》に水を浴びせるなど、わたしどもには思いも寄らないことです」  両替屋はなにより金《きん》を大事にする。その金に川の水を掛けると聞かされて、福松が大きな息を漏らした。 「見終わったら、まえを代わってくんねえ」  人だかりの後から、尖った声が飛んできた。喜八郎と福松が御酒所を離れた。 「福松さん。ひとの耳が憚られますので、わたしの宿までご足労いただけますか」 「結構ですとも」  この日の昼前、喜八郎は仲町の辻で福松を出迎えた。朝方、使いを出して本所から出向いてもらったのだ。宿に向かうまえに、宮神輿を見たことがないという福松を富岡八幡宮に案内した。いささか煩わしい話合いの手前で、少しでも相手の気持ちをほぐしておきたかったからだ。  先夜の屋根船で寅吉から「抱茗荷」の紋を聞かされたとき、喜八郎は胸の奥底で引っ掛かりを覚えた。宿に戻り、紋帖で確かめると案の定、野市屋の紋が抱茗荷だった。  紋帖には駿河台の油商人浅野屋と、湊町の廻漕問屋岡本も、同じ紋主として載っていた。  野市屋福松とは十数年の付き合いである。人柄も互いに分かり合っており、喜八郎の頼みを受けた福松は、米屋に長男浩太郎を奉公に出したほどの間柄だ。  福松が渡世人相手に商いをするとは考えにくかった。しかし油屋や廻漕問屋は、さらに有り得ないように思われた。そのことを福松に確かめたかったのだ。  鳥居をくぐったふたりが通りを渡ろうとしたそのとき、喜八郎が呼びとめられた。振り返ると鳶の政五郎が、男連れで駆けてきた。 「そちらへ伺おうとしてたとこなんでさ。通りでなんだが、連れは町内神輿世話役の富蔵さんなんで……富蔵さん、こちらが喜八郎さんだ」  わずかに上背の勝《まさ》った富蔵が、喜八郎と会釈を交わした。その場の成り行きで、喜八郎も福松をふたりに引き合わせた。福松の生業《なりわい》を聞いて、政五郎の顔に弾みが浮かんだ。 「両替屋さんならなによりだ。ぜひとも一緒に話を聞いてもらいてえ」  政五郎には一方《ひとかた》ならず世話になっていた。喜八郎さんさえよろしければと、福松も承知した。四人は道々さしたる話もしないまま、喜八郎の宿に入った。おたけが麦湯を出し終わると、すぐさま政五郎が口を開いた。 「ことの起こりは、今朝方富蔵さんとこに、伊勢屋の番頭さんが訪ねてきたことなんで」 「蔵前の伊勢屋のことですか」 「その通りでさ。世の中狭いてえが、富蔵さんはあの伊勢屋と十年越しの付き合いがありやしてね……話を聞けば聞くほど、別の伊勢屋じゃねえかと思えてくるぐれえだ。済まねえが富蔵さん、自分の口であらましを話してくだせえ」  麦湯にひと口つけて、富蔵が話し始めた。蓬莱橋の架かる大横川の両岸には、老松が重なり合っている。時折り、富蔵の声を遮るほどに蝉時雨が流れ込んできた。しかし喜八郎、福松、政五郎の三人は膝をずらすこともせずに富蔵の話に聞き入っていた。  半刻近くも過ぎて、長い話が終わった。 「これが富蔵さんとこに届けられた大判だが、この手で触ったのは生まれて初めてでさ」  政五郎が桐箱の蓋を開けて差し出した。庭越しの陽が、黄金色を際立たせた。福松の目に力がこもった。喜八郎はその様子に気付いたが、なにも言わず富蔵に問いかけた。 「あなたが神田にいたときも、伊勢屋さんの寄進は大判でしたか」  富蔵はきっぱりと首を横に振った。 「末広がりの縁起をかつがれて、毎年八両を戴きましたが、使いやすいようにと三十二枚の一分金が祝儀袋に入っていました」 「それが今年に限って大判ですか」  富蔵が静かにうなずいた。わきの政五郎が、股引の膝をずらして喜八郎に近寄った。 「小判にもほとんど縁がねえってのに、大判もらっても始末に困っちまうんだ」 「よく分かります」 「なんであっしらみてえな者が大判を持ってるのか、きちんと話さねえことには頼みもできねえと思ってね。しかも伊勢屋にかかわりがあるてえことで、富蔵さんに長い話をやってもらったわけでさ」 「祭の費えに使えるように、両替の手伝いをすればいいのですね」 「面倒かけて済まねえんだが、その通りなんで。それを頼みにこようとした矢先に、通りで出会ったってわけでさ」 「よろしければ、てまえが両替させていただきましょう」  割って入った福松の言葉で、政五郎と富蔵が明るい目を交わし合った。 「お見受けしたところ、享保大判のようです。相場では七両三分を上下しておりますが、事情はてまえも伺いました。切り賃なしで七両二分、それに差し出がましいようですが、てまえからの寄進を二分加えさせていただき、八両丁度ということでいかがでしょう」 「そいつはありがてえ。町内肝煎に成り代わりやして、この通りでさ」 「ご承知いただけて、てまえこそ御礼を言わせていただきます。お持ちするのは、一分金三十二枚でよろしゅうございますか」 「そうしてもらえれば大助かりでさ」 「明日の昼までには喜八郎さんの手元にお届けしておきますから」  政五郎と富蔵は、重ねて礼を言ってから蓬莱橋を出て行った。部屋に残ったふたりの麦湯をおたけが取り替えた。手拭いでひたいの汗を抑えた福松は、大判の桐箱を膝元に置き、喜八郎と向かい合わせに座り直した。 「この大判は、野市屋が今戸町のお客様にお納めしたものです。箱の隅に、うちの焼印がありますから」 「やはり福松さんところでしたか」 「えっ……?」 「暑いなかを福松さんにご足労願ったのも、そのことをおうかがいしたかったからです」  ここまでの経緯《いきさつ》を喜八郎は手短に話した。聞き終わると、代わって福松が口を開いた。 「ご注文の口利きをされたのは、吉原の佐野槌《さのづち》という大見世のご主人です」  野市屋と佐野槌とは、ともに先代からの商いであった。佐野槌は日本橋の本両替だけでなく、野市屋にも為替手形の口を構えていた。佐野槌が手形を使っているということで、野市屋は大いに商いを助けられてきた。  そこのあるじから呼び出された福松は、享保大判二十枚の手当てを頼まれた。 「お話は佐野槌さんから頂戴しましたが、お納めするのは今戸町の庄之助さんという渡世人の宿だといわれました」 「………」 「そのような稼業の方との商いは気が進みませんでしたが、佐野槌さんも義理のある先の様子でしたのでお引き受けしました。しかし、どうしてもわたしは伺う気になれず、手代を差し向けました。寅吉さんが見た半纏は、間違いなくうちのものです」  喜八郎は眼を閉じて考え込んでいた。池の照り返りが揺れて、閉じた目蓋の辺りを光が行き来した。 「その大判は、福松さんが納めたものに間違いありませんか」 「どういうことでしょう」 「贋金ということはありませんか」 「なんですと……」  喜八郎が軽々しいことを言うはずもないことは、充分に分かっている。贋金と聞いて、福松の顔つきが険しくなった。 「なにか思い当たることでもありますか」 「笠倉屋が、大坂屋から小判千両に銀二貫を引き出したことを調べていただきましたね」 「もちろん覚えております」 「その金を笠倉屋は、庄之助の宿に運び込みました。福松さんが手当てした大判二十枚の代金は、笠倉屋から出たものです。この大判も笠倉屋が持ち込んだのでしょう」 「それであれば、うちから出たものが伊勢屋さんの手を経て、なぜここにあるかの辻褄が合います」 「分からないのは、どうして笠倉屋が渡世人を使ってまでして両替したのかです。大判を商いに使うのは稀でしょう?」 「稀というより、あり得ません。これが町人に入り用なのは、商人《あきんど》が御家人様に頼みごとをするときぐらいです。ゆえに市中にはほとんど出回っておりません。二十枚を手当てするのは手間でしたから」 「であれば、なおさら腑に落ちません。ひとつには、なぜ笠倉屋が渡世人を使ったのか。大坂屋にいえば済む話です」 「たしかにそうです。このたびも五枚は大坂屋から仕入れました」 「それに加えて、なぜ伊勢屋が受け取ったのか、です。伊勢屋が笠倉屋に両替させたとは到底考えられません。それこそ和泉屋にいえば済む話です」 「なにかひとに知られたくないわけがあって、伊勢屋さんが大判を欲しがったのではないでしょうか。それで笠倉屋を使った、と」 「それも違います。伊勢屋が欲しかったのであれば、寄進に使うわけがありません。