山口洋子 演歌の虫 目 次  貢 ぐ 女  弥次郎兵衛  老  梅  演 歌 の 虫 [#改ページ]   貢《みつ》 ぐ 女《おんな》     一  眼を覚ますと、男の姿がなかった。  隣りのベッドの毛布がぽかりと割れて、ふたつ重ねた枕のまん中が頭のかたちのままで凹んでいる。  トイレかな、耳を澄ましてみるが、水音もしない。例のくせで早く眼を覚まして朝刊でも買いにいったのだろうと、のろのろと上半身を起こし、昨夜消し忘れた枕スタンドのうすぼんやりとした灯りで時計の針をたしかめてみる。  ──七時半。  よく寝たものだと恭子は足の爪先を揃えて伸ばし、はずみをつけて立ちあがって男のベッドの毛布とシーツの間に手をいれてみる。人肌のぬくもりのかけらも残っていない、ひやりとした冷めたさだけが指先に伝わってくる。あわてて手を引きぬき、入口の扉をみにゆく。  男が買いにいったはずの、いく種類かのスポーツ紙が、扉の下の透き間から乱雑につっこまれている。昨夜のうちに男がフロントに頼んでおいたのだろう。新聞もみないで、一体どこへいってしまったのか。  居ないとわかっていて、バスルームをあけてみる。冷え冷えと湿った空気、鏡のまえの歯ブラシも、髭剃りも封が切ってない。首を傾《かし》げながら部屋の中央にもどり、ぐるりと見まわしてみると、あった。サイドボード兼デスクの、TVの乗っかっている横に、メモとルームキイが置いてある。 (わるい、ねむれない。外出します。もし帰りが遅れたら、チェックアウトよろしく、SIN)  最後のところに四・一〇と時間がかいてある。四時十分。恭子がホテルへ来たのが二時半ごろだから、それから風呂へ入って──そんな時間に私はもうぐっすりと眠りこけていたのかと、恭子は思った。ベッドのわきの応接セットのテーブルには、十本近いショートホープの吸い殻が山になっている。長かったり、短かったり、ねじれていたり、不揃いな吸い殻だ。ティバッグのほうじ茶を飲んだ跡もある。  すっかり満足しきって寝息をたてている女の傍らで、目が冴えて眠れない男の苛々《いらいら》した様子が思い浮かんできて、恭子はくすりと片頬をゆがめた。  で、信太郎はいくら置いていったんだろう、メモの下に二つに折ってあった一万円札を勘定してみる。一枚、二枚……五枚ある。昨夜恭子が渡した十万円のうちの半分だ。信太郎はこのホテルに前の晩から泊ったはずだから二泊分、五万円ではすまない。その不足分は、男にさんざんしたいことをしてもらって眠り呆けていた自分への罰金だと恭子は思った。女と泊って明け方も待たずに何処とも知れず消えてしまう男も男だが、悶々と眠れぬ男を尻目に、出てゆくのもわからず安眠する女も女だ。どっちもどっちという形容は、こんなときのためにあるのではないかと、もういちど恭子はくっと自嘲めいた笑いを声に出した。  正面の大鏡に寝乱れた髪の女の顔がうつっている。熟睡したせいで、今朝はきっと眼の下のたるみが少ないだろうと、中指でちょっと目尻を吊りあげて眼を狐にしてみる。  寒さがふいに背を刺す。  部屋が乾燥すると風邪をひきやすいからと男のいうままに暖房のスウィッチを消して寝たせいだ。カーテンを少し開けると、曇り気味で、まだしっかり朝陽にもならない弱い陽の光が入ってきた。自分の姿しかうつっていない鏡を覗《のぞ》きこんでいるうちに、恭子はいいようのない心もとなさに襲われ、鳥が飛び立つような素早さで部屋中に散らばったシャツや下着を拾い集めはじめた。  靴下が片方ない。白いアンゴラの履きやすい一足しかない靴下だ。ブーツのなかにつっこんだのかと、ブーツを逆さにしてふってみる。腹ばいになって椅子とベッドの下を覗きこむ。……みじめだ、という思いがこみあげる。まるで居なくなった男を捜しているみたいだ。 「靴下なんかどうでもいい」はっきり独り言にして恭子はつぶやいた。ただちょっと家へ帰りつくまでの間、足の指先が冷めたいだけのことじゃないか。「靴下なんかどうでもいい──」うろ覚えの、ジャズのスタンダードナンバーのメロディになった。何度も同じフレーズを口ずさみながら、靴下のところを「男」にかえている。  ハンガーの音を乱暴にたててクローゼットからコートを引きずり出し、肩にはおる。泊ってゆっくりするつもりで持ってきた、着がえのセーターやパジャマ、化粧品の入った紙ぶくろで両手はたちまち満杯になる。そのうえに、男が読まなかったスポーツ紙を束にして脇にかかえこむ。部屋を出ようとして思いつき、洗面所にとってかえして使用しなかった歯ブラシセットと石鹸、シャワーキャップを紙ぶくろのなかに放りこむ。おっといけない、サングラスを忘れるところだった。部屋の扉をあけっぱなしにして、恭子は脇目もふらずエレベーターに乗り、大股でフロントの方へむかって歩いていった。 「なんだいママ、朝っぱらから血相かえて」  後ろから肩をたたかれ、ふりむくと磯貝が立っている。磯貝は恭子が赤坂でやっているスナック「泥の花」の客だ。本業はよくわからないが、金融を表看板にして水商売の経営者などに小金を貸しつけている遊び人だ。昨夜も来て銀座の女と待ちあわせ、閉店までねばっていた。 「男にでも逃げられたのか」  両手に荷物をかかえこんで、息せききっている恭子の様子を、磯貝は面白いものでも見つけたように眺めまわした。逃げられたのか、その言葉が核心をついていたので、恭子はうろたえて開きなおる口調になった。 「ご明察といったところよ、お陰さまで」 「お陰さまはよかったが」磯貝はなおも揶揄《からか》いかげんで恭子の前に立ちふさがる。「我々の深夜のマドンナがその姿じゃいただけねぇな、もうちっと粋な朝帰りにしてもらわないとよ」  ここは店じゃないんだから、客と無駄口をきいてる暇も必要もないと恭子はじりじりした。放っといてよといいたいのを辛うじて押さえて「ね、そこどいて通して」とサングラス越しの上眼づかいになる。 「まっすぐしか行けねぇのか、猪みたいな女だな。その調子で男に惚れるなよ、三十過ぎると怪我は重いぜ」  軽口を叩きながらも磯貝は太ったからだを横にして恭子を通してくれた。磯貝の口裏から、信太郎のことを知っているなと恭子は思った。それでなくても地獄耳の磯貝が、近頃銀座界隈でも噂になっている信太郎と恭子の仲を知らない筈がない。磯貝の脇をすりぬけて恭子は会計と表示してあるフロントの端の列に並んだ。外人客の多いチェックアウトタイムで列は遅々として進まない。恭子は自分を置き去りにしていった男が、いまごろどこで寝ているだろうと考えた。いずれ女のところに決まっているが、明けがたの四時五時に男がふらりと訪れて文句もいわず迎えてくれる女というのは、どんな種類の女だろう。私の側にいるより楽に眠れて、徹夜で男の相手を務められる女、しかもセックス抜きで、だ。  恭子は信太郎が「泥の花」へ一度だけ連れてきた、痩せて貧相な胸の映画のスクリプターを思い出した。引っつめ髪と筋の浮き出た項《うなじ》、あの女は少なくとも私より七つ八つは老けている。信太郎が三十だから十歳は年上だろう。信太郎の横顔に食いいって粘りつく眼つきが、あきらかに薄情な男に惚れぬいた女の不幸を物語っていた。  信太郎はいったいあの女の僅かな貯えをいくらくらいせしめたのか。乏しい給料のなかから爪に火を点《とも》すようにして、貯めた金にちがいないのに。五十万か百万か、いずれにせよ、それは恭子が信太郎に貢げる金額と、桁が一つは違っているはずだ。  ホテルの支払いは意外に嵩《かさ》んでいて、合計八万五千弐百何十円という半端な金額だった。恭子は信太郎が置いていった五万円の他に、自分の財布から四枚の一万円札を補充しなければならなかった。  一枚二枚と数えてキャッシャーに渡しながら、惜しい、と思った。無意味でもったいない気がする。外れ馬券を最初から承知で買っているみたいだ。それよりももっと激しい、泥棒に追い銭という言葉が恭子の脳裡を往来した。浮かない顔でフロントをはなれ、駐車場へ行くエレベーターに乗りこもうとすると、磯貝が見知らぬ男の連れとその前に立っているのが見えた。恭子は気がかわって、ホテルのコーヒーショップへ踵をかえした。空いてる席をみつけて荷物を先に手荒く下ろし、むかいに腰をかけた。  コーヒーとハーフグレープフルーツを前に、仔細にさきほどのホテルの領収証を点検する。   ・  ・   ・  ・  TAXまでは部屋代とわかる。次のルームサーヴィスは部屋に軽い飲物かコーヒーでもとったのだろう。ペイドアウトは立替金だ。マッサージが一回三千七百円だからダブルでとって、端数は今朝の新聞代とこれも納得がいく。納得がいかないのはそのあとの電話とミニ・バーの値段だ。  電話は合計の後に上ケタの相手番号の数字が明記されるので長距離ならどこへかけたかがある程度わかる。06は大阪、075は京都だ、045は横浜、0429はいずれ東京近郊だろう、四本のうち京都がいちばん長く話している。相手はどうせ女に決まっている。「うん、独りだよ独り、当りまえじゃないか馬鹿」などといい気になって真夜中に長電話をかけている男の様子が浮かんできて小癪《こしやく》に障る。  電話より気になるのはミニ・バーで、つまり部屋に備えつけのミニ・ボトルと、ミネラルウォーターや簡単なつまみの入った冷蔵庫の中身の使用料金なのだが、一人で一万円も飲むというのは普通じゃない。きっと客があったのだろうがその客とは、当然これも女、だ。だがしかし、一晩中訪問客の女と酒を飲んでいて、いつ他の女にてれてれと長距離電話をかける暇があったのか。深くなった女にはかかってきても「いまだめだ、明日にしろ」とにべもなく云い放つか、「この番号にそっちからすぐコールバックしろ」とかけさせて、電話料金が嵩ばらないようにする智恵は持ちあわせている男だ。男の方からかけて長電話をするぶんにはまだ恰好をつけているほんの最初の段階だから、肉体関係はない相手だろう。  部屋に女をおいて、片手で裸の女の胸を触りながら、意外に図々しく京都の女に電話をかけたのかもしれない。  恭子は無機質な数字と英文のタイプの文字の透き間から、自分が泊りに来なかった前の晩の男の行動を読みとろうと強い眼になった。その眼は、いつか店で貧相なスクリプターが、信太郎の横顔を突き刺してまつわりつかせていた、不幸な女の眼つきと同じだ。  あんな男、しょせん一人の女の胸にはまる一日も止まっていられないさすらい鳥か、はぐれ狼みたいな男と、充分知りぬきながら恭子は信太郎をあきらめきれない。  信太郎を知ってほぼ一年──。  済《な》し崩しに注ぎこんだ金額の合計は、もはやゼロが六つの百万台では済まなくなっている。     二  信楽《しがらき》信太郎は作詞家である。  いわゆる詩人と呼ばれる純粋詩の作家ではなく、流行歌のレコード作家である。いまから七、八年まえに男女のデュエットで大流行したヒット曲のせいで、恭子も名前くらいは知っていたが、はじめて紹介されて顔と名前が一致するのに多少時間がかかった。信楽信太郎の名前が世間に知れ渡っているのは、作品のおかげというより、高名な女優との二度に亘る離婚歴のせいである。最初は二年余り、次の結婚は半年も持たなかった。いずれも信太郎の女出入りと金銭的な破綻がもとであるらしかったが、顔を被った細い指の間から泪を滴らせて「結局……あのひとと私は別世界の人間だったのです」と泣き伏す女優の記者会見を、偶然に恭子は見ていた。抱かれて寝て、結婚までした男を、そんな風にいって人前で泣きじゃくってみたいものだと、恭子はその光景に憧れた。たまたま恭子が常に人眼をはばかるくせに長いぬるま湯みたいな安全|牌《パイ》の恋しかしていなかったからである。短い同棲《くらし》で男をすっぱり諦《あきら》めるのも辛かろうが、反面きっと我を忘れて激しく燃えあがるいい思いもあったに違いない。TVカメラは今度は男の方をうつし出した。不精髭を生やしサングラスをかけた男は、路上でレポーターの女につかまったが、返事もせずにタクシーで走り去っていった。  その事件のあとも、モデルや歌手との情事で信太郎の名前は週刊誌などにちらちらしていたが、現在は確乎たるものはなさそうだ。  信太郎がしょっちゅう金が無くて素寒貧なのは、弱いくせにつっこみにつっこむ麻雀と競馬のせいだ。まとまった一万円札が指先に触ると、それは信太郎にとってもはや馬券か点棒でしかない。  そのうえ信太郎は現在ほぼ無収入に近い。ヒット曲がなくなっても、作詞家信楽信太郎の存在は何となく歌謡界に生きつづけているが、華やかな世界で何となく生きている名前というのが、世間一般の思惑とは大違いで、金銭的には何のプラスにもならない乞食同然の立場だということを、恭子は信太郎と付きあって思い知らされた。  信太郎と出逢ったのは「泥の花」である。ときどき顔をみせているイラストレーターが二、三人の仲間と一緒に連れてきた。「ママ、知っているだろう、信楽信太郎だ」といわれて一目みたとき、恭子は古めかしい剃刀《かみそり》を思い出した。祖父や父がよく使っていた柄のところが木になっている二つ折りのふるい髭剃りである。ぶ厚い肉の鈍い刃の光が、恭子を真正面に見据えた男の眼のいろに重なったのだ。恭子は男の外套《コート》を預かるために手をのばした。 「ありがとう」  押さえつけるように男はいった。乾いて、低い声だった。黒い男のコートはびっくりするほど重くて、防虫剤と薄荷《はつか》と干草に似た匂いがした。壁の隅のハンガーにかけるとき、袖のつけ根が破れてぴりっと音をたてた。恭子は驚いて首をすくめた。よくみると肘のところは薄くなってすり切れているし、裏地も裾の方は千切れてたれ下っている。いまどきはルンペンでも着ないようなこんなコートを、恭子は長年の水商売で、客から預かったことなどなかった。 「どうしよう、少し破れてしまったみたい」  恭子は首をすくめてふりむいた。 「気をつけてやれよ、信太郎の唯一の財産を」イラストレーターがいった。 「財産?」こんなコートを着なくてはならないほど生活に困窮しているのかと、恭子は信太郎をみた。 「ママにいったって意味がわからないよ」 「そうだ、何ていったって金目一本やりの銀座高級クラブ育ちのニュートラ派だもんなぁ」仲間の一人が同調した。 「つまりさ、こいつはロンドン製一九〇〇年代初期の今から七、八十年もまえの年代ものなのさ。いわゆるチープシックという奴で、ニューヨークなんかでも目茶苦茶古着が流行しているだろう。このコートはなかでも高級骨董品で、もしかしたらシャーロック・ホームズが着ていたのではないかというくらいの馬鹿値打ちのある泪ものなのよ」  チープシック、そんな言葉をきいたことがあるような気もするが、一本三万八千円もするミラシオンのネクタイや、ピアジェの時計のダイヤの量で男の値ぶみをしてきた恭子には、ぴんとこない。だが、このコートがただのおんぼろではないことだけはよくわかった。 「ごめんなさい」恭子はコートの持主に向かって深々と頭を下げた。 「いい、いい、破れているところが値打ちなんだ」 「いやにあっさり許すねぇ」連れの仲間のカメラマンがからんだ。「このコートを偶然尻にしていたおかげで、女の鼻が腫《は》れあがった」 「おまえに関係ないだろう」 「関係ないことはない、俺のモデルだ」 「うるせぇ、いまごろいちいち」  乾いた声が屹《き》っと重くなって気色ばみ、信太郎はカメラマンの胸ぐらをつかんだ。 「よせ、来たばかりじゃないか」イラストレーターがとりなし、男たちは奥のテーブルに円陣をつくって坐った。薄暗い入口からブラケットの照明のある壁の下に坐った信太郎を、恭子はしげしげと眺めた。おんぼろコートの下は、アルマーニかセルッティにみえる長いソフトな衿《えり》の、かなり着こんだグレーのスーツだった。下ろしたてにみえる純白のカシミヤのマフラーをかるく一重で首に巻いて、足許は履きつぶしたスニーカーである。こういうのを流行《いま》風の粋というのかと、恭子は眼を凝《こ》らして見つめた。  見つづけている胸の奥でしきりに「……危い、危い」と引きとめる信号が点滅する。女の躯に五感と第六感の他に、子宮感覚というものがあるとしたら、信号はそこから発せられているようだ。恭子は以前にも信太郎と同じぞっと艶《つや》めいた剃刀の眼の男をみたことがある。ひとりはマダムを食いつぶすことで評判の、銀座の年老いたやくざで、もう一人はさるプロダクションの社長が「泥の花」へ連れてきた、これから演歌の新人で売り出すという弾き語りだ。  先月まで新宿を転々としていたという地味で冴えない田舎づらの弾き語りの新人のことを、恭子は「あの子は絶対売れるわ」と社長に宣言した。 「嬉しいことをいってくれるね」社長はえびす顔になったが、「なぜだ、どこがいい」と恭子に問いかえしてきた。 「どこがいいって──」恭子は口ごもったが、「眼がいいのよ」といいかえした。 「なに、眼だ。声じゃないのか」社長はキャンペーンのために一曲歌わせたあとだったので、がっかりした声を出した。 「あの細い、皺《しわ》か筋かわからない眼がいいのかい」  男にはわからないだろうけど、あの眼は女の子宮《なか》を直撃できる眼よ、恭子はいいたかったが、言葉ではうまく説明がつかないのでだまっている。社長は恭子の言葉を冷やかしか皮肉な冗談にとったらしく、「おいおまえ、これからテストで�めんない千鳥�を歌うなよ」と不機嫌そうにいった。そのあとしばらくして、当のプロダクションの社長があっけにとられるほど、その歌い手は売れに売れた。 「参った参った、ここのママの炯眼には、田《い》舎|者《も》を連れてきたら金の塊りだというんだぜ。これから新人オーディションは『泥の花』でやらせてもらうよ」  社長はヒット記念パーティの後、大勢のスタッフを連れてきてシャンパンとナポレオンを景気よく抜いてくれた。新人歌手は鈍く光る刃の眼で恭子に切りつけ「ママさんのおかげです」と叮嚀に首をたれた。その眼の光に似合う声を出して歌っている間中、あなたの人気は落ちないわよ、恭子は内心でつぶやいた。女を突きはなして値ぶみできる冷めたさと、錐で下半身を刺し通せる熱さ──雄として雌の合意《コール》を促している眼。  荒淫で頬をげそりと落ち窪ませているホストクラブのホストや、評判の悪い銀座のスカウトにときおり似たような眼をみかけることがあるが、それとは全く性質の異なる眼だ。剃刀の眼は、飢えてはいるが卑しさがない。  いけない、まずいと思いながら、誘蛾灯に舞う蛾のように、女は危い男の傍に吸いよせられる。触れば火傷するとわかっているのに、女は自分に背をむけて立っている男の下半身に唇《くち》をつけにゆくのだ。  一時半のラストオーダーが過ぎ、二時の閉店時間がきて仲間の数人は帰ったが、イラストレーターとカメラマンと信太郎の三人はだまりこくったまま動こうとしない。石膏で造った人形みたいに、動き少なくむかいあってグラスを口許に運んでいる。閉店を告げるきっかけを失って、恭子は信太郎とイラストレーターの間に坐りこんでいた。会話はないが、男同士のささくれだった寡黙なはざ間にいるのも悪くない、と思う。二時が過ぎると、一分でも客の相手をするのが面倒になる恭子には、めずらしい落ちつきようだったが、本当は少しでも信太郎の傍にいたいだけのことかも知れなかった。  バーテンが手荒く洗った灰皿をカウンターの上に重ねる音がして、恭子は顔をあげた。壁の隅の時計をみると三時に近い。 「もうこんな時間、どうして今夜は帰れっていえないのかしら」恭子は正直に思ったままを口に出した。 「三人とも帰るところがないからだよ」イラストレーターがすぐさま答えを出した。 「帰るところがないって……」 「つまりこいつは仙台に女房と子供を置いたままおん出てきている男だろう」とカメラマンを指さし、次に信太郎を顎《あご》でしゃくって、 「こっちは女は腐るほどいるけど帰ってゆける場所はない。俺は知ってのとおり別居中の身の上だ。三人で顔があうとそこが終点の終着駅みたいな気がして夜の底になってしまうのさ」 「夜の底、いいねえ。夜の底、夜の底。俺たちは夜の底にはりついている虫なのよ。それを引っぺがしてたたき出すようなお恭じゃないよ、な。心優しい女なんだから」カメラマンは恭子に馴れ馴れしく手をかけ、引きよせて頬に接吻しようとした。恭子はやや邪険にその手をはずした。 「……と、つめてぇ」 「私ひとりがいくら心優しくってもね」恭子はカウンターの椅子に腰かけて生あくびを噛みころしているアルバイトの女の子と、不機嫌そうに短い煙草を口にくわえているバーテンダーをみながらいった。カメラマンはまだ恭子のからだに触れている手を放そうとしない。 「おい」突然信太郎がカメラマンにむかっていった。「さっき来たときのおまえのコート発言の決着をつけよう」  このひとは嫉《や》いている、恭子は瞬間的に思った。そのころになると恭子と信太郎は、はっきりお互いに暗黙の会話を交していた。信太郎は剃刀を恭子の喉もとに突きつけ、恭子はその剃刀の刃を素手で持って誘導して、深々と自分の鳩尾《みぞおち》に突き刺していた。 「なかでやるのはご免だぜ」イラストレーターが二人を手で制した。「おまえたちのおかげでまた一軒来れない店がふえるのはたまらない。やるなら外でやれ」  信太郎が先に立ち、カメラマンが続いた。 「大丈夫?」恭子は心配になってあとを追う。平気だ、平気、どうせガキの喧嘩なんだから、イラストレーターが怒鳴っている。地下の店から夜気の冷えこむ街路へ出て、とっ組みあいでもはじめるのかと思うと、二人は酔いでよろけて肩を組みあっている。 「何にする」 「投げっこだ」 「よぉし」  いうなりカメラマンは上着のポケットからライターを取り出して思いきり遠くへ投げとばした。信太郎もあちこちポケットを探っていたが、ズボンの奥から小さな光る物をとり出してかまえると、いきおいよく放り投げた。蛍光色の街灯にきらりと煌《きら》めいて、信太郎の投げたものはカメラマンのライターよりはるかむこう側へ落ち、かちんとかすかな落下音をたてた。 「何を投げた」カメラマンがきいた。 「そっちは」信太郎が尋ねかえす。 「カルチエのライターだ」 「ディラにもらったニューヨーク土産か」 「そう。ディラともこれでお別れだ、おまえは」 「俺は」信太郎は真面目くさって答えた。「部屋の鍵だ」 「二番町ホテルのルームキイか」 「うん」  カメラマンはくっくっと肩をゆすって笑い出した。「負けだよ、俺の負け。おまえにゃ勝てない。てめぇを投げちゃうんだから」  男二人はさも嬉しげに抱きあい、大笑いをして道路に坐りこんだ。 「遊んでないでそろそろいこうぜ。ここじゃ泊めてくれないんだから」  イラストレーターが地下から上ってきて声をかけた。それじゃあなママ、遅くまで、男三人はもつれて行きかけたが、信太郎だけがくるりとふりむくと、ビルの横手にうずたかく積まれているごみの山を指さした。一直線に人差指でその個所を差すと、何もいわずにまたふりむいて二人に従った。タクシーの赤い尾灯《テール》だけで、ほとんど人気のなくなった一ツ木通りを、三人の後ろ姿がふらふらと遠ざかっていく。  恭子はその背中を見送った後、小走りに地下へもどり、アルバイトの女の子とバーテンダーに遅くなったねぎらいの言葉をかけた。ついでに、はい、ラーメン代といって交通費の千円のうえに三千円ずつをのせて手渡す。変に気前がよくなっていると、恭子は自分で思った。二千円でもよかったのに。 「ごっつぁんです」バーテンはぶっきらぼうな調子で手刀を切り、アルバイトの女の子は「ありがとうママ、お疲れさまぁ」と金を受けとるなり、ジーンズに穿《は》きかえた長い脚を兎にして階段を駆けあがっていった。バーテンを先に帰し、恭子は店の扉をしめる。一階は喫茶店で地下には「泥の花」だけだから恭子は地下の入口のシャッターも下ろさなくてはならない。長い鉄の鉤棒で、滑りの悪くなったシャッターを力をこめて引きずり下ろす。途中の桟に錆《さび》がきている、管理人に文句をいわなくちゃと、恭子はこのおかげで折ってしまった中指の爪をふりながら舌うちをした。  最後に店を自分で閉める作業は面倒で大変だが、銀座のクラブをやめて、赤坂のスナックをはじめるときに、先輩の小料理屋のマダムに忠告された。 「高級クラブのお金の価値感覚が残っているうちは、スナックなど経営できないわよ、何万円もするボトルから、五、六千円のだるまを売る商売をするんだから、出銭の全てにゼロを一桁落として考えることよ。それともうひとつ、どんなことがあっても自分で店の鍵は握って最後は閉めて帰る、この根性がなきゃだめ。夜遅い、けじめのないスナック稼業だからなおさらのこと、ママが先に帰って従業員だけにしたらそこから穴があいてどんどん水が洩れてゆく、何が起きるかわからないわ。最初のうちはちょっと辛いけど馴れてしまえば何事も習慣になるものよ。ついつい酔ってだらしなくなりそうな歯どめにもなるしね、この二つを守っていれば三年先にはマンションか家が建つわよ」  スナックをはじめるため、ビルの大家を保証人にたてて銀行から千五百万円もの借金をしてしまった。マンションはおろか、三年後の家などとうていおぼつかないが、先輩の忠告は本能的に納得できる話なので、「泥の花」開店の二年めのいまでも忠実に実行している。  錆びついたビルのシャッターをようやく下ろし終えた恭子は、店から少しはなれた空地の駐車場に自分の車をとりにいった。自宅のマンションのある渋谷から赤坂までは、無理をして自家用車で通うという距離でもなかったが、恭子は車を運転することが嫌いではない。いろんなことから解放されて、車のなかだけはほっとする。  恭子は長年寝たきりの血のつながっていない義理の母親と、父親だけが同じの、四十半ばに近いオールドミスの姉と一緒に住んでいた。恭子が小学生の頃に実母は他界し、数カ月もおかぬうちに恭子より十二も年上の女の子を連れ子にしたいまの母親が後妻で入りこんできた。大塚で芸者をしていたという義母は若い頃から父親と関係があり、その娘は恭子と実際に血のつながった姉だときかされたが、年齢の違いと、あまりの唐突さにどうしても姉妹としては馴染みにくかった。父親は恭子が高校を出る寸前に、海外にうまい儲け話があるからとカナダへ行ったきり消息を断った。ほどなく義母が脳卒中で倒れ、身のまわりの世話をするために、住みこみで映画スターの付き人をしていた姉が家へ戻ってきて家事をやり、恭子が外へ出て家計を救けることになった。最初は池袋のデパートに勤めていたのだが、とうていその収入では親娘三人の生活と母親の治療費もおぼつかなく、世話する人があって銀座へ出た。腹ちがいの姉は、はたち代のときに乳癌を患い、左の乳房がえぐれている。その影響かどうか、顔も左半面の神経が正常ではなくて瞼《まぶた》が半分垂れ下がったままだ。そのせいで外に働きに出ることも、嫁にゆくことも断念している。義理の母親と、血が繋がっているかどうかもわからない二人の扶養家族にとりすがられ見すえられている思いの恭子にとって、車のなかだけが本当に独りきりで自由になれる場所だった。  冷えきった座席に腰を下ろし、いつものようにFENのボタンを押したとたん、恭子はさきほどの信太郎の謎めいたしぐさを思い出した。ビルの横手の芥《ごみ》の山を差して、あの人は何をいおうとしたのか。俺たちは芥みたいなものだという冗句《ジヨーク》か、それとも、それとも……そうだ、あとで俺だけここへ帰ってくるという合図だったのかもしれない。  恭子は突然その思いにとらわれると、そのことが絶対間違っていないような気がして、急に車をスタートさせた。車の下に居たらしい猫が二匹飛び出して、あやうく轢《ひ》きそうになった。かん高い音をたててとまった車の前に、駐車場の顔馴染みの遅番の老人が小屋のなかから出てきて立ちどまった。 「何をあわててるのかね、ママさん。夜道にゃ日は昏《く》れない。急ぐと間違いを起すよ、ゆっくり、ゆっくり」  いつも愛想のいい恭子が、その言葉の半分もきかずに車をスタートさせた。いったん大通りへ出てひとまわりして、一方通行の道を入り、一ツ木通りへ戻ってくる。店の前に車を駐《と》めると、ビルの横手の芥の山がひときわ盛りあがったみたいに、さきほどの黒いコートの衿に首をうずめた信太郎の姿があった。空のビールケースに腰をかけている。 「寒いよ」信太郎はいきなりいった。「遅かったじゃないか」  シャッターを下ろして駐車場から車をとってくる間は、十分とかかっていないのにと思いながら恭子は車の扉をあけた。「乗って」 「このまま坐っていて、朝になったら粗大ゴミで夢の島へ持っていってもらえないかなぁ」 「馬鹿なことをいって──風邪ひいちゃうじゃない」  信太郎は頭から助手席へ突っこんできた。酒の匂いが車のなかに広がる。車をスタートさせるなり信太郎はきいた。 「カメラマンの橘とできてるのか」 「え、まさか」恭子は首をふった。「泥《ヽ》をはじめる前から親しいことは親しかったけど、それだけ。お客さま」 「お恭とか何とか、馴れ馴れしい態度をしやがって、面白くなかったぜ」  そう、ごめんなさいと反射的にいいかけて、私はまだ別に信太郎に謝る立場でもないと思いかえし、口を噤《つぐ》む。信太郎は不満気に独り言をいっている。酔いのせいか自分の女にいうような乱暴な口調だ。 「泥《ヽ》、か──泥の花、泥の花って名前はわるくない。誰がつけたんだ、畜生。よほどセンスのある野郎だな。それも橘ってんじゃないだろうな。誰だよ、誰だ!」  語尾が強かったので、恭子は思わずまた急ブレーキを踏んでしまった。「痛え、殺す気かよぉ」信太郎は横のガラスにしこたま頭をぶつけてしまったらしい。  今夜私は本当にどうかしている。恭子はぶつけた方の信太郎の髪を、ハンドルを持たない方の手で撫でた。どこかへ連れていってくれ、信太郎はいった。さっきてめぇんちのねぐらの鍵をぶん投げちゃったんだ、みてただろう。  二番町ホテルに住んでるの、恭子はきいた。そうだよ、もう追い出される寸前だけどな、鍵を失くすのもこれで三度めだし。ねぇ、道のまん中へ投げたのなら絶対落ちてると思うわ、捜しに行きましょうか。いらない、一度投げたものは拾わない。じゃ眠るところがないじゃない、困るわね。そっちの家にいこう。うちはだめなのよ、一人住まいじゃないんだもの。男、か。いいえ、母と姉よ。男の方がよかったのにな。ほんとに、ねー。信太郎と恭子はうだうだと会話を続けた。車は芝公園の下を走っていた。 「ここの坂を上って」突然信太郎が命じた。 「だって一方通行よ」 「かまわない、そのまま行っちまえ」  車は一方通行の公園の暗がりの道を上った。明るい街灯が切れて、繁みの深い場所へきた。 「止めて」  ブレーキを踏むと、信太郎の手がすぐ脚にかかった。両膝をかかえて引っぱられ、横倒しになるとスカートがめくれて太股があらわになる。身を捩《よじ》るすきも与えず、パンティストッキングとうすい下穿きを引きずり下ろされたとたん、ぬめって熱い感触が下腹部を覆《おお》った。  こんなところで、と思うより、風呂にも入ってないのにという恥ずかしさが先にたち、恭子は信太郎の頭を除けようとした。せまいところでハンドルが邪魔になり、かえって手足の動きがきかない。信太郎は熱心に叮嚀に首を動かしている。  男の指やそのもので襲われるより、口で襲われたほうがなぜ女は抵抗できなくなってしまうのだろうかと、恭子は何となく考えていた。少なくとも上半身と両手は自由であるはずなのに。恭子の手はけして本気で信太郎の頭を押しのけていない。腰も逃げるとみせかけて、中心の芽は吸いついた舌で摘《つ》みとられるのを待ち望んで粘っこく動いてしまう。女の抵抗力と理性にぴったりと蓋を閉ざすように信太郎の唇は饒舌に動き、恭子の指先はだんだん萎《な》えた細い葉っぱになって、シートの下に垂れ下がった。  エンジンをかけてつけっぱなしのままの暖房と、恭子の吐く息のせいで、車の窓はすっかりまっ白に曇っている。     三  信太郎との情事《こと》がはじまって二カ月ほど後から、恭子は秘かに一冊の赤皮の手帳を持つようになった。  日記帳よりは小さく、電話帳よりはやや大きめの、携帯用の住所録ほどの厚みと型であるが、そのなかには一銭残らず、信太郎に貢いだ金額がかいてある。なぜ赤皮かというと、それは全く女として赤字の家計簿だからだ。収支のうち、収の方は永久に一字たりとも数字が計上されない金銭収支帳。恭子は明細や日づけ、数字を書きこむのも、全て赤のボールペンを使用した。  手なれて柔らかみを増し、艶が出てきた赤皮の手帳は、どこを開いても行儀のよい、同じ大きさの赤い細かな文字が並んでいて模様みたいに美しい。  いくら数字を几帳面につけたところで、結局出してしまう金額に変りはないのだが、日毎に増えつづけるトータル金額が、何かを自分に教えて告げてくれるのではないかという、かすかで切ない期待がある。  累々とした赤字の累積は、恭子の躯のなかから流れ出る、女心の情念の赤い血のいろだ。音もなく増してゆく合計金額をかきなおす毎に、恭子は止血剤がきかなくなった手術患者がとめどなく流出する自分の血の量を確めているのと同じ気持になって慄然とすることがある。だがこの血は止まらない。止血剤をしてるのは自分自信しかいないのだが、うちたい気はあっても、うつ勇気もなければ意志もない。止血剤で血だけは止まっても、その処置によってもっと他の大事な生命維持装置のパイプがつまり、患者そのものが死んでしまうような気がしている。  もちろんこの赤皮の手帳のことを、信太郎は知らない。  気前よく金を貢ぎ続けているとみえる女が、立替えた煙草代や、一回の食事代の果てまでを書きとどめていると知ったら、男は一体どんな顔をするだろう。女の二面性と吝嗇《りんしよく》さに呆れ果てて笑い出すか、それとも自分の惨めさを記録された怒りを爆発させ、顔を背けて駆け出すか。信太郎の場合は後者であると恭子は思う。その怒りのなかには、自分が男として女をしんから説得できなかった悔しさも多分入っている。信太郎のいままでの女には、おそらく貢いだ額をいちいち書きとどめる女など、居なかったに違いない。  男が女に貢ぐのも、女が男に貢ぐのも、一種の逆上か計算でしかないのだが、逆上と計算は一緒にみえて根本のところで二つに分れている。何らかの見返りを求めて投資するのと、ただ惚れていて相手を歓ばせることのみが自分の幸せになっている場合とである。どちらの場合も相手に貢いでいるようで、結局は自分のための浪費であるに違いないのだが、逆上も計算も、貢いでいる本人はけしてそのことを認めたがらない。  恭子の場合でやや救われるのは、男へ貢ぐ金が、総合的に女の一方的な逆上と心の底で百も承知しぬいている点である。  いくら貢ごうと信太郎は恭子と結婚などしてくれる相手でもないし、また結婚できる男でもない。結婚不適任者というより、一般的な見かたからすると生活破綻者といった方が近い。どう恭子が全身全霊をあげて信太郎に尽くそうが将来どうにもならないことだけは、はっきりしている。  それにこれは赤皮の手帳をつけて数字を眺めるようになってから気づいたことだが、信太郎は女に貢がせても、その金高で負担を感じることなど全くない。一万円貢いでも、数百万円貢いでも同じなのだ。問題になるのはむしろすってんてんのときに金を貰った回数の方ではないかと、恭子は思いあたった。それは信太郎の貢がせる男の無計画さと純粋さだと恭子は好意的に解釈している。何十万渡そうと三万円渡そうと、恭子に対する態度も、次に逢えるまでのインターバルも、セックスの回数も全くかわらない。少し違う点があるとしたら、多額の金を受けとる前にはかなり切羽つまって頻繁に連絡の電話がかかってくることと、金を受けとってから「サンキュー、プレジャー」と無愛想に礼の言葉をいうことくらいだ。なぜか信太郎は云い難い言葉を人にいうときは全部、英語になる。オリジナルの作詞家になるまえに、外国曲の訳詞家をやっていて英語に強いせいもあるが、日本語でいうと照れが先立ってしまうのだろう。  云われた方はきょとんとして「ねえプレジャーって何?」などと聞きかえす。「感謝ってことだよ感謝。いちいち云わすなよ」むっとした顔になるので、それらしい雰囲気のときには信太郎が何をぶつぶついっていようが、気にとめないことにした。  恭子は赤皮の手帳のおかげでそのことに気づいてからけして信太郎に多額のまとまった金は渡さない。一回百万でわけのわからない英語の単語の礼をいわれて十回で終りになるより、一回十万で百回続けたい仲だった。それともう一つ、一どきに金を注ぎ込めば注ぎ込むほど、女は恩着せがましさと不安がいや増して、男に対して不満だらけになり、反対に男の方はコンプレックスが強まって、かえって両者の間がうまくゆかなくなるということもわかった。  金高が重なるとコンプレックスが強まるという点も、信太郎がプロのひもでも貢がせ屋でもないことの証拠だが、その一点だけでも恭子は信太郎に安心していられる。店の権利証など男に要求されて持っていって、にたりと笑ってかき抱かれ、すさまじい情事《セツクス》の領収証などもらった日にはたまったものではない。貢ぐ方が逆上だから、貢がれる方も計算ではなくて逆上でなければ、底がみえすいて長続きはしない。  よけいに出しすぎても破局が早く来る、かといって出さなすぎても白けてしまう。考えてみると貢ぐ方にもこれで結構バランスをとる苦労というものがあるものだ。  この不均等な恋を持続させるこつとポイントがつかめてきて、恭子は近ごろ信太郎に対してようやく落ちついてきた。ある程度の小金さえ用意して、ちょろちょろと湧き水が絶えることのないようにしておけば、信太郎との間はまず切れることはあるまいという自信もある。それとこの赤皮の手帳さえ見つからなければ、だ。  ひと目でもこの帳面が見つかると、手帳を投げられて張りとばされ、二人の仲はお終いになる。そんなアクシデントがおこらないようにと、恭子は赤皮の手帳が信太郎の目に触れないように必要以上に気をくばっている。信太郎の前ではちらりと表紙をみせることはおろか、常に手帳類など持っていることも悟らせないため、わざわざ何の変哲もない茶封筒に手帳を入れて、ハンドバッグへ入れているほどだ。  金が必要になると恭子のバッグの財布のなかから数枚の一万円札をだまってとり出して、「二万とったぜ」とか「五枚ぬいたよ」とかいう信太郎に対する用心もある。ただ、けしてとりっぱなしということはなく、千円でも五百円でも正確に金額は教えてくれた。商売柄、どこへでもぽんぽんとハンドバッグを置きちらすくせのある恭子に、他の従《や》業|員《つ》が盗《や》ったと思われては可哀想だからという理由である。  恭子は赤皮の手帳を茶封筒からとり出し、前の続きの最後の欄にかきいれた。  十二・十八現金 [#地付き]一〇〇〇〇〇     〃  〃 〃 [#地付き]三五二三〇    五枚の浮かせた一万円札を持って、信太郎はいったいあれからどこへいったのだろうかと、また恭子は思いめぐらせた。とりあえず五万円懐ろにあれば夜明かしで酒も飲める。偶然友達に会っても奢《おご》ってもやれる。徹夜で麻雀をうっている仲間のところへもぐりこんだのか。いや、待てよ、そういえば今日は土曜日だ。土曜日には競馬がある。のんべんだらりと抱き馴れた女と夜を明かすより、少しでも金を浮かせて信太郎は特券を買いたかったのではないか。競馬の金といえば恭子がいい顔をしないのは眼にみえている。  逢えば一度に十万以上の金はめったに渡さなくなっている恭子から、馬券の費用を稼ぎ出すにはこの方法しかなかったのだ。そう考えつくと恭子はちょっと哀しくなった。そんないじましい発想を思いつく自分が情なくなったからだ。女と泊まってゆっくり朝のコーヒーを飲むより、五万円を懐ろにねじこんで競馬場へ急ぐ男の背が、やけに遠く思えた。  恭子は赤皮の手帳を繰ってみる。  最初は昨年の十一月の末日からはじまっている。このあたりは年がかわってすぐ赤皮の手帳を買い求めて、思い出しながら書きとめたので、大雑把になっている部分もある。  八一・十一・三十 現金 [#地付き]五〇〇〇〇〇    二番町ホテル部屋代十月十一月分と傍にかきそえてあり、詳しい内容も明記してある。  七千円のシングルルームが長期滞在割引で一割引かれて六千三百円。一カ月で十八万九千円、それにTAX、新聞代などを含めて二十万強になる。溜まった二カ月ぶんを払ってさらに十二月分のデポジットで十万要るといわれて五十万円を手渡したのがはじめだ。明日の朝には荷物を放り出されるという月末ぎりぎりの昼にホテルのロビーへ金を持っていって渡した。男に金など渡したことのない恭子は、なぜか自分の方が上気してどぎまぎしていた。 「──どうも」  本でも受けとるように、ごく当り前の顔をして金を受けとった信太郎は、そのまま金を片手に無造作に持ってフロントに歩いていった。会計のところで何か話していたが、数枚の領収証を持って引きかえしてきた。 「ありがとう」  きちんとたたんだ領収証を恭子の前において、他人行儀に頭を下げた。そのあと「いつも支払を溜めに溜めるくせで、金額が嵩むからと食堂や喫茶、バーなどでもういっさいサインがきかなくなっている。おかげで部屋代だけで救かったよ」とにこりと笑った。何とか年の瀬も追い出されなくて済みそうだ、そろそろ出て部屋をあけてくれといわれているんだが、行くところもないしなぁ。せめて正月くらいは居させて下さいよと支配人に頼んじゃったよ。デポジットがきいたみたいだと、ほっとした小声でもう一度「サンキュー」とつけ加えた。  二番町ホテルは麻布のはずれたところにあり、古いことは古いが小規模で、東南アジアの客や、芸能人が長くいたりするさほど評判の芳しくないホテルだ。信太郎はここにもう半年以上いるという。部屋は恭子も入ったことがあるが、六畳一間にシングルベッドという感じで、壁中いたるところに洋服やコートがぶら下り、床には靴とシャツが積み重なっているという工合で、一口にいうと洋服箪笥の中に住んでいるような工合だ。デスクも紙袋や雑誌や帽子などで埋まっていて、用をなさない。 「一体どこで仕事をするの」恭子はきいた。 「仕事? ああ作詞《かきもの》か。どうせこんなところでは書けっこないから、気に入りの喫茶店とかレストランでやるのさ。いよいよとなるとここのロビーもあるし、雀荘の空き卓でも書けるもんな」  雀荘の空き卓で作詞、恭子は驚いたが、信太郎が現在ほとんど注文《オーダー》もなく、作詞家としては開店休業の状態だということは察しがついた。 「部屋へくるか」と誘われて、その日もまっ昼間から信太郎に抱かれ、肩を喘がせた恭子だが、先ほどの五十万の受け渡しと情事《セツクス》の間に何か関連があるみたいで不思議な気持になった。 