[#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)] 山口 瞳 草野球必勝法 目 次 ㈵ 草野球必勝法    草野球の話    人 間 の 器    野 球 人 口    軟式野球場    走者一、二塁    私は背番号60    庄 屋 球 談    実力の一種    草野球の日    草野球必勝法 ㈼ プロ野球の明日    プロ野球の明日    今年のプロ野球    飯  島    野 球 の 話    アンチ巨人軍論    プロ野球・舞台裏の英雄たち    紳士的なプレイとは    にわかファン    鍛  錬    かくれジャイアンツ ㈽ 私の愛する野球人間    三 原 魔 術    鈴 木 武    黒 尾 重 明    英 雄 の 死    長島の構想    長 島 茂 雄    長島茂雄の顔    王 貞 治    王と長島はどうちがうか? ㈿ 熱涙観戦記    巨人V10ならざるの日    ヤクルト=巨人・開幕試合観戦記    巨人=阪神・熱涙観戦日記 ㈸ わが町、わが野球    野  球    卒業記念写真    公  園    秋    納  会   あ と が き [#改ページ]  ㈵ 草野球必勝法    草野球の話  私は小学校のとき野球部の選手だった。私の選手時代は小学校までで、中学以後は正式に野球をやったことはない。  小学校の三年のときから守備位置は左翼ときまっていた。中学で野球部に入らなかった第一の理由は、硬式のボールがこわかったからである。クラス対抗の軟式の野球試合を見た野球部員に何度も入部を勧められた。私は打撃に自信があり、カーブ打ちを得意としていた。そういう草野球では、打率は五割以上で、小柄な癖に長距離打者だった。  私の自慢は強肩にあったが、中学の二年のときに肩を痛めた。ボールを投げると肩に激痛が走る。これは今でも治っていない。いい気になって大きなカーブを投げたり遠投をやりすぎたせいだと思っている。  どこの学校へ行っても、野球部でないところの草野球に参加した。町の青年たちの野球にも加わった。会社へ勤めると、すぐに野球部をつくり監督になった。  監督で投手兼三塁手四番打者という時代が長く続いた。三十代の半ば頃から打撃の自信を失っていった。小柄な癖に長距離打者というところに無理があった。左肩が入りすぎ、左足が開き、ヘッドアップしてしまう。それでも、時に打球が左中間をライナーで抜く快感が忘れられず、バッティング・フォームがあらたまらない。  草野球では、すべてのポジションを守った。ところが、小学校時代からのことで、どうしても左側のほうが守りやすいのである。左翼手と三塁手がもっともよく、ついで中堅手と遊撃手という順になる。二塁手と右翼手が苦手だった。とくにセカンドは守りにくい。体のつかいかたが逆になる。鶴岡一人は、初め三塁手、肩が弱くなってから二塁手になったが、二塁手としての鶴岡に精彩があったとは思われない。  長島茂雄は最初は遊撃手で次に三塁手に転じた。長島は時に遊撃に入ったが、どうも動きがギコチナイ。彼は中学生のときに体が急に成長したのである。俊敏でなくなった。それで三塁手になって成功したのであり、やはり、守備位置についての適性というものがあると思う。大洋時代の三原監督は、強力打線を造るために、一塁に近藤和、二塁に箱田、三塁にクレス、遊撃に桑田という布陣をとったことがある。私はこれに強く反対した。桑田の遊撃というのがいけない。  三原はこう言った。 「桑田は守りの固い三塁手です。だからショートでも守れるはずです」  この考えは間違っていると思う。適性というものがあり、自分に合わない守備位置につくと、それが打撃にも影響してしまう。大洋は、一塁の近藤和はいいとして、二塁近藤昭、三塁桑田、遊撃鈴木武でないといけない。その後、遊撃手にアスプロモンテを入れるなど苦労したが遂にふたたび優勝することはなかった。内野守備が落ちつかないとピッチャーは投げられなくなる。         *  三塁手としての私の得意はトリック・プレイにあった。二塁に走者のあるとき、わざと走者を無視して二メートルぐらい前に守る。走者はシメタと思って盗塁を敢行する。前に守っていても走者の気配はわかる。あらかじめ捕手としめしあわせてあり、かまわずに三塁ベースの位置に送球してもらう。こちらは捕手の動きからも盗塁がわかるから急速にバックして逆シングルで送球を掴《つか》む。すると走者の足が来ているので簡単にアウトにすることが出来た。  二塁走者が走ってくる。そこへ三塁ゴロが飛んでくる。私はシメタと思う。なぜならば、二塁走者は初めから自分は無視されていると思っているから、安心してオーバーランする。あわよくば一塁送球の間に本塁を突こうという態勢を取る。一方、ゴロを捕球した私はわざと大きなモーションで一塁に擬投する。そうやってふりむくとオーバーランした走者がいる。一メートルや二メートルの間隔があっても、むこうは勢いがついているから、これも容易にタッチすることができた。  こういうトリック・プレイを嫌う人がいるが、私はそうではない。野球というスポーツは、守っているときは、全智全能をあげて一死でも多く奪い取ろうとするのが正しい。  ただし、私は、自分の野球生涯を通じて、隠し球をやったことはない。トリック・プレイは麻雀のスジでひっかけるようなものであって巧技である。隠し球というのはインチキでありイカサマである。  太平洋のビュフォードが二塁走者となっていて、投手の牽制《けんせい》球をヘルメットで受けて中堅方向にころがして三塁に進み、犠牲打で生還したことがあったが、これは巧技である。  ところで、われわれの草野球では、もっとも重要なのは三塁手である。私が監督をするときは、一番うまい選手、野球を知っている選手を必ず三塁手に起用した。  投手には内角低目にユルイ球を投げさせる。これをひっかけると三塁ゴロになる率が多い。内角低目のスローボールを右翼方面に流せる打者は草野球にはいない。三塁ゴロになるか三塁方向のファール・ボールになる。  うまいバッテリーになると、さんざん打者を焦《じ》らしたあと、一転して、外角、もしくは高目に速球を投げる。よほどの巧打者でないかぎり見送るか空振りになる。  これが私の監督としての草野球必勝法であった。三塁手、一塁手、捕手、投手の順で優秀な選手をならべる。あとはどうでもいい。なぜならば私の草野球では、二塁ゴロ、右翼フライなどは飛ばないのだから……。社内対抗野球で、ぜひ一度、ためしてごらん。 [#改ページ]    人 間 の 器  小学生のときに野球部にいた。まあ、野球をやらされていたといったほうがいいかもしれない。  その野球部は、学校の野球部としては非常に変則であって、私たちのクラスの者だけが野球部員になったのである。私たちが四年生になったとき、すでに、六年生全体でつくったチームよりも強くなってしまった。それは、毎日のきびしい練習の成果であったけれど、後にプロ野球の名投手の一人になった黒尾重明がいたからである。黒尾の投げる球は唸《うな》りを生じた。目にもとまらぬという速球であり、真中にストレートを投げられても、私などは、とうてい打てるというものではなかった。  野球部が強くなると、近隣には相手になるチームがなくなった。そこで、あるとき、学校のそばにある工場の野球部との対戦が行われることになった。当時の言葉で言えば、職工さんのチームである。  なにしろ、相手は大人だから、私たちは大いに緊張した。球場は芝浦の埋立地にあった。  私は、相手チームのメンバー表を見て、びっくり仰天した。打撃順は、次のようになっている。一番投手、二番捕手、三番一塁手、四番二塁手、五番三塁手、六番遊撃手、七番左翼手、八番中堅手、九番右翼手。つまり守備位置を示す数字がそのままバッティング・オーダーになっているのである。  私における軟式野球(草野球)の歴史はまことに長いのであるが、こんなチームは初めてであった。  私は、こういうチームは大嫌《だいきら》いだ。こういう打撃順を考える監督は大嫌いだ。それから、こういう打撃順を見て、それを面白がる人たちも大嫌いだ。許せることと許せないこととがあるとすると、これは断じて許せないことに属するのである。  私は非常にイタズラの好きな男であるが、こういう種類のイタズラは考えたことがない。私からするならば、そういう人たちは野球をやらないほうがいいのである。  私は小学校の四年生か五年生であったのだけれど、スコアブックを持って神宮球場へ六大学の野球を見に行ったりしていた。職業野球の行われる洲崎球場もすでにナジミ深いものになっていた。私は野球に関する全《すべ》てのことを愛し、尊重していた。私にとって、野球は、正規のものでなくてはならなかった。  これは野球だけのことではない。私には、そういう傾向がある。私の母は、長唄を習っていたけれど、宴席とか酒のはいった席では絶対に歌わなかったし、三味線を手に取ることもしなかった。私は少し固すぎやしないかと思ったけれど、心のなかで母の頑固《がんこ》をヨシとしていた。こういう傾向があるので、私は若い人にケムたがられ、ある種の人に嫌われていることを知っている。知っているけれど、どうにもならない。  言うまでもないことだけれど、私たちのチームは、職工さんのチームを問題にせずに打ち負かした。         *  草野球で、相手のチームがジャンケンポンで打撃順を決めているのを見ることがある。これなんかも、私はいい気持がしない。どんなに弱いチームであっても個々の人間には適性があるはずだと考えている。  この打撃順位の決め方については、私は何度も喧嘩《けんか》をしたし、友人を失ったりした。  あるチームの監督をしていたときに、八番を打たせている男が当りに当り、大会が終ってみると、なんと十一打数十安打という成績になった。私はこの男を八番から六番にあげた。  大会終了後、何日か経って、練習試合が行われることになった。私は用事があってグラウンドヘ行けないので、主将に代理を頼んだ。ところが用事が早く済んでしまって、試合開始直前に球場へ行かれることになった。ユニフォームに着がえながら代理監督のつくったメンバー表を見ると、例の八番打者が三番に入っていた。私は打撃順位を変えるように言い、そこでチーム全員との喧嘩になった。  私はその男には三番打者の風格が無いと考えていた。十一打数十安打といっても、ほとんどがテキサスヒットか内野安打だった。軽率な男で塁上で殺されることが多いし、細かいルールを知らない。こういう男が三番を打つと敵に舐《な》められると思っていた。  結局、私はその日かぎりでチームを去ることになったのだけれど、いま考えてみると、やはり私の若さばかりが目立ってしまうようなバカバカしい出来事だった。OK! 今日はそれでいってみようと言えばよかったのである。  野球のことになると、まるで子供になってしまう男がいる。三十歳になっても四十歳になっても変らない。  Kという男は、六尺ちかい長身だった。守備も打撃も奮わない。彼は、長身なるが故に、自分は一塁を守るのだと自分で決めてしまっている。おそらく、小学校でも中学校でも一塁手だったのだろう。  あるとき、私は、彼にライトを守るように言った。すると、物凄《ものすご》い勢いで喰《く》ってかかってきた。多分、一塁手はカッコイイ守備位置だと思っていたのだろう。私は三十歳を過ぎた男が涙をためて怒鳴るのを見て、全くあきれてしまい、もしかしたら野球は罪深いスポーツではないかと思ったりした。  Mという男は、早稲田ビイキで、体つきも風貌《ふうぼう》も打撃フォームも三原脩にそっくりだと信じこんでいる。こういう男も困る。彼は、二塁手で二番打者でないと承知しない。一番でも三番でもいけない。まして、六番とか七番とか言えば、それだけで顔色が変ってしまう。いわんや、外野の守備を命じたら、即座にユニフォームを脱いで家へ帰ってしまうだろう。  私にはKとMの心根がよくわかる。この二人は臆病《おくびよう》なのである。外野手の失策は直接に得点に関係するので怖いのである。目測を誤ったり、バンザイをしたりするとミットモナイと考える。臆病で小心で、いいカッコしたい男だから顔色変えて怒るのである。  Mが三番を打つのを嫌うのは、三番打者は強振しないといけないと考えており、そうなると三振する率が多くなるのを怖れるのである。相手投手にもマークされる。六番や七番を嫌うのは、下位打者ということもあるけれど、二死満塁といったようなケースに打席に立つチャンスが多く、それをこわがるのである。  これでもって、私が、たとえばMのような男がどんなに当りに当って十一打数十安打を打とうとも、三番や四番をまかせられないという考えの根拠がわかってもらえると思う。人間の器というものがあるはずである。  草野球の監督といっても、女子社員が応援にくる社内大会などでは、余計な神経を使わせられることになる。         *  以上はすべて前置きである。  いま、選抜高校野球が行われているが、依然として捕手に一番を打たせるチームがあるのが気にいらない。この説明は長くなるので省略するけれど、私はそういうバッティング・オーダーを組む監督が大嫌いである。せっかくの好選手が駄目になってしまう。  さらに言うならば、作新学院の江川投手に三番を打たせるのも気にくわない。投手に打撃の責任を負わせてはいけない。特に好投手である場合は──。現実に、江川のバッティングは非常に粗雑になっている。無理もない話だ。 [#改ページ]    野 球 人 口  一回の表、我が軍は一点をいれて、なおも二死満塁とつめよった。次の打者はFさんである。  Fさんは課長である。大阪からの単身赴任であり、球場の所在地の関係で、前の晩は私の家に泊った。我が軍は八時開始の第一試合に出場することになっていたので、早く寝て早く起きる必要があった。  F課長は、なにしろ、明日は関東地区の大会であり、三百人を擁する東京支店を代表するチームなのであるから、俺は出場できなくてもいいと言った。いつもの、総務、営業、販売、宣伝などの対抗試合とはちがうのである。優勝すれば、西宮球場での全国大会に出場できる。そうして、私は、平社員であったが、東京支店野球部の監督であった。  前年までは、私は左翼手で四番打者であったが、今回は遠慮しなければならないと思っていた。つまり中西太と同じ心境であった。若手を育成しなければいけない。  すこし酒を飲んだほうが寝られるのではないかと、私が言いだした。酒がはいってしばらくしたときに、F課長が言った。 「でも、いっぺんは出してくださいよ。せっかくユニフォームを着て行くんですから」  むろん私もそのつもりだった。会社内の野球は勝てばいいというものではない。全員を出場させ、全員をいい気持にさせ、なおかつ、敵に勝つというのが素人野球の監督の役目である。また、それが監督としての醍醐味《だいごみ》でもある。  そのうちに、F課長は、ぜひ、スターティング・メンバーにいれてくれと言いだした。私はそれを諒承《りようしよう》した。次にF課長は、毎試合出場を申しいれた。それも私は諒承した。そうして、F課長は、やっと眉をひらいたという感じで上機嫌になった。もう寝なくてはならぬという時刻になって、F課長は、突然、眦《まなじり》を決すという顔で、毎回出場ということにしてくれと言った。 「全イニング出場や!」  ちからをこめて叫んだ。私はそれには確約をあたえなかった。しかし、もし、Fさんが好調ならば、結果として、そういうことになるかもしれない、と思った。返辞のないのを、FさんはOKと受けとったらしい。 「頼む。全イニング出場やで……」  そう言って、やっと寝室へ行った。         *  F課長を一塁手、七番打者としてスターティング・メンバーにいれたことについて、不満そうな顔をする部員がいた。なぜならば、F課長は、そもそも支店を代表するチームに登録するのもどうかと思われるくらいの実力であり、年齢的にもすこし無理だったからである。  しかし、私には、野球に対する私の考えがあった。どのスポーツでもそうかもしれないが、特に軟式野球、素人野球では、気力を重視しなければならぬ。“見て呉れ”はどうでもいい。F課長と私との前夜のやりとりでもわかるように、彼には汪溢《おういつ》する気力がある。ガメツイのである。私は、これをよしとしたのである。けっして、課長にゴマをすったのではない。  さて、一回の表、我が軍は果敢に攻めて、敵の失策もあり、一点をいれて、なおも二死満塁とせまり、七番のF課長を打席にむかえることになったのである。  如上《じよじよう》のいきさつもあるからして、三塁コーチャーズ・ボックスにいる私は、神に祈ったな。  一球目、二球目。内角低目のシュートがF課長の膝もとを鋭く抉《えぐ》った。F課長は球が捕手のミットで音をたててから、とんでもない高いところを空振りした。顔面蒼白。しかもなお、二度三度と素振りを繰り返し、敵投手を礑《はつた》と睨んで、打たんかなの意気|旺《さかん》なるものがある。三球目。外角に、きわどい速球。私は思わず目を瞑《つぶ》ったが球審の判定はボール。四球目。カーブのすっぽぬけがゆらゆらっと真ん中高目、頭の高さにきた。何条これを見逃してなるべき、悪球打ちで鳴らしたFさんである。得たりや応と、三尺飛びあがり、大根切りでもって、かっ弾《ぱじ》いた。打球はふらふらっと二塁後方にあがり、前進した中堅手の頭をワン・バウンドして越えた。  三塁走者、悠々とホームイン。二塁走者も、ベースを大きく廻って勇躍生還。一塁走者も三塁に達した。中堅手はまだ大きくはねあがる球を掴んでいない。私は右腕をぐるぐる廻して本塁突入を指示した。走者は、四十歳で豪打の係長である。彼は、そこで、私に、 「まだ走るの?」と訊いた。 「そうですよ。二死《ツウ・アウト》じゃないですか」  気が急《せ》くなあ。 「この俺が……?」  というふうに係長は自分の鼻を指した。 「そうですよ」  私は、なおも腕を廻した。係長は、へたばっていたのである。歩くようにして本塁にむかったが、寸前で憤死した。私の指示は正しかったけれど、心のどこかに、F課長に一挙に三打点を記録させたいという気持があった。  F課長は二塁塁上に仁王立ちで、やんやの喝采《かつさい》を受けたが、野球技では三死あるときは攻守交替せねばならないという規則がある。  この日、我が軍の攻撃は大いにふるった。二回に二点、三回に一点。一回の三点とあわせて、計六点。しかし、相手のY工場チームは一回に五点、二回に九点、三回に四点、計十八点。コールド・ゲームの規則はなかったが、あまりに試合がながくなったので、審判長である常務が、 「もう、いい加減にせんかい」  と怒鳴ったので、終りになった。十八対六で負けた。この試合で、私は他にも用兵の妙を発揮したのであるが詳述する紙数がない。  第二試合は、Y工場とM工場。この試合があるために、Y工場チームが、我が軍に対しては二軍で対戦したことがすぐにわかった。てんで問題にならないくらい、第二試合のY工場軍は充実していた。それでもM工場に四対零で負けた。そのM工場が、T工場チームには歯がたたなかった。九対一ぐらいのスコアだったと思う。この日はリーグ戦形式であったが、我が軍がM工場、T工場とどういう試合をしたか記す勇気がない。軍歌『橘中佐』下の巻は「ああああ、悲惨、惨の極」ではじまっている。  全イニング出場を希望したF課長が、地面に坐りこんでしまって、 「監督さん、私、やすませてもらいまっさ」  と呟いたことだけは書いておく。とにかく野球らしいものをやっている気分になれたのは第一試合の二回の表までだった。敗軍の将、兵を語らず。         *  関東地区で優勝したT工場は、全国大会では最下位だった。 「上には上があるもんだな」  社内報でそれを知ったときに、私は心の底からそう思った。  高校野球は年毎に充実してくる。そこからプロヘ行かれるのは、ほんのわずかだ。プロ野球でも一位と六位では格段の差がある。一位の巨人軍でもドジャースには歯がたたぬだろう。  私のいた東京支店の宣伝部のチームの通算勝率はほぼ五割だった。ということは、私が投げても楽勝できる相手もあったということだ。そこからまたずっとさがっていって、末は小学一、二年生のクラブチームに及ぶ。どうも、我が国の野球人口は、実にたいしたもんだな。 [#改ページ]    軟式野球場  酷暑、酷寒の時が私たちの野球チームの野球シーズンである。あとはすべてシーズン・オフである。一月の半ばから二月いっぱい、七月の初めから八月の終りまでということになる。  どうしてそうなったか。  第一に、野球場が借りられないからである。春とか秋とかの、土曜日の午後、日曜日の朝から夕方までというときに野球場を借りることはほとんど不可能である。草野球をやったことのある人には、これ以上説明する必要はないと思う。  第二に、私たちのチームというのは会社のチームのことであり、会社は宣伝物を製作する会社であるためにそうなってしまう。  歳暮用の宣伝製作が終り、新年原稿が終り、一月中に出稿する新聞雑誌の広告をつくってしまって、新年の挨拶廻りが済んで、やれやれというのが一月の半ばである。専門的なことをいうと、二月の広告は、一月中の普通原稿と大差ないもので間にあう。つまり、その頃が閑《ひま》である。  七月の半ばというのも同様である。中元用の広告製作が済んだ後である。  ここにおいて、二八《ニツパチ》が我等の野球シーズンとなる。  はたして、監督から、蟄居《ちつきよ》している私に電話がかかってきた。 「明日の三時から、やります」         *  このごろは、会社での仕事が、めっきりすくなくなった。  ひとつには、私たちの年齢の者がいつまでも第一線で頑張っていたのでは若手が伸びてこないと思ったので、こちらから退いたのである。また、現実に、若い人たちのほうが格段にうまくなっている。上手下手は問わないとしても、若い人たちのほうが今日的で、そのほうが広告の仕事には適しているのである。  もうひとつは、体をこわしたせいである。各部署の担当者が遠慮するようになった(頼りにならぬと思われているのかもしれぬ)。  さらにつけくわえると、去年から今年の三月までに親会社の社史を書くという大仕事があった。調査・取材に半年を要した。執筆に二十日間かかった。そこで、その仕事が終ったあとで、すこし遊ばせてくれているらしい(これは、当方に都合のいい解釈であるかもしれないが)。  そういうことで、三月以降、ほとんど仕事をしていない。  こうなると、旅行とか宴会とか、会社関係の催しものには、かえって積極的に参加するようになる(一種の芸者だな)。野球も同じことである。  明日の三時から野球があるという連絡をうけたときに、私が即座に、ハイ、行きますと答えたのには、そういう気味あいもあった。また、その野球場は、私の家の近所といっていいくらいに近いのである。         *  私は三十分ばかり早く野球場に到着した。すぐにユニフォームに着がえてグラウンドにおりた。  炎天である。夏の三時という時刻である。ずっと雨が降っていない。グラウンドは固く、歩くと忽《たちま》ち埃《ほこり》が舞った。  グラウンドには私一人しかいない。グラウンドだけでなく、あたりに全く人影がない。そこは山の中腹をきりひらいた運動場で、一里四方が見渡せるかと思われるくらいの場所であるが、私のほかに人間の姿が見えない。  私は、去年の夏以来はじめて野球をすることになる。ということは、病気を宣告されて以来である。酷寒のときは、社史の仕事で参加できなかった。  去年の夏にも私は一時間も早く野球場に来てしまった。そのときも一人っきりだった。一人で体操したりランニングしたりした。地面から胸や顔の高さまで、熱気がたちこめていると思われる暑い日だった。  私が早く野球場へ行くのは、急勝《せつかち》なためでもあるが、みんなの来るまえに一汗かいてしまってアンダーシャツを取りかえたほうがゲーム中の体が楽だと考えているからである(どうだろう、この真摯《しんし》な態度)。  さて、グラウンドにおりた私は、いきなり駈けだす勇気がなかった。なにしろ、病気は糖尿と心臓なのである。炎天であって、あたりに人がいないのである。危険である。  ピッチャーズ・マウンドに立ってみた。そこからホーム・プレイトを見た。私は自分の眼を疑うという気持になった。捕手がミットをかまえるべき位置までの距離が遙かに遠いのである。  少年時代に、そこから速球やカーブやシュートを投げたのが嘘のようである。とうてい球が届くとは思われない。私の気分は、始球式のときの正力松太郎のそれにちかかったと思う。  そこで私は、ネットから五メートルの距離に近寄って、金網の下のコンクリートにむかって球を投げ、はねかえってくるのを受ける練習を続けた。  三十分早く到着して、京橋にある事務所から来る連中が定刻より遅れたので、ずいぶん長いあいだ、その運動をくりかえしたことになる。私の恰好は、不調のために干されている投手のふて腐っている姿であったろう。おそるおそる、それをやっていた。はねかえってくる球をショートバウンドで捕るようにする。  その間に、私は、妙なことを思った。 「いまなら、会社を、やめられる」  突然の考えに、自分でびっくりした。それまで会社をやめるなんて思ってもみなかったことである。 「おれは、いま、遊んでいて月給が貰えるという結構な御身分ではないか」  そんなふうに考えながら、投球と捕球を続けた。 「しかし、いま、社長や専務が、やめてくれと言ったら、やめちまうなあ」  私は、ある男のことを思いだした。そいつは会社員だった。私の部下だった。         *  十年よりもっと以前に、私は別の会社に勤めていた。その会社に困った男がいた。私より入社歴は古い。年齢は少し若い。入社歴からするならば、彼は私に追い越されたのである。  彼は無能であり怠け者である。それだけならいいのだけれど虚栄心と僻《ひが》み根性が強い。いちばん困るのは徒党を組みたがることである。かきまわす。  私は彼を憎んだ。といって馘首《くび》にすることはできない。いろいろの事件があった。いよいよ憎んだ。  その結果、私は彼に仕事をあたえないようになった。手に負えぬのである。  彼は結構な御身分になり、ますます内職に精だすし、依然として汚職にちかいことをやるし、威張るようになった。  それが一年間に及んだとき、部長が喫茶店に呼んだ。 「××をやめさせたよ」  私はびっくりした。そんなことしたら、得意の弁舌で喰いさがり、暴れ、組合に訴えるだろうと思っていた。 「やめてくれませんかって言ったら、あっさり、やめますって……」  部長はホッとしたような顔で言った。  私が軟式野球場で思いだしたのは、そのことである。  怠け者の社員を馘首《かくしゆ》しようと思ったら、ひっぱたくのでなく、そっとしておいて、結構な御身分にしてしまえばいいということになるけれど、これはちょっと怖ろしい考えである。 [#改ページ]    走者一、二塁  小学四年生の頃から中学二年生ぐらいまで、よく神宮球場へ野球を見に行った。それからあとは、だんだん野球はいけないことのようになっていった。世の中がだんだんに田舎臭く野暮ったくなってゆくように思われた。どうも軍隊がのさばりだすと、野暮に野暮になってゆくようだ。  その頃が六大学野球の全盛時代だと思っていた。すなわち昭和十二、三年である。ところが、私より年長の人にいわせると、そうではなくて、七、八年であるという。もっと年長の人は昭和初期であるという。誰でも、自分がいちばんよく見たころを黄金時代だと思いたがるようである。  市電に乗って、神宮球場に近づいてくると、私は胸が騒いだ。外野席の高い建物が見えると、どうしても歩いていることができなくて小走りになる。それは私だけではなくて大人の人もそうだった。駈けたって良い席がとれるわけではない。一刻も早くグラウンドを見たいのである。階段をかけのぼって、グラウンドを見渡したときの気分がなんともいえずいい、おそらく、こんな気持のいい眺めは他にないだろう。  野球で、いちばん私の好きなシーンは、零対零で進んでいったときの「無死走者一、二塁」であった。そのとき、私の胸ははりさけんばかりになる。グラウンドを正視できないようになる。私は自己流でスコアブックをつけていたが、手が震えてしまって書けないのである。次に何が起るか。期待と怖れで鼓動が激しくなる。バッテリーが何事か相談する。伝令が飛ぶ。内野手が集まって守備陣形の打ち合わせをする。長くなると外野手達は、遠距離のキャッチボールを開始する。ブルペンでピッチング練習を続けている救援投手の顔が次第に蒼くなる。ああ、もう駄目だ!  無死走者一、二塁となると、昔のアナウンサーや新聞記者は、これを「絶好のチャンス」と表現した。  両軍無得点の中盤戦、第一打者が中前に快打する。次打者は当然バントである。投手はこれを警戒しすぎて歩かせてしまう。さあ大変だ! もう駄目だ!  または、第一打者が四球に浴す。次打者のバントを投手が拾い、焦って二塁封殺を狙うが間にあわない。野手選択である。えらいことをやってくれた。さあ、大変だ!  無死走者一、二塁の次に起る場面は、なんだろうか。打者は三塁線に送りバントを試みる。これを防ぐことは出来ない。すなわち、一死走者二、三塁となる。次の打者がスクイズ・バントをきめるか外野飛球を放てば一点先取となる。前進守備の内野手の間を縫うか、その頭上をふらふらと越せば二点となる。私にはそのように空想された。防ぎようがない。だから「絶好のチャンス」なのであった。「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうち騒ぐかな」という正岡子規の歌は満塁を歌ったものであるが、私にとって「そぞろに胸のうち騒ぐ」のは無死一、二塁なのである。それを私は怖れた。怖れると同時に、そこが楽しいのであった。それを見に出かけたのだから。  私は子供のときは早稲田ビイキであった。しかし、早稲田が負けても、良い試合を見せてくれればそれで充分に満足した。豪快なプレイ、軽妙なプレイ、英雄的態度、緊張のあまりの珍プレイ、狂喜する応援団などを見に行ったのである。だから「無死走者一、二塁」となると、守備側の気持になってしまう。 「さあ困った。もう駄目だ。どうしても一点は取られてしまう。どうしよう」  次の場面を空想し、怖れると同時に、せっかくの好試合が、これをきっかけとして守備側がくずれ、凡戦になることをも心配したのである。  現在のプロ野球では「無死走者一、二塁」は昔のような意味での「絶好のチャンス」ではなくなった。なぜかというと、第一にバント守備が格段にうまくなったからである。この局面では三塁線に沿ってぎりぎりにころがさないと三塁で封殺されてしまう。一塁手か投手に拾われたら封殺される。だからむしろ強打に出たり、カウントによってはヒット・エンド・ランをかけたり、ダブル・スチールを敢行したりすることのほうが多くなった。  第二に、長打力のことがある。二死走者一塁で王とかスペンサーを迎えたときのほうが不気味である。迫力がある。一発で二点となってしまう。  野球は、このように変ったのである。         *  友人で、なんでも話を野球にたとえる男がいる。私が二十二歳で結婚したのをこんなふうに解釈する。 「君はね、初球打ちなんだよ。ストライクがきたら打ってやろうと待ちかまえているんだ。そういう男なんだ。嫌いな球でも臭い球でも、ひっかけようと思って」 「嫌いな球でもなかったよ」 「それじゃこうだ。ワン・スリーで真ん中の絶好球がきたんだ。それを狙い打ちする男と、もう一球待ってみようとする男とがいるだろう。ツウ・スリーにしたら、もっと好きな球がくるかもしれないし、ボールで歩けるかもしれない。君は前者だ。その型だ」  胃が悪いのに酒をガブ飲みする男を、 「ほら、第一球でも、ツウ・ナッシングでもノー・スリーでも同じ振り方をする選手がいるだろう。あいつは、あれだ」  と表現する。なかなかうまい。         *  前の会社で同僚だったZという男が大変な艶福家《えんぷくか》だった。妻子があるのに、Aという特定の女性がいた。このAが非常な美人であるうえに気立がやさしい。金品を要求しないし、妻と別れろなんていわない。Z夫人とAとは仲がよくて、AはZの家へ遊びに行って風呂にはいったりする。Zは艶福家だから、ときどき浮気するが、Aは平気である。艶福家であるための第一の条件はコマメであることだろう。そうでなくては勤まらない。  そのうちに、ZにBという準特定の女性ができてしまった。Zがこれに熱をいれたのである。Bは、Aとはタイプが違うが、やはり素敵な女性だった。ZにAという女性がいることを知っていた。それでもいいと言ったのである。この際はZを讃えるべきであろう。どうにも凄い男だ。  ところが、ここに思いがけぬ厄介が生じた。Aが怒ったのである。それじゃあ奥さんに悪いという不思議な論理が発生した。BのことをZ夫人に告口した。今度はBが怒った。妾《わたし》はAさんのことは許しているのに……。BはZ夫人に手紙を書いてAとZとの関係を知らせた。遂にZ夫人が怒りだした。Aを自分の妹のように思って可愛がっていたのだから無理もない。ここにおいてZは困難な立場に置かれることになったのである。  どんなことでも野球にたとえる友人が、Zの事件を次のように解説した。 「ノー・アウト、一塁・二塁の絶好のチャンスだったんだ。二塁走者がZ夫人、一塁走者がAだと思ってくれ。次の打者がライト前にクリーン・ヒットを放った。胸躍る場面だ。やった! と思って満場総立ちさ。二塁走者は当然ホームを狙う。だけど三塁コーチャーが敵の右翼手の強肩を考えて、三塁にストップさせたんだ。一塁走者は右翼安打だから三塁を狙った。ひょいと見ると前にランナーがいるんだな。結局、二塁走者が押しだされて三本間に挟殺。一塁走者も三塁でアウト。打ったランナーが二塁へ走って、これもアウト。よくあるプレイだ」  無死走者一、二塁はチャンスであるが、時に残酷な結末を招くことがある。 [#改ページ]    私は背番号60  野球のユニフォームに背番号がつくようになってから、私の番号は、ずっと57番だった。もちろん、会社の野球部ではなくて、自分の部署、すなわち宣伝部の野球部であって、軟式野球である。  私は自分のチームのことになると夢中になってしまうタチであるから、大きな声をだすし、審判や相手チームと喧嘩するし、長距離打者であるから、宣伝業界の草野球では57という背番号を記憶しておられる方が多いことと思う。  なぜ57という大きい番号を選んだかというと、ひとつには、いつも新人であるような清新な気分でいたいからだった。私は監督であるが、同時に新人でありたかった。それならば、48でも53でもいいわけであるが、57を背負ったのは、実に、南海ホークスの広瀬叔功にあやかりたかったためである。広瀬は現在は12番であるが、昭和三十五年までは内野手で57番であった。 「野球の選手」という言い方があるとすると、広瀬は野球の選手である。そう呼ばれていい何人かのうちの一人である。野球をやっているが、彼は柔道や相撲をやったほうがよかったのではあるまいか、と思われるような選手がいる。中距離ランナーかラグビーをやったらいいのにと思わせる選手がいる。あるいは大学の講師とか市役所の窓口にいたら似合いそうだなと思われる顔付の選手がいる。  たとえば大洋ホエールズに近藤和彦という名選手がいる。阪神タイガースに藤井栄治という外野手がいる。近藤は外野を守ってもうまいし一塁手としても一級品であり、数すくない三割打者の一人であり、その打法は独特であって天才型である。プロ選手としての特異の風格も備えている。藤井は、守備もうまいし、現在のプロ野球には珍らしい非常なる強肩の持主である。その打力は好機に強いという意味で屈指の五番打者である。この二人を私が「野球の選手」と呼ばないのは何故だろうか。  どうか素人の意見だと思って聞き流していただきたい。私は、かねがね、どうもこの二人は野球選手としてのカンという点で十全でないと思っているのである。そんなことを言ったら怒られるかもしれないし、びっくりする読者がいるかも知れないが、これが私の野球の見方である。第一の疑問は、走塁にある。走り方がうまくないと野球にならない。  近藤と藤井に共通するところのものは何であろうか。ひとつはポーカー・フェイスであり、もうひとつは片手捕りである。さらにいえば、強打者の割には本塁打のすくないことである。ポーカー・フェイスはわるいことではないが、片手捕りは許せぬという気持が私のなかにあるのである。たとえば仕事は非常によく出来るが、会議ではいっさい発言しない会社員に似ている。そういう違和感がある。本塁打のことでいうと、中距離打者であることは認めるが、年間二十本、すくなくとも十五本は打たないと、現在のプロ野球では一流打者といえないのではないか。二死無走者で打席にはいったときの凄味がない。これは走塁の巧拙も計算にいれての話であるが。  野球には「ピッチャー」というものがある。これは特殊なポジションである。阪神のバーンサイド、権藤正利、大洋の稲川誠といった人が他のポジションを守っている姿が想像できるだろうか。そもそも、この人たちが、なぜ野球に発心したかということがわからない。それでいいのである。むろん、ピッチャーにも稲尾のような「野球の選手」もいるが、毎試合出場するわけではない。  南海の野村克也も野球の選手であるが、彼は「キャッチャー」である。ラグビーのことはよくわからないが、フルバックを「ラグビーの選手」とは言いにくいのではないか。他の競技におけるゴール・キーパーもしかり。だいたい特別な用具を身につけるという意味でも特殊な存在である。その点では一塁手もこれにちかい。つまり、野球の選手とは、二塁手、三塁手、遊撃手、外野手のことである。  読売ジャイアンツの長島茂雄は「野球の選手」である。しかし、まさか背番号3を背負うわけにはいかない。長島は選手であると同時にスターなのである。申しぶんのない体躯でもある。  57番を選んだ理由をこれで納得せられたであろう。私は広瀬叔功が好きだったのである。彼の「野球っぷり」が好きなのである。あれが私における「野球」なのである。八年前からずっと57番を守ってきた。その頃、彼は攻守ともに荒っぽい選手だった。月給も安かったろう。ただし気力充実していた。私が会社の自分の部署だけで野球部をつくって、監督になって自分の背番号を57にしたのは、その気力にあやかりたいと思ったからである。そういう意気込みで仕事をしたいと思ったからだ。  一昨年、四割を維持していた頃の広瀬が打席にはいったときの構えは素晴らしかった。あれならどんな球でもはじきかえせるように見えた。単打で一塁から本塁に突入できるのは彼だけである。ヘルメットをかぶらないで、ホーム・プレートにおおいかぶさって投手を睥睨《へいげい》するのは広瀬叔功一人あるのみである。         *  こんど、新しい小さな会社に移って一年半が経過した。そこでも野球のチームがつくられることになった。もう私の出る幕ではない。野球はやりたいのであるが、私が中心になるわけにはいかない。オマカセでゆくより仕方がない。私の年齢は、プロ野球現役最古参だった関根潤三より一歳年長である。  出来あがってきたユニフォームを見ると、私の背番号は60である。それを見たときに、新橋にある小さな酒場へ行くための絶好の口実ができたように思った。  いつまでも新人でいたい、その心意気を失いたくない、無名時代の広瀬でありたいという意味での57番であることを同僚に語ったことはなかった。  監督であるのに57番であることを問われたときに、いつも私は、こう答えた。 「三原脩に毛が三本足りないから」  だから、60番をくれたのは、もう総監督でいいでしょうという、同僚の好意と冷やかしであるに違いなかったが、私は現役であることを拒絶されたように受けとった。私の脳裏には、さまざまの野球が浮かんでいた。子供のときは少年野球の全盛時代で、私のチームは傷病兵慰問の野球大会に招かれたりした。私は花形選手だった。会社員になってからの代打サヨナラ安打。長打力発揮時代(笑ってくださるな)。小学校から今にいたるまで、野球はずっとついて廻った。私の野球は仕事と直結していた。そいつに終止符がうたれた。  60番のついた野球バッグを持って小さな酒場へ行った。 「とうとう、こうなっちゃった」  私はバッグを指した。友人たちは、はじめは何のことかわからなかったらしい。自慢しているとでも思ったらしい。 「武運に尽きたる勘平が、身のなり行き。推量あれ……」  歌舞伎評論家で野球通のT氏にだけは通じたらしい。 「……と、血ばしる眼《まなこ》に無念の涙、か」 「勘平殿は四十になるやならずに死ぬるのは、嘸《さぞ》、悲しかろ、口惜《くちおし》かろ……」  ほんとに泣けてきた。 [#改ページ]    床 屋 球 談  高校野球ですか、あれは楽しくもあり苦しくもありでしてね。なにしろ、朝の八時っからという試合がある。それで夕方までテレビの前に坐っていて、やれやれと思って晩飯を喰い終るとプロ野球がはじまる。まるで仕事にならない。女房に叱られましてね。こっちは、いや、もうすぐニュースになるから、なんて言っている。  話題はやっぱり金属バットですね。私が初めて見たのは、アメリカの大学野球が来たときですが、戸惑いましたね。いい音がする。速度がある。角度もいい。これはホームランだと思っていると、外野手は前進している。まるでわからない。私は、見るだけなら、四十年間も野球を見ているんですが、そういう私の耳が、金属バットで駄目になっちゃった。これは辛《つら》い話ですが、時世時節で、しようがない。木製バットの原材料が無くなってきたというんですから。  次に見たのが高校野球の予選、それから甲子園ということになります。  非常にはっきりしていることは、強いチームは金属バットを使っているということですね。だから、すくなくとも、高校野球では結論が出ているわけですね。金属バットを使ったほうが得だということがはっきりしている。強いチームというのは、優秀な監督に率いられたチームなんですが、その監督さんが、金属バットのほうが有利だと思っている。  そうして、その結果がどうであったかといいますと、答えが二つでてきた。そのひとつは、シュートボールは駄目だということですね。まるきり駄目だというのではないですが、以前ほど有効ではなくなった。なぜかというと、金属バットの根元に当った、つまった当りがヒットになってしまう。