福松さんも知っての通り、笠倉屋は大きな借金を伊勢屋に抱えています。大判は、返済の一部として笠倉屋が持ち込んだものでしょう」 「………」 「伊勢屋がわざわざ使いにくい大判を受け取るには、それなりの裏があるはずです」 「裏と申しますと?」 「なにかの儲け話だと思います。それを笠倉屋は渡世人と組んで仕掛けているのでしょう。わたしが調べたところでも、笠倉屋は相当に追い詰められています。真っ当に暮らしている者には、贋金造りなど思い及ぶわけもないでしょうが、笠倉屋は小判に屋号を極印した男です。捨て鉢になれば、贋金造りを思い付いても不思議はありません」 「………」 「伊勢屋は伊勢屋で、この大判が間違いないものかどうか試しているような気がします」 「言われていることが分かりませんが」 「富蔵さんが暮らす冬木に、かしらの政五郎さんがいることは、先月の祝言のことで番頭から耳にしているはずです。町場のものが大判をもらったら、どうすると思いますか」 「途方に暮れるでしょう。町内の両替商では大判を扱うことはありませんから」 「祭の寄進に大判を受け取った富蔵さんが、真っ先に相談するのは町内のかしらだと伊勢屋は判じたのでしょう。かしらなら、両替屋と行き来がある……伊勢屋はこう考えたはずです。両替屋が受け取れば、間違いのないものです」 「しかし喜八郎さん、もしもこれがいけないものだとしたら、ただ事では済みませんよ」 「それゆえに伊勢屋は富蔵さんに寄越したのです。富蔵さんなら、大騒ぎになるまえに伊勢屋に知らせるでしょう。そのときには、かしらも力を貸して、ひとの口を抑えに回ると読んでいるのかも知れません」 「それではまるで富蔵さんを、だしに使うも同然じゃないですか。今し方、富蔵さんから聞かされた伊勢屋とは、まるで違うひとの遣り口だ」 「そこがあの男の底知れないところです。それに……」  言葉を切った喜八郎を福松が見詰めた。 「深読みが過ぎるかも知れませんが、伊勢屋は政五郎さんがわたしのもとに来ることまでをも、折り込んでいるような気がします」 「まさかそこまでは……」 「わたしが政五郎さんと付き合いがあることも、伊勢屋は知っているはずです。祝言の場では一緒にいましたから」 「………」 「福松さんが言われた通り、両替屋が贋金を手にしたとなれば、ただでは済みません。儲け話に鼻の利く男だと思っているわたしをかかわらせることで、万一の騒ぎを防ごうと……伊勢屋なら、そこまでやります」  喜八郎の推量を聞くほどに、福松の顔が青ざめてきた。 「このたびのことでは、伊勢屋は蚊帳《かや》の外でしょう。渡世人を抱き込んだ笠倉屋の企みが、贋金造りでないようにと念ずるばかりです」 「分かりました。この大判を念入りに秤にかけて調べましょう」  福松が丁寧に桐箱の蓋を閉じた。      十一  八月七日は、八ツ(午後二時)過ぎから凄まじい驟雨《しゆうう》となった。  真夏に十日近く日照りが続いたことで、大川端の木々も庭先の草花も萎れかけていた。それらが水を得て生き返った。  どこの商家の店先でも小僧たちが天水桶のふたを開けて、雨水を溜めるのに精を出していた。四半刻ほどのうちに、大きな桶が見る間に雨で充たされてゆく。それほどに激しい降りだった。  が、雨はあっけなく上がった。分厚い雲が空の端々で千切られ、夏の陽光と青空とが戻ってきた。通りの其処《そこ》かしこにできた水溜りが、まだたっぷり力をためた日を照り返している。喜八郎と秋山は米屋の縁側で、緑に濡れた築山を見ていた。 「お茶をお持ちいたしました」  こどもの声を耳にして、ふたりが振り返った。菓子盆を運んできたのは浩太郎だった。 「旦那様は、御用があればいつでも参りますとのことです」 「その気遣いは無用だ。口を閉じて人払いを確かめるよう、政八に念押ししておけ」  秋山に言われて、浩太郎が神妙な顔でうなずいた。  一昨日、大判を持ち帰った野市屋福松は昨日の昼前、みずから喜八郎の宿に出向いてきた。話を聞き終えた喜八郎は新三郎の口を通して、この日、米屋で会いたい旨を秋山に伝えた。  このたびのことの元は、秋山の赤紙から始まっていた。調べ進むうちに、抜き差しならない局面が近そうだと判じた喜八郎は、日の高いことを承知のうえで、七ツ(午後四時)の会合を申し出たのだった。  話が微妙なものであるだけに、場所選びがむずかしい。思案の末、喜八郎は米屋と決めた。米屋なら、秋山は役目柄の見廻り先として人目への気遣いが無用だし、喜八郎も奉公人を気にせずに済むからである。 「伊勢屋が大判を寄進してきたことはお聞きですね」 「きのうの朝、新三郎から聞かされた。それから丸一日、おれも色々と思案してみた。おまえのいう通り、贋金にかかわる企みが進んでいるように思えてならん。それで野市屋の答えはどうだ」 「わたしの読み違いでした」 「なんだと……大判はたしかなものなのか」 「墨書がいささか汚れてはいたそうですが、享保大判に間違いないということです」 「だとすれば、一体なにを企んでおるのだ」 「笠倉屋は昨日も庄之助をたずねています。四半刻もおかずに宿から出て行きましたが、わたしにも今回ばかりは見当がつきません」  秋山は腕組みをして思案を巡らせていた。喜八郎もおなじ形で黙り込んだ。庭から流れてきた風には、築山に繁る緑の香りが含まれていた。 「喜八郎、いま一度あたまから浚《さら》い直そう。なにか見落としがあるやも知れん」 「分かりました。それが一番です」  喜八郎は覚えている限りのことを、なにひとつ端折らずに話した。勝次が引き入れた冷や水売りの彦六についても、漏らさなかった。  いまの時季、冷や水売りはどこに出ていても不思議はない。歳とは思えない足のよさを存分に活かした彦六は、庄之助のもとに出入りする飾り職人弥助のことを突き止めていた。 「飾り職人だてえが、銭があるだけ博打に突っ込むような半端職人らしい。もっとも腕の方は、小判師だった親父にきつく仕込まれたらしくて、そこそこには立つようだがね」  小判師……これを聞いたのが、喜八郎が贋金造りではないかと思い至ったもとだった。調べれば調べるほど、贋金にかかわる企みだと考えた方が辻褄が合っているかに見えた。  ところが福松が吟味した結果、大判は正真正銘の本物だった。いま、秋山にことの次第をなぞり返して話していても、喜八郎には贋金造りの企みにしか思えなかった。  一体、なにが違っているのか……。  見当のつけられない苛立ちで、喜八郎の掠《かす》れ声が微妙に尖っていた。話し終えたあと、秋山も喜八郎も押し黙ったままだった。  膝元の湯飲みに秋山が手を伸ばした。湯飲みを握る手の加減が滑ったのか、春慶塗の茶托がくるりと引っくり返った。秋山は手にした湯飲みに口をつけもせず、裏返った茶托を見詰めていた。 「そうか……」  秋山がいつになく大きな声を出した。 「喜八郎、見当がついたかも知れんぞ」 「えっ……なんでしょう」  喜八郎もめずらしく上擦った声を出した。 「伊勢屋を騙《かた》りにかけようとした笠倉屋が、逆に渡世人の騙りに嵌まっているとすればどうだ。これなら辻褄が合うぞ」 「まだうまく呑み込めませんが」 「大筋は、笠倉屋が贋金造りを庄之助に持ちかけたという、おまえの読みで間違いはないだろう。笠倉屋はそれの元手のつもりで、今戸町に千両もの金を運ばせたのだ」 「つもりとは?」 「庄之助には贋金を造る気は毛頭ない。その代わりに福松から大判二十枚を仕入れたのだ。喜八郎、大判は一枚幾らだ」 「福松さんから聞いた限りでは、相場次第で七両三分の上下だそうです」 「仮に八両だとしても、二十枚で百六十両に過ぎん。千両以上の金を騙り取った庄之助は、あたかも贋金だと見せかけて、本物を笠倉屋に渡したのだ。笠倉屋はそれを伊勢屋に持ちこんだ」 「それです……お見事です、秋山さん。それならすべて腑に落ちます。騙りに遭ったと分かっても、笠倉屋は奉行所に訴え出ることもできません」 「そんなことをすれば、一族もろとも仕置場行きだ。