勝目 梓 私設断頭台 目 次  第一話 骸たちの儀式  第二話 毒の報酬  第三話 黒の葬送曲  第四話 炎よ闇を走れ  第一話 骸たちの儀式     1 (堂本《どうもと》法律事務所)  ドアのネームプレートに、横書きの文字が並んでいた。木製のドアもネームプレートも、かなり古びている。  四谷《よつや》三丁目の交差点に近い、ビルの四階の一室である。五階建のくすんだ外観を持つ、小さなビルで、いくつもの会社や事務所が雑居している。  時刻は午後九時をまわろうとしていた。四階で明りのついているのは、堂本法律事務所だけだった。  そのドアの前に、一人の男が足を停《と》めた。紺色の登山帽を目深《まぶか》にかぶり、濃い茶色のサングラスをかけていた。帽子の下から、長い髪がふくれあがるようにはみだし、濃い髭《ひげ》が口のまわりを囲んでいた。Tシャツに木綿《もめん》のジャンパー、ジーパンという軽装である。  男はドアをノックした。一つ叩《たた》いて間をおき、つづけて二つ叩く、というノックだった。返事のないまま、ドアが中から細く開けられた。若い女が顔だけのぞかせた。事務員の植田沙織《うえださおり》だった。髪を長目のおかっぱにした、目鼻立ちのくっきりして見える女である。  沙織は男に眼顔で会釈《えしやく》を送った。男の表情は動かない。沙織も男もことばは交《かわ》さなかった。男は無言のまま中に入り、奥に進んで行った。沙織はドアを閉め、鍵をおろして男の後につづいた。  ドアを入ってすぐの右手に、弁護依頼人のための面談コーナーが三つ並んでいる。そこを進むと、奥の窓ぎわに、ソファセットがある。その右側に、隣室に通じるドアがあった。男はそのドアをノックなしで開けた。  その部屋が、堂本弁護士と三人の調査員と沙織の執務室《しつむしつ》になっている。事務机が四脚、中央に寄せて置いてある。窓ぎわにひとまわり大きなデスクが一脚あった。堂本|英介《えいすけ》の席である。部屋の奥の壁には、黒板がかけられていて、その前に長椅子が置かれていた。  部屋には、堂本と三人の調査員が顔をそろえていた。堂本英介は、自分のデスクで、パイプにたばこを詰めていた。髪をきちんと分けて形よく撫《な》でつけ、ダークブラウンのスーツを着ている。肩幅が広く、背丈《せたけ》もある。  登山帽の男が入って行くと、堂本は椅子ごと体を回して、男を迎え、わずかに表情を柔らげた。 「長髪と髭《ひげ》、よく似合うじゃないか」  堂本が言った。からかうような調子があった。三人の調査員たちが立ち上がり、無言で男に頭を下げた。敬意のこもった態度だった。三人とも背すじがまっすぐ伸びている。 「おそろいだな、みんな……」  客は言って登山帽をとり、長髪と髭をむしりとった。鬘《かつら》と付髭《つけひげ》だった。サングラスもはずされた。現われた素顔は、細面《ほそおもて》で額《ひたい》が広く、眼が鋭い。 「鬘の毛はもさもさ頸《くび》すじにかかるし、髭は鼻の穴をくすぐるし、楽じゃないぞ、こういうのも……」  男はにこりともせずに言った。東京地方検察庁特捜部検事、辻正毅《つじまさたけ》である。沙織が辻の手から、登山帽や鬘などを受け取り、机の上に置いた。 「すぐはじめますか?」  調査員の矢田直彦《やだなおひこ》が言った。顔も体つきもいかつい。髪は短く刈っている。三十八歳になるのだが、陽やけした漁師のような顔と額の皺《しわ》のために、四十半ばに見える。 「はじめよう」  堂本がパイプをくわえたまま言った。調査員の宇佐見明《うさみあきら》と原徹《はらとおる》が、部屋の隅《すみ》に行き、ロッカーを開けた。棒状に巻いたスクリーンと、八ミリフィルムの映写機が、ロッカーから取り出された。  宇佐見と原は、てきぱきと仕事をすすめた。二人とも若い。宇佐見が二十八歳、原が一つ下である。宇佐見は甘いマスクのハンサムである。小粋な赤の細い縞柄《しまがら》のシャツの襟《えり》もとに、金色のペンダントをのぞかせ、手首にはやはり金色の太い鎖のブレスレットをしている。  原のほうは、見るからに地方から出てきた朴訥《ぼくとつ》な青年といった風貌《ふうぼう》である。眉が薄く、鼻が丸い。着ている背広も体に合っていないのか、ぎごちなく見える。細い眼は眠っているのかと思うほどである。  二人が映写機とスクリーンをセットする間に、沙織が茶をいれて、盆にのせて運んできた。誰も口をきかない。矢田が閉まっている窓のカーテンの隙間《すきま》を見つけて、深く重ねなおした。  茶を配《くば》り終えた沙織が、部屋のドアを閉めた。沙織は映写機の横に、椅子を引き寄せて坐った。フィルムはすでにセットされていた。みんなは思い思いの場所に席を占めている。原が壁のスイッチの前に立った。 「じゃあ、いこうか」  堂本が言った。原が部屋の明りを消した。沙織が映写機を始動させた。  葬儀《そうぎ》の光景が、スクリーンに映し出された。場所は信濃町《しなのまち》の千日谷《せんにちや》会堂だった。十日前に行なわれた葬儀である。原と沙織が組んで、その葬儀の参会者の顔を、隠し撮りしてきたのだ。  死んだのは、土井稔《どいみのる》という男である。土井の本業は不動産会社の社長である。その他に、彼には自由党の代議士、倉持賢一《くらもちけんいち》の私設秘書、という肩書きがあった。  四ヵ月前に行なわれた、衆議院議員の選挙では、土井稔は倉持賢一の、裏の出納《すいとう》責任者をつとめた。  倉持賢一の選挙区は、東京の隣の県である。四ヵ月前の選挙で、倉持賢一はトップで当選した。連続三期目の当選だった。  開票が終ると、本格的な選挙違反の摘発《てきはつ》がはじまった。倉持賢一は、前回の選挙でもトップ当選を果したが、倉持派からは大量の選挙違反による逮捕者が出た。大がかりな買収工作が行なわれていたのだ。  世論とマスコミは、倉持賢一の金権選挙を痛烈《つうれつ》に非難した。しかし、司直《しちよく》の手は倉持賢一自身には及ばず、彼は連座《れんざ》を免《まぬが》れた。  四ヵ月前の選挙でも、同じことが起った。倉持派からは、前回を超える大量の選挙運動員が、つぎつぎに逮捕されていた。前回同様の、悪質な買収工作が、広範囲にわたって行なわれていたのだ。  土井稔は、前回の選挙でも、倉持賢一派の、裏の出納責任者として腕をふるった。しかし、彼は逮捕を免れた。警察に呼ばれて事情聴取を受けることさえなかった。巧妙な隠蔽《いんぺい》工作が効を奏したのだ。捜査本部は、土井稔が裏の出納責任者であることを突き留めるのを阻《はば》まれてしまったのだ。  今回の選挙でも、倉持派の運動員たちが、つぎつぎに警察に呼ばれ、あるいは逮捕される中で、土井稔だけはノーマークの状態がつづいた。だが、捜査陣の動きは、前回にくらべて、はじめから厳しく周到《しゆうとう》だった。捜査が始まって二ヵ月を越すあたりから、捜査本部では、倉持派に陰の金庫番の存在のあったことを疑いはじめた。  土井稔が、初めて捜査本部の呼出しを受けたのは、三週間前だった。土井の調べは連日つづいた。新聞は土井稔の逮捕が近い、という観測記事を、こぞって紙面に出した。記事は、土井稔の逮捕によって、今度こそ倉持賢一も連座に追いこまれる可能性がある、とほのめかしていた。  その矢先に、土井稔が死んだのだ。  土井稔は、多摩湖の無料駐車場に停めた自分の車の中で、死んでいた。車の排気管につないだホースが、床の水抜きの穴から車内に引込んであった。直接の死因は一酸化炭素中毒と判明した。遺書は見当らなかった。車内にあった缶《かん》ビールの飲み残しから、睡眠薬が検出された。  時が時であった。巷間《こうかん》に他殺説、自殺説がとび交《か》った。どちらも根拠のない憶測《おくそく》にすぎなかった。  土井稔の死亡が、捜査陣に大きなダメージを与えたことだけは、確かな事実だった。裏の金庫番に死なれて、捜査本部は、倉持派の選挙資金の流れをつかむ上での決め手を失った形となった。  前回同様に、倉持賢一に対する金権選挙非難の声は高まりつづけていた。同じ自由党の内部にも、倉持賢一の引責《いんせき》辞任を求める声が上がるほどだった。  しかし、その声は大きく広がるには至っていない。倉持賢一が、党の主流で、党内の大派閥である黒島《くろしま》派に属しているためだった。黒島派の領袖《りようしゆう》、黒島|隆三郎《りゆうざぶろう》も、総理総裁の席を、金の力で手に入れた、とされている人物である。しかし、黒島隆三郎は、自衛隊の戦闘機購入をめぐる疑獄《ぎごく》事件との関連を問われて、今は総理の席を退いている。その疑獄事件の公判はまだ続行中で、黒島隆三郎は刑事被告人の身である。しかし、彼の政界における存在はなお大きく、隠然《いんぜん》たる勢力を背景に、院政《いんせい》を敷いていることは、周知の事実だった。  土井稔の突然の変死で、倉持賢一に対する引責辞任を求める声が、一段と高まりを見せた。報道陣にコメントを求められるたびに、倉持賢一は、国会議員を辞《や》める意志のないことをくり返し、土井稔の死に対しては、気の毒だと思う、とだけ言った。突っぱねるような固い口調も、いつも変らなかった。  土井稔の死体が発見されて五日後に、所轄《しよかつ》の警察署は、それを自殺と断定し、正式に発表した。選挙違反の捜査の進展を気にしていたこと、倉持先生に迷惑が及ばなければいいが、と気を揉《も》んでいたこと、不眠と心労から食欲不振がつづき、家族に死にたい、と洩《も》らしていたこと、などが推測される自殺の背景として挙げられていた。  スクリーンの上に、喪服《もふく》姿の人たちが、つぎつぎに映《うつ》しだされていく。カメラはズームレンズで、それらの一人一人の顔を、アップで捉《とら》えていた。 「はい、ストップだ」  辻が声を出した。沙織がフィルムの回転を停めた。画面の映像が静止した。五十歳前後と思える大柄な喪服の女と、若い二人の女が、ハイヤーから降り立ったところだった。 「土井稔のかみさんと娘たちだ」  辻が言った。彼は映写機から放《はな》たれる光の帯に、手にした写真をかざしていた。スナップ写真である。土井稔の家族たちが写っていた。 「まちがいない。かみさんの名前が文子《ふみこ》、スクリーンの右端のが長女で裕美子《ゆみこ》、まん中が下の娘で友子《ともこ》だ。家族はこれだけらしい」  辻はスナップ写真の裏に書き込まれた文字を見て言った。堂本たち全員が、辻の告げた名前を手帳に書きとめ、スクリーンの三人の女の顔を凝視《ぎようし》した。  フィルムはふたたび回りはじめた。 「ほいきた、ストップだ」  辻がまた声を出した。静止した画面に、豊かな髪を光らせている、のっぺりした顔の長身の男が映《うつ》っていた。そのすぐうしろに、縁《ふち》なしの眼鏡をかけたふとり気味の女が立っていた。 「これがみんなご存じの倉持賢一先生だ。うしろは先生の奥方だよ」  その後、辻は二度フィルムを停めさせた。そこに映し出された人物の名が、辻の口からみんなに告げられた。堂本たちはそれを手帳にメモした。  一人は吉富《よしとみ》建設社長という肩書きの、吉富|逸夫《いつお》だった。吉富逸夫は、倉持賢一の地元の後援会長で、選挙地盤を預る国家老《くにがろう》、といった存在だった。  もう一人は、稲垣満《いながきみつる》という、四十歳前後の男だった。稲垣満は、倉持賢一の地元秘書の一人で、他に何人かいる地元秘書のまとめ役とされていた。  映写が終った。原が部屋の明りをつけた。沙織がフィルムを巻きもどし、スクリーンをはずした。  男たちは、四つの事務机を囲むようにして坐った。辻がぬるくなった茶をすすった。矢田がたばこに火をつけた。 「臭いのは倉持の国家老の吉富逸夫と、地元秘書のまとめ役の稲垣満だ、的《まと》はこの二人に絞《しぼ》っていい」  辻が言った。 「土井稔が他殺であることはまちがいないんだな?」  堂本が辻に訊《き》いた。手はパイプの火皿の灰を掻《か》き出している。 「九十パーセント他殺と見るべきだな。残りの十パーセントを所轄が詰めなかったのは、上から手が回ってきたからだ」  辻のことばつきは淡々としていた。 「上というのは、黒島隆三郎だな?」 「きまってるよ。倉持賢一自身には、まだそこまでの力はない」  堂本に辻が答えた。 「所轄署はどれくらいの材料を集めたんですか?」  矢田が辻に訊いた。 「いろいろあるが、重要なことは二つだ。一つは土井が死んだ夜のことだが、彼は夜の九時ごろ、外からかかってきた電話で呼び出されて家を出ている。それっきり、生きては帰らなかったわけだ」 「電話で呼び出した相手はわかってるんですか?」 「電話を土井に取りついだのは、彼のかみさんなんだそうだが、かみさんはどうも知ってて口をつぐんでいるようすが見えるというんだな」 「呼び出された土井の行先もわかってないんですね?」 「土井はそれを言わずに家を出た、ということになっているんだ」 「土井の遺族のマークが必要だな。原君、盗聴《とうちよう》のほう、頼んだぞ」  堂本はてきぱきした口調になっていた。原はうなずきを返した。 「もう一つの材料は微妙なんだ。土井が死んだ夜、多摩湖一帯は通り雨に見舞われているんだ。現地の人たちの話を総合すると、雨の降ったのは、夜の十二時半から二時間ぐらいの間だった、ということになっている。土井の死亡時刻は、解剖所見《かいぼうしよけん》で、午前零時から午前二時の間と推定されている。この時刻は、現場に雨が降っていた時刻とは、三十分のずれはあるものの、ほぼ重なっていることになる。ところが、車の中に死体が見つかったとき、土井の車の下は、駐車場の他の場所と変らないように、雨に濡れた跡が見られた、というんだよ」 「なるほど。土井が自殺したのなら、死亡推定時刻に当る午前零時以前に、多摩湖の駐車場に車を停めていなけりゃならないわけですね。雨が降り出したのは午前零時三十分ごろだというのだから、土井が車を停めたときは雨はまだ降っていない。となると、土井の車の下だけは、雨を受けなかったはずだから、乾いていなけりゃおかしいわけですね」  矢田が言った。口もとに、かすかに挑《いど》むような感じの笑いが浮かんでいた。 「まあ、そうなんだが、雨は二時間ぐらいで止んでいるわけだよ。つぎの朝は上天気だったし、土井の死体発見は午前八時前なんだ」 「駐車場のコンクリートの上の雨の跡は、あらかた乾いてたってことですか?」  矢田がたずねた。 「あらかた乾いちゃいたが、完全に乾ききっていたわけでもないらしい。微妙だと言ったのは、そのあたりのことなんだ。土井の車の下だけが、いくらか乾きが遅いんじゃないか、乾きが遅いというよりも、そこも他の場所と同じように、雨を受けて濡れてたんじゃないか、という見方が、捜査員の間にあった、という話だ」 「当然じゃないかな。車の下は朝日が当らないわけだから……」  原が言った。 「土井は他の場所で、一酸化炭素を吸わされて殺され、その後で多摩湖の駐車場に運ばれてきた可能性もあるわけだな」  堂本が言った。 「所轄署はそこまで詰めていて、結局、口惜《くや》し涙を呑んだってわけだな」  矢田が呟くように言った。映写機の始末を終えた沙織が、熱い茶を注《つ》いでまわった。 「ターゲットの吉富逸夫と、稲垣満、それと土井の家族に関する、所轄署の捜査資料はこれだ。コネでコピーを手に入れてきた」  辻はジャンパーのポケットから、二つに折った書類封筒を取出した。堂本がそれを受取った。 「吉富か稲垣のどっちかが、殺し屋を雇ったと見て、ほぼまちがいない。まさか自分の手で土井を殺《や》ったとは思えないからな。あとは掃除屋《そうじや》の堂本グループにおまかせするぞ。しっかり汚物を掃除してくれ」  辻は言って、その場にいる全員の顔を見まわした。それぞれが、辻と視線を交《かわ》して無言でうなずいた。どの顔も平静に見えた。     2  自分たちのことを『掃除屋《スウイーパー》』と呼びはじめたのは、矢田直彦だった。  矢田と堂本とは、かつて義理の兄弟の関係にあった。矢田の妻の冴子《さえこ》が、堂本の妹に当る、という縁だった。  冴子は半年前に死んだ。住んでいた団地の屋上から、四歳になったばかりの一粒種の娘を抱いて飛び降りたのだ。二人とも即死だった。娘の頭は砕《くだ》け散って形を失っていた。  矢田は当時、警視庁の刑事で、一貫して暴力団の取締りに当っていた。  冴子と娘の友美《ともみ》が死ぬ三ヵ月ほど前から、矢田はある脅迫《きようはく》事件の捜査に当っていた。  暴力団の幹部が、不正融資を種に、一流都市銀行から、一億六千万円を脅《おど》し取った、という事件だった。矢田はその事件の捜査班のキャップをつとめていた。  その脅迫事件は、別の手形|詐欺《さぎ》容疑で逮捕されていた金融ブローカーが、取調べの最中に、世間話のような形で洩らした話が端緒《たんしよ》となって発覚したのだった。  早速、内偵がはじめられた。銀行側はガードを固めて、被害を隠そうとした。内偵は難航した。そのとき、同じ銀行の中堅の行員が、酔って婦女暴行をはたらく、という出来事が起きた。暴行はパトロール中の警官に見つけられて未遂《みすい》に終った。矢田は婦女暴行未遂犯の銀行員の身許《みもと》を、マスコミに明かさないように手を打つことを条件に、銀行側に取引きを持ちかけた。取引きは成立し、ようやく脅迫の事実の確認がとれた。脅迫の種となった不正融資の輪郭《りんかく》も、徐々に浮かびあがってきた。  不正融資先は、ある大手のクレジット・デパートだった。クレジット・デパートは不正融資で手に入れた金を、そのままあるサラ金会社に回していたのだ。クレジット・デパートは、サラ金会社の資金のトンネル役を受け持っていたのだった。  そのことは、融資を行なった銀行側も承知のことだった。銀行、クレジット・デパート、サラ金の三者が、合意の上で金を還流《かんりゆう》させていたわけである。  不正融資までして、都市銀行がサラ金に資金を貸していたことを、どうして暴力団は知ったのか。その情報のルート解明も難航した。恐喝《きようかつ》容疑で逮捕した、暴力団幹部の口は、異様と思えるほど固かった。  矢田は主に、逮捕した暴力団の幹部の訊問《じんもん》に当った。調べる側と調べられる側との間に、眼に見えない駈引《かけひ》きと、相手に対する読み合いがつづけられた。そうしたことにかけては、矢田は腕も肚《はら》も練れていた。矢田は、相手の口の固さに、どうにも読みきれないものを感じていた。矢田には、事件にはもう一つ裏がある、という気がしてならなかった。  捜査は暴力団幹部の身辺調査と、銀行の不正融資そのものの捜査の、両面作戦で進められた。  やがて、その不正融資に、一人の国会議員が介在している事実が浮かんできた。さらに、不正に融資した金が、こげつきを来《きた》していることも判明した。  不正融資に介在していた国会議員というのは、倉持賢一だった。銀行とクレジット・デパートとの間の、融資の橋渡しをしたのが、倉持賢一だったのだ。倉持は、クレジット・デパートの社長とも、問題のサラ金会社の社長とも、親交があった。特にサラ金会社からは、倉持は多額の政治献金も受けている。また、不正融資を行なった銀行の頭取は、倉持の属する党内派閥、黒島派のボスの、黒島隆三郎と同郷であるだけでなく、黒島系と目されるいくつかの企業のメインバンクでもあった。  そうした人的背景の中で、不正融資によるサラ金会社への資金注入が実現したのだった。不正融資の形で、銀行の金庫から出た金の一部が、クレジット・デパートからサラ金会社を経由して、政治献金の名目で、倉持賢一の懐《ふところ》に還流する、という仕掛けだった。  やがて、サラ金会社は、資金繰りと回収につまずき、それがほころびをひろげて、金の還流が停まった。銀行にこげつきが生じた。  その後に、暴力団幹部の銀行に対する脅迫がはじまっているのだった。  一方、恐喝容疑の暴力団幹部の身辺調査が進み、彼が犯行直前から、一人のブラックジャーナリストとしばしば接触していたことが判明した。永田町|界隈《かいわい》を舞台にして歩き回っている、総会屋崩れのブラックジャーナリストだった。しかもその男と恐喝容疑の暴力団幹部との間には、それまでに面識はなかったのだ。  ブラックジャーナリストの身辺も、徹底的に洗われた。その男と、倉持賢一の秘書の一人とが、交渉のあることがやがて判った。事件の構造はそうやって輪郭を現わしてきた。面識のない暴力団幹部と、ブラックジャーナリストを引合わせたのが、倉持賢一の秘書だという確証は、なかなかつかめなかった。  矢田は倉持の秘書と、連日、せまい取調べ室で対決した。そうした闘いの腕もキャリアも、代議士秘書は所詮《しよせん》、矢田の敵ではなかった。秘書は、自分がブラックジャーナリストに、銀行の不正融資の情報を流したことを認めた。ブラックジャーナリストは、その情報を暴力団幹部に洩らしたことを認めた。  それだけの材料を揃《そろ》えられては、暴力団の幹部もお手上げだった。彼は自分が得た情報のルートを自供した。その上、彼は矢田に責められて、銀行からゆすり取った一億六千万円の半額を、倉持の秘書に渡したことも吐いたのだ。  ふたたび政治家の秘書が責められる番だった。しかし秘書は暴力団幹部から受け取った金の使途を明らかにできなかった。本人が口にした金の使途の裏付けは出てこなかったのだ。  事の経緯《けいい》は明白と思われた。秘書が暴力団幹部から受け取った八千万円の金は、そのまま倉持賢一の懐《ふところ》に入った、と見るしかなかった。恐喝の元凶《げんきよう》は、倉持賢一自身で、恐喝の采配《さいはい》をふるったのも倉持にちがいなかった。  倉持は、サラ金会社が銀行にこげつきを作り、金の還流がストップしたとなると、今度は人を使って、自分が画策《かくさく》した不正融資そのものを種に、銀行をゆすらせたのだ。マッチポンプ的な倉持の悪辣《あくらつ》ぶりは、暴力団そこのけというべきだった。  矢田をキャップとする捜査班は、倉持を逮捕に追い込むべく、裏付調査を急いだ。証拠固めは、しかし困難をきわめた。秘書が壁になっていた。倉持も一切《いつさい》を秘書のせいにして、その壁のうしろに逃げ込もうと、躍起《やつき》になっていた。  銀行の不正融資についても、単に銀行側とクレジット・デパートの社長を引合わせただけにすぎない、と倉持は言い張った。そうした供述が嘘で固められたものであることは、捜査員たちには明々白々であった。  にもかかわらず、上層部は、倉持賢一の逮捕状申請に難色《なんしよく》を示した。公判の維持が難しいことが予測される、というのが表向きの理由だった。捜査の過程で、倉持賢一の名前が、マスコミに出ることもなかった。報道関係への公表は慎重に、という指示が、上部から出ていたのだ。それがトップ層からの圧力によるものであることは、矢田たちにははっきりしていた。そうした大小のケースが、これまでにも何回となくあったのだ。  矢田はしかし、あっさりとは引きさがらなかった。上層部の意向に最後まで抵抗した。親しい新聞記者に、それとなく倉持賢一に向けられている容疑事実を洩らすことさえした。それも無駄だった。骨があると見えたその新聞記者は、矢田が扱っている倉持の事件の捜査に、有力政治家が圧力をかけていることを、別の経路から聞込んできて、矢田に自重《じちよう》を促《うなが》す始末だった。  そして、最終的に矢田に与えられたものが、妻と娘の突然の無残な死だった。  矢田の家に、無言のいやがらせ電話がかかりはじめたのは、恐喝容疑の暴力団幹部を逮捕したしばらく後だった。ベルが鳴って受話器を取ると、相手は何も言わない。切ると間を置いてまたかかってくる。そういうことがつづいた。それもきまって矢田が出勤している留守を狙《ねら》ってかけてくるのだ。  無言の電話は、暴力団の幹部が、銀行の不正融資の情報の入手先を自供した頃から、めだって頻度《ひんど》を増した。  矢田の妻の冴子は、はじめのうちは肚《はら》を立てたり、うるさがったりするだけだった。やがて彼女は、暗く沈んだ顔を見せるようになった。矢田はかねてから、刑事としての仕事については、冴子には一切何も話さないことにしていた。冴子も心得ていて、何も訊《き》こうとしなかった。穿鑿《せんさく》めいたことすら、彼女が口にしたことはなかった。  その冴子が、はじめて矢田に、いまどんな事件を手がけているのか、と正面きって、という感じでたずねた。矢田は答えなかった。それどころか、彼はそのとき冴子をはげしく怒鳴《どな》りつけた。