「シャワーを浴びてこいよ、出しといてやったからさ」  洋服箪笥のなかで素裸《ヌード》の男はいった。ついでに自分の吸っていた煙草を銜《くわ》えさせてくれた。恭子が立ちあがったとたんに、枕もとの電話が鳴った。さっき抱かれている最中も、ずっと鳴っていたのだが信太郎はちっと舌うちして眉をひそめただけで出ようとしなかった。 「もしもし」信太郎は今度のベルには受話器をとりあげた。「あ、なんだ。うん、さっきか、さっきは部屋にいた、寝てたんだ。これから? もうすぐ出る、客が来てる。いや、ロビー。馬鹿いうな、いまどこに居る、家か。あとで電話してみろよ、十時には帰ってるよ、きっと、当り前だ、じゃ」  短い断片的な会話だったが、相手が女だということはすぐ察しがついた。さり気なく風呂場に行きながら、聞こえないはずの相手の声を想像した台詞《せりふ》で埋めつくした。 「(ねえ、あたしよ)あ、なんだ。(どうしてたの、ちっとも電話に出ないで)うん、さっきか、(居なかったんでしょ)さっきは部屋にいた、(じゃどうして……)寝てたんだ。(ね、これから行っていい?)これから? もうすぐ出る、(あらどうして、仕事?)客が来てる。(部屋に?)いや、ロビー。(どうせ女のひとでしょ)馬鹿いうな、いまどこに居る、家か。(ええ、家よ)あとで電話してみろよ、(遅くなるんじゃない、例によって)十時には帰ってるよ、きっと、(まさか浮気にいくんじゃないでしょうね)当り前だ、じゃ」  妙に嫉妬深くなっている、と恭子は自分で思う。金のせいだろうか。だが五十万ぽっちの金額で、男がしばれるとも、恭子の信太郎に対する権利が増大したとも思わなかった。それほど自分は甘くない。  バスを浴びて出てくると、腹が空かないかと信太郎が尋ねた。ええ、空いたわと答えると、肉を食いたいなという。ここ酒ばかり飲んでてろくなものを食ってないんだ、ぶ厚いステーキか肉の刺身でもやっつけたいぜ、ボアへ行こうか。  六本木のボアは肉の専門店としては名の通った高級店である。深夜までやっているので恭子も銀座の頃から客に連れられてよく通った馴染みのステーキハウスである。  恭子は脱いだものを着て髪をとかすだけだが、信太郎の支度は長くかかった。相変らず年代ものの古着のふくらんだようなフラノの茶色っぽいズボンに、こげ茶のアルパカのセーターを着る。マフラーをベージュにするかモスグリーンにするかでさんざん迷い、結局マフラーをやめてニューヨークの魚河岸の兄ちゃんが着てたという、いい色に撚《ね》れた大きめの皮ジャンをはおる。靴はトレードマークのスニーカーで決まりだが、男のお洒落も容易じゃないと恭子は待っている間中、溜め息が出た。  派手な世界で、それらしく名前とイメージを保つのには、人知れぬ苦労があるものだ。部屋代がなくて追い出されそうになっていても、マフラーの色のチョイスは、それなりの真剣なエネルギーをかけてのぞまねばならない。部屋は追いたてられても、芸能界からは追い出されないために。  ボアの隅の席で信太郎と恭子はいかにも恋人同士の昼下りの情事の続きといった風に、一杯のグラスワインを一口ずつ舐《な》めあい、フィレとサーロインを一枚ずつ焼いてもらって、互いの皿にやったりとったりしながら食事を終えた。顔見知りの女店主が「お久しぶりです」と愛想をふりまきながら、デザートのオレンジをサーヴィスで持ってきてテーブルに置いていった。デミカップコーヒーを飲み終え、立ちあがる段になって信太郎は恭子にいった。 「御馳走さま、うまかった」  みじんも自分が払うと思っていなかった恭子は、何かとんでもない思い違いをしていたかのように真赫《まつか》になった。あわてて伝票を引きよせるはずみにペッパーの瓶をひっくりかえすやら、ハンドバッグを床にとり落とすやら、どたばたと見苦しくうろたえてしまった。女店主はごくさり気なく恭子から金を受けとり、「毎度ありがとうございます、またお近いうちに」と笑顔をみせた。そのさり気なさは、どういうわけか恭子を手ひどく傷つけた。  さきほどの五十万は、と恭子は内心思っている。五十万も渡したのに──だが考えてみればその五十万はホテル代の滞納の四十万と次回のデポジットの十万できれいさっぱり消えてしまったのだ。すっからかんだといっていたのだから、ボアに払う金などある道理がない。男に食事をしようと誘われても、自分が払う場合《ケース》もあるのだということを、恭子はいまさらのように思い知った。  あの人はほんとうに無一文なんだ、六本木の人混《ひとごみ》の交差点を渡りながら、恭子は少し先をゆく信太郎の、ナウで恰好のいい後ろ姿を見て思った。ごつい皮のジャンパーが、冬の午後の弱々しい陽ざしに変に寒々と見える。  赤皮の手帳のその日には、現金五十万のあとに、ボア(二人前)三七〇八〇円という追加がもう一行くっついている。     四  手帳のなかでいちばん頻繁に金が出ていっているのは、やはり出逢いはじめの昨年十二月と一月である。  十二・二 現金 [#地付き]一四〇〇〇〇       六 現金 [#地付き]三〇〇〇〇       七 現金 [#地付き]五〇〇〇〇       九 現金 [#地付き]四〇〇〇〇      二十 二番町ホテル代 [#地付き]一〇〇〇〇〇       〃 歯医者 [#地付き]一四四〇〇〇       〃 現金 [#地付き]五〇〇〇〇     二十三 アルマーニスーツ [#地付き]一八〇〇〇〇       〃 シャツ [#地付き]三二〇〇〇       〃 蝶タイ [#地付き]五二〇〇       〃 四川(中華) [#地付き]一〇〇〇〇     二十四 H・パレス(プルニエ) [#地付き]二八二〇〇           〃  (チップ) [#地付き]三〇〇〇         H・パレス(宿泊) [#地付き]五五五〇〇     二十七 現金 [#地付き]七五〇〇〇     二十九 スポット・ロア・加奈(立替) [#地付き]一五〇〇〇〇     三十一 現金 [#地付き]三〇〇〇〇〇   [#地付き]合計 一三九二九〇〇円    あのころは本当に会うたびに現金をせがまれていた。それは現在も同じだが、まとまった額をこれほど続けざまに渡すことはない。が、一つ一つ理由を思い出してみると全て納得がいく。  十二月に入るなり、信太郎は「泥の花」のオープンしている最中に顔を出して、恭子に囁《ささや》いた。 「ちょっと世話になるディレクターを招待して御馳走しなけりゃならない。あとで帰ってくるからさ」  あの十四万は店の途中の売り上げだった。銀座とちがって、一人の飲み代が五千円にもならないスナックでは、売り上げのあがらない日のレジは釣り銭の三万円をいれてもほんとうに少ない。たまたま八万円ほど、月末に来れなかったからといって持ってきてくれた客があって、十四万渡すことができた。背に腹はかえられぬ感じで一万円札だけを勘定して渡したが、店のレジから男に金を渡すことが、恭子自身にも想像がつかなかったほど重い罪悪感になった。 「お店には……来ないで」  やっとの思いでそういうと、勘のいい信太郎は、二度と金のことで「泥の花」には現われなくなった。金を持っていったきり、その夜は音沙汰もなかったが、あとで聞くと麻雀をしていたらしい。ディレクターを招待するというのも方便だったみたいだ。  六日、七日、九日とは昼間会った。二番町ホテルのロビーに恭子がお茶を飲みに行くこともあったし、信太郎が出てきて簡単に蕎麦《そば》屋で昼食をすることもあった。いずれも別れぎわに「あるか」ときかれて、財布のなかに入っていた一万円札だけを折り畳んで渡したぶんだ。  九日からおよそ十日間、ぷつりと信太郎の連絡が途絶えた。ホテルにも帰っていないとフロントがいう。恭子は気がかりで店にいても眼がひとりでに宙に浮いてしまう。「ママ痩せたね、恋患いか」客にもそれらしいことを皮肉られるし、姉もあきらかに恭子の変化を感じとっているが、云う時期ではないと思っているのか口を閉ざしていて、家の中は常よりなおいっそう無口である。  二十日の朝、まだ恭子が寝ている時間に突然電話がかかってきた。 「歯医者にいるんだ」電話の声は一方的にいった。「すぐ来てくれよ、歯、入れてもらってるんだ。場所は青山三丁目の交差点を──」  鳥が飛び立つ嬉しさで支度をした。銀行へ寄って金を下ろす。  歯医者の診察台の信太郎は、右腕に包帯を巻いて肩から吊っていた。恭子をみると、子供が母親に会ったみたいに嬉しげに微笑《ほほえ》んだ。 「いろいろあってさ、橘のグループと酒飲んでもめたりして、腕の骨を折ったんだ。前歯も二本いかれてみっともなくて外、出られないのよ。いまようやく仮歯入れてもらったけど」  病院にいたというが、歯が欠けて右手がきかない男の面倒を嬉々としてみたがる楽な女のところにでもいたのだろう。二、三日後には完了するという歯医者の治療代と、二番町ホテルのデポジットが切れた足しまえにプラスして、当座の小遣いを五万渡した。  二十三日はクリスマスイヴの前日だった。  一緒に居ようなといわれて、その夜に着るアルマーニのスーツをプレゼントした。洋服屋でついでにシルクのシャツと蝶タイもピックアップされ、追加分になった。洋服屋を出てから近くの中華料理屋で焼きそばと酢豚を食べた。  二十四日は早い時間にホテルニューパレスの皇居を見下すプルニエで二人だけのクリスマスディナーをした。たまには広いベッドで寝たいという信太郎の意見で、スウィートのキングサイズをとり、恭子は店を終えてから泊まりに戻ってきた。  二十七日の現金は、例によって有り金を渡したぶんだ。  二十九日、スポット・ロア・加奈(立替)というのは、行きつけの各店に五万ずつぐらい借金があり、年末には払わないと仲間づきあいもできなくなるというので払ってやった。  三十一日は知りあいの映画監督の自宅で、毎年恒例の年越麻雀大会があり、正月ぐらいたっぷり小遣いをもって勝負したいなぁという信太郎に、お年玉のつもりで奮発した。  除夜の鐘はおまえときこう、そして元旦のうちに会って姫始めをしような、いいだろ、といわれて恭子は小娘のように眼を伏せた。暖かで、幸せな年の瀬だった。  半ページを空白にして、手帳は正月になっている。  一月も何だかんだと九十万ばかりの金が出ていっている。やはり現金が多い。麻雀の負けの尻ぬぐいもあったし、競馬に連れてゆかれて一緒にすったこともある。  二月は日数が少ないのに、金額だけが大きく増えている。  理由は二つあった。  ひとつはどうしてもレコーディングの仕事で、信太郎がロンドンへ行かなければならなくなった海外旅行費である。TVで人気随一のコメディアンが信太郎のどこを見こんだのか惚れこんで、一緒にLPをつくりたいと云い出したからである。たいしてまとまった仕事もなく、深夜DJのゲストや歌の審査員でお茶を濁していた信太郎は、すぐさまその話にのった。レコード会社の仕事で行く場合は、当然交通費なども出ると思っていた恭子は、作詞家は詞だけ渡せば用がなく、レコーディング参加は自由勝手で、行きたければ自費負担だということをきいて、どの世界も裏にまわればシビアなものだと感心した。マスコミ関係者も大勢行くという派手なツアーに、信太郎もぜひ行こうと決心をかためていた。仕事だからと大義名分を持ち出され、交通費と、二週間分の滞在費の百万を都合した。ロンドンのアンティークショップで買ったという小指の指輪と、古ぼけた王妃の横顔が蓋についているコンパクトが土産だった。くすんだ銀の台に小さなトルコ石がついている指輪は、恭子の小指に計ったように納まった。 「小指のサイズって難しいのよね、嬉しい」  恭子は小指をたててはしゃいでみせた。婚約指輪はくすり指、未婚者は中指に指輪をするのが仕来りだときくが、小指を立てて噂される立場の女には、小指の指輪こそがいちばんふさわしい。百万の餞別の代償にしてはあまりに軽い重量の土産には違いないが、ぴたりとサイズが嵌《は》まったという事実で私は満足だと恭子は思った。もしかしたら、男に金を貢ぐという作業も、こういう収支《やりとり》なのかもしれない──無口な姉の眼に責められ、口さがない客の陰口に対応できる答えを、恭子はやっとその安物の指輪のなかに見つけたような気がした。  もう一つの出費の理由は、いよいよ二番町ホテルを追いたてられた信太郎に、飯倉の路地を入ったところの一DKのマンションを借りた費用である。  家賃      一二二〇〇〇  保証金(六カ月)七三二〇〇〇  仲介金(一カ月)一二二〇〇〇       合計 九七六〇〇〇  他に引っ越しの費用やベッド、机、TV、細々と買い足したものの金額が書きつらねてある。数万円の家具のあとに長々と、  やかん       三二〇〇  モーニングカップ   七五〇  ママレモン      三一〇  キッチンハイター   二二五  スポンジ        七〇  妻楊子         八五  などと雑貨屋の明細の丸うつしが並んでいる。はては途中でまとめ買いをしたショートホープ、運送屋にとったカツ丼まで、まるで書くのを楽しむように克明に明記してある。惚れた男の生活の隅々までを預かって、ついでに男の人生までを背負わされたような幸福感に満ち満ちた女の粋がりが、細かな数字の間から溢れている。  何やかやと二月の総トータルは三百万近くにもなり、恭子はここではじめて手をつけまいと思っていた一千万満期の月がけの定期預金を、八百万で解約してしまった。三百万を使って、残りの五百万を切りのいいところでもういちどお貯金の方へとしつこく銀行の行員に勧められたが、またすぐに解約するのではと、普通預金にした。  引っ越したばかりの新居というのは、想像以上に細々と金がかかる。やれ電気毛布だ目覚まし時計だと、恭子は蟻が物を運ぶように、信太郎のベッドの周りに物を増やしつづけた。  かといって恭子がその家に我が物顔で居座ったわけではない。信太郎もある個所で一線をひいて、同棲しようなどということはいっさい云わない。信太郎は恭子にティッシュペーパーのはてまでを貢がせてもいつも堂々としていて、しかも以前どおりに冷めたい。いくら貢いでも信太郎が卑屈にならず、冷ややかなことは、逆に恭子を救った。男と女の関係では、常に相手に追いかける距離をあけておいてやることが、金を貢がせている方の道義《ルール》だ。さらに背筋を伸ばしてしゃんとしているのが礼儀《エチケツト》でもある。貢ぐ方は、乞食にほどこしをたれているのではなく、太陽神《アポロ》か王につかえている信者なのだから。  そういう意味では、信太郎は本能的にキャラクター最高のジゴロである。信者もけして恭子ひとりに絞らず、不特定多数が居る。生活用品を揃えたくらいでは、儀式用の祭壇をととのえたのと同じで、神様そのものの不遜さや尊さは少しも変らない。  越したその日から、どうやって調べるのか、教えるのか、もはや意味あり気な電話がしょっちゅうかかってきた。 「あ、いま忙しい。あとにしろ、どこに居るんだ、わかった、わかったよ、じゃあとで」 「久しぶり、うん、今日? 無理だな。またかけるよ、ああ、ごめん」  恭子は電話がかかってくると、少しでも物音をたてないように息を潜めた。知らん顔でトイレに入る場合もある。一度だけ店の帰りの真夜中に信太郎の部屋にゆき、セックスをしたあとに、かかってきた電話にだまっていられなかったことがあった。  まる裸になってせまいシングルベッドに信太郎は天井をむいて仰むき、恭子は俯《うつぶ》せにからだを寄せあっている。かかってきた電話を信太郎は片手でとりあげ、もの憂げに話をしていた。 「……なんだ、え、酔ってるのか。今夜は遅い、明日にしろ。──なに、居ないよ、馬鹿いうな、そんな暇はないよ、冗談じゃない、居ないっていってるんだ……」  恭子は枕に顔を押しつけながら、いつかみたいに相手の台詞をつくっていた。 「──(誰かいるでしょ)なに、居ないよ、(居るわよ、きっと横に裸の女が)馬鹿いうな、そんな暇はないよ、(だって声が変だもの、したばっかりみたい)冗談じゃない、居ないっていってるんだ……」  突然恭子は枕を押しのけ躯を反転させると、居ない居ないとくりかえしている信太郎の口許と受話器にむかって大声で叫んだ。 「居るわよお!」  信太郎は一瞬|唖然《あぜん》として恭子を眺め、それからあわてて受話器をもとに戻した。むこうの方がびっくりして先に切ったかもしれない。恭子は何だか可笑しくなって枕をたたいて笑いころげた。信太郎はしばらく憮然《ぶぜん》として恭子の方をみていたが、そのうち自分も苦笑の続きで笑い出した。 「最高だったぜ、いまのタイミング」  信太郎は裸の恭子を抱きしめ、念入りにもう一度情事をしなおした。恭子が信太郎に女としての権利主張をしたのはこのときだけである。  熱い湯気が立ちのぼっている新鮮さで、恭子は毎日でも信太郎に会いたくてたまらない。恭子とて女盛りの身で、それまで男がいないわけでもなかったが、恭子の生活や商売やペースをかき乱す相手ではなかった。  銀座のホステスをしている時分からの付きあいの「定期便」とあだ名のついた、大手の電力会社の部長が恭子のオフィシャルな彼氏《おとこ》である。なぜ「定期便」かというと、必ず店に火曜日にしか来ないからである。恭子とデートしてセックスをするのも、月の頭と最終の週を除いた、なか二、三回の週の火曜の夜ときまっていた。月始めと終りは忙しい、何が起こるかわからないから、というのが理由である。  四十五歳という年齢に似合わぬゴルフできたえたスリムな体躯と、銀縁の眼鏡が似合うところが冷めたそうで、ちょっとした色敵《いろがたき》めいた雰囲気の好男子であったが、絶対破目を外しそうにない融通のない堅さがホステス達のあげ足とりの的になっていた。 「いいなぁと一瞬思うんだけど、まるで四角いプラスティックの固まりみたいだもん」「あの人でもまるいところあるの?」「恭ちゃんにきいてごらんなさい。もしかしたらあそこもプラスティックの温度計のついた定規みたいで、冷めたくて角《かく》になってるかもしれない」「温度計のついた定規、ずい分|凝《こ》ったことをいうわねぇ」「数字だけは一応ちゃんと出るってことよ」「角棒型のおちんちん」「わぁっ、いやだぁ」  特別に手当をもらったり、金銭的に面倒をみてもらう関係ではなかったが、年二度のボーナス期に洋服かハンドバッグを買ってもらえるのと、自分の使える交際費の三分の一を、必ず恭子のところへ落としてくれるという利点があった。銀座ではさしたる客ではなかったが、スナックなどをはじめてみると、月に三十万から五十万近くの「定期便」はけっこう有難い客だった。  恭子の彼氏《おとこ》がこういうタイプであったのには、恭子にも責任がある。十年近い銀座勤めで、恭子についた仇名は「真面目蝶」であるからだ。「真面目蝶」と「定期便」が名前だけでも似合いのカップルであることは確かだが、真面目なホステスといわれることが客の定期便と同じく、ネオン街ではけしてほめ言葉ではないことくらい、恭子は知っている。  だが恭子は、不必要な見栄とはったりで勝負して、ネオン河の上っ面をドラマや小説さながらに華やかに流れてゆくホステス達を、心のどこかで馬鹿にしていた。金が欲しくて働いて、その金のために滅んでゆくなど馬鹿らしい。銀座の舞台の中央でライトを浴びて自分のリズムがわからなくなってしまうより、真面目蝶であろうと何であろうと、私は脇役《わき》でしっかり女給役を勤めて、出演料《ギヤラ》を稼ぐ方にまわろう。恭子の働いていた店はマスコミに名が売れている超一流店ではなくて、地味な店舗ばかりであった。その店でも、恭子はけして売り上げのナンバークラスになど入らずに、ヘルプと売り上げが半々で、休まない堅実さを買われる中堅どころのホステスで満足していた。たまたま恭子のそうした堅さを見込んだ常連客のビルのオーナーが保証人になり、「泥の花」をオープンすることができた。目立って厳しく不況になりはじめた銀座の高級クラブ商売には、三十歳の誕生日がいい区切りになって、何の未練も思い残すこともなかった。  不思議なことに一人暮しで気ままに暮しているホステスより、病身の母親と家族をかかえている恭子の方がずっと店の借金《バンス》も少なく、僅かながら貯金さえ持っている。いいわいいわで着るものにも食べものにも贅をつくす甘い暮しより、一万円札が飛び交う職場でいくら稼ごうと、家へ帰れば手枷足枷で百円は百円という小銭の値打ちを知りつくさねばならない厳しい生活が、長い眼でみればはるかにプラスであったことを恭子は銀座を去るときに如実に知ることができた。  近頃は老人医療保護制度のおかげで、年老いた母親の治療費はほとんど無料になっているし、手先の器用な姉が、恭子の買ってやった電動ミシンで近所の洗濯屋の下請けの掛け継ぎや衿袖の直しを引き受ける内職費が馬鹿にならず、けっこう姉の小遣いになっている。 「泥の花」も開店して二年、ようやく常連客も安定して、恭子は数え三十三の女の厄年が、いい目で好転してきたと思えるほど、安穏とした日常を送っていたのだ。  信太郎の出現は、やっと訪れた穏やかな「真面目蝶」の日だまりに、突然投じられた一個の礫《つぶて》だ。礫の振動は、小さな石一個の翳《かげ》りではすまなさそうである。  もしかしたら男にのぼせあがって金を貢ぎこむのは、いままで家族の枷で押さえつけられていて窺《うかが》い知れなかった恭子の本性かもしれない。自分の店を持つとき、ためらわず「泥の花」という名前をつけた恭子には、泥まみれになって咲いてみたいと願う享楽主義で耽美的な部分が隠れている。さらにもう一つつけ加えるなら「泥の花」は自虐的な呼び名でもある。  信太郎でさえ感心した「泥の花」という店名は、全く恭子の|創 作《オリジナル》であった。  十一月   五三七〇八〇  十二月  一三九二九〇〇   一月   九〇六〇五〇   二月  三一一四五〇〇  続いて三月も仕事に必要だからと高価なステレオセットやTVのビデオなどを揃え、家賃、生活費、小遣いをあわせて、一二一七七四〇、合計七一六八二七〇、僅か五カ月で七百万余りを貢いでしまった勘定になる。 「定期便」と別れたのもこの頃だ。  あいかわらず火曜日毎に「定期便」は「泥の花」へ顔を出していたが、一カ月に二度ほど付きあうセックスに、恭子は今年になってから一度も応じていない。 「真面目蝶の看板を下ろした方がいいのじゃないか」定期便は、何もかも知っているぞといわんばかりにいった。仕事の関係などないのに、近頃よくカウンターで一緒に並んで飲んでいる磯貝のことが頭に浮かんだ。恭子は無言でそっぽをむいた。 「何だあんなルンペンみたいな男。どこがよくて飼ってるのだ、よっぽど|あれ《ヽヽ》でも強いのか」  男の考えることはすぐこれだ。女が男に惚れたというと即、セックスに結びつけたがる。関係がないとはいわないが、性だけで女は男に狂いきれない。この男に抱かれているという男の存在感がいいので、その部分《パート》だけをとり出せば、信太郎より「定期便」の方がずっと強くてしつっこい。ただ信太郎のセックスは心理的に女を扱いなれているぶんだけ間合いとリズム感がいい。サーカスの曲芸師が犬や鳥を扱うように、どこか女を見下してリードしながら自分の思いどおりの罠にはめるのだ。ことが終わってまだうつつの唇に、冷めたい水を含ませるのにも、シャワーを浴びておいでと汗ばんだ項をピローケースの端で押さえてくれるのにも、女の余韻にあわせてくれる甘さがある。  ──猛獣が獲物を屠《ほふ》ったときの口は、笑っているような感じに開いて恐ろしいが、そういう凄さの奥に、色男というものは優しさをもっている──という文章に出逢ったことがあるが、恭子は信太郎に抱かれたあとは、必ずこの文章を現在の光景として思い浮かべる。私はこの人に食べられたのだという充実感は、どの男と寝ても感じたことのないものだ。信太郎はゆっくり血だらけの唇《くち》の舌で、味わいつくして飲み下してしまった美味しいものの味を味わっている。いかにも旨かったというように、無表情な顔面の皮膚の下に薄わらいを浮かべて舌なめずりをしている。  女にとって床上手《セクシー》な男というのは、情事のあとさきに舌なめずりのうまい男のことを指すのかもしれない。  しかしこんなことをどう「定期便」に説明してもわかりっこない。決まった時間に必ずくるということが、男女の仲のときめきの快感をどれほど削《そ》ぐのかも知らない男なのだ。 「俺もいっぺんひも稼業をやって、女にとことん面倒をみてもらいたいもんだな」  あんたには無理よ、恭子は白々と眼の端を凍りつかせて「定期便」をみた。太い安全な生活と人生の軸を自分で造って、それにふりまわされている男に女が金を貢ぐわけなどない。恭子は信太郎がカメラマンの橘と、酔っぱらってものを投げっこした夜の光景を思い出した。  ──おまえにゃ負けるよ、てめぇを投げちゃうんだから、と橘はいった。 「定期便」は家の鍵やライターどころか、会社のロッカーの鍵、いや昨夜行った酒場のマッチさえ投げられないだろう。男が女にとことんもてて惚れられるのは、セックスでも外見でもない。男の姿勢なのだ。  たった三十万ぽっち、それも客として使う交際費で旦那面をしないでくれと、恭子は腹の底で嘲笑《せせらわら》った。私が信太郎に毎月いくら貢いでるか、あなた知ってる? 「思いなおさないか、反省して」  何を反省するの、恭子は、グラスの底を乱暴にカウンターの上に置いて、叩きつける音をたてた。びくりと「定期便」は恭子をみた。情のかけらも、みじんの義理も感じていない女の横顔に出会ってあわてて銀縁の眼鏡のまん中を押さえる。未練はあっても、云い争いになって噂の種になることの方がもっと恐ろしいと「定期便」は、はじめて「片道航路」になって「泥の花」を出ていった。椅子から立ち上りもしないで恭子は扉の閉まる音をきいた。     五  信太郎にいわれるままに出していた金を、恭子がセーヴしようと思いはじめたのは定期預金を解約して、普通預金に入れていた残金が三百万円を割った頃のことだ。   五月   八三四六一〇  いいわいいわで賭事の尻ぬぐいをしたり、衝動的に欲しがった二十八万のダンヒルの時計を買ってプレゼントしていると、見る間に赤い手帳の数字は増えてゆき、預金の残は五百万から四月分五月分を差引いて、二百九十四万七千六百五十円になった。  恭子は二月に一千万の定期を解約して残金を普通預金にしてから、なぜかこの金は信太郎に貢いでいい金額とほぼ決めている。十一、十二、一、二月分までを合計すると、五百九十五万五百三十円となり、預金の五百万をプラスすると総合計が一千万より百万弱はオーヴァーする勘定になるが、それくらいの誤差はしかたがない。  一カ月二十万を月割にして五十カ月分、四年と二カ月はかかる一千万、八百万にするまでにも三年と四カ月もかかってしまったが、思いきって惚れた男にぱっとそれを使ってしまうのも悪くない。毛皮を買ったり宝石を買ったり、無作為に浪費するより、女としての精神的な贅沢では最高の金の使いかたではなかろうか。しかしそれも先が見えはじめると、なんだか心細くなる。赤字の手帳の数字より、預金高の残の一番上の桁が下がって変わってゆくのが、現実的で恐ろしい。  いまの調子でゆくとあと三、四カ月で信太郎とは付きあってゆけなくなる。  恭子はふるい落語で、死んでしまった花魁《おいらん》に惚れぬいている男が、香をたいては花魁の幽霊を呼び出し、(取交《とりかわ》せし反魂香《はんごんこう》、徒《あだ》には焚いてくだしゃんすな、香のきれめが縁《えにし》のきれめ……)と限りある香の濫費を幽霊にたしなめられる話を自分の例と重ねあわせた。  一カ月どんなことがあっても五十万、それ以上は出すまいと恭子は決心をした。そうすれば三百万であと六カ月、半年は付きあっていられる。その三百万が百万台になったら、三十万にしてたぶんもっと期間をのばすのだろうかと、恭子は自分の細かさに密《ひそ》かに我ながら呆れる思いだが、こうでもしなければ公私混同して店の金を使うようになってしまう。一杯千円もしない水割りを細々と売って、一日の総トータルが五万円に満たない日もままあるスナック稼業の売り上げを男に貢いでいては「泥の花」もたちまち崩壊だと、そのへんは恭子の自衛手段でもある。この頃になると恭子は信太郎と一夜を明かしても、平気で我を忘れてぐっすり眠れるようになっていたし、信太郎もはっきりと、金に用のあるときしか恭子を呼び出さない。  信太郎から電話があると恭子は反射的に、今日いくら持っていたかを頭に思い浮かべる。十万円の現金を二つに折ってポケットに入れ、小銭入れだけを持って恭子は出かける。  情事は昼間のときもあったし、黄昏《たそがれ》、深夜と、信太郎の一方的な生理リズムの時間にあわされていた。信太郎の部屋の窮屈なベッドの上で抱かれ、終わったあと「──あるか、今日」と云い出されないうちに恭子はそっと枕もとの煙草の箱が積み重なっている上に金をおいた。  信太郎はみるかみないかわからないほどの眼の動きで札をとらえる。「ああ」とかすかに頷く。「ありがとう」とはっきりいうときもある。ただどんなときも恭子がみている前で、金に手をふれることはなかった。  金額は十万円と決めていたが、半分になったこともある。ベッドに入るまえにシャワーを浴びにいって、バスタブにあきらかに恭子のではない長い女の髪の毛が二本はりついているのを発見したときだ。  恭子は信太郎に見つからぬように、脱ぎすてたジーンズの尻の十万円を半分にわけて片方のポケットに入れかえた。ベッドを脱け出して洋服を着て帰るときに、何食わぬ顔をしていつも通り煙草の箱の上に無雑作に金をおいた。  信太郎が十万円だと思っているだろうと思うと胸が痛んだが、冗談じゃないという気もある。私の他に女を呼んでおいて、その女からも貢いでもらったらいいじゃないの。  帰る道すがら恭子は自己嫌悪に陥ってむかむかした。十万円をおいて、二本の髪の毛をつまみあげて大騒ぎする女と、その腹立たしさを金額で差し引いて陰湿にしかえしをする女と、どちらが厭な女だろうと思う。  どちらの女も死ぬほど厭な女だ。  あんたがわるいのよ、恭子は車のなかで遠くの信太郎にむかって声を吐きつけた。かけがえのない女の恋に、金銭をここまで介入させてしまった信太郎を少し恨んだ。だがこの恋は、金銭がなければ最初から全く成り立たなかったはずだ、決まりきっていることにいまさらのように気づいて、恭子はちょっぴり泪を流した。信太郎のことで泣いたのは、あとにも先にもこのときだけだった。  信太郎からは、あくる日の朝すぐ電話がかかってきた。  ──逢いたいんだよ、どうしても。抱きたい、おまえをすぐ。  安物のロックの流行り歌の文句みたいな台詞に、恭子は酔った。ほっとする部分もあった。昨日会ったばっかりなのにと思う気持が、なお切なさに拍車をかける。気に入りの白のうすい下穿きを身につけ、胸と太股にコロンをぺたぺたと平手ではたいて、恭子は運転席にとび乗った。信号の赤が青になるのがこんなにのろいと思わなかった。  かんかん照りの朝陽の下で、信太郎の部屋はまだまっ暗だった。キム・カーンズの�ベティ・デイヴィスの瞳�が、がんがんかかっている。  ベッドカヴァーをかけたままの上に、信太郎はぼんやりと白い素裸で寝ていた。 「昨日あれから出かけて、いま帰ってきたばかりなんだ」  首と髪をつかまれて湿った匂いの個所へ押しつけられた。生温かい侵入者《エイリアン》ははっきりと起立している。両手で根元を押さえつけ、唇に含んだ。歯があたらないように舌でフォローしながら喉の奥までゆっくりと滑りこませる。頭の上の方で男のかるい呻き声がする。 「とれよ、早く」といわれて、手探りで素早く下だけを脱いで男の上にまたがる。熱い火傷のまんなかに氷柱《つらら》が突きたつ。男の手が下からもどかしげに胸をまさぐり、ブラウスのボタンが一つちぎれてとんだ。 「……だめ、だめ」と云いながら、騎乗のジャンヌ・ダルクは男の荒い息にあわせて、まっさかさまに城壁を駆け下り、男の胸に耳をつけた。足元に敗北の白旗が下着になってまるまっている。  別れられない、恭子は思った。「捨てないで」思わず信じられない台詞が突きあげてくる。だって私はこのひとを愛してるし、愛されているのだもの。  女の生理は、情事の連投が何よりの歓びで、自然に反応する。男とちがって、たまの盛大な祭礼《パーテイ》より、連続と確認の小出しなセックスの方が、女心を潤わせてしまうのだ。  恭子は世界中で一番幸せな猫になって、信太郎の腋《わき》の下へ鼻をこすりつけた。──ねえこのままもう一度眠ってしまいたいわ。 「──仕事、がある」恭子があまり聞きなれない言葉を信太郎はぽつり、と吐き出した。 「そのことで相談があったんだけど」  原盤権とか出版権とかオケ代とか、恭子には訳のわからない言葉を持ち出して信太郎は熱心に説明しだした。話は長々と続いて細部はほとんど理解できなかったが、要するに信太郎が見込んだ若い女のジャズボーカルがいて、それのレコーディングの費用をどうしても捻出してもらいたいといっているのだ。 「LPでいきたいけど、LPじゃどんなに安くあげてもアレンジ代スタジオ費ひっくるめて一本はかかってしまうしなぁ。賭けだけどシングルでいくよりしょうがない。どこのレコード会社や音楽出版社に持ちこんでも乗ることはわかっているが、ひもつきにされると俺の好きな歌でつっぱれない。とりあえず原盤のマザー(テープ)だけでも自分で起こしたいのだ。やっと俺の言葉のスピーカー(歌手)を見つけたんだぜ」 「一本──て、いくらのこと」恭子は気のなさそうな調子できいた。 「一千万だ」 「一千万。そうするとシングルは」 「AB両面で二百万はかたいな」  二百万出してしまったら四カ月も別離が早まる。恭子は戦《おのの》いた。結局信太郎は、金の話をしたくて私を呼んだのか。充分暖房がきいているはずの部屋なのに、素裸の両脚の股の間を風が通った。片頬が歪んでかたくなるのが自分でわかる。 「いいかい、あてにして」 「………」  無言の恭子の胸の上にのせた信太郎の片手が、ゴム毬《まり》をつかむように動いた。 「なあ、だめかよ、何とかいえ」 「……こんな……ときに」恭子はやっとのことで口を動かした。 「それもそうだ」思いなおすように信太郎はからだにはずみをつけて起きあがった。「俺もその歌い手を昼に待たしているので、パルコの前に行かなきゃなんない。ちっと目立つ女だから、あちこちの事《プ》務|所《ロ》からバンがかかってしょうがない。押さえこんでおかなきゃあな」  相手が女の歌手だというところに、恭子はひっかかった。押さえこむ、何を押さえこむのだ、おおかた手足を押さえこんで切るに切れない男女《なか》の烙印《らくいん》でも押しつけるのだろう。 (出すわけないじゃない)恭子は内心毒づいた。男のためならともかく、男の情婦《おんな》のために私がなぜ残り少ない貴重な反魂香をたかなければならないのだ。  信太郎は例によってまたあれこれと着てゆくものに迷い出した。シャツを二度脱ぎすて、靴下の色にまでこだわっている。デートにいくわけじゃあるまいし、仕事の相手に会いにゆくのに口笛はよけいじゃないかと底意地のわるい眼つきになる。仏頂面をしている恭子にふと信太郎は眼をとめた。  乱雑に積みあげてある雑誌のなかから二、三冊をとり出し「俺のインタビューが出てるのがあるから読んどいてくれ」と押しつける。「俺の本当にしたいこともめずらしく本音で喋ったしさ。インタビュアーがよかったせいだ、うん。その女の歌手のことも少しかいてある」  恭子は不承不承雑誌を受けとった。信太郎はその上にドロップのきれいな缶を乗せ、ほら渋い顔すんなよ、恋人《おとこ》が乗ってきたっていうのにと嬉しそうにウインクした。今までにない生き生きした信太郎の様子は、恭子に不安と苛立ちを植えつける。  ようやく信太郎の支度ができて、部屋を出てゆきかけると、信太郎が恭子を呼びとめた。 「待てよ、ちょっと──な」  昨日の五万が片方のジーンズに入っていた。恭子はだまってそれを信太郎に渡した。信太郎はどこかで痛みを怺《こら》えるような表情をした。恭子は先にたって階段を下りた。 「パルコの前まで乗せてゆくか」 「いや、時間がないのよ」いやというところにアクセントをつけていった。バックミラーでみていると、信太郎は道のまん中に突っ立ったまま、恭子の車が角を曲るのを見送っている。昨日のバスルームの長い髪の毛にこだわって、恭子は車を運転しながら、短い信号待ちの間に信太郎のインタビューの出ている音楽雑誌の頁を探してめくった。わかりにくい活版の写真だったが、女の歌手は恭子の想像と似ても似つかないちりちりのパンクヘヤーだった。  半分ほっとしながら大きな活字だけを拾い読みする。 「人生は冗談」というメインタイトルがある。──現在は階段の踊り場にいる心境だ、一歩ずつ登るか飛び下りるかどっちかだ、という個所と──女? 俺はどうせひもにも亭主にもなりきれない男さ、というコメントが眼にとまった。  突然苛立たしげなクラクションの音で我にかえった。軽四のトラックを運転している後ろの車の若い男が、青になった信号を指さして恭子を睨みつけている。若い男はさも憎々しげに何かわめくと、恭子の車を急カーヴで追い抜いていった。馬鹿野郎と口の動きで読みとれた。あんな男にも、恋人《おんな》はいるのだろうかと恭子はまるで関係のないことをふと考えた。 「どうあってもまとまった金を出すのはよそう」恭子は気をとりなおして、車を店のある赤坂方面にむけた。     六 「いま、成田にいる」  電話の声は突然いった。 「当分日本には帰ってこないつもりだ。できれば永住したいと思ってるけど、ビザの切りかえは何とかなっても永住権となると難しいらしい」  恭子は信太郎が何をいっているのかよくわからない。 「永住ってどこ」 「あ、そうか。どこへいくって肝心なことを云わねぇんだもんな」信太郎は可笑しそうにいった。「アメリカだよ、アメリカ。最初は西海岸にしようと思ったんだが、やっぱりニューヨークだろ。音楽関係《ミユージシヤン》はカリフォルニアの方が楽らしいけど、オリーヴもどうせ苦労するなら、しがいのあるところの方がいいっていってるからな」  恭子はますます頭のなかで話が混乱した。オリーヴというのがオリーヴオイルというバンドの、例の信太郎が肩入れしている若い女の歌手《ボーカル》だということはわかるが、その女がなぜ信太郎と成田にいなければならないのだ。 「飛行機のチケットも片道だ。二枚分買ったら所持金は千ドルもない。アパートの保証金と友達に家具を叩き売って金をつくった。むこうへ行ってもすさまじいヒッピーぐらしだろうけど乞食は日本で慣れてるものな。どんな目にあっても、ジゴロを商売にするよりはましだろう」最後の台詞を信太郎は、ごく当り前にさらりと、屈託なくいった。 「じゃあな、元気で。落ちついたら居場所くらい連絡するよ」ぷつりと電話を切られてしばらくして恭子は、ようやく自分がどんな目にあっているのかがわかってきた。  営々と精魂こめてかき続けてきたラブレターが、ふいに何の価値もない紙っきれにかわってつむじ風で飛んでいってしまったみたいに、恭子の眼の焦点は虚ろに空を切る。絶対終ることのないと思っていた|物  語《ラヴストーリー》に突き放されて、恭子は立っていることもできない。恭子は電話の前に坐りこみ、ふだんなら一度でつくライターを、二度も三度も失敗しながら煙草に火をつけた。  ──つまり、信太郎は居なくなってしまったのだ。若い女のジャズボーカリストを連れて、本当に何の価値もないくしゃくしゃのカスみたいな紙くずになって、私の眼のまえから消えてしまったのだ。  いちばん最後に逢ったのは、一週間ほど前の夕暮れだ。いつもと同じように情事をして、その後なぜか二人で六本木の角の本屋のまえにいた。二人で別々に読みたい雑誌を選んで、レジのところで落ちあってみたらほとんど同じ週刊誌だった。二冊ずつ買うのは勿体ないと思ったが、今夜は別れ別れなのだからしかたがない。恭子はたったいままで抱きあっていた男との距離と、全く別々の生活の証拠を見た思いで、寂しくなった。さきほど恭子が渡した十万円のなかから無造作に一万円を引きぬき、信太郎は恭子の買った雑誌のぶんも一緒にしてくれと、レジの女にいった。  同じ印刷の紙ぶくろをかかえて表に出て、右左に別れるとき、信太郎は恭子の顔をじっとみた。 「この前の話、何とかならないか」 「お金のこと」恭子はかぶりを振った。「レコーディング費用でしょう、無理よ、二百万なんて」恭子は金額をはっきり出して答えた。信太郎は鼻白んだが、これが最後だという風に小声になって一足ふみ出した。 「プリーズ、よろしく、で。仕事の金だからさ」 「私がなぜあなたの仕事のお金までヘルプしなくてはいけないの」いきおいこんだ恭子のいいかたに、信太郎はしわしわと眼をしばたたいた。それは恭子がはじめてみる信太郎の表情だった。 「もう、行くわ」恭子は背をむけた。  信太郎は口のなかで「オー・ゴッド」といったようだった。  あのとき、金を用意したら信太郎と別れなくて済んだであろうか、と恭子は考えた。いやきっとその金をプラスして、信太郎はやはり成田から飛び立っていっただろう。そう考えるとほんの少しだけ気持が慰められる気がしたが、大きな落し穴に足許を掬《すく》われた空虚さは埋めようがない。  恭子は急に赤い手帳が見たくなった。  信太郎との日々の確かな足跡が一つずつ克明にしるされている赤い文字。日記でもあり、セックス回顧録でもあり、切ない女心の重量でもあったあの数字。  一枚一枚叮嚀にめくってゆくと、一年の歳月の短さとはかなさが、うすい紙っぺらになって指先に伝わってくる。いちばん最後の頁まできたとき、恭子は驚いて息をとめた。  最後の総トータルの数字の上に、黒いサインペンで線がひかれ、その下に0と、乱暴な走りがきの数字がかき添えてあったからだ。  あきらかに信太郎のしわざだ。信太郎は赤い手帳の存在を知っていたのだ。知っていて総トータルの数字をゼロに訂正していった。  どんな目にあっても、ジゴロを商売にするよりはましだろう。  信太郎の明るい、乾いた調子の電話の声が甦ってきた。「オー・ゴッド」恭子は信太郎の口まねをしてつぶやいた。  男に貢がせてもらっていたと、恭子が気づいたのはそのときである。 [#改ページ]   弥次郎兵衛《やじろべえ》  外へ出ると、もはや球場の周りは静かで、帰りそびれた観客と球場整備員らしい人影が足早に二、三通りすぎてゆくだけだ。  あの喧噪《けんそう》はいったいどこへ消えてしまうのだろう。  長田はいつもそのことが不思議でたまらない。ほんの三十分、一時間まえに興奮の坩堝《るつぼ》と化していたスタンドの熱気や歓声が、あっという間に潮が引くように消えて、グラウンドは沼池の底さながらにしんと冷えかえってしまう。