山口 瞳 人 殺 し(下)     22  道子からの手紙。  甘やかしてはいけないと頼んでいるのに、あんな言い方をされては困ります。でも、もの凄く嬉しくて、家のなかをふわふわ歩いています。今日のお手紙がずっと来なくて(いつも配達の人が二時半頃来るのに、夕刊がひとつ来ても手紙類は来なかったのです)ちょっと淋しいと思っていて、すこしして、また夕刊を取りに行ったら新聞とまざって三通と葉書が来ていてドキドキしちゃいました。  胃や腸が何ともなかった由、なによりですね。このあいだ新聞に、ワインはお酒のなかでただひとつアルカリ性のもので、肉を食べるとき飲むのは肉の酸性に対してとてもよく、野菜をとらなくてもワインを飲んでいればいいと書いてありました。今度よくなったらワインを少し飲むのはどうかしら。こんなこと書いて寝てる子を起すようなもの? でも可哀そうだから。  林太郎は、いまお風呂です。「あまり細かい画を描いているようだとパパは頭が狂っていると思ったほうがいいよ」なんて言っています。今日は林太郎の誕生日です。十八歳になったわけです。お祝いは、このあいだの映写機で済んでいるわけ。大学生のリーダーとの連絡やなにかで毎晩おそくなるのだそうです。パパの留守中は、なるべく下宿でなくこちらへ帰ってきてくれるように頼んであるのですが。……夜、ここまで帰ってくるのは、やはりめんどうになるのね。  昨日は坂上夫人とおしゃべり。あそこもケンタイ期というか、ご主人の欠点がいろいろ気になりだしたらしくて、私は聞き役です。夫婦も子供が少し手を離れて経済的にも余裕が出てくるときが危険なのね。  このごろは「アフリカ旅行記」なんかを寝る前に読んでいます。ボーボワールを読んでいたけれど、いろいろあらぬことを考えちゃって、目だけで活字を追ったりするようになります。(この「あらぬこと」はマジメなことよ。パパの病気とかいろいろ)さりとて中間雑誌を読むとヘンな小説ばかりで、ヘンな気持になりそうで「アフリカ旅行記」なんかがちょうどいいみたい。(ガマンデキナクナッタラドウシタライイデショウカ。オシエテクダサイ)  全く小人は閑居して不善をなすまではいかなくても、何も出来ないわね。本当のところ「源氏物語」をちゃんと読みたいと思っています。現代語で上手に書いてみたいという人の気持は本当に道子なんかにもわかるみたい。原文のままに勝《まさ》るものはないと思うし、それを自分なりにいろいろ解釈してゆくのがたまらない魅力ね。  年とって、パパと二人で静かに本読んで暮したいなと思います。変なこと言っちゃった。  道子はとても元気に暮しています。  日曜日の外泊について、滝本に頼む。 「生理休暇ですかね」  と、滝本が言った。 「そうじゃないですよ。紅葉がいいときなのに、三週間の監禁はひどいですよ。体のためにもよくない。しかし、せっかくそうおっしゃってくださるのなら、どこかお茶屋さんでも紹介してください」 「いいですよ」  滝本の書いてくれた外泊許可証は、土曜日の午後から月曜日の昼までになっていた。 「ああ、土曜日からというと明日ですね。ありがたいな。決して無茶なことはしませんから」 「そうです。食餌療法は、カロリー計算よりも、自分の体でおぼえることのほうが大事なんです」 「言われたことは守ります。案外素直ですから」  滝本はニヤニヤ笑っていた。  そこへ湯村が通りかかって外泊許可証を見た。 「糖尿病はインポになりますからね」  湯村は真顔で言った。 「滝本さん。そんなことはないでしょう。心理的なものでしょう」 「さあ、どうでしょうかね。私は心理的なものが左右すると思っていますがね」 「ほらみろ。湯村は意地が悪いんだから。……中学生のときからそうだった」 「それは違いますよ。私の患者で三十歳で駄目になったのがいましたよ。どうしても駄目だって」  滝本はずっと笑っていた。  日曜日まで、あと二日だった。  日が、せまっていた。     23  瑛子が甲府の宿にたずねてきてから、瑛子と井崎との関係は、いっそう親密になったように思われた。同時に、惰性とも思われるような関係が生じていた。  井崎は、母の形見である勾玉《まがたま》を瑛子に与えた。その勾玉は翡翠《ひすい》で、本物の出土品だった。カシューナッツの形をしていた。正しくは巴型《ともえがた》というのだろう。翡翠の緑色が鮮やか過ぎることはなくて、沈んでいて、深く濃くなっている。井崎はそれがどれほどの値打ちのものであるかを知らない。井崎の母が若いときに京都へ遊びに行って三年坂の古道具屋で買ったものだと聞かされていた。井崎は、それをずっと小物入れの抽出《ひきだ》しに蔵《しま》っていた。道子は、それは井崎と井崎の母の領分だと思っていたようだ。井崎には母の形見はその勾玉しかない。井崎は一年に一度ぐらい、夜中に勾玉を出してきて拇指《おやゆび》の腹で撫でたりすることがあった。  井崎が勾玉を瑛子にプレゼントしたのは、甲府のことがあったからだった。井崎にはそれ以上の金銭的な余裕は無かった。瑛子がその意味を理解してくれなくてもいいと思っていた。井崎は、それを記念だと思っていた。  しかし、瑛子は、井崎の予想以上にその勾玉を喜んで受け取った。勾玉を見たときから瑛子の眼が輝いた。 「ありがとう」  瑛子の言葉はそれだけだったけれど、全身で何かの感情を表現していた。瑛子は、勾玉を撫でたり、胸に当てたり、新しい灰皿に入れて転がしてみたりしていた。井崎はそれが母の形見であることを言わなかった。 「首飾りにするといいかもしれない」  井崎は、金の鎖が買える金を瑛子に渡した。  二週間ほど後に『金属』へ行ってみると、瑛子は勾玉を首飾りに仕立てていた。それは白地の服によって更に引き立っていた。デパートの宝石売場で金の鎖をあつらえたのだという。職人は出来あいの鎖を使うことを承知しなかったという。それで遅くなったのだという。瑛子はそのときに勾玉の値打ちを知ったかもしれない。  鎖は繊細と素朴とを兼ねそなえていた。細い鎖であるけれど、どこかに力強い感じがあって、それが一種の味わいになっていた。  瑛子は玉響《たまゆら》という言葉を知らなかった。 「昔の女は、そんなふうに勾玉を首にさげていたんだ。それで玉と玉とが触れるだろう。カチッという音がする。それからまたもう一度音がする。その音と音との間隔は非常に短いものだ。初中終《しよつちゆう》チャラチャラ鳴っているんだからね。それを玉響というんだ。非常に短い間という意昧なんだ」  瑛子は、いつでも勾玉の首飾りをしていた。井崎の席に着いている間は、絶えず勾玉に触れていた。 「ほら、玉響よ……」  瑛子は勾玉を洋服の釦《ボタン》に当てて音を立てたりした。その音は、他の客に聞えることはない。その意味は、他の客も女たちも知ることがない。そうやって瑛子は甲府の山の中のことを思いだそうとしているのだと思われた。井崎も、だんだんに、あれは玉響だと思うようになった。 「ねえ、私にも、瑛子みたいな首飾りを買ってちょうだい」  友絵が言った。  井崎は苦笑した。骨董屋《こつとうや》へ行くときは気をつけてみるのだけれど、勾玉を発見することがない。あったとしても馬鹿馬鹿しいくらい高価だった。それに、酒場の女が客に品物を強請《ねだ》るときは、必ずしもそれが欲しくて言うのではないことを知っていた。女給は、単にそうやって客を引きつけようとするのである。友絵にはそれが身についていた。  瑛子が勾玉を気にいったということは井崎を喜ばせた。瑛子には、女としての、そういったいい素質があると思われた。  瑛子は、しかし、井崎に対して嘘を吐く度あいが多くなった。瑛子の嘘は生得のものであって、なにか天然自然であるかのようにも思われた。全く意味のない嘘を吐く。 「今日はね、お客様に、誕生日のお祝いを配って歩いていたの」  瑛子は、そういうときに、むしろ元気よく、はればれとした顔で言う。 「なにを?」 「お菓子よ。それで、くたびれちゃった」 「へええ、今月に生まれた人のところへ菓子を持ってゆくのか」  井崎は『金属』から誕生日の記念品などを貰《もら》ったことがなかった。それは彼にとっては、どうでもいいことだった。 「そうよ……」 「幼稚園の生徒みたいだな」 「お昼に事務所に集まってね、みんなで配って歩くの」 「自宅へ?」 「そう。だいたいの地域にわけてね。……でも、私は自分のお客さんはどんなに遠い所でも自分でいくの」 「へええ。俺は貰ったことがないね」 「本当? そんなはずないわ」  それでは俺はきみの客ではないのかと言おうとしてやめた。井崎は『金属』にとっては上客というわけにはいかない。それでも、もし誕生日に客に菓子を配るとすれば、すくなくとも安江が井崎を除外することは考えられなかった。  井崎は阿佐子に訊いてみた。 「誰がそんなことを言ったの。そんなこと、しやしませんよ。うちは案外しぶいんですからね。しぶいっていうより、そういう子供っぽいことはしないんですよ」 『金属』は、クリスマスにパーティー券を売ったりするようなことはなかった。それは阿佐子の言うように、万事につけて大人っぽい営業方針を取っていたということになるだろう。阿佐子は、それが気にいっているという言い方をした。 「俺は十年以上の客だからね。別にひがんでいるわけではないけれど」 「ですからね、そんなことはありませんよ。おかしいわねえ」  阿佐子はそれをバーテンダーに言った。バーテンダーは答えずに笑っていた。彼は井崎と瑛子との会話を聞いて知っていた。もし、女たちが、自分の客に記念品を配って歩くとすれば、瑛子が井崎の所へ来ないわけがない。それに、そういうやりかたは、指名制の酒場の女たちのすることである。  阿佐子が去ってから、バーテンダーが言った。 「井崎さん、気をつけたほうがいいですよ」  その意味を井崎が理解したのは、もっと後になってからのことだった。  瑛子はよく泣くようになった。それも甲府へ遊びに来てから以後のことだった。瑛子は酒飲みとしては泣き上戸だろう。 「先生、私みたいな女でもいいの」 「………」 「私みたいな高慢ちきな女でもいいの」  そういうときには、瑛子は、もう泣いていた。他の客の手前もあって、井崎は、瑛子をもてあましていた。 「私みたいな、我儘で高慢ちきで気位が高くて、こんな女でもいいの」  井崎は、いいというより仕方がない。井崎は他の女よりも瑛子が自分に合っていることを認めないわけにはいかない。井崎は酒場の女に家庭的なものを求めているのではない。そういう粘っこさのようなものは御免だと思っていた。  また、瑛子は怒りっぽい女だった。 「私みたく我儘でもいいの」 「みたくじゃないよ。みたいなと言いなさいよ」 「みたくなんて言わなかったわ」  瑛子はそれだけのことで席を離れた。  瑛子は井崎に対して、どんなことがあっても、ごめんなさいと言ったことがなかった。井崎が金を渡すときに、瑛子は、いつでも、ありがとうと言った。それは、さっぱりとしていて気持がよかった。 「ありがとう」  瑛子は子供のように素直にそれを受けとった。井崎は妙に遠慮したり理窟を言ったりする女が好きになれなかった。 「きみの、その、ありがとうって言うのは、とてもいいね。すぐにありがとうって言えるのは、とてもいいことだよ」  それも瑛子には気にいらないようだった。瑛子は、それも批評と受けとって反撥《はんぱつ》してくる。 「私はね、ありがとうございますって言えないの。私、駄目なのよ。すぐに、ありがとうって言っちゃうのよ」  それだけのことで腹をたてるようだった。それは、褒《ほ》められても喜ばない、ひねくれた子供に似ていた。井崎は、そういうときにも、不良少女の臭いを嗅《か》ぎとっていた。そのことはきわめて不快だった。  それと全く逆に、瑛子は、叱られても怒るようなことはない。罵倒《ばとう》されても耐えることができる。その点でも尋常な女ではなかった。おそらく、瑛子は幼児のときから、罵倒されてきて、それに耐える術を身につけているのだろうと思われる。あるいは、罵倒のほうを愛情にちかいものに受けとるのかもしれない。  なんにでも反対する子供がいる。そういう一時期をもつ子供がいる。瑛子はそれに近いのだと思われるようなこともあった。  井崎は、瑛子や、瑛子と水野との関係を、酔っぱらって罵《ののし》るようなことがあった。  次の機会に井崎が詫びても、瑛子はケロッとしていた。 「私が悪いんですもの」  瑛子はそんなふうに言った。そのへんが、井崎には、変幻自在に思われた。酒場で遊ぶ客は、常に、自分の女とどうやって関係を切ったらいいかを考えている。関係をつくることと切れることの間《あわい》で遊んでいるとも言えるだろう。井崎も例外ではないし、女のほうでもそうであるに違いない。 「水野って、みんなの考えているような悪いひとじゃないのよ。あのひと、本当は気がちいさいひとなのよ。でも、先生の言ったことは正しいのよ。だって、その通りなんですもの。私が悪いのよ」  井崎は瑛子にふりまわされていると思った。また、酒場で働く女がすべて瑛子のようであるとも思われない。  瑛子は、日常的なるもの、世間の道理といったものを拒否して生きているようにも思われた。それが、瑛子の言う裏街道なのだろう。しかし、井崎が持時間が尠《すくな》いと感ずるのと同じように、瑛子も、女としての持時間を考えているに違いない。瑛子は、だんだんに焦《あせ》ってきていた。 「私、もっとよかったんだけどなあ」  旅館で瑛子が言った。瑛子は自分の体のことを言っていた。 「私、自信があったの。十八か十九か、そうね、二十一歳ぐらいまでは自信があったのよ。……いいと思っていたのよ。そのときはわからなかったけれど、いまになってみると、そう思うわ。……私、駄目になっちゃったの。もう、駄目なのね」  そのときも、瑛子は、井崎を蔑《ないがし》ろにしていた。瑛子は自分の体に執着しているだけだった。井崎は、それも仕方のないことだと思った。自分には何の権利も資格もないのだと思っていた。  どういうことをされても、井崎には瑛子を責める資格はない。  井崎と会ったときに、瑛子は、いつでも、びっくりしたわと言った。 『金属』で、井崎が行くことがわかっているときでも、井崎を発見すると、ああびっくりした、と言った。そう言いながら井崎の隣のスツールに坐った。  これが、反対に、井崎のほうで瑛子を見て、うしろから肩を叩いたりすると、瑛子は怯《おび》えたように飛び退《すさ》った。そういうことが何度かあった。  瑛子に電話をかけて、井崎ですと言うと、そのときも瑛子は、ああびっくりしたと言った。酒場では、当然、誰から電話がかかっているというふうには取りつがない。井崎のほうでも、井崎だと名告《なの》る必要はなくて、いきなり、瑛子を呼んでくれと言うことになる。それで、瑛子は、店にいて電話があったことを知らされたときに、誰から掛ったのだろうと訝《いぶか》りながら電話口に近づくことになる。それにしても、井崎からすると、瑛子は、絶えず戦慄《せんりつ》している女であるような印象を受けることになる。  瑛子は、秋になってから、あるカメラマンに追い廻されていた。銀座を歩いていて声をかけられたのだという。  カメラマンは瑛子を喫茶店に誘い、名刺を渡した。井崎の知らないカメラマンだった。男は、近々に個展を開くので、瑛子の写真を二枚か三枚追加したいのだと言った。  その次に瑛子が銀座の同じ喫茶店で会ったときに、カメラマンは瑛子を御幸通《みゆきどお》りに連れだして写真を撮った。強い秋の日を浴びていて、いくらか眩《まぶ》しそうにしているポートレートだった。瑛子は唇を固く結んでいて、少女っぽい顔になっていた。ほとんど素顔にちかい。それは井崎の好む瑛子の顔だった。瑛子自身も、よく撮《と》れていると思っているようだ。そうでなかったら井崎に見せるはずがない。その写真は黒白写真で、正面と、横顔と、斜めの顔の三種類になっていた。井崎も力倆のあるカメラマンだと思った。瑛子のいいところが、うまく把えられていた。  しかし、もちろん、カメラマンは、その写真を個展に出品しようとしているのではなかった。ひとつには、それは、テストだった。もうひとつには、そういう写真を撮ることによって瑛子の歓心を買い、同時に詭《あや》しいものではないことを証明しようとしているのだった。 「男物のワイシャツを持ってきてくださいって言うのよ。用意するものはそれだけでいいって言うのよ。……その意味はわかるでしょう?」  と、瑛子が言った。瑛子は迷っていた。  カメラマンの意図するところは井崎にも容易に想像がついた。カメラマンは、自分のスタジオで、カラーのヌード写真を撮ろうとしているのである。男物のワイシャツで襟を開《はだ》けて裾を縛り、あとは何も着けていないで立っている女という図柄が想定される。おそらく、素顔で、髪は束ねるだけだろう。ワイシャツを持ってくるだけという条件は、完全なヌードを要求されるかもしれないことをも意味していた。  男は、毎日、『金属』に電話をかけてきていた。展覧会の開催日が迫ってきていて、カメラマンは瑛子の決心を促していた。『金属』にあらわれないところから察するに、男はカメラマンとしては中堅級にも達していないのだろう。『金属』の勘定はそれほど高価ではないが、格式が高くて、常連でないと入り辛いようなところがあった。客として『金属』に来るカメラマンは大家であり、遊び馴れた人たちだった。  井崎のいるときにも電話がかかってきた。 「また、あのひとなのよ」  と、瑛子が言った。すると、瑛子のほうでも、きっぱりと断るという態度をとっているのではないのだろう。いくらかは気をもたせているのだろう。瑛子は銀座でのスナップ写真に心を奪われていた。しばらくのあいだ、三枚のキャビネ判の写真をハンドバッグにいれていた。 「撮ってもらったらいいじゃないか」 「いいの? 先生、ほんとうに、いいの?」  瑛子は怨《えん》ずるような目つきになっていた。それは井崎の気持を確かめる口調であり、同時に恨み言にもなっていた。また、自分の気持を整える意味もあったろう。 「私が、カメラマンと二人っきりで、ヌードになってもいいの? 先生は、それでいいの?」  井崎は、いいとも悪いとも言わなかった。厭《いや》だと思ったら井崎に相談する余地はないはずだと思っていた。しかし、井崎は、そのことを言って瑛子を怒らせるのも馬鹿らしいと思い、黙っていた。黙ってしまうということも瑛子にとっては不満であったに違いない。井崎は、どっちでもいいと考えていた。 「じょうだんじゃないわ。私がヌードなんかになるわけがないじゃありませんか」 「………」 「胸だってちいさいし、体は頽《くず》れてしまっているし……。じょうだんじゃないわ」  瑛子は、それを、いつもの嗄《しわが》れた声で、強く言った。体が頽れているというときに、瑛子の過去がどんなものであったにせよ、井崎もいくらかの責任を感じないわけにはいかない。瑛子も、そういう響きを計算しているようだった。  実際、井崎は、自分でも驚いていた。瑛子がカメラマンの前で裸になるということは、井崎にとって、愉快なことではない。そうかといって、強く押しとどめようとする気持もない。そのへんが、曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。  井崎は、瑛子のことに限らなくて、万事につけて成り行きまかせという気持が強かった。瑛子が銀座で買いものをしていて、カメラマンに目をつけられる。カメラマンに追い廻される。それは偶然の出来事であるにすぎない。そういう偶然の出来事から、瑛子にとっての新しい道がひらけてくるかもしれない。瑛子がヌード写真を撮らせるか、それを拒否するかということは、だから、井崎にとっては、どうでもいいことだった。しかし、瑛子に相談されて、はじめに、撮らせたらいいじゃないかと言ったのは、軽い気持で言ったのだけれど、冷酷な感じを与えたかもしれないと思う。もともと俺は冷酷な人間なのではないかと思った。女あしらいが下手だなとも思った。  また、このごろの若い女がヌード写真を撮らせるというときの気持を計りかねてもいた。裸になるというときの羞恥《しゆうち》と、それが展示されて、多勢の人間の目に曝《さら》されて、あるいは褒めそやされるかもしれないという期待との按配《あんばい》が、井崎には全く見当がつかない。瑛子には羞恥心が強く、それと同等ぐらいに顕示する気持が強いことを井崎は知っていた。 「なんでも成り行きまかせなのね」  そう言って瑛子は井崎を詰《なじ》ったことがある。井崎はそう言われても返す言葉がない。それが井崎の処世術であり、考え方の芯《しん》になっていると思わないわけにはいかない。  瑛子のことについてもそうだった。それが短い間の情事に終ってもいいし、瑛子が安江のように三十歳を過ぎても『金属』に勤めているのならば、瑛子の客として通してもいいと思っていた。瑛子に強力なパトロンがあらわれて、井崎が退けられるようなことがあっても、それはそれで一向にかまわないと思っていた。瑛子が結婚して店をやめるというのであれば、それ相応のことをしてやりたいと思っていた。いずれにしても、状況次第、相手次第だった。  瑛子がカメラマンに写真を撮らせようかどうかを迷っていたのは、瑛子がそういう意味での女としての最後の時期に達しているからだった。瑛子が、二十一歳までの私はもっとよかったと言うのは、その頃までは顔にも体にも張りがあったということだろう。そんなことは考えられないけれど、かりに瑛子がファッションモデルにでも転向するとすれば、それが最後の機会だった。あと一年もすれば、カメラマンに追い廻されるようなこともなくなるだろう。瑛子は『金属』の女給であることを幾分かは誇りにしていたけれど、酒場の女から足を洗うことを絶えず考えていたはずである。 「私がヌードなんかになるわけがないじゃありませんか」  井崎は瑛子の言葉をそのままに信じていた。瑛子を追いかけていたカメラマンの個展がどうなったかを訊いてみたことはなかった。  その翌年の四月になって、広告写真の専門雑誌で、瑛子のヌード写真を見たときの新鮮な驚きを井崎は忘れることができない。そのときは井崎はもう瑛子とは肉体的には別れてしまっていて、『金属』へ飲みに行く機会は極めてすくなくなっていた。  井崎は食品会社の意匠課長の机にあった雑誌を何気なくめくっていて瑛子の写真につき当った。それは前年度に発表された広告写真の優秀作品の次席に入選していた。それは香水の広告の素材として発表されたもので、実際の広告に使われたのではない。また、展覧会に発表されたかどうかということはわからない。  瑛子は薄いグリーンのパネルの前に全裸で立っていた。緑のバックは、全体にぼかされている。瑛子は横むきで、右肢を前に出し、上半身を斜めに捩《よじ》っている。最初は、井崎は、それが瑛子によく似ている国産品の時計メーカーのモデルではないかと思った。しかし、日本人としては珍しいやや上向きの鼻からして、紛れもなく瑛子だった。そう思った次の瞬間に井崎は声をあげた。全裸の瑛子は、勾玉の首飾りだけを身につけていた。翡翠の勾玉がハイライトになっていて光っていた。カメラマンが緑のパネルを使ったわけがわかった。それは、井崎にとって、むしろ、小気味のいい出来事だった。ヤラレタと思った。それはカメラマンが勾玉の首飾りに目をつけたことのようでもあり、瑛子に騙《だま》されたことに対する感情のようでもあり、また、瑛子の一種潔いと思われるような姿態のせいでもあるようだった。そのように瑛子はB5判の一頁の誌面にカラー写真となって定着していた。  瑛子は、ほぼ二カ月の後に勾玉の首飾りを紛失していた。だから、その写真は、瑛子が井崎にカメラマンにつきまとわれていると告げた直後に撮らせたものであることは間違いがない。  井崎は、しかし、その写真を広告写真の優秀作として評価したわけではなかった。第一に香水との結びつきが稀薄だった。裸体である必然性も認められない。また、少年のように、黒人女のように縦に盛りあがった臀《しり》は、妙になまなましくて、必要以上にエロチックだった。井崎は特にそう感じた。  そのときに、井崎は、瑛子が嘘つきだと思ったのではない。井崎は、逆に、瑛子のなかに、気のいい女を発見したように思った。カメラマンにつきまとわれて、そうなってくると、だんだんに瑛子は厭だとは言えなくなってくる。瑛子には、そういうところがあった。カメラマンの要請で裸になってしまうというのも同様である。それを井崎に報告しなかったことを責めようという気持もない。隠したがるということでいえば、瑛子も道子も同じことだった。  井崎は、意匠課長の椅子に坐っていて、長い間その写真を見ていた。それから、手が自然に動くような感じでその写真を切りとり、まるめて屑籠《くずかご》に投げいれた。  井崎は瑛子に、早くいい旦那をみつけたほうがいいと言っていた。それは、瑛子に関しては、普通の結婚が考えられないからだった。きまったパトロンがいなくて、客の玩具のようになっていることは井崎には耐え難かった。 「先生は、私にパトロンがいたほうがいいの?」  瑛子は当惑したような表情でたずねることがある。井崎は、いずれにしても、瑛子が早く金を溜めてしまうことをのぞんでいた。悧口《りこう》に、うまく立ち廻るべきだと思っていた。  実際は、井崎には、瑛子の生活の実状は何もわかっていないといってよかった。水野と別れたといっても、その関係が時に復活しているのか、別のパトロンがいるのか、随時に金のための客をとっているのか、そのへんのところがまるでわかっていない。井崎のほうでも、それを追及しようとする気持は全く無かった。  ただし、『金属』の給料だけでは、マンションに住めるはずがないと思っていた。そのマンションに誰と住んでいるのか、一人でいるのか、そこへ客を連れこむことがあるのかということもわかっていない。 「昨夜、奥さんと、寝はった?」  瑛子は、それをわざと関西弁で言った。 「ああ、寝たよ」 「しはった?」 「ああ……」  井崎は、いつでも、そう答えた。瑛子は乾いた声で笑い、体をぶつけてきた。 「愛しているよ」  井崎が瑛子の耳もとで囁くと、瑛子の体は、一瞬、ピクッと動く。それも井崎の挨拶がわりだった。そのことを言うと、瑛子は、憎々しい感じで、断じてそんなことはないと言う。 「私、誰にも愛されてはいませんし、誰も愛していませんわ。……嘘、私、ほんとうは好きなひとがいるの」  瑛子にとっては、井崎のような客は初めてであったようだ。瑛子の客は、たいていは老人で、客の妻も高年齢になっていた。そのことも『金属』の酒場としての格式を示していた。『金属』の客は、実業家でいえば、大小の差はあっても、社長クラスだった。景気のいい会社でも、専務か常務までだった。その他の客は、本当の意味での『金属』の客ではなかった。井崎のように、夫婦生活において現役であるという客は極めて稀であるに違いない。 「私、一流主義だったんだけどなあ」  そんなことを言うのは、瑛子が井崎と親密になって、狎《な》れてしまったためである。瑛子は、一流の会社の社長と寝るだけでなく、世の中の変動のために、中小企業の社長や専務を相手にしていることを意味していた。問わず語りで、井崎にはそのことがわかってしまっていた。瑛子は、泊れる花街と泊れない花街の区別や、都内の高級ホテルの状況に精通していた。  瑛子の客は老人だけではない。時に、非常に若い客が来ることがある。瑛子は、大学のときの同級生だと言っていた。そういう客は、一杯か二杯飲むだけで、あとは瑛子とフロアで踊っていた。多分、それは、大学にいたときはメチャメチャだったという相手の一人なのだろう。瑛子は、子供が凧《たこ》を揚げるときの手つきで、静かに離れて、神妙な顔で、踊っていた。  瑛子は、井崎の仕事のうえの日程を知るようになった。客の日程を知るのは職業上のことであるけれど、瑛子はのみこみが早かった。  瑛子にとって、この年の夏の終りに甲府へ行ったのは玉響《たまゆら》の出来事だった。井崎にとっても、今後はそういう機会が訪れることは考えられなかったが、瑛子も同じように考えているようだった。瑛子は、そのことを、なつかしがっていた。  瑛子が京都に来るというのは、そういう意味があった。瑛子は、旅先で井崎に会うということに執着していた。瑛子が京都に来るのは病気見舞いではなかった。瑛子は何かを求めているはずだった。  瑛子が京都の旅館に着いたのは午後二時だった。瑛子は、いつでも約束した時刻を守っていた。午後の二時に着くには家を午前九時には出ないといけない。だいたいの約束はしてあっても、井崎は瑛子が大幅に遅れることを覚悟していた。  そのとき井崎は按摩《あんま》をとっていた。疲労よりも、ぼんやりと待っているのが辛いためだった。  女中が井崎の部屋の唐紙《からかみ》を開けた。瑛子は井崎を見て戸惑うような素振りをみせた。廊下で踏鞴《たたら》を踏むような恰好になった。そのまま、そっぽを向いた。 「よく来たね」  井崎は寝たままで言った。  瑛子がすぐ部屋にはいってこないのは、そこに按摩がいたからではなかった。そういう様子は、いかにも瑛子らしかった。 「はいったらいいじゃないか」  井崎は、いくらかきつい調子で言った。瑛子は体とハンドバッグを一緒に投げだすようにして部屋の隅にペタンと坐った。  瑛子は店に出るときと同じような化粧をしていた。強いアイラインを引いていた。営業用の顔になっていた。 「一人……?」  瑛子はまだ黙っていた。 「阿佐子さんや友絵さんは?」  井崎は、阿佐子でも友絵でも、あるいは井崎の知らない瑛子の女友達でも、誰でも連れてきていいと言っていた。そのために、もうひとつの部屋を予約していた。  一人で来ても、他の女友達を連れてきても、どちらでもいいと思っていた。しかし、瑛子が一人で来たということは、井崎にとって不快なことではなかった。 「あああ……」  瑛子が嗄《しわが》れた声で溜息をついた。マッサージはすぐに終って、女中が布団を片づけた。瑛子は、きちんとした挨拶のできない女だった。井崎の病状や、検査の結果を訊《たず》ねることもしなかった。 「きみの部屋は隣に用意してあるから、もし疲れているんだったら、すこし寝ないか」  昨夜の瑛子の帰宅は、やはり午前二時に近かったはずである。 「眠くなんかありません」  瑛子は鼻の先で笑うようにした。開き直ったような、ふて腐ったような感じだった。のろのろと立ちあがって隣の部屋へ行き、化粧をなおしてもどってきた。今度は井崎のそばに坐って菓子を食べた。 「誰も来たいって言わなかった?」 「春代ちゃんが来たがっていましたけれどね、だけど、やっぱり……」 「………」 「先生は、誰かを連れてきたほうがよかったの?」 「そんなことはない」 「じゃあ、いいじゃないの」  井崎は、自分で、女との会話が下手だと思った。 「散歩に行こうか」 「………」 「きみはお腹が空いているんじゃないか」 「そうなの」  瑛子は、やっと笑った。 「晩に、ちょっといい店を予約してあるんだ。だから、あんまり食べないほうがいいんだけれど……」  井崎は、京都では、名所を見るよりも町中を歩くほうが好きだった。それも、わざと路地裏のような細い道を選んだ。そういうところで名の知れた老舗《しにせ》を発見したりするのが楽しみだった。  河原町三条から三条大橋の手前を右に曲り、先斗町《ぽんとちょう》のなかを歩いた。午後の花街は、人通りがすくなくて、汚れが目についた。それでも小さい茶屋の多い川添いの道は、急に時代を遡《さかのぼ》ってしまうような味わいがあった。地味な着物の舞妓《まいこ》が、素顔に髷《まげ》を結って、稽古帰りでもあるらしく鼓を打つ手付きで小走りに歩いてきたりした。  瑛子は、そういう眺めに関心がないようだった。というより、なにか、うわのそらでいるようだった。  井崎の当てにしていた仕出し屋は、紅葉の盛りの日曜日ということで、若い女の客で一杯になっていた。一時間以上も待たないといけないらしい。井崎はその店の弁当が好きだった。この頃は観光地図に店の名が出ると、すぐにこんなふうになってしまう。  その店を出て、四条通りを八坂神社にむかって歩いた。 「葛切《くずき》りが食べたいわ」  と、瑛子が言った。その店も満員だったけれど、どうにか席に着くことが出来た。糖尿病の井崎は、抹茶《まつちや》を頼み、菓子は瑛子に渡した。  井崎の予定は、その日は夕食後も町中を歩き、翌日は朝早く起きて嵯峨野《さがの》や高雄をドライブすることだった。そうすれば、瑛子をそのまま京都駅に送っても、昼過ぎに病院に戻ることが出来る。紅葉のシーズンだから、郊外のドライブは、日曜日よりも月曜日のほうがいいと思っていた。 「ケーキを買って帰ろうか。旅館でコーヒーを取って貰えばいい。そのほうがいいだろう」  瑛子が頷《うなず》いた。  河原町通りを通って旅館に帰った。途中でケーキを買った。瑛子の選んだのは、ケーキよりも菓子パンに近い大きなものだった。  瑛子は店屋にも関心を示さなかった。陶芸の店で、伯父夫婦のためにと言って、夫婦《めおと》茶碗を買った。その店は銀座にも支店があり、わざわざ京都で買うような陶器ではなかった。 「いいのよ。どうせ、わかりゃしないんだから」  その声にも捨《す》て鉢《ばち》のような調子があった。  旅館に着いたのは四時過ぎで、あたりはいくらか薄暗くなっていた。  瑛子は大きなケーキを残らず食べた。コーヒーも禁じられている井崎は、だまってそれを見ているほかはない。いつでも瑛子の食欲には驚かされる。  料亭には、六時半から七時までの間に行くと言ってあった。  それまでの間をどう過したらいいかと思っているときに瑛子が言った。 「ねえ、先生、おねがいがあるの。……七時から十時までの間を私の自由にさせてほしいの」  井崎はすぐには衝撃を受けなかった。その言葉の内容がすぐには掴めなかった。あまりにも唐突だった。  しかし、井崎は、自分の意志ではなくて、言葉が自然に口から出てしまうという感じで答えていた。 「いまからでもいいよ。そのかわり、十時にはちゃんと帰っていらっしゃい。待っていてあげるから」 「………」  そのとき、すでに井崎には、おおよその察しがついていた。  井崎は、自分が著しく不利な立場に立ったときに、どこまで相手を宥《ゆる》せるかを自分に試してみようとするような性癖があった。相手がそんなことを言うのは、よっぽどのことなのだと思うことにしていた。 「ここはホテルじゃないからね、あんまり遅くなると女中さんが迷惑するからね。……早く行っていらっしゃい」 「七時でいいのよ」  それきり井崎は黙ってしまった。適当な言葉が出てこなかった。 「厭だなあ、私。……私、お酒飲むの厭だなあ」  電燈をつけずに、井崎と瑛子とが対座していた。 「私ねえ、お金を借りに行くのよ。……だって厭じゃない? お金を貸してくださいなんて言うの。お酒を飲まなきゃそんなこと言えないじゃないの」 「………」 「だって、私、先生が外泊できるなんて思っていなかったんですもの。その前に約束しちゃったんですもの」 「………」 「お金を借りるのって、とても厭だわ。やめようかしら」 「………」 「男の人に、両手をついて、頭をさげて、お金を貸してくださいなんて。……私、できるかしら」 「貸してくれるのかね」  井崎はやっとそれだけを言った。 「わからないわ」 「………」 「百万円よ。……百万円借りるつもりなの」 「とにかく出ようか」  井崎は料亭に電話して、時間が早くなったことを告げた。予約を取り消すことは考えてもみなかった。その料亭は金閣寺の裏の鷹《たか》ケ峰《みね》に行く途中の山腹にあった。あっさりした草庭が好きで、月でも昇れば一層いいと思っていた。  料亭に着いたのが五時半だった。  井崎は薄手の猪口《ちよこ》で五杯だけ酒を飲むつもりでいた。食餌療法をしている井崎には、だいたいのカロリーの計算をしながら食べられる京料理は都合がよかった。  しかし、気がついたときには井崎は自分の徳利を空けてしまって、二本目を頼んでいた。瑛子は滅多には酌をしてくれるような女ではなかった。自分の猪口で、たて続けに呷るようにして飲んでいた。  それは井崎に対する照れかくしであるように思われた。そうやって自分を殺しているようにも見うけられた。  おそらく、瑛子は、はじめは、何喰わぬ顔で、いま京都へ着いたばかりだというふうに装って男に会うつもりだったのだろう。それが、そうはいかなくなってきた。  瑛子は井崎の脇に横坐りに坐っていた。二人とも押し黙って、陰気に飲んでいた。井崎は女中に、一人は早く帰るから、なるべく早目に料理を運んでくれるように言った。それでも京料理はなかなかそうはいかない。 「堀越なのよ……」  瑛子は男の名を言った。声が上擦《うわず》っていて、涙声になっていた。井崎は、この女は、よほどの馬鹿なのか、よほどの悪党なのか見当がつかないと思った。  瑛子は居たたまれない感じでいるらしかった。それは当然だろう。 「——の堀越なのよ」  続いて、男の経営する会社の名を言った。 「だって仕方がないでしょう」  女の常として、自分の立場の合理化をはかろうとするけれど、うまくゆかない。あとは泣くよりほかにない。  堀越は、大阪の財界では名の知れた男だった。彼の会社は戦後に出来たもので、レジャーという言葉が一般化するに従って急激に伸張していた。まだ五十歳になっていないはずである。  井崎は、堀越が『金属』の常連の一人であることを知っていた。瑛子からも何度か名を聞いていた。井崎は『金属』で堀越に会ったことがない。堀越は瑛子を贔屓《ひいき》にしていて、彼の主催するパーティーや座敷に瑛子を呼んでいることを知っていた。マスコミに名を売りたがる、つまらない男であるという評判だった。そのことは瑛子も承知していた。  いったい、堀越が瑛子に百万円という金を貸すのかどうか、その額が実際に百万円であるのかどうかということが、井崎にはまるでわからない。百万円という金は僅かな金額のようでもあり、大金であるようでもあり、井崎には二様に受けとれた。昔と違って、会社の社長が案外に自分の金が自由にならないことも知っていた。堀越のように、刻苦勉励して一代で会社を築いた男が、簡単に女に融資するとも思われない。これが二号になるための手付金であるとすれば事情が変ってくるのだが。……そのへんの正確なことを瑛子が言うはずがないし、井崎も知りたいとは思わない。 「私、あと一年でお店を開きたいのよ。そのためのお金なの」  瑛子は、いままでに溜めた金の額を言った。それに堀越から借りる百万円、伯父からも借りる金をあわせると、五百万円ぐらいになる。あと一年間で百万円から百五十万円程を稼ぐことができる。六、七百万円の金を見せれば、『金属』の経営者である青木から少くとも三百万円は借りることができる。そうやって青木のチェーンの酒場を開くとすれば銀行からも融資してもらうことが可能である。千五百万円というのが一軒の酒場を開くための資金として必要なのだと説明した。 