刑事の女房が、いやがらせ電話ぐらいでおたおたしてどうするのだ、と矢田は一喝《いつかつ》したのだ。矢田も難航する証拠固めに疲れて、気持のゆとりを失っていた。  それ以来、冴子はいやがらせ電話のことを、矢田の耳に入れなくなった。いやがらせが止んだわけではないことは、冴子のようすで矢田にもわかっていた。矢田も日ましに生気を失ったように、暗さを増していく冴子を気遣《きづか》ってはいたのだ。  事件の捜査が進み、倉持賢一が恐喝事件の陰の人物として浮かび上がり、隠密裡《おんみつり》に倉持に対する事情聴取が始まって間もなく、冴子は娘の友美を抱いて、団地の屋上から飛び降りたのだった。  矢田に宛《あ》てた遺書が残されていた。その中に、匿名《とくめい》の相手から二度にわたって、剃刀《かみそり》の刃が郵送されてきたことや、せまい一方通行の道で、うしろから走ってきた小型トラックが、友美の手を引いた冴子のほうに、突っ込むようにして寄ってきたことなどが、書きつけられていた。冴子の不安と怯《おび》えを無視しつづけた矢田に対する怨《うら》み言も、遺書には綴《つづ》られていた。  冴子を怯えさせていた出来事のすべてが、倉持賢一の差金《さしがね》であることは、矢田には歴然《れきぜん》としていた。しかし、そうと決めつけるだけの客観的な証拠はなかった。直接いやがらせや脅《おど》しをはたらく相手は、常に影のような存在でしかないのだ。  冴子の自殺で、矢田は闘志をかき立てられた。倉持賢一を逮捕しない限り、冴子と友美の霊も浮かばれないし、妻と娘に申し開きもできない、という気持だった。  だが、倉持賢一は、不当な力によって守られ、矢田の手の届かないところに逃げ込んでしまった。倉持を守ったのが、黒島隆三郎であることは、疑いようがなかった。そして、一介《いつかい》の刑事の立場にいて、倉持と黒島を敵に回して闘う術《すべ》と力は、矢田には与えられていなかった。  倉持賢一に対する逮捕状の不申請が決定されると、矢田は即座に辞職願いを提出した。形ばかりの上司からの慰留《いりゆう》のことばはあったが、辞職願いはあっさり受理された。  矢田の辞職は、事情を知っている多くの刑事たちの間に、痛憤《つうふん》の共感を呼んだ。矢田の部下として、やはり倉持賢一の仕組んだ恐喝事件の捜査に当っていた、宇佐見明と原徹の二人が、矢田につづいて刑事の職を捨てた。宇佐見と原は、刑事になりたてのときから、矢田の下で働いてきた。矢田も能力のある若い二人に、ずっと眼をかけてきたのだ。矢田は宇佐見と原の辞意を知って、あわてて二人の決心をひるがえさせようと努《つと》めた。二人は、長いものには巻かれろ、といったふうの、警察内部の体質と風潮に抗議するには、辞職しかない、と言うだけで、意志を変えようとはしなかった。  刑事の職を捨てた三人は、矢田の義兄に当る堂本英介の事務所で、調査員として働くことになった。堂本のほうから話を持ち出して、三人を招いたのだった。  堂本は、はじめから、矢田が刑事を辞めて何をしようとしているのかを、見抜いていた。矢田の妻の冴子は、堂本にとっては妹に当る。堂本も冴子の遺書を読み、矢田の話を聞きして、妹の自殺の理由を知った。矢田の胸にあるはげしい怒りは、そっくりそのまま堂本の怒りでもあった。  矢田は堂本のもとで働きながら、倉持賢一を殺害する計画を練りはじめていた。決行は半年後と決めていた。間をおかなければ、倉持賢一殺しは、報復のための矢田の犯行とわかってしまうおそれがあった。六ヵ月あれば、計画にも準備にも、万全を期すことができるものと思えた。決意は誰にも洩らさなかった。妻と娘を死に追いやられた怨《うら》みをはらすのだ。他人の手を借りるわけにはいかない。  矢田は仕事の合間《あいま》を見て、倉持賢一の身辺調査、日常の行動の調査を重ねていった。  そうした矢田の隠密裡《おんみつり》の行動は、すべて堂本につかまれていた。堂本は、宇佐見と原と沙織の三人に、事情《わけ》は明かさないまま、矢田の行動をひそかにマークさせていたのだ。宇佐見たちは、なぜ矢田の行動を堂本がマークさせるのか、その意図をつかみかねていた。かつての上司の行動を調べさせる堂本に、宇佐見と原は不信と訝《いぶか》りの気持を抱いた。沙織だけは、何の疑念も示さずに、堂本の指示に忠実に従った。  矢田がひそかに、倉持賢一の身辺や日常行動を探っていることが、間もなく宇佐見たちにもわかった。彼らはたちどころに、矢田が倉持賢一の命を狙っていることにも気づいた。それで、堂本が矢田の行動をマークさせた理由も、彼らは納得《なつとく》した。だが、堂本が矢田の企《たくら》みを阻《はば》もうとしているのか、逆に援《たす》けようと考えているのかが、宇佐見たちにはわからなかった。  宇佐見と原は、倉持賢一を殺そうと考える矢田の気持が、痛いほどわかった。宇佐見にも原にも、倉持賢一というのっぺりした顔の悪徳代議士は、赦《ゆる》せない存在だった。二人は矢田に手を貸して、三人一緒に倉持を抹殺《まつさつ》しよう、と誓い合った。彼らにとっては、それが、不当な陰の力によって捜査に幕を引かれ、倉持を逮《と》りそこねたことに対する報復だ、と思えた。もし、矢田の企みを堂本が阻もうとするのなら、企みを知った堂本をも抹殺してもいい、と二人は話合った。  そういうある日の夜、堂本は矢田、宇佐見、原、沙織の四人を、事務所に呼び集めた。  堂本の胸には、そのときすでに〈私設断頭台《しせつだんとうだい》〉を設ける決意が固まっていたのだ。自分だけでなく、矢田はむろんのこと、宇佐見と原と沙織の中にも〈私設断頭台〉を求める気持が固まっていることを、堂本は看破《かんぱ》していた。宇佐見たち三人に、矢田の行動をマークさせたのは、一つには宇佐見たちの気持の反応をつかむためでもあったのだ。  事務所に集まった一同の前で、堂本は、矢田が倉持賢一殺害を計画していることを知っている、と話を切り出した。とたんに矢田と宇佐見と原が、挑《いど》むような眼を堂本に向けてきた。沙織だけが表情を動かさずにいた。 「心配するな。おれもおまえたちと同じ肚でいるんだ。考えてみろ。冴子は矢田の妻であり、同時におれの妹だ。冴子は倉持賢一に殺されたも同じだよ。おれが倉持を殺したいと考えるのは当り前だろう」 「しかし、義兄《にい》さんは法律家ですよ。法律家として、実際に自分で人を殺したり、また人を殺そうとしている人間と知りながら黙認することができますか?」  矢田が言った。詰め寄るような言い方だった。 「たしかにおれは法律で飯を喰っている法律家だ。法律家だからこそ、おれはときには人一倍、人を殺したくなるんだ」  堂本の表情が、珍しく厳しいものになっていた。 「おれはかつては検事職にあった人間だ。いまは弁護士として生きている。法律ってやつは、所詮、人間がこしらえた一つの道具だ。しかもこの道具、万能じゃない。弱者を守るべき精神を持った法律が、使われ方によっちゃ、強者を守ったり、力を持った奴が犯した悪行《あくぎよう》を正当化してしまうことだってある。また、法律ではどうにも裁《さば》きようのない悪だってある。おれは検事時代に、そういう例にいっぱいであってきた。法律が万能でないならば、また、法で裁けない悪があるのなら、法を超《こ》えて裁くのも、また一つの法だろうと思うんだ。冴子は倉持が殺したも同然だが、しかし、法では倉持は裁けない。法律を扱う人間が、殺人を容認しちゃいけないが、あえておれは無法という法を行なおうと思ってる。力をかさにきて無法をやる奴がいるのなら、こっちも無法にならなきゃ相手は倒せない。これが乱暴な理屈であることは、おれはよくわかってる。おれは乱暴になろうときめたんだ。おれは〈私設断頭台〉を、このグループで設《もう》けようと思うんだ」  堂本は熱っぽく語った。 「つまり、おれたちは、汚物を抹殺《まつさつ》する掃除屋ってわけだ」 〈私設断頭台〉の設置は、そういう経緯《けいい》で決まった。堂本は、すでに陰の協力者として、特捜検事辻正毅の合意も得ていることを、みんなに告げた。堂本と辻は、堂本の検事時代からの親友だった。辻の胸の底にも、法を超えて、隠れた悪を断ちたい、とする過激な思いがひそんでいることを、堂本は知っていたのだ。 「植田沙織君もぜひメンバーに加えたい」  最後に堂本は言った。 「彼女はただのお嬢さんじゃない。なぜかということは、本人がいずれ話したいときがくれば話すだろう。おれの口からそれを明かすのは控えとくよ。おれは彼女が、このグループに当然入るべき人間だ、ということだけ言っとこう」  植田沙織がみんなに頭を下げた。彼女がメンバーに加わることに、異《い》を唱《とな》える者はいなかった。  堂本たちは、早速、倉持賢一殺害の計画を練りはじめた。計画は何度も練り直された。そうしているうちに、衆議院の解散必至という状況が出来《しゆつたい》したのだ。倉持賢一の動きは、選挙をめざしてあわただしいものに変ってしまった。的に動きまわられては狙いにくい。  そこで、堂本の提案で、選挙終了を待って、新しく計画を立てなおそうということになった。  選挙が終り、倉持は予想どおり、金の力でトップ当選を果した。おまけに、出納責任者土井稔の変死というプレミアムまでつけてである。堂本たちにしてみれば、断頭台に送るべき倉持賢一の罪状が、また増えたと言うべきだった。     3  辻が渡してくれた、吉富逸夫と稲垣満に関する、所轄署の捜査資料が検討された。  吉富逸夫については、八ミリフィルムを映写したときに、辻から直接聞いたこと以上の、注目すべき材料は、捜査資料の中には見当らなかった。  稲垣満の場合は、堂本たちの関心を引く事柄があった。稲垣は、倉持に窮地《きゆうち》から救ってもらったことがあったのだ。  稲垣は、倉持賢一の地元秘書という仕事の他には、職業を持っていない。妻に小さな小料理屋をやらせている。  稲垣は競馬狂で、そのために一時は三百万円ほどの借金をこしらえた。暴力団員の取立屋が、連夜のように家や、妻のやっている小料理屋に現れて、大声をあげていた。そのために店の客足が遠のいた。  困り果てた稲垣は、倉持賢一に泣きついた。倉持は人を介して、取立てを引受けた暴力団の幹部筋に渡りをつけ、稲垣の借金を値引きさせた上で、自分が肩替りして払ってやった。  そうした恩義があれば、恩返しのためにも、稲垣が倉持のピンチを打開するために、危い仕事を引受ける、ということが大いにありそうに思えた。  稲垣にも吉富にも、土井稔が死んだ夜のアリバイがあった。土井稔を消したのは、稲垣か吉富か、どちらかに頼まれた殺し屋の仕事にちがいなかった。  堂本は計画を立て、各人の役割りを決めた。堂本の計画は果敢なものだった。  原は電話局の下請《したうけ》工事人を装《よそお》って、土井の家の電話の引込線に、盗聴装置をしかけた。  沙織は土井稔の遺族たちの行動をマークした。矢田は稲垣満を受持ち、宇佐見は吉富逸夫を担当した。  原が土井の家の電話線に、盗聴装置を仕掛けた夜、堂本は事務所から土井の家に電話をかけた。電話には未亡人が出た。 「余計なお節介《せつかい》かもしれませんが、奥さんはご主人が自殺に見せかけて殺されたんだということを、ご存じでしょうか?」  堂本は低い声でささやくように言った。受話器に未亡人の、おどろきの声がひびいた。 「あなた、いったい誰なんです?」  未亡人はすぐに詰問《きつもん》調になった。声がうわずっていた。 「名前は言えません。怖《こわ》いからね。わたしは偶然に、ご主人の死の真相を知っちゃったんですよ」 「でたらめ言わないでください。主人が自殺したことは警察だって認めてるんですよ」 「やっぱり余計なお節介でしたね。奥さんがそう信じていらっしゃるなら、それでいいんです。ただ、あたしはあるものを見ちゃったのでね、ご遺族にだけはほんとうのことをお知らせしようと思っただけです」 「あるものって、おたくは何を見たんですか?」 「あとでまた電話しますよ。そのとき、奥さんがあたしの話を信じてくださる気持になっていたら、お話しましょう」  堂本はそう言って電話を切った。  三十分後に、土井の妻は稲垣満の家に電話をかけた。その通話の内容は、盗聴装置でキャッチされ、録音された。  土井の妻は、おろおろした声で、堂本のかけた匿名《とくめい》電話の内容を、稲垣に伝えていた。稲垣の声は気色《けしき》ばんでいた。 (そんなもの、いたずら電話に決まってるでしょう。奥さん) (でも、あとでまたかけると言ったんですよ。あたし、その男が、主人の死の真相を示す何かを見た、と言ったのが気になって……) (そいつが何を見たか知りませんが、土井さんの死は真相もなにも、自殺にきまってるじゃないですか。警察の専門家が調べてそう断定したんですよ。いたずら電話ですよ。どんな感じの声でしたか?) (どんなって、低い小さな声でした) (今度かけてきたら録音しといてください) (そうしますけど……。稲垣さんは主人が死んだ夜に、主人に呼出しの電話をかけたのが自分だってこと、誰にも言わないでくれ、とおっしゃいましたね。なぜなんですか?) (考えてみてくださいよ、奥さん。土井さんはああいう状況の中で自殺なさったんですよ。倉持先生のお宅に来るように、と言って土井さんが呼び出されたことがわかれば、先生はますます痛くもない腹を探られるじゃありませんか) (稲垣さんがあの晩、主人とは倉持先生のお宅を出たところで別れた、とあたしにおっしゃったのは、あれはほんとうのことなんでしょうね?) (どういう意味ですか、それは。ぼくも土井さんも一緒に先生のお宅を出たんですよ。ぼくも土井さんも自分の車で行ってたし、帰る方向は別々でしょう。時間も遅かったから、そのまま別れた。この前もそう言ったじゃないですか) (でも、そのことも口外しないようにって、稲垣さんおっしゃったわ) (わからない人だなあ、奥さんも。すべて、倉持先生にあらぬ迷惑がかからないように、と思ってのことじゃないですか) (ごめんなさい。あたし、さっきの電話でショックを受けて、一瞬、主人はほんとは殺されたんじゃないか、なんて思ったものですから……) (いけませんよ、それは。奥さん、しっかりなさい。土井さんが殺されたなんて考えるのは、倉持先生に対してたいへんな失礼になりますよ。はっきり言います。土井さんは警察の連日の呼出しと取調べで、神経が参っていたんですよ。それでああいうことになったんです。先生は土井さんを死なせたのは自分だとおっしゃって、そりゃ苦しんでおられますよ。それなりの経済的な償《つぐな》いもなさったでしょうが。先生のお気持の現れですよ) (そうですね。あたし、動転してほんとに失礼なこと言ってしまいました。どうかこの事は先生のお耳にお入れにならないでくださいね) (わかってます。こんどまた妙な電話がかかってきたら、録音してあるからテープを警察に渡すって、脅《おどか》してやんなさいよ)  二人の電話のやりとりは、そういうものだった。堂本の試みたゆさぶり策は、見事に効を奏した。堂本以下全員が、その録音テープを聴いた。土井を消すために殺し屋を雇ったのは、稲垣満にちがいない、という点で全員の意見が一致した。  グループは、稲垣に雇われた殺し屋をあぶりだすことに、全力を振向けた。矢田以下全員が交替で、稲垣の行動を昼夜にわたってマークした。原の手で、稲垣の家の電話にも、盗聴装置が仕掛けられた。  そうした態勢をととのえた上で、堂本はふたたび、土井の妻に匿名の電話をした。土井の妻は、録音したテープを警察に送るとは言わなかった。堂本の話を聞こうとはせずに、すぐに電話を切ってしまったのだ。しかし彼女は、二度目の電話があったことだけは、すぐに稲垣に電話で伝えた。稲垣は何の対応も起そうとしなかった。匿名電話を気にかけている気配は見られなかった。  一週間が過ぎた。その一週間の間に、稲垣は同じ市内にあるマンションの一室に、二度足をはこんだ。矢田の手で、そのマンションの部屋の住人の素性《すじよう》が洗われた。その市の繁華街にある洋品店の店員で、十九歳になる柏木由貴《かしわぎゆき》という女だった。服装の好みも化粧も派手な、どことなく淫蕩《いんとう》な感じの顔立ちをしていた。そのせいか、実際の年齢より老《ふ》けて見えた。柏木由貴は、稲垣の愛人ではないか、と思われた。十九歳の洋品店の店員が一人で住むには、そのマンションはいささか上等で、不釣合いに見えた。  矢田の頭にひらめくものがあった。稲垣は柏木由貴の部屋で、殺し屋とひそかに連絡をとり合っているのではないか——矢田はそう考えたのだ。  堂本は、ためらわなかった。原に柏木由貴の部屋の電話に、盗聴装置をつけるように指示した。しかし、マンションの場合は、各室の専用の引込線を見つけるのは大仕事だった。原は次善の策として、柏木由貴の部屋に盗聴マイクを仕掛けることにした。  それは原にはたやすいことだった。彼は一本の針金かドライバーで、たいていの鍵はあけてしまう技を持っている。彼は柏木由貴が仕事に出ている留守に、彼女の部屋に忍び込み、高感度の集音性マイクを、リビングルームの飾り棚の裏に取付けた。  二日後の夜に、稲垣はいつものように柏木由貴の部屋にやってきた。盗聴マイクが拾った二人のやりとりは、パトロンと愛人のものではなかった。柏木由貴は、稲垣の来訪を、いくらか、迷惑がっているようすだった。稲垣はしかし、図々しい口調で柏木由貴に酒を出させ、しきりに彼女をくどいていた。 (あんたねえ。由貴ちゃん、まだ気がつかないの? あんたオガタに棄《す》てられたんだよ。あいつが姿を消して、やがて一ヵ月だよ。オガタからは何の連絡もなしだろう? さびしいって、顔に書いてあるよ、由貴ちゃん。オガタのことはもう忘れなさい。わるいことは言わないよ。ぼくの気持、わかってるんだろう? 大事にするよ、由貴ちゃんを。ぼくはオガタとは人間の出来がちがう。オガタみたいにちゃらんぽらんじゃないからね)  そういうことを、稲垣はしつこく言いつづけた。柏木由貴の応対のようすは、しだいに弱々しく曖昧《あいまい》なものに変っていった。やがて盗聴マイクは、稲垣が望みを達して、柏木由貴をくどきおとし、ものにしたようすを、生《なま》なましく伝えてきた。  オガタという人物は、どうやら柏木由貴の恋人らしい。そのオガタが、柏木由貴の前から姿を消したのは、一ヵ月近く前だという。その点が、堂本たちの関心を惹《ひ》いた。土井稔が死んだのは、その日からかぞえてちょうど二十六日前であった。オガタが姿を消した時期と、それはほぼ重なっていそうだった。  矢田は柏木由貴を手がかりにして、オガタなる男の素性を洗いはじめた。宇佐見と原と沙織は、交替で稲垣を尾行し、彼の家の電話を盗聴し、柏木由貴の室内での人のやりとりを盗聴しつづけた。矢田たち三人の男のやっていることは、刑事時代と変らなかった。彼らはそうした仕事に習熟していた。だが、三人のようすには、刑事時代とはくらべようもないほどの、緊張と精気が感じられた。  矢田は聞込みをはじめて二日目には、オガタなる人物の素性のあらかたをつかんだ。  緒方勇《おがたいさむ》。三十二歳。定職なし。競馬狂。組員ではないが、暴力団員との交渉は多い。女たらしという風評しきり。  緒方勇と柏木由貴は、一年近く前から、現在、由貴が住んでいるマンションの部屋で同棲をはじめた。由貴は当時、同じ市の盛り場にあるキャバレーで、ホステスをしていた。緒方とはその店で知合い、すぐに同棲生活に入っている。緒方は競馬と麻雀にあけくれる毎日で、由貴のヒモ同然の生活だった。  緒方には賭事《かけごと》の借金が、五百万とか六百万円あった。その借金は、緒方が姿を消す寸前に、あらかた返済されている。  由貴がホステスをやめて、洋品店の店員になったのは、緒方が突然姿を消した十日ほど前に当っている。  緒方は稲垣から持ちかけられた土井稔殺しの仕事を引受け、決行の後はしばらくよその土地に遠ざかり、ほとぼりのさめるのを待つ計画を立てたのではないか——とも受取れる経過だった。由貴を、誘惑の多いホステスの仕事から、店員に転職させたのも、多額の借金を返済したことも、突然黙って姿を消す男なら、する必要のないことに思える。だいいち、緒方は、借金の返済にあてた金を、どこから手に入れたのか。そのころ、緒方が競馬で大穴をあてた、といった話も、どこからもでてこないのだ。  堂本以下全員が、緒方勇こそ、稲垣に雇われた殺し屋ではないか、と強く疑った。  堂本はふたたび、匿名電話によるゆさぶり作戦を実行した。ゆさぶりの相手は、今度は稲垣満だった。  堂本は、稲垣をマークしている宇佐見と沙織に、稲垣が自宅にいることを確認させた上で、ダイヤルを回した。夜の時間で、稲垣の家には、稲垣と中学生の息子の二人だけがいた。稲垣の妻は、夕方の早い時間に小料理屋に出勤していた。  電話には、稲垣自身が直接出た。 「稲垣さん、あたしを甘く見ると、泣きをみますよ」  堂本は低い声でだしぬけに言った。数呼吸の沈黙のすえに、稲垣はいくらかうろたえた声を送ってきた。 「誰ですか? あんた……」 「死んだ土井稔さんの奥さんから、あなた何も聞いちゃいないんですか? わたしは、土井稔さんが自殺で亡くなったんじゃないことを知ってる男ですよ」 「あんたなんだな、土井さんの奥さんにいたずら電話をかけてきたってのは……」 「いたずらだと思いますか? あなた」 「土井さんが殺されたなんてでたらめを吹聴《ふいちよう》するのは、いたずらにきまってるだろうが」  稲垣のことばは、荒っぽいものに変っていた。その分、声は最初にくらべて低くなっていた。中学生の息子の耳を気にしたのかもしれない。 「言っとくけど、うちの電話には録音機がセットされてるんだ。いたずら電話の証拠をつかむためにな」 「それは都合がいい。どうぞテープを回してください。これからあたしが重要な話をするから、ぜひ録音してください。そのほうがあたしも助かる」 「助かるだと? 何を話したいんだ?」 「偶然というのは怖《おそろ》しいものですよ、稲垣さん。わたしはね、土井さんが死んだ夜、例の多摩湖の駐車場で、ある光景と、ある人物の姿を偶然に目撃したんですよ。わたしが見たある人物というのは、ちょっとわたしと面識のある男でしてねえ」  堂本はそこでことばを切った。稲垣の反応を探るためだった。稲垣は押し黙っていた。かすかな息の気配しか、受話器に伝わってこない。堂本はなおしばらく沈黙をつづけた末に言った。 「どうしました? 稲垣さん。思わぬミスの発覚で、動転しておられるようですね」  堂本はそう言って電話を切った。  三十分後に、沙織から堂本法律事務所に電話が入った。沙織は稲垣の家の電話の盗聴に当っていたのだ。 「稲垣が雇った殺し屋は、やっぱり緒方勇です。たったいま、稲垣が緒方に電話をしたんです」  電話の沙織の声ははずんでいた。電話を受けた堂本の表情が小さくくずれていた。彼はそばにいた矢田に、指でオーケーのサインを送った。 「稲垣は電話で緒方に、おまえ、あの晩、多摩湖の駐車場で、知った人間に顔を見られてるぞ、と責めたてるように言ってました」 「緒方の居場所はわからないのか?」 「それは二人のやりとりの中には出てきませんでした。緒方は稲垣に言われて、潜伏《せんぷく》先を変えるようです。海外に飛ぶつもりなら、金は倉持先生に用意させる、と稲垣は言ってました」 「で、緒方はどこに逃げると言ってる?」 「行先はこれから選ぶようです。緒方は柏木由貴を呼び寄せたがってましたから、きっと由貴に連絡をつけてくると思います」 「由貴のマンションはいま、原君が張ってるんだな?」 「そうです。稲垣は緒方と電話で話した後で、すぐに車で出かけました。宇佐見さんが尾行してます」  堂本は電話を切った。  十五分後に、今度は原から連絡が入った。 「緒方が柏木由貴に電話をかけてきました」  原の声もはずんでいた。 「高飛びの相談だろう?」  堂本は言い、緒方勇が土井稔を消した殺し屋であることがはっきりしたいきさつを、原に説明した。 「緒方は、由貴に、急いでマンションを解約して、家財道具を売り払って、福岡に来い、と言ったようすです」 「緒方は福岡のどこにいるんだ?」 「それはわからないんです。盗聴マイクに入るのは、残念ながら由貴の声だけなんです。でも、由貴は福岡での落ち合う場所を緒方に訊いてましたから、彼女は知っているはずです」 「由貴は、緒方が殺しをやって姿を隠してるのだと知っているのかね?」 「知らないようすです。緒方は由貴には何も言わずに姿を消したらしいんです。