雲上都市の大冒険 山口芳宏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)四場浦《しばうら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三河|正一郎《しょういちろう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から2字上げ]令子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] 〈カバー〉 鉄筋アパートが立ち並び、福利厚生の行き届いた雲上の楽園、四場浦《しばうら》鉱山。 その地下牢で、二十年後の脱獄と殺人を予告した怪人・座吾朗——。 ついに巻き起こる連続殺人。そして殺人現場に残された血文字の謎。 牢から一夜で消えた座吾朗が犯人なのか? 探偵たちが雲上都市で繰り広げる、新感覚の推理活劇。 衝撃の新鋭、堂々デビュー! Illustration:ナカムラノリユキ [#改ページ] [#挿絵(img/01_001.jpg)入る] [#挿絵(img/01_002.jpg)入る] 第17回鮎川哲也賞受賞作 雲上都市の大冒険 山口芳宏 Yamaguchi Yoshihiro 東京創元社  受賞の言葉  山口芳宏  読んでいただくとわかると思いますが、少々ヘンな探偵小説です。「型破りな物語を!」と目指したので、人によっては行儀の悪い小説、あるいは荒唐無稽で取るに足らない小説という感想を持つのではないでしょうか。そんな小説が受賞できたのは、尊敬する三人の巨人——笠井潔氏、島田荘司氏、山田正紀氏の三選考委員のかたが、型破りな探偵小説を希求し、技術的に未熟でもぼくの将来性に期待してくれたからではないかと推測します。  今後も、栄誉ある鮎川哲也賞作家として、そのご期待に応えられるように、いや期待以上の物語作者になれるように、情熱を持って書きつづけていきたいと思います。どんなヘンな小説か(あるいは案外まともか)は、ぜひ読者のみなさまが判断してください。たまには、こういう物語があってもいいですよね。 [#改ページ]  雲上都市の大冒険 【主な登場人物】 恩田《おんだ》………………四場浦鉱山地下牢の看守。本名:画島由紀彦 令子《れいこ》………………恩田の妻。かつて地下牢の看守をやっていた 座吾朗《ざごろう》……………地下牢に閉じ込められている謎の男 三河正造《みかわしょうぞう》…………四場浦鉱山のオーナー兼社長 三河|正一郎《しょういちろう》………正造の息子 羽田野《はたの》祐子《ゆうこ》………社長秘書 佐藤《さとう》三恵子《みえこ》………雑用をこなす鉱山職員 洋平《ようへい》………………鉱夫見習い 田子沢《たごさわ》……………四場浦デパートの責任者。元・鉱夫 蓑田《みのだ》警部…………今回の事件を担当する刑事 耕介《こうすけ》………………鉱夫 藤堂《とうどう》………………元・弁士 荒城咲之助《こうじょうさくのすけ》………多くの難事件を解決した探偵 真野原《まのはら》玄志郎《げんしろう》……義手の自称探偵 殿島《とのしま》直紀《なおき》…………横浜在住の弁護士。「私」 [#改ページ] ——昭和七年十二月  画島《がしま》由紀彦《ゆきひこ》が、四場浦《しばうら》鉱山の地下牢に閉じ込められてから、五日が経《た》つ。 「おにぎり、持ってきたよ」  令子《れいこ》が牢屋越しに、おにぎりを差し出した。 「え、これ、白米だよね。いいの?」と由紀彦は言う。  いつも出される蕎麦粥は、吐きそうなくらい臭かったから、これはたいへんありがたい。 「うん、内緒よ」  鉄格子の向こうで令子は微笑した。  令子は十七歳の少女で、こんな鉱山の奥底で看守をやっているには不釣合いなほど顔立ちが上品で美しく、性格も純朴で率直だった。これ以上ないくらい劣悪な環境だったが、彼女の柔らかくて優しい笑顔を見ると、由紀彦は幸せな気分になってくる。  ところがそんな束の間の幸せも、令子がいなくなると一変する。  牢屋内は暗く、光というと、外にあるランプの明かりだけだ。ゆらゆらと牢屋内を照らすその明かりも、令子が去ってから二時間も経つと油がなくなって徐々に弱まり、やがて消える。  そして、はあああぁぁあ、ほおおおぉぉぉ、ふうううぅぅぅ、という息づかいが聞こえてくる。肺に異物が詰まっているような、病的で暗鬱《あんうつ》な呼吸音だ。しかも時々「許さねえ」「殺してやる」「絶対にここを出てやる」という呻《うめ》き声まで聞こえてくる。  隣の牢屋にいる男の声だ。名は、座吾朗《ざごろう》というらしい。  令子によると、なんと座吾朗は、三年前から隣の牢屋に閉じ込められているそうだ。  だからか、臭《にお》いも凄まじかった。普段は大丈夫なのだが、風向きが悪いと座吾朗の牢屋から異臭が漂ってくる。三年間、風呂に入らず、時々身体を水で拭くくらいだから、長年蓄積された汗と垢の臭いだろう。一年もしたら自分もああなって、そのころには臭いも感じなくなるのかと想像すると、ぞっとする。  なぜあの男はここに監禁されているのだろうか? 令子によると、座吾朗は伝染病にかかって同意の上でここに隔離されているらしいが、それにしては時々「出てやる」という座吾朗の声が聞こえてくるから、それもおかしいような気がする。  他に気になったのは、夜になると毎日のように座吾朗の牢屋のほうから、かすかに人の声のような音が聞こえてきたことだった。昼間でも風の具合によって、女の悲鳴に似た音が聞こえることはあるが、それとも違う。「う、う」という嗚咽《おえつ》のような、押し殺した女の呻き声のような短い音だ。  最初、由紀彦は、令子の声ではないかと思った。彼女が座吾朗に苦しめられているのではないかと疑った。しかし朝になって令子に聞くと、びっくりしたような顔で、「え、違うよ」と言う。 「誰だろう? ほかの女かな?」 「ううん……ここ、古い坑道だから、わたし以外に誰も来ないよ……気味が悪いね……」  令子が不安そうな表情を見せた。「あ、そういえば……」 「何?」 「このあたり、カクレキリシタンの人たちが仕事してたって聞いたことがある。長崎のほうから逃げてきた、かわいそうな人たちだったんだって。ここって入口から遠いし、むかしは毒ガスもよく出たらしいから、とても過酷な場所だったそうなの。たくさん人が死んだとか」 「ふうん」 「でね、その中には、妊娠した女の人もいたんだって。でも厳しい仕事だから、流産ばっかりで……運良く生まれても、すぐに死んじゃったんだって。その赤ちゃんの骨がこのあたりに埋められてるって、お父さんが言ってた」  想像して、由紀彦はぞっとした。きのう聞いた声は、我が子の死体を抱いて悲しむ女の無念の声なのだろうか?  女の声も気味が悪かったが、それ以上に参ったのは、座吾朗の叫び声だ。  昼間はあの、はあああぁぁぁぁ、ふうううぅぅぅという病的な息づかいだけなのだが、夜になると今度は、おおおおぉぉぉぉという苦悶の叫び声が聞こえてくる。  令子によると、座吾朗はひざに古傷があって、冷え込むとひどく痛むらしい。痛みに耐えきれないのだろうか、時おり鉄格子をガシャガシャと揺らしたり、ガンガンと蹴るような音もする。  おおおおおぉぉぉぉぉ。  おおおおおぉぉぉぉぉ。  息づかいだけなら毛布をかぶれば耐えられるが、あの叫び声は、毛布越しに身体全体へ響いてくるから敵わない。当然、眠れない。  眠れないから、由紀彦は考える。これから自分はどうなるのだろうか?  監禁されてから五日が経つというのに、解放される気配はない。もしかしたら、座吾朗のように、このままずっと監禁され続けるのではないだろうか——という最悪の状況を想像してしまう。風が止んで、あの叫び声が聞こえてくると、由紀彦の心は深く沈む。  ところが、それから三日後、座吾朗の叫び声がぱったりと止んだ。同時に女の声も聞こえなくなった。しかし、いままで習慣にもなっていた叫び声が突然止むと、それはそれで気持ちが悪い。加えて時々、「ふうっふぅっふっ」などと不敵な声も聞こえる。「やってやる……やってやる……」との独り言も聞こえてくる。  そして、その声が止んだ翌日。  突然、外のほうから人の気配が近づいてきた。足音から察するに、令子ではないようだ。 「相変わらず、くせえな」  という中年の男の声が聞こえてきた。同時に強い光も近づいてきた。 「久しぶりだな。元気か?」  外から来た男が、隣の牢屋に話しかけたようだ。死角になっていて、姿は見えない。 「ふうぅっふっふっ」  と鼻で笑うような座吾朗の声が聞こえた。夜な夜な聞こえてくる、あの声だ。 「そろそろ話す気になったか? いい加減、話したらどうだ」 「ふっふっふっぅ」  なおも、座吾朗は笑い続ける。 「……そういえば、お前さん、ここを『出てやる』って言ったそうだな。しかし、いくらなんでも、そこから出られるやつなんていない。無理だ、不可能だ。諦めて話すんだな。楽になるぞ」  すると座吾朗は突如、 「はっはっはっはっはっはっぁぁぁぁ」  と、雄叫びのような笑い声を上げた。 「ふん、とうとう頭がおかしくなったか?」 「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっぁぁぁぁ。はっはっはっはっぁぁ」  男の問いかけを無視するように、座吾朗は笑い続ける。 「おかしくなった振りをしても無駄だ。おまえはここでおとなしく話すか、死ぬしかない」  男が冷たく言うと、座吾朗の笑い声が止んだ。そして、ぜええええと大きく息を吸い込む音が聞こえた。 「出てやる。二十年後だ。二十年後にここを出て、お前らをぶっ殺す。殺すだけじゃない、首を叩き切って、内臓をえぐり出してやる。殺せ、不安なら殺すがいい。しかし、おれは死なない。絶対に死なない。身体は死んでも、魂は死なない。どんなことがあっても必ずここを出てお前らを殺してやる」 [#改ページ] ——昭和二十七年十一月  地下牢の看守・恩田《おんだ》健夫《たけお》の一日は、鉱山入口の水道に湯をかけることから始まる。  東北地方にある四場浦鉱山は標高一一五〇メートルの高地にあるため、冬の朝の寒さは厳しく、水道が凍りついてしまうからだ。そこに湯をかけて、水が出るようにする。看守の恩田がやる仕事ではないが、鉱山のために何か役に立てることはと考えて、二十年間ずっとやっている。  昭和二十七年十一月十八日。  あと一か月で二十年か——恩田健夫は、壁にかかったカレンダーを見て、大きく息をついた。  二十年前、恩田は、座吾朗の隣の牢屋に監禁されていた。まだ帝大生で、画島由紀彦と名乗っていた時代の話だ。  そんな恩田が、紆余曲折あって、現在は地下牢の看守をやっている。かつては牢屋に監禁されていた恩田が、逆に、外から牢屋を監視している。人生とは不思議なものだ。帝大生のエリートで、ゆくゆくは松阪《まつざか》の実家の跡を継いで、平凡ながらも裕福な人生を送るつもりだった恩田が、いまはこうして、東北の鉱山で地下牢の看守をやっている。  そしてそれだけでなく——。  恩田は鉱山入口の水道に湯をかけ終えてアパートにもどった。すると病床の妻が、 「ごめんなさい、いますぐ支度をします」  と言って立ち上がろうとした。 「いや、いいんだ。朝食の支度はおれがやるから、ゆっくりしてなさい」  と恩田は優しく声をかけた。  恩田は、かつて看守をやっていた令子と結婚した。  思えばこの二十年間、鉱山街から一歩も出ずに毎日鉱山の地下牢を往復し、世間から身を隠すようにしてきた人生だった。しかし令子という愛しい伴侶にめぐまれて、平板だが平穏な生活がある限り、恩田は決して後悔していない。  恩田は簡単な朝食を済ませてから、便所へと行った。便所は水洗で、アパート全室に個別に備え付けられている。盛岡《もりおか》でさえ水洗式はまだ珍しいというから、全室集中暖房と並んで、この鉄筋アパート自慢の設備だ。そこで小便を済ませてから、ゴム長靴を履き、アパートの階段を下りる。  アパートの外へ出ると、もくもくもくもくと上がる工場の煙の向こうに、朝焼けが見えた。真っ赤で空を焼き尽くしてしまいそうな、鮮やかな色だ。かじかむ手をこすりつけながら振り返ると、鉄筋四階建ての十一棟のアパートが、四場浦連峰を背景に、もやもやと湯気を立てていた。暖房の熱気が積雪を融かして、極寒の地の冷たい空気を揺らしている。  この新築で真新しいアパート群は�雲上の楽園��現代のユートピア�と呼ばれる四場浦鉱山のシンボルだ。  そして恩田はいつものように鉱山に入って、鉱山内にある休憩所で、食事を受け取った。この食事は、地下牢にいるたったひとりの人間に届けるためのものだ。  座吾朗は、あれから二十年、地下牢で生き続けている。そして、座吾朗が「ここを出てやる」と言った�二十年後�というのは、ちょうど来月にあたる。           *  座吾朗は、二十年間、鉱山の奥底の地下牢で生き続けた。いや、恩田が初めて地下牢へ行った三年前から監禁されていたようだから、合計して二十三年間か。そして彼は毎晩のように、ひざの激痛に耐えて、叫び続けた。蓄積した怨念を吐き出すように「出てやる」「殺してやる」と喚《わめ》き続けた。  確かに、生きるに必要な食事を与え続けたし、具合が悪いときには薬を与えたりもしたが、それを差し引いても、あの場所で、あの衛生状態で二十三年間生き続けるのは驚異的なことだ。  恩田が看守になってから、座吾朗と言葉を交わしたことはほとんどなかった。あるとしても、座吾朗の具合が悪いときにどこが痛むかを聞いたり、食事は終わったかとか、事務的なことを聞くくらいだった。  しかし、いまから十一か月前——昭和二十六年の十二月十八日、恩田がいつものように朝食を持っていくと、座吾朗は、 「一年だ……あと一年でここから出てやる」  と唸るように言った。それは毎日のように続いた。その上、さらに一か月経つと、 「あと十一か月……十一か月後にここを出て、ぶっ殺してやる」  という言葉に変わった。 「ぶっ殺してやる」という相手は、むろん、座吾朗を監禁している主——この鉱山のオーナー兼社長・三河正造《みかわしょうぞう》のことだろう。恩田にとっては、雇い主にあたる。  もちろん、恩田はこのことを三河に報告した。それに対して、三河は当初、「ふん、脅しだよ。放っておけ」と強がっていたが、しかし何度も恩田からの報告を受けるうちに、だんだんと怯えるようになったようで、三河の返答は次第に力をなくし、彼の頬は徐々にやせこけていった。三河の世話をする女中によると、彼は毎晩のように寝床でうなされていたらしい。  そして、ついに三河は恐怖の頂点に達し、「もっと牢屋を厳重にしろ、徹底的にだ!」と号令をかけて牢屋の改修工事をすることになった。それがいまから一か月前のことだ。  そこで、二十三年ぶりに牢屋の扉が開かれた。そして、信用のある工夫たちを投入して、牢屋のさらなる補強工事を施した。  そのときはもちろん何人もの人間を連れてきて、座吾朗が暴れないように、逃げ出さないように監視した。恩田も三河の隣に立って、常に座吾朗から目を離さずに見張っていた。  そして、牢屋の中に抜け道はないか、抜け出そうとした形跡がないか、床や壁を舐めるように調査した。結果、怪しい窪みや痕跡は一切ないことを確認した。  その後、鉄の扉も新しいものに交換した。新しい扉には鉄格子もついていなかった。食事を渡すための、開閉式の穴がひとつあるだけだ。その穴も小さくなって、三十センチ四方から横二十センチ、縦十センチになった。そのせいで、食器もすべて小さなものに交換したくらいだ。  最後に、三河は扉を溶接するように命令した。  さすがにこれには恩田も「そこまでは……」と心配を口にした。これでは急病の際に手が出せない。しかし、三河は断固として「やれ」と命じた。三河の顔は引きつっていた。  その上、ついには鍵穴も溶接で埋められた。これで、牢屋と外界をつなぐ穴は、食事を出し入れするための穴、空気穴、便所用の穴の三つしかないことになる。すべての穴は二十センチ四方よりも小さいし、空気穴も便所用の穴も厳重に調べられた。それらの穴は、どちらも深く、曲がりくねっている。したがって、どこからも出るのは絶対に無理だ。  それでも、座吾朗は「はあっはあっはあぁ。無駄だ、無駄だ。二か月後には絶対にここを出てやる」と高らかに笑っていた。  あそこから絶対に出られるはずはない——と恩田は思いつつも、進むにつれて不安は高まる。あそこから出ることなど、本当に可能なのか?  恩田は最後の梯子《はしご》を降り切ってから、地下牢の前の空間にあるランプに火を点《つ》けた。ここは電気が通っていないから、いまだにランプを利用している。  しかし、ここで恩田は不審な点に気がついた。  座吾朗の息づかいが聞こえない——。  いままで二十年間、ここに来ると常に座吾朗の、はあはあ、ぜえぜえ、というあの病的な息づかいが聞こえてきた。鉄格子のない扉に交換してからでも、あの音は伝わってきた。しかしいまは、ランプの火の燃える音がかすかに聞こえるだけで、耳を澄ませても座吾朗の息づかいは聞こえてこない。  恩田は一回唾を飲み込んだ。  そして、慎重に、食事を出し入れする穴のフタを開ける。カンテラで中を照らす。牢屋の中に明かりはないので、鉄格子がなくなったいま、こうしないと中は見えない。  しかし、牢屋の中に座吾朗の姿はなかった。  隅々まで光を当てて観察したが、どこにもいない。怪しい物体もない。呼吸音も聞こえない。  動悸がした。  鉄の扉を調べたが、扉は溶接されたままだし、鍵穴は埋まっているし、怪しいところはどこにもない。  恩田は、牢屋の外にある机に入れておいた特製の鏡を取り出した。こういうことがあろうかと、あらかじめ自作しておいた鏡だ。棒の先に鏡が取り付けられていて、これを食事用の穴から差し入れれば、扉の死角を見ることができる。  これを恩田は穴から入れた。そして、カンテラの明かりを鏡に当てて、扉の死角を観察した。  しかしいない。  何か盲点があるのではないかと考えた。だがどんなに考えても、心当たりはない。壁にも天井にも地面にも何もない。何度も鏡で確認したが、いない。溶接された部分は埃をかぶっていて、溶かされた跡もない。  恩田は途方に暮れた。ついに恐ろしいことが起きてしまった。  中に入って確かめたいが、鉄の扉は溶接されている。それ以前に、これ以上ひとりで調べるのは危険だ。慌《あわ》てた看守が中を確かめようとして脱獄されるという例は、よくある話だ。  とすると、この事態を知らせに行くしかない。恩田は急いで坑道を走る。  走りながら考えた。この区域の近くには電話はない。誰に知らせるべきか? この地下牢の存在は、恩田と令子と、オーナーの三河、そして一部の工夫しか知らない。  他に知っている人間は、三河の手によって、鉱山から追いやられてしまった。古い人間で知っている者はいるが、この地下牢は機密事項になっているため、いまや伝説になっている。恩田も看守ではなく、「古い坑道の保守管理をしている」ということで通っている。  そうすると、直属の上司である三河に知らせるしかない。出口からすぐの鉱山事務所へ直接行くのが早いだろうと考えて、急ぐ。  鉱山を出て、事務所へと向かった。そして事務所の階段を駆け上って、ノックもせずにいきなり社長室の扉を開けたが社長はいない。隣の秘書室の扉を開けた。 「社長は!?」 「え……ちょっと出てくると言っていました」  秘書の羽田野《はたの》祐子《ゆうこ》が答えた。 「どこへ?」 「すぐもどってくるとしか……」 「心当たりは?」 「いえ……」  三河はどこだ!? いつも秘書を連れて外出する三河にしては、ひとりで外出することは珍しい。だとすると、近くにいて、すぐにもどってくるのだろうか? 「社長はどんな恰好で出ていった?」 「作業着姿でしたが……」  普段、背広姿で気取っている三河にしては珍しい。  恩田はふたたび社長室の扉を開けた。いつも机の横に置いてある長靴がない。  鉱山だ。 「……いいか、社長がもどってきたら、至急知らせたいことがあると言っておいてくれ。緊急だ」  恩田は一方的に言って、事務所の階段を下り、鉱山へと向かう。  鉱山に入って、中で作業をしていた支柱夫に声をかけた。 「社長は!? 社長を見なかったか?」 「そこから下りていったけど……」  支柱夫は、わきの階段を指差した。七番坑のほうだ。ここは最近、使われていない区域だが——恩田は走る。  三河は、ひとりでふらっと鉱山に入ることがある。そして、鉱山内の様子を見ながら、鉱夫に声をかけたりする。しかし、いまは状況が状況なだけに、不安が高まる。  七番坑まで来た。大声で「社長!」と呼ぶが返事はない。使われていない場所だから、作業員もいない。この地区は現在、十一番坑への通り道として使用されているだけだ。  十分ほど捜したが、誰もいなかった。電気は点いているので、誰かが来た節《ふし》はあるのだが——。  三河は、たまたま鉱山内を視察に来て、すでに事務所に帰っていったのだろうか。恩田の考えすぎだったのかもしれない。  しかし、いったん事務所へもどろうと歩きはじめたとき、奥のほうから、ガシャーンという轟音が聞こえてきた。同時に地面が揺れた。空気も少し揺れた。鉱山の中では、時おりダイナマイトを爆発させる音が聞こえるが、それとは全く違う音だ。  恩田は音のした方向に走る。七番坑からひとつ脇道に入って、階段を上る。  電車の軌道のある大きな坑道にたどり着いた。すると、前方からもくもくと煙がせまってきた。 「どうした!?」  叫んだが、返事はない。  恩田は、口に手をやりながら先に進む。砂煙で前が見えないので、何度も足元の小石や岩くずにつまずきそうになり、一度、スイカのような物体を蹴ってしまった。進んでいるうちに、砂煙が徐々に収まってくる。  転倒した電気機関車とトロッコが見えた。機関車は、ひとりの人間が運転する形式だ。  壁際に倒れている人間を見つけたので、恩田は急いで近寄った。 「だいじょうぶか!?」  恩田は男を抱き起こす。この男は郷田《ごうだ》といったか。鉱石や岩くずを外に運ぶ運搬夫だ。 「上り坂で……見えなかった」  状況からすると脱線したのだろうから、郷田の運転する電車が、何かにつまずいて転倒したということだろう。  嫌な予感がした。恩田は、郷田をそっと地面に横たわらせてから、転倒した機関車へと近づく。線路のほうに、何かが倒れているのが見えた。血だらけの男の身体だ。身体はうつ伏せになって軌道上に倒れていて、よく見ると、頭部と左ひざの先がない。切断された首とひざからは大量の血が流れていて、周りも血まみれだった。  壁際に左足を確認した。電車は、この人体に当たって転倒したらしい。その弾《はず》みで、頭部と左ひざを切断してしまったようだ。  頭部は——と周りを見ると、二十メートルほど先にスイカほどの大きさの赤い物体を確認した。スイカ——? 咄嗟に恩田が自分の足元を見ると、長靴が赤黒く血で染まっていた。先ほど砂煙の中で蹴ったのは、あの頭部だったのだ。  恩田は頭部に近寄った。地面を向いていて顔は見えないが、間違いない。右手で転がして確認すると、やはりオーナーの三河正造の頭部だった。 [#改ページ] 第一章           1  学生服姿の男が、私の座席の横を通り過ぎた。また、だ。  いったい彼は何をやっているのだろう? 東北線の列車が上野《うえの》駅を発車してから、彼は、盛んに車内を往復している。ついさっきは、置き場所に困りそうな熊の置物を抱えて歩いていった。その前は、一升瓶二本だったか。さらにその前には、不気味な青い目の人形を抱えて歩いていた。  まるで、ガラクタ屋が商品を運んでいるようだ。最初は行商人かとも思ったが、学生服姿の行商人なんて聞いたことがないし、列車内でガラクタを売るなんて変である。  私は東北線に乗るのは初めてだったので、この路線にはああいう人が多いのかなと無理やり自分を納得させる。  しかし、なんでこんなことになったのかな——と私は座席から窓の外を見て思う。  四場浦鉱山のオーナーの息子——いや、父の正造が亡くなったから、現在は彼が実質的なオーナー兼社長か——三河|正一郎《しょういちろう》は、電話でしきりに、 「早く来てくれ」  と言っていた。 「いえ、ですから、私は弁護士といっても、民事専門ですから……ほかによい人間を紹介しますよ」 「ミンジって何だ?」  驚いたことに、正一郎は次期社長だというのに、刑事と民事の違いもわからないらしい。仕方ないので、私は電話越しに「泥棒とか殺人とか警察に捕まるのが刑事事件」「離婚とか借金とか警察が直接介入しないのが民事事件」などと、刑事と民事の違いを説明しはじめたが、 「わかった、わかった。その話も聞くから、早く来てくれ」  と正一郎は言って、聞こうとしない。 「ですから……」 「なんだ、来るのが嫌なのか?」  正直、私としては断りたい気分だった。現在、大きな案件を三つ抱えていて、そのうちのひとつは、やっとの思いで取った依頼だ。  しかし、私がやっている弱小弁護士事務所は、四場浦鉱山と長い間にわたって顧問契約を結んでいる。弱みがある。正直に言うと、その契約金額は現在の私にとっては大きく、横浜の小さな事務所の家賃もその収入を当てにしている。  結局「わかりました、行かせてもらいます」と従順に答えることになって、こうして東北線に乗っている。 「失礼、失礼」  という声が聞こえてきたので、通路のほうを見ると、またあの学生がほかの乗客に声をかけながら歩いてきた。今度は、〈王将〉と書かれた将棋の駒の置物を両手に抱えている。熊の置物よりも、さらに置き場所に困りそうな代物だ。  彼は笑顔を振りまきながら、後部車輛へと向かっていく。  常々思うのだが、私はあんな土産《みやげ》物を買ってくる人間の気が知れないし、受け取ってよろこぶほうの気持ちもわからない。  私の弁護士事務所にも、ああいう無駄な置物がたくさんあって、眺めるだけでいつも憂鬱な気分になってくる。気を利かせたつもりの依頼人が「お礼に」と置いていくのだ。たとえば、先ほど彼が持っていたような熊の置物(鮭をくわえている例のやつだ)、気味の悪い日本人形、金運を呼ぶというタヌキの瀬戸物などがある。ひどいのになると全裸で円盤を投げるポーズをする西洋人の銅像なんてのもある。まったくもって、意味がわからない。  かといって、元来のケチな性分が邪魔して捨てられないし、売っても二束三文なものだから、部屋中に所狭しと無駄な置物が蓄積する。壁がガラクタで埋まり、部屋が趣味の悪い万国博覧会場になる。  あの学生は、そんなガラクタを集めて何をしようとしているのか。やはり、ガラクタの行商人以外は思いつかない。それとも新手のアルバイトなのだろうか。  そんなことを考えていたら、また学生が通り過ぎるのが見えた。今度は、手ぶらのようだ。彼は口笛を吹きながらご機嫌な様子で、先頭車輛のほうへと向かっていく。  それはそれとして、依頼人の三河正一郎が次期社長となる鉱山では、陰惨な殺人事件があったそうだ。なんでも、依頼人の父であるオーナー兼社長が撲殺されて、その死体が鉱山内を走る電車の軌道上に置かれていたらしい。そのため、オーナーの死体は電車に轢《ひ》かれて、頭部と左ひざが切断されたそうだ。  いずれにしても、私がもっとも苦手な部類の事件だ。血を見るだけでも嫌である。小学生のころ、朝礼で同じクラスの友田《ともだ》君が鼻血を出して倒れたとき、その血を見て私も貧血を起こしたことがある。「友田といっしょに共倒れ」と馬鹿にされたから、いまでもよく覚えている。切断された死体を見たら、私もショックで死ぬかもしれない。  ちなみに、私は依頼人の三河正一郎と会ったことはない。父の三河正造と一度だけ横浜で会って、挨拶しただけだ。しかも正造の顔さえ覚えていないくらいの薄い縁だから、死んだといっても特別の感慨はない。  元々は、私の父——父も弁護士だった——殿島《とのしま》一雄《かずお》が、死んだ三河と懇意にしていたらしい。日清戦争にいっしょに行っただとか、日露戦争で同じ釜の飯を食っただとか、とにかくふたりで仲良く戦争をしていたそうだ。その縁で、ほとんど形式的な顧問契約を結んだのだと父は言っていた。  私は鞄から、父が残した四場浦鉱山の資料を取り出した。  資料をひざの上で開いたとき、今度はガタガタガタという音が近づいてきた。何事かと通路を見ると、先頭車輛のほうから柱時計がやってきた。見間違いではない、背の高さほどもある巨大な柱時計だ。 「失礼、失礼」  またあの学生だ。  彼は年代物の柱時計を引きずりながら、通り過ぎていく。はなはだ意味不明の行動だ。これから車内で骨董屋でもやろうとしているのか。  資料に目を移す。三河が跡を継いだ四場浦鉱山は、近くの松尾《まつお》鉱山についで、日本で二番目の硫黄産出量を誇っている。しかし鉱山が開けた年自体は松尾よりも古くて、最初に鉱床が発見されたのは西暦一六〇〇年ごろらしい。どこまで本当だかわからないが、たまたま近所を通りかかった樵《きこり》が露出する銅鉱を見つけたのだそうだ。  本格的に採掘が始まったのは、江戸時代後期。一時期は銅や鉄が採れなくなって鉱山は下火になったそうだが、良質な硫黄が産出されるのに注目されて、大正後期からは硫黄鉱山に移行したらしい。  現在、鉱山労働従事者は五千人。家族などを含めると一万三千人以上になる。二万人以上といわれている松尾鉱山ほどではないが、それだけの人間の住む街が、標高一〇〇〇メートル以上の山の上にあるというのだからすごい話だ。鉱山街には小中学校はもちろん、高校、郵便局、病院、劇場などがあるらしく、電気、ガス、水道などの光熱費は無料なのだそうだ。しかも昨年、鉄筋アパートを建設した松尾に負けじと、四場浦でも立派な鉄筋アパートを建てたとのことだ。  現在は松尾鉱山と並んで、�雲上の楽園�と呼ばれているらしい。  私は資料を鞄にしまって、持参したいなり寿司を取り出した。  それにしても、なぜ私が呼ばれるのだろう? いなり寿司を食いながら考える。三河によると、別に三河自身が容疑者になっているわけではなく——彼には鉄壁のアリバイがあるそうだ——鉱山側が刑事責任を問われているわけでもないらしい。なのに、とにかく「来い」という。  考えすぎて食欲がなくなってきたので、食いかけのいなり寿司をしまおうとすると、 「うまそうですね」  と声をかけられた。  あの男だ。しきりに通路を往復していた学生だ。男は学帽を深くかぶりながら、こちらを笑顔で見下ろしている。 「ここ、空いてますか?」  と彼は聞いてくる。四人席で、私以外に誰もいなかったものだから、 「どうぞ」  と私は戸惑いながら言う。 「もう食わないのですか?」  彼は、手荷物を座席に置いてから言った。 「はい、食欲がないもので……」 「じゃ、これと交換しませんか」  彼は風呂敷包みを座席で広げはじめる。もしや——と思っていたら、やはり、〈王将〉と書かれた大きな将棋の駒の置物だった。近くで見ると、いっそう置き場所に困りそうな大きさだ。 「え……?」  これをいなり寿司と交換しようというのか。 「お気に召しませんか?」 「いえ……」  そういう話ではない。価値からすると置物のほうがはるかに上だろうが、これ以上、置き場所に困るものが増えても仕方がない。それに、これから私は単身、四場浦鉱山へ向かうのだから、こんな重そうな置物があっても困るだけだ。 「そうですか、やはり、お気に召しませんか……ちょっと待ってください」  彼は立ち上がって、後部車輛のほうへと向かっていく。  しばらくして、ガタガタガタという音が聞こえてきた。まさか——と思っていたら、案の定、彼は大きな柱時計を引きずってきた。 「これなら、いいでしょう! この時計と、そのいなり寿司を交換しましょう!」 「……は?」  呆然《ぼうぜん》と私は、柱時計を見る。 「遠慮しなくていいですよ! 元々、飯にありつくために用意したのです。そのいなり寿司のような、うまそうな食い物のためにね。ささ、交換しましょう!」 「いえ……」  だから、そういう話ではない。なんと返事をすればいいのか途方に暮れていたら、彼は、 「わらしべ長者です!」  と言った。 「は?」 「わらしべ長者を知りませんか? 昔話です。百姓が一本のわらしべを手に、少しずつ良いものと交換していくのです。そして最後には、豪邸と田んぼを手に入れるのです」 「はあ」  もちろん知っているが、いったいこの男は何を言いたいのだろう。 「いえね、元々はですね、東北へ旅に出るのはいいとして、昼食をどうしようか困っていたのです。貧乏ですのでね、駅弁を買う金ももったいない。すると、ぼくが座ろうとした席に、ワラが一本落ちていましてね。天啓です。『じゃあ、これを昼食に変えてやろう』という実験の開始ですよ!……おもしろくないですか?」 「いえ……」  いや、本当はたいして興味もないのだが、聞かれるとつい否定してしまう。 「最初のほうがたいへんでしたね。その一本のワラと、何を交換するのか? 交換してくれる人がいるのか? すると、ある紳士が新聞を読み終えて、片付けるところを目撃しました。ぼくが『このワラと新聞を交換してくれませんか?』と言うと、紳士は快く交換してくれました。つぎに『どなたか、この新聞と何かを交換してくれませんか』と汽車の中を歩きます。そうすると、ひとりの男がぼくを呼び止めました。なんでもシベリアから復員したばかりで、情報に飢えているという。『ろくなものはないが、これではどうか』ということで彼が差し出してくれたのは、兵隊帽でした。するとですね、ここでドラマチックなことが起こったのです! 聞いてますか?」 「はあ」 「近くにいた老紳士が立ち上がって、『あなたは、島津《しまづ》さんではないか!』と叫んだのです。島津はぼくじゃないですよ、兵隊帽をくれた男です。なんたる偶然! その老紳士と島津は、シベリアでいっしょに抑留されていたのです。彼らふたりは抱き合って号泣しました。そして、『その帽子はいらないのか。よかったら記念に欲しい』と言ってくる。島津氏は『とくにいらないのだが、それはその学生にあげたものだし』と言う。『じゃあ、これと交換しないか』ということで、将棋の駒の置物をくれました」 「それが、これ?」  いつの間にか話に引き込まれていた私は、席に置かれた将棋の駒の置物を見た。 「いえ、違います。これよりも古ぼけた駒の置物です。待ってください、ちゃんと説明しますから。……ええとですね、ぼくはその置物を持って、ふたたび車内を歩きます。『これと何か交換しませんか』ってね。すると、今度は家族連れで来ていた父親が、ぼくを呼び止めました。『ちょっとそれを見せてくれませんか』ってね。これがまた驚き、よく見てみると裏に〈七段、升田幸三《ますだこうぞう》〉とのサインがあるじゃないですか! 升田幸三はもちろん知ってますよね。今年初めの、陣屋《じんや》事件の升田です。鶴巻《つるまき》温泉の高級旅館・陣屋で、呼び鈴を鳴らしても旅館の関係者が出てこなかったからとすねちゃって、試合放棄した升田です! 呼び止めた男によると、その将棋の駒のサインは、七段時代の升田の貴重なサインなんだそうですよ」  男は唾を飛ばしながら演説している。正直言うと少々飽きてきたが、「はあ」と相づちを打っておいた。 「その男は熱烈な将棋ファンでしてね。『なんとしてもそれが欲しい』と言う。もちろん、ぼくは快諾します。男は、代わりに立派な駒の置物——それがこれです」  と言って、男は座席に置いた将棋の駒を指す。 「——これと、他に熊の置物だとか、柱時計だとか、たくさんのものをくれました。ぼくは『代わりの駒の置物だけでいい』と遠慮したのに、彼は『いや、こんな貴重なものだから』と言って聞かないのです。彼は、家族全員で東北へ引っ越すために、骨董品をたくさん持ってこの汽車に乗っていたそうです。  人には様々な人生がありますね。ただ通り過ぎるだけだと、全員が単なる乗客でしかないが、話を聞けばひとりひとりに思惑があって、歴史があって、個別の人生がある。それを見出せないのは、ぼくたちが見る目を持っていないからです。自分だけが苦しい人生を送っているなんて、傲慢で、被害妄想で、錯覚ですよ。  さて、あとは省略します。一度にたくさんのものをもらって、ぼくもうれしくなってきましてね。最初の目的も忘れて、本気で『豪邸でも手に入れてやろう』『それとも、最後にはこの汽車でも手に入れてやろう』なんて思いながら、交換の連続です。青い目の人形を手に入れたり、丈夫な鉄鍋をもらったり、いろいろなものや様々な人生と接しました。  ところが、どんなにうれしくても、どれだけたくさんの人生があろうとも、腹は減る。自然の摂理です。はたと我に返ってみると、ここにうまそうないなり寿司がある。ぼくは最初の目的を思い出しました。そこで最後の交換です。わかりましたね、あなたは罪悪感を覚える必要はない。どうせ、食う気はないのでしょう?」  そう言って、男は左手を差し出してきた。男の左手には白い手袋がしてあり、どこか不自然な姿勢で静止している。 「ああ、これは気にする必要はありません」男が手袋を外すと、プラスチック製の手が現れた。 「義手です!」と男は宣言した。 「これはこれで便利なのですよ」と男はスーツケースを開いた。 「ほら、いろいろと交換して遊べるのです。普段はこれですが、飯を食うときは、こっちです」  男はスーツケースの中にある義手のひとつを指差した。肘から先の義手で、手の先には、輪のようなものがついている。 「この部分で茶碗を固定するのです。こっちは、手の先に空気銃がついています。敵と戦うときは、武器になるのです。ほかには金魚鉢を搭載した義手もありまして、それは中に入った金魚を眺めて楽しむのですが、今回は持ってきませんでした。水を交換したり、エサをやるのが面倒ですのでね。どうです、すばらしいでしょう。知り合いに優秀な科学者がいましてね。左腕の血管にコードを伸ばして、そこのわずかな電位差を感知して、動かしたりすることもできるのです。使ってみると便利で、人類全部が義手にするべきではないかと思うくらいでしてね。交換できないほうが不自然です。だから、あなたが気にする必要はないのですよ。……ところで、いなり寿司をもらっていいですか?」  男が物欲しそうに見てきたので、私はいなり寿司を渡した。彼は義手の左手でいなり寿司を受け取り、右手でぱくぱくと食いはじめる。  私はその光景を唖然として眺めていた。  戦争が終わって、多数の兵士が戦地から帰国して以来、街で義手や義足の男を見かけることも珍しくなかったが、それにしても、ここまで明るく、しかも自慢げに話す男も珍しい。いったいこの男は何者なのだろう? 「しかし、楽しいひと時でした」と男はまた喋り出す。「わらしべ長者の昔話は、深遠な真理を語っていますね。それを身をもって実感しましたよ。……あなた、人間にとって、一番重要なものは何だと思いますか?」  突然聞かれて、私は戸惑った。人間にとって一番重要なもの——駆け出しの弁護士で、家賃の支払いに汲々《きゅうきゅう》としている私としては、「金だ」と答えたいところだが、むろん違うと言われるだろう。愛情? いや、わらしべ長者の話をしていたのだから——。 「人と人とのつながりですか?」と私は言った。 「違いますね。だとしたら、山奥で自給自足している男は死ななきゃならない」  待っていたかのように、男は答える。 「家族、友だち、子ども——」 「違いますね。別に、家族や友だちや子どもがいなくたって、人間は生きていけます」 「じゃあ、金?」 「違います。——わかりませんか、ここですよ。ここ」  彼は顎を引いて、右手の人差し指で額を差した。「頭脳です」と彼は自信たっぷりに言って、微笑んだ。           2  彼はなおも演説を続ける。 「人間が生きていくためには、たえず食い物や寝る場所を確保しなければなりません。それを手っ取り早く得るためには、金があればいい。しかし、金なんて所詮、日本国が発行した紙切れにすぎない。国がつぶれれば紙幣なんてクズ同然だし、無人島でそんなもの持ってても、何の役にも立たないでしょう? 燃やせたり、寝袋代わりになるという点では、新聞紙のほうがマシです。現実、金はインフレに左右される。ご存じのように、昭和二十年当時に稼いだ百円はたった七年で、その価値がほぼ百分の一になりました。現金以外の資産でも似たようなものです。でも、頭脳ばっかりは生きている限り、強制収用されませんからね。無人島にも持っていける」 「はあ」  すごい屁理屈を言うものだな、と私は感心する。 「人間が豊かに生きていくためには、頭脳があればいいのです。それだけです。�資本�主義なんて、まやかしですね。資本なんてなくてもいい。頭脳を駆使すれば、ワラ一本の資本で、豪邸だって手に入れることもできるのですよ! それをぼくは証明したのです。  しかし、ぼくはそこまで頭脳を無駄遣いしたいとは思いませんけどね。わらしべ長者をやっていて痛感しました。……そう、思いませんか。右利きで、横浜弁護士会所属の殿島|直紀《なおき》さん?」  突然、名前を呼ばれてびっくりした。 「なんで、ぼくの名前を……?」 「推理です!」と彼は言う。 「あなたから頂いたこのいなり寿司、これは横浜は馬車道《ばしゃみち》にある『泉平《いずへい》』のいなり寿司ですね。いえ、驚くことはありません。ぼくは関東近郊にある七種類の名店のいなり寿司を食べ分けることができるのです。  一方で、あなたの右手の下についているのは、鉛筆やインクの跡ですね。事務仕事ということは間違いない。そして、あなたの鞄からは裁判記録らしき書類が見えます。裁判記録を持っている人間というと、検察官、裁判官、弁護士などが考えられますが、裁判官が地方へ出張するとは考えにくい。検察官が、そこまで手が真っ黒になってペンだこができるほど事務作業をしているとも思えない。  以上から、横浜在住の弁護士と推理するのが自然のようです。横浜在住の弁護士なら、横浜弁護士会に所属しているはずだ。弁護士会に所属するのは義務ですし、確か神奈川の弁護士会は�横浜弁護士会�というのですよね。論理的な帰結ですよ!」  得意げに、彼は言った。まるで、シャーロック・ホームズのようだ。小説で読んでいる分には、「こんなことがあるものかねえ」と疑い半分だったが、実際にやられると驚く。しかし、職業や住所はその推理でいいとして、名前はどうやって? と聞こうとしたら、 「お、そろそろ着くようですね」  と彼は胸元から懐中時計を取り出して、確認した。「じゃあ、これは返しておきます」  彼は笑顔を見せて、財布を差し出した。驚いたことに、なんとそれは私の財布だった。 「あ、すったわけじゃないですよ! あなたが便所の前で落としていったのです。なに、お礼はいりません。その代わり名刺を一枚もらっておきました。じゃ、また会う日まで!」  彼は大急ぎで荷物をまとめて立ち上がった。  なんのことはない、推理でもなんでもなくて、やつは財布に入っていた私の名刺を見ただけではないか! むろん、名刺にははっきりと〈横浜弁護士会〉と書いてある。財布の中には、『泉平』の領収証も入っている。  とすると、彼が推理したのは私の利き腕だけで、それ以外の推理はあとででっち上げたということになる。何が「推理です」だ。何が「七種類のいなり寿司を食べ分けられる」だ。私は脱力して、彼の後ろ姿を見つめる。  さて、困ったのは、残された柱時計の始末だ。ついあの男の勢いに押されて、すっかり返す機会を失ってしまったが、私の目の前には、柱時計という現実がある。まるで置き場所に困る万物の王様というふうに、威風堂々とそびえたっている。  このままにしておくわけにもゆかないので、私は柱時計をかついで盛岡駅に降りる。もちろん、柱時計をかついで駅を歩く人間なんてめったにいないから、じろじろと周りから見られる。  駅から鉄道便で送ろうとしたが、受付時間を過ぎていると拒否された。せめて、私が帰京するまで駅で預かってくれないかと交渉したが、国鉄職員は頑《がん》として断ってくる。公務員はこれだからいけない。  重いものだから、よほどどこかに置いていこうかと思った。実際、駅の外で忘れたふりをして立ち去ろうとしたが、農婦らしいおばあさんが、 「あんた、これ忘れてるよ!」  と、親切に声をかけてきた。東北の優しさが身に染みる。私は観念して、柱時計をかつぎ、乗り換えの列車に乗る。くやしいことに、柱時計は別料金を取られた。  笠原《かさはら》駅に着いて、四場浦山頂行きの最終電車に向かう。午後十時二十分。風が強くなり、いよいよ寒さが本格的になってくる。二輛編成の客車で、客はまばらだった。酔っ払った鉱山労働者らしき男や、編み物をする中年女が見られる。暖房がよく効いていて、中はとても暖かい。かすかに硫黄の匂いもする。ゴトゴトと揺れる電車に身を任せながら窓の外を眺めると、雪がだんだんと深くなってきて、やがて月明かりの下の風景はすべて純白の化粧に包まれる。  三十分ほどで、終着駅の四場浦山頂に着いた。無人の改札を抜けると、穏やかな寒風が吹くなか、出迎えの者が何人か待っている。  笠原から電話したとき、「迎えの者を寄越す」と言っていたが——と考えながら、出迎えの者たちを眺めると、〈殿島様〉という画用紙を持った若い女性を見つけた。東北線を降りてからは見なかったようなモダンな洋服を着ていて、頬が桃色に染まっている。少々田舎の匂いを感じるが、素朴で率直そうで、表情豊かな東北美人という雰囲気だ。 「おつかれさまでしたあ! 殿島様ですね」  彼女は明るく声をかけてきた。  ところが、柱時計を地面に置いて、笑顔で駆け寄ってくる彼女を待っていると、彼女は私を通り過ぎて行ってしまう。 「遠いところ、疲れたでしょう。寒かったでしょう」  と彼女は、私の後ろで中年紳士に声をかけている。その中年紳士は、何事かと戸惑った様子を見せている。 「あの……」と私は女に声をかけた。 「はい?」 「私が殿島ですが……」 「アラア」彼女は目を見開いた。「マア」中年紳士のほうを見た。「……もう! そうならそうと言ってくださいよう」私の肩をポンポンと叩く。「こんなに若い方だなんて思わなかったわァ」私は二十五歳だ。「それに……」彼女は、柱時計を見つめた。「これ、なんですか?」 「いえ、いろいろとありまして……」  私は説明するのが面倒なので、言葉を濁す。 「だって、弁護士さんがこんなの持ってるとは思わなくって」  そりゃそうだろう。柱時計をかついでやってくる弁護士なんて、私も聞いたことがない。 「あ、もしかして」私はひらめいた。「この時計、欲しいですか?」 「は?」 「いえ、汽車でもらったものなのですが、よかったらもらってほしいなと思いまして」  私は申し出た。押し付ける絶好の機会だ。 「エエ? こんな高そうなもの……なんで?」  彼女は不審そうな顔を見せる。 「いいんですよ、よかったらどうぞ」 「……どういうつもりですか?」  彼女は眉をしかめて睨んできたので、私は戸惑う。 「いえ、別に……家まで持っていくのはたいへんだしなあ、と」 「あー! わかったー!」突然彼女は大きな声を上げた。「バカにしてるんでしょ!」 「え?」 「田舎者だからって……こんなのもらっても、わたしは騙されませんからね!」 「いや……」 「もう、これだから、都会の人はイヤだわ! 東北の娘っていうと、ころっと騙されて、簡単についてくると思ってるんでしょ。娘を売ったなんて、戦前の話ですからね!」 「そんな……」  たいへんな誤解を受けているようだ。 「だって、汽車で柱時計をもらうなんて、信じられますか! じゃ、なんで、弁護士さんが汽車で柱時計をもらうんですか?」 「……」  そう言われると、返す言葉もない。 「……ついてきてください」ぷいと後ろを向いた。「あ、わたしは、佐藤《さとう》三恵子《みえこ》です」彼女は歩きはじめる。「事務所に案内しますから」少しだけこちらを見た。「社長が待ってます」細くて華奢な背中が怒っていた。  私は三恵子の後ろを歩きながら、困ったことになったなあと考えた。柱時計を手に入れた経緯をきちんと説明して弁解したいところだが、すっかりその機会を逸してしまった。試しに「あの……」と声をかけてみたら、「何ですかっ」と三恵子は眉間に皺を寄せながら振り向いた。まだ怒っているようだ。  駅舎を離れて暗い道を歩いていると、遙か遠くに、強い街の灯りが見えた。あれが鉱山街か。確かに、東京の繁華街を思い起こさせるような、まばゆくて強烈な光だ。  しかし、街の周りは雪の山肌に囲まれて、街の光だけがぽっかりと浮いた恰好になっている。さらにその周囲には、四場浦連峰の山影が見える。街と連峰の深い谷間には、うっすらと雲海が広がっている。雲がゆらゆらと街の光に照らされて揺れている。まるで街全体が、雲の上に浮いているようだ。なるほど、�雲上の楽園�という表現がぴったりだと私は思った。  そして、その中心に、鉄筋四階建てほどの巨大な箱形の建造物がいくつも並んでいる。あれが噂に聞く鉄筋アパートか。周りがほとんど平屋建ての建物なだけに、やけによく目立つ。アパート単体で見ると、東京や横浜でもよく見かける規模の建物だったが、雪山の山頂にあれだけ大きな建物がいくつも並んでいると、圧巻というよりは異様である。  緩《ゆる》やかな斜面に並ぶその様は、まるで巨大な軍事要塞のようだ。 「すごいですね」  思わず私は立ち止まって言った。 「東京ほどじゃないですけどねっ」  と三恵子は一瞬だけ振り向いて言った。  さらに緩やかな下り坂を歩いていくと、雪がはらはらと落ちてきた。桜の花弁を粉にしたような、白くて細かい粒が三恵子の黒髪に降りかかっている。  下り坂が終わって、トンネルにたどり着いた。ワラ製の温かみのあるトンネルで、中は、赤、青、緑などの豆電球で装飾されていた。 「綺麗でしょう」と笑顔が振り向いた。「もうすぐ祭りなの」機嫌は直ったようだ。「わたしも手伝ったんですよ、この飾り」豆電球の光が瞳に反射している。「このトンネルは、雪|避《よ》けのためのトンネル」三色に照らされた白い顔がトンネルを見上げた。「街の人が総出でつくったの」澄んだ声が、トンネルにかすかに反響する。「さ、行きましょう」  突然、きっとした目つきを見せてから、三恵子は背中を向けた。振り向いた勢いで黒髪がなびいて、彼女の髪に付着していた雪が、光の粉となってふわっと舞った。彼女は歩き出す。背中はまだ怒っていたが、心なしか、歩く速度がゆっくりになったような気がする。  街境の長いトンネルを抜けるとそこは鉱山街であった。木造の家屋が立ち並び、幅十メートルほどの道の両脇にはいくつもの街灯があって、街を煌々《こうこう》と照らしている。屋根の上の雪が融けそうなほどの、光の強さだ。 「明るいですね」と私は見たままの感想を言った。 「この街灯の電球、ネジの回る方向が逆なんですよ」と三恵子は言った。 「逆?」 「普通、電球のネジを回す向きってみんな同じでしょう? それが逆なの」 「へえ」 「へえって、『なんで』って聞かないんですか?」 「なんで?」 「もう! やっぱり、バカにしてる! 田舎者だと思って!」  三恵子は早足で歩き出す。また怒らせてしまった。  ちなみに、このネジの回転方向が逆の理由は、ずっとあとになって知ることになる。  街の外れに連れていかれて、二階建ての建物まで来た。表の看板には〈四場浦鉱山事務所〉と書いてあった。  中に入って、三恵子が受付で話をしてからしばらくすると、グレーのジャケットとスカートを身に着けた女が現れた。 「社長秘書の羽田野祐子といいます」  と女は言って、深くお辞儀をした。知的な感じの女性で、銀縁の眼鏡の奥に穏やかな瞳を浮かべている。いかにも仕事のできそうな雰囲気だが、同時に優しさも兼ね備えているように見える。 「こちらへ」  と祐子にうながされて、社長室に向かおうとすると、 「わたし、ここで待ってますから」  と三恵子が言って、彼女とはロビーで別れることになった。 「遅かったな」  社長室に入ると、背広姿の男が立ち上がって、いらいらとした口調で言った。三河正一郎だ。暗めの明かりのせいか、写真で見たときよりも若く見える。明治四十一年生まれだというから四十四歳のはずだが、見た目は三十代後半にしか見えない。 「すみません、他の仕事が長引きまして……」  私は一礼してから言い訳をした。遅れたといっても、連絡が来たのはきのうの夕方で、昨日中に出発できなかっただけなのだが、私は黙っていた。 「ええと、殿川君だったかな」 「殿島です」  と私は訂正した。わざわざ横浜から呼び寄せた顧問弁護士の名前を覚えていないなんて、ひどい話だ。簡単に挨拶を済ませて名刺交換をしたあと、正一郎は口を開いた。 「きょうは遅いからな。明日、現場を見てもらおう。詳しい事情もそのときに説明する」 「げ、現場ですか……」  恐れていたことが。 「当然だろう。でないと説明できない」 「あの……」 「なんだね?」 「私は何をすればいいのでしょうか?」 「何って、君は弁護士だろう」 「はい……どなたを弁護すればいいのでしょう?」 「どなたって、私に決まっておるだろう」 「いったい、どういうことで? 聞くところ、アリバイはあるのですよね?」 「明日説明しようと思っていたのだが」正一郎は大きく息をついた。「父が殺された状況は知っているかね?」 「はい、新聞で報道された程度は」 「じゃあ地下牢にいた男が脱獄したことは?」 「それも新聞で読みました。岸本《きしもと》座吾朗でしたか。その男が犯人なのですよね?」 「恐らくな」 「証拠は?」 「まだないが……座吾朗は二十年前に、『二十年後、ここを出て、ぶっ殺してやる!』と叫んでいたそうだ」 「二十年前からですか……執念ですね」 「ああ。その二十年後というのが、いまから一か月後だったそうだ」 「ということは、男は予告よりもひと月早く脱獄したと?」 「そういうことになる」 「なぜでしょう?」 「知らん。まあ、二十年のうちたった一か月の違いだからな。たいした違いはあるまい」 「ふむ……その座吾朗とは、いったいどういう男なのでしょう? 新聞では、元々鉱山で働いていた男だということですが……」 「それが、よくわからんのだ」 「よくわからない?」 「ああ、息子の私でさえ知らなかったのだ。その男の存在をな。それどころか、地下牢があるということも知らなかった。地下牢と男の存在を知っていたのは、父と、看守をやっていた恩田健夫、その妻・令子、そして地下牢の整備をしていた一部の工夫だけだ」 「そんな……」 「父は隠し事が多かったんだ。私もずっと系列の会社に行っていて、この鉱山に関わるようになったのは十年前からだ。それ以前のことは何も知らん」 「鉱山に、座吾朗の資料は残っていないのでしょうか?」 「はい、残っておりません」と秘書の祐子が答えた。「十年前の火事で資料はすべて焼けてしまいました。もっとも二十年以上前のことですし、鉱山には日雇いの人間も多いので、記録自体なかったでしょうが……。警察によると戸籍も存在しないそうです」 「偽名ですか……ところで羽田野さん、あなたは座吾朗のことは知らなかったのですか? 座吾朗が地下牢に閉じ込められているということを」  私は祐子の目を見つめた。 「知りませんでした。社長はよく、恩田といっしょに鉱山へ行っていたので、『何をしに行くのだろう』とは思っていましたが……」  と祐子は言った。 「しかし恩田さんは看守をしていたわけですよね。あなたはそれも知らなかったのですか?」 「はい。鉱山内に、古い坑道がありまして、そこの点検をしていると聞いていました。しかし、詳しいことは前社長以外に誰も知らなかったのです」 「ふむ、じゃあ、恩田さんは、前の社長から秘密の命令を受けて、看守をやっていたということですか……恩田さんも、座吾朗が何者か知らなかったのですか?」  と私が聞くと、今度は正一郎が、 「ああ、二十年間、親父からは何も知らされてなかったらしい。恩田は『座吾朗は、伝染病にかかっている。だから、本人の同意の下に保護している』とだけ伝えられていたそうだ」 「ううん、妙ですね。同意の下だったら、なんで『二十年後、ここを出てやる』とか『殺してやる』とか言っていたのでしょう?」 「知らん。恩田本人に聞いてくれ。弁護士なら警察で会うことができるんだろう?」 「警察? 恩田さんは警察に捕まったんですか?」 「ん、聞いてなかったか。……そうか、きょうの昼だったしな。恩田は逮捕された。監禁の罪だそうだ」 「なるほど、前の社長と共犯ということですか……」だんだんと飲み込めてきた。「すると、私は恩田さんの弁護をすればいいのですか?」 「違う、弁護をするのは私だと言っておるだろう」 「え?」 「さっきも言ったように、私は何も知らなかった。しかし警察は、親子ということで、私のことも疑っている。事が事だしな、監禁だけじゃなくて、親父が死んだのも私の仕業と疑っているようだ。つまり、私が共犯だということだな」 「子が親を殺す……殺してませんよね」  私は言った瞬間「しまった」と思ったが、すでに遅かった。 「ばっかもん! 当たり前のことを聞くな!」正一郎は机を両手で叩いた。「そんなことするわけないだろう!」 「す、すみません」 「ふん、まあいい。……わかったな。ええと、殿松君だったか」 「いえ、殿島です」  先ほど名刺まで渡したのに、いい加減覚えてほしい。 「とにかくわかったな。君には、私の弁護をしてほしい。まだ逮捕されそうな動きはないが、警察は横暴だと聞いている。私まで監禁に加わっていたとされると、この鉱山は終わりだ。ぜひ監禁は親父だけの罪で、私は知らなかったということを証明してほしい」 「あの……そのことなのですが……」 「ん、なんだ?」 「電話でも説明したのですが、私の専門は民事ですから、他の人間に弁護を頼んだほうが……刑事で優秀な人間を紹介できます」 「ミンジだかケイジだかわからんが、弁護士ならできるだろう。なぜできないのだ? 勉強してないのか?」 「いえ、こういうのには得意不得意がありまして……医者に内科や外科があるのと同じです」 「別に、裁判を戦ってくれとは言ってない。もし裁判になったら、君みたいな若造じゃなくて、もっと信頼の置ける者に頼むよ。それまで助言やら、警察の応対をしてくれればいいだけだ」  とうとう本音が出たようだ。私は、ちょっと法律に詳しい秘書として呼ばれたらしい。 「そ、そう言われましても……」 「それくらいなら、できるな」 「はい、しかし、確実なのは専門の者を……」 「ふむ……」正一郎は腕を組んで、考える様子を見せた。「そのケイジセンモンの弁護士とやらを雇うのに、金はかかるのか?」 「あ、はい、それは相応分だけ」 「高いか?」 「腕のいい者ほど高いですね」 「じゃ、君がやってくれ」 「え」 「親父はむかしから、君のところを『いざというときに助けてくれるはずだ』と言っていた。そのために顧問料を払ってきたはずだ。そうだろう?」 「はい、そのとおりでございまして……」  痛いところをつかれてしまった。 「じゃあ、やってくれ。どうしても嫌だというなら、顧問契約を打ち切ってもいいんだ」 「わ、わかりました……」 「そうだ、もうひとつ君に頼みたいことがある」  意味ありげに正一郎は微笑んでくる。 「なんでしょう?」 「私立探偵を雇ったんだがね、君に、その探偵の助手をやってほしいのだ」 「探偵?」 「荒城咲之助《こうじょうさくのすけ》という男を知っているかね? 有名らしいのだが……」 「ああ、はい、知ってます」  一部の実話系の雑誌で有名な探偵だ。  カストリ雑誌の成れの果てのような、うさん臭い雑誌の書くことだからどこまで信じていいかは知らないが、彼は、それらの記事によると数々の難事件を解決したということで、英雄扱いを受けているようだ。「肖像画殺人事件」や「六門塔事件」の記事は私もよく覚えている。荒城咲之助がどれほど解決に貢献したか真偽は定かではないにしても、新聞記事にもなったくらいだから、そのような事件が存在したのは事実のようだ。 「明日の昼頃に到着することになっている。その探偵の手伝いをやってくれ」 「私が探偵の助手、ですか?」  なぜに私が——。 「ああ、その探偵から助手を置くように頼まれたんだ。君は弁護士だから信用が置けるし、打ってつけだろう。若いから体力もある」  だんだんと読めてきた。こちらが主要な目的だったのだ。 「いいな」と正一郎は念を押してくる。 「はい」と私は従順に答える。  もちろん嫌なことこの上ないが、今後の家賃のことを考えると、拒否のしようがない。 「しかし、なぜに探偵を? 警察ではいけないのですか」と私は言った。 「警察が信用ならんからに決まっておるだろう。妙な自白を強要されたらかなわんよ。政治家には手を回してあるが、念には念を入れてな」 「政治家ですか」 「ああ、鉱山は国にとっても重要産業だからな。たっぷりと金を回してある。たとえばだな……」  正一郎は具体的な政治家の名前を挙げた。私でも知っているような、大臣経験者が何人もいた。 「ところで、それは何かね?」  正一郎は、壁に立てかけてあった柱時計を見た。 「柱時計です」 「それくらい、私も知っておる。自信満々に言わんでもいい。それは弁護士の道具なのかね?」  ここで天啓が下りた。 「あ、よかったら、差し上げますよ。骨董品屋で買ったのですが、重くて難儀していましてね」  と私は嘘をついた。汽車で寿司と交換したと言ったら、また要らぬ疑いを受けそうだからだ。  この男ならもらってくれるかもしれない。弁護士費用をケチるくらいの根性なら、もらうだけもらって——そうあってほしい。これ以上こんなに重いものを運ぶのはたくさんだ。 「ふむ」正一郎は柱時計を上から下までしげしげと見つめた。 「掘り出し物ですよ。もちろん無料です」 �無料�を強調して私は畳みかけようとする。しかし正一郎は「いらん」と素っ気なく言った。 「では、明日」  秘書の羽田野祐子とは、ロビーで別れた。私はその後ろ姿を見送りながら、歳はいくつかな、未婚なのかなと想像をめぐらしていたら、 「祐子さん、綺麗でしょう。若く見えるけど、三十三歳。独身よ」  と現実の三恵子が、私の心を見透かしたように話しかけてきた。そして、 「でね、わたしも未婚。二十三歳」  と言って、にんまりと微笑んだ。どう反応していいか困った私は、「ほう」と意味もなく感心した。 「でも、やめたほうがいいと思うわよ。祐子さん、三年前に事故でご主人を亡くしてね。いまでもずっと思い続けてるみたい。縁談の話があっても断っているんですって」 「へえ」 「泊まるところに案内するね。ついてきて」  三恵子は歩き出す。私は柱時計をかついで、三恵子の後を追う。  事務所を出て少し歩いたところで、 「ねえねえ」  と三恵子は話しかけてきた。「受付の人と話してたんだけど、弁護士って、なるのがすごく難しいのってね。シホーシケン受けるんでしょう?」 「うん」 「受かったの?」 「うん」 「すごい! 見かけによらないのねえ。頭いいんだ」 「それほどでも……」  先ほどと比べて突然態度が変わったのには驚いたが、褒められると、まんざらでもない気分になってくる。 「なら、お金持ちなのね」と三恵子は言った。  いや、それは違うんだ。駆け出しで家賃を払うのに精一杯で——と言おうとしたが、しかし三恵子は、私が答える前に、 「でも、わたしは安売りしませんからね!」  と私を睨んでから、また歩調を速めた。  私が駅で柱時計をあげようとしたことを、私が好意を持っていると勘違いしているらしい。気分屋で、思い込みが激しくて、自己完結してしまう想像力豊かな娘のようだ。私は訂正しようかと思ったが、三恵子の横顔を見ると思ったよりも機嫌は悪くなさそうだったので、そのままにしておくことにした。三恵子が鼻歌まじりに「弁護士さん、おいくつ?」と聞いてきたので、正直に二十五だと答えておいた。  街が近づくにつれて、まただんだんと光が強くなってくる。小高い丘から見下ろすように、街が見える。遠くを見渡すと、もわっとした光の中に、工場の煙突が何本も浮かび上がっている。そこから、もくもくもくもくと冬の夜空に煙が立ち上っている。  街に下りて、繁華街のような場所に入った。〈みやび〉とか〈もなか〉という飲み屋の看板が光を放っている。午前零時を過ぎているというのに、時々人ともすれ違う。 「遅くまでやってるんだね」私は三恵子に話しかけた。 「三交代制で、二十四時間働いてるからね。眠らない街。でも、きょうは少ないほうね。いつもはもっとたくさんいるのよ」 「ふうん」 「ふうんじゃなくて、なんでって聞かないの?」 「なんで?」  また怒られるかと思ったが、彼女は、 「だって、脱獄騒ぎに人殺しでしょ。街のどこかに犯人が潜んでるんじゃないかって、みんな怖がってるの。きのう怪しい男を見たってひともいるし……」  と不安そうに言う。突然、びゅううと風が吹いて、彼女の黒髪を揺らした。  繁華街を過ぎると建物が消えて、また雪原が見えた。  私は、てっきり鉄筋アパートに泊まるのかと思っていたが、何事もなく通り過ぎたところを見ると違うらしい。鉄筋アパート群を抜けて、今度は木造の平屋建てが並ぶ区域へと入った。先ほどまでの明るさと比べると、ひどく暗い感じがする。暗くなるにつれて、不安も増してくる。  その中の建物のひとつに、三恵子は入っていった。いまにもつぶれそうな木造の家屋だ。 「ここ?」 「ごめんなさいねえ。最近、急に人が増えて。ここくらいしか空いてないの」  三恵子は申しわけなさそうに言った。  家の中は暖かくて、明かりが点《つ》いていた。靴を脱いで上がると、奥から、作業着姿の若い男が現れた。 「あ、洋平《ようへい》君、掃除終わった?」 「う、うん。寝る場所は、何とか」 「お布団は?」 「運んでおいた」と言ってから、男は私を見た。 「こちら、洋平君。鉱山でいろいろお手伝いをしてもらってるの。まだ一人前じゃないけど、鉱夫の見習いね」と三恵子は、紹介してくれた。 「どうも」洋平はにっこり笑ってから、頭を下げた。 「歳は、私より一個上。でも、全然そう見えないでしょ」三恵子は、うふふと笑った。  一個上ということは、二十四歳——私よりも一個下か。確かに、背は百八十センチ近くあるのに、顔立ちが幼くて三恵子よりも若く見える。ひょろっとした体躯で、もやしを連想させられた。 「あの……本当に、ここでいいのかな?」  洋平が三恵子に言う。 「だって、しょうがないじゃないの。ここしか空いてないんだし」 「でも……」 「何?」 「……まあ、いいか」  洋平は気の毒そうに私を見た。そんなふうに見られると、何があるのだろうかと私は不安になってくる。 「じゃ、あとはよろしく。探偵さんが来るのは昼でしたね。その時間にまた来ますから」  三恵子はそう言ってから、家を出ていった。  部屋は入った瞬間からカビ臭かった。広さは八畳ほどあったが、畳には長い間箱が置かれていたような跡がある。どうやら、物置代わりに使われていた部屋らしい。私がいかに軽く扱われているのかがよくわかる。  私が荷物を置いて着替えていると、 「お、これ、動きますね」  と洋平が柱時計をいじりながら言った。見ると、カッチカッチカッチといいながら振り子が揺れている。また天啓が下りた。 「君、これ欲しい?」 「え?」  洋平は驚いたような顔を見せた。この男なら貧乏そうで、引き取ってくれそうな気がする。 「無料だよ、無料。タダ」  と私が言うと、洋平は「うーん」とうなりながら時計を眺めて、「いらね」と言った。           3  私は疲れていた。  長旅ということもあったし、もちろんずっとあの重い柱時計を運んでいたこともある。だから、二十四時間やっているという風呂屋へ行くのもやめて、すぐに眠るつもりだった。  しかし、いざ寝ようとカビ臭い布団にもぐり込んでも、どうも身体中がもぞもぞとする。気のせいかと思って寝返りを打ったが、背中をうじゃうじゃと何かが這いずりまわる感触がする。  突如、背中にちくっと痛みが走った。私は急いで起き上がり、電気を点《つ》けて、服を脱ぐ。背中を服でパンパンと払う。  すると、体長三ミリメートルほどの茶褐色の平べったい虫がぽろっと落ちて、床をそろそろと走った。それも一匹だけでなく、三匹、四匹、五匹といる。ノミかシラミと思ったが、形が違うような気がする。あとでわかったことだが、この虫はトコジラミ、通称・南京虫《なんきんむし》であった。戦後間もなく進駐軍がDDTを全国的に撒布してほぼ絶滅したかと思われていたが、ここでは逞《たくま》しく生き残っていたようだ。  しかし、このときの私はそうとも知らず、いや知ってもどうということはなかったが、とにかく困り果てた。