以前なら三塁フライとか、あるいはバットが折れるかというような当りが、三塁手や遊撃手の頭を越えてしまう。私はシュートボールも直球のひとつと考えているのですが、直球が駄目になった。速い球だけの投手が駄目になった。土浦日大の工藤投手がそうですね。工藤でも打たれる。反対に、東海大相模の一年生の村中投手は、非力なピッチャーですが、三球のうち二球はカーブという、そういう投手が好投する。それから、速い高い球が危険ですね。ジャスト・ミートすると外野手の頭を越えてしまう。そんな具合に変ってきた。低い球、カーブ、変化球、チェンジアップ、これでないといけない。銚子商業の土屋、鹿児島実業の定岡は、速球投手ですが、カーブがよかった。カーブのコントロールがよくて切れ味がいい。そういうふうになってきましたね。  もうひとつは、下位打者の活躍ですね。下位を打つ打者はバットを短く持って、ジャスト・ミートをこころがける。これがよかった。当れば飛びますからね。鹿児島実業の選手は全員がこれをやっていた。チームとしての鹿実はBクラスですね。力からいえば。これが大活躍したのは、運もあり、努力もあったんでしょうが、金属バットのおかげでもあると言えるんじゃないでしょうか。  全体に、金属バットで野球が変ってきた。荒っぽくなってきた。荒っぽいなかに技巧が必要になってきた。アメリカの野球に似てきたんじゃないでしょうか。  金属バットによる攻め方、守り方は、まだよくわかっていないという段階ですね。私もわからない。それで、野球のわかっている人に質問するんですが、誰もわかっていない。花火に似ているなんて言う人がいますね。形のことですが。電気花火というんですか、あんな形で、あんな色の花火がありますね。いずれにしても、もっと色々な形、様々な重さのバットが出揃ってからでないと本当の結論が出ないように思います。         *  高校野球を見ていて、いつも思うのは、審判の不手際ですね。はっきり言って、うまくない。うまくないのは公平でないということになります。球審の判定が納得できない。  高校野球の選手は、部長、監督、先輩、年長者の命令は絶対であり、まして審判は神様のように思うように教えられているのですが、そういう選手が、この場合はピッチャーですが、球審の判定に対して首をかしげるという場面が何度か見られました。昨日のストライクが今日のボールになる。そういうことだったんじゃないでしょうか。  審判には癖があります。プロ野球の球審にも癖があります。監督も選手もそれを知っているんですが、いえば不利になるから言わないんです。しかし、わかっているんです。わかっていて、ひそかに対策は練ってあるんですね。同じ審判でも、その日によって違ってくることがある。投手の第一打者に対する第一球が外角の低目のきわどい球であり、これをストライクと判定する。そうすると、その日は、それがストライクになってしまう。  私が正式に野球をやったのは小学校のときだけなんですが、そんな少年野球でも、審判の判定には神経質になっていたものです。高校野球ですから、裏では必ず研究しているはずです。しかし、抗議は申しこまない。それが気の毒でもあり、見ていてイライラすることもありますね。これを高校生らしい清々しい態度と言うんでしょうが、私はそうは見ない。野球はラグビーやサッカーとは違うんです。ラグビーやサッカーを悪く言えばニセ紳士で、審判の見えないところでわるいことをしたりしている。粗暴な奴がいる。殴ったりしている。野球の場合は、激しい抗議、乱闘、まあ乱闘はいけないけれど、放棄試合、こういったものがゲームを左右したり盛りあげたりするといった要素があると思っています。そういうスポーツなんです。学校の名誉をかけた、監督の信念にもとづいた放棄試合なんていうのもいいじゃありませんか。それを押えつけるのがいいことかどうか。かげでブツブツ言うのとどっちがいいか。  高校野球で気になるのは、審判と解説者です。高校野球のテレビ中継の解説者は、これぞ千篇一律の見本ですね。狙《ねら》い球をきめよ。バットを短く持って外角球を右に打て。これしか言わない。ただし、私は解説者は気の毒だと思っています。おそらく、NHKの、それも高校生のゲームでは、言ってはならない言葉が多過ぎるんじゃないでしょうか。だから、結果から言うと、面白くない。ただただ感激あるばかりで、笑いの要素がひとつもない。従って、人間のスポーツに人間味がなくなってしまう。  私には、ひとつの提案があります。出場チームに負けたチームの監督に解説をやってもらったらどうでしょうか。すくなくとも、いまの解説者よりもそのチームのことをよく知っているはずです。いまの解説者は専門家のようであって専門家ではない。ふだんは他の仕事をしているわけですから。そこに無理があると思います。銚子商業と防府商業の優勝決定戦、これを私は東海大相模の監督の原さんの解説で見たかった。私ならこう攻める、こう守るといった具合に……。         *  私は、いちばん強いチームは東海大相模だと思っています。不幸にして投手力に難がありましたけれど、チーム全体の野球センスが抜群にいいですね。特に一人をあげれば、三塁手一年生の原辰徳さんがいい。私は、かなわぬ話であるが、この人を巨人軍の養成選手にしたいと思ったくらいでした。原さんと銚子商業の篠塚三塁手とは今大会の双璧だと思いました。  ただし、私は、ひとつの苦言を呈したい。東海大相模は、九州や和歌山から選手を引っぱってくるという噂を聞きましたが、あれは本当なのでしょうか。そうだとすれば、正しい意味での地域代表とはいえないんじゃないでしょうか。 [#改ページ]    実力の一種  すでに旧聞に属するかと思うが、今年の高校野球の三沢・松山商の決勝戦は好ゲームだった。野球の面白さに堪能したといってよい。  野球のことを書くときに、野球人口を考えて気がひけることがあるのだが、今回はそんなことはない。ふだんは野球を見ない人、野球のルールを知らない人まで熱狂したのである。私は予選のはじまる以前から、今年は三沢高が勝って東北の初優勝と予言していたのだから、放送のはじまる三十分も前からテレビの前に坐りこむことになる。  もっとも三沢の優勝ということは私の希望的観測であって、東北からは好チームが出るのになかなか準決勝にも進出できないのを残念に思っていたのである。それに、太田投手というのが昨年からのヒイキである。左足のあげ方、右手の引きも充分で、見た目にも美しい剛球投手である(彼が美男子であることは今年になって知った)。  私の叔母(明治生れ)のごときは、松山商は卑怯《ひきよう》だ、ピッチャーを二人つかってくる、こっちは一人なのに、と言って涙をうかべるのである。  まあ、この程度のファンをも夢中にさせた例だと思っていただきたい。  三沢・松山戦に人気があったのは、東西の決戦、古豪新鋭の対決ということもあったろうけれど、なんといっても太田投手がいたからである。  戦後には、尾崎、池永、平松といったような速球の名投手がいたけれど、太田には、特殊なムードがある。色白の少年投手というのは、それだけで悲壮感がただようのである。私は、あんなにマナーのよい選手を他に知らない。そう言っちゃわるいけれど、小比類巻《こひるいまき》という小柄の急造捕手では、さぞ投げにくかったろう。歩かせれば盗塁されるので腕が縮むのが普通である。しかし、太田にはそういう気配はまるでなかった。バックスは、守備も打撃も松山にくらべて一枚下である。太田は、そういうナインをはげまし、失策した野手をなぐさめるかに見受けられた。  健気《けなげ》という感じは万人の胸を搏《う》つ。人気の原因がこれである。しかも東北というと、なにか義経を連想させる。東北=孤軍奮闘の白面投手=敗者=源義経という具合になる。すなわち判官《ほうがん》贔屓《びいき》となってくる。私の周囲は、松山市出身の友人夫妻を除いて、すべて三沢乗りであった。         *  ただし、技術的に見て、特に策戦の面において、両校とも完璧であったとは思われない。高校野球といえども、投手が三番を打っているチームは優勝できないというのが私の持論である。  投手は強打者であっても五番か六番を打たせるべきである。走者のいるときに打てばよい。そうでないと負担がかかりすぎて、投打に影響をおよぼす。  結果論といわれても仕方がないが、三番の太田は、二試合を通じて十一打数一安打であった。最初の試合はともかく、どうして二度目の試合にオーダーを組みかえなかったかと思う。誰が見ても、一番を打っている八重沢を好打者だと思ったろう。この人を三番に置き、振れている菊池、谷川を上位に据え、そのあとに桃井、勝負に強そうな小比類巻を五番、太田を六番というのが点の取れる打線だと考える。すくなくとも太田が楽になる。  一方の松山商も、引分試合の十五回に一死満塁のピンチをきりぬけたところで、十六回は中村にリレーすべきであった。私は、テレビを見ていて、十六回に井上が出てきたところで友人たちに、これで松山商の負けと叫んだのであった。そのように井上はアップアップの状態であり、またしても一死満塁に追いこまれた。これで勝てたのは球運というほかはない。ただし、決勝再試合で、七回に一点とられたところで井上にスイッチ、八回にすぐに中村をマウンドに呼びもどしたのはベンチのファインプレイであった。このへんが、私の叔母に言わせれば、松山は二人がかりだから卑怯だということになるのだろう。  これは三沢・松山戦にかぎったことではないが、一点を争う試合の一死一、三塁で、一塁走者が二盗するのは誤りであると思う。二、三塁となれば投手はセット・ポジションでなくワインドアップで投げられるし、内野手は中間守備を解消できる。一、三塁で攻めるのが野球の常道だと思う。  その他のセオリーに関していえば、私には不満な点が多かった。  しかし、それならお前が監督をやったら優勝できたかと問われるならば、私は否と答えざるをえない。なぜかといわれても、これも返答に窮するが、なんとなくそんな気がする。私が監督をやれば予選で負けてしまうだろう。策に溺《おぼ》れて負けてしまいそうな気がする。  一番の八重沢が打ち、三番の太田がこれを返すというスタイルで三沢高校は勝ち進んできたのである。わかっていてもオーダーを変えるということは出来にくいことである。そこに、セオリーだけでなく、理外の理がはたらく。そうして、それが高校野球というものだろう。勝抜戦ということも関係してくる。  松山商業のほうも同様であって、決勝再試合に井上を先発させたのは無茶である。両校とも前日と同じメンバーでスタートしたが、NHKの解説者は、一歩も退かぬ気構えを見せたものだと言った。退いたほうが負けだと言った。そういうものかもしれない。そのへんが、つまり、私が監督をやれば負けるという気味あいにつながってくる。  ここで松山の側にたつならば、松山には投手が二人いるのではなくて、主戦の中村が腰を痛めて、やむをえず遊撃手の井上を投手にしたのである。卑怯ではなくて、そこが松山の泣き所であったのである。強打の樋野《ひの》も遊撃手としての守備は不安定であった。         *  二日目の決定戦のとき、NHKのアナウンサーは、審判が松山商に味方しているという電話があったと言った。これは、うっかり口をすべらせた感じで、あわてて反対意見もあったとつけくわえた。  実は私もそのように見た。  第一戦の十五回裏、一死満塁、打者立花でカウント1─3となった後の球は、それまでの判定からすればボールであったと思う。私は三沢が勝ったと思って腰を浮かせた瞬間にストライクの宣言があった。抗議の電話はそれだったろう。  私はこんなふうに考える。主審は、こんな好ゲームを押し出し決勝点で終らせたくないと思ったのが、まずひとつ。次に、逆に松山の攻撃であったらボールと言ったと思う。三沢と松山の差は選球眼の相違にあった。松山の選手が見送ったのだからボールだと考えるのは無理からぬところである。あのマナーのよい太田投手が首をかしげる場面が何度も見られた。そこに練習量、試合経験、打力の差が見られた。三沢の選手は明らかにボールと思われる球を空振りすることが多かったが、松山はよく球を見ていた。すなわち、きわどい球を主審にボールと言わせるのも実力の一種なのであって、決して不公平ではないと思う。  ともかく、試合が終って、松山の全選手が泣き、三沢ナインが泣かなかったのが印象的だった。 独楽《こま》が澄むという状態で試合が続き、終ったあとの満足感は三沢のほうが大きかったと思う。三沢のほうは試合が終ってもまだ澄んでいたように見えた。 [#改ページ]    草野球の日  サントリーの宣伝部に入社して一年後に、私は野球部をつくった。監督で四番を打つこともあった。  草野球の監督というのは、なかなかに妙味のある仕事であり遊びである。もっとも頭を悩ますのは、球場に集まった全員を出場させなければならないということである。十五人くれば十五人を使いきらないといけない。しかも、それぞれにミセ場をつくらないといけない。  ところが、相手チームの監督にも同じ悩みがある。そこを狙《ねら》って奇勝を博したことがたびたびあった。試合前の練習を見て、これはとても勝てないと思ったときは、わざと、我が軍は下手な選手を出場させる。  ただし、一塁手と三塁手だけは守備のうまいのを置く。投手はコントロールさえよければ誰でもいい。そうして、内角低目にゆるい球を投げさせる。すると、どうしても、強打されてもファールになるか三塁ゴロとなる。  こうすれば、四回までに、失点は五点か六点でおさえることができる。敵は安心して有力選手を交替させる。  四回とか五回とかに、二死満塁といったチャンスをむかえる。そのときに我が軍の最強打者を代打に送るのである。そうやって僅差になったときに、こちらはベストメンバーを組むのである。  私は、どういうものか、試合当日になるとカッカと燃えてしまう。監督がそれではいけないのであるが、わかっていて、どうにもならない。  山藤章二さんにお目にかかったときに、その当時の私を知っていると言われて、シマッタと思った。醜態を見られてしまった。山藤さんはナショナル宣伝研究所におられて、我が軍と試合をしたことがあるという。  たとえば、こういうことがあった。  最近、文藝春秋から『船旅の絵本』というキレイな本を出版した柳原良平さんは、会社で机をならべていて、仕事でずっとコンビを組んでいた。  彼は運動神経が鈍いのである。不思議に思われるかもしれないが、運動に関しては不器用なのである。  彼の我が軍における二十六打席連続三振という記録は未《いま》だに破られていないはずである。どんな球でもバットを振るから、四球で歩くこともない。  その柳原さんが、あるとき、二塁手の右にライナーのヒットを放って出塁した。我が軍は狂喜乱舞して、拍手が鳴りやまなかった。  三塁コーチ・ボックスにいた私は、そのとき、あぶないと思った。一塁手がボールを持っているのである。普通の選手であったなら、おい、ボールを持っているぞ、とどなれば、通ずるのである。彼は野球を知らないし、走者になった経験がない。  はたして、隠し球でアウトになった。  その瞬間に、私は、一塁手を目がけて突進していた。 「おい、きたない真似するな」  一塁手は、私の見幕に押されたのか、キョトンとした顔をしていた。私自身は、トリック・プレイは好きだが、隠し球だけはやったことがない。 「この男は何も知らないんだ。そういう男に卑怯なことをするな」  柳原さんはアウトになったこともわからずに塁上にがんばっていた。  野球のあとのビールぐらいうまいものはない。私は燃えきった後なのだから余計にうまかった。夏の野球のあとでは、まったく、こたえられない。  そうして、私は、相手チームの一人一人に、腹のなかでゴメンナサイと言いながら酌をして廻った。 [#改ページ]    草野球必勝法     ㈵  TV番組のなかで江分利が最も好ましく思っているのは、つい最近まで土曜日の夜七時半から八時までやっていた、ナントカという素人が歌って素人が審査するNHKの番組である。司会は宮田輝。  この番組を何かの加減で第一回のスタートのときに見てから病みつきになった。  たしか素人の審査員が二十人いて、合格と思ったら立ちあがり、その人数によって賞品を手渡す仕組みであるが、宮田輝がマイクを片手に、立っている人、坐っている人に合格・不合格の理由と感想をききに移動するところが、実になんとも面白かった。面白かったと過去形で書くのは、この番組が、日曜だか平日だか知らぬが、土曜の夜のAタイムをはずされてしまって昼の番組になり、それを未だに突きとめ得ていないからである。江分利は憤激してNHKの人にといただした。「私の一番好きな番組を何故やめたか?」係の人はこう言った。「たしかに都会では好評だったのですが、田舎《いなか》で反感を買いましてね、私どもも続けたかったのですが、仕方なく昼に移動させました」。そのとき何曜日の何時と教えてくれたのだが、カッとなっている江分利は、そのことは記憶からズレてしまった。江分利はそのとき、日本人の民度イマダシと思い、そのことにもカッとなり、あとでまた反省したのである。  さて、宮田輝と素人審査員との対話であるが、それはこんなふうに行われる。 「まず、この曲目をえらんだことですね、この歌はあの人にピッタリ合っていると思いました。それと、フィーリングですね。いいフィーリングですよ。声もいいし、小節《こぶし》が廻りますね」 「はあ、小節ね、こちらは小節がいいとおっしゃってます」 「小節はいいんですが、ただいけないことはこの曲目があの人にあってないことです。もっとこの人にピッタリあう曲目をえらんだら、もっとよかったと思います」 「なるほどねえ、じゃ次へゆきましょう……ええと、そこの眼鏡をかけたお嬢さん、あなたはどうしてお立ちにならなかったんです」 「全体にとてもよかったと思うんです。曲目も合っているし、動きもきれいだし、声もいいし、マイクのつかい方もお上手《じようず》だと思うし……」 「へえ、それじゃあ、どうしてお立ちにならなかったんでしょう」 「はい、とてもお上手なんですけど、ただ全体になんとなく……」 「全体になんとなくヨクナイ。なるほど。まあ、そういうこともあるでしょうねえ。それでは次の方、二列目のチェックの背広の男の方、ええ、いやその頭を短くかった威勢のいい方……」 「態度がいいですね、落ちついているし、堂々としています。なんていいますかモノオジシナイって感じですね、個性的で健康的で正直的ですね……」 「こちらは、態度がいいとおっしゃってます」 「ただいけないのは、いわゆる私が何故立たなかったかというと、ソワソワしていることです。もう少し落ちついて堂々と歌ってもよかったと思うんです。いわゆるモノオジシナイという感じがほしいですねえ。態度がよくないですねえ」  この番組を江分利は最高だと思っていた。これぞ“民主主義”と思っていたのである。宮田輝というアナウンサーのキャラクターについては、江分利はどちらかというとあまり好感を持っていなかったが、この番組に関するかぎり実にイイ感ジだった。生意気かもしれぬが聴視者(|受け手《ヽヽヽ》などという訳語もあったね)のひとりとして、進境著しと思っていたのである。あの番組をどこへやったか。公共放送としては、ああいう番組を育てることによって“民主主義”を推進するという方向が望ましいと思うのだが……ともかく、土曜日の晩酌のサカナとして、江分利はいつも腹が痛くなるほど笑ったのである。素人のよさ、日本人のよさを忘れてはならぬ。  つぎに、同じような意味で、江分利の愛し、かつ笑い、かつ憎んでいるのはプロ野球の解説者である。江分利は、これも総合的にいえば素人だと思っている。そのおもしろさ。  最終回の裏、2対2の同点、2アウト走者三塁という場面。かりに投手が巨人軍の藤田だったとする。第一球。直球でまんまんなか(余談だが、まんなかの直球を、ドまんなかの直球といわないでくれ給え。ドまんなかは関西弁である。ド根性、ド助平も同様である。もし東京弁を標準語と考え、標準語を放送局が採用しているとするならば)。  さて、これを打者が見送ったとする。解説者はまずこう言うね。 「いや、驚きましたね。いまのはド真中の直球ですよ」 「これはどういうことなんでしょうか」とアナ。 「つまり、これは、|逆の逆《ヽヽヽ》ですよ。さすがにベテラン藤田ですねえ、打者の心理を読みきっています」  これが江分利にはわからないのである。どう考えてもわからない。  逆の逆とは何か。逆の逆とはホントである。ホントとは何か。それがわからない。  この場面では、普通ならクサイ球を投げて凡打させるのが常識である。2死だから外野フライでもよい。藤田の武器はシュートである。往年はホップする速球に威力があった。藤田が慶応義塾大学に入り、一年生の夏にアメリカの大学野球と対戦して、神宮で日本選抜軍の投手として出場したときは、あっと驚くようなオーバー・ハンドからの豪速球を投げた。たしかナイターだったと思う。いまは、あの球はない。だからシュートを主体に、スライドして逃げる球を投ずべきではないか。ここでは、打席順や代打者を考慮にいれなければ続けて8球ボールを投げて2死満塁としてもよいのである。従って第一球に真ん中の直球を投げたのは、失投である。おそらく藤田の計算ちがいで、左右どちらかのコーナーを狙ったのがはずれたのである。シュートかスライダーがかからなかったのにちがいない。  打者が、外角のスライダーに|ヤマ《ヽヽ》をはっていたところへ真ん中の速球がきて、心理の裏をかかれてハッと思って見送ったとすれば、これは単に「逆」でよい。しかし、まず右でも左でも、あるいは高低いずれかにヤマをはっていたとしても、真ん中の速球(タイミングをはずしたスローボールは別として)がきたら、投手を狙ってはじきかえせるのがプロの選手だろう。  もし、この球をバッターがクリーン・ヒットしてサヨナラ勝ちとなったらどうなるか。 「藤田としては打者の心理の逆の逆をついたわけですよ」 「そういたしますと、バッターの方が逆の逆を読んでいたということになりますかねえ」 「そうです、逆の逆の更にもうひと逆を知っとったんでしょうねえ」 「ははあ、そうすると、ピッチャーとしては、さらにもうひとつ逆、つまり逆の逆の逆の逆でいくべきだったんでしょう」  よくこれで会話が通じるものだと思う。かくして野球解説も江分利にとって抱腹絶倒となるのである。これを野球弁でやるから、実際はもっと愉快である。野球弁とはいかなるものかというと、いまの野球解説者の平均年齢でいくと、彼等の現役時代は、中等学校では九州北部、広島、大阪、近畿、中京地区などが強く、従ってこれらの地方からのプロ入りが多く、集団生活をするから、各地のナマリが自然にまざってしまうのである。博多弁・広島弁・大阪弁・名古屋弁の混合である。「どや、お前、投《ほ》ってみい」「ようシバキよるわ」から急に丁寧な解説用語になるから、どうしても無理が生ずる。  こんなのもある。五回表、無死走者一、二塁。攻撃側は1点リードされている。 「こういうケースの局面の場合あたりでは、当然バンドでしょうねえ」  どうも、これはケースという言葉を使いたいために無理しているとしか思えない。どうしても使いたいなら、局面《ヽヽ》も場合《ヽヽ》もやめて、「このケースでは」でよい。  しかし、いったい、バンドとは何事であるか。セ・パ両リーグ、日本社会人野球協会、日本学生野球協会、全日本大学野球連盟、全国高等学校野球連盟、全日本軟式野球連盟の共同|編纂《へんさん》による1963年版『公認野球規則』によれば  二・一三 BUNT「バント」──バットをスウィングしないで、意識的にミートした、内野をゆるくころがる打球である。  となっている。  Tを濁って、Dに発音することは、まずあり得ない。こういうことを専門家が素人からたびたび指摘されて、しかも訂正しないのはおかしいと思う。だから野球解説者は総合的にみれば素人なのだ。プロ意識に徹していないと思うのだ。 「ああ、いま水原さんが、ズボンのバンドに手をやりましたねえ、これは、おそらくバンドのサインでしょう」 「なるほど、バンドですね」  泣きたいよ、全く。水原茂がさわったのはズボンのベルトなのだ。  野球解説者のアクセントや、用語の誤りを指摘したって仕方がないと思われる方もあるだろう。しかし、ことは相対的に、平衡感覚でもって処理したいね。いまや、一億総野球評論家時代である。洲崎《すさき》や上井草《かみいぐさ》の頃とはちがう。野球解説者の言葉づかいはユユシキ問題であるのだ。青少年学徒に与える影響力|甚大《じんだい》といわねばならぬ。前記水原茂が審判に抗議するときに吐くツバキだか痰《たん》だかの量が問題になる世のなかである。  野球解説者にはアナウンサーもふくめて二子山《ふたごやま》親方の愛嬌《あいきよう》がない。若ノ海の体躯《たいく》を「猫の年増《としま》太り」と表現する。絶妙で思わず膝を叩かせる態《てい》のものである。神風の明晰《めいせき》がない。将棋解説者の仏法僧、金子金五郎の筆力がない。アベレージとデータが重要なのに、一部の人をのぞいて勉強がたりない。結果論だけで言う。間違ってもいいから結果の出るまえに自分の意見を言ってほしい。その意味で、江分利がひそかにヒイキにした解説者は現阪神タイガースのコーチ青田昇であった。     ㈼  江分利は東西電機宣伝部野球チームの監督である。  部長・課長・係長以下二十七名、全員が部員である。女子も応援団員として会費をおさめている。会費のことでいえば、わが East & West 軍の会費はすこぶる高い。最高が毎月五百円、中堅社員が三百円、新人でも二百円である。病気で全然参加できない人でも百円。女子は弁当や菓子を持って応援にきたり、会計係をやらされたりするうえに五十円を徴収される(余談だが、会計係は絶対新人の花の如き少女であらねばならぬ。我が軍は毎月八千円見当のキャッシュがはいるのである。そこへ、時々、赤羽常務、部長、課長から寄附をいただく。宣伝部内の、たとえば宴会をやって余った金などは、鹿野宗孝主将が巧みにかすめとる。だから、結成して五年たった現在では十万円を越す普通預金通帳を保有しているのである。独身男性がこれをあずかることは間違いのモトである。まして世帯持ちはどんなことでどんな誘惑にかられるか、はかり知れぬものがある)。  野球部の会費(部費というべきか)を高価にしたことには、江分利の監督としてのひとつの狙いが秘められている。まず、高価であれば否応《いやおう》なしに関心が高まる。そして、当然出席率(出場率かな)がよくなる。草野球ではまず人数をそろえることからはじめなくてはいけない。E&W軍では自家用車(この言葉は少し古めかしいが、今様では何というのか知らない。間借り、寮生活、社宅で車を持っているのは、下の用車《ヽヽ》はわかるが、上の自家《ヽヽ》の二字にどうもヒッカカル)を持っているのが三人いる。これが用具運搬係である。この手当は会費から支給する。その他、私鉄ストなどの際のタクシー代も支給する。従って出席率がよくなる。  資金が豊富だから、ボールが叢《くさむら》に入って捜索困難と判断したときは、江分利が大声を発して拾いに行かせない。相手チームに賞品を贈る。試合終了後は小宴会を催す。納会では馬鹿騒ぎできる会場をえらび、優秀選手を表彰する。万事につけてゼイタクである。何故か。東西電機のように急上昇した会社の仕事は、まことに激務である。会社がどんどん発展するのだから、楽しい、ユカイな忙しさであるが、忙しさには変りがない。新製品で押しまくるから、勉強もたいへんである。だから日曜日の野球は、あくまでも遊びであって、仕事のじゃまにならぬよう、心理的にもゆったりとしてもらいたい、というのが江分利のねがいなのだ。雑用もほとんど自分でひきうける。監督だから、独断独裁軽挙|妄動《もうどう》をモットーになんでもひきうけるが、時々の失敗も許してくれと部員に言ってある。そして部費は少しゼイタクに使う。部費で思いだしたが、結成当時はその調達に苦労した。江分利はトトカルチョや賭《か》けを利用した。たとえば、日本シリーズでは何勝何敗でどちらが勝って最高殊勲は誰といった賭けを1口百円で募集するのである。これは簡単で、当りそうな錯覚をだれでも抱くが実際は非常にむずかしいのである。正解がなければ球団で没収、正解者は配当金の二割をテラセンとして球団に寄附するのである。これでずいぶんもうけた。たとえば、これは一例にすぎないが、大毎ミサイル打線とヨロメキ初優勝の大洋とがぶつかれば、まず七割が大毎に賭けるのが常識である。大洋に賭けても、4=3、4=2というところである。ところが、ご存じの通り大洋のストレート勝ちという意外また意外の結末である。これを当てたのは、野球を全く知らぬ杉本カメラマンだった。彼はあいているところヘサインしただけだ。球団はもうからなかったかというと、そうではない。杉本カメラマンが最高殊勲選手を近藤|昭仁《あきひと》といいあてるのは無理だ。つまり、この種の賭けはいかにも当りそうでいて野球通にも素人にもなかなか当らないのである。江分利はまた、デパートの玩具《おもちや》売場をのぞいて、新作のゲームを買ってきた。ゲームは単純で短時間で勝負がつくものの方が面白い。これに一回十円の使用料をとるのである。うまくあたると経理課や営業からも昼休みに借りにくる。部員が監視して使用料を徴収する。スマート・ボールと撞球《どうきゆう》をまぜた、なんとかボールという、名前はもう忘れたが、そのゲームは大当りして重役室が秘書を通じて借りにきたくらいだから豪気なもんだった。坂根進がロンドンで買ってきたダーツ(dart 投げ矢)も当ったね。但《ただ》し、当りすぎると江分利は叱られやしないかと思ってヒヤヒヤした。叱られたことは1度もない。東西電機のような上向きの会社で、従って若い社員、若々しい重役の多いところでは、仕事に気合いがはいっていてしかも笑いがうずまいているから、妙な気兼ねはいらなかったのだ。もちろん、野球部の資金が潤沢となった現在では、もうそんなことはやらない。  草野球必勝法について書く。必勝法といっても相手方に高校時代野球部のエースなんてのがいたら勝てっこない。あくまで、まあチョボチョボという場合である。  草野球の監督のつらいところは、やってきた全員を出場させねばならぬという点である。十三人、十八人、二十三人、いずれの場合も全員出場ということがまず前提である。しかも草野球は大体は7回戦である。投手戦でタンタンと進むなんてときは、焦《あせ》るね。しかし、この全員出場は相手方も同じ条件である。ここに機微が存するのである。  投手にはコントロールのいい奴と、ヒネクレ球の持主の二名を用意する。前者が先発であり、丹念に内外角の低目を狙わせる。外野フライ落球というケースが多いからである。四球を出さないこと。ピンチに強打者をむかえたらヒネクレ球を出す。E&W軍には左腕でアンダースロー、ナチュラルシュートという妙なのがいる。無死、二、三塁というケースで、四番打者をむかえたら、敵は気負っているからヒネクレの悪球に手を出すのである。ピンチを逃《のが》れたら、すぐもとの投手にもどす。  強肩・好守を三塁に置き、ベースより二メートルまえで守らせる。当りそこねと浅い邪飛の処理である。  一塁には性格的にガメツイ奴、闘志のある者を置く。ポロリを防ぐためである。  捕手には忍耐力のある者。弱肩でもよい。草野球では2盗を刺せぬ、と考えた方がよい。  あとのポジションにも、それぞれ意味があるが、まあ、バッテリーと三塁、一塁が基本である。布陣はこれでよい。  課長、係長だからといって、よいポジションをあたえるのはよくない。と、まあ常識では考えるだろうが、ドッコイそうはいかぬ。逆の逆でいく。管理職にある者の責任感をフルに利用しなければ損である。特に、バッティング・オーダーでは3番、4番を管理職におくとよい。何故なら、責任感と気力が草野球では好打をよぶのである。一死三塁という局面で課長を代打に起用すれば、セカンド前にゆるいゴロを打って走者を還そうとする。課長の神経とはそういうものなのだ。これは一種のファインプレーである。若い社員は、気負って三振ということが多い。  草野球の球場はふつうは右翼がせまい。原則としていちばん守備のまずいのが右翼を守る。だから全員に右翼打ちを奨励する。といえば、いかにももっともらしく聞えるだろうが、バカなことをいっちゃいけない。右翼打ちができるくらいなら、もう草野球ではない。右翼がせまく、右翼手が下手だと見てとったら、チャンスに、やや振りおくれ気味の右打者を代打にたてる。これが監督の任務である。それ以上は不可能である。  江分利が三塁のコーチャーズ・ボックスからだすサインは二種類しかない。盗塁と、バッティング・チャンスに打つか打たないか、だけである。盗塁は牧野、麻生《あそう》、坂根の三選手にはサインを出さない。三人とも俊足だから、自由にやれ、といってある。牧野、麻生は短距離の選手であり、坂根はそれほど早くないが投手のモーションをぬすむのが実に巧みである。野球|勘《かん》を持っている。ノー・ツウ、ワン・スリーに打つか見送るかの、サインをどうやっておくるか、これを看《み》やぶられたら一大事だ。江分利は、たえずコーチャーズ・ボックスで大声でわめきたてて、手を叩いている。「負けるな、負けるな!」「いい球を逃すなよ」「狙え、狙え」「むかっていけよ!」「目をはなすな!」。それと拍手、たえず手を叩いている。バッティング・チャンスだが、相手投手が乱れている、もっと投げさせて疲れさせたほうがよい、走者をためて逆転、といったときには、大声で叫びつづけるが、手を叩かないのである。従って打者は江分利に全く無関心をよそおっていてもサインは分っている。「いいか、いい球狙えよ!」「クサイ球でもひっかけろ」と怒鳴っているが、実際は見送るわけである。  草野球では監督の指示はこの程度でよい。ヒット・エンド・ラン、スクイズ、送りバントなどはむしろ無意味で、のびのびと打った方がよい。  相手チームが味方よりも少し強いときはどうするか。勝てるか? 勝てるのである。守備練習、打撃練習を見てこれはイカヌと思ったら、江分利は前の晩に寝ずに考えたオーダーを急遽《きゆうきよ》変更する。つまり、ワザと弱体のメンバー表をつくるのだ。当然、リードされる。四回までは辛抱する。時には五回までガマンする。相手チームはE&W軍を見て笑いだすのである。そしてエースをベンチにひっこめたらしめたものである。先方にも全員出場という弱味がある。クリーン・アップの二人を変えるのを待つ。ベンチで控えている選手に「7点までは大丈夫、必ず逆転するよ」と囁《ささや》く。五回または六回、突如、我が軍は精鋭をくりだすのである。二死満塁に坂根進を代打に起用する。彼は好球がくれば左打ちでもオーバー・フェンスという打力をもっている。この手で奇勝したことがずいぶんある。従ってスコアは、18対17、13対11などという凄《すご》いことになる。但し、この戦法は初顔合せでないと通用しない。  東西電機宣伝部の全員が野球部員である。だから、この人がというようなのがユニフォームを持っている。 「江分利さん、ピッチャーと捕手は味方同士ですか?」  なんていわれると、泣きたくなるが致し方がない。江分利としては、こういう選手にヒットを打ってもらいたいのである。それが最大の喜びである。 「あのう、ユニフォームをつくってもらったのですが、軟式ですか?」 「軟式だよ」 「そうすると、巨人や南海のつかっているボールとちがうのですか?」 「ちがうよ」 「ははあ、そうすると、子供が公園でやってる、ゴムにイガイガのついているヤツですか?」  ゴムにイガイガねえ、まあ、そういうことになるかなあ。  だから、デザイナーで二塁手の柳原良平が26打席連続三振(現在までのプロ野球公認記録は東映高野投手の13打席連続三振である)の記録に終止符を打って右前に快打して、一塁ベースに仁王立ちになったときは、E&W軍のベンチは坂根進のホームランよりも沸きたって、握手攻めで試合は一時中断されたのである。ほんとうに涙ぐんで喜んでいる奴もいた。江分利としては、涙ぐんだ奴がいることを発見したことの喜びの方が大きいのである。  野球と会社の仕事とは無関係ではないと江分利は信じている。右の事件でもわかるように、このチーム・ワークは仕事に生かされる、と信じている。だから、新入社員はムリにでも入団させるのである。ただし、会社の仕事、つまりビジネスとそれ以外のオツキアイとは別物だという意見も、サラリーマンとしては立派な考え方だと思っている。これは江分利とは逆の生き方であるが、尊重したいと考える。ムリヤリといっても、そのへんの判断がむずかしいところだ。オツキアイは嫌《いや》だという個性的な生き方を逆の意味で江分利は愛しているのである。 [#改ページ]  ㈼ プロ野球の明日    プロ野球の明日  来年のパ・リーグは二期制になるという。それも仕方のないことである。そればかりか、リーグ自体の存続が危ぶまれている。  私は、かなり鞏固《きようこ》な二リーグ論者であった。……であったというのは、いまは考えが変ってしまったということである。  もう駄目だ。二リーグ制はとても無理である。お客さんの来ないところで試合をやったってしようがない。  プロ野球の隆盛を築いたのは巨人軍である。巨人軍の人気と実力である。しかしプロ野球を駄目にしてしまったのも巨人軍である。  ラジオでもテレビでも、巨人軍以外の試合を放送することは滅多にない。あったとしても、視聴率は惨憺《さんたん》たるものがある。第一、スポンサーがつかない。  巨人軍ばかりが、いい目を見た。巨人軍ばかりが儲《もう》かった。その結果、他のチームが儲からなくなってしまった。巨人軍との試合のあるセントラル・リーグの諸チームはまだマシである。パシフィック・リーグのほうはどうにもならなくなってしまった。強いのは結構である。しかし、七|連覇《れんぱ》、八連覇ということが「角を矯《た》めて牛を殺す」という結果になってしまった。  そこで、もはや、一リーグにしなければ、どうにもならない事態となっている。すくなくとも、どのチームも巨人軍と試合ができるようにしなくてはならない。そうでないと味の濃い試合が見られない。たとえば阪急というチームは、ここ一番という試合、短期決戦には弱いけれど、リーグ戦となると力を発揮する。そういう型のチームである。西本さんの性格も、そうなっている。一リーグなら、充分に優勝できる力を持っている。平均ペースのチームである。南海も面白い。このチームの打線は荒っぽいところに魅力がある。巨人・阪急、巨人・南海というカードは楽しい。そんなふうにしないと、野球を見る人がますます減ってしまうだろう。         *  プロ野球が駄目になったのは、もちろん、巨人軍のせいばかりではない。巨人軍は、むしろ功労者である。功罪半ばするチームである。  駄目になったのは、選手を大事にして観客を大事にしなかったからである。  野球場へ行ってみるといい。ちょっと大きい人は坐れない椅子である。足も伸ばせない。そのせまい座席の間を絶えず物売りが通る。若い人でも、ダブル・ヘッダーのときは、腰も肩も足も疲れきってしまうだろう。野球場へ行って、野球以外のサービスで楽しい思いをしたことがない。そのうえ、試合がつまらないのでは救いようがない。  なぜ、デーゲームをやらないのか。私はそのことを何遍も書き続けてきた。野球は昼間のスポーツである。高校野球も大学野球も日中に行われる。プロ野球だけがナイターになる。それなら日本シリーズも夜間試合にしてくれと言いたくなる。  私の考えは、平日はナイターとし、土曜日は二時か三時の試合開始、日曜祭日は正午からのダブル・ヘッダーとせよということである。そのことも何度も書いてきた。  そうでないと、子供がナマの試合を見られなくなる。子供の客を育てないといけない。少年の客がどんどん離れてゆく。日曜日の夜、試合が九時半に終ったとして、家に着くのは十一時になる。これでは子供を連れて野球見物に行くことは出来ない。  それから、地方都市での試合をもっと多くしてもらいたい。地方都市でのゲームは、たいてい満員になる。なぜこれを放っておくのかわからない。  北海道の山の中へ行ったとき、毎朝トラックを二時間も飛ばして駅売りのスポーツ紙を買いにゆくプロ野球ファンがいるのを知って驚いたことがある。こういう人を大事にしないといけない。  なぜナイターばかりが行われ、なぜ地方都市でのゲームがすくないのか。  それは選手が厭《いや》がるからである。昼間の試合、夜間の試合、そのうえに旅行が続くのでは疲れると言う。いったい、なにゆえに高給を貰《もら》っているのだろうか。流行歌手の生活を考えてみたまえ。お客さんにサービスするからプロ選手なのである。  それと、例のドラフト制度である。あんな馬鹿なことを誰が立案したのだろうか。試行錯誤は大いにやってもらいたい。しかし、バカバカしいことだということがすぐにわかったのであるから、すぐに取りやめるべきであった。今日、ドラフト制が忠実に守られているとは誰も考えていないだろう。契約金をおさえるという、そのことの意味が消滅し、ほしい選手が取れないという悪い面だけが残されている。  某大監督が私に言った。 「堀内のような、足が早くて、バッティングがよくて、守備のカンが抜群で、しかも一流投手という選手が、すんなりと巨人軍に入団したのは、スカウト同士の話しあいが出来ていたのではないか。……そう考えたくもなりますよ」  次の問題は、ノンプロ球団との間柄である。どうして交流が行われないのか。たとえば、近鉄の太田なり、南海の島本なりを貸してやれば、ノンプロの試合も沸くのである。一年か二年で返してもらう。  いったんプロ野球に入団すれば、もう社会人野球に出られないなんていうのもバカバカしい限りである。これでは、大学を出た選手は安心してプロの道へ行くことができない。  プロをやめた四十歳のモト大打者が社会人野球で猛打爆発なんていうのも楽しいではないか。なんだか、プロもノンプロも、おたがいに、つまらなくつまらなくしているような気がしてならない。これも、はなはだしい野球ファン無視である。それでいて、客が来ないと言っては蒼《あお》い顔をしているのだから不思議だ。  私は野球が好きだ。いくらでも改善の道があるのに、それをやらないのが腹が立って仕方がない。         *  私がプロ野球があぶないと思う最大の理由は、実は以上のことではない。  私の思うのは、巨人軍危うし、である。巨人軍が強ければ、まだしもマシなのである。  おそらく、巨人軍は、来年度に、最大のピンチをむかえると思う。