電話してきたのも、今夜がはじめてとみえて、由貴はだいぶん緒方をなじってましたよ」 「よしわかった」  堂本は電話を切った。 「宇佐見君に由貴を攻めさせよう。早く電話してこないかなあ、あの二枚目……」  堂本はうっすらと笑った眼を見せ、原からの電話の内容を、矢田に告げた。 「宇佐見は稲垣を車で尾行中でしょう。稲垣の行先はたぶん、倉持の家ですよ。ご注進に及んで、善後策を練ってるんでしょう」  矢田が言った。  宇佐見から電話がきたのは、午後十時近くだった。稲垣の行先はやはり、目黒の倉持賢一の家だった。宇佐見は、稲垣が倉持の家の門をくぐるのを見届けてから、堂本に報告の電話を入れてきたのだった。  堂本は、新しい局面の展開を宇佐見に告げて、柏木由貴の部屋に直行するように指示した。むろん、由貴の口から緒方勇の居場所を聞き出すためだった。 「原君と沙織は、もう引揚げさせていいだろう」 「ぼくは倉持の家に行って、出てくる稲垣をマークします。奴に消えられちゃたいへんですから。朝になったら原をよこしてください。交替します」  矢田は堂本に言って、部屋を出た。     4  宇佐見が、柏木由貴の部屋のドアをノックしたのは、午後十一時半だった。  ドアに足音が近づいてきて、由貴の声が返ってきた。誰かと訊いた。ドアは閉めたままだった。宇佐見は、緒方勇さんの使いの者だ、とていねいに答えた。すぐにドアが開けられた。だが、由貴はドアチェーンははずさなかった。顔だけのぞかせて話を聞くつもりと見えた。 「ちょっと中に入れてください。こみ入った話なんです」  宇佐見は柔らかい眼差《まなざ》しで言った。由貴は困惑した顔になったが、ドアチェーンをはずした。宇佐見は中に入り、ドアを閉めると、さっさと靴を脱いだ。由貴はネグリジェの上からカーディガンをはおった姿で、踏込みに立っていた。困惑の色が増していた。 「奥で話しましょう。おやすみになってたんですか? すみませんね」  宇佐見は言って、勝手に奥に進んだ。短い廊下の突き当りの部屋に、赤い布張りのソファセットが置いてあった。宇佐見はそこに腰をおろした。 「なんですか? 緒方さんの用って?」  由貴は困惑を通りすぎて、不安そうな面持《おももち》のまま、突っ立っていた。カーディガンの前を両手で引き寄せ、合わせている。そうしないとネグリジェの下の乳房がすけて見えてしまうのだ。パンティと二本の脚もうっすらとすけて見えていた。そっちのほうは気にならないらしい。 「あなたも坐ってください。きれいな脚が付根まですけて見えてると、気が散っちゃいますよ。あ、ちょっとウィスキーが欲しいな」 「あなた、緒方さんとどういう関係の人?」  由貴の声がとがってきた。 「三百万円の関係。ぼくが緒方さんに三百万円融資してさしあげたんです。彼、返してくれないの。困っちゃってるんですよ」 「緒方さんの使いって、嘘だったのね」 「そう言わないと中に入れてもらえないと思ったからですよ。ごめんね、嘘ついて」 「緒方さん、ここにはいないわよ」 「そりゃわかってるんです。緒方さんの居所教えてもらおうと思ってきたんですよ」 「あたしだって探してるのよ、彼を。急にいなくなっちゃったんだもの」 「お酒ぐらい飲ませてよ。緒方さんの居場所を教えてもらうまでは、動かないよ」 「知らないって言ってるじゃないの」  宇佐見は笑った顔で、小さく首を横に振った。それから彼は立って、勝手にサイドボードからスコッチのびんとグラスを二つ取出した。台所に行って、氷と水の用意をしてソファにもどった。由貴は突っ立ったまま、呆《あき》れたようすで宇佐見のすることを見ていた。  宇佐見はてきぱきと、二つのグラスに酒を注ぎ、水割りをこしらえた。 「あなたも飲むでしょう? 緒方さんに逃げられた者同士だ。飲みましょうよ」 「あきれた人ね。あんたみたいな人、あたしはじめてだわ」 「きれいな脚だな。よくすけて見えてる。よほど自慢なんでしょう? そうやって立って見せてるとこみると……」 「負けそう、あんたには……」  由貴は苦笑いをして、宇佐見の正面のソファに腰をおろし、水割りのグラスを手に取った。カーディガンの前が開いた。乳房がうっすらとすけて見えた。 「おっぱいも脚に劣らずすばらしいですね」  宇佐見は遠慮のない視線を由貴の胸もとにあてた。由貴はもうそこを隠そうとはしなかった。水割りをすすると、宇佐見のことばが耳に入らなかったかのように、ゆったりとソファに体をあずけ、両腕をソファの背もたれの上に大きく伸ばした。ひどく無防備な姿だった。 「あたし嘘は言わないわよ。緒方さんがいまどこにいるか、ほんとに知らないのよ、だから、あんたいくら粘《ねば》っても無駄よ」  突き放す言い方だった。言いながら由貴は片膝を大きくあげて、高々と脚を組んだ。 「冷たいこと言わないでくださいよ。それにその恰好《かつこう》、悩ましいなあ。誘惑されそうだ」  宇佐見は情なさそうな声を出してみせた。由貴はそっぽを向いた。宇佐見はソファから立ち上がり、由貴のうしろに回った。由貴は動こうとしなかった。宇佐見は、ソファの背もたれの上に伸びている、由貴の両の腕を、手首から肩に向けてそっと撫《な》でた。 「なにするのよ」  由貴は、腕にかかった宇佐見の手を払おうとはしなかった。首だけねじって振り向き、宇佐見を見上げた。宇佐見は由貴の眼をのぞきこんだまま、ゆっくりと顔を寄せていった。由貴は顔をそむけなかった。眼を閉じた。宇佐見は由貴に唇を重ねた。由貴の舌がうねるようにして宇佐見の舌に絡《から》みついてきた。  宇佐見も舌で応じながら、両手を由貴の肩ごしに胸にすべらせた。  宇佐見の両手は、ネグリジェの下にすべり入って、由貴の乳房を捉えた。嵩《かさ》と張りにめぐまれた乳房だった。宇佐見はそれを静かに押しさするようにした。小さな乳首が固くとがってくるのが、掌《てのひら》に感じられた。  由貴は小さく息をはずませて、片腕を肩の上にあげ、宇佐見の頸《くび》を抱えるようにした。 「ベッドはどこ?」  宇佐見は由貴の耳にささやいた。彼は原の仕掛けた盗聴機を気にしたのだ。由貴はけだるそうに立ち上がった。宇佐見は由貴の腰を抱くようにした。その手が由貴の脇腹を、ネグリジェの上からそっと撫でた。由貴は宇佐見の肩に頭をあずけたまま、隣の部屋に行った。  ベッドは寝乱れたままだった。由貴はベッドの横に立ち、着ているものを脱ぎすてた。そのままベッドに上がり、投げ出すようにして仰向《あおむ》けに体を伸ばした。宇佐見は由貴の若々しい体を眺めおろしたまま、服を脱いだ。  由貴の乳房は、仰向けになってもさほど形をくずしていない。彼女のしげみは淡く、パンティに押さえられていたために、毛先を腹のほうに向けて、薙《な》ぎ倒されたように肌にはりついている。そのために、ぴっちりと合わさったクレバスが、短くあらわになっていた。ふくらみは厚い。  宇佐見はベッドに上がる前に、薙ぎ伏せられている由貴のしげみを、指先で掻《か》き起した。由貴は不意討ちを喰ったように、一瞬、身をよじった。しげみはゆっくりと身をもたげ、小さくこんもりと盛り上がった。 「これは緒方さんとあんたが仲好くしてたベッドだろう? この上であんたを抱くと胸がすっとするよ。彼に貸した金の利息の、ほんのわずかぐらいは取りもどした気分になるんだろうな、きっと」 「利息のほんのわずか分ぐらいしか値打ちがないの? あたしの体って……」 「それはこれからぼくが決めることさ」 「あんたってワルなのか、やさしい人なのかわからないわね。でも女の人にもてるでしょう?」  由貴ははねるようにして体の向きを変え、宇佐見に胸を押しつけてきた。宇佐見は膝を折り、由貴の太腿を割った。宇佐見の太腿が、由貴の股間のふくらみに押しつけられた。由貴は鼻にかかった短い声をあげ、自分から宇佐見の唇を求めてきた。宇佐見の厚い胸板の下で、張りの強い乳房がはずんだ。  宇佐見は、由貴の頸《くび》すじから喉《のど》のあたりまでを、唇でついばむようにしてまわった。手で乳房をさすり、とがりきった乳首を指先で揉《も》んだ。乳首を舌で強く躍らせ、吸った。由貴は息をふるわせ、細い声をもらした。由貴の手が、胸の上に伏せられた宇佐見の髪をまさぐりはじめた。  宇佐見の片手は、由貴の脇腹を静かにさすり、ときおりその手は、不意に乳房に移ってそれをたわませ、あるいは膝のあたりに飛んで、そこから太腿、腰を這《は》い進んでいく。由貴の太腿は小気味よく張りつめていた。宇佐見の手の下で、由貴の肌はさざ波のような細かいふるえを見せた。  宇佐見の手は、ときおり思わせぶりな動き方をした。それは由貴の太腿から内股にすべり入り、指先がわずかにクレバスに触れたと思うと、そこを超えて、しばらくしげみを掻き撫でる、といったふうだった。宇佐見はまた、由貴の腕や脇腹に唇を這わせ、唇はそのまま太腿まですべっていき、すぐにまたしげみのあたりにもどってくる、ということもくり返した。彼の手や唇が、しげみにうすく覆《おお》われた厚いふくらみに近づけられるたびに、由貴は息を詰め、少しずつ体を開いていくのだった。  宇佐見はすっかり愉《たの》しんでいた。彼は由貴のしげみに頬ずりをくれた。しげみと共に、由貴のクレバスも小さく動いて、うっすらと赤味をおびた谷間がのぞいた。宇佐見はそこにそっと息を吹きかけた。由貴は細かく身をわななかせてのけぞり、声をもらした。  宇佐見の指が、ようやく由貴のクレバスにあてられた。指はクレバスの上を数回そっとなぞるようにした。由貴のはざまには、火照《ほて》りとうるみがたたえられていた。宇佐見はうるみに指をつけた。その指が、クレバスを押し分けるようにして上に這《は》いのぼっていった。由貴はあえいで腰を反《そ》らした。  宇佐見の指が、芽《め》のような形をした、赤くふくらんだものを探りあてていた。宇佐見はそこに指を躍らせた。芽のようなものの下にある二枚の花びらに似たものも、わずかにくすんだピンク色のまま、うっすらと濡れ光り、宇佐見の指の動きにつれて、小さくふるえるように揺れた。  宇佐見は指を躍らせながら、由貴の肩ごしにのばした手で乳房を揉み、乳首を吸いした。宇佐見の指の動きは、勢いを増していた。残りの指が、由貴のはざまの中心の、小さなくぼみのまわりを這いまわった。  由貴の口からもれる声が、次第に高くなっていく。宇佐見は由貴の中に指をくぐらせた。強い抵抗が、いっとき宇佐見の指を環状《かんじよう》に圧迫し、由貴の口からすすり泣きに似た声がもれた。そこをくぐり抜け、深く進めると、由貴は不意に高い声を放った。  宇佐見は、由貴の中に指を埋めたまま、顔を彼女の股間に近づけた。宇佐見の舌が、由貴の赤い肉の芽の上で、勢いよく躍りはじめた。由貴は何度も息を詰まらせては、声を放った。  やがて由貴は短い叫び声と共に、自分の両の乳房を強くつかんだ。由貴の体がこわばり、腰が反《そ》り、すぐに腰はシーツに深いくぼみができるほど沈み、背すじだけが強く反っていた。由貴の中にあった宇佐見の指は、彼女の深い奥に生れている律動《りつどう》とも痙攣《けいれん》ともつかぬものを感じとっていた。 「これだけサービスしたんだぜ。緒方さんの居所教えてよ」  宇佐見は、手足を投げ出して、深い呼吸をしている由貴に言った。由貴は答えず、眠そうなとろんとした眼のまま、のっそりと上体を起した。そのまま、這うようにして宇佐見の腰に顔を近づけてきた。宇佐見は由貴に胸を押されて仰向けになった。由貴の唇と舌が、宇佐見の逞《たくま》しい形を見せている性器にまとわりついてきた。宇佐見は下から小さく腰を突き上げながら言った。 「どうしても教えてくれない気かなあ」 「しつこいわね。知らないものは教えられるわけないじゃないの」  由貴は顔を上げて言った。宇佐見は笑った顔のまま、由貴の手をとって引き寄せた。由貴は宇佐見の胸に倒れかかり、そのまま彼の腰にまたがった。由貴はそこで腰を浮かし、宇佐見の性器に手を添えて体をつなぎ、腰を沈めてきた。由貴の口から、声と深い吐息《といき》が一つになってもれた。  宇佐見はすぐに下から由貴の腰を抱え、体をつないだまま反転した。由貴は宇佐見の下に組み敷かれていた。由貴の脚がしっかりと宇佐見の膝のあたりに巻きつけられた。由貴の両手は、宇佐見の腰にあてられていた。そのまま彼女は、下から腰をゆすり上げてきた。宇佐見は動かなかった。 「どうしても緒方の居所を言わない気なら、こっちも考えがあるぜ」  宇佐見は言った。由貴が眼を開いた。 「おれは他のつてで緒方を探し出す。早いか遅いかのちがいで、必ず緒方は探し出す。そしたらおれは緒方にしゃべるぜ。あんたがおれを誘って寝たってな。緒方は怒るだろうな」  宇佐見はことばつきを変えた。眼付《めつき》も凄んだものになっていた。静止していた腰を、いっときはげしく動かして、由貴を突いた。由貴はすぐに眼を閉じ、高い声を放ちはじめた。しかし、宇佐見はすぐにぴたりと動きを停めた。 「緒方が福岡にいるか、これから行くか、どっちかだってことはわかってるんだ。奴は何かやばいことがあって、海外にトンズラするらしいって話もおれの耳に入ってる。いまうちの若い者が福岡に飛んでるところだ。きっと野郎はとっつかまる。どうだ? おれと寝たこと、緒方に内緒にしてほしいだろう?」  宇佐見の両手が、由貴の乳房をわしづかみにしていた。宇佐見はその手に少しずつ力を加えていった。由貴の顔が歪《ゆが》んだ。 「あの人にあたしがしゃべったって言わないでね。緒方さんは博多《はかた》の駅前のグリーンホテルって名前のビジネスホテルに泊ってるわ」 「よし、いい子だ。女は素直でなきゃな。誘って抱かれてやれば、おれが緒方の居所聞くのを諦《あきら》めて帰ると思ったらしいが、そうはいかないんだよ」  宇佐見は言いながら、強く腰をはずませていた。由貴はもうそのことばが耳に入らないかのように、高い叫び声を放ちはじめた。  十分後に、宇佐見は由貴の部屋を出た。彼は公衆電話で、堂本に緒方の居場所の判ったことを告げた。堂本は、宇佐見にその足で原と合流し、博多に向うように指示した。  矢田が緒方の居所が割れたことを知ったのは、つぎの朝だった。彼はその夜は、徹夜で稲垣をマークしていたのだ。稲垣は前の晩、倉持賢一の家を遅く出て、まっすぐ自宅に帰った。矢田は稲垣の家の近くに停めた車の中で夜を過した。  朝になって、沙織が交替に現われた。矢田は沙織の口から、宇佐見と原が、緒方を捕えるために博多に向ったことを知らされた。  沙織と張込みを交替した矢田は、四谷の堂本法律事務所に寄り、堂本と二人で、緒方と稲垣の扱いについて打合わせた。打合わせはすぐに終った。  矢田は高島平《たかしまだいら》の団地の部屋にもどってベッドにもぐりこんだ。夜になって、沙織と張込みを交替するまで、彼には仕事はなかった。睡眠をろくにとらない日がつづいていた。矢田はベッドに入るとすぐに、深い寝息を立てはじめた。夢すら見なかった。  目が覚めたのは、午後五時だった。矢田は風呂をわかして入り、食事の支度をして、ゆっくりと夕食をとった。沙織との交替時間は午後九時と決めてあった。  八時に矢田は部屋を出た。車は団地の駐車場に停めてあった。駐車場のにぶい明りで、車の屋根や窓が小さく光っていた。  矢田はドアを開け、乗り込んだ。ドアを閉め、キーをイグニッションにまわそうとしたとき、後頭部に固いものが触れた。リヤシートのきしむ音がした。 「おとなしく車を出してもらおうか、矢田さん……」  低い男の声が、耳のすぐうしろでひびいた。矢田は息を詰めた。ルームミラーに眼をやった。男の姿は黒いシルエットになって、ミラーに映っていた。顔は見えない。矢田にわかったことは、後頭部にあてられているのが本物の拳銃であることと、相手が一人だということだけだった。 「何のつもりだ?」  矢田は前を向いたまま言った。 「さあね、何のつもりかは、あんたがこそこそやってることを考えれば、見当がつくんじゃねえのか?」 「おれにはこそこそやってることなんかないな、何も」 「いいからさっさと車を出しな。言うとおりに走るんだ」  男は拳銃の銃口で、矢田の頭を小突《こづ》いた。矢田はエンジンをかけ、車を駐車場から出した。男は戸田橋を渡れ、と言った。  車を走らせる間ずっと、男は矢田の後頭部から拳銃を離さなかった。矢田は相手がプロの殺し屋であることを見抜いていた。車のドアは完全にロックしてあったのだ。男は窓を破ったりせずに、ロックをはずし、車の中に潜んでいたのだ。その一事でも、素人《しろうと》でないことは明らかだった。  矢田は歯噛《はが》みをした。恐怖はまだ小さなものでしかなかった。矢田は倉持賢一ののっぺりした顔を頭に浮かべた。その顔が笑った。  倉持は、ゆうべの稲垣の注進で、土井稔殺しが何者かに知られていることを知ったはずだ。倉持がおれに眼をつけたのは、さすがと言うべきだな、と矢田は思った。  堂本のかけた匿名のゆさぶり電話が、土井の未亡人だけに留まっていたら、倉持もそれを、矢田に結びつけることはできなかったかもしれない。ゆさぶり電話は稲垣にもかけられた。そこまで踏込んでこれるのは、ただの人間ではあるまい、と倉持はにらんだのだろう。そして矢田が浮かんだにちがいない。  矢田は倉持賢一を、恐喝容疑で逮捕に追い込むことを阻まれた。おまけに妻と娘を死に追いやられている。そして今は刑事を辞めて、義兄に当る堂本のところで働いている。倉持は矢田がどういう男かを、恐喝事件の捜査と取調べぶりでよく知っているはずだ。矢田が妻と娘を失ったことで、倉持をはげしく憎悪していることも、彼自身、覚悟しているはずである。  それだけの状況がそろえば、稲垣に匿名電話をかけてきたのが矢田だというふうに倉持が考えても不思議ではなさそうだった。拳銃を突きつけている男が言った、『あんたがこそこそやってることを考えれば、見当がつくんじゃねえのか』ということばも、そうしたいきさつを裏書きしている、と思える。  戸田橋を渡り、大小の工場の建ち並ぶ道に入ると、男は車を停めさせた。あたりの工場の明りは消えていた。暗い静かな道だった。人通りはない。車の往来も絶えていた。矢田の胸に恐怖がせり上がってきた。口の中が渇《かわ》き、喉《のど》が息苦しかった。 「シートに伏せて、両手を背中に回せ」  男が言った。やはり不気味な低い声だった。矢田は自分に冷静になれ、と言いきかせた。助かるとすれば、それしか自分を救う途《みち》はなさそうだった。矢田は助手席のほうに体を傾け、上体をひねって伏せた。背中に回した両手首を、男が重ねた。拳銃は上から矢田の頭に当てられていた。手首に柔らかい布が巻きつけられた。ストッキングのような肌ざわりだった。  頭から拳銃が離れた。とたんに手首に巻きつけられた布地が、固く締められた。それが結ばれる気配を、矢田は男の手の動きで察した。男が矢田の髪をつかんで頭を引き起した。やはり柔らかい布地が眼を覆《おお》い、頭のうしろで強く結ばれた。矢田は視野を失った。男の狙いが理解できなかった。そのことが、さらに矢田の恐怖を誘った。 「あばよ。あんたも長い人生じゃなかったな。わるく思うなよ。これがおれの商売だからな」  男が矢田の背中を一つ叩いて言った。車が小さく揺れた。ドアの開く気配がした。路面を踏む男の足音がして、ドアが閉まった。矢田は男の走り去る足音を聴《き》いた。男は全力疾走しているようすだった。矢田は手を縛られたままはね起きた。男はまちがいなく殺し屋だ。最後に吐いたことばが、それをはっきり示している。それなのに、男は矢田に眼隠しをし、手を縛っただけで、急いで走り去った。殺しもしないでだ。なぜだ?  矢田は縛られた手首をゆるめようともがきながら、考えた。わからなかった。あたりは静まり返っている。矢田の耳に入るのは、自分のいきむ息の音と、ダッシュボードの時計のセコンドの音だけだった。手首を縛った紐はいっこうにゆるまない。柔らかい布地だけに、かえって皮膚に喰いこんでくる。 (くそ!)  矢田は低くうめいた。うめいてすぐに、矢田はもがきを止めた。耳をすました。時計のセコンドの音を耳で捉《とら》えた。  不意に矢田は背筋をこわばらせた。セコンドの音は、まちがいなく、二つダブってひびいていた。一つはダッシュボードの時計のものだ。もう一つは、運転席のシートの下あたりからひびいてくる。  時限爆発装置——。  矢田は不可解な男の行動のすべてを、一瞬に理解した。息が詰まった。  矢田は運転席で体をひねった。縛られた手でドアをさぐった。把手《とつて》に触れた。不自由な手でようやく把手を引いた。そのまま矢田は体ごとドアにぶつかり、車の外にころがり出た。立ち上がり、目隠しされたまま、ダッシュした。  道の方向とようすは、およそ頭に入っていた。十メートルと走らぬうちに、すさまじい爆発音がひびいた。矢田は眼隠しされた眼に、炎の明るさを見た。同時に彼は熱い爆風をくらって、横の塀《へい》に叩きつけられていた。  矢田はすぐに立ち上がった。痛さはどこにも感じなかった。矢田はその場を急いで離れることしか考えていなかった。爆発音と炎が人を呼び集めることは必至だった。眼隠しされ、手を縛られている姿は人の不審を招く。それは避けねばならなかった。警察に事情を聴かれるようなことになったら、私設断頭台の計画は水の泡になる。  矢田は眼を塞《ふさ》がれたまま、小走りに走った。人の声も足音も聞こえない。ようやく手を縛っている布地がゆるんできた。矢田は布地を捻《ね》じきるつもりで両手を動かした。皮膚がむけるような痛みの中で、どうにか片手が抜けた。矢田は急いで眼隠しを解いた。そのまま彼は全力で走りはじめた。     5  三日後の夜、沙織は稲垣の住む街の盛り場に停めた車の中に、一人でいた。  稲垣が二時間ほど前に、すぐそばのミニクラブらしい店に一人で入って行ったのだ。そこから出てくる稲垣に近づき、アルバイトの娼婦のふりをして、郊外のモーテルに誘い込むのが、沙織のその夜の仕事だった。モーテルの部屋はすでに予約してある。隣り合わせの部屋を二つ取ったのだ。一つの部屋には、タクシーで乗りつけた矢田が、先に行っているはずだった。沙織の入る部屋の、ベッドの枕もとには、矢田の手で盗聴マイクと小型の録音機が、眼につかないようにセットされているはずだった。  矢田が殺し屋に襲われたことは、堂本たちの計画に何の支障も与えなかった。三日前の夜の、戸田市の工場地帯での車の爆発は、事情がわからないまま、警察が捜査をすすめていた。警察がつかんでいるのは、爆発が時限装置によって起されたこと、使用されたのがニトログリセリンだということ、炎上した車がレンタカーだということ、の三点だけだった。時限装置とニトログリセリンが使われたことは、現場の捜査から判明した。レンタカーであることは、焼けただれたナンバープレートと、車体番号で判った。  矢田はつぎの日の昼前に、堂本法律事務所で、所轄署の刑事の訪問を受けた。レンタカーを借り出してきたのは、矢田だった。矢田は刑事に、借りた車を団地の駐車場に停めていて盗まれたのだ、と言った。盗難届もその日の朝すでに出してあったのだ。刑事は堂本法律事務所の電話で、矢田が車の盗難届を出した警察署の確認を取ると、あっさり引揚げていった。  二日目には、車の爆発は過激派の新型爆弾の実験だったのではないか、といった警察の見方が新聞に出ていた。  その三日間、矢田と沙織は交替で稲垣をマークしつづけた。稲垣には変った動きは見られなかった。殺し屋が矢田を消すことに失敗したことは、倉持賢一たちにははっきり判っているはずだった。戸田市での、謎の車の爆破炎上事件は、新聞に大きく出ていたし、記事はその事件で死者も怪我人も出ていないことを報じていたのだ。  殺し屋の失敗を知りながら、稲垣がいつもと変らぬ動きしか見せないことが、矢田たちには不可解だった。そのことから、堂本と矢田は、倉持が殺し屋をさし向けたことを、稲垣は知らされずにいるのではないか、と見ていた。稲垣は緒方を殺し屋に雇って土井稔を消したが、それが他殺であることを矢田に知られた、と倉持は思っているはずだ。倉持はそれを、腕のわるい殺し屋を雇った稲垣の失態《しつたい》と受取るだろう。一度失態を演じた稲垣に、矢田の殺害をまかせるわけにはいかない、と倉持が考えるのは当然ではないか。  矢田を襲った殺し屋は、手口や態度から見て、腕の立つプロにまちがいなかった。そして、そういうプロを雇う力とコネクションを備えているのは、倉持の後楯《うしろだて》の黒島隆三郎ぐらいのものではないか。  堂本と矢田はそう推測していた。