ごろつきを雇い入れて掛け合おうとしても、相手はもともとが渡世人だ、負けることはないだろう」 「本来であれば、こんな裏の荒事こそ頼みになる伊勢屋ですが、笠倉屋にはそれができない……渡世人の方が何枚も役者が上手《うわて》です」 「たしかなところは分からぬが、およそこれが粗筋と考えて間違いはないだろう」  顔を見合わせたふたりが、交互に深い息を吐き出した。 「ひとまず贋金騒動を案じなくても済みそうですが、このままでは笠倉屋が潰れてしまいます」 「これまでの悪巧みとは質が違う。もしもこちらの読み通り天下の通用金に手出しを考えていたならば、おれが潰す」 「笠倉屋のような大店の札差を潰したら、秋山さんが咎めを受けませんか」 「構わん。ことの次第が詳《つまび》らかになったあと、笠倉屋が騒ぎ立てるようであれば、おれの手で斬り捨てる。なにがあろうとも、贋金造りを見過ごすわけにはいかん」  喜八郎が初めて見る秋山の厳しい顔だった。しかし茶を飲み終えたときには、いつもの秋山に戻っていた。 「これ以上ことが進まないうちに始末をつけましょう。わたしは伊勢屋から始めるのが得策だと思います」 「まずはそこだろう。めずらしく伊勢屋が裏で糸を引いてないようだ、掛合いも難儀せずに済むだろう。どうする、おまえがやるか」 「いや、政八さんに任せましょう」 「政八にだと……なぜだ」 「わたしは秋山さんのためにも、できれば穏便に片付けたいのです。さりとてわたしが出て行ったのでは、闇に葬り去りにきたと伊勢屋は思い違いするでしょう。穏便にとは言いましたが、一方では厳しいけじめが必要です。ここは会所肝煎役として、政八さんがことに当たるのが一番です」 「分かった。おまえに任せよう」  立ち上がった喜八郎は、政八を呼びに部屋を出た。      十二  米屋から御蔵通りを戻る伊勢屋の歩みは速かった。小さな堀に架かった天王橋を渡れば、伊勢屋まであと三町だ。昼が近く、強い陽が真上にあった。  朝方、伊勢屋が髪結いに剃刀をあてさせた月代《さかやき》にも、深い三本のしわが刻まれたひたいにも汗が浮いている。真夏だというのに、伊勢屋は五つ紋の紋付に羽織を着ていた。それでも、あとに従う小僧の息があがりそうなほどに早足だった。  通りに打ち水をしていた小僧が、一町先の通りに目敏《めざと》くあるじを見つけた。 「旦那様が、お帰りでええ〜す」  小僧の甲高い声で、手のあいた手代たちが急ぎ足で出てきた。店先に戻った伊勢屋は、帳場の三番番頭を大声で呼び付けた。 「ざる一杯の塩を土間に振り撒くんだ。おまえたちもぼんやり突っ立ってないで、さっさと清めろ」  奉公人に当たり散らす伊勢屋の雪駄が、上がり框で引っくり返った。畳を踏み鳴らして奥に向かった伊勢屋は、尖った声で一番番頭の喜平次を呼び付けた。二階の談合部屋に上がろうとしていた手代と蔵宿師とが、顔を見合わせたほどの剣幕だった。 「うちで一番できのわるいこども(小僧)はだれだ」  余りに唐突なあるじの問いに、喜平次の口が開かなかった。 「余計な気を回しなさんな。腹を立ててはいるが、その子をどうこうするわけじゃない」 「それでごさいましたら、去年の秋口に参りました貞吉でございます」 「貞吉というのは、あの大きなこどもか」 「左様でございます。五尺七寸もございますが、物覚えがいまひとつでございまして」 「口上ぐらいは言えるだろう」 「へっ?」 「ひとをここに呼んでくる口上ぐらいは言えるだろうと訊いているんだ」 「長いものでなければなんとか」 「あたしが呼んでいるからと言いつけて、すぐさま笠倉屋を連れて来させろ。柄が大きくて少し足りないなら丁度いい。首に縄をつけてでも、かならず連れて来るようにと言いつけろ」 「かしこまりました」 「笠倉屋が顔を出したら、奥ではなく、二階の一番粗末な談合部屋にあげろ。そのあと一切、ひとを近づけるのは無用だ」 「……ですが旦那様、まわりの部屋では幾人もの宿師連中が掛合いをいたしております」 「だったらみやげでも何でも持たせて、さっさと追い返せばいいだろうが。それぐらいの気働きができなくて、よくも番頭が務まるもんだ。宿師を追い返したら、今日は客が入って来ないように店仕舞いにしておけ」  商いに厳しい伊勢屋が、みやげを持たせて宿師を追い返せだの、昼過ぎの店仕舞いなどと言うのはただ事ではなかった。奥から出た喜平次は、目の色を変えて貞吉を呼びつけた。半刻も経ずに、三白眼を鋭く尖らせた笠倉屋が店にやってきた。  笠倉屋は奉公人の案内も待たず、ずかずかと奥に向かい始めた。その笠倉屋のたもとを貞吉がつかんで引き止めた。 「そっちじゃありません。二階です」 「二階だと……うちに来るなりおまえは、首に縄をつけてでも連れて行くだの、歩みが遅いだのと言いたい放題だったが、あたしをだれだと思っているんだ」 「笠倉屋さん」 「まったくここの奉公人はどうなってる。だれか、わけが分かるものはいないのか」  たもとを強く掴まれて動きのとれない笠倉屋が大声を出した。が、だれも応えない。舌打ちを続ける笠倉屋の帯を引っ張り、貞吉が二階に押し上げた。  小僧が案内した部屋は、六月末に喜八郎を待たせた雪隠わきの六畳間だった。暑さで蒸されて、小便の臭いが濃く漂っている。その臭いと部屋の粗末なことで、笠倉屋が熱《いき》り立った。しかし貞吉はまるで取り合わず、障子脇に突っ立ったまま動かなかった。  ほどなく伊勢屋があらわれた。煙草盆を言いつけて貞吉を部屋から出した。煙草盆が届くまでの間、伊勢屋は尖りに尖った笠倉屋の目を知らぬ顔で受け流していた。盆が届き、伊勢屋が煙草を詰め始めると、待ち兼ねたように笠倉屋が口を開いた。 「たしかにこちらには、二千四百両の借金がある。すぐに来いと言われれば、用をわきに置いてでも顔を出す義理はあるでしょう。あたしも飛んで来た」 「………」 「だからと言って伊勢屋さん、まるで駆出しの宿師をあしらうような、この扱いはあんまりじゃないか」 「そうかね。あたしはこれでも手厚に過ぎると思っている」 「それは言い過ぎだ、聞き捨てならない」 「そうして息巻くあんたを見ていると、盗人猛々しいとはよく言ったもんだと思うがね」 「妙な当てこすりばかり言ってないで、わけを聞かせてもらいたい」 「わけを聞きたいだと……聞かなければ分からないほど間抜けなのか、それとも図太いのか……あの大判のことに決まっているだろう」 「お、大判がどうかしましたか」 「どうしたかは、あんたの顔に描いてある。あの話はご破算だ。貸した金一切合財は、両替屋が封印した小判の包で返してもらおう」 「………」 「あたしを嵌めたつもりだろうが、あの程度の騙りなら、米屋にも見透かされている」 「どうして米屋なんぞを引合いに出したりするんですか」 「米屋が見破って、御番所の秋山を巻き込んでいるからだ」 「あ、秋山さまが……」 「あんた、贋金造りは一族皆殺しになると知ってのことだろうな」  この日早朝、伊勢屋は北町奉行所御用便に叩き起こされた。届けられた差し紙には、四ツ(午前十時)に米屋まで出向くようにと記されていた。示し終えた御用便飛脚は、差し紙を挟箱に仕舞って伊勢屋を出た。  奉行所の召し出しとあれば、なにを差し置いても従わざるを得ない。身繕いを調え、紋付羽織の身なりで米屋に出向いた。ところが案内されたのは、薄暗い納戸のような部屋だった。しかも政八は、茶色の絣を着流して顔を出した。 「伊勢屋さんは、金に詰まっておいでじゃないですか」  政八が切り出した。四ツどきでも、すでに夏の暑さが部屋にある。紋付を着て汗を浮かした伊勢屋が憤《いきどお》った。 「ひとをこんなところに呼び付けておきながら、なにを言い出すんだ。そもそも、御番所がなんであんたのところに呼び出すのか、そのことから聞きたいね」 「秋山様が、伊勢屋さんのためを思えばこその、お取り計らいです。口汚いことを言ったりしたら罰《ばち》が当たりますよ」  言い終えて立ち上がった政八が、茶箪笥の引出しから桐箱を取り出した。伊勢屋の目が薄暗がりのなかで光を帯びた。 「こんな危ないものを使うとは、気はたしかですか伊勢屋さん」 「………」 「持ってきたのは喜八郎です。なぜ喜八郎の手元にあったのかは、伊勢屋さんが充分にご承知だと思いますがね」 「………」 「ことは天下の通用金にかかわることです。あたしも放っておくわけにはいきませんから、内々に秋山様にご相談しました。