こんな場所で寝ろというのか。  退治したくとも、殺虫剤がどこにあるのかわからない。人を呼ぼうにも、三恵子や洋平がどこにいるのかもわからない。  私は、電気を消してふたたび床に就く。五分ほどは無事だったが、いよいよ眠りが深くなるところになって、また太もものあたりにちくっと来た。私は跳ね起きた。服を全部脱いで、虫がぼろぼろと落ちたところで、急いで踏み潰す。一匹だけ退治に成功して、ぷちっという感触とともに液体が出た。青臭いにおいがした。  しかし、その一匹以外は、壁や畳の隙間《すきま》やら奥へと逃げ込んでいった。太ももの患部はひどく腫れ上がっていて、無性にかゆい。  また眠りに就く。ところがまたちくっと来る。電気を点けると、ささっと虫は逃げていく。「うおお!」と私は意味もなく叫ぶ。魂の叫びだ。  それから、電気を点けっ放しにして寝たり、体勢を変えたり、布団にくるまったりしたが、どれもうまくいかなかった。さすがに相手も命がけだ。かといって、こちらも一夜の熟睡がかかっている。とうとう私は柱にもたれかかって、立ったまま寝はじめた。疲れていたのでうとうととは来るが、しかしこれではすぐに目が覚める。  何か手はないかと部屋を見回すと、押し入れが目に入った。試しに、押し入れの上の段に布団を運んで寝てみると、これが無事寝られる。虫は来ない。相手の守備範囲外のようだ。  押し入れの壁には、同じ女優のチラシやら、雑誌の切り抜きやらが貼ってあった。どれもが古びていて、その中に〈西条《さいじょう》さつき〉と大きく書いてあるポスターがあった。確か、舞台や映画で活躍しているベテランの女優だったか。記事には昭和三年との記述があったので、二十年以上前に貼られたようだ。恐らく隙間風を防ぐために貼られたのだろう。他には古びた毛布があるくらいで、人間ひとりなら余裕で寝ることのできる広さだった。  ともかく、これ幸いと私は眠りに就く。押し入れの中はいっそうカビ臭かったが、虫のいない寝床がこれほどの極楽とはと痛感した。  ところがそのわずかな極楽も、ボーンボーンという音に起こされた。  柱時計が二時を打つ音だ。そういえば洋平がネジを巻いていったのだったか。あいつめ余計なことを——と思いながらよくよく耳を澄ますと、カッチカッチカッチという音もかなりうるさい。気にしないようにと思えば思うほど、気になる。そして、やっと眠りに就いたかと思うと、三十分置きにボーンという音に起こされる。  私は電気を点けて柱時計を見た。時計を止めようとした。しかし時計の動力ネジや時刻を調整するツマミは見つかっても、止める方法が見つからない。裏ぶたを開けたが、複雑すぎてどこを壊せばいいかもわからない。私は柱時計を蹴った。中の機械部分を棒で叩いた。「うおお!」とまた魂から叫んだ。憎悪の目で時計を睨んだ。しかし時計は止まらない。  私は押し入れに入って、襖《ふすま》をぴったりと閉め、布団で頭をくるんで、無理やり寝ようとする。  ところがうつらうつらとして来たところで、 「弁護士さん、弁護士さん」  という女の声で起こされた。  眠い目をこすりながら押し入れの襖を開けると、光が入ってきた。 「ワッ、なんでこんなところにいるの!」  三恵子が目を大きく開けて言った。 「いろいろあってね……」  説明するのも面倒なので、私は言葉を濁す。 「ねえっ、探偵さんがもうすぐ来るって! 九時って言ってたから、急いで!」 「え、昼って言ってなかった?」 「予定が早まったんですって」 「え!」  私は急いで押し入れから出る。  着替えて外に出ると、青空が見えた。鉱山街の空気は澄んでいて、心地よい微風が頬を打つ。三恵子とふたりで並んで歩いていると、割烹着を着た主婦やバケツを持った老婆とすれ違う。すれ違うたびに三恵子は挨拶をする。  遠くには工場の煙突と、鉄筋アパート群が見えた。鉄筋アパートの威圧感は、夜と変わらない。歩きながら、私は柱時計のない徒歩とはこれほど気持ちがいいのかと痛感する。思えば、きのうはずっと柱時計をかついでいたのだ。 「探偵さんって、どんな人でしょうね」と三恵子が言う。 「さあ」  荒城咲之助は、雑誌などに顔写真を一切載せなかった。顔を見せると探偵活動がしにくくなるという理由だったか。  駅に着くと、ちょうど電車が到着して乗客がぞろぞろと降りてきた。三恵子が私のときのように〈荒城様〉と書いた紙を持って立っていると、見覚えのある学生服姿の男が向こうからやってきた。 「やあ、また会いましたね」と男は言った。柱時計の男だ。 「や、やあ」  と私は応えた。この男さえいなければ、と私は一生の恨みに思ったが、むろん顔には出さない。 「出迎え、ありがとうございます」  彼は三恵子に挨拶をした。出迎え? 「アラ、あなたが荒城様?」三恵子は言った。 「はい、荒城咲之助です。本名、真野原《まのはら》玄志郎《げんしろう》。探偵です」  と彼は握手を求めてきた。  この男が——呆気に取られる私に構わず、男は一方的に語り始める。 「荒城咲之助というのはですね、芸名や筆名のようなものです。本名を名乗ると、いろいろと都合が悪くてですね。このほうが便利なのです。ですから、どちらの名前で呼んでもらっても構いませんが、親しい間柄の方たちには�真野原�のほうが都合がいいので、そう呼んでくれませんか。警察や記者の前だけで、�荒城�と呼んでくださると幸いです」 「あらそうですか。では、よろしくお願いします、真野原さん。佐藤三恵子といいます」  と三恵子は言ってから、「ふたりは、お知り合い?」と私と真野原を交互に見た。 「ええ、時計が取り持つ仲でしてね」真野原はにこやかに言う。  三恵子が「え?」というような顔で私を見てきたので、 「まあ、そんなものです」  と言っておいた。 「助手というのはもしかしてあなたですか?」と真野原は聞いてくる。 「はい」と私は答える。こんなやつの助手とは——私は絶望する。 「なんと、それはすばらしい! よろしくお願いします!」  彼は両手で握手をしてきた。左手は義手だったので、ガシャッと音がした。  すると、三恵子がその義手を見て「あ」という声を上げたので、真野原が、 「ああ、これはですね、見てのとおり、義手です。でもですね、気にしないでください」  と言って、例の演説を始めた。列車の中で私が聞いたのと同じ話を、三恵子に対して延々と語っている。三恵子のほうはというと、呆れているかと思ったら「へえ!」「すごいですねえ!」と心から感心しているようだった。変わり者同士、気が合うのだろうか。  鉱山街を歩きながら、三恵子が「学生の探偵さんなのですか?」と真野原に聞いた。 「いえ、違いますよ。二十七歳……です」 「では、どうして学生服を?」 「これはですね、便利なのですよ。学生服であれば、普段はもちろん結婚式、葬式、授賞式、決闘、何でも来いです。これひとつで済みます。学生服以外に何でも使えるとなると、あとは軍服か警官の制服くらいしかない。でも警官の服を着ていると怒られるし、軍服は普段着ていると威圧感を与えてしまう。となると、学生服が一番ということになる。合理的結論です」  と彼は長々と言った。語りはじめるのが性格らしい。 「二十七歳にしては、お若いですね」  三恵子が言った。確かに若い。私よりも下の歳に見える。 「真の賢者は、時代と年齢を超越するのです」  彼は自慢とも冗談とも取れる発言をした。 「どちらの大学を出たのですか?」三恵子が真野原に聞く。 「東京大学です」 「へえ、頭いいのねえ」  三恵子が感嘆する。私のときと同じだ。 「いえ、別に東大がすごくなくてですね、東大なんてのは、もぐらの寝床と同じで……」  彼はまた一説披露したが、省略しておく。  話がひと段落したところで、 「探偵って、お給料はいいんですか?」  と三恵子が聞いた。初対面で相手の収入を聞く勇気には脱帽する。 「ははは、ぼくは自営の探偵ですから、給料制ではないのです。報酬です。その額は、いいといえばいいし、取ろうと思えばたくさん取れます。しかし、ぼくはあまり興味がないですね。長期的にお金が欲しかったら、試験を受けて国家公務員にでもなってます。探偵には、お金で得られない魅力があるのですよ。つまり冒険です。公務員は家を建てられるが冒険はできない。探偵に家は必要ないが、冒険ができるのです」 「へえ、偉いのねえ」と三恵子は、また感心した。  どうやら三恵子は、学歴やら収入に興味のある女性らしい。それを隠さないあたりが正直といえば正直だが、ただ彼女の真野原を見る目には、私のとき以上の敬慕《けいぼ》が感じられて、軽く嫉妬した。同時に「彼女は誰にでも同じように接するのだな」と落胆もした。  続けて、真野原は事件についてたずねてきた。私はきのう聞いたことを詳細に話した。  彼は「ほう、座吾朗のことを誰も知らない!」「恩田さんもですか!」「しかも逮捕された!」と大げさに反応していた。  しかし、彼は本当に名探偵なのだろうか? 私は彼の顔を見ながら疑問を持った。  確かに雑誌での彼の活躍は見事だった。だが、雑誌は興味で記事を書く。興味が高められるなら簡単に虚像をつくり上げるし、都合によって壊しもする。単にこの男は�警察の反抗的勢力�として、雑誌に祭り上げられているだけではないか? とても警察を差し置いて、あんな活躍ができるとは思えない。  そんなことを考えていると、ふと街灯が目に入った。 「そうそう、真野原さん。あの街灯、普通の街灯とつくりが違うらしいんですよ」私は言った。 「ほう」  私は三恵子の目を見ながら、さらに、 「電球のネジを回す方向が違うらしいんです。なぜだかわかりますか?」  と真野原に問うた。探偵の能力を試すには、ぴったりの謎だ。 「そうですね」真野原は立ち止まって、右手で顎を触ってから「あの街灯は何年前からありますか?」と三恵子に聞いた。 「うーん、わたしが生まれたころにはありました」 「二十年以上はあると。なるほど、では、いくつか考えられますが、もっとも合理的で有力な理由は……」 「待って! 言っては駄目!」突然三恵子が真野原の前に立って言った。「わたしだけに教えて」 「え?」 「うふふ、弁護士さんはわからなかったの。だから、内緒。探偵さんはわかるかな」  と子どもっぽい笑みを見せる。 「では」真野原が三恵子に耳打ちをした。 「正解! さすが探偵さん!」三恵子が拍手をした。 「意地悪しないで、ぼくにも教えてよ」私は三恵子に言った。 「駄目です! 自分で考えて!」三恵子は微笑む。 「殿島さん、頭脳です」真野原が言う。「人間には頭脳という最大の武器があります。この街の状況、ネジを回す方向の意味、社会的背景を冷静に考えれば、そんなに難しいことではありませんよ。論理的思考を働かせるのです」と真野原までいっしょになって微笑を浮かべている。  私だけ仲間外れにされて、しかも自分だけが頭の悪い人間に見られているようで、悔しくて頭脳が沸騰してきた。しかし沸騰すればするほどわからない。街の状況? ネジを回す方向の意味? 社会的背景——?  三恵子とは事務所の前で別れて、社長室で真野原と三河正一郎が対面した。真野原は先ほどと同じように、学生服や義手の利点を語っていた。正一郎は、やはり真野原の若さに驚いていた。 「えー、現場には、彼にもいっしょに行ってもらう。事件直後に現場にいた人間だ」  三河正一郎は洋平を紹介した。昨晩、私の部屋の掃除をしてくれ、時計のネジを回しやがった男だ。鉱夫見習いだったか。 「ども」と彼は軽く会釈をした。  結局、現場には三河正一郎を先頭に、秘書の羽田野祐子、洋平、真野原、そして私の五人で行くことになった。  鉱山の入口には警備員のほかに、制服姿の警官も立っていた。  鉄の扉を開けて鉱山の中に入ると、ゴオオオオウという風の通る音がする。思っていたよりも暖かい。私は鉱山に入るのは初めてなので、どんなところだろうとあれこれ想像していたが、入ってみれば単なる整備された洞窟という印象で、特別な感慨はなかった。見た目は立派な防空壕といってもいい。  私たちは幅五メートルほどの坑道を歩いていく。風の音以外には、五人の足音しか聞こえない。そうして、私たちは狭い階段を下りたり、斜坑と呼ばれる斜めの坑道を人車という軌道車に乗ったりして、二十分ほど進んだ。すると道の折れ曲がった先から、複数の人間の声が聞こえてきた。 「ここだ」  と正一郎が言った先には、制服姿の警察官が数人に、背広姿の中年男が何人か、鑑識らしき作業着姿の男も何人かいた。〈立入禁止〉と札の下がったロープもある。 「これはこれは、社長さん。新しい事実でも思い出しましたか」  一番年長らしい背広姿の男が話しかけてきた。立派に手入れされた口ひげを蓄えた男で、どこかヒトラーを連想させられる。 「もう一度、現場を見せてほしい。もうこのへんの検証は終わったのだろう?」正一郎が言った。 「ええ、結構です。こちらは?」男は、私と真野原の顔を見た。 「弁護士と探偵だ。彼らにも現場を見てほしいと思ってな」 「探偵……? フン。勝手にしてくれ」  と男は顔をしかめて、そっぽを向いた。  男と離れてから、正一郎が、 「あいつが、現場の責任者だ。警部だったかな。名前は忘れた」  と小さな声で言った。名前を覚えるのが苦手らしい。すると、祐子が、 「蓑田《みのだ》警部です」  とすかさず付け加えた。 「そうそう、ミノムシのミノダだ」正一郎は鼻で笑った。 「このへんだったな。じゃあ、あとは羽田野君、説明してくれたまえ」  正一郎は立ち止まって言った。幅七メートルほどの坑道で、中央には軌道が走っている。 「はい」と祐子が一歩前に出た。「新聞の記事にありましたとおり、死体が発見されたのは、十一月十八日、すなわち一昨日の午前七時五十五分。第一発見者は、看守の恩田健夫。その直前に、死体はこの軌道を走る機関車に轢《ひ》かれて、首と左ひざが切断されました」  祐子はメモを片手にしていたが、ほとんどそれを見ずにすらすらと言った。 「ふむ、すると」真野原が軌道に乗り出して、仰向けに寝転んだ。「こんなふうに死体が置かれていたのかな」 「だと思われます。そして、首と左脚が飛んだのは——」祐子は横を向いた。「首があそこ」と壁際を指差した。「左脚があそこです」と、さらに逆側の壁際を示した。  二か所ともに、現場検証のチョークの跡があって生々しい。赤黒い血痕も見られる。私はさあっと血の気が引いて、気分が悪くなってきた。 「直接の死因は、後頭部を鉄の棒で殴られたことによる脳挫傷。頭部に何度も殴打された跡がありました。死亡推定時刻は、発見から三十分ほど前とのことです。犯行現場は、そこの道から少し上がったところです」と祐子はわきにあった道の入口を指差した。 「ふむ、じゃあ、ここは死体が置かれたというだけで、直接の殺害場所ではないのですね。そちらを案内してください」 「はい」と祐子が返事をして、移動しようとすると、 「あ、坊ちゃん」  後ろから男が声をかけてきた。「こんなところで、何を?」  男は制服姿の警官を従えて、へらへらと笑っていた。歳は六十は超えているだろうか。 「坊ちゃんはやめろと言ってるだろう」と正一郎が言った。 「へえ、すみません、社長。……こちらさんは?」 「弁護士さんと探偵さんだ。事件を見てもらっている」 「ほう、弁護士に探偵! いやあ、お二人ともお若いですね」 「この男は田子沢《たごさわ》といって、鉱山街にあるデパートの責任者をやってもらっている。時間のあるときに行ってみるがいい」  と正一郎は紹介してくれた。 「はい、来てくださったらサービスしますぜ」  田子沢は愛想笑いをしながら言った。どこか芝居がかっていて、本心の見えにくい男だ。 「お前、こんなところで何をしている?」正一郎が田子沢に聞く。 「いやあ、ちょっと刑事さんに用がありまして……」 「なんだね」  突然、田子沢の後ろから、蓑田警部が声をかけた。 「わ! びっくりするなあ」  と田子沢は、驚きの声を上げた。 「今度はなんだね?」と蓑田警部が田子沢に言う。 「いえね、お願いなんですが、警察官をもうひとりつけてもらえないかと……」 「もうひとりだと? ひとりで十分だろう!」 「だって、こんなひょろっとした男じゃあ……」  田子沢は、従えていた警官をちらと見た。どこか軽蔑するような目線だ。相手の身分や階級によって態度を変える男なのだろう。 「そいつだって、柔道と剣道の有段者だ」  蓑田警部は、部下であるらしい警官を見た。 「いやしかし、ひとりだと、もしこの警官が犯人に不意打ちを食らったら、私は一対一になってしまうじゃあないですか。できれば、もうひとり……」 「駄目だ駄目だ。こっちだって、鉱山の監視だけで手一杯なんだ!」  怒鳴ってから、蓑田警部は歩き出した。二人は「そこを何とか」「駄目駄目」「サービスしますから」「しつこいぞ!」とやり取りをしながら、向こうへと歩いていく。  二人が去ってから、 「あの男は、警官をつけてもらっているのですか?」  と真野原が正一郎に聞いた。 「ああ。私でさえつけてもらってないのにな」正一郎が深く息をついた。 「狙われてるのですか?」 「本人はそう言っている。田子沢は、座吾朗を地下牢へ隔離することを決めた人間のひとりなのだそうだ。やつは、当時、採掘場の責任者だったからな」 「へえ、元は鉱夫だったのですか。座吾朗と顔見知りなのですか」 「ああ、いまでは、座吾朗を知っている数少ないひとりだ」 「しかし——座吾朗は伝染病ということで、同意の下で、地下牢に入っていたのですよね」 「ああ。無理やり説得したと言っていたな」 「けれども、座吾朗は『ここを出てやる』と言っていた。矛盾しています。同意じゃなくて、強制的に隔離したんじゃないですか? 伝染病患者を、周りの人間が強制的に隔離したなんてことは、むかしはよくあったと聞きます」 「それは知らん」 「伝染病って何ですか?」 「結核じゃないのか? 知らん」 「わかりました……しかし強制的だとしても、結核で二十三年間隔離されているというのは、妙ですね。隔離するほどの病状で二十三年間死なずにいたというのも変だし、いまだったら抗生物質で治療することもできるはずです。結核じゃない伝染病ということも考えられますが……。この点について、田子沢さんは、何と言ってますか?」 「まだ生きているとは知らなかったそうだ。もう死んでいると思って忘れていたらしい」 「へえ、そんなことあるんですかね! 田子沢さんと三河正造さんは仲が良かったんですよね?」 「ああ、古い仲だからな」 「それで、知らなかったというのは不自然ですよね」 「私は知らん。……ただ、そこは警察も変だと言っていたな。私も散々聞かれたよ。なんで座吾朗は二十三年間も監禁されていたんだって」 「ふうむ……なぜ座吾朗は、二十三年間監禁されていたのだろう……本当に伝染病だったのだろうか……。それに伝染病が嘘なら、なぜ本当の理由を隠しているのだろう……。座吾朗の存在自体を隠していたからには、後ろめたいこと——あるいは、言えない理由があったはずだ。それが、この事件の急所のひとつのような気がしますね」  真野原は腕を組んで、うーんとうなる。  私たち五人は殺害現場へと移動した。先ほどの場所から小道を上って、階段を一階分ほど上がった場所にある三叉路の近くだ。歩いて一分もかからなかった。  現場には、やはり生々しい血痕が残っていた。 「凶器は、このへんに落ちていました」  祐子が壁際の地面を指差した。 「ふむ……この場所だと、隠れて後ろから殴ることもできるし、顔見知りの犯行かもしれないし……どっちとも言えないな。後頭部を殴られた以外に、死体に何かありましたか? 首を絞めた跡であるとか、格闘した跡など」 「一切ありませんでした。後頭部の滅多打ちです」 「すると、やはり不意打ちか……犯人は誘い出したのかな……凶器は?」 「一メートルほどの鉄パイプです。この鉱山なら、どこにでもあるような棒です」 「犯人の進入経路は?」 「わかっていません。このへんは網の目のように坑道が入り組んでいるので、経路はたくさんあるのです」 「この鉱山自体には誰でも入れるのですか?」 「いえ、入口には警備員がいますから……でも古い入口がいくらでもあるので、入ろうと思えば子どもだって入ることができますね。警察がしらみつぶしに調べていますが、目立った痕跡は何も見つかっていないようです」 「ふむ……あと、死体を轢いた機関車ですが、通る時刻は毎日決まっているのですか?」 「死体を轢いてしまった時刻は、たいてい通るそうです」 「それを知っている人間は?」 「鉱山の人間なら誰でも」 「うーん」真野原は腕を組んだ。「整理すると、こうですね。何者かが前社長をここへ呼び出した。そして後ろから殴って殺し、軌道まで死体を運んだ。そこへ時間どおりに電車が通って、死体が切断された。しかし、犯人が誰かはわからない。きちんと下見さえすれば、外部犯人説もあり得る。もちろん、この鉱山に詳しい人間が怪しいのは確かですが……そんな人間は何百人もいるようですしね。結論を言うと、死体や犯行現場から犯人像はわからないということですか。何というか、この殺人に関しては、探偵の出番はないかもしれませんね。警察が地道に証拠を洗っていくしかない」 「おい、さっきから君は何を言っているのかね? 犯人は座吾朗じゃないのか?」  と正一郎が言った。 「結論はまだ待ってください。事件をなるべく中立的な目で見てみたいのです。……それに、座吾朗が犯人だという決定的な証拠はあがってないのですよね? 指紋とか血とか」  真野原が祐子に聞いた。 「はい」 「じゃ、まだ何とも言えませんね。しかし、それにしても……」  ここで真野原は言葉を切った。 「なんだね?」と正一郎が聞いた。 「誰が犯人にしても、なぜ死体を運んだかというのは謎ですね。運んでいる途中で誰かに見つかる危険はある。犯人の心理からすると、一刻も早く逃げ出すのが自然です。なぜわざわざ死体を運んで、切断させたんだろう?」 「死因を隠したかったからでは?」と私は言った。 「切断したからって、検視を誤魔化せるわけがありません。死因は、死体を視ればすぐにわかります。だとすると、死体に隠したい痕跡があったとか……しかし、切断したから消える痕跡ってあるのかなあ。首を絞めた跡だってわかるし……うーん……ところで、祐子さん」  真野原は祐子を見た。いつの間にか、「羽田野さん」ではなくて「祐子さん」と呼んでいる。 「はい?」 「ずいぶんと現場に詳しいですね。警察しか知らないような情報も混ざっているようですが」 「警察に聞いたのだ。脅しをかけてな」正一郎が口を挟んだ。 「政治力ですか?」 「そうだ。……しかし、いま言ったくらいの話なら、記者でも知ってる情報だよ」 「なるほど。それとも、隠すような情報を持ってないからかな……」 「ああ、そういえば……羽田野君」正一郎は祐子を見た。「死体に残ってたアレがあるだろう」 「あ、はい」 「何ですか?」と真野原が聞く。 「死体の衣服にですね、血の文字が残っていたのです」と祐子が言った。 「血の文字!」  真野原は声を上げた。「どこにですか?」 「作業着の太もものあたりです。指で書かれていました。死体の右手の人差し指に血がついていて、字の太さや指紋の一部が一致していたそうです」 「何と書かれていたのですか?」 「向きの解釈にもよりますが、ひらがなで〈さ〉と」 「〈さ〉! はっはっはっは!」突然、真野原は声を上げて笑った。「ダイイングメッセージですか。これはおもしろい! その一文字だけですか?」 「はい」 「どう書かれていたのでしょう? 死体の顔から見て、〈さ〉と読める向きですか? つまり死体を立たせると、上下逆さの向きになるように……」  真野原は実際に太ももに〈さ〉の文字を書いて見せた。 「はい」 「文字の大きさは?」 「十センチもなかったと聞いてます」 「そうすると、間違った解釈はしにくいのかな……この血の文字のことは、新聞には載ってませんでしたよね」 「はい、口外しないでくれとのことです。わたしたちは現場を見た人間から聞きました」 「ふむ、いわゆる捜査上の秘密ということか。犯人しか知らない秘密として、容疑者を捕まえたときに自白させたいのでしょうね。そうすれば、自白した容疑者が犯人と確定しますから……」 「どうして、衣服に書いたんだろう?」私は真野原に聞いた。 「そりゃ、とっさに紙と万年筆を用意することができなかったからでしょうね」  真野原は微笑しながら言う。 「いや、そうじゃなくて……とっさだったら、地面に書くのが自然かなと」 「地面は湿ってますからね。見てのとおり、上から水滴も落ちてくる。衣服だったら消えにくい、それだけの理由でしょう」 「じゃあ、やっぱり死んだ正造さんが書いたのかな……犯人を告発するために」 「え? あなたは本気で正造さんが書いたと信じているのですか?」  真野原が言った。その言い方に、軽蔑するような印象を受けたので、 「そうじゃないんですか?」  と私が反論すると、真野原は、 「頭から血が出るほど殴られて、軌道のところまで移動させられて、目が覚めて、衣服に血で文字を書いて、力尽きた……と。血で文字を書くくらいなら、電車の軌道から避けようとするのが自然じゃないですか?」 「いや、軌道まで移動させられる前に、衣服に書いたとも考えられますよね」と私は言う。 「そっちのほうが不自然ですね。血が出るほど殴られたあと、目が覚めて、犯人に気づかれないように血で文字を書いた。その後、犯人に移動させられたけど、犯人は現場を去るまでその血の文字に気づかなかった——そういうことになりますね。だったら、殺した犯人と移動させた人間が別と考えたほうが、まだ納得できます。殴られたあと、血で文字を書いたが、力尽きて死んでしまった。その後、別の人間が移動させた——しかし、それだと死体を移動させた理由がわからないし、ちょっと物事を複雑に考えすぎのような気がします。ぼくは、ダイイングメッセージなんて、基本的に信じませんね。よほど状況が整わないと」 「すると、犯人がその血の文字を書いたと?」 「その可能性が高いと思います。まあ、まだ何とも言えませんが……被害者が書いた可能性もわずかにあるし、被害者や犯人以外の人間が書いた可能性もゼロじゃない」 「じゃあ、犯人が書いたのなら、どうして血の文字で? それこそ、紙に万年筆で書いてもいい」  と私は真野原にたずねた。 「紙や万年筆は、入手経路から足のつく可能性がありますからね。だったら、血で文字を書いたほうがお手軽です。……しかし、殿島さんの指摘は鋭いかもしれない。もっと別の理由があるのかもしれませんね」 「理由って?」 「さあ、それは何でしょうねえ」  真野原は微笑んだ。どうもこの探偵は、隠し事をする性格のようだ。 「理由といえば」祐子が口を開いた。「犯人はなぜ〈さ〉の文字を残したのでしょう?」 「そこですね、問題は」真野原は答えた。「何かを誰かに伝えたかったのでしょうが、いったい誰に伝えたかったのか? 何を伝えたかったのか? 〈さ〉の意味とは? そして、なぜこんな方法を採ったのか? これは謎ですねえ、おもしろくなってきました! これは警察じゃなくて、探偵の出番かもしれません!」  真野原は、にっこりと笑った。 「おい、おもしろがるのもいいけど、ぼくらの仕事は社長の無罪を証明することで……」  私は正一郎の顔を見ながら、真野原に言った。 「ええ、もちろんそうですが、ようするに犯人を捕まえればいいのですよね。そうしたら、この鉱山街も安泰です。そうでしょう?」 「確かに、それができるのなら、一番いいな」と正一郎は言った。 「あるいは、犯人の逮捕は警察に任せるとして、ぼくらは真相を解き明かすだけでもいい。血文字の謎なんて、警察には不向きの謎かもしれない。頭脳を駆使する探偵の出番です。……ところで、祐子さん。この件について、警察はどう考えてますか?」 「被害者が書いたという説と、犯人が書いたという説、両方の線で調べを進めているみたいです。�さ�のつく人間を調べたり、そういう地名や事柄がないか聞き込みをしたり……」 「両方か……まあ、警察ならそうするでしょうね」 「警察がどうかしたかね?」  後ろから男の声が聞こえた。見ると蓑田警部が立っている。 「三河さん」蓑田は正一郎に言った。「聞きたいことがあります。来てくれませんか」 「あ、ああ……羽田野君、あとは任せたよ」  正一郎は蓑田警部とともに歩きはじめる。去り際、真野原が、 「警部さん、田子沢さんが言うように、もっと彼の警備を手厚くしたほうがいいと思いますよ!」  と声をかけた。すると、蓑田警部が肩を怒らせながら近づいてきて、 「お前に言われる筋合いはない! いいか、調べるのは自由だが、地下牢には絶対に入るんじゃないぞ。あそこは立入禁止だ。用が済んだら、さっさと帰るんだ!」  と唾を飛ばしそうな勢いで、真野原に怒鳴った。 「洋平さんは、何度か地下牢へ行ったことがあるのですよね」  二人が去ってから、真野原が洋平に聞いた。 「うん」 「何回ほど?」 「ええと、牢屋の改修工事で一回、あとは恩田さんの手伝いで食事を運んだことが何度か……」 「他に地下牢や座吾朗さんの存在を知ってるのは、何人いますか?」 「んと……おれ、恩田さん、奥さんの令子さん、社長、医者、工事を手伝った支柱夫が三人……」 「四場浦デパート店長の田子沢さんも入れて九人か。令子さんもよく地下牢へ行くのですか?」 「むかしから、食事を運ぶのを手伝ってたようなことを言ってたけど」 「そうか……ぜひ令子さんにも話を聞いてみたいな……ところで、死体が発見されたときには、洋平さんもいたのですよね」 「うん」と洋平はうなずいた。 「死体発見直後のことを、詳しく話してもらえますか?」 「ここで?」  私たちは、まだ殺害現場に四人で立っていた。 「はい、合理的に、さっさといきましょう。……ええと、死体の現場にいく直前、洋平さんは何をやっていたのですか?」 「ええと」洋平は語り出す。「おれはそのとき、いつものように、ひとりで作業をしてた。場所は死体の見つかった七番坑の近くだ。すると、ドッカーンって大きな音が聞こえたんだ。行ってみると、すごい煙の中で、『誰かいないか!』って恩田さんが叫んでる。……うん、死体は見たよ。血の文字にも気がついた。目立つ位置にあったから……。んで、すぐに、音を聞きつけた鉱夫が何人かやってきた。五、六人はいたかなあ。そのうちの誰かが、『警察に!』と言ったんだけど、恩田さんが『待て!』と止めたんだ」 「止めた? なぜ?」 「これは、おれと坂崎《さかざき》さんだけに教えてくれたんだけど——ああ、坂崎さんというのは、地下牢の改修工事に参加した工夫だ——恩田さんは『座吾朗がいないんだ。見に行くからついてきてくれ』と耳打ちしてきた」 「なるほど。できるなら、座吾朗のことを秘密にしたかったのですね。座吾朗がもし出ていなかったら、秘密のままで、そのあとに策を考えようとしていたのでしょうね。……で、その後は?」 「それで、その場にいた者を無理やり説得してから、地下牢へ向かった」 「何人で?」 「おれと恩田さんと坂崎さんの三人だ。んで、三人で地下牢に着いて、中を確かめたんだけど、座吾朗はいなかった。だから、恩田さんが『開けて確かめよう』ってことで、扉を開ける道具を取りにいった」 「取りにいったのは誰ですか?」 「坂崎さん」 「なるほど、あなたと恩田さんの二人が残ったのですね。そのあとは?」 「溶接したところを溶かす道具を使って、扉を開けたのだけど……やっぱり座吾朗はいなかった」 「ちゃんと、牢屋の隅々まで捜したのですか? 何か巧妙なトリックを使って隠れているというのは、よくあることです」 「恩田さんが念入りに地面や天井まで調べてたけど、『何もない』って言ってたよ。真っ青な顔して言ってた」 「何か、怪しい痕跡は? 細工した跡はありませんでしたか? どんなに細かいことでもいいんです」 「うーん、三人で調べたけど、おれは気づかなかったなあ。みんな『何もない』って言ってた」 「恩田さんも?」 「うん。『こんなことあり得ない』って」 「座吾朗は前日まで確かにこの牢屋にいたんですよね?」 「恩田さんはそう言ってたよ」 「見たのですか?」 「と思うけど……あとは本人に聞いて」と洋平は言った。すると祐子が、 「恩田によると、前日の午後七時に夕食の食器を片づけに来たとき、座吾朗は自分の手で食器を恩田に渡したそうです」と口を挟んだ。 「ふむ、すると、翌朝の午前七時ごろに恩田さんが牢屋を確認したわけだから、その十二時間の間に座吾朗は脱獄したのですね。……洋平さん、その後は? 牢屋を調べたあとは?」 「警察を呼びにいった。んで、警察が来た」 「ええと、確認ですが、警察を呼びに行くときも、誰かが地下牢に残ったのですよね」 「うん。おれと恩田さんが残って、坂崎さんが呼びにいった」 「恩田さんが怪しい行動をしたことはありませんでしたか?」 「いや、別に」 「その後は?」 「駐在さんが来て、あとはぞろぞろと……」 「ふうむ……わかりました。牢屋を開けたあとは、必ず二人の人間がいたのですね。その後、警察が来たと……開けたあとに入れ替わるとか、牢屋のどこかに巧妙に隠れていたというトリックは無理ですね。やっぱり地下牢を見ないと、何とも言えないな……行きましょう。洋平さん、案内してください」  真野原は現場から離れようとする。 「え……?」  私たちは呆気に取られる。 「さあ、行きましょう。時間がもったいない」と真野原は言った。 「地下牢へ?」 「当然です。現場を見なければ、調査ができません」 「蓑田警部は、『絶対に入るな』と言っていたよな……」 「言ってましたね。それだけ捜査に重要だということです」 「警察に……喧嘩を売る気か?」 「なあに気にすることはありません。刑事と探偵の仲が悪いのは、いつものことです。たとえるならストリップショーの客と踊り子の関係のようなもので、常に、見たい者と見せたくない者のせめぎあいだ。仲が良かったら、逆に気持ち悪い。さ、行きましょう」  真野原はにこにこしながら言った。 「でも……」 「だいじょうぶですよ! ぼくは探偵です。こんな修羅場、何度もくぐってきました。何とかなります」  と言って、真野原はさっさと歩き出す。  しばらく歩くと、崖のような場所にたどり着いた。大きな亀裂があって、底に向かって降りるための金属製の梯子《はしご》がかけられている。高さは三十メートルくらいあるだろうか。高所恐怖症の私は、降りるのにずいぶんと苦労した。  そして谷を降りて少し歩いたところに、広さ十畳ほどの空間があった。奥にはぽっかりと大小二つの入口があって、さらに奥へと続いている。大きな入口のほうには、開いた鉄の扉が備え付けられていて、扉の手前にはロープが張られている。 「こちらの大きいほうが、座吾朗が閉じ込められていた牢屋?」  真野原が洋平に確認した。 「うん」 「こちらの小さいほうは?」 「むかし使われてた牢屋のようだな。けど、中には入ったことがないから、知らねえよ」 「なるほど。では、まずは外から調べましょう」  真野原は鞄を開けた。そして中から義手の一個を取り出して、左手に付け替えた。カチャンと心地よい音がした。 「これは、調査用の義手です!」  真野原は私たちを見て、にっと笑った。見ると、義手には折りたたんだ状態の虫眼鏡やら鉤手《かぎて》やらナイフなどがついている。まるで、舶来物の多機能便利ナイフのようだ。  牢屋の外は岩の壁に囲まれた空間で、木製の机と椅子が一組置いてある。真野原は義手を使って、調査しはじめた。 「机の中は何もなし……壁や地面にも怪しいところはなし……本当はもっと慎重に調べたいけど、時間がない。早くしないと、警官が来ます。牢屋の中を調べましょう」  真野原はロープを越えて、牢屋の中に入ろうとする。 「おい、いいのか? 立入禁止と言ってたよな……」私は言う。 「だいじょうぶ、事件があったのは、おとといですよね。指紋や足跡の採取など、さすがに重要な部分は調べ終わってると思いますよ。でないと、天井や壁から水が染み出してきてるから、全部なくなってしまいます。ぼくたちは、警察のおこぼれを調査するのです」 「別に、立入禁止が解けてからでもいいんじゃないか?」 「それはまずいです。ぐずぐずしてると、次の殺人が起こるかもしれません」 「次の殺人? 起こるのか? 閉じ込めていた張本人を殺せば、満足なんじゃないのか?」 「そうとは思えませんね」 「なぜ?」 「いろいろ理由はありますが、一番はあの〈さ〉という血の文字です。もしあの文字が犯人のメッセージだとすると、一文字で終わるとは考えにくい。続けて殺人を犯して、〈さ〉に続く文字を残して、メッセージを完成させる可能性が高い。つまり連続殺人です。……さ、急ぎましょう」  真野原は牢屋へと入っていく。  牢屋の中には電気が通っていなかったので、洋平がランプに火をともしてくれた。 「意外と狭いですね」  真野原は牢屋の内部を見渡して言った。広さは六畳ほどだろうか。他の場所と同じように、全面が岩に囲まれている。天井や壁からは水が染み出していて、時おり、ポタポタと音を立てている。地面はぬかるんでいて、注意しないとすべって転びそうだ。 「じゃ、まずは扉から」  真野原は薄い手袋を鞄から取り出し、右手につけて、牢屋の鉄の扉を調べはじめた。厚さ三センチほどの、鉄の板一枚の立派な扉だ。 「あっはっは、これはまた、ずいぶんと頑丈に溶接されていたのですね。ご丁寧に、隙間がすべて埋められていたのですか」  真野原がうれしそうに言った。彼の言うとおり、扉の四辺全体に一度溶接された跡があって、さらにそれが溶かされた跡もある。一昨日扉を開けたときに、溶接した部分を溶かしたのだろう。 「これじゃあ、隙間やら、扉の性質を生かしたトリックなんて不可能だなあ。……この穴が、食事や水を入れる穴ですか?」  真野原が、扉の中央付近にある四角の穴を指差した。 「うん」と洋平が答えた。  穴は、横二十センチ、縦十センチくらいの大きさで、上辺に蝶番《ちょうつがい》がついていて、下から上へと開くような開き戸が取り付けられている。 「頭さえも通らないな。これだと、脱出するどころか、五体を切断しても出るのは不可能だ。しかし、こんなに小さな穴から、食事を入れていたのですか? これだと、食事を入れるのも苦労しますよね」  真野原が洋平に聞いた。 「一か月前の工事のときに、この扉に替えたからね。以前はもっと大きかったよ」 「ああ、そうか、そんなことを言ってましたね。この穴は鍵はかけられてないのですか?」 「そのようですね」と祐子が答えた。 「ふむ……しかし、この大きさだとな……おや、これはなんだ?」  真野原は、義手から虫眼鏡をスライドさせて、穴を拡大して見た。後ろからレンズを覗《のぞ》き見ると、穴の下の部分に小さな木のくずが付着している。 「木のくず?」と私は言った。 「ええ、木の棒でこすったような跡ですね。……これは、警察の鑑識がつけたんじゃないよなあ。よし、回収」  真野原は義手に虫眼鏡を折りたたんで、今度はヘラのようなものをスライドさせて出した。そして、鞄から取り出した蝋紙へ、ヘラでカリカリと証拠を回収しはじめた。 「おい……いいのか。現場を荒らしても……」私は言った。 「もちろん警察の分も残しておきますよ。ほんの少しだけです。急ぐから仕方ないのです」  真野原はいかにも苦しそうな言い訳をしたが、目は輝いていて、楽しそうだ。 「終わり! 次!」  と言って、真野原は立ち上がりながら、義手から飛び出たヘラをカチャンと折りたたんだ。そしてすかさず、虫眼鏡をスライドさせた。器用なものだ。  彼は這いつくばって、扉の内側の地面を調べはじめた。 「うーん、何もないな……」真野原は立ち上がってから、牢屋の内部を見渡し、「あれは……便所ですか?」と洋平に聞いた。 「んだ」洋平はうなずいた。  真野原が指差した先には、人ひとりがすっぽりと収まりそうな緩《ゆる》やかな窪《くぼ》みがあって、その端付近に直径二十センチほどの穴がある。便所といっても、地面に穴が開いただけの原始的なものらしい。真野原はその場所に近づいて、しゃがみ込んだ。 「便所にしては、あまり臭いませんね……。ああ、なるほど、地面全体が緩やかに傾斜していて、天井から落ちてきた水がすべて、ここに流れるようになっているのですね。これはよく考えられていますね。天然の水洗便所だ」  と言って、真野原は窪みに這いつくばって、穴を覗きはじめた。 「はて、凸凹と曲がりくねった穴ですね……太さは一定してないし、奥も全く見えない。これ、人間が掘った穴じゃないですね?」 「知らね」と洋平が言った。 「この鉱山には、こういった自然の穴がたくさんあるのです。最初は細い水の通り道だったのが、何年もかけて水や空気で浸食されていって、徐々に太くなっていくそうです」  と祐子が答えた。 「なるほど、鍾乳洞と同じ原理ですね。ここの穴はどこに通じてるんでしょう?」 「恩田によると、この場所の二十メートルくらい下に、大きな空洞があるそうです」 「へえ、天然の水洗便所だけじゃなくて、天然の肥溜《こえだ》めもあるのですか」 「鉱山のお手洗いは、ほとんどそうですよ。天然の空洞がたくさんあるので、みんなそこへ溜め込んでいます」 「くみ出さないのですか?」 「ええ。何百年溜め込んでも、いっぱいにならないくらいの広さがありますから」 「その場所にはどうやって行くのでしょう?」 「いったん上にもどってから、ふたたび降りなければなりません」 「その場所へは、誰でも出入りできるのですか?」 「はい、できます」 「その場所を警察は知っていますか?」 「はい、話しましたよ」 「警察は調べてましたか?」 「さあ、そこまでは」 「うーん、どう見てもこの穴から人間が出るのは無理だしなあ。警察は調べてないかもな……」  真野原は立ち上がった。「ん? あそこにも穴がありますね」  頭上ほどの高さに、また直径二十センチくらいの穴があった。 「それは空気穴ですね」祐子が言った。 「ふむ……これも凸凹して曲がりくねっている。自然の穴ですね。しかし、便所の穴といい、都合よく自然の穴が二つあるものだ」 「逆じゃないかと思います」と祐子は言う。「空気穴と、水が排出される穴というのは、鉱山で生きていくために、もっとも重要な要素なのです。言ってみれば、生命を維持するための穴ですね。鉱山での事故というのは、だいたい落盤、浸水、ガス中毒の三つですから、いかにそれらから逃れるかというのが、鉱山で仕事をする上での重要な点です。ですから、支柱夫と呼ばれる坑道を整備する人間が、鉱夫と同じくらいの身分で、重用されるのです。それに、牢屋のようにずっと生活する場合は、お手洗いも必須ですね」 「なるほど。偶然二つの穴があったのではなくて、こういう穴が二つある場所に、地下牢をつくったということですね。……そうか、しかも、人工的につくった穴よりも、自然にできた穴のほうが堅固ですね。牢屋には打ってつけだ。言ってみれば、天然の密室です」 「はい。それに、むかしの資料を調べると、ここは、この場所から先で作業をするための休憩所のような役割をしていたようです。現在、その坑道は埋められてますが」 「ほう。その穴はどこに?」 「隣の牢屋です」 「そうか……。ところで、この空気穴はどこへ通じてるのでしょう?」 「ええと、隣の九番坑の倉庫に通じているようですね」 「それは、やっぱりいったん上に出てから行く場所ですか?」 「はい」 「鍵がなくては行けない場所ですか?」 「いえ、九番坑ですから、なくても行けます」 「ふむ……すると、この地下牢はずいぶん奥にあるように思えますが、物理的には案外いろいろな場所に近いのですね」 「ええ。この区域は、地盤のやわらかいところが限られてますからね。自然と坑道も固まってしまうようです」 「……しかしいくら物理的に近くても、人間の頭ひとつも通れないんだったら、仕方ないよなあ」 「隣の牢屋は? 隣の牢屋に仕掛けがあるとか……」私は言った。 「そうですね。行ってみましょう」  隣の牢屋には、鉄格子の扉がついていた。 「こっちは鉄格子なのですね。こっちなら扉を開けるトリックがありそうだけどなあ」  扉は全面が鉄格子になっていて、さらに中央付近に、食事を出し入れするらしい小さな鉄格子の開き戸がついている。鉄格子も鍵穴も錆《さ》びていて、最近使われていた様子はない。 「こちらの牢屋は使われていないのですか?」  と真野原が祐子に聞く。 「ええ、ずっと使われていないようです」 「隣との壁の厚みは……一メートルくらいかな。うーん、見たところ、隣の牢屋と通じている場所はなさそうですね。……あ、むかし坑道の入口だった場所は、あそこですか?」  真野原が反対側の壁を指差した。壁に、人間がひとり通ることができそうな大きさの埋められた穴の跡がある。隣の牢屋とは逆側なので関係なさそうだが——。 「はい」 「……念入りに埋められてますね。この先はどうなっているのですか?」 「さあ知りません。ここが埋められたのは明治時代らしいですから、関係ないと思いますが……」 「そうですか……見たところ、確かに最近埋められたようではないですね……うーん、こっちは関係ないのかな……もどりましょう」  我々は、座吾朗の牢屋にもどった。 「さて、いまのところ判明しているのは、牢屋と外界をつなぐのは三か所だけ。扉と便所の穴と空気穴……そのうち扉は溶接されていたから、食事を入れる穴しかない。しかし、三つの穴はすべて、頭さえも通らない小さな穴か……」  そう言って、真野原は空気穴のほうを見た。 「あの穴を調べます。……洋平さん、悪いですが、あそこで四つん這いになってくれませんか? 上に乗らせてもらって、穴を調査したいのです」 「うん、いいよ」  洋平が空気穴の前で四つん這いになると、真野原が彼の背中の上に靴を脱いで上った。そしてランプを持った右手を穴へ突っ込んだ。 「うーん、曲がりくねっているから、さっぱり奥が見えないな……。それにやっぱり小さい。チンパンジーでさえも通るのは無理だ。……おや? あれはなんだ?」 「ん? どうした?」と私が聞く。 「岩に何かこびり付いているのだけど……駄目だ、届かない」  真野原は洋平の背中から下りた。そして鞄を開いて、新たな義手を取り出し、 「魔法の左手です!」  と天井に向かって、かざした。真野原はそれを器用に付け替える。 「ほら、すごいでしょう!」  真野原が義手の根元についていたレバーを操作すると、多関節の腕がするすると伸びた。 「これがあると、高いところにある小枝を切り落とせたりもするのですよ! 一家にひとつあると、とても便利です!」  と彼は自慢げに見せびらかした。腕は生きているかのようにくねくねと動く。幼いころ浅草で見たからくり人形のようだ。 「では、洋平さん、再度失礼」彼は洋平の背中に乗った。そして五分ほど「うーん」「うまくいかないですね」「あ、向きを変えればいいのか」とやったあと、 「取れた! 取れましたよ!」  と義手を引き寄せて、手先についていた物体を右手で受け取った。真野原は洋平から下りて、ランプでその物体を照らした。岩の破片に、何か黒っぽい物質が付着している。 「ゴム……のようですね。何かわかりますか?」と真野原が質問した。 「いえ……知りません」祐子は首を振った。 「この穴の先は、倉庫でしたか」 「はい、九番坑の倉庫です」 「うーん、そっちの穴から入って、空気で押し流されてきたのかな……」  真野原は腕を組んで、地面を見つめた。 「まあいい、あとで調べましょう。次は便所を調べます!」  真野原は黒い破片を蝋紙に包んでから、便所の穴に向かう。そして同じようにランプで穴を覗きはじめる。職業とはいえ、全く躊躇《ちゅうちょ》せずにああやって地面を舐《な》めるように這いつくばるのだから、恐れ入る。 「おや、これは何だろう」 「何か?」  私もしゃがみ込んで、真野原が見ている箇所《かしょ》を明かりで照らした。 「ほら、これ」  真野原は便所の窪みを指した。「何本もの筋があります。これは……ホウキで掃いた跡かな?」 「ホウキ?」 「いや、地面に傷がつくくらいだから、固いブラシかな……洋平さん」真野原は洋平に声をかけた。「この跡が何かわかりますか?」 「うーん、知らないな……」 「扉をこじ開けた直後に、この跡はありましたか?」 「さあ……気づかなかったよ」 「祐子さん、警察は何か言っていましたか?」と真野原は祐子を見る。 「いえ、聞いてません……」 「そうですか。……うーん、それにしてもおかしいですね」と真野原は言った。 「何が?」と私は聞く。 「ふつう便所というと、糞が飛び散りますよね。どんなに天然の水洗便所といっても、少しくらいは糞の破片が岩にこびり付いているはずです。それが、さっぱり見つからない。どんなに臭いを嗅いでも、尿素臭さえ全くしない。いくらなんでも不自然です」 「どういうことだ?」 「……ほら、このあたり」真野原は窪みの端のほうを指差した。「ホウキの跡のあるところと他の場所で、岩の色が変わっています。これはつまりホウキで強くこすって掃除をしたということです。しかも表面の状態から察して、長く見積もっても一か月以内でしょうね」 「警察が掃除したんじゃないのか?」 「捜査中だから、そんなことはあり得ませんね」 「じゃあ、誰が? 何のために?」  私は聞いたが、真野原は返事をせず、 「……ん? これは何だ?」  とつぶやいた。そして彼は身体を起こしてから、 「ほら」  と指を私たちに見せた。二ミリほどの黒い破片だった。 「……これは?」 「糞ではありませんね」真野原は、くんくんと臭いを嗅いでから言った。「これもゴムのようです。しかも少々コゲ臭い」 「ゴム? コゲ臭い? なぜだ?」  しかし、真野原はまた答えず、厳しい表情でその破片を蝋紙で包んでから、 「ん? あれは何だろう?」  と天井をランプで照らしながら、言った。  暗くてよく見えないが、穴が開いている。いびつな形の穴だから、あれも天然の穴だろうか。人間がひとり入れそうなくらいの大きさだ。 「よく見えないな……洋平さん、肩車してもらえますか」  真野原が洋平の肩に乗って、ランプで照らす。 「穴は行き止まりのようですね。しかし、暗くて奥まで見えません。梯子がないと無理かな……」 「でも、肩車して届かないような場所なら、座吾朗がそこから出たということはないのでは?」  祐子が真野原に言った。天井は高さ四メートル近くある。 「そうですね……壁はつるっとして登れそうにもないし、壁から登ったとしても、穴は壁から離れている。かといって、梯子のように登る手段もない……」 「ええと、ちょっといいか?」私は口を挟んだ。 「はい?」 「確かに、どうやって座吾朗がここを出たかは不思議だけど、事件と関係あるのか? 別に、どう出たかといっても……」 「鋭いですね」真野原はうなずいた。「おっしゃるとおり、たとえ座吾朗が殺人犯であっても、そうでなくても、�どうやって出たか�は殺人事件とは直接関係ないかもしれません。現在どこにいるのかということも無関係に見えます。出た方法なんて、捕まえたあとに本人に聞けばいいだけの話じゃないか——というご意見ですね。しかし……」  真野原は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。 「何でしょう?」と祐子が聞いた。 「しかしですね」真野原が口を開いた。「ぼくは、ここを出た方法こそが、この事件——そしてこれから起こる事件を象徴している気がしてならないんです」 「象徴? どういうことですか?」 「うーん、なんというか……勘ですけどね。しかし、あえて説明するなら、なぜここまで脱出した形跡が見つからないのか? ——という違和感がありますね」 「違和感……」 「はい。たとえば、脱獄する立場になって考えてみれば、どうやって脱獄したのかが知られても、不利益はないわけです。殺人事件と違って、証明する必要はない。牢屋がぶち破られた跡があっても、別にいい。普通はそうです。しかし、今回の脱獄を見るかぎり、徹底的に手がかりが見つからない。これはなぜなのか? 言い換えれば、�なぜ謎が存在するのだろう�という謎ですね。座吾朗は脱獄方法を隠して、どんな利益があったのでしょう?」  言われてみれば確かにそうだ。なぜだろう——。 「それが座吾朗を捕まえる鍵になると?」 「そうですね。もっと言えば未来の犯罪を防ぐ手がかりになるかもしれない。……しかし、個人の調査じゃあこれが限界だ。あとは警察に任せるしかないかもしれない……」  そう真野原が言い終えると同時に、牢屋の外に人の気配がした。 「ああ、もう時間のようですね」  と真野原は残念そうに言った。 「おいっ! お前っ!」  蓑田警部は牢屋に入ってくるなり、叫んだ。  後ろには二人の制服警官のほかに、三河正一郎も立っており、彼らは呆れたような顔つきで私たちを見ている。 「な、何をそ……こで……」薄暗い中、こめかみがぴくぴく震えているのがわかる。「この、馬鹿は、阿呆野郎で……」怒りで言葉になっていなかった。 「そこ、そこです!」  と真野原が警部の足元を指差して叫んだ。牢屋の入口の地面だ。「そこを踏むときは、注意してください!」 「あん?」と警部が聞き返す。 「食事を入れる穴の前です。手がかりが残っているかもしれませんよ! あとでルミノールで調べてみてください。血痕が出るかもしれません!」 「……」  警部の顔が見る見るうちに紅潮していく。 「あとは、空気穴の先の倉庫と、便所の肥溜めもよく調べておいてください。あそこにも手がかりが残っている可能性が大です。それとあそこ!」真野原は天井を指差した。「あの穴も、よく調べておいてください! そして、これ!」真野原は、三つの蝋紙を警部に差し出した。「これらも重要な手がかりです! これは食事の穴、こっちは便所の周り、そしてこれは空気穴の奥から見つかりました! 成分を分析して、入手経路を調べてください。あとは時間との勝負です!」  真野原は、蝋紙の包みを警部に押し付けた。 「この……お前、何様のつもりで……」  蓑田警部は震えた手つきで包みを握りしめ、いよいよ爆発かと思ったところで、 「警部!」  牢屋の外から声がかかった。別の警官が駆けつけたようだ。 「なんだっ!」と警部は部下を睨む。 「警部に会いたいという人間が……」 「あとだっ! あとにしろ!」 「どうしても、すぐに会わせろと……」  警官が言うと、後ろから、 「そうです、緊急です」  と白い背広を着た若い男が現れた。 「誰だ、お前は?」  蓑田警部が問うと、男は微笑を口元に浮かべて、白い帽子に手をやり、 「はじめまして。探偵の荒城咲之助です」  と気取ったふうに一礼した。           4 「こ、荒城!?」  その場にいた全員が、男と真野原を交互に見た。  荒城と名乗った男は白い背広に白い革靴、そして白い帽子をかぶっていた。右手にはステッキを持っている。襟元には薄紫のシャツが見えていて、まるで闇市を徘徊する近代的なチンピラのようだ。年齢は二十代後半に見えるが、愚連隊の成れの果てといっても違和感がない。 「ふん、お前か」  白い服の男は、落ち着いた口調で真野原に言った。 「お久しぶりです。二年ぶりですかね」  と真野原は笑顔で言った。白と黒が向かい合っている。 「せ、説明しろ! どういうことだ?」  蓑田警部はいきり立った。 「いま言ったとおりです」男は真野原のほうを見た。「そいつは偽者ですよ」 「はあ?」 「ぼくが雑誌に写真を載せないのをいいことに、そいつはぼくの名を騙《かた》ったのです」 「なんでだ!?」 「それは、そいつに聞いてください」  荒城は、はあとため息をついた。 「推理です!」と真野原は言った。「ぼくは、この事件のことをきのうの朝刊で読んで、『こりゃおもしろそうだ』と思い、すぐに東北線に乗って、ここまでやってきました。しかし来たはいいものの、鉱山は私有地ですからね。しかも捜査中です。どうやって入ろうかと悩んだのですが、そこでふと思いついたのです。荒城さんのことを」真野原は荒城を見た。「ぼくは『ああ、荒城さんだったら、こんなにおもしろそうな事件を放っておくはずがない。きっと来るだろうな』と想像しました。試しに荒城さんに電話してみたら、出かけて不在だという」 「事務所に電話してきたのはお前だったのか……」  荒城が肩を落とした。 「そこで、イチかバチか鉱山に電話してみたら、女性が出て『ああ、もうお着きですか。助手さんは来られてますよ』と言うではないですか」  と真野原が言うと、祐子が、 「すみません、それ、わたしです……」  と正一郎に謝った。 「これは天佑だと思いましたね! 荒城さんは興味を持って来るどころか、調査を依頼されているではないですか。この絶好の機会を逃すわけにはいきません。正義のためなら、多少の嘘も許されます。敵を騙す前に味方からです! そう思いませんか?」  真野原は問いかけた。  この場合味方を騙してどうなるのかはさておき、昼過ぎに来ると言っていたのに早く到着したのは、こういうことだったのか——と私はがっくりと来た。まんまと私たちは騙されたわけだ。 「すると、東北線でぼくに話しかけてきたのは……?」  私は真野原に聞いた。 「もちろん偶然じゃありませんよ。どうやってこの鉱山に乗り込むか悩んでいたぼくは、列車で四場浦鉱山の資料を見ていたあなたを見つけて、挨拶しておこうと思ったのです。鉱山で再会したとき、話しかけやすいようにね。財布も申しわけありませんが、すらせてもらいました。もちろん柱時計を差し上げたのも恩を売るためです」  と真野原は答えた。そんなことのために、私はあの長々とした演説を聞かされて、柱時計を押し付けられたのか——私はため息をついた。 「お前は何者だ?」と正一郎がたずねた。 「もちろん探偵ですよ! しかし、考えてみればこれはいい機会じゃないですか。探偵ふたりの豪華競演です。ルパン対ホームズ……いや、ホームズ対明智小五郎です。ホームズがどちらかは、みなさんに決めてもらっても結構ですよ!」 「逮捕だ!」蓑田警部が真野原の言葉を遮《さえぎ》った。「逮捕だ! 逮捕だ!」連呼した。「おい、こいつを連れていけ! ぶち込んでおけ!」と部下たちに言った。  結局、私たちは地下牢から追い払われてしまった。 「あいつは何者なんだね?」  坑道を歩きながら、正一郎が荒城に聞いた。 「学生です。前に会ったときが一年生か二年生だったので、まだ学生だと思います」  と荒城が答える。すると二十七歳というのも大嘘で、私よりも年下の可能性が高い。 「探偵と言っていたが……」 「まあ、自称探偵の類ですね。いくつかの事件に顔を突っ込んではいるようですが、金をもらって調査しているわけではないようです」 「どこで知り合ったのかね?」 「ある事件のとき、一度会っただけです」 「どんな事件で?」と私が聞く。 「いや、それがいろいろありまして……」荒城は言葉を濁してから、「ああ、君は助手だったね」と私に言った。「今後ともよろしく。�です・ます�はいらないよ。君とは対等なパートナーだ。合理的にいきたい」荒城は立ち止まって、握手を求めてきた。「普段ぼくの助手をやってくれている者が入院していてな。助かるよ」  荒城の手は、骨っぽくて力強かった。そして遅ればせながら、お互い自己紹介をした。 「ええと、荒城というのは、本名ではないのかい?」  私は質問した。初対面の年上相手に丁寧語を使わないのは、何となくやりにくい。 「ああ、通り名だよ。本名を出すと、何かと面倒だからね。本名は一部の者しか知らない」  荒城は言った。考えてみれば、通り名を使うのなら本名を隠すのが自然なわけで、本名をべらべら喋る真野原のほうが怪しかったということだ。 「いつも、そのような恰好を?」  祐子が聞いた。全身白ずくめの恰好は、確かによく目立つ。 「はい、そうですね。事件によってですが、今回のような場合、これが結構効くのです」 「へえ、効くとは?」 「犯人への威圧ですよ。これでもぼくは名を知られているから、探偵・荒城咲之助が来たとなれば、犯人もやりにくいでしょう。目立つほどいいのです。犯人の動きを牽制して、未来の事件を少しでも防げればと思いましてね」 「これから……まだ殺人は起こるのですか?」 「さあ、わかりません。しかし、警戒はしたほうがいいでしょうね」と荒城は言った。  私は彼の落ち着いた眼差しを見て、「ああ、真野原よりもまともかな」と一度は安心したが、気になったのは、荒城がしきりに祐子に対して言い寄っていたことだった。祐子に「独身ですか」と聞いて、「はい」という返事を得た瞬間、荒城は水を得た魚のように「なぜですか」「あなたのように美しい方が」としつこく質問をしていた。それに対して、祐子は「縁がありませんでしたので」と笑顔で答えていた。雑誌で「名探偵・荒城咲之助と○○令嬢とのロマンス!」などという記事があったが、あながち嘘ではないようだ。  私は荒城のうれしそうな横顔を見ながら、この調子で本当に事件を解決できるのか——雑誌に書いてあった活躍はでたらめで、じつは見たままの、単なる女たらしではないか——と、また不安になってくる。本当にこの男が、あの難解で複雑な「肖像画殺人事件」や「六門塔事件」を解決したのだろうか? こいつも偽者ではないかとつい疑ってしまう。 「食事の穴に、便所の穴に、空気穴に、天井の穴か——」  荒城は事件の概要を聞いたあと、空気穴の先の倉庫や、便所の空洞を見たがっていたが、両方とも警察が調査中らしく、しばらく立入禁止になるとのことだった。どうやら蓑田警部は、真野原の「空気穴の先と、便所の肥溜めもよく調べておいてください」という言葉を聞いて、本気で調べる気になったようだ。  そこで私たちは鉱山を出て、昼食をとることになった。私たちの昼食は、三恵子が支度して食べさせてくれるらしい。祐子たちと別れて事務所を出ると、玄関の前に三恵子が待っていて、「アラ、探偵さんは?」と言った。 「いや、それが……」  私が説明すると、 「マア! 偽者ですって!」  と三恵子は大きな声を上げた。  そして三恵子は、荒城と挨拶を交わしたあと、「本物の探偵さんは恰好良いですわねえ」と言った。確かに荒城咲之助は、雑誌でロマンスを採り上げられるのが不思議でないくらい美形で、秀麗だった。逞《たくま》しくて、なおかつ中性的で線の細い部類の二枚目だ。だいたい白い背広に白い帽子が似合うなんて、日本人にしてはたいへん珍しい。  そしてそのとき、ちょうど事務所から洋平が出てきたので、三恵子は「いっしょに来る?」と声をかけた。結局、三恵子、荒城、洋平、私の四人で三恵子の自宅へと行くことになった。  道すがら、三恵子は盛んに「荒城さんは有名な探偵さんなのですか?」とか「探偵さんってお金持ち?」などと荒城に声をかけていた。やっぱり彼女は誰にでも同じことを聞くようだ。  ところが荒城のほうは考え事をしているようで、「ああ」とか「まあまあですね」とか生返事をするだけだった。祐子への態度とは大違いだ。容姿だけでいえば、三恵子も祐子に負けないくらいの美人だと思うのだが、彼の好みではないらしい。 「お」  突然、荒城が立ち止まった。商店街の金物屋の前で、荒城は〈大安売り〉と書かれた旗をじっと見ている。よく店先に立てられている縦長の旗だ。そして彼は「これは丁度いいな」と言ってから、店の者と交渉して、旗を借りてしまった。 「何に使うんだ?」  私が聞くと、 「もちろん捜査に必要なんだ」  と荒城は答えて、さっさと前を歩いていく。  突然、意味不明のことをやる男だなと私は思った。名探偵というのは、こういうものなのだろうか。しかしそれでは真野原とそんなに変わらないのではないかと、また不安が増してくる。  少し歩き出してから、 「きのうは、よく寝られましたか?」  と洋平が私に声をかけてきた。 「いや、ひどかったよ。じつはね……」  私は虫との格闘の件を語りはじめたのだが、「いんや、そうではなくて」と洋平は首を振る。 「あそこ、出るから……」 「出る? 何が?」 「もちろん、これ、ですよ」洋平は両手を前に出して、ぶらんと手のひらを下げる。 「幽霊?」 「ええ。夜寝てて、音がしませんでしたか。ガタガタガタって」 「いや」  虫との格闘でそれどころじゃなかった。 「そうか……なら、いいんだけど……」  洋平は言葉を呑み込んだようだった。 「何かあるのかい?」  黙られると、かえって気になる。 「うん。あそこ、むかしから幽霊が出るって言われてて、二十年くらい前から、ほとんど誰も住んでないんだよね。ずっと倉庫代わりに使われてる。んで、今回の脱獄事件があってから、『あそこにはむかし座吾朗が住んでたんじゃないか』っていう噂が立って……。脱獄のあった日から変な音が聞こえたりとか、あの周りで怪しい男を見かけたとか……誰かが言うには『座吾朗があそこで人を殺す準備をしてる』だとか……何ともないのならいいんだけど……」 「せまいけどがまんしてね」  と言ってから、三恵子は玄関を上がっていく。案内された三恵子の家は、私が泊まっている部屋と同じつくりの長屋の一室だった。しかし女がいるだけあって、こちらは小奇麗に片づいている。虫もいなそうだ。  私たちが玄関を上がって、六畳の間に入ると、 「やあ」  と寝巻き姿の男が布団に座ったまま挨拶をしてきた。「三恵子の父です」と彼は言ったが、頬がこけていて、三恵子の父親にしては老年の男に見える。病人のようだ。 「肺の病気だけど、結核じゃないから安心してね」  三恵子は奥へと向かう。  ちゃぶ台の周りに、三恵子以外の四人が腰を下ろしたところで、 「ずっとご病気ですか」  私はさり気なく三恵子の父親に聞いた。 「ええ、もう三年になります。むかしは、鉱夫をやっていたのですけどね。いまは年金と三恵子の稼ぎで食っております」  彼は恥ずかしそうに言った。 「ひどいのよう」三恵子が料理を並べながら言う。「二十年も働いたのにね、年金なんてほんの少し」と言って、彼女は具体的な年金の金額を教えてくれたが、なるほど、ひとりの人間が生きていくには、あまりにも少なすぎる。 「治療費も家賃も光熱費もタダだからやっていけるけど……それでも、たいへん! 楽園なんて嘘よ。陰ではみんな泣いてるんだから」  三恵子は悲しむ様子も見せず、明るく言った。こういう暗い話を、深刻にならずに言えるところが彼女らしい。  あとから聞いたところによると、鉱夫というのは一般的に三十代から四十代にかけて肺病を患う人間が多く、四十に届かないうちに死ぬ者も多かったそうだ。珪肺《けいはい》と呼ばれる職業病で、鉱山内で吸い込んだ粉塵がトゲとなって肺の内部につきささり、それが長い年月にわたって蓄積されるらしい。そのため、心臓の病や結核などになりやすいそうだ。 「母も、看護をしてた人から結核をうつされて死んだの」  と三恵子は言った。結核といえば、最近になって特効薬のストレプトマイシンが出回るようになり治るようになったが、戦前までは不治の病だったから、鉱山では多くの人間が結核で死んでいったのだろう。 「まだまだありますからね」と言って次々に配膳する三恵子の横顔を見ながら、彼女が男の財力を気にするのはそういうことだったのかと、私は納得した。病の父を抱える彼女にとって、金の問題は逃れようのない現実だ。他に兄弟はいないというから、嫁に行くとしたら、父親も連れていかなければならない。私のように両親が健在で大学まで出してもらった者には、想像もつかない苦労と、将来への不安があるのだろう。 「さあ、どうぞ」  三恵子は料理を並べ終えて、自分もちゃぶ台の前に座った。 「へえ、豪華だね」  私は料理を見渡して言った。色とりどりの野菜に山菜、漬物、天ぷら、そして牛肉の料理まである。山の上だというのに、魚や貝の料理も見られる。一時期ほどの食糧不足は去ったとはいえ、これだけの家庭料理は、横浜や東京でもめったに見られない。 「ふふふ、ふもとの村から、農家の人たちが野菜を売りに来るのよ。魚の行商もね」  三恵子は微笑む。 「ずっと豊かなの? 戦争のあとも?」 「うん。一年くらいは、お米が手に入りにくかったけどね。でも、戦後しばらくつらかっただけで、特配もあったし、お酒だって普通に手に入ったんだから」 「へえ、東北も苦しかったと聞いたけど……」 「みたいねえ。下のほうはたいへんだったらしいけど……ここは、豊かだったわよ。わたしのお給料でもやっていけたくらい」 「下のほう」というのは、山のふもとの農村のことらしい。 「それはすごいね」  私は感心して言った。  戦争直後、日本は貧しかった。これは東北だけでなく、横浜でも似たようなものだった。私は思い出す。思い出すといっても、つい五、六年前のことだから記憶は非常にはっきりしている。  戦時中の食糧事情もひどかったが、まだ�これが終われば�という希望があったからみな耐えていた。貧しい中でも規律があった。しかし、玉音放送があった直後から無秩序が日本を支配し、あちこちに闇市が乱立して、物価は上昇した。