まるで地表に穴があいて、その狂乱を吸いこんでしまったか、それともすごい大鯰《おおなまず》がいて、大きな口をぱくりとあけて熱狂した人間共を飲みこんでしまったみたいだ。 「大鯰」  長田はグラウンドの下に、ぬめぬめと巨体をくねらせた大鯰が埋まっている幻想に、一瞬とらわれた。 「なにかいうたか、おまえ」  後ろからついてきた保井コーチが、長田を見上げていう。 「いや、別に」  長田は自分の肩のあたりにある、保井の赤ら顔をみた。そんなことをこの、人がいいだけのバッティングコーチに話してみたところではじまらない。保井と並んで早足になりながら、長田はまだグラウンドの下の大鯰を思い浮かべている。いや、必死になってその姿を追い求めているといってもいい。  だが心の一方では、いますぐに決断しなくてはならないことがある。  こういう切羽つまった大事なときに、何の脈絡もない景色や、とんでもない場面を考えるのは、ここ数年来の長田のくせであった。  例えばウエイティングサークルで次の出番を待っていたとする。そんなときに突然北海道遠征で食べた毛蟹《けがに》の、甲羅と足が浮かんできたりする。あの肉は旨かったと長田は舌の裏にほろ甘い蟹の味を|甦 《よみがえ》らせる。そうするとまっ白な細い紐が束になったみたいな蟹の肉と、三杯酢のうすい透明な色のたれ、側で身をせせり出してくれた女中の短い手の指なども、ついでに思い出してしまう。  そのときの長田の大きなぎょろ眼の焦点は、バッターボックスに立っている打者の背と、マウンドで投げている投手とにむけられていて、いかにも精神を統一して集中しているかのごとくにみえる。若いピッチャーだともうそれだけで威圧感を覚えて、インコース低目ぎりぎりのはずのストライクを高目にうわずらせ、ボールをとられたりするのだ。  しかし長田の頭のなかは、すっかり球場と関係のない光景に占領されている。  キャンプのときに行った中洲のトルコの女の浅黒い太股、行きつけのスナックの使いなれたカラオケセット、チームが優勝して貰った思いがけない褒賞金《ほうしようきん》の紙袋の厚み──それは主に長田が心愉しかったり、嬉しかったりした回想につながっている。  そしてそうしたとき、たいがい長田は不調でろくにヒットも打てない。逃げようとしているのかもしれない、と思う。現実の場面展開に直面してゆく自信と勇気がなく、他の状況を考えることで自分を逃がしてしまうのだ。簡単にいいきってしまえば、集中力の欠如ということになるのだが、周りの人間が暑がって汗を流しているのに自分だけ奇妙に寒かったり、あるいはその逆でやたらに暑かったり、つまり野球に対する気持がどこやら散漫になってしまっているのだ。  以前はユニフォームを着てバットをふりまわしたり、外野を走っているだけでも充実した幸福感に浸っていられた。  それと同じで今夜も、大事な決断をせまられているのに、長田はぐにゃりとした地底の鯰の皮膚と、鰭《ひれ》の動きを宙に見つめている。  長田の行く手には二つの窓がある。  一つは川崎市のはずれにある、小ぢんまりとした建て売り住宅の、アルミサッシの窓だ。  いまひとつの窓は、恵比寿の駅の裏手にある二十世帯くらいのマンションの五階の窓で、その窓には少女っぽいフリルのついたレースのカーテンが下っている。  どちらの窓も久しぶりの東京遠征の帰りを待ちかねて煌々《こうこう》と灯りが点《つ》いている。長田はそのどちらにも、明日は必ず帰るぞと約束をした。 「駒よ」  空車のタクシーをぼんやりといく台も見送ってつっ立っている長田に、保井は声をかけた。 「家へ帰れ、な、今夜は。着いたばっかりの晩やろ。いちおう家を治めとかんかい。それで人生はうまいこといくんや。男は迷ったときは家へたどりついて寝てたら間違いない」  わし横浜やから、途中の川崎まで乗せていってやるわ。電車ちゅう時間でもないやろ。保井は手をあげて一台の車をとめ、渋っている長田の大きな尻を追いたてるように先にシートに押しこめたあと、得意げに一枚のチケットをズボンのポケットからとり出した。 「どうや、これ。さっき西スポの運動部長からとりあげてやったんや。あいつらふだんは一回も顔みせんといて、シーズン終りになるとなんぞおいしい話ありませんかと寄りついてきよる。教えてやりたいけどただではあかんでというたら、これ使うてくれませんかとかいうてタクシーのチケットよこしよったんや。今日び横浜まで一万以上はかかるさかいにな、有りがたくいただいといた、熱海まででもいけるで」  長田にいったあと、保井は上機嫌でまたいつもの懐古談をやりはじめる。 「わしらが現役ばりばりの時分はそら野球も、見とる方もやっとる方もいまより数倍面白かった。あれはいつの試合やったかいなあ。ピッチャーは阪神から移ってきよったばっかりの小山や。うちのチームが三─〇で負けとって八回ちょうど満塁、わしの番よ。なんとそれが前の晩に浴びるほど銀座で飲み潰《つぶ》れてしもうてさ、二日酔でまだ酒のげっぷが出る騒ぎや。一球二球とストレートのどまん中でストライクをとられて、三球めにわし審判にタイムをかけたったんや。すまへんけどボールが二つにみえますわ、いうて」  保井の喋《しやべ》りに気のないあいづちをうちながら、長田は窓外の景色を眺めている。車は高速に入り、スピードをあげた。水銀灯の灯がひとつひとつと近づいては飛び去ってゆく。  どうして保井はこんな話を、くり返しくり返し話したがるのだろう。野球の世界はその日の結果が出てしまえば、全てがあの水銀灯と同じはるか後方の過去のことだ。せいぜいその夜のプロ野球ニュースか、翌日の朝刊まで興奮が持続するくらいで、夕刊が刷りあがる時分にはどんなファインプレーも、ヒーローもみんな紙くずになり果ててしまっている。  保井さんは、いまよほど面白いことがないのだな。野球の現役からも、人生のグラウンドの枠からも外されてしまったような保井の、白髪まじりのうすい横|鬢《びん》を長田は横眼で盗みみた。ついでに自分の黒々とした角刈りの頭に手をやる。  手のひらにしゃきしゃきとつっ立った感触は、長田がまぎれもない「現役」であることのたしかな証明のように思えた。  保井の声はエンジンの音より、ずっと小さくかすかになりつつある。  長田が女と知りあったのは昨年の暮、長田がまだ東京のチームのユニフォームを着ていた時分だ。歌自慢の長田がチームを代表してTV番組に出場したのがきっかけだ。映画界から数人の女優が応援で出演していて、そのなかに女がいた。音あわせだ、カメリハだと長びく本番までの間に、偶然隣りあわせに坐っていて言葉を交した。  野球の人? 女はプロ野球のことは詳しくないようだった。どこのチームなの、ああそこなら知ってる、だって有名だもの。女はCMに出ている長田の同僚の若いスター選手の名前を二人ほどあげていった。このまえの何だっけシリーズ、そうそう日本シリーズの最中なんか、助監も照明も気狂いみたいにあなたのチームを応援していて、てんで仕事になりゃしなかったのよ、ほんと。長田のチームはその年の日本シリーズで惜敗していた。  でも俺、そこを退《や》めて関西に行かなければならないかもしれない。公式戦が終ってすぐ、球団から内々にトレード通告を受けていた長田は、小声で女に告げた。 「なあに、それ、出張」 「出張じゃないよ。球団を変ってしまうのだ」 「じゃ、首なのね」 「ま、首みたいなもんだな」  女のいいかたがあっさりしているので、長田は素直に頷《うなず》いてうふふとわらった。  女は長田でも名前を知っている、結構売れたポルノ女優だった。  美《い》い女だな、長田は女の方にむきなおると、あらためてじろじろと上から下まで女の姿を見つめなおした。脱色した髪の毛が大きなカールでふわふわと肩のそばで渦まき、そのまん中に小づくりな顔が収まっている。つんと上をむいた鼻に比して眼と唇が大きく、どこやらアンバランスな印象を受けるが、そのアンバランスなところが奇妙にエロティックだ。細い胴体にぽってりと丸みを溜らせて脹《ふく》らんでいる乳房。大きな臀《しり》をささえている締まった足首。足首には切れそうな鎖と赤い皮紐がまつわりついていて、あんな状態でよく歩けるものだと感心するほどとがって高いヒールがくっついている。 「なにをみているの、あなた」  女は長田が熱心に凝視している視線の先を尋ねた。 「足首」 「足首?」 「きれいだ──」  長田は半分|呻《うめ》く調子でいった。 「足首を誉められたのははじめてだわ」  女は腰を動かして、組んでいた足を少し長田の前につき出すようにした。 「さわっていいかい」  言葉より早く、長田のがっしりした手が女の足首を掴《つか》んだ。女の足首は細身で芯がかたく、ぴたりと握り心地のいいバットに出会ったのとそっくり同じ感触だ。 「ま」  女が眼を見張ったので、長田はあわてて口ごもりながらいった。 「あの、俺、足首のいい女にあまり会ったことないから……その、つい」  実際長田はいままで、グラウンドに群がりよってくる程度の低いグルーピィまがいのギャルか、ときおり行く安酒場のホステスいがいに女と付きあったりもてたりした経験がない。それは自分の風貌によるせいだと長田は気づいている。たしかに長田の顔は変った顔だ。将棋の駒か、ホームベースを思わせる角張った輪郭。長田の「駒」というあだ名はそこからの由来だ。加えて眼が三角で、爛々《らんらん》と輝く三白眼。とがっているくせに坐りのいい鼻梁《びりよう》、その下に大筆でへの字を書きなぐったような両端下りの口、ひと口にいうと武者修行中の荒武者が、正眼に構えて相手を睨《ね》めつけているかのごとき印象を、他人に与えてしまう。 「ねぇ、足首の締まり工合っていうのはさ……」  言葉を濁して女はくすりと肩でわらった。意味あり気にとったらしいが、不愉快そうではない。  いきなり足首を掴まれたことで、以前から親しかった風に女は顔をよせて話しこみ、二人はすっかり打ちとけた。長田が思いきって電話番号を訊くと、女は驚くほど易々と自宅の番号を台本の裏にかいてくれた。水木麻也と、書きなれたサインの字体で名前を添え、ぴりぴりと裏表紙を破いて長田に手渡す。長田は夢心地になった。  番組が終り、あっさりと手をふって女がスタジオの入口を出ていってしまってからも、電話番号を書いた紙が背広の右ポケットでかさかさと動いている気がする。逃げてゆかれないようにと長田は片手でその紙を握りしめた。  川崎の自宅へハンドルをむけながら、長田は時間の経過を数えている。  あまり早くかけても、という気がある。大甘で鼻の下の長い男と思われやしないだろうか。だがこの番号が、本当に水木麻也の番号かどうかということだけでも今夜中に確めたい。  黄色から赤にかわる信号を、ゆっくり待ち待ち運転して五十分ほどが過ぎた。家は恵比寿だといっていたから、まっすぐに帰ればとうに着いているはずだ。長田は眼についた公衆電話のボックスにとびこんだ。  五、六度鳴ったベルのあとで、女は電話に出た。 「ごめんなさい、シャワーってたのよ」  鼻にかかった声で女はいった。 「へえ、真面目に帰ってるんだな」 「あら、あなた、さっきの長田さん」  女はくっくっとしのびわらいをした。「ずいぶん早いのね」 「俺、せっかちだから」 「待って、バスローブを着るわ」  水滴のういた素肌を、タオルで包んでいる女の様子が浮かぶ。いつか大写しのグラビアでみた女の熟れきった桃いろの乳頭の粒々が、眼前に迫ってくる。掠《かす》れてあまい声のむこうに長田は、女の息の匂いを近々と嗅《か》いだ。 「いつ会えるかな、今度」 「ほんとにせっかちねぇ」 「ぼくらの商売、チャンスに攻めこまないと得点にならないから」 「商売といっしょくたにしないでよ」  女はまたわらったが、声の調子は明るい。 「いいのかな、話していて」  長田は探りをいれた。 「いいのよ、まえはまずかったけどね。このひと月ほどは大丈夫」  女は正直にあっけらかんと答えた。 「男がいたのか」 「ええ」 「別れたのかい」 「まあね、猫おいて出てっちゃった」  猫おいて出ていったといういいかたがおかしくて、長田は吹き出した。悪い女じゃなさそうだ。 「またかけていいかな」 「いいわ、仕事でいないことも多いけど」 「じゃ」  話し足りなくてみれんもあったが、一回めだからとあっさり切りあげる。十円玉が数枚音をたてて戻ってくる。せまい電話ボックスに、熱気がむっとこもっていた。  川崎の自宅に帰ると、女房の槇子《まきこ》は相変らず不機嫌だった。十一年間もいた東京の名門チームを離れ、パの二流チームへ夫が都落ちしてゆく不安もある。子供の学校のことで関西へついてゆけない苛立《いらだ》ちもある。 「お帰りなさい」といい捨てたきり流し台に立って夜食の支度をしている槇子の後ろ姿を、長田はつくづく眺めた。色気も愛想もなく引っつめにした髪、肉が削《そ》げ落ちて洗濯板さながらになった背と臀、おまけに足首とふくらはぎは一本の棒みたいにずん胴だ。長田は男の眼になって女房と女を見比べた。  どこまでも柔らかそうな女の肌、抱きよせればしなしなと崩れかかってきて、たっぷり果汁が溢れるに違いない股のつけ根の和毛《にこげ》の繁み。ポルノ女優というのはあのときどんな声をたてるのだろう。やはり映画と同じに眉根《まゆね》をよせて、耐えいらんばかりの嬌声をあげるのだろうか。  明日も電話をしよう、長田は決心をした。明後日も、その次もだ。とにかく十円玉と赤電話がある限り、女に俺の声をきかせ続けてやるぞ。  俺は恋をしたのだ、長田は心のどこかを泡だたせた。──恋、この三十三年間の生涯のなかで一度も長田に縁のなかった言葉だ。長田が恋を想うなどというのは、もぐらが月を想うよりも唐突ではるかな距離だ。  その恋を成就させることが、関西での新しいスタートに、必ずいい結果をもたらせてくれる、女に出会ったことが幸運の暗示に長田には思えた。 「なにかあったの」  ふいに耳のそばで槇子の声がした。夜食に暖めなおした湯豆腐の鍋をごとりと長田のまえにおき、顔いろをみている。 「たいしたことじゃない」  長田は首をふった。 「ひどく塞ぎこんでいるみたい」  槇子は豆腐を長田の小鉢にとりわけながらいった。  塞ぎこんでいるどころか、長田は女房の手を払いのけて大声で笑いたくなった。俺は恋をして久々に胸を高揚させているのだ。  おまえがしょっ中愚痴の種にする安い年俸や、かつかつで支払っている住宅ローンのことを考えているわけじゃない。恋だ、恋、わかるか。  人間というのは最高に幸せなときは、かえって落ちこんで沈痛な表情をしているのかもしれない。長田はずぶりとまっ白い豆腐のまんなかに自分の箸をつき立てた。こうやっていつかあの女の中心に俺を埋めこんでやるぞ、きっと。  眼のまえで女房を裏切ることがぞくりとした快感になって、長田は何回も豆腐に穴をあけた。 「およしなさいよ、子供みたいに」  面白くも何ともない調子で、槇子が顎《あご》をしゃくった。  長田がようやく女の部屋を訪れることができたのは、それから二週間ほど後のことだ。 「根負けしちゃった、もう」  女はさも仕方がないという風ないいかたをしたが、本心は長田を待ち望んでいるようだった。 女優の部屋などというのはどんなところかと、竜宮城へ出かける浦島の気分で長田は胸をときめかせて訪れたが、女の部屋は思いのほか簡素で、狭い二DKだった。  洋服|箪笥《だんす》からはみ出て鴨居《かもい》にぶらさがっているドレスや、三面鏡の前に乱立している化粧瓶が華やかさをまきちらす程度で、ひと口にいうと寒々とした楽屋という風情だ。  長田が想像していた華美な贅沢《ぜいたく》品や、女らしい生活必需品はあまり見当らない。  女は料理などほとんど自分の部屋で作ったことがないらしい。「たいがい外食か出前よ」三つも重なっているラーメンの丼を女は指さして首をすくめた。「でもね、お酒とベッドだけはちゃんとしてるの、何か飲む?」  開け放った奥の四畳半をほとんど占領しているセミダブルのベッドを見て、長田はぬっと立ちあがった。 「──早く」  女の腕をひっぱって片手でズボンのベルトを外しにかかる。 「せっかちねぇ、相変らず」  女の眼尻が濡れた。  ベッドカヴァーの上に女を引き倒して、ゆるい部屋着の間に手を滑りこませると、女は下着をつけていない。いきなりやわやわと触れたものに驚いて指先の動きをとめると、撮影《しごと》中はゴムのあとがつくからと女はいいわけともなくつぶやく。 「おねがい、爪のあととキスマークだけはつけないで」  はっきりとそこだけ醒《さ》めた声でいったあと、女はゆっくり躯《からだ》をひらいた。点けっぱなしの蛍光灯の下で、女の胴体と手足はさまざまな文字の形をした。長田が勝手に想像していたほど、あられもない反応を示すわけではなかったが、子猫がいたぶられているみたいに微かに洩らす喘《あえ》ぎ声が扇情的だ。  重なりあった躯をようやく引きはがしてごろりと仰向けになると、ベッドの斜め横にある三面鏡が、ちょうどいい角度で二人の裸体をとらえているのがみえた。女をみると女も薄眼をあけて鏡をみている。 「こいつ……」  長田は女をこづいた。 「ずっと見てたのか」  そうよ。女は悪びれずに頷いた。だってあたしあれをみてるとすごく、すごく炎《も》えるんですもの、なぜかしら、女は長田の脇に鼻をすりつけていった。ねぇ、職業病かしら。女の右手はまたもや長田の股間にのびてくる。鏡に写っている男は他人で、その他人はまぎれもない自分なのだ。他人の情事を盗みみているのと、見られている倒錯した気持が長田の気持に拍車をかける。  畜生、この女はこの鏡に何人の男とこうやってこんな狂態を写しやがったのだ、女を組み敷いて腰を打ちつけながら長田は女にきかずにいられない。  どうだ、いいか、強いだろう、俺が一番か、え、答えてみろ、一番か。  一番よ一番、きまってるじゃない。あなただけなんだから──あ、だめ、そこ痣《あざ》にしないで。  女は苦しげに顔を外していう。  あなたってどうしてそうそう自分を確めてばかりいるの。  職業病だろう、長田は女のいった台詞をなぞりながら、そういえばと思う。俺はユニフォームを着て自分を一番かどうかと確めるすべはすっかり忘れてしまった。長田が選手として最も華やかで自信に溢れ、誰にも負けまいとグラウンドでがんばっていたのはもう七、八年も以前、スタメンにレギュラーで名を連ね、最強の影武者と呼ばれていた時分だ。  わっと沸きあがるスタンドの歓声を、長田はまざまざと耳の奥に呼びおこした。  最高だろ、いいのか、いいっていえ──  堅いわ、堅い。まるで木みたい……  女は躯をふるわせて眉の間に深いたてじわをつくる。どこか遠い一点で醒め、そしてまた抱きあう。皮膚と皮膚を密着させながら、俺たちは互いの寂しさをこすりあわせているのかもしれない。そう思うと長田は女が愛《いと》しくてたまらなくなった。  遊びじゃすまなくなるかもしれない──  カーテンの細いすき間がしらしら明けを教えるころまで、長田は切なげに引きゆがんだ女の唇と、鏡のなかの自分の逞《たくま》しさを見くらべていた。  いつの間にかとろとろとねむりに落ちて、目覚めたとき、女の部屋の殺風景さはかえって長田を落ちつかせた。湯を沸かしてパックで煎茶《せんちや》をいれ、出前の中華をとって食べた。 「また来ていいだろ」 「今夜もきっと、電話いれて」  女はうわ眼づかいになって長田に甘えた。  マンションの玄関を出ると、午後の陽はもはや夕陽の色をして傾きかけている。あの部屋もけっこう西陽がまともにさしこむんだな、長田はブラインドで閉ざされたままの女の窓をふりむいた。  めったにしたことのない長田の外泊が度重なり、妻の槇子が目尻を吊りあげはじめた年末に、長田のトレードは公式に発表になった。松が明けるのを待ち、長田は単独でバットケースと着がえの洋服を二、三枚持っただけで、浜甲子園に近いモルタルの一DKに居を移した。  一月の残りは自主トレで女とろくに会う間もなくあわただしく過ぎたが、二月に四国へキャンプインして間もなく、近くでロケがあったからと女が訪ねてきた。女の泊っているホテルの食堂で会っているところを若手の選手に見つかった。賑《にぎ》やかで口さがない連中の間で、長田と水木麻也の艶聞はぱっと広まった。  新幹線の駅で一、二度、その他にホームグラウンドの球場にも女は野球をみにきたことがある。がらんとしたスタンドで、派手なサングラスの女は必要以上に目立った。考えてみれば半年ほどの期間に、ずいぶん二人はのっぴきならない仲を証明して歩いたことになる。  ガチガチで荒削りな一枚岩か、武者絵を思わせる大男と、なまめかしいポルノ女優との組みあわせは、突飛なぶんだけあらぬ想像を生み、興味半分に尾鰭がついて、選手ロッカーではかっこうの肴《さかな》になっている。  ──車はそろそろ川崎の高速の出口近くに差しかかりはじめた。  国道に出て十五分ほどいったところが、長田の住まいだ。  長田はうすぼんやりした門灯に浮かびあがる、我が家の輪郭を思い出す。  昨夜電話をかけると妻にかわってすぐ長男の守が出た。 「パパ、学校で友達が、君のお父さんのあだ名はウマだっていうんだよ」  ウマじゃないコマよ、いったでしょう、電話のむこうで槇子の声がする。うん、もちろん知ってるよ。守がいいかえしている。 「だからさあ、コマだって教えてやったらどんな駒だって訊くのさ」 「王将にきまってるだろ」  長田は見えもしない電話に、肩肘《かたひじ》を張って答えた。 「そうだろ、僕もそう思ってるよ。で、さ、将棋の王将の駒のついた色紙を見つけて買ってきたんだ。それにサインしてよ、先生や皆にもくばるんだから」 「わかった。明日帰ったらすぐに書いてやるよ」 「約束だよ、きっと。げんまん」  息子は小生意気に念を押す口調になった。  子供にも親の不確かな心の動揺が伝わっているのかと、長田は胸が塞がる。  受話器を槇子がとりあげたらしく、 「あなた、明日は何時ごろになります」  いきなり語尾をあげて切りつけてくる。 「何時ですって、試合にきいてみろよ」  長田もいきおい挑戦的な口ぶりにならざるを得ない。 「試合、試合ったっていろいろ試合もありますものね。こちらは食事の支度もありますから」  たっぷりと皮肉めいた切り口上で、 「あちこち帰るところも多いようですけど、川崎が自宅だってことをお忘れなく」  気まずく会話がとぎれたまま、暫《しばら》く時間が過ぎた。四歳になる娘の須恵のむずかる泣き声が微かに電話線を伝わってくる。無言でそのままがちゃりと置いてしまいたい受話器にむかって、長田はようやく言葉を絞り出した。 「じゃ、明日……子供を早く寝かせろよ」  カチリとむこうから電話が切れた。  女はいまごろどうしているだろう。  女の窓から引きはがされるように躯を遠く運ばれながら、長田は女の様子を思った。  女はレースのひらひらのカーテンを人差指でちょっと分けて、「遅いの」などとつぶやいていく度も下の道路を見下ろしているだろう。長田の大きな躯が、のっそりとマンションの玄関口に吸いこまれていく光景を、あの女は爪の先ほども疑わずに待ちかねているのだ。  ビールを切らせてしょっ中長田に怒られているので、冷蔵庫をあけたてして中味を点検したりしているに違いない。なんでそんなに冷蔵庫をあけるのだと咎《とが》めると、だってあたしあまりビール、ビールって思って寝ると、スーパーマーケットで半ダースもビールを買ってきた夢みちゃうのよ。それでちゃんとふきんでふいて冷蔵庫に並べて入れるところまでみるのね。朝起きたらすっかり買ったつもりになっていて冷蔵庫をあけると、ビールが入ってると思いこんでいるの。だからこうして口に出してビール、ビールっていいながら触ってみないとね、安心できない。  可愛い女だと思う、二十六にもなって──。芸能界の、しかも荒っぽいポルノ映画で揉《も》まれてきた女には、とうてい思えない。  少し頭が足りないのかと思うほど舌足らずで、一般的な常識や知識にも欠けている。前の男がおいていったといううす汚れた尻尾の半分千切れた白猫を膝に抱いて、ね、白い猫って全部尻尾が途中で切れてしまっているのよなどという。そんな馬鹿なことがあるかよと反論すると、本当よ、嘘じゃない。  誰にきいたときくと、何でも知ってる小道具係のおじさん。あのおじさんが嘘をつくわけないんだから、絶対。  言い張られてみると、長田も尻尾が先まである白猫をみたことがない気がしてきたりする。  長田がほっとするのは、女のそういう無知で、全く人を疑ってもみない純真さだ。  そのくせ、男の顔いろを窺《うかが》ったり、機嫌を見ぬいたりする勘には鋭いところがあって、頭の良さが自慢の妻の槇子でもとうていかなわない。やはり厳しい男の眼をかいくぐって自立している女は違うと思わせる細やかな気遣いや、驚くほど話がわかる優しさも持ちあわせている。  思えば長田はその強《こわ》もての、威風堂々とした顔つきのおかげで、他人には必要以上に気を使って生きてきた。ひと言いうと押しつけがましくきこえはしないか、強くききとられはしないかという惧《おそ》ればかりで、およそ人に命令したり、高飛車に女をリードしたりした経験がない。  妻の槇子に対してもそうだ。よんどころない夫婦喧嘩になると、長田は無言で物を投げる。理路整然といいたてる槇子に、最初から敵わないと思っている部分もあるが、プロ野球選手の習性で、言葉より物を投げるほうがよほど楽なのだ。むろん相手を傷つけない物ばかりを、咄嗟《とつさ》の判断で選《よ》り分けている。煙草も投げた、おしぼりも投げた、皿のうえのオムレツも手づかみで投げたが、あれは中味が熱くてもう少しで大事な指を火傷してしまうところだった。その他、スリッパ、枕、週刊誌、コントロールがいいから顔面すれすれのところでぴしゃりとうまく収まる。  槇子はまたかといった表情でそっぽをむく。あんたはそうやって物を投げつけるしか、自分の主張を通しきれない男《ひと》なのよ。  だが、あの女だけは俺の投げた物を平気で投げ返してよこした。女が見知らぬ男と電話ででれでれと長話をしていたからだ。女が電話を切ったとたんに長田は、えいっとばかりに電話の線を壁から引っこぬいてしまった。電話線はあっけなく片手に千切れて垂れ下った。  長田は電話の下に敷いてあった小さな座布団を女にむかって投げつけた。座布団は女の胸を直撃する。うっと呻いて女は片方の乳房を押さえたが、長田を睨みつけると渾身《こんしん》の力で投げ返してきた。  ばしっと受けとる、投げる、背中で受ける、また投げる。そのうちなんだか馬鹿馬鹿しくなって、二人とも笑い出してしまった。 「きらいよ」  女は唇をとがらせていった。 「電話線を引っこぬいてしまうなんて。いちばん困るのは自分じゃないの」  それはそうだと長田は気づいた。しかしもう遅い。 「おまえが下らないことを、いつまでもべらべらとやっているからだ」 「じゃ怒ればいいじゃない、俺といるときは電話になんか出るなって」  長田は女の部屋にいる限り、自分の感情を少しもコントロールすることなく自由|気儘《きまま》にふるまうことができる。女の部屋での長田は完全に主《あるじ》であり暴君《ボス》であった。  最近ではもうめったに鏡などみて、お互いを無我夢中で貪《むさぼ》りあうことなどないが、おいでというと女は小鳥みたいに飛んできて長田の下半身にぶ厚い花びらになった口をよせてくる。 「うまいのか……」 「美味《おい》しい」  女の表情をみていると、長田は本当に自分の肉の先になにかうまい味がついているのかと信じたくなる。もしかしたら最初に出てくる透明な液体が、蜂蜜みたいに甘いのかもしれない。  長田は自分のごつい手に余るほどの、女の豊かな乳房の重みを思い出した。指を動かすと、まるでそこにあるように生ま生まと甦える。長田は両方の手をあわせてぽきぽきと太い指の関節音をたてた。  車はとっくに高速の出口を通り過ぎ、あと少しで長田の家へ通じる曲り角の、鮨《すし》田中の看板がみえるところまできた。あの寿司屋はまずい。長田はあわてた。主人が表に出ていて、見つかると困る。  お、駒さん久しぶりだね、あとで顔出すかい、でなきゃ桶《おけ》で少し届けとこうか、などというにきまっている。鮨田中のおやじは数少ない長田のファンの一人だ。後援会長を自認している。  長田は突然、 「タイム」  と運転手に声をかけた。 「なにがタイムや、おまえ」  長田は自分のあわてぶりに腹が立った。ちょっととめてくれとか何とかいえばいいものを、思いつめたあまり、ゲーム中みたいについタイムという野球用語が出てきてしまった。 「俺、ここで下ります」  長田はドアの取っ手に手をかけて、半分躯を外に出しながらいった。 「済みません、廻り道させて悪いですけど、どうしても、あの」  長田は素早く車の外に出て、窓の外からいく度も保井に頭を下げた。保井は呆《あき》れた様子で、切羽つまって青ざめた長田をみたが、一呼吸おくとあだ名どおりの仏のホイさんの笑顔になっていった。 「ま、しゃあないわな、ほんならどこなと行けや、そのかわり」ちょっと間をおいて、「今夜中に、いや朝までにはちゃんと家に帰れよ」  タクシーの赤いテールが遠ざかっていくのを見送ると、長田は広い国道を大股で横切ってむかい側に渡った。タイヤを軋《きし》ませてUターンした一台の空車が、長田の前に止まる。 「恵比寿」  長田はぶっきらぼうに告げた。 「高速に乗りますか、お客さん」  運転手が訊く。 「ああ」  車は来た道を、凄いスピードで戻りはじめた。さっきと同じように、後ろへ後ろへ水銀灯の灯が流れてゆく。  ──約束だよ、きっと、念を押した守の声が、まざまざと後頭部を占領しはじめる。  ──パパはね、嘘つきなのよ、うすい唇を歪《ゆが》めていう槇子の表情もみえる。母親の心底を察して、無言になる守。娘の須恵だけが何も知らないまま上機嫌で、人形をダイニングの椅子に寝かしつけている。  食卓のうえで誰も箸をつけないまま冷えてゆくぶ厚いステーキ。大きなサラダボールにいれたサラダの葉も萎《しお》れて、嵩《かさ》が低くなりつつある。伏せたままのビールのコップ、長田の大ぶりの茶碗に、先がやや飴《あめ》いろに変色した象牙の箸。無言の食卓を照らす、寒々と明るい蛍光灯の灯り。  せっかくつけた口紅を、汚ならしいものでも拭うようにティッシュで拭いている槇子。──守、もう寝《やす》みなさい。いくら待ってもパパはどうせ帰ってきやしないんだから。  頬をふくらませて、不満げに二階へ上ってゆく守。手荒くパジャマに着せかえられて、泣きべそで眼をこすっている須恵。  主人の居ない自宅の居間を、長田はありありと想像した。  長田が槇子と結婚したのは、選手として上り坂の、最盛期のころだ。二つ年上の槇子は短大を出て、幼稚園の先生をしていた。 「他人の子供の面倒をみるより、自分の子供の面倒をみたほうがいいんじゃないかな」  長田は無い智恵を絞って、一世一代の気障《きざ》な求婚の台詞を吐いた。  地味な地方公務員の槇子の父親は、ずらりとスター選手の並んだ披露宴の席上で、こちこちにあがり、 「かかる名門チームの選手を、娘の婿にお迎えしますことは、我が一族にとりまして無上の栄誉、光栄の極みでございます」  と馴れない選挙演説みたいな見当違いの挨拶をした。  ふっくらとしていた槇子が、ぎすぎすと痩せこけ、細長い夜叉《やしや》面になりはじめたのはいったいいつからのことだろう。娘の須恵を出産して、それまで住んでいた奥沢のマンションを引き払い、川崎の一戸建てに引越してきたあたりからだから、この三年ほどのことだ。つまり毎月の住宅ローンが負担になって、金銭面のことが夫婦喧嘩の種になるようになってからだ。ローンは十五年契約で、毎月二十万円と利息が差し引かれてゆく。長田は最初その計画をきかされ、驚いて反対した。 「十五年だと、俺はそんなに長い間野球なんかやれないぜ」  もはや十年選手になっていた長田には、あと十五年の年月は、途方もない長さだ。そのうえその年の年俸は一千百万で、おそらくこれから先、下ることはあってもアップする希望はもてない。一千百万といえば税金を引いて手取りが七百万強、月にならせば六十万がやっとだ。そのなかから生活費、車の月賦、ガソリン代、野球用具費などの必要経費を差し引くと、長田が使える小遣いは、いまでも十万あるかないかだ。そこへ住宅ローンだと、冗談はやめてくれと怒鳴りたい。  でもあなた、槇子は平然としていう。  一流チームの一流選手に二人の子供がいて、いつまでたっても借家住まいじゃ、親戚の手前も面子《メンツ》がありませんわ。土地と家さえ確保しておけばいざというときには担保にもなりますし、毎月二十万というけどいまだって家賃に十万以上は払ってますのよ。貯金だと思えば少しくらいのがまんは──  長田の反対を予期して、暗唱していたごとくすらすらと言いたてる槇子の前で、結局はまた、女房のいいなりになってしまうだろうと長田は観念した。槇子のいいかたをきいていると、あなたが少しお小遣いを倹約して下さればといっているのと同じだ。  これ以上、どこに切りつめようがある。長田くらいの年齢になれば、コーヒー一杯、カレーライスひとつ若い選手に払わせるわけにはいかない。ロードゲームも多く、男が一八〇センチ、七九キロの躯を動かせば、それなりの金がかかるのだ。  長田が槇子に小遣いを出せとせびる毎に、新しい家の天井や壁の間に、剣呑《けんのん》な暗雲が立った。  俺の金だぞ、長田は最終的にはいつもそう叫ぶ。俺が稼いだ金だ。使ってどこが悪い。  どうぞいくらでもお使いなさいな、槇子の口返答も決まっている。お金があれば、ね。  槇子はますます苛々と煤《すす》けてゆき、ひと月に一度、せめて義理にも抱こうという女ではなくなっている。  最後に女房を抱いたのはいつだったかと、長田は記憶をたぐりよせる。あれは、今年のキャンプに出発する直前の一月の終りだった。  長田に女ができたことを察知した槇子は、ある日何の前ぶれもなく肩まで垂らしていた髪の毛を切って、眉毛までつるつるに剃ってしまっていた。  赤毛に染めてショートカットにした槇子は、剃り落した眉にくっきりと凄い三日月眉をかいて応接間に坐っている。まるで恐ろしい女占い師か、年老いた巫女《みこ》さながらで、前に水晶球でもあればぴったりだ。長田は顔を背けた。 「抱いてゆきなさいよ、あなた」  槇子は陰気な声でいった。 「それともなに、女に義理だてして立たないとでもいうの」  あの夜のセックスは、性行為というより先に望みのない敗戦処理だった。投げやりに躯を放り出した槇子の胸をつかむと、手ごたえもなくくにゃりとして、そのくせ指の股に粘りついてきた。スタンドの灯りを消したまっ暗ななかで、哭《な》き声とも呻き声ともつかない槇子の喘ぎを耳の傍でききながら、長田は遠いあてどない旅をしているような気がした。長田は果てずに萎《な》えた。  あれ以来、槇子の方からも長田を求めることはないし、それを幸いに長田も知らぬふりを決めこんでいる。  おかしなものだな、長田は我にかえって辺りを見廻した。  車は相変らず、変哲もない高速道路のうえの、闇の景色を切りさいて走り続けている。  自宅へむかう車中では、しきりに女のことを考え、女の家へむかう段になると今度は女房のことばかり頭に浮かんでくる。  男というのは所詮そうしたものではなかろうかと長田は思った。速度をあげすぎた車の震動が、鈍い横ゆれの震動音になって背中に伝わってくる。メーターのあがる音が、カチ、カチと規則正しく響いてくる。  金、車代だ、あるかな。  長田はどうしても家に帰りたかった理由のひとつに思いあたった。大阪で使い果たしてしまって長田の手許にはほとんど小銭しか残っていない。ポケットをさぐると千円札が三枚と、あとは五百円玉が一個あるきりだ。  タクシーのチケットが手に入ったおかげで、わざわざ遠廻りをしてくれた保井の親切がよけいなことに思えて、長田はかすかに舌うちをした。また女に車代を立て替えさせるよりしかたがないと度胸をきめる。  セックスをしてやらない女房と、金をやらない愛人、その間をゆれ呆《ほう》けている自分はいったい何なんだろう。  やじろべえだ。  長田は息子の机の片隅にあった金属製のやじろべえを、我が姿に置きかえた。  とぼけた風で、短い棒状の金《かね》の両端の先におもりをつけ、つりあうようにして止まっていた玩具、弥次郎兵衛と立派な名前があるのに、あのやじろべえはまるい球で顔がなかった。  ひとさし指でちょっと突つくと、やじろべえは両端のバランスをとるために、一人でゆらゆらと前後左右に動くのだ。  深夜車に乗って、どちらの方角にむかうにせよ、心落ちつかなく揺れているやじろべえは、自分だけではないのではないかと長田はぼんやりと窓外に眼をやった。  あの車も、その向うの車の男も、みんなきっとやじろべえだ。  そう思うとなんとなく自嘲的なわらいがこみあげてくる。そうだ、男はみな、やじろべえだ。どこに居たってなにかのバランスに追われて|汲 々《きゆうきゆう》としている。 「恵比寿、どこにつけます」  ふいに運転手が話しかけてきた。 「お客さん長田選手でしょう。どうもさっきからそうじゃないかと思ったんだけど、間違うと悪いから」  見なれた街の風景が近づいてくる。  まるで今夜初めてみる景色みたいだと、長田は思った。運転手の質問には答えずに、 「あ、その商店街のとこ曲って──その先の一方通行を入ったマンションの前で少し待っててくれ」  都合によっちゃまた乗りついでいくからと出まかせをいったあと、知りあいの家だけど居るかな、言いわけともなくいい捨てて長田は車を下りた。マンションの入口の灯りが、長田のごつい顔の凹凸をはっきりと浮かびあがらせる。 「へい」  運転手は窓ごしに長田を見あげ、にやりと愛想わらいをして扉をしめた。  女の部屋から球場へ行くときは、いつも一抹《いちまつ》のふっきれなさを背中に背負って出かける。  まして今日みたいに、いまにも降ってきそうな曇天はよけいに気が重い。 「中止になったらすぐ電話してね」  女の声を背後にきいて、長田はのろのろと階段を下りた。エレベーターに乗らなかったのは他人と顔をあわせたくなかったからである。  ビジターチームの練習は四時半からで、時間的には余裕がある。ユニフォームに着がえてグラウンドに出ると、保井が眼ざとく見つけて声をかけた。 「昨夜は帰ったんやろな、駒」  長田は咄嗟に頷いてしまっていた。そのまま外野の方へ歩いてゆく保井の背番号をみながら、つまらない嘘を重ねてゆく自分が、だらだらとなし崩しになってゆく気がする。気をとりなおすようにこんこんとバットを地面に叩きつけて握りなおし、フリーバッティングをするために鳥籠に入ってゆく。  保井がくるりと腕ぐみをしたままふりむき、長田をみている。  バットをふりかざしながら、長田は保井の無言の叱責《しつせき》をきいている。  ほんまにおまえもどないしたんや。打の宮本武蔵の、必殺長田流のといわれたおまえが女のことぐらいで腰ぬけになるのも情ないのを通りこえて阿呆らしいわな。プロ野球のプロという字を忘れてしもうたんと違うか。  保井さん、俺は宮本武蔵と同じいまだに二丁剣術ですよ。長田は保井の方にむかってバットの先端をのばす。ただその刀の先に重りがついて、だらりと両腕を広げた武蔵が弥次郎兵衛になってしまった。  長田が保井にはじめて会ったのは、高校を出て社会人野球を経験し、東京のチームに入団した年のことだった。保井は地味だが、確実な守備力で評価されているベテラン選手だった。どこが気にいったか、顔をあわせたときから「坊主、坊主」と長田に目をかけてくれた。現役で一緒にいたのはほんの二年ほどのことだが、長田がトレードになった関西の球団に、打撃コーチになった保井がいた。 「駒、また会えたなぁ」  保井はもう坊主とはいわない。長田も満で三十三、坊主といわれる年ではなくなっている。 「都落ちした気分になっているかもしらんけどな」  保井は自分のセブンスターを長田にすすめながらいった。 「パにはパのよさちゅうもんがあるんやで。本物の職人が住みつけるのはやっぱりパ・リーグや。客も身内もみんなそういう渋いところをわかってくれる。あっちの奴らはスターになりとうて陽の当るとこばっかりで野球をやってけつかるけど、こちとらはおまんまを食うためにみな、汗水流して球を追いかけまわしとるんや。駒の性《しよう》にもあうとちがうか」  保井はすっかり関西弁になってしまっていた。なめらかな関西弁は保井の威勢のいい言葉尻とうらはらに、プロ野球界の裏方の世渡りの厳しさを長田に感じさせる。 「まったく江戸のやつらときた日にゃ」  江戸のやつら、江戸のやつらと、保井は在京球団を仇みたいに呼んでこきおろした。セとパ、江戸と上方、そういう分類のしかたもあったのかと長田は感心した。それは実力のみで評価されてきた、保井の根強いコンプレックスかもしれない。 「そういわれるとホイさん、俺」  長田は保井に対する追従《ついしよう》ではなくて、思いつくままに返事をした。 「十年以上いても、あのベンチはどこやらしっくりこなかった……」 「そうやろ、駒」  保井は嬉しそうに煙草の煙りを吹きあげた。「大体野球選手ちゅうのは土方、人足と同じ商売よ。ぱっと花実の咲く奴の陰でこつこつ地面の泥と勝負して生きのびとる奴がほとんどや。それがわからんような江戸におってもおまえ……」  保井は鼻の脇に汗をかいて嘆いていたが、長田はそれとも少し違うんだけどなと、心のどこかで逆らっている。  俺がベンチで居心地の悪かったのは、あのチームに俺の坐る椅子が終始なかったことだ。大体ベンチのどまん中にはエースか、三、四番のレギュラースターが坐る。両端には元気のいい若手の野次要員。二列目には内野手と、出番のないピッチャー。後方の隅は監督かコーチ陣で俺はいつもうろうろと何となく歩きまわっていた。  とくにあの、スーパースターが監督のときはひどかった。あの人は監督のくせにいつもあちこちと動きまわっていて、じっとしていることなどない。どんなところにいてもあの明るさのぱっと鋭い顔がひょいひょいと前にあって、俺はいちいち眼をあわさないようにするのに苦労した。尤《もつと》も試合中のあの人は何を見ても見ている実感がなくて、ただ頭の中を赫々《かつか》と滾《たぎ》らせて逆上しているだけという風だったが。  長田がようやく自分の椅子を見つけて落着けるのは、出番を告げられてウェイティングサークルの輪の中にいる僅《わず》かな時間か、期待どおりの仕事をして、ベンチに帰りついた直後だけだ。