[#表紙(表紙.jpg)] 書を捨てよ、町へ出よう 寺山修司 目 次  第一章 書を捨てよ、町へ出よう  第二章 きみもヤクザになれる  第三章 ハイティーン詩集  第四章 不良少年入門 [#改ページ] [#見出し] 第一章 書を捨てよ、町へ出よう [#小見出し] おやじ、俺にも一言  速くなければいけない[#「速くなければいけない」はゴシック体]  ぼくは速さにあこがれる。ウサギは好きだがカメはきらいだ。  ところが、親父たちはカメに見習えというのだ。カメの実直さと勤勉さ、そして何よりも「家」を背中にくっつけた不恰好で誠実そうな形態が、親父たちの気に入るのだろう。  もともと親父たちにとって速度は敵だったのだ。  ピエール・ルーソーは 「戦前派の上品さというのは、速度の棚おろしをすることだ」と書いている。 「運転手はみなジャン=ジャック・ルソーが徒歩旅行を推奨したその路上を、一時間一〇〇キロの速さで走らねばならないことをこぼし、実業家は、小さな郵便配達所や肩輿《けんよ》のあった≪昔の良い時代≫を惜しむ風情で、電話の使用を嘆いていた。船乗りが現在のような専門的な技術者でなく、第二接檣帆から最上檣帆まで飛び移って、身軽な軽業師ぶりを見せてくれた当時の帆船の魅力を偲んで、大西洋横断汽船の乗客は、誰も彼も天を仰いで嘆息したものだった」(「速度の歴史」一九四二年)  どうして親父たちが速いものを嫌いなのかといえば、それは親父たちが速度と人生とは、いつでも函数関係にあるのだと思いこんでいるからである。  あらゆる速度は墓場へそそぐ——だからゆっくり行った方がよい。人生では、たとえチサの葉一枚でも多く見ておきたい、というのが速度ぎらいの親父たちの幸福論というわけなのだ。  だが、速度がおそいほど経験が拡張されるという親父の人生観は、まちがった反科学の認識の上に立っている。親父たちが、ぼくらにのこした文化の遺産は、実はきわめて素早いものばかりだった。ヨーロッパではマラトンの走者からロンジュモーの駅馬車をへて、天体ロケットへとたどりついた二六〇〇年の「速度の歴史」が、わが国では文化そのものの形態のなかに妊まれていたのである。  エジプトの文化のように書簡、壁画、玩具、墓、ありとあらゆる廃品とガラクタを保存し、思い出によって文化の輪郭をえがこうとする死者の文化、凝固と石の世界史観や、インドの文化のように一切を忘れてしまおうとする非歴史的な文化、無とねはん[#「ねはん」に傍点]とのリグ・ヴェーダから仏陀までの宗教の有機体にくらべると、わが国の文化は「速度」の文化だといってもいいだろう。  さくらが咲いてすぐに散るまでの「時」の長さ、一瞬を永遠と感じずにはいられない日本人の、美学の根底をながれる速さへのあこがれは、「一番速くこわれてしまう粗悪輸出商品」から、世界で一ばん速い詩としての俳句にいたるまで、数えきれないほどのこじつけ材料をもっている。  カミカゼ特攻隊で、まじめに人殺し労働にはげんだ親父が、肉体的におとろえはじめて「速度」を忌み出す頃、ぼくたちの週刊誌のグラビアにはスポーツカーや盗塁王、そしてジェット機「よど号」など、速いものの記事が氾濫する。速度は、ぼくたちのなかでは次第に存在論を形成しはじめるが、親父たちの肉体ではついて来るのがムリなのだ。速度といえば、サラブレッドのことを思い出し、「ホースニュース」紙をわしづかみに競馬場へといそぐ親父よ。レースにおける速度は比喩の世界のものだが、ぼくたちにとって速度は実存なのだということを、あなたにはどうやって説明したらいいのだろう。  何しろ、速度はぼくたちの世代の「もう一つの祖国」であり、とても住みやすいものだ。J・ブルボンは旧世代に向って「ぼくらにとって人生は英雄的な事業ではなくなった」と宣言しているが、この心情は時速五〇〇キロで、歴史を乗り捨てる意気地から生まれたものだということが、わかるだろうか、親父よ。  母さんはぼくと寝たがらないが[#「母さんはぼくと寝たがらないが」はゴシック体]  ぼくが一緒に寝よう、というと母さんは、いやだ、という。どうしていやなのか——ボクシングで鍛えたぼくの肉体に性的魅力がないのか、というと、何よりもそれは「畜生道」だというのである。母さんの髪を愛撫することが愛で、乳房にさわることも愛で、性交になると忽ち「畜生道」に下落するのはなぜか、といえば、きわめて宗教的な倫理観のせいだということになるようである。  何しろ母さんにとって、性交は快楽としてよりも、愛としてよりも、生殖としての面が強く印象づけられているのだ。それは少女時代に読んだトルストイの書物の影響というものだ、といってもいいだろう。 「唯一の正常な性行為は、はっきりと子供を生むことにむけられた性である」とトルストイはいっている。だから、「たとえ夫婦の間でさえ、快楽にふけることは正常でない」のであり、(さらにその論旨をおしすすめてゆくと)「避妊具を用いる者は、妻をなぐる変態男や、強姦して妊ませてしまう狼男よりも異常だ」(C・ウイルスン)ということになるのである。  だが、ぼくは快楽が好きだし、母さんもまた、快楽が好きなのではないだろうか? そして快楽というのもまた、(その複雑多岐にわたる方法をふくめて)ぼくたちの作り出した文化にほかならないのだ。  母さんとぼくとが寝ることは、実は簡単なことだし、親父とぼくが寝ることだって難しいことではない。実際、にんじんという名の予備校生は、毎朝親父と寝て、性的な暗雲をすっかり払ったあとで机に向うのである。  快楽は、それを得たものの財産である。ひとは、誰とでも寝る「自由」があり、その障碍になるのは行方不明の神でも、正常さという名の惰性的習慣でもない。ただ、嫉妬だけが怖ろしいという点で、ぼくたちの見解は一致している。もし、嫉妬さえなくてすむなら、性に関するさまざまのタブーは、一気に瓦解してしまうだろう。  そして、ぼくたちは寝たいと思った相手が親父であれ、母さんであれ、先生であれ、初対面同士であれ、まるで一匙のコーヒーを飲むように気軽に愛撫しあうようになるにちがいない。道徳などというものは、所詮は権力者が秩序と保身のために作り出すものにすぎないということは、今では知らないものなどいないのだから。 [#ここから2字下げ] あたしが娼婦になったら いちばん最初のお客はゆきぐにのたろうだ あたしが娼婦になったら あたしがいままで買いためた本をみんな古本屋に売り払って、世界中で一番香りのいい石鹸を買おう あたしが娼婦になったら 悲しみいっぱい背負ってきた人には、 翼をあげよう あたしが娼婦になったら たろうの匂いの残ったプライベートルームは、いつもきれいにそうじして悪いけどだれもいれない あたしが娼婦になったら 太陽の下で汗をながしながら 洗濯しよう あたしが娼婦になったら アンドロメダを腕輪にする 呪文をおぼえよう(略) [#ここで字下げ終わり]  この詩を書いたのは、十七歳の女子高校生である。そして、この女子高校生には、親父たちの性にまつわる生活の暗闇の垢など、みじんも感じられない。  嫉妬が、愛情や肉体の私有財産化という、独占主義から発していると知るとき、ぼくはむしろ貞淑という名の美徳よりも、この十七歳の女子高校生のやさしさに組したい。実際、ぼく自身にしたところで、毎日いろんな女と寝たいと思っているが、それは「性の解放」などという大義から生まれたものではなくて、もっと素朴な願望なのである。  誰とでも、性交を——そういうと、あなたは、ますます眉をひそめて舌打ちするが、性交のたのしみ、意外性のたのしみ、そして想像のたのしみであることを知るならば、男同士、親子間、人畜間、師弟、あらゆる性の可能性が、そのまま人生の実相にふれるものであると、悟ってもいいのではないですか、親父さん。  だれもが戦争好きの社会[#「だれもが戦争好きの社会」はゴシック体]  毎年、夏になるとグラフ雑誌は、原爆特集をやる。そして、原爆被災者たちの焼けただれて、死臭にみちみちた写真を満載し、それが飛ぶように売れるのである。特集の意図は、原爆反対ということに集約されるわけだが、ぼくはこんなグラフ雑誌を見る気がしない。ぼくは大体、「原爆反対」に反対なのだ。原爆反対に名を借りて、人間の死にざまの醜態を見たがる心理が、大衆のなかに根深くあるかぎり、ぼくは歴史なんて信じないし、原爆反対のキャンペーンにも組することなどできないだろう。  夏が来て、原爆記念号が企画され、ケロイドと死のアメリカの禿鷹の特別号が発売されても、ただの一冊も売れなかった、という時代が訪れたときにだけ、ほんとにべトナム戦争は終りに近づくだろう。  どう思いますか、戦争好きの親父さん。  少しでも金が入ったら、賭博してみよう、とぼくがいうとき、親父たちはその無鉄砲ぶりにあきれた顔をする。 「たとえ儲かっても」  と、賭博反対論者の親父はいう。 「悪銭は身につかず、だ。働いて得たものでない金などは、決してひとを幸福にすることなどないだろう」と。  だが働いて得られる金がどれほどのものであるかは、プレス工をやっている友人たちでなくとも知っている。ぼくたちの時代のサラリーマン、労働者は、その月給の計画的配分によるバランス主義では、スポーツカーを一台手に入れることなど、とてもできるものではない。  それどころか、百科辞典を全巻そろえることも、「マキシム」でカタツムリのスープをすすることも、リングサイドで西城正三の試合を観ることもできない。あたらしい靴を一足買うためにも、考えこんでしまわねばならない、というのが現実なのだ。だが、それにもかかわらず、銀座のクラブは、いつでも男たちであふれ、トヨタは車の量産を世界に誇り、労働者の給料の六、七倍もする百科辞典は、ベストセラーの上位にがんばっている。そして、スポーツカーの展示会で、生ツバをのみこんでいる少年たちには、水前寺清子の「東京でだめなら名古屋があるさ」という歌があるばかりだ。  そんなとき、ぼくたちは経済暴力としての一点豪華主義について考えるわけである。住居は、橋の下の毛布一枚でもいいから、欲しいスポーツカーは手に入れる。三日間の食事はパンと牛乳一本にして四日目には「マキシム」へのりこむ。平均化した金の使い方によって得られるバランス的マンネリズムと、可能性の地平線をつき破るのは、この一点豪華主義しかないだろう。  背広もアパートも食事も、なべてバランス的に配分したら、ぼくらは忽ち「カメ」の一群にまきこまれてしまう。そこで、自分の実存の一点を注ぐにたる対象をえらび、そこにだけ集中的に経済力を集中するのである。背広派、美食主義者、スポーツ狂といった若ものをつかまえて、親父たちは不具だというが、こうした経験の拡張は、実はきわめて思想的な行為である。多岐に発達する情報社会は広く、バランスのとれた情報を配布することで、ますますぼくたちの存在の小ささを思い知らせようとする。停年までのサラリーの計算をしてしまって、それが森進一の一年分の遊興費に充たないと知ったあとも、なおコツコツと働かねばならぬ無名の戦争犯罪人の親父たちの二の舞をふまないためにも、ぼくたちには日常生活内での「冒険」が必要なのである。  アフリカの原住人たちにとって、生まれてはじめて見た飛行機の存在が、どれほど衝撃的であったかを、彼ら自身のことばで語ろうとするのが、思想の芽生えだとするならば、ぼくは低賃金労働者にとって、銀座のクラブの一夜、一皿の燕の巣のスープ、ハワイ旅行、そしてまたアフリカの独立運動や、わが国のまぼろしの「東京戦争」が——一点豪華主義の産物であることを親父たちにもわかってもらいたいと思うのだ。一点豪華主義は、現実原則から、エロス的なもう一つの現実へと「時」の回路をつなぐ。  ぼくたちは、そのためには賭けをレジャーとしてではなく、思想としてとらえることに、時代閉塞からの突破口を見出そうとしているのである。親父たちは「悪銭身につかず」というが、世の中には悪銭でない銭などないのであるから、せっせと貯蓄して「親ガメの上に子ガメ、子ガメの上に孫ガメ」などという浪曲子守唄をうたっているよりも、八百長のオートレースにでも、男を賭けてみて下さい、親父さん。  岩下志麻のシッポを見たか[#「岩下志麻のシッポを見たか」はゴシック体]  岩下志麻にシッポがあることを知ってるひとは少ない。吉永小百合の足指に水カキがあるとか、浅丘ルリ子の腋の下にエラがついているといっても、親父たちは、だれも相手にしないだろう。なぜなら、親父たちは人間にエラやシッポや水カキなど必要がないと信じてるからであり、肉体は社会生活の要求によって、きわめて機能的にできあがっていると信じているからである。  親父たちは、ヘラクレースのような肉体が、もはや役立たない時代に長生きして、美丈夫は沖仲仕か自衛隊員にしかなれない社会を受け入れてしまったのだ。  イリーンは『人間の歴史』のなかで、すべての人間が一寸法師のように貧弱であった時代、自然の支配者でなく従順な奴隷であった時代から書きはじめて、人間が自然の支配者になってゆく過程を叙事詩化したが、「自然」を「文明」におきかえた、その後の歴史については書かずに死んでしまった。イリーンのなかで、森は生きていたが、魂はほんとうに生きのび得たかどうかは、問題である。  親父たちは、一様に発達した腕力と扁平足と、眼鏡を必要とする目とを持っていて、全体としては、ヘラクレース的な美的完成からまぬがれた不完全な肉体を愛用している。この一様に発達した腕力は、満員電車に他人をかきわけて乗るために必要な「道具」であり、扁平足は、少しでも広く地球に接触していたいという不安感の反映であり、眼鏡はテレビと週刊誌の見すぎの結果である。それはたかだか文明社会の要求に応じただけであって、従順な奴隷の肉体であるにすぎない。だが、とぼくは思うのだ。文明に肉体があわせてゆくのではなく、肉体に文明があわせるべきではないか、と。そして、すべての女優たちは、そうした肉体の前衛として存在し、新しい文明を予知させるものでなければならない。  生殖器と飼育のための部分にばかり、愛撫の手をのばそうとする親父よ、これからは無駄な肉体、何の機能も持たないシッポのような部分から、まず人間の尊厳を回復せよ、とぼくはいいたい。さあ、情婦のからだからシッポを探せ、シッポを探せ。 [#改ページ] [#小見出し] 青年よ大尻を抱け [#小見出し]   Boys get the big hips!—— 「いまの男の子たちって、ピンポン・ジェネレーションね」  と古い酒場の女がいった。 「何だい、ピンポン・ジェネレーションって?」  と私がききかえした。 「ピンポンってさ」  と女が笑いながらいった。 「タマが小さいでしょう」  この世でいちばん大きなタマは?[#「この世でいちばん大きなタマは?」はゴシック体]  なるほど、ピンポンのタマは小さい。手の上にのせてころがすことができるほどのものである(だが、それでもピンポンのタマはボクたちの同時代のだれの睾丸よりも大きいであろう)。  ピンポンよりは野球のほうがいいわ。  と、女の子はいった。  少なくとも、野球のボールはピンポンのタマよりも大きいし、重量感もある。  だから、ピンポンよりは野球のほうが男性的だと思うわ。  というのが女の子の意見である。  だがそんなら蹴球のほうが魅力的だろう。  なにしろ、サッカーのタマは外周が二十七インチもあり、重さが四百グラムもあるのである。その大きさにおいては直立猿人の睾丸をもってしても遠く及ばないであろう。  近ごろのサッカー・ブームというのは釜本やペレの「足の魅力」のせいだと思っていたが、どうやら「大きなタマの魅力のせいらしいね」といったら、ボクの友人の学生たちはどっと笑った。  そして「なにしろ、いまは性的時代ですからね」というのだ。  女の子が、大きなタマにあこがれるのはムリもないですよ。  それは、マスターズ報告のような、医学的な性研究が進めば進むほど、原始的な、そぼくな性にひかれていくという、女心のあらわれですよ。  それじゃ、きくがね、とボクは言った。  この世でいちばん大きなタマはなんだね?  すると、学生のひとりが答えた。 「そりゃ、なんといっても地球ですよ」  ボクはさすがにギョッとして、「地球に性的魅力を感じる女の子じゃあ、とてもボクの手にゃ負えないよ」  と、逃げ腰になったものであった。  ノーマン・メイラーの、≪南部を知っているものはだれでも、白人は黒人の性的能力を恐れていることを知っている≫という論文は、あまりにも有名になってしまった。  それは白人の保守性を猛烈にやっつけた痛快なものである。つまり、「白人は、黒人たちに自分の妻を寝とられるのではないかという不安を持っている。だから、差別し、不平等に振るまうことで、かろうじて自分たちの立場を守っている」というのである。  ボクの時代にとっても、性的優越性ということは、きわめて重要なことであり、それがそのまま支配権力に結びつくということはいうまでもない。  いいかね。このノーマン・メイラーの論文のうち、「白人」ということばを「老人」に置き換え、「黒人」ということばを「青年」と置きかえる。そうすれば、ここにもひとつの白書ができてもいいはずなのである。  老人たちは、青年たちの性的能力を恐れ、そのために差別し、不平等に振るまっているのだというわけである。  ところが——おどろいたことに、現実はまるっきりアベコベなのだ。  例1[#「例1」はゴシック体]——ある日、ボクは喫茶店でチャーリー・ミンガスの『豚が呼んでるブルース』をききながらしょんぼりしている、ひとりの男の子をつかまえた。 「どうしてそんなにクサってるんだね?」  ときくと 「女の子を奪《と》られた」という。 「だれに?」  と、しつこく追求すると、「じつは会社の部長にだ」という。 「部長が彼女をクラブに誘い、食事をしてホテルへ連れて行ったら、彼女はかんたんに沈没してしまった」というのである。 「部長ってのは、何歳だね?」  ときくと、 「四十六歳だ」という。  ボクは、ヘエーと、おどろいて、二十歳の男が四十六歳の男に恋人を奪られるなんて、あるものだろうか、といった。 「キミには、たくましい内臓器官と副腎ホルモンがある。スタミナだってある」  ローヤルゼリーもトーサンピンもなくっても、鼻うたまじりで恋人に満足を与えてやるにたるような体力がある。むろん、その気になれば四十男を上まわるムードだって、詩だって、あるだろう。 「それなのに、どうして?」  ときく。するとカレはすっかり下を向いてしまって、 「そんなこと、ボクにだってわかりませんよ」  というのである。  例2[#「例2」はゴシック体]——きれいな女の子である。アン・マーグレットのような涼しい目をしている。以下、彼女の告白。 「あたしのカレ、バンドマンなの。すてきなところもあるけどさ、そんなにお金ないし……、それに将来だって不安定だしさ。  だから、あたしは割り切ってさ、いまの洋服会社の社長さんとお付き合いしはじめたの。はじめはアルバイトのつもりだったのよ。  でも、女ってだめね。だんだんお付き合いしてるうちに、社長さんのやさしいベッドマナーが忘れられなくなってしまったのね。それでいまじゃ、カレと会うのが苦痛になってきてしまったわ」こんな例が、数えきれないほどあるのである。じっさい、タマをめぐる「喜劇」こそが、現代の青年たちをとりまくもっとも切実な状況なのではあるまいか。  性経分離のすすめ[#「性経分離のすすめ」はゴシック体]  なにが、老人の日なものかとボクは思った。現代はまさに実権を掌中におさめた横暴の「老人の時代」じゃないか。  五十五歳で会社を停年退職。あとはさびしい孤独な老人!(お望みとあらば、養老院じゃ受け入れてくれるってことになっている!)というのは、見せかけだけで、現実はまったくアベコベ。たとえば、わが国の内閣閣僚を見てごらん。  老人じゃない大臣が何人いるか?  みんな�いたわりとなぐさめを必要とする�世代に属している筈の老人ばかりなのである。  そして、その老人たちに政治的主導権をにぎられて、そのうえ、性的主導権までも侵されつつある青年が、フォークソングに逃げこんで、 [#ここから2字下げ] 今日も仕事は つらかった あとはショウチュウを あおるだけ [#ここで字下げ終わり]  などと絶望してみせたって、それではまるで〈明日なき世界〉なのだ。  さしあたって壁を突き破るためにはなぜ老人たちが、こんなにバッコしているのかを考えてみなければ、無イミであろう。 「なにしろ、強精剤やホルモン剤の発達が、中年、老年に性的ルネサンスをまきおこした感じですな」  と、クスリ屋の主人はいうだろう。  チャーリー・チャップリン。フランク・シナトラ。そしてまた、大中国に君臨する毛おじさん。エトセトラ、エトセトラ。こうした爺さんたちの若返りにも、ホルモン剤の効用が役立っているというのだろうか? 「いや、そればかりじゃありませんね」  と、青年たちは反撥する。 「原因は、おカネですよ」 「おカネ?」  と、ボクはききかえす。 「そう、そう! 年寄りはみんな金を持ってますからね」  なるほど、とボクも思う。  イギリスの〈怒れる若者たち〉(アングリー・ヤングメン)のひとりであるジョン・ブレインの『年上の女』という小説に、こんな描写がある。  女「ジョー、ほんとうに愛している?」  男「わかってるくせに」  女「どのくらい?」  男「十万ポンド」  もう一度いった。  男「お金にして、十万ポンド」  ——そして、この男は十万ポンドの財産を持つ、この女と結婚するのである。  青年が経済力において中年や老年と並び立つことはむずかしい。そのことを知った上で老人たちはセックスまでも金で買い占めようとする。  だが、性経一致の社会は不幸な社会である。 (たとえば、古く美しい男女の物語ポールとビルジニーやダフニスとクロエはすばらしい性生活を獲得するために、おカネなんかを必要としなかったということを思い出してみよう。)  実際は、金がなくても性を解放できる社会を獲得することこそ、青年の特権であり、〈性経分離〉(むかしは政経分離といったそうだ……)が、青年の性的復権の条件になるのである。  性的ルネッサンスの夢を[#「性的ルネッサンスの夢を」はゴシック体]  むかしは、「男くらべ」というのがはやったものだ。  古代の英雄譚などを読むと、男根じまんの青年たちがつぎつぎとあらわれて、「長さ一メートルにおよぶ男根をヤリのごとくしごき」また、「その硬直せる男根で、斧のごとく樹を打てば、樹はドウとばかり倒れた」という。  むろん、ホラにきまっているし、そんな、バカなことがあろうとも思えないが、しかし、なかなかおおらかで、ほほえましいではないか。 『太陽の季節』という小説がベストセラーになったころ、ボクたち大学生仲間では、 「ほんとうにペニスで障子紙が破れるか」という実験に熱中し、その競争をするものまであらわれたが、それなども青年ならではのゲームであろう。  中学校の階段に腰をおろして「精液は何メートルとぶか」という競争をした元気な若者が、その恋人を老人に奪られてしまうのはどう考えたって理屈にあわない。  すくなくとも、自然の理にかなっているとはいえないようである。  佐藤首相をはじめ、近ごろの老人が、「どうしてあんなにあいきょうがよくなったか」ということを考えてみよう。老人たちが、あんなにニコニコするのには、かならずわけがあるのだ。  それは、老人が「いまや政治だけではなく、性的にも青年を隷属させてしまった」と安心しているからであり、だからこそ、平気で「おなじ茶の間で、平等にお茶を飲みながら、青年を理解しようとしたりする」のである。  つまり、ひと口にいえば、甘く見られているということになるのである。  テレビドラマや映画のなかで活躍している連中は青年である。デビッド・ジャンセンも裕次郎も、ナポレオン・ソロの二人組も、高倉健も、みな若い。  だがそれはあくまでも「お話」のなかのデキゴトにすぎないのであって、現実社会のほうのヒーローは、ジョンソンにしても、スカルノにしても、ザビア・クガートやシナトラにしても、田中彰治にしても、みんな「老人」ばかりだ。これではとうてい、〈われらの時代〉などやってこないのである。  政治や経済で老人に君臨されるのは、いまのところしかたがないにしても、せめて「性」ぐらいは、青年が支配権を回復しなければいけないのである。  老人たちが、自分たちの囲っているジェーン・マンスフィールドばりの二号、おめかけさん、恋人、ダーリン、情婦といったたぐいの美女たちを、「いつ青年に寝奪られるか」とおびやかされる時代——それこそが〈可能性の時代〉といえるのである。  青年よ大尻を抱け![#「青年よ大尻を抱け!」はゴシック体]  これはクラーク先生のおしえでもなければ、印刷のまちがいでもない。  まさにボクからのメッセージである。青年が、〈2DKと安定した就職口と、ささやかな幸福〉を求めて、老人のご機嫌をとりむすんでいるうちは、魅力がない。  青年は、そうした「安全な馬券」でなくて「危険な馬券」に手をだすようでなくては、一攫千金の理想を手に入れたりすることはできないであろう。 〈大尻を抱け!〉というのは、文字どおりに「大きなお尻——グラマーを抱け」というだけのことではない。もっともっと、性的なルネサンスへの夢をふくらませよ、ということなのである。  早稲田大学の学生たちが、「植木等とシュバイツァー博士」を尊敬するのはいっこうにかまわないが、「目立たなくてもいいから、丸ポチャで、美人じゃなくてもいいから、平凡な女の子と結婚したい」などと考えることは、きわめて衰弱しているといわねばならない。 「丸ポチャで平凡な女の子」よりも「エリザベス・テーラーやべべや、ミレーヌ・ドモンジョのような女の子」をめざすほうがはるかに野心的だとは思わないのだろうか?  ソフィア・ローレンやエリザベス・テーラーを「老人」にとられて、しかたがないから、「丸ポチャで平凡な女の子」でがまんしようというのでは、いかにも理想が低いと思う。  それでは、人生がはじまる前から、もう人生に負けてしまっているようなものである。  肉体的にいって、青年は老人を上まわっているが、性というのはスポーツではない。性はむしろ、ドラマに近いといえるだろう。  だから老いぼれでも、セリフのうまい「名優」には、ヒロインを奪られることになってしまうのである。  それはひと口にいえば、青年には〈性の文化〉がなさすぎるということにもつながってくる。だから、老人を上まわる性的欲望をもちながら、それを燃焼させることができないのである(老人たちには、陰微な性文化があって、枕本とか性具とか、老眼鏡で読むような性書などがある。経済力もまた、そのひとつになっているといえるかもしれない。お札一枚ごとに姿態をくねらせる女ってのもいるものである)。  ——だが、青年たちには性文化も性芸能も、きわめて少ない。もっとも性音楽のようなものはあるにはあるが、それとて老人たちの〈くたばれ、エレキ!〉とか〈ビートルズ・ゴーホーム!〉の号令のもとには、タジタジとなってしまうようなものばかりである。もっと、性的ルネサンスをもりたてて、大尻を抱くような文化が生まれないかぎり、老人を駆逐することなどは不可能であろう。  ボクは単純なフロイト主義者ではないつもりだが、欲望なしでは未来を手に入れることはできないと思っている。キミたちは、そのタマのなかにあふれている性的エネルギーを武器として、性の領域から手はじめに反撃していかないと、老人たちの思うままになってしまうだろう。  使えるものは、はやく、有効に、そして美しく使うべきである。  老人たちに、 「あいつは力がありあまっているようだから、ひとつ自衛隊に入れてベトナムにでも送ろうか!」といわれてからでは、手おくれなのだよ! [#改ページ] [#小見出し] 月光仮面  マントを着て仮面をつけるとだれでも月光仮面になれると思って、屋根からとびおりて足を折った男がいた。新聞記事によると、彼はもう四十をすぎた保険外交員で「正義の味方」になりたいと願ったのだ、ということであった。それを読んで私は思ったものだ。「正義の味方になるためには、どうして仮面をつけたり、変装したりしなければならないのだろうか」と。     1  私の少年時代には、正義の味方は素顔のままであった。たとえば、名探偵明智小五郎も、「少年探偵団」の諸君も、仮面をつけたり、変装したりすることはなく、「どこの誰だか知ら」れず、「疾風のようにあらわれて、疾風のように去ってゆく」のは、怪人二十面相の方であった。第二次世界大戦を境として、この倫理——正義の素顔は、悪の素顔へと倒錯していき、正義は居場所を失い、姿をくらまさなければならなくなった。そして、「疾風のようにあらわれて、疾風のように去ってゆく」正義の味方についての、期待と失望とが私たちの中に入りまじるようになっていたのである。私たちは、やがて「正義の味方」ではなく、正義そのものを疑いはじめ、その尺度の判定など存在しないことを知るようになっていった。大きな声ではいえないが、怪人二十面相と明智小五郎とは同一人物であり、月光仮面と小児誘拐魔とは同一人物なのであった。正なる自我と悪なる分身、あるいは悪なる自我と正なる分身とは一人の人格の中で分裂し、それを繕うために「変装」が必要とされていたのである。私たちの小学校の修身の先生は、戦後、婦女暴行事件を起して新聞記事になった。私たちは、悪から切りはなされて自立した正義などは存在せぬこと。そして、もし、それが存在したとしても、そのことを判定することなどだれにもできぬということを、戦後の民主主義の教育の中で教えこまれた。正体がはっきりせぬ以上、正義も正義の味方も「疾風のようにあらわれて」「疾風のように去って」ゆかねばならない。それでも、私たちは正義の味方、月光仮面の出現を待ちわび、それがやってくると拍手が起ったものだった。おそらく、それをブレヒトのようにいうならば、「正義の存在しない時代は不幸だが、正義を必要とする時代は、もっと不幸だ」ということになるだろう。 [#ここから2字下げ] どこの誰だか知らないけれど 誰もがみんな知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方だ 良い人だ 月光仮面は誰でしょう [#ここで字下げ終わり]  だが、私たちは自分たちの必要としている正義そのものを検討してみることに、熱心だったとはいえなかった。だから、正義が「悪の変装」であったかもしれず、この両者は政治化によってたちまち立場を転倒してしまうかもしれないのだ、ということについても、吟味することをなまけていたのである。エルンスト・フィッシャーは正義について書いた短いエッセーのなかで、『プラウダ』紙編集長ミハイル・コルツォフのことにふれている。ミハイルは演説した。「この世界にはひどくむずかしいことが起るだろう。いずれにせよ、どんなことが彼の身の上に起るにせよ、考えてくれよ、君たちふたり、考えてくれ、僕が君たちに残す最後の言葉を……思い出してくれ、スターリンはつねに正しいのだってことを……」そして一二月に作家同盟で講演を行なった翌日逮捕され、死地に赴いた。一九四二年のことであった。そして一九五四年になってから、名誉を回復された。それは、彼が「つねに正しい」といった男の、死んだあとになってからのことだった。     2  私たちは「正義」が政治用語であると知るまで、長い時間と大きな犠牲を払わねばならなかった。たとえば、野球少年だった私にとって、ストライクは正義で、ボールは悪であった。そして、それを判定するのは審判であった。審判は神聖であり、ことジャッジに関するかぎりは、いかなる抗議も無駄である、と野球ルールにも明記されてあった。ピッチャーは、正義と悪とを同じボールによって使いわけ、そのことによって魂の二者択一というように共存していたが、審判はそれを一球ごとに判定し、正義と悪とを分類してみせるのであった。だが、あるとき、一人の野球通の豆腐屋のおじさんが、こんなことを話してくれた。「おまえな、金田ストライクというのがあるのを知ってるか」私は、「何のことだ?」とききかえした。「ジャイアンツの金田投手が登板したとき、審判がTだったら、絶対にストライクが多くなる」と豆腐屋のおじさんはいった。 「そのわけは金田もTも、むかし、ピッチャーだったころにさかのぼるのだよ。そのころ、金田は日本一の名投手だったが、Tは二線級でいつも貧乏しておった。それで、金田はよくTに背広のお古をやったり飲みに連れて行ってやったりした。それが今は、腕のおとろえた投手と、審判という関係になった。Tは金田に恩返しがしたいので、くさい球でもみなストライクにしてしまうというのだよ」とおじさんはいった。「つまり、他の審判のときよりも、ストライクが多くなるということなのだ」。私は、それが事実かどうかたしかめることなどできなかった。しかし、投じられた一球がストライクと判定されるか、ボールと判定されるか(正義と判定されるか、悪と判定されるか)を支配する科学が存在せず、人格にそれをゆだねる限りは、政治が介在してくるのは当然だと思った。正義と悪とは、つねに相対的な関係であり、同じ行為が正義として扱われたり、悪として取沙汰されるのは、その行為をとりかこむ状況、政治の問題だったからである。そうなってくると、正義も悪も、「——のための正義」「——のための悪」であり、それは同時に「——のための月光仮面」であることを暗示するものなのであった。     3  さて、事件が起った。情勢はきわめて不利である。私は心の中で救いを求める。「月光仮面の出現やいかに」。すると、白いマフラーを風になびかせて、正義の味方がやってくる。オートバイのひびき。私は顔をあげる。すると、月光仮面だと思ったのはパトカーの警官だった。月光仮面の、あのマフラーとオートバイは、潜在的には警官のイメージである。そして、私たちの時代にパスポートをもった「正義」というのは、結局は法律上の正義、警官の正義というものに通底している。そこで、政治的に弱体な時代にあっては、大衆は「もう一つの正義」「もう一つの法」を要求するのだが、そのこと自体がすでに管理と支配について無条件に受身である大衆のみにくさの反映であるともいえないだろうか? 法と正義が維持されているときには、「味方」など必要はなく、それがだれかによって破られたときにのみ、法と正義の味方としての月光仮面が呼出される。大衆は、じぶんたちで法と正義の検証などにふみこむことをせず、あらかじめできあがっているそれを守るために月光仮面を働かせる。月光仮面の「おじさん」は「正義の味方だ 良い人だ」というとき、私たちは「正体もあかさず、疾風のように去ってゆく」うしろめたい仮面の男を疑わないわけにはいかないのだった。考えてみれば、月光仮面は私立探偵社で安月給をとっている、変装癖の中年男である。彼は、素顔ではまったく非力だが、変装したときには別人のように活動的になる。それは変装することによって、社会的抑圧から解放され、思いがけぬ力を発揮できるからである。     4  だが、変装した人間は変装したときから「もう一つの世界」に属する。それは、仮面の、あるいは虚構の世界であり、私たちの日常的現実の外にある世界である。私は、こうした空想的な現実原則を、変革のための媒介物として行使することに可能性を見ないわけではないが、彼の「立ちあがる」動機が、つねに日常的現実の中に根をもっているということを見落すわけにはいかない。つまり、彼の「正義」は、彼の空想的な現実原則の中で生成されたものではなく、あくまでも、できあがっている正義なのであり、「もう一つの現実」は、現実としてではなく、ただのモードとして、マフラーと仮面とオートバイを支給する役割しか果していないのだ。したがって、独身で、外食生活をし、手淫常習犯の探偵社の調査員が、マフラーと仮面の威をかりてふりまわす「正義」は、農家の次男坊が警官になってふりまわす「正義」と変るものではなく、ただ警察力の不備を補完する予備権力としてしか月光仮面の意味は存在しないのであった。月光仮面のロマネスクが、私の中で死んでしまったのはなぜだろうか? 月光仮面ばかりではなく、怪人二十面相も死んでしまった。「怪人二十面相が、あんまりつかまらないので、ぼ、ぼくらは老人になってしまいました」と、老いたる小林少年が語り、全員口をそろえて合唱する、   ぼ、ぼ、ぼくらは老人探偵団  という唄を作った私は、男色家の明智小五郎に利用され、実在せぬ怪人二十面相(実は明智小五郎の変装したすがた)を追って、みじかい青春時代を無駄にしてしまった少年探偵団の諸君が、老いてはじめて、「悪とは正義の変装」にすぎず、一つの社会の正義は、もう一つの社会の悪なのだ、ということに目ざめても遅い、ということをからかったのであった。     5  つまり、月光仮面も少年探偵団も、ベトナム戦争のような国際的な事件には出動できない。そこでは、正義と悪とが複雑に交錯し、お互いに正義を名のりあっているので、それに参加をしようとする者は、自ら「正義の選択」を迫られるのだが、月光仮面の「おじさん」も、少年探偵団員も、与えられた「正義」のためにばかり働いてきて、それを見きわめる「正義観」など、もつことができなかったのである。だが、正義のために働こうとするものは、自らの正義をつくり出さなければならない、というのが私の月光仮面への最初の注文である。そして、自らの正義をつくり出すということは、自らの法をつくり出すということであり、その管理単位としての「もう一つの国家」をも生成しなければならないだろう。ネチャーエフは、自らのカテキズム(教理問答)をもって一つの法とし、正義の名において同志たちを銃殺していった。連合赤軍にあっても、彼らの法と正義が、彼らの同志への「人民裁判」と「処刑」を行なった。それは、まだ公認されていない法だったため、日常的現実を支配しているもう一つの法に、犯罪としてからめとられてしまったが、月光仮面があらわれたとしたら、彼は「正義の味方」として、どのように振舞っただろうか?     6  F・ローデルは「法は諸科学の中のキルリー鳥だ」と書いている。キルリー鳥は、うしろ向きに飛ぶ鳥であり、法もまた古来の原則や先例を墨守して、「革新を悪とし、旧套を徳としてきた」のであった。だから、正義はいまのところ、自らの国家を生成しようとしている革命家たちをのぞけば、きわめて保守的なものであり、そして「うしろ向きに飛ぶ」ものだ、ということになり、革命家を犯罪者に変えてしまう魔術師である。私は月光仮面がマントをひるがえして飛ぶとき、「前向き」だったか「うしろ向き」だったか、よく覚えていない。だが、マフラーと仮面という、「制服」で出動してくる月光仮面をあてにしていたこともあったような気がする。それは、自己の限界につきあたったとき、その壁を破る「超能力」への期待であり、それを踏台にして、あるがままの自分を超克する——ということにつながるものであった。しかし、それが「正義の味方」であって、だれのためにも力を貸してくれるものではないのだ、と知ったときから疑いがはじまった。「正義」というのは、ただのオプチミスチックな政治用語であり、月光仮面は現体制が雇った用心棒にすぎないと知ったら、「正義の味方だ 良い人だ」というのは警察官募集のキャッチフレーズのように見えはじめたのである。それでも恥ずかしいことに、私の机の抽出しには今でも捨てる機会を逸した月光仮面の仮面が入っているのである。 [#改ページ] [#小見出し] 足時代のヒーローたち  くたばれホームドラマ[#「くたばれホームドラマ」はゴシック体]  また、野球の悪口から始めよう。  野球は、ホームインする回数で勝敗の決まるゲームである。  善良なジャイアンツの柴田が、いつ、ホーム(家庭)へとびこむか?  貞淑な長島ならば、ホームランによって、一気にホーム(家庭)まで駈けもどるのではないか?  そんなことが、ゲームの興味の中心になっている。  そして、多くのサラリーマンたちは、会社から真っ直ぐホームインするとテレビのスイッチをひねり、冷たいビールなどで一杯やりながら、こんどは野球選手たちが無事に「ホームイン」するかどうかを監視するというわけである。 「ああ、莫迦め。何ですべらないんだ!」  とサラリーマンは口惜しそうに叫ぶ。 「すべりこめば、まだ間に合ったんだ」  アパートの外を市電が通ってゆく。  ナイターのテレビを見ながら飲むビールも、マイペースで行こうというキャッチフレーズならば、生活の方もマイペースである。  少しダブついたステテコのようなズボンに無粋な長靴下! そして、いつもホームインのことばかり思っているランナーたち。これが「現代の英雄」ならば、もはや冒険と叙事詩の時代は終わってしまった、ということになるだろう。ホームめがけてまっしぐらの選手を見ていると、「あなた、早く帰ってね」という妻たちの声が聞こえるかと思うほどである。  野球が、スポーツだった時代は終わってしまった。  いまでは、野球は茶の間で見る「ホームドラマ」になってしまった。  そして、相対的に安定した小市民たちの保守思想の代弁者になってしまったのである。だが、私はホームインの回数を数えるような生活が好きではない。ホームドラマのような生活が好きではない。ホームドラマなどは、大きらいである。  