「だって、いつまでも青木に使われて働くのは厭じゃない! 私、あと一年で、絶対に自分のお店を持つの」  その店がどの程度の店になるのかということも井崎にはわからない。  井崎には何もかもわからないのだけれど、若い女が、銀座や新宿に自分の店を開くというときの筋道だけはわかってきたように思った。それも、井崎からするならば荊《いばら》の道だった。また、青木が、自分の系統の店を拡げてゆく方法も見えてきたように思った。青木は、他人には、自己資金だけで店を増やしていると語っていた。女給の独立心を煽《あお》ることも、青木は必要であったらしい。雇われマダムといっても提供する資金の額によって、歩合が微細に異ってくるのだろう。 「場所はどこ?」 「………」 「どこで会う約束をしたの?」 「三条木屋町」 「それなら、そんなに遠くないね」 「………」 「一人で行かれるかね。わかる?」  瑛子はそれには答えなかった。そのことに関しては放っておいてくれという態度だった。時計を見ると、一時間が経過していた。 「自動車を呼んでもらおう。そろそろ行かなくてはいけない」 「いいんです。その辺で拾いますから」 「ここじゃタクシーは拾えないよ」 「先生……」 「なに?」 「私のこと、小説に書いてちょうだい。私を踏み台にして……」  それは、瑛子が何回か言った言葉だった。 「私のこと、モルモットにして……。私をモルモットにしてよ」  モルモットと言ったのはそれが最初だった。それが井崎を刺した。瑛子は、しばらくのあいだ泣いていた。それから向うむきになって化粧をなおした。井崎は瑛子が営業用の顔で京都へやって来たわけがわかった。  瑛子が居なくなってから、井崎は一人で酒を飲んでいた。少しも酔わない。そこへ顔馴染《かおなじみ》の内儀《おかみ》がはいってきた。 「女の方は?」 「帰りました」 「せんせの秘書ですか」 「俺に秘書なんかいるわけがないじゃないか」 「きれいなおひとですね。肌理《きめ》のこまかい、いい肌どすな」 「そうかな」  井崎は、夕刊を借りて、九時半頃に終る映画を調べた。  その映画は一種の西部劇であったけれど、時代は現代に近い。都会化されたカウボーイの悲劇といったものがテーマになっていた。題名から予測したものとは違って、愛欲シーンの多い映画だった。  井崎は不思議な体験をした。どの女優の顔も瑛子に見えてくるのである。そのなかには、井崎でも知っているような有名女優がいた。大きな女だった。その女が瑛子に似ているわけがないと思うのだが、それがいつのまにか瑛子になってくるのである。  草原で、べッドで、どの女優も目を閉じて、唇を半ば開いて、顔をのけぞらせる。するとそれが瑛子の顔になる。井崎は、どんな女でも、そういう場面では同じ顔になるのかとも思った。そのときも心臓が痛んだ。  井崎は、駈けるようにして、映画館から旅館に帰った。  門限は十一時ということになっている。井崎は女主人に、門と玄関をあけておいてくれるように頼んだ。井崎の部屋は玄関の真上になっていて、瑛子が帰ってくればわかると思った。  井崎の考えは、瑛子が帰ってくるとしても、午前三時か四時になるだろうということだった。どんなに遅くなっても起きて待っていようと思った。あるいは帰ってこないかもしれない。それでもいいと思っていた。  井崎はまだ自分の置かれている立場がはっきりとは掴めていなかった。井崎はウイスキイを一瓶もらって、ゆっくりと飲んでいた。そのほかにすることがない。  これほどのひどい仕打ちはあるまいと思っていた。男と女が旅館で会う約束をしたとする。その約束した時刻に、女が別の男と寝てしまうという事態が考えられるだろうか。そういう事態があったとしても、井崎は、自分と瑛子との関係はそんなものではなかったはずだと思っていた。甲府のときの瑛子を考えれば、とうてい予測のつくことではなかった。  男と女が遠い所へ旅に出たとする。女がその場所に別の男を呼んでいたという事態が考えられるだろうか。しかし、事態はまさにその通りになっている。  井崎の頭が朦朧《もうろう》としてくる。それは酒の酔いのせいではなかった。どこかで醒《さ》めている部分がある。  男と女が密会する。男と女の関係は、半年以上も続いている。女は男が誘えばどこへでもついてくるような女である。男は二週間の禁欲生活を送っている。そのことを女も承知している。その女が、約束した時間に、別の男の所へ行ってしまう。嘗《な》められた客であるとしても、これほどの嘗められ方があるだろうか。  井崎はそういうことを、ぼんやりと考えている。家にいるときと同じように、頭痛薬を飲んでしまう。ウイスキイと頭痛薬と睡眠剤を併用することの危険は承知していた。それでも自然に手が伸びるようにして、睡眠剤の白い粉薬の袋を破ってしまう。  甘いといえば甘いのだけれど、井崎には、それまでの瑛子からは、とうてい考えられぬ事態が起っている。  井崎には、そのとき、月並みな言葉しか浮かんでこなかった。  それは「騙したつもりが騙された」というような低級な艶笑読物の謳《うた》い文句であったり「女郎の真実《まこと》と卵の四角、あれば晦日《みそか》に月が出る」という古い歌であったり「濡《ぬ》れてみたさに来てみれば案に相違の愛想尽かし」という歌舞伎の詞であったりした。そういう言葉が次々に浮かんできて自分で苦笑したりした。  しかし、井崎は、一方において、瑛子にどんなことをされても、自分には瑛子を責める資格はないのだとも思っていた。井崎が道子と別れて、瑛子との結婚を申し出るのでなければ、あるいは、瑛子にそれだけで生活できる金を与えるのでなければ、どんなことをされても瑛子を批難する資格がない。そのどちらも、井崎は考えてみたこともない。  堀越がどんなに薄っぺらな厭味な男であったとしても、その気になれば、彼は瑛子の一生を保証することが出来るのである。その点では、井崎と堀越は比較にならない。それはどうすることもできない事実だった。  また、井崎は、遊び馴れた男たちがよく告白するような、女にすっぽかされたときに、やれやれと思うような気持が無いわけでもなかった。  井崎がそう思っていたように、ちょうど十時に瑛子から電話がかかってきた。瑛子は妙に時間を厳守するところがあった。 「先生……」  はたして、瑛子は、ひどく酔っていた。そう言ったきり、しばらくは声が出ないようだった。 「どうしたんだ」 「………」 「帰れないなら帰ってこなくてもいいよ」 「厭よ、私、帰るんですから」 「………」 「私、先生のところへ帰るんですから」 「………」 「先生……」 「なんだ」 「待っててくださいね。……先生、起きて待っていてくださいね」  幼児のように、ひきつったように泣きだした。 「先生……。私、先生のこと、好きよ。先生のこと、一番好きなのよ。誰よりも先生が好きなんだわ。私、先生みたいな人に会ったことがなかったわ。先生が好きなのよ」  それは四日前に病院にかかってきた電話と同じ調子だった。 「先生って馬鹿ね。先生はなんにも知らないのね」 「知らないよ、なんにも」  井崎は、あることに気づいた。  瑛子から病院に電話があったときも九時を過ぎていた。そのとき瑛子は客に呼ばれて築地の河豚《ふぐ》料理屋に来ていると言っていた。その時刻にそんなに酔っていては『金属』に帰れるわけがない。いや、そもそも、瑛子は『金属』の客の接待を勤めているのではなくて、店を休んでいたのに違いない。接待に出ているホステスがそんなに酔ってしまうはずがない。そうして、瑛子は、男と寝る前に、酒を呷《あお》るようにして飲む性癖があった。客は『金属』とは関係のない男であったかもしれない。瑛子が電話をかけてきたのは、河豚料理屋からではなかった。瑛子は井崎に対して我儘であるのと同じように、その客にも面当てのようなことをしたかったのに違いない。 「好きよ、先生。……これは嘘じゃないわ。ほんとなんだから」 「わかったよ」  はやく堀越のところへ行きなさいと言おうとしてやめた。 「誰よりも一番好きよ。水野よりも青木よりも堀越よりも……」  瑛子は次々に男の名をあげた。すると、瑛子は青木とも関係があったのだろう。瑛子は、翌朝になれば男の名を言ったことを記憶していないだろう。こんなに乱れたことはなかった。瑛子の言った男のなかには、井崎の先輩の小説家の名もあった。井崎が時計を見ると十時七分になっていた。  瑛子はまだ何か喚《わめ》いていた。 「待っててくださいねえ、先生」 「………」 「ねえ、先生、助けてくださいよ。……ねえ先生、瑛子を助けてください。……先生」 「………」 「先生、ここへ来てくださいよ。ここへ来て瑛子を助けてください。ねえ、先生、早く来てよ」  瑛子がまた泣きだしたと思ったときに、男の声が聞えた。 「先生、先生って、なんやね。早うこっちへ来んかい」  井崎はその男の声に聞き覚えがあった。それは『金属』で聞いたことのある声だった。あれが堀越だったのかと思った。目の細い、蟹《かに》のような顔をした赭《あか》ら顔《がお》の男だった。  井崎は、男が風呂にはいっている間に瑛子が電話してきたのだと想像した。 「厭っ! いやよ。いやだってばあ……」  瑛子の悲鳴がきこえた。 「はようこっちへ来んかい。先生って誰やね。ええ?」  男の声がさらに大きくなり、電話のきれる信号音が鳴ることなしに、男と瑛子の声が聞えなくなった。井崎は受話器が投げだされて揺れている場面を想定した。  そのとき井崎は「待つ」ということを考えていた。「待つ」という想念が頭のなかに一杯にひろがっていた。瑛子は、多分、午前三時か四時頃に帰ってくるだろう。もしかしたら、帰ってこないかもしれない。しかし、井崎は寝ないで待っているつもりだった。床にはいっても眠れるとは思えなかった。  井崎の頭のなかには、さまざまな女の姿が一度に浮かんでいた。どの女も待っていた。待っている女の姿だった。  夫の帰りが遅いので、ダイニング・キチンで前掛をしたまま雑誌を読んでいる若い妻。一人息子の帰りを待っている四十歳ぐらいの母。孫を待っている老婆。母親の帰りを待っている少女。ベッドで寝られずに待っている妻。そのなかには井崎の妻の道子もいた。 「午前三時とか四時とかいうのは我慢ができるんですけれど、六時とか七時というのは妻にとって辛い時間なのよ」  と、道子が言った。 「お酒を飲んでいるときの楽しさや、それが必要なことも、それでついつい遅くなることも、帰りに自動車が掴まらないことも全部知っているつもりよ。でもね、それも三時までだわ。ぎりぎりが四時だわね。そうじゃない? 私はパパが帰ってこなければ眠れないの。電気を点《つ》けっぱなしにして、いつでも本を読めるように開いたままで眠るんですけれど、あれは本当は眠っていないのよ」  そのような、道子を含めた、老婆から少女にいたるまでの女の姿が次々に浮かんでは消えていった。待っている女の、待つということのエネルギーの総量が、いま、井崎に重く伸しかかってきているように思われた。  井崎は、特別に、切実に、瑛子が帰ってくるのを待っているわけではなかった。瑛子が帰ってきたとしても、病院に電話があってから以後に井崎が期待していたような女としての状態で瑛子が帰ってくるのではないことがわかっていた。瑛子は物体として、二十四歳という女の丸太棒のような状態で帰ってくるに過ぎない。髪は乱れていて、唇はかさかさに乾いていて、男に舐《な》め廻された体で、放心状態で帰ってくるに過ぎない。その体は悪臭を放っている。いまわしい匂いを発している。そういう等身大の汚れた人形が帰ってくるというに過ぎない。  しかし井崎は待っていなければいけない。井崎は怒っているのでもない。瑛子の行為は怒るという段階を通り越しているように思われた。井崎には不可解という感じが強い。  井崎の泊っている旅館は京都ではかなりわかりにくい場所にあった。また夜は危険な場所でもあった。起きて待っているということにはそういう意味もあった。これがホテルであったならば、事情はずっと違ったものになってくる。  昼間、町を歩いているときの様子では、瑛子は八坂神社も円山《まるやま》公園も清水寺も知らないようだった。四条河原町もはじめて歩くような素振りだった。瑛子は葛切りの店が八坂神社の下の祇園《ぎおん》の近くにあることだけを知っているというように見受けられた。そうだとすれば、深夜の若い女の一人歩きはいよいよ危険である。瑛子は目立つ女である。  しかし、金閣寺の裏の料亭で、瑛子が、三条木屋町で男と待ちあわせると言ったときの「三条木屋町」という言い方は、いかにも馴れた口調だった。瑛子の待ちあわせ場所は酒場だった。そのあたりの鴨川《かもがわ》の両岸は、歓楽街であって細い路地が多く、それもわかりにくい場所になっている。すると、瑛子は、京都でも、そういったあたりの町には精通しているのかもしれない。そのへんのところも井崎にはわかっていない。  とにかく起きて待っているよりほかにない。  井崎にわかっているのは、瑛子との決定的な別れの時が来たということだけだった。それも、はなはだ唐突に、それ以上のことは考えられないようなひどい仕打ちでもってやってきたということだった。瑛子は、やはり異常な女というほかはない。  井崎が以前から不思議に思っていたことは、瑛子からは何も貰ったことがないということだった。井崎が親しくしていた女は、その親しさに種々の段階があったにしても、なにがしかの心づかいを示してくれたものである。それはネクタイであったり、靴下であったり、煙草であったり、あるいは仕事場に届けられる夜食用の食料品であったりした。それらは実際には井崎にとって迷惑であることが多かった。そうであるにしても、瑛子がそのような女らしい心づかいを示すことがなかったということが井崎にとって不思議だった。瑛子は、やはり、快楽の対象となるだけの女なのだろうか。踏みしだかれるだけの女なのだろうか。  井崎は、床柱に懸っている籠《かご》に活けられた菊の花の写生をはじめた。編んである籠の竹の一本一本を細密に描こうとする。菊の花を、菊の葉を、その一片一片を、その一枚一枚を克明に描こうとする。目を細めて、籠と菊とを見続ける。  瑛子が帰ってきたとき、机の上に置いた懐中時計が、ちょうど十二時を示していた。井崎は、漠然《ばくぜん》と、瑛子が旅館に帰ってくるのは、午前三時か四時頃だろうと思っていた。井崎が予期していたよりはずっと早かったことになる。しかし、瑛子が男と一緒に連込み旅館に入ったのが十時前だとすると、それから二時間後に帰ってきたのは辻褄《つじつま》が合うといえないこともない。井崎は東京と同じように考えていた。京都の町は、そのように狭いのである。  門の前に自動車の停る音がした。扉が勢いよく開かれ、瑛子の靴音が敷石で鳴った。 「遅くなってごめんなさい」  むかえに出た内儀に瑛子はそんなふうに言っているようだった。  階段を駈け登る音がして、それが井崎の部屋の前で止った。井崎が目をあげると、そこに瑛子が突っ立っていた。その日の昼に瑛子がそうであったのと全く同じように、そっぽを向いてその場所に立っていた。瑛子は逡巡《しゆんじゆん》していた。  旅館の内儀は瑛子が泥酔していることに気づかなかっただろうと思われる。瑛子はその場を取り繕うことが巧みだった。それは酒に限ったことではなかった。どんなときでも瑛子は令嬢ふうに振舞うことが出来る。それで案外に好感を持たれる面があった。 「早かったね」 「………」 「三時か四時になると思っていた」 「そんな……そんな遅く帰るわけがないじゃありませんか」 「まあ、おはいりなさいよ」  瑛子は、のろのろと井崎の隣に坐った。家を出ていた猫が帰ってきたという風情だった。 「帰ってこないかもしれないと思っていた」 「だって、私、ここよりほかに帰るところがないんですもの」 「………」 「お風呂にはいりたいわ」 「我儘を言っちゃいけない。ここはホテルじゃないんだから」  瑛子は急に井崎に身を寄せてきて、彼の頸に腕を巻いた。それが余りに素早かったので井崎は倒れた。 「先生、好きよ。先生のこと、いちばん好きよ」  井崎は、やっぱりやってきたなと思った。それは、相撲でいえば、揉《も》みあった末に頃を見はからって得意の業《わざ》を仕掛けてくるというのに似ていると思った。 「臭いなあ」  瑛子の吐く息に酒の匂いがした。強く匂った。そんなことは、いままでに無いことだった。 「酒くさいよ」  瑛子が体をはなした。 「私、そんなに飲んじゃったのね。先生にお酒臭いなんて言われるほど飲んじゃったのね」  井崎には常に共犯者の意識があった。瑛子が井崎に対して、どんなに悪辣《あくらつ》なことをしても、いや、そうであればあるほど、同類であるという意識が強くなった。それは、小説家であるという職業柄のせいだと思っていた。だから、井崎は、いつでも、誰に対しても、自分の怒りが爆発する寸前まで我慢してしまっていた。どこまで宥《ゆる》せるかを試そうとしているようでもあった。それは、たいていは悪い結果を招くことになる。 「頭、痛い……」  酒臭いと言われたときに、瑛子の顔色も態度も変ったようだった。 「あたま、イターイ」  それが瑛子の常套《じようとう》手段だった。自分に都合の悪いことになると酒を呷り、しばらくして頭痛がすると言う。  井崎は卓の上にあった頭痛薬を飲ませた。 「吐いちゃったらどうかね、御不浄へ行って」  瑛子は立ちあがって洗面所へ行った。  井崎が瑛子が帰るまで起きて待っていようと思ったのは、ひとつには何か問題を起されるのが厭だったからでもあった。たとえば締めだされて旅館の門の前で警察官に誰何《すいか》される事態も考えられないことではない。  瑛子は洗面所から自分の部屋へ戻ったようだった。  井崎も寝ようと思った。  寝る前に便所へ行ってみると、洗面所の前に水びたしになっている箇所があった。そこに瑛子の下着が落ちていた。さらに、廊下に布製のベルトが落ちているのをみつけた。瑛子は、芝居ではなく相当に酔っていて、気分も悪かったのに違いない。  それから後のことが、井崎は自分でも不可解だった。  井崎は眠ろうとしていた。ウイスキイを飲み、睡眠薬と頭痛薬とを服んだ。それは定量を超えていた。何錠を何度にわけて服んだかという記憶が薄れている。出来ればそのまま倒れるようにして眠りたいと思った。  神経が麻痺《まひ》し、鈍麻している。その一方で、頭のどこかが、ひどく冴《さ》えてくるような気がするのである。眠らなくてはいけないと思い、もう一方で、とうてい眠れるわけがないじゃないかと思っていた。  朦朧となってくる。しかし、どこかの神経は依然として鋭敏であることを感ずるのである。  ウイスキイを飲む。その瓶が空になった。喉がかわく。茶を飲み、水を飲む。魔法瓶の湯も、水差の水も空になった。  井崎は、またスケッチ・ブックをひろげた。籠に活けられた菊の絵が完成していなかった。籠の竹の一本一本を克明に描く。その竹のある部分は電燈に光っている。菊の花片《はなびら》の一片一片を描く。絵を描いているのではなくて、自分を苛《さいな》んでいるように思われた。細密な絵を描くのは気が狂っている証拠だと林太郎が道子に言ったというその言葉が頭をかすめて通った。  前夜は井崎はよく眠れなかった。それは久しぶりに畳の上に寝たせいであったかもしれない。瑛子に会えるというので気持が昂《たか》ぶっていたのかもしれない。瑛子をどこへ連れて行くかという計画を何度も思いめぐらしていた。踏んぎりがつかないというのも老化現象のあらわれだと思われる。その前の晩も、ほとんど眠っていなかった。いつまでもトラックやオートバイの音が聞かれていた。病院にいると、案外に寝不足になるものである。井崎の住んでいる東京都の西の郊外は夜だけは静かな所だった。そのために井崎は物音に敏感になっている。また、病院には雨戸もブラインドもなく、白い薄いカーテンがあるだけで完全に暗くなることが無かった。外燈が道路だけでなく、あたり一帯を照らしているのである。そうして、看護婦が夜中に懐中電燈を持って見廻りに来るのである。午前六時には検温がはじまるし、どういうわけか、その一時間前あたりから廊下が騒がしくなってきて、賄婦や掃除人や看護婦の笑声が聞かれたりする。そうでなくても、病室も廊下も夜通しに何かの物音がする。病院は一日中活動しているのである、井崎は、病院とは静かな所ではなく賑やかな場所だと思った。それらすべてのことが井崎の睡眠を妨げていた。  ここで眠れぬはずがないと思っていた。酒を多量に飲み、睡眠薬を服んでいた。眠れないというのが不可解である。神経が昂ぶり、チリチリしている。井崎は自分が本当には眠ろうとする気持になっていないことを悟った。  瑛子の行動が井崎にはわからない。瑛子に対する怒りというよりは、瑛子の真意を知りたいという気持が募ってきていた。お互いに騙《だま》しっこではないかと思う。お互いに偽りの気持でもって接触を続けている。しかし、瑛子の騙し方が、あまりに幼稚で、あまりに露骨であるために、かえってその真意が掴めなくて、遠くへ逃げていってしまっているように思われる。  甲府の山の中の温泉宿に夜半に井崎を訪ねてきた瑛子と、いまの瑛子とが同一人ではないようにさえ思われる。そのときの瑛子は優しかった。井崎の前に全てをさらけだそうとしているように思われた。そのときの瑛子には鋭いところもあった。いまの瑛子は凡庸だった。凡庸な莫連女《ばくれんおんな》だった。  どう考えても、瑛子の失態であるとしか思われない。井崎と別れたいと思うならば、もっとスマートな方法があったはずである。井崎を裏切るにしても、もっと巧妙な手口があったはずである。そのへんのところがわからない。  七時から十時まで、私を自由にしてほしいと瑛子が言った。何も訊かないでくれと言った。そのとき、井崎は、瑛子が別の男に会うことに気づいていた。瑛子がそういう女であることを現実に知ったという衝撃は、そのときにはそれほど強くはなくて、それは、いまになって、のろのろと、重ったく井崎を押し包んできたように思われる。  いい気なもんじゃないか、と井崎は思う。いずれにしても瑛子は金で買った女じゃないか。その女がどんな商売をしようが、女の勝手じゃないか。瑛子がどんな営業方針で自分の商売を行っても、それは井崎の関知するところではないと思う。  しかし、瑛子は、なぜ、井崎と約束した十時ぴったりという時刻に電話をかけてきたのだろうか。瑛子のそばに堀越がいた。堀越の前で、瑛子は、先生が一番好きよと言った。待っててくださいと言い、いますぐに助けにきてくださいと言った。瑛子は泣き叫んでいた。そのあたりのことがわからない。もしかしたら、瑛子は自分の性情をもてあましていたのかもしれないと思う。  井崎は頸を振った。そうして、また、いい気なもんじゃないかと思った。莫連女の気持をそこまで斟酌《しんしやく》する必要はない。  あるいは、こうも思う。なにかのことで、瑛子が京都へ行くことが堀越に洩れてしまう。堀越がそれなら夕食を奢《おご》ろうと言う。瑛子には実際に堀越から金を引きだす計画があったのかもしれない。すくなくとも、その意味で堀越は瑛子の頼りにしている客の一人であるだろう。瑛子は、ちょうどいい機会だと思った。それだけのことだった。井崎を裏切るという気持ちは稀薄だった。瑛子はそのことを単純に簡単なことのように考えていた。酒場にいて、たいていの客に体を触られても、そのことに馴れてしまい平気になってしまうように——。瑛子は、そういう哀れな女だ。そうして京都の宿に来て、井崎が、京都でも最高級に属する料亭を予約していて、その前に町なかを一緒に歩いて、翌日は嵯峨野や高雄をドライブするという予定を聞かされて驚いてしまったのではないか。すくなくとも、三条木屋町の小さな酒場で会って連込み旅館に行くという堀越とはずいぶん違う。瑛子は戸惑ったのではないか。娼婦として扱ってくれたほうが気が楽だったのではないか。酔って電話をかけてきたときに、先生みたいな人に会ったことがないわと言ったのは、そのことを指していたのではないか。私をモルモットにして小説を書いてちょうだいと言ったのは、瑛子の、せいいっぱいの謝意ではなかったか。 「馬鹿なことを言っちゃいけない。そんなに甘く考えちゃいけない」  井崎は、また激しく頸を横に振った。  水差の水を満たすために洗面所へ行った。帰ってきて、井崎は、その水を新しい灰皿に注《つ》いで飲んだ。井崎は自分で、その行為に気づいていた。いま、俺は、茶碗でもコップでもなく、灰皿に水を注ぎ、灰皿の水を飲んでいる。これは、おかしいじゃないか。しかし、また一方で、茶碗もコップも汚れている。灰皿で飲むほうが、この際は正しいんだとも思っていた。——薬がきいている。薬とウイスキイが俺を狂わせている。そいつが俺に悪く作用している。そうも思った。  井崎は寝ようと思った。夜具の上で横になり、天井のほうを見た。そのときに、激しく心臓のあたりが痛んだ。それは以前にも何度か経験したことのある痛み方だった。  井崎は、ふたたび起きあがって鎮痛剤を服んだ。しばらくは、菊の絵の続きを描いていた。「ひとごろし……」と、くちのなかで言った。午前四時になっていた。  井崎は瑛子の部屋へ行った。  井崎の部屋に瑛子の下着とベルトがあった。朝になってそれを女中に見られたら具合が悪いという考えがあった。自堕落《じだらく》な女を引っぱりこんだと思われるのが厭だった。  瑛子の部屋には鍵が掛っていた。 「おい、瑛子、あけてくれ」  井崎は低い声で言った。少し経って、扉を押すと、頼りないくらいに、すっと開いた。  瑛子は向うむきに寝ていた。スタンドは薄明りになっていて、饐《す》えたような酒の匂いがその部屋の空気になっていた。  井崎は座布団の上に正座していた。 「おい。騙すんなら、もっとうまく騙せよ」  井崎は自分が何を言おうとしているのか、よくわかっていなかった。 「きみはプロだといったじゃないか。商売人なら商売人らしく騙せよ」  瑛子は黙っていた。井崎もじっとしていた。 「頭の痛いのは治ったかね」 「うん……」 「洗面器を持ってきてやろうか」 「いらない」 「鎮痛剤ならまだあるよ。劇痛のときはもっと服んでもいいと書いてあった」  瑛子は向うむきのまま体を動かさない。瑛子の声は平静になっていた。帰ってきたときの上擦ったような調子は失われていた。  瑛子が帰ってきて風呂に入りたいと言ったのは堀越の匂いを消して井崎の要求に応じようとしたのだと思われる。井崎が咄嗟《とつさ》に、その時刻では風呂にはいれないと言ったのは瑛子の思惑に気づいたからである。風呂は、まだかなりの温度を保っていたはずである。  井崎は瑛子の下穿《したばき》を、すぐに目のつく所に置いた。  嗚咽《おえつ》にいたる感情が井崎を襲ってくる。それは酒と薬と、井崎の置かれた状況のためだった。井崎はその場で瑛子を殺すことが出来るように思った。人間が人間を殺すのは、義のためではなく、このような不可解な状況においてではあるまいかという思いが井崎を強く把《とら》えた。 「おい、瑛子。……俺はね、きみが七時から十時までの時間を呉《く》れと言ったときに、こう思うことにしたんだ。きみのお母さんが再婚して京都に住んでいて、きみは会いに行ったんだ。恥ずかしくて、それを俺に言うことができない」 「………」 「そう思ってしまうことにしたんだ。そうやってこの旅館に帰ってきた。……ほかのことは考えないことにしたんだ」 「そう思っていればいいじゃない?」 「だから、きみは十時に帰ってくればよかったんだ。それなら、俺は、何も言わなかったと思うよ」 「ですから、いまでもそう思っていればいいじゃないの」 「どうして電話なんかかけてきたんだ」  その言い方は理不尽だった。だんだんに井崎のほうが裏切ったような気分になってくる。 「いいじゃないの」 「電話口で男の声がした……」  さすがに、それが堀越の声だとは言えなかった。 「私はずっとバーにいたんですからね。バーにいれば男の声ぐらいするわよ」  嘘を吐《つ》け……。しかし、それを井崎は言葉にはしなかった。何人かの客のいるところで、あんな電話がかけられるわけがない。 「そうかね」 「そうにきまっているわよ。先生、おかしいわよ」 「おかしいかね。……しかし、バンクなんていう酒場は京都にはないよ」  瑛子の体がビクッと動いた。 「どうしてわかるの?」 「調べたんだ」 「いやな人ねえ」 「退屈だったからね。職業別電話帳で調べたんだ。バンクなんてどこにもなかったよ。……退屈しのぎではあったけれども、もし、きみが帰ってこなかったら困るからね。念のために調べておこうと思ったんだ」  それは本音だった。しかし、そのことに井崎は何か自分の老人臭さをも感じていた。 「バーなんて、出来たり潰れたりしますからね」 「ここのお内儀《かみ》さんから風俗営業の組合の名簿を借りて調べてもみたよ。バンクはなかったね。木屋町に『銀子』という店はあるけれどね」  瑛子の体がまた震えた。しかし、井崎はそのことを追及しようとする気持はなかった。  瑛子は少しの間だまっていたが、 「ねえ、先生……」  と、ひらきなおったような口調で言った。 「先生は、サービス業の女を泣かせてはいけないっておっしゃっていたでしょう。サービス業の人にはやさしくしてあげなくてはいけないって……」  それは井崎の持論だった。 「そうだよ」 「先生が泣けばいいのよ。私は泣かないわ」  実際に、瑛子は旅館に戻ってからは泣かなかった。  井崎は薄明りのなかで笑った。瑛子が反撃の方法を考えていたのがおかしかった。そういう瑛子が妙に幼いものに感ぜられた。 「サービス業の女は泣かないのよ。女を泣かしたらお客のほうが悪いのよ。泣くのはいつでもお客のほうなのよ」 「………」 「へん、ザマミロ!」  井崎は、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。だまって坐っていた。  井崎は夢を見ているような気がした。夢ではなくて幻覚があらわれているようにも思った。  井崎は病院にいる。  井崎の枕頭には一升瓶がある。病気見舞いに酒を持ってくるとは、おかしな奴もいるものだと思っていた。たしかに目の前に一升瓶がある。それは贈答用であって、超特級の箱入りである。井崎はある編集者のことを考えていた。全くあいつらしいなと思っていた。変ったことをしやがる。こんど会ったら文句を言ってやろう。  一升瓶の脇に蜜柑の山がある。これはどうしたんだろう。どうしてこんなに蜜柑があるんだろう。どうして病院に蜜柑があるんだろう。  井崎はその一升瓶のはいっている箱にふれてみた。飲むつもりになっていた。  一升瓶と見えたものは、角型の障子紙を貼った和風のスタンドだった。蜜柑と思われたのは、瑛子の赤い水玉模様のワンピースだった。  これは幻覚だと思った。幻覚があらわれていると思った。しかし、次の瞬間に、やはり自分がスタンドを一升瓶だと思いこんでいるのを知った。どうしたって、それは一升瓶なのだ。一升瓶であり、蜜柑の山である。  井崎は瑛子の布団にもぐりこんだ。はたして瑛子は、寝間着を着けずに裸で寝ていた。 「さわっちゃいやよ」  誰がお前の商売道具になんかさわるもんかと思った。 「『インディアンサマー』というのを知っているかね」  瑛子の背中が動き、むこうむきに項突《うなず》いているのが知れた。 「読んだかね」 「読んだわよ」  それは井崎が七年前に書いた短篇小説の題名だった。  アメリカ人が、パイプをくわえてロッキング・チェアーに坐って瞑想《めいそう》にふけっている。ベレー帽をかぶっている。かたわらに、ブランデーのグラスがある。つまり、アメリカ人は一種のポーズをつくっている。  秋になっていて、アメリカ人は、日本人である友人に、インディアンサマーというのを知っているかと訊ねる。今日のような日をアメリカではインディアンサマーというが、わかるかと言う。辞書によると、インディアンサマーは小春|日和《びより》となっている。小春日和というのがアメリカ人には通じない。インディアンサマーは秋であると言う。それも、日本でいえば残暑という季節であるらしい。その残暑という言葉がまた通じない。  アメリカ人は、インディアンサマーというのは、過ぎ去った夏の日の恋を、実らなかった恋を追想する日であるとも言う。すなわち彼は若い日の出来事を思いだしているのだと言う。夏の日の海辺での少年少女の恋は、夏が過ぎると嘘のようにお互いが忘れ去ってしまうと言う。  日本人はアメリカ人の言おうとしていることがよくわかる。しかし、適当な訳語がない。アメリカ人からするならば、小春日和という、その春が、いかにも遠過ぎるのである。秋口でないといけない。小春日和というのは春のことではないと言っても通じない。  アメリカ人は、次に、ビター・スウィートというのは日本語で何と言うのかと訊ねる。夏の日の恋は、ビター・スウィートであるという。甘いような辛いような思い出である。日本人は辞書を持ってくる。辞書には、ビター・スウィートは、微苦笑と訳されている。これも通じない。日本人は、それがいい訳ではないことを知っている。アメリカ人の感じていることがわかっているが、うまく言いあらわせない。塩辛い思い出と言ったりする。アメリカ人は遂に怒ってしまう。彼にはスウィートに重点があるのだ。それでいい気分になっていたのだ。  その話の前に、日本人の苦い恋愛の話がある。そういった筋の二十枚ほどのユーモア小説だった。 「あれは、インディアンサマーだったのかね」  井崎の言った意味は、すぐに瑛子に通じていた。  甲府の山の中の温泉宿で、ボートが揺れ、瑛子が歌い、サルビアの赤い花が目に映っていた。グラジオラスが猛々《たけだけ》しく伸びていて、山の紫陽花《あじさい》が咲き残っていた。人工湖の岸は赤土が剥《む》きだしになっていた。井崎と瑛子の二人だけが水の上にいた。井崎は、ボートの上にあおむけに寝ていて、時よとどまれと念じていた。それは、つい二カ月まえのことだった。 「きみは、ビター・スウィートなのかね」 「………」 「ライフ・イズ・バット・ア・ドリームかね。人生は夢の如しかね。それとも、げに人生は愉しきもの、かね」  井崎の目にサルビアの赤がいっぱいにひろがり、ポンポンダリアが揺れ、遠くの葡萄棚が日に光った。瑛子の背中に暑熱が残っているかに思われた。 「先生、やめてよ……」  瑛子が体のむきをかえ、井崎の胸に鼻を押しつけてきた。瑛子は目を閉じていたけれど、その顔の全体が濡れていた。瑛子が股をからませてきた。井崎は瑛子を押しのけて起きあがった。  雨戸の隙間《すきま》が紫色になっているのを知った。 「先生……」  瑛子の澄んだ声が聞かれた。  井崎は自分の部屋に寝ていた。瑛子が、井崎の傍《そば》にきちんと坐っていた。洋服を着て、化粧をすませていた。時計を見ると八時を過ぎたところだった。井崎は二時間も眠らなかったことになる。 「起きていたのか」  井崎もすぐに身支度をした。 「お風呂にはいらないか」 「いや」  井崎は、瑛子が一刻も早く東京へ帰りたがっていることを察した。 「ちょっと待ってくれ。俺は風呂にはいるから」  病院では入浴は一週に一度ぐらいである。  井崎が風呂から戻ったときも、瑛子は卓の前に正座していた。 「先生、千円貸してちょうだい」  井崎はその意味がわからなかった。むろん、井崎は、瑛子にある金額を渡すつもりでいた。妙なことを言うと思った。  瑛子は、運ばれてきた茶碗に手をつけようとしなかった。 「マガタマ、ナイ!」  瑛子は胸のあたりに触れて言った。幼女の口調だった。  瑛子は、この旅館に着いたときも、料亭でも、井崎の与えた勾玉の頸飾りに絶えず触れていた。しかし、瑛子に言われなければ井崎は頸飾りの紛失に気づかなかっただろう。それは瑛子の正直なところだった。また、瑛子は瑛子なりに頸飾りの意味を感じていたのだろう。 「いいじゃないか。また買ってあげるよ」  そうは言っても、あのような勾玉を探しだす自信はなかったし、あったとしてもそれを瑛子のために買う気持にはなれないだろうと思っていた。  瑛子は白い顔で、緊張した顔つきになっていた。観念した表情だった。口数が少くなっていた。 「帰ったら探してあげるよ。きみの部屋のどこかにあるかもしれない」 「……いや。探さないで」  瑛子は、ぼんやりとしていたが、急にあわてたように言った。そのことで井崎は、瑛子が千円貸して呉れと言った言葉の意味を諒解した。  食事が運ばれてきても、瑛子は虚《うつ》けたような表情でいた。井崎は快活を装っていたけれど瑛子の顔を真面《まとも》には見られない。 「いま九時だけれどね、すぐに自動車を呼ぶかね。それとも少し休憩して帰る?」 「………」 「早いほうがいいの?」  瑛子がうなずいた。  それでも瑛子は朝食はきちんと摂った。  瑛子は、自分の服装や化粧のほかは、まるで帰り支度を整えていなかった。伯父夫婦のために自分で買った土産物も放りだしてあって、すぐにでも部屋を出て行こうとする気配を示していた。そのほかに、井崎の買った土産物があり、安江や阿佐子たちに届けてくれるように頼んだ扇子や菓子などがあった。  井崎はそれらを持ちやすいように紙袋につめた。瑛子がそんなふうに投げやりになっていたのは、種々のことがあったにしても、やはり、勾玉の紛失に打撃を受けているのだろうと思われた。 「それから、これ……」  井崎は用意していた祝儀袋をさしだした。 「いや!」  瑛子はそれを強い調子で言った。 「わがままを言うもんじゃないよ。電車賃程度しかはいっていないんだから」  井崎は瑛子のハンドバッグを奪って押しこんだ。 「ありがとう」  瑛子の声に力が無い。それが、いつもの時とは違っていた。瑛子と向いあっていることが、すでにして瑛子を攻撃しているような具合になっているのを感じた。  井崎は瑛子を連れて京都の郊外をドライブするということを全く考えていなかった。瑛子にそのような少女趣味がないことがわかっていたし、瑛子はそれを望んでもいなかった。瑛子は少しでも早く別れたがっていた。 「俺は送って行かないよ」 「………」 「この部屋でわかれたほうがいいんだろう」 「………」 「ありがとう。きみは見舞いに来てくれたんだからね」  何を言ったとしても皮肉になってしまう。  そこへ頼んでいた自動車が来たことを女中が知らせにきた。  井崎は部屋のなかから見ていた。 「瑛子……」  井崎は、そこから叫んだ。瑛子は自動車に乗ろうとしていて、なんですかという表情で振りかえった。美しい女というのは、こういう、何気ないときの瞬間の表情が美しいのだと思った。寝不足と緊張と怖れとで、瑛子の顔は一層白くなっていて、目のあたりがぎらぎらとしていた。この瞬間に瑛子が美しく見えたのは井崎にとって意外だった。また、それは多くは井崎の感傷でもあったろう。 「忘れものだ」  瑛子は軽い動き方で、井崎のいる窓の下へ来て見あげた。