チームメイトの拍手と、監督の白い歯に迎えられて長田は意気揚々と引きあげてくる。肩を怒らせて、御前試合に勝ったばかりの武将のように三白眼で四方を見渡しながら。  あいつがバッターボックスへ出てゆくと、どうもバットが刀にみえて、腰に差したほうが似合ってると、監督は新聞記者を喜ばせたが、たいしていい意味でいっているわけではなかった。  長田は昔から五か六という数字が好きだ。スタメンを張っていた絶頂期の打順が、五番か六番だったのと関連しているが、五はまん中だからだ。一になれば二が待っているだけだし、どん尻の十も救いがない。上りも下りもできるまん中というのが平和で安穏だ。悪目立ちする異相のおかげで、長田は中ほどに位置することが自身の運命づけであり、賢明な処世術であるということを肌で承知していた。  だがいったい、まん中とはどこなのだ。  トップと尻はすぐにわかるが、中央という場所は常に曖昧《あいまい》で計り難い。長田がどこにいても居心地悪く、肩身せまい思いをするのは、不明確で定まらない中ほどのボジションを探しつづけているせいだ。そうしてみると、長田は仕事場でユニフォームを着ていてすら、やはりやじろべえいがいの何者でもない。  大阪へ来て一年、そろそろ今シーズンも終りに近いというのに、長田はこのチームにもまるで馴じめず、借着みたいなブルーのユニフォームの肩と背の間に、うそ寒いすき間風が吹きぬけていく。  すぐにも泣き出しそうな低い曇り空の下で、無表情なバッティング投手を相手に、長田は今夜も用のなさそうな長いバットを、力まかせにふりまわしていた。 「駒」  後ろから誰かに呼ばれた。  ふりむくと野球評論家の有賀だった。長田は帽子をとった。 「力があり余ってるみたいだな」  半白髪で、血色のいい有賀の頬がほころんだ。 「ゲームみていってくれるんですか」  長田は尋ねた。 「そのつもりだが、空模様がどうもな」  がんばれよ、有賀は手をあげた。「捨てる神あれば拾う神だ」  天気予報どおり、その日の試合は三回ごろから強い雨が降りはじめた。ただでさえ入りの悪いスタンドの客も一人、二人と姿を消し、試合は中断されたり再開されたりしてだらだらと続いている。  四回裏の攻撃で長田は久々に監督から代打を告げられた。目も鼻もいっしょくたになるような雨しぶきをヘルメットの庇《ひさし》でよけながら、ドラフトで入団してきたばかりの若い投手の勝負球をはじきかえした。手応えがあった。白いボールは点になって誰もいないレフトスタンドにとびこんだ。 「おまえが打つんじゃ、雨も降るわな」  保井が悪口をいいながら、まっ先に手を握りにきた。有賀もみていってくれたかなと、ちらと長田は思った。この雨じゃ、たぶん帰ってしまった後かもしれない。  雨足はますます強くなり、味方は長田のホームランで大差で勝っていたにもかかわらず、五回まで持たずにドロン・ゲームになった。長田の二年ぶりのホームランも、おかげで幻のホームランになり、記録にも残らない。  今夜は家へ帰ろう、長田はなんとなくそう思った。  がつんと手首から腕に伝わった熱い手応え。この腕の感触をそのまま川崎の自宅へ持って帰って守を抱いてやろう。  このほてりを、女の躯に抱き移す気はしない。惚れたはれたといっても、最高の喜怒哀楽はやはり、自分の家へ持ち帰るものなのかと、長田は自分の心の揺れ工合を見つめている。 「ホイさん」  長田はシャワーからあがったバスタオル一枚で保井の傍に立った。 「今日は車のチケット、ありませんか」 「おまえ、そう都合ようはいかんぞ。わしも今日はちょっと銀座へ人に誘われてな、これや」  手でグラスを口許に運ぶまねをして保井はいった。  川崎へむかうタクシーの中で、長田はやっぱり女のことを思い出した。女というより、女の部屋の風景だ。部屋の隅でうずくまって眠っている、前の男が置いていった猫のことだ。  長田は横のガラスを激しく叩きつける雨のしずくを見ながら思った。猫というのはどうして主が変ろうと、どこにいようと、そこが最後の死に場所みたいに、のったりとしていられるのだろう。まるで女、みたいじゃないか。  有賀から、大阪の長田のアパートに電話がかかってきたのは、シーズンも終りの、十月のはじめだった。  チームは雨で流れた公式戦のゲーム調整をやっていて、主力とベテランを残しロードに廻っている。消化ゲームにさえとり残されたことで、長田は来年の契約は難しいのかなと、ひやりとする思いだ。  そんなところへ、地獄で仏のような有賀の電話だった。 「駒、もういっぺん東京へ帰ってくる気はないか」  有賀は一応打診したが、答えは当然判っているといわんばかりだ。 「もちろんですよ。拾ってくれる球団があればね。家も東京ですし、二重生活は金がかかってかなわないから」  有賀は、長田がもと居た東京のチームの名前を出した。自分は来年、ぜひにと乞われてヘッドコーチでユニフォームを着るが、代打のぴりっとしたのが不在なので、おまえを呼び戻すことを提案してみようかと思っている。 「ほんとですか」  長田は眼の前に光が落ちてきた気がした。有賀はこの前のゲームをちゃんとみていてくれたのだ。やはりあれは雨で消えた、幻のホームランではなかった。 「おねがいします、有賀さん。とって下さいよ」 「球団が足もとをみて交換要員で無茶をいわなきゃな。それに長田、おまえも高いことをいうなよ」  有賀は思わせぶりな口調になった。 「いうわけないですよ。もしかしたらチョンかと思っていたくらいですから」 「年俸は下がるぞ」 「かまいません、東京でプレーできるだけで充分です」 「いま、一本だな」  有賀は調査ずみの声を出した。 「ええ」 「九つくらいでもいいかな」 「──え、はい」  一千万を切ると毎月がよけいきつくなると思いながら、長田は返事をした。首になって路頭に迷うよりはずっと救かる。 「よし、新しい監督とフロントに今日明日にでも話してみよう。たぶんいい返事ができるはずだ。ま、気心の知れた連中でもういっぺんいいムードを盛りあげようという話だ。悪さをしそうな奴は教えろよ」  幹部批判めいた陰口をきく奴の名は、すぐいえと有賀は言外に念を押している。組閣をするので味方を固めているのだろう。  電話を切りぎわに有賀はごくさり気ない調子で、 「ところで駒、女のことだけはちゃんと片づけてこいよ。うちのチームはマスコミの標的になっているしオーナーもスキャンダルには厳しい。もっともいわなくてもわかりきっているだろうがな」といった。  女のことまで調べがついているのか、長田はちょっと緊張した。いくらか間をおいて、「わかってます」と返事をした。  年俸の九百万はともかく、このことは長田にとってはかなりの難題だ。  長田は相変らず川崎の自宅と、恵比寿の女のマンションの間を往き来して自分をせめぎあげるような日常を送っているが、あまりの辛さにどこやらぼんやりと気が抜けつつある。いうなれば激しい拷問を受けている者が、苦悩に麻痺してそれが当り前になり、むしろ快楽に近づいて呆然と自分を見失ってゆくのと似ている。  長田が東京へ帰ってきて外泊してきても、もはや槇子は何もいわない。槇子が何もいわないのは女に金が一銭もかからず、長田がそこへ行くことで遊ぶ金が救かっているせいでもある。煤けた槇子はなおいっそう黒ずんで、白いところはじろりと長田を迎える三白眼の白眼だけだ。  女は相変らず、蝶々みたいに気楽に愉しげにふるまっているが、 「ねえ、あたしたちいったいどうなるの。一緒になるのよねえ、きっと」  という冗談半分に洩らすひと言に、妙な重みを持つようになった。女の家で食べるもの、ときおり立て替えさせる現金、その他女にかけている負担が積りに積って長田のなかで膨れあがり、さり気ない男女の会話が強い説得力できこえてしまう。  ポルノ女優という職業は、長田がびっくりしたぐらい出演料《ギヤラ》が安く、一カ月まる裸を晒《さら》してもせいぜい一本が五、六十万程度だ。女が意外に質素だった理由もわかるが、安月給だなあと長田がいうと、あたしこそプロ野球選手なんてものは凄い高給とりかと思っていたといい返される。  僅かな貯金も底をついたらしく、夏の盛りに女が毛皮を質屋に持ってゆくのについていったこともある。  いいのよこんなもの、箪笥にぶら下がっていても暑苦しいだけだからと、女は屈託なげに嵩高い毛皮をひょいと片手にまいて、質屋の入口へ入っていった。車のなかで女を待ちながら、これじゃひもだぜと苦笑いがこみあげてくる。ひもといえば生っ白い色男と相場がきまっているが、俺みたいな武骨な男に女優が有り金|叩《はた》いて貢いでいると世間が知ったらさぞ驚き呆れるだろう、長田は車のなかのバックミラーの自分の顔を他人みたいにしげしげと見据えた。  黒塀がまわりこんだ質屋の植えこみの陰から、女が踊るような足どりで出てくる。何してるの、女は助手席にどさりと坐った。あんまり貸してくれなかったわ、時期はずれだとか何とか難くせをつけて。  女は数枚の一万円札をみせ、なかから三枚ほどを長田の膝に置く。長田はその金を無造作にまるめてポケットに入れる。しんそこ平然というわけではけっしてないが、女から金を受けとる行為も一種の馴れで、背に腹はかえられぬと開きなおる気持だ。  女の言葉のなかには、一緒になるとか、結婚という言葉が度々出てくるのに、離婚という言葉はひとつも出てこない。それも考えてみればおかしな話だが、三者三様三すくみ、誰かが感情にまかせて動けば、全てが一瞬にして壊れてしまいそうな危うさで、しんと凍りついたバランスが保たれている。  有賀の電話は、その静寂のなかに投げこまれた一個の石だった。  東京へ帰るとなると、この浜甲子園のおんぼろ住まいともおさらばだな。長田は万年床のうえで、TVと卓袱台《ちやぶだい》しかない六畳をぐるりと見渡した。考えてみるとこの薄い煎餅《せんべい》布団の中が、長田にはいちばん肩の力を抜いて熟睡できる場所だった。川崎の家の寝心地のいい自分用の大きな布団も、女の部屋の香水の匂いのするスプリングのきいたベッドも、いまは長田の寝床ではない。  関西へ来たての頃は東京遠征が愉しみで、指折り数えていたが、しだいに大阪へ帰る方がほっとするようになった。新幹線が東京駅をはなれるや否や横浜までもたずに眠りこみ、ゲームにもろくに出てないのによほどお疲れでと、マネージャーに厭味をいわれた。灯りも点いていないアパートにたどりついて、冷蔵庫のなかでカチカチになったサラミソーセージを齧《かじ》りながらビールの小びんを喇叭《らつぱ》飲みにする。  たいがい待っていたように電話が鳴る。  女か、女房か──不思議なことに家からの電話だと思うと、必ずその電話は不吉な知らせに思えた。守が怪我をしたとか、須恵が病気になったとか。  有賀の電話を切ったあと、どちらへ先にかけようかと長田は暫くためらった。ためらったあと、長田の指は知らず知らずに女の電話番号を廻してしまっている。 「東京のチームへ帰れることになりそうだ」 「嬉しい、ほんと」  女は単純に喜んだが、すぐ不満げな声になった。 「だったら家から通わなくちゃならないのね」 「帰りたくないんだが」 「帰りたくなきゃ帰らないで。いやよそんな、もしあなたが川崎へ帰ってしまうならあたし死ぬ、死んじゃうわよ」  死ぬとか殺してやると叫んでいる女に、とうてい有賀と約束した別れ話などできなかった。 「ここへ来てよ」 「それは……」 「だめならどこか部屋を借りてよ。いまみたいにさ。そこから通えばいいじゃない」 「あーあ、そんなことをするくらいなら、いっそ合宿住まいでもするよ」  長田はやけになっていったが、自分でいった合宿という言葉に引っかかった。合宿生活、そうだ、これが両者を穏便に治める方法ではないのか。川崎、恵比寿、合宿、それが最高の三等分の距離だ。どちらにしろこみいった別れ話というのは、電話だけではできない相談だ、相手の顔をみてがぶりと四つに組まなくてはな。それに次のシーズン開始まではあと五、六カ月もある。表沙汰にしなければいいと長田はたかを括《くく》った。 「ねぇねぇ、そんなことよりずいぶんしてないけど、あなたどうなってる、大丈夫」  女は露骨に長田の生理状態を尋ねる。それどころじゃないといいたいが、女は執拗《しつよう》だ。  ばか、こんなときにといいながら自分を握って、情事でしか男との絆《きずな》を確められない女の立場に、ふと哀れさもこみあげてくる。  このところ、女とも積極的に抱きあわなくなった。どんな魅力的な女でも、女が手を差しのべて躯を投げ出してくるぶんだけ男心には秋風が立つ。恨み言と情がつみ重なった女の躯は湿っぽくてじっとりと重い。  適当に女をあしらって電話を切り、かえす指で川崎の局番を廻して女房を呼び出した。 「東京のチームへ有賀さんに呼ばれて帰れそうだ」 「給料はあげてもらえるのかしら」  女房の返事はすぐに金、だ。  あそこのユニフォームを着せてもらえるだけで値打ちがあるのだと怒鳴りたくなるが、せっかく気分が高揚しているところだからと、 「ま、横滑りじゃないか」と答えておく。 「よかったじゃないの」  槇子もいくばくかトーンが持ちあがり、 「早速実家の父にも知らせるわ。それから角の鮨田中の御主人にもね」 「ただし一つ条件がある」  長田は咳ばらいをした。 「合宿へ入ってくれっていうんだ」 「合宿? 家があるのに」 「うん、つまりマスコミ用に合宿へ入って一年生からやる真摯《しんし》な姿勢をみせろと、有賀さんがいうんだ」  槇子は少し黙っていたが、 「合宿の方が外出しやすいですものね」  ぽつりという。 「そんなんじゃない、実は身辺をきれいにしろとまっ先にいわれた。合宿に入れば若手や二軍と同じ規約だからそうそう勝手もできない。寮費もただみたいなものだし、入ったところで三カ月か半年、取材が済めば終りさ」  いきあたりばったりの言い訳で槇子を言いくるめながら、俺はまたまん中の位置を探していると長田は思い当る。苦っぽいものが舌の裏にくっついてくる気がするが、結局これが俺の宿命というべき生きかたの形だと、言葉だけがつるつると先滑りをする。  二本の電話を終えた後、長田は枕を顔にあててうわっと喚いた。腸《はらわた》が喉からとび出そうになるまでいく度も喚きちらす。  なにを我慢しているのだ俺は、いったい、なにに気をかねて生きているのだ。  枕が冷たくなった。唾《つばき》かと思ってみたら泪《なみだ》だった。知らぬ間に泣いていたのだ。  長田の復帰は十一月にはやばやと新聞に発表になった。契約で上京して有賀を尋ね、礼をいうと一緒に合宿に入れて欲しいと頼んだ。有賀は長田の顔をじっと見透かすようにみて、 「なんだ、手切金の節約か」といった。 「いや、新しい環境で心機一転」  くそ真面目に答えるのに、有賀はにやりと笑いを浮かべ、 「まあいい、それで野球がやりやすくなるならな」  背番号はどうする、有賀は行きかける長田の背中にいった。何でもいいだろう、適当で。  大阪を引きあげる日、チームはホームグラウンドで秋季練習をしていた。  寒々としたグラウンドには立ち寄って見学をしていく人間もなく、担当記者の姿も二、三人だ。  保井の傍へいって、 「ホイさん、どうも」 「えらい気ぜわしいな。たった一年の付きあいかいな」  口ではすげなくいいながら、気弱そうに眼をしばたたかせた。  監督には「お世話になりました」の一言、チームメイトには「オッス」でさばさばと別れてふりかえると、風の強いグラウンドのあちこちに砂ぼこりが舞っている。  関西にいた一年が幻みたいに思えた。  女のことも、川崎の家の女房のことも、みな遠くはるかで、長田は渺茫《びようぼう》と一人旅をしている旅人の気分になった。この気持は以前、どこかでそっくり同じに味わったことがあると思ったが、思い出せない。  グラウンドの入口に立ち止っていると、チームの用具係が歩み寄ってきた。 「あ、駒やん、御苦労はん」  用具係は長田の背に手をあてていった。 「ユニフォームみなおいていってや。夏冬ともな」  正月の合宿は小奇麗に片づいて、閑散としている。  ほとんどの選手は暮に帰省してしまって、松が明けるまでは帰ってこない。  ビニールパックの重ね餅が一組ぽつんと飾ってある大食堂で、長田はひとり雑煮を食っていた。 「あれ先輩、帰らないんですか」  合宿生の新人がスリッパの音を派手にたてて下りてきた。 「おまえこそ、どうしたんだ」 「帰って両親の顔をみてたところで、しようがないすから。それに旅費もないし」 「おまえ、どこの出身だった」 「沖縄す。両親も一軍のユニフォームを着てベンチに入れてもらえるまで帰ってくるなっていうし」  南国の若者らしい、濃い眉《まゆ》の迫った選手の顔を、長田は見直した。  そうして夢をみていられる間が幸せだよ、おまえ。俺みたいに一軍のユニフォームを十五年も着たところで、こうして元旦に行き場がなくて、合宿で餅を食っているケースもあるんだからな。  新人選手は大ぶりな白い前歯をみせて、三つも餅の入った大どんぶりをみる間に平らげた。 「すいまっせん、お替り」  こいつらはいい。考えることといったら、食欲と性欲と、そして野球のことだけだ。まっしぐらに球を追いかけて走るだけで、ふりむきもしなければ、左右も見渡さない。俺がプロへ入って無心で自分のためだけの野球ができたのは、結婚するまでの四年間だ。結婚したとたんに子供が生れて、野球は生活をする糧《かて》と手段になった。それからはグラウンドへ出ても監督やコーチの顔いろをみるようになったし、スパイクの踵《かかと》に余計な重りがついた。 「駒さん、煮しめ食べますか」  当番の賄《まかな》い婦が、スーパーマーケット製のちまちました折詰を差し出す。 「ありがとう、おばさん。ついでに新聞あるかな」  スポーツ紙の一面はいかにも元旦らしい華やかさで、若いスター選手の正月風景が掲載されていた。  初日の旅発ちに、新春新妻新居の笑顔か。長田は太い赤字の見出しをめくる。どれを見ても似たようなものだ。しかしこの連中は凄い契約金を貰ってプロに入り、すぐに親孝行だ、新居だ、結婚だと自分をどこかに縛りつけたがる。同じチームの選手でありながら、E.T.を眺めるよりはるかな距離で、長田はそれらのクローズアップを眺めた。俺みたいなタイプの選手はもう、存在し得なくなるのかと思う反面、華やかな表面の下に、必ず二層三層と押し潰されていく人間も常にいるのだと思う。  月見草だ、かすみ草だといって引退していったベテランもいたが、日陰でも花が咲いたぶんだけましだよな。  新人選手に電話がかかってきて、いきおいよくスリッパの音がいってしまった後、また長田はがらんと広い食堂に一人になった。  長田が今日合宿にいるのは、二人の女の意地の張りあいで身動きがとれなくなったからだ。 「元旦くらいは、絶対家にいて下さいよ」  槇子は高ぶった声で長田に命令した。 「せめて元旦だけはここにいてね」  他になにもいらないからあたしと、女はしゃくりあげそうな泪声で長田に迫った。  どちらの家にいても、長田の本意ではない。 「いや、一日は合宿にいる」  長田はきっぱりと宣言して、今年こそ野球に賭けるぞという決意を表明したつもりだが、結果は年の始めから、またもや曖昧なやじろべえになっただけのことだ。  女たちがこだわっていたのは一日の夜だけだからと、長田は槇子と女の顔を、交互に思い浮かべた。二日目はまず川崎へ帰って子供たちにお年玉をやり、夜は女の部屋で泊ろう。  そういえば二日の夜が姫はじめだときいたことがある。女にそういって喜ばせてやれるな、長田は食堂の椅子から立ちあがった。  練習でもするか。  素振り用のバットをぶら下げて裏庭に出ると、軒下に見なれないダンボール箱がいくつも積みあげてある。 「なんだ、これ」 「合宿にきた年賀状。今年入ったばかりのドラフト生にもほら、こんなに」 「ひまな奴らが多いんだな」 「無駄遣いよ、全く。お年玉年賀葉書をよりわけるのだけでも一仕事なんだから」  合宿にいるのが知れ渡っていても、ただの一枚も年賀状がこない選手もいるのにと、長田は自嘲気味になってかるく爪先でダンボールを蹴った。 「駒さんにもきてたわよ、たしか」 「俺に」 「そう、寮長が別にしといたみたいだけど」  賄い婦が持ってきた年賀状は、自宅の傍の鮨田中のおやじからと、スポーツ用具店からの二枚だった。  鮨田中と太いべた字の横に、「今年こそがんばれ、影武者復活」などと書き添えてある。小肥りで陽気な寿司屋のおやじの顔が、一所懸命かいたらしい下手くそな楷書《かいしよ》の字にオーバーラップする。  鮨田中の主人は、最初長田のいたチームの熱狂的なファンだったが、長田と知りあってからは、個人的な長田|贔屓《びいき》にかわった。華やかなチームのなかで、地味で、どこやらもどかしい長田の生きかたが、下町気質のおやじの気にかかるとみえて、実の兄か親戚みたいに面倒をみてくれる。  長田は球場の帰りによく鮨田中に入り浸り、しまいにはカウンターの中まで入って鮨を握ったりした。  どうして筋がいいや、おやじは大喜びした。こりゃ野球をやめても板前で充分食ってゆけるぜ、支店でも出すかい。  寿司屋にはカラオケがあって、遅くなると常連客がかわりばんこに歌い出す。そこでも長田は大人気で、皆にせがまれてはマイクを持った。顔に似合わず、センチメンタルな女心ものが得意で、まんざらお世辞でもなく、レコードを出せと勧められたこともある。  長田の収入では高級酒場などに通えるわけもなく、その寿司屋が長田にとっては唯一の気晴しの場所だった。だが女ができてからはあまりに自宅に近いので、すっかり疎遠になってしまっている。見栄っぱりの槇子が、これっぱかりも愚痴をこぼしにいっているとは思えないが、なぜか後めたくて好人物のおやじの顔がまともにみられない。  悪いなと思いながら、長田はズボンの尻に鮨田中の葉書を押しこんだ。  久しぶりに持つバットの感触は新鮮だった。  寒風をついて思うさま振り切る。ぴんと鋭い音がする。 「凄い気迫ですね、元日早々」  顔見知りの記者だった。いつものよれたジャンパー姿ではなくて、めずらしくネクタイをしめている。 「そっちももう初仕事かい」 「家が合宿のすぐ傍だもんで、ちょっと覗《のぞ》いとけよとデスクにいわれてるんです。カメラはいませんが、コラムで書かせてもらいますよ」  この新聞は鮨田中にも、川崎の自宅にも宅配で入っている。よろしく頼むよと長田はかるく頭を下げた。このチームのことなら箸が転んでも記事になりますと、記者はわらった。 (長田やる気、一番のり)長田は頭のなかでゴシックの見出しを考えた。  シーズンが始まり、長田には幸運な事故が重なっておきた。  内野のレギュラーが二人、続けざまに故障したのだ。長田は五番か六番を打って、常時出場になった。  ベンチのムードも昔よりはずっといい。チームの生えぬき選手でいるより、一年間寄り道をしてきた居候の御帰還というあつかいが、長田には落ちつける。  四月のスタートから六月の後半まで、長田は三割をマークして快調にとばした。長田の周辺は大阪にいたときとは比べものにならないほど賑やかになり、TVや新聞にもしょっ中出て、スポットライトが当っている。  その一方の裏で、地獄は続いていた。  相変らず金のないことと、女ふたりの叫び声である。  槇子はますます背筋を硬直させて石像さながらになり、女はあんたと一緒にいっそ溶けてしまいたいとぐずぐずになって嘆く。双方が極端なだけに長田はそのどちらにも行きかねて歯を食いしばり、眦《まなじり》を吊りあげているしか方法がない。  グラウンドで難しいゴロをさばいてあっさり併殺に仕留めたり、三、四番が打ちあぐねている調子づいた投手の球をなんなく三遊間に流したりするたびに、どうして野球いがいのことはスムースに運ばないのかと考えこんでしまう。 「さすが駒さん」とか、「やっぱり渋いや」とチームメイトや新聞記者が誉めそやす言葉のむこうに「あなた、それでも男なの」と詰《なじ》る槇子の台詞や、「いやよ、いやそんなこと……」と愚図《ぐず》る女の泣き声が重く垂れ下がっている。  それだけにヒーローインタビューのTVカメラにも、心底晴れ晴れとした笑顔がむけられない。ぷつりと途切れるコメントを、長田の武骨で純朴な人間性のせいにして、それがまた好意的な活字になる。ついているときの物事はどこまでも好転し、世間の思惑は自分達の解釈のしやすいように、好き勝手に広がってゆく。そんな状況のなかで、長田はひとり、いうにいえぬ不安と苦慮の狭間《はざま》にいる。  こんな幸せが持続するわけがない。こんな恵まれた状態はきっと嘘なのだ、長田はときおり眼を閉じて、恐る恐る自分が居るべきはずの足場を探っていた。  しっぺ返しは思いの外早くきた。  七月に入って月がかわったとたんに、女のことが週刊誌にスクープされてしまったのだ。  長田との生活費や小遣いを全面的に被るようになってから、女は撮影の出演料で足りないぶんを、赤坂のスナックに出て働きはじめていた。映画や雑誌の仕事も以前みたいにこなくなっている。一人の男に夢中でいれこんでいる女の肉体からは、知らず知らずに瑞々《みずみず》しい色香や艶が消え失せてゆくのだろう。  長田は合宿へ泊らない夜だとか雨の日に、女を車で送り迎えしてやっていた。 「いやな客……」  待っていた長田の肩にとがったおとがいをすり寄せて女はつぶやく。 「触らせろ触らせろっていうのよ。私の映画をみてファンだったんだって。多分やくざものだと思うわ。あんまりしつこいんで腕からこれをむしりとってやった」  女は乳房の谷間から周りをダイヤで囲んだ男物の腕時計をとり出して、運転している長田の鼻先にぶら下げる。長田は物もいわずにそれをひったくると、外の暗闇にむかって投げ捨てた。 「あ」  女が怯えた悲鳴をあげる。 「止めてよ、あんた。止めて。あれ安物じゃないのよ、百万以上もするのよ。あたしあれを失くしたら、そのお客と寝なくちゃならない」 「寝ればいいじゃないか」  長田は冷然と吐き捨てると、車のアクセルを踏みこんだ。  女が鼻先に突きつけた金時計、その時計と今日長田がスタンドの拍手を一身に浴びて逆シングルで取ったファインプレーとの間には何の関係もない。何の関係もないはずなのだが……しかし……。  蒼ざめた顔を引きつらせてほっと酒の息を吐く化粧疲れの濃い女の表情をバックミラーで盗み見ながら、男のいちばんやりたい職業はひもと野球選手だというけれど、その二つが一緒になったらどれほど苦痛か、実際にそれをやったものでなければわからないだろうと長田は思う。男と雄の両極のプライドを味わいつつ、その片方が倍の惨めさで片方を打ちのめしてゆくのだ。  そんな長田のある夜の行動を、はりこんでいた女性誌のカメラマンがばっちりと押さえた。  長田離婚か、不倫発覚、泥沼の二重生活。  どぎつい文字が終日長田を追いかけ、蜂の巣をつついた騒ぎだ。 「駒さんで、艶《つや》ダネの苦労をさせられるとはな」  押しよせる芸能記者やカメラマンの前で、公報担当はうんざりしたように肩をすくめた。エリート集団で気位の高い同僚たちは、あからさまに言葉には出さないが、めずらしいものを見る眼になって、長田と距離をおいている。  長田はすぐに有賀のところへ行った。 「済みません」  首を折ると有賀は、 「まずいな、しかしあがってしまった花火を見なかったというわけにはいくまい」  難しい顔になった。しばらく長田の萎れかえった様子をみていたが、 「おまえ、その女と一緒になれよ」  有賀はいがいなことを言い出した。「それが世間ていをとり繕《つくろ》ういちばんの早道だ。女を言い含めるより、女房に離婚を説得しろ」  自分でも思いがけない反応だったが、長田は一瞬ほっとした。誰かがこういってくれるのを、ずっと待ち望んでいた気もした。保井コーチは、男は迷ったときは家に帰るのがいちばんの道だといったが、智恵者で鳴る有賀は、長田の本音と、先の行動を読みとっているのかもしれない。  いままであまり考えもしなかった離婚という問題を、長田は真剣に考えてみようと決心した。そうするとそれが現在自分の立場にとって、最良の策に思えてきた。有賀のいうとおりにすれば、チームにもまたおいてもらいやすい。  それよりなにより、二股《ふたまた》の苦しみから逃れられるということが、長田の気持を煽《あお》りたてた。自らの優柔不断で招いた苦悩といえども、もはや限界だ。長田はほとほと疲れ果てていた。  その夜、女の部屋に帰ると、女の姉というのが関西から上京してきていた。姉といっても年齢が離れすぎていて、母親ほどにもみえる。明石でいっぱい飲み屋をやっているといったが、その店が想像できるような、垢ぬけないなりをしている。  幼なくて両親に死に別れ、姉妹二人、親戚の家を転々としながら育ったという。週刊誌をみて驚いて様子をみにきたのだが、麻也が幸せにならなければ、母親がわりに苦労したしがいがないと、くどくどと喋りたてる。 「どうする気ですか、あなた。麻也を」  詰問風になるのに、 「結婚します」  長田ははっきりと言いきった。 「いつですか、それは」 「むこうと離婚が成立したらすぐにでも」 「話しあいのめどは」 「ありますよ、むろん」  めくら判《ばん》をついた長田にむかって、女の姉は銀の入れ歯をみせて、やっと表情をゆるめた。 「それをきいて安心しました。そうでないとお腹の赤ちゃんが浮かばれない」 「お腹の赤ちゃん?」  長田は仰天した。 「どういう意味だ、おまえ」 「もう六カ月に入ったわ」  女は味方を得て、しれしれと白状した。 「なぜいわない」 「だっていえば堕ろせ、でしょう」  女の腹のあたりを長田は探るようにみつめた。そういえば少し太ったと思っていたが。  女は長田の視線の先を、両手で大事そうに摩《さす》って、 「六カ月になると、母体が危険で堕ろせないのよ」  そういう手があったのか、こいつ。  女と一緒になる決意を固めていながら、易々と女の術中にはめられた気がした。離婚しますと言いきった自分が、とんでもない三枚目を演じた気分になり、長田はやたらと煙草をふかした。女は長田の機嫌をとるように寝巻をたくしあげてほんの少しふくらみかけたカーヴに長田の手を誘導した。 「あなたの子供」と微笑む。 「どう、可愛いでしょ」  長田はうす気味悪くなって、すぐ手を引っこめる。女の姉の手前、その手をあげて女を殴ることもならず、露骨に不機嫌な様子もみせられない。  あくる朝、女の姉はくれぐれも麻也をよろしく頼みますと言いおいて、明石へ帰っていった。  女は急に腰に手をあてて大儀《たいぎ》そうにふるまい、肉親の眼のまえで認知された身重のけだるさを隠そうとしない。男と女ののっぴきならない絆の端の杭《くい》を女の腹のなかに一方的に打ちつけられて、長田はなおいっそう女のからだを抱く興味を失った。セックスで始まった仲を、セックスで報復されている、長田は自分のピンチを野球になぞらえた。  最終回二死満塁のエースか、いやそんな格好のいいものではない。やはりこれはフルカウントに追いこまれた代打だ。走者がいようといまいと、自分の立場を考えればあと一球、打って出るしかない。  槇子との話しあいは、長田が予想していた以上に難航した。 「離婚、ですって」  槇子は片頬を歪めた。 「あなたにそんなことをいう資格はないわ。さんざんしたい放題をしたあげくの果てに」  資格の問題じゃないというと、 「じゃ、どこに私を納得させる慰藉料《いしやりよう》があるの。離婚は夫婦間の了解よ。私はなにがあってもあんな女に夫を渡すつもりはありませんからね」  妻は意固地になってしまっていた。押しても叩いても出てこない貝みたいに、女心を奥へ引きこませて、堅い蓋を閉じている。  女の妊娠を切り札めいて出しても、 「こちらにもあなたの子供が二人もいますよ」と眼の色も変えない。  週刊誌の記者やTVレポーターが訪れても、 「夫は毎晩帰宅しております。あちらのことはいっさい存じません」の一点ばりで、健気《けなげ》な妻を演じきる。  先のみえない別れ話をくりかえしているうちに、長田の成績はみるみる下降してきた。馬脚を現わしたといえばそれまでだが、私生活の諍《いさか》いが、グラウンドには正直に反映している。バッターボックスに立ちながら、うまかった北海道の毛蟹や、トルコの看板を思い浮かべているうちはまだましだが、生まじめな槇子の父親が、 「子供のこともちっと考えてやってくれんとの」と怒鳴る様《さま》や、皺々の眼に泪をいっぱいためこんだ母親が、 「そんなむたいなこと、あんたいまさら」と啜《すす》りあげる様子が浮かんできてはもういけない。  いかつく張っていた長田のぎょろ眼が、どことなくうわすべりして滑稽にみえはじめた時点で、長田にあたっていた陽光は消えた。  故障していたレギュラー選手もスタメンに復帰してきて、もとの木阿弥のベンチウォーマーになり果てたある日、球場の食堂でばったりと保井コーチに出会った。セ・パの試合をデイゲームとナイターにわけて、同じ球場でやっている日曜日だった。 「お、駒。どないしたんや、痩せたやないか。元気ないな、コーヒーでも飲もうや」 「参ってますよ、女がこれ、で」  長田は目立たぬように、自分の腹をちょっと押さえてみせて、保井の前に腰を下ろした。 「これであろうと、何であろうとやな」  保井は長田を叱りつける声音になった。 「男が迷うたら家へ帰らんかい。前にもいうたやないか」 「有賀さんは女と一緒になれと──」 「有賀か、あいつ」  保井はちっと舌をならして、 「あいつは計算でいうとる、わしは親切でいうんや、わからんか。わしの勘やがな駒」  保井は長田を見据えて、真剣な調子でいった。 「はっきりいうて、おまえ今年こそ危いで」  飲んでるコーヒーに砂糖の味がしなくなった。  首か、やっぱり。  グラウンド内ではともかく、ベンチ裏の情報や動きに詳しく敏感な保井のいうことに十中八、九、間違いはなかった。 「そやからおまえ、わしは家に帰れと──」 「なるべくホイさんのいうとおりにします」  長田は伝票をつかんで一礼した。 「なるべくじゃないで駒。女や恋やとそんな悠長なことをいうとれる立場か。明日で八月も終りやないか。男は仕事が先決や、生きてゆくすべの方を考えろ、有賀にそれとなく打診をして、首なら首ですぐ動け。ユニフォームを着とる間がチャンスだぞ。脱いでしもうたあとじゃ、誰も鼻もひっかけてくれんぜ」  これからゲームがある保井を残して球場の外へ出た。  あれから一年、だ。保井に川崎まで送らせて恵比寿までとって返したことがあったが。  考えてみると何の進展も変化もない一年だった。ナイターのために次々と点灯しはじめた照明灯を長田はふりかえった。暮れきらない青味の残る空に、カクテル光線が曖昧な光を放っている。  俺は結局いまも恵比寿と川崎の間をうろうろして、同じことをくりかえしているだけじゃないか、くそ。あの日と違うのは、タクシーに乗りこんでまっすぐ恵比寿にむかうことだけだ。  女は部屋をうす暗くして寝こんでいた。  悪阻《つわり》が長びいて動けないらしい。枕もとに洗面器をおいて、えっえっとせぐりあげている。ざんばらにした髪を輪ゴムで一つにたばね、眼の下をげそりと落ちこませて見る影もない。 「あんた、明石の姉が送ってきてくれた生干しのじゃこ、食べちゃったでしょう」  女のかん高い声がとんだ。 「じゃこ?」 「そうよ、台所の棚のうえに、猫に食べられないようにビニールの袋にいれておいといたの」 「あああれか、つまんでみたらうまかったので車にいれてチューインガムがわりに食ってるよ。あれはいいや、カルシュウムだからな、骨が丈夫になる」 「あれは私に送ってきてくれたのよ」  女の震え声に泪が混った。 「お腹の赤ちゃんにいいからって。あなたのためじゃない。私が、私が悪阻がひどくて何も口に入らないから、子供の時分好きでおやつがわりに食べていたじゃこを姉がわざわざ手紙をそえて……丈夫な赤ん坊を生むようにって……それを、それをあなたったら」  女は大声で泣きじゃくりはじめた。気が昂ぶっていて普通の状態じゃない。 「子供のことをちっとも考えないのね。あなたの赤ちゃんなのよ、あなたの」  長田は顔をあげた。 「うるさいな。二言めには子供、子供って天下をとったみたいにいうな。なんだじゃこの一匹や二匹、俺が食ってしまったからってなんの文句がある」 「だからあなたのじゃなくて、赤ちゃんの……」  はじめて女の横っ面に手をあげた。ひっと呻いて女は腹を両手でかばった。 「お腹の大きい女を殴るのね、人非人《ひとでなし》」 「なに、もう一度いってみろ」  じゃことか、赤ん坊とか、みじめったらしくてどうしようもない。行き場のない自分を確認する気持で、長田は情ない自分の影を殴っていた。女は腹をおさえた姿勢でまるくうつむきになり、背中や後頭部で男の拳《こぶし》をうけとめていた。最後のとどめにひとつ、さすがに女の躯をよけて、食卓テーブルを蹴りあげると、長田は女の部屋に背をむけた。  テーブルの上の皿小鉢が割れる音、隣室の扉があく気配、女の笛みたいな哭き声が背中にからまりつくのをふりきって、長田は恐ろしい形相のまま廊下を走りぬけ階段を下りた。  マンションを出て、夕暮れどきのせわしない商店街の人混のなかを少し歩く。荒い息を吐きながら広い通りまで出て、ふと夢から醒めたみたいに時計をみる。長田は川崎の自宅へ帰るために、手をあげてむこうからくる空車をとめた。  川崎の自宅では、女房と子供たちが母子三人で食事をしているところだった。  いつも自分が坐る椅子に守が坐っているのをどかせて、長田はがたんと乱暴に腰を下ろした。 「帰ってきた」  とだけいった。 「首になるかもしれん」  言葉を続けた。  槇子がじっと長田をみつめた。何かを察知した顔だった。無言で立ちあがると台所に行き、ビールと空のグラスを持ってきた。カタリと長田の前におき、とくとくと音をさせて注ぐ。  子供たちは皿のうえに顔を伏せて、熱心にハンバーグをスプーンで切っている。  シーズン最後の試合の日は、晴天のデイゲームだった。 (サヨナラ、影武者)  鮨田中のおやじが、常連客と語らって白い横張りの幕をふっている。「御苦労さん、長田」「惜しいぞ、駒さん」てんでにメガホンを持ったり、太鼓を打ったりして必死の声援だ。それをみて監督が、 「駒、次行け」と声をかけてくれた。 「飛ばしてこい、最後っ屁を」  有賀がとんと長田の尻をこづく。野球の世界でいちばん悪い奴と、普通の社会で最高にいい人間とがちょうど同じレベルさ、いつか古手の新聞記者がいった言葉が、有賀の細い下り眼と重なった。  長田が久々に何も考えないでウエイティングサークルに片膝をつく。すべりどめのスプレーをバットの握りの部分にふりかける。二、三度握りをたしかめて、指が吸いつく場所で一回かるく握ってみる。  自分でも信じられないほどセンチメンタルな気持はない。今日の突きぬける秋空みたいに、ふっきれている。ただ最後の一本くらい、いいところへ転がしてみたいとそれだけが願いだ。  鮨田中のおやじのだみ声がやけにはっきりときこえて、カウントは二─二。  追いこまれたところへ外角低めがきて、バットの先っちょを当てるとファーストゴロになった。  一塁手がきれいに抜かれる。奇声を発する応援団。  塁に出てふるい顔馴じみの一塁手に、 「いまのとれただろう。エラーだぞ」というと、 「いやご祝儀、ご祝儀」  長田と同期で入ったベテランスターは、にっと白い歯をみせた。 「ばか、腰が折れなかったくせに」  へらず口で返して、ふっと寂しさがこみあげる。この場所に立つことも、もう二度とないんだな。  続く打者が二人ともアウトになってチェンジになり、長田はそのまま一塁を守った。最後のバッターボックスはぼてぼての遊ゴロで、若いショートがいきおいよく走ってきて、あっさりと仕留めた。  ロッカーで私服に着がえるとき、なかなかスパイクの紐《ひも》がほどけない。どこかで俺は、やっぱり辞めるのを厭がっているのかなと思う。  しかたがないさ、野球選手がよく使う潤滑油みたいな常套句を、長田は口のなかでつぶやいた。  あと一球のストライクも、あと一点の空ぶりも、みなしかたがないであっという間に終る野球人生は、諦めと成りゆきのしかたがない人生だ。そういう意味で野球選手は、なにがしか心のベースに受動的な部分を持っている。俺がしかたがないで片づけられなかったのは、あの女のことだけだったな、長田はようやくほどけたスパイクの底の泥をはらって片方ずつていねいに靴の袋にいれた。この靴は守が、絶対に僕が貰うのだといってはりきっている。 「大事にとっとくんだ、僕がはけるようになるまでさ」  女を殴って部屋をとび出してから、長田はずっと川崎の家にいる。  いく度か女の姉から自宅に電話があったようだが、槇子がしっかりした応対で喋っていた。  長々とした話のあいまに、弁護士、金、認知などという言葉がきこえていたが、長田はTVの音を大きくしただけで黙殺した。  あの日女が叫んだように、たしかに人非人《ひとでなし》で卑怯かもしれなかったが、一銭の金もなく、まして職まで失おうとしている自分には、なすすべもなかったのだ。  寸分のつけいる隙もない姿勢で、槇子は背筋をしゃんとのばし「どうぞ、お好きなように」と静かに受話器をおく。  そんな女房の横顔をみていると、いつか教会でみた、軍隊を従えて十字の旗を持ち、白い馬にまたがって戦場へむかう|女 戦 士《ジヤンヌ・ダルク》の絵を思い出す。  女からの連絡はしばらく途絶えて、波立っていた潮が静まりかえったみたいだ。薄気味わるくも不気味でもあったが、女も長田のしうちにほとほと愛想をつかしたのだろう。待たれていると思うより、憎まれていると思った方が、長田の気持は救われる。  帰ってきてみると、やはりここは自分の腕で稼いで築きあげた我が家だった。  庭に立てかけてある竹箒《たけぼうき》ひとつ、玄関にハンドルをひねったまま置き忘れられている自転車一台、長田の神経を逆なでする風景はどこにもない。守も落ちついて宿題をするようになり、たまに風呂場から槇子の鼻うたさえ洩れてくることがある。 「これでいいんや、駒さん」  鮨田中のおやじは力いっぱい長田の手を握りしめ、鼻声になった自分を誤魔化すためにカラオケで「柔」をがなりあげた。 「勝つと思うな思えば負けよ。負けてもともとこの胸の──」  おやじの世話で長田は、鮨田中のその店を居抜きであずからせてもらえることになった。新宿に新しいビルができ、店舗を拡張するために移転がきまりつつあるところだったのだ。 「これがほんとに瓢箪から駒よ、駒」  おやじは自分の思いついた洒落《しやれ》が気にいって誰かれなしにいいまくり、「続いてご贔屓に頼みますよ」と常連客に頼んでくれている。 