あのナイターのテレビの灰色の画面の中に、映し出される男たちのホームインは、いわば幸福への偽証にすぎないのだ。あんなものは、何一つ日常生活の変革などにむすびついたりは、しないことだろう。  美しい足と強い足[#「美しい足と強い足」はゴシック体]  つぎに荒々しいスポーツを紹介しよう。  サッカーである。  すでに世界のサッカー人口は十億だ、といわれているし、わが国でのサッカーブームもすさまじいものである。今年に入ってからのスポーツの一試合入場者数の多い順のランキングでも、サッカーは野球を上まわってしまった。国立競技場で六月二十二日に行なわれた英国のアルビオンと、日本の選抜チームとの試合には四万五千人ものファンが集まってきた。そして、英国のアルビオン(白馬)を追いまくる杉山や小城の足にやんやの喝采を送ったのである。 「どうして、こんなに突然にサッカーのブームがやってきたのか」  と首をかしげる人たちもいる。 「オリンピックの落とし子だ」というのが一般の意見である。 「オリンピックの時、他のゲームはすべて満員だったのに、サッカーだけは申込者が少なくて数万枚の切符があまっていた。  そこでバラまいたわけですよ。  で、何でもいいからオリンピックの感激だけを味わいたい、というズブの素人ばかりが集まってきたのだが、観ているととても面白いんだね。だから、それ以後ファンが激増したって話ですよ」  というわけだ。さらに、 「クラーマー氏がオリンピックの日本チームをコーチしにやってきて、技術がぐんとあがったんだね。  それで世界一のアルゼンチン・チームを破ったことでどっと人気が出たんだ」  というスポーツ記者の解説もある。  だが、私はもっと素朴な一人の酒場のホステスの感想に耳を傾けたいと思う。  それは、 「サッカーのどこが好きかですって? タマが大きいからよ」  というのである。  なるほどサッカーのタマは野球のそれとくらべるとはるかに大きい。外周は六八センチ〜七一センチ。重さは三九六グラムから四五三グラムぐらいまでである。  だから広い芝生のどこをとんでいても、 「よく見える」のである。  手の中にすっぽりかくれてしまうような野球のボールは、ときどき見えなくなる。  アナウンサーは「タマはテンテン、外野の塀!」と叫ぶが、ネット裏のファンにはタマの行方など、まったくわからないのである。  だから草野球では「かくし球」という変幻の奇策が用いられるし、野球史上には「試合の最中に突然に球が消えた事件」(実はピッチャー前の芝生に埋まっていた)まであったりするのである。  それに比べると、サッカーのボールは、まぎれもなく大きい。だからゲームがどこを軸にして進んでいるかがよくわかる。一目見てわかるということも人気の因の一つに違いないのだが「タマが大きい」ということには、他のニュアンスもあるのだ。  大きいタマは男性的である。  それは性的時代の象徴であり、いかにも英雄的に見える。  そして、大きいタマこそは、世界を制するための条件の一つなのである。  映画『わんぱく戦争』の中で一人の男の子がたずねる。 「だれが大将になるの?」  すると、他の子が傲然とこたえる。 「ちんぼこの大きい子がなるのさ!」  一口にいって、現代は〈足的時代〉にさしかかっている。  それは人間の歴史が、道具を発見し、そしてそれを使いこなすことで産業を生み出してきた〈手的時代〉にとってかわるものである。 「手は作るが、足は作らない」  べつのことばでいえば手は、生産的だが、足は消費的である。そして、足は手よりもはるかに享楽的なイメージをもっているようである。  足的時代のサンプルは「膝上10センチのスカートとサッカー」である。  そこには、美しい足と強い足がある。  男らしさの復権を賭けて[#「男らしさの復権を賭けて」はゴシック体]  手的時代を生きてきた老人たちは、膝上10センチのスカートを見て腰を抜かさんばかり驚いたものだが、それはむかしの女たちの足が短かったので、10センチもまくりあげると、非常に重大な部分が見えてしまうのではないか、と怖れたためであろう。  だが足的時代を制する足は、長くて美しい。ブリジット・バルドーの足は、それ自体で一つの文化である。  ジェーン・マンスフィールドの足は、小市民のホームをかるく一またぎにしてしまうほどの長さだ。そして、巷の少女でさえも膝上10センチのスカートからはみだした彼女たちの「財産」を誇示することで、手的文明に反抗しつづけているのである。 (競馬の空前のブームも、足的な時代を歌いつづけているし、柴田やジャクソンの人気も、まさに「素晴しい足野郎」としての栄光である)  ところで、この時代の最高の栄誉をになって「黄金の足」と呼ばれている男がいる。  その足に七千万円の契約金を出すという、アルゼンチンのプロからの誘いのかかった杉山隆一である。  すでに清水東高校時代から、その華麗なフットワークは注目を浴びていたが、明大に入るや忽ちにスターになった。現在は三菱重工で活躍しているが、その足が大きなタマを追ってゆくのは、まさに叙事詩を思わせる。  私は、アルビオンとの試合で緑の芝生を疾走してゆく杉山を見ながら、 「ああ、強い足は何て英雄的なんだろう」  と思ったのであった。  サッカーの起源は、一〇四二年頃といわれている。  はじめは、ボールではなくて、頭の骨でやった。  デンマークに支配されていた英国人たちが、裏通りにころがっていたデンマーク兵の頭蓋骨を靴で蹴ったのが始まりである。  すると、べつの一人がそれを蹴りかえす。またべつの一人が蹴る。  そして英国人のにくしみが、この蹴ることから一つのゲームを作り出すまでに、国中に広まっていったというわけである。  レクリエーションとしてルールを持つようになったのは、産業革命の頃からである。そして、以後は英国の国技として今日まで発達してきた。「地上最大のスポーツ」といわれているのは誇張でもなんでもない。  まさに十億ファンがいるのである。  ルールとしては、きわめて簡単で、ゴールキーパー以外は手を使ってはいけない。  手以外のあらゆる部分を使って、相手のゴールヘタマを叩きこめばいいのである。  反則があった場合には、相手方にフリー・キック(自由蹴りということばは実にいいことばだ!)を与えられる。  そして反則のあった場所から、相手のゴールへめがけて、力一杯タマを蹴とばすというわけだ。  ゲームは前半・後半四十五分ずつ。  つねにタマを中心にして、それをめがけて両チームの足たちが走りまくる。タマの一点だけを追えばいい、という点で、観客の目はつねに一か所に集まっている。 (それが野球の場合、ダブルスチールがあったとき、ファンはどこを見たらいいのか一瞬迷うことになる)  野球は、ピッチャーのナルシシズムによってしばしばゲームのスピードが鈍ることがある。ロッキング・モーションからちょっとポーズを静止させて満場の観客を見まわすピッチャーのナルシシズムなどは、走っている小城や釜本の足にくらべるとまるで魅力がないのだが、どういうものか、わが国の野球選手には、テンポを落とすようなスタンドポーズが多い。  さらに……私がサッカーを愛する何よりの理由は「にくしみから出発した競技」だということである。  蹴る、足蹴にする、という行為には、ほとぼしるような情念が感じられる。  それはマイペースの小市民、幸福なホームドラマの主人公たちが忘れている感情である。  もう何年ものあいだ、石ころ一つ蹴ったことのない円満なサラリーマンたちは、あの頭蓋骨大のボールを蹴りながら、相手のゴール(ホームではない!)へ駈けてゆく戦士たちを観て、失った何かを取りもどすべきではないだろうか?  サッカーには、現代人が忘れた感情への思い出がある。  ひらめく靴先には「男らしさ」の復権が賭けられている。  アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の主人公でもう老残の父親でもあるウィリー・ローマンがアメリカン・フット・ボール(アメリカ式サッカー)の選手である息子をつかまえていうことばは印象的である。 「タマを持ってるやつから目をはなすなよ。いつもそいつの傍にいるんだ。それが人生の目的というものだ」 [#改ページ] [#小見出し] 歴史なんか信じない  ただどこかへ逃げ出したい![#「ただどこかへ逃げ出したい!」はゴシック体]  一人の青年がヨットで太平洋を横断したとき、人たちは彼を「英雄」扱いした。  だが、この青年は英雄になりたかったのではなく、ただ自分自身からの逃亡をはかったにすぎなかったのである。だから、青年はマゼランのように、何かを「発見」することなどもなく、ただ「太平洋ひとりぼっち」という逃亡の記録を書いたにとどまった。一九六〇年の安保闘争に敗れた若者たちは、みんなくたびれきって遠くを目ざしていた。  場末の酒場では、ジェリー藤尾が [#ここから2字下げ] 知らない街を 歩いてみたい どこか遠くへ行きたい [#ここで字下げ終わり] と歌っていた。  それは、被支配下の黒人たちが、自分たちの時代を変えることが出来ないとあきらめて歌ったブルースと、ひどく類似していた。黒人たちが、もし「七十五セントあったら、七十五セントぶんだけの切符をください」と歌っていたのと同じ感情だからである。誰も往復切符などを欲しがらなかった。ただ、「片道切符」がありさえすればよかったのであり、そのことは一九六〇年のはじまりが「逃亡の時代」であることを物語っていた。  一九六〇年冬、くたびれた大群衆とその時代感情を反映して、朝日盃三歳ステークスをハクシヨウが逃げ切った。そして、六一年のダービーでも、やはりハクシヨウが逃げ切ってファンの期待にこたえたのだ。だが、逃げるといっても、どこへ行くことが出来るのだろうか? それは黒人たちのブルースのように [#ここから2字下げ] どこへ行くかなんて知っちゃいない ただもうここから 離れて行くんだ [#ここで字下げ終わり]  という願望にすぎないのだろうか?  それとも「長距離ランナーの孤独」(アラン・シリトー)の主人公のように、逃げることだけが伝統になってしまったと、みんなが思いこんでしまったのだろうか。  歴史に幻滅したあと[#「歴史に幻滅したあと」はゴシック体]  私は、どこにも逃げ場なんかないのだ、ということをひしひしと感じていた。それは、ただ歴史に幻滅したあとの地理によせるロマンチシズムにすぎないのだ。「山のあなたの空遠く」にあこがれたのは、少年時代のはなしにすぎず、六〇年代では落語家が「山のあなた」にあこがれた人たちを「山のあな」に落ちて出られなくなってしまったといって、山のあな、あな、あなと吃っては笑いものにしていた。  だが、どこにも行けないとなったら、覚悟をきめなければならない。それは、中学校の教科書でおそわった「山椒魚」の思想である。先生は、井伏鱒二のこの小説を通して「人生は居直りである」と教えてくれた。「小さな穴から入ってきた山椒魚が、中で成長して大きくなってしまったら、もう同じ穴から出てゆくことは出来ないし、かといってもう一度、小さなからだに戻ることも出来ません。そこで、�こうなったら、俺にも覚悟がある�といって穴の中で居直る。この居直り方が問題なのです」  やけっぱちの拳銃の居直り[#「やけっぱちの拳銃の居直り」はゴシック体]  だが、どうやって居直るのか?  安保闘争に挫折してしまった若ものたちにとって、ジョージ・オーウェルの『スペイン市民戦争』もトロツキーの『わが生涯』も、日々、古びてゆくように思われた。やけっぱちの居直りが流行し、六二年には少年犯罪が新記録をかぞえた。  こうした六〇年から七〇年への流れは、そのまま一人の少年の歴史にもかぞえあげることが出来る。拳銃魔永山則夫は、はじめは「逃げる」ことだけしか考えない少年であり、荒涼とした北国から逃げ、「家」から逃げ、じぶんのみすぼらしい経歴から逃げ、日本からも逃げ出そうとした。しかし、密航したあとの居直り方が問題だ。  永山はアメリカにあこがれていたので、モダンジャズ喫茶のボーイになったり、ベースキャンプで働いたりしながら、ただ地理だけを求めつづけて、手に入れた拳銃で次々と殺人を犯してしまった。だが、永山は一切の地理は幻想であるにすぎない、ということを知らなかったのである。  新聞は、永山のことを「拳銃魔」と書き立てたが、捕まえてみると「魔」どころか彼はおとなしい少年であった。アパートの人たちの評判もわるくなく「印象に残ることといえば、よく階段に腰をおろして靴をみがいていた」ことだという。  靴などみがいてどうするのだ? と聞くのは無用のことである。逃げるもの、旅立つものにとっては、きれいな靴だけが唯一の友なのだから。  私は、六〇年にこんな詩を書いたことがある。 [#ここから2字下げ] 一本の樹にも流れている血がある 樹のなかでは 血は立ったまま眠っている [#ここで字下げ終わり]  ——だが、眠っている血もいつかは、目をさますことだろう。そして、樹の歴史について訊ねるだろう。もしも、歴史の一切が幻滅にしか価しなかったとしたら、樹はみずからを伐り倒すために「斧」の軸になることを選ぶほかは、ない。  スクリーンの殺人文化[#「スクリーンの殺人文化」はゴシック体]  六五年の夏、一人の少年が銃砲器店内にたてこもりライフルを乱射した。新聞はその「ライフルの狂人」を大きくとりあげて「こんな男がいていいのだろうか——野獣か気狂いか」と非難した。だが、私はその少年片桐操を簡単に難じてしまうわけには、いかなかった。「それがもしも、スクリーンの中の出来事だったら、片桐はスティーブ・マックィーンなみの共鳴を得られた」にちがいないからである。何のことはない、ただ、片桐にはスクリーンがなかったというだけのことではないか? おまえは数えたことがあるか? と、私はバーテンに問いかけた。「高倉健が今まで何人のにんげんを殺したか? 若山富三郎が何度、法を犯し、小林旭が、どれだけライフルを乱射したか?」  テレビで一日に何人のにんげんが殺されるかだって考えてみろ——おれたちは、すっかりそのことに馴れてしまっているのだ。 「しかし、映画やテレビと現実とは違いますからね」  とバーテンはいった。 「違わないさ」  と私はいった。「事実ではなくても、真実ではあるのだ。人は事実と真実とを混同してしまうが、高倉健が殺すかぎり、片桐操も殺す。スクリーンという名のたった一枚の布地の国境線などはすぐに、踏み越えてしまうのだよ」殺すことが文化になる、ということが問題なのであって、実際に死んだ人数が問題なのではない。それは、ベトナムの戦争との関連で考えたって、よくわかるだろう。 「片桐操のライフルの弾丸にあたって死んだ警官は、殺されたというよりは、事故死だと考えたほうがよい。それは、夏のある日の�出来事�にすぎなかったのだから。  だが、片桐操に殺人の快楽を教えてくれたのは一体誰か? 殺しを文化にまでしてしまったものの犯罪性を問わないかぎり、片桐だけを裁いてみても、事件の本質にふれることにはならないだろう」——と、私はいった。ライフル好きの少年が、欲しくてたまらない銃を見にいつも通っている銃砲器店で、突然に「居直った」時から、彼の人生は虚構と現実との位相を逆転した。人質にとった女店員たちに「どうだい、カッコいいだろう」といいながら、警官隊に発砲しつづけた片桐は「自分のスクリーン」を手に入れていたのである。それは、自らの日常性への造反であるばかりではなく「一人ぼっちの東京戦争」である。革命と呼ぶには、あまりにも幼すぎた。  だが、ここで注意しなければならないことは、彼もまた永山と同じように「地理に挫折した」わかものだということである。彼は、外国航路の大型船にのることをいつも夢見ていた。海外旅行とベトナム戦争の書物に関心を持ち、親友とのあいだでは「なんとかして、二人で日本を脱出してブラジルへ行こう」  と話しあっていた、という。  その彼がなぜブラジルを選んだのか、私にはわからないが、ともかく「ブラジルでは、思いきり鉄砲が撃てるからな」といっていた、という。鳥を撃つ土地がなく、鳥のとぶ空のない東京で、鉄砲に執着する少年の悲惨は、私の心に沁《し》みるものがある。  その彼を一口に「凶悪少年」とか「精神異常」とかいって片付けてしまうのは、むしろ事件の真犯人を見あやまった処置だということになるだろう。郊外へ空を撃ちに行った少年が、 「おまえに鉄砲の扱いなんかわからんだろう」と警官にひやかされ自尊心を傷つけられて思わず放った一発の銃の代償として、彼のうけた死刑の罪は、時代感情の反映として考えれば、重すぎるように思われる。すくなくとも、私には彼を死刑にすることに、くみすることができないのである。  (「ああ、悪い夢を見たな」)  と、片桐は朝、目ざめて思ったことだろう。そして目をこすりながら「さて、仕事へ出かけよう」と立ち上って、そこが留置場のつめたいコンクリートだということに気がついて、はじめて自分の人生が一日で変ってしまったことに気がついたのではなかろうか。  山のあなた、にあこがれて「あな」におちこんでしまった、こうした地理派少年たちの挫折と悲惨を、私は自分のことのように、思いうかべないわけにはいかないのだ。  家を下着のように捨てる[#「家を下着のように捨てる」はゴシック体]  私は、自分の大学生時代を思い出す。一九六〇年、私は自分の捨てた大学に、まだ籍だけを残していた。私たちの部屋には、競馬予想の赤エンピツで書いたマヤコフスキーの詩が今でも残っているはずである。 [#ここから2字下げ] 止まれ! 人はだれでも同じ顔を 重荷のようにもっている その同じ路上で たったいま、時間のおっ母が ばかでかい 口のまがった反乱を産んでくれた! [#ここで字下げ終わり]  ——私は革命に興味をもっていたが、革命後の社会には興味を持ってはいなかった。政治的な解放は、所詮《しよせん》は「部分的な解放」にすぎないと知っていながら、それでも学生たちの蜂起《ほうき》するたび、地理派から歴史派へと心を移していく多くのわかものたちを見る思いがするのであった。六〇年から七〇年へかけての、もっとも大きなエポックは、新しいタイプのわかものたちの誕生であった。彼らは、「家出」することを逃避とは考えなくなった。  かつて島崎藤村らが超克しようとしながらはたし得なかった「家」を、まるで古くなった下着でも始末するようにあっさりと捨ててしまうわかものたちは、父親の権威から見れば許しがたい造反であった。  しかしわかものたちは「家族帝国主義」とか「パパ・スターリニズム」といった造語でこれに応じ、血族からの解放を自分たちの社会生活の確立のための条件としたのである。  彼らは、あらゆる権威に反発してジャンルの可能性にいどもうとしはじめた。ギター一本あれば、就職、勤勉、出世コースといったベルトコンベアーからまぬがれられる。「誰からも指図されない」ということが、彼らの生|甲斐《がい》となり、台本のない演劇、楽譜のない音楽、キャンバスのない絵画と——次第に自分たちを形式から解放していったのである。  劇画しか読まない若者たちがふえたのも、それと無関係ではあるまい。形式からの脱却という観点からすれば、字のない書物——劇画によって、唯物史観を学ぶと主張するわかものの論理も、さほどムリではなかったかもしれない。  むろん、そのことが見事に方法を獲得したかといえば、決してそうではない。むしろ、この十年間はわかものの受難のくりかえしであったともいえるだろう。街頭で演劇をしようとするとさまざまの法律が彼らを取締まったし、朝までゴーゴーを踊りたいと思っても、夜十一時をすぎるとたちまち、踊りは禁じられてしまった。だから彼らは [#ここから2字下げ] おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ [#ここで字下げ終わり]  と歌いながら、ほんの少しのすきまを見つけては「フォークソング」グループか、すでに商標登録済みの反代々木系全学連のセクトに入って「表現」の方法をさがすよりほかに、道はなかったのである。  家なき子たちの叫ぶ革命[#「家なき子たちの叫ぶ革命」はゴシック体]  長髪のわかものたちが、なぜ床屋に行かないかといえば理由は簡単である。それが、彼らの唯一の自然だからである。空の鳥にむかって 「なぜ楽譜をおぼえないのか?」  というと、人はだれでも笑うにちがいないが、同じように今日の「殺人の文明」にアゲインストすると決めたわかものたちは、文明への抗議として自分自身を自然に近づけようとしているわけだ。  彼らは出来上った「社会を認めまいとして、自分たちの作る社会」に対してロマンチックになってゆく。それは、一口にいえば「家なき子たちの革命」であり、コンミューンの創造である。ヨーロッパのわかものたちが家を出てわかものたちばかりの集団の「雑居生活」をはじめている例は、今ではどんな町にでも見られる現象である。  マリファナ、ハッシッシュ、LSDといった麻薬もまた、彼らの革命のための道具ということになるらしい。アムステルダムで逢《あ》った日本人ヒッピーのノブさんは、 「永い間、理性でわるいことをしてきましたからね」といった。「ま、いいこともしたがわるいこともした。いつも理性の判断の命令通りにうごいてきた。そこで、たまには、理性から解放されてみたい、自分自身からも自由になってみたい、と思ったわけですよ。そのために、クスリを使わないとならないのは情けない話だが——そのうちに、クスリなしでもできるようになるでしょう。  そのときに、集団幻想としての『家』とか『社会』とかが構想される可能性がでてくるんじゃないですかね」  ノブさんが、一夫一妻制などといった古風な因習にとらわれていないことはよくわかったが、しかし、それは外国人として獲得できた地理的自由であるというところが、私には気にくわなかった。「ま、東京へ帰ってきて同じ生活をしてくれたら、おれたちはもっと親しくなれるだろう」と私はいった。  ヌードも造反の一つ[#「ヌードも造反の一つ」はゴシック体]  政治的解放をめざす、造反学生たちは次々と「大学の権威」をうちのめして行った。卒業式の壇上で、自分のうけてきた作りものの学校教育に怒りの答辞を読みあげる造反高校生たち、手製の革命兵器を作る女子高校生たちをふくめて、歴史は次第に虚構との境界線を取り払ってゆき、いつのまにか主役(従来は親父、いまは倅)から脇役(従来は倅、いまは父親)の立場が逆転していった。  週刊誌のグラビアページでは、毎号数人の女子大生やハイティーンの女の子が全裸をさらしているが、これもまた従来の道徳への造反である。そして、男娼たちのルネッサンス。  私の『天井桟敷』の入団面接は月一回ずつ行なっているのだが、訪れてくるなかに「女装」もしくはあきらかにゲイと思われる男が、三人か四人は、まじっているのである。 「鏡よ、鏡よ、鏡さん!  この世で一ばんきれいなひとは誰?」  と浴槽につかった全裸の男娼が鏡にたずねると、鏡がこたえる。 「マリーさん、それはあなたです」 (マリー、うれしそうに) 「ほんと?  白雪姫は、まだ生まれていないのね」 (といいながら、浴槽からヌーッと足をつき出すとそれは毛深くはずかしい男ものの足である)  またのびちゃったわ、こんなに! エバクレームってのもあてにならないわね。(「毛皮のマリー」)  あらゆる既成概念への造反は、やがては「国家」という概念への疑いにたどりつく。かつて、深夜のじめじめとした古本屋の奥でアナーキストたちがとりかわした蒼《あお》ざめた会話が、今では朝の食卓でモーツァルトをききながら語られる。六〇年から七〇年へかけての永い準備期間をへて、人たちは皆「自分がほんとに欲しているものは何か?」まさぐりはじめたばかりである。七〇年代は、おそらく地理の歴史のなかに、虚構を現実のなかに包みこんで、価値観がつくりかえられてゆくだろう。  十七歳の少年の山口二矢、小森一孝の歴史主義をへて(政治テロ)片桐操、永山則夫の地理主義の挫折(ライフル、拳銃犯罪)が七〇年代の少年犯罪をどのようにかえてゆくか見守ることは興味深い。  なぜならば、その時代の少年犯罪こそが、その時代の国家犯罪の反映だと思われるからである。 「さようならよ」また明日も[#「「さようならよ」また明日も」はゴシック体] 「さよならの総括[#「総括」に傍点]」の総括ということばにこだわることで、私の六〇年代は終ろうとしている。総括にさよならすることで、フリージャズのように、自由な時代を手に入れたいというのが私の考えである。はじまってしまったドラマは、作者が死ぬまで終らないように、さよならもまたくりかえしくりかえし、くりかえされてゆくことだろう。さよならだけが人生だ、というつもりはないが、さよならにだけはおさらばしたくない——というのが永久革命の理というものではないだろうか?  かつて「青い山脈」のなかでうたった。 [#ここから2字下げ] 古い上着よ さようなら [#ここで字下げ終わり]  の「古い上着」  はどんな他のことばにでもあてはまる時代になった、と思われるからである。古い上着知識人、だめなニッポン、セクショナリズム、伝統、ベトナム戦争、大学、そして今過ぎ去ろうとしている私自身の役に立たない言葉、起りそうもない革命、佐良直美の「いいじゃないの、しあわせならば」、返還される[#「返還される」に傍点]沖縄、一九六九年総選挙! [#改ページ] [#見出し] 第二章 きみもヤクザになれる [#小見出し] 裏町紳士録1 パチンコ [#小見出し] 親指無宿 [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  パチンコ屋で三十分ほどの魂の放浪をたのしんでいる無気力なサラリーマンたちは、この「親指無宿」たちをどう見るか? 所詮は押しても駄目なら引いてみなと水前寺清子の唄のように、小さな機械の中の偶然の世界に自分たちのアリバイを賭けてみている運命労働者にすぎないと思うだろうか? [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  親指無宿。  つまり親指一本で、あちこちと渡り歩いている人たち。  その何人かを私は知っている。  彼らは、朝のドラッグ・ストアでスポーツ新聞を読みながら、一匙のにがいコーヒーに時間を稼がせている。午前十時。街中のパチンコ店が開店すると、彼らはそれぞれの目標の店に向かって散ってゆく。  李源国さんも、その一人である。  古物商で買った中古の帽子をかぶり、駅の公衆便所の洗面台で顔を剃ってきて、身なりだけはきちんとしているが、目は鋭い。いつも、にぎりしめたこぶしの中で二つの胡桃《くるみ》をもみあわせているので、 「何してるんだ?」  と訊くと、にやりとして「指のトレーニング」だというのである。 「野球選手は全身のトレーニングが必要ですが、私らは指だけのトレーニングでいいですからね」という訳だ。  李さんは店に入っても、すぐにはタマを買わない。タマを買っても、「いい機械」がないと、そのタマの使いどころがないからである。  そこで、まず、入ったら機械を見る。「行けそうだな」と思う機械があったら、それからタマを買って、始めるのである。タマを買う金は、たった一〇〇円。一〇〇円の勝負にどうしてそんなに真剣なのかといえば、それは正に「生活がかかっている」からなのである。 「明治賭博史」(紀田順一郎)という本を読むと、明治二十五年の「郵便報知」に出たこんな広告が紹介されている。 「賭博奨励演説会。  この沈睡せる社会を覚醒し、大いに財物の融通を謀り、社会に活気をあたえ、不景気を挽回する目的ならびに刑法上に賭博律を置くの不道理なることを認め、大いに賭博を行い、さかんに富くじを興すよう致したし。  よって、賭博律廃止請願を本年度第四議会に提出す。ゆえに十一月十日正午より、東京神田錦輝館にて大会を開く」とある。  これを載せた男は、宮地茂平といって、民権運動さかんな頃、政府に日本脱監届を出したという変りものだったそうである。  この広告の中で私の興味をひいたのは、賭博を「この沈睡せる社会の覚醒」のためと考えているということであった。  李さんと話していても、パチンコ賭博がただのゲームではないことがよくわかる。彼はまさに、自分自身を「覚醒」するために、この道をえらんだのである。  李さんのパチンコは、一口にいって「あたま狙い」である。だから、機械を見るときにはテッペンの釘のひらき具合をまず見る。 「あたまの閉っている機械は、いけませんな」という。  あたまがひらいていたら、次は左のサイドである。台の右半分へ落ちてゆくタマは死ダマといって、まず望みがない。 「右へ寄ったら、何もかもいけません」  というのは、北朝鮮出身の李さんらしいことばだが、そのくせ李さんには、  もう、右も左もどっちの思想も意味がないのである。  ま、いって見れば「祖国喪失」ですな。  と笑う。  どこで暮したって、私らには安堵感ってものがありません。こうして、ぶらぶらと遊んでいるが、もう四十二歳ですからね。  その李さんの、一本だけひどく太くなった親指を見ていると、私は何だか肩でも叩いて 「ま、そういわずに一杯やれよ」  と酒でもすすめたい気分になってくるのであった。 「バネのやわらかすぎる機械は、どんなに釘がひらいててもダメです。  そんなときにはマッチの軸をガラス板にはさんで、輪ゴムでひっぱる。  そのひっぱり方でバネを調節する」  と、技術的な解説をしてくれるのは、べつの親指無宿で、「兵隊」と呼ばれている男である。傷痍軍人だったが「パチンコという手職を見つけて更生した」という。彼は「釘師」とかけもちで、仲間うちでも稼ぎ頭になっているらしい。  閉店と共にパチンコ屋に呼ばれて行き、打ち止めになった台の釘をすこし曲げて、タマの通路をせまくする。よく入る台というのは、タマのよく入る通路が一つあるだけだから、そこさえ妨げれば、大抵入らなくなる。  そしてパチンコ屋から「修理代」を貰って、それを資本にして、べつのパチンコ屋へ稼ぎに行くのである。  調子のいいときで「一〇〇円タマを買って、七、八〇〇〇発。今までの最高は一四〇〇〇発だった」という。  彼らの敵は「バクダン」である。  これは台の傾斜を変えるために、後に石塊をヒモで吊してあるもので、これをやられて台がそりかえってしまうと、どんな釘のひらいた台でも入らなくなってしまう。 「しかも、近頃はバクダンも科学的になりやがって、電気スイッチで傾斜の調節ができるようになってきたから、俺たちの指も、使いにくくなりましたよ」と李さんはいった。 [#ここから2字下げ] 逃げた女房に未練はなああああいが お乳ほしがるこの子が可愛いい [#ここで字下げ終わり]  とグチっぽく唄う一節太郎のレコード。それがラウド・スピーカーから流れ出している。  勤勉実直さに自己嫌悪を感じているサラリーマンたちは、足をすこし外股にひらき、右の肩をおとして、チンジャラ、チンジャラララと、三〇分間ほどの放浪に時を費やす。  台のあたまにタマが入ることが、出世の比喩である。そこを目ざした自分のタマが、思いがけないまわり道をして、下に落ちてゆく。  この快い堕落は、決して人生では手に入らないものなのだ。 「パチンコ屋に入った途端にホッとする。つまり、解放感があるんですな。自分が、自分でなくなることの快感みたいなものがあって、われを忘れて熱中している。ふと気がつくと、いつのまにか隣の台に買物籠をもった妻がいて、やっぱり『われを忘れて』パチンコをやっている……それを見て、ゾーッとしたことがあります」と述懐するサラリーマンもいた。  サラリーマンの諸君にとっては、あの一〇〇円で五〇回もトライできる確率の高さが、「歴史の聖なる一回性」などより、はるかに安全なたのしみなのである。その意味では、パチンコは、小市民を「覚醒」させるというよりはむしろ「沈睡」に誘いこむものであろう。しかし、相手が人間ではなくて機械なのだから、ひどく独白的であり自慰的であり、反社会的でさえある。  パチンコ屋には上機嫌な客は来ませんよ。  昨日宝くじに当ったとか、栄転が決まったとか、恋愛しはじめとかいうのは来ませんな。来るのは、みな少しばかりくたびれて、何となく意気の上がらんようなサラリーマンが多いようですな。  これはいわば、信仰のようなもんですよ——と、裏通りのパチンコ屋の主人の加治さんは語る。  ——パチンコの面白くないところは、タマが小さいということだな。  と私はいった。  ——タマが小さいというのは男性的ではない。あんなものには、理想が感じられないよ。  すると李さんは笑って、「だが、俺たちのは連発ですからね」といった。 「いつでも七、八発は台の中に流れていますよ。  これは仲々、男性的ですよ」  外は雨が降り出した。  雨の降る日は、親指無宿たちの稼ぎの日である。どういうものか「雨の日はよく入る」というジンクスがある。ベニヤ板は雨に弱いから、機械が湿気でゆるんで、釘の反発力が弱まるのではないか、という説もある。しかし、その真疑は私にはわからない。よく入る日は、「タマ泥棒」も「拾い屋」も稼ぎどきである。  子供に拾わせたタマを集めて「しんせい」一個と替えてゆく貧しい父親。  そんな父親もパチンコ産業の生み落した新しい無力人種ということになるだろう。  ほかには「釣玉屋」。ことはあらかじめ少し大きめのタマを持ってきて、それを命釘のわきに打ちこんで釘と釘とのあいだにはさみ、それをいくつかブドウのように重ねて、壁を作ってしまうのである。あとは自動的にどんどん入る。ほかに磁石を貸す「貸し屋」。これを借りて玉を穴まで誘導する磁石師。ゴキ専門。パッキン。などなどのイカサマたちもいる。  だが、それでも入らずに有金をすってしまうこともあるのである。李さんは私に「あんたは詩を書くそうだが」……といった。 「俺は一つだけ知っている詩があるよ。  それは [#ここから2字下げ] 墓場はいちばん 安あがりの下宿屋だ [#ここで字下げ終わり]  って、黒人の書いた詩だがね」  といって笑った。 「俺が思うには三ばんめに安あがりの下宿屋ってのは、  パチンコ屋のことじゃあないのだろうか」 [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録2 トルコ風呂 [#小見出し] 新宿のロレンス [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  個室といってもいろいろある。墓場も個室ならば、独身アパートも個室である。  だが、見知らぬ他人と二人っきりでいられる個室といえば、トルコ風呂だけである。  湯気の立ちこめるトルコ風呂の個室。  そこへ訪れる男と待っている見知らぬ女とは、いわば人間疎外された都会における唯一のアダムとイブとの出会いを思わせるのではないだろうか? [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  ロレンスと言っても「アラビアのロレンス」ばかりではない。繁華街にはトルコ風呂がつきものなので、同じように「池袋のロレンス」もいれば、「渋谷のロレンス」もいることであろう。  彼等は思い思いのいでたちで、トルコ討伐に出かけてゆき、その入口の前で立ち止って、あたりに人なきをたしかめてから、一気に攻めこんでゆくのである。  私は、新宿のロレンスとはいいがたいが、それでもミストルコの友人を何人か持っている。  歌舞伎町のホテルでカンヅメになって叙事詩を書いた頃、ドラッグストアにモーニング・コーヒーを飲みにゆくと必ず彼女らが私を待っている。  同郷のよしみで、田舎への手紙を代筆してくれというのである。そこで私は、彼女らのかわりに近況報告を書いてやる。  それは、ときには母親あてであったり、男友だちあてであったりする。  一通り書き終って渡すと、彼女らは一寸不服そうな顔をして、決まって、 「もっと何か書いてよ」という。 「いったことは全部書いたぜ」  と私は、春川ますみの「そっくりショー応募者」にでも推薦したいほど、肉づきのいい彼女らを見渡して答える。 「でもさ、あんたは詩人でしょ。  最後に詩ぐらいつけてくれたっていいじゃないのさ」と彼女らはいう。 「借金の申し込みに詩でもないだろう?」と私はニヤニヤしながらひやかす。 「何でもいいんだよ。有名な詩だっていいんだからさ。それがつくと、一応体裁がいいじゃないのさ」  そこで、借金の申込みや病気見舞の手紙にまで、まるで無関係な詩が書きくわえられることになるのである。 [#ここから2字下げ] 花に嵐のたとえもあるさ さようならだけが人生だ [#ここで字下げ終わり]  ドアをあけて入ってゆくと、人の好さそうなミストルコが、新妻のようなやさしさで背広を脱がせてハンガーにかけてくれる。 「外はもう寒いでしょ?」といわれて私はだまってうなずく。  たしかに、外には十一月の風が吹いている。彼女らの最初にきくことは決まっていて、「この店、はじめて?」というのである。  それから「むし風呂に入る?」と訊く。訊くところを見ると、トルコ風呂へ入りに来て「むし風呂」を利用しない男も、ずい分といるのだろう。  母親のようにむっちりとした肉体美のミストルコが私を木のボックスの中にとじこめる。私は魔術団の「話す首」のショーのように箱から首だけ出す。するとミストルコが、スポーツ新聞を持ってきて私の顔の前にひろげてくれる。私の首は、いまいましそうに舌打ちして、 「畜生、またジャイアンツが勝ちやがったか!」などと呟く。  汗が額から流れだしはじめる。  ふと、ミストルコが私の口調に気がついて、 「あんた東北じゃない?」と訊ねる。  私の首は汗と湯気で悲しそうな顔になりながら「ああ、東北だよ。  青森だ」という。  するとミストルコはとびあがって「偶然だわあ!  あたしも青森よ!」  といってタオルで汗を拭いてくれ、急に打ちとけて青森弁になってしまうのである。私は大都会の雑踏から隔離された、この小さな密室の中でかわされる青森弁の会話のなかに、彼女の「くたばれ東京」といった気概をひしひしと感じた。それは「東京への反抗」というよりは、むしろほんものの会話を失いかけている都会の現代生活の中でのせい一杯の方言による自己確認だともいえるだろう。  ふいに、むし風呂のボックスの上に這いよってくる一匹の油虫!  それは動けない私の首をめざして、そろそろと這いせまってくる。だが、私はどうしたらいいのか? 「助けてくれ」と私は叫ぶ。  ヒアーッという私の悲鳴と瀑布のような湯気と、そして、けたたましく笑うミストルコ。そこにはすっ裸の私と、水着のミストルコがいるだけだが、バルザックの「風流滑稽譚」のような洗練味はない。  それは、もっとずっと土着したのどかな感じの——たとえば二坪のタイルばりの田園といった感じであったりするのである。  男はヤクザ、女はミストルコが、PTAママたちの「当面の目の敵」である。  どうやら、ヤクザとミストルコとは、つねに風俗の風下におかれてきたらしい。だが、ヤクザ(テキ屋、職人、香具師といった職業をもったものも含めて)とミストルコのあいだに大きな差がある。  それはヤクザがつねに集団に属しているのに比べて、ミストルコたちはいつも孤独だということである。岩井弘融の「親分乾分集団研究」という大論文のなかのやくざの章で、 「私はもともと不良でしたが、あんまり喧嘩するもんで、夜もうっかり歩けないですよ。  だからバクチ打ちか、組にでも入れば万一の時に仇をうってもらえるし、骨も拾ってもらえるというんで入ったのです」  という乾分入門の告白が紹介されているが、たしかにヤクザは孤立し得ない。ヤクザはつねにオーガニーゼーション・マン(organization man)なのである。ところが、ミストルコたちは、いつも孤立している。  彼女らは、オリーブ油の小壜を持ってさすらうマッサージ無宿であり、つねに「保護されない」女たちなのである。  トルコ風呂へ何度か行ったことのある男なら、必ずミストルコの「女の一生」をきかされた経験があることだろう。 「ちえっ、また女の一生か!」  とツバを吐き捨てて、(興奮もさめてしまって)帰ってしまう男もいれば、同情して力になってやると約束して、それっきり音沙汰のない男もいる。  それでも彼女らは西田佐知子の唄を、 [#ここから2字下げ] どうせあたしをだますなら 死ぬまでだましてほしかった。 [#ここで字下げ終わり]  などと真似ながら、またやってくる「話相手になってくれるお客さん」を待っている。彼女らのタオル、石鹸の入った洗面器のなかに、「人に好かれる法」などという本が入っていたりすることは稀ではないし、少し打ちとけると貯金通帳を見せてもらったり、定期入れのなかの母親の写真を見せてもらったりすることもめずらしくないのである。  彼女らは、個室にやってくる男を、ことばの本来の意味での「お客」だと思っている。  だから、彼女ら同士が集まると「客自慢」したり、客の気まぐれでいった冗談を、ほんとに真にうけて同僚に語ったりする。 「どんな客が好きか?」  