山口 瞳 江分利満氏の華麗な生活 目 次  三人姉妹  サラリーマンいろは歌留多  洒落梯子  大日本酒乱之会  続・大日本酒乱之会  草野球必勝法  すみれの花咲く頃  女  好き嫌い  今年の夏 [#改ページ]  三人姉妹     ㈵ 「あらッ!」  坂本昭子がふりむいて言った。 「あら、それは違うわ」  昼休みの屋上である。球戯は禁止されているが、バドミントンならよい。  バドミントンと囲いのあるゴルフ練習場。陽《ひ》だまりには女子社員がビッチリとならんでいる。  体操の真似《まね》ごとや、深呼吸してからゆっくり駆けだしたりするのは男の社員である。  3月の終り、といっても屋上は風があるから、太陽がありがたい。ベンチが7つか8つあって、常連が占領している。バーのボックスみたいに、あたしはいつもココときめているようだ。そこでコーラとホットドッグで昼食する者もいる。 「それは、反対だと思います」 「反対?」  坂本昭子と江分利《えぶり》は、議事堂と東京タワーの見える側の金網に寄りかかっていた。ふたりならんで遠くを見ていたのが、急に昭子が江分利をふりむいたのだ。  思いつめたような表情になっていた。  江分利は冗談みたいに、君たちがうらやましいと言ったのだ。春ならば小旅行、夏になると登山と海水浴、夜のプール。秋も高原への旅。冬はスキー、スケート。げんに、昭子は2週間まえにスキーから帰ってきて、雪やけがまだ残っていた。白いきれいな肌《はだ》をしているから、雪やけはもうすぐ消えてしまうだろうが……  若い社員は、会社の厚生施設や健康保険組合の寮や指定のホテルを実に巧みに利用する。山にも海にも2百円ぐらいで泊れる設備がある。プールには割引の回数券がある。志賀高原には会社のヒュッテがある。会社からスキーバスが出る。  最近では会社が費用をだして、若い社員に自動車の免許をとらせる。宣伝車ならガソリン代ももってくれるから、それでドライブすることもできる。  もちろん、独身の男の社員と若い女の社員が、5人とか6人とかでグループをつくって一緒に旅行するのだ。そのほうが、安全だという。登山やスキーなら、むろん男がいたほうが安全だろう。しかし江分利には�安全�ということばに抵抗を感ずる何かがある。むしろ�あぶない�といわれたほうが、ピッタリくる。  36歳の江分利は、それに参加したことがない。強引に誘われることもあるが、女房と子どもを置いて旅行するという気になれない。「奥さんも坊ちゃんも連れていらっしゃいよ」といわれるが、いわば�青春�のかたまりみたいなところへ、女房、子どもと参加したときの違和感がすぐ見えてくる。それに、江分利には会社の厚生施設を利用したりすることにも、ある種の抵抗があるのだ。これは自分でも説明のしようがない。  毎年の秋の社内旅行にだけは行く。中堅社員がそれに参加するのは義務のようになっている。宴会が終ったあとのピンポン場、ダンスホールでは笑いがたえぬ。夜がふけると、チークダンスが何組もできる。それをときどきのぞきにいって適度にからかうことも、江分利には義務のように思えてくる。�あんまり、真剣になっちゃいけないぞ�  しかし、若い連中にいわせると、それもおかしいという。読みが浅いなあ、と言われる。社内旅行はだれとだれとがホンモノかを調べる絶好のチャンスだという。江分利とは逆のやり方で彼らはそれを調査するのである。  社内旅行では、必ず全員の記念撮影がある。だれとだれとが寄り添っている、だれとだれとが手をつないでいる、あの子とあの子が仲好さそうにしている、というのはむしろ陽動作戦と見るべきだという。そんなことじゃ、トテモジャナイガわからないという。  記念撮影を見て、だれとだれとだれが参加していないか、つまり欠席しているのはだれかということを調べて組み合せをつくれば、一発でわかるという。  なるほどねえ。旅支度で出る。家で疑う者はない。方向をすこしはずして、2泊して帰ればよい。年に1度の社内旅行は、むしろ欠席を予定しているカップルにとっての最大の楽しみになっているのだ。それもはじめ出席の届けをだしておいて、前日になって叔母《おば》さんの病気かなんかで取消す奴が、いちばんクサイという。さすがに当事者は江分利などよりはるかに真剣に考えているわけだ。 「反対よゥ」  坂本昭子は、自分がムキになったことに照れたように、今度は笑った。きれいになったなあ、急に肌がツヤツヤしてきた。  つい5日ほど前のことだが、江分利が手相を見てあげるというと、昭子はすなおに、両手を出した。そうして、ふざけて「私は、処女かそうでないかわかるんだよ」といったら、あわてて掌《て》をひっこめた。それを見ていた奴が、昭子はあやしいという。そんなことはない。突然、妙なことをいったからあわてただけの話だ。まあ、そうであったとしてもよい。昭子は入社して満2年、ちょうど20歳である。 「だってねえ、私たち、小学校、中学校、高等学校、ずっと共学でしょう? だから駄目なのよ」 「駄目?」 「ムードがないのよ」 「だけど私たちの時代はね、中学生、年齢でいうといまの高校生ぐらいだけどね、それでも映画を観《み》ることも、いけなかったんだよ。補導協会なんてのがあってね、掴《つか》まっちゃうんだ」 「知ってる。叔父さんに聞いたわ」  叔父さんということばに江分利はギョッとした。昭子とは16歳もちがうんだなあ。 「喫茶店にはいってもいけないんだ」 「…………」 「教練の先生が、私たちを集めてね、怒ったんだ。�近ごろは学校の帰りにフルーツへ行く奴がある�ってね。フルーツパーラーのことをフルーツっていうんだ。真っ赤になって怒っているんだ」 「いいムードじゃない?」 「デートなんて考えたこともない」 「…………」 「だいたいデートってことばはきらいでね。きらいというよりデートっていうと日付って意味のほうがぴんときちゃうなあ。私たちは媾曳《あいびき》っていったもんだよ。媾曳という字を見ただけでドキドキしたもんだ」 「すてきじゃない」 「ステキなもんかね。女の子と一緒に旅行するなんて、とんでもないことだった」 「それがいいのよ」 「いいっていったって勘当されるんだぞ」 「そこを、行くところがすてきなんだわ」 「君たちはね、しじゅうどっかへ行っているじゃないか、ドライブしたりスキーに行ったり……」 「だから駄目なのよ、馴《な》れっこになっちゃってね、感激がないのよ」 「しかし……うらやましいなあ」 「反対よ」昭子は、またさきほどの真剣な目つきにもどった。 「うらやましいのは、こっちだわ」  江分利にはわからない、昭子の気持が。昭子の年ごろの女子社員、25歳までの独身男性社員の気持がもうわからなくなっている。  昭子は有能な女子社員である。事務処理が正確で、すばやい。勤務中はムダ口をきかない。午後5時になると、机の上をさっと片づけて、帰るときに課長に「さよなら」という。「じゃ、さよなら」ともいう。課長は近ごろの女の子は変ったね、と言う。昔の女事務員は課長より先に帰るなんてことはなかった。課長の身辺の世話までした。先に帰るときも「さよなら」とはいわなかった。課長の正面にきて固く頭をさげて「お先に失礼いたします」といったものだという。昭子のようにオーバーコートをきたままで、課長の席の横をハイヒールの踵《かかと》を鳴らして通り抜けながら、にっこり笑って「じゃ、さよなら」とは言わなかったという。「変ったなあ」と嘆息する。江分利も、変ったとは思うが、そのことでは、むしろ昭子の態度を�よい�と思う。そういう昭子の態度を好ましいとさえ思う。好きだ。  江分利が昭子や昭子の年代の女子社員に関して|分らない《ヽヽヽヽ》と思うのは、もっと別のことだ。 「だってね、私たちのはね、恋愛じゃないのよ」 「恋愛じゃ、ない?」 「そうよ」 「嘘《うそ》つけ!」 「ほんとよ、ドライブや旅行やチークダンスやナイトクラブは恋愛じゃないのよ」 「そんなことはないでしょう」 「わかってないのねえ。あんなの、ツマンナイ」 「だって、そのまま社内結婚ってのが多いじゃないか? 今年は本社だけで5組は固いって部長がいってたぜ」 「3組は確実ね」 「いや、部長は仲人《なこうど》を頼まれるからね。ビーバー(部長のニックネーム)の情報はたしかだぜ」 「そうかもしれませんけれどね、結婚と恋愛はちがうのよ」 「結婚と恋愛は……」  江分利はこういう図式的な表現を好まない。昭子は何をいおうとしているのか。 「分らない人ねえ、係長さんって」  昭和37年の暮に江分利は係長に昇進した。思いがけないことであった。係長は出世コースの第1段階である場合と年功の場合とがある。36歳の係長は、どっちなのだろうか。 「係長さんねえ、私たちの結婚は計算なのよ」  咄嗟《とつさ》にはわからない。計算? 「だって、そうでしょう。高校生になると�男女交際�がはじまるのよ。男を何人も知っちゃうのよ、変な意味じゃなくてよ……。裏も表も見えちゃうの。手を握ったり、腕を組んだり、チークしたり、平気になっちゃう。私だってボーイフレンドが10人ぐらいいるわ。会社とは無関係によ。それに会社の人を加えると……」 「…………」 「わかるでしょ。私なんか駄目で、もっとスゴイことしている人いるんだから」  昭子は、あかくなった。 「だからね、自然に計算になっちゃうの。そう思いたくなくても自然に比較しちゃうのね。学校のときから、男と女は複数でつきあえって言われるでしょう。複数でなら交際してもいいっていわれるの。私、あれ、イケナイと思う」 「そういう、もんですかねえ」  昼休みは終りに近づいていた。 「ハンサムでスマートだけど、どっか頼りない人。まじめで、真剣で、ご誠実で、課長までは間違いなくいけると思うけど、近眼で、ちっちゃくてツマラナイひと。精力があり余っていて、男性的で、若いくせになんでも知っていて、会議なんかで課長さんたちを手玉にとっちゃうひと。だけど結婚したらすぐ浮気しそうな人。ねえ、係長さん、あなたなら、この3人のうちでだれをえらびます?」  昭子は急に早口になり、額にシワをつくった。愁《うれ》い顔のつもりなのだろうか。昼休みの晴れた日の屋上の若い憂愁という奴も悪くない。昭子の気持が、ぐっと近寄ってくるように感じた。すこしわかってきた。 「パッと会って、パッと好きになって、次になかなか会えない、なんてすてきだわ。係長さんの時代には、それがあったんじゃない?」  そうかもしれない。いや、そうだったんだろう。 「恋愛って、いろんな壁があって、会えなくて、燃えるもんじゃないかって気がするの」  生意気な奴だ。 「あたしたちには、壁がない……」  昭子は睨《にら》んだ。涙をためていた。 「癪《しやく》だわ。ウラヤマシイ!」  江分利は、この若い女を扱いかねていた。 「それは少し変だよ」 「変じゃないわよ。男のほうでも私たちを計算しているのよ。そんなのイヤ。嫌《いや》! 私たちね、恋愛は小説で読んだり、映画で観たりするだけしかできないの。『ロミオとジュリエット』『赤と黒』みんなそうじゃない? 『また逢う日まで』って映画あったでしょう」 「さあ、活動はきらいだから見ないけど、筋はわかるような気がする」 「私、あんなのしてみたい」 「しかし、ジュリアン・ソレルは計算もしたんだぜ」 「違います!」  昭子は�違います�を歌うように言った。 「ジュリアン・ソレルは恋をしたんです」  屋上は昭子と江分利とふたりきりになってしまった。1時20分で出口の鍵《かぎ》がしまってしまう。江分利は昭子をうながした。  江分利は昭和24年に22歳で夏子と結婚した。非常に若い結婚だから社内では�大恋愛�という評判がたっている。若い女子社員はみんなそう思いこんでいる。江分利にはどこかとっつきにくい所があるらしく、女子社員はあまり近寄らない。それが妻の夏子を熱愛しているという定説をつくっている。昭子も評判と定説を信じこんでいるひとりなのだろう。それは、それでよい。  その日の午後、江分利は昭子の言った�ジュリアン・ソレルは恋をしたんです�という言葉にひっかかってしまった。恋愛ではなく、恋といったせいだろうか。  昭子は席へ着くまでのエレベーターのなかと廊下でこんなこともいった。私たちは恋愛して結婚するまでが計算で、あとの浮気がほんとうの�恋�なんです。何故なら、そのときはじめて大きな壁ができるからだ、とも言った。そんなの汚いと言う。 「恋愛」と「恋」とはちがうのか。江分利の少年時代、青年時代には恋があったのか。江分利は昭和16年から20年までの大東亜戦争が思春期だった。「戦後」が青年期だった。陰湿な時代だったとは思わぬ。むしろ、B29の銀色の大編隊がいる空は毎日よく晴れて、底抜けに明るかった。しかし、昭子の言うように「男女交際」はなかった。  江分利は、時折、昭子の席に目をやった。昭子は出荷伝票を手早く整理し、まとまると課長の判をもらいに席を立った。江分利のほうは1度も見なかった。  男女交際ね。そういうものなのかね。     ㈼  昭和18年7月の、よく晴れた朝、江分利は沓掛《くつかけ》(今の中軽井沢)の大通りを左へはいった細い径《みち》を歩いていた。いまから20年前、江分利は16歳である。  当時の江分利家には「軽井沢」に別荘があった。土地会社の建てた規格通りの家だった。それでも洋間に中2階があり、天井は高く抜けて、山小屋ふうにはなっていた。中2階の窓から浅間山が、麓《ふもと》ちかくまでハッキリ見えた。5百円あれば別荘が持てた時代である。  窓から、別荘が点々と見える。赤い屋根の家が1軒だけあった。それがいつも気になって仕方がなかった。江分利は中学の5年生で、夏休みの宿題をかかえていた。受験勉強のための参考書をカバン一杯持ってきていた。『小野圭』の英語。『赤尾好夫』の英語。『岩切』の代数。漢文のカエリ点を消すための窓のような穴のあいたセルロイド板。  赤い屋根の家は初めてここへ来たときから気になっていた。江分利はその日、赤い屋根の家を探険しようと思いたったのである。  近道をするつもりが、かえって変な所へ出てしまった。ひきかえすのも面倒だ。いさぎよくない。方向からいえば、これでよいのだ。  藪《やぶ》の中を突っきることにした。小さな泉があったり、そこに黄色や白の花が咲いていて立ちどまったりした。  小川があった。小川といっても水量が多く流れが早かった。幅3メートル半。そこを渡らねばならぬ。大きな鯉《こい》(鮒《ふな》だったかもしれない)がゆっくりと流れて消えた。めくれるだけズボンをたくしあげた。  江分利は大声をあげた。流れは心臓も凍るかと思われるほど、冷たかった。夏だから、という頭があったのだろう。いきなり飛びこんでしまった。深かった。股《もも》のつけ根まで水がきた。江分利は向う岸の草をつかみ、勢いで渉《わた》った。鮮烈な冷たさと水勢を今も忘れぬ。  そこから、道はのぼりになった。いや、すでに道ではなくなっていた。棘《とげ》のある草を押しのけて進んだ。  崖《がけ》に出た。崖は案外、楽だった。木の根、木の枝を利用してのぼる。  崖の上は台地だった。突然、白い大きな花を見た。白い大きな花は、女だった。それが邦子《くにこ》である。邦子は小さな箒《ほうき》で庭を掃《は》いていた。  邦子がそのときどんな表情をしたか、なんと叫んだか、江分利がどう説明したか、まるで憶《おぼ》えていない。多分、道に迷いこんで、こんな所へ出てしまった、といって詫《わ》びたのだろう。邦子の家の屋根は赤かった。赤い煉瓦《れんが》の煙突もあった。  邦子の妹の由紀子にはじめて会ったのは、落葉松《からまつ》の林のなかの太い道でだった。沓掛の落葉松の道といえば、ご存じのかたはすぐ「ああ」と想い出されることだろう。道幅が広く、真っすぐに3百メートルも続いている。横道にそれることができぬ。百メートルぐらいの隔りのあるときに、降りてくる少女に江分利は気がついた。少女は知らん顔してソッポを向いて歩いてくるが、むろんこちらを意識していることがわかっていた。すれちがって江分利は口のなかでゆっくり50数えてから、ふりむいた。江分利は遠くなってちいさくみえる少女が、同時に振りかえって自分を見たのに気がついた。江分利の心臓が急に鳴りだした。江分利は駆けだしていた。  江分利が倉田家を毎日訪れるようになったのは、配給物の月当番という制度ができたためだ。倉田家とは同じ�隣組�ではない。月当番が配給物をまとめて取りにゆくために山を降りる。駅前のヨロズ屋みたいな店で、小柄で浅黒いひきしまった顔の女性に会った。キビキビしていた。彼女が配給物の受けとり方をいろいろ教えてくれた。彼女も江分利も月当番だった。江分利は彼女のコメやミソを持って山を登った。この女性の顔ならよく知っていた。ヘトヘトになって辿《たど》りついた家は赤い屋根と赤い煙突の家だった。浅黒い小柄な女性が長女の倉田八重子である。八重子がいなかったら、江分利はとうてい倉田家を訪問することなどできなかっただろう。とにかく邦子はまぶしすぎた。由紀子は別の意味で、胸にこたえた。  赤い屋根と赤い煙突の家は、戦争がはじまるまでオランダ人が住んでいたという。  倉田八重子が32歳、邦子が21歳、由紀子は江分利と同年の16歳である。八重子と邦子の間に、ただひとりの男のきょうだいがいて、これは戦争に行っていた。3人の姉妹が赤い屋根の下に住んでいた。  八重子はアメリカで室内装飾の勉強をしていた。彼女は日本の大学を出て、すぐアメリカへ渡った。独身で永住するつもりだったのだという。強制送還されたわけだ。八重子から現代音楽の話をきいた。彼女はどういうものか古典音楽《クラシツク》を認めなかった。そのことになると激しい口調になった。都市計画の話もした。室内装飾だけでなく、都市全体の装飾をしたいという。それでなくてはつまらない、という。八重子の話は、いつもスケールが大きかった。圧倒された。戦争の話と恋愛論は1度もやったことがない。いや、アメリカの対日研究の規模について洩《も》らしたことが、いっぺんだけある。  邦子は、あまりしゃべらなかった。煖炉《だんろ》のある洋間へ出てこないこともあった。姉とちがって色白だった。江分利には彼女の風貌を描写することができぬ。眼を閉じれば、彼女の顔かたちが今も歴々《ありあり》と浮ぶが、書けぬものは書けぬ。邦子は決して美人ではない。目鼻だちが整っているという意味では、美人ではない。ずるい描写だが、江分利にとって好ましい顔と肢体《したい》というほかはない。邦子は江分利にとっての�美しい人�だった。邦子は顔も身体《からだ》つきも柔らかかった。動きがやわらかい。動くたびに�女性�が優しく匂うように思われた。  邦子は、江分利の顔を見るたびに、はじめて会ったときの愕《おどろ》きを話した。あんなにびっくりしたことないという。ズボンはびしょ濡《ぬ》れで、破れていて、草の実と泥がついていたという。棘と雑草で、腕に切り傷があり、血がにじんでいたという。その話で、江分利をからかう。  江分利は邦子が庭を掃除していたことの不思議と滑稽《こつけい》で応酬する。軽井沢の別荘で、あんな小さな箒で庭を掃いてどうなるものか。翌日はすぐ落ち葉で埋まってしまうではないか。雑草がすぐ生えてくるではないか。江分利が来るようになるまで、たずねる人もなかったんじゃないか。  しかし邦子は、どうしても1日に1度は庭をはかないと気がすまないのだという。江分利にはそれがよくわからない。わからないけれど、邦子のそんな性格が、たまらなく好きだった。好きだということは、口に出してはいえなかった。  邦子とはそれ以外のことで話をした記憶がない。しかし江分利も16歳だった。江分利が寝ていて夢にみるのは邦子の顔と、邦子の�女性�だった。受験生にも寝苦しい夜が、ときどきあった。  由紀子はどうか。由紀子も受験生である。同じように『岩切』や白文帳(漢文でカエリ点のついていないもの)や、英作文・和訳・英文法が1度にわかるという旺文社の「三位一体」を持っていた。由紀子は姉たちと違って、まだ甘ったれだった。江分利にしがみついたり、膝《ひざ》のうえに乗ったりして邦子に叱《しか》られた。そうかと思うと、急に不機嫌《ふきげん》になることがあった。不機嫌が3日も続くようなこともあった。そうなると絶対に出てこない。江分利には女というものが分っていなかった。  江分利はよく倉田家の風呂にはいった。江分利が山の木を切って薪《まき》をつくることが多かったから、1番風呂にはいる権利を主張することができた。  由紀子は江分利がはいっているのを知らずに飛びこんできたことがあった。 「ひどい……」 「ひどいのは、そっちじゃないか」  湯槽《ゆぶね》のなかで言った。 「だって、知ってたんでしょう」 「知るもんか。君だってノックぐらいしたらどうなんです」 「もう明日から、家へ来ちゃ駄目よ」  由紀子は、湯槽にははいらずに、湯を浴びて身体を拭《ふ》いてすぐ出ていった。  江分利は、女のからだをそのとき初めて見た。由紀子は線が固く乳房《ちぶさ》も腰も小さかった。ショックは受けなかった。なんだ、そんなものかと思った。しかし、はいってきたのが由紀子でなく邦子だったらと思ったとき、急に胸がはげしく痛んだ。  風呂に関して変な話をつけ加えよう。そのころの軽井沢の別荘のトイレットは、へんな具合の水洗式が多かった。ふろの栓《せん》を抜くと、湯が便器の下を流れて、つまり便器の下が川のようになって汚物を遠くのカメへ流してしまう仕掛だった。清潔でよいと思うが、何か滑稽でもある。  そのせいだから、というのではない。これは別の話になるが、倉田家には女の匂いが充満していた。3人の体臭は、それぞれ違うが、3人集まると女の匂いが3乗されるように感ぜられた。女のエネルギーが感応しあうようだった。  江分利がひとりで倉田家の留守番をたのまれて、そこへ由紀子が帰ってくると「わっ、オトコくさい!」と叫んで、扉《とびら》や窓を全部あけ放ったものだ。  そのころ、江分利は「女」という題名の詩を書いた。戦災で焼失してしまったが、それは、だいたい次のようなものだった。   もし、私が女だったとして   女の乳房と   女のお尻と   女のお腹と   女の太股《ふともも》があったら   どうだろう。   それは私にとって   耐えがたい。   私が女だったら   私に女の乳房と   女の太股があったら   私は毎日   気絶してしまうだろう。   女であることは   もし私が女であったならと考えることは   私にとって   耐えがたいことなのだ。  江分利たちは、食糧不足を補うために、小川へ芹《せり》を採りに行ったり、山|牛蒡《ごぼう》を取りに行ったりした。野の草を塩で漬けて�浅間漬け�と名づけた。  浅間|葡萄《ぶどう》を採りに山へ登ったこともある。八重子は山の葡萄でジャムをつくるのがうまかった。アメリカの田舎《いなか》へ行くとジャムはみんな手製だという。あいた瓶《びん》にぶどうを詰めて蝋《ろう》づけするのである。浅間山の麓《ふもと》の台地で、午睡したりした。邦子の隣で平気でねむれることもあったのだから、江分利の邦子に対する気持は、やはり「子ども」のものだったのだろう。  ただし、江分利は別として、あとの3人が必ずしも揃《そろ》うとはかぎらない。とくに許婚者《いいなずけ》が山梨の連隊にいる邦子が、面会のために欠けることが多かった。八重子も音楽のことで東京へ帰ることがあった。室内装飾の仕事は全くなく、八重子はピアノの個人教授を少し持っていた。授業なんかいやで、作曲をやりたいといっていたが、そんな場は、なかった。由紀子も10日に1度ぐらい世田谷の自宅へ帰った。由紀子はそれを、オッパイを飲みにゆく、といっていた。  八重子が人妻であることを知ったのは7月も終りに近づいてからだった。江分利ははじめから独身だと信じこんでいたのだ。  八重子の才能ときたら、たいしたもので、この女性にできないことは何もない、と思われた。八重子はアメリカでマッサージの勉強もしていた。そういうことを教える学校があるのだという。  江分利は子どものときからの肩凝り性で、首を左右前後にまげたり、右手を高くあげて肩の骨をボキボキ鳴らしたりするのが癖になっていた。  八重子が「いいわ、揉《も》んだげる。こっちへいらっしゃい」といって、長椅子に横向きに江分利をすわらせた。  八重子のマッサージは、日本の按摩《あんま》とは少しちがっていた。八重子は腕を揉み、肩を揉んだ。次に両肩をうしろにひっぱるようにした。自然に、八重子の両膝が江分利の腰を押し、両方の乳が江分利の背中に密着するような形になった。江分利は柔らかいものが圧迫してくるという感じで、八重子から女を感じたわけではない。しかし、八重子は突如 「いけない、周ちゃんに、悪い」  といって、力を抜いた。 「ごめんなさい、これをやると困るのよ、周ちゃんにわるいのよ」  由紀子が、高木周一と八重子の結婚の話をしてくれた。八重子らしいちょっと変った結婚だった。  昭和10年に八重子はアメリカへ留学することになった。留学といっても、そのまま日本に還るつもりはなかった。永住して、勉強して独身で通すのが念願だった。  従弟《いとこ》の周一が八重子を横浜へ送りにきた。八重子が24歳、周一が18歳だった。周一は第1高等学校の2年生である。  周一は八重子が船に乗る直前に、握手して「待ってます」といった。八重子はそのことばを深く考えなかった。  昭和17年、八重子は強制送還された。横浜港には周一が迎えにきていた。送還船の乗客名簿が新聞に発表されていたのである。周一を見て、八重子は7年前のことばを思い出した。�待ってます�。周一は25歳で医学生でインターンだった。応召を目前に控えていた。  八重子は周一が6歳も年が若いことをそれほど不自然に思わなかった。まわりもそうだった。あわただしい結婚式。周一の応召。彼は軍医として、いま南方へ行っている。南方ということだけで行先は分らない。 「おかしいでしょう。八重子姉さんのすることって全部おかしいのよ。だけど、八重子姉さんがすると、ちっとも不思議じゃないのよ」  由紀子は、不思議じゃないということばを、不思議そうな顔でいった。     ㈽  昭和19年の夏の終り。  江分利はまた沓掛にきていた。希望する大学へはいることができたのに、学校へは2カ月行っただけで、やめてしまった。退学届は出していないが、もう学校へ行く気はなかった。  授業がほとんど行われず、勤労動員と援農だけがあった。それは、まだよい。そのことは許せるが、憧《あこが》れていた教師が、ゲートルを巻いてない学生をなぐることは許せなかった。それを知っている大学当局も許せなかった。そのうえ、無理に歩兵砲研究会に入会させられて、日曜日に特別教練があることは耐えがたかった。サボってムーランルージュへ行ったり、古い仏蘭西《フランス》映画を漁《あさ》ったりしたが、それも馬鹿らしくなり、父の経営する工場へ工員として勤務することになった。  江分利は模範工員だった。無遅刻、無欠勤で、深夜業も平気だった。戦争とはラディゲのいうように「精神の休暇」なのだろうか。江分利は何も考えなかった。何も考えないで旋盤に向った。  8月の末に、疎開中の祖母を見舞いに沓掛へやってきたのだ。  むろん、すぐ倉田家を訪れた。蔦《つた》はすでに紅葉して赤い屋根にのびていたが、倉田家は無人だった。樅《もみ》の木と、鳳仙花《ほうせんか》と鈴蘭《すずらん》があったが、庭は雑草が茂っていた。�もう帰ったのかな�  江分利は前年の12月の初めに、いちどだけ由紀子を見かけたことがあった。  麻布六本木の誠志堂という本屋から出てくると、手に小旗を持った女学生たちが飯倉方面から行進してくるのが見えた。東洋英和女学校の制服だった。列のなかの由紀子は口を固く結んでいた。由紀子のまわりに高原の空気がただよっているように思えたのは、江分利の感傷だろう。  それきり、倉田姉妹に会ってない。  沓掛へ来てみると、江分利はまた模範工員であることを忘れてしまった。祖母についていた女中が東京へいったん帰って、なかなか戻ってこないせいもあった。  9月になって、ふたたび邦子に会った日のことを忘れることができぬ。  由紀子と初めて会った、あの落葉松の林のなかの一本道である。今度は位置が逆である。江分利が山を降り、邦子がのぼってくるのだ。  70メートルぐらいに距離がせばまったときに、登ってくる女が邦子ではないかと思った。40メートルの所で、それを確認した。邦子は和服だった。邦子は江分利に気がつかないようだった。びっくりするだろうな。おどろかせてやろう。15メートル。邦子はまだ気がつかない。8メートル、6メートル。  江分利は邦子の変容に気がついた。邦子の頬が光っていた。眼はどこを見ているのか分らなかった。顔全体がひきつっていた。涙が喉《のど》にまで伝っていた。邦子は、ただ歩いているというだけだった。  もっと不思議なことに気がついた。邦子は跣《はだし》だった。跣で両手に下駄をぶらさげていた。沓掛の道は火山灰、火山|礫《れき》である。邦子の跣は、それをどう受けとめていたのか。  江分利は、邦子の名を呼んだ。邦子は放心のまま、ただ歩くだけだった。  町で買物をすませ、手紙をポストにいれ、いそいで家へ帰った。  倉田家には八重子がいた。  その日の朝、邦子は許婚者の戦死公報を受けとったのだ。そのまま何処《どこ》へ行ったかわからなくなった。八重子が沓掛へ追いかけてきたのだという。 「それで、邦子さんは……」  八重子は黙って、2階を指さした。 「だいじょうぶ?」  八重子は、仕方がないという仕種《しぐさ》を外人ふうに行なった。  江分利のそのときの気持は甚《はなは》だ複雑である。江分利は、悲しみのかわりに何か希望と勇気のようなものを感じたのだ。八重子だって6歳も年下の男と結婚したじゃないか。�待っていてください�と邦子に言うだけの勇気はない。言ってよい場合でもない。しかし、江分利はなぜかわからぬが、突然�もっと勉強しよう�と心に誓ったのである。     ㈿  昭和22年の秋、江分利は銀座で邦子に会った。邦子に会ったというのは間違いで近寄ってみると、それは由紀子だった。  江分利は少しよごれていた。小さな出版社にアルバイトのような形でつとめ、毎晩|花札《はなふだ》と麻雀賭博《マージヤンとばく》にふけっていた。競馬の呑み屋にも知り合いができた。鉄火場へも出入りしていた。まだ21歳なのに学問への情熱は、すっかり薄れていた。第一、自分の仕事に関係のある書物以外のものを読む気にはなれなくなっていた。職場は教育関係の小出版社であるが、そのときの江分利は教育への愛情を持っていなかった。  ことばつきも態度も、すれっからしのジャーナリストふうになっていた。卑屈になっていた。編集員がふたりだけという小さな会社。学歴と基礎学力がないという負い目。  江分利は普段のことばをつかうことによって、由紀子に今の境遇を教えようとした。軍需成金だった父は、破産よりももっとひどい状態で、まだ昔と同じ仕事をしようと考えていた。もちろん、軽井沢は手離していた。  パンセという喫茶店で、コーヒーを飲んだ。よごれていたが、競馬と、麻雀で金は持っていた。  八重子には子どもがいるという。高木周一はあれからすぐ広島の部隊へ帰ってきた。  8月6日の朝、八重子は前の晩に洗った下着を取りこもうとして縁側に顔を出したときに被爆した。