井崎は鎮痛剤のケースに菊の花の絵を差しこんで、瑛子にむかって投げた。井崎は非常に短い間に瑛子が井崎の絵を欲しがっていたことを思いだしていた。瑛子は受けとったものを見ようともしないで自動車にむかって駈けて行った。     24 「晴れやかな顔をしていますね」  と、滝本が言った。  井崎が旅館から病院に戻ったのは、月曜日の昼過ぎであって、その日には医者が廻って来なかった。土曜日の午後からのことにすると、二日半の間、診察が行われなかったことになる。  火曜日の朝になっていた。 「昨日は失礼しました」  滝本は井崎の体に触れながら言った。舌を見て、聴診器を当て、腹を押す。触診とでもいうのだろうか、滝本は、毎回それを叮嚀《ていねい》にやってくれていた。薬や器具だけでなく、触覚と聴覚でもって病状を知るには医者としての天分が必要であろうと思われる。滝本がそのことに熱心であって、自信を持っているかに見受けられるのは、井崎にとっても気持のいいことだった。それは滝本の父も祖父も医者であったことと無関係ではないように思われる。滝本の家は、そうやって十四代前ぐらいまで医者としての系図を辿《たど》ることができるという話を聞いていた。  一方の井崎は、土曜日の午後と、日曜日、月曜日にわたって診察がなくて、こうやって病室に戻ってきたということに関して、自分が、ようやく病院でも古顔になってきたような気分を味わっていた。 「昨日は、午後になって、ちょっと、ごたごたしたことがありましてね」 「そんなこと……。いや、いいんですよ」  滝本は、昨日の月曜日の午後も、特別に回診に来るつもりでいたらしい。ふつうは、部長の回診は午前中に行われる。 「例の松葉杖の男ですがね」  看護婦は部屋を出ていて、滝本は陽の当る窓ぎわに立っていた。 「松葉杖の男が暴れましてね……」  浮浪者で松葉杖をついている入院患者は、滝本の受持っている病室にいて、滝本は彼の名を知っているはずなのに、井崎と同じように松葉杖の男と呼んだ。それが医者の節度だろう。 「喧嘩ですか」 「そう。……喧嘩じゃないですけど」 「………」 「昨日の昼頃、帰ってきたんですよ、井崎さんと同じように。……泥酔《でいすい》していましてね。それで警備員に注意されましてね、殴りあいになったんです」 「だって、あのひとは片足でしょう」 「警備員のほうは、口では注意しても、手のほうは、いくらか手心をくわえるでしょう」 「で、どうなったんです」 「警備員が腕を折ったんです。まあ、脱臼《だつきゆう》ですがね」 「滝本さんが呼ばれたんですね」 「そうです」 「………」 「叩《たた》きだしてやりました」 「退院ですか」 「仕方がありませんよ」  滝本はそれを笑いながら話した。そこでも病院の医者の権威を示した。しかし、それを井崎に話したのは報告の意味もあったのだろう。井崎は、松葉杖の男に関心を抱いていた。滝本の措置に誤りはない。滝本の言うように、仕方のないことだった。 「いかがでしたか、あなたのほうは……」  滝本は、それも笑いながら言った。それは、はじめに滝本が、晴れやかな顔をしていますねと言ったことと関連していた。井崎は、滝本のほうがよっぽど晴れやかな顔をしていると思った。 「充分に静養しました。安静にしていました」 「ほんとですか」 「食事のほうも、気をつけました」  それは半分は正直な答だった。酒と鎮痛剤と睡眠薬のことは言っていない。  滝本の質問は、医者としての儀礼的なものであった。しかし、それは医者として訊ねておかねばならない質問でもあった。  滝本は、自分たちの世界と、井崎のような小説家の世界とは別物だと考えていた。それで、井崎が二日も病院を外にすれば何かがあったに違いないと思っているようだった。この時の滝本の予測は適中していた。 「病院を出て、自動車に乗るまで、なんだか少し、ふらふらしましたね。入院する前よりは健康になっているはずなんですが」  井崎はそのことだけを正確に伝えた。滝本は、そのときも笑っていた。そうやって、自分の患者を観察しているように思われた。  安穏な生活を送りたい。それだけが井崎の目標だった。井崎はそのことを思いながら、暗闇で目を閉じていた。眠ろうとしていた。ただし、病院のベッドでは全くの暗闇になることはなくて、目を閉じていても瞼《まぶた》の裏に光彩が残っていた。  安穏な生活、安気な生活……。それを口にだして言うことは一度も無かったけれど、いつでもそのことを思っていた。それは退嬰的《たいえいてき》な考えだった。卑小な考えだった。自己中心的な考えであるかもしれないし、老人臭い考えでもあった。  安穏な生活、安気な暮し。それをもっと具体的に言うならば、金利生活者であり地主になることだった。いや、そう言ってしまうと言い過ぎになってしまうし、実際に、金利生活者になることは、いまの世の中では不可能である。特に井崎のような職業ではそうであるし、特に井崎の場合がそうだった。井崎は小説家であるよりは売文業者と呼ばれたほうが相応している。  井崎の欲している安穏な生活とは、十万円ぐらいの月収があり、その範囲のなかで生活して、不時の出資があってもそれほど困らないといった程度のことだった。考えようによっては、それはかなり贅沢《ぜいたく》な生活であるとも言える。誰でも、地味な会社の会社員でも、交際があり、繋累《けいるい》のことがあった。十五万円から二十万円の収入があっても、そのことがあって齷齪《あくせく》わけでもなかった。  井崎はずっと長い間、荒川土堤の近くに道子と二人で住みたいと思っていた。あるいは、総武本線の高架線の下にある家でもよかった。小説家になる以前から、そう思っていた。どうしてそれが荒川土堤になるかということは自分でもわからなかった。また、高架線の下の家というのは冗談にちかいことだった。荒川土堤の近辺といったって、いまではすっかり変ってしまっていて、井崎のイメージとは懸け離れてしまっているだろう。  ただし、中央線に乗って、御茶ノ水駅を過ぎるときに、神田川に沿って、四階にも五階にも水際に折り重なって建っている住居を見るときに、井崎が羨望《せんぼう》に近い気持を抱くのは紛れのない事実だった。いつでも井崎はそこに目を吸いよせられるようになってしまう。現実は、多分、悪臭と騒音とで、住めたものではないだろうし、そのことを充分に承知しているのだけれど……。  道子と二人でそこに住んでいて、夏になると浴衣を着て団扇《うちわ》を持って散歩に出て、近くの安食堂で食事をするか、湯島聖堂や神田明神あたりを散歩する。時には不忍池《しのばずのいけ》まで歩いたり、上野で寄席に入ったりする。そういうことは、あくまで井崎の空想の世界の出来事であるに過ぎなかった。しかし、井崎が、そういう所にしか生活がないと信じていることも動かし難いことだった。また、それに近いことがやれないはずがないとも思っていた。そうして、世の中が変ってしまって、東京も変ってしまって、そのことが困難になっているとも言えた。井崎の考えは、ひどく贅沢なものになってきている。そういう時代になってしまっている。そうでなければ、咄家《はなしか》や芸妓がマンションに住むわけがない。井崎が、ひっそりと暮したいと思うことが、すでにして贅沢になってきている。いや、静かに、貧乏に暮したいと思うこと自体が贅沢なのである。  井崎自身が繁栄に加担したと言って言えないこともない。すくなくとも情報時代というものを造りあげてしまうほうの世界に所属していた。 「その報酬がこれだ」  と思わないわけにはいかない。  そうして、井崎の生活も、安穏な生活とは懸け離れていた。  酒場と睡眠薬と鎮痛剤とが井崎を支配し続けてきたといってもいい。そのどれを欠かしても仕事が出来ないようになっていた。十万円の月収があればと思うのだけれど、酒場の支払いだけでも十万円以下になる月が無かった。名声というには程遠いにしても、人に名を知られるのでなければ仕事にならなかった。  井崎は疲れていた。井崎は戦後の二十五年間を働きづめに働いてきた。それは井崎だけのことではなかった。終戦を迎えたときに、井崎の年代の者は、通常ならば大学の二年生だった。井崎の年代の者は、十八歳であって、そのまま大学を中退して勤めに出たり、いかがわしいような職業に就く者も少くはなかった。  井崎の中学時代の同級生は、どういうものか独身者が多い。同じようにして、女も未婚者が少くないのである。女の場合も、働きに出て、職業を身につけたばかりに婚期を逸してしまうようであった。井崎の年代の者は、誰も彼もが、いまになって、疲れてしまっている。  井崎は、あるとき、著名な左翼系作家が、軽井沢に別荘を持っていることを知ってショックを受けたということを書いて顰蹙《ひんしゆく》を買ったことがあった。井崎はその小説家を尊敬していた。だからショックを受けたのである。そのことについては親しい人からも注意された。 「そんなことを言っちゃいけない。そこまで言っちゃいけない」  しかし、井崎のショックは実感だった。それは軽井沢に重点があるのではなくて、経済的な問題だった。あの、かつての左翼の闘士であり、激しく美しい小説を書いた男でさえ、いまでは、東京と軽井沢に土地を持って、のんびりと暮している。売文業者である俺にどうしてそれが叶《かな》えられないのか。井崎は、ただただ、ひたすらに、安穏な生活を欲していた。現実は、追い廻され、それによって無駄な出費を強いられ、経済的な余裕を得る目処《めど》も立たず、実のある仕事を残す算段もつかずにいた。井崎の気持も文章も荒れてゆくばかりだった。井崎は情報化時代の消耗品だった。井崎は、すでにして涸《か》れた井戸だった。  井崎は、長男ではないのに、母の葬式も、父の看病も、父の葬式も、井崎と道子とで行ってきた。そのために蓄財といったことを考えることなしに過してきた。それは、井崎と道子のホシであるという。そういう星の下で生まれたのだと言われてきた。道子は末娘であるのに、母の面倒を見ている。そのことは、全く不思議としか言いようがない。それは、井崎の、人に名を知られる職業ということに無関係ではないが、井崎と道子の性分でもあった。  井崎に修羅《しゆら》が続いていた。井崎は疲れていた。安穏な生活を欲していた。そう思うことに無理がないと自分で思っていた。  安穏な生活とは、第一に、経済的な問題だった。次に、今の生活だった。社会的な大きな事件があれば、昼間から深夜にかけて間断なく電話が掛ってくる。そんなふうな生活を、どこかで断ち切らなければならないと思っていた。そのくせ、楽に収入を得られる講演や企業関係の仕事を井崎は避けていた。それも井崎の性分だった。  第三に道子とのことだった。道子との諍《いさか》いだった。単に夫婦喧嘩というようなことであれば、どこの家庭にもあることだろう。井崎の場合は、極めて特殊だった。道子はノイローゼの患者だった。道子は一人で出歩くことも、一人で居ることもできない。  しかし、井崎の望んでいる安穏な生活とは、それは貧乏につながることであって、そのこと自体はそれほど困難であるとも思えなかった。しかしまた、井崎は、いまの借金を思うと、暗い気持になった。  そういうことを考えていると、やはり、なかなか眠れなかった。     25  滝本が、帰ってきた井崎を見て、晴れやかな顔をしていますねと言ったのは、滝本の考えていたこととは無関係な意味において、それも適中していたといえる。  火曜日に、井崎の希望が容《い》れられて、北側の病室に移ることになった。四三六号室から四二七号室に移るのである。四二七号室は、死ニナと読めるので、奇異な感じがするけれど、そういうことに頓着《とんちやく》しない病院であるようだった。  井崎が北側の病室に移してくれと頼んだのは、そちらのほうに山があって眺めがいいからだった。井崎はそこから山の景色を描こうと思っていた。  北側の個室は、南側より少し狭く、それだけ料金も安いので、そのために、そちらのほうから塞《ふさ》がってゆくようだった。  一人で荷物を運ぶと、何度も往復することになる。井崎は寝不足が続いていたが、何か身が軽くなっているように思われた。  井崎は体が軽いばかりでなく、上機嫌であって、絶えず笑いがこみあげてくるように思った。その笑いを文字にすれば「北叟笑《ほくそえ》む」になろうか。井崎は、そのような感じで全身で笑っているような気がした。 「北叟笑む」という言葉を辞書で引くと「うまくいったとひそかにわらうこと」となっている。  井崎は、自分の考えが、というより企《たくら》みが、すべて、自分で考えている以上に、思いがけないほどに好都合に運んでいると思った。全く、思ってもみないほどにうまくいったので、自分で自分の気持が整理できないような感じになっていた。  その日も検尿以外の検査は行われなくて、井崎は終日寝ていればよかった。病院から送るべき仕事も、ほとんど完了していた。  しかし、井崎は、そのために、かえって眠ることが出来ない。  井崎は、ベッドに横になって、ひとつひとつ問題を整理しようと思っていた。それは楽しいといっていいような作業だった。  井崎の目標は、すべて安穏な生活に懸っていた。 「ひとつひとつ、順序不同に、思いつくままに考えてみよう」  そんなふうに思っていた。問題は、十五項目から二十項目におよぶだろうと、漠然と考えていた。その全てが自分にとって好都合となるはずであった。そのように仕組んであったつもりだった。  井崎の最大の目的は、道子に旅行をさせることだった。道子を電車に乗せることだった。そのための計画としては、これ以上綿密なものはあるまいと思っていた。そのように、井崎は時間をかけて考えてきた。  井崎は病院に入院した。井崎自身の病状からすれば、病院が京都である必要は無かった。しかし、井崎の計画からすると、それは京都でなければならなかった。その他の土地は全く考えられない。  中学校のときの同期生である湯村は、井崎にとって、それほど親しい友人ではなかった。単に同期生であるに過ぎなかった。湯村は、糖尿病からの合併症を次々に併発して死んだ父の担当医と同じ病院にいた。そういう関係で、父と道子のほうが湯村と親しかったくらいである。  井崎が湯村に積極的に接近したのは、彼が京都の病院に転勤してからのことだった。それは極めて都合のいいことだった。井崎が京都の旅館や料亭をやや精《くわ》しく知るようになったのは、湯村の転勤以後のことである。湯村に教えてもらったり、井崎が湯村を招くという機会が重なっていた。  湯村は、だんだんに井崎の計画を理解するようになった。井崎に加担するようになった。そのように、道子の病状の説明は困難だったともいえる。湯村が井崎の計画に加担したのは、医師として、それが道子の病気の治癒に関する有効な方法のひとつであると判断したからであった。それは、いわば荒療治だった。夫婦で旅行する機会のあたえられていない井崎に対する湯村の友情に発したことでもあった。  井崎の病状は、絶対に入院を必要とするというようなものではなかった。検査が主だから、通院でこと足りるはずだった。しかし、井崎の企みからするならば、それは入院でなければならなかった。それも京都であることを必要とした。それには湯村の助けをかりなければならなかった。  井崎には、湯村よりももっと親しくしている医者が何人もいた。井崎のような職業では、自然に交際範囲が広くなる。糖尿病の研究で名を知られている医者とも面識があり、単に中学時代の同期生で内科医になった者に限ったとしても、湯村よりも親密な関係の男がいた。また、病院のことにしても、糖尿病で入院したことのある仲間に紹介してもらうことも容易だったし、それよりも、井崎が嘱託になっている食品会社の社員の健康診断を行う病院でも便宜をはからってくれるはずだった。井崎はその病院から派遣される若い医者とも親しくしていた。しかし、今度の場合は、どうしても湯村の助けを借りる必要があった。  井崎は新婚旅行以外に道子と一緒に旅に出たことはなかった。その新婚旅行も、近県の温泉地への一泊で帰ってきた。二年後に道子は発作を起した。  井崎は道子と二人で旅行することをどれほど強く願ってきたか、自分でもわからないくらいになっている。井崎は、強引に、あるいは騙すようにして、道子を知らぬ土地に連れだしてしまうことが、道子の病気の治療の唯一の方法であると思いつめてきた。それが成功するかどうかは賭《かけ》にちかいことになる。しかし、井崎は、どうしてもそれを試みてみたいと思っていた。このままで、非常に狭い範囲の土地で過すだけで終ってしまうことに我慢がならなくなってきた。それは、おそらく、井崎だけにしかわからない心の持ち方であると思われる。道子が発病してからでも二十年ちかい時が経っている。井崎が疲れてしまうのは、そのことも原因していた。  井崎が、道子に、二人で旅行に出ようと提案することも諍いのもとになっていた。井崎はそのことも何度も試みていた。そのたびに、それは失敗に終っていた。道子からするならば、それは苛《いじ》められているという感覚で受けとめることになっているようだ。病人の、そこが病んでいるところの最も微細な神経に触れられてくるといったような……。  井崎が京都の病院に入院したのは、最後の賭だった。  それは京都でなければならない。  どこへも行ったことのない中年の女が、どこかへ旅行するとするならば、それはまず京都だろう。どこへも出られない人の誰もがそうであるように、道子も、地図と書物とで、よその土地を識ろうとしていた。道子は、特に京都について地図と書物のうえで精しくなっていた。京都に行かれるとすれば、それは道子にとって喜びでないはずがない。  しかも、新幹線に乗れば、名古屋駅に停車するだけである。極端なことを言えば、同乗を約束してくれている湯村が麻酔薬を注射してしまえば連れてこられる。それをやってくれるのは湯村以外にはない。  井崎が、湯村のいる京都の病院を選んだのは、そういう兼ねあいからだった。  むろん、井崎が京都にいて、それを迎えにくるといったことだけでは、道子が家を出られるはずがなかった。井崎は道子に危機感を感じさせるように努めてきた。そのためにも湯村の協力が必要だった。井崎と湯村とで、交互に、井崎は入院して検査と治療を行わねばならぬこと、それが湯村のいる京都の病院でなければならないことを道子に説き続けてきた。そうして、退院するときは、妻が迎えにこなければならないとも言った。そう言ったのは湯村であり、それが湯村の役割だった。井崎と湯村とで、道子を暗示にかけていた。それは、井崎と湯村の職業からいって、馴れている作業であるといえるだろう。  井崎と湯村の方法は、女の本能を呼びおこすというやり方だった。井崎は、道子が、どんなに発作を頻発する時期であっても、井崎の世話をしたり、井崎の食事のための品を買いに外へ出ることだけは出来たということを利用しようとしていた。  道子は、夫や子供が死ぬかもしれないというときは、どんなことでもやれるはずだった。井崎はそう思っていた。それは、夫の病状を自分が正確に知っていなければならないし、夫がそれを必要としていると思ったときも同様であるはずだった。それは道子のなかにある我儘な性格や弱さとは別箇のものであるはずだった。 「これで間然する所はないだろうか」  井崎は、ベッドに横になっていて、自分の考えと企みとを反芻《はんすう》するようにしていた。そのときの彼は、自分の計画を楽しんだり味わったりしていた。何から何までうまく運んでいると思った。  彫刻家が最後の仕上げの段階で、細部を削り落したり、彩色を考えているのと似ているように思われた。 「夫婦の一生といったって、俗に愛妻家とかマイホーム主義とかいったって、これでなかなか大変だな。いのちがけだな」  井崎はそのように陽気に楽天的に考えていた。自分で、そのように仕向けていた。顔が自然に微笑する顔になってくる。  井崎の計画は、道子に旅行をさせることだけに止まらなかった。その計画は、一石二鳥どころではなく、三鳥にも四鳥にも、いや、もっと多くの効果があるはずだった。  井崎は、いまのような生活をどこかで断ち切ろうと思っていた。売文業者は、書斎と出版社と酒場の三点を三角形のように歩いていると言われるが、井崎の生活はそれにちかいものだった。だんだんに、そのように追いこまれていた。それが惰性となって続いていた。井崎は、はじめ、いまの小説家に必要なものは体力であるという先輩の言葉を聞いたときに、それを馬鹿にしていた。しかし、だんだんにそれが真実であることを知るようになった。そのような形で井崎もその世界に入りこんでいた。組みこまれていた。出版は、むろん、営利事業であり、井崎は商品だった。商品としての井崎は、いつ発売中止になるかわからないという立場に置かれていた。そうして、井崎の生活は、自分の商品価値を磨《す》り減らすという方向にむかっていた。  何故書くのかという問いに対して、締切があるからと答える人がいる。井崎はそういう回答も軽蔑《けいべつ》していたが、しかし現実の井崎の生活は、まさにそのようなものになっていた。井崎は、指定された締切日が近づかなければ机に向うことが出来ないようになっていった。それも惰性といえば惰性だった。締切日だけが起爆力となる。ということは、井崎の体力が衰えているということでもあった。不消化のままに排泄《はいせつ》されるような作品が続くと、疲労がいっそう募ってくるように思われた。それに焦燥感が加わってくる。  井崎は、ここ数年、自分で「サエテイル」と感ずることが無くなってしまった。碁将棋でいうと「自然に手が伸びてくる」という状況に立ちいたることがなかった。いつでもそれは重苦しいものになっていた。そのような商品になっていることに罪悪感を感ずるようになる。  井崎は酒の力を借りなければならぬようになっていた。それに鎮痛剤と睡眠薬が加わるのである。実際に井崎は鎮痛剤を服まなければ何も書けぬようになっていた。井崎の友人の評論家が鎮痛剤の多用で、心臓と肝臓を同時に冒されて急死した。その評論家は酒を飲まなかった。彼が服用していた鎮痛剤は、井崎の用いているものと同じ薬だった。井崎はそれを知っていた。しかし井崎は薬を服まなければ一行の文章も書くことが出来ない。薬を服めば「サエテクル」ような錯覚があるだけである。酒を飲めば元気になるような錯覚があるだけだ。そのことが、さらに井崎を疲れさせ、井崎の体力を衰えさせてしまう。それを承知していて、どうにもならない。なぜならば、井崎には、いつでも締切日が切迫していた。  井崎は便利な作家になっていた。井崎はそれが性分で、短い文章でも力を抜くということはない。むしろ短い文章を得意としていた。井崎は小説でも随筆でも雑文でも、スポーツの観戦記でも同じような力のいれかたで書いていた。それが井崎の特徴だった。それが井崎を便利な商品にしてしまう。便利な商品として追い廻される。井崎は机に向っていて、ああああという唸り声をあげる。  そのようなことを十年間も続けていて、いまだに無一文であるような状況が自分でも理解できない。会社員時代の友人や学校友達はそのことが不思議だという。しかしそれは井崎だけのことではなかった。経済状態だけではなくて、ほとんどの同業者が似たような状態で仕事を続けていた。誰もが休息を必要としていた。井崎は文壇の会合で、あたりを見廻して、貧乏人の集まりだなと呟《つぶや》くことがある。実際にそれはそうなっていた。流行作家といわれるような男でも、税金が支払えなくて銀行から借金するというのが珍しいことではなかった。もし彼に資産があるとすれば、銀行が金を貸してくれるという能力だけだった。また、限られた男たちは、一年後か二年後に死んだとしても少しも不思議のないような生活をしていた。井崎もそのなかの一人だった。その人達の間では五十歳を過ぎるのでなければ本当の仕事が出来ないというのが定説になっていた。五十歳からの五、六年間ということになるのだろうけれど、そこに辿《たど》りつくには、やはり体力が必要である。  それもまた戦いだよ、と同業の先輩が言った。殺されまいとすれば、義理のある出版社や編集者に喧嘩を売るという事態にもなりかねない。しかし、先方は、同時に井崎たちを養ってもいるのである。喧嘩を売ることもまた疲れることだった。井崎はそのような状況を断ち切りたいと願っていた。そういう年齢に達していた。どうせ修羅場《しゆらば》であり、どうせ地獄であることは承知していても、まず体力の恢復《かいふく》を計らなければならない。  井崎に残された唯一の方法は病気になることだった。体力の恢復をはかるために病気になるということは矛盾しているようであるけれど、井崎の同業者ならば、そのことの意味をすぐに理解するはずである。井崎の親しい編集者がそれを勧めることもあった。……井崎さん、病気になりなさい、病気を利用しなさい……。  ジャーナリズムの世界に生きる人たちが長生きをはかるための常套手段は外国旅行だった。外国旅行をしていない作家は井崎以外にはいない。それは広くタレントといわれる人達を含めても言えることだった。井崎の勤める食品会社の社員でも同じことだった。しかし、井崎は外国へ行くことが出来ない。それは道子のノイローゼのためだった。道子の側からすると、井崎の外国旅行など、とうてい考えられぬことだった。井崎が一人で外国へ逃れることもできないし、道子と二人で行くこともできない。  その意味からしても、井崎は湯村を利用したことになる。井崎と湯村との共謀だった。そうして、現実に、井崎は病人だった。そうでなければ、公立の病院が入院を許可するわけがない。  井崎の同業者が肝炎で入院したときに、病室がそのまま仕事場になってしまうことがあった。井崎が入院するとすれば遠い所でなければならなかった。 「ここまではいい。しかし、ここから後のことが納得できるだろうか。俺が納得し、湯村が納得し、道子が納得し、そうして、世間一般といったようなものが、ここからあとのことを承服するだろうか」  井崎は、暮れかかった窓の外を見ながら、そう思った。京都の北の山が赤くなっていた。山の天辺《てつぺん》のあたりが赤と紫で透き通るような具合になっていた。  井崎は、若い女を必要としていた。瑛子のような女を必要としていた。  井崎を騙《だま》してくれるような女が必要だった。井崎を騙すことで自分が騙されてしまうような女を探していたことになる。     26  南側の病室からは、玄関前の広場が見える。そこは主として駐車場に使われている。土曜日の朝になると、大原女《おはらめ》の恰好をした女が、リヤカーにのせた花を売りにくる。  北側は、かなり広い空地になっていて、雑草が枯れかかっている。色調は黄と茶であって、わずかに緑が残っている。何年後かに、そこに病棟《びようとう》を建てる計画があるのだろう。荒れたままになっている。  空地の端にテニス・コートがある。その後方が看護婦の宿舎になっている。病棟と宿舎とは、渡り廊下で結ばれていて、深夜でも雨の日でも看護婦たちが自由に往来できるようになっている。  北側は裏門であり、裏口である。そこにも数台の自動車が置かれている。霊柩車《れいきゆうしや》もここから出入りする。  空地の雑草を刈り取る作業は、まだ続いていた。枯草が夏草と呼ばれていたのは、つい二、三日前のことではなかったろうかと思われる。夏草が倒れ、冷たい雨にあい、たちまちに変色し、土に同化しようとしている。  井崎は、飽きずに、その作業を見ていた。男が一人、女が三人である。年齢は定かではない。女が草を刈り、男は時折そこへやってきて枯草を集め、火を点《つ》けてどこかへ行ってしまう。細い煙があがり、それがふとくなり、時に火の色を見せる。  作業は、のろのろと続けられている。いったい、これだけの空地の草を刈り取るのに何日を要するのだろうかと井崎は思った。たとえば十日間といったあたりの請負仕事なのだろうか。十日という日数にあわせるために、わざとのろのろと作業を続けているようにも見える。それとも、請負などではなく、単に、のんびりと草を刈っているだけなのだろうか。いずれにしても、公立の病院の裏庭などの管理は、管理する側も働く側も好い加減なものだろう。五日で終る作業に一週間も十日も要したとしても別にどうということはない。「ちかごろの人夫はあきまへんなあ」で済んでしまうことである。責任もないし、叱られることもない。  しかし井崎が血液の検査を受けに診察室へ行って、三十分ばかりして病室にもどってくると、草刈り作業はいくらか進捗《しんちよく》していて、女たちの列は二メートルばかり前進していた。それは、鉄道工夫たちが、間の抜けたようなメロディーにあわせて鶴嘴《つるはし》を振っている光景に似ているように思われた。  井崎は、しかし、そういう目でもって草刈り作業を見ている自分が奇異なものに思われてきた。いつでも、何を見ても 俺はこんなふうではなかったのか。俺は、あきらかに、五日間で出来る作業を三日間で終えてしまうことはできないのかという目で見ていた。いつでも、何を見てもそうだった。戦時中の学生時代でも、軍隊にいたときも、戦後に出版社に勤めていたときも、食品会社に入社してからでも、あるいは作家になってからでも、いつでも、そんなふうにセカセカと暮していた。自分だけがそうであったのではなく、そんなふうに教えられ、仲間たちもそう思いこんでいるフシがある。そういう考えは美徳とまでは思わなくても、一種の生活信条になっていた。目の前の仕事に埋没してしまうことは一種の逃避だった。それに気づいていても、そうしなければ暮しのたたないような時代が続いていた。そう思いこんでいた。いつでも突貫作業だった。それが今に続いている。六十歳以上の男たち、明治生まれの男たちと井崎の年代の男たちとはどこかが違っていた。昭和十年以降に生まれた若い男たちとも、どこかが違う。それが井崎たちの世代を形成していた。井崎たちの世代は、戦前の軍需景気を知らないし、戦後になって、初任給が五万円を越す時代が来るなどということは想像することも出来なかった。井崎たちの初任給は七千円から一万円だった。そうして突貫作業を続けて出来あがったものは、地面をも空気をも蝕《むしば》んでしまうような世界だった。  井崎は、草を刈っている女たちと、それを監督している男を眺めているときに、なにか羨ましいような気がしていた。  女たちは同じ長屋に住んでいる。女たちの夫は工場で働いている。その子供たちも、もう勤めに出ている。人手不足の時代だから、失職ということはない。形振《なりふ》りに神経を使うような暮しではない。米やお菜の貸し借りが行われる。病人が出れば交替で面倒を見る。人々の心が通いあっている。みんな安心して働いている。それは井崎の願っている安穏な生活のひとつの形だった。 「馬鹿なことを考えるもんじゃない。そんなことがあろうはずがない。どこへ行ったって修羅は修羅だ。俺は何を考えているのだろう」  井崎はいそいで自分の考えを打ち消し、自分の甘い考えを叱るようにした。 「明日はクレアチニン・クリアランスを行いますから……」  若い看護婦が言った。それは中性脂肪の検査だった。井崎は、主な検査は終ってしまっていて、血糖値を調べる検査は二度目になっていた。中性脂肪の検査は、あるいは滝本のサービスであるのかもしれない。クレアチニン・クリアランスと言うときに、看護婦は、いくらか得意であるような、あるいは滑稽に響くような言葉を楽しんでいるような気配があった。  退院まであと五日間というときになって、看護婦の態度が変ってきた。病人扱いではなくて、一般の社会人に接する態度になっていた。井崎はもう患者ではなくて、かりに病院の一室に下宿している男だった。検査の結果、それほど急に心配する病状ではないことが知れ渡っていた。看護婦は井崎に気を許していた。体温計を置いてゆく看護婦が、二分間か三分間ぐらい無駄話をしてゆくようになった。井崎の描きかけの絵や、東京の病院について質問したりした。そういう目でみると、看護婦は急に女っぽくなったり、所帯染みて見えたりする。 「クレアチニン・クリアランスが終りましたら、明後日は、多分、胆嚢《たんのう》の検査になると思います」  その看護婦は、井崎のカードの職業欄が著述業と記入されているのを知っていて、看護婦の収入が尠《すくな》いのをどこかに訴えてくれと頼んだ。 「胆嚢でも何でも検査は受けるけれど、あんまり痛かったり気持わるくなったりするようなのは厭だよ」 「痛いこと、ありません。卵黄を飲むだけです。ちょっと時間がかかりますけれど」 「卵黄はコレステロールにわるいじゃないか」 「仕方がありません。卵黄は胆嚢に残るんです。それを透視するんです。卵黄といっても牛乳と一緒に冷やしてありますから、飲みにくいことはありません」 「それはうまそうだね。ああ、卵黄と牛乳だと、つまりミルクセーキだね」  そんな話をした。井崎の気持は平静に戻っていた。  井崎は瑛子と二人で京都の町を歩いていて、扇子を売る店に寄ったときのことを思いだした。五、六本の扇子を買って、適当に『金属』の女たちにわけてもらうつもりだった。阿佐子も友絵も、瑛子が井崎の見舞いに行くことを知っていた。  高校三年生に、大学一、二年生といった様子の二人の青年が扇子を選んでいた。その二人は従兄弟《いとこ》同士ででもあるらしい。  高校生のほうの姉が近々に結婚することになっているのが、店員との会話によって知れた。高校生は姉に頼まれて扇子を買おうとしている。それは和装で結婚式を挙げるときに必要な品だった。高校生と大学生とが、それを結婚祝いに贈ろうとしていることまでがわかった。 「時間、だいじょうぶかな」  大学生が言った。二人は、扇子を決めかねていて手間どっていた。二人の前に三本の扇子が残されていた。 「あぶないなあ」  高校生が腕時計を見た。  どうやら、二人が気にいっている扇子を買うと、百円とか二百円というきわどいところで帰りの新幹線の切符が買えなくなってしまうらしい。二人は店員が負けてくれるのを期待しているのではなくて、三本のうち一本に心が残ってしまっているようだった。 「早くしようよ」 「ぼくだってそうしたいんだけどさ」 「時間も時間だけど、金のほうだよ、問題は」 「しまったなあ、コーヒーなんか飲むんじゃなかった」 「やっぱりこれにするか」  大学生が真中の一本を取りあげた。 「だけどなあ……」 「仕方がないじゃないか」 「晩飯はどうなるの?」 「ビュフェでカレーライスを喰えばいいじゃないか」  二人はこういった買物をするのは初めてのことであるようだ。  足が自然にそっちのほうへ動いてしまうという感じで井崎は歩いていって二人に話しかけた。 「あと二百円あれば万事解決するんですか」  井崎は陽気に振舞おうとしていた。井崎がそう言ったのは、井崎のほうでも時間の余裕が少いからでもあった。その店の店員は、学生たちの買物が済まなければ井崎たちの所へ来ないだろうと思われた。それに、学生たちもいそいでいた。 「………?」 「あんまり気にしないでください。実はこっちもいそぐんでね。いずれにしても二百円なんだろう。ここに二百円あればいいんでしょう」  井崎はそれを早口に言った。ポケットを探ると小銭が無かった。 「あっ、しまった。……おい、瑛子、二百円貸してくれ」  二人は黙って頭をさげ、その二百円をガラスのケースのうえに置いた紙幣に重ねた。店員が左端の扇子を袋にいれて二人に渡した。二人はすぐに出て行った。二人はどうしていいかわからずに、一刻も早く店から離れたいと思っているようだった。それは井崎にとってはいい感じだった。  そんなことをしたのは、井崎も初めてのことだった。井崎は、自分が上機嫌でいるのかもしれないと思った。また、井崎はいつでも、このような青年たちに対して、うしろめたいような感じを抱いていた。それは青年たちに対してだけではなかった。それは、一種のいわく言い難い感情だった。  しかし、よく考えてみれば、井崎の学生時代には、関西旅行するなどということは思いもよらぬことであった。井崎はすぐにそのことに思いいたった。 「可愛かったね」 「………」 「あの二人……」  店を出たところで瑛子に言った。瑛子は、ふりむいて笑った。 「びっくりしたらしいな」 「だけど、先生、よくないわよ」 「なにが?」 「ああいうのって、とってもよくないことよ。私、先生のそういうところ、嫌いなのよ」 「どうして?」 「恵んであげたつもりなの」 「そんなことはないさ」 「………」 「別にどうってこともないじゃないか。たとえば、あの高校生の姉さんがね、二人から話を聞いて、悪い感じにはならないと思うな。一生の思い出になるかもしれない」 「………」 「それでいいじゃないか」  瑛子は悪い顔付きになっていた。 「先生はいい気持かもしれませんけれどね、私はちっともよくないわ」  井崎は瑛子の言おうとしていることがわかるような気がしていた。それもまた甘受しなければならないと思った。 「いい気持というわけじゃない」 「あの二人は貧乏なのよ」 「しかし、堅実な家庭だな。服装もきちんとしていたし、言葉づかいも悪くなかった。……それに、姉さんが嫁に行くんで京都で扇子を買うなんて、ちょっといいじゃないか」 「先生はすぐに情緒的になるのね」 「それはそうさ……」 「貧乏なのよ。それに若いのよ。そういう人にお金をあげたりしちゃいけないのよ」 「なぜ?」 「なぜでも、それはいけないのよ。あの子たちね、あの扇子がほしかったんなら、鈍行の夜行列車で立って帰ればいいのよ」  それには気がつかなかった。 「いそいでいたのかもしれない」 「それに、あの子たち、どうしてお礼も言わずに出ていったのか、わかる?」 「わからない」 「先生に気がついたのよ。井崎宏だってわかったのよ」 「まさか」 「そうよ。それでびっくりして出ていったのよ」 「そうかなあ」 「私、そういうことって、嫌いなの。貧乏人を助けるなんて……」 「馬鹿……。そんなつもりじゃないよ。時間が無駄だと思っただけだ」 「それをお金で買うつもりなの」 「………」 「私だって貧乏ですけれどね。そういうお金は厭よ」  井崎は、瑛子ではなくて道子がこういう場面に出会っていたら同じことを言われたろうと思った。 「そういうことになるのかな」  五分ぐらいしてから瑛子が言った。 「うそよ。さっき言ったこと嘘よ。本当はね、私、先生のそういうところ、好きなのよ。半分ぐらい嫌いで、半分ぐらい好き……」 「………」 「先生はすぐに借金のことをおっしゃいますけれどね、それは三年ぐらいで返せるお金なんでしょう。そういうひとって何人もいないのよ。いいじゃないの、何千万円借金があったって……。私なんか、絶対に返せない……」  瑛子は時に井崎と対等であろうとする。瑛子は負けていない。  井崎は面会室で、せつろうしいという言葉を知った。いらいらするという意味であるようだ。また煙草の話になっていた。 「煙草が吸いとうてせつろうしい」  と、心臓病の老人が言った。  歩行練習をしている老婦人を見かけないようになった。 