私の考えでは、多分、優勝できないと思う。  その根拠は、内野手の年齢である。  森36歳、王32歳、土井31歳、長島37歳、黒江35歳。これはちょいとした老人野球ではあるまいか。だいたい、今年の前半の黒江、後半の土井は少し出来過ぎだったのである。  長島の夏時分の疲れ方は、見ていて辛くなるくらいだった。守備範囲も昔日のおもかげなし。王だって、いまや大ベテランの年齢となり、打球の飛距離が短くなった。  そこへもってきて、投手は堀内ただ一人という現状である。  もし、これで優勝するとなると、他のチームがよほどどうかしていると言わないわけにはいかない。  巨人軍が駄目になったとき、プロ野球はどうなるか(再建には非常に時間がかかる)。  私はそのことを心配している。  前に書いたように、打つ手はいくらでも残されているのである。やるならば今だ。まあ、来年いっぱいは我慢するとしよう。しかし、このままで推移するならば、プロ野球は完全に駄目になる。私の大好きなプロ野球が──。 [#改ページ]    今年のプロ野球  巨人軍の高田繁、土井正三、黒江透修の三人のことを、チビッコ・トリオという。誰が言いだしたのか知らぬが、なんとも不愉快な呼び名だ。  この三人が王と長島の前に打席にはいることが多い。 「今年の巨人軍は、投手力はよいが、チビッコ・トリオの出塁率がわるいので得点能力が半減している。小細工がきかない」  といったようなことを、アナウンサーや解説者が言う。私はそのたびに厭な気持になる。  高田の身長は百七十三センチである。土井は百七十二センチである。野球の選手としては小柄であるが、日本人としては、決して小さいほうではない。参考までに書くと王貞治の身長は百七十七センチである。高田との差は、わずかに四センチメートルである。  チビッコというときには、なにか子供扱いという感じがある。  たとえば、土井は、野球の選手としても、なかなかにスマートな体格ではなかろうか。また、彼は、日本のプロ野球史上に残る名二塁手といってもいいのではなかろうか。守備においても打撃においても天才的なヒラメキがあり、勝負に強い。  走者一塁で、投手が牽制《けんせい》球を投げると、TVの画面に、土を蹴《け》って右に走る土井の姿がうつる。悪送球の際にカバーするためである。このように、土井は天才的であるばかりでなく、基本に忠実な選手である。こういう選手を子供扱いするのが何か不愉快である。  解説者の佐々木信也さんも、現役時代は小柄な二塁手だった。  かりに、アナウンサーが、「今夜の解説は、チビッコでおなじみの佐々木信也さんです」と紹介したら、あまりいい気持がしないと思う。  阪神を退団した吉田義男さんの身長は百六十五センチであるが、私にはチビッコという印象は無い。私たちを永年にわたって楽しませてくれた名遊撃手という印象が強い。彼の渾名《あだな》は牛若丸だった。このほうがチビッコよりはるかにいい。  高田、土井、黒江をまとめて呼ぶとすれば、小型トリオでいいのではないだろうか。         *  この高田が、もし巨人軍に入団しなかったならばと考えることがある。  すると、柴田はトップバッターに定着していたと思う。そうであれば、多分、スイッチ・ヒッターで続いていたと思う。いまごろは左打席でのバントにも習熟していて、相手チームの脅威となっていただろう。  私には柴田を右打席専門に転向させたのが不可解である。なぜならば柴田は左打席でもホームランが打てたほどの打者であったからだ。私の見た目では、左打席のほうが振りがスムーズで無理がなかったと思う。  日本ではスイッチ・ヒッターで成功した例がないという人がいるけれども、前例がないということは強い根拠にはならない。それに、おそらく、柴田が左打席に立ったら大きな拍手が湧くと思う。野球ファンの多くがそれを希望しているのではないだろうか。野球とは、そういう種類のスポーツであり、ショーであると思う。  高田が入団していなかったらと考えるのは無茶な話であるけれど、スポーツマンには、というより勝負の世界には、そんなふうな運命があるように思われる。         *  六月中の王のバッティングはすばらしかった。唖然《あぜん》とするほかはない。鬼神もこれを避くという態だった。  一本足の打者は王だけではない。王よりももっと膂力《りよりよく》のすぐれた選手がいる。もっと大男がいる。  同じようにバットを振って、なぜ王の打球だけが遠くへ飛ぶのか。これは多くの野球ファンの疑問だろう。  私もそう思って、王に質問したことがある。王の答えは、自分は中学生のときに卓球の選手であって、従って左|手頸《てくび》の返しが強くなっているためではないかということだった。  これが解答になっているかどうかわからないが、手頸の弱い選手は、シーズンオフに卓球で鍛えるというのが、ひとつの練習法になると思う。  ところで、ショーということに関連して言うと、依然として王を敬遠するチームがあるのはどういうことだろうか。  ある解説者によると、王の調子をくずすには、これ以外に方法がないという。全く馬鹿げた話だ。自分たちの共有財産をぶちこわすことに懸命になるなど、他の世界には見られぬことだろう。  はっきり言って、今年は、ドラゴンズとヤクルトには優勝の可能性はないだろう。せめて、どちらかのチームが王を敬遠の四球で歩かせないことを表明したらどうだろうか。そのほうが人気が出るだろう。優勝できなければ人気チームの方向をめざすべきではないだろうか。  それに、二死走者二塁のケースで王を歩かせても次打者は長島である。また、王の打率は、せいぜい三割五分である。三度に一度の可能性しかない。このあたりの野球人の神経もまことに不可解である。         *  今年のプロ野球は、太田幸司と、例の黒い霧ではじまった。  八百長事件について意見をもとめられたときに、私は、むろん、徹底懲罰の側に立った。三流文化人が何を言うかという声もあるけれど──。  私の友人に、ジャーナリズム嫌いの男がいた。新聞記事を信用しないことを誇りにしていた。  彼は、信頼できるのは、野球のスコアだけだと言っていた。野球に関する数字だけは絶対に信頼できると言っていた。だから野球が好きなのであり、だからスポーツ新聞を買うのだとも言っていた。  いろいろの意見があるだろうけれど、黒い霧のことが言われだしてから、彼はそのことを言わなくなり、スポーツ新聞を買わないようになった。それは私にとっても悲しいことだった。  また、素人なりの技術批評をするのが馬鹿らしくなったのも悲しいことだった。  やはりこれも私の友人であるが、熱狂的な阪神ファンがいる。一昨年の今頃、彼は、川崎球場へ大洋・阪神戦を見に行った。その彼が、試合途中で怒って帰ってきてしまった。なぜかというと、投手の江夏のグラウンド・マナーが悪くて、とても見ていられなかったというのである。  そういわれてみると、江夏にしろ、東映の森安にしろ、西鉄の池永にしろ、あるいは中日の小川にしろ、いずれも投手板上の態度の悪い選手である。練習に熱心だという話もきいたことがない。黒い霧に関していえば、そういうこともあると思う。  プロ野球と暴力団とは、とくに終戦直後において、きってもきれない間柄にあったという。興行面で世話になったという。いまさら冷たい顔は出来ないと言う人もいる。これも、あきれかえった話だ。すべてを終戦直後の混乱期の尺度ではかったら、いったいどういうことになるだろうか。  憎いのは暴力団の組織である。金と女と酒を餌《えさ》に狙われたら、若い男はひとたまりもない。そういう人間の弱点につけこんでくるやつらが憎い。  私は徹底懲罰の方向で考えるが、もし、暴力団の組織が潰滅するならば、なんとかして選手をグラウンドによびもどしたいと思う。それはすべての野球ファンの願いだろう。 [#改ページ]    飯  島  いよいよ、プロ野球がはじまった。この、いよいよという感じは年々に薄れてゆくばかりである。  プロ野球のシーズンが終ったあと、あるいは開幕の直前に、どうしたらプロ野球を面白くすることができるかという質問をうける。それも毎年のことになった。つまり、プロ野球が面白くなくなってきているのである。私もそう思うし、世間もそう見ていることになる。たいていはルールの改正である。たとえば敬遠の四球を廃止したらどうかというような案を考えろと言われる。そうすれば王の本塁打はもっとふえるはずだし、それを見に来ている客が喜ぶわけである。  敬遠の四球を廃止するには、ストレートの四球には二塁をあたえるようにすればよい。そうすれば、投手は、すくなくとも一球だけは王と勝負することになる。また、一死、二、三塁というときの敬遠がなくなるわけだ。四球を三球に、三振を二振にしたらどうかという説もある。代打代走に何度でも出られるようにしたらという考えもある。投手には代打者が出ても、続投できるという考え方もある。  また、シーズンを春秋にわけて、春秋の優勝チームで決定戦を行い、勝者が日本シリーズに臨むという考えもある。  私の考えを言うならば、いかなる改革案にも反対である。それによって野球が面白くなるとは思えない。  というよりは、私は、もともと保守的な人間なのだろうと思われる。頑迷固陋《がんめいころう》なのだろう。あるいは、過去の野球を愛しすぎているせいかもしれない。  このことは相撲についても同様である。仕切時間を短縮したり、土俵を広くしても相撲が面白くなったり人気が出るとは思われない。  野球を面白くするにはどうすればよいか。答えは簡単である。面白い試合が行われればよい。面白い試合とは何か。第一に、真剣なプレイである。選手自体がプレイに熱中し、野球を面白がるのでなければ何にもならない。果敢なプレイ、巧技、見事な計算がグラウンドに見られるようであれば観客が沸くにちがいない。  どうにも自分が野暮ったく思えてユーウツになるが、それ以外に考えられない。相撲も同じことであって、そんなふうに見えた場所もあった。初場所なんか、よかったと思う。激しい相撲が三番も続けば客は熱狂するのである。  それは不可能なことではない。去年前半の近鉄、広島がそうだった。この二チームの試合は面白かったし、現実に観客がふえたのである。ご承知のように、近鉄も広島も強いチームではない。そういえば私の考え方の方向がわかっていただけると思う。  もうひとつは、英雄豪傑である。スポーツを見るとき、私たちは、私たちに出来ないことをやってもらいたいという気持がはたらく。英雄豪傑を待望しているのである。         *  ロッテに飯島が入団したとき、私の周囲の野球好きの男たちは、みんな喜んだ。いまにして思えば私は一人で渋面をつくっていたことになる。  飯島の入団を喜んだ男たちも、プロ野球を愛しているのである。飯島がはいって、プロ野球が昔日の人気をとりもどせば、いいゲームが見られると思ったのだろう。野球好きには、こういう単純な好人物が多いのである。私にしても世界一の足がプロ野球に通用するかどうかは興味があった。  私は何人かの友人と議論した。二盗できるかどうかということより、これによって野球が面白くなるかどうかという話が多かった。私が否定する側であることは言うまでもない。野球を軽業にしてしまうのが嫌いなのである。米大リーグで侏儒を代打に使って四球を狙わせたことがあったそうだが、そういうことは大嫌いだ。  飯島の走塁をTV中継で見て驚いた。あれは、とても野球の走塁ではない。ダッシュはいいのかもしれないけれど、一塁と二塁の中間でスピードが落ちてしまう。それはスライディングをマスターしていないからである。それに、二塁にヘッド・スライディングするのは法に合わない。もし、送球が中堅にぬけたときはどうするのか。  往年の木塚忠助や広瀬は、足から滑って、審判がセーフの判定を下すまえに塁上に立っていた。飯島と比較するのに木塚や広瀬をもってくるのは酷かもしれないけれど、もともと飯島は野球の選手としては半人前なのである。走塁だけに生きる男である。それでいてスライディングが出来ないのはおかしいのではないか。  フック・スライディングなんてものは、それほど難かしいものではない。それ専門にやっていてやれないというのがわからない。スペンサーなんていう小山のような大男にだって出来ることである。しかも、ロッテには与那嶺という天下一品のランナーがいてコーチしているはずだと思うのだが。  フック・スライディングが危険なら、ヘッド・スライディングはもっと危険である。捕手はランナーの頭をめがけて送球する感じになる。二塁ベースにはいる選手は、ランナーの手をめがけて飛びこんでくることになる。  また、走塁というのは「読み」である。木塚や広瀬でなく、南海では足のはやくない、年齢も若くない鶴岡でも、うまかった。するするっと行ってしまう。それは「野球を知っている」ということでもあった。         *  私は飯島個人を攻撃するつもりはない。そんなことは考えてもいないし、できることでもない。  しかし、スライディングの出来ない選手をピンチランナーに起用するということは、どうしても納得できない。野球を知らない選手を大事な場面に出してくるということがわからない。こういうことは、私の愛する野球が侮辱を受けているというふうに感じとってしまう。  私は、飯島がプロ野球にはいるということを聞いたとき、当然、スライディングなんかはきちんとやれるようにしてから起用するのだと考えていた。当りまえすぎるような話であるが……。  それに、半年なり一年なり、ゲームを見せて、野球をおぼえさせてから試合に使うのだと思っていた。いや、もっと正直に言うと、バッティングでも守備の面でも、一応はプロ選手として通用するくらいに鍛えるのだと思っていたのだ。飯島の値打ちは、たとえば、セーフティ・バントなんかで発揮されるのだと勝手に予測していたのである。  それに、死亡した西鉄の新人投手の例でもわかるように、野球というのは、かなり危険なスポーツなのである。どのスポーツでも同じことだろうが、野球を|知らない《ヽヽヽヽ》というのが危険である。  短距離と走塁とは違うのである。野球の選手になっていない人が野球をするということにも、言いようのない違和感を感ずる。相撲だって、弟子入りした高見山をいきなり幕内でとらせるような無茶なことはしなかったではないか。         *  射殺魔の永山則夫の職業をバーテンダーと書いた新聞があった。私の友人で、バーテンダーから叩きあげて酒場店主になった男が烈火の如く怒った。その気持はよくわかる。素人《しろうと》をそのままプロとして通用させてしまうのも現代的風潮なのだろうか。 [#改ページ]    野 球 の 話  本年度の、私の、最大の見込み違いはプロ野球に関することである。  私はプロ野球は駄目になると思った。特にパ・リーグはひどいことになるだろうと思っていた。東映が日拓となり、西鉄が太平洋となったのは、末期的症状だと思った。パ・リーグが潰《つぶ》れ、一リーグ制になり、漸次衰えてくる。そう思い、そのことを書いたりもした。不明を大いに恥としなければならない。  しかし、私が、こうすれば良くなると書いた再建案のいくつかが実行されているということも事実である。それが効果をあげているのは非常に喜ばしいことだ。  そのひとつは、デイ・ゲームを行うことである。野球は太陽の下で行うものだという考えである。それに、住宅地が球場からどんどん離れてゆくというときに、夜間ゲームを行うという考えがまるで理解できない。子供が野球を見られなくなってきている。大人だって困る。  私の考えは、平日は夜間ゲーム、土曜日は三時の試合開始、日曜日は十二時からダブル・ヘッダーということである。パ・リーグは、これに近い日程が取られている。皮肉なことに、ロッテが本拠地を失ったためにデイ・ゲームが多くなった。それが人気を呼ぶ原因のひとつになっている。  もうひとつは、地方球場での試合を多くすることである。さらに、地方都市にフランチャイズを置くということである。地方都市として仙台の名をあげた。これが少しずつ良い方向にむかっていることも非常に嬉しい。去年まで、こんなにわかりきったことをなぜやらないのかと思い、ヤキモキしていた。  夜間試合ばかりが行われること、それが大都市に集中していることは、要するに選手を甘やかしていることであるに過ぎない。  そんなふうに書いてきた。いよいよ駄目になるかもしれないという土壇場になって、少しずつ是正されてきた。まだまだやらねばならないことがあるにしても、曙光《しよこう》が見えてきたといっていいと思う。私は一人の野球ファンとして、特にパ・リーグの太平洋、ロッテ、日拓の関係者に感謝している。  私は、いま、太平洋の試合を見たいと思っている。こんな気持になったのは、ここ数年来、絶えて無かったことだ。         *  私の見込み違いの最大なるものは、二シーズン制に対する疑問だった。これも断末魔の症状だと思っていた。私は本来保守的な人間である。特にスポーツに関してはそうだ。それで改制に疑問を抱いていた。  いまはそうではない。二シーズン制は大いに結構である。その最大の功績は下位球団に希望を持たせるということである。これは非常にいいことだ。  もうひとつは捨てゲームが無くなったことだ。捨てゲームというと変に思う人がいるかもしれないが、球団の監督は、一年間の試合日程が発表になったとき、どのゲームに勝つかではなく、どの試合に負けるかを検討し、それによって勝数を計算するのである。  たとえば、タイガースに村山と江夏という投手の両輪が健在であったとき、監督は、村山と江夏の登板しない試合を捨てゲームとするのである。これは賢明な方法であるが、捨てゲームを見せられる観客はたまったものではない。  二シーズン制であると、捨てゲームなんて言っていられない。そこで試合は白熱する。  今シーズンのはじめ、私が、おやッと思ったのは、パ・リーグの試合に、九対八とか、六対五という僅差の打撃戦が見られ、ひょっとすると人気が出るのではないかと思っていると、私の予測をはるかに上廻って、異常と思われるくらいの観客動員が行われるようになった。野球はこうでなくてはいけない。         *  野球というのは、個人技に負うところが大きい。さらにその個人技を含むところの団体のゲームである。そうして、それをすべてひっくるめるところの組織の力ということになる。  個人技というのは英雄待望に通ずる。私は、パ・リーグの人気を造ったのは、太平洋のビュフォードという一人の選手の力だと思っている。まことにすばらしい選手である。  ビュフォードが二塁走者で牽制《けんせい》球を投げられたとき、これをヘルメットに軽く当てて球をセンター方向にそらし、三塁に走り、次打者の犠牲フライで生還するというプレイのあったことを聞いた。  また、同じく、二塁走者のとき、安打で本塁に無理と思われる突入を敢行し、捕手のミットの位置によってボールの方向を見定め、これを背中に受けるようにして生還したという記事も読んだ。  私が太平洋の試合を見たいと思うのは、三日も通えば、このようなプレイが見られるのではないかと思うからである。  ある人は、そのようなカンニング・プレイは好まないと言うかもしれない。私はそうではない。ルールに定められた範囲内で、あらゆる野球の技を見せてくれるのがプロ野球の真髄ではあるまいか。牽制球をヘルメットで受けるなどは、まことに奇想天外のプレイである。  私は、打率などは二割五分もあれば充分だと考えている。野球は、打つ、守る、走るである。好機に打つ。あるときは走者を進めるための犠牲となる。あるときは、乾坤一擲《けんこんいつてき》の長打に出る。それが野球である。それの出来ない人は駄目な選手であり、ほかのスポーツをやったほうがいい。  このビュフォードのプレイにつられて、太平洋の選手は大いにハッスルして勝ち進み、人気が出てきた。個人技に団体技が加わってくる。また、ビュフォードは、シーズンに入るまえ、背広を着て年間予約席の切符を売り歩いたという。偉なるかなビュフォードと言いたい気持になる。         *  太平洋のあとに、ロッテの活躍が続く。金田監督は、勝敗などは問題ではないという意味のことを語ったというが、これは近来|稀《まれ》に見る名言である。  野球を見るのは、勝った負けたを見に行くのではなくて、面白い試合、果敢なプレイを見にゆくのである。投手起用に少しばかりおかしなところがあったって、そんなことは問題ではない。結果論であるにすぎない。結果として最下位になったってかまわない。いいゲームを見せてくれればいい。それがプロ野球なのであって、私は金田正一の意見に大賛成である。  また、野球では観客動員も大切な仕事である。映画は一人で見ても面白いが、野球は大勢で見なくてはつまらない。私が近鉄の監督であったら、仲根とか太田の登板を前発表して、マスコミをつかって煽《あお》りたて、大観衆をむかえることに専念する。そうすれば、それにつられて各選手が好プレイを見せるようになるのである。  私は野球が好きだ。それも、草野球も好きだし、少年のリトルリーグも好きだし、高校野球もプロ野球も好きだ。こういうことは、ほかの分野にはないことである。たとえば技術的に拙劣な芝居というのはとても見てはいられない。野球に関してはそうではない。  なぜだろうか。  野球の場合、両チームの選手の気力さえ充実していれば、九対零というワンサイド・ゲームでも、面白く見られるのである。  のんびりと太平楽をきめこんでいるかに見られるセントラル・リーグの関係者諸君は、どう考えているだろうか。 [#改ページ]    アンチ巨人軍論 「巨人、大鵬、タマゴヤキ」という謎々みたいなものは誰がつくったのだろうか。私が直接きいたのは岡部冬彦さんからであった。ココロはもちろん「子供の好きなもの」である。この謎々は巨人ファンを軽蔑するときに用いられる。子供の野球ファンは圧倒的に巨人ビイキが多い。大人の巨人ファンには概して野球のわからぬ人が多いというのも事実である。  五味康祐さんや亡くなった十返肇さんが熱狂的な巨人ファンであることは有名である。五味さんや十返さんには野球がわからないというつもりはない。野球通であり、よく観戦していらっしゃるし、お二人に野球の実戦面について話をうかがったことはないが、おそらく野球をよく知っておられることだろうと想像する。  しかし、五味さんや十返さんが、学校におられたときに野球の選手であったとはとうてい思われない。お二人とも野球にかぎらずスポーツには不向きな体躯である。おそらく草野球の選手でもなかったろうと思う。ファンとしてもテレビ中継以後の野球ファンであろうと想像する。  これに反して、文壇でいえば、実際に野球の選手であった有馬頼義さんや井上友一郎さんが熱狂的な巨人ファンであるという話をきいたことがない。文壇のなかのせまい範囲でいうのだが、どうも巨人ファンはそういった気味あいがある。  野球のわかる人には概して巨人嫌いが多い。「野球がわかる」とは、いったいどういうことか。  戦前からのプロ野球の歴史に通じていて、実際に見てきた人をまずあげたい。消息通であるが、過去の名選手のプレイを見てきた人ならば、いまの野球選手について批判したり比較したりすることが出来るからである。沢村とか景浦とまではいわないが、苅田の内野守備や若林の投球術などを知っていれば、すくなくともいまの野球がかなりわかるはずである。野口二郎の丈夫で長持ちする速球の偉力を知っていれば、いまの若手投手を批判することができるだろう。  これだけだと年齢的に無理が生ずるので、つぎに基本的な野球術を知っているかどうかという点をあげよう。  たとえば高くあがった捕邪飛は物理的にどういう円を描くかということは知っておいていただきたい。「また落球ですか、風のイタズラですね」などという解説者にごまかされてはいけない。内外野の連繋《れんけい》動作やバック・アップについて理解があること。インフィールド・フライは試合停止球ではないこと。たいていの遊撃手にとっては二塁ベース寄りに飛んだ強い当りのほうが、正面の軟ゴロより処理しやすいといったようなことも知っておくこと。これは外野手も同様であって、左中間、右中間のライナーより、中堅手にとっては頭上をわずかに越すようなライナーのほうが捕りにくいといったことを知っておくこと。そうすれば変なところで拍手しないですむのである。  第三に野球の見巧者《みごうしや》であること。鑑賞眼のあること。私の好みがはいることを許していただけるならば、大洋をやめた鈴木武や、阪神の鎌田のプレイを理解できること。大洋の近藤和彦や近鉄の関根や東映の毒島《ぶすじま》の打率が高いわけを知っていること。細い体で年寄りのくせに長打力もある理由を知っていること。勝敗にこだわらずに野球のプレイの面白さを堪能《たんのう》できること。  まあ、ざっとこういったことが「野球のわかる」条件といってもよいと思うが、概して巨人ファンには野球のわからぬ人が多い。もちろん例外はたくさんあるが。  うそだと思ったら、知りあいのスポーツ記者にきいてごらんなさい。過半数は巨人嫌いだから。         *  野球のわかる、ほんとに野球の好きな人にアンチ巨人が多い。なぜだろうか。  巨人軍は概して強いからである。だから巨人が負ければ、その年のペナント・レースが面白くなるのである。  もし巨人の成績がわるくてBクラスに転落したら、奮起して練習し補強し、翌年はまず優勝するだろう。  なぜなら、日本のプロ野球では巨人は負けてはいけないチームなのである。日本のプロ野球そのものがそういう仕組みに出来あがっているのである。巨人は「何がなんでも勝たねばならぬ」のである。  もしかりに、巨人軍がセントラルの広島、パシフィックの阪急のように五位とか六位を低迷するチームになったとしたらどうなるか。そういう事態が三年間続いたらどうなるか。おそらく観客は半減するだろう。テレビ中継のスポンサーは料金を値切るだろう。子供はナイター中継を見ないで、そのぶんだけ勉強するから、日本の小・中学校の学力は上昇するだろう。そういう事態になって困るのは巨人軍だけではない。セントラル・リーグの全チーム、パシフィックの上位チームも困ってしまう。  巨人のゲームは何故満員になるか。熱狂的巨人ファンが多いからである。それだけでは満員にならない。熱狂的なアンチ巨人がいるからである。巨人が負けるのをこの目で見たいという人が多いからである。  私も最近までは巨人嫌いだった。いまではそうではない。何故ならば、巨人は強くないからである。いま程度の実力で日本一というのはプロ野球のレベルが低いからである。エースのいない最強チーム、三割打てる外野手のいない最強チーム、守備のうまい二塁手のいない最強チームというのはナンセンスであり、かつ野球ファンとしては、まことに情ない。  アンチ巨人のなかの何割かはアンチ川上監督だろうと思う。しかし、私は川上を責めるのは酷《こく》だと思う。  ずいぶん昔の話であるが、東宝系の劇場の支配人のなかでいちばんつまらないのは日劇の支配人だという話をきいたことがある。なぜなら企画はほとんど東宝の重役がきめてしまうからである。この話が嘘かホントか知らないが、巨人軍の監督は日劇の支配人の立場に似ているように思われて仕方がない。 「勝たねばならぬ」チームの監督は面白くない。石橋を叩いて渡る戦法をとらざるを得ない。  昨年の日本シリーズで、川上監督は、第一戦、第三戦、第六戦に伊藤を先発させた。つまり球場が変ったときの第一戦は全《すべ》て伊藤である。そのことがよいかわるいかわからないが、城之内が負傷したら実績は伊藤だから、こういう石橋戦法になる。  第七戦で柳田をはじめて先発メンバーにいれて、彼がホームランを打つと、以後は柳田がいかに低調であっても変えなかった。ご承知のように十八対四で勝った試合である。六回の表では点差十六という大変な試合で、どうころんでも逆転の気配はなかった。私はどうして柳田をひっこめて坂崎や山崎や渡海を出してやらないのかと思ったが、そこが「勝たねばならぬ」チームの監督の辛さなのだろう。私などは最終戦に出場させてやることで勝利の喜びをみんなでわけたいというふうに考えるのだが、巨人ではそうはいかない。  水原だって、巨人軍時代は石橋戦法ばかりで、監督としての人気はなかった。  まえに書いたように、巨人が勝つこと、巨人が強くなることはリーグ全体の経営にもつながることなのである。選手の起用がどうしても固い一方になってしまう。  一昨年の巨人が緒戦《しよせん》に城之内、柴田を先発させて二敗したことを憶えておられるだろうか。あのときの投手起用は実に新鮮で、見ているぶんには面白かった。しかし、そのためにピッチングコーチの鬼軍曹別所は失脚したという見方だってできるのである。         *  率直に私は言おう。だから率直に答えていただきたい。  ヒイキということをぬきにして考えていただきたい。  いまの日本のプロ野球から巨人軍というチームを除いたら興味半減してしまう。日本のプロ野球が巨人を中心にして運営されたとしても、その成り立ちや現状からみて当然のことである。セントラルでは六球団中の四球団の監督が巨人出身である。  つぎに、セ・パ両リーグ十二球団をふくめた試合の組みあわせを興味のある順序にあげていただきたい。  私なら、次のようになる。  ㈰巨人─東映 ㈪巨人─南海 ㈫巨人─西鉄 ㈬巨人─近鉄 ㈭巨人─阪神 ㈮巨人─大洋 ㈯巨人─中日 ㉀東映─西鉄 ㈷西鉄─南海 ㉂巨人─国鉄 ㉃西鉄─近鉄 ㈹南海─阪神 ㈺南海─近鉄 ㈱西鉄─大洋。  私の主観もだいぶはいっているが、まあ、大方のプロ野球ファンは、これにちかい気持をもっているのではなかろうか。  そうして、一リーグ制のときは、この形にちかいゲームを見られたということを想起せられたい。  こういうカードなら面白い試合が見られるように思う。あくまで巨人が中心である。アンチ巨人の人も、巨人の負けるゲームをたくさん見られることになる。  夢のような、またムチャクチャな実現不可能のような話だが、野球のファンとしてはこういうゲームを見たいという気持をいだいていることと思う。こういうチーム同士でペナント・レースをあらそったら面白いにちがいない。おそらく毎試合満員札止めになるだろう。  ムチャな話だが、二リーグに分裂するときにもムチャは行われたのだ。  もうひとつ無茶な提案をしよう。  昨年の日本シリーズに勝った巨人を含むセントラル・リーグをかりに一軍とし、今年のセントラルの最下位チームとパシフィックの優秀チームを入れ替えるのだ。これを毎年くりかえせば、メイジャー・リーグとマイナー・リーグのような関係になる。おそらくマイナー・リーグの経営は成りたたなくなるだろう。従って必然的にいつかは一リーグになってしまう。  私は、実は、自分のアイディアがちっともいいものだとは思っていない。もっといい方法があるにちがいない。ただ野球のファンの一人として面白い野球の試合をたくさん見たいとねがっているだけだ。  もういちどくりかえすが、日本のプロ野球は巨人軍を中心に運営したほうが面白くなるし、そのほうが自然だと考えているだけだ。一リーグ制八チームという昔の形が再現すれば経営も健全になるし、契約金だって安くなるに違いない。競争が激しくなって名選手も輩出《はいしゆつ》することだろう。 [#改ページ]    プロ野球・舞台裏の英雄たち  A記者はほっとした表情で受話機を置いた。甲子園球場の記者席である。  しかし、つぎの瞬間にゾッとした。寒気が足もとからずっと脳天にまで伝わった。  その夜のゲームは十時を過ぎていた。支社へかえってから原稿を書き、電話で送ったのではまにあわない時間になっていた。大観衆で車をひろうのに二十分はかかるだろう。そこで記者席で原稿を書き、そこの電話で送ることにした。夢中で書き、すぐにデスクに電話した。六版の校了は十一時で初校おろしである。ここがスポーツ紙の辛いところだ。  いつものことであるが、ゲーム中のメモとスコアを見ながら、まだ自分の頭のなかにあるゲームの山場を再現しながらいそいで書いた。デスクは、なかなかいいよと言ってくれた。ボールペンを胸にさし、原稿用紙をポケットにねじこみ、スコアブックとノートをもって立ちあがってあたりを見廻したときにゾッとしたのである。 「人間が一人もいない」  なにか信じられないことのようであった。ついさっきまで五万を越す大観衆がいたのである。歓声と拍手と口笛があった。私設応援団の鉦《かね》と太鼓があった。ビールやアイスクリームの売子がいた。新聞記者やラジオ・テレビ局の人が忙しく動いていた。もと有名選手だった解説者の冗談がきこえていた。そうしてグラウンドにはスターたちの緊張した顔があり、ヘルメットを叩きつける三振バッターがいた。なによりもコウコウたる明りがあって五万を越す人たちの視線がそこに集中していた。  あれから、三十分も経ったろうか、とにかく、人間がいないのである。そして真暗だった。信じられないようなことである。咳《せき》をしても小さくコダマする。静かである。その静寂と暗闇がA記者というたった一人の人間を威圧する。  第一、この建物がよくない。これは昼間か大光線のなかで、一万を越える人たちがいてはじめて意味をもつ建物である。昼間であっても練習で観客のいないときは薄気味のわるい建物である。  吸いこまれるような怖さをA記者は感じたのである。一刻もはやくここを出たい。屋台でもなんでもいいから、人間のいるところへ行って早くビールを飲み、話をしたい。そう思って、彼は記者席を出て、通路にむかった。誰かがいるような気がするが、全くの無人である。  正面にまわってもう一度、しまったと思う。なんだかそんな気がした。正面の鉄の扉はおりていた。スコアブックとノートを床に置いて扉に手をかけた。ビクともしない。動きっこないよ、こんな重いもの。それに鍵がかかっている。彼は、その他の、ありとあらゆる出口にまわってみたが無駄だった。  実際は、夏だし、どこかそのへんにゴロ寝しても危険はないのである。しかし、なんとも薄気味がわるい。もう一度、記者席へもどり支社へ電話したが誰もいない。A記者は覚悟をした。おそらく自分の恐怖感を誰かに語っても信用してくれないだろう。五万人が急に一人になる。昼間のような明りが急に真暗になる。  ラジオ・テレビを通じて全国の何百万かの人間の注目を集めたこの場所が、三十分とすこしで誰からもかえりみられなくなる。そんなことってあるだろうか。         *  記者席の椅子をあつめて寝るまえに、彼はまた暗いグラウンドを見渡した。スコア・ボードを見る。そうして、二分か三分たったときに、彼の目が輝き、口もとに笑いが浮かんだのである。 「なあんだ。そうか」  彼はグラウンドにおり、そのまま一直線に二塁ベースからセンターヘ駈けていった。センターまでそんなに遠く、塀が高いことをはじめて知ったようだ。しかし、もう怖くはなかった。  スコア・ボードのちょうど真下に同じスポーツ紙のカメラマンが寝泊りしているのを思いだしたからである。  写真もまた十一時校了のスポーツ紙に掲載されるのである。従ってすぐにこれを電送しなければならぬ。そこで甲子園球場の外野の一室を借りたのだった。  カメラマンはランニング一枚とパンツでまだ起きていた。A記者は“助かった”のだ。 「こわくないか、こんなところで」  元気になった彼はきいた。 「怖いよ。すごくおっかないよ。だけど仕方がねえじゃねえか」  カメラマンは何事もないという調子で言った。  もう一度いうが十一時が校了である。そのまえの地方発送のぶんは途中経過までである。この原稿をかく、いわゆる早版記者の仕事を東京・大阪の人間は知らない。消えてしまう空しい仕事である。ところが、ほんとうの野球通は、この地方発送の新聞を読みたがるのである。なぜか。  スポーツ紙だって新聞である。途中経過では紙面は埋まらない。ニュースを流さないといけない。それは野球のニュースである。つまり地方発送ぶんは、アメリカの大リーグの記事が多いのである。田舎の人ほど大リーグについてくわしくなるのである。  さて、最近のゲームは九時半に終るのが珍しくて十時にちかくなる。おそくとも十時半までにテーマと方針と大見出しと殊勲選手をきめて原稿をいれないといけない。ゲームが長びけばそれだけ緊迫感が編集室にただよう。延長戦になれば試合をきめる一打を放った選手がヒーローである。そうしてもっとも多いときは全国六カ所でゲームが行われる。新聞記者とカメラマンが六カ所に散っている。いっせいに電話がかかってくる。あるいは、なかなかかかってこないのでヤキモキする。戦場である。         *  いまのプロ野球には英雄はいないのである。大金をもったお坊ちゃんたちの遊びである。  たとえばこんなことを考えたことがないだろうか。いま、いちばん高給をもらっているのは西鉄の中西太だそうである。もし、彼を普通一般のサラリーマンにおきかえて、給料を五万円としてしまう。そうすればおそらく彼は不調も怪我もおしのけて常時出場して、野村とホームランキングをあらそうようになるのではあるまいか。  今シーズンでいえば、見せる野球に耐えられるのは一試合四本塁打の王と、駿足好打の広瀬、吉田牛若丸だけである。  いやがらせをいっているのではない。プロ野球は、ノンプロや学生野球ではとうてい考えられない英雄豪傑が出てきて、それを見せて金をとるスポーツである。  たとえば、巨人が北海道へ行くまえの大洋戦は中盤のヤマであった。巨人はこれに二連敗。二試合連続完封負け、第一戦は稲川から五安打、二戦は秋山から国松の二安打だけ。ご承知のように今年の稲川は去年のようなシュート、スライダーの冴《さ》えがない。秋山は好調ではあるが最盛期をこえて、巧味はあっても威力はない。超満員のお客さんに対して恥ずかしいと思わないのか。ひょっとしたら調子のいいときの慶応大学野球部のほうが打つのではないかと思わせるような試合ぶりだった。大洋の勝ちっぷりもクレスと桑田が打っただけで賞められたものではない。  昔のことでいうと、戦前の巨人・阪神戦はたいてい一点差で好打の応酬があり、熱がこもっていた。ハラハラする面白いゲームを見せてくれた。  いまの野球は、猛練習はあるかもしれないが、その結果得たところの、見せる「芸」がすくなすぎる。一例だが、絶妙にして闘志あふれるスライディングをやってのける選手が広瀬のほかにいるだろうか。こういう状態が続くとアメリカなみにフット・ボールやホッケーに客を奪われる時代がくるのもそんなに遠くないと思われる。         * 『野球王タイ・カップ自伝』という本がある(ベースボール・マガジン社刊。内村祐之訳)。私は高校生・中学生のための良い書物がすくないことを嘆いてきたが、これは、ぜひ少年たちに読んでもらいたいと思っている本だ。ちょっと退屈してしまってスランプ気味のサラリーマンにも読んでもらいたい。タイ・カップという人は相当に癖のある人物だが、とにかく野球に対する“情熱”をもっている。そして当時の大リーガーには、それこそ英雄豪傑がゴロゴロしていた。 「今日の野球では、あまり簡単に点がはいるので、内野手はずっと後ろにさがってプレーしている。そのため、終回近くになっても、やすやすと敵に得点をゆるすような始末で、それが敗戦の原因となることもしばしばだ。こんなものが野球であって、たまるものか! 近ごろの野球は、その本来の姿である火の出るような熱戦とはうらはらに、軽演芸のような味わいのないものになりさがった。観衆は力強いスリルを味わいに球場へ行くのであって、選手たちの洗練され、計算された退屈さを見に行くのではない。バッティングは、勝手気ままに振りまわす気ちがいじみた大振りと変わり、三振数がふえることなど、気にもとめない。リーグの首位打者ともあろう者が、一本の犠打を放たなくても、盗塁できなくても、かまわないのだ。力さえあれば、融通がきかなくてもいいという御時世である」  と、タイ・カップはいう。その通りだ、と私も思う。この本を読めばほんとの野球がどういうものであるかがわかる。英雄たちの無数のエピソードに満ちている。日本のプロ野球の英雄について書こうと思ったときに、舞台裏のスポーツ記者の話になってしまった私の気持をわかってもらえるだろう。  タイ・カップは右目はソコヒでかすみ、膝の筋を全部きってしまい、腕は肩よりうえへあがらないようになり、チーム・メイトに殴られ蹴られ、両すねは傷だらけという体で四十一歳まで三割打者をつづけるのである。  ジョージ・シスラー一塁手は腕の筋を痛めて、片手だけでプレーする。右手は腰よりうえへあがらず、そのグローブをはめた右手も、左手でささえなければならぬ。だからセントルイス・ブラウンズの内野手は低い球をなげなければならぬ。片手だけでバットを振って終身打率三割四分四厘、四十一試合連続安打の記録をもっている。  ピート・アレキサンダーは片耳が聞こえずテンカンの持病に耐えながら、三百七十三勝し、完封勝利九十回。四十歳のときでも二十一勝の記録を残す。  トリス・スピーカーは一九一八年一カ月のうち二回も単独二重殺を演ずる。スピーカーは外野手である。こんなことが考えられるだろうか。二塁にランナーがいる。中堅にヒット性のライナーが飛ぶ。スピーカーは猛烈な勢いで前進して捕え、そのまま自分で二塁ベースにはいって単独ダブルプレイを完成するのである。つまり守備位置が浅いのである。前へ落ちるヒットを捕え、また大背走してフライを捕る。  こうでなければプロ野球とはいえない。現状ではプロ野球は破滅への道を進んでいる。英雄豪傑はいなくなって、球界紳士ばかり残ってしまった。 [#改ページ]    紳士的なプレイとは  某スポーツ紙に毎週一回野球評論を連載しているが、八月一日の阪神・巨人戦における本屋敷のプレイについて書いたところ、意外にもさまざまの反響があった。  この試合は阪神村山が巨人を完封して一対〇で勝ったのであるが、中盤の何回目だか忘れてしまったが、当っていた柳田がレフト前にクリーン・ヒットを放って出塁、すぐに二盗した。このときの二塁手本屋敷の動きについて書いたわけだ。  二塁へ走った柳田を刺そうとした捕手の送球は高くそれて遊撃手吉田はうしろへそらした。これを見た柳田はすぐに三塁へ走る。場内から「ああ」というタメイキと「わっ」という歓声があがった。タメイキは巨人ファンであり歓声は阪神ファンである。つまり柳田の走塁は暴走であって、三塁手の朝井がボールをつかんだときに、柳田はその五メートル前方にいるように見えた。走者が塁を盗むときに見られるクロス・プレイはなかった。  この試合を私はテレビで見ていた。  