ノドにすこしやけどをうけたが、別に異常はない。子どもも太って元気だという。  銀座に夕暮が迫っていた。窓の外の動きが急に増してくる。 「ねえ、踊らない?」  江分利は踊れなかった。男と女が衆人環視のなかで抱きあうことに抵抗感があった。あのカタチは哀しい。そのころ、ダンスを動詞化して、ダンセル、ダンセナイということばがはやっていた。 「踊れねえんだよ」 「いいじゃない、踊れなくたって……」 「全然、ダンセナイんだ」 「音痴なのは知ってます」  踊っている環《わ》の中心にはいってしまえば、歩いているだけでいいという。由紀子は強引にひきたてた。  有楽町のそばにできた、当時は最高級といわれたダンスホール。ダンスを見ながらお茶を飲むだけの客もあった。 「ね、ちょっと待ってて……」  由紀子はボーイにレモンティを注文して消えた。化粧室へ行ったのだろう。  ダンスはしたくもないが、夕食を断った由紀子に、ここで馬鹿な金を使えることだけが目的だった。どうせ、賭博でもうけた金だ。  江分利は、そこでまた邦子に会ったように思ったが、それはやはり由紀子だった。背中を一杯に開けた真紅《しんく》のドレス。白く光る顔。濃いルージュ。ツケ睫《まつげ》。アイシャドオ。由紀子は店では�ユカリちゃん�と呼ばれていた。  由紀子は手をひっぱって、ホールの真ん中へ一直線に進んだ。右手に薄紫の小さなハンカチを持っていた。  江分利は仕方なく由紀子の腰に手をまわした。 「邦子姉さん、元気になったわよ」 「…………」 「好きだったんでしょ」 「バカいえ!」 「知ってるわよ、私」 「…………」 「でも、駄目。結婚するの」 「それゃ、よかったね」 「負け、オ・シ・ミ」 「ぼくはね、君のほうが好きだったよ」 「嘘ばっかり」 「ホントだよ」 「嘘!」 「だって、ぼく、君の裸、見ちゃったもん」 「馬鹿!」 「君のイイトコ、見ちゃった……」 「馬鹿ねえ」 「…………」 「ねえ……もっと強く抱いて!」  踊れない江分利にできることは、強く抱いて由紀子をふりまわすことだけだ。     ㈸  昭和24年5月28日。江分利は22歳で夏子と結婚した。会社でいわれるような�大恋愛�ではない。貧しくて傷ついた同士が寄りかかった形だ。翌年、庄助が生れた。  夏子と結婚し、子どもが生れてから、すこし「人間」が変った。子どもが生れてから、大学へ戻った。  江分利がかわっただけではなく、世の中もどんどん変った。  江分利はいつのまにか、ホワイトカラーになっていた。いまでは生命保険にもはいっている。投資信託も少し買った。内職で小説を書く。  倉田家の3人姉妹にはじめて会ったときから、20年経つ。由紀子とダンスホールで別れてからでも、16年になる。  その後、3人には会ってない。高木八重子と高木周一はニューヨークにいて、毎年クリスマスカードを送ってくる。  34年の暮に江分利の母が死んで、告別式に邦子が来てくれたことを香奠《こうでん》帳で知った。気がつかなかった。40歳を越えた邦子にあえなかったことを、格別に口惜《くや》しいという気持を今はもっていない。しかし、空想のなかの喪服を着た邦子はやはり�美しい人�だった。あえなくてシアワセ。今では、そう思っている。 「あなたが好きで、ねむれない夜がありました」と笑いながら告白するには、江分利の36歳、邦子の40歳がまだ若すぎる。  由紀子はダンサー時代に知りあった銀行員と結婚して札幌《さつぽろ》にいるらしい。     �  男女交際ねえ。江分利は坂本昭子のことばと「癪《しやく》だわ」といったときの顔を思い出していた。  地下鉄を、渋谷で東横線に乗りかえる。急行のとまらない駅。ラッシュアワーの同じような疲れた顔。夕飯の支度を考える夏子。  八重子は肩を揉んでくれた。もう50歳を越えている。初老というべきか。初老だが相かわらず若々しいだろうか。  邦子には、触れたこともない。大蔵省の役人の妻。やっぱりキレイだろうなあ。江分利の胸をずっと永い間騒がせつづけた人。しかし、いまは他人だ。  江分利にはじめて�女�の裸を見せた由紀子。しがみついてきた由紀子。「強く抱いて」と迫った由紀子。若い、固い肢体《したい》。しかし、もう若くはない。江分利と同い年だ。  あれは、坂本昭子のいうように「男女交際」ではない。  しかし、あれが恋愛だろうか。邦子を思いつづけた気持は�恋�かもしれない。江分利が兵営で夢に見た女は邦子だけだった。由紀子は江分利を恋していた、という想定も成りたつ。  それもこれも、いっさんに過ぎてしまった。戦争があり、軍需成金があり、戦後があった。いろんなことがあったけど、やっぱり平和はいいよ。男女交際とドライブと旅とプールもわるくないよ。  江分利の�青春�は、こんなふうに過ぎてしまった。青春からいっぺんに、リアルな生活にはいって、それが15年以上も続いた。  あれはもう、昔の話だ。江分利も坂本昭子みたいに「じゃ、さよなら」というより、仕方がない。 [#改ページ]  サラリーマンいろは歌留多   い いのちをかけた恋じゃもの 「えらい不細工な話でして……」  長身。やさしい目。しかしよく見ると目はにごっていた。悲しい目なのである。  江分利が東西電機に入社して各課に挨拶まわりに行ったときに、細川係長はそういって名刺を差しだした。名刺は課長の名刺であり、課長の課を係に、名前のところを細川元春とボールペンで書きあらためてあった。  ちょうど名刺がきれてしまったところだったのだろう。そういう名刺を細川は7、8枚持っていた。  それにしても挨拶まわりに行って名刺をくれたのは、営業第1課係長、細川元春だけだった。同じ会社に入社したのだから、名刺をくれるというのは少し変だった。しかし、入社したばかりの江分利にとって、自分の課の人の名前と顔、他の課の課長・係長の名前と顔を覚えることは、ひとつの仕事だった。その意味で細川のやり方は有難かった。細川がそれを知っていてやったことかどうかは知らない。  3日目に、江分利が帰り支度をしていると、細川がきて肩を叩いた。  江分利は何故《なぜ》かギョッとした。いわれのないことのように思ったのである。この男は何を言いだすのか。 「江分利さん、今日はオヒマですか?」  まっすぐ家にかえるつもりだと答えた。 「そんなら、ちょっと30分ぐらい……どうですか」  細川は左|掌《て》の人差指とオヤ指で輪をつくって、クチモトへもっていって、そとへ突きだすような動作をした。  30分という話が、2時間になり、5時間になり、とうとう6時間半になった。江分利が家へ着いたときは、午前2時を過ぎていた。  細川は、会社内のいろいろなことを話してくれた。 「なんでも、わからないことがあったら訊《き》いてください」  と彼ははじめに言った。  ほんとに何でも知っていた。創業時代のこと、その苦労話。学閥のこと(学閥というほどのことはなかったが、重役の大半が同じ大学の経済学部を出ていた。細川も同様だった。学閥というより学友という感じで、友情という横の関係がむしろ気持がよかった。会長が小学校しか出ていないことも教えてくれた)。給料は安いが義理人情に厚い社風。重役間の姻戚《いんせき》関係。細川の目をつけている優秀新人。東西電機の新製品の構想。その将来性と日本の経済機構。輸出のこと。社内結婚のこと。厚生施設のこと。伝票の書き方、出張旅費規定のこと。その他、課長クラスの個人評などもあった。  バーが6軒、寿司《すし》屋とキャバレーが1軒ずつ。ただし、細川はキャバレーのビールをのぞいてはトリスのハイボールだけ飲んでいた。それでも午後11時過ぎにはよくも悪くも激越になっていた。  細川は4年前に女性問題でトラブルを起したことがあって、そのときの赤羽常務の好意と心配について語ってくれた。 「よっしゃ、まかしとき」  常務はひとりで女の始末をしてくれたのだそうだ。 「うちの赤羽常務ちゅうのはなあ、そういう人なんや」  細川は、それを新人の江分利に自慢して言った。 「そのかわり、頭があがらんようになってしもてなあ……」  彼は東西電機がいかによい会社であるか、をクドクドと言う。 「なあ、江分利さん、やろやないか、私と一緒にやろやないか。いい仕事をしようや。あんた会社を止《や》めないでくださいよ。こんないい会社はないで、ほんまに……」  彼は�いのちをかけた恋じゃもの�という歌を歌った。恋とは4年前の女性ではなく、会社に対する恋のように思われた。  細川が名物社員であることを間もなく江分利は知らされた。とにかく部下からの信任の厚いこと、他の課の若い人たちにも絶大の人気のあること、女子社員とも気軽につきあうこと、仕事熱心なこと、太っ腹で清濁あわせのむといった気概のあること、それと毎晩の酒であった。毎月1回は部下全員を自宅に呼んでカクテル・パーティを開いた。これには他の課の人も参加していた。ボーナスが全額バーの支払いになるというのも評判だった。  それから、ほぼ10年たった。不思議なことに細川はちっとも�出世�しなかった。2年前に課長補佐になって、それっきりである。たしか45歳になったはずだ。同期の社員はほとんど課長になっている。部長になったのが2人いる。  それに暴飲のせいか、年齢のせいか、仕事のし過ぎかどうか知らぬが、身体もよわっていた。1週間ぐらい続けて休むようなことがあった。  3日前に、江分利は新橋でバッタリ会って、バーへ誘った。江分利はすでに2軒|梯子《はしご》していた。細川は珍しくグチをこぼした。出世がとまった理由がわからぬという。別に出世したいという強い希望があるわけではない、課長の給料といっても15年選手だから、それほど差はない、ただし課長でないとでけん仕事もあるんやという。  ちょっと意外だった。細川は出世には無関心だと思っていたのだ。 「細川さん、元気だしてくださいよ。もう1軒行きましょう」  江分利は細川がハイボール3杯ですっかり酔っぱらっているのに気がついた。 「いや、私は帰る、キミかまわんから行きなさい」  そうはいかない。 「何をおっしゃいます。細川さん、やろうじゃないですか、いい仕事しましょうよ」  すっかり彼のお株をとった形になっていた。江分利も36歳で係長になった。10年前の細川とほぼ同じ立場である。  細川はなぜもっと出世しないのだろうか。彼のようなタイプはサラリーマンとしては不適格なのだろうか。下によくても、上役にはウケがわるいのだろうか。細川のようなやり方では、どうしても仕事に波が生ずる、ということはわかる。運・不運ということもあるだろう。仕事の性質がちがうし、営業と直接の交渉はないから彼の仕事の内容についてはわからない。  結局、もう1軒だけで細川を車で送ることになった。  車のなかで泥酔した細川は�いいのおちいをォかァけえたあ、コイィじゃもおのおォ�と低く歌った。その歌はリバイバルでまた流行していた。   ろ ロクデナシでも役に立つ  サラリーマンには特別な才能は必要ではない。いや、そういってしまえば誤解を生じやすいが、つまり才能があるかないかは誰にも判断できる問題ではなくて、どんな社員でもかならず何かの意味で役に立つ、ということである。誰にでもなんらかの意味での�才能�がある、といったほうがいいかもしれない。そんなら入社試験など必要がないじゃないかと言われそうだが、それは部長のいうように�御縁�というものだ。  宣伝部に高橋経太郎という男がいる。独身だがもう30歳に近い。人間もいいし、仕事もできる。しかし、どこかにぬけたところがある。そこがまた愛すべき点で、誰からも愛されるが、サラリーマンとしてはちょっと具合のわるい面もある。人がよすぎるのである。  彼がどういう点で役に立っているかというと、それはいろいろあるのだが、第一に有難いことは会議中の叱られ役になってくれることだ。  彼は会議中にイネムリをするのだ。午後の会議は誰だってねむい。しかし、寝られては部長も課長も困るのだ。会議は重役室に事前報告してあるから議題によっては、いつ社長・副社長がくるかわかったものではない。 「高橋クン、会議中だぜ!」  課長の声で全員のねむ気が飛ぶのである。高橋は目をさましてキョトキョトあたりを見廻し、頭をかく。みんななごやかな気分になる。そして会議がスムーズに行われるようになる。 「高橋クン、君はどうして社内日誌を提出しないのかね」  高橋の才能はもっと別のところにあるのだが、日誌をつけることなどはもっとも不得手である。しかし、みんながきちんと社内日誌をつけているわけではない。江分利はそのたびにドキンとする。課長は高橋にでなくこっちに言っているような気がする。 「それと、黒板に出先と帰社時刻を書くように言ってあるのに、ちっともキミは守らないじゃないか」  一同ハッと驚く。みんな何かの点で思い当ることがあるのだ。  高橋は叱られても平然としている。平気でいるように見える。  叱られ役は新入社員ではつとまらない。神経過敏にもつとまらない。そして叱られ役は常に必要なのである。部長も課長も高橋を愛している。高橋がいなくては困るのだ。  高橋は半年に1度ぐらい、江分利にグチをいう。 「課長のやつ、チャチャムチャに言いよるなあ」  と言って涙ぐむ。  しかし、江分利には高橋の涙は月給に含まれているような気がしてならないのだ。   は ばりばり稼《かせ》ぐタレント社員  タレント社員といっても、内職で小説を書いたり、絵を描いたりする人のことではない。  たとえば、一見地味にみえる経理部員でもよい。経理部といっても事務の能率化・機械化・合理化が進んでくると、トタンに脚光を浴びるのである。  刻苦勉励すれば忽《たちま》ち計算器、事務器に精通する。予算のたて方についても、勉強次第ですぐにベテランの域に達する。マネジメントについても同様である。  すると、どうなるか、東西電機内では出世コースがだいたいきまっている。しかし、月給4万円として、他社がいきなり経理課長として7、8万円でひきぬきにくるという可能性が生ずるのである。東西電機というタテの出世コースではなく、他社からのヨコの出世コースが考えられる時代が近づいている。日本のサラリーマンを支える忠誠心ではなく、アメリカ式のタレント主義、能力とキャリアを重んずる方式が日本のサラリーマンにも適用されるようになってくるのではないか。  江分利の属する宣伝部のような新しい職業、横の連携の方がむしろ強い仕事では、それがもっと明白である。  たとえば、広告代理業という仕事がある。脚光という点では、いま、もっとも派手な脚光を浴びている職業である。つまり、東西電機でも関係先の代理業者、その重役や社長と接しているうちに能力を買われるという可能性は非常に強い。あくまでも当人の希望と勉強次第の話であるが、これは当然考えられることだ。いまもっとも多くの関心と予算がむけられているのは、なんといってもテレビである。民放テレビの発足は昭和28年である。従って複雑なテレビ業界、テレビ技術に関しては、いまの35歳ぐらいの社員と、重役、社長とは同時に勉強を開始したことになる。重役、社長には、もっと別な各種の激務がある。  もし、かりに昭和28年に新卒で入社していきなりテレビ部門を担当し、以後10年間異動がなければ、彼は若くても業界における最大の能力者になっているはずである。これも勉強と心がけ次第ということになるが、民放開始以来の苦労人となれば、広告代理業者からヒッパリダコになるはずである。  テレビ業界ほどではないにしても、デザイナー、イラストレイター、カメラマン、コピーライターにも同様のことがいえる。現実に異動も激しいのである。これほど、横への動きのはげしい会社員は他にないはずである。たとえ、異動しなくても、講演会、企画相談などで�稼《かせ》げる�機会が多いことは想像できると思う。  これは、前に言った経理部および総務部、営業部でも同様である。サラリーマンの実態がすこしずつ動いているのだ。  タレント社員は中堅層、つまり7、8年から10年選手に多い。最近の社員は少しちがう。今年でいえば、大学卒で初任給が2万円前後というところだろう。所得の平均化、企業の系列化と安定ということもあって、給料分だけはたらけばよい、勉強なんてバカくさい、適当にやって出世コースに乗っかろう、レジャーで行こう、出世も勉強もつまらない、うまい嫁さんを見つけようといったタイプが多くなっている。乱世も苦労も知らないから、激務と勉強には忽ち音をあげるのである。少しいそがしいと「給料が安い」と吐《ぬ》かすのである。  タレント社員は、憎まれっ子になる。「憎まれっ子、世にはばかる」のである。ただし、勉強する社員、能力のある社員、ほんとうに仕事をしようとする社員は少々の行き過ぎがあっても、最近の若いサラリーマンにくらべればはるかによい。  ところで、江分利自身のことになると、どうも終生ロイヤリティーの呪縛《じゆばく》から抜けだせないような気がする。戦時中に育って、全体主義的傾向が身についているせいなのだろうか、性分なのだろうか、忠誠心をかくれミノとする不勉強なのだろうか。「一将功成って万骨枯る」という影武者に廻りたがる性癖のためだろうか。雑用と苦情処理を本分とする因果な性分にも困ったものだ。タレント社員、サラリーマンでないビジネスマンの新しい意味でのロイヤリティーの存在も分るような気がするのだが……   に 忍の一字の工夫の数々  矢島のことについて書く。矢島は江分利と同世代、販売促進課の係長である。  矢島も10年選手である。しかし、タレント社員ではない。彼は勉強家ではあるが、勉強はいつもソッポの方へいってしまう。  内攻性である。出世に関して欲がない。自分のポストをガッチリ守ろうとする。彼の仕事には落ちがない、社内での信頼を一身に集めている感がある。  しかし、自分のポストから抜け出ていこうとする欲がない。欲も別の方向へむかってゆく。キリスト教を勉強する。無常感について1年間かかって研究したりする。鶴屋南北を勉強したり、古典的経済学の書物を読んだり、講習会に行ったりする。  東西電機の始業は9時であるが、彼のタイム・レコードは 8・59, 8・53, 9・02 という具合である。駈《か》ければ間にあうというときでも駈けない。泰然自若としている。帰社時刻も、いつもきまって6時前後である。  江分利が入社した頃の矢島は、そんなふうではなかった。よく深夜まで一緒に飲んだ。バカ騒ぎをした。宣伝部チームの野球の試合にも、時折代打者を買ってでた。社宅でよくパーティを開いてくれた。江分利の冗談によく笑ってくれた。  それが、5年ぐらい前から少しずつ変っていった。結婚と子供が生れたことが影響をおよぼしたのだろうか。  販売促進課と宣伝部とでは密接な関係があり、気心も知れているし、同じ係長ということで自然に接触が多い。5年ぐらい前までは宣伝部の方針について積極的に意見を言ってくれた。江分利にはげしく怒ったりもした。  すこし考え方が違ってきたようである。といって不熱心になったというのではない。確実に事務処理を行うということに精力を費しているように思われた。東西電機が企業としての安定を得たことに関係があるのだろうか。  江分利としては、もっと暴《あば》れてくれてもよい、と思うのである。35、36歳になると定年までの自分のコースが見えてしまうのだろうか。それとも、ホントの無常感なのだろうか。  ある日、江分利は父の発明狂みたいな性癖を冗談のつもりで、帰りの電車のなかで話した。矢島に笑ってもらいたかったのである。  矢島は言った。 「俺もね、オレも少しあるんだ」  彼は、いくつかのプランを話してくれた。  ひとつは、電話による家庭教師だった。宿題でわからぬことがあったとする。数学というのか算術というのか、代数をつかえばすぐ解けても、江分利も伜《せがれ》の庄助の小学校の宿題に悩まされることがあった。それを電話で解答するのである。 「何軒かと契約を結ぶんだ。電話があるくらいだから、まあ中堅クラス以上だろう。可能性はあると思うんだよ。こっちは、電話1本で商売ができるというわけさ」  もうひとつのアイディアは、犬の健康保険である。犬が病気にかかると、注射1本でも相当な費《かか》りになることは江分利も知っていた。動物とどうも縁がなくてくわしいことは分らないが、病気になると人間よりも高価につき、特に子供のない家庭では犬の病気は費用だけでなく大変なものらしいことも聞いていた。 「毎月50円。百円でもいいや、健康保険として徴収するのさ、これはいけると思うんだがなあ。まあ、ブルジョワの多い地区がいいねえ。千代田区とか港区とか、自由ヶ丘、田園調布近辺とかさあ、それと鎌倉なんかもいいと思うね」  その日は、それですんでしまった。矢島の家は江分利と同じ社宅群のいちばん奧である。早く帰って7時頃わかれるとしても挨拶はいつも�おやすみなさい�である。  その後、矢島は江分利にあうたびに発明と企業のアイディアを話してくれた。そのことに関しては、気味がわるいほど熱心だった。  タバコの片面にある種の薬を塗布して、つまりマッチをつかわずにタバコをこすると火が点《つ》くという案もあった。タバコの箱の片側がマッチ式になっているのである。 「俺がこいつを思いついたのは、九州へ出張したとき、酔っぱらっちゃってね、帰りの汽車まであと3時間もあるのさ。そいでもって映画館へ入ったら、なんとかっていうアメリカ映画でね、名前は忘れちゃったけどさ、ジャック・レモンが煙草《たばこ》を吸おうとしていて、俺、酔ってるからうつらうつらしてたんだが、ひょっと見たらもう煙草に火がついてんのさ。それで思いついたんだ。なんかこんなの、もう出来てるって話もきいたけどさ」  つぎは両面ネクタイだった。チェックと縞《しま》とで裏表になっていて、洋服の色と柄にあわせる仕組みである。これを3本もつくれば、それで全部間にあうのではないかという。これは江分利も見たことがあるように思うが、矢島としては思いつめたアイディアであるにちがいない。ウラとオモテとが自由に変えられるネクタイなのである。  瞬間冷却器というのもあった。瞬間湯わかし器の反対である。金物の桶《おけ》にグネグネとパイプを通す。そのすきまにドライアイスをつめるのである。上からパイプに液体を注ぐと、自然に冷却されて出てくるという。  トイレット・ライブラリーと名づけられたものは、落し紙に連載小説を印刷するのである。1回に5枚使用するとして、所要時間にふさわしい分量の活字の組み方を工夫する。スポンサーをつけてもよいという。××製紙提供といったぐあい。  風呂の温度計で、一定温度に達するとベルが鳴る仕掛け。  そのつぎは、なんと名付けたらよいかわからぬが、要するに親子3人日曜日に戸を締めて外出し夜になって帰ってきたとすると、鍵をあけてなかに入るまではよいが、マックラで電気のスイッチの在処《ありか》がすぐには分らなくて困るということがあるので、スイッチの周囲に蛍光《けいこう》塗料を塗布するという案である。夜でもスイッチのある所だけポッと明るくて便利ではないかという。 「ほらさあ、お座敷へあがって料理なんか喰《く》ってるとね、相当いい料理屋さんなんかでもスイッチのあるへんが薄汚れてんのがあるだろう。あれいやな感じだよ。あれは暗い所で手探りするからいけねえんだよ。俺、そいで思いついたのさ」  ソノシートによるカレンダーという案もある。カラー写真で、壁にかけられるようにする。音を出すと、その月の行事を教えてくれるわけだ。あまった時間はムード・ミュージックでもいいし、阿波《あわ》踊りや除夜の鐘や知床岬《しれとこみさき》の霧笛の音を録音してもよいという。  全国の名産のうまいものを東京送りするエイジェンシーという案。電話をかけて長崎のカラスミ、若狭《わかさ》湾の毛ガニ、広島のカキの樽詰《たるづめ》、北海道のシシャモといったものをオーダーするのだ。地方駐在員と連絡して迅速に配達する。反対に地方のブルジョワも会員にして、山本の海苔《のり》とかタタミイワシといったものを東京から送る。なるべくなら、乾いたもの、保存のきくもの、軽いものがよい。彼がこれを思いついたのは味噌《みそ》からである。矢島は味噌好きである。なるほど東京のデパートにも全国各地の味噌が樽で置いてある。しかし、現地で食べたものと絶対に味がちがうという。値段が高くて、マズイ。たとえば直江津《なおえつ》の麹《こうじ》入りの味噌なんか東京では、どうしても手にはいらぬそうだ。 「なにしろ、流通革命の時代だからね、こんな商売もやれると思うんだ」  さらに、民放・NHKの面白い番組をテープにいれて、外国航路の船員に売るというプランもあった。落語集・スポーツ集・クイズ番組集というふうに編集する。矢島の意見によると船は揺れるからレコードでは針がとんでしまって駄目だという。そこでテープが有効になるのだ。もしこれが成功したら、主要港に出張所をつくり、留守宅の肉親の声をいれて送るのである。半年も行っちまうんだからこれによって�つれづれ�をなぐさめるのだそうだ。�お父さん、ぼく、タカシです。お父さんお元気ですか?�という調子。ただし船会社は景気がわるいんじゃないかと心配していた。  これと似た案で、古典落語をテープにとって会員に配るというアイディアもあった。矢島によれば寄席《よせ》でナマで聞くのと、ラジオ、テレビのとはずいぶん内容がちがうという。寄席ではかなりキワドイ話もするという。これをテープにいれて配れば古典落語愛好家は喜ぶはずだという。  その他、いろいろの発明と企業のアイディアをギッシリ書きこんだノートを矢島は見せてくれた。それは、会社の鍵のかかる抽出《ひきだ》しにいれてあった。図解してあるものもあった。  矢島はいつからこんなふうになったのか。発明とアイディアといっても、特許をとろうとしたり、実行したりすることはない。矢島の空想である。机上のプランである。  矢島には、サラリーマンとしての前途が見えてしまったのかもしれない。見えたと思いこんだのだろう。  満員電車とタイム・レコーダーと同じスチール机と同じ部長と同じ課長の顔。毎年の同じような昇給とゆっくりした出世コース。妻のつくる料理の種類もわかっている。  矢島は毎日、頭のなかだけで一|攫《かく》千金を夢みているのだろう。それが彼のレジャーである。無常感の研究もレジャーと差がないように思われる。   ほ 骨折損ではありません  今年の3月に、江分利はマネジメントの講習会に出席した。  東京本社・大阪支店・その他の支店、営業所、出張所から係長が集まってくる。今回は伊豆のホテルが会場だった。月曜日から金曜日までの5日間。  講習会の内容はともかくとして、札幌や福岡や、四国や山陰の社員と一緒に暮し、一緒に食べることは、わるくなかった。転勤になった大森にもそこで会えた。  クジビキできめた部屋は、大阪支店の営業3課の八木沼と同室だった。八木沼は工場に10年、事務系統に20年という古参社員である。  彼は無類の善人というように見受けられた。年齢のわりにハキハキと答え、若く見えた。講習会でも活溌《かつぱつ》に動き、よく手をあげて質問した。ただし、マネジメントという新しい学問(?)は時々、彼をとまどわせた。用語も変な訳語が多くて若い者にもわかりにくかった。アメリカ帰りという30歳をこえたばかりの講師に八木沼が手きびしくやっつけられるのを見るのは少し辛《つら》かった。幹部候補生と老いた初年兵という軍隊時代のとりあわせを思い出したりした。しかし、八木沼はちっともひるまない。元気に手をあげ、模擬会議の議長も買って出た。  江分利はイビキがひどいので、八木沼に先に寝てくれるように頼んだ。しかし八木沼はホテル暮しが面白いのか、昔の仲間に会えたのがうれしいのか、毎晩、よその部屋へ遊びに行って12時頃に帰ってきた。 「ほんとに会社はよくしてくれますね。このホテルは安くないでしょう。食事もいいし、私たちにずいぶん期待しているわけなんですねえ……ありがたい話です」 「…………」 「勉強もタメになるし、いい会社ですねえ、うちの社は。社長もこんなに気をつかっちゃ大変だ」  初日には社長と総務部長が挨拶にきたのである。  八木沼はフトンを頭までかぶると、すぐに寝た。すごいイビキだった。まあ、これはお互いさまであるが、ホテルの西洋風呂の床をビショビショに濡《ぬ》らすのには、ちょっと困った。それに八木沼は、風呂のなかの西洋便所というのが具合がわるいらしく、初日は青い顔をしていた。  木曜日の夜は、スキヤキ・パーティがあり、酔った八木沼は初めて早く部屋へ帰ってきた。 「明日は、いよいよ、お別れですね、お世話になりました」 「いや、こちらこそ、どうも」  もう八木沼と一緒に暮すことはないだろう。 「楽しかったですねえ」 「はあ。八木沼さん、まっすぐ大阪へお帰りですか」 「いや、平塚に娘がおりましてね、嫁にいってるんですが、そこへ顔を出そうと思ってます。文房具屋をやってるんですが、まあまあ、いいらしいんです」 「大阪は、そうすると……」 「ええ、3人とも娘でしてね。去年の秋でみんな嫁に行きました。平塚は2番目ですが……大阪の社宅は私と家内と2人きりです」  江分利は思いきって、きいてみた。 「八木沼さん、失礼ですが何年生れですか?」 「明治40年です」 「そうすると……」 「ええ、そうです、5月で定年です。あとちょうど2カ月です」 「…………」 「いや、心配はいらんのですよ。社宅は出なくちゃいけませんが、尾道《おのみち》が郷里でしてね、家内と2人で、まあまあ、ナントカ……」  あと2カ月の係長にマネジメントの講習なんか無意味だ、と考えてはいけない。八木沼は、あとの2カ月でそれを応用し、考え、後任に教えるだろう。それに第一、八木沼はこんなに喜んでいるのだ。 [#改ページ]  洒落梯子  終戦直後、昭和20年の秋か冬だったと思う。その頃、江分利たちは鎌倉に住んでいた。江分利は18歳で、日本舞踊を習っていた幼い妹2人が駐留軍の慰問に駆り出された。プログラムは英文でYOSHITSUNE THOUSAND CHERRY BLOSSOMなどとあった。これは「義経《よしつね》千本桜」だろう。HIGH SANDが「高砂《たかさご》」でROPE HOTELが「綱館《つなやかた》」まではなんとかわかる。そのなかでどうしてもわからないのが、ひとつあった。STRAWBERRY LIONである。どうですか、わかりますか。LIONは獅子《しし》です。ストロベリイは苺《いちご》です。「イチゴ獅子」。実になんとSTRAWBERRY LIONは「越後獅子《えちごじし》」なのであった。  東西電機にも、これと似た話が残っている。いま販売促進課長を勤めている松野が入社したばかりの頃というから、15年ぐらい昔のことになるだろう。彼が1人で宿直(宿直のことを東西電機ではトマリという。実際に会社に寝泊りしていたのだから当然のことだが、大きなビルに移って、宿直は当直に変り午後8時までで帰れるようになった現在でも、古い社員はトマリと言っている。若い社員はイノコリまたは当番と言っているようだ)していたとき、それは夏のことで浴衣《ゆかた》に着かえて正門前で涼んでいると、アメリカの兵隊がやってきて浅草へ行きたいのだが道を教えてくれという。