倉持が、土井稔殺しが矢田の手で曝露《ばくろ》されそうだ、と泣きつけば、黒島も黙っているわけにはいかないはずである。  沙織は時計を見た。稲垣がクラブに入ってから、やがて二時間半になろうとしていた。稲垣はまだ現れない。沙織はたばこに火をつけた。緊張していた。そうした種類の緊張と心の昂《たか》ぶりを覚えるのは、四年ぶりのことだった。緊張と心の昂ぶりが、四年前の記憶を沙織に鮮烈に思い起こさせた。  沙織は四年前、大学二年の夏に、殺人未遂事件を起こし二年の実刑を受けていた。命を狙った相手は、沙織の父親の会社の上司に当る男だった。  沙織の父は、大手の商事会社の常務だった。その商社が、自衛隊の戦闘機購入をめぐる商戦の中で、政治家に多額の賄賂《わいろ》を贈ったことが発覚して、マスコミを騒然とさせた。賄賂を受取った中に、時の総理、黒島隆三郎もまじっていた。沙織の父は、その騒ぎの最中に、自宅で縊死《いし》を遂《と》げた。家族に遺《のこ》された遺書の中に、自殺を選ばざるをえない事情が、はっきりと書いてあったのだ。沙織の父は、何人かの政治家に直接、賄賂の現金を配って歩いた。政治家への贈賄を決め、段どりを進めたのは、専務の一人だった。  事件の発覚後、その専務は、会社の名誉と信頼を守り、政治家たちをスキャンダルに巻き込まないために『肚《はら》を決めてもらいたい』と沙織の父に迫りつづけた。沙織の父は詰め腹を切らされたのだ。沙織の父の死は、専務の狙いどおり、明るみに出た贈収賄事件の捜査にある一面で大きな打撃を与えた。  会社からは、沙織たち遺族に破格の弔慰金《ちよういきん》が出た。生活に困ることもなかった。だが、沙織は会社や汚ない政治家たちのために、唯々諾々《いいだくだく》として死を選んだ父を赦《ゆる》せなかったし、それ以上に、父に自殺を迫った専務を赦せなかった。父の遺書は、彼女の知らないうちに、母の手で焼却されていた。それを知って沙織は家を出て自活した。父の遺した金で生活し、大学に通うことが、自分に許せなかった。父の死の真相を隠そうとした母も、沙織は軽蔑《けいべつ》し、憎んだ。  沙織は銀座のホステスとなった。自活のためばかりではなかった。目的があったのだ。目的は達せられた。沙織は、父を死に追いやった専務の行きつけのクラブが、同じ銀座にあることを突きとめ、その店にホステスとしてもぐりこんだ。専務が、気に入ったホステスの肉体を金で自由にしていることもわかった。沙織は専務に顔を知られていない自信があった。父の葬儀のときに一度だけ顔を合わせているが、そのときからすれば、一年近く過ぎている。髪形も化粧もホステスふうのものになっているのだ。  沙織はホステスとして、専務に体当りで近づいた。バッグの中にはいつも工作用の切出《きりだし》小刀を忍ばせていた。専務は、新入りのホステスの沙織を、すぐにホテルに誘った。それもいきなり金額を口にして気を引く、といったやり方だった。  ホテルで、専務はシャワーを浴びた。沙織は着ているものをすべて脱ぎ、タオルを胸から下に垂らして浴室に入った。タオルを押えた手には切出小刀を持っていた。小刀はタオルの下に隠してあった。  専務はシャワーのしぶきの中で相好《そうごう》を崩した。沙織は体ごと専務に体当りした。小刀が相手の腹を抉《えぐ》った。専務は大声を出し、沙織を突きとばした。二突き目は、専務の尻を浅く刺しただけだった。専務は叫びつづけながら、バスタオルを振り回して応戦した。沙織も叫びながら小刀を振り回した。  気がついたら、沙織はホテルのガードマンにうしろから抱きかかえられていた。専務は救急車で病院に運ばれ、命を取りとめた。  沙織の母は、亡夫の会社に義理立てするつもりだったのか、弁護士の世話すらしなかった。堂本は新聞で事件を知り、自分から弁護を買って出た。無報酬は覚悟の上だった。堂本は沙織の立場と彼女の行動に、大いに共鳴を覚えたのだった。  裁判の過程で、沙織は自分の取った行動の動機を率直に述べた。父の遺書にも触れ、その自殺が強《し》いられたものであったことも明らかにした。しかし、証拠となるべき父の遺書はすでに焼却されているので、父の自殺に至る経過があらためて捜査されるには至らなかった。専務はしかし、それなりのダメージは喰った。彼はスキャンダルの主となり、会社からも身を退《ひ》いた。  出所してきた沙織は、堂本に拾われる形で、彼の事務所で働くことになったのだ。沙織はまだその話を矢田たちに明していない。稲垣満をモーテルに誘い込み、殺し屋を雇って土井稔を殺させたことを吐かせるという、今夜の仕事を成功させたら、四年前の殺人未遂の一件を、矢田たちに明そう、と沙織は心に決めていた。  クラブの入口に賑《にぎ》やかな女たちの声があがった。女たちの輪の中に、稲垣の姿があった。稲垣は女たちに手を振って歩きはじめた。  沙織は車を降りた。ホステスたちが店の中に消えた。人通りはさほど多くはない。稲垣はポケットからたばこを取出し、足を停めた。沙織はバッグの中からライターを取出して、稲垣の横に立ち、火をさしだした。稲垣は眼をあげて沙織を見た。酔ってにごった眼だった。 「おじさま、あたしを買ってくださらない? お金が欲しいの」  沙織は稲垣の耳もとにささやいた。稲垣はたばこに火をつけてから顔をあげた。 「いくらだい?」 「大が一枚でいいわ。プロじゃないから」 「ホテルに行くことになるのかい?」 「部屋はとってあるわ。車もあるの。行きましょう、おじさま……」  沙織は稲垣の片腕に両手ですがり、相手の腕に乳房を押しつけた。稲垣は歩きだした。酔った顔がゆるんでいた。  車はすぐにスタートした。稲垣は助手席から手をのばしてきて、沙織の太腿を撫でた。沙織はその手を自由にさせておいた。 「あんた、独《ひと》り者かい?」 「そう、まだ学生です」 「学生が車持ってて、それでアルバイトの売春かい。おもしろい世の中だな」 「割り切ってお金稼ぐのが、あたしの主義なの。お金さえあればいつも愉《たの》しくやれるし」 「そらそうだ」  稲垣は、沙織のスカートの下に手を入れ、太腿や内股をしつこく撫でながら、とりとめもなく話しかけた。沙織も平然とでまかせの返事を返しつづけた。ホテル代はどちらが負担するのか、と訊いたときだけ、稲垣はしゃんとした声を出した。沙織はワリカンだ、と答えた。 「ワリカンときたか。学生らしいや、こら」  稲垣はすぐに酔った調子にもどっていた。  モーテルの部屋に入ると、稲垣はすぐに立ったまま、沙織を抱きすくめた。沙織は甘えた声を出した。稲垣が唇を押しつけ、舌をさし入れてきた。酒臭い息に耐えて、沙織は相手の舌を受けた。稲垣の片手は沙織の乳房をまさぐり、片手はスカートの上から尻の肉をつかんでいた。抱擁は稲垣のほうから解いた。 「お風呂、入りますか?」 「いいよ、風呂なんか毎日入ってる。珍しくもなんともない」 「じゃあ珍しいことはじめちゃう?」  言いながら、沙織は着ているものを手早く脱いだ。あとで部屋に入ってくる矢田に、裸の姿を見られることになるのは承知の上だった。それを沙織は気に留めてはいない。  沙織はバッグだけを枕もとに置いて、ベッドに腹這いになった。稲垣も裸になってやってきた。稲垣はいきなり沙織の尻の丘に、唇と舌を這わせてきた。手は沙織の胸の下にすべり入ってきて、乳房をつかんでいた。沙織は息をひそめていた。稲垣は伏せている沙織の脚を押しひろげ、尻の谷間にゆっくりと舌を這わせた。それは長くはつづかなかった。沙織は仰向けにさせられた。 「見たいんだよ。おじさん、若い人のここ見るのが趣味でねえ」  稲垣はしげみに薄く覆われた、沙織の股間の丸いふくらみを軽く叩いて言った。 「いいわよ。このほうがよく見えるでしょ」  沙織はベッドの枕を背中にあてて、ヘッドボードに寄りかかった。稲垣は立てて大きく開いた沙織の股間に、這い寄ってきた。沙織は稲垣の眼を盗んで、矢田がセットした録音機のスイッチをそっと押した。バッグを引き寄せ、中から登山ナイフを取出した。 「おじさんの名前、稲垣満というのよね」  沙織はそれまでと同じ口調で言った。 「なんでおれの名前を知ってるんだ?」  稲垣はおどろいたようすで顔を上げた。その鼻先に、沙織はナイフを突きつけた。稲垣の顔が歪んだ。沙織はナイフの先を稲垣の右の眉の下に移した。 「動くと刺すわよ。あたし、緒方勇って男も知ってるの。おどろいた?」 「何者だ、おまえは?」 「誰に頼まれて緒方に土井稔を殺させたか、話してもらいたいの」  稲垣は無言のまま、硬《こわ》ばった顔で沙織をにらみすえている。おどろきが去ったのか、稲垣は油断のならない眼に変っていた。沙織は片手をのばして稲垣の髪をつかんだ。ナイフの先を僅かに進めた。刃先が稲垣の右の瞼《まぶた》を小さく傷つけた。稲垣の眼が恐怖で白くなった。 「遊びじゃないのよ。痛い目に会いたくなかったらしゃべることね。緒方は博多でつかまえたわ。やがて東京に着くころよ」 「くそ! 緒方の野郎!」 「わるあがきはみっともないわ。緒方みたいにあっさり吐いちまいなさいよ」 「吐かしてどうする気だ?」 「掃除するだけよ、世の中の汚物をね」 「掃除だと?」 「そう。地獄の釜の中に掃《は》き落すのよ。倉持賢一も黒島隆三郎も。殺されたくなかったら吐くことね。緒方は利口《りこう》だわ。吐いて命拾いしたわ」  ナイフが稲垣の左の瞼を小さく突いた。血が豆粒のようにふくれあがり、くずれて稲垣の眼に流れ込んだ。稲垣は片眼をしかめ、はじめて恐怖の色を表情に現わした。 「あんた、矢田とかって刑事上がりの男の手下だな?」 「余計なことは言わなくていいのよ」  沙織の声が冷たくひびいた。ナイフは稲垣の鼻の穴にさし入れられ、無造作に鼻翼《びよく》の片方を切り裂いていた。シーツに血が散った。稲垣は短く叫んだ。稲垣の体がふるえた。 「緒方は金に困ってたんだ。五百万円出すと言ったらオーケーしたんだよ」  稲垣の声もふるえていた。 「それは誰の指図《さしず》なの?」 「黒島先生だという話だった。倉持先生の買収が立証されたら、今度は連座は免れないし、黒島先生の力でもどうにもならない。黒島先生は派閥を守るためだ、どんな手段でもとれと倉持先生におっしゃったらしい」 「土井稔殺しの段取りは、あんたと緒方が考えたのね」 「おれは倉持先生にうんと世話になっているんだ。おまえ頼むと言われたら断れないよ。おれが土井さんを呼び出して、緒方を倉持先生の新しい秘書だと紹介して、土井さんの車に奴を乗せたんだ」 「それで?」 「緒方は土井さんに、倉持先生からの内々の話がある、と言って、車を立川《たちかわ》に向かわせたんだ。前もって見つけておいた、立川の空家のガレージに車を入れさせて、車の中で睡眠薬入りの缶ビールを飲ませて、土井さんをシートに縛りつけておいて、排気ガスを車の中に引き込んだんだよ」 「で、死んだのを確かめてから、多摩湖の駐車場に車ごと土井の死体を運んだわけね」 「まえもって緒方の乗る車を多摩湖に用意してあったからな」 「どうして最初から多摩湖でやらなかったのよ?」 「あんなところまで連れて行くのは不自然だからだ。途中で土井さんが警戒するよ。空家のガレージなら誰にも見られないし、緒方は、その空家を自分の住まいだ、と土井さんに思わせたんだ。空家だから鍵が閉まっている。それを緒方は、奥さんが外出先から帰っていないせいにして、だから缶ビール買ってきたことも怪しまれずにすんだんだ」 「矢田さんに殺し屋をさし向けたのは誰?」 「矢田に殺し屋を? それはおれは知らないぞ。ほんとに知らないよ」  稲垣はきょとんとした顔になった。嘘とは思えなかった。  そのとき、矢田が部屋に入ってきた。矢田を見て、稲垣はまた怯《おび》えを新たにした。矢田は素裸の稲垣をベッドから引きずりおろし、腹を一発蹴りつけておいて、服を着ろと命じた。矢田は裸の沙織には背を向けつづけていた。沙織は急いで服を着て、隠してあった盗聴用の録音機をはずした。彼女はテープを再生してみた。鮮明な声で流れ出る自分のことばを耳にして、稲垣はうめき声をあげた。 「録音なんかしやがって、どうするんだ。おれをどこに連れていくつもりだ!」  矢田はすさまじい回し蹴り一発で、稲垣を床に薙《な》ぎ倒し、失神させた。  二分後に、矢田が稲垣を車のトランクに放り込み、沙織がハンドルをにぎって、二人はモーテルを出た。  途中で矢田は公衆電話を見つけ、事務所に待機している堂本に、沙織が仕事に成功したことを告げた。  車はそのまま、西伊豆に向った。西伊豆の賀茂《かも》村に、堂本は古い別荘を持っていた。ほとんど使うことはない。油壺《あぶらつぼ》に新しく別荘を買ったからだ。堂本は西伊豆の別荘を�処刑場�に決めていた。前日に、矢田と沙織は下検分を兼ねて、処刑場の掃除と整備に行ってきた。広い地下室まである別荘は、かなり大きなものだった。まわりに人家はない。  博多で捕えた緒方勇も、宇佐見と原の手によって、車で、まもなく処刑場に着くはずであった。  沙織の車の運転の腕は確かだった。彼女は夜のハイウェイを存分にとばした。とばしながら、沙織は四年前の自分の行なった殺人未遂事件を、矢田に話した。矢田は一言もことばをはさまずに聞いていた。話し終えると、矢田は沙織の肩を強くつかんで言った。 「よくやったな。それをやるかやらないかで、その後のあんたの人間のあり方は大きくちがってくる。あんたはそれをやったから、その後、ほんとうに自分で自分を生きてこれているんだ。それをやらずにいたとしたら、あんたは自分をどこかに置き忘れたまま生きるしかなかっただろうな」  二人はそれっきり、そのことは話題にしなかった。  午前二時二十分に、沙織の運転する車が、西伊豆の別荘に着いた。庭に車が三台停まっていた。一台は堂本のアウディ。一台は宇佐見のスカイライン。一台は福岡ナンバーの車で、博多で原が盗んできたものだった。その車が、稲垣満、緒方勇の棺桶《かんおけ》となるはずだった。  緒方はすでに、棺桶となる車の助手席に坐らされて、ぐったりと首を前に落していた。矢田と沙織は、先着の堂本たち三人に迎えられるようにして車を降りた。間もなく一回目の処刑が行なわれるはずだった。しかし、メンバーのどの顔も、ふだんと変るところはなかった。  矢田が稲垣を車のトランクルームから引きずり出した。稲垣は、車の中の緒方を眼にすると、詰め寄っていってわめきだした。 「てめえがドジ踏むからこうなったんだ!」  稲垣は、堂本のかけた匿名電話の内容を信じきっているようすだった。 「おれはドジなんか踏んじゃいねえ。多摩湖でも誰にも見られなかったって自信があるんだ。どうしてこんなことになったのか、わからねえよ」  緒方は弱々しい声で言った。堂本が二人を黙らせて言った。 「きみたちにはここで死んでもらう。性根《しようね》の腐った金権代議士を助けるために、人を殺したんだ。死は当然の報《むく》いと思い給え。金権代議士も間もなくおまえたちの後を追って地獄に行くはずだ。警察は圧力に屈して、きみたちの殺人行為を見逃した。だからわれわれがきみたちを裁く。最期《さいご》だ。たばこを吸うかね?」  緒方が泣き出した。不意に稲垣が駈け出そうとした。矢田の体が跳《は》ねた。鮮やかな跳び蹴りが稲垣の後頭部を襲っていた。倒れた稲垣を、宇佐見と原が、棺桶代りの車の運転席に押し込んだ。宇佐見と原が、稲垣と緒方の両手を背中のうしろで縛りあげた。すでに排気管につないだホースが、床の水抜きの穴から車中に引き入れてあった。アクセルペダルの横にはコンクリートのブロックが一箇置かれていた。  沙織が車の窓をたしかめた。原がエンジンをかけようとした。矢田が原を押しのけて前に出た。 「おれがやる。若い奴に寝覚めのわるい思いをさせたくないよ」  矢田はエンジンをかけ、アクセルペダルにコンクリートブロックをのせかけた。そのまま、矢田は車のドアを閉めた。メンバー全員が車を取り巻いて暗い庭に立った。誰も口をきかなかった。表情を動かす者もいなかった。車の中はたちまち白い排気ガスでくもりはじめた。  二時間後に、ガスの充満した車のドアがあけられた。稲垣満と緒方勇は息絶えていた。矢田がうしろ手に縛った二人の手を解いた。宇佐見と原が手分けして、車の残りのガソリンとエンジンオイルをすっかり抜き取った。さらに、二つの死体を積んだ車は、宇佐見のスカイラインにロープでつながれた。  スカイラインに、原と宇佐見と沙織が乗った。矢田は運転席の稲垣の死体を助手席の緒方のほうに押しやり、空いた場所に坐った。スカイラインは、二つの死体と矢田を乗せた車をロープで牽引《けんいん》して走り出した。  十五分後に、二台の車は、海に向って切り立った崖っぷちに停まった。矢田は車を降り、牽引用のロープをはずした。宇佐見たち三人もスカイラインから降りてきた。四人で棺桶代りの車を押した。車はのめるようにして崖から落ち、一度大きく宙にはずみ、そのまままっすぐ海に落ちていった。水を打つはげしい音がした。波しぶきは見えなかった。海の泡立つような音がいっとき聞こえ、すぐに静かになった。矢田が海に向って合掌《がつしよう》した。他の三人もそれに倣《なら》った。     6  一ヵ月が過ぎた。  西伊豆の賀茂村の崖下《がけした》の海に、車の部品や油が浮いた、という報道はなされなかった。  その一ヵ月、矢田たちメンバーは、世田谷の野沢《のざわ》にある黒島隆三郎の屋敷の観察と、周辺の道路状況の探索《たんさく》に当った。また、一同は手分けして、黒島隆三郎と倉持賢一の夜の行動を綿密にマークしつづけた。東京地検の特捜検事、辻正毅は、黒島隆三郎邸の、間取りの見取図をこしらえてくれた。辻は戦闘機|疑獄《ぎごく》の捜索のために行なわれた、黒島邸の家宅捜索に立合っている。その折の記録と記憶をもとに、間取りの見取図を書いたのだ。辻はまた、夜間の黒島邸に対する、所轄署の警備態勢の情報を手に入れてもくれた。  そうやって一ヵ月が過ぎ、決行の日がやってきた。細かいタイムスケジュール、手順の最後の確認が終り、矢田以下四人は、午後十一時ちょうどに、堂本法律事務所を出た。堂本一人は、伊豆の処刑場に先行することになっていた。  事務所を出た矢田たちは、ビルの裏に停めてあった、黒いワゴンに乗った。全員がワゴンの中で潜水用の黒のウェットスーツを着込み、オートバイ用のフルフェイスのヘルメットをかぶった。沙織だけはヘルメットはかぶらなかった。車を運転するからだった。  沙織一人が、運転席に移って、すぐに車をスタートさせた。矢田たち三人は荷台に残った。荷台に武器が積んであった。ライフルM16一|挺《ちよう》、ブローニングF・NブローD4散弾銃一挺、ベレッタ9M1934、三二口径拳銃三挺、大型のハンティングナイフ五挺、という装備だった。他にトランシーバー五台、ハンディライト五灯、ケーブル用カッターなども揃っていた。誰がどの武器を使うかは、すでに決めてあった。  武器の調達は、それまでの一ヵ月の間に、すべて矢田が行なった。矢田はそれらを岩国の米軍基地の兵隊から買付けてきたのだ。暴力団専門の刑事だった矢田は、米兵から流れる銃器のブラックマーケットに精通していたのだ。  黒いワゴンは、午後十一時三十五分に、野沢の一方通行の道に停まった。そこから黒島邸まで徒歩五分の距離である。パトロールの警官は五分前に巡回を終えて、所轄署に引揚げて行ったところだ。つぎの巡回は午前零時二十分にはじまるはずだった。  ワゴンから全員が降りた。沙織もヘルメットをかぶり顔をかくした。原だけが拳銃とナイフの他に、カッターの入った袋をさげていた。矢田はライフルを手にしていた。ショットガンは宇佐見が持った。沙織はナイフと拳銃を持った。トランシーバーとライトは全員が肩に吊り、首から下げた。  四人は急ぎ足に黒島邸に向った。黒のウェットスーツが闇に溶けた。  黒島邸の塀《へい》の前で足を停め、原は傍《そば》の電柱によじ登った。電柱に片手で抱きつき、ナップザックからワイヤーカッターを取出した。カッターで黒島邸の電気の引込ケーブルが切断された。闇に一瞬青いスパークが走った。原はつづけて、電話の引込線も断ち切った。原はそのまま、塀を越えて邸内にとびおりた。玄関に向って走った。  玄関にはすでに、門を乗り越えて侵入した矢田以下三名が待っていた。原はドライバーに細工《さいく》した道具を使って、玄関のドアを開けた。カッターでドアチェーンが切られた。垂れさがったチェーンがドアに当って音を立てた。どこかで女の声がひびいた。停電かしら——と言っていた。  原は細く開けたドアを元どおりに閉めて、勝手口に回った。沙織があとにつづいた。原は勝手口のドアの鍵も、三十秒で開けた。沙織が原の合図を受けて、トランシーバーを口にあてた。玄関のドアの外で待機している矢田と宇佐見に、ゴーサインが送られた。矢田がオーケーの返事を送ってよこした。原は勝手口のドアを開けて中に静かに押入った。沙織がつづいた。  矢田は宇佐見と共に玄関のドアを開けて、中に踏み込んだ。そのまま矢田一人が、ズックの土足のまま、廊下を走った。黒島隆三郎と黒島の妻の寝室は、離れになっている。  宇佐見は勝手口から入った原と沙織の二人と手分けして、黒島の家族や使用人たちを一室に集める任務を持っていた。  矢田は黒島夫婦の寝室にとびこんだ。家の中のあちこちで、悲鳴や怒号が湧いた。矢田はライトを点《つ》けた。並べて敷いた夜具の上で、黒島が起き上がったところだった。黒島の妻のほうは、矢田の姿に気づくと、にごった叫び声をあげて、黒島の背中に抱きついた。 「何者だ! 乱暴は止せ」  黒島は夜具の上にあぐらをかき、背すじをのばして、しっかりした声を出した。矢田は片手で腰だめにしたライフルの銃口を、黒島の胸に突きつけた。指は引金にかかっていた。矢田は口をきかなかった。黒島は押し黙っている矢田に向ってしゃべりつづけた。なんとかして乱暴をやめさせようと、彼は必死のようすだった。それが五分つづいた。その間矢田は一言も発しなかった。  原が部屋にとび込んできて、切断した電話線をつないだことを、矢田に耳打ちした。 「黒島、電話で倉持賢一をここに呼べ」  矢田ははじめて口をきいた。原が部屋の隅の電話機を黒島のところまで運んだ。原は黒島に受話器をにぎらせた。 「倉持に必ず一人で、大至急来いと言うんだ。土井稔の殺害現場の目撃者が、口留料を要求する電話をよこした、と言うんだ」  矢田はライフルで黒島の寝間着のはだけた胸を小突いた。黒島は唇を歪め、すさまじい光をこめた眼で、ダイヤルを回しはじめた。  三十分が過ぎた。門を入ってくる車のライトが見えた。玄関の外には、宇佐見と原が闇の中で待っていた。車はポーチに停まった。ライトが消え、エンジンが停まり、ドアが開いた。ルームライトが点《つ》いた。にぶい明りの中に倉持賢一の顔が浮かんだ。倉持は車を降りた。宇佐見と原が同時に倉持の前とうしろに立った。 「声を出すな」  宇佐見が言った。原が車のトランクルームを開けた。倉持はわけがわからぬままに、あっという間にトランクルームに押し込められた。すぐに玄関の中から、寝間着姿の黒島隆三郎が連れ出されてきた。黒島も倉持と折り重なるようにして、トランクルームに押し込められた。  黒島の家族たちには、黒島の身柄を人質にして、警察への通報を禁じてある。仕残した仕事はなかった。押し入ってから三十五分が経過していた。  矢田と沙織が倉持の車に乗った。沙織がハンドルをとって車をスタートさせた。宇佐見と原はワゴンにもどった。  倉持のリンカーン・コンチネンタルと黒いワゴンが、処刑場に着いたのは、午前三時半だった。堂本はすでに到着していた。黒島と倉持は、リンカーン・コンチネンタルのトランクから引き出され、リヤシートに並んで坐らされた。リンカーン・コンチネンタルのドアは、すべて開け放たれていた。まわりを堂本以下のメンバーが囲んだ。沙織がワゴンから持ってきた、小型の録音機のスイッチを押した。冷えびえとした夜気の中に、稲垣満の声が流れはじめた。沙織がモーテルで稲垣を吐かしたときの、テープの声だ。  倉持賢一が、拳を自分の膝に打ちつけて、うめくような声を出した。肩がはげしくふるえていた。倉持は泣いているのだった。黒島隆三郎は胸を張り、腕組みをして、厚い唇をひん曲げ、眼を閉じていた。  テープの稲垣の声が止んだ。 「不当に命を奪われるわけではないことが、よくわかったはずだ」  堂本が車の外から静かな声で言った。 「貴様ら、土井稔とはどういう関係だ?」  黒島が眼を閉じたまま、かすれ声を出した。 「何の関係もない。