あのころの闇市は必要悪だったと思うが、頑《かたく》なに闇の物資を拒否して衰弱死した裁判官がいたという新聞記事も記憶に新しい。  とくに空襲を受けた場所はひどくて、一度、東京の焼け野原を見たときは言葉を失った。焦げ臭いにおいの立ち込める廃墟の中で、母子が何をするでもなく、ぼうっと曇り空を見つめている。夜になると、十代前半の幼い女が身体を売るために街角に立ち、強盗が疲弊した民衆の体液を吸い尽くそうと暗黒の街を徘徊する。そんな風景があちらこちらにあった。  東京だけでなく横浜でも似たような有様で、物資を求める人々で桜木町や関内はあふれていた。私の同級生で、復員兵に強姦されて自殺した女もいた。この事件はあまりに悲惨で、家族にも配慮されたため、新聞記事にもならなかった。そんな状況だった。  いっぽうで街には、�愚連隊《ぐれんたい》�と呼ばれる不良少年たちが出現した。その少年たちは、大人を襲って金品を奪い、そしてしばしば殺した。少年たち同士で殺し合いもあった。  しかしそういう混沌とした状況も、最近はずいぶんよくなった。あのころと比べたら、少年たちは本当におとなしくなった。  もう、あんな状況は二度とごめんだと思う。すべての根本は、貧困にあった。さらにその原因には戦争があった。戦争があったからこそ貧困があって、そのため少年たちは大人を襲った。少女たちは大人に身体を売った。  そんな状態と比べると、父親が病床にあるとはいえ、三恵子はまだ幸福だったのかなと思う。少なくとも食えたのだろうし、身体を売らずに済んだ。  食卓に並んだ豪華な食事を見ながら、そう思う。食うものがあって、街に腹を空かせた少年少女がいないだけ、ここは天国だ。食うものも着るものも住む場所もなかった多くの国民から見たら、家賃も光熱費も風呂代も無料のここは極楽だ。  もっとも、鉱山の資源は有限と聞くから、この鉱山が今後どうなるかはわからないが——最悪、いつの日か、三恵子が身体を売る時代が来るかもしれない。  そんなことを考えながら、飯を食べていると、三恵子が、 「ねえ、美味しい?」  と私たちに聞いてきた。荒城は考え事をしているらしく返事をしなかったので、私が代わりに、 「うん、美味しいよ」  と答えた。これはお世辞ではなく、すべての料理が美味だった。 「東京とどっちが美味しい?」  正確には私は横浜在住なのだが、彼女にとっては東京も横浜も同じなのだろう。 「こっちがうまいよ」と私は無難に答えておいた。 「よかったあ。本で勉強したの。ほんとは玉子のお料理も、たくさんつくりたかったんだけどねえ。いつも卵をくれる家の鶏が盗まれてね……」 「鶏が盗まれた? 近所の家か?」  それまで黙って飯を食っていた荒城が、箸《はし》を止めて言った。 「うん」 「いつ?」 「一か月前くらいかなあ」 「ふうん」と言って、荒城は箸を止めたまま中空を見つめていた。  食事が終わって茶を飲んでいたとき、荒城は、 「白い布はあるかい? なければ紙でもいい。あと、墨と筆も」  と三恵子に言った。  三恵子が戸惑いながらも型紙に使用する紙を何枚か出してくれると、荒城はその型紙をノリで張り合わせはじめた。「何をするんだ?」と私が聞いても彼は教えてくれない。荒城は幅四十センチほどの縦長の紙をつくり上げると、畳の上に広げ、〈名探偵・荒城咲之助参上〉と揮毫《きごう》した。〈大安売り〉とか〈本日限り〉のような、力強くて奔放な書体だ。荒城はその紙を、先ほど店先で拝借してきた旗の布と張り替えた。  私はそれを見て、はて荒城はここで探偵事務所でも開くつもりなのか、それともこの街で芝居興行でもするつもりなのだろうかと不思議に思っていたが、荒城は旗を差し出して、 「さあ、持ってくれ」  と私に言う。 「は?」と私は間の抜けた返事をする。 「君は助手だろう? これを持って、いまから街に出陣だ」  荒城は立ち上がった。  荒城の説明によると、 「犯人を威圧するんだ。こうやって、ぼくが登場したと大っぴらに宣伝すれば、犯人もやりにくいだろう」  ということらしい。つまり、旗を持って、聞き込みしながら街を一周するようだ。むろん私はためらったが、「探偵が持っても恰好がつかないだろう? 悪いが従順な助手として芝居してくれ」と彼に言われると、私に断る理由はない。  私たちは、仕事があるという洋平と別れて、三人で街へと繰り出した。  街に出ると、案の定、恐れていたとおり�なんだあれは�という目で街の人たちに見られた。荒城が先頭に立って、私と三恵子が後ろに続く。私はチンドン屋の見習いのように従順に〈名探偵・荒城咲之助参上〉の旗を持ちながら歩く。「太鼓かラッパを用意すればよかったな」と荒城は恐ろしいことを言う。荒城の白い背広と帽子姿は目立ったし、それ以上に私も注目を浴びた。  しばらくして子どもたちも集まってきた。驚いたのは、子どもたちの身なりは質素だったのに、立派なグローブやバットを持っていたことだ。これは東京や横浜でも珍しい。多くが長屋住まいでも、経済状況は豊かなようだ。  しかし、反応の無邪気さは都会も田舎も変わらず、 「すげえ、すげえ」 「探偵だってよ」 「おれ、荒城咲之助って知ってるぞ!」  などと、たちまち私たちは子どもたちに取り囲まれた。意味もなく鼻水をたらしているのも、他の場所の子と変わらない。  荒城は子どもたちに対して、「よろしく、よろしく」「ぜひ探偵に協力してくれ」などと握手をして、愛想良く振舞っていた。名刺も配っていた。「キョーリョクしたら助手にしてくれる?」という質問にも「ああ、もちろん」と笑顔で答えていた。すると、生意気そうな少年が、旗を持つ私を見て「でもこんな助手は嫌だなあ」と真面目な顔で言ってきた。それに対して荒城は「見くびっちゃあいけない。こう見えても、この男は柔道、剣道、空手、合わせて十五段も持ってるんだよ」と適当なことを言っていた。子どもは「ジュウゴ」という発音が気に入ったらしく、やたらと「すげえ、ジュウゴジュウゴ」と連呼していた。古今東西、子どもは本当に馬鹿だなと私は思った。その子どもに馬鹿にされる私は、特売級の馬鹿である。  その後は、子どもを大勢ひきつれて、街を闊歩《かっぽ》した。即席大安売り探偵団の大名行列だ。街にいた鉱夫やら主婦やらも集まってきて、荒城は上機嫌で笑顔を振りまいていた。若い女にサインを頼まれると気軽に応じて、スター気取りだった。  その光景を見ながら、本当に大丈夫かと私は心配になってきた。これなら、あの偽探偵の真野原と変わらない——いや、行動は奇矯《ききょう》でも真面目に調査していた真野原のほうがまだマシのような気がする。これでは、単なる目立ちたがり屋ではないか。  実際、街の噂話は山ほど聞いたが、事件や犯人につながりそうな証言は全く得られなかった。座吾朗のことを聞いても、みんな知らないという。  一時間ほどして、探偵ごっこに飽きた子どもたちが去っていったところで、荒城が、 「鶏が盗まれた家の人に話を聞きたい」  と言ったので、山本《やまもと》という男の家へ行くことになった。 「はあ、探偵さんですかあ」  山本は、私の持つ旗をちらと見て言った。山本は、三恵子の家から三軒隣に住む運搬夫だった。運搬夫というのは、その名のとおり鉱山内で鉱石などを運ぶ仕事のことだ。  山本は鶏のいた小屋へと案内してくれた。長屋の裏の倉庫を改造して、鶏小屋として利用しているようだ。 「ここか」  荒城は小屋を調べはじめた。「鍵はかかってないようだな。盗まれたときもこの状態で?」 「うん、顔見知りばかりだからなあ。まさか盗まれるとは思わなかったよ」  山本は答える。 「とくに、怪しいところはないな……何羽盗まれたのかな?」 「十一羽だ」 「盗まれたのは、いつごろで?」 「んんと……先月の中旬だったかなあ」 「座吾朗が脱獄する一か月以上前か……卵を産むということは、全部メスかい?」 「いや、オスも四羽いたよ。肉を食うためだ」 「オスも……」  荒城は、「うーん」とうなって考えはじめる。 「これが事件と関係あるのか? 脱獄する一か月前の話だよな」  私は荒城に聞いた。 「わからない。しかし一羽とか二羽じゃなくて、まとめて何羽も盗んだというのが気になるんだ。鶏なんて隠すのは厄介だからな。放っておけば鳴くから目立つ。見たところ、この鉱山は裕福だから、そんな危険を冒してまで盗むというのも考えにくい。顔見知りも多いだろうしね」 「鉱山の外の人間が盗んだのでは?」 「それも考えられるが……どうなんだろう。生きたまま山の下まで持っていくのはやっぱり目立つし、しかも卵を産まないオスまでいっしょに盗んでいる。そんなに効率の良い盗みとは思えないな。かといって、息の根を止めて持っていくにしても、十一羽というのが不自然な気がする。他の金目のものを盗んだほうが、よっぽどいい」 「じゃあ、座吾朗が盗んだのだと? いや、そんなことはないか。座吾朗はずっと地下牢に閉じ込められてたわけだから……。共犯者がいるのか?」  私が聞くと、荒城は微笑んでから、 「そうとも言えないよ。座吾朗は一か月前からすでに出ていたのかもしれない」 「え! ど、どういうことだ?」 「座吾朗は、すでに脱獄を果たしていたのさ。一か月前からすでに外と牢屋を自由に行き来していて、殺人の準備をしていたんだ。鶏を盗んだのは、もちろん食料の確保のためだ。こうして、ぼくたちが調査をしている間でも、何食わぬ顔して鉱山街を歩いているかもな」  荒城の希望で、今度は四場浦デパートへ行くことになった。四場浦デパートの店長・田子沢に聞き込みをするためだ。  歩きながら、私は先ほど荒城が言っていたこと——座吾朗がすでに一か月前に脱獄していたという説について考えていた。荒城は半分冗談で言っていたようだが、しかしどうも引っかかる。そこに脱獄の謎、脱獄のトリックを解く鍵が潜んでいるのではないか——。  そんなことを考えていると、 「座吾朗って人、どこにいるのかしら」  と三恵子が話しかけてきた。彼女にしては珍しく、不安そうな表情を見せている。 「さあ……坑道にいるかもしれないし、これだけたくさんの人がいる街なら、街のどこかに身を隠してるかもしれないね」  私は荒城を見たが、彼は考え事をしながら歩いているようで、私たちの話を聞いていないようだ。 「平和な街だったのに……怖いわ。ラジオのニュースでも、この街の殺人事件ばっかり」 「ひとりで出歩くのはやめたほうがいいだろうね。……あ、そうだ、三恵子さん」ふと私はひらめいた。「夜、泊まりに行ってあげようか。お父さんとふたりだと不安でしょう」  あの部屋を出る絶好の機会だと私は思った。これを逃してはいけない。 「え……でも、うちせまいし、お父さん病気だし……」 「別に、どこで寝てもいいよ。玄関で、夜通し見張っててもいい」  あの部屋から出るためなら、私は何でもやるつもりだ。 「あー、わかったー」突然、三恵子は大きな声を上げた。「もう、弁護士さんたら、いやらしいんだから」私の肩をポンポン叩いた。「玄関で見張りして、わたしがお茶を持っていったときに、そっと肩でも抱くつもりなんでしょう!」たいへんな誤解をされているようだ。「東京の人って、映画みたいな手を使うのね」と言って、にんまりと微笑む。  いやそれはたいへんな誤解で、いくらなんでも想像力が逞しすぎで、青春映画の見すぎではないかと弁解しようとしたら、 「ねえ、テレビジョンって見たことある?」  と三恵子は突然話題を変えた。この話の流れで、いきなりテレビジョンの話題とは意表をつかれるが、若い女なんてこんなものか。すっかり弁解する気力をなくした私は、 「ああ、あるよ。三越で実験放送をやっていたから、見学に行った」と投げやりに言った。  しかし見学に行ったといっても、ものすごい人ごみだったから、テレビジョンを見に行ったというよりは、人間の驚く顔のバリエーションを観察しに行ったようなものだった。来年には、待ちに待った本放送が開始されるとのことなので、みんなよほど興味があるのだろう。実際、雑誌や新聞は毎日のようにテレビジョンの話題で盛り上がっている。 「絵が動くの?」 「もちろん」 「綺麗だった?」 「いや。映画には全然かなわないね。総天然色はまだ先の話だし」 「へえ。東京の人はみんな買うのかしら?」 「それは無理だね。二十万円とも三十万円とも言われているから……」  平均的な会社員の初任給が五千円くらいだから、庶民には高嶺の花だ。 「ふうん。でも、うらやましいわあ。ここなんて絶対電波が来ないもの。山に電波は届かないのでしょう? 一生ラジオだけで過ごすのかしら……」  と三恵子は肩を落として、本当に悲しそうな表情を見せた。これだけ豊かな街で、映画や演劇を無料で見られる生活だというのに、若い女はやはり都会に憧れるものなのか。生まれも育ちも横浜の私には理解しにくい。  そんなことを考えながらも、なぜか�テレビジョン�という言葉が引っかかっていた。  ほどなく、四場浦デパートに到着した。デパートとは名ばかりで、規模は日本橋の三越などには遠く及ばなかったが、なかなかの品揃えだ。平屋建ての大きな売り場に、生活必需品はもちろん、洒落た衣服や家具、骨董品もある。最近話題のナイロン製ストッキングまで売っている。  しかし、店長を呼びに三恵子がデパートの奥まで行ったのだが、田子沢は夕方まで不在だという。ではどうしようかと迷っていたら、 「探偵さん、探偵さん」  と声がかかった。振り返ると、社長秘書の羽田野祐子が立っていた。 「これはこれは、マドモワゼル祐子。お買い物ですか」  探偵がすばやく祐子の前に立って、気障《きざ》に一礼した。手の甲に口づけでもしそうな勢いで、三恵子に対する態度とは大違いだ。三恵子の表情は心なしか、むっとしている。 「いえ、あなたたちを呼びに来たのですわ。警察が、倉庫と肥溜《こえだ》めの捜査を終えたようですので」 「これはわざわざありがとうございます。地下牢も捜査できるので?」荒城が祐子に聞く。 「いえ、地下牢はまだだそうです」 「そうですか。しかし上出来です。行きましょう」  荒城は鉱山へと歩きはじめた。  鉱山の入口の近くで、三河正一郎と会った。 「私は仕事があるので、君たちだけで行ってくれたまえ」  正一郎はそう言って去ろうとしたが、私は、 「ちょっと待ってください」  と彼を呼び止めた。そして、荒城たちに「先に行っててくれ。社長と話があるので」と声をかけて、正一郎と二人になってから、「あの、お願いがあるのですが……」と彼に申し出た。 「何だね? 急いでいるんだが……ええと、君は、大名君だったか、旗本君だったか」 「殿島です」  だんだんひどくなっていく。 「そうか、手短にな」 「あのですね……」  私は、自分が泊まっている部屋のことを話しはじめた。変な虫が出て眠れないこと、むかし座吾朗が住んでいたのではないかということ、最近変な物音がするらしいということ——を説明した。  ところが正一郎は、 「そうか、たいへんだな」  と他人《ひと》事《ごと》のように言う。こやつ話を聞いてなかったのか。 「あの、お願いですから、部屋を替えてもらえませんか? 不安なのです。帰りたいくらいです」  私は切実に懇願《こんがん》する。 「しかしだね。いま鉱山は満員なんだ。警察は山ほど来るし、宿は記者たちが占領しておる」 「そこを何とか……工場の隅でもいいですから」 「わかったわかった、何とかしておくよ」  正一郎は私を手で制してから、去っていく。  鉱山内で荒城たちと合流して、死体のあった現場まで行くと、蓑田警部が渋い顔をしながらせわしくこちらに近づいてきた。 「君たち、あの天ぷら学生を知らんかね」蓑田は言った。 「真野原がどうかしたのですか? 警察が捕まえましたよね」と荒城が聞き返す。 「あいつ、逃げやがったんだ」蓑田はため息をついた。 「え! 牢屋から?」 「いや、交番に連れていく途中で便所に行きたいと言ったから、警官をひとりつけて行かせたら、左手から妙な液体を出したらしくてな。馬鹿な警官がまんまとやられたよ」 「液体?」 「ああ、目が痛くなるような変な液体だ。あいつは義手なのか?」 「ええ、知らなかったですか」 「知らんよ。そういう重要なことは、先に教えてほしいものだな」  蓑田は私たちを睨んでから、去っていった。自分たちの失態を棚に上げてまるで八つ当たりだが、面子《メンツ》をつぶされてさぞ怒っているのだろう。しかし、真野原も、おとなしくしていればすぐ釈放してもらえただろうに、警察を怒らせるようなことをするとは見上げた根性だ。  真野原は、これに懲《こ》りて東京へ帰ったのだろうか? 彼の得意げな表情を思い出したが、とてもそうは思えない。いったい何を考えているのか。  祐子に案内されて、九番坑の隅にある倉庫まで来た。地下牢の空気穴が通じている先の場所だ。 「ここか」  荒城が部屋の片隅にある穴のほうを見た。直径二十センチほどで、暗くて奥は見えない。 「ここは、現在は使われていないのですか?」  荒城が祐子に聞いた。  倉庫は八畳間ほどの広さで、緩やかな下り坂を二十分以上下りた先にあった。部屋の片隅には木の箱が積み上げられていて、その周りにはスコップなど、金属製の工具が置かれている。警察が捜索したからか無数の足跡があったが、工具はひどく錆《さ》びており、木の箱は半分以上が腐っているようで、最近使われている様子はない。 「はい。いまは倉庫代わりに使われているだけです」 「このパイプは何でしょう?」  荒城は隅にある直径二十センチほどの錆びたパイプを指差した。この部屋まで来る坑道の壁沿いに走っていたパイプだ。 「それはですね、水が通っているパイプです。鉱山の外に雨水を溜める場所がありまして、そこから通じています」 「ほう、外からか」 「はい。ここはむかし選鉱場に使われていたそうです。選鉱場というのは、鉱石を粗く選り分ける場所のことですね。水などの液体に砕いた鉱石を浮かせて、比重で選り分けたりしていたようです」  祐子は手に持った書類を見ながら、すらすらと説明してくれた。この場所に来るということで、あらかじめ準備していたのだろう。さすがに抜かりがない。 「なるほど、それで大量の水が必要というわけか。もうずいぶん使われていないようですね」  荒城は虫眼鏡を取り出して、パイプを観察した。 「はい、二十年ほど前にやっていたようですね。しかし、試験的にやっただけみたいで、すぐに使われなくなったそうです」 「そうか……なんでこんなところに線路があるのかと思ったけど、鉱石を運ぶためだったんだな」  荒城は地面の線路を見た。パイプと同じように、坑道沿いに敷かれていた線路だ。 「ここに来るのは、簡単ですか?……あ、外部の者が、誰にも気づかれずに来られるかという意味です」  荒城は言った。 「そうですね……ここへ来るにはいろいろな経路がありますし、人のいない時間帯を狙えば不可能ではないと思います」  と祐子は答えた。 「このドラム缶は?」  荒城は壁際に置かれたドラム缶を見て言った。十個以上はある。 「……さあ、何でしょう。わかりません。倉庫として使っているものですから、誰かが置いていったのでしょうが……」 「ふむ……これはいったい何を意味するのか、それとも意味がないのか……」  荒城は顎に手をやって、独り言のようにつぶやいた。考え事をしている荒城の眼差しは真剣で凜々《りり》しく、こういう姿を見ると名探偵らしいといえば名探偵らしい。 「殿島君。空気穴を調べるので、後ろから照らしてくれないか?」  荒城は私に言った。私がランプで穴を照らすと、荒城は虫眼鏡で空気穴を調べはじめた。腰に手をやりながら、気取ったポーズで穴を観察している。祐子を意識しているのだろうか、それとも普段からこういうスタイルなのだろうか。いずれにしても、義手から虫眼鏡を出して這いつくばるように調べる真野原とは、好対照だ。 「ここから地下牢まで何メートルくらいあるのでしょう?」荒城は祐子に聞いた。 「直線距離で十メートルほどでしょうか。しかしなにぶん古い地図ですので、正確にはわかりません。むかしは測量器具を使わず、ほとんど勘で掘っていたものですから……」 「ふむ、あとで試験してみたいな……おや、これは何だろう?」  荒城は空気穴に顔を近づけた。虫眼鏡で穴の入口を凝視している。 「何かをこすった跡か?」  私は虫眼鏡を後ろから見ながら言った。空気穴の縁に、かすかに黒っぽい跡がある。 「みたいだね……」荒城は、指で黒っぽい跡をなぞった。「ゴムのようだな」彼は指の先についた破片を見て言った。「先ほど、真野原が見つけたゴムの破片と同じかい?」と私に聞いてきた。 「見た目は同じに見えるね」 「そうか……これは、たいへんな手がかりかもしれない」  荒城は、真剣な眼差しのまま口元に微笑を浮かべた。 「手がかり? 何の?」  私は聞き返したが、荒城は返事をせず、「次は肥溜めの穴へ案内してください」と言った。  我々三人は、牢屋の便所の穴から通じているという空洞へと向かった。  その空洞は、一度入口方面にもどってから、再度深く奥へ入った場所にあった。しばらくは整備された坑道だったが、途中からは身をかがめるように狭い道を進まなければならなかった。 「狭いな。みんな、こんなに狭い道をいつも歩いていたのですか?」  かがんでいた荒城が、背筋を伸ばして言った。どうしてもひざをつかないと進めない場所があったので、彼自慢の白い背広が泥だらけだ。確かに、仕事で使用するには非効率なほど狭い道だった。 「普段は使っていない道ですからね。整備をしないと、こうなってしまいます。鉱山そのものの重さで変形してしまうのですよ」  祐子が答えた。 「坑道にたくさん支柱がありますが、これで効果があるのですか?」  と荒城は言ったが、彼の言いたいことはよくわかる。坑道内は、組み上げられた支柱であふれているが、この程度で効果があるのかと心配になってしまう。 「はい、まめに整備しないといけませんけどね。年末年始で何日か休むと、場所によっては通れないくらいたわむところもあります。ですから鉱山で支柱夫というのは、鉱夫と並んで大切なのですよ」  そう言って、祐子は歩きながら、鉱山内の労働について解説してくれた。  鉱山内の労働者には大きく四つの職種——鉱夫、支柱夫、運搬夫、機械夫があるらしい。  鉱夫は、切羽《きりは》と呼ばれる採掘場所でダイナマイトを仕掛けて、鉱石を掘り出す。支柱夫は、鉱山内の坑道を整備する。運搬夫は文字どおり、鉱石を運ぶ。機械夫は鉱山内で使用する機械の整備を担当し、工夫とも呼ばれる。 「給料が一番いいのは、鉱夫ですか?」  荒城は聞きにくいことをあっさり聞いた。 「はい、場所によって違いますが一般的にそうですね。勘と手際の良さが求められる職種です。それに並ぶのが支柱夫です。運搬夫や機械夫はそれに比べると報酬は低いですね」 「へえ、支柱夫も鉱夫に並ぶのか」 「特殊な技能と経験が必要な職種ですからね。露天掘りでしたら、ひたすら掘って精製するだけですが、鉱山内ではいかに効率的に、そして安全に作業を進めるかにかかっています。とくに、この鉱山のようにどこを掘っても純度の高い鉱石が掘れる場所は、鉱夫で差はつきにくいですから、支柱夫が重要ですね」 「報酬は出来高で?」 「はい、この鉱山では基本給に出来高を上乗せしています」 「厳しい職業ですね」 「いえ、見た目ほどでもないんですよ」と祐子は微笑しながら言う。「労働時間が八時間あっても、技術のある者は実質で二、三時間くらいしか働いていないみたいです。もちろん場所や時代にもよりますが、ここはそうですね。それでお給料もいいですから、仕事が終わったらみんな飲んだくれています。他の鉱山から来た人は口をそろえて『ここは天国のようだ』と言っています」 「ほう」 「ただ、危険と隣り合わせの職業ですね。それは言えます。水やガスの事故、そして崩落事故はどの鉱山でも起こっています。あまりに当たり前になっているので、大きくは報道されませんが……いつも死と隣り合わせですから、身の危険に関してはみんな神経質ですね。一生続けられる職業ではありませんし」 「肺病にもなるのですよね」 「そうですね。でも、この鉱山は少ないほうだって言われているのですよ」  と祐子は答えたが、一方で私は、三恵子の父を思い出した。彼は肺病を患っている。彼の妻も肺病で死んだと言っていた。三恵子は「みんな陰では泣いてるんだから」と言っていた。  雲上の楽園と言われるのは、理解できる。標高一〇〇〇メートル以上の高地に、突然現れる鉱山都市。最新の劇場や病院に、最新の設備。無料の家賃に光熱費。そしてあの鉄筋アパート群。過酷ではない労働に、多くの報酬、豊潤な食糧。  ただ、豊かだ豊かだと言われるたびに、どこかうさん臭さを感じてしまう。裏にある闇を想像してしまう。そうした闇こそが、今回の不可解で陰惨な事件を引き起こしたのではないか——。  空洞に到着した。真っ暗だったので、ランプで照らすだけだと全体は把握しにくいが、広さは標準的な小学校の体育館ほどはあるだろうか。 「ははは、これだと百年どころか千年は持ちそうだな」  と荒城が言った。「しかも、これだけ大量の水があるとなると、臭いもない」  彼の言うように、空洞のほとんどを巨大な泉が覆っていた。 「ここも天然の空洞なのですよね?」  荒城が聞くと、祐子が「はい」と答えた。 「便所から通じてる穴は、どれなのでしょう?」 「さあ……わかりません」 「穴がいっぱいあるな」  荒城がランプで天井を照らす。穴だか窪みだか区別のつかない凹凸が天井にいくつもある。 「しかしこんなに大きな池だと、便所から何かが流れ落ちていたとしても、調べるのは難しいだろうな」  と私は言った。ここに来る前から、肥溜めを捜索するとなるとさぞかし困難だろうと考えていたが、これだけ広い泉では糞尿を確認するだけでもたいへんそうだ。 「ここも、決定的な手がかりなしか……」  私がもらすと、荒城は、 「いや、そんなことはないよ。この広大な空洞が確認できただけで収穫だ。問題はむしろ別のところにある」  と口元に笑みを浮かべて言った。 「別のところ?」  私はたずねたが、荒城は無視して空洞の外へと歩いていく。  もったいぶる探偵はさておき、私は坑道を歩きながら、どうやって座吾朗が脱獄したのかを考えていた。  ひととおり現場は調査した。厳密にいっても、牢屋と外界をつなぐのは三つの穴だけだ。食事を入れる穴、空気穴、便所の穴——どれも頭部さえ通らないのだから、物理的に脱出は不可能である。しかも唯一の出口は、念入りに溶接されていた。  だが現実に座吾朗は脱獄した。これをどう考えればいいのか?  私は、荒城が言っていた「座吾朗は一か月前に、すでに脱獄していたのではないか」という言葉が気になっていた。もちろん冗談だろうが、もし座吾朗がすでに脱獄を果たしていたのなら、私の部屋で聞こえたという怪しい物音や、鶏が行方不明になった理由も説明できる。  しかし問題は、脱出後、座吾朗がどうやって牢屋の外と中を行き来したかということだ。看守の恩田の証言によると、前日まで座吾朗は牢屋の中にいたという。とすると、最低でも恩田が来る時間帯だけでも牢屋の中にいなければならない。出入口が溶接してある状態で、どうやって中に入ったのか? そしてふたたび外に出たのか? 結局、密室であることには変わりない。  あと少しで解明できるのだが——という直感を私は持っていた。  何か別の発想で、座吾朗が牢屋の内外を行き来する方法は——。  死体のあった現場付近まで来たとき、ひとりの女性が蓑田警部と話しているのが見えた。 「あれは誰ですか?」と荒城は祐子に聞いた。 「令子さんです。看守の恩田さんの奥さんです。病気なのですが、大丈夫かしら……」  祐子は不安そうに令子を見つめる。あとから聞いたところによると、令子も肺病に冒されているそうだ。  近づくと、令子が蓑田警部に訴えかける声が聞こえてくる。 「十分、会わせてもらえるだけでも……」と令子が言う。 「駄目だ。何度も言っておるだろう。彼は重要参考人だ」と蓑田警部が答える。 「どうかしたのですか」  荒城が二人に声をかけた。 「どうもせん。我々は忙しいのだ。さあ、帰った帰った」  蓑田警部はいらいらした口調で言って、去っていく。  残された令子は、沈鬱《ちんうつ》そうな表情で地面を見つめていた。頬がげっそりとこけていて、顔色も悪く、いまにも倒れそうに見える。 「外を歩いて、大丈夫ですか」と祐子が声をかけた。 「ええ」と令子が弱々しく答えた。 「ご主人のことについて、警察に聞いていたのですね」と荒城が聞いた。 「はい」 「恩田さんは、まだ釈放されそうにないのですか」 「はい……」 「恩田さんは、脱獄に協力したと疑われているのですね」 「え!」  と私は驚きの声を上げた。 「恩田さんが協力したとなれば、脱獄自体は何の不思議もない。ゆっくりと溶接部分を溶かして、脱獄させて、またあとで溶接し直せばいいだけの話だ。そしてそのあと、殺人を犯した——そう警察は考えているのですね、令子さん?」  荒城は言った。なるほど、看守が共犯だとしたら、謎が謎ではなくなる。言われてみれば当たり前のことで、あまりにも単純で私は見落としていた。 「はい……そうです」  令子は悲しそうに言った。 「それだけじゃない、警察は、あなたの共犯まで疑っているのではないですか。あなたがご主人に協力したと」  荒城は令子を見つめた。 「そんな!」祐子が口を挟んだ。「令子さんは病気です! みんな知ってます。そんなこと、できるわけ……」  あとで聞いたところによると、祐子は鉱山で働きはじめた当初、令子にたいへん世話になったらしい。その縁があって、令子の世話をすることも多く、令子の病状に詳しいそうだ。 「警察はね」荒城が冷静に言う。「彼らは、真実を求めていない。�彼らなりの解決�をしたいだけだ。だから平気で物語をでっち上げて、嘘の自白を強要したりする」 「物語って、令子さんが扉を溶かしたり、殺人を手伝ったというのか?」  と私は荒城に聞いた。 「そこまでやらなくてもいい。実行は恩田さんがやって、令子さんは、そのことを黙っているだけでもいい。あれだけのことをやるには、夜も行動しなければならなかっただろうからね。同居している令子さんの目を誤魔化すのは難しい——令子さんが嘘をついている——警察はそう考えてるのかもしれない。  あるいは、警察はこんなふうに考えてるのかもしれないね。座吾朗は脱獄なんかはしていない。恩田さんが、�座吾朗が脱獄した�と偽装して、座吾朗を殺したんだ。その後、三河正造を殺した。�脱獄した�と見せかけたのは、むろん座吾朗に罪をかぶせたかったからだ。……この説なら、恩田さんと座吾朗が組む必要がない。座吾朗は殺されたわけだから、いくら捜しても彼の消息はわからない。どうだ? いちおう筋は通ってるだろう?」  と荒城が言うと、令子は顔を伏せた。 「そんな……ことがあるのか?」私は言った。 「さあね。ぼくは疑問だけどね。あまりにも単純すぎる。看守が犯人なんて、そんなすぐにバレるような偽装をするだろうか?……しかし、警察にとってはわかりやすい物語だろうな。この線で事件を解決するつもりなのかもしれない」 「恩田さんは……有罪になるのか? 実際にはやっていないのに?」 「そのへんのことは弁護士の君のほうが詳しいんじゃないのか?……ああ、君は民事専門だったか。もし恩田さんが拷問すれすれの取り調べを受けて、やってもいないのに自白してしまったら、有罪になる可能性はあるだろうね。君も知っているだろうけど、日本は自白主義だ。物的証拠がなくても、本人の自白があればそれで有罪になることがある。戦時中の特高警察とそんなに変わらないね。ひどい話だけど、これが日本の現状だ。実際、冤罪は多いと思うよ。日本がきちんとした国家になれば、必ず問題になってくるだろう」  と荒城が言うと、令子が、 「う、う……」  と嗚咽《おえつ》をもらしはじめた。手で口を押さえて、涙を流しているようだった。 「恩田さんを救う方法はないのでしょうか……」  祐子が言った。祐子の目もかすかに濡れていた。 「そう、そこが問題なんだ」  荒城は両手を組んで、右手を顎に添え、うーんとうなった。  私も、すすり泣く令子のそばで考えはじめた。問題はどうやって座吾朗が脱獄したかということだ。そこが不明だからこそ、恩田は疑われている。看守の手を使わずに、脱獄する方法は——? 私は、先ほどからずっと考えてきたこと——�すでに座吾朗は脱獄を果たしていた�という仮説についてふたたび考えはじめた。  単独もしくは複数で、何日も前に、座吾朗は脱獄を果たした。そう仮定しよう。とすると、問題は�脱獄後、どうやって牢屋に出入りしたか�ということである。なぜなら、恩田が、前日まで座吾朗は牢屋の中にいたと証言しているからだ。  脱獄後、座吾朗はどうやって牢屋に入ったか? あるいは、牢屋にいると、恩田に認識させたか。  ——坑道の地面を見ながらそんなことを考えていたのだが、ここで、ふと目の端に光の点が揺れるのが見えた。地面で光がなぜ——と思ったのだが、よく見ると、水溜りに電球の光が反射しているだけだった。揺れた電球が水溜りに映って、錯覚したのだ。  錯覚——。  突然、頭の中で何かがひらめいた。そして、牢屋の小さな食事の穴、空気の穴、テレビジョン、水溜りに映った錯覚——すべての小さな手がかりが意味を持って、私の頭の中でつながっていった。 「あの……」と私が口を開くと、全員がこちらを向いた。「恩田さんの手を借りずに、脱獄できたことを証明できればいいんですよね」 「ああ、そうだけど、何か? 脱獄の方法がわかったのか?」  荒城が私に言った。 「いや……方法はわからないけど、今回の脱獄事件がどういうものだったのか、わかったような気がします」 「そうか、その手があったか!」  荒城が天井を見上げて、意味不明なことを叫んだ。そして、「その手があるじゃないか」と繰り返してから、私のほうを見て「で、どうなんだ? 方法はわからないけど、事件を説明できるってのは、どういうことだい?」と笑顔で言った。 「まだ、仮説の段階なのだけど……きっかけになったのは、君が言った『座吾朗は、すでに脱獄に成功していたんじゃないか』ということなんだ。脱獄の方法はわからないけど、共犯者がいたのかもしれない」 「ふむ! しかし、それだと、恩田さんの証言と矛盾するよな。恩田さんは前日に座吾朗が牢屋にいたことを目撃している。どうやって牢屋に出入りしたんだ?」  荒城は言った。微笑みながら言ったところを見ると、彼は、すでに私が反論を用意していることを心得ているようだ。わかっていて、聞き役に回ってくれているのだろう。 「そこなんだ。別に座吾朗が牢屋の中に、常にいる必要はない。要は、恩田さんが�座吾朗が牢屋の中にいる�と認識すればいいわけで……」  と私が語りはじめると、荒城は、 「見事だ!」  と途中で私の言葉を遮った。「見事な推理だ! やっぱり、君は優秀な助手だよ!」荒城は私の肩を叩いた。「東京にいる助手をいますぐ馘《くび》にして、君を採用したいくらいだ。……でも、それ以上言う必要はない。きちんとした場所で、その推理を披露してくれ」 「え?」と私は聞き返す。 「現場に行って解決したほうがわかりやすいだろう? さあ、蓑田警部のところへ行こう」  荒城は背を向けて歩き出した。 「解決したというのは、本当だろうな」  蓑田警部は言った。しかし、荒城は、蓑田の言葉に反応せず、 「うん、思ったとおりだ」  と地下牢の天井の穴を見つめて、うんうんとうなずいていた。  地下牢に、蓑田警部を始め、多くの関係者が集まった。私や祐子、令子以外にも、三河正一郎や警察関係者、事件の目撃者である洋平や工夫の坂崎も呼び寄せられた。  それもこれも荒城が「殿島さんが脱獄事件を解明してくれるそうです!」と強引に蓑田を説き伏せたからだ。  それに対して、私は「いや、まだ仮説の段階で……」と謙遜《けんそん》したのだが、内心では自分の推理に多少の自信はあった。座吾朗の脱獄を説明するにはこれしかない——。  当初は蓑田警部も「素人が口を出すな」と相手にしなかった。しかし警察も事件に難儀しているのだろう。荒城が「このまま恩田さんを誤認逮捕していいのですか? あとで新聞に叩かれますよ」としつこく食い下がっため、結局蓑田警部は渋々と承知した。そして、関係者が集められて、こうして地下牢にいる。 「さっさと説明しろ。こっちも暇じゃあないんだ」  蓑田がいらいらとした口調で言った。 「では」と私は口を開いた。全員が私を注目する。「さて、この脱獄の件に関しては、私も最初は途方に暮れました。鉄壁の地下牢ですからね、唯一の扉は溶接されていましたし、それ以外に人間の出入りするような穴はない。しかし、かといって恩田さんが脱獄に関わったのでしょうか? そうとも思えません。看守の恩田さんは真っ先に疑われる立場です。そんな彼が共犯者になるとは考えられませんし、不自然だと思いました」 「そんなことはわかっておる」蓑田警部は言った。 「うんうん、それで?」  と荒城が言ったが、彼は私の推理を注意して聞くわけでもなく、牢屋の内部をしげしげと観察していた。 「そこで私は視点を変えて、脱獄事件のことを考え直してみることにしました。それは、�何日も前から座吾朗は脱獄を果たしていたのではないか�ということです」 「ほう!」  荒城はわざとらしく言った。 「つまり、事件当日、恩田さんが地下牢を確かめに行った時点で、すでに座吾朗は脱獄を果たしていたのです。共犯者がいて、溶接を溶かしてもらったのでしょうね。これなら、脱獄当日に複雑なトリックを施す必要はありません。あらかじめ脱獄して、そのあとにゆっくりと溶接をしておけばいいのです。恩田さんが見回りに来ない深夜を使えばいい」 「しかし、証言によると、恩田さんは前日に地下牢で座吾朗を目撃したと言っている。これはどう説明する?」  と荒城が質問した。 「そこがこの事件の重要な点です。ここで注意しなければならないのは、必ずしも座吾朗が牢屋の中にいなくてもいいということです。ようするに�牢屋の中にいた�と見せればいいのです。つまり錯覚を利用したのではないかと——」 「へえ、錯覚! どうやって!」  荒城が笑顔で私の顔を見つめた。 「それは、牢屋が暗いことと、扉の穴が小さなことを利用したのです。牢屋の中を見るには、扉の穴から覗かなければならないのですが、いかにも視野が狭い。ところで、みなさんはテレビジョンを知っていますよね」 「テレビジョン! なんと!」  荒城が大きく目を見開いて、私を見た。 「そうです。座吾朗はテレビジョンを利用したのです。テレビジョンに自分の姿を映して、扉の小さな穴から見せた。そうして�牢屋にいるフリ�をしたのです。牢屋は暗いから、白黒のテレビジョンで十分ですからね。小さな穴だから、遠近感も画像の質もあまり関係ない。見ているほうからすると、さも座吾朗が牢屋の中にいると思ってしまう」 「待て」蓑田警部が言った。「まだ発売されてないテレビジョンを用意したというのか?」 「ええ、その点は気になっていたのですが……用意したのでしょうね。展示用の機械や試作機はたくさんありますから、どこかで手に入れたのではないでしょうか」 「ふん……まあ、それはいいとしよう。しかし、そんな大きなものを牢屋に持ってきたのか? 電源はどうする? それに、恩田たちが扉を壊して中に入ったとき、そんなものはなかったと聞いている。……そうだよな?」  蓑田の問いかけに対して、洋平と坂崎はうなずいた。 「そこがこの事件で二番目に重要な点です。そこにトリックを使ったのです」私は言った。 「トリックだと?」 「はい、手品で鏡を使用するトリックがあるのはご存じですよね。それを犯人は使ったのです。まず扉の前に鏡を置く。そしてそこから距離を置いて、いくつも鏡を置く。そうやって鏡をいくつも組み合わせて、蛇のように、鏡をつないでいく。そして空気穴をたどって、何回も反射させながら、空気穴の先の倉庫まで達する——そう、倉庫にテレビジョンが置いてあったのです。あそこならば、テレビジョンを運び込めるし、終わったあとゆっくりと回収すればいい。電源もケーブルで引っ張るか、発電機を使えば何とかなりそうです」  ここまで言い終わったあと、私は周りを見た。反論はなく、全員が無言だった。  さらに私は言葉をつぐ。 「まとめるとこうです。——座吾朗は何日も前に脱獄を成功させていた。そして鏡のトリックを施したあと、恩田さんのいない夜に扉をゆっくりと溶接した。その後、恩田さんが見回りに来る時間を狙って、テレビジョンに映った自分の姿を恩田さんに見せた。つまり、座吾朗はテレビジョンと鏡のトリックを利用して、牢屋の中にいると錯覚させたのです」           5  私が言い終えると、 「すばらしい!」  と荒城が言って、手を差し出してきた。「なんて独創的なんだ。やっぱり君はすばらしい。助手をはるかに超えた発想だ。見事な推理だよ」荒城は私の手を強く握って、大きく振った。「しかし、その推理のすばらしさは大いに認めるとして、ひとつ質問させてもらっていいかい?」 「ああ」と私は答える。 「鏡のトリックの部品は、牢屋の中にあったんだよな。それはどうやって回収したんだ? 恩田さんたちが扉を破って入ったときは、何も見つからなかったと言っている」 「それはこういうことだと思う。脱獄の前日まで鏡のトリックは牢屋の中にあった。しかし、前日、恩田さんの見回りが終わったあと、犯人は外から溶接を解いて、トリックの部品を回収して、ふたたび溶接した——」 「うんうん、なるほどね。しかし、そうだとしても、殿島くんの推理には無理がある。それは、食事の受け渡しだ。ぼくの記憶が確かなら、恩田さんは前日も牢屋の入口から座吾朗に食事を差し入れた。それを座吾朗は受け取った。そうですよね、蓑田警部?」 「あ……」  私は言われて気がついた。 「ああ、そう聞いてるな」  と蓑田が答えた。  私は顔が熱くなるのを感じた。食事を受け取った事実があるとすると、座吾朗は確実に前日まで地下牢の中にいたのだ。 「だとすると、殿島くんの推理は、やっぱり無理があるね。……いや、しかし見事だったよ。君の推理の独創性を否定するつもりは全くない。テレビジョンを使ったトリックもすばらしい。もし未来にテレビジョンの入手が容易になって、映像の質も良くなれば、殿島くんの言うようなテレビジョンを使ったトリックも出てくるかもしれない。紙のような薄っぺらいテレビジョンが登場すれば、話は別だ。状況によっては、君の言うようなトリックの使われる時代が来るかもしれない。ただ、君の推理は時代が早すぎたというだけだ。恥じる必要は全然ないよ」  荒城は私をなぐさめるように言った。 「でもこれ以外に脱獄をする方法はないと思うのだけど……やっぱり恩田さんが協力したのか?」  と私は言った。 「いや、その必要はないよ。ほかにも脱獄する方法はある」 「方法? どんな方法で?」 「じゃあ、ぼくの推理を披露しよう」  待ち構えていたかのように、荒城は白い帽子のひさしを指でつかんで、微笑を浮かべた。 「犯人が脱獄した方法は、そんなに複雑ではないんだ。重要なのは、あの穴」と言って、荒城は空気穴を指差した。「それと、その穴」と便所の穴を示した。「そしてもっとも重要なのは、あの穴だ」天井の穴を指差した。「もうひとつ、入口の食事の穴は、それほど重要じゃあない」 「しかし、どの穴も脱出は不可能だろう? 空気の穴や便所の穴は小さい。人間が入れるのは天井の穴くらいだ」私は言った。 「とても良い指摘だね、殿島君! そう、そのとおり、天井の穴から座吾朗は脱出したのだよ」 「え……天井に出口があるのか?」 「ぼくの推理が正しければ、あるだろうね。暗くて見えないけど、フタがされているのだと思う。それは、いまから調べればいい」  荒城は「ぼくの推理が正しければ」と前置きしたが、言い方からして相当に自信があるようだ。 「でも、あんな場所、どうやっても登るのは無理だよな……」  私は天井の穴を見上げた。穴は天井の中央付近にあり、高さは四メートル以上はある。壁はつるっとしているし、どんな荒業を使っても天井に登るのは無理そうだ。 「それが可能なのが、この牢屋のおもしろいところなんだ」  荒城は微笑んだ。 「ロープがあれば可能かもしれないけど……食事を使って、ロープをつくったのか?」  私は、食事に入っているさまざまなものを利用して脱獄する物語のことを思い出した。米や繊維質の食物を使えば不可能なことではない。 「あはは、人間ひとりの体重に耐えられるロープをつくるのは、相当にたいへんだろうなあ。ロープがあったとしても、それをかけるような突起物は牢屋内に見られない。でも、そんな面倒なことをする必要はないよ。その穴を使えばいい」  荒城は壁の空気穴を指差した。 「この穴? どうやって?」  空気穴と天井の穴は離れている。位置から考えて、この穴を足がかりに天井まで登ることは不可能に見えるが——。 「それはね、水を使ったんだよ」 「水?」 「ああ。空気穴の先の倉庫に、水の通るパイプがあったのを覚えてるよな? あそこには雨水を大量に送ってくることができた。その水を大量にこの牢屋に注入すると、どうなるか? 牢屋を埋め尽くすくらいの量の水だよ」 「あ……」 「わかったようだね。この脱出方法は、さほど複雑なトリックを使っていないんだ。大がかりなだけに、誰も気がつかなかっただけだな。まずこの脱獄には共犯者がいた。それが誰かはこれから調べるとしよう。とにかくその共犯者が、あの倉庫から大量に水をこの牢屋に注入した。すると、当然人間は浮く。天井まで達することができる。そして、天井から脱出した——それだけだ」 「溜まった水はどこから出したんだ——あ、便所の穴か!」 「そのとおりだ、殿島君。現実には、最初は、便所の穴に自分の衣服でもつめておいたんだろうね。そして、衣服をほどいた糸でもそれに取り付けておいて、天井から脱出したあと回収すればいい。念入りに鉄の扉は溶接されているから、そこから水が漏れる恐れはない。気になるのは食事の穴だが、あそこはほぼ閉じられているから、水が漏れるとしてもわずかだ。内側に開くようになっているから、水圧で自然と閉じられるしね。そして何より、この牢屋の特殊性だ。これだけ、壁から水の染み出ている鉱山の中だから、多少濡れていても怪しく思われない。そして、便所の穴の先の大きな空洞——大量の水が流れ落ちても、不自然な点は全くない。  殿島君のようにまとめると、脱獄の真相は、こうだ。座吾朗の共犯者が空気穴から大量の水を注入した。その後、座吾朗は天井に達して、脱獄した。残った大量の水は、地下の便所の空洞に流れ落ちた。——以上が、荒城咲之助の推理です」  荒城は白い帽子を脱いで、その帽子を胸に抱えながら気障《きざ》に一礼して、微笑した。  荒城の推理を聞き終えて、警察はただちに天井を調査すべく、準備に取りかかった。荒城が予想していたとおり、警察もまさか天井に仕掛けがあるとは考えておらず、まだ調査していなかったらしい。 「君は、いつからさっきの推理を持っていたんだ?」  私は、警察の作業を見つめる荒城に聞いた。 「発想を得たのは、空気穴の先の倉庫を調査したときだね。あそこの穴にゴムの跡があっただろう? あれは大量の水を注入するために、ゴムのホースを使った跡だと思うんだ。その後、便所穴の先の空洞を見て確信した。あれなら大量の水を流すことができるってね」 「ああ、なるほど。じゃあ、ぼくが推理を言い出す前には、わかってたということだよな?」 「うん」 「なぜ言わなかった?」 「現場を見たかったからさ。自分の目でもう一度、天井の穴を確かめたかった。それには現場に行く必要があるのだけど……それでどうしたものかと、ずっと悩んでいたんだ」 「ああ……」  荒城がしきりに「別のところに問題がある」とか「それが問題なんだ」と意味不明なことを言っていたのは、そのことだったのかと思い当たった。彼は�どうやって現場を見るか�ということを考えていたのだ。 「じゃあ、ぼくの推理が間違っていたのを知っていたんだよな?」私は聞いた。 「うん。君と似たようなことは最初にぼくも考えたからね。�錯覚�と聞いた時点で、間違っていると確信した」 「知ってたのか……ひどいな。ぼくは囮《おとり》に使われたのか……。ぼくに『推理を披露する』と言わせて現場を見せてもらうために……。しかし、なぜわざわざそんなことを? 君が正直に『有力な推理がある』と蓑田警部に言えばいいだろう? それで現場を見せてもらえばいい」 「だって、探偵・荒城咲之助の推理だぜ。それなりの雰囲気というものが必要だろう。助手が間違った推理を披露したあとに、探偵が真の推理をしたほうが様になる。みんな驚く。それでこそ名探偵だ。君も名探偵を引き立ててこそ、名助手だよ。勘弁してくれたまえ、ははは」  荒城はうれしそうに言った。私は前座として利用されたらしい。ひどい話だ。  ところが、自信たっぷりな荒城とは全く反対の調査結果が出た。  警察の詳細な調査にもかかわらず、天井に出口はなかったらしい。それどころか、天井の穴はすぐ行き止まりになっていて、何か細工をした跡も、細工に使われるような穴も突起もなかったそうだ。 「おかしい、そんなはずは……」  先ほどまでの態度とは一変して、荒城はがっくりと肩を落としている。 「ふん、自信たっぷりかと思えば、これか。素人はこれだから困る」  蓑田が嘲笑した。 「あの……穴から脱出したのではなくて、座吾朗は天井の穴に隠れていたのではないでしょうか? つまりですね、鉄の扉が壊されてから、隙を見て脱出したのです」  私は、肩を落とす探偵がかわいそうになって、助け舟を出した。 「いや、それはない」荒城は元気なく答えた。「恩田さんたちの証言によると、警察が来るまで牢屋は見張られていた。……そうですよね?」荒城は、洋平と坂崎にたずねた。 「うん。二人で見てたよ」  と洋平は答えた。 「恩田さんたちが協力すれば、天井に隠れていた説も成り立つが、それじゃあ意味がない。最初から恩田さんが協力すればいいだけの話だからね」  荒城が力なく言った。  そのとき突然、 「警部!」  とあわただしく刑事のひとりが地下牢に入ってきた。 「ん?」 「た、逮捕しました! あの、学生を捕まえました!」 「な、なんだと。どこで?」 「地下の空洞です! 便所の穴の先です。たまたま見回りをしていた警官が見つけて……」  その刑事の報告を聞いて、私は大きく息をついた。学生というのは、もちろん学生服姿の真野原のことだろう。いったいやつは何をしようとしているのか? 「わかった。すぐ行く。じゃあ、お前らもさっさと帰れよ。二度と邪魔してほしくないものだな」  蓑田警部は私たちを睨んだ。それに対して荒城はうつむいたまま、返事をしなかった。  そして蓑田警部が去って少し経ってから、荒城は「おかしい、こんなはずは……」とつぶやきつつ、ふらふらとした足取りで地下牢を出ていった。  鉱山を出て事務所にもどると、三恵子が「ねえ、どうだった?」と聞いてきた。私たちの帰りを待っていたらしい。 「へえ、探偵さんがねえ。それは残念ねえ」  私が事情を話し終えると、三恵子がため息をついた。 「いや、ぼくから見ても見事な推理だと思ったよ。警察も一時は感心していたくらいだ。ただ……今回は運が悪かったね」  と私は探偵をかばった。しかしこれは本心でもあった。正直、見直したのだ。あれだけの推理力があるのなら、雑誌で採り上げられるのもよくわかる。もし事前に現場を調べていたら——天井を調べることができていたら、あの失敗はなかった。別の推理を披露してくれたかもしれない。 「ふうん。それで、探偵さんはどこへ行ったの?」 「どこだろう。見なかった?」 「うん」  三恵子によると、社長室に置かれた荒城の荷物はそのままだという。 「それで、これからどうするの?」  三恵子に聞かれた。 「どうしよう」  探偵がいなくなっては、助手の仕事もない。 「じゃあ、街を案内しようか」  私はうなずいて、三恵子の申し出を受けた。  最初は、鉱山街の外れにある工場へ連れていってくれた。大きな煙突が十本以上もある立派な工場だ。中に入ると、異様な熱気とともに、強い硫黄臭が漂ってきた。この街へ来て硫黄の臭いにはずいぶんと慣れたが、ここは一段と強い。  工場内には、多くの溶鉱炉があって、幾人もの作業員が仕事をしていた。冬だというのに、男たちは上半身裸で、引き締まった身体に大量の汗を流している。スコップで溶鉱炉に次々と鉱石を入れている。顔が真っ黒で、こちらを睨まれたときは怖かった。 「ここは硫黄をつくるところ?」  私が聞くと、三恵子は、 「うん。それ以外にも、硫酸をつくったりとかね。むかしは鉄や金もここでつくってたみたい」  と答えた。実際には、いきなり鉄鋼やインゴットなどをつくったのではなく、鉱石からの中間生成物などをつくっていたようだ。 「なるほど。鉱石のまま運ぶよりも、精製して重量を減らしたほうが効率はいいのか」 「そうね。でも、鉱石のまま下まで運ぶこともあるし、いろいろよ」  次に郊外にあった病院や学校に案内してくれた。学校は、小学校、中学校、高校のすべてがそろっていて、近く定時制の高校までできるらしい。木造平屋建ての校舎だったが、すべてが真新しくて、立派な体育館もあった。  病院も鉄筋コンクリート三階建ての堂々たる建物だった。三恵子によると、松尾鉱山病院と並んで東北随一の設備がそろった病院らしい。鉱山関係者は実質的に無料で利用できるそうだ。鉱山と病とは切っても切れない関係だから、優秀な病院が必要とされているのだろう。  その後、「四場浦鉱山ホール」という立派な劇場に案内された。これも鉄筋の建物で、映画はもちろん、演劇や演奏会も行える設備があり、照明装置などは全国でも有数のものだそうだ。 「盛岡でもやってないような、最新の映画もやるんだから」  と三恵子は自慢げに言っていた。ここも鉱山関係者は無料のようだ。  劇場の看板には、『風と共に去りぬ』と『羅生門』のポスターが貼ってあった。私は両方とも観たが、前者はやたらと長くて途中で眠ってしまった。後者は、気鋭・黒澤明監督の作品で、一年ほど前に海外の映画賞も取ったのだったか。こちらはなかなかおもしろかったのを覚えている。  劇場のあとは、街の商店街や飲食店街を案内してもらった。銀座《ぎんざ》や関内には遠く及ばないが、それでも普段利用するには十分なほどの店舗がそろっていた。パンの専門店まである。居酒屋や食堂はもちろん、洋食屋まであった。  しかも物価が安い。山の上だというのに、横浜と同じかそれ以下の値段だ。三恵子いわく、「福利厚生ってことで、ほとんど原価で売っているの」とのことらしい。  そして驚いたことに、鉱山の人間は、これらの店を預金通帳ひとつで利用できるのだそうだ。 「普段、現金は持たないの。持つのは駄菓子を買う子どもくらいよ」  と三恵子は言っていた。 「ふむ……確かにこれなら、山を下りる必要はないね」 「ええ、盛岡に行くこともめったにないわね。周りの人がここに遊びに来るくらい。売ってるものも安いからね」  夕方になると、三恵子は「お父さんを風呂に入れてくる」と言って、自宅に帰っていった。午後五時すぎだったから風呂には早いような気もしたが、三恵子は「きょうは、夜から祭りがあるから、早めに入れておきたいの」と言っていた。「弁護士さん、暇そうだから、祭りに行くわよね。誘いに来るね」とも彼女は言っていた。探偵に見放された助手を哀れむようで、少し情けなかったが、暇なのは事実なので正直うれしかった。  さて、私は自分の部屋にもどって、祭りの始まる時刻までどうするか、押入れの中でひと眠りするか——などと考えていたら、柱時計の下に紙片が挟まっているのに気がついた。  帳面ほどの紙片には、新聞を切り抜いた活字で、こう書かれてあった。  出ていけ           6  飛び上がるほど驚いた私は、すぐに紙を持って部屋を出た。 「出ていけ」とはどういう意味か? 「鉱山街から出ていけ」とも読めるが、部屋に置いていったのだから、「部屋から出ていけ」と受け取るのが自然だろう。では、誰が書いて誰が置いていったのか? 脅迫状の文字は新聞の活字を貼り合わせたもので、誰にでもつくれそうだから、ここから犯人は特定できそうにない。  私があの部屋にいて不利益になる人間は——やはり、あの部屋にはかつて座吾朗が住んでいたのだろうか? そして、彼が何かしらを企んでこれを書いたのか?  だとすると、あの部屋は危険だ。本来ならまず荒城に知らせたいところだが、行方が知れないので、普通に警察へ行くことにした。  しかし、鉱山街の派出所へ行っても、応対してくれた警官(顔が大仏に似ていた)は、 「座吾朗の脅迫状? あんな人通りの多い場所に、座吾朗が脅迫状を置いていったのですか? こんなに警戒の厳しい状態で? 信じられませんね」  と言って、相手にしてくれない。  私は「不安なのです。何とかしてください」と食いついたのだが、大仏に似た警官は、 「いえ、我々だってね、お力になりたいんです。しかしですね、殺人事件があってからというもの、あっちで座吾朗を見た、こっちで見た、あるいは何かが無くなった——とか、もういっせいに住人が訴えてくる。細かいところまでいちいち構っていられないのが、正直なところですよ。たぶん子どものいたずらじゃないですか。鍵をかけていなかったのですよね」  と言うだけで、一向に信じてくれなかった。大仏なのに、言うことは冷たい。  確かに、「みんな鍵をかけてないよ」という三恵子の言葉を信じて施錠しなかったから、子どもでも部屋に忍び込むことはできただろう。それに指名手配犯の座吾朗が、あんなに人通りの多い長屋に忍び込んでくるとは考えにくかったし、大仏巡査の言うことにも一理あった。  がっかりと肩を落として交番を去ろうとしたら、 「あなた、あの天ぷら学生を知りませんか?」  と大仏が聞いてきた。 「え、真野原ですか? さっき、地下の空洞で捕まったのですよね」 「そうですが……」 「まさか……また逃げられたんですか?」 「そのまさかです。保護房に閉じ込めておいたら、まんまと逃げられましてね。とんだ大失態、警部から大目玉、そのせいでみんな出払っておるのです」  大仏は大きく息をついた。 「出たってどうやって?」 「それは秘密です。あなたに関係ないでしょう」  秘密とは言うが、大仏の渋い顔つきからして、単に言いたくないだけのような気がした。  その後は行くあてもなく、三恵子が来るまで部屋の外で待っていた。 「マア、脅迫状ですって」  祭りに誘いに来てくれた三恵子は、目を大きく開いて驚いていた。彼女が驚くのは何度目だろうか。  祭りには荒城も誘いたかったが相変わらず行方が知れないので、ふたりで行くことにした。祐子も事件の対応で忙しくて行けないらしい。  三恵子は白地に赤い小花模様の散った着物の上に、濃い臙脂《えんじ》色の羽織りを身に着けていて、手には上品な団扇《うちわ》と巾着《きんちゃく》を持っていた。この寒い中、団扇を持っているのは不思議に思ったが、祭りといえば団扇なのだろう。それぞれの価値は私にはわからないが、若々しく可愛らしくて三恵子に似合っているように感じた。とくに髪などは女らしく後ろで洋髪に結上げており、その外見は艶やかで、ひと目で三恵子とはわからなかった。羽織りの臙脂色に、丸みを帯びたうなじの白さが際立っている。歩くたびに薄い後れ毛が微風になびく。別段、着物の中身は三時間前と変わらないはずなのに、改めて女は服装と髪で大きく変わるのだと感心してしまう。  街を歩くにつれて、祭りの色が濃くなってきた。立ち並ぶ長屋の軒先には、祭りの会場でもないのに、それぞれの家が競うようにして綺麗に飾り付けしてある。ネジの向きが問題になった街灯にも、色とりどりの飾りが施してあった。  祭囃子《まつりばやし》の音も近づいてくる。喧騒も徐々に大きくなってくる。人も多くなってくる。子どもがたくさんわきを駆けていく。そのうちの何人かが私を見て、「あ、チンドン屋だ」「ジュウゴ、ジュウゴー」と叫びながら走り去っていった。それを見て私は、古今東西なぜに子どもはああやって意味もなく叫び、そして走るのだろうかという人類共通の疑問を改めて抱いた。あれはまことにエネルギーの無駄遣いだと私は思う。原子力の平和利用が一部で言われているらしいが、あのエネルギーも平和利用できないものかと考えてしまう。名づけるなら餓鬼エネルギーか。 「どうしたの? ぎろっとした目をして」  三恵子が話しかけてきた。 「いや、別に」 「ふうん」  餓鬼エネルギーの話をしても、彼女は共感してくれないように思った。 「冬に祭りというのも、珍しいね」  私は話題を変えた。 「これしか楽しみがないからね。年に何回も祭りがあるの。会社も全面的に支援してるのよ」 「いつもは、誰と来てるの?」  何気なく口に出た。 「え?」三恵子が立ち止まって私を見た。「あー」三恵子は満面の笑みを浮かべた。「そんなに気になる?」三恵子は大きな瞳で私を見た。「いつもは祐子さんと来たりする」三恵子はいつも相手の目を見つめて話す。「男のひととはいっしょに来てないよ」三恵子は薄化粧に濃い紅を差していた。 「同じ年代の友だちは?」 「いるけど少ないの。学校を出たら、山を下りて就職したり、お嫁に行ったりね。ここに残ってるのは、わたしと、病院で働いてる子くらい」  三恵子は寂しそうに言う。彼女も山を下りたいのだろうが、病気の父親を抱える身としては、そう簡単にここを離れられないのだろう。  祭りの会場のそばには数多くの夜店が立ち並んでいた。全部無料だという夜店のひとつに並んで、私は焼きトウモロコシと酒、三恵子は綿菓子をもらった。会場では大きなスピーカーから盆踊りの音楽が流されていた。そこで着物姿の人々が輪になって踊っている。  その光景を見ながら、ふと私は、荒城はどうしているのだろうと思った。  彼は相当に自信をなくしていたようだった。あれだけ自信たっぷりだった推理が不発に終わったのだから、気持ちはわかるような気がする。自尊心がひどく傷つけられたのだろう。彼は意気消沈して、帰ってしまったのだろうか? 途中で探偵の仕事を投げ出して、鉱山街を出ていったのだろうか? まさかそんなことはないと思うが——だとしたら、彼はどこにいるのだろう。彼だって、祭りが行われているのは知っているはずだ。どこかで祭りをぼうっと見物しているのだろうか。  そんなことを考えていると、三恵子が、 「ねえ、東京って、ここよりもずっと都会?」  と聞いてきた。 「ああ、うん。もちろん。最近は復興も進んで、立派な建物も増えたよ」 「東京の女のひとたちって、みんな雑誌に載ってるような恰好をしてるの?」 「そんなことはないよ。ほとんどは普通の服だよ。君の昼間の服装なんか、平均よりも垢抜けてるくらいだ」 「ええ、じゃあ、映画や雑誌に出てくる服装って、嘘?」 「うーん、嘘じゃないけど、一部だね。金持ちだけだよ」 「ふうん。でも、憧れるなあ。みんなお洒落で、ものがたくさんあるのよね」 「そうかな……ここも豊かで住みやすい街だと思うけど」 「わたし、一番遠くに行ったのは仙台《せんだい》だから……。東京は仙台よりも都会よね?」 「そりゃ、そうだけど……」  都会に対する過度の憧れがあるようだ。 「誰かわたしを連れ去ってくれないかな。お父さんといっしょに」  彼女が私を見つめてきたので一瞬どきどきしたが、「探偵さんって独身よね」と聞かれてがっくりと来た。 「雑誌では独身ということになっているね」  私は投げやりな気分で答えた。 「恋人はいるのかしら?」 「さあ、本人に聞いてみたら?」 「弁護士さんは?」  三恵子のかんざしが揺れて小さな金属音がした。 「いないよ」 「婚約者も?」 「同じ意味だよね」 「ふうん」  と言って三恵子は先を歩きはじめたので、彼女の表情は見えない。           7  祭りは人を迷子にする。  ふと立ち止まって、横を通り過ぎる大道芸人の姿に見とれていると、不覚にも、私は三恵子の姿を見失ってしまった。急いで人ごみの隙間を縫って先に進むが、三恵子の姿は見つからない。あまりにも人が多すぎて、自分がどの方向に向かっているのかもわからない。  なぜだか私はこの上ない不安というか、それにも増して強い寂寥感《せきりょうかん》に襲われた。思えば、鉱山に来てから行方不明だらけだ。警察に捕まった真野原、推理に自信をなくした荒城、そしていま三恵子が去っていった。私だけ取り残された気分だ。なぜみんな自分から去るのだと人波をかきわけながら思った。ひとりっきりの祭りは、なぜこんな孤独な気分になるのだろうと私は思った。  濃い臙脂色の羽織りを見つけた。髪も後頭部に団子ができていたので、「三恵子さん」と声をかけたが、振り向いた顔は別人だった。この恐怖。「すみません。人違いでした」と私は慌《あわ》てて謝る。続けてまた臙脂色を見つけた。しかし今度は慎重を期して、無理やり前に出てから、何気なく振り返る。別人だ。酔っているからか、三恵子は本当に私の前から姿を消したのではないかと、いっそう不安が増してくる。迷子以上に寂しいことがこの世にあるだろうか? 通り過ぎる人間たちが、自分とは無関係の人形に見える。  この感じ。むかし似た感覚を経験した覚えがある。何だろうと立ち止まって考えたら、結論は同じ祭りだった。私は子どものころ、母と近所の祭りへ行った。そして同じように迷子になった。同じように別の人に声をかけて、泣いた。笑顔の別人が鬼に見えた。そこから先は覚えていない。私はあのとき、本当に母親と再会できたのだろうか? 私は人よりも裕福な家庭で育ったが、この種の不安は、いつ感じるかは人によって違うとしても、どんな家庭でも、時代を超えて多くの子どもが感じるように思う。永遠にそばにいると思っていた人を突然に、予想外に失う深い悲しみ。大人になると徐々に忘れていく。私も忘れかけていたが、たったいま思い出した。  頭が痛い。まずは酔いを醒《さ》まそうかと、冷たい飲み物を得られる場所を探していたら、向こうからにぎやかな団体がやってきた。わっしょいわっしょいという、声というより音がする。神輿《みこし》だ。全員が法被《はっぴ》姿だった。その中に知った顔を確認した。荒城だ。           8 「いやあ、祭りってのは楽しいね」  と荒城は汗をぬぐいながら言った。こちらの心配をよそに、彼は存分に神輿を楽しんだらしい。祭りを満喫し神輿をかつぐ探偵なんて、私は初めて知った。 「静かな場所に行こう」と言う荒城に従って、ふたりで歩いていく。  街の外れまで来て、適当に座れそうな石を見つけたところで、私たちは腰を下ろした。ここまで来ると、祭りの音はほとんど聞こえない。光も少ない。遠くには雪肌に包まれた四場浦連峰が見えて、私たちが腰を下ろしている周りにも薄く雪が積もっている。眼下にはゆらゆらと揺れる雲海も見える。やはりここは雲の上の世界なのだと実感する。 「どこへ行ってたんだ。みんな心配してたよ」  私は、法被姿の荒城に話しかけた。 「心配? ぼくを?」 「うん」 「ははは、悔しかったのは事実だけど、あれくらいでどうかなるってことはないよ。よくある話だ。若いころは、ぼくだってたくさん失敗した」と二十代後半の荒城が言った。そして「雑誌には書かれていないけどね」と付け加えて微笑した。 「いままで何をしてたんだ?」 「鉱山街を見物していた」 「へえ、ぼくも三恵子さんに案内してもらったよ」 「君もか」荒城は立ち上がった。体格がいいからか法被もよく似合っていた。「ぼくはな、この事件は現場だけを見ていても解決できないような気がするんだ。思っていたよりもずっと奥が深い。そして複雑だ。いままでぼくの関わってきた事件のように、閉鎖された空間と、限られた人間だけを見ていては解けないと思っている。だから街を観察して、空気を見ながら、この事件の背景を考えていたんだ」 「背景? 動機のことか?」 「それもある。しかし、もっと広い話だ。その動機はなぜ生まれたのか? なぜあの事件が起こったのか? それ以前に、どうしてあの状況が生まれたのか? だって、鉱山の奥に地下牢があって、そこに二十三年間閉じ込められていた男が存在したというだけでも特殊だろう? 都会ではあり得ない話だ。ここは特殊な世界だ。雪の山荘や、山奥の館とはまるで違う。街がまるごと山の上にあるわけだからね。戦後の貧困からも切り離されていた異世界だ。別の世界、別の法則、別の歴史、別の人種が、ここにはある。まだぼくの知らない施設だとか道具だとかがあるかもしれない。まだ登場していない未知の人物がいるかもしれない。街を観察しながら、それを考えていたんだ」 「特殊な世界か……」  確かにそれは私も感じていた。ここには、東京や横浜とは異質の空気が流れている。 「神輿をかついでいたのも、そのひとつだよ。