松野はそのときどう答えたか、そして相手が諒解《りようかい》したのかどうか、まるきり憶《おぼ》えていないが、唯《ただ》一言、松野の口からtiger's pantsという言葉が発せられたのを記憶しているという。そのことから察するに、おそらく松野の英語が相手に全く通じないで、長時間スッタモンダあって、困窮の果てにtiger's pantsが飛びだしたのであろう。tiger's pantsから逆に考えて、マジメ一方の松野のことだから浅草といっても観音《かんのん》様もあり六区もあり仲見世もあり、あるいは国際劇場や吉原《よしわら》のことまで説明したのかも知れない。tiger's pantsはどうも雷門の説明に使ったものと思われる。雷は虎の皮の褌《ふんどし》をしていると、咄嗟《とつさ》に思いついたのであろう。そういう、時代があった。  洒落《しやれ》に関していえば、江分利の創作したなかの最大傑作をご紹介しよう。 「このあいだ、中学の友だちとチャンコ鍋《なべ》を食べに行ってねえ、ホラ、いつか君に紹介したことがある波多野《はたの》も一緒だ。(というふうに、相手をヒッカケルにはもっともらしく話し、しかも前説は長い方がよい)渋谷道玄坂のうえにある、エエト何とか言ったなあ、名前はちょっとド忘れしたけど、たしか現役時代に出羽湊《でわみなと》とかいったお相撲《すもう》さんのやっている店だ。ええと松風とか浜風とかいったな。(このとき相手が『うん出羽湊ね、知ってるよ、ミナトは難かしい方のミナトさ。この人は平幕優勝したことがある』なんて言えばもうしめたものだ)土鍋が出る前に焼鳥が出たんだけどね、この焼鳥の大きいのなんのって、そうだね、アマカラの串《くし》団子より少し大きいくらいなんだ。モツ焼きなんか本当に大きい。そこへ出羽湊さんが挨拶に来られてね。きっと波多野はカオなんだな。俺は親方にきいてみたんだよ。『この焼鳥は、なんですか、ほんとに鶏ですか、これは大鵬《たいほう》じゃないんですか』ってね。こっちはシャレたつもりだったんだ。そしたら出羽湊ね、大きな身体《からだ》をちょっと前へ倒してね、低い声で『いいえ、これはカシワ戸でございます』だってサ。その間《ま》のいいったらなかったねえ」  この話は全部|嘘《うそ》なのです。しかし、まあたいがいヒッカカルね。  洒落を思いついたときに、それを話す相手がないというのは全く辛いね。苦痛であります。いちばん辛いのは、誰かと酒を飲んでいて、まあ65点ぐらいの洒落ができたのに、その誰かが洒落の通じない人だったというようなケースであります。仕方がないので思い出し笑いのような顔になってしまいます。  女性はほとんど酒を飲まない。ビールを少し、などというのは、とうてい酒飲みとはいえない。女性の大部分は煙草を喫《の》まない。女性の多くは洒落を解さない。いったい、それなら女性はどうやってウサをはらすのだろうか。ウサがないのだろうか。そんなことがある筈《はず》がない。  相当に下品だが、こういう洒落を思いついたことがある。話のもっていきかたでいけば、こうなる。 「ニセ札ね、チ—37号事件ね。あの犯人がつかまったんだ。まだ発表になってないけど、犯人の自供によると、一番むずかしかったのが聖徳太子の髭《ひげ》のレタッチ(補筆修正)だったんだってさ。そこで犯人は毎日ヌードモデルをやとってデッサンしていたんだって………そのモデルがね、犯人のデッサン帳を見ておかしいと思って密告したんだって」  まあ、江分利の友人の大多数は途中で吹きだしてくれたが、実験的に、東西電機最古参で子供が3人もいる高橋洋子にこの話をしてみた。 「ホントお? 嘘でしょう。へええ。面白いわねえ。犯人はちょいとした資産家なんて説があったから、やっぱりそうなのねえ。だからモデルさんを毎日雇ったりできたのねえ。そいで、そのデッサン帳に、何が書いてあったの?」  はりあいないねえ、女は。千円札を出して聖徳太子のヒゲをよく見てごらんよ。  あるとき、突如として江分利は、東京で一番ウルサイ、一番高価な寿司屋へ行って、満員になったところをみはからって「今日はタイショウエビがよくはけたねえ」と言ってやりたいという衝動に駆られた。こうなるとヤもタテもたまらぬ、という性癖が江分利にある。もちろん、そんな寿司屋がタイショウエビを置いているはずはない。しかし、困ったことに、どうしてもそう言ってやりたいのだが、振《ふり》の客がそんなことを言ったら結果がどうなるか、わかったものではない。つまみ出されてしまう。それはイヤだ。相手は刃物をもっているから、怖《こわ》い。その程度のことを言っても叱《しか》られないようにするには、どうすればよいか。江分利は、銀座で、評判の店に狙《ねら》いをつけて日参した。馬鹿な金をつかった。不自然でないような形で職人に手|土産《みやげ》を持っていった。冗談を少しは言える雰囲気《ふんいき》をつくった。  さて、満願の日(実際そういう感じがした。日曜をはさんで8日目ぐらいだったかな、今日ならいい、と思った)。江分利はトリスバーでハイボールを3杯飲んで(酔うためとゴールデン・タイムまでの時間つぶし)寿司屋へ出かけた。丁度よいくらいの客の入りである。江分利はお銚子《ちようし》とゲソのあぶったのをもらって機会を待った。  ところが、である。そこへ派手な和服の素敵な美人が老婦人と2人づれでやってきた。これがムヤミにクルマエビ(江分利のいうタイショウエビ)を食べだしたのである。豆シボリの鉢巻した職人が妙に緊張している。よく見ると、その美人は、どうやら岡田時彦の娘で、演技をしたりプロデュースもしたりする有名女性であるらしい。江分利は映画が嫌《きら》いだから女優さんの顔をほとんど憶《おぼ》えられないのだが、江分利の商売である広告関係のことでいえば、その女優さんは焼酎《しようちゆう》の広告のモデルもしている筈だから、間違いないだろう。ここで「ううむ、今日はタイショウエビがよくはけますねえ」といったらどうなるだろう。寿司屋はお得意を1人失うかもしれない。有名女優と係長程度とでは残念ながら太刀討ちが出来ぬ。江分利の心境でいえば桃井|若狭《わかさ》之助安近のそれであった。(おのれ、エイパンの娘)刀の鯉口《こいぐち》息を詰め、という思いで待つのだが、混んでいる寿司屋で時間を潰《つぶ》すのは至難の業《わざ》である。(ああ、現金の持ちあわせの少ない男の哀れ)  江分利は半端《はんぱ》な気持で外へ出た。そんなに飲んでいないのに、悪く酔っている。だいたいタイショウエビのシャレを思いついた心理を分析するならば、やはりどうもゼニカネの劣等感に発しているように思われる。恥ずかしながら江分利は戦後でいえば父の景気のよかった時に2度ほどオドリを食ったに過ぎぬ。自分の金で食べたことは1度もない。銀座の寿司屋なら2コヅケで最低5百円はとられるだろう。とても無理である。しかし、それにつけても現代の日本のサラリーマンの給料というものは大学教授や病院勤めの医師なども含めて、不当に、そしてあまりにも安過ぎるのではなかろうか。このことは多くの人が指摘しているが、いずれ、もっとジックリと考えてみたいと思う。たとえば、給料手取り4万円(まず中堅社員)で親が1人、妻と子供2人というサラリーマンが、いかにして小遣《こづか》いを捻出《ねんしゆつ》するかというと、まず伝票の操作である。新聞社・雑誌社・放送局といった派手な会社では交通費(タクシー代)によるヤリクリなどが実際はバカにならぬ金額になって、会社の幹部もそれを黙認しているようなところがあるのではないか。これはヨクナイことだよ。非常によくない。会社に対するヤマシサ、ウシロメタサがつきまとうのではないか。つぎに、まるで親の仇《かたき》を討つみたいに、会社を敵みたいに考えて徹底搾取を行うという心理に立つサラリーマンの数もかなりあるのではないか。搾取といっても資本家が剰余価値を独占するという意味ではなく、逆に社員が会社の法規を徹底的に利用するといった意味あいである。これもよくない。非常にヨクナイ。これは微妙な問題であるが、ともかく精神的には甚《はなは》だ不健康ではないか。連帯感を損《そこな》うのではないか。江分利はどうもこんなのは面白くない。キライである。社用で飲んだり、会社の車を乗りまわしたり、しなくていい残業をしたりするのは、ヨロシクナイ。しかし、それもこれも、大根《おおね》はサラリーマンの給料が不当に安いことに原因があるのではないか。現状でいえば、サラリーマンにはカケヒキだけが残って愛社精神といった気持が芽ばえる余地がないのではないか。百円亭主という言葉があるが、言葉だけがあるのであって実態はない。銀座とか有楽町とか、丸の内とかサラリーマンが昼食をとる店で、まあこれならという味で、量も多いといったカレーライスで百円以下というのがあったらお目にかかりたいものだ。そのうえ、みんな煙草を喫《の》むのである。バー通いをするのである。コーヒーを飲み、映画を見て、週刊誌を買うのである。これらは全《すべ》てつつましくミミッチイ楽しみであるが、いったいこの金をどうやって捻出しているのかと思うと、|いやああな《ヽヽヽヽヽ》気になるじゃないか。実際は2百円でも無理で、最低のカツカツが3百円というところでしょう。日本のサラリーマンはオドリの味を知らずに一生を終るのではないか。折角、日本に生れて、これはひどく不幸なことではないか。何かが間違っていはしないか。ユユシキ問題であるのではないか。冗談言っちゃいけないよ、日本のサラリーマンはもっとヤレルヨ。江分利は主義として滅多なことに伝票を書かない。残業代を請求しない。そもそも人間の仕事を時間で計算するというのは侮辱ではないか。(馬鹿だねえ、お前は)それならば、どうやって高級寿司店に洒落を言いたいばっかりに8日間も通ったかというと、要するにバカな金を費《つか》ったのです。破滅的・衝動的なのです。必死の思いなのです。(馬鹿だねェえ)人間、やる気になれば相当なところまでいけます。(余談ながらオドリという奴は江分利は本当をいうと好きではない。そんなにウマイと思わない。ゲソあぶった奴の方がずっとうまい。まして銀座まで出てきて赤く蒸したクルマエビを食べる神経は諒解できぬ。これも余談だが「トロに始まってトロに終る」なんていうのも邪道ではないか。トロばかり大騒ぎしてマグロのマグロらしい味を知らないのもどうか。「トロに始まって……」という奴に限って「私は光りものは駄目でして」などという。体質的に食べられない人は別として、寿司屋でコハダ、サバ、アジを食べないくらいなら、ハンバーグ・ステーキでも召しあがった方がおためですよ、と言いたくなる。はじめに玉子焼きなんかオーダーするのも通ぶっているのかもしれないが、ムチャだね。ウニを握ってもらうなんかも論外です。ノリを巻いたりしてね。このテのものにイクラもあり、最近ではカズノコもキャビアもあり、話を聞いただけで吹き出しちゃうね。うまいものをわざわざマズクする必要がどこにあるのか。高級ウイスキーを水で割るのと同じ神経です。ちかごろの鉄火巻の流行はどうだろう。江分利が育った環境でいえば、鉄火巻なんぞはたとえメニューにあったとしても寿司と認めていなかった、というふうに記憶している。これはもっと年輩の方に聞いてみたいと思うが、鉄火巻というのは、江分利の感覚でいえば、八百屋が何かの都合で片|隅《すみ》で煙草を売っているというのに等しい。コーヒー専門店がメニューにジュースものせているというのに等しい。但《ただ》し鉄火巻それ自身はそんなにまずいものではない。しかし、専門家はどう考えているか聞いたこともないが、鉄火巻は刺身や握りにできない半端なマグロの廃物利用というのが本筋ではないのか。だから、寿司屋へ行ってノッケに鉄火巻をオーダーするのは、大変失礼なことになるのではないか。江分利は貧乏に貧乏に、生れてから質屋と縁が切れた期間を知らないという環境に育ったが、鉄火巻は下賤《げせん》なものと固く信じてきた。下賤なものがマズイ、あるいは食べてはいけないもの、というのではない。ヘタな焼鳥より豚モツの煮込みの方がウマイのと同じ道理である。一流寿司店で鉄火巻を食べるときは、いろいろつまんだけど、この辺で趣向を変えて、すまないけど鉄火巻をくださいという面持ちでオーダーすべきものではないか。それ以下のラーメン屋的感覚の寿司屋でも、おじさん、マグロが食いたいんだけど、あいにくお銭《あし》が足りないんで、わるいけど鉄火巻を1人前、という顔付で頼むべきではないか。銀座で店張ってる寿司屋で、若いけどいかにも金廻りのよさそうなテレビ・タレントや新進作家みたいのが「にいさん、鉄火巻いてよ、手巻きでね……」なんかやってるのを見ると、それこそ頭へ来ちゃうね。つまり、頭へきてるのでうまい譬《たと》えが思い浮ばないが、肉屋なら肉屋で、かりに銀座の和田金としましょうか。和田金へ行って派手なオーバー着て「よう若い衆、コマギレ4百グラム包んでくれよ。急いでくれよ、金はいくらでもあらあ」なんか叫んでるのを見たら、恥ずかしいじゃないか、こっちが。ウイスキー通でいうなら、ストレートでやってきたが、もっと飲みたいのでこのへんで1杯だけマンハッタンをつくってくださいという、あの顔で頼みなさいよ。ことわっておくが決してコマギレを軽蔑《けいべつ》しているわけではない。近所の御|惣菜《そうざい》屋的肉屋なら、えばってコマギレをオーダーしていいわけです。それがエチケットというべきものではあるまいか。それが鉄火巻から1歩進めてカッパ巻の馬鹿景気となると、江分利としては、もう泣くより仕方がない。君達は何故、寿司屋へ行ってカッパ巻を食べるのかね。理窟《りくつ》を言ったって仕方がない。寿司屋へ行ったらね、ノリ巻を食べなさいよ。ノリ巻を、と言ったら普通の神経の職人ならニッコリ笑うはずです。そういうものです、寿司屋の職人は。ところが、更に泣くべきは、ちか頃の職人はノリ巻と言うと「へい、何を巻きましょうか」なんか言うね。馬鹿野郎、といいたいところだが、まあ仕方がない、まさか乾瓢《かんぴよう》とも言いにくいので「春夏優勝作新学院」とか「日光のソバでできるヤツ」とか「春日野《かすがの》部屋が好きでしてね、栃《とち》のつくのにしてください」とかさまざまにごまかすね。いいたかないが、ノリ巻は乾瓢を巻くものじゃないのかね。しからば、江分利は寿司屋へ行って何を食べるか。もちろん、鉄火巻やカッパ巻も食べるけど、非常に非常に恥ずかしそうに頼むね。下賤だがウマイからである。しかしまず最初はその季節のヒカリモノを頼む。以心伝心、職人は嬉しそうにするね。それが寿司屋のいいところじゃないかなあ。マグロも食べます。トロも銭勘定しながら食べます。ヤスケなんて言葉つかいたくないけれど、説明の都合でいうのですが、ヤスケでない何かを先方に相談して頼みます。それはアワビのワタであったり、ヒラメのエンガワであったりします。そして、ひとつは先方まかせの、うまいけれど売れ残りそうな何かを握ってもらう。たとえばミル貝なんか、うまいはずなのに案外売れ残ったりするらしいからね。腹が空《す》いていれば素巻《すまき》を貰《もら》うね。それで帰ります。これは全く自己流でやっているのだから、法にかなっているかどうか知らないが、どんな寿司屋へ行っても不当にボラれたという憶《おぼ》えがないから、まあ、これでいいのでしょう。と、信ずるより仕方がない。これも余談で、全くクドイようですが、鉄火巻を下賤な食物といったのは、ソモソモ鉄火の名称は鉄火場から来ているのではないかと想像されるからです。これも老人に聞いてみたいところですが、鉄火巻は栄養があって、ひとくちで食べられ、よそ見しながらでも食べられ、ノリで巻いてあるから指先がベトつかないで札《ふだ》を汚さないですむし、賭場《とば》の夜食にはもってこいだと思われます。また鉄火巻の流行は東京に東京以外の人間が多く入ってきたためであるとも考えられます。特に関西人が東京でウマイものを食べようとしたら、まずマグロでしょう。そして合理的で楽天的で、保守的でない関西人は鉄火巻を好む、というように考えられます。江分利のような東京生れは、まず職人にわるいという考えがさきにたちます。関西人はそうでないように思われます。またまた脱線しますが、太平洋をヨットで横断した堀江謙一さんが大阪人であることはもっと注目してよいことだと思います。合理的、楽天的、発展的の勝利であります。メソメソした東京人、衝動的で無計画な江戸っ子には、あのマネはできません。また寿司にもどります。ある寿司屋の職人が戦争にひっぱられて、ニューギニアの山中にこもっていたときに、もし俺に神様がいま寿司を食べさせてくれるとして、かりにそれが握り2コだけという話になったら、何と何を食べようか、と考えたそうです。彼は考えた末にトロとコハダを選びました。さらに、もし1コだけだとしたらどっちを残すか、と考えました。彼は結局、コハダを残したそうです。1コならコハダだ。これはとてもいい話だと思うのですが、どうでしょうか)  さて、江分利は多少むかっ腹で、中途半端な気持で寿司屋を出た。しかし、江分利にとっての若干の慰めは、寿司屋にいる間に別のツマラナイ洒落を思いついたことだった。その洒落は、ホステスのいるバーでなくてはいけない。しかもトンちゃんとかブルー・リボンとかジョン・ベッグとか、江分利のいきつけのバーであってはならない。なぜなら、江分利の冗談にテキは馴《な》れっこになっているからだ。品のいいマダムのいる、ひっそりした店がいい。すると、さしずめクールかな。あのマダムは全くホステスばなれがしているからな。クールの2階は、昔の東京郊外のプチブルの応接間といった感じである。和服のほっそりしたマダムが音もなくあがってくる。無言である。無言であるが、いい感じである。 「なんに致しましょう」なんかいわない。ダマッてハタとこちらに目をむける。「どうも胃の調子がわるくてね、こういうときはかえってストレートの方がいいかな」などというと「あら、胃ですか。あなた懐炉をなさいませ」とくる。カイロとくるから驚くね。「あたし、いまやってるんですのよ、分らないでしょう」といって無地の綴《つづれ》の帯をポンと叩《たた》く。「まあ、今日はこれ飲みなさい」と、胃腸薬をすぐだしてくれる。こういう女性は妙なもので、必ずこちらの要求する�何か�を心得ている。千里眼のようなもので、全く不思議というほかはない。こちらの話をちゃんと聞いてくれる。いい気持にしてくれる。(また余談ですが、バーの女性と親しくしようと思ったら、胃の話をするにかぎる。夏は冷房で冬の如く、冬は暖房で夏の如く、二の腕あらわにした夜会服めいた衣裳《いしよう》が多いから冷えるだろうし、夜昼逆で、神経はつかうし、そこへ酒がはいるから、3年勤めたら、まず胃をやられるにきまっている。胃の話をすればグッと親密度が増すというものだ。内科の医者と飲みにいったら、すっかりさらわれてしまうから損デス)  その日のクールのマダムは白っぽい和服である。自分では化繊ですというが嘘《うそ》にきまっている。オシボリ持った黒のワンピースを従えてしずしずとあがってきた。  オン・ザ・ロックスをダブルで……クールは例によってヒタと江分利に目を注いだまま無言である。江分利の思いついた洒落は|バレ《ヽヽ》がかかっているから、マクラを振る必要がある。 「東西電機に勤めているとね、関西人が多いでしょう。トテモ変なふうになることがありますよ、たとえば……」  飲む。 「たとえば、私、胃がわるいでしょう。始終吐き気があるんだ。もっともウイスキーを2杯飲むとなおるけどね。ウイスキーを2杯飲んだあとの2、3時間だけが私の人生という気がしてるんですよ」 「まあ、へんですね」 「たとえば、課長が江分利君からだの調子どう? なんて訊《き》くでしょう。こっちはよくないですねえと答えるよ。すると、むこうは、いいですか、と重ねてくる。『よくないんです』心配そうな顔で『いいでしょう?』とくる。『いいえ、わるいんです』『ですからね、いいでしょう』『ダメなんです、吐き気がして』『いいですね』『朝がいちばん駄目でしてね、朝は必ず吐きます』『いいじゃないですか』『おもてへ出て、もう1回。もっとも、この時は胃液だけですが』『それはいいですね』こっちは腹が立ってくるんだ」 「…………」 「まあ、途中で気がつくけどね。|いい《ヽヽ》が悪いという言い方があるんだなあ。胃のことをイイと発音するでしょう」  クールは眼だけで笑う。30秒くらいたってから黒のワンピースがけたたましく笑う。空虚である。江分利はクールにタイショウエビの一件を話した。クールは小声で「まあヒドイ」とか「わるいクセね」というだけで真意は掴《つか》みにくい。江分利はもうヒドク酔ってしまって、思いついた洒落がツマラナイものに思えてきたが、いわなければいわないで心残りがしそうだった。 「あのね、あなたみたいな銀座のホステスのことを夜の蝶《ちよう》っていうでしょう」 「…………」 「きみなんか、黒いものを着てるから黒い蝶だね」 「…………」 「それでね、もうすんでしまったホステスのことを何ていうか知ってるかね」 「スンダ?」 「そう、幼虫から蝶になるでしょう、キミみたいに……」 「…………」 「…………」 「ミズアゲハ」 「え?」 「ミズ揚羽蝶。キミなんか黒いからクロミズアゲハ」  どうも通じなかったらしい。それから瓶《びん》ごと2階へ運んでもらってストレートをがぶがぶ飲みだした。ひどくダルイ。身体《からだ》がふらふらしてくる。感情がたかぶってくる。ちょっとしたことで、泣いたり笑ったり怒ったりしそうな状態になっている。そのうち、さきほどの高級寿司店で侮辱を受けたようなサッカクが生じてくる。寿司屋にも、そこへ来た客にもなんの関係もない筈《はず》なのに、恥ずかしめをうけたような気になる。己《おの》れ自身にも腹が立ってくる。バカバカしい。馬鹿じゃないか。それは分っているのだが、何かおさまりがつかないような気分である。ヒドイことをいって相手も傷つき自分も苛《いじ》めたいような気分になってくる。  江分利は寿司屋へひきかえした。 「おや、おかえんなさい」  11時半。客が6人か7人。 「ワラサの弟、オツマミで……それとお銚子《ちようし》」 「へえ、イナダ一丁、弥助《やすけ》でなく。お酒、ヨロズ!」  職人はあまりいい顔をしていない。それが声の調子でわかる。わかるから江分利も不機嫌《ふきげん》になる。 「だいたい、寿司屋なんてのがね、夜中の12時とか1時まで営業するのは間違ってやしないかね。キミたち生きものを扱ってるんだろう」 「だいぶ召しあがりましたね」 「そうでもないよ。だいたい日曜を休むなんてケシカランじゃないか」 「魚《うお》河岸《がし》がそうなったもんですからね、自然に……」 「それがいけないよ。寿司屋なんてのは年中無休でありたいね」 「あたしも、そうありたいんですが……」  そこへお銚子がくる。山葵《わさび》とイナダ。 「寿司屋の職人って奴はね、気にいらない客は追いかえすもんだよ。それだけの権威ってものがあって当り前じゃないか。そっちは刃物持ってて怖いから逃げるけどね」 「…………」 「山葵をすくなくしてくれっていってドナラれたことがあるよ。ウチの寿司は山葵で殺すようなイキの悪いタネをつかってるんじゃねえや、という意味かね。よく分らないが、その位の心意気がウレシイネ」 「時世《ときよ》時節でございましてね」職人は土産《みやげ》の9寸の折に海苔巻《のりまき》のいろいろを詰めている。カッパ、ヒモキュウ、タクワンにナラヅケにタマゴ。「ま、仕方ないですね」 「日曜の朝、銀座を歩く。女房子供連れてね。ガランとして人通りが少ない。トラックが通る。裏通りなんかヒトッコ1人いない。風が吹いている。落葉が音を立てて飛ぶ。シインとしている。喫茶店でコーヒーを飲む。|きゅうぺる《ヽヽヽヽヽ》なんて店があってね、コーヒーを頼むと塩煎餅《しおせんべい》がついてきたよ、小さくて暗くて静かな店でね、入口のところでキャラメルやハナカミや雑貨なんか売ってるんだ。いかにも新橋・銀座の花柳界のなかの店という感じだね。半玉《はんぎよく》がお煎餅たべに入ってくる。塩煎餅で煎茶《せんちや》のんでる。静かにね。半玉の口のなかでセンベイがコリコリ鳴ってるのが聞えるんだ」 「…………」 「それから魚河岸へ行くね。スモッグなんかなかった。はんぺんとか目刺《めざし》を買うね。それから寿司屋へはいる。魚河岸の寿司屋は暗いうちにはじめて夕方の8時には仕舞《しま》っちまうんだ。イキのいいものを早く喰《く》わせるというのなら、これが当り前じゃないのか。それはいいとして日曜に寿司屋が休みというのは絶対にイカンね。女房子供といつ寿司を喰ったらいいのかね」 「ごもっともです」  そこへバーの女らしいのが3人、男が2人、入ってくる。 「らっしゃい」  江分利はお銚子は2本目だが、イナダには手をつけていない。山葵が小山のように大きく見える。  悪意ではなくカラカイと冗談なのだが、意地の悪いような冗談を思いついてしまう。(この冗談は少しトガリすぎているかな)これをいったら、どうなるだろう、どう反応するだろう、と思うと、もういわずにはすまなくなってくる。(悪いクセだなあ)言わなくてもいい、言わないほうがいいことを、言わずにいられなくなってくる。新規の客の注文が終って、ザワザワが静まったときに、江分利はとうとう、それをいってしまったのである。  低いけれど、店の者にも客にも聞えるような声で 「このコナワサビ、ほんとによく出来ているなあ」  この瞬間の光景をお目にかけたかったね。まるで時間が停止してしまったようであった。職人はポカンと口をあけたままである。  客も手と箸《はし》をとめた。客も、この高級寿司屋の常連であることに誇りを持っていたのだろう。それが、時間の停止と静寂が、江分利のカンにさわった。(何が高級寿司屋だ。客だって社用族ばかりではないか)江分利は追い討ちをかけた。 「カン詰めのコナワサビも進歩したね。ホンモノそっくりだね。こうなると芸術品だね」  年とった職人がゆっくりと動き、ゆっくりと出てきて江分利の胸倉をつかまえた。あとはよく憶えていない。江分利はそこで殴《なぐ》りあいをしたらしい。  江分利は洒落をいいたいために梯子酒をするという癖がある。たいがいの洒落は、そのバーのバーテン、そこの女性にしか通じない個人的なことが多いから紹介できないのが残念であるが……くだらない馬鹿々々しいシャレであるが、思いつくとすぐにいわずにはいられなくなる。洒落だと江分利が思っていても、実際は酒飲みのカラミなのだろうか。  いったいこれは、どういう神経なのでしょう。 [#改ページ]  大日本酒乱之会  酒乱と酒乱が喧嘩《けんか》した。  酒乱が酒乱を殴った。殴った酒乱は柔道6段である。しかし殴られた酒乱は殴られた瞬間に相手の耳朶《みみたぶ》を喰いちぎっていた。  殴った方の酒乱が言った。「アイツはやっぱり酒乱だ!」  世の中に酒乱がいなかったらどうなるか。たとえば、飯岡助五郎と笹川繁蔵《ささがわのしげぞう》が利根川《とねがわ》べりで10年間争った�天保水滸伝《てんぽうすいこでん》�において平手|造酒《みき》(本名平田|深喜《みき》)という存在がなかったらどうなるか。平手造酒は、飯岡方の殴り込みで斬《き》られて死んだ。笹川方で殺されたのはこの男だけである。従って平手造酒の剣術使いとしての腕前はどの程度だったか、ほんとに強かったかどうかという点には疑問が残っている。しかし、彼が酒乱であったことは、ほぼ間違いなさそうだ。浪曲でいうと「酒が酒よぶ一杯|機嫌《きげん》」でケンカばかりしていた。「酒毒が廻って吐血」という状態になり、最後には、天保12年8月6日、二十三夜の月を見ながら「吐血に似たる咽《むせ》び泣き」という恰好《かつこう》で死ぬのである。息をひきとる直前に「みんな陽気に一杯やってくれ」と言ったという。それが遺言だった。この人は酒乱だったが、この人がいなければ芝居にも浪曲にもならぬのである。  忠臣蔵というよりも義士外伝といった方が正確だろうが、ご存じの中山|安兵衛《やすべえ》という人がいなかったらどうなるか。中山安兵衛は喧嘩はしないのである。むしろ、喧嘩の仲裁が彼の本業である。喧嘩をまるくおさめて両者から酒をふるまってもらったのである。従って彼はタダ酒ばかり飲んでいた。こういうタイプの酒乱は今でもずいぶん多勢いる。出版記念会の流れなどにナントナクぞろぞろっと出るカタマリの後へついてくる。彼は2次会、3次会にも顔を出す。最後まで飲んでいる。このタイプの人間を笑うことはできぬ。なぜなら彼は、終始控え目に、酒を殺して飲まねばならぬ。やたらにオツマミを食べたりすることは許されない。辛《つら》い人生である。彼が辛抱するのは、酒に対する純粋な「愛」以外のものではない。ナントナク酒席にいるという術は、すでにして「芸」の域に達している。  義士外伝には赤垣《あかがき》源蔵という男がいる。神崎《かんざき》与五郎がいる。前原伊助がいる。そして忠臣蔵でいえば七段目の大星|由良之助《ゆらのすけ》の酔態を忘れることができぬ。酒乱がいなければ、この世にロマンが成立しないのである。  江分利満は酒乱である。酒乱といわれても仕方のないほど、毎晩飲み、大酒を飲み、喧嘩をする。タンカをきる。酒のうえの失敗は数かぎりがない。  伜《せがれ》庄助は中学の入学試験の面接を終って帰ってきて、蒼《あお》くなって言った。 「パパ、ぼく大失敗しちゃった」 「…………」 「面接でね、先生に、あなたのお父さんは毎日何時頃に帰ってきますかって訊《き》かれたんだよ。ぼくね、ハイ、わたくしの父は朝の5時頃帰ってきますって答えたんだ。そしたらみんなが笑いだしたんだよ。だからぼく、ときどき3時頃に帰ることもありますって言ったら、もっと笑うんだよ。ぼく、もう駄目だ」  江分利は酒乱を愛している。「酒を飲まなければイイヒト」という言葉がある。現今のように|いいひと《ヽヽヽヽ》の少なくなった時代に、酒乱の存在はまことに貴重といわねばならぬ。たとえ「酒を飲めば虎狼《とらおおかみ》」であっても。  酒席でトラブルが起る。この席に酒乱で通っている男がいたとすると、全部この男の責任にされてしまう。珍しくニコヤカに飲んでいたとしてもアイツがいたからあんなことになってしまったといわれる。翌日、酒乱の上役が詫《わ》びに来たりする。「どうもあの男にも困ったもので……」菓子折かピース10コ入りを置いていく。江分利が、いえ違います。彼は珍しく静かに飲んでました。彼はイイヒトです、昨晩悪かったのは、むしろ……といってもテンから受けつけてくれない。実は上役はそのことを承知のうえで詫びにきているのである。会社の責任をその男1人におっかぶせて、ケガニンを少なくしようとしているのだ。「ご存じのように酒乱でして、貴方《あなた》がお怒りになったのもゴモットモです。これはツマラナイものですが……」「この野郎! 俺は中山安兵衛じゃないぞ!」  江分利は何故酒を飲むか。  江分利は大正15年生れである。従って昭和の年数と数え歳《どし》が合致する。現在、数え歳の38歳、満年齢の36歳である。大東亜戦争は昭和16年にはじまって20年で終る。そのあとに「戦後」が続く。数え歳の16歳から20歳までが「戦争」だった。満年齢の15歳から18歳10カ月が「戦争」だった。25歳ぐらいまでが「戦後」だった。  だから、だから大酒を飲む、といっただけでわかってくれる人が何人かいると思う。