[#表紙(表紙.jpg)] 山本一力 あ か ね 空 目 次  第 一 部  第 二 部 [#改ページ]    第 一 部      一  深川蛤町の裏店《うらだな》が、宝暦十二(一七六二)年八月の残暑に茹《う》だっていた。  長屋裏手を流れる大横川からの川風も、入り組んだ路地をわたる間に涼味を抜かれてぬるくなる。風は、お愛想がわりに軒先の風鈴を鳴らして過ぎ去った。  使い込まれて黄ばんだおしめや、紺木綿の股引《ももひき》、腹掛けが井戸端の物干しに連なっている。この新兵衛店《しんべえだな》も、子沢山の職人が多く暮らす裏店だった。  三軒長屋が、井戸を取り囲む形に四棟建てられていた。どの棟も端の一軒は板の間の仕事場が造作された二間《ふたま》造りで、他は三坪の土間に狭い流しと六畳|一間《ひとま》だ。長屋木戸わきには、商い向けの平屋が三軒並んでいる。なかのひとつには、焼き芋を商う長屋|差配《さはい》の新兵衛夫婦が暮らしていた。  座っているだけで汗ばむ、夏の昼前どき。居職《いじよく》の桶屋から、木口を叩く調子のよい音が響いていた。 「それじゃあおとっつあん、手桶ふたつ、船橋屋さんにお納めしてきますから」  紺地の井桁絣《いげたがすり》に紅色の細帯を結んだおふみが、戸口から父親の源治に声を投げた。目鼻の造りが大きく色白なおふみは、白地だと太って見えるのを気にして、真夏でも紺絣を着ている。汗押えの手拭いを小さく畳んでたもとに入れると、カタカタッと下駄を鳴らして井戸端を通り過ぎた。  裏店の木戸が、照りつける陽を受けて短い影を落としている。その陽を全身に浴びて、大柄な男が木戸口に立っていた。  木戸の横板には、長屋住人の商い屋号や名前入りの千社札《せんじやふだ》が隙間なく貼り付けられている。尋ね人を探すかのように札《ふだ》に見入っていた男が、ひとが近寄ってくるのを見て木戸の上から目を移した。  男は、あたまが木戸枠にぶつかりそうなほどに大柄だ。 「ちょっとすんまへん。蛤町の新兵衛店をたんねてますのやが、ご存知やったら教えてもらえまへんやろか」 「新兵衛店ならここだけど」 「やっぱりここでおましたか……」  深川では聞きなれない上方《かみがた》訛りの男が、ふうっと息をついた。汗と土ぼこりとで汚れの目立つ首の手拭い、擦り切れそうなわらじの紐が男の長旅をうかがわせた。肩には大きな柳行李を振り分けにして担いでいた。 「わては京から下《くだ》ってきた永吉《えいきち》いいますけど、差配はんはどちらにおられますんやろ。えらい面倒かけますが、連れてってもらえまへんやろか」  長い道中で日焼けした大男の顔は、仁王のようにいかつい。しかしおふみが、相手にいやな心持を抱いた様子はなかった。男には父親同様の、いかにも律儀そうな気配が漂っていたからかも知れない。 「いいわよ、ついてらっしゃい」  おふみは下駄を鳴らしながら、永吉の先に立って長屋に戻った。 「新兵衛さん、お客様」  井戸端の日陰で空樽に腰をおろし、煙草を吸っていた新兵衛が、気《け》だるそうに顔を向けた。おふみの立っている場所は強い日差しで白くなっている。日陰にいた新兵衛は、眩しげに目を細めて寄ってきた。 「お客さんてえひとはこちらかい」  真っ黒な顔いっぱいに汗を浮かせた男を、新兵衛は渋い目で見上げた。 「差配の新兵衛はんで?」 「あたしだが、おまいさんは」 「大坂の堺屋伝右衛門はんからの書付を持っておりますが、こちらのお店《たな》を拝借しとうて出てまいりました」 「大坂の堺屋なんて、あたしゃ知らないよ」 「あっ、違いました、日本橋青物町の広弐屋《ひろにや》はんでおました」 「広弐屋さんだって?」  広弐屋は日本橋で名の通った雑穀問屋の大店である。遠縁のものがそこに奉公していることが、新兵衛の自慢だった。 「おまいさんが、あすこの口ききで来たてえのかい」 「書付も旦那はんから頂戴しました」 「ふうん……ゆっくり話を聞きたいが、あたしの家は風が通らなくて居られやしない。そこの井戸端にしようかね」  ぞんざいな口調で言うなり新兵衛は日陰に入り、さっさともとの空樽に座り込んだ。永吉は肩の振分行李をおろし、中から一通の書状と小さな包みを取り出した。 「これが広弐屋はんからの書付でおます。それとこれは、大坂の塩昆布いう食いもんでして。お口よごしですが、おひとつ」 「そうかい……」  口調を和らげた新兵衛は、包みを先に受け取ってから書状に手を伸ばした。差配の現金さがおかしいのか、おふみが目元をゆるめた。その目と新兵衛の目とが合った。 「おふみちゃん、あとはいいよ。その手桶、納めに行くんじゃないのかい」 「あっ、そうだ……永吉さん、あたしはそこの桶屋のふみっていいます。もし越してきたらよろしくね」  おふみが白い陽のなかを駆け出した。 「おふみはん、えらいおおきに」  右手に持った手桶を振っておふみが応えた。突然、凄まじい蝉《せみ》時雨《しぐれ》が襲ってきた。永吉が大きな身体をびくっとさせた。 「この辺りはお宮が多くてね、蝉にはお誂えなんだ。慣れりゃあ、何てえこともない」  いきなり始まる蝉の鳴き声に余所者《よそもの》が驚くさまを、新兵衛は楽しみにしている。手拭いで永吉がひたいの汗を拭《ぬぐ》い取った。 「この井戸から、水を飲ませてもうてもよろしおますか」  日本橋から炎天下を歩いてきた永吉は、からからに喉が渇いていた。途中、永代橋のたもとで冷水《ひやみず》売りに声をかけられたが、新兵衛店を見つけることに気が急《せ》いて、休みもせずにここまで来ていた。 「いいとも。先月七日の井戸替えで浚《さら》ったばかりだ、好きなだけ飲むがいいさ。自慢じゃあないが、うちの井戸は深川一だよ」  差配に軽くあたまを下げた永吉は、井戸桶を両手に抱えてむさぼり飲んだ。 「よう冷えてて、ほんまに旨い水ですわ」  永吉に、また大粒の汗が噴き出していた。 「この書付だと豆腐職人となってるが、おまいさんが造るのかい?」 「へえ、十二の歳からずっと豆腐屋に奉公してました」 「その腕っ節で絞りゃあ、さぞかし固いのができそうだ」  これを聞いて永吉の日焼け顔が動いた。 「江戸の豆腐はかとうおますんですか」 「妙なことをきくじゃないか。おまいさんのは違うのかい?」 「へえ……まあ……」 「なんだい、はっきり言っとくれ。あんた、ここで商いを始めるつもりだろ」 「ほんなら、お店を貸してもらえますんで」 「それはおまいさん次第だ。空《あ》き店《だな》を見せるまえに、なんで江戸に来る気になったのか、そのあらましを聞かしてもらいたいね」  空樽に座った新兵衛が、キセルを振って話を促した。  京の東山で生まれた永吉は、南禅寺そばの平野屋に十二で下働きに出された。そのときすでに五尺五寸(約百六十七センチ)の大きな子だったが、上背はさらに伸び、いまでは五尺九寸(約百七十九センチ)はあった。  身体が大きな割には動きが敏捷で、呑み込みも良かった。奉公を始めて十年過ぎたときには、ひとかどの豆腐職人としての腕はできていた。しかし平野屋には永吉よりも年長の職人が八人もいた。暖簾《のれん》分けまでには順当に運んでも、さらに二十年以上の歳月が必要だった。 「江戸は凄いとこや、とにかくひとがぎょうさんいてはる。あれだけひとが住んどったら、豆腐もようけ売れるで」  江戸から帰ってきた大豆問屋堺屋の手代から聞いた話で、先行きを考えていた二十五歳の永吉が気持ちを定めた。 「おまえぐらいの根性と身体をしとったら、苦労してもへこたれへんやろ」  平野屋の職人がしらは、永吉から相談を受けたその日のうちに、当主精六に話を通してくれた。 「京の豆腐を、江戸で食わせるのもええかも知れん。そやけど永吉、水の違うとこで豆腐こさえるんは難儀やで。そんだけの肚はくくってるんやろな」  何度も念押しをしたあとで、精六は江戸に顔のある堺屋伝右衛門に顔つなぎを頼んだ。 「そら、よろしおますな。あんじょう運んだら、平野屋の江戸|店《だな》ができるやおまへんか」  伝右衛門は精六の頼みを快諾し、日本橋青物町の雑穀問屋広弐屋あるじ、吉右衛門に添書を書いた。新兵衛店は吉右衛門からの口ききであった。 「それでおまいさんは、この蛤町でどんな豆腐屋を始めようてんだい」 「わては平野屋の豆腐きり知りまへんよって、ここでもその豆腐で行こうおもてます」 「そうじゃないよ。あたしが訊いてるのは、店売りだけなのか、棒手振《ぼてふり》の担ぎ売りもやるつもりなのかということさ」 「平野屋の豆腐は担ぎ売りするもんやおまへん。店売りで行きます」  背筋を伸ばした永吉が言い切った。 「そうかい……ここには毎日、豆腐の担ぎ売りも来るんだ。商いやるつもりなら、うまく折り合いをつけとくれよ」 「へえ……」 「なんだか頼りない返事ばかりだねえ。失礼だがおまいさん、店賃《たなちん》やなんかの蓄《たくわ》えはちゃんとあるのかい」 「いままでの蓄えが銀で六百|匁《もんめ》おます。それに平野屋の親方から、三百匁の餞別をもろてますよって」  上方は銀が主要通貨である。江戸は金《きん》が基本で、銀六十匁が一両であった。九百匁の銀といえば十五両、江戸でも大金だ。新兵衛店では十坪の角店でも、月に銀十五匁だった。 「それじゃあ、空き店を順に見せるから」  新兵衛は九尺二間《くしやくにけん》の小さなものを最初に見せて、最後に十坪の角店に案内した。 「ここなら家のすぐ裏が井戸だし土間も広いからねえ、豆腐屋にはもってこいだろう」  永吉が大きくうなずいた。豆腐造りには質の良い水が欠かせない。井戸の良さはさきほど飲んで分かっていた。 「ほんまに結構なお店ですが、お家賃はなんぼでっしゃろ」 「この店は引合いが多いからねえ。月に銀十八匁でどうだい」 「………」 「京から着いたばかりのおまいさんは知らないだろうが、深川てえところは将軍様が造った埋め立て地でね、どこも井戸には苦労してるんだよ」  店賃を聞いて表情を曇らせた永吉に、新兵衛が講釈顔で説き始めた。 「これほどの井戸は、うちと、表通りの永代寺さんのまわりだけさ。ほかの井戸は塩っ辛くて飲めたもんじゃない」 「塩辛い井戸がおますんですか」 「このあたりは元は海だったと、そう言っただろう。よその深川の連中は毎日水売りから買って暮らしているが、うちは違う。だからひっきりなしに引合いがあるんだよ。豆腐屋には水が大事だてえじゃないか。月に十八匁でも、あんたにはお誂えだろうに」  新兵衛の言葉の終わりが、カタカタ鳴る下駄の音に重なった。 「あら新兵衛さん、まえのひとは十五匁だったじゃない」  戻ってきたおふみが、よく通る声をぶつけてきた。新兵衛がキセルの脂《やに》をなめたような苦い顔を見せた。 「新兵衛さんがきっと十五匁にしてくれるから、ここにしなさいな……ねえ新兵衛さん?」  苦りきった新兵衛のひたいから汗が伝わり落ちている。お宮の木立から、また蝉時雨が降ってきた。      二  四半刻《しはんとき》(三十分)近くも、永吉は上り框《かまち》に腰をおろしたまま動かずにいた。木戸の先は原っぱで、陽をさえぎるものがない。強い西日が土間に差し込んできた。明るく照らされた土壁に、茶色にくすんだ荒神《こうじん》様の御札が貼られたままになっていた。永吉の目が止まった。  あの御札をもらい直すことから始まりや。ほんまに一から全部、ひとりでやらないかんねんで……。  呟きがこぼれ落ちた。ついさきほどまで、永吉のとなりにはおふみが並んで腰をおろしていた。 「まったくおふみちゃんにはかなわないね。仕方がない、十五匁でいいよ」  おふみの助太刀を得て、店賃の掛合いは月十五匁でまとまった。年に直せば銀三十六匁も値切れた勘定だ。永吉は新兵衛とおふみのふたりにあたまを下げた。 「陽が少しかげってきたから、早速名主さんに話してこよう。あんたはあとで店賃をうちに届けておくれ。一軒おいた隣の、木戸のとっつきがあたしの家だから」  人別《にんべつ》移しなどの手続を済ませに、新兵衛がふたりを残して出て行った。 「永吉さん、ここで商いでもするの」 「へえ、豆腐屋を始めます」 「まあ、お豆腐屋さん……永吉さんって幾つなの」 「二十五ですねんけど」 「その歳で自分のお店を始められるなんて、よっぽど腕がいいんだ」  初対面同然のおふみにポンポンいわれて、永吉が口ごもった。が、おふみはまるで頓着していない様子だった。 「永吉さんは上方のひとでしょう」 「そうです。生まれも育ちも京ですねん」 「さっき日本橋の広弐屋さんて言ってたけど、永吉さんのご親戚なの?」 「いいや、京の親方がひとを通じて顔つなぎしてくれはったお方です」 「それじゃあ、江戸にはたったひとりで出てきたってこと?」 「へえ……」 「お豆腐屋さんもひとりでやるの?」 「そうです」  宿が決まって安心した永吉が、気の抜けたような答え方をした。そんな永吉を見詰めていたおふみが、いきなり立ち上がった。 「そうだ永吉さん、今夜うちにいらっしゃいよ。おとっつあん桶屋だから、なにか役に立つかもしれないし。みんなで晩ごはんを一緒に食べましょう」 「えっ……越してきたばっかりの見ず知らずの者《もん》やのに」 「平気、平気。うちはおとっつあんもおっかさんも、ひとを呼ぶのが大好きだから」  言うだけ言うと、おふみはすでに土間の外に出ていた。 「うちはここのとなりで、戸口に割竹が積んであるからすぐ分かるわよ。ご飯は六ツ(午後六時)の鐘で始まるから遅れないでね」  下駄の音が遠ざかって行く。出会ったばかりの余所者を晩飯にさそってくれたおふみの笑顔が、永吉のあたまから離れなかった。  長屋の裏手から流れてきた木槌の乾いた音が、永吉を物思いから引き戻した。ふうっと大きな息を吐き出し、わらじを脱いだ。  部屋のなかに差し込んできた陽が、畳に永吉の長い影をひいた。土間の明かり取りからの光と、戸口からの陽とが交わったなかで、細かな埃がきらきら舞っている。夏の西日が織りなすさまに、突っ立ったまま見とれていた。  家財道具のない六畳間は広々としていた。部屋の真ん中に座った永吉は、銀が九百匁も詰まった胴巻を外した。紐をゆるめ、畳の上で逆さにした。鈍い音を立てて、中身の銀が畳に重なり落ちた。  五十匁の宝永|丁銀《ちようぎん》が十二本に、十匁の豆板銀や一匁小粒が小さな山を築いていた。九百匁は大金だが、身寄りがひとりもいない江戸で商いを興すには、なんとも頼りなく見えた。  永吉は銀の山を築いては崩す。五度それを繰り返したところで、とりあえず気持ちが落ち着いた。店賃の十五匁を取り分け、残りを胴巻に仕舞い直した。  開け放たれた腰高障子戸から、ぬるい風が流れ込んできた。西に傾き始めた光が揺れている。柳行李だけの部屋を走り回った川風が、畳の埃を連れて出て行った。  永吉はごろりと横になった。もののない部屋は、六尺近い大男が寝転がっても広々としている。部屋を独り占めして使うのは、生まれて初めてだった。隅から隅へ身体をごろごろ転がして、六畳間の広さをむさぼった。  軽く目を閉じると、江戸に出てくるまでの日々が一時《いちどき》によみがえってきた。  永吉の在所は東山のふもとである。わずか二反の畑からとれる野菜で、男三人女二人のこどもを養う貧農の三男坊が永吉だった。生まれつき身体が大きかった永吉は、六つの歳から畑仕事を手伝った。働きぶりに親から文句を言われたことはなかったが、飯をおかわりするたびに顔をしかめられた。  米のできない二反の畑で暮らすには、家族四人が限りだった。永吉が十歳の夏、妹ふたりが近江の旅籠《はたご》に下女見習で買われて行った。 「あいつらふたりとも、二両で売られておじゃれはんになるんや。もうここにはもどってこんで」  畑で鍬を振り下ろす合間に、長兄から何度も聞かされた。おじゃれはんというのが、身体も売る宿場の飯盛り女だと分かったのは、永吉が平野屋に奉公してからのことだった。  妹ふたりが居なくなって半年過ぎた冬、次男が庄屋の作男に取られることになった。 「それやったら永吉にしてもらえまへんか。こいつなら、よう働きますよって」 「あほぬかせ。こんなんを連れてったら、なんぼ働かせても二度の飯で釣り合わんわ」  庄屋の使いは、小柄な次男を引っ張って帰った。永吉は両親《ふたおや》から疎《うと》まれ始めた。どれほど畑仕事に精を出しても、にこりともされない。もともと飯の膳は貧しいものだったが、次男が居なくなってからは永吉の箱膳にはおかずが載らなくなった。 「二年もすれば、二助(次男)は庄屋が返してくれる。そうなったらうちの畑は、上のふたりのもんや。おまえは早いとこ、どこなと奉公に行かんかい」  柄の大きな永吉は、働くだけ働いても、夜には父親から言葉でいびられた。もともと長兄びいきの母親は、それを止める素振りを見せない。五つ年上の兄も知らぬ顔だった。十二になったばかりの永吉は、なにをやっても両親から嫌われて途方に暮れていた。  山桜が畑の向こうに咲き始めた三月中旬、口入れ屋が町からやってきた。庄屋の離れに泊まっていることを聞きつけた永吉は、夜、ひとりで口入れ屋をたずねた。 「おまえ、力がありそうな子やな」 「二俵担げます」 「ほんまかいな。そんなん言うんやったら、ここで見せてみい」  桜は咲いても夜はまだ寒い。そんななかで永吉は、庄屋の米蔵から玄米二俵を担ぎ出したり運び込んだりを繰り返した。 「分かった、もうええ。おまえんとこへ連れてっとくれ」  月明かりの道を、口入れ屋と連れ立って戻った。花冷えが乾かす汗の心地よさを、永吉はこどもながらに味わっていた。  十年年季の奉公と引き替えに、三両という破格の金が父親に手渡された。十二のこどもが、胸を張って村を出た。  永吉が奉公に出された先が、南禅寺そばの豆腐屋、平野屋である。仕事場は三十坪もある大きな土間だった。朝から晩まで、水を使い通す仕事だ。井戸まで土間から百歩。平野屋に入ったその日から、水運びが永吉の仕事になった。  盆地の夏は暑い。身体中から汗が噴き出したが、井戸水は冷えていて心地よかった。飯は朝昼晩の三度で、どれほどおかわりしてもだれも咎めない。永吉は嬉々として水運びに励んだ。  嵐山のもみじが終わると、一気に冬がきた。 「おまえの性根《しようね》の見せ所や。これを乗り切れたら、あんじょうしてもらえるで」  五歳年上の絞り方が、真冬の寝床で励ましてくれた。木枯らしが吹きすさぶなかの水汲みは、指が千切れそうだった。ひび割れした手に水が染みると、痛みで水桶を落としそうになった。  何よりつらかったのが、真冬の夜明け前に降る雨だった。雨降りでも傘は使えず、着ているものは綿の入っていないお仕着せ一枚だ。寝起きでまだ暖まっていない肌を、氷雨が刺して動きが鈍った。  しかし冬場は豆腐の季節だ。水汲みは、暖を取る寸時の休みも許してもらえなかった。 「なにぼやぼや運んでるんや。もっと気い入れてやらんかい」  忙しくて気が立っている職人が、背伸びをしながら柄杓《ひしやく》の柄であたまを小突いた。土間で桶を引っくり返したときには、こぶしで思いっきり殴りつけられもした。  それでも音《ね》をあげなかった。どれほどつらくても、在所の家で厄介者呼ばわりされるよりは、はるかにましだったからだ。  つらい冬をなんとか乗り切り、一年が過ぎて夏の藪入りを迎えた。平野屋が豆腐造りを休むのは、盆をはさんだ八月十五、十六の二日だけだ。奉公人は、だれもが競うように宿を出た。が、永吉は平野屋に留《とど》まった。  あるじからもらった真新しい足袋と帯、それに祝儀袋に入った小遣いを行李の奥に仕舞い込んだ。藪入りの間、ひとがいなくて静まり返った仕事場で、永吉は豆の選り分けに精を出した。  奉公を始めて三年目で絞り方に就けてもらえた。さらに煮方、揚げ方と進み、年季明け十年目の夏には、水桶に浮いた豆腐に包丁を入れることを許された。  職人と認められて嬉しかったが、そのかたわらで先行きの厳しさも思い知った。二年から三年にひとり暖簾分けをされたとしても、永吉までには二十年もかかる。  しかも豆腐屋の商いは在所で開くのが定めだった。たとえ番が早く巡ってきたとしても、東山ふもとの貧乏村では豆腐屋など立ち行くわけがない。  先行き思案を始めた矢先に、堺屋手代から江戸の話を聞かされた。十三年間蓄えた藪入りの小遣い、正月のお年玉、それに年季明けからの給金が合わせて六百匁になっていた。  江戸に出るなら、いましかない。  ままよとばかりに職人がしらに掛け合ったところ、意外にもすんなりと許しが出た。  六畳間に寝転がったまま、永吉が目を開いた。天井板の張られていない剥《む》き出しの梁《はり》が見えた。平野屋は、奉公人の部屋といえども天井板がきちんと造作されていた。  平野屋には水汲み、豆洗い、薪番の小僧だけで七人いた。絞り方、煮方、揚げ方の職人が九人。それだけの大所帯で豆腐や揚げを造ってきた。  水の違う江戸で、それもたったひとりで出来るんやろか………。  安普請の長屋が不安をかき立てた。さきほどまで、身体を転がして味わった六畳間の広さが、いまはわるい目、わるい目へと永吉を煽り立てている。  重く沈んだ気持ちがまぶたを閉じさせ、長旅の疲れが眠りに誘い込んだ。  西日が足元にまで伸びていた。      三  知らぬ間に一刻(二時間)近くも眠っていた。西空があかね色に染まっている。永吉は急ぎ足で家主を訪ねた。丸い印形の押された店賃証文を受け取ったところで、長屋に暮れ六ツの鐘が流れてきた。  宿に取って返した永吉は、行李から塩昆布の包みを取り出した。締め直した帯をポンポンと小気味良く叩いてから土間におりた。  おふみは、おもてに出した七輪でいわしを焼いているさなかだった。父親の源治が大好物で、魚屋が売りに来る間はほとんど毎日お膳に載る。したたり落ちた脂が炭火で焼かれ、香りと煙が路地いっぱいに広がった。  その煙の向こうから、塩昆布をさげた永吉がやってきた。 「いらっしゃい」 「さきほどはおおきに……えらい旨そうな匂いやなあ」  朝からろくに食べてなかった永吉は、言葉が勝手に飛び出した。 「ちょうどいいとこへきたわよ。おとっつあん、おっかさん、永吉さんよ」  おふみが団扇《うちわ》の手を休めず、なかに声をかけた。間をおかず、とんぼ柄の木綿を着た四十がらみの女が顔を出した。 「おやまあ、おふみが言った通りほんとに大きなひとだねえ」  母親のおみつも色白で小太り、よく響く声で、まさに母娘だった。居職の源治の宿は、上がり框から板の間が続いており、仕掛かり途中の桶や割竹がきちんと揃えられている。  源治は仕事を終えて、奥の八畳間で丸膳に座っていた。膳の真ん中には鮮やかな紫色の茄子と、瓜の漬物が出されている。銘々の箱膳しか知らなかった永吉は、不思議そうな目で丸膳を見た。  源治の髪には白いものが混じっていたが、眉は黒々としている。竹のたがを毎日締めつける腕は、永吉よりも太そうだ。おみつに手土産を渡してから、永吉は畳の間に上がった。 「角の空き家へ越して来ました、永吉いいます。えらい厚かましおますが、遠慮なしに寄せてもらいました」 「そんな水くせえ言い方は、この長屋ではやめな。あんた、腹減ってんだろ」 「昼から食うてまへん」 「なら、めしを食ってからゆっくり聞こうじゃねえか。てえしたものはねえが、いまはいわしが飛びっ切りうめえんだ。おふみ、早《はえ》えとこ持ってきな」  永吉が蛤町で初めて食べた夕食は、焼き立てでまだ音のしているいわしに、しじみの味噌汁、それにおみつ自慢の糠漬けだった。 「差配の新兵衛さんに言わせると、ここいらに売りにくるしじみは、大川の米蔵から落っこった米を食ってるてえんだよ。おまんま食ってりゃあ、うめえやね」  職人の口が重いのはおのれに照らして分かっているのか、源治はいつになく自分から話しかけていた。食事をしながら話をする父親に、おふみの目が丸くなった。  永吉はめしを三杯おかわりし、魚は黒く焦げたあたまだけ残して、骨もわたも平らげた。いわし好きの源治が、永吉の食べっぷりに感心して晩飯が終わった。 「今夜はいい風だねえ」  湯呑みに茶をいれるおみつが、障子窓に目を向けた。大横川からの風に涼味が戻っている。 「永吉さん、芋ようかんは好き?」 「そんなん、まだ食べたことおまへん」 「なんだよ、京の職人は芋は食わねえかい」 「そんなわけやおまへん。店を持つカネを蓄えな思いまして、甘いもんでも酒でも、銭使うことは何もせんと来ましたよって」 「そいつあ、てえした心がけだ。おめえさんさえよけりゃあ、ようかん食いながら話を聞かせてくんねえな」 「ありがとうさんです」  座り直した永吉は、背筋を伸ばしてから話し始めた。おふみは団扇で永吉に風を送りつつ、藪蚊を追い払っていた。おみつが三度目の番茶を取り替えたところで、永吉の長い話が終わった。  話の途中から源治の顔つきが次第に渋くなっていたが、聞き終えたいまは眉間《みけん》に深いしわが刻まれていた。父親の変わり様《よう》を見て、おふみが不安げな目を母親に向けた。娘の膝に置かれたおみつの手が、大丈夫だよとなだめているかのようだった。 「それじゃあ在所のひとたちは、おめえさんが江戸に出たことも知らねえのかい」 「へえ……人別帖を移さなあきまへんよって、お寺はんにだけは知らせましたんですが」 「今夜初めて会ったおめえさんに言うことじゃねえが、そいつはよくねえよ」  源治の口調が微妙に尖《とが》っていた。おふみが目配せしたが、源治は取り合わなかった。 「がきの時分にゃあ、おめえさんも苦労しただろうさ。だがよう、あんたのふたおやは食えねえなかでも、こどもを間引きもしねえで踏ん張ったんだろうが」  源治にひと睨みされて、永吉の背筋がぴんと張った。 「おれの仕事仲間にゃあ、雪にいじめられる国から江戸に出てきた連中もいるんだ。そいつらの話を聞いてると、親は泣きながら赤ん坊を間引いたてえじゃねえか。おめえさんも聞いたことがあるだろうよ」 「へえ……」 「ふたおやはまだ元気かい?」 「……それも知りまへんので……」 「その調子じゃあ仕送りもしてねえだろ」 「してまへん」  これを聞いて源治が立ち上がった。おふみが思わず息を呑み込んだほどに、乱暴な立ち方だった。 「あんた、どうしたというんだよ」  問いかけたおみつの声も、言葉の尻尾《しつぽ》が不安そうだ。源治は返事もせず、仕事場の隅から煙草盆を手に提げて戻ってきた。が、盆の種火が消えていた。大きな舌打ちを残してから、へっついに向かった。焚き口をひっかき回して残り火を探している。  その間、だれも口を開かなかった。種火を入れ直した源治が座に戻り、立て続けに三服吹かしてから永吉に目を合わせた。 「あんたにも、言いてえことは山ほどあるだろうよ。江戸に出てくるまでにゃあ、ひとに言えねえ苦労もしただろうし、でえいち、だれも身寄りのねえ江戸で、ひとりっきりの商い始めようてえのは、並の料簡《りようけん》じゃあできねえことだ」  永吉は源治から目を逸らさずに聞き入っていた。 「だがよう、どれほどおめえさんが里で邪険にされてきたとしてもだ、おれはてめえのふたおやをでえじにしねえ奴は駄目なんだ」  源治が叩いたキセルが、ぼこんと鈍い音を立てた。 「いまとは言わねえが、商いがうまく転がりだしたら、とにかく在所には便りをしねえな。恩を受けた親をうっちゃったままじゃあ、決め付けを言うようだが、商いもうまくは行かねえよ」 「………」 「これからはおめえさんも長屋の仲間だ。今夜会ったばかりだが、あんたとはなげえ付合いをさせてもらいてえんだ……おせっかいだとは思うが、商いで儲けが出たら、端《はな》の稼ぎの幾らかでも在所に送ると言ってくれねえか……それだけ聞けりゃあ、おれも気持ち良く付き合わせてもらえるからよ」  永吉は源治の目を見詰めて、かならずそうしますときっぱり答えた。源治が表情をゆるめた。おふみもおみつも安堵の息を漏らした。 「とんだ説教くれちまったが、おめえさんの心がけは買ったぜ。こっちも言いてえ放題言ったんだ、おれでよけりゃあ、あんたの商いに必要な、水桶から手桶までの一切合財を引き受けさせてもらいてえが、いいかい」 「えっ……ほんまですか」  驚きの声を出した永吉のわきで、おふみが大きく見開いた両目で父親を見た。 「立ち入ったことをきいてわるいが、おめえさん、元手は幾らあるんだよ」 「銀で九百おます」 「九百てえと……十五両か。それで豆腐造りの道具には、どんなものがいるんでえ」 「大きなもんでは豆腐を浮かべる水風呂桶に、豆を煮る鍋と油鍋……ほかには絞りのもん一式いうとこです」 「鍋は大きいのかい」 「油鍋はそうでもおまへんが、豆の方はそこそこ大きなもんになります」 「だったら、へっついも取り替えなきゃあならねえだろう」 「あ、そうです。それを言い忘れました」 「道具の仕入れ先にあてはあるのかい」 「広弐屋はんが、あんじょう面倒みてくれはる言うてました」  源治が目を閉じて黙り込んだ。おふみがまた不安そうに見詰めていると、思案を終えて開いた源治の目とぶつかった。娘が慌てて目を逸らした。 「水風呂桶は、なんの木を使うんだい」 「平野屋では檜《ひのき》をつこうてましたが、とっても手が出まへん」 「そりゃあそうだ。長屋の豆腐屋が檜なんざ使った日にゃあ、笑いもんになるのが落ちだ。いいとこ杉だろうよ」 「その通りやと思います」 「それで厚みは?」 「一寸(約三センチ)あれば助かります。三石(約五百四十リットル)の水を張らないかん思うてますよって」 「三石とは半端な桶じゃねえな……おふみ、算盤と矢立《やたて》とを持ってきな」 「はい」  おふみが力のこもった返事を残して立ち上がった。運ばれてきた小さな算盤を器用に弾《はじ》き、桶の図を描く源治の手元に永吉は見とれていた。四半刻ほどで図が仕上がった。 「ざっとした算盤だが、三石の桶じゃあ、木口の代だけで一両近いぜ」 「広弐屋はんは水風呂桶で二両はかかる言うてはりましたが」 「そいつは手間賃に据付賃までへえってのことだろうよ。おれも職人だ、手間賃なしの仕事はやらねえが、一両ありゃあでえじょうぶだろうさ。浮いた銭はほかに回しな」 「そんな、まだ会《お》うたばかりですのに」 「おれはおめえさんの心がけを買ったとそう言ったんだ。ようかんも知らずに銭を蓄えてきた奴から、たけえ手間賃を取れるわけがねえだろう」  永吉の背が丸くなっていた。 「それより何より、おめえさんは今日から長屋の仲間じゃねえか。ここは見ての通り貧乏長屋だが、みんなが寄り添い合って暮らしてんだ。遠慮なんざいらねえよ」  思いもかけなかった成り行きに、永吉が言葉をなくしていた。畳に両手をついて礼を言うのがやっとだった。 「よしな。さっきも言ったが、他人行儀はこれっきりにしてくんねえ」  父親を見詰めるおふみは、手を叩かんばかりだ。娘と目が合った源治が、ぷいっとわきを向いた。  永吉が宿に戻ったときは、すっかり夜も更けていた。行灯《あんどん》も瓦灯《がとう》もなかったが、月が大きい。屋根の明かり取りから、蒼いひかりが土間を照らしていた。  おふみは枕屏風で仕切った布団のなかで眠れずにいた。  この長屋で生まれ育ったおふみには、住人のだれもが顔見知りである。どの宿にも独り身の男はいない。季節は移ろい変わるが、顔ぶれは同じだった。  そんな長屋に、上方から永吉が越してきた。そしてふたおやと一緒に夕飯を食べた。父親は永吉を気に入った様子で、開業する豆腐屋の道具誂えを引き受けた。  このさき永吉とは浅からぬかかわりができそうだと思ったのか、眠れぬおふみは寝返りを繰り返していた。      四  翌日も朝から良く晴れた。  おふみが昨日の夕方、捨て値で買った茗荷《みようが》を朝の味噌汁に散らしたら、源治が二杯もおかわりをした。 「味噌汁はうめえが、おめえは具合でもわるいんじゃねえか」 「なんでそんなこというの?」 「ゆんべは寝返りばっかりやってただろうが。いまだって目が真っ赤だぜ」 「あら、ほんとだ」  わきから娘の顔をのぞきこんだおみつが、源治に調子を合わせた。 「蚊はうるさく飛んでたけど、寝苦しいわけじゃなかったのにさ」 「なんでもないったら……ごちそうさま」  おふみがいきなり流しに立った。昨夜は寝つかれないまま、永吉との出会いを何度も思い返していた。このまま親と話していたら、そのことを見透かされそうな気がしたからだ。手早く流しを片付けたあと、洗い物を抱えて井戸端に出た。  斜めから、朝の陽が洗い場に差していた。八月も中旬だというのに猛暑続きで、源治の仕事着が毎日汗まみれになったが、早めに洗えば、股引も腹掛けも昼前にはパリッと乾いた。  おふみがこの日二度目の洗濯物を取り込んでいた八ツ(午後二時)過ぎ、薄い敷布団を肩に担いで永吉が戻ってきた。 「ゆんべはえらいごちそうさんでした」  永吉の方から声をかけてきた。 「あら、お布団買ってきたの?」 「へえ、昨日のお礼と大豆の相談ごとを兼ねて、広弐屋はんに顔を出してきましたんや。ついでの足で布団だけ買《こ》うてきました」  それを聞いておふみが顔を曇らせた。 「だめよ永吉さん、日本橋なんかでものを買ったりしちゃあ。大川のこっちと向こうじゃ行灯ひとつでも百文は違うのよ」 「………」 「油でもお米でもこの辺りで一番安いとこを知ってるんだから、これからは永吉さんひとりで買いに行ったりしないでね」  昨日からおふみに押されっ放しできた永吉が、返事に困り言葉を詰まらせた。 「永吉さん、まだいっぱい買うものがあるんでしょう」 「ええ……そらまあ、いろいろと……」 「んもう、焦《じ》れったいんだから。これからあたしが一緒についてったげる」  抱えた洗濯物をおふみが家に放り込んだ。 「おっかさん、ちょっと表通りまで買い物に行ってくるから」  おふみのよく通る声が、布団を板の間におろしていた永吉の耳にまで届いた。 「さあ、行きましょう」  永吉は、考える間もなくおふみに連れられて裏店の木戸を出た。  おふみは永代寺門前仲町から冬木町、亀久町と幾つもの町を回り、小鍋から米、油まで永吉に必要な品を買い歩いた。どの店でもおふみは顔馴染で、言い値では買わず、何文かはかならずまけさせた。  永吉は半ば呆れ、半ば感心した顔であとをついて回った。買い物が終わったころには、永吉もおふみも両手いっぱいの包みを抱えていた。  陽はすでに西にあった。  夕陽に向けて歩くふたりのうしろに、黒く長い影がついてくる。ひとの形だけでなく、鍋や釜も長い影をひいて一緒についてきた。  八幡宮のそばまで来たとき、あの凄まじい蝉時雨が始まった。おふみの足が止まった。 「八幡様にお参りして帰りましょう」  言い終わる前におふみが通りを渡り始めていた。  日暮れを控えた門前仲町は、夕餉《ゆうげ》支度の買い物客や天秤棒を担いで得意先に急ぐ棒手振《ぼてふり》、それに日暮れまでに荷物を運びたい荷車や荷馬車などで、広い通りが溢れ返っている。その人込みを器用に縫って、おふみが八幡宮大鳥居へと急いだ。  荷物を抱えた永吉は、あとについて歩くのがやっとだった。 「てめえ、どこに目え付けてやがんでえ」  荷車いっぱいに味噌樽を積んだ車力がやっとの思いで車を止めて、舵棒を抱えながら永吉を怒鳴りつけた。江戸の人込みにまだ慣れていなかった永吉が、車に気づかずに横切ろうとしたのだ。怒声を聞いておふみが飛んできた。永吉は抱えた荷物を地べたにおろして車夫にあたまを下げていた。 「どうしたの」 「うっかりこのひとの前に出てしもうたもんやから……えらいすんまへんどした」 「けっ、なんでえ、てめえの喋り方は。てめえっちみてえな田舎もんが、ノコノコ表通りを歩くんじゃねえ」  散々に毒づいてから車夫が長柄を上げた。 「永吉さん、気にしないでね」 「わてがわるかったんやから」 「ここの通りは東に行くと木場の材木置場があるし、永代橋わきの佐賀町には廻漕《かいそう》問屋が並んでるのよ。ひっきりなしに車が行き交ってるから、気をつけてね」  永吉と一緒に八幡宮参拝を終えたおふみは、表通りには戻らずに境内を抜けて永代寺に出た。永代寺は富岡八幡宮の別当寺で、ここの門前町を抜けると新兵衛店へは近道だった。ずっとおふみのあとについて歩いてきた永吉が、豆腐屋のまえで足を止めた。 「おふみはん、ちょっと待ってや」  荷物を抱えたままの永吉が豆腐屋に入った。相州屋という屋号が架かっている。ここには馴染みのないおふみが、勝手に店に入った永吉に眉をしかめて続いた。 「豆腐を一丁もらえますか」 「丸ごとかい」 「へえ……あきまへんやろか」 「あきまへんてえのは、いけないかときいてるんだな」 「そうですが」 「うちも商いだ、いけないわけはないが、そんだけ荷物を抱えてるのに、一丁持って帰れるのかい」 「あっ、平気です」  すかさず答えたおふみが小鍋を取り出した。 「買ったばかりの鍋があるから」  相州屋はおふみから受け取った鍋に水を張り、手のひらからこぼれそうなほど大きな豆腐を手掴みで入れた。そのさまを見る永吉の目が大きく見開かれていた。 「どうしたのよ、永吉さん……荷物持ったままじゃあお足が出せないでしょう。あたしが払っとくから」  おふみが帯に挟んだ紙入れから、四十四文を取り出した。その代金を見て、さらに永吉が驚きの表情を深めた。  長屋に続く黒船橋を渡るころには、夕陽があたまだけを残して沈むところだった。永吉の足取りが速くなっている。  父親と一緒に出歩くことは何度もあるが、源治は娘に歩みを合わせた。永吉は構わずに先を行く。  買い物ではあれだけポンポンと掛け合ったおふみが、永吉の早足を咎《とが》めることもできずにあとを追った。父親以外の男と生まれて初めて歩いて、おふみは男の足の速さを知った。  相州屋を出てから黙り込んで歩く永吉の日焼け顔が、陽を浴びて赤黒く照り返っていた。      五  江戸に着いて初めて目にした豆腐が、小鍋の真ん中に居座っていた。永吉には、居座っているとしか言いようがないほどに、豆腐が大きかったのだ。  流しに立つと、豆腐を手のひらに載せてみた。明かりは夕方亀久町で求めた、魚油《ぎよゆ》を燃やす瓦灯ひとつだ。その頼りない明かりが、永吉の大きな手に覆い被さった白い豆腐を照らしていた。  手のひらの上で包丁を入れて半分に分けた。ひとつを鍋に戻し、残りをさらに半分に切った。四半分になった豆腐ふたつを、買ったばかりの皿に載せた。  堺屋の手代から江戸の豆腐は大きいと聞かされていた。が、まさか平野屋の四丁分もあるとは思ってもみなかった。  もうひとつ、豆腐の固さにも驚いた。平野屋では豆腐を水桶から取り出すとき、手を下にあてて優しく掬《すく》い上げた。うっかり掴むと、ぐずぐずと形が崩れたものだが、江戸の豆腐は違った。  四半分の豆腐ふたつを大きな賽《さい》の目に切った。下地もつけず、そのまま手で摘《つま》んで口に入れると、舌で豆腐を潰した。同じことを繰り返して、四半分ふたつの豆腐を食べ終えた。  平野屋の豆腐とはまるで別物だった。豆腐が固い分だけ、ざらりとした舌触りである。しかも大豆がわるいのか、旨味がなく、豆の青臭さがいつまでも口に残った。  こんな豆腐が相手やったら、ええ勝負ができそうや………。  江戸二日目の夜、永吉は気を楽にして眠ることができた。  翌日、永吉は朝から小鍋を手にして深川界隈の豆腐屋を見て歩いた。表通りから裏店まで、かれこれ十軒は訪れた。  見て回るうちに、豆腐一丁丸ごと買う客は余りいないことに気がついた。どこの店でも、半丁、四半丁に切り分けて売っている。値段は店ごとにばらつきがあった。  もっとも高かったのは三好町の表通りに店を構えた平田屋で、四半丁が十二文。安かったのは、仙台堀近くの路地で見つけた一間《いつけん》間口の豆腐屋で、四半丁が七文で買えた。  しかし十二文と七文の豆腐には、まるで味の違いが感じられなかった。いずれも固く、ざらっとした舌触りで、しかも青臭かった。  買い求めた豆腐は四半丁、半丁、それに丸ごと一丁のものを合わせて、江戸の豆腐で五丁分にもなった。平野屋に直せば二十丁にもなる豆腐を、下地もなしにすべて食べた。腹は膨れたし味はひどかったが、豆腐職人が造ったものを欠片《かけら》といえども捨てることはできなかった。  豆腐を食べ続けて水腹の張ったような気分だったが、気持ちは大いに晴れていた。宿に戻り小鍋を流しに戻したあと、昨日に続き日本橋の広弐屋を訪れた。 「やあ永吉さん、この暑いなかご精が出ますねえ」  永吉の掛《かかり》になった手代の慎三郎が、汗を押さえながら近づいてきた。 「少しは江戸に慣れましたか」 「今日でまだ三日目ですよって、とてもそこまでは行きまへん」 「そりゃあそうですね。ところで今日は?」 「豆を決めたい思うて」 「決めるって、昨日決めたじゃないですか」 「その通りですけど、もっと上等な豆に替えたいんですわ。まだ間に合いますやろか」 「どうしてもと言うのなら番頭さんに相談しますが、勧めた豆では気に入りませんか」  手代があからさまに不満顔を見せた。 「あれからひと晩思案したんですけど、やっぱり平野屋とおんなじ豆を使いたいんですわ」  手代が永吉に勧めた豆は、江戸の豆腐屋がどこも使っている水戸産の玉光《たまひかり》だった。この豆は産地から江戸まで近いだけに、一升が銀一匁で買えた。  ところが平野屋が使う大豆は、丹波産の玉誉《たまほまれ》である。これは大豆の最上等品だが、江戸で使うのは両国辺りの料亭に限られていた。取寄せるには丹波からの廻漕賃が高く、一升で銀二匁にもなった。  限られた手持ちで商いを始める永吉のことを考えたうえで、手代は玉光を勧めたのだ。永吉も昨日はそれで得心した。が、玉光で造られた豆腐を口にしたいまは、やはり平野屋と同じ豆にしたいと思っていた。 「どうしても玉光では駄目ですか」 「えらい勝手言いますが、なんとか替えてもらえまへんやろか」  永吉の気が変わりそうもないと見て取った手代は、渋い顔で帳場に向かった。さほど間をおかずに顔を出した番頭が、永吉を座敷の隅に招き上げた。 「いま慎三郎から聞きましたが、永吉さん、豆を玉誉に替えられたいとか」 「えらい面倒かけますが、やっぱり平野屋とおんなじ豆にしたい思いますんや」 「玉光の倍になりますが、それでもよろしいのでしょうな」 「へえ、なんとかやりますよって」  永吉の返事を聞いた番頭は、小僧に算盤と帳面を運ばせた。 「永吉さんのことは、あるじからもしっかり面倒を見るようにと言付《ことづ》かっております」 「ありがたい思うてます」 「うちは高い豆を買っていただければありがたいことですが、それで永吉さんの商いに無理が出ては何にもなりません」 「………」 「豆の仕入れが倍も高くなっては、はっきり申し上げてなんとかなるの意気込みだけではむずかしいと思います」 「そう言われても、平野屋の味を落とすわけにはいきまへん」 「それなら永吉さん、試しに算盤を入れてみましょう。それで算段がなるようでしたら、てまえどもも喜んで玉誉を納めさせていただきます」 「分かりました。来る道々、わてなりに胸算用は済ませましたが、よろしゅう頼んます」  首に巻いた手拭いで汗を拭いながら、永吉が座り直した。 「まず一丁の値段からうかがいましょう」 「十文で行きます」  番頭の顔色が変わった。 「十文とはまた……それで日に何丁売るつもりですか」 「百丁造ろう思うてます」 「永吉さん、日に百丁造るだの一丁十文だのと、申しわけないがあんたの算盤は無茶苦茶だ。第一、一丁十文なんかで商って儲けが出るわけがないでしょう」 「番頭はんの言うてはるのは、江戸の豆腐やおまへんか」 「その通りですが、それが何か」 「平野屋のは江戸のよりずっと小さいんですわ。言うてみれば、こっちの四半丁が、わての一丁ですよって」 「………」 「今朝から十軒ほど深川の豆腐屋はんを回りましたんやけど、お客はみんな四半丁に切ってもろてましたんや。あれやったら、うちの一丁とほぼおんなじ大きさです」  永吉の話で番頭も得心したようだった。 「それなら一丁十文で、日に百丁として日銭一貫文の商いですな。それを三十日休みなく商うとすれば……」  算盤が忙《せわ》しなく弾かれた。 「銀勘定で、月におよそ四百四十八匁の商いということです」  永吉が大きくうなずいた。 「百丁の豆腐に豆はいかほど入り用ですか」 「一升二十丁やから、五升いります」  また番頭の算盤がパチパチと音を立てた。 「それで永吉さん、ほかの入費《にゆうひ》は?」 「薪やら、油揚げの油やら何やらで、ざっと月に銀百匁やと思います。それと店賃が月に十五匁です」 「それで全部ですか」  永吉がうなずいたのを確かめた番頭は、三度検算してから書き留めた。表情が幾らか柔らかくなっていた。 「いまの通りに商いが動けば、月におよそ三十三匁、一年で六両三分の儲けが出ます」  永吉の日焼け顔に朱がさした。 「豆腐一丁……こちらの四半丁ですが、十文なら無理のない値段です。日に百丁というのも売れない数ではないでしょう」 「番頭はんにそう言うてもろたら、わても元気が出ますわ」 「しかし永吉さん、江戸の豆腐屋はどこも玉光です。この豆を使えば儲けは倍ですよ」 「わては平野屋の豆腐を江戸で売ると、親方に約束しましたんや。儲けに走って味を落とすことはでけしまへん」  力のこもった目で、永吉が番頭を見詰めていた。算盤を膝元に戻した番頭が、一度だけうなずき返した。      六  永吉が越してきてから十五日目で、店の造作はあらかた仕上がった。普請は新兵衛店に暮らす職人で賄えた。長屋には左官も大工も住んでいたからだ。  源治はそれらの職人の親方にみずから話を通し、半月の限りで借り受けた。普請入費の切り詰め算段のためにである。桶屋職人として、源治の名は深川で通っていた。わけを聞いた親方たちは、こころよく頼みを聞き入れてくれた。 「上方からたったひとりで出てきて、酒もやらずに貯めた銭で商いを始めるなんざ、並の料簡じゃねえやね。ここで半端をやっちまったら深川の名折れだ。源治親方、遠慮はいりやせんぜ」  大工の棟梁は、足りない道具まで融通してくれた。  汚れ水を吐き出す樋《とい》の造作だけは、仲町の井戸屋に頼んだ。しかし他の差配はすべて源治が振るったことで、丸投げ普請に比べて四割近くも安く仕上がった。  とは言うものの、棟梁でもない源治の段取りでは、目配りが漏れて小さないざこざは幾つも起きた。普請場の気配が荒っぽくなると、すぐさまおふみが駆けてきた。 「麦湯が入りましたから一服してください」  少し太めのおふみの笑顔には愛嬌《あいきよう》があった。声もすっきり通っているし、しかも源治の娘だ。おふみに近寄られた連中は、苦笑いを浮かべつつも揉め事を収めた。その代り源治が近くにいないときには、遠慮のない軽口を投げかけた。 「おふみちゃんがお施主さんみてえだぜ。いっそのこと、ここで一緒に豆腐をこさえたらどうだい」  言われたおふみは、耳まで真っ赤にして駆け去った。カタカタ鳴る下駄を指差して笑い転げる職人のわきで、永吉は真顔でおふみの後ろ姿を見ていた。  豆腐屋の普請は九月二日、大きな水がめふたつが運び込まれて仕上がった。暑さは一向に退《ひ》かなかったが、空が高くなって雲が変わった。蝉もすでに姿を消していた。  大八車から降ろされた水がめが、四人がかりで土間に据え付けられたときには、長屋の女房連中が洗濯の手をとめて集まった。 「水汲みだけでも大仕事だね、永吉さん」  土間で据付の指図をしていた永吉が、仕立て屋の女房にうなずいた。 「永吉さんの造る上方のお豆腐は、とにかくお水をたくさん使うそうなの」  おふみが土間から出てきた。 「そのかわり、とってもおいしいのよ」 「あら、おふみちゃん、もう食べたのかい?」 「そんなわけないでしょう、これからお店を始めるんだもの」 「食べてなきゃあ分からないだろうにさ」 「そんなことないわよ。永吉さんは腕のよさを見込まれて、江戸で売ってもいいってお許しが出たんだから」  集まった女房たちの真ん中で、おふみがむきになって売り込んだ。 「ずいぶん肩を持つじゃないか。うちのもそう言ってたけど、おやすくないよ」 「あら、たいへんだ、黙り込んじゃったよ。おふみちゃん、図星かい?」  年増の囃《はや》し方には遠慮がない。 「ここに来る担ぎ売りの嘉次郎《かじろう》さんも男ぶりがいいけど、永吉さんも相当なもんだよ」 「ほんとだねえ。こんな狭い長屋で、いい男が豆腐でぶつかるってのもおもしろいじゃないか……おふみちゃんはもちろん永吉さんだろうけど、あたしゃ、日替わりで豆腐を替えようかねえ」  軽口を叩きながらも、永吉の豆腐を楽しみにしている様子だった。  土間の隅には、広弐屋から豆が十俵すでに運び込まれている。源治の仕上げた豆腐の風呂に水が張られて、すべてが仕上がった。 「明日から豆腐を売らせてもらいますよって、なにとぞよろしゅうに」  夕風が長屋に流れ始めたところで、永吉は一軒ずつあいさつに回った。 「わかってるわよ。朝の味噌汁に、あんたの豆腐をおごるから」  どの家も女房とこどもしかいなかったが、愛想はすこぶるよかった。日暮れ近くになって、担ぎ売りの嘉次郎が長屋に入ってきた。 「うちは明日の都合があるからさあ、今日はわるいけど勘弁して」  嘉次郎の豆腐は四半丁で十五文だ。新兵衛店に限らず、深川の住人は豆腐好きである。しかしその多くが職人を生業《なりわい》としており、遣り繰りする女房連中には、日に何丁もの豆腐を買うゆとりはない。  新兵衛店では、嘉次郎の豆腐はほとんど売れなかった。渋い顔で木戸に向かう嘉次郎が、普請を終えた永吉の店先で立ち止まった。  すでに土間は薄暗かったが、嘉次郎はなかの永吉に軽い会釈をした。このさき商売敵になるかも知れないが、素通りもできなかったのだろう。ところが思案にふけっていた永吉は気づかずに応えなかった。 「ちぇっ、なんてえ野郎だ」  翌朝の段取りで気が一杯の永吉には、嘉次郎の舌打ちも届かない。  少しずつ日が短くなっていた。六ツの鐘が、すっかり暮れた長屋に流れた。 「永吉さん、おとっつあんがごはんを一緒に食べましょうって……支度を急いでね」  翌朝に開業を控えた永吉を励ます晩飯だった。永吉は、平野屋のお仕着せで源治のまえに顔を出した。 「いい柄じゃねえか」  白と紺の細い縦縞で、背中に平野屋と丸く染め抜かれていた。縦縞が、大柄で浅黒い永吉を一段と引き立てている。おふみの目が丸くなった。 「まずは祝いだ、いっぺえやんなよ」  目新しいものはなにもない。それでも茄子の煮物やいわしの塩焼き、金時の煮豆が永吉の分も小皿に盛られている。商い始めを控えて気が昂《たか》ぶっている永吉には、なによりの心遣いに思えた。 「ところで、屋号は決めたのかい」  酒の区切りがついたところで、源治が問いかけた。 「へえ……京の親方は平野屋を名乗ってもええ言わはったんですが、わてには肩の荷が重過ぎます。ここからはわてが初代やおもうて、京やにしよおもてます」 「いい屋号じゃねえか。おふみはどうでえ」  お仕着せ姿の永吉を見たあと、おふみの口数が少なくなった。源治に問いかけられても、いいわね、としか答えない。 「なんでえ、妙に愛想がねえな」  尖らせた源治の口をおみつが目でとめた。 「朝が早うおますんで、これで失礼させてもらいます」  おふみの様子で気配が微妙に変わったのを潮時に、永吉が腰をあげた。 「そうかい、それじゃあ止めねえよ。あした出来る豆腐を楽しみにしてるぜ」  源治が戸口まで送りに出た。 「ちょっとだけ、おもてで涼んでくるから」  洗いものを終えたおふみが出ていった。  風が止まっている。蚊取りでいぶす松葉の煙が、流れずに天井に留まっていた。 「おふみのやつ、どうしたてえんだよ」 「あんたもしょうがないねえ」 「なにがどう、しょうがねえんでえ」 「永吉さんのお仕着せ姿が、あの娘《こ》にはまぶし過ぎたんだよ」 「いうことがよく分からねえ」 「いいよ、おまいさんには分からなくても……しゃきしゃきしてても、やっぱり娘なんだねえ。だからおふみは、ちょいと気持ちが拗《す》ねたのさ。あたしゃ安心したよ」 「てやんでえ、ひとりでわけ知り顔をするんじゃねえ」  源治が女房に毒づいているとき、おふみは堀の川面を眺めていた。しゃがんだ足元の小石を拾うと、暗い川面に投げ入れた。      七  宝暦十二年九月三日が京やの初日となった。永吉は六ツ(午前六時)に店を開けて、京風の絹豆腐を十二文で売り出した。当初は十文を考えていたが、広弐屋の番頭から強くいわれて二文高くした。  永吉の豆腐は江戸前豆腐の四半丁ほどだ。嘉次郎のものは一丁六十文、四半丁で十五文である。  同じ大きさで三文安い京やの豆腐に、長屋の客は大喜びした。朝方の評判を聞いて、隣町から堀を渡って買いに来る客まで出た。 「一度でいいから、四半丁じゃなしに、豆腐一丁おくれって言ってみたかったんだよ」 「あらまあ、あたしもおんなじことを考えてたわ」  客が顔を見合わせて笑った。  永吉は百丁をこしらえた。客足が絶えず、昼前には七丁しか残っていなかった。  嘉次郎が薄笑いを浮かべて店先に現れたのは、昼を過ぎてのことだった。 「二丁もらうぜ」 「あっ、嘉次郎はん……おかげさんで店を開くことができました。これからも、よろしゅうおたの申します」 「おれの稼ぎ場に、あいさつなしに店を出しやがって、眠てえことをいうんじゃねえ」  いきなり荒い言葉を投げつけられて、永吉は口が開けなくなった。 「ずいぶん売れたみてえだが、勝負はこれからよ。十二文の豆腐を、しっかり味見させてもらうぜ」  銭を投げるように渡して路地から消えた。入れ替わりに客がきて、百丁がそっくり売り切れた。  おふみは朝の口開け一番に、ご祝儀代りに五丁の豆腐を買っていた。 「売り切れるといいわね」  昨夜の気持ちを引きずったおふみは、素っ気なくいうと、ろくに話もせずに帰ってきた。しかし宿の土間に入っても、豆腐の売れ行きが気懸かりで朝からなにも手がつかない。源治やおみつには生返事を繰り返していた。  買ってきた豆腐も、手桶に入ったままになっている。 「おふみ、早く食べなきゃ傷んじゃうよ」 「だめよ、おっかさん。売り切れたら食べるって八幡様にお願いしたんだから」  母娘が朝から、こんなやり取りを繰り返した。娘の気持ちが痛いほど分かっているらしく、おみつは昼過ぎにはなにもいわなくなった。 「源治はん、おかげさんで百丁みな売れました」  永吉が嬉しそうな顔を見せたとき、源治は手を休めて麦湯を飲んでいた。 「そりゃあてえしたもんだ。豆腐が気になって、おふみは朝からなんにもできねえんだ」 「永吉さん、お疲れさま。売り切れになってよかったわね」  おふみが永吉にも麦湯を持ってきた。湯呑みを手にした永吉は上がり框に腰をおろし、おふみに笑顔を向けた。ひと口つけたあとで、目が手桶で止まった。豆腐五丁が入ったままになっている。へっついのそばにいたおみつが寄ってきた。 「この娘《こ》はねえ、今日のお豆腐が売り切れたらと縁起をかついでさ。どうしても食べさせてくんないんだよ……永吉さん、おめでとう。これでやっと口にできるよ」  永吉の湯呑みが動かなくなった。目がおふみに戻り、じっと見詰めている。 「おとっつあん、麦湯のおかわりは」  照れ隠しなのか、おふみが大声で問いかけた。永吉と娘とを交互に見やったおみつは、襟元をいじりながら板の間に上がって行った。 「明日の仕込みがおますんで失礼します」  言ってからおふみに目を合わせた。 「おふみはん、ほんまおおきに」  短い言葉に様々な思いがこもっていた。おふみにもそれが伝わったらしく、ぎこちない辞儀が返ってきた。  縁起をかついだ豆腐は、晩飯に出された。豆腐をしっかり味わえるように、おふみは薬味も添えず、ひと口大の賽の目にした。初めに源治が箸をつけた。 「なんでえ、この豆腐は」  おふみを見る父親の目が尖っていた。 「あいつの喋り方とおんなじで、ぐしゃぐしゃじゃねえか」  源治は半分も食べずに箸を放り投げた。 「どうして……おいしいじゃない。ねえ、おっかさん」  おみつも豆腐から箸を離していた。  永吉の豆腐は柔らかな京風豆腐である。源治たちが食べていたのは、しゃきっと腰のある江戸前木綿豆腐だ。旨いまずいのまえに、口に入れた感じが違い過ぎた。 「深川でこの豆腐を売るのは骨だぜ」  そうだねえ……と、おみつが漏らした。おふみひとりが五丁の豆腐を、むきになって食べていた。  同じころ嘉次郎は仙台堀沿いの裏店で、京やの味をひと箸ひと箸、吟味していた。  嘉次郎が豆腐を仕入れるのは、三好町表通りの平田屋である。平田屋は近所の正覚寺、増林寺など五つの寺に豆腐と油揚げを納める老舗で、棒手振も十人が出入りしていた。  嘉次郎は一丁四十文で仕入れた豆腐を、六十文で日に五十丁は売りさばく。歳は三十路の初めだが、十六から豆腐の担ぎ売りひと筋できただけに舌は厳しい。豆腐の出来がわるい日には、平田屋のあるじにも文句をつける嘉次郎には、職人も一目置くほどだった。  その嘉次郎が、道具の目利きでもするかのように京やの豆腐を口にしていた。昼過ぎに買い求めてここまで食べなかったのは、豆腐の傷み具合を見るためだ。  初めの箸をつけたとき、嘉次郎は呆れ顔になった。 「なんでえ、この豆腐は……」  源治とおなじ言葉を吐いた。が、箸を投げ出しはしなかった。  口をつけた一丁をわきにどけて、新しい豆腐を二つに切り分けた。半分を皿におき、残りを小さな賽の目にして別の皿にのせる。そのひとかけらを、指でつまんで口に入れた。  立て続けに三つを舌で吟味した。  次第に目つきが厳しくなった。残る半丁のかたまりを鼻に近づけた嘉次郎は、豆の香りを嗅ぎ、手のひらで豆腐の肌触りを確かめた。  うめきとも唸りともつかない声を漏らしたあと、薄く下地をかけて一気に口に入れた。 「……うめえ……」  悔しそうな呟きがこぼれ出た。      八  翌日は朝から強い雨に見舞われた。  五ツ(午前八時)を過ぎても、厚い雲にさえぎられて陽が出ない。おふみの他は、ほとんど客が来なかった。四ツ(午前十時)過ぎに雨が上がっても、豆腐は水風呂に溢れていた。  おふみは朝から三度も顔を見せた。土間に立つ永吉は、所在なげにおもてを見ている。おふみは声をかけることもできず、家に引っ込むしかなかった。  正午には朝の雨が嘘のような陽が出て、路地にもひとの声が溢れ出した。井戸端では、遠慮のない話し声が交わされていた。 「おたけさん、どうだった」  おくめが洗濯の手を止めて、通い船頭清助の女房に問いかけた。 「どうって、なにがさ」 「お豆腐に決まってるじゃないか。あんた、安い安いと嬉しがって三丁も買ってただろ」 「やだねえ、声が聞こえちまうよ」  おたけが唇に指をあてて首を振った。おくめも納得したらしく、ふたりは話題を変えて洗濯に戻った。  午後に入ると、新兵衛店を行き交うひとが増えた。裏店の住人は、京やの角を曲がって木戸に向かう。永吉はみんなに会釈をしたが、長屋の連中は急ぎ足で通り過ぎた。  昨日は昼過ぎに売り切れたのに、一夜明けると客足が一気に遠のいた。永吉にはわけが分からないまま刻《とき》が過ぎ、陽が西に傾いた。百丁の豆腐が八十丁も売れ残った。  おふみが昨日と同様五丁を買っている。他の客はわずか十五に過ぎなかった。  豆腐は宵を越せない。  陽が落ちて薄闇が新兵衛店を覆い始めると、永吉は豆腐を手桶に移した。 