それが差し紙のわけです」  政八が吃《ども》りもせず、論語を素読みするような口調で話している。伊勢屋はのっけの怒りも忘れ、政八の目を見詰めて聞き入った。 「秋山様は札差から死罪人を出すことにならないよう、こころを痛めておいでです。これを限りに危ないことをやめるなら、目をつぶると言われました。伊勢屋さんの身のためです、すぐさまおよしなさい」 「………」 「金に詰まっているのなら、百でよければあたしが用立ていたしますよ」  丸顔の真ん中の、鼻の穴を膨らませるようにして政八が話を終えた。最後の言葉が伊勢屋に怒りを引き戻した。政八を睨みつけると、座布団を蹴飛ばすようにして立ち上がった。 「腹が煮え繰り返ったが、あたしは米屋にひとことの言いわけもしなかった。もちろん、あんたのことも言ってない。だが米屋の口から御番所の秋山に、ことがすべて通じているのは間違いない」  ことの顛末はすでに奉行所の知るところだと聞かされて、笠倉屋が震え始めた。 「御番所から詮議を受けることになったら、あんたに騙られた一部始終を話して、あたしは命懸けで身のあかしを立てる。業腹きわまりないが、ここはすぐさまやめればお咎めなしだといった、米屋の話を信じるほかはない。ことが呑み込めたら、とっとと帰って始末をつけることだな」  相手に構わず伊勢屋が立ち上がり、障子を開けた。一段と強い臭いが流れ込んできた。      十三  伊勢屋を飛び出た笠倉屋は、浅草橋のたもとで客待ちしていた辻駕籠を拾った。見るからに雲助づらの舁き手だったが、構わず乗った。ところが降りる段になると、案の定、酒手で揉めた。 「くそ暑いさなかに飛ばしたんだ、二朱っきりてえのはねえだろう」  下帯一枚の駕籠舁きが客に凄んだ。このところ何度か辻駕籠を使ってきた笠倉屋は、その都度幾らかの割増を払って治めてきた。が、気が荒《すさ》んでいるこの日は違った。 「このうえ欲しいなら、あとは腕ずくだ」  三白眼がふたりを見据えた。八ツ(午後二時)過ぎの陽を背に受けて、笠倉屋が仁王のように浮かびあがっている。駕籠舁きは捨て台詞を残して離れていった。  笠倉屋はその勢いのまま庄之助と向き合い、一気に捲し立てた。しかし長火鉢の向こうで、手下も呼ばずに話を聞いている渡世人は勝手が違った。 「伊勢屋がなにを言おうが、御番所の役人が脅そうが、好きにすりゃあいい。だがよう、その尻《けつ》をうちに持ち込んで、ここで息巻くのは筋違いじゃねえか」 「あんたの大判がもとで、騒ぎになろうとしているじゃないか。これのどこが筋違いだ」 「へええ、そうかい」 「なんだその返事は……構えて見破られることはない、とあんたは請け負った。それがこの騒動だ、どう始末をつけてくれるんだ」 「どうするつもりもねえさ。あんた、ほんとうにここから持ち出したものを渡したのかね。途中で妙なものに摩《す》り替えただろう」 「ば、ばかなことを言うんじゃない。この期におよんで開き直るつもりか。渡世人は立引《たてひき》が強いと聞いていたが、とんだ眼がね違いだったようだ」 「言ってくれるじゃねえか」 「あたしだけじゃなく、家内の首まで飛ぶかも知れないんだ、幾ら言っても言い足りやしない。ひとをこんな目に遭わせたあんたとは、これっきりにさせてもらおう」 「これっきりとは?」 「預けた金をそっくり返してもらうことに決まってるだろうが」 「どこが決まってるんでえ。預けた金とはなんのことだ」 「いい加減にしろ」  笠倉屋が目を剥いた。白目が赤く血走っている。しかし庄之助は眉ひとつ動かさなかった。さらに猛り狂い、腕を突き出そうとした笠倉屋を、庄之助が睨み付けた。閻魔も竦みあがりそうな目付きだった。腕をおろした笠倉屋が座り直した。 「どこかに行き違いがあるみてえだが、穏やかに話そうじゃねえか。あんた、大判が贋金だと、そう言われたのかい」 「伊勢屋はあたしに向かって、贋金造りは一族皆殺しにされると言い切った」 「それは聞いたよ。おれが聞きてえのは、伊勢屋はあんたが持ちこんだ大判を、贋金だと言ったかどうかだ」 「なにをぐずぐず言ってるんだ。じかに大判が贋金だと言ったかどうかなど、どうでもいいだろうが」 「いや、そこが一番でえじなところさ」 「なぜだ」 「あれは両替屋から買った、お墨付の大判だからよ」 「なんだと……」 「名の通った本所の両替屋から買ったと、そう言ったんだ、贋金なわけねえだろう。桐箱には、そこの紋が焼印してあったぜ」  唖然とした笠倉屋からは、二の句が出てこなかった。 「おれはあんたから、大判が欲しいと泣きつかれた。だからひとを頼んで、両替屋から仕入れたものをあんたに渡した。いいかい、おれはもう渡したんだ、ご大層に断らなくても、端からこれっきりの話だぜ」 「そんな白々しいでっちあげを」 「どこがでっちあげだ。おれが話して聞かせたことは、どれも裏のとれることばかりだぜ。両替屋に口利きしたのは、吉原《なか》の佐野槌てえ大見世だ。大判を持ち込んだ両替屋は本所の野市屋よ」 「そんなことは訊いてない。あたしが言ってるのは、千両の小判から造り出す手筈の大判のことだ」 「おいおい、笠倉屋さんよ。滅多なことは言いっこなしだ。なんでえ、小判を元手に造る手筈てえのは……あんた、贋金に手を出そうてえのか」 「なにをいまさら……」  笠倉屋がまたもや庄之助に腕を突き出した。 「小判では無理だが大判なら造れると、あんたがその口で請け負ったじゃないか」 「なにを請け負ったんでえ」 「いい加減にしろ、この腐れ渡世人が」  笠倉屋の怒鳴り声を聞きつけて、宿の若い者が飛んで来た。庄之助があごをしゃくって追い返した。 「おれも歳だ、物覚えが滅法わるくなっている。そんなに息巻いてねえで、はなっから話をなぞってみねえな。ところとっぱじ、おれも思い出すかも知れねえ」  笠倉屋がどれほど気を昂ぶらせても、庄之助は不気味なほどに落ち着いていた。が、相手の目を睨みつける双眸は、絹糸ひと筋のぶれもなかった。気圧《けお》された笠倉屋が、腕を膝に戻した。 「そこまで白《しら》を切るなら、忘れようのないことを選り抜いて話そうじゃないか。まずは金だ。元手ということで、小判千両に常是包の銀が二貫。これをあんたのところの六部ふたりが運び出した。いいか……六部が金を運び出すときには、番頭の芳蔵が立ち会っている。忘れたとは言わせないぞ」 「先を続けてくれ」 「あんたは三百両もの手間賃を吹っかけて、大判三百枚を造ると請け負った。伊勢屋に渡した二枚は、最初の仕上がりだと言われて受け取ったものの一部だ。そうだろうが」 「………」 「何度でも繰り返すが、これは忘れただの、思い違いだのというような話じゃない。読み書きを覚え立ての小僧ですらも、間違えようのない簡単な仕組だ。つい先日も、あたしがここに来て念押ししたことじゃないか……どうだ、思い出したか」 「それで話はおしめえだな」  庄之助がキセルを取り出した。羅宇《ラウ》は太く、火皿は並のものの倍はありそうだった。 「おとぎ話を聞かされて、思い出したかと言われてもそいつは無理だ……まあ待ちねえ、いまはおれが話す番だ」  庄之助に吸われて、刻み煙草が真っ赤になった。吸うときも吐き出すときも、眼は笠倉屋から離れなかった。 「おれが行かせた六部ふたりてえのが分からねえ。だからその先の、小判が千両だの銀二貫なんてえのもさっぱりだ。おれとあんたとのかかわりは、二百の小判を預かって大判二十枚を段取りした……それだけのことだぜ」 「ふざけるな。いまも言ったが、おまえが寄越した六部ふたりは、うちの番頭も見てるんだ。見てるどころか、背負ってきた厨子に、金を詰める手伝いまでやっている」 「それじゃあ訊くが、その六部がおれの手元に金を届けたところを見届けたのかい」 「よくもまだ抜けぬけと……六部云々は、両替屋にも奉公人にも気付かれないようにと、そっちが思い付いた手立てじゃないか」 「そう言うから訊いてるんだ。六部が運び出したてえ金が、おれのところに来たかどうか、あんたは見届けてねえだろう」 「ない」  笠倉屋が吐き捨てた。 「おれは六部なんざ知らねえ。千両も受け取ってねえ。だからおとぎ話だてえんだ」  話の終わりを告げるかのように、庄之助が太いキセルを長火鉢に打ちつけた。