ときくと「一に話相手になってくれる人、二にお金を沢山くれる人」と答がはねかえってくるが、それはいかにも彼女らが「心は孤独な猟人」であることを物語っているのではなかろうか?  新宿のロレンスたちが集まってきて、 「近頃のミストルコってのはひどくなりやがったよ」といっている。 「マッサージしながら、顔はソッポを向いて、バーブ佐竹の唄か何か口ずさんでるんだ」するとべつのロレンスが「鼻唄なら、まだいい方さ」と不満たっぷりにいう。 「俺んとこなんかもっとひどい。テレビつけて、自分じゃ連ドラを見ながら手だけをうごかしていやがる。ムードなんかは、まるで出ないんだ」  だが、私はこうしたトルコ風呂観というのは間違っていると思う。この拡散した都会生活の中で、一対一の人間が「二人だけの部屋」にいられるのは、もっとも人間的な一刻ではないか。  そこで、はだかの男と半裸の女とが、他人として出会うことのできる新鮮さというのを大切にすることは、とりも直さずコミュニケーションの回復につながる道ではないか。  その選ばれた出会いを、「天地創造」にむすびつけるのは大ゲサだとしても、せめて新宿歌舞伎町のアダムとイブ位のおどろきがあってもいい筈である。サラリーマンがトルコ風呂を「排泄」の場と考え、奥さんたちが風俗紊乱として攻撃するのではなく——ミストルコを人間として扱い、トルコ風呂をエデンの園として扱えるような幻想がほしい。  そしてそれが、不幸かも知れない彼女らへの、何よりの思いやりというものなのである。 [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録3 ホステス [#小見出し] ジャパン・ドリーム [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  軍艦マーチをきこうと思ったら、キャバレーに行くとよい。そこで何時も高らかに、「よかりし昔」のジャパン・ドリームが流れている。  血わき肉おどるジャパン・ドリーム。帝国海軍万歳! だがどことなく軍艦マーチも古くさい日本人の夢となり、安いウィスキーを涙で割って飲むような味がする。  現代人にとってジャパン・ドリームとは一体何なのだろうか? [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  少年時代、私の母は水商売をやっていた。父が死んだあと、女手一つで私を育てるためには、他に道がなかったのである。  母は九州の炭鉱町で働き、月に一回、私に仕送りと長い手紙をくれた。  中学生だった私は、はなれて住んでいる母へ複雑な愛憎を持っていて、一度もものをねだった手紙を書いたことがなかった。 「欲しいものがあったら、何でも書いてよこしなさい」という母の手紙を、私は封も切らずに机の抽出しに入れておいたのである。それでも、あるときハーモニカが欲しくなって、その旨葉書に書いて出したことがあった。  新学期に入ったばかりだったので、新しい鞄も必要だった。  そして間もなく、母から鞄とハーモニカが送られてきた。手紙には、 「さきに鞄を買って、それからハーモニカを買いました。  何も入ってない鞄の中にハーモニカを入れて振るとカタカタと音がしました。そのカタカタという音をきいていると、何だか胸の中がジンとなってきました」と書いてあった。  私は炭鉱町の夕焼のある風景を思いうかべた。こわれかかったネオン、小さな酒場。そしてヤケっぱちの酔客たちの唄う「炭鉱節」。そうしたもののなかに思いうかべる母の、似合わない厚化粧。私は、送られてきたハーモニカを見てなぜか涙ぐみそうになったのを覚えている。  だが、私はそのハーモニカを吹くことはなかった。安物のハーモニカは机の抽出しに忘れられて一年もたたないうちに、錆びてしまった。  木下恵介の「日本の悲劇」が封切られたのは、それから少したってからである。水商売の母が「子供のために」仕送りをつづけているが、子供の方は母になかなかなじまない。それどころか、しだいに心がはなれてゆく。  生計のためには止むを得ぬとは思いながら、やっぱり女給の母を責めつづける。そして母は(子供に捨てられる不安から)線路に身投げして死んでしまうのである。ここに描かれていた悲劇の背後には「母を水商売にまで追いこんだ生活の苦しさ」つまりは、一家の働き手であるところの「父を死なせてしまった」戦争への責任追及の姿勢が高く評価されて、この映画はその年の優秀作品として表彰されたのであった。  だが、私は「日本の悲劇」が、反戦映画であるとは思えなかった。むしろ、もっと反歴史的な母子間のメロドラマのような気がしたのである。  母と子とが、同じ不幸を共同体の紐帯としているときに、母だけが夜の歓楽街に出てゆき、子が取り残される。  残された子にとって、母の「おつとめ」がいわば不貞行為のようにうつるのである。母には参加している社会があるのに、子にはまだ参加の機会が与えられていない。そのもどかしさ。だが、この断層は簡単に埋められるものではない。 「日本の悲劇」の悲劇性は、決してはたされることのない夢が破れたときにはじまる。決してはたされることのない夢。それは私の母も口ぐせのようにいっていた「一家水いらずの幸福」ということである。すでにそのなかの柱である父が死に、子が成長して家を出て、「恋人という名の他人」を狩猟に出かけてゆこうとしているときに、母だけがねがう「一家水いらずの幸福」とは何であろうか?  女給たちがうたった古い流行歌。まるで地獄のすきま風のようにヒューヒューと吹きまくるSP蓄音機の針の音。そして、 [#ここから2字下げ] 雨の日も風の日も 泣いてくらす わたしゃ浮世の渡り鳥 泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ 泣けばつばさも ままならぬ [#ここで字下げ終わり]  という歌詞。  一所定住を夢見ながらなぜか「ままならぬつばさで飛ぼう」とする母たち。そのへんの二律背反が、日本の悲劇の起因になっていたように思われる。 「お金なんかなくてもいいんだよ」と中学生の私がいったことがある。 「学校の小使か炊事のおばさんにでもなって、貧乏でも一緒に暮してた方がいいんじゃない?」と私がいうと、母は笑って「人間万事、金の世の中だからね」といった。 「おまえが安心して進学できるまで、金をためなければいけないんだよ」  この、蓄積の思想が同時代の母たちの夢(つまりは、ジャパン・ドリーム)だったとすれば、その未来志向型の母を捨てて家出して自力で生きようとする子供たちの現在志向型の思想もまたジャパン・ドリームだったのである。だから、望月優子さん。あなたは「日本の悲劇」で自分の子供に捨てられたのではなくて、くいちがった二つのジャパン・ドリームの断層に落ちこんで死んでしまったということになるようです。  マイナーアメリカ化しているわが国の現状は、まさに、復興期におけるマーク・トーウェンの小説の主人公によってパラフレーズされる。  すなわち、母たちの夢みる、トム・ソーヤー型人格の完成。そして、そのトム・ソーヤーが成長して作るであろうところの小市民的な家庭への期待と、子たちが夢みるハックルベリー・フィン型人格へのあこがれである。  現代の、私たちをとりまくトム・ソーヤー型の平和は一応達成されたかに見える。それは電気冷蔵庫を中心に夢想する平和。テレビ的なホームドラマと、洗濯機と週刊誌。それに「お茶と同情」だけですますことのできる他人との交際法などによってあきらかになっている。  終戦直後の、母たちの悪戦苦闘はある程度の成果をおさめたという訳だ。 (だが——この母型のジャパン・ドリームには、どこかポッカリと穴のあいた部分がある。それは、何によってうめあわせればいいのかはわからぬが、いいようのない寂漠とした穴である)  夫たちは、団地アパートの蒲団の中で妻の寝息をききながらふと考える。 「おれの中のハックルベリー・フィンはどこへ行った?  少年時代に夢見た、放浪と冒険の欲望はどこへ行ったのだ?」と。  キャバレー、酒場はホームドラマの敵役として存在する。それは果たされなかったもう一つのジャパン・ドリームのいこいの場所である。酒を飲まねば「自由」になれない背広姿のハックルベリー・フィンたちが、見失った何かをさがしてバーのドアを押す。  中には音楽がいっぱいつまっている。ホステスのスカートに手をさしこんでいる経理課のハックルベリー・フィン。酔えばすぐ眠ってしまう老ハックルベリー・フィン。汗まみれでモンキーダンスを踊っている中年の政治家のハックルベリー・フィン。どのハックルベリー・フィンも、実人生ではもうあきらめてしまった生甲斐を酔いと喧噪のキャバレーや酒場の中でなら思い出すことができる。 「おッ! いいねえ。軍艦マーチじゃないか!」  と老サラリーマンが立ち上がる。キャバレーの楽隊が「よかりし昔」のジャパン・ドリームを奏ではじめる。  まもるも攻めるも くろがねの  タラララ ララララ ラララッタッタ  そこでこぶしをふりあげる老サラリーマンは、かつては酒を飲みながら腕時計を見ることはなかったものである。しかし、いまではどんなに陶然として「自由」の夢を見ていても、時間がくるとホステスたちはさっと引揚げて、レシートが鼻先に突きつけられて、夢から醒めてしまうという仕組みなのだ。キャバレーを出て、暗闇の路地裏へ出て、人目をしのんで立小便をするときに、わずかにハックルベリー・フィンの心境を理解するというだけではジャパン・ドリームももはや修理不能というところである。  暗い太平洋にたった一人で航海に出て行った少年堀江謙一は、携帯ラジオから流れでる村田英雄の [#ここから2字下げ] 吹けばとぶよな将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え [#ここで字下げ終わり]  という唄をきいて、思わず涙を流したという。堀江謙一もまた、吹けばとぶよなヨットにジャパン・ドリームを賭けていたからである。  だが一体、われわれは命を賭けるに足る何を持っているか? [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録4 ストリッパー [#小見出し] 肉体なればこそ [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  ユリシーズの時代には、肉体が見事だというだけで英雄になれた。  だが現代では見事な肉体の持主は労働者になるか自衛隊に入るかしかなくなってしまった。  そして、君臨しているのは貧弱な肉体とゆたかな頭脳を持ったインテリという種族である。病める叡智のなかで、ああ、見事な肉体の夢は、いずこ? [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  はじめに一人の名もないストリッパーを紹介しよう。  彼女はストリッパーになってから、まだ数か月にしかならない新米である。おっぱいは素晴しく大きいが、顔にはあどけなさが残っている。  彼女は東北の出身である。 [#ここから2字下げ] かの旅の汽車の車掌が ゆくりなくも 我が中学の友なりしかな [#ここで字下げ終わり]  という啄木の歌を思い出させるような、小さな村で、彼女は生まれた。小学校はまじめに通ったが、中学へ入ってからぐれ出して、途中で退学し、睡眠薬あそびをするようになった。いつのまにか、彼女は「ズベ公」と呼ばれていたが、自分では 「いまの自分は、ほんとの自分ではない」  という気がしたのである。  補導され、放りこまれた豚箱の中で、彼女はルイジアナ・マリと知りあった。ルイジアナ・マリはハイティーンのストリッパーで、東京から巡業にやってきて、保守的な東北人に「全部見せてしまって」逮捕されたという。  こうして田舎のズベ公と、東京のストリッパーのあいだに友情が生まれた。二人は、まるでおぼつかない口ぶりで人生について語りあった。  ——田舎で生まれても、男ならボクサーとか歌手とかになれる……野球選手にだってなれるでしょ。  でも、女はだめね。  と、彼女はいった。  ——女はむずかしいよ。  するとマリは、彼女をなぐさめた。  ——あんたには、いいものがあるじゃないのさ。  ——いいもの?  ——ほらほら、そのおっぱいだよ。(と指さして)  そんな立派な体をしてたら、あんた東京へ出てもそれだけで[#「それだけで」に傍点]食べてゆけると思うわ。  と、マリはいうのである。  彼女はしみじみと自分の体を眺めた。肉体が素晴しいというだけで生きてゆけたのは古い時代の話だと思っていたのである。いまでは立派な肉体の持主はみな「労働者」になって立派な頭脳の持主にこき使われている。  メガネをかけた小男が、ターザンのような美丈夫を顎で使役するような時代となってしまった。  だが、もしもマリのいうのがほんとなら、東京へ出ればなんとかやっていけるかも知れないわね。  そう思うと、彼女は急に「うれしくなっちゃった」というのである。  イヴ・ロベールの映画「わんぱく戦争」のなかで、男の子たちがいっぱい集まる。  これから戦争ごっこが始まろうというときになって、一人の子がみんなに訊ねる。 「だれが一体、大将になるの?」  すると逞ましい他の子がこたえる。 「おちんちんの一ばん大きい子が大将になるのだ!」  そこで観客はドッと笑ったが、その笑いの底には、観客の羨望がこめられていたように思われる。素朴で、もっとも人間的だった「健康の時代」は、いつのまにか病める叡智にとってかわられてしまっているからである。  さて、豚箱を出所した彼女は、風呂敷包みを持ち、マリに書いて貰った地図をたよりに東京へやってきた。そして、あちこち迷いながらマリのアパートをさがしあてて、ノックすると中から一人の男が出てきた。  マリの夫だという。 「マリちゃんをたずねてきたんですけど」というと、 「マリはどっかへ逃げちゃって、音沙汰もないね」ということであった。  そこで途方にくれてしまうところであったが、上京してきたからにはあとにはひけない。村田英雄さんも、 [#ここから2字下げ] 明日は東京へ出てゆくからにゃ なにがなんでも勝たねばならぬ [#ここで字下げ終わり]  といっていることだし、それに彼女は「見事なおっぱい」を持っている——その自信が彼女を強くした。  彼女は、かつてマリのマネージャーをしていたという人を探し出して「わたしを使って下さい」と申し出たのである。  マネージャーは彼女を一目見て承諾した。はじめの一日は見学だったが。二日目には、もう舞台へ出た。フィナーレでおじぎをしただけだったが、彼女のおっぱいは、こうして「社会化」したのである。ひと月たったところで、彼女のための入浴シーンを入れようということになった。  真夜中の舞台稽古で、彼女は何べんも「見せる入浴」の稽古をした。シャボンの泡をたてて、その中へ裸で入ってニッコリ笑うというもので、彼女は大張切りであったが、それが突然中止になったときにはガッカリした。  舞台の袖に、おフロを置く場所がなかったのである。  いまのところ、彼女は大劇場へ出る夢は持っていないという。  みんな親切だし、みんな自分の肉体を「ほめてくれる」からである。  ——お金たまったら、どうするの?  と訊くと  ——そうね。(と、一寸天井を見上げて考えながら)部屋を借りたいわ。  という。  ——いま、みんなと一緒でしょ。  自分の部屋を持ちたいの。すると田舎から友だちがでてきたときにも、泊めてあげられるでしょ。 (思うだけでたのしいのか、急にニコニコ顔になった)  ——友だちって、ボーイフレンド? (彼女は、黙る。もう一度きくと、「一寸まずいんです」という)  ——まずい、ということは、好きな人がいるってことかな?  というと、また笑う。  ——それは、どんな人?  と訊くと  ——大学生です。  というのであった。  ——田舎には帰りたくない?  と訊くと低い声で「帰りたい」といい、すぐに、「でも、帰らない」とつけ加えた。  田舎には彼女の暗い過去がある。バアのホステス、芸者などの生活、家出して線路づたいにどこまでも「逃げようとした」思い出。  それは、まだ人生がはじまる前に、挫折だけを経験した一人の少女の履歴書のようなものである。  手を見せてくれる。  手首には、無数の火傷のあとがある。私が驚いて、  ——どうしたんだ、これは?  と訊くと、彼女は相変らずニコニコしながら  ——焼いたのよ、自分で  というのである。  ——ラリってた頃、クスリが効いてくるでしょ。  すると痛みが全然感じなくなるの。  それが何だか面白くって、マッチで自分で焼いてみたの。  ——しかし、こんなに焼いたら、少しは痛むだろう。  ——それが全然なの。  だから、こんなに焼いちゃった。  と平気で語る。  むろん、後悔などはしない。  いつも、ニコニコしているところが身上なのである。  私は「月を眺めて目に涙」式の、世にもあわれな女というのが嫌いである。大体、運のわるい女というのが嫌いなのである。どんな大難をくぐりぬけても、いつもニコニコしていられる女のなかに、ほんとの悲しみを見出したときに、そんな女につよく魅かれるのである。  さらに、自分の誇りを持たない女も嫌いである。  彼女のように素晴しいおっぱいを自負しているときに、女は美しくなる。どんなに知性が支配する時代にあっても、肉体がその土壌になっているのは、まぎれもない事実なのだ。  むかし、小学校の先生はいいことを教えてくれたものだ。 「健全なる精神は健全なる身体に宿る」  まったくその通りである。彼女の出演している劇場の男子便所にエンピツで「肉体万歳! くたばれ文明!」と落書してあったが、この両者、実は切っても切れない親子のようなものなのだ。  東北のイルマ・ラ・ドース。  彼女の名前は、トミー・秋月。十九歳。  いまは浅草座の舞台から、おっぱいの挨拶を送っている。 [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録5 サラリーマン [#小見出し] 歩兵の思想 [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  サラリーマンは  気楽な稼業と来たもんだあ  とサラリーマンではない植木等氏が唄う。  すると、満員電車のサラリーマンたちは身をゆさぶって幸福そうに笑う。  だが一体「気楽」とは何なのか? それはサラリーマンにとって喜ぶべきことなのかどうか? 小市民的な時代における「大市民」の理想について考えてみよう。 [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  ライスカレーとラーメンとの時代的考察をしてみようと思いはじめた。  この二つの食物は、ともに学生やサラリーマンにもっとも身近なものであって、これに餃子を加えると大衆食「三種の神器」になる。  だが、ライスカレーとラーメンとはよく似たような愛され方をしているように見えながら、実は微妙にちがったファンを持っているのである。  一口に断定すれば、ライスカレー人間というのは現状維持型の保守派が多くて、ラーメン人間というのは欲求不満型の革新派が多い。それは(インスタント食品をのぞくと)ライスカレーが家庭の味であるのにくらべて、ラーメンが街の味だからかもしれない。  私の持っていたラジオ番組「キャスター」(QR)の中で、ノーマン・メイラーばりに「一分間に一万語」というセクションを設けて、聴視者に一分間ずつ勝手なことを演説させたり、プロテストさせたりしたことがあった。 (なかには、日常生活があまりにも味気ないので、ラジオを通して一分間笑って、日本中に自分の笑い声をひびかせたいという人もいて、一分間「イヒヒヒ、ウフフフフフ……フフ、イヒヒ、ホホ……」と繰り返したこともあった)  その一分間一万語の出演者の中の、あるサラリーマンがライスカレーの話をしたのが妙に私の心に残った。  彼は、自分の妻のライスカレーがいかにうまいか、という話を一分間したのであったが、それはいわば「家庭の幸福」のシンボルとして、ライスカレー憲章のようなものが存在する、という話であった。 「どんなに会社で面白くないことがあっても、路地を曲ってアパートの方からプーンと、うちのかあちゃんのライスカレーの匂いが漂ってくるともう何もかも忘れちゃってね。  ああ、俺にはホームがあるなってことをシミジミと感じましたね」  ——こうしたライスカレー人間が、いわばホワイトカラーの典型であって、日本の歩兵なのである。  彼ら、ライスカレー歩兵にとって、幸福の最大公約数は「よく眠ること」「親子そろって無事であること」「テレビを観ること」などである。  だからこそ、植木等はカンシャク玉を破裂させたような声で日本版プロテストソングを唄うのだ。 [#ここから2字下げ] ホラも吹かなきゃ ホコリも立たず いびきもかかなきゃ ねごともいわず ボソボソ暮らしても 世の中ァ同じ デッカイホラ吹いて プワーッといこう ホラ吹いて ホラ吹いて 吹いて! 吹いて! 吹いて! [#ここで字下げ終わり]  という訳だ。  だが、同じ「一分間に一万語」で、日本人ホラ吹き大コンクールと銘打って、ホラの吹きくらべをさせたときにも何一つ卓抜なものが出てこなかった。ホラが出ないでウソが出る。つまり、現実のヴァリエーションは出るが、想像力の創造などは出てこないのである。 「ああ、つまらないね」と私はいった。 「ライスカレー人間には何も期待できない。彼ら幸福な種族には、もはや現実との緊張関係など生まれっこないのだ」 「でも、それがいいんじゃないのですか」  とサラリーマン氏はいった。 「ほら吹いてプワーッといこうとしたところで、現実はそんなに甘くはないですからね。地道に、平凡にいくのが一番いいんですよ」  ところで、ライスカレー人間のこの堅実さにくらべると、ラーメン人間の方がいく分可能性が持てる。  ラーメン人間は、何時も少し貧しく、そしていらいらしている。あの、地獄のカマユデのように湯気の立ちのぼるラーメン屋の台所には、何かしら、「戦争」のイメージさえ思い出させるものがある。というサラリーマンもいる。「結局のところ、ラーメン人間の欲求不満ってのは、そのラーメンの味の中に何かを求めてるんじゃなくって、ライスカレーよりも安いってところから来るんですよ。  安いラーメンしか食えないって不満と、すぐに腹が空くって不満。  つまりは収入が少ないって不満であり、階級的な不満ってことになるんですよ」そう説明してくれたのも、またべつのサラリーマン氏である。  だが……と私は思うのだ。 「ラーメンとライスカレーのあいだの、ほんの二、三十円の値段の差が、幸福の限界線だというのは、あまりにも涙ぐましい話じゃないかね?」 「ライスカレーはうまいですからね。インド人もびっくり! なんていうじゃないですか!」 「キミは?」と私は訊ねた。 「ヒレ肉のステーキや、北京の鴨や、燕の巣のスープを味わってみたいとは思わないかね?」  するとサラリーマン氏いわく、 「私はあんまりゲテモノ趣味はないんです」 「ゲテモノ? ゲテモノじゃない、私は高級料理の話をしているのだ」  すると彼は軽蔑的にいった。 「そんなもの食ったって何になるんです?  燕の巣なんか食ってみたって、お腹をこわさなければ幸運ですよ。  第一、ビクビクしながら食ったってちっともうまくないですからね」 「それじゃ、食生活の冒険なんて無理だね。味覚文化もちっとも発達しない」 「ああ、発達しなくたっていいですよ。私はかあちゃんのライスカレーさえあれば充分満足なんだから」  ジャン・ポール・ラクロワの「出世しない秘訣」という書物には「いかにして出世から逃がれるか」ということが書かれてある。それによると、 「一たん出世したら、金はなくともヒマと友情にめぐまれつつ幸福を小川の鮒のように釣り上げていた楽しかりし日を偲んでも、もはや追っつかない。こうしたご仁は、金を儲けたり命令を発したりする機械になりはてて、ハートのところには小切手帳を持ち、うちつづく社用パーティーで肝臓はふくれあがり、受話器のために耳は変形してしまう。  彼らはいう——時は金なりと。だが、おかしなことに、金を持てば持つほど彼らの時は少なくなっている。  友人と一ぱいひっかけに行くとか、若い娘さんとボート遊びをするとか、古本屋をあさり廻るとか——そんな真似をしていられるかい、一分間に十万フラン儲かる(または損する)とわかっているんだもの——ふふん。……といった按配」  そして出世を避けて、平凡に生きるためにはどうするかについての、細目にわたる指針が示されている。  その通りにしさえすれば、「四十歳頃には、あなたはかのすばらしい存在、あの文明の華、すなわち『落伍者』となりうるだろう」という訳である。  こうした爆笑を誘うような書物こそ、ライスカレー人間にとっては福音の書であるといえる。つまり「友人をつくるな」「ヘマをやれ」「目立つな」というアドバイスこそ、彼らの無気力さのカクレミノになるからである。  しかも、その巻末の「いかにして彼らは出世しなかったか」という有名でない人々の伝記とわが身とをひきくらべて、その類似点の多さにニヤニヤしながら、ホッと安堵の溜息を洩らし、同時に何となくさみしい気がすることだろう。  サラリーマンは歩兵である。  つまり、満員電車と会社とマイホームの往復を一齣ずつ一進一歩してゆく。しかし、将棋においては歩兵は一度ひっくりかえるとたちまち金将になることもできるのである。  これは出世の喩ではなくて、もっと大きな……たとえば「価値の問題」としてである。  ライスカレーとラーメンの小競合いから、一気に生きかた全体への問題にまで立ちもどるときに、二つの食物の差が大きなサラリーマンの理想にまで発展する可能性を持ちはじめるのだ。  サラリーマンの「幸福論」は、ライスカレーの中などに見出されるべきではない。「幸福」について、もっともっと流動的なイメージを持たぬ限り、歩兵は一生歩兵のままで終ることになるだろう。 「幸福とは幸福をさがすことである。 [#地付き]ジュール・ルナアル」   [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録6 ガンマニア [#小見出し] 銃 [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  文明国で拳銃の所持を禁止している国はわが国だけである。  アメリカでは、税金さえ払えば機関銃でも買えるという。  ああ、おれは拳銃がほしいな。  と、少年がいった。  何を撃つの? と少女が訊ねた。  太陽だよ。と少年がいった。  あいつ見てるとシャクにさわるんだ。 [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  少年は銃砲器店の前で立ちどまる。  曇った硝子戸の中に、銃がずらりと並んでいる。少年は、それが欲しい。  だが少年にはそれを買う資格もなければ、金もないのである。  少年は古本屋で立ち読みした本の一節を思いうかべる。「銃の歴史は火薬の発明と同時にはじまっている。すでに一六六四年には、サー・ロバート・メイヤーという人が、自動式拳銃の原理を実用化するための論文を書いている」一六六四年といえば、今から三〇〇年も前である。そのころは、少年も少年の父親も、そして少年の祖父さえも生まれていなかった。  そんな昔に作られた銃は、いったいどんな風に用いられたのであろうか。 「銃って何を撃つの?」と少年がいった。 「いろいろだよ」と父親がいった。「カモだのイノシシだの、いろいろだよ」少年は階段に腰かけていた。父親はテーブルに腰かけて、一人で食後のウイスキーを飲んでいた。もうすっかり日が沈んで、あたりは暗くなっているのに、まだ電灯をつけていなかった。「それだけ?」と少年がいった。 「ほんとは、人間を撃つんだろう?」父親は笑った。 「戦争のときは、ね。だが今は誰もそんなことをしたりはしない。ハンターたちが、カモだのイノシシを撃つために使うんだよ」  ふうん。と少年は半信半疑になる。  カモだのイノシシがそんなに沢山いるものだろうか? 「もしも」と少年がいった。 「もしも、弾丸をまちがって人に撃つとどうなるの?」父親は、少しわずらわしくなって来る。ひとりでゆっくり酔いたいところだった。だが聞かれたことには答えてやらねばならない。「大口径のがあたったときには、血管やまわりの組織がこわれてしまうし、首の骨の神経にあたったら、一たまりもない。大ていは出血多量や内臓をやられるからね。死んでしまうだろう」 「死ぬの?」と少年がいった。 「死ぬんだ」と父親がいい直した。だが、少年は「死ぬ」と発音することが出来なかった。いつも「死む」とか「死まない」とかいって笑われるのである。  少年は死について考えてみたことはなかった。しかし、絶対ということについてなら、ときどき考えてみることがあった。  バットマンやビッグX、鉄腕アトムが絶対であるように、銃もまた絶対の存在であるような気がしたのだ。テレビの中で、一人の男がもう一人の男に追いつめられる。ぎりぎりの土壇場で、あわや、というときに追いつめられた方の男がポケットから拳銃をとり出すと、忽ち立場が逆転する。そんな場面を少年は何度も見たことがあった。 「もし拳銃が手に入ったら」と少年は思った。「どんなに素敵だろう」  少年の父親は足がわるかった。母親は少年が学校へ入った年に肝臓癌で死んだ。少年は体が決して丈夫ではなかった。  運動会ではいつも後方を走ったし、喧嘩をして勝ったことがなかった。一度、神というものについて考えてみたことがあった。それは見世物小屋で鎖を切ってみせた怪力男にそっくりの神だった。  少年はことしの夏、線路をこえて、わざわざ神学校まで行ってみた。だが、青い蔦のからんだ礼拝堂の中から出てくる神学生たちは、一人として少年の考えていた神のイメージに近くはなかった。痩せていたり、眼鏡をかけていたり、キェルケゴールやマックス・ピカートの書物を小脇にかかえていたり。 「ぼくは銃を買うんだ」と少年がいった。 「ほんとかい」と羨ましそうに、そばかすがいった。 「でも、撃ちかたも知らないんだろ?」 「なあに」と少年はいった。「撃ち方なんかすぐ覚えられるさ」  少年は銃砲器店の曇り硝子に映っている自分の顔を見た。その顔にダブル・イメージで一列に銃が陳列されていた。現在、所持禁止の銃を挙げると、フル・オートマチックの銃。六連発以上の自動装填式銃(二二口径をのぞく)。口径一〇・五五ミリ以上のライフルと、番径八番以上の散弾銃。組み替えもしくは分解することによって拳銃になる銃。全長九三・九センチ以下銃身長四八・八センチ以下の銃。少年はドアを押して中へ入った。  中は暖かで剥製の鳥や鹿の頭や見なれない外国の文字がいっぱいだった。 「毎日来てるんだね」と売場のアルバイトの学生が、銃身を拭きながら声をかけた。少年は、だまって肩をすくめて見せた。 「銃が好きかい?」とアルバイト学生がいった。 「ああ、好きだよ」と少年がいった。 「好きでもまだ駄目だ」  とアルバイト学生がいった。 「あと十年は駄目だ」あと十年は長すぎると少年は思った。  生まれてから、まだやっと十年たったばかりなのだ。 「これはワルサーのスポーティング・ライフル五連発ボルト・アクションだよ。ほら、ここに刻んであるのが、ライフル・グルーブだ」  とアルバイト学生は少年の手をとって、ぎざぎざしたところへさわらせた。少年はびっくりして手をひっこめた。何となく、こわい気がした。 「一寸、持ってみるかい?」  とアルバイト学生がいった。  少年はだまっていた。  アルバイト学生は、そのだまっている少年に賞状でも渡すように、銃を手渡した。少年は、その銃を両手でうけとめた。それは、とても冷たくて、しかも重たかった。 「銃は死んでるんだ」と少年は思った。 「だけど、撃つときにはきっとよみがえるだろう」  その銃は、油の匂いがした。少年は前にも一度この匂いを嗅いだことがあるような気がした。それは、母がまだ生きていたころの、櫛の匂いだった。  その夜、少年は夢を見た。  少年は銃を持って、冬草のしげみから、空をとぶ一羽の鳥をめがけて撃つところだった。少年は、銃の重さを肩に感じながら、引金をひいた。平手打でもくらったように、銃身が横頬にぶつかった。  しかし。弾丸は見事に命中して、空に鳥の羽毛が砕散した。 「あたった!」と少年は夢のなかで叫んだ。  だが弾丸が命中しても、鳥は落ちてこずに、すこしかたむいていただけで、ゆっくりととびつづけてゆくのだ。  つづけざまに少年は二発目、三発目を撃った。  どの弾丸も鳥に命中し、そのたびに羽毛が空にとび散った。  しかし、鳥はやっぱり、落ちずにとびつづけていた。  少年はしだいに手がかじかんできた。そして、頬はすりむけて肩の骨は外れそうに痛かった。それでも少年は撃ちつづけた。  だが、鳥は落ちては来なかった。  少年は涙ぐんだ。銃をもっても、つき破れない強固なもう一つの世界があることが、無性にかなしかった。少年の頭上に、どんよりとした人生以前の日の太陽がふりそそぎ、少年のスポーティング・ライフル五連発ボルトアクションは、ただ、鳥のとび去ったあとの空を撃ちつづけるしかないのだった。  アメリカではライフル少年の犯罪が新聞記事を賑わしている。少年が、ある日突然に自分の幸福な両親に、銃口を向ける恐怖は、そのままアメリカのベトナム政策への批判だという解説もある。  だが、銃のつめたく重い存在感は一切の比喩をこばむだろう。  あと十年! と少年は考えている。  階段に腰かけて、頬杖をついて、昨夜の夢の終ったところから、今日を生きつづけなければいけないのである。 「ああ、早く大人になりたいな」と少年はつぶやく。  そのつぶやきを背中で聞きながら、父親はまた一人でウイスキーを飲んでいる。 「銃を持てない社会はつまらないが、銃を必要とする社会はもっとつまらない」  酔いがまわってくると、二十年前の足の古傷がまた痛みだす。  父親は、終った戦争についてぼんやりと考える。 「おれの足を駄目にしたのもたかが一本の銃だった。  そして、いまおれの息子が欲しがっているのもたかが一本の銃なのだ」と。 [#改ページ] [#小見出し] 裏町紳士録7 長距離トラック [#小見出し] 暁に祈る [#ここから1字下げ] [#ここからゴシック体]  どこへ行くかなんて知っちゃない  ただもう ここから  はなれて行きたい  ——ラングストン・ヒューズ 暁にまた一台の長距離トラックが発ってゆく。彼らの人生は、ただ走ることである。一人の運転手が、ドライブインのホステスに大きな声で叫んでいる。 「俺に手紙をくれようたって、それは無理だよ。  俺の住所は、道路だからな」 [#ここでゴシック体終わり] [#ここで字下げ終わり]  長距離トラックの運転手たちの集まってくる食堂は、さながら底辺のグランド・ホテルといった印象である。  そこには様々の人生模様が、一杯のドンブリ飯を食う時間の長さ分だけ繰りひろげられるのである。  食堂の壁には、ホルモン定食、スタミナ定食、モツ煮定食、それに「強力滋養」のいか天ぷら定食、トンテキなどなどのメニューがべたべたと貼ってある。台所の大きな釜からは地獄の湯気がもうもうと立ちこめていて、いま殺されたばかりの鶏の足や、豚の爪がバケツ一杯つめこまれている。食堂の中は、真夜中でも汗の匂いのいりまじった暑い空気にみちみちているが、一歩外へ出るとそこはもう無人のハイウェイで、あたりにはまったく人家がなく、ただ暗闇をついて長距離トラックが通りすぎてゆくばかりだ。 「おばさん、あの運ちゃん、毎晩同じ曲ばっかりリクェストしてるね」  とドンブリ飯をはこぶ女の子がレジのおばさんを見ながら小声でささやく。見ると、中古のジュークボックスの前に少し背中を丸くした年の頃四十二、三のサバを運搬するトラックの運ちゃんが、まわっているレコードを、思いつめたように見ている。  逃げた女房にゃ未練はなァーいが、お乳ほしがるこの子がかわいーい  子守唄などにがてな俺だが 馬鹿な男の……浪曲節…… 「あの運ちゃん、女房に逃げられたんだって」とおばさんがいう。 「何しろ、長距離トラックの運転手なんてのは、多くても週一回しか家に帰れないんだもんね、女房がアイソつかすのも無理ない話さ」  その自慢のモツ煮定食の中味は、大根とにんじんと、得体の知れぬ臓物である。ミソで煮て刻んだネギがパラパラとかかっているのもあるが、量の多くないものはよく売れない。 「女房に逃げられちまって、それからコースを変えてね。沼津=東京間だったのを大阪=花巻間まで延長させたんだって。少しでも遠くまで行く方が、ほれ、女房に出会うチャンスも多かろうって訳ですよ」  モツ煮のネギが少しくさい。噛んでいると歯の奥から冬の土の匂いがしてくる。それは子供の頃すごした故郷の裏畑の匂いだ。レコードは洟のつまったような声で、感傷的な文句を喉の奥から吐き捨てている。  どこか似ている めしたき女 抱いてくれるか不憫なこの子 「ああ、おっちゃん、もう出るぜ」と若い運ちゃんがシャツの上からネンネコをひっかけてヨージで口の中をかきまわしながら、ジュークボックスの中年の運ちゃんの肩を叩く。 「おれ少し寝てくからな。横浜で起こしてくれよ」 「ほれほれ、あの人は二時さんっていうんですよ」とレジのおばさんが両替用の銅貨の包みをほどきながら教えてくれる。「名前は知らないけど、あの人が入って来ると必ず二時なんですよ。まるで時計みたいに正確なの」  そういわれた男は、フリッパーにガチャン、と銅貨を投げこんだところだ。もう一人の鶏のエサ運搬会社のトラックの運ちゃんが 「昨日は大分いかれたからな」  といいながら、フリッパーをにらむ。メイド・イン・ニューヨーク。ビキニスタイルの女がかいてあるフリッパーの中には無数の「迷路」があって、彼らはそのあいだを白いタマをころがして、一ゲーム百円ずつ賭けあうのだ。お互いに名前も知らない同士だが、いつも「同じ釜のメシ」を食って、ここで一勝負しては南と北のそれぞれのコースをめざして、またはるかなトラックの旅人になるという訳だ。はじかれたタマがフリッパーの中をころがり、それが穴に落ちそうになるのを、左右の人差指でボタンを押してくいとめる。だが、タマはやがてまた落ちそうになる。それをくいとめようとするのは指だけの意志ではない。そこには、一番下まで落ちそうになるタマと、それをくいとめようとする彼の醒めた判断のたたかいが、まるで「幸福論」の比喩のようにぶっつかりあう。たった百円の幸福論。だが、落ちてしまったタマはもう二度とフリッパーの中で甦えることはできない。  さあ、「おまえの番だ」と鶏のエサがいう。  二時は、自分のラッキーを賭ける白い玉を親指の先で力一杯はじきかえす。 「イルカですよ」というのは金歯の光る男だった。 「イルカを運ぶんです」「そんなもの運んでどうするんだい?」 「食うのさ」「イルカを食うんだと?」  私は半信半疑で、その運転手の顔を見る。二杯目のカツ丼がもう空っぽだ。 「イルカを食うなんて、おれは知らなかったね」  すると金歯は笑っていった。 「ハラワタなんて美味いもんですよ」  そして、「それに、イルカの刺身ってのはこたえられないね。  これ食わせると、カアちゃん、マイッタ、マイッタっていうよ」  ふうん。と私は感心して、この金歯の男にも、やはり待っている妻子がいるのだな、と思う。だが、こんなさむい冬の海にもイルカなんているのだろうか? と思う。いつのまにか金歯の男を待っているアパートの妻子と冬の海のイルカとがダブルイメージになってその男の煙草のけむりのなかでいりまじる。イルカいるか。いないか、いるか。妻子はイルカ。イルカはいるか。  何だか、ひどくやるせない気分だが、それも午前二時という時間のせいだろうか?  いい年した男が、そろいもそろって指輪をしているとは恐れ入ったね。  と私が豚汁をすすりながら(いささか酔って)ひやかす。  恐れ入りましたよ。指輪とはね。  するとなかの一人の土管運びの運ちゃんが、これは指輪じゃありませんよ、といって指から外してみせてくれる。 「指輪じゃなかったら何だね?」「ハンコですよ」 「ハンコ?」と私はそれを取り上げてみる。  なるほど、ハンコである。 「俺たちゃ、いつどこで事故を起こすかわからんものね」 「つかまったとき、すぐに赤い紙にハンコをおさされるが、ハンコがないとまずいんですよ。それで失くさないように、こうやって指につけておいてるんです。一生これを使わないで済みゃいいんだがねえ……」  そういう顔色は大分くたびれている。くたびれているが、しかし威勢だけはいい。 「おれの兄貴は人身で三人死なせて、足を洗っていまは勤め人をやっているが、それでも夜中の二時頃になって、遠くを走る砂利トラの音をきくと、ガバッと目がさめるそうだよ。交代かと思うらしいね。交代のときは、眠くてとてもつらい」  だから、コーヒーがよく売れるのである。どんな「強力滋養」のスタミナ食よりもコーヒーがよく出るのは、彼らの仕事がただ「眠さとの闘い」だからに他ならない。それでも、「体がバテるわりには金は貯まらないね。