「残りもんですんまへんけど、よろしかったら食うとくなはれ」  新兵衛店で配り始めた。昨日、今日と嘉次郎は新兵衛店には来ておらず、どの家にも豆腐はないはずだ。しかし軒並み断られた。ただでと言われても、受け取る家はなかった。  おふみは黙って見ていた。口添えなどしたら、余計に永吉を傷つけると思ったのだろう。  八十丁がそっくり残った。  手桶をさげた永吉が、肩を落としておふみの宿を通り過ぎ、明かりのない京やに戻って行く。家を飛び出したおふみは、京やの戸口に立った。  永吉が行灯の火種をさがして、暗がりのなかでかまどを掻き混ぜている。やっとひとつ種火が見つかったらしく、手前に掻き出して小割りに火を移した。掛行灯《かけあんどん》に灯が入り、永吉の横顔が浮かび上がった。  持ち帰った手桶から一丁の豆腐を取り出した永吉は、角をつまんで口に入れた。  その豆腐を手桶に戻すと、残り何丁かを同じように試した。 「どれも、ええできやのになあ……」  土間に座り込んで漏らした小声がおふみに聞こえた。息を潜めて見詰めていると、手桶をさげた永吉が暗い流しに向かった。  しばらくは突っ立ったままだった。やがて桶から一丁ずつ流しに豆腐を重ね始めた。薄暗いなかに、白く築かれた山がぼんやりと見えた。 「堪忍してや……ごめんなあ……」  売り残した豆腐に詫びを呟きながら、ひとつ潰しては山を崩してゆく。  消えいるような永吉の声を、戸口に立ち尽くしたおふみは自分の胸にしまいこんだ。気の早いこおろぎが、遠くで鳴き始めた。  翌日も、また朝から雨になった。  豆腐を潰す永吉の顔を何度も思い出して、おふみは眠れない朝を迎えていた。夜半過ぎからの雨音が、浅い眠りを誘いそうになった。が、すぐにまた永吉の呟きがあたまのなかを走り回った。  石臼の音が聞こえ始めたところで、手早く身繕《みづくろ》いを整えて京やの戸口に立った。  石臼に水を加えてゴロゴロと挽く永吉に力強さは見えなかった。雨の夜明けは暗く、肌寒い。豆を挽き終わると、かまどに薪を数本投げ込んでしゃがみこんだ。乾いた薪の爆《は》ぜる音が土間に響いた。 「おはよう、永吉さん」  背中越しに聞こえたおふみの声に、永吉は慌てて立ち上がろうとした。挽き豆の入った桶がかまどのそばに置いてある。立ったはずみで蹴飛ばした。 「あっ、たいへん……」  飛び込んできたおふみが、土間に散った豆をすくおうと腰を落とした。 「それはもう無理や」 「だって、これってお豆腐のもとでしょう」 「そんな土で汚れたんは、つかえんわ」  臼でひかれた大豆は、どろりとした乳《ちち》のようだ。手ですくい集めても、土まみれで使えそうもなかった。 「蹴飛ばしたんはわてやから……それよりおふみはん、えらい早《はよ》うからどないしたんや」  おふみはうまい返事ができずに口ごもった。 「わてとしゃべってるひまはあるやろか?」 「いいわよ。朝の支度はおっかさんだから」 「ほんなら、ここに腰をおろしてや」  永吉にすすめられるままに、おふみは京やの框に腰をおろした。 「話というのは、うちの豆腐のことや。正直にいうて欲しいんやが、この豆腐になんぞわるいとこでもあるんやろか」  明け切らない土間で、永吉の思い詰めたような目がおふみを見ていた。  ひといき間をおいたあと、おふみは父親の言葉を正直に伝えた。あわせて長屋の女房連中が口にしていることも、その通りに話した。 「永吉さんのお豆腐が、おいしくないってわけじゃないのよ。長屋のひとたちは、嘉次郎さんのお豆腐しか食べたことがないから、永吉さんのにびっくりしたんだとおもう」  永吉は食い入るような目つきで話を聞いている。おふみは言葉を選ばず、感じたままを伝えようと決めた。 「おとっつあんはひどいことを言ってたけど、おっかさんもあたしも京やのお豆腐、好きよ……ただ……」 「ただ、どうですねん」 「余計なことだったらごめんね。ここで嘉次郎さんのお豆腐と張り合うんなら、もう少しだけ固くしたらどうかしら」  永吉は両目を閉じて考え込んでいた。おふみも黙った。かまどの薪が音を立ててはじけている。ひときわ大きく爆ぜたとき、永吉が目を開けた。 「平野屋のやり方は変えられまへん」  おふみが初めて聞く、きっぱりとした口調だった。 「江戸のひととは好みが違うかもしれん。そやけど、わてが仕込まれたんはこの豆腐や」  かまどから薪が一本こぼれ落ちた。ふたりが一緒に焚き口に急いだ。 「京やを始めてからまだ三日目やのに、えらい弱気になっとった」  薪を押し込んだ永吉が、おふみに目を合わせた。 「わてを仕込んでくれた平野屋の暖簾にかけても、ここは気張らなあかん……みんなに分かってもらえるまでひまはかかるやろけど、踏ん張るわ。ええこと聞かせてもろうて、ほんまにおおきに」  力のこもった目の永吉に見詰められて、おふみに笑みがひろがった。 「ちょうど湯も沸いたことやし、元気出して豆腐をつくるわ」  立ち上がった永吉が、前垂れを両手で引き伸ばした。きゅきゅっと、小気味よい音が立った。 「永吉さん、ここで見させてもらってもいいかしら」  すでに豆腐造りに気が行っているのか、おふみの問いにもうなずいただけだった。  大豆を挽く動きがまるで違っている。臼の立てる音にも威勢があった。  挽き終わった乳白色の大豆を、沸き立っている大鍋に流し込んだ。京やの土間に、大豆の青い香りが充ちた。 「おふみはん、ちょっとこっちまできてみい」  呼ばれたおふみが、かまどのそばで永吉に並んだ。 「これが豆腐のもとになる呉《ご》やねん」 「上方も深川もおんなじなのかしら」 「そうやと思うけど、大豆に足す水加減と煮加減は江戸とは違うはずや。煮足らんかったり水が多過ぎたりしたら、豆腐はワヤや。わてが平野屋で呉をいじらせてもらうまでには、七年もかかった」  話している間も、永吉の目は鍋から離れない。おふみは余計な口を開かず、永吉の横顔に見入っていた。 「よっしゃ、ここや」  何がきっかけになったのか、おふみにはまるで分からなかった。が、永吉は爆ぜながら燃える薪をかまどから取り出すと、大きなひしゃくで鍋から桶に、呉を一気に移した。 「ちょっとわきにどいててや」  豆腐を造る永吉の声は鋭い。おふみは土間の端に飛びのいた。  まだ湯気が立っている桶を戸口近くの絞り袋まで運んだ永吉は、一気に中身をあけた。二桶分の呉で絞り袋が大きく膨らんでいる。永吉は袋の下のたらいを確かめてから、櫓のような長い柄を袋の先の穴に通し、力一杯に押し下げた。  鈍い音とともに、袋から豆乳が絞り出された。何度もこの動作を繰り返し、最後には柄に腰を乗せて豆乳を絞り切った。  肌寒い夜明けだというのに、永吉のひたいには汗が浮くほどの力仕事だ。  豆腐造りを初めて見るおふみは、土間の隅から身を乗り出していた。 「もうこっちにきてもええで」  絞り終えて、ひと息ついた永吉の声がやさしい。近寄るおふみの下駄がカタカタ鳴った。 「これが大豆の乳や」  たらいのなかで、粘り気の強そうな豆乳がゆらゆらと揺れている。 「この乳がもう少し冷めたら、にがりを入れてから箱に流し込む。江戸の豆腐は、この乳が薄いんや。おふみはん、指を入れて乳をなめてみい」  おふみが人差し指の先をそっと入れると、どろりとした粘りが伝わってきた。 「わてが食べた江戸の豆腐は、どれも固いのばっかりやった。乳が薄いさかい、箱で固めるときに、重しで水を絞り出してしまうんや」  永吉はたらいを土間にそっと置き、おふみと並んで框に腰かけた。 「もうちょっと固《かと》うしたらどうやと、さっきいうたやろ」 「はい」 「豆を惜しんで薄い乳から造るんやったら、固うするんは簡単や」 「ごめんなさい、余計なことをいって」 「いや、文句いうてるわけやない。そやけどなあ、なんぼ江戸のひとは固いの好きやいわれても、そんなんはわてが仕込まれた豆腐とは別のもんやねん。わての豆腐は、豆をぎょうさん使《つこ》うた濃い乳がもとや。水を絞り出さんでも、きれいに固まる」 「………」 「豆腐は絶対にわてのが旨い。すぐには無理でも、かならずみんなも分かってくれるやろ。せっかく、こんなええ井戸のある場所が借りられたんや……へこたれんと気張るで」  雨は続いていたが、おもてには朝の明るさがあった。永吉が豆腐造りに打ち込んでいる姿を、おふみはこの朝初めて見た。半端なことをいったのが悔やまれた。 「永吉さん、あたしになにができるか分からないけど、なんでも手伝わせて」 「それはあかん。嫁入りまえの娘はんが、朝はよからわてのところにいるだけでも、親父はんに申しわけないおもてるのに」 「永吉さんには迷惑なの?」 「そんなことはあれへんけど……」 「だったら、あたしは平気だから」  言い切ったおふみは、雨でぬかるんだ路地を駆け戻って行った。      九  永吉がおふみと話をした同じ朝、嘉次郎は三好町平田屋の座敷で、主人の庄六と向かい合わせに座っていた。  老舗といっても、平田屋はそれほどの身代《しんだい》ではない。いまの平田屋庄六は四代目で、五尺二寸(約百五十八センチ)の小柄な男だ。眉毛が太く、狭いひたいにはいつも脂が浮いている。  得意先に嫌らしいほどへりくだった口をきく裏返しなのか、店では横柄だ。いまもあるじ然として座っているが、歳はまだ三十五歳。嘉次郎より四つ年上なだけである。 「うちの親方の肝っ玉は、大豆五粒てえとこだよなあ」  職人たちが陰で遠慮なくいう通り背丈同様の小心者だが、商才には長《た》けているところもあった。冬木町の寺を得意先にしたのも、いまの庄六である。  小柄な男に如才ない口調で持ち上げられると、相手は気づかぬまま自分の胸を反《そ》らしてしまう。 「そこまでいうなら納めてもらおうか」  膝にあたまがつくほどに辞儀をしておもてに出ると、あたりの小石を蹴飛ばし、地べたに唾を吐く。これが庄六の商いである。 「女は手間がかかるだけで、一緒に暮らしてもろくなことがない。あたしは生涯、ひとりでいい」  何年か前、仲間が持ち込んだ縁談に、にべもない断りをいった。すすめた方も世辞半分だっただけに、それ以来、どこからも話が持ち込まれなくなった。  先代も似たような気性だったのか、授かったこどもは庄六ひとりである。三十路半ばで妻子も兄弟もいない庄六は、身代を太らせることだけが生き甲斐だった。  儲け話にはどこまででも卑屈になれた。しかし商いに障りそうな兆《きざ》しを感じ取ると、徹底して阿漕《あこぎ》な振舞に及んだ。 「それでどうだい、あんたの見立ては」  三服目を煙草盆で叩《はた》きながら、庄六が問いかけた。 「親方がしんぺえすることでもねえ」  嘉次郎は庄六にも仲間口をきく。そのたびに庄六のこめかみがぴくぴく動いた。 「まずいのかい」 「旨いまずいよりもめえの話さ。深川《ここ》じゃあ、あの豆腐は売れねえ」  庄六が頬をゆるめた。座敷の隅には、庄六の背丈ほどもある狐の焼き物が置かれている。油揚げを商う平田屋のお守りとして、万年町の瀬戸屋に誂えさせた。庄六が頬や目元をゆるめると、焼き物そっくりの顔になった。 「そうかい、そんなにひどいのかい」 「だがさあ、なんだって親方はそんなに京やを気にするんでえ」 「そりゃあ嘉次郎、ここは寺が多いからさ」 「寺だって?」 「おまえは寺相手の商いをしないから分からないだろうが、あの連中は京からの下りものには、ばかに弱いんだよ」  庄六が唇をなめた。舌が真っ赤だった。 「おまえの話だと、その豆腐屋は、もとは平野屋の職人だてえんだろう」 「じかに聞いたわけじゃねえが、桶屋の娘がそういってた」 「平野屋は、南禅寺という京の名高い寺の門前にある店だ」 「庄六さんはいつ上方に行ったんでえ」 「いやなきき方をするんじゃないよ」  太い眉の尻が吊り上がった。 「行ったことはないから、正味のところはあたしも知らない。だがねえ嘉次郎、その京やが近所の寺を相手に商いを始めたら、うちには厄介だ」  庄六がせわしなくキセルを使った。気が急《せ》いたり、不安なときに出る癖だ。 「それじゃあなにかい、おれが今朝ここに呼ばれたのは、京やがらみのことかよ」  嘉次郎が露骨に不機嫌な声を出した。 「まあ待ちなさい。あんたにもわるい話じゃないから」  庄六が座敷を出た。店先から油揚げを揚げる音と、焦げた匂いが流れ込んでくる。嘉次郎は朝飯がまだだった。香ばしい油揚げの香りに鼻をひくつかせていると、盤台《はんだい》二つを抱えた庄六が戻ってきた。  担ぎ売りのものともおもえない、黒塗りの見事な盤台だ。紐が通された柄には『嘉次郎』と屋号が描かれている。嘉次郎の目が丸くなった。 「今日からこいつを使ってくれ。あんたの屋号をいれといたから」 「なんでまた、こんなものを」 「なんだよ、気に入らないのかい」 「そうじゃねえが、なんでこんなものをおれにくれるのかが分からねえ」  盤台は漆塗りだ。江戸中さがしても、漆の盤台をさげた棒手振などいるわけがない。 「あんたに頼みごとが二つある。ひとつはこの盤台であんたの……つまりは平田屋の評判を高めてもらいたい」  狐のような目つきになった相手を、嘉次郎は返事もせずに見詰めた。 「粋と男振りを売ってるあんたのことだ、この盤台は間違いなく評判を呼ぶよ。黒塗りだから、白い豆腐もさぞかし旨そうにみえるだろうしさ」  漆の盤台で売り歩けば、先々で評判になるのは間違いなかった。 「それと、今日から蛤町界隈では、豆腐一丁を四十文で売ってもらいたい。値を下げる分はうちが負うから、あんたに損はかけない。どうだい、きいてくれるだろ?」  おもねるような口調で庄六が話し終えた。嘉次郎は目を閉じて、腕組みのまま返事をしない。焦《じ》れた庄六がキセルを叩き、大きな咳払いをした。それでも嘉次郎は腕組みを解かなかった。 「嘉次郎……おい、嘉次郎さんよ」  庄六がさんづけで声を尖らせると、面倒くさそうに嘉次郎が目をあけた。 「おれの思い違いでなきゃあ、この盤台も豆腐の安売りも、すべては京やをどうこうしたくてのことですかい」 「………」 「なんでえ、図星かよ。京やの豆腐なんざあ深川じゃ売れねえって、こんだけいっても親方は得心がいかねえらしいな」  売り声とはまるで違う、低く暗い調子の言葉を投げつけた。 「さっきもいった通り、あたしは京から来た職人てえのが気にいらないんだよ」  どちらが親方だか分からないようなやり取りになった。 「いまの間に、あたしは京やをきっちり始末したい。蛤町とこことでは目と鼻の先だ。売れないといわれても、あたしは心配だよ」  またせわしなく煙草を詰めた。 「あんただって、京やのことは面白くないんだろうが。陰でいってることは、ちゃんとあたしにも聞こえてるよ」  面白くねえ……と嘉次郎が仲間に漏らしたのは、商売敵だからではなかった。新兵衛店で毎日顔を合わせながら、開業までひとことのあいさつもしなかった、永吉の義理のわるさに怒ったのだ。 「盤台は豪勢だ。くれるてえならありがたくいただきてえが、豆腐の安売りと引き替えなら話は別だ」 「どうして……」 「まあ聞いてくんねえ。京やがあるてえだけで、親方がしんぺえするのは分かったよ。だからといって、でえじな豆腐を安売りするのは筋違いだ。おれも冬木町の嘉次郎さ、ちったあ知られた棒手振よ。半端な真似しなくても、ひとはおれから豆腐を買うぜ」  嘉次郎の啖呵《たんか》に気圧《けお》された庄六は、安売りなしに盤台を渡す羽目になった。  嘉次郎は小雨のなか、ふたつの盤台をさげて長屋に戻った。七輪に火をおこして小鍋をのせると、平田屋の豆腐一丁を切り割って入れた。  雨足は衰えず、夏が逃げたあとの肌寒さが居座っている。七輪ごと畳に上げると、濡れた縞木綿を亀甲絣に着替えた。  小鍋が煮え立ち、豆腐が踊っている。 「まだ九月だてえのに、湯豆腐食ってちゃあしゃあねえぜ」  独り言をいうと、小皿の下地をちょいとつけた。  うめえ……のひとことが嘉次郎から出ない。あとの豆腐も残らず平らげたが、満足した表情は浮かばなかった。小鍋をおろし、七輪をかまどわきに片付けた。平田屋からもらってきた盤台が、板の間のむしろにのっていた。  雨降りの朝は商いが薄い。それが分かっている嘉次郎は、板の間にごろりと横になった。  午後には雨が小止みになった。  竹の子笠に足駄の雨支度で出ようとしたが、西空を見て笠を脱ぎ、足駄をわらじに履き替えた。  天秤棒を手にし、黒塗り盤台を両側に提げた。西の空の雲が切れている。嘉次郎は豆腐を仕入れに平田屋へと歩き始めた。      十  商いを始めて三日目の午後、永吉は京やの土間に立っていた。造る豆腐を半分の五十丁にしたが、まだ四十近くが残っている。  しかし立ち姿には元気があった。早朝におふみと話したことで、永吉は肚を決めた。それにわずか三丁だが、おふみは律儀にこの日も京やの豆腐を買いに来た。  気を抜くと顔を出す弱気の虫を、肚で押さえつけているようだった。が、七ツ(午後四時)過ぎに顔色が変わった。 「とうふううい、とうふい」  永代寺の鐘が七ツを打ち終わらないうちに、嘉次郎の売り声が井戸端に立った。いきなり幾つもの腰高障子が開き、女房連中が顔を出した。 「あららっ」 「うわあ、嘉次郎さんったら……」  目ざとく黒塗りの盤台に目をとめた女房たちが、てんでに驚きの声をあげた。三日ぶりの、口に馴染んだ豆腐と粋な黒塗りの盤台。井戸端が大いに沸いた。 「明日もちゃんとくるんだろうねえ」 「あたぼうさ。おたけさんに買ってもらえなきゃあ、おれの口が干上がっちまう」 「二日もうっちゃっといて、調子のいいこというんじゃないよ……ねえ、おくめさん」  交わされる軽口を、離れたところで聞いているおふみの顔が暗かった。  永吉さんには聞こえませんように……。  口のなかでぼそぼそっと祈ったが、狭い長屋の話し声が届かないはずもなかった。  二日もうっちゃっといて……おたけの高い声を聞いて、永吉の身体がぶるるっと震えた。  ざるから一握りの銭を掴んだ永吉は、店を出て角に立った。おふみが戸口の陰から見ている。ほどなくして、商いを終えた嘉次郎が京やの角に現れた。 「嘉次郎はん」  呼び止める永吉の声が、おふみにも聞こえた。嘉次郎は返事をしないまま、永吉のまえで足を止めた。 「わてにもその豆腐、一丁売ってもらえまへんか」  おふみには、永吉が嘉次郎のまえに立ち塞がっているように見えた。嘉次郎は口を開かずに立ち止まったままだ。  雨上がりの西空にあかね色の陽が大きい。永吉と嘉次郎が、長い影をおふみの方に伸ばしていた。 「豆腐屋が、棒手振から豆腐を買おうてえのかよ」  嘉次郎は永吉の肩ほどの背丈だ。見上げる形で低い声を投げつけた。 「分けてもらえまへんやろか」 「豆腐なら、そこの水風呂に売るほど泳いでるだろうがよ。あいにくだが、おれっちの豆腐は見せものじゃねえ、食いもんだ」 「………」 「おめえに買われて、風呂んなかで見せもんにされちゃあ、豆腐が可哀想よ。そこをどきな、おめえに売る豆腐はねえ」  言い放った嘉次郎は、永吉には目もくれずに木戸口へと歩き出した。永吉は茫然と突っ立っていた。  おふみの動きは素早かった。 「おっかさん、ちょっと出るから晩の支度はお願いね」  おみつにひと声かけて飛び出した。まだ立ち尽くした永吉のまえを駆け抜けて、嘉次郎を追った。  新兵衛店におふみが戻ってきたのは、陽も落ちた六ツ(午後六時)過ぎだった。  京やはすでに店仕舞いをしていたが、板戸は開いたままだ。灯《とも》された掛行灯の明かりが、かまどの火をいじる永吉を照らしていた。 「ただいま、永吉さん……おとっつあんに断ったらすぐ来るから」  すぐにといったおふみが戻ってきたのは、四半刻(三十分)も過ぎてのことになった。 「おとっつあんに叱られちゃった」  おふみが明る過ぎるほどの声で入ってきた。永吉が流しに立っており、また豆腐が山を築いている。おふみの顔色が変わった。 「永吉さん、なにしてるのよ」  尖ったおふみの声に、永吉が怪訝《けげん》そうな顔で振り返った。昨夜、豆腐を潰す姿を見られたことに、永吉は気づいていないのだ。 「きょうもまた、えらい数が売れ残ってしもうたんや」  流しに立ったままだが、手が座れとすすめている。おふみはこの朝とおなじように、上がり框に腰をおろした。 「さっき嘉次郎はんに、えらいきついことをいわれたんや。おふみはん、聞いとったやろ」  おふみが小さくうなずいた。 「ほんなら、見せものにしたら豆腐が可哀想やといわれたんも、知ってるやろ」  おふみが、さらに小さくうなずいた。 「えらい言われ方やけど、嘉次郎はんのいう通りや。ゆうべわては、この流しで八十もの豆腐を潰してしもうた」  永吉がおふみのとなりに座った。永吉の顔をのぞきこんだら、目には力があった。おふみの肩から力が抜けた。 「あんなことは二度としとうないおもて、今日は半分に減らしたんやけど、やっぱり三十以上も残ってしもた」  おふみは膝で重ねた手を見ていた。永吉が大きな息を吐き出した。 「そやけど、もう豆腐は潰さへん。嘉次郎はんが豆腐は食いもんやいうたけど、ほんまや。わてが流しに立ってたんは、残った豆腐の使いみちを思案してたとこやったんや」 「永吉さん、あたしにも考えがあるの」 「考えてなんや?」  おふみは木綿着の裾を合わせ直した。 「永代寺さんに、残ったお豆腐をご喜捨《きしや》させてもらいたいの……いいでしょう?」  さきほど嘉次郎と話したことから思いついた思案だった。  嘉次郎を追って長屋の木戸を出たおふみは、堀にかかる黒船橋を渡ったところで追いついた。目の前に黒船稲荷の境内があり、沈みかけの陽が石畳に斑《まだら》模様を描いていた。 「嘉次郎さん、ちょっと待って」  下駄の音で、嘉次郎はだれであるかが分かっているようだった。 「おう、おふみちゃん、どうしたよ」 「すこしだけ嘉次郎さんとお話しさせて」 「いいともさ。どうせ京やのことだろうが」  おふみが、うっと言葉を詰まらせた。 「分かってるって。そこの境内でどうだい、豆腐屋のことを話すにゃあ、お稲荷さんはお誂えじゃねえか」  嘉次郎の目がやさしく笑っている。夕暮れどきでひとのいない境内だったが、おふみはこだわりなく神社に入った。 「ここに座ろうや」  先に嘉次郎が石段に座った。おふみは身体二つ分をあけて腰をおろした。 「おふみちゃんがおれとこうして話すのを、京やは知ってんのかい」  おふみは激しく首を振った。 「あんたひとりの思いつきか」  嘉次郎の目が厳しくなった。 「なにを話したいのか見当はつくが、先におれの話を黙ってききな。そのあとで、おふみちゃんの言い分を聞こうじゃねえか」 「はい」 「長屋の角店で豆腐屋の所帯を張ってるやつが、棒手振から豆腐を買おうてえのは、並の肚じゃあできねえ。さっきはおれもみみっちい啖呵《たんか》をきったが、あいつを見直したぜ」  嘉次郎はこのあと、永吉への親身な戒めを幾つも話した。その口調は永吉を腕の立つ豆腐職人だと、はっきり認めたものであった。 「長屋でおれと張り合っても無駄だぜ。おっかあ連中の口には、おれの豆腐が合ってんだ。おふみちゃんとこもそうだろうがよ」 「うん……おとっつあんもそうだから」 「蛤町の表通りは、永代寺と八幡宮の門前町だぜ。寺も料理屋も腐るほどあらあね。おれみてえな棒手振じゃあ相手にされねえが、京やが行ったら分からねえぜ」 「お寺さんに売ってみろってことなの?」  嘉次郎は返事をしなかったが、おふみを見る顔が笑っている。なにかに思い至ったのか、おふみの顔が明るくなった。 「そうか……嘉次郎さん、ありがとう」  おふみは裾も合わせずに立ち上がった。 「あたし、すぐに帰らなくちゃあ」 「なんだよ、おふみちゃんの言い分を聞かなくてもいいのかよ」  呆気《あつけ》にとられた嘉次郎を石段に残して、おふみは振り返りもせずに駆け出した。永代寺へのご喜捨と言い出したのは、嘉次郎の言葉がもとだった。 「お寺さんなら、きっと京やのお豆腐を分かってくれるわ。最初はご喜捨だとしても、かならず買ってくれるようになるから」  嘉次郎にいわれた戒めのことは黙っていた。 「それはええ考えや。そやけど永代寺はんとは見ず知らずのもんが行っても、うまいこと受け取ってもらえるやろか」 「それはあたしにまかせといて」  おふみが右手で激しく胸を打った。まかせておいてというときの癖だった。 「ほんなら、なにとぞよろしゅうに」  永吉がやっと笑顔を見せた。おふみは永吉と目を合わせながら、何度も何度も自分の胸を叩いていた。      十一  三日ぶりに気持ちよく朝が晴れた。高い空に端切れのような雲が浮いている。 「おっかさん、お昼までには戻るから」  早々と洗濯物を済ませたおふみは、おみつに断りをいって家を出た。  京やの店先には永吉が立っていた。声をかける前に水桶を見たが、やはり売れ行きはよくない。おもわず眉を曇らせた。 「まだ朝のうちやのに、もう五丁も売れた」  五丁でも永吉は嬉しそうだ。おふみもつられて微笑んだ。 「京やを始めてから毎日買いに来てくれるひとが、ふたりもおるんや。そのうちのひとりが、今日も三丁買うてくれた」 「へええ……どんなひと」 「ええ歳をしたおばあさんやけど、身体はしゃんとして元気なおひとや。毎日、きっちり三丁ずつ買うていってくれはる」  ほかにも京やの味を好んでくれるひとがいる……おふみは心底から嬉しくなった。 「ちょっと出るけど、帰りに寄るから」  軽い足取りで木戸を出た。表通りを渡り、永代寺の仲見世に入ったおふみは、なかほどの相州屋で足を止めた。永吉と深川界隈を買い物で回ったときに立ち寄った豆腐屋だ。  相州屋は永代寺のはす向いで商っていた。京やより一回り大きな店構えで、店先には水風呂桶が二つ並んでいる。桶の隣には油揚げやがんもどきが簀《す》の子《こ》にのっている。が、京やとは違って店先にはひとが立っていなかった。  おふみは二度、三度と行きつ戻りつしたあとで、ごめんくださいと声をかけた。 「へい、いらっしゃい」  奥から枯れた声が応え、髪の白い店主が出てきた。永吉が一丁丸ごとの豆腐を買ったとき、持って帰れるのかと案じた親爺だった。小柄で六十はとうに越して見えるが、背はしゃきっとしていた。 「相州屋さんの親爺さんですか」  大和町や亀久町では様々な店を見知っているおふみだが、永代寺仲見世の相州屋とは付合いがなかった。 「あたしだが、おまいさんは」  豆腐を買う客ではないと察して、声の調子が変わった。 「あたし、新兵衛店の桶屋の娘で、おふみっていいます」 「それがどうしたよ」  商人ともおもえない愛想のなさだった。しかしおふみは頼みごとを抱えている。精一杯の笑みを浮かべて、用件を切り出した。 「じつはうちのとなりで、上方の職人さんが京やっていうお豆腐屋さんを始めたんです」  親爺は渋々聞いていることを、両目から隠さなかった。おふみは踏ん張った。 「それで、その京やさんのお豆腐を、こちらの永代寺さんにご喜捨させてもらいたいんですが、まずは相州屋さんにお断りしてからとおもいまして……」 「ちょいと待ちな」  相州屋がきつい声で遮《さえぎ》った。 「なんであんたが来るんだい」 「えっ」 「ええっじゃないよ。そんな話は、その豆腐屋が持ってくるのが筋だろう」 「それは……」 「それは、は結構だ。豆腐の話を桶屋の娘から聞きたかあないね」  親爺の剣幕に、通りがかりの参拝客が立ち止まった。動転したおふみは、なにもいえずに表通りへ駆け出した。  通りの人込みにまぎれても、まだ気が鎮まらない。富岡八幡宮に向かう人波にのって、大鳥居をくぐった。  参道両側の石垣には、高い空からの陽が溜っている。腰をおろしたおふみが大きな溜め息をついた。 「京やにいっときな……商いを始めるめえに、町内に出入りの棒手振や近所の店にはきちっとあいさつをしろてえことをさ。こいつをうっちゃったら、気いわるくした相手に、つまらねえしこりを残しちまうぜ」  昨日の夕暮れどき、嘉次郎から教えられたことだ。永吉のまえで胸を叩いたときから、おふみは相州屋へのあいさつを考えていた。  ところが余計にこじらせてしまった。虚《うつ》ろな目のまま、おふみは半刻(一時間)も座り込んでいた。  長屋の木戸を潜ったときも、まだしょげていた。 「どないしたんや」  出て行ったときとはまるで様子の違ったおふみに、永吉はおどろいた。 「はよ入り。おふみはん、なにがあったんや」  口がきけないおふみの肩をつかみ、どないしたんやと繰り返したずねた。突然、おふみが大声で泣き出した。  年頃の娘ともおもえない泣き声である。永吉が唖然としていたら、おみつが飛んできた。 「なんだよおふみ……みっともないから、そんな声は引っ込めな」  おふみは一向に泣きやまない。 「なにがあったのよ、永吉さん」 「わてにも、わけが分かりまへんのや」 「わるいけど、連れて帰りますよ」  おみつが娘を引き立てるようにして京やを出た。永吉は途方に暮れた表情で、店先に立ち尽くしていた。  七ツ(午後四時)になると、嘉次郎の売り声が井戸端に立った。京やの豆腐はこの日もほとんど売れていない。売り声を聞いた永吉の顔が重く曇った。 「永吉さん、手間かけてわるいけど三丁とどけてちょうだい」  買い物帰りのおみつが声だけ投げて、となりに消えた。永吉の顔が明るくなった。流しの柱に吊した鍋を外して水を張り、豆腐三丁をていねいに入れた。  おふみはあれっきり顔を見せない。わずか数歩の路地を、永吉は跳《はね》るように歩いた。 「まいどおおきに」  おふみは母親と並んで流しに立っていた。永吉が現れても知らん顔で包丁を使っている。豆腐を受け取ったおみつが娘を見て、ぷっと噴いた。 「なによ、おっかさん……」  永吉とおみつとが顔を見合わせた。 「今夜はうちにご飯を食べにおいで。話したいこともあるしさ」 「待ってるぜ」  おみつの言葉に源治の声が重なった。 「よろこんで寄せてもらいます」  大きな身体を深々と折った。  手早く店を片付けた永吉は、六ツの鐘を聞きながらとなりを訪れた。源治と晩飯をともにするのは、これで三度目である。京や開業前夜の膳には酒があった。今夜はいわしの煮付けと瓜の糠漬けだけだった。 「おふみがよう……」  いわしを箸でほぐしながら、源治が話し始めた。 「あんたの豆腐が売れるようにの願掛けだてえんで、おれの酒を断《た》っちまいやがった」  あたまを外したいわしを、源治は丸ごと口に運んだ。永吉も同じように煮付けを口にした。 「腹を立てても、いまさらあれは娘が勝手にいったことですなんざ、お稲荷さんには言えやしねえ」  源治がぶつぶつとこぼした。おふみは懸命に笑いをこらえていたが、源治が睨むと真顔に戻った。 「今日の昼間、おふみから色々聞いたよ。あんたにはまだ話してなかったらしいんで、おれの口から先にいうことになるが」 「なんのことですやろ」  永吉が箸を置いた。皿のいわしを食べ終わった源治が、茶をひと飲みした。 「表通りを渡った先の、永代寺仲見世に相州屋てえ豆腐屋がある。おふみは今朝方、そこに行ったてえんだよ」 「そんな……なんでまたそんなとこに」 「きちんとあいさつを通しにだ。あんたとおふみとで、お寺に豆腐を喜捨しようてえことになっただろうによ」 「へえ」 「おふみはその豆腐屋に、筋を通しに行ったんだよ。話をこじらせただけでけえってきたが、あんたも深川で商売やるなら、もうちっと周りに気い遣いなよ」  源治の口調が厳しくなっている。おふみがおとっつあん、と口をはさんだら、父親がふうっと力を抜いた。 「担ぎ売りの嘉次郎は、おふみがまだガキのころからここに出入りしてる。おれも気がつかねえでわるかったが、あんたは嘉次郎になにもあいさつしてねえだろう」 「へえ……」 「こんな狭い長屋で豆腐屋をおっぱじめりゃあ、嘉次郎と客の食い合いになるのは目にめえてるさ」  永吉の大きな背中が小さくなった。 「上方じゃあどうだか知らねえが、深川てえとこは、貧乏人が助《す》けあって暮らす町だ。だからこそあんたの桶も、口はばってえが手間賃をまけて請け負った」  永吉が膝をそろえ直して源治を見た。おふみも顔を引き締めて、父親の言葉を受け止めていた。 「ここの連中があんたの豆腐をあれっきり買わねえのは、なにも嘉次郎に義理立てしてのことじゃねえ。口に合わねえんだよ」 「………」 「じかに聞いたわけじゃねえが、あんたの豆腐を分かってるのは嘉次郎だぜ」  永吉の目が見開かれた。受け止めた源治が何度もうなずき返した。 「寺にあんたの豆腐を喜捨しろてえのも、もとは嘉次郎の知恵だ。京やの味なら、ここいらの寺や料理屋に買ってもらえると、あいつは言いてえんだろうよ」  永吉はおふみに目で問いかけた。おふみがこっくりとうなずいた。 「おふみが相州屋に出かけたのは、あんたが寺相手に商売がやりやすくなるようにと先走ったんだ。どじは踏んだが筋は通ってる」 「へい」 「うまく相州屋とのケリをつけて、でけえ客相手に踏ん張ってみな。おれは酒が飲みてえし、あんたが売れねえ豆腐のまえで突っ立ってると、長屋のみんなも義理がわるくてしゃあねえんだ」  膳にくっつきそうなほど、永吉があたまを下げた。涼しい風が通っている。仕舞い忘れた釣り忍《しのぶ》が風に揺れ、風鈴が季節はずれの音を立てた。      十二  永吉は翌日、豆腐造りを休んだ。  五ツ(午前八時)の鐘が長屋に流れてくる。永吉は半開きの店先に立って、毎朝三丁を買ってくれる馴染み客を待っていた。鐘が鳴り終わるまえに、客が焼き物の器を手にして現れた。  歩き方はゆっくりだが、腰はしゃんと伸びている。永吉の姿に笑みを浮かべてから、店の戸が半開きなのに気づいた。 「えらいすんまへん……今日は休ませてもらいましたんや」  深々とあたまを下げてから目を戻すと、客の様子が尋常ではなかった。 「どないされましたんや。どこぞ気分でもわるいんとちがいますか」 「商い仕舞いをするんじゃないでしょうね」 「そんな……滅相もないこと言わんといてください」 「ほんとうに?」 「違います。今日はほかに用がありますよって、仕方なしに休むんです」 「よかった。失礼なことをいったりしてごめんなさい」  心底から安堵した様子の客が、目尻にしわを寄せて笑みを浮かべた。永吉も釣り込まれそうになったほどの、気持ちのこもった笑みだった。 「豆腐が売れんさかい、気持ちがめげて店をたたむ思いはったんですか」  永吉の軽口に、相手も首をこくっとさせて調子を合わせた。 「まだ商いを始めたばっかりです。江戸のひとの口に合うまでにはひまがかかります」 「………」 「いっぺんお客はんにたんねたいおもてましたんやけど、ええ折りですわ。うちの豆腐、どないです」 「お豆腐、あまり売れてないのね」  永吉の問いには答えず、相手は逆に問いかけてきた。客というより、息子を案ずる老いた母親のような顔つきである。言葉に詰まった永吉は、小さくうなずいた。 「そう……たいへんねえ」  群れになって飛んでいた赤とんぼの一匹が、器のふちにふわっとおりた。ふたりの目がとんぼに集まった。 「あしたっから、また店を開けます。どうぞごひいきに」  湿っぽくなった立ち話が、とんぼでうまく切り替えられた。 「きっと売れますよ。とっても上品なお豆腐ですから」  客が路地を出て表通りの先に消えるまで、後ろ姿を見送っていた。 「ありがたいことや」  口に出して礼をいった永吉は、店に戻って着替えを始めた。鴨居に吊した縦縞の木綿あわせに袖を通し、茶献上の帯と締め替えた。  行く先は、永代寺仲見世の相州屋である。豆腐屋の場所は覚えていた。  大きな水風呂が二つ、おもてに並べられているが豆腐は一丁も入っていない。売り切れたというには、店の様子が寂し気である。永吉は下腹に力を入れて声をかけた。  その声を待っていたかのように、奥からひとが現れた。背丈は永吉の肩ぐらい、白髪頭で、歳はおふみの見立て通り六十半ばに見える。両目の光には、年季の入った職人特有の強いものが残っていた。 「相州屋はんですやろか」 「そうだが、おまいさんは」 「この先の蛤町で、おんなじ商いをさせてもろてます、京やの永吉いいます」 「おまいさん、いつだかうちの豆腐を丸ごと一丁買ってっただろう」 「へえ、買わせてもらいました」  相州屋はそれっきり口を閉じた。永吉は相手の強い目を見詰めたまま、永代寺への喜捨をなんとか赦して欲しいと頼み込んだ。  相州屋はなにも答えない。永吉は居心地のわるさを抱えつつも、相州屋から目を逸らさなかった。 「おまいさんが喜捨しようてえのを、あたしがどうこう言うことじゃない。どうぞ勝手にやんなさい」  店先での立ち話を、突き放すようにして終わらせた。永吉は深々とあたまを下げて店先を離れた。背に相州屋の強い目を感じたが、いまの永吉には撥ね返す力が内に湧いていた。  きょうがほんまの始まりや……。  深川不動で御札をもらい、永代寺に賽銭をしたあと、富岡八幡宮の大鳥居の下に立った。  本殿に向かって歩きながら、源治にいわれた戒め、今朝がた年配客からもらった励まし、そして先刻の相州屋とのやり取りなどを思い返した。  本殿に立った永吉は賽銭をしてから、深く二拝し、二度手を打った。  柏手《かしわで》が、広い境内に響き渡る。 「気合を入れて豆腐を造ります」  願いごとをはっきり声に出してからもう一度深く身体を折り、力強い足取りで本殿をあとにした。  高い空から降りてくる初秋の陽が、参道を柔らかく照らしている。境内の銀杏《いちよう》がわずかに色づき始めていた。石段両脇の狛犬の鼻に、黄緑色の葉が舞い落ちた。      十三  朝もやに八幡宮|杜《もり》の精が含まれている。その気を吸いつつ、せかせかした歩きで平田屋庄六が相州屋に顔を出した。  平田屋が店を構える三好町と永代寺の相州屋とは、わずか数町しか離れていない。しかしふたりを隔てる溝は、仲間の寄合で一度も並んで座ったことがないほどに深かった。 「職人に上手な口はいらねえ。いわなきゃならねえことは、豆腐が喋ってくれる」  相州屋清兵衛は、この生き方を先代に仕込まれた。得意先に世辞もいえず、あたまの下げどころも不器用だ。へりくだりと思い上がりとが背中合わせになった平田屋の商いぶりは、清兵衛がもっとも忌み嫌うものであった。  庄六は年長者の清兵衛に、表向きは敬う口をきいた。ところが隆盛な自分の商いと廃業寸前のような相州屋とを引き比べて、陰では口汚く嘲《あざけ》っていた。  そんな平田屋が朝もやのなかから顔を出したのだ。清兵衛は庄六に目を合わせようともしなかった。 「ちょいと話をさせてもらいたいんだが」 「こんな朝っぱやくから、あんたの話を聞くほどの付合いはしてないね」  撥ねつけられた庄六が、むっとして頬を膨らませた。しかしすぐに商い向きの笑いを浮かべて、下手《したて》から出直した。 「お不動様の境内でならきいてもいい」  店を出た清兵衛が小橋を渡り、さっさと深川不動の境内に向かった。大きな舌打ちをした平田屋が、あとを追って石段に座った。 「あんたがあたしを訪ねてくるのは、よほどのわけでもある話だろうよ」 「相州屋さんとは違ってあたしは忙しい身体だ、いきなり訊《き》くが構わないだろうね」 「好きにやってくれ」 「もちろんそうするさ」  見せかけの敬いを捨て去った庄六は、始まりから喧嘩腰だった。 「清兵衛さん、聞こえてきた話を確かめるんだが、京やという豆腐屋が、永代寺に豆腐を喜捨してるのは本当かい」  清兵衛は相手を睨みつけたまま、返事をしなかった。 「どうなんだね……あんた、知ってのことなのかい」  向かい合わせに座った庄六が詰め寄った。清兵衛の目に笑いが浮いた。相手の技を見切った剣客が見せるような、凄味ある笑いだった。 「永代寺も八幡宮も、ここの不動もあたしの町内のことだ。こんな朝から他町のおまいさんに、あれこれ詮議される筋合いはない」  気迫のこもった低声だ。おもわず庄六が身をひいた。 「その京やが喜捨をしてたら、どこがどうだと言いたいんだ、平田屋さん」  庄六が、うっ……と言葉を詰まらせた。 「話がこのことなら、あたしゃあ帰る」 「ちょっと待ってくれ、清兵衛さん。おれは相州屋がおかしくなるんじゃないかって、心配してきただけだよ」 「うちが心配……?」  清兵衛の笑いがさらに凄味を増した。 「長生きすりゃあ、めずらしいものに出会えるてえがまったくだ」 「なにを言い出すんだ」 「なにをって……おまいさんに相州屋が心配なんてえ口があったとは、腰が抜けそうだ。陰でいってることとは、えらく違うじゃないか」 「そんな嫌味ばかりいわないでくれよ。おれは正味のところで、清兵衛さんの商いを心配してるんだよ」 「それはちっとも知らなかったよ。あんたが心配してるのは、うちの商いじゃなしに井戸だとばかり思ってたがね」  清兵衛が腰をあげた。庄六も慌てて立ち上がった。 「清兵衛さん」 「なんだい、まだあるのかい」 「上方もんが勝手をするのを、おれたち深川のが黙って見てようというのか」  庄六が精一杯に背を伸ばして、清兵衛に食らいついた。 「婆さんとふたりだけの相州屋ならいつ潰れても構わないだろうが、あたしは平田屋の身代が大事だ。町が違うからといって放っとけないね」  清兵衛は笑いを消していない。さらに平田屋がいきどおった。 「あんたがなにもしないんなら、うちの若いのを出して片をつける。いいね清兵衛さん、分かったんだろうね」  言葉の終わりは怒鳴り声に近かった。しかし調子の高い平田屋の声に凄味はない。清兵衛がぐいっと身を近づけたら庄六が下がった。 「平田屋がなにかやるてえのかい」  清兵衛の首に血筋がくっきり浮き上がった。 「そんな度胸があるとは、いまのいままで知らなかったよ。あんたのいう通り、婆さんもあたしも先が知れてる。冥土のみやげに、おもしろそうな一幕を拝ませてもらおう」 「いや……その……」 「おい、平田屋。あたしは四重《しじゆう》の五重《ごじゆう》のと重箱みたいに、ただ歳を重ねてきたわけじゃない。これでも少しは睨みもきくだろうよ。年寄は先がないだけ気が短いんだ。明日にといわず、すぐにも幕をあけな。あたしも周りに声をかける」 「待ってくれ、相州屋さん」 「なんだ、待ててえのは」 「そんなつもりで言ったわけでは……」 「どんなつもりでも結構だ」  庄六の言葉を清兵衛が遮った。 「朝から、おまいさんごときに凄まれたんじゃあ、お不動様に顔向けできない。やりたいてえなら拝ましてもらおうじゃないか」  庄六はなんとか威勢を保とうとして踏ん張ったが、清兵衛とでは役者が違いすぎた。 「このままじゃあ終わらないよ」  捨て台詞《ぜりふ》を残すのが精一杯だった。      十四  五ツ(午前八時)になると、九月下旬の陽が仲見世の軒におりてきた。永代寺の甍《いらか》が朝の陽に照らされて、黒艶の波を見せている。 「ちょいとお寺にいってくる」  清兵衛は女房のおしのに店をまかせて、向かいの永代寺を訪ねた。永代寺は敷地六万坪を有する格式高い寺である。本堂の脇に鐘撞堂《かねつきどう》があり、生け垣伝いに勝手口へとつながっている。 「西周《せいしゆう》さんをお願いします」  清兵衛は勝手口の小僧に、賄い主事を呼んで欲しいと伝えた。 「お早いことだが、どうなされた」  いくらも待たぬ間に、野太い声の大柄な僧侶が賄い所の奥から顔を出した。  剃髪《ていはつ》して艶々とした禿頭《とくとう》、濃く太い眉、そして潤《うる》みに充ちた漆黒の目。京の仁和寺《にんなじ》から大栄山金剛神院永代寺の号を贈られた名刹の、賄い主事にふさわしい容貌である。  眼も眉も凜とした西周は、だれの目にも若く映るが清兵衛と幾つも離れていない。ふたりの付合いは三十年を越えていた。 「西周さんと少し無駄話がしたくてね」 「たしかに今朝は気持ちがよろしいな。そこの石にでも」  陽の注ぐ庭石に腰をおろすと、清兵衛を手招きした。 「なにやら子細がありそうですな」  黒目が清兵衛を捉えていた。清兵衛は空を見て、相手の目から逃げた。 「上方の豆腐屋は、きちんとご喜捨に来てますかい」 「もう十日になりますが、毎日七ツ(午後四時)過ぎに三十丁。律儀なことです」 「毎日、三十も……」  数をきいて、清兵衛の顔に影がさした。 「まだ京やの職人とは顔を合わせておりませんが、小僧の話では嬉しそうな顔で勝手口に来ているようです」  空を見る清兵衛を西周がのぞきこんだ。 「どうなされた、浮かぬ顔だが」 「京やの豆腐はいけますかね」 「これはまた、きついおたずねだ」 「うちのことなら、うっちゃっといてくんなさい。お寺さんの口に合ってるかどうかをきかせて欲しいんだ」  西周に戻した目が本気だった。 「御住持《ごじゆうじ》にも充分にご満足のご様子です」  西周も答えをはぐらかさなかった。清兵衛は口を閉じ、足元の小石に目を落とした。  ふたりが黙ると音が消えた。わずかな風が線香の香りを運んでくる。 「うちの婆さんの頼みを、ひとつだけ……きいてやってはもらえませんかね」 「なんでしょう」 「京やの豆腐と揚げを、うちの代りに永代寺さんでとってもらいたいんだ。もちろん西周さんの吟味が通ったらのことだが」 「そうですか」  西周は深い息を漏らしただけで、返事はしなかった。 「亀戸天神で迷子になった、正吉《しようきち》を覚えていますかい」  清兵衛が声の調子を変えた。西周の背筋がぴんと張った。 「忘れるわけがないでしょう」 「元気なら、ちょうど京やの職人ぐらいの歳だ。おしのは京やが店を開けた日から、毎日、豆腐を買ってくるんです」  清兵衛を見詰める西周の目が、静かな瞬《またた》きを見せた。  清兵衛のひとり息子正吉が亀戸天神で迷子になったのは、元文《げんぶん》二(一七三七)年、正吉四歳の梅見頃のことである。  二十五年も昔の話だが、当時の清兵衛は三十四歳、おしのは三十で、ともに遅い歳で授かった子だけに、ふたりは半狂乱になって正吉を捜しまわった。すでに清兵衛と付合いのあった西周は、住持に頼んで幾つもの寺に迷子、捨て子の回状を回した。 「手首に、はっきりしたアザのある子だと触れ書きにも書いてあります。それに正吉はもう四つ、喋ることもできる歳だ。かならず見つかりますから」  西周は清兵衛を励まし、毎日方々の寺に掛け合った。しかしどこからも打ち返しが得られず、生死も知れぬまま月日が過ぎていった。  三十路は職人の盛りどきである。その大事なときに、清兵衛は生きる張りを見失った。  正吉を産んだおしのは、さらに深く傷ついた。迷子になるまでの毎日を、おしのは正吉と片時も離れずに過ごしてきた。  言葉が話せるようになると、子の可愛さが数倍にも増した。その喜びをいきなり毟《むし》り取られたのだ。  相州屋から灯が消えた。家業の豆腐屋は続けたものの、得意先を平田屋などが荒らしても、なすがままにさせてきた。  唯一残った得意先が永代寺である。それをおしのは京やに譲りたいと……。 「初めておしのが京やの豆腐を買ってきた日には、あたしは怒り狂った。ところがあいつはきかない。次の日もその次の日も、雨が降ろうがなんだろうが、きっちり豆腐を買ってくるんだ」  足元の小石を清兵衛が軽く蹴った。アリの群れが四方に散った。 「そうこうするうちに、蛤町の桶屋の娘が京やの豆腐を喜捨させてくれと言いにきた。あたしは婆さんのことで含むところがあるもんだから、話もきかずに追い返したんだ」  西周がうなずいた。清兵衛を支えるようなうなずき方だった。 「おしのが泣きながらわけを話したのは、つぎの日の昼過ぎだった。あいつは、京やの職人と正吉とを重ね合わせていてね。せっかく始めたのに客がつかなくて不憫だと……」  平田屋をへこませた清兵衛とは、別人のような話しぶりだった。 「お寺さんの口に合ってるなら、あたしからも頼みたい。京やの豆腐を食ってみたが、いい造りだ」 「清兵衛殿が誉めるとは大したものだ」 「だがねえ西周さん、おしのがいうには相変わらず売れてないらしいんだ。それなのに毎日三十丁もご喜捨を続けたりしたら、あの豆腐屋は長くは持たない」  西周が言葉にならない唸りを漏らした。 「うちが頼む筋じゃないのは分かってるんだが、ぜひとも聞き入れてもらいたい……この通りだ、西周さん」  手を合わせて清兵衛が拝んだ。西周は自分の前で合わせている手を取り、清兵衛の膝に戻した。 「拙僧で差配できる話です、そのように取り計らいましょう」  清兵衛が、安堵と悔しさを重ねたような顔になった。西周は目を遠くに外して、清兵衛に口を開かせた。 「言えた義理じゃあないが、あたしにも職人の意地がある。京やにもだれにも、ここでの話はしないでもらえないだろうか」 「拙僧ひとりの胸に収めておきます」  西周の眼差《まなざし》は穏やかだった。ゆっくり立ち上がった清兵衛は、深々とあたまを下げてから生け垣の小道を戻って行った。  後ろ姿に西周が合掌し、見えなくなるまでその場を離れなかった。  秋の空は気まぐれだ。夕方には雨がきた。 「おふみ、かなりな雨だぜ。干しといた竹をしまいな」  たがに使う竹を取り込もうとおふみが土間に降り立ったとき、永吉が飛び込んできた。 「お、お、おふみはん……」  戸口でつんのめった永吉の足駄が脱げて、おふみのそばにぽとんと落ちた。 「どうしたの、永吉さん」  雨が永吉のひたいから伝わり落ちていた。髷《まげ》もよれている。板の間の源治も、縫い物をしていたおみつも、おもわず腰を浮かせた。 「永代寺はんが」 「永代寺さんがどうしたのよ」 「明日から毎日、豆腐五十丁と油揚げ三十枚を買《こ》うてくれる」 「えっ……」 「それだけやない。こんどの十五日の法要に、二百の豆腐を持ってこいと言わはった。おおきに、おふみはん……ほんまにおふみはんのおかげです」  おふみは腰が砕けて、土間に座り込んだ。嬉しいのに声が出せず、手足から力が抜けている。永吉がおふみのそばにしゃがんだ。娘の様子を見ていたおみつは、源治と目を合わせると顔いっぱいに笑みを浮かべた。 「よかったじゃねえか。これでおれも酒が飲める」  源治が木槌でおもいっきり桶を叩いた。乾いた音が、屋根の雨音に重なった。      十五  三十三間堂裏の仕出し屋、田文《たもん》から届いた鯛の尾頭付《おかしらつき》とこわめしが、源治、おみつ、おふみの箱膳に載っている。永吉との祝言《しゆうげん》を翌日に控えた、親子三人の内祝い膳だ。 「嫁入りったって、となりに行くだけよ。持ってく道具もお茶碗とお箸だもの……あしたっからも、ちっとも変わらないわ」  神妙な顔つきの両親に、おふみが軽い声で話しかけた。 「だからおめえは駄目だてえんだ」  源治がきつい目で娘を睨みつけた。 「嫁入りに、となりもうらなりもねえ。カラスかあで夜が明けりゃあ、おめえの祝言だ。それが済んだら、気安くここにへえってくるんじゃねえ」 「おとっつあん、なにをそんなにむきになってんのよ」 「おふみ、いいかげんにしな」  こんどはおみつが声を荒らげた。 「嫁に出した娘が我がもの顔で出入りしたら、あたしらが笑われちまうよ。あしたの夜からは、おまえの家は京やだからね。そこんとこを、ようく覚えておくんだよ」  おふみにも理屈は分かっていた。が、嫁ぎ先は生まれて十八年暮らした家と、路地ひとつ隔てたとなりだ。他家に嫁ぐという気がしなかった。 「でもおっかさん、永吉さんところだって狭いんだもの……あたしの着るものなんかは残しておいてもいいでしょう?」 「まだそんなこといってるよ」  おみつが娘の膝を引っ張り、向かい合わせに座らせた。 「嫁に行ったら、その日からおまえの居場所はそこの家だけなんだよ。ここに残したものは、全部あたしが捨てるからね」 「だって狭くて持っていけないんだもの」 「だから捨てるって、そういってるんだよ。いつでも取りに帰れるみたいな気持ちで嫁いだら、おまえは死ぬまで永吉さんの女房にはなれないよ」  初めて見る母親の厳しい顔に、おふみはうろたえた。場をおみつに任せたのか、源治は口をはさまずにふたりを見ていた。 「おまえもこれからは、京やの商いに死に物狂いになるんだろ?」 「はい……」 「だったら甘い料簡は捨てるんだよ。しっかり肚を決めないと、すぐに路地を渡って帰りたくなるに決まってるさ。おふみ、ちゃんと聞いてるのかい」  おみつが娘の膝をパシッと叩いた。 「おとっつあんとも話したことだけど、あしたっからは永吉さんが一緒じゃないと、うちの敷居は一歩もまたがせないからね」  おみつの目尻が吊り上がっていた。おふみは顔を伏せたまま、口がきけなかった。肩が揺れて、こぼれ落ちた涙が畳に染みた。吐息を漏らし、木綿の袖で目を拭《ぬぐ》って母親に向き直った。  まだ怒りを宿したおみつの目も潤んでいた。 「おとっつあん、おっかさん……」  源治とおみつが居住まいを正した。 「ありがとうございました」  おふみが畳に両手をついた。 「しっかり京やをもり立ててちょうだいね」  母と娘が見詰め合っている。言葉はいらないようだった。取り残された源治がカラの咳払いをしたところで、母娘に笑いが戻った。 「さあ、食おうじゃねえか」 「待って……お箸をつけるまえに、おとっつあんにお酌をさせて」  永代寺に豆腐を納め始めた日から、源治の酒が戻っていた。 「おとっつあん、ありがとうございました」  おふみが手にした徳利が震えている。源治の盃も微妙に揺れており、徳利と盃が合わさって、コツンと音を立てた。  いつもの膳には載ることのない鯛の尾頭付である。豪勢な料理で華やぐはずの夕餉だったが、おみつとおふみは、ひと箸つけては顔を見合わせて手を止める。  源治は黙って手酌を続けた。おふみの家で十月下旬の長い夜が静かに始まった。  水桶を洗い終えた永吉は、上がり框に腰をおろしてひと息ついていた。暴れ川のように九月が過ぎ去った。  かまどの火が落ちて、晩秋の夜気が忍び込んでくる。ぶるるっと身を震わせた永吉が目を閉じた。  永代寺から注文を受けるまで、永吉は油揚げを造っていなかった。平野屋ではもちろん、揚げ、生揚げ、がんもどきも修業した。しかし揚げ物は膨らみをよくするために、呉《ご》から別に造ることになる。  ひとりで商う当初は、京風の絹豆腐ひとくちで行こうと決めた。しかし永代寺は、油揚げも毎日三十枚欲しいという。思案の末、源治に掛け合った。 「まだ嫁入りまえのおふみはんに頼むのは、えらいはばかられますんやけど」 「京やの手伝いだろうよ」 「へえ……そうです」  源治からさきに言われて永吉が慌てた。 「娘はとっくにその気だよ。役に立つなら使ってやってくれ」  源治の許しを得て、おふみが七ツ半(午前五時)に顔を出すようになった。  おふみは機敏に働くが豆腐造りは素人である。永吉はかまどの火守り、呉の絞りなどを任せた。油揚げが加わったことで、呉は二度、別々に絞ることになった。力仕事だが、おふみは汗だくになって絞った。  二百丁の豆腐を納める法要の朝は、七ツ(午前四時)前から仕込みを始めた。いつもの四倍も絞ったおふみは、たらいから溢れそうな豆乳を、へとへとになって見ていた。 「重過ぎて持てへん。そのままにしとき」 「大丈夫よ。平気、平気」  永吉が止めるのもきかず、たらいを持ち上げようとした。ところが並の重さではない。なんとか抱えはしたものの、よろけて豆乳を土間にぶちまけた。おふみはそのなかに倒れ込んだ。 「おいっ、大丈夫か」  永吉がおふみを抱えあげた。木綿の着物がべっとりと濡れている。顔も髪も豆乳まみれで、目と口だけがあいていた。 「ごめんなさい」  途方に暮れたおふみの表情が、白塗り人形のようだった。 「身体、どうもないか」 「うん、平気、平気」  珍妙な顔のおふみが、平気を連発する。それがおかしくて永吉が笑った。おふみも一緒になって笑い転げた。 「平気やったら、はよう着替えてきいや。その間に片付けて、新しい豆を挽いとくわ」 「ごめんなさい、永吉さん」 「かめへんよ、こんなこと。おふみはんに怪我がのうてなによりや」 「間に合うかしら……」 「念のためにとおもて豆を余計に漬けといたさかい、なんとかなるやろ。いらん心配せんと、はよ着替えてきいや」  おみつはすでに台所に立っていたが、戻ってきた娘をみて飛び上がった。 「なんだよ、おふみ」  髪から着物までべとべとになったおふみが、浮き浮きしていた。 「いったい、なにがあったのさ」 「べつに……なんともないから」  おふみの声が、ふわふわしている。 「べつにって、お豆をひっくり返したんだろう……永吉さん、間に合うのかい?」 「余計に漬けてあったから平気だって」 「どこまでそそっかしいんだろうねえ」  娘を見るおみつの目が呆れていた。 「はやく着替えて戻らなくちゃ」  板の間に上がるおふみの下駄が、重なり合ってひっくり返った。  この朝をきっかけに、ふたりの間が急ぎ足で縮まった。九月晦日の夕暮れ、永吉は平野屋のお仕着せ姿で源治をたずねた。 「お願いがおます」  永吉が両手づきであたまを下げた。 「なんでえ、妙にあらたまって」 「かならず幸せにしますよって、おふみはんと所帯を持たせてください」  永吉がひと息に言った。 「そうかい……そういう話かい」  源治が座り直した。 「こんところ娘の様子が尋常じゃあねえと思ってたが、あいつもあんたしか見えてねえ。おれたちに文句はねえよ」  永吉が安堵の大きな息を漏らした。おふみが、ススッと永吉のとなりに座った。 「そうと決まりゃあ、祝い事はさっさと進めるのが一番だ。いつどこで祝言を挙げる気なんでえ」 「へえ……こちらさえ宜しければ来月二十日の大安に、仲見世の七福はんでとおもてますのやが」 「七福さんは永代寺さんの並びなの」  おふみが嬉しそうに言葉を添えた。 「そいつあ豪気だが、あんまり派手なこたあ御免だぜ」 「ここの長屋のみなはんと、広弐屋はんぐらいでどうやろとおもてます」 「だけどおめえ、在所への仕送りもまだだろうがよ」 「へえ……」 「おめえにおふみをもらってもらえりゃあ、うちは大喜びだが、そのうえ料理屋で祝言じゃあ、おめえのふたおやに義理がわるいやね。長屋で済ませた方がよくねえか」 「ねえ永吉さん、娘にきちんと祝言を挙げてもらうのは嬉しいんだけどさ……」  おみつが永吉と向かい合うように座り直した。 「なんやかやと入費が大変だよ。おかしな言い方だけど、長屋のふところ具合はどこも似たようなもんだから、ご祝儀もらうわけにもいかないし……そうだろ、おまえさん」  源治が渋い顔になり、気まずい気配が漂い始めた。それを破るように永吉が立ち上がった。仕掛かり途中の桶のわきから、割竹のたがを手にして戻ってきた。 「婚礼の入費は、わての蓄《たくわ》えでやります。おふみはんは、わてが生きてくためのたがです。死ぬまでおふみはんを大事にさせてもらいますよって、七福はんでやらせてください」  割竹を手にした永吉が、気合を込めてあたまを下げた。 「親への仕送りも、このさきの商いのなかからきちんとやります。そのためにも、わてにはおふみはんがいるんです」  母親が鼻をぐすんといわせたのを見て、おふみが手拭いを手渡した。 「おふみはんの花嫁姿を、きちんとした座敷で見てもろてください。わがまま言いますが、これだけは承知してもらえまへんやろか」 「ごめんね、妙なことをいって」  手拭いをわきにおいたおみつが、着ている木綿のしわを引っ張り直した。 「永吉さん、娘をよろしくお願いします」  この夜は遅くまで、四人がひたいを寄せて段取りをまとめた。 