解説者とアナウンサーは、 「暴走ですね」 「ひどいですね、柳田の走塁は」 「だから上位を打たせられませんね、これがありますから」  といったようなことをしゃべった。私はなるほどモットモだと思ったのである。  ところが翌日の新聞を見ると、これは二塁手本屋敷のトリック・プレイであって、ベースにはいった吉田を通り越した球をバック・アップした本屋敷が、おそらく逆シングルで拾ったにもかかわらず中堅に抜けたような動作をしたのだそうである。本屋敷のトリック・プレイにひっかかった柳田は拙走である。それを責めるのは仕方がないとしよう。それならなぜ本屋敷のプレイを賞めないのかというのが私の論旨であった。  テレビで見ている私たちに本屋敷のプレイは画面にはいらなかった。解説者とアナウンサーはグラウンドにいて見ているのだから、こういうプレイを解説してくれなければ困るという気持が強かった。  この試合の殊勲者はなんといっても巨人を完封力投した村山である。しかし、次の殊勲者は本屋敷である。好投の城之内の得意とする外角球をうまく右翼へ打って、次の山内、遠井の安打を誘発して唯一の得点を記録したのである。そのうえに唯一回のピンチを頭脳的プレイで救ったのである。こういう選手のこういうプレイを賞めないで何の解説者ぞやという気持があった。  阪神では吉田、本屋敷という一、二番が並ぶときに攻守に精彩をはなつというのが私の持論である。特に本屋敷は打率こそ低いが試合をきめる一撃をはなつ。試合をきめるような思いきった守備をする。何年か前の大洋鈴木武、ひところの阪急河野もそうだった。私はこういう選手が好きである。         *  私の原稿が新聞にのった日に、阪神ファンであり野球通である某作家から電話がかかってきた。あれは君の言う通りだが、解説者はたしかに本屋敷のプレイを指摘したという。阪神・巨人という人気カードだから二局で放送していて、君の見ていた局の解説者はそれにふれなかったのだろうということであった。そうなると大変に失礼なことを書いてしまったことになる。  それから三日たって、専門の野球評論家から手紙をいただいた。 「柳田は送球を見てすぐ三塁へつっぱしったので本屋敷のトリックよりも本屋敷がそんなところにいたことさえ考えなかっただろうと思いました。……ともかくモタモタした奴の多い時、失敗してもあの柳田はほめていいでしょう」  ということで、柳田は吉田が球をそらしたのを見て、本屋敷に関係なくすぐそのままスピードをゆるめずに三塁に突っ走ったわけで、たとえアウトになっても思いきりのよい好プレイだとしているのである。  そうなると、柳田の走塁を気力にあふれたものとして賞めるか、それとも暴走ととるかは解説者・評論家の判断または好みということになってしまう。何故なら柳田は本屋敷のプレイに気づいていなかったのだから。  ここにおいて、本屋敷のトリック・プレイは行われたか、行われなかったか、柳田はそれにひっかかったのか、本屋敷がカバーしていたことに気づかずに無心に走ったのか、暴走か、気力にあふれた好走塁なのか、というさまざまの疑問が湧いてくる。  そこで責任上、私は信頼のおけるスポーツ・ライターに問いあわせることにした。  彼の意見は、本屋敷のトリック・プレイは行われただろうという。なぜならスポーツ紙も一般紙もそのことを書いているから。そうして解説者はそのことを指摘しなかった。自分もテレビで見ていたがそれをきかなかった。第一、あなたの意見に間違いがあったら、スポーツ専門紙は訂正するだろうという。スポーツ新聞社には何台もテレビがあって大勢の専門家が見ているのだから大丈夫ですよと言った。私はますますわからなくなったが、現在では多分つぎのようであったろうと解釈している。野球評論家の手紙にあるように、柳田は本屋敷のバック・アップに気づかなかった。本屋敷はトリック・プレイを行ったが、柳田が気づかぬ以上あまり意味はなかった。解説者はそれを指摘しなかった。柳田が気づいていないのだから特には指摘する必要がなかった。柳田は暴走であるか好走塁であるかは見る人の好みである。そして私の好みでいえば、クロスした試合で王、長島と続くのだから、二塁にとまるべきであったということになる。         *  実はここまでが前説である。問題はスポーツ・ライターが言った次の言葉である。 「ところで、山口さんは本屋敷みたいなああいうプレイが好きなのですか」  トリック・プレイはどうも見ていて気持がよくないという。私は即座に、 「あのプレイはハリスとは違うよ」  と言った。スポーツ・ライターは、それはそうだという具合にうなずいた。  イーグルス時代のハリスは、たとえば三塁走者となっているときに、投手にむかってボールを見せろという。不正があるような口つきでいう。投手がハリスにむかってボールをころがすと彼は脱兎の如く本塁にむかって生還してしまったのである。  こういうプレイは、草野球にはまだ残っていて、ずるがしこいプレイを見せられたり、得意になって話をされると不愉快になる。  隠し球もそれである。  この原稿に挿絵をかいている柳原良平と私とはずっと同じ会社の草野球のチーム・メイトであって、私は監督をしていたが、彼の絵からは全く想像できないことであるが、柳原はひどい不器用なのである。野球をやったのも会社へはいってはじめてのことである。不器用の一例をあげると彼はまだ自転車に乗れない。彼がバッター・ボックスにはいった姿や捕球動作をみれば、野球について駄目な男であることがすぐにわかる。  彼がどうかしたはずみに、一塁に出たことがある。アブナイと思ったときに、もう隠し球にひっかかっていた。そのとき、何故か私は激怒してしまった。相手の一塁手に殴りかかろうとしたのである。草野球でも監督をしていると私はすぐにカッとなってしまう。抗議をしたって容れられるものではないことは知っているが、会社同士の親善試合に隠し球をつかう男が許せないように思った。  プロ野球のトリック・プレイについても同様である。許せないものと賞讃すべきものがある。  ずるいプレイは別として、ルールの範囲内であらゆることを考えるのは正当であり、義務である。最近は、トリック・プレイが行われなさすぎるように思う。怠慢である。  南海の広瀬のよいところは単に足がはやいだけではない。足の速さでいえば広瀬と長島とそんなに違いはない。八月十五日現在で、両者の出塁率は共に四割五分二厘である。ところが広瀬の盗塁六十に対して長島は十である。両者の差はどこにあるか。広瀬は相手投手の癖や特に牽制球を投げる時の動作をよく知っていて、いっぱいにリードをとるのである。これはトリック・プレイではないが考えたプレイであるといえよう。  広瀬は盗塁の記録を狙っていて、長島にはその意欲がないという人がいるかもしれないが、その長島は八月の四日と六日に最も困難と思われる本盗を狙って二度とも失敗しているのである。意欲がないとはいえない。本盗に自信があるなら、もっと二盗を試みるべきである。セ・リーグの上位でいうと、盗塁は江藤三、王五、吉田十三である。  毎度タイ・カップで恐縮だが、 「リーグの首位打者ともあろう者が、一本の犠打を放たなくても、盗塁できなくても、かまわないのだ。力さえあれば、融通がきかなくてもいいという御時世である。テッド・ウィリアムス、スタン・ミュージアル、ジョー・ディマジオ、ラルフ・カイナーらの最高給をとるプレイヤーが、四人で合計七個の盗塁しかできなかったシーズンのことは、思いだすだに不愉快だ。(中略)進塁しようとするランナーと、これをゆるすまいとする守備陣──このかけ引きこそ野球の粋であるが、『強力』なバッターが塀越しの『強打』を飛ばして、ランナーをホームヘ迎え入れてくれる今日、わざわざ盗塁などをする必要がどこにあろう。今日の野球には、スライディング用のすねあても、キャンプでの、スライディング練習用の砂場も見られない。ケガをしてはならぬという理由からである。今のプレイヤーは本当のスライディングのやり方を知らないのだから、それも無理のない話だ」(内村祐之訳『野球王タイ・カップ自伝』より)  という説には大賛成である。  私がいままでに見たトリック・プレイでもっともすばらしいと思ったのは、大毎時代の田宮謙次郎である。  たしか西鉄戦であったと思う。中前に安打を放って一塁を廻ったところで、センターの高倉がトリック・プレイを行った。後逸したような守備動作をして田宮の二進を誘ったのである。だからトリックを行ったのは田宮ではなくて高倉なのであるが、そのとき田宮はそれを承知のうえで猛烈にスライディングして二塁を奪ってしまった。まことに気持のよいプレイだった。こうなると野球に深味がでてくるのがわかるだろう。しかも田宮の意気込みがまことにすばらしい。  さて、なんとかして走者を刺して味方に貢献しようとするトリック・プレイを私は紳士的だと考えている。反対に汚いプレイは紳士的ではない。  トリック・プレイを邪道だと考える人もあるだろう。なぜなら、本屋敷がトリックをつかうためには、逆シングルで捕球し、ほとんどうしろむきになって中堅方面に駈けようとしなければならぬ。これは危険なプレイである。正面で捕るのが正しいとする考えもあろう。しかし、私はこの程度のことが楽々とできなければプロではないと考える。  私が本屋敷のプレイについてはじめに長々と書き、反響を紹介し、それにこだわった理由をおわかりいただけたかと思う。いまの野球にはこういうプレイがあまりにもすくなく、貴重であると思えるからだ。評論家も解説者もファンも見逃してもらいたくないからだ。 [#改ページ]    にわかファン  私の友人で阪神タイガースを熱愛するあまり、三原脩を憎むようになってしまった男がいる。藤本定義と三原脩は非常に仲がわるいといわれている(実際はそんなことはないらしいが)。敵のチームの監督である三原脩を憎むということで、私の友人は野球のわかる男であるといえそうに思う。  私は三原ビイキであるからいっこうにかまわないけれど、ああいう戦法でもって自分のヒイキのチームがやっつけられるのを見るのはつらいと思う。球団関係者・選手にもアンチ三原は多いのである。  この男が、大洋・阪神の川崎の二連戦(25・26回戦)あたりから、急に大洋を応援しだしたのである。はじめは冗談だと思っていたが、彼は本気だった。つまり、彼はそのころ阪神の優勝をあきらめていた。優勝しても日本シリーズでは南海に勝てないと思いこんでいた。そういう気のよわいファンが阪神には多いのである。  彼は三原および三原のひきいる大洋を憎悪するあまり、日本シリーズで南海が大洋を粉砕するのを見たい、と思ったのである。  ニワカ大洋、ニワカ阪急というのがある。一昨年はニワカ東映がずいぶんいた。強いとみるや、|にわか《ヽヽヽ》に大洋でも阪急でも東映でもいいが、その時の最強チームのファンに転向してしまうのである。  ほんとの阪急ファンなんか、戦後でいっても苦節十八年で嫌な思いをつづけていたのに、横からひょいと根っからの阪急ファンみたいなのがあらわれたら不愉快になってしまうだろう。  ただ勝てばよい、強いほうがよいというダダッ児みたいな野球ファンがふえてきた。  スポーツをまるでやったことのない人が野球を見る。千本ノックや、オシッコの色が黄色になり赤くなる練習を知らない人が野球を見る。すると、どういうことになるか。  遊撃手にとっては、正面に飛んできたゆるいゴロのほうが、セカンドのベース寄りにとんだ強い当りより処理しにくいのである。  右ききの中堅手にとっては右中間のライナーは案外にとりやすい。真正面で五メートル後退してとるライナーがもっともとりにくいのである。  そういうことは軟式野球でもちょっとやればわかることである。  野球を知らない人が野球を見にくるから、とんでもないところで拍手がおこる。これではおもしろくない。野球以外のスポーツだとフットボールでもラグビーでもそんなことはおこらない。  みんなが野球を見るから自分も見るといったファンが多すぎるように思う。  私は野球を見にゆくときはフリー・バッティングから見る。シート・ノックでも昔の藤本定義さんは実にうまかった。  そうして、どんな試合でもゲームが終るまでは帰らない。勝負を見るのではなくてプレイを見たいからである。いや、戦前に一度だけ途中で帰ったことがある。六大学の慶東戦で、あんまりヒドイ試合だったので六回ぐらいで帰ってしまった。翌日の新聞を見たら、東大の失策は十六であった。  ちかごろのファンは、五回か六回で試合がきまるとぞろぞろと帰ってしまう。七回、八回では半分ぐらいになってしまう。勝敗を見るならばテレビのスポーツ・ニュースか新聞を見ればよいのに、と思う。  みんなが見るから自分も見る、という傾向は野球にかぎったことではない。ゴルフもボウリングもプールもそうだ。二、三年前のスケートがそうだった。これはひとつには女性の観客がふえたこと、女性がスポーツに参加するようになったからだと思われる。ベストセラーとなる書物は女性の読者が大半を占めるのと同じように、女性は付和雷同が多いようだ。ある人は男の女性化をいうかもしれない。こういう種類の平均化が現代のもっともいちじるしい特徴であるかもしれない。  それからして、観客が変なぐあいにゲームにくわしくなって、一億総野球評論家になってしまった。自動車に乗って野球のラジオをかけている運転手は、私などよりはるかに野球にくわしい。妙なことにくわしい。それは野球解説者とアナウンサーのせいである。 「こんにち、この時点においてわれわれは何をなすべきか」といった調子で解説する。やたらに数字をあげる。むろん、数字は知っていたほうがいいのだが、妙に学問くさくなって、プレイを楽しむという心境からだんだんに離れていってしまうのではないかという気がして仕方がない。 [#改ページ]    鍛  錬  経営者がスポーツマンを採用したがるという傾向があるという。私も事業主だったら、多分そういうことになるだろうと思う。  スポーツ、特に団体競技できたえられた選手はサラリーマンという協同作業のなかではいい仕事をしてくれるように思う。  ニチボー貝塚というチームがある。これがノンプロの会社員のチームかといわれると大いに疑問があるが、私はあれはあれでいいと思うし、オリンピックで負けてもいいと思う。  ひとつの目標にむかって結婚も家庭も、あるときは職場も捨ててしまって鍛錬ということにむかっているわけであるが、あれもひとつの人生であると思うし、オリンピックが終れば結婚退職者は別として何かをつかんで職場へかえってくるはずだと思う。         *  私の子供のころは、少年野球の全盛時代であって、私たち小学校の野球チームは東京都の大会で優勝し、傷病兵慰問の野球大会にも出場、私はそのチームの一員であったから、まあ花形選手であったといってもいいだろう。  それが、いまの私にどういう影響を及ぼしているかということはすぐにはわからないが、我慢づよくはなっていると思う。十メートル前で力いっぱいのノックを受けて一歩でも後退するとしかられたものだ。いい指導者にぶつかれば少年時代にスポーツで鍛えられるのは非常によいことだと思う。  私のスポーツ体験はそれくらいしかないが、それでも野球のおそろしさというものが、やらない人よりはわかっていると思う。  ある小説家が国鉄の金田投手と賭をしたという話をきいた。金田の投げる球《たま》を打って内野ゴロでも打てたらどうとかするというような賭である。私はその賭は成立しないと思う。プロの選手はそんなになまやさしいものではない。おそらく、金田の投げた球が捕手のミットにおさまってからバットを振るといった程度のことにしかならない。  巨人の城之内とか、中日の柿本とか、何年か前の西鉄の若生とかいった投手が成功したのは打者に恐怖感をあたえるからである。私ならおそろしくてバッター・ボックスにもたてない。速球投手でシュートが大きくて変則的なフォームで投げられるときのこわさを知っているつもりである。  おなじような意味で稲尾ならこわくない。稲尾なら決してぶつけないだろうという安心感があるからだ。  バッキーとかスタンカも、たしかに力があるのはわかっているが、二人が好成績をあげているのは、打者に恐怖感をあたえるからである。私はそう思う。いっぺん実際に選手にきいてみたいと思っているのだが。         *  私は会社にはいると自分の所属する部署で野球部をつくって監督になってしまうというクセがある。全く野球をやったことがない奴、とてもスポーツには不向きな奴も全部選手にしてしまう。この人たちを全員つかいきってしかも試合に勝つ算段をするのがまことに楽しいのである。そのことが仕事のうえでもプラスになると考えている。  そうではなくてうまい奴だけを集めて勝つことだけに専念する会社チームというのを軽蔑《けいべつ》する。ニチボーじゃあるまいし、そういうチームとは試合をしない。従って勝率はいつも五割である。まあ広島カープの白石さんだな。  私たちの悩みは球場難である。これは私たちだけではあるまい。東京の何万人いるかわからないが草野球チームはそのために難儀をしている。私がゴルフぎらいなのはそのためでもある。会社の重役や幹部諸公が接待をうけるための広大な土地があって、私たち町の連中の遊び場がないということに腹がたつ。運動のためならば散歩をすればよいのだ。  しからば、東京には軟式野球場が全くないのか。むしろ、ないといったほうがいいような状態であるのだが、遊んでいる球場が絶無というわけではない。  郊外を歩いてみればすぐわかる。芝生の手入れのゆきとどいたグラウンドが随所にある。しかし、そこには××銀行グラウンド、○○石油運動場という立て札が立っている。おそらくそれは投資と、工場の建設予定地といった意味をもっているのだろう。あれを適当な料金を払って貸していただくというわけにはいかないものだろうか。あれを遊ばせておくのは大資本の暴力ではないか。銀行が子供に風船をくばったり、石油会社が内容のない宣伝雑誌をだしたりするよりは、よっぽど効果のあがるPR活動になると思うのだが。 [#改ページ]    かくれジャイアンツ 「かくれジャイアンツ」という言葉があるそうだ。もちろん「かくれキリシタン」をもじったものである。  巨人軍が好きだと言ってしまうのは、時によって恥ずかしいことであるらしい。いわゆる野球通にはアンチ・ジャイアンツが多いのである。それに判官びいきということもある。俺は巨人軍だと言うのは、何やら子供っぽく見られる気配がある。まるでYGという野球帽をかぶっているように──。  それでは私はどこのチームが好きか。こういう質問を何度も受けた。私には特別に好きなチームはない。野球が好きなだけである。そんなことはあるまいとシツコク聞かれるときには「特定のチームが好きだというほど素人ではない」と言うこともある。  それでは、ジャイアンツというチームをどう考えるか。  たとえば巨人・阪神戦を見ているときは、私は阪神に肩入れする。なぜかというと、阪神が勝ったほうがペナント・レースが面白くなるからである。ということは面白い野球が見られるということと同じである。  また、たとえば日米野球を考えるときに、巨人軍というチームが圧倒的に強くなくては困るのである。いまの阪神や大洋にコロコロ負けるようでは非常に困る。  私はそんなふうに考える。私は「かくれジャイアンツ」ではない。  ところが、野球評論家、スポーツ記者、アナウンサーといった専門家には「かくれジャイアンツ」が多いのである。私は、ひそかに、アンパイアにも多いのではないかと疑っているのである。彼等は、職業上、それを発表することが出来ない。  それは無理のない話である。  なぜならば、巨人軍の選手は、他のチームの人たちと比較すると、行儀がよく、明るく素直であり、研究熱心である。つまり、ヤル気がある。野球に生涯を賭けている人たちは、どうしたって、心中ひそかに巨人軍を応援し、これを愛するようになる。         *  巨人軍と他の十一球団とでは、野球が違うのである。  これをチーム・プレイと呼ぶことにしよう。頭脳的でもいい。巨人軍の代表選手は、内野手の土井であり、外野手の高田である。  もうひとつの違いは、給料の違いである。あるいは観客の数の違いである。この点になると、他のチームの選手が次第にヤル気をなくしてしまうのも無理がない。  阪神の藤田、江夏、田淵といった人たちは素晴らしい選手である。ところが年々に生気が失われてゆく。金田監督の策が悪いと思ったことはない。しかし、TV画面に映る金田の渋面を見てごらんなさい。一方の川上は笑いっぱなしである。これでは野球以前の野球で負けてしまう。  七時から八時まで、ラジオの野球中継を聞きながら晩酌をする。八時から九時過ぎまでテレビを見ながら食後酒を飲むといった人たちの数は、一千万人を越えていると思う。  ジャイアンツのファンであっても、相手のチームがあまりにだらしのない負け方をすれば面白くないと思う。私のような単なる野球好きは、バカバカしい野球を見せられると腹が立つ。これがアンチ・ジャイアンツになると、不愉快はその極に達するのではないか。  これは酒呑みにとっても由々しき問題である。酒がおさまるところへおさまらず、肴《さかな》は消化不良となる。 「かくれジャイアンツ」なんてものが存在するのが、そもそもおかしいのである。八|連覇《れんぱ》が行われるほどに差が出来たのは何故か。このことを関係者によく考えてもらいたい。いまの巨人軍は野球のチームとしては少しも強いとは思えないのに──。 [#改ページ]  ㈽ 私の愛する野球人間    三 原 魔 術  サッカーの人気と隆盛が、やがては野球をおびやかすのではないかという話になったときに、近鉄の三原監督は、こういう意味のことを言ったそうだ。 「サッカーは足をつかうけれど手をつかわない。野球は足も手もつかう。だから、サッカーが(そのゲームとしてのおもしろさにおいて)野球にかなうわけがない」         *  昨年度のプロ野球日本シリーズ第一戦が行われたときに、西宮球場へむかう自動車のなかで、三原さんが私にこう言った。 「あなたは競馬をやりますか」  私は、やりますと答えた。 「うちの息子もやるんですよ。ときどき儲《もう》かるらしい。……しかし、競馬なんて、どこがおもしろいんですかな」 「いや、なかなか、おもしろいですよ」 「あんなもの、おもしろいわけがないじゃありませんか。かりに、百メートルを10秒で走る男がいたとしますよ。その男は、練習によって、いつでも10秒か10秒1ぐらいで走ることができる。また、11秒で走る選手がいたとする。あるいは10秒5で走る選手がいたとする。こんなふうに、走る能力というものはきまっているはずですよ。ですから、勝敗はわかっているんです。そんなものを見に行ったり、金を賭けたりしてもつまらないじゃないですか」  私は、ちょっと驚いた。そこで、サラブレッドに代表される競走馬というものが、いかに微妙かつ精巧な動物であるかを説明した。馬の全能力が発揮されるのは、ほぼ三週間であって、そういう調子の波を掴《つか》むのは困難であり、そこに妙味があると言った。また、レース展開に左右されることがあって、強い馬が勝つとはかぎっていないとも言った。勝時計は、根拠にはなっても決して万全のものではないとつけ加えた。  それでも三原さんは納得したような顔をしなかった。  四年前の春、草薙《くさなぎ》球場へ行って、大洋の練習を見た。  そのときの大洋の布陣は、一塁近藤和、二塁箱田(近藤昭)、三塁クレスニック(林)、遊撃桑田であった。捕手は土井、伊藤、松原で、なかなか豪華だった。この陣容というか、野球に対する考え方を、私は非常に面白いと思った。同時に、私は、この考え方は間違っていると思った。  プロ野球から草野球にいたるまで、強いチームと弱いチームの差は、内野手の守備力の差にあるというのが私の持論である。この場合、捕手には土井がいるからいいとしよう。  とくに遊撃手と二塁手の役割が重要である。投手が内野手を信頼して投げるのと、不安感をもって投げるのとでは、相当に力の差が生ずる。美技に救われるというのと、凡失で思わざる不利な局面を招くというのとでは、投手の心理的な負担の差が大きすぎる。そうでなくてさえ、大洋の投手力は弱体なのである。  私は、その年、ヒイキの鈴木武遊撃手を放出したことに不満と疑問を感じていた。そこで三原さんに喰《く》ってかかった。三原さんは、つぎのように答えた。 「桑田は、守りの固い三塁手である。だから遊撃がやれないことはない。クレスも三塁なら守れる」  鈴木武については、心技一体ということを言っていた。そのへんのところはわからないけれど、私はどうしてもその年の大洋の布陣が納得できなかった。クレスの三塁、桑田の遊撃では、三遊間に打てばヒットになるように思われた。これではプロ野球ではない。そう言ったら、三原さんは、まあ、あんまり言いなさんなというふうに私の背中を叩いた。         *  私は三原さんが日本一の名監督だと考えている。だから今年の近鉄はおもしろいと思っていた。  しかし、専門家の予想は、十人のうち七人か八人は近鉄最下位であった。あとは西鉄最下位説だった。  私はすこしムキになって、三原さんのことばかり書き、近鉄と西鉄が優勝をあらそう事態が充分に考えられると書いた。  その根拠は、近鉄には若い選手が多くて動かしやすいだろうし、鈴木という立派なエースがいることだった。親会社がしっかりしているということもある。  これに対して、専門家は、近鉄は駄目なチームで、鈴木は太りすぎていて、往年の後藤のような期待だおれの大器であると反論した。  私は、駄目なチームだから面白いと考えたのである。駄目というのは勝つ意欲のないチームということで、こういうチームを持たせると三原さんはウマイのである。田舎チームといわれた西鉄、万年最下位の大洋がそうだった。  ただし、これもヒイキの鎌田が、攻守にこんな形で復活するとまでは考えられなかった。鎌田の守備で勝った試合が二つか三つあるのではないか。我田引水のようであるが、近鉄が強いのは、ロイ、鎌田、阿南、安井という内野の守備が大いに関係していると考える。  投手、外野手、代打兼任の永淵という選手の使い方も余人には考えられぬ業《わざ》であると思う。昨日(五月十六日)は、投手五人を使って、東映を完封した。これも珍しい試合ではないか。  現在までの戦績は立派なものである。監督は、あわやという場面をつくればいいのであって、それから後はツキとか運に左右されると考える。         *  しかし、近鉄が勝ちだすと、大洋が優勝したときと同じように、またしても三原さんには会社経営の手腕があるとか、三原戦術は経営学の参考になると言われだすのはどういうわけだろうか。戦時中に木村名人とか呉清源を総参謀にしたらよいといわれたのと同じ考え方である。私は勝負の世界と会社経営は別物だと思っている。         *  三原さんは天才である。天才とは、すぐれた常識家である。常識家とは、既成概念にとらわれずに真っすぐに自分の疑問を提出できる人のことである。どうして投手が外野を守ってはいけないのか。どうして無失点の投手を次々に交替させてはいけないのかといったふうに。  また、天才とは、ものごとを単純に考えられる人のことである。単純だから明快である。そこから信念が生ずる。頑固になる。はなはだ個性的である。  いったい、サッカーは手を使わないから面白くない。競馬はタイムがきまっているから面白くないと考えられる人が何人いるだろうか。まるで子供のように単純で、子供のように素朴である。大人は、サッカーや競馬には人気があるから面白いはずだと考えてしまう。  私はこれが三原魔術だと思う。単純・明快な考え方で勝ち進むから選手が無条件で信頼するようになる。  それではあるけれども、いまでも私は四年前の大洋の布陣は間違っていると思っている。そうして、会社経営と勝負の世界とが異なるのはこの点にあると思う。あのときの大洋は強力打線を組んでツキを呼ぼうとしたのかもしれないけれど、会社ならば、結果からいうと、あの段階で破産してしまっているのである。 [#改ページ]    鈴 木 武  銀座のバーで飲んでいたら、どこかで見たことのあるような男たちが、ドヤドヤとはいってきた。一時間くらいたってから、私は隣の女性にあの赤シャツの大男は誰かとたずねた。  女性は、 「大洋の鈴木隆さん」  とこたえた。  そういわれてみると、いちばん見おぼえのある人なつこそうな、芸能人みたいに愛嬌のある顔は土井であり、フライパンをさらに深く折りまげたような顔は長田であり、トランプのダイヤに目鼻をつけたような秋山投手の顔もあった。つまり大洋ホエールズの一行であった。 「鈴木隆でなく、鈴木武に会いたいな。あのひと好きなんだ」  と言ったら 「あらいやだ。このひとが……」  隣の女性の手のとどく位置に鈴木武さんが、むこうむきに坐っていた。私は横顔から、それは近藤和彦さんではないかと思っていたのだが。  私は顔と名前とを一致して憶えることがすこぶる苦手であるが、これほどヒドイとは思っていなかった。五、六年まえだが秋山、土井のバッテリーがよく私の家に遊びにきた時期があったのである。むこうも、もう忘れていたが、私の方はTVでよく見ているのにね。  私は、むこうの席に行って鈴木武さんと話をしていいだろうかと、女性にたずねた。実は、私がそう言った頃には、こちらの席とあちらの席がいりみだれてしまって、秋山さんはすっかりこちら側の人間になっていたのである。 「いいわ、こっちのほうがすいているから、呼んだげる」  そう言って女性は、立ちあがって鈴木さんの肩を叩き、私の名を言った。鈴木さんは、すぐに来た。私は私の席を彼にゆずって、むかいあったホステス用の丸椅子に坐った。 「とうとう会えましたわ」  と鈴木さんは言った。私はビックリした。 「会いたい会いたいと思うてたひとに、やっと会えましたわ」  それは私の気持であった。だから、いけないことだと思いながら、彼に来てもらったのだ。 「読みましたよ。私のことが出てるってきいたもんだから、そのために買って読んだんですよ。そこんとこだけ、四回も五回も読みました。私のこと書いたから賞をもらったのんと違いまっか」  鈴木さんは、やや出っ歯気味の前歯をなめながら笑った。         *  私は、小説のなかで鈴木武さんの名前をつかったことがある。 「酒乱とは何か。江分利のいう酒乱とは、飲もうといったときに最後までつきあってくれる人たちのことである。この人たちに悪人はいない。単純で、純粋型で、感激型で、桜井にいわせれば単細胞である。他人のファイン・プレイを発見して喜ぶタチである。このタイプの人にバーであうと、江分利にはそれがひと目でわかる。 『昨日の、鈴木武、見た?』  桜井は大洋ホエールズ鈴木武のファンである。 『見たよ。七回裏の二死一、二塁で、深いショートゴロをとって、一塁へ擬投してからサードヘほうったプレイだろう』 『ちえっ、知ってやがら』 『知ってるさ』  小沢は阪神タイガース鎌田二塁手のファンである。鈴木武と鎌田がはじまると長くなる。小沢も江分利も疲れているはずなのに、水割りが二杯も入ると別人のように元気になる。時間でいえば、八時ごろが威勢がいい」  というのが、本人の鈴木武さんが読んだという箇所である。ただし、七回裏の二死一、二塁で、というのは私の創作であって、いかにも鈴木さんのやりそうなプレイを考えたわけだ。  去年だか一昨年だかということも忘れてしまったが、鈴木さんの実際にやったプレイでこんなのがある。  相手チームも打った打者も忘れてしまったが、打球は右中間を深く抜けた。一塁から二塁へと打者は走る。二塁手が中継にはいる。ショートの鈴木さんは二塁ベースにはいる。中継の球がショートの守備位置のへんへ大きくそれる。三塁の桑田がこぼれ球をひろいに走る。投手は三塁のはるか後方にいるから従って三塁ベースはガラ空きになる。このとき走者は二塁ベースに達していた。ボールは誰が持っているかわからない。捕手の土井がすごい勢いで三塁ベースにむかって走る。桑田もあわてて戻ろうとする。だから、走者は悠々と三塁に達することができたはずである。そのとき鈴木武も三塁にむかってダッシュしようとする。そして走者から、6メートル走ったところは鈴木武と競走しているようにみえた。二人のランナーの身体がふれあって、もつれたとみる瞬間に、二人とも立ちどまった。ボールは鈴木武が持っていたのだ。茫然とした走者と鈴木武の半分照れたような笑い顔が忘れられない。  二塁打者の当りを、二塁ベース上でわざとボンヤリ突ったって、走者の速度をゆるめスライディングを怠らせてタッチするというプレイも鈴木武に多かった。土井もうまいが、鈴木武の顔はトリック・プレイにむいているように思う。私がそのことをいうと鈴木さんは、 「あれは邪道やねん」  と言って、またニヤッと笑う。  全盛時代の白石にもそういうプレイがあった。たとえば、一死一、二塁で、セカンドゴロがショートに送られ、一塁の方にむいたままで三塁に送球して走者を刺すのである。これもトリック・プレイではあるが、一塁へ投げて間にあわないのがわかっているなら、併殺くずれで本塁を狙うか、または離塁の大きいだろう三塁走者を刺すというプレイを心がけるべきだろう。  戦前のハリスのトリック・プレイとはちがう。三塁走者のハリスは、投手にボールを見せろと叫び、ゆるくころがしてほしいという動作をして、投手が投げると脱兎の如くという形容そのままに本塁へ走ったもんだ。これは邪道に属する。         *  私は鈴木武という選手が好きである。彼の野球が好きである。鈴木武より足の速い遊撃手はいる(たとえば、河野、木塚)。打率のいい勝負づよい選手がいる(豊田、レインズ)。守備範囲の広い選手がいる(広岡)。  しかし、私には鈴木武の野球がいちばんおもしろい。近鉄時代、昭和二十九年に彼は71盗塁で盗塁王になった。これは年間最多盗塁の第四位である。しかし、彼には、盗塁して二塁でアウトになると思ったら、くるっとうしろをむいてスタコラ一塁へもどってセーフになるという妙技があった。そのくらい足がはやくカンがよかった。  なぜ、私がことさらに鈴木武の名をあげて“おもしろい野球”を強調するかというと、この数年、野球は「野球」でなくなって「勝負」になってしまったからだ。特に三十八年度はヒドかった。日本のプロ野球は勝負と鍛錬と因縁になってしまった。  私が高いお金をだして、残りすくない人生のとぼしい時間をさいて球場へ出かけるのは野球が見たいからである。勝負がみたいならTVのスポーツ・ニュースを見ればよい。  昭和三十八年度のオールスター戦直後の巨人・阪神戦で、国友の判定に村山が怒っておどりかかったと見えたが、実際は国友がインジケーターで村山の右頬を二回突いた。青田コーチが国友の足を蹴る。藤本監督が国友をネット際に追いつめてこづく。村山はその晩中泣きあかしたという。こういうものを見るために球場へ出かけてゆくのではない。  プロ野球らしい、野球の専門家らしいプレイを見たいのだ。  昭和三十八年度のペナント・レースで、目のさめるような走塁がいくつあったろうか。  巨人・西鉄の日本シリーズは全部観たが、ご承知のような“草野球シリーズ”といわれても仕方のないような試合の連続であった。プロ野球らしかったのは、平和台での第二戦のパーマの併殺プレイ(スナップ・スローではなく、掌を逆にかえして投げる外人特有のプレイ)と稲尾=長島の対決だけだった。技術のことだけを言おうとしているのではない。どうして、あんなにコチコチになるのだろうか。緊張のあまり、野球については素人のはずである観客の失笑を買うような凡プレイを繰りかえすのである。どうしてもっと野球を楽しまないのか。ファイン・プレイをらくらくとやってのけて観客を楽しませ驚かせるのがプロ野球ではないのか。  外人選手の多いチームに対して「純潔を守れ」というような声がある。冗談じゃないよ。もし、高度野球を見せてくれるなら、全部外人選手だってかまわないと思う。どうして郷土のチームや勝敗にばかりこだわるのだろうか。戦前のタイガースは、トス・バッティングを見ているだけでも楽しかった。若林、藤村、土井垣、本堂、呉などはともかく自分も楽しみ、お客さんも楽しませようとするサービス精神をもっていた。そのユトリがないのは技術的に劣るからだといわれても仕方がないのではないか。  私は、鈴木武さんに、これからどうするの、ときいた。そのときは、鈴木さんが野球をやめてしまうことを知らなかった。二、三年さきのこととして聞いたのだ。 「商売やります」 「商売? やわらかい商売?」 「かたい商売です。西宮へ帰って仕事します」 「水商売なら遊びにいけるのにね」 「かたい商売でも遊びにきてください。どっかご案内します。今日は本当に嬉しかったわ。あいたい人にあえて」 「いや、楽しかったのはこっちです」  と、私はギコチなく言った。 「だけど、コーチかなんかにならないの?」  私は彼の野球術を誰かに伝えてほしかったのだ。しかし、鈴木さんはダメだというふうに首を横にふった。その意味はよくわからなかった。コーチむきの人間ではないという意味なのだろうか。高度の技術者は教育者になれないというようなことはあるだろう。  帰らなければならない時間がやってきて、私は立ちあがった。鈴木さんも立った。私は鈴木さんの野球選手としては、すこしふとりすぎと思われるようなお腹をポンと叩いた。 「ダメじゃないか、こんなにお腹が出ちゃ。これじゃ走れないでしょう」 「いや、足はそんなにおとろえていないんです。だけど、いまの野球は盗塁なんかしないで、ベースにくっついていて、次のバッターのロング・ヒットを待ってるんです」  鈴木さんは、すこし怒ったような声で言った。彼の71盗塁にくらべて三十八年度のセントラルの高木守はずいぶんすくないはずだ。鈴木さんがあまり使われなかったのは、大洋が優勝あらそいに加わらなかったからだろう。競《せ》ってたら三原さんはもっと彼を起用したはずだ。 「じゃ……」  と言って私たちは別れた。 [#改ページ]    黒 尾 重 明  久しぶりで黒尾重明が家に遊びにきて、二人で酒を飲んだ。  黒尾重明の名を知っている人がどれくらいいるだろうか。おそらく、いまの二十代の人で黒尾の名を知っているのは稀《まれ》なのではあるまいか。  黒尾重明は昭和二十一年にセネタースに入団したプロ野球の選手である。当時のセネタースのスタープレイヤーは、投手の白木義一郎と外野手の大下弘だった。  しかし、黒尾は、ルーキーとして、その年に十勝をあげ、翌年は十九勝十八敗、その翌年も同じく十九勝十八敗で、セネタースのエースとなった。  東西対抗(いまのオールスター)にも選ばれて好投した。いまでいえば、大洋の平松に当るだろうか。投げ方も体つきも、顔も平松に似ている。美男投手というよりも、童顔で、少年投手のおもかげがあり、人気があった。  昭和二十五年に近鉄パールズに移り、三十年まで在籍した。         *  黒尾重明と私とは、東京港区の東町小学校での同級生である。むろん野球部員である。彼は投手で四番打者、私は左翼手で二番を打っていた。  この小学校の野球部は強かった。東京都の大会で優勝し、傷病兵慰問のための模範試合を行ったこともある。  黒尾は小学校の英雄だった。いや、麻布《あざぶ》かいわいの英雄であり、みんなに愛され、敵方からは怖れられていた。  彼は都立化工に進学したが、戦争中のことで、甲子園球場の中等野球大会で全国に名をとどろかすにはいたらなかった。だから、戦争が終って、彼がセネタースのエースとなったとき、私は非常に嬉しく思った。  私は、後楽園球場へ行って、何度もセネタースの試合を見た。彼が投げても投げなくても、ブルペンのそばの金網の所から声をかけた。  彼に住所を聞いたとき、黒尾は、だいたいのところを言って、そのへんで子供に聞けば教えてくれるよと言った。彼は、ふたたび、町の英雄になっていた。         *  黒尾と酒を飲んでいるときに、飯島滋弥とか一言多十とか熊耳武彦とか清水善一郎とか横沢七郎とか長持栄吉という懐かしい名が出てきた。セネタースというチームは、弱いけれど人気があったのである。そうしてそれが、すでに四分の一世紀の昔話になってしまったことが不思議なことのように思われた。  現在の黒尾はスターの夢を捨てて堅実に暮している。当時のプロ野球の選手は現在のような高給取りではないが、それにしても、あの頃の金はどうなったのだろうか。  彼は、アレがあったからねと言った。アレというのは、戦争末期、彼は陸軍の戦闘機に乗っていて、特攻隊員であったからである。その頃の黒尾重明の感動的な挿話を近藤唯之さんが書いたことがある。  戦争が終ったことも、プロ野球の花形選手になったことも、彼にとっては夢のようであったに違いない。どうせ一度は死んだ命ではないかという思いがつきまとった。これでは金は残らない。彼は飛行機に乗っても野球をやっていても、純情で純粋でありすぎたように思われる。  彼は一時大学野球の監督をしていて、私の家のそばのグラウンドで試合が行われたときに見に行った。ズボンを長くはき、ストッキングを短く見せるという昔ながらのスタイルで、そのときもひどく懐かしい感じがした。  もう、近所の子供もキミの名前を知らないだろうと私が言った。彼は、しばらく考えてから、いや、もう駄目だよ、四十歳以上の男でないと僕のことは知らないね、と、さばさばした顔で言った。 [#改ページ]    英 雄 の 死  十月十七日は夜遅く家に帰った。  その前日は、私の小説のTV劇化のことで放送局の人たちと酒を飲んだ。そのまた前日は土瓶むしを食べようということで、女房子供と銀座へ出て、馬鹿にいい気持になってしまって何軒も飲み歩いた。  十七日は、午前六時に起きて、山梨のほうへ行った。これは私の勤務する会社関係の仕事である。列車のなかで、朝からビールになった。洋酒の会社だから、昼食でも、シェリー、葡萄《ぶどう》酒、ウイスキイが出る。私は、またいい気持になった。酒のためだけでなく、この日は嬉《うれ》しいことがいろいろにあった。ある人に、あんたは朝はブスッとしていたけれど本当は面白い人だねと言われた。そんなふうに元気になった。夜は柳橋で宴会になった。それで帰ればよかったのに、さらに銀座を飲み歩いた。こうなると、ウイスキイのストレイトばかりになる。こんなに飲んだのは今年では初めてのことである。それで帰りが遅くなった。  女房が、とっても悪い知らせがあるのよ、と言った。とっても厭《いや》なこと、とっても悪いこと、驚かないでね、クロオさんが亡くなったのよ、奥さんから電話があったの、今朝早く亡くなったんですって、急だったんですってと言う。  