江分利はまず酒乱としか交際しない。  酒乱は大正10年生れから昭和4年生れぐらいのヤツに圧倒的に多い。昭和5年、6年生れとなってくると、ちょっと違ってくる。酒の飲み方が小意気になってくる。少しちがう。  もちろん、江分利が大酒を飲む原因の説明として、これだけでは不充分である。大正15年生れを中心として考えて、そのまえ5年、そのあと3年、という年齢層には、なにか「失われたもの」を取りかえそうというアセリみたいなものがある。アセリが酒に向わせるといえないか。実際は「失われたもの」なんか無いのかもしれない。しかし、どうもみんなそう考えている気味がある。「青春」というものは、そんなに豊かなものではないのかもしれないのに。  青春とは何か。  ギラギラ。ネトネト。絢爛《けんらん》。清純。蒼空《あおぞら》の雲の如きもの。愛。爽《さわ》やかな空気。深呼吸。爆発。理想。理想のための忍耐。忍耐の美しさ。スタート台の緊張。猪突《ちよとつ》。濃い精液。学問。憧《あこが》れ。伸び伸びした気持。乳房《ちぶさ》。決意。女の股《また》。股の奥にあるわけのわからないもの。気持のよい朝。胸をぎゅっとしめつける|何か《ヽヽ》。額への接吻。音楽と音楽会。雑木林と雑木林のなかの散歩。ケティとカール・ハインツ。筋肉。力泳。沢歩き。女学生の黒い木綿の靴下。女学生のナカ指の爪にしみこんだ青インク。3Hの鉛筆。朝|靄《もや》。快い憂鬱《ゆううつ》。ぬらぬらしたもの。人間。人間の神秘。ホワイ・ナット? すべすべした肌《はだ》。遠い笑い声。土の感触。土の匂い。悠久《ゆうきゆう》。悠久と星。しょっぱい風。歌。林のなかの明るさ。冷えた地べた。小さい花。前髪を揺する風。蕁麻《いらくさ》。大木の幹。君の眼きれいだね。白眼が青いね。桃色のスウェーター。山奥の教師。  青春とは何か。  分らぬ。  江分利の生きた思春期と大東亜戦争はピッタリはりついている。そのことで江分利は損をしたか得をしたか。江分利の失ったものは何か。得たものは何か。B29のいる澄んだ空か。銀色の編隊か。  失われたもの、とは何か。ダス・ギプト・ヌル・アインマール。鋳掛《いか》けの松。  青春が無かったともいえぬ。しかし、みんな「青春」を変なふうに生きちゃったという気持をいだいている。半端《はんぱ》な気持。  失われたもの? いったい何を失ったのか。駄目な奴は、どんな時代に生きてもダメだったのさ。全部を戦争のせいにするのはイヤだ。そんな馬鹿な話ってあるものじゃない。そんなことは「平和屋さん」にまかせておけばよい。平和書房発行の『平和』という雑誌の編集者にまかせておけばよい。しかし(ちょっと女々《めめ》しくなるが許してください)江分利をふくめて江分利に近い年齢層の者は「何かを失った」あるいはなにかを半端に生きてきてしまったという気持をぬぐい去ることができぬ。しかし、このことは恥ずかしいからこのへんでやめておく。  まだ、ある。そのほかに、まだある。江分利は戦争に対するある種の|うしろめたさ《ヽヽヽヽヽヽ》を拭《ぬぐ》い去ることができぬ。江分利は子供だった。子供だったから許せるというものではない。江分利家は軍需成金だった時期がある。それが戦争と無関係ではないことを江分利はウスボンヤリと知っていた。大東亜戦争というものが何か胡散《うさん》臭いものであることに気がついていた。すくなくとも「皇軍必勝」には変な匂いがしていることに気づいていた。アカと呼ばれている人たちの書いたものに確乎《かつこ》たるものがあることを、身体《からだ》で知っていたように思う。  江分利の周囲の人間がバタバタと出て行った。大工の長男、大工の次男。長唄のカボソイお師匠さんがポマードをコッテリつけていた頭を坊主刈りにして挨拶して出て行ったまま帰らなかった。魚屋の伜《せがれ》。薬屋の伜。友人の兄たち。小学校の教師。みんな出て行った。  江分利は自分も立派に死にたいと思った。かなわぬまでも「鬼畜米英」に一|矢《し》むくいたいと思った。その気持にウソイツワリがあるものか。敵の1台の戦車を1人で叩《たた》きのめしてやろうと思っていた。教練の成績なんかどうでもよい。幹候の試験などどうでもよい。敵方の3人か4人を叩っ殺して死にたいとねがった。戦争を胡散臭いと思った気持にもウソはない。撃ちてし止まむ、にも嘘《うそ》はない。己《おの》れの拙《つたな》い運命である。  だから、すんでしまった戦争へのうしろめたさ、戦犯としての江分利の気持が「酒」にむかってゆくのだ、といってしまえば、何だかそれもウソ臭くなってしまう。そうではない。それだけではない。しかし「拙い運命」が終生つきまとうだろうことは、まず間違いないだろう。拙い運命と「酒」とが全く無関係だと言ってしまえば、これもウソになるだろう。どうもこのへんはむずかしい。恥ずかしくなってくる。ただし「失われたもの」と「拙い運命」はひどく疲れさせる。疲労が酒を呼ぶのである。  何故飲むか、はまだある。  江分利は低血圧である。下が45、上が89、といった線である。低血圧症状とはいかなるものか。朝がダルイ。無気力である。虚脱感が伴う。しかし、だ。夕方になると途端に元気|横溢《おういつ》する。夜の8時、つまりハイボールだかストレートだか、なんだかが2杯3杯はいったあとの3時間位の充実感といったらない。生きて、在るという思いである。これが決定的かもしれない。夜行性である。夜行性は疲れる。疲れるからまた飲む。  昭和37年6月、江分利の身体がおかしくなった。無気力、朝の吐き気、心臓の圧迫感、などはいつもの通りとして、どう眠っても、いかに薬を飲んでも、絶食しても下痢《げり》がとまらないのである。これはイカヌと思ったので東西電機特約の仁天堂病院で精密検査を受けることとなった。心臓、肝臓、糖尿はなんともない。バリュームを飲んだレントゲン検査でひっかかった。胃壁がただれ放題にただれているそうだ。食道から胃にかけての線がギザギザである。ただしガンも潰瘍《かいよう》もない。 「16歳、17歳、の処女はね、いや処女・非処女は関係ない、その歳頃の女の子の食道はね、キレイにすとんと通っています。胃も可愛くってキレイです。あなたの写真を見てごらんなさい。きたないね。荒れてます」  担当医がそう言った。禁酒をいいわたされた。  地下のレントゲン室からあがってくると、赤羽常務がいた。常務は渡米直前で、やはり精密検査に来ていた。 「なんや、お前も来とったのか、どこが悪いんや」  江分利はレントゲン室の結果を報告した。 「そうか。よし。もう飲んじゃいかんぞ。絶対飲むな。いいか、いまから1ト月半だけ我慢しろ、1ト月半だぞ」 「はい」 「お前、鏡見てみい。クチのまわりが真白やで」  江分利はクチのまわりにこびりついているバリュームを拭った。そのあとで、阪神・大洋戦の先発投手について賭《かけ》をした。大洋の秋山は一致した。阪神は常務が渡辺省三、江分利は小山説だった。常務の車で社へ帰り、そのまま宣伝部へ2人がはいった。 「ええか、江分利に飲ましちゃいかんぞ、江分利を誘ったらあかんで」  宣伝課長や鹿野宗孝や吉沢第五郎や佐藤勝利が笑い出した。 「誘うのは、いつも江分利さんですよ」  その夜の7時半、江分利はトンちゃんにいた。9時にジョン・ベッグにいた。10時15分にはブルー・リボンにいた。ブルー・リボンにいる江分利を江分利自身が発見したといった方が実感に近い。ブルー・リボンの客がラドンナへ行って、そこにいた赤羽常務にそのことを告げたらしい。赤羽常務は翌日あってもそのことにふれなかった。江分利の酒は、その後、その状態で続いている。状態はさらにひどくなるが、下痢は止った。  江分利は「酒」に対して尊敬の念を抱《いだ》いている。だから江分利の酒はマジメ一方である、と自分では信じている。酒というもの、男が酒を飲むということ、酔うということを大事にしたいと思っている。と書いてしまうと、その気持にウソイツワリはないのだが、またしても嘘くさくなってくる。いったい、酒とは何だろう。  夏子といっしょに銀座を歩いていて飲みたくなった。いつものバーと違って小料理屋風がよいと思った。食事もできるようなところはどこか。夏子が突如として言った。「あんたつまらなそうな顔をしている。私と一緒だからでしょう。1人でキレイなひとのいるところへ行きたいんでしょう」。そうじゃない、そうじゃないのだ。江分利がバーのドアを押すとき、あるいはヒッパルとき、たいがいは苦虫をつぶしたような顔をしている。そのことを夏子に説明のしようがない。いくら言ったって、これも説明すればするほど嘘くさくなる。困るのだ。実に困る。  学閥、閨閥《けいばつ》、門閥、地方閥というような言葉がある。東京生れで、貧乏人の子(一時成金の時代はあったが)で、貧乏人の娘を貰《もら》って学歴のない江分利には閥というものがない。江分利の友人は全《すべ》て酒席で知りあった友である。友人であるかないか、酒場で1晩つきあえばすぐわかる。これ以上たしかなものはない。この友人たちにささえられて、江分利は東西電機宣伝部の仕事をしているといってもいい。電話1本で友人たちは即座に知恵をかしてくれる。飛び廻ってくれる。実際に仕事をしてくれる。いいモデルさんを教えてくれる。江分利のことを、お前は「酒閥」だという友人がいる。  江分利は酒のうえの約束を大事にする。酔っぱらいというのはヤタラに約束をするものである。「君に例の本をあげるよ」「故郷の菜漬を送るよ」「よし、明日の7時にトトで会おう」。江分利としては酒のうえの約束だから純粋だと考える。ところが先方は酒のうえの約束じゃないか、あんなものは……とくるのである。これは間違っていはしないか。酔った時の約束は博奕《ばくち》の金と同様にこれ以上純粋|無垢《むく》なものはない、と考えるのである。  江分利は酒のうえの喧嘩が絶えぬ。喧嘩はよくない。よくないさ。これは絶対に江分利がわるい。いい酒飲みとはいえぬ。この件に関して、俺は酒乱だなどといなおる気持は毛頭ない。  ただし、こういうことはある。江分利の好きな友だちと午後6時から飲みはじめたとする。7時。8時。9時。バーが3軒、寿司屋、ビアホール、またバーへ戻る。10時半。11時半。「六本木へ行こう」「よし行こう」そこで葡萄酒《ぶどうしゆ》なんか飲んでフォンデューなんか食べる。「新宿へ行こう」「よし行こう」看板になる。蛍《ほたる》の光。「あそこへ行こうか」あそことは会員制のオールナイトのバーである。2時になる。2時半になる。借問す、一体、僕等2人はどうやって別れたらいいのかね。酒乱の江分利といえども、明け方には家へ帰らねばならぬ。たとえ朝の5時、6時になっても、帰って2時間も眠れば、それは「外泊」ではない。しからば、いかにして親友と別れるか。すでにして2人は宵のクチから意気投合しているのである。しかし2人とも妻子と父、妻子と老母のもとへ帰らねばならぬ。つまり、どちらかが喧嘩を売り、片っ方がこれを買うのである。「なんだ貴様、俺はそんな奴とは知らなかった」「何い?」「よしお前という人間は分った。俺はもう知らねえぞ」「なんだと。この野郎、いい気になりやがって、よし、俺は帰る!」決然として席を起つのである。蹴《け》るのである。「馬鹿野郎! 早く帰れ」内心はシメタと思っているのだ。これで別れられる。夏子のもとへ帰ろうじゃないか。急げ幌《ほろ》馬車。  江分利は大日本酒乱之会の会員である。会員は江分利1人しかいない。酒乱とは何か。前に書いた文章をそのまま引用すると次のようになる。 �酒乱とは何か。江分利のいう酒乱とは、飲もうといったときに最後までつきあってくれる人たちのことである。この人たちに悪人はいない。単純で、純粋型で、感激型で、桜井にいわせれば単細胞である。他人のファイン・プレイを発見して喜ぶタチである。このタイプの人にバーであうと、江分利にはそれが一目でわかる�  しかも、バーに対する支払いのやり方がキレイでなくてはいけない。  大日本酒乱之会の会員は1人しかいない。しかし、今年こそは、この会の組織について考えてみようと思う。江分利はその発会式の有様を頭に描いてみる。スサマジイ発会式と乱闘場面の模様は次回に申しあげます。 [#改ページ]  続・大日本酒乱之会  それでは、大日本酒乱之会の発会式およびその凄《すさ》まじい乱闘場面について申しあげます。  昭和22年、23年、24年という時代に江分利は何をしていたか、どういう酒を飲んでいたか、どういう酒の飲み方をしていたか。  江分利は小さい小さい出版社に勤めていた。編集員は2名である。2名で哲学・宗教・文学・教育を主とした綜合《そうごう》雑誌を編集していた。月刊で64頁《ページ》建てだったと思う。  月給については明確な記憶がない。変動が激しかったせいもあるが、8百円だったようにも思うし、5千2百円だったような気もする。但《ただ》し、夏子と結婚した24年5月28日に8千円だったことは間違いない。  月給は非常に安かった。安かったけれど、当時は安かったという実感が、あまりなかった。これでは困るなあ、とは思ったが、積極的にベース・アップを要求する気にはなれなかった。  何故《なぜ》か。  みんな貧乏していたからである。戦争からの解放感がまだ残っていた。上昇気運のようなものがあった。ワクワクしていた。面白かった。江分利は実をいうとヤケッパチになっていて無力感に打ちのめされていたが、それを楽しんでいる気味も少しあった。時代のせいだろうか。江分利の若さのせいだろうか。江分利満22歳、夏子21歳という若夫婦である。夏子の持っていた着物や帯をどんどん叩《たた》き売った。売って酒を飲んだ。浴びるように飲んだ。若いから、よく吐いた。心臓が止るかと思われるような苦しみに耐えて吐いた。宿酔《ふつかよい》で間借りの4畳半の床柱にもたれたままで1日過した。会社を休んだ。休んだけれど、仕事もよくやった。酒で多勢の人が死んだ。有名人がメチールでやられた話が新聞を賑《にぎ》わした。江分利と夏子は持物を売りつくし、裸同然となったが、そのことでは悲しまなかった。哀《かな》しみは、もっと別のところにあった。  乱世だった。何かが動いていた。動きながら固まってゆくようにも見えた。それがどんな方向にどんな形に固まってゆくか皆目見当もつかなかったが、ともかく動いていた。  江分利のところへ借金にきた友人があった。小学校の同級生で、新聞社に勤めており、左翼だった。左翼だったといういい方はよくない。当時は、いまからみれば若者の殆《ほと》んどが左翼だった。都電の車掌までが公然と共産党の木製のバッジを制帽の耳の所につけていた。�スー・セレー・スー。スーセレスー�とジャズを歌いながら陽気に切符にパンチをいれていた。  だから、江分利の友人は、左翼運動に現実にたずさわっていたと書く方が正確である。恋人と同棲《どうせい》しているが、配給の米がとれぬという。千円でも5百円でもいいという。江分利は、よし、といって表へ出た。江分利は、通いなれた店へ向って歩きだした。 「どうなの。無いの?」  友人は不安になったらしい。 「大丈夫だよ」 「…………」 「いいんだよ。よくやるんだ。とてもいいオヤジでね。こんなので普通はとても千円は貸さないけれど、ぼくはオトクイ様なんだ」  江分利は中学の入学祝いに父が買ってくれた腕時計を見せた。江分利は、こんな薄汚い旧式時計で千円も貸すという実績の物凄さ、そのことの滑稽《こつけい》と悲惨に友人が笑いだすことを予期していた。しかし彼は急にションボリしてしまった。 「だけどね、ぼくも編集者だろう。君みたいに大新聞社とは違うけどね、ジャーナリストの末座にいるわけさ。だから腕時計はあった方がいいんだよ、だからね、今月中にはお金をかえしてよ、利息分ぐらいは、なんとかごまかしてやるからね」  江分利が友人の肩を叩こうとした時、彼がそっぽを向いていることに気がついた。 「腕時計なら、僕だって持ってる」  友人は、チラと左腕をまくってみせて、暗がりに消えていった。江分利はそんなつもりでいったわけではない。そこに考え及ばなかったのは江分利の浅慮である。相手に腕時計があろうがなかろうが、それは問題ではなかった。千円貸してくれといわれたから千円貸してやろうと思っただけだ。友人には江分利家の軍需成金時代の記憶があったのだろう。それも無理のない話だ。彼とはその後、会っていない。江分利の失策で友人を1人失ったわけだが、当時の江分利夫妻はそんな状態だった。なんにもなかった。江分利が1組、夏子が1組持ってきた夜具|蒲団《ぶとん》が、合計で1組になってしまった。毎日|同衾《どうきん》した。夫婦だったからよかったとはいうものの、同衾はひどく疲れることを知った。寝にくいというだけでなく現実に疲労を呼んで、2人とも目の下が蒼《あお》くなったのである。泥酔した友人が泊るときは敷蒲団を横に敷いたものだ。  乱世だった。気が荒かった。喧嘩《けんか》が絶えぬ。こんな人がと思われるような人が殴《なぐ》り合いをした。昭和14年下半期に『密猟者』という小説で芥川賞を受賞した寒川光太郎という人の家で『デカメロン』編集部の郡山《こおりやま》千冬(「魔子」の店を開拓した人であります)が、太宰治《だざいおさむ》の弟子でヒロポン中毒の田中英光という大男の小説家と喧嘩して、田中が大きな石を持って郡山を追いかけたときは、郡山は殺されると思ったという。その場にいた新宿のお和(いまの「和」ではない)は「私まで殺される」と思ったという。 『デカメロン』という雑誌に関していえば、当時『りべらる』や『赤と黒』もあり、江分利はやっぱりワクワクして読んだものだ。  著名な筆者が書き、著名なデザイナーや絵描きが絵を描いていた。これらの雑誌はエロ雑誌とよばれ、カストリ雑誌ともいわれたが、江分利にはむしろ�平和の象徴�のように思われた。言論は多少の行き過ぎがあっても�自由�であった方がよい。不自由よりは、はるかによい。現在の婦人雑誌のセックス特集などにくらべれば、これらの雑誌には思想と理想と主張とバイタリティがあった。江分利は日本の戦後のエロ雑誌の果した役割を高く評価している。エロ雑誌は日本人の生活革命に寄与したところがずいぶん大きいと考えている。生活革命という点ではすくなくとも『思想の科学』より強力だったと考えている。『暮しの手帖』に匹敵《ひつてき》するとさえ考えている。戦時中『日本映画』という雑誌をやっていた多根茂が『りべらる』をつくった。この編集部に松尾進・町田進(町田|梓楼《しろう》の息)・中尾進という3人の進がいた。『赤と黒』に河上久夫がいた。江分利はこれらの方々に感謝を捧《ささ》げたいと思う。暗黒の部分、盲目の部分に光を当て、これを明らかにしたことは、ディドロが百科全書を編纂《へんさん》したことと同様に民主主義の第一歩だったように思われるのである。(余談ですが、江分利の愛読書の筆頭は『末摘花《すえつむはな》』です。あれを芸術といわないで、いったい何を芸術と呼ぶのでありましょうや。『末摘花』には生活のディテイルがあります。心の襞《ひだ》があります。背中あわせの刻薄とユーモアがあります。鮮烈な心意気と文明批評があります)  乱世であった。しかし一方には『青い山脈』というようなものもあった。『青い山脈』という善意のカタマリみたいな映画は昭和24年度優秀映画(キネマ旬報)の第2位である。(ちなみに1位が小津安二郎の『晩春』。3位が黒沢明の『野良犬』である)若い三船敏郎と若い杉葉子というものがあった。杉葉子という人にはNHKのTV番組『私だけが知っている』でお目にかかったが、江分利はあの顔、あの声、あの姿態(完全に姿態と呼べるほどには姿を見せてくれないが)にある種のショックと「隔世の感」を覚える。杉葉子は美人ではない(といっていいと思う)。演技派でもない(といってもいいだろう)。しかし杉葉子には乱世における乱世でない一方を代表させてよい|何か《ヽヽ》があった。清潔感というか、上昇気流というか、善意の個体というか、優しさというか、それらをひっくるめたモヤモヤしたものを身体《からだ》で表現し、代表していたように思われる。あの人には「今日も我等の夢を呼ぶ」と歌っても不思議でない何かがあった。あの女優さんには、人のよい、疑いを知らぬ女学校の生徒という役柄しか似あわないように思われた。あの時代には「演劇サークル」「文化サークル」「読書会」「社交ダンス講習会」「英会話研究会」というような集まりがやたらにあった。何かに縋《すが》りたい、勉強しなおしたい、遅れをとりもどしたい、己《おの》れを空《むな》しくして出直したいというような空気が、一方にあった。  乱世であった。ホステスなんてものはいなくて女給さんがいた。ママさんでなく、おかみさんだった。近頃のホステスとは、お嬢様である。お嬢様ならお嬢様らしく、客の煙草に火を点《つ》けたりしない方がよい。近頃のホステスは煙草に火を点けることの出来る「人間貸植木」である。自分の膝《ひざ》小僧ばかり気にしている。自分の衣裳《いしよう》、自分の化粧にしか関心がない。客に遊ばせて貰《もら》おうと思っている。面白い話をしてくれる客がいい客なのだそうである。美しくて坐っているだけなら、貸植木と同じではないか。貸植木なら月8百円で済むが、人間貸植木は月給10万円も珍しくないという。  当時の女給さんは客と一緒に遊んだものだ。客に打ちこんだものだ。ママさんでないおかみさんは客と運命を共にしようと心がけた。芸術家を育てるためにタダで場を提供するといった気合いをもっていた。その証拠に、当時は女給さんと作家、女給さんと学者との結婚も珍しくなかった。いまはお嬢様の浮気と、お嬢様との御交際があるだけだ。むろん、客の方も悪い。 「高歌放吟すべからず」と墨書きした飲み屋がある。バーがある。「貸売|一切《いつさい》おことわり」などと書いた小料理屋がある。大日本酒乱之会会員としてケシカラヌと思うのである。そんなに客を信用できないなら店をたたんでしまえと絶叫したくなる。酔えば歌いたくなることもあるさ。いいじゃないか。バーや小料理屋でその都度現金で払えるかね。(キャッシュは惜しいという気持を、江分利は多少いだいている。お恥ずかしい)バーと客とは人間と人間のツナガリでありたいね。当時でいえば「江分利さん、お勘定なんて2年でも3年でも溜《た》めてくださいよ、そのほうが嬉しいんですから」という店が何軒もあった。もっともそういう店にかぎって、お金をこしらえて持って行くと潰《つぶ》れていたり、代がかわっていたりしたが。  高村光太郎賞を受けた、詩人・田村隆一という男がいる。田村隆一は昭和23年、24年当時と全く変らぬ飲みっぷりで通している数少ない男の1人である。彼と銀座のバーへ行ったとする。江分利の馴染《なじ》みでないバーだったとする。夏ならば麦藁《むぎわら》帽にヨレヨレのスポーツシャツ、貰い物だというつんつるてんのズボンに鼻緒の切れかかった下駄ばきである。長身|痩躯《そうく》。上原謙に似た高貴なる美貌。ヤサシイ目許《めもと》。風態《ふうてい》といい、詩人という稼業《かぎよう》からしてもキャッシュが無さそうで江分利は気が気ではない。といって江分利の行きつけのブルー・リボンやジョン・ベッグやクールへひっぱってゆくには、このナリでは江分利としても相当の覚悟がいる。ホステスという名のお嬢様方はびっくりしてしまうだろう。江分利としても飲み方がビビルのである。 「江分利さん、大丈夫ですよ。安心して飲んでくださいよ」  優しい目と優しい言葉。この人は�純粋�だと思わぬわけにいかぬ。そのうちに江分利の方も調子が出てくる。仕上ってくる。サントリーの角瓶《かくびん》がたちまち空になる。江分利は田村隆一が先程から「結果は同じだ」という言葉を連発しているのに気付く。 「ママさん、ビールください、喉《のど》がかわいた。江分利さん、何でも注文してよ、結果は同じなんだから」  結果は同じ、とはどういう意味だろう。 「もう1軒行きましょう。すぐそこだから」  もう1軒のバーへ行くまでに寿司屋へ寄る。トロを少したべて 「ぼく田村です。また来ます」  と言って寿司屋を出る。実に優しい。  Qという看板のあるバーの扉をあけて、首だけ入れて 「ママさん、いる?」  マダムは外出らしい。ボックスへ坐る。いきなりオードブルが出てくる。こいつはマズイナと江分利は思う。黙ってオードブルを出す店は安くない。 「へえ、ママさん、いませんか。じゃビール」  マダムがいなくて、じゃビールとはどういう意味か。格別の意味はないらしい。 「飲もうよ、結果は同じだ。結果としてはね、おなじなんだ」  そこを出る。出るときに田村隆一は自分の詩集だか翻訳書だかにサインして渡す。 「ぼく田村です。ママによろしく」  江分利は少し心配になって田村隆一に訊《き》いてみる。 「あんた、あそこのママさん、知ってるの?」 「知ってるよ、はじめに行ったバーへね、あそこのママが1度遊びにきたことがあるんだ。そこで顔を知ってんだ。名前は知らないけど」  驚いたね。結果は同じとはいくら飲んでも支払いはしないという意味なのだ。どんなに高価なウイスキーやブランデーを飲み、オツマミを食べても、支払いをしないという点で�結果は同じ�なのである。ビールの小瓶を一本飲んでも結果は同じである。  それでいて、どこのマダムにきいても田村さんだけは憎めないと言う。それだけのものを彼は備えているのだ。計算ではない。もっとも不意に突如として風の如く金を置いてゆくこともあるらしい。  昭和23年、24年では、高名な作家で収入も相当にある筈《はず》なのに決して金を払わないという人がいた。ふらっと入って、ふらっと飲んで、ふらふら出てゆく。 「ああいう人、お金はどうするの?」 「あれはあの人の癖でしてね、仕様がないの」  それで通った。そういう時代である。  当時は、みんな酒の飲み方を知らなかった。みんな、よく吐いた。年輩の人も酒の飲み方のカンを取戻していなかった。戦時中の配給制度のために酒と煙草を覚えたという人が、案外多い。楽しみがなく所在無さのあまり、ついつい飲むようになった。酒の味と酔いをそれで知ったという人が多かった。新宿駅の石畳は吐いたラーメンでいっぱいだった。梅割りの甘ずっぱい反吐《へど》が匂った。構内には鳴神《なるかみ》の柱巻きみたいな恰好《かつこう》で首をたれているのが多勢いた。新宿駅の名代《なだい》なる大|雪隠《せつちん》には、有名なおかみさん連が身体を小きざみにふるわせながら列をつくっていた。ハモニカ横丁やその南の「魔子」や「た古八《こはち》」や「大村庵」のあったゴチャゴチャした所にはトイレというものが無かった(これは記憶ちがいで小さいのはあったかも知れぬ)からである。  江分利の酒、みんなの飲んだ酒というふうに書いてきたが、実は当時は酒はなかったのである。バクダンとドブロクとカストリである。あそこの酒はいい、という時は比較的悪酔いのしないカストリを出すことを意味していた。新橋の「蛇の新」(当時は�蛇の�と略したね。�ジャノへ行こう�といった)はカストリに味の素をいれているからうまいんだというような噂《うわさ》がまことしやかに囁《ささや》かれた。 「ちゅう!」  というと 「割りますか?」  とくる。カストリを梅酒(?)で割るのである。これがかのウメワリである。葡萄《ぶどう》割りというのもあって、これは一升瓶にいれたグレープ・ジュースでゴボゴボと割ったものだ。ドブロクのことを�シロ�といった。シロに薬研堀《やげんぼり》の七味唐辛子をふりかけるのが最上と説く者がいた。  バクダンとは、そも何ものぞ。よく分らぬ。即席焼酎であろうか。バクダンは必ず薬罐《やかん》から湯呑み茶碗に注がれた。 「取締りがうるさいもんで……」  という言葉を屋台で何度も聞いたおぼえがあるので禁制品だったのだろう。バクダンは�酔う�というようなものではなかった。鼻をつまんで、ノドへ流しこむのである。サッカリンの匂う浅漬《あさづけ》をサカナにバクダンを3杯飲むと、地面がどこまでも持ちあがってくるという感覚で、悪感《おかん》が走り、忽《たちま》ちにして嘔吐《おうと》した。まあ、上からの下剤の役割は果したね。酔うのではなく、平常とは別の悪い感情を誘発する飲みものである。そんなものを何故飲むか、については前回に書いたので重複を避けたい。ともかくバクダンを飲むのは生命《いのち》がけだった。生命をとりとめても翌日の凄絶《せいぜつ》なる宿酔《ふつかよい》は逃れられぬ。  焼酎《しようちゆう》でさえ、金があればの話だが、自由に飲めるようになったのは昭和24年からである(と思う)。焼酎をジンジャーエールで割ってレモンを浮かすという工夫もあった。酒になるのはもっと後だ。酒といえば2級酒が出た。「旦那《だんな》セカンドですか、フワストですか?」ときかれるようになったのはもっと後だ。セカンドが2級酒でフワストが1級酒である。ビールは25年からではなかったか。ビールなど、とても手が出なかった。トリスウイスキーが大々的に発売されるようになったのは昭和25年3月である。25年4月1日にトリスウイスキーの値段は430円、サントリーの角瓶は1350円だった。トリスでさえ容易には飲めぬ。ましてサントリーはブルジョワのウイスキーである。新宿の「五十鈴《いすず》」へ行ってビールと焼酎を1本ずつとり、ビールに少しずつ焼酎を割りながら、じっくりと腰を落して飲み、串《くし》カツを1皿とるということは最高の贅沢《ぜいたく》だった。そんなことをしたら、カウンターの全視線が江分利に集中してしまうのである。  バクダンとカストリとドブロクを当時やたらに飲んだことが、昭和38年、36歳の江分利の肉体にどういう影響を及ぼしているのだろうか。こいつらで鍛《きた》えたから酒に強くなっている、ということはいえる。しかし現在破壊に瀕《ひん》している江分利の胃壁はこいつらの責任なのだろうか。それとも、こいつらで鍛えてあったからこそ、現在までの暴飲に耐えられたのだろうか。分らぬ。  江分利は当時どうやって安月給で�酒�を飲んだか。飲めたか。  むろん裸同然となるまでの身銭はきった。しかし、それでは追っつかぬ。つまりは、諸先生方に御馳走になったのである。タカリとは思わぬが、誘われて辞退したことはないから、一種のタカリ屋と見られても仕方がない。(35歳を過ぎてからはその埋めあわせをしているつもりである。江分利が東西電機の若い同僚を連れて飲み歩くのをみても生意気と思わないでくれ給え)但《ただ》し、当時はまだみんな貧乏だった。高名な先生方に2百円とか3百円とか貸したこともある。先方も平気でそれがいえるほど貧乏していた。特殊な人を除いて平等に貧乏だった。江分利が安月給で我慢できたのは、そのせいもある。それに物資もなかった。金があってもつかい道がなかった。江分利は小さい小さい出版社に勤めていたが、印刷用紙の割当てということに関していえば大出版社も小出版社も平等だった。まだノレンや実績がものをいう時代になっていなかった。小出版社で紙を横流ししてかえって儲《もう》けている所もあった。  乱世だった。しかし、いまになってみると、あの時代は一種のユートピアではなかったかとさえ思えるのである。みんな平等だった。みんな汚ない酒場へ通った。汚ない露地で連日|殴《なぐ》りあいがあった。文学論・政治論で賑《にぎ》わった。汚ない酒場で江分利も大学教授や作家と平等の立場で口論した。貧乏が平気だった。