おまえたちがのさばっていることを望まない、しかし何もできずにいる多くの声なき声を代表して、おまえたちを処刑する、とでも言っておこうか」  堂本は、かすかに笑いを浮かべていた。 「それだけじゃない。おまえらは汚ない手を使って、おれの妻と娘を死に追いやった。知らないとは言わせないぜ」  矢田も声を押えて言った。 「わしらを殺して無事にすむと思うかね?」  黒島ははじめて眼を開け、堂本たちを見すえるようにした。 「気遣《きづか》ってくれてありがとう」  堂本は車のうしろのドアを閉めた。反対側のドアは、そこにいた宇佐見が閉めた。沙織が助手席のドアを閉めた。矢田の立っている、運転席のドアだけが開いたままになった。 「はじめよう。倉持からだ」  堂本が言った。矢田は車の外に立ったまま、無造作にライフルをかまえた。銃口は倉持の額に強く押しあてられた。倉持の頭は押されてのけぞり、シートに押しつけられた。倉持が叫んだ。銃声がそれを消した。車の窓がすべて赤く染まった。倉持の頭の上半分が砕け散り、形を失っていた。  血と脳の破片が、横の黒島の顔と寝間着に飛び散った。倉持の体が横に崩れて黒島の膝に倒れた。黒島は口を開け、眼をむいてふるえはじめた。  矢田はすぐに黒島の額に、銃口を押しあてた。 「処刑は終りだ。そいつは生かしておこう」  堂本がうしろから声をかけ、ライフルをかまえた矢田の腕を押えた。 「生かしとく? なぜです?」  矢田はふり向いて、斬りつけるような言い方をした。 「堂本さん、どうしたんですか?」 「何を考えてるんですか。話がちがうじゃないですか!」  宇佐見と原も、堂本に詰め寄った。沙織までが血相を変えていた。堂本は口の端に笑いを浮かべたまま、矢田を片手で押しのけようとした。矢田がその手を振り払った。 「返事をしろよ、義兄《にい》さん!」 「騒ぐな」  堂本は動ぜずに言い、矢田の前に肩をさし入れるようにして、車の中に顔をさし入れ、黒島に言った。 「黒島さん、世の中にはあんたたちの他にも、まだ処刑すべき奴らがいくらもいる。わたしはこれから先もそいつらを私設断頭台にかけるつもりだ」 「私設断頭台?」  黒島は呆《ほう》けたような表情で呟くように言った。 「あんたにもわれわれに協力してほしい。協力という意味がわかるかね? つまり、あんたをわれわれの保険のため生かしておこうということだよ。あんたをここで処刑しても、第二、第三の黒島隆三郎が、われわれ掃除屋グループをつぶしにかかってくるはずだ。それをあんたに生きててもらって防いでもらおうってことだよ。他にもいろいろ協力してもらうことがあるだろうしね。ただし、あんたが、命を救ってもらった恩義を忘れて、われわれに刃向ってこようとしたら、そのときは容赦なく、あんたが殺人|教唆《きようさ》を行なったことを、天下に公表する。また、われわれメンバーが一人でも変死をした場合も同じだ。忘れないでほしい」 「わかった。感謝する。協力も約束しよう。頼むから、早くわしをこの死人の隣から出してくれ」  黒島は弱々しい声で言った。堂本は矢田をふり向いた。矢田はうなずき、頭を下げた。さっきの怒りの形相《ぎようそう》は消えていた。  二十分後に、倉持の死体を積んだリンカーン・コンチネンタルは、西伊豆の断崖の下の海に沈められた。  明けはじめた紫色の空の下を、掃除屋たちの乗った黒いワゴンと、堂本のアウディが、東京めざして走り去った。黒島は、倉持の血と脳味噌を吸って汚れた寝間着姿のまま、ワゴンの荷台で、放心していた。  第二話 毒の報酬     1  海は凪《な》いでいた。  夜が明けてまだ間がない。  東の空に、黄金色の朝焼けがひろがりはじめている。  錨《いかり》をおろしたばかりの小型のクルーザーが、ゆったりと波に揺られていた。  油壺《あぶらつぼ》のヨットハーバーが、遠くにかすんで見えた。朝焼けの空に、三浦半島の山々が、濃いシルエットを描いている。  クルーザーの後部デッキで、三人の男が釣糸を垂れていた。  船の持主の、弁護士である堂本英介《どうもとえいすけ》。東京地検特捜部検事、辻正毅《つじまさたけ》。堂本法律事務所の調査員、矢田直彦《やだなおひこ》——。  堂本は、前の晩から、油壺の自分の別荘に、家族と一緒に泊まっていた。辻と矢田は、その日の未明に、それぞれ車で東京からやってきて、ヨットハーバーで落合ったのだ。  三人は、誰に見られることもなく、堂本のクルーザーに乗込み、沖に出てきたところだった。三人ともいっぱしの釣師らしい支度をしているが、ルアーを扱う手さばきは、堂本以外の二人は、ひどく覚束《おぼつか》ない。 「いい気分だな、まったく……」  辻が空を見上げて言い、空気を胸一杯に吸い込むような仕種《しぐさ》を見せた。辻はすぐにことばをつづけた。 「N製薬という会社がある。知ってるだろう、二人とも……」  辻のことばは唐突だった。しかし、堂本も矢田もうなずいただけで、まごついたようすは見せなかった。 「このN製薬が、二年近く前に売り出した肝臓の薬でアルファ・エリグロンというのがある。全国の病院で使われているんだ」 「アルファ・エリグロンか。市販はされていないんだな?」  堂本がルアーを操《あやつ》りながら訊《き》いた。 「患者への投薬にだけ使われているらしいんだが、この薬の中にテオキシン256という化学物質が含まれている。こいつは人間の腸内の微生物、酵素などの働きで変質して、毒性を持つものだという説が現われてるんだ」 「どういう毒性だ?」 「人間の精子と卵子に作用して、奇型児を産み出すらしい。そういう働きを、専門的には変異原性《へんいげんせい》とか、催奇型《さいきけい》性とかと呼ぶらしいのだが、テオキシン256なる物質の持つ変異原性、催奇型性は、例のサリドマイドの三十倍とも五十倍とも言われてる」 「おそろしい薬だな」  矢田は釣糸から眼を離して言った。 「実際に、N製薬のアルファ・エリグロンを服用している患者の間に、奇型児が産まれた例がかなりあるというんだ。で、奇型児出産とアルファ・エリグロンの間に、因果関係ありとする学者と、因果関係なしとする学者とがいるらしい。奇型児を持った患者たちの間には、被害者同盟を結成して、N製薬との間に訴訟を起そうという動きも出てきているという話だ」 「しかし、厚生省もよくそんな物騒《ぶつそう》な新薬を認可したもんだな」  堂本は、釣竿をスニーカーの足で押えておいて、パイプにたばこを詰めながら言った。 「アルファ・エリグロンに奇型児を産むような毒性があるかどうかは、堂本グループにとってはさほどの問題じゃないだろうな」 「これからがおまえさんの今朝の本題ってわけだな? 辻……」 「これもやっぱり二年ほど前だが、目白の駅近くの裏道で、覚醒剤《シヤブ》中毒の若い男が、通りすがりの男二人をつぎつぎにドスで刺し殺した、という事件があったんだ」 「ありましたね。殺された片方はたしか、新聞記者か何かだったんじゃないかな」  矢田が海の遠くに眼を投げて言った。 「よく憶えてたな、矢田さん。日本タイムズの社会部記者だった山辺靖雄《やまべやすお》って人だよ。もう一人の被害者が、N製薬の研究室で主任をしていた加賀裕三《かがゆうぞう》という人だ」 「なるほど、そこにN製薬が出てくるわけか」  堂本がのんびりした口調で言った。矢田の表情には、早くも獲物の気配を感じとった猟犬のような鋭どさが見られた。が、堂本は釣を愉しみながら、おもしろい世間話を聞いている、といったふうにしか見えない。 「事件は、シャブ中毒の男の、幻覚による発作的犯行として、すぐに片が付いたんだ」 「裏があるんですか?」 「匂うんだな、これが……。タレコミがあったんだよ、地検に……」 「N製薬のアルファ・エリグロン絡《がら》みのかい?」 「アルファ・エリグロンに奇型児を産むような毒性があるらしい、ということは、一部の学者と、これを投薬された患者たちの間にしか、まだ知られていないんだ。それをおれが知ってるのは、そのタレコミのせいなんだ」 「どういうタレコミなんですか?」 「山辺って新聞記者と、加賀というN製薬の社員が殺されたとき、この二人はたまたま現場を通りがかっただけで、たがいに赤の他人、二人の間に交渉はなかった、とされていたんだが、タレコミによると、どうもそうじゃないらしいんだ」 「新聞記者と製薬会社の社員とは、つきあいがあった、というのか?」 「二人は同じ静岡の高校の先輩、後輩の関係にあって、加賀裕三のほうは、自社の新薬アルファ・エリグロンに毒性のあることを知って、高校の先輩の新聞記者の山辺靖雄を通じて、内部告発をはかろうとした、とタレコミの主は言うんだ」 「つまり、加賀裕三と山辺靖雄は、シャブ中毒の通り魔に殺されたんじゃなくて、あれは口封じのための計画殺人だった、という主旨なんだな? そのタレコミは……」 「そうなんだ。調べてみたら、事実、山辺靖雄と加賀裕三は、同じ高校を出てるんだ」 「裏がとれたのはそれだけですか?」 「二年前の事件だからな。それに……」  辻はことばを切り、釣竿を強い勢いではねあげた。 「おもしろいと思って内偵をつづけようとしたら、邪魔が入りやがった」 「邪魔、ですか?」  矢田が眼を光らせた。 「匿名のタレコミだけで、二年前の殺人事件を洗い直すのは、特捜部としては軽挙にすぎる、というんだ。上のほうでね。むろんこいつは口実にきまってる。N製薬の大株主は、自由党のいまの幹事長、溝呂木和久《みぞろぎかずひさ》なんだな」 「つまり圧力か、邪魔というのは」 「としか思えない構図だろう?」  堂本と矢田はうなずいただけだった。 「溝呂木和久は、厚生大臣も二回つとめていて、医療界にも顔が利く。アルファ・エリグロン問題が表に出ないで、専門家と患者の間だけで問題にされているという状況も、不自然といえば言えるだろう?」 「山辺靖雄と加賀裕三を殺した、シャブ中毒の犯人は服役中なんですか?」 「これが無罪なんだ。例の心神喪失だか耗弱《こうじやく》だかの状態だった、という鑑定でね」 「それを狙って、殺し屋にシャブ中毒の男を計画的に使ったとしたら、うまくやりやがった、と言うべきだな」 「計画的殺人だったかどうか、ここから先は地検の仕事じゃない。掃除屋《スウイーパー》のあんたたちの出番だろうと思ってね。二年前の通り魔殺人事件の捜査資料と供述書、それにN製薬関係の資料を用意してきた。おれのそのクーラーの中に入ってる」  辻は甲板の上のクーラーを顎《あご》をしゃくってさした。     2  一週間が過ぎた。  矢田は大阪に来ていた。同じ堂本法律事務所の調査員で、掃除屋グループのメンバーである原徹《はらとおる》が一緒だった。  二年前に、日本タイムズ社会部記者と、N製薬社員をドスで刺殺した男は、坂井省吾《さかいしようご》という男で、大阪の守口市に住む暴力団員だった。年齢は二十七歳になる。  事件の調書では、坂井省吾は、愛人だったクラブのホステスを連れて東京に遊びに行き、幻覚に襲われて、夜道で行き合った二人の通行人を刺殺した、となっていた。事件後一年三ヵ月目に、精神鑑定の結果、坂井の無罪が確定し、彼は釈放されていた。  矢田と原が、大阪にやってきたのは、坂井省吾の身辺を洗うためだった。  坂井の所属している暴力団、三崎組は、広域暴力組織、大池組の傘下にある、比較的小さな組だった。坂井は今もそこに属している。矢田は刑事時代のコネクションを利用して、大阪府警の組織暴力係の刑事から、基礎的な情報を仕入れた。  矢田自身も、刑事時代は、長い間暴力団専任で仕事をつづけてきた。やくざの世界にはよく通じている。大阪と東京と、所は違っても、情報の呑み込み、集め方は早かった。  守口市の坂井省吾の住むマンションも、簡単に突きとめることができたし、本人の顔も確認できた。  マンションには、坂井と同居している女がいた。その女は、二年前に坂井が東京で殺人事件を起したときに同行した女とは別人であることも、数日後に判った。  矢田は原に、坂井が二年前に東京に連れていった女の消息を調べさせた。矢田のほうは、坂井の行動をマークしながら、聞込みを重ねた。  殺人事件を起した二年前と、釈放後の現在とでは、坂井省吾の身辺は大きく変っていることが、聞込みからはっきりした。  無罪の判決を得て大阪にもどってきた坂井は、三崎組の中で、平の組員から若頭《わかがしら》という身分に出世していた。坂井はまた、二ヵ月前に、守口市の盛り場に、『都母美《ともみ》』という名のスナックバーを開店している。店の名は、マンションに同居中の女の名前に、妙に凝《こ》った字をあてたものだった。その女が、ママとして毎晩店に出ている。  坂井が現在も覚醒剤を常用しているかどうかは判らない。やくざ仲間の話では、まだ続けているという者と、現在は手を出していない、という者と、見方が分れていた。  いずれにしろ、坂井は三崎組の若頭をつとめてはいるが、暴力団員としては、いまはおとなしく日を送っていて、特に警察からマークを受けるようなところにはいないようすだった。  午後に三崎組の事務所に顔を出し、そこでぶらぶらして時間をつぶし、夜はネオン街を飲み歩いたり、賭場《とば》だろうと矢田がにらんだ場末の小さな旅館に足をはこんだりする。  午前一時前後には、『都母美』に現われ、閉店を待って、ママの運転する車でマンションに帰り、午前中はずっと眠っている、といったところが、矢田が尾行でつかんだ坂井省吾の日常だった。  矢田は、釈放後に坂井が若頭に出世したことと、彼がスナックを開店した点に注目した。スナック開店の資金は、坂井と、同居中の女の二人が合同で出した、という噂だった。事実、店の名義は坂井省吾のものになっていた。  組の中の地位が上がり、スナックのオーナーとなったのは、二年前の東京での殺しの報酬ではないのか——矢田は疑った。  坂井が二年前の殺人事件のときに、東京に同行したホステスは、今村葉子《いまむらようこ》という名前だった。  原が今村葉子の消息をつかんだのは、彼らが大阪にやってきて、ちょうど五日目だった。  今村葉子は、坂井が東京で殺人事件を起して逮捕された後、一人で大阪に戻り、ホステス暮しをつづけていたが、一年前に東京に移り住み、現在は新宿のピンクキャバレーで働いている、という話だった。今村葉子が東京に移り住んだのは、東京から来ていた店の客を好きになったためらしい。彼女はホステス専門の金融会社から借りた金、五十万円を踏み倒して、姿を消していた。原はその情報と共に、何枚かの今村葉子の顔写真も手に入れていた。  原は偽《にせ》の興信所の名刺を用いて、家出人探しを依頼されたという口実で、今村葉子の消息調べに当ったのだった。  今村葉子が、新宿のピンクキャバレーにいる、という情報をつかむと同時に、矢田は原を東京に帰した。  二日後に、原から大阪の矢田に、電話の連絡が入った。今村葉子の所在を確認したという知らせだった。今村葉子は、大阪でつかんだ情報の中にあったのとは別のキャバレーに勤め、高円寺のマンションに独りで住んでいることを、原は突きとめていた。  報告を受けた矢田は、原に一つの作戦を指示した。原と、やはり掃除屋グループのメンバーである、二枚目のプレイボーイ然とした印象の宇佐見明《うさみあきら》の二人が組んで、今村葉子を罠《わな》にはめる作戦だった。  矢田は大阪に残って、坂井省吾のマークをつづけながら、別の作戦の準備をはじめた。  矢田は一匹狼のやくざを装い、あるいはギャンブルに身を持ちくずした中年の蒸発人間のふりをし、ときには労務者に化けたりして、連日連夜、守口市や大阪の盛り場をうろつき回った。  坂井省吾に関する情報を集めるためと、純度の高い覚醒剤を手に入れるためだった。  そうした仕事は、矢田にはお手のものだった。暴力団専門の刑事だった時代に身につけた経験と嗅覚《きゆうかく》が、大いに役に立ったのだ。  矢田は細心に、大胆にその仕事をすすめた。彼は刑事時代にもどったように、生き生きして見えた。坂井が二年前に東京で起した殺人事件が、N製薬が口封じのために仕組んだ、計画的なものかどうかは、まだ判らない。しかし、坂井省吾の身辺を見る限り、彼の犯行にはたしかに、辻正毅が言ったように『匂う』ものが感じられるのだった。  矢田は坂井省吾を攻めてみることに、ためらいを覚えなかった。それは、悪を憎むといった、気負った心によるものとは、いささか異なっていた。手がけている仕事は、矢田の気持の中では、まだ仕事以上のものとして何かを胸の中にかき立てるまでには至っていなかった。  今村葉子を罠にはめ、坂井省吾を攻める手だてを考えることが、どこか何かのゲームに似ているような思いさえ、矢田にはあったのだ。アルファ・エリグロンという薬の、毒性の有無も、矢田にはまだ薄い関心事でしかなかった。 (おれはなんだか、ひどく醒《さ》めた気持で、しかしそれにしちゃずいぶん熱心に仕事をしているな)  矢田はしばしばそういう思いにぶつかっていた。数ヵ月前に、金権選挙の実態を隠すために、選挙費用の出納《すいとう》責任者を殺させた国会議員、倉持賢一《くらもちけんいち》を追い詰め�処刑�したときは、矢田ははじめから熱く燃えていた。  それは正義のためではなかった、私怨《しえん》のためだった。倉持賢一は、別の脅迫容疑で、刑事だった矢田に追い詰められ、矢田の気勢を殺《そ》ぐために、彼の妻を怯《おび》えさせた。その結果、矢田の妻は子供を抱いて団地の屋上から飛び下りて自殺した。  その私的な怨みと怒りが、倉持賢一を�処刑�した仕事には終始つきまとった。  今度の仕事には、それがなかった。にもかかわらず、矢田は心は醒めているが、仕事は熱心に、労をいとわず進めている。 (おれも本物の掃除屋になりつつあるってことかな?)  矢田は、なにやらくすぐったいものを覚えつつ、そう思うのだった。その思いに、格別の満足も不満足も、彼は感じなかった。いつかそのことを、他のメンバーたちと話してみたい、と思っただけだった。     3  宇佐見は、今村葉子の働いている新宿のキャバレーに、一週間通いつめた。行くたびに、彼は葉子を指名し、チップをはずんだ。  宇佐見は、自分は医者の卵で、将来は父親が経営している郷里の病院を継ぐことになっている、というような話を葉子にした。  葉子がその出まかせを信用したかどうかは判らない。だが、彼女が宇佐見の甘いマスクと、やさしげな人柄と、金放れのよさに気を惹《ひ》かれたのは事実だった。  宇佐見が店に通いはじめて四日目に、葉子は自分から、閉店後に二人きりで食事をしたい、と言い出した。彼女の目的が食事だけではないことが、ことばや表情に表われていた。宇佐見はしかし、食事だけをつき合って別れた。浮気が女房にばれるのが怖い、といったふりを宇佐見はしてみせたのだ。  宇佐見の駈引《かけひ》きは成功した。拒まれて葉子は逆にそそられたようすだった。指名が一週間つづいた末に、葉子はふたたび宇佐見に閉店後の食事をねだり、食事の席で、マンションまで送ってほしい、とせがんだ。 「じゃあ、ちょっと女房に連絡してくるよ」  宇佐見は言って、食事の席を立った。 「そんなに奥さんのことが気になる?」  葉子はいたずらっぽい眼で宇佐見をにらみつけた。 「門限に遅れそうなのでね」  宇佐見はけろりとした顔で言って見せた。葉子は呆《あき》れた、といったふうに、笑った顔で、大仰《おおぎよう》に眼を吊りあげた。彼女は恐妻家の医者の卵で、ピンクキャバレーが好きという、二枚目の男を誘惑することを、おもしろがっているようすだった。  宇佐見は店のレジのカウンターにある電話を使った。電話の相手は仲間の原だった。原は毎晩のように、四谷の堂本法律事務所に待機して、宇佐見からの連絡を待っていたのだ。宇佐見は電話で、これから葉子を送って高円寺のマンションに行く、とだけ言った。原はオーケーとだけ答えた。それだけで二人の電話は終った。  テーブルにもどった宇佐見は、ゆっくりと食事をつづけて、時間を稼いだ。  深夜営業の焼肉屋を出て、タクシーを拾い、葉子の住むマンションに着いたときは、午前二時だった。マンションの前の道に、原の乗ってきた車が停まっていた。宇佐見はさりげなくそれに眼を留めて、葉子の肩を抱き、マンションの玄関に入った。  すぐうしろから、停めてあった車から降りてきた原が、玄関を入ってきた。三人が前後して、エレベーターに乗った。宇佐見も原も見知らぬ同士のように振舞った。 「今村葉子さんだろう? あんた……」  原が眼を据《す》えた顔で葉子に言った。エレベーターが動き出したとたんだった。原はクリーム色のスーツに紺のワイシャツ、黄色いネクタイ、といった服装だった。どう見ても堅気の商売には見えない。原にだしぬけに声をかけられて、葉子が一瞬、顔をこわばらせた。返事はしない。 「この人、今村葉子さんでしょう?」  原は宇佐見に言った。 「きみ、失礼だろう。人に名前を訊《き》くのなら、まず自分が先に名乗ったらどうなんだ」  宇佐見は厳しい口調で言った。二人の芝居の呼吸は見事に合っていた。 「やっぱりまちがいない。今村葉子だな。ずいぶん探したぜ」  原は宇佐見を無視して、今村葉子に詰め寄るようにした。 「いい加減にしたまえ」  宇佐見が、原の肩をつかんで押した。 「うるせえ。てめえは黙ってろ!」  叫ぶように言いざま、原が宇佐見の手を払い、いきなりパンチを浴びせた。宇佐見は身を反《そ》らしてそれをかわし、空を切った原の腕を逆手に固めた。早業だった。葉子が悲鳴をあげた。原が大仰にうめいた。エレベーターが停まった。 「何者だい? きみは?」 「借金の取立てに大阪からやってきたんだ。その女は借金を踏み倒して大阪からとんずらしやがったんだ」 「よし。話は彼女の部屋で聞こう。今度あばれたら、腕をへし折るからな」  宇佐見は逆手に固めた原の腕を放し、エレベーターの外に突き出した。葉子はすでに廊下に出て、歪《ゆが》んだ表情で成行きを見ていた。 「心配しなさんな。怖がるとこういう奴はつけあがるばかりだよ。部屋はどこ?」  宇佐見はエレベーターを降りて、葉子に言った。葉子は小走りに廊下を進み、部屋のドアの鍵をあけた。 「葉ちゃん、大阪で借金を踏み倒したというのはほんとうなの?」  リビングルームのソファに、三人が顔をつきあわせてから、宇佐見は言った。葉子はうつむいたまま、小さくうなずいた。 「栄商事から借りた金が五十万円。とんずらしていた一年の間の利息が複利計算で七十八万八千円。合計百二十八万八千円が、この女からおれが取立てなきゃならない金額だ。文句はないだろうな、今村さんよ」  原は最後のところは葉子に向って言った。堂に入った取立て屋ぶりだった。 「踏み倒す気はなかったわ。お金に困って払えなかっただけよ」  葉子はふてぶてしい口ぶりで言った。最初のおどろきと恐怖は消えたようすだった。 「言い訳はどうでもいい。こっちは全額耳をそろえて払ってもらいさえすればいいんだ」 「いますぐ、全額払えと言われたって、無理だわ」 「なら、体で稼いでもらうんだな。トルコとか、コールガール、ストリップ、いくらでも稼ぎ口はあるだろうが。紹介しようか」  葉子はそっぽを向いたまま答えない。 「それもいやだってんなら、おれと一緒に大阪に戻って、栄商事に顔出すしかないぜ」 「栄商事ってのは金融会社かい?」  宇佐見がもっともらしく、口をはさんだ。 「ホステス専門の闇金融屋よ。高利貸ね」  葉子が憎々しげに言った。 「闇金融だろうとなんだろうと、借りたものは借りたものだぜ」  原が眼を光らせて言った。 「わかった。この人の借金、ぼくが立て替えよう。ぼくはこういう者だ。明日の午後、勤務先の病院にきたまえ。金を用意しておく。それでいいだろう?」  宇佐見は、服のポケットから、名刺を出して、原に渡した。原は名刺に眼をやった。有名な私立大学の病院名、所属科、氏名などが印刷された名刺だった。その芝居のために、わざわざこしらえたものだった。 「そうしてくれれば文句はないが、念のためってこともある。裏に一筆書いてもらうぜ。明日、病院に出かけていって、呆《とぼ》けられたらいやだからな」 「疑り深い男だな、きみも。一筆書くから、名刺をよこしたまえ」  宇佐見は言い、ポケットからボールペンを抜き取った。     4 「すみません。いいのかしら、あんなことまでしてもらっちゃって……」  原の足音が、ドアの外に遠ざかるのを待って、葉子が言った。 「気にするなよ」  宇佐見はソファに坐ったまま、事もなげに言った。 「立て替えてもらうお金、あたし、すぐには返せないわよ」 「体で返してもらえばそれでいいんだけどな、ぼくは……」  宇佐見は言って、葉子の肩に腕を回した。 