「鮨駒」と名づけた店は、長田の引退の日を記念に、即オープンする運びになっていた。  はやばやとできあがっていた地図入りのマッチとさらし木綿の名入りの手ぬぐいを、長田はチームメイトや監督、コーチに挨拶がわりに配った。 「手まわしがいいな」  有賀は老眼鏡をかけて、マッチの地図を眺めた。 「うん、ここならゴルフ場の帰りにでも寄れるな。ところで今日から開店だろう」 「ええ、帽子を脱いですぐ鉢巻に替えます。最初はどうせ人寄せ人形でつっ立っているだけですが。幸いいい板前を世話してもらえましたので」 「がんばれよ、花輪出しといてくれたかな」 「はい、マネージャーを通じていただいてます。いろいろありがとうございました」  長田が店に着くと、店の中は超満員でどっと拍手がわいた。 「やったね、ナイスコンバート」 「大将、頼むぜ」  誰もかれもの顔が善意に満ちている。鮨田中のおやじは汗だくで客の間をぬってビールをついでまわり、槇子は割烹着《かつぽうぎ》で会計《レジ》の前に坐っている。  これでいいのかな。  長田は「鮨駒さん江」とかいた祝いのしが巻きついている、大きな酒樽を見た。この気持は、そうだ、緊張してバッターボックスへ立ったとき、つい他の光景を思い浮かべてしまったときの気持に似ている。  あのとき、自分は幸福だったのだな、長田は思った。きっとすごく幸福だったのだ。  ふいにがらりと音がして、表の戸が少しあいた。 「へい、いらっしゃい」  板前が叫んだ。誰も入ってこない。表から風が吹きこんできて、新しいのれんをはためかせているだけだ。  突然そのむこうの闇に、女の白い顔がちらりと見えたような気がした。白い顔は紙人形を切ったみたいにま半分で、泣きべそをかいている。  長田のやじろべえが、ぐらりと揺れた。 [#改ページ]   老《ろう》  梅《ばい》  大倉さんという、その客の名をきいたのは妻の和代からだった。  大倉さんは、妻のやっている美容院の常連客で、和代がまだ同じ赤坂の「須美美容室」に働いていた時分からの馴染み客だ。  お年のことは確めたことがないけど、と和代は進造にいった。ええ、なにかこう年のことなんか、あからさまにきけないって雰囲気があるのね。女としてまだまだ現役をはってますという凜としたものがあって、うっかりおいくつでしたっけなんていえないみたいな。でもたしか私と同じ辰年だってきいたことがあるから、とすると五十六かしら。いやひと回り上だと六十八──。まさかって気もするけど、そうかもしれない。  とにかくきれいなひとなのよ。衿あしなんかぬけるみたいにまっ白で。まるで求肥《ぎゆうひ》みたいに柔かくってすべすべ。  ギュウヒ? ギュウヒって何だ。進造は和代にきいた。  あなた、求肥を知らないの。和代はフィルターの縁まで喫って短かくなったハイライトを灰皿で揉み消し、たてつづけに新しい一本に火をつけながらいった。  ぎゅ、う、ひ、よ。ほら、和菓子で、うすい羽二重餅みたくなっていて、なかに餡こなんか包んである。あれはたぶん白玉粉をこねて造るんだったわ。  饅頭のことなんか、辛党の俺が知りっこない、進造は内心で思っている。だがそのことは口に出さずに、おまえ、煙草喫いすぎじゃないのか、と進造は和代に注意した。さっきからみてるともう四、五本はいってるぞ。  あら、和代は灰皿をのぞいた。  一本、二本、三本と眼で勘定して、あなたも二本は喫ったでしょう。そうしたら四本だわ。でも店じゃお客様や従業員の手前もあるし、そうぷかぷかやれないじゃないの。店が終って家へ帰ってきてほっとすると、急に疲れが出て、むしょうに煙りが喫いこみたくなってしまうのよ。それでその大倉さんの話だけど。  和代の話はまた大倉さんに戻った。  十二、三で京都の祇園のお茶屋に貰われ、下地っ子を経て舞妓で出るなりいまの旦那に見染められた。水揚げをすませてそのまま旦那のいる東京へ連れてこられ、暫く新橋の座敷に出ていたが、旦那の古い愛人が同じ新橋にいて苛められるので居辛くなり、赤坂へ鞍替えをした。赤坂にはそれでも二十代の半ばまで七年ほど勤めたが、少し胸を患ったのをきっかけに花柳界を退いた。麻布裏の閑静な一軒家を買い与えてもらい、それからはずっと旦那の訪れを待つだけの暮しだという。  旦那の名前は進造が度々耳にする、大物の政治家だった。怪物だとか妖怪だとかいわれている政治家の老いて尖った鷲のような面貌を、進造は雲の上の人を思うよりなおはるかな、自分と縁のない遠い距離で思い浮かべた。  そうか、大倉さんというのは、あの政治家の妾なのか。  そういえば妾とか、二号というのももはや死語に近い呼び名だ。新聞や雑誌の活字の世界では平気だが、あれはもしかしたら放送禁止用語に入るのかもしれない、進造は和代の話に相槌を打ちながら、そんなことを考えている。  妾も二号も情婦も、男が親しい仲間に小指をちょいと立てていう|あれ《ヽヽ》とか|こいつ《ヽヽヽ》も、みな愛人という単語に変ってしまった。あるいは彼女とか恋人というのもあるが、こういう風に女が呼ばれるようになってから、何だか男と女の距離が稀薄で、遠くなってしまった気がする。俺がもし仮に女をつくったとしたら、愛人などといういいかたでは、けっしていわれたくない。  和代が進造の前に、淹《い》れかえた茶をとんと音をさせておいた。  進造の頭が、自分の話の本筋から離れているのを察している。言葉を交さなくても相手の思っていることを読みあててしまうのが、夫婦という関係の不便さだ。進造は今年に入ってからまた少し痩せ気味にみえる和代の頤を眺めた。頤ばかりではなく、眼の下も多少黒ずんでいる。  蛍光灯のせいではないかと、進造は気づかれない程度に眼線の角度をかえて、和代の表情を斜めに透かしてみた。だがやっぱりその顔の翳りはとれなかった。  疲れているのかもしれない──。  和代と結婚してから十六年が経つ。進造が二十四歳、二つ年上の和代が二十六歳の秋だった。進造が大学を卒業して新聞社に入社したあくる年だ。和代は進造と一緒になると同時に見習いから十年も勤めあげた「須美美容室」をやめ、乃木坂通りの坂下に新しく建ったビルの二階に独立して店を持った。常連客も増えて手狭になったので、一階の喫茶店が空いたのを幸いに下へ引越して現在に至っている。  どちらかというとふっくらと二重顎で太り気味だった二十《はたち》代の和代、甘いものが好きだけど減量してるのよと、横眼でチョコレートや鹿の子を睨みながら烏龍《ウーロン》茶ばかりを飲んでいた和代、その時分の和代の顔を現在の和代に被せようとするが、サイズのあわないお面を重ねあわすみたいでうまくいかない。  大倉さんはね──。  和代はまだ大倉さんの話をやめない。自分が大倉さんになったみたいに夢中になって話している。 「とにかくいつなんどき主人が来はるかわかりまへんさかいに、髪だけはちゃんとあげとかんとなぁ」そういってほとんど毎日いまでも日髪《ひがみ》なのよ。和代ははんなりした関西訛りを真似ていった。唇のちょっとしたしぐさや物言いの特徴を、たくみにつかんで話すのが得意芸だ。黒子が役者の欠点《あら》探しをする冷め冷めの観察眼で、主に悪口めいたことが多いが、大倉さんのときだけは終始好意的だ。  この前もね、といっても去年の話だけど、松茸の出まわる頃に松茸御飯を炊いたっていうわけ。それを風呂敷にくるんだ上に膝かけを巻いて、お炬燵《こた》の中に入れて暖めとくっていうんだから。自動炊飯器で保温にしておこうなんて了見じゃないのよ。そんなことをすると味が落ちて、旦那さんがみえたときにいい工合の温度で食べさせられないっていうのね。 「ちかごろはえらい松茸も高うなってしもうてから。主人が好きどすさかいつくりますけんど、さいさいは手が出ぇしまへんえ」  和代はまた大倉さんになって小首を色っぽく傾げた。そうなのよ、旦那さんのこと、絶対主人っていうのよ、あちら。  和代の話に耳を傾けながら進造は、こうやって仕事場のことを平気で人に語ってきかせられる女は得だと思う。それだけストレスも我慢も多い商売なのだろうが、それでいうと俺の立場も同じことだ。だが男は家へ帰ってきて、職場であったことを瓶の口から水が溢れ出すみたいにそのまま喋ることはできない。  うむうむときいてやることが、唯一働き続けている妻へのねぎらいのつもりで、進造は和代の前に坐っている。どちらかというと自分の方から積極的に話すのが苦手な進造にとっては、その方が楽な図式でもある。  大倉さんの名前は、その後も和代の話のなかに屡々登場した。この春以後、なおいっそう頻繁になった気もする。  進造はそのたびに、家の入口に一本だけぽつんと植わっている梅の木を思い浮かべる。  進造と和代と、高校生になる一人娘の直子の三人家族が暮しているのは、乃木坂の店から歩いて十分ほどで通えるアパートだ。木造家屋で古びているが、四世帯しか戸数がなく、広くて陽当りがいいので結婚して以来腰を落ちつけている。持主の大家は赤坂の料亭の女将で、和代の客でもある。あたしの眼の黒いうちは、マンションなんてものにゃ建てかえないからずっと住みついてちょうだいよ、そういわれていて家賃も相場よりはかなり安い。二階の二間には女将の友人の老妓が母娘で居坐り、一階の進造たちの部屋の隣りには一ツ木通りで瀬戸もの商いをしている女将の遠縁の若夫婦が住んでいる。  車もろくに入りこめない路地の通りに面したしもたや風玄関の猫の額ほどの前庭に、その白梅はいかにも寂しげにつっ立っている。もとは紅梅、白梅で一対だったらしいが、紅梅の方はいつの間にか枯れて跡かたもない。  家と同じで相当の年数とは思えるが、立春の声をきくとその梅は毎年ひっそりと白い蕾を膨らませるのだ。年によって見事な満開をみせたり、予想外に点々としか咲かなかったりする。枯木とおぼしい色艶のない枝が、白い花片を精一杯に開かせて身に纏いつけているのをみると、進造の眼にはまるで梅の木が恥ずかしがっているみたいにうつる。  実の生《な》ったところは一度もみたことがない。どうして実が生らないのかな、ひとり言めいて呟いていると、隣りの若い女房が偶然後ろに立っていて、「花のいい梅には、実が生らないときいたことがありますわ。うちの実家の梅もそうですもの」と答えて愛想笑いをした。 「ま、ずいぶん日に焼けてらっしゃるのね。ゴルフ焼けですか」    進造の勤めているのはスポーツ新聞社で、進造はプロ野球担当の記者をしている。  大学時代は肩を壊してやめていたが、中学高校と進造は野球部員だった。その影響で憧れて入った職場だが、実務につくまではプロ野球記者が、これほど地道で拘束時間の長い肉体労働だとは思いもしなかった。  その割に薄給で、残業手当を含めてどうにか世間並に形がついている。  割にあわないといってしまえばそれまでだが、巨大な新聞機構のなかに組みこまれて駒になって働いていると、連日激しく回り続けている輪転機の轟音と共に、いつの間にか平べったくなって流されている自分を感じる。  高名なスター選手の傍にいって、さも友人のごとく話しあえる興奮も、わざと無名の選手に肩いれしてそいつが成長してゆく過程をみる愉しみも、記者生活十年ほどでとっくに卒業した。  いまは現場のキャップで、選手の名前を値札同様、無感情で呼び捨てにしながら、グラウンドと自分の坐っている記者席の距離が、年々遠くなってゆくのを計っているだけだ。  眼のまえで繰り広げられる白球のやりとりを見ながら、野球のひと試合というのはまるっきり人間の生涯と同じじゃないかと進造は思っている。  一日一生、僅か数時間のゲームの間に、山あり谷ありの人生を量産しつつ息せききって走っている男たちは、早送りのフィルムさながらの日常の変化の底に、どこやら険しく冷めた諦観のベースを抱いている。  その激しさに商売として関わったおかげで、俺も妙に乾いて無感動な人間になってしまったのではないか──進造は受話器を耳にあてて、本社のデスクに試合結果を棒読みで伝えながら、ふと辺りを見回す。  電話にとりついたり、原稿にペンを走らせたり、記者席の誰れもが熱い勝負の結果を、単なる数字として黙々と処理している。  男四十、夢をみてみられなくもないが、もはや完全に飛び損ったという気もする年齢だ。  入社して一、二年は内勤で校閲とか整理の手伝いをやらされ、電話番、原稿とりを覚えた後に担当の球団がきまって外勤になる。最初はパ・リーグの下位球団にまわされるが、馴れてくると人気チームに配属される。二、三年毎の交替で何個所かを渡り歩き、遊軍、キャップ期間を経て再び内勤のデスク、あとはとんとん拍子にいっても運動部次長から部長、局長と新聞社の出世コースは判で押したように決まりきっている。  そろそろデスクに上れと去年あたりからいわれているが、煙草の煙りと凄まじい喧噪のなかで、一日中机にへばりついて電話と格闘する日常もやりきれない。あと一年お願いしますと上司に頼みこんで現場をやらせてもらっている。 「進の字はいいよな」  年中球場で顔があう、麻雀仲間のN社の浜垣がいう。 「左うちわで楽隠居の身だ。我々百円亭主風情とは余裕がちがう」  髪結いの亭主の気楽さをずばり指摘されることもあるが、進造は笑って受け流す。そんなことは入社以来の事実だから、いまさらいちいち目くじらをたてても始まらない。それに確かにそういう部分もある。自分の給料の手取り三十数万が全て小遣いというわけにはいかないが、約半分を和代に渡してあとは自由に使っている。ボーナスもあるし、貯金もしなくていい。だがそれでもさほど男として存分に贅沢をしているとは思わない。  進造はみなに愛称で進の字と呼ばれている。むろん進造の名前からきているのだが、進造のどことなく飄々とした二枚目風の風貌からの連想でもある。あまり皆で進の字、進の字というので、新しく入ったアルバイトのお茶汲みの女の子が、進造の姓をそれとばっかり思いこんだ。 「シンノジさん」と女の子に呼ばれて、進造は「馬鹿、俺の名前は高橋というんだ」と云い返した。進造にしてはめずらしく怒気を含んだ声だったので、女の子はごめんなさいと泣きっ面になった。  呼び馴れた上司や同僚にいわれるぶんには何の抵抗もないのだが、若い女にいわれると馬鹿にされた気がして腹が立つ。進の字からくる甘っちょろい色魔めいた響き、女房の稼ぎにおぶさっている後ろめたさが、己れの胸中に澱《おり》みたいに淀んで溜っているのだと、進造は自分を見直す思いだ。  春先のナイターは、爪先から冷えが這い上ってくる。  その夜は七回を過ぎる頃から小雨が降り出し、ワンサイドゲームで勝敗が決定する九回には、スタンドにぽつりぽつりと雨傘とビニールのレインコートが目立つ程度になった。 「浜さん」  ひとつおいたN社の席で、原稿に枡目からはみ出しそうな文字を書き並べている浜垣に進造は声をかけた。 「このあと社へあがるのかい」 「まさか」  浜垣は原稿を書く手をやめずに、進造に返事をした。 「ああいう雰囲気の悪い場所には、俺はなるべく近よらないことにしてるのよ」 「じゃ何も予定はなしかい」 「ああ、おかげ様でな。そっちは」 「こっちも」 「そいじゃたまにはいっちょう盛りあがるか、雀か、飯か、酒か」 「酒」  ぷつりと答えた進造の方を、浜垣は書く手をやめてちらとみた。 「いいねぇ、付きあいましょう。あと十分ばっかり待ってくれ。こいつをやっつけてしまうから」  傘を持っていない二人は、ジャンパーの襟をたてて今朝の朝刊を雨よけがわりにかざし、通りへ出てタクシーを拾った。 「新宿」  進造が運転手にいう。「区役所通りへ行ってくれ」 「ほう」浜垣が声をあげた。「いやにきっぱりいうじゃないの。いい女でもみつけたのか」 「いい女ってわけでもないけど……まあ女、だ」 「切れがわるいね、どうも。どうせ連れていくんなら吐いちまえ」 「吐くほどの仲じゃない。今日で三度めだ」 「そのあたりがいちばん口説き頃だぜ。尤もこんなことは釈迦に説法だろうがな」  進造は雅美のもの憂げな眼くばりを思い出している。背中の半分までありそうな長い毛、浅黒く沈んだ肌のいろと喉の奥でいったん溜まってようやく出てくるハスキートーン。(あら、来たの)雅美はさほど嬉しそうでもなくいうに違いない。(わりとかたいのね、約束)  雅美のいるその店は、いくつかの酒場の看板が押しあいへしあいしているビルの四階にあった。二人でも顔がくっつきそうな狭いエレベーターを下りた突きあたりに、部厚い木の扉がある。弾き手のいないグランドピアノが一台あるきりの、だだっ広い店だ。壁のまわりを濃い臙脂の花柄のソファがぐるりとまわっていて、もし二流のバーというセットを組むとしたら、この通りになるだろうと、進造でも想像がつくぐらい何の面白味もない造りだ。  先客は一組しか居なかった。  進造と浜垣は、奥まった広いセットへ案内された。「こういう店は、高いのか安いのか見当がつかねぇよ」浜垣は進造の耳にこっそりと囁いた。 「だから、ビール」  だからって、何がだからなのよ、派手なわめき声をたててママが進造の横にぺたりと坐りこんだ。紫の思いきり鮮やかな地色の着物を着ている。 「いらっしゃい、色男」 「浜さんビールでいいのかい。ボトルがあるんだ」  進造は浜垣にいった。浜垣はテーブルに立っている封を切ってないボトルをみて不審そうな顔をしたが、 「ああホワイトホースか、そんならそいつをいただこう。水割りにしてくれ、いやシングルでいい」  甲斐甲斐しくグラスに氷をいれて水割りをつくっているママの方を、こっそりと浜垣は眼で示した。(女っていうのはこのママのことか)  進造はあわてて首をふる。(冗談はよしてくれ、こんな……)  いつの間にか雅美が浜垣の横に寄り添っていた。 「よかったよ、休みかと思った」  進造はほっとした顔になった。 「かたいだろう、約束」  雅美がいうだろうと思った台詞を、自分の口からいってしまっている。 「嬉しいわ、ありがとう」  雅美は他人行儀に一礼した。  それと察して浜垣が雅美を無遠慮に眺める。なかなかじゃないか、ちょっとした驚きと納得と羨望をごっちゃにしたいいかたで、 「いや、結構──」 「なにが結構、なのよ、あんた」  たちまちまたママが絡む。こういう勘のわるいサービスがいちばん疲れる、この酒場はどう転んでも雅美の居つける場所じゃなさそうだ。雅美は細長い指にセーラムを挟んで喫っている。そういえば四年前、最初に出会った銀座でも、雅美はセーラムを喫っていた。しかしその爪は、以前みたいによく手入れされた透明なナチュラルカラーではなくて、長く鋭く尖って深紅のマニキュアが塗られている。女の運命は、爪の色まで変えるのかと、進造はしみじみと雅美の背後の運命《ドラマ》を思いやった。  雅美と会ったのは、銀座のクラブだった。  一流のうえに超がつくその店は、マスコミにも名前が売れていて、とても進造などが出入りできる場所ではない。だがそのクラブの名は、和代の口から時おり美容院にくるホステスの名前と一緒にきいていた。  なにが行儀が悪いって──和代はよく口を歪めて憎々しげに噂話をした。銀座の女が最低よ。平気であれ買ってこい、これ買ってこいって人をこき使って。この前なんか入って間もないインターンをつかまえてサック買ってこいなんていうのよ。どういう神経なのかしら。髪を結ってる間にべちゃべちゃと店屋物はとって食べるわ、その丼のなかに口紅のべったりついた吸い殻は入れるわでしょ。おまけに口を開けば昨夜の男はよかったの悪かったの……。  それでいて店から客に電話をするときはめいっぱい気取りかえって、笑い声まで「おほほ」になっちまうんだから。  よくもまあ、あんなお里の知れる女たちに大金をとられて、男が通うものだわね。赤坂のアルサロの女の子たちの方が、まだ「済みません」という言葉を知ってるだけでも可愛げがあるわ。気位ばっかり高くて、吝《けち》で、下品で、淫乱で──。  和代の雑言は果てしがなかった。  よほど銀座の女に含むところがあるのだろうが、女同士というのは、地の利を得てうまく立ちまわっていると思える相手には、何としても許しがたい部分があるとみえる。  進造は和代の話を大部分割り引きしてきいていたが、多少なりとも銀座の女のイメージが自分のなかで膨らんでいた。だがそれは、和代のいう厭な面ばかりの膨らみではない。そういう凄まじい楽屋を持っている高級な女を、少しでも覗き見してみたいという好奇心もわく。異性に対する興味は、男も女も互いにその視点が、一八〇度擦れ違っているものなのかもしれない。  進造はその店に、P球団のエース、大牟田五郎に連れてゆかれた。  大牟田の特集を組んでいて、密着取材を終えた帰り道だった。 「これで商売の用はみな終ったんやろ」  大牟田はいかつい肩を、ちょっとすぼめるようにして進造を誘った。 「銀座へ行きたいんだけど、ちょっと付きおうてくれへんかな。一人やと目立ってかなわん」  選手に連れられて、太鼓持ちを務めるのはあまり好きではないが、店の名をきいて行く気になった。坐った頭の先にまで垂れ下ってきそうなシャンデリヤ、黒い皮張りの椅子、丸いスポットのなかに浮かびあがって歌う高名なジャズシンガー、進造が想像していたより、そこははるかに銀座、だった。  席についた四、五人の女たちは皆意外と年をとっていて三十前後にみえたが、洗練されていて物腰もやわらかだ。和代のいう、丼のなかに口紅のついた吸殻など突っこみそうな女は、どこにもいない。そのなかのひとり、いちばん若そうで、大牟田の横についていたのが雅美だった。  美しい女だな、進造はただただ感心した。  まるっきり水《プ》商|売《ロ》らしくない衣装やしぐさが、進造の眼に残った。学生時代、進造が好きだった女優と、ほのかに面影が共通していたせいもある。雅美はあきらかに大牟田の女で、大牟田もそれを別に隠そうともせず、尊大にふるまっていた。雅美はさり気なく大牟田の膝や腕に自分の指をからませ、どこかで男の躯の一部分に触れていないと、心配で心配でたまらないといった様子だった。  銀座に行く機会は、それきり二度となかった。  その雅美につい半月ほどまえ、進造は新宿の酒場で出会ったのだ。  たまさか店のマダムと運動部長が古い知りあいで、部長が関西の支局長で栄転してゆく歓送会の流れだった。  雅美は驚くほど変ってしまっていたが、進造はすぐにわかった。あんたには前に一度会ったことがあると進造がいうと、大牟田さんと銀座ででしょう、雅美は答えた。  へえ、一度しか会わない客を、よく覚えているものだなと驚いてみせると、あのひとと来た人はみなちゃあんと覚えてるわ、雅美はそういって薄く笑った。  あのひとか、あのひとねぇ、進造はあのひとという呼び名のなかに、雅美と大牟田の男と女の歴史の匂いを嗅いだ。スター選手と夜の蝶、あまりにもありきたりで、陳腐な構図だ。抱かれて、惚れて、飽きられて、捨てられる──四年前の大牟田は投手に与えられる数々の賞を一人占めにして、文字どおり飛ぶ鳥を落とすいきおいだった。男のエネルギーを発散させて走り去る跡に、踏み潰されていく花は多い。花に限らずそれはコーチであったり同僚であったり、あるいは進造たちの仲間の記者であったりもする。  進造は嵐に出あった後の花園をみる思いで、雅美のひと色くすんだ笑い顔をみつめた。  あたし五キロも痩せたのよあれから。雅美は進造の視線を避けて躯のむきをかえ、髪の毛をかきあげる。  この店、移ってきたばかりなの、またきて下さる? お客が全然いないのよ、ボトルとっといていいかしら。お勘定はこの次でいいわ。雅美は照れ臭そうな早口になって進造に耳うちした。  進造は雅美いがいの誰れにもわからぬように、こっそりとOKサインをつくった。  浜垣を誘って雅美に会いにきた今夜、さきほど小雨のなかでめった打ちにあった投手は、大牟田五郎だった。  大牟田は過去の栄光を急速に失いつつある。がくりと肩を落として小雨に叩かれながらベンチへ戻る大牟田をみて、進造は突然雅美を思い出した。  あんたが死ぬほど惚れた男は、あんなつまらない男だったんだぜ。そういって肩を抱いてやりたい。でもいいんだろ、その方があんただって救われるんだろう。  手のとどかない花だった女が変り果てた姿をみて、進造は自分の近頃の空しさや苛立ちのやり場を見つけたと思った。  機械的に通う社のエレベーター、階段、進造を無言で見張っているタイムレコーダー。am10、pm2とか3とかさまざまな数字が打ちこまれて戻ってくる毎に、進造の肩にはその日々のトータルが全て重荷になって覆い被さってくる。その膨大な数字が、雅美の笑顔にあうと、あっという間に軽々と御破算になってしまうのだ。   「進の字、じゃもうそろそろ」  浜垣が時計を進造に示した。デジタル時計が2の数字を点滅させている。もうこんな時間なのか。 「この店何時まで」傍の女にきくと、女は眠そうな表情で、「ほんとは一時までだけどお客さんが居る限りずっと──」  店内の客も、進造たちの他には誰れも居なくなっている。紫いろの着物を着た、調子のいいママも先に帰ってしまったらしい。  カウンターのところで勘定を済ませ、エレベーターが止まってしまっているので、階段で下へ下りる。こつんこつんと反響する靴音を確めながらゆっくり下りていると、小走りな足音が上から降ってきた。 「待って」  雅美だった。白いビニールの傘を二本持っている。一本を浜垣に渡す。 「お、ありがとう」  雅美と進造を一瞬見比べて、進の字、俺ここらでふけるぜ。実はこの近辺で若い連中がやってるんだ。牌を握る真似をして、どうせ徹夜になるだろうけどさ。  浜垣は一人で傘をさして、細い裏通りを大股で右へ折れてゆく。  あいつはいい──進造は浜垣の背を見送る。あいつはいつも何か目的を決めて歩いている。というよりいつもちゃんとどこか行くところがあるのだ。子沢山の女房にまつわりつかれて、笑っていられねぇよといいつつ野面で人生街道を闊歩している浜垣の自信に溢れた歩幅を、進造は芯から羨ましいと思った。 「どうする」  ふいに雅美がきいてきた。進造に傘をさしかけて、半分は濡れねずみになっている。 「どうにでも」  答えて進造は我ながら厭な男だと反省した。深夜に、多少気のある女に相合傘のなかで「どうする」ときかれて、「どうにでも」だと。けっ、安いメロドラマをやってるわけじゃないぜ。ホテルへ行きたきゃ行こうといえばいいじゃないか。寝たければ強引に連れ込みの入口を潜ればいい。どのみちこのあたりはラヴホテルの看板だらけだ。 「ラーメンが食べたいわね」  雅美が進造を見上げた。それにも進造は曖昧に頷く。  雅美は訳知り顔でさっさと進造の腕をとって歩きだす。知りあいのラーメン屋にゆくのかとついてゆくと、一軒のラヴホテルの前で、雅美は足を止めた。うす紅い照明の玄関に立って、奥へ通じる押ボタンを押したのも雅美だった。出てきた女が窺うように進造をみる。雅美の方を見ないで進造の方ばかりを見るので、進造は雅美がしょっちゅうこのホテルを利用しているのではないかと推察した。女が口のなかで何かもぞもぞといって雅美に部屋の鍵を渡す。「いらっしゃいませ」といったのかもしれない。それとも「毎度ありがとうございます」といったのか。  雅美の躯は骨が細くて、橈々《しなしな》としていた。  思いのほか量感のある乳房を暫く見下していると、雅美は、「いいのよ、生理終ったばっかりだから」と、ぽつりと吐き出していった。  ぎこちない沈黙を打ち消すように雅美の躯に被さり、内部に突き立てていく。ここは雅美の傷口だ、進造は何となくそう感じる。赤い、熱い、生ま生まとした女の傷口なのだ。  雅美の喘ぎにあわせて、進造は遠い汽車の響きをきいていた。しゅっしゅっと微かで気ぜわしい機械的な響き。そうだあれは故郷へ帰る急ぎ旅の汽車の音だ。だが待てよ、俺は東京生まれで、帰る故郷などどこにもあるはずがない。  古びた汽車の堅い木のシートには、背筋をぴんとのばして、妻の和代が坐っている。和代の膝のうえには、鮮やかな紫いろの風呂敷包みが乗っていて、その大きさはちょうど骨箱に似ている。さきほどの店の、紫いろのママの着物の印象がまだ眼の底に残っているらしい。しかしどうしてこんなところに女房が出てこなければならない──。  進造は雅美を抱きながら、しきりに和代を思った。和代と今年になってまだ一度しか躯をあわせていないことまで思い出す。  不思議なことに、鮮烈に思い出さなくてはならないはずの大牟田のことは、小指の先ほども浮かんでこない。  雅美の生ま暖かい傷口に分け入りながら、俺は雅美の傷口に蓋をして治療してやっているのか、なおいっそうその傷口を押し広げて手酷くしているのかと反芻する。多分それはやっぱり、傷口をさらに無残な状態に追いやっているのにすぎないのだろう。  雅美が両手で進造の胸を押しのけるようにする。 「だめ、なの」 「……うん、酒を飲んでいると、いろんな妄想が湧いてきてさ」  正直に告白する。「悪い」 「いいのよ」  雅美は自分の躯をずらせて進造と位置を入れ替り、進造の股間へ顔を沈めた。ゆるやかに動く長い髪の毛を凝っと見据えているうちに、進造は自分の先端が花火になって弾け飛ぶ感触を覚えていた。  ホテルを出るとき、雅美がきいた。 「ラーメン、食べる?」 「行こう」  今度ははっきり答えた。ポケットの中を探る。さきほど店で支払った勘定の他に、一万円札が四枚残っていた。半ぱな気もしたが進造はそれを手のなかで丸めて、雅美に渡した。 「……どうも」  雅美はあっさり受けとった。拒む風も、期待していた風もなかったので、進造は救われた。疲れた顔のおかまや、ミュージシャン、やくざなどで立て混んでいるせせこましいカウンターで、ラーメンを食べた。肱がぶつかるので妙だと思ったら、雅美は左ききだった。  あれ、サウスポーだったっけ、と雅美に確めると、雅美は含み笑いをして、あたしほんとは両ききでどちらでもよかったのよね。あの人が左だから面白がって真似しているうちに本当に左専門になっちゃったといった。  そういえば大牟田は左腕投手だ。雅美は大牟田の女だったのだな、そこで進造はようやく大牟田の背の高い、トーテムポールに酷似した格好をありありと思い出した。  ラーメン屋の油曇りのしている文字盤の時計は、五時を少々回っている。  ラーメン屋を出て左右に別れた。車を拾ってやるよというと、あたし見送られるの好きじゃない、雅美は首を振った。  まだどこか寄るところがあるのかもしれない、進造は悪どめせずに踵を返した。  雨はいつの間にかすっかり上っている。  乃木坂の家の前につくと、もう空はうっすらと夜明けの気配だ。どの窓もしっかり締まってまだ寝静まっている。  玄関の戸をあけるのを、少しためらっていると、傍らの梅の木に気がついた。  進造は何だか大倉さんが、一晩中寝ないで自分を待っていてくれたような気がした。  もはや白い花片のかけらも残ってなくて、青々とした葉っぱばかりが芽を出しはじめている。  進造はあるはずのない梅の花の香りを、たしかに嗅いだと思った。 「あなたこの記事、読みました」  休日でのんびり寝転がっている枕もとへ、和代があわただしげにきていう。和代の美容院も今日は火曜の定休日だ。 「休みの一日くらい、新聞と縁なく暮したいよ」  進造は生欠伸を噛んでいった。「何だい朝っぱらから」 「ほらこれ、ここんとこ」  和代が手に持った新聞を、進造につきつける。一面の中ほどに大きく、例の大倉さんの旦那の政治家が、昨夜ホテルの宴会場でパーティの最中に脳血栓で倒れ、そのまま病院に運ばれたと報道してある。本人は軽い昏睡状態だが生命にかかわるほどのことではない。しかしなにぶんにも高齢のことゆえ、絶対安静で面会謝絶にしているというのが担当医の談話だ。 「お気の毒よね。大倉さんの立場なら表だってお見舞に行くこともならないでしょうし。あれほど御主人のみえるのだけを生甲斐に生きていらっしゃるひとなのに」  和代の声は震えを帯びて掠れている。大倉さんに同情するあまり昂ぶって泣いているのだ。 「生命に別条ないというのだから大丈夫だよ。それにあれほどの雲上人になると、医者なんかも優秀な教授クラスがチームを組んで至れり尽くせりだからな」  進造はお座なりの口調で慰めをいった。 「でもあなた、万が一ということだって」  和代は赤眼になって鼻をかんだ。こんなことでしか和代は、自分自身を焚きつけて燃やすすべがないのだろう。進造はいまそんな他人のことどころではない。進造の担当しているチームの動きが不穏なのだ。キャンプ時までは断トツの下馬評で王者の貫禄で悠々としていたのが、いざ公式戦の蓋をあけてみると連敗連敗でなんとしてもAクラスに這い上れないというていたらくだ。監督休養説まで秘かに流れる始末で、休日といえども眼が離せない。あとから担当の若いのに連絡して何もなかったか確めてみようと、進造は新聞をめくりながら考えている。  季節は梅雨に入って重苦しいモノトーンの日が続く。  雨でゲームが中止になるのはいいが、かわりに雨傘記事で何か埋めなくてはならないのでそっちの方が大変だ。  雅美とはあれ以後、ちょくちょく会っている。ほぼ一週間に一度程度だが、会うたびに抱きあっているわけではない。店の帰りに待ちあわせて、馬鹿にうまかったこの前のラーメン屋に行ったり、たまには四谷にある雅美の部屋を訪れたりする。雅美の部屋は家具もさして揃っていない簡素な二DKだ。銀座にいるときは麹町にいたのよ、広いマンションだったけど荷物が多くていまより狭く住んでたみたい。あれから赤坂へ越して中野にいって、笹塚、そしてここと、雅美は片手の指をみな折って愉しそうに笑った。越すたんびに家具もなくなって、引っ越し貧乏ってほんとなのねぇ。  この部屋でよかった、進造は雅美にいう。他の男が買った品物《もの》のなかにいると、俺はろくに息もできなくなる。  なによう、気が小さいのね。  気が小さいんじゃない、嫉《や》きもちだ。  嫉きもち、あなたが、まさかぁ。  雅美といると、進造は妙に心が落ちつく。相手の落ちぶれた様をみて安心するという心理は、人間誰れしも持っているのではないか。シーソーの板みたいに、片方が落ちると、片方が撥ね上る。雅美の傍らで進造は、どうでもよくなっていた男のプライドと自信をとり戻しつつあるのだ。  進造はのそりと起きあがった。  雅美に会いたくなったからだ。いま頃あいつは何をしているかな。まだ厚いカーテンをひいたまま寝入っている最中だろう。電話をして叩き起こしてやろうか、たまには寝こみを襲ってやるのも悪くはない。  髭をあたりはじめた進造に、和代が背後から声をかけた。 「あなた、何ですの、お出かけ。だって今日お休みでしょう」 「社へ顔を出してくる」進造はぶっきらぼうに答えた。「心配なことがあるからな」  二人の休みが一致するのはめったにないことなのに、むっとした顔つきの和代を背中で感じながら靴を履く。重い、重いな。敷居を跨ぎ、梅の木を通り過ぎるときに進造は思った。俺がこのまま二度とこの梅の待つ我が家に帰ってこなかったらどうだろう。会社の実績も、夫婦生活の歳月も子供もみんなぶった切って、軽々と孤独になるのだ。一からスタートして、独り身で歩く。いや、そのときはおそらく雅美のところへ自分は行くに違いない。 (出てきたぜ)そういったら雅美は多分、たいして驚きも嬉しがりもしない表情で(あら、ほんとに)というだけだろう。  進造はいま自分が想像したことが、現実の出来ごとに思えて、足を早めた。  案の定雅美はまだ眠っている。  ぼんやりとした表情でドアを開け、またうだうだと布団に潜りこむ。 「冷めたいものなら冷蔵庫。お湯なら魔法瓶に入ってるわ」  その日は夕刻雅美が店に出勤するまで雅美の部屋にいた。社への連絡は、電話で済ませた。  夕食に近くの寿司屋からちらしを取って食べながら、何のきっかけからか、大倉さんの話になった。午前中の新聞記事が潜在的に頭の隅に残っていたのかもしれない。  そっちは二言めにしょせん水商売の、どうせホステスのというけどさ、こういう立場の女もいるんだぜ。進造は和代からきいた話を、そっくり受け売りして雅美に話してきかせた。 「羨やましいわ」  雅美は感想をのべた。「女の最高のロマンだわ、生涯一人の男しか知らなくてすむなんて」  雅美の返事につられて、進造はふっと聞かなくてもいいことを尋ねてしまっていた。 「大牟田とは、もう会ってないんだろう」  雅美は箸の手をとめ、いまさら何をきくのかといわんばかりに、進造をまじまじと見つめ返した。 「ふられたんだもの、当り前じゃない」  低く押し出す調子だった。雅美の寂しげに居直った眼のいろをみて、進造は理由もなく腹立たしくなった。なんだよ、なんで大牟田なんかに──。理不尽な怒りだった。言ってどうなる話でもない。それなのに眼の前にいる雅美をもっと責めて、苛めてやりたくなった。 「追いかけまわすからだよ」  進造は残酷に言い放った。「奴らは女になんか不自由していない。自分の方が手前勝手に追いかける相手にしか興味がないんだ」  雅美はきっとなって進造をみた。 「追うんじゃないのよ、待てないのよ!」  その声は悲鳴だった。あと、がくりと弱々しい言いかたになって「どのみち、男のあんたなんかにはわからないでしょうけどね」  男のあんたといわれたことに進造は引っかかった。男のあんた、俺をおまえさんが寝た類《たぐい》の、そこらの男たちと十把一絡げにするのか。大牟田や、あの連れ込みホテルへ連れこんだ名もしらない男と同等にするのか。  進造は自分でも思いがけない深みで、雅美を見つめはじめていた。やり場のない固まりを持て余して、突然立ち上った。 「帰る」  とだけいった。  どうぞともいわずに、雅美は蹲っている。  仕方がないとも、不貞くされているともとれる格好で、雅美は微動だにしない。扉をしめるとき、ちらりと盗みみた雅美の姿は、一晩中でもそのままでいそうだった。    雅美に連絡がつかないで、十日ほどが過ぎる。  二、三日あとに、電話をしてみたのだが、応答がない。店にかけても、お休みをしていますとボーイが答えるだけだ。  一度部屋へ訪ねてみたいと思いながら、進造の担当のチームにコーチの入れかえや、選手の故障で一軍登録抹消などの事件がたてつづけに起こり、時間を作れないでいる。  一方、男としてこちらからおめおめと頭を下げるのも癪な気分もある。用があればそっちから電話くらいしてこいよと居直っている。惚れた弱み、かもしれない。  和代は相変らず大倉さんの噂話しかしない。  大倉さんは旦那が斃《たお》れて病床にいる間も、ずっと髪を結いにくるそうだ。気の毒で、わざとその話題にはふれないように皆で気を使っていると、和代はいう。  以前と変らず、「主人が、主人が」と嬉しそうにのろけ話をして帰るそうだ。  そうこうするうちに、政治家の訃報をきいた。  ねぇ、あなたきいて、盛大な告別式が済んで数日後、和代は上気した表情で進造をつかまえていった。  お通夜の日も、大倉さんは見えたのよ。何と旦那さんが亡くなられたのを知らなかったらしいのよ、TVもラジオもほとんど見ないきかないって方でしょう。そのうえ小さいときから花柳界育ちの文字音痴で育っちゃって、ろくに新聞なんかも読めないそうよ。秘書の方が知らせにいってやっとわかったっていうんだから……もうみえないかなと思っていたんだけど、お葬式の日も、その次の日もいつもどおりいらっしゃって、もうあたし何とも言いようがなくなっちゃったわ。  和代は世にも哀れな物語を語ってきかせるみたいに、首をふり眼をしばたたいた。  でもね、恐ろしいことにあんなにきれいだった大倉さんが、急にがっくりと年をとって、髪の毛なんかも咲きすぎた菊の花片みたいにぱらぱらと散り落ちるみたいに脱けてゆくのね。櫛の歯をあてるたびにぞっとしちゃって、あたし──恐ろしいものだわね、男と女の絆って。  男と女の絆という和代のいいかたをきいたとたんに、進造はむしょうに雅美のことが気にかかった。どうしただろう、あいつ。  進造は矢も楯もたまらなくなって四谷のアパートにタクシーをとばしてしまっていた。心の隅で、自分の行動をなんとなく大倉さんに支配されているような感じがしていた。  部屋には鍵がかかっていて、何の物音もしない。  しばらくがたがたとノブを引っぱっていると、隣りの部屋から、眉のつるりととれた、見るからにホステス風の女が顔を出した。 「そこ、越したわよ」  進造はぽかんとした顔つきになった。ホステスはちょっと面白そうに、舌なめずりをする口許になる。 「だいぶ前にね。さあ一週間以上にはなるかしら」  進造は眼のやり場がなくなって、間のぬけた礼をひとつすると、そそくさと空部屋の前から立ち去った。  あれくらいの喧嘩が原因だとはとうてい思えないが、雅美の気まぐれの、発火点にはなったのかもしれない。  一足、一足靴の爪先を見つめてアパートから遠ざかる。  センチメンタルに、ずんと落ちこみそうになるのを、曲り角に立ち止まって空を見上げることで少し誤魔化す。  もとの木阿弥か──。  いままでも、そしてこれからも長く続く変化のない毎日を、進造はぼんやりと想像した。  一呼吸して空車に手をあげる。 「赤坂」と思わずいってしまったあと、あわてて社のある住所に言いかえる。  運転手は不機嫌そうで、返事もしない。  大倉さんの話を最後にきいたのは、梅雨あけを気象庁が宣言したその夜だった。 「大倉さん、亡くなったのよ、一昨日《おととい》」  和代は投げ出す口ぶりで、進造に報告した。 「このところお加減が悪そうで、気にしていたんだけど……結局旦那さんの後を追いかけていったのね。それとも一人じゃ生きてゆけない女《ひと》だからって、旦那さんの方が呼びよせてあげたのかしら。  でもねぇ、あなた。あたしお通夜の席で大倉さんの古い知りあいの方にあって凄いこときいちゃったのよ。大倉さんの旦那さんてもう長いことあのお宅にいらしたことなんかないんですって。ええずうっとよ。少くともこの二十年くらいは一度もみえなかったそうよ。秘書の人が毎月お手当をお持ちになるだけで」  和代はつまらなそうな顔つきになって、それきりぷつりと大倉さんの話をやめた。  一度も旦那が来なくて二十年か──進造は軽い眩暈《めまい》のようなショックを覚えた。 「追うんじゃないのよ、待てないのよ」  かん高く叫んだ雅美の声が、動きのない風になって進造の耳を貫く。  大倉さんは──進造は思った。  旦那を待っていなかったのではないか。べつに待ちも期待もしていなかったのだ。  梅の木の周辺に春がきて夏がきて秋が過《ゆ》くように、淡々と身の囲《まわ》りの四季に身を委《ゆだ》ねていただけだ。春がくれば白い花を咲かせ、やがて花が散り終えて若葉をつける。そのくりかえしが大倉さんの人生だったのだ。  