街の人間の生活を実感したかった。そこから、もしかしたら脱獄トリックの手がかりが得られるかもしれない。ぼくの知らない道具や考え方を使ってね」  知らない道具や考え方——私も見たあの鉱山街に、脱獄に使えそうな道具はあっただろうか? 映画館、学校、工場、デパート——思い出してみたが心当たりはない。 「あの推理は残念だったね……」と私は言った。 「ああ、別になぐさめてくれなくてもいいよ」荒城は笑顔で言う。「あれは、明らかにぼくの失敗だった。少し解決を急ぎすぎたようだ」荒城はまた石に腰をかけた。  そういえば荒城は、ふんどし姿のまま冷たい石に座っているが、それで寒くないのだろうかと心配になってくる。実際、よく見たら彼の尻は小刻みにぶるぶると震えていた。恰好の良い探偵もたいへんだなあと思う。 「そういえば、座吾朗はなぜ閉じ込められていたんだろう?」  私は荒城に聞いた。 「伝染病というのは嘘だろうな。隔離というのはよくある話だけど、それにしても、ああやって誰にも知られないように幽閉するのはおかしい。伝染病なら、あそこまで鉱山街の人たちに隠す必要はない。存在さえも隠されていたわけだからね」 「じゃあ、なんだ?」 「さあね。そこには隠された過去があるのだろうな。知りたいけど、幽閉していた本人・三河正造は殺されてしまったし、看守の恩田も知らないという。ほかに知っていそうな人間は、ほとんど鉱山を離れていったらしいし……知っているとしたら、四場浦デパートの田子沢くらいだ」 「ああ、そうか。田子沢さんに話を聞けばいいのか」 「もう、聞いたよ」荒城はため息をついた。 「え、いつの間に?」 「夕方、四場浦デパートに行って、ようやく捕まえた。しかし、『知らない』の一点張りだったよ。彼も伝染病だと思っていたみたいだ」 「本当かな……」 「嘘だろうね。しかし『次にあなたが死んでもいいのですか』と脅しても駄目だった」 「次に狙われるとしたら、田子沢さんなのか?」 「その可能性が高いだろうな。あるいは、まだぼくたちが知らない未知の人物かもしれないが……それはわからない」 「田子沢さん、大丈夫かな……」 「しばらくは大丈夫だと思うよ。警官がひとりついているしね。それに『絶対、鉱山の中に入らないように』と念を押しておいた」 「なぜ? 危険だからか?」 「そうだ。座吾朗が潜んでいるだろうからね」 「座吾朗は鉱山内にいるのか……」 「ああ。いくら鉱山街に人間が多いからって、せいぜい一万人ちょっとだからな。近所の目もあるから、住人になりすますのはかなり難しい。かといって街のどこかに隠れるくらいなら、鉱山内に身を隠していたほうがいい。ここの鉱山内にあるすべての坑道を一本につなぎ合わせると、ゆうに七〇〇キロメートル以上はあるそうだからね」 「七〇〇キロ……」  東京から青森くらいまでの距離だ。 「それだけの坑道が、複雑に、網の目のように張り巡らされている。江戸時代のものまで多くある。そしてそのほとんどが現在、使用されてないそうだ。座吾朗は鉱夫だったし、古い坑道に詳しいだろうね。仮に見つかったとしても、逃げ道を熟知していれば、逃げとおせる可能性が高い」 「なるほど……」  こうしている現在も、座吾朗が鉱山内を徘徊しているということか。 「だから、もし殺人が実行されるとしても、鉱山内だと思う。まさか、警戒が厳重な鉱山街ではやらないだろう。やるとしても、時間が経ってからだね。警戒がゆるくなってから第二の殺人を実行する可能性はある」 「鉱山内に身を隠して、機会をうかがっているということか」 「そうだ。だから、根比べだな。警察が音を上げて警戒をゆるめるか、追い詰められた座吾朗が失敗を犯すか、それとも探偵・荒城咲之助が勝利するか」  そう言って、荒城は頭に手をやって微笑した。手が空《くう》を切ったように見えたのは、帽子を触ろうとしたのに、現在は鉢巻きなものだから空振りしたのだろう。法被にふんどし姿だから、決めポーズもどこか間抜けである。 「君は解決するまでここにいるつもりかい?」  私は聞いた。 「当然だ。ぼくは荒城咲之助だ。罠もたくさん張る予定だし、君もできる限り協力してほしい」と言ってから、荒城は目つきを鋭くして、「絶対に負けない」「これ以上、死者を出してたまるか」と付け加えた。 「そういえば……」と私は口を開く。「脅迫状が届いたんだ」 「脅迫状?」  私は、部屋に届いた脅迫状のことについて、荒城に説明した。話を聞き終えて、 「ほう……それは一度、部屋を見てみたいな……」  と荒城がつぶやいたとき、 「荒城さん!」  という女の声が後ろから聞こえた。振り向くと、祐子がこちらに走ってくるのが見えた。 「こ、荒城さん!」  と祐子が立ち止まって繰り返した。いつも冷静な彼女にしては、落ち着きが感じられない。 「どうしたのですか、あなたらしくない。取って置きの着物が虫にでも食われましたか」  ふんどし姿の荒城が立ち上がった。 「た、田子沢さんが……殺されました!」 「そんな馬鹿な……」  と荒城は目の前の光景を見て言った。  最初の現場は、鉱山街の端に位置する工場の裏側だった。本格的な捜査はまだ始まっていないらしく、二人の警官が「こら、もっと下がれ!」と野次馬を整理していた。  そこは工場の裏側の空き地で、資材や建設機械がいくつか置いてあるだけの寂しげな場所だった。遠くから街の光が少し射しているだけの薄暗い場所である。そこで、野次馬の何人かが持っていた明かりが、盛んに動きながら、二つの場所を照らしていた。  ひとつは、クレーンに吊り下げられた首なしの死体だった。見覚えのある服装、体型——確かに田子沢のようだ。死体はワイヤーのようなもので胴体からつるされていて、ぷらんぷらんと風に揺れている。首からは生々しくぽたぽたと血がたれていて、地面に血溜りができていた。死体が苦手な私は、猛烈な吐き気がこみ上げてきた。 「馬鹿な……。なぜ犯人は、鉱山の外で、こんな馬鹿なことを……」  荒城は呆然《ぼうぜん》と死体を見つめながら、そう繰り返した。  もうひとつの照らされている場所は、工場の壁だった。そこには、大きく〈つ〉と書いてあった。字の大きさは、一辺五十センチほどだろうか。赤黒いインクのようなもので書かれているから、恐らく血だろう。かすれている場所もあるので、慌てて書いたようにも見える。途中で血を注ぎ足したからか、〈つ〉の右側から血が滴り落ちていた。 「首は?」  放心する荒城の代わりに、私が祐子に聞いた。 「見つかってないと思いますが……わかりません」 「じゃあ、第二の現場へ……」と私は祐子に言ってから「おい、荒城」と彼に声をかけた。 「あ、ああ……」  荒城は元気なく答える。正直、血が苦手な私は逃げ出したい気分だったが、落ち込む荒城を見てからは「私がやらなければ」と妙な使命感に支えられていた。首なし死体を見て、逆に度胸が据《す》わったのかもしれない。  祐子を先頭に歩きはじめると、 「荒城さん! 探偵の荒城さんじゃないですか!?」  と後ろから声をかけられた。暗くてよくわからなかったが、二十代の男のようで、大きなストロボのついたカメラを胸に抱えている。たぶん雑誌記者だろう。  荒城は、きっと振り向いて、 「そうだ、荒城咲之助だ! 失敗してさぞうれしいだろう。隠れもしない、ぼくはここにいるぞ!」  と男に向いて叫んだ。飛びかかりそうな勢いだったので、私は「行こう」と彼の腕を引っ張る。  第二の現場にも、人だかりができていた。第一の現場から三十メートルほど離れた場所で、道とも空き地とも取れる中途半端な場所だった。ここも薄暗い。この鉱山街は、禿山の更地にぽつんぽつんと建物があるので、こういう場所が多い。  ここでも警官が「こら! 立入禁止だと言っておるだろう!」と野次馬を追い払っている。現場が二つあって、警察も混乱しているようだ。  人をかきわけて、私たちは人垣の中心へと近づく。  警察官の後ろに、死体が倒れていた。長身の制服姿だった。妙な偽装がされていない限り、田子沢を護衛していた警察官と見ていいだろう。身体のあちこちに血の点が見られる。どこかを刺されたのだろうか? 「ほかに覚えてることは!?」  という聞き覚えのある男の声が聞こえた。声の主を見ると、蓑田警部だった。  蓑田警部が、男を問い詰めているようだ。 「へえ……暗くて見えなかったので……」  問い詰められている男には、見覚えがない。作業着を着ているので、工員だろうか。 「思い出せることなら、何でもいいんだ」 「そう言われましても……見たのは一瞬だったので……」 「本当に座吾朗だったんだろうな!?」 「いえ、ですから、私はその座吾朗って男を知らないので……勘弁してくださいよ。私は見たってだけで……」  蓑田と男は問答を繰り返している。 「怪しい男が目撃されたのかな」  私がもらすと、突然、 「鉱山の入口だ!」  と荒城が叫んで、法被にふんどし姿のまま走り出した。  私は荒城を全速力で追いかけたが、途中で一度見失ってしまった。「鉱山の入口」という言葉を頼りに、記憶をたどりながら事務所の近くに到着すると、荒城が、鉱山の入口にいた警備員と問答をしていた。 「くそっ、おれはなんて馬鹿なんだ!」  荒城は肩を落として、私に近づいてきた。 「どうしたんだ? ここに何かあるのか?」 「座吾朗が逃げ帰るとしたら、当然、鉱山の中だろう!」と荒城はいきり立ったが、私に怒っているわけではなくて、自分自身に対して怒っているようだった。「しかし、おれは馬鹿だ。大馬鹿だ。座吾朗が正面から帰っていくわけがないじゃないか……くそっ」  そのとき、後ろから、 「もう、せっかく見つけたと思ったら……なんで、そんなに速いの……」  という女の声が聞こえた。  三恵子が息を切らしながら立っていた。彼女は着物の股を割って、両手で裾《すそ》を膝の上まで上げており、太ももの近くまで脚を見せていた。裸足で、右手に草履を持っていて、着物には泥がついていた。急いで追いかけてきたようで、額には後れ毛が一本、汗に濡れて張り付いている。 「三恵子さん!」荒城が叫んだ。「君は女神だ!」荒城は三恵子に近づいて、両手で彼女の両肩をしっかりとつかんだ。  三恵子は「え」と戸惑っている。 「君が祐子さんよりも、ずっと美人であることは認める。モダンで、ハイカラで、この鉱山で一番の女神は君だ。だから答えてくれ。ここ以外に、鉱山の入口はどこにある?」  荒城の両腕は震えていた。 「入口?……ええとね、ここから少し行ったところに、機械を入れたりする入口が……」 「違う、それはさっき彼に聞いた!」荒城は手で警備員を示した。「君に聞きたいのは、誰もが知らないような入口だ。この鉱山で育ったのなら知ってるだろう? 子どものころ遊んだだろう? 忘れ去られた入口で!」 「ああ……」 「知ってるか?」 「うん……いくつかあるわ。ひとつは、半分以上くずれて……」 「わかった! 聞いている暇はない。君の主観でいいから、ひとつにしぼってくれ。座吾朗が誰にも見られずに、いかにも出入りしていそうな入口を……」 「あ……うん……」  三恵子が考える素振りを見せた。 「わかったかい? いいんだ、君の考えで。そこへ、おれたちを連れていってくれ」 「わかった!……こっち!」  三恵子は草履を放り出して、小走りで駆け出した。  三恵子は両手で着物の裾をたくし上げながら、大股で山の斜面を駆け上がっていく。法被にふんどし姿の荒城がそれを追いかける。私の目の先で、三恵子の白い太ももと、荒城の白い尻が揺れる。ふたりとも裸足なのに器用なものだなと感心した。不器用な私などは、暗い夜道で何度も転びそうになったくらいだ。 「確か、あのへんだと思ったけど……」  三恵子が立ち止まって、山の上のほうを指差した。そのとき荒城が、 「おい、おまえ!」  と大声を張り上げた。  三十メートルほど先の山の稜線《りょうせん》で、動く物体が見えた。人間か。 「おい、止まれ!」  さらに荒城が叫ぶと、物体の移動速度が上がった。やはり人間だ。  荒城は走り出す。私も三恵子も追いかける。  途中、人間が立ち止まって、こちらを向くのが見えた。その瞬間、雲上都市の薄明かりを背にして、ひとりの人間の姿があらわになった。一瞬のことだったが、その印象はあまりに鮮烈で、いまでもよく覚えている。体型から察するに男だ。百八十センチはありそうな長身で、古びた作業着を着ているようだった。長髪で、猫背で、口にマスクをしていたようだったが、逆光のため顔はよくわからなかった。怪しい眼光を目撃した気もするが、これは雰囲気に呑まれたための錯覚だったかもしれない。  男は背負っていた棒をこちらに向けた。直後、バアンという轟音がした。荒城の足元で砂煙が舞った。一瞬、荒城は立ち止まったが、 「猟銃だ! 散弾銃だ! 逃げろ!」  と三恵子に言うやいなや、また走り出した。私も後を追う。  またバアンという音が続けて三回鳴った。 「くそっ」  荒城はそばにあったドラム缶に身を隠す。十秒ほど待って、荒城がドラム缶の陰から顔を出すと、また銃声が鳴った。 「ちくしょう……ここまで来てるのに……」  荒城は左手を押さえながら、吐き捨てた。見ると、荒城の左手から血が流れていた。 「おい、大丈夫か?」 「大丈夫だ。直撃はしてない。弾丸が地面に当たって、小石が跳ねただけだ」  荒城は厳しい目つきをしながら答えて、ドラム缶の向こうを覗《のぞ》き見る。  息を潜めて何分か待った。唾を何回も飲み込んで、途中からは唾が涸れた。私には十分以上に思えたが、実際は数分だったのかもしれない。 「行こう」  荒城が震えた声で言って、ドラム缶からそっと出る。  荒城を先頭にして、私たちは恐る恐る丘を上った。慎重に歩みを進めながら目を凝らすが、人間の気配はない。途中から荒城は小走りで駆け上がった。探偵とはいえ、たいそうな勇気の持ち主だと思いながら私もそれに続く。  鉱山の入口らしき場所にたどり着いた。斜めの山肌に、人間がひとり、やっと入れそうな穴が開いていた。入口の横にぼろぼろの板が置かれている。これで閉じられていたようだ。 「逃げられたみたいだな。いずれにしても、いまの時点でこれ以上進むのは危険だ。……三恵子さんが心配だ。もどろう」  荒城の声は、まだ小刻みに震えていた。下りる途中、荒城は「くそっ、ここまで追い詰めたのに……」と何度も舌打ちをした。元の場所にもどると、着物姿の三恵子が地面にうずくまって、しくしくと泣いていた。  それから二時間ほど派出所で事情聴取を受けたあと、私たちは帰された。警察は即、鉱山内の大捜索をかけはじめたようだったが、荒城は、 「捕まえるのは無理だよ。鉱山は座吾朗の庭だ」  と吐き捨てるように言った。確かに、坑道の総延長が七〇〇キロもあると、隅々まで捜すのは困難だろう。そして彼は「捕まってたまるか」とも言っていた。それは絶対に自分が捕まえてやるという決意表明にも聞こえた。本来なら、帰る前に警察から情報を引き出したいところだが、それにしては私たちは疲れすぎていた。さすがの荒城も「ゆっくりと考えたい」と疲れた様子で言っていた。  派出所を出たときには、午前一時を回っていた。いまからあの部屋に帰らなければならない。虫の問題は押し入れで寝れば何とかなるとして、気になるのは、座吾朗があの部屋にやってこないかどうかだ。しかしこれは新たな殺人事件の直後だし、警察の監視も厳しいから大丈夫だろうと考えた。  鉱山街を歩いていても、制服姿の警察官を何人か見かけた。警察官以外に、鉱山の警備員ともすれ違った。他にも、二十四時間眠らない街とあってか、何人かの人間と行き違う。  自分の部屋のある長屋までやってくると、家の玄関付近で焚き火をしている者たちがいた。三人の男が焚き火を中心に、酒盛りをしているようだった。見かけから察するに、鉱夫のようだ。 「やあ、あなたが弁護士さんですかい?」  男のうちのひとりが、顔を真っ赤にしながら話しかけてきた。 「は、はい」  私は戸惑いながらも答える。何者だろう? 「そうですか、どうぞ、よろしく」  男たちは笑顔で「よろしく、よろしく」と挨拶してきた。 「はあ、よろしく」 「寒い中、ずっと待ってましたよ。……ところで、鍵が開いてないのですが」 「は? 何か御用ですか?」と私はたずねる。 「あれ、聞いてないか。三河さんから」と髭の男が言う。 「社長から? 何でしょう?」 「怪しいやつがこの部屋に忍び込んだんですよね。おれたちは、監視役を命令されたんです。三人いれば安心ですよ。……ささ、早く鍵を開けて」  どうやら彼らは、夜通し、私の部屋に居つくつもりらしい。ひどく迷惑な話だが、彼らがいれば安心というのはもっともだし、何よりも疲れていたので断る気力がなかった。私はうながされるままに部屋の鍵を開けた。 「ひゃあ、中は暖かいなあ」  と男のひとりが言いながら、部屋にあったストーブを点《つ》ける。別の男が厚手の敷物を広げて、その上に麻雀パイを出した。そうして麻雀兼酒盛りが始まった。 「仕事で麻雀やるのは楽しいなあ」 「たくさん、酒をもらったしなあ」 「こうやって一生暮らしたいなあ」  などと男たちは楽しそうに話していた。  私は彼らを無視して押し入れに入った。そして毛布を頭からかぶって、目を閉じて寝ようとしたが、時おり聞こえてくるジャラジャラという音と、男たちの声がうるさくて眠れない。疲れているのにさっぱり寝つくことができない。声にはすぐ慣れたものの、あの突発的に発生するジャラジャラは気になって仕方がなかった。追い出したいところだが、彼らも寒い中、三河の命令に従って待っていたのだと思うと、気の毒で言い出せない。  しかし、彼らはあそこにいて虫に刺されないのだろうか? 私は押し入れの襖《ふすま》の隙間から覗き見た。すると、ひとりの男の背中から首筋に向かって、虫が駆け上っていくのが見えた。しかも一匹だけじゃなくて三匹も四匹もいる。虫たちよ頑張れ、頑張って彼らを追い出してくれ、と私は心の中で生まれて初めて虫を応援した。  ところが、男は一向に頓着しない。いかに鈍感でも神経はあるはずだが、気にする様子はない。何匹か襟元から中に入っていったのに、男は微動だにしなかった。そして彼は埃を払うように手で残りの虫を払って、また麻雀に熱中するのだった。慣れとは恐ろしい。共生とはこういうことなのかと私は呆れ果てた。 「弁護士さん、いっしょにやりましょうよ」  と男が笑顔で話しかけてきた。私はいったん断ったが、やはりジャラジャラで眠れない。結局押し入れから這い出して付き合うことになった。 「四人だとやっぱり楽しいなあ」 「いや、おれは三人のほうが早くて好きだけどなあ」  などと男たちは上機嫌で麻雀を打っていた。           9  翌朝は、三恵子の「マア、なんて恰好!」という声で起こされた。 「朝食に来ないから、心配してたら……」  三恵子は部屋を見渡した。畳の上には私を含めて四人の男が雑魚寝をしていて、その周りに酒瓶や食いカスが散乱している。男なら経験済みだろう、徹夜明けの男所帯の、あのひどい光景だ。 「ずっと飲んでたの?」と三恵子に聞かれたが、よく覚えていない。「なんで急に酒盛りなんかしてたの?」とも聞かれたが、頭が痛くて事情を話す気にならなかった。  三恵子に連れられて、荒城の部屋へと向かった。荒城は、鉄筋アパートの空き部屋に滞在しているらしい。さすがに探偵、助手の私と差別されている。 「ねえ、わたしも行っていい?」  アパートの前に来たところで、三恵子が言った。 「え?」  これからどうするかは、まだ決めていない。荒城と話し合ってから決めるつもりだった。 「調査! 事件の調査をするんでしょう?」 「そうだけど……やっぱり駄目だ」  鉱山に詳しい三恵子といっしょに調査するのも悪くないかとも思ったが、私は断った。 「なんで? わたしだって役に立つよ」  三恵子は不満そうに言った。きのうは銃撃を受けてあんなに泣きじゃくっていたのに、一晩寝て元気を取りもどしたようだ。女は強い。 「そういう話じゃなくて……君だって、きのうわかっただろう? 調査は危険だ。何が起こるかわからないからね。……さ、君は帰って」  と私は三恵子を無理やり帰す。これ以上、三恵子を巻き込むわけにはいかない。私だって帰りたいくらいだ。  鉄筋アパートで荒城と合流すると、彼は真っ赤な目を見せながら、 「眠そうだね。君も考え事をしてたのかい?」  と聞いてきたので、私は「まあね」と答えておいた。ドア越しに、鉄筋アパートの彼の部屋を見たが、広くて快適そうで、これなら無理にでもここへ泊めてもらえば良かったなと後悔した。  そして荒城が「祐子さんのところへ行こう。何か新しい情報が入っているかもしれない」と言うので、我々は鉱山事務所へと向かった。 「おはようございます。お待ちしていました」  事務所の秘書室で、祐子が目を真っ赤にして言った。彼女もほとんど寝ていないようだ。 「警察からいろいろと情報が入ってきています」と祐子はさっそく本題に入る。「首なし死体は、まず田子沢さんで間違いないそうです。服装や体型だけではなくて、家族にしかわからない特徴があったようです」 「ふむ……首を切ったのは偽装じゃないということですね。死因は?」  荒城が祐子に聞いた。 「二人とも身体に散弾を撃ち込まれていたようですが、それが直接の死因ではなさそうです。死因は、出血多量による失血死と推測されています。二人とも首筋にナイフによる切り傷があったので、そこから出血して死んだのだと思われます」 「すると、散弾銃を撃ち込まれてから、ナイフで首筋を切られて殺された。その後、田子沢さんだけ首を切断された——ということですね」 「はい。切断したのこぎりは近くに落ちていましたが、どこにでもあるようなものらしいです」 「どちらが先に死んだかはわかりますか?」 「ほぼ同時刻だそうです。ただ、現場に残っていた血痕を調べたところ、警官の血の上に、田子沢さんの血が複数か所見つかっているので、警官が先に死んだのではないかと推測されています」 「死んだ場所は?」 「現場にあった血痕から推測するに、警察官は、死体のあった場所で死んだと思われます。一方田子沢さんも、死体のあった場所——クレーン付近で殺されて、そこで首も切断されたようです」 「銃はどこに撃ち込まれてましたか?」 「警官は背中に、田子沢さんは腹部に向けて撃ち込まれたようです」 「なるほど、とすると、こんな感じか。——まず護衛の警官が背後から散弾銃で撃たれた。その後、ナイフで首筋を切られて殺された。田子沢さんは銃で脅されて、クレーンの近くまで連れていかれた。そこで容赦なく殺された。そして首を切断されて、クレーンに吊り下げられた……」 「はい、警察もそう考えているようですね」 「目撃者は? 銃声やクレーンの動く音を聞いた人間は?」 「いまのところ見つかっていないようです」 「え……ひとりも?」 「はい。元々、夜に人が出入りしない場所だということもありますが、きのうは祭りがありましたからね。工場も昼までで終了です」 「くそっ、祭りの夜を狙われたということか……」 「はい。目撃した人間もたまたまあの付近を通って、小用をするためにあそこへ行ったようです」 「目撃者というのは、きのう、蓑田警部に問い詰められていた男ですか?」 「いえ、別の人間です。問い詰められていた男は、死体が見つかったあとに野次馬として現場に行って、『そういえば、さっき』と思って警部に申し出たそうです」 「男の特徴は? その男は何と言ってます?」 「暗くてよく見えなかったそうです。ただ、マスクをして急ぎ足で歩いていく男を見て怪しいと思っただけだそうで……荒城さんたちのほうが、はっきりと見ていたようですね」 「血の文字については、何かわかってますか? あの〈つ〉という文字です」  私は聞いた。 「ひとつ目の殺人事件と同じように、田子沢さんの手を血で濡らして書かれていたそうです。それ以外はまだわかっていません」 「鉱山内での座吾朗の捜索はどうなっていますか?」  荒城が祐子に聞いた。 「苦戦しているようです。足跡は入ってすぐのところで途切れていました。相手が銃を持っているということで、現在、三人一組、合計五組の捜査員が捜索に当たっていますが……鉱山内は広いですからね。立体で入り組んでいてまともな地図はありませんし、古い坑道が多いものですから、全貌を知っている人間もいません。ただ、きょうから新たに三十人近くの捜査員が投入されるそうです」 「ところで、恩田さんは釈放されないのですか? 今回の事件で、恩田さんの疑いは晴れましたよね。少なくとも恩田さんが主犯ではない」と私は祐子に聞いた。 「それがですね……」  祐子は躊躇《ちゅうちょ》するような態度を見せた。 「どうかしたのですか?」と荒城が祐子に言った。 「警察が恩田さんの過去を調べたところ、はっきりしないようなのです」 「恩田さんの過去?」 「はい、ここの鉱山に来る前のことですね。恩田さんの証言によると、両親とは十五歳のころに死別。その後、恩田さんはひとりで全国の鉱山を転々としたらしいのですが……。警察としても、この鉱山に来る前の恩田さんの過去を調べているものの、全く裏が取れていないそうです」 「つまり、この鉱山に来る前の恩田さんを知っている者が見つかっていないと?」 「そういうことです」 「鉱山に、何らかの記録は残ってないのですか?」 「はい。以前にも申しましたとおり、むかしの恩田さんを知っている者もいません」 「すると仕方ないか……まだ恩田さんが捕まってから二日しか経《た》っていませんからね。警察といえども、二十年も前のことだし、調べるには時間がかかるでしょう。恩田さんの戸籍は存在するのですよね?」 「はい。戸籍は恩田さんの言うとおりに移動していますし、両親も亡くなっています。ですから、嘘をついたと確定したわけではないですが、どうも怪しいと……」 「ふむ……恩田さんには人に言えない過去があるのかな……」  荒城は顎に手をやって、考える素振りを見せた。 「そういえば、三河社長はどうしてるのでしょう? きのうから見かけませんが」  私は祐子にたずねた。ぜひ会って、私の部屋に来た男たちのことを何とかしてもらいたい。 「社長は、家に閉じこもっています。『今度は自分じゃないか』って、三人の屈強な鉱夫といっしょに……」  祐子は疲れたような笑みを見せた。 「ははは、田子沢さんは警察の護衛があっても殺されたわけですからね。無理もないか」  荒城は笑った。 「真野原はどうしたかわかりますか? きのう、また警察から逃げたらしいですが」  と私は聞いた。 「また捕まったようです。祭りで、焼きイカをもらおうとしたところを捕まったらしくて……あの恰好は目立ちますからね」  と祐子は苦笑した。苦笑いも魅力的だ。 「それは、死体が見つかる前ですか?」と私は聞く。 「ええ、死亡推定時刻よりも、ずっと前です」  とすると、真野原には完全なアリバイがあることになる。怪しい行動を取る彼を疑ったこともあったが、彼は無関係のようだ。 「ところで、恩田さんは何者なんだろう?」  祐子と別れて事務所を出たところで、私は、荒城に聞いた。 「さあね。何か隠していそうな気がするけど……」 「隠しているって何を?」 「それはわからない。しかし、二十年も看守をしていたのだからね。普通じゃ考えられないよ。下手すりゃ、犯罪行為だ」 「金をもらっていたんじゃないのか? 戦前は東北も飢饉があって、たいへんだったと聞いているから……」  この鉱山で裕福な暮らしができるなら、十分にあり得るように思った。 「そうかもしれないね。しかし、それ以外の理由も考えられる。たとえば、弱みとかね」 「弱み……」  人を殺す危険を冒《おか》してまで看守をする弱みとは何だろうか? 「それをいまから確かめに行こう」  荒城は歩きはじめた。 「どこへ?」 「令子さんのところだ」  荒城は歩く速度を上げた。  令子は、荒城が滞在しているアパートの隣の棟に住んでいた。 「何もなくてすみません」  令子は私たちを快く招き入れてから、茶をいれてくれた。  部屋の中は暖房が効いていて暖かく、六畳二間に家具がたくさんあって生活感がある。部屋の隅にあった箪笥の上には、古びた写真が一枚かざってあった。  写真は宴会の一風景を写したもののようで、二十人近い人間がこちらを見て笑っていた。中心にいる女性は、若いころの令子のようだ。現在の令子も美しいが、若くて健康なころの令子はいっそう美しかった。日本画のモデルのような線の細い美人で、まるで女優のようだ。その隣で寄り添うように座っている男性は、恩田か。こちらはどこにでもいそうな平凡な顔つきだったが、その笑顔からは幸せがあふれ出ているように見えた。二人とも礼服を着ていたので、結婚披露宴の写真のようだ。 「恩田さん、なかなか釈放されないようですね」と荒城が茶をひと口飲んでから言う。 「はい……」  令子は暗い表情を見せた。 「恩田さんが主犯でないことは証明されましたが、まだ座吾朗の脱獄を助けた疑いがありますからね。だから、ぼくにはすべてを正直に話してください。いいですね」 「わかりました」と令子はうなずいた。 「座吾朗とは何者なのでしょう? あなたは、恩田さんが看守をやる前から、知っているのですよね?」  と言って、荒城は令子をじっと見つめた。 「はい……でも、よくは知らないのです。もともと父が看守をやっていて、わたしも言われたとおりに手伝っていただけで……夫が看守を始めてからも、同じようにやっていただけです」 「座吾朗と話もしなかった?」 「はい……話すことを固く禁じられていたので……」 「では、前の社長や田子沢さんは、座吾朗について、何か言っていませんでしたか? あなたは、二人とも古くからご存じのはずですよね。なぜ二人は殺されたのでしょう? 心当たりは?」  そうして荒城は、しばらく殺された二人について令子に聞いていたが、これといって参考になりそうなことは聞き出せなかった。 「そうですか……」荒城は息をついて茶をひと口飲んだ。「では、一番重要なことを聞きます。いったい恩田さんは何者なのでしょう?」  荒城がそう聞くと、令子の表情が突然強張るのがわかった。 「何者とは……わたしにとって、良い夫ですが……」 「警察が恩田さんの過去のことを調べているようですが、裏が取れなくて困っているそうですね。恐らく、あなたも警察に聞かれたでしょう」 「荒城さんも夫を疑っていらっしゃるのですか?」 「いいえ、ぼくは真実を知りたいだけです。恩田さんは、この鉱山に来る前、どこで何をしてたのですか?」 「東京で、様々な職業に就いていたと聞いています。日雇いの工夫とか警備員とか……」 「恩田さんは、どこの出身なのでしょう?」 「青森の小さな村で生まれたと聞いています。それから東京で先代の社長に出会って、ここに勤めはじめたと聞いてますが……」 「青森の出身ですか。青森のどこで?」荒城は問い詰めた。 「それは知りません」 「ほう、愛するご主人の出身地も知らないと」 「夫は、あまり過去のことを話したがらないのです。家族は幼いころに亡くしたと聞いてますし、わたしにとっては現在の夫が大切なわけで、とくに聞きたいとも……」 「ふうん、そういうものですか」荒城は皮肉な調子で言った。  すると、令子はうつむいたまま、「う、う」と泣きはじめた。そして、 「本当に知らないのです。わたしたちを疑わないでください」  と涙ながらに訴えかけてきた。 「いいですか、令子さん。隠し事はよくないですよ。あなたたちに危険が及ぶ可能性があります。ぼくはいつでも待っているので、気が変わったらぼくのところへ来てください」  荒城は立ち上がった。 「令子さんは、何かを隠しているのかな?」  アパートを出てから、私は荒城に聞いた。 「あの態度からすると、隠してるだろうね」荒城は大きく息をついた。 「これからどうしよう」私は荒城に聞いた。鉱山で聞き込みのできる人物はもう思い当たらない。「きのうの現場を見に行くか?」 「現場は警察が入念に調べているよ。どうせ立入禁止だろう。それよりも、君の部屋を見せてほしいんだ」 「……ああ、脅迫状のことか」  きのうから第二、第三の殺人に追われていて、すっかり忘れていた。「ぼくの部屋に何かあるのか? 警察はいたずらと言っていたけど……」 「その可能性もあるね。まずは現場を見てみよう」  しかし、部屋にいた三人の男にも手伝ってもらって床の下まで捜索したが、怪しいところはどこにもなかった。周囲に住む人間に聞き込みもしたが、同様だった。 「現時点ではこれが限界だ」と荒城は残念そうに言っていた。やはり脅迫状は子どものいたずらだったのだろうか?  ひと通り部屋を探し終えて、さてどうしようかと途方に暮れていたとき、長屋の戸を叩く音があった。扉を開けると、見覚えのある二人の子どもが立っていて、 「探偵さん、見つけたよ!」  と先頭の子どもが興奮した口調で言った。きのう旗を持って鉱山街を行進したときに、あとをついてきた子どもたちだ。 「お、何を見つけたんだい?」  と後ろに立っていた荒城が、優しく子どもに話しかけた。 「座吾朗を知ってるひと! すぐ来る!」  二人とも興奮していたので要領を得なかったが、ようするに、座吾朗を知る人間を見つけて、いまから他の子どもがその人間をここへ連れてくるらしい。  荒城は私に、 「今朝、この小さな探偵たちに『この部屋に住んでたやつを知ってる人間はいないか』って捜索を頼んでおいたんだ」  と得意そうに言うと、 「おーい」  と別の子どもが叫びながら、男を連れてやってくるのが見えた。半纏《はんてん》を着た老年の男だ。 「子どもは元気でかなわんな」と男は息を切らしながら言った。 「座吾朗を知っているのですか?」と荒城が男に聞く。 「座吾朗かどうかは知らんけど……ここに住んでた男は知ってるよ。二十年以上前に突然いなくなったから、そいつかと思ってね。名前は一郎《いちろう》といった」 「ほう、二十年以上前に! 苗字は?」 「知らんなあ。みんな一郎って呼んでたから」 「あなたは、鉱夫ですか?」 「いや、おれは、このヤマのふもとで商人をやっているんだ。この鉱山には、四十年前から出入りしている」 「なるほど、鉱山の人間ではないから、前社長に追い払われなかったのか……」と荒城は独り言のように言ってから、「これは当たりかもしれないね」と私を見て微笑んだ。 「おれで役に立ちそうかい?」 「ええ、当時のことを知る貴重な証言者です。たっぷりお礼はしますよ」 「そうか」  男は満面の笑みを見せた。 「その男はなぜいなくなったのでしょう? 覚えてますか?」と荒城は男に聞く。 「ううん……なんでだったかなあ……ああ、そうだ。別の鉱山へ行くって言ってたんだったかな。……うん、そうだそうだ。いっしょに住んでいた探鉱家から、そう聞いたんだ」 「タンコウカ?」 「ああ、新しい鉱床を見つける職業のことだ」 「一郎には同居人がいたのですか?」 「ああ」 「ここに?」荒城は長屋を手で示した。 「ああ」 「どんな男なのでしょう? この鉱山の社員だったのですか?」 「いや、どことも契約せず、仕事があったらそのたびに請け負っていたそうだ。全国を回ってると言ってたな」 「その男の名前は?」 「なんだったかなあ。萩村《はぎむら》だったか萩野《はぎの》だったか……すまんね。そのときは、ここに月に一回くらいしか来てなかったから、よく覚えてないんだ。二、三回飲んだくらいで……」 「わかりました。では正確に何年前からいなくなったかわかりませんか? そこが重要なのです」 「ううん……いつだったかなあ……ああ、そうだ。確か、一郎がいなくなってから、その探鉱家が新築の長屋に引っ越していったから……昭和四年ごろかな。……うん、そうだそうだ」 「昭和四年! ちょうど座吾朗が監禁された年だ」と言って、荒城は私に笑顔を見せた。「ほかに何か覚えていることはありませんか?」荒城は真剣な目つきで男に問いかけた。 「うーん」男は腕を組んでうなった。 「出身地であるとか」 「……ああ、沼沢《ぬまさわ》と言ってたな。おれはむかしそこの近くに住んでいたんだ。それで覚えてる」 「沼沢……どこでしょう?」 「秋田と岩手の境だよ。山の中にある小さな村だ」  と言って、男は沼沢の場所を教えてくれた。盛岡から二時間ほど汽車に乗って、駅から二十キロほど行った場所にあるらしい。 「役に立ったかい?」 「ええ、もちろん。まだ警察には話してないのですよね?」 「ああ、ここに住んでた男が凶悪犯だとは思わなかったからな」 「ぼくたちも役立った?」と隣で話を聞いていた子どもが言った。 「もちろんさ! 君たちこそ、この鉱山を知り尽くしている専門家さ。警察の聞き込みよりもよほど優秀だよ」  荒城はそう言ってから、ポケットからバッジを取り出して、子どもたちに配りはじめた。どこで用意したのか、バッジには〈荒城咲之助・雷鳥電撃探偵団〉と書かれてあった。「これ何て読むの?」と子どもに聞かれて「らいちょう」と荒城が答えると、子どもたちは「ライチョーライチョー」と叫びながら、走り去っていった。やはり叫びながら走るようだ。子どもは本当に元気で馬鹿だよなと私は思った。  それを見ながら荒城は、 「どうだい、旗を持って宣伝した甲斐があっただろう」  と自慢げに言う。  男にたっぷりと礼を渡して別れたあと、荒城は、 「さあ、行こう」  と言って、歩き出した。 「どこへ?」  私が聞くと、荒城は、 「当然だろう、座吾朗の故郷だよ」  と怒ったように言う。 「やっぱり、ぼくの部屋に住んでいたのは座吾朗なのか?」 「断言はできないけど、二十三年前に姿を消した男となると、その可能性は高いね」 「そうか……でも、故郷への聞き込みは、警察に任せたほうがいいんじゃないか?」 「君は、いまから蓑田警部のところへ行って、彼を説得して聞き込みさせたほうがいいというのか? ぼくは一度ぶざまにも推理に失敗した。そんなぼくの意見を真剣に聞いてもらうには、相当に手間がかかりそうだし、そんなことをやってる暇はないよ。次の事件が起こってしまってからじゃあ、取り返しのつかないことになる」 「次の事件? 起こるのか?」 「ああ、起こる可能性が高いよ」 「なぜ?」 「それは、あの血文字だ」 「ああ……〈さ〉と〈つ〉だったか。あれは何を意味してるんだろう?」 「さあね。それはまだ不明だが、普通に考えれば、あのあとに文字が続く可能性は非常に高い。いや、仮に、あの二文字で犯人の伝えたかったことは終了だったとしても、どうもそれだけでは中途半端だ。まだ犯人は何かをやる——そう思えてならないんだ」 「その手がかりが、座吾朗の出身地にあるのか?」 「さあね、それは行ってみなければわからない」  と言って、荒城は急ぎ足で歩いていく。           10  盛岡で乗り換えたときには、午後二時を過ぎていた。 「何を書いてるんだい?」  列車の中で向かいに座った荒城が話しかけてきた。 「事件の謎を並べて書いてみたんだ。いちおう探偵の助手だからね」  私は手帳から目を離して答えた。 「ほう、それは興味があるな。見せてくれ」  と言われたので、私は荒城に手帳を渡した。  手帳には以下のように書いてあった。  ・座吾朗はどうやって脱獄したのか?  ・空気穴と便所の穴にあったゴムの跡の意味は?  ・食事の穴にあった木の破片の意味は?  ・ホウキで掃いた跡の意味は?  ・座吾朗はなぜ監禁されていたのか?  ・座吾朗は何者か?  ・座吾朗は現在どこにいるのか?  ・恩田は何者か?  ・令子は何を隠しているのか?  ・三河正造と田子沢、二人が殺された動機は?  ・血文字の意味は?  ・なぜ田子沢の首を切断したのか? 「いいね、重要な点が簡潔にまとめられている。本気で、ぼくの助手になるつもりはないかい?」  荒城は微笑んでから、手帳を私に返してくれた。 「それは無理だけど……」と私は苦笑してから、「これ以外では、鶏が盗まれたことや、ぼくの部屋にあった脅迫状のことがあるね。事件と関係あるかどうかはわからないけど……」と言った。 「ああ、そうだな」と言って、荒城は腕を組んだ。 「そういえば、首を切断されたことでいえば、第一の殺人も同じだね。なぜ犯人は首を切断することにこだわっているんだろう?」 「いや、第一の殺人と第二の殺人では、首を切断した意味が違うよ。第一の殺人では、はたして首が切断されるかどうかは怪しかったからね。電車に撥《は》ねられたからといって、切断されるとは限らない。電車が急ブレーキをかける可能性だってある。ところが第二の殺人では、犯人は念入りに首を切断して、持ち去っている。それよりも第一の殺人で問題なのは、なぜ犯人は殺したあと電車の線路まで死体を運んだかということだ。殺したあとは、さっさと逃げたほうが絶対にいい。なのに、なぜ死体を線路に運んだのか?」 「確かにそうだな……」  私は手帳に「第一の殺人で、なぜ死体を線路まで運んだのか」と書き加えた。「じゃあ、どうして第二の殺人で首を切断したのだろう?」と私は聞いた。 「死体の首を切断する理由としては……普通は、死体の身元を隠したいからだな。しかし水死体じゃああるまいし、今回の場合はすぐに特定される。犯人だって当然それはわかっていたはずだ」 「殺されたのが、田子沢さん以外だったということは?」 「ははは、死体と入れ替わって、田子沢さんが生き残っているという説か。よくそういう探偵小説があるね。しかし、あれだけ完全に首無し死体が残っていると、それは無理だと思うよ。そんな簡単に、家族や鑑定は騙されない。ひどく腐敗してるとか、白骨化しているなら別だけどね」 「じゃあ、首から上に、犯人にとって知られたくない痕跡があったとか……」 「それは考えられるけど……しかし、失血死ということになっているから、死因を隠す必要はないし……それとも首を持ち去って、何か別のことに使うとか……」 「別のこと? なんだ?」 「わからない」と言って、荒城は大きく息をついた。 「血の文字には、どういう意味があるんだろう?」 「それも問題だな」 「�さ�と�つ�といえば……」私は考えた。「�さつまいも��さつじん�……」 「ははは、�さつじんしたのは○○です�と言いたいわけか。それだと、あと十人ぐらいが殺されることになるな」と荒城は苦笑してから、「しかし、あり得ない話じゃない」と言う。 「そんな……」  どこからどこまでが冗談かわからない。 「それよりもな」荒城が言う。「ぼくは、なぜ犯人があんな馬鹿なことをしたかが気になっているんだ」 「馬鹿なことって?」 「第二の殺人さ。なんであんな乱暴なやり方をしたんだろう? 警官を殺したのは、やむをえないとしよう。だとしても、なぜあんな目立つ殺し方をしたんだ? 殺して、首を切断して、持ち去るとしても、わざわざクレーンに死体を吊り下げる必要性が感じられない。血の文字だって、第一の殺人のように死体に書いておけばいいだけの話だ。あの工作をするには、相当に時間がかかったことだろう。もっとうまいやり方がいくらでもあったはずだ。ぼくはこの点が一番気になっている」  荒城は現場を見て「なぜ犯人はこんな馬鹿なことを」と言っていたが、そういうことだったのかと私は納得した。 「そういえば、君は、『犯罪が起こるとしたら、時間が経ってからか、あるいは鉱山の中だ』と言っていたね」 「ああ」 「でも、あの場所も、人の来ない場所なんだよな。祭りだから人通りがなかったらしいし……」 「それにしても、鉱山街には警察がいるんだぜ? いつ見つかるかわからない。もっと早くに目撃者が小便にやってきたかもしれない。低い確率だったとしても、誰が通るか予想のつかない場所だ。それで見つかったら犯人はどうするつもりだったんだろう。相当に強い理由があったとしか考えられない」 「じゃあ、急ぐ理由があったとか……」 「それはあるな」荒城はあっさりと認めてから、「あるいは、なんらかの偶発的な事故があって、あのとき殺人を犯して、やむにやまれず事後工作をしたとかな……」と言った。 「事故って?」 「わからない」  荒城はまたため息をついてから、「君はぼくのことを軽蔑してるのだろうね。こいつ本当に名探偵なのか? 雑誌の記事は嘘じゃないかってね」と言った。 「いや、そんなことはない。今回は事件が難しすぎるだけさ。警察があんなに束になっても座吾朗を捕まえてないのだからね。しかるべき手がかりがそろえば、君だってこの事件を解決できるはずだ。いまはまだ推理する材料が足りないだけだよ」  これは本心だった。 「ありがとう」  荒城は微笑してから、悲しそうに窓の外を見つめた。  沼沢の最寄の駅である坂津田《さかつだ》という駅で降りた。  ところが、タクシーに乗って「沼沢まで」と言うと、運転手は、 「沼沢? あそこは誰も住んでませんぜ」  と言う。 「誰も? 廃村なのですか?」と荒城が聞いた。 「ああ、二十年以上前だったかなあ。村民全員で、四場浦って鉱山へ移住したんだ」 「全員で!」荒城と私は顔を見合わせた。「なぜ移住したのですか?」 「四場浦が稼げるって話だったからさ。あそこは貧乏な村だったからね」 「移住か……」  荒城は顎に手をやって、考える素振りを見せた。 「どうする? 行ってみるか?」私は荒城に言った。 「いや、当てもなく廃村に行っても仕方がない。いまは時間が惜しい」と荒城は答えてから、運転手に向かって「どなたか、沼沢のことに詳しい人を知りませんか?」と言った。  運転手に案内されたのは、沼沢の隣の村に住んでいる六島《むつしま》という家だった。隣といっても、ここから沼沢に行くには山道をあと十キロ近く行かなければならないらしい。  六島はかつてこの村の村長をやっていたらしく、私たちが訪ねると、快く迎えてくれた。 「沼沢か……なつかしいな」  六島老人は茶をひと口飲んでから、天井を見上げた。 「沼沢の村民たちは二十年以上前に、全員で移住したと聞きました。なぜでしょう?」 「そりゃ、稼ぐためさ。それくらいあの村は貧乏だったんだ。いまは違うが、むかしの百姓はほとんどが小作農で、自分の土地を持っていなかったからな。現金収入がほとんどなくて、みんな年収の何倍もの借金を背負っていた。……あんた、ヤマセって知ってるか?」 「ええ、東北地方に吹く特有の冷たい風のことですよね」 「そうだ。あのヤマセの被害は深刻でな。作物はみんなやられてしまう。あの沼沢って村は山の谷間にあって、こんなに海から遠い場所なのに、とりわけ強い風が吹くんだ。  とくに昭和三年だったかな、沼沢の村民たちが移住した年はひどかった。ヤマセによる冷害で作物は全滅、村民たちはワラビの根っこやら木の実を食って生きていた。それでも何人かは死んだし、乳の出なくなった母親が赤ん坊と心中した事件まであった。いまでもよく覚えているよ、沼沢の村びとたちがうちの村に『何か食うものはないか』ってやってくるんだ。しかし、うちの村だって沼沢ほどじゃないが、冷害を受けている。なけなしの食糧を渡すが、沼沢の村びとたち全員を助けることはできない。だから、沼沢から子どもの手を引っ張ってやってきた父親が、畑の隅に置いてある腐ったジャガイモを持っていくんだ。もちろん食うためさ。そして十キロの道のりを帰っていく。そんな状況だった。  貧乏で栄養状態が悪いものだから、結核も流行《はや》る。かといって医者に診せる金はないし、隔離したくてもその余裕がない。仕方ないから、売れるものは全部売る。……あんた、東北で娘を売った話を知ってるか?」 「はい、聞いたことがあります」 「あれは、本当にあった話だよ。新聞で記事になったのは昭和七年ごろだったと思うが、それ以前からもあった。この村だって何人か売られたし、沼沢はもっとひどかった。長女だけじゃない、ひとりじゃ足りないから、とにかく年頃の娘ぜんぶ売るんだ。普通は十二歳から十五歳くらいを売るものなんだが、年齢を誤魔化して、十歳くらいの娘も売られたこともあった。若い娘がいなくなると、自然と、元気で能力のある若い男たちも村を離れる。残ったのは、老人だとか、子持ちの女ばかりだ。  そんなときに、四場浦鉱山から話があった。社長が来て『村民全員で移住しないか』ってな」 「その社長というのは、三河正造さんのことですか?」 「ああ、そうだ。そいつ、殺されたんだってな。新聞で見たよ。ちょび髭のいけ好かないやつだった。じつは、うちの村にも同じ話があったんだ。信じていいのかわからないくらい、条件のいい話だった。光熱費も家賃も医者代もみんな無料で、�雲上の楽園�だってな。しかし我々だって、先祖代々住んできた土地だから、離れるのには抵抗がある。それに鉱山で労働するというのも想像がつかないから、結局うちの村は、悩みに悩んだ末、移住するのはやめた。しかし沼沢の村は、ほとんど全員で移り住むことになったんだ。背に腹はかえられなかったんだろう」 「なるほど。移住したあとの村人たちの消息は聞いていますか?」 「いや……村はすぐに廃村になって、帰ってくる者もいなかったからなあ……」  と六島老人が言うと、茶を交換しに来た夫人が「たしか事故で亡くなったんでしょう」と言った。 「ああ、そうだそうだ。あったな、そんなこと」と六島老人は言った。 「事故とは?」と荒城が聞く。 「いや、新聞記事で見ただけなんだが……四場浦鉱山で崩落事故があったっていう記事があってね。死んだ人間の名前の中に、沼沢の村びとの名前があったんだ。うちの村でも話題になって、『行かなくてよかったな』って言ってたんだ。ずいぶんむかしのことだから忘れてたよ」 「全員死んだのですか?」 「どうだったんだろう。知らんな、連絡も何もないし……」 「事故というのはいつごろですか?」 「移住してから一年後くらいだったと思う」 「とすると、昭和四年くらいか……座吾朗が監禁された年と同じだな。六島さん、座吾朗……いえ、一郎という男を知ってますか?」 「一郎……?」  六島は首をかしげた。 「背の高い、大きな男です。歳は……そのころ二十代くらいかな」 「ああ、熊の一郎か」 「熊?」 「ああ。冷害で食うものがなくなったとき、熊を殺して食料にしていたことがあった。小熊だったが、人間よりずっと重くて凶暴なやつだよ。それで�熊の一郎�だ。一郎は何人もいたからな」 「熊を素手で倒したのですか」と私は聞く。 「さあ、この村のやつらは、みんなそう言ってたな。バラバラにした熊をこの村に持ってきたのは、よく覚えてるよ。ほかの食い物と交換するためだ。一郎は全身傷だらけ、血だらけで村に来て、それで熊の首の部分がねじ切られてたからそんな噂が立ったんだが……どうだったんだろうなあ。素手で殺したと言っても信じそうなくらい、大きな身体つきをしておったのは確かだ。米の入った俵も、他人の倍は運んでいたからな」 「ふむ……それ以外に知っていることは? 移住にも参加したのですか?」と荒城が聞く。 「確か……いっしょに移住したな。それ以外は知らんよ」 「……わかりました。ありがとうございます」  荒城は座ったまま礼をしてから、鞄から写真を取り出して、「ところで、この女性は知りませんか?」と老人に見せた。いつ用意したのか、令子の写真だった。 「ああ、これはレイコでないかな」 「知ってるのですか!?」  荒城が身を乗り出す。 「ああ、沼沢村にいたよ……そうか、レイコも綺麗になったなあ」  老人は二枚の写真を見比べてうなずいた。 「座吾朗……いや、一郎と令子さんは仲が良かったのですか?」 「兄妹のように仲が良かったよ。令子はもともと孤児でな、いつもふたりで仲良くしてたのはよく覚えておるよ」           11 「なんだ、三恵子さんか。祐子さんは!?……いない?」  荒城は坂津田駅で借りた電話の受話器に向かって叫ぶ。 「わかった。じゃあ、君でいい。いいか、これからぼくの言うとおりにするんだ。まず、二、三人の屈強な男を用意する。できるだけ早く、十分以内にだ……え、みんな忙しいだって? 駄目だ急ぐんだ! 人間の命がかかってるんだぞ! 君の得意な色気でも何でも使って、協力してもらうんだ。……駄目駄目、警察は時間がかかる。鉱夫でいい……ああ、それでいい。そして、ここからが重要だ。その男たちを連れて令子さんのところへ行って、ぼくたちがもどるまで、令子さんといっしょにいる。令子さんを守っていてくれ。わかったね」  荒城は一方的に電話を切ってから「急ごう」と言って、汽車へと走っていく。 「令子さんは、狙われているのか?」  汽車で席に着いてから、私は荒城に聞いた。 「わからない……ただ、座吾朗に関係しているとなると、狙われる可能性はあるね。次の殺人があるとすると、いまのところ標的は令子さんしか考えられない」 「座吾朗と令子さんが共犯という可能性は?」 「どうだろう……なくはないけど、現実問題、病気であれだけの殺人を犯すのは難しいと思うよ」 「病気が嘘ということは?」 「それはない。きのう病院で聞いたのだけど、歩くのがやっとだそうだ。あるとしたら……脱獄に手を貸したくらいだけど……夫の恩田さんの目があるからね。実際は難しいと思う」 「鉱山の事故というのは、事件に関係あるのかな」  私は話題を変えた。 「普通に考えたら、あるだろうね。移住した先で、村びとが何人も死んで、座吾朗が生き残った。そのあと、座吾朗は監禁された。話は一筋につながっていると考えるのが自然だ」 「座吾朗が前社長に恨みを持ったのはなんでだ? 前社長が村びとを殺したのか?」 「殺したかは知らないが事故の原因をつくったのかもな。それを座吾朗は恨んでいると」 「四場浦デパートの田子沢もか?」 「彼はむかし鉱夫をやっていたからね。関係していたのだろう」 「座吾朗はなぜ監禁されたのだろう? 前社長が座吾朗を怖がったからか?」 「そこが問題なんだ」荒城は大きく息をついてから、「知ってのとおり、徹底的に座吾朗の存在は消されていた。あそこまでできるのなら——三河正造は、なぜ座吾朗を殺してしまわなかったのだろう? 事故を装って、いくらでも始末する機会があったはずだ。いや、別に直接手を下さなくてもいい。伝染病だということで監禁して、衰弱死させてもいい。病気になったときに放っておけばいい。それを二十三年間も生かして、時には薬を与えて、専属の看守までつけた。そしてわざわざ座吾朗の存在を隠し続けた。監禁していた事実が明るみになれば、前社長だって立派な犯罪者だ。なぜ二十三年間も生かしたまま引っ張ったのだろう?」と言う。 「殺すのに抵抗があったんじゃないか? どんなに前の社長が非道な男だったとしても、人間をひとり殺すのはたいへんな勇気がいるよな」 「ああ……そうかもしれないな……君の言うとおりかもしれない」  荒城の声は暗く沈んでいた。納得いかないものの、自分の推理に自信が持てないのだろう。  四場浦鉱山で電車を降りてから、私たちは急いで令子の部屋まで走ったが、いざたどり着いて部屋の扉を叩いても返事がない。 「何かあったのか……」  と部屋の前で不安を口にした私を置いて、荒城はアパートの階段を駆け下りる。私も追いかける。すると、アパートの外に三恵子がいて、 「探偵さん……」  と暗い顔つきで話しかけてきた。 「令子さんは!?」と荒城が叫ぶ。 「わたしが行ったときには、令子さんはいなくて……みんなで、心当たりの場所を捜したのだけど……まだ見つかってないの」  その後、荒城が必死に警察と三河正一郎にかけあって鉱山総出で捜索したところ、一時間後に凶報がもたらされた。令子の死体が、索道《さくどう》の発着場で見つかったらしい。  索道というのは、空中に張ったケーブルにバケットと呼ばれる搬機《はんき》をつるして、人間や物を運搬する設備のことだ。林業や鉱業では一般的な設備で、欧米ではスキー場で人間が登る際にも使われるらしいから、いずれ日本でもそうなるかもしれない。  令子の死体は、その索道の発着場のわきに置いてあるバケットの中で、田子沢の首といっしょに見つかった。令子の捜索に協力していた鉱夫のひとりが発見したそうだ。索道は普段は毎日使用されているが、現在は採掘が中止されているので人間が来ることはほとんどなかったらしい。  私たちが現場に着いたころには、すでに何人も野次馬がいて、警察が現場の周りを取り囲んでいた。とてもバケットに近づけそうになく、背伸びしても令子の死体は見えない。 「馬鹿な……」  荒城が騒然とする野次馬の後ろからバケットを眺めながら言った。 「祐子さんは、令子さんの死体を見たのですか」  放心する荒城の代わりに、私が、先に現場に到着していた祐子に聞いた。 「はい……令子さんは首を抱きかかえるようにして、仰向けで死んでいました……」 「首も田子沢さんで間違いない?」 「はい」 「死因は何でしょう?」 「見たところ外傷はありませんでした。でも、確かに息はなくて、身体は冷たかったので……」  祐子が涙をふいてから答えた。 「毒殺かな……」 「いえ……遺書があったので、自殺ではないかと……」 「遺書? なんて書いてあったのですか?」 「すべてわたしがやったというようなことが……」 「馬鹿な!」荒城が叫んだ。 「あ、でも……」祐子が言う。「遺書の裏に文字が残されていました」 「文字? また血の文字ですか?」 「いえ、今度は鉛筆で大きく〈き〉と……」           12  翌日、祐子にもたらされた情報によると、令子の死因はやはり毒死だったらしい。バケットの中に微量の液体の入ったビンが落ちていて、そこから令子の指紋とともに青酸ソーダが検出されたそうだ。解剖の結果も青酸ソーダ中毒に間違いないらしく、また、身体のどこにも格闘した跡はなかった。そして青酸ソーダもこの鉱山の工場で一般的に使われているものらしく、管理もずさんだったので「長くいる人が手に入れるのは、そんなに難しくないと思います。過去にそれで自殺した人もいましたし」と祐子は言っていた。  推定死亡時刻は、午後九時ごろ。つまり、荒城が三恵子に電話した時点で、すでに死んでいたらしい。  そしてさらに翌日、令子の遺書の内容が判明した。 [#ここから1字下げ] すべて私がやりました。 最初の事件の前日に溶接部分を溶かして、座吾朗さんを脱出させました。溶接はそのあと元にもどしました。 翌日、社長を鉱山に呼んで、殺しました。 そして、田子沢さんも工場の裏に呼んで、警官といっしょに殺しました。 すべて、私ひとりでやったことです。座吾朗さんは無関係です。 座吾朗さんの本名は一郎といって、私の幼なじみでした。 私は、大切な幼なじみを監禁した社長や田子沢さんが憎かったのです。 だから、一郎さんを逃がしてあげて、そのあとに二人を殺しました。 一郎さんはすでに鉱山にはいません。彼は無実なのでどうか追わないであげてください。 もちろん夫も無関係です。こんなことをしてごめんなさい。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]令子  急いで書いたような筆跡だったが、鑑定の結果によると令子の筆跡で間違いないそうだ。  以上の事実から、警察は自殺でほぼ間違いないとの見方をしていた。他殺だったら遺書の説明ができないし、遺書を無理やり書かせたとしても、死体に全く抵抗した跡がないのはおかしい。それに、もし座吾朗がやったとしたら、死体の見つかった場所まで行かなければならないが——殺害場所が別のところでも、少なくとも現場に死体を運ばなければならない——いくら現在索道の使用が中止されているといっても、誰にも見られないまま現場に行くのは極めて困難だろう。鉱山街の警戒の状況からいって、無警戒すぎる——このような根拠から、警察で他殺説は姿を消したようだった。  そしてそれだけでなく、警察は、遺書に書いてあるとおり「令子がすべてひとりでやった」との見方を固めつつあるらしい。  荒城はそれを聞いて、 「馬鹿な。病気の女手で、第一の殺人や第二の殺人のように、男の死体が運べるものか」  と嘲笑《あざわら》っていたが、むろん警察も当初は座吾朗と令子の共犯説を強く疑っていた。荒城と同じように「女ひとりでは無理だ」と考えて、「令子が座吾朗をかばったまま自殺したのではないか」との見方が強かった。しかし「どんなに大切でも、幼なじみのために自殺することなんてあるのだろうか」との見方が徐々に強まっているらしい。  令子は恩田と結婚してから十八年。子どもはできなかったが、仲の良い夫婦だとみなが証言していた。祐子も、 「いくら幼なじみでも……あんなに仲の良かった恩田さんを残して、別の男をかばうために令子さんが自殺したとは、考えられません……」  と言っていた。  かといって、死体は田子沢の首といっしょに見つかったから、令子が事件に無関係だとは考えられない。  つまり、令子は他殺ではなくて自殺である——田子沢の首といっしょに死体が見つかって遺書にも�自分がやった�と書いている——令子が自殺してまで座吾朗をかばう理由は薄い——以上の理由から令子単独犯説が有望だそうだ。  そのため、警察は変わらず座吾朗を�重要容疑者�として指名手配し続けるが、仮にこのまま見つからなくても令子が犯人ということで事件を終わらせる雰囲気が支配している——祐子によると、そんな状況だった。 「馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿だ。警察はたいへんな失敗をしようとしている」  と荒城は嘆いていた。 「でも警察はプロだよな。そんな失敗をするとは思えないけど……ぼくたちの知らない証拠を握ってるんじゃないのか?」  と私が反論すると、 「プロとはいっても�上辺だけで終わらせる�プロだよ。馬鹿みたいに自白を信用して、それに反する証拠がなければ、そのまま終わらせる。裁判も被疑者死亡のまま、うやむやに終わってしまうかもな。『いちおう座吾朗を手配しておいて、運良く捕まえられたら、そのあとに共犯を証明すればいい』——大方こんなふうに考えているんだろうな。もうこれ以上、事件は起こらないとね」 「ああ、それなら別にいいんじゃないか。事件が終わったのだったら、そんなに急ぐ必要はない。警察の力でゆっくりと座吾朗を捕まえて、そのあとに共犯を証明すればいい」 「そんなことはない、事件はまだ終わってないよ」 「終わってない? まだ何か起こるというのか?」 「ああ」 「もう関係者はすべて死んだよな……座吾朗と深く関係していたのは、もう恩田さんくらいしかいない。その恩田さんも、座吾朗が監禁されたあとに知り合いになったのだから、狙われる心配もないように思うけど……」 「ああ、そうだな」  荒城はため息をついた。 「じゃあ、なぜ事件が起こると思うんだ?」 「それは現場に残された文字があるからだよ」 「ああ……」 〈さ〉〈つ〉〈き〉という文字のことだ。 「まだ、あの文字の謎は明らかになっていない。令子さんの遺書にも触れられてない。不自然だと思わないか?」  荒城は問い詰めるように言う。ちなみに警察の筆跡鑑定によると、三つの文字は、令子の筆跡ともどちらともいえないそうだ。 「文字のことは、雑誌や新聞でも話題になってるね……」  私は言った。言うまでもなく、この事件は全国的な話題になっていて、ラジオニュースはこの話題ばかりだし、鉱山には多くの記者が駆けつけてきている。当然、私たちの元にも引っ切りなしに記者連中がやってきている状態で、つい先ほども追い払ったばかりだ。 「ああ、雑誌は『名探偵・荒城咲之助、敗れる!』という話題で持ちきりだな。雑誌は薄情だ。持ち上げるときは持ち上げて、落とすときは落とす。戦後になって民主主義というけど、真のジャーナリズムはいつになったら生まれるんだろうな」  荒城は苦笑した。 「文字について雑誌は、令子さんが五月生まれだからじゃないかと言ってるらしいけど……」 「まさか、君はそれを信じちゃいまいな」 「じゃあ、何だ?」 「わからない。しかし、あれが誰かに伝えるために書かれたとしたら、これで事件が終わりだと片づけるには、どうも中途半端な気がするんだ。だいたい、ぼくは令子さんが脱獄を手伝ったというのも怪しいと思っている」 「なぜ?」 「だって、令子さんが溶接部分を溶かしてそのあと溶接し直したなんて、信じられるか? もちろん技術は必要だし、体力だって必要だ。溶接の機材を地下に運ぶだけでもたいへんだよ」 「それはそうだな……じゃあ、どうやって座吾朗は脱獄したんだ?」 「わからない。……しかし、溶接を溶かした以外の何らかの方法を使って、座吾朗は脱獄したんだ。ぼくはそう思ってる。これは探偵の勘だよ」と言ってから、「もっとも、何度も失敗した探偵の勘なんて当てにならないけどね」と自嘲《じちょう》気味に付け加えた。 「今回の事件は特別だよ……警察も防げなかったし」 「いや、なぐさめる必要はない。雑誌が書いてることは事実だよ。ぼくは脱獄の推理で失敗して、その後、三人の殺人を許してしまった。大失敗、探偵失格だ」  荒城は苦悶の表情を浮かべながら言った。 「しかし……起こるとしたら、どんな事件が起こるんだろう」  と私が言うと、荒城は、「それがわからないから困っているんだ」と言った。 「どうもこの事件は謎が多すぎる。何というかね、ぼくたちは重大な見落としをしているような気がしてならないんだ」  と荒城は言う。 「見落としか……」 「ああ、それさえわかれば、事件の全貌がわかって今後の事件も防げるような気がするのだが……。いや、見落としじゃないかもしれない。もしかしたら、事件を解決するのに重要なパーツが、まだぼくたちの目の前に現れていないのかもしれない。それが何かは不明だけどね」 「重要なパーツ……�さつきさん�がどこかにいると?」  と私が冗談半分に言うと、 「かもな」  と荒城も笑った。  しかし、警察も�さつき�という女性が関係しているのではないかとは疑ったようで、実際に、鉱山内の�さつきさん�に事情聴取したらしい。結果、二人の女性に聞き込みをしたようだが、ひとりは十九歳の看護婦、もうひとりは山のふもとの出身の煙草屋の婆さんで、二人とも全くの無関係とのことだった。  そして、きのう警察が私の部屋を見に来たのだが、押し入れの中に女優の西条さつきのチラシやら記事の切り抜きやらが貼ってあるのを見つけて、警察は本気で「座吾朗が、西条さつきと関係しているのではないか」と疑い、冗談ではなく、西条さつきに照会が行ったそうだ。むろん、彼女は全くの無関係だった。 「重大な見落とし……祐子さんや三恵子さんのお母さんが、�さつきさん�だったとか」  と私が言うと、荒城は、 「あり得ない話じゃないな」  と笑った。           13  思い返してみると、私がここに来た当初の目的は�三河正一郎への嫌疑を晴らすため�だった。となると、それは不幸にも令子の自殺によって達成されたので——少なくとも警察は、今回の事件が令子か座吾朗の仕業で間違いないと考えているから、もう私がここに滞在する理由はなくなったということになる。  しかし、荒城に「君も協力してくれないか」と弱々しく言われると、断る気にもなれない。結局、私と荒城で「この鉱山の平和のため、もう少しだけ居させてください」と正一郎を説得して、しばらく私たちは鉱山街に滞在することになった。  ただ調査を続けるといっても、そもそも話を聞くべき人間には全員に聞き込みをしたし、現場も警察の手にあるから、我々のやることはほとんどない。座吾朗や令子の過去についての調査も、座吾朗の全国手配にしても、組織力のある警察がやるべきことであって、我々の手には負えない。  残った手がかりといえば、妻に先立たれた恩田だが、こちらは近々釈放される見込みとのことだった。恩田の過去はまだはっきりしていないものの、恩田は警察の取り調べにも「自分は関係ない」と言い続けて決して自白せず、証拠もないということで、見事釈放を勝ち取ったらしい。  しかし、警察は「恩田が令子に協力して、座吾朗を脱獄させたのではないか」との疑いはまだ持っているようで、釈放後もしばらくは恩田に監視をつけるとのことだった。証拠が出るまで�泳がせる�という方針なのかもしれない。この話を聞いて、荒城は「恩田さんを護衛する手間が省けたな」と言っていた。  そして、恩田釈放の日。  我々は「あなたの味方ですよ」と恩田を説得して、彼の過去はもちろん、彼の知っていることをすべて話してもらうつもりだった。ところがようやく待望の初対面を果たしたのに、彼は「話すことはない」と一切我々の質問に答えてくれなかった。これには荒城も困り果てて必死に「絶対に誰にも口外しません。警察にもです」と言ったのだが、それでも恩田は黙ったままだった。  では、唯一の手がかりである恩田に証言を拒否されて、我々は何をしていたかというと——。  荒城は、朝から晩まで鉱山内に入り浸っていた。警察は「鉱山内は捜査をし尽くした。座吾朗は鉱山の外へ逃げたに違いない」と考えていて、鉱山内の捜索は打ち切ったようだが、荒城は相変わらず鉱山内にこだわっているようだ。  一方、私は「手伝おうか」と荒城に申し出たのだが、荒城は、 「いや、ひとりで十分だ。それよりも君は部屋にいてくれないか? 