「|おみあ《ヽヽヽ》が痛うて歩けしめへんのですって」  河原が機械人形のような手の振り方を真似て言った。  河原は、二日間の外泊をした井崎の話を聞きたがった。彼は井崎が東京の人間であることを知っていた。  河原は井崎が泊った旅館の場所を聞き、こんな話をした。  その近くのデパートの女店員を誘い出して、喫茶店でコーヒーでも飲んだとする。女と別れて歩いていると、男が寄ってくる。俺の女をどうする気かと言って凄《すご》まれる。実はその男と女店員とは何の関係もない。しかし、男は、女店員の胸にある番号札によって、姓名と住所ぐらいを調べてある。だから、女店員を誘いだして名を聞き、再会を約束した男は驚いてしまう。 「あのあたりは、これが多いさかい、気をつけないといけませんよ」  河原は人差指で頬を斜めに撫でた。 「ですけど、一万円ぐらい渡せば済んでしまうんです。その点は、わかりがいいのかもしれませんね。取引ですから。……東京のほうが本当はもっと怖いでしょう」  河原は、そして櫓《やぐら》の差し向い、と言い、それをもう一度、節をつけて歌った。 「『京の四季』ですわ。東京では櫓っていうと、高い所でしょう。火の見櫓とか櫓太鼓とか。……京都では炬燵《こたつ》ですわ。火の見櫓で女と差し向いで酒を飲むなんて出けしまへんもんなあ。だからびっくりするんですわ。櫓の炬燵ですよ」  河原はまた歌って、ちくしょう、ええなあ、差し向いは、と言った。井崎は、旅館での瑛子との経緯《いきさつ》を思って苦笑した。  道子からの手紙。  いま午前一時。  林太郎が、二日前、高校祭とかで、十二時頃帰ってきて、いま寝たところです。ゲバ棒事件は、学校のほうでは、誰と誰ということがわかっているようです。でも、荒立てないようにしているんじゃないでしょうか。静観でしょうか。ですけれど、いつ逮捕ということになるかわかりません。私は覚悟しています。それならそれでいいと思っています。パパだって林太郎の齢では軍隊だったんでしょう。道子の覚悟というのは別の意味もあります。もう林太郎が出ていってしまって自分の思う通りの路を歩いて私の所へ帰ってこなくてもいいとさえ思っています。男の子なんですから。……どうです、えらいでしょう。  今日、お手紙二通と、夕方になってお菓子が届きました。郵便局にでも行かれたときに買ったのですか。それとも湯村先生に頼まれたのですか。どうやって買ったのか書いてないからわからないのです。打チモノで菊の花。食べてしまいたいくらい可愛いお菓子。こういう表現は変ね。すぐ仏様にあげました。ご馳走さま。  本当にもうすぐ会えるのですから手紙はいいです。そのぶんだけでも休養してください。  道子も、昔、赤痢がなおって退院するとき、世の中ってこんなに活気があるものなのかと、車や何かがこわかった記憶があります。やはりパパは病人なんだから気をつけてね。  今日、週刊誌のグラビアで撮った写真が届きました。使わなかったぶん。鈴木さんが、とても親切に十枚も引き伸ばして送ってきてくれました。パパの顔を見ていると胸がキュッとなってきました。  朝、原稿とどきました。すぐに松山さんに連絡しました。  昨日がクラス会でちょっとくたぶれて、ぼやぼやして、切符のこと頼むのを忘れました。クラス会は、例によって秀子さんの送り迎え。悪かったけど仕方がないわ。明日、会社へ電話して頼むわ。総務の鶴岡さんでいいのね。  湯村先生、秀子さん、道子の三人。秀子さんは「適当に一人で帰るわよ」と言っていました。でもパパは退院してもすぐに取材旅行に出かけるのね。  新聞、雑誌、もちろん保存してあります。  パパの絵。びっくりするほど上手で驚いています。でも疲れるといけないと思うけれど。  なんだか京都へ新婚旅行に行くみたいで、新しいパンティーを買おうかとそわそわしています。手紙ももう余り書かないほうがいいかもね。退院したあとに着いたら笑われちゃうもの。  では、おやすみなさい。いま、一時半。パパはとっくに寝ているでしょうけれど。  お見舞いの人がだんだんふえてきたんですって。湯村先生から電話でうかがったわ。もしこれが東京だったらと思ったらぞっとするわ。それから看護婦さんでパパの名前を知っている人がいるんですって。名札が出るんですから仕方がないわね。でも、ちょっと心配。  急に寒くなってきていた。北側の病室に移った直後であるのが皮肉であった。氷雨《ひさめ》が京都の山の紅葉を染めあげてゆくのだと思われた。  もう一枚の毛布を請求する権利があるのだけれど、井崎はそれを求めようかどうか迷っていた。彼には、やはり、自分は本当の病人ではなくて、この土地の者ではなく、従ってこの土地に税金を納めているのではないという考えがあった。滝本を騙し、道子を騙し、瑛子を騙し、その他多勢の人を騙し、大袈裟にいえば市立の病院を経営する地方自治体を誑《たぶら》かしているという神経が働いていた。  退院が近づくと、急に道子のことが身近に考えられるようになってきた。     27  道子の手紙は、第一信と較べれば、ずいぶん感じがかわってきた。柔かくなっていた。言いたいだけのことは言わせてしまえと思っていた。それも井崎の試みのひとつだった。手紙でなくては言えない事柄だった。そのためには遠い所に入院するのでなければならない。井崎の企みのひとつは完全に成功していると自分ではそう思っていた。  瑛子が井崎の前にあらわれたのは偶然だった。しかし、井崎は瑛子のような女を探していた。瑛子は、井崎にとって、願ってもないような形の女だった。条件がそろっていた。いまから、瑛子のような女を他に求めようとすることは全く不可能だと思われた。 「さあ、しかし、これからさきのことを誰が信じてくれるだろうか」  次の日の午前中も、井崎はベッドに横になって、そんなことを考えていた。クレアチニン・クリアランスの検査は、食事をせずに、ただ横たわっていて、採血してもらえばよかった。  夫婦のことは、その二人以外には誰にもわかるはずがないと井崎は思っていた。  それにしても、瑛子とのことは、瑛子を利用したということは、その筋道を自分に納得させることだけでも極めて困難だと思った。井崎は半信半疑の状態でいた。瑛子に男がいたということも、それをまことに拙《まず》いやりかたでもって井崎に知らせてしまったことも、そのために井崎の企みを完璧《かんぺき》にちかい形で成功させてしまったことも、井崎はまだ半信半疑という思いで考えていた。あまりにうまくゆき過ぎていて、かえって信じ難いのである。 「しかし、一年ごろから、俺が瑛子のような女を探していたという事実は間違いがない。その事実は動かし難い。俺はずっとそう思いつめていたのだ。それは道子のためだ。道子と俺のためだ。俺はそうやって家庭の平和を守ろうとした。そういう言い方がおかしければ、俺は、二十年間も続いている家庭生活の局面を変えようとしていた。それ以外に方法がないと思っていた。俺たちは完全に行き詰っていた。そういう年齢に達していたともいえる。……それは、道子のためであり、俺のためでもあった」  井崎は笑いを堪《こら》えていた。そう思いこんでいたのが事実であったとしても、どこかが滑稽だった。とくに、それは道子のためだと言おうとしたときは、ふき出してしまいそうになるのをおさえるのに苦労した。井崎がそんなふうに笑っていられるのは、彼自身、自分の試みが成功したと思っているからだ。  彼にとって考えられる最悪の事態は、瑛子が優しくしてくれて、たとえば月曜日に病院まで送ってきて、翌日に北側の病室に移るための荷造りを手伝ってくれたりするようなことだった。実際に、妻以外の女が病室にはいりこんで患者の世話をするようなことは、その病院でも稀《まれ》ではなかった。誰某は甲斐性《かいしよう》があるという目で見られていた。  現実に起ったことは、瑛子が一刻も早く井崎の目の前から去って行きたいと考えるような事態だった。そんなことは、瑛子との交渉があってから最初の出来事だった。それが井崎を満足させた。  井崎は、平凡に単純に俗に考えることにした。夫の情事は、妻にとって必ずしも不幸を招くとはかぎらない。そういう言い方が一般に行われている。  井崎は、十六歳年長の妻を終生変ることなく熱烈に愛し続けたというアメリカの推理作家の話を知っている。若い頃の井崎は、それをひとつの目標にしていた。いや、いまでもそういう考えがある。しかし、そんなことが実際にあったのだろうかという疑いも抱いていた。それに、それは外国の話だった。  井崎の作家仲間や雑誌編集者の何人かが井崎に女遊びを勧めていた。それは半分冗談で、半分本気だった。井崎は女に対して淡泊だと思われていた。 「きみは奥さんにも淡泊だろう。そういうもんやで……。週に何回?」  そんなことを言う男もいた。  俺たちのことは誰にもわかるはずがない。俺の女房は色情狂なのだ。重症のノイローゼなのだ。そんなことがあったら、俺の女房は本当に発狂するかもしれないし、自殺するかもしれない。井崎はずっとそう思い続けていたし、一面では道子に満足していたともいえる。  その井崎が、だんだんに追いこまれてゆくようになった。そのひとつは、井崎自身の性の衰えだった。若い頃から、道子の生理日の前後は、必ずひとつのべッドに寝ていた。それは避妊のための用意をしないで済むからだった。  それがそうならなくなってきた。 「どうして? 駄目なの? 体が悪いの?」  道子がそう言って、泣いたりするようなことが続いた。  夫が急に優しくなったら疑ってみたほうがいい。婦人雑誌の人生相談などに、そんな記事がある。 「女房なんて、やっちまえばいいんだよ。それで機嫌がなおるもんなんだよ」  友人の一人が言った。井崎は道子に優しくしたいと思っていた。このままでは行き詰ってしまうと思われるような事態が続いていた。  しかし、井崎は、それほど単純に考えたのではない。井崎と道子とのことは、もっと複雑で、もっと微妙だった。  井崎と道子とは、学生結婚で、二人とも一年間で中途退学していた。だから、それは一種のママゴトの延長であるような気配があった。道子は、井崎が強がりを言っても、心の底で高を括《くく》っているようなところがあった。  道子は、井崎も林太郎も自分の庇護《ひご》のもとにあると思っていた。年々にその傾向が強くなっていた。そういう気味あいも、他人にはうかがうことの出来ない種類のことである。そのあらわれ方が、道子の場合は、やや病的だった。井崎は、むしろ、道子の病気の根源がそのへんにあるとさえ考えていた。道子は発作が起ると、もし自分が死んだら、林太郎も井崎も生きてはいけないはずだと思いこんでいるようだった。道子は発作のときに、顔も手足も硬直させながら、林太郎が可哀相、パパが可哀相と口走っていた。それは医者に言っても理解してくれないだろうと思われる事柄だった。それは道子における一種の女らしさだった。しかし、そのあらわれかたが、道子においては病的だった。道子は母親であり、一面において童女だった。童女のように信じこんでいた。そういう女の性については、井崎はまだまだ理解が行き届いていない。  道子の姉の一人が自殺していた。その姉は三女だった。井崎がそれを知ったのは最近のことだった。道子も、道子の母も、それを井崎に匿《かく》していた。原因は知らされていない。道子の母は、その当座の半年ばかり、毎日浅草へ行って映画を見ていたという話をした。自殺した娘のことを忘れるためだった。  井崎の目からすると、道子の家の長女は躁病《そうびよう》だった。次女は鬱病《うつびよう》だった。三女は自殺し、四女は自閉症である。それはいずれも軽度のものであるけれど、次女である姉は何度も家出をしているし、自殺をはかったことがある。井崎は薄気味のわるさを感じないわけにはいかない。道子が井崎と結婚したのは、開放的な井崎の家に憧《あこが》れるという面があったようだ。  道子の病気は何だろうか。井崎にはそれがわかっていない。掴《つか》めていない。  道子は昂奮しやすい体質である。嫉妬心が強い。それが井崎にはやや異常であると思われる。しかし、嫉妬心が強いということは、他の女と比較した場合にいえることであって、井崎は他の女を道子を知るようにして知っているわけではない。井崎は道子の病気を考えるとき、いつでも、女とは何か、妻とは何かというところに突き当ってしまう。  女は夫に支配される。そこに女の運不運がある。夫に倚りかかって生きているだけの女がいる。そういう女が良妻といわれることがある。しかし、そういう女は、いったい何者であるのか。そう考えると、井崎には、どの女も時にヒステリー症状を起すのは当然であるように思われてくる。女における不安は、男に計り知れぬものがあるように思われてくる。井崎はヒステリーを起さない女は女ではないという考えをもっている。そうかといって、男は女や妻のヒステリーにつきあってばかりはいられない。そんにふうに考えると、井崎は迷路にはいりこんでしまう。妻のヒステリーにかかずらわることは、結局は夫も妻も不幸にしてしまう。その証拠に、道子ほどに激しくはなくても、ヒステリーの発作を起した女は、どの女でも、翌日になると、そのことをまるで忘れてしまったかのように晴れやかな顔になってしまう。いや、井崎は、道子の発作は知っていても、他の女のそれを知ることがない。井崎はわかっていない。井崎は、結婚生活とは、妻のヒステリーにかかずらわることの兼ねあいであるような気がしている。しかし、そうではあるのだけれど、井崎の神経が疲れてしまっていて、性的に衰え、体力が衰え、無気力になり、老化現象の一種であるところの病名を指摘されると、道子における病的なるものが、一層重く伸しかかってくるように思われるのである。  道子は、自分がいなければ井崎も林太郎も生きてはいけないと信じているようであり、そこのところが病的であって、それが道子の心理的負担をいっそう重くしている。それは一種の女の特性であろうけれど、井崎からするならば、道子が世間知らずであり、乳ばなれの済んでいない女であるようにも思われてくる。  道子は、井崎が自分以外の女に心を奪われることはないと信じている。井崎を理解できる女が自分以外にいるはずがないと信じこんでいる。それは道子における童話的な世界だった。井崎もずっと長い間それを良しとしていた。その意味では井崎にも似たようなところがあり、井崎も道子の思っているように女を知らず、そのことは井崎における世間知らずを意味していた。井崎も道子もそういう教育を受けて育ってきた。心理学上の思春期が戦争と完全に合致してしまうような井崎や道子の世代の者には、誰にも似たようなところがあった。井崎も道子も子供だった。あとになって、盛んに道子が言いたてるようになったように、井崎も道子も「無菌豚《むきんぶた》」だった。それだけに、めんどうだった。道子は、井崎という男は、自分がいなければ独立した生活を営むことのできない人間であると思いこんでいた。そのことは当っていないといえないことはない。井崎は道子のいない生活を考えたことはない。しかし、そのことと道子がそう思いこんでいることとは別問題だった。井崎は、だんだんに、そこに道子の病気の根源を見るようになってきた。  井崎は道子に刺戟をあたえようとした。そうでなければ、井崎と道子とが一人の男と女になることがなくて、いつまで経っても問題の解決が得られないのではないかと思うようになった。その機会は、林太郎が下宿生活をはじめた今をおいてはないと思った。また、その程度のことは、とくに井崎の作家仲間においては、別にとりたてて言うほどの問題でもなかった。  それは荒療治だった。井崎の考えに協力した湯村も荒っぽい医者であったかもしれない。 「きみは愛妻家だね。いや、これは定説かな」  井崎の考えをやっと理解するようになったときに湯村が言った。 「そんなことはない」 「純愛を完うすることもまた難きかな」 「皮肉か」 「そうじゃない」  井崎の場合には、非常にはっきりしていることがあった。道子は自動車以外の乗物に乗ることができない。それも、小学校も女学校も同級であった秀子のような、きわめて限られた人物を除いては、井崎と一緒でなければ、その自動車に乗ることもできない。林太郎が夜中に発病して病院に連れてゆくというときに、まだ新宿で飲んでいる井崎に電話をかけてくるということもあった。井崎と一緒に自動車に乗ったとしても、遠方へは行かれない。  井崎は道子に旅行をさせたいと願った。出来れば井崎と一緒でないほうがいい。それが出来るならば、こんどは井崎と二人で旅に出られるようになる。それは、すくなくとも、問題を解決する端緒となるはずだった。そのことで、道子も多少は世間を知るようになり、閉鎖的でなくなり、自信を得るようになるのではないか。そこから別の局面が展開するはずだった。それが井崎の願望だった。  井崎は、若い悪女タイプの女を探していた。そのほうが後腐れがないのである。普通にいって、悪女型の女が相手ならば、立場は五分五分だと思った。……悪い女でなければならない。井崎を騙《だま》してくれればいい。井崎を騙すことで自分が騙されてしまうような女であったほうがいい。  瑛子は私をモルモットにしてちょうだいと言った。井崎はモルモットという言葉が頭に浮かんだことはなかったけれど、はじめからそのつもりだった。それは実験だった。  井崎が『金属』に通いはじめたのはそのためだった。その以前の一年間は、全く酒場から遠ざかっていた。井崎はそれに飽きてしまっていたのである。  しかし、瑛子を知ったときから京都の病院に入院する計画があったのではない。  井崎の第一の目標と願望は道子の旅行だった。それは道子の病気の治癒の一段階だった。それが果たされるならば瑛子は不要になる。  井崎は、瑛子のような女は、三週間も男なしで暮せるわけがないと思っていた。その間に瑛子は別の男をつくってしまうに違いないと思っていた。井崎が、一石二鳥にも三鳥にも思ったのは主としてこのためだった。  入院が二週間目になったときに、瑛子が見舞いに来たのは井崎にとっての誤算だった。それは考えたことがなかったという意味での誤算であって、結果からするならば望外の成功だったといえる。瑛子は井崎の考え及ばなかったところで墓穴を掘ってしまった。井崎にとって願っても得られないような展開となった。井崎は、たとえどんなことがあっても、瑛子と別れるときには、何かの名目で手切金を渡すつもりでいた。井崎は、漠然《ばくぜん》と、それは瑛子が自分の店を開くときになるだろうと想定していた。  井崎はそれを覚悟していた。井崎の経済状態からするならば、それは容易ならぬ金だった。また、道子の目から逃れる方策があったわけでもない。  それが思いがけぬことになった。井崎のとうてい考え及ばぬ事態でもって瑛子は去っていった。手切金というような次元の話ではないようなところで、瑛子は帰っていった。  井崎は、その日も、終日、そのことばかり考えていた。何度も繰りかえして筋道を追っていた。大声で笑いだしたくなったりする。  瑛子のことがそんなふうに解決してしまうと、考えが道子のことに集中するようになる。道子は、もはや間違いなく京都に到着するだろう。新幹線のなかで道子が事件を起したとしても、湯村がついているのだから、死ぬような気遣いはない。あるいは道子は、このことで、突然、全快してしまうかもしれない。  なんにしても、京都で道子に会えるのは喜ばしいことだった。無事に到着したとするならば、道子にとっても生涯の喜びになることは間違いがない。井崎は道子と二人で旅行したことはなかった。道子と遠い所の旅館に泊ったことはなかった。それが二十年間に及んでいた。新しいパンティーを買おうかという道子の手紙の文面を、なまなましい感じで思いだした。 「こんなに全てがうまくいってしまうということがあるだろうか。なんだか眉唾《まゆつば》の感じがするな」  暗闇のなかでそう思ったときに、筋道を追って考えていたときとは逆に、何か淋しいような空虚であるような思いが湧《わ》いてきた。  部屋の空気が冷えてきていた。早く眠らなければいけないと思った。     28  井崎はエレベーターの脇にある小窓から病院の前庭を見おろしていた。そこは東病棟と西病棟の中間地帯で、エレベーターと階段と面会室で囲まれている。いわば、社会と隔離室との接点だった。  エレベーターは、普通のエレベーターと、寝台車や車椅子や荷物を運ぶためのものとの二基が動いている。  エレベーターが着くたびに別の世界の空気が運びこまれてくるように思われた。階段からも新しい空気が吹きあげてくる。その日の井崎には特にそんなふうに感ぜられた。支払いさえ済ませてしまえば、いつでも自由に病院を出られるのである。  廊下の時計が三時十分前を指していた。井崎は自分の懐中時計を出してみた。その時計も三時十分前を示していた。そういう動作は、井崎がその場所へ来てからでも、もう二度目だった。井崎は病院の前の道路と、自動車の入ってくる正門と、玄関と、面会者入口のあたりに絶えず目を配っていた。  南側の病棟であると、病室から前庭のあたりを見渡すことができる。井崎は一週間前に北側に移っていた。そのために、そこに立っているのである。  井崎は、なぜか、病院を出るのは、朝か午前中であるはずだと決めこんでいた。午後になると、担当医がいなくなるかもしれないという頭が働いていたためだろう。自分も道子も、滝本に挨拶して退院したいと思っていた。それに、診断の総合報告も、栄養士からの食餌療法に関する諸注意を聞くのも、道子と一緒であったほうが都合がいい。  そうだとすると、東京から迎えにくる道子と共に退院するのは無理ということになる。井崎は、はじめは、その日は道子も秀子も湯村の家に泊めてもらい、翌日の朝、あらためて病院へ迎えにくるという手筈《てはず》にしていた。  そのことを知った滝本は、それならば、その日のうちに退院してしまって、挨拶も、栄養士の所へ行くのも翌日にしたらどうかと言った。もとより、井崎にとってもそのほうが有難かった。それがわかったのは前日のことであり、夜になって井崎は東京へ電話した。 「びっくりしたわ。……パパなの? パパなのね」  電話口で道子は瑛子と似たようなことを言った。お互いに電話は掛けない約束になっていた。  井崎は道子が着き次第、一緒に病院を出られるようになったことを告げた。それだけ言ってしまうと、あとは何も話すことがないように思われた。 「どうしたの? 何かあったの? びっくりするじゃないの」  道子は井崎の言うことがよく理解できないようでいるらしかった。井崎は、もう一度、ゆっくりと用件だけを繰りかえした。道子は黙っていた。井崎が笑い、道子も笑った。  そうやっていると、道子の声が潤《うる》んできて、涙声になってしまうのではないかと思われた。井崎はそれを怖れた。 「つまり、明日、一緒に旅館に泊れるということなんだ」 「………」 「旅館の手配は済ませたし、秀子さんの部屋は別にとってある。わかる? それから、湯村の家のほうにも連絡しておいたよ」  井崎のほうも自然に早口になっていた。自分のほうでも道子の声を封じようとしている気配に気づいていた。ここで道子の決心が崩れるとすると、千慮の一失になってしまう。堤防に蟻《あり》の穴を開けてはいけない。しかし、湯村の家に泊るのと、井崎と二人で旅館の一室に寝るのとでは、女としては、まるっきり意味が違ってくるだろう。そのことだけは伝えなければならない。 「わかる? いいかい?」 「………」 「じゃ、切るよ」  道子の戸惑ったような笑い声が続いていて、井崎は急いで受話器を置いた。息がはずんでいた。  道子は、二日も三日も前から旅支度をすませてしまっているに違いない。最初の旅の前夜の不安に打ち勝つために、あらゆる手立てを考えつくしたに違いない。あるいは、逆に、何も考えずに、薬を服んで寝ることにしていたかもしれない。それを乱してはいけない。たとえば、ガンバレヨと言ってみたり、新幹線の話をしたりすることは逆効果になるおそれがある。  こういった極めて些細《ささい》なことでも、井崎と道子以外には誰にも理解できないだろう。林太郎にも湯村にもわからないだろう。電話の遣り取りだけを聞いていれば、誰でもが飯事《ままごと》の夫婦のように思うに違いない。夫婦のことは、しかし、余所《よそ》から眺めれば、どの夫婦だって滑稽なのだと井崎は思った。些細なことが大事件なのだ。そんなふうに、危っかしく支えられ保たれているのだと思った。  その日、井崎は、朝から大急ぎで荷物をまとめたり、貸テレビを売店へ返しに行ったりしていた。花を捨て、花瓶を洗い、処分すべきものは別にまとめた。湯村に借りたものは、湯村の持ってきた小机の上に揃えた。入院以来の勤勉が残っていた。回診に来た滝本が驚いていた。  それから、思いついて、見舞いの手紙をくれた人たちに礼状を書いた。それがすべて終ってしまっても、まだ十一時にもなっていなくて、井崎は、すっかり閑散としてしまった病室で横になっていたが、とても眠れそうになかった。  ともかくも、井崎には、ひとつの満足感があった。あと数時間で、道子がここに来るのである。それは確定している。道子にとって、生まれて初めてといっていいくらいの旅行である。そのことは、井崎にしても、信じ難いような出来事だった。井崎は、ある時期までは、そのことをすっかり諦めていた。井崎がそれをどうしても成しとげさせてやりたいと思うようになったのは、自分の生命の危機を自覚するようになってからのことだった。それは、道子にとっても井崎にとっても危険なことだった。井崎は危険を冒すつもりだった。強引にやってやろうと思った。乱暴な計画だった。何もかも打《ぶ》ち壊しになってしまうかもしれない。それだけに、計画は綿密でなければならない。  井崎の計画は、粗《あら》っぽく言うならば、道子をヤケクソ気分にすることだった。死んでもいいと思わせることだった。自暴自棄にすることだった。もっと正確に、もっと微妙に言うならば、自暴自棄の一歩手前まで追いこむことだった。井崎は、そう思いつめていた。これも他人には理解できぬ神経だと思われた。井崎のほうも追いつめられていた。そうでなければ、道子における自閉症のようなものが治癒することはあるまいと思いこむようになっていた。四十歳を過ぎた女が電車に乗れないという事実(病気)は、道子がそれを他人に説明することも出来ないだろうし、そういう妻と二十年間もともに暮している井崎の神経のありようを、井崎が他人に納得させることも不可能だろう。  井崎が、職業作家としての地位を保証する意味を持つといわれる文学賞を受けたときに、道子と二人で、それまでに世話になった人たちに挨拶に廻った。それは、金を借りたことのある人や、貧困のために不義理を続けてきた人や、井崎の小説を斡旋《あつせん》してくれた人や、まっさきに報告に行かねばならないといった人たちだった。そのなかには、賞金で借金の一部を返済するという用件もあった。父の入院費用のために借りた金だった。井崎と道子とは、どこでも歓待された。道子と二人だから、どこへ行くにも自動車に乗らなければならなかった。そのときの井崎は、そうしなければいられない気持になっていたし、当然そうすべきだと考えていた。  しかし、数日後に、そのことが知れ渡ってしまって、井崎は、先輩の作家と、目をかけてくれていたジャーナリストから面罵《めんば》された。得意そうに自動車で乗りつけたというのである。自動車で先輩の家を訪ねてはいけないというのは、いわば文壇常識である。出版社に勤めたことのある井崎はそのことを知っていた。しかし、非常の際は許されるのではないかというくらいに甘く考えていた。また、井崎は罵《ののし》った人たちを恨んだわけではない。どのときでも井崎は道子の病気には触れなかった。言ったってわかってもらえないと思っていた。そのことを道子に言ったこともなかった。井崎は、むしろ面罵した人たちに感謝したくらいであったが、心の傷は長く残ることになった。そういう類《たぐい》のことが重なっていた。その当時の道子は、一人で家にいることも出来なかった。  井崎の乱暴な計画が成就しようとしている。しかし、自暴自棄になったあとの道子の始末がどうなるかという不安がなかったわけではない。そのことは今は考えないことにしようと思っていた。  何年後かに、京都への最初の旅行は笑い話のようになるかもしれない。井崎はそうなることを願っていた。時間が経てばいい。歳月が過ぎればいい。そうなれば、井崎の危険な企みも自然に消化するに違いない。道子が井崎の真意を掴んでくれればいい。そうなるためにも、年月が必要なのであるが……。  井崎の計算によれば、道子たちは、三時を少し過ぎたときに病院に到着するはずだった。三時から五時までが面会時間であって、その日に退院できると思っていなかったので、切符の手配がそうなっていた。  井崎は、京都駅にタクシーを待つ人たちの列が出来ていたとしても、遅くても三時十五分には着くだろうと思っていた。井崎の予測は三時十分過ぎというあたりにあった。  廊下の時計は三時を過ぎていて、井崎はいくらか緊張するような感じで前庭に入ってくる自動車を眺めていた。  背後で、わっというような声があがった。叫んだのは秀子だった。  ふりむくと、湯村と道子と秀子がエレベーターの前に立っていた。 「どうしたの?」  と、道子が言った。 「ここから見ていたんだ。はいってくるのを見ようと思ってね」 「あら。あそこから入ってきたのよ」 「気がつかなかったな。屋根の下になっていたのかな」 「馬鹿ねえ」  道子は、体つきにも、動作にも、目のあたりにも勢《はず》んでいるような感じがあった。案じられたような消耗も憔悴《しようすい》もなかった。 「残念だったわねえ。劇的シーンを見ようと思っていたのに」  秀子は顔を皺《しわ》だらけにして笑って言った。道子も秀子も、井崎がベッドに寝ていると思っていたようだった。入院患者を迎えにくるのだから、そう思うのが当然だろう。秀子としては、道子がベッドに駈けよる場面を想像していたのだろう。 「ありがとう。大変だったろう」  井崎はそれを湯村に言った。 「なんともなかったですよ。奥さん、とても元気でね……」  湯村は、道子と秀子に気づかれないように項突《うなず》いてみせた。すると、注射も投薬もなかったことになる。道子は井崎と自動車に乗っていても、時に顔面や手足が硬直することがあった。そうしたことは無かったと察しられた。 「もう、なんでもありませんよ。平気ですよ。……どこへだって行かれますよ。神経なんですから」  それをあまり言い過ぎると、道子の病人としてのプライドを傷つけるような具合になる。井崎は、北側の奥にある病室にむかって歩きだした。 「へええ……」  秀子は、なんでもないことに感心する声音《こわね》で言って、笑ったりした。 「静かにしなくちゃ。……悪い人もいるんだから」 「いけない……」  道子は体が火照《ほて》っているようで、無言で歩いていた。 「湯村先生がずっと道子さんに話しかけてくれていましてね。……だって三時間でしょう。よくあんなに話の種があると思って」 「すまなかったなあ」 「そのほうが紛《まぎ》れると思いまして。それも医者の勤めですから」 「………」 「でも、すっかり用意してあったんですよ。注射でもなんでも」  湯村が鞄を示した。井崎は心底から感謝したい気持になっていた。 「いやあ、大変なことだったんだ」  それが実感だった。 「なんでもありませんでしたよ」 「あんまりなんでもないと言っちまうのもどうかな」  それまで大騒ぎしていたのが、まるっきりの嘘になってしまうのも、道子にとっても井崎にとっても困ることだった。井崎の前を、道子と秀子とが体を寄せあうようにして歩いているということは、井崎にとって奇蹟にちかい出来事のように思われていた。  夕食時間まで、井崎は旅館で眠ることにした。退院して急に疲れが出たように感ずるのも奇妙だった。井崎は、とにかく、病院のベッドでない、旅館の布団で眠りたかった。  道子と秀子は、湯村に連れられて町へ出た。高瀬川の縁を通り、八坂神社のあたりまで行ってきたようだった。道子は、すでに帯留や皿小鉢や和紙の類を買っていた。それはすべて土産物だった。  道子と秀子が二人で風呂に入った。町中の旅館では風呂場のスペースが狭く、廊下を通るときに二人の話し声が聞えた。大声で何かを話しあっていた。それは井崎にとって喜ばしいことだった。 「よかったな。湯村がいなければ、とてもこんなことにはならなかった」 「まあ、ひとつ」 「いいのかな」 「すこしぐらい、大丈夫ですよ」  湯村が井崎に酌をした。 「おめでとう」 「俺の退院のことか、それとも道子のこと?」 「どっちでもいいでしょう」 「感謝しているよ。ちょっと言葉では言えないくらいにね」  その気持に偽《いつわ》りは無かった。しかし、井崎は別のことを考えていた。道子は新幹線に乗り、京都まで来た。それはそれだけのことであって、道子が東京で自由に電車に乗れることを意味しているのではない。道子の病気が治ったのではない。それは、ひとつの段階であるに過ぎなかった。道子は、やはり何かを拒絶している。拒否している。道子のなかに蟠《わだかま》っているものがある。何かが道子のなかに蹲《うずくま》っている。蹲っているものが道子の病原体だった。楽しさを装っていても、道子は何かを退けていた。井崎にはそれがわかっていた。病院で最初に道子を見たとき井崎はすぐにそれを感じていた。  道子の退けているものは何だろうか。井崎は、大雑把《おおざつぱ》にいって、それは人間関係といったものだろうと考えていた。道子が電車に乗れないのは、自動車に乗るよりは、人間関係が濃いからである。電車のなかの人間関係は、すくなくとも、自動車のなかよりは種々雑多である。道子はそれに耐えられない。道子は女中を雇うことも頑強に否定し続けてきた。  道子は我慢している。井崎の同胞《きようだい》や親類との関係においてそれを我慢している。道子は発作が起るのがこわいのだ。そのために、道子は、かえって愛想のいい、ものわかりのいい女と言われるようになっている。そのぶんだけ、道子の生地が剥きだしのままで井崎にぶつかってくることになる。  道子は、末娘であるのに、自分の母をひきとって暮している。それは、母が他の同胞の家にいるときにどんな目に遭うかということを想像することにおいて我慢ができないからである。そういうことが井崎にわかってきていた。道子は神経的である。神経が尖っている。それで疲れてしまっていて、それが井崎をも疲れさせてしまっている。  道子は湯村に感謝している。そのことに間違いがない。しかし道子は普通の女のように、湯村にむかって心を開いているのでもなく、宥《ゆる》しているのでもない。井崎は、たとえば道子が湯村について話すときの唇の端の微妙な動きでそれと察することができる。湯村に限らず、道子は誰にも心を許すことがない。道子が心を許すとすれば、道子にとって「無関係なひと」ということになるだろう。道子の好きな言葉は「不言実行」である。好きな人間は、隠れた人であり、目立たない人だった。自分でもそれを心がけているようだった。それが道子の拠《よ》り所《どころ》だった。それは、東京の下町で育った女のひとつの型だった。  しかし、道子の心は少しずつ解き放たれようとしている。ひとつは林太郎のことであり、そのひとつは井崎のことだった。義母の体は、道子の表現によれば、一年ごとにではなく一月ごとに弱くなっていた。道子の願っていることも、井崎とはいくらか趣きの違った意味での安穏な生活だった。  井崎は、道子を見たときに、道子が京都まで来たことは、実績になるのではなく、思い出となって残ってくれればそれで充分だと思った。そのことに満足しなければいけないと思った。井崎の真意を理解させようとするのは虫のよすぎる話だと思った。  道子と秀子が風呂から出てきたときに滝本が到着して、夕食は賑やかになった。それが快気祝いのつもりだった。  滝本はすぐに自宅へ電話した。 「滝本先生は愛妻家ですから……」 「そうじゃないんです。こわいんです。恐妻家なんですよ」  内科の部長であれば、出先を明らかにする義務があるのだろう。滝本は何人かの死にかかった患者を抱えていた。  そのときの食事は、井崎に対する実験のような感じだった。病気というのは、患者が主役であって、医者は補佐役であるに過ぎない。患者に治そうとする意志がなければ病気は治らない。糖尿病の食餌療法は、カロリー計算ではなくて、患者がどういうものを、どれだけの分量で摂ればよいかを体で覚えることだというのが滝本の持論だった。湯村の場合は、もうすこしゆるやかで、そこに湯村の人生哲学といったものが加味されていた。  井崎は飛竜頭《ひりようず》を食べるときに注意を受けた。それは米と同じに換算されるということだった。 「芋みたいだから、つい油断するんですが、それが危いんです」  そんなことも笑いを誘発した。滝本は見ていないようでいて、井崎の箸《はし》の動きをちゃんと見ていた。 「よき友、くすし、ですか」  秀子は誰かが何かを言う度に笑いころげるようにした。  三人で、湯村と滝本を送るために表へ出た。そこはすぐに寺町通りの古道具屋街になっていて、井崎は、以前に湯村と二人で目をつけていた箪笥を買った。道子は時代物の箪笥を欲しがっていた。井崎は道子のために出来るだけのことをしてやりたいと思っていた。  旅館に帰ると、卓の上に色紙が置かれていた。それは内儀に頼まれていたものだった。  井崎は筆を取り、心と筆とが自然に合致して動くような具合で「満願」と書いた。 「これは、きみにあげるよ」  二十一日間の入院と満願という文字とが合わさってひとつのものであるように思われた。道子はそれを見ていた。 「本当に何もなかったのかね」  道子は疲れてくると頬が強張《こわば》ってきて、唇が突きだしてくるように見えるが、そういう気配はなかった。 「平気だったわ。……でもね、湯村先生が、薬も注射もしなかったというのは嘘なのよ」 「嘘?」 「うそじゃないんですけれどね、私、湯村先生にわからないようにして薬を服んだの。家を出るときと、それから東京駅の喫茶店で……」 「喫茶店で?」 「そうなの。家から東京駅まで自動車で行ったんですけれどね、一時間も早く着いちゃって」  井崎は、中央線でなく自動車に乗ったことを知って少し落胆した。 「それは大変だったんだな。いや、湯村のことだよ。湯村も慎重だったんだよ。気をつかって……」 「そうなの。それは八重洲口の地下の喫茶店へ行ったんですけれどね。湯村先生、とってもくわしいの。どっちが東京の人かわかりゃしない」 「秀子さんは?」 「秀子さんのほうが昂奮しちゃってね。とっても嬉しそう」 「ずいぶん、ほうぼうに借りができちゃったな」 「いいのよ、あのひと、好きなんだから」 「こっちはそうもいかないよ」 「………」  道子は、なにかもどかしそうにしていた。 「まあ、人の世話になるときは、あんまり考え過ぎないようにして世話になっちまうことだな」 「………」  道子は、そっぽをむいていた。 