ジャーナリズムが文学を暴力的に水で薄めてしまうようなことはなかった。作家はかつがつに喰《く》っていた。評論家は喰えなかった。作家と評論家が文学以外のことで原稿を書くこともなかった。むろんTV出演もない。「君は立派だ、僕は淋《さび》しい。江分利クン、人生は淋しいよ」と売出しの作家が肩を叩き、2人で朝まで飲んだ。キザかも知れぬ。いや明らかにキザである。感傷に過ぎるようだ。しかし15年経ってみると「あの頃」がユメマボロシのように色彩を帯びて江分利の胸を去来するのだ。  この頃の文士連、ジャーナリスト達の酒の飲み方はどうだろう。エネシーのコーラ割りときちゃうからね。「君たちは立派だよ。ぼかぁねえ、僕ぁ淋しいよ」酒乱と笑う奴は笑うがよい。たまには喧嘩《けんか》をしたらどうかね。まるで�紳士�になっちゃったね。円満であることが立派なのではない。仕事のこと文学のこと政治のことで喧嘩しようよ。ダス・ギプト・ヌル・アインマール。ダス・コムト・ニヒト・ヴィーダー。1回限りの生命《いのち》じゃないか。1度は死んだ生命じゃないか。もう1度、肩を叩きあい、かつ殴りあう会があってもいいじゃないか。どうせ俺はキザで生意気でエキセントリックで淋しがりやでヤケッパチでシツッコイのさ。しかし、ゴルフだけはやらないぞ。徒党を組んだりはしないぞ。サラリーマンでこの世を渡るぞ。生産の現場を離れないぞ。「お帰りですか?」「キミとつきあうと殺されちゃうからね」まあ、言わせておけ。「へえ、あなたも江分利旋風の被害者ですか、執念深いからね」陰の声が聞えてくる。まあいいさ。大日本酒乱之会会員は1人でたくさんだ。酒乱の2字を背負って立とう。ユメマボロシを追ってゆこう。  乱世だった。新宿の「千草」や「ナルシス」や「巣《ネスト》」や新橋の「蛇の新」「凡十」や有楽町の「お喜代」や神田の「ランボオ」は集会場だった。みんな集まってきた。江分利などは隅《すみ》でゴソゴソしていただけだ。当時は「復員者」というものがあった。ひょっくり姿をみせて万歳を浴びている者がいた。誰某《だれなにがし》は戦死したらしい、南方で行方不明らしい。誰某は疎開先で弱っている何とかしよう。そんな話でもちきりだった。あそこへ行けば誰かに会える、誰かが外地や疎開先から帰ってきてひょっくり姿を見せるかもしれない、そんな喜びがあった(らしい)。年代的にいって江分利には、それはない。かけだしの編集者で、みんなの話をうかがうしかない。しかし、みんなの喜びや感激や心配はよく分った。当時の飲み屋はそんなふうだった。  大阪タイガースの若林忠志が、ひょっくり帰ってきて、巨人戦でリリーフにたったのは憶《おぼ》えている。これも帰ってきたばかりの白石と対峙《たいじ》したのも憶えている。少年時代に洲崎や上井草に通った江分利にとってこれは感激だった。但《ただ》し「投げるは若林、打つは白石。いかにも強打者らしいズングリした白石がバッター・ボックスに……」という志村正順のアナウンスはちょっとオーバーだった。白石は決して強打者ではない。(参考として識《しる》しておくが、阪神タイガースの若林監督、別当、呉《ご》、本堂らの主力選手が突如として大毎オリオンズに移籍されると新聞発表されたのは昭和25年1月1日だった)  さて、いよいよ大日本酒乱之会の発会式は迫ってきたのである。時は7月の最も暑いだろうと思われる日を選ぼう。夜7時の薄くらがりにスタート。(余談ですが、およそ会とかパーティとか称せらるるものに楽しいものがあったためしがありません。しかし、パーティの打ちあわせほど楽しいものもないと思います。幹事、発起人の打ちあわせのための会合、そのあとの2次会、3次会)  賢明なる読者諸賢は江分利が「大日本酒乱之会発会式」に何をもくろんでいるかを既に察知せられたことであろう。  そうです。大日本酒乱之会発会式で江分利は昭和23年、24年の飲み屋の光景を再現しようとしているのです。  そんなことが可能だろうか。可能であります。新宿ハモニカ横丁を造るのに活動屋さんの大道具を利用すれば3万円ぐらいでできるでしょう。ハモニカ横丁の飲み屋と飲み屋との仕切りはベニヤ板であります。たとえば「お竜」でベニヤ板に寄りかかりながら飲んでいると「ナルシス」の客の背中を感じたものであります。あ、この背中は金子光晴ではあるまいか、といった感じでありました。ハモニカ横丁の店には、どういうものか1軒1軒に直径30センチメートル位の木製の車輪がついていました。この車輪で店が動くとは考えられません。ですから当時は、その場所では移動できる屋台店という仕掛けでないと営業の許可がおりなかったのかもしれません。  戦後の飲み屋の光景を再現するとなれば、なんといっても新宿|界隈《かいわい》が主役です。これに新橋と有楽町を加えましょう。読売新聞社の前にあった屋台のドブロク屋も忘れられません。この店は屋台の中に電信柱が立っていました。さらに当時江分利の住んでいた目白近辺と、坂本2丁目の鍵屋《かぎや》を加えましょう。これをセットで造るわけです。原寸より一寸《ちよつと》ちいさくていいのです。飲み屋のない地帯は省略いたします。ムーランルージュや武蔵野《むさしの》館や新宿第一劇場は縄を置いて、それぞれここがムーランといった立札をたてます。  新宿のすぐ隣に新橋、有楽町、浅草、目白があるところがミソです。ハモニカ横丁から新橋の「リヨン」には歩いて2、3分で行けるわけです。「五十鈴」にいる客が�|蛇の《ヽヽ》へ行こう�と叫んで歩きだしたら、もう着いていたというところに妙味があります。らくらくと梯子《はしご》ができます。  さあてね、このパノラマみたいなものをどこに造るか。亀戸《かめいど》球場を全部借りきるというのもテだね。あそこは広いし、ドブの匂いがあるからね。しかし不便だね。郊外もだめだ。山の手線の内側でありたいね。そうなると……そうだ、神宮外苑の杜《もり》全体を借りきることにしよう。セットは絵画館前の草野球場4面を全部借りれば、なんとかなるだろう。あそこなら、夕暮が楽しめる。  さて新宿の設計にとりかかろうか。なにしろ大日本酒乱之会は会員が江分利1人だから、地図をつくるのも楽じゃない。  南からいって「石の家」が必要だね。ここにはバー(もしあれがバーといえるなら)の女給さんたちが店がはねてからギョーザやタンメンを喰べに集まったものだ。その隣がホルモン焼きの「八ッちゃん」。焼鳥の「太郎左」。「タカシ園」。うまい小料理を喰わせた「あざみ」。牛肉屋の「山重」。カフェー「エビス」。この付近に新宿第一劇場と昭和館とムーランルージュとヒカリ座があるわけだ。「鳥繁」はどこだったかな、ヌード写真が天井に貼《は》ってあり、障子がたてかけてあったのは憶《おぼ》えているが。「鳥繁」のツクネはうまかったね。  右へ行って「むらさき」「稲福」「五十鈴」「ジャスミン」。「五十鈴」は凄《すご》かったね。これはまさに集会場だった。ここのおけいというマダムは当時の生き残り、いやこれは言葉が悪い、現在も活躍しているマダム10人を集めた�麗人会�の会長である。「樽八《たるはち》」のおとみが幹事であり、以下南海ゴム事務所という看板を掲げているが入ってみると「はつせ」という飲み屋であった高田はつ子、ラーメンの「新華」の林豊子、「とり清」のおきよ、「とり源」のとよ、「揚華楼」のマダム、「よしだ」「みち草」のマダム、「あぜみ」のマダム。麗人会は月額1万円の会費を集めて年2回飛行機で旅行している。(変れば変る世の中だナア)  ずっと左へ飛んで平良リエ子の「山原《やんばる》」。右へ移動して「よしの寿司」「風月堂」「天竹」鳥料理の「とり清」ラーメンの「永楽」小料理「松風」。  また左へ飛んで「十和田」。天ぷらの「つな八」「斗六ずし」。居酒屋風の「よしだや」「樽八」。菓子の「もとはし」天ぷらの「船橋や」「船ずし」洋菓子の「ローレル」。焼鳥の「雀の小父さん」。ライオンビヤホール(戦前は「フランス屋敷」)。この辺でキスグレのお政が暴れた事件も懐《なつ》かしい。  問題の武蔵野館裏のゴミゴミした所は、あまりに小さい店が密集していたので記憶がさだかではない。しかしこのあたりのドブとドブ板と小便の匂いは忘れがたい。この匂いをセットで再現するのは最も苦心を要するところだ。夏。暑い夏の夜。いり乱れる文士と活動屋と絵描きとジャーナリスト。喧嘩も一番派手だった。陰湿と陽気の混合。握り飯のうまかった「きしのや」。「た古八」。青いソバを喰わせた「大村庵」。そして「魔子」。あの人はどこへ行ったんだろう。魔子という人も、戦後を代表していた。江分利はもう魔子の顔を憶えていないが、魔子という名前を聞いただけで胸が高鳴ったものだ。「魔子」の裏は新宿駅の貨物のホームである。  また左へ飛ぶ。「サクラ製菓」。コーヒーの「青蛾《せいが》」。帝都座(ここで秦《はた》豊吉が額ぶちショウをやっていたという感じの絵看板を掲げる)。三越。喫茶店「グリーン」(階下がミドリ屋という靴店。この喫茶店であやしげな写真の売買が行われているのを見たことがある。写真は武蔵野館と「エルテル」の間の道路で見せられ、取引は「グリーン」という具合だった)隣がパチンコ屋。シューマイの「早川亭」。その隣が果物屋。  さて次は新宿会場の中心部となるべきハモニカ横丁を含む一|劃《かく》である。  武蔵野館の前のビンゴ屋(これが後に大活躍をするので留意せられたい)。「エルテル」(ここで江分利は夏子と媾曳《あいびき》したものだ。裏がすけてみえる仙花紙《せんかし》の哲学書を読んでいる青年達が有難《ありがた》そうにコーヒーを飲んでいた)「25時」「かっぱ」「オペラハウス」「新宿ホテル」「馬上盃」。女優の築地燦子《つきじあきこ》あらため輪島昭子の美貌が売りものの「ととや」「ととやホテル」「渋谷食堂」「お文」「よしだ」「カサベラ」「聚楽《じゆらく》」「中村屋」。そしてフルーツパーラー「高野」の横がハモニカ横丁である。高野の壁にむかって一斉に立小便をしたものだ。小便で文字を描くのである。早稲田のWは描きやすかったが、慶応出身はKの字で苦労した。高野の壁にはどういうわけか、いつもリヤカーが1台斜めにたてかけてあった。  ハモニカ横丁は、上から「満洲里」ひとつとんで「コスモス」「巣《ネスト》」「お竜」(現在は阿佐ヶ谷)「ナルシス」「三姉妹」「みち草」「ノアノア」と続き、最後の一劃では三角|籤《くじ》と南京《ナンキン》豆(升売り)を売っていた。ハモニカ横丁の裏は実にこれが瓢箪《ひようたん》池と称せられる溝《みぞ》であって水道が出っぱなしになっていた。ここでおかみさん連は下着を洗濯したのである。瓢箪池の裏が広告看板であり、その裏が新宿駅へ出る通りであり、夜は殷賑《いんしん》を極《きわ》めた。夜店みたいなものがあり、オモチャ屋もあったように思う。  大通りを越えると紀伊国屋《きのくにや》書店のあたりに「不二家」があり、コーヒー店「丘」がある。「丘」の向い側に「ナイル」があり、原田康子の『挽歌』のモデルで国画会新人賞を得た松田冷子がいた。「丘」と「ナイル」のどんづまりが新星館である。  右下方へさがって「キュピドン」があり「ムサシノ茶廊」がある。「ミロ」というバーがある。「ドレスデン」「プロイセン」「バッカス」「キャロット」。さらに大通りをひとつ越して、山形系の「樽平」その斜めむかいに「秋田」。「樽平」は樽平と住吉を飲ませる。「秋田」は両関、爛漫《らんまん》、太平山である。「千草」がある。法政大学仏文教授の経営している「さいかちや」は当時「ちとせ」といっていた。区役所のわきのサーカスの天幕を張ったような天井をもつ「高級酒場とと」はまだなかった。  新宿はこれくらいにして新橋に移る。もっとも新橋|狸《たぬき》小路については新宿ほどの知識がない。「リヨン」のトンちゃんこと向笠幸子は屋根裏に寝泊りしていた。「白梅」があった。狸小路のトイレは当時、カメであるべきものが樽製であった記憶がある。少し離れて高級バー「ブラック・エンド・ホワイト」にはローズという絶世の美女がいた。  裏駅の「蛇の新」。「凡十」。焼鳥屋の乱立。煮込みとモツ焼きの血の匂い。渋《しぶ》団扇《うちわ》の音。炭火の熱気。喧騒《けんそう》と喧嘩。闇《やみ》の寿司屋。  有楽町の「お喜代」。銀座の「はせ川」。  坂本2丁目の魚拓の名人、というよりイナセな江戸っ子気質で評判の清水友吉経営による「鍵屋」。江分利は清水友吉に襟《えり》をつかまれて追い出されたことがある。  目白マーケットの「華天園」の冷しソバと焼豚は江分利にとって最上の奢《おご》りだった。「華天園」の呉さんが江分利に貸し売りを許してくれた最初の人物である。その裏のバー「オランジェ」。目白駅と日本女子大学の間で崖《がけ》っぷちに建つおでんや「たにし」。ここのおかみも色は黒いが気合いのいい人だった。江分利は百円か2百円もって、ツミレはいくら、スジやフクロはいくらと値段をきいてから注文し、あるったけはたいてカストリを飲んだ。気分が悪くなると裏へ出て目白の高台から早稲田の杜《もり》を見おろして嘔吐《おうと》した。景気のよいときはロールキャベツを喰べた。  駿河台《するがだい》下と神保《じんぼう》町の間で、昭森社の階下にあった「ランボオ」も忘れられぬ。「ランボオ」とは喫茶店なのか、バーなのかもさだかでないが、薬罐《やかん》でカストリを飲ませてくれた記憶がある。「ランボオ」には東大教授と編集者と『近代文学』がむれていた。ビヤホール「ランチョン」もあった。  その他、「おもろ」を中心とした池袋|界隈《かいわい》。「とん平」の渋谷や湯島近辺も捨て難い。  新宿の当時の景物としてビンゴを忘れることが出来ぬ。これはゼヒトモ必要だ。あの口上が、冴《さ》えていたね。何故ビンゴが復活されないのか。 「あがりましたよ情熱ボール、赤は最初の16番」とくるね。「いけどもいけども緑の曠野《こうや》、あなたが探したオアシス・ナンバー、緑最初の13番」ときちゃうね。「色は黒いがマドロスさんは港港の人気者、黒は真中15番、続いてあがったマッシロ・ボール……」なんざ嬉しいね。「おやじはすましてズボンをしめる息子はゲラゲラ大きな声で僕等のオナラは黄色の12番」となると下品だが止《や》むを得ぬ。「貴方《あなた》と私はズボンのオナラ、右と左に泣き別れ、黄色オナラの12番」とも言ったね。オナラが黄色いわけはないが、何故かビンゴでは密着していた。しかし黄色だって下品ばかりとは限らぬ。「高い山から谷底みれば、カボチャ畑の花ざかり、黄色まばゆい18番」なんてのは鮮《あざ》やかだった。「貴方と私は羽織の紐《ひも》よ、黒と思たら白いは薩摩《さつま》。白は左の21番と出ました」「緑波行く八重路の果てに男希望の日は昇る、ミドリのボールは20と3番」「胸のランタン真赤に燃えて、私ゃ貴方にホーレン草、情熱ボールの13番」なんざ泣かせたね。12月になると、当意即妙「黒はくろくろクリスマス、白いおひげのおじいさん、白は右下20と5番」とやるね。「しんの闇夜に源氏の旗は粋《いき》な兄《あん》ちゃの晴れ姿、白は夜這《よば》いの大1番」なんか絶妙だね。兄ちゃんでなく�兄ちゃ�とやるところがよい。  7月の最も暑い日の午後7時。当時の酒乱全員に集まっていただく。酒はバクダンとドブロクとカストリ。ビールは2人に1本の割りあて。一斉に飲みはじめる。  夜がふける。悪酔いの乱舞。「君は立派だ」「君も立派だ」「ぼくは淋《さび》しい」「人生は淋しいなあ」。肩を叩《たた》きあい、泣く。嘔吐。「明け方の空が紫色になる時がいいよ」「大都会だ、ああ大都会の夜だなあ」「もろともにあわれと思え山桜、ワッハッハッハ」「ギロチンギロチンシュルシュルシュ」  ハモニカ横丁とカストリ横丁は握手と仲間|賞《ほ》めと仲間喧嘩である。男同志の接吻。「君は立派だ、僕は駄目だ」「優しいねえ、あんたって人は」。殴りあい。石を持って追いかける男と逃げる男と仲裁にはいる男と。「あいつは駄目だ、駄目になった」。戦争には誰も触れたがらなかった。みんなうしろめたい気持で生きていた。謙虚で純粋だった。ゴルフをしなかった。バイタリティがあった。なまぐさい希望とみじめな絶望感を抱《いだ》いていた。ある点でみんな平等だった。平等のくせに喧嘩ばかりしていた。みんなヒトナツッコかった。みんな淋しがりだった。  ぶっ倒れて寝ている男をみんな優しい目で見ていた。下手《へた》に介抱なんかしなかった。みんな知っていた。その男がやがて起きあがって、ちゃんと家に帰ることを知っていた。みんな踏まないように気をつけただけだ。江分利はぶっ倒れて寝ている男を見るたびに絶望したものだ。(俺の酒はまだ純粋じゃない。俺の酒はまだとうていこの男に及びもつかぬ)  あれは、一種のユートピアではなかったか。「おそめ」も「エスポアール」も「ラモール」も「葡萄屋」も「ゴードン」も「とと」も「和」もなかった。あったとしても行けなかった。それが昭和25年、26年頃から少しずつ何かが変っていった。29年、30年にはハッキリと差がついていた。酒に関してだけいえば田村隆一や江分利満にはまだ�戦後�が残っている。江分利などはますますヒドクなって酒品は落ちる一方だ。円満紳士にはなれっこない。模範社員にもなれぬ。何かがはみだしてしまう。行き過ぎてしまう。おさえがきかぬ。  江分利の空想する大日本酒乱之会発会式とは以上のようなものである。江分利1人では巨費は支払えぬ。誰かスポンサーになってくれないかなあ。夕暮のハモニカ横丁、カストリ横丁の再現は週刊誌のグラビアになると思うんだがなあ。 [#改ページ]  草野球必勝法     ㈵  TV番組のなかで江分利が最も好ましく思っているのは、つい最近まで土曜日の夜7時半から8時までやっていた、ナントカという素人が歌って素人が審査するNHKの番組である。司会は宮田輝。  この番組を何かの加減で第1回のスタートのときに見てから病みつきになった。  たしか素人の審査員が20人いて、合格と思ったら立ちあがり、その人数によって賞品を手渡す仕組みであるが、宮田輝がマイクを片手に、立っている人、坐っている人に合格・不合格の理由と感想をききに移動するところが、実になんとも面白かった。面白かったと過去形で書くのは、この番組が、日曜だか平日だか知らぬが、土曜の夜のAタイムをはずされてしまって昼の番組になり、それを未《いま》だに突きとめ得ていないからである。江分利は奮激してNHKの人にといただした。「私の一番好きな番組を何故《なぜ》やめたか?」係の人はこう言った。「たしかに都会では好評だったのですが、田舎《いなか》で反感を買いましてね、私どもも続けたかったのですが、仕方なく昼に移動させました」そのとき何曜日の何時と教えてくれたのだが、カッとなっている江分利は、そのことは記憶からズレてしまった。江分利はそのとき、日本人の民度イマダシと思い、そのことにもカッとなり、あとでまた反省したのである。  さて、宮田輝と素人審査員との対話であるが、それはこんなふうに行われる。 「あなたは、どこがいいと思いました?」 「まず、この曲目をえらんだことですね、この歌はあの人にピッタリ合っていると思いました。それと、フィーリングですね。いいフィーリングですよ。声もいいし、小節が廻りますね」 「はあ、小節ね、こちらは小節がいいとおっしゃってます」 「小節はいいんですが、ただ、いけないことはこの曲目があの人にあってないことです。もっとこの人にピッタリあう曲目をえらんだら、もっとよかったと思います」 「なるほどねえ、じゃ次へゆきましょう……ええと、そこの眼鏡をかけたお嬢さん、あなたはどうしてお立ちにならなかったんです」 「全体にとてもよかったと思うんです。曲目も合っているし、動きもきれいだし、声もいいし、マイクのつかい方もお上手《じようず》だと思うし……」 「へえ、それじゃあ、どうしてお立ちにならなかったんでしょう」 「はい、とてもお上手なんですけど、ただ全体になんとなく……」 「全体になんとなくヨクナイ。なるほど。まあ、そういうこともあるでしょうねえ。それでは次の方、2列目のチェックの背広の男の方、ええ、いやその頭を短くかった威勢のいい方……」 「態度がいいですね、落ちついているし、堂々としています。なんていいますかモノオジシナイって感じですね、個性的で健康的で正直的ですね……」 「こちらは、態度がいいとおっしゃってます」 「ただいけないのは、いわゆる私が何故立たなかったかというと、ソワソワしていることです。もう少し落ちついて堂々と歌ってもよかったと思うんです。いわゆるモノオジシナイという感じがほしいですねえ。態度がよくないですねえ」  この番組を江分利は最高だと思っていた。これぞ�民主主義�と思っていたのである。宮田輝というアナウンサーのキャラクターについては、江分利はどちらかというとあまり好感を持っていなかったが、この番組に関するかぎり実にイイ感ジだった。生意気かもしれぬが聴視者(|受け手《ヽヽヽ》などという訳語もあったね)のひとりとして、進境著しと思っていたのである。あの番組をどこへやったか。公共放送としては、ああいう番組を育てることによって�民主主義�を推進するという方向が望ましいと思うのだが……ともかく、土曜日の晩酌のサカナとして、江分利はいつも腹が痛くなるほど笑ったのである。素人のよさ、日本人のよさを忘れてはならぬ。  つぎに、同じような意味で、江分利の愛し、かつ笑い、かつ憎んでいるのはプロ野球の解説者である。江分利は、これも総合的にいえば素人だと思っている。そのおもしろさ。  最終回の裏、2対2の同点、2アウト走者3塁という場面。かりに投手が巨人軍の藤田だったとする。第1球。直球でまんまんなか。(余談だが、まんなかの直球を、ドまんなかの直球といわないでくれ給え。ドまんなかは関西弁である。ド個性、ド助平も同様である。もし東京弁を標準語と考え標準語を放送局が採用しているとするならば)  さて、これを打者が見送ったとする。解説者はまずこう言うね。 「いや、驚きましたね。いまのはド真中の直球ですよ」 「これはどういうことなんでしょうか」とアナ。 「つまり、これは、|逆の逆《ヽヽヽ》ですよ。さすがにベテラン藤田ですねえ、打者の心理を読みきっています」  これが江分利には分らないのである。どう考えてもわからない。  逆の逆とは何か。逆の逆とはホントである。ホントとは何か。それがわからない。  この場面では、普通ならクサイ球を投げて凡打させるのが常識である。2死だから外野フライでもよい。藤田の武器はシュートである。往年はホップする速球に威力があった。藤田が慶応義塾大学に入り、1年生の夏にアメリカの大学野球と対戦して、神宮で日本選抜軍の投手として出場したときは、あっと驚くようなオーバー・ハンドからの豪速球を投げた。たしかナイターだったと思う。いまは、あの球はない。だからシュートを主体に、スライドして逃げる球を投ずべきではないか。ここでは、打席順や代打者を考慮にいれなければ続けて8球ボールを投げて2死満塁としてもよいのである。従って第1球に真ん中の直球を投げたのは、失投である。おそらく藤田の計算ちがいで、左右どちらかのコーナーを狙《ねら》ったのがはずれたのである。シュートかスライダーがかからなかったのにちがいない。  打者が、外角のスライダーに|ヤマ《ヽヽ》をはっていたところへ真ん中の速球がきて、心理の裏をかかれてハッと思って見送ったとすれば、これは単に「逆」でよい。しかし、まず右でも左でも、あるいは高低いずれかにヤマをはっていたとしても、真ん中の速球(タイミングをはずしたスローボールは別として)がきたら、投手を狙ってはじきかえせるのがプロの選手だろう。  もし、この球をバッターがクリーン・ヒットしてサヨナラ勝ちとなったらどうなるか。 「藤田としては打者の心理の逆の逆をついたわけですよ」 「そういたしますと、バッターの方が逆の逆を読んでいたということになりますかねえ」 「そうです、逆の逆の更にもうひとつ逆を知っとったんでしょうねえ」 「ははあ、そうすると、ピッチャーとしては、さらにもうひとつ逆、つまり逆の逆の逆の逆でいくべきだったんでしょう」  よくこれで会話が通ずるものだと思う。かくして野球解説も江分利にとって抱腹絶倒となるのである。これを野球弁でやるから、実際はもっと愉快である。野球弁とはいかなるものかというと、いまの野球解説者の平均年齢でいくと、彼等の現役時代は、中等学校では九州北部、広島、大阪、近畿、中京地区などが強く、従ってこれらの地方からのプロ入りが多く、集団生活をするから、各地のナマリが自然にまざってしまうのである。博多弁・広島弁・大阪弁・名古屋弁の混合である。「どや、お前、投《ほ》ってみい」「ようシバキよるわ」から急に丁寧な解説用語になるから、どうしても無理が生ずる。  こんなのもある。5回表、走者無死1、2塁。攻撃側は1点リードされている。 「こういうケースの局面の場合あたりでは、当然バンドでしょうねえ」  どうも、これはケースという言葉を使いたいために無理しているとしか思えない。どうしても使いたいなら、|局面《ヽヽ》も|場合《ヽヽ》もやめて、「このケースでは」でよい。  しかし、いったい、バンドとは何事であるか。セ・パ両リーグ、日本社会人野球協会、日本学生野球協会、全日本大学野球連盟、全国高等学校野球連盟、全日本軟式野球連盟の共同|編纂《へんさん》による1963年版『公認野球規則』によれば  二・一三 BUNT「バント」——バットをスイングしないで、意識的にミートした、内野をゆるくころがる打球である。  となっている。  Tを濁って、Dに発音することは、まずあり得ない。こういうことを専門家が素人《しろうと》からたびたび指摘されて、しかも訂正しないのはおかしいと思う。だから野球解説者は総合的にみれば素人なのだ。プロ意識に徹していないと思うのだ。 「ああ、いま水原さんが、ズボンのバンドに手をやりましたねえ、これは、おそらくバンドのサインでしょう」 「なるほど、バンドにバンドですね」  泣きたいよ、全く。水原茂がさわったのはズボンのベルトなのだ。  野球解説者のアクセントや、用語の誤りを指摘したって仕方がないと思われる方もあるだろう。しかし、ことは相対的に、平衡感覚でもって処理したいね。いまや、一億総野球評論家時代である。洲崎《すさき》や上井草《かみいぐさ》の頃とはちがう。野球解説者の言葉づかいはユユシキ問題であるのだ。青少年学徒に与える影響力|甚大《じんだい》といわねばならぬ。前記水原茂が審判に抗議するときに吐くツバキだか痰《たん》だかの量が問題になる世のなかである。  野球解説者にはアナウンサーもふくめて二子山《ふたごやま》親方の愛嬌《あいきよう》がない。若ノ海の体躯《たいく》を「猫の年増《としま》太り」と表現する。絶妙で思わず膝を叩かせる態《てい》のものである。神風の明晰《めいせき》がない。将棋解説者の仏法僧、金子金五郎の筆力がない。アベレージとデータが重要なのに、一部の人をのぞいて勉強がたりない。結果論だけで言う。間違ってもいいから結果の出るまえに自分の意見を言ってほしい。その意味で、江分利がひそかにヒイキにした解説者は現阪神タイガースのコーチ青田昇であった。     ㈼  江分利は東西電機宣伝部野球チームの監督である。  部長・課長・係長以下27名、全員が部員である、女子も応援団員として会費をおさめている。会費のことでいえば、わがEast & West軍の会費はすこぶる高い。最高が毎月5百円、中堅社員が3百円、新人でも2百円である。病気で全然参加できない人でも百円。女子は弁当や菓子を持って応援にきたり、会計係をやらされたりするうえに50円を徴収される。(余談だが、会計係は絶対新人の花の如き少女であらねばならぬ。我が軍は毎月8千円見当のキャッシュがはいるのである。そこへ、時々、赤羽常務、部長、課長から寄附をいただく。宣伝部内の、たとえば宴会をやって余った金などは、鹿野宗孝主将が巧みにかすめとる。だから、結成して5年たった現在では10万円を越す普通預金通帳を保有しているのである。独身男性がこれをあずかることは間違いのモトである。まして世帯持ちはどんなことでどんな誘惑にかられるか、はかり知れぬものがある)  野球部の会費(部費というべきか)を高価にしたことには、江分利の監督としてのひとつの狙いが秘められている。まず、高価であれば否応《いやおう》なしに関心が高まる。そして、当然出席率(出場率かな)がよくなる。草野球ではまず人数をそろえることからはじめなくてはいけない。E&W軍では自家用車(この言葉は少し古めかしいが、今様では何というのか知らない。間借り、寮生活、社宅で車を持っているのは、下の|用車《ヽヽ》はわかるが、上の|自家《ヽヽ》の2字にどうもヒッカカル)を持っているのが3人いる。これが用具運搬係である。この手当は会費から支給する。その他、私鉄ストなどの際のタクシー代も支給する。従って出席率がよくなる。  資金が豊富だから、ボールが叢《くさむら》に入って捜索困難と判断したときは、江分利が大声を発して拾いに行かせない。相手チームに賞品を贈る。試合終了後は小宴会を催す。納会では馬鹿騒ぎできる会場をえらび、優秀選手を表彰する。万事につけてゼイタクである。何故か。東西電機のように急上昇した会社の仕事は、まことに激務である。会社がどんどん発展するのだから、楽しい、ユカイな忙しさであるが、忙しさには変りがない。新製品で押しまくるから、勉強もたいへんである。だから、日曜日の野球は、あくまでも遊びであって、仕事のじゃまにならぬよう、心理的にもゆったりとしてもらいたい、というのが江分利のねがいなのだ。雑用もほとんど自分でひきうける。監督だから、独断独裁軽挙|妄動《もうどう》をモットーになんでもひきうけるが、時々の失敗も許してくれと部員に言ってある。そして部費は少しゼイタクに使う。部費で思いだしたが、結成当時はその調達に苦労した。江分利はトトカルチョや賭《か》けを利用した。たとえば、日本シリーズでは何勝何敗でどちらが勝って最高|殊勲《しゆくん》は誰といった賭けを1口百円で募集するのである。これは簡単で、当りそうな錯覚をだれでも抱《いだ》くが実際は非常にむずかしいのである。正解がなければ球団で没収、正解者は配当金の2割をテラセンとして球団に寄附するのである。これでずいぶんもうけた。たとえば、これは一例にすぎないが、大毎ミサイル打線とヨロメキ初優勝の大洋とがぶつかれば、まず7割が大毎に賭けるのが常識である。大洋に賭けても、4=3、4=2というところである。ところが、ご存じの通り大洋のストレート勝ちという意外また意外の結末である。これを当てたのは、野球を全く知らぬ杉木カメラマンだった。彼はあいているところへサインしただけだ。球団はもうからなかったかというと、そうではない。杉木カメラマンが最高殊勲選手を近藤|昭仁《あきひと》といいあてるのは無理だ。つまり、この種の賭けはいかにも当りそうでいて野球通にも素人にもなかなか当らないのである。江分利はまた、デパートの玩具《おもちや》売場をのぞいて、新作のゲームを買ってきた。ゲームは単純で短時間で勝負がつくものの方が面白い。これに1回10円の使用料をとるのである。うまくあたると、経理課や営業からも昼休みに借りにくる。部員が監視して使用料を徴収する。