ぼこっと鈍い音が出た。 「あんたから頼まれた大判は渡し済みだ。あれが贋金だといちゃもんを付けるなら、そいつをおれが御番所に訴える。そのほかは、あんたが好きにやってくれ」 「このままでは済ませないぞ」 「だから好きにしてくれと言ってるじゃねえか。なんなら、贋金造りを頼んだのに相手がいうことをききませんと、笠倉屋の名で訴え出てやろうか」 「………」 「伊勢屋相手に、どんな絵図を描こうが勝手だが、おめえのような半端札差に義理立てして、贋金に手え出すほどおめでたくはねえ。おい、やっこ」  ひとこえで、若い者がすっ飛んで来た。 「笠倉屋さんがお帰りだ。芋屋の角で、駕籠を拾ってやれ」  笠倉屋が追い出されたのと入れ替わりに、弥助が入ってきた。庄之助は、狐色の小石をてのひらで転がしていた。 「今夜にでも笠倉屋を仕留めやすかい」 「いや、まだだ。石がそう言っている。それより弥助、おめえが脅しつけた抜け作だが、どうやら笠倉屋の犬じゃなさそうだ。だれの差し金かは知らねえが、妙な動きはねえか」 「余り見かけなかった水売りの爺さんが、時々辻に立ってやしたが、この前の雨降りからは顔を見てねえ」 「水売りのことは、うちのやっこも言ってたがあれは年寄だ、どうてえことはねえ。ほかにはねえな」 「ありやせん」 「口を塞ぐのはいつでもやれるが、野郎のまわりを見極めるのが先だ。たかが千両ばかりの銭で、伝馬町送りになったんじゃあ引き合わねえ」 「………」 「笠倉屋の口を塞ぐまでは、気を抜くんじゃねえぜ」  小石を袋に戻す庄之助の向かいで、弥助が小さくうなずいた。      十四  八月十四日の夜空には、提灯なしでも歩けるほどの月があった。細縞の紺木綿を着流した二本差しが、六ツ半(午後七時)を過ぎて秋山屋敷を訪れた。  役宅に顔を出すために、八丁堀髷を結った喜八郎だった。吾助が庭伝いに喜八郎を案内した。居室の縁側では、秋山と娘の広乃とが語らい合っていた。引き締まった同心身なりの喜八郎を見て、広乃の口が小さく開いた。 「待っていたところだ。そこから上がれ」  喜八郎は庭への踏石に履物を脱いだ。すぐさま縁側に酒肴の膳が調えられた。秋山家のまわりは奉行所役人の組屋敷が連なる。商家の提灯もなく、民家の明かりもこぼれてこない界隈は、陽が落ちると闇になり物音も絶える。  しかしこの夜は違った。紫色の月光が庭の紅花を照らしており、大川を越えて微《かす》かな祭囃子が流れてきた。 「明日の八幡宮大祭には、御老中方も御見物なされることになった」  喜八郎の顔色がわずかに曇った。 「どうした、なにかあるか」 「いや、わたしも宮出しから担ぐことになりました」 「七年目にして、おまえも深川神輿に受け入れてもらえたか」 「はい……しかし御老中まで御越しになるのであれば、わたしは佐賀町までにします」 「どういうことだ。神輿の大川わたりは、その先ではなかったのか」 「今日の夕暮れまえ、新三郎の宿に笠倉屋の番頭が顔を出しました。明日は未明から、あるじの供だとこぼしていきました」 「それと神輿とが、どう繋がるのだ」 「笠倉屋は据わった目をして、富岡八幡の祭に出かけなければいけないと言い続けているそうです。このたびの始末にかかわる内々のご思案を、伊勢屋には話されたでしょう?」 「話した。おまえを呼んだのもそれについてだが、さきに続きを聞かせろ」 「明日、御老中が見物に来ることは知りませんでしたが、奉行の御越しは大方の町人が知っています」 「先例に従ってのことだ、知っていて不思議はない」 「伊勢屋はすでに内々の沙汰を笠倉屋に伝えたでしょう。気持ちの荒《すさ》んでいるはずの笠倉屋が、木戸が開かぬまえから出向くという祭には奉行がいます。しかもここ数日、堅気とはおもえない連中が笠倉屋を張っているようです。そのうえに重ねて、今年は御老中方までもがおられます。奉行所からは警護の方々が出張られますね」 「言うまでもない。四方を北と南が総出で固める手筈だ」 「御見物の座はどちらですか」 「大鳥居前に三段のひな壇を設ける。いまごろは、普請奉行の指図で徹夜の造作が進んでいるはずだ」 「わたしもその場にいることにします。嘉介が手配りは終えていますが、もしも笠倉屋が騒動を起こしたら、札差差配の秋山さんが一手に責めを負うことになりますから」 「そのことだが喜八郎、おれは与力を辞するかも知れぬ」  叢雲《むらくも》でも被さったのか、庭の月明かりが薄くなった。  八月十日の七ツ(午後四時)。秋山は猿屋町貸金会所に伊勢屋を呼び付けた。 「笠倉屋に沙汰を下すまえに、幾つかおまえに確かめておきたいことがある」  秋山は札差の生殺与奪を握る奉行所与力である。前置きもなしに切り出されて、伊勢屋の背筋がぴんと張った。 「笠倉屋が抱えた借財はいかほどだ」 「二千両でございます」 「利息は」 「師走限りの返済で四百両でございますが」 「それが調えられなくて、このたびの贋金騒動を引き起こしたわけか」 「………」 「言い分があるなら申せ」 「てまえの手元に残しました一枚を和泉屋に見せましたところ、あれはまぎれもなく本物の享保大判でございましたが……」 「分かっておる。笠倉屋は愚かにも、渡世人を抱き込んで贋金造りを企《くわだ》てていた。絡繰《からくり》の次第は、残らず奉行所の手で調べ済みだ」 「で、では米屋さんから聞かされたことは、まことでございますので」  伊勢屋の顔色が変わった。 「おまえの様子から察するに、米屋政八のいうことなどと高を括っていたらしいが、ことは公儀通用金だ。笠倉屋の企みに、よもやかかわりを持ってはいまいな」 「滅相もございませんです」  相手の息遣いが荒くなるほどに、秋山が睨みつけた。板の間に茣蓙《ござ》を敷いただけの粗末な広間で、伊勢屋のひたいに汗が浮いた。が、しっかりと秋山の睨みを受け止めていた。 「その言葉に偽りはないと承知しておく」  伊勢屋が大きな息を吐いた。 「笠倉屋は上《あが》り株(召し上げ)とするぞ」 「左様で……」  伊勢屋が口ごもった。札差株が奉行所預りとなった笠倉屋の家屋敷は、売りに出しても捨て値しかつかない。 「さりとて伊勢屋、猿屋町会所にすでに一万両を貸付けたおまえが、このうえ笠倉屋への貸金まで反故《ほご》にされては手傷が大きかろう」  思いがけず気遣いの言葉を聞かされて、伊勢屋が膝を動かした。 「まだ奉行にも吟味方にも話しておらぬが、内々の沙汰とはこのことだ」  秋山が袋とじの書状を伊勢屋に手渡した。『跡取のいない笠倉屋に、奉行所あて隠居願いを差し出させる。願書のなかで笠倉屋は、株を伊勢屋に譲りたい旨願い出る。株の譲り渡しについては、笠倉屋と伊勢屋とが相対《あいたい》の談合で済ませる』  これが書状の中身であった。 「贋金に手を染めようとした笠倉屋に、この先の公儀蔵米を扱わせることは断じてできぬ。しかしながら、いま札差を潰しては悪しき噂が広まり、奉行所みずからが世上を乱すことになる。笠倉屋は潰すが、あくまでも隠居願いとしての始末だ」 「………」 「笠倉屋に隠居金として三千両を払ってやれ。それで株も身代もおまえのものだ。ただし当面、屋号はそのままで商いを続け、奉公人も残す。笠倉屋は妻女ともども江戸|所払《ところばら》いに処し、蔵前には二度と立入り無用とする。どうだ、これで」 「お指図ではございますが貸金二千四百両を棒引きのうえ、さらに三千両の追い銭では算盤が引き合いません。奉公人をそのまま引き受けるのも、うけたまわりかねます」 「無理を強いるつもりはない。同じ思案をさきに聞かせた米屋は、ふたつ返事で引き受けると申しておる。明日にでもおまえが貸した元金二千両と、日割りで勘定した利息を調えるそうだ。笠倉屋の奉公人は筋がいいと喜んでおったが、おまえの算盤とは珠の滑りが異なるようだな」 「………」 「このたびの笠倉屋乱心も、もとはと言えばおまえに返済する金に詰まってのことだ」 「しかし秋山様、あれは真っ当な貸し借りでございます」 「もちろん承知だ。しかし江戸に二度と戻れぬ笠倉屋は、死ぬまでおまえを恨み抜くぞ」 「そんな……それではまるっきり逆恨みではございませんか」 「贋金造りに手を染めようとした男に、理屈など通るわけがあるまい」 「………」 「三千両を惜しんで米屋に株が渡ったことを知れば、おまえは最後まで薄情だったと、さぞかし笠倉屋は恨みを募らせるだろう。