「嘉次郎はんにも、ぜひとも出てもらいたいんやけどなあ」  翌朝、呉を絞っているおふみに永吉が問いかけた。 「いいことだわ、すぐ話してみて」 「そのことやけど、これはおふみはんから頼んでみてや。わてがいうたら、またややこしなるかも知らんから」  永吉の言い分に納得したおふみは、その日の夕刻、嘉次郎を呼び止めて頼み込んだ。 「おふみちゃんの祝言なら、おれも目一杯の祝いをしてえが、こいつあ話が別よ。おれにはこれからも蛤町はでえじな得意先だ。言ってみりゃ、京やとは商売敵ってとこさ」  おふみが顔を曇らせた。嘉次郎が少し表情を和らげた。 「分かってくんねえ、おふみちゃん……意固地なことを言うようだが、こればっかりは受けられねえ」  京やの気持ちは受け取ったよ、と言い残して、嘉次郎は新兵衛店を出て行った。 「そのうち、ゆっくり話ができる日もくるやろ。永代寺はんのきっかけを作ってくれた恩人や、大事にしよなあ」  永吉とおふみは、互いに嘉次郎への気持ちを確かめ合った。  数少ない京やの客には、明日は休むと断りをいった。毎朝三丁買ってくれる初老の客は、祝言と聞いて何度も祝いの言葉を口にした。  客はだれもが休みを喜んでくれたが、永代寺への納めを休むわけにはいかなかった。 「婚礼をはさむ幾日かは、相州屋さんにお願いしてもいいんですが、ご主人の具合がよろしくないらしくて……大変でしょうがお願いします」  永代寺に納めに行ったとき、賄い所の小僧が申しわけなさそうに切り出した。 「そんな……もったいないことです」  永吉は深々と小僧にあたまを下げてきた。  豆腐も揚げも、いつも通りの数を永代寺に納める。しかし婚礼の朝だけは休んでくれと、おふみに伝えた。  五十の豆腐と三十枚の油揚げに使う豆を、永吉は升で量り始めた。      十六  永吉とおふみの祝言を翌朝に控えた夜。相州屋の居間では、清兵衛が乱れた息を吐いていた。七日前、大きく冷え込んだ日に風邪をひいた。その容態が夕刻から急変した。 「おしの……あたしが先に逝くよ」  陽が落ちると気弱な言葉を漏らした。 「いやなことを言わないでくださいな」 「そうじゃない……息のあるうちに、おまえと話がしときたいんだ」  清兵衛が喘ぎながらも、懸命に話を続けた。 「こんなに急ぎ足で、お迎えがくるとは考えてもみなかった」 「ちょっと気弱になっているだけですよ」 「こんなことなら、もっと早くにおまえと話しておくんだったよ」  所帯を構えてから、清兵衛が初めて見せる素直な顔だった。 「正吉のことを、あたしはおまえにきちんと詫びてないままだ……あの日、あたしが正吉の手を離しさえしなかったら……出会った無尽仲間と人込みで立ち話さえしなかったら、正吉が迷子になることはなかった」 「そうですね」  おしのがきっぱり答えた。やつれた清兵衛の顔がびくりとしたが、すぐに柔和な目を見せた。 「正吉がいなくなってから、いまの返事が初めてきく正直な声じゃないか」  返事の代りにおしのが優しく笑いかけた。 「あたしは四の五の言うだけで、おまえに詫びてこなかった。だがねえ、おしの……胸のなかではいつもおまえに詫びてたよ」 「分かっていました」  布団から清兵衛が手を出して、おしのの手に触れた。おしのが強く握り返した。 「おまえに詫びていたつもりだったのに、京やのことで泣かれるまで、おまえの痛みが分かってなかった」 「………」 「あとはおまえの好きにしなさい。せめてそれで償いにさせてくれ」  臥《ふ》せっている清兵衛に、いつもの頑固さは見えなかった。その脆《もろ》さが哀しかった。差し出されている手を、おしのは様々な思いを込めて撫でた。 「どうだい京やは……繁盛してるかい」  しばらく言葉の途切れていた清兵衛が、思い出したように口を開いた。 「あしたが祝言ですよ」  おしのが明るい調子で応えた。喘いでいた清兵衛の顔に、つかの間、朱がさした。 「お嫁さんは、あの桶屋の娘さんだそうです。あなた、ほんとうに功徳をしましたねえ」 「そうかい……そうなったのかい……」  清兵衛は手をあずけたまま目を閉じた。また乱れた息が始まった。やがて眠りがきたらしく、手から力が抜けた。おしのは、乱れながらも息をしているのを確かめてから、握っていた手を布団に戻した。  晩秋の長い夜は、夜半過ぎから冷たい雨に変わった。  永吉が起き出した七ツ(午前四時)ごろに、清兵衛の息が末期《まつご》に近づいていた。 「わるかったなあ、おしの……」  清兵衛はこれだけを何度も繰り返した。おしのは言葉の代りに、握る手に力を込めた。 「お……し……の……」  ほとんど言葉にならなくなっていた。おしのは手を握ったまま、清兵衛の目をしっかりと見詰めた。  清兵衛のまぶたが閉じられた。おしのが強く握ると薄目があいた。が、すぐにまた閉じてしまう。何度もそれを繰り返した。  屋根の雨音が強くなった。やがておしのがどれだけ強く握っても、まぶたが動かなくなった。  おしのが耳元に口を近づけた。 「おさきにやすんで、待っててくださいね」  握られた手を、かすかな力が握り返した。  雨音だけになった。  おしのは清兵衛の手を離さなかった。  新兵衛店では、六ツ(午前六時)の鐘でどの家もが目覚めた。 「雨だぜ。おふみちゃんもついてねえな」  左官の弥助が布団に腹這いのまま、女房に話しかけていた。いつもなら仕事に出る頃合だが、今日は休みをもらっていた。  薄い壁の向こうでは、船頭の清助とおたけとが、おなじ格好で、おなじ話をしていた。  雨は祝言の始まる七ツ(午後四時)になっても降り止まなかった。しかし源治の家の周りは、ひとびとの喜びに溢れていた。 「源さん、みんなそろってるよう」  蛇の目を手にした差配の新兵衛が、大声を投げ入れた。 「いま行くぜ」  いつもとは違う高い調子の声が返ってきた。ほどなく、紺無地のあわせに半纏姿の源治が顔を出した。  長屋の申し合わせで、紋付は着ない決まりだった。雨のなかで待っている連中も、てんでに半纏をひっかけていたが、新兵衛だけは紋付だった。  京やから、濃紺の細縦縞に平野屋の半纏を着た永吉が顔を出した。縦縞が永吉を一段と大きな男に見せている。女房連中から溜め息が漏れた。  髪結いに手間取っていたおふみが、白粉と紅とで化粧した顔を出した。雨を吹き飛ばすほどの喝采が上がった。 「さあ、行くよう」  新兵衛が調子をつけた声をあげ、先頭に立って歩き始めた。路地の方々に水溜まりができている。先をゆく新兵衛がよけて通ると、あとの行列もその通りに歩く。何本もの番傘が、右に左に蛇行した。  おしのは忌中札を掲げないまま、雨戸を閉じていた。清兵衛の枕元に座ったおしのに、永代寺で撞く七ツの鐘が聞こえてきた。 「京やさんの行列がそろそろですよ」  白布をかけていない清兵衛に語りかけると、土間に降りた。油紙を貼った明かり取りの天窓で、雨粒が跳ねている。おしのは雨戸の端を少し開き、おもての様子がのぞけるようにした。  隙間の先に永代寺が見える。おしのは相州屋に嫁いできた日を思い出していた。  ──あたしの祝言も雨だった。  こどもに恵まれず、ふたりで富岡八幡宮に願掛けを続けた日々。  正吉が生まれたあと、清兵衛と三人で行ったお礼参り。  清兵衛が嘗めさせた豆乳に、口元を歪めた正吉の顔。  歩き始めた正吉が踏みしめた、八幡宮の玉砂利。あとを追う清兵衛の喜びに崩れた顔。  なにを思い出しても、清兵衛と正吉がいた。ふたりとも失ったいまは、思い出に潰されそうになった。戸の隙間から雨が吹き込んでくる。襟元を合わせておしのは気を取り直した。  仲見世の通りがいきなり賑やかになった。蛇の目を手にした永吉が、ゆっくりと相州屋の前を通り過ぎて行く。花嫁は永吉に隠れてよく見えなかったが、あとに続く職人たちの笑い声は、おしのの耳に届いた。 「おめでとう、京やさん」  雨戸の内側で、声に出して祝いをいった。 「おめでとう……」  何度か口にしていたおしのが、声を詰まらせて座り込んだ。昨夜から張りつめていた気が、いま弾け飛んだのだ。  ひとりぼっちの土間で、おしのはだれはばかることのない声をあげて泣き崩れた。      十七  永吉とおふみが所帯を構えた翌年、宝暦十三(一七六三)年の夏。おふみは大きな腹を抱えて得意先回りを続けた。  いままで夏の暑さをつらいと感じたことは一度もなかったが、こどもを宿したこの年は勝手が違った。八幡宮参道で茶店ののぼりを目にしたら、足が動かなくなった。 「おふみちゃん、もうすぐかい」 「まだまだ……十月初めよ」 「暑いのにえらいねえ。麦湯をやりな」  茶店の親爺がお愛想にくれた麦湯をゆっくりと飲み始めた。汗がおさまり、気持ちも身体も軽くなった。おふみは軽く目を閉じて、婚礼からの日々を思い返した。 「おとっつあんを見てても分かるだろ、職人は口がからっきしさ。京やのお得意さんづくりはおまえの役目だよ」  祝言の前夜、母親から言い聞かされた。おふみは大きくうなずいて、胸を叩いた。  仕込みは夜明け前から始まり、長屋に陽が差し始めるころには終わった。家の片付け、洗濯などを朝のうちに済ませると、昼過ぎから売り込みに出かけた。  深川界隈の料亭、小料理屋、待合などが源治の桶の得意先だ。おふみは父親の許しをもらって、これらの先々に豆腐を売り込んだ。 「おふみちゃん、豆腐屋に嫁いだのか」  顔見知りの板場や女将《おかみ》は、おふみの話はこころよく聞いてくれた。しかし仕入れの頼みには首を振った。 「うちは岡田屋さんと古いからねえ」 「方々の豆腐屋から仕入れるほどの数は出ないんだよ」  いずれもきっぱりと断られた。  蛤町からじゃあ遠過ぎると言われたときは、七町(約七百六十メートル)ぐらいなんでもありませんからと懸命に売り込んだ。それでも話はまとまらなかった。  所帯を構えてひと月が過ぎた。大川から木枯らしが渡ってくる。襟元をきつく合わせて、口の中をざらざらにしながら得意先を求め歩いた。  気分を変えたいときには、永代寺への納めを受け持った。賄い所の小僧たちから、ねぎらいの言葉が聞けるからだ。京やの命綱ともいえるお得意先がくれるひと言で、おふみは自分を励ました。  それでも芳《かんば》しい話に出会えぬまま、暮れも押し詰まった。やるせない想いを抱えて京やに戻ると、永吉が帰りを待ちかねていた。気が昂ぶって、永吉の顔が朱になっていた。 「永代寺はんが正月三が日の間、豆腐三百に揚げを百枚やいうてきはった。いまから日本橋の広弐屋はんに、豆を頼んでくる」  抱き合ったまま、土間で飛び跳ねた。  大晦日の夜、ふたりは除夜の鐘を聞きながら、豆腐と油揚げ造りに汗を流した。 「お納めは何刻のお約束でしたっけ」  呉を絞り終わったおふみが、手拭いを顔にあてて問いかけた。 「三が日とも、四ツ(午前十時)や。どないした、しんどいんか」 「そうじゃないの。ひと区切りついたら、洲崎に初日の出を拝みに行きましょう。一刻(二時間)もあれば行ってこられるし、お揚げ百枚なら五ツ(午前八時)から掛かっても間に合うもの」  三百の豆腐を造り終えたふたりは、東が明るくなった表通りに出た。両側の商家は戸を閉じているが、洲崎弁天に向かって大勢のひとが歩いていた。 「ものすごいひとやなあ」  永吉が人波に驚きの声をあげた。 「いろんなお国訛りが聞こえるでしょう」 「ほんまや、京のひともいはる」  ひとの流れにのって汐見橋を渡ると、堀に浮かぶ無数の丸太が見えてきた。木場の材木だった。 「この先の平野橋を渡ったら、もう海が見えるから」  源治に連れられて、何度も潮干狩りにきた洲崎だが、初日の出はおふみも初めてだ。  品川沖に初日が見え始めた。海につながった空が、暗いねずみ色から燃え立つあかね色に染め替えられて行く。波打ち際まで埋めたひとの群れから、大きな声があがった。  粋人が仕立てた何杯もの白帆舟が、海に延びた初日の帯を辿《たど》っている。 「生まれて初めて見る眺めや」 「今年がいい年でありますように」  初日に見とれる永吉のとなりで、おふみは大きな声でお祈りをした。 「去年の正月は、平野屋で豆腐を造っとったのになあ……えらい変わりようや」  真っ白な息を吐く永吉が、ぼそりと呟いた。 「店を始めた当初は、ほんまのとこ、あかんかもしれんおもたわ」  おふみが静かにうなずいた。 「おまえが気張って、永代寺はんに道をつけてくれたおかげや……おおきに」  少しだけ顔をのぞかせていた初日が、いまは真っ赤でまん丸だ。永吉がもう一度手を合わせた。 「おそならんうちに帰ろか」  おふみを促した永吉が、先に立って歩き出した。平野橋への曲がり角まで戻ると、人波が少なくなった。足をゆるめた永吉がおふみに並びかけた。 「相州屋はんのことも、あんじょう行きますようにとお願いしたで」 「相州屋さんて、あの仲見世の?」 「そうや。去年の秋から閉まったままやろ」 「そうね」 「おまえもわても、あそこの旦はんにはええ口きいてもろてないけど、あちらはんがこらえてくれたさかい、納めがかのうたんや」  永吉のとなりで、下駄を鳴らすおふみが何度もうなずいた。  正月三日目は雪になった。 「きょうは簡単なもんやけど、わてが賄いをやるわ」  永代寺の納めから戻ってきた永吉は、かまどの火種を七輪に移して炭をいけた。真っ赤に火が熾《お》きると、おふみがそばに寄ってきた。 「なにができるの」 「平野屋で出してた湯豆腐や」  水を張った土鍋に、盃二杯の酒と昆布一枚を入れてふたをした。 「いつの間にそんなものを買ってきてたの」 「広弐屋はんで暮れにもうたんや。まあ、見ときや」  永吉は昆布をしまっておいた布袋から、鰹節と緑葉のついたダイダイを取り出した。鰹節を包丁で器用に削り、ダイダイを四つに切り割った。豆腐三丁は大きな賽の目にした。 「鍋が沸いたら豆腐を入れてや。ダイダイと鰹節は、醤油に混ぜて食べるんや」  おふみはこの日、京風の湯豆腐を初めて口にした。 「お下地にダイダイを絞るなんて初めてだけど、すごくおいしい」 「京やの豆腐は、湯豆腐で食べてもらうのが一番なんや」  おふみの箸が止まった。 「湯豆腐を売りましょう」 「えっ……なんやて」 「いままで断られたお店に、この湯豆腐を教えてあげるの。そしたら、かならず京やのお豆腐を買ってくれるもの」  松が明けると、おふみは入船町の濱田屋を訪ねた。汐見橋たもとの濱田屋は、うまい魚で知られた料理屋だ。  ここの板場辰次は、おふみとは幼馴染《おさななじみ》だった。昨年暮れに断られていたが、おふみは構わず押しかけた。 「辰ちゃんにはままごと遊びで、いろんなものを買ってあげたでしょう。今度はあたしのお豆腐を買ってよ」  渋る辰次におふみは湯豆腐を押しつけた。辰次は仕方なく女将に話を通した。 「ものは試しじゃないか。いわれた通りに作ってごらんな」  永吉のやり方で湯豆腐を試した女将は、つぎの朝から客に出した。  これが洲崎や門前仲町の、岡場所目当ての客に大受けした。濱田屋は六ツ(午前六時)から店を開けている。  湯豆腐は出すのに手がかからない。客はさっぱりした朝の味に大喜びした。京風湯豆腐は濱田屋評判の品書きとなり、毎日五十の豆腐を京やから仕入れた。  おふみが身籠《みごも》ったことに気づいたのは、三月中旬。おなかの子は百日を過ぎていた。 「永代寺はんと濱田屋はんで手一杯や。身体にもしものことがあったらえらいことやし、もう外へは行かんとき」  永吉は懸命に止めたが、豆腐造りも外回りもおふみの性に合っていた。 「じっとしている方がつらいから、動けなくなるまでは好きにさせて」  濱田屋に義理立てしたわけではないが、おふみは料理屋への売り込みは控えた。その代り、近所の八百屋や米屋、瀬戸物屋などに顔を出しては、京やの豆腐を買いにきてねと頼んで歩いた。  おふみは手ぶらではなく、毎日できるおからを手みやげにさげて行った。豆腐に豆を惜しまず使う京やは、おからにも味がある。おふみの手みやげは先々で喜ばれた。 「おじさん、ごちそうさま」  ここにもおからを届けている。汗のひいたおふみは、大きな腹を抱えて立ち上がった。 「いつでも寄んな」  大儀そうなおふみに、親爺が店のなかから声をかけた。  茶店からまっすぐ大川に向けて歩くと、永代寺仲見世だ。角を料亭江戸屋が占めていた。精進料理が評判で、地の利からも京やが売り込むには最適である。  しかしどこでも飛び込むおふみも、江戸屋だけは気後《きおく》れした。  いつかかならず、お得意さんになってもらおうね……。  おなかのこどもに話しかけながら、おふみは江戸屋のまえを通り過ぎた。      十八  おふみが通り過ぎた江戸屋では、女将の秀弥《ひでや》と相州屋のおしのとが、奥座敷で話し合っていた。  元禄六(一六九三)年創業の江戸屋は、今年で七十年。女将は秀弥襲名が仕来《しきた》りで、いまは三代目である。  婿取りをして三代目を継いだとき、秀弥は十八だった。夫婦《みようと》仲はよかったが、子宝に恵まれなかった。  秀弥のつらい気持ちを汲み取ったのが、おなじ思いを抱えたおしのだった。相州屋は江戸屋に豆腐を納めていたが、ふたりは商いを離れた付合いを深めた。  秀弥の婿取りと同じ年に嫁いできたおしのは、四つ年上だった。秀弥は江戸屋の跡取り娘だが、おしのは嫁である。こどもの授からない悩みは、おしのの方が深かった。  ふたりの付合いが始まって四年目、おしのがさきに正吉を授かった。 「おめでとう、おしのさん……ほんとうによかった……」  二十二歳になっていた秀弥は、おしのの妊娠に元気づけられたと心底から喜んだ。しかし秀弥におめでたは来なかった。それでもおしのを妬《ねた》むような素振りは欠片《かけら》も見せず、一緒になって正吉を可愛がった。  その正吉が四歳の春に、亀戸天神で迷子になった。取り乱すばかりのおしのを支えたのが秀弥だった。  出入りの絵師に正吉の似顔絵を描かせた秀弥は、刷物にして客に配った。仕事が投げやりになった清兵衛をきつく叱り、励ましたのも秀弥だ。永代寺の西周とも秀弥は何度も掛け合った。当時はまだ三十二歳と若かった西周も、懸命に動いてくれた。  しかし正吉の行方は分からなかった。  正吉が迷子になってから、清兵衛がことさら無口になった。もともと愛想のいえる男ではなかったが、おしのにすらまともに口をきかなくなった。 「家にいるのがつらくて……」  秀弥はおしのの話を黙って聞き、ともに泣いた。  三年過ぎても、清兵衛は豆腐造りに身が入らないままだった。秀弥は清兵衛を江戸屋に呼んだ。得意先の女将としてだった。 「板場からお豆腐の味が月を追って落ちていると聞きました。わたしもそう思います」  清兵衛は、秀弥に目を合わせる気力もなさそうだった。 「月末《つきずえ》まで待ちましょう。そこで板場の吟味に任せます」  しかし清兵衛にやる気は戻らなかった。 「清兵衛さんが元に戻りさえすれば、わたしがいつでも板場に話を通しますから」  江戸屋の奥座敷で、秀弥とおしのはそれ以上の口を開くことなく向かい合った。築山のかえでが、黄色く色づき始めたころだった。  正吉の行方が知れなくなってから十二年目の延享五(一七四八)年六月に、すでに四十路に手が届きそうになっていた秀弥がこどもを宿した。 「この歳でこどもが……恥ずかしくて店にも出られません」 「授かったこどもに叱られますよ」  江戸屋の離れで秀弥とおしのが笑みを交わした。恥じらいつつも喜びを隠せなかった秀弥だが、ことのほかつわりがひどく、ほとんど起きられなくなった。すでに二代目は他界しており、秀弥の世話は奥付き女中任せになった。  おしのが泊り込みの世話を申し出た。 「うちにいても、永代寺さんへのお納めだけですから。秀弥さんのそばにいる方が、あたしも気が休まります」  秀弥は病みあがりのような顔に化粧をし、五つ紋の身繕いで清兵衛にあいさつに行った。おしのの泊り込みが始まった。  この年は富岡八幡宮本祭の年だった。江戸屋女将は、代々、八幡宮の氏子総代に就いてきた。町内|肝煎《きもいり》との寄合がなんども持たれた。秀弥はつわりをおして、一度も欠かさず座頭《ざがしら》を務め、それにおしのが付き添った。  翌年の桜のころに、秀弥はめでたく女児を産んだ。産婆がおどろいたほどに大きな赤ちゃんだった。泣き声が奥座敷に響き渡った。 「おしのさんのおかげです」 「あたしこそ、秀弥さんの世話ができて、生きている張り合いが持てました」  ふたりが手を握り合って涙を流した。すぐそばで赤ん坊が元気な泣き声をあげた。  玉枝と名付けられた女児も、すでに十五歳。秀弥も五十二になっている。三代目に就いてすでに三十年の上が過ぎたが、代を譲るにはまだときがかかりそうだった。 「お話は呑み込めましたが、いつお発ちになりますの」  団扇の風をおしのに送る秀弥が問いかけた。 「やっと昨日、名主さんから書付がとどきました。明日朝の涼しいうちに出かけます」 「寂しくなりますね」  昨年晩秋に新兵衛を亡くしたおしのは、店の戸を閉じたまま、内輪の葬儀を執り行った。秀弥は通夜から焼き場まで、おしのに付き添った。  葬儀を終えたあとも、おしのは雨戸を閉じたまま、ひっそりと暮らした。師走の四十九日明けに、平田屋が顔を出した。 「清兵衛さんが亡くなってたなんて、こんな近くにいながらちっとも知らなかった」  庄六が臆面もない悔やみをいった。仏前に、竹の皮に包んだ商売ものの油揚げを供えたあと、おしのの前ににじり寄った。 「相州屋さんほどの屋号をこのまま終わらせては、深川の名折れです。あたしが命懸けで盛り返しますから、ぜひ居抜きで譲ってもらえませんか」  線香の煙が流れる仏間で、上目遣いにおしのを見た。おしのは丁重に断り、腰をあげない庄六をきっぱりとした断り言葉を重ねて送り出した。  おしのには庄六の肚のうちが見通せた。相州屋には良い井戸がある。永代寺が相州屋から豆腐を求め続けたのは、水に恵まれた豆腐の味に満足していたからだ。それは江戸屋も同じだった。  平田屋の狙いも井戸だった。庄六は何度断られても厚かましく顔を出した。しかも次第に横柄な口調になり、梅雨に入ると渡世人を従えてきた。  小柄な庄六に底知れない怖さを感じたおしのは、ことの次第を秀弥に打ち明けた。 「わたしが一緒に会いましょう」  そんな段取りになっているとも知らぬ庄六は、梅雨明け十日と呼ばれる夏日を浴びながら、雪駄を擦《こす》らせて顔を見せた。 「平田屋さん、ごあいさつをさせていただくのは初めてでしょう」  秀弥はわざと粗末な茶の染絣を着ていた。庄六が物売りでも見るような目になった。 「おしのさんと一緒だてえのは聞いてなかったが、おたくはどちらさんで」 「この先の角で商いをしている、江戸屋の秀弥です」 「ばかいうんじゃない。江戸屋は何代も続く老舗だ。あんた、あたしのまえで騙《かた》りをやろうというのかい」 「きのうも冬木町のご住職がお見えになりました。わたしの顔は知らなくても、正覚寺のご住職はご存知でしょう?」  正覚寺は平田屋の一番大事な得意先である。寺との商いを始めて五年になるが、まだ住職には目通りができていない。言い返したくても言葉にならないのか、庄六は唇をひくひくさせるだけだった。 「相州屋さんの家作にご執心だとうかがいましたが、今後は一切ご無用に願います」  奉公人を叱る口調だ。庄六は真っ赤になって秀弥を睨み返した。 「ご不満のご様子ですが、このさきは江戸屋がお相手をさせていただきます」 「なんだよ、相州屋さんもひとがわるい」  庄六は顔に浮いていた怒りを素早く引っ込めると、下卑た笑いをおしのに向けた。 「なにも江戸屋さんをわずらわせることでもないでしょうが」  精一杯の皮肉を残しただけで、庄六は相州屋から逃げ出した。以来、二度と来ることはなかった。  いま江戸屋の奥座敷で、おしのは暇乞《いとまご》いをしていた。 「これが相州屋の沽券状《こけんじよう》(権利書)です」  おしのは沽券状をあずけるにあたって、ふたつの頼みごとをした。  ひとつは万が一にも正吉が訪ねてくるようなことがあれば、即座に引き渡して欲しいということである。 「正吉さんだと確かめることができたら、ということですね」  秀弥が念押しして受け入れた。  二つ目はいささか込み入った話だった。  二十年過ぎても正吉が現れなかったら、蛤町の京やという豆腐屋に貸して欲しい。店賃は、ときの相場で江戸屋が決める。もしも京やが潰れていたり、借りたくないといったりしたときには、相州屋の処分は江戸屋に任せる。京やに貸す店賃や、処分したときのカネは、すべて永代寺に御布施する。それまでは江戸屋で好きに使って欲しい。 「なぜ二十年などと……そのころはおしのさんもわたしも、この世にはいないでしょう」 「いま京やさんのお嫁さんは、おなかにこどもがいます。もし男の子だったら、二十年も経てば立派な跡取りです」 「………」 「清兵衛は、京やさんが永代寺さんにお納めできるきっかけを作って逝きました。あたしは、その京やさんの跡取りが立ち行ける手助けができればと思っています」  凄まじい蝉時雨が始まった。秀弥の団扇が止まったほどの激しさだった。 「秀弥さんもご存知の通り、あたしも遅くになってようやく正吉に恵まれました。ところがほんのわずかうっかりしたばかりに……手元から失いました」  おしのが口を閉じた。ふたりはしばらく無言で見詰め合っていたが、蝉が静かになったところでおしのが話に戻った。 「あたしはいまでも、正吉はどこかで生きていると信じています」 「もちろんそうですとも」 「あの子も今年で三十……うちにいたら、清兵衛もこんなに早く逝かず、正吉をひとかどの職人に仕込んでいたはずです」  踏ん張って話をしていたおしのが、こらえ切れずに言葉を詰まらせた。秀弥は黙って団扇の風を送った。 「すみません、取り乱して」 「いいんですよ、お好きになさって」  平田屋と向かい合ったときの秀弥とは、まるで別のひとのようなやさしい声だった。団扇の風で、おしのの気も鎮まった。 「まるで見ず知らずのお他人さまですが、三十になった正吉の面影を、京やのご主人に重ねてしまうのです。身勝手な話に聞こえるでしょうが、あちらに力を貸すことで、正吉が幸せに暮らせる功徳が積めそうな気がしてなりません」  秀弥は何度も深くうなずき、おしのの思いを胸に仕舞い込んだ。 「あたしは遠縁の暮らす平塚にまいります」 「そんな遠くへ……」 「わずらわしいお願いですが、なにとぞ聞き入れてくださいませんか」 「分かりました。折りを見て娘にもしっかり伝えます」 「ありがとうございます」 「江戸屋から声をかけることはしませんが、もしも京やさんが見えたら、板場が吟味するように計らいます」  おしのが言い出せなかったことにまで、秀弥は気を配った。おしのがあたまを下げた。  秀弥は思いを込めて風を送り、名残を惜しんでいるようだった。      十九  とんぼが姿を消して、朝夕に肌寒さを覚え始めた宝暦十三年十月七日に、おふみは長男を出産した。 「とんでもねえ、そりゃあできねえよ」 「そういわんと……この通りですわ」  永吉は源治を説き伏せて長男の名づけ親になってもらった。 「めえったよ、孫の名めえをおれにつけてくれてえんだ」  納めに行った先々で、源治は相好を崩して同じ話を繰り返した。三日の間酒を断ち、朝晩二度の富岡八幡宮参詣を続けて、初孫を栄太郎と名づけた。 「おめえたちは裏店の豆腐屋で終わるわけじゃねえだろよ。表通りに店を構えても、栄太郎なら恥ずかしくねえ」  源治の心遣いに、永吉もおふみもこころの底から感謝した。産後の肥立ちがよかったおふみは、源治が命名した日に起き上がった。お七夜の日、剃刀《かみそり》を手にして栄太郎のあたまを剃りあげた。 「三歳の髪置《かみお》き祝いまでは、おまえが栄太郎のあたまを剃るんだけど、大丈夫だろうね」  おふみの慣れない手つきを案じたおみつが、心配そうな声を出した。 「平気よ、おっかさん」 「またそれだよ」  おふみの気性を分かっている三人が、顔を見合わせて苦笑した。おふみは乳の出もよく、栄太郎は健やかに育った。 「色白でふっくらとしたところなんか、おふみちゃんそっくりだねえ」  母親似だといわれるたびに、おふみは手を叩いて喜んだ。栄太郎が生まれてからは、おみつと源治がなにかと京やに顔を出すようになった。  年が明けて二月二十日に、神田で大火が起きた。春が近いといっても、朝にはまだ氷の張る寒さが残っていた。寒空のなかに焼け出されたひとたちに、町名主が炊き出しを頼んできた。  永吉は十日の間、おふみに大鍋一杯のおからを煮させた。炊き出しは永代橋たもとに集められる。ねんねこ半纏に栄太郎を背負い、おふみは毎日おからを運んだ。 「ありがとよ、おふみさん」  肝煎連中が気持ちのこもったねぎらいをくれた。江戸屋も毎日、飯台三つに握り飯を山に盛り上げて差し出した。江戸屋の半纏を着た板場の追回したちが、行き違うおふみに会釈をする。おふみも笑顔で返した。  桜が咲き始めると栄太郎の首もしっかりと座り、さらにおふみに似てきた。 「毎日そとに連れ出して大丈夫なのかい」  栄太郎を背負って得意先回りを続ける娘を、おみつは案じた。しかしおふみは、あたしが一緒だからいいのと取り合わない。乳飲み子を背負い、おからを手にさげて顔を出すおふみは、先々のひとから感心された。  六月二日、幕府は火事の厄払いを祈念して、宝暦から明和へと改元した。そしてまた、暑い夏が来た。  こうもりが屋根をかすめる夕暮れ、おふみは土間の隅で栄太郎のあたまに剃刀をあてていた。わきの七輪では、鍋に湯が沸き立っている。栄太郎のあたまを清める手拭いを浸す湯だ。  いきなり蝉時雨が始まった。さらに野犬の吠え立てる声が重なった。おとなしく剃られていた栄太郎が、びくっとあたまを動かした。  横に動いたことで、剃刀がこどものあたまをスパッと斬った。栄太郎のあたまから鮮血が流れ出した。 「あああ……」  おふみが言葉にならない叫び声をあげた。声に驚いた栄太郎が泣き喚《わめ》いた。 「なんや、どないした」  豆を量っていた永吉が、升を放り投げて飛んできた。ところが手桶につまずき、前のめりになったまま、七輪を蹴飛ばした。  鍋が吹っ飛び、湯が飛び散った。血を流す栄太郎を抱えたおふみは、咄嗟《とつさ》に身をかわした。が、だらりと垂れた栄太郎の右手が残ってしまい、煮えたぎった湯のしぶきを浴びた。  声を聞きつけたおみつが、となりから血相を変えて飛び込んできた。 「おふみ、落ち着きな。傷口に膏薬貼っつけて、手には味噌を塗るんだよ」 「豆腐の水風呂に浸けた方がええ思うけど……」 「火傷には味噌だよ。待ってな、いま用意してくるから」  おみつが家に駆け戻った。 「平野屋でも火傷は付きもんやったけど、みんな水で冷やしたんや」  言ってる間も栄太郎は泣き喚き、あたまの血が止まらない。 「のんびりしたこと言ってないで、はやくなんとかしてちょうだい」  おふみが甲高い声でわめいた。おみつが味噌壺と膏薬紙を抱えて走り込んできた。 「長屋の子は、一度や二度はみんなこの目にあってるよ。膏薬をよく焙《あぶ》って、わるいものが入らないうちに貼っとけば心配いらないから。永吉さんは味噌を塗ってちょうだい」  かまどの火で膏薬紙を焙ったおみつは、栄太郎の傷口に貼りつけた。永吉もたっぷり味噌を塗ると、手拭いを裂いてゆるく縛った。 「あたしもおまえのあたまを斬ったことがあるんだから。もう大丈夫だよ」  おみつはこう請け合ったが、栄太郎は大丈夫ではなかった。その夜の栄太郎はぐったりしたままで、泣き声にも力がなかった。翌朝、呉を絞り終わったおふみが栄太郎を抱きかかえたら、熱が尋常ではなかった。 「栄太郎、栄太郎ったら」  鼻をつまんでも頬を張っても、泣き声をあげない。 「先生を呼んでくる。おまえは栄太郎のあたまを冷やしとけ」  永吉は明け方の町に飛び出した。長屋の連中は黒江町の尾田成庵を頼りにしている。永吉は大通りの一ノ鳥居を走り抜け、黒江町の角を左に曲がった。成庵宅は堀端の、つつじの生け垣に囲まれた平屋だ。  まだ眠っている成庵を叩き起こした永吉は、薬箱を自分が持ち、追い立てるようにして新兵衛店に連れてきた。  栄太郎は泣きもせず、虚ろな目と乾いた唇を見せている。成庵が膏薬をはがすと、真っ赤にただれた傷口が見えた。 「先生、火傷の方も」 「分かっておる、いま診るところだ。あんたらにきつく言っておくが、火傷に味噌など塗ってはいかん。水に浸けて冷やすことだ」  手に塗った味噌をそっと取り除いた。小さな手の甲に幾つも水ぶくれができていた。 「この温気《うんき》だ、あたまと手の傷口からわるいものが入って暴れておるんじゃろ。熱のもとはそれだ」 「栄太郎はどうなるんですか」  おふみがうわずった声で容態をたずねた。 「塗り薬と飲み薬を調合するが、なにせまだ乳飲み子じゃからの。なんとも言いようがない」  薬箱から、どろりとして草の匂いがする塗り薬を取り出すと、あたまと手の傷口に塗りつけた。 「飲み薬は持っておらん。もう一度、うちに取りに来なさい。心配じゃろうが、薬を飲ませて涼しいところに寝かせておくほかない」 「死ぬことはないでしょうね」 「この子次第だが、水を切らせずに飲ませなさい。あたまの傷口は髪の毛で隠れるが、手の痕は残るやも知れんぞ」  成庵と一緒に出て行った永吉は、半刻過ぎたころに薬を手にして戻ってきた。風が通り抜ける障子窓の下に栄太郎が寝かされており、おふみが団扇の風を送っていた。おみつも心配顔で付き添っていた。 「はやくお薬をちょうだい」  永吉の手から薬をもぎとり、乾ききった栄太郎の口に、水と一緒に含ませた。  おふみもおみつも、口を閉ざしている。永吉はひとりで永代寺と濱田屋への納めを調《ととの》え始めた。静まり返った京やのなかで、永吉が豆腐を造る音だけが響く。  ガタンと音がするたびに、おふみがきつい目で永吉を睨んだ。  永吉は黙々と豆腐造りを続けた。夏場の揚げものは、ひときわ匂いと熱を放ってしまう。油揚げの揚がる音と煙に、おふみが顔をしかめた。  決まった数を造り終えた永吉は、おふみたちには声もかけずに納めに出た。 「今日ぐらい、休んでくれたらいいのに」  おふみが不満を口にした。 「なにばかなことを言ってんだよ、お得意先をしくじっちまうじゃないか。永吉さんの身にもなってみな」 「だって……」  母親に言われるまでもなく、おふみも理屈では分かっていた。しかし気持ちの折り合いがつけられない。口こそ閉じたものの、割り切れぬおもいで栄太郎の容態に見入っていた。  納めから戻ってきた永吉は、かまどの火を落として休みにした。風を通すため、店の雨戸は半開きである。おふみは永吉に話しかけるでもなく、団扇で風を送り続けた。  八ツ(午後二時)を過ぎると雲が厚くなり、部屋が暗くなった。 「八幡様にお願いしてくる。おっかさん、栄太郎をお願いね」  ひと握りの銭を掴んだおふみは、下駄を突っかけて飛び出した。表通りを渡るころには、重い空から大粒の雨が落ち始めた。  急な雨で、通りのひとが商家の軒に逃げて行く。おふみはその間を縫って、八幡宮へと駆けた。茶店の親爺が声をかけたが、おふみの耳には届いていなかった。  大鳥居をくぐり石段を駆け上がると境内だ。玉砂利を蹴散らして本殿のまえに立った。大きな賽銭箱に握りしめた銭を投げ入れると、おふみはいきなり大声で願いを唱えた。柏手《かしわで》も礼も忘れていた。 「大切な跡取りです、命にかえても大事に育てて、二度と危ない目には遭わせません。どうか栄太郎をお助けください」  稲妻が走り、雷鳴が轟いた。横なぐりの雨に打たれて、おふみのとんぼ柄木綿が身体に張りついている。昨夜からろくに眠っておらず、髪も結い直せていない。雨に打たれた前髪がひたいに垂れていた。  おふみはなりふり構わず願いを唱えた。 「なにとぞ栄太郎をお助けください」  大声で繰り返し唱えて息が切れた。肩で息をしながらも、うしろにひとの気配を感じた。振り返ると、番傘を小脇に抱えた永吉が立っていた。 「傘もってきたで」  おふみには、栄太郎が生き死にの境目をさまよっていたのに豆腐造りを続けた、永吉へのわだかまりが残っていた。追ってきてくれたのは嬉しかったが、素直にはなれなかった。 「お願いが終わったら、一緒にかえろな」  永吉の髪から、雨粒がしたたり落ちた。目にしみたのか、両目をしょぼしょぼさせている。そのさまを見て、おふみのこだわりが薄らいだ。  雨足はまだ激しいが、雷鳴が少しずつ遠のいていた。夕方にはあがった雨が、長屋の路地から暑気を運び去った。入れ替わりに涼しい川風が流れてきた。  夜半から栄太郎の熱が下がり始め、明け方には寝息を立てるほどに快復した。張りつめていた気が緩んだおふみは、栄太郎に添い寝をする形で眠り込んだ。 「八幡様、ほんまにありがとうございます」  おもてに出た永吉は、富岡八幡の方角に身体を折って礼をした。東の空が力強い夜明けを見せている。なかに戻ると母子を気遣い、物音に気を払って豆腐造りを始めた。  日を追って栄太郎は元気を取り戻し、いつもの暮らしが戻ってきた。ただし手の甲の火傷痕は消えなかった。 「あたし、お礼参りに行ってくる」  納めから戻った永吉に栄太郎を任せると、おふみは銭をたもとに入れた。空が高くなり、夏が終わりかけていた。  源治もおみつも、とりたてて信心深いわけではなかったが、ことあるごとに八幡宮にお参りした。深川のだれもがすることだ。  こどものころから親と一緒に参詣してきたおふみには、富岡八幡宮への願掛けやお礼参りは、きわめて当たり前のことだった。 「願い事をするだけでお礼参りをうっちゃるのはいけねえ。それに八幡様と約束したことは破っちゃなんねえぜ」  こどものころ源治にいわれたことを、いまでもおふみは守っている。 「おかげさまで栄太郎が元気になりました。この子は命をかけて育てます」  おふみはなにごとでも、一途《いちず》に思い込む性分だ。  炎暑のなかで出会ったその日から永吉に惹かれた。口にすることができない分だけ、想いは余計に深くなった。  京やに嫁ぐと、母親の言いつけ通りひたすら外回りを続けた。産み月の直前まで、得意先を拓《ひら》くことに打ち込んだ。  そんなおふみには、死にそうだった幼子《おさなご》が快復できたのは、八幡様のお助け以外に考えられなかった。  命にかけて育てますと約束したことを、おふみは参道わきの石垣に座って思い返した。  栄太郎が生まれてすでに十月《とつき》。子育てに手を抜いたつもりはないが、いつも商いに追われてきた。栄太郎のことだけに構うことができたのは、熱にうなされた数日だけだ。  ことばはまだだが、あやせば喜びの声をあげる。おふみの姿がそばにないと、すぐにぐずる。しかしおふみは、栄太郎にかかりっきりにはなれなかった。不憫《ふびん》とは思うが、京やの先行きはまだ確かなものではない。  得意先を増やす外回りはまだ続くだろうし、仕込みの手伝いもやめられない。今日に明日に、栄太郎だけに構う暮らしが手に入るとは、おふみにはとても思えなかった。  このうえ、もしこどもが生まれたら……。  ますます栄太郎に構ってやれなくなるのは明らかだ。  栄太郎を大事に育てます。栄太郎が大きくなるまでは、もうこどもは欲しがりません。  参道に立ったおふみは本殿に向かって礼をし、そう唱えた。  その夜から、永吉が求めても様々な理由をつけて拒んだ。仕事に気の行っている永吉は、いぶかりながらも無理強いはしなかった。      二十  明和元(一七六四)年十二月二十五日、新兵衛店では長屋をあげての大掃除となった。栄太郎は、やっとつかまり立ちができるようになっていた。  掃除を終えた夜は、新兵衛宅で気の早い年越し祝いとなった。酒も肴もみんなが持ち寄りである。  京や開業から二年を過ぎていたが、長屋の連中は相変わらず嘉次郎から豆腐を買っている。それを分かっているおふみは、おからを煮て持ち込んだ。 「おふみちゃん、ちょいと待っておくれ」  寄合酒がおひらきになったところで、長屋差配の新兵衛に呼び止められた。 「無理を頼んで済まないんだが、明日の六ツ(午後六時)に、今夜のおからを届けてもらえないかねえ」 「届けるって、どこへですか」 「八幡様の寄合小屋さ」  この日、江戸市中のおもな町火消しに幕府から龍吐水《りゆうどすい》が配られた。オランダ人の指導で造られた火消しの放水道具である。  深川にも二台届いた。その披露を兼ねて、町内肝煎連中が酒盛りを催すことになった。蛤町からの持ち寄りは、京やのおからにしたいという。 「手間賃ぐらいしか出せないんだが、承知してくれるかい」  深川各町のうるさ方に食べてもらえる、またとない折りだ。おふみはふたつ返事で引き受けた。甘味と下地を強くし、人参と揚げを刻んで炊き合わせたおからは、肝煎連中にも大受けした。 「あんたのとこより豆がよさそうだ」  平野町の名主が平田屋庄六に皮肉をいった。二年前から肝煎の末席に座り始めた庄六だが、三十七では歯が立たない。こわばった顔のまま愛想笑いを見せるしかなかった。  座の面々から味のよさを誉められて、新兵衛は悦に入った。長屋で一番広い貸家の店賃を遅れずに納める京やを、ことあるごとに新兵衛は誉めそやした。とはいうものの、新兵衛も豆腐は嘉次郎から買っていた。  新たな得意先は増えないまま年が明けた。明和二年の元旦は孫を抱きたいのか、源治とおみつが京やに足を運んできた。  栄太郎は数え三歳である。歩き方もしっかりしてきた。源治が呼ぶと、トコトコと寄って来る。孫を膝に抱いた源治が娘を見た。 「おめえに兄弟をつくってやれなかったのが、おれとおっかあの気持ちの負い目だ。はやく栄太郎にあとをつくってやんな」  頼みごとでもするかのように、こどもの話を切り出した。負い目云々は源治の正直な気持ちだったが、元旦早々にこの話を切り出したのは、他にも思うところがあったからだ。 「あの怪我から、おふみは栄太郎を猫っ可愛がりし過ぎだぜ。あんな風にかまってばかりじゃあ、栄太郎はろくな子にならねえ」  去年の暮れから、源治は何度もおみつに不満をこぼした。泣き声をきくとおふみが飛んでくる。風が強いの、雨が降ったの、日差しが強すぎるのと、何かにつけては栄太郎を後ろに庇《かば》う。  栄太郎は栄太郎で、気に入らないと泣き喚いて我を通そうとするのだ。源治にも長屋のひとたちにも、おふみが甘やかしているとしか映らなかった。 「ひとりっ子のままじゃあ、おふみも栄太郎もどうにもならねえ。あいつらの仲はどうなんでえ」 「そんなの、いいに決まってるじゃないか」 「まったく永吉の野郎、なにをもたもたしてやがる」  元旦の祝い膳の場で敢えて口にした裏には、こんな源治の思いが潜んでいた。  永吉が好きで好きで、所帯を構えたおふみである。八幡様との約束は胸の奥底で消えなかったが、父親にいわれて気持ちが定まった。  明和三年三月十五日に、おふみはまた男児を出産した。  栄太郎のお産は、永吉が納めに出ているとき突然破水し、そのまま出産した。今回は明け方に陣痛が始まり、永吉が産婆を呼びに行くことも、産湯《うぶゆ》を沸かす手伝いもできた。おみつが駆けつけたときには、陣痛の間が短くなっており、おふみはいまにも産みそうな声をあげていた。 「まだ駄目だよ。これじゃあ開き方が足んないから、赤ん坊が苦しんじゃう。あんたなら我慢できるさ」  産婆のおさきが叱りながら励ましている。初めてお産に立ち会った永吉は、枕もとでおろおろするだけだ。 「あんたはいいから、かまどの火加減でも心配してな」  おさきの鋭い声が永吉に飛んだ。  土間に降りた永吉と入れ替わりに、おみつが娘の枕もとに座った。 「ああ……もう我慢できない……出ちゃうよう……おっかさん、出ちゃう」 「おふみちゃん、一《ひい》、二《ふう》と息を吸ったらそのまま止めて、思いっきりいきむんだよ」  おさきが、きびきびした声で指図した。 「分かった」 「それじゃあ、いくよ……ひいっ、ふうっ、ほらほら、しっかり止めて」 「ふうっ……」 「駄目だよ、声を漏らしたら何にもなんないじゃないか」  おさきの叱り声に、土間に立つ永吉がびくりとした。 「ほら、もう一度……今度は産むんだよ、ひいっ、ふうっ……いいよ、その調子だ」  おふみのひたいに血筋が浮いた。 「大きな子だよ……頭は出たけど、肩んところがひっかかってる。おみつさん、おなかを思いっきり押しとくれ」  おみつが両手でぐっと押した。おふみが懸命にいきむ。 「いいよ、いいよ……ほうら、出てきた。あとはもう、犬みたいな、はっ、はっ、とした息でいいからね」  おさきにとりあげられた赤ん坊が、部屋いっぱいに産声《うぶごえ》をあげた。 「おふみちゃん、立派な男の子だ。らくに一貫目(三千七百五十グラム)はあるよ」  産婆のおさきが昂ぶった声をあげたほどに、元気のいい赤ん坊だ。永吉は土間に突っ立ったままだが、両手のこぶしが震えている。源治の家でやすんでいた栄太郎が、永吉のこぶしを小さな手で握っていた。  すぐに母親の陰にかくれる栄太郎にいささか気落ちしていた永吉は、悟郎《ごろう》という力強い響きの名をつけた。悟郎は生まれつき身体も大きく、色黒で強そうに見えた。 「いい名めえだぜ、職人のこどもにはぴったりの、強そうな語呂じゃねえか」  源治はいかにも職人のこどもだと、大喜びした。  おふみは悟郎が生まれるそのときまで、八幡様の罰《ばち》があたったらどうしよう……と、だれにもいえない怯《おび》えを隠し持っていた。一貫以上もある男の子だときかされて、だれよりもおふみが喜んだ。  明日が悟郎のお七夜という宵に、源治は仲間と洲崎まで祝い酒に出た。 「栄太郎は色が白くて、まるっきり豆腐屋だがよう、こんどのは違うぜ。永吉に掛け合って、悟郎はおれが桶屋にする」  めずらしく源治が深酔いした。 「でえじょうぶかい、源さん。おれたちが送っていこうか」 「ばか言うねえ。川風にあたって、のんびりけえらあ。こんなめでてえ夜にゃあ、早帰りはもったいねえ」  足元を案ずる仲間を振り切って、源治は汐見橋で別れた。ここから新兵衛店の裏木戸までは、堀伝いの細道がつながっている。  酔った源治には春の夜風が心地よさそうだった。よろけながら歩いているのは、川並《かわなみ》(筏乗り)が器用に歩く細道である。左手は堀、右手は材木置場で、どこにも明かりがない。拍子のわるいことに闇夜だった。  左手をふところ手にした源治は、右手に折詰をさげて、孫の名を鼻唄にしながら浮かれていた。 「おまえ桶屋の若旦那、とくらあ……」  千鳥足で踏み出した一歩が空を踏み、三丈(約九メートル)下の筏に叩きつけられた。  翌日のお七夜が、源治のお通夜になった。      二十一  源治の野辺送りは朝から晴れた。土手の桜も堀の桜も満開である。花見客の間を縫って、弔《とむら》いの列が歩いた。小さな花びらは、浮かれるひとにも哀しむひとにも、分け隔てなく舞い落ちた。 「なんにもないけど、これだけは用意させてもらったから」  仕事を休んで不祝儀《ぶしゆうぎ》に付き合ってくれた住人たちに、仕事場でおみつが酒をすすめている。永吉は数十枚の厚揚げやがんもどき、おから煮を手早く調えた。  七輪でひと焙《あぶ》りした厚揚げに包丁を入れ、生姜と下地を添えたもの。塩漬けの紫蘇の実、しいたけ、人参とおからの京風煮付け。豆腐と油揚げを小さな賽の目切りにし、砂糖を加えた精進味噌汁。それにがんもどきの含ませ煮である。  集まってくれたひとたちに喜んでもらうことが、永吉にできる精一杯の供養であった。  酒が回った職人たちは、次第に慎《つつし》みが薄くなった。乱れ始めた亭主と、叱りつける女房。こどもたちはひとかたまりになり、おとなの食べ残しや卵焼き、握り飯を頬張った。  長屋の弔いに見栄はない。しかし情にあふれていた。 「おみつさんが大変だからさ。この辺にしておこうじゃないか」  どこかの女房が言った言葉に、他の女房たちがうなずき、男の尻を上げさせた。 「まだいいじゃないか。うちのひとだって、三途の川を渡り切れてないだろうしさ」  引き止める言葉と裏腹に、おみつの顔には生気がない。職人たちもさすがに腰が浮いた。 「気を落とすんじゃないよ、おみつさん。元気な孫も増えたことだし」  慰めをいって帰ってゆく住人を、娘のおふみは虚ろな目で見ていた。五ツ(午後八時)にはおみつたちだけになった。酒や器が片付けられた仕事場に、線香の煙が漂った。  数え四つの栄太郎には、まだわけが分からない。生まれて間もない悟郎の頬を指でつついてからかっていた。 「おやっさんには、わての在所と京の平野屋を、なんとしても見てもらいたかった」  永吉から涙がこぼれ落ちた。おどろいた栄太郎が、小さな手で永吉の頬を拭った。  享年五十一、逝くのが早過ぎたという歳ではない。しかしいきなり連れ合いを毟《むし》り取られたおみつは、初七日を過ぎると日に日に老いが深くなった。  仕掛かり途中となった手桶や水桶が、源治の仕事場から片付かない。ときが経つに連れて、竹のたがが反り返り、桶材にはひび割れが見え始めた。  そんな材料の真ん中に座り、朝から日暮れまで、おみつは板の間から動かない。なにもせず、ただ遠い目をして物思いに沈んでいた。  おみつと源治が祝言をあげたのは、いまから二十三年前、おみつ十七歳のときである。  源治は当時二十八歳、高橋《たかばし》を渡った森下町の桶屋仙吉親方のもとで、通い職人として働いていた。 「うちの水桶を新しくしたいから、源治さんにお願いしますよ」  名指しの誂えが、近所の待合などから入ってくる。口が重くて人付合いの不器用な源治だったが、腕は客が分かっていた。  おみつは、仙吉が遠縁から頼まれて預かった娘だった。親方といっても、源治のほかは小僧ひとりの小さな所帯だ。気働きのできるおみつは、いつの間にか職人の賄いも任されていた。  おみつを預かって三月《みつき》が過ぎたころ、高橋で湯屋と料理屋の開業が重なった。どっちもが仙吉と源治の評判を知っており、合わせて三百の桶の誂えを頼まれた。  腕を買ってもらえたのは嬉しかったが、職人ふたりの桶屋には荷が重い。 「おれも泊り込みでやりやすから、親方、この仕事は受けやしょう」  言い切った源治に仙吉は喜んだ。仕事場すみの三畳の納戸が源治の寝床になった。仙吉は銭を惜しまず、職人のめしを奢った。一日おきに酒もつけた。  源治も応えた。仙吉がさきに休んだあとも、夜鍋を続けた。湯屋も料理屋も、約束よりも二日早く納めた。  すべてが片付いた夜、仙吉はねぎらいの酒に源治を誘い出した。仙台堀に面した料理屋の二階座敷で、ふたりは盃を交わした。 「親方、折り入って頼みを聞いてもらいてえんで」 「言いてえこたあ分かってる。おれも、おめえがいつ言い出すかって待ってたようなもんだ。構わねえよ、いつなんでえ」 「親方さえよきゃあ、来月にでも内輪だけの簡単な祝言をさせてもらいてえんでさ」 「なんだと……おめえ、独り立ちする話じゃねえのかよ」  噛み合わない話を突き合わせたとき、仙吉は身を反《そ》らせておどろいた。 「おめえたちゃあ、いつの間にそんな仲になってやがったんでえ」  初めは憮然として聞いていたが、源治の人柄は充分に分かっていた。仙吉がなかに立って、おみつの実家《さと》とも首尾よくまとまった。 「親方なんてえ見栄を張ってるが、見ての通りの貧乏所帯だ。てえした祝いもしてやれねえが、おめえを気に入ってる得意先はまるごと持ってきな」  これも仙吉が口ききした新兵衛店におみつとの所帯を構え、蛤町に近い二軒の得意先を祝儀として譲り受けた。 「おれは親方になる気はこれっぱかりもねえが、得意先はしくじれねえ。おれの口が足んねえところは、おめえが助《す》けてくれ」  こうしてふたりの暮らしが始まった。端《はな》は仙吉から仕事を回してもらったりもしたが、腕の良さにおみつの気働きが加わって、次第に客が増えた。  所帯を構えて二年目、延享《えんきよう》元(一七四四)年の梅雨どきに、おふみを産んだ。 「男だ女だと勝手なことを言ってたが、元気に生まれてくれりゃあそれだけで充分だ。おみつ、ありがとよ」  おふみは大きな赤ん坊だった。おみつの乳の出が良かったこととも重なり、北風が吹き抜ける季節になっても、風邪ひとつひかずに育った。 「ことしはおふみの元気さにあやかって、何とか男の子を授かりてえ」  正月の雑煮を口にした源治が、火鉢のそばで眠るおふみに目を細めた。 「はっきりは分からないけど、次のがいるみたいだよ」 「ほんとうかよ、春から嬉しがらせるじゃねえか。前祝いだ、おめえも一緒に呑《や》ってくんねえ」  おみつの腹は、表通りに桃の花売りが立つころには、はっきりと目立つようになった。 「身体をでえじにしてくれよ。外回りはうっちゃっといていいからよう」 「大丈夫よ、おふみのときだって何てことなかったんだから」  源治の心配をよそに、おふみを背負って外回りを続けた。ところが梅雨寒《つゆざむ》で大きく冷え込んだ日におみつは寝込んだ。おなかの子も流れた。しかも、さらにわるいことを引き連れてきた。 「あんたの身体が傷んじゃっててね。あとのこどもは諦めるしかないよ」  おみつを診た産婆は、低声ながらもきっぱりと告げた。おみつは納得できなかった。夏には、おふみがつかまり立ちを始めた。朝の涼しいうちにおふみを背負うと、方々の産婆を訪ね歩いた。  どこの診立ても変わらなかった。  あとのこどもが無理だと分かって、夫婦の間がぎくしゃくし始めた。が、片方ではこどもの口が達者になった。おふみを間にはさむことで、源治とおみつの糸は切れずに済んだ。  こどもは望めなくなったが、源治とおみつには仲のよさが戻った。季節ごとに親子三人で、花見や潮干狩り、各所に立つ市に出かける暮らしを楽しんだ。富岡八幡宮のお祭りは、一家そろって大騒ぎした。  堅いだけだった源治が、女の過ちをおかしたのはおふみ十歳の秋、宝暦三(一七五三)年のことだ。職人仲間に誘われて立ち寄った洲崎の小さな料亭で、座についた仲居にのめり込んだ。  料亭に明かりが入る六ツ(午後六時)になると、ありったけの銭を持って洲崎に出かけた。仕事はしくじらなかったが、暮らしは行き詰まった。これを片付けたのは、またしてもおふみだった。  急ぎ足で洲崎に向かう源治から身を隠すようにして、おふみはこどもの足であとをつけた。道が固いところでは、小さな駒下駄がカタカタ音を立ててしまう。音で気づかれないように下駄を脱ぎ、両手に提げて小走りに父親を追った。  源治が平野橋を渡り終えて、洲崎につながる角を曲がろうとしていた。気が急《せ》いたおふみは、橋の段差に足をとられて前につんのめった。咄嗟に両手を突き出したが、下駄を提げていた。巧い受け身ができず、顔から橋に倒れ込んだ。  ひたいをぶつけた橋板が、ささくれを作っていた。 「おいおいっ、血が出てるじゃないか」  手代風の男がおふみに駆け寄ってきた。おふみは下駄を持った右手で男の手を払いのけて、父親を追った。  洲崎への角を曲がったとき、源治が妓夫《ぎゆう》と口あらそいをしているのが見えた。  源治を見つけて安堵したおふみは、駆けるのをやめて歩き出した。 「おめえさんに来られたら迷惑だって、なかの姐さんがいってんだよ。あっしらと騒ぎを起こすめえに、けえってくんねえな」  おふみが近寄ったとき、源治のこぶしが固く握られて、手首に力が込められた。 「おとうちゃん、おとうちゃんったら」 「おふみ……」  娘を見て源治が息を呑んだ。ひたいに血を滲ませたおふみが、裸足で下駄を提げていた。 「おとうちゃん、かえろうよ」  源治から力が抜けた。 「口あけだてえのに、小ぎたねえガキに玄関先をうろつかれちゃあ迷惑だ。とっととけえんな」  妓夫が半纏を開いて腰を落としている。おふみは懸命に源治の袖を引っ張った。源治はこどもの手に節くれた手を重ねてから抱き上げた。  七歳の七五三参りから、おふみを一度も抱き上げてなかった。下駄を提げたまま、両手を源治の首に回しておふみがしがみついた。 「おにいちゃん、だいっきらい、べええっ」  源治に抱えられたおふみが、若い衆に悪態をついた。  翌日の昼過ぎ、仕事の区切りがついたところでおみつとおふみを連れて、八幡宮にお参りをした。 「二度とばかはやりやせん」  おみつ、おふみにも源治の声がはっきりと聞こえた。 「おふみ、できもしねえ約束を八幡様にしちゃあなんねえ」 「分かった」  十歳の晩秋、八幡宮で交わした源治との話を、おふみは片時も忘れず、そして一度も破らずに生きてきた。  源治の仕事場に茫然と座った母親を見ると、おふみは胸が刺されたように痛んだ。  あたしが八幡様との約束を破って悟郎を産んだばっかりに、おとっつあんが……。  おふみは自分を責めて、責め抜くことでしか気をまともには保てなかった。      二十二  悟郎を可愛がることをおふみは恐れた。腹を空《す》かせた悟郎が乳を欲しがっても、知らぬ顔でいようとまでした。 「悟郎があんなに泣いとるやないか。何やっとんのや、はよ乳飲ましたれや」  永吉が何度叱っても、おふみの動きは鈍かった。悟郎のおむつが足りないのに、夜鍋してまで栄太郎の着物を縫い上げた。 「おやっさんが亡くなってからのおまえは、尋常やないで。はたで見とったら、悟郎に八つ当たりしてるとしか思えんのや。あんな死に方されておまえもつらいやろけど、悟郎に当たるんは筋違いや」  おふみは返事をしない。何度話をしても、いつも永吉が根負けして口を閉じた。  生まれつき大きな悟郎は、欲しがる乳も漏らすものも並ではなかった。  可愛がってはいけないと決めていても、ときが来ればおふみの乳が張り、それを欲しがって悟郎が泣いた。抱いたときの悟郎の笑顔が、かたくななおふみを解きほぐした。 「ほうら悟郎、いっぱい飲むんだよ」  おふみの乳で悟郎は健やかに育った。  年が明けて明和四(一七六七)年になると、おみつにも気力が戻ってきた。 「豆腐の納めは、わてとおっかさんとで手分けして回るよって、おまえは悟郎の面倒をきちんとみてくれな」  永吉はおみつを忙しくさせることが一番だと言い、おふみも同じ考えを持った。 「分かった、そうする」  悟郎の世話をしながら、多少は増えた店売りの番をするのがおふみの仕事となった。  片言を口にし始めた悟郎は母親が座敷にもどると、うまうまと言いながら這い寄ってくる。 「ちょっと待ってね」  悟郎が畳を這い始めた日から、おふみは芋を欠かさず用意していた。蒸《ふか》した芋の皮をむいて、小さなひとつまみを悟郎の口に入れてやる。旨そうに口を動かしたあと、悟郎がおふみを見詰めるのだ。 「悟郎、おいで」  広げた両手のなかへ懸命に這ってくる。乳飲み子が、ゆるやかにおふみを元へと戻していた。  母親が変わりゆくのを、栄太郎は敏感に感じ取っていた。いままでなら、栄太郎がねだれば、赤ん坊をわきにおいて応じてくれた。  それが悟郎が先になってしまった。おふみの気を惹きたくてわざと泣いても、いまは叱られてしまう。  加減のわからない栄太郎が、あやすつもりで悟郎の顔やあたまに手を触れると、おどろいた悟郎が大声で泣いた。 「こらっ、栄太郎、さわったらあかん」 「おもてに行って遊んでおいで」  栄太郎は言い返すこともできず、べそをかくしかなかった。  大きく生まれた悟郎は、二歳のときに、五歳の兄と背丈が並んだ。