入っても名古屋で競艇でもやって、スッちまうことの方が多いし、たまに穴でもあてると女に費っちまうからね。  女は、金のあるときはやさしくしてくれるもんだよ」  暁の高速道路をとばしてゆく長距離トラックには、どこかしら悲壮なものがある。それは、同じ時代に生きながら、何一つ自分の青年時代に賭けるべきものを持たなかった者たちの、いささかヤケッパチのロードレースなのである。のぼる陽を背にして北へ北へと走ってゆく、サバを積んだトラックの運転台の上で、他の人たちのささやかな小市民生活を羨やみながら [#ここから2字下げ] どうせ俺らは さすらいの [#ここで字下げ終わり]  と口笛を吹いて遠ざかってゆく彼らの事故には、ただの運転上のミスとか、  過重労働によるつかれだけではないもっと本質的な何かがある。  それはこの不当な時代への怨恨のようでもあるといっていいだろう。 「なあに、同じ道にあきたらまた他の会社へ行くよ。  日本国中はしってみたいからね。  そのうち、どっかで止ってその町で一生暮らすことになるかもしれないけど、今はただ走るってことが俺の生活だからね」 [#改ページ] [#小見出し] 二人の女  四月十日。  桜花賞レースの中継放送をききながら私は二人の女のことを思い出していた。  アケミとみどりのことである。  二人とも新宿の酒場「アポッスル」のホステスであったが、一人の大学生を奪いあって傷害事件をひき起したのだ。  もう古い話になるので、その後の二人の消息は私にはわからない。  だが、桜花賞レースにおけるワカクモとメジロボサツの対決を見ていると、過ぎ去った日のことどもが、まるで昨日のことのように思い出されてくるのである。  メジロボサツは三七六キロの小柄な馬である。  桜花賞に参加した二十四頭の牝馬のなかでも一頭だけずばぬけて小さい。小さいばかりではなくて、その生い立ちもずばぬけて不幸であった。  母のメジロクイーンは嵐の夜、難産で馬舎の藁の上で苦しみはじめた。  その苦しみ方があんまりひどいので、「こんなに難産では、もしかしたら生むことはできないかも知れない」  と思われた。  やがて、メジロクイーンは初仔を生み落したが、力を使いきってそのまま死んでしまったのである。  嵐にびしょぬれになりながら、厩舎の関係者たちは、メジロクイーンの死を悲しんだ。初仔は、いわば祝福されずにこの世へあらわれたのである。 (その仔馬は生まれるとすぐに自分の足で立った。そして立つとともに、いままで荒狂っていた嵐がうそのように止み、暗い空に剃刀のような月が出たという伝説もある)  仔馬は、仏の血を継いだということから「ボサツ」と命名された。  母の名をもらって、メジロボサツというわけである。  だが、どういうものかメジロボサツは他の馬にくらべると成長が遅く、性格も暗かった。だから、関係者たちもメジロボサツが大成してクラシック・ホースになれるだろうなどとは思わなかったし期待もしなかった。メジロボサツは三歳の早いうちからレースに使われ、決して「大切に使われた」とはいえなかった。メジロボサツが、レースに出るようになって間もなく、こんどは父親馬のモンタヴアルが死んだのである。  モンタヴアルは英国から輸入した種牡馬で、いわば「良家の放蕩紳士」である。全国の牧場に、彼のタネを宿した女馬が一杯いる。だが、馬社会には家族制度というのがないので、メジロボサツには、何の遺産ものこさなかった。  メジロボサツは、中央競馬界史上でも数少ない「孤児馬」として、レーシング・フォームに登録されるようになったのだ。  どういうものかメジロボサツという馬を見ていると、私は少年時代によく聞いた琵琶語りの「石童丸」を思い出す。 [#ここから2字下げ] ほろほろと啼く山鳩の声きけば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ [#ここで字下げ終わり]  という哀切をこめた石童丸のねがいはメジロボサツの願いでもあるように思われたからである。  メジロボサツは、初出走時から勝負に異常なまでの闘志をもやした。そのレースぶりは、まるで殺意のようなものを感じさせた。そして朝日盃三歳ステークス(三歳馬のナンバー・ワンをきめる重賞レース)に出走したときは七戦六勝という成績をもっていたのである。  朝日盃三歳ステークスでは、メジロボサツの相手は牡馬の強豪ぞろいであった。タマシユウホウ、ハーバーホープ、ヒロイサミ、タカトキ、ハイアデスといったメンバーと、牝馬のメジロマジヨルカを相手にして、メジロボサツは「ちょっと無理」と思われながら、終始先頭をきって逃げまくって、勝ってしまったのである。  ファンたちは「メジロボサツがなぜ強いか」という噂をした。 「あれは、自分の不幸な生い立ちへ復讐しているのだ。勝つほかに、メジロボサツが愛される道はないのだ」と。  競馬ファンなら、誰でもクモワカの事件を知っているだろう。  昭和二十六年の桜花賞でツキカワの二着になって、惜しくも牝馬の栄光を逃がした馬クモワカは、やがて「京都競馬場の集団伝貧」の犠牲になって殺処分の命令を受けた。  伝貧にかかった馬は、必ず殺処分になる、というのが競馬界の掟である。  だがクモワカの殺処分を申しわたされた誰かが、クモワカをかばって殺さなかった。クモワカを地下にかくして、(たぶん代りの馬をクモワカだといって殺したのかも知れないが)癒るのを待ったのである。これは競馬界の「ガンクツ王事件」といわれるナゾの事件だが、やがて無事のクモワカは北海道早来の吉田牧場で子を生んだ。  馬主は、この子を登録しようとしたが、「死んだ筈の馬の子は登録できない」ということになった。  そこで、この幽霊の子をめぐって競馬界異例の「私生児出走裁判」がひらかれたのである。 (この裁判は長びき、結局クモワカの初仔のツキザクラがレースに初出走したのは六歳の古馬になってからであった)  ワカクモは、この幸運なクモワカの五番子である。  生まれたときから母親そっくりの顔かたちをしているので、クモワカをひっくりかえしてワカクモと命名され、母親の悲願であった「牝馬の栄冠」をめざして育てられた。  ワカクモの父はアメリカ生れのカバーラップ二世で、健在である。ワカクモは北海道の大気のなかで、いきいきと育てられ四六〇キロの大きな馬に成長した。これほど期待され、祝福された馬もめずらしかったことだろう。  牧場の人たちは、噂した。 「クモワカの悲願は、ワカクモがきっとやりとげてくれるさ。  ワカクモはただの馬じゃない。  亡霊の子だからな」と。  桜花賞レースは、メジロボサツとワカクモとが人気をわけていた。 (勿論、キヨシゲル、キヨズキ、ヒロヨシなどの伏兵もいたが……)  母クモワカにのった杉村騎手が手綱をとっているワカクモ。そして、下阪後メキメキと食欲をまして、充実しているメジロボサツ。どっちが牝馬の栄光を手にするか、というのがファンの話題であった。  メジロボサツの単勝馬券は三百二十万円売れ、ワカクモの単勝馬券は百六十七万円売れた。このレースは、まるで「不運」と「幸運」とどっちが強いかという感じであったので、ファンが「不運」のメジロボサツを選んだことには、現代人の競馬思想が如実にあらわれていて面白かったと思う。  ところで、レースはキヨズキとヒロヨシの捨て身の逃げではじまった。三分三厘をすぎて直線にさしかかると、まるで音楽のように高らかに一頭の鹿毛の頭が抜け出した。  ワカクモであった。  ワカクモはぐんぐんと他馬をはなし楽勝かと思われた。  すると馬群を割ってまるで矢のようにメジロボサツが追い込んできたのだ。伏兵のヒロヨシも二の脚を使った。  メジロボサツはみるみるうちにヒロヨシとワカクモに追いついて、ほとんど三馬同時にゴールへとびこんだ。 (レース結果は、ワカクモが一着、頸の差でヒロヨシが二着、鼻の差でメジロボサツが三着——という写真判定であった)  十年前、アケミはみどりを西洋剃刀で切りつけた。アケミは孤児で小さい女であった。みどりは、私生児で母がヒロシマで奇跡的に生残り北海道のキャバレーで働いていたのである。  二人が争った大学生は結局、みどりと結婚した。不運は幸運には勝てなかったのだ。現代はやっぱり、幸運でなければ生きられない時代なのだろうか。 [#改ページ] [#小見出し] 草競馬で逢おう  曇天の日ばかり続くと気分が重い。  久しぶりに汽車に乗ってみたくなった。汽車といっても近頃の汽車は汽笛がないからつまらない。  昔の汽車はよかったと思う。  青森駅から私のさびしい少年時代の心を通りぬけて東京へ向っていた頃の汽笛はよかったな。あの頃、私は屋根に腰かけて汽笛とハーモニカを吹きくらべていたもんだ。  帰る故郷があるならよかろ  おれにゃ名もない親もない  ——私はこんな曲が好きだった。  実際、私には「名もなく、親もなかった」のである。  さて、ボストンバッグ一つ持って出かけようとしていると、ポストに一通の手紙が入っていた。  差出し人は森誉。住所は千葉県船橋市宮本町船橋競馬場、となっている。  私は好奇心からその手紙を持って、まだ店びらきする前の酒場「ファラウェル」へ行った(ファラウェルは、さらばという意味。ここのマスターが、ファラウェルという馬の穴馬券をあてた金で作った小さなトリスバーである)。  そこの、カウンターに一人で腰かけてさしこむ陽あかりで読むと、その手紙は草競馬の立場を主張したものであった。  彼はまず、こう書き出していた。 「貴殿の著書『みんなを怒らせろ』を三月はじめに求め読みはじめたところ、第一章の「さらばミオソチス」からトタンに腹が立ってきた。  まず小生の商売を述べておきます。  小生は貴殿の偏見視している公営競馬(いわゆる草競馬)の騎手です」  というのである。  彼のいい分は「草競馬と中央競馬を区別し、中央競馬にエリート的特権をもたせようとする貴殿のいい分は、競馬音痴のすることだ」ということである。  私の『みんなを怒らせろ』は競馬、ボクシング、野球について書いたエッセイ集で、中でも「さらばミオソチス」という章は、中央競馬の花形だったミオソチスが草競馬に売られたことを感傷したものである。 (それは、かつてオールスターにえらばれたような馬がアバラヤのような公営競馬の馬房につながれていることに同情し、往年の流行歌手が地方の裏町劇場で唄っているようだ、と書いたのである)  私はミオソチス(忘れな草という意味)という美しい牝馬は、公営で老残をさらしてほしくないと書き、名血の馬の末路には心をくばるべきだ、と書いた。  そして [#ここから2字下げ] 旅の役者と空ゆく雲は どこのいずこで果てるやら [#ここで字下げ終わり]  といった境涯ムードは、「美しくない」役者の負うべきさだめであって、二流のみにしか通じない運命であるべきだ……と書いたのである。  ところで、森騎手は反撃している。 「暇が出来たら私たちの船橋競馬に足を向けてみなさい。  すくなくとも中山競馬場の厩舎より明るくて新しい馬房がズラッと並んでいますよ。  それに、サラブレッドの競走馬は生まれたときから走ることを宿命づけられているのだ。  どんな芝生だろうと彼等は人間共のケチな詩的良心をこえて、いきいきとして走っているのだ」というのである。 「それに公営にだって、中央の名血とやらのスタアを負かす馬はいくらもいる。  古くはクモライト、スミダガワ、アラブのトキノサンダー、ホウセント。天皇賞のミツドフアーム、オパールオーキツド、タカマガハラ、オンスロート、ダービー馬のダイゴホマレ、ゴールデンウエーブ……数えればきりがない、という訳である」  私は、この森騎手の激しい口調に好意をもった。  彼はどうやら、私の本を読んでアタマにきているらしいが、彼もまた私同様に戦後派らしいのである。彼の手紙はまだつづく。 「昭和三十二年頃と思うが、あのエロか芸術かの武智鉄二の書いた『競馬』という本を読みましたがあの本にも腹が立ったね。  あの本では地方競馬は八百長ばかりで見る気がしない。それにくらべれば中央競馬には人為的な八百長はあり得ないと断言してるんだな。  ところが、その本が出てまもなく福島で小田本ほか二、三の騎手が八百長で挙げられた。  この時ほど腹の底から愉快になったことはなかったね。ざまみやがれ、知識人ぶって! と大笑いしました。もっとも、小田本は私の親友だったが……」  私は、もしかしたら草競馬に偏見をもちすぎていたかも知れない。  と思った。  それは森騎手のいう「騎手も調教師も同じ日本人なのに、違うわけがない」という意識とふかいところでつながっている。  それは人によってはコンプレックスと名づけるかも知れぬ——が実は貧しい家庭に生まれたものにとって、自分の立場を全面的に否定しようとするか、あるいはその中で居直ろうとするかというほどの違いである。  森騎手も私も、たぶん馬でいえば「名血」ではない。むしろ軽半出身の、草競馬的な人生を送ってきたのである。  だから私自身、中央で競馬をやっていてもロツクフエラーの子のホツカイヒーロだの、ロイヤルチヤレンジヤーの子のロイヤルジユニアなどのような評判の「名血馬」が出走してくると、それを負かす馬をさがす。  そして、国産のトサミドリやタカクラヤマの子などに期待をかけたりするのである。  実際、私は「良家のお坊っちゃん」というのが大嫌いである。  スポーツカーのシートにVANのジャケットを脱ぎ捨て、ポケットに石津謙介の「男のお洒落実用学」などをしのばせて、ベンチャーズのエレキをききながらファッション・モデルといちゃついている「良家のお坊っちゃん」などを見てると、「くたばれ、名血!」といった衝動にかられてくる。だが、だからこそ、堂々と中央競馬のホームグラウンドで彼らを負かそうとして東京くんだりまで、無一文で出てきたともいえるのである。  私は思い立って、草競馬を見に行ってみようと思った。たぶん、そこには「陽のあたる場所」とはべつの、不運なサラブレッドがいることであろう。  森騎手は、それを不運だとはいわぬかも知れぬが、私にはどうしても草競馬というと、さみしい印象がある。  それを打消すためにも、どうも出かけてみる必要があるように思われたのである。 [#ここから2字下げ] 帰る故郷があるならよかろ おれにゃ名もない親もない [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#小見出し] 競馬のメフィスト  生まれてはじめて競馬に連れて行って貰ったときは、大抵馬券を取るものである。  これをビギナース・ラッキー(初心者の幸運)という。  だが、そのビギナース・ラッキーのために、一生を棒にふる男というのも少なくないのである。  私のまわりにいる競馬ファンのなかでも、零落しているような連中にかぎって、初めて競馬に連れて行ってくれた男を恨んでいるようである。  彼等のいい分は、 「十年前のあの日、もしあいつが俺を競馬場へ誘わなかったら、俺はこんな人生の落伍者にならなくても済んだんだ」  ということである。  そして、中山競馬場のまわりの野原にあるオケラ街道をスッカラカンの財布をポケットにいれて [#ここから2字下げ] 勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともとこの胸の [#ここで字下げ終わり]  と美空ひばりの口真似をしながら一人わびしく帰って行くのである。  ところで、初心者を競馬場につれてゆくのが好きな男たちというのもある。  ふだん生真面目一本のサラリーマンを、競馬場へ連れてゆき、魂とひきかえに配当金を支払ってやるというメフィストのような男たちである。  私もその一人だが、私の友人の古川益雄などは、その競馬メフィストの最たるもので、実にやさしい声で、競馬知らずの男女に「競馬の魅力を吹きこむ」のである。彼はクライスラーのインペリアルという高級大型車にのり、黒いソフトをかむり、葉巻をくわえている。背は高く、年齢は不詳だが、四十歳をこえていることは間違いない。職業は芸能プロダクションの社長だが、べつのいい方をすれば現代の「人買い」ともいえる。  そして、賭博の話をしているかぎりは、いつでも上機嫌(賭博をしているときはもっと上機嫌)な男である。  私は彼がなかなか好きである。  彼にはいくつかのエピソードがある。  たとえば、戦後の不況のとき、彼は競馬場で〈結果屋〉をやっていた。  結果屋というのは、予想屋の反対である。レースのはじまる前に、後のレースの予想を立てるのではなくて、レースが終ってから「敗因を解説する」というのである。音楽学校出身の教養と、着こなしのいい背広で、もっともらしい結果の解説をしていると、ファンたちは彼の弁舌にひきこまれて「次のレースを教えてくれ」という。  そこで次のレースの「結果」を書いてわたす。  もちろん当らないこともあるが、持ち前の紳士風のルックスと、もの静かな話しぶりでどんどんお客がつく。そして彼はその売上げで一家を養っていたのだというからファンではなくて、競馬のプロだったという訳である。その彼が民放の開局当初、ABC放送でオーケストラの指揮をすることになった。  もともと、それが本職だったのだから、カムバックしたわけだが、彼はどうしても指揮棒をもつ気にはなれなかった。そこで競馬予想用の赤鉛筆でオーケストラの指揮をしたという。  私は、その演奏を聞いていないが、競馬予想用の赤鉛筆でひき出されてくる交響楽は、さぞかし悪魔の音楽という感じだったのではなかろうか?  それは芸術から身をひいていた男の芸術への復讐としては、なかなか心に沁みるエピソードである。  ところで、久しぶりにその古川益雄に逢って、中京競馬(名古屋)へ出かけた。  連勝単式で買えることと、場内で知人に逢わなくても済む気易さが、地方の競馬場のいいところである。私たちは、他に、目が見えないわけでもないのにその真似をして黒眼鏡をかけ、ステッキをついたジャズ・スィンガーの古谷充。大阪の人気エレキ・バンド「ザ・リンド」のバンドマスターで二十歳なのに顎ひげを生やした加藤ヒロシ、ジャズ・ピアニストの大塚善章など六人。  そのうち、加藤、古谷、大塚の三人はいやいやながらも誘われた Beginner である。三人とも古川益雄のターゲット・プロの所属なので、社長命令とあっては仕方がないらしく、生まれてはじめて見るレーシング・フォーム(競馬新聞)をひらきながら、渋々ついてきたという感じであった。 「ミナトパークとミスハルヨ。  頭文字でM・Mだな。  おれはマリリン・モンローのファンだからM・Mで行くぜ」とか。  すれちがった女の子のスポーツカーをちらりと観て、 「四二五三だ——よし。四—二と五—三で行こう」  とかいいながらガヤガヤと競馬場になだれこみ、アラブの障害特別を皮切りに全員買いはじめる。  だが、さいわいなことに Beginner には幸運がつかず、馬券を取っているのは、セミ・プロの山形とか私ばかり。  その私も最後にはスッてしまって、山形だけが八千円の穴馬券を特券で二枚とって十六万円の配当となった。私は三人の Beginner に「とれなくてよかったな」といってなぐさめた。  それから十六万円をとった山形に、全員で文字通りに、よってたかっておごらせて、クライスラーで名古屋から八時間かけて、桑名、奈良、和歌山をまわって大阪へ。大阪へつくと古川益雄がスロットマシーンをやろうといい出して、ゲームセンターでまたまた賭博。そして、やっと一息つきにクラブ「B……」へたどりついたときにはもう、午前三時になっていた。  午前三時の「B……」は煙草のけむりがもうもうとして、せまいジュータンの上に折り重なるようにして酔った男やハイミナールの悪夢にとり憑かれた女の子、黒人、混血の男やバーのホステスなどが、まさにひしめきあっていた。それにたまたま来日中のM・J・Qのミルト・ジャクソンやコニー・ケイらが一杯機嫌でスローな唄をうたっているので、空気がすっかり重くなってしまっていて、私たちは片隅に坐る場所もなくおしつけられていた。 「あいつらがジャズを堕落させたんだ」  と古川益雄がいった。 「チコ・ハミルトンやジョン・ルイスがジャズを中途半端にしてしまったんですよ」  といいながら、いかにも気取ったミルト・ジャクソンの唄をきいているうちに「おい、一丁競馬帰りのジャズをきかせてやろうぜ」  ということになり、加藤のギター、大塚のピアノ、それに古谷のフルートと唄で、M・J・Qに挑戦していった。思いきって下品な音を出すと、M・J・Qは眉をひそめる。もっとやれ、もっとやれということでだんだん興が乗ってきて、客がみんな手拍子をとって唄い出す。  床が踏みならされる。  またM・J・Qが唄いはじめる。  そんなこんなしているうちに夜が明けてしまって、ホテルへ帰ったのはもう六時をすぎてしまっているのだった。  私は陽のさしかけのベッドサイドで短い歌詞を一つ書いた。  それは古川益雄の哲学への、いわば私なりの一つの感想なのでもあった。 [#ここから2字下げ] さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう。 はるかなるかな地の果てに 咲いてる花は 何だろう [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#小見出し] ああ 日本海  私の少年時代に、青森では草相撲がさかんであった。なかでもあこがれの的だったのは日本海と若湊である。  当時の貧しい農村では、農家の次男三男に生まれて、有名になろうとしたら相撲取りになるか民謡歌手になるかしかなかったのだ。  体の大きいものはひそかに相撲取りになる夢を見、声のいいものは暗い海峡に向って「弥三郎調」や「じょんがら節」をドナった(そして、そのどっちでもない者は、早いうちに自分の人生をあきらめてしまって借子や作男になるか、故郷を捨てて出稼に上京するしかなかったのである)。  私の叔父は、声がよかったので民謡歌手をめざし、風呂敷に三味線を包んで家を出た。  私は彼を駅まで見送りに行った。  吹雪の夜だったが、汽車が来るまで時間があったので、彼は私のためにプラットフォームで一曲唄ってくれた。 [#ここから2字下げ] 沖の鴎がもの言うならば 便り聞いたり聞かせたり [#ここで字下げ終わり]  という土地の民謡である。  その叔父も、どうやら歌手としては成功できなかったらしく、今は釧路の遊楽街で春画ならぬ、春歌を唄っているらしい。一度、猥褻罪で警察にあげられたという記事を読み、私はなつかしい想いではげましの手紙を書いたのを覚えている。  もう、十年も前の話だが。  さて、日本海の思い出は戦争中にさかのぼる。  彼は私たちの故郷の英雄である。  草相撲といっても、当時の大相撲の名人の大の里や猛牛の鏡岩などよりも人気があったものだ。彼は文字通りに髪結いの亭主で、白菊美容院というパーマネント屋の女と結婚して、暇のあるときには神社で相撲の稽古ばかりしていたという。  だが、私は日本海の相撲を見たことはない。  ただ、母親からその話をきいたばかりである。 (なぜなら、日本海の全盛時代というのは私の生まれる前の昭和七、八年頃であって、私たちが日本海のことを口にする頃、彼はもう伝説の人物になってしまっていたのだ)  少年時代に、私がこの遊侠の、草相撲に興味を持ったのは先ず、その名前であった。  私は「なぜ太平洋ではなくて日本海なのだろうか?」と思った。太平洋の方がはるかに雄大で洋々としているのに、と思ったのである。  だが、その疑問は私が中学へ入ってから一人で津軽半島へ旅行したときに解けたような気がした。  それは曇った海峡に立って沖を見たことのある人なら誰でもわかることだろう。日本海の冬はまるで地獄だ。それは悲しみと怒りにみちみちた反逆の海なのである。 (当時、青森では吃音や対人赤面恐怖になやむ少年が、この冬の日本海に身を投げてよく自殺した。  それは差別された僻地の少年たちが、人生のはじまる前に自信を喪失してしまってひき起す悲劇なのであった)  日本海は五尺五寸足らずの(相撲取りとしては)小男だったという。  そして、社会主義に興味を持っている「裏町の政治家」でもあったのだそうだ。死んだのは戦後だが、その死に方もきわめてドラマチックなもので、ヤクザに出刃包丁で刺されて死んだということである。  ながいあいだ、紛争しつづけていた地元の顔役に呼ばれ、一席もうけられてすっかり気を許し、便所を出て来たところをいきなり出刃包丁で刺されたのだそうだ。  昭和二十一年というから、戦後のことである。  そしてそれから次第に草相撲の人気も下火になり、いまでは少年たちも田舎力士にあこがれなくなった。  現代では相撲も大型化して、一メートル七、八十センチ台ないと三役を張れなくなった。 「小さい男が大きな男を投げとばす」ということは殆んど稀になり、肉体の文明がすこしずつ根をおろしはじめてきているのである。  小兵の横綱栃ノ海は日本海と同じく青森の出身だが、すっかり強くなくなってしまった。  小さい日本人が、自分のかわりに大男をやっつけてくれるドラマは、もうふたたびやって来ないだろうか?  石川啄木の歌ではないが [#ここから2字下げ] 大いなる彼の身体が憎かりき その前に行きて ものを言ふとき [#ここで字下げ終わり]  という歌にだけしか、小男の相撲ファンを慰めるに足るような世界は存在しなくなってしまったのだろうか? そうかも知れぬ。なぜなら、  小さな男が大きな男に勝つためには、小さな男が大きな男より「不幸」でなければならないという鉄則があるのだ。  勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる。  そして日本海の時代にはそれがあった。少なくとも日本海には、決してマスコミのスターにはなれぬという二流の「不幸」。東北人としてのコンプレックスになやむ「不幸」。小男であるという「不幸」。彼の信じている政治イデオロギーが、つねに反体制であるという「不幸」である。  そして、それらが日本海の強さになり、同時代の私たちの力にもなっていたのだ。  だが栃ノ海の場合はちがう。  彼は幸福なホームドラマの時代の成功者なのだ(少なくとも横綱となるまでは、自分の貧しい生い立ちが武器になり得たかも知れぬが、いまでは人も羨やむ天下の横綱として、この上の理想もなく、現状維持だけを迫られる立場になってしまっているのである)。  あまりにも早く人生の幸福を手に入れてしまった栃ノ海と、死ぬまで「陽のあたる場所」へ出られなかった日本海。  この二つの海のちがいのなかに、私は私たちの時代のきびしい勝負の理想といったものを感じるのである。さびしい話だが、私たちの時代には栃ノ海はもう要らない。  さらば、栃ノ海よ。  そして第二の日本海よ、現われよ!  ところで、日本海にはたった一人の遺児がいる。  彼は青森で、父のシコ名をとって「日本海」という寿司屋をひらいているのである。 「何時開店したの?」  と私がきくと、彼はいかにも反抗の血をひく二代目らしく 「ケネディの殺された日ですよ」  といってニッコリ笑うのであった。 [#改ページ] [#小見出し] クリフジはいずこに  私の母には名前が二つある。  一つはハツといい、一つは秀子というのである。  そんなことを知らなかった私は、小学校時代のある日、机の抽出しにしまってあった戸籍謄本のハツという名前を発見して、さては私は貰い子であったか、と思って一人で悩んだものであった。  当時、私は西条八十の純情詩集を愛読していたので夜中にガバッと目をさまして母の寝顔をしみじみ見ながら「このひとが私の母でないのなら、私のほんとの母はどこにいるのだろう?」  と思い、寝耳にひびく津軽海峡の潮鳴りに、ひとり胸を痛めたものである。  だが、やがてハツというのは私の母の「本名」であって、それがあまりにも田舎くさいので秀子と改めたのだと知ったとき、安堵よりはむしろ軽い失望を感じたのであった。  私は「実人生は純情詩集のようにロマンチックにはいかんもんだなあ」と思った。  その頃、私の顔にはもうニキビができはじめ、両足のつけ根にはかすかに大人のしるしが見えはじめていたのである。  だが、母が名を変える、ということには極めて重要な問題をはらんでいることがある。変名というのは、いわば「変身」への願望の一つのあらわれであって、「この世の他の場所」をのぞむ気持がうかがわれるからである。  もし、幸福な家庭で親子仲良く暮らしていながら、ある日突然に 「私、名前を変えたい」  と家族の誰かがいい出したとしたら、他の家族は、名前を変えたいといった一人がどんな不満を持っているかについて聞きたいと思うであろう。  そして、何の理由もないならば「そんなことをするな」と止めるかも知れない。すくなくとも、変名というのは不幸な者のすることであり、「自分自身から脱け出す」ための一つの方策であるとしか思えないからである。  なぜ、こんな古い話が頭をかすめたかというと、これは安酒の酔いのせいではない。ジュークボックスから流れる西田佐知子の声の感傷のせいでもない。  競馬場の一五〇万円条件クラス下のつまらないレースのせいである。  三月二十六日。新宿の酒場。  ノミ屋の新さんにすすめられる十二レースのノミ馬券をことわって、わざわざ場外まで行って買ってきたマルトキオーの馬券の話から。 「マルトキオーは、トキノコウの子だよ。トキクインの弟じゃないか」  と私がいう。 「すごく血統がはっきりしている。  ところが、対抗人気のスガヤホマレなんて馬の名は聞いたこともないぜ」  そして、マルトキオーがスガヤホマレに勝つ根拠は、ただひたすら血統だけにあり、と見ていたというわけである。  そして、レースは実際にこの二頭のたたかいになり三角をまわって四角へ来たときは完全にマルトキオーとスガヤホマレの一騎打ちになっていた。  結果は直線で、マルトキオーが脱け出してスガヤホマレに四馬身の差をつけて勝ち、私も他の皆もしぶい儲け方をした。  そこまではよかったのだが、ふと、私は年藤なんて母馬がほんとにいたのかどうか、ということが気になり出したのだ。 (メジロボサツの母方の祖であるヨコハマのように血統書もなく、サラブレッドかどうかもわからぬような謎の馬だっている。もしかしたら、年藤という馬も、むかしは有名な馬だったのかも知れない、ではないか)  そこで早速、うちへ帰って競馬年表をひっぱり出してみたが、年藤という馬がレースに出たという記録はない。  おかしいな、と思って「血統の系譜」をしらべてみると、私は思いがけないことを発見したのだ。  年藤→クリフジの改名(ダービー優勝の牝馬)。  競馬ファンなら誰も忘れることのできないクリフジが、なぜ年藤などと「改名」したのであろうか?  クリフジのような、幸福な馬にも「世をしのぶ仮の姿に身を変えなければいけない」何かの理由があったのであろうか? 私にはそれはわからない。  だが、蕃殖入りして名を変えてしまった馬は少なくないようである。  母をたずねて三千里のエピソードではないが、ハクフジ・ファンだった男が、ハクフジの子がレースに出る日に競馬から足を洗うと心に決めて、その日を心待ちにしている……という話をきいた。  その男は、 「ハクフジの子がレースに出たら、おれはその馬券に十万円注ぎ、勝っても負けてもそれで競馬を止めるつもりだ」  というのである。  酒場でバッタリその男に逢うと、彼はひどく酔っていて、ハクフジの思い出を感傷的に話したあとで、 「おれの競馬はハクフジではじまり、ハクフジで終るんだ」  というのである。  そこで私が「ハクフジの子なら、ちょくちょくレースに出ているよ」  というと男は、一瞬酔いのさめた顔になって、「それは何という馬だ?」  と聞きかえしてきた。 「ビッグオーシヤンですよ」  と私が答えた。 「ビッグオーシヤン? それは、キヤデラツクの子じゃないか?」  と男がいう。 「キヤデラツクというのが、ハクフジの変名なんですよ」  と私がいう。  すると男は、みるみる顔を青ざめさせて「あいつめ、おれをダマしやがった!」  といってカウンターにグラスを叩きつけたのであった。  日本競馬法の第九条の二「軽種馬登録規定」によると「本登録では中央競馬の馬名登録を受けたものはその馬名を用い、馬名登録を受けないものは予備登録馬名を用いる」  となっている。  だが「特別の事由があると認めたときはこの限りではない」という但し書きがついているのである。この「特別の事由」が氾濫して、名を変える母馬がふえているのであろう。  だが、家出して他の男の許へ走った母親でもあるまいし、クリフジや、ハクフジが名を変える「特別の理由」など、どこにあるものだろうか?  馬の名前というものは、馬主のものではなくて馬自身のものであり、同時にファンのものなのだ。  身をかくさねばならない不幸な家出女と同じ運命に追いこむのだけはやめて貰いたい。  同じことは草競馬にもいえる。地方競馬では「馬名は所有者の変更があったときは変えることができる」ということになっている。  だから東京の大劇場の花形歌手がドサまわりに落ちて、名をかくすように「アスカがエイコウザン——栄光惨か? となり、テツノオーがテツリユウ」となるのであろう。  だが、どんなにうらぶれても、母親は母親であるようにクリフジはクリフジなのだ。  私は競馬法を改正し、決して馬が「変名」などしない幸福な環境を作って貰いたいものである。 [#改ページ] [#小見出し] と場の英雄  芝浦のと場へ行ったことがある。  私は、そこで食肉にされる馬を見た。  馬たちは皆、死の運命を知っていて、悲しそうな顔をしていた。  九歳、十歳の老馬(あるいは二十歳近いのもいたのかも知れないが)は、暗い小屋につながれて、順番を待っているのだった。  私は、彼等と同世代の馬が、中央競馬会所属の厩舎で、あたたかい藁の上で栄光の日々を送っているのにくらべると、何と「不運」な馬たちなのだろうと思わない訳にはいかなかった。  一体、彼等はどんな犯罪をおかしたというのだろう?  おそらく、何一つ「馬社会」の掟を破るようなことはしていないのではないだろうか。 [#ここから2字下げ] キラリ光った流れ星 燃えるこの身は北の果て 姓は誰々 名は誰々 その名も 網走番外地 [#ここで字下げ終わり]  というのは網走番外地をうたった高倉健の歌である。  少年時代、私は何度かコンクリートの塀ごしに、中を覗いてみた。  そこには重罪をおかした不幸な囚人たちが、陽だまりで本を読んでいたり、キャッチボールをしていたりしていた。  私は父に「あの人たちは皆、死刑にされるの?」と訊いた。  すると父は笑って「ここにいる人たちは死刑になりはしないのだよ」  と教えてくれた。  北国の冬は、暮れやすかった。  雪の白さが、彼らの罪を浄めるかのように刑務所の塀や屋根を染めていた。  私は、幼な心に、彼等囚人の将来のことを案じては、ひとりで胸を痛めたものであった。  聖書のヨブ記に「夜家を穿つ者あり」という章がある。  それは光を知らない人たち、死の影を知った人たちの晨《あした》を説いた章である。  裁きがある限り、罪人は科《とが》を受ける。  勿論、殺される人間もいる。  だが、人間は食われない。吉展ちゃん殺しの犯人小原保にしたところで、死刑後は手厚い葬りをして貰えることになっているのである。  それは、食肉化された馬が、桜肉などといわれて、味噌と一緒に鍋でグラグラ煮られるのとは大きな違いである。  肉にされて、食われる馬たちにだってもしかしたら、べつの「人生」が待っていたかも知れないのだ。  三月末に馬事公苑で行なわれた東都学生自馬競技会で、大障害飛越に優勝した馬|幸早《さちはや》には一つの秘密があった。  それは騎手の農工大の尾崎徹と、何人かの友人たちしか知らない秘密だった。  だがそれを知る彼等は、幸早の数奇な運命を思いうかべるだけで、ひとしお深い感激にひたったことだろう。  実は、この馬幸早は、芝浦と場で食肉化されるのを待っていた馬だったのだ。  五年前の三十七年十二月三十一日、芝浦と場に東京農工大学の馬術部員がやってきた。  そして、一頭の馬が馬肉になる寸前に救われたのである。  死ぬ寸前の馬だったので「幸多かれ」「幸早かれ」と、サチハヤ(幸早号)と名づけられた。  だが、そんな馬だけに馬齢もはっきりしなければ身元も、前身もまったくわからない。ただ「農耕馬」だったことのほかはアラブなのか軽半なのかも見当がつかないのである。 (これが十二月三十一日だったということも興味がある。年を越していたらサチハヤは一〇〇グラム一〇〇円に充たない肉塊に早変りしていたことだろう)  貧乏世帯の農工大の馬術部では、この「安値」の馬を買って、学生ばかりで調教しはじめた。  彼等のモットーは「かわいがる」「無理をさせない」「ケガをさせない」「毎日乗る」ということだった。そして、この農耕馬上りの馬は「命を助けて貰ったお礼」というわけでもあるまいが、見違えるように成長していった。  翌年から競技会に出て、ボツボツ入賞するようになり、ついに今回の栄冠につながったのである。  学生ばかりで、青い芝生の上で馬肉寸前の馬を「ケガをさせない」「無理をさせない」という方針で調教をしている様子が目に思い浮ぶようなエピソードである。  案外この馬、かつては中央競馬の花形スターだったのかも知れない。 (たとえば、かつてのダービー優勝馬カイソウは、もし生きていれば二十四歳になるが、終戦のドサクサにまぎれて所在不明になっている。  カイソウが地方の農村で荷車をひき、よだれをたらして非運な時代を恨んでいたとか、場末の一杯めし屋の肉どんぶりの肉となって食われてしまった、とか聞くたび、「サチハヤ」ならぬサチナシの馬、幸運から見捨てられた馬にあわれを感じない訳にはいかないからである。実際カイソウの場合、馬主〈有松鉄三〉も調教師〈鈴木甚吉〉も死んでしまって、カイソウを覚えていてくれる証人がいないのだ)  私は、あの日見た芝浦の、と場での情景を思い出す。  あそこに、食肉化されるのを待っている馬の中に、かつての競馬のヒーローが、老残をさらしていないと、誰が断言できるだろうか?  と同時に、生まれたときから良血でもなく、期待もされなかった農耕馬(軽半)のなかに、かくれた競馬の天賦の才を持った馬がいないとも誰が断言できるだろうかと思うのである。  私は、皮表紙に金文字のついた「サラブレッド血統一覧」という本を持っているが、それによると、一頭の馬の父方、母方の先祖代々までの馬名から栄光までが詳しくわかるようになっている。  それは、実に数百年前にまでさかのぼることまで可能なのである。  だが私の場合、私は父の顔もよく覚えていない(もちろん、馬の獲得賞金なみに父の生涯で働いた月給の総額を計算してみることなど不可能である)。  名門でも士族でもなかったので、祖父からの先の血統については真暗である。  そして、母は小さいときに親に認知して貰えずに他所に貰われて行き、生みの母の名も顔もついに知ることが出来なかったという。  私の父の記憶といえば、拳銃ぐらいのものである。  青森警察の刑事だった父は、私が五歳のときまでは生きていた。  そして、いつも上衣の内ふところに拳銃をかくしもっていたのだ。  私は父に、雪空を指して「トンビを撃つてみせてくれ」と頼んだ。  すると父は「トンビは撃てない」といった。私は「じゃ、何を撃つためにピストルなんか持ってるの?」と聞いた。  すると父は、しばらく気まずそうな顔をしていたが「実は、人間を撃つのだ」と答えた。  私は父の顔を忘れてしまったが、その「人間を撃つのだ」といったことばだけは忘れなかった。  一体、撃たれる人間とは、どんな人間なのだろうか?  私は、一塊の馬肉の栄光の中に、貧しい生まれの者の復讐を感じる。  良血、名門だけが報われているのはサラブレッドの世界だけではなくて、私たちの社会でも同じことなのだ。  だが、血の問題だけは半ば宿命のようなものなのであって、本人の力ではどうにもならないことなのである。私は軽半上りの馬の初出走のレースでは、必らず祝儀をはずむようにしている。  そして、マリリン・モンローのような「軽半」的な生まれの花形スターにはいいようのない親しみを覚えるのである。  もしかしたら、いまも芝浦のと場には、生まれが貧しいため天賦の才を持ったまま馬肉にされていく馬がいるかも知れないなあ、と思うだけでも、私は胸がジンとなってくる。  今日からもう、馬肉を食べるのは止めにしようぜ、諸君! [#改ページ] [#小見出し] 野球少年エレジー  少年時代、私はハーモニカを吹いた。  人に見られるのが恥かしかったので、よく便所の中で吹く曲はいつも一曲だけ。 「誰か故郷を想わざる」というのである。 「おまえはおかしな子だよ」  と私の叔母はいった。 「誰か故郷を想わざる、といったってちゃんと故郷に住んでるじゃないか」  たぶん、この歌は離郷したものがうたう歌なのだ。 とおく呼ぶのは誰の声 [#ここから2字下げ] 幼なじみのあの夢 この夢 ああ 誰か故郷を想わざる [#ここで字下げ終わり]  という歌詞が、私にそれを教えてくれた。  だが、どういうものか私はやっぱりこの曲を吹かずにはいられなかった。  