「あたし、あなたを見直したわ」  葉子は宇佐見に体をもたせかけてきた。 「度胸はあるし、腕っ節は強いし、おまけに気前がいいんだもの。奥さんの尻に敷かれっぱなしのお坊ちゃん先生かと思ってたら、体で返せなんて、うれしいこと、けろりとして言ったりして……」 「ぼくの愛人になってくれよ」 「もちろん、よろこんで……」  葉子は顔を宇佐見に寄せてきて、眼を閉じた。宇佐見は葉子の髪を静かに撫でながら、唇を重ねた。静かに舌をそよがせた。葉子の体から力が抜けた。葉子は自分からねっとりと舌を絡めてきた。宇佐見の手が、葉子の腰を服の上からさすり、その手が胸に移された。重たい乳房のはずみが、服を通して宇佐見の手に伝わってきた。 「シャワー浴びてくる……」  唇を離して、葉子が言った。声も口調もしっとりとして甘やかなものに変っていた。  葉子はスリップ姿になると、玄関のドアの鍵をしめ、浴室に行った。浴室でシャワーの音がしはじめた。宇佐見は、ソファの上に脱ぎすてられた、葉子のサマースーツに眼を投げて、にやりとした。  すぐに宇佐見も服を脱ぎ、ブリーフも取って浴室に行った。ガラスのドアを開けると、シャワーキャップをかぶったままの葉子が、あわてて体をかくそうとするように、腰をよじった。本気で裸の姿を羞《は》じらっているふうには見えなかった。 「なんて美しい体なんだろう、きみは……」  宇佐見は、照れもせずに、真顔で言った。 「いやだわ。近ごろふとってきたのよ」  葉子は両|肘《ひじ》をぴったりと体の脇に押しつけるようにした。ふとっているのを羞じて隠そうとしているように見えたが、両の乳房が腕で中央に寄せられ、深い見事な谷間を形づくる結果になった。 「すてきだよ。夢中になっちまいそうだな」  宇佐見はシャワーのしぶきが頭にかかるのを承知で、葉子をうしろから抱きしめた。両の手で二つの乳房を覆《おお》うようにして、宇佐見は葉子の湯に濡れた頸《くび》すじに唇を這わせた。 「髪が濡れちゃうわよ」 「かまわないよ、ぼくの髪なんか……」  乳房から離れた宇佐見の手が、葉子の脇腹をなでさすった。葉子が息を小さくはずませ、甘えた声をもらした。それは装ったものではないようすだった。  宇佐見が一足遅れて浴室から出ると、葉子はリビングルームの隣の部屋の、ベッドの上にうつ伏せに横たわっていた。裸の腰をバスタオルだけが覆っていた。枕もとの小さな台に、ビールとグラスと灰皿とたばこ、ライターなどが置かれていた。灰皿には火のついたままの長いたばこが置かれ、細い煙を上げていた。  宇佐見はベッドの端に腰をおろし、ビールをグラスに注《つ》いで、一息に飲み干し、火のついたたばこを一服吸って揉《も》み消した。それから彼は、葉子の裸の頸すじや背中に、静かに唇を這わせた。  葉子が全身をうねらせるようにして小さく身もだえた。葉子の腰を覆ったバスタオルが、横にずれて、ゆっくりとすべり落ちた。形よくひきしまった臀部《でんぶ》が、明りの下であらわとなった。宇佐見は手で葉子の髪をやさしくまさぐり、あるいは脚をそっと撫でさすりながら、彼女のうっすらとつやを放っている臀部の二つの丘にも、唇を這わせた。  葉子は低いあえぎの声をもらしつつ、ときおりどこかをはじかれでもしたように、ぴくりと体をふるわせた。そのたびに、深い尻の谷間から内股にかけて、さざ波のような細かい揺れが走った。  葉子の太腿《ふともも》が少しずつゆるみ、尻の谷間の底に、薄くヘアに覆われた小さなふくらみがのぞいた。宇佐見の舌の先が、そこを軽く掃くようにすべった。葉子は短い声をあげ、けだるそうに体を動かして、仰向けに変った。  見事な乳房が揺れながら、横にわずかに流れて形を変えていた。色の濃い、ちぢれの強いしげみが、小さな短冊の形に盛りあがり、明りを受けてうっすらと光沢を放って見えた。  宇佐見は、乳房を柔らかく手でたわませ、葉子の脇腹に唇をつけた。葉子の体がまたはじかれてはねるようにふるえた。宇佐見は、肌を唇で甘くついばむようにしながら、脇腹から胸の脇、乳房へとたどっていった。  葉子の息のはずみと、あえぎの声が高まっていた。宇佐見の唇が、乳首の一つをそっとはさむと、葉子の口から甘く訴えるような声が洩《も》れた。  宇佐見は仕事に熱中した。しかし、彼の頭からは、坂井省吾が二年前に起した殺人事件も、N製薬のアルファ・エリグロンという薬のことも、すっかり影を薄めていた。  宇佐見の片手は、葉子の頸の下から、肩ごしに乳房の一つに伸び、指で乳首を揉み立てていた。小さな乳首は固くとがって、鮮やかな色を見せていた。もう片方の乳首は、宇佐見の固くとがらせた舌の先で躍らされ、あるいはねっとりとしたやり方で舐《な》められていた。  そうしながら、宇佐見は自由になる片方の手で、静かに葉子のしげみを撫で、その下の小さなふくらみをさすり、ときおり軽く指先でクレバスをなぞった。そのたびに、葉子は小さく腰を反らし、息の詰まったような細い声をもらした。  宇佐見の舌と唇は、葉子の乳首にだけ執着していたわけではなかった。彼はひとしきり乳首を舌で愛撫すると、葉子の頸すじに顔を埋め、そこや耳のあたりに唇を這わせた。すると葉子は、上体をのけぞらせ、切なそうにうめき声をあげた。宇佐見が、青い影のような毛の剃《そ》り跡の残る葉子の腋窩《えきか》に唇を押しつけ、そこを吸うようにすると、彼女の口から細い叫びに似た声がほとばしった。  宇佐見の片手は、葉子のうるみをたたえた柔らかいはざまの上を静かに行きつもどりつしていた。彼の指は温いうるみにまみれていた。その指が、クレバスを下から這い上がり、固いはずみを備えた小さなとがったものを探りあてた。とたんに葉子は、とろけてしまうとでも言いたげな声をもらし、ゆっくりと頭を横に振った。  やがて宇佐見は、大きく開かれた葉子の太腿の間に立ち膝した。眼の下に、ゆるくほころびを見せている、葉子の濡れたはざまがあった。二枚の小さな花びらに似たものと、鮮やかな色に輝くはざまとが、息づくように小さくうごめいていた。  宇佐見はそこに顔を伏せた。唇が花びらと小さなとがったものを交互に捉《とら》え、吸った。舌が小さなとがったものの上で、小刻みに躍った。そうしながら、宇佐見の片手は葉子の乳房の上で、片手ははざまの中心のくぼみのあたりで、それぞれ働いていた。葉子はすっかり翻弄《ほんろう》されていた。彼女は何度も息を詰まらせたように体をこわばらせ、喉《のど》の奥でうめいた。  宇佐見は、葉子に泣くような声で何度も促された末に、ようやく体をつないだ。しかし、彼は深く進めて押しつけたまま、動かなかった。葉子はじれて腰を振り動かした。 「こういうときになんだけど、訊いておきたいことがあるんだよ」  宇佐見は体を重ねたままで言った。片手は葉子の乳房を揉みしだいている。 「なあに?」  葉子は眉を寄せ、眼を閉じたままで、かすれた声を出した。 「きみ、妙な男と関わりがあるんじゃないだろうね?」 「そんな男はあたしにはいないわ」 「大阪で借りた五十万円というのは、男のためにした借金じゃないのか?」 「どうしてそんなこと訊くの?」 「安心してきみを愛人にしたいからさ」 「あたしは安心してもらえる女よ」 「ところがそうでもなさそうだよ」 「どういう意味?」  そこで宇佐見は口をつぐみ、いっときはげしく腰をはずませた。葉子はたちまち声を詰まらせてのけぞった。 「気をわるくしないでくれよね。実は少しばかりきみのこと調べさせてもらったんだよ」  宇佐見はふたたび動きを止め、深いところに押しつけたままにして言った。 「あたしの何を調べたの?」  葉子は眼をあけて宇佐見を見た。訝《いぶか》る表情ではなかった。眼はとろんとしたままだった。宇佐見は、葉子の乳首を唇でついばんでから言った。 「坂井省吾というやくざ者と、きみ、関係があったようだね?」  ようやく葉子の顔に、くもりが現われた。 「坂井って男は、二年前に覚醒剤の幻覚から、東京で通行人二人を刺し殺したんだそうだね。きみもそのとき、坂井と一緒に東京に来てたんだろう?」 「坂井とはとっくの昔に別れたわ」 「それはわかってる。ぼくが心配なのは、坂井がきみを探し出して、訪ねてくるんじゃないかってことさ。きみは坂井が未決囚として拘置所にいる間に、大阪から東京に出てきてしまったんだろう? きみは別れたつもりでも、坂井はそうは考えていないかも知れないじゃないか。覚醒剤中毒の人殺しなんかと三角関係になるのは、ぼくは困るんだ」 「安心していいって、言ったでしょう」  葉子は下から腰を揺すり上げるようにして言った。 「安心しろって口で言われてもねえ……」 「坂井はあたしに迷惑をかけるわけにはいかないのよ」 「いやに自信たっぷりだね。理由があるのかい?」 「あたし、坂井の重大な秘密を握ってるの」 「重大な秘密?」  宇佐見は聞込みの手応えを感じた。彼はふたたびゆっくりと大きく、腰を動かした。葉子は眼を閉じ、薄く開いた口から声をもらした。 「重大な秘密ってのを教えてよ。そうすればぼくも安心できるから……」 「坂井は、東京で人を二人殺したけど、精神鑑定受けて無罪になったわ。覚醒剤中毒のせいだということになって」 「それが重大な秘密と関係があるのか?」 「誰にも言わないって約束してくれる?」 「もちろんだよ。きみを安心して愛人にしたいために、こんな話をしてるんじゃないか」 「坂井はほんとうは有罪よ。あの人、誰かに頼まれて、金をもらって、はじめからあの二人の男を殺すために、東京に来たんだもの。あたしをあのとき一緒に連れてきたのは、東京に遊びに来たことにするためだったのよ」 「きみはどうして、そんな重大なこと知ってるんだい?」 「東京に来てからの坂井の行動がおかしかったから、あたし問い詰めたの。だってあの男、毎晩、目白駅近くの裏道をうろついてたんだもの。坂井が二人の人を殺した場所よ」 「きみが問い詰めたら、坂井は頼まれて人を殺すつもりだと話したのかい?」 「そうよ。金もくれたわ。彼が警察につかまった後で、あたしが刑事にいろいろ訊かれたとき、どう答えればいいかなんてことも、彼はあたしに言いつけたわ」 「坂井は誰に頼まれて人殺しをしたんだ?」 「組長の命令だって言ってたわ」  そこまで聞けば充分だった。宇佐見は葉子に唇を重ね、心をこめて腰をはげしくはずませはじめた。     5  西伊豆の賀茂《かも》村にある、堂本所有の古い別荘を、矢田たちは処刑場と呼んでいる。  処刑場に、坂井省吾が拉致《らち》されてきたのは、宇佐見が今村葉子からの情報を手に入れてから三日後の朝だった。  前日の夜ふけに、守口市のスナックバー『都母美』の近くに、矢田と原が張込んだ。宇佐見は、近くの青空駐車場に停めてある、『都母美』のママの車の中に待機していた。『都母美』のママの車のドアの鍵は、原が針金を使って簡単にあけた。原はさらに、イグニッションの電気配線を直結に変えて、キーなしでもいつでもエンジンが始動できるように細工を施していた。  坂井は午前一時近くに、一人で『都母美』の近くに現われた。  矢田と原は、電柱の陰から出て、坂井に近づいた。すれちがいざまに、矢田は腰のベルトから拳銃を抜き、坂井の後頭部にあてた。 「声を出すな、坂井……」 「おんどりゃ……」  坂井がわめきかけた。原の動きはすばやかった。彼は両の手の甲に貼っていたテープをはぎとって、坂井の口を塞《ふさ》ぎ、ついで眼も塞いだ。坂井のわめき声は、くぐもって喉の奥にひびいただけだった。  坂井は口を塞がれ、眼隠しをされたまま、矢田と原に両側から腕を抱えられ、駐車場まで連れていかれた。宇佐見がすぐに車を降りて、トランクルームの蓋を大きくはね上げた。矢田と原が、坂井を抱えあげて、トランクルームに押し込んだ。  宇佐見がハンドルをにぎって、車はすぐに駐車場を出た。それだけの仕事が、三分足らずで終った。どこにも人の眼はなかった。車はそのまま、伊豆の処刑場に向ったのだ。  処刑場に着いたときは、陽が昇りはじめていた。坂井はトランクの中でぐったりしていた。額に汗が浮かび、青白い顔になっていた。矢田たちは、坂井を別荘の地下室に連れ込み、素裸《すつぱだか》にして、手足を縛り上げ、コンクリートの床にころがした。坂井の両腕には、無数の注射の跡が黒ずんだまま残っていた。それを確めてから、矢田は坂井の眼と口を塞いだテープを解いた。 「なんのまねやねん? どういうこっちゃ、これは……」  坂井が肩を揺すってわめいた。 「二年前に、おまえが東京でやった殺しのことを話してもらおうと思ってな」 「おまえら、どこの者や? こないなまねさらして、ただですむと思てんのか!」 「ま、ゆっくりわめけ。そのうちシャブが切れる。そうすりゃおまえの口も軽くなる」  矢田は言って、ポケットからビニールの小袋に入っている覚醒剤と注射器のケースを取出して見せた。 「二年前の殺しの、何を訊きたいのや?」  坂井の眼が揺れていた。 「おまえに殺しをやらせた陰の人物の素性《すじよう》だよ。三崎組の組長を通して、おまえに殺しをやらせた奴を知りたいのさ」 「そんなもんおるかい。あの殺しは薬物中毒による発作的犯行やと、裁判所が証明してくれてんのやど。なにを寝呆けとんね」 「ここは裁判所じゃない。ほんとのことを吐かせるためには、どんなことでもする。肚《はら》をくくっとけ」  矢田は言い捨てて、地下室を出た。原と宇佐見があとにつづいた。坂井が逃亡できる可能性はゼロだった。矢田たちは、シャワーを浴びて、ひと眠りした。  正午近くに、メンバーの一人である植田沙織《うえださおり》が、食料をしこたま買込んで、処刑場にやってきた。沙織はミニスカートに、胸の大きくくられたTシャツを着ていた。  沙織はアサリのスパゲッティと、フィッシュサラダをこしらえ、ワインの栓を抜いた。坂井が地下室から連れ出され、食堂に連れてこられた。坂井には水一杯与えずに、床にころがしておいて、その眼の前で矢田たち四人はワインを飲み、食事をした。  豪勢なメニューの食事のたびに、坂井は地下室から食堂に引き出されてきた。そういうことが、つぎの日もつぎの日もつづいた。空腹と、沙織の挑発的な服装が、監禁の身の坂井には、どんなに荒っぽい拷問より応えていた。それがはっきり見てとれた。  矢田たちにとっては、その数日間は、優雅な休暇に似ていた。美味《うま》いものを喰べ、酒を飲み、たっぷり眠り、気が向けば交替で海に泳ぎに出た。  五日目の夕方に、地下室からすさまじいうめき声が洩れてきた。矢田たち全員が地下室に降りた。沙織は海から帰ったばかりで、ビキニの水着姿のままだった。水着から乳房が半ばこぼれ出ていた。  坂井は、焦点を失った眼を宙に投げ、手足を縛られたままの体で右に左に床をころがり、床に頭を打ちつけながらうめいていた。額と裸の胸に、ねっとりとした汗が出ていた。 「シャブをくれ!」  坂井はしわがれた声で言った。声に力がなかった。 「口を割ってからなら、シャブ射《う》ってやる」  矢田は言った。 「シャブが先や。そやないと、わい、しゃべらへんど」 「甘ったれるんじゃない。おまえが殺しをやりに東京に来たとき連れてた女、今村葉子だよ。あの女は、おまえが金を握らされて殺しをやったことを吐いてるんだ。おれたちを甘く見るなよ」  矢田は坂井の脇腹に蹴りを入れた。坂井はうめき、背中を丸めた。 「早くしゃべっちゃいなさいよ。楽になるわよ」  沙織は坂井の鼻先にしゃがみこんで言った。坂井の眼が暗く歪んだ。彼の視線が、沙織の胸の谷間や、小さな水着で辛うじて覆われた太腿の奥に走った。 「わいに殺しをやらせたんは、組長の三崎はんや!」 「その三崎に殺しを頼んだ奴は?」 「知らんがな、そんなもん」 「ゆっくり苦しめ。時間はいくらでもある」  矢田はもう一度、坂井の脇腹を蹴り、階段に向った。他の三人も矢田にならった。 「待て! 殺しを頼んできたんは、N製薬いう会社の総務部長やっとる、井出昭一《いでしよういち》いう人や。嘘やない。ほんまや。わいが殺した新聞記者とN製薬の社員とが会《お》うとる場所を教えてくれたんも、井出はんなんや」  坂井はうめくような声で言った。原がテープレコーダーのスイッチを入れ、同じことをあらためて坂井にしゃべらせた。坂井はさらに矢田に促《うなが》されて、井出と会った日時、場所、回数、殺しの報酬として、組長の三崎が井出から二千万円を受け取り、そのうち千二百万円を坂井が手にしたことも話した。  矢田は話し終えた坂井に、覚醒剤を注射してやった。食事を沙織に運ばせて与えた。  原と宇佐見と沙織は忙しくなった。原は車で東京に戻り、小平市にある、N製薬本社総務部長の井出昭一の自宅の電話線に、盗聴装置を仕掛けた。宇佐見と沙織はチームを組んで、井出の身辺調査と行動のマークをはじめた。矢田だけが坂井の監視のために、処刑場に残った。  井出昭一の自宅に、電話の盗聴装置が仕掛けられた夜遅く、堂本は四谷の事務所から、井出の家に電話をした。井出は電話を取った家の者に呼ばれて、のんびりした声を受話器に送ってきた。 「加賀裕三さんと、山辺靖雄さんという名前は、むろん覚えていらっしゃいますね、井出さん」  堂本はだしぬけにそう言った。受話器に、井出が強く息を吸い込んだ音が伝わってきた。そのまま束《つか》の間《ま》の沈黙が流れた。 「どちらに電話なさってるんですか?」  井出はとりつくろったような口調を見せた。声は穏やかだった。 「N製薬総務部長の井出昭一さんに電話してるんです」 「あなたは?」 「二年前に、大阪の暴力団員、坂井省吾が、日本タイムズ記者とN製薬の研究室主任を殺した事件に、興味を抱いている男、と申しあげときましょう」 「で、ご用件は?」 「井出さん。ぼくには今のあなたの不安な気持が手に取るようにわかります。N製薬の製品アルファ・エリグロンの毒性を内部告発しようとした加賀主任と、それを受けようとした山辺記者を殺した謝礼が二千万円、大阪の三崎組組長にあなたの手から渡ったという話も、ぼくは知ってるんです」 「何をばかなこと言ってるんですか。いい加減にしてください」  井出の声はいくらか細くなっていた。 「ばかなことですかね? この話の出所は坂井省吾なんですよ」 「坂井とか三崎とか、ぼくにはまったく覚えのない名前だ。失礼」  電話は切れていた。堂本は受話器をもどし、椅子に体を埋めるようにして、パイプにたばこをつめた。丹念な手つきだった。  二十分余り後に、電話が鳴った。堂本は受話器を取った。原からの電話だった。 「原です。井出が大阪の三崎と電話で話しました」 「通話は録音できたかね?」 「ばっちりです。井出はあわてていました。三崎もおどろいています。坂井の行方が知れないところに、井出が堂本さんの電話のことを話したからです」 「これで井出と三崎がつながったな」 「井出と三崎をつないだ仲介人がいるかもしれませんね。三崎がフルヤさんに連絡を入れるとか、電話で言ってましたから」 「フルヤね。つづけて盗聴を頼む。テープは宇佐見君か沙織君に渡してこっちに運ばせてくれ」  堂本は電話を切り、すぐにダイヤルを回して、処刑場の矢田を呼出し、原からの報告を伝えた。  同じそのころ、井出昭一は、自分で車を運転して小平市の自宅を出た。宇佐見と沙織の乗った車が、間をおいて、井出の車の尾行をはじめた。  三十分後に、井出の車は吉祥寺の住宅街の大きな屋敷の前に停まった。門の表札には、岸部とだけあった。  沙織からの報告を受けた堂本は、財界人名録を調べ、N製薬社長が、岸部治という名で、吉祥寺に住んでいることを確認した。堂本は、岸部治の家の電話にも、盗聴装置を仕掛ける必要を覚えた。     6  五日後の夜に、堂本以下の掃除屋のメンバー全員が、伊豆賀茂村の別荘に集った。目的は二つあった。一つは坂井省吾の処刑を行なうためだった。もう一つは当面の行動計画を練るためだった。  メンバーたちは、それぞれ別行動で別荘にやってきた。顔がそろったのは、午後八時半だった。全員が一階の広間のソファに腰をおろした。  はじめに、原が録音した、電話のやりとりのテープが再生された。テープは三本あった。堂本のゆさぶりにあおられて、井出昭一が大阪の暴力団組長、三崎茂にかけた電話のテープが一本。あとの二本はN製薬社長、岸部治が、会社の大株主で、自由党幹事長を務めている溝呂木和久にかけた電話と、フルヤなる男から、岸部にかかってきた電話を録音したものだった。  通話はいずれも短かかった。井出昭一と三崎茂とのやりとりには、二人が殺しの依頼者と請負者であることをはっきり示す部分があった。二人のやりとりはつぎのようなものだった。 〈三崎さんですか。N製薬の井出です。たいへんなことになりましたよ、三崎さん。いまわたしの家に、妙な電話がかかりまして〉 〈妙な電話? なんのこってすねん?〉 〈坂井省吾さんは、いまどうしてるんですか?〉 〈それが坂井の奴、五日前の夜から行方がわかりまへんのや。嬶《かかあ》の車でどこかに行きよったらしい〉 〈坂井さんに頼んでやってもらった、二年前の例の東京の目白での仕事のことを嗅《か》ぎつけた奴がいるんですよ〉 〈妙な電話いうのんは、そのことか?〉 〈ぼくが例の仕事の報酬として、三崎さんに二千万円お渡ししたことも、電話の男は知ってましたよ。こんなこと言いたくないけど、坂井さんにはちゃんと金が渡ってるんでしょうね?〉 〈いやなこと言わはりまんな、井出さん。坂井には一千二百万渡しましたがな。奴はその金で守口市の一等地にスナック開いて、嬶に店やらせてまっせ〉 〈それならいいんですが、まさかと思いながら、ひょっとして坂井さんに不服でもあって、あの人がうちの社をゆすりにかかったんじゃないかと考えたりしたもんですから。いや、気をわるくしないでください〉 〈電話の男は名前は名乗らずじまいでっか? ま、名前言わへんやろな〉 〈相手の見当がつかないんです。坂井さんが行方不明というのも気になりますね〉 〈坂井の行方不明と、その妙な電話と関係あるとはちょっと思えまへんな。わてのほうも、フルヤはんに連絡して調べてみまっさ〉  電話はそこで終っていた。  N製薬社長の岸部治と、大株主で自由党幹事長の溝呂木和久との電話の内容は、つぎのようなものだった。 〈溝呂木先生ですか。N製薬の岸部でございます。こんな時間に恐縮ですが、お耳に入れておきたい事態が起きましたので……〉 〈なんですか、その事態とは?〉 〈二年前の目白の一件を嗅ぎつけた男がいるようすなんでございます〉 〈大阪の三崎組にやらせた例の仕事のことですか? 岸部さん……〉 〈はい。たったいま、うちの総務部長の井出が知らせて来たんですが、井出の自宅に男の声で匿名《とくめい》電話がかかりまして、例の一件についてかなり詳しい事情を知っていることをひけらかしたそうです〉 〈わかった。フルヤにそちらに連絡させます。彼に処理を任せましょう〉 〈恐れ入ります〉  二人のやりとりはそれだけだった。堂本たちは、三本目のテープを聴いた。 〈岸部さんですね? わたし、フルヤです。いま、おやじから連絡受けました〉 〈いったい、どういうことなんですかねえ、フルヤさん〉 〈匿名電話の男の素性の見当は、まったくつきませんか?〉 〈考えられるのは、三崎組関係と、うちの会社関係だけです〉 〈三崎組は、うちのおやじとの関係から考えて、目白事件でN製薬さんをゆするなんてことは、まずしないはずです〉 〈坂井省吾さんが数日来、行方不明だというのが、ちょっと気になるんですがねえ〉 〈坂井は行方不明になってるんですか?〉 〈そうらしいんです〉 〈三崎組のほうは、わたしが調べさせます〉 〈わたしも、井出に社内を調べさせます〉 〈アルファ・エリグロンの発売認可を取るのに、厚生省に出す成分表と実験資料に細工を加えたことを知っていた社員は、一応全員、疑ってかかる必要があると思いますよ〉 〈それを知ってるのが、加賀裕三の他にも、研究室に何人かいますからね。調べさせますよ〉 〈手をつくし、あとはその匿名電話の男の今後の出方を待つしかないですな〉 〈なんとかなりますか? フルヤさん〉 〈なんとかしなくちゃ、事が明るみに出ると、N製薬さんもエリグロン・スキャンダルで火がつくけど、溝呂木のおやじだって大《おお》火傷《やけど》ですからね。できることはすべてやります〉 〈お願いしますよ、フルヤさん……〉  テープの会話はそこで終っていた。 「殺しの動機と、構図はこれではっきりしたな」  堂本が言った。 「アルファ・エリグロンについての、加賀裕三の内部告発の動きを岸部が知って、大株主で政治家の溝呂木に相談する。溝呂木はフルヤなる人物に命じて対策を立てさせる。