翌年の正月には、栄太郎のお古の縫い上げをおろしても、着物の丈が足りなくなった。 「この子たちが大きくなるまでには、表通りに店を構えられるといいねえ」  おみつの言葉に永吉がうなずいた。おふみのとなりでは、栄太郎と悟郎が元旦にしか膳に載らない栗きんとんを取り合っていた。 「あとひとり、こんどは女の子が欲しいねえ。どうなんだい、おふみ」  母親にいきなり言われて、おふみは口に入れたごまめを噛まずにのみ込んだ。いまでこそ、悟郎を産んでよかったと素直に喜べる。しかし父親の頓死を忘れた日はなかった。 「いまの商いじゃあ、これ以上のこどもは無理よ」 「そんなことないだろ、ねえ、永吉さん」 「へえ……まあ、それは……」  永吉が言葉をにごした。 「おっかさん、勝手なこといわないでよ」  気色ばんだ声に、おみつと永吉が同時におふみの顔を見た。 「おっかさんの店賃《たなちん》を払うんだって、大変なんだから。それも知らずにもうひとり産めだなんて、ばかいわないでよ」 「おふみ、正月からあほなこと言うな」  永吉が真顔で叱りつけた。おみつが口を閉じてうつむいた。 「おっかさん、ごめんね」  おみつは二度と、つぎの子の話はしなくなった。床をともにした永吉も、子種が残らないように気を払った。  栄太郎が七歳になった明和六(一七六九)年の一月下旬、永代寺からおふみが息を切らせて戻ってきた。 「これを見て」 「なんや、どないしたんや」  息を弾ませたおふみが右手を開くと、一分金が一枚、鈍い輝きを放っていた。 「永代寺さんから一分金を……」  五日まえ、永代寺は京の仁和寺から僧侶を迎えた。永吉は余計に二十丁の豆腐を納めた。 「大層に喜ばれまして、当寺の住持も大いに面目を施しました。これは寺からのこころざしです、どうぞお納めください」  仲見世を出たところで、受け取った半紙の包みを開いたら、一分金が出てきた。これは京やの店賃に相当する額である。おどろいたおふみは、半紙をたもとにねじこむと、一分金を握りしめて駆け戻ってきた。 「お寺さんから一分もいただくなんて、京やのお豆腐は、ほんとうに凄いんだ……あたし、嬉しい」  おふみの昂ぶりは夜まで続き、いつになく激しく永吉を求めた。  おふみが三たび身籠《みごも》った。      二十三 「おふみちゃん、おめでとう。女の子だよう」  産婆のおさきが、一段高い声をあげた。栄太郎七歳、悟郎四歳の明和六年十月のことである。  悟郎のあとに、初の娘を得た永吉は大喜びした。おふみも女児誕生は嬉しかった。しかし、どうかまたわるいことが起こりませんように……と、気持ちの底に怯えを隠した喜びでもあった。  長女をおきみと名付けたのはおみつである。その年の正月に、おふみは母親をひどい言葉で傷つけた。名付け親になってもらったのは、その罪滅ぼしでもあった。  不安を隠し持って産んだおきみが、京やに大きな変化をもたらした。豆腐が地元で売れ出すきっかけを、おきみが作ったのだ。  おきみ誕生から二十日過ぎた、晩秋にしては暖かな朝のことである。天気のよい日は小さな縁台を店先に出して、赤ん坊に陽を浴びさせるのがおふみの育て方だ。この朝も、半刻ほど裸で寝かせたおきみを抱き上げ、乳を飲ませていた。 「おふみちゃん、三人目なのによく乳が出るねえ。ほんと感心しちゃうよ」  通りかかった長屋のおたけが、軽い調子で声をかけてきた。 「だって、あたしは毎日おいしいお豆腐を食べてるんだもの」 「まったく売り込み上手は変わらないよ」 「ほんとうだって、おたけさん。うちのお豆腐はすごく濃い豆のお乳でつくるのよ。あたしはそれも飲んでるの」  おたけの目の色が変わった。 「おふみちゃん、豆のお乳ってなによ。そんなものがあるのかい」 「ちょっと待って……まだ残ってたかも知れないから」  にがりを加える手前の豆乳を、茶碗に入れて持ってきた。 「これだけど、よかったら飲んでみて」 「あらまあ……豆くさいけど、ほんとにお乳だねえ。どうもごちそうさま」  この日は短い立ち話で終わった。翌日は曇り空だったので、おふみは店のなかで乳を飲ませていた。突然、おもてが赤ん坊の泣き声で騒がしくなった。 「みんなそろうて、どないしましたんや」  おたけが三人のおんな連れで現れた。泣き声は、三人それぞれが背負っている赤ん坊のものだった。 「おふみちゃん、ちょっとちょっと」  おたけが手招きしている。おきみに乳をふくませたままおもてに出たら、おたけが一気に喋り始めた。 「おふみちゃん、あのほら……きのうあたしが飲んだ、あれ……」 「豆のお乳のこと?」 「それよ、それ。このひとたちはねえ、堀を渡った石置場に住んでんだけどさ、みんなお乳が出なくて困ってんだよ。おふみちゃんの飲んでるあれをさ、このひとたちにも分けてやっておくれよ」  三人が深々とあたまを下げた。 「お分けするのはかまいませんが、今日はもう残りがないから、あしたの朝からでいいですか」  永吉と相談して、一合の豆乳を豆腐一丁と同じ十二文で分けることにした。乳の出ない母親たちは、ヤギの乳を一合六十文で買っていた。貧乏所帯には六十文の乳を毎日三、四合も買うのは痛手だった。  十二文なら、ヤギの乳一合分で五倍も買えた。しかも赤ん坊は、臭いヤギの乳と違って京やの豆乳をいやがらずに飲む。母親たちは拝むようにして求めて帰った。  おしゃべりなおたけが方々でこの話を広めてくれたおかげで、一月《ひとつき》も経ずに毎日三升もの豆乳が売れ出した。  あわせて豆腐も少しずつだが売れ始めた。 「なにが幸いするか分からんわ」  挽く豆が日ごとに増えてゆく。広弐屋からの納めも多くなり、番頭も様子を見に足を運んできた。臼を回す永吉も威勢がよかった。  年が明けた明和七(一七七〇)年二月。永代寺の節分法要で豆腐三百の誂えを受けた。数を造ることには、ふたりともすでに慣れている。井戸端に分厚い氷の張った夜明け前、かまどでは勢いよく薪が燃えていた。  おふみが絞った豆乳に、にがりを加え木型に流すのは永吉の仕事である。 「おふみ、えらいことした」  永吉がめずらしく大声をあげた。 「どうしたの」 「にがりを全部に入れてしもうた」  永吉が慌ててすくった豆乳が、手にした茶碗にたっぷりと入っている。 「仕方ないじゃない。もう一度豆から挽きましょう」 「そらそうやけど、仕込んだ豆はみんな挽いてしもうてる。いまから水に漬けても、こんな冬のことや、昼過ぎまでかかるわ」 「どうするの」 「豆腐で堪忍してもらうしかないやろ。わてがきちんと謝る」  永吉は豆乳を求めにきた客に、ていねいに詫びた。 「お詫びのしるしですが、おひとつ……」  豆腐を一丁ずつ手渡した。八年前、売れ残った豆腐を長屋に配ろうとしたときは、ただでも受け取る家はなかった。いまはだれもが喜んで持ち帰った。 「京やもきっちり根づいたなあ」  ひと段落した昼下がり、永吉はおふみと上がり框に並んで寛いでいた。 「ようこうやって、話をしたもんや」 「ほんとにそうね」  おふみはおきみを抱いていた。栄太郎と悟郎は、おみつの家で遊んでいる。京やの土間には、八年の歳月が流れ過ぎていた。  ぼんやりしていた永吉の目が、流しの奥で止まった。框から立ち上がると、まっすぐ流しに向かった。 「おふみ、ちょっと来てみい」  流しのそばに行くと、永吉が皿にあけた半球の豆腐を手にしていた。 「けさ、茶碗ですくうた乳が固まったんや」 「へええ、おかしな形ねえ」  永吉は皿の豆腐を見詰めたまま、土間にしゃがみ込んだ。 「どうかしたの」 「この豆腐、工夫したらおもしろいもんになるかも知れん」  しばらく永吉は口を開かなかった。立ち上がったときには、何か思案が浮かんだ顔つきになっていた。 「これからちょっと試してみるわ。いるもんを買《こ》うて来るさかい、店は頼んだで」  ざるの銭を掴んで出た永吉は、半刻ほど過ぎてから包みを抱えて戻ってきた。 「小茄子と味噌を皿にあけてくれ」  永吉は新たに豆を挽き始めた。ときどき手を止めては、ぶつぶつと呟いた。おふみが問いかけても上の空だ。  おみつの家から戻ってきた栄太郎と悟郎が、永吉の様子に怯えてすぐにまた飛び出した。 「しもた、茶碗を忘れとった」  ふたたび永吉が京やから飛び出した。入れ替わりにこどもを連れたおみつが顔を出した。 「なにかあったのかい?」  おふみにもわけが分からない。こんな物に憑《つ》かれたような永吉を見たのは初めてだった。 「お茶碗のなかで固まったお豆腐を見てから、様子がおかしいのよ」 「おまえがまた、妙なことでもいったんじゃないのかい」 「へんなこと言わないで」  赤ん坊を抱いたおふみが口を尖らせていると、永吉が急ぎ足で戻ってきた。包みを開くと、形のそろった茶碗が四つ出てきた。 「いったいなにが始まるの?」  相変わらず返事がなかった。みんなが見守るなかで、日暮れ前に四丁の茶碗豆腐が仕上がった。  塩漬けの紫蘇の実、小茄子の芥子《からし》漬け、梅干、味噌が別々に入った変わり種豆腐である。 「どや、味は」  おみつとおふみが箸をつけた。 「なんだか水っぽい味だねえ」  おみつは味噌入りを食べていた。 「そんなことないわよ。紫蘇も小茄子も梅干もすごくおいしい」 「あたしにもちょうだい……あら、ほんとうだ。永吉さん、これはおいしいよ」 「どや、おふみ。この豆腐を売ってみよか」  おふみのあたまのなかでは、思案がぐるぐる回っていた。なんとかまとまったところで永吉を見た。 「あたし、江戸屋さんに掛け合ってみる」 「江戸屋はんて、あの表通りのか」  永吉が裏返ったような声を出した。おみつも目を丸くして娘を見た。 「うちのお豆腐は、永代寺さんのご住職も気に入ってくれてるじゃない」 「そらそうやが、江戸屋はんは別格やろが」 「平気、平気、あたしが行くから」  おきみを左手に抱えたまま、久しぶりにおふみが胸を叩いた。 「お味噌はいらないから、紫蘇の実と茄子のを、二つずつ造って」  おふみの両目が、強い力を宿していた。      二十四  翌朝、おふみは紫蘇の実と、芥子茄子の茶碗豆腐を永代寺に届けた。その足で江戸屋もと勢いこんだ。  しかし店のまえで気後《きおく》れしてしまい、動けなくなった。背負ったおきみがぐずり始めた。 「ほうらほうら、いい子にしてね」  提げた手桶をおろし、おきみをあやした。重たかった空から粉雪が舞い始めた。おきみはおとなしくなったが、いつまでも寒空の下にはいられない。 「おきみ……おっかさんの背中で、しっかり助けてちょうだいね」  手桶を握り、立ち止まりそうになる気持ちを奮い立たせて江戸屋の敷石を踏んだ。 「なにかご用でございますか」  仲居は、ねんねこ半纏姿で手桶を提げたおふみにも、ていねいな口調で話しかけてきた。 「通りを渡ったさきの、蛤町の京やと申しますが……」 「京やさんとおっしゃいましたか?」 「はい、豆腐屋の京やと申します」 「少々お待ちください」  屋号を聞いただけで仲居が奥に消えた。  このまま追い返されるのでは……と、おふみの不安が大きくなった。それを感じ取ったのか、おきみがまたぐずり始めた。雪が強くなっている。寒さが余計におふみの気後れを煽りたてた。  気持ちがすっかり逃げ始めたとき、深い藍色の結城紬を着た五十年配の女性が出てきた。 「江戸屋の女将です」 「えっ……」  おふみが手桶を落としそうになった。 「そんな雪のなかで待たなくても……どうぞそのままお入りください」  敷台に立つ秀弥に招き入れられた。まさか女将に会えるとは考えてもいなかったおふみは、手桶をおろし、おきみの背負い紐を縛りなおした。 「玄関先ではお話もしにくいでしょう。奥に参りましょう」  おふみは言われるままに、手桶を提げて下駄を脱いだ。歯の磨り減った粗末な駒下駄は、江戸屋の玄関には釣り合わない。おふみが履物に目を落としてもじもじした。 「どうぞそのままで……あとは下足のものが片付けますから」  秀弥の凜とした物言いには、おふみを見下した調子はみじんもなかった。  招き上げられた江戸屋の廊下は、檜を豪勢に使っていた。築山と泉水が眺められる客間を幾つも通り抜けたさきが、秀弥の居間だった。縁側の向こうに庭が広がっている。池に泳ぐ鯉は、どれも二尺はありそうだった。 「寒いなかを、ようこそ来てくれました。お初ですが、江戸屋の秀弥です」 「蛤町の豆腐屋、京やのふみと申します」  畳にひたいがつくほどに辞儀をした。 「永代寺さんから、京やさんの評判はうかがっています。たいそうていねいな仕事をされているそうですね」  障子が開かれて、茶と生菓子とが出された。雪の寒さが部屋にも忍び込んでくる。湯呑みから立ち上る湯気が力強かった。 「半纏をお脱ぎになって召しあがれば?」 「ありがとうございます」  おふみは立ち上がってねんねこを脱いだ。急に寒さを感じたのか、おきみが泣き出した。 「あらあら、寒かったのね」  秀弥が手を打つと、間をおかず女中が顔を出した。 「火鉢をふたつ」  すぐさま半纏姿の男ふたりが、火の熾《お》きた火鉢を運び込んだ。部屋が暖められて、おきみが泣き止んだ。 「いつお生まれになったの?」 「去年の十月です」 「それは手のかかるさかりですね。ほかにもお子さんは」 「八つと五つになる男の子がいます」 「そうですか……八つに……」  秀弥が遠い目になった。おふみは話の接《つ》ぎ穂《ほ》をなくして黙り込んだ。 「ごめんなさい、考えごとをしてしまって。それでご用の向きは」  秀弥に水を向けられたおふみは、手桶から茶碗豆腐を取り出した。秀弥は話の腰を折らずに聞き終えた。手が打たれて、ふたたび女中が障子をあけた。 「謙蔵《けんぞう》をここに呼んでおくれ」  謙蔵はうちの板場を任せている男です、とおふみに聞かせた。ほどなく姿を現した謙蔵は、眉が黒くて黒目の大きい五尺七寸(約百七十三センチ)ほどの背丈だ。おふみには三十路後半の男に見えた。 「このお豆腐を味見してください」  謙蔵は皿に盛られた豆腐の形を見た。つぎに豆を確かめるかのように香りをかいだ。  箸をつけたのは、芥子茄子の豆腐が先だった。下地もつけず、飲み込むまでに舌で何度も味わっているのがおふみにも分かった。  紫蘇の実豆腐にも、おなじ吟味をした。謙蔵はひとことも口をきかずに食べ終えた。 「このままでは大き過ぎます」  おふみは息を詰めて聞き入った。 「ですが、旨い豆腐です。大きさを半分にすれば、だれでも残さず食べられるでしょう。よそにはない豆腐ですから、間違いなく評判になります」  太くてよく響く声だった。江戸屋の板長に認めてもらえて、おふみが大きな息をついた。 「慌てることはありません。謙蔵がこれならと、納得するものをお持ちなさい」  おふみが力強い返事をした。江戸屋に来て初めて出た、おふみらしい声だった。  戻ったおふみからことの次第を聞かされた永吉は、大きな身体がふわふわして見えるほどに喜んだ。 「おふみ、茶碗を見に行こか」 「でも、お店どうするの」 「お馴染みはんは、もうみんな来てくれた。あとは閉めても大丈夫や」  永吉が手早く京やの雨戸を閉じた。鉛色の空からは、小止みなく雪が降ってくる。永吉は首に巻いた手拭いを、ねんねこから頭だけ出したおきみにかぶせた。  永吉とおふみが長屋の木戸を出たところに、舞い降る雪を割って嘉次郎が駆けてきた。  狭い路地で、永吉と嘉次郎が向かい合う形になった。嘉次郎の髷《まげ》に小雪がのっている。  永吉は無言であたまを下げ、道を譲った。嘉次郎も黙ったまま、黒塗りの盤台を軽く揺らして礼をする。通り抜けようとしたら、おふみが嘉次郎に声をかけた。 「江戸屋さんが、うちのお豆腐を使ってくれそうなの」  足を止めた嘉次郎は振り向きはせず、おめでとよと、ひとこと残して木戸を入った。  三日後の八ツ(午後二時)過ぎ、永吉は江戸屋の板場口に謙蔵をたずねた。 「女将とふたりで吟味させてもらいます。どうぞおもてに回っておくんなさい」  玄関先に回ると、奥女中のおりんが待っていた。永吉は身体を折り曲げるようにして、秀弥の居間に案内された。  秀弥と謙蔵のまえには、すでに江戸屋の箱膳が出されていた。膳には皿が二枚ずつ載っている。 「早速にご用意いただけたようですね。江戸屋の秀弥です」  初対面の永吉にあたまを下げたが、おふみに見せた柔和さは影をひそめており、目には相手を品定めするひかりが宿されている。三代続く老舗の女将ならではの目であった。  永吉は持参した茶碗豆腐二種を、秀弥と謙蔵の皿にそれぞれ盛った。  謙蔵は前回と同じように下地もつけず、無言のままで食べ終えた。 「どうでしょう、うちで出せますか」 「紫蘇は、もう少し塩出しをした方がいいでしょう。芥子茄子には文句はありません」  秀弥は謙蔵よりも、食べ終わるにはひまがかかった。 「わたしの歳でも、この大きさならいただけます。京やさん、いいお味ですよ」 「ありがとうございます」  永吉が深々とあたまを下げた。 「いつから造っていただけますか」 「明日からでも造れます」 「それでは、納めについての細かなことは、謙蔵と詰めてください」  秀弥の目がさらに強くなっていた。 「このお豆腐ですが、納めは江戸屋だけということにしてくれませんか」 「へっ……」 「うちに納めてくださる方には、わたしもきちんとさせてもらいます。京やさんとも、そういうお付合いを始めましょう」  大きな得意先が、またひとつ増えた。  永代寺に納める数が、いまでは豆腐七十丁、揚げ五十枚に増えている。濱田屋に豆腐五十丁。ほかに毎日店売りする豆腐が二十丁に、豆乳が三升。  これに江戸屋の茶碗豆腐が、紫蘇の実と芥子茄子それぞれ三十ずつが加わった。  永代寺、濱田屋への豆腐納めは一丁十文、油揚げは八文である。それに店売り一丁十二文が加わり、豆腐と揚げの商いは日に千八百四十文になった。  茶碗豆腐は一個三十文でまとまった。これが日に六十個。江戸屋だけで毎日千八百文の売上げだ。さらに豆乳一合十二文が日に三升、三百六十文である。  宝暦十二年の開業から八年を経た明和七年の京やは、日に四貫文を商う店に育っていた。月に直せば二十四両にもなる。  豆代、二軒の店賃に諸掛《しよがかり》を差し引いても、月に五両近い儲けを出せるまでになっていた。 「おまえが暑い日寒い日、いやがらんと歩き回ってくれたおかげや。この商いが続いたら、表通りの店も遠いことやないで」  おきみが生まれてから、栄太郎と悟郎はおみつに任せている。ふたりだけで京やで過ごすときが多くなっていた。  豆腐造りに追われて、夫婦のもめごとはかえって減った。ふたりの呼吸《いき》が、所帯を構えた当初のように合わさっていた。      二十五  江戸屋の茶碗豆腐は、富岡八幡宮の参詣客に大評判となった。 「あと十丁ずつ増やして欲しいのだが」  謙蔵から頼まれたが永吉は断った。 「ひとの口に入るもんですよって、雑な仕事はでけしまへん」  職人仕事にわきまえのある謙蔵は、無理強いをしなかった。 「江戸屋の茶碗豆腐はすぐに売り切れる。食べられたものは運がいい」  こんな評判が立ち、さらにひとが集まった。  茶碗豆腐のことは、三好町にも届いていた。 「だから言わないことじゃないんだ。嘉次郎の抜け作が……」  煙草盆を乱暴に叩く庄六が、独り言で嘉次郎に毒づいた。  京やが永代寺への納めが叶ったのは、何年もまえから知っていた。しかし平田屋が得意先とする寺とは町が異なるため、庄六はさほど案じてはいなかった。  ところが江戸屋は別だった。深川に及ぼす江戸屋の力は大きい。とくに三代目女将の秀弥は、町名主たちからも一目も二目も置かれていた。  六十となったいまでも、秀弥のいうことには重みがある。しかも庄六は、相州屋の一件で秀弥に煮え湯を呑まされていた。  キセル片手に暗い目をして、庄六は江戸屋と京やに考えを巡らせた。  厳しい寒さがゆるむと、日をおかずに富岡八幡宮の桜が満開になった。 「なんでえ、この豆腐は。蠅も食わせるてえのかよ」  ふたり連れの男が怒声をあげた。賑わう江戸屋の二階座敷から、客の声が消えた。 「おい、そこの姐さん。だれかわけの分かるのをここに呼びな」 「とんでもねえ豆腐を食わせやがって」  ふたりは、まわりの客も尖った目で睨みつけた。だれもがかかわりを恐れて目を逸らした。静まり返った座敷に、秀弥が謙蔵を従えて上がってきた。 「なにか粗相でもございましたか」  秀弥はふたり連れを、渡世人だと見抜いた様子だった。毅然とした声で問いかけると、つぶしの髷を結った男が声を荒らげた。 「名物だてえから、向島から足を運んで豆腐を食いにきたんでえ」 「それはわざわざ、ありがとうございます」 「なにがありがとうでえ。見ねえ、なかにへえってるのをよ。虫じゃあねえかとおもうんだが、おれっちの見まちげえかね」  紫蘇豆腐に、蠅が二匹混ざっていた。 「おふたりを離れにお通ししておきなさい。わたしもあとで行きます」 「なんでえ、離れてえのは。おれっちはここで聞いてもいいんだぜ」 「ほかのお客様は、余り聞きたくないでしょう。それに離れのほうが、ゆっくり話をうかがえます」  謙蔵が息巻くふたりにあたまを下げた。 「おめえはなんでえ」 「ここの板場をあずかるものです」 「だったらてめえかよ、蠅のへえった豆腐を食わせようとしたのは」 「とにかく離れで」  謙蔵がふたりに目を合わせた。睨み合いはすぐに終わり、ふたりが連れ立って立ち上がった。 「お騒がせして申しわけございません。江戸屋の女将でございます」  謙蔵が渡世人を連れて座敷を出たところで、秀弥があいさつを始めた。薄紅色の地に鼓《つづみ》模様を描いた秀弥の縮緬《ちりめん》が、差し込む春の陽に照らされた。 「手違いのございましたお詫びに、お召し上がりのものはお代を頂戴いたしません。どうぞそのまま、お寛《くつろ》ぎくださいますように」  どの客にも大方の察しはついているようだった。秀弥はやんやの喝采を背にして、座敷からさがった。  渡世人ふたりには酒肴を運ばせたが、秀弥は顔を出さず、居間に謙蔵を呼び入れた。 「うちの板場では、蠅がまぎれこむような仕事はしません」 「分かり切ったことです」 「念のため、京やにひとをやりますか」 「おまえは要るとおもいますか」 「いや、おもいません」  秀弥にはこの短い話で充分だった。謙蔵を板場に下がらせて四半刻(三十分)が過ぎたとき、江戸屋出入りの鳶《とび》のかしら、山本町の銕次《てつじ》が駆けつけてきた。 「そのふてえ野郎はどこにいますんで」  銕次は股引《ももひき》に半纏の鳶姿で、数人の若い衆を従えていた。歳はまだ四十まえだが、荒っぽい臥煙《がえん》(火消し人足)を束ねる器量が、引き締まった顔と身体に現れていた。 「様子が分かるまでは、手荒なことはいけませんよ」  釘をさしたあと、銕次を連れて離れに入った。座敷ではふたりの男が、盃を置く間も惜しんで酒を飲み続けていた。 「お待たせしました」  銕次を従えて座ると、渡世人の目から酔いの気配が消えた。 「板場も豆腐屋も念入りに調べさせましたが、蠅のまぎれこむようなところは見当たりません。お互いの思い違いということで、お収めいただけませんか」 「思い違いたあ、どういうことでえ。虫なんざへえってなかったように聞こえるぜ」  秀弥の言葉に、弁慶縞の木綿をはだけた男が食ってかかった。 「その通りだろうがよ」  銕次が吐き捨てた。弁慶縞と銀杏《いちよう》つぶしとがすぐさま身構えた。 「古い手を使いにわざわざ向島からとは、ご苦労なこった」 「なんだと、この野郎」 「まあ待ちねえな」 「なんだてめえは。だれを相手にでけえ口を叩いてやがんでえ」  弁慶縞が銕次に掴みかかろうとした。銕次は身じろぎもせず、睨みで相手の動きを止めた。秀弥は平然と座ったままである。 「てえした威勢だなあ。どうでえ兄さんたち、身体がむずむずして深川でいたずらしてえなら、うちの臥煙と遊んでみねえな」  臥煙と聞いて、ふたりの様子が変わった。真冬でも六尺ふんどしに役半纏一枚、向こう鉢巻と白足袋で火の中に飛び込んでゆく。荒っぽさと男意気を売るのが深川の臥煙である。 「江戸屋さんの言い分が、おめえさんたちは気にいらねえてえんだろ」 「………」 「どうしたよ。ふたりともやけにおとなしいじゃねえか。どこへ消えちまったんでえ、さっきまでの威勢はよう」  言われるたびに、ふたりは目ばかりを尖らせるが動きはそれだけだった。 「ここじゃあ、好きなように動けねえだろよ。おれっちとつるんで、大川の風に吹かれてみようじゃねえか」  秀弥は銕次のいうことを、知らぬ顔で聞いている。渡世人が顔を見合わせた。 「どうやらこっちの勘ちげえらしいや。そうだよな」 「ばかいうねえ、勘ちげえなもんかよ」  銀杏つぶしが銕次を睨み付けた。 「たかが臥煙がどうしたてえんだ。大川端で相手をしようじゃねえか」  片割れの凄む声に合わせたように襖が開いた。入ってきたのは力士くずれと渡世人あがりで、ともに六尺男だ。力士くずれが銀杏つぶしに笑いかけた。  その笑い顔を見てふたりが黙り込んだ。銕次が追討ちをかけそうな気配を見せると、秀弥が止めた。 「かしら、ここまでですよ」 「へい」  答えた銕次がふたりを目で抑えた。 「けえり道が分からねえといけねえや。永代橋まで送るぜ」  銕次はふたりを引っ立てるようにして江戸屋を出た。渡世人のまわりを、銕次の若い衆が取り囲んでいる。銀杏つぶしの髷に、桜が数片舞い落ちた。  翌朝の平田屋帳場に嘉次郎が顔を出すと、庄六の姿が見えなかった。 「親方はどうしたよ」  揚げ物職人にたずねたら、箸を放り出して嘉次郎をおもてに連れ出した。口を開くまえから、顔を崩して笑い転げた。 「なんでえ、なにがおかしいんでえ」  口を尖らせる嘉次郎に、ひとしきり笑った職人が話を始めた。 「昨日の夕方、店に渡世人風のふたりがきてさあ、いきなり親方を殴り飛ばしたんだよ。話の中身はよく分からねえが、ふたりはどうやら親方が銭で雇った者らしいんだ」 「へえ……それで」 「どこかの店に脅しをかけたらしいんだが、親方が聞かせた話と違って、ふたりが逆におどかされたらしい」 「そらまた、間抜けな話だぜ」 「てめえが雇った野良犬に、がぶり噛まれたてえわけさ。顔なんか、倍ぐらいに膨れてっからね。しばらくは出てこねえよ」  職人の話だけでは、分からないことが幾つもあった。しかし渡世人に脅しをかけさせるなどは、いかにも庄六のやり口だと納得した。 「親方を変える潮時かも知れねえな。おれっちの盤台はけえしたぜ」  嘉次郎は、平田屋を振り返りもしなかった。  明和八(一七七一)年になると、おきみもひとり歩きができていた。永吉とおふみは京やにかかりきりである。三人のこどもは、おみつが一手に面倒をみていた。 「ばあば、定ちゃんたちを連れて、石置場で遊んでくる」  九歳になった栄太郎は、長屋の子のなかでは年長である。背丈は悟郎の方が大きくなっていたが、こどもたちは栄太郎が大将だと思っていた。 「悟郎も一緒に連れてくんだよ」  男の子たちがいなくなると、長屋が静かになった。 「おきみ、ばあばと八幡様に行こうか」  三歳のおきみは、まだ栄太郎たちには遊んでもらえない。おみつはおきみの手を引いて、表通りに出た。  ひとり歩きができ始めたおきみは、手を離すと勝手に歩き出してしまう。通りに出たとき、おみつが手を離したわずかな隙に、おきみがとことこ歩き出した。 「おきみ、危ないからお待ち」  追いかけようとしたおみつの鼻緒が切れて、前につんのめって倒れ込んだ。  広い通りには何台もの車が行き交っている。蔵前から洲崎の遊廓に、米を運ぶ大八車が差しかかった。三十俵の米を積んだ車は、三人掛かりで梶棒を曳いていた。 「危ねえ、どきな婆さん」  車力が大声でおみつに怒鳴った。しかし打ちどころがわるかったおみつは、息が詰まって起き上がれない。 「どけどけっ、ひき殺されるぞ」  車力が叫び声を上げた。  通りには何人ものひとが歩いていた。しかし車力には荒っぽい連中が多く、だれもが車を避けて歩いている。車力が叫んでも、近寄るものがいなかった。 「おいっ、押すのをやめろ」  梶棒曳きのひとりが後ろに怒鳴った。残りのふたりが懸命に車を止めようとした。しかし三十俵の米で弾みのついた車は止まらない。  後押しの車力は怒鳴り声が聞こえないのか、力まかせに押し続けた。  車力のひとりがおみつを蹴飛ばしてどけようとしたがうまく行かず、車を止めることもできなかった。  米を積んだ大八車は、おみつを轢《ひ》いても、まだしばらくは止まらなかった。  おみつのまわりにひとが群がった。おきみにはなにが起きたかも分からず、通りをとことこと歩き続けていた。      二十六  明和八年四月二十三日が、おみつの命日になった。おふみが京やに嫁いで十年目の春だった。享年四十五、逝くには早過ぎた。  父親を亡くしたのも春。それも永吉と所帯を構えて五年目のことだった。  雨の日に永吉と祝言を挙げてから、五年、十年の節目ごとに父親と母親を亡くした。しかも両親とも病の果てではなく、いきなり凶事に襲われてである。  永代寺、濱田屋、江戸屋は、いずれも初七日明けまで納め無用を申し出てくれた。源治のときにはおみつが喪主だった。おふみはお七夜の悟郎を抱いて、ただただ哀しむことができた。  母親の弔いは、永吉とともにおふみも喪主である。栄太郎は九歳、悟郎は六歳。ふたりとも葬儀のわきまえはできる歳だった。喪主の務めに追われる両親に代り、栄太郎がおきみの手を引いた。長屋のひとたちが、あらたな涙を流した。 「おふみちゃん、辛いだろうけど負けちゃあだめだよ」 「あんないい旦那と、三人のこどもに恵まれてんだからね。果報者だよ」  おふみもひとまえでは気丈に振舞った。初七日の法要には、源治の菩提寺平野町の龍泉寺から、住職が出向いてくれた。 「おみつさんは源治さんのもとへ向かう途中だろうが、その道は暗くて分かりにくい。あんたが元気に朝夕のお勤めをすることで、おみつさんの行く手に明かりが差すはずだ。元気にしていることが、なによりの供養ですぞ」  慈悲に充ちた声で諭《さと》す住職に、おふみが涙目でうなずいた。両親の暮らした店《たな》は、そのまま借りた。位牌が並ぶことになった仏壇も移さず残した。  住職の教えに従い、おふみは朝夕の勤めを欠かさなかった。豆腐屋の切り盛りにも精を出した。  四十九日には、源治と同じ墓におみつのお骨も納めたし、三歳のおきみは暑い夏をすこやかに乗り切った。秋には京やも、いつもの暮らしを取り戻していた。  しかしおふみは大きく変わっていた。  永吉と所帯を構えて十一年目、明和九(一七七二)年には三十路を目の前に控えていた。  身体がひと回り大きくなったおふみは、夏の入口から白地の木綿を着た。太って見えるのを嫌って、真夏でも紺地しか着なかったおふみだが、まるで頓着しなくなっていた。  長屋では口が重たくなった。周りが思わず釣り込まれた底抜けの笑い声も、ほとんど出なくなった。  その代り、また栄太郎を猫かわいがりするようになった。九歳になった栄太郎に、おふみは若衆髷《わかしゆうまげ》を結わせた。 「あほか、おまえは。長屋の子にそんな髷を結わせる親がどこにおるんや」  永吉がどれほど止めても、おふみに聞く気はなかった。色白の栄太郎にはよく似合うのだ。広袖の紺絣に、こげ茶の三尺帯をきゅっと締めると、とても長屋のいたずら小僧には見えなかった。  豆腐の納めにはかならず栄太郎を連れ歩いた。右手の火傷痕を、おふみは自分の手で握って隠した。納めが終わっても、すぐには京やに帰らない。 「うちの跡取り息子です」  顔なじみの店に顔を出しては、栄太郎を顔見せした。長屋の暮らしでは口の重いおふみが、栄太郎のことでは幾らでも口が動いた。  ときには永代橋にまで足を延ばした。橋のたもとの佐原屋で、名物の永代団子を食べさせるためである。  口のまわりを醤油餡でべたべたに汚した栄太郎を、おふみは目を細めて見ていた。 「お団子食べたのは、内緒だよ」  栄太郎がこくんとうなずいた。母親が自分のことで永吉と口争いするのを、毎日のように聞いていたからだろう。  悟郎の着るものは、すべて栄太郎のおさがりである。身体の大きな悟郎は、縫い上げをおろしても丈が足りない。ほころびはつぎ当てしてあるが、木綿が擦り切れそうだった。  四歳のおきみは、まだ丸坊主である。昨年の七五三は、おきみの風邪で祝えないままだった。 「七五三は来年でもええから、髪だけはきちんと結うたれや」 「だめよ、それは。お祝いごとは雑にしないようにと、おとっつあんに教わったから」  口では永吉に勝ち目はなかった。おきみは丸坊主で四歳の正月を迎えた。 「十一月になったら、八幡様で七五三の髪置《かみお》きをお祝いするからね」  母親のいうことは、なんでも分かる歳になっていた。  そのおきみが、芥子《けし》や銀杏髷《いちようまげ》に結っている女の子を見ると、おふみの目が届かないところでは指をしゃぶって羨《うらや》ましがった。  絣を着た栄太郎がおふみと外出《そとで》するときは、悟郎もおきみも半べそ顔をした。 「たまには悟郎とおきみも、一緒に連れてったらどないや」  永吉が幾らいっても、おふみは頑として聞き入れない。永吉もこの頃では、連れていけともいわなくなっていた。  いまの京やなら、表通りでも所帯を張ることはできた。ひとから大きな空《あ》き店《だな》を薦められたこともある。  しかし永吉には、新兵衛店を出る気はまるでなかった。わけは唯一つ、ここ以上の井戸がなかったからだ。  おふみと栄太郎が出かけると、悟郎がおきみの遊び相手になった。堀沿いで遊んだり黒船稲荷の境内を駆け回ったりしたが、おみつが轢かれた表通りには出なかった。  どこで遊んでいてもおふみが戻ってくるころには、悟郎もおきみも長屋の木戸口で待っていた。 「あっ、おっかさんが帰ってきた」  遠くから下駄の音が聞こえると、悟郎はおきみの手を引いて駆け出した。 「おっかさん、おかえり」  ふたりがまとわりついても、おふみは栄太郎の手を引いてさっさと路地を歩いてゆく。邪険にされても、ふたりの子は母親のうしろを嬉しそうについて行った。  その姿に永吉は胸を痛めた。 「おまえ、いったいどないなってんのや」 「なにが?」 「なにがて、悟郎とおきみのことに決まってるやないか。どないなわけがあって、おまえは栄太郎だけを可愛がるんや」 「いったところで、あんたには分かりっこないもの」 「いわな分からんやないか」  ふたりが言い争いを始めると、悟郎とおきみは布団のなかに潜り込む。栄太郎ひとりが、じっと様子を見ていた。それがさらに永吉の怒りを大きくした。 「栄太郎は京やの跡取りよ。大事にするのは当たり前でしょう」 「そんなこと、だれが決めたんや」 「ばかいわないでちょうだい。長男が店を継ぐのは決まりきったことじゃないの。どこのお店《たな》だって、跡取り息子とほかの子とは扱いが違うのよ」  東山の在所で、三男の永吉はふたおやから散々に冷たくされて育った。つらかった日々が、長男を可愛がるおふみを見るにつけて思い返された。  永吉が大声を出すと、びくっとするのは悟郎とおきみだ。それが分かっている永吉は、次第におふみと話をしなくなっていた。      二十七  その物乞いが新兵衛店に入ってきたとき、京やにはおふみと栄太郎しかいなかった。 「今日はわてが納めに出るわ」 「なんでよ。栄太郎とあたしが行くわよ」  帰り道に仲町の太物《ふともの》屋をのぞく心積りをしていたおふみが、食ってかかった。 「それや……なんぼ頼んだかて、おまえは栄太郎しか連れていかん。悟郎とおきみは、いっつも家のそばで遊んでるだけやないか。たまにはわてが町を見せたるわ」  こんなやり取りを残して、永吉たちが出て行った。店先に立つおふみには、まだいらいらが残っていた。木戸口の路地では、栄太郎がひとり遊びをしていた。 「木戸からおこもが入ってきたよ」  栄太郎が店に駆け込んできた。むしろを背負った物乞いは、京やから動かなくなった。  いつものおふみなら、気持ちよくおからや豆腐を恵んでいた。永吉もおふみも施しは惜しまなかった。  ところが朝方の苛立ちを引きずったおふみは、店先の物乞いを追い払おうとした。 「おからをなんとかおめぐみを」  哀れなねだり声が火に油を注いだ。 「とっとと出てってちょうだい。出てかないと、番太郎を呼びつけるわよ」  よく通る声で、おふみが乞食を怒鳴りつけた。それでも男は動かない。 「栄太郎、木戸番を探して連れておいで」  こどもが京やを飛び出した。物乞いはおふみを睨みつけて裏木戸に去った。去りぎわに見せた目のひかりを思い出して、おふみはぶるるっと身体を震わせた。  栄太郎は木戸番ではなく、永吉と連れ立って戻ってきた。 「どないしたんや」  真っ青なおふみの顔色を見て、永吉が駆け寄ってきた。 「あたし……ばかなことしちゃった」  永吉を見て我に返ったおふみは、流しのどんぶりにおからを山盛りにして裏木戸に駆けた。永吉にはわけが分からない。 「栄太郎、なにがあったんや」 「………」 「黙っとらんで、なんとか言わんかい」  栄太郎は言葉が出ずに泣きそうだ。悟郎とおきみが栄太郎のそばに寄ろうとしたら、腕をあげてふたりを払いのけた。 「なにをするんや、おまえちゅうやつは」  栄太郎がこらえ切れずに泣き出したとき、しょげた顔のおふみが戻ってきた。 「どうしたのよ、栄太郎」  おふみに優しくいわれて、栄太郎がさらに大声で泣き始めた。 「あんた、なにしたのよ」  今度はおふみがきつい目で、永吉と悟郎、おきみを睨みつけた。気まずさだけが残り、物乞いのことは話さず仕舞いになった。  家のなかはぎくしゃくしていたが、商いは堅く運んだ。濱田屋と江戸屋からは、納めの数を増やして欲しいと何度も頼まれた。 「いまの数で手一杯でおますんで。えらいすんまへん」  永吉が自らあたまを下げに行き、なんとか相手に納得してもらった。  安永と元号が変わってから三年目の暮れに、永吉は永代寺の賄い主事に呼び出された。 「年明けから京の修行僧が増えます。元旦からは、豆腐を百丁にしていただきたい」  永代寺の注文は断れなかった。三十丁の追加は、豆挽きの回数を増やすことになる。  年が明けて安永四(一七七五)年、栄太郎は十三歳になった。元旦から永代寺の三十丁が加わる。永吉は正月膳を祝うまえから、栄太郎に京やの仕事を仕込み始めた。  豆を量り、洗って水に漬けるのが始まりである。正月の水は、指が千切れそうだった。夜明けまえの闇のなかで、井戸から汲み上げた水を瓶《かめ》まで運ぶ。五尺(約百五十センチ)に満たない栄太郎にはきつい仕事だ。 「こんな小さい子に、水汲みさせることはないでしょうが」 「仕事のことには口出しすんな」  食ってかかるおふみを永吉が叱りつけた。これにはおふみも素直に従った。 「ええか、栄太郎。おとうちゃんも始まりは水汲みやったが、京の寒さはこんなもんやないで……そうはいうても、おまえは京のことは知らへんわな」  こどもたちに京の話をしたことがなかった。栄太郎が水桶を担いだままうなずいた。 「夜明けまで、まだ間があるやろ。ええ折りやからおまえらに聞かせるわ」  眠っていた悟郎とおきみを起こし、勢いよく燃えるかまどのそばに三人を集めた。 「京のみやこは、夏は暑いし冬は寒いしで、暮らすには難儀なとこや。そやけどきれいなお寺がぎょうさんあるんや」 「牛若丸がいるんでしょう」  かまどの火に手をかざした栄太郎が問いかけた。 「おまえ、えらいこと知ってるやないか」 「床屋で髷を結ってもらったときに、おっかさんが絵草子を読んでくれたから」  悟郎もおきみも床屋など行ったことがない。永吉がしらけた顔になった。が、こどもたちは続きが聞きたくて目をまん丸にした。 「牛若丸は五条大橋いう、おっきな橋におったんや」 「黒船橋よりも大きいの?」  おきみは、自分が知っている裏の堀にかかる橋の名をあげた。 「黒船橋なんか、話にならんほどおっきいで。口でなんぼいうても、見てみんことには分からんやろけどなあ」  不意に永吉が口ごもった。こどもたちに話しているうちに、京が懐かしくなったのだろう。江戸に来てすでに十三年が過ぎていた。 「ええこと思いついたわ」  永吉がおふみもそばに呼び寄せた。 「あと七年したら、おとうちゃんとおかあちゃんが一緒になって二十年や。その年までにぎょうさん銭を蓄えて、みんなで京に上ってみよか」  こどもよりもおふみが喜んだ。ぼんやり空が明るくなっている。 「表通りまで出て、みんなで初日の出を拝みましょう」  おふみが手早くこどもたちを着替えさせた。通りはすでに八幡宮の初詣客で賑やかだった。暗いなかに物売りの屋台まで出ていた。 「おふみ、みんなで汁粉を食うか?」  悟郎とおきみが飛びあがって喜んだ。 「今日からおにいちゃんは豆腐造りを始めるんや。この汁粉はそのお祝いや。悟郎とおきみは、おめでとうをいうたげや」  栄太郎が手伝い始めた安永四年は、家族そろっての汁粉で明けた。  永吉が長男に豆腐造りを仕込み始めたことに、おふみは大満足だった。 「おまえは仕事をしてるんだから、もっとたくさん食べていいからね」  栄太郎の箱膳には、悟郎やおきみにはないおかずが載った。魚の煮付けや和え物、ときには煮豆屋から買ってきたうずら豆や佃煮。悟郎とおきみは、栄太郎がうまそうに食べるのを羨ましそうに見た。 「悟郎、おきみ……おとうちゃんのいうことを、よう聞きや」  たまりかねた様子で永吉が口を開いた。 「栄太郎は京やの仕事を手つどうてる。そやから、おまえらとは違うもんも食えるんや。おかあちゃんが、栄太郎だけひいきしてるんやないで」  こどもふたりが、こっくりとうなずいた。      二十八  一月十六日は藪入りである。新兵衛店に住む通い大工の大造、おたか夫婦には定吉《さだきち》という名の、栄太郎と同い年の息子がいる。定吉は日本橋の呉服屋に昨年から丁稚奉公しているが、この日は宿下《やどさ》がりで戻っていた。  朝早く六ツ(午前六時)過ぎに帰ってきた定吉を見るなり、栄太郎は落ち着かない。 「おまえも今日は休んでええぞ」  永吉は小銭を与えて、栄太郎を遊びに出した。悟郎とおきみが一緒に行きたそうな顔をしたが、栄太郎は知らん顔で出ていった。  藪入りの門前仲町は大変な賑わいである。今日だけは少しでも数を増やして欲しい、と江戸屋から頼まれていた。永吉は午後遅くになって紫蘇豆腐二十丁を納めた。  朽葉《くちば》色をした冬の薄い陽が、早くも西に傾き始めている。納め帰りの永吉が、船橋屋の縁台で団子を頬張る栄太郎と定吉を目にとめた。甘味屋で、こどもだけでものを食べる光景は藪入りならではだ。  永吉がうしろから近寄ると、ふたりの話が届いてきた。 「定ちゃん、もっと食べな。あしたっからまた大変だろ」 「だって……いいのかよ、ほんとうに」 「平気、平気。おっかさんからいっぱいおあしをもらってきたんだから」  栄太郎の口調が、昔のおふみそっくりだった。永吉の足が止まった。 「いいなあ、栄太郎は。おっかさんの気前がよくて」 「おいらは大事な跡取りなんだってさ。だからおっかさん、おいらのいうことなら何でもきいてくれるんだ」  陽の色に赤味が強くなってきた。こどもふたりの影が永吉にまで伸びている。影のなかの栄太郎が、自慢そうにあごをあげていた。  冬の陽は足早に沈んだ。 「永吉さん、いるかい」  土間の豆を積み直しているとき、大造がたずねてきた。 「うちの小僧が昼間はごちになったそうで。いまからこどもと湯に行くんだが、よかったら一緒にどうかとおもってね」 「それはどうも。これが済んだら追いかけますよって、先に行っとくなはれ」  手早く片付けた永吉は、栄太郎と悟郎を連れて黒船橋ぎわの湯屋に急いだ。小正月も過ぎたのに、湯屋にはまだ賑わいが残っている。  ひとつだけあった空き籠に、こどもと一緒に着ているものを投げ込んだ。番台わきの戸口から、真冬の寒さが忍び込んでくる。こどもたちはさっさと風呂場に逃げ込んだ。  洗い場の真ん中には溝が一本通っており、突き当たりが湯舟の石榴口《ざくろぐち》だ。こどもを追って永吉が洗い場に入ると、栄太郎が溝のふちで立ち小便をしていた。 「豆腐屋の跡取り坊主、ずいぶん勢いよく出すじゃねえか」  栄太郎の背に声が飛んだ。 「こっちにかけるんじゃねえぞ」  別の男が、やはり親しげな声をかけた。栄太郎も笑い返しているが、永吉はその男たちを知らない。あいさつもできないまま、悟郎の手を引いて石榴口をくぐった。  暗い湯舟は、熱くて混んでいる。悟郎と一緒にふちからそうっと入った。 「遅かったじゃねえか」  大造と定吉が湯舟の隅に並んでいた。定吉がぺこっと頭を下げて近寄ってきた。湯が動き、熱さが身体に食いついてくる。悟郎が我慢し切れず、湯舟から逃げた。 「京やのおじちゃん、栄太郎は」  問われて永吉が、はっとした。悟郎の手は引いて入ったが、栄太郎は洗い場に残したままだ。 「流し場におるんとちゃうかなあ」  答えつつも永吉は考え込んでしまった。  自分でも気づかんうちに、栄太郎を遠ざけとる。親子で風呂にきても、一緒に湯にもつかっとらへん……。 「お先です」  大造に断って湯舟を出た。たまにはこどもふたりの身体を流してやろ……そう考えて石榴口を出た。洗い場では、悟郎が栄太郎の背中を流していた。 「おい坊主、しっかり跡取りにいちゃんの背中を流すんだぞ」  さきほどの男がふたりを囃《はや》した。栄太郎は当たり前の顔で、悟郎に手拭いを使わせている。永吉のあたまに血が昇った。 「悟郎、やめんかい」  永吉の大声に、栄太郎も悟郎も飛び上がった。大柄な永吉が仁王立ちした姿に、洗い場が静まり返った。湯汲みから小桶ふたつの陸湯《おかゆ》をもらうと、こどものあたまから乱暴に浴びせた。 「帰るで」  親子三人、ろくに暖まりもせずに凍てついた夜道を帰った。 「おふみ、明日からは悟郎にも京やを手伝わせるで」  風呂から帰るなり、永吉が言い切った。余りの剣幕におふみは文句もいえず、素直にはいと返事した。  真冬を過ぎると、堀端には野の花が咲き、やがて茹《う》だるような夏が来た。  永吉は栄太郎と悟郎に、分け隔てなく接することを心がけた。しかし栄太郎の要領のよさが気に障った。悟郎には十歳にしてすでに、自分と同じ不器用さが見えている。  真冬の水汲みを悟郎がやっているとき、栄太郎は豆を升で量っていた。夏のいまは悟郎がかまど番で、栄太郎が井戸に立つ。永吉は何度も胸のなかで舌打ちした。  しかし悟郎が兄を慕い、兄の指図で働く姿を見て、余計な口出しは控えてきた。 「おふみ、ちょっとおもてに出よ。悟郎、店番を頼んだで」  秋が冬に移ろうとする十一月下旬の午後、永吉はおふみを裏の堀端に連れ出した。風にはすでに冬の気配が感じられた。陽だまりを見つけると、おふみと並んで腰をおろした。  永吉が小石を堀に投げ入れた。水面でぽちゃんと音が立ち、輪が描かれた。 「年が明けたら、栄太郎を奉公に出そおもうんやが」  いつもの口調で、永吉がぼそりと切り出した。おふみの顔色が変わった。 「ばかなこと言わないでちょうだい。なんで跡取り息子を奉公に出すのよ。出すなら悟郎を出しなさいよ」 「このまま家におったら、栄太郎はしょうもない性根《しようね》のまま育ってしまう。おまえも跡取りにしたいんやったら、ここはわての言う通りにせえや」 「絶対にいやよ」  おふみは手元に生えているおおばこを、根本からむしり取って堀に放り投げた。 「栄太郎が店の小銭に手をつけとるのを、おまえは知ってるんか」  おふみの口が半開きになった。 「いまが一番大事な年頃や。思い切って他人《ひと》様の飯を食わせてみよやないか」 「商いのおカネに手をつけるぐらい、どこの子でもやることだわよ。それがいやなら、ザルに入れなきゃいいじゃないの」 「おまえ本気でそんなことをいうてるんか」 「もちろん本気よ。小銭に手をつけたからって、栄太郎を奉公に出すのはまっぴらよ」 「どこまで甘やかしたら気がすむんや。おまえ、藪入りの朝にも銭をやったやろ」 「なによ、いまさらそんな古いことを」  おふみがまた、おおばこを引き抜いた。 「とにかく奉公のことはもう決めてきた」 「決めてきたって、どういうことよ」 「広弐屋はんに相談したら、木場の杢柾《もくまさ》いう材木問屋はんが、あずかってくれはるそうや」 「ちょっと待ってよ。そこまで勝手に話をしてるってこと?」  目を吊り上げておふみが立ち上がった。 「なんやおまえ……ええからまあ座れや」  木綿の袖を引っ張り、いやがるおふみを座らせた。 「奉公に出すいうても遠くやない。木場やったらすぐそばやないか」 「ばかいわないでよ。奉公に出すも出さないも決めないうちから、奉公先まであんたひとりで勝手に決めて、いまさら遠いも近いもないでしょうが」 「………」 「いつだって、あんたはひとりで勝手に決めるんだから」 「わてがなにを勝手に決めたというんや」 「お正月のときだってそうじゃないの」 「正月がどないした」 「あたしたちが二十年になったら、京見物に行こうって勝手に言ったじゃないの」 「あれはおまえが一番喜んだやないか」 「そんなことを言ってるんじゃないわよ。勝手に決めたって言ってるのよ」  ひとたびおふみが荒れ始めると、永吉の手には負えない。しばらくは言うに任せていたが、言葉の区切りで立ち上がった。 「とにかく栄太郎の奉公は、おまえがどう言おうが決めたことや。来年の正月過ぎから杢柾はんにお願いするよってな」  永吉が京やに戻ろうとして歩き始めた。うしろで、どぼん、どぼんと続けて大きな音がした。振り返ると、おふみが大石を投げ込んでいた。  尾をひいた水音のあとに、波紋が幾重にも重なって堀の水面に広がった。おふみは永吉がその場からいなくなるまで、じっと川面を見つめていた。 「あたしの気持ちなんか知らないくせに」  呟きがおふみから漏れた。  冬が近づいている。  天秤の両端に炭団《たどん》の入った籠をさげた、棒手振が橋を渡っていた。 「たどおおん、たどん」  枯れた売り声がおふみの足元にも届いた。      二十九  朝五ツ(午前八時)なら、門前仲町の町並みは充分に目覚めている。ところが三十三間堂さきの大和町から堀川沿いの町は、寝起きがわるかった。  おふみは白い息を吐きながら、とろんと眠った茶屋の前を駆け抜けた。冬木町に入ると、小間物屋や荒物屋などが軒を連ね始めた。  毎朝このあたりでおふみの息が切れたが、足は止まらない。前方に、真ん中が大きく盛り上がった亀久橋が見えてきた。  橋のたもとに着くと、一歩ずつ踏みしめて亀久橋を上った。おふみの下駄が止まれば、そこが一番高く盛り上がっている場所だ。下を流れるのは仙台堀川、流れを辿《たど》れば栄太郎が奉公する木場につながっていた。  立春を過ぎても、川風は身を斬る寒さを隠し持っている。綿入れの襟元を合わせながら、おふみは木場に目を凝らした。見えるはずのない栄太郎の姿を求めて、今朝もおふみは亀久橋に立っていた。  安永五(一七七六)年正月の松が取れるとすぐに、十四歳の栄太郎は杢柾へ奉公に出された。  新兵衛店から木場までは、おふみの足でゆっくり歩いても四半刻とかからない。豆腐の仕込みもそこそこに、五ツまえに家を出て昼まで戻らないおふみに、永吉は諦めて文句もいわなかった。 「お豆さん、はかったよ」  おきみが升を片手に、大声で永吉に伝えている。栄太郎が奉公に出された日から、おふみの働きが雑になった。その穴を八歳のおきみが埋めた。やっと蝶々髷が結えたばかりの子が升を持ったり、かまどに薪を投げ込んだりする。持てもしないのに、桶を運ぼうとするおきみを、悟郎が見守った。 「おとうちゃん、お豆腐つくるの楽しいね」  おきみは永吉、悟郎の三人で働くのがいかにも楽しそうだった。 「おきみ、髪を結い直してあげるよ」  おふみが気まぐれに、娘の髷を直したりする。いわれるままに髪をまかせても、おきみの顔には喜びがない。悟郎は母親を慕っていたが、おきみは反発を隠さなかった。  母親の木場通いはその年の暮れまで続いた。 「今度の十日に、永代寺はんでえらい大きな法要があるそうや。豆腐三百に、揚げとがんもどきが百ずついる。おふみ、たいがいにして店を手つどうてくれや」  この年のなかで、初めて永吉がおふみに手伝いを頼んだ。もともと仕事が好きなおふみである。嫌そうなふりをしながらも、永吉の頼みを聞き入れた。  安永六(一七七七)年正月の三が日が過ぎ、七草を迎えたらおふみの機嫌が度はずれて良くなった。 「おきみ、七草を買いに行くよ。雪が降ってるけど一緒に行こうね」  買い物におきみを連れて行くことなど、絶えてなかったことだ。 「うん、行きたい」  反発してはいても、母親に声をかけられたおきみは嬉しそうについて出た。  一刻(二時間)ほど過ぎてから、おきみが反物と綿を雪に濡れないように抱えてきた。新しく結った銀杏髷に、雪が積もって白くなっている。 「おかあちゃんが、おきみに縫ってくれるっていった」  この正月で九歳になったおきみには、一枚の晴れ着もなかった。 「よかったなあ、おきみ」  栄太郎のお下がりしか着ていない悟郎が大喜びした。おふみもこどもも機嫌がよかった。永吉ひとりが思案顔だった。 「おとうちゃんはちょっとだけ、おかあちゃんに話があるんや。おまえらふたりで、店の番をしとってくれ」  こどもたちを店に残した永吉は、源治が仕事場に使っていた板の間におふみを呼んだ。 「今年の藪入りは、栄太郎は戻れへん。つらいやろけど我慢せえや」  おふみの形相が一変した。 「まあまてえや。すぐそれやから、話がでけへんやないか」 「なんでよ。あたしがこうだから、栄太郎が宿下がりをもらえないっていうの。ばかいわないでよ」  おふみの声が、戸口を突き破って長屋中を駆けめぐっている。永吉がおふみの肩に手を置いた。おふみは乱暴に払いのけた。 「杢柾の番頭はんは、いま戻したら栄太郎に里心がついて、せっかくの奉公がわやになるいわはるんや」 「だったら奉公なんか、やめればいいじゃないの」  おふみがさらに大きな声を出した。 「あほなこと言うな」  永吉もつられて怒声を張り上げた。おふみが永吉を睨みつけている。ふうっとひとつ、永吉が大きな溜め息をついた。 「今度の藪入りは、番頭はんがつきっきりで一日遊んでくれるそうや。夜は番頭はんの家に泊めるとまで言うてくれてる」 「またあんたが勝手に、そんな話を決めたってわけね」  おふみが襟元をぎゅっと合わせ直した。 「ばかにしないでちょうだい、そんなことは絶対にさせないから。あたしいまから木場に行ってくる」  板の間を出ようとしたおふみの手を永吉がぐいっと掴んだ。暴れるおふみをなんとか座らせた。 「来年はかならず戻れるように、わても頼んでみる。そやから今年は我慢せえ」 「いやよ、なにが我慢しろよ。あたしの栄太郎を返してよ」  おふみが凄まじい声で泣き出した。 「あんた、そんなに栄太郎が嫌いなの?」  乱暴に立ち上がったおふみが土間に飛び降りた。買ってきた七草を永吉めがけて投げつけた。 「あんたは栄太郎が嫌いでしょう、嘘ついたってそれぐらい分かってるわよ。栄太郎はあたしに似てるから気に入らないのよ」  七草がなくなると、入れ物の小籠まで投げた。永吉は黙って受け止めた。 「あたしなんて……悟郎とおきみを産んだばっかりに、おとっつあんもおっかさんも死なせたのに……あたしにはもう、栄太郎しかいないんだから」  あとは言葉にならず、ただ大声で泣きじゃくった。永吉はおふみの言い放ったことに茫然としていた。戸口では悟郎とおきみが手を握りあい、降りしきる雪のなかで目に涙を浮かべていた。  おふみはふたりの子を見ると、怒りに燃えた目で睨みつけた。悟郎とおきみはしっかりと手をつないだまま、怯えた目を母親に向けた。その表情を見て、燃え立っていたおふみの両目から涙が溢れ出た。  こどもから自分の目を隠すようにして京やに飛び込んだおふみは、番傘を手にして家を出た。戻ってきたのは、とっぷりと暮れた六ツ(午後六時)過ぎのことだった。  京やはすでに雨戸が閉じられている。雪の積もった足元に気を遣いながら、おふみは長屋の腰高障子戸をあけた。  かまどのまえでは、おきみが火をいじっていた。飯が炊けたのか、釜から強い湯気があがっている。 「あっ、おっかさん、おかえんなさい」  板の間で七輪をあおいでいた悟郎が土間に飛び降りた。おきみもかまどの前から母親に駆け寄った。 「おかあちゃん、髪がきれいになって、いい匂いがする」  おきみの声で、永吉が板の間の奥から土間に出てきた。  きれいに結われたおふみの丸髷に、銀の平打ちかんざしが後挿しに刺さっている。薄暗い土間で、銀のかんざしが鈍く輝いた。  この日からあとも、永吉とおふみは何度もぶつかった。毎年夏冬の藪入りが近づくと、おふみはわずかなことでも当たり散らした。 「いつまでおまんま食べてるのよ」 「おきみ、また着物の裾を汚したね」  声を荒らげられるたびに、おきみと悟郎は手を取り合っておもてに出た。  外出《そとで》から戻ったおふみは、櫛やかんざし、手鏡などの小間物を買ってきた。商いの勘定はおふみが取り仕切っている。永吉はそれで気が済むならと好きにさせた。  栄太郎が奉公に出て四年目、安永九(一七八〇)年が暮れようとしていた。 「来年で栄太郎も十九や。そろそろ戻してもろうてもええやろ」  永吉がぼそりと呟いた。おふみの顔がいきなり明るくなった。 「江戸屋の女将から、相州屋はんの跡に引っ越してこうへんかいわれたんや」 「えっ……どうして江戸屋さんが」  おふみの目がおどろきで見開かれた。江戸屋の女将はすでに七十目前だが、まだ三代目を続けていた。 「あそこはいま、江戸屋はんが納戸代りに使うてるそうや。うちの新兵衛はんにたんねたら、相州屋はんとこやったら、こことおんなじで、ええ井戸があるそうや」  にじり寄ったおふみが大きくうなずいている。永吉が顔をゆるめた。 「店賃は京やの三倍ほどやけど、栄太郎も戻ることや。うちの名主はんには江戸屋はんが話を通してくれる言わはるし、気張って宿替えしてみよか」  おふみに異存のあるはずがなかった。 「店賃なら平気、平気。明日にでも江戸屋さんにお願いしましょう」 「おまえの平気平気を聞くんは、えらい久しぶりのことやなあ」  この夜は、枕屏風を隔てて寝息を立てるふたりのこどもを忘れ、永吉とおふみは久しぶりに床を重ねた。  相州屋は、もともとが豆腐屋である。かまども水廻りも商いには都合よくできていた。永吉は暮れのうちに幾つかの造作を加え、職人を入れて井戸をきれいに浚《さら》った。安永十(一七八一)年早々から、京やは仲見世に商いを移した。  安永十年正月七日に栄太郎が戻ってきた。五年の杢柾への奉公で、栄太郎には商人《あきんど》としての物腰が備わっていた。 「豆腐はわてとおかあちゃんと悟郎が造る。おまえはしっかりと商いに精出しいや」 「はい、精一杯つとめます。悟郎、うまい豆腐を造ってくれよ」  五年ぶりに家族五人がそろった夜は、すぐ前の永代寺が四ツ(午後十時)を撞いても笑い声が絶えなかった。      三十  安永十年一月九日は、栄太郎が杢柾から戻ってまだ二日目のことである。夕方六ツ(午後六時)、おもな得意先を回り終えて、家族五人が居間でくつろいでいた。  突然、仲町やぐらの半鐘が連打《すりばん》を打ち鳴らした。