私は 「自分がいま住んでいる青森という町は、実は赤児の頃に貰われてきた町なのではないだろうか」  と思った。 「そして、この世のどこかに、きっと私のほんとの故郷があるのではないだろうか?」  高等学校の便所の高い窓から、目に沁みるような八甲田山の青空を仰ぎながら私は、まだ見ぬ故郷を想ってこの曲を吹きつづけた。吹いているうちに、私は胸の中が熱くなってきて、女学生のむっちりした腰のことや、性をめぐる二、三の妄想や、トロツキー、E・H・カーなどの政治書からも全く解放されて、まるで子供のように空っぽになってゆくのを感じるのであった。  ところで、屋根裏を片附けていたら、古い詰襟(学生服)や日記などと一緒の林檎箱の底の方から、風呂敷にくるんだガラクタと一緒にこのハーモニカが出てきた。私は懐かしくなって、もう一度吹いてみようと思った。  だが、ハーモニカはすっかり錆びついてしまっていて、とても吹く気にはなれない。それに、穴の中に何やら一つの金属のかたまりのようなものがはさまっているのである。  よく見ると、そのはさまっているものは画鋲より少し大きなバッジであった。  私はしばらくそれが何であったかを考えていたが思い出した。  それは「少年ジャイアンツの会」の胸章なのだ。  私は、少年時代にはジャイアンツ・ファンだったのである。  そしてその頃のジャイアンツのことについてなら、きわめて博学である。昭和二十五年頃のジャイアンツには、三原と水原が一緒にいた。三原が総監督で、水原が監督だったのである。  ピッチャーには火の玉別所、スライダーの藤本、左腕の中尾、キャッチャーには藤原の鉄ちゃんと、馬面の内堀保。  そして猛牛の千葉、赤バットの川上、阪急流れ者の青田昇、中国人の呉の改姓した萩原、サードの山川、塀際の魔術師の平山菊二などの役者揃いであった。  私はこの「ジャイアンツ」に、私の少年時代の英雄の夢をすべて仮託していたものであった。  だが、他の世界と同じように野球の世界にも「裏町」はある。  私は、昨日飛行機の中で読んだスポーツ新聞の記事の中に、まざまざと夢を裏切られた野球少年のエレジーを見出した。  それは花やかに開幕したプロ野球ブームのかげの、洟もかけられないような小さな插話である。  しかも、そんなことを感傷していたらいくら心があっても間にあわないような「よくある出来事」なのだ。 (支配下選手公示[#「支配下選手公示」に傍点]▼南海投手=杉浦忠(30)176センチ、71キロ、右投げ右打ち、立大出、背番号21。  なお、これに伴い難波孝将投手が任意引退選手になった)  ——この、難波孝将という十八歳の少年が主人公である。  彼は十六歳でプロ野球入りしてきた洋服星(仕立直し)の益永さんの倅である。  家が貧しいので、母親のしげのさんは病院の給食係をやっている。  彼は中学を出てすぐに大阪の造船所へ入ったが、研修所通いがいやで辞め、南海のテストを受けて合格。  たちまち手取一万一千円の「プロ野球選手のタマゴ」になった。  一メートル七十八センチ、七十五キロの体格は、南海球団として期待をよせるに足るものだったのだろう。  そして、二年目のことしは「投手」として、球団の一番最後に名をつらね、給料も額面四万円とハネあがった。  彼は南海チーム、五十名のワクにおさまり、ユニフォームを着て、フリーバッティングで投げるまでになった。  彼は病院の給食係をやっている母親によろこびをつたえた。  ここまでは、「わが生涯の最良の春」だったのである。  ところが、ある日突然に「杉浦の復帰」が決まったのである。オープン戦での南海投手陣の不振、杉浦の取戻した自信——そうしたものの積み重なりが彼を復帰させることになったのだろう。  そこで、「登板はいつの日になるかわからないが」ともかく杉浦をコーチとしてだけではなく、選手としても「登録させておこう」ということに球団の意向が決まる。  杉浦が復帰すれば、シーズン前に登録されていた五十人の中の誰かが登録を取消されねばならない。 「支配下選手の制限」というのは、今年から(永田オーナーの発案で)実施された規定だからである。  希望に胸をふくらませていた難波が呼ばれる。  そして 「杉浦が帰るから、おまえは要らん。あすから用具係をやれ!」  といい渡される。  この、実に単純な人事(五十マイナス一)(五十プラス一)という数字が、野球少年の夢を一瞬にして打砕いてしまったのである。  そのスポーツ紙の記者は、制限選手制をはげしく攻撃している。そして、難波少年クラスの二、三人の人件費(旅費や食費)の節約は、スター選手の参稼報酬にくらべたら、ほんの三パーセントにも充たないといっている。  それは「合理化」に名をかりて、人の売買や払下げを「商品」のように扱う野球商人の非人道性にもつながってくるといえるだろう。  私は、このスポーツ紙をよみながら、まったく同感だと思った。  そして、一人の「シーズンをたのしみにしている」登録選手が、何のへマもやらず、試合にも出ないのに「もう要らないから、用具係をやれ!」といわれるような機構のなかに、(むしろ逆に)近代化し得ない商業野球の矛盾といったものを感じたのである。  ピースの箱にはピースは一〇本しか入らない。  一一本目のピースには、入るべき箱がない。だが、人間はピースではない。  そう簡単に出したり入れたりされてはたまったものではないではないか。  日本プロ野球コミッショナーは、一人の無名選手をクビにすることはできても、その少年の夢をクビにすることはできないだろう。  経営合理化し、(今季クビにされた百二十名)の選手はベンチから追い払うことはできても、彼らの夢が、いまもベンチにしがみついて、もう一つの故郷、もう一つの野球の理想を夢見つづけているのを追い払うわけにはゆかないのである。 [#ここから2字下げ] とおく呼ぶのは誰の声 幼ななじみのあの夢 この夢 ああ 誰か故郷を想わざる [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#小見出し] 空想打倒試合の巻  私はフランク・シナトラが好きであった。シナトラの「オンリーはロンリーだ」(only is lonely)という唄をきくと何となく胸がじんとなってくる。  というのは、十五、六年前の母のことを思い出すからである。  私の母はオンリーではなかったが米軍のキャンプで働いていた。  たまたま夜おそく帰ってきて、当時小学生だった私の寝顔をたしかめてから、一人でいつまでも鏡を見ていた。  その中年の顔の皺には、白粉がまばらになって決して「きれい」ではなかったが、母は鏡を見るのが好きだった。  三沢の町の安アパート。  その階段の真下の部屋で、母はブロークンイングリッシュでシナトラの唄をうたった。 [#ここから2字下げ] only is lonely,only is lonely (オンリーはひとりぼっちだ オンリーはひとりぼっちだ) [#ここで字下げ終わり]  というのである。  だがオンリーよりもっと孤独なのは、オンリーにさえなれない女であろう。母はなぜだか涙もろかったような気がする。  私がボクサーになろうとして、ベースキャンプのジムに入門したのもその頃のことである。  私はそれまで切手の蒐集に熱中するような内気な少年で、大きくなったらクレー射撃の名人になりたいと思っていた。  だがベースまわりのジャズバンドの目の悪いピアニストにフランク・シナトラの伝記を貸して貰ったのが人生観を変えるきっかけになった。  私はむさぼるようにシナトラの伝記を読んだ。  シナトラはニュージャージーの貧民街で生まれたという。一家はシシリーからの移民で、父はバンタム級のボクサーだったらしい。  だが引退して小さな酒場をひらいて朝から酒にひたっていたので、少年シナトラは構って貰えなかった。  そのシナトラに「盗み食い」とウクレレとボクシングを教えてくれたのは叔父のドミニック・カラべランティという男だったそうである。  実際、ボクシングを習いたての頃の私もまた、気分としてはシナトラに似通ったところが少なくなかった。私の父は巡査であったが、私が五歳のとき兵役にとられて、それっきり帰って来なかったし、水商売をしていた母にも構って貰えなかった。私は仲間たちと共に「ちびっこギャング」になって裏通りの運動用具店や本屋を攻撃目標にし、ときには盗みを働いて死にものぐるいで逃げた。  ボクシングの方は(シナトラ同様)なかなか上達せず、テクニックよりさきに反則ばかり覚えてしまった。  親指で相手の目を突いて目をつむらせ、ひるむところへラッシュをしてゆく「サミーング」や、頭で相手の顔をこすりまくって、パンチ以上の効果をあげる「ヘッドブラッシ」  それらは親なしの私にとって、試合上の技術というよりは、むしろ処世上の知恵として役に立ったと思われる。  実際、戦後のドサクサ期には、戦略なしに生きられたものなど一人もいなかったのである。  ただ——シナトラには音楽があったが、私にはそれがなかった。そしてこの違いはきわめて重要だったのである。  私は音楽を友にできなかった分を、空想でおぎなった。  私は何時でも空想した。  私は仲間に向って 「オレは空想無宿だぞ」  といって自慢した。  そしてその性向は今でも衰えずに残っているようである。私はよく、酒場の片隅で競馬やボクシングの「架空試合」の実況をしてやった。  それは全く根拠のない私自身の独断に基くものであったが、それでも酔った私の仲間たちは、結構それをたのしんでくれたようである。 「どうだね?」  と私はいった。 「ファイティング原田と桜井孝雄の試合の話をしてやろうか?」  ホステスの愛美がびっくりして私の顔を見た。 「そんな試合、何時やるの?」 「さあね」  と私は笑った。「やるかどうかはわかりゃしないさ。ただプロの世界チャンピオンと、アマの世界チャンピオンの対決というのは仲々面白そうで、空想の仕甲斐があるじゃないか」  もう閉店間際だったので、酒場には他の誰もいなかった。天皇賞レースが近いというのに、ドアの外は雨が降っていた。  桜井孝雄はプロ入りしてから無敗を誇っている。  しかもこのところめっきりパンチ力も増してきてメキシコの若いヒーロー、ピメンテルをKOしたあたりで人気もピークに達した観さえある。  散髪屋にゆくと、七人の客のうちの六人までが桜井の強さを噂しているという噂である。とくに彼の弱点といわれていた「スタミナ不足」も解消し、加えて東京オリンピックで見せたあの華麗なテクニックにも一そうの磨きがかかった。  それに対する原田は、ジョフレの再挑戦を、からくも退けて、世界の王座を死守している。  キングピッチをKOしたときの、あの猛ラッシュは見せなくなったが、いきなりふるう左フック、それにファイターとの試合でしばしば見せるクロスカウンターはあざやかに尽きる。  これは、はじまる前から「今年最高のビッグカード」という評判の高いもので発売開始後二時間で前売り券を売り切ってしまっていた。  大方の予想では「桜井のテクニックか原田のパンチ」かということになっていたが、桜井は「原田さんには、これといってモノ凄いパンチはないでしょう」とうそぶいたという。一方の原田も「ボクはアマチュア出身がきらいですからね。こんどの試合で、プロの実力を見せてやりますよ」  と自信たっぷりであった。  予想でははじめ六—四で原田有利が伝えられていたが、やがて桜井の好調ぶり(とくに公開スパーの日、桜井はパートナーを乱打して気絶させた)が宣伝されるに到って、すっかり五分と五分。  会場は勿論、大入り満員になってしまっていたが、テレビのある喫茶店もまた大繁昌なのであった。さて、試合は、第一ラウンドから白熱していた。  ゴングがなるや、いきなりとび出した桜井が奇襲をかけたのである。  このスピードには一瞬眩惑されかけた原田はすぐにラッシュで応戦。試合開始後一分にもみたない内に、両者はリング中央で壮烈な打ちあいを演じた。  そして、後半二分をすぎた頃、やっと二人は落着いてジャブの応酬(得点・主審高田5—5。ボップ5—5。遠山、原田5—4桜井)。  第二ラウンドに入るや、こんどは原田が一歩ふみこんで桜井の目尻を狙った。  桜井は危うくそれをかわし、ダンス教師のようにリングをとびまわりはじめた。そこで、アウトボクシングの、ジャブだけの応酬になった。  ふいに桜井が原田に腹深くへストレートを叩きこもうとしてかわされ、よろめいたところへ原田のテンプル打ち(こめかみ打ち)が鮮かに決まった。桜井は不覚にも二三歩退ろうとしたが、そこへ原田の二撃、三撃が追い打ちをかけた。  実に呆気ない試合だった。二ラウンド一分十七秒で、原田は桜井をKOした。  あたりまえだね、と私はいった。 「桜井には、打倒原田なんてまだ無理さ。桜井はまだ飢えたことがない。  飢えたことのないボクサーは世界チャンピオンを倒すことなんか出来ないにきまっているよ」 [#改ページ] [#小見出し] 天皇賞その日  生まれてこのかた競馬など観たことがないという友人の塚本邦雄と天皇賞へ行く約束をしたのが夜の九時。まだ朝までは時間があるので、私はホテルでバスに入っていた。  電話が鳴ったので出てみると、それは女からのものではなくて、自称賭博師の山形からであった。 「これからポーカーをやるんだけど、暇だったら来ませんか?」  という。  私のベッドには先刻まで退屈まぎれに一人占いをしていたカードがひろげてある。だが、入浴してからカードでもなかろうと思って断わり、一人で町に出ることにした。  行きつけの酒場へ行って片隅に坐ると若いバーテンと客とがライターで賭けをしている。 「このライターを十回つづけて蓋をあけるが、十回とも点火するかどうか?」  というのである。  自信たっぷりライターをつき出しているのは十八、九のGI刈りのバーテンで、それに賭けているのは古い背広を着た中年の男である。  私はロアルド・ダールの「南から来た男」という小説を思い出した。  それはひとりの小男が、賭けだけで生涯を生きて来て、財産全部を賭けつくして一文なしになり、それでも賭けがやめられずに、手の指を一本ずつ賭けて生きているという残酷な小説だが、この中年の「おっさん」にも、それと似たものを感じたのである。  ジョニ黒を一杯おごって話を聞くと、彼は目をしょぼつかせて話してくれたが職業は「賭博」だという。  しかも、きちんとした賭場で賭けるのではなくて、見も知らぬ他人と自動車のナンバーやスマートボールなどで賭けるのだそうだ。  遊戯場などにあるスロットマシーンやコリントゲーム、はては通りすがりのテレビのチャンネルにまで賭けるのだというから驚いた。私は、今までに読んだ賭博書の話をした。 「そしてW・マッケンジーの『賭博倫理説』では、賭博は『贈与、交換、盗奪の各分子を少しずつ包含し、たがいにあい類似してみえるものだ』って書いてますがね」  といった。  すると「おっさん」は「バクチじゃ下役が上役に贈与したり、ないものがあるものから盗奪するという倫理がアベコべですからね。  自由でいいじゃないですか」  といって笑った。  その「おっさん」と大阪の酒場をハシゴしてまわっているうちに夜が白んできた。「馬」という競馬の写真や騎手服や馬の玩具ばかりでかざられたせまい(モグリかとも思われるような)バア。  そして「墓場」という名の、映画スタアや政治家の名を書いたイハイが並んでいる、へんに白白しい酒場などをまわりながら、私と「おっさん」とは賭博について、相容れない議論をかわしていた。 「人生を台無しにしてまで賭けているようじゃなくっちゃ、ほんとのギャンブラーとはいえないね」  と中折帽を目深くかぶって「おっさん」はいった。  私は、「カード一枚で一生を棒にふるような賭博師はダメだ」  と反論した。  第一、身繕いのできなくなったギャンブラーというのは必ず負ける。「人は見かけによるものですからね」  だから、精神はどんなに崩壊し、使いものにならなくなってしまっていても、ウワベだけはキチンとしなければダメですよ、「おっさん」といった。  競馬場なんかへ行ってみるとよくわかるが、馬券をあてる人はみんな身なりのキチンとした人ばかりですよ。  ——すると「おっさん」はいまいましそうにいった。 「負けるたのしみだって、ギャンブルのたのしみの一つですよ。  勝つのが嫌いな男ってのもいるもんだ」 「ところで、どうでしょうね」  と私は水を向けた。  天皇賞レースは何が勝つと思いますか?  すると「おっさん」は、しぶい顔をした。「天皇は人間には賞金は出さないが、馬には賞金を出すんだなあ」というのである。  おっさんの「キーストンが逃げ切るでしょうよ」という予想をきいて、朝の千日前でわかれた。  わかれるときに気がついたが、この「おっさん」は足をひきずっていたように思われる。  さて、塚本邦雄と淀の競馬場へ着いたのは午後一時頃であった。  塚本邦雄は歌人であって  ロミオ洋品店春服の青年像下半身なし……さらば青春[#「ロミオ洋品店春服の青年像下半身なし……さらば青春」はゴシック体]  というようなモダンな歌をつくる。  洋服屋の男のマネキンを「下半身なし……さらば青春」という感覚でとらえる男だからといって下半身の活動が旺盛かどうか私にはわからない。  ただ、彼は生まれてはじめてのレースを観て、もっぱら驚いているようであった。メーン・レースの前座に 「平安特別」というのがあるので 「一レースやってみないか?」  というと「何もわからんから」などといって尻込みしていたが、ふと、  平安朝ならばミネノユキ、タケノアラシなどというのが、古今集ムードでいいじゃないかねえ、という。  レーシング・フォーム(競馬新聞)を観ると、キングライサンのような人気馬がいて、一寸勝目の少ない馬券である。  だが、それでもビギナース・ラッキー(初心者の幸運)ということもあるからということでつきあったら、何と一着タケノアラシ、二着ミネノユキとずばり的中して二、三枚の馬券で四万円ちょっとになった。 「ついてるじゃないか」というと彼は「気持ちがわるいから、もうやめた」という。  さて、お目あての天皇賞レースの頃になると、競馬場の便所はガラガラになった。  みんな「ウンを落すまい」としているのである。観覧席でばったりあった新橋遊吉に「今日は、全部関東馬でいただきですよ」というと、彼は「そんなバカな」  といって、キーストン=ダイコーター説を唱えた。  私の心境はまさに竹越ひろ子の「東京流れ者」であった。遠征馬、とか故郷をはなれて闘うものは勝つのがあたりまえだという考えなのである。  だが、大阪っ子たちは私に反論し、キーストン、キーストンといいまくる。  私がキーストンということばで思い出すのは、よく週刊誌のヌード・グラビアについている≪キーストン特約≫というやつである。キーストンはいい馬だが今日はいらない。「今日は東京の馬が勝つのだ」といっていた私の予想通り、レースはハクズイコウ=ウメノチカラと関東馬の一、二着になった。配当は十八倍といういいものであった。  畜生! と大阪のノミ屋が叫んだ。 「こんなインチキなレースがあるかいな。これじゃ、まるで熊沢天皇賞や!」  その声を背後に聞きながら私は配当金の使いみちを考えていた。  一つ、新しい靴を買ってやろう!  それに、新しい女も……などと思うと私は全く「天皇万歳!」とでも叫びたくなってきた。  ことしは幸先がいい。  この分だと、どうやらクラシック・レースのパーフェクトができそうである。 [#改ページ] [#小見出し] さすらいの切手  上諏訪のみずうみの見える小さな旅館で、私は宿の男の子と「無宿談義」をしていた。 「沓掛時次郎は、脇差一本をもって旅行したが、おれはエンピツ一本あれば、どこへでも行けるのだ」  というと男の子は笑った。 「エンピツで人が斬れるかなあ」  というのである。 「エンピツじゃ人は斬れないが、ことばじゃ、人を斬れる」  と私は川魚料理をつつきながらいった。 「むかしの博徒は脇差で人を刺したもんだが、現代のヒーローは言葉で人を殺すのさ。みんな言葉を通してしか他人と接触できない世の中だからね」  すると男の子は変な顔をした。  彼はまだ一人前の自分の言葉(思想)を持っていないのだ。  私は、いい気になって 「おれみたいに詩を書いて、あちこち渡り歩いているのを『言葉無宿』というのかも知れないね」  といった。  上諏訪の高原の澄んだ空気、よく星の見える夜空は、たしかに私を「いい気」にさせるような気分があった。  一人旅は、ほんとに気楽であった。  大山牧場は山の高地にあって、放牧された競走馬が野に遊んでいた。  つい最近まで電気がなく、ランプ暮しをしていたこの「小さな牧場」には、十二、三頭の馬と、四人の牧童がいるばかりであった。  私にここを紹介してくれたのは船橋の「草競馬」の森調教師である。  私は森さんの名をいって、「生まれたばかりの子馬を見せてほしい」といった。牧童のボスの石川さんが喜んで案内してくれたのは、薄暗い小さな馬房であった。  そこには、母馬のアボツトクイーンの足もとで一匹の痩せた犬のような「子馬」が眠っていた。  子馬は、石川さんが口笛を吹くと、藁の上に立上った。  だが、それは立上ったというよりは、よろめきながら母馬によりかかったという感じであった。  五二〇キロもあるアボツトクイーンのかげにかくれて、おそるおそる顔をのぞかせるアボツト・ジュニアには、まだ「競走馬の血」といった感じは、見られない。  それは少年のような羞恥心でいっぱいであった。  この牧場は、タカマガハラを育てたことで一躍有名になった牧場である。  ヨーロッパからの持込の名血の馬に伍して、大いに暴れまわった草競馬上りの名馬タカマガハラは、私のもっとも好きだった馬の一頭である。  この牧場には、すでにタカマガハラはいなかったが、タカマガハラの姉のキリガミネがいた。  キリガミネは気性のはげしい馬で、ときどき人にも噛みついたりするという。  そのキリガミネとトツプランとのあいだに生まれた三歳馬は、なかなか人なつこい馬で、私が口笛を吹くと、一〇〇メートルもはなれた草原から、たてがみをなびかせて走って来た。  そのひろびろとした牧場の草に寝ころんで、何頭かの子馬たちとたわむれていると、私は長いあいだ忘れかけていたものを思い出すことが出来たような気がした。  馬たちが眠ったあと、馬房の屋根よりも高く積み上げた堆肥藁の上で、ギターをひきながら、牧童とかわした会話。 「あの犬は、あれはやっぱり、この牧場で飼っているんですか?」  と私が聞いた。  牧童は「あれは、野生ですよ」  と答えた。 「前にここで飼っていた犬と、野生のメス犬と交って生まれたのが、あの犬です。  はじめは牧場で飼おうとしたんですが、結局、母犬を慕って逃げてしまったんですよ。  それで、山の中でネズミを食って生きているらしいんですが、ときどきああして降りてくる」 「母犬も一緒ですか?」 「いや、べつですよ。母犬の方は、人間を見るとかくれてしまいますからね。オオカミみたいなもんですよ」話しながら、私はジャック・ロンドンの「野性の呼び声」という小説を思い出した。飼われていた犬が、雪の荒野を旅するうちに、しだいに野性の血をよびさまし最後にはオオカミになって山へ帰ってゆく……という小説である。  こんな素朴な生活をしていると、男たちも野性の血にめざめるのではないだろうか?  そして、都会生活でくたびれ切ったサラリーマンたちとはまったくちがった「男らしさ」を復権できるような気さえする。  十七、八歳の牧童の日焼けした横顔を見ているうちに、私はふと「しばらくここに泊っていたい」という気がしてくるのであった。  私は何でも「捨てる」のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を「捨てる」ことだと思うことがある。  競馬で、逃げ馬が好きなのは、キーストンやニホンピロエースの逃げ方に、他馬を捨てて走る……という後めたさを感じるからなのかも知れない。  その私が、たった一つだけ、「捨てずに集めている」ものがある。それは馬の切手である。  私の旅行鞄の片隅には十年がかりで集めた「馬の切手」が二百種ばかり入っていて、それだけはどうも捨てそびれているのだ。  たとえば一九四二年のナチスの競馬。これはブラウン、リボン競馬とヒトラー教育基金慈善の一色刷りの切手。そしてまたサンマリノの今年出たばかりの、赤い帽子のジョッキーが風を切って走っている多色刷りの切手。  どれもこれも、私にはドラマを思い出させてくれる。  私は、未使用の切手などに興味はなくて、使用済の切手ばかりが好きなのである。  私は、それらの古い切手の印刷美をたのしむというよりは、それが貼られた手紙の内容を想像してたのしむ。  そして、その一枚ずつに勝手な空想をくっつけては、一人旅の侘しさをまぎらわすという訳なのだ。  一人の女がいた。  新宿の裏通りの小さな酒場で働いていた。私はそこで飲んで、閉店近くになると外に出て、外套の襟を立てて待っていた。  そして待ちあわせて、私のアパートへ一緒に帰って行った。  私たちはお互いの身の上話もせずに、一年足らず一緒に暮していたが、彼女はある夜突然帰って来なかったのである。  まったく置手紙もなく、理由もつかめぬ「失踪」であった。  思い出せばその女には、泣きぼくろがあった。  北海道の生まれで、塩辛が好きな女であった。二年ほどしてから、ひょっこり一通の手紙が来て、実は自分にはかくし子があって、その子が病気になったので故郷へ帰ったのだという詫状が書いてあった。  私はその手紙を二度読んで、うそだと見破った。手紙は北海道ではなくて、宮崎の消し印だったからである。  だが、私はその宮崎の消し印のある切手を水に沈めてきれいにはがして保存した。  それは競馬法制定記念の、茶色い五円切手であった。 [#改ページ] [#小見出し] 三分三十秒の賭博  一人の犯罪者が国境まで逃げのびてくる。  国境を越えればもう安全だ。  彼は国境にあるドラッグストアで一休みしてコーヒーを一杯飲む。  ドアをあけて出てゆけば、外はもう自由の天地である。  コーヒーを飲み終って、彼はふと傍らのジュークボックスに目をとめる。  なつかしい曲が入っているのだ。  彼は十セントを投げこんでその一曲のレコードに耳をかたむける。  空は晴れて、国境の空に鳥がさえずっている。人を殺してまで手に入れた金は、もうこれから一生分位の生活と遊興費にあてても余りあるだろう。  彼はその一曲を心に沁みる想いで聞いている。  やがて曲が終って彼は立上る。  すると彼のすぐ傍らに手錠をもった刑事が立っているのだ。  彼は自由を目前にして逮捕され、もう二度と陽の目を見られぬコンクリートの塀の中に連れられて行く。  ドアの前で、彼は立止って店のバーテンに聞く。 「このレコード一曲は、何分かかったかね?」  するとバーテンが答える。 「三分半ぐらいですよ」  これは私の大好きだったジョン・ヒューストンのギャング映画「アスファルト・ジャングル」のラスト・シーンである。  たったレコード一枚分の休息。三分三十秒の人間らしい一刻が、彼の一生を賭けた大仕事の成功をフイにしてしまったのだ。  何と高価なレコード一枚の聞き賃だろうと、観客は考える。  三分半の長さと人生の長さとをハカリにかけたら、そんな無駄なことに時間を費やすことが、いかにバカらしいかわかりそうなもんだ……という訳である。  ところで、今頃どうしてこんな古い映画のことをなつかしがったりするのか?  出ていたマリリン・モンローがなつかしくなったからか?  むろん、それもある。  だが、それよりも重要なのはレコード一曲の三分三十秒という時間が、近づいたダービーと深い関わりあいを持っているからなのである。  三年前、メイズイはダービーの距離二四〇〇メートルの青い芝生を三分二十八秒七で走り抜けた。 (これはダービー史上のレコードであった)  一昨年のシンザンは少し遅くて三分二十八秒八、昨年のキーストンは雨の中の不良馬場で三分三十五秒五かかって走ったのである。これらは、いずれもレコードにして一曲分の長さである。  フランク・シナトラの「シカゴ」でもやっぱり同じ位の長さだし、  人に好かれていい子になって  落ちて行くときゃ一人じゃないか  と唄う、畠山みどりの「出世街道」にしたところで、やっぱり三分半足らずなのだ。  この、一曲分の長さのために一生を賭けるサラブレッド馬の宿命は悲しいといえば、悲しくもある。  人間ならば、(しかも平凡なサラリーマンならば)三分三十秒というのは、まったくのハシタ時間なのである。  彼らの大半は退屈して時間をもてあましているので「三分三十秒」などという時間の長さを、殊更に意味づけて考える習慣はない。 「何か面白いことないか」という映画の題名に共想し、ウロウロとさまよっているマージャン無宿のサラリーマンたちにとっては、三分三十秒ぐらいの長さの時間というのは 「場所が決まり、親が決まってサイが振られ、ドラが決まったら、さて俺の配牌……?」はという位の長さでしかない。  三分三十秒で中華ソバを二杯食える、とか、三分三十秒で女の子を口説き落せる、とか、三分三十秒で岩波文庫の「国家と革命」を二十ページ読めるとかいったところで、それはただの日常生活の一部にすぎないのであって、「命を賭ける」というほどの大ゲサなものではないであろう。  だが、私は短い時間に賭けるものにほど親しみを感じる。  なぜなら、三日に生甲斐を想じるものよりも三分に生甲斐を感じるものの方が「より多く生きられる」ことになるし、いかにも「生き急ぐ」ものの栄光と悲惨とがナマナマしく感じられるからである。  ことしのダービーは、どれ位のタイムになるでしょうね?  と新宿の酒場のバーテンをしている荒さんが訊いた。 「三分三十秒二か三というところじゃないだろうか?」  と私は答えた。 「でも、シヨウグンにはそんなスピードがありますかねえ。  オレなんかの考えだと、コダマのときより少し時計がかかって三分三十一秒台じゃないかと思いますがねえ」  と荒さん。 「だが……」と私はいった。 「今年のダービーはテンのペースが早くなるよ。  シバハヤとテツノイサムとニホンピローエースとで先行争いをするからね」  これは私の推理というよりは、ことしのダービーを予想するもの全ての考えである。  浅見調教師の性格、シバハヤの脚質(NHK盃で逃げまくって四着に残った)などから考えて、この馬は先に行くしかないだろう。  おそらく、すごいダッシュでとび出すにちがいない。また、テツノイサムにしても同じことがいえる。  この馬はスプリング・ステークスでニホンピローエースにからんで行って、それをせり潰した実績もあるし、シエスキイ、オクタビヤスをぶっちぎって逃げ、二の脚を使って勝ったという経験もある。それに関西の惑星馬ブゼンホープもからんでゆき、ニホンピローエースがハナに立つまで、かなりのハイペースが予想されるからである。 「大体、ズバ抜けた逃げ馬のいるレースは、その逃げ馬が勝っても負けても、タイムは早くなる。  これは常識だね」  と私はいった。  たったレコード一枚分の長さでも、それは彼ら競走馬の生命なのだから。  で、レースはどんな風に展開して、何が勝つと思います?  と荒さんが訊いた。  たぶん、向う正面ではニホンピローエースがハナに立つ。  だが、あの美しい栗毛の馬は、花ならばサクラだ。  サクラならば、いつかは散るだろう。  正面にかかるところで、一度は力尽きるニホンピローエースを、シヨウグン、ナスノコトブキらがどっと禿鷹のごとくおそいかかるにちがいない。  それからニホンピローエースが、二の脚を使えるかどうかにレースの鍵があるのだが、それは当日までのおたのしみというところだね。  私のダービーの本命はニホンピローエース、対抗はシヨウグン。  そして単穴にはシエスキイ。アポオンワード。  好きだから、損するつもりで買う馬はヤマニリユウ。  森安弘騎手にダービーを勝たせたい気がするのでナスノコトブキにも期待するが、結局はナスノコトブキでは勝てないのではなかろうか?  これが平凡だが、私の三分三十秒レースについての「予想」というところである。 [#改ページ] [#小見出し] 馬の性生活白書  晴れた日が続いたので、千葉の牧場めぐりをしようと思い立った。  古典的な御料牧場、近代経営の社台ファーム、童話の絵本から抜け出したようなシンボリ牧場、そしてお目当ては私のもっとも好きだった馬ミオソチスのいる下河辺牧場である。  私と二、三人の友人とは、房総半島の心臓のあたりのガタガタ道を車に揺られながらダービーの下馬評などをやって行った。  途中で、こんもりとした森にかこまれた中央競馬会の「種つけ所」に寄ってみようじゃないか、ということになった。  そこにはガルカドール、セダンなどの種牡馬が毎日栄養を採って精力を養っている。  そして、繁殖用牝馬が発情してやってくると、性交してやるのである。  性交というのは、ウマいことばであって、そこには「情事」といったムードなどは感じられない。  だが、「毎日べつの相手とやって金と御馳走を貰えるんだから、ガルカドールやセダンはしあわせだなあ」  と一人がいった。  まったく、私だって人種改良協会あたりに買上げられて、種牡人としての生活をしてみたいもんだ、と思った。  寄ってみると折良くスズカンゲツの「種つけ」が行なわれるという。  スズカンゲツといえば、保田が騎《の》って活躍した男まさりの牝馬である。  入ってゆくと、青草の上に牝馬をつなぐ杭が組立てられてある。  そして、そこには処女のスズカンゲツが後向きになってじっと立っていた。  そのへんは凹地で、まわりは一面にチモシーやレッドクローバーなどの牧草が密生している。  やがて、その牧草をふんで馬丁にひかれた種牡馬セダンが近寄ってくる。  ふいにセダンが凹地の入口で「ヒヒーン!」といななく。  だが、こっちにつながれているスズカンゲツは反応しない。  これが、充分に春情をもよおしている牝馬とか、「男を知った」繁殖馬だと「ヒヒーン」といなないてこたえるのである。  そして、まるで古事記か万葉の世界のように、お互いの相聞のあったところで愛がはじまるのだが、スズカンゲツはウブにすぎたようだ。 「ウブなんだね」  と私がいうと、牧童は 「いやあ、この馬は走りすぎたんですね」という。 「人間でもオリンピック選手なんかには乙女心を感じさせるような可憐な女の子ってのはいませんからね。  ま、男まさりの処女なんてのはこんなもんでしょうな」  なるほど、そういわれてみるとそうかも知れない。  スズカンゲツの競争馬時代は多くのレーシング・フォーム(競馬新聞)に、「巴御前」とか「男嫌い」とかいわれたものだった。ヒンドスタンの仔で、骨組もがっしりしていて、ウエスト80、ヒップ95の砲丸投げ選手とでもいった趣きである。  やがて、入ってきたセダンはそのスズカンゲツの後姿を見ていたが、すこしずつ陰茎がのびはじめた。  それは七、八十センチぐらいまでのびたが完全な勃起とはいえないようである。 「セダンはスタンダップしないね」  というと馬丁が 「何しろ毎日ですからねえ。  これが、たまにだとモノ凄いんだが、何しろ毎日となるとどんな牡馬でもしだいにより好みすることを覚えますね」という。  セダンは、七、八十センチのペニスをブラブラさせながら、スズカンゲツのまわりをまわり、ときどき顔を寄せて匂いをかいだりしていたが、それは前戯の一種なのである。  スズカンゲツは、されるままになって身をかたくしているが、それは金で貞操を売ったアルバイト娼婦が 「早くしてよ」  とでも催促するような、ムードのないものであった。  やがて少しずつセダンのペニスが勃起してくると、セダンがスズカンゲツにうしろから乗りかかってゆく。  そこへ馬丁が駈け寄っていって、にぎりこぶしよりも大きい亀頭をスズカンゲツの中に押しこんでやる介添をする。  これもスズカンゲツが処女だからで、馴れた馬同士だと「馬なり」でやらせておくと結構たのしみながら「交配」するのである。  セダンはスズカンゲツの上で二、三度腰を使っていたが、やがて離れた。  セダンのペニスが、陰萎気味にやわらかくなっている。 「セダンは神経質でしてね。  相手馬の気分を大切にするんですよ。それに人間に見られていたりすると、気が散るらしくって、いつもこれですよ」  と馬丁が解説する。  セダンは、またスズカンゲツの匂いを嗅いだり、背に自分の顔をすり寄せたりして愛撫するが、やっぱりスズカンゲツは反応をしめさない。  それは中年男のかなしみといった風情でさえある。  石坂洋次郎に 「みどりなす黒髪ゆえに泣きあかす四十男の肉のかなしみ」  という短歌があるが、人間の齢でいえば五十をとっくに越えたセダンが、処女のスズカンゲツを愛撫するさまは、なかなかの見世物であった。  やがて、セダンのペニスが再び硬くなりはじめた。  するとセダンは自分から素早くスズカンゲツにのしかかり、そのたてがみをまるく噛むようにして、合わせた腰を上下しはじめた。  やがて、馬丁が「出た! 出た!」と叫んでタオルを持って駈け寄って行った。  そして、義務を終えたセダンがスズカンゲツから離れた。それは如何にも「種牡馬」としての職業に徹したという終り方で、ムードのない結末だったと思う。  往年の英雄馬トウルヌソルは、相手がどんなに嫌がろうと、恥かしがろうとも、ウムをいわせずに前足で牝馬を抑えつけて目的を完遂したそうである。  また、ダイオライトは、えんえんと牝馬をじらして、たっぷりと前戯しながら、ついに牝馬ががまんしきれなくなるほど、切なく荒い息を吐くまでじっと待ったそうだ。  馬の「性」にも、やはりそれぞれの性格があるというのは愉快なことである。  私は出来ることならば、馬の種つけの演出をしたいと思っている。  青空の下で、音楽は壮厳なミサ曲を奏でさせ、牡馬と牝馬の「顔合せ」からはじめる。  それは、古代演劇の中にあった厳粛さと、そして雄々しさのある儀式として、充分に観賞に耐える芸術になるのではあるまいか。  たてがみに花をかざった牝馬と、覆面をした牡馬の交合。その荒々しい「性」のなかには現代人が、性からも疎外されかけていることへの見事な批評になるであろう。  人間のならば、シロクロなどといわれて裏町の非合法ショウにしかならないものが、馬だと見事な芸術になる。  それは決して、ペニスのサイズだけの問題ではない筈である! [#改ページ] [#小見出し] 片目のジャック  トランプにはジャックのカードが四枚あるが、そのうちで「片目のジャック」は何と何か知ってますかね?  とバーテンの宍戸が聞いた。  ある雨の日。  私は酒場のカウンターの片隅で、一人占いをやっていた。  私は顔をあげて宍戸を見た。  咄嗟《とつさ》に答えが思いつかなかった。毎日ポーカーをやっていながら、ジャックの目のことには気が付いていなかったのである。さあ、知らんね教えてくれよ。と私がいった。  すると宍戸は私の持っていたカードをパラパラと繰って中から二枚の片目のジャックを取り出して見せた。  それは、ハートとスペードであった。  私は雨の音を聞きながら、二枚のジャックにしみじみと見入った。  片目のジャックは、かくしているもう一つの目で何を見ているのだろうか?  それはまるで、人生上の重大な問題でもあるような気がした。 [#ここから2字下げ] 故郷はなれてはるばる千里 何で想いがとどこうぞ [#ここで字下げ終わり]  ——と、東海林太郎のレコードをかけながら宍戸がボソッといった。 「そろそろ一周忌になりますね」 「誰の?」と私が聞きかえした。 「萩さんが死んでからですよ」  と宍戸がいった。  私はふと萩さんのことを思い出した。萩さんもまた、私同様の競馬狂であった。年は私よりずっと上で、七ツボタンの予科練帰りだったのである。  戦争中に片目を失明し、それから予想屋、ポン引き、自動車セールスマン、手形のパクリなど種々と職を変え、私と知りあったときは宍戸と並んで、この酒場でシェーカーを振っていたのだ。  私たちは金曜日の夜、競馬新聞をひらいてはよく議論した。  彼は自分の目のせいで、「片目の馬」の馬券を必ず買っていたものである。  たとえばエツリユウの場合。  エツリユウは右目がつぶれていたので左まわりのコースでは盲目同様走れない。だから中山へ出走した場合には、絶対に要らない馬券なのに萩さんは、その馬券を買った。それはまったく莫迦げた投資であった。 「あいてる目は現実しか見ないが、潰れている目は幻までも見るんだ」  というのが萩さんの口ぐせであった。  萩さんは独眼流アキリウの馬券もよく買った。そして逃げ馬スタンダードの馬券もよく買った。だが、片目で大成した馬はいなかったので、大抵、損していたようである。  スタンダードなどは、片目が見えないために他馬をこわがった。ゲートがあくと(まるで、悪夢からのがれるようにして)逃げた。  他馬は、そのスタンダードの見えない目のそばにドッと並んで行ってはスタンダードをせり落してしまった。そのスタンダードがついに、競走中に片目のための事故を起したとき、萩さんはしょんぼりとそのニュースを聞いていた。  