スマート・ボールと撞球《どうきゆう》をまぜた、なんとかボールという、名前はもう忘れたが、そのゲームは大当りして重役室が秘書を通じて借りにきたくらいだから豪気なもんだった。坂根進がロンドンで買ってきたダーツ(dart投げ矢)も当ったね。但《ただ》し、当りすぎると江分利は叱られやしないかと思ってヒヤヒヤした。叱られたことは1度もない。東西電機のような上向きの会社で、従って若い社員、若々しい重役の多いところでは、仕事に気合いがはいっていてしかも笑いがうずまいているから、妙な気兼ねはいらなかったのだ。もちろん、野球部の資金が潤沢となった現在では、もうそんなことはやらない。  草野球必勝法について書く。  必勝法といっても相手方に高校時代野球部のエースなんてのがいたら勝てっこない。あくまで、まあチョボチョボという場合である。  草野球の監督のつらいところは、やってきた全員を出場させねばならぬという点である。13人、18人、23人、いずれの場合も全員出場ということがまず前提である。しかも草野球は大体は7回戦である。投手戦でタンタンと進むなんてときは、焦《あせ》るね。しかし、この全員出場は相手方も同じ条件である。ここに機微が存するのである。  投手にはコントロールのいい奴と、ヒネクレ球の持主の2名を用意する。前者が先発であり、丹念に内外角の低目を狙わせる。外野フライ落球というケースが多いからである。4球を出さないこと。ピンチに強打者をむかえたらヒネクレ球を出す。E&W軍には左腕でアンダースロー、ナチュラルシュートという妙なのがいる。無死、2、3塁というケースで4番打者をむかえたら、敵は気負っているからヒネクレの悪球に手を出すのである。ピンチを逃《のが》れたら、すぐもとの投手にもどす。  強肩・好守を3塁に置き、ベースより2メートルまえで守らせる。当りそこねと浅い邪飛の処理である。  1塁には性格的にガメツイ奴、闘志のある者を置く。ポロリを防ぐためである。  捕手に忍耐力のある者。弱肩でもよい。草野球では2盗を刺せぬ、と考えた方がよい。  あとのポジションにも、それぞれ意味があるが、まあ、バッテリーと3塁、1塁が基本である。布陣はこれでよい。  課長、係長だからといって、よいポジションをあたえるのはよくない。と、まあ常識では考えるだろうが、ドッコイそうはいかぬ。逆の逆でいく。管理職にある者の責任感をフルに利用しなければ損である。特に、バッティング・オーダーでは3番4番を管理職におくとよい。何故なら、責任感と気力が草野球では好打をよぶのである。1死3塁という局面で課長を代打に起用すれば、セカンド前にゆるいゴロを打って走者を還そうとする。課長の神経とはそういうものなのだ。これは一種のファインプレーである。若い社員は、気負って3振ということが多い。  草野球の球場はふつうは右翼がせまい。原則としていちばん守備のまずいのが右翼を守る。だから全員に右翼打ちを奨励する。といえば、いかにももっともらしく聞えるだろうが、バカなことをいっちゃいけない。右翼打ちができるくらいなら、もう草野球ではない。右翼がせまく、右翼手が下手だと見てとったら、チャンスに、やや振りおくれ気味の右打者を代打にたてる。これが監督の任務である。それ以上は不可能である。  江分利が3塁のコーチャーズ・ボックスからだすサインは2種類しかない。盗塁と、バッティング・チャンスに打つか打たないか、だけである。盗塁は牧野、麻生《あそう》、坂根の3選手にはサインを出さない。3人とも俊足だから、自由にやれ、といってある。牧野、麻生は短距離の選手であり、坂根はそれほど早くないが投手のモーションをぬすむのが実に巧みである。野球|勘《かん》を持っている。ノー・トゥ、ワン・スリーに打つか見送るか、のサインをどうやっておくるか。これを看《み》やぶられたら一大事だ。江分利は、たえずコーチャーズ・ボックスで大声でわめきたてて、手を叩いている。「負けるな、負けるな!」「いい球を逃すなよ」「狙え、狙え!」「むかっていけよ!」「目をはなすな!」それと拍手、たえず手を叩いている。バッティング・チャンスだが、相手投手が乱れている、もっと投げさせて疲れさせたほうがよい、走者をためて逆転、といったときには、大声で叫びつづけるが、手を叩かないのである。従って打者は江分利に全く無関心をよそおっていてもサインは分っている。「いいか、いい球狙えよ!」「クサイ球でもひっかけろ!」と怒鳴っているが、実際は見送るわけである。  草野球では監督の指示はこの程度でよい。ヒット・エンド・ラン、スクイズ、送りバントなどは、むしろ無意味で、のびのびと打った方がよい。  相手チームが味方よりも少し強いときはどうするか。勝てるか? 勝てるのである。守備練習、打撃練習を見てこれはイカヌと思ったら、江分利は前の晩に寝ずに考えたオーダーを急遽《きゆうきよ》変更する。つまり、ワザと弱体のメンバー表をつくるのだ。当然、リードされる。4回までは辛抱する。時には5回までガマンする。相手チームはE&W軍を見て笑いだすのである。そしてエースをベンチにひっこめたらしめたものである。先方にも全員出場という弱味がある。クリーン・アップの2人を変えるのを待つ。ベンチで控えている選手に「7点までは大丈夫、必ず逆転するよ」と囁《ささや》く。5回または6回、突如、我が軍は精鋭をくりだすのである。2死満塁に坂根進を代打に起用する。彼は好球がくれば左打ちでもオーバー・フェンスという打力をもっている。この手で奇勝したことがずいぶんある。従ってスコアは、18対17、13対11などという凄《すご》いことになる。但し、この戦法は初顔合せでないと通用しない。  東西電機宣伝部の全員が野球部員である。だから、この人がというようなのがユニフォームを持っている。 「江分利さん、ピッチャーと捕手は味方同志ですか?」  なんていわれると、泣きたくなるが致し方がない。江分利としては、こういう選手にヒットを打ってもらいたいのである。それが最大の喜びである。 「あのう、ユニフォームをつくってもらったのですが、軟式ですか?」 「軟式だよ」 「そうすると、巨人や南海のつかっているボールとちがうのですか?」 「ちがうよ」 「ははあ、そうすると、子供が公園でやってる、ゴムにイガイガのついてるヤツですか?」  ゴムにイガイガがねえ、まあ、そういうことになるかなあ。  だから、デザイナーで2塁手の柳原良平が26打席連続3振(現在までのプロ野球公認記録は東映高野投手の12打席連続3振である)の記録に終止符を打って右前に快打して、1塁ベースに仁王立ちになったときは、E&W軍のベンチは坂根進のホームランよりも沸きたって、握手攻めで試合は一時中断されたのである。ほんとうに涙ぐんで喜んでいる奴もいた。江分利としては、涙ぐんだ奴がいることを発見したことの喜びの方が大きいのである。  野球と会社の仕事とは無関係ではないと江分利は信じている。右の事件でもわかるように、このチーム・ワークは仕事に生かされる、と信じている。だから、新入社員はムリにでも入団させるのである。ただし、会社の仕事、つまりビジネスとそれ以外のオツキアイとは別物だという意見も、サラリーマンとしては立派な考え方だと思っている。これは江分利とは逆の生き方であるが、尊重したいと考える。ムリヤリといっても、そのへんの判断がむずかしいところだ。オツキアイは嫌《いや》だという個性的な生き方を逆の意味で江分利は愛しているのである。  江分利は宣伝部チーム結成以来、1度も休んだことがない。どんな宿酔《ふつかよい》でも参加する。内職の小説や随筆の締切があって徹夜しても、そのままかけつける。夏の暑いムンムンした太陽の下でも人数が足りなければ外野を守る。全軍を叱咤《しつた》する。倒れてのちやむの精神でがんばる。クラクラする。投手が2人に見える。しかし、しかしだ、試合終了後に両軍で飲むビールの味を江分利は知っているのだ。だから、彼はがんばっているのだ。 [#改ページ]  すみれの花咲く頃     ㈵  テレビジョンの発達により、見たくない顔を見せられるということがある。見たくない顔は自分の顔であるということもあり得る。演技力充実して時に主役を演ずる映画俳優が、深夜劇場といった番組で10年も前の自分の拙劣な演技を見せつけられるのは苦痛であるという。  江分利にも、それがある。それのひどいのが葦原邦子《あしわらくにこ》さんと轟《とどろき》夕起子さんである。  葦原邦子さんのことをアニキといっても通じない人がふえてきたろうが、あの人はアニキなのである。  轟夕起子さんに関していえば、江分利は少年時代、あんなに美しい人がこの世に同時代に存在しているという事実に感動したものだった。『宮本|武蔵《むさし》』のお通や、『姿三四郎』の娘役では、女が花やかに匂うようであった。こぼれ、あふれるような美しさに息をのんだ。  いまの葦原邦子さん、轟夕起子さんが美しくないというのではない。しかしまた抗しがたい年輪も否定できぬ。葦原邦子さんがテレビの料理の番組に出たり、コマーシャルをしゃべったりするのを見るのは、江分利にとって少し苦痛である。葦原邦子(アニキ)という存在は、もっと華やかな金粉をあたりに撒《ま》きちらすような何かだった。江分利は葦原邦子さんのファンではなかったが、「憧《あこが》れ」とか「夢中」とかいう言葉があって、ある種の女性が当時そういう感情を同性の彼女に抱《いだ》いてもちっとも不思議ではないと思われる何かを葦原さんは身につけていた。当時を今から30年前の昭和8年としてみると、その頃葦原さんに近づくためにある種の女性はさまざまの工夫をしたのである。葦原さんが可愛がっている若い生徒のファンになり、まずその人に接近して、しかるのちという敵は本能寺型があり、東京駅での送迎というときに若い生徒のそばについていれば自然に葦原さんに接触できるわけである。楽屋番のおじさんを買収するなんてこともあったらしい。 「すみれの花咲く頃」という歌の歌詞をご存じかね。東西電機の宴会における江分利満氏のただひとつのレパートリーだから、これだけはしっかり憶《おぼ》えている。「すみれの花咲く頃」は宝塚少女歌劇の昭和5年8月公演のレビュー『パリゼット』の主題曲であり、白井|鉄造《てつぞう》の帰朝|土産《みやげ》で空前のヒット作として8月9月10月の3カ月続演となった。(余談だが東京宝塚劇場が落成したのは昭和9年である。それまでは東京で公演するときは市村座・邦楽座・歌舞伎座・新橋演舞場を使っていた。これも余談だが東宝という会社は、東京宝塚の略称である。東京も宝塚も地名であり、従って新潟東宝映画劇場というコヤがあるとすればニューヨーク・シカゴ・サンフランシスコ劇場というように地名が3つ並んでいるわけである。こりゃ愉快)『パリゼット』の前に当ったのが同じく新帰朝岸田辰弥作の『モン・パリ』で、昭和2年の月花組公演で10月雪組公演とひきつづき上演された。『モン・パリ』が日本のレビューの型をつくり『パリゼット』『花詩集』『プリンセス・ナネット』で一応の完成をみたといえるのではないか。第一、それ以前にはレビューという言葉はなく、歌劇、喜歌劇、ダンス、お伽《とぎ》歌劇、舞踊劇舞踊、新歌舞劇、振事劇、夢幻的歌劇、童話歌劇、児童用神話劇、諷刺《ふうし》歌劇、バレー、高速度喜歌劇としかいわなかったから『モン・パリ』が本邦レビューの嚆矢《こうし》といってよいと思う。  さて「すみれの花咲く頃」であるが、この歌のまえに前説みたいなものがあったのをご存じでしょうか。これは草笛|美子《よしこ》なのか、三浦時子なのか、橘薫《たちばなかおる》なのか、葦原さんなのかよくわからないが、前説をいった時代があったことは確かである。これは春日野《かすがの》八千代ふうの正調宝塚ブシで読んでもらいたいね。シルクハットに燕尾服《えんびふく》、ステッキを持った男(実は女)が舞台へ出てくる。ステッキをくるくるっと廻してほうりなげ、わざと危なっかしく受けとる。(このへんで、キャーという歓声があがる)受けとった所がちょうどマイクロホンの前という演出。 �春が来て�(ハアルが来てという調子)桜の便り訪ぬる人はあれど(あくまでも女がせいいっぱい男ぶるという口調で続けてください)北向きの深い竹藪《たけやぶ》の陰に、紫|菫《すみれ》がそっと咲いて寂しく微笑《ほほえ》んでいるのを誰も知らない。うつむいている花びらをあおむけてみると、花はおだやかに静かにゆれる。そのひともとを採り、花にある感謝を捧《ささ》げよう。(これが前説)   (歌詞)   春、すみれ咲き春を告げる   春、何ゆえ人は汝《なれ》を待つ   たのしく悩ましき   春の夢甘き恋   人の心よわす   そは汝、すみれさく春   すみれの花咲く頃   はじめて君を知りぬ   君を想い日|毎《ごと》夜毎   悩みしあの日の頃   すみれの花咲く頃   今も心をふるう   忘れな君 われらの恋   すみれの花咲く頃  江分利はひどい音痴であるが「すみれの花咲く頃」に関していえば、もしそれが彼の絶好調の日であるならば、ほぼ間違いなく音程をはずさずに歌うことができる。  なぜかというと、江分利は昭和21年の春に夏子と知りあい24年5月28日に結婚するまで、毎日のようにこの歌を歌ってばかりいたから自然に歌えるようになったのである。ただし憶《おぼ》えるまでに1年以上かかり、何度も何度もなおされた。夏子の出身校である都立第1高女(今の白鴎《はくおう》高校)は上野の音楽学校が近いせいか、音楽がさかんで夏子の少女時代の夢は結婚して旦那と2部合唱することであったらしい。生涯《しようがい》のツレアイが江分利と決定したときは、ほんとにガッカリしたという。「すみれの花咲く頃」のほかにショパンの「別れの曲」も歌ったが、これは遂に�歌える�という域に達しなかった。   わが心 捧《ささ》げん   君よきき給わずや   そなたに   (中略)   恋に狂う胸よ   君去りし嘆きよ   あい見る日   またなしと  この�恋に狂う胸よ�という所が全くもって高い調子で、江分利が歌うと絶叫に近くなる。「別れの曲」は出だしが非常に低く、間でヤケッパチみたいに高調し、最後はションボリという曲だから江分利にマスターできるわけがない。 「すみれの花咲く頃」は草笛美子、葦原邦子という旧タカラヅカ調でやってもらいたいね。葦原さんはたっぷりと歌う。�聞かせる�のである。日本的情緒がある。和洋折衷の粋である。昔のタカラヅカ調にはこちらの心をすっかり許してもいいような安心感があるところがウレシイ。たとえば、いまから30年前の小夜《さよ》福子には�音痴|可憐《かれん》�といった趣があり、だいたいこの生徒は舞台でトチッたりするのが可愛いというので人気がでたのである。小夜福子の歌というものを聞いたことがないが、あの声帯に江分利は親近感を感ずる。�サヨフクコハオンチダッタノデハナカロウカ�と想像するだけでぞくぞくっと嬉しさがこみあげてくる。だいたい、今、舞台でトチッて立往生して、それで人気がでるという女優さんがいるだろうか。そういう雰囲気《ふんいき》のステージがあるだろうか。有馬稲子さん(現在の)という映画女優が舞台に復帰してトチッて立往生したら、たちまち叩かれるだろう。新聞や週刊誌の劇評欄・ゴシップ欄・読者の投書欄などが容赦なくやっつけるだろう。これは正しいことなのである。お客は入場料を払って見にきているのだから、当然のことなのである。小夜福子さんをからかったり、ふざけていっているのではない。小夜さんには立往生してもかまわないような女優さんとしてのサムシングがあった。そういう時代でもあった。そうしてそれがタカラヅカであった。 「すみれの花咲く頃」はご承知の通りもとは「リラの花」というシャンソンであって、男の歌う歌である。テンポも早いし、シャンソン特有の孤独感があり同時に歌としてもなかなかにきびしいものをもっている。それが宝塚になり葦原さんが歌うと俄然《がぜん》ふっくらとしてしまう。情緒たっぷりとなる。ウットリとさせる。葦原さんは別のヒット曲「鈴蘭《すずらん》の歌」を歌うときはスズランの|ラン《ヽヽ》の所を今でも実に色っぽく可愛らしく歌う。この独特の可愛らしさは「雀《すずめ》百まで……」という感であって、だから江分利はラジオで葦原さんの歌の番組があれば万難を排しても聞くということになる。但《ただ》し、テレビはどうも少し、いけない。江分利にとって葦原さんのテレビ番組がすこし苦痛であることをわかっていただけるはずだと思うのだが……  2年前の11月2日の夜、江分利はブルー・リボンのカウンターのすみっこでウイスキーを飲んでいた。11月3日が誕生日である。あと2時間で35歳になる、とぼんやり考えていた。  すると、突然、江分利の耳もとでシャンパンが鳴り、バンドが「ハッピィ・バースディ」を演奏し、客が全部立ちあがって拍手した。視線が全部江分利に集まる。ミチヨがシャンパンの瓶《びん》を持ってにっこり笑う。遠くでマスターが軽く頭をさげる。すこし前にミチヨに明日で35歳ということをしみじみした口調で言ったが、そのしみじみがいけなかったと思う。ブルー・リボンでは常連の誕生日を憶えていてシャンパンをサービスするのは知っていたが、誕生日は翌日であり祭日であるから、そういうつもりで言ったわけではない。それに江分利は内職の小説を書きはじめたばかりの頃で、東西電機の係長という地位では酒量は別として、常連とはいっても決していい客ではない。酒品のわるいことでも定評があった。  そこへ宝塚のマキ・カツミさんとコノハナ・サクヤさんが入ってきた。  そうして、その夜は江分利が主役という形になってしまったから、マキさんとコノハナさんが両脇に坐るということになって、ついにマキさんが江分利のために「すみれの花咲く頃」を歌うという段にまで発展してしまった。マキさんもコノハナさんも翌日の舞台があるからジュースとコーラだけだったが話がそういう具合に発展してしまって、つまり江分利が「すみれの花咲く頃」を愛好する話をして、まわりにいた悪い奴等がシツコクけしかけるというふうになって、遂にマキさんは止《や》むを得ずバンドの前に立つということになったのである。江分利にとっては嬉しいことではあったのだが、なんといってもいかに親しいうちうちの客ばかりではあっても酒席で歌うのは違法であり、特に公演中でもあるのでマキさんの辛《つら》さがよくわかり、誠に心苦しいことであった。  しかし、いったんマイクの前に立つと、こぼれるような笑顔になる。  そうしてマキさんの歌い方は、葦原さんともシャンソンとも違っていた。テンポが早く、明るく、軽快で、はなやかであった。アメリカのジャズに近い感じだった。ジャズといったって種類が多すぎて江分利にはどれと指摘することはできないが、なんとなくジャズ化されているという印象をうけた。どうもこれは35年8月の『華麗なる千拍子』を頂点とする最近の宝塚の傾向であるように思われた。『華麗なる千拍子』も寿美《すみ》花代という人も古くは越路吹雪という人も、マキさんの「すみれの花咲く頃」も、ある意味では江分利にとっての�タカラヅカ�ではなかった。寿美さん、越路さん、マキさんという人も、1人前のちゃんとした�女�であり、芸能人であり、そしてタカラジェンヌではないように思われる。     ㈼  そもタカラジェンヌとは何者ぞ。  昭和8年の宝塚少女歌劇の生徒と所属は次の如きものである。 (花組) [#2字下げ]奈良|美也子《みやこ》、村雨《むらさめ》まき子、秋月さえ子、岡|真砂《まさご》、大町かな子、故里《ふるさと》しのぶ、桜|緋紗子《ひさこ》、水乃也《みずのや》清美ほか25名 (月組) [#2字下げ]小夜福子、巽寿美子《たつみすみこ》、伊吹《いぶき》かく子、雲野かよ子、富士野たかね、社《やしろ》敬子、梢音羽《こずえおとわ》、御《み》手洗《たらい》みどりほか24名 (雪組) [#2字下げ]桂《かつら》よし子、千早《ちはや》多津子、雪野富士子、初音《はつね》麗子、室町《むろまち》良子、汐見《しおみ》洋子、松山|浪子《なみこ》、錦《にしき》あや子ほか23名 (星組) [#2字下げ]門田芦子、速水《はやみ》岩子、嵯峨《さが》あきら、春日野八千代、園井恵子、尾山さくら、糸井しだれほか26名 (声楽専科) [#2字下げ]三浦時子、橘薫、草笛美子、明津麗子、葦原邦子、大空ひろみ、高千穂峯子《たかちほみねこ》、轟夕起子、芝恵津子ほか25名 (ダンス専科A組) [#2字下げ]夏木てふ子、加茂《かも》なか子、京極|多哥子《たかこ》、佐保《さほ》美代子、通路吹子《かよいじふきこ》、早瀬千代子、梅野愛子ほか35名 (ダンス専科B組) [#2字下げ]関洋子、小桜咲子、玉川清子、月影|笙子《しようこ》、霧立のぼる、秩父《ちちぶ》晴世、逢阪《おうさか》せき子、玉津|真砂《まさご》ほか36名 (ダンス専科C組) [#2字下げ]田子宇羅子《たごうらこ》、丘みどり、松野友子、神代錦《かみよにしき》、浦妙子、明野まち子、朝霧優子、夏野陽子ほか34名 (舞踊専科) [#2字下げ]天津乙女《あまつおとめ》、花里いさ子、御幸《みゆき》市子、保良さよ子、若水幸子、小松歌子、直木真弓、玉虫光子ほか23名 (本科) [#2字下げ]月岡康子、松藻《まつも》さつき、桜町|公子《きみこ》、山部志賀子、海原《うなばら》千里、春江ふかみ、美吉佐久子ほか37名  すぐにお気づきのことと思うが、このなかには現在も宝塚少女歌劇団員として活躍中の諸嬢がおられるのである。  大正7年12月文部省私立学校令によって認可された「宝塚音楽歌劇学校規則」第6章第9条によれば本校ニ入学ヲ許可スベキモノハ身体健全品行方正年齢13歳以上19歳|迄《マデ》ノ女子ニシテ尋常小学校卒業者|若《モシ》クハ同等以上ノ学力アリト認ムルモノとなっており第2章第2条によれば音楽普通ノ智識技能ヲ養成スルヲ目的トシ修業年限ヲ1ヶ年トスという予科と音楽及歌劇専門ノ教育ヲ授クルヲ以テ目的トシ修業年限ヲ1ヶ年トスという本科を卒業して研究科に入らなければ舞台に立てないわけだから、ここに名前をあげた諸嬢は昭和7年当時ですでに最も若い人で15歳以上であらねばならぬ、従って昭和38年現在でいうならば数え年の45歳、満年齢の43歳を免れ得ない。実際は、だから50歳ちかい人、もしくは50歳を越えた人ということが可能性としては充分に考えられるわけであって、それがつまりタカラジェンヌなのである。  宝塚少女歌劇団は|少女《ヽヽ》の集まりであり、前記音楽歌劇学校規則第9章生徒心得及処分第21条本校生徒ハ志操ヲ堅固ニシ専心技術ノ上達ヲ計リ常ニ奮励努力ノ精神ヲ忘ルベカラズ、第22条礼儀ヲ重ンジ以テ本校生徒タル本分ヲ全フシ苟《イヤシク》モ軽佻《ケイチヨウ》浮薄ノ挙動アルベカラズ、第23条本校生徒ニシテ規則ヲ遵守《ジユンシユ》セズ若クハ本校ノ体面ヲ汚ス行為アルトキハ譴責《ケンセキ》停学若クハ退学処分ヲ行フという条令、および「清く正しく美しく」というモラルからしても、タカラジェンヌたるものは絶対に処女であらねばならぬ。未通女《むすめ》であらねばならぬ。  すると、タカラジェンヌとは、50歳以上の処女数人、40歳代の処女10数人、30歳代の処女数10人および20歳代、10歳代の処女無数という女の集団であることが常識的に考えられる。  これはちょっと妙なことではないかね。ちょっとおかしいとは思わないかね。  わが愛する株式会社東西電機の独身寮は30歳未満の童貞(と信じたいね)の集団である。しかし50歳以上、40歳代というものはいない。それでも江分利は妙にナマグサイ集団というふうに認識している。付言するならば、江分利満が22歳で結婚したことを想起せられたい。  タカラジェンヌとは言葉の厳密な意味における脚光を浴びた美貌の処女の集団である。奮励努力ノ精神、志操堅固の集団である。たとえば声楽専科において実名をあげた9人の処女の名をもう1度読みかえしていただきたい。ここには一種の黄金時代がある。声楽専科というひとつの科をとってみても、いまの映画会社1社の女優さんに匹敵《ひつてき》するだけの美貌と才能と素質とがある。288人の美貌の処女の集団というのは実にナマグサイとは思わないかね。そのなかの何人かがまだ処女のままで現存していることに不思議を感じないかね。  そうしてそれが江分利にとって日本の昭和8年および10年代の半ばまでという年代における何かであったような気がしてならぬのである。  宝塚には結婚したら退団せねばならぬという不文律がある。女の歌劇なんだからね。江分利の仲のよい40歳に近い生徒さん(特に名を秘す)がしんみりした口調で言った。 「エブちゃんねえ、私にも縁談がずいぶんあったのよ。それと好きな人が、そう、3人はあったわね。チャンスが3回あったのよ。だけど結婚したらやめなきゃならないでしょう。ずいぶん考えちゃったわ。やっぱり宝塚の大きい舞台ってのは魅力があるしねえ、それにもっと踊りも歌も勉強したかったのよ。それはそれで楽しいことなんだけど、だけど、もう駄目ねえ」  これが�清く正しく美しい�タカラジェンヌである。江分利には、しかしこれが戦前の「日本」であったような気がしてならぬのである。     ㈽  そも宝塚とは何者ぞ。   小さな湯の街《まち》宝塚   生れたその昔は   知る人もなき少女歌劇   それが今では   青い袴《はかま》と共に誰でもみんな知ってる   おお宝塚 TAKARAZUKA   おお宝塚 我があこがれの美の郷《さと》   幼き日のあわき夢の国   歌の想出もなつかしき   おお宝塚 TAKARAZUKA   朱塗りの反《そ》り橋長い廊下   三人猟師落ちた雷   忘れ得ぬ昔の想出よ   されど今もなお   宝塚の歌きけば懐しい思いは同じ   おお宝塚 TAKARAZUKA   おお宝塚 我があこがれの美の郷   幼き日のあわき夢の国   歌の想出もなつかしき   おお宝塚 TAKARAZUKA          (『パリゼット』より)  宝塚少女歌劇の第1回公演は大正3年4月1日宝塚新温泉のパラダイス室内水泳場の脱衣場であった。北村季晴作歌劇「ドンブラコ」本居《もとおり》長世作喜歌劇「流れ達磨《だるま》」宝塚少女歌劇団作ダンス「胡蝶《こちよう》の舞」となっているが、江分利は行ったことがないが、当時は船橋ヘルスセンターと大差はなかったように思われる。  東京公演の最初は大正7年5月の帝国劇場で玄文社発行の婦人雑誌「新家庭」が後援した。  大正7年の末に宝塚音楽歌劇学校が組織され文部省の認可を受ける。  大正8年、最初の地方公演。(名古屋)  大正9年、花組月組ができた。  大正11年、宝塚大劇場|竣工《しゆんこう》。  大正15年、前記『モン・パリ』の画期的大成功。  昭和3年、白井鉄造、堀正旗、井上直雄の3氏が欧米に出発。  昭和9年、東京日比谷原頭に250万円の巨費を投じて東京宝塚劇場が落成する。  かくして宝塚少女歌劇団は日増しに強大となり数多《あまた》のスターをうむのである。  短い青い袴をはく。従って一種のツンツルテンスタイルである。従って袴のすそと白い足袋の間に素足がみえる。これがミメウルワシクナイ女性たちを泣かしたんだね。  江分利はほんというと宝塚はそんなに好きじゃない。子供のときに見た三浦時子、橘薫、草笛美子、葦原邦子というものは圧倒的だった。日本の戦前の少女たちが圧倒され、泣いた気持はよくわかる。葦原邦子というのは男装の麗人で、だからアニキといわれたんだろうが、それでいて実は女性的な女性であった。うしろをむくと断髪がカールしてある。オシリが大きい。従って燕尾服《えんびふく》を着てもオシリも脚《あし》もパンパンにはってしまう。しかし、それでいいのである。あんまり男っぽくても、観客席の少女たちは困るのである。宝塚というものは日本の戦前の少女たちにとってちょうど�いい頃あい�だったのではないか。  江分利は子供のとき、親類の娘やなんかに連れていかれた。ものごころついて、性にめざめてからは恥ずかしくって行かれなかった。だいたい東京宝塚劇場の脂粉の匂いというものがなんともたまらなかった。  昭和19年、江分利は関西旅行をして、これが見おさめという思いで宝塚大劇に入ったら『科学者ベル』という芝居みたいなものをやっていて、彼は10分も見ることができないで飛びだした。「メリーさん、ぼかぁ貴女を愛してるんですよ、ねえ、メリーさん」というような白《せりふ》に耐えることは誰でも困難だったろう。金を払って劇場へ入って10分で飛びだしたということはあとにもさきにもこの時だけだった。それに江分利には出てくる人(全部女優)がみんな同じ顔をしているように思えたのである。  戦争が終って昭和22年4月というような記憶があるが、江分利は妹や近所の娘を引率してタカラヅカへ行った。当時、東京宝塚劇場はアーニー・パイルであって、主として劇場は日劇、帝劇、江東劇場を使用していた。そのときが『ファイン・ロマンス』であったと思う。『ファイン・ロマンス』の舞台もやっぱり江分利に戦争の終結を感じさせた。戦争が終ってみてはじめてきいた「メリーさん、ぼかぁ貴方を愛してるんですよ、ねえ、メリーさん」は不思議な安堵《あんど》感を江分利にあたえた。ああああ、これが日本なんだな、日本がかえってきたんだな、ああああ、平和がやってきたんだなあ。  昭和25年の、これも4月だったと思う。その時の帝劇で上演されたタカラヅカの『春のおどり』はちょっとよかった。特に「筏《いかだ》流し」を歌った越路吹雪がまことに颯爽としていた。   筏乗りさんよ   筏乗りさんよ   たもとが濡《ぬ》れる たもとが濡れる   借りてあげましょう 縄だすき   筏流しの 唄をうたうよ   背戸のと一は 北山よ   筏流しの   唄をうたうよ  おそらく、この歌からある種のフンイキを感じてジンとくる女性が何人かいらっしゃると思う。江分利の「筏流し」に対する感情は『ファイン・ロマンス』は平和の再来であったが「筏流し」からは�タカラヅカ�の崩解を感じたのである。とにかく越路吹雪さんというタレントは圧倒的であって、当時すでに宝塚とタカラジェンヌからはみだしていた。コーちゃんという人は宝塚ではない。そうしてここから日本のミュージカルがはじまるように感じたのである。  宝塚というものは、なんといっても倒錯性欲の、日本の戦前の押えつけられた女性のエネルギーの結晶である。そのことは、退団した何人かの生徒からきいた。つまり変な妙な性欲の代償とされ、あがめられていたことを彼女たちも自覚していたという。そんな妙なことが続くわけがない。そうして昭和8年から昭和の半ばまでが、その倒錯の結集の黄金時代だったのだ。  さようならタカラヅカ  さようなら古い変なニッポン  さようなら妙なレビュー  江分利は「筏流し」を歌う越路吹雪を客席の最前列で見あげながら、そう思ったのである。 [#改ページ]  女     ㈵  東西電機株式会社の社内報『芽ばえ』の昭和38年正月号に�わたしの初夢�という企画があって、10人がそれぞれの年頭における希望を書いている。  社内報の原稿依頼は、このようにアンケートにちかいものは適任者に書かせるものではなくて、たとえば社員証明書の番号の下2桁《けた》が25番の人に依頼するといったやり方であるから定年ちかい人や新入女子社員にも当り、それが一種の社内報らしい独特の雰囲気をつくっている。  