気を抜くと、笠倉屋の怨念に押し潰されるぞ」  ひととき考え込んだ末、伊勢屋はぜひともてまえにと株の買取を申し出た。秋山は一切の口外を厳しく禁じて受け入れた。 「吟味方筆頭の曾根崎殿は、宿直《とのい》がおれと同じ番回りだ」  役目を辞めるかも知れないと切り出した秋山が、一語ずつ区切るように話し始めた。庭の月明かりのように静かな声だった。 「昨日の真夜中近くに、米方の宿直部屋にやってきての……役所のなかで色々という者が多いと聞かされた」 「笠倉屋の一件をですか」 「番頭の芳蔵が火元ではないかと曾根崎殿は言っておったが、あるじを隠居に追い込んだ末に、株を伊勢屋に売り飛ばそうとしている、それを陰で指図しているのがおれだと吹き回っているようだ」 「それで秋山さんは」 「その通りだと答えておいた」 「………」 「役所うちでのおれの評判は、芳しいものではない。御家人の台所はどこも火の車だ、おれを恨みに感ずる同役は掃いて捨てるほどにいる。そこにこの風評が流れてきた」 「まことから懸け離れた噂です」 「だからこそいいのだ。贋金云々が漏れた日には大騒動となる。ここで辞すれば、おれを的にした風評も収まる。辞めろとの声は小さくないからの」  静かに立ち上がった秋山が、一枚の短冊を手にして戻ってきた。喜八郎が両手で受け取った。    吹かずとも    嶺の桜は散るものを    こころ短き春の山風  二度、三度と読み返してから、喜八郎の眼が秋山に戻った。窪んだ喜八郎の眼が深く沈んでいた。 「むかしなにかで読んだ歌だ。詠み人の気持ちが、いまのおれには痛いほどに分かる」 「………」 「奉行から直々に御世話役を申し付かった。あすは奉行とふたりきりになる場が多くあるだろう。祭から戻ったところで、御役御免を願い出るつもりだ。笠倉屋さえ短慮な振舞いに及ばなければ、渡世人や伊勢屋からはことが漏れるはずもない」 「笠倉屋はおまかせください」 「手荒な真似はするなよ」 「それは請け負えません。首が無事なうえに、隠居金まで手当てされても不服であるというなら、わたしが成敗します。秋山さんだけが職を辞するのは承服できませんから」 「それはならんぞ、喜八郎」 「………」 「すべては棄捐令に始まるのだ……あれが正しかったか否かは、のちの世が裁いてくれるだろうが、棄捐令がいまの金詰りを引き起こしたのは間違いない。商人は利を貪るのが生業だ、強欲であることは責められん。責められるべきは、法度《はつと》を具申したおれだ」  喜八郎に返せる言葉はなかった。 「ただし、これ以上笠倉屋が騒ぐのはまずい。明日は頼んだぞ」 「分かりました」  庭から煙が流れ込んできた。いわしを焼く強いにおいが含まれていた。 「広乃だ」 「広乃さんがどうかしましたか」 「幾日かまえに、七月の祝言の次第を広乃に聞かせたことがあった。それゆえかは知らぬが、おまえが来たら塩焼きにして食わせるのだと張り切っておった。手結は武家の娘がいわしを焼くとはと、眉をひそめていたがの」  次第に煙が濃くなった。揉まれる神輿のように、煙がゆるやかに動いていた。      十五  八月十五日、江戸は朝から晴れた。  六ツ(午前六時)の鐘が鳴り終わったところで、矢野柾徳兵衛が踏み台に乗った。 「待ちに待った本祭の朝がきました。しかも今年は、冬木から町内神輿が出せるめでたい年です。みんな、威勢は大丈夫だろうね」  上ずり声の問いかけに、揃いの半纏と鉢巻姿の担ぎ手が、うおおうと声を合わせた。あたまひとつ飛び出した仕立て職人順造のわきで、喜八郎も声を出していた。 「きょうは御番所のお奉行様だけでなく、お城から御老中方もおいでになるそうだ」  ふたたび担ぎ手が雄叫《おたけ》びをあげた。 「冬木の神輿を、江戸中に知らせる晴れの舞台だ。町内に帰ってきたときには、威勢なんざかけらも残ってなくていい。へとへとになって腰が立たないほどに、巡行で気合を出し切ってくれ。骨はあたしが拾ってやる」  御酒所が沸き返った。それを鎮めるように富蔵がまえに立った。 「うちの神輿はどこよりも大きい。永代橋を差し切り(持ち上げ)で渡って、冬木の威勢を見せつけようぜ」  富蔵が柝《き》を打たせて三本締めが終わった。担ぎ手が素早く神輿に肩を入れた。馬(神輿台)から神輿が、ぐいっと持ちあがった。 「わっしょい、わっしょい」  掛け声に合わせて神輿が揺れ始めた。まだ明け六ツだというのに、すかさず数十の手桶から担ぎ手めがけて水が掛けられた。しんがりで担いでいた喜八郎の半纏が、すでにびしょ濡れになった。  神輿の先頭に富蔵が立ち、辰巳芸者の手古舞が続く。打ち付けられた金棒が、チャリンと音《ね》を立てた。神輿が動いた。  五ツ(午前八時)の鐘が打たれているさなかに笠倉屋の戸が開かれ、小僧が打ち水を始めた。いつも通りの見慣れた札差の朝だった。ひとつだけ違っていたのは、あるじが通りに顔を出したことだ。番頭が付き従っていた。 「早く起こせと、あれほど念押しをしておいたじゃないか」 「お声をかけましたのですが、旦那様も御内儀様もご返事がありませんでしたもので」  不機嫌なあるじのあとを、言いわけしながら芳蔵が追っていた。大きな陽が浅草橋先の低いところを昇っている。橋のたもとで四手駕籠が客待ちをしていた。 「旦那、駕籠やらねえか」  嘉介に手配りされた寅吉だった。相肩には俊造が入っていた。 「深川八幡までだが行けるかね」 「あすこは今日が本祭だ。口開けの景気づけにはお誂えだぜ、なあ相棒」  俊造の返事に、ぎこちなさがあった。寅吉に目配せされて、あらためて「おうともさ」と声を出した。 「おまえは付いてこなくていい」 「ですが旦那様、きのうも申し上げました通り……」 「くどい。あたしひとりで行ってくる」  番頭の言葉を押し潰した笠倉屋が、酒手も決めずに駕籠に入った。垂れがおろされ、前後の梶棒に肩が入った。俊造の後棒が微妙に揺れながらも、駕籠が浅草橋の先に消えた。  気落ちした顔で店に戻る芳蔵のわきを、尻からげの男が駆け抜けた。さらに二町あとから駆け足で近寄ってきたふたりの男が、笠倉屋の先で芳蔵とすれ違った。  同じ五ツ頃、北町奉行所玄関わきに黒塗りの乗物が調えられていた。紺木綿のお仕着せ姿の五人が、顔が映るほどに磨いていた。 「奉行所出立は五ツ半にござります。永代橋橋番によりますれば、御老中乗物が渡り終えますのが四ツ(午前十時)ちょうどにござります。ことによりますと永代橋西詰にて、お待ちいただくことになるやと存じます」  秋山の説明に奉行が小さくうなずいた。 「八幡宮では宮司の富岡茂周より、祓《はら》いの儀がござります。そののち御休処におきまして煎茶および八幡宮膳部の賄いました饌席《せんせき》にお着きいただきます。これは御老中御席に、南町奉行と同席でござります」 「それはよいが、神輿見物はいつだ」  初鹿野《はじかの》河内守が北町奉行に就いたのは、八幡宮陰祭の年である。今朝の奉行は、いつも以上に秋山に気を許していた。初めて見る本祭を楽しみにしていることを隠さぬ奉行に、秋山がおもわず目元をゆるめた。  ひと通りの説明を終えたあと、役所帰着後、折り入っての話をさせて戴きたくと願い出た。奉行の眼が引き締まった。 「出立までには、まだ間があろう。構わぬ、この場で申せ」  思いも寄らなかった成り行きに、秋山の口が開かない。見詰めていた奉行が秋山を招き寄せた。 「大方の見当はついておる。秋山、御役御免の願い出であろうが」 「はっ……」 「一切、聞く耳は持たぬぞ」 「………」 「その方を讒訴《ざんそ》する声は、わしにも聞こえておる。だがのう秋山、ひとは内証に詰まると埒もないことを言い募るものよ。まともに取り合ったりせず、唐土《もろこし》の李白が言わるる通り馬耳東風と聞き流せ」 「過分のお言葉でござりますが……」 「どうした。存念あらば申してみよ」 「御奉行に具申いたしました棄捐令がもとで、江戸市中の金詰りと札差の締め貸しを引き起こしました」 「御役御免でその責めを負うと申すのか」 「御意にござります」  河内守が、秋山のおもてを上げさせた。 