『出ていけ』と脅迫状があったくらいだから、出ていかなければ何かが起こるかもしれない。あの三人にもいてもらうように頼んでおけば、安全は安全だろう。きちんと何人かが部屋にいるなら、君は三恵子さんと映画を観に行ってもいいよ」  と笑顔で言った。  私は言われたとおりに部屋で三人の男と麻雀をしたり、酒を飲んだり、虫を退治したり、三恵子が暇なときには彼女とふたりで映画を観に行ったりした。  さて、この間、祐子から得られた警察の情報はというと——。  過去の鉱山の事故は確かにあった。二十三年前、座吾朗が監禁された年の話だ。新聞記事は残っていたし、当時現場にいた警察官や記者からも話を聞くことができたらしい。しかし「突然、鉱山内で崩落事故があって、何人も死んだ」という内容の報告書が残っていただけで、詳しい事情や原因を知っている者はいなかった。当時は「鉱山では、よくある話」「鉱山内のことはよくわからない」という理由で、詳細な実況見分や原因調査は行われなかったようだ。もちろん、前社長の三河正造の意思が働いていたことも考えられる。  わかっている事実といえば、その事故で十一人の人間が死んだこと。下は十六歳、上は五十四歳で、支柱夫のひとりを除いて残りは全員沼沢の出身らしかった。ところがそれぞれの家族について知っている者はごくわずかで、何とか聞き出した事実を組み合わせてみると、「会社で合同葬が行われた」ということだけだった。  だから、令子についてわかっていることも少ない。記録によると、令子が四歳のころに父が死んだということ。かつて看守をやっていたという父は、沼沢で令子を育てていた養父らしい。そして、戸籍は令子が二十四年前——昭和三年、四場浦鉱山に移住したときに北海道から、直接ここ四場浦に移されたということ。そのため、警察は令子が沼沢出身だったということを知らなかったらしい。住民登録制度が施行されて、住民票の作成が開始されたのは今年のことだから、これも仕方のないことだろう。  座吾朗についても同様で、ここに来る以前のことを知っている者はいても、この鉱山に来てからのことを知っている者はほとんどいなかった。いたとしても、私たちが話を聞いた男以上の証言は得られなかった。同じように、座吾朗と同居していたという探鉱家も、存在自体の証言は得られたものの、どんな人間か、名前さえも判明していなかった。記録もむろん残っていなかった。  しかし動機に関しては、警察は「事故が原因だったのかもしれない」と思いつつも、「令子は死んだのだし、座吾朗が犯人だったとしても、捕まえてから聞き出せばよい」と楽観的なようだった。動機から犯人を特定するべき種類の事件ならともかく、今回の場合犯人はわかりきっているし、今後新しい事件は起こらないと警察は踏んでいるのだから、仕方がないといえば仕方ない。  そうして令子が死んでから四日が経った。私がこの鉱山に来てから一週間が過ぎたことになる。  私は正直、横浜に帰りたかった。荒城は毎日のように鉱山から帰ってきて「何もなかったよ」と肩を落としていたし、私も麻雀ばかりの生活で飽きてきた。部屋にずっといても何も起こらない。三恵子と映画を観るのは楽しかったが、他方で「これでいいのか」と自問していた。  もう、私たちにできることはないのではないか。できれば私だって荒城を信じたいが、彼自身も言うように、彼は神ではない。いや、仮に荒城の言うことが正しくて、まだ事件が起こるとしても、もうそれは私たちの役割の範疇《はんちゅう》を超えていて、警察が解決すべき問題ではないか。すでに事件は鉱山以外の場所にまで広がっている。限られた空間、限られた人間の中で「さて犯人は」「さてトリックは」と力を発揮する古典的な探偵の出番ではないような気がする。  それに、私だって生活があるから、いつまでもここにいるわけにはいかない。だから、無償の協力や友情は一週間もあれば十分だと考えて、あと一日二日たったら荒城に「帰りたいのだけど」と正直に言い出そうかなと思っていた。  ところがそんなときに、事件が起こった。  時刻は午後八時頃、いつものように部屋で四人で麻雀を打っていると、遠くからドーンという音とともに、軽い地響きがした。 「どっかで爆発でもしたか?」と男のひとりが言う。  私は悪い予感がして外へ出た。  どこから音がしたのだろう? とりあえず鉱山のほうに向かって歩いていると、遠くからサイレンの音が聞こえた。早足で鉱山に向かうと、入口に人だかりができているのが見えた。 「殿島さん!」  と祐子がこちらに気がついて、話しかけてきた。 「どうしたのですか」 「鉱山内で爆発があったようで……」 「ば、爆発!? 荒城は!?」 「わかりません。荒城さんが行った四番坑のほうであったらしいですが……」  三十分ほどして、恐れていたことが現実となって目の前に現れた。  血だらけで埃まみれの人間が次々と、救急隊の手によって運ばれていく。救急隊員だけでは人手が足りないらしく、鉱夫や看護婦の姿も見える。運ばれていく人間の中には、明らかに死んでいる者も確認できた。そこに、見慣れた白い服が現れた。帽子はかぶっていないが、荒城だ。 「荒城!」  と私は駆け寄ったが、救急隊員に制止される。随行していた隊員を無理やり問い詰めると、どうやら荒城はかろうじて息はあるようだが、頭を強く打ったようで呼びかけには応えず、意識がないようだった。担架に乗せられた荒城の左腕が、骨折しているのだろう、通常ではあり得ない方向に折れ曲がっているのが見ていて痛々しかった。  呆然《ぼうぜん》と見送る私に、祐子が話しかけてきた。 「殿島さん、あの、こちら……指紋がつかないように、これで触ってください」  彼女はハンカチといっしょに、手紙のような紙切れを差し出した。開いて読むと、手紙には新聞の文字の切り抜きが無数に貼られていて、次のように書かれてあった。 [#ここから1字下げ] 鉱山を爆破する。 爆破されたくなければ、3日以内に、こうざんの人間をひなんさせろ。 全員だ。 要求は、後日連絡する。 こんなものではすまないぞ。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]ざごろう  荒城の言うとおり、やはり事件は終わっていなかったのだ。  祐子によると、その脅迫状は、鉱山街の郵便局に投げ込まれていたようだった。営業時間外であるから局員はいなかったが、郵便局の柵内にある中庭の真ん中に投げ込まれていたため、たまたま戸締りを確認しに来た心配性の局員に発見されたらしい。  幸いなことに、荒城は病院ですぐに意識を取りもどした。そしてそれから四時間後、午前零時ごろに「五分だけ」という約束で面会を許された。いまのところ命に別状はないらしい。 「やられたよ」  荒城はベッドの上で薄笑いを浮かべて、私に言った。いつもの荒城なら、ここでどういう経緯があってあの爆発につながったのか、自ら率先して解説してくれるところだったが、いまはその元気もないようだった。  私も、荒城の姿を見て安心したからか、どっと疲れが押し寄せてきたからか、 「元気出せよ」  と言うのが精一杯だった。 「骨が砕けたらしい。真野原にいい義手を紹介してもらわないとな」  荒城は包帯でぐるぐる巻きにされた自分の左手を見てから、苦笑した。 「だいじょうぶだよ」  と私はたいした根拠もなく言った。  部屋を出るとき、荒城は、 「殿島君、ありがとう」  と声をかけてきた。そして、 「君はもう帰っていいよ。ぼくはしばらく入院してから東京にもどる。東京でまた会おう」  と続けた。  私は「そうだな」と微笑んでから辞去した。           14  鉱山街の夜道を歩きながら、私は考える。  荒城が命を取り留めたのは幸運だったものの、ついに事件が起こってしまった。座吾朗はまだ鉱山にいたのだ。  いままで私たちは事件の観測者でしかなかったが、これで当事者になってしまったことになる。荒城は傷ついた。もし私が荒城の探索を手伝っていたとしたら、私も被害者になったかもしれない。荒城の命が助かっただけでも幸運だったとしか言いようがない。医師から間接的に聞いたところによると、荒城は爆発の現場から少し離れた場所にいたため直撃は受けなかったが、崩落してきた岩の塊を避けようと左手で頭部をかばったため、左腕が粉砕骨折してしまったそうだ。そして左手でかばいきれなかった岩が頭に直撃して気を失った。救出した男によると、荒城は身体の半分が土砂に埋もれた形で発見されたらしい。  先ほど病院に来た祐子によると、その時点で被害者は、死者が二名、怪我人が六名。行方不明者は現在確認中で、いまでも救出作業が続いているようだ。  あの爆破には、どういう意味が込められていたのか? 脅迫状と合わせて考えると爆破の第一の目的は、�要求を聞かないとこうなる�という警告だろう。脅迫状には「3日以内に、こうざんの人間をひなんさせろ。全員だ」と書いてあった。鉱山に住む者全員というと一万人以上にもなるから、かなり非現実的でたいへんな話だ。単に脅迫状のみでは聞き入れられなかっただろうが、現実に爆破があって死傷者が出ると、俄然脅迫状に説得力が出てくる。 「要求は、後日連絡する」と書いてあったが、座吾朗は鉱山の人間を退避させて何をするつもりなのだろう? 「避難させろ」ということは一時的にいなくなればいいのだろうが、それで座吾朗はどうしようというのか? わからない。  では、あの爆破は、荒城が意図的に狙われたものだったのか? これもわからない。しかし偶然とは思えないから、�荒城を傷つけられれば�と消極的ながらも狙われた可能性は高い。そうなると、座吾朗は荒城の行動を把握するほど鉱山内を自由に歩き回っているということか。  いずれにしても、これでまた謎が増えてしまった。座吾朗は何を意図しているのか? 最終的な目的は何なんだろう? 思い返してみると、今回の事件は脱獄方法の謎に始まって、座吾朗が監禁されていた理由、首を切断した理由、令子の自殺の理由、現場に残された文字の謎などなど、わからないことだらけだ。調査でかろうじてわかったのは、動機にむかしの鉱山事故が関係していることくらいで、重要なことは何ひとつわかっていない。通常の事件では�誰が犯人か?�ということがもっとも重要になってくるが、今回の場合、犯人はわかっているのに、肝腎なこと——犯人がどこにいて、これから何をしようとしているのかがさっぱりわからない。  しかしそういった数々の謎も、私にとって今後は関係なくなる。私はこの鉱山を去る。これ以上いても危険なだけだし、もう私にはどうしようもないし、荒城がああなってしまった以上、私がここにいる意味はなくなる。事件がどうなるかはわからないが、横浜に帰って、その状況を見守ることになる。  気になるのは、三恵子のことだ。  前々から考えていたことだが、私は三恵子に結婚を申し込もうかと思う。もちろん真剣で、病気の父親にも横浜に来てもらって同居したいと本気で考えている。彼女がその申し出を受けてくれるかどうかはわからないが、何となく行けるのではないかという感触がある。  当初は、旅先での一時的な恋なのかなと自分で自分を疑った。しかし彼女と過ごしているうちに、そうではないと徐々に確信するようになった。私だって男だから肉欲はあるし、本能的に女を欲しいと思う。三恵子も若くて美人で女らしい身体つきをしているから、そのひとりだ。でもそれだけではない。  彼女は見た目はどこにでもいそうな軽くて明るい女という印象ではあるが、その芯には、本当の意味での品性があるのではないかと長く接していて思うようになった。本当の品性とは、本当に大切なものが何かを知っているということだ。彼女は明るいだけではなくて、率直で、嘘をつかず、何事にも一生懸命だ。そして何よりも献身の心がある。自分を犠牲にしてでも、他人に尽くそうという気持ちがある。これは簡単なようでいて簡単ではない。男女関係なく、建前の皮をはがせば自分のことしか考えない人間が多い中、たいへん貴重で珍しいことだ。  とにかく彼女はよく�働く�。それは、彼女が私に対して、自分の仕事の範疇《はんちゅう》を超えて世話をしてくれたこともあるが、一番重要なのは、それが私だけでなく他の人間に対してもやっているということだ。それは彼女を見ているとすぐにわかる。麻雀をやっている他の三人に対しても、私へと同じように接する。彼女は見返りを求めず、誰にでも公平に尽力する。�優しい�だけでなく、他人のため献身的に�行動する�。だから彼女はみなから愛される。  父親に対してもそうだ。三恵子ほど器量がよければ、父親を差し置いて街に出るのも嫁に行くのも簡単だっただろうが、父親を優先して自分は身を粉にして働いてきた。それを苦ともせず、前向きにやってきた。もし自分と結婚したら、自分にも同じように接してくれるのではないかと夢想する。もし私が病気になったとしても同じようにしてくれるだろうし、どんなことがあっても、たとえば私が一文無しになっても、彼女は裏切らずに�明るく�やってくれそうな気がする。これは一生をともに過ごすにあたって、とても重要なことだ。そして、もちろん私も逆に、彼女になら労苦をいとわず尽力するつもりがある。彼女のために働くし、必要とあれば戦う。  いきなり結婚といっても彼女は抵抗を示すだろう。だから、結婚を前提として最初は離れたまま手紙でやり取りをして、週末にはこちらに私が赴《おもむ》いたり、あるいは可能なら病気の父親といっしょに横浜を見学してもらってもいい。私のできることなら何でもやるつもりだ。私の両親は、家柄も学歴もない三恵子を嫌うかもしれないが、そんなことは関係ない。どんなことがあっても、誰を敵に回してでも、彼女に味方するつもりだ。  もし現時点で断られたとしても、手紙のやり取りくらいならできるだろう。それで徐々に仲良くなれればいいな——と、歩きながらそんなことを考えていた。長屋にもどって麻雀でもしながら、どうやって三恵子に言い出そうか考えるつもりだった。  ところが、長屋まで来てみると三人が部屋の外にいて、私を見つけるやいなや、「べ、弁護士さん、弁護士さん!」と駆け寄ってくる。彼らはいまだに私のことを�弁護士さん�と呼ぶ。三人とも顔を真っ赤にしながら、同時に「弁護士さん、弁護士さん」と酒臭い息を吐きかけてくる。 「どうしたんだい、誰かが役満でもあがったの?」と私がたずねると、「いえ、三恵子さんが、三恵子さんが」と涙ながらに訴えかけてくる。一気に血の気が引いた。呂律《ろれつ》の回らないまま話す彼らによると、先ほど鉱山の入口付近で、三恵子が死体となって発見されたらしい。 [#改ページ] 第二章           1  翌日の夕方、私は鉱山の派出所で事情聴取を終えて、外に出た。事情聴取といっても、私は死ぬ直前の三恵子の行動を知っていたわけではなかったので、ほとんど話すことはなく、型どおりの質問に対して型どおりの受け答えをしただけだった。  派出所の外は人通りがなく、静かだった。ここは鉱山街の目抜き通りなので、きのうまでは風呂へ行く者や買い物帰りの主婦などでにぎわっていたのだが、現在はほとんど人を見かけない。時々、制服の警官を見るくらいだ。新たな殺人があって、爆発事件もあったということで、みな外出を怖がっているのだろう。むろん脅迫状のことも新聞をにぎわしていて、現在、鉱山の住人たちは不安と恐怖に包まれている。すでに逃げ出した者もいる。  通りを歩いていくと、建物の隙間《すきま》から道に夕焼けの射している箇所があった。私はその赤い光をまたいで、鉱山事務所へ最後の挨拶をするために向かう。  三恵子の死体は、鉱山の古い入口のすぐ外で見つかった。私たちが座吾朗を目撃した、あの場所だ。発見者は、行方不明の三恵子を捜していた鉱夫のひとり。  私は長屋で三人の男から聞いてすぐに現場に向かったのだが、私が着いたときには、すでに警察が完璧に現場を包囲していた。しかし死体は見えたので、私は野次馬を無理やりかきわけてしっかりとこの目で確認した。死体は間違いなく三恵子だった。首筋から多量の血が地面へと流れていた。死体は魂の抜けた物体に見えたが、しかし一方で何か生き返らせる方法があるのではないかと、そんな錯覚もあった。おいおいおいという泣き声が聞こえたので横を見ると、三恵子の父親だった。  翌日になって——つまりきょうの昼間、祐子から得た警察の情報によると、三恵子の死因は鋭利な刃物で首筋を切られたことによる失血死。手首を強くつかまれた跡もあったらしい。死亡推定時刻は午後七時から午後八時。ということは、爆破事故の起こる前に、三恵子はすでに死んでいたことになる。つまり、私が鉱山の前で爆発事故の救出作業を見守っていたとき、三恵子は死体だった。  そして、三恵子の父親によると、三恵子は午後六時には夕食を済ませて午後七時前に「風呂に入ってくる」と言って、外へ出ていったそうだ。三恵子の家ではいつも午後七時ごろに夕食をとっていたので、午後六時に夕食というのは早いように思ったが、そのことをたずねると祐子は、 「『君の名は』を聴きたかったから、毎週木曜日は早めに夕食をとるんですって」  と答えてくれた。『君の名は』というのはいま話題のラジオドラマで、芸能にそれほど詳しくない私でも知っている。�東京大空襲の夜、ある男女が数寄屋《すきや》橋《ばし》で半年後の再会を約束したが、めぐり逢えぬまますれ違い、全国を転々とする�という筋のドラマで、どこまで本当か知らないが、放送の時間帯には女湯が空になるほど人気があるそうだ。そのドラマが午後八時半から始まるから、早めに風呂に入っておきたかったらしい。  しかし三恵子は午後八時半になっても帰宅しなかった。ただこれも、父親によると、三恵子が風呂帰りに近所の家に寄っていっしょにラジオドラマを聴き、そのまま雑談して帰宅が遅くなることはよくあったので、不審には思わなかったそうだ。結局、爆発騒ぎがあったこともあり、近所に捜索を頼んだのが午前零時過ぎだった。そして、その捜索に加わった鉱夫のひとりが三恵子を見つけたらしい。  三恵子は、なぜ殺害現場に行ったのか?  これには、三恵子の父親が答えてくれた。三恵子は「何とか探偵さんたちの力になりたい」と事あるごとにもらしていたそうだ。事件に興味があったのはもちろん、令子を亡くしたことに自分も責任を感じていたらしい。そういった事情があったものだから、暇を見つけては何か見つけられるのではないかと、あの場所——座吾朗が出入りしていた場所に立ち寄っていたそうだ。もちろん父親は心配して止めたが、三恵子は「だいじょうぶ」と言って聞かなかったらしい。  そして、三恵子がいつも行く風呂屋では、三恵子が目撃された情報はなかった。現場で発見されたタオルにも濡れた形跡はなかった。  一方で、救助活動がひと段落し、爆破事故の調査も開始された。その結果によると、時計の破片が見つかったので、爆発は時限爆弾によって起こされたようだ。爆発に使われたのは火力の強いダイナマイトと推定されている。これも、鉱山内では一般的に使われているもので、管理もいい加減なものだから、手に入れるのはそんなに難しくないらしい。  以上のことを総合すると——。  三恵子は、風呂屋へ行く前に何かないかと現場に立ち寄った。そこで犯人——恐らく座吾朗に遭遇して、手首をつかまれて、首筋を切られた。座吾朗がなぜそこへ来たかは不明だが、以上は事実としては間違っていないようだ。つまり、三恵子の死には疑問も謎もない。しかし三恵子は死んだ。  鉱山事務所に着いて秘書室に入ると、電気の点《つ》いていない部屋で祐子が椅子にひとり、うなだれて座っていた。目が真っ赤で覇気がないようだった。荒城の事故があったときでも、毅然と自分の仕事をこなしていた彼女だったが、こうしてみると彼女もひとりの人間なのだと実感する。軽く挨拶をしたあと、「今夜にでもこの鉱山を出ようと思っています」と言うと、「そうですか」と彼女は言った。  そのあとしばらく雑談をしたのだが、どれも内容のない話ばかりで気まずくなった私は「ではごきげんよう」と言って立ち上がった。祐子は駅まで見送りに行きましょうと言ってくれたが、それは固く断った。彼女も仕事があるだろうし、何となくつらい。  その後、社長室へ三河正一郎にも挨拶に行った。三河は深刻そうな顔をして男の職員と話していたが、私が別れを告げると「そうか、でも君はよくやってくれたよ。契約は続けるから、これからもよろしく」と微笑しながら握手をしてくれた。しかし最後まで名前は覚えてくれなかったようで、「ええと、何だったか、豊臣君だったか徳川君だったか」「殿島です」という会話を交わしてから、ふたたび名刺を渡して、社長室を辞去した。  事務所を出て、すぐに自分の部屋へもどる気になれなかったので、当てもなく鉱山街を歩いた。日はすっかり沈み、静かな街並みにはまばらに灯が点っている。飲み屋の看板がジジジジジジと音を立てていて、ネジの向きが逆の街灯が人のいない通りを煌煌煌煌煌煌と照らしている。三恵子が飾りつけの手伝いをしたというワラのトンネルの前を通った。着物姿の三恵子を必死になって探した祭りの会場跡も通り過ぎた。思えば私は、本当の意味で三恵子を見失ったのだ。あの祭りのときの不安がついに現実になった。永遠にいると思っていた人を予想外に失ってしまった。  歩いているうちに、私はだんだんとこの街が三恵子を殺したのではないかと思うようになってきた。三恵子を殺したのはこの街だ。三恵子はこの街で生まれ、この街で育ち、この街で毎日朝食を食べて夕食を食べて風呂に入って寝て起きてそしてあるとき私と出会って、この街で死んでいった。あっさりと死んでいった。何が雲上の楽園だと私は思った。私は立ち止まって地面を蹴った。楽園を蹴った。  しかし一方で、三恵子が死んだ原因は自分にあるのではないかとも思った。三恵子は私たちの調査を手伝いたいと思って、あの場所へ行った。役に立ちたいと思って、その結果殺された。すると、三恵子を殺したのはこの街ではなくて、私だ。  三恵子の家にはきょうの昼間に行った。恐らくこの世で一番三恵子の死を悲しんでいるのは三恵子の父親だろうが、彼は愛想良く迎えてくれた。私は「自分が原因で三恵子さんが」と言ったら彼は「とんでもない」と大げさに否定してくれた。それが私にはつらかった。彼は「娘はいつもあなたのことを話していたんですよ」「もし横浜へ行くことになったらどうする? と笑いながら言ってました」「よい思い出になったと思ってます」となぐさめてくれたが、そういう話を聞けば聞くほど私の心は深く闇の底へと沈んでいった。だから申しわけないが通夜や葬式に出る気にもなれない。時間が経《た》てば別だが、いまはそういう気に全くなれない。一刻も早くこの街を出たい。  長屋にもどると、三人の男が「やあ」と陽気に出迎えてくれた。男のひとりが「やりますかい?」と麻雀パイをつまむ仕草を見せたが、私は断ってこの街をいますぐ出ることを伝えた。「そうですか」と彼は言った。  三人が手伝ってくれたので荷造りはすぐに済んだ。二、三匹、虫が鞄に入っていったのが見えたが、これくらいは土産だ。鞄を閉じたところで「あの、負け分のことですが……」と男のひとりが申し出てきた。私が麻雀で少し勝っていたからであるが、 「いや、いいよ。それよりもあれを君にあげる」  私は柱時計を指差した。彼は驚いたあと一瞬渋い顔を見せたが、すぐに「ありがとうございやす」と微笑した。  彼らは駅まで見送ると言ってくれた。祐子は断ったが、彼らは断る気になれなかった。駅に向かう途中、「弁護士さん、おれたちを忘れないでくださいね」と彼らは何度も繰り返したので、私はうんうんと返事した。「金ためて横浜に行くから案内してほしいなあ」とも言われたから、私は「もちろんだよ」と答えた。  駅に着いて列車に乗るところで、彼らは餞別《せんべつ》をくれた。ひとりは酒、ひとりは象牙のサイコロ、もうひとりは用意していなかったと見えて、胸やズボンのポケットをまさぐっていたが、首からぶら下げていた小袋を外すと、それを私にくれた。開けると中に、レモン色の硫黄の結晶が入っていた。「運の良くなるお守りです」と私に倍満を四回振り込んで一番麻雀で負けていた男が微笑した。彼らはそれぞれ自分が一番大切と思っているものをくれたようで、また私を元気づけてくれたようで、私はうれしかった。  電車が発車し、徐々に速度を上げはじめると、彼らはホームの端まで走って追いかけてきてくれた。私はそんな彼らの子どもっぽい姿を見ながら苦笑し、手を振り、頭の中で街に別れを告げた。           2  ところが電車を乗り換えて盛岡駅に着くと、さっぱり横浜に帰る気になれなかった。街を出て身体にあったエネルギーがすべて抜け出ていったようだ。私は駅を出て、盛岡の街を彷徨《さまよ》った。そして、手ごろな居酒屋を見つけて、中に入った。  その居酒屋は労働者たちが集う大衆的な店のようで、大声を張り上げる彼らの隙間に座って、私はひたすらビールを飲み続けた。そしてふたたび考えた。いったい、誰が三恵子を殺したのか。座吾朗であり、あの街であり、私でもある。考えても仕方のないことを延々と考え続けた。  三恵子のことを考えるのに疲れたころ、ふと、恩田のことを思った。彼はどうしたのだろう? 祐子によると、恩田は今朝、行方不明になったそうだ。そのことを聞いて私は一瞬恩田のことを疑ったが、三恵子が殺された時間には警察官の監視があって、彼は完全な無罪とのことだった。そうして今朝になって、警察官たちが油断したすきに恩田は突然、行方をくらましたらしい。電車に乗って鉱山を下りるところを何人かに目撃されていて、現在、警察も跡を追っているそうだ。彼はなぜ行方をくらましたのだろう?  ビールで腹がいっぱいになったところで、私は居酒屋を出て、盛岡駅の近くの川べりを歩いた。座るのに適した石を見つけたので、腰を下ろした。川を見ながら考える。この川を泳いでいったら、どこにたどり着くのだろうと、また馬鹿なことを考える。  酔いが醒《さ》めたところで、また三恵子のことを思い出した。地面を踵《かかと》で蹴った。忘れようと思っているのに、さっぱり頭から離れない。  自分が、死んだ三恵子のためにできることはないだろうか? ふとそんなことを考えた。三恵子のため? 座吾朗を捕まえることか。しかしそんなことは、私ひとりでは絶対に不可能だ。荒城はあんな状態になってしまったし、警察が束になっても捕まえられないのだからどこをどう考えても、世界が裏返しになっても無理な話である。  いっそのこと、死を覚悟して単身鉱山内に乗り込むのはどうかと考えた。仮に座吾朗を見つけ出すことができるのなら——万に一つでも可能性があるなら、魅力的な行動のように思えた。しかしすぐに打ち消した。荒城や警察が何日かけても見つけられなかったのだ。あの迷路のような鉱山では万に一つもそんな可能性はないし、かえって捜査の邪魔をして、死者を増やしてしまうかもしれない。私の命などどうでもいいが、他に死人が出たら、死んだ三恵子は悲しむだろう。そんなことなら、横浜に帰って『泉平』のいなり寿司を食って糞《くそ》して寝たほうが、はるかに世の中のためになるし、三恵子はよろこぶ。  では、どんなことが——と考えていたら、突然後ろから、 「やっと見つけましたよ」  と声が聞こえた。振り向くと、人影がこちらに近づいてくるのが見えた。最初は暗くてよくわからなかったが、人影が光の射している場所まで来ると、見覚えのある黒い学生服姿の男が浮かび上がって見えた。 「いえ、なぜあなたを見つけられたかって、驚くことはありません」と真野原は言ってから、「推理したんです」と微笑した。           3  真野原は私の隣に座って語り出す。 「あなたが帰ったと聞いて、急いで追いかけてきたのです。ところが、あなたが乗りそうな東北線に間に合ったと思ったのに、あなたはいない。どこへ行ったのだろう? 東北線に乗らなかったあなたの心理状態を考えると、宿を取ったか、酒場へ行ったかです。しかし駅を降りて……」 「君は警察に捕まっていたんじゃないのか?」  長くなりそうだったので、私は口を挟んだ。 「いい質問です」真野原は待ってましたというように微笑してから、「一回目はお聞きになりましたか? この液体を使ったのです」と言って、左手の義手から、ぴゅっと液体を放出した。「これで蹴散らしました。ぼくを捕まえるなんて、想定内です。あなたたちは気づかなかったでしょうが、あの牢屋に警察が来る直前にすばやくこの義手に交換したのです。舐《な》めると、辛い液体です。舐めますか?」  と真野原は自慢げに言った。 「いや……」 「二回目は、鉱山にある派出所の牢屋に入れられました。しかしあんなところは簡単です。義手は取られましたが、ぼくにはこれがあるのでね」彼は右手の人差し指で額を差した。「頭脳です」 「どうやって出たんだ?」  私はまたこの奇妙な男に興味を持った。 「鉄格子の外に、子どもが野球をやっているのが見えましてね。その子どもたちを呼んで、耳と鼻を動かして見せたのです。そして『このやり方を教えてほしければ、協力してほしい』と言ったのです」 「耳と鼻?」 「ええ、こうです」  真野原は鼻をぴくぴく動かしながら、同時に耳も動かした。私はぷっと吹き出した。 「子どもなんてちょろいものです。三秒でぼくは英雄ですよ。しかし一方で、子どもは警察よりもずっと賢い。詳細は略しますが、子どもたちに任せて、鍵を奪い取らせて、牢屋を出してもらいました。軽いものです、座吾朗の脱獄に比べればね。しかし、相手も国家の威信を背負った警察です、あなどれません。また捕まってしまいました。しかも、今度は鉱山を下りて、警察署の本格的な牢屋です。とても厄介です。それでも頭脳を使えば出られないことはなかったのですが……。  しかし、ここでぼくは考えました。頭脳を使いました。こんな面倒なことをするよりも、おとなしく釈放されるまで待ったほうがいいのではないか? 出たとしても、身を隠しながら鉱山を調査するのは難しいし、どうせ警察は本気で起訴する気はなくて、懲罰的に何日か牢屋に入れられるだけだろう。すぐに釈放されるだろう。そう思っておとなしくしていました。そして釈放されたのが今朝です。  ところが、出てみると、なんと殺人事件がいくつも起こってるというではないですか!……やられました。牢屋にいるとき、警察はさっぱり事件の経過を知らせてくれませんでした。あれは詐欺ですよ、詐欺。警察に訴えたいくらいです。しかしぼくにとっても、最大の失敗でした。……くそっ、事件が起こってると知っていたら、無理やりにでも出てやったのに!」  真野原も地面を蹴った。 「君だったら、事件を防げたというのか?」  私は聞いた。 「当然です」 「それはすごい自信だな」  私はまた吹き出した。 「よく言われます。言うだけなら無料です」  真野原も笑った。 「君は何者なんだ?」 「何者って探偵です」 「職業は?」 「ですから探偵です」 「誰に依頼された?」 「金ですか!」真野原は立ち上がった。「あなたは金がすべてだというのですか? 金をもらって仕事しないと、探偵とは言えないと!? くだらないですね、まことにくだらない。金が大切なことは認めますよ。金とは生産物の代替、すなわち生きていくためのエネルギーの単位ですからね。物々交換でもっとも威力を発揮する物質です。でも目的を忘れちゃいけない。生きるために金を稼ぐのならいいですが、その逆は困ります。我々は金を稼ぐために生きているのではありません。何ですか、それではあなたは、預金通帳に書いてある数字を増やすために生きているのですか? あの、数字と肖像画の書いてある紙切れをコレクションするために人生を過ごしているのですか? 笑止です。そんなもの、天国にも地獄にも無人島にも牢屋にも持っていけません」 「いや、そこまでは言ってないけど……」私は彼の語気に圧倒された。「じゃあ、君はどうしてこの事件の調査をしているんだ? わざわざ東北にまで来て、脱獄までして……」 「もちろん、興味があるからです」 「興味……?」 「興味を馬鹿にしてはいけません。興味は、すべての人間の活力の源です。偉大な科学者や芸術家はすべてそうでした。多くの科学者や芸術家が定期的な収入を得られるようになったのは、つい最近のことです。かつて彼らは、王族や商人などのパトロンがいなければ生活できなかった。ゴッホは貧乏だったし、アインシュタインだって偉大な研究をしたのは、特許職員をやっていたアマチュア時代です。そんな彼らの情熱を支えたのは、科学や芸術への飽くなき興味です。彼らは科学や芸術がおもしろかったから、情熱を注いだのです。すなわち真に品格のある人間は、金ではなくて興味にこそ情熱を注ぐのです」 「君は品格のある人間だと?」 「はい、そうありたいと思っています」  真野原は子どもっぽい笑顔を見せた。 「ふうん」  彼の言うことには、いまひとつ共感はできなかったが、これだけのことを語る彼の情熱と根拠のない自信には感心した。 「わかっていただけてうれしいです」  と彼は勝手によろこんだ。 「で、何をしに来たんだ?」  私は聞いた。 「もちろん調査です」 「ぼくはもう帰るよ」 「なぜです?」 「なぜって……」 「三恵子さんが死んだそうですね」  真野原が間髪を容れずに言った。  数秒間沈黙があったあと、また涙が込み上げてきた。いまなら出そうと思えば、いくらでも涙は出てくる。しかし耐えて、 「ああ、死んだよ」  と言った。 「そうですか」  と真野原が言った。  またしばらく沈黙があったあと、 「石川啄木《いしかわたくぼく》を知ってますか?」  と真野原が唐突に言った。 「え……ああ、知ってるよ」 「食えなかった芸術家の代表ですね。彼はここ、盛岡で育ったのです」 「へえ」 「こんな詩を知っていますか。『何処やらに沢山の人があらそひて 鬮《くじ》引くごとし われも引きたし』」  と気取った詩人のように真野原は言った。 「いや……」  停車場に訛《なま》りを聞きに行く詩だとか、母を背負って軽かった詩は知っていたが、その詩は初耳だった。 「ぼくの一番好きな詩です。啄木というと暗くて貧乏くさい詩ばかりですが、これは何ともいえないユーモアがありますね。人間の本質をついてます。みんなが争うクジなら、ぼくも引きたい」 「……それが、何か?」  どう話がつながっているのか、何を暗喩しているのかわからない。 「いえ、ですから、ぼくの一番好きな詩です」 「……それだけ?」 「ええ。心に響きませんか?」  私はまたぷっと吹き出した。延々と自説を述べたかと思えば、唐突にこんなことを言う。おもしろいやつだ。 「それくらい吹き出す元気があるのなら、大丈夫ですね。行きましょう」  真野原が立ち上がった拍子に、義手がカチャリと音を立てた。 「行くってどこへ?」 「四場浦鉱山です」 「何をしに?」  もうあの鉱山に用はないし、行きたくもない。しかし、 「もちろん、犯人をぶっ殺しに行くのですよ」  と品格のある探偵は言って、満面の笑みを見せた。           4 「ぶっ殺すって……」  私は真野原の顔を見た。 「おや、あなたは殺したくない?」  真野原は不敵な笑みを浮かべて言う。 「そりゃ、できることなら……」殺してやりたい。しかし、本職の探偵である荒城でさえ傷ついたし、警察が束になっても手を焼いている相手だ。それに座吾朗は銃も爆弾も持っている。そんなやつを相手にするなんて無謀としか思えない。 「君は座吾朗の居場所を知っているのか?」と真野原に聞いた。 「いえ」 「じゃあ、勝算はあるのか?」 「当然あります」 「なぜ? どうやって?」 「それはいまから考えるのですよ。さあ、急ぎましょう。鉱山への最終電車はもうすぐです!」  真野原は義手でないほうの手で私の手首でつかむ。  真野原の意味不明な勢いに押されて、結局、鉱山へともどることになってしまった。彼の話を聞いて気力が復活したというのもあるが、そのじつ、私自身もまだ未練があったのかもしれない。 「しかし、ぶっ殺すといっても、準備が必要です。……さあ、あなたの知っていることをすべて話してください」  電車に乗ってから、真野原は私に言った。そこで私は真野原に、彼と別れてからの出来事を延延と話した。地下牢の外の調査のこと、脱獄に対する私の推理、荒城の推理、第二、第三の殺人、座吾朗の故郷のこと、令子の自殺、そして三恵子のこと。 「荒城さんの具合は?」  話が終わったところで真野原は聞いてきた。 「ひどい怪我だけど、命に別状はなさそうだ」  と私は荒城の病状を簡単に説明した。 「そうですか、それは良かった」 「ただ、精神的に参っているみたいだけどね。優秀な探偵だと思うのだけど……」 「同感です」真野原はにっこりと笑った。「彼は優れた探偵ですよ。彼が数々の事件を解決したというのは本当だし、ぼくも間近で見たことがあります。ただ残念だったのは、今回の事件は彼向きの事件ではなかったのかもしれないということですね」 「彼向きではない?」 「ええ、今回の事件は推理力——つまり頭脳を要求される事件ですからね。もちろん彼は頭脳も優秀ですが、どちらかというと彼は、行動で力を発揮する性質の探偵だとぼくは思うのです」 「行動……警察のように地道に手がかりを追うということか?」 「いえ、それとも違います。何というか、彼は助手もつけずにひとりで、彼自身の勇気と行動力を生かすべきだと思うのです。極端な話、彼なら容疑者を一発ぶん殴っちゃってもいいと思うのですよ。それで、東京などの大都市で、声にならない声を拾うような……誰からも見捨てられて、どうしようもなく困っている人に手を貸すような……アメリカの都市部にいそうな探偵ですね。今後、必要になってくると思いますよ。日本も都市化と民主化が進みますから。そういう意味では、頭脳だけを駆使する古典的な探偵とは少し違いますね。もちろん、これは�違う�というだけで、どちらが優れているというわけではありません。ぼくが得意な性質の事件もあれば、彼が得意な事件もある」 「すると、君は頭脳派の探偵だということか?」 「ええ」  と真野原は、さも当然のように言う。私はまた吹き出した。先ほど、「ぶっ殺す」と言っていたのは、どこのどいつだろう。 「今回の事件は、頭脳派の君が解決する事件だと?」  と私は頬を緩《ゆる》めながら聞いた。先ほどまで私は救いようのないくらい深く沈んでいたのに、だんだんと楽しくなってきた。ここまで自信家だと、いっしょにいておもしろいし、理由もなく勇気づけられる。  しかし真野原は「いえ、それは、もう少し調査しなければなりませんが……」と自信がなさそうに言ってから、「降りましょう」と立ち上がった。  電車が四場浦鉱山に着いたようだ。結局、私はこの街にもどってきた。  最終電車の到着する駅のホームは、どこか寂しくて儚《はかな》げだ。そして疲れている。 「どこへ行くんだ?」  家路に就《つ》くまばらな人々をかきわけながら、私は言う。 「恩田さんの家です」 「恩田さん? いま誰もいないと思うけど……」  と私は言ったが、真野原は返事をせず、まるで獲物を追いかけるように早足で進んでいく。妻の令子は死に、恩田も行方不明になったのだから、現在恩田夫妻の部屋には監視の警察官くらいしかいないだろう。 「荒城さんが言っていたのですよね」無人の改札を出たところで、真野原は歩きながら口を開いた。「どうもこの事件には、重要なパーツが抜けているんじゃないかと。まだ登場していない人物がいるのではないかと。あれは、とても象徴的だと思うのです。そして的確に本質をついている。いまからそれを見つけに行くのです」 「重要なパーツ? 恩田さんの家に? 鍵がかかっていて入れないと思うのだけど……」 「パーツが家の中に落ちているとは、限りません。たとえば、あの人です」  真野原はさらに足を速めた。 「あの人?」  私たちの前には、老人らしき男が夜道をひとりで歩いている。 「ちょっと、あなた」  真野原が老人に追いついて、肩を叩いた。 「ん?」  と白髪の男が立ち止まって、振り返った。七十過ぎの老人に見える。 「あなたは、藤堂《とうどう》さんですね」  真野原は唐突に言った。いったい彼は、夜道で見ず知らずの男に声をかけて何を言っているのだろうと私は思ったのだが、藤堂と呼ばれた男は、 「はい、そうですが……?」  と答える。 「やっぱり……」真野原はにっこりと微笑んだ。「電報を打ったのは、ぼくです。すみません、嘘をつきました。ぼくは探偵です」と真野原は意味不明のことを言う。 「あんたが……そうか、そういうことだったのか」  男は何事か察したようだった。 「殿島さん、紹介しましょう」真野原が私に笑顔を向けた。「彼こそが、いままですっぽりと抜け落ちていた重要なパーツであり、そして同時にこの事件、最後の登場人物である藤堂|文治《ぶんじ》さんです!」           5 「種明かしはあとでします。あなたの部屋へ行きましょう」  という真野原の提案で、我々は、私が宿泊していた長屋へと向かうことになった。  すると、誰もいないと思っていた部屋には電気が点《つ》いていて、中に入ると、 「やあ、弁護士さん、お帰りなさい」  と三人の男が出迎えてくれた。 「君たち……まだいたのか」私は苦笑した。 「まだいたのかって、つれないなあ。その探偵さんに頼まれたんですよ。『殿島さんを連れて帰ってくるから、それまでこの部屋を見張っていてくれ』ってね」  その後、真野原が「すみません、ちょっと席を外してもらえますか」と三人に言って、彼らは「じゃあ、またあとで」と言って、長屋を出ていった。 「では、種明かしです」真野原が畳に座ってから、口を開いた。「ぼくがきょうの朝、釈放されてから何をやったか? 三河前社長と恩田さんの調査です。彼ら二人が座吾朗ともっとも関係が深かったし、恩田さんは何か過去を隠しているようでしたからね。そこでぼくは考えました。恩田さんは、人には言えない過去があるみたいですが、それは何か? 監禁罪の危険まで冒《おか》して、看守をやるほどの弱みとは何か? ぼくは恩田さんが犯罪的行為を犯したのではないかと仮説を立てました」 「犯罪……」 「ええ、それなら監禁という犯罪的行為に手を貸したのも、三河前社長があれだけ信用したのも納得がいきます。しかし一方で、どうしてこの鉱山にやってきたのかという疑問が残ります。恩田さんは、なぜこの鉱山に来れば身を隠すことができるとの確信を持ったのか?……ぼくは紹介者がいるのではないかと推理しました。こういう鉱山はですね、むかしから斡旋《あっせん》者のような職業があるのですよ。そういうツテをたどって、身に覚えのある者はやってきます。……そこで、ぼくは三河前社長と恩田さんの家に行って、過去の手紙を徹底的に調べました」 「手紙? 手紙なら、すでに警察が調べているんじゃないのか?」  私は口を挟んだ。 「ええ、調べているのでしょうね。でも当てもなく調べるのと、当てがあって調べるのでは全然違います。ぼくは、二人の受け取った手紙の差出人を、手帳に記録しました。三河さんは社長ですから手紙が大量にありましたが、恩田さんは少なかったから手間はかかりませんでした」 「恩田さんがよく許可してくれたな……」 「恩田さんは、いませんでしたよ。行方不明ですからね」 「ああ、そうか……え? じゃあ、どうやって調べたんだ?」 「これを使ったのです」真野原は持っていたスーツケースを開けて、一本の義手を取り出した。「この先についている針金を使えば、たいていの鍵は開きます」 「お前、忍び込んだのか……」 「恩田さんのためでもありますからね。これくらいの正義は許されますよ」真野原は微笑んだ。「さて、ぼくは、二人の受け取った手紙の差出人の名前を突き合わせて、照合しました。すると、ひとりだけ共通する人物がいました。そしてさらに、その人物が三河前社長に出した手紙をよく読んでみると『恩田は元気か』などと、抽象的ではありますが、恩田さんを紹介したようなことが書いてあります。ぼくは確信しましたよ、『この人物が、恩田さんを三河前社長に紹介したに違いない』ってね」 「それが……このひとか……」  私は藤堂を見た。藤堂はにやにやと笑っている。 「そうです。どうですか、これが推理ですよ!」と真野原は自慢げに言う。「想像力のない警察がどんなに手紙を調べたとしても、何も出てきません。百年調べても無理です。的確な推理をして見比べないと意味がない。……そしてその後は、藤堂さんに電報を打ちました。恩田さんの名前で『スグキテクレ』とね」 「そうして、私がのこのこと騙されてやってきたというわけです」  老人は微笑みながら言う。身なりはどこにでもいそうな老人だが、そのしゃべり方と素振りに知性が感じられた。 「手紙を読むに、藤堂さんは恩田さんを心配していたようでしたからね、すぐに来てくれると思いましたよ! ただ、まさかきょうのうちに来てくれるとは思いませんでした。電報の受付を急かした甲斐があったというものです。そして、仮に来るとしたら、最終電車かその一本前だと計算していました。その後は簡単です。鉱山の駅で降りて、恩田さんの元へ向かう老人はひとりしかいなかった。声をかけてみたら、案の定藤堂さんでした。以上で種明かしは終了です」  と真野原は得意げに言う。 「確かに見事ですね」  老人はうんうんとうなずいた。 「では、恩田さんのすべてを話してくれますか? 手紙を見るに、あなたはかなり深いところまで恩田さんの相談に乗っていたようでしたから、恩田さんに関して、すべてをご存じですよね」 「うーん、話すといっても……」  藤堂はためらうような表情を見せた。 「絶対に恩田さんに不利にならないように約束しますから、ぜひ話してください。恩田さんは危険かもしれないのです。というのも……」と言って真野原は老人を説得しはじめた。  藤堂はその説明を黙って聞き終えると、「わかりました。そういうことなら、話しましょう」と真面目な顔でうなずいた。  男は話しはじめる。 「恩田さんと初めて出会ったのは、いまから二十年前、東北線でのことでした。私はむかし弁士をやってましてね。弁士、わかりますよね?」 「ええ、映画に音声がついてなかったころ、代わりに映画館でしゃべる職業ですよね」  と真野原が答える。 「そうですそうです。しかし二十年ほど前に、音声入り映画——いわゆるトーキーが現れてから、映画館を馘《くび》になりましてね、それで兄のやってる田んぼでも手伝おうかと、故郷の盛岡に帰ることにしました。そのときに、東北線の車内で私の前に座っていたのが、恩田さん——かつては本名の画島由紀彦を名乗っていた恩田さんです。  恩田さんは学生服を着ていましてね。ところが荷物をひとつも持たず、冬の東北へ行くというのに、マントさえ身に着けていない。そして怯えるように、周りをきょろきょろしている。人が通るたびに、顔を隠すようにして、びくびくしている。こりゃ、妙だなと思いましたね。  そんなとき——あれは、福島あたりだったか、突然車内に制服の警官が乗り込んでたんです。 『昨晩東京で凶悪事件が発生して、その犯人がこの列車に乗っている可能性があるとの情報が寄せられた。そこで我々は諸君の取り調べを行う』  ってね。すると、恩田さんの表情が一変するのがわかりました。私は『ああ、彼がやったのかな』ってピンと来ました」 「恩田さんは、どういう犯罪を犯したのですか?」 「そのときはわかりませんでした。凶悪事件としか警官は言ってませんでしたので。ともかく私は気の毒に思って、彼をかばってあげることにしました。警官は車内にいるひとりひとりに職務質問をしてきたわけですが、私が『叔父だ』『いっしょに帰省しようとしている』ってね。うまくいって、その場は何とかしのぎました」 「ちょっと待ってください。あなたは、鉱山への斡旋を職業とはしてなかったのですね?」 「ええ、普通の弁士でしたよ」 「じゃあ、ちょっと変ですね。恩田さんがその犯罪者だと薄々わかったのですよね。なぜかばったのですか? 犯人|隠匿《いんとく》ですよ」 「それにはわけがありまして……私が、四場浦鉱山の前の社長・三河正造と知り合いだということは、ご存じですよね。鉱山内で殺されたという彼です」 「ええ、彼のところの年賀状を見て、あなたに電報を差し上げたのですから」 「彼とは旧友でしてね。彼から『鉱山で働くことのできる若者を探している。誰かいないか』と頼まれていたのです。しかも『絶対に秘密を守れる信用のできる者を』ってね。鉱山には当時、若者がたくさんいたのですが、�絶対に秘密が守れる�となると、これが意外に難しいのです。  しかし、恩田さんは最適だと思いましたね。恩田さんは逃げている。しかも、話しかけてみると育ちは良さそうで、帝大生だ。彼ならぴったりだと思ったわけです。  これが彼をかばおうとした理由です。そうして私は、紹介状を書いて、彼に鉱山に行くように言いました。恩田さんは最初はためらったのですが、結局、行くしかないと納得して、鉱山までやってきたということです」 「なるほど、それで恩田さんは、地下牢の看守になったのですか」 「はい、地下牢の看守とは、私は知りませんでしたけどね」 「確かに、警察から逃げている人間なら、秘密を守らせるとしたら適任ですが……恩田さんは、どういう犯罪を犯したのですか?」 「それは……絶対に口外しないでくださいよ。二十年経っていますから時効ですが、彼の名誉があります」 「ええ、もちろん」 「どうやら、あとで聞いたところによると、彼は銀座で、見ず知らずの男を殺したそうです」 「さ、殺人……」  私は驚いて、藤堂の顔を見た。 「ええ、明確な殺人の意図があったわけじゃなくて、ものの弾《はず》みで殺してしまったみたいですけどね。そのとき帝大生の恩田さんは、両親が決めた婚約者といっしょに銀座を歩いていたらしくてですね、酔っ払いの男が突然、婚約者にからんできたそうです。で、恩田さんは婚約者を守ろうとして、男を殴り倒したら、男の頭の打ち所が悪かったらしくてですね、即死だったそうです。それで恩田さんは、無我夢中で逃げて、当てもなく東北線に乗ったそうです」 「それは別に、殺人じゃないですよね。傷害致死——いや、婚約者を守ろうとしたのなら、正当防衛が成り立つかもしれない。無罪かもしれない。それなのに、恩田さんは二十年以上も逃げたのですか?」  と真野原は聞く。 「これもあとから聞いたのですが、人を殺した直後の恩田さんは、混乱したようですね。『死刑になるかもしれない』と本気で思ったそうです。文学部で法律に詳しくなかったようですから……」 「そうか……そんなものかもしれませんね。法律に詳しくない人間が人を殺してしまったら、極度に混乱するのは、仕方ないか……」 「ええ、ずいぶんと時間が経ってから、恩田さんも『死刑になるほど重い罪ではない』ということを知ったそうですが、そのときは令子さんと結婚していましたからね。鉱山の居心地は良かったし、軍の召集もないしということで、鉱山で看守をやることを決心したようです。エリートだけに、人を殺して実家に帰るのが恥ずかしいという気持ちもあったのでしょう」 「しかし、よく二十年間も逃げとおすことができましたね。それに、社長の三河正造さんは、恩田さんが犯罪者だということを知っていたのですよね? 秘密を守れる看守が欲しかったとはいえ、よく恩田さんを受け入れましたね」 「それも、理由があるのです。というのもですね、鉱山は国にとって重要産業です。これは戦国時代からそうです。  一方で、鉱山の仕事は過酷ですから、若いうちにバタバタ死んでいきます。だから成り手が少ない。そうなると、自然と、貧困にあえぐ者、捕虜、借金苦で夜逃げした者——そして身に覚えのある犯罪者が流れ着いてくることになります。全部とは言いませんが、少なくともこの鉱山は、犯罪者を受け入れることに慣れっこなのです。  もうひとつ——これはあまり知られていませんが、三河社長もむかし経済関係で犯罪を犯して、牢屋に入れられたことがあります。そういったことがあって、犯罪人を隠すことにも抵抗がなくて、むしろ積極的なくらいでした。そして先ほども言ったように、国にとっても重要産業だから、あまり深くは詮索してきません。見てみぬふりなのですよ」 「なるほど……では、令子さんとは、どうやって知り合ったのでしょう?」と真野原が聞く。 「令子さんは、恩田さんの前に地下牢の看守をやっていましてね。前任者です。……いえ、正確に言うと、令子さんの父親が看守をやっていたのですが、その父親が病気になってしまいまして、代わりに令子さんが看守をやっていたのです。しかし、十代の少女に看守は不向きということで、新しい看守を探していたのです」 「ふむ、同じ看守ということで知り合ったと。引継ぎか何かで仲良くなったのかな」 「いえ、それがですね」藤堂は苦笑した。「そのとおりですが、出会ったきっかけというのは、恩田さんが地下牢に監禁されたことなのです」 「監禁?」 「ええ。私が恩田さんに紹介状を渡したあと、恩田さんはひとりで鉱山に来たのですが、そのとき泥棒と間違えられましてね。運の悪いことに、ちょうどそのとき、鉱山事務所に空き巣が入ったのです。その泥棒に間違えられて、恩田さんは地下牢に捕らえられてしまったのです。殺人の疑いではなくて、泥棒の疑いですね。警察ではなくて、鉱山の私設の警備団に捕まりました。当時、鉱山には私設の警備団があったのですよ。いまではないですが」 「ほう、紹介状を持っていたのに捕まったのですか?」 「はい……間の悪いことに、三河正造さんは欧州に視察旅行へ行ってましてね。紹介状は信用されなかったのです。恩田さんが、不審者のように事務所周辺をうろうろしていたのが、まずかったですね。警備員に見つかった瞬間、反射的に逃げてしまったそうです。そうなると、不審者確定です。列車を使わずに、雪山を登ってきたのもまずかった。雪だらけの恰好で警備員から逃げたら、そりゃ、捕まりますよね。泥棒と間違われても仕方ない」 「雪山……冬の季節に、ここまで登ってきたのですか?」と私は聞いた。 「ええ、警察に見つからないように、私が助言したのです。盛岡から何十キロも歩いて、ここまでね」 「それはすごいな……」  東京の若者が、標高一〇〇〇メートル以上の雪山を登ってくるというのもすごい話だ。 「汽車が通る前は、みんなそうしてたんですよ。……もっとも、恩田さんはずいぶんと驚いたみたいですね。こんな一〇〇〇メートル以上の雪山の頂上に、煌《きら》びやかな街がひとつあるわけですからね。しかもそのとき、鉱山ではちょうど祭りをやっていまして、あまりににぎやかなものでしたから、これは夢かと思ったそうです」  私が迷子になったような祭りに遭遇したということか——。確かに、警察から逃げて、ひとりで雪原を歩いて、雪山を登った上にこんな街があるとなると、さぞ驚いたに違いない。 「ふむ。そうして、恩田さんは鉱山私設の警備団に捕まって、地下牢に入れられたと。なぜ警察に引き渡されなかったのでしょう?」  と真野原は藤堂に聞く。 「面子《メンツ》でしょうね。その警備団は、かなり横暴でプライドが高かったので。三河社長が出張中に起きた不手際は、自分たちで何とかしようと考えたのでしょう。私は、恩田さんが捕まっていたなんて知りませんでした。そうと知っていれば、もちろん恩田さんを救い出したのですが」  と藤堂は申しわけなさそうに言う。 「恩田さんは、座吾朗と同じ地下牢に監禁されたのですか?」と真野原が聞く。 「いえ、隣の牢屋だったそうです」 「ああ、あそこか……」  私は、座吾朗の牢屋の隣にあった牢屋を思い出した。 「では、重要な質問をします。なぜ座吾朗は監禁されていたのですか?」  と真野原は真剣な目つきになって聞いた。少し探偵らしい。 「さあ……恩田さんもよく知らなかったそうです。伝染病と聞いていたそうですが……もっとも恩田さんも怪しいと思っていたそうですけどね」 「あなたも知らないのですか? 三河前社長の旧友なのですよね」 「ええ、残念ながら知りません」 「ふむ……では、令子さんのことは? どこまでご存じですか」 「結婚して以降のことなら知っていますよ。夫婦と付き合っていましたからね。しかし報道にあったように、座吾朗と同じ故郷だとは知りませんでした」 「恩田さんは、令子さんと座吾朗が同じ故郷と知っていたのでしょうか」 「知らなかったと思います」 「そうですか……では、令子さんは恩田さんの過去を知っていたのでしょうか?」 「銀座で人を殺したことですか。知っていましたよ。結婚する前にすべてを打ち明けたと言っていました」 「なるほど。では質問を変えます。あなたは恩田さんが看守をやるところまで話してくれましたが、では、恩田さんが地下牢の看守になった以降は、どうなったのでしょう?」 「それは、知ってのとおりです。恩田さんは看守をずっと続けて、令子さんと結婚しました」 「すぐに結婚したのですか?」 「すぐとは?」 「ここは大切なのです。恩田さんは看守になった。結婚はその直後ですか?」 「ああ……そういえば、恩田さんが結婚を申し込んでから、空白の期間がありましたね」 「空白?」 「ええ、令子さんが『一年ほど待ってほしい』と言って、故郷に帰ったのです。父の肺病の看病をしたいということで……そのときの恩田さんはかなり荒れてましたよ。『自分ではやっぱり駄目だったのか』とかなり落ち込んでいました。でも結局、お父さんは亡くなって、一年後に結婚したのですけどね」 「ふむ……やはりそうか……」  と真野原は眉間に皺を寄せて納得した様子だった。 「空白に何か意味があるのか?」  と私は聞いたが、真野原は無視して、 「ほかに、座吾朗について何か知りませんか? 恩田さんは何か言ってませんでしたか?」  と藤堂に聞く。 「うーん」 「これは、とても重要なことなのです。事件を解決するには、まだピースが足りません。何でもいいです、地下牢で変な現象があったとか——この二十年間で」 「ああ、そういえば」 「何でしょう!?」と真野原は身を乗り出す。 「これは二十年前、恩田さんが地下牢に監禁されたときの話ですが、どこからか、女の呻《うめ》き声のような音が聞こえてきたそうです」 「呻き声?」 「はい、夜になると、毎日のように聞こえてきたそうです」 「どんな声だったと、恩田さんは言っていましたか?」 「うーん、苦しむような声だったと……」 「その地下牢の存在は、鉱山の人間にもほとんど知られていなかったのですよね」 「そう聞いています」 「とすると、令子さんの声ではないのですか?」 「いえ、恩田さんは令子さんに聞いたのですが、令子さんはびっくりしたような顔で『わたしじゃないよ』と言っていたそうです」 「じゃあ、何でしょう?」 「さあ……そういえば、あの場所では、むかしキリシタンの女の鉱夫が死んだらしくてですね、乳児を失った母親が、そこで自殺したという伝説があります。その叫び声じゃないかって令子さんは言っていたらしいですけど……私は風の音じゃないかと思うのですけどね。あのあたりは、風が女の叫び声のように聞こえることがあるそうですから」 「でも、恩田さんは風の音じゃないと?」 「そう言ってましたね」 「なるほど。では、もうひとつ非常に重要なことを聞きます。当時、地下牢の扉は、鉄格子だったのですか」 「え?」 「扉は一か月ほど前に交換されて、鉄の扉になったのです」 「ああ、そういえば……座吾朗がよく、鉄格子を揺らしてガチャガチャやっていたと言ってましたね。それが気味悪かったと」 「それは確かで?」 「はい、そう言っていました」 「そうですか」  そう言って、真野原は立ち上がった。 「女の声や、鉄格子の扉がそんなに重要なのか?」  私は真野原に聞いた。女の声は二十年前の話だ。鉄格子だったのは、脱獄する前の話だ。今回の脱獄事件や殺人事件と関係があるとは思えない。  しかし真野原は私の質問に反応せず、狭い部屋の中をせわしく往復しながら、「まさかそんなことが……いやしかし、そうとしか考えられない」と自分に言い聞かせるようにつぶやく。そして部屋の縁にある柱に抱きつきながら座り込んで、「しかし、問題は犯人がこれから何をやるかだ」と真面目な顔で柱に話しかけた。まるでセミのようだ。 「何かわかったのか?」  私はそのセミに話しかけたが、しかしセミは「それにあの血の文字の意図は……」と柱に額を密着させて独り言を言うだけで返事をしない。私たちのことが目に入っていないようだ。 「そういえば、この部屋は座吾朗が住んでたらしいですなあ」  と藤堂が言った。 「ええ。藤堂さんはご存じでしたか」  私が言った。 「はい、誰だったかな……古い人間に聞いたことがあります」 「じゃあ、ここに座吾朗が住んでいたというのは、本当だったのですね。では、ここで座吾朗がいっしょに住んでいた探鉱家《たんこうか》のことは知りませんか?」  と私が言うと、真野原が突然立ち上がって、 「探鉱家だって!?」  と叫んだ。同時にゴンという鈍い音がしたが、どうやら立ち上がった拍子に柱で頭を打ったようで、彼の額は赤くなっていた。しかし彼はそれを気に留めもせず、「探鉱家というのは、鉱床を発見する人ですよね」と怒ったように私に言った。 「ああ」 「座吾朗は、ここで探鉱家といっしょに住んでいたのですか!?」 「ああ、そう聞いたよ」 「そんな話、聞いてませんでしたよ……」 「ああ、ごめんごめん。さっきはその話をしなかったか」  話があまりに多岐にわたっていたので、すっかり忘れていた。 「その探鉱家はどんな男なのですか!?」  真野原の興奮は冷めないようだ。 「いや、それが名前もわかっていないんだ。というのもね……」  そうして、私は警察の調査状況も含めて、真野原に説明した。 「藤堂さんは、ご存じですか?」 「いえ、私も間接的に聞いただけで……」  と藤堂が言うと、真野原はまた立ち上がって、柱のところで座り込んだ。そして今度は柱に抱きつくというより密着するようにして頬を柱にすり寄せながら、「放浪の探鉱家か……そうか、それで座吾朗は監禁されていたのか……」と言う。まるで樹液に吸い付くカブトムシのようだ。 「座吾朗が監禁されていた理由がわかったのか?」  無駄とは感じつつも、私は聞いた。するとカブトムシは立ち上がって、 「しかし、犯人が何をやろうとしているのかは、依然として不明だ」  と大きな声で言った。それは私に言ったというよりも、自分に言い聞かせたようだった。  それからしばらく真野原は「何をしようとしているのか」「血の文字の意味は?」とぶつぶつと言いながら、部屋を往復する。そして突然立ち止まったかと思うと、壁や柱に額を擦り付ける。先ほど打ち付けた額は腫れ上がってコブができているようだし、妙な行動をする探偵だと思う。 「眠くなってきました」  藤堂が言った。 「そうか……恩田さんの家に泊めてもらうつもりだったのですね」  と私が言った。 「ええ、でも宿があれば、そちらで」 「いえ、いま鉱山は警官や記者がいっぱい来ていて、泊まる場所がないらしいのですよ。こんなところでよければ、どうぞ泊まっていってください。ちょっと虫が出ますが」 「虫?」  と藤堂が聞くので、私は虫との格闘を説明した。 「ですから、押し入れで寝てるのです」  私は苦笑した。 「押し入れ?」  と藤堂が聞くので、「ええ」と私は答えてから押し入れを開けて、「ここで寝ると、虫が来ないのですよ」と私は言った。 「ははは、なるほど、そこな……」 「それは何ですか?」  突然、真野原が聞いてきた。真野原は、彼にしては珍しく真剣な表情を浮かべながら、押し入れの中を指差している。 「いや、だから、虫が来ないように押し入れの中で寝るわけで……」  私は説明したが、真野原は、 「そうではなくてですね、それ……」  と放心したように口を半分開きながら指差す。どうやら、押し入れの中の壁に貼ってある〈西条さつき〉のポスターや記事の切り抜きのことを言っているようだ。 「ああ、これは隙間風を防ぐために貼ってあるんじゃないかなあ」 「ええ、長屋は隙間風がひどいのでね。よくそうしたものです」藤堂が同意した。 「そんな話、聞いてませんでしたよ……」  真野原が青ざめた顔で言ったが、いかに私が詳細に事件のことを語ったといっても、押し入れに貼ってあった切り抜きのことまでは話さなかった。 「ああ、�さつき�のことを言ってるのか。でも警察が、西条さつき本人に照会したらしいけど、全くの無関係らしいよ。本人は東北に来たこともないし、鉱山の人間とのつながりはないそうだ」  と私は言ったが、しかし彼はそれを聞く様子はなく、またせわしく部屋の中を往復しはじめた。 「二十年かけた脱獄計画」  真野原は歩きながら独り言を言う。 「夜な夜な聞こえてきた女の呻き声」  真野原は立ち止まって天井を見上げた。 「盗まれた鶏」  真野原は座り込んで、義手をさすりはじめた。 「血の文字の意味」  真野原はうつむきながら、額にできたコブをなでた。 「そして押し入れにあった〈さつき〉」  真野原は顔を上げた。そして、 「そうか、わかったぞ!」  と天井に向かって叫んだ。 [#改ページ] 第三章           1 「あっはっはっはっは、すごい、すごい、これは強烈だ!」  真野原は、部屋の外にも聞こえるくらいの大声で笑った。そして「コブは万年! セミの寿命は一週間!」と謎の言葉を叫びながら、突然部屋を飛び出していった。このときは事件の何かを暗示している言葉かとも思ったが、あとで真野原に聞くととくに意味はなかったようで、彼も自分でなぜそんなことを言ったのかよく覚えていないそうだ。  ともかく私はそんな真野原を追いかけて急いで部屋を出たのだが、彼は「なんてすごい計画なんだ!」「みなさん起きてますか、ぼくが馬鹿な探偵です!」「よろしく、よろしく!」などと叫びながら、裸足で夜の鉱山街を駆けていく。あまりにすごい勢いだったので、すぐに私は追いかけることを諦めた。  私は部屋にもどった。 「奇妙な探偵さんですなあ」と藤堂が言った。 「ええ」私はため息をついた。  彼は何がわかったというのだろう。座吾朗の居場所がわかったのだろうか? 押し入れに貼り付けられた〈さつき〉のポスターを見て? しかし西条さつきは警察が調べて�無関係�と断じたのだし、常識的に考えても事件の関係者だとは到底思えない。部屋は荒城と警察がさんざん調べたし、何かがあるとも思えない。とすると、さっぱりわからない。  私は彼がついに狂ったのではないかと思いはじめた。頭が切れる人間ほど、浮き沈みの差が激しく、病的だと聞く。思い込みが激しくなりすぎて、とうとう頭脳の神経がどこかで断絶してしまったのではないか。そう思った。  部屋に残された私たちは、途方に暮れ、しばらく無言でいた。 「どうしましょうかねえ」と藤堂が言った。 「寝ますか」  私が言うと、玄関でガラっと音がした。立ち上がって向かうと案の定、真野原で、 「殿島さん! 柱時計は!?」  と彼は言った。顔いっぱいに汗をかいていて息は荒かったが、満面の笑みを浮かべている。 「え……」 「ぼくが差し上げた柱時計です」 「ああ、あれは、さっきいた三人のうちのひとりにあげたよ。持ち帰るのが億劫だったのでね、すまない」 「いえ、それはいいのです! いま柱時計はどこにあるのですか?」  と真野原は言う。部屋を見たが柱時計はなかったので、私は、 「男が持ち帰ったんじゃないかなあ」 「じゃあ、その男のところに連れていってください!」 「いまから?」 「ええ、もちろんです!……ああ、藤堂さんは、ここに残ってください。あなたも重要な役割です」 「は、はあ……」  藤堂は呆気に取られたように言う。 「部屋で電気を点《つ》けているだけでいいのです。それが重要です。ぼくたちがもどってくるまでそうしていてください……さあ、殿島さん、行きましょう!」  時計をあげた男の住処は、私の部屋の近くの長屋にあった。四人一部屋の共同部屋だ。  私は男を呼んで事情を話すと、 「ああ、あの時計ですか。そこにありますよ」  と男は玄関の暗がりを指差した。柱時計が粗大ごみのようにして、玄関の壁に立てかけられている。 「あなたの名前は!?」真野原が前に出て言った。 「え……耕介《こうすけ》だけど……」  レモン色の硫黄の結晶をくれた男だ。 「耕介さん。重要なお願いがあります。その時計をしばらく貸してくれませんか?」 「ああ、いいけど……」 「それともうひとつお願いがあります。いますぐ他の二人を集めて、殿島さんの部屋へ行ってくれませんか?」 「え、また?」 「はい、そこで宴会をしていてほしいのです。一晩中ね。藤堂さんという人もいますから、四人で麻雀もできますよ。お願いです! これはとても重要なことなのです」  と真野原はまた奇妙なことを言う。 「うん、それはいいけど……」 「では、お願いしますよ! 次は、ノリと湯です! ノリと湯はありませんか!? ノリはくっつけるほうの糊《のり》です」  真野原は言った。