クロオというのは、プロ野球の投手であった黒尾重明である。私は小学校三年生のときに港区の東町小学校に転校した。そこに黒尾がいた。その小学校には野球部があり、彼は主戦投手だった。はじめ三塁手であったというが、私の知ったときは、すでに投手だった。その黒尾だから、実に、四十年に近い友人である。  女房から話を聞いたとき、私の頭は朦朧《もうろう》としていた。非常に混乱した。私は、ナンダイ、冗談じゃないよ、死ぬのは俺のほうだ、俺はこんなに滅茶苦茶な生活をしているんだ、死ぬなら俺のほうが先に死ぬと叫んだ。  そうして、私は、また酒を飲みだした。そうするよりほかになかった。         *  黒尾重明に最後に会ったのは、今年の三月だった。銀座で会って、そこで飲みだして、別れたのは、中野だか阿佐谷だかの酒場だった。  黒尾は元気だった。以前、肝臓が悪いと言っていたが、それもすっかりよくなったということで、珍しく、私と同じぐらいに飲んだ。  彼は、昼間は、デパートで既製服を売る仕事をしているという。夜は野球評論を書くためにナイターを見に行く。重労働である。その仕事をはじめるまで、何度も会った。彼がそういう仕事に就くということに関しては、私の想像のつかない悩みがあった。倉庫で手押車に既製服を積んで売場まで運ぶ。その間が一番つらいと言っていた。誰かに見られるのが厭だ。一度だけ声をかけられたことがあった。  彼は、小学校の五年生のとき、すでに町の英雄であり、学校の人気者だった。都立の中学が月謝免除で勧誘にきたということをいまの人は信じてくれるだろうか。戦争末期は特攻隊員であった。戦後は、東急セネタース、近鉄パールズのエースで、九十九勝百二十一敗の成績を残した。  そういう男が、五十歳近くになって、デパートで手押車を押すというときの気持は、当人でなければ説明がつかないだろう。彼は高校二年になる一人娘を非常に可愛がっていた。娘のためだと自分に何度か言いきかせたことだろうと思う。  今年の夏になってから胃が痛んだ。八月六日に入院して手術すると、胃癌《いがん》であり、肝臓にも膵臓《すいぞう》にも転移していた。  誰にも知らせないことにしていたが、新聞に連載していた観戦記が中断したことで、そっちの方面には知られてしまった。見舞客のなかに、白木義一郎、上林繁次郎、鈴木圭一郎など、昔の仲間がいた。         *  私は黒尾重明のような純情な男を他に知らない。純情にして、かつ、純粋である。良くも悪くも、|子供みたいな《ヽヽヽヽヽヽ》ところがあった。  彼は、この道一筋の男であった。私にも、よく、この道一筋で生きたいと言っていた。この道とは野球である。彼のように野球の好きな男も珍しいのではないか。ところが、この道一筋では生きられないようなことになってしまった。  彼は、引退後、スポーツ新聞社に勤めた。どうもうまくいかなかったようだ。運動具店をはじめ、それにも失敗した。彼は、月給取りにも商売人にも不向きな男なのである。変な言い方であるが、黒尾重明は、特攻隊員であるかマウンド上のエースであるか、それ以外に生きる道がなかったと思う。こんなことは、黒尾の生きているときには言えなかった。  黒尾を知る者は、誰でもその純情を言う。小学校のとき、教師に指名されると、それだけで|真※[#「赤+暇のつくり」、unicode8d6e]《まつか》になってしまう。大きな男が、突っ立ったまま、口ごもる。みんながはやしたてる。いよいよ顔が赤くなる。そうして、私たちだけでなく、町中の人が、そういう黒尾を愛していた。みんながファンだった。  彼は好き嫌いの激しい男だった。まるで子供だった。その癖、遠慮のかたまりのような男で、自分の言いたいことが言えない。お世辞が言えない。これでは商売は出来ない。  一例をあげよう。彼は巨人軍の王貞治の熱烈なファンだった。あの黒尾重明が、王のサインを貰《もら》って喜んでいるのを見て、私はあきれてしまった。王のサインボールを私に呉れたりした。  どういうわけか、私も女房も黒尾に好かれた。黒尾は、私の家に遊びに行きたいと言って、何度も夫人に叱られたそうだ。忙しい人だからと夫人は言った。私も女房も、いつでも黒尾なら大歓迎したのに。         *  黒尾は、ずっと以前から、遺言めいたことを言っていたという。夫人がそれを嫌うと、俺の人生は、あの時(特攻隊員の時)終っているのだからと言うのが常だった。彼は、自分の墓は、バット三本を立てて、その上にボールをのせた形にしてくれと言っていたそうだ。  十月十八日、黒尾重明の葬儀の日、私は、ぶっ倒れるようにして家で寝ていた。私が悔みに行ったのはその翌日である。  黒尾は癌であることを知っていた。夫人が山口さんに会いたいかと訊《き》いた。彼は、会いたいけれど、もう少し良くなってからにしてくれと言ったという。  私はまだ信じられない。小学校時代、学校で一番体格の良かった男が、虚弱児童にちかい私より先に、五十にならないうちに死んでしまうなんて。  黒尾は、病床で、あと十年生きたいと言った。私にはその意味がわかる。彼は娘が結婚して幸福になる姿が見たかったのである。  私は右手が左手より長い。野球をやっていたためである。私でさえそうなのだから、少年野球、中等野球、プロ野球と、ずっと投手を続けていた黒尾の体は、洋服屋が驚いたり困ったりするくらいに変形していた。筋肉のつき方が常人とは違う。骨が太い。その黒尾が、もう、骨だけになって私の前にいた。  夫人が、飲んでくれますかと言って茅台《マオタイ》酒を注いでくれた。退院したら飲むつもりで、娘を中国物産展に買いに行かせた酒であるという。  その酒は、連日の深酒でメチャメチャになっている私の胃に、熱く沁《し》みわたった。 [#改ページ]    長島の構想  長嶋茂雄というのは本名ではない。本名ではないが、彼は長嶋茂雄と書き、色紙にサインを求められると、やはりそう書く。本名は長島茂雄である。彼は「島よりも山鳥《やまどり》のほうが好きなんです」と言う。  彼は富士山が好きだ。若い時からそう言っていた。私は富士山が好きだと言える男をうらやましく思う。  某誌で長島と対談したときに、彼は、野球の選手は、少し乱暴者であるか、あるいは時にハメをはずすくらいの男のほうがいいという意味のことを言った。 「私は野球選手としては結婚が遅いほうだったんです。二十九歳になる直前でした。だから、結婚前にはいろいろあったんです。ハメをはずしました。それくらいのほうがいいと思っているんです」  こうも言った。 「また、特にピッチャーがそうです。われわれのような野手を正常人であるとすれば、ピッチャーは極端に言えば人間としてはアブノーマルなんです。アブノーマルであったほうが、いいピッチングが出来るんです」  彼は、ピッチングコーチとしては中日の近藤コーチを讃えた。これです、心です、ハートです。ですから、中日のピッチャーは毎日でも投げたがるんです。そう言って、何度も自分の胸を叩いた。彼は喋《しやべ》っているときのゼスチュアーが大きいという意味では日本人ばなれしているところがある。  さらにもうひとつ、四十九年の巨人軍はピッチャーが悪いのではなくてバッティングが悪かったのだと言った。われわれの責任です。バッティングがよければ勝てた試合がいくつもありましたと言う。         *  これらの言葉を総合すると、長島の考えている野球が見えてくる。川上野球、牧野野球とはずいぶん違う。川上と牧野の野球、これをドジャース戦法と呼んでもいいと思うけれど、ドジャース戦法は守りの野球である。面白い野球ではない。長島は面白い野球をやろうとしている。それを彼はクリーン・ベースボールと名づけた。  巨人軍は、ついに純血主義を捨てて大リーガーをいれるという。長島の狙《ねら》っている外人選手は三塁手と捕手である。ということは打てる選手である。打てるチームにしたいと長島は考えている。  敗戦を投手の責任にすることは非常に簡単である。相手チームを零点におさえれば負けはない。しかし、そう言って投手の責任にすることは非情に過ぎると思う。長島はハートだと言う。へッドコーチを牧野から関根に、ピッチングコーチを藤田から宮田にかえたのはそういう意味が含まれていると思う。私がラジオの解説を聞いていて、もっともアッタカイと思ったのは関根と宮田だった。そうは言っても牧野や藤田を冷たい男だと言うのではない。しかし、噂《うわさ》のあった青田や千葉よりも関根と宮田のほうが、選手個人に対する当りがやわらかく暖い目を持っていた。  ピッチャーは、アブノーマルであったほうがいいと言うのは、常人と違ったふてぶてしい神経の持主であったほうがいい、そのほうがピンチに際して動揺しないということだろう。多分、長島は、堀内や関本のような投手に期待しているのだろう。言動に関して、何か言われたりする男のほうが頼りになると思っているのだろう。長島は燃える男である。  また、彼は、巨人軍を弱くしたのはドラフト制だとはっきり言っていた。ほしい選手が取れないということは監督としては実に辛い話である。今回、彼は定岡を指名した。定岡は、まだ海のものとも山のものともわからないがスターの要素を持っていることでは随一である。長島はそういう青年を好む。  捕手の森を捨て、黒江をコーチとして残そうとする。すべて首尾一貫しているところが好ましい。おそらく長島は、嫌われていた高田と土井を重用することになるだろう。ショートの河埜は長島の下で充分に働くことになると思う。  ハメをはずしたほうがいいというのは、かなり意識的な発言ではなかろうか。ともかく長島はその第一歩において、川上とは違う野球を見せてくれると宣言した。  私は、巨人軍は二、三年は低迷が続くと書いた。しかし、長島に会い、王に会って話をしてみると、わからなくなってくる。野球にかぎらず、スポーツマンに会うと、その人に情が移ってしまうものであるが。  その実生活においてではなく、野球の戦術という面において、いや、野球そのものに関する考え方において、長島は完全にアンチ川上を標榜《ひようぼう》した。それが長島の若さであり、長島の良さであると思う。  川上は勘の良い監督であった。代打の的中率において、川上は歴代の巨人軍の監督のなかで最もすぐれており、おそらく、日本の全監督のなかのトップに立っていたと思う。私はそれを彼の信仰心と結びつけて考えたことがあるが、そんなことはない。やはり、全選手と相手投手との関係という調査が行き届いていたのであり、川上自身のバッティング・アイがすぐれていたのだと思う。この点が長島になってどう変るか。  クールな野球ではなくハートの野球。計算の野球ではなくパワーの野球。燃える野球。どうやら長島は、ドジャース戦法を越えたところにもうひとつの野球があると言いたかったように思われる。  自分の姓を勝手に変えてしまう男である長島がどういう野球を見せてくれるか。弱い巨人軍を率いてどう戦うか。それが面白い。 [#改ページ]    長 島 茂 雄  この原稿の締切は、毎週木曜日の朝ということになっている。それが私の不都合で、昼になり、時には夕方になって担当の方に迷惑ばかりかけている。  今は十月十日木曜日。体育の日。いま午前三時半。  なぜこんなメチャな時間に起きて原稿を書いているかというと、これを朝のうちに書きあげて、巨人・大洋のダブル・ヘッダー(試合開始十二時)を見に行こうとしているからである。  中日のマジック・ナンバーは3であって、巨人軍が連敗し、夜中日が神宮球場でヤクルトに勝てば中日の優勝がきまる。私は、今日は後楽園のあと神宮へ行くつもりでいる。  とうとう、ここまできた。私が、今日、後楽園球場に行こうとするのは、巨人軍に声援を送るためである。私は、多分、後楽園球場で大声で叫ぶことになると思う。私が巨人軍に応援するのは、戦前の子供であったとき以来のことになる。戦後、三原脩が巨人軍を去ってから、私にはヒイキのチームがなくなった。その私が突如として巨人軍の応援に出かけるのは、ともかく、なんとしても、最後の最後まで、巨人軍にがんばってもらいたいと思うからである。負けるなら負けるでいい。最後まで死力を尽して、野球というスポーツの真髄を見せてもらいたいと思う。つまり、私は、巨人軍に声援を送ると同時に、十年間にわたって君臨した王者の最期を自分の目で見届けたいと思っているのである。巨人軍の最期は長島茂雄の最期でもある。  三日前の夜、私は都内某所で、大洋の選手に会った。私は彼等に「頼ムヨ」と言った。それ以外のことは言わない。大洋は、日程の関係で、対巨人戦、対中日戦を多く残している。どっちに勝っても、どっちに負けても、そんなことは無関係である。とにかく、ここへきて、鍵を握っている男たちに、やるだけのことをやって、いいゲームを見せてもらいたいと思うだけだ。野球が男のスポーツであることを証明してもらいたい。どんなことがあっても、阪神タイガースのような野球をやってもらいたくない(私は、つくづく、自分で、野球が好きな男だと思う)。  昨日、テレビで、いい場面を見た。ロッテ・阪急の仙台におけるプレイ・オフで、優勝した金田監督が、アナウンサーに感想をもとめられ「いやあ参った」と言ったきり、あとは口がきけない。そういうものである。それでいいのだ。あの金田が、すっかりうわずってしまって「私の生きているかぎり仙台のファンの方に……」といったようなことを言う。  金田監督、ご承知のように、巨人軍に憧《あこが》れた男である。去年から、ロッテの戦いぶりは、まことに見事であった。プレイ・オフでは、アルトマンを欠き、故障の有藤が死んでもいいくらいの意気で出場して阪急に完勝した。私は野球とはそういうスポーツだと思っている。  ウォーリー与那嶺も立派だと思う。野球の監督は大変に困難な仕事であるが、一面で言えば、ただ単に、チーム内の、戦わんかなという気持をかきたてればいいのである。野球では、東大の選手が江川を打ちこむことが可能なのである。この点、中日では、多分、近藤コーチも立派なのだと思う。  これに反して、タイガースというチームは、どうも気にいらない。大事なところで、エースの江夏が出てこない。捕手の田淵に二番を打たせたりする(中日の木俣の二番とはわけが違う)。私にはわけがわからない。私が間違っているのでなければ、タイガースの野球が間違っていることになる。  阪急というチームもわからない。エースの米田、山田を温存して、第一戦に足立を先発させる。最強打者の高井が出てこない。こうなると、守備力を買って阪本と交換した大橋がエラーをするといった状態になる。  チーム内には、いろいろの事情があると思う。江夏も米田も山田も万全ではなかったのだと思う。しかし、中日の星野仙一も、大洋の平松も全盛時の威力がないのに頑張っているではないか。         *  私は巨人軍のファンではない。強いて言えば野球のファンである。しかし、長いあいだ野球を見ていると、ジャイアンツのファンであるかのごとき考え方に傾いてくる。専門家でも、藤本定義さんや天知俊一さんについては、そういう印象をうける。  なぜかというと、一例だけをあげると、巨人軍の選手には粗暴なプレイがない、グラウンドで不貞腐《ふてくさ》れたような態度を見せる選手がいないということがある。巨人軍はギブ・アップしない。  私は教育的な見地で言っているのではない。野球とはそういうものであるし、それだけでいいとさえ考えているからである。  その巨人軍を代表するのが長島茂雄である。  打者が打席にはいるときに、打ってやろうという気構えでいるのと、打てなくても仕方がないという気持でいるのとでは大きな差が生ずる。長島は、打ってやろうという型の選手である。  彼は言う。「ストライクがきたら打ってやろう、ボールがきたら見逃そうという選手と、ボールがきたら見送ろう、ストライクなら打とうという選手とでは大変な違いが生じます。私が考えているのは好球必打だけです。私の野球は大学のときの野球からずっと変っていません」  長島のいいところは、まず第一に、彼が美男子であるということである。わが柳原良平画伯によれば、野球帽をかぶせてハンサムな男を絵に描くと自然に長島の顔になってしまうと言う。  変なことを言うと思われるかもしれないが、野球の選手で、眉秀で、目澄み、色白く、そうして顔全体が優しい感じで、声またやわらかく、スタイル良しといった男であることが実にいい。実際に、実物の長島は、驚くような美男子である。残念ながら、他のチームには、こういう男がいない。  第二に、性格が明るく、素直で、のんびりしているところがいい。あけっぴろげで含むところがない。彼は、野球はハートであり腹であると言う。  第三に、野球の選手としては完璧な男ではないところがいい。彼は、バッティングのときに、左足を開いてしまう。守備では、グラウンダーを取るときに顔をそむける。二歩か三歩あるいて一塁に送球する。こういうところに長島の愛嬌《あいきよう》がある。水原や三宅の三塁の守備とはずいぶん違う。しかし、長島は、不恰好でいてよく打ち、顔をそむけても球はグローブに吸いついてしまうのである。  相撲でもそうであるが、私は、こういう、ハラハラさせられるスポーツマンを好むところがある。         *  長島に代表される、その巨人軍が負けるのは、チームの老朽化である。柴田、土井、黒江が走れない。高田は、夏過ぎるまで出塁率がわるかった。  巨人軍に最期の時がきた。実は、去年、もう駄目だった。この十年間というのは、長い長い年月である。年月が、ついに、巨木を倒すという時がきている。  私は、ギブ・アップしない野球を見たい。最後の最後まで──。そうして、ミスター・ジャイアンツの最期を自分の目で見てみたい。長島の体は、もう、野球の選手としては動けない体になっている。彼を動かしているのは「野球」である。私は、これから、野球を見に行こうとしているのです。 [#改ページ]    長島茂雄の顔  いま、テレビで見る、もっとも悲しい情景とは何だろうか。私にとっては、巨人軍の長島茂雄の顔である。  長島が凡打する。彼の場合はショートゴロが多い。一塁に疾走する。アウトになる。長島は、首を振り振り、ベンチに帰ってくる。それが長島だから、テレビのカメラは、執拗に彼の姿を追いつづける。長島は、なんとも悲しそうな顔をしている。  否応なしに、それを見せつけられながら、私はテレビにむかって「長島、首なんか振るな!」と叫ぶことになる。  それより前、打席に立っているときから、長島は悲しい顔をしている。顔には生気がない。頬が痩《こ》け落ちている。白い顔が一層白い。これじゃあ打てるわけがないと私は思う。  私は長島のファンではないし、格別に好きな選手であるのではない。それが、こうなってから、長島の一投一打を見逃すまいと思うようになった。一日でも一打席でも多く出場してもらいたいと思うようになった。自分でも、妙な按配だと思う。  将棋の大山康晴十段の場合もそうだった。昨年、五冠王であった大山さんが無冠になり、大山時代去る、大山の引退は時間の問題と新聞や雑誌に書かれたとき、はじめて私は彼を応援する気持になった。全盛時代には憎らしいくらいに思っていたのに──。         *  勝負師の世界では「弱きを挫く」というのが合言葉になっている。  相撲では、上位の力士は絶対に新入幕の力士に負けてはいけない。若い者に自信をつけさせると怖いことになる。将棋でも同じことで、有望新人は目の敵にされる。二年後、三年後に強敵になるのがわかっているのだから「いまのうちに叩いておく」のである。野球でも、長島がデビューしたとき、四打席四三振したのは有名な話である。三振を奪ったのは金田であるが、金田は勝負を知る者というべきである。これは男の意地ではなく、単に職業上のことである。長島は、その生涯において、金田に一目を置かねばならぬことになる。  これは落目の勝負師についても同様のことがいえるのであって、ある監督は「いまの長島は新人投手の実験台です」と放言する。新人に自信をつけさせるという意味だろう。  二年前、某高段棋士は「いまの大山さんは全盛時代の余韻で指しているだけです」と言った。ある棋士は「大山さんはお客さんです」と言う。そうやって気分的に腐らせてしまう効果を狙っているのであって、本音かどうか怪しいものだ。大山さんが引退すれば一安心という棋士は何人もいる。長島がやめれば、巨人を除く五球団の監督は、シメタと思うに違いない。  私は、長島も大山も弱き者だとは思っていない。そうでなければ応援しない。第一、長島のいない野球界、大山のいない将棋界なんか淋しくていけない。         *  長島と相撲の輪島とは似たところがある。長島も輪島も「強さ」の人であり、天成の勝負勘に恵まれている。しかし、二人とも「型」の人ではない。頭脳の人でもなく、稽古の人でもない。こういうスポーツマンは、その「強さ」が衰えたときに凋落《ちようらく》が激しいと言われる。勘も鈍ってくる。  輪島と北の湖とはその点が違う。また、輪島が、北の富士や琴桜の年齢まで横綱を張っていられるかどうかについては大いに疑問がある。  長島と王とを比較すれば、王は、あきらかに「型」の人である。だから、かりに王がいまの長島の立場にあるとして、ホームランをあきらめて安打製造機に転ずるとすれば、超一流選手として充分に通用するはずである。長島はそうはいかない。  長島は奇妙な野球選手である。左足を三塁方向に開いて打つ。昔、私が小学生であった頃、こういう打法はバケツ足と言って、ひどく叱られたものだ。バケツ足の大根切り(ダウン・スウィング)は試合に出してもらえない。しかも長島は、バットを長く持って強振する。  三塁で捕球すると、二、三歩あるいて一塁に送球する。こんなのも内野手の型ではない。それでいて彼が打撃の人であり守備の人であるのは、まったく不思議であるとしか言いようがない。名人に定跡《じようせき》なしということだろうか。  しかし、私は、あえて、彼に注文をつけたいと思う。もはや、中長距離バッターであることをあきらめて、ミート打法に徹する時がきているのではあるまいか。投手足下を抜く。あるいは内野手の頭上を越すという打法に専念すべきだと思う。  川上監督にもお願いしたい。長島に一番を打たせるのはやめてもらいたい。気分転換だと言われるかもしれないが、一番打者としての適性は何もない。また、長島を外野手に転向させるという声もあるが、それも引退を早くするだけのことだ。長島は不器用な選手である。  私は、引退するにしても、三塁手四番打者として引退させてやりたい気がする。これは決して感傷で言うのではない。彼の場所はそれ以外にはないのである。あるいは、かつての川上がそうであったように、五番か六番を打たせたい。  久しぶりで長島の笑顔を見た。七月二日、円山球場。この日、長島は、対広島戦に一番打者として出場。四打席、三安打、一四球。  こんなことで笑ってはいけない、と、私は、また、テレビにむかって叫んだ。なんという気のいい奴だろう。まるで馬鹿みたいだ、と、私は思った。同時に、なんという野球の好きな男であるかとも思った。 [#改ページ]    王 貞 治  いまから八年前、つまり東京オリンピックの行われた年のプロ野球日本選手権試合は、南海と阪神とで行われた。ということは、大阪だけでゲームが行われるということになる。しかも、三勝三敗で決戦が行われたのだから、東京から行ったプロ野球関係者は十日間も大阪に足どめを喰らうという結果になった。私もその一人だった。  この日本選手権では、南海がスタンカをうまく使って勝った。一方の阪神は、バーンサイドという面白い投手がいたのであるが、ほとんどベンチにいて、阪神が負けたのはこのためだろうと私は思った。私はバーンサイドを「幻の名投手」と名づけた。  しかし、当時の阪神の藤本定義監督は、人情監督であって、エースの村山に花を持たせようとした。そこが藤本さんのいいところであり、また、阪神というチーム全体が打倒巨人を果たせば南海はどうでもいいと考えているようだった。  私は、同じく新聞やらテレビやらの仕事で大阪へ来ている王選手に、バーンサイドは打ちにくいだろうと言った。王はわらってうなずき、十何打数かで一安打という成績だと答え、その一安打もこれよと言って、手でボテボテの内野安打であることを示した。  私は、かねがね、誰もが同じようにバットを振って、どうして王だけが飛距離がのびるのかということに疑問をいだいていたので、そのことも質問した。  王は中学生時代にピンポンをやっていたためだろうと答えた。ピンポンによって、左の手頸のかえしが強くなったのだろうと言う。  こういうふうに、王貞治という選手は、なんでも気軽に率直に答えてくれる。実に素直である。こういう選手は大成する。大選手は可愛がられる要素をもっているものである。         *  私は王を大阪の酒場に誘った。すると、彼は、その店は勘定が高いから厭だと言った。勘定はこっちが払うんだし、そんなに高くないから大丈夫だと私が言うと、 「いや、そうじゃないんだ。俺みたいに金を持っている男が一緒だと吹っかけられるんですよ」  と答えた。  私は笑ってしまった。いかにも王らしいと思った。正直すぎる。  結局、王は、自分の行きつけの安い酒場へ行き、私は高いほうの店へ行った。王の独身時代である  ずっと後になって、銀座の酒場で会った。私がカウンターにいると、王が遠くから挨拶《あいさつ》した。私は、今日のバッティングはどうだったかとたずねた。すると、王は、指を四本だし、次に二本だした。四打数二安打という意味である。そういう動作も気持がいい。         *  その大阪でのとき、なにしろ十日間であるから、疲れてくるし、特に体格のいい選手や、選手出身の評論家は、セックスのほうはどうなっているのかと案じられた。彼等のなかの一人は、仕方がないから毎晩麻雀をやってまぎらわしているのだと言った。  下着類も買わなければならない。  王は、毎日、ホテルで靴下を洗濯しているという。靴下は二足で、その柄が気にいっているので、変なものを買う気になれないと言った。そのように、王はなかなかオシャレであり、そのオシャレにも筋が通っている。  しかし王のような選手が、一人で、ホテルの洗面所で洗濯しているというのは、私には何かわびしく思われた。  私が王選手を大阪で一番高いといわれている酒場へ誘おうと思ったのは、ちょうどその頃のことだった。 [#改ページ]    王と長島はどうちがうか?  ひとくちにON砲といわれるが、いったい王と長島はどうちがうのだろうか。  テレビで解説する野球評論家も、 「どうもこの二人は手がつけられませんからねえ。文句なしに天才です」という。  特に今年は、野村、張本、山内、近藤和といったホームラン・バッターや三割打者にまだ本来の当りが見られないので、余計にこの二人が目だってしまう。  第五節の四月十五日終了現在で、この二人の数字を比較してみよう。  王は十九試合、六十三打数、二十三安打で打率三割六分五厘(第二位)。長島が十九試合、六十三打数、二十安打、打率三割一分七厘(第八位)。この数字は全く同じといってもいいだろう。つまり、打数が同じなのだから、長島が過去に三本多くヒットを打っていれば打撃成績で同位になり、Nのほうにちょっとしたスランプがあったというにすぎない。  王の塁打四十九(長島四十四)、打点十六(長島二十一)、四死球二十三(長島二十一)という数字もよく似ている。おそらくONの打順をいれかえたり、いろいろあるにしても、ここまでの数字の比較は全試合が終了してもかわらないだろう。さて、どこがちがうか。  表面にあらわれた数字で決定的にちがうのが三振数である。王の九に対して、長島はわずかに一である。ここに打者の資質の差がはっきりとあらわれている。九対一はちょっとひどすぎるとしても、三対一ぐらいの比率が想定されると思う。  なぜ王は長島とくらべて三振が多いか。  その問題を考えるまえに、二人の本塁打数を比較しよう。 王七本、長島七本。全くの同数である。それではホームランに関しては二人の資質は等しいだろうか。否である。全くちがう。何故か。この二人がそれぞれどういう条件でホームランを打っているかを私は調べてみた。ボール・カウントである。     長島     王   ㈰(1─0) (1─3)     渋谷    金田   ㈪(0─2) (1─3)    バーンサイド 渋谷   ㈫(0─2) (1─2)     渋谷    石岡   ㈬(1─1) (2─1)     鵜狩    佐藤   ㈭(初球)  (2─3)     大石    村山   ㈮(1─3) (1─2)     八木    村田   ㈯(1─2) (1─0)     村山    中山  平均すると王は四球目、長島は三球目ということになる。たった一球の差と考えるなら、あなたは野球がわかっていないことになる。この一球の差が実に大きいのである。  この数表から次のようなことがいえないだろうか。長島はカウントを追いこまれたら、つまり悪条件のもとでは安打は打ててもホームランは打てない。言葉をかえれば、追いこまれたときには長打を狙わない。  これに反して、王は追いこまれてもホームランを打てる。悪条件でもフル・スウィングをしている。つまり、長島は本質的にいって中距離バッター、王はホームラン・バッターであることがこの数字からわかるだろう。  二ストライクをとられても、王はシャープに振る。だから三振が多いのである。  長島は初球ホームランが一本。第一ストライクを打ったホームランが二本ある。ご存じのように長島はボールの球でもヒットを打てる。内角高目にシュートのかかったボールをダウン・スウィングによって左翼ヘライナーのホームランを飛ばす。  速球投手の内角高目のボールになるシュートは恐怖感もあって、もっとも打ちにくい球である。現在これを打てるのは長島だけではないか。そのことを長島本人にきいてみた。 「そうなんですよ。低い球を打つのはむしろやさしいんです」  ニヤリと笑ってこたえた。         *  現在までのところ、王は第一ストライクを打ったホームランはない。  狙いすましているという感じがこれでわかるだろう。ピッチャーとしては不気味な感じだが、まあ初球はホームランにならないと思って投げてよい。  王は一、二塁間を抜いた単打や右中間、左中間を破った二塁打のときは、ベース上にたって笑う。首をふる。グラウンドで見る人よりテレビ観戦の人の方がそのことをよく知っているだろう。ホームラン以外のときは照れくさそうにする。反対に本塁打を打ってベースを廻るときの顔は緊張している。  要するにホームランを絶えず狙っており、狙う資格のあるバッターなのである。 「三振の多いバッターはいいバッター」  というのが私の持論である。同様に三振の|非常にすくない《ヽヽヽヽヽヽヽ》打者もよい打者である。その他の選手に対しては薄情のようだが「三振もできないバッター」と考える。  それがプロ野球というものだ。内野にころがせ、などというのは高校野球までである。当てるだけの打者など信用できぬ。三振は併殺打にならない利点もある。  三振の多い打者を四月十五日現在でひろってみよう。  高山(国鉄)二十三、伊藤(大洋)二十二、柴田(巨人)別部(国鉄)十、王(巨人)九、豊田(国鉄)山本(広島)クレス(大洋)マーシャル(中日)古葉(広島)八、桑田(大洋)七。  パでは、ロイ(西鉄)十九、ハドリ(南海)十八、石黒(東京)城戸(西鉄)十五、玉造(西鉄)矢ノ浦(近鉄)中田(阪急)十三、高倉(西鉄)パーマ(西鉄)スペンサー(阪急)田中久(西鉄)十二、岩下(東映)張本(東映)十一、といったところである。  たとえば、パでいうと西鉄の選手が六人いる。打数の非常にすくないウィルソンの八箇をいれれば七人で、バッテリー以外は三振バッターをずらりと揃えたチームである。ところが、最高得点(百二十)最高打率(二割七分)最多本塁打(二十八)もこの西鉄である。私の根拠はここにある。  私が高山、伊藤、柴田、別部、石黒、城戸といった選手の打力を高く買っているのも、逆説めくが三振が多いからである。  反対に三振の|非常にすくない《ヽヽヽヽヽヽヽ》選手をあげてみよう。  長島(巨人)吉田(阪神)高木守(中日)が各一、森(巨人)本屋敷(阪神)近藤和(大洋)伊藤(中日)塩原(巨人)が各三箇。  パでは榎本(東京)が二箇で断然たるものがあり、以下衆樹(阪急)関根(近鉄)が四、ブルーム(近鉄)土井(近鉄)が五、小玉(近鉄)が六である。  これらの選手は四死球も多い。三振の多いほうでいうとホームランも多いから投手が怖がって四球になるというケースが多いし、すくないほうは目がいいということになる。  四死球でいうと、セでは王、長島、近藤和、柴田、吉田の順。パは玉造、榎本、広瀬の順である。重複しないのは広瀬だけだが、彼も三振は十箇である。つまり出塁率が高いのである。これはもっとはっきり打点にあらわれている。要するにこれがいい打者なのである。         *  もういちど王、長島にもどろう。  打数から安打数をひき、さらに三振数をひいたものが凡打である。凡打のなかには走者を進塁させるものもあり、併殺打もあるが、王の三十一、長島の四十二とかなりひらきがある。どちらを評価するかは別として、資質の差がここにも見える。  プロ野球を科学するという東京新聞運動部の近藤唯之さんの近著『プロ野球忍法帖』によれば、王と長島の差は「動体視力」の差であるという。 「動体視力」とは静止している物体を見るときと、動いている物体を見るときとでは視力に差がでるという考え方から出発している。「静止視力」と「動体視力」とは一致しない。長島は「動体視力」が王にくらべて弱いのではないかと考える。  長島は昨年度の百六十三安打のうち、初球から三球目までが百九安打で六六パーセント。四球目から六球目になると四十九安打で三〇パーセントとなる。これは動くボールを見る視力が四球目から急速に落ちるためだという。  これに反して王は百四十六安打のうち、初球から三球目までが七十四安打で五一パーセント。四球目から六球目までが六十九安打でほぼ等しい四七パーセントとなっている。王の一本足も動体視力がいいから可能なのだと考える。  私は“科学する”のは苦手であって、動体視力に関する知識はないが、さきほどあげた第七号ホーマーまでの数字とよく似ていることがわかるだろう。私はこれを、両者の打者としての資質と、性格の差だと考えたい。さきほどのホームランに関する私の調査をもういちど見ていただきたい。このなかには王、長島の連続ホームランはないのである。 “ON砲とはいいながら”これは連発砲ではないのである。連発ということになれば桑田・クレス・森・長田・重松・伊藤の大洋打線のほうがはるかに緊密であり強力である。  両者の十四ホーマーは、国鉄に七、阪神に三、広島に三、個人では渋谷に三、村山に二というふうにかたよっているのに連続しては出ていない。去年、一昨年でもそうである。王がホームランを打つと長島は打てなくなる。ONをNOにいれかえたりする。  つまり長島のほうが神経質である。王はやはり大陸的なところがある。  さて、しからば、いままでのデータと性格分析をもとにして、王、長島攻略法が考えられないだろうか。  専門家でもONを退治する方法はないという。だからお笑い草だと思って読んでいただきたい。  長島だけを考えるなら、王に場外ホームランを打たせればよい。これはナンセンスである。  長島は三球目、王は四球目ということを各投手がはっきり頭にいれておく必要があると思う。これは決してムダにはなりません。  特に長島はストライクなしのボールふたつとなったときが怖い。テレビで見てもまさに獲物に飛びかかろうとするときのライオンの目つき(実際にそんなものを私が見たわけではないが)である。こういうときに自分の最も得意とする球を全力で投げると誰しも考えるだろう。それが誤りのもとである。それを長島は待っている。現在の長島に打てない球はない。その証拠に村山から奪った七号ホーマーは村山が渾身の力をこめたフォーク・ボールである。これを長島は低いライナーでもって一直線にレフトに叩きこんだのだから驚く。もし〇─二になったら、外角へ遠くはずして〇─三にしなさい。そうなれば彼はクサルのである。  王は、まず第一ストライクは打ってこないと考えてよい。初球や第一ストライクのホームランはないと思ってよい。こわいのは四球目、とくにいちど空振りしたあとの球である。空振りした同じ球を投げても右翼スタンドにもっていかれる。そういう打者である。金田の超スローボールの効果がこれでわかるだろう。次の変化球や速球が生きるのである。つまり王に対しては二球目までは遊んでもよい。カンジンなのはそのあと同じコースヘ同じ球を投げないこと。球種、高低、左右に変化をもたせること。同じ球は絶対に駄目。歩かしたっていいじゃないか。これはパの野村に対しても同様である。  まあ、第一球、真ん中の半速球を投げてごらんなさい。これを打たれた記録はないのだから。まず、王は驚いて見送るだろう(但し私は責任を負いませんがね)。 [#改ページ]  ㈿ 熱涙観戦記    巨人V10ならざるの日  十月十二日、土曜日、午後八時九分二十五秒。小雨の降り続く神宮球場の一塁側スタンドに歓声が湧き起った。怒号、拍手。テープが飛ぶ。これは中日球場の間違いではない。神宮球場である。  神宮球場のヤクルト側スタンド。傘をさした約一万人のヤクルトファン。中日ファン。そうしたアンチ巨人軍という名の野球ファン。八時九分二十五秒。中日・大洋の第二十六回戦、星野仙が大洋の最終打者を討ちとって優勝を決めた。一塁スタンドのファンは、携帯ラジオでその瞬間を知ったのである。  私の席からは巨人軍のベンチは見えない。しかし、おおよその察しはつく。全員が放心状態で、静まりかえっているにちがいない。  これよりさき、多分、七時半頃であったろう、長島が二度目の打席に立った。中日・大洋は、六対一で中日五点のリード。中日の投手はエース星野仙。大洋の攻撃は八回、九回の二回を残すのみ。巨人の逆転優勝は絶望的となっていた。しかも自軍は四対三とリードされている。  その五回の表、先頭打者となった長島の一打は、浅野の外角球をとらえ、右前に飛んでいた。ふつう、文字に書けば、一、二塁間安打である。とてもとても、そんな当りではなかった。長島の一打は、闇を貫き、小雨を劈《つんざ》いて右前に飛んだ。ドライブのかかった打球は、右に弧を描いて、すぐ地面に落ちた。  バットを立ててふりかぶる。そのまま両腕をさげる、バットの先端を、こころもち、センター寄りに寝かす。その独特の構えで投手を睨みつける。外角にスライドする浅野の投球。例によって左足を大きく開く。通常「泳ぐ」などと言われるが、長島は全体重を乗せて、浅野の球を真芯にとらえたのだった。  私は、このところ、巨人軍の試合を三試合続けて見ている。そのなかで、もっとも素晴しい当りがこれだった。人は、対中日第二十五回戦における本塁打を言うかもしれない。あるいは、第二十六回戦の中前打、すなわち、長島の最終安打のことを言うかもしれない。しかし、私が見たのは、数字でいえば、|まだ優勝に関係のあるところの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、長島の最後の安打だった。  長島は一塁ベース上に立った。一点リードされているのだから、同点となるべきランナーである。しかし、その瞬間に代走富田が告げられていた。長島が一塁ベースからベンチヘ戻ってくるときの泣き笑いの顔を私は終生忘れることがないだろう。傘をささず、小雨に打たれて観戦している私は「川上さん、やってくれるなあ」と思ったとき、涙があふれてきた。  しかし、私は、もはや、川上の非情を恨む気持はなかった。言ってみれば、それが野球だった。長島の体は、もう動けなくなっていた。体力でいえば、その段階では、富田のほうが遙かに遙かにすぐれた選手だった。  神宮でのヤクルト戦だから、巨人軍ベンチは三塁側である。ベンチからの距離でいえば、捕手の守備位置が一番近い。それとほとんど変らないのが三塁手の守備位置である。しかし、どの回でも、自分のポジションに着くのが一番遅いのが長島だった。あのハッスル・プレイの、あのガッツの長島がそうなっていた。遅いどころではない。一塁手の王が、セカンドの土井に、ショートの河埜に、二球三球と守備練習を行っているのに、まだ長島は三塁ベースにも達していない。やっと守備位置についた長島に、王はいたわるようにして一球だけ、ワンバウンドかツウバウンドの捕球しやすい球を投げるのが常だった。長島の体が動かなくなっている。足があがらなくなっている。  先日、長島に会ったとき、引退した大選手の引けぎわの話をした。たとえば、田宮が左中間に三塁打コースの打球を放って、二塁ベースを廻ったところで足がもつれて、苦笑して二塁へもどった話。 「私だってそうですよ。本当は体が動かないんですよ。目も歯も肩も足も、どこが悪いってことはないんですが、全体に衰えているんです。鋭さがないんです。球ぎわを把える一瞬の鋭さが失われているんです。しかし、私は不様《ぶざま》な恰好だけは見せたくないんです。演技ですよ。これは演技です。ファンの前で不様な恰好だけは見せたくないと思って……」  長島は、例によって、大仰なゼスチュアーで、むしろ自慢しているかのように言った。  その長島が、小雨の降り続く神宮球場で、自分の守備位置にトボトボと歩いてゆく。いったい野球ファン諸氏は、右翼手の末次よりも、中堅手の柴田よりも遅く守備位置に着く長島を想像できるだろうか。その長島を川上が叱らない。その長島にコーチが文句を言えないようになっている。  今朝(十月十五日)目がさめると、歯が痛い。私には上の前歯が無い。正確に言うと、上の前歯になっているところのイレ歯と上顎の歯ぐきの裏側とが当るところが痛い。  なぜだろうか。私は不審に思っていたが、そのうちに、やっとわかった。諸君、こころみに「長島」と発音してみてくれたまえ。ナガシマの「ナ」というときに、舌が上顎の裏側を打つことに気づかれたろう。そうなのだ。十月十日の後楽園で、十月十二日の神宮球場で、何度、私は長島と叫んだことだろうか。何度、激しく、私の舌が上顎の裏を打ちつけたことだろうか。         *  十月七日夜、本誌担当記者と酒を飲んでいるときに、私は、巨人軍が、これで負ける、これで十連覇ならずという日の試合を見に行くつもりだと言った。神宮球場のヤクルト戦なら、なんとか外野席にもぐりこめるだろうし、後楽園の中日戦になったときは、知人の新聞記者に切符の手配を頼むつもりだと言った。  