江分利は社内報を読むのが好きである。こんなに楽しい読みものはない。第一に文章に熱がはいっている。社内で意外な才能や趣味を発見するのも楽しい。仕事の鬼みたいな課長が吉永小百合の熱烈なファンであることがわかったりする。電話のかけ方とか、商業文の書き方とかいう実用記事も『芽ばえ』はよくできている。連載中の�私の新婚旅行�という企画もいいと思う。戦前の結婚と戦後の結婚、最近の独身社員の考え方が自然ににじみでているのがよい。40歳以上の部長クラスの抑制のきいた文章にはいつも頭がさがる。控え目の文章で、しかも何かを言うのは大変なことだ。 �わたしの初夢�には、5坪の家を庭に建てて今年こそは完全独立の部屋をもちたいという25歳の女子社員や、富士山の頂上で罐《かん》ビールを飲みたいという無邪気なのや、売上げ2割増の遂行、ヒューマン・リレーションの確立などという仕事一点ばりの係長もいる。  江分利の書いた�わたしの初夢�は、つぎのようなものである。 「今年こそ、念願の�大日本酒乱之会�の結成を実現したい。もし松野課長、岸田課長がご入会されるなら、会長・副会長をやっていただいて、私はただの会員でいい。  それから�全老連�を結成し、これは私が会長になり絶対に誰もいれてやらない。�全老連�とは�全国|老嬢《オールド・ミス》擁護連盟�の略称である。世の中でもっとも哀《かな》しいのは28歳を過ぎた処女の心情ではありますまいか。いったい年増《としま》の処女は、今後どうやって一生を送るつもりなのだろうか。私は断乎《だんこ》として、これらの女性たちの味方になり、なぐさめはげます長崎の鐘となるつもりである。  3番目の希《のぞ》みは�病院ホテル�の経営である。私は、最近めっきり身体《からだ》が衰えた。胃弱と神経と低血圧である。こういう症状では、せっかく病院へ行っても、あ、神経ですね、気にすることはありませんよ、でかたづけられる。これでは困るのである。神経衰弱が高《こう》ずるのである。そこで�病院ホテル�といった式のものをつくる。普通のホテルと全く同じであるが、午前11時と午後7時に回診がある。威厳のある内科の医長と、医療器具と薬をのせたワゴンを押してくる看護婦数名、および坪内|美詠子《みえこ》か三宅《みやけ》邦子か水戸光子といった感じのものわかりのよいオバサマで帽子に黒筋を3本いれていかにも婦長らしき様子の女性が1名。ものわかりがよいといっても長岡輝子さんや北林|谷栄《たにえ》さんのタイプは行き過ぎである。看護婦数名は20歳前後であって、つつましやかで動きは敏捷《びんしよう》、しかも美貌であって、どうみたって白衣の天使、あるいは月よりの使者という感じであらねばならぬ。婦長も看護婦も実際は病気のことを知らなくてもよい。ムードが大切なのである。演出である。婦長役は、どこも悪くなくても、どうぞお大事にと言ってベッドの裾《すそ》を軽くおさえるという動作に習熟せしめる。もっとも美貌の、キャバレーではナンバーワンと呼ばれるような看護婦は優しくほほ笑んで寝ている患者あるいは単なるお客さんにおおいかぶさるようにして枕を直すのである。この動作だけできればよい。ゲルランのミツコまたはランバンのマイ・スィンかアルページュをほんのり匂わす。体臭のそもそもかぐわしい女性ならマイ・スィンは香水でなくオーデコロンであったほうがよい。こうなれば、患者として回診が待遠しくてならぬようになる。毎日すこしずつよくなってゆくような錯覚と安心感がある。この錯覚と安心感はノイローゼにはたいへんよろしい。逆に�こりゃ有難《ありが》てえな、俺はいつ死んでもいいわ�という心境になれば、これも成功であって、いったい殺すのか生かすのかわからないという状況が耐えられぬのである。つまりベン・ケーシーの豪華版といったこころもちでよいのであるが、ここは実際には病院ではなくて、どうもこの頃調子がおかしい、胃が変だ、胸やけする、たちくらみする、肩がこる、これはひょっとすると大病のまえぶれではないかと考えこむ程度の人がはいるホテルなのである。入院はさせてくれないし、といって人間ドックなんて名前からして何されるかわからないものへはいるのはいやだという人がはいる。会社勤めの人は夜の回診をうけて毎日出社する。仕事のいそがしい人は強壮剤を注射してもらう。医者の所へ通うのはめんどくさいが�病院ホテル�は往診と同じである。普通のホテルより千円ぐらい高くても繁盛うたがいなしだと思う。 �大日本酒乱之会�と�全老連�の会長となり�病院ホテル�を経営することが、私の今年の夢である」  大日本酒乱之会については、前に書いた。会員は江分利ひとりであるし、冗談みたいなものである。病院ホテルについては、こういうものができたらよいと切実にねがっているが、経営するなんてことは嘘《うそ》である。  問題は、全国|老嬢《オールド・ミス》擁護連盟である。これも冗談にはちがいないが、不思議なことに江分利の女友達はすべて28歳以上の処女または非処女ばかりである。いったいどういう加減なのかね。  東西電機内の唯一のガール・フレンドであった柴田ルミ子は嫁に行ってしまった。それでもまだ4人いる。  かりに28歳以上の独身女性を老嬢とよぶことを許していただけるならば、老嬢のタイプはふたつに分類される。すなわちヒステリー型とオバサン型である。  ヒステリー型には美人が多い。しかも頭脳|明晰《めいせき》である。美人だからヒステリーになるという具合の美人もいる。このタイプは、まだあきらめていない。いや、おそらく40歳、50歳になっても、このタイプの女性はあきらめないだろう。あきらめないが女性としてはますます固い感じになってゆく。純潔に磨《みが》きがかかるという具合である。江分利は時折、捨てちゃえ捨てちゃえと忠告するが、なかなか捨ててくれないのである。頑《かたく》なになってゆく。踏みきることができない。  たとえば、美人で頭がよくて晩婚という意味で、高峰秀子さん、越路吹雪さん、中村メイコさんといった方々の結婚には、なにか共通したものがあるような気がして仕方がない。3人ともたしか御主人の方が齢下《としした》のはずである。芸術家である。くわしくは知らないがヘヤー・スタイルも前髪ではないか。優しい感じの男性である。そうして奥様のほうがヒステリー・タイプ、いらいら型のように思われる。こういう結婚は非常にうまくゆくのではないか。  オバサン型はあきらめ型で、ものわかりがよく中性化してゆく。世話好きである。くよくよしない。美人ではなく、あきらめ型ではあるが、案外にうまい結婚をすることがある。  ただし、江分利は女友達としてはヒステリー・タイプの方が好きである。あきらめているのでは話にならない。頑張《がんば》れ頑張れとはげますのである。美人で頭がよいというのは一種の辛《つら》い人生ではあるまいか。丁度よい相手にめぐりあうのが困難である。負けるな、負けるな、アキラメルナ!  結婚とは、男も女も何らかの意味で負けることを意味するから、美人で強情っぱりという女性にとっては誠に大事業であろう。まあ、仕方ないさね、運命だから。しかしまたこの型の女性がいったん結婚してからの負けっぷりの凄さにはガッカリすることが多いね。     ㈼  江分利は会社以外の飲み友だちや先輩からは「イッケツ」という綽名《あだな》をもらっている。20代の終りに髭《ひげ》をはやしたことがあったので「モトヒゲ」と呼ばれることもあるが、最近ではイッケツまたはイッケツ主義者と呼ばれる。面とむかっていわれることは滅多にないが、おそらくカゲでそう呼ぶ人が多いのだろう。  イッケツとは女を1人しか知らない男性を意味するらしい。ある作家の言によると、当今ではイッケツ男は国宝的存在であるそうだ。  江分利は、ほんとうに女房の夏子だけしか女を知らない。そう広言することにちっとも恥ずかしさを感じない。ものたりない、といった感じもない。もちろん、そのことを自慢しているわけでもない。 『金瓶梅《きんぺいばい》』だか『紅楼夢』だか、あるいはそういったふうな読みものを漢文で習ったときに、ひとりのカタブツの男がいて、まわりの好色漢がカタブツをからかうというシーンがあった。するとカタブツが反撃にでて「私は未《いま》だに女を知らない。しかし、1人の女を追いもとめている。1人の女をもとめることは、あるいは君たちよりもっと色好みということになるかも知れない。なぜなら1人の女のなかにすべての女がいるワケだからね」と言ったという。  これはおそらく真理であろう。しかし、この逆もまた真理である。多勢の女を知って、そこから1人の女を抽出することもできる。  江分利の友人にも色好みが何人かいる。目的のためには手段をえらばぬというタイプの男もいる。女性の弱点をうまく利用するのである。そのことに熱心である。そうして女ができるときは仕事の調子もいいという。情熱をそそぎ、精神を高揚させるのである。こういう男の気持は江分利にも理解できるように思う。バカな女に安らぎをもとめたり、利口な女をねじふせることに生甲斐《いきがい》を感じたりしている。経過を楽しむ男もいるし、事後を喜ぶ男もいる。  江分利は言う。 「しかしね、エリザベス・テイラーだってロロブリジーダだっておんなそのものには、それほど変りはないだろう」  すると色好みたちは笑いだす。 「馬鹿言っちゃいけないよ。千差万別さ。これがまあ、いろいろにありましてね」  こちらは経験がないのだから、何といわれても致し方がない。  ただし、こういう感じ方はある。色好みたちは自分の女を自慢して、見せたがる傾向があり、そういう女を見ると、江分利はナンダコノテイドカと思うのである。この程度の女なら江分利だって熱心になればなんとかなると思う。そうして、その程度の女に熱心になるという神経を理解できないだけの話だ。また、なるほどこりゃむずかしいわい、と感じさせる女性もいる。しかし、こんなに面倒くさそうな女に面倒な手続きをふむという神経は余計に理解できない。  男っぷりのよい友人たちが悪女型の女を追うという例も見る。追うということもあり、捕えられるという感じの例も見る。フカナサケは大変だろうなあと思う。これはむしろ理解がいくように思う。美談だと思う。  江分利はまた言う。 「金がかかるだろう?」  すると 「冗談言っちゃいけないよ。むこうに払わせるのさ。このネクタイだってカフス・ボタンだってあいつのプレゼントさ」  あるいは 「まあ、ホテル代はもちますがね。そんなにかからんもんですよ」  と、笑われる。 「しかし、別れるときは大変だろう」 「いや、いっぺんお芝居すればいいのさ。今の女房とは心ならずも結婚した。私は女房を愛していない。しかしコレコレの事情で女房と別れることは出来ない。女房も可哀相な女でね、といった具合に話して泣くのさ。女ってのは男の涙に弱いもんだよ。それとだね、女房がいて、それと別れることができないってことを初めにほのめかしておく必要はあるね。はじめはむこうも夢中だからね、そのことを忘れちゃうのさ。別れるときにうまく思いださせるワケよ。このホノメカシと涙がコツだよ、いいかね。女房にすっかり同情しちゃう女もいるんだから妙だね」  女房以外の女性に惚《ほ》れぬいて破滅寸前という友人もいる。江分利は、まあ、このタイプだろうが、永年のサラリーマン生活できずきあげた夏子と庄助という家庭をこわすだけの女性が江分利の前にあらわれることは、まずないだろう。江分利は素人《しろうと》女に手を出しちゃいけないよ、お金ですむ女にしなさいよと繰りかえし言った母のことを思いだす。どういうものか母は、それを江分利が15歳ぐらいの時から言いきかせたものである。  色好みの友人たちに共通しているのは、コマメに動く、動けるといった性情である。そうして、一見いかにも女に親切そうに見えるのである。当人たちも、それが女性に対してほんとの親切だと思いこんでいる。あるいはそうかもしれない。女房以外に女が3人もいて、女房に知られないというのは、コマメでなくてはできるものではない。3人の女がそれぞれの女について知らないという状況をつくるには、親切にふるまって安心させる技術と誠意が必要だろう。  江分利がイッケツであること、女ができないこと、そういう状況にたちいたらないのは、彼の臆病・小心ということにも起因するだろうが、この頃では�体質�というふうに解釈している。だから江分利としては色好みの友人たちを悪人とは思っていない。ほかの友人同様につきあっているのはそのためである。ガマンできない体質があるのだと思う。体質のためには、男の涙も用意せねばならぬ。悪意ではないだろう。悪人ではない。物事はすべて心理学的・生理学的に追求せねばならぬ。  そうして、さらに社会学的にも考察されねばならぬと思うのである。     ㈽  毎度申しあげることで恐縮ですが、江分利の数え年は昭和の年号と一致するのである。それと性関係は、いかに関係するだろうか。  江分利の出た中学では、同期会が活溌《かつぱつ》に行われる。毎年1回の総会のほかに、気のあった同志の小さい会合が行われる。  驚くべきことは数え年の38歳、満年齢の36歳または37歳になるというのに独身者がかなりいるのである。そうだね、ざっと5分の1は独身と思っていただきたい。これはどういう加減でありましょうや。  頭髪はすっかり薄くなっている。あるいは白黒相半ばするといった男がいる。銀髪まではいかないが、イブシ銀ぐらいのはいる。これで独身なのである。独身のいわれを問われてはっきり説明ができぬのである。モゾモゾとしている。  ただし、独身で遊べていいだろうというと彼等はクチをそろえて 「いや、とんでもない」  と言う。 「遊ぼうと思っても独身だとわかると、むこうが真剣になっちゃうんだ。目つきが変ってくる。だから駄目さ。女房も子供もいるといってつきあうんだが、そのうちにバレましてね」  妻帯者でも、江分利の親しいグループに色好みはいない。何か弱々しく無気力である。おひとよしである。東京の中学だから、よくもわるくも都会人である。何かが弱い。それでいてグループの半数以上は小さな会社、中堅所の会社の社長または重役である。残りは大企業の課長や医者や大学助教授である。遊べる地位であり、そういう年齢にさしかかっていると思うのだが。  某婦人雑誌の最近の調査によれば、男が童貞を喪《うしな》う(イヤな言葉だね。性的初体験とでも言おうか)のは18歳から20歳までがピークであり、19歳というのが最高であるという。  すると江分利たちの大正15年生れという世代では、昭和19年から21年までということになる。つまり戦争の末期的症状の時代と戦後の混乱の最も激しい時代ということになる。戦前に童貞を喪った男は殆《ほと》んどいないだろう。18年、19年では受験勉強に追われた。そういうことは出来なかった。勉強と聖戦であり、童貞を喪うための施設もなかった。だいいち、映画を観ることも許されていなかった。戦後の20年、21年、22年ではみんな方向を失っていた。経済力が自分にも親にもなかった。そのときのそういう女性はパンパンガールと呼ばれていた。駐留軍専用の感があり、日本人向きはいかにもお粗末であった。チカラ関係で、致し方がない。売春防止法が施行され、赤線の灯が消えたのは昭和33年4月1日であるから、そのせいばかりではないけれど、女に対して臆病になっている世代の存在というものをおぼろげにでもわかっていただけるであろうか。現在のような自由な男女交際というものもない。江分利たちの世代がやっと経済的な余裕を見出したのは昭和30年を過ぎてからである。その時は、数え年の30歳を過ぎているのである。30歳を過ぎてから結婚、その時に性的初体験という男が実に多い。これでは奔放になれぬ道理である。  江分利たちより2年はやく生れた男たちには旧制高等学校の生活があった。ここで多くは童貞を喪ったのである。玉の井のことを、玉は王の字に点がついているから「キング・ポイント」と呼び、そういう陰語が学生たちの間で通用したのである。経済的な余裕も、まだあった。  江分利たちが18歳から20歳までの間に童貞を喪うとすれば、それは灼熱《しやくねつ》の恋であるより仕方がなかった。破滅を免れ得ぬ。  江分利の中学の同期生のなかで最大の英雄は昭和22年に進駐軍将校夫人と心中した三橋某である。新聞記事を見たときに江分利は「やったな」と声をあげた。  江分利が童貞を喪ったのも、昭和22年、20歳の時であった。相手は現在の妻の夏子である。灼熱の恋ではないが、双方の親たちはずいぶん心配したろう。江分利は2年経って22歳で結婚したが以後10年間は悪戦苦闘したといっても過言ではない。そうして江分利の女は夏子ひとりだから「イッケツ」と呼ばれるようになったのである。女については特に臆病になっていった。しかし江分利がイッケツであることは臆病だけが原因ではない。     ㈿  女とは、何か。  女の中学生、高校生ほど江分利にとって憂鬱《ゆううつ》な存在はない。 「江分利さん、友情とは何でしょう」 「友情とは利害関係です。アイツとつきあえば何か得をするのではないかとお互いに思えるようなら、それが友だちです」 「でも、女同志だとなかなかそうはいかないんです」 「お互いにセッサタクマして高めあえる人でなければ交際しても無駄でしょう」 「ですけど、得にならないからといってすぐ別れることもできないでしょう」 「それあまあ、得になるならないといっても好き嫌《きら》いもありますからね。あなた、いま別れるといったでしょう。そういう気持があるのは好きでない証拠でしょう」 「ええ、まあそうなんですけれど。それなら愛情とは何でしょう」  どうも困るね、女子学生は。  終戦の翌年だと思うが、江分利は新橋の芸者からダンスに誘われたことがある。彼は踊れないので断わったが、彼女は相当に売れた妓《こ》で札束を持っていた。先方はダンスが目的ではなく江分利に対してその気があったらしいことを同じ芸者置屋の老妓《ろうぎ》からあとで知らされた。小柄で目のパチッとした女だった。 「お前さん、馬鹿だねえ、いっしょに行ったらよかったのに」 「だって、あのコ、いい着物きてるしさ、大変だろう、お金が」 「あんたからお金とろうなんて思ってないよ、あのコは……おおい、フミコお茶持っといで」 「そんなのイヤだよ。それにラ・クカラチャなんか歌ってね、踊りたそうだったよ」 「馬鹿だよ、ふんとに。何がトンガラガッチャだよ。こっちはコンガラガッチャさ。なんだい、このお茶は。水みたいじゃないか。もっとお茶らしいお茶を持っといでよ。茶らしき茶、茶らしき茶。馬鹿だねえ、ふんとにお前さんて人は。チャラシキチャおやチャラシキチャ。いただくときにはいただいとくもんだよ」  江分利も芸者の浮き浮きした気持を察していた。しかし、あんないかにもエクスペンスィブな女性をどうやって抱いたらいいのかね。童貞だよ俺は。  江分利は美人と話をしていると索漠《さくばく》感に襲われる。36歳になったいまでもそうだ。美人と話をすると5分で退屈する。目をそらしてしまう。こちらの退屈がむこうに伝わるからシラジラしくなる。30歳を越えた美人なら、やや安心である。35歳以上なら非常に安心である。話題があるせいなのか。若い美人を遊ばせ笑わせるなんて面倒で仕方がない。そんな義務的なことはやりたくない。  江分利は、この頃では平均して3日に1度は深夜まで飲むから、女性からアパートへ行ってもっと飲んでいかないかと誘われることが3月に1度ぐらいはある。それが、そもそも面倒である。その部屋へあがっていって、飲んで、ことによるとめんどくさい作業を行うという立場に追いこまれいかにもこちらから仕掛けたというふうに仕組まれて、わずらわしい手数をふまされると思うと、いやになる。  もっとも、これは相手に惚《ほ》れていない証拠である。江分利が惚れこむような女性が今後あらわれるだろうか。それとも江分利の純潔は守られるであろうか。  女とは何か。  女とは男より少し小柄である。全体に華奢《きやしや》である。『明解国語辞典』によれば、ひとの中で、妊娠する能力あるもの。おそるべき食欲の持主である。胸に重たく尖《とが》ったものをふたつ持っている。月に1度は不愉快な日が来る。肌《はだ》はスベスベしている。男よりすべてに丸い。歯列が丸い。横断歩道でない所を平気で渡る。ピンチに強い。嫁に行けば毎日家にいる。はたらきに出ても男より不利である、いじめられる。または可愛がられる。変に可愛がられる。あぶない。男に依存して生きる。口紅を塗る。化粧と香水がいる。飾る。形よく見せようとする。無邪気が愛される。無智な女ほど本当は利口だという言い方をされる。恥ずかしがる。くすぐったがりやである。厚顔である。胸で呼吸する。キャアといってるうちに歳をとる。20歳の処女は心細いだろうな。30歳の処女はイヤだろうなあ。それとも平気なのか。  江分利の前に江分利の理想とするひとりの女性があらわれるだろうか。女とは何だろう。理想の女性はどんな形をしているだろうか。それを江分利は追うことになるのだろうか。純潔は守られるか。  夏子さんや、まあそう怒りなさんな。シアワセは我が家にあったという「青い鳥」の例もあるんだから。 [#改ページ]  好き嫌い     ㈵  江分利は公園と運動会と赤ん坊とライン・ダンスが好きであることを、まえに書いた。  赤ん坊以下には理由を書かなかったが、好き嫌いの分析はまことに困難である。赤ん坊は次代を背負うからというようなことは理屈にもならないし、全く実感がない。  江分利は赤ん坊の笑顔に弱いのである。歩きはじめの頃の赤ん坊の自信にみちた笑顔にヨワイのである。彼等は天下無敵であって威厳にあふれている。その顔を美しいと思う。いかなる美女も及ばぬ魅惑に富んでいる。女には生活と生い立ちが匂っていて、従って止《や》むを得ざる不潔感を背負っているが、赤ん坊にはそれが全くない。  赤ん坊はみんなの注目を浴び、保護され愛される。注目と保護が去り、愛されなくなると、赤ん坊は子供になり、人間になり不潔感をともなってくるように思われる。  ライン・ダンスが何故《なぜ》よろしいか。ライン・ダンスには個人の意志が働かぬ。右をむけといえば右をむかねばならぬ。肢《あし》をあげろといえばあげざるを得ぬ。身長・体重もそろっている。あれは一種の残酷な美しさではなかろうか。美貌も演技力も必要ではない。必要なのは形と気合いと若さである。若さといっても17歳から19歳ぐらいの旬《しゆん》であらねばならぬ。踊り子たちは蚊《か》に喰《く》われた太股《ふともも》などを気にしてはいないだろう。勢いだけがあり、個人の意志はないが、全体としての意志が表現される。少女たちが「エイ、エイ」と叫ぶと江分利はなぜか膝頭《ひざがしら》がふるえ、ツーンときて涙がこぼれそうになる。  しかし、赤ん坊にしろライン・ダンスにしろ、江分利が何故そういうものを好むかということになると説明が不可能になってくる。     ㈼  嫌いなものは好きなものにくらべると説明がいくらか容易になり、数も多い。  まず、映画が嫌いである。  なによりも、どんなに批評家が賞《ほ》めた映画でも、必ず1度や2度は途中でシラジラしい気分になるという事実がある。  これに反して文学作品では間然する所なく一気に読んでしかも感動が長く続くということがある。そういう作品をいくつも知っている。昂奮《こうふん》したり、文章の美しさに打たれたりして、読みすすめるのを中止したような小説がある。本を投げだして昂奮をしずめるのである。文章があまりに見事なので、先を読むのがもったいないという気分になり、そのままそっと寝てしまったこともある。映画では、そういう気分になったことは1度もない。  ジャック・フェーデの『外人部隊』にひかれて、銀座全線座、シネマパレス、新宿光音座、太陽座、横浜オデヲン座と追っかけまわしたことがあるが、そのとき江分利は中学3年で14歳であった。大東亜戦争のはじまった年である。そういう状況の年齢が左右したように思われる。だから、ある意味では仏蘭西《フランス》映画で育った世代といえるかもしれないが、いま『外人部隊』を見ても、おそらく思い出はあっても感動はないだろう。しかし、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を読めば、やはり新鮮であってしかも別の感動に打たれるに違いない。すくなくとも文章には圧倒されるだろう。  映画は文学にくらべると、芸術的に価値が低いのではないか。これには理由がある。  映画は1人ではできない。会社があり、機構があり、演出者とカメラマンと役者がいる。芸術は個人の作業でないと低くなるように思われる。  写真芸術ということもある。写真は報道と記録に意味があるのではないか。  三島由紀夫さんをモデルにした写真集が出版されて評判になった。これに対する江分利の感じ方は「三島由紀夫さんがモデルになったそうじゃないか」「裸でフンドシひとつだってね」「なぜ三島さんはモデルになったのかね」「凄い胸毛だってね」「あのフンドシは特別製じゃないのかね」「三島さんの裸にゴムホースを巻きつけてどうするのかね」「へええゴムホースを巻いたのかね」「あれは三島流の現実への接近の仕方じゃないのかな」「ははあ、するとオミコシかついだり映画俳優になったり拳闘選手のパンツをはいたりするのと同じかね」「そうだと思うね。三島さんは勉強ばかりしているだろう。だから小説書くための踏み台としてああいうことが必要なんだろう」「自分をいったん駄目にしちゃって」「どうともなれ、勝手にしてくださいという気持だろう」「カラッポにするわけだね」「カラッポだけでもないけどね」  といったぐあいであって、出来あがった写真の芸術性を考えたりはしない。つまり報道と記録だけである。  芸術家がポーズをとった写真があって、芸術家の意気込みや好みや年輪があらわれていても、それはあくまで被写体あってのもので、カメラマンの芸術性ではない。風景や岩や建物の部分を写真にしても芸術にはならないだろう。芸術だとしても次元が低い。  カメラマンはどうしてみんなラーメンが好きなのだろう。嘘《うそ》だと思ったら、知りあいのカメラマンに聞いてごらんなさい。上等のラーメンではなく、醤油《しようゆ》が匂うようなのがよいという。お茶漬けが好きなんてのは滅多にいない。食欲|旺盛《おうせい》でエネルギッシュで動物型である。これにも意味がありそうに思われる。カメラマンは相当な肉体労働を必要とする。煙突や松の木にスルスルと登る。咄嗟《とつさ》の判断を要求される。反射神経が不可欠である。従って植物型では勤まらない。いつもレンズという機械を通してモノを見る。植物型の人間には耐えられない職業であろう。  夏子の父は、猛獣映画しか観なかった。猛獣映画は欠かさずにみた。そうして虎やライオンやゴリラが出てくると、あれは本物かときく、毎回かならずたずねて、周囲の客が怒りだすまで続けたという。猛獣が本当に猛獣なのか、それともヌイグルミなのか、という問いは、猛獣映画以外にも通用するように思われる。涙を流す場面、接吻場面、喧嘩《けんか》の場面に、あるいは単なる風景でもよいが、江分利も「あれはいったいホンモノかね」という問いを押えることができない。モンゴメリイ・クリフトとデボラ・カーが激しく抱擁《ほうよう》し、耐えられぬ愛みたいな表情で額にシワをつくって接吻する。「あれはホンモノかね」モンゴメリイ・クリフトが兵隊でデボラ・カーが娼婦《しようふ》だったとする。いったい兵隊と娼婦が抱きあっているのかね、それともモンティとデボラ・カーとがくっついているのかね。  それと、一般に映画人というものが、どうも肌にあわぬ。人はよいが、交際すると疲れる。テンポが少しこちらとずれているように思う。江分利の好きな人は何人かいるが、それでも映画界は特別な世界のように思う。  昭和24年度の優秀映画ベスト3は、小津安二郎『晩春』・黒沢明『野良犬』・今井正『青い山脈』である。松川、下山の年にこういうものを製作した神経が納得できない。  芸術諸分野の尺度は、評論家をみればわかるといわれるが、映画評論家・演劇評論家・美術評論家・音楽評論家は文芸評論家にくらべて量質ともにかなりのひらきがあるように思われる。作家や文芸評論家の書いた美術評論や音楽評論はおもしろいが、その逆の場合はそもそも成立しない。  芸術的にみて劣る、だから嫌いだというふうにはならないが、江分利のばあいはムシが好かないのである。そうして武田泰淳さんが映画を見て映画をほめるという気持が理解できないのである。室生犀星《むろうさいせい》さんが映画をよく見た、山本周五郎さん、森|茉莉《まり》さんが映画をよく見るという気持は少しわかるのだが。  美術品が嫌いである。  美術品が部屋にあると、それだけで落ち着きを失う。美術品まがいでも、名画の複製でも困る。美術品が部屋に置いてあって、応接間や床の間に飾ってあって、それによって落ち着く、あるいは部屋が落ち着いた気分になるという感じが全く理解できない。むしろ、江分利にとっては邪魔になるのである。思考のさまたげになる。ピカソが好きだ、だからピカソを買って飾るという神経が理解できない。非常によくできた実用品が機能を発揮したために美しく見えるということがある。非常によくできた磁器のツボが灰皿としてぐあいがよいので灰皿にして使うということがある。しかし、それを違い棚《だな》に飾るということはない。  自動車でいえばジープにある種の美しさを感ずる。キャデラックは美しくない。隅田川《すみだがわ》にある橋を美しいと思うが、名所になっている太鼓橋なんかは醜悪だと思う。デザイン化された柱時計というものに腹をたてる。デザイン化したつもりで扁平《へんぺい》になっていて、3時と9時との距離が遠くはなれていて、数字であるべき所が点や棒になっている柱時計はぶちこわしてやりたくなる。点や棒にして簡略化したつもりなのだろうか。シンプルということをはきちがえていはしないか。矩形《くけい》または円形であるべきものが、菱形《ひしがた》や樽型《たるがた》になっているのが気にくわぬ。周囲に唐草模様の彫刻などあるのが気にくわぬ。ウナギ屋の鴨居《かもい》じゃあるまいし。江分利の好きな時計は駅の時計である。あれは見やすい。ただし、家庭に置くには大きすぎる。彼が、しめた、こいつはいいなと思ったのは、船やバス用の時計であった。振動に耐える特別製であって高価なのにビックリしたが。  柄物のグラスは大嫌いである。ウイスキーのグラスやタンブラーに、ウイスキーのボトルの絵を描いてあるに至っては、全く理解がいかない。湯呑茶碗に洋酒の瓶《びん》の絵の描いてあるのがあるからネエ。それが夫婦《めおと》茶碗になっていて、深夜、寝るまえに、まあお茶でも淹《い》れましょうかということになって江戸一のピーセンかなんかの罐《かん》をあけて、夫婦でしみじみとお茶を飲むなんて図を想像してごらんなさいましな。  グラスは絶対に無色透明で彫りのない奴であらねばならぬ。洋酒は酒の色を楽しみたいし、水は清潔をもって本分とする。反対に日本酒をガラスの猪口《ちよこ》で飲ませる高級関西料理店なんかいやだね。これが最近ふえてきたんですよ。  デザイナーのつくったデザイン化されたテーブルや椅子や家具を嫌悪《けんお》する。実用品は機能が優先すべきである。