ここまで来ると、もう何が何やらわけがわからない。 「ノリ……あったかな……」 「いえ、時間がかかるようならいいです。……殿島さん、祐子さんのところへ行きましょう。祐子さんの住んでいる場所は知っていますね」  真野原は一方的に言って、私の返事を待たずに部屋を出る。  私たちは、祐子が住んでいるという鉄筋コンクリートの独身寮へと向かった。 「もうこんな時間だし……起きているかな……管理人も寝てるだろうし、いまから会うのは難しいかもね」  私が独身寮を外から眺めながら言うと、真野原は「どこの部屋ですか」と言う。 「さあ……二階と言っていたかな……」 「祐子さん! 祐子さん!」  真野原の大声が静かな鉱山街に響く。 「お、おい」  と私は止めようとするが、真野原は意に介さず「祐子さん! 祐子さん!」と叫び続ける。すると、独身寮の窓のいくつかが開いて、そのうちのひとつから、 「何でしょう?」  という声が聞こえた。二階から祐子が顔を覗《のぞ》かせていた。 「祐子さん! ノリです! お湯です! あと、ついでに団扇《うちわ》もです! 急いでいます!」  いきなりそんなことを言われても戸惑うだけで通じないだろう——と私は見ていて思ったのだが、五分後にやってきた祐子は、 「真野原さん、お久しぶりです。殿島さん、おもどりになったのですね。……これでいいでしょうか。お湯はストーブの上にあった薬缶《やかん》を持ってきたのですが……」  と右手に湯気の立ち上る薬缶、左手に団扇と海苔《のり》らしきものを持って、真野原にたずねる。 「あ、すみません、そっちの海苔じゃなくて、くっつけるほうの糊です!」 「あら……ごめんなさい」  祐子は顔を真っ赤にして、薬缶を置き、独身寮へと小走りでもどっていく。  一分後、祐子はくっつけるほうのノリを持ってきて、「こっちですね」と顔を赤らめたままノリを差し出した。 「はい、ありがとうございます! さあ、部屋に行きましょう」  真野原は薬缶とノリを手に歩いていく。歩きながら私は、 「何をするんだ?」  と真野原に聞いた。 「それは、いまからわかります」  と彼は笑顔で言う。 「柱時計が重要なのか?」 「ええ」 「なぜ?」 「それもゆくゆくわかります」 「三人が宴会することも意味があるのか?」 「もちろん。すこぶる重要です」 「なぜ?」  しかし真野原は、 「ゆくゆくわかりますよ」  と言って、「カブトムシの寿命は一か月!」と叫びながら陽気に歩いていく。  部屋に着いて、真野原は押し入れの中にもぐりこんだ。そして、薬缶の口を〈西条さつき〉のポスターに向けて、団扇で扇いで湯気を仕向けた。 「こうすると、綺麗にはがせるのです」真野原は、後ろから眺める私たちに言う。「そろそろ大丈夫でしょう」真野原は、慎重に湯気でふやけたポスターをはがしはじめた。すると、ポスターの向こうに穴があった。 「思ったとおりです」  真野原は微笑んでから、穴に手を突っ込む。 「ありました」  と言って、真野原は紙切れを取り出した。真野原はその紙切れを畳の上で開いた。  紙切れは、何かの地図のようだった。入り組んだ道が書かれていたので、鉱山の中の地図だろうか。地図の中の行き止まりの一か所に、×の印が書かれていた。 「これは何に見えますか?」  と真野原は周りの人間に聞いた。六畳の部屋には藤堂、祐子、三人の男、そして私と、真野原を含めて七人の人間がいる。 「宝の地図かなあ」男のひとりが言った。 「ご名答! すばらしい推理です!」  真野原は微笑んだ。見たままではないか。 「何の宝の地図なんだ? そしてそんなものがなぜここに?」  私は真野原に聞いたが、真野原は返事をせず、ポスターと、祐子の持ってきたノリをくんくんと嗅いでいる。そして、 「ぼくは、全国で発売されている十一種類のノリの臭いを嗅ぎ分けられるのです!」  と自慢げに言った。 「ふうん」  と私は言った。下らない特技だなあと思う。 「そのぼくによると、このノリは東北で広く流通しているノリです。天地神明に誓って、間違いありません。これは、この鉱山で売られているものですよね?」  真野原が祐子に聞いた。 「はい」 「この鉱山で、これ以外の種類のノリは売られてますか?」 「いえ……たぶん一種類だと思います」 「何が言いたいんだ?」と私は真野原に聞いた。 「ええとですね、これは戦後になって発売されたノリなのです。一方で、このポスター」真野原は〈西条さつき〉のポスターを手で示した。「臭いを嗅いだところ、このポスターに付いてたノリと同じ種類なのです。これが何を意味するかわかりますか?」と真野原が全員を見て言った。 「座吾朗が住んでいたときに貼られたのではなくて、最近貼られたということですか?」  祐子が言った。 「そのとおりです!」真野原は笑顔で言った。 「どういうことだ? ポスターは二十年以上前のものなのに、ノリが最近って……それじゃあ、座吾朗とは関係ないんじゃないのか?」  と私は真野原に聞いたが、しかし相変わらず真野原は答えず、 「そのことよりも、祐子さんに聞きたいことがあります。爆破の脅迫状の件は、どうなってるのでしょう?」 「どうなってる……とは?」祐子が聞き返す。 「三日以内に鉱山街の人間を全員退避させろ、と脅迫状は言っているのですよね。理由も告げずに。それ以降、犯人から連絡は?」 「ありません」 「では、鉱山側はどうするつもりなのでしょう? 犯人の要求に従って、街の人間を退避させるのでしょうか?」 「それは……社長も迷っているようです。たいへんな作業ですからね。警察も同じで、今後どうするか議論になっているようで……」 「なるほど。では、祐子さんにお願いがあるのです。社長に言ってくれませんか。犯人の要求どおりに鉱山から退避させるように、と」 「え……」祐子は戸惑うような表情を見せた。 「社長が迷っているのは、経済的な理由ですよね。費用がかかるし、その間、鉱山の作業ができないのはたいへんな損害になる、と。しかし、作業ができないのは、現在の状態でも同じです。ここは決断して一時的に住民を避難させるように、あなたからも頼んでもらえませんか?」 「ええ……」 「なぜだ? 君は何を企んでいるんだ?」  私は聞いた。すると真野原は私と祐子の顔を交互に見て、 「残念ながら、それはいま言えません。しかし退避すること自体は、鉱山の利益にもなるはずです。大丈夫、ぼくの推理が正しければ、退避するのは一日で済みますよ。ぼくの推理が正しければ——ということは、つまり百パーセントそうなるということです」  と真剣な目つきで言った。祐子はその熱意に押されたのか、「わかりました」と言った。 「では、きょうの活動は終了です! 続きは明日にして、もう寝ましょう! たまには麻雀というのもいいですね。なあに、あと二、三日もすれば、事件はすべて終わりますよ! さあ、まずはこのポスターをノリで元にもどしましょう!」  真野原は笑顔で言った。           2  次の日の午前中、真野原と私は鉱山事務所へと行った。結局、昨晩は六人で交代で麻雀をやっていたので、すこぶる眠い。真野原には一晩中「どういうことだ」と問い詰めたのだが、「いまは言えないのです」とはぐらかされてしまった。 「新しい脅迫状が届きました……」  秘書室で祐子に会うと、彼女は青ざめた顔で言った。その脅迫状には「住民を退避させたあと、鉄筋アパートの屋上に現金五千万円を持って来い」との要求が書かれていたらしい。 「座吾朗は金が目当てだったのか……」  私はため息をついた。ところが、真野原は脅迫状に興味を示していないようで、 「そんなところでしょうね。鉱山の外で生きていくには、金が要りますから」  と他人《ひと》事《ごと》のように言う。 「しかし、鉱山の住人を退避させるのは、なぜだ? 別に現金を受け取るなら、その必要はないように思うけど……」  私は疑問を口にした。 「そのほうがやりやすいからじゃないですかね。こういう脅迫事件でもっとも問題になるのは、金の受け渡しです。どう受け取るかというのが重要なのです。犯人は、鉄筋アパートの特性を使った大掛かりなトリックを用意しているのかもしれない」 「大掛かりなトリックって?」 「たとえば、飛行機や気球を使うとかね。アパート間にロープを張り巡らせて、それで受け渡しを狙っているのかもしれません」  すると、祐子は、 「はい、警察もそう考えているようです。アパートの周りに警官を配備して、空に対してもすぐに飛行機を出動させられるようにと」 「お、そうすると、鉱山側はついに住人を退避させることを決断したのですね」真野原が言う。 「はい、社長はまだ渋っているようですが……金の受け渡しは犯人を捕まえる絶好の機会ですからね。いまも社長は警部と話し合っています」  祐子は社長室のほうに顔を向けた。 「それは良かった」  真野原はにっこり笑うと、社長室の扉に近づいてノックもせずに開けた。そして、 「おはようございます!」  と言った。見ると、三河正一郎社長と蓑田警部が立ち話をしていたようで、警部はこちらを向いてから、 「なんだ、お前、まだいたのか……」  と渋い顔を見せて言った。 「住人を退避させることを決断したそうですね! すばらしい英断です!」  と真野原が握手を求めると、蓑田警部が軽蔑するようにその手を無視してから、 「お前には関係ない」  と鼻で笑った。 「そんなこと言わずに……それよりも警部、たいへん重要なお願いがあるのです!」 「お願い?」 「ええ、じつはですね……警察は殿島さんの部屋を調査したのですよね。あそこに柱時計があったのをご存じですか?」 「柱時計……ああ、あの置き場所に困りそうなボロ時計か」 「ああ、それは見る目がありませんね! あれは、とてつもない貴重品なのですよ!」 「は?」 「時は慶長《けいちょう》年間、西暦一六〇〇年ごろ、場所は長崎港。そこにポルトガルの貿易船・マーデレ・デ・デウス号がやってきました。その船に、キリシタン大名としても有名な肥前国|日野江《ひのえ》藩初代藩主・有馬晴信《ありまはるのぶ》が攻撃を加えたのです。理由は——長くなるので省略しますが、自らの朱印船《しゅいんせん》がマカオで襲われたので、その復讐です。さてそのデウス号は結局、三日に及ぶ戦いの末、船の提督自らが火を放って沈没させたのです。その船は多くの白銀とともに多数の幕府への献上品を積んでいました。そして徳川時代に、沈没した船からいくつかの積荷が引き上げられました。そのうちのひとつがあの柱時計なのです」 「え、あの時計が……?」と私は驚く。 「それがどうしたのかね。私は忙しいのだ」  蓑田警部はいらいらした調子で言う。 「『出ていけ』という脅迫状があったのはご存じですよね。そしてあの部屋は座吾朗の部屋だった。わかりませんか? 座吾朗はあの時計を狙っているのですよ!」 「ほう」蓑田警部も興味を示したようだ。「なるほどな。しかし、ならばなぜ脅迫状を置いたときに、座吾朗は盗んでいかなかったのだ? いくらでも盗む時間があっただろう」 「それは、あの時計が大きかったからです! あんな時計を運ぼうとすると目立ちますよね。だから座吾朗は、殿島さんを追い出して、ゆっくりと盗もうとしたのです。……つまりですね、ぼくが言いたいのは、座吾朗があの時計を狙っている。そして鉱山から人間を追い出した際に、あの時計も盗んでいくと思うのです。ですから、あの時計にも護衛をつけてもらえませんか?」 「護衛? すると君は、座吾朗があの時計を盗むために、爆破の予告状を出したというのか? そのために、鉱山の住人全員を退避させようと? それほどあの時計は価値があるのかね? 鑑定させてもいいが……」  蓑田警部は半信半疑のようだ。 「いえ……それは……」真野原は言葉につまった。「もちろん、主な目的は現金でしょう。しかしついでにあの時計も狙うと思うのです」 「どうも君の意見は、一貫しないな。座吾朗は、五千万円の現金を要求している。警察に無茶な戦いを挑もうとしているんだ。そんなときに�ついでに�と時計も盗んでいくのか? そんな話、信じられんよ。……さあ、帰った帰った。私は忙しいのだ」  蓑田警部は手の甲で真野原を追い払う仕草を見せた。 「くそっ、駄目だったか」  真野原は鉱山事務所を出てから舌打ちした。 「あの時計は、そんなに価値があるのか?」  私はたずねた。そんな話、初耳だ。 「もちろん、嘘ですよ。ポルトガル船が沈没したのは本当ですけどね」 「やっぱり……」この男、よくもあんなホラ話を警察にするものだと私は呆れた。「じゃあ、なんでそんな嘘を?」 「警察にも手伝ってほしかったからです。ぼくたちだけで見張るのは、少々、危険ですのでね」 「見張る? 座吾朗を待ち伏せするのか?」 「はい、罠をかけるのです」 「罠って……本当に座吾朗が来るのか? 住人がいなくなってから?」 「どう思いますか?」真野原は逆に聞いてくる。 「来るとしたら……目当てはあの地図だよな」  昨晩あの地図は、真野原が詳細に写しを取ってから、元にもどした。〈さつき〉のポスターも、アイロンで綺麗にもどしてから、貼り直した。 「そういうことになりますね」 「でも……地図が目当てなら、脅迫状を置いていったときに盗んでいけばよかったんじゃないのか? 時計は大きかったから無理としても、地図なら盗めたはずだ」 「そのとおり」真野原は微笑む。 「なら、どうして……誰が来るんだ? 警察にも手伝ってほしいくらいの危険って、どういうことだ?」 「それは、あとのお楽しみです」  と言って、真野原は歩いていく。 「それよりも……あの地図のことは警察に話さないのか?」  私は真野原を追いかけながら言った。きのう真野原は、その場にいた全員に「絶対にこの地図のことは、誰にも言わないでください」と念を押していた。 「ええ、言いません」 「なぜ?」 「ぼくたちが犯人に会えなくなるからです。あなたは自分の手で、犯人をぶっ殺したくないのですか? それに今回の罠は、非常に微妙なバランスで成り立っているのです。もし警察が本気で乗り出して、警備をすることになったら——犯人にそれが知られたら、今回の罠は失敗です。それは絶対に許せない。犯人はぼくたちの手で成敗するのです」 「罠って……座吾朗に罠をかけるのか?」 「ええ、そうです。嫌ですか? 命が惜しいですか? 確かに少々危険です。死ぬ可能性もあります」と真野原は笑みを浮かべる。 「いや、そんなことはないけど……」  死んだ三恵子のことを考えれば、命を賭してでも犯人を捕まえたい。それくらいの覚悟はある。 「じゃあ、続行しましょう。次は調査です」 「調査? どこへ行くんだ?」 「もちろん、鉱山内ですよ」と言って、真野原は歩いていく。  鉱山内の現場には、警察も調査を終えたとあって自由に出入りできるようだった。むろん鉱山内の各所には多くの警察官がいて、不審者に目を光らせている。ちなみに、警察は依然として鉱山内の爆弾を探すべく調査をしているようだが、そのあまりの広さに、ひとつも爆弾を見つけていないそうだ。  中には鉱夫もたくさんいた。どうやら退避するということで、その準備をしているようだ。真野原はそのうちのひとりに声をかけた。 「坂崎さんは、どちらで?」 「ああ、そっちの二番坑の入口にいるよ」と鉱夫が答える。 「坂崎って?」  歩きながら、私は聞いた。 「恩田さんや洋平さんといっしょに、牢屋をこじあけた人ですよ。先月、扉を溶接した人でもあります。殿島さんは会ったことがあるのですよね」 「ああ……」  すっかり忘れていたが、座吾朗を目撃したことのある人物のひとりだ。以前、私が地下牢で脱獄の推理をしたときに、会ったことがある。  私たちは、二番坑の入口で工夫の坂崎を見つけて、彼を地下牢まで連れていった。 「坂崎さんに聞きたいのは、この溶接部分です」  地下牢に着いて、真野原は鉄の扉を指差して言った。「これはあなたが溶接したのですよね?」  すると坂崎は溶接部分をじっと観察したあと「ああ、たぶんそうだよ。それが何か?」と言う。 「令子さんの遺書によるとですね、令子さんがこの溶接を溶かして、座吾朗を脱出させて、その後また溶接し直したということになっているのです」 「ははは、そんなことがあるのかねえ」と坂崎は苦笑する。 「溶接部分を見て、わかるものなのですか?」私は聞いた。 「ああ、溶接ってのはやった人間の個性が出るからな。とくに、おれなんかは癖が強いから、見る人間が見ればわかる。ほら、この曲がり具合なんて、まさにおれだ」坂崎は溶接部分を指差す。 「あなた以外にはあり得ないと?」 「うーん、断言はできないけど……」 「あなたの溶接の癖を知っている人は?」 「いないことはないけど、この癖はなかなか真似できないと思うよ。全部がこうなってるしね。よほど上手い人じゃないと……」 「そうですか、よくわかりました。ありがとうございます」  真野原は微笑した。 「ほら、やっぱり令子さんはやっていなかった。それどころか、彼の言うことを信じるなら、彼以外の人間が溶接部分を溶かして脱出した可能性は、極めて薄い」  坂崎と別れて、坑道を歩きながら真野原が愉快そうに言った。 「じゃあ、どうやって座吾朗は脱出したんだ? 扉以外には、脱出する経路はないよな」  私は三つの穴を思い浮かべた。食事の穴、便所の穴、空気穴——どれも、頭さえも通らない。 「どうやったんでしょうねえ」 「もしかして……」私は、あることを思いついた。「座吾朗は脱獄していないんじゃないか?」 「え……?」と真野原が聞き返す。 「いや……もしかしたら、座吾朗なんて人間は最初からいなかったんじゃないのか? 座吾朗がいたというのは、全員の錯覚で……」 「はっはっは、恩田さんも含めて全員が幻覚を見ていたということですか? それはおもしろい」 「いや、別にそこまでは言ってないけど……たとえばだけどね。先月、扉の工事をしたとき、座吾朗は巧妙なトリックを使って……」 「なるほど。全員が座吾朗を閉じ込めたと思っていたけど、何らかのすり代わりのトリックを使って、�じつは座吾朗は閉じ込められていなかった�ということですか。すばらしい推理です。……しかし、だったら、恩田さんの証言はどうしましょう? 座吾朗は恩田さんが持ってきた食事を受け取っていたのですよね」 「それは……恩田さんが嘘をついていて……」 「結局、警察と同じ説になりますね。恩田さんと令子さんが協力して、座吾朗を脱獄させたと。二人が協力すれば、何でもできます」 「そうなるけど……でも、それ以外に、座吾朗の脱獄を説明できるのか?」 「ええ、もちろんできますよ」 「どうやって?」 「それは、いまは言えません」と真野原は笑ってから、「しかし、あなたの『座吾朗は脱獄していないんじゃないか』という問いかけは、とても鋭いです。事件の本質をついている。でも確かに座吾朗は、見事な方法を使って脱獄を成功させたのですよ。半分だけですけどね」 「半分?」 「ええ。……さあ、次の現場に行きましょう」  次に調べたのは、地下牢から空気穴で通じている先の倉庫だった。以前、荒城とともに調査した場所だ。 「うん、やっぱり思ったとおりです」  真野原が線路を虫眼鏡で見て言った。 「ほら、ここ」真野原が線路を指差す。「この線路はずっと使われていないはずなのですよね。しかし、ここには最近車輪が通った跡があります」  真野原の言うとおり、線路は全体的に錆《さ》びていたが、ところどころ錆がはがれている。線路の上を、何かの車輛が通ったようだ。 「それが重要なのか?」 「ええ、もちろん。この線路は外へ通じているのですよね。では、外へ行きましょう」  と言って、真野原は坑道を歩いていく。 「ほら、この線路! この線路は主線につながっています。つまり、鉱山の各所へ接続されているということになります」  真野原が言った。外へ出たところは空き地になっていて、人の気配はなかったが、線路が一本あった。真野原の言うとおり、この線路は鉱山にものを運ぶ線路に接続されているようだ。 「これが脱獄に関係あるのか?」  私はたずねたが、真野原は返事をせず、 「……お、こっちが現在使われていないという貯水槽ですか」  と言って、四トントラックの荷台ほどの大きさの貯水槽へと近づいていく。祐子が言っていたとおり、雨水を溜めるもののようだ。 「ほら、ここ。最近使われたような跡がありますね」  真野原が錆びたバルブを指差す。バルブには、最近、錆がはがれ落ちたような形跡があった。「そして、この貯水槽の水が、さっきの倉庫へパイプでつながれている……と」 「これも犯人が使ったのか?」 「そういうことになりますね」 「でも、水を使っても……天井には何もなかったんだぜ」 「はい、ありませんでしたね。それに、この貯水槽とパイプの太さを見るに、あの地下牢を水で満たすには相当に時間がかかりそうですね。貯水槽の容量を見ても、現実には無理でしょう。……さあ、次は地下です」  今度は、地下牢の便所から通じている地下の空洞へと来た。ここも一度荒城といっしょに調査して、その後、脱走した真野原が捕まったという場所だ。 「今度こそ、何か見つかるといいのですが……」  真野原は服を脱ぎ始めた。 「ここに何かあるのか?」 「それをいまから探しに行くのです」  真野原は準備体操をはじめた。彼はいまどき珍しく、赤いふんどしをしめていた。 「では、これを持っていてください」  真野原は義手を外して、私に差し出した。彼は当たり前のように義手を私に渡したが、こうしてみると彼も不自由な身体の持ち主なのだと実感する。  そうして真野原はしばらくの間、ふんどし一丁で泉の中を調査した。水は冷たいし、いくら広い泉だとはいえ糞尿の臭いがするだけに、たいした熱意だと思う。荒城もそうだったが、こういうところを見ると、とても私に探偵は務まらないなと痛感する。  二十分ほどして、 「見つけましたよ!」  と真野原が叫んだ。そして彼は「うう、さぶいさぶい」と言いながら、泉から出てきて、 「ほら、これ」  と震える右手でつかんだ物体を私に示した。私はその物体をカンテラで照らした。 「これは……羽根?」  鳥の白い羽根のようだった。 「ええ、そうです」  羽根からは水滴が滴り落ちている。 「これって……盗まれた鶏の羽根か?」 「そのとおりです。……ああ、死ぬほど寒いです。早く風呂へ行きたい」  と言って、真野原は急いで服を着る。 「風呂屋は、ぼくしかいませんでしたよ。貸切で気持ちよかったです。退避命令が出たそうですね。風呂屋の主人に『早くしろ』って急かされましたよ」  真野原は長屋にもどってきてから言った。部屋には私のほかに、例の三人の男がいる。 「ああ、退避命令はここにも来たよ。今夜八時までに出ろって。警察官や鉱山の警備員が何度か見回りに来ると言っていた」 「そうですか。すると、どこかに隠れなければなりませんね……床下でいいかな」 「ぼくたちは、鉱山に残るのか?」 「ええ、もちろん」 「座吾朗に罠をかけるために?」 「先ほども言いましたが、そういうことです」 「座吾朗がこの部屋に来るのか?」 「……それは何とも言えません。来ない可能性も高いです」 「おい……」 「でもご安心ください。他の人間が来るかもしれませんし、来なくてもほかの手を考えてあります」 「他の人間?」 「ええ」 「誰だ?」 「それは言えません」 「おい、いい加減にしてくれないか」私は言った。「教えてくれたっていいだろう。いったい君は何を企んでいるんだ?」 「ぼくはですね、警察を信用していないのです。嫌いといってもいい。警察と探偵の関係は、ストリップショーの経営者と観客の関係に似ていて……」 「いや、そういうことじゃないんだ。警察に黙ってるのはいいとしよう。でも、ぼくには教えてくれたっていいじゃないか」 「それは……」真野原は考えるような表情を見せてから「すみません、言えません」と言う。 「なぜ言えない?」 「申しわけないですが、それも言えません。どうかぼくのことを信用してくれませんか。もしどうしても嫌だというのなら、ぼくひとりでやります。あなたは降りてもいいですよ」  そう言われると反論のしようがない。鉱山の住人の退避が決定した現在、私には真野原についていくか、諦めてヤマを下りるかの二択しかないのだ。 「あっしたちも手伝いましょうか?」と耕介が言った。 「ありがとう。でも三人は多いな。耕介さん、あなたひとりでいいです。しかし、危険ですが、いいですか? 死ぬ可能性も若干あります」  真野原が耕介に言った。 「犯人を捕まえるんですよね?」 「ええ」 「なら、別に死んでもいいです」  と言って、耕介はにやっと笑った。  私は真野原に頼まれて、食料の調達をするために街へ出た。真野原によると、「明日の夜まで見張る可能性が高いです。しっかりと食って体力を維持しましょう」だそうだ。  街に出ると、通りは退避する人々であふれていた。老若男女、ある者はリアカーを引いたり、ある者は子どもの手を引いたり、赤子や風呂敷包みを背負ったり、われ先にと駅に向かって移動している。すでに荒城と私のふたりでのんびりと調査をしていたころとは違って、鉱山全体を巻き込んだ一大事件になっているのだと実感する。  しかし一方で移動する人たちには笑顔も見える。爆破されるのは鉱山であって自分たちに直接の害はないことがわかっているから、一大事というより祭り気分なのだろう。  夜になって、私たちは向かいの部屋の住人に許可をもらい、その部屋の床下に隠れることになった。 「今夜は何も起こりません。寝ましょう」  三人で地面に寝転ぶようにして毛布にくるまった。夜中、床の上から「残ってる者はいませんか!」と見回りの者の声が聞こえたが、息を潜めてやり過ごした。  翌日は朝から床下で毛布にくるまりながら、三人で私の部屋を監視した。ぼーっと隙間《すきま》から部屋を眺めるが、人通りは全くない。「高い確率で、何かが起こるのは夜でしょう」と真野原が言ったので最初は三人で小声で雑談していたが、それも数時間するうちに飽きて、やがて三人とも無言になった。  昼になって、長屋の向こうに人影がちらと見えた。 「座吾朗か?」  私は小声でささやいた。血圧が上がる。 「いえ……私服の警官のようですね。見たことのある顔です。やっぱり蓑田さんは警官を寄越しましたね」と真野原は微笑してから、「行きましょう。殿島さんもついてきてください。耕介さんはここに残ってください」と言って床下から出たので、私は後を追う。  真野原は警官の隠れたゴミ捨て場に行ってから、 「ご苦労様です」  と声をかけた。 「お、お前たち……まだいたのか」警官は立ち上がる。 「おっと、蓑田警部に知らせに行くのですか? それはやめたほうがいいですよ、持ち場を離れている間に座吾朗が来たら、あなたは馘《くび》です。それよりも、協力しあいましょう。たったひとりじゃあ、あなたも心細いですよね。……拳銃は持ってきていますか?」  真野原が言うと、警官は膨らんだ懐をちらっと見たので、持ってきているのだろう。 「ここじゃあ、見つかってしまいます。向こうへ行きましょう。もちろん、犯人を捕まえたら、全面的にあなたの手柄ですよ。絶対に邪魔はしません」  などと真野原は言って、結局警官を強引に仲間に引き入れてしまった。  そうして、四人で私の部屋を監視することになった。  夕方になった。 「現金の受け渡しは、あと五時間か……」  私は床下で地面に這いつくばりながら、時計を見た。真野原が、巧妙に警官から聞き出したところによると、犯人は三通目の脅迫状で、 [#ここから2字下げ] 午後十一時、三河社長に現金を持たせて、五号アパートの屋上に来い。警察の監視を見つけた時点で、鉱山を爆破する。 [#ここで字下げ終わり]  と書いてきたそうだ。むろん警察はそんな要求には従わず、多くの警察官を鉱山街に待機させるつもりらしい。 「座吾朗は、本当にこっちへやってくるのかな……」 「わかりません。来るとしたら、そろそろだと思うのですが……」 「現金を受け取る前に来るのか? なぜ?」 「そりゃ、あの時計に価値があるからですよ」  真野原は警官を見てから、はぐらかす。一昨日からこの繰り返しでうんざりとしてくる。そこで私は話題を変えて、 「君はどうして腕を切断したんだい? 戦争か?」  と真野原に聞いてみた。前から気になっていたことだ。先の戦争では、戦地に赴《おもむ》いて銃弾を受けた者、爆弾が直撃して腕を失った者、焼夷弾による火事で火傷した者など、腕や脚を失った人間はたくさんいた。しかし真野原は、 「いえ、違います。ある事件で傷ついてしまったのです」  と答える。 「事件?」 「ええ、誰にでも失敗はあります。情けないことに、ぼくも失敗してしまったのです」 「どんな事件なんだ?」 「それは……別に話してもいいのですが、長くなります」  と真野原は答えてから、「しっ! 来ました!」と視線を私の部屋に向けた。  あたりは暗かったが、真野原の言うとおり、二つの人影が周りを見ながら忍び足で部屋の玄関へと近づいていくのが見えた。そして人影のひとつが、扉に近寄ってしゃがみこむ。扉の鍵を開けようとしているようだ。しかし暗くて顔は見えない。 「座吾朗か?」私は小声で聞いた。 「いえ、違います。しかし目当ての人物が来たようです」 「目当て? 誰だ?」  私はたずねたが、真野原は答えず、 「あの人物が部屋から出てきたら、座吾朗に狙われる可能性があります。注意してください」 「座吾朗が狙う? あの男たちを?」 「ええ、そうです。どこかに潜んでいるかもしれません。……竹芝《たけしば》さん、拳銃の安全装置を外しておいてください」  竹芝というのは警官の名前だ。 「いいですか。もし座吾朗が来たら、拳銃を持っているあなたが最初に出ていってください。ぼくたち三人は回り込んで座吾朗を包囲します。そうですね、座吾朗が来る可能性は、半々というところです。覚悟してください」  そう真野原が言うと、竹芝は緊張した面持ちで拳銃の安全装置をカチっと外した。 「座吾朗が狙うって、どういうことだ?」 「しっ! 一番大切な瞬間です! ぼくが合図をするまでは、静かに!」  と真野原が言った。緊張が走る。  二つの人影は玄関の鍵を開けることに成功したようで、周りを確かめながら、部屋の中に入っていく。私たちは、静かに長屋を見守る。部屋の中で、かすかに光が揺れるのが見えたが、すぐに消えた。  それから十分ほど待った。しかし動きはない。 「裏の窓から出ていったんじゃないのか?」私は我慢しきれずに言った。 「静かに!」  と真野原が言うと、玄関から人影が出てきた。二つの人影が柱時計を背負っている様子はない。彼らは周りを見回しながら、鉱山のほうへと早足で歩いていく。  しかし、何も起こらない。座吾朗どころか誰も出てこない。 「うーん、やっぱりここでは何も起こらなかったか。もう声を出しても大丈夫ですよ」  二人の姿が完全に見えなくなってから、真野原は言った。 「どういうことなんだ? わけがわからない」  緊張を解いて、私は聞いた。 「見てのとおりです。残念ながら、座吾朗は来ませんでした。……竹芝さん、あなたはこのことを蓑田警部に報告しに行っていいですよ。馬鹿な探偵の推理は外れたと、胸を張って報告してください。……耕介さんもありがとう、あなたもいっしょにヤマを下りてください。さあ、殿島さん、我々も散歩をしてから帰りましょう」  と真野原は強引に二人に別れを告げて、人影とは逆のほうに歩いていく。私も後を追う。振り返ると、二人が呆然《ぼうぜん》として私たちのほうを見ていた。 「さあ、このへんでいいかな」  誰もいない鉱山街を五分ほど歩いたところで、真野原が立ち止まった。そして踵《きびす》を返す。 「どこへ行くんだ?」私は聞いた。 「さっきの男たちを追うのです。警官や耕介さんたちはもう要らないのでね、彼らと別れるために逆方向に来たのです」 「いい加減にしてくれよ。さっきの男たちは何者なんだ? 教えてくれてもいいだろう?」 「そうですね……」真野原は考えるような仕草をしてから、「では、少しだけ。……彼らのうちのひとりは、探鉱家ですよ」と言った。 「探鉱家!? 二十三年前、座吾朗といっしょに住んでたという?」 「ええ、そうです。もうひとりは知りませんが、その仲間でしょう」 「なぜわかるんだ?」 「もちろん推理したんです」 「推理って……?」 「それはあとで教えます。……警官たちは帰ったようですね。ちょっと、長屋に寄っていきます」  真野原は、先ほどまで我々が監視をしていた部屋の中へと入っていく。 「その探鉱家たちは、どこへ行ったんだ?」  部屋から出てきた真野原のあとを歩きながら、私は聞いた。 「もちろん、鉱山の中です」 「ああ」思い当たることがあった。「宝の地図の場所か。彼らは宝の地図を盗んで……」 「そうです。だから、急いで追う必要はなかったのです。彼らの行く場所は、あそこしかあり得ません。十分ほど間を置いて追いかけたほうが、彼らに気づかれる可能性が低いですからね。都合が良いのです」  真野原に連れられて、林の中の草木をかきわけながら、鉱山の裏手に回った。そこに、鉱山の中へと延びている穴があった。 「ほら、ここは取っておきの出入口です。子どもたちに教えてもらったのです。ここなら警察官はいないでしょう」  真野原の言うように、穴の周りは草木で囲まれていて、鉱山の人間が出入りするような入口には見えない。  真野原は入口のわきに置いてあった背負い袋を手に取って、中からゴム長靴を二足取り出し、 「さあ、これを」  と言って、私に差し出した 「なんでこんなところに……用意してあったのか?」  私はゴム長靴を受け取ってたずねた。 「ええ、最後の決戦に備えて、きのうあなたが買い出しに行っている間、準備をしておいたのです。申しわけないですが、これはあなたが背負ってくれませんか?」と言って、真野原が背負い袋を差し出す。「あなたは荷物運び。ぼくは攻撃専門です。ほら」と言って、左手の袖をめくって義手を見せてくれた。  義手は、先端には木製の手のひらが取り付けられていたが、肘から手首にかけての内側の部分には、中華包丁のような大きな刃が取り付けられていた。ナタのような分厚い刃で、あれで首を後ろから絞められたら、そのまま切断されてしまいそうだ。「特別製です」と真野原は微笑する。 「決戦って……座吾朗がいるのか?」  私は長靴を履きながら、聞いた。 「ええ、そうです」 「どうなってるんだ? 脅迫状のことといい、探鉱家のことといい、わからないことばっかりだ。説明はしてくれないのか?」 「はい、そのときになったら、きちんと説明します。怖いですか? 死ぬ可能性もありますよ。引き返すなら、いまが最後です」 「いや、行くけど……」 「じゃあ、入りましょう」  真野原はかがみながら入口へと入っていく。  鉱山内は、入った場所が普段使われていない入口とあって、しばらく狭い道が続いた。祐子が「支柱夫が整備していない道は、鉱山の自重で、ひどく変形するんです」と言っていたのを思い出す。その言葉のとおり、這いつくばらないと通れない道や、膝の上まで水に入らないと移動できないような場所が続いて、十五分ほどで全身がずぶ濡れになった。  しかも暗い。東京や横浜には街灯があふれて、本当の意味での闇は少なくなったが、ここは正真正銘の闇の世界だ。目立たないようにカンテラを布で覆っているのに、繊維の隙間からもれる光がやけに際立つ。光の届かない闇に吸い込まれそうな気分になってくる。  時おり、「ひゃああああ」という女の声のような音が聞こえてきた。私は、元弁士の藤堂の話を思い出した。これが恩田の話にもあった、この鉱山特有の風の音なのだろう。座吾朗と決戦する恐怖とは別の不安が込み上げてくる。 「ようやく、わかる場所へとやってきました」  真野原は持参した地図を見ながら、小声で言った。這いつくばるようにして穴から出た場所で、整備された坑道の一角だった。 「ひとつ聞いていいか?」  私はささやいた。 「どうぞ。答えられることでしたら。ついでに、少しだけ休憩しましょう」  真野原は立ち止まって、地面に腰をかけた。 「探鉱家たちは鉱山に入っていったんだよな? どこから入っていったんだ?」  と私はたずねる。 「さあ、知りません。しかし、元々ここの鉱山を調査していたやつですからね。ぼくたちの知らないような入口も知っているはずです。現在、警察は脅迫状の件で手がいっぱいで、鉱山内の警備は手薄ですから、彼らにとっては容易《たやす》いことだと思いますよ」  彼の言うように、ここは現役で使われている場所のようだが、電気は点《つ》いていなかった。警察は全精力を、現金の受け渡し場所である鉄筋アパートの警備に注いでいるのだろう。 「座吾朗は、この奥にいるんだよな?」 「はい」 「すると、座吾朗が出した脅迫状——現金を用意しろといった脅迫状は、嘘だったのか?」 「そういうことになりますね。……行きましょう」  それから延々と坑道を歩いた。しばらくは整備された道だったが、徐々に道は狭くなっていって、結局、最初に入った場所のような荒れた道へとなっていく。道の形には秩序がなく、まるで自然にできた洞窟のようだ。途中まで壁にあった電線はすでにない。  坑道は複雑に曲がりくねっていて、分岐点も多く、とうのむかしに自分がどこにいるかもわからない状態だ。これが平面の迷路なら何とか方向感覚を維持しようとするのだが、この鉱山のように立体の迷路となるとわけがわからない。人間の空間|把握《はあく》能力をはるかに超えている。祐子が「まともな地図が残っていない」と言っていたのはもっともだと思った。こんなに複雑に立体で入り組んでいると、平面の地図で表現するのは困難だろう。  途中、真野原が立ち止まって、 「金を拾いました」  と私に錆びた古銭《こせん》を見せた。「江戸時代の中期に使われていた貨幣《かへい》ですね。持ち主に届けたいところですが、恐らく生きてはいないでしょう」と彼は小声で言う。いつまで使われていたのかは知らないが、少なくとも江戸時代から使われている道のようだ。  そんな坑道の中を、何度も匍匐《ほふく》前進したり、腰まで水に浸かったりして、歩き続けた。  そうして、二十分ほど進んだところで、真野原が立ち止まった。正確にはわからないが、標高にして百メートル以上は下りた気分だ。 「この穴を進むようですね」  真野原が地図を見ながら、壁に開いた穴を指差した。腰の高さほどにある直径一メートルくらいの穴で、入ってすぐのところで曲がりくねっているために奥は見えない。 「もうすぐ目的地です。今後は、ぼくが合図しない限り、一切声を出さないでください。行動も起こさないでください。いいですか、絶対に音を立てちゃいけませんよ。殿島さんの明かりは消してください。ぼくの明かりだけで進みます。心の準備はいいですか? 覚悟はいいですか?」 「ああ……」私は身震いしながら答える。 「鉄パイプを持ってください。背負い袋の中に入ってます」  と言われて、私は袋から鉄パイプを取り出し、右手に持った。 「では行きましょう」  真野原は穴へとよじ登る。  真野原は「もうすぐ」と言ったが、穴はいままで以上に狭く曲がりくねっていたので、思うように進むことができなかった。しかし、苦労して十分ほど進んだころだろうか、前を行く真野原が音を立てずに穴から降りるのが見えた。人間が立てるくらいの小さな空洞があるようだ。私も続いて降りた。そこからさらに奥へと小さな道が一本延びていたので、我々はその道を進む。  二十メートルほど行ったところで、真野原はまた立ち止まった。そして彼はその場でしゃがみ込んだ。壁には、腰の高さほどの穴がある。真野原が右手で�伏せろ�というような身振りをしたので、私もしゃがみ込んだ。すると穴の奥に、かすかに光が見えた。男の声らしき音も聞こえてくる。風の音とは違う、確かに人間の声だ。  座吾朗か。身体に力が入る。  真野原は顔にカンテラの光を近づけて、人差し指を口に当てて見せた。静かにしろという意味だろう、私はうなずいた。そして真野原は背中を壁に密着させて、穴と私を交互に見つめた。私にもそうしろという指示だろう。真野原と同じように、私も背中を壁に密着させた。すると、真野原はカンテラの明かりをそっと吹き消した。  恐らく真野原は、ここで犯人が穴から出てくるのを待ち伏せる気なのだろう。私は、静かに背中の荷物を下ろしてから、鉄のパイプを強く握りしめた。そして、かすかに光の射す穴を見つめたまま、じっとしていた。鼓動が高鳴るとともに、息の震えを抑えるのに苦労する。  五分ほど経ったころ、突然、穴の奥から男の叫び声が聞こえた。同時にパアンという破裂音が響いた。銃声だ。音は、パアンパアンとさらに二回続いた。  私は真野原のほうを見た。しかし暗くてよく見えない。何が起こったのだろうか? 私は穴の向こうが気になって仕方がなかったが、真野原が動かない限り、私も動くべきではない。真野原は何を考えているのだろうか? 話しかけて、聞いてみたい。心の中で恐怖とともに葛藤があった。しかしじっと耐える。  さらに三分ほどして、穴から光が揺れるのが見えた。光は次第に近づいてくるように見える。ごそごそとかすかに何かが動く音もする。いよいよ、誰かがやってきたのか。座吾朗か? それとも、あの探鉱家たちか?  ごそごそという音は徐々に大きくなってきた。  そして突然、光がぱあっと強くなってあたりを照らした。その瞬間、ゴンという音とともに「うっ」という男の呻《うめ》き声が聞こえた。 「さあ、殿島さん! 銃を奪い取って!」  真野原の声が鳴り響いた。男の持っていた明かりが地面に落ちて、真っ暗になったのでよくわからないが、どうやら真野原が男を羽交い締めにしているようだ。 「銃って……」  私は地面を見渡すが、暗くてよく見えない。 「落ち着いて! 男はぼくが……おいこら、動くと首から血が出ちゃいますよ! このまま絞めると、首がちょん切れます」  と真野原は叫ぶ。落ち着けと言われても、この状況で落ち着いていられるわけがない。私は必死になって銃を探すが、暗くて見つけられない。 「ほら、そこの足元! そこ、そこ!」  真野原に言われて、ようやく地面に落ちていた棒のようなものに気がついた。猟銃のようだ。私がその銃を手に取ると、真野原が、 「さあ、その銃をこの男に向けて。……そうそう、その調子です。あとは明かりを手に取って……ふう、決戦には勝利しましたね。とりあえずは安心です」  私はカンテラの光を真野原のほうに向けた。すると、真野原が男の後ろから右腕で男の顎を絞めて、左手の義手の分厚い刃を男の首筋に突き立てているのが見えた。真野原に捕捉された男は、睨むように私をじっと見つめている。  その顔には見覚えがあった。若い男だ。この男は——恩田たちとともに座吾朗の牢屋をこじ開けたひとりでもあり、私をあの虫だらけの部屋に案内してくれた——鉱夫見習いの洋平だ。           3 「なんで、君が……」 「なんでって、もちろん、この男が憎むべき犯人——座吾朗だからですよ!」  真野原は男の首を絞めながら言う。 「座吾朗? この男が?」  私は洋平を見つめた。三恵子は、洋平の年齢を二十四歳と言っていたのだったか。仮に年を誤魔化していたとしても、見かけからして、二十三年前から監禁されていた座吾朗ではあり得ない。 「ええ、正確には座吾朗に扮していた男ですね。ずっと閉じ込められていた一郎ではありません。しかし、いろいろな意味で座吾朗と言ってもいいでしょう」 「こいつが……すべてをやったと?」 「はい、この男がすべての殺人を単独で実行しました。荒城さんとあなたが目撃したのも、この男です」 「実行って……座吾朗と共犯だったのか?」 「そうですね。脱獄は二人で共同で行いました。そのあとは洋平が実行しました」 「じゃあ、座吾朗は——一郎はどうしたんだ?」 「……それは、きちんと説明しますから、まずはこの男をロープで縛りましょう。さあ、背負い袋からロープを取り出して……」  と真野原は、後ろから洋平の首を絞めながら言う。 「抵抗はしねえよ。もう全部終わったしな」洋平が言った。 「そうでしょうけどね、念には念を入れてです。たくさんの人間を殺したやつを信じろというのは、到底無理ですよ。あなたは散々脱税をした政治家が『今後一切、金には見向きもしない』と言っても信じられますか」と真野原は微笑みながら言う。  私は真野原の指示に従って、洋平を後ろ手できつく縛った。洋平は自分で言ったとおり素直に手を後ろに回したので、縛るのは簡単だった。 「よし、いいようですね」と真野原はロープの結び目を確認してから、「進みましょう。……おまえ、先に行け」と洋平の尻を蹴る。  四つん這いになって穴を進むと、人間が立てるくらいの空間に出た。 「これは……」  暗闇を明かりで照らすと、地面に二人の男が倒れているのが見えた。ひと目で死体とわかる。背恰好からして、私の部屋に忍び込んだあの二人だ。二人の倒れた場所からは、大量の血が地面に流れていた。先ほどの銃声から考えるに、銃殺されたのだろう。 「ああ、間に合いませんでしたか。残念です」  と真野原が芝居がかった口調で言った。 「洋平がすべてやったのか?」と私は聞く。 「本人に聞くのがいいでしょう。……おい、どうなんだ、こら」  真野原は、地べたに座り込む洋平の頬を、足の裏で壁にこすり付ける。 「ふん」と言って、洋平は唾を吐いた。 「おや、反抗的ですね。では代わりにぼくが答えましょう。殿島さん、見てのとおり、確かにこの男が殺しました」 「洋平が……」  私は洋平の顔を見た。あの鈍くて純朴そうな洋平が——信じられない。 「意外ですか」と真野原は聞いてくる。 「ああ……どういうことなんだ?」 「では、すべての種明かしをしましょうか。頭脳派のぼくとしては、関係者を全員集めて暖炉の前で推理を披露したいところですが、仕方ありません。ここでやりましょう」  と言って、真野原は義手の刃を右手でなでながら、 「どこから話しましょうか。わかりやすいように、最初から話しましょうか。  さて、今回の事件には多くの謎が存在しましたが、まとめれば、大きく二つの点に集約されると思います。  ひとつは、座吾朗の脱獄の謎です。座吾朗はどうやって脱獄したのか? そして、なぜあんな誰にもわからないような方法を使って脱獄したのか? 前にも言ったとおり、普通は脱獄の方法なんて発覚されても犯人にとっては関係ないのです。逃げられればいいのだから、痕跡を隠す必要はない。しかし、座吾朗は見事に脱獄を果たしただけではなく、その痕跡までも隠した。隠そうとした。  さて、二つ目の謎は、座吾朗が脱獄したあとに何をするつもりだったかということです。こちらは現実的に非常に重要です。脱獄の謎を解いても自己満足ですが、何をするつもりかがわかれば、事件を未然に防ぐことができますからね。しかしわざわざ血文字を残していく理由がわからない。血の文字の意味もわからない。危険を冒《おか》してまで、三河前社長の死体を移動させた理由もわからない。これは、第二の殺人、そして令子さんの死体に残された文字についても同様です。なぜ犯人は、見つかる危険まで冒して、あんなに目立つことをやったのか?」 「目立つこと……か。荒城もそう言ってたよ」  私は、荒城が現場を見て「なぜこんな馬鹿なことを」と絶句していたのを思い出す。 「ええ、その意味で、荒城さんの考察は非常に鋭かったのです。しかし、じつはこの件に関しては、ぼくは見当がついていたのですよ」 「見当?」 「はい。第一の殺人の時点では確証はありませんでしたが、しかし釈放されてから第二、第三の事件の概要を聞いて、確信しました。犯人はですね、新聞やラジオの報道を通じて、あの�さつき�という言葉を誰かに伝えたかったのだ——ぼくはそう推理したのです」 「新聞?」 「ええ、第一の殺人のとき、犯人が残した〈さ〉という文字が結局報道されなかったのを覚えていますか?」 「ああ……」  容疑者を捕まえて�真犯人しか知りえない事実�を証拠として使うために、警察が情報を伏せるよう、報道機関に要請していたのだったか。 「犯人は、なんとしても新聞やラジオであの文字を報道してほしかった。だからこそ、第一の殺人でわざわざ死体を移動させて、目立つようにしたのです。あんな面倒なことをしたのです。死体がバラバラになって、その現場に血の文字を残せば、多くの人間が目撃するだろう。そうすれば報道されるだろう——少なくとも犯人はそう思った。しかし犯人の思惑と違って、第一の事件では、血文字の事実は報道されなかった。�秘密の暴露の維持�という警察の都合でね。犯人は焦りました。なんとしても報道してもらいたい。じゃあ——ということで、第二の殺人でもっと派手なことをやったのです。鉱山の住人たちに知ってもらえば、隠しようがないだろうとね」 「なるほど、それであんなことを……しかし、なぜ一文字ずつなんだ?」 「それは二つの意味があります。ひとつは、最初の事件で確実に報道してくれるという自信がなかったからでしょうね。もうひとつは、一文字ずつ明らかにしていったほうが、報道で大きく採り上げてくれると踏んだからです。事実、雑誌などでは『あの文字の意味とは?』とか特集されましたよね。あそこまで目立つようなことをして、ようやく犯人の希望が実現したのです」 「じゃあ、そこまでして、誰に伝えようとしていたんだ?」 「もちろん、この探鉱家です」  真野原は二体の死体を眺めた。 「ああ……」 「しかし事件のことを考えていたときは、そこが、ぼくのもっとも悩んだところです。新聞を通して、誰かに�さつき�を伝えたがっているのは推測できた。しかし、肝心の�誰に��何を�がさっぱりわからない。これだけの事件ですから、ほとんどの国民が血文字のことを知っています。特定のしようがない。  しかし、あの�さつき�のポスターを見て、犯人の計画——犯人が何をしようとしているのかがわかりました。いやあ、あれはドラマチックな出来事でしたね」 「そうだ……あの�さつき�はいったい何だったんだ? なぜ君は、あのポスターの奥に宝の地図があるとわかったんだ?」 「順を追って説明しましょうか。まず犯人の目的は金ではなく、怨恨による殺人だということはいいですよね? それは殺された人間が、警官を別とすると、三河前社長と田子沢さんということから推測できます。詳しい動機はわからないですが、座吾朗に関係する人物が、恐らく�怨恨�という理由で殺されている。すると、次に狙われる人物は誰か? ここが鍵になってくる。そこで出てくるのが探鉱家です。聞くと、探鉱家は座吾朗に深く関わっていたのに、現在は行方不明だという。  ここで質問します。もし犯人が、行方不明の人物を殺したいとしたら、どうすればいいと思いますか? どうやって捜しますか?」 「それは……探偵を使うとか」 「その探偵でも見つけられなかったら、どうしますか? 相手は流しの探鉱家です」 「それが……新聞ということか」 「ええ、そうです。新聞で大事件として採り上げられれば、放浪の探鉱家にも伝わる可能性が高い。しかし問題はその方法です。『探鉱家さん、お前をぶっ殺したいから鉱山に来てくれませんか』と新聞に広告を打っても、探鉱家は来ませんよね? では犯人は〈さつき〉という文字で、探鉱家に何を伝えたかったのか? そこで重要な事実が、いくつも浮かび上がってきます。ひとつ目は探鉱家という職業の特性、二つ目は『出ていけ』という脅迫状、そして何といっても押し入れに貼ってあった�さつき�のポスターです。……付け加えるなら、座吾朗が監禁されていた理由もこれで説明できます。わかりますか?」 「いや……全くわからない」 「では、まず探鉱家という職業の特性から説明しましょう。探鉱家というのは、とても不思議な職種ですよね。学術的な人間かと思えば、彼に関しては、どうもそうではない。どこかの大学や研究機関に属しているのだったら、ここまで徹底して行方不明になるはずがありませんからね。日本には少数しかいないと推測されるのに、なぜここまで行方が突き止められないのか? 警察でさえ捜し出せないのか? ぼくは犯罪的なにおいを感じました。……いやそれは言いすぎかな、どうも、うさん臭い雰囲気を感じたのです」 「うさん臭い雰囲気?」 「はっきりと言いましょうか。ぼくは、探鉱家というのは仮の姿で、財宝とか埋蔵金を探す職業の人間かと推理したのです」 「ああ……」それで宝の地図か。「そんな職業の人間がいるのか?」 「職業かどうかは別として、一生をかけて財宝を探している人間はたくさんいますよ。それに全財産をなげうって、死んでしまう人間もいるくらいです」 「そんなに、財宝なんてあるのか?」  財宝探しなんて、御伽噺《おとぎばなし》としか思えない。 「ええ、あります。考えてみれば簡単な話ですよ。大昔に大金持ちがいたとして、その財産はどこに保存しましょう? 土地の権利だとか借用証なんてのは信用できませんから——政治的な状況で価値はゼロになりますからね——財産は、自然と流通性の高い金銀財宝で保存することになります。その金銀財宝を、殿島さんだったら、どこに隠しますか? 銀行もない時代の話ですよ」 「床下とか……穴に埋めるとか……」 「そういうことになりますね。そしてぼくなら、その隠し場所を誰にも教えませんね。たとえ自分の子どもにでもです」 「子どもにも? なんでだ?」 「もし子どもに知られて、その金目当てに殺されたらどうしましょう? ぼくだったら、少なくとも死ぬまで面倒を見てもらいたいから——自分を大切にしてもらいたいから、死ぬ直前まで在《あ》り処《か》を秘密にしますね。天国まで金は持っていけません。無用な跡取り争いを避けるために、財宝があることさえ秘密にするかもしれません。それでですね、突然事故で死んでしまったらどうしましょう? 急病になって遺言も残せなかったらどうしましょう? 心臓発作、火事、戦争、謀殺《ぼうさつ》——そんな可能性はいくらでもあります。とすると、財宝は地中に埋まったままですよね。  ……それだけじゃあありません。平家の落ち武者じゃないですが、過去には迫害された武士や貴族が地方に逃げる話はいくらでもありました。そういう身分のある者たちは、再興を夢見て、金銀財宝を保存します。隠します。そして再興は果たされないまま、財宝の存在は忘れ去られて……実際、財宝を換金するのもたいへんですからね。結果的に、謎の財宝の地図だけが残ってしまったりする。  こういう事例は日本全国にいくらでもありますよ。専門家の間で知られているだけでも百以上はあります。戦争の資金を隠した将校の話もありましたね。そしてそのうちのいくつかは、実際に見つかっています。ほとんどは与太話でしょうが、財宝の話は決して御伽噺ではありませんよ」 「財宝の話はわかったよ。しかし、なぜその探鉱家が宝探しの人間だと思ったんだ?」 「それは探鉱家という特異な職種のこともありますが、自分の身の上を隠していたことですね。財宝を見つけるというのは、そういうことです。もしそれが文化的な価値のある財宝だったら、どうしましょう? 国に没収されるかもしれません。それ以前に『それはうちの先祖の残したものだ』という人間が現れたらどうしましょう? もちろん、財宝の眠っている土地はほとんどが私有地です。税金だって馬鹿にならないし、悪人に狙われる可能性だってある。宝探しの人間は、自然と身分を隠して、こそこそと行動することになります。その点、鉱山で職業を偽装するなら�探鉱家�なんてのは、打ってつけでしょうね。鉱山内を自由に調査できるのですから。仕事が終わっても身を隠せるでしょう。公式な探鉱家なら、ここまで身を隠す必要はありません」 「なるほど……」 「さて、犯人は、その財宝探しの人間を殺したい。そいつをおびき寄せるにはどうしたらいいのか? 一番の方法は、宝の在り処を示す手がかりで釣ることでしょうね」 「手がかり……それが宝の地図か……すると、『出ていけ』という脅迫状も?」 「ええ、そうです。こいつが出したものです」  と言って、真野原は洋平を軽く蹴った。  座吾朗があの部屋に忍び込んで脅迫状を置いていくなんて、ずいぶん危険なことをやるものだと思っていたが、部屋の管理をしていた洋平だったら何の不思議もない。堂々と部屋に入って、脅迫状を置いておけばいいだけだ。  真野原は続ける。 「わかりましたか。つまりこの洋平は、ニセ探鉱家をおびき寄せようとして、�西条さつき�の貼り紙を利用しようとしたのです。ニセ探鉱家は、元々座吾朗とあの部屋で同居していましたからね。当然押し入れの壁に貼られた�さつき�のポスターや記事の切り抜きのことは知っていたでしょう」 「ちょっと待ってくれ。なぜ�さつき�が、宝の地図と結び付くんだ? 探鉱家にとって、�さつき�のポスターの裏に宝の地図があると、なぜわかるんだ?」 「それは、座吾朗が監禁されている理由と結び付きます。なぜ座吾朗は地下牢に閉じ込められたのでしょう?」 「伝染病……だからじゃないよな」 「ですね。前にも言ったように、伝染病というのは変です。隔離していることを、二十三年間もあそこまでして隠す必要はない。専用の看守をつければ、かえって費用がかかります。病院でいい。一方で、座吾朗は閉じ込められていることに恨みを持っていた。『殺す』とまで言っていた。  そんな人間を、なぜ三河正造は二十三年間も閉じ込めていたのでしょう? 戸籍を完全に抹消できるくらいですからね、戦争中の混乱に紛れて、死んだことにしたって誰にも発覚しません。二十三年もあったら一度は病気になるだろうから、そのときに放置して、衰弱死させてもいい。しかし三河正造は殺さなかった。ずっと生かしたまま監禁していた。なぜでしょう?」 「それは荒城も言っていたよ……」 「ええ、当然の疑問ですね。さて、ここからは推理です。そこまでして監禁する理由は? 少なくとも二十三年間の看守の年収以上の価値がなければなりません。それは何か?」 「座吾朗が、三河正造の秘密を握っていたとは考えられないか? たとえば、世間に知られたくない過去——三河正造が殺人を犯した証拠や証言を持っていて——」 「弱みを握っていたから、監禁されたということですか? それはおかしいですね。だったら、殺したほうがいい」 「座吾朗が決定的な証拠を隠していて、座吾朗が死んだら公開されるような仕組みになっていたとか……」 「だから生かしておいたということですか。しかしそれは時効の問題がありますね。現在の法律では、二十三年も経《た》てばどんな犯罪でも時効になる。世間体はあるでしょうが、それでも監禁だって犯罪です。発覚したら、時効の犯罪以上に世間体が悪い。あんなに費用をかけて監禁する価値があるとは思えません。しかももし出たら『殺す』と言っているのですよ。とすると、生かしておく理由は、それ相応の価値があると考えるのが自然です。その価値とは何か? 兵器? 軍事機密? 戦争はすでに終わりました。とすると、怪しい探鉱家と結び付けるのが自然です」 「それが財宝か……」 「そうです。もし座吾朗が財宝の在り処を知っていたなら——あるいは、その重要な手がかりを隠し持っていたなら——座吾朗を生かしたまま監禁する理由は納得できます。三河正造たちは、座吾朗に財宝の在り処を吐かせるために監禁した。生かしておいた。犯罪を犯す危険や自分たちが殺される危険を冒してまで監禁するのだから、さぞ莫大な価値のある財宝だと推測されます。そして財宝なら世間から隠す必要がある。納得できますよね?」 「ああ、わかるよ……三河正造とニセ探鉱家は組んでいたのか?」 「そうでしょうね。恐らく探鉱家のほうが三河正造に『あなたの鉱山に財宝が眠っている』と話を持ちかけたのでしょう。そして、あるとき座吾朗がその財宝の在り処を知った。そのため、座吾朗は二十三年間、財宝の手がかりを黙ったまま、監禁されていた。そして見事に脱獄を果たして、現場に〈さ〉〈つ〉〈き〉を残していった。一方で、座吾朗と探鉱家はかつて同居していた。どちらかが、西条さつきのファンだったのでしょうね。だから二人の間では、�さつき�といえば、押し入れのあの貼り紙だということで通じた」 「二人だけに通じる暗号だったのか……」 「ええ、言い換えれば、犯人は新聞を通じて二十三年ぶりの文通をしていたわけですね!�さつき�と言えば、お互いに通じると思っていた。少なくとも犯人は、あの〈さつき〉で探鉱家が鉱山街にやってくると思った。  ……いや、これは正確ではないな。犯人からすると、あの〈さつき〉という文字で探鉱家が来るかどうか、自信がなかったと思います。二十三年前のことですからね、気づくかどうかも怪しいものです。  しかし、これしか方法がなかった。計画的な行方不明の人間を捜すというのは、個人ではほとんど不可能です。ニセ探鉱家は、身を隠すことに関してはプロですからね。つまり他に方法がなかったからこそ、�さつき�というエサでおびき寄せようとした。�さつき�というメッセージで、探鉱家が気づいてくれることを切に願った。  だからこそ、あんなに目立つ殺害方法を使って、新聞に報道されるように仕向けた。  しかし、ここで誤算があった。なんと、あの部屋を殿島さんが利用するという。これでは探鉱家が気づいたとしても、あの部屋に忍び込めません。だからこそ、『出ていけ』という脅迫状を出した。ところがですね、殿島さんが三河正一郎社長に『何とかしてくれ』と頼んだものだから、毎日のように、あの部屋で三人が酒盛りや麻雀をやりはじめた」 「あの三人が洋平の計画を狂わせたのか……」  馬鹿らしい話だ。 「ええ、そうです。洋平は困ったでしょうね。このままでは命を懸けた渾身《こんしん》の計画が、あの三人のせいで台無しだ。そこで、あの爆破事件と脅迫状です」 「え! あの爆破するっていう脅迫状は……」 「そうです。すごい話でしょう! 洋平はですね、あの三人を部屋から追い出すために、あんな嘘の脅迫状を出したのですよ! 鉱山街の住人、一万人以上を退避させようとしたのです! さかのぼれば、その前の鉱山の爆破……荒城さんを怪我させたあの事件も、その伏線です。ああでもしないと、本気で退避しないでしょうからね」 「そんな……そんなことのために、荒城は怪我をしたのか? 死人が二人も出たのか?」 「そういうことです。でも犯人の気持ちになってください。これくらいしか方法がないのですよ。『出ていけ』という脅迫状以上に乱暴なことをしたら、どうなるでしょう? 三人の男を脅したり、殺したらどうなるでしょう? 当然、警察は本気であの部屋を疑って警戒するでしょうね。そうなったら探鉱家は絶対に来ないでしょう。  一方で重要なのは、洋平は探鉱家の顔を知らないということです。座吾朗から特徴は聞いていたでしょうが、二十三年も前の話ですし、顔は変わっています。写真も残っていない。当然、偽名も使っているでしょう。となると、確実に、探鉱家にあの部屋に来てもらうしかない」 「そんなことのために、爆破までして……」 「ええ、本意ではなかったのでしょうけどね。元々は、あんな荒っぽいことをやる予定はなかったのだと思います。鉱山内の爆弾は�保険�として、あらかじめ仕掛けておいたのでしょう。何か月も前からね」 「そうか……だから、警察が監視している中で爆破できたのか……」 「はい、鉱山内を熟知している洋平が、何か月も前から少しずつ準備するのなら、簡単なことです。……もっともですね、鉱山街の人間を退避させた理由は、それだけじゃありません。探鉱家をおびき寄せられたとして、どうやって殺すかは問題ですからね」 「ああ、人がいなくなれば、殺すことも簡単になるということか?」 「はい、そうです。では先ほどの続きで、順を追って説明します。  さて、しびれを切らした洋平は、鉱山を爆破して荒城さんを怪我させた。恐らくこれは、半分意図的、半分偶然でしょう。前々から鉱山を爆破することは計画していて、そこに荒城さんが来た機会を狙って、爆破したのでしょう。邪魔な荒城さんを狙えるなら一石二鳥です。もちろん別に荒城さんがそれで生き延びても、さほど計画に支障はない。言ってみれば、�ついで�です。  そして『鉱山街の住人を退避させろ』と脅迫状を出した。この脅迫状の目的は二つ、ひとつは殿島さんの部屋から人間を追い出すこと、もうひとつはそのあと、探鉱家を殺すことを容易にするためです。警察が鉱山街を監視している状態では、やりにくいですからね。  その後、洋平は金を要求した。もちろんこれは偽装です。嘘八百です。本当の目的を隠すため、あの部屋から人を追い出すためです。鉱山街に人がいなくなれば、探鉱家としても、あの部屋に忍び込みやすくなりますからね。  さて、ここからは洋平にとっても運に左右されます。果たして本当に探鉱家が来るか、さぞかし不安だったでしょう。しかし、探鉱家は来たのです!」 「ずいぶん運がいいよな……探鉱家に�さつき�というメッセージが伝わるかどうかもわからなかったのに……」 「そのとおりです。二十三年も前のことですしね。探鉱家は死んでいるかもしれません」 「それに、その探鉱家が、のこのことやってくるというのも変だよな……探鉱家は、罠とは思わなかったのか?�さつき�というメッセージを理解したとしても、三河前社長と田子沢の二人が死んだんだよな? 探鉱家は自分も殺されるとは思わなかったのか?」 「思ったでしょうね。だからこそ、こうやって屈強な護衛をひとり連れてきたのでしょう」  真野原は、二つの死体のうち、体格の良い男のほうを指差した。 「ああ、こいつは護衛なのか……」 「そうです。……ほら、銃も持ってますね。もちろん、洋平は、探鉱家が来る可能性が高いと確信していたのだと思います。第一に重要なのは、探鉱家の性格でしょうね。相当に金に目のくらむ男だったのではないでしょうか。一攫千金を狙う男なのだから、多少の危険には突っ込んでくるだろう——そう、座吾朗から聞いていたのでしょう。  もうひとつ、探鉱家の心理に立ってみましょう。�さつき�というメッセージをどう捉えるか? 罠とも考えられますが、わざわざあんなメッセージを寄越したということは、自分の力を必要としているのかもしれない。宝の手がかり——探鉱家は地図とは知らなかったのでしょう——何か手がかりがあったとしても、それを元に実際に探すとなると話は別です。探鉱家は『共同で財宝を探り当てようと提案しよう』と考えた——あるいは、『交渉の余地がある』と考えたのではないでしょうか。もっとすごいことを言うと、場合によっては、逆に座吾朗を殺してしまおうとまで考えたのかもしれません。そして、そういう性格も、座吾朗は承知だった。だからこそ、あの計画を実行した。探鉱家が来ると思った。  もちろん、財宝にそれだけの価値があったのでしょうね。……おい、どうなんだ。そんなにすごい財宝なのか?」  と言って真野原は洋平を蹴ったが、「ふん」と洋平は言うだけで、答えなかった。 「こいつらは、金のために命を懸けてやってきたのか……」  私は、二つの死体を見つめた。 「そうですね。金のために人を殺す人間がいるくらいだから、金のために命を懸ける人間だってたくさんいます。財宝を探す種類の人間は、一攫千金、可能性に懸けるのが好きな人種なのでしょう。座吾朗は長い付き合いだから、そう確信していた。そう願っていた。  それにですね、何度も言いますが、洋平にとってはこれしか方法がなかったのですよ。顔も本名も知らない人間を見つけるにはね。だからこそ、勝負に出た。もちろん、座吾朗から、探鉱家の性格を聞いていたのでしょう。やつなら�さつき�という言葉を理解して、きっとやってくるだろうとね」 「そして、実際にやってきたのか……」 「はい、そうです」 「君は、そのことがいつわかったんだ?」 「あなたの部屋で�さつき�の貼り紙を見た瞬間ですよ。あのときすべてがわかりました。もっとも、いまは順序立てて説明しましたが、考えてるときはそんな整然とは考えませんよ。ぼくは様々な手がかりについて、考えていました。たとえば——探鉱家といううさん臭い人物、その男と座吾朗が同居していたという事実、あそこまで目立つ殺人をした理由、血文字の理由、座吾朗が監禁されていた理由、座吾朗の過去、『出ていけ』という脅迫状、鉱山爆破事件、爆破の脅迫状——などを考えた上で、�さつき�の貼り紙という決定的な証拠を見て、すべてがつながったのです。犯人の意図を看破したのです。  しかし、ここまでだと推理です。ただ�事実をうまく解釈する方法�であるだけで、それが真実だとは限りません。単なる仮説です。この世の中をうまく説明する仮説なんて無限にありますが、良い仮説、良い推理とは、何らかの�未来の予測�をして、初めて説得力を持つのです。つまり自然科学における理論のように、良い理論というのは�未来の予測�を伴うものでなければなりません。  そこで、ぼくはこの推理から、�あの貼り紙の裏に何かある�と予測しました。地図かどうかは知りませんでしたけどね。しかし、何らかの財宝の手がかりがあると予想しました。そして、実際にあった。どうです? 