「えらかったね」  井崎が道子の体に触れた。それを待っていたように道子が顔をあげた。  井崎は他の言葉を思いつかなかった。いつもの癖で、えらいというのは、偉いなのか、豪いなのかを頭の隅で検討していた。  道子の体は火照《ほて》っていて、厚みがあるように感ぜられた。 「眼底は正常です。すこし遠視がありますね」  翌日もよく晴れていた。医務室で、滝本が井崎と道子に病状を説明していた。 「胸、レントゲン検査、異常なし。心電図、マスター負荷試験、陰性です」 「ほんとですか」  井崎は心電図では何回かの注意を受けていた。 「今回は陰性ですね。心配はないでしょう。腎臓異常なし。PSP、クレアチニン・クリアランス、九十八。これは正常です。GTT、グルコース・トレランス・テスト。典型的な糖尿パターンとは言えませんが、血糖は高いですね」 「どういうことですか」 「空腹時では、九十から百です。これなら正常ですがね、日によって百二十から百四十以上になったりするんです。それで薬を使うかどうか迷っていたんですが、まあ、いいでしょう。朝食後一時間で百八十三というのもありましたよ。ちょっと多いかな」 「………」 「問題はコレステロールですね。トリグリセライドが非常に高いですね。動脈硬化が起りやすいということです」 「………」 「とりあえず、アンジニンとアモトリールを服んでください。アンジニンというのは抗動脈硬化剤です。アモトリールというのは脱コレステロールです」 「そのほかには?」 「食事ですね。それは栄養士さんに聞いてください。婦長の説明があるはずです。まあ、ケーキとか甘いものを食べないことですね」 「それなら、わけない」 「蔗糖《しよとう》を摂らないことですね。……それで、もっと精密にカルテをつくってお送りします。それを持って近所の病院へ行ってください」  その日、井崎は三千院、寂光院、詩仙堂を廻り、高雄のドライブウェイを抜け、西芳寺へ寄って旅館に戻ってきた。井崎はそれを女学生コースと名づけていた。  道子よりも秀子のほうがへたばってしまった。秀子は案外に遊びに馴れていないようだった。  それで、予定を早めて、翌日の朝、東京へ帰った。     29  東京では、うんざりするほどの仕事が溜《たま》っていた。締切の迫っている小説や短文があり、そのための取材のこともあり、食品会社のほうでも井崎の帰るのを待っていた。そのあたりまでは、入院生活で身につけた勤勉が続いていて、それほど苦になるということもなかった。  それも一週間が限度だった。井崎は少しずつ、気づかないうちに旧の怠惰に戻っていて、そのことが一層、井崎の日常を忙しいものにしていた。同時に、ある種の空しさのようなものが井崎の心を占めていった。井崎が『金属』へ行ったのは、そのような日だった。  井崎が、カウンターの前のスツールに腰をおろしたときに、いつもと同じように暗がりから飛びだすようにして瑛子が隣に来ていた。  瑛子は白い顔で、体を固くしていた。甘酸っぱいようなクリームの匂いが漾《ただよ》っていた。井崎も瑛子も黙っていた。  気がついたときに、瑛子はすでに涙を流していて、小刻みに体を震わせていた。井崎のところから離れたい気持があって、体が動かないといった風情だった。 「おかえりなさい」  阿佐子が反対側に坐った。 「手紙、どうもありがとう」 「井崎さんは、灰皿はいらないのね。煙草もやめるんでしょう。お酒も駄目ね。オシボリだけでいいのね」 「女もいらないんだ」  井崎の前にはフレッシュ・ジュースが置かれていた。  そのへんで阿佐子は瑛子の様子に気づいたようで、そっと席を立った。 「出ようか?」 「………」 「出られるんだろう?」  六時半だった。  瑛子の化粧が崩れていた。瑛子に声をかけたときに、彼女は上半身をわずかに井崎に触れるようにした。 「そのほうがいいだろう。これじゃあ、しょうがない」  客はまだ一人も来ていないが、こんなふうでは瑛子は客の相手をすることが出来ない。  井崎は新しく出来たホテルのバーヘ行った。会員制が建て前になっている一室があり、そこはいつでも空いていた。  そこでも井崎はフレッシュ・ジュースをオーダーした。禁酒できるという自信はなかったが、退院の日を除いて、井崎はずっと酒を飲んでいない。 「きみは、なに?」 「ウイスキイ」  瑛子は、はじめて口を開いた。  ボーイが、ホワイトホースの一瓶と、銀のバケツにいれた氷とを持ってきた。瑛子はウイスキイをタンブラーに半分ほど注《つ》ぎ、天井を向いて、それを二口で飲みほした。井崎も、ずっと黙っていた。  それが売りものだというハイファイ音が静かに鳴っていたが、井崎には喧伝《けんでん》されているような良い音色だとは思えなかった。  顔見知りのジャーナリストが外国人と二人で入ってきて奥の席に着いた。目が合ったので井崎は立ちあがって頭をさげた。ジャーナリストも立っていて、挨拶に来たいような素ぶりを示したが、女連れであることを知って腰をおろした。ずっと後になって、彼はそのときのことについて、井崎さんと私とは美意識が一緒ですねと言った。すると彼は『金属』の瑛子を知っていて狙《ねら》っていたことになる。彼がそう言ったのは、そのときのただならぬ気配を察したためだろう。  瑛子は、ウイスキイを、また同じくらい注いだ。瑛子は泣いていた。顔が一段と蒼くなっていた。それが瑛子の常套《じようとう》手段であることを井崎は知っていた。瑛子は言葉の巧みな女ではない。 「わたしだって、いいときだって、あったじゃない?」  それを、瑛子は、早口で、激しく、床に叩きつけるようにして言った。  瑛子の言っているのは、あきらかに、甲府の山中の温泉宿へ行ったときのことだった。  そうして瑛子は開き直っているのである。悪女であることを井崎に告げているのである。瑛子には、そうするほかに、いまは手立てがない。同時に、そのことは、ある時期において、井崎に対する気持が本心からのものであったことを告げていることになる。  瑛子は身を捩《よじ》るようにして、またウイスキイを呷《あお》った。濡れている目だけがぎらぎらと光っていた。 「俺は怒ってなんかいないよ」 「そんな見えすいた嘘を吐くもんじゃありません」 「ほんとだよ」  井崎は真実を言っていた。俺はきみに感謝しているんだよと心のなかで言った。そんなことを言ってしまえば、瑛子はいっそう荒れ狂うことになるだろうと思った。しかし、道子のために瑛子を利用したのだといったようなことは、瑛子に理解できるはずがない。その点は安心だった。 「俺はきみの営業方針に介入するつもりはない。むしろ、応援してやりたいくらいの気持でいるんだ。京都へ行くまで、きみの営業方針がわからなかっただけの話だ。こんどはわかったから、いくらでも応援してやるよ。そんな野暮《やぼ》な客ではないつもりなんだ」 「………」 「たとえば、いい客を紹介するとか……」  それは自分でも少し嘘臭いと思った。何を言っても瑛子を傷つけることになるし、厭味になってしまう。 「ひどいことを言うのね」 「いや、きみが店を開きたいと言っていたのが本気だったということがわかったんだ。そういうことなんだ」 「………」 「ただし、もっとうまくやりなさいよ。商売なんだから。……もっとお悧口《りこう》に」  どう言ったところで、瑛子を娼婦だときめつけることになる。  瑛子は、井崎から手切金を取ろうと思えば、そういう方法もなかったわけではないと思う。また、それまでも、瑛子のほうで金や品物を強請《ゆす》ったことはなかった。そう思うと、目の前の女が哀れになる。 「だったら、どうしてすぐに来てくださらなかったの?」 「お店にか」 「………」 「いそがしかったんだ」 「うそ!」 「………」 「そんなの嘘よ。お仕事が忙しいほうがお店には来られるはずよ」  それも一面の真理だった。戦場から帰ってきた男が酒と女をもとめるように、井崎たちの世界では、流行作家といわれる人たちのほうが酒場通いが激しくなる。それは収入とは関係のないことだった。六、七年前に、井崎が『金属』の常連と見られていた時期がそうだった。この一年とは意味が違う。その頃の井崎は、よく酒を飲み、喧嘩したりしていた。 「実を言うとね、あんまり優しくされても困るんだ。……困ることになるからね」 「………」 「まあ、五分五分だということにしようじゃないか。気にしないで忘れちまうことだな。きみは営業に励んだらいいじゃないか。わたくしも一所懸命にやりますから」  そのあたりが本音だった。そのくらいのところまでは言ってもいいことだった。井崎は瑛子が小さな店を開き、そこへ祝儀を持って行く場面を空想した。それがもっとものぞましいことだった。自分のためにも、道子のためにも。 「ああ、そうだ。京都で二百円借りたね」 「………」 「扇子屋でだよ」  井崎は百円玉を二枚、瑛子のタンブラーの脇に置いた。 「どうもつまらないことが気になるんでね。悪く取らないでくれよ」  井崎は、その日かぎりで『金属』へ行かないつもりにしていた。そうと固く心に決めてしまったのではなくて、ふらっと寄ることがあってもいいし、会合の流れで多勢で出掛けることもあるだろうと思っていた。『金属』を贔屓《ひいき》にしている作家やジャーナリストは、まだまだ残っていた。井崎もその一人だった。女よりも店につく客である。井崎は出来れば酒をやめたいと思っていた。井崎における瑛子の役割は、もう済んでしまっていた。  その日に井崎が『金属』へ寄ったのは、瑛子よりも阿佐子のためだった。阿佐子からは見舞いの手紙を貰っていた。井崎は、サービス業の人から好意を示されたときは、それが商売だとはわかっていても、挨拶に行っていた。それが性分だった。あとになって考えると、そんなこともしないほうがよかったということになる。怒りっぱなしでいると思わせたほうがよかったかもしれない。  井崎と瑛子が『金属』へ戻ったときは、まだ八時になっていなくて、客はいなかったが、友絵も春代も出勤していた。彼女達が井崎に土産物の礼を言った。井崎はそれを瑛子に托《たく》していた。  井崎が『金属』を出るときに、瑛子の姿は見えなかった。化粧を直しているのだろうと思った。  井崎は新宿駅まで歩いていった。井崎は生活を建てなおそうとしていた。酒場通いが悪いというのではなくて、中年男に似合った暮しをしたいと思った。以前のようなことは健康のためにも許されない。井崎はもう若くない。そういうことも予定の行動だった。それを中為切《なかじきり》にしようとしていた。  井崎は、その年は『金属』へ行くことがなかった。     30  その年の暮ちかくなって、クリスマスも過ぎたときに瑛子から電話が掛ってきた。道子は買物に出ていて留守だった。自宅に電話があったのは初めてのことだった。 「須藤です」  瑛子は本名を切口上で言った。それは警戒心のためだった。  須藤ですと言ったきり、しばらくは黙っていた。公衆電話のようで、自動車の警笛が聞えたりする。午後三時頃だった。 「私、泣いているのよ」  それを跡切《とぎ》れ跡切れに言った。 「どうして、お店に来てくれないの」 「別にどうっていうこともないけれど」 「………」 「酒も飲めないのに行ったってしょうがないじゃないか」  また黙ってしまった。嗚咽《おえつ》が聞かれた。 「だって、淋しいじゃない?」  辛うじて、そう言った。女の理窟だなと思った。井崎が『金属』と瑛子を見限る理由はいくらでもあった。  だって、淋しいじゃない? それは余りにも一方的な言い方だった。瑛子には堀越も水野も、その他にも多勢の男がいるはずだった。  にもかかわらず、瑛子の言葉には妙な迫力があった。だって淋しいじゃない? 瑛子は、会いたいとも好きだとも言っているのではなかった。その限りにおいて巧妙であるともいえた。 「私、安江|姐《ねえ》さんにわかっちまったらお店をやめなければいけないのよ」  それは井崎の思いつかないことだった。むろん、瑛子と井崎が喋《しやべ》るのでなければ、瑛子が酷《ひど》い仕打ちでもって古くからの客を退けてしまったことが知れるはずがない。それも女の理窟だった。  しかし、それは井崎の弱点を突いていた。瑛子は井崎をよく知っているとも言えた。どんなことがあっても瑛子の職業を奪うようなことがあってはならない。井崎がそんなふうに考える男であることを瑛子は承知していた。瑛子は、自分の酷い仕打ちを逆手にとっているのだった。 「わかるわけがないじゃないか」 「だって、先生、いらっしゃらないんですもの」  瑛子は、井崎が自分と特別の関係にある男であるということを皆にわからせてしまうような態度を示してきていた。その井崎が来なくなってしまうのは瑛子にとって具合の悪いことであるに違いない。話題になりかけているのだろう。  井崎はこんなふうに考える。  瑛子は水野の女であった。水野が阿佐子に手をだしたために、気位の高い瑛子は怒って水野と別れる。そのままでは治まらないような気持になっている。そうでなくてさえ、瑛子は店のなかで孤立している。そこへ現れたのが井崎だった。井崎は、マダムの安江と親しい仲であるし、開店以来の客である。瑛子は井崎のような男を求めていた状態だった。一方の井崎のほうでも瑛子のような女を探しているときだった。その井崎が、ぱったりと店に来なくなる。それは瑛子にとって極めて都合のわるいことだった。井崎は、水野が瑛子と別れたのは、彼が阿佐子と関係したことだけが原因であるのではなくて、何か瑛子のほうにも不都合があったのではないかという疑いを抱いている。京都でのことや、瑛子の性格を考えれば、その推理は適中しているはずだと思う。そうだとすると、瑛子はいよいよ困った立場に置かれていることになる。瑛子が店のなかで孤立しているのは、井崎が瑛子を知る以前に何かの事件があったのではあるまいか。 「ねえ、聞いているの?」 「聞いているよ」 「だったら、何か言ってくださいな」 「………」 「私、このままだと、お店をやめなければいけないの」 「そんなことはないだろう」 「だってね、先生はお店にとって大事なお客さんなんですもの」 「………」 「安江姐さんね、いまでも、先生のこと、好きなのよ。私にいろんなことを訊《き》くのよ。……どうしていらっしゃらなくなったかって」 「わかった。……いくよ」  井崎は何かめんどうになってきた。それに、井崎としても、瑛子にどんな不都合があったとしても、瑛子の利用価値が無くなっていたとしても、凧《たこ》の糸が切れるような別れ方をするつもりはなかった。それが、遊びのルールだと思っていた。まして、瑛子が著しく不利な立場に置かれているとするならば。 「おねがいします」 「今年は、もう無理だな。年があけてから行くよ」 「すみません」  馬鹿に神妙だった。  一月の十日を過ぎてから『金属』に寄った。それは文字通りに「寄った」というに過ぎなかった。井崎の気持は醒《さ》めていた。わずかに瑛子に対する憎しみだけが残っていた。 「ありがとう」  瑛子は井崎の隣に坐って言った。その言葉の意味を知っているのは、井崎と瑛子の二人だけだった。瑛子は、もはや体を寄せてくることもなかった。他人行儀という感じだった。井崎は酒を飲まないのだから、瑛子としては取りつく島もなかったろう。瑛子は所在なさそうにしていた。  瑛子は元気がなかった。体の不調を訴えた。胃が痛むという。その日は瑛子も酒を飲まなかった。 「きみも酒をやめたほうがいいよ」 「………」 「酒を飲むと、ふとるからね」  井崎には瑛子の体つきや頬のあたりがふっくらとしてきたように思われた。鶺鴒《せきれい》のような軽快で鋭い感じが失われてきていた。 「そんなこと言ったって……」 「それもそうだな。こういうところへ勤めていて酒をやめるのは無理かもしれない」 「わたし、ふとったかしら」  瑛子が頬を両掌《りようて》でおさえた。陰性な女が、いっそう陰気になっていた。  井崎は持っているだけの金を瑛子に渡して、三十分ぐらいで『金属』を出た。それは、以前のようにそこで飲み続けていれば、それくらいは費《つか》ってしまうだろうと思われる程度の金額だった。瑛子は、やはり、ありがとうと言って、胸から手を突っこんで、その金を仕舞った。  あるときの瑛子が、こんなことを言った。 「今日、叔母が上京してきましてね、二人の子供に東京見物をさせてやったの。泉岳寺《せんがくじ》と東京タワーと皇居前広場ですけれどね。それからデパートの屋上へ行ったの。それで疲れちゃったわ」  瑛子は東京の山の手に育った娘らしい言葉づかいをする。ホステスとしては珍しいほうの女である。 「おかげで、東京タワーに初めて登りましたけれどね……。私って、いつでもこういう損な用事をいいつけられるの」 「男の子?」 「二人とも男の子なの。それでね、帰りましょうって言ったら、僕、ゴーゴー喫茶のほうがよかったですって。この頃の中学生なんて、どういうんでしょうね。憎らしいったらありゃしないわ」  これは、もはや、酒場における男と女の会話ではなかった。瑛子は別の意味で、井崎に心を許しているともいえる。井崎にとって、瑛子は、正体を知られてしまった女だった。井崎と瑛子との関係は、仲間割れしてしまった詐欺師に似ていた。井崎は瑛子という女にも、瑛子の体にも興味を失っていた。井崎と瑛子とは他人である。  瑛子は、井崎の席にまるで寄りつかず、挨拶もしない日があった。井崎は、これで俺の役目もすんだかと思い、一週間も遠ざかると、すぐに電話が掛ってくる。井崎が接近すると離れ、離れると瑛子のほうで近づいてくるという状態が続いた。  また、食品会社にいるときに、近所の喫茶店にいるから出てきてくれないかという電話があったりする。そういうときの瑛子は、いかにも急《せ》きこんだような語調になっている。交換手も、いつのまにか瑛子の声を聞き覚えてしまって、瑛子からの電話だと、おつなぎしましょうかと断るようになった。何かの気配が察しられるのだろう。井崎も三度に一度は居留守をつかった。  デパートの二階の特選売場に来てくれないかということもあった。瑛子は二十分も遅れてやってくる。そのデパートで買物をしたという様子もなかった。何か相談をもちかけたいという素振りがあるのだけれど、瑛子のほうでは何も言いださなかった。そのまま無言で『金属』まで歩いていったりするようなことになる。井崎がうすうす感づいているのは、二人の間を復活させたいということで、それを井崎のほうで言いだしてほしいと願っているらしいということだった。あるいは、このままで井崎が瑛子に興味を失ってしまうのでは、瑛子の矜恃《きようじ》が許さないということであるらしかった。瑛子の経歴と実績からして、そうなるのだろう。水野と瑛子とがどうなっているのかわからないが、水野が瑛子を抱きよせようとして撥《は》ねつけられるという場面を井崎は何度も見ていた。その手には乗らないぞと井崎は思った。  瑛子は、しかし、機嫌のいい日もあった。 「私、自動車の運転を習っているの」  体をはずませるようにして言った。自動車で酒場へ通勤する女給がふえてきた頃だった。 「教習所は混んでいるんだろう」 「ですからね、朝七時に家を出るのよ」 「それじゃあ寝る時間がないじゃないか」 「平気よ。私、若いんだから」 「きみは運転は無理だと思うな」 「そんなことはないわ。友絵にも阿佐子にも出来るんですもの。……私に出来ないはずがない」  それは違うと思ったが黙っていた。友絵や阿佐子と瑛子とではどこかが違う。  瑛子は教習所の単位について話した。井崎には知識がないが、半分ぐらいの教程が終っているようだった。瑛子は楽しそうにしていた。 「酒をやめるのにはいいかもしれない」 「そんなんじゃないわよ」 「………」 「先生、私の自動車に乗ってくださる?」 「ああ、乗ってあげるよ」  まっぴらごめんだと思ったが、井崎はそう答えた。事故性格というものがあるとすれば、瑛子などはその典型だろうと思われた。すこし頭がきれて、癇《かん》の強い女が事故を起すと思っていた。  井崎は、なぜか、高速道路を二百キロに近いスピードで突っ走っている場面を空想した。そのときは、瑛子と二人で、ガードレールを乗りこえて即死してしまうのも悪くないような気がしていた。 「私、先生に最初に乗っていただきたいの」 「どうして?」 「どうしても……」 「自動車はどうするのかね」 「もう買ってあるの」 「なに?」  瑛子はフランス製のスポーツ・カーの名をあげた。井崎はその自動車をTVCFで使ったことがあり、新車なら二百万円以下では買えないことを知っていた。こういうことが瑛子についての不可解なのであるが、それを追及するのを避けたい気持になっていた。 「私、運動靴を買ったのよ」  その運動靴に意味をこめて言った。 「なんだって運動靴がいるのかね」 「七時半からの日と、午後三時からの日と両方あるんですけれどね、バスの時間がわるいのよ」 「教習所?」 「そうなの。ですからね、往きは歩いて行くのよ」  瑛子の住むあたりは、駅の附近を逸《はず》れると、すぐに交通が不便になる。 「それは大変だ」 「ですから、運動靴のほうがいいでしょう。遅れそうになると駈けてゆくの」  瑛子が甲府の山中の温泉宿に訪ねてきたときに、二人で運動靴を買いに町へ出た。瑛子はそのときのことを言っているのである。井崎にそれを思いださせようとしている。そのことがわかっていた。  たちまちにして、井崎の目の前に、白い、埃《ほこり》っぽい、石の多い山道が浮かびあがってくる。そのときも井崎は、その手には乗らないぞと思った。なかなかに手強《てごわ》い女だとも思った。  井崎は少しずつ酒を飲むようになっていた。それは井崎の意志が薄弱なためであるが、そのことを別にすると、いくらか滑稽なことでもあるが、経済的な意味もあった。 『金属』のような高級酒場では、ウイスキイよりもジュースを飲むほうが勘定が高くなる。濃縮ジュースを使ったりしないから、オレンジ二箇分のほうがウイスキイよりも原価が高くなる。そうでなくても、フレッシュ・ジュース一杯で帰られたのでは儲《もう》けにはならない。また『金属』で井崎が食べられるものは生野菜か果実ということになる。それは、銀座の一流の料理屋で夕食を摂るのと同じ値段になってしまう。そうしなければ店が成り立たないという内情も井崎にはわかっていた。  結局、酒場では、ウイスキイの水割りをオーダーするのがもっとも安あがりなのである。井崎は本来はストレート党なのであるが、水割りに変えてしまっていた。しかし、その水割りも三杯を超えることはなかった。井崎はまだ要心していた。  井崎はウイスキイを飲むようになってからでも、残った金の大部分を瑛子に与えていた。  どうしてそういう気持になったかということが自分でもよくわからないのだけれど、その金額の総計が、瑛子が京都で堀越に借りようとした額に達するまでは続けようと思っていた。瑛子が借りようとしたのは百万円であるという。百万円になるまでには五年ぐらいはかかってしまう。井崎は決意していた。自分の気持がわからない。贖罪《しよくざい》にちかい気持ではないかと思う。井崎は負い目を背負っていると思っていた。  一方では、それとは全く逆の気持があった。少額ではあっても、俺が瑛子に渡す金は、水野や堀越のような汚れた金ではないぞという心持があった。そうして、それが百万円に達したとき、瑛子を呼びだして横っ面を張り倒してやろうと思っていた。そのへんの感じも、自分でも説明がつかないのである。  瑛子に金を渡すとしても、井崎にとって、それが精一杯のことだった。しかし、これは瑛子の体を買った代金ではないぞと思っていた。俺はもっと別の何物かを買っているんだぞと思っていた。水野や堀越は、今日すぐにでも瑛子を救うことができるが、俺にはそれができないという思いが井崎を物悲しくさせていた。しかし、俺の買っている何物かが何であるか、瑛子を救うとはどういうことかということになると、井崎はわけがわからなくなってくる。  うっかりして小銭も無くなってしまって、別の酒場のマスターから金を借りたこともあった。それをポケットに握りしめて新宿駅まで歩いてゆくときに、井崎は、やはり物悲しい気分になっていた。  二月の半ばになって、井崎は、瑛子が勾玉《まがたま》の頸飾りをしていることに気づいた。その勾玉も、翡翠《ひすい》であって、本物の出土品であるらしく、前年の九月に、井崎が瑛子にあたえ、瑛子が京都で紛失してしまったものと比較すると、ずっと大ぶりで高価であるように思われた。井崎の翡翠をかりに十万円とすると、こんどのものは、その色艶と光沢と大きさから三十万円以上ではあるまいかと思われた。そうなると井崎にはもう値段の見当がつかなくて、それは五十万円以上、百万円以上であるかもしれないと思う。  瑛子は以前と同じように、たえずその勾玉に触れていた。瑛子は何も言わなかったけれど、勾玉に掌で触れたり、鎖をつまんで胸の前でそれを揺すったりすることで、井崎にそれをわからせようとしていた。  井崎には瑛子の意図がはっきりとわかる。  瑛子は、そうすることによって、自分に新しい男が出来たことを井崎に知らせようとしているのだった。  それは水野でもなく堀越でもなく、瑛子が酔って口走った他の男たちでもない。井崎には、なにかそれが容易ならぬ男であるような感じがした。  指輪や、真珠のチョーカーや、衣類や、あるいはそれが自動車であっても、または高級マンションの権利金であっても、それを女に与えようとする男がいる。それがいかに馬鹿馬鹿しく高価であっても、そういう男なら、井崎にも、だいたいの見当がつくのである。しかし、それが勾玉であるというときに、井崎はわからなくなってくる。井崎は恐怖心にちかい感情を抱いた。それは自分に似ている男がいるのかもしれないという恐怖でもあった。  勾玉に鎖を通して頸飾りにするというのは井崎の思いつきである。だから、それを男に強請《ねだ》ったのは瑛子であることは間違いがない。しかし、その考えに即座に乗ってくるというのは、いったい、どんな男なのだろうか。土地成金でも新興会社の社長でもないだろう。もしかしたら、古美術に堪能な男であるかもしれない。ひょっとしたら重要文化財に指定されるようなものであるかもしれない勾玉をすぐに探しだしてくる男というのが井崎の頭に浮かんでこないのである。  由緒ある会社の社長であるかもしれない。いや、そんなことはない。美術館に寄贈しても喜ばれるような勾玉を酒場の女給に与えてしまうのは分別のある男のすることではない。その男は、悪辣《あくらつ》な男であり、成らず者であるかもしれない。  いずれにしても、その男が瑛子にひどく執着していることも間違いがない。瑛子が井崎に貰った勾玉に執着していたことも間違いがない。それは井崎に対する執着でもあった。  あるとき、井崎がカウンターで飲んでいると、瑛子が隣に坐って、体を前に乗りだして、勾玉をつまみ、幼児がオハジキを投げだすようにして、それを放った。勾玉はホワイト・オークのカウンターの上で、ずっしりとした音を立てた。  それは、ポーカーで、ロイヤル・ストレート・フラッシュの手札をさらけだしたような手付きだった。あるいは、エースのフォーア・カードだった。  瑛子は、拇指と人差指で、勾玉の両面を撫で、ゆっくりと首を廻して、濡れて光る目で井崎を見た。  それは井崎に対する宣告であり、挑戦だった。自分の体には、これだけの価値があるのだということを示そうとするかのようであった。  井崎は黙って前を見ていた。なんという厭味な女かと思っていた。井崎が瑛子に与えた勾玉は死んだ母の形見だった。井崎は、俺の勾玉を蔑《ないがし》ろにすることは許すが、俺の母を軽蔑することは許さないぞと思うことにした。高価なものを粗末に扱うことは許してやるが、おそらく古代の墓から掘りだされた勾玉を乱暴に扱うことは許さないぞ。——井崎は自分の額に皺《しわ》が寄り不機嫌になってゆくのを悟っていた。  瑛子の顔は、たちまち、虚《うつ》ろな表情に変った。虚けた目になった。瑛子は、そういう顔付きになることがよくあった。 「あああ……」  井崎が反応を示さないのを知って、瑛子は、嗄《しわが》れた声で溜息《ためいき》をついた。  その頃から、瑛子の服装が変っていった。瑛子は、アイビー・ルックやミリタリイ・ルックといったものを好んでいた。それが、いくらかドレッシイなものに変っていった。仕立ても手がこんでいて、布地も上等になってきたと思われた。井崎には名のあるデザイナーの製品であるように思われた。  瑛子が井崎に勾玉の頸飾りを示した日の翌週の一日が『金属』の開店記念日になっていた。多分、十五周年だろうと思われた。女たちは全員がシースルーの服を着ていて、下着が見えていた。瑛子は桃色のパンティーを穿《は》いていた。  その日は混雑していてカウンターに坐ることができなくて、井崎の隣に春代が坐っていた。春代は泣いていた。春代の下穿《したばき》に手を突っこもうとした客がいたというのである。『金属』の客もすっかり変ってしまったなと井崎は思った。耳もとでクラッカーが鳴り、ピアノ弾きはマイクの音量を高くしていた。そのときも井崎は物悲しい気分でいた。 「ねえ、瀬上順二郎はどうかしら」  鉢植えの蘭で仕切られた別の客の席についている瑛子が、腰を浮かせて井崎に囁いた。その声にはぞっとするような響きがあった。  瀬上は新進の作家で、半年前から、ふたつの作品がベストセラーの上位を占めていた。瑛子の言葉の意味は、瀬上を井崎と置き換えてみたらということである。 「それは、いいかもしれない」  井崎も共犯者の気持で答えた。瀬上は各社の編集長に連れられて『金属』に顔をだすようになっていた。その日は、瀬上順二郎が一人でカウンターで飲んでいるのがわかった。 「あいつは金があるし、それに独身だ」 「………」  井崎には、しかし、瀬上が瑛子にひっかかるとは思われなかった。 「独身というのは、かえってやりにくいかね」 「この頃、よく一人でいらっしゃるのよ」  瀬上は悧口だし、処世にも長《た》けていると思われた。瑛子は、何気ない感じで瀬上に近づいていって、少し経って井崎が気づいたときには、二人は顔を寄せて話しこんでいた。  また、別のある日に、井崎は『金属』で般若《はんにや》を見た。井崎は声をあげそうになった。  般若は井崎をじっと見ていた。  井崎は、カウンターで、ウイスキイの水割りをゆっくりと飲んでいた。いちばん奥の席に瑛子がいた。折れ曲っているカウンターの関係で、そこからは十二、三メートルは離れているけれど、井崎と瑛子とは向いあう位置にいた。  般若は井崎を見ていた。井崎は目を逸《そ》らせ、また目をあげると、やはり、般若はこちらを見ていた。  瑛子は口の小さい女である。その唇の両端が、耳にむかって裂けているように見えた。美しい女は般若に見えることがあるという。しかし、そのときの瑛子の顔を井崎は醜いと思った。  瑛子は無口であり、女給としてはサービスの悪いほうの女である。他の客の席にいて、井崎のほうを見続けているというのは無礼ではあるまいか。井崎は、むしろその客に同情したい気持になっていた。  そのときの瑛子は虚ろな表情ではなくて、井崎を睨《にら》みつけているように思われた。もしかしたら、その席の客の一人が、瑛子に勾玉を買ってやった男であるかもしれないと思った。  しかし、井崎は瑛子と顔をあわせようとする気持はなくて、いつものように、すぐに席を立って帰った。     31 「ブンユウミョウオウドウニョ・カイユウミョウシュウドウジ……」  道子がそれを口のなかで呟いていた。井崎には、それが何のことかわからなかった。道子における呪《まじな》いかとも思っていた。道子は、時には、それをはっきりと口に出して言う。洋風の居間にぺたんと腰をおろし、遠くの空を見ていたりする。井崎が近づくと、禁厭《きんえん》するものを拒《しりぞ》ける経文を唱えるようにして、それを言ったりすることがある。その頃になって、井崎にも大体の見当がつくようになった。 「パパがいけないんだからね。パパが堕胎《おろ》せって言ったから堕胎したんだからね」  そのときの道子の顔は引き攣《つ》っていた。  道子が不機嫌になる日は、京都から帰ってくる以前よりも多くなっていた。それが井崎にとって不可解だった。井崎が、およそ一年間にわたって拵《こしら》えあげた計画には何程の意味もなかったことを知らされたようなものである。それが井崎を憂鬱にさせていた。何をやっても駄目なのかと思った。  井崎は、道子が新幹線に乗って、それも井崎と二人ではなく他人と一緒に京都まで行くことが出来たのだから、その後は電車に乗れるようになるだろうと思っていた。一人で電車に乗れるようになるとまでは思っていなかったが、井崎と二人ならば、それが可能になっているはずだと考えていた。しかし、二人で銀座へ暮の買物に出て、電車で帰ろうとすると、道子は体を震わせるようにして拒否した。それが自動車を拾いにくい時刻であっても変りがなかった。  井崎も、疲れているときは、銀座から新宿まで自動車に乗ることがある。道路の混雑する時刻では、運転手に断られることがあった。運転手は、地下鉄に乗れば二十分もかからないし、自動車だと一時間以上もかかってしまうかもしれないと言う。運転手の言いぶんは、もっともだと思われた。  銀座からならば、地下鉄で荻窪《おぎくぼ》へ出て、そこで中央線に乗り換えればいいのだし、東京駅からは一直線だった。井崎のアパートは、東京の中心地からは遠いのだけれど、その点では便利なところにあった。  何度も運転手に断られて、適当な時刻になるまで銀座の喫茶店で所在なく時を過すこともあった。家に帰って急ぎの仕事を済ませたいと思っているときには井崎は焦《い》らだっていた。運転手の言いぶんに利があるということが、井崎を一層焦らだたせた。運転手は不審そうな顔をした。そうかといって、道子の病気を説明するというわけにもいかない。また、深夜でもないのに、法外なチップを渡すということも、井崎の抱いている市民道徳といったものが許さない。運転手が拒否するのは、井崎のアパートのあるあたりまで行ってしまうと帰りの仕事がなくなるという意味もあった。それも無理のない理由だった。道路の混雑する時刻は、運転手の書き入れのときでもあった。 「近距離のほうがいいんですよ。そうでなかったら世田谷方面なら行きますがね」  そんなことを言う運転手もいた。地下鉄や私鉄を何度か乗り換える地域なら自動車に乗る意味があるけれど、国鉄で一直線の所へ行くのに、どうして自動車を利用するのかと言うのだった。その運転手は実直な下町育ちの男の顔をしていた。  井崎は、道子と二人で大荷物を持っているときなどは、むしろ気が楽だった。そういう時は、田舎から出てきて道がわからないといった素振りをする。また、家にパーティーがあって、アイスクリームを買ったのだけれど、それが融けかかっていて、ラッシュ・アワーの電車では乗客に迷惑をかけるからと言ったこともあった。馬鹿馬鹿しいような嘘を考えている自分が忌々《いまいま》しく思われることもあった。  井崎は酒を飲まないようになっていた。たまに飲むことがあっても、ウイスキイの水割りの三杯ぐらいは、以前の井崎からするならば酒のうちにはいらなかった。帰宅も午後十時を過ぎることはなかった。会合や座談会のあった日でも、七時か八時には家に帰っていた。  井崎には道子の不機嫌が理解できなかった。井崎は、手の尽くしようがないと思った。井崎が漠然《ばくぜん》と考えていた新しい生活といったものは、あらわれてこなかった。 「ブンユウミョウオウドウニョ・カイユウミョウシュウドウジ……」  道子がぶつぶつと口のなかでそれを言う日が続いていた。それを言ったあとで、前掛で顔を拭《ぬぐ》ったりする。井崎は、そういうときの道子に声をかけたりはしない。放っておいたほうがいいという考えもあるし、腹だたしいときもあった。子供を堕胎すということは、一方的に妻だけにとっての事件ではないはずだった。  アパートの居間の隅に小さい仏壇がある。井崎は、あるとき、そこに紙片《かみきれ》が置いてあることに気づいた。  文遊妙桜童女、昭和二十六年六月寂。  海遊妙周童子、昭和二十七年三月寂。  その紙片には、そのように二行の細い文字がペン字で書かれていた。  堕胎した子供に道子が戒名《かいみよう》をつけていたことがわかった。  それはノートの端ででもあったようで、周囲が傷《いた》んでいて、インクの滲《にじ》んでいる箇所もある。全体に変色していて、長い時間の経過を示していた。おそらく、道子はそれを財布のなかにでも挾んで持ち歩いていたのだろう。  二十五年に林太郎が生まれたとき、女ならば桜という名にするつもりでいた。だから道子は、長女は桜にきめていたのだろう。次男が生まれたら周二にしたいと話しあったことがある。  堕胎した子供の性別を知らされたということはない。道子は勝手に、最初のときが女で、次が男の子ときめてしまっているのである。  二十六年の六月のときに、道子は麻酔のショックで発作を起した。翌年の三月のときは、道子は痩《や》せおとろえていて、自分でも子供を生む気力を失っていた。むろん、医者をかえた。そのときは老人に近い女医を頼み、別の麻酔薬をつかってもらった。道子は最初の医者を永く恨んでいた。二度の堕胎は経済的な理由からだった。子供がいてはアパートを借りられない、暮してゆかれないということもあったけれど、井崎は、そのときは自分の前途に自信が持てなかったし、そういう時代でもあった。井崎の同年齢の友人は、晩婚の者を除いては、例外なく子供は一人である。その頃は、団地アパートもなく、社宅も無かった。それが、三十歳を過ぎてから結婚した友人のほうが子供が多いという奇現象となってあらわれている。  道子がつけた戒名に妙という字が使われているのは経文からきているのであるが、堕胎した子や稚子《みずご》の戒名に遊の字を使う慣《なら》わしがあるのかどうかということを井崎は知らない。  しかし、井崎は、遊という文字に優しさを感じた。それは道子の優しさであり、道子の願いであるに違いなかった。それが道子の祈りだった。遊という文字に接したときに、井崎の胸がかすかに傷んだ。  最初の子供の戒名を文遊としたところにも道子の願いがこめられていた。それは子供に対する願いではなく、井崎に対する願いだった。そのことが井崎にわかっていた。  文遊というのは、学者や小説家になってほしいということではなかった。夫婦で音楽会へ行ったり芝居を観に行ったり静かに読書したりする生活のことだった。道子はそれを願っていた。明るい静かな生活だった。小説家になったとしてもいい。しかし、井崎の日常は、道子の夢想した生活とは懸け離れていた。井崎は、いつのときでも、息せききって駈けだしているように暮していた。道子の考えていたことは、そういうものではなかった。道子からするならば、井崎の考え方や日常には、あざといようなところがあるように見えるに違いない。井崎の仕事には何かの意味で協力者が必要になる。