進造の瞼には、誰れ訪れるものもない麻布の奥まった一軒家で、一筋の乱れもなく髪を結いあげて、ひっそりと夕闇の影になってゆく老女の姿が彷彿と浮かぶ。  打ち水をした小奇麗な玄関、小さな灯籠には灯が点って、炬燵にはほどよい温度に暖まったお櫃《ひつ》が入っている。 [#改ページ]   演《えん》 歌《か》 の 虫《むし》     一  ディレクター室田克也は、私の前に坐っていた。  小太りの躯がひとまわり痩せて、顔いろが青ざめてみえた。茶の間の蛍光灯のせいかな、と私は思った。普通の白熱球にとりかえた方がいいかもしれない、そんなことを思いながら私は、買ってきたばかりの土産物、柄に金貨の飾りのついた栓抜きと、「1977.winner」と胸にばかでかく刺繍のしてある青いシャツとを、室さんの眼の前においた。 「これ、真物ですか」  室さんは栓抜きを手にとって、重さを計りながらいった。 「ええ、古い金貨のコピーらしいけど、そこの部分だけいちおう十四金。休みの日にベガスまで一日足をのばしたものだから。そこで、ね」 「いいですねぇ、真物のいろはどこか違いますよ」 「でも安いの、わりと」  私はあわてていった。「ペンダントとかにすると室さん絶対してくれないしさ、これなら家でビールなんか抜くとき、気分よく使ってもらえるかもしれないと思って」 「ありがとうございます」  室さんはにこりとした。何だか急に恥かしくなった。私は室さんに何かをあげる毎に、ちょっと狼狽《うろた》えてしまう。しかし室田さんというひとは、どんな高価なものであろうと、安っぽいハンカチ一枚であろうと、あっさりと嬉しそうに私の好意を受けとってくれる。そんな室さんの笑顔にあうと、私はほっとして肩の荷を下ろすのだ。 「あちらどうでした、暑かったでしょう」 「もう滅茶苦茶。食べものもまずいしね、毎日プールサイドに出て、ホットドッグばっかり食べてた。ショウの方はおかげさまで盛況だったけど」 「よかったですね」  私は自分が関わっている演歌歌手のロスアンゼルス公演に随行していって、帰ってきたばかりだった。私の帰国を待ちかねるようにして室さんから連絡があり、家へ訪れてきたのだった。むろん室さんから連絡がなくても荷物をおいて一段落したら、私の方からまっ先に室さんの勤め先のUレコードか、室さんの家の電話番号を回していたに違いない。それにしても帰ってきたすぐ翌る日に、こんなにあわただしく室さんが私に会いに家へ来るのも、めずらしいことだ。  室さんの前におかれてあるコーヒーに手がつけられてないのをみて私は、 「室さん、こっちの方にする?」と、ビールのグラスを口許にもっていく真似をした。 「いや、アルコールは」  室さんは手をふった。「ここんとこ全く飲んでないんですよ、ひとつ……体調が」  室さんの口からきき慣れない言葉をきいた。いままで室さんは夜鷹の作家仲間やプロダクション連中と付きあったり、徹夜でミックスダウンをしても、弱音を吐いたり、疲れた顔などみせたことがなかった。 「いや、ちょっと喘息の気味がありましてね」 「へえ、喘息ね。子供か年寄りみたいじゃない」 「そうなんですよ」  健康体である私は、他人の病状など思いやる余地もなく、まして周りに喘息持ちの患者などみたこともなかったので、風邪がこじれた程度に解釈して軽くきき流した。  喘息の話はほんの一言か二言で終り、室さんはふっと言葉をとぎらせて、うちの茶の間の壁ぞいにずらりと掛け並べてある板をみた。 「これは、一年に一本ずつ集められているんですか」 「そう、毎年年の暮にね。浅草の羽子板市で一本ずつ」 「見事ですね」 「前からあったのに……室さんに話したことなかったっけ。いちばん最初が切られ与三で次がめ組の喧嘩、石切梶原、弁天、富樫、助六とどういうわけか男ばっかり続いて、というのはいっとう最初に私を羽子板市へ連れていってくれたひと、このひとがまるで私の兄か先生みたいなひとで、歌舞伎や浪曲、小唄、ふるい演歌のことをみな私に教えてくれた、おかげで私はいまこうやって流行歌をかいていられる……Mさんといったけど、人がいいばっかりの粋な道楽息子で、銀座で小さな酒場をはじめて潰してみたり、プロダクションの経営に手を出したりね。毎年一緒に羽子板市へいくのが恒例になって、何本かMさんの趣味で選んでもらっているうちに突然交通事故で逝かれてしまったのよ。それからは急に羽子板が女になって、八重垣姫、櫓お七、鷺娘……近ごろでは私に代って妹夫婦がクリスマスプレゼントがわりに行ってくれてるけれど」  話しているうちに、私は室さんが亡くなったMさんにどこやら似ているのに気がついた。むろんMさんは私より年上だったし、室さんは二つ下。小太りな背丈は同じぐらいだが、生粋の下町っ子のMさんと、静岡生れで大学を卒業するなりすぐUレコードへ入社して福岡営業所勤務になり、転属願いで上京してきた室田さんとでは雰囲気も全然違う。顔だちもどこといって似通った個所はない。にもかかわらず、私はMさんと室さんに共通する匂いを嗅ぎとっていた。  それはたぶん、生いたちや環境を越えた、Mさんと室さんの人柄の感触だ。私に対するいうにいえない暖かみであるかもしれない。それと人生を賭けて純粋にひとつに打ちこむ人間の持つ強さとナイーブさの両極を、私はMさんと室さんの内面に見つけていた。 「……一本、二本三本」  室さんはいく度もうちの茶の間のこの場所に坐ったことがあるにもかかわらず、いまはじめてみるみたいに羽子板の数を勘定した。 「十五本もありますよ、十五年、ですか」 「行けない年もあったから、なかで四、五本は抜けてるのよ。何しろ私が銀座で酒場を始めた年が切られ与三なんだから」 「と、すると昭和三十二年ごろですね」  室さんは細かい年譜や数字にとてもこだわる。私は酒場の経営者であるのに、数の類にはまるで弱い。作詞家であるのに譜面も読めない、英語もだめ。つまり横がきになるのはすべていけなくて、十五の歳からネオン街で働き続け、躯が自然に覚えこんだデータで大雑把に、感覚的にのみその日、その刻を生きている。 「──銀座で二十年ですか、凄いなぁ」  室さんはしみじみといった。 「え、そんなになる」  私は指を折って数えて、ほんとだぁと溜め息をついた。 「僕は九州から出てきてディレクターになってまだまる六年。ちょうどあの羽子板でいうと弁慶のところです」  室さんは二人を睨み下ろしている弁慶を指さした。 「さしたる業績も残せなかったけど……昨日会社に辞表を提出してきました」  あんまりさり気ない調子でいうので、私にはその辞表という意味がすぐに理解できなかった。それよりもさしたる業績がないといったことにこだわって、「そんなわけないじゃない」と室さんをみた。 「北里冬子、東京トリオ、花村みきえ、それに田村健の『浪花物語』も売れてきたっていうんでしょう。さしたる業績どころか──」  室さんは、このわずか数年の間に制作部の柱になり、Uレコードに室田克也ありといわれる存在になっている。フォークやニューミュージックが全盛の兆しの歌謡界で、オーソドックスな演歌をベースに乗りの軽さを加えて次々と名もない新人や埋もれていたベテランを掘り起こした手腕は、室田サウンドといわれて他社のディレクターも一目おいている。そんな立場にある室さんがどうして自虐めいた言葉を吐くのか、いつもの室さんらしくない。 「ディレクター稼業をやって、まずはレコードを一千万枚完売することが、夢でしたけどね」  完売という個所に心もち力をいれて室さんは寂しそうにいう。私はさきほど聞き流した、辞表という言葉を思い出した。 「会社に辞表を出したって……また」  それはどういうことなのかと、問いかける顔をすると、 「……千葉京子の問題で」  室さんは少しいい難そうに、自分の担当している新人歌手の名前をいった。やっぱりあのことか、と私は思った。室さんと千葉京子の話は、そろそろ会社の内部でも噂になりはじめていた。およそ色ごととか、浮いたはれたの派手な話題には縁もゆかりもなさそうな、演歌レコード制作一途に打ちこんでいる室さん自身のことだけに、口さがない宣伝部やディレクター仲間の間では、目ひき袖ひきで興味津々、成りゆきを見物している。  私も口軽な出版部の山森からそのことをきいていた。 「知ってますか。例の室ちゃんと千葉京子の一件を」  山森は軍の機密を洩らす諜報部員みたいな眼で私に告げ口をした。 「あのお堅い室さんがねぇ、子供みたいな新人歌手に手をつけるなんて考えられませんよ。なにしろ相手は未成年でしょう、十八ですから。おまけに一人娘ときている。足利の大きな呉服屋の娘で、両親も烈火のごとく怒り狂っちゃって婦女暴行罪で訴えるといきまいている。プロダクションのI企画の社長も、大事なお嬢さんをお預かりして申しわけないと平謝りだし、そのI企画にしてからがデビュー盤でかなりの金額をつっこんでますからね。会社としてもふざけるなと居直られたらどう言い訳のしようもない。こっちも出版がらみで窓口になっているので困りきってますよ。何しろ社の看板ということもありますのでね」  山森はむしろはずんで嬉しそうな口調で、「いやぁ参った、参った」をくり返した。  何をきいた風なことをいっているのだ。私は内心でむっとした。業界では大手三本指に数えられる老舗のUレコードではあるが、格式と体面ばかり重んじる内情は、やっぱりそこらの芸能界の裏側と変りない。  たかだか新人歌手が担当ディレクターとどうとかなったからといって、目くじらたてて騒ぎたてるほどの事件でもあるまいと思う反面、あの室さんがというショックもある。それは幼年期に、自分がどうやって両親から生れてきたのかを知ったときの驚きにやや似通っている。室さんもまた男なのだ──。  私はその動揺を山森に気どられまいと、わざと興味のなさそうなふりで言い返してやった。 「それじゃ室さんも、これからもっと凄いレコードをつくれるようになるかもしれないわねぇ。艶ダネは男を磨くっていうからさ。Uレコードも万々歳じゃないの」  ふふっと鼻で笑った私に山森は、笑いごとじゃないんですよと、不満げだった。まだ話し足りなさそうな山森をしりめに、あっ、事務所に電話をしなくちゃと私はくるりと踵をかえしてきてしまったのだが。  その問題が辞表を提出させられるまでに発展していようとは、思いもかけなかった。室さんも私にひと言もいわなかったし、私の方から話題にするわけもない。 「なんでそこまでしなくちゃならないの」  私は眉をよせた。 「I企画の社長から、週刊誌沙汰にすると脅されましてね。会社に迷惑をかけてもいけないし、京子の将来に傷がつくからと思って」 「まるで劇画じゃない」  私は憮然とした。同時に、室さんがあんなに愛したUレコードの※[#○にU]のマーク、たまには融通のきかない管理体制をけなすこともあったが、その口調にも惚れた女をわざと悪くいう情味が感じられるほど好きだった会社を退社するのと、生涯を賭けた念願のディレクター職を放り出すには、さぞ並でない決心がいっただろうと、胸が痛くなる。 「連日のように足利の実家へ呼ばれて、親兄弟の前で謝罪させられましてね。こんなものをかけというから、かいてきました」  室さんはあちこちポケットを探って、いく度もかきなおしたらしい粗末な便箋の下がきをとり出した。 (覚書。室田克也と千葉京子とI企画三者相互間の損害賠償にかかわる全ての紛争は、室田克也が誠意を持って、I企画に請求額全額をお支払いすることをお約束いたします) 「何だ、結局はお金、なの」 「そうでもないんですが、むこうの両親も、できてしまったことはしかたがない。あとはI企画と納得のいくまで話しあってくれということで」  室さんのしでかしたことはたしかにほめられたことではないが、室さんはこの件でどれほど自分自身を責めさいなみ、傷つけたことか。その結果としてこんな陳腐な一枚の覚書と、一生を賭けた果ての辞表との引きかえでは、あまりにも重みが違いすぎやしないか。それに未成年とはいえ、いまどき十八歳といえば立派に成熟した大人だ。  千葉京子の色白で小柄な体躯と、童顔で可憐なくせに、どこやら大人びてみえる表情を私は思い出した。千葉京子のデビュー曲の作詞を私は担当していた。来年はこの娘《こ》で勝負をしたいのです、室さんがいって連れてきたのは昨年の暮のことだ。毎年、おかげさまで新人を一人ずつデビューさせて、何とか格好をつけさせてもらってますのでね。  ダビングを済ませたのは春先だが、あの時分、もはやくるりとまるい千葉京子の瞳は、蓮の葉に零した朝露みたいにきらきらと輝きを増して、室さんばかりを追いかけていた。しかし狭いミキサールームで、互に肩や腰をぶつけあいながら、室さんと千葉京子の間に男女の仲の陰湿な情事の気配など、毛筋ほども感じることはなかったのだが。  そういえば室さんはしきりに体重を落したい落したいと口癖みたいにいっていた。九州から出てきたばっかりは六十キロ越えるか越えないかだったんですが、ちかごろは楽になったとみえて何と六十七あるんです。せめてあと三、四キロね、減らしたい。六十三がベストなような気がします。  室さんの短かった髪が何となく長めになっていた。腰の部分をシェープしてステッチのかかったうすい色のスーツを室さんはダビングに着てきた。正直いってその服は、全然室さんに似合わなかった。室さんにも春がきているのかな、私はひそかに頬をゆるめた。お洒落をしている室さんをみたのは、後にも先にも、あれ一回きりだ。  今夜の室さんは、やはりいつもと同じようにたいして冴えない地味ないろのポロシャツを着て、体重もベスト体重よりはいくぶん軽めにみえる。疲れきっている様子なのは、はた眼にもあきらかだ。 「寝てないんでしょう」  私は室さんの前の手のつけられないまま冷えたコーヒー茶碗を、暖かい番茶の湯呑みにかえた。 「寝てないというより眠れないんですよ。家へ帰っても落ちつかないので、ま夜中、会社の試聴室へいってテープで韓国の歌ばかりきいてます。いいですね、韓国の歌い手さんの歌唱は。曲調にもせまってくる哀愁があって、何曲きいても飽きません」  室さんは私の知らない韓国名の歌手の名前を二、三人あげた。 「タイトルにも『人知れず流す泪』とか『窓の外の女』『大地と港』『情』なんて、はっとさせられるものがありますよ」  こんなときにも歌のことを語る室さんの口調は、思わず熱っぽくなって、つい口許がほころぶのだ。 「辞表、なんとか撤回できないのかしら、要は金銭上の額の問題だけだと思うけど」 「I企画がいくら要求してくるか見当がつきませんしね。正式に弁護士をたてるといってますから」  室さんの口調は再び重くなった。 「でもそれこそ話しあいじゃないの。彼女だってどうしてもこれで歌手を退めてしまいたいといっているわけでもないんでしょう。タレントがプロダクションに残れば、あとは道義上のことだけなんだから」 「京子はあくまで僕の意見にまかせるとはっきりいいきっています。僕が離婚して一緒になるというなら、引退して家庭に収まる。このまま歌手を続けろというなら、続けてもかまわない、それで室田さんがお金を払わなくて済むなら、と──。そこまでいわれれば男として責任もとりたい」  いったあとしみじみと、「でも助かりますね、こういう場面でいちばん落ちついているのが当事者の京子だということは。あの娘《こ》は……強い。若さ、でしょうか」 「そうね、若さ、かもしれない」  私は室さんに同調しながら、ここまで室さんが追いこまれているとは知らなかったと、愕然とした。 「離婚するって……では眉子ちゃんはどうするつもり」  室さんの顔が一瞬、くしゃっとなった。眉子ちゃんは室さんが眼のなかに入れても痛くないほど愛している一粒種だ。五歳、可愛い盛りで、どこに行くのにも連れて歩く。あの公私混同に厳しい室さんが、ときおり夜のレコーディングなどにも連れてきたりする。今夜はママに出かけられてしまってね、後ろのソファで眠りこけている眉子ちゃんに、自分の背広をかけてやっているのを見かけたこともいく度かある。  ぽたぽたと音がした。  室さんの大粒の泪が、広げた便箋と机の上に落ちている。私は室さんの泪をみて、狼狽した。私が室さんの前で泣くことはあっても、室さんがひとまえで泪をみせるひとだとは思わなかったからだ。それだけにいまの室さんの板ばさみの懊悩の深さが、私にも伝わった。  だがしかし、と私は思った。室さんはけっして私に相談にきたわけではない。救けを求めにきたのでもない。まして金銭的な手助けなど申し出れば、それだけでも室さんと私の交流はなくなってしまう。 「室さん」  私は室さんの方にむきなおった。 「私の弁護士を紹介するわ。I企画は弁護士をたてるといっているんでしょう。そうすればこっちも同条件で対抗しなくちゃね。だいいち法的にどれだけの債務を負う必要があるのか、その点をはっきりさせて支払に応じるべきよ。先生には私から明日いちばんで連絡をつけとく、昔からの顧問弁護士だから費用なんかも心配しないで。とても人間味のある優秀な先生よ。そのためにもこの下書きは資料としてとっておかないと」  私は室さんの手に、さきほどの便箋をもと通りに折って手渡した。 「そう、ですね」  室さんはシャツの胸ポケットにかきつけを大事そうにしまいながら、安堵の表情になった。「御好意に甘えます」 「それと、辞表の件だけど」  室さんは顔をあげた。 「会社が簡単に受理すると思う?」 「さあ、なにしろお堅い一方の保守体制ですからね、うちは。歌い手と問題をおこしたうえにプロダクションとトラブっているとなると……」 「それはそうだけど、私はうんと悪くても謹慎一カ月程度だと思うな」 「そうでしょうか」 「そうよ」  レコード会社も、それほど馬鹿ではないと内心私は思っている。こんな優秀なディレクターをそうやすやすと手放すはずがない。室田さんを失うことは、Uレコードのみならず、業界の、もっと広くいえば演歌の損失なのだ。歌い手にとっても、作家にとってもだ。  レコードは足でつくる、それが室さんの身上だ。以前私にいったことがある。レコードのつくりかたに二通りあって、鳥の目でつくる、虫の目でつくるということがあると思うんです。鳥の目でつくるというのは、上から地上を見下ろしてどこか弱い個所、穴場を発見してそこへあてこむ。僕の場合はどうしても虫、ですね。虫の目で見上げて直接暖かく、大きく感じたものにゆさぶられて流行歌を作ってしまう。確率は悪いし、スピードもないけど、それしかできない。  室さんは、アーティストの過去の栄光やネームバリューにとらわれることなく、薄っぺらな地方の同人誌のなかの一編や、名もない弾きがたりが送ってよこした一本のテープからでもぴたりと真物の匂いを嗅ぎとる嗅覚の持主だ。それはディレクターとして真物である証拠と同時に、室さんの心の広さや純粋さ、優しさでもある。  現に、作詞家としての私に対しても、所詮道楽の売名行為といわれ続けた好奇の眼のなかで、室さんだけは、私の余分な背景をみないで、一人の作詞家としてぴたりと五分に付きあってくれた。厭なことがあったとき、辛いことがあったとき、私は室さんのところへ走りこんで、親にも恋人にも見せない泣き顔を見せた。  そのたびに室さんは私のいいたいことをゆっくり頷きながらきいてくれ、そのことじたいにはあまり意見もさしはさまずに、静かに次の作品の話をしてくれるのだ。  室さんが会社を退めるということは──室さんの思いつめた様子をみながら、私は一緒に考えこんでいる。私の作詞家生活もこれで終りということなのかな。  心中というほど美しい、大袈裟なことではない。室さんがいてくれるおかげで、ようやく立っていられる私自身を知りぬいている故に、その結論は、ごく当り前の自然な成りゆきにも思える。いいかえれば、流行歌かきの立場というのは、それほど脆く、一陣の風に吹かれて散ってしまう枯葉みたいな希薄な存在であるのかもしれない。 「それで……会社を退めたらどうするつもり」私は室さんに尋ねた。 「とりあえず京子と静岡の実家の煙草屋へ帰って、家の手伝いでもしながらぼつぼつ出なおしますよ。※[#○にU]いがいのところでレコード制作をやる気にもなれませんしね。煙草屋もたいした稼ぎにはならないから、そのうち親父を説得してレコード屋でもやるかな」 「やっぱり、レコード……」 「ま、作る側と売る側では距離がありますけどね。一生おサラ(レコード盤)を触っていられれば、本望ですから」 「じゃ、もし、会社が退めさせてくれなかった場合は」  私は話をむしかえした。室さんは腕を組んだ。 「──さぁ、そのケースは全然考えていなかったなぁ」 「その可能性の方が大じゃない」  室さんを励ましながら、私は一条の光明を見出した気になっている。そうだ、室さんは退められない、絶対に退めさせてもらえない。 「乱暴ないいかただけど、その判定を運命にしてみたら」 「運命、ですか」  室さんは暫く黙りこんだ。重い口をひらいて言葉を押し出す。 「千葉京子のことも」 「そう、京子ちゃんのことも、というより眉子ちゃんのことも」 「………」  眉子ちゃんの名前を出したとたんに、いままで全然室さんの奥さんの英子さんを思い出しもしなかったことに気づいた。英子さんの、どことなくそっけない眉の薄い丸顔を、私は室さんから遠く離れた人のように、思い浮かべた。いく度か私は室さんの家に遊びにいったが、そのたびに夫婦という感じではなくて、優しい兄と、何もかもまかせて頼りきっている我がままな妹の兄妹みたいな印象を受けた。室さんは持ちまえのゆるやかな調子で、奥さんのやや強めの言葉をふわりと受けとめる。打ち返すことをしない。それで私は室さんが、家庭でも、我々と対するのと同じように英子さんに接して暮しているのがわかった。 「もういっぱい番茶をいただけますか」  室さんはふいにいった。私が注ぐのを待って、ひとくちのむと、いいですねぇ、やっぱりお茶がいちばんうまい。  それきり肝心の話には何にも触れずに、お帰り早々、いやなことをきかせてしまってと、済まなさそうにいった。長時間お邪魔をしてしまって、ほんとに。  あ、ちょっと待って、私は自室へ駆けあがると、大あわてで引き出しをかきまわして探し出してきた弁護士の名刺を無言で差し出した。同じように無言で受けとると、室さんは叮嚀に頭を下げた。 「お世話になります、では」  室さんが帰っていったあと、室さんが坐っていた座布団の横に、小さな紙切れが落ちているのを見つけた。  一枚は何かの雑誌か週刊誌の切りぬきで、もう一枚は同人誌から切りぬいたらしい詞だった。覚書の下がきを探しているときに、ポケットからでも落ちたのだろう。  二枚の切りぬきを拾いあげて、私はじっくりと読んだ。  雑誌の切りぬきの方は、やや太めのゴシック活字で、映画監督の山田洋次の言葉だ。 「愛するということは、自分と相手の人生をいとおしく感じ、大事にしたいと願うことです」(演出のことば)  いま一つの六行三コーラスの詞には、作者の名前がなかった。     お子守唄  泣いて寝る子の 眼の玉は  山の鬼めに くれちまう   おつつしてねんねしな   ねてくりょう   ねなけりゃ おらんとが   けえられん  花が咲いても 泣くボコにゃ  ほれよみぞれが 降ってくる   おつつしてねんねしな   ねてくりょう   ねなけりゃ おらんとが   風邪をひく  子守ばんてん きせかけて  寝かす納戸にゃ 灯もつかぬ   おつつしてねんねしな   ねてくりょう   ねなけりゃ おらんとが   ねむられん  室さんは、どうでもディレクターを退めなければならない覚悟を決めていたのだ。この詞をみて、何となくそう思った。私にそれとなく挨拶にきてくれたのだ。  この紙きれを返そうか、どうしようか迷った。返すのはよそう、と決めた。  私は室さんと最後に話しあった運命に賭けていた。もちろん、会社が引きとめる方に、だ。  きれいに飲み干された室さんの湯呑みが、蛍光灯の下にぽつんと残っていた。     二  室さんにはじめて会ったのは、昭和四十七年の春、Uレコードのヒット賞授与式の後のパーティ会場だった。三階の広いスタジオに、白布で被った机にビールやオードブルが並べられている急拵えの会場で、私は制作部の細井を探していた。賞金袋を手渡したかったからだ。  実数五万枚のレコードを売ると、詞、作曲、編曲の各アーティストに、会社から賞状と小ぶりな盾と金一封をくれる。賞状と盾は貰って帰ってもいいが、金一封の包みだけは、担当ディレクターにおいていくのが通例だ。いかに大ヒットを出そうと、実数を売りあげようと、一介の社員でしかない制作部員には、一銭の見返りもないからである。  スタータレントをかかえた売れっ子ディレクターは、作家から集めた賞金袋で胸もとをふくらませて得意満面になっている。細井もそうした一人で、いかにも作家を使ってやっているという態度が鼻につくタイプだが、ベテランで、力のあるディレクターには、どんなに古手の先生方も、妙に媚びた様子で付きあうのだ。そういう意味ではこの業界は、露骨な買い手市場だ。以前銀座の仲間の中年のマダムに鋭い質問を浴びせられたことがある。歌謡界のひとたちってさ、ちょいと年をとると皆、年輪を重ねる良さというものがなくなって、老いさらばえたひもみたいにみすぼらしくなっていくけど、あれはいったいなぜかしらね。  たしかに流行歌の世界は、常に時代の先端の若さが中心になって進行してゆくので、いかな実力者といえども一つ盛りの波を越えれば誰もがとり残された残像だ。だいいち日本にはスタンダードという歌がない。レコードが発売されたほんの短い一時期の後は、どれほど流行った歌も十把ひとからげになって、ナツメロと呼ばれてしまう。  そんなサイクルのせいもあるが、いまひとつにはどんな立場に立っても、常に買い手を探し求めて汲々としていなければならない貧しさもある。派手に流れていく流行歌の急流の底には、そういう古いアーティストの嘆きや怨念がどろりと溜まって、旧態依然とした別の流れをつくっている。 「ねえねえ細井さん知らない、細井デレ」  私は顔見知りの人間を誰かれとなくつかまえて尋ねている。さっきいたけどなとか、入口の方で部長と話してたぜという返事を頼りに、人波をかきわけていると、当の細井が私の方をめがけて突進してきた。 「探していたのよ、俺も。というのはこいつがどうしても紹介してくれって離れないからさ、しつこいんだよもう。ほらこちらお目あての中村容子さん、ディレクターの室田克也。まだ制作へ来たての新米だけどさ、ま、よろしく頼みますわ。いい詞かいてやってよ」  細井は一気に喋るだけ喋って、自分の後ろにいる人間を紹介すると、さっさとむこうへいこうとした。 「ちょっと待ってよ、これ」  私は賞金袋を二つ差し出した。細井の手持ちのタレントで、二曲ヒット賞を貰っていた。 「あ、どうもどうも、毎度」  たいして有難そうもない顔で、手刀を切って賞金袋を受けとると、細井はにやりと笑って片眼をつぶる。 「こいつじゃスナックにもいけないからさ、そのうち紹介してよ、銀座の店の方に」 「ええ、いつでもどうぞ」 「美《い》い女、いっぱいいるんだろ」 「さあ、それはどうかな」  答えながら私は憂鬱になる。私がいちばんいやなのは、昼と夜の仕事を混同されることだ。銀座で酒場をやっているせいで、何かと誤解を受けることが多かったが、私は夜の職場で作詞の打ちあわせをしたことは、一度もない。酒場へたまたま顔見知りのプロダクションの社長や、レコード会社の人間などがきて、お世辞と冗談半分に作詞を依頼されたりすることがあるが、本気ではきかない。シャンデリヤの下にいる人間は、ただのお客なのだと割りきっている。こちらがそう思えば、むこうにしてみても私はたまたま今夜行きがかりで遊びにきた酒場の女将にしかすぎない。夜の知りあいは、昼間の知人ではないのだ。  厭な気分になってぼんやりと立ちすくんでいると、 「中村容子先生、飲みものでも持ってきますか」  さっき紹介されたばかりの室田さんが側に立っていて、声をかけてくれた。私はまだ、先生といわれるのに馴れていなくて、少しどぎまぎした。室さんは名刺を出して一礼した。 「九州地区でセールスマンをしていたんですが、中村容子先生のあのレコード、だいぶ売らせていただきました」  室さんは私のかいた作詞のタイトルをあげた。 「他社、なのに」 「ええ、他社のものでも、いいものはいいという信念でしたから。お客さんの耳にとどけるには、これしかないと思って」  室さんはにこりとした。 「いつ、九州から来られたんですか」 「昨年の秋です。夜行の月光の二号で」  月光の二号といういいかたが面白くて、私は笑った。室さんはいい難そうに口籠って、 「あの、御本人の前でいうと変なのですが、僕はずっと中村容子先生の作品をスクラップしているんです。ディレクターになって東京へきたらまっ先に作詞をお願いしたいと思ってまして──今日になってしまったんです。細井さんが絶対俺が紹介してやるからというものですから……」  ぽつり、ぽつりと話す話しかたに好感がもてた。私と室さんはパーティ会場の片隅で暫く立ち話をした。仕事の打ちあわせで数日後に会社を訪れる約束をして、私はスタジオを出た。    室さんと私の交流は、ディレクターと作詞家という仕事を中心にして、密接に続いていた。  作詞を頼まれてレコーディングが終り、次が終ればその次という風に、私は室さんの仕事を絶え間なく持っている。  ディレクターの作詞家への信頼と評価は、何をどう理由づけようと、仕事をさせていただくこと以外にはありません、室さんは明快に言い切っていた。いまではUレコードへ私が顔を出すと、他の用でいっても、「おーい室田」と、誰かが室さんを呼びに走る始末だ。  室さんは眼のまわるような最中でも、暇を持て余している時間でも、同じテンポ、同じ顔つきで私の坐っているロビーの椅子の前にあらわれる。 「なにを飲みますか」と必ずきく。 「なにか食べませんか」というときもある。  忙しいんでしょうと気をきかせて尋ねると、 「いや、まあ、ぼちぼち」  まるで忙しいのが恥みたいに、けっして芸能人間特有の、殺気だったそぶりはみせない。そんな室さんの様子をみると、私は一瞬いい温度のお湯に包まれたような柔らかな気持に浸れる。  頼まれていた作詞を手渡す。 「できましたか」  室さんは、すぐ見るのが勿体ないみたいな手つきで、二つに折った原稿用紙を横に置く。いきなりひったくって、眼の前でがつがつ読みはじめる細井方式ではない。一呼吸はかって手にとる。作詞家が書くのに要した時間の重さを計るように、ゆっくりと眼を通す。  すけすけの原稿用紙一枚、その一曲があたれば何百万、偽札を刷っているようなものだなと業界の人間にさえ皮肉られる流行歌《はやりうた》かきにも、裏へまわればそれなりの苦労はある。「みれん」とか「面影」とか「街あかり」とか、安直で陳腐な一言をセレクトして字数をととのえていく作業には、数枚の原稿用紙をまっ黒にした歯ぎしりの跡がある。  不安げに見ている私に室さんは「このままいただきます」と受け取ってくれるか、「これ、残念ですが、やめときましょうか」と返すかの二通りだ。細々《こまごま》と、あそこが悪い、ここが悪いということはめったにない。文字を読みとっているのではない、作詞の行間に滲み出る匂いを受けとっている。  そういう意味では、室さんの選択は厳しいし、油断はできない。  室さんとは数えきれないくらい仕事を組んだが、三分の二以上が新人の作詞だった。室さんじたいが、新人を好んだせいもある。 「先生、今回はひとつ変った歌い手のデビューを手伝っていただきたいのですが」  室さんはある日、ダビング終りで私にいった。室さんにしては勿体ぶって、変に愉しそうだ。 「男、女?」  私は室さんの顔を窺った。 「男、ですがね。年は……そう、かなりいってるんです」 「いくつ」 「二十四か五か──。作曲は一谷直行先生です」 「直行《ちよつこう》先生、最高」  本当は直行《なおゆき》と読むのだが、誰もが直行《ちよつこう》先生と呼んでいる。むろんこのニュアンスは直情径行からきている。演歌の若手(といっても四十を過ぎているが)では三本指に入る作曲家だ。私もデビュー曲で組んでもらっていらいの付きあいだ。  あと三十分もすれば歌い手がきます。一谷先生にデモテープのレッスンをお願いしてますので、ともかく一度きいてやってくれませんか。室さんは待ちかねる口調になって帰り仕度をしている私を引きとめた。  吹きこみの完了したテープをききなおしたりして時間を潰し、下のロビーへ下りてゆくと、色のまっ黒い大男が、一人ぽつねんと坐っていた。インド人だ。赤いターバンをまいている。 「いたいた」  室さんは片手をあげて男に合図をした。男が立ちあがった。 「まさか」私はいった。「あのひと……」 「そのまさかなんですよ」  室さんは男の傍へいくと、こちらが作詞をしていただく中村容子先生、と私を紹介した。 「チャラムです」  男は私より頭ひとつ以上は、優に大きかった。黒い手を差し出されて、ほんの少しためらったが、私は男の手を握りかえした。体温が高そうに思える男の手は、いがいと冷たく乾いている。 「彼は日本にね、演歌の星になりたいといって来たんですよ」 「演歌の星、ねえ」  いかにも室さんの好みの台詞だ。 「で、日本語は?」 「留学生で数年日本に滞在していましたから、かなりできるんです」  室さんがかわって答えた。「卒業して一度インドに帰ったんですが、どうしても日本の演歌が忘れられなくて、また来てしまったらしいんです。インドからテープと写真を送ってもらっていましてね、出てきたらぜひ尋ねてくるように返事を出しといたんです」 「よろしくおねがいします」  チャラムは滑らかな日本語で、挨拶をした。響きのある高音で、いい音色《おんしよく》だ。  狭いレッスン室の天井にくっつきそうなチャラムの長身は、白々とした壁にぬっと浮き立って、大きな男の影法師が閉じこめられているようだ。チャラムは室さんの注文どおり、「男の港」「花仁義」「人生街道」などを朗々と歌った。 「いいでしょう」  室さんは眼を閉じて熱心にききいったあと、私をふりむいた。 「彼の歌唱をきいていると、日本の演歌歌手が忘れ去っている何かをそっくり思い出しますよ。はるばると海や山を越えて人の胸にとどける魂の熱さと望郷の思い。それにその底にある闘争心とかを──」  私も無言で頷いた。室さんは続けた。 「彼の家はインドでもすごく由緒正しい家柄でね。勇猛果敢で鳴り響いたシーク族という一族なんですよ」 「へえ、じゃ王子さま」  そういえばチャラムの横顔は、どことなく知的で、高貴にさえみえる。 「そんなんじゃ……ないです」  チャラムははにかんでわらった。白い歯がこぼれて年齢不詳の黒い顔が、青年になった。  すぐそのまま作品の打ちあわせに入ろうという相談になり、チャラムを先に帰して直行先生の家に行くことになった。直行先生のところへ直行、私たちは下らない洒落をいいながら廊下へ出た。練習室を出るとき、扉の陰で室さんがこっそりチャラムに、一万円札を一枚渡しているのをみつけた。室さんは私にみられて自分が借りたみたいな照れ笑い顔になり、「いや日本へきたばかりじゃなかなか食えませんのでね。何しろターバン巻きじゃ適当なアルバイトもなかなかないんですよ。貧者の一灯です」  室さんだって大変なのに、と私は察した。室さんの給料は、おそらく一般のサラリーマンとかわりない。公私の境界線が曖昧で不確かな芸能界にいて、身辺がきれいすぎるほどきれいな室さんには、給料いがいにほとんど余得もなければ臨時収入もない。それで親子三人食べて、細かい交通費や外での食費お茶代、つきあいも馬鹿にならないだろうに、そのうえまだこうやって新人歌手の心配までしている。むろん交際費も満足に出さない会社が、そんな費用など認めようはずもない。  つまんないところを見せちゃってという風に、室さんは私たちを急《せ》きたてた。「さ、耳が熱いうちに早く行きますか」  直行先生の家は洗足池にあった。だだっ広い借家で、いつも住み込みの弟子が数人はごろごろしている。高名な演歌の大御所の直系の弟子でありながら、酒好きで女好き、いまだに独り者でしたい放題の無頼の匂いのする作曲家、一谷直行を室さんは愛していた。というより一谷直行の作品の真の理解者は室田克也しか居ないのかもしれなかった。私がたった一人のディレクターと室田克也を思い定めたように、一谷直行氏と私は、室さんを挟んで、同じ位置にいるのだった。 「直行先生のお宅に伺うと、ほっとします」  室さんは茶の間の古ぼけた座布団にあぐらをかく。 「何となく便所の位置がわかる家、そういう間取りが僕は好きなんですよね」 「悪かったな」  直行先生はたちまち室さんに噛みついた。 「どうせ俺んとこは便所の臭いがどこからともなくしてくるよ。青山赤坂あたりの新進作曲家のオフィスとちがってよ」 「いや、そういう場所が苦手だっていってるんですよ。モダンなソファに坐って演歌の打ちあわせをしていると、何となく浮き足だって不安になる」 「ちぇっ、きいたふうな言いわけをいうな」  直行先生は、室さんに甘えてすぐ絡みつく。 「言いわけじゃありませんよ。便所の臭い、おおいに結構じゃないですか。つまり演歌は便所なんだから」 「なんだ、それは」 「人間がいちばん人間らしく還れるところ。うまいうまいって食べたものを吐き出して、肩の荷を下ろせる場所、ですか。どんな洒落のめして気取った家でも、便所のない家は一軒もない」 「なんだよ、家中便所みたいな言いかたをしやがって」 「ま、運がつくか、運のつきになるか二つに一つですからね」  室さんも負けていない。直行先生と軽口めいた口喧嘩をしている室さんは、いきいきと愉しそうだ。 「オーイ、酒、お湯割りだ。ブランディと魔法瓶を持ってこーい」  直行先生が、食堂にいる弟子たちにむかって大声をはりあげる。 「前祝いだ。文句あるか」 「文句はありませんが、酔っぱらうのは仕事の後にして下さいよ」  お湯割りをつくる直行先生の手が、微かに震えている。目ざとく室さんがみて、 「いい加減にしないと、直行先生。先に逝かれると困りますよ」 「馬鹿野郎、そういうことをいう奴が逆に早くおさらばするのだ」 「だから、いつでもお棺の中に入れてもらっても悔いのないレコードを一曲だけは作っておこうと努力しているんです。それも一谷直行作曲、中村容子作詞でね、たとえ売れなくってもいい」 「一千万枚の売り上げ達成はどうした」 「それにはあと順調にいっても六、七年はかかります。ちょうどいま現在四百三十六万五千ですから」  室さんはすらすらと空でいった。よく覚えてる、私は感心した。畜生、一発で五百万なんて、童謡まがいの歌もあるのになあ。でもこいつだけは手帳につけて、しょっ中眺めてるんです、室さんは遠い先を読む眼をしたが、我にかえって冗談ぽく、ですからねとりあえずディレクターとしての代表作を。 「能がきはわかったから、どういう曲をかいたらいいのか、さっさといえ」  直行先生が、お湯割りをちびりと舐める。 「──そうですねぇ」  室さんは、先ほどスタジオで自分が話した言葉の断片を引きもどして、我々に注文した。 「一谷先生にははるばると、そう、はるばるとした感じの曲をお願いします。時間とか距離を越えてお客さんの耳に、直接響いていくような大きな流れのメロディ。詞の方は望郷いっぽんですね。望郷、故国を恋う気持、感情、その切々とした願いがテーマに流れていればそれ以外いうことはありません。お客さんがレコードのうえに手のひらをおいて、そのレコードの暖かみが伝わるような、そんなレコードがつくりたい……」  室さんはレコードを買ってくれるひとをお客さんといういいかたでいつも表現した。買い手とか、いまを流行りの、リスナーとかユーザーとかいう横文字はいっさい使わない。そのいいかたはディレクターとしての立場の謙虚さと、反面の厳しさを語っているようで、私は好きだった。  直行先生がお湯割りのグラスをかたりと置いた。境の襖を開け放つと、続きになっている仕事部屋の隅のピアノにむかった。指先からメロディが零れてきた。零れるというより、力強く溢れ出てくる。  いく度か同じ個所を行きつ戻りつして、その都度前にある譜面に、乱暴な走りがきで音譜を記していった。私も室さんもじっと息を殺して直行先生のもじゃもじゃ頭の後ろ姿をみている。  やがて「できた」と一言。  頭から二度ほどくりかえして正確にひき、室さんをふりむいて、「な」 「いただきます」  室さんは軽く頭を下げた。職人同士の鋭い刃のきっ先が触れあって火花を散らした、そんな感じの一瞬だ。  私もこのテープをもらっていって、今夜中に詞をつけよう。タイトルの「ゆきずりの花」は、皆で雑談をしている最中に思い浮かび、直行先生のピアノをきいて固まっていた。  直行先生は、がたんと大きな音をたてて鍵盤の蓋を閉めた。 「仕事、終り。さぁ飲むぞ」 「あと、B面もありますよ」  室さんがにやにやして、直行先生を揶揄《からか》う。 「B面は詞が先だ」  直行先生は威張って肩をいからせた。「ダビングはいつだ。なに、二週間先。それじゃまだ十日以上も日があるな。室田、おまえも一杯付きあえ」 「ゆきずりの花」のダビングの当日、スタジオの受けつけのところで、ばったりと細井に会った。 「あれ、今日はなに。そうか、チャラムだったな。あいつもあんなインド人を連れてきて、正気かよといいたいぜ。みんなで室田の道楽《マス》に乗せられて、御苦労さまなこった」  正統派の演歌を手がけて、着実にヒット枚数を稼ぎ出している室田克也は、我がもの顔に制作部を牛耳っていた細井にとって、はなはだ面白くない存在になりつつある。作家もいまでは細井派と室田派にはっきり区分されていた。といっても細井が使う作家は、いまをときめく手なれたベテランがほとんどで、室さんの方は世に忘れられた存在の地道なロートルか、新進の名前もろくに知られていない作家ばかりだ。そんななかで、辛うじて業界誌のベストテンに顔を連ねるのは、私と直行先生のみ。  ところが不思議なもので、作品数が多いにもかかわらず、私と室さんとのコンビで、これぞという大ヒットは一曲もない。お互いにいたわりあってしまうのかと反省もして、いわれた以上の力作を渡すように心掛けるのだが、それもかえって裏目に出てしまう。飲んだくれのアル中とバーのママとじゃ室田もいまに心中だな、小面憎く細井がいい放った悪口も、耳に入ってきていた。  私ははたして室さんの念願の一千万枚に、どれほどの手救けができているのか、室さんのいつに変らぬポーカーフェイスをみると、その数字が後めたさの風になって胸を横切る。  皮肉なことに、室さんいがいのディレクターと組んだ他社の作品では、いいインターバルで大ヒットが出るのだ。