お茶をいれていたおふみが腰を浮かせたほどに、激しい半鐘だった。 「おれが通りを見てくる」  材木商に奉公したことで、火事がことのほか気になる栄太郎が飛び出した。戻ってきたときには血相が変わっていた。 「日本橋の方角が大きく燃えている。とうさん、広弐屋さんは大丈夫かなあ」  十九になった栄太郎は、父親の呼び方が変わっていた。 「火が大きいんか」 「空が真っ赤だし、ひとが大勢永代橋の方に駆けている」  永吉の動きは素早かった。 「手伝いに行くで。ふたりとも支度せえ」  蛤町から仲見世に越したときに、永吉は刺子半纏を三着誂えた。背中には京やの染め抜きがある。木綿にたすきがけをした三人は、刺子を羽織り日本橋に駆けた。  永代橋までくると、陽の落ちた日本橋方角の冬空が深紅に染まっていた。空の高いところには星が見えた。暗い空の下方だけが赤い。魂を吸い込まれそうな妖しい色味だった。  手伝いに駆けつけていることも忘れて、三人とも不気味な空に魅入《みい》られていた。ひとに怒鳴られて、栄太郎が我に返った。 「悟郎、箱崎から回ろう」  橋を渡った三人は、箱崎町裏河岸を右に折れた。目の前に一万坪を超える播磨藩中屋敷が広がっている。 「大名屋敷の道なら野次馬がいないから走りやすい」  栄太郎の読みが当たった。何町も続く屋敷塀伝いの道を邪魔されずに走り抜けた。  江戸に出てきて二十年、四十四歳の永吉には髪に白いものが見え始めている。駆け足も、息子ふたりについて行くのがつらそうだ。振り返った悟郎が足をゆるめた。  屋敷が終わったら江戸橋が見えた。ひとが慌しく動いている。広弐屋まであと五町(約五百四十五メートル)、うしろにいた永吉が駆け足を速めた。  広弐屋のまえはごった返していたが、火の手は相当に離れていた。 「番頭はん、手伝わせてもらいにきました」  荒い息の永吉が一気に言った。 「京やさんじゃないか……息子さんまで」 「なんでも言いつけてください」 「それは大助かりだ……おうい、かしら」  火消し装束の鳶が飛んできた。 「うちのお得意さんが、一家をあげて手伝いにきてくれたんだ。なにをすればいいか、かしらが指図してやっとくれ」 「がってんで。火の手は新材木町の見当でやすが、用心にこしたことはありやせん」 「なんとか手前で食いとめられそうかい」 「火元とこことの間には、ふたつ大きな堀がありやすんでね。気休めいうわけじゃねえが、なんとかなるでしょう」  かしらは栄太郎と悟郎を火消しの若い衆に任せた。手伝いは土蔵の目塗りである。ふたりは庭の土運びを指図された。  広弐屋の塀にも屋根にも、何人もの鳶がいた。かじかんだ手に息を吹きかけながら、小僧と手代が天水桶を手渡ししている。受け取った火消しは、身軽な動きで雨戸や壁板にぶっかけた。  凍てついた空には月も星もある。土を運ぶ栄太郎が、鳶の動きに何度も目を走らせた。 「深川の火消しのほうが素早いぜ」 「にいさん、きこえるよ」  悟郎が耳打ちして、あとの口を塞いだ。  かしらの見立てた通り、火事は堀を越えずに五ツ(午後八時)には鎮まった。しかし新材木町は町ぐるみ焼け落ちた。近くの市村座、中村座のふたつともが丸焼けになった。  翌日の昼過ぎに、広弐屋の手代が角樽を提げて礼にきた。 「あるじが、京やさんには呉々もよろしくお伝えくださいとのことです」 「そんな大層なことをしてもろたら、こっちが気詰まりですわ」 「番頭さんも、京やさんの息子さんはふたりとも大したものだと申しておりました」  何度もあたまを下げる手代を前にして、おふみは心底から嬉しそうだった。  一月中旬の藪入り明けから、栄太郎は得意先回りに専念した。 「京やさん、いい跡取りをお持ちでご安心ですね」  通りで江戸屋の仲居からあいさつを受けたおふみが、目を輝かせて辞儀をした。外から聞こえてくる栄太郎の評判は、どれも上々である。おふみに生来の明るさが戻り、店売りも増えてきた。 「奉公に出して、ほんとうによかった」  あれほど反対したことなど、おふみはけろりと忘れていた。 「これから勘定のことは、栄太郎にまかせますよ」 「そやなあ、算盤もでけるようやし、おまえも楽になるやろ」  永吉はおふみのいうままに承知した。毎月の儲けは永吉が月末に手元に集めたが、おふみも逆らわなかった。  栄太郎は毎日、得意先への納めと新しい客を求めて汗を流している。いままで付合いのなかった仲間内の寄合も、栄太郎が顔を出し始めた。  この年四月二日、公儀は安永から天明へと元号を変えた。改元にともない、永代寺では大きな法要が幾つも営まれた。永代寺本院の富岡八幡宮でも、天明の安泰祈願が執り行われた。  京やは息をつく暇もないほど豆腐造りに追われた。 「なあ、おふみ」 「どうしたの?」  このところのおふみは毎日が上機嫌だ。 「まえにいうた二十年目の京見物やが、見ての通りの忙しさや」 「そうねえ……いまはとっても休んでなんかいられないわね」 「わてもまだ五年やそこらは頑張れる。その間に、しっかり悟郎に豆腐造りを仕込むわ。上方はそのあとで、なんの気兼ねもなしにふたりでゆっくり楽しもや」 「分かった。栄太郎があるじで悟郎が豆腐職人をやれば、たとえあたしたちが一年江戸を離れても平気よね」  栄太郎を跡取りとすることをはっきり口にしたうえで、おふみも応じた。  十三歳になったおきみが、賄いから洗濯までひとりで汗を流した。豆腐造りは永吉、悟郎、おふみの三人。得意先回りが栄太郎で、家事はおきみ。五人の力が合わさったことで、京やの輪が大きく回り始めた。      三十一  天明三(一七八三)年の七月は、陽が落ちると永吉が薄手の半纏を羽織るような夏だった。七月九日、深川は朝からどんよりと曇っていた。乾きのわるい洗濯物を取り込んだおきみが、首をかしげた。 「灰のようなほこりが付いてるけど」  まさに灰だった。信州浅間山が前の日に大噴火した。噴き上げられた火山灰が深川にも降ったのだ。  噴火がもたらした冷夏で大凶作となった。秋に入ると米が暴騰して、蕎麦や雑穀の高値まで呼び起こした。 「とうさん、豆が三割も高くなった」 「分かっとる。広弐屋はんがすまんことやというとった」  京やの居間には炬燵《こたつ》が出ていた。永吉と長男とが向かい合わせで、残る三人も両側に座っていた。 「うちも納め値を上げないと」 「いや、いろたらあかん」 「でも、それだと儲けが出なくなるよ」  値上げは駄目だと決め付けられて、栄太郎が口を尖らせた。 「損はせんやろが」 「それはないけど……」 「平野屋はなんぼ豆が高《たこ》うなっても、値段は変えへんかった。それでお客はんが信用してくれた。うちも深川でもう二十二年や。米も麦も値をあげとるこんなときこそ、踏ん張るんが値打ちやで」 「でもとうさん、ほんとうに儲けがなくなるけど、いいんだね」  息子が念押ししたが、永吉は値上げを許さなかった。月末の儲けが出ない月が半年続いた。しかし永吉のいった通り、得意先は京やの姿勢を高く買った。  店売りも十二文で通した。 「儲けが出ないのは仕方ないけど、数を増やすと損を出してしまう」  数を増やすと豆の仕入れ値と逆鞘になりかねない。これは永吉も受け入れた。  天明四年も五年も、米は豊作にはならなかった。しかし大豆はそこそこ収穫できたことで、豆は幾分かの高値で落ち着いた。  月末に栄太郎が差し出す儲けも、わずかながら増えた。が、浅間山噴火のまえに比べると、四分の一にまで減っていた。  栄太郎が戻ってから六度目、天明六(一七八六)年の夏が来た。この年も冷夏だったが、かまどを気遣う悟郎は汗まみれだった。 「栄太郎さんに会いてえ。いるんだろ、ここに呼んでくんねえな」  渡世人風の男が、早朝の店先で栄太郎の名を口にした。悟郎が汗を拭きながら出た。あたまひとつ悟郎が高い。男の目が猫のように細く光った。 「傳蔵《でんぞう》一家といやあ深川でちったあ知られた名だが、おれはそこの卯《う》ノ吉《きち》てえもんだ」 「兄《あに》さんにどんなご用が?」  悟郎から目をはずさずに、卯ノ吉が分厚い唇をべろっとなめた。 「そうかい、悟郎てえ弟はおめえか。栄太郎からいろいろと聞いてるぜ」  男が栄太郎と呼び捨てた。呉を絞っていたおふみの手が柄から離れた。 「きのうまでの約束で五両の銭を回したんだが、銭もつらも届かねえ。どっかわるくしたんじゃねえかと心配でね、見舞いがてら顔を出したてえわけさ。いるなあ分かってんだ、とっとと呼びねえ」  掠《かす》れ声に凄みがあった。おふみの顔がさっと曇った。 「兄さんはきのうの夜から寄合でうちにはいません。四ツ(午前十時)には戻ってきますから、帰り次第にうかがわせます」 「いうじゃねえか。そんなとんちきを真に受けて、手ぶらでけえれってか。いるかいねえか、おめえの身体に訊《き》いてもいいんだぜ」  悟郎は両手のこぶしに力をこめて、卯ノ吉と睨み合った。 「息子はほんまにおりまへんのや。戻ってきたら事情を確かめたうえで、うかがわせるなりさせます。ここはひとまずお引き取りください」  手を止めた永吉が悟郎に並んだ。ふたりとも六尺近い大男だ。五十路を目の前にした永吉は、白髪が多くなっている。突然の上方訛りに、卯ノ吉が顔をしかめた。 「食えねえ話をしやがって」  豆腐の水風呂を思いっきり蹴飛ばした。しかしびくとも動かない。男はばつがわるそうに舌打ちした。 「九ツ(正午)になっても銭と栄太郎が届かなきゃあ、仲見世で立ち回りが始まるぜ。いまはけえるが、賭場を甘くみるなと栄太郎にいっときな」  捨てぜりふを吐き捨てて、表通りに消えた。 「口あけから縁起でもない。悟郎、戸を半分閉めとけ」  永吉はそれっきり口を開かない。肩を震わせたり、手のひらにこぶしをぶつけたりして、怒りを抑え込もうとしているようだった。 「八幡様にお願いしてくる」  朝餉もそこそこに、おふみが出ていった。おきみは流しを片付けると、洗濯だらいを取り出した。卯ノ吉に会っていないおきみが一番落ち着いていた。  四ツ過ぎに、栄太郎がおふみと一緒に戻ってきた。すでにわけを聞かされたらしく、顔がこわ張っている。 「戸をきっちり閉めて、おまえもこい」  低い声で悟郎に言いつけると、栄太郎を連れて奥に入った。おふみが慌てて後を追った。 「おまえ、店のカネに手をつけとるな」  なんの前置きもなかった。 「そんな言い方をしなくても」 「おまえは黙っとれ。これは栄太郎にきくことや。わてがええというまで、いらん口出しはするな。それがでけんのやったら、あっちへ行っとれ」  おふみがむっと膨れたとき、悟郎が入ってきた。 「いつからこんなことをしとったんや」 「………」 「全部でなんぼのカネに手をつけたんか、正直にいうてみい」  栄太郎はひと言も口を開かない。我慢の切れた永吉が、平手で栄太郎の頬を張った。悟郎が飛び出して、永吉を押さえた。おふみが永吉を睨みつけた。 「おまえも知ってたんやな」  永吉の怒りがおふみに向いた。 「なんちゅう親子や。おまえら、ぐるになって京やを潰す気か」  おふみがその場に立ち上がった。 「こんな親子でわるかったわね。こどもを分け隔てするなとご大層なことをいったくせに、あんたの方がよっぽどしてるじゃないの」  おふみの大声で、娘が飛び込んできた。 「おっかさん、声がご近所にまる聞こえよ。もっと静かに話をしてよ」  おふみが気を鎮めるようにして座り直した。 「わてが分け隔てしてるというのは、なんのことや」 「そんなことが分からないの?」 「そやから、きいとるやないか」 「だったらいうけどさ」  おふみが娘と悟郎を睨《ね》め付けた。 「暑い日も寒い日も、おもて回りは栄太郎に押し付けて、悟郎とおきみは、いっつも家のなかで楽をしてるじゃないの」 「おまえが栄太郎に勘定を任せたいというたんやないか」 「でもあんたは、栄太郎には豆腐造りをなにひとつ仕込もうとしてないわよ」 「いちゃもんも、ええ加減にせんかい」  父親の大声を、娘が目で押しとどめた。目を閉じた永吉が、大きな息を吐いて気を鎮めた。 「なんべんも大きな声を出して、わてもわるかった。ちゃんと聞くよって、話をせえや」  永吉が声を落とした。悟郎とおきみが兄を見ている。それでも栄太郎は口を開かない。 「平田屋さんてお仲間が、三好町にいるの。栄太郎はそこのご主人に、霊巌寺の賭場に連れて行かれたらしいのよ」 「おまえにはきいとらへん。栄太郎にきいとるんや、わきから余計なこというな」 「おとっつあん、やめて。大きな声を出したら、おにいちゃんはますます言えなくなるじゃない。おっかさんはおにいちゃんから、なにか聞いてるんでしょう?」  娘に取り成されたおふみが、苦々しげにうなずいた。 「世間さまは、どこを向いても米代があがってしんどい言うてるさなかやぞ。大川の向こうでは、米屋が打毀《うちこわ》しに遭《お》うとるそうや。そんなときに博打をやっとったんか」  なにをいっても返事をしない栄太郎に焦《じ》れて、永吉の声がまた大きくなった。 「うちはなんとか値も上げんと踏ん張っとるのに、長男のおまえが足を引っ張ってどないするんじゃ、このアホが」 「ちょっと待ってよ」  おふみが永吉の口を遮った。 「あんたが値段を上げないから、栄太郎は陰で苦労してるのよ」 「なんじゃい、それは」 「仲間の寄合で、この子はみんなから突き上げられてるのよ。あんた、そんな苦労を知らないでしょうが」  おふみが一気に話し始めた。  深川には十四軒の豆腐屋があった。それを束ねるのが、五十九歳になった平田屋庄六である。肝煎連中が次々と鬼籍に入ったことで、いまでは庄六が寄合の座長を務めていた。  天明三年の秋、ほとんどの豆腐屋が一丁五十二文から六十四文へと二割値上げした。京やと同じ四半丁だと十六文である。  仲間たちは京やにも値上げを迫った。しかし父親の許しが得られない栄太郎は、寄合であたまを下げるしかなかった。 「京やさんは店売りも少ないし、味もあたしらとはまるで違う豆腐だ。ここは若い栄太郎さんの顔を立ててやろうじゃないか」  庄六の取り成しで、なんとか収まった。 「その平田屋さんが、栄太郎を息抜きに連れ出してくれたのよ。商いの付合いだもの、しょうがないでしょう」  栄太郎は最後まで黙り通した。 「商いのためやからいうて、なにをやってもええわけがない。儲けが薄いなかで五両を稼ぐのがどんだけしんどいかは、おまえが一番分かっとるやろが」  今度やったら勘当やぞと言い置いて、永吉が折れた。  霊巌寺裏には、栄太郎がひとりで出向いた。ふところの小袋には、小粒や豆板銀、二朱金などを混ぜ合わせた五両が収まっている。  問い詰められても、なにひとつ確かな話をしなかったことで、永吉からカネを出してもらうのに手間取った。傳蔵の宿に着いたのは、九ツの間際だった。 「余計な手間をかけやがって」  栄太郎には掠《かす》れ声の脅しで充分だった。これまで賭場で見ていた卯ノ吉と、いま睨みつけている男とは、まるで別人である。裏の顔に初めてふれた栄太郎は震え上がった。 「あがんな、親分がお待ちだ」  卯ノ吉があごをしゃくった。廊下の突き当たり右手の十畳間では、神棚を背にした傳蔵が胡座《あぐら》をかいていた。 「呼び立ててわるかったが、座んなさい」  濃紺の絽を崩して着た傳蔵から、不気味なほど優しい声が出た。剃刀を入れたばかりのような禿頭《とくとう》が、脂で照っている。目鼻に比べて口元が小さく、小豆色をした唇は薄い。  あたま同様、眉も剃り落とした傳蔵の顔には汗ひとつ浮いていない。卯ノ吉が栄太郎のうしろに座った。 「ちょっとした手違いで、血の気の多いのがあんたんとこに顔を出したらしい。迷惑かけてないといいんだが」 「迷惑だなんて、そんな……」 「そんなとは、なんのことだ?」  口調は穏やかでも言葉尻は見逃さなかった。 「迷惑だなんて、とんでもないことです」 「そうかい。それなら安心して、あんたとも長い付合いができるてえもんだ」  余計なことを言わされた栄太郎が目を伏せた。傳蔵は知らぬ顔で話を続けた。 「卯ノ吉が出向いたのは、銭が欲しくてじゃあねえんだ。あんたがこうしてきてくれりゃあ、五両は忘れてもいい」 「いいえ、滅相もないことです。ここに持ってきております」  小袋を取り出すと、傳蔵の膝元に差し出した。傳蔵は見ようともしなかった。 「あんたが律儀なのは、おれもきっちり呑み込んだ。これからも足が遠くならねえように付合いを頼んだぜ」 「………」 「よく聞こえねえが、承知してくれたのかい、栄太郎さん」  卯ノ吉が匕首《あいくち》の鞘で、栄太郎の背中を強く押した。栄太郎の顔があがった。 「……はい……」 「そうかい、そいつは何よりだ」  麦湯を二つ、若い衆が運んできた。 「暑いときはこれだ。あんたも喉が渇いてるだろう、遠慮はいらねえよ」  傳蔵が先に湯呑みに手を伸ばした。絽の袖からのぞいた手首には、太い数珠《じゆず》が巻かれていた。      三十二  天明七(一七八七)年五月になると、打毀しに遭うのが米屋に限らなくなってきた。酒屋や質屋など、土地の富商が餌食にされた。  永代寺仲見世には、大田屋という米屋があった。角地に十五|間《けん》の間口を構えた老舗である。大田屋は浅間山噴火の年から、毎年のように米代を値上げした。  しかし祭りになれば、富岡八幡宮の神輿《みこし》を担ぐ仲間でもある。八幡宮でみんながつながった深川では、打毀しはただのひとつも起きずにきた。  ところが天明七年五月の打毀しは、余所者《よそもの》が大川を越えて乗り込んできた。町役人から知らせを受けた町内鳶が、仲町の辻で押し寄せる連中を防いだ。  しかし数が凄かった。鳶が造った囲いを打ち破った何十人もが、米屋に殺到した。大田屋は江戸屋の辻向かいだ。 「銕次に言って臥煙の衆を呼びなさい」  江戸屋女将の指図で、すぐさま二十人近い臥煙が呼び集められた。それからさほど間をおかず、八丁堀の捕り方も仲町に出向いてきた。公儀幕閣が参詣する富岡八幡宮の威光である。  大田屋も他の米屋も、戸口を壊されたぐらいで騒ぎは収まった。  しかし震え上がった大田屋は、店の守りに渡世人を雇い入れた。頼んだ相手が、月に何度か大田屋が遊びに行く傳蔵一家だった。連中は大田屋が米蔵に使っている平屋で寝泊まりを始めた。  五月の打毀し以来、余所者は押しかけて来なかった。暇を持て余した傳蔵一家の若い者が、仲見世を行き来し始めた。商家はどこも眉をひそめたが、わるさをしない連中には表立って文句をいうこともなかった。  六月早々、梅雨がきた。朝夕はひとえだけでは鳥肌が立つ梅雨寒《つゆざむ》が続いた。十二文の豆腐が売れ残る日も出るほどに、町の暮らしが冷え込んでいた。  六月中旬の昼過ぎ、京やのまえで男がふたり立ち止まった。ひとりは卯ノ吉である。水風呂の豆腐を構っていた永吉の手が止まった。栄太郎は外回りで、悟郎とおふみは広弐屋に出ており、おきみは流しだ。店には永吉ひとりだった。  卯ノ吉は傳蔵に番傘を差しかけていた。傳蔵の背丈は五尺五寸(百六十七センチ)で、さほどに大きくはない。しかし眉と頭髪を剃り落とした顔は、立っているだけでも凄味があった。  右の手首には太い数珠が巻かれている。傳蔵は身じろぎもせずに京やに見入っていた。  水風呂を離れた永吉が店先に出ようとした。そのとき、外回りを終えた栄太郎が戻ってきた。傳蔵と卯ノ吉を見て、手桶を落としそうになった。 「ここがあんたの宿か」  口を開いたのは傳蔵だった。栄太郎が曖昧《あいまい》な返事をした。 「どちらさんや」  永吉がきつい声を息子に投げた。それを聞いて傳蔵が永吉に目を移した。 「大田屋さんの頼みで、若いのを張りつけている平野町の傳蔵です」  永吉の目がいきなり燃え立った。 「うちの栄太郎に、まだ用がおますのか」 「いいや、賭場の払いはいつもきっちりもらってますぜ。そうだろう、栄太郎さん」  栄太郎は目を伏せたまま黙っている。傳蔵は薄笑いを永吉に見せると、そのまま大田屋の方に歩き去った。 「悟郎たちが戻ってきたら、おまえに話がある。どこへも出んと待っとけよ」  栄太郎は返事をしなかった。  七ツ(午後四時)過ぎに悟郎とおふみが戻ってきた。永吉は店を閉めさせて、家族を居間に集めた。  永吉は手短に昼過ぎのことを話した。おふみは、また栄太郎が責められそうだと思ったのか、長男のとなりで身構えた。  悟郎もおきみも、母親と同じ思いを抱いたらしく、おきみが父親のとなりに移った。  張り詰めた気配が居間に充ちた。しかし永吉はまるで違う出方をした。 「こんな難儀なときに、おまえに任せきりにしとったわてがわるかった」  呆気《あつけ》にとられた四人の目が永吉に集まった。 「世の中、どっちを向いてもわるい話ばっかりや。こんなときこそ、家族は力を合わせなあかん。やくざもんからいやなことをいわれたが、わては栄太郎を信じとる」  悟郎とおきみの顔が明るくなった。しかし栄太郎はまた俯《うつむ》いているし、おふみの目は光っていた。 「これからは折りにふれて、商いの具合をおまえに聞くわ。ええな?」  栄太郎が顔をあげてうなずいた。 「毎月、わてに帳面を見せてくれ」 「そんなこと言っても、あんた、帳面見ても分からないでしょうに」  永吉がおふみにやさしい目を向けた。 「そやから栄太郎に教わろおもてる。わてに分かるようにいうてくれ」 「分かった……そうするよ」 「その代り、今日から銭はみんなおまえとおかあちゃんにあずけるわ。それがおまえを信じとる何よりのあかしや」  おふみの目から強い光がさっと消えた。 「わてももう五十や。こんなしんどいときに済まんおもうが、こっからさきの京やは、おまえと悟郎とでしっかり見てくれ。わてには帳面見せてくれたらそれでええ」  その夜、永吉は手元に集めてあった儲けの蓄えを、そっくりおふみに渡した。一両小判、一分金、南鐐《なんりよう》銀、豆板銀など、合わせて二百十二両も貯まっていた。 「おまえと二十五年かかって、これだけ貯まった。ここまでこれたんは、源治はんやら、おみつはんに力を貸してもろうたおかげや。おふみ、ほんまにおおきに」 「あんたこそ……でも、まだまだ隠居なんかしないでね」 「そらそうや。京やはわての生き甲斐や。帳面も覚えんならんしなあ」 「あんたがおカネを任せるといったから、栄太郎がほんとうに明るくなった。どうもありがとう」 「商いは算盤が肝心や。悟郎にはそんな才覚は恐らくないやろ。栄太郎がほんまにひとり立ちするまでは、そばでおまえがしっかり見とってくれよ」  おふみがいれた取っておきの宇治を、永吉が旨そうに味わった。      三十三  栄太郎にカネ勘定のすべてを任せた翌年、天明八(一七八八)年一月三十日。京で大火事が生じ、二条城の本丸御殿も焼け落ちた。  二月中旬になって、永吉は大火の次第を広弐屋から聞かされた。 「あの二条城が丸焼けになったんなら、平野屋もえらいことになってるはずや」 「京に上って、様子を見てきた方がいいんじゃないの」  永吉も行きたそうだった。しかし、正月早々にひいた風邪が治りきっていなかった。二日の間思案を重ねた永吉は、おふみとともに広弐屋を訪ねた。 「情けないことですが、身体がいうことをききまへんのや。えらいお手間をかけますが、これを平野屋はんに届けてもらえまへんか」  永吉は五両の見舞金を言付《ことづ》けた。広弐屋は十五年もの間、大坂の堺屋を通じて永吉の里への仕送りを引き受けてくれていた。平野屋への見舞いも、番頭はこころよく請け合った。  広弐屋からの帰り道、永代橋で雪になった。橋の真ん中で立ち止まった永吉は、牡丹雪が舞い落ちる川面を見詰めた。おふみが永吉に寄り添った。 「なんぼ銭が手元にあっても、身体がいうこときかんようになったら、どないもでけへんわ」 「大丈夫よ。暖かくなれば、きっともとに戻るから……栄太郎だって、この寒いなかでがんばってるんだから。ほら、元気を出して」  気弱な言葉を漏らす永吉の手を引いたおふみは、永代橋たもとの蕎麦屋に入った。 「ここの鴨うどんは精がつくって評判なのよ。熱いのを食べれば元気が出るから」  熱々の鴨うどんがふたつ運ばれてきた。おふみは刻みねぎと、七味をたっぷり振りかけてから永吉に渡した。  雪の日の半端な時分だったのか、ほかに客はだれもいない。おふみはうどんに箸をつけようともせず、永吉を見ていた。 「なんやおまえ……食わへんのか」 「こうしてふたりっきりでお店に入ったのは、何年ぶりかしらね」  永吉が照れくさそうな顔を見せた。が、答える代りに、うどんをずるずるっとすすった。おふみは湯気の立つどんぶりをまえにして、永吉が食べ終わるまで見詰めていた。  丸一年が過ぎた天明九年一月二十五日。筆頭老中松平定信は、元号を天明から寛政へと改めた。同時に前老中の田沼意次が敷いた道筋を根本から見直し、寛政の改革を断行した。  定信は改元にともなう祈願法要も見合わせた。深川にも凍えつくような改革の風が吹き始めた。景気は一向に上向かないまま、夏が行き秋がきた。  空が高く晴れた九月三日の八ツ(午後二時)に、江戸屋から使いがきた。平野屋のお仕着せを引っ張り出した永吉は、京やの半纏を羽織って出向いた。  この年の春から、江戸屋は代替りしていた。きりりと黒く締まった眉、瞳の大きな黒い目、それに紅色のやわらかそうな唇。細面だが、凜とした容姿の四代目秀弥は、先代によく似ていた。 「いつも結構な豆腐を納めていただいて、ありがとうございます」  まだ婿取りもしていない四代目だが、話す物腰にはすでに女将の風格が備わっていた。 「お忙しいでしょうから、手短に申し上げます。京やさんは、いまの家作をお気に入りでしょうか」 「もちろんですわ。あんなええ井戸は、どこを探してもおまへん。貸してもろうて、ほんまにありがたいおもてます」 「じつはその貸家のことですが」 「へ……なんでっしゃろ」  永吉の顔色が変わった。それを見た秀弥が目元をゆるめた。 「ご心配なさるようなお話ではありません。京やさんさえよろしければ、家作と土地を含めて、百八十両でお買いになりませんか」  いま江戸屋から借りている店賃は、月に銀四十五匁、年に九両の支払いである。百八十両なら、二十年分の店賃だ。 「京やさんなら息子さんたちもしっかりしておいでですし、うちも先々、長いお付合いをさせていただきます。払いの方は、十年の年賦で結構ですから」  江戸屋から京やまでのわずかな道を、永吉は何度も休みながら歩いた。せんべい屋のまえで立ち止まり、大きな息をついて歩き始めた。わずか数歩、漬物屋で足が止まった。 「どうした京やさん、具合がわるいのかい」 「いや、どうもおまへん」  十歩も歩かないうちに、甘酒屋のまえでまた足が止まった。赤い毛氈《もうせん》を敷いた縁台が出ている。永吉は腰から座り込んだ。  京やが……わてらのものになる……。  夢を見ているようだった。しかも十年払いでいいという。つい先日見た帳面には、蓄えが二百六十六両となっていた。まるごと払っても、まだ八十両以上を手元に残せる。  苦労した甲斐があったと思うだけで、吐息が漏れた。  借家ではない京やを、こどもに残せる……。  早くおふみに聞かせてやりたかったが、腰が抜けたようになって動けない。甘酒を一杯頼み、ゆっくりと飲み干した。  やっとの思いで京やに戻ると、おふみが飛び出してきた。 「どうしたの、なにがあったの。身体、平気なの?」 「どうもない、ちょっとびっくりしただけや。すまんけど、奥まで手を引いてくれ」  栄太郎は得意先回りでおらず、悟郎とおきみは仲町の太物屋に出かけていた。居間に座った永吉は、立て続けに茶を二杯飲んだ。話を聞いて、今度はおふみが飛びあがった。 「ほんとうの話でしょうね」 「こんなこと、だれが戯言《ざれごと》をいうんや」  ふたりは黙り込んだまま、しばらく顔を見合わせていた。口を開いたのはおふみだった。 「十年払いにさせてもらいましょう」 「それもええが、百八十両やったらいまでも払えるやろ」 「………」 「借金残さんと、きれいに済ませよや。丸ごと払《はろ》ても、まだ八十両以上残るやないか」  おふみから返事が出ない。大喜びするだろうと思い込んでいた永吉は、わけが分からなかった。 「なんやおふみ、どないしたんや」  卓袱台《ちやぶだい》を挟んだ向かい側で、おふみが襟元を合わせ直した。 「じつはねえ……帳面に書いてあるよりも、おカネが少ないの」  永吉に目を合わさないままおふみが口にした言葉は、語尾があいまいだった。 「なんのことや。分かるように、もっとはっきりいうてくれ」 「栄太郎は商いのお付合いで、断り切れなかったらしいのよ……」 「なんやと?」 「そんな顔しないで、ちゃんときいて」  おふみの口調が面倒くさそうである。長男の不始末を詫びている感じはまるでなかった。 「また店のカネに手をつけたいうんか」  永吉のこめかみに血筋が浮いたが、声はひどく静かだった。 「そうです」 「なんぼや」 「百両近くなんだけど………」  永吉が息を呑んだ。目を閉じて、しばらく黙り込んでいた。 「もうええわ。話もしとうない」  永吉は寝間に引っ込んだ。居間に顔を出したのは、五ツ(午後八時)の鐘が鳴っているときだった。四人の目が永吉に集まった。 「栄太郎、わてのまえに来い」  血の気がひいた栄太郎が、父親と向かい合わせになった。 「つくづくおまえには愛想が尽きた」  静かな声だった。栄太郎は父親を見られないのか、顔を伏せた。 「うちの商いに障るよって、勘当はせえへん。そやけど、わての目が黒いうちは京やの敷居はまたがせへんぞ。どこなと好きなとこへ行きさらせ」  永吉の静かな怒りはおふみにも向けられていた。今回ばかりは、おふみもかばい立てはしなかった。しかし翌朝栄太郎を送って出たおふみが、京やに戻ってきたのは日暮れてからのことだった。  永吉は栄太郎を出したその日のうちに、頭金百両、残金は年十六両の五年払いで江戸屋と話をつけた。  夜はめずらしく酒になり、永吉はしたたかに酔っ払った。 「あいつが憎うて出したんやないで。なあ悟郎、おまえには分かるやろ」  初めて見る父親の深酒と繰り言を、悟郎とおきみは辛抱強く聞いていた。おふみは永吉を横目で見ただけで、寄り付きもせずに床に就いた。 「おふみはどこや……おいっ、おふみをここに呼んで来い」 「おっかさんは、具合がわるくて先に休んじゃったわ」 「なんやて……どこがわるいんじゃ」 「おとっつあん、悟郎ちゃんとあたしがいるじゃない。もっと楽しそうに飲んで」  呂律《ろれつ》の回らなくなった永吉を嫌がりもせず、おきみは何度も盃を満たしてやった。 「このまま寝かせといてあげようよ。あたし、夜着をとってくる」  永吉が畳の上で酔いつぶれて、大きないびきをかいている。 「おとっつあんのこんなに大きないびき、初めてじゃない?」 「そうだなあ」  おきみが持ってきた夜着を悟郎がかけて、ふたりは部屋に入った。  翌朝、永吉は冷たくなっていた。 「あたまのなかで血が溢れ出したんじゃろう。本人も気づかぬうちに逝ったはずだ」  山本町の大野|岱善《たいぜん》は、永吉の亡骸《なきがら》を診た所見をおふみたちに伝えた。 「あのひと、深川しか知らないままに死んじゃった……」  享年五十二。おふみが呟いた通り、楽しみにしていた上方見物も果たせないままの旅立ちとなった。  得意先への知らせには、悟郎とおきみが走った。濱田屋も江戸屋も、葬儀にはかならず参列する旨を申し出てくれた。十日の間納めを休ませて欲しいとの願いも、当然ですといって聞き入れてくれた。  広弐屋から悟郎が戻ったときには、すっかり夜も更けていた。永吉の枕元にはおふみとおきみが座っていた。戻った悟郎を母親が手招きした。 「悲しんでばかりはいられないよ。おとっつあんをきっちり送らなくちゃあね」 「おっかさん、よく平気でそんなにしゃきしゃき言えるわね」  おきみが泣きながら食ってかかった。 「なに分かったようなこと言ってるのよ。残された方が大変だから言うんじゃないの」 「やめろよ、ふたりとも。まだおとっつあんはこの家にいるんだぜ」  悟郎がふたりの口を塞いだ。 「兄さんはどこにいるんだよ。すぐに呼び返さなくちゃいけないだろ」 「やめてよ、悟郎ちゃん。おとっつあんは、お兄ちゃんが死なせたと同じじゃない」  おきみが激しく応じた。 「なんてこと言うのよ」  おふみが娘を睨みつけた。おきみも負けていない。さらに声が大きくなった。 「いつだか雪の日、おっかさんは悟郎ちゃんとあたしを産んだばっかりに、おじいちゃんとおばあちゃんが死んだと言ったでしょう」 「………」 「おじいちゃんたちが死んだことと、どんなかかわりがあるのか知らないけど、おとっつあんがこんなに急に死んだのは、絶対にお兄ちゃんのせいよ」  おきみがおもてに飛び出した。  きちんと閉めなかった戸の隙間から、秋の夜気が忍び込んできた。悟郎は母親の肩に手を置いてから、おきみを追って外に出た。  線香の煙が、入り込んできた風で揺れた。 「あんた、ひどいじゃないの」  白布をかけられた永吉に、おふみがぼそぼそした声で話しかけた。 「あたしからなんにもわけを聞かず、栄太郎をわるくおもったままで死ぬなんて」  線香が短くなっている。おふみは新しい二本の線香に火を移し、ていねいに立てた。  冷たくなった永吉の手を握っているうちに、おふみの目から涙が溢れ出てきた。嗚咽《おえつ》に合わせるかのように、線香の煙がまた揺れた。      三十四  親子三人だけの通夜が明けた早朝、悟郎は永代寺を訪ねた。濱田屋、江戸屋とは違って永代寺の納めを長くは休めない。 「急なことでしたな」  応対には西周がみずから出てきた。すでに八十を超えた高齢にもかかわらず、禿頭にはまだ艶があった。 「とき折りそなたを店先で見受けたが、幾つになられた」 「今度の正月で二十五になります」 「さようか……永吉殿が江戸で始められたときと同じ年頃になられたか」 「親父のむかしをご存知ですか?」 「もちろん存じておりますとも」  西周が黒い目で悟郎を見た。歳とは思えない澄み切った深い目だった。見詰められただけで、永吉を亡くした哀しみと不安とが癒《いや》される気がした。 「それで葬儀はどのように?」 「親父は京の東山が在所なもので、江戸には檀那寺がありません」 「なるほど」 「おふくろのふたおやは、平野町の龍泉寺さんに墓がありますので、親父もそちらにと思っています」 「龍泉寺なら相州屋さんの墓もある。これも巡り合わせでしょうな」  悟郎が怪訝な顔をした。 「相州屋さんのことを、そなたはなにも聞いておられぬか」 「相州屋さんとは、どちら様のことで?」  西周が居住まいを正すように座り直した。 「永吉殿も相州屋さんと同じ墓地に入られるのなら、いまがよい折りだ。少し長い話になるがよろしいか?」  西周はおふみと永吉が毎日三十丁の喜捨を始めた日のことから、知り得る限りのことを悟郎に話した。  相州屋が陰で京やを助けたこと、いまの京やが相州屋の家作であったことも聞かせた。  西周は先代秀弥から、おしのが託した相州屋の後始末の次第を聞かされていた。秀弥は格別の口止めをしなかった。しかし先代秀弥はまだ健在であるゆえ、このことには触れなかった。  悟郎には初めて聞く話ばかりだった。京やが仲見世に越したのは、悟郎が十六の年だ。豆腐屋を居抜きで借りるとは聞かされたが、それだけだった。 「親父もおふくろも、相州屋さんに助けられたことは知らないでしょうね」 「拙僧から話した覚えはない」  悟郎が何度もうなずいた。 「悟郎殿、このことはそなたの母殿には話されぬがよろしいぞ」 「ご恩を受けた方のことなのに、なぜいけないんですか」 「亡くなられた永吉殿も健在でおられる母殿も、たがいが力を合わせたゆえに、納めがかなったと思っておられるはずだ」  その通りだった。永代寺に納めがかなった日の話は、折りにふれて聞かされた。 「相州屋さんの後押しがあってかなったことは間違いない。しかしそれも、京やさんの豆腐がよかったからこそです」  ふたりが向かい合う座敷に、秋の陽が差し込んで来た。西周の黒目がさらに深く見えた。 「永吉殿は、ことあるごとにそなたは職人に向いているといっておられた。商いの算盤は長兄が得手だそうですな?」 「はい」 「これからの京やの味を守っていかれるそなたゆえ、古い話をさせていただいた」 「ありがとうございます」 「ここで話したことは、拙僧しか知らぬことです。いつの日にか、お伝えするのも務めだと心得ていましたが、いまこそがその折りでしょう」  悟郎は、永代寺に納めがかなってふたりが抱き合って喜ぶさまを思い描いた。目が潤むのをこらえ切れなかった。 「ところで悟郎殿、こんな折りに伝えにくいが納めは初七日明けからでよろしいか」 「もちろんです」 「永吉殿が願っておられたことだが、残されたみんなが……とりわけそなたと長兄殿とが力を合わせて京やをもり立てるのが、なによりの供養です」 「分かりました」  悟郎が京やに戻ると、葬儀屋の手代が悟郎に深々とあたまを下げた。粛々と弔いの備えが進んでいた。  栄太郎は五ツ(午前八時)過ぎに戻ってきた。身なりは出ていったときのままで、手入れをしていない髷がよれている。顔にはうっすらと不精髭が生えていた。 「お兄ちゃんのせいでおとっつあんが死んだのよ。よく戻ってこられたわね」  おきみは激しく逆らったが栄太郎は取り合わない。葬儀は栄太郎が喪主で執り行われた。  四ツ(午前十時)に読経が始まった。空が高く、雲ひとつない秋晴れの葬儀となった。  新兵衛店の住人、江戸屋、濱田屋、そして広弐屋。だれもが喪主栄太郎に、こころのこもった悔やみを言った。  町場では先例がないと葬儀屋が難色を示したが、おふみは永吉を寝棺《ねかん》に納めた。読経の続く間、おふみは棺から離れなかった。焼香客が話しかけても虚ろな目を合わせるだけで、すぐ永吉に目を戻した。  参列者の多くは、おふみと永吉が睦まじかった昔を知っている。抜け殻のようなおふみの姿が涙を誘った。  悟郎は母親を見ていた。  西周から聞かされた話を思い返せば返すほど、おふみと永吉との結びつきを思った。こどものころから今日のいままで、ふたりはいがみ合うばかりの不仲な夫婦だと思ってきた。  とりわけ栄太郎のことになると、おふみは尋常ではなくなったし、永吉はそんなおふみに声を荒らげた。  親父は兄貴を嫌っている、と思ったことも一度や二度ではなかった。  しかし息子ふたりで京やをもり立てて欲しいと、父親は西周に望みを話していた。  永吉がしたたかに酔った最後の夜、おふみは近寄りもせず寝部屋に引きこもった。 「おふみはどこや……」  父親の声を、悟郎ははっきりと覚えている。あのときは、怒りにまかせた怒鳴り声だと思っていたが、いまは違った。  親父はおふくろに、兄貴のことを話したかったのかも知れない……。  ふたりがどれほど命懸けで京やを始めたのか、西周の話が、悟郎のこころの奥に染みこんでいた。読経のなかであたまに浮かぶのは、手を取り合って喜び合うふたりの姿だった。  永吉の無骨な声まで聞こえる気がした。  おふくろは親父の言いたかったことを、なにも聞かないままに死に別れた……。  おふみの呆けた顔が、すぐまえにある。やりきれない涙が悟郎に溢れてきた。      三十五 「いいお弔いをさせてもらいました。おとっつあんもきっと喜んでくれたと思います」  永吉がお骨になった夜、改まった口調のおふみが三人にあたまを下げた。息子二人は返すように身体を折ったが、おきみは固い顔をくずさなかった。 「永代寺さんは初七日明けからといわれたそうだけど、どうしようか、栄太郎」  栄太郎が悟郎を見た。思案顔の悟郎のとなりで、おきみが母親を睨みつけた。 「お兄ちゃんを京やに戻すつもりなの?」  おふみが頬をぴくりとさせた。男ふたりは黙ったままだ。 「おとっつあんは死んじゃったけど、お兄ちゃんが許してもらえたわけじゃないわ」  栄太郎が妹を横目で見たが、すぐに目を逸らせた。 「おっかさん、目の黒いうちは京やの敷居をまたがせないって、おとっつあんは、はっきり言ったわよね」 「………」 「黙ってないで返事してよ。ねえ、おっかさんも聞いたでしょう」 「聞いたよ」  おふみがふて腐れた返事をした。 「言ったその日に死ぬなんて、おとっつあんだって考えもしなかったわよ。それなのに、おっかさんはもうお兄ちゃんが戻って当たり前のように話を進めてる」  おきみが母親に詰め寄った。 「おっかさんには、おとっつあんの気持ちが分からないの。あたし、そんなの絶対いやよ」  おきみが一気に吐き出した。途中からそっぽを向いた母親は、娘と目を合わせようともしなかった。 「兄さんに戻ってもらおうぜ」 「悟郎ちゃんまでそんなことを言うの?」 「ちょっと待て……おれの話をきけよ」  悟郎が重たい口を開いた。 「親父が言ってた、江戸屋さんのことを覚えてるか」 「江戸屋さんのことって、どんなこと」 「息子さんたちがしっかりしてるから、家は年賦でもいいって言われたことだ。あのとき、凄く嬉しそうに話してたじゃないか」  頬を膨らませたままのおきみを見詰めた。 「親父が死んだことで、お得意さんも世間様も京やがどうなるか気にしているはずだ。残った四人が力を合わせないと、商いにも差し支える」  悟郎が諭《さと》しても、おきみの不満は消えなかった。栄太郎も詫びを言うでもなかった。しかし最後にはおきみが渋々折れて、京やを四人で守ることに落ち着いた。  寛政元(一七八九)年九月十二日に、永吉の初七日が明けた。濱田屋と江戸屋には十四日からの納めだが、永代寺はこの日からだ。  悟郎とおふみは七ツ(午前四時)まえに起きた。前夜に漬けた豆は悟郎が挽くことにした。支度する間、おふみが付きっきりだった。  永吉が亡くなってから初めて臼が回った。音を聞いたおふみが座り込んだ。 「大丈夫か?」  臼の手を止めて、悟郎が母親に近寄った。おふみが悟郎の手を払い除けた。声を殺した嗚咽が、土間にこぼれ出ていた。  悟郎は外に出た。まだ星がはっきり見える。向かいの永代寺も寝静まっているようだった。仲見世通りは暗く、野犬も見えない。店先の桶に座った悟郎の目が定まっていなかった。  臼を回して、悟郎は不安で胃ノ腑を締め付けられた。ここ何年も、悟郎は豆を挽いてきた。いまも、なにひとつ違わない手付きで臼を回した。ところが胃がキリキリと痛んだ。  おふみを案じて手を止めたのは、おのれへの言いわけだった。じつのところは、不安で続けることができなかったのだ。  いきなり父親が亡くなって、葬儀や後始末に追われた。豆腐造りも休んでいた。悟郎は永吉を失ったことの大きさを、考える暇《いとま》もないままに今朝を迎えた。  永吉がいれば、豆を挽いても案ずることはなにもなかった。調子が狂えば、父親がきつく叱ってくれた。  豆腐の造り方から油揚げの揚げ方、茶碗豆腐の造り方まで、しっかりと永吉から教わっていた。父親が風邪で起きられなかったときは、おふみとふたりで熟《こな》した。  土間に永吉がいなくても、悟郎は不安に思うこともなかった。父親よりも豆腐造りに長《た》けていると思ったことさえあった。  しかし、いまはひとりだ。  初七日が明けて、ひとりで造る怖さを思い知った。  親父も蛤町で豆腐屋を始めたときは、こんな気持ちだったのか………。  目の前の永代寺が途方もなく大きく見えた。このさき京やの豆腐を造って行けるのか。悟郎は不安で胸が押し潰されそうだった。 「悟郎……そろそろ始めないと……」  気がつかない間に、おふみがわきに立っていた。母親の目は濡れていたが、涙の奥に宿る怯えのひかりが、暗いなかでもはっきり分かった。  立ち上がった悟郎は、思い切り深く息を吸った。それをゆっくり吐き出した。 「分かったよ。始めよう」  悟郎が笑いかけても、おふみの目は変わらなかった。母親から声が出たのは、絞り終えた呉《ご》に悟郎がにがりを加えたときだった。 「おとっつあんを見ているようだよ。いまの今まで気付かなかったけど、おとっつあんはきちんと仕込んでくれたんだねえ」  しみじみとしたなかにも明るさがあった。母親の声で悟郎に気力がみなぎった。  その後も悟郎に何度か怯えが走った。胃の痛みも続いた。しかし江戸屋に納め始めた初日に、新しい板長から味が変わっていないと誉められたあとは、痛みも治まった。  十三日から降り続いた雨があがり、九月十五日には月が出た。団子とススキを縁側に飾り、二日遅れの月見となった。 「悟郎、ほんとうにご苦労様でした」  得意先にも店売りの客にも、永吉のころと変わらずに喜ばれた。おきみが嬉しそうな顔で、悟郎に団子を取り分けた。 「おれは足を引っ張るばかりできたが、今度こそはしっかりやるぜ。悟郎、おきみ、いままでのことは勘弁してくれ」  戻ってから初めて栄太郎が詫びを口にした。おきみが睨んだが、目は笑っていた。  一夜明けた寛政元年九月十六日。夕暮れまえに栄太郎が血相を変えて戻ってきた。 「蔵前がえらい騒ぎだそうだぜ」  居間に座った栄太郎を三人が取り囲んだ。 「蔵前の札差連中が、御上《おかみ》からこっぴどく仕置《しおき》をされたそうだ」 「札差って、お武家相手の金貸しだろ?」  おふみの問いに栄太郎がうなずいた。 「桁違いのカネをお奉行様から棒引きにされたらしいが、詳しいことは平田屋さんも分かってなかった」 「でもさあ栄太郎、どっちにしても金貸しとお武家の話じゃないか。うちにはかかわりのないことで、なんでそんなに慌てるのよ」 「それはおふくろの心得違いだよ。札差が棒引きにされた貸し金が、もしも平田屋さんのいうように桁違いだったとしたら、江戸の景気がわるくなるんだよ」 「どうしてそうなるのさ」  おふみは得心しない。悟郎もおきみも、さほど呑み込めてはいなさそうだ。 「札差連中が遣う銭は、それこそ桁違いさ。深川にはそれほど遊びにはこないだろうが、柳橋やら向島やらの料亭は、連中の銭で息をしてるも同然だ」  三人が栄太郎のそばに膝を乗り出した。 「芸者衆にしてもおんなじだし、芸者に着物や小間物を商う連中もそうだ。札差が銭を遣わなくなったら、みんなが干上がる」 「平田屋さんがそう言ったのかい?」 「そうじゃないさ。傳蔵さんが賭場もさびれそうだと話したついでに、この道理を平田屋さんに聞かせたのさ」  おきみの目が鋭くなった。 「お兄ちゃん、まだ博打のひとと付き合ってるの?」 「そんなわけないだろう……そんなことより、これからうちも大変になるぜ」  栄太郎がうろたえて話を変えた。  この日公儀は、総額百十八万七千八百八両余の貸し金を棒引きにする、棄捐令《きえんれい》を発布した。栄太郎が受け売りした通り、札差は生き死にの瀬戸際に追い込まれた。  江戸の景気が一気に凍えた。そして金詰りのまま寛政二(一七九〇)年正月を迎えた。  浅草寺には薦被《こもかぶ》りがひと樽も奉納されない新年だったが、富岡八幡宮には威勢が残っていた。木場の旦那衆が気張ったからである。  京やも変わりなく商いが続いた。正月で、おきみは二十二になっていた。  生前の永吉は、相州屋跡に越したときから、おきみの縁談を気にしていた。 「まだ十三じゃないの。そんなことより、いまはお店が大事でしょう」  おふみは取り合わなかったが、あっという間に二十歳を超えた。相手から縁談の舞い込む歳は、とうに過ぎている。しかしおふみは気遣わないし、おきみも縁談には気乗り薄に見えた。 「いまは京やを守ることだけよ」  とき折り悟郎が水を向けても、おきみは取り合わない。縁談よりも、栄太郎を見張ることに気がいっていた。 「お兄ちゃんがまた毎晩いなくなるけど、どこに行ってるか悟郎ちゃん分かってるの?」  栄太郎への不満を悟郎にぶつけた。 「兄さん、もう二十八だぜ。仕事のあとぐらい好きにさせてやれよ」  兄にきつい妹にげんなりした悟郎が、かばう言葉を口にした。おきみはむっとする。それでも悟郎とおきみは仲がよかった。  富岡八幡宮の桜が、つぼみを膨らませ始めた三月初旬。髪に白いものが混じった、中背の男がたずねてきた。  片付けものをしていたおきみが店先に出た。 「おふみさんはいるかい」 「……ひょっとして、嘉次郎のおじさん?」  おきみが調子はずれの声を出した。 「覚えてたとは泣かせるねえ。おきみちゃんだろ……まだお嫁に行ってねえのか」  嘉次郎はおきみが五歳のときに、棒手振をやめていた。当時は威勢を売っていたが、すでに六十が目の前だ。背筋は伸びているものの、顔には深いしわが幾つもあった。 「おっかさん、いま昼寝してるの。悟郎ちゃんならいるけど」 「ああ、悟郎でいい……済まねえ、つい呼び捨てにしちまった」  あたまをかく嘉次郎に笑いながら、おきみが呼びに入った。すぐに悟郎が走り出てきた。 「おおう、親父に似てきたなあ……」  悟郎に、若いころの永吉を重ね見るような眼差《まなざし》を見せた。 「永吉さんとは親しい口をきけず仕舞いだったが、ぶっとい骨が一本通った男だったよ。立ったままで済まねえが、ここで悔やみを言わせてくれ」  嘉次郎は手をあわせて念仏を唱えたあと、悟郎をおもてに連れ出した。      三十六  一刻(二時間)近く経って、悟郎が重たい顔つきで戻ってきた。 「兄さんはまだか」 「まだだけど」 「おっかさんは」 「奥で勘定帳を見てるわ」 「おまえ、ちょっとそこに座れよ」  悟郎は板の間におきみを座らせて、嘉次郎とのやり取りを話し始めた。 「去年の九月に、兄さんが札差の話をしたことがあったよな」 「霊巌寺のひとの受け売りでしょう」 「そうだ」 「あれを聞いたから、お兄ちゃんから目を離さないのよ。それがどうかしたの?」 「兄さんはいまでも賭場に出入りしている」  嘉次郎は十七年前に、肩と腰を痛めて棒手振をやめた。蓄えがあったので飲み屋を始めた。仙台堀沿いの小さな縄暖簾だが、周りには木場も大工町もあり、客筋に恵まれた。 「先月の中ごろ、平田屋の古い職人さんから親父の死んだことを聞かされたそうだ」  その職人は、二十年も昔に庄六が渡世人に殴られた顛末を話した男である。京やの跡取りだから庄六が霊巌寺の賭場へ誘い込んだと、職人がばらした。 「平田屋さんの庄六さんに、おまえは会ったことがあるか」  おきみが首を振った。 「おれも知らないし、親父も会ったことはないはずだ」 「そのひとがどうかしたの?」 「うちを怨《うら》んでる」  おきみが目を見開いた。 「親父とおふくろが所帯を持ったころ、ここは相州屋さんという豆腐屋だったそうだ」 「あたし、知ってる。永代寺さんは、もともと相州屋さんのお得意先だったと、おとっつあんから聞かされたもの」 「いつそんな話をしたんだよ」 「はっきりは覚えてないけど……おとっつあんから、昔話をよく聞かされたから」  悟郎が黙り込んだ。  永吉から厳しく仕込まれることには、喜びがあった。しかし父と息子の間で、一体どれほどの無駄話ができていたか。  おきみが知っていた相州屋のことを、悟郎は永代寺から聞かされて初めて知ったのだ。 「悟郎ちゃん……どうかしたの?」  気を取り直して、嘉次郎の話に戻った。 「相州屋さんが店を閉じたとき、あとを使わせて欲しいと平田屋さんが頼んだそうだ。でも相州屋さんは、きっぱり断ったらしい」 「それで怨んでるっていうの?」 「親父は江戸屋さんの方から、ここを使わないかって持ちかけられたじゃないか」 「お兄ちゃんが木場に奉公に出てたときでしょう。はっきり覚えてる」 「なんで江戸屋さんから話があったのかも、おまえは知ってるか」 「知らない……悟郎ちゃんは?」  悟郎も首を振った。 「ほかにも色々あったらしいけど、嘉次郎さんもよく分からないみたいだ。とにかく平田屋は、借金で京やを潰そうとして、兄さんを博打に誘い込んだらしい」 「潰してどうするのよ」 「ここを横取りする気だったのさ」  おきみの目が怒りに燃えている。悟郎はいつの間にか、平田屋と呼び捨てにしていた。 「いっときは平田屋もおとなしくしてたそうだが、親父が死んだことで、また兄さんを賭場に誘い込んでいる」 「それで毎晩出かけるのね」 「そうだ。おまえが心配した通りだ」 「どこまで間抜けなのよ」  気を昂ぶらせるおきみの肩に手をおいた。 「手遅れになる前に何とかしろと言いたくて、嘉次郎さんは足を運んでくれたんだ」 「どうするの、悟郎ちゃん……」 「おれが話をする。頼むからおまえは黙ってろよ」 「そんなの、いやよ。あたしにだって、言いたいことは山ほどあるもの」  嫌がるおきみを説き伏せた悟郎は、その夜、みんなを永吉の仏前に集めた。 「なんだよ悟郎、おれが戻ってからじゃあ間に合わない話かよ」  栄太郎が気ぜわしげに口を尖らせた。 「霊巌寺の賭場に平田屋と行くんだろう」  栄太郎よりも、おふみの方が驚いた。 「なんのことだい、悟郎」  おふみが悟郎に険しい目を向けた。 「今日の昼過ぎに、嘉次郎さんがたずねてきたんだよ」 「嘉次郎さんて、あの担ぎ売りの嘉次郎さんのこと?」  悟郎がうなずいた。なつかしい名を耳にして、おふみの目から険が消えた。 「兄さんがいまだに平田屋と賭場に出入りしてるから、手遅れにならないうちに何とかしろって、わざわざ教えに来てくれた」 「ほんとうかい、栄太郎?」 「兄さん、どうなんだよ……嘉次郎さんの言う通りじゃないのか」  都合がわるくなると、栄太郎は口を閉ざしてしまう。返事をしない兄の前で、悟郎は昼間の話をもう一度繰り返した。 「嘉次郎さんはあたしをたずねて来たんだろ。なんでおまえが勝手に聞いたりするんだよ」  おふみが八つ当たりを始めた。口を挟もうとしたおきみを、おふみが凄い形相で睨みつけた。 「おまえたち二人は、栄太郎に冷たいよ」  おふみが声を尖らせた。 「あたしが嘉次郎さんと会ってたら、きっと言い方も違ってたろうさ。栄太郎、悟郎の言うことだけじゃ分からないからね」  これを聞いて、おきみの我慢が切れた。 「いい加減にしてよ。いまからみんなで、嘉次郎さんに会いに行きましょう。そうすればお兄ちゃんがどうなのか分かるから。それとも、平田屋さんに押しかけてみる?……あたしはどっちでもいいわよ」  ここまで言われても、栄太郎は口を開こうとしない。 「お兄ちゃん、なにか言いなさいよ」  おきみが兄の肩を手で揺さぶった。悟郎がその手を肩からどけた。おきみが声をあげて泣き出した。 「おっかさん、あたしが何でお嫁に行かないか分からないでしょう」  泣き声の娘を、おふみがきつい目で睨んだ。 「お嫁に行ったら、おっかさんは悟郎ちゃんを追い出して、お兄ちゃんと二人でお店をやるに決まってるわ」 「おとっつあんの仏前で、なんて嫌なことを言うんだよ」 「嫌なことなんかじゃないわよ。おとっつあんだって分かってるわ。あたし、ずうっとこの家に居着いて、おっかさんの思い通りにはさせないから」 「おまえって娘《こ》は……」  怒鳴り返そうとしたおふみを、栄太郎が止めた。 「悟郎、京やの蓄えから三十両くれよ。それぐらいはあるだろうが」  栄太郎の目が据わっていた。おもわず後ずさりしたくなるような目付きだった。 「おまえやおきみに文句を言われるのは、もう沢山だ。三十両くれたら、きれいさっぱり京やはおまえのものでいいからよ」 「ふて腐れるのは勝手だけど、平田屋のことはどうなのよ。ちゃんと返事をきかせて」 「うるせえ、おれは出てくって言ってんだ。三十両くれりゃあ、平田屋もへちまも関係ねえ。悟郎、さっさと三十両出しな」  栄太郎が怒鳴り声をあげた。悟郎はびくとも動かない。息子ふたりの睨み合いに、おふみが割って入った。 「栄太郎、おカネはなんにも遠慮しなくていいから持っていきな」  栄太郎のわきに移ったおふみが、悟郎とおきみを睨みつけた。 「あたしはおまえたちに、はっきり言っとくよ。店は栄太郎に継がせるからね。どこの世間に、長男が家を継ぐのを遠慮することがあるんだい。のぼせあがるのも、たいがいにしておきな」  言い捨てたおふみが、襖を乱暴にあけて奥に入った。三人が目でおふみを追った。明かりのない部屋から、ものを探す音が聞こえた。音が消えたら、胴巻を手にしたおふみが戻ってきた。 「これはおとっつあんが江戸に出てくるとき、大事に持ってきた胴巻さ」  おふみは三人のまえで、胴巻の中身をじゃらじゃらっとあけた。行灯の薄明かりのなかで、小判や二朱金、丁銀、豆板銀などが小山を築いた。 「おとっつあんと二人で京やを始めたのは、あたしが十九の歳だった。それから今日まで、あのひとも知らない蓄えをあたしは積んできたんだよ。栄太郎、これは全部おまえが持ってきな」  悟郎とおきみを見る目が、さらに険しくなっていた。 「あたしが貯めたおカネだからね。どう使おうが、とやかく言われる筋合いはないよ」  おふみは金貨、銀貨を胴巻に納め直すと、栄太郎に押し付けた。 「さあ、行っといで。おっかさんが雨戸をあけるから」  息子の手をぐいっと引いて立ち上がらせた。栄太郎の膝にのっていた胴巻が、どさっと畳に落ちた。 「ほら、大事なおカネだよ」  もう一度栄太郎の手に押しつけたおふみは、栄太郎とともに部屋を出た。  雨戸を開く音が響いてくる。悟郎とおきみは、言葉をなくして黙り込んでいた。 「かならず帰ってくるんだよ」  厳しい声で言い渡してから外に出した。 「かならず帰ってくるんだよ……」  最後は消えいるような声で呟いて、おふみは戸口に座り込んだ。  八幡宮の先から、犬の遠吠えが流れてきた。      三十七  霊巌寺には早咲きの桜が数十本も植わっている。数珠持ちの傳蔵は、賭場の庭越しに霊巌寺の桜を眺めていた。  梅と桜は、どちらも傳蔵のこころをかき乱す花である。季節になると、付合いの長い手下たちは、気に障る話を聞かせないようにと気を配った。  四歳のとき、亀戸天神で般若《はんにや》のおあきと呼ばれる女壺振りにさらわれたのが、梅から桜へと季節が移るころだった。傳蔵という名もおあきがつけた。  前日、おあきが二年をともに暮らした男が向島の出入りで斬り殺された。亀戸天神は、ことあるごとに男と遊びに行った土地である。気が尋常ではなかったおあきは、後先を考えずに迷子を連れ去った。  亀戸天神から戻った三日後に、おあきは霊巌寺裏の賭場から壺振りを頼まれた。布袋《ほてい》の拾蔵《じゆうぞう》という渡世人が仕切る、仲町や佐賀町、木場の旦那衆が集まる筋の良い賭場だ。おあきは傳蔵を連れて出向いた。 「親分、精一杯の壺を振らせてもらいます。あたしが盆をとってる間、奥で預かっといていただけませんか」  豊かな胸元を木綿で締め上げたおあきの盆は、旦那衆の受けがいい。場が沸くと、背に彫られた般若の眼が妖《あや》しく光り出すのだ。拾蔵は渋い顔も見せずに引き受けた。  賭場の異様な気配に傳蔵は怯えた。拾蔵は二ツ名通りの、頬が膨れた異形だ。傳蔵は部屋の隅でべそをかいていたが、駄菓子が届くまえに眠ってしまった。 「ぼうずが寝ちまった。ここでかまわねえから床をとりな」  拾蔵が傳蔵を抱えあげた。力の抜けた傳蔵の腕がだらりと垂れて、手首のアザが剥《む》き出しになった。  拾蔵の目が強くなった。傳蔵を寝かせたあとも、手首に見入っていた。  この夜は盆が大賑わいとなり、賭場には百両を超える寺銭が入った。 「てえした壺だった。これはおれの気持ちだ、受け取ってくんねえ」  身繕いを終えたおあきが顔を出したとき、膝元に切り餅(二十五両)が出された。 「幾らなんでも、こんな大金を」 「今夜のツキは、あんたが運んできたんだ。