やがてスタンダードは薬殺された。 「片目のジャックは死んだな」  と宍戸がいったら、萩さんは 「ジャックじゃないよ。クイーンだよ」  と答えたそうである。  スタンダードは牝馬だったのだ。  そして、それから一か月もたたないうちに萩さんはトラックにはねられて入院し、入院の翌日に死んだ。  私たちは萩さんの弔い合戦に府中に出かけて行って、全員でエツリユウの馬券を買い、全員で損をしてきた。  だが、みんな「安い香典だ」といって笑っていたものだった。  それからしばらく、私は「片目の馬」とつきあわなかったし、片目の馬にもこれといったヒーローも出なかった。  二月十三日、久しぶりに宍戸とミストルコの桃ちゃん(宍戸の内妻)と三人で府中へ行った私たちは、四歳馬に新しい「片目のジャック」を見出したのだ。  それはホウユウ(朋友)という名の馬であった。ランクは未出走未勝利で、成績は十一戦して着外が九回、勿論一勝もあげていない。父馬がフアストロで母馬がハタノボリ。どうして片目になったのか知らないが、どこか気恥かしそうで、童貞の少年のようでさえあった。私が 「俺、ホウユウにつきあってみることにするよ」  というと桃ちゃんが、でも本命はセイダイよ。といった。  セイダイ(Say! die)という暴君的な馬と、対抗人気のアルメリア。そしてセルパールなどと並んで、片目のホウユウが勝てる根拠は何もない。  それでも私はホウユウを買ってみた。  するとレースは逃げるアルメリアを直線坂下でとらえた「片目のジャック」の勝利に終ったのである。  私はその馬券を見ながら、しみじみと死んだ萩さんのことを思いだし  持つべきものは朋友だなあ。  と思ったものである。  (こんなことを思い出すのも、雨の夜の、カード一枚分の感傷と言ってしまえばそれまでだが……) [#改ページ] [#小見出し] 賭けのエネルギー  賭けることが好きで、やめられないロアルド・ダールの「南から来た男」という小説の中に、ライターを十回つづけてともして、十回とも完全に火がつくかどうかに指を一本ずつ賭ける中年の男が出てくるが、私もまた(指は大丈夫だが)これまでどれだけ多くのものを賭けてきたか数えきれない。賭博といえば競輪、競馬からスロットマシーン、ビンゴ、ポーカーだけではない。いまから十分以内に帽子をかぶった男が何人通るかを賭けて、裏通りの酒場で腕時計を見ながら、「帽子の男」を待つたのしみから、有線放送で次に流れる曲が何であるかをあてる賭。隣に坐った女の職業をあてるのに一万円賭けて、「もしもし」と肩を叩いて訊くときのスリル。  そんなわけだから、いわゆるマイホームというやつが嫌いで、いまも決まった「家」がない。だが、アンドレ・マルローの句のように、  選び男の行く先は  流れる雲の赴くところということで、結構満足しているのである。賭博が、しばしば人の生甲斐となりうるのは、それがじぶんの運命をもっとも短時間に「知る」方便になるからである。女はだれでも、運の悪い女は美しくないということを知っているし、男はだれでも必然性からの脱出をもくろんでいる。歴史が、諸科学の中でももっとも必然性に支えられたものだとする思想が、合理主義科学という名のベルトコンベアにまきこむ社会。  入社した日に、じぶんの定年までの給料をコンピューターで算出できるシステム。個人の意志は歴史的必然性のなかにあってはまったく非力で、「クレオパトラの鼻の高さでさえも、歴史を変える力には決してなり得ない」(プレハーノフ『歴史における個人の役割』)という状況の中で、自由と解放は「偶然性」といったものを味方に組み込もうとしたとしても、それはきわめて当然のことなのではないだろうか? あらゆる美は、偶然的である。  権力は必然的だが、暴力は偶然的である。わかれは必然的だが、出会いは偶然的である。そして、その偶然的な運の祝福をゲームにまで止揚してみせるのが賭博というものなのである。  かつて「空想から科学へ」といわれ、いま「科学から空想へ」といいなおされてゆこうとしているとき、私はエロスと偶然性といったことの力学的な交差の中に一つの幸運論の糸口を見出す。  ギャンブルは、労働を小莫迦にしてアブク銭ばかりをあてにするようになるという政治的発言はばかばかしい発言である。小莫迦にされる労働しか与えられないのが今日の時点における歴史的必然性だとしたら、低所得労働者に「一点豪華」の変革の思想、革命のエネルギーを与えるのは賭博の世界なのである。東京都知事の「公営ギャンブル廃止論」の是非が、その「必要悪」性と利潤の公益性といった政治的効用の次元からばかり問題にされて、哲学や美——そしてまた「生甲斐とは何か」といった本質論にまでゆきつかないのは、あまりにも形而下的すぎる。エンゲルスの「家族及び私有財産制」と、マイホームの安泰とのかねあいを問題にせずに、PTAママの肩をもって、すべての男を「家」にとじこめようとする現状維持の反賭博政策には、詩もなければ歴史の新しい断面との「出会い」も持つことがないであろう。 [#改ページ] [#小見出し] オート・レーサー  オートバイには死の匂いがただよっている。サンフランシスコの「地獄の天使」とよばれるオートバイ・ギャングたちは、皮のジャケットの下はいつも裸で、十字架をぶらさげて秒速二〇台で、死と戯れているのだが、彼らは男色、麻薬、強姦といったことをくりかえしているにしては、だれもが聖者のような顔をしているのである。  彼らの仲間の一人であり、通称〈サソリ〉と呼ばれるヘンドリックスはサンフランシスコの海岸沿いを疾走しながら、死んだのだが、死んでからもまだ秒速二〇台で走りつづけていたという。つまり、速度が生死の国境をとびこえてしまったため、肉体が死んだあとも一直線に海に向ってペダルをふみつづけてしまって、死を生きていた、というわけなのだろう。  自動車についても同じことがいえる。私は人間を運搬するための発動機つきの箱にはなんの興味も持たないが、レースに出てくる自動車には、たまらない魅力を感じる。その速度が純粋に扱われていて、社会的な役割といったものからまぬがれているからである。  少年時代に、本を万引して、逃げたことがある。盗んだ本は「ボクシング」という平沢雪村編集の薄っぺらの雑誌だったが、すぐに見つけられて追いかけられた。  それは雪の日だったせいもあるが、私はすべってなかなか速く走ることができず、たちまち追いつかれて店員二人に「袋叩き」にされた。その時からかどうかは知らないが、私は自分が速くなければならない、と思うようになった。マラトンの走者からロンジュモーの駅馬車まで、サラブレッドからボアローの航空力学まで——「速度は権力的であった」。  ああ、どうしておれの心臓には発動機がついていないんだろうな、と私は思った。せめて二気筒でもいいから発動機がついていたら、世界の果てまでおまえを連れてってやれるのだが、と。  私は「速度の歴史」のなかに二つの道があったことを知っている。一つは文明の発達という名の機能的な速度の歴史であり、人間の拡張の理論である。だが、私がとりつかれていたのは、もう一つの速度の歴史であり、それは二輪の足蹴り自転車から、人力飛行機にいたる「役に立たない速度の歴史」である。社会の進歩という幻想に役立つことからまぬがれようとしてきた速度の歴史は、はじめのうちは「逃亡の手段」として考えられてきた。それは万引少年の大脱走論ではなくて、もっと根源的なもの、たとえば「出来上がった社会」から逃げる、自分自身の日常生活から逃げる、じぶんの腕に手錠のようにきっちりとはまっている腕時計の「時」から逃げるということなのであった。  しかし、それは次第に「逃げる」のではなく「追越す」のだ、と考えられるようになってきたのである(ローラーゲームで、いきなり逃げ出す男は何をたくらんでいるのかといえば、ひとまわりして列の後尾の敵を追抜こうとしているのであるし、貧しいセールスマンの父が自転車にのるのは、家庭から逃げるためではなくて、自分自身の歩幅がしるす日常生活の屈辱を追抜くためである)。  速くなければならぬ、と私は思っていた。  あらゆる文明の権力から、自らを守るためには速度が必要なのだ。  オートレースのたのしみは、じぶんが死神になるたのしみである。私たちは、出走する車から、すばやく「死」をえらんで賭けるのだ。  だが、死といっても、それは表にあらわれてくる死ではなく、生のうちにかくれている、より実存的な死である。鷹のような目をして、ポケットの中の札をワシづかみにしながら群衆のなかをもまれて歩くとき、私は少年時代から今日にいたる私自身の「速度の歴史」を思いうかべる。  風が吹いてくると、捨てられた車券の屑がころがってゆく。同じトライアンフ六九のなかにも、さまざまの思い出があるように、同じ二—三、二—五といったはずれ車券にも、それぞれの物語があることだろう。しかも、それは、秒の争いなのだ。 「おれたちが、秒の話をするのはここだけだな」  と、中折帽をかぶったテキヤの鉄がいう。 「ほんとにな、ふだんは秒なんて考えたこともねえよ、ションベンするのだって、一分とか二分かかるんだからな」  たった一本の煙草にマッチをするつかのま、その一秒か二秒の差が人生を逆転させてしまうのがオートレースの世界なのだ。それは緩慢な生と対応するすばやい死の翳である。鳥の翼のように、私たちの頭上をレースの最後の数秒ごとに通りすぎてゆく死を、誰が見抜くことができるのだろうか? 「おまえがオートレースにやってくるのは、発動機のコンプレックスなんだってな」  と予想紙売りの大井のタメさんがいう。 「そうなんだよ。おふくろがおれの心臓に発動機をくっつけておいてくれなかったから、おれはうらんでるのさ。  ほんとに車は、いいよなあ」  賭けることは、一つの思想的行為である。それは一点豪華主義とでもいったもので、サラリーマンの平均化された日常生活、バランス化された経済生活、平穏無事さの不条理、「何か面白いことはないか」と思いながら、しかし何も起らないくりかえしの毎日に、突然訪れてくる「事件」のようなものだ。  誰もが安定した生活という名の平均化を求め、そして同時に誰もが画一化からまぬがれたいと思っている現代社会にあって、実人生では手に入らない「栄光と悲惨」を一手にひきうけてくれる虚構の生死、オートレース・ギャンブルの「速度」は、そのまま時代感情の反映だということもできるだろう。  一サラリーマンの収入のバランス主義的な配分では、海外旅行は勿論、高級レストランのビーフステーキも、車も、飛行機旅行も、買うことはできない社会である。そんなとき、平均化をあきらめて、住居はゴキブリの這いまわる三畳にし、そのかわりにすばらしいスポーツカーを手に入れる、とか、三日間をパンと牛乳ですまして四日目に「マキシム」のステーキをフルコースで食べるといった経験の狩人になることは——現実の中での自分のアリバイを知る上でも「英雄的」なアイデアであるように思われる。なんでも中位、という幸福論から、他を捨てて一つをえらぶという幸福論への転移をすすめるとき、何よりもまず賭博者の目が必要とされてくる。それは自分自身を追抜く「速度の思想」でもあるだろう。速度と賭博とが切っても切れない関係にあることを見抜くことが、とりも直さず生きがいの回復につながることだと思うのだが、「ぜいたく好きのくせに、ギャンブルぎらいのマイホームの奥さん」たち! この比喩の意味、わかりますか? [#改ページ] [#見出し] 第三章 ハイティーン詩集 [#小見出し] ハイティーン詩集傑作選   百行書きたい [#地付き]秋亜綺羅   「シャボン玉ホリディ」を見たい 純喫茶「基地」でレモンティ飲みたい 郷愁を描いてみたい �失われた喪失�の意味が知りたい 着飾った新宿女のマスク汚したい 接吻のあとに�ゴヲゴヲ踊ろうか�と囁《ささや》きたい。 女性《おとな》ぶる売春少女の涙を拭《ふ》きたい 田舎で一万円を拾いたい 母さんのエプロンで洟《はな》汁かみたい 結局寒さを忘れることを嫌いたい 直角正三角形を夢見たい どいつもイタリイも知りたい コヲクとペプシをチャンポンしたい 埃《ほこり》より小さな星を食べたい トイレに行きたい �セ�したい 河原を捨てたい こんどは誰の番か知りたい 返事をもらいたい 切られたい シッカロヲルを嘗《な》めたい 東京へ行きたい 中江俊夫の「語彙集」を持ちたい 詩は辞典なしで書きたい 伊勢丹で愛犬キリイを呼び出したい ユキに�処女をあげたい�といわせたい 手鏡を焼きたい 待ちたい 百行書きたい 相|槌《づち》を打ちたい 黒い雨を氷菓子にして売りたい 昨日と明日を(|+《た》)して2で(|÷《わ》)りたい もうそろそろ生まれたい 北の海辺で震えたい プロポヲズなんて止《よ》したい 右翼になりたい 十年先を想《おも》い出したい 紀伊国屋のカレンダアを飾りたい 水平線で凍死したい 危険な食品を食べたい 刃渡り二十一世紀の果物ナイフを信じたい 千賀かほるの唾液に蕩《とろ》けたい 別れたい 溺死寸前には死に水[#「死に水」に傍点]を飲みたい ユキと■交したい ちょっぴり泣きたい 足裏を掻《か》きたい 誕生日の歌を書いて五十万円もらいたい そしたらパチンコ屋を始めたい コカコヲラは玉十個でよいことにしたい 先生! オシッコしたい 小指を見ていたい 戦慄《ぶるぶる》したい もうやめたい 穴があったら出てみたい 早くハタチになって選挙したい 初夢には止まった時計を見たい 二百年後に(寺山修司は死ぬそうだから)処女詩集を出したい ペンネエムは秋薬俊裕としたい ボサノバをかじりながらレモンを聞きたい これは盗作だと非難されたい シュウクリイムで絵を描きたい �まだ白紙です�とキザリたい 何行まで書いたか数えたい ドヲナッツ型アドバルウンに色を塗りたい 腕時計はSEIKOを薦めたい 渋谷ブルウスを作曲したい 日記には日記らしいことを残したい でも順列・組合せは勉強したい ベクトルは忘れたい ファイティング原田を昼寝させたい 女産業スパイを脱がせたい 死んでも死んでも糞たれたい ユキと絶交したい そのあとTELしたい なんてロマンティックな十八歳は終わりたい 顔を洗いたい 恋する男に歴史は暦より狭いことを耳打ちしたい 少年マガジンだから立読みしたい 天井桟敷館《ちかそうこ》に象にのって行きたい けど文明には感謝したい アポロが帰れなくなるの見物《みとどけ》たい 死に装束[#「死に装束」に傍点]を着たい 「さようならの総括」を歌いたい 隠したい 活字を裏返したい[#「裏返したい」に傍点] 感電死したい 新聞読みたい 石田学君に会いたい 徴兵カアドを焼き捨てたい 寺山修司に皮手袋を贈りたい 新高恵子に貝の歌を捧げたい エレベエタアで天まで行きたい そのときはユキを連れて行きたい 意味のない暗号など書いてみたい 幽霊君に�死人に口なし�といわせたい どうも足の先が冷たい ——透明扉を閉めたい   私が娼婦になったら [#地付き]岡本阿魅   私が娼婦になったら いちばん最初のお客は おかもと  たろうだ 私が娼婦になったら 私が今まで買いためた本をみんな  古本屋に売りはらって 世界でいちばん香りのよい石鹸を  買おう 私が娼婦になったら 悲しみをいっぱい背負って来た人  には翼をあげよう 私が娼婦になったら たろうのにおいの残ったプライベ  ートルームは いつも綺麗に掃  除して悪いけれど誰も入れない 私が娼婦になったら 太陽の下で汗を流しながらお洗濯  をしよう 私が娼婦になったら アンドロメダを腕輪にする呪文  を覚えよう 私が娼婦になったら 誰にも犯サレナイ少女になろう 私が娼婦になったら 悲しみを乗り越えた慈悲深い  マリアになろう 私が娼婦になったら 黒人《アポロ》に五月の風を教えよう 私が娼婦になったら 黒人《アポロ》から JAZZ を教えてもらおう 淋しい時にはベッドにはいって  たろうのにおいをかぎ うれしい時は窓に向って静かに  次に起こることを待ち 誰かにむしょうに会いたくなった  らベッドにもぐって 息を殺し  て遠い星の声を聞こう   性 典 [#地付き]北畑正人   うすみどりの表紙は 電灯に輝くビニール装A5判 数学の問題集かと思ってしまう そのうえ 中にはやたらに フランス語やら、ラテン語やら ドイツ語やら、の注釈があるもの だから 驚いて表紙をひっくり返してみたが 某大学教授・著とはなっていないので安心した 蜂蜜の感覚が ぼんやりぼくのリセイをとり巻いているから 心臓はちょっともどきどきしやしない マア退屈 結局インテリ向きなんだな この本は たしかに重要らしいし 良書かも知れないんだけれど 期待していた 宝石やきらきら星なんて ありはしない 清純純血な女学生がたには存在さえ知らされない ということになっている 後ろめたい劣等生には まるでナンテンの実 だけど 人生訓だの賛美歌、南無阿弥陀仏、入学式の祝辞 ——などよりは ずっと為になるんじゃないかな 駅から十五分 こぎたない古本屋の奥に 五、六冊 しとやかに、つつましく そして半分あきらめ顔にならんでいた おまえを発見したとき ぼくは涙ぐんだ おまえ とっても神聖だ インタビューしよう 「ぼくは性典 きみたちのお抱え哲学者 気弱者の味方 くらまてんぐさ」   絶望の季節 [#地付き]佐々木英明   新しいとんねるができてから もう 海が見られなくなった 夕暮れも 落日も ぼくはこれから絶望を背おって 長い団地の曲りくねった道に 自分をさらそう 過去は焚き火をしてやっと燃えてしまった 汚れた雪に それでも新雪を掘りおこすような 柔らかい手つきで穴を掘ると ぽっかり開いた 春 ぼくはどっさり過去をつめて 火を放つと やがて黒い焼け残りが風に舞った 「A列車で行こう」と ぼくはあさ子にしゃれをみせ やっけの胸ぽっけから ちゅういんがむを 銀紙をはがして与えると にこりともしないで あさ子は すべり込んだ 列車に向かって走り出した ぼくは長髪には不似合な帽子を さっと取り払うと たちまち夢をみた 春がやってきたら西海岸へ行こう ほわいとぽーるの自転車は 追われて逃げるあさ子の尻を追う やっと身をかわして 抱きしめたくなる胸に息をきって ぼくを にらみつけたあさ子 ぼくは絶望したのに あさ子は こんくりーとのように工業化された雪に さんだるを響かせて ものを容れない ぼくは凍《い》てつく冬が好きだった 家がだんだん雪に埋もれて いよいよ道のほうが戸より高くなると ぼくは路に腰かけて 死にたいとつぶやく日が多くなった 夕暮れだと きっと あさ子が買いものカゴをさげて ここを通るはずだと思えば 一目散《いちもくさん》に逃げ出したぼくなど おかまいなし すべてのふぁんたじいを捨てて ぼくは冷たい雪の椅子に 腰かける毎日をすばやくおくった なのに あさ子は現われず A列車で行こう ぼくは春を迎えて ようやくほーむに あさ子の押し黙った顔を見た ぼくは近寄れなかった きゅるけごうるの愛についてを 精読して 気を晴らそうと思ったが きりすとの強い影響が 実はこわくて あさ子 ぼくは暴行といわれてもいい きりすとよりは おまえにしがみつきたい 北国にやってきた春はひどい春だった ねこやなぎは咲かないし 河は流れない ぼくはかすりのはんちゃを着て 山小屋にみたてた りんご小屋にしのび込む日が多くなった 橋を渡りもしないのに ぼくは渡ったと強がりをいうことが多くなった だから、いっこうに学校だけは通って 夢を食べるだけの生活だった とんねるなどできねばよかったのだ ぼくは大学受験の勉強などせず 一生懸命 記念の落書きを 遠い卒業に備えて くりーむ色の壁に書きつけたものの 創れるものはなく あさ子 あさ子と書きなぐっては あさ子をぶちこわしにしてしまった だから、ますます 物理のにやけた先公が気に入らなくなり 手製の実験具は かたっぱしからこわしていった もう卒業できる見込がないと しょげかえるときだけ いめいじだけ ちょっぴりあさ子を創り そのためぼくは錆びたすとーぶで くらすめーとの雑談も避けた ぼくはりんご小屋で青酸かりを飲みそこねた ぼくはそのときに発狂した らじおでは、たんごと ふおるくろーれしか聞かないのに 新聞ではかならず自殺の記事をみいだせないと 不きげんとなった ぼくはきりすとの絵画に すてんれすの輪をみつけて狂喜した 輪をまわしているのは きりすと教的まりあでも何でもなく 長い髪をなびかせたあとの少年は あさ子だった それからぼくはまるくす否定論者になった 弱々しく はいでっがあの助だちにまわろうとしたが 時間と存在は難解すぎ ぼくは あなあきすとに生まれかわった あさ子の「あ」がつけば もうそれだけで充分だと 日記に書いた でも それも雪の穴で灰になった あさ子はいま 列車でとんねるを やはり不快に思いながら ひとりで通っている ぼくは時期をのがしたらたいへんと思いながらも 皮かばんをぶらさげ 深くぼうしをかぶり よれよれのずぼんには無とんちゃくで Jという喫茶店なら ごうじゃすだから とくだらない想いをこらしている 準備が整ったら たとえ 時間は無でもいい はいっただけで不安になれそうな 白壁だらけのJをたずねよう あさ子は死にもしない ぼくは もちろん生きもしない   のぶ子 [#地付き]鈴木章   のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子 のぶ子   書けば書くほど、悲しくなる   母捨記・ははすてのき [#地付き]森忠明   かあさん 僕は想い出している かあさんの熱く大きな腿の上で 頭を洗ってもらった時 泡だった石鹸が目にしみて かあさんを初めて呪ったことや かあさんの真っ黒な陰毛が湯気にしっとりしていたことを かあさん 僕は想い出している 国立病院の木造病棟の隅っこで ざあっと桜が散った時 ネフロオゼのかあさんの温かい小便を 長い廊下の果てにある 昏《くら》い便所へ置きに行ったことを 一緒に並んだ他人の小便《もの》は 諦めきって冷えていたが かあさんの小便は怖しい色をして とてもうらめしそうだった。 その透明すぎる溲瓶《しびん》がみるみる灼《あつ》くなるのを 僕は黙って見つめていた その時便所の小さな格子窓に ざあっと桜がまた散った かあさん 僕は涙ぐんでしまう かあさんはシャルル・ペローの童話《メルヘン》のように 優しく 僕の起源を教えてくれたまま キャベツを剥《む》きアイロンをかけつづけてきた ああ 罪深き太っちょのかあさん 僕と朝鮮娘李薫花のおとなっぽい愛撫も 遠い静かな場所で射精する音も 気《け》だるい風景の中で愉《たの》しい罷《ひ》業を覚えたことも ああ かあさん なんにも知らないかあさん なんにも触れないかあさん なんにも予期できないかあさん かあさんのとびきり灼い血が 僕の指を目を亀頭を心臓を疾走してゆく時 僕は立ちくらみの中で 何もかも想像できてしまう 何もかも見抜いてしまう ああ いたいけない太っちょのかあさん 結核菌だらけの淋しいかあさん どんな卑語にだってたじろがないかあさん 物欲しそうな白い軟《やわ》らかい腕のかあさん かあさん 僕は断ち切る ねっとりどろりとした二重瞼の中の打算を 僕にいずれ取りのぞいてもらおうという 下腹の中の脂《あぶら》ぎった〈忍耐〉を かあさん 僕は捨てる かあさんの性急な願望の巨大な臀《しり》を かあさんの欲深な身のほど知らずの乳房を かあさんの本音を曳《ひ》きずる言葉を かあさん 僕は消失させる かあさんの昼寝姿の思想と陰謀を かあさんの膨れあがった憎悪の目と暴力を かあさんの思いあまった声と幸福と死水《しにみず》を かあさん 僕は帰れない かあさん以外の陸《おか》を 僕は前々から予測していた さっき名も知らない港で そっとひとり乗り込んだ船は 刻一刻かあさんを見限って 太い誇りをボオーッと鳴らす かあさん 僕は帰らない かあさん 僕は帰らない 僕は青白い孤独な密航者なのだし 僕の背中遥かに翻《ひるがえ》る洗濯物の上で 涙ぐむかあさんのためには 一本の曳航《えいこう》綱さえ用意されていないのだから   動物どけい [#地付き]安藤泰子   おとうさんのいなくなったちゃぶ台でひややっこを食べながら おっかさんがやすこちゃん 物理おしえてあげようかといった。引力はね世界じゅうがひっぱりあう さみしい孤独の力なのよ ときいたふうをいうのだけれど 泣きっぽくなったおっかさんに 何がわかるものか 15がもうすぐいってしまって、年とって終日ねたまんまで しびんかかえたまんまで、ちゃぽちゃぽお汁をのんだりするたぬきのようなばあさんになるのは、わかるけれど、こわれそうな、こぼれそうな、そのくせ強くていやらしい頭かかえて はしる、はしる、はしる今の15の私だもの。 [#2字下げ]アンパンたべて蛮声あげて 手足のびのびさせて 草の原で 原始時代の 恋愛場面を再現してみたい気のする15のあまえも だいすきな 私。 草の葉と数学とアメリカ国留学とで はじまった15歳。そうしておきまりのように するりとあらわれた 森くん。 せおいなげのうまかった森くん。世界史のよくできた森くん。 [#2字下げ]あんなにすきだった森くんさえも、ポールのちいさなちいさな かたの先でしかなかった。4人を同じようにだいすきになって 泣きながら高知の町をはしりまわったあの日から、ちっともそだってない。私。 でもおっかさん 心配しなくていいよ。みんなうそ だから。私、そんなに悪い子じゃないから。ただすこしすなおすぎて、大正ふうの感傷過多で、けらけら笑いすぎるから。泰子はほんとはやさしい子なんだよって おっかさんはいってくれる。おとうさんのいなくなったちゃぶ台でもふたりで ひとつのひややっこをたべていると、しあわせすぎて気がとおくなってしまう。もうなみだがでてしまう。 [#ここから2字下げ、折り返して5字下げ] ≪せりふ≫ 泰子…�神さま ああいつまでも    このしあわせを� 神様…わっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。  私…ああ殺してやりたいほどな    ビートルズ! 泰子…わっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。 [#ここで字下げ終わり]   来る日 [#地付き]菅智子   神がやってくる日手を広げて待ちたい 神がやってくる日あわてたくない 神がやってくる日お茶をさしあげたい 神がやってくる日いままでつきあっていた人を思い出したい 神がやってくる日ノートと日記帳を きれいなふろしきに包んで持って行きたい   若いやつのうた [#地付き]山木洋一郎   オレたちは 何のあいさつもなく カアちゃんの腹から出てきて もう四、五年したら なんのあいさつもなく 誰かと所帯をもつだろう まだ暑くもない 五月のはじめに 海にとびこんだから きっと オレたちは ふるえあがるだろうってさ 道の向うから走ってくる 車に どっちがこわれるか 車がこわれたら 地球はひっくりかえり 男は瞬間に女のスカートのなかをみる 恥ずかしがるやつって やっぱり いるだろうな 流行歌がなくなったとしたら 歌手は失業し オレたちもこの世からオサラバだ 映画のイヤラシイ看板をぶちこわして イヤラシイ映画をやってる映画館に火をつけて イヤラシイ本を出してる会社には脅迫状を出したら それをやったやつは イヤラシイやつなのか ものすごいスピードで走ったら どこまでも走らされるような気がするので やっぱり走らないほうがいいのだ プロレスはショーかスポーツかと 議論をとなえ 受け身がオーバーだとののしってる野郎どもよ きさまらは この世界をリングにしたら オレたちはヤジられませんと 確信をもっていえるのかい ふだんが八百長でネエのか オレたちが三味線やったら サマにならんぜ ベイビーの小便だ 年寄りがモンキーかゴーゴーをやったら 猿のまつり その逆なら人間のまつり そのまつりの催しの決定いかんでは善か悪か 判断つくんだとサ この世には易者が多いとみえる やっぱり たまには風呂にいって よく洗って きれいにしなさいだってさ やります   見る男 [#地付き]青木忠雄   おれは男 閉じる男 言葉のない詩集の序を ひきちぎり ぎしぎし扉を閉じる男 虫垂の古傷が痛み出すような そんな 下腹のうずきをこらえ アマリリスの葉脈を見つめる そんな終わりのない晩に アカ系統の親たちが集会を開き 声を枯らして叫んでいる �赤城山麓を  まっ赤に染めましょう� これもはかない親ごころと 共産主義者たちは自己弁護し 佐藤総理氏は無気味に笑う おれは折れ曲がった 故郷への道を なんとか 直線コースにしようと 学習院大土木科めざし 猛勉中! �必勝�と血文字を書いた キューバ 革命分子のなれの果て 流れ流れてしばし休息 おれは男 食う男 あるいは 偶数の指を持ち 母音と子音との空隙を食う男 おれのからだを縛りつける 幾万もの 毛細血管の中には あの漆黒の髪をした母親の 夜毎の悪夢が 茫漠とした大陸黄土の 無数の微粒子となって 荒れ狂っている そして償いは 月夜の晩に 姉さんがするだろう くらくらするような遠心力で からだは浮遊し 哄笑だけが中心に立っている 母は斧を振りあげ 父は斧を振りあげ 姉は斧を振りあげ おれは血を吐き心臓を洗い けっしてふり返ることをせず 土工たちの盛り上げる土塊の中に 思想をまったく封じ込め 旅に出たかった 死ぬまで続く 旅に出たかった おれは男 起つ男 すなわち たわんだ泥土に顔を埋め マックスファクターの 宣伝書《ポスター》の上に起つ男 以上はほんの序論で ほんらい、おれたちの原罪意識は 情念の森の陰 あるいは 百万英霊眠る 太平洋の底のほうに 親父やお袋の背徳行為とともに ほんのちょっとのきっかけを待つ 地雷や水雷となって 沈んでいるんだ お許し [#改ページ] [#小見出し] 私自身の詩的自叙伝 十五歳[#「十五歳」はゴシック体]  エフトウシェンコは、彼の「早すぎる自叙伝」の冒頭に「詩人の自叙伝、それは彼の詩作品をいう。残りは註釈にすぎない」と書いている。  私もそう思う。  だから、ここでは余分な註釈のかわりに私自身の詩作品をいくつか挙げるにとどめようと思っているのだが、どういうものか書きはじめると、次第になつかしさがこみあげて来て多弁になってしまうのである。  十五歳——私はスポーツ好きの少年にすぎなかった。ボクシングが好きで、自分でも近くの小さな練習ジムへ通ったりしていた。ボクシングは殴りあいのかたちで行なわれる「肉体対話」だと思っていたのである。  また、キャッチボールも私にとっては、ことばのかわりに球を用いる対話であった。  私はその頃のことを、こんな風に回顧している。 「一個のゴムのボールがAからBに投げられる。夕暮の倉庫のある路上での自転車修理工と、タクシーの老運転手がキャッチボールする場合を考えてみよう。修理工がボールを投げると、老運転手が胸の高さで受けとめる。ボールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを(相手に)渡してやった気分になる。  その確実な何かが何であるのかは、私にもわからない。  だが、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう。ボールが老運転手の手をはなれてから、修理工のグローブにとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ地理主義の理想である。  手をはなれたボールが夕焼の空に弧をえがき、二人の不安な視線のなかをとんでゆくのを見るのは、実に人間的な伝達の比喩である。  終戦後、私たちがお互いの信頼を回復したのは、どんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにこのキャッチボールのおかげだったのではないだろうか?  私はキャッチボールのブームと性の解放とが、焦土の日本人に地理的救済のメソードをあたえることになったのだと思っている。「地理主義」とは、市町村の分布図の問題ではなくて、いかにしてそれを渉るかという思想の問題だったのである」(戦後詩——ユリシーズの不在・紀伊国屋新書) 「おれはスポーツが好きだ」  と私はいった。 「おれはスポーツのなかにルールがあるってことが、とてもいいと思うんだ。  しかも、それが神聖な絶対だというところがね」  すると私の友人は、 「詩には、ルールはないのだろうか?」  と心配そうにいうのだった。  私たちは、放課後の校庭のはこべの上に腰かけていた。水たまりには、北国の空がどんよりとうつっていた。 「ルールではないが、形式のある詩だったら在るぜ」  と私はいった。  当時の私は、定型詩こそほんとうの意味での厳粛な詩だと思っていたのである。  だから私は、俳句を作っていた。  十五歳の私の俳句は  ラグビーの頬傷ほてる海見ては  車輪繕ふ地のたんぽぽに頬つけて  花売車どこへ押せども母貧し  燃ゆる頬花よりおこす誕生日  林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき  鳥影や火焚きて怒りなぐさめし  便所より青空見えて啄木忌  というものであった。 十八歳[#「十八歳」はゴシック体]  私は、自分の「わが読書」を書くときに一体何からはじめたらいいか、と迷うことがある。たとえば、ジイドの「パリュード」のような本は、私にとって学校時代の同級生のようななつかしさと、空々しさとを感じる。「パリュード」や「地の糧」はいわば学校の図書室の裏に、干し忘れて来た白い夏シャツのようなものである。はじめのうち、ボクシングをやろうと思っていた私も、やがてボクシングがアングリー・スポーツではなく、ハングリー・スポーツになってしまっているということがわかりはじめると共に、「勝つよりは、食うべきだ」と思いはじめ、止めてしまった。  ジャック・ロンドンの小説の中で腹を空かし切ったボクサーが、ノックアウトされ、気を失いかけた意識のなかで一塊の肉のイメージを思いうかべるというシーンが頭からこびりついてはなれなかったのである。私は映画館の下宿で、しだいに「肉体の対話」から「言語の対話」へと転向しながら、詩人になるということを思いはじめた。テレサ・ライトへファン・レターを書いたり、少年ジャイアンツの会の会報へ原稿を書いたりするかたわら、E・H・カーやシュペングラーの歴史書を読むようになって行ったのである。「去りゆく一切は比喩にすぎない」とするシュペングラーの観相学は、私を魅了した。「科学的にとりあつかわれたものが自然であるに反して、作詩されたものこそ歴史である」という考え方が私を虜にしたのである。  私は林檎箱の中に、上巻だけしか出版されなかった古書の「西洋の没落」とE・H・カーの「浪漫的亡命者たち」を大切にしまいこんでいた。私は俳句をはなれて、短歌を作るようになっていたのだった。  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  籠の桃に頬痛きまで押しつけてチェホフの日の電車に揺らる  煙草くさき国語教師が言ふときに明日といふ語はもつともかなし  一粒の向日葵の種子まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき  外套のままの昼寝にあらはれて父よりほかの霊と思へず  地下水道をいま走りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり 二十一歳[#「二十一歳」はゴシック体]  私の生まれてはじめての本が出版された。その中には何篇かの短歌の連作と散文詩の他に日記が挿入されてある。日記というよりは友人の山田太一との往復書簡が主である。その頃、私は大学へ入ってすぐ病気になって、三年間の入院生活を送っていたのである。 「×月×日  山田の葉書が来た。 『ポール・ヴィラネーの「一九二五年生まれ」を読んだ。  一九二五年生まれというんだから、ヴィラネーは僕達より十年も年上だ。  しかし、ヴィラネーはジイドの「地の糧」を批判している。「地の糧」の自由は、ジイドを狭隘な生活から解放はしたが、また一つの画一主義に身をまかせただけだというのだ。  それに引きかえて、戦争は自分で何一つ手を出さなくても、さまざまの社会的桎梏から僕を解き放ってくれたというのだよ。  だが、心がけからいったらヴィラネーはジイドの比じゃない。ヴィラネーは、ただ生きのびたというだけのことでしかないんだ。  戦争は、まさに大きな画一主義だということをどうして気づかないのだろう』私はこの山田の手紙を読みながら、山田は実感ということを無視しているな、と思った。なるほど、山田のいうことは正しくて、戦争は大きな画一主義だろう。  だが、戦争には「地の糧」にはないような実感の世界がある。この実感の手ごたえへの羨望は、一年以上も寝てみるとよくわかるのだ」  そして、私は次第に病状が快方に向いはじめると共に、ブッキッシュな生活から遠ざかろうと思いはじめた。  まさに「ナタナエルよ、書を捨てよ。  町へ出よう」  という心境が私のものになったのだ。 二十四歳[#「二十四歳」はゴシック体]  退院してからの一、二年のうちに、私の生活は一変した。私は新宿に棲み、バーテンやテキ屋の友人たちと飲み歩くようになった。  テーブルの上の荒野を愛し、賭博をするようになった。本は大方、古本屋へ叩き売ってしまい、その金で旅行をしたりするようになった。競馬にのめりこんで行ったのも、この頃からである。  歌舞伎町の酒場のふみちゃんという女の子と同棲するようになり、そのふみちゃんにすすめられてネルソン・アルグレンの「朝はもう来ない」という小説を読んだ。  これは私に平手打ちをくわせるほどの衝撃的な小説であった。私は詩を書くかわりに、競馬場やボクシング・ジムでメモをとり、そのなかでコンフェッションするようになった。一人でいることに耐えられなくなってくると、「私にとっての他人とは、何であるのか」と考えるようになり、しだいにモノローグ的な詩よりも、ダイアローグ的な戯曲に興味を持ちはじめた。  一本の樹のなかにも流れている血がある  樹のなかでは  血は立ったまま眠っている  という詩のフレーズから私は、はじめての長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を書いたのである。 二十五歳[#「二十五歳」はゴシック体]  詩人はなぜ肉声で語らないのだろうか? がみがみ声やふとい声、ときにはささやきや甲高い声で「自分の詩」を読みあげないのはなぜだろうか?  かつての吟遊詩人たちは、みな唖者になってしまったのだろうか? 私はG・ビルケンフェルトの「黒い魔術」という本の中で、グーテンベルクがいかに苦労して印刷機械を発明したかということを知った。だが、その苦労は、実は「詩人に猿ぐつわをはめる」ためのものだったのである。印刷活字の発明以来、詩人たちはことばでなくて、文字で詩を書くようになっていた。そこには、詩人と受けとり手のあいだの「対話」などはなくて、ただ詩人自身の長い長いモノローグがあるばかりであった。  私はそれにあきたらなかった。 二十六歳[#「二十六歳」はゴシック体]  母親を殺そうと思いたってから  李は牛の夢を見ることが多くなった  蒼ざめた一頭の牛が  眠っている胸の上を鈍いはやさでとんでいるのを感じた  とんでいるというよりは浮んでいるといった方がいいかも知れないが  ともかくその重さで  汗びっしょりになって李は目ざめる  すると闇のなかで  安堵しきった母親のヨシが寝息をたてているのが見える  李はその母親をじっとみつめる  こんどはたしかに夢ではなく現実なのに  母親のヨシの顔が  どこかやっぱり蒼ざめた牛に似ているような気がするのである  そう思っているとふいに闇のむこうで  連絡船の汽笛が鳴る  こんなみすぼらしい  こんなさみしい幸福について  もしおれがそっとこの部屋を脱けだしてしまったら  誰が質問にこたえてくれるだろう  一体誰が?  ああ 暗いな  と李は思う  その李の頭上にギターがさかさまに吊られている  これは北国の新聞の片隅に載っていた北朝鮮の少年の母親殺しの記事を、七二〇行の叙事詩にした「李庚順」の中の一節である。  私は、七二〇行でトイレットペーパーに清書された雅歌を書きたいと思っていた。ホセア書(二章四節)の 「われかれを誘いて荒野にみちびいたり……」という句を、便所の壁になぐり書くような気分であった。私はこの長詩を「現代詩」に一年間連載したあとで友人たちを集めて朗読する会を持った。マル・ウォルドロンのジャズを伴奏にして、「母親の殺し方」をていねいに描写してゆくくだりで私は声が出なくなって中断してしまった。  この年、第三歌集「血と麦」をまとめ、新宿の安アパートから、四谷に引越した。 二十七歳[#「二十七歳」はゴシック体]  私は思い立って、自分の「生い立ち」について書いてみようと思いはじめた。