道子から見ると、井崎は協力者を利用するだけ利用して棄ててしまうように思われてくる。また、井崎は、仕事のために、道子の嫌悪するような人物に接近してゆく。道子にはそれが耐えられない。罪深い仕事であるように思われてくる。サラリーマンであったときとは、そこが違ってきている。実際は同じことであっても、家が仕事場であり事務所になってしまうと、何もかも道子に見えてきてしまう。 「私は、パパに小説家になってほしいなんて一度も考えたことはないんだからね。私の考えていたことはそんなんじゃないんだ。サラリーマンのときのほうが、ずっとよかったんだ」  井崎は、道子の願っているものも、井崎とは違った意味での安穏な生活であると思わないわけにはいかない。  海遊という文字にも井崎は目を奪われた。目がそこに吸い寄せられるように感じた。そこに海の匂いがたちこめ、微風が漂《ただよ》い、海のざわめきが聞えてくるような気がした。二歳か三歳の周二が尻を地に着け、砂遊びをしていた。  そう思ったときに、井崎は、やはり、男と女とでは子供に対する感じ方がまるで違うのだということに気づいた。俺だって同じように心が傷んでいるのだぞと思うことは、弁解であるに過ぎないような気がした。少くとも、堕胎した子供に戒名をつけるというようなことは井崎の考え及ばないことだった。しかも、道子は、そのことをずっと井崎に知らせないようにしていた。  道子は海が好きだった。道子の頭のなかで、桜も周二も、ずっと幼児のままでいた。林太郎と桜と周二が、幼いままで海で遊んでいた。やっと歩けるようになった林太郎が海辺で遊んでいる写真が何枚も残っているから、道子としては、幼い周二の姿を思い描くのは容易であったろう。  井崎は、そんなことにも気づかないでいた。井崎はそれを忘れようとしていた。それに、井崎のほうは、そのことが体の記憶として思い出されるわけではなかった。それが男と女の違いだった。  道子は井崎に対して小刻みに揺さぶりをかけてきているように思われた。なんでもないことに焦らだち、戒名を唱え、仏壇の前にじっと坐っていたりするようになる。井崎には、その時をやりすごすよりほかに手立てがなかった。言いあいになることは、すぐに井崎の仕事に響くことだった。井崎はそれを怖れた。  道子にとって、林太郎のこともあった。林太郎は高等学校の三年生になったときから、学校の近くのアパートに下宿するようになっていた。最初の頃は、土曜日の夜には家に帰っていた。それが、だんだんに、金が無くならないうちは帰らないようになってきた。どうやら、いまの学生は、その気になれば、いくらでも働き口があるもののようだった。それに、組織からの金が流れてくるという気配もあり、そのかわりに林太郎が下宿を提供するということが行われているようだった。  林太郎は、前年の夏頃から、大学の入学試験を受けないと言いだしていた。そうかといって、高等学校を出ただけでどこかに就職するというのでもなかった。  道子に頼まれて、井崎は一度だけ林太郎とそのことについて話しあった。  林太郎は、いまの大学なんかへ通ったって仕方がないんだと言った。授業もロクに行われていないと言う。パパなんか何も知らないんだろうとも言った。実際に、その年度は、東京大学では入学試験さえも行われないだろうことがほぼ確定的になっていた。学生紛争は、東京大学から、その他の官立大学、私立大学に次々と移行していた。  林太郎は、各大学の自分の好きな課目の聴講生になると言う。そんなことが出来るのかどうかということも井崎は知らなかった。井崎は林太郎を説得することを諦めた。というよりも、返す言葉もなかったというのが実状だった。勝手にしろと思った。  道子には、ぼくが受験するとすれば、パパは先生の所へ挨拶に行くだろう、それが厭なんだと言ったという。林太郎の言うように、井崎は、たいていの大学に、講師や助教授を勤めている友人がいた。  井崎は、林太郎を、むりやり大学に進学させようと考えていたのではなかった。親としての義務は、高等学校へ入学させるあたりで済んでしまっているという考えを持っていた。井崎自身も、一年間で大学を中退していた。  道子にすれば、大学を卒業するまでは平穏無事であってほしいという考えがあったようだ。それも至極当然の考えであるけれど、だんだんに道子は林太郎をあきらめるようになっていた。その考えに自分を馴れさせようと努力しているようだった。林太郎は、もう大人であり、他人であると自分に言いきかせようとしていた。  しかし、逆に、その頃から、道子にとって、林太郎は幼児になってしまった。道子は、林太郎に関しては、その頃の記憶だけに生きるようになってきた。 「リンタが帰ってこない、リンタが帰ってこない……」  それを冗談のように言い、急に黙ってしまって、井崎が見ると、涙を流していたりする。道子は、林太郎は去っていってしまい、夫は自分を裏切ってしまったし、一人きりになってしまったと思いこんでいた。 「瑛子さんっていうんですってね」  井崎が寝床で雑誌を読んでいるときに、眠っていると思った道子が言った。道子は目をあけていて、天井を見ていた。午前二時を過ぎていた。 「若くって、とてもきれいな人なんですってね」 「誰に聞いたんだ」 「溝口さんよ」  溝口は、井崎が出版社に勤めていたときの若い同僚で、いまはルポライターになっている。井崎は、溝口の生活を補助するという意味もあって、多くの資料を必要とする原稿を書くときは、溝口に下調べを頼んでいた。溝口は、すばしこい男で、その点では便利だった。その関係で、溝口は御用聞きのように、一週に二度は電話を掛けてきていたし、井崎が会社に出るときは必ず電話があるか訪ねてくるかしていた。そんなふうだから、二人で『金属』へ酒を飲みに行くということが何度もあった。  井崎の、入院する前に、溝口に、一日おきぐらいに、道子にそれとなく電話をいれてくれるように頼んでいた。道子の手紙に溝口の名が出てこないのを不思議に思っていた。 「あいつ、来たのか」 「来たどころじゃないわよ。三日に一遍はいらしてたわよ」 「どうして手紙に書かなかったんだよ」 「だって、私、あのひと嫌いなんだもの。あのひとのことを考えたり、溝口なんて字を書くのでさえ厭なんですもの」 「………」 「とにかく、お酒を出さなきゃ帰らないんですもの。それで、べろべろに酔っぱらうまで飲むのよ。こわいのよ」 「家へ入れなきゃいいじゃないの」 「そうもいかないでしょう。パパのお友達なんだから。……それに、お仕事のうえで必要なんでしょう、溝口さんは」 「そんなことはない」 「うそ!」 「………」 「それにね、なんか、パパの弱味を握っているっていう態度が厭なのよ。ほんとに握っていたんですけれどね」 「………」 「べろべろに酔っぱらってハイヤーを呼ぶまで帰らないんですもの」 「そんなことをする必要はない」 「だって、帰らないんですもん。それに、電車がなくなっちまうんですもの」 「そんなに遅くまで飲んでいたのか」 「そういうときもあったわよ。私、こわくなっちまって……」 「よし。もう溝口はお断りだ」 「それで、とうとう言ったわよ。言いたくてしょうがなかったんでしょう」  溝口がどの程度のことを、どんなふうに言ったのかがわからない。井崎は、溝口からの自宅あての電話がなくなっていることに気づいた。 「その後は、どうなったんだ」 「それから来なくなったのよ。私、言ってやったのよ。余計なことは言わないでくださいって。……お仕事以外のことは」  そうだとすると、そのことについて、あまり長く話をしたのではないだろう。道子のほうで聞きだすようなことはしなかったのだろう。  このときに、井崎は、溝口を恨むような気持になれないでいるのも不思議だった。反対に、溝口のほうで井崎のことを恨みに思っていることを知らされたように思った。  出版社を退職したのは溝口のほうが先だった。溝口は、懸賞の推理小説に応募して、それが佳作となって雑誌に掲載された。当選作にならなかったのは、ストーリイが荒っぽくて、文章もやや粗雑であるためだった。それがかえって都合がよかったようで、すぐに映画化された。当時のアクション物としては一応の成功をおさめた。しかし、その一篇以外は溝口の小説が活字になることはなかった。  井崎は溝口に恨まれていることを知った。それは、謂《いわ》れのない恨みだった。しかし、溝口の映画が封切になった頃、彼は井崎の名を呼び捨てにしたりしていたから、恰好がつかないという面もあったのだろう。溝口は東京の私立大学を卒業していたけれど、中国地方の出身で、井崎よりも功名心が強かった。そのことも、あらためて知らされたように思った。また、井崎は、溝口以外の男にも、どんなふうに恨まれているかわかったものではないというようにも考えた。それも甘受しなければならないと思った。井崎は、自分は運のいい男だと思っていた。井崎も決して溝口が好きだったのではない。溝口は便利な男で、井崎にも道子にも好意を持っていると思いこんでいた。その点では、道子のほうがずっと敏感であったといえる。 「わかったよ」  と、井崎は言った。 「わかったよ。いっぺん、溝口に金を渡して、その女を車で送らせたことがあったんだ。ところが、その次に、また俺に送らせろと言うんだね。どうでもよかったんだけどね、その女は溝口を嫌っていてね、三人で外へ出たんだけれど、あいつを撒《ま》いちまったんだ。それで恨んでいるんだろう」 「………」 「溝口はあの女に惚れていたんだな。女好きなのは、きみも知っているだろう」  実際に、そんなことがあった。井崎は自分の友人達を自慢する癖があった。あるとき、瑛子は、そんなら溝口さんはどうなのと訊いたことがある。すると、自動車のなかで、かなりのところまで瑛子に接近したことになる。酔っている瑛子も、ある程度までそれに応じたということも充分に考えられた。溝口に瑛子を送らせた翌日、彼から電話が掛ってきて、昨晩《ゆうべ》はどうも御馳走さまと言われたことを思いだした。井崎が聞きかえすと、溝口は、結構な品を頂戴しましてと言った。  道子は黙ってしまった。井崎も雑誌を読み続けていた。  井崎は、ある程度までは、道子にそれをわからせようとしていた。それが井崎の考えの筋道のひとつだった。しかし、特定の女がいることを道子に勘付かせるということは考えていなかった。また、瑛子は、特定の女というわけでもなかった。井崎は瑛子を利用しようと思い、その通りに行動したのだった。井崎の側からすれば、それは道子のためだった。  井崎が道子の腕に触れようとしたときに、道子はそれを激しい勢いで払いのけ、井崎の頭を強く押して言った。 「卑怯者!」 「………」 「瑛子さんのところへ行っちまえ。瑛子さんのほうが好きなんでしょう」 「………」 「そっちのほうが若くて綺麗《きれい》なんだろう。……瑛子さんのほうが好きなら、そっちへ行けばいいじゃないか」 「………」 「卑怯じゃないか、パパは。……私はそういうのが大嫌いなんだ。私と離婚して、瑛子さんと結婚すればいいじゃないか。昔のパパは、そうだったんだ。そういうとこが好きだったんだ」  溝口がどの程度まで喋《しやべ》ったかわからないので、井崎としては返答に窮してくる。 「嘘つき!」 「………」 「嘘つきじゃないか、パパは……」  また、あるときの道子が言った。 「京都で入院していたときに、二日も外泊したんですってね」 「………」 「どうして言ってくれなかったの。どうして私に隠すの」 「………」 「嘘つきじゃないか。そのとき瑛子さんと会っていたんでしょう」 「………」 「湯村先生に聞いたんですからね。新幹線のなかで湯村先生が言ってらしたわ。その二日間のことは私は責任をもちませんって」  湯村にすれば、新幹線のなかで三時間も喋り続けに喋っていたのだそうだから、つい、そんなことも言ってしまったのだろう。湯村は、それを道子の気持を紛らすための冗談として言ったのに違いない。井崎は湯村を恨む気持はない。湯村は、井崎の作家仲間とは違って遊びに馴れていないだけのことである。  井崎は、道子の言葉に驚くのだけれど、そのこととは別に、道子がいろいろなことを知っていて、それを小出しにしてくるのを怖《おそろ》しいように思った。井崎はそのときにも道子のなかの女を感じていた。  道子は、井崎の入院中に瑛子のことを聞き、迎えにいく新幹線のなかで、二日間の外泊のことを知ったのだった。井崎は、病院で最初に道子に会ったときと、京都の旅館の寝床のなかでの道子のぎごちないような体の動きを思いだした。そのときの道子は、単に体だけが火照《ほて》っていたのかもしれない。すると、井崎だけが妙に昂奮して「満願」などと色紙に書いたのが滑稽なことになってくる。  別の日に、道子は、こうも言った。 「どうして『金属』へ行くの?」 「え?」 「お酒も飲めないくせに、どうして『金属』へ行くの」 「………」 「瑛子さんに会いに行くんでしょう。会いたいんでしょう? 会いたければ毎日行けばいいのに……」  そのときも道子の顔は引き攣《つ》っていた。  井崎の帰宅は早くなっていた。はじめのうちは道子もそれを喜んでいるように見えた。酒場では生野菜かフルーツを摂るようにと指示したのも道子だった。  しかし、道子の言うことは、半分は適中していた。井崎は瑛子に会うために『金属』へ行っていた。それは瑛子と別れるためだった。 「私のパパはどっかへ行っちまったんだ。林太郎もどこかへ行っちまったんだ」  道子が仏壇の前に坐ることが多くなった。 「今年、海岸のホテルヘ連れて行くなんていうのも嘘なのね。……私、パパが海へ行こうなんて言ったって絶対に行かないから」     32    一、気持の沈みと不安感 [#1字下げ] うれしい・楽しい・喜び・面白さ・期待などの�明るい感情�が感じられなくなり、その一方、心配・不安・味けなさ・愁い・悲哀・後悔などの�暗い感情�がつよまる。ささいなことが、心配の種となり、不安感が湧く。いつも何となく不安な気持が胸によどむ。    二、やる気がなくなる [#1字下げ] おっくう感がつよくなり、前なら何でもなくやれたことが、負担感がつきまとい、重荷を引きずるような努力を必要とする。根気や集中力が下がり、とかく中止してしまう。自発性がなくなる。しなければと思いながら一時のばしにする。何とか自分をふるい立たせようと努力するが、やはりやれない。    三、頭の働きがにぶる [#1字下げ] よい考えや思いつきが湧かなくなる。複雑なことが理解しにくくなる。仕事や勉強の処理がおそくなりはかどらない。ささいなことにも決断がにぶくなる。最近の記憶が悪くなる。(昔の不快なことはむしろよく思いだす)    四、行動がにぶる [#1字下げ] テキパキした動作がへり、話し方も動きものろく単調になり、声も音が下がり低声になる。口数がへる。表情も乏しくなり声をあげて笑うことが少なくなる。受動的行動が主となったり、誘われても断ることがふえる。目をつぶってじっとしていることが多くなる。    五、人にあうのをきらう [#1字下げ] 前にはむしろ人間好きの方だったのに、人にあうのがおっくうになり出来るだけさけようとする。(が、会ってしまうと外見上は普通に談笑出来る。)知人に出あってもそっとさけたり、訪問を一時のばしにする。会合などでも一緒にたのしめず、人の談笑の傍に淋しい思いでいる。    六、自分を情けなく思い一切がむなしく思える [#1字下げ] このような自分が情けなく思え、家族や職場の人々に役立たない自分が、すまなく思える。自分に克てない自分の弱さを自分で責める。 [#1字下げ] 仕事も勉強も一切が意義なく思え、将来も不安と絶望だけに思える。自分の過去が思い出されて、悪いことをして来た自分・罪深い自分への責めと後悔が湧く。死への誘わくがしばしば胸をよこぎる。    七、からだ具合のわるさ [#1字下げ] 活気や生気がなくなり、身体の張りもなくなって、どこが特にというより、身体のあちこちの具合が悪くなる。特に、眠りがわるくなり寝起きの不快感がつよい。食欲や性欲がなくなり便秘に傾く。体重がへる。顔色もわるくなり皮膚のつやもわるくなる、など。    八、気持や頭の働きなどがよい日は身体の具合のわるさもへる [#1字下げ] 大きい低調期の中でも、心身の軽い日と不調のつよい日の波がある。一日の内では、朝のうちが悪く、夕方から夜になると、気持の暗さもうすらぎ、身体の具合も楽になり、行動がふえる。    九、同じ状態が以前にもあったことがある [#1字下げ] 始めての人にはわからないが、そっくりの状態が前にもあり、状況がちがっていても、�全く同じような�具合の悪さが経験されていることが多い。 [#地付き](外岡豊彦氏『抑うつ状態について』より)  井崎の不調が続いていた。何かが少しずつ、だんだんに井崎を侵していった。蝕《むしば》んでいった。井崎を追いつめていた。井崎は、狂ってきた。  原稿が書けるという状態の日は全く無いといっていいくらいになってきた。文字が書けない。井崎は、それが性分で、ハガキ一枚書くのにも非常な精力を必要とする。自分で、そう思いこんでいた。その傾向が昂《こう》じてきていた。このまま失語症になってしまうのではないかと思われた。  書こうとすることが無いというのではない。原稿用紙に向うと、いろいろな思いがふくれあがってきて、どこから手をつけていいかわからなくなってくる。井崎における、そういう傾向が井崎を押し潰そうとしている。以前は、むしろ、逆に、そういうような一種の能力が井崎を助け、量産に耐える力となり、それが井崎を流行作家に押しあげてきたのだった。いったん狂うと、どうにもならなくなってくる。  井崎は自動車に乗っていて、もし、この自動車が衝突して自分が即死したらどうなるかということを考えることがある。すると、葬式の日取りがどうなって、通夜の様子がどんなふうで、どんな人が集まり、何を話しあい、また、道子や林太郎が何を考え、どうするかということが、頭のなかに猛烈な勢いで拡がってくる。それだけではなくて、もっと微細に、通夜の席の酒肴《しゆこう》までが目の前に見えてくるのである。そうして、死んだはずの自分が、いろいろと指図していたりする。親類の者の一人一人の顔が見えてくる。彼等の思惑が見えてくる。「あっけないわねえ」とか「ハイヤーを頼めばよかったんですよ。彼は世間に気兼ねばかりしているからいけない」とか「いや、あれは事故死じゃありません。立派な戦死です」などという言葉が聞えてくる。井崎は白々しい言葉に、いちいち腹を立てる。そうやって疲れてしまう。馬鹿馬鹿しい空想はやめようと思う。しかし、五分後には、いつのまにか同じ考えに熱中してしまっている自分に気づいたりするのである。  井崎は完全主義者である。彼の書くものが完全であるのではなくて、完全であろうとする思いが強過ぎるのである。そのために手がつかなくなる。狭いところへ落ちこんでゆく。これは完全病といったほうがいいかもしれない。ノイローゼの症候に、円形恐怖というのがある。これは完全なものが怖いという神経のあらわれであろうが、逆にいえば、完全なものに対する関心が強過ぎるためではなかろうかと思われるが、井崎は、ややそれに近い。  仕事をしていて、目の前の本棚にならんでいる雑誌の一冊が斜めになっていたり、はみでていたりすると、もう仕事を続けることが出来ない。そんなことで何度も何度も机の前を離れる。それは体を動かせば済んでしまうことであるが、井崎の完全病においては、倫理感や正義感も、異常に強まってくる。それが井崎を苦しめる。……すぐに腹を立てる。以前には許すことのできた事柄が我慢がならぬようになってくる。それと同じ分量でもって自分を苛《さいな》むようになる。そのくせ、すぐに後悔する。そのことに、いつまでも拘泥《こうでい》する。  旅館に閉じこもって、一字も書けずに帰ってくるようなことがあった。それでも、何年間も続けている連載ものを放擲《ほうてき》するわけにはいかなかった。それよりも、借金の返済のことがあり、所得税と市民税の予定納税を、だいたい隔月の割で交互に支払わなければならない。井崎は書き続けなければならない。  出版社に言われた締切の日を、一日延ばしに延ばしてゆき、時間で延ばし、最後には、書きかけの原稿を持って印刷所へ行くようになる。  原稿を書く前に鎮痛剤を飲む。それが癖になっていて、薬を飲まなければ書けないようになり、効能書に劇痛のときと示されている一日の分量の三倍を一度に服む。寝る前には、道子のために医師が調合した睡眠薬を、同じように道子に指示された分量の三倍を服用する。  それでも、なかなか寝つかれない。眠ったと思うと、すぐに魘《うな》されるようにして目がさめてしまう。尿意が頻繁になる。それは糖尿病の一症候でもあった。井崎は眠ることを断念して、灯《ひ》を点《つ》けて、雑誌や週刊誌を読む。眠ってなんかやるもんかと思う。すると、明け方近くなって、いつのまにか雑誌のうえに顔を押しつけて眠ってしまうようだった。  夢を見るようになった。  井崎はよく夢を見るのだけれど、幼児のときから小学校の高学年にいたるまでに見た、もっとも怖い夢が再びあらわれるようになった。その夢を見たときには驚いて、むりやりに目を開くようにした。そのときは動悸《どうき》が激しくなっていた。なぜそんな夢を見るのかということがわからない。狂ってくると子供に復《かえ》るのかとも思った。  その夢は、まず握《にぎ》り拳《こぶし》のようなものがあらわれる。握り拳のうち、拇指《おやゆび》だけが立っている。その拇指が、だんだんに太くなる。大きくなる。大きくなって、ふくらんでゆくという過程が実に怖しいのである。拇指の指紋が歴々とわかるようになる。それは一部分が透明で光っている。プラスチック製ででもあるように思われる。無機質という感じも、こわい。みるみるうちに、大きくなる。無機質であるくせに、そこから妙な、いわく言い難い痛覚のような痒《かゆ》いような感覚が伝わってくる。そういう感じは、誰に説明しても理解されないだろうと井崎は思った。井崎自身にも、どうしてそれが怖いのかという説明がつかない。  拇指の夢は、しばしばあらわれるようになった。来たなと思ったときに、井崎は、プロ野球の試合経過や、詰将棋、麻雀のある局面や、小学生のときに優しくしてくれた女教師の顔や肢体《したい》を思いうかべるようにした。しかし、それに被《かぶ》さるようにして拇指が眼底に映じてきて、ゆっくりと大きくなっていて、それが全てを占領してしまうのである。拇指の背後に、五彩の火の玉があらわれ、その後方は、星空のようであり、さらにその奥に、暗闇が無限にひろがってゆく。井崎は、暗闇に逃れようとする。しかし、その暗黒の世界に、今度は無数の拇指があらわれてくる。地上から芽が出るようにして、無数の拇指があらわれてくる。  井崎の書くものに力が喪《うしな》われていった。それは自分でも承知していた。また、それが当然であるとも言えた。  昔からの読者から手紙がくる。健康を案ずる文面もあり、描写が減ってきて説明が多くなったのは衰弱している証拠です、小説は説明ではありません、といったような高級な批評もあった。貴兄は何時頃から贋札造《にせさつづく》りに転向せられしや、という叱責のハガキもあった。  井崎は自分の仲間のことを考えてみる。井崎の頭に浮かんでくる一人一人の顔は全て鬱病《うつびよう》患者といってもおかしくないように思われた。変りなく活動しているのは躁病《そうびよう》患者であるかのようであり、稀には幼児体質ではないかと思われる男もいた。また、井崎の先輩たちは、井崎の年齢の頃からノイローゼに罹《かか》ったり、狂人になったり、自殺したりしていた。その世界から逃げだそうとしている男の数も尠《すくな》くはない。逃げようとして逃げられないでいる男たちもいた。誰もが一様に、表面の派手さ加減とは反対に、金銭の苦労がつきまとっていた。そうして、別の世界の人達から見るならば、眩《まぶ》しいような情報化時代の花形であるかのように映じているに違いない。この世界に十年以上も暮している男たちの顔には、暗い翳《かげ》が染《し》み込んでいた。書かれたものを読む側からするならばスターと目される男たちは、実際は気息|奄々《えんえん》で暮していた。井崎は、自分のことから考えて、そのなかの一人が、今日にも死亡したとか自殺したとかいうニュースが伝わっても少しも不思議に思わないだろうといったように感じていた。  井崎が逃げださないでいるのは、生活のことを別にすれば、その世界が好きだからだった。その世界では、余所《よそ》から見るよりはずっと公平が保たれていた。出る者は必ず出られるし、認められるものは必ず誰かが認めているはずだという確信があった。それと、気息奄々である者同士の連帯感で繋《つな》がれているという感じもあった。井崎は、実際に、何人かの男たちを傷《いた》ましくも愛《いとお》しという思いで見守っていた。  井崎がそんなふうに考えるということは、いくらかの慰めになった。しかし、同時にそれは抜け道がないということでもあった。その意味では、救いようのない世界だった。いまにも自殺するのではないかと思われるような作家でなければ魅力がないと言われていた。一作一作が遺書であることを要求されていた。あるいは、それが遺書になり得ていないという自己弁護であった。そういう思いが、井崎を一層暗くしていった。  井崎自身は、しかし、自分のことをそれほど深刻に考えていたわけではない。自分が滅入ってくるのは、単に肉体的な不調であるに過ぎないと思い、そう思い込むことに勉めているとも言えた。  井崎の友人の一人が、井崎のことを心配して、鬱病の研究を続けている心理学者に会わせようとした。その友人も、昔の出版社時代の同僚で、独立して、人生論を主体とする小冊子の発行を続けていた。その小冊子に掲載する対談という形で心理学者に会うことになった。  井崎は、そのときも気息奄々という状態で、椅子に坐っていること自体がすでにして辛いという有様だった。心理学者は彼自身も鬱病患者で、周期的に襲ってくるそれを脱したばかりのところであると言った。彼はまた、同病者が集まって話しあえるようなサークルを造りたいという希望をもっていた。  心理学者は、サークルに加入するときの質問用紙を持ってきていた。質問要項の九十パーセントに該当すれば鬱病患者の資格ありということになっていた。  井崎は、約二十項目にわかれている質問を読みすすんでいくときに、驚きが強くなり、その結果、あやうく笑いだしそうになった。 「百点満点です、私は」  と、井崎は言った。  なかでも罪悪感という項目が井崎の心のなかの的を射ってくるように感じた。鬱病患者は誰でもそうなのかということに驚いた。  目を瞑《つむ》ってじっとしていることが多いというところでは、あるときの情景をそのまま描写されているように思った。  道子が仏壇の前にぺたんと坐ってしまう。道子が口のなかで戒名を呟いていることがわかっている。それと背中をあわせるようにして井崎が坐っている。井崎は窓のほうに、空にむかっている。井崎は目を閉じている。目を閉じて何も考えないでいる。考えようとしないでいる。涙があふれてくる。そのくせ、無感動でいる。立ちあがって、道子と顔が合っても、それほど心が動かない。道子のほうも、黙っている。 「二者択一という項目がありませんね。それがあれば完璧《かんぺき》なんですが」 「………」 「二者択一が出来ないんですよ」 「それは、全体としてそうなっていると思いますが……」 「とにかく、決断が出来ない。他人に何かを相談されると困ってしまうんですよ。どっちへ進んでも似たようなものだと思われてくるんです。昔は、私はそれが早いほうだったんですけれどね」 「私も同じですね」 「………」 「私も鬱のときは同じなんです。私のところは昼食は店屋物《てんやもの》をとることが多いんですが、家内が、天丼と親子丼とどちらがいいでしょうって訊くんですね。そうすると、一時間でも二時間でも答えられない。むこうできめてくれればいいんですがね。どうして黙ってザルソバでもなんでも持ってきてくれないのかって思いますね」 「私のほうは糖尿病があるんで余計に厄介ですね。カロリー計算や、コレステロールのほうの関係がありますから」 「それはうらやましいな。かえって決めやすい意味があるでしょう」 「それはそうなんですが……。相談されるということが実に苦痛です。これは受動的という項目にも該当しますね」 「そうですよ」 「会社の仕事もそうでしてね。水曜日の午前中には会議があると決まっていればいいんですが、井崎さんはお忙しいでしょうから、何曜日にしましょうかなんて訊かれると困るんですね。答えられない」 「………」 「それと、たとえば、|ある意味では《ヽヽヽヽヽヽ》なんていうのが口癖になってしまう。断定できないから、そうなってしまうんですね。そういう口癖は、自分では気がつかないんですね。ところが、家へ遊びにくる若い編集者なんかにその口癖が感染《うつ》ってしまうんですね。他人が言うようになって、はじめて自分の口癖に気づくといった具合で……」 「それは井崎さんを尊敬している人でしょう」 「そうでしょうか」 「それに、もともと、そういう傾向があったんじゃないでしょうか。物事を決めかねるといった傾向が……」 「そうかもしれません。特に私たちの仕事では、物事を曖昧《あいまい》にしてしまって、そのなかに真実を求めようとしますからね、どうしても……」 「なるほど、ね」 「一長一短というのも癖になってしまいましてね。なんでも一長一短です。帯に短し襷《たすき》に長しです」  井崎は、自分が道子に似てきたようにも思った。それを井崎は、道子と同じノイローゼの患者になったように感じた。  道子は好き嫌いが激しかった。特に、人間に対する好悪の感情が激しい。というよりも、道子が心を許す人間は非常に限られてしまっているといったほうがいい。それは、井崎のように来客の多い職業では困ることだった。道子はほとんどの男たちに対して、批判的であったり、憎んだりしていた。しかし、道子は表面はおだやかであって、むしろ人当りのいいほうである。それは、人を憎むことによって、心臓発作に悪い影響があらわれることを怖れているからであった。  道子が極端に憎む男たちは、たいていは、井崎に不利益となる男であることが、後になってわかってくる。その点は、道子の勘は鋭くて、いつでも適中していたといえる。  井崎も道子と同じように、人を憎む傾向が強くなってくる。井崎の場合は、憎む以前に、鬱陶しくなる。厭人症《えんじんしよう》に近いのである。その頃から、井崎は人前に出ることを避けるようになってきた。十年前は、井崎は、賑やかなところへ行ったり、人寄せをしたりするのが好きなほうだった。それが、ただただ、わずらわしくなり、短気になり、耐《こら》え性《しよう》が薄くなり、すぐに腹を立てるようになる。それが井崎の老化現象なのだろうけれど、同時に、新聞・雑誌関係の来客の年齢が若くなってきて、彼等の考えに波長をあわせるのが困難になってきているせいであるとも言えた。言葉づかいや、言葉の感覚が変ってきてしまっている。  心筋梗塞《しんきんこうそく》ではないかと思われる心臓のあたりの痛みも、依然として去っていない。酒を断っても、目ざめたときの嘔吐感《おうとかん》が消えることがない。井崎は、あるときは、それは神経の作用だと思うことにした。また、あるときは、心臓や胃腸が弱っているので、鬱病に似た症状があらわれるのだと思うことにした。肉体的な衰弱によって心が衰弱しているに過ぎないのだと思ったりした。しかし、そのために三週間も入院したのだから、もはや打つ手は無くなっているのだと思うこともあった。  井崎の性が衰えてきていた。道子の不機嫌はそのことに起因していることも明らかだった。井崎は、それがわかっていて、どうにもならない。井崎は居間で座布団も敷かずに坐ったままでいたり、テレビの深夜映画を見ていたりした。  道子に更年期障害に似た症状があらわれる日が迫ってきているように思われる。そうなったらどうなるかという見通しも方策も立たない。  井崎は、道子が初めて井崎の家を訪れた頃の父の年齢に達していた。そのとき、井崎の父と母は別の部屋で寝ていた。道子はそのことを知っていた。  井崎に糖尿病の疑いがかかったとき、道子は、私、平気よ、おじいちゃまも、おばあちゃまも別々のお部屋でおやすみになっていらしたことを知っているんですもの、いざとなったらそうしましょうよと言っていた。しかし、道子を見ていると、とてもそんなことは考えられないように思われた。また、無理にそうする必要もない。  井崎が考えていたことで、それを楽しみにもしていたことは、道子と二人きりの旅行だった。そのために、無謀とも思われるような計画を樹てて実行したのだった。計画自体は乱暴であるけれど、それなりに綿密に練ったプランだった。その計画は一応は成功したのである。中年にさしかかった夫婦が、二人で山の中の温泉へ行くということは、生活の平静を維持するためのかなり有効な考えだと思われたし、井崎自身の体がそれを欲しているようにも思われた。温泉宿で何も考えずに何日間かを湯に浸《ひた》るということは、鬱病の治療に効果があるのではないかと思われた。  井崎の勤める食品会社の社長は、いつでもいいから自分の別荘をつかってくれと言っていた。そこは静かな温泉地で、コックが夫婦で住みこみで働いていた。それと似たようなことを言ってくれる友人も何人かいた。井崎は、そんなことを楽しみにしていた。しかし、道子は他人の世話になることを極端に嫌うところがあった。だから、それは無理だとしても、すくなくとも東海道新幹線には乗れるようになっているはずだった。井崎が手を引っぱるようにすれば、もう一度、京都の附近で遊ぶことが出来るはずだった。道子が京都や奈良に関心があることも知っていた。  道子が渋るのは、義母の体が弱ってきているからだった。少し風のある日は外を歩くことも出来ないと思われるほどに、体が細く軽くなっていった。たえず眼瞼《まぶた》をしばたたかせ、下顎《したあご》を動かしている。日中はテレビを見ているか寝ているかのどちらかであった。テレビ・ドラマの筋もわからないようになっていて、画面の人物に頭をさげたり、意味もなく笑ったり泣いたりする。  義母は失禁するようになった。八十歳になろうとしているのだから、それも仕方のないことだった。  義母を連れて、道子と三人で旅行することも考えられなくなってしまった。義母を置いてゆくことも出来ない。井崎は、そうなってから、義母を道子の長兄の家に帰したほうがいいのではないかと言ったことがある。道子は考える顔つきで黙っていた。それは、帰すかどうかを考えているのではなくて、井崎に自分の考えをどう伝えていいかということについて迷っている表情だった。井崎には、道子の考えがわかった。道子は、このまま、ずっと最後まで自分の母の面倒をみるつもりになっていた。義母と暮していて、その考えが強くなっていったようだ。 「意地悪で言っているんじゃないよ。おばあさんは義兄《にい》さんを愛しているからね。そういう責任があるだろう……。その先は言いにくいことになるけれど……」  道子は、やはり黙り続けていた。  義母は義兄を溺愛《できあい》している。それは、ひとつには、ただ一人の男の子供だったからである。  道子には道子の考えがあった。義母の体がそんなふうに衰弱してくると、義兄の家では、行き届いた世話が出来なくて、義母の死を早めるようになると判断しているようだった。  その考えは正しいだろう。井崎は、道子における、そのような配慮を好ましいものに思っていた。井崎が最初に道子に惹《ひ》かれたのは、道子のそういう性情だった。  そうではあるけれど、井崎にとって、井崎の楽しみにしていた道も、何年間にわたって鎖《とざ》されてしまったことになる。  井崎の考えていた唯一の解決法も、そこで断ち截《き》られてしまった。  道子との神経的な葛藤《かつとう》は、いよいよ深く微細になり、それが井崎の鬱病的傾向を強くしてゆく。井崎には、ここから抜けだす道が全く見当らないように思われた。何をやっても駄目なんだと思いこむようになっていった。  仮初《かりそめ》の、あるいは束の間の幸福さえも自分には与えられていないというような悲観的な思いに支配されていた。     33  井崎は、自動車教習所を見おろす岡の上に腰をおろしていた。二月の終りで、よく晴れていて、その時分としては暖い日だった。  彼は、瑛子が、事務室だか待合室だかの屋根の下から姿をあらわして、指導員に手を引かれるようにして練習用の自動車に乗りこむところから、ずっと見ていた。  前夜、『金属』で、瑛子が、教習所で運転するところを見てくれないかと言った。それは、井崎が、きみなんかに免許がとれるはずがないと言って、からかったからだった。  朝が早いのは無理だよと言ったのだが、瑛子は、ちがうわよ、明日は三時からの日なのよ、と言った。そのときの瑛子は、虚《うつ》ろな顔ではなくて、女子学生に戻っているように思われた。何か意気ごみのようなものが感ぜられた。井崎は、瑛子にかぎらず、そういう感じのときの若い女が好きだった。  井崎は、しかし、教習所へ行ってみるつもりはなかった。朝になって、とても仕事をする気分になれそうもないことを知り、午後になっても、とうてい不可能だと思いさだめたときに散歩に出た。そうやって駅まで歩き、自然に切符を買ってしまった。教習所へ行っても瑛子に会えるものかどうかもわからず、運転する瑛子を見ても会わないで帰ってくるかもしれないなと思っていた。  岡の上から教習所を見ていると、玩具のレーシング・カーを見るのと全く同じだった。井崎は、自動車については、まるきり知識がなく、興味も関心もなかった。しかし、そうやって見ていると、あきらかに、未熟な者や不器用な者がわかった。そういう自動車は、同じ所で同じ失敗をする。また、指導員が運転しているのではないかと思われるほどに熟達している男もいた。それも、井崎の判断だから、正確からは程遠いだろう。不器用に見えている運転者が、案外にも好成績であるのかもしれない。瑛子は、そのどちらともつかなくて、井崎には採点の目処《めど》がたたない。瑛子の自動車だけが、きわだってスピードが遅い。慎重な運転であるのか、臆病なのか、初歩の段階なのか、指導員の性格なのか、それもわからない。  教習所の一番長い直線コースの最後のところで、扉が開き、指導員と瑛子とが出てきた。指導員が何か注意をあたえたようで、瑛子は何度も項突《うなず》いていた。彼はフロント・グラスを通して内部を指さしていた。それから腰をかがめて前輪を指さした。瑛子も屈《かが》んだ。指導員は、実直そうな若い男だった。機敏に動き、早口で喋っているようだった。瑛子は、濃い朱のスポーツシャツで、デニムのズボンをはいていた。靴が運動靴であることを、井崎の位置からも知ることが出来た。  