遠慮はいらねえ」  拾蔵の頬がいつもより膨れていた。 「この小僧は、どんなわけであんたが連れて歩いてるんだ?」  頬がぴくぴく動いた。やさしい目をしていても、このときの拾蔵には獣が潜んでいる。それを知り抜いているおあきは、正味を話すしかないことも分かっていた。 「御上《おかみ》に知れたら首が離れるぜ」  拾蔵には咎《とが》める様子がまるでなかった。おあきがふうっと気を抜いた。拾蔵の頬がさらに激しくひきつり始めた。 「小僧の手首にあるアザは、うちらの稼業には二つとねえ強い星だ。なにがあっても、手元から離しちゃならねえ」 「………」 「あんたさえ良きゃあ、五百両で小僧を譲らねえかい」  いまの拾蔵に逆らうのは、命のやり取りになりかねない。それでもおあきは断った。 「この子とはわずか三日の暮らしですが、もう手放せません」 「そうかい……」 「親分の話を聞いたから言うわけじゃありません、勘弁してくださいな」 「あんたがさらったんだ、でえじに育てな」  突き放した言い方に凄味があった。 「ありがとうございます」  おあきも引かない。 「その代りというのも何ですが、親分のおっしゃることは、どんなことでも受けさせていただきます」  互いの目がもつれあった。先に外したのは拾蔵だった。おあきの首筋から胸元を、拾蔵の目がゆっくりと舐《な》めた。 「分かった、聞こえたぜ」  数日後、おあきの宿に拾蔵の代貸が若い者ふたりを引き連れてきた。 「姐《あね》さん、あの子は」 「はばかりじゃないかしら」 「この辺りの寺に、触れ書きが回ってやす。どうやら、永代寺が元らしいんで」 「えっ……そんな大きなお寺が」 「めっかるとただじゃあ済まねえと、親分が気を揉んでやす。ほとぼりが冷めるまで、うちに来てくだせえ」  この日からおあきは拾蔵に身を任せた。傳蔵は一年の間、欲しいものは何でも与えられたが、一歩も外に出ることができなかった。歳を重ねるごとに、こどもは昔を忘れた。  傳蔵が二十三の年に拾蔵が息を引き取り、一家はおあきが継いだ。跡目を継いだおあきは傳蔵を代貸に据えた。  背丈は五尺五寸とさほどでもなかった。しかし拾蔵が見抜いた通り、賭場を仕切る器量には一家のだれもが舌を巻いた。 「代貸には、壺のなかが透けてめえるんじゃねえか」  傳蔵には天性の勘働きに、壺振りおあきの伝授が加わっていた。 「あたしの跡はおまえだよ」  傳蔵が三十路に差し掛かった年に、おあきは一家を集めて跡目を譲ると言い渡した。もちろん反対するものはいなかった。傳蔵に一家を渡せて安堵したおあきは、翌年秋に鬼籍に入った。  三十二歳を迎えた明和二(一七六五)年の正月、傳蔵はあたまと眉とを剃った。  拾蔵には布袋の風貌が、おあきには見事な般若の彫り物がそれぞれあった。ひとかどの親分として名を売るには、相応の二ツ名が必要である。  眉を落とした禿頭という異形で特大の数珠を手首に巻いた傳蔵は、数珠持ちの傳蔵襲名を告げた。  途方もない寄進を続けたことで、拾蔵、おあきの墓は霊巌寺に構えることができた。四歳からともに暮らしたふたりが両親だった。  傳蔵は盆暮れ両彼岸の墓参を、堅気衆から隠れるようにして続けた。賭場で生身の人間相手に、殺生ぎりぎりの稼業を続ける傳蔵は、篤《あつ》い信心を隠し持っていた。  ほとんど忘れていた昔のことを、安永二(一七七三)年に平田屋庄六が思い出させた。傳蔵四十、庄六四十六の春だった。  小柄で眉が太く、いつもひたいに脂を浮かせた庄六は、遊びもまことに倹《つま》しかった。たまに浮いても祝儀を出さない。そんな庄六が賭場で好まれるわけがなかった。 「親分、むしっちまいてえのがいるんで」 「深川の客か」 「三好町で、平田屋てえけちな豆腐屋をやってやす」 「豆腐屋だと?」 「へい、それがなにか」 「おれが会う」  傳蔵がじかに会う客は、わずかひと握りである。手下の方がおどろいた。 「代貸が平田屋さんの商いぶりを高く買ってるもんでね。ゆっくり話を聞かせてもらいたかったんだが、迷惑じゃないだろうね」  庄六は問われるままに、深川界隈の豆腐屋の有様《ありさま》を喋った。  永代寺向かい側の相州屋が、蛤町裏店の京やに潰された。京やは上方から出てきたよそもので、深川の評判はいまでも散々だ。ところが相州屋の虎の子だった永代寺に取り入り、客を横取りして相手を潰した……。庄六が話したあらましである。 「これはお近づき代りだ。ゆっくり遊んでいくといい」  傳蔵は一両の駒札を渡して、庄六を賭場に送り込んだ。代貸の弐介はその場に残した。 「しばらくは浮からせていい。どうせ大した遊びはできねえ男だ」 「いまの一両、遊ばずに胴で銭に替えちまうかも知れやせんぜ」 「好きにさせろ」  傳蔵が口元をゆるめた。 「役者を呼んでくれ」  役者とは、傳蔵が代貸のころから使っている探りを生業《なりわい》にしている男で、名を与三六《よさろく》という。歳は傳蔵より五つも上だが、三十まえの手代に化けても見破られなかった。 「深川の蛤町が分かるか」  どんな髪形の鬘《かずら》でもかぶれるように、与三六も禿頭である。 「幾つか裏店が集まっているあたりです」 「その長屋のどれかに、京やという豆腐屋がある。どんな商いか見てきてくれ」 「分かりました。三日のうちに」  これだけの指図で、傳蔵の知りたいことを調べあげる。払いは一件二両、役者は高いだけの仕事をした。 「永吉という上方から出てきた職人が、おなじ店に住んでいた桶屋の娘、おふみと所帯を構えて始めた豆腐屋です」  掛取り帖のような綴りを目で追いながら、与三六はひと区切りずつ話を進めた。 「永吉は三十六、おふみは三十。京やを始めて十二年目です。こどもは栄太郎が十一、悟郎が八つ、おきみが五歳です」 「ふたおやはどうなっている」 「永吉の在所は京の東山で、そちらのことは分かりません。探りますか?」 「いや、いらねえ」 「おふみは悟郎を産んだ年に父親を、おきみが三つのときに母親を亡くしました」 「孫ができるたびに親を亡くしたわけか」 「そうです。父親は堀に落ちて死んでいますし、母親は車に轢かれたそうです」 「なにかに祟《たた》られたみてえな、いやな死に方だぜ。永吉とおふみに、因業な評判でも聞こえたか」 「まるでありません」  与三六がきっぱりと言い切った。傳蔵がさきを促した。 「得意先は永代寺、汐見橋そばの濱田屋、それに仲見世の江戸屋です。納めには毎日出ていますが、数までは分かりません」  茶を飲んだ与三六が、綴りを一枚めくった。 「わるい評判は聞きませんでしたが、おふみは酷《ひど》い女です。探りの初日、おこも姿のあたしを長屋から追い出しました」  傳蔵の眉のあたりが小さく動いた。役者が口を閉じた。長い付合いのなかで、呼吸は知り尽くしていた。 「で、あんたの心証は」  目を役者に戻した傳蔵が答えを求めた。遊びに来る客の素性や振舞を探り終えた役者が、駄目ですと答えれば、賭場は苛烈な顔に豹変するのだ。 「豆腐を食べましたが旨い味です。あれなら、いずれ表通りで商いを始めるでしょう。障《さわ》りがあるとすれば女房です。ただ、あの女は分からない」 「あんたらしくもねえ答えだな」 「あの手の女が思い込むと、突当《つきあた》りまで行きます。周りの評判を集めたところでは、あたしに見せた顔だけとは思えないんだが……」  裏店で小さな商いをやっている豆腐屋に、これ以上かかわることでもねえ……。  これで決まりだった。  十二年の歳月が流れ、傳蔵五十二歳の春に、またもや平田屋が京やがらみの話を持ち込んできた。 「平田屋がどうしても親分に話をきいてもらいてえてんで、おもてで待ってやすが」 「おめえが繋ぐほどの話だろうな」  霊巌寺の桜が満開だった。弐介が言葉を詰まらせた。 「連れてきな」  傳蔵が代貸に笑いかけた。庄六は相変わらずひたいが光っていた。 「いい儲け話です。あたしの言うことを、聞いてもらうだけでいいから」  傳蔵があごをしゃくって話を進めさせた。 「十年以上も昔に、親分から深川の豆腐屋のことをきかれたことがありましたが、覚えておいでかな」  傳蔵がわずかにうなずくのを見た庄六は、あとを一気に捲《まく》し立てた。  近ごろ深川で羽振りのいい豆腐屋がある。まえに話した上方から出てきた京やという店だ。二年ほどまえ、そこの跡取りが寄合に初めて出てきた。見るからに甘く育った男で、洲崎の女郎遊びに連れて行ったら、すっかりはまり、いまは言いなりになっている。 「ここに連れて来ます。それほどの身代《しんだい》じゃあないが、五十やそこいらの稼ぎにはなる。ひとつこちらで可愛がってやってはもらえませんかなあ」  庄六がおもねるように傳蔵を見た。 「商売敵をおれに潰させて、得意先をいただこうてえ絵図か」  余りに見え透いた話に、傳蔵は腹を立てる気もおきなかった。庄六は、まだ追従笑《ついしようわら》いを浮かべている。 「その跡取りをきっちり追い込んで、豆腐屋を潰すまでで千両。それなら乗ってもいい」 「ええ……そんな……」 「うちらは賭場で稼いで幾らの稼業だ。五十ばかりの客を追い込んで、怨みを背負い込むてえ勘定には、どんな算盤を使うんでえ」  傳蔵の伝法な口を初めて聞いて、庄六は震え上がった。 「京やてえなあ、裏店でちんまりやってたんじゃねえのかよ」 「それが……どういう伝手《つて》を使ったのか、四年前の正月明けから仲見世に移ってきましてね。それも呆れたことに、自分が得意先を横取りして潰した店にです」  傳蔵の目がひかりを持ったが、すぐに消して話を続けさせた。 「あそこは、もともとあたしが目をつけていた家作だ。上方もんに横取りされて黙っていたんじゃあ、深川の名折れです」  しばらく黙っていた傳蔵が、庄六をまともに見据えた。 「千両てえ銭に、二つ返事もできねえだろう。一度ここで遊ばせてみな」  庄六は揉み手で身を乗り出した。 「それでは早速に。ところで親分、こんど連れてきても、千両を承知したことにはならないと……そこんところは、間違いのない話にしておきたいんですが」 「念には及ばねえ」  傳蔵がきつい声で話を閉じた。  春の終わりに初めて顔を出した栄太郎は、小さな遊びを続けていた。が、一年過ぎた天明六(一七八六)年の夏に、二両のつけを賭場に溜めた。 「どうしやしょう」 「今日から十五日の期限で五両。これでおめえの好きにしな」  日限の夜、四ツ(午後十時)まで待ってから、卯ノ吉は傳蔵のまえに顔を出した。 「相手は豆腐屋でさあ。夜明けにのぞいて来てえんで」 「野郎がいても、その場で取り立てるんじゃねえ。明日の九ツ(正午)に寄越しな」  一度は京やを捨て置いた。しかし客を横取りしたうえに、潰した家に乗り込んできた遣り口は許せなかった。傳蔵は京やを潰すと決めていた。ただし平田屋に渡す気は毛頭なかった。  栄太郎は刻限ぎりぎりにやってきた。怯え切って、言葉が上擦《うわず》っている。  話すのも億劫になった傳蔵は、幾つか脅しを散らせて追い返した。栄太郎が置いて帰った小袋を逆さにしたら、金銀、小粒がじゃらじゃらっと畳に落ちた。  賭場を行き交うカネは、一両小判か一朱、二朱の金貨がほとんどだった。平田屋ですら、二朱判で駒札を買っている。畳のうえの小粒や銀判からは、堅い商いぶりしか伝わってこない。  京やを潰そうとした気が失せた。  傳蔵は卯ノ吉を呼びつけた。 「あの豆腐屋に、つけはやめろ」  傳蔵はもう一度京やに蓋をした。  いま霊巌寺の桜をぼんやり眺めている傳蔵は、すでに五十七になっていた。  傳蔵には賭場の稼ぎよりも、筋目を重んずるところがあった。この歳になっても、相手の出方次第ではみずから仕留めに動いたりもする。同時に篤い信心と情の深さを抱えていた。  背中合わせになったこのふたつの性分を、傳蔵の手下は畏れ、慕っている。 「豆腐屋の跡取りが、また三日にあげず顔を出してやす」  今朝方、卯ノ吉から聞かされた。 「弐介兄いの平田屋が引っ張り込んだ、京やてえ豆腐屋のばか息子でさあ」 「卯ノ吉、つけは止めたはずだぜ」 「もちろん一切ありやせん。なにをかんげえてんだか、平田屋が駒を回してる様子なんで。去年の秋に、京やの親父が死んだとか弐介兄いに言ってるようですが」  平田屋がものにしようてえわけか……。  霊巌寺の桜を、気まぐれな春風が空に散らしていた。      三十八  行灯がじじっと鳴いて明かりが揺れた。  隙間風を気にした悟郎が、おふみの枕元から立ち上がった。居間のふすまを、カタンと音をさせて閉じた。  陽が落ちて賑わいが消えた秋の夜は、こおろぎの鳴き声を際立たせた。 「栄太郎……」  おふみが悟郎と|すみ《ヽヽ》に聞こえるように呟いた。かすれ声を聞いたすみが座を立った。うしろ手に閉じると、小さな溜め息をついて流しに向かった。  寛政三(一七九一)年九月の夜、ふすまを閉じたすみを、おふみは定まらない目で追っていた。  去年の春先に、栄太郎は母親が蓄えた三十七両を手にして家を出た。悟郎、おきみと大喧嘩の末にである。  非は栄太郎にあった。おふみも理屈では分かっていた。しかしそのことと、栄太郎を想うこととは別だった。おふみが栄太郎をかばう底には、長男を不憫に思う気持ちが横たわっていた。  栄太郎が生まれたときの京やは、行く末がどうなるか分からなかった。当時のおふみは、京やをもり立てることが先にあり、栄太郎は京やのあとだった。  乳飲み子の栄太郎を、真冬の炊き出しにも、暑いさなかの外回りにも背負って出た。剃刀であたまを傷つけたおふみは心底から悔いたし、いまでも火傷の痕を見ると胸が痛んだ。  源治や永吉から、猫かわいがりするなと責められても、おふみは栄太郎を構い続けた。しかしそれも、悟郎ができるまでの間だった。  悟郎が生まれ、おきみが生まれた。その間に、京やは確かな足取りで育っていた。店は裏店から移ってはいなかったが、栄太郎が生まれたときほど先行きへの不安はなかった。  悟郎もおきみも、豊かな暮らしのこども時分を経たわけではない。しかし先が見えないなかで育った栄太郎は、他のふたりとは質の異なる苦労を味わっている、とおふみはずっと思ってきた。  時期がくれば呼び戻せる……。  栄太郎が出ていったあと、おふみは繁盛した店を長男に譲り渡せるようにと、豆腐造りに没頭した。  永吉が急死したあとの京やは、造りを悟郎が受け持ち、おふみは下働き同様の役回りだった。それが突然、豆腐造りをやり出したのだ。 「あたしだって十数年、おとっつあんとふたりで豆腐を造ってたんだからね。おまえに負けたもんじゃないさ」  いきなり割り込んできたおふみに、悟郎は面食らった。しかしおふみが造った豆腐、なかでも茶碗豆腐は細やかな舌触りの、見事な仕上がりである。 「親父の造った豆腐と変わらない」  悟郎は舌を巻いた。このときばかりはおきみも素直に感心し、以来、茶碗豆腐はおふみの仕事となった。 「おっかさんがやる気になってよかったよ」 「そうね……見直しちゃった」  おふみに別の思案があることにまでは気が回らず、ふたりは大喜びした。思い違いの深さをおふみから突きつけられたのは、悟郎の祝言話を三人でしたときだった。 「嫁が入って来たりしたんじゃ、栄太郎が戻りにくいじゃないか」  目を吊り上げた母親を、悟郎もおきみも久しく見てなかった。 「順番から言ったって、あの子がここに嫁を迎えるのが先だよ」  悟郎が所帯を構える相手は、広弐屋の娘、すみであった。 「広弐屋さんは、うちの大事な仕入れ先じゃないか。うちなんかとは釣り合いっこないし、向こう様も許しちゃくんないさ」  おふみは頑《かたく》なに反対した。 「すでにお許しをもらったんだよ」 「あたしの知らないところで、おまえが勝手に話したというつもりかい……ばかいうんじゃないよ」 「おっかさんは、悟郎ちゃんの縁談が嬉しくないの?」  おきみと悟郎のふたりに迫られて、最後にはおふみも、勝手にすればいいだろう、と放り投げた。  祝言の段取りや、広弐屋との話し合いは母親に代っておきみが受け持った。段取りが運び始めると、おふみが折れた。  栄太郎の代になっても、広弐屋さんにはお世話になる……と考えたからだった。  寛政二年十一月、江戸屋で内輪だけの宴を持った。もちろん栄太郎にも声をかけ、おふみの隣に座らせた。  ところが栄太郎は、披露宴の始まりから妙に遠慮気味だった。祝いの座に入って騒ぐでもなく、広弐屋の当主や息子とも、ほとんど目を合わせない。 「栄太郎、どこか具合でもわるいのかい」  おふみが問いかけても、煩《わずら》わしげな目を向けるだけである。座がお開きとなったとき、江戸屋が調《ととの》えた折詰を手にすると、あいさつもそこそこに帰ろうとした。 「栄太郎、お待ち……」  長男の袖を母親が掴んだ。 「そこまで送ってきますから。おきみ、あとはお願いしますよ」  ふたりが連れ立って歩く仲町は、鳶や香具師《やし》たちが屋台の準備で大騒ぎしていた。通りにずらりと並んだ提灯には、景気づけに灯が入っていた。 「あしたはお酉《とり》さまだよ。年々、深川の酉の市も賑やかになってくるねえ」  話しかけても栄太郎は応えない。おふみは、提灯に照らし出された通りを黙って歩くしかなかった。 「おふくろ、ここでいいからけえってくれ」  仲町の角で明かりが切れた。その暗がりで、目だけが光った栄太郎が母親を突き放した。 「栄太郎……栄太郎ったら……」  声をかけても振り返りもしない。一歩踏み出したおふみは、拒むような息子の肩を見て立ち竦《すく》んだ。栄太郎が闇に溶け込み、姿が見えなくなるまでおふみは動けなかった。  ともに暮らし始めると、すみは気働きのある嫁だと、おふみも認めざるを得なかった。師走に向かって、日ごとに水が冷たくなる。京やを始めて三十年が目の先のおふみだが、冬の水はいまだにつらい。  不自由なく育った娘だ、すぐに音《ね》をあげるに決まってる……いつ泣きが入るかと、すみの様子を見ていたが、一向に弱音を吐かない。  毎日の商い仕舞いには、水風呂洗いを受け持ち、手を真っ赤にして洗った。  しかしどれほどすみが尽くしても、おふみはやさしいことが言えなかった。嫁が働けば働くほど、おふみは腹立たしさを募らせた。  我が物顔で働くんじゃないよ。ここは栄太郎の店なんだから……こうでも思わなければ、陰《かげ》日向《ひなた》なく働くすみを邪険に扱うのがつらかった。  元気なつもりでも、五十に手が届きそうなおふみである。最初の発作は春に起きた。  茶碗に豆乳を流し込んでいたとき、胸に鈍い痛みを覚えて、その場にうずくまった。 「どうしたんだ」  おふみは土気色の顔でものが言えなかった。悟郎は山本町の町医者、大野岱善のもとに飛んだ。 「心ノ臓が腫れておるが、薬ではこの腫れを治すことはできん。だましだまし、無理をせずに養生するほかに手立てがない」  岱善はこう診立てると、十粒の小さな丸薬を調合した。 「これは発作を鎮める頓服《とんぷく》だ。いっときは効くが、治すわけではない。次の発作が大きければ、それなりの覚悟がいるぞ」  岱善にきつく言われた悟郎は、おふみを店から遠ざけて養生に専念させた。  おふみも当初は言いつけを守り、外出も富岡八幡宮へのお参りぐらいに慎んでいた。  しかし豆腐造りはおふみの生き甲斐である。梅雨に入ると、元通りの仕込み作業に戻っていた。  岱善も悟郎もおふみをきつく諫めた。 「豆腐に埋もれて死ねるなら、だれにも文句は言わないから」  おふみは悟郎を押し切った。 「ちょっとでも様子がおかしかったら、薬を飲んで横になると約束してくれよ」  その挙句の、二度目の発作が今朝だった。 「これは質《たち》がわるい。持っても、今日一日が精一杯だろう。薬でどうにかできることは、もう何もない」  岱善はおふみを触診しただけで、山本町に帰った。  おふみにも、今度は無理だと分かっていた。 「おきみをここに呼んどくれ」  岱善が帰ったあと、胸の重たさが和らいだところで娘を枕元に呼んだ。 「海辺大工町の政五郎さんという鳶のかしらのところに、栄太郎がいるから」 「お兄ちゃん、鳶なんかをやってるの」  おきみの驚き声にうなずき返したおふみは、早く呼んできておくれと娘を追い立てた。  陽が落ちると、おふみの息が調子を乱して細くなった。  早く顔を見せておくれ……。  何度も気が遠くなった。おふみは執念で気を手元に引き止めていた。 [#改ページ]    第 二 部      三十九  すみの実家《さと》は日本橋青物町の雑穀問屋、広弐屋《ひろにや》である。すみが悟郎を初めて見たのは安永四(一七七五)年の夏。すみは八歳、悟郎は十歳だった。  その日悟郎は、永吉の仕入れについて来ていた。  広弐屋の裏には大川につながる楓川《かえでがわ》が流れており、川端には柳が植わっている。すみは川の眺めが好きだった。  広弐屋への大きな荷は舟で着く。店の小僧や荷役人夫たちが、手渡しで荷揚げするさまや、川を行き交う大小とりどりの舟は、いつもすみの胸をわくわくさせた。  荷揚げが終わると、俵からこぼれた雑穀めがけて、すずめや鳩、カラスなどが舞い降りてくる。餌をついばむ姿を見るのも、すみの楽しみのひとつだった。  朝方は魚河岸の客で賑わう楓川沿いも、昼を過ぎれば落ち着きが戻る。その日、紺菱柄の浴衣に紅帯を締めたすみの周りにひとはおらず、すずめが群がっていた。  荷揚げされたばかりの米粒を、すみが地面に振り撒《ま》いていた。何十羽ものすずめが、赤い鼻緒の塗り下駄をはいたすみについて移り動く。  永吉は番頭と仕入れの掛合いを続けていた。おとなの話に飽きたらしい悟郎は、川べりですみとすずめの様子をめずらしそうな顔で見ていた。  すみの前方から、一匹の野犬がよろけながら歩いてきた。すみは気づかないまま、すずめと遊んでいる。深川で狂犬を見ていた悟郎は、歩き方も怖さも知っていた。 「あぶないよ。はやく家に入りな」  十歳の悟郎はすでに背丈が五尺三寸(百六十センチ)を超えていた。真っ黒な顔をした見知らぬ男の子に乱暴な口をきかれたすみは、ぎょっとして立ち竦《すく》んだ。  突然、すずめの群れが飛び立った。よだれを垂らした犬が、低く身構え牙を剥《む》いている。犬が捉えているのは、すみの先の悟郎だ。すみをひったくるようにしてうしろにかばった悟郎は、素早い動きで数個の小石を拾った。  唸り声をあげつつ、犬は鼻面を低くして悟郎に近づいた。すみが帯を掴んでいる。悟郎の口がカラカラになった。  さらに犬が近寄った。ひとっ跳びで悟郎に襲いかかれる間合いだ。小石を握った悟郎の右手に力がこもった。それを察して、犬がひときわ大きく唸った。  そのとき、広弐屋の角から半纏姿の職人が歩いてきた。 「おい小僧、動くなよ」  背中越しに聞こえたおとなの声に、悟郎はほっとして力が抜けた。同時に犬が飛びかかってきた。悟郎はすみに覆いかぶさって守ろうとした。  悟郎が背をかがめたことで、職人の投げた小石が狂犬の鼻先に命中した。宙を飛んだ犬の顔が歪み、きゃいいんとひと鳴きして逃げ去った。 「坊主、なんともねえか」  職人が悟郎に声をかけた。おとなの声が聞けて気が抜けたのか、すみが大声で泣き出した。その泣き声で広弐屋から手代が飛び出してきた。  手代の顔を見たすみの泣き声が大きくなった。手代と一緒に店から出てきた大柄な男が、こどもを悟郎と呼んだ。  これが悟郎との出会いだった。  夏の日の出来事は、身を盾にして狂犬に立ち向かってくれた、大柄で真っ黒な悟郎の姿かたちをすみに刻みつけた。  悟郎の着ていた継ぎの当たった木綿も、紺色の帯も擦り切れそうだったわらじも、はっきりと覚えていた。日本橋界隈では見かけることのない身なりを、何度も思い出した。  自分に覆いかぶさったときの、油くさい匂いも覚えていた。しかし歳を重ねるとともに、思い出は次第に薄らいでいった。  十六歳の正月を過ぎると、方々から縁談が持ち込まれ始めた。幾つもの仲人口を聞かされるのは、年頃の娘ならではの喜びである。 「まだすみには早すぎる」  吉右衛門はこの年の見合いをすべて断った。話は喜んで聞くものの、すみがまだ嫁ぎたくなさそうな素振りを見せていたがゆえである。  明けて天明四(一七八四)年。蔵前の乾物屋信濃屋のあるじが、両国広小路の料亭吉羽屋の長男との見合いを仲立《なかだち》してきた。  広弐屋の大得意先からの話でもあり、吉右衛門も受けた。十六とはわずか一年違いだが、十七歳を迎えれば嫁ぐにも妙齢である。すみも素直に応じた。  見合い相手はしわのないつるんとした顔と、月代《さかやき》が艶を持った二十一歳の男だった。 「この方になら、行く末は安心して女将を任せられます。ぜひ息子の嫁に」  黒く澄んだ目、薄紅色の口元をしたすみを見て、本人よりも母親が大乗り気だった。両家の身代は嫁ぎ先がわずかに大きく、釣合《つりあい》の取れた良縁だと双方の縁者も喜んだ。  両親が喜ぶ縁談ならと、すみは成り行きにまかせた。  婚礼は十八の春に挙げられた。嫁ぎ先の料亭の大広間を、二百人の祝い客が埋めた。  またとない良縁に見えたが、添うてみるとなんとも幼い男だった。  ことが起きると、すぐに母親に泣きつく。母親は板長にも遠慮のない叱りをいう女将だったが、息子には手をあげることも、叱ることもしない。  嫁にではなく自分に頼みごとをする息子に、女将は目を細めた。息子はまるで我慢がきかず、しかも好色だった。  料亭の仕組みを覚えるのが嫁の務めだと姑からいわれたすみは、帳場や板場の手伝いから始めていた。 「すみ、おいで」  働いていようが、構わずすみを寝屋へと呼びにきた。陽の高いときに鼻にかかった声で呼ばれると、蔑《さげす》むような目が周りから突き刺さる。少しでも応じるのが遅れると、顔を歪めて連れにきた。  床に入ると男は身勝手だった。さほどの情も感じないままに嫁いだすみは、抱かれるたびに苦痛が増した。ことが終わると、男はさっさと床を離れる。やっとの思いで身繕いを整えて部屋を出ると、姑の目に射抜かれた。  食事の支度も身につけるものの世話も、姑が独り占めにした。湯上がりの下帯まで姑が世話するさまに、すみは陰で身を震わせた。  春に嫁いで半年。すみの頬が落ち、腰回りからも豊かさが失せた。下谷正燈寺のもみじが話にのぼるころには、男はすみをほとんど求めなくなっていた。奉公人たちの冷笑が憐れみに変わった。 「おきぬ……」  すみのまえで男が仲居を呼んだ。姑は笑いながら見過ごした。すみは仲居や板場の目が変わった意味を得心した。  その年初めての木枯らしが大川を吹き渡った日に、すみは料亭のお仕着せのままで青物町に戻った。 「世間がなにを言おうが、おまえの好きにすればいい」  やつれ果てた娘が粗末なお仕着せ姿で戻った日の夜、吉右衛門は多くを言わず受け入れた。破談は広弐屋の大きな得意先の幾つかを失わせた。 「ご縁がなかっただけのことだ」  吉右衛門はまるで意に介さなかった。  すみが出戻って四年目、寛政元(一七八九)年の秋に京やの永吉が急死した。 「仲見世に越して、これからという時じゃないか。永吉さんもさぞ無念なことだろう」  心底から永吉の死を悼《いた》んだ吉右衛門は、当主が参列する格でもない京やの葬儀に、自ら焼香に出向いた。 「永吉さんの人柄が偲ばれる、いいお葬式だったよ」  羽織にかかった清めの塩を払いながら、吉右衛門は弔いの様子を伝えた。 「次男の悟郎さんは、亡くなった永吉さんに身体つきもよく似ている。長男の栄太郎さんはいまひとつ分からないが、悟郎さんはいい職人になる」  すみの顔色が変わった。  悟郎という名を耳にして、八歳の夏をいきなり思い出したのだ。大柄で真っ黒だった姿も、はっきり思い浮かべることができた。娘ごころに隠し持っていた淡い想いもよみがえった。  しかし嫁ぎ先から不縁となったいまは、もう一度嫁ぐなどは見果てぬ夢である。なにより悟郎の歳なら、所帯を構えているに違いないと思えた。  町場の豆腐屋と広弐屋とでは、家の格も違い過ぎる。  あり得ないことだとは分かっていた。それでも広弐屋から伸びた細い糸が、悟郎に繋がっていると考えるだけで、すみの気持ちはときめいた。 「お兄さん、お願いがあります」  吉右衛門から悟郎の名を聞いた翌日、すみは兄の正太郎に相談を持ちかけた。 「わたしがのれる相談だといいが……」  妹の顔を見て正太郎は戸惑った。両国の嫁ぎ先から逃げ帰った夜でも、すみはここまで思い詰めた顔をしていなかった。 「お店の帳場を手伝わせてください。帳面も算盤もできますから」  料亭で暮らした半年の間に、すみは算盤の腕をあげて帳面付けを覚えていた。  七つ年上の正太郎は、すでに広弐屋の商いを吉右衛門から任されていた。しかしすみの頼みは、正太郎が一存で決められる領分を超えていた。吉右衛門の意向も、番頭安次郎の考えも聞かなければならない。 「すみの気が晴れるならいいことだ。安次郎の指図でやらせてみなさい」  父親はひと晩考えたあとで、娘の頼みを聞き入れた。吉右衛門の許しが得られたすみは、翌日から帳場の端で勘定付けの手伝いを始めた。売掛帳によると、京やは毎月五日が仕入れ日だ。  会えるとすれば十一月五日……。  すみは暦を胸に刻みつけた。どうなるわけでもないが、悟郎が広弐屋にあらわれると思うだけで気持ちが弾んだ。 「今年も顔見世に行きましょうね」  十一月が近づくと、母親のおひさがすみを歌舞伎見物に誘った。年に一度の芝居見物をおひさは心待ちにしている。 「お店の手伝いを始めたばかりだし、今年は遠慮しておきます」  思いがけない断りに、おひさは気落ちした顔を見せた。しかし娘の言い分には筋が通っている。 「分かりました。それなら三日の酉の市に行きましょう。八ツ(午後二時)過ぎなら、おまえも行けるでしょう」  断る理由がなかった。すみは気乗りしないまま、おひさと兄とで出かけることにした。 「歌舞伎をやめたことだし、今年は少し遠出をしてみましょう」  おひさは広弐屋を出るやいなや、正太郎に持ちかけた。 「鉄砲洲稲荷のお酉さまが、大層な賑わいだそうです。帰りは茅場町の岡本で、うなぎでもいただきましょう」  おひさの足取りは浮き浮きしていた。稲荷橋に近づくと、道の両側に露店が連なり始めた。急ぎ足で落ちてゆく陽が、稲荷橋の朱塗り欄干を照らしていた。 「広弐屋の若旦那さん」  人込みの後ろから正太郎を呼ぶ声がした。おひさもすみも振り返った。人波をかきわけて、京やのおふみが近寄ってきた。そのうしろに、三人の若い男女がついていた。 「その節は、わざわざ大旦那様にお越しいただきまして」  おふみが立ち止まってあいさつを始めた。 「こんな人込みでなにやってやがんでえ」  乱暴な声が飛んできた。 「とにかく橋を渡ってしまいましょう」  正太郎の言葉で、急いで稲荷橋を渡った。境内も凄まじい賑わいだが、参道わきにぽっかりと隙間が見えた。正太郎が先に立ち、みんなを呼び寄せた。  すみには悟郎がすぐに分かった。  だが弾んだ気持ちはあっけなく失せた。悟郎に寄り添うようにして、年頃の女《ひと》が並んでいた。  気落ちして参道の玉砂利に目を落としたとき、正太郎があいさつを始めた。 「このたびはまことにご愁傷さまでした。わたしもご焼香にうかがえれば良かったのですが、父ひとりにまかせてしまいました」 「いいえ、とんでもない」  おふみの声が甲高い。悟郎の横にいたおきみが、母親のたもとを引っ張った。 「こんなところでなんですが、いい折りですから顔つなぎをさせてもらいます」  おふみが栄太郎、悟郎、おきみの順に並ばせた。 「跡取りの栄太郎に、次男の悟郎、それに娘のおきみです」  名を呼ばれたものがあたまを下げた。  妹だと分かって、すみは声をあげそうになった。慌てて口元に手をやった。 「まだ喪も明けてませんが栄太郎が京やを継ぐもんですから、思い切って熊手を授かりに来ました」 「それはよろしいことですね」  おひさが初めて口を開いた。 「京やさん、この先の茅場町でうなぎをご一緒しませんか」  正太郎もすみも、母の言うことに大きくうなずいている。 「どうしよう、栄太郎……」 「せっかくお誘いいただいたんだから」  長男が如才のない答え方をした。 「それでは厚かましいようですが、遠慮なくご一緒させてもらいます」  おふみと栄太郎とが深々と辞儀をした。熊手は正太郎と悟郎とが求めに行った。ふたりが戻ってくると、みんなが連れだって茅場町へと歩いた。  岡本は界隈でも評判のうなぎ屋で、広弐屋も月に一度は商いで使っている。おひさの顔を見知っていた仲居は、二階座敷に案内した。  岡本のうなぎは、出てくるまでに暇がかかる。繋ぎの酒をやり取りしたことで、互いがすっかり打解《うちと》けた。 「あたしが栄太郎の頭を剃っていたとき、近所の野良犬が大きな声で吠えたんですよ。それで息子のあたまを剃刀で傷つけちゃった」  酒が口を滑らかにしたのか、こどもにも話さなかったことを、おふみが座興がわりに口にした。一同がほうっと驚くと、正太郎がすみを見ながら話を引き取った。 「わたしの妹も、小さいとき店の裏で、狂い犬に噛まれそうな目にあったんです」  こんどは全員の目が正太郎に集まった。 「出入りの職人から聞いた話ですが、そのとき同い年ぐらいの男の子が身を盾にして、妹をかばってくれたそうです……」  兄の話を聞きながら、すみは悟郎に目をあてていた。  途中から悟郎の表情が変わった。ふっと前を見たとき、すみとまともに目が重なった。  ふたりは目だけで通じ合った。      四十  母親に義理で付き合った酉の市が、思いも寄らない悟郎との出会いを与えてくれた。  もしかしたら………。  この日すみが胸のうちで膨らませた願いは、翌年の同じころに成就した。寛政二(一七九〇)年十一月、一の酉前日に江戸屋の二階座敷で身内だけの祝言を挙げた。  すみは婚礼前に、おふみと栄太郎のことは何度も聞かされていた。  姑となるおふみが長男をことのほか大事にすると聞かされたとき、すみは両国での日々を生々しく思い出した。また母親離れのできていない男と、ひとつ屋根の下で暮らすのかと思うと、いっとき気持ちが萎えそうになった。  でも悟郎さんのことではないから……すみはそう考えて、気をとり直した。  姑と義兄のことは、嫁ぐまえになんとか自分のなかで折り合いがついた。暮らしてみなければ分からない、と案じたのはおきみのことだった。  すみとおきみは歳がひとつしか違わない。おきみとは、悟郎と一緒に何度も会った。いつもすみにやさしく、一緒に暮らせて嬉しいとまで言ってくれた。  でも……とすみは考え込んでしまう。  お嫁にも行かず、懸命に悟郎を助けてきた義妹と、仲良く折り合えるだろうか……。  この嫁ぎ先をしくじると、どこにも住む家がないと、すみはわきまえていた。  苦労はどこにでもあるもの。想いがかなって嫁げるわたしは果報者……この気持ちが、すみを支えてくれるはずだった。  嫁いだ翌朝から、すみは京やの下働きを始めた。 「なかのことはあたしがやるから、すみさんは悟郎ちゃんの手伝いをしてね」  これがすみとおきみの取り決めだった。 「お互いの仕事をきちんと決めとけば、余計な気を遣わなくて済むから」  おきみとの折り合いが気懸かりだったすみは、この申し出に安堵した。それでもひとつ屋根の暮らしが長くなるにつれて、おきみの目や振舞は気になった。  悟郎とふたりでいると、おきみは加わろうとせず、流しや井戸端に行ってしまう。洗いものをしているおきみに、すみは肩越しの声がかけられなかった。  しかしこの程度の気詰まりは、姑とのことに比べればものの数ではなかった。  嫁いだときには栄太郎はすでに京やを出ており、義母は豆腐造りに命懸けのようだった。 「おかあさんは、まるであなたとお豆腐造りを競っているみたい……」  すみがおもわず漏らしたほどに、おふみの豆腐造りは凄まじかった。  悟郎やおきみの目があるところでは、おふみも必要な口はきいた。しかしふたりだけになると、すみが何を言っても目を合わさず、ないがしろにした。 「気に入らなければいってください。かならず直しますから」  悟郎もおきみもいないときを見計らって、すみは意を決めておふみに切り出した。それでもおふみは答えない。すみは姑と向かい合って座ろうとして、おふみのたもとを引いた。  力負けして嫌々ながら向き合ったおふみは、すみを思いっきり睨みつけた。 「悟郎やおきみが、どんな話をしているかあたしは知らないよ。けどねえ、あたしはここを栄太郎に残すと決めてるんだよ」  おふみが目の端を吊り上げている。ふっくらとした顔立ちだけに、余計に凄味があった。 「あんたに好き嫌いがあるわけじゃないけど、そうやって夫婦づらして居られたんじゃ、栄太郎が戻れやしない」  おふみは気が昂ぶると声が大きくなる。いままでこのような話し方をされたことがなかったすみは、姑の怒声に気圧《けお》された。 「あたしと仲良くしようなどとは考えないでおくれ。一緒に暮らす気は、薬にしたくてもないからね」  火傷しそうな言葉をまともに浴びた。すみは身動きもできずに聞くだけだった。 「それとねえ、この京やでこどもは産まないでおくれよ。ここで初孫を産むのは、栄太郎の嫁だからね」  おふみは溜っていた言葉を吐き出すと、振り返りもせずに部屋から出た。  この日の話は、ひと言たりとも悟郎とおきみには漏らさなかった。 「どれほど向こうに非があっても、正面から相手の身内をわるくいってはいけない。たとえ夫婦の間といえども忘れるな」  悟郎に嫁ぐ前夜、吉右衛門は娘を諭した。すみはこれを肝に銘じていた。  おふみが病で倒れると、看病はおきみが受け持った。 「お薬をいただいてきましょうか」 「ありがとう、すみさん……でもそれはあたしが行くから……」  おきみはやさしい言葉ながら、すみの申し出を断った。おふみの看病に、すみの入る隙間はなかった。  姑への気疲れと義妹への気遣い。くたびれ果てて萎えそうになると、自分を果報者と思うことで気をとり直してきた。  そんな矢先に、おふみが二度目の発作を起こした。どれほどこころを砕いても、姑は気持ちを開かない。  いまもまた、虚ろな目をして栄太郎に呼びかけている。やるせなくなったすみは、そっと流しに立った。      四十一  寛政二(一七九〇)年二月十八日の大安日に、悟郎はすみの父親、広弐屋吉右衛門をたずねた。永吉が遺した平野屋のお仕着せに、京やの半纏を羽織っていた。 「悟郎さん、娘のことは知っての通りだ。それで構わないのだね」  吉右衛門が膝を揃え直してから、念押しをした。悟郎はきっぱりとうなずいた。 「親の甘さと笑われるだろうが、すみのことがわたしには一番の気懸かりだ。戻った娘の幸せを念じなかった日は、一日としてない」  吉右衛門は目をはぐらかすことなく、正面から悟郎を捉えた。ひたいが広く、髪は薄くなりかけている。  商いでは甘さのかけらも見せない吉右衛門だが、いまは娘の幸せを願うひとりの父親だった。 「今度はすみも、帰るところはないという覚悟で嫁ぐはずだ。悟郎さん、娘の幸せをあなたに託します」  唇を閉じ合わせた悟郎が深くうなずいた。 「ところで悟郎さん……いささか立ち入った話をさせていただきたいが、よろしいか?」  吉右衛門の顔つきががらりと変わった。相手を見詰める双眸《そうぼう》には、ごまかしを見逃さない鋭さがあった。おもわず悟郎が居住まいを正した。 「永吉さんの葬儀で、京やさんは栄太郎さんが継がれるとうかがった覚えがあるが」 「そうです」  間を置かずに悟郎が答えた。 「番頭の安次郎がいうには、栄太郎さんは豆の吟味に明るくないそうだが」  悟郎は答えられなかった。吉右衛門には半端な言いわけなど通じないと思えたからだ。 「すみが嫁げば、京やさんとは縁続きだ。あれだけの豆腐を造る京やさんとなら、わたしにはなんの異存もない。しかしご当主が豆腐造りのかなめである豆に疎《うと》くては、行く末が案じられなくもない」  言葉を切った吉右衛門が違い棚に立った。戻ったときには一冊の綴りを手にしていた。 「先の祝言では仲人口を鵜呑みにして、娘もわたしもつらい目に遭った。それに懲《こ》りたわけではないが、ひとを使って幾つか調べさせていただいた」  吉右衛門が綴りを何枚かめくった。 「あなたの評判はどこできいても曇りがない。またも親ばかをさらすようだが、あらためて娘の目の確かさを見直した次第だ」  甘いことを口にしながらも、吉右衛門の目は厳しかった。 「調べ歩いたものは、栄太郎さんのことも耳にしている。悟郎さん……」 「はい」 「栄太郎さんは賭場に出入りしたことがあるようだが、いまはどうですか」  吉右衛門が真っすぐに斬り込んできた。 「それは昔のことです。いまはありません」 「その言葉を信じてよろしいな」 「結構です」  お兄ちゃんが、また毎晩出歩いているけどとこぼしたおきみの言葉があたまを過《よぎ》ったが、悟郎はないと言い切った。 「豆腐造りはあたしで、兄はお得意先回りです。たとえ兄が豆には暗くても、京やの商いに障ることはありません」 「わたしの訊《たず》ね方がわるかったようだ、どうか気をわるくしないで欲しい」  吉右衛門が口調を和らげた。しかし鋭い目付きは変わらなかった。 「あなたがこの先も豆腐造りを受け持つのであれば、なにも案ずることはない。商いの所帯が小さなうちは、身内で固めるのがなによりです」  吉右衛門の目がさらに鋭くなった。 「くどいようだが、京やは栄太郎さんだけではなく、あなたもともに守って行かれると思ってよろしいな」 「結構です」 「すみも一緒だ、と」 「その通りです」  ふたりがしばらく見詰め合う形になった。得心したのか、吉右衛門が目をゆるめた。 「わたしもこれからは、できる限りの手伝いをさせてもらいます。悟郎さん、重ねてすみのことを宜しくお願いします」 「こちらこそ宜しくお願い申し上げます」 「悟郎さん」  ふたたび吉右衛門の顔が引き締まっていた。 「ここでの話は他言無用に……調べを入れたことは番頭も知りません」 「分かりました」  話が終わると吉右衛門は店先まで送りに出た。 「そこの角まで送ってまいります」  気を揉んで待っていたすみが、父親に断りを言った。吉右衛門はわずかにうなずいた。  広弐屋裏の楓川沿いは、ふたりが出会ったこどものころもいまも、ほとんど変わっていない。二月の柳は枯れ枝になっていたが、川は変わらずゆるやかに流れていた。 「すみさん、少し話がしたいんだが」  悟郎は海賊橋の手前で立ち止まった。陽が傾き始めた川端は、ひとの流れも止まっている。橋の手すりに寄りかかると、すみもとなりに寄ってきた。  吉右衛門がどれほど娘を思っているかが、さきほどの話で骨身に沁《し》みていた。それほど大事なすみを、吉右衛門は悟郎に託してくれた。すみが幸せになるためなら、吉右衛門は手助けを惜しまないだろう。  悟郎は栄太郎と母親のことが、喉元に引っ掛かっていた。ふたりのことが元で、すみがつらい思いをさせられたら……。 「今度はすみも、帰るところはないという覚悟で嫁ぐはずだ」  吉右衛門の言葉が重たかった。  悟郎もすみを、かけがえのない伴侶だと思っている。ゆえに吉右衛門から許しが得られたいまこそ、隠し事はしたくなかった。 「こどものころからのことを、すみさんに知っておいて欲しいんだ」  すみが悟郎の顔をのぞきこんだ。 「おれは口下手だから我慢してきいてくれ」  悟郎の目は楓川の川面を見詰めていた。      四十二  悟郎の口は幼いころから重かった。そして頭ふたつは他のこどもたちより大きく、肌が浅黒かった。  栄太郎は自分より背の大きい悟郎を都合よく使っても、かばうことはしなかった。 「悟郎、あそこから来るあんまをここに呼んできな」  栄太郎に言いつけられて、路地に入ってきた座頭の手を引きに悟郎が駆け出した。いわれた通りに連れてくると、栄太郎と定吉が縄を手にして待っている。ふたりは身をかがめて縄を張り、座頭を縄の方に歩かせろと手で合図した。 「おいちゃん、こっちだよ」  向きを変えた先には縄がある。座頭は足を取られて、どてんと前につんのめった。 「この悪ガキめが」  竹の杖を振り回して怒る座頭を、こどもたちは笑い転げて見ていた。あんまを呼びに行くのは悟郎と決まっている。こどもたちなりに、いやな役回りだと分かっていた。 「おいら、もうやらない」  悟郎が断ると、栄太郎は仲間はずれにすると言いふらした。これを聞いて悟郎が兄に殴りかかった。身体は悟郎が大きい。幼くて加減が分からず、兄の唇が裂けるほどに殴りつけた。 「なんてことをしたのよ」  顔を腫らせて青アザができていた。おふみが悟郎を平手で張り飛ばした。 「まて、おふみ。ふたりの言い分をきいてみんと分からんやないか」 「なにを聞くっていうの。こんなになるまで殴っといて、どんな言いわけがあるのよ」  おふみは悟郎を睨みつけると、栄太郎を抱きかかえて板の間に上がった。  栄太郎にはいつでもやさしいが、悟郎に対してはむらがあった。いま笑っていたおふみが、いきなり怒り出す。気を許して甘えられない哀しさを、こどもながらに感じていた。  妹のおきみができたことは、悟郎には大きな喜びだった。母親は家業が忙しく、赤ん坊は祖母のおみつがほとんど世話をした。悟郎はおみつのそばで子守りを手伝った。  おきみがひとり歩きを始めると、悟郎はまた栄太郎たちと遊び始めた。さらに背が伸びた悟郎は、相撲には欠かせない。  黒船稲荷の境内には、隣町からもこどもたちが集まった。五歳の悟郎が隣町のガキ大将をもろ手突きで押し出したときは、栄太郎が抱きついて喜んだ。  あの日も悟郎は兄と一緒に、石置場で遊んでいた。西の空が夕焼けを描いている。遊びに飽きた悟郎たちは石の山に登り、カラスの群れを眺めていた。 「栄ちゃん、どこだあ………」  大声で呼ばれて石山をおりると、定吉の母親おたかが真っ蒼な顔で立っていた。 「ふたりとも、すぐに戻りな」  振り返ると燃え立つような夕焼け空だ。おたかが定吉と手をつなぎ、栄太郎、悟郎の順で歩いた。さきを行く三人の背中が、あかね色に染まっていた。  祖母のおみつがこの日、大八車に轢かれて亡くなった。悟郎六歳のときである。  おみつの葬式を、悟郎はほとんど覚えていない。しかしいつもの遊びが戻ってきた日のことは、隅々まで思い出せた。  おみつの初七日を過ぎると、こどもたちは原っぱの相撲に戻った。その日は年上組と年下組に分かれての相撲になった。  悟郎の組が栄太郎率いる年長組を破った。 「ばあばが死んだのは、おきみのせいだとおっかさんが言ってるぞ」  負けた悔しさなのか、栄太郎がみんなの前で言い放った。 「ほんとうかよ……」  こどもたちの目がおきみに集まった。三歳のおきみには、なにが起きているのかも分からない。みんなに見詰められても、きゃっ、きゃっと声をあげて歩き回った。 「おきみがばあばをこおろした」  ひとりが囃《はや》し始めると、あっと言う間に大合唱になった。悟郎は歩き回るおきみの手を握ると、原っぱに背を向けた。  おきみのせいで、どうしてばあばが死んだんだろう……。  六歳の知恵ではわけが分からない。それでも葬儀が終わってからの母親が、おきみと自分とに一段と冷たくなったのは感じていた。悟郎はこの日からみんなと遊ぶことをやめて、おきみの遊び相手になった。  おふみはいつも栄太郎だけを連れて出る。原っぱでのこと以来、悟郎は兄とほとんど口をきかなくなっていた。栄太郎とは行きたくないが、母親が自分とおきみを除《の》け者にするのが悲しかった。  おいらもおにいちゃんみたいに、おっかさんにやさしくしてもらいたい……こんな飢えを抱えながら、おきみとふたりで遊んだ。  四年後の正月から、栄太郎が京やを手伝い始めた。豆腐屋には水が欠かせない。日が暮れたあとも、はあっ、はあっと真っ白な息を吐きながら水を運ぶ栄太郎を見て、悟郎は少し兄を見直した。 「悟郎、くず湯を飲みにいこう。おっかさんにおあしをもらったから、おまえに飲ませてやるよ」  藪入りを明日に控えた十五日の昼過ぎ、栄太郎がめずらしくやさしい声をかけた。表通りの船橋屋は、冬場のくず湯が名物だ。おきみは眠っているし、家には母もいた。悟郎は大喜びで栄太郎のあとを追った。 「明日は定ちゃんが朝から帰ってくる」  嬉しそうに話す兄のわきで、悟郎はくず湯に夢中だった。真冬だが風もなく、穏やかな陽が降り注いでいた。 「遠回りして帰ろうぜ」  ふたりは横丁から堀沿いの道に入った。だれが捨てたのか、何本もの小割が転がっている。栄太郎が先に一本拾って振り回し始めた。悟郎も拾って兄を見た。栄太郎の顔が引き攣《つ》っていた。 「おれのそばから離れるなよ」  栄太郎の目を追うと、一匹の野良犬がふたりの方に身構えていた。 「こいつ、狂い犬だ。噛まれたら死んじゃうぞ」  言い終わらないうちに、犬が悟郎に向かってきた。悟郎は手にした小割で防ごうとしたが、木が長過ぎたのと怖さとで動けなかった。  栄太郎は敏捷だった。手にした小割を犬に投げつけた。さらに小石を拾い、犬の鼻面めがけて投げつけた。兄の動きで我に返った悟郎も、同じように石をぶつけた。尻尾を巻いて狂犬が逃げ去った。ふたりは腰が抜けたように座り込んだ。 「おっかさんには内緒だぞ」 「うん……」 「もしおまえが狂い犬に噛まれそうになったら、鼻をめがけて石をぶつけろ」 「分かった。おにいちゃん、ありがとう」  栄太郎は照れたように笑うと、投げつけた小割をまた拾った。悟郎も同じことをした。振り回しながら長屋に帰った。  栄太郎が狂犬から救ってくれた出来事は、十歳の悟郎に大きな変化をもたらした。斜めに見ていた兄を、親しみをこめて正面から見るようになったのだ。  定吉が戻ってきた藪入りの夜、悟郎は永吉に連れられて兄と一緒に湯屋に行った。湯舟の熱さに我慢ができず、悟郎はすぐに洗い場に出た。 「なんだ、もう出てきたのか」  湯に入らず、洗い場で遊んでいた栄太郎が悟郎のところに寄ってきた。 「おにいちゃんは入らないの」 「熱いから、やだ。ここで定吉を待ってる」 「だったらおいらが背中を洗ってあげる」  悟郎が手拭いで栄太郎の背中を流し始めた。 「しっかり跡取りにいちゃんの背中を流すんだぞ」  だれかにかけられた声が嬉しくて、悟郎は手拭いに力を入れた。 「悟郎、やめんかい」  父親の怒声で、悟郎も栄太郎も飛び上がった。ふたりともなぜ永吉が怒っているのか分からないまま、湯屋から連れ出された。父親はひとことも口をきかず、早足で先を歩いて行く。悟郎はときどき兄と顔を見合わせながら、永吉のあとを追った。  翌日から悟郎も京やを手伝うことになった。朝の仕込みはこどもも一緒だが、午後には遊びに出ることを許された。冬の間はおきみは家に残り、悟郎は兄とふたりで外に出た。長屋のこどもはほとんどが奉公に出されており、悟郎はいつも兄と遊んだ。 「豆腐造るのおもしろいか」 「おにいちゃんは」 「おれは好きだよ」 「おにいちゃん、あととりだもんね」 「でも、水を汲むのは寒くていやだ」 「おいらもきらいだよ」 「悟郎、じゃんけんで負けた方が水を汲みに行くことにしようぜ」  勝負は悟郎が負けた。ふたりはこのあとも、いやな仕事はじゃんけんで決めた。年上の栄太郎がほとんど勝った。 「甘酒を飲みにいこう」 「船橋屋で団子を食わせてやる」  栄太郎はいつも小銭を持っていた。 「おまえが負けてばっかりじゃあ、かわいそうだもんな。ほら、もう一本食べな」  ふたりは親の知らない楽しみを味わいながら、一緒に豆腐造りを手伝った。しかしこの密かな楽しみは、年が明けると消え去った。  突然、栄太郎が奉公に出されることになったのだ。兄が奉公に出る前夜は、栄太郎のお膳にだけ栗きんとん、おこわめし、鯛の塩焼きが載っていた。 「しっかりがんばってね。奉公なんて、あっという間に終わるから……」  おふみが箸で鯛をほぐしてやりながら、栄太郎に言い聞かせた。永吉は箸もとらず、黙って栄太郎を見つめている。  おとっつあん、なんでおにいちゃんに話しかけないんだ。明日からいなくなるのに……。  悟郎には父親が不満だった。この夜だけは、おふみがどれほど栄太郎にやさしくしても、おっかさん、もっともっとと願った。  栄太郎が奉公に出た朝は、前夜からの雪が深川を真っ白な町に変えていた。 「おにいちゃん、おいらもついて行く」  おふみに睨まれたが、悟郎は表通りまでついて出た。八幡宮の松に雪が厚く積もっていた。枝が雪の重みで垂れている。先を歩く栄太郎が松の下に差しかかったとき、悟郎は雪の玉を松にめがけて放り投げた。  雪がどさっと栄太郎に降り落ちた。出がけにおふみが結い直した髷が真っ白になった。 「悟郎、なんてことをするのよ」  おふみがきつい声を投げ付けた。その声にかぶさるようにして、栄太郎から雪のつぶてが飛んできた。叱られてべそをかいていた悟郎の顔で、雪が砕けた。 「やるか、悟郎」 「うん」  ふたりは笑い声をあげながら、雪合戦に夢中になった。しかし楽しかったのはわずかな間だけで、やがて悟郎は顔めがけて飛んでくる雪を避けるのをやめた。  もうすぐおにいちゃんがいなくなる……。  それが無性に哀しかった。栄太郎も同じ想いを持ったのか、つぶての勢いが弱くなった。泣きながら投げる雪に、悟郎は兄への想いを込めた。栄太郎から飛んでくる雪にも、同じものを感じ取った。 「いい加減にしなさい」  ふたりとも全身雪まみれだ。頬は赤く、瞳は涙で潤んでいた。 「おにいちゃああん……」  栄太郎の姿が角を曲がって見えなくなるまで、悟郎は兄を呼び続けた。  栄太郎がいなくなったあとは、両親の仲が一段とわるくなった。朝の食事が終わると、すぐにおふみがいなくなる。 「おっかさんは、おにいちゃんのところに行ってるんじゃないのかなあ」  茶碗を洗いながら、おきみが話しかけてきた。おふみがすぐにいなくなるので、後片付けは悟郎とおきみの役である。まだ小さいおきみは、桶を踏み台に使った。 「そんなことないよ」  いいながら、悟郎もそうだと思っていた。自分も一緒に行きたい、とも思った。兄がいなくなった寂しさが、日毎に増していた。  父親には兄の話をしてはいけない、と悟郎は察していた。おきみは父親になついているが、悟郎は微妙な隔たりを感じている。 「よう見とけや。この鍋のふちに細かな泡が浮いてきとるやろ。どや、分かるか」  永吉は鍋に汲み入れる水の量や火加減を、毎日つきっきりで教えこんだ。  おにいちゃんには、こんな風には教えてなかったのに……父親が自分を可愛くおもっているのは、悟郎にも分かった。しかしおきみのように、素直にはなつけない。  邪険にされても、栄太郎のようには好かれていないと分かっていても、悟郎は母親を求めていた。 「おれがこの歳で、豆腐造りにいっぱしの口がきけるのは、親父のお陰さ。でも仕込んでもらった礼も言えないうちに、あっけなく死んでしまった……」  悟郎のつぶやきに、すみが肩を擦り寄せた。 「吉右衛門さんは、すみさんの幸せをおれに託すと言ってくれた」  すみの顔に朱がさしたようだった。 「親ならこどもの幸せを願って当然さ。ところがおれのうちは、親の思いが少し偏《かたよ》っているかも知れない」 「そんなこと……」 「ないって言いたいんだろ。おれだってそう思いたいさ」  悟郎が川面からすみに目を移した。 「身内のことで苦労させるかも知れないが、おれを信じて一緒に暮らしてくれ」  すみがさらに擦り寄った。  内輪だけの祝言にしたいという悟郎の申し出を、吉右衛門は受け入れた。 「商いが絡んでの祝言じゃない。ほんとうに祝いたいものだけが集《つど》えばいい」  宴席はすべておきみが取り仕切った。仲人なしの宴で、口上は広弐屋の番頭安次郎に任せた。  高砂の謡曲も、唄も踊りもない祝言だった。それでも、安次郎がそろそろお開きにとあいさつしても、栄太郎のほかは座を立とうとしない宴席となった。  ともに暮らし始めて、悟郎は連れ合いに恵まれたことを改めて実感した。豆腐屋は未明から朝の生業《なりわい》である。大店に育ったすみなのに、愚痴ひとつこぼさない。 「おっかさんがお義姉《ねえ》さんにつらくあたったりしないように、ちゃんと気を配ってね」  妹は、姑と嫁との間を気にしていた。 「おれたちのことなら大丈夫だよ」  悟郎は夫婦仲には自信があった。 「手があいたら八幡様にお参りしてこようぜ」  悟郎とすみは、手すきのときの八幡宮参詣を楽しんだ。風もない穏やかな秋晴れに誘われて、ふたりは本殿のまえで手を合わせた。 「いまどんなことをお祈りした?」  すみは笑っただけで答えず、先に立って石段をおりた。 「あっ……」  悟郎が小声を漏らした。すみには聞こえなかったらしく、ゆっくりと先を歩いている。  夫婦が並んでお参りしても、相手が自分と同じことを祈願しているだろうか……突然湧き上がった思いに、悟郎の足が重たくなった。すみが先の方で振り返って悟郎を見ている。  どれほど仲がよく思えても、埋められない溝もある……楽しみだった参詣に、分厚い雲がかぶさったような思いがした。  翌朝、母親がまた倒れた。      四十三  早朝に二度目の発作を起こしたおふみは、八ツ(午後二時)を過ぎて少し持ちなおした。七ツの鐘が鳴ったところで、おきみひとりを枕元に呼び寄せた。 「海辺大工町の、政五郎さんという鳶のかしらのところで世話になってるから」  おふみは、栄太郎が鳶職人になっていることを初めて教えた。 「そんな近くにいたの……」 「あの子だって、深川は離れたくないに決まってるさ」 「お兄ちゃんに鳶なんかできるの?」 「ばかいうんじゃないよ。あれで身は軽いんだから」  苦しい息のもとでも、おふみは栄太郎の肩を持った。母親の容態を気遣ったおきみは、それ以上の話をさせずに枕元を離れた。 「海辺町まで出かけるから、おっかさんをお願いします」 「いまは落ち着いてるけど、いつどうなるか分からないぞ。今日じゃなくちゃあいけない用なのか」 「お兄ちゃんがそこにいるの」  悟郎とすみが顔色を変えた。おきみがふたりにうなずいた。 「おっかさんがどうしてもお兄ちゃんに会いたいっていうの。いいでしょう?」  おきみは手早く、細縞が織り出された山鳩色の紬に着替えた。絞り染めの菱が鮮やかな濃紺の袋帯で仕上げた、おきみお気に入りの、秋の余所《よそ》行きだ。 「おきみさん、ちょっと待って」  店先で呼びとめたすみが、うなじの解《ほつ》れを直した。悟郎とすみに見送られたおきみは、まっすぐ仲町の辻に出た。  秋の大きな夕日が、やぐらの先に沈み始めている。おきみは足を早めた。仙台堀にかかる海辺橋を渡ると、左手を久世大和守の屋敷が占めていた。  一万三千坪の広々とした下屋敷は、木々の多さで知られている。色づき始めた銀杏と楓の葉に、夕陽が色を重ねていた。  屋敷が途切れた辺りから、深川の職人町が始まった。多くの寺にはさまれて、左官町や桶屋町、大工町が飛び飛びに広がっている。  政五郎の宿の場所を、おふみは小名木川沿いの海辺大工町としかいわなかった。この界隈におきみは明るくない。仲町から四半刻で小名木川に着いたが、そこまできて迷った。  秋の夕暮れは、西空が見る間に墨色に変わる。おきみは陽の落ちた町で散々に迷った。政五郎の宿を訪ねあてたときには、すでに暮れ六ツ(午後六時)が鳴ったあとだった。  広い土間の壁に鳶口や梯子、半纏、提灯などが掛かっている。