長いあいだ映画の登場人物や小説の主人公とつきあって賑やかに暮してきたが少年時代の私はほんとは一人だったのである。北国の曇天の下で、中将湯や福助足袋の広告看板しか見えない狭い窓の部屋。肉親殺しのもっとも多い青森県のさむい北の果ての海岸町。そして恐山の「和讃」が、私たちの子守唄だったのである。 「これはこの世のことならず、死出の山路のすそ野なる、さいの河原の物語、十にも足らぬ幼な児が、さいの河原に集まりて、峰の嵐の音すれば、父かと思いよじのぼり、谷の流れをきくときは、母かと思いはせ下り  手足は血潮に染みながら……」  私の母は、捨て児であった。新聞紙にくるまれて冬の田に捨てられてあったのである。私の父は巡査だったが、アルコール中毒で外地まで行って死んでいる。だから、私は「憎しみこそ、もっとも有効なコミュニケーション」だと思いこまされて、育ったのである。私が、血で顔を洗うようなボクシングに魅かれるのも、あの「殴りあい」のなかに、ボクサー同士の愛を感じるからにほかならなかった。  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずや つばめよ  新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥  地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針  間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子  暗闇のわれに家系を問ふなかれ漬物樽のなかの亡霊  たつた一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり 二十九歳[#「二十九歳」はゴシック体]  私は生い立ちからの悪夢を、長い叙事詩にまとめて行った。「地獄篇」と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで、四〇〇〇行をこえるものになった。短歌の部分だけは、まとめて歌集「田園に死す」として出版し、詩の部分は、さらにもう一度整理してみた。私はしだいにこの仕事に熱中していた。 「鼻地獄の恐怖が、村の国語教師を襲った。彼の片方の鼻孔を、夜半左官屋が来て塗りつぶして行ってしまったのである。彼は一人息子だったのでもう一つの鼻孔に母親を棲ませていたが……授業中に呼吸が苦しくなってもその母親に鼻の外に出てもらうわけにはいかなかったのだ。その頃ぼくは国民学校の六年生になっていたが、すでにこうした、ふるさとに土着した片鼻の倫理について、異様な興味をもちはじめていた。  国語教師ははじめ平穏に授業しているのだが、鼻孔の中で母親が退屈して、鼻唄まじりに掃除しはじめると髪を逆立てて苦悶するのが慣わしだった。そしてこの息苦しさはやがて呻き声に変り、彼の片鼻国語は、まったく声を閉塞して教壇の上で暴れ出し、まわり出し、目玉をとび出させながら、心臓から肛門へ向って息をひきしぼっては吐き出した。  ——先生、先生!  とぼくが呼んでも、彼は自分の鼻を指さすだけだった。悲鳴は教室の中に無数の鴉を呼びこみ、彼が「狭すぎる、苦しすぎる」と叫ぶたびに鼻はみるみる膨らみあがり、その暗い母屋の底からは、授業中のぼくたちにさえ、老婆の唄う歌がのびやかに聞こえてくるのであった。  十月十日はお鼻の中に  三十三日は心の中に、よう  三十三日の日明けがすめば  お前可愛いや、抱いて寝よう  しかし、膨らんだ鼻が袋のように垂れ下がったとしても、あわれ鼻男よ! 彼はそれを背負って姥捨山に行くことは出来ないのだ。鼻の中には陽当りの悪さから虱がどんどん繁殖し、開き放しの孔口からは老母の唄う歌を好く紋白蝶が出入りし、鼻毛は手入れの悪い枯草のように折れ曲り、枯れて行った。老婆は、三味線を弾き弾き踊っていたが、鼻男、国語教師は窒息の苦痛に辛うじて耐えるだけで、遠い冬山を見ては溜息をつくばかり! ときには、休み時間に井戸端へ駈けこみ、鼻を洗いはじめてもみたが、最早嗅覚のない鼻は中に棲む老婆の排泄物を、だらだらととめどなく垂れ流す暗い川の流れなのだった。いっそ鋏で鼻を切り裂いたらどうかねと忠告する者もいたが、それも出来ず、しかたなしに鼻の中に小綺麗な仏壇を作って、母親をそれにとじこめて母恋節をうたいながら、ときどき手でかかえ、孔口を陽に向けて中をかわかしながら、鼻がくさる時代が来るまで  国語教師は  恥かしい美徳とともに生きている」 三十歳[#「三十歳」はゴシック体]  私は「地獄篇」七〇〇〇行をまとめ終るとふたたび町に出た。ヘミングウェイが、パリの生活の中で「止めるために、苦しい努力をした」という競馬が私のたのしみになっていた。人間同士の葛藤のドラマは結局、人間を超えることは出来ないが、偶然との葛藤である競馬は、まるで「神の意志」とのたたかいのように思われたのである。  ミオソチスという馬が好きになった私は、その馬が零落して地方の草競馬へ売られてゆくと、その馬をたずねてわざわざ草競馬まで出かけてゆくようになった。ミオソチスというのは「忘れな草」という意味なのであった。友人の原田政彦が、バンタム級で世界チャンピオンになった。たたかいは、日常のなかにも限りなくあったが、どのたたかいも「対話」にまではたかまって来なかった。たとえ性行為さえも、少年時代のキャッチボールのようなたしかな「対話」になることは稀なのであった。  血がつめたい鉄道ならば  はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓を通ることだろう  同じ時代の誰かれが  地を穿つさびしいひびきをあとにして  私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の  最後のページをめくる男だ  私の心臓の荒野をめざして  たったレコード一枚分の長いおわかれもまた  いいではないですか  自意識過剰な頭痛の霧のなかをまっしぐらに  曲 Take the A-train  そうだA列車で行こう  それがだめだったら走ってゆこうよ  実際、私にとっては乗物がだめなら、自分の足で「走ってゆく」しかない時代に生きているような気がしてならないのである。 [#改ページ] [#見出し] 第四章 不良少年入門 [#小見出し] 不良少年入門 プレイボーイにならないために——[#「プレイボーイにならないために——」はゴシック体]この論文は、うかうかしているとプレイボーイになってしまいそうなキミたち、(すなわち車の税金と五十着のスーツの手入れに追いまくられてのんびり昼寝もできなくなってしまいそうなキミたち)に捧げられる。  一たんそうなってからでは、下駄ばきで屋台のラーメンをすすりながら友情を語りあっていた日々をなつかしがっても、追いつくことはできない。  キミは女の子を喜ばすための話題を手に入れようとして週刊誌を読み漁《あさ》り(挙句の果ては目を悪くし)たった二十メートル先の煙草屋まで出かけるのにも、アルファ・ロメオかポルシェで、右折禁止の道を三十分もかかって遠回りしてゆかなければならなくなる。  さらにショーン・コネリーばりの腕力をみがくために人知れず武道館などに通い、また必要もない「エスクワイア」や「ニューヨーカー」を読むために、英語の家庭教師につかなければならなくなるのである。  この世の不運なプレイボーイ志願者たち——キミたちはプレイボーイといわれている連中が、一様に黒メガネをかけている理由について考えたことがあるか?  彼等はみな、「プレイボーイになるための本」を読みすぎて目を悪くしてしまったのである。  ガールフレンドがいっぱいいるからといって羨ましがることはない。彼等プレイボーイは、数多いガールフレンドから折悪しくかかってくる電話のために便所へ行きそこなったり、散歩に出そこなったりするのである。  イタリアの富豪にして有名なプレイボーイのルマーコ・テテモ氏がその全盛時代にいった名セリフ。  ——忙しいったら、ありゃしない! わしは小便に行くたびデートを一回逃がし、大便に行くたびガールフレンドを一人なくしたもんだ。 (そこで彼はクロノメーターやディクタフォンや訪問メモにひきずり回されながらガールフレンドの数を維持するためにキューキューとし、子供のころに夕焼の空を見上げながら童謡をうたった故郷の思い出など忘れてしまうのだ)  それでも彼等はいうだろう。 「モテるのはいいもんだよ」と。  だが、おかしなことに、モテればモテるほど彼等は愛する暇を失ってしまっているのである。1子とデートして食事をし終わったころには、2子とのデートの時間がきてしまう。  2子と会うと、2子は必ず「お腹がすいた」という。そこで彼はまた義理ディナーをつきあってキャビアだの酢漬けの豚だのを食い、いざというころになると、3子との約束を思い出す。プレイボーイは紳士でなければならないから3子と会っても、すぐコトにとりかかるわけにはいかない。またまた前奏曲からというわけで、ディナー、ホテルのバー、というおきまりのコースとなるのである。 (ああ、公園の青草の上で、一晩中お月さまを見ながら愛しあっていた夜が、なつかしいなあ。と思っても、プレイボーイになってしまってからではもう遅いのである)  それにキミ。キミはプレイボーイになろうと決心してマッチを捨ててダンヒルのライターをもった最初の日の、にがい後悔を思い出さないか?  キミは歯にはさまったオードブルのカニの肉をダンヒルのライターでくじり出すことができたかね?  映画俳優のタイロン・パワー氏やエロール・フリン氏は、昼寝するたびに(その時間に約束してあった)ガールフレンドを一人ずつなくさなければならなかったが、われわれはどんなに長く昼寝をしても——(たとえ二十四時間中、眠りっぱなしでいても)ガールフレンドを失うことはない。マイナスよりはゼロが得。これは、きわめて単純な算数の問題ではないか。 ブレイボーイのすすめ——[#「ブレイボーイのすすめ——」はゴシック体]印刷のまちがいではない。たしかに「ブ」である。すなわち、ブラッドベリイ氏のブ、ブタのブ。漢字で書けば無礼ボーイとなるわけである。  ブレイボーイとは何か?  ぼくの定義では、自由人。(多少困りものではあっても、のびのびと生きている男、ということになるのである)  一人のブレイボーイを紹介しよう。(じつは、ぼくのことだが……)  ぼくは、いま、机の上にベストセラー石津謙介著『男のお洒落実用学』のページをひらき、その上にボリボリと頭のフケをかき落としているところである。  石津謙介の本は、ぼくにはむかない。 「タバコを吸うその手つきにも、ポーズがいる。吸う前の火のつけ方、ライターの持ち方、マッチのすり方、それ以前にポケットからとり出すハイライトの函、函からとり出す一本のシガレット!(シガレットときたよ)」  さらに、パイプをつかうなら「やはり右手で持って口の少し右の方にずらしてくわえるのが格好がいい」のだそうである。  だが、ぼくたちはだれのために煙草の吸い方までポーズをとる必要があるのか? 勝手気ままに吸いたいように煙草を吸い、かたわらにいる女の子のことなどを忘れて、煙の輪をポカーッ、ポカーッと天井に向かって吐きだすときの気楽さ!  そんな気楽さを大切にしたほうが、ずっとずっと生きやすいのではないだろうか?  もしも、すべての男が石津氏の本を読んでいて、同じようなポーズのとり方をしたとしたら、どうなるか?  地下鉄のシートに並んだ七、八十人のサラリーマンがいっせいにパイプをとり出して、そのパイプをいっせいに右手に持ちかえ、口の少し右の方にずらしてくわえたらどうなるか?  それは、ちょっとこわい漫画——たとえば『プレイボーイ』誌の寄稿家 Gaham Willson の恐怖漫画よりもこわいカリカチュアを思わせるのではないだろうか?  石津氏は書いている。 「パイプを吸うかたちというのは、思索的な男の一つのポーズである。酒を飲む時にもポーズがある。いつもだれかが見ているということを意識しているくらいの心がけが必要。常にポーズをつくるなどというと、とてもキザに聞こえるが、タバコを吸う時も、酒を飲む時も、そしてトイレから出て来た時も絶えずポーズ、ポーズ。ポーズなどというものは、他人を意識することである。そして、おしゃれもここから出発する」これは他人志向型の時代にふさわしい思想である。だが、キミたちはそんなにいつもポーズをとっていられるか?  便所の中でしゃがむときにもポーズをとることができるか?  ナマイキな乗車拒否の運ちゃんとつかみあいのケンカをするときも、ポーズをとることができるか?  足の水虫をかくときにも、ポーズをとることができるか? (もっとも人間らしい生の実感を味わえるとき——それはポーズをとらなくてもいいという安堵感に支えられながら何事かに熱中できるときのことである)  ぼくはポーズの効用を過信したくないと思う。  いや、むしろポーズこそ、キミをプレイボーイになるように追いこんだり、他人の思惑ばかり気にする主体性なき男をつくったりすることになるのである。  ポーズなど、一切つくるべからず、それでも、女の子にきらわれるのではないかとビクビクしているキミには、格言を一つ進呈しよう。 「猫と女は呼ぶと逃げる。そして、呼ばないときこそやってくる。——メリメ」 豚のごとく生きろ——[#「豚のごとく生きろ——」はゴシック体]そこで、ぼくは、プレイボーイにならないための、いくつかの知恵をキミに授ける。これは、とりもなおさずブレイボーイになることであり、キミを他人志向型の人間から解放するための方策である。   田舎弁を丸出しに (たとえ、いかなる女の子の前にいても、である。綺麗な標準語はキミを平均的人間に見せるだけである。それをスマートだとか都会的だとかいうのはまちがいであって、いまや自分の本当の気持ちを伝えるのには、自分の昔から使っていた故郷のことばで話すのが一番いいのだ)  標準語は政治を語ったり、アナウンサーがニュースを読んだりするのには向いているが、人生を語るのには向いていない。  人生を語るのには方言が一番ふさわしい。  キミは一流ホテルのパーティーへ出席しても、そこで言葉づかいやマナーに神経を使いすぎてコチコチになっては精彩をかく。むしろ一流のパーティーなればこそ「あんれまあ」とか「ブッたまげた」とかいって、オードブルの鮭肉やチーズを素手でワシづかみにして食べるべきなのだ。  もちろん太目のズボンであろうと、ガニマタであろうとかまわない。ありのままであることが最大の礼節であることだってあるのだから。   もしも田舎がなかったら  キミは不幸な男である。  キミはまごまごしていると、たちまちアイビーやコンチの似合う男になってしまう危険にさらされている。キミの目の前にはプレイボーイになりそうな条件が揃っているのだ。  そこでキミは田舎出身者を偽装する必要がある——たとえば、テープレコーダーに淡谷のり子女史の「人生相談」を吹きこみ、その発声をいくども真似してみるのもよかろう。 「わたし」といわずに「わたす」という練習をし、電話をかけたら必ず「モス、モス」というように心がけるのだ。そして、ときどきわけもなく遠くの方を見る目をする。(すこし虚ろになかば口をひらいて)するとみんなは、キミがはるかな故郷を思い出しているのだな、と思うことだろう。   ステテコをはくべし  ステテコはキミを守ってくれる。少なくとも、バンジャケット社ではステテコは発売していないはずである。  だが、キミはステテコをはいたからといって、それに合わせて胴巻きやハンテンをそろえてはならない。それはバランス主義というものである。むしろキミは、ステテコをはいてスピットファイアやムスタングを運転すべきなのだ。このアンバランスは、キミたちの時代にふさわしく、もっとも人間的な感じがする。(それはマル・ウォルドロンやデイブ・ブルーベックのレコードをききながらお茶漬けを食べる風俗のもつ、一点豪華主義の栄光である)  ぼくはかねがね一点豪華主義論者である。アブラ虫の這いまわる三畳半のアパートぐらしをしているくせに食事だけはレストランでヒレ肉のステーキを食うとか、着るべきスーツはうす汚れた中古の背広一着なのに、スポーツカーはロータス・エランを持っているとか——目も口も小さいのに鼻だけは大きくゆたかであるとか。  そうした一点豪華を目ざさないかぎり、われわれの時代では何もかも手に入れるというわけにはいかない。ステテコこそは、アンバランスのシンボルである。  バランス主義をモットーとして、何もかも広く浅くととのえようとするプレーボーイはステテコをきらう。  だが、おそれてはならない。  ステテコはキミを実力者に見せ、キミのポーズへの心づかいを取り除いてくれるはずである。   ダンスをしてはならない  もちろん、ダンスホールへも行ってはならない。もし、キミがたまたま恵まれた肉体をしていて、その上、上半身の一部分にジャイアンツの長島選手のと同じ何かが密生しているとしたら、そのことは絶対に人に気づかれぬようにしなければならない。  それは極力かくすべきであり、たまたま友人と一緒に風呂に入らなければならなくなったとしても、決して「見られてはならない」ものなのだ。 (なぜなら、男性同士のあいだにだって友情以上のものは存在するのであり、その世界にだってプレイボーイは成立するからである)  万一、どうしても断われない事情でダンスパーティーへ出ることになったとしたら、キミはキミの手に入れられる範囲で、もっとも太いズボンをはくべきである。 (たとえばリューマチになやむ、復員帰りの叔父の古ズボンを借りるというテもある)  そして、ダンスしているあいだじゅう、女の子のもっとも興味を示さぬような話題、たとえば、機械工学の技術にわたる話題とか、ベトナムにおけるアメリカの立ち場などについて、きわめてくどく、おもしろくなく、話をするようにつとめるべきである。  あるいは二、三日前から歯をみがかずにおいて、息を吐きかけるようにして、ハイネの恋愛詩などをささやくというテもある。  そして、一曲につき三度は、少なくとも、相手の新しい靴をふみつけなければならない。  そうすれば、相手はキミを、プレイボーイではない、ということだけは認めざるを得なくなるはずである。   黒メガネをかけるな  黒メガネは女の子のロマンチシズムを刺激する。  たとえキミが慢性の結膜炎のために黒メガネをかけているのだとしても、女の子はキミの黒メガネのかげにジェームス・ディーンばりの目を想像して、キミに接近しようとつとめたりするようになることだろう。   そして  金がないというグチをくりかえしたまえ。たとえば、フランク・シナトラの、 [#ここから2字下げ] もしも心がすべてなら いとしいお金はなにになる? [#ここで字下げ終わり]  という歌などについては、一言もふれてはならない。  百円のコーヒー代をごちそうするときには百円札を三度数えてから支払い……「ここのコーヒーは高いなあ」という顔をするのも一法である。(もちろん、百円札は一枚ずつキレイに折りたたんで財布に入れておいて、その支払いにおいては「百円ですか?」と二度ぐらい聞き返してからとり出すというのも一つのやり方である)  さて、真面目、不真面目とりまぜて書いてきた「プレイボーイにならない秘訣」を、キミはどのように受け取ってくれたろうか?  ぼくはキミに、風俗の申し子、流行りのポーズ・ボーイになることをいましめてきた。それは取りもなおさず、キミに「けものの心」を持った�男の中の男�を回復させたいがための、友情の現われというものである。  キミがもし、このぼくの文章を読んでプレイボーイにならずにすんだら、後年、キミはぼくに手土産をもってお礼にこなければならない。  なぜならキミは、プレイボーイにならずにすんだために、大芸術家か、大政治家になっているかもしれないからである。 [#改ページ] [#小見出し] 家出入門 親と話しあって何になる?——[#「親と話しあって何になる?——」はゴシック体]『ロビンソン漂流記』を愛読するという六人の中学生が、趣味でためた切手や古銭を売った資金で集団家出旅行に出かけたというのは、近頃もっとも愉快なニュースだったと思う。  なぜなら、この家出事件には、「虚行」でしかなかった家出を「実行」にまで高めようとするエネルギーが感ぜられたからである。 (私は、家出が「虚行」であった時分からの家出主義者だが、こんどの事件でようやく「第二段階に進んだな」といった印象を受けた。彼らの行先があこがれの東京でもなく、また単独心情的なものでもなかった点が、きわめて重要に思われたからである)  十年前の家出ブームの頃と比較をすると、このことの差はいっそうはっきりする。当時モミアゲの長いテイチクの流行歌手真木不二夫がうたった「家出」調のヒット・ソングは、「あまりにも、家出人の心情に味方しすぎている」という理由で発売禁止になったものだが、その歌詞はこんなふうであった。 [#ここから2字下げ] 東京へ行こうよ 東京へ 思うだけでは きりがない 行けば行ったで 何とかなるさ 未練心も ふるさとも 捨てて行こうよ 夜汽車で行こう [#ここで字下げ終わり]  ……この歌と、南陵中学の六人組の家出の思想との間には、一線を画するものがある。それは「行けば行ったで、何とかなるさ」という即興性を、集団合議で生み出して行ったという点であり、目標が〈場所〉ではなくて〈行為〉だったということである。 [#ここからゴシック体]  ある朝、新聞をひらくと、こんな記事が出ていたとする。見出し『夫、六人で家出』本文「妻子のために仕事を押付けられるのはいやだ。自分の力で道を開きたい」との手紙を自宅に出したまま評判のよいサラリーマン六人が集団家出をした。  書き置きには、こう書いてあった。「家庭の不和だとか、仕事がいやになって自分に落胆したのと違います。ぼくたちが考えたのは主任、係長、さらに課長と進んでゆく平凡なコースがいやになったのです」因みに、彼ら六人はよく集って植木等の「ショボクレ人生」を合唱していたということである。 [#ここから2字下げ] バーやキャバレーじゃ灰皿盗み 他人の残したビールは飲むし 焼鳥食べれば数ごまかして そのくせ勘定は人まかせ [#ここで字下げ終わり] [#ここでゴシック体終わり]  こうしてサラリーマンが集団で家出をした場合には、あきらかに家出が「虚行」である……ということができる。なぜなら、彼らの生活の本流は職業と家庭という二重構造をもった時点にあるのであって、家出は「そこから逃げ出したい」という気持のあらわれにすぎないからである。エヴァージョンは、つねに「虚行」にすぎない。大体、「家」というものは「在る」ものではなくて「成る」ものであるから、自分で作り出した「家」から逃げ出してゆくのは、理想の放棄であるといわれても仕方がないことである。  ところが、中学生の年齢では、「家」は自分たちが作ったものではなくて、与えられたものであるから、自立のための「家出」は、まさに虚行などではなく実行だった、ということができる。この微妙な差が、実はきわめて重要な点なのである。  事件のあと、新聞、雑誌紙上では、この中学生たちの家庭の問題がしきりに取沙汰されて「もっと親と子の話しあう時間が必要であった」とか、学校では「学問より、人生教育が必要であった」とかいった識者の意見が掲載された。これもまた、私にはナンセンスなことである。いったい、親子で何を話しあうのか? 親は本来的には、子を所有しようとするエゴイズムと幸福観とを重複させ、正当化する理念しか持っていない場合が多い。親の思想というのは、いわば「子守唄の思想」であって、醒めようとする子供を、家庭の和という眠りにおとしこもうという考えに貫かれている場合が多いのである。家庭だけを核として考えると「親と話しあう時間」の量が問題になるかも知れないが、彼らは「仲間と話しあう時間」を十分に持っていた。むしろ重要なのは、そのことではなかったろうか。  なぜなら、従来の模範少年たちは、親とばかり話しあっていて、仲間と話しあう時間が少なすぎたために「親の作りたいような型」にスッポリはまった成長のしかたしかできなかった……と考えられていたからである。  集団の反抗、というとすぐ思いうかぶものに百姓一揆がある。ところが、この一揆も、黒正巌の『百姓一揆の研究』などによると、食糧の欠乏や役人の非道、理想の閉塞などによって、怒りに怒った百姓たちが徒党を組んではげましあい、集団で村から逃げ出していった、という形態を含んでいるというから愉快である。もちろん、これは家出としては一見、「虚行」に属するかに見えるが、彼らの時代では成人しても「家」というものが「成る」より先に「在った」のであり、これはいわば宿命との闘いでもあったのだ。  ところで、こんどの中学生たちの行動を、当時の反抗の範とされた逃散と比べてみるのは興味深い。そこには、はっきりと反抗の年輪が感じられ、「方法論」としての新しさが感ぜられる。それは、一点破壊主義としての「方法論」だからである。  君もまた〈平均化〉されたいか——[#「君もまた〈平均化〉されたいか——」はゴシック体]現代では多くのサラリーマンが胃潰瘍にとりつかれている。彼らはうすら青い顔を寄せてよく計算する。  官庁にあっては、東京大学の法科出身の官僚コースでもない限りは、局長などには絶対になれない。課長か、せいぜい課長補佐どまりで停年である。そこで、自分が入社した日からの月給を計算して、停年までのを総計すると、一生かかってもらう給料が大体算出されてくる。 [#ここからゴシック体]  まして、早慶戦での森や衆樹のバッティング・フォームに魅せられて、ついフラフラと私大に入ったばかりに初任給二万円以下だったりすると、停年までの総計をあわせてみて、がっかりしてしまうのである。 「ああ、俺の一生かかって稼ぐ月給は、山本富士子の映画数本の出演料だなあ」 「仕事するのなんかいやになっちまったよ」 「どうせこの世は ホンダラダ ホイホイ だからみんなホンダラダ ホイホイ」  というわけである。 [#ここでゴシック体終わり]  実際、外的生活だけで考えてみても、現代のサラリーマン(つまり大多数の日本人)は絶望している。だから彼らは、この停滞した時代に「何か面白いことはないか」と思ってはマージャンやパチンコをしてみたり、競輪場へ行ってケチな所得倍増をこころみたりするのである。そうした彼ら(彼女らもふくめて)は、次第に虚業の意識にとり憑かれるようになる。これが「希望という病気」の最初の兆候である。「いまのあたしの生活は、世をしのぶ仮の姿で、あたしは本当は何時かきっと文学で立つつもりよ」というのは、何もバーのホステスだけのことばではない。  たとえばあるサラリーマンはこう考える。 [#ここからゴシック体] 「俺は作曲家だ。(あるいは画かきでもよいのだが……要するに何でもよい)だが、いまのところ、作曲の芽が出ないので、区役所の戸籍係をやっている。しかし、これは本当は世をしのぶ仮の姿でね。そのうちに虚業から本業へたち返ってヒットをとばすさ。いまは『私はかあちゃん』という曲を書いているんだがね。とにかく区役所で働いて八時間は息がつまるが、アパートへ帰ってペンを持つとやっと俺自身にかえるんだ。つまりサラリーマンの仮面を脱ぎ捨てて本来の姿に立返るというわけだよ」 [#ここでゴシック体終わり] 「本来の姿」などというのがあるわけはないがこうした虚業意識のあるうちは、まだ「病気」で済む。済まないのはマージャン屋の二階で死んでしまっているサラリーマンたちである。  彼らにはもう偏見さえもない。(つまり、思想的偏見もなければ、趣味的偏見もないのである)もちろん、L・ローウェンタールの『偏見の研究』などによると、「偏見」のある間は、個人の内部に潜在的傾向があるのであり、それがときには外的刺激となって、社会閉塞からの救済になる。ということである。しかし、死んだサラリーマンたちは画一化されて、機構の部分品化していることに気がつかない。 「いやあ、驚いたよ。さっきね。うちの会社の子が本社の屋上で、おれに逢ったというんだよ。ところが、おれは先刻からここで弁当食ってたから、そんなはずはないといったんだがね。ま、気になって本庁の屋上へ行ってみたんだよ。そうしたら、いたよ。おれそっくりの男が、おれみたいな背広きて、しかも同じネクタイしめてね。ハッハッハッハ。いやあ驚いたよ。おや、驚いたといえば、きみもへんだね。きみもおれと同じネクタイをしめてるね。背広も同じだ。おい! きみは、おれか?」  ……同じ人間が量産されているメカニックな社会機構は、しだいに「自分とは、誰であるか」をわからなくしてしまう。  昔なら、「何が怖いですか?」というアンケートに「お化け」と答えるのが相場と決まっていた。いまなら「原爆」である。しかし、本当に怖いのは、実は原爆でもお化けでもなくて「何も起らない」ということなのではないだろうか。 「何も起らない」時代、ロマンスの欠乏。それはいわば、あす何が起るかを知ってしまった人たちの絶望を意味している。「あす、何が起るかわかっていたら、誰があすまで生きててやるもんですか!」という浪漫派的な感懐などは一足とびにとびこえて、サラリーマンたちには「停年まで何が起るか」わかってしまっているのである。  現代怪談は、いわば、この無事平穏の「怖さ」を物語っている。  平凡な団地で、電熱器と丸ぽちゃの奥さんと連続テレビ・ドラマ「咲子さん、ちょっと」を見る生活。それを幸福と錯覚しながら、毎日毎日を同じように繰返してゆくうちに、「今日は昨日と同じだ。いや、待てよ。もしかすると今日はほんとうは昨日なのかも知れない」と思いこんでしまうような日付の喪失。それが次第に重症化されて「いや、待てよ。もしかすると、今日はほんとうは十年前の今日なのかも知れないぞ!」と思いこむようになったら、本当に何のために生きているのか、わからなくなってしまうのではないだろうか。  しかし、ことしの早稲田大学祭のアンケートを見ると、大学生たちが、この日付喪失への道を自らえらびとろうとしていることがわかって慄然とする。  彼らは「商事会社に就職し、良いお嫁さんをもらって三人ぐらい子供を育てるつもり」とか「毎晩、別嬪の女房とさし向いでビールが飲めて、バストイレ付き芝生のある家を持ち、つまりそれができる収入を得て、外に出ては他人の上に立ってモリモリ仕事をする」と答えているのである。その上、彼らは「現代の社会は安定ムードといわれていますが、あなたの消費バカンスについての満足度は何パーセントぐらいですか?」という問には、実に四四・三パーセントと見事な数字を算出している。  大学生たちは、小まめにいろんなものを手に入れたがっているが、それはまったく、「他人なみ」に持ちたいのであり、平均化されたいのであり、怪談の中の登場人物になりたがっているのである。  もちろん、こうした停滞した状態に、誰もが満足しているわけではない。無気力のたまり場であるパチンコ・ホールでも、元気のないサラリーマンたちがチンジャラジャラと自慰的に玉の落ちゆくさきを見送っているときに、スピーカーから歌謡曲で叱咤激励する。 [#ここから2字下げ] やるぞみておれ 口にはださず 腹におさめた 一途な夢を 曲げてなるかよ くじけちゃならぬ どうせこの世は 一ぽんどっこ [#ここで字下げ終わり]  というわけである。 「一点破壊」による人間の回復を——[#「「一点破壊」による人間の回復を——」はゴシック体]社会閉塞への一つの突破口として、「一点破壊主義を」というのが私の提案である。  といっても、これは特に目新しいものでも何でもなくて、近頃経済学者たちのいっている「一点豪華主義」に「一点貧弱主義」を加え、それに私の「家出のすすめ」「引越しのすすめ」などを加えたものにすぎない。(もっと簡単にいえば、人間疎外的傾向のあるベルト・コンベアに、ほんの釘であけるような穴でもあけて、少し風通しを良くしてみたらどうか。といった提案なのである)  たとえていえばこうである。  日あたりの悪い独身アパートで、ゴキブリが這いまわっている四畳半に住んでいる男がマイ・カーにアルファ・ロメオとかマセラッティといったものを持っている。この男の生活水準から考えると、どう考えてもアンバランスだ。マセラッティのガソリンを買うくらいの金があったら、モモヒキでも買えばよいのに! と思われ、アパートももう少しましな(せめてトイレが水洗式の)ところへ引越せばよいのに、と思われるが、一向にそんな気配は見えない。  こんな男のことを一点豪華主義者という。 (一点豪華主義の反対はバランス主義者である。バランス主義者は収支をうまく調整して、月月いくらかの貯金をしながら決して無理をせず、堅実な生活設計を立ててゆく。しかし、バランス主義では停年までの生活設計がすっかり見えてしまっている。つまり、どうにもならない。おそらくマセラッティどころかマツダ・クーペさえ買えるかどうかも危っかしいというわけである)  そこで一点豪華主義(つまり数点貧弱主義)によって、可能性をためす、ということになる。これは、いわば「身分相応」という観念への挑戦である。  新宿旭町の日雇労務者が一週間を牛乳一本ですまして、駅のベンチで寝ておいて、その分の金で日生劇場でベルリン・オペラを観る。ベルクの『ボツェック』を観て、豆ばかり食っている男の悲劇に感動し、同時に劇場という「もう一つの世界の場」のあることを知る。そして日雇労務者が、その一点を契機にして自己変革を遂げ得たとするならば、その冒険は成功したということになる。私の考えでは、こうした閉塞状況の中での変身、(つまりは人間の回復)をこころみるためには、こうした投石行為のような一点××主義が有効になってくるのである。 [#ここからゴシック体]  林家三平の肉体は一点豪華主義である。  彼の胸毛はつねに彼の全肉体をはげましている。同じようなことはシラノ・ド・ベルジュラックにもいえる。  シラノの顔に見られる一点豪華主義は、まさに鼻によって彼の顔の平凡さを救いつづけてきた。 [#ここでゴシック体終わり]  もちろん、停滞における一点主義は、「豪華さ」だけに止まるものではない。それは、ある劇的な凝縮状態のすべてを指すし「記念日の思想」なども、おおむね同じ系列に数えられるのである。  たとえば、悪評高い「交通安全週間」なども、一点主義のあらわれだし、父の日、母の日なども、一点主義のヴァリエーションである。ただ、いえることは、最早こうした微温的な一点主義が、破壊にまで高まらないと救済にはなり得ない。ということである。(つまり、聖心女子大のお嬢さんが、富永一朗の姐ちゃんマンガを読んで、「おれに給いし春の肉!」といいながらむきだしの髭男が女の子のお尻に噛みつくシーンから、破壊のエネルギーを学びとるぐらいでは駄目だ、ということである)  つまりもっと生活全体をゆり動かすような「実行」としての一点破壊主義でなければいけない。与えられたすべてのものへの挑戦として、いわば、転職、引越し、家出、といったことの飽くない繰返しでなければ無意味なのである。これは、決して進歩のすすめではなくて、むしろ移動のすすめにすぎないのだが、座標軸を決めてかかった移動には、つねに新鮮な視野がひらける。社会閉塞と「あした何が起るかわかっている状況」への挑戦には、こうした休みなしの運動が必要な時代なのではないか、というのが私の考えである。C・ウィルソンが指摘するように「ある種の挑戦には首尾よく応戦する文明があるいっぽう、それに失敗している文明もある」には違いないが、しかし、たとえノレンに腕押しのような転職や引越しにすぎなくとも、一度は一点を破壊してみる必要がある。  近頃は「眠い眠い病」が流行しているようである。さまざまの人たちが、この「停年までをわかってしまった」日常の中で、何をしてても同じようにしかならない生活の惰眠をむさぼっている。つまり、人生いねむり運転をして、何となく「眠い」毎日をすごしているのである。こうしたニヒリスティックな時代にあっては、まさに無人島におけるロビンソン・クルーソーのような、生涯と消費の一つ一つが、じかに肉体と密着して新鮮に感じられる感受性の回復がのぞましい。ロビンソンの生甲斐と不安とに裏打ちされた「はじめての体験」を生み出すためには、一点破壊主義による人間らしさの回復しか他に道はない、と思われるからである。  引越し、転職、家出などの一つ一つに触れて論をすすめるのは次の機会にゆずるが、ともかく「実行」である。「虚行」の冒険などでは何もならない。逃避はますます閉塞を深めるだけである。……たとえば、すぐさま荷物をまとめて家を出てみること! そして、家出をしたら簡単には帰らないこともまた重要である。  もっとも、マルセル・エイメの「二つの顔」の主人公のように、ある日突然自分の顔がルイ・ジュールダンを上まわる美貌に変身したのに「家出」して、更めて「家」に帰ってきて、自分の妻を誘惑しながら、以前とまったく同じような生活へ回帰してゆく男もいる。こんな風に骨のズイまで慣習の虜になってしまってからでは手遅れなのである! [#改ページ] [#小見出し] 自殺学入門   1 自殺機械の作り方  少年時代の私は、自殺機械をつくることに熱中していた。イリーンによると、人間の歴史は「道具の歴史」であり、サルが木からおりてきてヒトになったのは、道具を発見したからだそうである。だが、道具は次第に文明化し、機械になって来た。人間が使いこなすことができるあいだは道具だったものが、逆に人間を使いまわすようになってきて、機械と呼ばれる。「人類は道具とともに発展してきて、機械とともに滅亡してゆくだろう」と、中学校の生物の先生がいった。それから、私のなかで機械と死とは切りはなせないものになってゆき、〈自殺機械〉の発明への関心となっていったのである。私は古本屋でチャールス・アダムスのすばらしい自殺機械の図を見出した。それは『Dear Dead Days』という書物の中におさめられてあるもので、薬を嗅いで眠っていると、上から斧がおちてきて処刑してくれるという単独者の断頭台であった。私の発明した自殺機械は、アダムスのにくらべると、それほど精巧ではなかった。たとえば、「二羽のニワトリ式自殺機」。これは、私が椅子に腰かけて江戸川乱歩か何かを読書している。その私の心臓に照準をあわせて、弾をこめた猟銃を設置し、その引き金を二羽のニワトリの足にヒモで結んでおく。二羽のニワトリは私の頭上の砂袋に止まっているのだが、袋に穴があいているので砂がこぼれて、だんだん足許が不安定になってくると、本能的に下へとびおりる。そのときに足に結んだヒモが引っぱられて引き金がひかれ、私は射殺されるというものである。もう一つは〈上海リル型浴槽自殺機〉。これは古い映画主題歌『上海リル』を聞きながら浴槽に入る。浴槽のある水位のところへ、プレーヤーへ電流を送るコードをむき出しでまきつけておく。湯水は蛇口から流れつづけている。私は全裸で(できれば山高帽だけかむって)気持よく入浴し、『上海リル』を聞いている。だんだん湯がふえてきて、コードの高さまでくると、一瞬のうちに感電自殺できるという仕組みのものである。ほかにも�ねじ式自殺樽�とか�脱穀機型脳天振動自殺機��首まきつきオルガン自殺機��四〇年心臓破裂発動機�などなどを発明した。そして思ったものだ。「なぜ、学校の工作の時間に自殺機をつくらせないのだろう」現代の機械は、たいてい�他殺機�である。しかも自動車も、電車も、公害煙突も汚染水も、�殺す�ためにつくられたものではなく、他の目的でつくられたものであって、それが代用品の他殺機として使われているにすぎない。「人間いかに死ぬべきか」と思ったら、まずその尊厳を守り、方法化し、殺されるという受け身の死を排さなければならない。そして、死ぬ自由くらいは自分自身で創造したい、と思うのだ。   2 上手な遺書の書き方  さて、自殺すると決めたら、遺書の書き方を練習する必要がある。遺書は手紙であるから、できるだけ相手の気持ちを考えて書かなければならない。勿論、きれいな字である方がいいし、読みやすくなければ何にもならない。だが、書店にとびこんで「美しい手紙の書き方」などという本を買ってきても無駄である。そこには、年賀の手紙、通知の手紙、見舞いの手紙、依頼の手紙などの書き方はのっていても、遺書の書き方はのっていないのである。「自殺しようと思ったんだけど、遺書がうまく書けないから止めちゃったよ」というのでは、何にもならない。そこで、私は自殺の機械を完成させたあとは、もっぱら遺書の書き方を習得することをすすめたい。(一)まず、遺書には二つの役割がある[#「遺書には二つの役割がある」はゴシック体]ということを知らなければならない。一つは死を修辞し、相手に気持ちをつたえることであり、もう一つは事務を処理することである。気持ちを伝えるのは、大げさで構わないのであり、藤村操のように、「五尺の小躯を以て天地の大を測らんと欲す、いわく不可解!」というのや、私の中学校の先生のように、ピースの空箱の裏に「ニホンノミナサン サヨーナラ」と書きのこすようなものでもよい。これはべつに書式はないのである。もう一つの事務処理の方は、説明するまでもなく遺産の分割などにかかわることである。