指導員は、瑛子を立たせ、背後に廻って両肩を押え、交互に動かすようにした。つぎに、抱きかかえるようにして、瑛子の両肘《りようひじ》を動かした。  井崎は、いったい、指導員が、瑛子がどういう職業の女で、どういう性情の持主だと判断しているだろうかと思った。もしかしたら、近くに住む世間知らずの良家の娘だと思っているかもしれない。未通女だと思っているかもしれない。井崎でさえ、そこから見ると、そうとしか考えられないと思ってしまう。それは何か滑稽な眺めだった。 「おい、きみ! きみは、いったい、その女をどういう女だと思っているのかね。……わからないだろう。その女はね、とても怖しい女なんだぜ。信じられないだろう。たとえば、その女がきみを殺そうと思えば、刃物を使わずにすぐに殺してしまうことが出来るんだよ。その気になれば、だよ。……まあ、きみなんか、イチコロだね」  井崎は、そんなふうに指導員に呼びかけていた。  しかし、井崎は、全体として優しい気分になっていた。それを、井崎は、狂人の優しさではないかと思った。彼は、ぼんやりと、ほとんど何も考えることをせずに、何台もの自動車の動きを目で追っていた。  瑛子の自動車が見えなくなったと思ったとき、事務室の正面入口に瑛子があらわれ、そこから一直線に井崎のいる岡に登ってくるのがわかった。  瑛子は何も言わずに井崎の隣に腰をおろそうとした。井崎がハンカチをひろげた。瑛子の腕と腰が、かすかに井崎に触れ、瑛子の酸っぱいようなクリームの匂いが井崎の鼻の先を過《よぎ》っていった。瑛子は息をはずませていた。大きく息を吐きだした。 「わかっていたのか」 「すぐわかったわよ」 「わかっていなければ、だまって帰るつもりだった」  瑛子が井崎の股《もも》を打ち、掌《てのひら》をいっぱいにひろげて、井崎の筋肉をたしかめるようにして抓《つね》った。  あたり一面が、まだ枯草の岡だった。四時になっていて、日があわあわしくなっていて、西の方の空が全体に薄ぼんやりと光っている。足の先と腰から冷気がのぼってくる。 「寒くないか」 「寒くなんかないわよ。私、運動してきたんですから。……暑くて……」  瑛子は、まだ上気していた。  井崎は、共犯者の気持になっていた。井崎という犯罪者、瑛子という犯罪者がならんで坐っている。この犯罪者は、世間一般に対する罪を犯したということで共犯者である。二人は奇妙な関係にあった。  井崎は妙に懐《なつか》しいような気分でいた。おそらく瑛子も同様であったろう。この懐しさは何だろうか。井崎と瑛子とは、男と女でもなく、酒場の客と女給でもなくなっている。井崎が、いま、瑛子の体に執着していないということが何か不思議なことのようにも思えるのである。井崎からは憎しみさえも薄れていた。  それは、まさに、共犯者としか言いようのない気分だった。優しい気分になっていた。  Yesterday all my troubles      seems so far away  Now it looks as though      they're here to stay ……  瑛子が低声《こごえ》で歌った。  井崎の、二者択一が出来ないという傾向は、いよいよ甚《はなはだ》しくなってきた。そのこと自体が井崎を苦しめるようになる。そうなっては文章が書けない。文章を書くということは、不断に二者択一を迫られるという種類の作業だった。どっちの表現を選ぶか、どっちの文字を採るか……。原稿用紙を前にして、涙を流すだけで終ってしまうような日が続いていた。そういう日は、ひどく疲れた。  食品会社のほうでも、井崎の状態を察知して、仕事をあたえないようになった。そのことも井崎の気持を暗くした。まとまった仕事は出来ないにしても、企画会議に出席して発言したり、若いデザイナーたちと密着写真を見て打ちあわせをしたりすることが井崎にとって気晴らしになっていたことにあらためて気づかされたりする。井崎は会社に出ても、黙ったままで坐り続けるようになった。  瑛子についてもそうだった。井崎は、いま頃になって、ふたたび、思い惑っているのである。  瑛子について新鮮な感情を抱くということではなかった。それはもう戻ってこない。  そうではなかった。  井崎が瑛子に接近したのは、果して道子を救うためだったのだろうか。本当にそうなのか。家庭の平和を維持し、行き詰った夫婦生活を別の新しい局面に変えてしまうための乱暴な実験だったのだろうか。そのために瑛子を利用したに過ぎなかったのだろうか。そんな綺麗事を言っていて、いいのかどうか。  井崎は単に性欲のために瑛子の体を求め、それを弄《もてあそ》んだのではなかろうか。瑛子の体は、つるつるしていて、道子とは比較にならぬほどの弾力を持っていた。瑛子の体のなかに少女が残っていた。そうして充分に成熟していた。井崎が瑛子に求めたのは肉欲だけではなかったのか。利用するだけ利用して捨ててしまうのには、瑛子はまことに都合のいい女だった。井崎は、長い間、酒場遊びを続けていて、そういう意味での中年男の知恵を身につけていた。そういう考えが井崎を責めたてていた。  いや、自分は、もっと、さらにさらに卑しい人間ではないかと思う。  瑛子のような、いくらかは教養もあり、鋭い感じをもっていて、ファッションモデルにもざらにいないような若い女を連れて歩くといったようなことに憧《あこが》れていたのではないだろうか。それは成金趣味である。井崎の思いあがりである。井崎は、金が出来るとゴルフをはじめ、自家用自動車を置き、軽井沢に別荘を建てたりする男を軽蔑し続けてきたが、本当は、井崎の心のなかにも、そういった種類の、哀れとか弱さとしか言いようのない性《さが》が潜んでいたのではあるまいか。本質的に井崎はそういう種類の男だったのではあるまいか。道子が自分の母に似てきたというように、井崎も、軽蔑する父と同じ卑俗な人間なのではあるまいか。青木や水野や堀越や、その他の瑛子の体に簇《むら》がり集まってくる男たちと同じではないのか。そういう考えが、井崎を、重く重く、暗くする。そういう男たちとは違うのだということが、それまでは井崎の執筆の原動力になっていた。そこが根底から覆《くつがえ》されてしまう。  そう考えると、青木や水野や堀越や、井崎の父のほうが上等な人間であるかのように思われてくる。なぜならば、その男たちに較べれば、井崎のほうが知名度が高い。井崎は、世に知られた男という位置を利用したのではないか。いや、そんなことはない。それほどには、あさましくはないはずだ。いや、そうでもない。……そこが、どうなっているのか。  青木や水野や堀越は、瑛子を救うことが出来る。その気になれば瑛子の一生を保証することが出来る。井崎には、それが出来ない。井崎は、そのような多額の財力を蓄える能力がない。能力がないのではなくて、その意志がない。井崎は自分の身を守るために手を汚すまいとしている。井崎に出来ることは、瑛子の間夫《まぶ》だか客色だかになることでしかない。井崎は、呼びだせばどこへでも出てくる若い女がいるというカッコヨサに酔っていただけではないのか。そんなふうに井崎は自分を責めたてていた。そこまでの考えのなかには、どこかに誤りがあるはずである。井崎は自分の考えのなかの間違いを発見できずにいた。そうやって思い悩むことも一種の欺瞞《ぎまん》ではないかとも思ってしまう。そうやって穴のなかに落ちこんでしまう。  そうして、そこから発展して、次の考えに思い当ったときに、井崎は居《い》た堪《たま》らないような気持だった。  いままでの考えを全て捨ててしまったとして、井崎は、小説を書くために瑛子に接近したのではないかという疑念にとらえられたのである。「女は芸の肥やし」。井崎は、そういう考えを唾棄《だき》していたはずである。しかし、十年間の作家生活で、井崎の心の芯なるものが蝕《むしば》まれてしまっているのではないか。おそろしいことではないのか。……いや、いや、そうではない。小説を書くということは、すでに人非人の世界にはいってゆくということではないのか。  井崎の頭のなかに、愛という文字が浮かんだ。井崎は瑛子を愛していたのではないか。それならば愛とは何か。そのへんが漠《ばく》として掴《つか》みようのない世界となる。愛と悦楽と暴力と悲哀とが渾然《こんぜん》としてきて、井崎の思考を拒むのである。  井崎は道子を愛している。道子のために戦ってきたといえないこともない。しかし、はたして、それはそうなのか。井崎は、道子も瑛子も愛してはいない。 「本当のことを言え!」  井崎は自問し、自分に迫り、自分を責めたて、苛《さいな》んだ。井崎は誰も愛していない。人を愛するような男ではない。……そんなふうに考えるのだけれど、井崎のなかに愛の実体がないのだから、解答が得られるはずがないのである。  そこまでが一本の道である。それは、実際は、取るに足りない愚劣な事柄であるに過ぎないと思う。単なる事故である。そうして、井崎は、人間なんて悲しいもんだよと言った先輩の小説家の言葉が浮かんでくるだけだった。すべてが、そこに要約されてしまう。だって淋しいじゃない、と瑛子が言った。瑛子が駅前の電話ボックスで泣いていた。  もうひとつの道がある。井崎は瑛子のような女を探していた。それは道子のためだった。道子の病気の治癒のためだった。すくなくとも、井崎は、そう思いつめていた。余人には全く理解の届かぬところであろう。それは、道子の発病以来、二十年間にわたって思いつめていたことだった。一種の衝撃療法だと思っていた。それ以外に方法がないと思っていた。井崎は道子に優しい言葉をかけてやりたいと思っていた。実際に、瑛子との交渉の続いていた期間は、それによって井崎の男性機能は二十代の時のように恢復することがあった。銀座から道子と一緒に自動車で帰るときに、道子の手を握って驚かせたりするようなことがあった。  井崎は湯村に相談し、湯村を説得した。すべてが計算ずくで進行していった。事態は井崎の思っていたように進んでいって、思っていたような結果を得るに到った。ともかく、井崎が湯村に計画を打ちあけ、湯村が協力したということは紛れもない事実だった。  しかし、そのことが、遠い昔の出来事であるように思われてくるのである。霞《かす》んでしまっている。夢のように思われてくる。あのことは、本当に本当だったのか。井崎は単に若い瑛子の体に惹かれていただけだったのではないか。あさましい肉欲があっただけだったのではないか。どっちがどっちなのか。どちらが本当なのか。家庭の平和を維持するために、それがたとえ娼婦《しようふ》であったとしても、一人の女を欺《あざむ》くようなことがあっていいのか。……いや、そうではない。これは、ひとつの愚劣な出来事であるにすぎない……。 「先生って、なんにも知らないのね」  瑛子は枯草を握り、遠くを見ていた。その言葉も、以前に何度か聞いていた。 「なんにも知らないね、俺は……」 「教えてあげましょうか」 「………」 「小説家なんて、世間のことを何も知らないのね」 「………」 「おこった?」 「おこりゃしない」 「ねえ、いい? お店は日給月給なんですけれど、私の日給は、一日五千円なのよ。一カ月に二十五日間はたらくとして、月給は十二万五千円よ。そこから税金を引かれますからね、手取りは十万円と少しになるのよ」 「俺もそういう計算をしたことがあったな」 「マンションの部屋代が五万円よ。お店からの帰りは自動車で帰りますからね、だいたい、自動車代だけで三万円になるわ。それで、一月に一着はお洋服をつくらなくちゃいけないことになっているの。靴も一足は買うのよ。私は一日おきに美容院に行くの。ほんとは毎日行かなくちゃいけないんですけれどね。部屋代と自動車代だけで八万円でしょう。お洋服も夏服なら一万円でも出来ないことはありませんけれどね」 「………」 「着物を着ている人もいるでしょう。私だって着物を持っているのよ」  井崎は瑛子が和服でいるところを見たことがなかった。 「ねえ、先生、それで、どうやって私たちが暮していると思う?」 「わかりませんね」 「安江|姐《ねえ》さんに、明日のパーティーはいいお客さんばかりですから、一番いいお洋服を着てくるようにって言われることがあるの。ね、私、どうしたらいいと思う?」 「………」 「負けていられませんものね。……だって、それが一番いいお洋服ですかっていう目で見られるのよ」 「スペードのエースか」 「そういうお仕事なのよ」  井崎は『金属』の経営者の青木から同じことを聞いていた。彼は、うちの女たちは暮せるわけがないんですよと言って笑った。よほどいい家のお嬢さんでなければね、とも言った。そうかといって、賃金をあげる気配は感ぜられなかった。 「ねえ、どうやっていると思う?」  井崎が退院してきて、最初に『金属』へ行ったとき、瑛子はホテルの酒場で激しい勢いで泣いた。井崎は、瑛子の涙に別の意味あいがあったことに気づかされた。 「でもねえ、私、十万円で暮さなくてはいけないと思うの。暮せないわけがないと思うの。だって、私たちの齢《とし》で、そんなに貰っている人はいないんですもの」 「それは違うよ」 「………」 「それで、どうやっているんだ」 「………」 「どうやって暮しているんだ」 「教えてあげようか」  瑛子は少しのあいだ黙っていた。井崎の肩に頭をのせて言った。 「私たち、お店のお客さまを調べちゃうのよ。全部じゃありませんけれどね。先生なんか、びっくりするような方がいますからね。財界の方で遊びをなさる方は、全部わかっているわ。……一人だけ教えてあげましょうか。先生の会社の社長さんは、智子《ともこ》ちゃんなのよ」 「へええ。しかし、社長にお店で会ったことはないな」 「それでいいのよ」 「………」 「前に、二、三度いらしたことがあるの。お店にお見えにならなくてもいいのよ」 「どうして?」 「だって、そうじゃないの」 「………」 「簡単にいえば、それで、青木は智子ちゃんの日給をあげなくて済むようになるじゃないの。……もっと知っているけれど、ほかの人は教えてあげないわ」  井崎はそれを知りたいとは思わなかった。無感動で聞いていた。瑛子に勾玉《まがたま》をあたえ、自動車を買った男もいるはずだった。 「先生、知りたくない?」 「知りたくないね」 「どうやってお客様をキャッチするか」 「………」 「たとえば、おたくの社長がお見えになったとするでしょう。そこへ智子ちゃんがツクのよ。社長が智子ちゃんを気にいったとするでしょう。……それから、社長の日程を調べるのよ。そんなこと、すぐにわかるわ。社長さんが大阪に出張なさるでしょう。何日から何日まで、どういう会合があって、どのホテルに泊るかってわかるわね。そうすると、智子ちゃんもそのホテルに泊るのよ。それで、社長さんが宴会で酔っぱらってホテルヘ帰っていらっしゃるでしょう。廊下で偶然に出会ったようになるのよ」 「偶然じゃないわけだ」 「そう。……で、社長さんはびっくりして声をかけるわけね。これで、だいたい、どうにかなっちまうのよ」 「………」 「ゴルフでもいいのよ。偶然に同じゴルフ場で出会ったってことになりますとね。……それが二回とか三回とか重なると……」  井崎は、瑛子たちが店内で顧客のカードをつくっている場面を見たことがあるのを思いだした。第三次産業という言葉が頭をかすめた。 「しかし、おかしいな。そんなにわかるものかねえ。……その社長さんたちの日程なんてものが」 「わかるわよ」  井崎は、瑛子が、彼の旅先の仕事場の電話番号を知っていたことがあるのを思いだした。限られた出版社の担当者と道子しか知らないはずだった。 「どうして?」 「情報化時代ですもの」 「………」 「ほんとうは水野なのよ」 「………」 「水野がその仕事をやっているの」 「なぜ?」  井崎の言葉が鋭くなった。広告代理店の社長が酒場の手伝いをしているということが信じられなかった。水野の会社が、この三、四年で急速に伸張していることが業界の話題になっていた。 「なぜって、共存共栄なのよ」 「………」  水野がそういう仕事を得意としていることを井崎は知っていた。水野は何人もの会社の社長や重役と旧知のように交際していた。それを自慢にしていた。井崎は水野のそういうところを嫌っていて、酒場でもパーティーでも彼を避けるようにしていた。 「水野の会社には調査課っていう課がありましてね。調査っていうのは、そういう調査なの」  瑛子が笑った。 「調査課か」 「それで、あるとき、水野が社長室に乗りこんで行くのよ。どういうふうに話をするんだかわかりませんけれどね」 「恐喝《きようかつ》じゃないか」 「そんなんじゃないわ。あの人、もっとうまいわよ」 「そうだろうな」 「それで広告を貰ってくるのよ」 「薄汚い奴だ」 「………」 「きたない男だ」  と、もう一度言った。 「だって仕方がないじゃないの。水野って、いい人よ。本当は気の小さい人よ」  井崎は、『金属』や、青木の経営する同系列の酒場や飲食店が開店すれば忽《たちま》ち繁昌するわけが見えてきたように思った。資金にも困らない。その店の雇われマダムとなる女は、誰かの女である。そうやって店をひろげてゆくことは『金属』の女たちの励みになっているはずだった。  井崎が酒場としての『金属』を好んでいたのは、そういう一種の店内における緊張感ではなかったかと思う。他の店とはどこか感じが違っていた。緊張していて、同時に、ゆったりした感じがある。女たちの服装は垢抜《あかぬ》けていた。  井崎は、青木が、酒場の経営は酒じゃありません、酒はどこへ行ったって同じ味です、勝負は女です、それ以外にありませんと言っていたことを思いだした。  それと人間ですとも言っていた。そのとき井崎は、滑稽な感じがした。小説を書くのは人間を書くことですと言われたのと同じような感じがした。しかし、たしかに『金属』では、バーテンダーでもボーイでも、井崎に対する扱いや配慮が他の店とは格段に違っていた。それは、井崎に対する調査が行き届いていたということになる。 「私ねえ、水野に騙《だま》されたのよ」 「………」 「私、お客さんで好きな人がいたの。その人が箱根のホテルで待っているっていうんで行ってみたら、いたのは水野だったのよ。もう電車の無い時間になっていてね、それで……。どうにもならなかった」  その話も聞いたことがあったような気がした。すると、京都の旅館で井崎を騙すようなことは瑛子にとってはそれほど心に響くような事件ではなかったのかもしれない。また、瑛子が京都へ行くということは、店のほうの指令であったのかもしれない。いずれにしても、いまの井崎にとっては、それはどうでもいいことだった。 「俺はどうなんだ」 「………」 「俺はミソッカスか」 「………」 「俺のことなんか調べたってしょうがないじゃないか。それとも、一種のアクセサリーかね」 「青木も水野も、先生のこと、好きなのよ。安江姐さんだってそうよ。それは本当よ」 「めいわくだね」 「私だってそうよ。私、先生、好きなのよ」  瑛子が涙声になった。 「さあ、どうかね」 「淋しいじゃない? こんなのって。お店にいらしてもすぐにお帰りになってしまうなんて」 「病気なんだから仕方がないよ」  瑛子が、店の秘密をそこまで喋ってしまうのは、瑛子と井崎とが他人になってしまっている証拠だと井崎は思った。 「私ねえ、先生がお店にいらして、すぐにお帰りになるでしょう。お帰りになる気配はいつでもわかっていたのよ」 「………」 「私ねえ、そのとき、いつでも事務室へ行って泣いていたのよ」  たしかに瑛子は井崎を送りだすことをしないようになっていた。井崎がそれとなく店内を見廻しても瑛子の姿が見えなかったということも事実だった。 「さっき言ったお店のこと忘れちゃってね」 「………」 「それに、いまはもうそんなんじゃないの。あの頃のほうが面白かったわ。お客さんが変ってしまいましてね。いまは中小企業の社長さんのほうがお金を持っているの。でも、あのひとたち、やっぱり駄目ねえ」  五時になっていた。 「そろそろ行かなくちゃいけない」  しかし瑛子は立とうとしない。 「お店へ行かなくちゃいけないだろう」 「私、今日はいいのよ」 「そうはいかないよ」  井崎が立ちあがっても、瑛子はまだ腰をおろしていた。井崎は、その手に乗るものかと思った。  井崎は、こんなふうにして瑛子に会うのは悪くないなと思った。  三月の初めに、井崎は松本市へ行くことになっていた。松本市に洋家具の蒐集家《しゆうしゆうか》がいて、その人を中心にした小説を考えているところだった。松本の帰りに、四時に、瑛子の利用する駅の改札口で会う約束をした。新宿で食事をして、店の前まで送ってやればいい。  そのときに、瑛子に、少しまとまった金を渡すつもりでいた。それで決着をつけようと思っていた。  瑛子が、やっと立ちあがった。  その翌々日に、井崎は食品会社に出勤した。帰ろうとするときに、営業部の坂内と磯田に誘われた。一緒によく酒を飲んだ仲間だった。  坂内や磯田の考えていることが、井崎にはよくわかった。二人とも、井崎が元気をなくしていることに気づいていた。  有楽町に新しく出来たビルの地下の小料理屋で食事して、銀座裏の酒場で酒を飲むのを彼等はAコースと名づけていた。新宿の大衆|割烹《かつぽう》で食事して、キャバレーで遊ぶのをBコースと言っていた。 「井崎さんと一緒だから、今日はAコースにしましょうか」  坂内は、わざと陽気に言って、机上の整理をはじめた。井崎は、大阪の出店である小料理屋の勘定をもたせてもらうこと、銀座の酒場は三人で等分に支払うことを条件にしてもらって、それを承諾した。  井崎は、小料理屋でも酒がすすまなかった。気が滅入《めい》ってくるばかりである。坂内も磯田も昔話をして井崎の気分を盛りたてようとしていた。 「井崎さんは私の憧れだったんですよ。いや、恋人かな」  大阪支社から転勤してきた磯田が言った。 「あの頃、私が本社へ出張してきますとね、井崎さんは黒いセーターを着ていましてね、颯爽《さつそう》としていましたもんね。誤解しないでくださいよ、仕事ぶりに憧れていたんですから……。それで、なんか、こう、近寄り難い感じでしたね。私もあんなふうに仕事が出来たらいいと思っていました」 「………」 「あれは、まだ小説をお書きになる前でしたっけね」 「いや、書いていました」  井崎は、笑おうとしていて頬が動かないという感じでいた。二人に済まないという気持が、井崎をさらに重くしていた。 「さあ、今夜は徹底的に飲もうじゃないですか。……ここは御馳走になります。お言葉に甘えて……。あとはまかせてください」 「それは困るよ」 「いいじゃないですか、たまには。責任をもってお宅までお送りしますから」  銀座裏の酒場は、井崎も知っている店だった。  井崎の気落ちしている感じは、すぐに女たちに伝わったようだ。坂内と磯田は、店について酒が運ばれたときから歌いだした。ギターのうまいホステスがいた。他の席の客も、これに和することがあった。  女をはさんで肩を組み、体を左右に揺すって歌った。井崎は、ただ口を動かすふりをしているだけだった。酒場の喧騒《けんそう》が井崎を一層物悲しくさせていた。どうにもならない。井崎は暗い深い穴に落ちこんでいるような気がしていた。どうにもならない所で、体を縮めていた。  歌が止んだ。磯田がギターをとめさせた。 「井崎さん。物真似をやります」  磯田は、夜行列車の車掌のアナウンスや、水洗便所の水の流れる音や、軍楽隊の演奏の口真似がうまかった。彼は社内の宴会の人気者だった。悠揚《ゆうよう》せまらぬ感じが、なんとも滑稽だった。彼はまた、井崎がそれを好んでいることも知っていた。 「今日は、野球場のアナウンスをやります。もちろん、女です。それも、昭和十二年頃の阪神・巨人戦をやります。甲子園球場です」  磯田の年齢では、その頃のプロ野球を見ているはずがない。磯田は勉強してきたのかもしれない。彼は、井崎が、昔、野球場に通っていたことも知っていた。その当時は、アナウンサーは女ではなかったと思ったが、黙っていた。  店内が静かになった。 「先攻の読売ジャイアンツ。イチバン、セカンド、ミハラ。……一番、セカンド、三原……」  間のびしたような関西弁の女のアナウンスの口調だった。 「二番、サード、水原。二番、サード、水原。……三番、ライト、前川。三番、ライト、前川……」  それは、まさに絶妙といっていい芸だった。ふだんの井崎であったら、笑いをこらえるのに苦しんだはずである。たしかに、おかしいのである。そう思っていて、顔面の筋肉が硬直したように動かない。 「この前川は、ピッチャーもやりましたね。……四番、ファースト、中島。四番、ファースト、中島。……五番、レフト、伊藤。五番、レフト、伊藤……」  井崎は坂内の強引な勧めをことわって、ジュースを飲んでいた。 「……ラストバッターは、ピッチャーの沢村。九番、ピッチャー、沢村。以上でございます。……後攻の阪神タイガース。一番、ファースト、藤井。一番、ファースト、藤井。二番、サード、藤村……」  磯田は、ちらちらと井崎を見ていた。井崎に反応がないのをいぶかる顔になっていた。井崎はどうすることも出来ない。井崎は耐えていた。何に耐えているのか。 「私は、阪神の山口が好きでしてね。この人は戦後もちょっとやったでしょう。たしか日新商業でしたね」  女たちが別の席に移った。 「さっきのは古すぎたかな。じゃあ、もっと新しいのをやりましょう」 「………」 「やっぱり、タイガースです」 「………」 「イチバン、センター、ゴォ……。これは呉昌征の呉です」 「………」 「この呉っていう発音がむつかしいんです」 「………」 「イチバン、センター、ゴォ……」 「………」 「イチバン、センター、ゴォ」  井崎は耐えていた。  磯田の声が無人の甲子園球場に谺《こだま》しているように思われた。     34  瑛子と約束したように、三月の初めのある日、井崎は、松本駅から急行列車に乗り、八王子で中央線の電車に乗り換え、瑛子が出勤に利用している駅に到達した。約束は四時であるけれど、井崎が着いたのは三時半を廻ったばかりの時だった。  駅に降りてみると、改築されたばかりであって、井崎が考えていたよりはずっと大きく広かった。瑛子との約束は、駅の改札口ということになっていたが、その駅は、乗降の場所が三カ所になっていた。  瑛子は、バスに乗って駅へ行くのだと言っていた。従って、バス・ターミナルのある、駅前の円型広場のある、正面駅とでもいうべき改札口にいれば、まず間違いがないだろうと思われた。しかし、陸橋を渡った反対側の改札口も、バスの発着所になっているかもしれない。瑛子のマンションは、方向からすると、そっちのほうになる。  井崎は天気がよければ山に登るつもりでいたので、リュックサックを背負っていた。登山靴をはいていた。その他に、仕事をするための、資料や辞書をいれた鞄を提げていた。  その駅は乗客の出入が激しかった。それも井崎の予期に反したことだった。はじめは、高校生と大学生が多かった。附近に学校の多いことにも驚かされた。そのあたりが、郊外に伸びた住宅地の新しい拠点になったのだろう。有名デパートが二軒もあり、駅構内の地下も名店街や食品売場になっているようで、絶えず人間が動いていた。  改札口の上にある大時計の針が動いて、四時を示した。井崎は、そこからバスの停留所を見ていた。瑛子はバスから降りてくるはずだった。瑛子は約束した時間に正確にやってくるのが慣《なら》わしだった。前夜、『金属』に電話を掛けて確かめておいたのだから、間違いのあろうはずがない。  井崎の恰好は、かなり人の目につく風態《ふうてい》となっている。じろじろと見ながら通り過ぎる女がいた。そのなかに、井崎の顔を見知っているらしい女がいて、訝《いぶか》しそうに一度振り返って階段を登っていった。  四時半になった。  瑛子によく似た若い女が何人かいた。近くまで来ると髪型が似ているだけで、顔は全く似ていない。瑛子の好む服装は、素人っぽいというより学生風であって、余計にまぎらわしいことになる。井崎は、顔や服装を見ないで肢《あし》を見ることにした。瑛子のように細く伸びている肢は、そうめったにあるものではない。ミニスカートの女が多いので、その点は都合がよかった。井崎は、しばらくは、そのことに興じていた。バスから降りてくる女は、ステップのところにあらわれる肢ですぐにわかる。  工場の終業時間になったようで、女工員らしい若い女の数が多くなった。それだけに、目がはなせない。  井崎は、次第に、瑛子のような美しい女は極めて稀であることに気づかされるようなことになった。いくらか忌々《いまいま》しく思われることであるが、公平に見て、公平に判断して、それはそうなっていた。  もしかしたら、陸橋を渡った、向う側の改札口に待っているのかもしれないと思った。まず、改札口といえば、井崎の立っている所を指すのに違いなかろうし、人と待ちあわせるときには一定の場所を動いてはいけないということを承知していて、井崎は、そこを見てみようという気持を制することが出来なかった。井崎が移動したときに瑛子があらわれるという事態は充分に考えられることだった。もはや五時に近くなっていて、瑛子は、井崎が待ちくたびれて帰ってしまったと思うに違いない。  井崎は、いそいで階段を駈けあがった。リュックサックが肩にくいこんで、ひどく重いものに思われた。それから、自分の姿が醜悪に思われた。松本市では山に登らず、酒も飲まず、温泉に浸って静養を続けてきたのにもかかわらず、息ぎれがした。手をあてると、心臓の位置がはっきり把《とら》えられるようだった。心臓は肋骨に打ちあたり打ちあたりしていた。  瑛子は向う側の改札口にもいなかった。東側のひっそりした乗車口にもいなかった。井崎は正面入口に戻った。五時半までに、それを二度繰りかえした。瑛子が、井崎と会うために駅に来ることがないということが明瞭になった。  井崎は、ひどく疲れていることに気づいた。そこまでの時間は、非常に長かった。これで二度目だなと思った。  しかし、今度の場合は、瑛子の身辺に異変が起ったのではないかと案じられた。自動車教習所と前夜の電話とで、二度とも固い約束をかわしている。自動車教習所を見おろす岡の上では、あきらかに瑛子のほうで井崎に接近してきたのだった。昨夜の電話で、瑛子は、四時ね、駅の改札口ね、と、復唱してみせていた。  昨夜、店が終った後で、瑛子が交通事故に遇う。マンションに帰ってきてから事故が起る。急病になる。あるいは、今日になって急病になる。マンションから出て駅にむかうまでに交通事故に遇う。怪我をする。即死する。……井崎は、その他の、あらゆる起り得る事故と異変を想定した。  井崎はまた、こうも思った。  客が来るとか、うっかりして時を過してしまうかして、四時に駅に行かれないようになる。出たとしても四時半を過ぎてしまう。それまで井崎が待っているわけがない。あとで謝《あやま》ることにしよう。今日は平常通りに、五時半頃に家を出よう。  そうだとすると、『金属』の開店は六時半だから、六時少し前に瑛子が駅に姿をあらわすことになる。六時まで待とうと思った。  六時までの時間は、いままでよりもさらに長く感ぜられた。大時計は、一分ごとに、長針が微動を伴って動いていた。  六時になった。  あと三十分待ってみようと思った。瑛子が遅刻することも考えられる。しかし、六時十五分過ぎになったとき、井崎は、もう我慢が出来なかった。いそぎ足で階段を登り、『金属』にむかった。  井崎が到着したときは、まだ七時にはなっていなかったはずである。井崎が疲れてしまっているのは、空腹であるせいでもあった。  客は誰もいなかった。井崎は、カウンターの奥のほうにいる、瑛子の親しくしているバーテンダーの木村のほうに向って歩いていった。瑛子が病気をするとか、事故に遇っているとすれば、木村に連絡をとっているはずである。  井崎が木村に声をかけようとしたときに、女が飛びだしてきた。 「ごめんなさぁい……」  瑛子だった。  井崎には信じ難いことに思われた。やれやれという気持と不快とが同時に井崎を襲った。  井崎は無言で椅子に腰をおろした。とにかく、疲れきっていた。瑛子に恨み言を言うのも、いまいましい。 「ウイスキイをください。ストレートで……」  井崎が木村に言った。それが瓶ごと運ばれてきた。タンブラーに半分ほど注いで、飲んだ。そんなふうにして飲むのは、退院以後では初めてのことだった。 「姉が遊びに来ましてね。二人の子供を置いて買物に行っちまって帰ってこなかったのよ」 「………」 「だって、連絡のとりようがなかったんですもの」 「六時まで待ったんだ。きみが約束を忘れたのかと思ってね。六時になれば、あの駅から乗るはずだからね。それまで待っていたんだ」 「ごめんなさい」 「………」 「でも、二時間も待つ人なんて、私、はじめてよ」  さっさと行けばいいのにという口調だった。 「そういう人間もいるんだよ。きみは約束だけは守る女だと思っていた」 「だって、しょうがないじゃないの。駅へ電話をするわけにいきませんものね」 「………」 「姉が六時に帰ってきたので、私、ハイヤーを呼んだのよ。電車じゃ間にあわなくなってしまったんですもの」 「自動車で出勤することがあるのかね。いままでにも……」 「あるわよ」  これで瑛子の嘘が明らかになった。その時刻では、青梅街道を通るにしても、甲州街道を利用するにしても、自動車に乗るのは、電車で来るよりもずっと遅くなる。それに、井崎は、女というものは、一人では、絶対といっていいほどに、ハイヤーを雇ったりしないことを知っている。  瑛子は、昼間、都心部のホテルで男と寝ていたのである。それに違いがない。井崎は、自分の目と眉のあたりが険悪になっているのに気づいていた。急に酔いを発してきた。  そこへ、七、八人の客が来て、瑛子は、そっちの席へ行った。井崎の席から女たちが去っていって、一人になった。そのことでも、井崎は自分の表情や態度がどうなっているかに気づかされた。井崎は飲み続けていた。  瑛子が、別の席から井崎の様子をうかがっていることが知れた。瑛子もストレートで飲んでいるようだった。  一時間ほどで瑛子一人が戻ってきた。足もとが危くなっていて、声も自由にならないようだった。 「先生、喧嘩しようか」  ひどく酔っていて、声がうわずっていた。 「お前は向うへ行っていろよ」 「いやよ。……先生……先生と喧嘩しよう」  瑛子が何を言いたいのかがわからない。瑛子が井崎に抱きついてきて、それからすぐに井崎を突きとばすようにした。 「よし。喧嘩しよう。だけど、いまは厭だ。酔っぱらいと喧嘩するのは厭だ」 「………」 「明日、今日と同じ所で、同じ時間に待っている。おい、わかったのか」 「わかったわよ」  翌日の四時十分に、瑛子が駅の改札口に来た。 「十分遅れたわね」  井崎は、電車に乗らずに、駅から外に出て、タクシーをひろった。 「二子玉川……」  井崎は運転手にそう言っただけで黙っていた。瑛子も黙っていた。 「先生、こわいわ」  瑛子が言った。瑛子は神妙にしていた。 「こわくなんかないよ」 「先生、おこってる」 「おこってなんかいないよ」  しかし、井崎の口もとは、やはり、こわばっていた。口を開くのが面倒だった。  二子玉川の多摩川に面したところに、井崎が会合に利用する料亭があった。そこで食事をして、用意した金を瑛子に渡すつもりでいた。井崎は決着をつける気になっていた。  雨になっていた。ひどく寒い日だった。  料亭の玄関で、中腰になった内儀《おかみ》が、井崎が女連れなので驚いたような顔になっていた。 「もう、やめようじゃないか」  離れ座敷に酒と料理が運ばれたときに井崎が言った。 「もう、やめようよ。……正直に言って、俺はきみが好きだ」  それは、半分が本音で、半分が嘘であるように思われた。そう言ったほうがいいように思っただけだ。また、ある時期の瑛子は、たしかに悪くなかった。 「俺は、昨日、駅に二時間も立っていて、何百人という若い女を見たんだ。白状するけれどね、きみぐらい可愛らしい女は一人もいなかった」  外面だけではねとつけ加えようとしてやめた。泣かれたりしては困ると思ったからだった。 「この恋や思ひきるべき桜んぼ、という俳句があるんだけれどね。これは死んだ川島雄三という映画監督のつくった句だよ。まあ、そういうことにしようじゃないか」  瑛子はうつむいていた。井崎は、われながら、どうにもキザだと思った。しかし、さっぱりと別れたいと思っていたので、自分のキザさ加減に耐えようとしていた。  瑛子と井崎とが、黙って盃を重ねていた。瑛子は涙ぐんでいて、その場にいるのが辛いという風情だった。  井崎は、瑛子と最後の食事をして、金を渡し、それで終りにするつもりでいた。六時になったら自動車を呼び、瑛子を帰して、内儀と二人で久しぶりにゆっくりと飲む予定にしていた。若い女なんか、もう必要がないと思っていた。もし遅くなったとしても、同伴出勤にしてやれば、八時までに『金属』に行けばいいのである。時間は充分にあった。  しかし、井崎は、自分でも思いがけない言葉を発していた。井崎は酒に弱くなっていた。また、無言を続けている瑛子に次第に腹が立ってきたからでもあった。 「おい、瑛子。きみは俺に何の恨みがあるのかね」 「………」 「俺は悪い客だったかね」 「………」 「俺は男らしくないところがあったかね。答えなくたっていいよ。しかし、もし、きみがそうじゃないと思ったら何でも言っていいよ、どんなことでも。……なんでもいいから言ってごらんなさい」 「………」 「俺は悋嗇《けち》だったかね。……俺は、青木や水野や、それから堀越のような金持じゃないよ。だけど、いつでも、持っているだけの金はきみに渡してきたつもりだよ。何もないときでも、ジュース一杯のときでも、持っているだけのものを置いてきたつもりだよ。信じてくれなくてもいいけれどね。……俺は男として駄目なところがあったかね。俺は、汚い男かね」  こんなふうに女を追いつめてはいけないということを井崎は知っていたけれど、自分の言葉を自分で制することが出来なかった。それは井崎の未練だった。 「俺はきみに惚れていたよ。これも信じなくてもいいさ。しかし、すくなくとも『金属』にいるどの女よりもきみが好きだった。これは事実だよ」 「………」 「きみが夜中に山梨に来てくれたときにね、俺は、一生きみの面倒を見るつもりになっていたんだよ。俺にやれる範囲でのことだけれどね」 「………」 「あんなことがなかったらね」  井崎は京都の旅館でのことを言っていた。それは瑛子に通じているはずだった。瑛子は唇を噛み、それから、たてつづけに酒を飲んだ。蒼白くなっていた。 「昨日でもそうだけれどね、俺は陸橋を二度往復したよ、駈足でね、リュックサックを背負ってね。そんなことはどうでもいいけれどね、きみは俺の心臓が弱っていることぐらいは知っているだろう」 「………」 「きみは二時間も待ってくれる男に出会ったことがないんだろう」  井崎は、なにか、自分の態度が女々しく、いやらしいものに思われてきた。