とくに私が作詞家よりもプロデューサー的に密着している叶たけしは、業界の奇跡といわれるほど順調に成長していた。その陰には室さんの力がある。作品の方向づけに室さんのアイデアがあり、作曲家選びにも室さんのアドヴァイスが重要なポイントを占めていた。私の実力以上に重い肩の荷の半分以上は、室さんが背負っていてくれているのだ。  すり切れたジーンズを履き、痩せた肩をつっぱらせてディレクター風を吹かしている叶たけしの若い担当ディレクターの甲斐を、私は嫌っていた。むこうも、行きがかり上、どうしても叶たけしから外せない私の立場に、反感より以上の憎しみを抱いているみたいだ。どうせという投げやりな態度が、何よりもそのことを物語る。  叶たけしのレコーディングをするたびに、私は冷え冷えと甲斐をみつめた。室さんなら音どりの最中に、オーバーに首をふってテンポどりをしたり、躯をゆすったりはしない。一流のディレクターはただスピーカーから送られてくる音に聴きいるだけだ。室さんならダビングの最中に、自分だけアイスティとカツサンドをとって食べたりしない。室さんなら深夜のトラックダウンで、ソファに片足をあげて欠伸なんかしない。室さんなら、室さんなら──。  叶たけしの件では、室さんと徹夜に近い話しあいをいく晩も重ねていた。お茶いっぱい一緒に飲んだことのない甲斐の名が、業界誌のディレクター成績の上位ランクを飾る都度、私はこの数字を室さんに回したい、いや回すべきだと内心思っている。  ヒット賞授与式で、オーダーされた作品数に比して、はるかに少ない数の賞金袋を室さんに渡しながら、私は詫びとも、言いわけともつかない繰りごとをぶつぶつと呟いた。 「僕はね」室さんは明快にいった。「作品と付きあうんじゃないんです。作家と付きあっていくタイプですから」  雨上りの朝みたいに爽やかで、さっぱりした表情をしている。私はちょっぴり哀しくなった。室さんと私は、所詮そういう宿命のめぐりあわせでしかないのか。  その反面ちらと、室さんという男は、細井や甲斐なんかより、ずっとやまっ気の多い人かもしれないと思った。他人に賭けるより、自分の眼と耳にだけ賭ける、本当の意味の勝負師だ。  チャラムの「ゆきずりの花」は、それでもそこそこにはヒットした。何とか賞金袋が貰える数字だ。ゲテ物あつかいでプロダクションも弱小プロしかつかず、会社も及び腰で宣伝したせいもある。 「一作目としては上出来です」室さんは力強くいいきった。「連打ですよ、連打。地味でも何でも自分の試合をやる、マイウェイ、これしかありません」  室さんの大好きな阪急は、五十年対広島、五十一年対巨人戦に連勝、日本シリーズ三連覇をめざして無敵の快進撃を続けていた。  阪急の浮沈が僕の精神バイオリズムみたいな気がするんですよ、室さんは私に打ち明けた。四十五年にはロッテに持っていかれたけれど四十六年には四回目の優勝をした。ちょうど僕が東京へ来てディレクターになった年ですよ。次の年もわりあいとすんなり勝ち残ったけど、四十八、九年とプレイオフが始まり、南海とロッテにしてやられた。この頃僕もちょっと周りの状況がわかってきたところで、やみくもにふりまわしていた槍の長さと重さで、たたらを踏みましたからね。そのあと五十年代になってからは自分でも信じられないくらい順調です。今年の前期も何とか乗り切りましたから、プレイオフで多少ロッテと縺《もつ》れても、いまの巨人などめじゃない。  阪急なんて、私は茶々をいれた。  大阪の新聞記者がどういってるか知ってる? 勝っても負けてもスポーツ紙が売れる阪神、負けると売れない近鉄、勝っても売れない阪急──。  いいんですよ、室さんは一人で頷いて納得している。スターなきV2、そこに痺れてるんですから。ただひたすらに勝つために勝ってる、その姿勢がいい。  ところで、と室さんは突然真面目な表情になった。中村先生、長嶋さんというひとは、本名はただの長島だけど、本人は島という当り前の字をいやがって、嶋とかきたがるというのは本当ですか。  その時分から私は、スポーツ紙のレポーターとしてコラムを持ち、運動記者クラブのバッジを貰っていた。ある程度消息通であるはずの私も、その件は初耳だ。  おまけに、と室さんは眼を輝かせた。長嶋の血液型はB型と発表されていますが、本当は何てことのないO型という噂もある。僕が長嶋に共感を覚えるとしたら、人間味を感じるその二点だけだなぁ。  さぁ、と私は首を傾《かし》げた。  阪神のことなら何でも訊いてほしいけど、巨人のことは知らないな、ところで室さんの血液型も私と同じABだったわよね。前にたしか直行先生の家で話したとき、何だか三人が三人ともABで吃驚《びつくり》しちゃったことあったっけ。道理で血が血を呼ぶのかな、なんて。  そうでしたよね、室さんはふんふんと二度ばかり首を縦にふった。  AB型ってほんとに少ないのにね、十人のうち一人か二人いるかいないかなんでしょう。分析魔で、夢想派で、見栄っぱりで多情で誠実、こんな種類の人間は大勢いない方が疲れなくていいわよ。  急激にブームになりつつある血液型に私は興味を持って、熱心に本など読んで面白がっていた。室さんも、ツキは信じるけれど、手相とか占いの類いは信じられない、但し、体内を駆けめぐっている血の色と温度はどうしたって人間の思考を左右するでしょうねと、賛同していた。  ね、ね、こういう分けかたはどう、私は自分で作った分類法を持ち出した。O型は保守実力の演歌、A型は計算だけのニューミュージック、B型が周りにあわせて流れてゆくアドリブジャズ、AB型が暴走と制御のロックンロール、飛べそうで飛べない。  なかなか冴えてますよその分析は、室さんは同調してくれた。投手でいうと近鉄の長距離ランナー鈴木啓示はOで、短距離のセーヴ王江夏豊がAですからね。B型にはホームランバッターが多いけど金田がいたかな。AB型はあんまりきかない。  いるのよそれが、私は胸を張った。球界にかくれもなき四死球王、ロッテ・オリオンズの村田兆治。  ははは、こりゃやっぱりロックですねぇ、室さんは愉しそうに声をあげた。室さんとうだうだ無駄話をしていられるのが、私には無上の幸せな時間に思える。  チャラムはO型ですから、必ずそのうちじりじりと演歌の星になってゆきますよ、室さんは話を戻した。細かいプロモーションができなくて両先生には申しわけなく思ってます。室さんは、レコードがそれなりの成績を残さないと、必ずきちんと頭を下げる人だった。  そんな、私はあわてて話を外らした。チャラムはいいけど、叶たけしはA型なのでどこやら油断ができないのよ、ついでに甲斐までAだときている。  室さんは私が外らした話の筋に乗ろうとせず、ようやく自分が納得のゆくレコードをつくれるようになりました、とぽつりといった。「ゆきずりの花」でやっとお棺のなかへ入れて持っていけるおサラができた、感謝してます。     三  どうしても会いたいと、チャラムから電話がかかってきたのは、室さんが千葉京子の件で私の家に話しにきた、一週間ほど後のことだ。  日比谷にあるインドカレーの店で、歌い手をやるかたわら、味つけの指導のアルバイトをしているのです、とチャラムはいった。「ぜひいっぺん食べにきてくれませんか、おいしいですよ、ちょっと辛いけど」  インドカレーの店「マハラジャ」は、日比谷の映画街の裏手にあった。強い香料の匂ううす暗い店内に入っていくと、チャラムが調理場のくぐり戸をぬけてとんできた。 「ようこそ、先生。どうぞ、どうぞこっち、このテーブル涼しいですから」  チャラムは長い指で、奥の席へ私を案内した。恐ろしげなお面や、木で造った女の踊り子の像などがあちこちに飾りつけてある。赤いターバンもこの店では何の違和感もない。チャラムは私に味の好みをきくと,安っぽい更紗を着ているウェイトレスに要領よくカレーをオーダーした。  ところどころ金色の錆びかけている器に盛られたカレーを、コップ二杯の水と共に汗だくで食べ終えながら、チャラムの話をきいた。 「先生、御存知でしょう。室田さんが会社を退めようとしてること。詳しい原因、あまり知りませんけど、女性関係のトラブルあったときいてます、ほんとですか。室田さんに退められたら、僕も歌手続けていけません。いま現在も地方のキャバレーの仕事なんかときどき行って、プロダクションとは歩合制ですけど生活すごく苦しい。衣装も自前ですから。ここでコックやって時間給貰ってやっとです」  チャラムの喋りかたは抑揚が強くて歩合制とか自前とか時間給などという単語が際立つ。 「でも室田さんがいてくれればいつか演歌の星になれると信じてがんばる。そういう気持が強いです。それに僕、インドに婚約者おいてきました。結婚式あげるほんのちょっとまえ、室田さんからの手紙きました。彼女待っていると約束してくれましたので、室田さんのところへ来たのです。日本が長くなれば呼んでこちらで暮したい。プロダクションと話して、会社の了解ももらいました」  チャラムはズボンのポケットから二つ折りの定期入れをとり出し、一枚のカラー写真を私にみせた。送ってきたのをカットしたらしくて、まだまだ新しい。濃いピンクのサリーを纏った娘がこちらを見返している。あまりに目鼻立ちの凹凸がくっきりしすぎていて、鳥の頭のクローズアップにみえる。鼻の脇に宝石をつけているのが、いかにも異国人という感じだ。 「きれいな女性《ひと》ね」  私は写真をチャラムに返した。 「美人でしょう、十七です。十四歳のときフィアンセになりました」  インド人というのは、早婚なのかなと私は思った。十七といえば、千葉京子より年下だ。 「彼女もこちらへきて共稼ぎです。大使館に知人がいますから通訳をします」  共稼ぎという個所を、歌うような調子でチャラムはいった。それなのにと顔を曇らせて、 「室田さんはディレクターを退めてしまう。それなら僕もインドに帰らなくてはならない。家の仕事しなさいとお祖母《ばあ》さんにいわれている。家の仕事は田舎で食料品の缶詰とか香料とかを売っている……何といいましたか、ほらあの」 「……乾物屋」 「そうです、その乾物屋みたいな。ときどきトラックで郊外まで売りにいく。でも父親も母親も運転できない。弟たちも学生で遠くにいます。日本で歌手になるならしかたがないけど、お祖母《ばあ》さんから手紙きます。演歌の星はまだか。この前レコード送りました」  チャラムの口調は熱中するとだんだん断片的に、個条書きになっていく。お祖母《ばあ》さんとくり返しいうところに真実味がある。ともあれチャラムは、ディレクター室田克也の居ない日本では、歌を歌い続けていく自信もなければ気持にもなれないと訴えているのだ。当然眼の前に差し迫っているフィアンセを呼びよせる計画も不可能だ。 「僕は室田さんから離れたら」  チャラムはひょろりとした腕をあげて、空中に弧を描いた。 「こんな風に流れ星に、演歌の流れ星になってしまう」  演歌の流れ星はうまいと、笑いかけた口許を私は引き締めた。チャラムの眼が濡れていたからだ。 「先生、先生から室田さんにいって下さい。会社退めないでほしい。ディレクター退めないで下さい。お願いします。僕はうまくいえないし、いえる立場でもありません。先生、絶対僕は困ります。もっと困る人も大勢いるでしょう、お願いします」  泪ぐんで私をかき口説いているチャラムと私の様子を、会計《レジ》のカウンターにいる青磁色のサリーを着た太ったマダムがみている。小鼻の脇に、さきほどの写真と同じアクセサリーをくっつけている。  私はチャラムをみないで、そちらの方に眼線をやりながら答えた。 「わかったわ、チャラム。何とか室田さんにいってみるけど、最終的には、室田さんの意志よ」 「先生がいって下されば大丈夫だと思います。室田さんは先生が大好きですから。多分いうことをきいてくれますよ」  室田さんと私の話しあいはとうに終っている。だがチャラムにそのことを教えてもしかたがない。第三者が何といおうと、室さんは自分の行く道は、自分でしか選ばない人だ。 「お会計は」  私はチャラムを促した。とんでもないという風にチャラムは手をふった。 「私がお呼びしたのですから」  私は太ったサリーのマダムの前に、二枚の千円札をおいて、とってくれるように会釈をした。マダムは何か訳のわからないことをいって、白いパールのマニキュアを塗った指先で、するりと札を引き出しのなかへ仕舞った。 「済みません」  チャラムは腰を二つに折って最敬礼をした。「ありがとうございました」  室さんから連絡がないまま、数日が過ぎた。私も気になりながら、叶たけしの秋のリサイタルの準備に追われている。会社へ電話をして、決定的な結果をきくのも恐ろしいし、といって千葉京子の件があるので、自宅へ電話をかけるのも、はばかられた。  室さんから、ふいに電話があったのはその週も終りの夕刻だった。 「室田です」  電話の声はいって、暫く押し黙った。 「ご心配かけましたけど、とうとう生きのびてしまいました」 「え、ほんとに、ほんと、よかった」  日暮れどきにもかかわらず、周りの景色が一瞬明るくなった。 「会社の終業ベルのきこえる時間に、先生にお電話しようと思って」  ほどなく電話のむこうから、ききなれたメロディのエレクトーンをバックに、本日もお勤め御苦労様でしたという間のびした女の声のテープがきこえてきた。 「お陰さまで、またこの放送に励まされて残業です」 「……よかった」  それしか言いようがない。とにかく顔みたいけど、日曜あたりはどうなってる。  日曜は眉子のお守です。九州から義母《はは》が出てきているので、買物にいって二人でおいしいものでも食べてくるわと、うちのやつに押しつけられまして。当分は大人しくマイホーム・パパを務めてますよ。  行ってもいいかしら、私は急きこんで尋ねた。  どうぞぜひ、一日中居ますから、時間は何時でもかまいません。  洋菓子の箱を持って、私は室さんの家を訪れた。室さんのアパートは、渋谷の、Uレコードの営業所が一階にある公団の二DKだ。がたんと一度揺れる癖のあるエレベーターに乗って、六階のボタンを押す。  長い廊下を歩いて突きあたりの「室田」と表札のある玄関の前に立ち、チャイムを押すとなかからすぐ扉があいて、室さんと眉子ちゃんの顔がのぞいた。 「どうぞ、どうぞ」  室さんはこの前みたときより、また痩せている。だが笑顔にはようやくふっきれた生気が甦っている気がした。  洋菓子の包みを眉子ちゃんに渡すと、お隣りのめいこちゃんのところへ持ってって一緒に食べてきてもいいと、眉子ちゃんがきく。ああ行っておいで、と室さんが答える。ナージャにもあげるよ、いいよナージャにもあげなさい。  ナージャってなあに、私は眉子ちゃんの髪を触った。  お隣りの猫なんですよ。どういうわけかこんな高いところへふらふらベランダ伝いに迷いこんできた野良猫らしいんです。公団で生き物は飼えませんのでね、お隣りの猫好きの奥さんがこっそり隠して飼っているんですが。 「行ってきまぁす」  眉子ちゃんはいきおいよくリボンのサンダルを突っかけて出ていった。眉子ちゃんはとても利発で敏感な子だ。大人同士の話があるのを察したのかもしれない。  入ったところが細長い板敷きの台所。左手六畳と四畳半の日本間がある。四畳半の方には眉子ちゃん用の木製のベッドがおかれ、六畳にはテレビと室さん用の年代もののステレオやレコード資料箱がつみ重なっている。窓に沿って低いソファベッドが押しつけられているので、まん中に卓袱台をおき、座布団を二枚むかいあわせに敷くともうそれだけでいっぱいだ。 「書きもの机が欲しいんですがね」  室さんはしみじみという。「前に何とか気にいった机を買ってきたら、たちまちあのていたらくです」  室さんの指さす方をみると、台所の片側に、調味料の瓶やインスタントコーヒーを乗せて食卓になり果てている。 「この部屋は便利は便利なんですけど、東京へきて五年ばかり住んだ横浜の三ツ沢の社宅の方がずっとよかった」  第三京浜の上り口にあるその社宅にも、私は何度か自分で車を運転して訪ねていった。およそ面倒臭がりで、他人の自宅など頼まれても行かない私が、室さんの家だけはまるで親しい身内の気分でつい行きたくなってしまう。入口が別になっている一階家と二階家の造りで、広さは同じぐらいだったが、猫の額ほどの前庭があって、外の緑がよくみえた。ここよりもたしかに明るかった気がする。この部屋は公団の規定サイズの二つの窓から、中途半ぱな高さの空しかみえない。 「東京の空はいつでも灰いろだから、よけいに不景気そうにみえるのよね」 「ここへきてヒットが止まるんじゃないかと」 「大丈夫よ、阪急強いじゃない」 「そうですね」  やっといつもの室さんらしくなった。  それにしても、と私は室さんの家へきて、質素な暮しぶりをみるにつけ思うのだ。室さんが売り出してやった歌い手は、三畳一間やプロダクションの寮生活からたちまち抜け出して、親兄弟もろともマンション住まいになり、事務所差しまわしの自家用車に乗ってTV局を往復する身分になる。そんなタレントを何人も世に送り出しながら、室さんはいまだに家に自分の机ひとつないという。そこに何の疑問も抱かないで、ごく自然に裏方に徹しきっている室さんは凄いが、私はとてもそうは割りきれない。  二流のロックグループで冴えないピラピラの衣装を着て、子供相手に片仮名まじりの歌を歌っていた叶たけし、あれよあれよという間に実力演歌の旗手となってスターダムにのしあがった背景には、本人の資質もさることながら、踏み台になったスタッフが何人もいる。真物のスターというのは、自分ひとりがベンツに乗ることではなく、そういうスタッフや仕事に関わった人間の何人をベンツに乗せるかにかかっていると私は思うのだ。その点エルヴィスは偉いやなどというと、叶たけしは細い狡そうな眼でにやにやとしながらそっぽをむく。  自分の分身か延長である血縁にしか心を許さない冷酷な嵐を吹きためているようで、叶たけしの厚ぼったい熱唱をききながら、私はときおりひやりと心を凍らせる。赤子と同じに全身を委ねられ、なりふりかまわずいれこんだ叶たけしとの蜜月は、互いに相手を見つめあう余裕ができて、徐々に冷めつつあった。  気にいらぬ部分が随所にみえてくる。  楽屋に母親や姉がダンボール箱を持って押しかけ、片っぱしから舞台で受けとった品物やファンからの贈り物、差し入れなどを詰めこんで持ち帰ってしまうこと。そのくせ心のこもった花束などは、塵芥さながらに廊下の隅に積み重ねていったりする。  ちょっとスナックに行くのにも、わざわざ運転手を先に偵察にやり、席をとらせておいてその後、マネージャー、事務所の者、付き人などをぞろりと従えて飲みにいく。ちょっと、何様にお成りなの、私は叶たけしに皮肉をいった。そんなことをしていると生活感がなくなるわよ、老けこんで若い歌が歌えなくなる。それに対する叶たけしの答えもまた明快だった。僕はこれがやりたくて、スターになったのです。そこまでいわれると、二の句が継げない。  決定打は、成城に家を建てるといい出したことだ。高名な華道の家元のま隣りで敷地が二百坪、建坪が百二十坪でこれも名前をきけば誰もが知ってる建築家の設計だとか。総工費数億──あんたのデビュー時代からのマネージャーは、いまでも吉祥寺で五万円の間借り生活、給料だって手取り二十万も貰っていない。あんたより早起きして重い衣装鞄と譜面ケースを片手にくたくたになるまで走り回っているボーヤは七万円、そのボーヤを深夜にお腹ぺこぺこのままで放り出して平気でいる。半泣きになって吉野家の牛丼に齧りついていたっていうじゃない。  そんな私の思惑を知ってか知らずか、叶たけしは、家を建てるための銀行の借金の保証人になってほしいなどと、しれしれといってくる。私は歌い手が豪邸を建てる手伝いをしているわけじゃない。  他人には一言もきかせられない、もろもろの裏話を、私は室さんに聞いてもらいたかった。どういうものか、室さんの顔をみると、こっちの甘えばかりが先行して、愚痴と不満が噴出してくる。  いけない、室さんもまだ負傷兵なのだ、私のためにインスタント・コーヒーをかきまわしている室さんを私はみた。クリープ多めでお砂糖はひとつでしたね、どうもこういうことは不得手で。 「千葉京子の件は、片づいた」 「一昨日でいちおう」 「金銭的に?」 「ええ、百八十二万という結論で」 「ずいぶん半ぱな額ね」  室さんも苦笑して、「どうしてそうなったのか詳しい点は追及しませんでしたが、多分交通費とか、弁護料の折半とかで、こうなったんじゃないですか。弁護士さん同士に話し合いを重ねてもらって、示談でやっとなんとか僕にもできそうな金額に漕ぎつけました。紹介していただいた先生にはほんとお世話になって、……いや、助かりました。あらためて報告とお礼には伺おうと思っていたんですが」  百八十二万、男の貞操代としては安いのか、高いのか、いずれにしろ妙に不当な金額に思える。女側にもいいぶんはあるだろう。しかしこうやって肩の荷を下ろしてもとの二DKに閉じこめられた室さんの、どこか空虚で寂しげな表情をみていると、男の貞操という言葉が、七夕の笹につける短冊みたいにちらちらと浮かんでくる。 「それで千葉京子は──」 「いちおういまの曲の動きを見定めたうえで、今後の身のふりかたを決めると本人も周りもいってます。売れればタレント続行、ぽしゃれば引退とこうなるんでしょうね」  いったあとふっと溜め息をついて、なんだか曖昧な幕切れで……僕がとりたかったというか、とらなければならなかった男としての責任が、宙に浮いてしまいました。  室さんは窓のむこうをみている。  四角く切りとった曇り空を横切ってゆく、一羽の鴉をみている。 「飛べそうで飛べないAB型らしくっていいじゃない。芸能界の話ってのは、いつもどこかで精神面のポイントが抜けて本末転倒で終るのよ」  私は室さんを慰めるともなくいった。それにあの鴉だって、こっちから見たら飛んでるようでも、鴉にしてみりゃ全然飛んでる意識なんかないと思うわ。やっぱり本人なりの枠で一所懸命コツコツとやってる。飛ぶ飛ばないは、周りの眼が決めていることでね。  そうですね、室さんは煙草をとり出して火をつけた。飛ぼうと努力した瞬間、既に負けているのかもしれません。知らぬ間に飛んでた、これが正解ですか。  あ、煙草吸ってる、私は室さんのマイルドセブンを指さした。せっかくやめてたのに。  ひとつくらいどこかで自分のしたいことをさせてやりませんとね。室さんは旨そうに煙りを吸いこんだ。当然京子の担当は外されましたが、かわりに細井ディレクターが持っていた古株のタレントを、三人も受け持たされましたよ。始末書だけじゃ済まなかったな。  三人ともとうに盛りは過ぎたが、名前だけは歌謡ショーの看板の上位に残っていようという連中だ。手間ひまがかかって口うるさいうえに、レコードの方はさっぱりという、ディレクターとしてはいちばんやり難い古狸のベテラン勢。忙しくなりそうですと、室さんは灰皿を引きよせた。おまけに女房のへそくりまで借り出す破目になって八方塞がり。  室さんはうすくわらった。  自分が撃ったピストルの衝撃で後ろへひっくりかえって、尻もちをついているようなざまでしてね。  それでいえば私も似たようなものよ。  私は叶たけしとのいきさつを話しはじめた。外国の漫画で、自分が少しずつ残飯をやって育てている恐龍の赤ん坊が、だんだん成長して自分の食べ物を奪うようになり、あげくの果て最後は自分が食べられてしまうというのがあったけど、あれとそっくりの心境。作詞家と歌い手、一心同体もいいけれど、相手の考えている心理が手にとるようにわかるというのも、辛いものだわね。  彼は何を考えているんですか、室さんが尋ねた。  結局自分さえよければいいという──まあいってみれば私いがいの作家とのコンビ、企画、とどのつまりは独立、安定ということかしら。それが言葉や態度の端々に窺い知れると、絶望的になる。いまのところ私にしかわからない微妙な感じだけど。  深いところで互いを理解しあったり愛しあうのは、一方で夢を失くすことですよ。ロマンを描けなくなる、双方人間ですから。  室さんの何気ないあいづちをきいて、はっとした。私は一方的に自分の感情ばかり唱えているが、叶たけしの方も私の存在が死ぬほどうとましくてうんざりしているのだ。自力では跳ね返せない重い繋がり、相手も私のしてほしいことを知りぬいていて、逆のことをぶつけて僅かな活路を見出している──。  ぱたぱたとサンダルの音をたてて、眉子ちゃんが帰ってきた。パパァ、ママはまだ。  ママはまだまだだよ、どうした、ケーキおいしかったかい。  うん、でもナージャは少ししか食べないのよ、ケーキきらいなのかな。 「室さんそろそろ」私は腰を浮かした。 「そこまで行きますよ、車の拾えるところまで。眉子おいで、先生を送っていこう」  眉子ちゃんの手をひいて、室さんは私を大通りまで送ってきてくれた。途中、小さな児童公園の前を通りかかった。パパ、ブランコ、眉子ちゃんが甘えた。帰りにしなさい、室さんが叱る。いやぁいま、眉子ちゃんが頭《かぶり》をふる。いいわよ寄りましょうね。私と室さんと眉子ちゃんの三人で公園の前の石段をのぼった。  室さんがブランコを押す。  もっと、もっと強くよ、強く、パパ。 「ねえ室さん」  私はブランコを押している室さんに、ふいに思いついて声をかけた。 「一段落したら、北海道へ旅行してみない」 「北海道、いいですねぇ」  室さんは一も二もなく乗った。 「直行先生と私と室さんの三人でさ、他に気のあったのがいれば誘って」 「北海道はぜひ行ってみたいところがあるんですよ。にしん御殿の跡とかね。うぐいす姉妹の故郷の銭函、忍路《おしよろ》海岸に高島岬だったかなあれは。それと北海道を中心に巡業している民謡の一座に素晴らしい娘がいましてね。津軽三味線をばりばり弾いて歌っているのを、たまたま浅草の大衆酒場で一回だけ見かけたんです。それいらい気になって、気になって。その娘が札幌周辺を回っているなら会いにとんでいきたいと思ってます」  室さんは喜色をとり戻して、口数が多くなった。 「私が飛行機の切符から、宿の手配からみなやるわよ。三人なんとかスケジュール調整をしてね、二泊三日でもいいから」 「それくらいなら土日を利用すればなんとかなります。なるべく早く行きたいですね」  パパ、もういい、眉子ちゃんがちょっと膨れ気味にいう。せっかくブランコに乗ったのにぃ。大人たちが自分をみてくれないので不機嫌なのだ。通りへ出てタクシーを拾った。  眉ちゃんバイバイ。  センセ、お疲れさまでした。  眉子ちゃんがおしゃまにいって手をあげる。こいつ、教えもしないことばっかり覚えて、室さんが可愛くてたまらないそぶりで、眉子ちゃんのおかっぱ頭を押さえる。  車の後方の窓ガラスのなかで、二人は仲のいい親子地蔵みたいに躯を寄せあっていた。     四  約束の北海道旅行は、なかなか実現しない。  私は叶たけしの秋のリサイタルを終えるなり、初荷のLP制作と春のシングル企画に追われている。身の退きどきを感じているので、最後の仕事はきれいにきちんと済ましておきたいという気もある。直行先生も、ステージの棒ふり(指揮)を頼まれて地方へ行ったり、そろそろ始まった暮の歌番組の撮り溜めで躯があかない。室さんも一種の現場復帰のイメージで、たて混んだ仕事を消化させられている。  阪急は後期でロッテに破れたが、プレイオフ、日本シリーズともに制覇して、V3を果たした。  目まぐるしく暮、正月が通り過ぎてゆき、ようやく念願の旅行に出かけることができたのは、年も明けた二月の始め、札幌雪まつりの開催中であった。  直行先生は張りきるだけ張りきって、もし雪の中ですっ転んだら、熊か何かと間違えて猟師に撃たれてしまいそうな灰いろの、変な毛足のコートを着ている。 「これ、なに、毛皮」ときくと、 「馬鹿いうな、毛皮にきまっとるだろうが」直行先生は咳ばらいをする。 「何の毛かな、犬」 「阿呆、犬の毛ってことがあるかよ。俺も何だか知らないが夏にハワイへ行ってバーゲンで買ったのだ」 「ハワイに毛皮屋があったっけ」 「あるさ、粋なもんだろ、よくわからないところがよ」  私も一応フードつきの、茶色の栗鼠を着て中がボアのブーツを履いている。ところが室さんときた日には、相変らずのトレードマークのくすんで縒れたコロンボレインコート一枚に、例の底の厚い普段の革靴なのだ。 「寒くないかな」私は気づかった。 「平気ですよ、下に毛糸のシャツを着用してきましたから。それにむこうへ着いたらすぐ、滑らないゴム長を買うつもりなんです」  考えてみれば、室さんがこのコートいがいの外套を着ているのを、みたことがない。 「こいつは、オーバーがないんだよ」  直行先生は平気でいう。 「オーバーなことがきらいなのよ」  私は室さんを庇った。だがこの年代もののレインコートくらい、室さんにぴったり似合うものもない。北極へいこうがパリへいこうが、室さんはこれでいい。これを着ていないことには、室さんは演歌の室さんでなくなる。  我々は飛行機に乗り込み、三人並んだ席ではしゃぎまわった。直行先生は、飛行機が飛び立つやいなや、携帯用の皮ケースの酒瓶をとり出して、スチュワーデスに水と氷を頼んでいる。  気にいりのタイプを呼びとめて、札幌はどこのホテルが宿舎、などと愛嬌をふりまいて、実に忙しい。 「早すぎるわよ、ノリが。まだ千葉上空なんだから」と私。 「最近の作品のノリはいまいちですが」室さんも遠慮がない。 「この期に及んで仕事の話をするな」直行先生は唇をへの字にする。 「何しろこちら、超一流ってことを、作品の量と質じゃなくて、酒量と態度という風に勘ちがいしてらっしゃる方ですから」私がさらに焚きつける。 「そうそう、作品で努力するより、態度の方がはるかに楽ですからねぇ」室さんが笑いをこらえて同調する。 「うるさい、てめぇたち。俺を誰だと思ってるんだ」 「えー誰だっけ、室さん知ってる?」 「さぁね、見たことはありますが──」 「よし覚えてろ、いったな」  気のおけない仲間同士の戯れあいで、何を言っても自然に口許が緩んできてしまう。  昼過ぎの便だが、千歳へ着いてタクシーでホテルへ着くころには、日暮の早い北国はもう夕闇の気配。道路が白い雪で浮き立ってくるのをみながら直行先生、武者ぶるいをして、 「おい室田、なんだか躯中がむずむずしてきたぞ。まずどこへ行くんだ。キャバレーかトルコか、カラオケバーか」  私が割って入って、 「それが早いっていうのよ、まず腹ごしらえにきまってるでしょう」  札幌へ行くと必ず行く、ガタピシのしもたや風の成吉思汗焼。電話もなければストーヴもない。濛々たる煙りのカウンターに椅子が十ばかり。坐れない客は外の吹きっさらしに足踏みしながら順番を待つしかないが、中に入った客もひゅうひゅう隙間風に背中を煽られている。音をたてて脂が焼ける香ばしさに小鼻をひくつかせながら、炭火に直接のせた貝の形をした燗徳利で熱燗をいっぱい。 「情緒ですねぇ」  室さん感に耐えた口ぶりでいう。  満腹で外に出ると、ちらちらと粉雪が衿の中に舞いこんで、いちばん重装備の私が、まずはすてんと凍りついたアイスバーンに叩きつけられる。まだゴム長を買わない室さんが、革靴でひょいひょいと上手に歩く。あの酒場、このスナックと、はしごをして、たどりついた店でラストオーダーですと追いたてられ、気がついたら十二時過ぎ。 「ちょっと僕は行くところがありまして」と室さん。「消えますから」 「おい、待て、こら。いつおまえ話つけたんだ、許せないぞ、おまえってやつはそういう奴なんだ」  直行先生に頭ごなしにやられても、動ずる風もなく、「じゃホテルで、明日の朝」  さも知った風に、うすいよれよれのコートの衿を立てて街角をひょいと曲って行く室さんの後ろ姿を、直行先生と私はただ唖然として見送った。  そのあと、追いたてを食った店のホステス達が案内してくれた深夜スナックに、かなり酔いはまわってはいるがまだまだ元気な直行先生を置いて、私は一足先にホテルへ帰ってきた。  私が帰ってきて一時間ほどして、隣りの室さんの部屋の扉があく音がした。直行先生はそれきりだ。  翌る朝、一階の食堂で三人が顔をあわせた。  直行先生は薄いサングラスのむこうで、まだ半分眠っているみたいだ。 「ここがどこかわかってるの、直行先生」 「うーむ、日本、か」 「だめだ、こりゃあ」  それぞれの夜の終着駅をきかないのは、大人の旅のエチケットではあろうけれど、室さんの行く先は気になった。 「今夜も、最後はこれ?」  胸の前で忍者結びをして、室さんをみた。 「ええ……多分」  眠っているようにみえた直行先生が、突然大声を張りあげる。 「これだ、こいつ。野郎、俺も連れてゆけ」 「直行先生が行くような場所じゃありません」 「汚ねぇぞ、自分ばっかりいい思いをしやがって」 「直行先生の御首尾はどうだったんです」 「それがな」直行先生はひと膝乗り出して、「ちょっといい線いきそうになった女がいたのよ。その女が知っている店に行きましょうというから、随いていったらその店が何とブランコが椅子がわりになっている店でさ。ぶらんぶらんとむかいあわせで揺れるわけだ。何かいいこといおうと思うと女があっちへ行く、女が色っぽい眼をすると俺がすーっと離れてしまうという工合で、全然タイミングがあわないの。おまけに氷下魚《コマイ》とかいう干魚を肴にしろって持たされてるものだから、そいつの皮をむいていて両手はふさがっているし……さんざんだよ」  氷下魚をむきながらブランコに乗って眼を白黒させている直行先生の姿を想像して、私と室さんはおおいに笑いこけた。笑いながら先日、公園で眉子ちゃんのブランコを押していた室さんを思い出している。室さんも同じ思いだったらしく、あれから半年ですね。早いな、と私の方を見ていった。  私たちはその日、日帰りで小樽にいくことにしていた。直行先生の知人の車が迎えにきてくれて、小樽まで雪の国道五号線を走った。途中遠方の小高い崖縁ににしん御殿のさびれた大きな屋敷跡がみえた。忍路《おしよろ》海岸ってのはこのあたりかな。高島岬ってのは小樽のちょっと先、室さんがいった。首を左右にふりながら、高島、忍路、高島、忍路とくりかえした。室さんがそういう子供っぽいことをするのはめずらしい。私も嬉しくなって真似をした。忍路、高島、忍路、高島……。  小樽港には、かもめが群れている。  倉庫と倉庫の間にみえる、重い灰色の海、やっぱり今日もちらちらと雪片が吹雪いている。  缶詰会社の重役寮になっている古い立派な屋敷で、毛蟹と、コーンスープを御馳走になり、檜の風呂に入れてもらった。 「帰りは汽車だぞ」  直行先生が宣言した。 「仮にも我々は歌謡界を代表する演歌ツアーだ。作曲作詞にディレクターがいて、演歌の一曲もこの旅で仕込まなくてどうする。それには函館本線の夜汽車に乗るべきだ。堅い木のシートにもたれてごとごとと揺られてよ、外は吹雪だ。ぼうっと胸を刺すような汽笛がきこえる──どうだたまらんだろうが」  室さんも私も双手をあげて賛成して、小樽駅から汽車に乗りこんだ。直行先生はちゃっかりとワンカップ大関を二つ買いこんで、窓枠に乗せている。  ごとり、と汽車が動き出す。  激しくなった吹雪を分けいるようにして、夜汽車はつき進んでいく。雪山の山あいにまたたく灯が、一つ一つと後ろへ流れて消えて──。  そのうちにぼうっという哀しげな汽笛が耳に入ってくるはずだったのだが、他に異様な音がきこえてきた。それはぼうっというより、がうっという凄い轟音だ。すぐ身近の、いやまむかいの直行先生の鼻のあたりから洩れてくる。何のことはない、直行先生はさきほどの毛蟹と一緒に飲んだビールがきいて、気持よく大鼾で眠りこけてしまっているのだ。  何が汽笛だ、何が演歌だ、直行先生、直行先生と、呼べど呼べどいっかな眼をあける気配もない。周りの乗客からは覗きこまれるし、乗務員もちらりと非難がましい眼で通り過ぎてゆく。  旅情纏綿たる汽笛をきくどころか、一車輛後尾にまで響きわたる直行先生の鼾に身の細る思いをしながら私と室さんは、堅い木のシートに揺られている。 「幸せ、ですよ」  ふいに室さんの口から、思いがけない言葉がぽろりと出た。 「幸せ?」 「ええ」  室さんはぐたりと股を開いて眠りこけている直行先生と私を見比べた。 「こんな愉しい旅はありません。自分の好きな作家と一緒に好きなところへ来て、うまいものを食って……恐らく僕の生涯でも、最高ランクのいい時刻《とき》を過しているんだなぁと、いま思ってます」  ふっと室さんの眼が潤んでみえたのは、車内のぼんやりとした灯りのせいだったかもしれない。  ほどなく汽車は札幌駅の構内へ滑りこんだ。  駅を出たところで、もはや時計は十一時を廻っている。とりあえず宿へ帰ろうかと相談がまとまり、ホテルの地下のバーのカウンターへ寄った。直行先生は、昨夜のブランコの女に連絡をとりたくて、電話とカウンターの間を行ったりきたりしている。休んでやがるんだあの女、友達が居場所をきいているというんでいま連絡をつけさせていると、ぶつぶつ呟いている。  そのうち室さんがスツールを滑り下りて、居なくなった。トイレかなと思ったのだが、なかなか帰ってこない。 「あいつ、またドロンしやがったな」  直行先生が勘を働かせる。どこへ行くんだろ、いったい。  直行先生のブランコの女とも無事連絡がとれたようで、彼女がホテルへ尋ねてくると勿体ぶっていう。とたんに上機嫌になった直行先生におやすみをいって、私は部屋へ上った。早寝早起き型で夜に弱い私は、これくらいの早仕舞いがちょうどいい。  次の朝の十時、午後いちばんの飛行機に乗るために、私たちはホテルのロビーの喫茶室に坐っていた。  何となく口数少なくなって、トマトジュース、牛乳、コーヒーを、各々の眼の前に置いている。知っていて何か忘れ物をしていくような、釈然としない気持だ。早い時間は晴れて青空がみえていた空が急にどんよりと垂れこめてきて、白いものがちらついてきはじめた。高いガラス張りの仕切りを見上げると、あとからあとから誰かが灰を笊で掬ってきて撒きちらしているみたいだ。上の方ではグレーなのに、なぜ眼の前へくると、まっ白に変るのだろうなどと、私はぼんやり考えている。 「この雪をみて」  ふいに直行先生が沈黙を破った。 「東京へなんか、帰れると思うか」  ぎくりと私は顔をあげた。私がいいたかったことをいわれたからだ。 「……帰れっこない」 「室田、おまえは」 「帰りたく……ありませんね」 「決まった」  直行先生がぽんと手を叩いた。 「もう一晩泊るぞ」  金曜日に出たから、今日は日曜だ。明日の午前中の用事をやりくりすれば何とかなる。 「やるか」 「やろ、やろ」  三人は悪事を相談する子供みたいな表情になった。よおし、切符のキャンセルだ、私はいきおいこんで立ちあがった。直行先生、ルームの延長おねがい。 「そのかわり室田」直行先生は室さんの方をむいた。「今夜はおまえの消える先へどうあっても随いていくぞ」  次の駅にむかって突っ走っていた汽車を乗っとって止めた興奮で、三人とも浮き浮きしている。本当の遊びとは、こういうことかもしれない。予期も予定もしないこと。  夜がきた。 「遅い方がいいんです、いや、遅くならないと始まらないもんで」室さんはいう。  日曜日はブランコの女の店も休みだ。苛々している直行先生を待ちに待たせて、室さんが連れていってくれたのは、薄野《すすきの》のはずれの裏手にある「屋台団地」と名づけられた奇妙な飲み屋街だった。  それは名前どおり、店というより屋台を囲って四角い箱にした集団だ。それぞれの店に女がいて、客も二、三人が入れば身動きもつかない。店の表のベニヤ板に「ピリカメノコ」とか「ハッピー」とか「おとよ」とか店名が書きなぐってある。看板のない店も何軒かある。まるでぎっしりと詰った蜂の巣だ。室さんは勝手知った風に狭い店と店の間を歩いて、「キクちゃん」という一軒の店の入口を覗いた。 「待ってたよ、えらく早いんじゃないかい」  丸出しの北海道弁の女の声がする。なかで女が二人笑いかけている。一人は喉に包帯をまいている。眉毛のうすい寂しげな顔だちと、金歯がちぐはぐな印象だ。  壁の正面にピンクいろの照明が一灯だけ点いていて、その下で割れた音のラジオが鳴っている。 「このラジオから演歌が流れてきますとね、時間の過《た》つのも忘れる。この前東京トリオがきこえてきて、背中が寒くなるほど嬉しかった」 「どうせ後ろに吹雪を背負いこんでるんだからさ」  まぜかえした私に、 「やっぱり歌の値うちはスタジオのスピーカーだけじゃわからない。聴く場所ですよ、場所」  室さんは真面目くさって答えた。  小さなまるいビニール張りの椅子に腰をかけた直行先生は、もの珍しそうに周りを見渡している。「ふうーん室田はここへ毎日通いつめていたのか」 「そう、毎晩だよ。今夜で三日めだけどさ」  包帯の横の女が、海苔でも貼りつけたかと思うほど濃いつけまつ毛を、得意気にまたたかせる。化粧はどぎついが、丸顔でまだはたちそこそこにみえる。誰かに似ているとよくみているうちに、色とりどりのアイシャドウの下に千葉京子の面影が沈んで重なっているのに気づいた。 「キクちゃんて、だれ?」と訊く。 「あたし」女がいう。「ほんとはお母さんの名前だけど、どっちでもいいの。あたしが菊枝で、お母さんが菊代」 「この人は」直行先生が包帯の女を指差すと、この人は隣りの「らんぷ」のママとキクちゃんが答えた。あんた行って飲んであげてよ。よし、俺は隣りで飲んでるぞ、直行先生は包帯の女と出ていった。 「あんた、今日東京へ帰るんじゃなかった」  キクちゃんは室さんのコップにサイダーを注いだ。あ、ビールにしてと私がいうと、この人は喘息で、酒はだめなんだよと、キクちゃんが怒った風に私を咎めた。室さんはこの店でいろんなことを話したんだなと、私は思った。私たちに言わないことまで全部。  会話の様子から、ここの女はほとんど娼婦だというのも察しがついた。  直行先生はどうするんだろう。まさかあの包帯の女と──迎えにいこうとしたところへ直行先生が戻ってきた。 「見学終り、帰るぞ」  室田おまえは残っていい、また明日な。直行先生は室さんの肩をぽんぽんとはたいた。  北海道旅行を終えてひと月、私は叶たけしのスタッフを降りた。  むこうも待ってましたといわんばかりで、格別に残念そうな様子もない。得意満面になった甲斐が、新しい作詞家に作品をオーダーするのが眼に浮かんできて小癪に障る。こういったスタンダードアーティストは、あくまでインモラルではないとリスナーのキャッチが……使わなくてもいい片仮名を駆使して、演歌の古さを見下しているふりをする光景がありありだ。