なお、遺書には右にあげた二つの役割のほか趣味としての遺書がある。たとえば、太宰治は自殺と関係のないときでも、実に多くの趣味の遺書を書いた。 「よもやそんなことはあるまい、あるまいけど、な、わしの銅像をたてるとき、右の足を半分だけ前へだし、ゆったりとそりみにして、左の手はチョッキの中へ、右の手は書き損じの原稿をにぎりつぶし、そして首をつけぬこと。いやいや、なんの意味もない。雀の糞を鼻のあたまに浴びるなど、わしはいやなのだ。そうして台石には、こう刻んでおくれ。ここに男がいる。生まれて、死んだ。一生を、書き損じの原稿を破ることに使った」(春ちかきや)  (二)遺書の用語[#「遺書の用語」はゴシック体]は自分が日頃口にすることばで書けばよいのである。死ぬからといって急にあらたまって「ございます」口調を使ったり候文にしたりするのは必要ないことである。(三)遺書は自筆[#「遺書は自筆」はゴシック体]で書くべきである。いくら字が下手であっても、他人に代筆させるのは感心しない。他人の遺書を引用するのはかまわないが、そっくりそのまま盗作するのは面白くない。自殺のたのしみの半分は「遺書を書くたのしみ」なのだから、それを他人に譲ることは損である(盗作が有用なのはラブレターとか懸賞文芸のように実益につながるものに限られるべきである)。(四)遺書の文字[#「遺書の文字」はゴシック体]はていねいなほどよい。字が乱れていると、死に向かう心情も乱れていたと推量されることになる。ただし、嘘字の一つくらいは、あった方が、ながく印象に残るだろう。レエモン・ラディゲという詩人は「上手な着物の着方は、少しくずして着ることだ。上手な文章も、また……」と書いた。(五)遺書は、書き終わったら、すぐ封をしない[#「遺書は、書き終わったら、すぐ封をしない」はゴシック体]で、かならず読み返す必要がある。大切なことを書き抜かしていたり、いいすぎや、不備な点があっても、死んでからは�書き直し�ができないからである。 遺書の用紙[#「遺書の用紙」はゴシック体]→なるべく原稿用紙を用いない(原稿用紙は文章を虚構化してしまう)。書簡箋の場合は問題ないが、罫のない便箋のときにはまがらないように罫のある下敷きを用いる。巻紙に筆で書くのもよいが、草書体でくずしすぎても、死んでから読み方をきかれても答えることができないことを念頭に入れておくこと。遺書の封筒[#「遺書の封筒」はゴシック体]→あまり派手な封筒や、水森亜土のイラスト入りなどは感心しない。入れるときに相手をまちがえぬこと。私は少年時代に母親への送金の催促と、酒場の女へのラブレターを、中身を入れちがえて、勘当されかかったことがあったが、遺書の入れまちがいは、思い出し笑いできないということを肝に銘じておくこと。遺書の葉書[#「遺書の葉書」はゴシック体]→葉書だと沢山の人に出せる。私が高校時代に文芸部の下級生の塩谷律子さんから貰った遺書は葉書だった。彼女は青函連絡船からとび込み自殺したが、出航前に十二人の友人に葉書の遺書を書いた(ただし、官製葉書と絵葉書とどっちがいいかは決めにくい。葉書は、一行十五、六字から二十字ぐらいで、十二、三行が適当であるが、絵葉書ならばもっと少なくても充分である)。  以上は、『美しい女性手紙の書き方』(花房恭一郎)をもとにして作りあげたものであるが、実際の遺書は石ころに書いても、壁に書いても構わない。遺書は、自分の死を叙事詩化するがその書き方、書き場所は文学の方法を見習う必要などないのである。パイロットは飛行機雲を遺書にし、おかまは便所の落書を遺書にし、コピーライターは大新聞の広告コピーを遺書にすることだってできる。十年ほど前に、九州大学の工学部の学生がラジオ自殺したことがあった。彼は朝の番組がはじまったとたんに、体にまきつけたコードに流れるラジオの電流で自殺した。彼を死なせたラジオから流れ出るさわやかな朝の宗教番組のアナウンスが、彼の�遺書�なのであった。   3 動機も必要だ  自殺の機械が完成し、遺書が書けたら、自殺の理由もさがしておいた方が便利である。なぜなら、一般的な社会通念というやつは、「きれいな花を見ていたら死にたくなった」とか「一寸死んでみたかった」という心情など決して理解してはくれないからである。理性的判断が優先している社会では、「本質が存在に先行する」のがあたりまえだと思われる。何にでも解釈を与える解説屋たちに、勝手な理由づけをされるくらいなら、自分でもっともらしい理由を考えておいた方がいい。それが事実であろうとなかろうと、そんなことは知っちゃいないのだ。一人の高校生が、修学旅行先の旅館の鴨居から浴衣の紐を吊って、首吊り自殺した。遺書には、「どうしてもオナニーが止められないから」と書いてあった。「もうするまいと思い、寝るときには浴衣の紐で両手をしばって寝ましたが、それでも思わず手がうごきだしてしまうのです。今日、安芸の宮島のきれいな海を見ていたら、死ぬほかないと思いました」彼の遺書のあて先は両親でも先生でもなく、�神さま�であった。いまどきオナニーを罪悪視している高校生がいるというのは驚くべきことだが、その虚実はべつとしても、この自殺はちょっとかなしかった。それにくらべると、つい二、三週間前の高校受験前日に自殺した女子中学生の自殺は理由を考えておかなかった分だけ、みじめであった。学友の話では「彼女は第二志望の高校の合格通知を受けとっていました。中学の成績からして、第一志望の高校も楽に合格すると思われていた」のである。遺書にも「両親に合格通知を見せてから死にたかったのですが」とあった。彼女は、突然死にたくなったのであろう。だが、新聞は彼女に「少女、受験苦で自殺」というつまらない見出しをつけたのだった。 [#ここから2字下げ] じつは 大きな声ではいえないが 過去の長さと 未来の長さとは 同じなんだ 死んでごらん よくわかる。 [#ここで字下げ終わり]  という淵上毛銭の詩のように�死んでみる�ことも、ときには経験である。再現できない体験、負の体験も�経験�にかわりないということを理解すれば、死はトリップであり、旅である、ということがわかるだろう。いずれにせよ、死ぬ動機や理由は、すべて作りごとなのだ。それは偶然的なものであり、虚構なのだ。だから太宰治のように、≪死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った≫(葉)と、一反の着物で予定をかえたりすることもできる。自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。ぎりぎり追いつめられた中小企業の経営者の倒産による自殺は、自殺のように見えるが実は�他殺�である。膨張しすぎた資本主義社会の歪みから出てくる自殺は、形のいかんを問わず他殺であるから、私の〈自殺学入門〉のカテゴリーからはみ出す。私は、自分が死に意味を与えることのできるような偶然的な自殺だけを扱ってゆき、もっとたのしみながら、自殺について語りたいと思うのだ。   4 自殺にふさわしい場所を選ぼう  自殺すると決めたら、場所が問題になる。場所を選ぶことは、劇において舞台装置を組み立てるくらいに(あるいはそれ以上に)重要である。日本交通公社発行の旅行案内書には、自殺の名所は出ていないが、従来自殺の名所と呼ばれていたところはいくつか無かった訳ではなかった。だが、自殺にふさわしいような風景は、次第に政治化され、穢されていった。ダミアはシャンソンで、「海で死んだ人はかもめになるのです」と唄っているが、近頃の海は企業のたれ流す汚染物でかもめどころか海で死んだ人を腐らせてしまうだろう。SLの走っていた頃の鉄道自殺もわるくなかったが、近頃のように高架線化してゆくと、�とびこみ�も駅のホームくらいでしかできない。首吊りの縄も、ナイロン・ロープでは味気ないし、梶井基次郎のように、「桜の木の下には死体が埋めてある」こともなくなった。土地価が高騰したため、庭に桜の木を植えるよりも、プレハブ・ハウスを置いた方が、はるかに合理的だと考えられるようになったからである。そこで、自殺者は、何よりも場所選びに心をくばらなければならないし、自分の死体の置き場所を工夫しなければならない。たとえば、自殺を水のほとりでする——という一つの流行があった。ギリシャの女詩人サッフォーが失恋して自殺したレウカディアの水、エオルスの娘のハルキュオネスの夫の死を追っての海へのとびこみ自殺などが、その先鞭である。水にとびこんでする自殺は、自殺研究家の山名正太郎によると�母の胎内の羊水�へのあこがれである、と分析される。母の胎内はまっくらだから、水で自殺する人は夜に決行するのだ、という説もある。パリでは、セーヌ川に身投げした少女のデスマスクが作られて〈セーヌの娘〉として売りだされたが、その少女を真似て自殺する者があとを絶たないので〈セーヌの娘〉はこわされて川へ投げこまれ、二度身投げすることになったというのである。だが、今ではセーヌ川もすっかり汚れきってしまい、女詩人のサッフォーどころか、酔っぱらいの嘔吐とこわれた電球、鼠の死体などが浮かぶにまかせている。川で、とびこみ自殺しようと思うものは、そのためのべつの川を作るぐらいの気持ちが必要だ、と私は思う。俳優がたった一つの台詞をいうためにわざわざ舞台装置を�作る�ことを思えば、自殺者だって自分の死にふさわしい舞台装置を�作る�くらいの手間をかける必要がある。生きるために世界を作ろうとする者は、死ぬためにももう一つの世界を作るべきだ。その装置はデザインされ、設計され、彩色され——どんな劇の装置よりも大げさであっても、行き過ぎということはない。何しろ、劇は三時間もすれば終わるが、死は永遠につづくのである。そして、死も虚構であるのだ(それが証拠に、だれも自分の死にさわることはできない)。提案㈵[#「提案㈵」はゴシック体] 自分の自殺を独創化しようと思ったら自分の死のためだけの装置を作ること。そのために、サルバドール・ダリから赤塚不二夫まで、自分の好みの美術家を選んで、書き割りや大道具を作ってもらう(あるいは自分で作る)こと。提案㈼[#「提案㈼」はゴシック体] 自殺にふさわしい小道具も必要である。赤い花一輪などというのは自殺を感傷的にするだけだから、もっと耽美的な、あるいはユーモラスな小道具がふさわしい。シカゴのハーレムで自殺した黒人の労働者のかたわらに�笑い袋�があって、死体の傍らで一晩中笑っていたという新聞記事があったが、なかなか印象的だった。提案㈽[#「提案㈽」はゴシック体] 大道具、小道具が揃ったら、当然、照明、音楽も必要になる。首吊りがもっとも効果的に見える照明、ポール・マッカートニー作曲による自殺のテーマなどを作ってみることができなくとも、�手作り�のよさで、個性に適応した照明、音楽(できれば衣裳、メイクまでも)満足のいくようにしたいものである。 [#ここから2字下げ] 花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ [#ここで字下げ終わり]   5 自殺のライセンス  しかし自殺機械が出来、上手な遺書も完成し自殺の場所も決まったからといって、だれでも自殺できる訳ではない。自動車運転に免許証《ライセンス》が要るように自殺にもライセンスが必要なのだ。私は老いて童貞の神父や菜食主義の道学者、ヒューマニズムを一枚看板にしている社会福祉主義者のように「何よりも生きることが尊い」などとは思わぬが、自殺の価値を守るために�事故死�や�他殺��病死�と�自殺�との混同を避けたい。ノイローゼで首を吊った、というのは病死だし、生活苦と貧乏に追いつめられてガス管をくわえて死んだのは〈政治的他殺〉である(富永一朗の『ポンコツ親父』が、ガス自殺をしようと思い立つが、ガス代を払っていないのでガスを止められている。そこで、サツマイモを腹一杯食って、自分の放屁ガスで自殺しようと、泣きながら食いまくる——というのも、その原因が失恋であってみれば�他殺�か�病死�かになるわけである)。何かが足りないために死ぬ——というのは、すべて自殺のライセンスの対象にならない。なぜなら、その�足りない何か�を考えることによって、死の必然性がなくなってしまうからである。家庭は幸福で、経済的にも充足しており、天気も晴朗で、小鳥もさえずっている。何一つ不自由がないのに、突然死ぬ気になる——という、事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死、というのが、自殺なのであり、その意味で三島由起夫は、もっとも見事に自殺を遂げたことになる。自殺はきわめて贅沢なものであり、ブルジョア的なものであるということを知ることから始めない限り、�何者かに殺される�のを、自殺ととりちがえているのに変わりはない訳である。それでは、生の充実を上まわるほど、死後の世界は魅力的なものだろうか、ということを考えてみよう。フェイドーは『死者儀礼史』という書物の中で死もまた生と同じような実存であるといい、その一例としてバンバラ族の影法師についての考えを紹介している。死者は影法師になって他所へ行って暮らし、水中では妖精の保護をうけ、もう一度、生の現実世界へもどりたくなったら、生まれたての子供の肉体にとりついて甦るのだ——という訳である。では、影法師になって、何がたのしいのだろうか? ある人は、「それは透明人間のたのしさだよ」といっている。死んで透明人間になったら、現実社会のわずらわしさから免れる。それでも、いろんなところに出没できるし、他人の生活を見ることができる。「透明人間は税金を払わなくてもいいのです」という人もいるし、ラングストン・ヒューズのように、「墓場は一ばん安上がりの宿屋だよ」という詩人もいる。クニ河内の、念願かなって実現した夢である、「バンザーイ、バンザイ 透明人間になれたんだ!」というのも自殺の歌である。しかしこうした死後幻想のすべては、結局のところは現実逃避の思想であって自殺のたのしみを物語るものではない。「死にむかって自由になる」のではなく「生の苦しみから自由になる」というのでは敗北の自由であることに変わりがないのだ。私は、次のような人たちには自殺のライセンスをやることができない(もし、彼らが自分の手で死んだとしても、その内実は事故死か病死であるといっていいだろう)。〈自殺の値打ちもない〉[#「〈自殺の値打ちもない〉」はゴシック体]1、早漏、性器短小になやんでいる男。2、大学受験に失敗した男。3、ローリング・ストーンズをきいて何も感じない男。4、イボ痔に悩む男。5、何となく人生がいやになった男。6、パチンコをやりすぎて叱られてばかりいる男。7、「センス(意味)とは? ナンセンス(無意味)とは? 体系化された思想は意識の私有化にほかならず、一九二〇年以降体系化されたイデーは常に歴史的に体制の補完物にすぎなかった。われわれはナンセンスに走る傾向をもっていたことを自己目的的に追求し自己のブルジョア的限界を感じ……」(原文のまま)、こうした問いつめ方ばかりしている男。8、童貞、処女。9、低所得労働者。10、まだフカヒレスープを飲んでみたことのない男。11、女の子に「愛してるわ」といわれたことのない男。12、高倉健の映画を見て「うらやましいなあ」と思っている男。13、公金使い込み、倒産、生活苦などをかかえた男。14、水虫治療中の男。自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、そして聖なる一回性であり、快楽である。生きる自由と、死ぬ自由とを同価にするためにも、イミテーションを排し、ライセンスの規約を厳格にし、特権階級の占有にしなければならない。   6 心中のすすめ  さて自殺すると決めたらパートナーを捜してみる、というのはどうだろう。「にんげんは一人では生きることができないが、一人で死ぬことならできる」と書いた評論家がいたが一人で死ぬより二人で死ぬ方がいいのはいうまでもなかろう。ネズミなどは自殺するときには、かならず集団自殺することによって、死を孤立から救っている。一七〇三年の赤穂四十七士の集団切腹、一七五三年の薩摩の七十九士の集団切腹、それに、会津の白虎隊の集団切腹と、自殺の集団化を実現された例は�日本自殺史�の中にも数多く見られる。�一人で生きる�ことがむなしいように�一人で死ぬ�こともまたむなしい。パートナーを選んで自殺することは、二人で�同じ夢を見る�ことだ。大正十年の哲学心中といわれた野村隈畔と岡村梅子、哲学者と女子学生の心中では、二人は、≪いよいよ革命来る。自由実現の絶対境に入る≫と二人の決意を記し、≪永遠の世界を憧れて居る者は、俗人には分るものか。いくら世間の者が騒いだって考えたって、私共の世界、私共の心理は分らない≫と書き残した。二人は市川に身を投げ、翌日に津田沼の海中で発見された。死体はお互いの両袂から双手を入れてしっかりと抱きあっていた、といわれている。こうした心中を「男女の性愛による同行自殺」と定義づけるのは、あまり正確ではない。なぜなら、死の中に性(生)以上の悦楽を見出した二人の自殺の因を、性によるものときめつけるのは、死の思想を省いた見方だからである。私は心中が好きだが、それは並の自殺よりも贅沢だからである。一人の自殺は簡素な場合が多いが二人となると、場所選びにしても書き置きにしても方法にしても工夫がこらされる。歌舞伎でも〈道行〉の場となると、ひときわ見せ場としての演出がこらされている。心中は(語源的には�深く真実に想う�ということだが)ただの逃避死とは、はっきり峻別される。 「心中は、あはれふかい、しかしだにふがいなきものでも、女々しきものでもなく、一面に於いて、実にたけ[#「たけ」に傍点]あるもの、たけだけしきものでもあるのだ」(橘孝三郎『天皇論』)  マルクス主義には自殺論がなく、右翼にそれが多く見られることは、自殺の形而上性を物語っている、といえるかもしれない。マルクス主義では、自殺の形をかりた�他殺�が扱われ、精神分析学では他殺化した自殺が論じられる。しかし、自殺はあくまでも、構造的には解明されがたい修辞の世界であることを知っておく必要がある。�生きる�という表現は一つだが�死ぬ�となると少なくない。�しぬ��いく��往生��命とり��果つる��絶える�……といった具合にで、ある。二人で死に、十人で死に、社会全体で死ぬ、という発想は、やがて死を、〈負の現実〉として〈正の現実〉と相対させることになるだろう。一人で行ったって、地獄旅行はおもしろくない。死ぬなら、仲間が必要だ。思いきり工夫をこらした幕切れのため、私と心中しようという女の人がいたら手紙ください。   7 自殺紳士論  いままでは一般的な自殺について書いてきたが、この章では何人かの�自殺紳士�を紹介したい、と思う。これから自殺しようと思う諸君は、先達を手本にして、よりすばらしい自殺をするための参考とされたい。≪生きたい人だけは生きるがよい。人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です≫(太宰治『斜陽』)  藤村操[#「藤村操」はゴシック体] 一九〇三年六月二十二日自殺。当時一高の学生だった藤村操は、日光の華厳の滝へ投身して自殺し、日本自殺史に�純粋自殺概念�の確立をはたした。彼は松の木を削って〈巌頭の感〉と題した遺書を書きつけて、滝つぼに身を投げ、そのはなばなしい死に方によって、自殺のイメージを一変させた功労者であった。当時の新聞は藤村の自殺を�哲学自殺�とよび、その巌頭の感は、どんな詩よりもひろく愛誦された。 ≪悠々《ゆうゆう》たるかな天壌《てんじよう》、遼々《りようりよう》たるかな古今、五尺の小|躯《く》を以て、この大をはからむとす。ホレーショの哲学|竟《つい》に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にて悉《つく》す。曰く「不可解」この恨みを懐いて、煩悶終《はんもんつい》に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安ある無し。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを≫  藤村の自殺によって�自殺名所�となった華厳の滝には一九〇三年から一九一一年までのあいだだけでも投身者(未遂者をふくめて)が二百余名もあった。〈巌頭の感〉を印刷した絵ハガキはベストセラーになり、自殺の模倣者をうむおそれがあるというので発禁になった。もちろん、こうした風潮に批判的な人たちもいなかった訳ではなく、「あれは哲学自殺などではなく、ただの失恋自殺」といった宮武外骨は、藤村の遺書をもじって≪始めて知る、大なるホラは大なる売名に一致するを≫と書いたものだった。しかし、藤村の自殺には中小企業の倒産で追いこまれてガス自殺をする一家のような貧しさがない。その死は余剰が生みだしたものであり、大自然と死との和合の中に、維新以来の近代化への批評をこめた。美学に裏打ちされた自殺の�方法の確立�は、死が生と同じように実存であることを証明したものだった。  原口統三[#「原口統三」はゴシック体] 一九四六年自殺。藤村は十八歳で死んだが原口は二十歳で死んだ。ともに一高生であったが原口の場合には藤村よりもはるかに歴史の翳が濃い。戦後の混乱と、あらゆる価値の崩壊が、原口に�もう一つの世界�への旅立ちを思い立たせた。原口は書いている。≪詩人曰く「原口は人生に最初から失恋して生まれて来たような男だったよ」≫彼は他人を愛することができなかった。それは、あまりにも自分を愛しすぎていたからかも知れないし、戦後の社会感情の中にひそむ人間不信の反映かも知れなかった。彼はボードレールの≪恋愛とは売春の趣味である。しかし恋愛は、やがて所有の趣味によって、けがされる≫ということばに共鳴しており、自らも、≪愛は正にわれわれの故郷に違いない。僕は故郷を持たぬ≫と書いていた。だが、原口が人生の外に求めたものの厳しさにくらべ、人生の中に見出していたものは、あまりにも、抽象的にすぎたように思われる。≪僕が育った家、父母、兄達、姉達。此処では、見慣れた家具の類が、家族の一員となって、僕を甘やかそうとする。僕にはその居心地の温かさが堪らなかった。僕は冷たくありたかったのだ。「精神」への冒険に旅立ちたかったのだ。それは一切の温かいものを拒否すること、即ち「死ぬ」ことに帰着する≫  円谷幸吉[#「円谷幸吉」はゴシック体] できることなら、円谷には走りながら死んでほしかった。それが、ランナーにとって一ばん美しい自殺の方法であり、�大なる悲観と大なる楽観�とをつなぐ唯一の美学だったと思われるからである。一九六八年に首吊り自殺をした円谷は、東京オリンピックのマラソンのメダリストであった。円谷は同年のメキシコオリンピックをめざしてトレーニングにはげんでいたが、突然、「幸吉はもう疲れきって走れません」と書きのこして死んだ。円谷の場合、自殺というよりは、他殺であった。新聞も≪いったい円谷選手を死に追いこんだ原因はなんだったのだろう≫と書き、背後に�犯人�がいることをほのめかし、この孤独な長距離ランナーに走る使命を課していたオリンピックの栄光という名の�愛国思想�を追及した。しかし、円谷の死はただの他殺とはちがっていた。何よりも、彼の遺書は彼の記憶の中をゆっくりとマラソンのような平均ペースで走りつづけ、そこを通りすぎてゆく正月の食べものの思い出は、彼の心象風景となり、すばらしい一編の詩となっていたのであった。≪父上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、もちも美味しゅうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒、美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。正男兄、姉上様お気をわずらわして大変申し訳ありませんでした。幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん……立派な人になってください≫  伊勢ノ浜[#「伊勢ノ浜」はゴシック体] 同じスポーツマンの自殺でもちょっと変わっていたのは一九二八年の大関伊勢ノ浜の場合である。彼は引退後年寄りとなって、相撲協会の監事をつとめていたが、ある日息子たちに≪父のように呑まずにりっぱに成長してくれ≫という遺書をのこして自殺した。変わっているのは、その道具に�猫いらず�をのんだことであった。ネズミをころすものを大男がのみ、苦しみのたうちまわって死ぬ、というのは自分を罰する、という意味をこめていたのか、それとも、自分はただのネズミにすぎないという自己批評か。加藤秀俊は≪日本経済の工業化の進行が明治中期から大正はじめにかけて完成し≫この工業化を反映する自殺が昭和初期になるとあらわれてきた、と書いている。芥川龍之介のヴェロナール、東大生川田のナルポコンとカルモチン、千葉医大の青木助手のスポコラミンの皮下注射、そして重クロム酸加里の流行から猫イラズ。しかも猫イラズは、だれでもたやすく入手できた、というのだが、それにしても大関と猫イラズとの組合せは、この自殺が工業化社会との共犯関係だったことを物語っており、純粋自殺としては、いささか物足りない。  五郎と八重子[#「五郎と八重子」はゴシック体] 一九二三年五月九日、神奈川県の大磯に近い草むらで発見された調所五郎と湯山八重子の心中は、当時の新聞記者によって修辞され、〈坂田山心中〉天国に結ぶ恋として一躍クローズアップされた。五郎は慶大生、八重子は富豪の令嬢、死体の枕もとには北原白秋の『青い鳥』と羽仁もと子の『みどり児の心』、そして服毒した昇《しよ》汞水《うこうすい》の壜。五郎は制服を着て、八重子は藤色のお召を着ていた。二人は性関係をもっていなかったが、枕もとに『みどり児の心』などという本を配したあたり、この自殺が充分に計画された虚構であり、二人の合作になるドラマであることを物語っていた。私は、この心中にも藤村操の場合と同じような�死ぬ権利�の行使を見、その美学に(いささか感傷的すぎるにしても)自殺の一つの典型を見る思いをもつのだ。五郎と八重子はやがて流行歌になり [#ここから2字下げ] 死んでたのしい天国で あなたの妻になりますわ [#ここで字下げ終わり]  と唄われた。五郎の父は≪どうぞ八重子さん五郎を〈夫〉と呼んで下さい。そして五郎よ、八重子さんを〈妻〉と呼んでおくれ。神よ、あわれなゼロムとマーガレットのふたつの霊にめぐみを垂れたまえ、平和を垂れたまえ≫と雑誌に寄稿して涙をさそったが、しかしこの父の同情は、ほんとは�わかっていない�ことになるのである。二人が生きのびて、ありふれた夫婦になることが、心中の一点豪華主義よりもしあわせだった、というのは死ななかった者の�解釈�にすぎない。五郎と八重子は充分に目的をはたしたのであり、のこされた者たちによって�再現�されたり、補足されたりする必要など、ないのである。  星の王子さま[#「星の王子さま」はゴシック体] 文学の中に描かれた自殺者は少なくない。そして、私たちにとって他人の自殺は、現実であろうと虚構であろうと、語られはじめたときからストーリー化してしまうという宿命をもっているので、「自ら、その自殺を体験できない」という点で、同じことになってしまうのだ。サン・テクジュペリの『星の王子さま』は地上にやってきて、人間関係のむなしさにつきあたる。文明、金、欲望といったものは、彼にとってはあまりにも喧しすぎるのだ。彼は、口ゲンカして故郷の星にのこしてきたバラの花をなつかしく思いだし、自ら蛇にかまれて死んで、魂となって故郷の星へ帰ってゆく。この星の王子さまの�故郷の星�は、日常的な死をあらわすとともに、もう一つの世界状態を予測させるという意味で、ほかの厭世自殺と、一線を画している。それは�生から逃げてゆく�死ではなく、�もう一つの生へ向かってゆく�死である。この物語の作者のサン・テクジュペリは『夜間飛行』『人間の土地』といった飛行文学を書くだけではなく、自らもパイロットであったが、ある日飛び立ったまま行方不明になってそのまま死体も発見されず�故郷の星�へ帰ったのだろう、といわれたものだった。  気狂いピエロ[#「気狂いピエロ」はゴシック体] ジャン・ポール・ベルモントが顔にペンキを塗り、体にダイナマイトのコードをまきつけて、海を見、ランボーの [#ここから2字下げ] 見つかった、何が? 永遠が [#ここで字下げ終わり]  という詩とともに自爆して死ぬ、ゴダールの映画『気狂いピエロ』のラストシーンの自殺もまた、その方法の型破りさにおいて、長く記憶されるべきものであった。主人公のフェルナンドという名の男、つまりジャン・ポール・ベルモントは、マンガ本の愛読者で、愛することはできるが何も所有できぬ男で、いつも薄笑いをうかべていたが、「死ぬよりほかにすることがなくなってしまった」という意味では、自殺者としての条件にかなっていたということができるだろう。  森恒夫[#「森恒夫」はゴシック体] 私は森恒夫の自殺を悼んでいる。現代の悪霊憑きであり、ネチャーエフの革命劇を演じたこの美青年は、一月一日に拘置所で首を吊ることで、彼の政治を虚構として完成させた。彼がもし生きのびて、法廷闘争にまで持ちこんでいたら、浅間山荘の銃撃戦も、林の中の人民裁判も、彼の作りだしたカテキズムも、すべて日常性のなかで風化され、色あせたものとなり、体制側の巧妙なマニプレーションによって、ただのリンチ事件と警官への発砲事件にすりかえられてしまったことだろう。だが、森は一月一日を選び、首を吊って自殺することで、事件を自らの死の中に再現してみせ、同時に�彼の連合赤軍�のめざした革命を総括した。それは、エレクトロニク・メディア時代にふさわしく私に伝えられた。テレビの画面には雪が降っていた。もう、幻となってしまった女優の藤純子こと、通称緋牡丹のお竜が橋の上でふりむいた。みかんがころがった。わかれはいつも静かで、再会の約束はなかった。画面に臨時ニュースのスーパー。≪連合赤軍 森恒夫 拘置所で首吊り自殺≫その死は、政治の死かも知れないが、政治的な死ではなかった。その自殺を、革命活動の長い灰色の夜へ通底させてしまうのは、たった一つの現実しか信じない者のやり口というものであろう。私は森恒夫の自殺と藤村操とを比べながら考えてみる。藤村は松の木を削って遺書をかいたが、森は鉄砲と血とアルベルト・バーヨの書物のページと、数人の生命を費やして遺書をかいた。それを一般的社会道徳で裁いてみたところで、何になるものか。≪自然は人生への入口をただ一つしか規定しなかったが、出口の方は幾千もこれを教えた≫(モンテーニュ)   8 後記  わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをもきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている。   炎天の遠き帆やわが心の帆   誓子 [#改ページ] [#小見出し] 歌謡曲人間入門  歌謡曲がんばれ——[#「歌謡曲がんばれ——」はゴシック体]何をやってもうまく行かない。借金はたまる一方で、仕事の方はさっぱりである。汽車の汽笛をきくたびに故郷へかえりたくなる。  ところが、一緒に家出してきたダチの方はクリーニング屋の主人と喧嘩してとびだしたあと、とび入りで出たノド自慢でみとめられて人気歌手になってしまった。  いまではマンションに住んで、レコードも十万枚突破だという。「ああ、俺はついてないな」と思う。だが、待てよ。「あいつだって、今はチヤホヤされているが、先のことはわかったもんじゃないさ」  そこで、いつも歌が口をついて出てくるのである。 [#ここから2字下げ] ひとに好かれていい子になって 落ちてゆくときゃ一人じゃないか おれの墓場はおいらがさがす [#ここで字下げ終わり]  ここでグッと一息いれて声をはりあげて、「そうだ、その気でいこうじゃないか」としめくくると、ダチのことが  そんなに羨ましくなくなってくるのだ。  これが歌謡曲人間である。  口下手である。  少し吃る。ポスターを見て「吃り対人赤面恐怖は治る」という研究会へ行ってみたが、やっぱり自信がつかない。やる気十分なのだが、人前に出れば何もいえなくなってしまうのである。  そこでいつのまにか畠山みどりの歌謡曲を処世訓にするようになる。 [#ここから2字下げ] やるぞ見ておれ 口には出さず 腹におさめた 一途な夢を [#ここで字下げ終わり]  という歌である。この歌の「口には出さず」というところをうたうたびに勇気がわいてくる。これもまた、歌謡曲人間である。  なにか事あるごとに、歌謡曲の一節を口ずさみ、そのモラルをふみ台にして生きてゆく小市民、自分のクライシス・モメントを、つねにハナ歌まじりで突き破ってゆく街のあんちゃんやおねえちゃん、これらを一まとめにして歌謡曲人間と呼んでもいいだろう。  歌謡曲は、わたしたちの時代のブルースである。わたしはふだんは歌はうたわないが、それでも新宿の歌舞伎町の酒場で、夜おそくまでポーカーをやっていて、くたびれてくると歌謡曲を口にすることがある。 「おれねえ、来月あたりで組をやめて、しばらくハワイへ行こうと思うんだ」  と中折帽をかむった顔役がいう。フル・ハウスを釣りあげて、フォア・カードにまきあげられて気が弱くなったか。 「ハワイはおれの生まれ故郷だからな」  すると、バーテンの口から歌謡曲が出る。 [#ここから2字下げ] 帰る故郷があるならよかろ 俺にゃ故郷も親もない。 [#ここで字下げ終わり]  というわけである。  競馬新聞をひらいて、赤鉛筆をなめながら、いまいましげに三橋美智也の真似をして「昨日一攫千金も 今日はころんで地獄坂」とうたっている背広を着たチンピラなども、愛すべき歌謡曲人間だし、なんでもかんでも「ありがたや、ありがたや」と茶化してしまう街娼なども——実はアザだらけで、つらい毎日をすごしているだろうと思いやると、「歌謡曲人間がんばれよ」と肩の一つも叩いてやりたくなってくるのである。  こんなこともあった。  千鳥街の小さな酒場で飲んでいたら、そのカウンターの隅っこで、女と男が何かいい争っている。  そのうちにだんだん声が高くなってきて 「あたしがどこへ行ったっていいじゃないのさ。あんたは、あたしの亭主じゃないんだから」 「亭主じゃなくたって、金は出してる」 「何さ、あんなハシタ金!」 「おれは、おまえがおとといの夜どこへ行ったかって聞いてるんだ。聞く権利ぐらいはあるはずだ」  と男の声がうわずっている。  ふいに、女の胸ぐらをつかんで、「さ、正直にいったらどうだ。またあのセールスマンとホテルへしけこんでやがったんだろう!」  バシーンと女の頬の鳴る音がする。女は泣き声になって「違うったら、違うったら」と手をふりほどこうとするが、オセロなみに嫉妬に狂った男は、またまたバシーン、バシーンと殴りつける。わたしが、おい、とバーテンに目くばせする。  するとバーテンは何を思ったか、レコードをかけはじめたのである。歌は畠山みどりのものであった。 [#ここから2字下げ] あんたこの世へ 何しに来たの 女ばっかり 追いかけず 天下国家に目をむけて なって頂戴 大物に [#ここで字下げ終わり] 「大物にィー」と声をおさえるところまでくると、シンとしていた酒場の他の客たちがドッと笑いだす。さすがに、女を殴っていた男も、自分の活劇の主題歌がうたわれていることがわかると、バツがわるくなってやめないわけにはゆかなくなった。  このバーテンも、たぶん「歌謡曲人間」だったのであろう。そう思うと、この後始末はいかにもエーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」を思い出させるような、気のきいた処方だと思われる。  孤立無援の歌謡曲無宿——[#「孤立無援の歌謡曲無宿——」はゴシック体]歌謡曲、いいねえ、という大学教授がいたりする。  大衆文化論的に歌謡曲を定義づけようと、研究をしている評論家がいたりする。多田道太郎さんによると 「浪花節を聞いてると、なにか上からノシかかる重いものをグーッと除けようという感じの発声法ですね。つまり、差別という抑圧があるから声が出なくなってしまったという感じ。それを今度は中から突きぬけようとする、ものすごい力を感じます」  ということである。  たしかに、浪曲の源泉は被差別部落から出たものだということができる。門付けというやつである。そういえば、都はるみの、あのオシッコがもれるのではないかと思われるほどの気ばった声は、「何かをはねのける」バイタリティーを感じさせる。  井沢八郎にしても、美樹克彦にしても、畠山みどりにしても、みな一様にこうした浪花節の伝統から考えあわせてみると、あの「地声」のかげにある重圧とのたたかいが感じられるのである。さらに、浪曲が被差別部落のなかにあって「部落の中の犯罪者を擁護する語りものとして京阪神でもてはやされた」ことから考えると、つねにアウトサイダー、余計者、はみだし人、無宿者たちの音楽として育ってきたこともわからぬでもない。 [#ここから2字下げ] キラリキラリ光った流れ星 燃えるこの身は北の果て [#ここで字下げ終わり]  とうたわれる「網走番外地」には、桃中軒雲右衛門以前の正統派浪花節の精神が生きているともいえるのである。  わたしは、歌謡曲がわたしたちの時代のブルースであると書いたが、それをさらに厳密に分類すると、民謡の系譜から歌謡曲へとつながって行ったものと、労働歌、カレッジソングからフォークソング、合唱曲へとつながって行ったものとの二つにわけることができるだろう。そして、歌謡曲のなによりの特質は「合唱できない歌」だということなのである。  小林旭と浅丘ルリ子が、映画「絶唱」のなかで、はなればなれに住んでいるが、時間をきめて同じ歌をうたう、というシーンがあった。  これは変則的な合唱には違いないのだが、歌同士は決して合流しない。  歌っているときの二人にとって重要なのは、合唱にあるような「連帯感」ではなくて、ひどくふたしかな「同体感」といった感じのものなのである。 [#ここから2字下げ] 淋しさやこの街 たそがれかなし 涙をふいてさがそうよ [#ここで字下げ終わり]  と台所の拭き仕事をしながら中年の家政婦がうたう。だがその「二人の星」のもう一人はどこにいるのか?  新聞の片隅の人生相談には不幸な二人のてん末が連日載っている。だが、階段に腰かけて、あるいは長距離運送トラックの荷台で空を見上げて、学校の寮で……さまざまの歌謡曲人間が一人で「二人の星をさがそうよ」とうたっているあたりに、現代の断絶したコミュニケーションを回復させようとする「同体」の意識といったものが感じられるのである。  これがもし、労働歌や合唱曲のようなかたちで、連帯と信頼とにささえられて歌われていたとしたらどんなものになるだろうか? [#ここから2字下げ] どうせあたしをだますなら 死ぬまでだましてほしかった [#ここで字下げ終わり]  と、一万人が「東京ブルース」の大合唱をしていたら、それを聞いて感動するのは政治家ぐらいのものではないかと思われるのである。歌謡曲は一人でうたう歌である。  そして、それは孤立無援の大衆が、自分だけで処理せねばならない問題に立ち向かったときにひとりでに口をついて出てくるものなのである。  野球場で。  南海が西鉄を大きくリードしている。西鉄は優勝戦線から脱落するかしないかの瀬戸際だ。  どうしてもこのへんで南海を一叩きしなければならないのに、またまた不甲斐ない負けっぷりなので、ファンは我慢が出来なくなってきて、ついにドナる。 「中西、どうしたーア」 「おまえ、出ろ!」  無死満塁というチャンスがまわってくると、スタンドは一斉に西鉄の監督の中西に、「選手としての栄光」を要求する。どうしても中西が出ずにはおさまらない場面。しかし、そんなとき中西は「姿三四郎」を口ずさんでいるのである。 [#ここから2字下げ] 花と咲くより踏まれて生きる 草の心が 俺は好き [#ここで字下げ終わり]  いったい、「草の心」とは何だろうか? それは名もない雑草のように根強く長生きするということか、それとも花やかではないが、花を咲かせるためには欠かせない根、選手を育てるためには絶対必要な監督の座ということか。  そのへんの真意はわたしにもわからない。だが、ぐっとこらえるとひとりでに歌が出てくるところに歌謡曲人間中西太の人間性がにじみ出ているということができるだろう。  歌謡曲人間は、つよい人間である。すぐ消えてなくなる歌の文句を拠りどころにして、にっこり笑って七人の敵に立ち向かっているような男でなければ、時代の変革への参与など、とてもできるものではない。  だからこそ、わたしは日本人一億総「歌謡曲人間化」をすすめたいと思うのである。 [#改ページ] 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。 [#地付き](平成四年三月) 角川文庫『書を捨てよ、町へ出よう』昭和50年3月10日初版発行                  平成17年4月10日改版3版発行