推理から導き出された予測が当たったとなると、その推理に大きな説得力があるでしょう?」  と真野原は自慢げに言う。 「ああ、見事だったよ……しかし、あの地図は本物だったのか?」 「嘘に決まってるでしょう! ノリの話をしましたよね? あれは戦後に発売されたノリです」 「すると……」 「ええ、この洋平が地図をでっち上げて、あの貼り紙の裏に隠したのです。探鉱家を、自分に都合の良い場所へおびき寄せるためにね。そして、それを見破ったぼくは、その計画を逆用して罠をかけることにしたのです」 「それが見張りか……君はあの罠をいつ思いついたんだ? 柱時計とか、ずいぶん手の込んだことをやったけど……それも、あの貼り紙を見たときか?」 「ええ、正確には、あのあと鉱山街を散歩したときですね」 「ああ、雄叫《おたけ》びを上げながら走ってたときか」  私は真野原が「セミの寿命は……」などと大声で叫びながら鉱山街を走っていったときのことを思い出した。ところが真野原は、 「え、雄叫び? 誰がですか? ぼくですか?」  と他人《ひと》事《ごと》のように言う。 「……」  この探偵、全く覚えていないようだ。 「もっとも、ぼくも探鉱家が来るかどうかは、怪しいと思っていましたけどね。いくら洋平が信じようとも、半々だと思っていました」 「もし探鉱家が来なかったら、君はどうするつもりだったんだ?」 「やることは変わりませんよ。あの時点でぼくは二つの可能性を考えました。ひとつは、洋平があの部屋付近でいきなりこいつらを殺すという可能性です」 「それで、君は『座吾朗が来るかもしれない』と言っていたのか……」 「ええ、可能性は低いと思いましたけどね。洋平があの部屋で探鉱家を殺す場合は、まず、ぼくが囮《おとり》にでもなって、あの部屋に行くつもりでした。暗がりだから何とかなると思っていました。そして洋平が動いた時点で警官に頼んで、あの部屋の周りを包囲してもらうつもりでした」 「それで警官か……柱時計のホラを吹いて……」 「ええ、あそこに洋平が銃を持ってきたら、ぼくたちだけでは対処できませんからね。警官の力が必要です。無理に説得して、たくさん呼んでもらうつもりでした」 「それで、もし洋平があの部屋に来なかったら? 実際、来なかったけど……」 「それでも、ぼくのやることは変わりません。結局、洋平はここで待ち伏せていたわけですが、ぼくたちふたりがここに乗り込んでくればいいだけです。洋平の計画は�探鉱家が来るか否か�という運に左右されるのですが、ぼくのほうの計画は関係ありません。どっちにしても勝利です。どうです、完璧でしょう?」  真野原は愛くるしい笑顔を見せた。まるで、親に満点の答案を見せる子どものようだ。 「ああ、すごいよ」と私はため息をつきながら認めた。「ずいぶん独善的で無茶だったと思うけど」という本音は呑み込んだ。 「では、また話をもどします」と真野原は笑顔で続ける。「財宝に目がくらんだ探鉱家は、洋平の目論見どおり、あの部屋に誰もいなくなったのを確かめて、夜にやってきた。そしてあの宝の地図を見つけた。先ほども言ったように、ここで洋平は、あの部屋の周りで探鉱家を殺すことも選択できたのですが、しかしあそこで殺さなかった。第二の方法——鉱山内で殺すという方法を採りました」 「なぜ?」 「そのほうが、確実に殺せるという目算があったのでしょうね。街には警察の監視があったので、難しいと思ったのだと……」 「違う」  突然、それまで黙って話を聞いていた洋平が、口を開いた。 「ほう、では、なぜです?」  真野原が不敵な笑みを浮かべて、洋平に聞き返す。その表情からするに、真野原はこの反応を予測していたのかもしれない。 「それは……恨みがあったからだ」  洋平は下を向きながら言う。 「恨み?」と私は聞き返した。「恨みがあると、なぜここで殺すんだ?」  しかし洋平は答えない。 「だいたい、座吾朗とお前はどういう関係なんだ? 座吾朗と結託して、脱獄を計画したんだよな。殺人を実行したんだよな。……そうだ、座吾朗はどこにいるんだ?」  と私はさらに聞く。しかし洋平は無言のままだった。 「答えないようですね。では、ぼくが代わりに答えましょうか。  さて、座吾朗は、この事件で何をしようとしたのか? それは先ほど説明しました。恨みのある三人——三河正造、田子沢、探鉱家を殺そうとした。しかしこの問題と並んで�座吾朗はどういう役割を果たしたのか��座吾朗はどこにいるのか�という点も重要です。そしてその謎を解く鍵になるのは、�どうやって脱獄をしたのか�ということです」 「そうだ、座吾朗はどうやって牢屋を出たんだ? それをまだ聞いてない。君はわかってるんだよな?」 「もちろんです。最初に起こったことですから、最初に説明するべきでしょうね。いままで�さつき�の謎についての推理を話しましたが、じつは、順序としては逆になりますね。座吾朗がどうやって脱獄したのかというのがわかったからこそ、さっきの推理にもぼくは自信を持っていた。しかし、説明は後回しにしました。なぜだかわかりますか?」  真野原は挑発的な目で私を見た。 「どうしてだ?」と私は聞く。 「それはもちろん、この事件でもっとも興味深い点だからですよ! 美味い食い物は先に食うべきですが、興味深い推理はあとに取っておくに限ります!」 「興味……それだけか?」 「はい。興味ありませんか?」  と微笑みながら言う真野原を見て、私はため息をついた。 「わかったよ、興味があるから説明してくれ」 「わかりました」  真野原は待ってましたというように相好《そうごう》を崩した。 「しかし、その前にぼくがこの事件についてどう考えていたかを説明しましょうか。ぼくは最初、殿島さんと現場を見て、脱獄の不思議さも然《さ》ることながら、なぜこんな目立つことをやったのだろうと思いました。……ああ、第一の殺人の現場のことです。なぜわざわざ死体を線路に置いていったのだろうとね」 「血文字を報道してもらいたかったからじゃないのか?」 「ええ、結果的にはそうなりますね。しかし、何というか違和感があったのですよ」 「違和感?」 「はい、何といえばいいのか、トウモロコシの皮が奥歯に挟まったような違和感です。取らなくてもいいのだけど、取れないと非常に気になる。……というのも、脱獄はすばらしい手際を見せていますよね。警察を見事に欺《あざむ》いているし、最初の時点では、ぼくでもさっぱりトリックはわからなかった。しかしその脱獄の手際と比べて、その後の殺人はどうでしょう? 血文字を残して、死体を移動させて、目立たせる——気持ちはわかるのですけどね。どうも荒っぽい。雑すぎる」 「荒っぽい、か……まあ、言われてみればそうだな。目立たせるだけなら、ほかに方法もあったような気がするし……」 「ええ、これは直感的なものですけどね。違和感があったのです。トウモロコシの皮です。そして、ぼくが釈放されてから、第二、第三の現場のことを聞いても同じことを感じました。なんで、あんな目立つことをやったんだろう? とくに令子さんの現場で、あんな乱暴なことをやる意味は理解できなかった」 「ああ、そうだ。聞いていいか?」 「どうぞ」 「令子さんの自殺は偽装か?」 「いえ、違いますよ。筆跡鑑定のとおり、あの遺書は本物です。彼女は自殺です」 「じゃあ、なぜ首があったんだ?」 「洋平が、令子さんの死体のそばに置いていったのです。最後の文字〈き〉を目立たせるためにですね」 「なら令子さんはどうして自殺したんだ? 座吾朗をかばうような遺書を書いて……」 「それは……あとで説明します。座吾朗の脱獄トリックと関係しますから」  と真野原はちらと洋平を見てから、 「さて、話は本筋にもどります。ぼくは犯人の行動に違和感を持ちました。見事な脱獄と比べて、その後の犯罪が荒っぽすぎる。この違和感は荒城さんも持っていたのですよね?」 「え?……ああ、『なぜこんな目立つことを』と言っていたね」 「ええ、荒城さんは、『犯人が鉱山の外で犯罪を実行するはずがない』と推理していたのですよね。あんなに鮮やかな脱獄をやった犯人が、捕まるような馬鹿な真似はしないと。当然の推理だと思います。それに殿島さんがさっき言ったとおり、目立たせるだけなら、もっと別の方法がありそうです。どうも合理的な説明ができない。  そこでぼくは、これを性格の違いではないかと推測したのです。脱獄を実行したのと、その後の殺人は別の人間がやったのではないか——この事件には、性格の違う二人の人間が関係しているのではないかとね。  もっと直接的に言いましょう。この時点でぼくは、脱獄には、協力者がいたのではないかと思いました。座吾朗本人が『この牢屋を出てやる』と予告したとおり、脱獄計画は座吾朗本人のものだろう。しかし、その脱獄には協力者がいた。そしてその協力者が殺人のすべてを実行したのではないかと」 「それが洋平だと?」  私は洋平の顔を見ながら言った。 「いえ、当初は、そこまで断定はしていませんでした。容疑者のひとりではありましたけどね。それに�座吾朗に協力者がいる�というのも単なる仮説です。証拠は一切ない。  そこでぼくは、脱獄について考えはじめました。座吾朗はどうやって脱獄したのか? これがわかれば、すべてが解決すると思いました」 「でも……協力者がいたって、あの脱獄は無理だよな……」 「本当にそうですかね。どう思いますか?」 「うーん、やっぱり扉の溶接工事をしたときに何かトリックがあったとか……」 「前にも説明したとおり、それは無理ですね。溶接後に恩田さんが食事を届けていたのですから」 「じゃあ、溶接された扉を壊した時点で、まだ座吾朗は中にいたんじゃないのか?」 「なるほど、巧妙に牢屋の中に身を隠していたということですか。探偵小説で、よくそういうトリックがありますね。しかし、それも無理です。洋平の証言は信用できないとしても、扉を開けたとき、二人の人間がいた。恩田さんと坂崎さんです。その二人があの牢屋にいて、その後、警察が来た。  これは重要なことなので、ぼくはかなり注意して聞いていましたが、あの状況じゃあ、�心理的なトリック�も�巧妙な入れ替わり�も無理ですよ。  まとめましょう。ここは非常に重要な点です。あの扉が溶接される�以前�にも、溶接が破られた�以後�にも、トリックは不可能だった。だとしたら、どうやって座吾朗は脱獄したのでしょう?」 「どうやってって……」  私は考えたが、さっぱりわからない。 「簡単なことです。扉が閉じられる�以前�にも�以後�にも脱出が無理、�心理的なトリック�も�錯覚�もなかった。だとしたら、残るはひとつしかありません。座吾朗は扉が溶接されている状態のときに脱獄したのです」 「溶接されてる状態って……じゃあ、どうやって脱出するんだ? 三つの穴は頭さえも通らないし、物理的に出るのは不可能だろう?」 「それは、自然に考えればいいじゃないですか。複雑なトリックを考える必要はありません。三つの穴しかないのなら、そのどこかから出たと考えるのです。それしかない」 「考えるっていっても……」 「ところで、殿島さんはデカルトという人物を知っていますか?」 「デカルト? 名前は聞いたことあるけど……」 「フランスの哲学者です。彼の有名な言葉に『困難は分割せよ』というのがあります。難問は、問題を分けてひとつずつ解け、という意味ですね。この言葉に従って、脱獄行為を分割しましょう。この場合、脱獄とは�牢屋の内からの消失�と�牢屋の外での出現�の二つに分割できます。意味、わかりますよね。まずは�牢屋内からの消失�を考えましょう。どうですか、これならできるんじゃないですか?」 「消失って……頭さえも通らないんだから……あ!」突然、ひらめいた。「まさか、身体を挽肉のように細切れにしたのか!?」 「たいへん良い推理ですね」真野原は笑顔で言う。 「そんな馬鹿な……」 「馬鹿なって、ぼくも最初、真剣に検討したのですよ。でも無理ですね。身体を外部から解体するとしたら、あの食事の穴からしかありません。しかし横二十センチ縦十センチの穴から人体をバラバラにするのは、たいへん困難です。不可能とは言いませんが、人間には骨がありますし、時間がかかる。ええと、前日、恩田さんが夕食の食器を回収しにきたのが午後七時ごろですから、翌日朝食を運んで来るまで……十二時間のうちにやらなければなりませんね。余裕を見て十一時間。何日もかけるなら別として、この時間では相当に無理がありますね。それにそんな状態で死体をバラバラにすると、血やら毛髪やらを回収するのがとてもたいへんです。不可能と断言していいでしょう。……しかし『座吾朗が死んでもいい』というところは、良い目の付け所です。どうです、これなら簡単でしょう?」 「き、君は座吾朗が自ら死んだと?」 「ええ、まずはそう仮定しましょう。他のことは、あとで考えるとして……人体をバラバラにする以外に、座吾朗の身体を脱出させるには、どんな方法があると思いますか?」 「うーん……」  切断してバラバラにする以外にどんな方法があるのだろうか? 「燃やすとか?」 「人体を燃やすのは、意外とたいへんなのですよ。ガソリンを大量に使用したとしても時間がかかります。それに骨が残りますね。入口の穴は頭も通らないのですから、骨をバラバラにするしかありません。これじゃあ、切断するよりも面倒です。現実的に考えて十一時間では相当に厳しいと思います」 「うーん……」 「切り刻んだのでもない、燃やしたのでもないとすると、他に死体を処理する方法は何があるでしょう? ミンチではない、燃焼ではない——もちろん、あの時間では�腐食《ふしょく》�も無理だし、骨がやっかいだ。だとすると、手っ取り早く処理するにはどうすればいいでしょう? ここまで言えばわかりますよね」 「……」さっぱりわからない。 「ヒントはたくさんありますよ。一番重要なヒントは……では、サービスです。あの、鶏の羽根はどう考えましょう」 「鶏の羽根……まさか……」あることを思いついた。 「わかりましたか?」 「き、君は、鶏に座吾朗の身体を食わせたというのか!?」  私は、そんな馬鹿なことがあるかと思いながら、自分の推理を口にした。考えられることといえば、これしかない。しかし真野原は、 「はっはっはっはっはっは」  と突然立ち上がって大声で笑った。そして、「すごい、すばらしい! 天晴《あっぱ》れな推理です!」と言いながら、握手を求めてきた。 「すごい、そんな独創的な推理、全く考えもしませんでした。あなたはすばらしいです。テレビジョンの推理といい、殿島さん、あなたはとてつもなく独創的ですね」 「違うのか?」  と私は聞き返す。馬鹿にされたようで少々気分が悪い。 「いえ、そんな気を悪くしないでください。条件が違えば、あなたのトリックは立派に成立すると思いますよ。本物のトリックよりもすばらしいかもしれない。……なるほど、鶏に食わせるですか。盲点でした。確かに鶏なら食事の穴は通りそうだ。過去に実際、豚に切り刻んだ死体を食わせた事件がありましたね。実話です。……しかし、僭越《せんえつ》ながら言わせていただきますと、今回の事件に関しては難しいですね。ええと、鶏は十一羽でしたか。そもそも鶏が人体を食うという話は聞いたことがありませんが、もし食うと仮定しても、一日では無理でしょうね。鶏の体重が二倍以上になるほど食わせなければなりません。もちろん骨をどうするかという問題もあります」 「じゃあ、鶏がどう関係するんだ?」 「ここで別の話をしましょう。この鉱山では硫黄がたくさん採れますよね」  急に何を言い出すのか。 「ああ」と私は言う。 「硫黄からは、何ができるでしょう?」 「火薬やマッチの材料になったり、肥料になったり……あと、硫酸もできるのか……」  私は、男が汗を流しながら働く硫酸工場を思い出した。 「そう、硫酸! じゃあ、硫酸の特性は何でしょう?」 「物を溶かしたり……あ! まさか……人体を硫酸で溶かしたというのか!?」 「ご名答」  真野原は笑う。           4  真野原は続ける。 「正確に言いましょう。硫酸は人間の骨を溶かします。皮や肉は溶かしません。しかし、皮や肉と激しく反応して、脱水作用と発熱を起こします。真っ黒こげにします。一方で苛性ソーダという物質もあります。アルカリ性の物質の代表で、別名・水酸化ナトリウムですね。硫酸とは逆に、皮膚や肉を溶かす物質です。この物質は石鹸の原料などでも使用されますが、工場などで大量に使用される一般的な物質なので、手に入れるのは難しくない。硫酸に関しても、ここの硫酸工場のいい加減な管理状態からすると、前々から計画していれば容易に手に入るでしょう。他にも、骨や肉を溶かす物質はありますが——王水や塩酸などですね——しかし大量入手のしやすさ、扱いやすさから考えて、今回の事件では硫酸と苛性ソーダと考えるのが自然でしょう。……恐らく洋平は、この二つを組み合わせたと考えられます」 「座吾朗は……身体を溶かされたのか?」 「ええ、そうです」 「座吾朗は、殺されたのか?」 「いや、座吾朗と洋平の共同作業ですよ。だから実質的には自殺ですね」 「溶けて自殺……でも、どうやって? 人体を溶かすくらいの量の硫酸って……運ぶのがたいへんだと思うのだけど……」 「そうですね。入口の食事の穴まで運ぶのは困難でしょう。硫酸を持って、牢屋の近くにある崖を下りるのは危険です。でも、あの空気穴の向こうにある線路を使えばいいじゃないですか!」 「ああ……」  最近使われた跡があったという線路か。 「あの線路で、硫酸でも苛性ソーダでも運べばいいのです。そして、あのゴムの跡、覚えてますよね? ゴムなら、酸でもアルカリでも溶けません。つまりですね、座吾朗と洋平は結託して、まず、あの空気穴の向こうからゴム製のホースを牢屋まで通したのです」 「どうやって? あんなに曲がりくねった穴の中を通すなんて、たいへんだと思うのだけど……」 「そんなに難しくはないですよ。たとえばこんな方法があります。まず、何でもいいから長い紐を用意する。その紐をゴムの玉にでもつけて、穴に転がす。そして、水を流す。当然、玉は勢い良く転がっていきます。一本でも紐が開通すれば、あとは簡単です。ホースの中に紐を通すようにして、紐の端からするすると牢屋まで開通させればいい」 「そうか、それであの貯水槽か……貯水槽の水を穴に流し込んで、穴の中に玉を転がしたと……」 「ええ。それでも、一度ではうまくいかないかもしれない。しかし、どこかで玉が引っかかったら、紐を引っ張って回収すればいいのです。何度でもやり直しが利きます。ぼくの言ったのは一例で、もっとうまい方法があるかもしれませんね。ともかく、何らかの方法で、ゴムホースを空気穴から牢屋に通した。  そして座吾朗は、便所の窪みにしゃがみ込む。便所の場所は、人間がひとり入れるくらいの窪みになっていましたよね? そこが重要です。そのしゃがみ込んだ上から、ホースをぶら下げる。座吾朗の身体に液体が降りかかるようにする。  一方で、洋平は空気穴の向こうの部屋にいて、苛性ソーダをホースから流し込む。するとホースを伝って、苛性ソーダが座吾朗の身体にかかる。肉と皮膚が溶けたところで、硫酸をかける。ただし硫酸は大量に手に入ったでしょうが、苛性ソーダがどこまで手に入ったかはわかりません。どういう組み合わせをしたのかも不明です。しかし、硫酸だけで死体を溶かしたという実例もあるので、苛性ソーダが手に入らなくても何とかなるでしょう。  溶解を効率的にするなら、座吾朗は便所の穴をふさぐようにしゃがみ込むのがいいでしょうね。つまり自分の身体を�栓�代わりにする。すると窪みに液体が溜まって、溶解や燃焼の反応がうまく進む。恐らくゴムのシートで身体をくるんだのでしょうね。ゴムなら、酸でもアルカリでも溶けません。シートなら折りたためば食事の穴から入れられるし、紐をつけておけば回収もできる。シートの大きさが心配なら、中で接合してもいい。逆にシートを出すときは、食事の穴から手を突っ込んで切り刻んで、小さくしてから外へ出せばいい。もちろん、シートには穴が開いていて、そこから溶けた液体が、地下の肥溜《こえだ》めの空洞に流れていったのでしょう」 「あの泉には、座吾朗の身体が溶けた液体が混じってるのか……」  私は、体育館ほどの広さのある空洞を思い出した。あれだけ広い泉だったら、人体の溶解した液体が流れ込んでも、さぞかし判明しにくいだろう。 「ええ、そうです」 「しかし、そんなにうまくいくのか? 実際に、人間くらいの大きさの物体を溶かすのは、たいへんのように思うけど……」 「おっしゃるとおりですね。しかし、そこはかき混ぜてあげればいいじゃないですか」 「どうやって?」 「食事の入口に、木のくずが付いていましたよね」 「ああ……」  真野原が回収したくずだ。 「あの証拠から察するに、食事の穴から長い木の棒を入れて、溶けてバラバラになった死体の破片をかき混ぜたのでしょう。溶解や燃焼もこれで進みます。そして最後に、空気穴から大量の水を流した。もちろん、牢屋内を綺麗に掃除するためです。ポンプで大量の水を流し込みながら、木の棒でうまくカスが便所の穴に流れ込むように、燃えカスや溶けカスを細かくしたり、混ぜたりします。ジャガイモを湯で溶かすような要領です。外の貯水槽の大きさから察するに、部屋を水で満たすには無理でしょうけど、部屋を掃除するには十分な量ですからね。  そして、あの牢屋を見てもらってもわかるように、あそこの便所は天然の水洗便所ですからね! うまく水や液体が穴に流れ込むようにできています。こうして何段構えの処理法を使って、綺麗に掃除したのです」 「よく警察の捜査で発覚しなかったな……」 「液体の痕跡に関しては、硫酸を大量に流しておいて、あとで水を流せば、地面に微量に残る液体は弱酸性です。もともと硫黄鉱山で、弱酸性の水が壁や天井から流れているのだから、発覚しにくい」 「残りカスは大丈夫なのか?」 「先ほども言ったように、ゴムのシートを敷いてその上で溶解させれば、基本的にカスは残りませんよ。問題は、燃焼させた場合のゴムの燃えカスや、そこからはみ出た肉片などの処理ですね。それは非常に重要です。しかし、食事の穴を利用すれば、処理はそんなに難しくないですね。木の棒の先に、ブラシのようなものでもつけて、綺麗に掃除すればいいのです」 「それで、ホウキの跡か……」  私は、地下牢に残されていたホウキで掃いた跡のことを思い出した。 「はい。ブラシでこすったあとに水を流しながら、雑巾——棒の先につけた雑巾で綺麗に拭き掃除をすればいいのです。雑巾やブラシの破片は、最後に水で流せばいい」 「じゃあ、ゴムの破片ってのは……」 「熱に反応して溶けたゴムシートの破片が、あそこに残ってしまったのでしょうね。ブラシで取りきれなかったのでしょう」  それでコゲた臭いがしたのか——。 「液体をいかに効率的に人体にかけられるかが、重要な点でしょうね。証拠は見つけられませんでしたが、ゴムの紐とか、金属製のワイヤーとかも活用したのかもしれません。もちろん、あとで回収できるような仕組みですけどね。回収は食事の穴から紐で引っ張ればいいのです。座吾朗にあらかじめ協力しておいてもらったら、簡単です」 「でも……そんな、現実的にうまくいくのかな……いや、うまくいったのだろうけど、そんな自信があったのか?」 「いいところに気がつきましたね。もちろん自信はあったと思いますよ。ほら、あの鶏の羽根があったじゃないですか」 「ああ、そうだ。あの鶏を盗んだのは、洋平なんだよな」 「ええ、地下で羽根が見つかったところを見ると、そうでしょうね」 「どういう意味があったんだ?」 「そのままの意味です。座吾朗と洋平たちはですね、鶏で実験したのですよ。うまく溶かせられるかどうかね」 「実験か……」 「実際にどれくらいの時間で溶けるか、どれくらい跡が残るかというのは、やってみないとわかりませんからね。それを鶏の死体を使って、実験したのです。でも逆に実験で成功しているのなら、これほど心強いことはありません。化学的に、鶏と人体の異なる点は、大きさだけです。骨も肉もある。現実に、何度も実験は失敗したと思いますよ。十一体の鶏を使って、試行錯誤したのだと思います。そうした実験をやったからこそ、座吾朗や洋平たちはこのトリックに自信を持っていたのだと思います。すごいでしょう?」 「ああ、人体を溶かすなんてことがあるんだな……」 「ありますよ。じつはですね、人体を溶かす事例は、過去にもあるのですよ。硫酸風呂のジョン・ジョージ・ヘイ、マルセイユの保険金殺人鬼・メートル・ジョルジュ・サレ、妻を苛性ソーダで溶かしたアドルフ・ルートガルト——などなど。この三人はたまたま捕まりましたが、捕まっていない犯人もいると思います。完璧な死体消失法のひとつですからね。事件が起こったことすら、わからないかもしれない。行方不明で終わりです。  ですから、溶かすこと自体はそんなに珍しくはありません。今回の事件で特徴的だったのは、それを脱獄に応用したことですね。この牢屋の特徴を見事に生かしたトリックというところがすばらしかった。  しかしですね、これでさえも大したことがありません。この脱獄トリックの真にすごいところは、いま説明した溶解トリックではないのです。別のところにあります」 「別のところ?」 「はい。困難を分割しましたよね。�牢屋の内からの消失�の証明はしましたが、�牢屋の外での出現�はまだ説明していません。本当にすごいのは、間違いなく後者の�牢屋の外での出現�のほうですよ」           5 「�牢屋の外での出現�って……座吾朗は、溶けたんだよな?」  と私は聞く。 「はい」 「その後の殺人を実行したのは、洋平なんだよな?」 「はい。でも恩田さんの証言によると、座吾朗は二十年前、『ここを出てやる』と言ったのですよね。そして、確かにその予告を守ったのですよ。半分だけですけどね」 「半分だけって……」  以前にも言っていたが、わけがわからない。 「手がかりのひとつとしては……なぜ令子さんが自殺したかということですね」 「幼なじみの座吾朗をかばおうとしたんじゃないのか?」 「死んだ座吾朗をかばうのですか? 死人をかばっても仕方ありません」 「そうか……」 「わかりませんか。じゃあ、決定的なヒントを。鍵になるのは、二十年前に恩田さんが夜な夜な聞いた女の呻《うめ》き声と、扉が鉄格子だったということです。女の呻き声って、何でしょう? 若くて健康な男子でいらっしゃる殿島さんなら、何を想像しますか?」 「呻き声ってまさか……」  若くて健康で、というところで思い当たることがあった。 「ご名答! わかりましたよね。そう、二十年前、座吾朗はあの地下牢で、鉄格子を通して、子づくりをしたのです! 子づくりといっても、コウノトリが運んでくるのを待ったわけじゃないですよ。いわゆるアレ、直接的な言い方をすれば、性交、性行為、英語でいえばセックスをしたのです!」           6 「馬鹿な……」  私は絶句した。 「どうです、すごいでしょう! この発想からしたら、人体溶解トリックなんて、平凡、ありきたり、どうでもいいです。座吾朗は、自分は死を覚悟して、その代わり子種を牢屋の外に出したのです!�自分の分身�を牢屋の外につくったのです! 自ら�消失�したあと、自分の子どもという分身を、外に�出現�させたのです!  座吾朗は、三年間、必死になって考えたのでしょう。この牢屋を出るにはどうしたらいいのか。出て、三人をぶっ殺すにはどうしたらいいのか。そして、ついに今回のトリックを思いついたのです」  真野原はいったん言葉を切ってから続ける。 「まず、自分の親しい女と、牢屋の鉄格子を通して性交する」  それで鉄格子か。 「そして、ついに妊娠したことを知って、自信満々に脱獄することを予告する」  それで『二十年後出てやる』と叫んだのか。 「そして、二十年間、必死に生き続ける」  座吾朗は二十年かけて、脱獄を果たそうとしたのだ。 「そして、成長した息子と涙の対面を果たす」  それが洋平か。 「そして、自分が溶けてなくなる」  座吾朗は死ぬために生きていたのだ。 「そして、自分の分身である息子が、自分の恨みを晴らしてくれる」  それで『半分』か。 「すると、洋平が座吾朗の息子だと……?」と私は聞いた。 「そうです。殿島さん、DNAというのはご存じですか?」 「DNA?」 「ええ、遺伝子のことでですね、人間の生物としての情報はそこにすべて含まれていて、精子と卵子が……いや、やっぱりいいです。まだ一般的には知られていませんね。  とにかくですね、生物的に子どもが親の半分ずつを受け継いでいることは、わかりますよね? 子どもは両親に似ますよね? そういうことです。どうです、すごいでしょう? 考えれば考えるほど、ぼくは身震いがします。座吾朗はですね、確かに牢屋の外に出たのです! 精子を通して、身体の半分と、そして魂を外に出した。見事な方法で、華麗に脱獄に成功したのですよ!」  真野原は息を荒らげて言った。  しかし、彼が興奮するのも無理はない。雄叫びを上げながら鉱山街を走る気持ちもよくわかる。馬鹿らしさをはるかに超えて、執念というか怨念を感じる。洋平は、座吾朗の分身なのか——私は洋平の顔を見てから、 「洋平は二十四歳じゃなかったのか?」  と真野原に聞いた。 「嘘でしょうね。鉱山なんて、身元の怪しい者がたくさん来ますから、そんな戸籍まで厳密に調べません。実際には、妊娠期間の約一年を引いて、十九歳ですよ」  それで若く感じたのかと納得した。 「じゃあ……洋平の母親ってのは?」 「あなたもご存じの方です。令子さんです」 「れ、令子さん!?」 「ここまで来れば、そんなに難しくありませんよね? もう一度聞きます。令子さんは、なぜ自殺したのでしょう?」 「座吾朗をかばうため……じゃないんだよな……」 「はい、先ほども言ったように違いますね。座吾朗は死んでますから。それにですね、一般的に考えて、そんな、妻が夫のために死ぬことなんてあると思いますか? 女が男のために死にますか?……いや、これは言いすぎか」と真野原は自嘲してから、「夫をかばうために死ぬ妻というのは、それほど多くないと思いますよ。逆ならともかくね。しかし、息子のためなら別です。息子をかばうために死ぬ母親なら、そんなに珍しくない。一方で、令子さんと座吾朗は幼なじみだった。そして、令子さんは地下牢に自由に行き来できた唯一の女性です。性交でも何でもやり放題です。以上のことから、座吾朗の相手は令子さんしか考えられません」と言った。 「令子さんが、呻《うめ》き声に心当たりがないと言っていたのは……?」 「嘘ですね。そんな、本当のことを言うわけがないじゃないですか」 「令子さんは、息子の洋平をかばうために自殺したのか?」  私は洋平を見た。洋平は前方をじっと見つめながら、涙を目にためている。 「そうです。結局、その遺志は届かなかったようですけどね。  では、今回の事件を最初から順に追っていきましょう。二十三年前、座吾朗は、財宝の在《あ》り処《か》を隠しているという理由で監禁された。一方で座吾朗は、自分を監禁した三人に恨みがあったから、脱獄して殺すことにした。必死に考えて、ついに先ほど説明した方法——溶解と性交のトリックを編み出した。そして、幼なじみで、実際に恋愛関係にもあったのでしょうね、令子さんと交わって妊娠させた。一方で令子さんは恩田さんに求婚されたが、自分は身重だ。まずは座吾朗の計画を実行するために、子どもを産まなければならない」 「それで、令子さんは一年間、故郷に帰ったのか……」 「そうですね。妊娠期間です。その後、洋平をどこかに預けて、自分は恩田さんと結婚することにした。そのほうが、座吾朗の看守として鉱山に居続けることができますからね。  ……まとめましょう。一般に、女が死んでかばう相手といえば、自分の子どもしか考えられません。親や兄弟を無実にするために死ぬ人間なんて考えにくいし、恋人や夫や友人をかばって死ぬ女なんて聞いたことがない。とすると、令子さんは自分の子ども——隠し子をかばうために死んだと考えるのが、自然な推理です。そして遺書や現場にあった首を考えると、かばう理由は、事件の犯人だからとしか考えられません。すると、論理的な帰結として、その子どもが犯人ということになる。  一方で、二十年前に謎の女の呻き声が聞こえたこと、令子さんが一年間いなくなったこと——これらの二つの手がかりから考えて、子づくりは、二十年前に牢屋で行ったと推理できます。なぜなら座吾朗は、牢屋に監禁されることを予想していなかったのですからね。子どもをつくる機会は、地下牢にいた期間しかありませんでした。監禁される前に子どもがいたのなら、隠す必要もないですしね。  以上が、脱獄トリック——�牢屋の外での出現�に関するぼくの推理です」 「洋平は……生まれてすぐ、誰かに預けられたのか?」 「はい、令子さんは、一年かけて預けられる人を探したのでしょうね。そして、預けられた洋平は、どの時期かはわかりませんが、自分が座吾朗の息子であることを知って、座吾朗と涙の対面を果たした。むろん、令子さんの手助けがあったのでしょう。息子である洋平は、親の恨みを晴らすべく、この鉱山に就職して、脱獄と殺人の準備をした。硫酸や苛性ソーダを手に入れて、爆弾も仕掛けた。すごい執念ですね、あんな時限爆弾をつくってしまうのですから、相当に猛烈な勉強をしたのでしょう。鶏を盗んで、夜な夜な、恩田さんが来ない時間帯を狙って、父子で慎重に実験もした。もちろん、母である令子さんとの連携もあったのでしょう。  そして、ついに脱獄の日がやってきて、先ほど説明した方法で、自分の父である座吾朗の身体を溶かした。その後、計画通り三河正造を殺して、線路に死体を置いて、血文字を残した。血文字の理由は、先ほど話したとおりです」 「脱獄後の計画は、座吾朗と洋平が共同で立てたのか?」 「そうでしょうけどね、実際はほとんど座吾朗が立てたのだと思いますよ。座吾朗が二十年かけて計画を練り上げておいて、洋平から状況を聞いて、微修正したのだと思います。あくまでも、計画立案は座吾朗だと思います」 「なぜ、そう思う?」 「性格の問題ですよ。今回の計画は、骨組みは非常にしっかりしています。血文字の件、そして万が一のときのために、保険として鉱山内に爆弾を仕掛けておく——などというのは、脱獄の見事さと性格的に一致します。大胆かつ独創的かつ論理的です。一方で、実際の犯行は、荒っぽすぎる。大きな部分だけを座吾朗が計画して、実際の細かいところを洋平に任せたのでしょう。だから、ある部分は慎重だったり、ある部分は雑だったりしたのだと思います」 「なるほど……」  先ほど真野原が言っていた「違和感」というのは、性格の違いだったのか。 「さて、続いて洋平は、荒っぽい方法ですが、田子沢さんと警官を殺しました。そして首を持っていった」 「首を切断して持ち去ったのはなぜだ?」 「恐らく、血文字の関係ですよ」 「血文字?」 「探鉱家に�さ�と�つ�と�き�を伝えるには、死体が一個足りません。殺す対象は、探鉱家を除けば、三河正造と田子沢さんの二人しかいませんからね。最初の計画では、二人を殺して〈さ〉と〈つ〉を残し、その後、何らかの方法で三つ目の文字を残そうと考えていたのではないでしょうか。たとえば、新聞社に、脅迫状といっしょに血文字を送るとかですね。しかし、田子沢さんを殺したときに、洋平は思いついた。みんな祭りに行っていて誰も人は来ないし、首を切断すればいいんじゃないか——つまりですね、首だけ持ち去って、あとでどこかで目立つように発見させるつもりだったのだと思います。〈き〉という血文字といっしょにね。身体じゃなくて首を持っていったのは、首のほうが軽いからです。一回目の殺人では報道されなかったから、今度こそ目立つ必要があった。首だったら、二文字目も三文字目も、目立たせることができます」 「その場で思いついたことだったのか?」 「ええ、恐らくそうだったと思いますよ。即興です。前々から考えていたことなら、もっと慎重なやり方をするはずです。ここには、洋平の性格が出ていますね。……そして、その後、首を持って鉱山に行く途中、荒城さんと殿島さんに見つかってしまった」 「洋平は、鉱山を基地にしていたのか……」 「はい、首もそこに隠していたのでしょうね。鉱夫見習いの洋平なら鉱山内を熟知していますし、ずっと前から、そういう場所——着替えたり、武器を置く場所を準備しておいたのでしょう。そこさえ確保しておけば、あとは鉱山の中でも街でも、歩き放題です。なにせ、洋平は正規の鉱夫なのですからね。警察が鉱山の中や外を百万年捜しても、座吾朗は見つかりません。座吾朗が見つからなかったのは、謎でも何でもなかったのです。  しかし、ここで誤算が起こった。ひとつは、荒城さんの存在です」 「荒城?」 「はい。荒城さんは、持ち前の行動力で、見事に座吾朗と令子さんの関係を探し当てましたよね。令子さんは、それをひどく恐れた。座吾朗と自分の関係が判明したら、洋平が捕まってしまうかもしれない……そこで、令子さんは悩んだ末に、自分が罪をかぶって自殺しようとした。もちろん自分の病気のこともあったのでしょう、どうせ病気で死ぬなら、息子をかばいたいと考えたのではないのでしょうか。そして令子さんは、あなたたちが座吾朗の故郷へ行っている間に、洋平に連絡した。たぶん手紙でも出したのではないでしょうか。『自分はこういうふうに自殺する』『首を持ってきて、自分の死体のそばに置け』『あなたは逃げろ』とでもね。それを知った洋平は、令子の死んだ現場に行って、令子の自殺死体を見つけた。しかし洋平は、その死体を見ても計画を諦めなかった。そこで洋平は、首を置いて血文字を残して、逃げた。以上が、令子さんの自殺の真相です。  さて、残る問題は、あなたたちがあの部屋に居続けることです。洋平は、相当にいらいらしたでしょうね。一週間待ったが、あなたたちはあの部屋を出る気配はない。一方でそんなにゆっくりしていられません。洋平も、荒城さんを恐れていたのでしょうね。座吾朗と令子さんの過去を探り出したのですから。そこで、以前から考えていた最後の手段——鉱山の爆破を組み合わせて、あの脅迫状を出したのです。  そして、目論見どおり、運良く探鉱家がやってきた。この場所までおびき寄せて、殺した。以上です。……どうです、納得できましたか? 何かご質問は?」  と真野原は聞いてきた。 「脱獄のトリックはわかったよ。確かにすごい。……しかし、なぜそんな面倒なことをやったんだ? 令子さんと共犯なら、座吾朗は二十三年前の時点で脱獄して、普通に殺せばいいだけじゃないのか?」 「これは推定ですが、ひざが悪かったからでしょうね。恩田さんによると、座吾朗が夜な夜な叫び声を上げていたのは、ひざが痛んだからですよね。座吾朗は、歩けないほどひざが悪かったんじゃないでしょうか? 歩くことも困難なら、脱獄したあと、警戒が厳しい中で三人の男を殺すことは困難でしょうからね。かといって、女の令子さんが三人を殺すことも難しい。ひとりくらいなら令子さんでも何とか殺せるかもしれませんが、ひとりを殺した時点で捕まるか、あるいは警戒が厳しくなってしまう。……おい、犯人、どうなんだ? 座吾朗はそんなにひざが悪かったのか?」  と言って、真野原は洋平を軽く蹴ったが、洋平は答えない。 「もうひとつ質問、いいか?」 「どうぞ」 「座吾朗はひざが悪かったから、自分で殺すことができなかった——それはいいとしよう。だったら、脱獄を装うことなんてせずに、洋平が黙って三河正造たちを殺せばいいだけじゃないのか?」 「なるほど、わざわざ脱獄を偽装する理由が見当たらないと? 確かに、三人を殺すだけなら、脱獄は関係なく、洋平が殺せばいいだけの話ですね」 「ああ、そうだ」 「とても、いい質問です。では、もし座吾朗の脱獄がなかったら、警察はどう考えるでしょう? 鉱山内の人間を徹底的に調査しますよね。その結果、洋平が捕まってしまうかもしれない。一方で、脱獄の件があれば、警察は当然座吾朗が犯人だと思います。洋平が疑われることはありません。実際、警察は座吾朗を犯人だと思って、鉱山内や街を馬鹿みたいに捜索していましたよね。つまり、脱獄事件があったからこそ、洋平は警察に疑われずに済んだ。座吾朗に罪を押し付けるために、脱獄を偽装したのです」 「ああ、そうか……それで、二十年前『この牢屋を出てやる』って予告したのか……」 「そうです、そうです、おっしゃるとおりです。だいたい普通、脱獄の予告なんてしませんよね。脱獄しづらくなるだけですから。しかし、二十年後の計画に備えて、わざわざ『出てやる』と予告したのです」 「そうか、脱獄のトリックがわからないようにしたのも……?」 「そうですね、もし今回の脱獄トリックが発覚したら、協力者の存在が疑われてしまいますからね。ぼくは�なぜ、方法が発覚しないような脱獄方法を採ったのか�という疑問を提出しましたが、その理由は洋平にありました。協力者の存在を隠すために、苦労して脱獄方法を隠したのです。あんな、誰にもわからないような方法を採ったのです」 「予告よりも一か月早く脱獄したのは、どうしてだ?」 「単純に、警戒されるのが怖かったからでしょうね。徹夜で牢屋を監視されたら、今回のトリックは実現できませんから。�予告したかったけど、正確なのはまずい�という犯人の都合です」 「なるほど……しかし、よく洋平はこの計画を承知したな。普通は断ると思うのだけど……」 「そうですね、そのあたりの理由は本人に聞いてみたいところです」  真野原は、洋平のほうを一瞥《いちべつ》した。 「もし、息子が拒否したら、どうするつもりだったんだろう?」  と私は聞く。 「さあ、それは座吾朗に聞いてみないとわからないですが……本当に脱獄して、自分でやれるだけのことをやるつもりだったんじゃないでしょうか。そうなれば、あの脱獄トリックは使わずに、洋平や令子さんに頼んで、扉を破ってもらったかもしれませんね。すると、今回の事件は、全く別の事件になったことでしょう。頭脳の使いようもない……単なる連続殺人です」 「体力的に実行できるのかな……二十三年も閉じ込められていて……」 「実際には怪しいでしょうね。かといって令子さんは女だし、あの弱気な性格からしても、三人の殺人を実行させるのは難しい。だからこそ、この方法に賭けたのだし、これしか方法がなかった——少なくとも座吾朗はそう考えたのでしょう。……他に質問は?」  真野原は聞いてきた。 「脱獄や殺人の方法はわかったけど……そもそも座吾朗は、なぜ三人を殺そうとしたんだろう?」 「それは先ほども言いましたが、恨みですよ」 「恨みって、どんな恨みだ? ここまでして三人を殺すなんて、相当な理由が必要だと思うのだけど……」 「なるほど、具体的な動機ですか。……残念ながら、ぼくに詳細はわからないですね。ぼくは頭脳派の探偵です。数々の手がかりから事実関係を解き明かしただけです。本人に聞いてみましょう。……おい、なんで殺したんだ? なぜ君の親父は三人を殺そうとしたんだ?」  と真野原は、洋平の側頭部を軽く蹴った。 「……」  しかし、洋平は黙ったままだ。 「答えないか。じゃあ、ぼくが適当に想像してみましょうか。……そうですね、鉱山事故がありましたよね。そのどさくさに紛れて、座吾朗のお父さんか誰かが殺されて……」 「違う、親父に家族はいなかったよ」  洋平が口を挟んだ。洋平は、私たちと目を合わせず、涙をためながら前方を見つめていた。 「じゃあ、どういうことです?」  真野原が口元に笑みを浮かべなら聞くと、洋平は、ため息をついてから、 「あんた、ヤマセを知ってるか?」 「はい、東北地方に吹く特有の冷たい風のことですよね。座吾朗の故郷では、その被害が深刻だったらしいですね」 「ああ、そりゃ、ひどかったらしい。作物は全部やられる。食うものがないと病気になる。もちろん医者に診せる金もないし、薬を買う金もない。親父から聞いたんだけど、村の道で、普通に母子が死体で倒れていたりするんだ。腐乱死体だ。でも、そんなことしょっちゅうなものだから、誰も死体を片づけようとしない。病気がうつるのが怖いし、体力がもったいないから処理しない。仕方ないから、親父が村を見回って死体を見つけちゃあ、山まで運んで埋める。飢え死にだぜ? 何が近代国家だ。聞いて呆れる、昭和初期までの東北は、食えないほどに貧乏だったんだ。  親父の家族——両親も兄弟も全員死んで、親父だけが生き残った。一時期は、二百人以上いた村びとも三十人足らずになってしまった。それでも親父は村を出ていかなかったんだ。親父は体力も知識もあったから出ようと思えば出られたんだけど、村が好きだったから村に残った。しかし、親父ひとりがどんなに努力しても、飢えと借金はどうしようもなかった。  そんなとき、この四場浦鉱山から話があったんだ。『借金を肩代わりするし、住む場所も用意するから、村全員で鉱山に来ないか』ってな。  これに対して、親父は乗り気じゃなかった。そんなうまい話があるのかってな。でも親父以外は全員が『これで飢えがしのげる』って大喜びだったそうだ。そりゃ、必死だろうな、絶望的な状況から出られるんだから。……で、結局、村民全員で鉱山に移住することになって、親父も渋渋ながらついていくことになった。……この移住の話は聞いてるか?」 「概要は聞きました。村びとのほとんどが移住したのですよね」 「ああ、ところがな……ここまで話をすればわかるよな。移住話なんてインチキだった。確かに、一時的に借金はなくなったけど、街であれこれ必要だからって、結局新しい借金を背負わされる。『その借金を返したければ』ってことで、過酷な労働をさせられる」 「重労働だったのですか?」 「それもあるけどな、問題だったのは、危険な場所で働かされるってことだ。鉱山内には危険な区域がたくさんある。毒ガスが出たり、粉塵《ふんじん》がひどかったり……村びとたちは、借金を理由にそういう場所で働かされた。当然、バタバタと死んでいく。会社に補償を求めても『環境が原因という証拠はない』と突っぱねられる。  親父は体力があったから、何人分もの仕事をしたそうだけど、他人の病気だけはどうにもならない。状況は村にいるよりもひどくなって、一年で三十人のうち十人以上が死んだそうだ」 「じゅ、十人……」  私は絶句した。 「女も子どもも働かされたんだ。ひどいもんだった。何が雲上の楽園だ。確かに当時の鉱山は裕福だったが、その裏で最下層の人間たちはバタバタと死んでいた。いまはいないが、当時の鉱山には捕虜だとか、朝鮮人だとか、罪人もいたんだ。沼沢の村びとたちはそういう人たちと同じくらいの、下層の人間だった。いや、人間扱いもされちゃいなかった」 「女性も働かされていたのですか……山は女人禁制だと聞いたのですが……」 「そんなもん、嘘だ。少なくとも東北じゃあ、いくらでも女が働いている鉱山はあったよ。  三河正造はな、最初っからそうするつもりだったんだ。危険な区域の採掘は金になる。しかし掘る人間が足りない。だから借金をたてに、沼沢の村びとを働かせようってな。  そんなとき、三河正造から、また話があった。『村びとたちで、ある秘密の仕事をしてくれないか』ってな。それで現れたのが、こいつだ。最初は探鉱家と名乗っていた」  洋平は死体の一方を指差しながら言った。 「秘密の仕事とは?」 「財宝探しさ。この男は萩原《はぎわら》って名乗っていたんだが、萩原が言うにはこの鉱山に財宝が隠されているらしい。それを村びと全員で探してくれないかってな。金をたっぷり出すという話だった。  もちろん親父は疑った。三河正造の言うことだから信用できない。しかし聞いてみると、ガスや粉塵の少ない区域だという。三河が言うには『秘密を守ってほしいから、まとまりのある君たちに頼むんだ』とのことだった。結局、村びとたちは『いまよりマシだ』ってことでその仕事を呑んで、親父も渋々従ったんだ。  そうして、村びとたちが人夫になって、宝探しが始まった。親父は探鉱家と同居して村びとたちをまとめる役割だった。  ところが、あるとき事故が起こった。……鉱山の事故は知ってるんだよな?」 「はい、二十三年前ですよね。崩落事故だと聞きましたが……」 「新聞ではそう書かれているな。間違ってはいないが、実際はひどいものだった。  まず財宝を探している区域の近くで、崩落事故が起こった。その崩落自体では死人は出なかった。しかし問題は水だ。崩落がきっかけで、鉱山内に溜まっていた雪融け水がいっせいに流れ出した。沼沢の村びとたちが閉じ込められた場所に、どんどん流れ込んでいく。放っておけば全員溺死だ。  そんとき、親父はたまたま現場にはいなかったんだ。事故のことを聞いた親父は、現場の近くまで行った。『村びとたちを救う方法はないか』って、鉱夫たちに聞きまわった。すると、鉱夫のひとりが『近くの坑道を爆破すれば、水がそっちに流れていくんじゃないか』と教えてくれた。親父は急いで、三河正造のところへ訴えに行く。『急いで爆破してくれ』ってな。  ところがな、爆破して水を流し込む区域は、鉱山にとって大事な場所だったんだ。当時、鉱山は苦境に立たされていた。そこで三河正造が莫大な投資をして、新しい鉱脈を開発した。それが、水を流し込む場所だった。  三河正造は反対する。『爆破しても成功するとは限らない』『それではいままでの投資が無駄になる』ってな。当然、親父は激怒だ。しかし、そのとき鉱夫頭をやっていた田子沢も反対する。萩原も『あの区域に財宝がある可能性が高い』と言う。結論は『駄目だ』ということになった。  もちろん親父は『金のために村びとたちを殺すのか』と言って暴れた。三河正造を殺してでも、爆破するつもりだった。ところが、親父は鉱山の警備員に捕らえられて、地下牢に閉じ込められた。ひざを怪我したのも、そのときだ。警備員に銃で撃たれてな。これが二十三年前の話だ」 「銃? 警備員が銃を持っていたのですか?」 「ああ、あのころ、軍人はだいたい銃を持ってて、手に入れるのは簡単だったからな」 「ふむ、それでさすがの座吾朗も地下牢に入れられたわけですか」 「ああ、しかし話はそれだけじゃ終わらなかった。村びとたちの社葬が終わって、村びとの部屋を整理しているときに、部屋のひとつから砂金が見つかったんだ」 「サキン? 砂の金ですか?」 「ああ。それを見て、大騒ぎさ。萩原もいっしょになって『こいつら、財宝を掘り当ててたんじゃないか』って。『掘り当てたのを秘密にして、自分たちのものにするつもりだったんじゃないか』って、死んだ村びとたちを疑った。当然、疑いの目は親父に行く。地下牢に捕らえられた親父は、『財宝はどこだ』って拷問される。しかし親父は口を割らなかった。『死んでも言わない』『絶対にお前らを殺してやる』ってな」 「それで、座吾朗は監禁されたまま、生かされていたのか……」 「ああ、そうだ。……どうだ? ひどい話だろう? 村びとたちは、金のために見殺しにされたんだ。あとになって考えてみれば、崩落して水が流れ込んだら危険な地域だったからこそ、沼沢の人間たちが選ばれたんだろうな。楽園なんてのは嘘だ。まぎれもなく、ここは血も涙も情けもない資本主義の世界だ。村びとたちは、資本主義に殺された。金の論理に殺された。  親父も無念だったろうさ。自分が財宝探しにもっと強く反対すれば、村びとたちは死ななかった。そして事故から村びとたちを救うこともできずに、自分だけ生き残った。親父が怒るのも当然だ。こいつらは殺されても当然だ」 「その話を、あなたは座吾朗——一郎から聞かされたのですか」 「ああ、そうだ。おれは自分の身の上も知らないまま、秋田の小さな村で育てられた。そして十三歳のころ、たったひとりの家族——育て親が病気で死んだ。おれひとりになっちまった。親父の村ほどじゃないが、貧乏な村だったさ。しかも戦争直後だったからな。ものが全くない。収穫物は借金の返済で、あっというまに取られてしまう。……あんたたちみたいに、都会の人間にはわからないだろうけどな。東北の貧乏な地域は、本当に貧乏だったんだ」  洋平は恨めしそうに私たちを見た。いやそれは間違いで、都会でも戦争直後はすこぶる貧乏な家はたくさんあったのだと訴えたかったが、言っても仕方がないので私は黙っていた。 「ともかくおれは途方に暮れた。どうしようかってな。唯一の望みは、育ての親が『困ったらこの人のところに行きなさい』って残してくれた書置きだけだった。それが、おっかさんの住所だ」 「令子さんですね」 「ああ。十三歳のおれは、何も知らないままここへやってきた。おっかさんは、涙で出迎えてくれた。最初はわけがわからなかったけど、優しくしてくれる人がいてうれしかった。……しかし、あとになってみると、おっかさんは……おれのことを忘れていたんだ」  と洋平は涙ぐむ。 「忘れていた?」 「いや、忘れていた……じゃないな。おっかさんが言うには、おれのことを死んだと思っていたという。生きていたとは知らなかったと、おっかさんは言う。本当かどうかは知らない。もしかしたら、自分の新しい人生——恩田という夫との生活が大事で、おれに目を向けたくなかったのかもしれない。  ともかく、おれは秘密のまま、おっかさんと会うことになった。そして徐々に事情を聞かされるようになった。おっかさんによると、親父も生きているという。しかも牢屋に監禁されて……なぜ監禁されてるかは教えてくれなかったけど、おれはもちろん『会わせてくれ』と頼んだ。しかし、おっかさんは駄目だと言う。おれはついに『会わせてくれなかったら、恩田さんを問い詰める』と、おっかさんを脅した。すると、渋々おっかさんは、親父に会わせてくれた。それが十四歳……いまから五年前のことだ。  そして、おれは地下牢で親父と会った。何度も会って、自分の生まれた理由を聞いて、親父の計画を聞かされた。もちろん、おれは親父の計画に大賛成だ。絶対にあんなやつら許せない。それからは、おっかさんの遠いツテを使って、鉱山に就職した。自力で爆弾の勉強をして、ダイナマイトを手に入れて、液体を手に入れて、脱獄のその日を待った」 「令子さんは計画に協力的だったのですか?」 「いや……反対していたよ」 「でも、二十年前は協力していたのですよね。子づくりまでして……」 「むかしのことだからな。おっかさんも若いときは、親父に同情して恋もしていたから、すべてに従った。でも、恩田さんという新しい夫を手に入れた。おっかさんは新しい生活を手に入れて、心変わりしたようだ。だから、ずっと反対してた。『無茶はしないで』って、会うたびに泣いてた。おっかさんも、自分の生活が大切だったんだろうな……。  そこから先は、さっきあんたが言ったとおりだよ。細かいところは違っているが、だいたいは当たってる」 「座吾朗が脱獄を二十年も待ったのは、なぜでしょう? 令子さんに手伝ってもらって脱獄してもよかったんじゃないですか? 溶接される前なら、不可能ではないですよね」 「それも、さっきあんたが言ったとおりだ。親父はひざが悪かった。とてもひとりで三人を殺す自信がなかった。かといって、女のおっかさんにも無理だし、ニセ探鉱家をどうやって捜すかという問題もあった。だから、子どものおれに望みを託したんだ。それであの方法——脱獄トリックとニセ探鉱家を呼び出す計画を思いついたんだ。どうせ、自分はひざが悪いから役に立たない。だったら、自分が犠牲になって消えてしまったほうが、息子が捕まる心配はないし、うまくいく——そう考えたんだ。親父は頭がいいからな」 「溶かすのは、苛性ソーダと硫酸を組み合わせたのですか?」 「ああ、硫酸はここでいくらでも手に入ったし、苛性ソーダも東京へ行ったら簡単に手に入った。管理もいい加減だったからな」 「東京から苛性ソーダをどうやって運んだのでしょう?」 「普通に鉄道便だよ。風呂敷に包んで、トランクに入れてな」 「なるほど。苛性ソーダも固形の状態だったら、運ぶのが楽ですね。あの倉庫まで持っていってから、水に溶かせばいい。……しかし、入手経路から足がつくことは怖くなかったのですか?」 「親父は、この計画に自信を持っていたからな。それに万が一バレたとしても、一、二週間、時間が稼げればよかったんだ。苛性ソーダなんて、どの工場でもヤマほどあるものだから、それくらいの時間は稼げるだろうと言っていた」 「なるほど、慎重で巧妙ですね」 「苛性ソーダと硫酸が手に入ったら、こっちのもんだ。実験では何度も失敗したけど、やっていくうちに何とかなることがわかった。苛性ソーダできちんと肉と内臓を溶かしておけば、残りは、水と硫酸で何とかなった。親父が言っていたとおり——実験どおりだった」 「座吾朗は、自殺してから液体をかぶったのですか?」 「ん?」 「いえ……生きたまま液体をかぶるなんて、たいへんな苦痛ですよね。別の方法で自殺したあとに、液体をかぶったのかと推理したのですが」 「いや、生きたまま液体をかぶったよ。おれは、『毒で死んでからにしたほうがいいんじゃないか?』って言ったんだけど、親父は『いや、液体をかぶる場所がずれたら、自分で修正しなきゃならない』って言って聞かなかったんだ。実際に、一度『場所が悪い』って合図があって、途中でホースの位置を自分で修正してたよ」 「合図?」 「……ああ、そのとき、おれは液体を流すために空気穴の向こうの部屋にいたんだけど、ホースを二回引っ張るのが『待て』って合図だったんだ」 「ある程度液体をかぶったあとに、自力でホースの位置を直したのですか……それは凄絶ですね」  と真野原が感心した。 「ああ、薄い液体を身体に浴びて、痛みに耐える練習もずっとやってたからな。親父はすごいよ。……といっても、さすがの親父も完璧には耐えられなかったようで、途中から呻き声を上げてたけどな。空気穴を通して、苦しそうな声が何度も聞こえたよ。……でもその甲斐あって、実験のとおり、綺麗に溶かすことができた」 「残った身体のくずは、木の棒で混ぜたのですか? 食事の穴から棒を突っ込んで?」 「ああ、そこは親父といっしょに、鶏で慎重に実験したからな。苛性ソーダと硫酸で、肉や骨はボロボロに溶けたから、あとは棒で混ぜながら、簡単に水で流すことができた。困ったのは、硫酸による熱の反応でゴムが溶けたことだったけど、これだって親父は予想していた。鶏で練習したとおり、棒の先につけたブラシでゴシゴシと掃除した。削るくらいこすって、跡も残りにくいように練習もしたのだけど……あんたはわかったのか」 「はい、溶かしたことも仮説のひとつとして考えながら、あそこを調査していましたからね。あの跡には警察も気づいたでしょうが、想像力がなければ、何のためについた跡かはさっぱりわからないでしょう。それよりも決定的だったのは、鶏の羽根ですね」 「あれか……下に羽根が残っていたとはな……そのへん親父はかなり慎重にやってたんだけど……最初のころの実験ではうまく溶けなかったから、残って流れていったんだろうな」 「そうですか……でも、全体としては見事でしたよ」 「あんたもな」  洋平は笑みを浮かべた。 「座吾朗は、今回の計画にどこまで自信を持っていたのですか?」真野原がさらに聞く。 「脱獄のトリックはかなり自信があったようだ。実験も予定のうちだったしな。もちろん実験がうまくいかなかったら、別の方法をやるつもりだったらしい」 「別の方法とは?」 「さあ、聞いてないな。おれに牢屋を無理やり開けてもらって、おれが普通に殺していくのだと思うのだけど……探鉱家はどうするつもりだったんだろうな」 「探鉱家が来るのも自信があったのですか?」 「ああ、『やつなら絶対に来るに違いない』と言っていた。用心棒を連れてくることも予想していた。やつは前科持ちで、以前にも金目当てで傷害事件をいくつも起こしていたらしい」 「しかし、座吾朗の計画がいくら見事だからって、あなたのやり方は乱暴すぎます。警察だって馬鹿じゃないから、時間をかけて証拠をたどっていけば、あなたは捕まっていましたよ。どうするつもりだったのですか?」 「どうもこうも……親父は、計画が終わったらすぐに逃げろって言ってた。バレそうなら、途中でも逃げろってな。それくらいの時間はあるだろうと言っていた」 「なるほど、あなたの馬鹿さ加減も考慮して、それくらいの時間はあるだろうと考えていたのか……あなたのお父さんは、呆れるほど計算高いですね」 「ああ……でも、正直おれは、やったあとのことは考えてなかったよ。別に捕まったっていい。だから最後にこんな無茶なことをやったんだ」 「ふうん、馬鹿は馬鹿なりに馬鹿な覚悟があったのですね。馬鹿なのに」 「はは、あんまり馬鹿馬鹿って言うなよ。確かに頭の出来は親父に似なかったけどさ」  洋平は軽く笑った。 「殿島さん、何か質問は?」 「いや……とくにないけど……」  あまりの驚きの連続で思考が追いつかなかったが、「ああ、そうだ」と思いついて、 「よく君は、父親の計画に乗ったな……そりゃ、悲惨な事件があったのだろうけど、三河正造や田子沢たちは、君には直接関係ない。君は若くて未来があるのに……」  と洋平に言うと、彼は突然表情を強張らせて、 「お前なんかに、わかるものか!」と怒号を上げた。 「最初に親父から事情を聞いたときは、そりゃ、絶句したさ。人を殺すために、おれは生まれただって!? 信じられるか!? しばらくは、何も考えられなかった。  そして、少し経ってから感じたのは、親父とお袋への恨みだ。恨んださ、やつらは自分たちの私利私欲のために、おれをつくったんだからな。おれを産んだんだ。生まれたあとのおれの気持ちなんて、これっぽっちも考えちゃいなかった。この恨みをどう晴らせばいいのか、おれはずっとずっと考えた。両親を殺せばいいのか? しかし、お袋は泣きながら謝ってきて『殺すなら、あなたの手で殺して』と言ってくる。『殺して』と言ってるやつを殺すのも、おもしろくない。それに、どんなに恨んでも、おれの存在をくれた人間を殺せば済むのかというと、違うような気がする。そうするうちに、だんだんとこの原因をつくったやつに恨みがわいてきた。  おれの親父の村びとたちを見捨てて、見殺しにしたやつら……自分たちの私利私欲のために、金のために、村の人間を見捨てた。親父が怒るのもよくわかる。そう考えると、誰も彼もが憎くなってきた。この鉱山で裕福なやつらは、みんな敵だ。沼沢の村びとの死体の上にみんな暮らしている。死体の上に楽園がある。そう思うようになってきた。  おれは生まれた。おれは、人を殺すために生まれた。おれは、両親が恨みを晴らすために生まれ、人並みの愛情も受けず、自分の身の上も知らずに育った。そして十四のときに初めて自分の生まれた意味を聞かされた。  おれの魂は、親父の魂だ。恨みの魂だ。あいつらがいなければ、おれの魂は正常だった。しかし、あいつらがいなかったら、おれの存在はなかった。やつらへの恨みがなかったら、おれは生まれなかった。この矛盾をどうしてくれよう。おれがやつらを殺す以外に方法はあるのか? 全く思いつかない。おれは親父ほど頭が良くない。おれはこいつらを殺すために生まれたのだから、こいつらを殺すしか方法を知らない」  洋平は、探鉱家の死体を見てから、おいおいおいおいと号泣しはじめた。  私はそんな彼の姿を見て、あわれに思った。恩田——画島もかわいそうだと思ったが、この洋平もすこぶる気の毒な人間だ。自分に置き換えて、自分が誰かを殺すために生まれたと知らされたら、どういう気分になっただろう? そう想像すると次第に胸が痛くなってきた。  しかし、真野原が沈黙を破った。 「殿島さん、こんなやつに同情しちゃいけませんよ」           7  真野原の表情は険《けわ》しかった。 「こいつにどんな事情があったかは、ぼくは知りません。恨みがあるのなら、たとえ親の恨みでも自由に晴らすがいいでしょう。勝手にするがいい。  しかし、忘れてはいけません。こいつは無関係の者まで巻き込んだ。鉱山を爆破して、荒城さんを怪我させただけじゃなくて、二人を殺した。彼らの魂はどうするのでしょう? 爆破で死んだ人間の名前は知りませんが、二人の魂は、洋平の魂と比べて軽いのですか? 劣っているのですか?……まったく馬鹿らしくて話にならない。笑止です。彼らにだって同等の魂はあります。  それに殿島さん、忘れていませんか。三恵子さんがいるのですよ」  言われて気がついた。そういえば、三恵子はなぜ殺されたのだろう? 事件の真相を理解するのに夢中になって、失念していた。  すると、泣いていた洋平が嗚咽《おえつ》をこらえながら、 「あれは……かわいそうだったと思っている」 「かわいそう?」と私は聞き返す。 「仕方がなかったんだ……あのとき、おれはあの場所に証拠が残ってないか心配になって、あそこへ行ったんだ。で、現場に警官はいなかったから、安心して現場を調べることにした。そうしたら、突然、後ろから三恵ちゃんに話しかけられた。『何してるの?』ってな。なぜあんな誰も来ない場所に三恵ちゃんがいるのか? 驚いたおれは、急いで彼女の手をつかんで、殺した。彼女に見破られたと思ったんだ。……でも、あとになって考えてみると、三恵ちゃんは、深い意味はなくて声をかけてきたんだろうな……じゃなきゃ、いきなり声なんてかけてこないだろうし……探偵たちに協力したいからあの場所へ行ったというのも、あとで知った。おれだって、ずっとびくびくしていたんだ。夢中だったから、勘違いしたんだ」 「三恵子さんは……たまたま声をかけただけで……殺されたのか……?」 「ああ、申しわけなかったと思っている」  と洋平が言った瞬間、身体の奥底から、怒りに関係するあらゆる感情が湧き上がってきた。私は洋平の胸倉をつかんだ。 「勘違いで……おまえは三恵子さんを殺したのか……」  私は言ったが、洋平は目を伏せたまま答えなかった。 「殿島さん!」  真野原が叫んだ。 「さあ、どうやって殺しますか? 絞殺、撲殺、火あぶり……何だったら、ぼくの義手を貸してもいいです。生かしたまま、眼球を一個ずつえぐり出してもいいですね」  真野原は、背負い袋からナイフを取り出して、私の足元に投げた。真野原は、目は真剣だったが口元には笑みを浮かべていて、しかも愉快そうで、この状況を楽しんでいるようだった。そして続ける。 「あなたには、この男を殺す権利があります。立派にあります。そのために、警察に秘密でここまでやってきたのですからね。だいじょうぶ、ここであなたが殺しても、誰にも発覚しませんよ。こいつは大量殺人を犯して、猟銃を持っていました。正当防衛が成り立つし、ぼくもそう証言します。絶対にあなたは無罪です。……もしかして罪悪感がありますか? 弁護士だから社会正義が気になるのですか? なあに、そんなこと気にする必要はありません。ぼくたちは社会的な存在である以前に、人間です。大切な人を殺されて、その相手を殺したいと思うのは自然ですよね? 当然の気持ちです。つまりあなたは、感情的にも論理的にも社会的にも人道的にも、この男をぶっ殺していいのです」  と真野原に言われて、私は地面にあったナイフを拾った。一瞬真野原を見ると、彼は相変わらず悪魔のような微笑を浮かべながら、私を見つめていた。そして私は洋平の首筋にナイフを突きつけた。この男が三恵子を、あの明るくて世話好きで私にとって愛しい存在であった三恵子を、意味もなく偶然に勘違いで発作的に殺したのだと思いながら、洋平の目を見た。  しかし、いざ力を入れて首筋を切り裂こうとしたとき、 「さあ、殺せ!」  という真野原の声が聞こえて、その瞬間、身体から自分のすべての力が抜けていくような感じがした。  このときの気持ちをどう表現すればいいか、わからない。何というか、いったい自分は何をして、三恵子のために何をするのか、このナイフは何なのか、洋平の首筋を切り裂き洋平の死体を見て満足する自分の姿に嫌悪を感じたりするなど、様々な感情がわずか一秒ほどの間に心の底から湧き上がってきた。理由は複雑すぎてよくわからないが、結論だけをいうと単純で、私は突然殺す気がなくなった。その気が失せた。いや、これを複雑に考えるのはよくなくて、単に「殺せ!」と言われて反発しただけなのかもしれない。強く言われればこそ我に返ることはよくある。バネのように強くもどってくる。これを人間の良心というのか、自我というのか? わからない。私に度胸がなかっただけか? そうかもしれない。 「殺さないのですか」  と真野原に声をかけられた。気がつくと、彼は私の眼前にしゃがんでいて、義手ではないほうの残された右腕で、私の手首をしっかりと握っていた。 「ああ、どうでもよくなってきた。……何もしないから、手を放してくれ」  私は彼の手を振り解いて、地面にナイフを捨てた。違う世界からもどってきたように感じた。 「そうですか」  真野原は、元の柔和な表情にもどって微笑んだ。           8 「ひとつ聞いていいか?」  冷静になったところで、疑問がひとつ思い浮かんだ。 「何でしょう?」 「なんで洋平が犯人だとわかったんだ? 