すると彼は「巨人敗るる日、それを書いてください。切符は私のほうで……」と言う。  十月九日、パ・リーグではロッテが四年ぶりの優勝をきめた日、神宮球場では、星野仙を押したてた中日がヤクルトに負けたのであるけれど、エース堀内で必勝を期した巨人軍も、よもやと思われた大洋に、江藤の逆転打で敗れ去り、マジック3は変らずという戦況となった。  十月十日。巨人は大洋とのダブル。中日はヤクルトとのシングル。マジックは3であるから、巨人が大洋に連敗し、中日が勝てば、そこで中日の優勝。「巨人敗るる日」という原稿をひきうけた以上、どうしても、この日、後楽園へ駈けつけなければならない。  おそらく、十月十日、体育の日の天候状態など、ほとんどの人が忘れてしまっているに違いない。この日は雨になるだろうと思われていた。  ここで私の身辺のことを書いておくと、十月七日は前記のように本誌記者と痛飲。翌八日は知人が伊東に家を建てた新築祝い。早朝に東京駅を出発して、帰りは電車のなくなるまで飲んで、タクシーで深夜帰宅。そのまま小説を書き続けて脱稿が夕刻。巨人軍の負けるのをこの目で見ようというのは私の意志であったが、正直言って、雨で中止なら有難いと思った。  十月十日、午前三時半起床。週刊誌の原稿を書かないと正午開始の巨人─大洋戦にまにあわない。こっちも、いのちがけである。  仕事部屋の窓の外が明るくなってきた。この日、私は美しい不思議な雲を見た。薄く極めて薄く、雲の間から蒼空が見えていて、しかしその雲は硬く結晶して天上に流れるかに見えた。幸か不幸か、快晴。めったにない秋晴れである。  私は本誌記者に「巨人連勝、中日惨敗」と予想を告げた。「巨人軍が第一戦に勝てば勢いに乗る。第二戦の堀内は必至で、これは楽勝。結果を知った中日がコチコチになって負け。この予想、適中すれば三百五十円はつくかね」  秋晴れの後楽園に、寝不足の私はオーバーを着こんで出かけた。寒くて震えがとまらない。(さすがに第二試合では、オーバーをたたんで尻の下に敷いたが)  思っていたように、対大洋戦は、第一第二とも巨人の圧勝。王の二本塁打、打点六がすさまじい。巨人軍は強いのである。その強い巨人軍がなぜ負けるか。堀内を見るといい。あれはもう、通常のピッチャーではない。足も腕も、あがらない。王の目はどうだ。執念だけが光っている目である。土井は? 柴田は? 高田は? 末次は? 勝つには勝ってもボロボロである。まして長島のごときは、私の目には、疲労が打ち、疲労が守っているかに見えた。チーム全体が老朽化し、若手が伸びてこない。  第二試合の終了が四時五十三分。麻布十番で酒を飲む。しかし、このときになっても、私は、今年の巨人には万に一つの望みもないと思っていた。私を支えていたのは、自分の目で見る野球の面白さだけだった。  野球とは不思議なゲームである。酒を飲んで駈けつけた神宮球場で、投手の安田がプロ入り初ホーマーを放ち、ロジャーを敬遠した小田に3ランホーマーを放たれ、この二本で、十三安打の中日が死命を制された。  一塁側から双眼鏡で見た中日ベンチには、手を叩く選手が一人もいない。声を出す選手がいない。笑う選手、笑うコーチがいない。これでは野球は勝てない。  野球とは不思議なゲームだともう一度言わなければならない。十月十一日、ヤクルト・中日の第二十六回戦、最終回、二死後の高木守の一打が流れを変えた。これでマジックは2。すなわち、十月十二日、神宮球場での対ヤクルト戦に巨人軍が勝っても、中日球場の大洋戦で中日が連勝すれば、それでオシマイになる。  多分、私は、野球は不思議だと三度繰り返さなければならないのだろう。第一に、強いはずの巨人が負ける。第二に、夏頃、松原、シピン、江藤、ボイヤーに無惨に叩きのめされていた中日が、最終戦、地もとに帰って、生きかえってしまう。  私は、実際に、泥鰌《どじよう》が竜になるのを見たような気がした。  島谷、マーチン、高木守、井上の本塁打。  高木守、広瀬の超美技。松本、星野仙の力投。         *  十月十二日。朝から雨。そう思ったのだが、これは夜来の雨だったという。私は、ぶっ倒れていたのだ。名古屋地方も雨催いで、名古屋まつりは中止になったと聞く。  その名古屋で、ゲームがはじまる。第一試合は、六回まで九対〇というワンサイド。本誌記者から電話。神宮は、まだ中止とはきめていないという。まさかと思う。  とにかく、五時半に車をまわすから、乗るだけ乗ってくれという。私の家から神宮球場まで、一時間半弱を要する。  降り続く小雨。車中で、中日が、二回、星野仙の安打で一点先取の報を聞く。一点貰えば勝てると豪語する好漢星野の姿が目に浮かぶ。  私は、この一カ月、野球に関して言うならば、まことに奇妙な思いで過してきた。  私は今まで何十回も書いてきたように巨人軍のファンではない。アンチ巨人軍でもない。ただただ、根っからの野球好きである。母に言わせると、母の腹の中で早慶戦を見ているという。戸塚球場へも行っているという。小学校の三年生から野球部の選手で、当時、少年野球の全盛時代、東京都の大会で優勝もしたし、傷病兵慰問の野球大会ではチビッコ・スターだった。  プロ野球でいえば、沢村も中島も吉原も見ている。景浦、西村も知っている。その頃の巨タ戦(巨人・阪神とは言わなかった)は、ほとんど全部見に行ったのだから。  巨人ファンという域は、とっくの昔に通り過ぎている。あえて言うならば、アンチ巨人のほうに近いだろうか。それは、巨人軍が憎いのではなくて、巨人軍が負けたほうがリーグ戦が面白くなり、その結果、熱の入った好ゲームが見られると思ったからだ。  その私が、巨人敗るる日が近づくにつれて、巨人に声援を送ろうとしている。この心情もまたひとつの不思議である。まして、長島のことがある。長島は|憎い選手《ヽヽヽヽ》だった。その長島に声を嗄《か》らして「行けっ! 長島!」と叫ぶ。いったい、これはどうなってるんでありましょうや。  一昨年、私は似たような経験をした。将棋の大山名人、五冠王の不世出の大名人である大山さんが次々にタイトルを失って、ついに無冠となったとき、あの|憎い大山《ヽヽヽヽ》に私は声援を送っていた。いつのまにか、私は、大山さんのファンになっていた。私は、若手の棋士たちと、打倒大山の策を練った時期さえあったのである。  私は野球が好きである。将棋が好きである。好きなものの世界で、一番強い人(一番功績があった人)が去るときに、名状し難い感動と昂奮と愛着に包みこまれてしまう。そうとしか言いようがない。  野球とは何か。野球のどこが好きか。  泥鰌が竜になるのを見るのが好きだ。ラグビーやサッカーと違って、最後の最後まで、最後のその一瞬の帰趨のわからないところが好きだ。従って、最後までギブ・アップしないチームが好きだ。  七の力が十になるのを見るのが好きだ。野球ではそれが可能なのだ。巨人軍には、堀内、高田以後、優秀な選手が入団していない。中日しかり。あれは、ウォーリー与那嶺、近藤コーチの力である。技術以外の何物かである。ロッテ金田、またしかり。  今年の阪神タイガースは、あれは野球のチームではないのである。すくなくとも、私の考えている、私の好きな野球は、あれではない。ヤクルトや広島のほうが、はるかに立派だった。中日の星野仙は立派だった。ボロボロの巨人軍も立派だった。  神宮球場に雨が降っている。照明の鉄塔を見あげれば、雨は長く長く、光りながら降り続ける。  午後八時九分二十五秒。一塁側スタンドにドッと歓声が湧いた。中日ファンにとっては二十年間の、アンチ巨人の野球ファンにとっては十年間の、深い恨みを私は知るのである。  十月十二日、午後九時十七分。アンパイヤが試合の終了を告げた。このゲーム、八回表、巨人は見事に逆転して王者の貫禄を示した。これでよし。そのことを星野仙のために喜ぶ。巨中が負ければ星野は無駄ばたらきになってしまう。  私は、選手と観客が一人残らず球場を去るまで、雨のなかに立ちつくしていた。このとき、長島茂雄の引退のための記者会見が球場内の食堂で行われていた。  誰もいないと思われたグラウンドに、選手が二人、ヤクルトベンチから出てきた。いや選手ではなくて、コーチだろう。コートを着ている。その二人は、右翼方面の出口ではなく、グラウンドの真ん中に歩いてゆく。  すべての最終戦がそうであるように、場内に「螢の光」の曲が流れている。二人の大男は、球場整備員の一人一人に帽子を取り、頭をさげて廻った。あたりは、すでに暗い。  夜来の雨だった。球場整備員は、朝から、砂をいれ、水をはき、ビニールを敷きつめていたのだろう。その整備員の一人一人に、二人の大男は、叮嚀に頭をさげ、ふりかえりふりかえりして、去っていった。 [#改ページ]    ヤクルト=巨人・開幕試合観戦記  四月三日、土曜日、小雨の開幕試合。ヤクルト・巨人戦。神宮球場。試合前、両軍の監督、コーチ、選手がピッチャーズ・マウンドを中心に横一列にならんだ。ヤクルト後援会の少年少女が花束を贈呈する。  こういう場合、花束を贈呈する少年少女が、中央に立っている両軍監督に歩み寄るのが常である。ところが、花束贈呈のアナウンスがあったとき、もう、長島のほうで歩きはじめていた。二歩か三歩で、彼はとまった。じっとしていられないのである。つられて、荒川監督も、一歩前へ出た。  開幕試合や日本シリーズ第一戦で、監督が花束を受け取る。そういうことを、長島は三十回ちかく経験している。そのやり方を彼は熟知しているはずだ。しかし、体のほうが動いてしまう。じっとしていられない。ちょうど、キャンプのときに、監督であるのに、朝六時に起きて一人で海岸でランニングを行ってしまうのと同じように──。  花束贈呈は、普通は、いま売り出し中という女優さんが行う。ピーピーという口笛が鳴る。今回は小学生だった。子供が重い花束を持って、四万八千という大観衆の目を浴びてホーム・プレートからピッチャーズ・マウンドまで歩く。長島は、それを見ていられないのだ。スタンドにいる私は、ああ、長島らしいなと思った。人の良さがマルダシになっている。そうして、これがスポーツマンだと思う。  実際、守備練習のときでも、試合中でも、コートを着たままの長島が、いちばん|選手らしく《ヽヽヽヽヽ》見えた。長島は野球の選手なのである。言われるように燃える男である。  監督としての長島は、どこか似つかわしくない。監督には不向きな男である。そのことは、去年、悲しいまでに実証された。長島夫人でさえ、嘘か本当か、うちの人に監督はできませんと言ったという。  しかし、私は、一方で、ナニ、たかが野球ではないかとも思う。選手がよく打ち守りさえすれば野球は勝てる。投手交替はピッチング・コーチにまかせればいい。代打者は打撃コーチに選ばせればいい。その中心に、長島という根っからのスポーツマン、善意のかたまりみたいな男がいればいい。私は、単純に、そう思う。  あの中西太でも、監督就任一年目で西鉄を優勝させたではないか。あの村山実の率いる阪神タイガースでさえ、優勝しそうになったことがあるではないか。日本のプロ野球の最高の知将である三原脩でも、昭和三十五年の大洋を限りとして自分のチームを優勝させたことがないではないか。キッシンジャーがいれば、あのニクソンにも大統領が勤まるではないか。  この開幕試合、四時間四分を要して、結局、六対六の引分けに終った。翌日の朝日新聞スポット欄はこう伝えている。 「長島監督は『前半は攻めで、後半は守りで勝負にいってみた。勝ってた試合だけど、開幕戦だし、引き分けでお互いに傷がつかずにすんでよかったよ』と笑った」  ああ、なんという善人ぶりであることか! この試合、巨人軍は、エース堀内をたて、十三安打を放ち、五回表を終ったところで六対一と五点のリード。これで勝てなければ歯噛みして口惜しがるのが普通である。ウォーリー・与那嶺や日本ハム大沢など、激怒するか苦虫をかみつぶす場面だろう。長島以外の誰が、こういうアトガキを書かせるか。  堀内が五回、加藤が四回、両エースを投入して、なるほど守りで勝負に出たのかも知らぬが、堀内の勝利投手、加藤のセーブとなって当然の試合、完全にゲームの流れは巨人のものであった。八回表、二死走者一塁で、まだ新人といっていい杉浦に三本目の安打を喫して引分けとなった試合である。本当に守りで勝負に出るのなら、もっと早く、二塁をジョンソンから土井に、三塁を高田から山本に、右翼を淡口から末次に、左翼を張本から高田にかえなければならない。巨人は六回以後は無得点であったのだから。三原脩なら、そうしたろう。そういう厭らしいことが長島には出来ない。最後まで張本でお客さんにサービスしてしまって、それが命取りになってしまう。  引分けでよかったわねえと言うのは、野球を知らないスタンドのお嬢さんの歎息でなければならない。殊に、小雨降るなか、五時半過ぎまで震えながら巨人の勝利を念じていたファン(私は違う)の数は、一万人や二万人をくだらないのである。そりゃあないぜ、長島サン! (ちなみに、荒川監督のほうは、引分けに持ち込みながらニコリともしないで、「勝たなくちゃちっともいいゲームじゃないぜ」と言い、打たれた松岡と、杉浦の暴走を叱りつけているのである)         *  四月三日は、早朝から雨の音を聞いていた。気温八度という発表だが、私には零度ぐらいに感ぜられた。東京の一部では霙《みぞれ》が降ったという。  十一時にS記者が迎えにきてくれた。こういう天候だから、自動車で行き、駄目ならば途中から引きかえそうという心づもりである。甲州街道が混んでいて、神宮球場に着いたのが十二時半。試合開始一時半で、私は打撃練習から見るのを主義としているが、この日はオープニング・ゲームのセレモニイがあるので、そいつはすでに終っていた。打撃練習を見ないで野球を見るのは、パドックの馬を見ないで馬券を買うのと同じだ。 「神宮球場でプロ野球を見るのは、なんだか変な感じですね」  と、S記者が言った。 「そうだね。後楽園球場のほうが緊迫感があっていい。また、後楽園で六大学を見ると、それも変な感じだった」 「そんなことがあったんですか」 「あったんだよ。神宮が進駐軍に占領されていてね。そういう時代があった」 「いつごろですか」 「早稲田では、巨人軍から大洋に行った岩本堯が外野を守っていた。ピッチャーで外野も守る荒川というのがいたな。広岡や蔭山もいたと思うな。もう、はっきりした記憶がない」  その蔭山が南海ホークスのユニフォームを着て後楽園球場で三塁を守っているのも変な感じだった。私は遠い時代を思いだしていた。第一、その蔭山が、すでに亡い。  私は、さらに、一昨年の秋、神宮球場で行われた、ヤクルト・巨人の最終戦のことを思いだしていた。常勝巨人軍の十連覇ならずという瞬間を見ている。一塁側のスタンドからワッという声があがった。イヤホーンで中日球場からのラジオ中継を聞いていた客が、いっせいに立ちあがって拍手し、巨人軍のベンチにむかって罵声《ばせい》をあびせかけた。過去十年間のアンチ巨人の恨みを見る思いがした。  長島茂雄の色白の顔が蒼くなっていて、彼は疲れきっていた。守備交替で、三塁手が三塁側のベンチにもどるのが一番ちかい。その長島が外野手より遅れてベンチにたどりつくのである。彼はトボトボと歩いていた。それは見たくもない光景であり、また、どうしても自分の眼にとめておきたい姿でもあった。  私は、そこで、長島の最後の打席、最後のヒットを見ている。人は、それは間違いだ、後楽園での涙のグラウンド一周があるではないかと言うかもしれない。しかし、優勝が中日に決定してから後の打席など、長島のバッティングとは言えない。あれは引退式だった。  中日の優勝が決定してスタンドが騒ぎだす少し前、まだ、万分の一の可能性があったとき、長島の最後の一撃は(その日はナイターで、同じように小雨の降る日であったが)神宮の濃闇《こいやみ》を劈《つんざ》き、水中を貫いて右前に飛んだ。むろん、すぐに代走で、一塁からベンチまでの距離が痛々しいくらいに遠いものに思われた。試合を見ていて、あんなに叫び、あんなに拍手したことはない。私のイレ歯がガタガタになった。長島の「ナ」のときに、舌が上顎の内側に当るのがいけない。  あの瞬間から、日本のプロ野球が変った。ひとつの時代が過ぎた。そうして、昨年の赤ヘル軍団になった。さらに、今年、ヤクルトを優勝候補の筆頭にあげる人さえあらわれるにいたった。時代が変った。         *  スタンドにあがる前に、メンバー表の出ている手帳を買った。パ・リーグが覇者なのだから、阪急が第一頁になっているのは当然である。しかし、セ・リーグの最後の頁が巨人軍であることが、まだ、容易には信じ難い。  一塁側のスタンド。左側にS記者、右隣にN記者が坐る。N記者は、今日は仕事ではなく、単なる観客であると言う。十二時半から五時半まで、小雨のなかでコンクリートのうえに坐ることになった。  はじめに、登録メンバーの発表がある。N記者は、メンバー表にシルシをつける。これは相当な通だと思った。 「高知の杉村は登録されていますか?」 「さあ……」  聞いてみると、N記者は、プロ野球を見るのは初めてであるという。週刊誌の野球担当になったので、これから野球の勉強をはじめるところだという。ついで、彼は、スポーツ紙の附録のメンバー表を睨みつけるようにして読みだした。 「何を研究しているんですか」 「はい。年収五百万円以上の選手の名を憶えようと思いまして……」  こういうのを、新聞社でいえば社会部的感覚というのだろう。時代は変ったのである。 「キャッチャーというのは、射的場の鬼みたいですね」  赤いマスク、赤いレガースをつけた大矢捕手が出てきた。 「あれはね、ぶつけられるのではなくて、その前に受け取るんです」  ええ、アイス、という物売りの声。冗談じゃない。今日は、アイスクリーム、コーラ、ジュースの類、ビールなどを売っている人には厄日である。逆に、ウドン、ソバ、コーヒー、熱燗《あつかん》などは列になっている。一塁に出たロジャーが、しきりに手をこすりあわせている。七回表、外野席で焚火がはじまって、アナウンスで注意された。しかし、ベンチの選手はコートを着ている。バッターは手袋をはめている。ダッグアウト内は炭火がカンカンにおこっている(この日、ヤクルトのベンチでは四俵の炭を消費したという)。これは不公平ではあるまいか。 「ウドンを買ってきましょうか。今日は単なる観客ですから」  N記者が立ちあがった。この世にカップヌードルあること嬉し。 「ついでに熱燗も頼む」  前の列五人がいっせいに天麩羅ソバを食べはじめた。味わうのではなく煖《だん》を取るのだからいそがしい。さながら、野球見物ではなくてソバ喰い競争のごとし。そうかと思うと、飲めない奴が熱燗をやるから顔面朱を注いだようになっているのがいる。これはもう花見だ。 「毛布を買ってきましょうか。懐炉を取り寄せましょうか」  S記者が心配してくれる。  スタンドでもっとも人気があるのは、意外にも新浦投手、ジョンソン内野手、張本外野手の三人である。つまり、何をやらかすかわからない選手が楽しみであるようだ。遅れてきた人が、ジョンソンの第一打席を見損ったと歎いているので、ふりむいて、捕邪飛《キヤツチヤー・フライ》と教えてやった。アアという歎声とも喜びともつかぬ声が聞かれた。酷な言いようだが、ジョンソンあるかぎり覇権なしというのが私の考え方である。あんなにカンの悪い選手はいない。あんなに陰気な男を他に知らない。富田の放出は大失敗である。  今年の巨人軍のプラスは、サード・コーチの黒江である。二回表、巨人軍の攻撃、一点いれてなおも、一死走者一、三塁。堀内の投ゴロのとき、黒江は大声で、走ったと叫んだ。動揺した松岡が一塁に中途半端な送球、キャリアのない杉浦が、これも三塁走者の矢沢が目に入ってショート・バウンドの球を後逸して生還を許す。これをやれるコーチが去年はいなかった。  たとえば、若林とか稲尾のような投手は、三塁コーチの声が聞えなかったようなフリをして、背中で走者の足音を聞き、わざとゆっくりしたモーションから一塁に矢のような球を投げ、併殺を完成してしまったろう。あれほどの球速と鋭いカーブを持ちながら松岡が大投手になれないのはこのためだ。  今年から野球が変った。  ヤクルトの二番打者から五番打者の左の四人、若松、ロジャー、マニエル、杉浦というのは、巧打あり大砲あり新鋭ありということで、私は史上最強だと思う。豊田、中西、大下、関口という黄金時代の西鉄よりも上位と見た。加えて、一番の井上、七番の丈夫で長持ちの船田、八番の渡辺進も、この日は無安打ながらバットは振れていた。控えの福富、山下、大杉、益川など、充分に優勝を狙える勢力になっている。  一方の巨人軍の張本、王、淡口という左打線もすばらしい。つまり、柴田、高田、土井という、かつての巨人軍の売りものであって、|巨人軍らしさ《ヽヽヽヽヽヽ》の芯をなしている小型選手が余計に小さく見えるのである。野球が変ったというのは、こういうことである。藤田、田淵、ブリーデン、東田の阪神打線にも同じことが言える。  総じて、どのチームにも言えることは、投手力の弱体、内外野の守備の拙劣、これに反するところの豪打線、従って小細工が利かないというのが、各チーム共通の特徴ではあるまいか。この間にあって、広島、中日というチームが比較すれば総合力に勝れているが層が薄い。なにしろ、巨人軍の右翼手は、淡口、末次、柳田の三人で、圧倒的な厚味がある。  今年のように順位予想の困難な年はなかった。どこが強いという中心になるチームがないというのが第二の特徴である(私は、個人的な好みによって、今年は阪神優勝説を唱え、かつ、応援しようと思っているが)。  どこが強いのか、まるでわからない。ナニがなんだかわからない。それが私の開幕試合の感想であり、そうやって今年のセ・リーグのペナント・レースがはじまった。 [#改ページ]    巨人=阪神・熱涙観戦日記  十月九日 土曜日。雨。  昨日の夕刻から降りだした雨が止まない。昨日は十五夜だった。今年は、十五夜が二度あった。九月八日が雨。十月八日も雨。無月が二度。  女房は、買ってきたダンゴを食べている。「だって三好野にオダンゴありますって書いてあったんだもん」。そのダンゴにつけるアンコが田淵捕手のミットの大きさぐらいある。  今年ほどハラハラする思いで野球を見た年はなかった。私は去年から阪神優勝説を唱え、今年になって、ペナント・レースのはじまるまえに、それを週刊誌に書いた。それは、第一に、江夏を放出した吉田監督の英断を買ったからである。それが私の野球観である。  だから、もし、阪神がB級に落ちることがあったらどうしようかと思っていた。そうなったら、もう、野球の原稿を書くまいと思いさだめていた。  ここまでくればいい。私はそう思っている。私の知るかぎり阪神優勝の予想をたてた野球評論家は一人もいないのである。  たとえば、こう言う評論家がいた。「今年はどこが優勝するかわからないが、広島と中日が最下位に落ちることはない」  こんなのは予想とは言えないし、そもそも野球がわかっているのかと言いたい。  阪神の優勝は絶望的であるが、私の予想は、競馬でいえば、予想が当って馬券がはずれたというようなものである。つまり、阪神・巨人(前年度最下位)の連複馬券を買えばいいところを阪神の単勝式馬券を買ってしまったわけだ。  私の「阪神優勝説」を読んでいない読者は信用してくれないだろうから、ここで来年度の予想を書いておく。外木場・佐伯の復調、ホプキンスの残留、代打者一人の獲得を条件に、広島の優勝と言っておく。  その根拠は、またまた競馬で恐縮だが、第三コーナーから第四コーナーにかけて|いい足を使った《ヽヽヽヽヽヽヽ》からだ。今年は、ひょっとしたら広島の大逆襲成功かと思われる時期があったが、直線でバテテしまった。  九月の半ばごろから、身辺がさわがしくなってきた。いわく「巨人奇跡の優勝」いわく「長島茂雄物語」いわく「張本涙の人生記録」。こんな原稿を小説ふうに書けという。気の早い編集部からは、日本シリーズの予想の注文。 「ちょっと待ってください。阪神、まだわかりませんよ」 「だけど、あなたは巨人軍のファンでしょう」 「違います」 「じゃあ、阪神ですか」 「違います」 「どこが好きなんですか?」 「野球が好きなんです」 「………?」  ちかごろの、人をどこそこのチームのヒイキときめてしまう風潮は、私にとって、まったく不可解である。相撲でも同じことだ。私は相撲と相撲場が好きなのだ。どっちが勝つかを見るなら翌日の新聞を見ればいい。  強烈なアンチ巨人の男がいたとする。その家に、長島と王とが遊びにいって一時間も話しこんだとすると、家族ぐるみの巨人ファンになってしまう。そんなものである。  午前十一時。  朝からつけっぱなしのテレビに、野球中止というテロップが流れた。  そこで、将棋の「名人戦復帰記念特別棋戦」の観戦記を書きはじめる。名人戦が朝日新聞から毎日新聞に移ったための特別対局(第一局の大内・丸田戦)である。実は、こっちのほうもサワガシイのである。  徹夜になる。朝までの原稿でゲームが行われていたらどうなったかと思い、ゾッとする。  十月十日。日曜日。快晴。無風。体育の日。ビュウティフル・サンデイ。ちょっと暑い。  まるで|寒かった夏《ヽヽヽヽヽ》の借金を返してくれるような秋晴れ。  国立駅は、上りも下りも、行楽客であふれるばかり。  文藝春秋のTさん一家に声をかけられる。Tさんは、武田泰淳さんの葬式に行くところ。夫人と二人の子供は、実家へ遊びに行くのだという。Tさんの喪服と、家族の晴れ着とが対照的で、これもひとつの秋だ。 「ゲームのこと。あとで教えてください」とTさん。 「そっちの模様も頼む」と私。  青山葬儀所の告別式が二時だから、どうにもならない。  巨人・阪神三連戦(後楽園)の見所を書く。  ㈰優勝の行方(長島・吉田両監督の采配ぶりやいかに)、㈪王貞治の714号(ベーブ・ルースとタイ記録)が出るか、㈫最高殊勲選手は王か張本か、㈬ジョンソン、ライト、ラインバック、ブリーデンの大リーガーが、この正念場で、どんな活躍をするか、㈭張本の首位打者足固め成るや否や。  なかでも、私の関心は、鍵を握るライト(日本シリーズの場合も同じ)をどこで使うかということに集中していた。         *  午前十一時半。後楽園球場に着く。すでに超満員。私は、眩暈《めまい》を感じた。  水道橋から球場まで歩いてくるときにも、それを感じた。圧倒的に若い人が多い。場外馬券売場がある。遊園地がある。おそらく、十万人にちかい人が球場の周囲にひしめいているのではないか。  徹夜明けで、コーヒー一杯飲んだだけで家を出たのである。何か食べないといけない。しかし、私は、立喰いのソバ、ハンバーガー、スパゲッティの店に首を突っこむ気力がない。ここは別世界だ。若い人たちの間に割り込んでゆく気力がない。どこも満員。生ビールでスキヤキを喰っている一家がいる。その活力は、市民の側のものである。考えてみれば私はずっと夜昼逆で、家を一歩も出ない生活が続いている。  九月二十八日から、十月十日までの私の仕事。総合雑誌に「田中角栄論」。中間雑誌に小説一本。随筆、数篇。正月に出る相撲の本の原稿整理。骨董《こつとう》の雑誌に美術評論めいたもの。将棋観戦記。そして、この野球である。その間に出版記念会と文学賞選考委員会。つまり、将棋観戦をふくめて、昼日中に野外に出るということがなかったのである。  いったい、私はナニ屋さんなのだろうか。競馬をやめていなかったらどうなるか。  私は、こう思う。いや、こう思うことにしている。私はレポーターなのである、と──。  そうして、文壇では、野球でも相撲でも将棋でも(競馬でも、麻雀でも)|一番わかっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは俺なんだと自分に言いきかせることにしている。そうでなかったら、とてもこんな仕事は引き受けられない。  阪神の打撃練習が終ったところで、先発投手の発表が行われた。巨人はライトである。  大方の予想は堀内ではなかったろうか。すなわち、長島と杉下は、甲子園をふくめての五連戦の第一戦に勝負をかけてきたのである。もっとも厭らしいピッチャーを使ってきた。  この五連戦は、つまり、今年のペナントレースは、極言すれば、この第一戦であるところの巨人・阪神二十二回戦の一回の表で決まってしまった。  そこを、くわしく書く。  一回表、中村勝、掛布ともに四球。ライト投手はカッとなっている。すかさずラインバックが左前打。一点入って、無死走者一、二塁。田淵、外角球にさからわず、右中間に打って、二点目。走者一、三塁。ライトは落ちつきなく(態度の悪い男だ)ブリーデンのカウントは0─3となる。  阪神私設応援団の意気大いにあがり、黒と黄の旗がイヤに目立つ。阪神優勝説を書いた私も胸の鼓動をおさえかねる場面である(ここで、ちょっと注釈をつければ、私は、大好きな長島サンにも優勝させたいのだ。胸の鼓動に耐え、目は身を乗りだして心配している長島サンの蒼白い顔を追っているという按配なのである)。  私は「打て!」と叫んだ。  なぜならば、得点圏に走者のいるときの外国人打者は、カウント0─3で必ず強振してくるのを知っているからである。吉田監督のサインも打てであったそうだ。振ってくるのがわかっているから、打てと叫んだ。  ところが、一人置いた隣に坐っていた別当薫さんは、打っちゃいけない、と言った。  別当さんの根拠を忖度《そんたく》するならば、こういうことだ。  ブリーデンが強振してくるのを知っているライトが|まとも《ヽヽヽ》な球を投げるわけがない。気負っているブリーデンは空振りするだろう。しかし、待球策に出れば四球は貰ったも同然である。  ブリーデンが四球になれば無死満塁。打者東田のとき、巨人は併殺の守備態型を取る。つまり、東田が最悪の併殺打を放ったとしても一点追加が確実になる。これに反してブリーデンが三振して東田が併殺打を打てば、追加点があげられないばかりか、ライトを生き返らせてしまう。  別当さんの大局観はこうだった(と思う)。 「打て!」 「打っちゃいけない……」  四球目、ブリーデン、顔を赤くして、尻もちをつく空振り。カウント、1─3。 「打て!」 「打っちゃ駄目だ」  結果は、別当さんの言う通りに、ブリーデンの三振。東田の併殺打。追加点なし。  もし、ここで三点をあげていれば、はたして、その裏の王の713号の2ランが出たかどうか。 結果論と言うなかれ。野球とはそういうものである。かりに王がホームランを打ったとしても阪神は勝っていたはずだ。  私が、吉田監督(長島も)未だしと思うのは、こういうあたりにある。読みが浅い。三原脩ならば「待テ」のサインであったろう。あるいは、三原なら、勇み立つブリーデンを呼びよせて、なだめるようなフリをしてから強振させるというくらいの策を弄したと思う。  無死満塁から東田の併殺打で一点追加、二死一、三塁で当っている池辺となれば、様相が変ってくる。勝敗の機微はこういうところにあると思わないわけにはいかない。         *  七回、先頭の王の輝く714号のベーブ・ルース・ホームラン。私は、生涯に、こういう大打者を見ることはもうないだろう(王が早実の一年生で五番打者、甲子園で、投直のような当りがセンター・ライナーになるのを見たとき、この人は大打者になると誰彼なしに触れ廻ったことを思いだす。第一に、王という名前がいい。お父さんの経営するラーメン屋の『五十番』という店名がいい。それも二十年の昔になった)。  王のホームランに続いて、振れている柳田の右中間二塁打。私はこれほどの大喚声を聞いたことがない。この喚声は上野浅草まで響いたのではないか。上野動物園の虎が寝られなかったという話(嘘デス)がある。畳みかけるようなジョンソンの右中間適時打!  家へ帰ると、Tさんからの電話。駅前の寿司屋で漫画の滝田ゆうさんと飲んでいるという。 「野球、どうでした?」 「それより、お葬式、いかがでしたか。百合子さん(奥様)泣いていらした?」 「まあ、出てきませんか」  仕方がない。こっちも休日で寝ているTさんを引っぱりだした前科があるのだ。  十月十一日。月曜日。ふりかえの休日。快晴。強風注意報。  これで、三連戦、雨、晴、風となった。Tさんのおかげでグッスリ眠れたが、私の足どりは重いのである。  前日の引分けで阪神の優勝は絶望的になった。勝たなければ勢いがつかない。最高殊勲選手も王に決まった。首位打者も張本で確定的。  また、水道橋から歩く。むかし、それも三十年前、水道橋の角にあった講道館の屋上から、タダで野球を見た。そこに出版協会があり、共産党員や、売りだしの左翼評論家たちと、お互い、だまって、寒さに震えながら見ていたものだ。金がないのだから仕方がない。  その後、会社を抜けだして、何度後楽園球場へ足を運んだことか。野球のあとの焼酎。いや私は観戦中にも飲んでいた。外野席で野次りまくって、南海の堀井に殴られそうになったこともある。川上の満塁逆転サヨナラ本塁打も見ている。  今日も超満員。年々歳々、野球は変らず、私は老いてゆく。  もっともっと昔、昭和十一年の洲崎の巨人・阪神三連戦も見ている(そのころ、私たちは、巨タ戦と言っていた)。戦死した沢村も吉原も、いまから思うと薄倖の影があった。影浦は、調子のいいときのヤクルトの大杉に似ていた。  そんなに前のことでなくて、あれは、東京オリンピックの頃だったと思うが、阪神の藤本定義監督に、山口さん、うちにいいピッチャーがいるよと言われたことを思いだす。それが、昨日投げた、背番号51番の養成選手の古沢だった。それさえ、もう、昔話になる。西沢もそうだったが、養成選手という制度のあったことを知る人がすくない。  巨人軍の先発は、堀内過保護投手。阪神は江本長髪投手。  今年のペナント・レース。一戦一戦、大事に大事に戦ってきて、まだ最後の坂があるのである。長島巨人軍にも吉田タイガースにも同じ事が言える。これが勝負の世界なのだ。キマッタと思っても油断はできない。そう思うと、胸ふたがれる思いがする。         *  強風で帽子が飛ぶ。警官の制帽が飛ぶ。お嬢さんのヒサシの大きい帽子が宙に舞う。中年男のパナマが飛ぶ。いかなるときでも帽子が飛ぶのは滑稽だが、球場全体に哀感が漾《ただよ》っている。 「私の生涯の最大の成功は将棋指しにならなかったこと。私の人生の痛恨事はプロ野球のコーチになれなかったこと」  漠然と、そんなことを考えている。こういう大試合で必ず見る顔、顔、顔。誰彼なしに挨拶して廻る男がいる。終りが近づいているのだ。  むかし、こんなに風の強い日には砂塵|濛々《もうもう》として、何度もゲームが中断されたものである。人工芝、万歳!  八回裏。巨人、五点リードして、二死、走者二塁。そのときの張本の打席の気合いの入っていたこと。張本は、とにかく、王に打席を廻したいのである。勝敗はきまっている。観客は、歩かせられてばかりいる王の最後の打席(もう敬遠はない)が見たいのである。それが張本にはわかっている。だから気合いが入る。私が野球にもとめているものはソレだ。  勝敗にこだわる昨今の客が釘づけになっているのは、王の打席が見たいからだ。五万人の足をとめてしまう、偉大な王。  果然、張本、痛烈な左中間二塁打。その喜びよう──。躍りあがって手を叩く。  それにしても、ここで715号を打ってしまう、王という男は! 快音を残したまま、バッター・ボックスで一歩も動かずに球の行方を見る姿の良さ。 「こんなにうまくゆくとは思いませんでした」  試合後に王はそう語った。当りまえだよ、きみ、いくらなんだって、計算ずくでやれることではない。  それにしても、王に本塁打されて、八回裏、八点リードされた二死無走者で、投手交替を告げる吉田監督の心中やいかに。  すべては終った。  阪神私設応援団の一人が、血走った目で叫んだ。 「負けたよ。せやけど、来年はうちやで……」  そのあたりに、私は関東|煮《だ》きと熱燗《あつかん》の匂いを嗅いだ。  五万人が消え、スタンドは寒くなってきた。 [#改ページ]  ㈸ わが町、わが野球    野  球  人には、その人の運命を決める瞬間があるように思う。  その事件は、昭和十年の冬にちかい秋に起った。私は九歳になったばかりだった。  私は川崎市の南幸町小学校から、東京市の麻布区の東町小学校に転校してきた。新しい学校へ来て、二日目か三日目だったと思う。午後の休憩時間になり、私は、まだ、十分間の休みをどうやって過していいかもわからないでいた。  教室には、あらかた生徒がいなくなっていた。私は教室から校庭へ出る扉のほうへ歩いていった。校庭では、さまざまな声が飛んでいた。そんなことも川崎市の小学校とは違っていた。こちらのほうが伸び伸びしていたし、遊びの種類も多かった。私は戸惑っていた。  暗い所から明るい所へ出たと思った瞬間に、野球の球が飛んできた。それは軟式野球のボールではなくて、ゴムマリだった。休憩時間の野球は、バットを使うことが禁じられていたし、球はゴムマリだった。打者は手にハンカチを巻いて殴るような恰好で打つ。  教室から校庭へ出る出口は石段になっている。三段の石段の、いちばん上の段に足をかけたときに球が飛んできた。私は反射的に背伸びをして、その球をシングル・キャッチした。それはファイン・プレイであるとも言えるし、その程度のことは私にとって容易だったとも言える。しかし、誰かが暴投をして、皆の目がこっちを向いたときに、何気なく教室を出てきた私が伸びあがって捕球したということは、かなりカッコイイ出来事だった。 「やったあっ!」と、担任のO先生が叫んだ。「ほらみろ、俺の思った通りだ」  O先生が、かたわらの体格のいい生徒に話しかけていた。その声は弾んでいた。私に関する好い感情が溢れていた。私にとっても、晴れがましいような照れくさいようなことだった。  O先生はテニスの選手のかぶる日除《ひよ》け帽をかぶっていた。体操の時間にはく白いズボンをはいていた。そんなことも私にとっては目新しかった。休憩時間に教師が生徒と一緒になって遊んでくれるというようなことは、前の小学校にはなかった。前の小学校は、教室も校庭も、なにか全体にいじいじしていた。こんどの小学校は、活溌で明るい。教師が、生徒と、友達同士のように、夢中になって遊んでいた。  運命を決するという言い方は大袈裟《おおげさ》すぎるけれど、そのことが私の方向や生活や、性格までも変えてしまったと言っていいように思う。ある意味では──。  私は少年時代のことや、特に小学校のときの野球の話を何度か書いてきた。それで、どうしても、ある部分は話が重複することになる。そうしないと説明がつかない。そのことは許していただきたい。もちろん、私は、同じ話を書こうとしているのではない。  私は奇妙な夢を見ることが多いのだけれど、そのなかのひとつに、こういうのがある。  野球をやっている。私は子供である。場所は川崎市の郊外である。そこは野球のグラウンドではなくて、本当はテニス・コートである。テニスのネットを張る柱の一本が三塁のベースということになっている。ゴムマリの三角ベースの野球である。  夢のなかで私が球を打つ。すると、どういう打ち方をしても球が柱に当ってしまう。次に私が走者になっていて、三塁に走ると、柱に激突しそうになる。ハッと思って目をさます。  川崎市にいたときに、家のそばにテニス・コートがあった。私はそこで野球をやった。私は野球が好きだった。五歳か六歳のときだと思う。父も母も野球が好きだった。父と母とは野球によって結ばれたといってもいい。横須賀市のクラブ・チームで、父が二塁手であったとき、左翼手の妹が母だったということになる。父はある女と結婚して、子供が二人うまれた。ところが、左翼手の妹が忘れられなくて、二人で、まあ、駈け落ちをした。そのときに私が出来たということになる。そっちのほうが運命的であるけれど、それは私の関知するところではない。  母が若かったとき、戸塚球場へ野球を見に行く女は非常に珍しかったという。私は藤本定義さんの野球を見たことがない。藤本さんは若くして監督になってしまったのだから。そう言うと、母は、いや、お前は見ていると言う。一歳か二歳の私を連れて野球を見に行ったのだろう。待ってよ、お前はお腹のなかだったかな、と言ったりもした。  川崎市にいたとき、私たち一家は逼塞《ひつそく》していた。テニス・コートよりも遠い所に野球場があった。私は一人で見に行った。凄い投手を見つけて、父に報告するために駈けて帰ったことがある。その投手はアンダー・スローで、その投球は、本塁近くで捕手が飛びあがっても捕れないくらいにホップした。 「なにしろね」ハアハアと息がはずんでいた。「キャッチャーが捕れないの。それでストライクなの」  父は信じられないという顔をした。「なにしろね。キャッチャーのサインは全部ストライクなんだから。あれじゃあ相手のチームは困る」私の理解はその程度だった。  私は、そのころの私からすれば大人に見える少年たちと野球をやっていた。父も一緒に遊ぶことがあった。  だから、私が小学校の三年生の秋に東京の学校へ転校して、逸《そ》れてきた球を、ひょいと伸びあがって掴むということは、私にとっては格別にどうということでもなかった。  教師に褒められて、びっくりしたくらいだった。  そうかといって、私が名選手であったというのではない。私は、むしろ、ひ弱な少年だった。  東町小学校のO先生が三年の男子組を担任することになったとき、野球部をつくろうと決意した。そうして、実際に野球部が結成されたのは二学期の初め頃だった。  私の転校以前のことだから、正確には知らないが、どうやら、これは、かなりの事件であったらしい。  O先生は、自分の受持の三年の男子組だけで学校を代表するチームをつくろうとした。これは、どう考えても、乱暴なやりかたである。どうやって校長や父兄会を説得したのか、どうやって自分の考えで押しきってしまったのか、それもわからない。ともかく、私が転校したときに野球部は出来ていた。  それだけではない。O先生は、野球部員をきめるときに、勉強の成績順で採用したのである。クラスが六十人であるとして、席次の上から二十人、そのなかには虚弱児童や身長の低すぎる子供もいたから、それを除いた十五、六人が野球部員になった。  私たちのクラスに膂力《りよりよく》のすぐれた少年がいた。相撲が強い。気のいい少年だった。彼は、いくら抓《つね》っても痛いと言わない、擽《くすぐ》っても擽ったいと言わない。そういう妙なことを記憶している。この少年の成績は四十番ぐらいだった。O先生は、彼をハネたのである。それが問題になった。この少年の父親は、有名な株屋で、広大な家に住んでいて、学校でも有力者だった。