「具申はまさしくその方から受けた。しかしながら法度を敷かれたのは御老中方だ。締め貸しに遭って漏らす幕臣の喘ぎには、松平様もこころを痛めておられるが、さりとて老中を辞されることなど、あろうはずがない」 「………」 「職にとどまり、遅滞なくまつりごとを全《まつと》うなされてこそが、責めを負われたことになる。讒訴の高まりで御役御免を願い出るなど、心得違いも甚だしい。その方にも果たすべき務めがあるではないか。秋山……」 「はっ」 「笠倉屋の処断については、曾根崎から聞いた。その方の存念通りに進めてよい」 「ははっ……」 「公儀通用金手出しに極刑をもって臨むは、まつりごとの基だ、是非に及ばぬ。さりとて棄捐令なかりせば、笠倉屋とて此度《こたび》の振舞いには及ぶまい。無理に罪人を作り出して、首を刎《は》ねるのみが御政道ではない。いまの世には慈悲もいる」 「………」 「田沼様時代に驕り高ぶった報いを責めるのみでは、札差に止《とど》めを刺しかねぬ。そうなっては武家の息の根までが止まろうが」 「御意の通りにござります」 「札差を統《す》べ得るのは、思案の底に慈悲を忘れぬその方をおいて他にない。向後《こうご》、進退云々は無用と心得よ」  神輿見物はいつだと問うた奉行とは、別人の厳しさがあった。が、凜《りん》と張った声には温《ぬく》もりが隠れていた。 「このたびも喜八郎が動いておるのか」  顔を伏せ、わずかに肩を震わせる秋山に、声の調子を変えて奉行が問いかけた。 「ご明察の通りにござります」 「一向に目通りの願い出を言って来ぬが、今年の月見にでも役宅に呼んでみぬか」 「御奉行の役宅に、でござりましょうか」 「不服か」 「畏れ多き喜びにござります。しかと申し伝えますゆえ」 「ならばこれにて落着だ。祭の警護は抜かるでないぞ」 「うけたまわりましてござります」  双眸を潤ませた秋山が、おもてを上げられずに困惑していた。      十六  気まぐれな夏空が、昼を過ぎて荒れ始めた。先頭の宮神輿が仲町やぐら下に差し掛かったころに、いきなり雲が分厚くなった。  同じとき、まだ冬木は橋を渡り切ってはいなかった。両側を見物客が埋め尽くした永代橋を、富蔵に導かれた神輿が高く差し上げられて渡って行く。 「差せ、差せ、差せ、差せ……」  担ぎ手と一緒になって、見物客が大声で囃した。黒雲が神輿を追ってきた。橋を渡り終えると、あとは八幡宮までの広い一本道だ。しんがりの神輿と見物客とが、ひと固まりになって動いていた。  仲町の辻には、町内半纏姿の喜八郎が立っていた。宮元の神輿には、髪を引っ詰めに結って絞り鉢巻を巻いた、秀弥がわきに従っていた。喜八郎が会釈をしても気付かないほどに、秀弥は神輿にのめり込んでいた。  すでに十基が通り過ぎている。残るは冬木だけだ。二町さきの乾物問屋のまえに神輿がやってきた。奉公人が総出で、たらいや手桶の水をぶっ掛けている。浴びた水を喜んだのか、神輿が大きく揉まれた。  金棒の輪鳴りが聞こえるほどに、神輿が喜八郎に近くなった。気合のこもった富蔵の掛け声が聞こえる。そのとき稲妻が走った。あわせて粒の大きな雨がきた。  八幡宮大鳥居まえの人込みにいた笠倉屋にも、音を立てて雨が降り落ちた。向かいのひな壇に慌しい動きが生じた。老中、町奉行のわきに従っていた八幡宮の禰宜《ねぎ》たちが、急ぎ蛇の目を手にした。  二十本の傘が息を合わせて開かれた。白地の渋紙に三つ巴紋が描かれた八幡宮の蛇の目だ。歌舞伎の見得のような光景に、見物客が手を打って喝采した。  笠倉屋は雨が苦手だった。着慣れた上物は、濡れるとすぐに染みを作るからだ。今日の笠倉屋は、白薩摩にこげ茶の献上帯で拵えている。いずれも日本橋結城屋に誂えさせたもので、いつもならわずかな雨でも大騒ぎだった。  ところがいまは違っていた。大粒の雨に叩かれて、薩摩が素肌に張りついていても、着物を気遣う素振りもない。それよりも胴乱《どうらん》が気がかりらしく、慌てて帯から外すと、濡れたふところに仕舞い込んだ。  胴乱には直訴状が入っていた。神輿の人込みにまぎれ込み、奉行のまえに辿り着きさえすれば、かならず手渡せる……乗物の奉行や大名に、命懸けで直訴状を差し出す場を笠倉屋は幾度か見たことがあった。多くはその場で取り抑えられたが、運良く聞き届けられた者がいたのも知っていた。  札差株を取り上げられて江戸には戻れない暮らしなど、思い描きようもなかった。たとえ三千両があっても意味をなさない……ゆえに捨て身の直訴を決めた。  笠倉屋の背後には、十歩も後に離れない軒先に番頭の芳蔵がいた。浅草橋で来なくていいと追い返されたが、あるじの行き先は分かっていた。立ち場所の見当もついていた。思案した通りの場所にあるじを見つけて、芳蔵がふうっと息を抜いた。そのとき雨がきた。  昨日の午後、直訴状を書いているさなかの居間に芳蔵が顔を出した。笠倉屋は隠す気もなく見せた。番頭は飛び上がった。  ここで直訴状などの騒動を起こされては、間違いなく笠倉屋は取り潰される。芳蔵は懸命にあるじを諫めようとしたが、定まらない三白眼を間近に見て諦めた。あるじからきつく口止めされて、芳蔵は内儀にすら話さなかった。  笠倉屋に奉公して三十年、大店の一番番頭として旨い思いも数限りなく味わった。新しいあるじとなる伊勢屋は、わきで色々と見てきた。ここで伊勢屋に注進すれば、まだ定かには見えないおのれの身分も安泰となるかもしれない。  が、そのさきは所詮、外様だ。遠からず、伊勢屋の囲い者に我が物顔をされる運命《さだめ》だ……芳蔵はすべての口を閉じた。  来るなといわれたが、放ってはおけなかった。軒下であるじを見詰める芳蔵は、もしも笠倉屋が直訴に及ぼうとしたときには、身体ごとぶつかって止める気でいた。  笠倉屋から五人隔てた右手には弥助がいた。季節が移ろっても弥助は着流しの唐桟一枚だ。いきなりの雨で、腹のさらしもびしょ濡れだった。さらしに深く差しこんだ匕首《あいくち》の柄《つか》が、雨粒を弾き返している。  昨日の朝早く、庄之助の呼び出しを受けた。 「野郎は明日、八幡宮に出かけるぜ」 「どうしてそれが分かるんで」 「石がおせえてくれたよ」  何が石だ、益体《やくたい》もねえ……このたびの騙りで、わずか十両しかもらえなかった弥助が胸の内で毒づいた。何人かを蔵前に張りつけているのを知っていたからだ。しかし余計な口は開かなかった。 「深川の祭なら人込みが多くてお誂えだ、脇腹を抉《えぐ》って始末しねえ」  さらしの匕首は庄之助から渡されたものだった。飯能の鍛冶屋に打たせた刃は、重ねた反故紙二十枚を楽々と突き抜いた。 「いいか弥助、今年の深川は本祭だ。大川わたって戻ってきた神輿は、大鳥居のわきで目一杯に揉むのが仕来《しきた》りよ。そこじゃあ見物人が重なり合ってる。まわりのことなんざ、だれひとり気にしちゃあいねえ。笠倉屋を見つけたら、なんとかそこに誘い込むんだ」  浅草橋から駕籠を追ってきた弥助は、辻のあたりから笠倉屋を探した。見つけたら、庄之助に何度も念押しされた場所に腕ずくでも連れて行くつもりだった。ところが笠倉屋は、自分から鳥居近くに陣取っていた。  見物人のだれもが、今年はしんがりに来る冬木の神輿が一番だと、楽しみに待っている様子だった。やるのはそのときだ……雨に打たれながら弥助は冬木の神輿を待った。  その弥助を取り囲むようにして、勝次、辰平、平吉が立っていた。勝次のすぐ後ろには嘉介がいた。浅草橋から弥助を追ってきたのは、勝次と辰平だった。 「野郎、このまえの借りをきっちりけえしてやるぜ」  深川までの道々、駆け足の勝次がなんども口にした。仲町に戻ってきても、勝次の眉は逆立ったままだった。 「勝手な真似はするなよ」  なんど嘉介にいわれても、勝次の目は血走ったままだった。嘉介は勝次の後ろから動かなかった。それほどに上《のぼ》せあがった勝次に、稲光が走った空から、いきなりの雨が襲いかかった。ひたいから両目に伝い落ちている。右手で拭いながらも、勝次は弥助から目を離さなかった。 「おっ……冬木がやぐら下にきたぞ」  まえに立った見物人から歓声が上がった。驟雨のなかでひとの群れが崩れ始めた。      