フルヤが溝呂木の代理として動いて、三崎組に話を持っていく。岸部は井出を代理に立てて、三崎や坂井と接触させる——そういったことですね」  原がテープの始末をしながら言った。 「フルヤってのは、坂井を責めてみたが、奴も知らない男らしい。まあ、溝呂木の秘書の一人あたりだろうな」  矢田が誰へともなく言った。 「フルヤって奴を押えれば、岸部と溝呂木は逃げられないですね」  宇佐見が矢田に向って言った。 「ここは黒島隆三郎《くろしまりゆうざぶろう》を使う手だな」  堂本が、口もとに薄笑いを浮べて言った。 「黒島隆三郎を使う? どういうことですか?」  原が訊いた。 「溝呂木和久は、自由党の中では、黒島隆三郎とは敵対している佐々木派の大番頭だよ。前の党役員の改選のときにも、幹事長のポストを奪い合って、黒島と佐々木がはげしい対立をしてる。結果は黒島が押しきられて、佐々木派の溝呂木が幹事長になった、といういきさつがある。みんな新聞で読んで、知ってると思うけど……」 「それは知ってます。で、フルヤの素性と居所をつかむために、黒島に話を聞くんですか?」  矢田のことばに、堂本はうなずいた。 「フルヤのことを聞き出すだけじゃない。溝呂木を処刑場におびき出すのにも、黒島は利用できるよ」 「アルファ・エリグロンのスキャンダルを、黒島に話すんですか?」 「場合によってはな。黒島にとっては、溝呂木はいわば党内の敵だよ。敵のスキャンダルを知れば、黒島はいろいろ力を貸してくれるだろう」 「しかし、信用できますか? 黒島を。黒島にとっちゃ、われわれ掃除屋はこの上なく邪魔な存在でしょう。黒島がわれわれを消すために、党内の敵である溝呂木と手を結んで、策を弄する、ということも考えられますよ」 「むろんだよ。それを承知で、こっちは裏の裏まで考えなきゃならない」 「そういう負担を背負ってまで、黒島の手を借りる必要があるかなあ」 「おれたちは、前の仕事で、倉持賢一は処刑したが、処刑場まで連れてきた黒島は生かしておいた。なんのためだった?」 「われわれがピンチにおちいったときに、黒島の存在を保険にするためだったんでしょう」 「その保険を、もっと頼りになるものにしておきたいんだ。今度のわれわれの仕事に、黒島をなんらかの形で引込んでおけば、動機はどうであれ、黒島もわれわれ掃除屋の仕事に手を貸したことになる。そうすれば奴もそう簡単にはわれわれを抹殺できなくなる」 「なるほど。わかりました。黒島を利用しましょう」  矢田は大きくうなずいて言った。 「そこで、植田君には、黒島の私設秘書の村瀬って男にはりついてもらうよ」  堂本は、沙織に眼を移して言った。 「はい……」 「村瀬ってのは、黒島のダーティな仕事を一手に引受けている奴だ。もし黒島が溝呂木と組んで、おれたちを消す算段をはじめれば、村瀬が動くはずだ。奴をマークしてくれ」 「わかりました」 「黒島にはおれが会う。任せてくれるな?」 「もちろんです」  矢田が言い、全員がうなずいた。 「よし。ミーティングは終りだ。坂井を処刑しよう」  堂本は無造作に言った。全員が立ち上がり、地下室に降りた。  坂井は、疲れきった暗い眼で、床にころがったまま堂本たちを見た。 「風呂に入りたいだろう。垢《あか》まみれ、埃《ほこり》まみれだものな」  矢田が坂井に言った。宇佐見が坂井の手足を縛《しば》ったロープを解いた。坂井の表情に、わずかに生気が湧いていた。 「風呂もええけど、早う大阪に帰《い》にたいわ」  坂井は呟《つぶや》くように言った。宇佐見と原が坂井を浴室に連れていった。  十五分後に、坂井はさっぱりした顔になり、シャツを着て地下室に連れもどされた。矢田はすでに、注射器に六百ミリグラムの覚醒剤を吸い上げていた。 「なんや、それ。わいはまだヤク切れてえへんで」  坂井の顔に怯えが走った。彼はひきつった眼で、矢田の手の注射器を見ていた。 「純度九十パーセントというシャブだよ。死んでもらう。大阪に帰るのはあきらめるんだな」  矢田が言った。坂井が原と宇佐見につかまれていた腕を振り払った。そのまま彼は階段に向って突進しようとした。  原が坂井にとびつくのと、宇佐見が坂井の足を払うのと、同時だった。原と坂井が、重なって床にころがった。数呼吸のうちに、原は坂井の片腕を腿の間にはさみ、逆手に固めていた。沙織が坂井のその腕の上膊《じようはく》部を、ハンカチで強く縛った。矢田が坂井の腕の浮き出た血管に、注射針をさした。矢田は早い速度で血管の中に薬を送り込んだ。  坂井の体が、感電でもしたかのように、はげしく反り返り、こわばった。坂井はうめき声一つもらさず、焦点を失った眼が白くむかれたまま、宙に据えられていた。  矢田が注射器を抜いた。沙織が腕の時計に眼をやった。七分後には、坂井は絶命していた。堂本が、靴の踵《かかと》にパイプを軽く打ちあてて、火皿の灰をはたき落した。誰も口をきかなかった。  宇佐見と原が、坂井の体を抱え上げ、庭に停めた坂井の女の車に押し込んだ。その車の運転席に、原が乗り込んだ。宇佐見は別の車に乗った。  二台の車は、すぐに別荘の門を出た。坂井の死体は、車とともに、真鶴《まなづる》岬の、木立ちに囲まれた駐車場に、放置しておく手はずになっていた。  坂井は覚醒剤の常用者である。それは彼の前歴、腕の注射の痕などを見れば一目瞭然である。覚醒剤の常用者が、覚醒剤によるショック死を起したとしても、不思議ではない。死体とともに、傍《かたわら》に注射器が残されていて、それに当人の指紋が付着していれば、他殺を疑う者はいないはずだった。     7  廊下に足音がした。 「お見えになりました」  仲居が声をかけて、座敷の襖《ふすま》を開けた。仲居のうしろに、赤ら顔の黒島隆三郎が立っていた。堂本は、黒島に軽く会釈《えしやく》を送った。 「お呼び立てして恐縮です」  黒島が席に着くのを待って、堂本は言った。ことばつきは慇懃《いんぎん》だったが、堂本の眼には薄笑いがにじんでいた。紀尾井町の、名前の通った大きな料亭の一室である。 「古屋君のことを知りたい、という話だったな」  仲居が去るのを待って、黒島が口を開いた。ことばつきにも態度にも、横柄《おうへい》なものがありながら、黒島は決して堂本と正面から眼を合わせようとはしなかった。人払いを言いつけてあるので、料理や酒がはこばれてくる気遣《きづか》いはなかった。 「古屋君の事となると、溝呂木和久君に関わりがありそうだが、狙ってるのかね? 溝呂木君を?」 「余計なことをあなたに話す気は、ぼくにはないですよ、黒島さん」  ぴしゃりと出鼻を叩かれて、黒島は一瞬唇を歪めたが、すぐに表情を殺した。 「古屋って男は、溝呂木氏の秘書ですか?」 「一種の私設秘書みたいなものだろうが、本職は新聞屋だよ。暴露《ばくろ》新聞のね」 「古屋の住まいと事務所はわかりますね?」 「調べてきたよ。これだ」  黒島は背広のポケットから、四つ折にした紙片を取出し、開いてそれに眼をあててから、テーブルごしに堂本に渡した。 「古屋は溝呂木氏の私設秘書的な仕事をしている、というお話ですが、主にどういったことで彼は溝呂木氏を支えてるんですか?」 「汚れ役専門だよ。溝呂木君の手の汚れる仕事を、古屋が一手に引受けているはずだ」 「黒島さんの場合で言うと、あなたの私設秘書の村瀬さんみたいな立場ですね?」  黒島はむっとした顔になり、はじめて鋭い眼で堂本を見すえた。堂本は表情を変えず、黒島と視線を交《かわ》していた。 「古屋君というのは、荒技師《あらわざし》だという評判だ。暴力団筋にも顔が広いらしい。溝呂木君が関係しているある会社のスキャンダルを揉《も》み消すために、古屋君が働いて、二人の男を消した、という話もある」  黒島は薄く眼を閉じたまま、低い声で言った。血色のよい顔には、何の表情も浮んでいなかった。 「さすがに対抗陣営の情報には詳しいですね、黒島さん」 「いろんな奴が、いろんな話を耳に入れてくれるんでね」 「溝呂木氏が関係している会社ってのは、どこなんですか?」 「N製薬だよ。彼はあそこの大株主でね。そのN製薬が開発して売り出した、アルファ・エリグロンという薬には、奇型児を産む毒性があるらしいんだが、それが堂々と売り出されているのは、溝呂木君が厚生省と医療界に力を持っているせいだよ。会社がインチキの新薬認可申請書を出して、それを裏で溝呂木君が受理させた、というからくりがあったんだな」 「やりますね、溝呂木氏も」 「ところが、N製薬の社員の一人が、そのからくりを新聞記者に話して、告発をはかったんで、溝呂木君とN製薬の社長が、古屋君を動かして、殺し屋を雇ったんだ。内部告発をはかった社員と、それを記事にしようとした新聞記者が、それで殺された……」  黒島はことばを切り、薄く閉じていた眼を不意に大きくみひらき、刺すような眼で堂本を見た。 「わたしの眼は節穴じゃないよ。きみらが溝呂木君を狙ってるのは、N製薬の件だろう。わたしの知る限り、この数年来、古屋君が暗躍したのは、N製薬の件以外にはないはずだよ」 「ばかにいれこんできましたね、黒島さん。政敵の一人が消えることが、あなたにとってどんなに歓迎すべきことか、まあ、わからないでもないですがね」  堂本は、はぐらかすように笑った。それから彼は、ゆっくりと上体を前に倒し、黒島に顔を寄せるようにして言った。 「われわれは、溝呂木和久を処刑するつもりです。手を貸してもらいますよ、黒島さん。いいですね?」 「手を貸せだと?」 「つまり、あなたにも処刑班の一員になってもらう」 「わたしに何をやらせる気だね?」 「仕事は後ほどお知らせします。なに、簡単なことですよ。手間はかからない」 「わたしは、人殺しの手伝いはご免こうむるよ」 「笑わしちゃいけませんよ、黒島さん。手伝いどころか、あなたはすでに人殺しの指示を出したことがあるじゃありませんか。倉持賢一の選挙違反の件でね」  黒島の眼が、また眠ったように細くなっていた。     8  三日後の夜ふけだった。  矢田と原は、世田谷の太子堂の住宅街の道に停めた車の中で待機していた。古屋良太郎を捕えるためだった。  矢田たちは、細い私道の奥に、道を塞ぐ形に車を停めていた。古屋良太郎の家は、その私道の突き当りにあった。  私道の入口に、タクシーが停まったのは、午後十一時半だった。車から降りた男の横顔を、外灯がにぶく照し出した。古屋良太郎だった。連れはいない。  運転席にいた原が、車のドアを細く開けた。矢田も助手席のドアをすこしだけ開けた。古屋はうつむいたまま、私道に入ってきた。タクシーが走り去った。  古屋が車の近くまできたとき、原が車のドアをいきなり大きく開けて、外に出た。古屋は車のドアで行くてを塞がれ、むっとしたように顔を上げた。矢田はすばやく車を降り、古屋のうしろにまわっていた。  古屋が何か言いかけた。声が出たが、ことばにはならなかった。矢田の腕が、うしろから古屋の首を絞めていた。原が車のドアを閉め、腰を沈めて古屋の鳩尾《みぞおち》に拳を打ちこんだ。古屋の体が跳ねた。その体から力が抜けていった。古屋は失神していた。  原が車のトランクを開けた。矢田が古屋の体を引きずり、トランクルームの中に押し込んだ。  原の運転する車が、伊豆の別荘に着いたのは、午前四時近くだった。原がトランクルームを開けた。とたんに原が低くうめいて顔を腕でかばった。古屋が、腰から抜き取ったベルトで、原の顔面を一撃したのだった。古屋はなおもベルトを振りまわしながら、トランクルームからとび出してきた。 「ふざけんじゃねえ。なんのまねだ!」  古屋が叫んだ。原は古屋に組みつこうとした。打ち振られるベルトが、原の突進をはばんだ。矢田は無造作に古屋に近づいた。ベルトが矢田をめがけて振りおろされた。矢田の体が一回転した。するどい後蹴りが、古屋の脇腹にめりこんでいた。古屋の腰が砕けた。原が突っ込んでいった。古屋の体が、小柄な原の腰に乗り、大きな弧を描いて、地面に叩きつけられた。原は倒れた古屋の顎を蹴りつけた。  古屋は引き起され、矢田と原に腕を取られて、別荘の地下室に連れ込まれた。 「てめえら何者だ? おれをどうしようってんだ?」  古屋はわめいた。原が古屋の腹と顔面に拳を打ち込んだ。古屋は壁にとばされ、床にころがった。矢田も原も余計な口はきかなかった。彼らは古屋を古い椅子に坐らせ、体ごと縛りあげた。  原が車から持ってきた、小型のテープレコーダーのスイッチを入れた。テープレコーダーのスピーカーから、N製薬総務部長の井出昭一と三崎組組長、三崎茂との電話のやりとりが流れ出てきた。古屋の眼が吊り上がった。  テープの声は、N製薬社長の岸部治と、溝呂木和久のものに変り、さらに古屋と岸部の会話に変った。 「くそ! てめえらだな、N製薬の井出のところに、妙な電話をよこしやがったのは」  テープの声が止んだとたんに、古屋がうめくような声で言った。原はすでにテープレコーダーの録音ボタンを押していた。 「てめえら、どういう筋の者だ?」 「古屋、肚《はら》をくくれ。溝呂木と岸部は、いつどこで、N製薬社員の加賀裕三と、日本タイムズの山辺靖雄を消すようにと、おまえに指示を下したんだ?」  矢田が訊いた。古屋は鼻血に汚れたままの顔を、ゆっくりと左右に振った。原が古屋の髪をつかみ、したたかに脛《すね》を蹴りつけた。二度、三度と、原は同じところを蹴った。古屋がうめき、顔からは血の気が引いた。 「殺せよ。おれはしゃべらんぜ。口の堅さがおれの財産よ」  古屋は唇を歪め、苦痛をこらえて、息を切らせながら言った。 「その粋《いき》がりが、いつまで続くかな?」  原は言った。彼はそのまま、地下室を出て行った。すぐに彼は、古靴下に砂を詰めたものを手にして、もどってきた。矢田が原を見てうなずいた。原は、古屋のうしろに立った。 「これをやられると、みんな夢見心地になるんだ。我慢してると、脳味噌がじわじわと揺さぶられて、頭蓋骨の中でダンスをはじめるぞ」  原は砂をぎっしりと詰めた古靴下で、古屋のこめかみのあたりを、軽く、ゆっくりと叩きはじめた。叩かれるたびに、古屋の頭が揺れた。矢田はたばこに火をつけ、眼をきつく閉じて苦痛に耐えている古屋を眺めていた。矢田も原も、退屈したときのような表情を見せていた。  二十分近く、原は同じことをつづけた。古屋は額に脂汗を浮かべ、ときおり嘔吐感に襲われたように、顎を前に突き出した。顔をしかめ、あくびをした。ときどき眼を開けた。その眼から精気が失せ、焦点もぼやけて見えた。  三十分間、頭を叩かれつづけたとき、古屋は突然、けものじみたうめき声をあげ、椅子に体を縛られたまま、立ち上がろうとした。 「口の堅さがまだ財産だと思うかい?」  矢田が訊いた。 「止めてくれ! 話すから止めてくれ」  古屋は力のない声で言った。いくらか舌がもつれてきた。原が手を止め、テープレコーダーのスイッチを入れた。 「N製薬の社員と、日本タイムズの記者を消すことに決めたのは、溝呂木のおやじと、N製薬の社長の岸部さんだよ」 「おまえが溝呂木たちからその話を聞いたのはいつだい?」 「坂井が的の二人を消す、一ヵ月ばかり前だよ」 「場所は?」 「溝呂木のおやじの、赤坂の事務所だ」 「その席にいたのは?」 「溝呂木のおやじと、岸部さんと、おれの三人だけだ」 「おまえは三崎組に渡りをつけて、殺し屋を用意させる仕事で、いくら謝礼をもらったんだ?」 「五百万だ」 「わるくない仕事だったな」 「そうは言えないさ。今となってはな」 「加賀裕三が、新聞記者を使って内部告発をしようとしてることが、どうして事前にわかったんだ?」 「N製薬の文書室のロッカーから、アルファ・エリグロンという薬に関する極秘資料が、一時紛失したんだ。資料は後でロッカーに返されていた。コピーされたらしいんだ。資料を盗み出した人間を密《ひそ》かに探しはじめたら、加賀が浮んできたんだそうだ。N製薬では、興信所を使って、加賀の動きを調べさせて、確証をつかんだという話だった」  古屋は肩を沈め、がっくりと首を前に落して、あえぐようにして話した。  聞き終えると、矢田は地下室を出て、玄関ホールにある電話の前に立った。彼は堂本の自宅の電話番号を回した。堂本は眠らずに矢田の電話を待っていたようすだった。呼出信号が鳴りはじめたとたんに、堂本は電話に出た。 「古屋が吐きました。はじめから溝呂木と岸部が殺しの指示を出してます」 「いよいよゴーだな」  堂本が低い声を受話器に送ってきた。 「いつやりますか?」 「今日の夜にしよう」 「黒島のほうの動きはどうですか?」 「沙織の報告だと、黒島の私設秘書の村瀬が人集めに走っている気配なんだ。至誠党という右翼結社の幹部と村瀬が、二度ばかり六本木のレストランで会っているのを、沙織が見ている。沙織が盗み撮りした写真を、辻に見せて、村瀬の食事の相手が、至誠党の中橋という幹部だとわかったんだ」 「至誠党ってのは、元は暴力団だったんですよ。ボスの柿田って男が総会屋と組んで、政治家たちに近づいたんです。その線のどこかで、黒島とコネができたんでしょうね」 「黒島には処刑を真鶴岬の駐車場でやる、というふうに思い込ませようと思うんだ」 「村瀬が集めた至誠党の連中を、真鶴に引き寄せてすっぽかしといて、伊豆で処刑するという作戦ですね」 「黒島との段どりを今日中につける。夜に入って決行だ」 「わかりました」  矢田は言って電話を切った。     9  正午前に、沙織が一人で、伊豆の処刑場にやってきた。入れ替わりに、矢田と原が伊豆から東京に戻った。別荘の地下室に監禁した古屋は、拳銃で武装した沙織が看視することになった。  堂本はすでに、黒島と接触して、その夜の段どりを承知させていた。  午後十時ちょうどに、堂本と矢田と原が、黒島邸の門をくぐった。宇佐見は黒塗りのワゴンを運転して、黒島邸の近くまで行き、まわりを見張った。黒島が、至誠党の連中を邸のそばに待機させている可能性があったからだった。  堂本たち三人は、黒島邸の広い応接間に通された。堂本に促されて、黒島がすぐ溝呂木の自宅に電話を入れた。 「N製薬のスキャンダルを、ぼくのところに売込みに来た男がいるんだがね、溝呂木君。その件できみと密談したいんだ。話を持込んできた男が、きみとN製薬の社長に会いたがってる。人目につかんようにして、すぐに二人でこちらに来てほしいんだ」  黒島は、そう言った。  溝呂木が自分で車を運転して、黒島邸にやってきたのは、午後十一時半だった。岸部治も一緒だった。  二人が応接間に入ってくるのを待って、矢田と原が、ホルスターから拳銃を抜いた。 「黒島さん!」  溝呂木は、矢田に拳銃を突きつけられて絶句した。溝呂木と岸部の顔がひきつった。 「すまん。溝呂木君。わしもこいつらにはめられたんだよ」  黒島はソファに体を埋めたまま言った。矢田と原が、溝呂木と岸部を外に連れ出した。それを見送りながら、堂本もホルスターから拳銃を抜き、黒島に銃口を向けた。黒島が眼をむき、ソファから腰を浮かしかけた。 「あなたにも処刑を手伝ってもらう、と言っといたはずです。同行を願いますよ」  堂本は言った。 「真鶴までわたしに行けというのかね?」 「そうです」  黒島はあっさりと腰をあげた。それを見て、堂本は黒島が至誠党の連中を、すでに真鶴岬に配備しているにちがいない、と見抜いていた。  溝呂木と岸部は、二人が乗ってきたベンツのトランクルームに押し込められていた。ベンツは原が運転した。黒島は、堂本の車に乗せられた。  二台の車が、黒島邸の門を出て、スピードをあげた。路上に停まっていた黒い乗用車が、二台の車を追ってスタートした。すぐ先の四つ角から、宇佐見の運転するワゴンカーが、少し遅れて姿を現わし、後につづいた。  車の辿《たど》る道が、真鶴岬に至る道とはちがうことがはっきりしたとき、黒島がシートの上で身じろぎした。 「道がちがうんじゃないかね?」  黒島はしばらくして言った。 「処刑の場所を急遽《きゆうきよ》変更したんです。真鶴にはあなたが集めた、至誠党のやくざどもが、網を張ってることが判ったんでね」  堂本が言った。車の窓からさし込む外灯の光が、かすかに歪んだ黒島の唇の動きを、うっすらと照し出していた。  伊豆の処刑場に着くと、溝呂木と岸部は、すぐに地下室に連れ込まれた。黒島も地下室に連れていかれた。  溝呂木と岸部の姿を見て、椅子に縛られたままの古屋が眼をむき、すぐにうなだれた。 「古屋君!」  溝呂木はおどろきの声をあげ、後のことばを呑み込んだ。 「古屋も、坂井省吾も、すべて吐いちまったよ、溝呂木さん。岸部と共謀して、アルファ・エリグロンのスキャンダルを揉み消すために、山辺靖雄と加賀裕三の二人を殺させたこと、認めるだろうな?」  堂本が言った。 「わしらを、いったいどうしようって言うのかね?」  岸部が、粉をふいたような蒼白な顔で言った。 「処刑する。死んでもらうんだよ」 「どういうことになっとるんですか、黒島さん!」  溝呂木が血走った眼で黒島を見た。 「ぼくにもどうにもできんよ。こいつらは一種の狂人グループだからな」 「掃除屋と言ってほしいな、黒島さん」  矢田が言った。 「はじめよう」  堂本が冷たい声で言った。沙織が古屋の体を縛ったロープを解いた。全員が地下室を出て、車のところにもどった。溝呂木と岸部と古屋が、ベンツのリヤシートに並んで坐らされた。  矢田が運転席のシートに片膝を突き、ライフルをかまえた。原と沙織は、拳銃を持ったまま、黒島の両側に立っていた。 「全員、手を上げて立て!」  不意に、闇の中で宇佐見の声がひびいた。堂本が自分の車のライトをつけた。明りがゆるやかな斜面の芝生の庭を照し出した。そこに四人の男が散り、芝生の上に這っていた。四人とも、サイレンサーのついた大型の拳銃を持っていた。そのうしろに、ショットガンをかまえた宇佐見が立っていた。  宇佐見は、ショットガンをかまえたまま、四人の男たちに近づき、順に拳銃を取り上げた。奪った拳銃を、堂本の足もとに投げておいて、宇佐見は四人の男を立たせ、ショットガンの台尻で、男たちの顎を殴りつけた。男たちは一撃で膝を折り、芝生にころがった。 「さすがだな、黒島さん。裏のまた裏をかこうという算段だったらしいが、こっちも裏の裏を読むのは下手じゃないんだ」  堂本が言った。黒島は荒く太い息を吐いただけだった。  矢田がライフルを構え直した。最初に古屋の頭の右半分が砕け散った。隣にいた岸部の肩と顔に血と肉片がはねた。岸部は喉《のど》の裂けそうな叫び声をあげた。溝呂木は両腕で頭を抱え、体を折った。岸部の叫び声が銃声で消された。岸部の体がはね、そのまま隣の溝呂木の肩のあたりに倒れ込んだ。岸部の頭も、額から上が形を失っていた。 「溝呂木はあんたにやってもらう」  矢田はライフルを黒島の手ににぎらせた。黒島の頬と唇がはげしく痙攣《けいれん》した。 「やらなきゃ、あんたが先に死ぬことになるだけだ」  堂本が銃口を黒島に向けた。黒島は強く唇を引き結び、溝呂木に銃口を向けた。原が黒島の後頭部に拳銃を突きつけた。溝呂木は何か叫んだが、ことばにはならなかった。  銃声と共に、黒島はライフルを投げ捨て、その場にうずくまった。溝呂木の頭が砕け、車の窓を血で染めた。  三十分後に、三つの死体を積んだベンツが西伊豆の海の底に沈められた。  第三話 黒の葬送曲  九月末の週末——。  一台のハーレー・ダビッドソンが、西伊豆|賀茂《かも》村の山道を疾走していた。  夜ふけである。ハーレーはやがて横道にそれた。林の中のゆるやかな坂道だった。S字状に曲っている。登りきると古びた山荘に行きつく。  山荘の明りは見えない。建物は木立ちの中に濃い影をこしらえている。ハーレーのライトが、建物の外壁を斜めになめた。広い芝生の庭の入口に、車が三台停まっていた。  ハーレーは車の間に停められた。ライトが消された。エンジンが停まり、腹の底にひびくような爆音が止んだ。乗り手が降りると、オートバイのスプリングが柔らかくはずんだ。スタンドが立てられた。  山荘の玄関の明りがついた。ドアが開き、明りを背に受けて、女が出てきた。堂本英介《どうもとえいすけ》法律事務所の事務員、植田沙織《うえださおり》だった。ハーレーの男は、まっすぐ玄関に向った。沙織が男を迎え入れ、ドアを閉めた。  玄関の明りの下で、ハーレーの男が、フルフェイスのヘルメットを脱いだ。東京地検特捜部検事、辻正毅《つじまさたけ》だった。ダークブラウンのレザーのジャンパーに、そろいのスラックスという姿だった。 「待たせたかな?」 「それほどでもありません」  辻のことばに、沙織が答えた。