政五郎の宿は、いかにも鳶のかしららしい造りだった。  赤銅《しやくどう》色に焼けた政五郎は、両目が大きく離れている。遠目には間抜けに見えたが、正面で向かい合うと、すべてを見抜いてしまうような大きな瞳だった。 「おっかさんの容態がとてもわるいんです」 「それで栄太郎を呼びに、わざわざ見えなすったてえわけだ」 「はい」 「間のわるいことに、栄太郎は野暮用でいねえんだ。いますぐ探しに出すから、けえるまでここで待ちねえな」  すぐさま政五郎は若い衆を呼びつけた。 「栄太郎を連れてこい。どうせ木場だろう」  尻を端折《はしよ》って若い衆が飛び出したところで、政五郎が茶をすすめた。 「木場からだと、うちの若えのとおめえさんが一緒に行って、そのまま連れてけえる方がはええんだが、ちょいとわけありでね」  政五郎はそれ以上の口を開かなかった。神棚を祀《まつ》った六畳間に、おきみがひとりで残された。鴨居の掛《かけ》行灯が薄明かりを散らしている。  おきみは、政五郎が閉じた口のあとに思案を走らせた。  なぜ木場に一緒に行ってはいけないんだろう。きっとまた博打に決まっている。鳶のひとたちは、なにより博打好きだと聞いたことがあるから……。  重く沈んでいるおきみのそばに猫がきた。手を差し出すと、いやがらずに顔を手のひらにこすりつけてくる。膝に抱いて撫でたら喉を鳴らした。 「おまえ、あたしが嫌いじゃないの」  猫が気持ちよさそうに、みゃあとひと鳴きした。  そう言えば、猫のことでおっかさんにひどく叱られた……。  おきみは昔を想い出していた。      四十四  安永四(一七七五)年七月、おきみ七歳の夏は猛暑続きだった。栄太郎と悟郎は昼過ぎに京やの手伝いが終わると、ふたりだけで遊びに出た。 「悟郎ちゃん、おきみも行きたい」  連れて行けとせがんだら、悟郎は兄に目で問いかけた。栄太郎は首を何度も横に振り、さっさと行ってしまった。 「こんど連れてってやるから」  ごめんな、と言い残して悟郎は兄を追いかけた。おきみはしばらく井戸端で水遊びをしていたが、ひとり遊びはすぐに飽きる。京やに戻ると永吉が上がり框に腰をおろし、せわしなく団扇を使っていた。  風がなく、とうふと染めぬかれた暖簾がだらりと垂れている。住まいの方では、おふみが畳の間で昼寝をしていた。軒に吊した風鈴は、ちりんとも鳴らない。  気だるい昼下がり、長屋で動き回っているのはおきみだけだった。  みゃお、みゃお……。  裏木戸から猫の鳴き声がした。おきみが声に向かって歩いて行くと、子猫がトコトコと堀の方に逃げた。 「まって……ネコちゃん、まって」  おきみが身をかがめて手を差し出した。怯えて鳴き声をあげるだけだった子猫が、少しずつおきみに近づいてくる。 「おいで、だいじょうぶだから」  上下に揺れるおきみの手に、いつでも逃げられる足取りで子猫が寄ってきた。 「ほうら、へいきでしょう」  抱き上げても子猫は逆らわない。おきみは身体をやさしく撫でて、そっとおろした。 「おきみと一緒に遊ぼうか」  突然現れた遊び相手は、足の早さもおきみと大差がない。おきみと子猫は原っぱを駆け回った。 「ネコちゃん、おきみのおうちに行こうね」  四半刻ほど遊んだおきみは、子猫を抱いて長屋に戻った。おふみはまだ、同じ形で昼寝を続けている。 「ほら、おきみのおかあちゃんよ」  おきみが板の間で放すと、子猫はおふみに向かって歩き出した。おふみは軽いいびきをかいている。  子猫の足がいびきで止まったが、危なくはないと分かったらしく、さらにおふみに近寄った。だらんと伸びた手が団扇を握っている。子猫は爪でかりかりっと団扇を掻いて遊んでいた。それに飽きると、おふみの顔に寄って行った。  いびきが不思議なのか、尻尾がぴんと立っている。やがて尾をおろし、子猫はおふみの口元をぺろぺろっと舐めた。 「きゃああああっ」  凄まじい声を出しておふみが飛び起きた。子猫がおきみの手元に逃げてきた。 「なんや、おふみ。なにごとや」  京やから永吉が飛んできた。悲鳴のもとが子猫だったと分かり、永吉が笑い転げた。 「笑いごとじゃないわよ」  照れ隠しなのか、おふみはやたらと機嫌がわるい。 「なんや、たかが子猫やないか」  永吉がなだめると、おふみが本気になって怒り出した。 「うちは食べもの商売をやってるのよ。そんな家に野良猫がいたと知れてごらん、いっぺんにお得意先をしくじっちゃうわよ」  言い分はおふみに分があった。しかし七つの子には分からない。 「裏の原っぱに放してきなさいよ」 「おきみ、おかあちゃんの言うことをききや。うちで猫は飼われへん」  おきみは半泣き顔で、子猫を裏に連れて行った。草むらに放しても、おきみの足元から離れない。 「ごめんね……ほんとにごめんね」  おきみは声をあげて泣きながら、その場から逃げた。裏木戸で振り返ると、もう子猫は見えなかった。  母親が喜ぶだろうとおもって連れて帰った子猫だった。それを頭ごなしに叱られたおきみは、おにいちゃんだったら違うのに……と逆らう気が湧き上がった。  おきみはいつも、自分と悟郎は母親から邪険にされていると感じていた。子猫のことで、さらにその思いを強くした。  二年後の正月七日、おきみは母親との間に埋め切れない溝があるのを思い知った。  七草の日は雪模様だった。十六日の藪入りには栄太郎が帰ってくる。もう十日もないということで、おふみは朝から上機嫌だった。 「雪が降ってるけど一緒に行こうね」  母親にいわれて、おきみはびっくりした。母親と出かけたのは、去年の夏が最後だった。 「ほら、早くしてちょうだい。寒いから綿入れを着てね」  母親に逆らう気はあっても、一緒に出かけるのは嬉しい。雪で足元が滑りそうなので、おきみは母親のたもとを掴んだ。  表通りを永代橋に向けて歩いた。商家の軒には、雪が薄く積もっている。真っ白な雪と、茶色の軒とが彩るながめに見とれたおきみが、たもとから手を放した。 「しっかり掴んでないと転んじゃうから」  おふみに叱られると、いっときは強く握った。そしてまた手を放す。こんなことを繰り返しながら、ふたりは一の鳥居手前まで歩いてきた。  鳥居の右奥には、降り続く粉雪越しに火の見やぐらが見える。おきみは鳥居もやぐらも、間近に見るのは初めてだ。 「通りを渡ったそこのお店だから」  やぐらを見あげていたおきみの手を強くひき、おふみは太物屋に入った。 「おまえの好きな柄を選んでいいよ」  おきみの前に、紅や紺、茶などの木綿地が並べられている。  自分で選んでいいなんて……。  おきみは舞い上がるような気分で、紅色の矢絣を選んだ。 「これと、綿をひと袋お願いします。おきみ、雪に濡らさないように、大事に持ってちょうだいね」  自分は濡れても反物は濡らさないつもりで、おきみは抱えた包みに傘を差しかけた。 「明日、おっかさんが縫ってあげるね」  おきみは雪の寒さも忘れて、頬のあたりを朱に染めた。京やに戻ると、包みを見た悟郎がおどろいた顔になった。 「おかあちゃんが、おきみに縫ってくれるっていった」 「よかったなあ、おきみ」  悟郎が自分のことのように大喜びした。  おきみも悟郎を見てにっこりした。ところが父親が妙に浮かない顔をしている。おきみは永吉の顔が気になり、嬉しさがひいた。 「ふたりで店の番をしとってくれ」  永吉がおふみを連れて、住まいの方に出ていった。雪が激しくなっている。 「おとうちゃん、また喧嘩するのかなあ」 「なんでそんなこと言うんだよ」 「だって、おとうちゃんの顔が怖いもん」  ふたりはそれっきり黙り込んだ。店先から、粉雪を巻き込んだ寒風が入り込んできた。 「おきみ、炭を持ってこいよ」  火鉢の炭火が消えかけていた。おきみが立ち上がろうとしたら、風に乗っておふみの怒鳴り声が飛び込んできた。 「ねえ、見に行こうよ」  悟郎は渋っていた。おきみに何度も言われて、仕方なく履物をはいた。店を出ると、母親の声がさらに大きく聞こえた。 「なかに入っちゃだめだぞ」 「わかった」  ふたりは傘もささず、手をつないで戸口に立った。  凄い剣幕で母親が言葉を吐き出している。悟郎の手を握るおきみの右手に力が加わった。  悟郎も力をこめて、おきみの手を掴んだ。  突然、母親が振り向いた。ふたりを見て、おふみは驚いた様子を見せた。しかしそのまま飛び出すと、京やに駆け込んだ。  ふたりが雪のなかに立ち尽くしていたら、永吉がおきみを抱えあげた。 「悟郎、おまえもなかに入れ」  永吉が重い声を出した。 「大声でわあわあ言うんは、おかあちゃんのくせや。言うだけ言うたら、すっとしたやろ。ふたりとも、おかあちゃんがいま言うたことを気にしたらあかんで」  悟郎もおきみも大きくうなずいた。 「おとうちゃん」 「なんや、どないした」  永吉の目がやさしかった。 「おにいちゃんがきらいじゃないよね」  永吉も悟郎も驚いておきみを見た。おきみが目に涙を浮かべている。 「あたりまえやないか」  父親がきっぱりと打ち消した。しかしこの日のことで、おきみは母親との間にふたつの大きな溝を作った。  ひとつはおふみのいったことだ。父親にいわれて、おきみは納得したふりをした。しかし、こころの奥では母親の言い放った言葉が暴れていた。  祖父母の死がなぜ悟郎とおきみのせいなのか、わけが分からない。母親に問うのは、いやなことを引きずり出しそうで怖かった。  ふたつ目は、自分で約束したことをおふみが知らぬ顔で破ったことだ。 「明日、おっかさんが縫ってあげるね」  約束した着物は、いつになっても縫い上がらなかった。何度もおきみは母親にねだろうと思った。そのたびに、悟郎とおきみを……と吐き捨てた雪の日が思い出された。  おきみは着物を諦めた。そしてふたつ目の、埋め切れない溝ができた。  ふたおやの言い争いは絶えなかったが、永吉は母親の悪口を一度もいわなかった。 「おっかさんに、どうしてあんなことまで言わせるの」  十五も過ぎて分別がついてくると、おきみは永吉に食ってかかった。 「おまえを大事に育ててくれたおかあちゃんやないか。あれはくせや、ほっとけばええ」  永吉は取り合わない。  くせだなんて、そんな生易しいものじゃない。おっかさんの本音は、もっとどろどろした、いやらしいものなのに……。  何があっても、おふみは栄太郎を京やの跡取りに据える気だとしか、おきみには思えなかった。大金を使い込んだ栄太郎を母親が家に引き留めたことで、おきみは自分の役割を決めた。  十八の娘盛りに、おきみは家に居着いて父親と悟郎を助けようと決めたのだ。  ふたりだけのとき、永吉は昔の話をおきみに何度も聞かせた。 「こうして京やがやってられるんは、この家で同じように豆腐屋をしてはった、相州屋はんのおかげや」 「どういうことなの?」 「うちの大事な永代寺はんは、もともと相州屋はんのお得意先やったんや」 「そんな……おとっつあんが横取りしたってことなの?」 「いや、奪《と》ったんやない。亡くなった旦那はんに、永代寺はんに豆腐をご喜捨させてもらいたいいうて頼みに行ったんや」 「おとっつあんが?」 「初めはおかあちゃんやったが、いま思い返しても厚かましい頼みをした思うわ」 「それで頼みをきいてくれたの?」 「ああ……好きにせえ言わはってなあ。それまで売れんかった豆腐を、最初に買《こ》うてくれたんが永代寺はんや。そのきっかけ作ってもろうた旦那はんは、ちゃんとお礼もでけんうちに亡くなられてしもた」  いつかお寺さんにたずねて、きちんとお礼がしたいと永吉は言っていた。それを果たせぬまま、おきみが二十一歳の秋に永吉は急死した。  おとっつあん、なんのために江戸に出てきたの。江戸でおとっつあんが知ってるのは、深川と日本橋だけじゃない。明けても暮れてもお豆腐を造り続けただけだなんて……。  永吉が急に死んだのは、母親と兄が勝手なことばかりしたからだ、とおきみは思った。それなのに母親は、永吉がまだ布団に横たわっているときから、兄を連れ戻すことを口にした。おきみには、栄太郎を喪主に据えるのは断じて許せなかった。  お兄ちゃんが跡取りだと知らせるようなものじゃないの……。  長男の喪主を世間は当然だと受け止めても、おきみは許せなかった。 「おとっつあんは、お兄ちゃんが死なせたと同じじゃない」 「なんてこと言うのよ」  おふみが睨みつけた。  線香の立ち上る永吉の亡骸《なきがら》が、おきみの目の端に入った。  まだ祭壇もできていないのに声を荒らげている自分が悲しくなったおきみは、おもてに飛び出した。  葬儀は栄太郎の喪主で執り行われた。  おきみは自分が守ると決めた父親を守り切れなかったことが悔しくて、遺骨になって戻るまで涙が止まらなかった。  そしてまた、栄太郎が戻ってきた。  こうなったらお兄ちゃんより先に、悟郎ちゃんがお嫁さんをもらうしかない。  おきみが密かにこんな思案をしていた矢先、酉の市で広弐屋の親子と出会った。その日から、悟郎が妙に浮き浮きし始めた。  広弐屋さんのすみさんと……おきみの勘は図星だった。  明くる年の三月初旬、嘉次郎が十数年ぶりに訪ねてきた。その嘉次郎から聞かされた話がもとで、栄太郎が京やから出て行った。  おきみは時々、兄を追い出すような真似をしたことが不安になった。そのたびに、仏壇の永吉に話しかけて気持ちを鎮めた。 「おれは広弐屋のすみさんと所帯を持とうと思ってる」  栄太郎が出てからふた月ほど過ぎたころ、悟郎が夕食の場で打ち明けた。  おふみは悟郎の話を鼻先で笑った。 「すでにお許しをもらったんだよ」  悟郎がすみの子細を話したら、おふみのあごが上がってきた。 「そんな出戻りなんかと」 「おっかさん、なんて言いぐさなの」  おきみが母親に食いついた。  相手が弱みをみせたら容赦のないひと……母親にこんな思いしか持てないことが情けなかった。  おきみはひたすら悟郎の味方に回った。最後にはおふみが引っ込んだ。おきみは悟郎と一緒に何度もすみに会った。  おきみは本心から、悟郎とすみとのことを喜んだ。内輪だけの祝言にしたいという悟郎の望みで、江戸屋と掛け合った。  そして……ひとつ屋根の下で、新しい暮らしが始まった。  母親は相変わらずだ。  悟郎たちの仲がうまくいくようにと、おきみは懸命にこころを砕いた。  共に暮らしを始めて半年ほど過ぎた春に、おふみが発作を起こして寝込んでしまった。  母親を見るおきみの目はいつも厳しかった。しかしおふみが倒れると、看病は独り占めしたくなった。仲良く暮らしているつもりでも、すみが母親の面倒を見ようとすると、こころの奥底が落ち着かないのだ。  口を開けばいがみ合うだけの母親。勝手なことしかしないと、振舞すべてが気に障る母親。長男にだけ甘い母親……そんな母親としか思ってなかったのに、すみが看病を口にすると、微妙なざらつきを覚えた。  幸いにもおふみは快復した。  お義姉《ねえ》さんとも何事もなくてよかったと、おきみは心底から安堵した。が、平穏な暮らしはあっけなく終わり、二度目の発作が起きた。  また気苦労が続くのかしら……。  気持ちが重く沈んだ。栄太郎を呼びに出る前に見たすみの様子を思い返して、おきみはさらに気が塞いだ。  膝もくずさずに待ち続けているおきみを気にして、政五郎が顔を出した。おきみが作り笑いで応じた。  そのとき、おもてが騒がしくなった。 「けえってきたよ」  おきみはすでに立ち上がっていた。      四十五  栄太郎が夜道を急いでいた。  駆け出したいが、うしろには足の遅いおきみがいる。焦《じ》れた栄太郎は野草を踏みつけて歩いた。鈴虫が鳴きやんだ。  ふっくらとして色白な栄太郎が、眉間にしわを寄せている。永吉の死に目に会えなかったことを、栄太郎は悔やみ続けてきた。  このうえ母親の末期《まつご》にも間に合わなかったりしたら……あせる栄太郎には、おきみを気遣うゆとりもなかった。  夜空に雲がかぶさっており、月も星もない。明かりは飲み屋の提灯だけだ。暗がりのなかに、ぼんやりと亀久橋が見えてきた。ここまで来れば、京やまであとひと息である。気持ちにゆとりのできた栄太郎が振り返った。  はるかうしろに、おきみの提げた提灯が見えた。まわりに人影はまるでない。寂しい夜道を妹ひとりで歩かせたことに思い至った栄太郎は、橋のたもとで足を止めた。  亀久橋の真ん中が大きく盛り上がっている。橋を目の前にしたら、杢柾《もくまさ》のころがいきなり思い出された。  おふくろは、毎日あの橋の上からおれを見てやがった……。  こどもながらに、母親の気持ちをうっとうしく感じ始めたのが、この亀久橋にかかわる出来事からだった。 「おめえのおっかさんが、今日も亀久橋に立ってたぜ」  奉公を始めて十日過ぎた真冬の朝、杢柾の川並がからかいにきた。栄太郎より年下の小僧が、一緒になって笑っている。居心地のわるくなった栄太郎は、角材を担いで歩き出した。笑い声に背中を押された。  これがおふみを重荷に感じた始まりだった。十四歳で奉公に出された栄太郎は、杢柾の小僧のなかでは年長だ。それなのに母親が毎日橋の上に立っているのだ。仲間の小僧たちが笑うのも無理はなかった。  梅が咲き、桜が散ってもおふみは橋に立つのをやめない。お願いだからもうこないでくれと、栄太郎は床の中で祈った。  梅雨に入ると、番傘を手にしたおふみが橋にいた。周りもからかうのはやめた。その代りに、呆れ果てた目が栄太郎に集まった。 「おめえのおふくろはどうかしてるぜ」  栄太郎に言い放った川並は、これがいつまで続くか仲間内で賭けを始めた。 「雨が降ろうが槍が降ろうが、我が子見たさに橋に立つ……」  調子をつけた口上で、荒っぽい男たちが囃《はや》し立てる。 「大のおとなが、こどもをからかってどうしようというんだよ」  杢柾の二番番頭松次郎は、折りにふれてかばってくれた。しかしこどもなりの見栄がある栄太郎には、おとなにかばいだてされるのがなによりつらかった。  木枯らしが吹き始めると、材木問屋は殺気立った。毎日どこかで火事があり、材木相場が高値を呼ぶからだ。仕事に追われて、おふみを気にするものがいなくなった。 「よかったなあ栄太郎。おっかさんは、もう橋には来なくなったようだよ」  松次郎が教えてくれたのは、師走も半ばのころだった。 「藪入りで帰ったらどこに行く?」 「おいらはとうちゃんと一緒に、両国で軽業《かるわざ》を見るんだ」 「おれは浅草で、いも羊羹を腹いっぱい食わしてもらう」  正月を過ぎると、小僧たちは朝から寝るまで藪入りの話を始めた。栄太郎は聞こえないふりをして薄い布団にくるまった。  木場の材木問屋は、どこも店先で職人に大鋸《おが》を挽かせた。いかに薄い板が挽けるかで、職人の格が決まる。幅三尺の大樹から厚味一寸の薄板を挽くのが、杢柾の売り物だ。小僧たちは毎朝起き抜けに、木挽き台の周りを掃き清めた。 「栄ちゃん、藪入りはどうするの」  おがくずを掃き集めながら、葛飾村のこどもが問いかけた。 「つまんねえこときくんじゃねえよ。あのおっかあと出かけるに決まってらあ」  今戸村の扇吉が、ほかの仲間に笑いかけた。  栄太郎が竹ぼうきを投げ捨てて殴りかかった。いきなりの一発を頬に受けた扇吉が栄太郎に組みついた。年下でも身体は扇吉が大きい。あっけなく倒れた栄太郎に馬乗りになると、顔をこぶしで殴りつけた。 「やっちまえ、構やしねえ」  木挽き職人たちがけしかけた。栄太郎は殴られっ放しだった。 「こらっ、扇吉。やめなさい」  番頭が大声で止めに入った。 「おまえたちもなんだい、こどもの喧嘩を煽り立てるおとながどこにいる」  松次郎が叱りつけた。 「いつまでも乳臭いガキにゃあ、喧嘩もできねえってか」  聞こえよがしを吐き捨てて、男たちは散った。腫れた顔の栄太郎が、職人の後ろ姿を睨み続けていた。  その夜は腫れの痛みと、こころに負った深手とで眠れなかった。あたまのなかでは、船橋屋のくず湯や団子、それに同じように藪入りで戻ってくるはずの定吉のことなどが、ぐるぐる回っている。幾月もまえから、藪入りの遊び方を考えていた。  その片方で扇吉にいわれたことは図星だ、おっかさんがそばから離れないに決まっている……とも思った。  翌朝、両手を固く握りしめた栄太郎は、番頭にきっぱりと宿下がりを断った。 「分かったよ」  その日の八ツ(午後二時)過ぎ、松次郎は京やを訪ねた。 「自分から宿下がりを断るなんて、並のこどもじゃあできないことだ。その日はあたしが面倒を見させてもらいますから、おふみさんのことは頼みましたよ」  永吉は大きな手で両目をごしっとひと擦りし、無言のままあたまを下げた。  藪入りの日、番頭は亀戸天神に栄太郎を連れ出した。深川界隈ではつらいだろうとの心遣いからだ。行き帰りとも、栄太郎は口数が少なかった。松次郎は余計なことをいわず、栄太郎のしたいがままにさせた。      四十六  亀久橋で追いついた妹の顔は険しかった。 「まだ博打をやめてないんでしょう」  顔を合わせたのは悟郎の祝言以来である。しかしおきみの口調には、なつかしさはなかった。 「やってねえよ」 「嘘ばっかり。だったらなんで木場になんか行ってたのよ」 「おめえが口出しすることじゃねえ」  歩きながらの口争いになった。 「そんなことより、おふくろの容態はどうなんでえ」 「お兄ちゃん、口のきき方がすっかり変わっちゃったのね」  おきみが一々突っ掛かってくる。 「おふくろがしんぺえだ、さきに行くぜ」 「好きにすればいいじゃない」  栄太郎は駆け出した。亀久橋を過ぎれば大和町の色町で、人通りも多い。栄太郎はおきみを残して駆け出した。  杢柾の奉公を十九歳で終えた栄太郎は、永代寺仲見世の京やに戻った。長屋のときとは家の造りがまるで違う。土間だけでも五坪以上ある、堂々とした家作だった。  栄太郎は心底から父親を見直した。 「おまえは外回りが性に合《お》うとる。豆腐造りは悟郎に仕込むよって、お得意さんをしっかり回ってくれ」  豆腐造りひと筋で表通りに店を移した父親が、京やの得意先を任せてくれた。それが栄太郎には晴れがましかった。 「しっかりお得意様を増やします」  口元を引き締めて請け合った。しかし一年も経ずに、締めた口がだらしなく半開きになった。 「あんたが京やの跡取りさんか。あたしは三好町の平田屋だが、お近づきにちょいと繰り出そうじゃないか。どうだい都合は」  初めて寄合に出てきた栄太郎に、平田屋が声をかけた。髪は地肌が見えそうなほどに薄くなっているのに、眉は太く、ひたいや顔は脂で光っている。  知った顔がおらず心細い思いでいた栄太郎は、平田屋の気遣いが嬉しかった。 「親父さんは大したもんだと聞いていたが、あんたも若いのにしっかりしてるねえ」  世辞を栄太郎は真に受けた。誘われるまま、平田屋と悪所落ちを繰り返した。 「お付合いでおあしが要るんだよ」  杢柾の奉公で如才なさを身につけた栄太郎は、得意先の受けがいい。仕事仲間との付合いに要るというカネを、おふみが惜しむはずもなかった。  それまで女郎遊びを知らなかった栄太郎は、たちまち色香に溺れた。 「あんたは様子がいいからねえ、おんなが放っとかないだろう」  栄太郎の洲崎通いは二年続いた。それを永吉に咎められずに済んだのは、庄六の遊び方が倹《つま》しくて費《つい》えがさほどでもなかったからだ。 「今夜は趣向を変えて、あんたを面白い賭場に連れてくよ」  狐の焼き物そっくりの顔で切り出した。 「博打は苦手です」 「なんだい栄太郎さん、あんたはその歳で、博打を知ってるのかい」 「とんでもない。見たこともありません」 「だったら苦手ということもないだろうに。あたしに一回だまされてごらん、話は万事ついてるんだから」  卯ノ吉の仕込みもあって、栄太郎は二分ほど浮いた。大した勝ちでもないが、一丁十二文の豆腐を商う栄太郎には大金だ。二分あれば、京やの豆腐が百六十丁も買えた。 「こんな面白いことが……平田屋さん、ありがとうございました」  浮いた二分を賭場に預けた栄太郎は、勝ったり負けたりを繰り返しながら、二年の間、賭場に遊ばれた。 「博打の遊び方を見てつくづく思うんだが、あんたがいなくちゃあ京やは持たないね」  平田屋はいやらしいほどに栄太郎を持ち上げた。 「旨い豆腐を造っても、売れないことには始まらない。あんたが得意先回りに汗を流していることは、仲間内でも大した評判だ。博打の張り方を見て、あたしも得心した」 「ありがとうございます」 「商いで大事なのは、得意先に斬りこむ気合だ。それを養うには賭場が一番さ」  言葉巧みに乗せられて、栄太郎は賭場に嵌《はま》った。負けが続いても、商いの鍛錬だとおのれに言い逃れをした。 「平田屋さんの口ききだてえから、つけで遊んでもらったが……この辺りで一回きれいにしてもらえねえか」  藪蚊を払いながら卯ノ吉が切り出した。相手の目を見て栄太郎の汗がひいた。 「あんたが気持ちよく聞いてくれるなら、こっちも無理はいわねえ。今日から十五日先てえ決めで、利息込みで五両。ここに届けてもらおうか」 「えっ……五両もですか」  栄太郎は蒼ざめた。どう足し算しても、借りたのは二両にも満たないはずだ。 「賭場の貸し借りは、あんたの算盤じゃあ弾けねえさ」 「卯ノ吉さんのいわれることが、うまく呑み込めないのですが」 「うちらの算盤は夜が明けりゃあ、利息てえ玉がぱちんと上がるのよ」 「ひと晩ごとにですか」 「なんでえ、そのつらは。知らなかったと言いたそうだが、そいつあ聞こえねえぜ」  家の蓄えは永吉しかさわれない。五両とまとまっては母親が工面できるカネではなかった。もとより父親になど、相談できるわけがない。  卯ノ吉に凄まれた翌日、得意先回りを早々に打ち切ると平田屋を訪ねた。 「あるようでないのがおカネでね。わるいが用立てはできないよ」  庄六はまるで相手にしなかった。  十五日という日限は微妙な長さである。最初の二、三日は返済日があたまから離れなかった。しかし賭場から格別の催促もこないことで、次第に気がゆるんだ。  十日を過ぎても卯ノ吉はなにもいってこない。栄太郎は掛合い次第で日限が延ばせるものと、勝手に思い込んだ。  それでも気持ちの底には引っ掛かりを抱えている。約束の日は朝から落ち着かなかった。日延べの掛合いに出向こうとも考えたが、卯ノ吉の顔を思い出すと気力が萎えた。  家にいたくない栄太郎は、日暮れ近くまで得意先回りから戻らなかった。 「お兄ちゃん、おかえんなさい」  汗を拭き拭き戻った栄太郎に、おきみがねぎらいの声をかけた。様子はいつも通りだ。 「だれか訪ねてこなかったかい?」  母親も妹も、だれもこないと口をそろえた。夜の取立てに怯えた栄太郎は、晩飯を終えると洲崎の泊りに逃げた。  大地震でも起きて、江戸が潰れてくれれば借金も帳消しになるだろうに……愚にもつかないことを思い巡らせる栄太郎には、浅い眠りもおとずれなかった。  夏の夜明けは早い。品川沖に陽がのぼったところで洲崎を出た。平野橋までくると、すっかり町が目覚めていた。橋の左手には材木置場が広がっており、川並が器用に丸太を手繰《たぐ》っていた。  どれほどのろのろと歩いても、洲崎から京やまでは四半刻もかからない。汐見橋の真ん中に立つと、富岡八幡宮の大鳥居が見えた。  周りに聞こえるほどの溜め息を漏らして、栄太郎が汐見橋で立ち止まった。 「栄太郎……」  鳥居わきの茶店からおふみが駆けてきた。橋に転がっていた小石を、栄太郎が思いっ切り蹴飛ばした。 「おまえをずっと待ってんだから。そこの鳥居の陰で話を聞かせてちょうだい」  栄太郎はなにが起きたかを察した。 「お金のことはどうとでもするから、わけを聞かせて」  よかった、借金が返せる……栄太郎が安堵の吐息を漏らした。気が楽になると口も軽くなる。栄太郎は思いつく限りの嘘を並べた。  おふみは一も二もなく、商いのためにやったことだという栄太郎の話を受け入れた。 「おとっつあんが何をいっても、じっと黙ってなさいね。あのひとには、付合いの気苦労なんか分かりっこないんだから」  この日の始末はおふみが強引につけた。そのあとも栄太郎は母親をうまく言いくるめて、洲崎通いも博打遊びも続けた。 「あんたの親父さんは堅すぎるねえ」  秋が深くなったころ、洲崎の料理屋で庄六が栄太郎の盃を満たした。飢饉続きで江戸の景気がいまひとつだ。客がめっきり減った洲崎に行くと、目一杯のもてなしを受けた。 「どっちを向いても景気のわるい話ばかりだ。こんなときこそ、商人《あきんど》は遊んで世の中にカネをお返ししなくちゃいけない」  渋い祝儀でも喜んだ仲居が、おもいっきりの愛想笑いを庄六に見せた。 「また揉めるようなことが起きたら、いつでもうちに来ていいよ」  庄六が引っくり返りそうなほどに胸をそり返らせた。酒席の見栄を鵜呑みにした栄太郎は、二度目がばれて追い出された日に平田屋を訪ねた。 「うちに来たことをだれかに言ったかい」  迷惑顔を隠そうともしない庄六が、キセルを乱暴に叩きつけた。 「おふくろが知ってます」 「長居は迷惑だが、二、三日ならいいよ」  居心地のわるさが肌身にしみた栄太郎は、夜明けとともに平田屋を出た。  ふところにはおふみがくれた当座のカネがある。朝の風はすでに冷たいが、見上げた空は高く雲もない。  栄太郎は海辺橋を渡り、霊巌寺前の通りを両国に向けて歩き始めた。朝方で人通りはまだ少なかった。それでも高橋《たかばし》を渡ると道具箱を担いだ職人が目立ち始めた。  南森下町で、油の焦げる匂いが流れてきた。横丁を入った裏店の小さな豆腐屋が、せっせと油揚げを造っている。屋号も何もない三坪の豆腐屋だった。  年老いた親爺は店先の栄太郎に愛想をいうでもなく、長い箸を気ぜわしそうに動かしている。小さな水風呂には大きな豆腐が何丁か浮いていた。  つかの間店先で様子を見ていた栄太郎は、表通りに戻ると道端に座り込んだ。  あの歳でもまだ裏店の豆腐屋だ。それに比べて上方からひとりで出てきたおれの親父は、表通りに店を構えた……栄太郎は自分を叩き出した永吉を思い浮かべた。  いまごろは、みんなで豆腐を仕込んでいるはずだ。自分ひとりが仕事もせずに、両国に向かって歩いている。  地べたを履物でぐりぐりっと擦《こす》った栄太郎が道を引き返し始めた。  親父に詫びよう。赦してくれたら今度こそ、おれが京やを……。  栄太郎は帰り道の途中で、名も知らない寺に参拝した。生まれて初めて、肚の底から気持ちを定めた。  小さな風呂敷包みが平田屋に置いてある。足を早めた栄太郎は、わけなく戻り着いた。 「どこへ行ってたんだよ、すぐ京やに帰りな。親父さんが亡くなったそうだ」  栄太郎から血の気がひいた。 「ほら、早くしろ」  大声でいわれて平田屋を飛び出した。 「おうい、待ちな待ちな」  小柄な庄六が追ってきた。 「風呂敷を忘れてるじゃないか」  舌打ちして受け取った栄太郎は、礼もいわずに駆け出した。  永吉が亡くなって京やに戻ったあとも、毎晩のように夜遊びや博打に出かけた。少しでもおふみから離れていたかったからだ。べたっと寄りかかってくる母親を、栄太郎は怯えに近い気持ちで見ていた。 「親父さんは気の毒なことをしたが、これからはあんたの店だ。うちも少しは回るようになってきたから、遊びの用立てぐらいならいつでもいいよ」  庄六の太い眉がさがっていた。  京やの銭函は、おきみがしっかり見張っている。おふみにいえば何とでもなったが、母親のまとわりつくような目を思い出しただけで気が滅入った。 「それじゃあ、お言葉に甘えて」 「いいともさ。ただねえ、ことがおカネの貸し借りだ、利息は要らないが、証文だけは面倒でも入れてもらうよ」 「それはもちろんのことです。ただ……」 「どうした、いってごらんよ」 「印形がありません」 「承知のうえさ。こんなことにもなろうかと思って、あたしの方で調《ととの》えといたから」  庄六は狐をどけて隠し戸棚を開くと、印形と紙、それに小判を取り出した。栄太郎の目が小判から離れなかった。 「こういうことには、あたしは抜かりがないんだ。じゃあ、ここにあんたの名前を書き入れて」 「ここでいいんですね」 「そう、それでいい。あと用立てた額をそこに……あんた、字がうまいじゃないか」  相手のおだてで栄太郎の筆が走った。 「そこの名前の上にこの印形を押して……はい、それでいいよ。じゃあ、あんたの名前のわきにあたしも自分の名を書くから」  栄太郎から筆を取り上げて庄六が名を書いた。金釘流のひどい文字だ。 「ふたり並ぶと、あたしの拙《まず》さが目立ってやだねえ。あとは印形を押して出来上がりだ」  栄太郎が印形を押し終わると、庄六が証文を手元にひったくった。 「証文と印形は、金が返るまではあたしが預かっておくからね」  こんなやり取りが、嘉次郎の口から悟郎に伝わった。おきみや悟郎との大喧嘩は、家を出るお誂えの口実となった。  おふみから受け取った三十七両は、ほとんど庄六への返済で消えた。 「確かに返してもらいました。それじゃあ証文を燃やすから見てなさい」  目の前で紙が燃えている。見詰める栄太郎は、実のところ何枚の証文を差し入れたのか分かっていなかった。 「せっかくこさえたこの印形は、あんたが大事に使うといい。黄楊《つげ》で作った高い品物だ、一生ものだよ」  いわれるまま、栄太郎は印形を受け取った。  京やを出るとき、海辺大工町の政五郎をたずねるようにと、おふみに耳打ちされた。  おっかあのいうままにはなるもんか……。  家を出たときは威勢がよかった。しかし平田屋でカネを取り上げられた栄太郎はたちまち弱気になり、政五郎の宿に逃げ込んだ。  鳶は杢柾以上に荒っぽい男所帯である。やわに暮らした栄太郎にはきつい毎日だった。それでも母親といるよりは、はるかに気持ちが伸び伸びとした。  政五郎のもとで、足掛け二年が過ぎていた。悟郎も嫁をもらっている。店を継げない寂しさは隠せないが、母親と暮らすよりは鳶のままがいいとまで考えるようになっていた。  そんなときに、おふみの危篤を知らされた。あれほど重荷に感じていた母親だが、死ぬかも知れないと分かったら、まるで違う気持ちが湧き上がってきた。  夜道を急ぎながら栄太郎は祈った。 「おふくろ、勝手に死んだりするなよ」  口に出していうと、母親ではなく永吉を想い出した。あたまのなかを駆けめぐる永吉の、どの顔も栄太郎に文句をいっている。 「ちゃんと火をみとらなあかんぞ」 「まだ薪を出したらいかん。鍋のふちが沸いてからや、よう見とれ」  きつく叱られたことしか浮かんでこないのに、栄太郎は嬉しかった。  あのときのおれは、親父に頼りにされていた……。  いままで考えてもみなかった形で、父親への想いが渦巻いた。 「おやじい……」  つぶやきで涙が溢れた。こぶしで涙を拭い去ると、富岡八幡宮の鳥居が見えた。  京やはすぐ先だ。      四十七  栄太郎とおきみは木戸が閉まる四ツ(午後十時)前に戻り着いた。 「おそかったじゃないか。はやくこっちに来ておくれ」  それまで絶え絶えの息だったおふみが、身を起こして栄太郎を招き寄せた。 「変わりはなかったかい……なんだかやつれたみたいだよ」 「ばかいってんじゃねえ、おれよりおふくろだ。あんなに医者に止められてんのに、また無理しやがったんだろ」 「好きでしたことだもの、文句はないよ」  おふみの口調も仕種もはっきりしていた。余りの明け透けな変わりように、悟郎は呆気《あつけ》にとられた。 「無理して起きあがってねえで、横になって楽にしなよ」 「平気さ、これぐらいのことは」  いっていることとは裏腹に、おふみの様子に力はなかった。栄太郎が苦笑いを浮かべて母親の手を握った。  突然、おふみが息を詰まらせて布団のうえで崩れた。 「どうした、おふくろ」  背中をさする栄太郎をどけて、おふみの身体を抱えた悟郎が仰向けに寝かせた。横にされたおふみが栄太郎の手を求めた。 「おとっつあんがお迎えにきてくれたよ」  定まらない目でおふみがつぶやいた。 「しっかりしろよ」  枕元にこどもたちが集まったが、声を出すのは栄太郎だけだ。母親の目が長男に戻った。 「京やは……おまえのものだからね……」  息苦しそうだが、言葉ははっきりしていた。  悟郎が暗い顔つきになった。すみは息を詰めて姑を見ている。おきみの目に力がこもった。  栄太郎は小さくうなずき、目顔で母親に返事をした。長男を見詰め返すおふみの目が遠くなり、嫌々をするように閉じられた。  二度目の発作のあと、おふみは残された精根を振り絞って踏みとどまっていた。ところが栄太郎の顔を見ると、潮がひくように事切れた。 「おっかさんて……お兄ちゃんに会えたから、もう思い残すことはなくなったのよね」  おきみが独り言のようにつぶやいた。 「あたしたちの看病でがんばったわけじゃなくて、お兄ちゃんに会いたいだけで、今朝からいままで踏みとどまってたのよね……」  悟郎とすみがこころの奥底で思っていることを、おきみが漏らした。栄太郎を除く三人は、呆《ほう》けたように母親の枕元に座っていた。 「悟郎……先生を呼んでこいよ」  栄太郎にいわれて悟郎が我に返った。町木戸は閉じていたが、わけを聞かされた木戸番は潜《くぐ》り戸から悟郎を通し、隣の山本町へ送り拍子木を打った。  大野岱善を伴って悟郎が戻ってきたときは、真夜中を過ぎていた。すでに事切れていることは分かっていたが、岱善は念入りにおふみを診た。 「心ノ臓の腫れは、どうにも手の施しようがない」  北向きに寝かされたおふみの枕元で、医者が両手を合わせた。 「永吉さんに続いて、おふみさんまでわしより早く逝くとはの」  こどもたちには、医者の無力を心底から悔しがっているように聞こえた。 「栄太郎さん、これを」  岱善が、持参した白布の畳みじわをていねいに延ばして手渡した。栄太郎がおふみの顔を覆った。おきみとすみから嗚咽が漏れた。 「町名主への届け出一切は、わしが手配《てくば》りする。葬儀の段取りは、あんたらで話し合って進めなさい」  岱善が帰ったあとはだれも口を開かず、互いに目を合わせることもしなかった。  秋は夜が長く、夜明けはまだ先だ。身内だけの通夜が始まろうとしていた。兄妹三人を残して、すみが流しに立った。  へっついに残った種火を七輪に移して火を熾《おこ》した。湯が沸いたところで、水屋から急須と湯呑みを取り出した。  食事の支度はおきみだが、茶はすみがいれてきた。いつものくせで、おふみの湯呑みも取り出した。堪《こら》えていた哀しみが、湯呑みを手にして溢れ出した。  すみにはきつい姑だった。どれほど尽くしても、こころを開いてはもらえなかった。  しかしすみは義母が嫌いではなかった。両国の女将のような、底意地のわるさはおふみには皆無だった。悟郎もおきみも、義母は栄太郎だけを大事にすると言い続けた。つい今し方も、栄太郎が戻ると当てつけるかのように息を引き取った。  すみは両国で、息子を嫁と張り合う母親を目の当たりにした。湯上がりの下帯まで世話をする母親のおぞましさに、身震いしたものだった。だがおふみがどれほど栄太郎の名を口にしても、気味わるさは感じなかった。  気持ちを通わせてはくれない義母に、やるせない思いを何度も抱いた。しかしおふみを嫌いだと思ったことはなかった。  茶をいれて部屋に戻ると、おきみが声を尖らせていた。 「お兄ちゃん、一体なにをやってたの?」 「迎えにきたおめえには分かってんだろう。鳶の親方んところで世話になってらあ」 「だってそこには居なかったじゃない。あたし、一刻半(三時間)も待たされたのよ」 「待たせたのはわるかったよ。けどよう、いまは葬式をどうするかの話だぜ」  栄太郎は、長男の自分が葬儀を仕切ると切り出した。 「親方に助《す》けてもらって、きちんとおふくろを送り出してえ」 「なに勝手なことをいってるのよ。手伝いなら、仲町のかしらに頼むのが筋でしょう。おとっつあんのときだってそうじゃないの」 「だからそれは親方から話を通してもらうと言ってるじゃねえか」 「だめよ。見ず知らずのかしらに言うぐらいなら、お義姉《ねえ》さんのお里にもきちんと頼まないと、悟郎ちゃんの義理がわるくなるわ。広弐屋さんはうちの商いがうまく運ぶように、色々と手を貸してくださってるじゃないの」  切り口上の栄太郎におきみが激しく応じた。 「いまも言ったが、ここのかしらには、うちの親方から筋を通すからよう。黙っておれにまかせねえか」  声を出すのはおきみと栄太郎のふたり。悟郎は思うところを求められても、生返事しか返さない。  すみひとりが新しい線香を立てたり、茶をいれたりと休みなく働いていた。しかしただのひとことも口を挟むことはしなかった。  なにも決まらないまま、ときが過ぎた。 「悟郎、大野先生から受け取った忌中札はどうしたよ」  はっとして、悟郎が腰を浮かせた。 「わたしがやります」  すみが札を受け取り、揚戸《あげど》をそっと開けておもてに出た。  姑の死、兄妹の果てしない口争い、夫の煮えきらぬ振舞。家族の醜いいさかいに触れて、こころがひび割れを起こしそうだった。  広弐屋でも、だれかが死んだらおなじことが起きるのかしら……ささくれた気持ちを持てあましたすみは、目を東の空に向けた。  黒と濃紺とが溶け合った空の下から、熟柿色のひかりが広がり始めている。明け方の空を眺めたことで、気持ちが切り替わった。 「夜が明けましたわ。おきみさん、新しいお茶でもいれましょう」  なかに戻ったすみは、通夜疲れの浮かんだおきみに、座を立つように水を向けた。 「お義姉《ねえ》さん、ごめんなさい。いやなおもいばかりさせて」 「いいのよ、そんなこと。立ち上がれば、少し気分が変わるでしょう」  口数こそ少ないが気遣いに充ちたすみの所作に、おきみの尖った気が癒《いや》されたようだ。  台所で気をとり直したおきみは、長兄の言うことも違った耳で聞こうとした。しかし栄太郎は変わっていなかった。 「このままじゃあ埒《らち》があかねえ。悟郎、はっきり聞かせてくれ」 「なにをだよ」 「おめえもおれの仕切りは気にいらねえか」  栄太郎の言葉遣いがまるで変わっていた。鳶職人のなかで暮らしているからだといっているが、荒《すさ》んだ渡世人の話し方に近かった。 「外はもう夜が明けてらあ。通夜だの葬式だのと、しなきゃならねえ段取りが山とある。おきみがどう騒ごうが、おふくろが死ぬときにいったのは、みんな聞いたはずだ。あれは親の遺言だぜ」  栄太郎はだれとも目を合わせないまま、言葉だけを吐き出した。 「悟郎ちゃん……悟郎ちゃんったら」  おきみが悟郎の膝を突っ突いた。 「兄さんにまかせよう」  夜通し続いた話合いで、初めて考えを口にした。あぐらのままだが、頼みますと悟郎が兄にあたまを下げた。 「そうと決まりゃあ、すぐにも親方と段取りを煮詰めてくらあ。その間におめえたちは、なかを片しといてくんな」  栄太郎が半纏を手にして出ていった。  店の戸を雑に閉めたらしく、細く柔らかな朝の陽が差し込んできた。  すみとおきみとが、ともに流しに立った。枕元には悟郎ひとりが残された。  兄妹の話合いは、悟郎のひとことでけりがついた。しかしおきみはまるで得心していない様子だった。  片付けに立ったすみとおきみを、悟郎は母親の枕元に呼び戻した。 「おふくろが焼き場に行くまえに、枕元でどうしても話しておきたいことがある」  ふたりが悟郎のまえで居住まいを直した。 「おふくろの依怙贔屓《えこひいき》はひどかった。それはおれもおまえもよく知ってる」  おきみが大きくうなずいた。 「でもなあ、おきみ……おふくろがどんだけ兄さんに肩入れしたとしても、兄さんがわるいわけじゃないだろう」  おきみが食ってかかりそうな顔を見せた。悟郎はそれを押しとどめた。 「兄さんが奉公に出されたわけを、おまえは知ってるか?」 「知らないわ。聞いたことないもの」 「おれは知ってる。おまえと三人で豆腐を造ってたとき、親父から聞かされた」  それは桜が咲き始める前の、まだ水が冷たいころだった。 「栄太郎がおらんようなって寂しいか」  仕込みが一段落着いたとき、前垂れで手を拭いながら永吉が話しかけてきた。おきみは住まいの片付けで店にはいなかった。 「うん、さびしい」 「そうか……」  永吉はしばらく黙っていた。やがて諭《さと》すような口調で話し始めた。 「あいつはちょいちょい、店のおカネをくすねとったんや。あのままやったら、先が思いやられる。そやからいまのうちに他人《ひと》様の飯を食わせて、鍛えなあかんのや。さびしゅうても、栄太郎のためやおもて我慢せえ」  悟郎は飛び上がりそうになった。  おにいちゃんのおあしで、おいらも団子やくず湯なんかを一緒に食べた……。しかし悟郎はそれを言い出せなかった。 「おれが兄さんに、はっきりものを言わないのが不満だろう。そう思ってあたりまえさ」  悟郎がすみとおきみを順に見た。 「でもおれは兄さんに負い目がある。奉公に出されたのは、兄さんだけがわるかったわけじゃないんだ」  悟郎が声を詰まらせた。すみもおきみも、身じろぎひとつしなかった。 「長屋の裏で狂い犬に噛まれそうになったときは、石を投げて助けてくれた。杢柾に出される朝、雪でかじかんだおれの手に二文の銭をくれたんだ」  ぬるくなった茶に悟郎が口をつけた。 「おふくろが倒れる前の日、八幡様にお参りしたのを覚えてるか」  問われたすみが、小さな声で返事をした。 「あのとき、おれはひとつ気づいた。夫婦といえども、同じことを考えているかどうかは分からない……ということにさ」  うまく呑み込めないすみが、瞳を大きくして悟郎を見た。 「親父とおふくろとが、三人のこどもに同じ思いを持っていたら、おれはきっと兄さんと一緒に豆腐屋がやれてた」  悟郎がすみから妹に目を移した。 「おまえだって、とっくに嫁に行ってたさ」  一気に言った悟郎が大きな息を吐いた。線香の煙がゆらゆらと揺れた。      四十八  栄太郎は九ツ(正午)過ぎに、数人の鳶職人を連れて戻ってきた。日焼けした職人たちのなかでは、色白の栄太郎がひとり浮いて見えた。 「悟郎、みんなを集めてくんねえか。顔つなぎをしてえんだ」  悟郎はすみとおきみを、豆腐造りの土間に呼び集めた。鳶の手で、すでに揚戸が開かれており、秋の日差しが店先に溢れている。 「こちらは世話役の次郎吉《じろきち》さんだ」  肩と背に赤い帯の入った別誂えの半纏を着た男が、軽くあたまを下げた。髷《まげ》に白いものが混じっているが目つきは鋭く、締まった痩身はいかにも身軽そうだ。 「弟の悟郎に連れ合いのすみ、それに妹のおきみです。みんなこれからの通夜と葬式の一切は、次郎吉さんの指図通りに動いてくれ」  三人揃ってあたまを下げたが、おきみの下げ方が一番軽かった。鳶たちは土間にある豆腐造りの道具を、機敏な動きでどけ始めた。 「家の普請でもしているみたいに手際がいいわね……」  外で見ているおきみが、足元の小石をぽんと蹴った。 「あたし、実家に話をしてきます」  所在なげに鳶の働きぶりを見ている悟郎とおきみに、すみが小声で伝えた。 「分かった。夕方までに戻ってくればいいから。手伝いについては、くれぐれも失礼のないように断ってくれよ」  すみが目でうなずいた。京やの両脇に提灯を立てかけて、通夜の備えが進んでいる。すみはそのわきを抜けて、永代橋へと向かった。 「いまの間に、嘉次郎さんに知らせてこいよ。あの人には色々と世話になってるから」 「そうね、すぐに行ってくる」  常盤町はさほど大きな町ではない。高橋を渡った先でたずねると、店はすぐに分かった。  二間《にけん》間口の小体《こてい》な店で、腰高障子戸には太い筆文字の屋号が書かれていた。おきみはそっと障子戸を開いた。 「ごめんください」 「どちらさんですかい」  真っ暗な奥から、聞き覚えのある声がした。 「嘉次郎のおじさん……」  ガタガタッと音がしたあとで、嘉次郎が顔を出した。 「やっぱりおきみちゃんか。構わねえからへえんなよ」  笑いかけようとした嘉次郎の顔が、おきみを見て堅くなった。 「おきみちゃん……ことによると、栄太郎かおふみさんのことじゃねえか」  おきみがこくんとうなずいた。 「おふみさんが、かい?」  もう一度こっくりとしたおきみの両目から、大粒の涙が溢れ出た。昨夜からおきみは泣くきっかけを失っていた。新兵衛店のころを知っている嘉次郎の声を聞いて、堰《せ》き止めていたものが一気にはずれた。 「やっぱりそうか」  嘉次郎が得心顔をおきみに向けた。 「まっ、そこに座んなよ」  嘉次郎が空樽を指差した。おきみが腰をおろし、向かい合わせに嘉次郎が座った。 「今朝のまだ明け切らねえころ、永吉さんとおふみさんが夢枕に立ったのよ」 「そんなことが……」  おきみが絶句した。 「夢んなかでなにを言われたかは分からなかったが、魚河岸に行っても夢が気になってしゃあねえんだ。仕込みを済ませたら、仲見世まで出向こうとかんげえてたところさ」  首に巻いた手拭いをおきみに手渡した。 「それでおふみさん、亡くなったのかい」  おきみを見て嘉次郎が肩を落とした。 「すぐにでも行きてえんだが、こんな店でもあてにして来る客が何人かいるんだよ。連中にわけを言って早仕舞いしたら、すぐに顔を出させてもらうから」 「おじさんの都合を忘れて、勝手に取り乱したりしてごめんなさい」 「ばかいうねえ、おふくろ亡くしたんだ。泣きわめくのが当たりめえさ」  かならず顔を出させてもらうから、という嘉次郎の言葉を大事に抱えて、おきみは戻った。おきみからひと足遅れの七ツ半(午後五時)ごろ、風呂敷包みを手にしてすみが帰ってきた。 「お通夜もお葬式も、番頭の安次郎ひとりがうかがうことになりました。折りを見てあなたからお兄さんに話してくださいね」  無言のまま、悟郎があたまを下げた。 「それと、なにかと入り用だろうからとお香典を言付《ことづ》かってきました。これはひとまず、おきみさんが預かってください」  風呂敷には喪服と、広弐屋の家紋入り不祝儀袋が包まれていた。 「おきみさん、あなたの喪服も取りあえず用意してきたけど」  おきみが言葉を詰まらせていたとき、乱暴にふすまが開かれて栄太郎が入ってきた。 「なんでえ、おめえたちは。なにかてえと三人つるんで、こそこそやってやがる」  仲間外れにされたと思い込んだのか、栄太郎の顔が歪んでいた。 「そろそろ客が来始めるぜ。おめえたちが揃ってなきゃあ、格好がつかねえだろうが」 「わるかったよ兄さん、すぐに行くから」  悟郎が詫びて場を収めた。  流しに立ったおきみは、通夜客に振舞う煮物の支度に取りかかった。すみが手元の手伝いに入った。  干し椎茸を戻した汁がダシになる、精進味噌汁をおきみは母親から教わっていた。椎茸と豆腐、油揚げを細かな賽の目に切ったものが具である。砂糖をふたつまみ入れるのが味噌汁の仕上げだ。  悟郎のもとに嫁いだあと、すみも何度かこの味噌汁を味わった。里では食べたことのない、おふみ流の味噌汁にすみは驚いたものだ。いまはおきみが母親の味をなぞっていた。  通夜には、永吉のとき以上の弔問客が列をなした。土地に生まれたものと、上方から越してきたものとの差であった。  揺れ止めに小石のぶら下がったぶら提灯が明かりを投げる京やの路地に、鏡を抜かれた四斗樽が置かれている。清めの振舞酒は、焼香に来てくれた裏店のひとたちには、なによりの御礼であった。 「おふみさんに平気、平気っていわれると、こっちもそんな気になっちまってね。何度もおふみさんには元気をつけてもらったよ」 「おふみちゃんが歩くと下駄がカタカタ鳴るからさあ、すぐにだれだか分かったもんさ」  酒が入り、様々な言葉でおふみの昔が偲ばれていた。おきみが精進味噌汁の振舞を始めると、みんなが酒をわきに置いた。 「なつかしい味だよ、これは」 「ほんとうにそうだ。これはおきみちゃんが作ったのかい?」  おきみの顔が嬉しそうだった。 「おふみさんから娘にきちんと伝わっているのを知ったら、永吉さんもさぞかし嬉しいだろうねえ」  椀を配るおきみの手が止まった。 「この味噌汁って、おとっつあんの味だったんですか?」 「おきみちゃんは知らなかったのかい?」 「ええ……おっかさんの味だとばかり思ってました」 「あたしらが初めてこの味噌汁を食べたのは、おきみちゃんが生まれるまえだったよ」  おきみの祖父、源治の通夜は新兵衛店で執り行われた。集まってくれた長屋の住人に、永吉は京やの豆腐や油揚げを用いた京料理を出した。精進味噌汁もそのひとつだ。  おきみの物心がついたときから、精進味噌汁は母親が作っていた。それの元が永吉であったと知って、おきみは正直おどろいた。  何かといえば言い争いを繰り返すふたおやを見て育ったおきみは、ふたりは仲がよくないと思っていた。とりわけ栄太郎のことになると、おふみは些細なことでも永吉に逆らってきた。  そのおふみが、永吉の味噌汁をことあるごとに作っていた。しかも娘にまで作り方を教えている。  おっかさんは、おとっつあんのことを大事に思っていた……おきみはあらたな目で母親を思い返した。 「おふみさんが仲見世に越してから、新兵衛店が寂しくなっちまってさあ」  めっきり白髪の増えたおたけが、だれにこぼすでもなくつぶやいた。 「それでもここに来れば会えたのに……あたしより先に逝くことはないじゃないか」  おたけが大きな泣き声をあげた。つられて周りですすり泣きが起きた。  おっかさんは蛤町のひとたちに、本当に好かれていたんだ……。  母親の思い出が弔問に訪れたひとたちに気持ちをこめて語られるのが、おきみには嬉しかった。  五ツ(午後八時)を過ぎて裏店の焼香客がだれもいなくなったころ、半纏姿の嘉次郎が顔を出した。栄太郎が近寄った。 「嘉次郎さん、わざわざどうも」 「このたびはご愁傷さまで」  形通り悔やみを言っただけで、嘉次郎は栄太郎から離れた。目がひとを探していたが、悟郎を見つけて留まった。すぐさま悟郎が動いた。 「ありがとうございます、どうぞ線香をあげてやってください」  焼香を済ませると、悟郎に目配せした。悟郎もうなずき返した。 「嘉次郎さんを辻まで送ってくる」  喪主の栄太郎にひとこと断ると、急ぎ足で嘉次郎を追った。 「年下の弔いは、どうにも落ち着かねえ」  町は月明かりだけである。暗がりを歩く嘉次郎から、闇に溶け込むような重い言葉が絞り出された。 「おふみさんは、おれより十以上も年下だぜ。順番がまるっきりあとさきだよなあ」  仲町の辻で嘉次郎が足を止めた。 「こんなときに言いたかあねえが、気になることがひとつあるんだ」  暗くて表情は定かに分からない。しかし声の調子が悟郎の気を引き締めさせた。 「平田屋の職人のことを覚えてるかい?」 「兄貴のことを教えてくれたひとですね」 「そうだ。あいつがまた、妙な話を持ってきやがったのよ」 「うちにかかわりのあることですか」 「ああそうだ。時期が来たら、京やがそっくり手にへえる掛合いをやるてえんで、平田屋の狐野郎が浮かれてるらしい」 「うちが平田屋の手に渡るとでもいうんでしょうか」  悟郎の声がめずらしく尖っていた。 「どうせ栄太郎が絡んでのことだろうが、なにか聞いてるかい?」 「いいえ……兄貴とは昨夜《ゆうべ》、久しぶりに会ったばかりです」 「そいつは旨くねえな。いってえどこにいたんだよ」 「鳶の政五郎という親方のところで世話になってると聞きましたが」 「政五郎さんてえのは、海辺大工町のかい」 「はい。おきみがそう言ってました」  嘉次郎が大きく安堵の息を吐き出した。 「あの親方んとこなら、いたずらはできねえ。それを聞いて安心したが、しばらくは気を抜かねえ方がいいぜ」  嘉次郎の話で気が沈んだ悟郎は、雪駄を擦《こす》るような足取りで京やに戻った。土間では鳶の酒が始まっていた。 「おう栄太郎、片付けは女連中にまかせてこっちにきなよ」  通夜の清めということで、最初は静かな酒だった。しかし回るに連れて荒れてきた。 「おめえの妹はいい女だなあ、ここに呼んで酌をさせろ」 「弟はどうしたい、つらも見せねえで愛想のねえ野郎だぜ」  酔いが鳶たちの声を大きくし、わきまえを捨てさせた。なかでも世話役の次郎吉は酔いが深く、遠慮がなかった。  栄太郎は見ているのがつらくなるほどに、次郎吉の機嫌をとっていた。酒盛りは、町木戸が閉じる四ツ(午後十時)まで続いた。 「おれは世話役さんたちと、親方の宿にけえるからよ。片付けは頼んだぜ」  悟郎たちは、口を開くのも億劫なほどに疲れ果てていた。嘉次郎の話をふたりに聞かせる気力が、いまの悟郎にはなかった。  永代寺のこおろぎがうるさく鳴き始めた。      四十九  嘉次郎が仲町の辻で悟郎に話を聞かせていたころ、平田屋庄六は数珠持ちの傳蔵相手に、ひたいの脂を一段と光らせていた。 「もう何年もまえのことになりますが、千両あれば豆腐屋一軒を潰すと言われたことを、覚えておいででしょうな」 「あれは済んだ話だ」  傳蔵は長火鉢から目を上げず、面倒くさそうに答えた。銅壺《どうこ》では、伊万里焼の徳利が頃合の熱燗になっている。  弐介からどうしてもと頼まれて庄六を招きいれた。しかし楽しい相手ではない。早く賭場に追い返して、日本橋美濃屋から届いたばかりの辛口をゆっくりと飲みたかった。 「あたしと一緒に居てもらうだけで二百両。これでいかがでしょう。明日の夜、一刻ほどあたしのうしろに座ってるだけで結構だ」  庄六の持ち込む儲け話など、二百両が一万両でも気が乗らなかった。が、江戸の不景気は賭場にも及んでおり、いまの傳蔵に二百両はおいしい。どんな絵図を描いたのか、肴がわりに聞いてもいいとの気も働いた。  ふところから袱紗《ふくさ》を取り出した庄六は、一枚の紙をていねいに広げた。 「これがあれば、京やはあたしのものです」  庄六のひたいが行灯の明かりに照り返った。 「名前は本人が書いたもので、印形はいまでも使っているはずです。どこからつついても、紛《まぎ》れもない本物です」  庄六が、広げた紙を手渡した。栄太郎が差し入れた借用証文である。期日までに支払いがなかった場合には、家質《かじち》の京やが流されても異存はなし、と記されていた。 「家一軒を家質として差し出すわりには、借りた銭がやけに可愛いじゃねえか」  手首からはずした数珠を、傳蔵がじゃらりと鳴らした。 「言い残しがあると、あんたも怪我するよ」  おとなしい物言いにも凄味がある。勿体ぶって座っていた庄六が、背中を丸めた。 「京やの跡取りに遊ぶ金を用立てる都度、証文を入れさせていたんです。何年かまえの夜、いきなりあたしを訪ねてきて、全部きれいに返すから証文は残らず焼き捨てろと……」  甘い口をきいてやってたことで、増長した節があると庄六は続けた。  余りに業腹《ごうはら》なので、一枚の証文を残しておいた。約束の返済期日はとうに過ぎている。あの息子はうるさい母親の言いなりだったが、その女が昨夜亡くなった。これで栄太郎が跡に座るわけだが、あの男ではどうせ一年とは持たせられない。 「だからこそ、あたしが京やをいただこうというわけです。先《せん》にも言ったと思うが、もともとあそこは、あたしが入るはずだったんだ。回り道はしたものの、やっぱり落ち着くところに落ち着くもんです」  傳蔵は聞き終えた後、庄六が焦《じ》れるほど黙って考え込んでいた。証文が長火鉢の隅に置かれたままになっている。