別に�座吾朗の息子�というだけなら、洋平以外でもあり得ると思うのだけど……」 「そうですね。じつは、おおよそ見当はついていたんですよ。たとえば手がかりとして——二十歳前後の男で、鉱山に詳しい人間で、あなたの部屋に脅迫状を容易に残せた人間、地下牢のことを知っていた人間、事件当日に現場にいた人間、そして『この部屋は怪しいよ』とあなたを脅して部屋から出そうとした人間——ということからね。洋平を怪しいと思っていました。でもおっしゃるとおり、百パーセントの確信はありませんでした。……しかし、だからこそこうやって罠をかけて、ここまで来たんじゃないですか」 「罠か……」 「はい、別に、犯人がここにいるとわかっているのだから、無理をして犯人を確定させる必要はないのです。ここに来ればわかります。犯人の目的ははっきりしているのだから、これ以上、他に死人が出る可能性もありません。鉱山の爆破だって、�住人を退避させるための脅し�とわかっていますからね、これ以上の爆破はありません。嘘っぱちです。爆弾は荒城さんを怪我させたあれだけです。もっとも、行動派の荒城さんならこんな罠をかけず、洋平を一発殴って吐かせたかもしれませんけどね」 「でも警察に言えば……」 「調べてくれるかもしれませんね。洋平を捕まえて自白させるかもしれませんね。しかし、それだと、ぼくたちが犯人と会えなくなります。そのための罠です」 「会えなくなるって……その罠のせいで、この探鉱家たちが死んだんだよな」  私は地面に倒れた二つの死体を見た。 「そうですね、残念です。……でも、その原因は、この探鉱家たちがつくったんですよね? それだけの恨みを買うことをしたのですよね? それに、ほら……」  真野原は死体のひとつを蹴った。その死体は拳銃を握りしめていた。 「銃を持っています。金に目がくらんで、あわよくば相手を殺してやろうとしている人間に、情けはいりません。彼らだって危険を承知で来たのだから、自業自得です」  と言って真野原は微笑む。 「……」  この男は、探鉱家が殺されることも想定済みだったということか。恐ろしい男だ。 「それに、ぼくたちがこうやってここに来なければ、あなたの手で洋平をぶっ殺すことができないじゃないですか。警察に言ったら、意味がありません。ふたりでここに来ることに意味があるのです。この場所なら、ぶっ殺しても、誰にも知られませんからね」  と真野原が言う。 「ぼくの手でって……ぼくのために?」  と私は言った。 「はい、盛岡で言ったじゃないですか。『犯人をぶっ殺しに行こう』って」 「そうか……結局、殺さなかったけどな」  私は先ほどのナイフの感触を思い出した。 「そうですね。気分が変わったのなら、仕方ありません」  真野原はまた笑顔を見せた。 「あんたら、おもしろいな」  と殺される予定だった洋平が言う。 「さて、残る謎は、財宝だけです」  真野原は立ち上がって「財宝はどこにあるのですか?」と洋平を見た。 「財宝って……本当にあるのか?」私は言った。 「どうなのですか、この近くにあるのですよね」 「なんで、お前に言わなきゃならないんだ」と洋平は答えた。 「いえ、別にいいのですよ。この近くにあるのはわかっているのだから、三河社長や警察といっしょになって探しましょうか。そのあとは、三河さんのものになるのか、国家が文化財として没収するか、わかりませんけどね。どちらにしても、あなたの嫌いな資本家か資本主義国家の所有物になります」 「……そうだな、あんたには悪いことしたしな」  と洋平は私を見てから、 「ほら、そこだよ」  と空間の隅を指差した。岩の壁の下のほうに、枯れ木だろうか、大きな毛玉のようなものが穴に突っ込まれている。 「ここですか」  真野原は、その枯れ木を取り去った。すると人間がひとり通れそうな穴が現れた。 「おい、お前が先に行け。罠が仕掛けられてたら、嫌ですからね」  真野原は洋平を立ち上がらせて、彼の背中を押す。 「もう何もないよ。抵抗する気もない。元々、生き延びようなんて考えてなかったからな。全員を殺せておれは満足だ」 「大量殺人鬼は信用できません。早く行け、このブタ野郎」  と品格のある探偵は言う。 「わかったよ」  洋平は苦笑して、両手を縛られたまま、穴をくぐっていく。私たちもそれに続いた。 「なぜこの近くにあるとわかったんだ? あの地図は洋平が描いた偽物だよな? 普通に考えたら、この近くにはないと思うのだけど……」  穴の中を移動しながら、真野原に聞いた。 「彼は、ここが恨みの場所だと言っていましたよね。彼は恨みの場所で殺したいからこそ、探鉱家を外では殺さず、中へ呼んだ。この場所を選んだ。洋平にとって恨みの場所というと、三つしかない。地下牢か、村びとたちが死んだ場所か、宝の場所です。この中で探鉱家が来るような場所は、宝の場所しかありませんよね」 「ああ、そうか」  私は納得した。探偵という人種は、よくもまあ、いろいろなことを考えるものだと感心する。  穴が終わって空間に出た。ここも明かりのない真っ暗な場所だ。 「ほう、これはすごい!」  真野原が感嘆の声を上げた。真野原はカンテラの明かりを地面に照らしている。 「これは……」  私も地面を見た。地面には透明な水が薄く張られていて、その水の下は、地面を覆い隠すほどの金色の粒で埋められていた。 「たくさんありますね。これ、全部でいくらになるんでしょう? これだけあるのなら、監禁罪の危険を冒してまで、座吾朗を閉じ込める気持ちもわかりますね。金に目のくらんだニセ探鉱家だって、やってくるはずです」  と真野原が金の粒をすくいとって、地面にパラパラと落とした。 「これは……本物の金なのか?」 「どう思います? この重さからして金属ですよね。普通は、水の中にある金属は酸化します。酸化しない金属で、金色で、これだけの重量のある金属は……」 「金なのか」  私は、明かりを照らして地面を見渡した。四畳半ほどの広さの地面は、満遍なく金の粒で埋まっている。とてつもない量だ。 「お、これは……」  真野原が奥の地面を照らした。行って見ると、長辺が四十センチほどの十字架が落ちていた。 「重いです。すごいですね」  真野原が十字架を片手で持ち上げようとしたが、少し浮かせたところで諦めて、地面に置いた。 「そうか、隠れキリシタンか」  真野原は壁をカンテラで照らす。 「ほら、殿島さん。十字架はここに置かれていたのが、地面に落ちたようです」  目の高さくらいに、窪みがあった。 「これって……」  十字架を置く場所があるといえば。 「そうですね、礼拝堂のように見えます。……おい、どうなんだ?」  真野原が、壁にもたれかかる洋平に話しかけた。 「ああ、そうだったらしいな。親父がそう言ってた。探鉱家が見つけた文献によると、ここに、天草《あまくさ》の隠れキリシタンの残党が逃げ込んだんじゃないかという情報があったらしい」 「ほう、天草|四郎《しろう》ですか!……そういえば、天草の残党が財宝といっしょに、六キロほどもある十字架を池に隠したという伝説がありましたが……しかし、本当ですかね。信じられません。確かあの伝説は、天草地方の池に埋めたという話でしたし、ここはずいぶんと遠い。こんな重い十字架を九州から運ぼうとすると、東海道あたりで、腰がおかしくなりそうだ」 「詳しくは知らねえよ」 「聞こうにも、あなたが殺しましたしね」  と真野原は笑ってから、 「じゃあ、天草かどうかは知りませんが、とにかく隠れキリシタンがこの地まで逃げ延びて、ここに財宝を隠した。そして礼拝堂にした。鉱夫として働きながら、時々ここで祈って、再興を目指したのだが、結局それは達成できなかった……こんなところかな。ほら、殿島さん、それって人骨ではないですか」  と言って私の足元を指差した。見ると金の粒に埋もれて、六センチほどの白い破片があった。小さな穴がたくさん開いていたが、表面はつるっとしており、石にしては軽い。 「ここは、聖地だったのか……」  と私はその骨らしき物体を持って言った。 「こんな財宝があるのに、なぜ村びとたちは換金しなかったのですか?」 「その相談をしていたところで、あの事故が起こったんだ。運が悪いよな」 「なるほど、この聖地を荒らして、バチが当たったのかもしれませんね。唯一神のバチだから、さぞかしすごそうだ。それとも、メイドインジャパンのヤマのカミが嫉妬したのかもしれない」  そのとき、突然、遠くからゴゴゴゴゴという音がした。真野原がその音に耳を澄ましながら、 「おい、馬鹿の殺人鬼、この音は何ですか?」  と洋平に聞いた。 「何だと思う、探偵さん」  と洋平は笑みを浮かべながら言う。  真野原は顎に手をやりながら、険しい表情でバシャバシャと地面を二往復したあと、洋平に近寄って、 「おい、おまえ、本当に爆弾を仕掛けやがりましたね」  と彼の胸倉をつかんだ。洋平は無言のまま口の端をつり上げた。           9 「ば、爆弾って……」  私は息を止めて唾を飲み込んだ。 「お前は、想像を絶する馬鹿だ! 国宝級だ! 少しは親父さんを見習え! なんで性格が似なかったんだ!……くそっ、どこに仕掛けた!?」  真野原は必死になって洋平を問い詰める。 「たくさんさ。十か所以上だ。おれも、萩原を確実に殺せるか自信がなかったからな。やつを水攻めで殺せば、溺れ死んだ村びとたちも本望だろう? ……しかし、あんたたち運がいいな。この近くにも仕掛けたんだが、不発のようだ」 「貴様の論理はどうでもいいです。どこから出ればいい?」 「さあ……出られないように仕掛けたんだけど……いまの音からすると、半分は不発かな。おれも修業が足りないな。悪いこと言わないから、早く逃げたほうがいいよ。水がたっぷりとここに流れ込んでくる予定だ」  と洋平が言った瞬間、頭脳派の探偵が洋平の頬を拳で殴った。洋平は鼻血を噴いて、地面に倒れ込んだ。 「殿島さん、行きましょう」 「あ、ああ」  私は穴へ向かう。しかし振り返ると、逃げようと言った本人の真野原は、 「うーん、重いな。奥州街道に行くまでに、腰がおかしくなりそうです」  と、のん気に地面から十字架を持ち上げようとしている。 「馬鹿、早く来い! 片手じゃ無理だよ!」  私は探偵の義手を引っ張る。 「もったいないな……」  預金通帳の数字に興味がないはずの探偵が、未練がましく言う。 「お前は逃げないのか?」  穴から出るとき、洋平に声をかけた。 「弁護士さん、あんた、優しいな」  洋平は微笑んだが、動こうとしなかった。 「……行きましょう」  と今度は真野原に腕を引っ張られた。そうして穴にもぐると、残った洋平が、 「弁護士さん、一時間以内に出たほうがいいよ。第二弾のダイナマイトが爆発することになっている。救助に来た警察やら鉱山の人間も、いっしょに殺そうとしたんだ。この鉱山を終わらせようとしたんだ」  と、とんでもないことを言ってから、 「弁護士さん、ごめんな」  と歴史に残りそうな連続殺人鬼は、優しく声をかけてきた。  死体のある場所に出ると、すでに水が流れ込んできていた。まだ深さは五センチもないが、高い場所から水が流れ込んできているようで、徐々に水量が増えている。 「鉄砲水のように、突然、水が来るかもしれません。急ぎましょう」  真野原は急ぎ足で歩いていく。  そうして、来た道をたどるように、私たちは走った。水の中を長靴で走るのは時間がかかったので、途中で長靴も脱いだ。とがった岩の破片が刺さって足の裏が痛かったが、そんなことも言っていられない。  途中、低い位置の穴に水が入り込んでいる場所があって、これには閉口した。この穴を抜けなければ先に進めないが、それには冷たい水中を行かなければならない。そこは何とか息を止めて水中を泳ぎ、穴を抜けることができたが、泳ぎにくいという理由で私は背負い袋を、真野原は義手を捨てなければならなかった。真野原は義手を捨てるとき「お気に入りだったのですけどね」と悔しそうに言っていた。  崩落があって、進めない場所もあった。これには心底ひやひやしたが、少しもどって横の道を進むと、元の道に出ることができて、ほっとした。「神に祝福されてますね!」と真野原はうれしそうに言っていた。「十字架は残念ですけど」と、これは悔しそうに言っていた。  ところが、十五分歩いたところで、難関に行き当たった。 「梯子《はしご》が取れてますね……」  真野原は、深さ十センチほどの水中に落ちていた縄梯子を手に取って、言った。  ここは、壁の上方、高さ五メートルほどの場所に穴があって、そこへは梯子がなければ行けない。その場所へ登らないと、もと来た道にはもどれない。来るときは縄梯子を降りてきたのだが、その縄梯子が崩落で下に落ちてしまったようだ。  穴までの壁はほとんど直立で、私なら無理をすれば登れるかもしれないが、片腕の真野原では不可能だろう。 「ほかの道を探そう」  と私が言うと、 「いえ、あなたはここを登ったほうがいいです。あなたなら登れるでしょう」  と真野原が言う。 「君を置いていけというのか?」 「はい」 「馬鹿なことを……」 「馬鹿ではありません。これは確率の期待値の問題です。ここを進んで助かるとは限らないですが、あなたひとりでも行ったほうがいい」  真野原は冷静に他人《ひと》事《ごと》のように言った。 「そんな、ふたりで探せば……」 「地理的に考えて、恐らく困難です」 「地図は?」 「持ってますが、ぼくはすでにこの区域を把握しています。ぼくは一度通った道を決して忘れません。ぼくは空間把握能力には自信があるのです。そのぼくによると、どんなに都合よく計算しても、あなたがここを登ったほうが、助かる人数の期待値は上がります。うれしいですが、一時の感情に流されてはいけません」  涼しい顔で真野原は言った。 「でも……」  そのとき突然、上のほうから、 「おーい」  という声が聞こえた。上を向くと、見覚えのある白い服装が見えた。荒城だ。           10 「待ってろ、いまロープを下ろす!」  と言ってから、荒城は穴の奥へと引っ込んだ。 「なんでやつがここに……」  私は言った。彼は左腕を粉砕骨折して、病院に入院していたはずだ。 「荒城さんは恰好いいですね。さすが行動派」  と真野原が笑顔で評論してから、「山田三郎《やまださぶろう》ですけどね」と付け加えた。 「山田三郎?」 「ええ、荒城咲之助が仮の名前というのは知ってますよね。本名は山田三郎というのです。その名のとおり、農家の三男坊です」  と聞いて、私はこんな状況なのに、思わずぷっと吹き出した。そうか、だから、わざわざ仮の名前をつけたのかと納得した。彼がやたらと自分のことを「荒城咲之助だ」と強調する気持ちもわかるような気がした。  すると、その本人が、 「おい、まずは真野原! 健康なほうの腕にロープを巻きつけろ! 片手じゃ登りにくいだろう! おれが引き上げてやる!」  と言って、ロープを下ろしてきた。 「ぼくが先に登って、ふたりで引き上げようか?」  と私が大声で言うと、 「いらん、馬鹿ひとりなら何とかなる」  と荒城は叫ぶ。 「行動派が頭脳派に、馬鹿って言ってますよ」  真野原は苦笑しながら、言われたとおりに右手にロープを巻きつけると、ぐいぐいとすごい勢いで引き上げられる。 「やっぱり荒城さんは行動派だ。とても恰好いいですね。三郎なのに」  真野原は笑っていた。  続いて私が登った。私は自力で登ることができるのだが、それでもロープはぐいぐいと引き上げられる。片手でたいしたものだと思う。  登り終えて荒城と再会を果たし、 「なんで君がここに?」  と私が聞くと、彼は、 「ぼくは荒城咲之助だ。当然、犯人を捕まえに来たのだ。何か起こると思って、病院を抜け出して、君の部屋に行ったら宝の地図の写しが置いてあった」  と尊大に言った。 「宝の地図の写し? ぼくの部屋に?」 「ぼくが置いてきたんです。もしかしたら荒城さんが来るかと思いましてね」  真野原が口を挟んだ。ここへ来る前に私の部屋に寄ったのはそういうことだったのか。 「仲間外れにされなくて光栄だ。で、状況はどうなってる?」荒城が聞いてきた。  真野原が「犯人は洋平。イクォール座吾朗です。約三十分後、第二波の爆発が起こるそうです。彼は残ってます」と簡潔に答えた。  一瞬、荒城は驚いたような表情を見せたが、 「そうか。洋平はまだ生きているのだな」  と言ってから、彼は、ロープの強度を確かめるように片手でロープを引っ張った。 「どこへ行くんだ?」と私は聞く。 「犯人のところだ」 「犯人って……もうすぐ二回目の爆発があるんだぞ?」  だが荒城はロープの結び目を確認しながら、 「それは聞いた」  と言う。骨折した左腕はギプスで固定されていて、痛々しい。 「じゃあ、なぜ……」 「ぼくは荒城咲之助だ。犯人に侮辱されて、このままでいろと? 無様な姿を永遠にさらし続けろと? そんなことはあり得ない」 「でも洋平は放っておいても死ぬわけで……」  と私が言ったところで、 「じゃあ、犯人を一発殴ってくる」  と荒城は言って、白い帽子を下に投げ落としてから、片手でロープ伝いにピョンピョンと壁を跳ねながら降りていった。冒険映画のヒーローのようだ。  頭脳派の探偵はその姿を見て、 「やっぱり荒城さんは恰好いいですね。さすが行動派だ」  と今度は真剣な表情でうなずいてから、「本名は三郎ですけどね」と付け加えた。  この鉱山での経験を通して、いなくなるときは全員が一斉に姿を消すと理解したのに、逆に出会うときは連続して出会うものだ。さらに先に進むと、今度は、別の人物と遭遇した。 「お、恩田さん!」  私はその姿を見て驚いた。なぜ彼がここに。 「洋平はこの奥にいるのですね」  恩田は真野原に聞いた。彼は洋平が犯人だと理解しているのか。 「ええ」 「生きているのですか」 「ええ」 「場所はわかりますか」 「では、これをどうぞ。ぼくは地図無しでも帰れますので」  真野原はずぶ濡れの地図を手渡した。 「ば、爆発があるのです! 二十分後に!」  と私は必死に説明したが、 「わかりました、ありがとう」  と恩田は礼を言って、奥に進もうとする。 「い、行くのですか? なぜ……」  恩田は振り返って、 「令子に息子がいた。息子を大切にしていた。一方で私は令子の夫です。すると私は彼の親で、彼を教育する立場です。……論理的に言うと、そうなのですよね、真野原さん」  と言う。 「間違ってはいませんね」  真野原が渋い顔で答えると、恩田は薄笑いを見せて、 「これを受け取ってください。私にはもう必要ない」  と言って、手紙を真野原に渡してから、奥へと去っていった。 「推理するに!」  恩田と別れて、ジャブジャブと先に進みながら真野原が言う。 「恩田さんは、令子さんから別の遺書でも受け取ったのでしょう。そこに真実が書いてあった。その遺書をもとに、恩田さんは洋平の故郷に確認しに行ったのではないでしょうか。それで行方不明になった。そうして鉱山にもどってきてから、祐子さんに事情を聞いて、すべてを理解した恩田さんはここまで来たのでしょうね。  彼は二十年前から、ずっと自分の目的地を探していた。ひとりでここまで、長い長い旅をしてきました。令子さんを亡くした現在、彼の心理を考えるに、このままじっとしていられなかったのでしょうね。まったく、荒城さんといい、お馬鹿な人間が多すぎます。なぜみんな論理的に考えられないのでしょう。なぜ感情的になるのでしょう」  最後のほうは息を切らしていた。水の上を走りながら、よくしゃべるものだと感心する。  残り十分というところで、鉱山の入口の近くまで来た。そこで突然真野原は立ち止まって、 「ここからは、あなたひとりで帰れますね」  と言う。 「え?」  と私は言う。 「行ってきます。これを預かってください」  彼は恩田から受け取った手紙を私に差し出した。 「どこへ?」 「鉱山の奥です」  彼は振り返って足を踏み出す。 「馬鹿言うな」  私は、彼の唯一残されたほうの腕をつかんで、制止する。 「離してください」 「なぜ……」 「荒城さんが心配なのです」 「なぜ……」 「ぼくはですね。むかし、彼に助けられたことがあるのです。彼は命を賭してぼくのために、そして恐らく自分で恰好をつけたいがために、ぼくを救ってくれました。事実、彼はたいへん恰好よかったです。ぼくは恰好よくなくて、理屈っぽくて、演説が長くて、片腕がないですが、お礼くらいはできます」 「じゃあ、ぼくも……」 「拒否します」 「なぜ……」 「もうすぐ爆発します。そのことを救助隊に伝えて、避難させてください。これ以上、死人を出すのは非合理です」 「でも……」 「殿島さんにお願いがあります」 「え?」 「この事件の記録を書いて、いつの日か発表してくれませんか」 「え?」 「探偵の存在意義は、金ではありません、記録にこそあるからです。極端な言い方をすれば、歴史こそ探偵です。一方であなたは助手です。いいですか。探偵の存在意義が事件の解決にあるとしたら、助手であるあなたの存在意味は、この事件の記録を書くことです。何年先でもいいから、いつか、必ずこの事件のことを書いてください。人間は長期的に見ればまず百パーセント死にますが、それは精神と肉体だけのことです。精神と肉体なんて、人間の存在の一部でしかありません。人間は生きていれば必ず痕跡を残します。探偵にとってそれは記録です。存在そのものです。ぼくの成し遂げたことは、あなたの書く記録によって、永遠の命を得ることができるのです。よろしくお願いしますよ、いいですね」  真野原は私の手を振り解いて、ジャブジャブと奥へ進む。  いつの間にか「助手」と断じられた私は、 「真野原!」  と探偵に声をかけた。彼が一瞬振り向いた。そして、何とか彼との別れを一秒でも引き延ばそうとして、何か彼を引き止めるような話題はないかと必死に考えて、ひとつだけ残っていた謎があるのに気がついて、突然天啓が下りて、二秒で考えを整理して、 「街灯! 街灯のネジが逆な理由がわかったよ!」  と言った。 「ほう、なぜでしょう」  探偵が興味深そうに聞き返す。 「それは盗まれないように……」  間髪を容れず探偵は、 「すばらしい推理です! ではごきげんよう!」  と言ってから、走り去っていった。暗かったので彼の笑顔は見えなかった。  考えてみれば簡単な話だったのだ。あの街灯が設置された当時、白熱電球は現在以上に貴重だった。そんな高級品が外の街灯に取り付けてあれば、当然盗む者がいる。  では、盗まれるのを防ぐにはどうしたらいいか? それが�ネジの向き�の理由だったのだ。つまり、ネジの向きが普通と逆であれば、盗んでも家で使えない。一般的なものではないから叩き売ることも難しいし、仮に売ったとしても、すぐに足がつく。ものを盗むという行為は、盗む危険性と、盗むことによって得られる利益との比較によって、利益が上回れば実行される。しかしこの場合、危険性に比べて利益は低い。そのため、ネジの向きが逆だったのだ。  わかってみたら単純な謎だが、こういうことに頭脳を使う習慣のない私にとっては盲点だった。  私が鉱山を出てから間もなく、鉱山内で爆発が起こった。二回目の爆発は洋平からすると大成功だったようで、地響きとともに盛大に揺れて、入口からはどっと煙が噴出した。周りにいた警察官たちは呆然《ぼうぜん》とその光景を見守っていた。もくもくと煙が上がったので、遠くから見たら、山が噴火したように見えたのではないか。  しかし、私が必死に「すぐに爆発があります!」と言って警官たちを説得した甲斐があったからか、被害者は最小限に抑えられた。もともと入口に人間がほとんどいなかったということも幸運だった。鉱山街に残った警察官たちは、鉄筋アパートで現金の受け渡しがあるから、一回目の爆発が起こっても鉱山に深く手を出せなかったようだ。  その二回目の爆発があってから、すぐに蓑田警部が駆けつけた。彼に私が事情を簡単に説明すると、彼は驚くというより、悔しがるというより、いったい何が起こったのか理解できず、途方に暮れていた。脅迫状が嘘で、真犯人が鉱山の住人で、その上自分たちが鉄筋アパートを警戒しているときに新たな殺人が起こって、しかも本当に爆発があって、おまけに犯人が中に取り残された——とあっては、考えられる限り最高の屈辱、敗北の極致であろうから、彼にとっては無理もないだろう。  爆発がひと段落してからはすぐに救助活動が開始されたが、何せ被害者が鉱山の奥にいるものだから、手の出しようがない。爆発が終わったといっても崩落は収まらないし、鉱山内のあちこちから大量の水が流れ出していたから、危険すぎて人間が入れない。  翌日になって、国を挙げた大救助隊だけでなく、米軍の特別救助部隊まで来てくれたが、対象が山の中とあっては何人《なんぴと》も手の施しようがなかった。これが大地震の街の現場なら、瓦礫をクレーンで一個ずつ除去という手も使えるが、大きな山の内部が相手となるとそうもいかない。結局、崩落と浸水が収まるのを待って、入口から徐々に補強しながら奥へ進む——という、とても救助とはいえない方法を採るしかなかった。  こういう状況だったから、私は�奇跡的に真野原たちが生き残っていないか�と痛切に願っていたものの、どう考えても願いが叶うのは無理そうだった。だから、洋平や恩田はもちろん、真野原や荒城の行方は一向に知れない。それどころか死体のある場所にさえも到達できない。           11  さて、爆発のあった夜から私に対する事情聴取が始まったが、考えた末に、私はすべてをしゃべらないことにした。犯人は死に、これ以上、事件は起こらない。事件は本当の意味で終わった。とすると、死んだ者の名誉こそが尊重されるべきだと思ったからだ。  つまり、恩田と令子のことがあったからである。恩田の過去——恩田はひとりの人間を殺し、時効まで逃げていたのだから、世間から見ればこれは大醜聞だ。令子にしてみても座吾朗と密通し、脱獄と殺人を果たすために子どもを生んだとなれば、恰好の雑誌の標的になってしまうだろう。どんなに私が誠意をもって説明しても、雑誌は好き勝手に書くだろうし、大衆は興味本位で恩田や令子のことを噂するに違いない。それは絶対に私には耐えられない。本当のことを話しても、誰のためにもならないし誰も幸せにならない。  そこで、私は「洋平が座吾朗と結託して、犯罪を計画したようだ」という話だけを警察に証言した。令子と洋平の親子関係も、恩田の過去も、財宝の話もしなかった。ただ「座吾朗の動機は過去の鉱山事故による恨みだと思う」「洋平の目的は金じゃないだろうか」ということは話した。  最初、警察はいぶかしんだが、しかし「私と真野原は、たまたま探鉱家を尾行して、犯人と出会っただけだ。それ以上は知らない。あとは警察で捜査してほしい」と言い張ったら、案外これがうまくいった。  というのも、洋平の部屋から数々の犯罪の痕跡が見つかって、しかも鉱山内で洋平の着替えた場所——そこには、田子沢の首から流れ出たと思われる血痕があった——も判明し、洋平が犯人であるという決定的な証拠がいくつも見つかったからだ。それだけでなく洋平が犯人と決まると、嘘か本当か「そういえば、洋平を事件現場の近くで見た」という証言までたくさん出てきた。  こうなると警察としては、犯人は確定しているし、大筋の犯行方法も動機も判明している。表向き、�事件は終わった�ということになる。雑誌も世間もそれに追随して、あとは、あることないことを勝手に想像して楽しんでいるだけだった。実際、私と真野原が真犯人ではないかと書いた雑誌まであった。  警察や世間にとっての�終わり�というのは、いつもこういうことなのだろうなと私は想像した。  ところで、恩田が残していった手紙は、令子が恩田宛に書いたものであった。私が恩田や令子のことを警察に話さなかったのは、この手紙があったからでもある。この手紙は令子が死ぬ直前に慌《あわ》てて書いたもののようで、文章の体《てい》を成してなかったから、以下に簡単に内容を書くと——。  まず令子から見た事件の真相が簡潔に書かれてあった。その内容は、真野原の推理したとおりだった。  次に「過去に座吾朗に恋をしたのは確かですが、結婚してからは、あなたのことしか愛していなかった」と延々と自分の想いを語っていた。  そして手紙の後半では、ひたすら「健夫さん(恩田の名)、何と言っていいか、申しわけありません」というような謝罪が繰り返し書かれてあった。その内容を信じるなら、令子が自殺した動機は、「息子の洋平のことが愛しかったから」というのも確かにあるものの、主たる原因は「不貞なことをして夫に合わせる顔がない」「私が生き残って、不貞が世間に知られたら、健夫さんの名誉をいっそう傷つける」「健夫さんの過去まで世間に知られるかもしれない」「それなら私が犯人というのが一番いい」ということのようだった。  つまり、この遺書の内容からするに、令子は恩田に詫びるために、恩田の名誉を守るために死んだ。愛する夫のために死んだ——ということになる。  もし真野原が生きていたら、「そんな、妻が夫のために死ぬなんて馬鹿なことがありますか。女がそんなことやるわけがない。逆ならともかく」と笑うかもしれない。しかしロマンチストで女に幻想を持つ私は、令子の肩を持ちたい気分だ。  そして私は事情聴取が終わってからも、しばらくの間、鉱山街に滞在した。もちろん、望みのないことが確実な救助活動を、無駄とわかりきっていても見守っていたかったからだ。その間は、例の部屋で例の三人とひたすら麻雀を打っていた。参列しないと心に決めていた三恵子の葬式にも結局惰性で出た。  しかし望みのないことがいよいよ確定的になっていき、自分自身も納得したところで、決心して鉱山を離れることにした。二度目で、確実な、本当の別れだ。  四場浦鉱山駅の物静かなプラットホームには、今度は三人に加えて祐子も見送りに来てくれた。そして電車が静々と発車したとき、驚いたことに三人だけでなくいつもは冷静な祐子までもがスカートを揺らしながら、電車を追いかけて走ってきた。祐子のスカートの揺れが収まって、四人がホームの端で手を振ったとき、背景に夕暮れどきの四場浦鉱山街が見えた。来たときには、もくもくもくもくと立ち上っていた工場の煙突の煙は、いまはもうなかった。前回と違って今回は、見送ってくれる全員が笑顔だった。  電車から四人の姿が見えなくなって、網膜に彼らの余韻がなくなってから、ああそうか、あの四人以外たくさんの人間がいなくなったのだなと、私は改めて思った。私に関係した者は、あの四人以外に全員いなくなった。三恵子も荒城も真野原も、それに恩田も令子も、みんなが私の周りから姿を消した。  つまり、あの祭りでの迷子は、現在の私を予想していたことになる。呪いの祭りだ。そして本当にいろいろなことがあったのだなと、電車から外の雪景色を見ながら思った。いろいろとありすぎて、思い出したくないくらいだ。 [#改ページ] エピローグ——平成十七年  以上が、かの有名な四場浦鉱山事件の真相だ。  事件から五十年以上が経《た》って、二十一世紀になった現在でも、あの事件のことを耳にしたことのある人は多いと思う。その関係者のひとりが、記録中の殿島、すなわち私だ。  この事件のことは、いつか必ず書こうと思っていた。真野原の「探偵は記録されて初めて永遠の命を得る」という言葉が心に深く残っていたからだ。  そこをあえていままで書かなかったのは、最後のほうにも述べたとおり、死者の名誉のためだった。恩田や令子のためを思ってのことだった。しかし、五十年以上が過ぎた現在となっては、そろそろ名誉よりも歴史が優先されてもいいだろう。もうあの事件は、蒙古襲来や本能寺と同じように、すでに歴史になったと私は思っている。時間が経てば、部下に裏切られて死んだ、不名誉な織田信長だって笑って許してくれるに違いない。  時間が経ったからこそ、懐かしく思いながら、楽しく書くことができた。気楽に書けた。その雰囲気が少しでも読者に伝わればうれしいと私は思う。ただ心残りなのは、五十年も昔のことなので細部がはっきりしなかったことだ。  もちろん思い出せないところは適当に脚色したし、細かいところでは嘘をついた。当然、一部の者を除いて仮名にした。だからどうしても�事実�が好きな人は、当時の資料と付き合わせてどこまでが本当なのか検討して楽しんでもらいたい。もしかしたら全部が嘘かもしれないが、そこは責任を持ちません。  あれから、時は過ぎた。あのときは自分に無限の命があると信じて疑わなかった私も、現在は、残り少ない白髪をかきわけながら、皺だらけの指でパーソナルコンピュータのキーボードを打っている。腰だって毎日のように痛い。夜中に便所へ行く回数は、数え切れないくらいだ。つまり老いた。  当然、時代は変わった。模造紙のような薄型カラーテレビジョンは確かに出現したし、一方かつては全国津々浦々に存在した鼻水を意味もなく垂らす少年たちはいつの間にか姿を消し、その代わり、下駄箱の番号札のようなカメラ付き携帯電話を持った異星人風の女性が、銀座や渋谷《しぶや》の街を闊歩《かっぽ》している。風呂無し、屋内に便所無しの家というのもあまり聞かなくなった。  残念ながら荒城の言っていたような真の意味でのジャーナリズムはまだ生まれていないが、日本は裕福になり、コードケーザイセーチョーし、餓死する者は極小になり(ただしむかしとは別の意味で増えている)、上辺だけでも立派な民主国家になった。同時に世界で唯一といっていいほどの官僚中心、中央集権、護送船団の社会主義的な国家もつくり上げて、かつ成功させた。ついでにいうと警察も自白に頼ることはほんの少しだけ減って、まともな科学捜査をやるようになった。  人々の考え方も大きく変わった。�家�に縛られることはぐっと少なくなり、多くの女が外で働くようになり、一部の男は家事をやるようになり、男が女の尻に敷かれるところはむかしと本質的に変わっていないものの、自由恋愛が当たり前のようになった。そういう現代の者から見ると、物語中、私がいきなり三恵子に結婚を申し込もうとするくだりなどは、滑稽を通り越して、気持ち悪いなどと思われるのではないだろうか。あの時代では普通であったのだが。それに令子の自殺の理由のひとつ——�夫への不貞を申しわけなく思って�というのも現代人には納得できないに違いない。婚前の隠し子を理由に自殺する人間なんて、現在いるだろうか? しかしあの時代には、それを深く�恥�とする人間がわずかに残っていた。そういう時代だった。  しかしながら、多くの人々の考え方がどんなに変わっても、人間の心はそんなに変わっていないように思う。たとえば、日々の心情の動き——どんなことに笑って怒って傷ついて、あるいは裏切られることがどんなに悲しくて、大切な人を失うことがどんなに切ないか、または人間にとって一番大切なことは何なのか——など、基本的な心情は一向に変化していないと感じる。それはこの長い話を書いていて、強く、強く思ったことだ。だから三恵子を失ったあのときの私の悲しみは、現代の人でも少しはわかってもらえると思う。永遠にそばにいると思っていた人間が、あっけなく、突然いなくなった喪失感は多少なりとも理解してもらえると思う。  つまり�時代�や�思想�は変わったが、�心情�は変わっていない。たとえば、今も昔も東京に憧れる人間は全く減っちゃいないし、老いて夜中に便所に行く回数が増えたら、いつの時代の誰だって面倒くさい。これはたぶん百年後でも変わらない。  もっと言うなら、老人がむかしのことを延々と語りたがるのも、いつの時代も変わらない。私がたったいま証明して見せたとおりだ。こんな長ったらしい補足だって、どんな時代でも若者は決して書かないだろう。  加えて私などは、�今時の若者は�と怒るのを、毎日の習慣にしているくらいだ。いったい何千年前からこの嘆きが繰り返されていることだろう。ある人の話によると、古代エジプトの壁画に、やっぱり�今時の若者は�という愚痴が書かれてあったそうだ。私が若いころも一千万回くらい言われた。古今東西、老人はこれでなくっちゃいけない。言われるのが嫌なら、みなさん早く老人になってほしい。  さて、そんな、夜中に便所ばっかり行っている馬鹿老人の与太話はどうでもいいとして、四場浦鉱山の後日談を補足しておくと、あのあとすぐに、四場浦鉱山は閉山された。爆発によって鉱山内が無茶苦茶になったということもあるが、それは時間をかけて直せばいいだけの話だから、やっぱり三河正一郎にやる気がなかったのだと思う。あのあと、鉱山の権利は別の人間に売られたようだが、独特のノウハウが必要だったようで、長くは続かず、数年で終わった。雲上の楽園は消えてなくなった。現在は四場浦山の頂上に、鉄筋コンクリート製のアパートの廃墟が残っているだけだ。  しかし、後年のことを考えると、結果的に三河正一郎は最良の選択をしたことになる。硫黄採掘は、原油から無限にとれる回収硫黄(アスファルトのように、くずのようなものだそうだ)の登場によって採算が取れなくなった。松尾の硫黄鉱山などは最後まで赤字をたれ流しながらあがいていたが、結局閉山した。鉱業全体でいっても、知ってのとおり、現在国内のまともな鉱山は極小だ。  ついでに付け加えておくと、三河正一郎には彼が死ぬまで顧問契約を結んでもらったが(驚くべきことに、あのケチな彼がだ。この最終章は、その事実を記すだけでも価値があるだろう)、結局最後まで私の名前を覚えてもらえなかった。だから、私の弁護士事務所の歴代電話番には、「鈍そうな老人に『そちらは大名さんですか』とか『豊臣さんですか』とか言われても、きちんと私に通すように」と厳命しておかなければならなかった。  そして、一見終わったと思える物語がこうして続くのは、「私がいままでこの事件を書かなかった理由」が、もうひとつあるからだ。それを書こうと思う。もう少しだから我慢して、老人の長話に付き合ってもらいたい。           *  さて、四場浦のプラットホームで四人に見送られたあと、私は盛岡駅に着いたのだが、東北線が発車する十分前になっても私はなかなか横浜へ帰る気分になれなかった。  思えばこの一か月間、私はずっと麻雀をして酒を飲んで寝るという生活が続いていた。すっかり怠けグセが身体に染み込んでしまった。勤め人ならわかってくれるだろう、あの憂鬱な月曜日の朝の気分を、百倍くらいに増幅したような感覚だ。そのため私は、東北線のプラットホームのベンチに腰をかけて、「何とかこのまま何もせずに、怠けながら一生を過ごす方法はないものだろうか」と真剣に考えていた。  そんな灰色な気分の私の前を、東北線に乗る客たちが通り過ぎていく。平日の昼間だからか、客はまばらだ。風呂敷を背負った商人らしき者、里帰りを終えて東京に帰るらしき青年、目的のわからない母子などがホームを歩いていく。  その中に、学生らしき男もいた。ふと私は真野原を連想した。学帽をかぶったその男は、黒いコートから黒い詰襟を覗《のぞ》かせており、背恰好も真野原に割と近い。右に少し傾いた歩き方なども真野原とそっくりだ。恐らく上京する学生だろうが、もし真野原が生きていたら彼のような歩き方をするのだろうな——と思っていたら、彼はすれ違った貴婦人と左腕を交差してしまい、 「あら、ごめんあそばせ」  と貴婦人に謝られた。その瞬間、彼の横顔が見えた。同時にガシャリという金属音もかすかに聞こえた。  私は立ち上がって、小走りで彼に近づく。 「おい、おまえ……」  私は男の左腕をつかむ。金属の感触がする。 「お、お、殿島さんじゃあありませんか。ものすごい偶然ですね」  真野原は、芝居がかったような調子で顔をひきつらせた。  確かに真野原だ。やせ細っていて頬がこけていたが、声も話し方も明らかに真野原だったし、他人が真野原になりすます理由は見当たらないし、義手まで偽装はできないだろう。 「お、おまえ……」 「ととと殿島さん、早く乗りましょう。発車しますよ」  真野原は重そうなスーツケースを片手に、私を列車へとうながす。 「おまえ、本当に真野原だよな……」  列車の四人席に座って、私は話しかけた。周りに他の客はいない。 「ええ、見てのとおりです。偽者ではないですよ」  真野原は微笑を浮かべている。 「生きてたのか?」 「おもしろい質問ですね。『いいえ』と答えたら、どうしましょう」  この屈折した口ぶりは、真野原に間違いない。 「あの鉱山から脱出したのか?」と私は聞く。 「そういうことになります」 「荒城は? 荒城も生きているのか?」 「はい、まだ、盛岡にいるはずですよ」 「盛岡に?」 「ええ、宿の人に秘密にしてもらって、滞在しています。苦労して脱出したのはいいのですけどね、ふたりとも肺炎にかかってしまったのですよ。あんな冷たい水の中を脱出したのだから、無理もありません。なので、この一か月間、療養をしていました」 「秘密って……なぜ秘密に? いまでも、みんな必死に救助活動をしてるんだぞ……」  私が下山してからも、鉱山では、地道に救助活動が続けられている。 「そうみたいですね」と真野原は他人《ひと》事《ごと》のように言う。 「じゃあ、なぜ?」 「荒城さんはですね、機会をうかがっているのです。�奇跡の脱出!�と、きちんと英雄に扱われるようにね。恰好よく、派手な登場をするために、その方法を考えているみたいです」 「派手な登場って……」  必死に救助活動をしている人が聞いたら、どんな気持ちになるだろうか。 「じゃあ、君はその荒城に付き合って、身を隠していたのか?」と私は聞く。 「そういうことになります」 「恩田さんや洋平は?」 「出るように誘ったのですが、ふたりは残ると言っていました。洋平はどうせ死刑だし、恩田さんはあの馬鹿に付き合うそうです。恩田さんは別れるときまで、『お前は馬鹿だ』と洋平の頭を殴り続けてました。ぼくたちもぎりぎりで脱出したので、恐らく彼らは死んだでしょうね。……いや、ほんとに危なかったですよ。危機一髪です」  と真野原は言う。  私はそんな真野原を見て、複雑な気分になった。もちろん彼や荒城が生きていてうれしい——という感情はあるが、それ以上に、あまりに衝撃的な出来事を目の前にして、どう声をかけていいかもわからない。  それにいつもの真野原なら、私の知っている真野原なら、私が聞かなくとも「じつはこういうからくりで……」と自分から長い演説をしそうなものだが、彼は自分から口を開こうとしない。盛岡駅で私から逃げるように、こそこそとしていたことも納得できない。  ふと、私は、真野原の重そうな荷物を見て、疑問が湧き上がってきた。 「質問していいか?」  と私は言う。真野原は周りを見てから、 「どうぞ」  と低い声で言う。 「君はどうして、あんなに最後まで、真相をぼくに話してくれなかったんだ? もったいぶったんだ?」 「それは……前にも言ったように、ふたりで決着をつけたかったからだし……場合によっては、殿島さんの手で犯人をぶっ殺してほしかったし……」 「警察に秘密にしていた理由はわかった。でも、別にぼくだけに話してくれてもよかっただろう?」 「それは……最後は恰好よく推理したかったから……探偵とはそういうものですし……」  真野原は言葉を濁す。彼らしくない。 「本当にそうなのか?」 「どういう意味でしょう?」 「君は……もしかしたら最初から財宝が目当てだったんじゃないか? 事件の興味ではなくてね」 「ほう」 「君は、財宝があることを知っていた。そして、その財宝を持ち帰りたいがために、ずっと機会をうかがっていた。しかし、もしぼくに『財宝が目当てだ』『そのためにふたりで決戦に行く』なんて本心を話したら、ぼくが反対するに決まっている。だからぼくにずっと真相を秘密にしていた。  もっと言おう。君は新聞記事を見て、最初から、薄々と推理していたんじゃないのか? 『座吾朗が、二十三年間も監禁されていた理由とは何か?』と考えて、『何か莫大な価値のあるものを隠し持っているに違いない』『だから座吾朗は生かされたまま監禁されていた』と君は推理した。財宝かどうかは知らないけどね、すごく価値のあるものだと君は思った。だからこそ、君は昼飯代さえ持たずに、東北線に飛び乗った。  その後も、君は事件の調査と称して、荒城を装ったりとか、いろいろやった。横浜に帰ろうとするぼくを、盛岡までわざわざ引き止めにも来た。  最後の決戦のあともそうだ。君は、なんとしてもあの金の十字架を持って帰りたかった。しかし、ぼくが協力してくれそうもないものだから、君はたいへんに困った。片腕の君だけでは、六キロもある十字架を持って帰るのはたいへんだからね。そこへ荒城が登場した。彼と協力しあえば、持って帰れるのではないか? ——と君は考えた。  だから、君は『荒城さんが心配です』と言って、荒城を追いかけていった。君は自信があったんじゃないか。空間把握能力にすぐれた君は、あの地図を見て、鉱山内を理解していたからね。荒城も何日間も鉱山内を探索していたから、鉱山内の地理に詳しい。荒城とふたりなら、金の十字架を持って脱出できるのではないかと」 「ふうむ……」  真野原は渋い表情を見せた。 「どうなんだ? いくら君が博学といっても、やけに財宝探しに詳しかったり、天草四郎の財宝のことまで知っていて、怪しいなと思っていたのだけど……」 「殿島さんは、夢もロマンもありませんねえ」  真野原はため息をついた。 「じゃあ、それは、何なんだ?」  私は、真野原の重そうな鞄を指差した。 「……」  真野原は困ったような表情を見せた。 「義手の予備は、鉱山街に置きっ放しだったよな」 「やっぱり気づかれていましたか」  真野原は苦笑してから、「秘密ですよ」と周りを見ながら、スーツケースを開けて見せてくれた。中には金色の十字架が入っていた。 「ほら、金の粒もあります。換金したら、いくらになるでしょうねえ」  真野原は、子どもっぽい笑顔を見せた。私はその笑顔を見て脱力した。  この男は、「預金通帳の数字に興味を持つなんて、くだらない」とか「品性のある人間は、興味で行動する」とか言っておきながら、本人は、ずっと財宝を狙っていたのだ! 私に「探偵の存在意義は記録です」とか「荒城さんに礼がしたいのです」などと立派なことを言っておきながら、実際は、金が目当てで荒城を追いかけていったのだ!  これなら、あくまでも自分の恰好よさを追求する荒城のほうが、どれだけマシかわからない。  しかし一方で、金だけが目当てだったのなら、ずいぶんと非効率なことをやるのだなと私は真野原の笑顔を見ながら思った。財宝のみが目当てなら、私といっしょに行く必要はないし、ひとりで行けばいい。洋平と対決する必要もなく、洋平がいなくなったのを見て、洋平をやりすごしてから、ゆっくりと財宝を持っていけばいいだけの話だ。  そして私に「さあ、殺せ」と言ってナイフを渡しておきながら、その直前で——義手でないほうの健康な右腕で、私のナイフを持つ右手首をつかんで静止するなんて、まったくもって余計なお世話だ。そんなことやる必要はない。それに、どんなに彼が強がりの言い訳をしたって、確実に彼が死ぬ可能性は高かった。犯人に殺される可能性はあったし、脱出できずに死ぬ可能性も高かった。あそこで荒城を見捨てておいたほうが、どう考えても賢明だった。  その危険性と利益を冷静に天秤にかけたら、論理的な彼なら、結論は決まっているはずだ。彼の言うように金は天国まで持っていけない。  そう考えると、彼はずいぶんと非論理的で感情的なことをやったのだなと私は思った。三恵子を失って悲しんでいた私のために、私を納得させるために、鉱山内に取り残された荒城のために、命を賭して、なんて馬鹿なことをやったのだろうと思った。天下の大馬鹿だ。 「正直に言ってください。殿島さんは、どれくらい分け前が欲しいですか?」  彼は、相変わらず子どものような表情で聞いてくる。私は苦笑するしかなかった。 「いや、いらないよ。……それよりも、どうやって君と荒城は、あそこから脱出したんだ? それを聞かせてくれよ」  と私が言うと、真野原は待ってましたというふうに、 「そんなに聞きたいですか。それはもう、ドラマチックで、ドキドキハラハラ、すごかったですよ!……あれから、荒城さんを追いかけたぼくはですね」  と語りはじめた。その冒険話は脱線の連続で、延々と続き、話題はコウモリを生で食したときの味や日本語の起源、綿菓子の製造方法にまで及んだため、東京にたどり着いても半分も終わらなかったくらいだ。私は、彼が楽しそうに語るのを、彼の向かいに座りながら愉快に聞いていた。  さて、以上が今回の長い冒険談の、本当の結末だ。  この後、真野原は東京でうまく財宝を換金したようで、それからまた盛岡にもどって、荒城と�奇跡の生還�を果たすことになる。  新聞や雑誌で、真野原と荒城が「奇跡の生還!」と話題になったことは、事件に詳しい方ならよくご存じだろう。しかし、その裏には、いま書いたような事実があった。  つまり真野原は、十字架や金粒を換金するために、みんなからこそこそと隠れて、一度東京にもどったのだ。「荒城の恰好いい再登場に協力する」というのは真っ赤っ赤の嘘で、彼が生還していたことを隠していたのには、こういう理由があった。  ここまで書けば、読者の方はわかってくれただろうか? 私がいままでこの記録を書かなかったもうひとつの理由を——それは、真野原が財宝を手に入れた事実を、世間に公表することに抵抗があったからだ。公表したら、当然、財宝の所有権が問題になってくる。一度は没収されるだろう。つまり、少なくともネコババが時効になるまでは、秘密にしてやりたかった。真野原は「別に公表していいですよ。証拠はないし、いくらでも言い逃れは利きます」と言っていたが、私の個人的な気持ちとして、そっとしておいてやりたかった。  しかし、この私が書いた�事実�を読んで、読者はどう思うだろう? 「そんな財宝なんて、夢のような話が本当にあるのか?」「人の身体を溶かして性交で脱獄なんて」「まったく、出来の悪いホラ話だ」と呆れて、信じないのが自然だろう。別にそう思ってもらっても一向に構わない。「なんて馬鹿なホラ話を」と笑ってもらっても、それはそれで私はうれしい。私も、真野原のホラ癖を思い出すうちに、彼の口調に影響されて、ずいぶんと筆が滑っちゃいました。  ただ、そういう疑り深い方は、この後、真野原が東京にビルを建てられた理由についても考えてもらいたいと思う。いっしょに想像して楽しんでほしいと思う。真野原には身よりもなく、財産もなかった。そんな彼がどうやって、いきなりビルを建てて所有できたのか? ホラと笑って済ませるよりも、こちらの答えを見つけるほうが難しそうだ。  付け加えるなら、真野原は、「探偵が興味で行動するには、金が必要なのです。世の中、金がすべてですよ」とも微笑しながら言っていた。この言葉を思い出すたびに、私は笑ってしまう。このおかしさを読者にも共有してもらえれば、同時にうれしいと私は思う。  もう一度書くと、私は老いた。老人だから何度も同じことを繰り返すが、ずいぶんと時間が経った。  あれ以来、あの鉱山とのつながりは、ぷっつりと切れてしまった。  あのときの痕跡といえば、耕介からもらったレモン色の硫黄のお守りくらいで、これはいま私が使っているパーソナルコンピュータの横に置いてある。この硫黄の匂いを鼻の粘膜に感じるたびに、私はあの鉱山街のことを思い出す。冒険を思い出す。しかしこのお守り以外には、写真の一枚も残っていない。  耕介や祐子には、別れるときに「必ずまた来るよ」と言ったのだが、結局行かなかった。逆に耕介や祐子からの手紙もなかった。  多くの旅がそうであるように、旅先の出会いでの「また会おう」が実現することは、ほとんどないのだろう。不思議なことにそういう気持ちは、旅から帰ると一気に冷めてしまう。そうしてロマンチックな思い出だけが、心の隅にひっそりと長く、細く残留する。余熱だけがかすかに残る。  しかし、あのときの私の三恵子に対する思いだけは、一時的ではなかった。永続的だった。私はそう主張するし、そう思いたいし、いまでも信じている。その証拠に、いまでも私は、初めて三恵子に連れられて鉱山街を歩いたときに、ワラのトンネルの前で振り向いた彼女の姿を鮮やかに覚えている。「わたしも手伝ったんですよ、この飾り」と言ったときの、彼女の姿勢と服装と表情まで、オールカラーの高画質で覚えている。幻想だってここまで来れば立派に事実に昇格する。私にとってはそうだ。  さて、レモン色のお守り以外にあの事件で私に残ったものといえば、荒城や真野原との交流だろう。私はこの事件がきっかけで彼らと付き合うようになり、たまにいっしょに冒険するようになり、その腐れ縁は私が白髪と皺に覆われるようになった現在でも続いている。彼らはいたって元気で、あのときよりも奇矯さが増して多少過激になったくらいで、その性格は彼らが白髪になった現在でも変わらない。私と同じように夜中に便所へ行く回数が増えても、中身は全く変わらない。  この章で述べた理由で今後は彼らのことを自由に書けるようになったから、その後の彼らとの冒険話も、機会があればぜひ発表したいと思う。言い換えれば今回の冒険は、その彼らとの数多くの冒険談の序章ともいえる。そしてそれだけでなく、この四場浦鉱山事件から五十年以上が過ぎたころ、私は、真野原の正当な血を引く彼の孫ともいっしょに冒険することになる。 [#改ページ]    第十七回鮎川哲也賞選考経過  小社では平成元年、「〈鮎川哲也と十三の謎〉十三番目の椅子」という公募企画を実施し、今邑彩氏の『卍の殺人』が受賞作となった。翌年鮎川哲也賞としてスタートを切り、以来、芦辺拓、石川真介、加納朋子、近藤史恵、愛川晶、北森鴻、満坂太郎、谺健二、飛鳥部勝則、門前典之、後藤均、森谷明子、神津慶次朗、岸田るり子、麻見和史各氏と、斯界に新鮮な人材を提供してきた。  第十七回は二〇〇六年十月三十一日の締切までに百三十二編の応募があり、二回の予備選考の結果、以下の三編を最終候補作と決定した。  斯波耕之介 誰ぞ常ならむ  山口芳宏  雲上都市の怪事件  鈴木凛太朗 八角ギヤマン館の闇  最終選考は、笠井潔、島田荘司、山田正紀の選考委員三氏により、二〇〇七年四月十六日に行われ、次の作品を受賞作と決定した。  山口芳宏 雲上都市の怪事件 受賞者プロフィール  山口芳宏(やまぐちよしひろ)氏は一九七三年三重県生まれ。神奈川県在住。横浜国立大学工学部卒業。現在、ゲームプランナー/シナリオライター。  なお、受賞を機に、タイトルを『雲上都市の大冒険』と改めた。 [#改ページ]    第十七回鮎川哲也賞選評 [#地から2字上げ]笠井 潔  今回の候補作は三作で、例年よりも数が少ない。  全体として、水準も低下しているように感じる。技術の巧拙が重要なのではない。むろん作品の技術的な質は問われるべきだが、それよりも深い問題があるのではないか。  二作目、三作目と書き続けていけば、一般に小説の技術は向上する。うまくないという理由で、新人賞の応募作を否定的にのみ評価すべきではない。鮎川哲也賞が新人賞である以上、受賞作なしという事態はできる限り避けたい。絶対基準ではなく相対基準で選考にあたることを、これまで原則としてきた。  第十四回受賞作の神津慶次朗『鬼に捧げる夜想曲』と同様、応募作中二作が過去を舞台としている。あるいは、過去に事件の背景や動機を求めている。第二次大戦前や大戦直後の時代を、作品の背景に使うべきでないとはいえない。二〇〇〇年代という「現在」との格闘を回避して、過去に逃げ場を求めているように感じられる点が問題なのだ。戦前本格(第一の波)や戦後本格(第二の波)では、その当時の「現在」を描いた作品がほとんどだった。『獄門島』や『犬神家の一族』は、「現在」との格闘から生まれた本格探偵小説の傑作である。第三の波にしても事情は変わらない。たとえ過去に舞台を求めた場合でも、京極夏彦の中禅寺シリーズのように、傑作と評価される作品は過去を通じて「現在」を描いている。  鈴木凛太朗の『八角ギヤマン館の闇』では、第二次大戦前に事件の遠因が設定され、そこから二重の操りという現在の事件が生じている。しかし、過去を通じて「現在」を描きえたとはいえそうにない。戦前の植民地や敗戦による引き揚げ体験は、入れ替えトリックなどテクニカルな問題をクリアするため、ご都合主義的に持ち出されている印象なのだ。登場人物としては、犯人を事前にもう少し印象づけたほうがいい。動機である吉村との関係なども、いささか唐突に感じられる。また吉村の性格が重要な伏線になっているが、弟の視点以外からも語られるべきだろう。証拠のひとつである哲学書にかんして、プラグマティストの老哲学研究者がローティを読んでいるのはいいとしても、内田樹のレヴィナス研究書は不自然だろう。用意された凶器の爆弾と、犯人像にも齟齬《そご》がある。本作は昨年に引き続いての応募であり、持続力という点は評価できる。いっそうの精進を、作者には望みたい。  山口芳宏『雲上都市の怪事件』の舞台もまた、第二次大戦前と昭和二十年代である。本格探偵小説の想像力が過去に引きよせられていく傾向には、『八角ギヤマン館の闇』と同じような問題を感じた。昭和大不況期に貧困をきわめた東北の農村と、鉱山都市の雲上ユートピアの対照を主題的に際立たせるためには、もう少し構成に配慮することが必要だろう。中心になる人物の性格では、グロテスクな復讐の怪物と労働運動の優秀な指導者という両面が乖離《かいり》している。結果として行動も不自然になる。脱獄のトリックは、幾重にもわたる捨て推理も含めて探偵小説的興味を掻きたてる。真相はアイディアとしては面白いのだが、少し強引にすぎる。このトリックは現実には不可能だろう。ダイイング・メッセージが仕掛けられた理由という点では、新しい発想が認められる。二十年後の脱獄をめぐる逆説論理も悪くない。評価できるのは、第二の探偵役のキャラクターだ。わらしべ長者の真似をして登場する冒頭から、読者を愉しませてくれる。探偵役が活用する、戦前の「空想科学小説」を思わせるスーパー義手も小道具として効果的だ。  以上二作は第二次大戦前後という大量死の時代を背景としているが、斯波耕之介『誰ぞ常ならむ』は現代日本を舞台に、病院と政治家と暴力団の黒いネットワークを描いている。しかし、見立て賭博というアイディアと清張的社会性の乖離が看過できない。このアイディアを生かすなら、むしろ犯人視点のサスペンスにしたほうが適切ではないか。また二人の犯人を設定したため、解決のカタルシスは低下している。告白文が発見されるまで、暗号解読を除いては、本格ではなく捜査小説だ。最後に「推理」が行われるが、当て推量の域を出ていない。視点や叙述法にも未整理な点が目立ち、読者に不必要な混乱を与えかねない。本格探偵小説の形をとろうとすれば、「現在」から遊離する。「現在」の出来事を作中に盛りこもうとすると、サスペンス小説化して本格度は低下する。三篇の候補作が窺わせるのは、本格探偵小説が直面している困難性なのかもしれない。  文章や技術的な難点は無視できないし、論理性という点で探偵役の推理に弱点もあるが、充溢する探偵小説趣味や、新しい絵柄が浮かびあがる結末の意外性を評価し『雲上都市の怪事件』を推すことにした。しかし、あくまでも相対評価を前提としての結論である。 [#地から2字上げ]島田荘司  今年は低調であった。応募作品の総数は変化していないそうだが、候補作が三作であったこともそれを語るし、その三作がまた、率直に言って上出来の一作と、パーティの頭数揃えのための二作というふうで、かなりの落差があった。  しかしその二作の作家たちは、いずれも前年度候補作の作家たちだから、わずか一年の間に新作を用意し、しかも候補作にまで押しあげてきた勤勉さは評価したいものである。この頃は、そのくらいの量産能力がなくてはフィールドに定着しにくくなっており、数を書く力もまた、評価の軸に加えたいものだ。  とはいえ、『誰ぞ常ならむ』と『八角ギヤマン館の闇』は、なかなかこちらを内部に引き込んでくれなかった。双方ともそれなりに手堅い作品で、充分に面白い背後事情が用意されており、そうした観察からは、面白く読めてよい力作である。特に前者は、一種の定型とはいえ、驚くべき事件が背後にうまく作られており、これの発展が冒頭の驚きに逆算されている構造も、上手の部類と思う。  何が不足していたかの説明は難問だが、演じる人物が変わるような事件が、一見無秩序に折り重なり、視点も転々とするような凝った構成を採りたいなら、各事件の輪郭を明瞭にする必要があるし、後方の事件ほど吸引力を上げておく計算も大事だ。それぞれのイヴェントにミステリーとしてのセンスも要求されるし、一定量のショックもうまく配分されなくてはならない。そうしたうえで伏線で関連づけるなどの技巧も必要で、でなくては事件を次々に後方に置いていく、読み手の進行がスムーズでなくなる。要はこうした手当てが不充分と見えた。 『八角ギヤマン館』は、『十角館の殺人』初読時の気分を思い出した。建物の魅力的な特殊性が、事件の起こり方や見え方にほとんど貢献しない。館内部に陳列されるミステリー現象も、いささか定型の連続に思える。しかしそれらを不満に思って読み進んでいても、『十角館』にはそうしたいっさいを霧消させるほどの大きな未体験が用意されていた。『八角ギヤマン館』には、こうした未聞の詰めがない。 『雲上都市の怪事件』は、これらとはまったく対照的な作品で、まことに手堅くない。定型を嫌わないゲーマーのセンスが並び、へんてこなシチュエーションや、いい加減な時代考証が連続して、眉をひそめる堅物本読みも出そうである。終戦直後の東北の山奥に、東京弁をあやつる可愛いギャルが群れ集うユートピアが現れるにおよんでは、こちらも読書のモードを鹿爪型からそれなりに切り換えた。  当作中に関しては、この種の批判を始めたらきりがなく、受賞どころか出版さえ危ぶまれる。しかしエピローグにおいて作者も多少反省し、「ずいぶんと筆がすべっちゃいました」と言う。あんまり本気にしないでくださいと本人も言っているのであるから、おおめに見なくてはなるまい。そして結部にいたり、受賞も出版も決まっていない段階で、当作はシリーズ化すると作者は堂々と宣言し、日本行儀論からは唖然とするこの不行儀ぶりは、当方に授賞を決心させるに充分だった。  楽しい読み物であったことは明らかだし、こちらをよい気分で雲上都市に長期滞在させてくれたことも事実である。高木彬光さんの創作は、格別初期においては文章が下手とする批判がもっぱらであったが、同時にとんでもなくじょうずであったことは誰も否定ができまい。似た様子はこの作にもある。作中の部分部分が能天気に明るい空気を含んでふっくらとし、凡百のリアリズムを駆逐する。物語のこうした性質に対する評価には未だものさしがなく、的確な用語も存在しないが、「本格おとぎ話」として、まれにみる楽しい読み物に仕上がっていた。  他の二作の達成度が低すぎることによる相対評価となってはいないか、絶対評価としても受賞に届いているか、そういった点検自省にかなりの時間が使われる異例の審査会となったが、「不可能脱獄」ものとして読んでも、前代未聞のアイデアを内包していると、当方は評価主張した。  もっともこの方法がまた、なかなか貸しヴィデオ屋方向のアイデアと倫理観によっており、こんなことを考えた作家はまず過去存在すまい。道徳信奉者にはこの作の審査は向かず、いよいよ難航かと思えた席上、この種のものには手厳しいと見えた笠井氏が、受賞させようよとあっさり言ってくれたことで、こちらは手もなく賛成した、そういう経緯である。今後の唯一の心配は、校閲が何を言うかだ。 [#地から2字上げ]山田正紀  今回、最終選考に残ったのはわずかに三篇にすぎない。いずれも八百枚から九百枚の大長編で、読むのに時間がかかる。その意味では選考委員としては読まなければならない作品が少ないのは助かる。けれども、それにしても三本はあまりに少なすぎるように感じる。どうしたのだろう、と心配になった。応募総数が少なかったのか。  選考会の席でそのことを担当の方に確認したのだが、例年に比べて応募総数が少なかったということはないという。それなのに、どうして最終選考に残った作品が三篇しかなかったのか。要するに、今回は全体的に低調だったということらしい。  非常に失礼な言い方になるかもしれない。その点はお詫びするしかないけれど、それは最終選考に残った三篇の作品からも容易に推察できることだった。そういうことなので、多少、個々の選評について厳しい表現になるかもしれない。どうかお許し願いたいと思う。 『誰ぞ常ならむ』——は、正直、読み進めるのに苦労した。読んでいる途中で、自分が何を読んでいるのかわからなくなってしまって、あらためて最初から読み直したほどだ。  冒頭、三人称一視点が、リレーするように次々に三人の登場人物に変わっていくのだが、これが何の意味もない。あとでそのことが物語にかかわってくるということもないし、なかの一人などそもそも登場しなければならない必然性すらない。  複数の手記が出てきて、さらに小説までが出てくる。それらがまるで物語に有機的に結びついていない。謎めいた雰囲気を強調するだけのことであれば、わずらわしいだけではないか。そのことでますます読みにくさが増してしまった。効果がないというより、むしろ逆効果といっていい。暗号で無作為に人を選んで、その人間の弱みをついて、殺しあいをさせる……という設定はいかにも苦しい。本格ミステリということで無理やり暗号を挿入したとしか考えられない。プロローグにいたっては意味不明である。もちろん何のために書かれたのか、その意図を推測できなくはないが、逆にいえば推測しなければならないほどインパクトが弱いということでもあるだろう。  誤解しないでいただきたいのだが、なにも作品の欠点を列挙したいわけではない。そうではなく、残念ながら候補作としての水準に達していないということを申しあげたいのだ。小説を愛しているなら、ミステリーを愛しているなら、どうか著者には一大奮起をお願いしたい。次回作は選考委員をして顔色を失わせ沈黙させるほどの大傑作をお書きになられることを期待したい。 『八角ギヤマン館の闇』——去年、『りっちゃんの酒蔵』という作品でやはり最終候補に残った著者の作品である。二年つづけて最終候補に残る作品を書くというのはなまなかな努力でできることではない。まず、そのことに敬意を表したい。この作品の最大の読ませどころは、二重の人物の入れ替わりにあるだろう。私は「二重の入れ替わり」と表現したが、べつの選考委員はそれを「二重の操り」と表現した。「入れ替わり」と表現するにせよ、「操り」と表現するにせよ、要するにそれが二重底になっていることがこの作品の「肝」なのにちがいない。現代での入れ替わりは「糖尿」と「競馬」が出てきた時点で、容易に読者にわかってしまう。話の作りとしては、第一のトリックを作品の主要なトリックに見せかけ、じつは第二のトリックを用意して読者を驚かせるということにあるのだろうと思う。が、残念なことに、第二のトリックである終戦直後の人物入れ替わりが事件とどう関わりがあるのかがはっきりしない。それに、せっかく八角ギヤマン館という魅力的な舞台が用意されているのにそれが十分に機能しているとは言いがたい。残念ながら、この人の作品は詰めが甘いと言わざるをえない。最後のぎりぎりのもう一工夫が足りないように思う。 『雲上都市の怪事件』はあまりに長すぎる。一部二部をまとめてプロローグにすべきではないか。語り口は達者で、登場人物の誇張もほどがよくてセンスが感じられる。私がこの作品から連想させられたのは坂口安吾の『不連続殺人事件』だった。横溝正史からおどろおどろしさを取り除いてその豊かな物語性だけを抽出すればこういう作品になるかもしれない。たとえば『八つ墓村』の豊かな物語性に共通するところがあるように思う。全体がファース仕立てになっていて、そのこと自体が一種の「仕掛け」になっているのだ。作品の核になるトリックはじつにナンセンスきわまりないものなのだが、作品全体の「仕掛け」がそれをナンセンスと意識させない作りになっている。  ほかの評者の間で、鮎川賞のこれからのあり方について、この作品にからめて活発な論議がなされた。それだけ二十一世紀本格の将来を見据える問題を孕《はら》んだ作品なのではないかと思う。そのことも含めて私はこの作品を受賞作に推した。 [#改ページ] 底本 東京創元社 単行本  雲上都市の大冒険  著 者——山口芳宏《やまぐちよしひろ》  2007年10月15日  初版  発行者——長谷川晋一  発行所——株式会社 東京創元社 [#地付き]2009年1月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・そんなとき——あれは、福島あたりだったか、突然車内に制服の警官が乗り込んでたんです。