十七  仲町の辻に立つ火の見やぐらが、雨をまともに浴びていた。三丈一尺(約十メートル)の高さが土地っ子の自慢だったが、屋根は雨に霞んでいた。  やぐら下は神輿の見せ場だ。ついさきほどまでは、真下で揉む神輿に桶の水が浴びせられていた。いまは天が水をくれている。 「わっしょい、わっしょい」  雨のなかで富蔵が跳ねた。神輿が踊る。ひとの群れも揺れた。傘をさすような無粋な見物客は、やぐら下にはいなかった。  喜八郎はまわりに気を配ろうと努めた。嘉介の手配りに抜かりがないのは分かっていた。しかしことが起きては秋山の命にかかわる。  気を抜くな……おのれに何度も言い聞かせた。が、神輿が生み出す神懸《かみがか》りのありさまは初めて味わうものだった。熱気に取り込まれて、気を鎮めるのに難儀をしていた。  やぐらから八幡宮大鳥居までは、あと二町。ここからは通りが広くなり、見物客もさらに増える。さきの神輿十基は、すでに八幡宮まえに集まっていた。先達の富蔵が足を速めた。  喜八郎の眼がひな壇を捉えた。雨を厭《いと》うこともせず、老中も奉行も神輿に見入っているのが見えた。ひな壇の蛇の目が、喜八郎たちに向き直った。冬木の掛け声が届いたのだ。  上《うえ》つ方《がた》の動きに合わせて、見物客たちの目も冬木に集まった。ひときわ歓声が高くなった。うしろから押されたのか、ひとの群れが通りに向けて膨らみ始めた。  動きを見て取った富蔵は内側に導いた。神輿が大きく回り、花棒が八幡宮本殿と向かい合った。富蔵の両腕が横に開かれると、野分に吹かれた川面のように神輿がうねりだした。漆を重ね塗りし、油と砥粉《とのこ》で研《と》ぎあげた屋根が雨を弾き飛ばしている。翼を広げた金色《こんじき》の鳳凰が、いまにも飛び立ちそうな優雅なうねりだった。  横に広げた両腕を、富蔵が指先までぴんと伸ばして突き上げた。ひときわ大きなうねりを加えた神輿が、気合とともに差し上げられた。三尺神輿の差しを初めて見た見物人がどよめいた。歓声が波になり、右に左にと行き交った。そのとき、人込みの真ん中がぷつんと破れて男が飛び出した。  ふところを抱える形をした笠倉屋だった。捕まえようとして、右手を伸ばした弥助が続いた。勝次と辰平とが飛びかかり、水溜りになった地べたに捻《ね》じ伏せた。 「わっしょい、わっしょい」  大鳥居まえでは、十一基の神輿が声を限りに揉まれている。笠倉屋に気を払うものはいなかった。沸き返る神輿を擦り抜けて、笠倉屋が駆けた。嘉介が追っている。しかし捨て身の笠倉屋は韋駄天のようだった。  重なり合って揉んでいた三基の宮神輿が左右に割れた。一本の花道が大鳥居に向かってあらわれた。笠倉屋が駆けた。  喜八郎が手古舞の芸者から金棒をむしり取り、笠倉屋の足元めがけて投げつけた。転がった金棒に右足を取られて、笠倉屋の身体が崩れた。両腕がふところを抱えている。咄嗟に腕を突き出すこともできず、前のめりに転んだ。嘉介が追いついた。  冬木の神輿を先導しながらも、富蔵は異変が生じているのを感じ取っていた。人込みが切れて、飛び出した男を目がけて喜八郎が金棒を投げたのも眼の端で捉えていた。  神輿の正面は、老中と町奉行の座るひな壇だ。四隅には、雨の中で傘もささず居合の姿勢を崩さない警護役人が立っている。  富蔵が右手を真横に伸ばし、肘を内側に折る仕種《しぐさ》を繰り返した。花棒が素早く応じた。神輿が大きく右に振られ、笠倉屋と嘉介の姿をひな壇から遮った。笠倉屋の白薩摩が泥で茶色に染まっていた。  勝次は弥助の首根っこを抑えつけていた。弥助の右腕をかんぬきに掴んだ辰平が、力任せに引き摺っていた。降り続く雨が、勝次の眉のうえで細かな水玉を作っていた。  すべては祭の熱気のなかで片付いた。さらに勢いを増した雨が、鳳凰の翼を打ちつけていた。  まだ祭は終わっていない。神輿の歓声が流れてくる大横川の川端には、喜八郎たち七人のほかにはだれもいなかった。  両腕を掴まれた弥助が、喜八郎のまえに引き出された。宿に戻って抱え持ってきた太刀を、嘉介が喜八郎に手渡した。横殴りの雨の中で、喜八郎が鞘を払った。弥助の顔から血の気が失せた。 「天下の通用金を騙りに使うとは不届き千万。まずは貴様から成敗する」 「あっしはなにもやっちゃあいねえ……勘弁してくんねえ」  弥助の右腕を勝次が掴んでいた。喜八郎に眼で指図されて、さらに強く掴み直した。 「動くと死ぬぞ」  ひと声投げつけた喜八郎が、間合いを見切ってから上段に構えた。刃先を雨が叩いている。喜八郎が息を止めた。 「うむっ」  短い気合とともに、雨粒を切り裂きながら太刀が振り下ろされた。弥助が目を閉じた。勝次も辰平も目を閉じた。  水溜りがボチャッと音を立てた。弥助のさらしが斬られて、匕首が足元に落ちていた。帯も斬られていた。唐桟のまえがだらしなく開いた。下帯が丸見えになった弥助が、膝から崩れ落ちた。 「賭場を畳んで口を噤《つぐ》み、二度と江戸に立ち戻らぬ限り捨て置くと庄之助に伝えろ。笠倉屋から騙り取った金は、残らず路銀にくれてやる。三日ののちにまだ江戸で見かけるようであれば、その場で斬り捨てる。このたびのことをひと言でも漏らせば、どこに隠れようとも斬りに行く。おまえも同じだ」 「かならずそうしやすから……」  水溜りのなかで弥助が震えていた。勝次が弥助を引っ立てた。 「裏道から永代橋まで連れて行け。大川を渡り切るまで目を離すな」 「がってんでさあ」  勝次と弥助が雨の向こうに消えて、五人が残った。喜八郎が笠倉屋に近寄った。損料屋だと思っていた喜八郎の凄まじい太刀さばきを見て、笠倉屋は呆けたように座り込んでいた。そのとき蓬莱橋から男が駆け下りてきた。笠倉屋の目に力が戻った。 「お捕り方に申し上げます。てまえは笠倉屋の番頭にございます。これはなにかの間違いでございます……なにとぞあるじにお慈悲をくださいますように」  芳蔵は喜八郎たちを、奉行所の捕り方だと勘違いしていた。 「あっ……」  得心したような顔つきになった笠倉屋から声が漏れた。 「このたびの御沙汰こそ、まことの慈悲だ。この場のこと一切を含め、口を閉じ、御沙汰に従うと約するのであれば仕置はしない。不服というなら、いまここで首を刎ねる」  弥助が斬られるところを目の当たりにして、笠倉屋から憑き物が落ちたようだった。三白眼に怯えが戻っていた。 「どこで暮らそうとも、立ち行くだけの金は手元に渡されるはずだ。余生を大事にしたほうがいいぞ」  雨のなかにうずくまった笠倉屋が、目を合わさずにうなずいた。 「旦那様……参りましょう」  芳蔵があるじを抱え上げた。祭が終わったらしく、ひとの群れが蓬莱橋に流れてきた。喜八郎が静かに太刀を収めた。  笠倉屋と芳蔵とが、肩を寄せ合うようにして歩いて行く。人込みにまぎれ込む前に、振り返った芳蔵が深々とあたまを下げた。太刀を持った喜八郎が穏やかな顔で見送った。  夕方には雨があがった。冬木の御酒所は酒盛りの真っ最中だった。喜八郎の顔を見て富蔵が出てきた。 「神輿のそばで騒ぎを起こしました。お赦《ゆる》しください」 「おさまりましたか」 「なにごともなく」 「それはようござんした。どうです、なかで一緒に」 「せっかくですが、内輪の者が酒肴を調えて待っておりますから」 「祝い酒ですね」 「そのようなものです」 「あたしにも今夜の酒は祝い酒です」 「大役を果たされたのですから」 「そうじゃありません。やっとこれで、あたしも深川に骨をうずめられそうだと分かりましたから。大川の向こうへの未練が、きれいさっぱり消えました……その祝い酒です」  喜八郎の窪んだ眼と、富蔵の目とが絡み合った。徳兵衛の心地よさそうな笑い声が、ふたりの足元にまで流れてきた。一礼をした喜八郎の後ろの空が、燃え立つような茜に染まっていた。  初 出   「万両駕籠」 オール讀物平成十一年五月号(「損料屋喜八郎始末控え」改題)   「騙り御前」 オール讀物平成十二年三月号   「いわし祝言」書き下し   「吹かずとも」書き下し  単行本 平成十二年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年六月十日刊