但し、機能といっても廊下のない家が代表するような馬鹿げた人間不在の考え方にも困ったものだ。人間のつかうものには、どこかひんまがった所があるものなのだ。  民芸品もいやみだね。民芸品専門店にはいると吐き気を催す。つまり、ひんまがった所だけを強調して、どうです、いいでしょう、面白いでしょう、シャレているでしょうといっているようなものだ。民芸調の酒場、民芸調の喫茶店なんかもある。コーヒーを厚手の色のついた瀬戸物茶碗で飲ませる。そうすることでコーヒーがうまくなるなんてことはあり得ないじゃないか。  蝋纈《ろうけつ》染めのネクタイなんてのもある。どうころんだってウールや絹の無地のネクタイにかないっこないのにね。江ノ島の河豚提灯《ふぐぢようちん》というものがある。提灯であるからには実用品でしょう。提灯を河豚でつくったって実用的に不向きなものは、醜悪になってしまう。木製のスプーンやフォークがある。サラダをとりわける特大のものはよいが、小さなものは全く意味がない。不潔である。味がしみこんでしまう。まさかコーヒー用、紅茶用、カルピス用と使いわけるわけでもあるまい。民芸とは、使用にふさわしい材質ができるまでの人間の工夫の名残りでありましょう。すでにして便利重宝かつ美しいものが出来たのにわざわざ不便なものを掘りおこす必要はないと思うのだが。  住居とか調度品とか食器とかは、人間がそこに住んで使って、便利であって使いやすくて心が安らかになって、そうして思考を活溌《かつぱつ》にさせるというものがいいのではないか。しかし、それだけでは江分利が美術品や美術品めいたようなものやデザイン化された実用品を嫌う理由にはならない。好き嫌いを理窟《りくつ》で説明することは、やはり困難である。  動物が嫌いである。動物にはよわい。  江分利は大正15年生まれの寅年《とらどし》である。伜《せがれ》庄助も昭和25年の寅年である。寅年は動物が飼えないという迷信がある。  江分利はものごころついてから、家に動物がいたという記憶がほとんどない。夜店で買ってきた金魚が何日かいたという程度である。  犬や猫を飼う人の気持がわからない。  犬が尻尾《しつぽ》をふって飼主に甘える、人間の顔色をうかがうような目つきをする、前肢《まえあし》をあげて飛びかかる、といったことにガマンできない。そういうことを嬉しがる飼主というものを理解できない。  神経質で、いつもうるさく吠《ほ》えたてるスピッツを飼うことが理解できない。 「猛犬注意」などと書いて人間を怖《こわ》がらせている人の神経もわからない。それが郵便配達夫や御用聞きにどんなに嫌な思いをさせているかということがわからないのだろうか。  猫は家の中にいる。猫好きの家に行くと、猫がプーンと匂う。あれは猫の匂いなのか、排泄《はいせつ》物の匂いなのか。飼主はあれを感じないのかね。猫に排泄物をキチンとさせるために教育したり叱ったり打ったりする、ということもわからない。生ける人に話すが如くに話しかけるのもわからない。猫にノミがいて、一緒に寝るのでカユクテならぬということもわからない。犬とは逆の薄情そうな顔付も気にいらぬ。  動物は病気をするし、人間より早く死ぬ。これが実にどうもたまらない。たえられない。うす気味がわるい。  夏子も江分利と同様に動物ぎらいであるが、因果なことに庄助は動物好きである。  小学1年の時に、父がコリーを買った。部屋の中で排泄するので困った。それを叱って教育しようとする者が江分利家にはいない。コリーは忽《たちま》ち大きくなった。庄助が散歩に連れてゆくわけにはゆかぬ。仕方なく江分利が連れて出ると、コリーは鎖を切って一直線に進んで電信柱に頭と肢《あし》をぶつけた。間もなく父が破産してコリーは庄助には内緒で曲馬団に売られた。庄助は泣き叫んだ。だからいやなんだよ、動物を飼うのは。  中学へ入ったら、何か飼わせてくれという。リスかカラスを飼いたいという。リスもカラスも気味がわるいからイヤだと言ったら、彼は学校の帰りに3時間もかかって遠廻りして伝書鳩を買ってきた。八百屋からリンゴ箱をゆずってもらって、1人で小舎《こや》をつくった。鳩は忽ちふえるというので、更にリンゴ箱を40箇もらって広大な小舎を庭に組みたてた。鳩の名は国光第1号、第2号である。リンゴ箱だからね、国光が多いさ。半年経ったが鳩はいっこうに卵をかえさぬ。なにか欠陥があるのだろう。  動物に不向きな家庭は、ちょっとした不運がたえずつきまとうのであろう。熱帯魚をもらったことがあるが、1日でみんな死んでしまう。庄助が本を読んで研究してグッピーと道具を買い足したがやはり駄目だった。庄助はグッピーのような小さな魚が死んでも泣くのである。それを見るのが辛《つら》い。庄助の涙は自分の研究が不完全であった口惜《くや》しさも含まれているのである。  旅行も駄目である。  ひとつには夏子がノイローゼで電車や汽車に乗れぬということもある。心臓神経症で、いつ発作が起るかもしれぬという不安感があって、電車や汽車は止められないが、自動車ならすぐ医者へかけつけられるという気持がある。従って親子3人の旅行はハイヤーで行ける範囲に限られる。江分利家、つまり東西電機の社宅附近はタクシーが通らないのでハイヤーになるが、ハイヤーだと経済的にいっても旅行の範囲は狭くなるのである。  江分利は仕事の都合や、社員旅行で地方へ出ることがあるが、自分だけの意志では行かない。第一、切符や旅館の手配というものが面倒でならぬ。先方へ着いても名所旧跡を見て廻ろうという気持が全くない。精力的にグルグル廻ってくる若い人たちの気持が理解できない。不思議なことにこういう人たちは某々へ行ったということに意味があるらしくて、途中の景色などはまるで見ていない。こういう気持がわからない。  江分利は旅に出て、小さな町に着くと、そこで1ト月ぐらい暮してみたいという気分になる。その町の散髪屋で頭を刈り、銭湯にもはいり、町の人の行く飲み屋で飲みたいという気分になる。そうして、ボンヤリとしてみたいのである。ただし、そんなことの出来る余裕は一生やってこないだろう。名勝はつまらない。名産もつまらない。江分利にとって興味のあるのは、そこに住んでいる人間だけだ。「やれ急げ」「座席指定がとれなくてね」「富士が見える、運がよかったね」「明日は9時の朝食で9時半に出発です」「このホテルにはピンポンないのかね」「ああよく寝た、白川夜船だ」「この蟹《かに》はここでとれたのかね」「船と車とどっちが景色がいい」「しまった、トランプ忘れた」などということに全く興味がない。江分利が旅行をきらう、もうひとつの理由は、彼自身のイビキである。社員旅行で、朝、目がさめたら同室の5人が次の間に折りかさなって寝ていたということがある。廊下をへだてた部屋の女子社員がねむれなかったという事件もある。だから嫌なのさ、旅行は。江分利が豪傑タイプならまだいいが、どっちかというと優男《やさおとこ》タイプで、それで大イビキというのは、どうも恰好《かつこう》がつかない。  料理もダメである。  料理という段階がなくて生のままのものならよい。サシミや、単に焼くだけといった肉や魚はよい。いわゆる「お料理」はニガテである。ドコソコのナニナニがうまい、といってもそこへ行って食べようという気にはなれない。  料理とは、うまい食べものをわざわざまずくする手段であるように思われる。  なにを食べても「ああ、うまかった、有難い」などと言う人は下賤《げせん》な気がしてならぬ。「ああ喰《く》った喰った」と言い、お茶を飲んでタメイキをついたりするのも同様である。地方の名産をヤタラに買いあつめて自慢しながら客に供することも嫌味である。東京都内のうまいもの屋をよく知っていたり、探してくるのがうまかったりする人も性が合わぬ。なぜか知らぬが、そのことがいやしいことのように思われる。江分利は食物に関心がない。生命力が稀薄《きはく》なのだろうか。  機械については全くダメである。  マッチをつかう人をマッチ型、ライターの人をライター型というように人間をタイプでわけるとすると、江分利は典型的なマッチ型である。ライターがポケットにはいっていると思うだけで気になって仕方がない。油はどうか、石はどうかということがたえず気になって落ち着かない。ガス・ライターが出たらすぐに買い換えるという気持もわからない。  万年筆がダメで鉛筆である。  ヒューズが飛んでもなおせない。テープ・レコーダーの操作が憶《おぼ》えられない。写真がうつせない。  従って、自動車の運転などはもってのほかである。幅の感覚がない。江分利としては、これは正面衝突だと思ってハッとして手に力がはいるが、実は1メートルぐらいの間隔でもって擦《す》れ違うということがよくある。まあ、一種のカタワだね。いつか体質改善をやってみたいと思っている。  ダンスができない。  男女がああいう形で抱きあうということが面白くない。あれは非常に哀《かな》しい姿であるように思う。音痴であって踊れないための負けおしみでもあろう。  オシャレに関心がない。  色物や柄物のパンツがはやってきて、夏などはチラと見せて、どうだい、こういう見えない所にオシャレをするのがほんとのオシャレなんだよなんて言われるとゾッとする。衣服に関して言えば、実利だけを考えていればよいと思う。人間の男は何故ネクタイをしめるのだろうか、というふうに考えていればよい。日本のような湿度の多い所では、ネクタイはどう考えても不合理である。それならネクタイをはずしたらよいということにもなろうが、決してそうはならない。江分利はネクタイは、その人の趣味や個性を表現するための一番わかりやすい目印であると考えている。目印はやはり必要だと思われる。     ㈽  好き嫌いを論じたり分析したりすることは困難な作業である。  むしろ分析不可能の事柄に属するだろう。しかし、この世で信頼できるのは好き嫌いの感情だけだという気もする。善と悪との判断とは異なる。生理的嫌悪の方が善悪の判断や分析よりたしかな場合が多い。  なぜなら、どうもアイツはムシが好かないと直感するときは、江分利における全人間的なものが一挙に総動員されるわけで、そのなかには、説明不可能の部分も含まれる。善悪の判断や分析には、直感するときの全人間的なものや鋭さがない。王貞治選手のバッティングを荒川博がコーチすることはできる。王のフォームを分析してアドバイスすることは出来る。しかし、王がボールをバットで把《とら》えるときの鋭い勘にまで迫ることはできない。その瞬間に王の全神経・全筋肉が総動員される。もし、そこまで分析できるなら、荒川コーチ自身がホームラン・キングになっていたであろう。  だから、江分利の好きなもの嫌いなもののなかに、江分利の個性が否応《いやおう》なしにあらわれてくる。  彼をマットウな人間だと思うだろうか、それとも変り者だと人は言うだろうか。 [#改ページ]  今年の夏     ㈵  東西電機の社宅の塀《へい》がどうなったかというおたずねをうける。 『江分利満氏の優雅な生活』の第1章で、小石をはねとばす車にそなえて金網の塀の高さを2倍にしようと江分利が発案し、建築会社がやってきたが、石の塀のほうがよいという意見もあって未解決のままになっていたからである。  塀は結局、ブロック塀となり、間にかなりのすきまをつくった。高さは通行人の頭より少し高い。従ってそとからのぞかれることはなくなった。しかし蔓《つる》バラを金網にからませるという江分利の願いは絶たれた。  値段に関していえば、これは全く江分利の認識不足であって、ブロック塀は金網の半値であった。  社宅には、かなりの異動があった。  隣家の辺根は去年の暮に福岡へ転勤となった。雑草庭園を通してきたのが、子供が生れてから芝生になった。 「植木なら転勤のときに持っていかれるけど、芝生はダメだから……」  と、言っていたのだが、引越しのときに2メートル四方ばかりはがしてトラックに積みこんだ。このへんのカネアイが社宅の引越しのむずかしさである。全部はがしたら、あとにはいる者に何か言われそうである。しかしせっかく安くない芝を買って丹精して1年にもならないのを残してゆくのは心のこりである。 「芝を植えると転勤になるちゅうジンクスはホンマやね」  辺根は、トラックの助手席からそう叫んだ。2階の棚《たな》の板はよかったら使ってくださいとも言った。辺根夫人は九州の出身だから、辺根自身も転勤が嬉しそうだった。  営業2課の小林も大阪支店経理課の係長になった。  業務課の佐藤勝利は今年の3月にアメリカ駐在員になった。かねがね海外出張を希望していて「沖縄でもよろしおますねん」と言っていたくらいだから喜びいさんで出かけた。  江分利は仕事の都合で見送ることが不可能になったので、佐藤が出発する前の晩に都内のホテルを借りて一緒に泊ることにした。佐藤は夫人と子供をいったん実家に帰し、社宅の方もすっかり片づけてあった。  銀座で食事してから、佐藤と一緒に歩いたバーや寿司屋を1軒ずつ廻る約束になっていたのだが、佐藤のほうが連日の引きつぎやら荷造りやら歓送会やら英会話の講習でへたばってしまっていた。 「江分利さん、わたし、あかんわ。えらいすみませんが、ホテルで食事させてもらいますわ」  高くつくが、そんならルーム・サービスで、ということになった。 「佐藤さん、いちばん高いもの食べようよ、ほんとは銀座で魚を食べてもらいたかったんだけど……」 「よっしゃ。ほんなら……」  佐藤はサーロイン・ステーキと海老《えび》フライとフルーツサラダをとった。3本のビールを2人で飲みきれなかった。 「駄目になったねえ」 「トシですねん」  彼の眼は疲労で落ちくぼんでいるようにみえた。  ホテルは赤坂の高台にあって、部屋は7階である。宮城をとりまく広い道が見える。むこうへ行く車はテイル・ランプが赤く、こちらへ来る車のヘッド・ライトは黄色だから、赤い帯と黄色の帯が反対方向に動いているように見える。 「へええ、面白いもんでんなあ。はじめて気がつきましたわ」  江分利と佐藤は窓ワクに腰をおろした。佐藤とはもうこれきり会えないかもしれない。この夜を語りあかすには2人とも疲れすぎている。間もなく寝なくてはいけない。それまでの短い時間。江分利は佐藤とそれほど深くつきあうつもりはない。仕事も違うし、性格も違う。堅実一方の佐藤家と、ヤクザっぽい江分利を中心とした家庭もすこし違う。そうして、同じ会社に勤める人間があまり深くつきあうのはよくない、という考えもある。しかし、佐藤をイイ奴ダと思う江分利の気持にかわりはない。 「裸踊りはもう見られないね」 「なにをおっしゃいますか」  江分利は、最後の夜を江分利だけにあけてくれた佐藤の気持がうれしかった。 「将棋もできないね」 「江分利さん、もう止《や》めてくださいよ」  佐藤の顔が一瞬クシャクシャになるように見えたが、窓際《まどぎわ》は暗かった。室内は小さいスタンドだけの明りである。  佐藤は立ちあがって江分利を見た。 「江分利さん、どうも、いろいろ有難うございました」 「なんですか。あ、いや、つまらないもので……」  夏子は、自分の派手すぎる訪問着を佐藤夫人にプレゼントしていた。 「とても喜んでいました。わたしが言うのは、だけどそのことだけじゃないんです。どうも、いろいろ……」  佐藤は握手をもとめて 「わたしの兄が広島におりますねん。いっぺん、奥さんと庄助ちゃんと遊びに行ってやってください。兄にはよく言っておきました。明日、羽田でご挨拶させるつもりでおりましたんですが」  と言う。 「だけど、よかったね。行きたかったんだろう」 「それは、まあ……」  江分利には佐藤の気持がまだよく分っていない。外国へ行きたいという気持は漠然とは分る。だが佐藤の場合は、海外勤めをして出世の資格をもって帰ってこようというのとは少し違う。気分の転換、スランプの解消でもない。沖縄でもアフリカでもよいというのだから、アメリカへ行って別のことを勉強しようという気持だけでもあるまい。佐藤はエネルギーをもてあましているのではないか。10年勤めたサラリーマン生活にあきたというわけでもあるまいが、細かくはたらかさねばならぬ神経をどこかで解放したいという気持はあるだろう。東西電機が急激に伸びてゆくとき、給料は安くても何かの気持がかよいあって上役も同僚もはげましあって声をかけあっていた時代はよいが、今のように企業として安定してくると、佐藤のような男にはかえって暮しにくくなっているのではないか。家庭をもち子供が生れればサラリーマンをやめることが困難になる。大企業の時代、系列化の時代には自分で事業をはじめることは殆《ほと》んど不可能である。サラリーマン・タイプでない人間がサラリーマンとして勤めているというケースが多くなってきているのではないか。そう思うと佐藤の宴会での裸踊りを別の目で見たいような気持にもなってくる。しかし佐藤の真意がどこにあるかは、まだ江分利にもよくつかめていない。そういうふうにして佐藤がアメリカへ行ってから半年が経《た》つ。     ㈼  矢島と川村は、まだ残っている。いつも異動の時に噂《うわさ》のある吉沢第五郎もまだいる。彼は大阪の出身で本人も希望しているのだが、なかなか動かない。  経理課で残業の多い吉沢は、遅くなることがわかると江分利の席へやってくる。 「江分利さん、すいませんが伝言頼まれてほしいんやけど……」 「また遅くなるの?」 「そうなんや。ほいでなあ、いつもすいませんが光子にそう言ってほしいんや。10時、いや10時じゃ無理かなあ、10時半、ああ11時って言ってください。だから先に寝ていいって……もっとも今日は『ベン・ケーシー』があるから起きているかも知れないけれど。すいませんなあ。それと、だから晩飯は会社で丼《どんぶり》モノを食べるから、しまっていいって……あっ、カレーライスだって言ってたな。惜しいなあ、こういうときに限って残業なんだから。あの、わるいけど、食事はしまっていいけれど、カレーライスは分るようにしといてくれるように言っておいてほしいねん。せやなあ、1人分だけよそって蠅帳《はいちよう》にいれとくように言ってください。それから、これはまだきまってないんやけど、ひょっとしたらの話やけど滝田さんと一緒に帰るかも知れんので(滝田は大阪の経理課員で吉沢と打合せのために上京していた)下の部屋をキレイにしておくようにって。そいでな、光子に滝田さん泊っても1晩だけだからって言ってください。明日の朝、帰るんだから安心やで。このまえ大阪へ行ったときにウッカリ御馳走になってしもてなあ、キャバレーに連れて行ってもろたりしたから。ああいうことはせんといてほしいなあ。まあ仕方ないわ、1晩ぐらい。ツキアイちゅうこともあるしなあ。光子にそう言ってほしいわ。僕からはよう言えへん。あの、だけどなあ、キャバレー行ったちゅうのは内緒やで……それとなあ、風呂にはいれるようにしといてほしいんや。11時ごろでいいと思うんやけど、もう3日も入ってへんのや……」  吉沢と話をしていると『国定《くにさだ》忠治』の山形屋の場面を思いだす。�時になあ山形屋、ものは相談だが……�とやられているようで、こちらが藤造になっているような気分になってしまう。  しかし、吉沢第五郎を笑ってはいけない。よく考えてみれば、彼の残業代は相当なものである。かりに給料を3万5千円とすれば、それくらいの残業代、休日出勤手当を貰《もら》っていることになる。月収7万で、ほとんど無駄づかいをしない。麻雀《マージヤン》をやっても独特のネバリがあって負けたことを聞かない。吉沢を笑っていると、何年か先にヒドイ目にあう。最後に笑うのは吉沢なのだ。サラリーマンで郊外に瀟洒《しようしや》な家を建てたりするのは吉沢第五郎みたいな男なのだから。  東西電機の社宅の前にあった大きな田圃《たんぼ》は全部埋めたてられてしまった。  小さなアパートと繊維会社の独身寮が建った。だからまだ空地は残っているけれど緑っぽいものは少なくなった。川崎郊外は土地がわるいのと煤煙で雑草も生えにくいと言われている。  蚊はおかげでいくらか減ったように思われる。引越してきたときは、近所の人や御用聞きに「蚊は先」「カワサキ」といっておどかされたものだ。  独身寮は、丁度、江分利の家の目の前、道路をへだてて25メートルのところに建った。はじめ、江分利は、かわるがわる若い男が2階の正面に立って一定時間江分利家をのぞきこむのが不快だった。交替で正面の部屋にはいってきて、ポカンとした顔でこちらを見ているのである。  何日か経って江分利は正面の部屋が小便所であることに気がついた。  庄助は中学に入学した。グングン大きくなって江分利とは10センチメートルしか違わない。間もなく追い越してしまうだろう。  夏子も36歳になった。従って人生観がやや変ってくるのも致し方がない。将来のことを考えるようになった。これは江分利も同様である。人生の収束を考えるようになった。  冗費節約。夏子の方法は、まず5円玉を貯金箱にいれることだった。次に50円玉もいれるようになった。最近では酔って帰った江分利のポケットにあるバラ銭を全部貯金箱にいれてしまう。これではサラリーマンとしての江分利は困るわけだが、まあ仕方がない。  わずかではあっても貯金はいいことだ。有難いことなのだ。そのかわり、江分利は夏子に仇名《あだな》をつけた。「アオバ アリガタ ハネカクシ」という毒のある甲虫《こうちゆう》が猛威をふるったことを知っているでしょう。夏子のニック・ネームは「アレバ アリガタカネ カクシ」である。     ㈽  今年の夏。逗子《ずし》の先の長者ヶ崎の農家を借りることになった。農家は夏子の遠縁にあたる。  江分利家は旅行というものをしたことがない。江分利は旅行がきらいである。夏子はノイローゼで電車や汽車に乗れない。庄助はゼンソクで、従って温泉や湿度の多い所へは行かれない。  夏子の発案は次の理由による。  江分利は、ここ2、3年、めっきり身体《からだ》がおとろえていた。深酒のせいもあろう。しかしそれだけでもない。終戦直後からすぐサラリーマンを続け、22歳で結婚して世帯をはった無理がいっぺんに出てきたような気味合いがある。係長となって管理の仕事に馴《な》れないせいもあろう。昭和10年代生れの社員の気持をつかみかねているところもある。  だから、できるだけ休暇を多くとって休養させたいと思ったのだろう。いままで会社の仕事にのめりこんでいた江分利も珍しく「ナカジキリか」と呟《つぶや》いて賛成した。  庄助のゼンソクには苦労したが、どの医者にも言われたことは�皮膚を鍛《きた》える�ことだった。それには海岸が一番よい。  夏子のノイローゼは、不思議なことに湘南《しようなん》方面なら調子がいいのである。中央沿線は荻窪《おぎくぼ》へ行くのも怕《こわ》がる。下町に育って鵠沼《くげぬま》に別荘があったせいか。それに長者ヶ崎なら自動車で行かれる。  そうして、10日間だけの家庭教師を探すという。朝、庄助に勉強させて、午後に一緒に泳ぐという条件なら、いい人がいるに違いないとも言った。  今年の5月に夏子は長者ヶ崎を訪れた。7月の末から8月一杯を5万円で借りるつもりだった。維持費としての5万円とあわせて10万円を江分利の7月のボーナスから確保するという計算だった。 「困ったわ、ちょっと」  帰ってきた夏子は言った。  遠縁の農家は、どうせ借りるなら7月も借りてくれという。そうして2カ月で8万円でどうかという。それは相場としては非常に安かったが、江分利家の予算としてはハミだしてしまう。それに庄助は7月15日までは授業があり、20日から25日までは林間学校がある。  江分利は弟と2人の妹によびかけることになった。3人に1万円ずつだしてもらったらよい。  そういうふうにして、江分利としてははじめての夏の家を持つことになった。  7月のはじめ、江分利は会社の仕事が重なって長者ヶ崎へ行かれなくなった。庄助もむろん学校があった。土曜、日曜は弟や妹の家族でいっぱいだった。  7月の末に夏子と庄助は父を連れて出かけたが、すぐ帰ってきた。  兄妹とはいっても、狭い家に大家族となると、トラブルはまぬがれがたい。調味料のことまでがうるさくなる。酒を飲む男、飲まない男ということもある。親類だけに、かえってめんどうである。  8月のはじめに江分利家はすぐあきらめをつけた。海へ10日間という約束で来た家庭教師も妙な顔をしたが仕方がない。中学の1年で、はじめて習う英語だけは嫌いになったら困るという江分利の考えを変えるつもりはなかった。  8月の末になったら、という心づもりも小さな事件で吹きとんだ。改造中の上の妹の家が長びいて、避暑というよりは両親や子供を連れての引越しという形になってしまったからだ。  そのうえ、あずかって貰った父が熱をだした。糖尿と腎臓《じんぞう》がわるいところへ老人結核という診断である。どの家も子供が多いので、いったん江分利家へ帰ってきたが、ふたたび入院ということになる。  夏子の話では、月12万円の部屋と7万円の部屋とがあって、病院でそのふたつを示されたときに父は「私の小遣《こづか》いではいれるところにしましょう」と言って7万円の部屋に入ってしまったそうだ。大部屋などは眼中にないという。  これでは、とても避暑どころではない。 「中仕切(ナカジキリ)」などとんでもない話だ。江分利の悪戦苦闘がまたはじまるだけだ。大部屋へ移すという努力を夏子はもう放棄してしまった。江分利とても同様である。  父はまたしても冷蔵庫がほしいとか違い棚《だな》がほしいとかデッキ・チェアがほしいとかわめいているそうだが、これは無視することにした。父はいかなる逆境にあろうとも演出だけは忘れない男なのである。どこまで続くヌカルミぞ。  江分利の一生には何かの不運が常につきまとうように思われる。不運とまでいかなくても「間の悪さ」を免れがたい。生きることは「間の悪さ」に抵抗することなのであろうか。  結婚15年目の夏は、このようにして終った。     ㈿  どこまで続くヌカルミぞ。  江分利の無気力もまだ続いている。  江分利の将棋は専門家でいえば12級ぐらい、素人《しろうと》将棋の初段ぐらいの実力はあると思う。それが、近頃、素人10級ぐらいの男にも勝てなくなった。たいがいは逆転負けである。何故《なぜ》か。何故だかわからぬ。おそらくは興味をうしなっているせいだろう。気力がないせいだろう。  花札は、この5年間ぐらいさわったことがない。これには全く興味がない。戦後すぐ、賭場《とば》を荒したことなどは嘘《うそ》のようである。賭場荒しといっても泥棒や細工事ではない。そんなことは出来ない。冷静な判断とシャープな勘と気力があれば賭博師の間にはいっても勝てるのである。つまり、博奕打《ばくちう》ちはあまりお利口さんでないということであろう。  麻雀《マージヤン》も去年からやっていない。麻雀にも全く興味がないが、オツキアイという意味だけでやってきた。麻雀をやって勝とうという気持がない。巧者に打とうという気持もない。  女にも興味がない。得手でない。これは江分利満36歳という年代に共通したものであるかとも思う。  中学の時の同級生が来て言った。 「今年の夏は、ぼくはついててねえ、3度いい目にあったぜ。それが色っぽいんだ。まず第一に男鹿《おが》半島に調査に行ったときにねえ(友人は国語学者で、大学の助教授である)町を散歩していたらちょっといい娘がいてね、ぼく、それについて行っちゃったんだよ、そいであがりこんじゃってね、そしたらオヤジさんが出てきてね、これがついてたんだなあ、県の教育委員をしていた人でね、すっかり話しこんじゃってさ、そのうち娘がお茶もってきたりしてさ。あぶなかったねぼくも。まさに貞操の危機を感じたね」 「それでどうしたの?」 「それだけさ。翌日は青森で会合があったからね」 「へええ」 「そのつぎが凄《すご》いんだ。小畑先生と五島列島へ行ったんだけどね。旅館で寝ようと思ったんだけど、隣の部屋が妙にシーンとしているんだね。ぼく知ってたんだよ、隣の部屋にはねえ、女子大生で日本史をやってる人が泊っているんだよ。やっぱり調査に来てたんだなあ、なかなか美人でねえ。昼間ちょっとおじぎしたんだけどね。凄いだろう」 「ふうん。そうかね」 「キミわかるかね、隣はシーンとしていて物音ひとつしないんだぜ。変だろう。女のひとだって何か音がするもんじゃないかな。音がしないってことはねえ、キミにわかるかねえ、つまりぼくを意識してるってことなのさ」 「そうかねえ」 「そうさ。おまけに唐紙ひとつなんだよ。ガラッとあければそれでおしまいさ。実にあやうかったねえ、ぼくも」 「それで、どうなったの」 「ぼくもジイッとしていたのさ、物音ひとつたてないでね」 「朝まで?」 「朝までさ。むこうもシーンとしたままさ。こっちだってシーンとしていたよ。どうだ、いいだろう。あぶなかったねえ」 「唐紙はあけなかったの?」 「そんなこと出来るわけがないじゃないか」 「なるほどねえ」 「翌日、顔をあわせたらねえ『お早うございます』って挨拶するんだ。住所を聞いといたから手紙を出そうかと思ってるんだけどね、まだ出してない。どうも、キミ、われわれの歳《とし》になると危険な目にあうことが多いねえ」 「…………」 「最後が、また凄いんだなあ」 「もういいよ」  国語学者の友人はまだ独身である。  酒についても、すっかり弱くなってしまった。どうかするとビール1本で酔ってしまうことがある。勢いであとを続けて飲むと翌日はグッタリしてしまう。宿酔《ふつかよい》の後悔と反省も、強烈ではなくなった。  飲む、打つ、買うについては、右のようなものだ。  仕事はどうか。仕事にはあきていない。  仕事にあきては大変である。  しかし、不調である。ピリッとこない。30歳を過ぎて度々《たびたび》の危機をこえて、30代の半ばになった頃から、江分利は自分の人間が少し変ってきたように思う。  江分利はどう変ったか。  江分利が変ったこともたしかだが、まず、世の中が変ったと思う。妙な安定ムードがただよいはじめている。  たとえば、東西電機についていっても、新しい仕事である弱電気メーカーにあこがれて入ってきたというよりは、就職案内で調べて最も安定した会社のひとつを選んだという新入社員が多い。これは当然の推移でもあろう。  会社が安定し、大企業に近づいて、重役室との距離ができたということもあろう。これも当然のことだ。  しかし、これらのことは、どうも江分利のようなタイプの人間には、あまり面白いことではない。  生活が安定して、レジューアーができて、バカンス時代ということが、どうもおもしろくない。江分利のような男には、江分利のような生《お》い立ちの男には乱世がふさわしいのであろうか。  どうも疲労が目だつ。仕事をして、それで疲れるというのではない。仕事ができる状態であるならば、むしろ疲労は少ないだろう。疲れてねむい、だからねむれるという状態であればよいのだが。  戦争と戦後と逆境と悲惨に狎《な》れ過ぎたためであろうか。  無気力である。無気力を酒やなにかではねかえすという年齢も過ぎてしまったようだ。  江分利満の生活は、今後どうなるだろうか。何かの展開があるだろうか。  目の前に人生の収束と死がいっぱいにひろがってゆくように思われる。  江分利が、今の状態から立ち直れる時が来るであろうか。(筆者もとより知る由もない) [#地付き]〈完〉