そのくせ叶たけしの前では、お靴でも磨きましょうかという態度だ。  レコード会社、プロダクションの制作部と正式に話しあいを済ませた午後、私はやっぱり室さんの電話番号を回してしまっていた。  赤坂のしゃぶしゃぶ屋で、室さんは私より早くきて待っていてくれた。私も室さんもアルコールはあまりいけない口なので、待ち合わせをするといきおい食べ物屋が中心になる。  室さんの前には、新刊の本がいく冊か積みあがっている。「成りあがり」矢沢永吉、「ドジャースの戦法」、「部落問題概説」、「気管支喘息のすべて」等だ。ずいぶん買ったのねというと、本も高くなりましてね、あと「古賀政男芸術大観」と、「音楽の師梁田貞」を買いたかったのですが、四千八百円と三千円もするのでやめました。あ、「アリス全曲集」を買うのを忘れたな、あれは千円だったのにと残念そうにしている。本を買うときはどうも音楽部門があとまわしになっていけないや。  室さんは実際よく本を読む人だ。本にかぎらずGOROとか平凡パンチ、スポーツ誌などにもほとんど眼を通している。そういえば前にスポーツ新聞が値上りしたといって真剣になって怒っていた。日刊スポーツが何と十円も上ったんですよ。内容はいままでと同じなのにね、室さんが金のことで恐い顔をしたのをみたのは、後にも先にもあのときだけだ。  煮えたぎる鍋のなかに薄切りの肉を箸で挟んで泳がせながら、今日の顛末を話した。あの青瓢箪の制作部長が最後に、今後もお互いにがんばりましょうや、先生の方もご健闘を祈りますと、こうよ。御苦労さまでも、お世話になりましたでもないのよね、全く。  音楽業界に限らず、芸能界というところは何といってもタレントさんがいちばん偉いんですから、どう貢献しようとスタッフは付属物でしかない。またそれもいたしかたのないことで、裏方の一人や二人こけたってどうってことはないけど、タレントがいなければ幕はあがらない、室さんは淡々といった。  去るものは追わずという諺があるでしょう。そのひとつ先に、去るものには必ず次に行くべきところがあるというのを読んだ記憶があるんです。なぁるほどなぁと妙に関心してしまいましたよ、当り前のことなんですがねぇ。  さり気なく室さんは私に忠告してくれている。それも助言とか慰めではなくて、単に自分の考えをぽつりぽつりと申しのべているだけなので、私は救われる。  かなりむかっ腹も立て、動揺もしているが、こういうときに限って私は全然食欲が落ちない。肉の追加を頼まない、などと室さんにいう。いいですねぇ、そういう中村容子先生が好きですよ。室さんはいってくれる。食欲とトラブル、あれとこれとは別ですからね。人間最終的にいちばん辛いのは、寒さと空腹ですよ、それ以外のことなど寒いのと腹の減ったのに比べりゃ、なにほどのこともない。  その通りだと、私も思う。十五のときからネオン街の激流をくぐりぬけてこられた、私の原点も、その一点かもしれない。寒さと空腹がベースにあるからこそ、べたべたの情とぬくもりの演歌にのめりこめたのか。毛皮のコートで身を包みながら、私の手のひらは室さんの暖かみにあたって、ようやく人心地をつけている。面とむかってありがとうというと、人間ストーヴですか、ははは。ところでお替り遅いですね。  どこか行くところがあるのと尋ねると、ええこの近くのキャバレーで花村みきえがショーをやっているので、帰り道覗いてこようかと思って。新曲が間近ですから、お客さんの反応をちょっと。  随いていってもいい、私は室さんに頼んだ。どうぞ、かまいません、そのかわり立ち見ですよ。  ポリバケツや塵芥の袋の積み重なった裏口から入って守衛に了解をもらい、照明室の暗がりの下でショーをみた。一時期Uレコードの看板といわれた花村みきえは、青いアイシャドウの下で精気もなく、疲れ果ててみえる。  室さんは一言も発しない熱心さで歌に聴きいり、いやたいしたものだと呟くような感想をのべた。これだけの歌唱を生かせないのは僕の責任です。なまじ迷ってエイトビートにしたから悪かった。やっぱり次回は居直りの演歌ブルースでいきますよ。  帰りがけに楽屋の入口をちょっと覗いて、「済みません、急に」と来たのが悪かったみたいに声をかける。花村みきえの派手な挨拶を背中に、いや来てよかった、収穫がありましたよ、やっぱりプロ歌手はお客さんの前で歌ってなくちゃいけないんだなぁと、まだいっている。  地下鉄に乗って帰る室さんと、キャバレーの裏口で左右に別れた。  タクシーに手をあげていると、後ろから室さんが追いついてきた。 「渡すのを忘れましたけどこれがいつかいっていた北海道の旅まわりの民謡一座の女の子のデモテープです。実はあの一泊延長した昼間に定山渓にいるのがわかって尋ねていきましてね、僕の下手なギター伴奏で三曲ほどとってきました。両親にも会ってだいたい話をつけましたので、うまくいけば来年の初荷のデビューにさせたいと思います。きいといて下さい。作品の打ちあわせはまた追っていずれ……今年、来年あたりは何かとんでもないものが売れそうな予感がするんですよ、よろしく」  茶色い封筒に入った、カサコソと音のするテープを私は受けとった。さり気なくふるまい、ごく普通に生活しながら、室さんの頭のなかには演歌《うた》づくりのことしかない。ふつふつと滾りあげてくる情熱をうすい茶いろのレインコートにおし包んだ室さんの背は、赤坂の雑踏にたちまちまぎれこんで消えていってしまった。  色の浅黒い娘だった。  利口そうな黒い瞳が、ときおり強い光を放つのが印象的だ。タレントというより、巫女か乙女教祖的な要素を感じる。  北海道名産のにしん漬の折りを二つ並べて、赤いサンダルの脚をきちんと揃え、女の子はミキシングルームの椅子に坐っている。 「前から話していた、浜瀬百合です」  室さんが私に紹介した。女の子は、腰までとどく長い髪を両手で一度背中に流しなおしてから、深いお辞儀をした。まだ十七歳になったばかりだときいている。年齢にかかわらず落着いて度胸が坐ってみえるのは、彼女が一座の中心的な看板娘だったせいだろう。 「スタンバイできました。どうぞ」  ミキサーが合図をする。浜瀬百合が三味線を持ってダビングルームに入り、マイクの前に立つ。驚いたことに彼女は、立ったままギターでも弾くように、撥を持って三味線を奏でながら歌うのだ。しょっちゅう舞台で歌い馴れている寂びのきいた高音が、のびのびと二つのスピーカーを通して流れてくる。  売れる、という予感がした。  彼女はこのままで、もはやスターだ。 「間違いないんじゃない」私は室さんに小声でいった。 「そうでしょうかね」言葉ではそういうが、室さんも自信がありそうだ。 「ところでこの歌オリジナル? いいんじゃない、三味線のリズムにもあってるし、シンプルで覚えやすくって」 「それなんですが、この作品は本人に練習用にと渡しておいた既成曲《ありもの》なんです。本来は直行先生と組んでいただいて、おねがいしたかったのですが──」 「いいわよ、そんなこと」  内心ではかきたい欲求もあり、残念だったが、これほどタレントイメージにぴったりとはまりこんだ作品を作りなおす自信もない。叶たけしの件いらい、私はどこかで萎えていた。室さんはそんな私の内心を見透かしていたかもしれない。ディレクターとしての室さんの鋭い嗅覚だ。 「じゃ時間をおいて、売れた暁《あかつき》にはぜひよろしく。ただ耳と眼を離さないで、ブレーンとして見守っていて下さいよ」 「──わかった」  浜瀬百合は異色の民謡調演歌歌手として、室さんの予定どおり五十四年の初春に華々しくデビューを飾った。一曲、二曲と新人にしてはじっくりと腰の重い気長なインターバルで着実に数字を稼いでいる。  あの娘のおかげで一千万枚が夢じゃなくなったかな。控え目な室さんがふと惚気《のろけ》る。本日現在八百九十五万八百十四枚とやっぱり手帳もみないでいったのは次の年の秋だ。  浜瀬百合のことを話すときだけは、室さんは本当に幸せそうだ。煙草をやめてみようかと思うんですよ、また。念願達成の暁までね。ぼちぼち射程距離に入ってきましたから。  皮肉なことにその後、私は室さんいがいのコンビで、またもや大ヒットに恵まれていた。 「たまにゃ俺と組んで、楽に一曲遊んでみない」  久々に細井から声をかけられたのは、叶たけしとのコンビを解消した直後だった。 「だれ、歌い手は」  細井は高名な映画の男性俳優の名前をいった。 「曲、あるんだけど、きいてみる気ある?」  細井の仕事ぶりはねちねちと執《しつ》こくて、あげ足とりが過ぎる。作家を困らせたり、虐《いじ》める経過を楽しんでいるのではないかと思えるぐらいだ。私も以前の素直な自分ではない。叶たけしで大賞もとり、他でもいっぱしのヒットを重ねて、小生意気にもなっている。 「手直し無し、ならね」 「ああいいよ。好きにやって」 「それじゃ風呂場で、鼻うたでも歌いながらつけちゃうか」 「いいんだよ、その方が」  案に相違して、細井はあっさりとOKした。どうせ相手は会社の義理が半分の映画俳優だ。おサラさえつくれば文句はないだろうぐらいにいい加減に考えていたとみえる。ビールを飲みながら吹きこみをすると評判の大スターは、ミキサーをさんざん手古摺らせてやっとダビングを終えた。あっちこっちを繋ぎあわせて何とか形にしたマザーテープだが、さすがに俳優だけあって、歌詞にはずしりとくる説得力がある。発売して一年、反応もないままにそのレコードは廃盤になった。  翌る年の二月、プロ野球のキャンプめぐりで九州の日南へ行った私は、選手たちの屯《たむ》ろしている小っぽけなカラオケバーで、その歌にめぐりあった。日南にいるチームの四番が、突然その歌を歌ったのである。信じられないことに、その店に歌詞カードもカラオケもちゃんと揃えてあった。  ねぇ、それ私の詞よ、歌詞カードのところを見て。私は捨てた我が子に日南の果てでめぐり逢えた嬉しさで、立ち上がって叫んだ。  俺も歌えるぜ、その歌。隣りにいた捕手がいった。だって歌いやすいし、いい曲だもんな。  その歌はね、私は大スターが歌って廃盤になったいきさつを息せききって喋った。選手たちは面倒くさそうにきいて、なんだかよく経緯はわかんないけど、この歌詞は男が女にいいたくてもいえない台詞がいっぱい入ってる。しかしよくかくよねぇ、おかあさんもしゃあしゃあとさ。  それがきっかけでその夜はすっかり盛りあがり、私は選手たちの大きな背中に囲まれながら、いい気持で酔っぱらった。  キャンプめぐりから帰っていちばんにその話を室さんにした。室さんはだまって腕を組んできいていたが、帰ってもう一度ゆっくり試聴しなおしてみますよといった。  暫くたって室さんが、いいニュースがあります、と私ににこにこしながら教えてくれた。あの歌を、もう一度再版することに決定しました。会議でね、がんばったんですよ、どうも気になる動きをするって。とんでもない地方の有線で一位になっていたり、のど自慢大会で、けっこう素人にうまく歌われていたり。データを揃えて提出したんです。何とあの細井デレが反対したんですよ、売れるわけないと。自分で作った作品なのにね。室さんは憤懣やるかたない口調になった。でも結果はGOと出ましたから、よかったですよ。  じわじわと有線のチャートに登りついてきたそのレコードは、叶たけしとのコンビいらいの、私の最大のヒット曲になった。  やっぱり室さんに守られている、私はつくづく感じた。結局はその歌のヒットも、室さんが作ってくれたのと同じことだ。  ところで先生、近鉄の鈴木啓示投手は最高ですね、その日の帰りぎわに室さんがさり気なくいった。昨年の暮にプロ野球選手選抜歌合戦で歌った歌を昨夜もテープできいてみましたが、僕がスポーツ選手で食指が動くのはあのひとだけです。いっぱつドスがきいてハスキーなくせに高音ときている。男の人生のど根性をどすんと伝えてくれる演歌歌手はもはや一人もいなくなりましたからね。あの人自作の座右の銘の「草魂」をテーマに、何とか一曲吹きこませてもらえないかな。お知りあいなら紹介してもらえませんか。  鈴木投手の熱心なファンであった私は、いきおいこんで室さんの話に同調した。チームはいま名古屋にいると思うの。当分東京に来る予定はないらしいけど、都合をつけて日帰りでも行ってみる? こういう話は互いに顔を見合わせて喋らないとスムーズにいかないんじゃない。行きましょう、ぜひ、室さんは言下に答えた。鈴木に会いたい下心もあった私は、調子にのって膝を叩いた。ほんと、ほんとに、じゃすぐ新聞社から球団の広報に連絡をとってもらうわ。  数日後、室さんと私は肩を並べて車中の人になった。  宿舎のホテルのロビーで室さんは、少年ファンが憧れの大スター選手に会う前さながら、そわそわと落着かない。  ぬっと大入道みたいな丸刈りが、バスタオルを首にかけて現われた。 「なんやねん、こんな遠いところまで」  鈴木投手は私たちを見比べるというより、睨めつけるという感じでいう。 「大きいなぁ、大きいんですね、実物は、……」  室さんは名刺を渡すのも忘れて見惚れている。 「どういうこっちゃ、それをわざわざいいにきてくれはったんか」  にこりと崩れた黒い顔に白い歯が、まるでがき大将だ。 「いや、そうじゃありませんが……実は」  室さんは訥々と説明する。途中何度か私も口を添えて、レコードを吹きこませてもらえないかと懇願した。鈴木投手の名前はいらない、欲しいのはその声のフィーリングだから、いやなら名前なんか出さなくってもいいんです──。  二人の話をきき終ると、鈴木投手はふんといった調子で言い放った。 「せっかく雁首揃えて遠いところをきてもろうたのに悪いけどな」ずけりと一言「わしゃ野球いがいのことで商売しとうないねん」  そのいいかたがあまりにも爽快なので、室さんは、がくりと肩を落とした。 「……そうですか。やっぱり……」 「やっぱり?」  鈴木投手が室さんをみる。 「やっぱり断わられると思ってました。鈴木さんの考えは記事で読んで知ってましたから」 「ほな、そういうこっちゃ。済まんな、ところで野球みていくんか、ナイターやで、帰れんようになるぞ。いらん? じゃわしは支度があるさかい、またな」  鈴木投手はさっさと立ちあがった。行きかけてくるりとふりむき、 「気いつけて帰りや、御苦労はん」  いいなぁ、いい男ですねぇ、室さんは感嘆して首をふった。素晴らしい選手ですね、思ったとおりだ。あんな風に人生をスカッと生きられたら、最高だろうなぁ、室さんはつくづく羨やましげな口ぶりになって、鈴木投手の去ってしまった廊下の方をまだ眼で追っかけている。しかし先生、断わられてよかったと思うこともあるんですね。仕事を蹴っとばされて嬉しかったと思ったのは、始めてだ。  帰りの新幹線のなかで、私と室さんは浜松のうなぎ弁当を買って食べた。これを鈴木さんはいっぺんに二つも買って食べるそうよ、私は室さんに彼のエピソードをいくつか話してきかせた。 「でも、残念だな」  箸を折って折のなかに入れ、もとどおりに紙に包んで座席の下に入れながら、室さんが吐き出すようにぽつりといった。  もしかしたら、と私はふと気づいた。室さんは私のために、この旅につきあってくれたのではないか。鈴木投手に断わられることは、最初から読めていた。しかし私の、作詞家としての意識と高揚を呼びさまさせるためにだけ、一緒に行きましょうと誘ってくれたのだ。  何時に着くのかな、と腕時計の針を確めている室さんの横顔を、私は申しわけない思いでちらりと盗みみた。     五  ひと刷け夕闇が忍びよって、外のバス停の灯りが、ぽかりと黄色に浮かびあがった時刻だった。  取材、打ちあわせと三十分刻みの仕事を終えて一段落した私は、自分の経営している飯倉の喫茶店のいつもの気にいりの席に坐って、ぼんやりと窓側の風景を愉しんでいた。  マネージャーの大杉君が側へきた。緊張した顔をしている。 「あの、Uレコードの室田さんが、亡くなりました」  え、いま何ていった。私はききかえそうとした。何ていったのいま。だが私はききかえすことができない。たしかに大杉君は、「Uレコードの室田さんが、亡くなりました」といったはずだ。  そんな──私は凝然として、大杉君の顔を見返した。大杉君も何もいわない。その表情が何よりも、いまの言葉が嘘や冗談ではないのを物語っている。 「いつ──」  私はぼんやりとした声を出した。 「さきほど知らせがあったんですが、取材中だったのでどうかと思って。亡くなったのはお昼過ぎだそうです」  声がよくきこえない。私は突然立ちあがった。 「行く」 「行くって、どこへ」 「室さんのいるところへ」  とにかくこうしてはいられないと思った。こんなところになんかいられない。室さんの身に一大事が起きている。何が何でもいますぐ駆けつけなくては。  室さんが死んだという実感はない。室さんが私を呼んでいるように思う。先生、早くきて下さい、早く。 「少し待って下さい」  大杉君はさすがに沈着で、室さんの遺体がいま現在どこにあるかを電話で確めている。その様子をみながら、嘘なんだと自分にいいきかせている。まるっきりドラマじゃないか。あの室さんが、あの元気だった室さんが、死んでしまうなんて、そんな現実はありっこない。 「まだ病院です。でもお通夜のために自宅に移す作業をしているみたいです。自宅の方にいかれますか」 「いや」  私はきっぱりと首をふる。いま室さんが居る場所へ行きたい。たったいま室さんが横たわっている、そこへ行きたい。室さんは私を待ってるんだから。  ハンドバッグを引っつかんで飛び出した。大杉君があわてて後を追う。道路に出てがむしゃらに車に手をあげる。急ブレーキの音がして、タクシーが止まる。 「荻窪」大杉君が運転手にむかっていっている。 「荻窪」と私もくりかえす。そこはなに? 「病院です」 「病院……運転手さんおねがい、いそいで」 「さあねぇ」  初老の運転手は、人のよさそうな笑顔をふりむける。「いまラッシュだからねぇ、どの道いっても混んじゃってますよ」 「いそいで」それしか私には言葉がない。  遠くの信号が赤になり、延々と車の列が繋がっている。ふいに泪がこぼれてくる。あとから、あとから、噴水みたいに泪粒が溢れでる。おかしなことに、自分のなかから出てゆくはずの泪が、まるで外から、生暖かい滴を叩きつけられているみたいに思える。この感じは、そうだいつか北海道のホテルのロビーで仕切りのガラスを見上げていたとき、あとからあとから雪片が湧いて出てきた感じに似ている。遠くで灰いろ、近くで純白──馬鹿な、私は泪を人差指でふり払う。想い出に浸るには早すぎる。室さんがまだどうなっているのかも確めてないのに。  車は広い通りに出ると、遅々として進まない。さし迫った気配を察して、運転手が曲りくねった狭い裏道に入りこんで走ってくれている。ともあれ車が動いていると安心だ。少しでも停車すると、飛び下りて裸足で駆け出したくなる。 「まだ」と私。 「あと少しですよ、十五分か二十分」  狭い路地で子供が遊んでいる。猫が飛び出す。主婦らしい女が買物籠を片手に、車のなかを憎らしそうにふりかえる。  ようやく病院についた。  病院と呼べないほど小さくて目立たない。白ペンキ塗りの個人病院だ。  表にワゴン車が一台、駐《とま》っている。  後部の扉を閉めて、車が出ていこうとしているところだった。 「待って」  一度閉めた扉をあけてもらって、ものもいわずに乗りこむ。  白いシーツにくるまって、浴衣をきた室さんが、まん中に寝ていた。  間にあった、室さんはやっぱり私を待っていてくれた。いきなり足首を触る。暖かい。室さん、室さんとゆする。どうしたのよ、いったい。  ふっと眼をあげると、奥さんの英子さんと顔があった。お義母さんと、室さんと仲のよかった宣伝マンの谷村が乗っている。頭を下げて、また室さんの顔をみる。  青黒い表情で、苦しんだ跡が残っている。 「どうして、どうして……」とぼそぼそ呟く。 「ずうっと闘病生活でしたから。みなさんには全然お知らせしなかったけど、発作がおきて入院退院をくりかえしていたんです。最近はとくにひどくて、見ていられませんでした、可哀そうで」  奥さんの英子さんが、さんざん泣いたあとの、乾いた鼻声でいう。 「喘息の発作って、苦しいんですか」  私は間の抜けた質問をした。 「ええ、たとえばこうして息をとめて」英子さんは自分も息をとめてみせる。「そのままずうっと息ができない状態になってしまうんです。ひどいときは下着まで脱いで皮膚呼吸にたよってね……」  私も真似をして息をとめてみる。一分もしないうちに苦しくなる、苦しい……顔が赤らんで血管が膨れあがってくる。こんな苦しみを、室さんは誰にもいわずに、長年耐えていたのか。 「我慢のいい人でしたから──」英子さんが言葉をついだ。「ようやく楽になったでしょう、パパ」  灯の入った商店街を、右に左にと折れて、車は室さんのアパートの入口に着いた。  待ちかまえていた同僚のディレクターや会社の人間の手で、室さんの遺体はあっという間に楽々と運ばれて、六階の一間に横たえられる。廊下には気の早い枕花がもはやいくつか届けられていて、神妙な顔つきの葬儀屋が手ぎわよく焼香台を配置して、供え物を並べはじめる。  私はてきぱき働いている人間のまんなかで、台風の眼みたいにとり残されて考えていた。お通夜というのは、結局人間の哀しみや衝撃を通りぬけた祭りになってしまうのだな。  眉子ちゃんはどうしたのだろう。私は気づいて眉子ちゃんの姿を探した。眉子ちゃんはソファベッドの片隅にちょこんと坐って、大人たちの浮わついた騒ぎをみている。父親が死んだ場面で、どういう顔をしていればいいのか、すっかり自分の役柄をわきまえた表情だ。私は安心した。眉子ちゃん、もしよかったらナージャのところへ行ってきてもいいのよ、私は声をかけた。眉子ちゃんは私のところへ躯をすりよせてきた。白い布を被せられた父親をみると、私の片腕に額を押しあてて、ほんの少ししくしくと泣いた。そのあとナージャのところへ行ってくるから、ママにいっといてねといった。わかったわ、お腹空いてないの。空いてない。ジュース飲んだから。  私はどうしても室さんの遺体の傍を離れられない。  歌い手でいちばん最初にすっとんできたのはチャラムだった。赤いターバンが黒にかわっている。長い背を二つに折りまげて礼拝をする。「やっぱり室田さんは、僕を置いていきました」私の耳にだけ、掠れた声でこっそりといった。  浜瀬百合が暫く後に現われた。ハンドバッグから水晶の数珠をとり出してゆっくりと手をあわせる。こんなときも浜瀬百合には、えもいえぬ雰囲気がある。黙祷を終えると私の横へきて、せっかく三桁のバックオーダーがきはじめたところだったのに、とハンカチを眼にあてた。お客さんの反応もすごくいいんですよ、今度の新曲。  浜瀬百合のいまの新曲は、私の作詞だ。  頼まれたのは昨年の暮も押しつまったクリスマスの前ごろだった。  やっと中村容子先生にかいていただける状況になりました。室さんは晴れ晴れとした声でいった。お待たせしましたけど、三年めの正直です。これで多分できますよ、一千万。一千万枚めのおサラの表には中村容子、一谷直行が並んでないとね。気が済まない。初春のレコーディングですが、今年中にいただけますか、何しろ来年厄年だもんで。  厄年はいいっていうけどね、私は言い返した。  でもこのレコードだけは、一つの悔いも残したくないんですよ、ツキに関してもね。  室さんが私のところへ詞をとりにきたのは、大晦日の夜だ。そろそろ紅白が始まろうという時間である。よかったわね、浜瀬百合が紅白に出られて、私は年越し蕎麦の笊を室さんの前においた。そうなんですよ、出番も頭の方ですから、御一緒にみせてもらおうと思いまして。  室さんはいつもの茶の間にちょっと猫背で坐っている。  妹夫婦が持ってきてくれた羽子板が、まだ壁にとりつけられずに床の間にあるのをみて、ほう、今年は|猩 々《しようじよう》ですか。  あれから何本増えたのかな、室さんは千葉京子の件で相談にきた日を、思い出す眼になった。  あれからそう……これで五本めかな。私は猩々、潮汲、仁木弾正と逆に数えあげながら指を折った。えーとこれは何だっけな。浅妻舟だったかな。  ひとつも演《だ》し物がダブらないんですか。ええ、妹が日舞をやってたから詳しいのよ。でももうこのあたりにくると、私もそろそろ怪しくなる。  いや昔の人の企画力というのも、たいしたものですねぇ、色ものあり活劇あり、SFありですから、室さんはそんなことをいいながら、五年の歳月を心の中で遡っている。  思えば千葉京子の話も、サイクルの早いこの業界では、もはや噂にも残っていない。いろいろありましたよいいことも悪いことも。室さんも恬淡としている。浜松のおふくろが癌で逝っちゃったり、細井デレが課長に昇格したり、ね。でもいやなことばっかりでもありません、今年あたりは温泉めぐりとポルノ映画が好きになりまして、小遣いを貯めては鄙びた田舎にちょいちょい逃げこんでました。ポルノの方も病膏肓《やまいこうこう》で、ポルノ女優のレコーディングをしたりね。田島ユリのときは参りました、いきなりこれじゃ調子が出ないってんで靴は脱ぐわ、洋服はむしりとるわ、しまいにスッポンポンの裸でダビングですから。ふだんスタジオなんか覗かない部長までが見物にやってきましてね、いや、彼女たちの体あたり人生には脱帽です、敬服しました。  私は室さんがまる裸のタレント相手に奮闘している様子を思い浮かべてくすくすと笑った。室さんもしっかりマイペースで歩いているんだな、という気がしていたのだが。  室さんは浜瀬百合の出演場面をみたあと、私の詞を読んだ。これなら大丈夫です。これから直行先生のところへ持っていって、お願いにあがってきます。もう少し居て花村みきえまでみていかないと引きとめる私を、花村みきえはキャバレーでみた方が正解ですから、それより除夜の鐘が鳴るまでに、この詞を直行先生のお宅に届けてきます。  いやぁ、いい年末です、御馳走さまでした。  人通りの全くなくなった外へ、室さんは例のコロンボコートの衿を立てて出ていった。──結局その作詞が、私と室さんとの最後のコンビの仕事になってしまった。スタジオで室さんは片手を広げた。五万枚か、直行先生がいう。冗談でしょう、一桁違いますよ、五十万。馬鹿いうな、直行先生は笑いとばした、演歌苦戦の時代に室田、おまえも吹かすようになったねぇ、こういういいかたを知ってるか、演歌殺すに刃物はいらぬ、ふるいと一言いえばいい。  直行先生、それは違います。演歌生かすに薬はいらぬ、惚れたと一言いえばいい。直行先生をやりこめた室さんのわらい顔が、つい昨日のことのようだ。  そのレコードが、せっかくいい感触で作品が浮上しはじめたときに、その結果も待たないで……。  室さんの胸ぐらをひっつかんでたたき起こして、キャンペーンに連れていってやりたい。室さん、室さん、そんなところに呑気に寝ている場合じゃないでしょうに。  白布で顔を被われている室さんをみて、思い出したことがある。チャラムのデビュー盤だ。これでやっとお棺の中へいれるおサラができた、と室さんはいった──。 「ゆきずりの花」はありませんか英子さん。私は後ろをふりむいた。英子さんはいなくて、かわりに、え、何かいったと返事をしたのは細井だ。黒いネクタイをして、課長らしい態度でしかつめらしく私の後ろに正坐している。  いや「ゆきずりの花」がほしいと思ったのよ。どうして? どうしても……。  続々と通夜の客が押しかける。生前の室さんの人徳が人間を引きよせるように、他社のディレクター、顔も知らない無名の作詞作曲家。夜の街の弾き語り風や、全く音楽畑には関係のなさそうな黒い靴下の女もいる。  そういえば直行先生はどうしたのだ。私は直行先生の姿がみえないのに気がついた。何をしてるのだろう、とうに会社の人間が知らせたに決まっているのに。  目立たないように電話の側にゆき、直行先生の番号を回す。 「なんだよ」  電話に出たのは直行先生本人だ。 「なんだよはないでしょう、早くきてよ」 「そんなところへ行けるわけないだろう。室田の馬鹿野郎……俺に何もいわないで先に死にやがって」  直行先生は、室さんが何かとんでもないミスをしでかしたみたいに喚いた。 「あの馬鹿野郎……ひとことくらい俺に、俺に……」  直行先生はぐでんぐでんに酔っぱらって呂律も回らなくなっている。  私は受話器をおいた。  友引を避けた二日後の葬儀の日は、爽やかな晴天だ。  代々木の火葬場で、葬礼は行なわれた。  私は最初に弔辞を読ませてもらった。室さんの弔辞だけは、誰をさしおいても読みたかった。祭壇の前に立ち、用意してきた封筒から中味をとり出す。 「室田さん、私は大事な大事な人を失ってしまいました。私というより、私達というべきかもしれません──」  声が掠れてひっかかる。自分のトーンじゃないみたいだ。眼と口は文字を追いかけながら、私は全然別のことを考えている。私と室さんとでぴたりといつも意見が一致していたのは、自分中心のパーティは絶対やりたくないという一点だった。作詞生活何年とか、ヒット賞記念パーティとか、ああいう宴会だけは一生やりたくないね、私は室さんにいつもいっていた。そうですね、僕もいやだなぁ。でも葬式だけはしかたがないんじゃない、私は肩をすくめた、あれは自分が死んでから勝手に人が寄ってくるものだから、結局生涯に一回きりということかな。  僕は結婚式をやっているから、もはや一回は先生に負けてますね。室さんは変に済まなさそうな口ぶりで私に答えた。  やっぱりいつもと同じ、底のぶ厚いドタ靴を履いていたあの日。そうだ、室さんをいちばんよく知っていたのは、結局あの靴だったかもしれない。しかし室さんはお棺のなかで今日は裸足に草履を履かされている。あの靴はいったいどこへ行ったのだろう。 「……くりかえしますが、あなたは私の生涯の、たった一人のディレクターです。数々のヒット曲が室田克也の足跡というなら、ここにいる作詞家中村容子もまさにあなたの作品の一つです。大好きだったお祭りの、笛や太鼓の音に送られて行ってしまった室さん……私たちもあとから行って……直行先生と……いいレコードつくりましょう……室さん……どうか、待ってて下さい……」  せっかく昨夜一所懸命に清書してきた文字がぼやけて、後半は自分でも何をいっているのかわからない。早く読み終えて、思いきり泣かせてもらいたかった。すぐ後ろに立っていた直行先生に、私は倒れこむようにもたれかかって、直行先生のナフタリンの匂いのする黒い服に、遠慮のない泪の染みをこすりつけた。直行先生は、またもやぷんと、酒の匂いがする。 「また……飲んでる。こんなときに」  しゃくりあげながら文句をいう私に、直行先生は鼻白んだ声で、 「こんなときだから、飲んでるんだ」  と怒ったみたいに答えた。  棺の蓋が開かれて親族から順に各々がちぎった花を室さんの周りに入れはじめる。室さんの顔は病院から家に運ばれたときの青ざめた縦皺が消えて、平和で眠りこけているみたいな表情になっている。私はなるべく大きな白菊をとって、室さんの喉の上においた。思いきり苦しんだ喉、私たちが何もしてあげられなかった喉。  後ろから肩をつつかれた。ふりむくと細井がレコードを一枚持って立っている。「ゆきずりの花」だ。  ありがとう、私は室さんの足許深くうすいシングル盤を埋めこんだ。  すぐむこうの建物の火葬場へお棺が運ばれてゆき、室さんのお父さんの謝辞がはじまった。色が白くて白髪で、みるからに頑固者のお父さんは、少年みたいに照れて訥々と挨拶をのべた。直立不動で立って、親不孝者めがと躯中で不満をあらわしているお父さんの姿は、どこやら室さんの一徹さを彷彿させる。  がたんがたんと重苦しい金属音をたてて炉に入った室さんの遺体は、あっという間にいく片かの骨になった。  箸でつまんで白い小箱に入れた室さんを、奥さんの英子さんが両手に大事にかかえて、車に乗った。  初七日の朝、誰もこないうちにと私は室さんのアパートへ一番乗りをした。  室さんの大好きだった餡パンをもっていく。写真立てのなかで、何となく困った顔をして微笑んでいる室さんに、袋の中からパンをとりだして二つ供える。あとは仏前で眉子ちゃんと食べるつもりだ。 「これをみて下さい」  室さんの奥さんが、すり切れた表紙の大学ノートを積みあげて私にいう。 「何ですか」 「あのひとの日記なんです」 「………」  室さんが、気になる記事やグラビア、数字などを大学ノートに貼りつけ、克明な日記にしているのを、私ははじめて知った。大学ノートは、日記、制作資料集、担当歌手、新人、風俗、プロ野球などに分かれていて、年代別に数冊ずつある。 「何冊ぐらいあるんですか」 「五十冊……くらいかしら」  日記の最初は昭和四十六年になっている。 「ディレクターになった年、からですね」 「そうするとまる十一年ちょっと──」 「そういうことになりますね」  私はふいにいつか室さんが落としていった二枚の切りぬきを思い出した。室さんはあれをノートに貼ろうと思って、ポケットに入れていたのだ。好きなタレントの対談の台詞、観戦にいった野球のチケット、乗り物の切符、うまかった食べ物やの領収証、内服薬の紙袋の表、室さんの内心の感性そのままに貼りつけられた切りぬきと、乱暴にびっしりと書き連ねられた文字を、克明に見るのが悪い気がしてぱらぱらとめくった。  カセット 200¥  日刊スポーツ 50¥  ノートブック 270¥  マジック 70¥  チョコレート 73¥  ケーキ 800¥  歯ブラシ 104¥  などという数字がある。  母の作った歌詞などという項目もある。  スカイブルーは素敵じゃないか  ブラック党など  この世はすべてスカイブルー  スカイブルー 明日も今日も  君も僕もスカイブルー  スカイブルーは素敵じゃないか  君の顔もスカイブルー  僕の心もスカイブルー  お手々つないでスカイブルー  スカイブルーは素敵じゃないか  今日も明日もスカイブルー  そのあとにあとから貼りつけたらしく違う紙で(お母さんは、まだ死なない、54・10・18)というのがある。  女房の借金、あと16万。やっとここまで漕ぎつけたぞ、それにしても166万よく返したもんだ。我ながら誉めてやりたいよ、などという個所もある。  ノートの間からはらりと中味が落ちたのを手にとってみると、ホッチキスでとめた便箋だ。読んでもいいですよといわれたみたいな気がして、懐しい室さんの横がきの文字をついたどってしまう。  八月三日  掛川にて  久しぶり親父孝行。実家にて一服。  夜遅くトイレに入るのも気を使う。  ほんとうに田舎の夜は静かだ。  水戸黄門の「これが眼に入らぬか」の例のポーズをしながら楽しげに笑う、親父の姿が嬉しかった。  この三畳一間もいいもんだ。山奥の温泉にゆくよりずっといい。片道4700円+270円、往復1万円でくつろげることは最高。  高校まではここに住んでいたのだから。  16歳まで 掛川  17〜18 横須賀  19〜20 浪人中  21〜24 東京(中央大学)  25〜31 九州博多(入社)  32〜42 東京(スタジオ勤務)  上京11年目 �旅に出て 夢は枯野をかけ巡る�  これは魂がさ迷っている状態なのではないだろうか。やり残したことの多い状態なのではないか。  名をとるために芸能界に入ったのだ。レコード会社制作という名をとったのだが、結果はどうだろうか。俺の名は少しはあがっただろうか。  しかし田舎で考えてみると、渋谷も住みやすいいい街だなぁ。  とくに東急インの前のバス停はいい。  東急インの地下でスポーツ新聞を買い、一階の売店で週刊誌を買い、早大正門行きのバス停でスポーツ新聞を広げつつバスを待つ気持は悪くない。  たしか東急インができる以前は、いつもタクシーで通っていた気がする。  ただ帰りのバス停がいまだになじめない。  今年後半は有線放送を少し聞く機会を増やさないといけない。  家に有線を引けば万全だ。  夏休みが終ったら検討してみよう。  セロテープで何回も補充した跡のあるちぎれそうな表紙は角がすり切れていて、そっと押さえると、室さんの体温がそのまま伝わってくる気がする。 「みんな読まれたんですか」 「ええ、大体は」  一冊、一冊表紙と裏をひっくりかえしてみながら、ふと英子さんに、 「あの千葉京子の件のときは、どうだったんですか」と尋ねてしまっていた。悪いことをいった気がしたが、訊いてみずにはいられなかった。 「あのとき、本当に何もわからなかったんですよね。子供だったというか、私は主人に何もかも頼ってあずけてしまったから、理解してあげようともしなかった。ただ主人がある朝、会社に行く前に千葉京子と深い関係になってしまったと一言だけいったんです。ある程度変だなと思ってましたけど主人に面とむかっていわれるとむしょうに腹が立って、じゃ私は出てゆくからって、そのままアパートを出ていったんです。出ていってもいくところがありませんので、デパートへ行って、主人の下着をいっぱい買って、そのまままた家に帰ってそれを部屋中に並べてわんわん泣いていたんです。そしたら主人が会社から帰ってきてそれをみて……わかったからとひと言だけいって、それきりです。でもこの日記を読んであとから考えると女とか何とかいうんじゃなくて、主人はあの頃何か自分を変えたいとか、飛びたいとか、そういう風に悩んでいたみたい。でもあのひとは本当に情の深い人だから……」 「AB型ですからね、暴走と制御の……。絆を断ちきれなかった」  英子さんは、少し吃驚したみたいに眼を見開いて、 「あら、あのひとA型でしたのよ」といった。「そういうと先生にAB型っていってしまったって悩んでました」  室さんが私についた、たった一つの嘘。室さんの死んで残していったアクションが、じわりと私の胸を熱くする。 「中村容子先生と一谷直行先生のことは、本当に大事に思っていたみたいですね。私のことなんかよりずっと」  さらりと英子さんはいった。 「これ、みせてもらっていいですか」私は英子さんに了解を得て、昭和五十七年度の日記を終りの方から読みはじめた。  九月五日  明日の仕事  1 新人滝田のレッスン  2 花村みきえのナレーション入れ替え  3 チャラム キイのこと  花村みきえのLP、東京トリオテープを終えたらひと休み  トマトジュース毎朝飲むこと  九月六日  今日の仕事  1 滝田のレッスン(高音がでないのはなぜか)  2 チャラム ダビング  やっとこさぁやりました。帰宅11時過ぎる。喘息ヒューヒュー  さあ今日もビデオコピーするぞ !!  ○ 高橋竹山インタビュー  ○ 歌謡ホール  二本別のカセットコピーのため、一旦帰宅してカセットチェンジをしなくてはいけない。いま一番大事な仕事は滝田のボーカルダビングだ。  九月九日  久しぶり午後から快調、というかいいコンディション。午前中はそうでもなかったが。  今日あたりからステロイドがきいてきたなら、ショックだが。  夜、渋谷駅より、アレンジャー木元恭よりTELあり。こういうことはとても嬉しいことなんだなぁ、ほんとうに。出ていって一緒に飲むのが男なんだけど。  俺はだめだ、身体をかばうから。  これで友をまた失うんです、俺は。悪い、恭さん、借りは返します。  九月十日  今日やること  1 花村みきえ ダビング 編集  2 東京トリオ カラオケ  早い話、俺の今の運動量では昼食はいらない。PM10時帰宅。仕事やりすぎ。しかし10時まで頑張れるのは体調のいい証拠。  九月十一日  きのうの夜、うとうと眠くなって予備ネフィリン1.5を飲んで(飲まなかったのかな?)苦しくてはっと眼が開いたらもう発作の前段階。懸命にアロテック、ネフィリンでおさえようとしたがダメ。一体どうなってるんだ。夜、10時まで快調で一眠りしたあとにおかしくなるとは。  マイリます。  とにかく月曜日の仕事がピークだから、体調の持って行きかたが大変だ。  1 花村みきえ カラオケ  2 東京トリオの唄 ダビング  3 滝田のAB面決定  何といってもこのあとの浜瀬百合のLPがメインだ。  日記は半分ほどの余白を残して、ここでぷっつりと切れている。九月十四日が最後の日だから、まさに直前まで仕事をやりぬき、病院に担ぎこまれていったのだ。殉職という古めかしい言葉が脳裏に浮かぶ。  白いままの残りの頁が辛くて、少し前の部分をめくりなおしてみる。  六月十五日  今日の仕事  1 編集会議  2 花村みきえ トラックダウン 「夢灯り」  ところでどうなっちゃうのかね、こんなにヒットがなくて。いままでに我が制作一課は十万以上のヒットがないということは、不思議としかいいようがない。もうボツボツ出るころだ。  花村みきえのテークは悪くない、なかなかいいぞ。  ボーナスの日にたまに家でステーキが食べたいと思って食卓を盛りあげてくれといって出かけた。それなのに帰ってみたら何もなし。  眉子が外で食べたい、ママはパパのいうことしかきかないと駄々をこねて何もしなかったらしい。帰ったら発作がひどくて、俺は出かけられる状態ではない。眠っていた眉子が起きあがりざま、また例の生意気をいってママが激怒。ボーナス日は滅茶滅茶になってしまった。  俺がよけいなことをいったからいけなかったのかなぁ。柄にもなくサラリーマン的気分を味わおうとしたことがいけなかったのか。  何か悪いことをしちゃったみたいだなぁ。  慣れないことをしてはいけないということか。何でこんな風になってしまうのだろう。俺は何もしてないのに。  俺の喘息もなかなか治らないし、ママが苛々するのも無理はない。  いやぁ今日は調子悪いねぇ。  しかし悪いよ、こんなに身体が悪いなんて女房に悪いよ。  六月十六日  中村容子先生、一谷直行氏は、自分が生きてゆくためにつきあうひと。仕事でも作品でもない──しかし一谷直行氏、酒びたり。中村容子女史また詞力衰えり。  ずきんと私は胸をつかれた。詞力衰えり。詞力衰えり──。  六月十七日  昨日は不思議な夢をみた。細井が太陽の光と影を音にすることができるといっている夢だ。  それなら俺は、人の心の光と影を出せるディレクターになってみせてやる。  やはりお客さんにいいレコードを届けたい、お客さんにいいレコードを買ってもらいたいという欲望だけは強く持っていないと、いいレコードは作れない。  自分が愉しむために仕事をしているのじゃないんだから。  六月十八日  ついに残り二十万を切った。  九八一一○二○枚──  がんばれ、室田克也。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年二月十日刊  単行本 昭和六十年三月文藝春秋刊