情けないような思いにとらわれていた。 「俺はサービス業の女を苛《いじ》めるようなことは大嫌いなんだ。それも知っているだろう。いつでも同業者だと思っていた。いまでもそう思っているよ。きみがどんな営業方針でやっていこうと俺の知ったこっちゃないよ。しかし、俺みたいな男を怒らせるのは、どこか間違っているはずだよ」  井崎は、しらじらしい気分になっていた。この女に何を言ったって仕方がないじゃないかと思っていた。また、実際は、自分は、この女に何も言う資格のない男だとも思っていた。何の資格も、何の権利もない。井崎は瑛子を叱る資格がない。  瑛子が、やっと顔をあげた。 「先生……」  よわよわしい声だった。 「ウイスキイを貰ってくださらない?」 「そうしようか」  井崎が電話をかけ、内儀がウイスキイの瓶を持ってきた。愛想のいい内儀が、その日は口をきかなかった。内儀がまだ部屋にいて、汚れ物を片づけているときに、瑛子は、タンブラーに一杯にウイスキイを満たした。  例の手できたなと井崎は思った。内儀が、顔をこわばらせて去っていった。  瑛子は、いきなり、天井をむいて、毒物を飲むようにして、半分までウイスキイを流しこんだ。 「先生、これを見てちょうだい」  瑛子が袖をまくった。注射のあとの絆創膏《ばんそうこう》が貼ってあった。 「私、子供を堕胎《おろ》したのよ」 「………」 「私、体の具合が悪いって言っていたでしょう。……妊娠していたのよ」  前の年の暮頃もそうであったが、今年になっても、瑛子はどこか元気がなかった。胃の調子がわるいという。嘔《は》き気《け》がすると言っていた。それに、いくらか体重が増してきてもいた。 「堕胎したら、なおっちゃった。やっぱり、それだったのね」 「いつ?」 「自動車の教習所でお目にかかったでしょう。あのあとで、お医者へ行ったのよ。それで、次の日に堕胎したの」  それにしては絆創膏の色が白すぎる。瑛子の嘘が井崎にはわかった。井崎は、瑛子が言おうとしていることがわかっていた。話の筋道が見えている。わざとその筋道に乗ってやれと思った。井崎の勘がいいのではなくて、瑛子の手口とか考えとかが子供っぽ過ぎるし、あまりにも常套的《じようとうてき》なのである。 「嘘を言っちゃいけない」 「………」 「きみは子供を堕胎したかもしれない。いや、俺も、堕胎したと思うよ。しかし、それは昨日今日の話じゃない。堕胎したとすれば、去年の十二月か、今年の正月の初めだろう」  井崎に追いつめられて、瑛子は堕胎のことに思いいたる。いま、ビタミン注射か何かの絆創膏が貼ってある。これを結びつければいい。男なんかに何がわかるものか。 「どこの医者へ行ったんだ」 「………」 「よく、そんな医者がすぐにわかったもんだね」 「友絵ちゃんに聞いたの」  瑛子がまたウイスキイを飲んだ。タンブラーのなかが残り少くなった。瑛子は、自分で注ぎ足して、乱暴に呷《あお》った。  そうして、井崎を見据えるようにして言った。 「先生の子供かもしれない」  力の無い声だった。|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》と言わなければならないところに、瑛子の弱味があった。 「……だからさ、そうだったら、昨日今日の話じゃないんだろう。三月の初めに堕胎して、それが俺の子供だとしたら、妊娠五カ月とか六カ月になってしまうじゃないか。そうなったら、簡単にはオロせないぜ」 「………」 「きみは、たしかに子供を堕胎したんだ。しかし、それは、多分、去年の十二月のことだろう」 「………」 「どうかね、俺の言っていることに間違いがないだろう」  瑛子は黙っていた。顔は、いっそう蒼白くなっていた。  女を追いつめてはいけない。しかし、このことだけははっきりさせておかなければならない。 「それで、その子供が俺の子供だと言うんだね。俺の子供かもしれないわけだね。それなら、時間的には合っているよ」  井崎は、どの女と寝るときも注意を怠らなかった。道子のことがあってから、そのことについては自信があった。しかし、井崎ではない誰かが、あるいは何人かの男が、あの期間に、瑛子の体に土足で踏みこんでいるということが、何か忌《いま》わしいような、汚《きたな》らしいような感情を引き起していた。その男は誰だろう。水野か堀越か、それとも井崎の知らない他の男か。誰だかわからないけれど、その男の無責任ということに腹を立てた。それは井崎の嫉妬であり、瑛子に裏切られた腹だたしさでもあった。  瑛子が無言でいることが、井崎の推理が当っていることを示している。井崎は、馬鹿らしくなり、この女を早く解放してやりたいと思ったが、決着をつけなければならないことが残っていた。 「俺の子供かもしれない、というんだね」 「………」 「おい、瑛子。京都の旅館でね、次の朝、きみは俺に千円貸してくれと言ったね」 「………」 「あの金は何に使ったんだね。……俺にはわかっているんだよ。きみは旅館の敷布を汚《よご》したんだ。きみは明け方になって、そうなったんだろう。それで女中に金を渡したんだろう」 「………」 「俺は病院に帰って医者に聞いてみたんだ。ショックとか不安とか動揺とかで生理日が早くなることがあるかどうかって。……あると言っていたね。それかどうかしらないけれど、きみの敷布が汚れていたのは間違いがない。きみが帰ってから、きみの布団を調べればわかることだけれど、そんなことはしなかった。……だから、これは推理だよ。違うなら違うって言ってくれよ」  瑛子は、まだ無言で顔を伏せていた。 「それでね、あの日が生理日だったんだ。それからあと、俺はきみと旅館へ行ったことは一度もない。俺の子供が出来るわけがない」 「私ね、赤ちゃんのこと、よく知らないの」 「………」 「ほんとよ、私、そういうこと、よくわからないの」  瑛子は混乱しているようだった。  井崎は、誰の子供を堕胎したんだという言葉が出そうになって、辛うじてそれを制していた。そういうことを言ってはいけないのだと思っていた。 「先生……」 「………?」 「私、今日は、行くつもりになっていたのよ。そのつもりでおうちを出てきたのよ」  それだけで通ずることである。井崎と瑛子とは、上野の動物園の裏にある旅館を何度か利用していた。それは、以前に井崎が執筆するときに使っていた宿で、連込み旅館ではなかった。瑛子はそこが気にいっていた。行くというのは、その旅館へ行くという意味だった。  瑛子は堕胎の話をもちだして失敗した。次には、自分の体を無料で提供するという話をきりだしてきたわけだ。しかし、井崎は、すでに、瑛子の体に対する興味も薄れてきていた。魅力もないし、義理もないし、利用価値もない。井崎は自分だけのことを考えていた。安穏な生活だけを願っていた。瑛子には尽くすだけのことは尽くしたのだし、瑛子のほうでそれに応《こた》えることが極めてすくなかった。それは終っているのだ。 「こんなのって、厭ぁ……」  瑛子が泣きだした。大粒の涙が溢《あふ》れて、頬を伝うのが見えた。 「さしむかいなんて、いや」  瑛子は、井崎の脇に坐った。……坐ったと思った途端に、抱きついてきて、井崎を押し倒し、唇を重ねようとした。  皮を斬らせて肉を切る、か。井崎はそう思った。 「頭、いたい。私、アタマ、イターイ」  井崎も急に酔いが廻ったようだ。井崎の手の届くところに瑛子のハンドバッグがあった。井崎はその口金をあけた。そのままの姿勢で、左手のポケットから用意してきた金のはいっている封筒を出し、ハンドバッグにおさめた。瑛子の唇と井崎の唇とが重なっていた。瑛子の目のあたりが涙で黒ずんでいた。不自然に投げだされている肢が見えた。捩《よじ》れて皺《しわ》になっているストッキングが、ひどく醜悪で淫猥《いんわい》なものに思われた。 「私って、可愛い?」 「可愛いね、残念ながら……」  井崎は思っていることと反対のことを言った。しかし、前日に、井崎は、瑛子とあまり年齢の差のない女を何百人と見ていて、瑛子ほどの女がめったにいないのを見届けていた。それは事実だった。また、瑛子が井崎にそう言ったのは、瑛子の今後の営業方針にかかわることだった。瑛子との仲がもどることはないけれど、井崎のほうで、瑛子の営業を妨害する理由はひとつも無かった。 「さあ、行こう。そろそろ出ないと、遅れちまう」 「いや……」  井崎は受話器を取り、ハイヤーを頼んだ。すぐにまた電話が鳴った。内儀の声だった。 「困ったわ。なにしろ、このお天気でしょう。ぜんぜん無いらしいの」 「天気って?」 「あら、知らなかったの。凄い雪……」 「ほんとかね」  窓をあけると、雨が雪に変っていて、多摩川の河原も白くなっていた。 「あり次第、すぐに頼む」  同伴出勤なら、なんとか間にあうだろう。 「お化粧を直しなさい。お店に出るんだ」 「いや……」 「そんなことを言うもんじゃない」  しかし、瑛子は、朦朧《もうろう》となっているようだ。 「私、お店へ行かないわ」 「駄目だ」 「私、やすんじまう」 「そうだな、家へ帰って寝たほうがいいかもしれないな。なにしろ、病後だからね。家まで送ってやろう」  もしかしたら、瑛子は、十二月と三月に、二度堕胎しているのかもしれない。そのへんのところになると井崎にも見当がつかない。  ハイヤーは、なかなか来なかった。井崎は、もう一度、内儀を呼んだ。 「ハイヤーでなくてもいいよ。無線タクシーでいいから、なんとかならないかな」  このほうは、すぐに来た。八時になっていた。  自動車のなかで瑛子は身を寄せてきた。 「先生、私、おうちにも帰らない」 「駄目だよ。まっすぐに帰ろう」 「いや! 絶対に帰らない」 「よし、わかった」  井崎も朦朧となっている。井崎は運転手に言った。 「この、バック・シートに広告の出ている旅館を知っていますか」 「知ってますよ」  御商談・御休憩・御宿泊という、連込み旅館の広告が見えていた。 「そこへ行ってください」  その旅館は、上野の先で、京浜線や山の手線のほかに、東北線や信越線や常磐線なども通る線路に面した崖《がけ》っ縁《ぷち》に建っていた。夜中になっても、絶え間なく貨物列車が通っていて、汽笛が鳴ったりしていた。  天井にも壁にも大きな鏡があり、電燈のスイッチを押すと、照明が紫やピンクや緑になったりする。  瑛子の女が変っていた。瑛子の女が深くなっていた。瑛子が子供を堕胎したのは、ほぼ間違いがないだろう。瑛子の体から少女が消えていた。 「出ちゃう、出ちゃう……」  と、瑛子が叫んだ。井崎の体に、いままでに感じたことのない感覚が伝わってきた。瑛子が噴出した。井崎は、そういう女がいることを話に聞いたことはあった。しかし、それ以前の瑛子がそうなったことはなかった。井崎は、また、騙されてきたんだなと思った。 「先生、見ちゃ厭よ。……ああ、先生、見ないでね」  瑛子は二度噴出した。 「おい、瑛子、はじめからやり直そうか」 「………」 「俺がきみに海水着を買ってやるんだ。それから山梨へ行く。夜中にきみが訪ねてくる。俺が駅へ迎えに行く」  井崎は心にもないことを言っていた。瑛子は鼻の先で笑った。瑛子は、さめていた。  瑛子が『金属』へ電話をかけた。バーテンダーの木村を呼びだして、寝ながら話した。その電話は、相手の声がよくきこえた。 「私、頭が痛いので、おやすみします」  はっきりした、事務的な声になっていた。 「誰か、来てる?」 「水野さんに、関島さんに、宮坂さんです……」  木村の声がひびく。それが瑛子の客なのだろう。 「水野に、関島に、宮坂か……。いいや、いいや、そんなやつ、知っちゃいないや」  瑛子の口ぶりから察すると、瑛子は木村とも体の関係があったように思われてくる。  外へ出ると、小降りにはなっているけれど、大粒の春の雪が、空に舞っていた。どうやら、ちょうど終電車の時刻であったようだ。雪のために、大通りではタクシーがすくなく、空車は予約があるのか、二人の前を素通りした。  井崎と瑛子は駅まで歩いた。駅のタクシー乗場は長い列になっていた。五分に一台、十分に一台というくらいにしか自動車はとまらない。  吐く息が白く見える。靴から冷気がのぼってくる。瑛子はネッカチーフをしていた。井崎はマフラーを取って、瑛子の頭と首に巻いた。そこにも雪がついた。瑛子にかぎらず誰もが無言だった。無言で足ぶみをしていた。  そうやっていると、瑛子が、かなり小柄な女であることがわかる。井崎の前に、井崎にもっとも近く、もっとも遠い女が佇《た》っているように思われた。この女は、いま、何を考えているのだろうか。  井崎の前に佇っている女は、井崎にとって、女というよりは、一箇の物体だった。井崎には憎しみのほうが強かった。しかし、物体であることの哀れがあった。無縁であることが、いっそう哀れだった。  こういう悪い女もめったにいるものではないと思った。井崎は瑛子を憎んでいた。それにもかかわらず、井崎は、何かしら優しい感情につつまれていた。     35  五月になった。  井崎は『金属』から遠のいていた。ひとつには、暮から春にかけて怠け続けていたので、仕事のうえの借金のようなものが積《つも》ってしまっていたからでもあった。井崎は目を瞑《つむ》るような気持で、机にしがみついていた。何も思うまい、何も考えまいと思っていた。旅に出ることもなくなった。 「私は無菌豚なんですからね、あんまり刺戟しないでちょうだい」  と、道子が言った。井崎は道子の言葉も聞くまいとしていた。道子も静かになっていた。道子が顔を引き攣《つ》らせて仏壇の前に坐ってしまうのは、一月に二度か三度になっていた。井崎は何も言わずに、頭上の風をやり過すようにしていた。  夜の十一時頃、万年筆を置いて、いまごろは、瑛子は、まだ働いているのだなと思うことがあった。瑛子に似ているモデルの出てくる国産時計のTVCFは、やはりよく見ていた。しかし、以前とは、こちらの見る目が違ってきていた。  瑛子からは、会社あてに何度も電話が掛ってくる。井崎は、たいていは居留守をつかう。稀に電話に出ても、瑛子のほうに用事があるのではないようだった。 「電話当番かね」  井崎は皮肉を言ったりするだけだ。  五月の十日すぎに、井崎は、遅くなって『金属』へ行った。その頃は、雑誌の原稿の締切の重なるときで、しかも黄金週間が重なるので、毎年、忙しい思いをさせられていた。井崎は気息|奄々《えんえん》の状態で、最後の原稿を板橋の印刷所で書き、ついうかうかと行ってしまうという感じで『金属』の前を通った。そこのドアボーイが頭をさげ、資料のはいった重い鞄を持った井崎は、自動車を頼むつもりで店内に入った。  瑛子は上機嫌だった。それほど酔っていないで、いい状態でいるように思われた。 「先生、おねがいがあるの……」 「なに?」 「羽田の東急ホテルのお部屋をとってくださらない」 「そんなホテル知らないよ。泊ったことはあるけれどね。顔はきかないよ」 「先生のお名前をおっしゃれば何とかなるかもしれないわ」 「どうしたんだ」 「さっきお帰りになったお客さんね……」 「そんなの、いたか?」 「七、八人でお見えになっていたでしょう」 「知らなかった」 「みなさんでマカオヘいらっしゃるんですって」 「どんなひと?」 「それが初めてのお客さんなのよ。私、お送りするって約束しちゃったのよ。それが朝の八時発の飛行機なのよ。とっても、私、起きられないでしょう」 「ほんとか」 「ほんとよ。私、約束しちゃったのよ」  信じられない話だった。しかし、井崎は瑛子が案外に商売熱心なのを知っていた。 「よし、わかった」  井崎は、電話のあるクロークのほうへ歩いていった。何やら犯行現場へ戻ってくる犯人ででもあるような気分であった。  ホテルは満員で、予約がとれなかった。その他の羽田近辺のホテルも、どこも満員だった。 「困ったわ。私、必ず行くって約束をしたのよ」  瑛子は、そんなふうに負けん気のところがあった。 「ねえ、先生、今晩、私につきあってくださる?」 「ああ、いいよ」  井崎は軽い気持で言った。 「私、羽田空港のロビーの椅子に寝たって、どうしたって見送りに行くつもりなんですから」  店が終って、井崎と瑛子と友絵とが、近くのスナック・バーにいた。  午前一時半になった。自動車を拾いやすい時刻だった。 「おい、羽田まで行ってみようか」 「………」 「友絵さんを送って、羽田空港へ行ってみよう。なんとかなるものだよ。キャンセルがあるかもしれないし、駄目だったらドライブしたと思えばいい」 「うれしいわ」  と、友絵が言った。 「もしホテルが駄目だったら、連込み宿を探そう。それなら、どこにでもあるだろう」 「あらぁ……」  友絵が笑った。 「連込みへ行って、二人で入っていって、金だけ払って、俺だけ出てくればいいじゃないか」  井崎が友絵の前でそんなことが言えるのは、完全に二人の仲がきれている証拠であるといえた。 「そうしましょうか。私、先生を信用していますから」  瑛子は、シラをきっていた。  友絵を四谷でおろして、羽田空港にむかった。事故があったようで、神宮外苑の高速道路へ出るまでに長い時間を要した。 「ほんとに知らない客なの」 「そうなのよ。今日、はじめていらしたんですもの」 「きみも変った女だね」 「団体で、みなさんで行くんですって」 「東南アジア旅行か。いま、それが流行しているからね」  高速道路へ入ったときに、瑛子が言った。 「私、悪いわ、やっぱり。先生、遅くなるでしょう。先生をお送りして、それからにするわ」 「それからどうするの」  井崎と瑛子とは離れて坐っていた。 「先生をお送りして、それから羽田空港へ行けば、午前四時か五時頃になるでしょう。……八時発の飛行機ですから、お見送りは七時頃でしょう。二時間か三時間なら、ロビーで坐っていられるわ」 「それじゃあ、そうしようか。そのほうがいいかな」  井崎は、ひどく疲れているのを悟った。それに、何か、めんどうにもなってきていた。 「それじゃ、運転手さん、目黒あたりで出てください。それからあとは甲州街道です」  自動車は、目黒で高速道路を降りた。井崎は何の気なしに言った。 「はじめての客か。この頃、お店ではそういう客もいれるようになったのかね」 「違うの。本当は違うの。ほんとうは、水野と堀越なの」 「………」 「あの十人ぐらいいらっしゃいますけれどね、水野の招待旅行なの。社長さんたちばっかりで……」  多分、瑛子は、井崎があまり何度もそのことを言ったので、あとで発覚するのを怖《おそ》れて、自分のほうで言いだしたのだろう。 「運転手さん、悪いけれど、やっぱり羽田空港へ行ってくれないか」  運転手は不機嫌そうな顔で、自動車を乱暴にUターンさせた。 「なぜそれを早く言ってくれないんだ」 「………」 「きみの大事なお客さんじゃないか」 「………」 「何をしてもいいから、嘘をつくのだけはやめてくれよ」 「ですから、言ったじゃありませんか。ホテルのロビーに寝てでも、お見送りするんだって」 「………」 「それで察してくださればいいじゃないの。先生は知らん顔をしていらっしゃればいいのよ」  井崎は黙ってしまった。  瑛子は、羽田空港のホテルに泊るのに、一人では具合が悪いし、さらに考えればホテル代を浮かせることまでも計算にいれていたのだろう。そう思っていたときに、久しぶりに井崎が入ってきたのだった。  水野と堀越への義理がすむし、井崎との仲を復活できるかもしれないし、店に対しては仕事熱心な女給となるし、ホテル代は無料になるし、井崎はなにがしかの金を置いてゆくだろうし、それこそ、一石三鳥にも四鳥にもなる思いつきであるといえた。  井崎は、これは、とうてい救われることのない女だと思った。井崎の手におえるような女ではない。  羽田のホテルのフロントは閉じられていて、ボーイが出てくるまでに長時間を要した。やはり、空室は無いという。二軒目のホテルでは、井崎が帰って女が一人で泊るということを知って、近くの旅館の何軒かに電話をかけてくれた。運転手は案外に親切な男で、なんとかしてやれないかと口添えをしたりしてくれた。しかし、泊めてくれるところはない。  引きかえすよりほかにない。旅館を探すのだから、高速道路ではなく、第一京浜国道を通った。必要のないときは、うるさいほどに目につく旅館のネオンが、なかなか見当らない。あっても、あまりに薄汚なかったりした。  多摩川を渡ったところで左折した。  五分ほど馳《はし》ったときに、連込みと思われる旅館の大きな看板が目についた。井崎が交渉すると空室があるという。そういう旅館は前金になっているから、瑛子と二人で入って、井崎が抜けだしてくればいい。運転手に訳を話して、待っていてくれるように頼んだ。  しかし、瑛子は、そこに泊るのは厭だと言った。 「だって先生は帰ってしまうんでしょう。そんなの厭よ」  井崎は、また旅館に断りに行かねばならなかった。運転手は道端で小便をしていた。旦那も下手だねえ、手をひっぱって連れてっちまえばいいんだよと言った。運転手は誤解していた。  三時半になっていた。井崎は帰らなくてはいけない。 「ちぇっ、ついてないなあ」  瑛子は舌打ちをして言った。京都の旅館でのこと、駅で井崎と待ちあわせた日のこと、それに、今夜の堀越のこと、それらをあわせて瑛子はツキと言っているのだった。 「きみは、入院中の俺が外泊しているときに、それをすっぽかすようなことがあっても、堀越のためなら、ロビーで夜明ししてでも見送るのかね」  そういう言い方は、実際は少しおかしい。これを堀越の側からすると、見送りにきた情婦が、ついさっきまで、すぐそこのホテルで別の男と寝ていたという事態になる。井崎は、そこに気づいていない。  井崎も瑛子も無言を続けていた。瑛子のほうからは、井崎に接近する手立ては全く断たれていることになる。瑛子が井崎の手を掴《つか》もうとした。井崎が払いのけた。  井崎は急に胸苦しくなった。心筋|梗塞《こうそく》ではないかという疑いのある痛みが襲ってきた。 「ちょっと苦しいな……」  井崎は胸を手でおさえた。上着を脱ぎ、窓に倚《よ》りかかって胸のあたりを摩《さす》った。 「神経痛だ。……肋間神経痛だ」  彼は、いつでもそう思うことにしていた。 「ザマミロ!」  瑛子が言った。 「おい、もう一度、言ってみろ」 「………」 「怒っているんじゃないんだ。もう一度言ってくれ」 「ざまあみろ!」  瑛子は井崎の耳に口を押しつけて、息を吹きこむようにして言った。  瑛子は救いようのない女である。井崎はそう思った。  しかし、一方において、こうも思った。羽田空港のことにしても、それは許し難いことではあるけれども、少しでも長く井崎と一緒の時を過したいと思ったのだと考えられないだろうか。そういう哀れな女なのではあるまいか。  いやいや、そうではない。どう考えたって、瑛子のやりくちは悪辣《あくらつ》である。  そのあたりから、井崎の新しい懊悩《おうのう》が始まったとも言える。瑛子のことはあきらめている。いや、はじめから、こちらで利用しようと思った女であるに過ぎない。  そうではなくて、井崎は、瑛子のような女の真意を掴みたいと思うようになった。それは井崎の小説家としての心の持ち方であるかもしれない。あるいは、男に一般に共通する心の持ち方であるかもしれない。悪女に惹かれるというのは、男の通性ではあるまいか。しかし、井崎は、縒《よ》りを戻そうと思ったのではない。そんなことは御免だと思っていたし、第一に、そういう意味では、瑛子は、魅力を失っていた。  井崎は大酒を飲むようになっていた。仕事のうえの不調も続いていた。 「駄目だったのね、パパ。……入院して体質も作風も変えてしまうなんて言っていたのも嘘だったのね。あれは気紛れだったのね。みんな嘘で、私を騙《だま》していたのね」  と、道子が言った。  林太郎は宣言した通りに大学受験を放棄して、就職するのでもなく、勉強をしているようにも思われなくなった。ほとんど家へ帰らなくなった。帰ってきても、道子から金を受けとると、すぐに出ていった。  道子は、子供部屋の壁に、林太郎の幼児の頃の写真を一杯に貼りつけた。林太郎のベッドに寝て泣いている日が多くなった。道子には、その頃の林太郎と、文遊妙桜童女と海遊妙周童子だけが残されていた。これでは林太郎も帰ってこられない。  羽田空港のことがあって、一月後に、座談会が終った後で、井崎は『金属』へ行った。九時半頃で、井崎は酔っていた。対談や座談会などで、相手に失礼なことは承知しているのに、井崎は酒ばかり飲み、すぐに酔ってしまって暴言を吐くようになっていた。 『金属』の二階の扉をあけたとき、いつも井崎の坐る入口にちかいカウンターに、瑛子と男がいるのが見えた。瑛子は井崎に気づいたはずだった。瑛子は、その男に顔を寄せて、話しこんでいるような素振りを見せた。  井崎は直観で、その男が、正確にいえば井崎以後の、瑛子の男関係において最右翼に位置する男であることを悟った。それは、瑛子に勾玉《まがたま》を与え、自動車を買った男であるに違いなかった。井崎が入院しているときに、その男との関係が出来たのだろう。瑛子の服装を変えてしまったのも、その男だった。  井崎は、一番奥のボックスに案内された。その男の脇を通るとき、男が瑛子に何か言った、その声は、どこかで聞いたことのある声だった。  井崎のまわりを、友絵と春代と阿佐子が取りかこむようにした。そんなことも始めてのことだった。 「ウイスキイ。……ストレートで」  井崎が言った。瓶とグラスと氷が運ばれた。  瑛子も男も動こうとしない。  井崎は、いくら飲んでも、酒の味というものが感じられない。 「あの男、だれ?」  そういう訊き方は、酒場のルールに違反する。井崎も、そんなことを言ったのは、『金属』にかぎらず、酒場では最初のことだった。 「知らないわ」  友絵が言った。 「そうじゃないんだ。そういう意味じゃないんだ」  男の声は、井崎が京都の旅館で瑛子からの電話を受けたときに、電話口に響いた声だった。もしかすると、瑛子が京都で会ったのは、堀越でもなかったのかもしれない。 「どうだっていいじゃないの、そんなこと……」  安江が井崎の正面に坐った。バーテンダーの木村か誰かが安江に合図を送ったのかもしれない。 「知らないわけがないだろう」 「だからさあ、どうだっていいじゃないの、ひとのことなんか」 「堀越さん?」  その男が堀越であれば、辻褄《つじつま》が合うことになる。井崎は他人の顔をおぼえるのが苦手で、よく失敗していた。その男は、恰幅《かつぷく》のいい、蟹《かに》のような赭《あか》い顔の男で、堀越によく似ていた。 「ちがうわよ」  友絵が言って、それを安江が目で叱った。  どうにもならぬような悲しみに似た感情が井崎に押し寄せてきた。  あの男に、瑛子が、伸し掛かられ、引き裂かれ、折り畳まれ、ひっくりかえされ、また仰向けにされ、俯《うつむ》けにされる。瑛子が尻を突きだして動物の形になる。瑛子が叫び声をあげる。あの男は、きっと、そうするだろう。  依然として、瑛子も男も動かない。瑛子は男に何か言ったに違いない。瑛子は、本来は、活発に席を動きまわるほうの型のホステスだった。  一時間ほどで、五人ばかりの男の連れが来たようで、瑛子と男とが、入口にちかいボックス席に移動した。若い男ばかりだった。  しばらくして、井崎は便所に立った。瑛子たちの席のそばを通ることになる。瑛子は、大きな黒眼鏡をかけた男に抱きしめられていた。瑛子は蒼白い顔で、じっとしていた。それは、仕方なくそうしているように見うけられた。瑛子は、その若い男とも体の関係があるように思われた。瑛子は盥廻《たらいまわ》しになっている。  黒眼鏡の男は、歌謡曲の作曲家だった。その男は、よくテレビに出演するので、井崎も知っていた。黒眼鏡の隣にいるのは、やはり歌謡曲の作詞家だった。その二人が組んで作った歌は、続けざまにヒットしていた。そういうことを井崎は、便所への往復で素早く見て取った。すると、瑛子の新しい男は、芸能プロダクションの社長であるのかもしれない。  井崎の席では、女たちが動かずに待っていた。ある種の緊迫感が、まだ残っていた。  瑛子が来て、友絵が去り、井崎の隣に一尺ばかり離れて坐った。やはり、誰かが、ちょっと顔を出したほうがいいといったようなことを言ったのだろう。瑛子は、坐るなり、袖を捲《まく》って時計を見た。十一時を十分ばかり過ぎていることが、それでわかった。それも、客に対しては非礼となる動作だった。井崎は、その日は瑛子は早番で、十一時半には店を出られるのであり、一刻も早くその時刻となることを願っているのだということがわかった。  また、瑛子は、勾玉の頸飾りに手を触れていた。席にいるあいだ、ずっと勾玉に触れていた。そのことの意味も井崎は諒解していた。  井崎は、コースターの裏に短歌を書いて、瑛子に示した。     かたくなに 人な憎みそ。     をとめ子は      あしきも よきも、     愛《かな》しきものを 「おい、いまの俺の心境だ。これも釈迢空《しやくちようくう》の歌だ」  瑛子はそれをちらっと見て、裏返しにした。  瑛子は、勾玉に触れていて、その手を離すときは、袖を捲って腕時計を見るときだった。二子玉川の料亭で、泣きながら、先生、このお洋服だって七万円するのよと言った、その洋服を着ていた。  瑛子の腕時計が十一時半を指したとき、飛びあがるようにして出ていった。それは、瑛子の男や黒眼鏡の男たちが帰るときでもあった。 『金属』の客が、まるで変ってしまっていた。わずか二年か三年半のあいだに、すっかり変っていた。  テレビで顔の知れた芸能人、流行歌の作詞家、作曲家、同じ漫画家でも劇画といわれるものを描く人たち、芸能ブローカー。その連中は金を持っていた。実業家でも、中小企業の社長や副社長であり、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブのバッジをひけらかすような男たちだった。はっきり言えば、その連中は、どこか下品だった。商売だから、それも仕方のないことだった。  昔の『金属』には、貧しいけれど筋の通った仕事をする評論家の顔が見えたりしていた。女たちもそれを心得ていて鄭重《ていちよう》に扱っていた。あるときの女たちは破目《はめ》をはずして騒いだ。場違いの客には法外な勘定を吹きかけて来られないようにしていた。暮になると、常連の客同士で相談して、バーテンダーやボーイたちに、まとまった金を渡したりもしていた。  芸能プロダクションの関係らしい男たちを階下まで送りだしてきた春代が、目を真赤にして井崎のところへ戻ってきて、彼の隣に勢いをつけて坐った。 「なによ、井崎さん、擦《す》れっ枯《か》らしじゃないの……」  瑛子のことを言っていた。 「さあ、飲みましょうよ」  春代は、いまにも泣きだしそうな顔をしていた。春代は、酔っていて、昂《たか》ぶっていた。春代はずっと緊張していたようだ。そのことに井崎は気づかないでいた。 「井崎さん、前のように、歌ったり、誰かの家へ行って騒いだりしましょうよ」 「………」 「ねえ、わかった?」  春代は涙声になるのを、わざと乱暴な口調で言うことでこらえているようだった。 「わかったよ」 「うれしいわ。じゃあ、乾盃しましょう」  春代が自分のグラスにもウイスキイを一杯に満たした。 「私ね、井崎さんのお席につきたかったんですけれど、こわくて近寄れなかったの。みんな、そう言っていたわ。……これからは、行ってもいい?」 「いいよ」 「うれしいわ。よかったわ。今日は、私、とっても嬉しいの」  しかし、井崎は、嬉しくもなければ、|わかった《ヽヽヽヽ》わけでもなかった。第一に、擦れっ枯らしというのがわからない。どんなふうに擦れっ枯らしなのか。それでいて、擦れっ枯らしというのは、それ以外に表現のしようがないように、言い得て妙というふうに思われた。擦れっ枯らしというのは、蓮《はす》っ葉女《ぱおんな》のことか。救いようのない女ということか。  井崎は、そのときも、いまいましいような、腹立たしいような気分でいた。自分に腹が立っていた。四十歳を過ぎた、小説家である自分が愚鈍とも思われる春代のような女に慰められている。そのことも腹立たしい。  井崎は、惨《みじ》めな気分になっていた。情けなくなってくる。滅入ってくる、どこまでも滅入ってくる……。ウイスキイに味がない。酔ってこない。  春代は、しんそこから喜んでいるようだった。春代がそんなふうに井崎を見ていたことは意外だった。しかし、井崎は、昔のような気持で『金属』に通うようになることはあるまいと思った。井崎も変ったし、『金属』も変っていた。『金属』の女たちも変っていた。それよりも、もっと別の何かが、いや、何もかも変ってきているように思われた。 「あのひと、擦れっ枯らしだけど、いいひとよ……」  それも井崎にはわからない。  擦れっ枯らしだけど、いいひと?  それがわからない。     36 「ひ、と、ご、ろ、し……」  井崎は、春代の耳のそばで、一語一語くぎるようにして言った。  井崎の体の下に春代がいた。井崎の体の、すみずみまで、触れられるところはどこでも春代に触れていた。春代の体は、やわらかい。春代の汗と滑《ぬめ》りとで、井崎の体が貼り付いていた。  春代が薄目をあけて、また閉じた。春代も井崎も動かない。井崎は、太古以来の、人間の男と女の哀しい姿勢になっているのだと思った。性交ではなく、交尾だった。 「誰の子供をオロしたんだ」 「えっ?」 「おい、誰の子供を堕胎《おろ》したんだ」  八月の半ばの暑い日だった。いや、井崎には暑さ寒さもわかっていなかった。  どうしてそんなことになったのかも、わかっていない。  いや、待てよ。ここは新宿だ。新宿の『金属』の近くにある連込み旅館だ。井崎も春代も、ひどく酔っていた。酔って二人で表へ出た。そのまま歩いて、旅館の前に来てそこへあがったんだ。いや、そうだったかな。それでよかったのかな。  女によって受けた傷は、女でなければ癒《いや》されない。誰かがそんなことを言っていたような気がする。そんなことでもない。これは成り行きだ。道子も瑛子も嫌っていた成り行きであるに過ぎない。  ときどき、春代の顫動《せんどう》が、井崎の体に伝わってくる。あとは動かない。  こんなはずではなかったと思う。  七月の初めに、瑛子は『金属』をやめていた。他の店へ移ったのか、自分の店を開いたのか、体を壊したのか、単に退《ひ》いただけなのか、結婚したのか、妾になったのか、それもわかっていない。知りたいとも思わない。なにもわかっていない。  まだ瑛子が『金属』にいたとき、挿絵画家に抱きしめられているのを見たことがある。大きな男で、瑛子は逃げられないようになっていた。 「奈良さん、なんとかしてくださいよ」  瑛子が常連である一人に助けを求めていた。 「おい、奈良、お前に何の権利があるんだ。俺は、この女と去年の暮に、みっつやったんだぞ。三回寝たんだぞ。お前に何の権利があるんだ」  それを見ていて、井崎は少しも心が動かなかった。それが不思議だった。  別のときに、瑛子が『金属』をやめてから、旧知の新聞記者が井崎に言った。 「おい、カメラマンの福永が銀座の女にいれあげているのを知っているかい」 「知らないな」 「G大の出身なんだって」  G大というところにひっかかった。それは瑛子の出身校とは違っていたが、よく似た学校名だった。 「痩せていて、小柄で、眼の大きい女か」 「なんだ、知っているのか」  もしそれが瑛子だとすると、同じ商売を続けていることになる。  こんなはずではなかった。井崎が、予定し、計画し、考えていた事態は、こうではなかった。 「ひとごろし……」  井崎は同じことを言った。 「誰の子供を堕胎したんだ」 「なに言ってるのよう……」  瑛子が井崎を殺し、井崎が道子を殺し、道子という存在が瑛子を殺す。それは逆に回転しても同じことだった。瑛子が道子を殺し、道子が井崎を殺し、井崎が瑛子を殺す……。人間が人間にかかわることはお互いに殺しあうことではないかという暗い気持で充たされていた。井崎のような男は、どちらかといえば、マイホーム主義的な男だった。井崎が願っていたのは安穏な生活だけだった。安穏な生活を求めることも人を殺すのか。 「あの男は、誰だったんだ」  歌が聞えてきた。  Row,row,row your boat  gently down the stream ……  瑛子の声が湖の面に流れていた。あたりに人影が無かった。  井崎の頭のなかに、赤いサルビアがいっぱいにひろがり、それが揺れ、乾菓子のような百日草《ひやくにちそう》の固い花が咲き、ポンポンダリアが咲き、コスモスが咲きながら倒れ、人工湖の赤土の肌が見え、山の蔓紫陽花《つるあじさい》が暗い所で終りの花をつけた。  ボートが揺れ、陽が照りつける。 「人の世は、実《げ》に愉し、愉し、か……」  井崎は春代の体に全ての体重をのせ、じっとしていた。頸に唇をつけた。 「人生は、しかし、夢か。……夢の如し、か……。どっちなんだ」  あたりは静まりかえっていて、ときどき、風が吹いた。井崎はボートのうえで寝ていた。  こんなはずではなかった。井崎の考えていた戦後の世のなかも、道子との暮しも、父が死に林太郎が成人となり井崎が中年に達するというときの日常も、井崎の予測していたのは、こんなふうではなかった。  私のことを小説に書いてちょうだい、先生、私を踏み台にして、私をモルモットにして……と、瑛子が言った。  だって淋しいじゃない?  先生、私を助けてちょうだい。早く、私を助けにきてよ……。  ザマミロ、と瑛子が言った。私なんて人間じゃないのよ、と瑛子が言った。  だって淋しいじゃない? 瑛子が駅前の電話ボックスで泣いた。  酔っている井崎には、なかなか終末がやってこない。春代のなかのものが萎《な》えかかってきた。  私だって、パパに隠していることがあるんだから、女は誰だって隠すんだから、それだけは、絶対に、死んだって言わないんだから、と道子が言った。  おい、遂に道子さんの止《とど》めを刺したぞ、と二十一歳の相原が井崎に言った。相原は早く死んだ。そんなことは、どうでもいいことだった。  井崎の目の前に、また、山梨の人工湖のあたりがひろがってきた。井崎が、茶店の畳のうえで、スケッチ・ブックに歌を書いていた。  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  井崎がはじめに、この歌に惹かれたのは「色あたらし」だった。字余りの力強さだった。瑛子を知ってからは「踏みしだかれて」だった。そこに心をひかれた。  いまは、そうではなかった。 「この山道を行きし人あり」だった。|この山道《ヽヽヽヽ》だった。  目を閉じている井崎に、夏の、白い、埃っぽい、誰もいない、石の多い、どこまでも続いている山道が見えてきた。その山道は、どこまでも続いていた。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年二月二十五日刊