少年は野球部に入ることを強く希望した。しかし、O先生は自分の方針で押し通してしまった。多分、キャッチ・ボールや打撃練習のようなテストが行われて、少年が野球に適さないことを見抜いたのだと思われるけれど。  私はO先生の野球観は実に卓抜だと思う。野球とは、そういうスポーツである。そうでなかったら、六大学野球のなかで東京大学が存続するわけがない。O先生の野球観は、すなわち彼の教育観でもあった。  私の運命を決めた瞬間(自分でそう思っているのだけれど)と言うのは、そんなふうにして出来あがった野球部に、新入りの、体格がいいとも言えない私が、いきなり採用されるためには、やはり、あの事件がなければならなかったと思うからである。  それからずっと、中学に入学するまで、私を含めた五、六人の選手とO先生との間の、いわば長い蜜月が続くことになる。まあ、いまだから、それを蜜月と呼ぶことが出来るのだけれど──。  戦前の教師は、小学校の教師でも生徒を殴った。しかし、O先生のように、誰でも、力まかせに殴る教師は珍しかったと思う。ゲンコツで殴り、平手で殴り、竹の鞭《むち》で頭を殴った。私の左の耳は鼓膜が破れていて難聴になっているけれど、それはO先生に殴られたからである。そのとき、耳と頬とから血が流れ、私は一度倒れて起きあがり、また殴られた。私は、そのときもそう思ったし、いまでもそうだけれど、それで良かったと思っている。O先生が私を殴ったのは当然であり、私は、それをすっかり許している。私が悪かったというより、O先生は、そうするだけの権利があったと思う。つまり、それが蜜月だった。  私は、正規の、正統的な野球の訓練を受けるようになった。  十五メートルぐらい離れてキャッチ・ボールをする。その距離をちぢめてゆく。五メートルになる。お互いに力いっぱい投げる。それはキャッチ・ボールというよりも、球技による喧嘩にちかい。左の掌は赤くはれあがる。  同じように、五メートルの距離に生徒を立たせ、O先生が全力をこめてノックする。球は顔面に腹に脛《すね》に炸裂《さくれつ》する。  打撃練習も似たようなもので、掌にマメが出来るというあたりを通り越して、掌の皮が剥《む》けてしまう。  そんなふうだったから、四年生になったときは、六年生全体の連合軍と試合をしても負けないようになった。負けないどころではなく圧勝である。O先生は、ひとつのクラスで野球部をつくることの優秀性をそれで実証したことになる。私たちの相手になるチームは無くなってしまった。学校の近くの会社の、大人のチームと試合をしても負けないようになった。  そうは言っても、私たちのチームが強かったのは、後にプロ野球の名投手になったKという男がいたからである。Kは、いまでいえば大洋の平松か広島の佐伯のようなピッチャーである。風貌も投球フォームも平松に似ていた。  はじめは驚くことばかりだった。川崎市の小学校と東京の中心地の小学校とでは、何から何まで、まるで違っているように思われた。  たとえば、国語の教科書の何頁から何頁までに出てくる漢字を全部書くという宿題が出たとする。私は一字ずつノートに書く。前の小学校ではそれで良かったはずだ。こんどの小学校では、誰もが、ひとつの漢字について二十字ずつ書いてきていた。最低が二十字だった。そんなことは考えただけで気が遠くなる。  弁当のお菜がソーセージと茹《ゆ》で卵という生徒がいた。私はソーセージを知らなかった。ひどく高価なものに思われた。コーンビーフなら知っていた。しかし、それは、めったには口に入らぬものであり、まして小学生の弁当のお菜になるとはとうてい考えられなかった。  それでも、私は次第に馴れていった。いわば都会の小学校の体臭を自分も身につけてしまっているのを悟るようになった。O先生は怖い先生であったけれど、けっこう、教室で野次ったり、からかったりするようにもなった。  ソーセージを弁当のお菜に持ってくる生徒には若い美しい洋装の母親がいて、父親がいないことを知った。彼は妾の子だった。その他に芸者屋の子もいたし、焼芋屋の子もいたし、下駄屋の子、畳屋の子、油屋の子もいた。  女組に狼という渾名《あだな》の女生徒がいた。飛びぬけて体が大きかった。後にプロ野球の名投手になったKと狼とは怪しい仲だという噂があった。  Kは中学生のときに、すでに女と同棲していたという男である。彼は、花街のなかの小さなホテルの息子である。  私は、つい最近になって、狼とは、本当はどうだったんだと訊いてみた。  Kは戦争末期に特攻隊員になった。戦争が終って、同棲していた齢うえの女を探したが見つからない。ある日、新橋の焼跡を歩いていると、ばったりと狼に会った。いきなり、そこで抱擁して接吻を交したという。 「それだけのことだよ」と、彼は言った。私には、それだけのことだったとは思われない。「だってね、俺は同棲していた女が好きだったんだから。あんなにいい女はいないと思っていたんだけれど、どっかへ行っちまった」。私はKが好きだ。こんなに純情な男はいない。  私はHという少年と仲が良かった。Hは遊撃手で堅実な守備が買われていた。親切な少年だった。そういう関係で、Hは、小学校を出ると、父の会社に給仕として勤めるようになった。そもそもHに盗癖があったのか、社会に出て悪くなったのか、それはわからないけれど、父の会社で物が失くなるようになった。ドイツ製のカメラが失くなった。犯人はHだった。Hは真面目で勉強のできる、作文のうまい少年だった。私はそう思っていた。Hは馘首された。そのことが大きな原因であったと思うが、数年後に「組の者」になってしまった。  捕手の名もKで、彼と投手のKと右翼手のAは、小学校を出て、都立の化学関係の学校に入学した。誰も信じないと思うけれど、この三人は、野球の技術を買われて、勧誘されたのである。不正入学である。Aは別として、バッテリーの二人のKは、学力では無理とされていた。捕手のKは二年生か三年生で病死した。生きていたら彼もプロ野球に入団したと思う。幅の広い体で、捕手に生まれついたような感じの少年だった。私がバッティング投手をつとめるときに、あんなに投げやすかった捕手を知らない。チーム・メイトでありながら、私の球を受けてくれるというだけで胸が慄《ふる》えるほどに嬉しかったということも、あるいは誰も信用してくれないかもしれない。それはそれでいい。  三塁手のOも早く死んだ。彼は小学六年生で死んでしまった。最初の主戦投手はKではなくてOだった。Oは三塁手になり、六年生になったときは、もう学校へ出る日もすくなくなり、野球部員ではなくなっていた。Kとは別の感じで、美少年であり、鯔背《いなせ》な少年だった。  死んだのは、捕手のK、三塁手のOだけではない。右翼手のAも死んだ。私には、それも信じられないことだった。私よりも体力にすぐれた少年が、どんどん死んでいった。あの、小学生時代に蜜月を味わったと思われるような、十五、六人の少年が、その半数は、もう、死んでいるのである。そのことが、私には信じられない。私は、いま四十六歳である。その半数が、もう死んでしまっている。  東町小学校は、麻布区内では優秀な小学校であったわけではなかった。私たちの先輩に高見順さんがいる。高見さんは、開校以来の秀才であると言われた。高見さんは府立一中から一高・東大と進んだ。  中堅手のIも府立一中に合格した。一塁手の、頭文字でいえば三人目のKは麻布中学であり、私も、野球部員ではなかったが応援団長でありマネージャーであったNも麻布中学へ進んだ。その他にも都立の商業学校へ行った者が何人かいて、これは異例のことだった。  O先生は勉学にも熱心だった。私たちは、交替で、O先生の下宿先へ呼ばれた。私はそこで酒の味を知った。そんなことも、いまでは信じがたい出来事であるだろう。O先生は、私たちが眠くなると酒を飲ませて励ましたのである。私にも、いまや、信じ難いような出来事である。  私が、大人の世界には嘘があるのを知ったのも、野球によってのことだった。嘘がある。嘘を吐《つ》け!  麻布区内に住んでいる私にとって、六大学野球の行われる神宮球場は自分の家の庭のようなものだった。ギザいちという、五十銭銀貨一枚あれば、市電の往復の切符を買い、外野席の入場券を買い、カレーライスが食べられた。  私は早稲田ビイキだった。私はスコアブックを持っていった。走者が二、三塁にいて、早稲田のバッターが三塁手の後方にふらふらとあがる飛球を打つ。私から見て、バットの根元に当る、当り損ねの凡打だった。それが三塁手の後方に落ちて、ラインから左にそれて二塁打となる。むろん、二者生還となる。  翌日の新聞には「左翼線を破る痛烈な逆転の二塁打」と書かれている。冗談じゃない。嘘じゃないか。大学生も大人も嘘を言っている。そう思った。  私は、プロ野球の行われる、洲崎の東京球場へも行った。私の年齢で巨人軍の沢村投手を見ている男の数は、そんなにたくさんはいないはずである。  父も母も野球が好きだった。  自分の息子が、小学生であるとはいえ、野球部員になり、そのチームが、五年生のときにすでに東京市でもっとも強いということになったのだから、父も母も、もう夢中になって肩入れをする。  東京市で一番強いと書いたが、五年生のときは優勝できなかった。  夏の大会の準決勝のとき、走者を二塁に置いて、五番打者の捕手のKが遊撃に強い当りのライナーを放った。その打球は正面に飛び、走者とともに併殺された。O先生が凄い勢いでベンチから出ていって、主審に、遊撃手の持っているボールを見せてくれと言った。そのボールは、ほとんど真二つに割れていた。打った瞬間に、湿ったような音がして、遊撃手の前で急に速度を失うという妙な一撃だった。軟式野球では、ボールが割れれば安打とするルールがあった。O先生は安打としないまでも、打ち直しにすべきだと抗議した。激しい抗議だった。主審はアウトだと言い、彼もO先生も譲らず、ついに放棄試合となった。放棄試合は九対零の負けとなる。私たちが記録上で、そんな大敗を喫したのは、その一度だけである。私たちのチームは、大会が行われれば、ほとんどコールド・ゲームで勝ち進んでいった。  六年生になったとき、昭和十三年の秋であるが、傷病兵慰問の野球大会が行われた。グラウンドに傷痍軍人を招待して、私たちの野球を見せるのである。スタンドは白衣を着た兵隊ばかりで、本当に白一色だった。私たちはスターであり、タレントだった。選ばれたのは、私たちの東町小学校、赤羽小学校、育英小学校、精華小学校の四校だった。これは、ヒイキ目ではなくて、実力のうえで、私たちの学校が頭ひとつぐらい上に出ている感じがあった。  大会は、主として、上野公園の科学博物館裏のグラウンドで行われる。水原茂さんに伺ったところによると、昭和初年において、高松市では少年野球が盛んであったという。東京市では、昭和十二、三年頃が、少年野球の全盛時代であった。  上野のグラウンドには、特定の少年野球のファンがいた。四十歳、五十歳という男が、かたまって金網にしがみついていた。彼等は、左翼手である私の名前を知っていた。私は二番打者であって、小細工を必要とする。バントで送ると見せて強打して、一塁走者を一挙にホームに迎えいれるということもあった。左翼手の守備位置から、攻守交替でベンチに戻るとき、三塁付近の金網にならんだ男たちから「いいぞ、山口!」という声が掛った。  私の兄も弟も、同じ小学校で、野球好きであったが、O先生の方針で、野球部員にはなれなかった。私の野球と兄や弟の野球とでは、どこかが違う。うまいとか下手ということではない。あいつは「本チャン」だぞという言い方があるが、兄や弟と較べれば、あきらかに私は「本チャン」だった。戦後に出来た女子のプロ野球チームが、なまじっかの会社の男たちのクラブ・チームより強かったのと同じことである。訓練のおかげであり、規律があるためだった。私たちは「本式」だった。  六年生になると、打球の音を聞いただけで、二十メートルも背走して、くるりとふりむいて捕球することが出来た。そうして私は強肩だった。左翼の守備位置からならば、正確に、ワン・バウンドで、ストライクのような球を本塁に返球することが出来た。  父も母も夢中だった。試合の前日に、チーム全員を麻布十番のヤマナカヤという洋食屋へ連れていって、ビーフステーキとトンカツを食べさせたりした。テキにカツという意味である。私は小学生のときからマッサージ師を家に呼んでいた。そのことを誰も不思議に思わなかった。  神田にあった電気治療院へ連れて行かれることもあった。体の筋力を揉みほぐすためだったのだろう。風呂に入って電流を通すという治療もあった。どれだけの効果があったかわからないが──。  私は小学生のときから麻雀もやったし、花札の扱いも知っていた。  O先生は、私たちに活動写真を見せてくれたり、寿司屋へ連れて行ってくれたりした。O先生と一緒に町を歩いていて、ノドがかわいたと言うと、おい、山口、催促かと言って、クリームソーダやミルクセーキを飲ませてくれた。先生は自腹をきっていた。O先生は登山も好きだった。私は小学生のときに、大菩薩峠で五日間のキャンプを張ったことがあり、燕岳《つばくろだけ》にも登っている。たいした山ではないけれど、小学校の五年生で、五日分の食糧の入ったリュックサックをよく背負えたものだと思う。  一方において、私たちは中学への受験勉強にも励んでいた。苦しんでいた。あの頃は、少年野球の全盛時代であったけれど、受験地獄の時代でもあった。摸擬試験も、さかんに行われていた。O先生が生徒に酒を飲ませて激励したということが全てを物語っていると思う。  私の野球は中学に入学したときで終った。麻布中学にも野球部はあったけれど、それに入るつもりはなかった。私のなかから何物かが消え去っているのを知った。なによりも、麻布中学にはO先生のような先生がいなかったためである。私たちの蜜月は終っていた。  中学ではクラス対抗の野球の試合が行われた。同級に野球部員が何人かいたけれど、私は、いつでも投手で四番打者だった。外角の低目に力一杯の直球を投げると、時に、それがインコースの高目にホップすることがあった。打者の肩口から大きく割れるカーブが得意だった。ただし、本当の投手の訓練を受けた者はこういう球を投げない。小さく鋭く曲がるカーブを投げるのである。私は面白がって投げていただけである。クラスの者は私が野球部に入らないことを不思議に思っていたようだ。野球部員のほうにも面子《メンツ》があって私を誘わなかった。私は中学の一年のときに、五年生のつくっている軟式野球のクラブ・チームで遊ぶことが多かった。そこでも投手で四番打者だった。ただし、それは私にとっては野球ではなかった。野球ゴッコだった。小学校のときに私は愛されすぎたようである。小学校を出てから野球をするときに、私には、いつでも、いわく言い難い淋しさがつきまとっていた。プロ野球の名投手になったK、生きていたら名選手になっただろうと思われる捕手のK、そういうバッテリーがいて、O先生が監督をするチームでなければ私は厭だった。  私の野球についての、次の決定的瞬間は、中学二年生の秋にやってきた。肩をこわしたのである。医者には掛らなかったけれど、軟骨が折れたのだと思う。全力投球が出来なくなった。右肩のその部分から腕が折れてしまうような激痛に襲われる。  中学の一年とか二年という、骨のやわらかい時に、面白がって大きなカーブを投げたのがいけなかったのだと思う。それと、教練や体育の時間の投擲《とうてき》がいけなかった。なまじ強肩であったのがいけない。私はいい気になっていた。私には手榴弾《しゆりゆうだん》 投げで五十七メートルという記録がある。しかし、私は、肩をこわしたことをそれほど悲しまなかった。もう、野球はどうでもよくなっていた。  私にとっての第三の事件は、四十歳を過ぎたときに起った。家の前で息子とキャッチ・ボールをしようと思って、第一球を投ずると、それが右にそれて、よその家の塀のなかに入ってしまった。それも信じられないような出来事だった。私は、いつもの、少年時代から失われたことのない感覚でもって、息子が捕球しやすいように胸元をめがけて投げたつもりなのである。第二球も右にそれた。 「もう、やめだ、やめだ」私は息子にそう言った。  五月五日の午後になって家を出た。今年の黄金週間は、私のような、もはや自由業に近い職業の者にとっても長過ぎた。二十二歳になった息子は下宿生活を続けているし、女房と二人きりで家にじっとしていることに飽きてしまっていた。  公団住宅と公園のある方向に歩いていった。途中で私はこんなことを思いついた。公団住宅には若い友人が何人か住んでいる。それぞれに二人か三人の子供がいる。その子供たちに声をかけてやりたい。頭を撫でてみたい。からかってみたい。そうして、もし、出来ることならば、許されるならば、子供を連れだして玩具を買ってやりたい。自分の子供に玩具を買ってやるということが、ずっともう無くなっていた。そんなことも十年前の話になってしまった。「こどもの日」なのだから、友人も大目に見てくれるのではないか。そんなことも思った。場合によっては、そのうちの一軒でビールぐらい飲むことがあってもいいとも思った。  公園で、野球の練習が行われていた。折目の正しい練習であることがすぐにわかった。三多摩地区は、全国的に見ても、小学生のリトル・リーグの強い所である。胸のマークで、そのなかのチームであることもわかった。小学教師と思われる男が三人、その他に先輩だと思われる青年が三、四人いた。  教師の一人が、無言で、シート・ノックのバットを振っていた。野手が球をはじいたり暴投したりしても、格別に叱るようなことはない。稀に、捕手にむかって短い言葉を吐くだけだ。すると、捕手が、たとえば三塁手に「ファースト!」と叫んで投球方向を指示したりする。  三塁手は肩が弱い。一塁までの球が届かない。二塁のほうが強肩である。「俺なら三塁手と二塁手を取りかえるんだがなあ」。私はすぐにそんなことを思う。そういう反応は生涯にわたって消えることはないだろう。  三塁手は、しかし、他のポジションに球が飛ぶと元気に声をかける。野次ったりする。口の達者な、理論好きの少年であるように思われた。 「似ている」と、私は思った。私の少年時代もそんなふうな選手だったのではないか。カラ元気ばかりで理窟っぽく、そのくせ泣き虫だった。  このチームは、どうやら、四月に結成されたばかりの新チームであるらしい。多分、五年生と六年生なのだろう。それで、教師はまだ厳しいことを言わないでいるのだろう。それとも、いまの少年野球は、万事につけて、この程度のものなのだろうか。  当り損ねのグラウンダーに対して突進し、素手で球を掴んで一塁に矢のような送球をする選手は一人もいなかった。外野フライを打ちあげると、それが守備位置の付近であっても、満足に捕球されることがない。捕手も二塁までの送球が届かない。 「信じられない」  私はネット裏の金網に顔を寄せて見ていた。この程度のものなのか。私の少年時代も、この程度のものだったのだろうか。いかにも弱々しい。私は、何か夢を見ているような気がした。  教師がキャッチャー・フライを打ちあげる。捕手が私のほうへ駈けてくる。「捕《と》れるぞ!」、私は思わず叫んでしまう。捕手が転倒する。うまい具合に球がミットの上に落ちて、スライディング・キャッチの形になった。「ナイス・キャッチ」と叫ぶ。先輩だと思われる青年たちが私を見る。しかし、私は叫ばずにはいられない。 「待てよ……」  私は奇妙なことを考えはじめていた。私たちの野球もこの程度のものだったのかもしれない。それはそうだとしても、たとえば、このなかに、あと四年か五年後に、齢うえの女と同棲してしまうような少年がいるだろうか。それでいて、無類に純情であったKのような少年がいるだろうか。  ボールを真二つに割ってしまうような強打者がいるだろうか。走者一、二塁で重盗が行われるとき、二塁に送球して刺すような機敏で強肩の捕手が出てくるだろうか。  教師に酒を飲ませられ、泣きながら勉強を続ける少年がいるだろうか。  鼓膜が破れるほどに殴り倒され、立ちあがって次の一撃に耐え、しかもその教師を許すという少年がいるだろうか。 「とうてい考えられない。そんなことは、とうてい信じられない」  四十年ちかくの昔になるあのことが夢であったような気がした。  私は、グラウンドのなかを、公団住宅のある方へ歩いていった。左翼手の立っているところから、目分量で、二十メートルの後方の位置を確かめてみた。あの少年が、そこからその位置まで背走して、くるり振りむいて捕球することが出来るだろうか。 「そんなことは、とうてい信じられない!」 [#改ページ]    卒業記念写真  電車に乗っていて野球の試合を見ることがある。学校や工場の運動場、あるいは公園の広場、稀には、それが、軟式野球専門の貸球場であったりする。晴れている日曜日であれば、日本中どこへ行っても、広場では野球が行われているといっていい。  電車のなかにいる私は、投手が投球動作を起していればシメタと思う。どうしてもそれを熱心に見ないわけにはいかない。その投球がストライクであるように、打者がバットを振ってくれるように、またその打球が、安打であるか、野手の好プレイを誘うような鋭い一撃であることを強く願うようになる。しかしながら、たいていの場合は、投手の投球は暴投にちかいような、とんでもない球であり、ストライクであっても打者が空振りするのが常である。もちろん、走っている電車は、瞬時にしてそこを通り過ぎてしまう。私は、がっかりして溜息をついたり、舌打ちをしたりする。  どこの広場でも野球が行われているが、いい場面にめぐりあうことはない。私は、いつでも、肩に力が入るという感じで、野球の選手の全員の姿が見えなくなるまで、それを見ていることになる。このように、日本の野球人口は非常に多い。しかし、私のように、電車のなかから短い時間でも野球を熱心に見ずにはいられない男がどのくらいいるのかということになると、まるで見当がつかない。  私は、たとえば、テレビの受像機を見ると、それがストライク・ゾーンに見えてしまうことがある。町を歩いていて、万年塀のある部分がストライク・ゾーンに見えてしまうことがある。あるとき、高校時代は野球部の選手であったという男に、そういう経験があるかどうか質問してみた。彼は、驚いて、そういうことはないと答えた。すると私は異常なのかもしれない。  よく晴れた日曜日に、電車のなかから草野球を見ていると、私にある感触、ある手応えが甦《よみがえ》ってくることがある。──私の打った打球が左翼手の頭上に飛ぶ。それが左翼手の頭上でさらに速度を増して舞いあがる。ぐうんと速度を増すという感じが甦ってくる。そのときの晴れがましい感じを思いだす。私は一塁にむかって全力疾走しないで、ゆっくり歩きながら打球を見送ることになる。それはホームランにきまっているのだ。もっとも、高くあがりすぎた打球が巧妙な左翼手に捕球されてしまうこともあったが。  私は小柄であったが、タイプとしては長距離バッターだった。強振する型である。私の晴れがましさは、そういうところにもあったのであるが、後年、体力が衰えてきてからは、草野球の選手としては良い選手でなくなってしまったのもそのためだと考えている。  私が自分で力がついてきたなと感じたのは、中学の二年生のときだった。私は、小学校の野球部の練習を手伝いに行くことがあった。つまり、OBである。小学校の運動場はコの字型の校舎に囲まれている。コの字型の校舎の中心部に左翼手が守っている。紅白試合のとき、私の打球が、二階建ての校舎の屋根を越えた。自分でも驚いてしまった。小学校の野球部の選手であったとき、私の打球は、せいぜい、左翼手の守備位置あたりまでしか飛ばなかった。もっとも、野球部の選手であるときは、ジャスト・ミートだけをやかましく言われたせいであったかもしれない。左肘をあげ顎をあげて強振すれば、監督である教師に殴られてしまう。そのときの私は、もう、自由に打っていた。それにしても、自分の力に驚いてしまった。小学校の五、六年生と中学の二年生とでは、体力がまるで違う。  野球における晴れがましさは、バッティングだけではなかった。小学校のときは左翼手だったが、六年生のときは打球の音と同時に背走してそのまま肩越しに球を捕えることができた。あるいは、くるりと振り向いて捕球する。ファールフライを横飛びに走って掴む。自分の守備範囲なら、どんな球がきても平気だと思っていた時期があった。  小学校のときに左翼手であった関係で、打者からすると左側、すなわち三塁手もしくは遊撃手が守りやすく、二塁手や右翼手は、どうも勝手が違って具合いが悪かった。軟式野球の三塁手は忙しいポジションであるが、ベース寄りの強い打球を逆シングルで捕えて態勢を直して一塁に投球するのが得意だった。三邪飛は、それが囲いの内であるならば、たいていの打球は処理できると思っていた。それに、私は、相当な強肩だった。中学のとき手榴弾の投擲《とうてき》では五十七メートルという記録があり、これは私の中学では一位だった。野球なら何でも人なみ以上に出来ると思っていた。  中学のとき、休み時間に野球部の選手とキャッチボールをしていて、私の投げる球が自然にホップすると言われたことがあった。私は草野球の選手としては肩口から大きく割れるカーブを得意としていた。ホップする球、シュートする球、大きなカーブは、本式に稽古したことのある捕手でなければ捕球できないようになった。ただし、本当の投手は、変則的なピッチャーでないかぎり、あまり大きなカーブを投げないものである。良い投手は、小さく鋭く早いカーブを投げる。野球が好きだったし、野球に関してだけ言えば、この世はバラ色だという時期が長く続いていた。  野球部の選手であったのは小学校時代だけであった。中学や大学のときも、会社に勤めるようになってからも、野球はずっと私について廻った。会社員でなくなってからも、近所の青年たちを集めてクラブ・チームをつくったりしていた。  こう書くと、野球についてはいいことばかりのようであるが、必ずしもそうとばかりは言えない。  小学校のとき、買ったばかりのグローブで、平凡な外野フライを落球したことがあり、そのときは大いに野次られた。そのグローブは緑色をしていて、どういうわけか、最初から皮が固かった。こういうときの屈辱は、つまらないことでも妙に忘れられない。  中学の級対抗試合のとき、やはりレフトを守っていて、三塁手の頭を越すライナーを前進してとらえようとして、前へ落してしまった。それは記録は安打となる難しい当りであったが、チェンジになったとき、投手である級友に謝った。すると、彼は、やると思ったよと憎々しげに言った。それは、お前なら捕れると思っていたのにという意味が含まれていたのかもしれないが──。  会社員になって、営業部との試合に投手を買ってでた。私は中学生のときに肩を痛めてからは、めったにピッチャーをやらなくなっていたが、そのときは、これが最後だという思いがあった。初回に二点を入れられたが、二回三回を無事に三者凡退にきりぬけ、そのへんが限度だと思って交替してもらった。その試合は、こちらも五回に二点を返して、二対二の延長戦になり、十一回にサヨナラ勝ちになった。草野球としては内容のある面白い試合だった。応援に来ていた家族連れの上役や女子社員も昴奮して、大いに沸いたゲームだった。こういう試合のあとのビールがうまいし、小宴会は楽しいものである。私も浮かれていた。こちらの勝因は、なんといっても、リリーフした投手の好投にあった。私は、そのことを言い、彼を褒めた。すると、その救援投手は、初回の二点がなかったら、自分は相手チームを零封したのだから、もっと楽に勝てていたのに、という意味のことを言った。あきらかに、私が余計なことやったと責めているのであった。私は自分の年齢からするならば好投の部類だと思っていたのに、水をさされる結果になった。それに、野球というものは決してそういうものではない。二点をリードされているときに救援投手になると、気楽に投げられて、それがかえっていいことがあり、そのうちに調子に乗ってしまうことがある。私はそう思ったが、そのときも彼に詫びた。  私が肩を痛めたのは、中学二年生の秋だった。いい気になって大きなカーブやシュートを投げたのがいけなかったのだと思う。右肩の軟骨が折れ、治療は不可能だと医者に言われた。稀に肩の調子のいいときもあったが、多くの場合、三塁から一塁に矢のような送球を行うのは不可能になった。私は下から投げるようになった。外野からの遠投は、注意しないと激痛が走るようになる。ただし、打撃のほうは、どのチームでも、たいてい、四番打者をつとめた。会社員になってからは、何度も対戦したチームの投手から、敬遠の四球で歩かせられることが何度かあった。  いまは、もう、肩のほう(守備)もバッティングのほうも、駄目になった。なによりも足がいけない。心臓もすぐに苦しくなる。  私は、野球に関しては、かつて、自分が名選手であったというようなフワフワしたようないい気分になるときと、そうではない、しょせんは非力で凡庸な選手であったにすぎないと思うときと、二通りの思いがあって、自分でも、さだかな見当がつきかねるのである。あのとき肩を痛めなければと思うことがあり、いやいや、肩を痛めなくても私程度の体力ではタカがしれていると思うことがある。  電車に乗っていて、あるいは町を歩いていて、草野球を見ると、自然に身を乗りだすような感じになり、自然に体が動き声が出てしまう。また、私は、会社員同士の草野球を一試合見てしまうと、選手の一人一人の性格がわかってしまう。──そうだと自分では思ってしまう。これは私の特技である。  私は、生来、不器用な男だった。運動神経も特に鋭いとは思われない。私がずっと野球を楽しめるようになったのは、どこへいっても野球についてはリーダー格でいられたのは、小学校時代、大山正雄という教師がいて、その人に鍛えられたからであった。私が本式の野球をはじめたのは小学校の三年からであり、そのとき大山先生は二十五、六歳であったろう。大山先生は、勉強でも運動でも、理想主義者であり、ロマンチストであった。また、先生は、教師のなかでは暴れん坊でもあった。先生の右手の甲には青筋が盛りあがっている。あるとき、先生は私にそのわけを教えてくれた。それは青筋ではなくて、刺青《いれずみ》を消した跡であるという。先生に殴られなかった生徒は、クラスのなかに一人もいない。  私たちの小学校時代のクラス・メイトに黒尾重明がいた。そういっても、もう、黒尾の名を知っている人のほうがすくなくなっているかもしれない。昭和二十一年から二十四年まで、東急フライヤーズに在籍して、四年間で六十二勝をあげた名投手である。その後、近鉄パールズに移籍してからは振るわなかった。それでも、昭和三十年までに三十七勝して、合計で九十九勝という成績が残っている。  私たちの小学校の野球部が強かったのは、一にかかって、黒尾重明がいたからである。学校全体が野球熱に浮かされていた。それも、黒尾が投げるかぎり連戦連勝であったからだ。私の野球が上達したのは、大山先生と黒尾のおかげだった。  これは何度も書いてきたので気が引けるが、その東町小学校の野球部というのは、私たちのクラスだけで出来ているという、はなはだ変則的なチームであった。つまり、私たちが四年生になったとき、大山先生の担任の四年男子組の野球部が学校全体を代表するチームになっていた。こういう野球部をつくるについては、かなりの軋轢《あつれき》があったようだ。しかし、それが、大山先生の野球に対する考え方であった。教育上の信念でもあった。大山先生は、自分の考えでもって反対派を押しきってしまった。頑固といったって、こんな頑固な人を私は知らない。それは独断であり、ワガママにちかいだろう。大山先生は、学問のよくできた先生であり、教育に熱心な人であったが、そういう暴れん坊の性格であったために、ついに校長にはなれなかった。戦後になり、時代が変ってしまって、大山先生のような教師を受けいれる場がなくなってしまったのだろう。  私は、とびとびにではあるけれど、戦後も、ずっと黒尾重明とは会ってきていた。小学校時代の級友で交際のあるのは黒尾だけだった。黒尾は小学校五年生ぐらいから町の英雄であり、二十七、八歳ぐらいまで華々しいスターであったが、プロ野球の選手をやめてからはパッとしなかった。彼は世渡りが下手だった。自分の言いたいことが言えない。お世辞のようなことが、いっさい言えない。そのくせ、好き嫌いの激しい男だった。  野球をやめてから、スポーツ新聞社に勤めたが、折合いが悪く、すぐに退職した。そのあと、運動用具店の経営に失敗した。それから、ずっと、どうもよくない。  三年前に、富士市の丸山という男から電話が掛ってきた。小学校時代の級友であるというが、どうしても思いだせない。野球部員であり、遊撃手であったという。それなら思いだせないはずはないのであるが、いまだに、はっきりした記憶がもどってこない。彼は、野球部を途中でやめたから、わからないかもしれないと言った。そうかと言って、彼が間違ったことを言っているのではない。彼の言うことは、いちいち正確である。学校のこと、級友のこと、住んでいたあたりのことについて、彼の記憶は正確だった。彼は、いま、富士市で乗馬クラブを経営しているという。  丸山が私に会いたいと言った。最初のとき、こちらの都合が悪くて断ったのだと思う。二度目のとき、これから黒尾重明と会って酒を飲むのだということで、三人で銀座で会った。そんなことがあって、丸山と黒尾と私の三人で酒を飲むことが二度か三度あった。  一昨年の三月、その三人で中野だか阿佐谷だかの酒場で飲んだのが、黒尾と会う最後になった。そのときの黒尾は元気だった。肝臓が悪いと言っていたのだが、それもすっかりよくなったと言った。  黒尾は、昼間は、デパートの既製服売場に勤めていて、夜は、野球評論を書くために、夜間試合を見に行く。それは重労働であるのだが、いちばん辛いのは、倉庫から既製販を手押車にのせて、それを売場まで運ぶときだと言った。そういう姿を人に見られるのが辛い。なまじ、顔を憶えられているのがいけない。声をかけられたことが一度だけあったという。  野球評論家の職場が、いろいろな事情で、狭くなってゆく時でもあった。本当は、彼は、プロ野球のピッチング・コーチになりたかったのであるけれど、そのことに関しては、ほとんど絶望的だった。私は、以前、彼に喫茶店の経営をすすめたことがある。そのためには家を売らなければならない。運動用具店の失敗のことがあったので、彼は決心がつかなかったようだ。  その年の夏になって、黒尾は胃の痛みをうったえ、八月六日に入院すると、胃癌であり、癌は肝臓にも膵臓《すいぞう》にも転移していた。手遅れであった。私は病気のことも入院のことも知らなかった。  十月十七日の朝早く、黒尾重明が死んだ。女房あてに、夫人から電話があった。  黒尾は癌であることを知っていた。まだ夏時分のことであるが、夫人が、山口さんに会いたいかと訊くと、もう少し良くなってからにすると答えたという。また、黒尾は、あと十年生きたいとも言ったという。そのことは私にも言っていた。私には、一人娘が嫁に行って、子供が生まれて幸福になるのを見とどけてから死にたいと言っていた。黒尾には先妻の子供もいた。黒尾は、スターであったとき、球団と縁の深い会社の重役令嬢と結婚した。その人とは生き別れになって、子供は先方に引き取られたのである。黒尾夫人は、彼に、その子供に会いたいかと訊いた。何でも遠慮しないで言ってくださいと言った。黒尾は、はっきりと、先妻の子供には会いたくないと言ったという。私には黒尾の気持はよくわからないが、それが黒尾の優しさであり、いまの夫人に対する感謝の気持のあらわれであるように思われてならない。  どういうわけか、私も女房も、黒尾には好かれていた。彼が某私立大学の野球部の監督をしていたとき、選手である大学生を連れて遊びにくることがあった。私のほうも二ダース入りのコーラの箱をかついで応援に行くことがあった。  黒尾は、そういったことを、夫人に報告していたようだ。今日の山口のところの肉がうまかったとか、細君が、こんなことを言って笑わせたとか、いちいち、あたかも自慢するようにして話したという。それで、山口の家に遊びに行きたいというので、何度も夫人は叱ったことがあるという。夫人は、忙しい人だから邪魔をしてはいけないと言ったそうだ。  昨年の秋、私は富士市へ講演に行った。富士山麓で乗馬クラブを経営している丸山が駅まで迎えに来てくれた。講演が行われるまでの短いあいだ、私は彼の乗馬クラブや山荘(貸別荘)を見学した。話だけでは想像がつかなかったが、環境がよく、設備も立派だった。  富士市内で酒を飲んだ。 「黒尾もあんなことになっちゃって」  次の講演地である浜松まで送ってくれた丸山が、自動車のなかで言った。会ってから何度目かの黒尾の話題だった。そのとき、突然、私は、クラス会をやろうと言っていた。  酒の勢いということもあった。そうでなくても私は会合が多いので閉口している身の上である。それが自分から言いだして、自分で驚いていた。ひとつには、丸山が、案外に小学校時代の級友の消息に通じているためでもあった。彼は、たちどころに、七人か八人の級友の名を口にしていた。私は自分で言いだして、これは齢のせいかな、気の弱りかなと思っていた。また、私は、丸山に、きみが面倒を見てくれるなら、きみがお膳立てをしてくれるなら、とも言った。狡《ずる》いけれど仕方がない。  私たちは、昭和十四年に卒業して、以後三十六年間、クラス会をやったことがなかった。それには事情があった。級友のPという男が、クラス会を開くと称して、会費を集めて持ち逃げするという事件があったからである。この、会費の前納というところに、いかにも戦後のある一時期の匂いがある。それで、私たちのあいだで、クラス会の話がタブーのようになってしまっていたのである。 「七人でも八人でもいいじゃないか。第一回でそれだけ集まれば大成功だ。あとは、それからそれで、だんだんに消息がわかるようになるよ」  と、私は言った。  丸山は面倒見のいい男だった。三十六年ぶりのクラス会が十二月十日に行われた。私が会場へ行ったとき、十人ばかりの男が集まっていた。私が部屋の入口で靴の紐をほどいているときに、あ、山口が来たという声があった。マスコミの寵児《ちようじ》が来たという声もあった。マスコミの寵児という表現は、いかにも古臭いし、彼等は事情に疎《うと》いと思ったが、それを私は歓迎の意味に受けとることにした。彼等の半分は、私は来ないだろうと思っていたらしかった。 「バカヤロウ。言いだしたのは俺なんだ」  私は、まっさきにそれを言った。  おい、俺がわかるか、誰彼なしにそれを言いあった。私が着く前にも、さかんにそれをやっていたらしい。集まったのは十三人だった。丸山をふくめて六人がわかった。残りの六人は、どこに住んで、家は何屋でと口々に説明するが、いっこうにわからない。  寄せ鍋に手をつける者がいない。ひたすらに酒を飲むだけである。誰もが、会ってすぐ昂奮してしまっている。私には、誰でも五十歳に近くなると、何となく恰好がついてしまうのが喜ばしいことでもあった。  私たちが最初に行《おこな》ったことは、当然、欠席者の消息調べであり、一人が筆記を取り、知っているかぎりの名をあげることになる。五十五人のうち、大山先生をふくめて、十人は死んでいる。 「おい、バッター順でいこうや、野球部の」  出席者のうち、四人が野球部員であり、それを言いだしたのは野球部員ではない男だった。私は、それだけのことで涙を流していた。私たちの野球部は、そういう存在だった。 「一番、センター、犬飼。二番、レフト、山口。三番、ファースト、工藤。四番、ピッチャー、黒尾。五番、キャッチャー、小西。六番、ショート、高橋。……」 「あ、そうだ。高橋貞克が転校してきて、俺はショートを免職になったんだ」  丸山が言った。 「メトカルフか」 「そうだよ、足の早い奴だった」  私たちは、ただ、わあわあそんなことを言いあうだけだった。そのうちに、子供時分のことが、いくらかは甦ってくる。 「俺はね、お前に言われて、商売をやめて、この会社に勤めるようになったんだ」  都留が名刺を出した。私にはそんなことを言った記憶がない。 「そうだよ。お前に言われたんだよ。だけど、そのほうが良かった」  朝鮮動乱のあとの不況時代に、鉄工場をやっている都留に会って、そう言ったのだろう。  子供のときに、腕白坊主というか、お山の大将であった男には、いまでも、そういう気配がある。反対に、消極的で、温厚であり、それが野球部の選手としてはいくらか物足りなく思えた男が、五十歳になってもそのままで、それがかえっていまでは好ましい人物に見えてきたりする。 「おい、来年もやろうや。こういうことはね、毎年必ずやることに意味があるんだ」  都留が言った。 「来年もやろうって、やっと三十六年ぶりに集まったばかりじゃないか」 「いや駄目だ。来年もやろうって約束してくれよ」  彼は、たちまちにして酔ってしまった。 「やるさ。だから、いま名簿をつくる話をしているんじゃないか。これから幹事をきめるところなんだ」 「駄目だ、駄目だ。来年もやるんだ」  相変らずだなと思った。それも気持のいいことだった。 「狼っていうのがいたな」  狼というのは、女子組で、もっとも大きな少女だった。早熟で腕力が強く、いまでいえば番長というところだろう。この狼と黒尾とは、小学生時代に恋仲であったという噂があった。  私は黒尾と最後に会ったとき、その話を聞いていたので、みんなに披露した。  戦争末期、黒尾は特攻隊員であった。戦争が終って、復員した黒尾が最初に行ったことは、同棲していた女を探すことだった。誰も信じてはくれないと思うが、黒尾重明は、中学の四年生のときから齢うえの女と同棲していたのである。  その黒尾が新橋の焼跡で、狼にばったり会ってしまった。黒尾と狼とは、その焼跡で、ものも言わず、抱きついて激しい接吻をかわしたという。それだけのことかと私は黒尾に訊いた。それだけだったと彼は答えた。だってねえ、俺の同棲していた女がいい女だったんだ、俺は彼女が好きだったんだ、と言った。私はこの話が好きなのである。  たしかに黒尾はあまりにも早熟であったが、無類の純情であり純粋な青年であった。そのことは級友の誰もが知っているはずだった。また、黒尾が早熟であったことは、私にとって、いくらかの慰めにもなるのである。あいつは、やるだけのことはやって死んだんだと思うことにしている。  私は、小学校時代の黒尾が、算術の答の二十五俵という言葉がどうしても言えなかったことを思いだした。彼が言うと二十ギョヒョウになってしまう。