火の中に吹き飛びはしないかと案じているのか、庄六の様子に落ち着きがなかった。 「おれのやり方を受けるなら乗ってもいい」  傳蔵が薄い唇に笑いを浮かべて切り出した。 「やり方っていいますと?」 「うちらは博打が生業だ。あんたが目を当てたら、その掛合いに銭はいらねえ。外したら倍の四百両てえことでどうだ」  庄六は傳蔵が素直に二百両で受けるとは考えていなかった。ぎりぎり五百両までは肚をくくっていた。 「あたしもこの賭場で、それなりの遊びは積んできた。しかし負けたら四百両の勝負をするなら、それなりに確かなものがありませんとねえ」  庄六のあごが、わずかに上がっている。 「あんたのことだ、印形は肌身離さず持ち歩いているんだろうが」 「そりゃあもちろん……しかしなぜ……」 「おい、やっこ」  飛んできた若い者に、傳蔵は半紙と矢立を持ってくるように言いつけた。 「ここにある証文と同じように、勝ち負けでどうするかの起請文《きしようもん》を書こうじゃねえか。同じ文句の起請文を二つこさえて、互いに一判《いつぱん》押して持ち合うてえことでどうだ」 「それならもう……このうえ確かなことはありません」 「だったら決まりだ、すぐさま始めようぜ」  ふたりは四半刻ほど費やして、二枚の起請文を書き上げた。ともに名を書いて印形を押し合った一枚を傳蔵が長火鉢の引出しに納め、もう一枚を庄六が栄太郎の証文とともに袱紗にしまった。 「控えの壺振りを呼んでこい」  幾らも間を置かず、壺振りが道具と真新しい木綿の白布を抱えてやってきた。 「あんたも平田屋さんは知ってるだろう」  きつい目をした男が、庄六に軽くあたまを下げた。肚をくくったはずだったが、いざ段取りがそろうとひたいに汗が噴き出した。壺振りに会釈されても、返すゆとりもなさそうだった。 「勝負は一回。先に平田屋さんが目を読んでいいぜ」  傳蔵の仕種を見詰めていた壺振りは、つかの間、怪訝な目を見せた。が、すぐに引っ込めると気合を込めて壺を振り、白布の盆にすとんっと伏せた。 「あんたの逆目がおれだ。半端な勝負じゃねえよ、しっかり読みねえ」  傳蔵が煽る。庄六のひたいから脂汗が流れ落ちそうだ。目を閉じた庄六は、狐の焼き物を懸命に思い描いた。  高いおカネを払ったんだ、こんなときにこそ役に立ってくれなくちゃあ……うん……いま目が光ったよ……目はふたつ……そうか、丁だ。  庄六は目を閉じたまま上擦《うわず》った声で、丁に賭けた。 「勝負……一一《ぴんぴん》の丁」  目を聞いた庄六の腰が砕けた。 「あんたは勝負づよいひとだ。約束通り、明日の夜はお供させていただきやしょう」  また傳蔵が数珠を鳴らした。 「もう木戸は閉じてるころだ。朝まで遊ぶか、部屋で休んで行けばいい」 「いまのですっかりくたびれた。今夜はこれで休ませてもらいますよ」  若い者に案内されて、庄六はおぼつかない足取りで部屋を出た。 「親分、あれで良かったんで」 「違ってねえ、いい腕だよ」  壺振りが部屋を出たあと、しばらく酒を呑《や》っていた傳蔵は、盃を手にしたまま立ち上がった。庭の障子を一枚開けると、湿り気を帯びた秋の夜気が流れ込んできた。 「明日の葬式は、雨になるぜ」  だれもいない部屋で、ぼそりとつぶやいた。      五十  寛政三(一七九一)年九月二十三日、おふみの葬儀は雨になった。  栄太郎は五ツ(午前八時)に、昨日と同じ顔ぶれの鳶を引き連れて戻ってきた。酒が抜けた鳶衆は、きびきびとした動きを見せた。  降りやまぬ雨のなか、寝棺を担いだ鳶が木遣《きや》りでおふみの野辺送りを始めた。  新兵衛店からは、職人や女房連中が番傘の列を作っていた。多くの住人が自分より年若くして逝ったおふみを悼《いた》み、精一杯の手向《たむ》けをしたいのだろう。  二年前、公儀は武家が札差に負った借金を棒引きにする棄捐令を敷いた。途方もない貸し金を帳消しにされた札差は、生き死にの瀬戸際まで追い込まれた。江戸一番の分限者衆といわれた札差のカネ遣いがぴたりと止まり、景気が一気にわるくなった。  しばらくの間、不景気の波は大川の手前で留まっていたが江戸の商いは一向によくならず、いまは深川も元気がない。  蛤町の住人は、ほとんどが職人である。景気のわるさをまともに浴びたのが、このひとたちだ。新しい普請が減り、商家の開業もほとんどなくなったいま、毎日の米味噌代にも事欠く職人が多かった。  そんななかでも新兵衛店のひとたちは、仕事を休んでおふみの野辺送りに連なった。  列をなした長屋衆の身なりは、まるでばらばらだ。職人は半纏を着て、それなりの格好がつけられた。しかし女房連中は違った。不祝儀の黒物など、どこの家にもなかった。地味な着物を選ぼうにも、選ぶもとがない。  野辺送りの先頭には、揃いの半纏を着た鳶がいた。そのあとに喪服姿の京やが並び、町の肝煎衆が続いた。  蛤町の住人たちは、木綿や絣の柄物を着ていた。派手な色物しかない女房たちは、白い前掛けで柄を隠した。  見た目にはちぐはぐとなったが、おふみを悼む思いにあふれた行列だった。  雨の葬儀が終わり、焼き場から戻った栄太郎は明かりのない京やの土間で、この二日間を思い返していた。  やれるだけの葬式を出すことができた、と栄太郎は思っていた。鳶が助けてくれたことで、きちんと形もつけられた。世話役の次郎吉も、こころのこもった木遣りを唄ってくれた。ところが世話をかけた鳶衆に、悟郎もおきみも愛想がなかった。  それを思い出して、栄太郎の顔が歪んだ。  一方の悟郎たちは、様々な思いを抱えて栄太郎を待っていた。通夜も葬式も、形は見事にできていた。しかし母親を亡くした哀しみに浸る間もなく、段取りだけが進んだと三人ともが感じていた。その虚しさに、悟郎、おきみ、すみが重く沈んでいた。 「そろそろ、お兄ちゃんを呼んだ方がいいんじゃない?」  悟郎とともに居間に戻った栄太郎は、両目に険を帯びていた。夜に入って雨も上がり、虫の鳴き声が聞こえてくる。 「兄さん、ご苦労さまでした」  悟郎がねぎらいを言っても、栄太郎は憮然とした顔を崩さない。 「兄さん……」 「うるせえ」  栄太郎が弟を睨《ね》め付けた。 「てめえら、そこまでおれがやなのかよ」 「どういうことだ、兄さん」 「とぼけんじゃねえ」 「お兄ちゃん、どうしたっていうのよ。いきなり怒鳴られても、わけが分からないわよ」  おきみの声も尖っていた。栄太郎が大きな舌打ちをした。 「分からねえんなら、おせえるぜ」  栄太郎が吊り上がった目を悟郎に戻した。 「てめえは、江戸屋と永代寺におれを差し置いて勝手にあいさつしやがったろうがよ」 「なにをいうんだよ。あのときは……」 「うるせえ、黙ってきいてろ」  悟郎があとの口を閉じた。 「それからおきみ、おめえは世話役さんに呼ばれても、知らん顔しやがっただろうが。妹が酌もしねえから、おれの面子は丸潰れよ」  いわれたおきみが、燃えるような目で栄太郎を睨み返した。ひざにおいた手が、細かに震えていた。 「今日は今日で、焼き場に行っても野辺の道でも、てめえらはいっつも三人だけでかたまってやがってよう」 「………」 「新兵衛店の連中とも、おれのことをうっちゃっといて、おめえたちだけで話してたじゃねえか。おい、悟郎」  悟郎が兄を見た。弟の目に怒りは宿されてはいなかった。 「おめえの女房は、蛤町の連中を知ってるわけねえだろうがよ」  悟郎が小さくうなずいた。 「だったらわけ知り顔で話をさせねえで、うしろに引っ込ませろ。てめえの女房なんかより、あの連中はおれと話がしたかったに決まってらあ」  すみが詫びるような目で栄太郎にあたまを下げた。栄太郎はその目を弾き返した。 「おふくろの葬式だから我慢もしたが、もう沢山でえ。てめえらがその気なら、おれは親の遺言通りに京やをもらうぜ」  おきみが口を開きかけた。それを悟郎が押しとどめた。悟郎の哀しそうな目を見て、妹が応じた。  悟郎とおきみの様子を見て、栄太郎がさらに目を尖らせた。 「悟郎よう……」  悟郎は無言のまま兄を見た。 「女房の実家《さと》もてえしたことはねえな」 「どういうことだよ」  広弐屋をあなどられて、悟郎の顔色が変わった。栄太郎が鼻先で笑った。 「悔やみには、あるじがつらあ出さずに番頭を寄越しやがったじゃねえか」 「………」 「しかも番頭は、香典のひとつも持ってきやしねえ。おきみがほざいた、お里の義理がわるくなるが聞いて呆れるぜ」  栄太郎からとめどなく悪態が吐き出される。悟郎がひざの手をこぶしに固めた。 「この、かす野郎」  いきなり悟郎が栄太郎を殴りつけた。兄に手向《てむ》かったのは、こどものとき以来である。栄太郎が吹っ飛ばされ、鼻血が吹き出した。兄が憎しみに燃える目で悟郎を睨みつけている。すみが悟郎に抱きついて止めた。 「この二日間、おれたちがどんなに切なかったか、あんたは死ぬまで分からねえよ」  栄太郎のまえに仁王立ちした悟郎が、声を震わせた。すみはまだ、悟郎の腰にしがみついたままだ。 「もう、あんたの顔は見たくもねえ」  生前の永吉が、最後に栄太郎に言ったような言葉を悟郎が口にした。  腰にしがみついたすみの手をはずした悟郎は、栄太郎を土間まで引き摺《ず》り、おもてに放り出そうとして揚戸を開けた。  戸の外に、鳶の政五郎が立っていた。      五十一  おふみの野辺送りに降った雨が、傳蔵の宿の庭木も濡らしていた。庭の先には色づいた霊巌寺の銀杏が見える。朽ちたぎんなんの強い匂いが、閉じた障子戸を越して流れてきた。  長火鉢を挟んで、傳蔵と役者とが向かい合っていた。使いのやっこに用向きを聞かされた役者は、風呂敷に包んだ道具一式を持参した。 「いま言った通りのことが書かれてりゃあいい。名めえと印形をうまくなぞってくれ」  役者は昨夜の起請文を手にしていた。明かりにかざして印形を透かし見ると、傳蔵に向き直った。 「この場でできる仕事です。一刻もあれば片付きます」  傳蔵の返事を待つまでもなく、役者は風呂敷をほどき始めた。包みには竹べら、こて、油紙、幾通りもの半紙などが収まっていた。 「半紙と筆は、こちらのを使いましょう。試しを含めて三枚いただきます」  傳蔵が昨夜と同じ半紙と矢立を運ばせた。役者は一枚の半紙に、平田屋庄六の筆遣いを真似て名を書いた。小さい名、太い名、掠《かす》れた筆遣いの名。半紙が平田屋庄六という文字で埋め尽くされた。 「字がまずいだけに筆を似せるのが骨ですが、こんなところでしょう」  役者が得心顔で言った。  新しい紙の上部を、持参の卦算《けいさん》(文鎮)で押さえた。馬が前足をあげて大きくいなないている、青銅の見事な卦算である。筆も太いものから極細まで何本も持ってきていた。しかし試し書きを済ませたいまは、矢立の筆を使おうと決めたようだった。 「平田屋の身代すべてが手に入る文面であればよろしいんですね」  確かめてから墨を軽く含ませると、慣れた手で筆を運んだ。 「それでよろしければ、先に名を……」  仕上げた半紙二枚を傳蔵に手渡した。受け取った傳蔵は文面を念入りに確かめた。 「さすがの仕上がりだ」  役者が軽くあたまを下げた。手首の数珠をはずした傳蔵が筆を手にした。名を書き終えると、ふたたび役者の手元に戻された。  卦算を置き直し、半紙の四隅に手を走らせた。半紙がぴんと延ばされた。役者は膝を揃えて背筋を伸ばしてから目を閉じた。  深い息遣いのあと目を開いた役者は、迷いのない所作で筆を手にした。あとは水が流れるような滑らかな手付きで、二枚の半紙に平田屋庄六の名を書いた。  起請文と見比べたあと、傳蔵に向かってゆっくりとうなずいた。 「印形を押せば仕上がりです」  持参した数枚の半紙に、昨夜の起請文を重ね置いた。次に油紙を手にすると、裁《た》ちばさみで半紙大の油紙を二枚作った。傳蔵は長火鉢の向こうから役者の仕事に見入っていた。 「印形を押した朱肉は、こちらので?」  武家のほかは朱肉を使うのはご法度である。それを役者が確かめたのだ。 「ああ、うちのを使った」 「ものが良くて幸いでした。あとの仕事がやりやすい」  油紙を庄六の印形にかぶせて、竹べらで油紙を擦《こす》り始めた。竹べらが、きゅうっ、きゅうっと音を立てる。一枚の油紙で十回ほど擦り、紙を取り替えて同じことを繰り返した。役者の手元にある二枚の油紙には、庄六の印形がくっきり写し取られていた。  外の明かりに油紙を透かし、仕上げを確かめた。仕事に満足できたらしい役者は、庄六の名前の上に油紙をあてて、ふたたび竹べらで擦り始めた。擦ったのはきっかり十回。紙を取り去ると、鮮やかに印形が写っていた。 「そちらの印形を押せば仕舞いです」  傳蔵に二枚の半紙が手渡された。傳蔵と庄六の名が連なっており、庄六の名前にはすでに朱色の印形が押された形になっていた。 「まさに本物だな」 「まさに本物です」  役者は手際よく風呂敷回りを片付けた。 「あっちの手配りはどうだ」 「江戸でも一番の男です。言い値だけのことはあります」 「手間をかけたぜ」  いつも通りの短いやり取りを済ませると、役者は音も立てずに部屋を出た。  五ツ(午後八時)の鐘で庄六が顔を出した。すでに雨は上がっている。庄六は五つ紋の紋付羽織を着ていた。  傳蔵は襟元を崩して黒羽二重を着流した。帯は真新しい茶の献上博多を締めている。六十を目の前にした傳蔵だが、背筋はぴんと伸びている。ふたりが並ぶと、庄六の背筋の丸さが際立った。  傳蔵は亀久橋から大和町に抜ける道をとった。賑やかな色里の明かりも、亀久橋までは届かない。それでも雨のあがった空には月があった。すっかり夜空が高くなっている。 「こんな空なら、粋筋相手の道行《みちゆき》と願いたいとこですな」  気の利いた軽口を言ったつもりらしく、庄六が傳蔵を横目に見た。しかしまるで相手にされず、手元の提灯に目を移した。  そのとき、うしろからきた股引《ももひき》姿の男が、どすんっと庄六にぶつかった。 「なっ、なんだよ、いったい」 「すまねえ、暗くてよくめえなかったんだ」  詫びをいった男が橋を駆け下りようとした。 「待ちねえ」  傳蔵の動きは素早かった。声と同時に駆け出して橋の先で男を捉まえた。 「おれのめえで、しゃれた真似をしてくれるじゃねえか」  提灯を片手にした庄六が、せかせかとふたりを追ってきた。傳蔵が男のふところから、紙入れと袱紗を取り出していた。提灯の明かりで傳蔵が手にしたものが分かると、庄六の目が見開かれた。 「あっ……ああ……」  庄六が言葉にならない声を漏らした。 「分かってる。あんたのだろうが」  左手だけで掴まれているのに、男は身動きできずにいた。庄六が男を睨みつけた。 「仲町の自身番に突き出そう。あたしのふところを狙うなど、とんでもないやつだ」  いきり立った庄六を見る傳蔵の目が、凍りつきそうなほどに冷たかった。 「番所で細々ときかれたら、あんたも厄介ごとを抱えるぜ」 「………」 「それより中身を確かめな。おれが提灯を持っててやる」  傳蔵は左手で男を掴んだまま、庄六の提灯を受け取った。 「袱紗のなかは一枚、二枚……大丈夫だ、ちゃんとある。あとは紙入れだが……傳蔵さん、もう少し明かりをこちらにもらわないとよく見えないんだが……ああ、こちらの中身もいいようだ」  傳蔵が左手をゆるめて男を放した。 「おれは霊巌寺の傳蔵だ。おめえがどこで稼ごうと知っちゃあいねえが、おれのめえでは次はねえぜ」  男は許されたのが信じられないという顔を見せた。そして相手の気が変わらないうちにと思ったのか、川沿いの闇に駆け込んだ。  傳蔵が先に立って歩き出した。庄六は提灯を揺らしながら、急ぎ足であとを追った。      五十二  いれ立ての茶から、淡い香りが漂っている。湯呑みを口にした政五郎が、ごくんと喉を鳴らした。 「いい茶だねえ。久し振りだよ、こんなに旨いのを飲むのは」  政五郎のとなりに栄太郎がいる。向かい合わせに、悟郎たち三人が座っていた。  兄に手をあげた悟郎は、気持ちが落ち着かないのか荒い息が続いている。栄太郎は目の下に大きなアザができていた。殴られると青アザをつくるのは、こどものころと変わっていない。 「おれも兄貴と何度も喧嘩をやったもんだ。だがねえ悟郎さん、母親の葬式を出したその夜に、栄太郎の胸倉をひっつかんで出てけてえのは穏やかじゃねえよ」  政五郎の口調が柔らかくなったり固くなったり、自在に変わる。気の荒い鳶職人を束ねる、かしらならではのものだ。 「栄太郎はうちのでえじな職人だが、喧嘩の仲裁は五分に分けるのが決まりだ」  政五郎が栄太郎と悟郎とを等分に見た。 「不祝儀ごとのあとは、深いところでだれしも気が立ってるさ。それを互いに吐き出しとかねえと、生きるの死ぬのの騒ぎまで引き起こしちまうことがある」  湯呑みに残った茶を政五郎が飲み干した。 「ここにいるのはあんたら身内だけだ、だれに遠慮がいるもんかね。言うだけ言って、すっきりしてみねえな。どうでえ、悟郎さんよ」  今夜初めて会った政五郎の、人柄もまだ分からない。どうだといわれても、悟郎は戸惑っていた。 「そうはいっても、おれの素姓は悟郎さんたちには分かってねえやね。そんな男から洗いざらい話してみろといわれても、素直には聞けねえだろう」  悟郎の胸の内を読み取ったようだった。 「おれの目はヒラメみてえだろ。このうえは離れようがねえてえぐれえに離れてる。間抜け面に生んだおふくろを恨んだもんだが、火事場で纏《まと》いを振るにはお誂えでね」  政五郎の軽口に、おきみが思わずぷっと噴いた。すみも悟郎も、栄太郎までもが顔をゆるめた。  気取りのない正直そうな人柄が、悟郎にも伝わった。それでもまだ、身内の恥をさらすことには迷いがあった。  となりに座ったすみに、悟郎は目で問いかけた。すみが小さくうなずいた。これで悟郎の肚が決まった。 「おふくろの葬式がきっかけで、いままで溜まっていたことが一気に噴き出したんです」  政五郎が、さきを促すようなうなずき方をした。 「あらましを親方に聞いてもらえますか」 「いいともさ。遠慮はいらねえや、洗いざらい吐き出しな。そのめえに済まねえが、煙草盆を貸してくんねえか」  みんなが顔を見合わせた。 「済みません、うちはだれも煙草を吸わないもので……でも、ちょっと待ってください」  おきみが流しに立った。戻ってきたときには、種火の入った茶碗と灰吹き代りの竹筒を盆に載せてきた。 「済まねえ。一服やらねえことには、どうにも落ち着かねえもんでね」  キセルに詰めながら、政五郎はとなりの栄太郎に目を合わせた。 「おめえの言い分はあとでたっぷり聞くからよう、悟郎さんの話が終わるまでは、口を挟まねえでくれよ」  旨そうにキセルを使う政五郎が、悟郎に話を始めさせた。 「おとといまで、おれも妹も兄貴がどこで何をしているのか知りませんでした」  栄太郎が京やを飛び出した日のことから、母親が息を引き取るまでのあらましを余さず話した。 「葬式を兄貴の手でやりたいという気持ちは、おれなりに得心できました」 「あたりめえだ、そんなこたあ」  口を挟んだ栄太郎に政五郎が目を向けた。ひと睨みで、栄太郎の口がきつく結ばれた。 「鳶さんたちは、大変に段取りよく進めてくれました。でも……気に障ったら勘弁してください……手際が良過ぎて、おふくろが死んだことを悲しむ暇もなかったんです。おふくろの葬式が、ひとのものになったような気がして切なかった……」  おきみが何度もうなずいた。政五郎も同じ仕種で応じた。 「兄貴は忙しく立ち働いているからいいだろうけど、おれやおきみは、おふくろの葬式なのに、見てるしかなかったんだぜ」  栄太郎の顔つきがわずかに変わった。 「すみは里に行って、焼香は番頭さんだけにして欲しいと頼んできたんだよ」 「なんでそんなことを……」 「広弐屋はあれだけの大店だ、娘の嫁ぎ先の不祝儀ごとなら、どんな手伝いでもしてくれるに決まってるじゃないか」  悟郎と栄太郎の目が、しっかりと噛み合っていた。 「でも兄貴は鳶さんに任せるといったし、おれたちもそれを呑んだんだ。だからすみは、吉右衛門さんに断りに行ったんだよ」 「………」 「そんなことを話しに帰ったすみの気持ちを、兄貴はまるで分かってないよ。だから番頭さんしか寄越さなかったなどと言えるんだ」  栄太郎の目がすみに移った。すみは静かに見詰め返した。 「すみはおきみの喪服まで持ってきてくれたんだぜ。そのうえ物入りだろうからと、二両もの香典を言付《ことづ》かってきてくれた」  栄太郎の目が見開かれた。政五郎も、香典の多さに驚いたような顔を見せた。 「見栄を張っての二両じゃない、こころから入費を心配してくれた香典だよ。それを兄貴は、ひどい言いぐさで踏みにじった……」  栄太郎が目を伏せた。悟郎が口を閉じたあとは、重たい気配が部屋にかぶさった。 「葬式てえのは、やっけえでね」  政五郎がゆったりとした口調で話し始めた。 「でえじなひとを亡くしたことで、さっきもいったが、ざらざらと気が立ってるものさ。いつもなら笑えることが、とんでもねえ傷をつくっちまう」  キセルに新しい煙草を詰め始めた。みんなの目がキセルを見ていた。 「だがねえ、かんげえてもみなよ。悲しみながら、別の揉め事の種を蒔《ま》くてえのは、ばかばかしいぜ」  政五郎の吹かした煙が、ふわっと部屋に広がった。 「悟郎さんたちの言いてえことは、多少は分かったよ。次はおれの話を聞いてもらいてえが、いいかい?」 「はい……」  悟郎、おきみ、すみの返事が揃った。 「栄太郎が転がり込んできてから、足掛け二年になる。こいつが半端をやって家を出たてえのは、本人からじかに聞いたよ。死んだおっかさんが甘かったてえのも分かってる……うちにも、月に二度は顔を出してた」  栄太郎が目を伏せたまま、こくんとした。 「おれの稼業は町内の普請からやっけえごとの片付け、火消しと、荒っぽいことばかりだ。何かてえとおふくろが訪ねてくる栄太郎は、はなの一年は仲間から虚仮《こけ》にされてた」  キセルを置いた政五郎が湯呑みを口にしたが、茶は入っていない。すみが立とうとした。それを目で止めて、話の続きに戻った。 「夏の夕暮れに縁台で一杯やるのが鳶の楽しみでね。肴は担ぎ売りから買った冷奴が決まりもんだが、毎日のことだ……豆腐屋も、気安く世間話のひとつもするようになるさね」  話の先行きが分かったらしく、栄太郎が腰をもぞもぞと動かした。 「あるときその棒手振が、深川の豆腐は固さが命だ、近ごろこの辺りで流行《はや》ってる上方のぐしゃぐしゃした豆腐とはわけが違うと、余計なことを言いやがった。栄太郎が京やの総領だてえのはみんなが知ってる。さあどうするてえやつさ」  歯切れのよい政五郎の話に、三人とも夢中になっている。 「いきなり殴りかかったね、こいつがその豆腐屋に」  おきみの目が嬉しげに開かれた。 「見ていた連中も口あんぐりだが、すぐに栄太郎の後押しさ。この野郎、つらに似合わず小気味のいい啖呵を切ったぜ」  政五郎が口を止めて三人を見渡した。だれもが早く聞きたがっている目をしていた。 「ぐしゃぐしゃてえのは、おれの親父が命懸けで造ってきた豆腐のことかよ。そんだけのことを言うからにゃあ、てめえの豆腐はよほどにかてえんだな。どうやって食うんでえ、鉋《かんな》で削《けず》るか鋸《のこ》で挽《ひ》くのか、どっちでえ」  おきみが手を叩いた。ひと息おくれて、すみがうふっと遠慮がちな声を漏らした。 「おっ……すみさん、笑顔がいいよ」  すみが真っ赤になって目を伏せた。いつの間にか、座が見事に和んでいた。 「背が高くて様子のいい弟と、町内の若《わけ》えのがみんな岡惚れする妹がいるてえのが栄太郎の自慢だが、嘘じゃねえとよく分かった」  悟郎とおきみが照れ笑いを浮かべた。 「おれが今晩ここに来たわけを話すめえに、おきみさん、済まねえがおふみさんの箪笥をようく探してくんねえ。見慣れねえものがへえってるはずだ」  おきみが怪訝な顔をしながら立ち上がろうとした。すぐに政五郎が言葉を続けた。 「すみさん、おめえさんはその間に旨い茶をもう一杯いれてくんねえか」  おきみとすみが連れだって部屋を出た。 「栄太郎、もう口を開いていいぜ。あの話をおめえから言ってみねえ」  政五郎に促されて、栄太郎があぐらを組み直して悟郎を見た。 「おれは木場の女《ひと》と所帯を構えるぜ」  いきなり切り出された悟郎が、兄の方に膝を詰めた。 「ちょいとわけのあるひとだったが、何とか片付いた。京やはおめえとすみとでもり立てて、おきみを嫁に出してやってくれ」 「兄貴……」 「親父には申しわけねえが、おれは豆腐屋よりも鳶の方が性に合ってんだ」  栄太郎の目に温《ぬく》もりが戻っていた。  おい、団子を食いに行こうと、悟郎を誘い出したときの目だった。  悟郎の思いが、一足飛びにこどものころに戻っていた。 「おい悟郎……聞こえてんのか?」  栄太郎が、悟郎の遠い目を見て声をかけた。 「ああ、聞いてるさ」  悟郎が目を戻して兄を見た。 「おふくろは口をあけりゃあ、京やはおれにとしか言わねえんで、おめえたちも気をわるくしただろうよ」 「………」 「でもよう、もう灰になっちまったんだ、勘弁してやってくれ」  様々な思いが込み上げてきて、悟郎は口が開けなかった。 「おふくろは不器用だからよう、いつの間にかおめえたちには、やさしいことが言えなくなったのよ。死ぬ間際にまで、わざわざ嫌われるようなことを言い残しやがった……」  途中から声を詰まらせた栄太郎は、言い終わるとこどものようにしゃくり上げた。      五十三  男三人が話をやめた。おきみとすみが障子戸のそばに立ち尽くしていた。 「こっちへ来て座んねえな」  政五郎がふたりを呼び寄せた。栄太郎はまだ気持ちを鎮められずにいた。  香りの立っている湯呑みを、栄太郎の前から配り始めた。すみの心配りに笑みを投げかけてから、政五郎はおきみに目を移した。 「見つかったかい?」  おきみは両手に真新しいおむつを持っていた。それを見て、すみが一番驚いた。おむつの柄は、この夏におふみが着ていた浴衣のものだった。 「引き出しの奥に、きちんと畳んで入っていました。親方さんの言ったのは、これのことですか」  三十枚ほどのおむつが畳に置かれた。 「悟郎さんたちに赤ん坊ができたときに使うんだてえんで、おふみさんが浴衣をほどいて縫い上げたおむつだ」  悟郎とすみが驚きの目を交わした。 「これは栄太郎も知らねえ話だが、おれとおふみさんとは幼なじみでね」  おきみと栄太郎とが、えっ……とおなじ声を漏らした。 「親父がいまの宿を建て替えたとき、半年ばかりおれも蛤町に住んでたのよ。おふみさんの方が年上だったが、八幡様の境内では、よく一緒に遊んだものさ」  すみは急須と土瓶を運んできていた。政五郎が飲み干した湯呑みに、新しい茶を注いだ。 「栄太郎を預かったのも、おふみさんの頼みだった。ちょっとばかり小賢《こざか》しいところもあるが、根はやさしい子だから何とか一人前に育てて欲しいと泣かれたよ」  言葉を切った政五郎が、目を悟郎に向けた。 「さっきも栄太郎が言ってたが、おふみさんてえひとは、ガキの頃から思い込んだらそれしかできねえ不器用なひとだった」  母親の振舞を思い出した銘々が、それぞれにうなずいた。 「栄太郎がまだ赤ん坊のとき、うっかり頭を剃刀で傷つけたそうだ」  この話は四人がはっきり覚えていた。酉の市の帰りに、酒の入ったおふみが岡本で話したことである。 「その傷がもとで栄太郎はえれえ熱を出したてえんだが、そんときおふみさんは八幡宮に願掛けしたそうだ」 「どんなことをですか?」  おきみが身を乗り出して問いかけた。 「命を助けていただいたら、ほかにどんな子ができても、かならず栄太郎を大切にしますからとお願いしたのさ」  だれもが初めて聞く話だった。どれほど親子が口争いしても、おふみはほのめかせることもしなかった。 「うまい具合に栄太郎は元気になった。それからのことだろうよ、おふみさんがこいつを猫っ可愛がりし始めたのは」  ふたおやが亡くなってしまったいまは、確かめることもできない話だ。しかし三人それぞれが、母親の気性を思い返して得心した。 「おふみさんは、もうこどもは欲しくねえと思ったてえんだ。ほかの子が生まれてその子に気を分けたら、願掛けした罰《ばち》があたるんじゃねえかってね。だがさ、おふみさんは永吉さんが好きで好きで堪《たま》らなくて一緒になったんだ、どうしたってこどもはできちまうさ」  おきみからつぶやきが漏れた。何度もいがみ合った母親を思い返しているような目をしていた。 「悟郎さん……あんたが生まれたことは、おふみさんの親父さんも大層喜んだそうだ」  悟郎とおきみが顔を見合わせた。おきみの顔が青ざめていた。 「どうやら悟郎さんもおきみさんも、話の先がめえたようだな?」  ふたりが張り詰めた顔でうなずいた。 「悟郎さんが生まれたら、おふみさんの親父さんが堀に落っこって命を亡くした。おきみさんと入れ替わるように、こんどはおっかさんが車に轢かれた。なんとも間のわるい話だが、こんなことが重なったら、だれだって罰があたったと思い込んじまうさ」  悟郎には雪の日におふみが泣き叫んでいた姿が、ありありと思い出された。 「おっかさん……」  今度ははっきりと口に出したおきみが、顔を両手でおおった。 「不器用なばっかりにあんたら三人には、やさしいことも言えねえでさ」  すみがいれ直した茶を、政五郎がひと息で飲んだ。 「悟郎さん、おふみさんはいまから十日ほどめえに、おれんところにきたんだよ」 「思い出しました……いきなり余所行きに着替えたんでびっくりした日です」 「あたしも覚えてます」  おきみが胸のまえで両手を合わせた。 「泥茶色の結城に、乱菊模様が染め抜かれた着物です。帯は……朽葉色のちりめん……」 「その通りさ。永吉さんと所帯を構えたあとで、初めて誂えた着物と帯だそうだ。うちの縁側に座って、早く孫の顔が見てえと半刻ほど話してけえったが……あれは暇乞《いとまご》いにきたのかねえ……」  小さな吐息を漏らしたすみが、膝で重ねた手を入れ替えた。 「おむつを縫ってるてえのは照れくさそうだったが、あんときのおふみさんは、えれえ可愛い顔だった」  目を潤ませたおきみに、政五郎が泣き笑いのような顔を向けた。 「けえる間際に、本当はおむつよりも娘の晴れ着を縫いたいんだと笑った顔が、おふみさんの見納めになっちまった」  深いところへ、きちんと納まるような政五郎の話し方だった。だれも口を開けなかった。政五郎が、からの湯呑みに手を伸ばした。  すみが急須と土瓶の載った盆を手にして立ち上がった。      五十四  七輪で火熾しをする、すみの両目が濡れていた。京やに嫁いで半年ほど過ぎた日に、おふみから言われたことをすみは忘れていない。 「京やでこどもは産まないでおくれよ。ここで初孫を産むのは、栄太郎の嫁だからね」  すみは姑を恨みに思ったことはないと、何度も自分に言い聞かせてきた。嫌いに思ったこともないと思った。きついことを言われたときには料亭の女将を思い出して、あの義母よりはよほどにいいひと……と考えて尽くしてきたつもりだった。  政五郎の話を聞きながら、自分に幾つも嘘をついていたことに思い当たった。  あたしはお義母《かあ》さんを、ひどいひとだと恨んでいた……とりわけ、京やでこどもを産むなといわれたことは、葬儀の間も忘れることがなかった。  悟郎に頼まれて日本橋の実家に戻る道々、すみは胸の奥底で怒りを覚えていた。  なぜ勘当されたはずの義兄に、喪主を任せなければならないのか。なぜ里の父親に、葬儀に出てくれるななどと頼まなければならないのか。  母親が甘やかした成れの果てが、葬式のごたごたを引き起こした……なんとだらしないひとたちなのだろう、とも思った。  思うまいと止めても、里のふたおやや兄と、京やの兄妹を見比べてしまう。その挙句、里には見劣りがすると考える自分がつらかった。  いまのすみは、浅はかなことを思ってきたのを恥じていた。なかでも姑の深い気持ちを汲み取ることができず、上辺《うわべ》だけを取り繕っていたことを深く恥じた。  おふみはまるで逆だった。見せかけの悪口を吐き出しながら、まだ兆しのない赤ん坊のおむつを縫ってくれていた。  かなうことなら、何度でも詫びを伝えたかった。が、遅過ぎた。  もう詫びも言えない……。  それを思うと涙が止まらない。これまで生きてきたなかで、いまほど哀しい思いをしたことはなかった。  このさきはなにが起きても、かならず京やをもり立てます……。  胸のうちで何度も何度も詫びながら湯を沸かした。  部屋に戻ったすみが、新しい茶をいれた。湯呑みを手にして、政五郎が口を開いた。 「話すつもりもねえことを、つい幾つも喋っちまったが、おれはおふみさんに線香をあげさせてもれえに来たんだ。それがこんな具合になったのも、おふみさんと永吉さんがそうさせたかったんだろうよ」  政五郎が正座に座り直した。慌てて栄太郎も悟郎も正座した。 「昨日の通夜であんたらも聞いた通り、若いころのおふみさんてえひとは、だれからも好かれる明るいひとだった。先に亡くなった永吉さんだって、そんなおふみさんに惹かれて一緒になったに決まってるさ」  四人がしっかりとうなずいた。 「つらいことが重なって、おふみさんも依怙地《いこじ》なところが強くなったんだろうが、あんたらのふたおやは、ふたりでここまでの店を造りあげたひとたちだ」  だれも声を出さなかった。が、だれもが政五郎のいうことを大事に仕舞いこんでいるようだった。 「栄太郎が葬式でえらそうにしたのは見栄からよ。口の行き違いが重なって、掴み合いまでやったんだろうが、灰になったひとたちを残ったあんたらが泣かせたんじゃあ、しゃあねえだろう」  栄太郎と悟郎が深々とあたまを下げた。 「仲良く収めてもう一度、新しい気持ちでおふみさんの通夜をしようや」  言ってから政五郎が顔を崩した。 「厚かましい頼みだが、茶漬けを一杯ごちになれねえかい」  すみが笑いながら座を立とうとした。それを悟郎が小声で止めた。 「親方のおかげで、初めて兄妹の気持ちがひとつに重なりました」  三人がもう一度、政五郎にあたまを下げた。 「兄さん……平田屋がいつでも京やを自分のものにできると言ってるそうだけど、思い当たることがあるかい?」 「なんのこと……悟郎ちゃん、そんなことをだれから聞いたの」  問い質すおきみは、さきほどまでとは違うやさしい口調だった。 「八幡様にかけて、なんにもねえよ。平田屋には義理のわるい借金もあったが、おふくろにもらった三十七両できれいにけえした。証文も目の前で燃やしたぜ」 「いまのお兄ちゃんなら、ほんとうのことを言ってるって分かるわ。目がちゃんとしてるもの」 「分かったような口をききやがって……」  栄太郎とおきみのやり取りを、残る三人が笑いながら見ていた。胸のつかえがとれたらしく、悟郎も肚の底から笑っていた。  京やの揚戸が強く叩かれたのは、まさにこのときだった。乱暴な叩き方に、互いが顔を見合わせた。      五十五  おきみが土間に立ったときも、揚戸を叩く音が続いていた。 「どちらさまでしょうか」  いやらしい戸の叩かれ方に、おきみの声が尖っていた。 「三好町の平田屋です」 「平田屋さんて……ご同業の平田屋さん?」 「夜分にわるいが、よんどころない用向きなんでねえ。戸を開けてもらいましょう」  横柄な平田屋の物言いだ。おきみの口元が閉じ合わされた。 「どうしたんだよ京やさん、あたしの言ったことは聞こえたんだろうが」 「そろそろ町木戸が閉まるころです。ご用なら、明日の朝に願います」  おきみが切り返した。揚戸が破れそうなほどに叩かれ始めた。 「こんな戸ぐらいなら力ずくで開けて入るが、それでもいいのかね」  音を聞きつけて栄太郎が出てきた。 「どうしたおきみ、なんの騒ぎでえ」 「おもてに平田屋がいるの」  おきみが呼び捨てにした。栄太郎が代りに戸の内側に立った。 「葬式のあとの取り込み中なんでさあ。ご用がなんだかは存じやせんが、日をかえて出直してくだせえ」 「その声は栄太郎さんじゃないか。とにかく戸を……」  平田屋の言葉が途中で切れた。代って話し始めた声を聞いて、栄太郎が青くなった。 「傳蔵さんで……」 「分かったんなら、すぐに開けな」  有無をいわせぬ凄味があった。妹を居間に追いやってから揚戸を開けた。紋付姿の庄六と、黒羽二重を着流した傳蔵が立っていた。ふたりとも提灯を手にしている。 「なんだよ栄太郎さん、ずいぶん邪険にしてくれるじゃないか」  暗い土間で庄六が息巻いた。となりに立つ傳蔵は黒拵えである。着ているものは暗がりに溶け込んでおり、禿頭だけが浮かび上がっている。眉のない傳蔵の顔を目にして、栄太郎の足が一歩下がった。 「しばらく見なかったが、豆腐屋にしては威勢がいいじゃねえか」  喋りながら、手首の数珠をじゃらりと鳴らした。 「なんでも平田屋さんが、ほっとけねえご用があるそうだ。くわしいこたあ知らねえが、上がるぜ」  庄六の背を押すようにして、傳蔵が雪駄を脱いだ。栄太郎は押しとどめることができなかった。提灯が土間に残された。  障子越しの明かりがこぼれている。板の間に立った傳蔵は、暗い土間や天井を黙って見詰めていた。 「どうしました傳蔵さん、入りましょう」  庄六の声を受けた傳蔵は、部屋がどこだか分かっているかのように奥へと進んだ。 「邪魔するぜ」  障子を開けて、傳蔵がさきに入った。上背はさほどでもないが、異形である。おきみとすみが息を呑んだ。  右手で羽織の紐を掴んだ庄六のあとに、困り果てた顔の栄太郎が続いた。 「みなさん、お初にお目にかかります。三好町でご同業を営んでいる平田屋です」  名乗ってから胸を反らせた。 「栄太郎さんと長いお付合いをさせてもらってますが、みなさんとは初対面だ。これから何があったとしても、宜しく願いますよ」  順に目を配る庄六が政五郎で動きを止めた。 「失礼だが、そちらさんは?」 「おれが世話になってる……」  栄太郎の口を政五郎が閉じさせた。目が傳蔵に据えられている。さきほどまでのヒラメが、獲物を追うとんびに変わっていた。 「海辺大工町で鳶宿をやってる、政五郎と申しやす」 「海辺町のかしらが、なんでまた仲見世に……町が違うでしょうに」  庄六が太い眉の尻を上げた。 「こちらのおふみさんとは、ガキのころからの付合いでしてね。そのご縁で、いまは栄太郎を手元に預かっておりやす」  庄六には構わず、傳蔵を相手に話している。傳蔵も鳶の目から逃げなかった。 「親代りてえのも口はばってえんですが、いまもおふみさんを偲んでいたとこなんでさあ。折り入った話があるように聞きやしたが、あっしもなかに入れてもらいやすぜ」  庄六があからさまに顔をしかめた。咳払いをひとつして、となりの傳蔵に問いかけるような目を向けた。 「あんたの晴れ舞台だ、客の多い方が張り合いもあるだろう」  傳蔵が庄六を突き放した。 「煙草盆はありませんかねえ」  庄六がすみに催促した。すみは静かに見返すだけである。悟郎とおきみは、ひとことも口を開かずに庄六から目を外さなかった。 「まるで喧嘩腰じゃないか……こんなことでは、まとまる話もこわれるというもんだ」 「いまさらあんたと話すことなんかねえよ。それもこんな夜更けによう」  栄太郎が食ってかかった。庄六が、舌で唇を濡らした。 「あんたの威勢が、話の終わりまで持つかどうかが楽しみだよ」 「好き勝手をいいやがって」  いきどおる栄太郎の肩に手をおいて、悟郎が兄を鎮まらせた。  庄六が袱紗を畳においた。みなの目が畳に集まっている。ばかっていねいな手付きで、袱紗から四ツ折りの半紙を取り出した。 「これは栄太郎さんが差し入れた借金の証文だ。困ったことに、返済期日はとっくに過ぎている」  栄太郎を見る庄六の目に、見下したようなひかりがあった。 「できることなら、あたしもこんなことはしたくはない。さりとて、いつまでも放っておくわけにもいかない……そこで今夜は、証文の約束を果たしてもらうための掛合いにきたというわけです」  庄六が膝のまえに半紙を広げた。手に取ろうとして伸ばした栄太郎の手を、庄六がぴしりと払い除けた。 「さわっちゃあいけません。見たいなら、あたしのまえでどうぞ。ただし手に取るのは勘弁願います、うっかりということもあるからねえ」 「借金が残ってるわけねえだろう」  栄太郎が怒鳴ると、行灯がゆらゆらっと明かりを揺らせた。 「証文を目の前で燃やすから見てろって言ったのは、あんただぜ……あんたがその口でそう言ったじゃねえか」 「これはまた、厚かましい言い掛かりをきかされるねえ」  庄六が半紙を手にして栄太郎に突き出した。 「それじゃあ訊《き》くが、この証文の名前……これはあんたの筆じゃあないのかね」  悟郎もおきみも、証文に書かれた名前の筆遣いには見覚えがあった。 「そんなことがあるわけもないが、万にひとつ、あんたが書かなかったとしてだ……ここに押してある印形も、あんたのものじゃあないと言い張るつもりかね」  庄六がここを先途《せんど》と押し始めた。栄太郎の口が開かないのを見定めて、さらに追討ちをかけてきた。 「あんたが持ってたのは、黄楊でできた見事な印形だ。あたしもはっきり覚えている」 「だって、あれは……」 「あれは何だと言うんだよ。あたしが勝手に作って、ここにべたべた押したとでも言うつもりかい」 「その通りじゃねえか」 「そんな戯言《たわごと》を正気でいってるのかね」  言い切った庄六が政五郎に目を向けた。 「うまい具合に親方がおいでだ……そちらさんにうかがいたいが、栄太郎さんは黄楊の印形を使ってませんかねえ」 「使ってるよ」  政五郎が短く吐き捨てた。 「どこぞの豆腐屋からもらった印形を、おめでてえ栄太郎は方々で押しまくってるぜ」 「なんだいそれは。かしらだかしっぽだか知らないが、妙な当て擦《こす》りはよしてくれ」 「そちらさんの筋書きは、しっかり読ませてもらったよ」  政五郎が膝元の茶碗を掻き回して、種火を見つけた。キセルに軽く詰めた煙草を吹かすと、苦々しげな様子の庄六に煙が流れた。 「証文は本物だろうさ。あんたの強気なつらあ見てりゃあ、手に取るまでもねえ。手元に残ったいきさつはろくなもんじゃねえだろうが、証文は証文だ。出るとこに出りゃあ、印形押したものは、達者にひとり歩きするさ」  栄太郎がこぶしを握って口惜しがっている。 「それで今夜は、なにをどうしようてえんだ。おい、栄太郎……」  びくりと肩を動かした栄太郎が、政五郎に目を合わせた。 「紙っきれには、銭をけえさねえときは、ここが家質で持ってかれるてえな断り書きが、うだうだ書いてあるんだろう」  栄太郎が肩を落としてうなずいた。 「そこまでにべもない言われ方をしたんじゃあ、あたしもつらいが……ありていにいうと、そんなところですかなあ」  すっかり開き直った庄六が、火のないキセルをいじりながら言い放った。 「兄貴の借金は、幾ら残ってることになってるんですか」  悟郎が初めて口をきいた。この場には穏やか過ぎる調子の声に、傳蔵が目だけを動かして悟郎を見た。 「一両二分だよ、元金だけでね」 「それで利息は」 「あたしは金貸しじゃあないんだ、はばかりながら利息なんぞは一文もいただきません」  鼻を膨らませながら悟郎を睨みつけた。 「それでは、そのお金をいまこの場でお返しすればいいんですね」  傳蔵のまえに座っているおきみが、切り口上でたずねた。声にきつさが含まれているのは、焦《じ》れたときのくせだ。 「あんたもまさか、それで済むとは思っちゃいないでしょう。さっきも鳶の親方が言ってらしたが、この家は家質に入ってるんですよ、家質にね。なんのことか知ってますか?」 「知ってます、それぐらい。お金を返さなかったら、家を取り上げるってことでしょう」 「ほう……よく分かってるじゃないか」  庄六にからかわれたおきみは、悟郎がなだめるのを振り切った。 「それじゃあ、たったの一両二分を返さないからって、この家を出てけっていうの」 「あたしに言われても困るねえ。その証文書いたのも金を返さなかったのも、あんたの兄さんだ、文句はそっちに言うのが筋だろう」 「違います。お兄ちゃんは返したって言ってます。平田屋さんの言うことより、お兄ちゃんの方が千倍も万倍も信じられるわ」 「そんな立派な兄さんが、何だってあたしから借金をしたんだろうねえ」  おきみが口ごもった。庄六があやすような笑いを浮かべた。 「あたしの手元には、栄太郎さんがいまでも使っている印形を押した証文がある。おたくらに勝ち目はないとおもうがねえ」  おきみが証文に飛びかかりそうだった。傳蔵がおもしろそうにおきみを見ていた。      五十六  油の切れかかった行灯が、大きく明かりを揺らせた。すみが注ぎ足しに立ち上がった。  張り詰めていた気配がふうっと抜けて、悟郎とおきみが座り直した。  明かりが戻ると、庄六が話をぶり返した。 「なんどもたずねて済まないが……」  庄六に話しかけられた政五郎が、背筋を伸ばして相手を見た。 「おたくなら、地主だの店子だのとの掛合いにも、年中立ち会われるでしょうが」 「それがどうかしましたかい?」  政五郎の口調で、庄六の愛想笑いが引っ込んだ。 「いや……あたしは場慣れしているおたくから、きちんと判の押された証文の強さをうかがいたかったんだが」 「そんなこたあ分かり切ってるから、こうしてあんたに付き合ってるんだよ」  政五郎のいったことで、京やの四人が顔を曇らせた。庄六は見逃さなかった。 「どうやらことの大事さをわきまえていただけたようだ。それほどに、印形を押した証文は強いものです」  証文を手にした庄六は、四ツ折りに畳み直して袱紗に仕舞い込んだ。 「まだ何十両かの年賦がこの家に残ってることは、栄太郎さんから聞いてます。それをそっくり引き受けて、さらに引っ越し代として二両、これをあたしが出しましょう」  二両、に庄六が力を込めた。 「その代り造作一切は居抜きでいただきます。引っ越しの期限は、初七日明けということで手を打ちましょう」  言い放った庄六を、おきみと栄太郎が睨み返した。傳蔵の数珠が不気味な音を立てた。 「間抜けがしでかした不始末の落とし所には、この辺りがお似合いだろう」  傳蔵の目はおきみを見ていた。 「平田屋さんの証文も、突っつきゃあ色々とあるかも知れねえ」  いきなり引合いに出されて、庄六が丸顔の頬を膨らませた。 「だがよう、銭を借りた本人がてめえで名を書いたうえに、もらった印形ぺたぺた押してだ……呆れたことに、何枚書いたかも覚えちゃあいねえてえんだ。なにをされてもしゃあねえだろうさ」  証文が傷物であるかのように話す傳蔵の膝を、口を尖らせた庄六が突っついた。傳蔵はまるで相手にしない。 「少しでも知恵が回りゃあ借金の証文に、いただきの印形なんざ使わねえ」  栄太郎がこぶしを固めたり開いたりしている。眉のない顔に薄笑いが浮いた。 「そのうえ印形をよそでも使って、てめえのものだと触れ歩いたてえんじゃあ、巻き添えを食う連中には気の毒だが、叩き出されるのがケリのつけどころだろう」  おきみが両手の爪をせわしなく擦り合わせている。これを始めると何を言い出すか分からないのだ。悟郎が懸命におきみを落ち着かせようとした。 「もともとは、ここの豆腐屋が間抜けだったばっかりに、あんたらの親父に得意先をふんだくられて潰れちまったんだろうが」  傳蔵がおきみを見据えていた。おきみの爪が、さらにせわしなく擦り合わされた。 「今度は兄貴がどじを踏んで、平田屋さんに追ん出されるのも巡り合わせじゃねえか」 「知りもしないのに、勝手なことを言わないでよ」  悟郎の手を払い除けて、おきみが傳蔵に歯向かった。 「お兄ちゃんのやったことは仕方ないけど、初めて会ったあなたから、おとっつあんや相州屋さんのことをわるく言われる筋合いなんか、これっぱかりもないわ」  傳蔵の顔から薄笑いが消えた。 「相州屋さんは立派なひとです。おとっつあんの豆腐が売れなくて、前の永代寺さんにご喜捨したいと断りを言ったとき、どうぞって赦してくれたんだから……それで京やが潰れずに済んだって、おとっつあんから何度も聞きました」  おきみが傳蔵に膝を乗り出した。悟郎が止める間もなかった。 「あなたみたいに世の中を斜めに生きてるひとには、相州屋さんが間抜けに見えるかも知れないけど、うちには大切な恩のあるひとです。おとっつあんも死ぬまでそう言ってました……えらそうなことを言わないでよ」 「そこまで御大層なことを言いてえんなら、家までなくしちまうような抜け作に、なんで勝手なことをさせたんでえ」  おきみを見据えた傳蔵の目が冷え冷えとしている。おきみがまた言い返そうとした。それを抑えて悟郎が静かに口を開いた。 「兄貴が書いたという証文のことは、そちらさんに分があるでしょう。ですが、身内のことをとやかく言われることはありません。抜け作というなら、おれも女房も妹も、みんなそうです」 「おれもそんなかに加えてくれ」  端に座った政五郎が声を出した。 「この家から出る出ないは、兄貴を交えて話をします」  悟郎が深い息をひとつしたあとで、庄六を正面に捉えた。庄六が目をしばたたかせた。 「京やの豆腐は親父とおふくろの命が、しっかりと吹き込まれたものです。あんたがここに残った道具で豆腐を造っても、同じものを造れっこない」 「そうとは限らないだろうがね」  答える庄六の声が掠《かす》れていた。 「ここに来るならくればいい。おれたちは新兵衛店に戻って、親父の豆腐で勝負するだけのことだ。平田屋にどれほどの職人がいるかは知らないが、おれと兄貴には親父仕込みの腕がある。真っ向から平田屋とぶつかるから、覚えておいてくれ」 「ようく覚えときましょう」  傳蔵に横目を使いながら庄六が受けた。 「さっきも言った通り、期限はおふくろさんの初七日明けだ。その日になってもぐずぐずしてたら、こちらの傳蔵さんが黙ってないからね」  庄六が今度は身体ごと傳蔵を見た。傳蔵の眉のない顔が、冷たい笑いで庄六を見返した。庄六が慌てて悟郎たちに向き直った。 「それと引っ越し代のことだが、カネは受取りと引き換えに渡すから。だれでもいいが、うちへ取りに来るときには、きちんと印形を押した受取りを頼みますよ」  それじゃあ、と傳蔵に目配せした。ところが傳蔵は立ち上がる気配を見せない。 「傳蔵さん……行こうか」  庄六が口に出して傳蔵を立たせようとした。庄六を見た傳蔵の顔に、まだ薄笑いが浮かんでいる。立ち上がりかけた腰が落ちた。 「親のかたきでも、たずねてきた客には茶のいっぺえを振舞えてえだろう」  傳蔵がおきみに目を戻していた。 「業腹だろうが、おれに茶をいれてもらえねえか?」 「あたしがいれましょう」  すみが音も立てずに立ち上がった。障子を開くと、土間に溜まった豆の香りが流れ込んできた。      五十七  この夜三度目の茶は、焙《ほう》じ茶だった。傳蔵の膝元に湯呑みをおいたすみが、その場を動かなかった。 「いかほどお支払いすれば、その証文を返していただけますか」  庄六にではなく、傳蔵にすみが問いかけた。庄六が膝をずらして近寄った。 「よく聞こえなかったが、あんたが証文を買い取るといったのかい?」 「幾らであればと、おたずねしました」 「豆腐屋の嫁にしてはずいぶん大きく出たが、あんたにカネがあるのかね」 「あります」 「へええ……千両だといってもかい?」 「それで証文を渡してくださるなら、千両でも結構です」  すみが顔色も変えずに口にした。庄六の顔にあざけりが浮いた。 「たかが百何十両の家を年賦で買う豆腐屋の嫁が、千両でも結構とは笑わせてくれるよ」  庄六が丸顔をすみに寄せた。すみは身動きひとつしなかった。 「どこにそんなカネがあるんだよ。それともあんたの里は、お大尽だというのかい?」 「………」 「何年かまえの札差なら、千両といわれても出せただろうが、いまはどこもかしこも金詰まりだ。いったいあんたの里は、なにをやってるというんだよ」  すみが答えようとした。立ち上がったおきみが、すみを引き戻した。 「おねえさん、ありがとう……でもその気持ちだけで充分ですから」  おきみの両目が涙で溢れそうだった。傳蔵が湯呑みを膝元においた。 「おれみてえな客に出す茶にしては、なかなかの味だった」  すみに話しかけた傳蔵の語調が微妙に変わっていた。 「茶も飲んだことだ。一幕目がとろかったんで、次の幕はとっととやるぜ」  傳蔵が庄六を睨み付けた。 「えっ……なんの話だ……」  いきなり傳蔵と庄六とが向き合ったことで、残る五人が呆気にとられた。おきみも涙を拭ってふたりを見詰めた。 「証文のあれこれは、たっぷり聞かせてもらったよ。そこでだ、平田屋さんよう……」  傳蔵がふところから一枚の半紙を取り出した。庄六とは違って、無造作に折り畳んだ半紙である。それを広げた傳蔵は、庄六に突き付けた。 「これは昨日の夜、あんたが書いた起請文だ。でき立てで、まだ墨が乾いちゃいねえかも知れねえほどさ。覚えてるだろ?」 「ああ、もちろん。あたしとあんたとで書いた起請文だ」  庄六がすぐに応じた。 「ならいい。書いてあることがことだけに、忘れたんじゃねえかとしんぺえでね」  傳蔵の両目に獣のようなひかりが宿った。 「話の成り行きもめえたようだ。雁首がそろってるところで、あんたと決めたことを果たしてもらおう」 「なんだい、決めたことと言うのは。そんなことは、何ひとつ書いてないよ」  行灯の薄明かりでも分かるほどに、庄六のひたいが光り出した。 「見ねえ、これを。ひとつ起請文のことなり云々に続けて、京やの話に居合わせたあとは、御礼として平田屋の身代をそっくり差し上げますと書いてあるだろう」  傳蔵の手から起請文をもぎ取った。読み進む庄六の顔から血の気がひいた。 「こ、こんな起請文、あたしゃあ書いた覚えはないよ」 「そう出るのかね。それじゃあ、その名めえも印形も覚えはねえか」 「それは……」 「それは何だと言うんでえ。そこに座ってる栄太郎相手に、印形押した証文がどうとかこうとか、似たような話をしなかったかよ」  傳蔵が話す途中で、庄六の顔に朱が差した。うろたえた手付きで、ふところから袱紗を取り出した。 「あたしもさっきは、思いも寄らないことをいわれて慌てたが、やっぱりその起請文は偽物だ」 「今度は言い掛かりか」 「いいや、そうじゃない。これを見ればあんたも口を閉じるだろうさ」  庄六は手元を震わせながら、一枚の半紙を広げた。 「あっ、これは栄太郎の証文だ」  もう一枚の半紙を広げながら、目を傳蔵に戻した。 「昨夜、確かに起請文は書きました。だがねえ傳蔵さん、あれは二枚同じものを書いたんだよ。覚えてるだろ」 「だから、その一枚がここにある」  傳蔵が少し口ごもり気味に答える。庄六がいやらしい笑いを浮かべた。 「それじゃ、ここで二枚を突き合わせようじゃないか。あたしの方は、昨夜あんたから受け取ったあとは、この袱紗に大事にしまってあるんだ。二枚の起請文の中身が違ってたら、これだけのひとの前で妙な話になるが、いいんだろうね?」  勝ち誇ったような顔で、行灯を近くに欲しいと庄六が頼んだ。おきみが素直に聞き入れて、傳蔵の前に運んできた。残らずひとが行灯の周りに集まった。 「あたしは左に置くから、傳蔵さんのは右に置いてもらいましょう」  傳蔵が起請文を庄六の右に出した。 「ほら、ご覧なさい。あたしの起請文のどこにそんなことが……」  読み比べると、二枚の起請文は一言一句、違わなかった。平田屋庄六の名に重ねて、朱色の印形がくっきり押されている。 「そんなばかな……あたしゃあ知らない。ほんとうに知らないんだから……ねえ、栄太郎さん、あたしがこんな約束するわけないだろう……ああ、どうしよう……」  庄六がわめき散らした。傳蔵が手刀で庄六の首筋を一撃した。庄六が気を失って倒れ込んだ。 「わきにどけてくれねえか」  傳蔵にいわれて、栄太郎と悟郎が庄六を部屋の隅に寝かせた。 「済まねえが、戸口を開けてうちのやっこを入れてくれ」  言われるままに立ち上がった栄太郎は、ふたりの男を連れて戻ってきた。 「うちに放り込んで、相手は弐介にまかせればいい……木戸番の扱いは分かってるな?」  指図を終えた傳蔵は、栄太郎の書いた借金証文と二枚の起請文を手に持った。起請文をふところに仕舞い直してから、借金証文を行灯のそばに近づけた。  だれもが言葉を失って、傳蔵に見入っている。行灯から油皿を取り出して畳に置いた傳蔵は、燃える灯芯で証文に火をつけた。半紙を焦がしながら炎が広がった。手に持てなくなると、証文を火種の消えた茶碗に投げ込んだ。  数珠がずれて、手首のアザがはっきり見えた。焦げ臭い匂いを残して証文が燃え尽きた。 「うちらを相手に、銭やら知恵やら力比べをするのは、よした方がいいぜ」  傳蔵がおきみに笑いかけた。凄味を消した、きれいな笑いだった。 「堅気衆がおれたちに勝てるたったひとつの道は、身内が固まることよ。壊れるときは、かならず内側から崩れるもんだ。身内のなかが脆《もろ》けりゃあ、ひとたまりもねえぜ」  傳蔵は障子をきちんと閉めて出ていった。残された五人は、燃えかすの残った茶碗に見入っていた。      終章 「うちの親方は豪気だからよう、奉納も半端じゃねえや」  栄太郎がおきみに狛犬を指しながら、鼻を膨らませて自慢した。悟郎とすみが、ふたりを残して石段を上り、本殿に並んで立った。  深々と二拝し、悟郎が境内に響きわたるような柏手《かしわで》を二つ打った。少し遅れて、すみが小さく手を打った。目を閉じて願い事を済ませると、もう一度深く身体を折る。  悟郎が目をあけると、すみが身体を起こすところだった。 「なにをお願いしたんだ?」 「あなたと同じことです」  すみが潤んだ目を悟郎に合わせた。 「少し座らないか」  悟郎が石段の落ち葉を払い除けて、すみの座り場所をこしらえた。 「嘉次郎さんが言うには、親父とおふくろは周りが呆れるほど仲がよかったらしい」 「きっとそうだったでしょうね。いまならわたしも得心できます」  答えるすみの口調には、心底からの想いがこもっていた。 「家族のごたごたと商いの苦労が重なって、どこかがすれ違い始めたんだろうけど……いまは向こうで仲良くやってると思う」  悟郎が参道の銀杏《いちよう》を見ている。あかね色のひかりの帯が、木の葉の茂みを抜けて参道の石畳をまだらに照らし出していた。 「紀州の高野山の寺では、豆腐を真冬の寒さにさらして高野豆腐というのを造るそうだ」  いきなり話し始めたことが呑み込めないのか、すみがいぶかしげに悟郎を見た。 「寒ざらしをすることで、別のものに生まれ変わるということさ」  銀杏の葉が一枚、玉砂利に舞い落ちた。 「おふくろの葬式がきっかけで、おれたちもそうなれたと思う。これからも兄さんやおきみのことで、気苦労が続くだろうが、ちょっと恨んだり、ちょっと妬《ねた》んだりしながら、それでも頼り合えるのが身内だ」 「はい」 「八幡様にお参りしたとき、同じことをお願いできる夫婦でいような」  うなずくすみの横顔に陽が差している。夕映えが、潤んだ瞳を際立たせていた。  西の空に向かって、鳥が群れを組んで飛んでいる。所々に残っている日だまりを求めて、二匹の猫が軽い調子で石段を上ってきた。  単行本 二〇〇一年十月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十六年九月十日刊