彼は真っ赤になって立往生してしまう。そういうところが可愛らしかった。彼は、ドモリというのではなくて、舌がもつれるのである。これでは、テレビやラジオの解説者にはなれないし、商売のほうでも差しつかえが生ずる。  私たちは、二次会で、麻布十番の待合へ行った。待合の内儀は、みんなの顔を見て、まあ、お懐かしいと言った。  今年の一月十九日になって、丸山が、卒業記念写真を持ってきてくれた。私たちの家は、たいていは戦災で焼けてしまっている。誰かがそれを持っていて、複写してくれたのだった。  これがあれば、名前を思いだすために大騒ぎをする必要はない。腕っ節の強かった堀部市似。畳屋の息子で死んでしまった安達重夫。一高から東大へ行った犬飼孝。彼は、勉強のほうで私たちの誇りであったばかりでなく、出来ない生徒の面倒を見てやるという優しい少年でもあった。クリーニング屋の息子の仁科晋吾。美少年の鈴木可之。私の親しくしていた山辺昌之、柏原芳幸。これらの人たちの消息はわからない。焼芋屋の息子の高橋昭八郎。彼も死んでしまったという。  私たちの東町小学校は、日本一のオンボロ学校だといわれていた。木造校舎が老朽化して、何本もの長い突っかえ棒があった。危険な校舎であるとして、何度か新聞に写真が掲載された。その校舎の前で、椅子や机を重ねて四列に立った卒業記念写真だった。私は自分の顔を発見するまでに五分ぐらいを要した。  丸山が写真を持ってきて、二日目か三日目の夜、私は夢を見た。  みんなが、丸山の経営する富士山麓の乗馬クラブに集まっている。昨年の十二月に第一回のクラス会が開かれ、そのとき、来年の夏に丸山の牧場へ行こうという話がでたのだ。夏は勘弁してくれと丸山が言った。それは書き入れであるという。それで、六月にしようという話が出ることは出た。乗馬クラブでは、東京都内からマイクロ・バスで送り迎えをしてくれるという。一時間半ぐらいで着くという話も聞いた。  マイクロ・バスのなかでは、みんなが無口であった。総勢十四人である。そこから、いきなり、場面が牧場へ飛ぶ。  丸山の貸別荘に分宿することになっているが、そういう情景はいっさい抜きで、みんなが牧場にいる。梅雨時で、あたりはぼんやりと霞んでいて、富士は見えない。草は露を含んでいて、ズボンはすぐに濡れてしまう。  多分、誰かが言いだしたのだろうが、十四人が七人ずつに別れて野球をすることになった。外野は左翼手だけで、二塁手は深く守っている。どういうわけか、誰も声を発しない。  一塁に都留、二塁に遠山、三塁に仁科、ショートに広瀬が守っている。二塁手は遠山と仁科の二人だったが、器用な仁科が三塁に廻ったのだろう。  左翼手にハナミズを垂らした安達重夫。……おおい、あれ、おかしいな、安達は死んでしまっているはずなのに……。私は、そのとき、それが夢であることに気づいている。これは夢なんだ。夢だから、これでいいんだ。また、私は、黒尾が死んでしまっているのだから来られないのだなとも思っている。奇妙なことに投手がいない。投手がいないのに、みんな、腰を落として、守備態勢に入っている。  牧場の柵があって、野球をするには狭いのである。腰を落としているのに、誰もグローブを持っていない。そのまま動かない。私の位置からすると、二塁手の遠山のあたりに靄《もや》がかかっていて、彼は見えたり見えなかったりする。  私に打順が廻ってくる。よし、一発やってやろうと思う。私に、真ん中高目の好球を左翼に引っぱるときの手応えがよみがえってくる。  そこでまた情景がとぎれて、私は、また、もとの位置で見ている。こんどは、ショートが高橋貞克にかわり、三塁手が大塚幸治郎にかわっている。その大塚は早く死んだ。ようし、これでベスト・メンバーだなどと私は思っている。その守っている姿勢で、私は、彼等の一人一人の性格や運命までわかるような気がしている。  捕手は小西虎一郎である。彼は、いいキャッチャーだった。生きていれば、やはり、プロ野球に入団したはずである。小西が立ちあがって、腰をおろした。音響というものが、まったく無い。音がしない。ピッチャーがいないのだ(これは、あとになって、精神分析的に考えるのだが、私には、黒尾以外のピッチャーが考えられなかったのだろう。その黒尾が死んでいることは、夢のなかでも、しかと承知している)。  そのとき、突然、野手の姿が、みるみるうちに小さくなってゆく。坊主頭になる。小学生になる。おおい、やめてくれ……。私は夢のなかで叫んでいた。  靄のなかで、みんながクリクリ坊主の小学生になる。おおい、やめてくれ。野球は中止だ。丸山のところで一杯飲もう。  おおい、やめてくれ。私は泣き叫んでいた。これは夢なんだ。私は夢を見て泣いていることを自分で承知していた。誰も動こうとはしない。おおい、やめてくれ。 [#改ページ]    公  園     1  この町は、町全体が公園のようになっているので、幼児のための小さな遊び場のほかには、特別な公共の広場がなかった。  中心地から十五分も歩けば、気持のよい林があり、野原があり、丘がある。自転車でならば、釣りのできる河原にすぐに達することができる。  そうでなくても学校が多いのである。とくに、大学の構内は、静かで美しい。松林のむこうに夕陽が落ちかかるときは、わたしはいつでもうっとりとしてしまう。  団地に住むことになった友人の若い妻が言った。 「もちろんですよ。あの学校の構内と大通りがあるから、ここへ引越してきたんですよ」  彼女は、十何人かに一人という抽選率のことは忘れてしまっているらしい。 「よく散歩をしますか」 「たいていのところは行きましたわ。ここへ申しこむまえにも見に来たんです。入居がきまってからも一度あそびに来たんです」そこで彼女はあわててつけくわえた。「カレと一緒にね」  都心からの距離のことを考えると、この団地に入居を申しこもうとする彼の意見に彼女が同意するには、ちょっとした決心が必要だったらしい。  なんといっても、ここまで来てしまえば、簡単に親の家に遊びに行ったり、銀座へ買物に行ったり、一流の劇場に行ったりすることができなくなる。  友人は、まず、大学の構内と運動場を見せたのだろう。夕陽が松林のむこうに沈むまで、熱心に彼女の決意をうながしたのだろう。その情景が目に見えるように思われる。  東京駅から電車とバスで一時間以上かかってしまう。その団地の区ぎられた部屋で夫の帰りを待っているのは、若い女には辛いことであるにちがいない。  一年経って、彼女は、先住者であるわたしにむかっても自慢するようになった。 「だってね、私の部屋から富士山が見えるんですよ。丹沢も秩父も、びっくりするくらいに近くに見えるんですよ」  彼女の言葉は、わたしを非常に満足させた。  ゴールデン・ウイークには、どこへ遊びに出かけるのかとたずねられることがある。都心に住んでいる友人が、今年はどういう予定になっているかときくことがある。  そういうときは、わたしも松子も源太も、だまってしまう。 「じょうだんじゃない。なんのために、この町に引越してきたのか。──それが、いちばん美しいときじゃないか。むろん、どこへも行きはしないよ」  三人とも、こころのなかで、そう思っているのである。     2  団地ができたときに、そのあたりに、いくつかの広場が生まれた。  中央の、もっとも広いところは、野球場とテニス・コートと遊園地になっている。遊園地にはブランコと滑り台と、藤棚の下の砂場がある。そのほかに野外集会場が隣接している。  そこは公園とよばれているようだ。地図にも第三公園と記されている。  町全体がそんなふうだから、特別に公園に行って遊ぶというようなことは、あまり行われない。周囲の樹木も、まだ、ひょろひょろしている。よそから土を持ってきたところだから、雑草もきわめてすくない。従って、風が吹くと埃《ほこり》になる。  休日の野球場には、朝から晩まで、野球の試合が行われている。グラウンドの借り賃は二時間三百円である。  この町のチームは、日曜日には、めったに試合をすることがない。わたしの見たかぎり、日曜日に試合をしているのは、よその町のチームである。  ずいぶん遠いところからもやってきているようだ。胸に会社の名があって、袖に GINZA という縫取りがあったりする。  わたしたちのラビット交通の野球チームも、ここで練習したり、試合したりする。しかし、やはり、決して休日に球場を借りることがない。それは、土曜日の午後とか休日に球場を借りるには、かなり早くから申しこまなければならないからである。それだけではなくて、町の人間は休日には遠慮すべきではないかという考えがあるのである。  試合の相手は、同業の交通会社であることが多いけれど、床屋のチームや、中華ソバ屋のチームと対戦することもある。床屋のチームと試合をするのは月曜日である。中華ソバ屋のときは「二の日」である。それぞれ、胸に BARBERS(理髪店)、PEPPERS(胡椒)と銘記してあるから、まことにわかりやすい。  これも、わたしの見たかぎりにおいてのことであるが、日曜日に遠くからやってくる会社のチームは、一人か二人が形になっているだけで、あとのひとは、どうしてこのひとが休日に遠くからやってきてユニフォームを着なければならないのかと考えさせられてしまうような集まりであることが多い。  たとえば、左中間に高い飛球があがったとする。左翼手も中堅手も一所懸命に落下点にむかって疾走する。功名心と不安とが相半ばしているようだ。どちらが受けてもいいような平易な飛球である。ところが、ボールは両者の中間に落ちる。いったん落ちたボールが高く跳ねあがる。こんどは、それを捕ろうとして二人が鉢合せして転倒したりする。それくらいならば、落ちるまえにグローブを差しだしたほうがよっぽどマシだと思われるのであるが──。そうして、もっと重大なことは、それを見て、すこしもあやしまぬという両軍選手の態度である。  どう見たって、虚弱児童としか思えないような体つきのひとがキャッチャーを勤めたりしている。その心意気は賞讃さるべきであるけれど、そこヘキャッチャー・フライがあがったりすると、もちろん当人にはわからないのだけれど、ちょうどモダンバレエを極端に戯画化したような図が見られることがある。  このごろはトップ・ボールを使うチームがあるから、純白のユニフォームを着た中堅手が不規則にはねあがるボールを追って、遠くのほうで「白鳥の湖」を踊っていることがある。  また、ファール・フライを追って、見物しているわたしに迫ってくる三塁手が、少年ではなくて老人であることに気づいたりすることもある。  こんなふうであると、試合が終らないのではないかと心配されるが、そんなことはない。実にしばしば奇蹟が行われるのである。  正面にくるゴロは、必ずファンブルするか体ごと逃げてしまう遊撃手が、真横に飛んだ打球の速いライナーを、すっぽりグローブに収めてしまうことがある。それは見ていて偶然の出来事としか思われなくて、本人も、しばらくは半信半疑でいるようだ。おそらく、遊撃手は、その出来事を何十年間にわたって大切にするだろう。  とんでもない高い球を振って三振に退くひともいるし、塁上で、まったく無駄に殺されるひともいるから、そうやってゲームが進行してゆく。  わたしたちのチームの実力は、休日に公園へやってくるチームよりいくらかうまいといった程度だろう。  公園は日曜日でも人がすくない。テニスをする人は、すぐ引きあげてしまう。ブランコに乗る子供もいない。     3  わたしがはじめてラビット交通のチームの練習に参加したとき、公園の入口のところに自動車が何台もならんでいるので驚いた。集合場所をまちがえたのかと思ったけれど、そうではないことにすぐに気づいた。ほとんど全員が自分の自動車をもっているのである。商売柄で、中古車が安く手にはいるということもあるのだろう。非番のときにアルバイトをする都合があるのかもしれない。  自動車に関していえば、こんなに豪華なチームは他にないだろう。  わたしたちのチームの特徴は、体躯にすぐれた選手がいないことである。それと、非番のひとだけが集まるのだから、どうしてもベスト・メンバーを組めないことである。  森本とアオヤギは、若いときに米軍基地に勤めていて、そこで習った野球だから、妙に本格的なところがある。その意味では、わたしも教えられることが多い。  試合のあるときも、ギリギリ九人であることがある。というよりも、かなり無理をしてでも九人をそろえるといったほうがいい。  わたしはライトを守る。草野球では、左にひっぱる打者が多いから、一度も打球が飛んでこないことがある。  守っていて、統計からいっても、こんなに打球が飛んでこないのはおかしいなと思う途端にライナーがくる。こういうときには、きっと抜かれてしまう。ライトには変則的な打球が多いのである。わたしも「白鳥の湖」を踊っているのかもしれない。  草野球だから、相手のチームが強過ぎることがある。強いというのは、相手チームの会社が大きいということである。それがわかると、守備位置にいて、雲雀《ひばり》の声がきこえてくる。肥溜《こえだめ》の匂いがにおってくる。こうなっては駄目だ。  ライトの守備位置についていて、いつでも、わたしはこう思うのだ。いったい、いま、おれはここにいていいのか。  人数が足りなくて駆りだされたのだとしても、おれは、ここにこうやっていていいのか。その資格があるのか。  年齢のことがある。従って、体力のことがある。技倆のことがある。  運転手には、体力を養うという大義名分がある。おれに、それがあるのか。相手チームも労働者ではないか。  外野手には内野手とちがった一種の快い緊張感がある。不安感がある。それは、一個の失策が得点に大きく関与するからである。そうではあるが、おれはここに座を占める資格があるのか。  二度目の練習のとき、わたしは、公園に早く到着した。  ベンチの端に中年の男がいた。風の強い日で、男はスポーツ新聞を読んでいた。  鞄が置いてあるところを見ると、セールスマンかもしれない。集金係であるかもしれない。  その男は、新聞で顔をかくすようにしていた。わたしがベンチでユニフォームに着かえるあいだ、ずっと無言だった。グラウンドを一周して帰ってくると、男はもう居なかった。  フリー・バッティングで、外野を守っているときに、男が野外集会場の隅の長椅子に腰かけて、やはりスポーツ紙を読みつづけていることに気づいた。  日曜日でも人がすくないのだから、平日の公園には、わたしたち以外には、ほとんど人影がない。すべてのスポーツに関心があるようなひとがいるわけがないのだけれど、その男は、すべての記事を読みつくすまでは動かないでいるように思われた。  わたしは、その後、練習のときも試合のときも、一人の男を見るようになった。探すようになった。その男は同一人物ではなかった。  そうして、東京の平日の午後の公園には、それがどんな公園であるにしても、必ず一人の男がいることを信ずるようになった。  それは、かならずしも失意の男ばかりであるとは限らないだろう。しかし、どの男も、気まずそうにしていて、元気がなかった。わたしたちと目が合うことを避けるようにしていた。所在ないといった様子だった。  そういう男は、わたしたちが試合をしているときでも、ゲームのほうを見ることがない。     4  外野の守備についていて、いつでもわたしは思うのだ。いったい、おれは、ここにいていいのか。ここに座を占めていていいのか。  その日の男は、焦茶の背広を着ていて、黒い縁の太い眼鏡をかけていて、レフト寄りの土手に腰をおろしていた。  そういう男に、自分からは決して声をかけることがないのを知っているくせに、何かのキッカケで、むこうから話しかけてくれるのを願ったりする。あるいは、せめて、ファール・ボールを拾って、笑って投げかえしてくれる事態にならないかと思ったりする。  どの男も、いつでも、知らぬ間に、姿を消してしまう。 「せんせい! いったよおう」  捕手のアオヤギが立ちあがって、こちらを指していた。わたしは、高くあがったライト・フライの行方を見失っていた。 [#改ページ]    秋     1  九月になってからの第一戦に、わたしが先発投手を勤めることになった。それはアオヤギと約束したことだった。  相手はもっとも弱い理髪店の BARBERS である。  わたしは、小学生のときは上から投げていた。中学のときに肩を痛めてから、だんだんに腕がさがっていった。いまでは、ちからいっぱい投げるときはアンダー・スローになってしまう。  アンダー・ハンドの投手はコントロールが悪いといわれるのは、ときに思いがけず真ん中に球がはいってしまうことがあるからである。上から投げる投手とちがって真ん中にはいる球に威力がない。それを注意しないといけない。  第一打者に対して、一球目は高く、二球目は遠くはずれた。  捕手のアオヤギは、立ちあがってミットを持った手を、落ちつけ落ちつけというように動かした。  三球、四球が真ん中にはいった。 「いいじゃないか」  一塁手の森本が声をかけた。  そうなってから、相手のトップ・バッターは、ねばった。続けて三球、ファールした。こちらはストライクを投げるのが精一杯なのである。  わたしは自分の投げる球が、すこしずつ外角に寄ってゆくのがわかった。そこで、八球目に思いきって外角にはずした。それはあきらかにボールであったが、バッターは空振りして尻もちをついた。 「いいぞ、せんせい」  ベンチに坐っていたジュニヤが手を叩いた。  わたしは、第一打者を打ちとったところで、なんだかゲームが終ったように錯覚した。体の調子は悪いほうではなかった。それでも、打者一人で、へたばってしまった。これから先がひどく長いものに思われた。  二番打者が球を芯に当てたが、左翼手であるナガノさんの正面に飛んだ。三番をストレートの四球で歩かせた。次の打者は大きな男であったが、とんでもない高い球を振ってくれてピッチャー・フライを打ちあげた。それを三塁手の佐々木が凄い勢いで突っこんできて捕った。そうやって一回の表が終った。  ベンチに帰っても、わたしは肩で息をする恰好になった。何も考えられなかった。ジュニヤに話しかけられても答えることができない。  二回の表の三者を凡退させたのは、全く幸運というほかはない。もっとも、六、七番打者は、若さや体力は別にして、野球の打者の形になっていなかった。ただ単にストライク・ゾーンに近いところへ球を投げればいい。  その裏、わたしたちラビット交通のチームは二点をあげた。六番の菊人形が左中間にすばらしい一撃を放った。気勢は大いにあがった。中学時代に野球部の選手だったという菊人形は気のよわいところがあった。気分にムラがあって、調子のわるいときにはどうにもならない選手である。  三回の表に、八番打者の深いショート・ゴロを菊人形が遠投で制した。それでほっとしたのがいけなかったのかもしれない。わたしは九番に四球をあたえてしまった。というよりも、思うように球が投げられないようになっていた。  打順が一番にかえって、ねばり強い彼にとうとう中前に打たれた。にわかにホーム・プレイトまでの距離が遠くなったように思われる。アオヤギが霞《かす》んで見える。  暴投があって、走者二、三塁になったところで、二番の左打者に、今度は引っぱられて二塁手の右をライナーで抜かれた。  わたしは一塁手の森本のところへ歩いていった。 「おい。もう駄目だ。かわってくれないか」  そこヘアオヤギが駆けてきた。 「せんせい、まだ大丈夫だよ。かわることはないよ」 「いや、だめだよ。このへんが限界だ」 「そんなことはないよ。がんばってくださいよ。ナイス・ピッチングだ」  わたしは気力を失っていた。それより以前に、もう体力が続かない。  三回の表で、二対二の同点で、一死走者一塁。このへんがちょうどよいところではないかという考えがちらりと頭をかすめた。いかにもシュアーな打者という感じのする三番や、大きなスウィングをする四番打者に立ちむかう元気がない。打たれることがわかっていた。 「交替してくれよ」 「…………」 「わたしが監督じゃないか。これは、わたしの判断だよ」 「じゃいいよ。おれが投げっから、せんせいに一塁にはいってもらうべえか」 「それも駄目だよ。とにかく交替させてくれよ。そのほうがいいんだから。ベンチにヒャクがいるじゃないか」     2  わたしはベンチに坐っていられないくらいに疲れていた。そこで左翼の土手になっているところに寝た。 「ちょいとお。なかなかやるじゃないの」  白い日傘をさした女が近づいてきた。それが照子だった。女が見ていることは知っていたが照子であるとは気がつかなかった。 「どうしたの?」 「どうしたのって、こないだ言ってたじゃないの。こんどピッチャーをやるから見にきてくれって」 「そうだっけね」 「あらいやだ。忘れちゃったのね。……でも、あんた凄いわね」 「なにが……」  野球を知らない人は、ピッチャーは偉い人だと思いこんでしまう。照子もそうなのだろう。 「それに、打つじゃないの」  一回の打席に、わたしは高いセカンド・フライを打ちあげていた。 「わかってないんだね。おまえは野球のことはなんにも知らないんだね」 「そうかしら」  いくらか気分がおちついてきた。 「どうだった?」  わたしは、ゴルフ場つきのホテルの名を言った。照子は、きょとんとした顔で、だまってしまった。それから赤くなった。 「言ったのね。河居さん……」 「やったの?」 「馬鹿ねえ……」  照子はさらに赤くなって、わたしの肩のところを押した。 「ゴルフをやったのかってきいているんだよ」 「やりゃしませんよ。あたいはゴルフなんかできやしないんだから。あたいはホテルで寝てたのよ」  早口で言った。 「夜明かしだったそうじゃないか」 「またそういうことを言う。違うったら……。だからね、あたい、言ってやったのよ。中原さんとあたいとのことをね」 「…………」 「はじめっから言ってやったのよ。あたいが惚《ほ》れているのは中原さんだけだって。わるかったけどさ」 「もういいよ」 「あんたにとっても親友のその中原さんが死にかかっているんだって。そんな話をしているうちに夜があけちまったのよ。第一、あたいは頼まれて行ったんだからね」 「問わず語りか……。河居はきみに惚れていたのかもしれないね」 「まさか」 「そうでなければ男のエチケットだ」  秋の日ざしになっていた。  わたしは夏が終ると一年が終ったように感じてしまう。  そうでなくても、秋になると、過ぎた夏のことを思う人は多いだろう。いくらか後悔に似た感情があるだろう。 「これが最後だね」 「なあに」 「わたしがピッチャーをやったりするのは、もうおしまいだってことだ」  もしかしたら、河居の恋も終ったのかもしれない。     3  試合は、両軍一点ずつをいれて、三対三の延長戦になった。 「せんせい、もっとがんばればよかったのに」  と、ジュニヤが言った。 「とても無理だ」 「ぜんぜん打てなかったじゃないの。びっくりしたな」  ジュニヤは真剣な顔になっていた。 「そういうことと関係がないんだ。とにかく、あれ以上は投げられない」  なかなかいい試合になっていた。めずらしく延長戦になったせいでもあろう。両軍にファイン・プレイが出たためかもしれない。  こちらにとって惜しかったのは、七回戦の約束が十回の裏になったとき、ヒャクが本塁の寸前で刺されたことである。  二死で、ヒャクは一塁にいた。森本のセンター・フライを中堅手が目測をあやまって、うしろへそらした。  わたしたちは、口をそろえて、ヒャクに本塁突入を命じた。三塁を廻ったところで、ヒャクは疑わしそうにベンチを見て、いったん停止した。  そうして三本間で、転倒した。そうでなかったら、悠々と生還していただろう。  結局、次の回に一点をいれられて負けた。     4 「あれは、ころんだんじゃなくて、へたりこんだんですよ」  アオヤギが、わたしの耳もとで言った。 「へたりこむ?」 「そうですよ。やつは水揚げが足りなくて、朝まで仕事をしていたんですから」 「わるいことをしたな」  それで、ヒャクがベンチにいて出場したがらなかったわけがわかった。 「いいんですよ。自分で予定していた納金に足りないんで今朝までやっていたんですから」 「敢闘賞だね」 「せんせいは、もう納会のことを考えてる」  ちょうど、長唄や清元の温習会で一番歌った人が、師匠や三味線ひきを連れて料亭にあがったようなものだった。すなわち、旦那気分だった。投げさせてもらったのだから仕方がない。  街道にちかいほうの居酒屋は、第三公園から歩いてすぐのところにあった。夜勤の運転手を除いて、あとの全部が来ていた。その日は月曜日で、店が休日になっているジュニヤもついてきた。 「だけんどよう、せんせいの球は凄いね」 「どうして」 「内角の球はよう、自然にシュートするし、外角のはスライドする」 「そう思えばそんな感じがするっていうだけのことだよ」 「ケンちゃんが三振したんだからね」  それは相手チームの一番打者のことだったようだ。 「そうよう」  菊人形が割りこんできた。長打を放った彼は上機嫌だった。  それから菊人形の攻守の話になり、ヒャクのランニングのことになった。  草野球では、あとでプレイの話をするのも楽しみのひとつである。 「しかし、わたしが投げなかったら楽勝していたね」 「…………」 「あの二点がなかったら勝っていたじゃないか」 「そんなこと言うもんじゃないよ」 「あのあとを森本がおさえたからね。あそこがヤマだった」 「…………」 「もう駄目だ。駄目だってことがわかったよ。これが最後だ。……みろよ、もう腕があがりゃしない」  外へ出ると、すっかり暗くなっていた。つい十日ぐらい前までは、その時刻ではまだ薄明るかったように思われた。虫が鳴いている。 「せんせいよう、こんじゃあ、懐中電灯をつけるようだね」 「提灯《ちようちん》だろう」  居酒屋の周囲は畑になっていて、道も細い。  大半がユニフォーム姿のままだった。汗の臭いがただよってくる。そのときもわたしは、さっぱりしたようないい気分だった。そのときも、この世界にとどまっていてはいけないのではないかと思った。 [#改ページ]    納  会     1 「どうも、うちの若い奴等はしょうがねえ」いちばん先に来た森本が言った。「来やがらねえんだから」  森本は昂奮していた。目が赤くなっていた。昂奮すると、おしゃべりになり、それが早口になり、とりとめがなくなってしまう。 「ゆんべは眠れなかった。ほんでよう、一睡もできなかった」 「どうして?」 「どうしてったって、心配で心配でしょうがねえから」 「…………」 「来るか来ねえかがわからないでしょう。そんで、何人くるってことが、なっかなかわからない。そんじゃあ、せんせいだって困るじゃんかよう、ねえ……」  森本は、せかせかと体を動かし、電話をかけたりして、まるで落ちつきがなかった。  そこへ、アオヤギとナガノさんが来た。アオヤギは着物を着ていた。 「やあ、やあ……」  それでも森本はまだ不満そうだった。その二人にはあまり話しかけなかった。  ジュニヤが弁当を届けにきた。二百五十円の弁当が十人分である。 「きょうは、なに?」  ジュニヤは、玄関から部屋のほうをのぞきこむようにした。 「野球部の納会なんだ」  なにも言わないで、ジュニヤは、目と頬で笑った。せんせいも、もの好きだねと言ったつもりなのだろう。  それでもわたしをいれて四人が机の前に坐り、そこに弁当がならぶと、宴会の感じになった。 「じゃ、そろそろ、はじめようか」  ビールとタンブラーは最初から出ていたし、火鉢の嫺《かん》もついたようだ。 「ほんとにしょうがねえやつらだな」 「まあ、いいじゃないか」 「あの二人はどうしたんだろう」森本は二人の名を言った。 「だれ?」 「ファーストとセンターですよ」  それならわかる。 「あの二人は柔道やってたんだからね」森本はアオヤギのほうを見た。「仕事が終って、柔道をやってたんだからね。すぐ来いって言ったんだけど」 「まあだ、やってたよ」 「よし」  また、隣の部屋へ電話をかけにいった。 「モリさんは、すぐにキツガルからね」  そのときは、もう盃が二杯目、三杯目になっていた。 「キツガル?」 「キツガルんですよ、モリのやつは」  森本がもどってきた。 「帰っちゃったって。だから若いやつらは駄目なんだ」 「いいじゃないか」 「あいつらのは柔道じゃないんですよ。まあ、犬っころだな。犬っころがふざけてるでしょう。あれなんですよ。柔道場ができるまえから、そうだった。道端でもなんでも取っ組みあって……」 「森本はキツガルそうじゃないか」 「だれが言ったんです」 「だれだっていいじゃないか」 「…………」 「キツガルって、なんだね」  みんな、すこし黙っていた。 「酒癖のわるいことだろう」 「わるいっていうか、なんていうか」  森本が怯《ひる》むような気配を示した。赤くなった。 「キツってなんだろう」 「酒のことをキスっていうじゃないですか」 「……ああ、わかった。キスひけキスひけキスぐれて、なんて歌があるからね。それで、キツガルか。なるほどね」  あぶらむしが来た。ラビット交通では、運転手のことを“わっぱ廻し”とよび、修理工のことを“あぶらむし”とよんでいる。 「おい、あぶらむし。こっちへ来いよ」  わたしは彼を隣に坐らせた。     2  一昨年、わたしは、スポーツ紙に野球評論を連載していた。わたしはスポーツマンではないし、とくに野球が好きなのでもなく、うまいわけでもなかった。ただ、わたしは小学校のときに野球部にはいっていた。少年野球のさかんな時代だった。そういう関係で、そのころのプロ野球をよく見ていた。沢村も、西村も、中河も、ハリスもよく知っている。それが買われたのだろう。  ちょうどそのころ、ラビット交通に野球部ができた。そのなかの一人(それがアオヤギだった)が、わたしの名を発見した。みんなが、わたしのことを、せんせいとよぶようになった。  練習や試合を見に行くようになった。顧問もしくは後援者という形になった。そのうちに、わたしのユニフォームができてしまった。わたしは、小学校のときから数えると三十年ぶりぐらいで野球をやるようになった。  わたしは外野を守っていてフライがとんでくると、声をだしてしまう。 「いけね、いけね……」  これを漢字で書くと、不可ね、不可ねとなるだろうか。そうやっているうちに、すこしずつ球に馴れてきた。感じがもどってきた。  非番の野球部員が集まるのは、わたしをいれて、ギリギリ九人であることがある。多くても十一人か十二人である。だから、試合にも出場することになる。  ラビット交通野球部の非常に有利な点は、これは会社には内緒になっているのだけれども、攻撃のチャンスで、ここぞというときに、無線で仕事中の強打者を呼びだせることである。ちいさい町だから、この町のなかで働いていさえすれば、三分以内でやってこられる。  そうやって、森本やアオヤギやナガノさんや、あぶらむしと仲良しになった。  わたしは、タクシーの運転手の仕事は重労働だと思っていた。それに違いはないのだけれど、運転手の仕事は、坐ったままの労働である。疲れるのは神経である。そういうことに気づいた。だから、何か別の運動をやったほうがいいと思うようになった。そう思うようになってから、わたしは熱心になっていった。なんだか、人命にかかわる問題でもあるように思われてきたのである。  ちょっと不思議なことは、みんな、わたしのことを、めんとむかっては、せんせいとよぶのであるが、仲間同士ではシローさんとよんでいることである。  タクシーに乗ると、そこにわたしがいるのに、 「シローさん、ただいま実車になりました。東京方面にむかいます、どうぞ」  といったふうに本社へ報告する。 「シローさんですか。気をつけて運転してください、どうぞ」  本社の無線係も、そう言う。けっして、せんせいとも、矢沢さんとも矢沢四郎さんとも言わない。そう言われるのは厭ではないのだけれど、シローというのは、なんだかキャバレーの名のような感じがする。     3  あぶらむしのあとで、ヒャクと菊人形がきた。  ヒャクというのは、農家の青年である。わたしは、この渾名《あだな》が好きではない。当人もそうであるらしく、一時、ゴジュウゴジュウといわれたことがあるが、また、ヒャクにもどった。彼のほうも、どういうものか、スパイクシューズをはかないで跣《はだし》で野球をやったりするから、ヒャクショウなどといわれるのである。  菊人形は、わたしのほうでつけた渾名である。色が白くて、細おもてで、つるっとしている。ふつう、こういう男は、枕絵の殿様という渾名になるのだが、わたしたちは菊人形と呼ぶことにした。  これで、七人になり、どうやら恰好になってきた。  十二月の半ば。ボーナス闘争が終ったら、わたしの家で納会をやろうと言っていたのである。  あぶらむしが、いちばんよく飲む。わたしは、こんなに早いピッチで酒を飲む人に出会ったことがない。ナガノさんは、終始無言で、よく飲み、よく食べる。このあたりでは、こういう人を、おおまくりゃあ(大食漢)とよぶのである。 「せんせい。さっき、あぶらむしって言ったね」 「言ったよ」 「あぶらむしは、ひでえじゃねえか」 「あんたがあぶらむしで、ほかのやつらは、わっぱ廻しさ」 「そりゃ、ひでえや」  そう言って、からんできた。青くなっていた。あぶらむしは、飲み方は早いけれど、強いほうではなかった。強いのはナガノさんだ。 「こら、あぶらむし……」森本がにらんだ。「お前は、ひっこんでろ」  隣の部屋で、わたしと森本とで賞品の相談をした。このために、講演旅行のときに貰った土産物や、パーティの記念品や、中元の頂戴物をとっておいたのである。わたしは、美術品や民芸品を身辺に置くのがきらいなのだ。最高殊勲選手は、欠席している佐々木にきまっていたが、森本は、その箱書きのある徳利と猪口《ちよこ》のセットをほしがった。そのために少し時間がかかった。八百長が行われた。もっとも、わたしは陶器の値打ちがわからないのだし、よくはたらいたのは森本なのだから、それでもよかった。 「ええ……」わたしは立ちあがった。三十秒ばかり、だまっていた。「やっぱり、挨拶はやめよう」  名をよび、賞品をわたした。 「せんせい。お願いがあるんだけんど」 「なんだい」 「来年は監督になってくれないか」 「いやだよ」 「おれ、監督はだめなんだ」森本は、つらそうに言った。「なんだかんだ言うやつがいるし、おれだと言うことをきいてくれないから」  わたしは、そのことはよくわかるように思った。どんな会社で何をやるにしても、必ず反対派があらわれるものである。 「総監督ならいいよ。ただし、背広の総監督だ」 「それじゃあ、だめだよ」  押問答が続いた。わたしは、仕事の都合で出場できないことがあるのだから、監督はひきうけられない。しかし、森本と話をしているうちに、相当に無理をしてでもゲームに参加する決心が固まっていった。 「そろそろ、歌にすべえや」  アオヤギがそう言って、自分で歌いだした。それは『サウス・オブ・ザ・ボーダー』と『テネシー・ワルツ』と『ユウ・アア・マイ・サンシャイン』だった。わたしの頭のなかに、基地で働いている少年時代の森本とアオヤギの姿が浮かんできた。  そのつぎにナガノさんが歌った。ナガノさんの歌は、どれもこれも一本調子だった。それに『真室川《まむろがわ》音頭』にしても『会津磐梯山《あいづばんだいさん》』にしても『佐渡おけさ』にしても、彼の故郷とは無関係だった。『串本《くしもと》節』も『稗搗《ひえつき》節』も同様である。  森本がストップをかけた。そうでなければ、ナガノさんはどこまでも歌い続けたろう。  森本は、仕事の話をした。仕事と野球との関係といったほうがいいかもしれない。顔色も声の調子も、いつもとは違っていた。それは、わたしにも、身におぼえのあることだった。酒を飲みすぎると、そんなふうになることがある。こんどは、わたしが、ストップをかけた。 「森本よ。わかったよ」 「…………」 「キツガルというのは、酒のキスではないよ」 「そうかね」 「キツガルは、強《きつ》がるだね。酒を飲んで、威張ったり、説教をはじめたり、喧嘩をふっかけたりすることだね」  森本は、また怯んだ顔になった。みんなが、わたしの意見に賛成した。森本が静かになったので、だいぶ、なごやかになった。あぶらむしは、とっくのむかしに寝ていた。  弁当が三人分、あまっていた。 「ナガノさん。そのお弁当を食べてくれないか。うまそうなところだけ食べればいいよ」  ナガノさんは、しかし、にやっと笑ってから、折詰の端のほうから、ていねいに規則正しく食べはじめた。     4  その翌日。用事ができて、わたしはいそいで東京へ行かなければならないことになった。  運転手は森本だった。わたしは、どうも様子がおかしいと思った。 「おい、森本。吐いてこいよ」  食欲がなくて、朝から牛乳一本飲んだだけだと言った。森本は車をとめて、ぼさっかぶ(藪《やぶ》)のところで吐いた。  それで、さっぱりしたようだった。前日は一睡もしないで飲みだしたのだから、彼を責めるわけにはいかない。 「モリさんよ。客が車に酔うということはあるが、運転手が酔っちまうなんて初めてだよ」  と、わたしは言った。「それから、あんまりキツガルもんじゃないぜ」 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]    あ と が き  去年の秋、ふたつの出版社から、ほとんど同時に、野球について書いたものを集めて書物にしないかと言ってきた。私にとっては、まったく思ってもみなかったことなので驚いた。  この話があってから、実は、私は、こういう種類の文章を本にすべきかどうかということで、さんざんに迷った。保留の期間が長く続いた。だいいち、本にするだけの分量があるかどうか、それさえ自分ではわからない。まして、それが一冊の書物として読むにたえるものになるかどうかということになると、まるきり自信がなかった。  しかし、私の考えは、だんだんに、次のように傾いていった。私の趣味というか道楽というか、とにかく、私の好きな勝負事(スポーツをふくめて)は、将棋、麻雀、野球、相撲などであるが、将棋については、自戦記が二冊、書物になっている。ところが、私のもっとも自信があるのは、野球である。だから、野球だけで一冊の書物をつくっても、それほどおかしくはないのではないか……。  そこで、一日ちがいであったのだけれど、先着順ということで、実業之日本社で書物にしていただくことにした。  たしか、戸板康二さんだったと思うけれど、新聞の「近況報告」欄に、「今年は短篇小説集を三冊こしらえてもらった」と書いておられるのを見たことがある。この、|こしらえてもらう《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という言葉が、こんどの私の書物にはピッタリとあうように思われる。  私の野球について書いた文章(それが厖大な量になっているのに驚かされた)のすべてを読み、それを分類し、整理して、つまり、読みやすい形にこしらえてくれたのは、実業之日本社の吉戒喜義さんである。「草野球の話」ではじまって「納会」で終るようにしたのも彼の工夫である。これは共著というものではないが、彼のような編集者がいなければ、こういう書物が出来なかったということがハッキリとしている。私は、これは、吉戒さんの野球に対する愛情によって成ったものだと思っている。  吉戒さんの整理したものを読みかえしてみると、こういう書物では免れがたいことなのであるが、かなり重複している部分がある。たとえば、私の野球は、黒尾重明をヌキにしては語ることができないのである。そこで、あえて、重複する部分を、そのままに残しておいた。  また、もっとも古い文章は昭和三十八年に発表したものであって、従って、私の予測の間違っている部分があるし、いまでは考えの変っている箇所もある。しかし、そんなところも、あえて正直にさらけだすことにした。  ただし、私は、この一冊で、私の野球全般に対する考え方が、かなり色濃く表明されているように思い、いまでは、一本にしてよかったと思っている。    昭和五十二年三月十五日 [#地付き]山 口  瞳    初出誌   〈本書の各篇は次の雑誌、新聞、単行本より収録・編集された〉   草野球の話      オール讀物/昭和五十年四月号   草野球必勝法      婦人画報/昭和三十八年六月号   アンチ巨人軍論      漫画讀本/昭和三十九年三月号   プロ野球舞台裏の英雄たち      漫画讀本/昭和三十九年八月号   紳士的なプレイとは      漫画讀本/昭和三十九年九月号   にわかファン      報知新聞/昭和三十九年十月一日   鍛  錬      報知新聞/昭和三十九年十月十六日   鈴 木 武      漫画讀本/昭和三十九年一月号   長島の構想      オール讀物/昭和五十年二月号   長島茂雄の顔      オール讀物/昭和四十九年九月号   王と長島はどうちがうか?      漫画讀本/昭和三十九年五月号   巨人V10ならざるの日      週刊現代/昭和四十九年十月三十一日号   ヤクルト=巨人・開幕試合観戦記      週刊文春/昭和五十一年四月十五日号   巨人=阪神・熱涙観戦日記      週刊文春/昭和五十一年十月二十一日号   野  球      別册文藝春秋/昭和四十八年六月号   卒業記念写真      小説現代/昭和五十一年五月号   人 間 の 器……『変奇館の春』   野 球 人 口……『旧友再会』   軟式野球場……『少年達よ未来は』   走者一、二塁……『ポケットの穴』   私は背番号60……『ポケットの穴』   床 屋 球 談……『銀婚式決算報告』   実力の一種……『少年達よ未来は』   草野球の日……『酒呑みの自己弁護』   プロ野球の明日……『変奇館の春』   今年のプロ野球……『天下の美女』   飯  島……『少年達よ未来は』   野 球 の 話……『隠居志願』   かくれジャイアンツ……『酒呑みの自己弁護』   三 原 魔 術……『壁に耳あり』   黒 尾 重 明……『酒呑みの自己弁護』   英 雄 の 死……『銀婚式決算報告』   長 島 茂 雄……『銀婚式決算報告』   王 貞 治……『酒呑みの自己弁護』   公園・秋・納会……『わが町』   以上新潮社刊  単行本 「草野球必勝法」は昭和五十二年五月実業之日本社刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年四月二十五日刊