沙織は先に立って、辻を一階のサロンふうの広間に案内した。部屋の明りは消えていた。奥のソファの横のフロアスタンドだけがついていた。  四人の男が、ソファに腰をおろしていた。三人が立ち上がって、辻に一礼した。堂本法律事務所の調査員、矢田直彦《やだなおひこ》、宇佐見明《うさみあきら》、原徹《はらとおる》の三人だった。 「似合うじゃないか、中年暴走族……」  ソファにかけたままの堂本英介が、にこりともせずに辻に言った。 「久しぶりにぶっとばした。いい気分だ」  辻も表情を変えずに応じて、ソファに腰をおろした。辻は坐ったまま、革ジャンパーを脱いだ。書類封筒を腹巻きのように腹にあて、ベルトではさんでいた。辻はそれを前のテーブルに置いて、口を開いた。 「入江周文《いりえかねふみ》をターゲットに選ぶとは、さすがに慧眼《けいがん》だな、堂本……」 「他にも的はあるのだろうが、尻尾《しつぽ》を出しやがらないだけのことさ」  堂本は、パイプを取出し、たばこを詰めながら言った。 「入江周文だって、尻尾は出していないぞ」 「だが、出しかかった。ちがうかね?」 「その通りだが、世間の眼にはまだはっきりとは、入江の尻尾は見えていない」 「うちには鼻のきく猟犬がいるんだ」 「そうか。矢田君は元は暴力団専従の刑事だったなあ」  言いながら、辻は書類封筒の中身を取出した。数点の顔写真と、書類のコピーだった。  入江周文は、実業家から政界入りを果した大物政治家である。代議士当選七回。閣僚経験四回というキャリアがある。  入江は九州の筑豊で、炭坑王と言われた入江|兼四郎《かねしろう》に乞われて養子に行き、兼四郎の事業を継いだ。当時から遣《や》り手《て》、辣腕家《らつわんか》という評判が高かった。  炭坑の斜陽化がはじまるとすぐに、入江周文は二部上場の大手建設会社の株を買占め、経営権を手に入れて社長におさまった。昭和三十四年、入江周文三十八歳のときだった。一年後には、入江周文は衆議院選挙に出馬、一回目の当選を果している。  その後、入江周文は、八事業所に及んだ入江|礦業《こうぎよう》の閉山を決定し、炭坑経営から手を引き、建設会社を軸に、観光、レジャー、ホテル経営、不動産業などに乗出し、どの事業をも軌道に乗せた。  入江周文が、与党の自由党の次期総裁選挙に打って出ることを表明したのは、二ヵ月前だった。入江周文は、初回の代議士当選以来、自由党の長老、平田郁雄の派閥に属していた。平田郁雄と、入江周文の養父、兼四郎とが、古くから親しい交わりをつづけた間柄だったのだ。  一年前に平田郁雄が病死し、入江周文が平田派を継いで領袖《りようしゆう》となった。そのときから、入江の総裁選出馬は、政界では広く予測されていたのだ。  平田郁雄の病没後、半年ほどして、入江周文の実弟が、医師法違反を犯していたことが明るみに出た。入江周文の弟の甲田則文は、大阪の国立病院に勤務している医師だが、ある暴力団幹部に頼まれて、虚偽の診断書を書いて渡していたのだ。その暴力団幹部は、覚醒剤取締法違反に問われて、未決のまま保釈中の身だった。彼は偽の診断書を裁判所に提出して、公判の引延ばしをはかっていたのだ。  甲田則文は、かつては兄の周文が経営する、筑豊の入江礦業の炭坑病院に勤めていた。一方、偽診断書を受取った暴力団幹部も、かつては筑豊に勢力を持っていた暴力団の組員だったことも判明した。そこから入江周文が偽診断書事件に介在していたのではないか、といった疑惑が生じたのだ。  疑惑は暴力団筋からの情報として、新聞記者の間に伝わってきたのだ。しかし、立証はできず、入江周文と暴力団との癒着の真相は、その件ではうやむやに終った。  だが、偽診断書事件が口火を切った形で、入江周文と暴力団との隠れたつながりが、何人かの匿名《とくめい》の証言者によって暴露され、マスコミをにぎわせはじめた。  証言者は、かつての入江礦業の労組関係者、土建業界の関係者たちだった。その者たちの話によると、入江周文は、入江礦業の労働争議や閉山に伴う人員整理などのとりまとめに、暴力団を使い、建設会社の経営に乗出してからも、工事受注に必要な情報入手のために、やはり暴力団を暗躍させ、利益を分けていた、というのだった。  入江周文は、それらの話を全面的に否定し、それが政治家入江周文をおとしめるための陰謀である、と釈明した。だが、一片の釈明文などでは、マスコミの火の手はおさまらなかった。入江周文と一部暴力団との黒い癒着を示す大小の事柄がつぎつぎに活字になった。  国会では野党がその問題を取上げ、特別調査委員会の設置を政府に迫った。野党の要求は入れられた。入江周文自身が、身の潔白を主張して、調査委の発足《ほつそく》を強く望んだからだった。  二ヵ月後に、特別調査委員会は、入江周文と暴力団との間に、利害関係があったことを立証するに充分な証拠は、発見できなかったとして、解散した。警察も内偵をつづけていたが、捜査を打切った。それが十日ほど前である。  その間に、大阪と東京で、二人の男が殺される、という事件があった。  大阪で殺されたのは、ビルの管理人の老人だった。東京では、暴力団堀切組の組長堀切清太郎が殺された。ビルの管理人は、盗みに入った男を発見し、格闘の末に刃物で刺されたものと見られた。暴力団の組長は、スーパーマーケットの駐車場に放置された自分の車のトランクの中に、射殺死体となって詰め込まれていた。  矢田は刑事時代に、堀切組の組長と何回か関わりを持っていた。堀切清太郎が福岡の出身で、入江周文が経営する建設会社の下請会社を経営していたことも知っていた。  堀切清太郎が射殺死体で発見されたのは、入江周文と暴力団との癒着の真相を究明するために、国会に調査委員会が設けられる直前だった。  堀切清太郎の死は、暴力団同士の抗争によるもの、とされた。  矢田は堀切清太郎の死に、何かキナ臭いものを感じた。直観のようなものだった。堀切清太郎は、若いときからやくざの飯を喰ってきた男だが、血なまぐさいことよりも金儲けのほうが性に合っている、という男だった。組同士の抗争をひき起すような男ではなかったのだ。  矢田は刑事時代の知合いの組員たちの間を歩きまわり、それとなく話を聞いてまわった。堀切清太郎が殺される三日前に、堀切組の組員が、酒場で他の組のチンピラと喧嘩をした、というのが抗争の原因とされていた。それくらいのことで、いきなり組長が狙われるというのも唐突に思えた。  一方、堂本は、手がけていたある民事訴訟の関係者から、大阪で殺されたビル管理人が、かつて入江礦業の労組の書記長だったという事実を、偶然に耳に入れたのだ。  そこで堂本は、特捜検事の辻正毅に声をかけたのだ。 「矢田君の鼻は、刑事を辞めてもにぶっちゃいないな。入江問題は政治的結着ってやつだよ」  辻はテーブルの上に、写真や書類のコピーを並べて言った。 「やっぱりそうか」  堂本が詰め終えたパイプたばこに火をつけて、テーブルの上の写真をのぞきこんだ。 「大阪のビル管理人殺しも、堀切清太郎殺しも、甘い捜査のまま打切られてるんだ。関係者の顔写真と調査資料のコピーをそろえてきた」  辻が言った。沙織が辻の前の写真と資料を手にとり、部屋を出て行った。コピーするためだった。 「入江をやるときめたのかね、堂本グループとしては?」  辻が堂本に訊《き》いた。堂本はうなずいた。 「広域暴力団、新生会の勢力下にある暴力団が相手だぞ」 「わかってる」 「入江周文が暴力団とつながってるという情報を流して、国会に特別調査委まで発足させた張本人が、同じ自由党の黒島隆三郎《くろしまりゆうざぶろう》だということも知ってるのか?」 「それは知らなかった。だが、ありうることだろうな。入江周文が総裁選に出れば、対抗派閥の黒島派としては票のとりまとめに苦労するだろうからな」 「入江周文を堂本グループが倒せば、正義は行われるだろうが、黒島隆三郎もほくそえむことになるんだが、いいのか?」  辻のことばに、若い宇佐見と原が小さく眉を動かした。二人は堂本を見やった。堂本の返事を待っている表情だった。 「結果は黒島をほくそえませることになるだろうな。だが、われわれはそれが目的で入江周文を裁くわけじゃない。黒島がほくそえむのは勝手だがね」  堂本は笑って、ことばをつづけた。 「辻はわれわれが入江を掃除してしまうことに、気乗りしてないのか? 水をさすようなことばかり言うじゃないか」 「そう聞こえるかね? けしかけてるつもりだがね」  辻も笑った。 「どのみち、政治家の動きなんて、田舎芝居みたいなもんだ。奴ら同士の利害などどうでもいい。法律で裁けない悪人を裁く。それ以外のことには、われわれは関心がないんだよ」  堂本はきっぱりと言い切った。矢田がうなずいた。宇佐見も原も納得した顔になった。沙織が部屋にもどってきた。  宇佐見と原が、大阪に飛んだ。  ビルの管理人を殺した罪で服役中の男の身辺を探るためだった。  堀切清太郎殺しの犯人の身辺調査は、矢田と沙織の仕事となった。  堀切清太郎を殺した、とされているのは、林幸一という名の二十三になるチンピラやくざだった。林幸一は、堀切清太郎の死体が発見される前に、自首して出ていた。林の自供で、スーパーマーケットの駐車場の車のトランクから、堀切の射殺死体が発見されたのだった。  林はそのまま起訴され、刑が確定して服役中だった。  林は生駒《いこま》組という名の暴力団の準構成員として、所轄署のブラックリストにあげられている男だった。郷里は福島県だが、高校を卒業して上京し、ガソリンスタンドで働きながら、暴走族の仲間に入り、やがて生駒組に出入りするようになったものだった。  逮捕されたとき、林は池袋のピンクキャバレーのボーイをしていて、同じ店のホステスと、板橋のアパートで同棲中だった。  矢田はそうした事を、所轄署が作成した林の調書で知った。矢田はまず、興信所の調査員を装って、林が住んでいた、板橋のアパートに足をはこんだ。  アパートの部屋は空き部屋になっていた。林が自首して出た数日後に、彼の同棲の相手だった、ホステスの佐野めぐみが、荷物をまとめて出ていったことが判った。  アパートの住人たちの間では、林幸一と佐野めぐみの評判は、芳《かんば》しいものではなかった。二人はしょっちゅう、はげしい諍《いさか》いをしていて、暴力沙汰も珍しくなかったらしい。また、二人はいくつか借金を抱えていたようすで、クレジット会社の集金人や、借金の取立屋らしい、柄のよくない男たちが、絶えず足をはこんできていた、という話だった。  めぐみの転居先は、アパートの管理人も知らなかった。荷物はレンタカーのトラックで、若い男がはこんでいった、ということだった。  めぐみはアパートの管理人に、林が殺人事件を引起したので、肩身がせまくてそこに住んでいられない、ともらしたらしい。引越しの理由としては、もっともなことと思われた。  矢田は、林とめぐみが働いていた、池袋のピンクキャバレーにも足をはこんだ。めぐみはすでに店を辞めていた。アパートを引越した時期と、めぐみが店を辞めた時期は重なっていた。店を辞めた理由も、アパートを引越すに当って、めぐみが管理人にもらしたのとそっくり同じだった。  矢田はピンクキャバレーでは、借金の取立屋を装って、店長に会い、話を聞いた。店長は、めぐみの新しいアパートも、勤め先も知らなかった。隠しているようすではなかった。矢田はその店で、めぐみと親しくしていたホステスの名を、店長から聞出した。  つぎの夜から、矢田は池袋のピンクキャバレーに、客として通いはじめた。行くたびに由美というホステスを指名した。由美は、その店で最もめぐみが親しくしていたホステスだった。店では矢田は、めぐみのめの字も口にしなかった。  通いはじめて三日目の夜に、矢田は店のはねた後で由美を食事に誘い、さらにラブホテルに誘った。由美はなんのためらいも見せずに、ホテルについてきた。 「ショートで二万円よ。五万円くれたら朝まで一緒にいてあげる」  ホテルの部屋に入るとすぐに、由美は少し眼をすえるようにして言った。矢田はわかってる、といった顔で、ポケットからむき出しの札の束をつかみ出した。無造作な手つきだった。すべては由美の関心を惹《ひ》くために、あらかじめ考えていた仕種《しぐさ》だった。矢田は重ねた二十万円余りの札の中から、七万円を取り分け、由美に渡した。 「ショートで帰るなり、朝までつきあうなり、好きにしていいよ」  由美の表情がくずれた。彼女はばつの悪さと媚《こび》とを一つに含んだように見える笑顔を見せた。 「ありがとう。いいの? こんなにもらっちゃって……」  由美は手ににぎらされた金と、矢田の手に残った札の束とをすばやく見やりながら言った。 「わるいと思ったらサービスにはげんでほしいな、由美ちゃん……」 「乞う、ご期待よ」  由美は体を寄せてきて、矢田の頸《くび》に腕を回してきた。 「まずひと風呂浴びようぜ」  矢田は豊かな由美の臀部《でんぶ》を、スカートの上からさすって言った。  由美は一足先に湯から上がり、バスタオルを体に巻きつけたままの姿で、ベッドに横たわっていた。枕もとには、二つのグラスに冷えたビールが注《つ》がれていた。 「気がきくな、なかなか……」  湯から上がった矢田は、ベッドの横に立ったまま、ビールのグラスを手に取った。 「あたし、飲まずに待ってたのよ」  由美はベッドの上で体を起し、グラスに手を伸ばした。その拍子に、胸を覆《おお》っていたバスタオルが解けて、腰のまわりにすべり落ちた。 「乾杯……」  矢田は笑った顔で言い、ビールを飲み干した。由美も一息にグラスをあけた。乳房はあらわにしたままだった。張りの強い乳房が、グラスを持った由美の腕の動きにつれて、かすかに揺れた。  グラスを置き、矢田はベッドに上がった。由美もグラスを枕もとに放り出すように置くと、体を横たえ、矢田の腕の中に抱かれた。  矢田は由美の頸すじに唇を這わせ、乳房に手をのばした。いつもの癖のように、矢田は自殺した妻の冴子のことを頭に浮べていた。  妻の冴子が、娘の友美を道連れにして死を選んで以来、矢田は金で自由になる女を相手に、欲望を処理してきた。そのたびに彼は、冴子が自殺してからの歳月を、ふとかぞえてしまう。ことさらそうする気はないのに、気がつくと、頭の中で指を折っているのだ。それだけのことで、格別の感情は湧かない。  頸すじを唇で柔らかくついばまれて、由美はいくらか大仰な声をもらした。由美の乳房は、矢田の掌からこぼれるほどの量感を備えていた。押すとたしかな手応えで押し返してくる。乳暈《にゆううん》が並より大きく、しかし乳首は小さい。淡いパステル調のピンクが、明りににぶく映えている。  矢田は細くとがった乳首を、掌の中心に軽くあて、乳房と共に静かにさするようにした。同時に片方の乳首を舌でもてあそんだ。由美の腰が小さく反《そ》り、口から細く尾を曳《ひ》くふるえるような声がもれた。その声には、わざとらしさは消えていた。  矢田は舌と唇で乳首をころがしながら、由美のしげみに手を伸ばした。生えぎわのそろった、目のつまったしげみだった。色も濃い。だが、見かけよりは柔らかいヘアが、矢田の指をくすぐった。  由美はすっかりうるんでいた。矢田がクレバスを分けると、由美は高い声を放って自分から大きく体を開いた。そうしながら、由美の手が、矢田の腰をさぐり、バスタオルを解いた。由美は矢田の性器をやんわりとにぎり、先端に指を這わせてきた。  矢田は、うるみをひろげている、由美のクレバスを静かに指で上下になぞった。とがった固いもの、柔らかく指にまといついてくるもの、沼のように指を誘い込もうとするものなどが触れた。  矢田は固いはずみを備えている、小さなとがったものの上に、指を踊らせた。残りの指が、由美のはざまの中心の、柔らかいくぼみのまわりを、そっと動きまわった。 「すごい、すてき。上手なんだもん……」  由美があえぎながらことばを吐いた。 「佐野めぐみを探してるんだよ。人に頼まれてね。力貸してくれるだろう?」  矢田はだしぬけに言った。睦言《むつごと》のつづきのような口調に聞こえた。由美は閉じていた眼を開けて、矢田を見た。とろんとした、濡れたような眼だった。格別に不審を抱いたようすはない。 「めぐみちゃんは、新宿のフローネってクラブにいるわよ」  呆気《あつけ》なく返事が返ってきた。由美の声はけだるげにかすれていた。 「住んでるところは知らないかい?」 「西新宿のキングス第二マンションというところのはずよ。訪ねていったことはないんだけど」 「一人でそこに住んでるのかい?」 「だと思うわ。でも、誰に頼まれて、めぐみちゃんを探してるの?」 「おれは借金の取立屋なんだよ」 「あら、めぐみちゃん、まだ借金の残ってるところがあったの?」 「おれは銀座のほうの、ホステス専門に金を貸してるサラ金会社に取立て頼まれたんだけど、二百万近く残ってるんだよ」  矢田は由美の体をまさぐる手を休めずに、出まかせを並べた。 「二百万も……。あの子、新しく勤めることになったクラブから前渡金《バンス》が入ったから、借金は全部払えた、なんて言ってたのよ。それは嘘じゃないと思うの。あの子がお店辞めたあとで、借金取りが来たのは、あんたがはじめてだもん」 「それまでは借金取りがよく来てたのか?」 「もう、しょっちゅう。小口は体で払うんだ、なんて自分で言ってたもの」 「どうしてそんなに借金ができたんだろう?」 「シャブやってたって話よ。同棲してたチンピラに仕込まれたらしいの。そのチンピラはなんとかって組の組長を殺して、いま刑務所にいるけどね」 「ひでえのと同棲なんかしたもんだな」  矢田は二本の指を由美の中にくぐらせながら、何も知らぬふうを装って言った。 「そうなのよ。やっぱり男のほうがよかったのね、きっと……」  由美は、くぐり入ってきた二本の指を、さらに深く捉《とら》えようとするかのように、腰をうごめかせた。 「男のほうがよかったって、どういう意味なんだい?」 「めぐみちゃんはね、両刀遣いっていうの? そのチンピラと暮す前は、レズの相手と暮しながら、その子を女子大に通わせてたのよ。結局、チンピラのほうに走っちゃったけど」 「両刀遣いねえ。由美ちゃんはその気はないのか?」 「あたしは男ひとすじ。ねえ。もう話やめて。気が散っちゃうわ」 「すぐに取りもどせるさ」  矢田は言い、拇指《おやゆび》を由美の小さなとがったものに強く当てたまま、くぐらせた二本の指を動かしはじめた。矢田も話を打切る気になっていたのだ。由美は腰を反らし、すぐにわれを忘れたような高い声を放ちはじめた。  宇佐見と原の調査も進んでいた。  大阪の城東区今福西のビルに押入り、管理人の天本忠司を殺したのは、細谷昇という名の、三十一歳になる喫茶店の経営者だった。  細谷は二年前に、同じ城東区の今福南に、コーヒーとスナックの小さな店を開いたが、経営に行き詰り、一千八百万円余りの借金に苦しむ結果となり、事務所荒しを思い立った、と自供していた。  細谷が押入ったビルには、サラ金の会社や不動産会社、小さな商事会社などが、テナントとして入っていた。細谷は夜中にビルに押入り、軒並みに事務所を荒しているうちに、夜警とビル管理を兼ねてそこに住込んでいた天本忠司に発見され、格闘の末に刃物で殺してしまったようすだった。  細谷の家から発見された、登山ナイフと衣類から、ルミノール反応が検出され、現場にも細谷の指紋が残されていたことから、彼の犯行と断定された。  宇佐見と原は、調書にあったそれだけの記述を予備知識として、大阪に向ったのだ。  宇佐見は、殺人犯細谷昇の妻子の居所を探しはじめた。原は殺された天本忠司の生前の暮しぶりを調べるほうにまわった。  細谷昇の妻子は、今福南の店をたたんで、東大阪市に越していた。細谷が逮捕されて間もなくのことだった。夫が盗みに入って人を殺したとあっては、やはり肩身がせまかったのだろう。  東大阪には、細谷夫婦の知合いはいない。細谷の妻の孝子は、五歳の息子と共にそこに移り住んで、バーに勤めていた。絵美という名の小さなバーだった。  宇佐見は、昼間は大阪の街をうろつき、夜は東大阪のバー絵美に顔を出す、という日を数日送った。絵美では最初から宇佐見は、細谷孝子に関心のあるふりをして、陽気に飲んだ。孝子もまんざらではない反応を示した。孝子には、服役中の殺人犯の夫がいる、といった屈託のあるようすは見えなかった。  宇佐見が、昼間、大阪の街を歩きまわったのは、細谷昇の借金のことを調べるためだった。細谷が逮捕され、刑が決まった後、債権者たちが孝子のもとに取立てに詰めかけたようすはなかった。宇佐見はその点に不審を抱いたのだ。  二千万近くもの多額の負債を負った男が、盗みに入って人を殺し、その妻が喫茶店をたたんでよその土地に越したとなれば、債権者たちは手をこまねいているはずはない。だが、彼らは一人として、城東区今福南の店にも、東大阪の孝子の転居先にも、足をはこんだようすがないのだ。  それに、孝子にも転居先を隠そうとした気配はなかった。彼女は経営していた喫茶店兼住まいの近隣の者たちに、はっきり東大阪の転居先を告げて、出ていっていた。そのために宇佐見も、孝子の引越先を探すのに、苦労をせずにすんだのだ。  細谷の警察での調書には、彼が金を借りていた、町金融の業者名がいくつか挙げられていた。宇佐見はそれらの業者の間を歩きまわって、話を聞きだした。  細谷が経営していた喫茶店は、その後、借り手が現われず、三ヵ月を越したそのときも、空き店のままとなっていたのだ。宇佐見はその店を借りたいのだが、前の経営者が借金に追われて事件を起したと聞いて、気になっている、という口実をもうけて、町の金貸しの間を歩きまわったのだ。  金貸したちは、大阪弁特有の言いまわしで、のらりくらりと答をはぐらかした。しかし宇佐見もしたたかだった。はぐらかされると、彼はそのまま引きさがり、つぎの日にまた出かけて行って、愛想のいい笑顔で同じ質問をくり返した。  根負けしたのは金貸したちのほうだった。そうやって、宇佐見は一週間かけて金貸したちの間を歩きまわり、細谷昇の二千万円近い負債が、すべて完済されていることを知った。細谷昇の借金は、高知市に住んでいる細谷の実母が、土地を処分した金で肩替りして払ってくれた、というのが、金貸したちの返事だった。  宇佐見は、その話を鵜呑《うの》みにしなかった。聞いた話は必ず裏を取れ——刑事時代に宇佐見は、上司だった矢田にきびしくそう仕込まれていた。宇佐見は高知に足をはこんだ。彼はそこで登記を調べ、細谷の母が売るほどの土地も山林も所有していないことを突きとめたのだ。  細谷の母は、長男夫婦と共に小さな酒屋をやっていて、二千万円近くもの大金を右から左に動かせる暮しには見えなかった。彼女名義の不動産は、酒屋と住まいを一緒にした建物とそこの土地だけであった。その土地も所有者は変っておらず、抵当にも入っていなかった。  細谷の事件を扱った所轄署は、そこまで調べの手を伸ばしてはいなかったのだ。現場に残された細谷の指紋や、彼の家から出てきたナイフや衣服のルミノール反応だけで、居直り強盗による単純な殺人事件として処理してしまったもの、と思えた。  宇佐見は、大阪に戻った。  原の調べも進んでいた。  細谷に殺された、ビル管理人の天本は、老妻と二人だけで、管理を任されていたビルの七階に住んでいた。  天本が殺されたのは、三階の商事会社の事務所の中でだった。七階で寝ていた天本の妻は騒ぎには気づかずにいたらしい。朝になって夫の姿が見えないことを不審に思い、下に降りて行って、事件を知ったのだった。  原は、天本の生前の暮しぶりや人となりを聞込んでまわるうちに、天本が入江周文と暴力団のつながりをマスコミに暴露した証人の一人にちがいない、という確信を抱いた。  原は天本の碁仇の一人を探し出したのだ。元は小学校の教師だったという、囲碁好きなその老人は、天本が死の数ヵ月前から、にわかに金まわりがよくなり、外で酒を飲んでは、いまに世間が驚くようなことが起きる、というようなことを、何度か口走ったことがある、という話をしてくれた。  気のいい老人だった。彼はルポライターだという原の偽の肩書きを疑おうとせず、穏やかな口調で質問に答えてくれた。原は犯罪に巻込まれて命を落した善良な市民たちの悲劇を集めた本を書くために、取材にまわっているのだ、と老人に信じこませていた。  同じ口実で、原は天本の遺された妻にも会った。天本の老妻は、一人娘の名古屋の嫁ぎ先に引取られていた。あたりさわりのない話をつづけながら、原は天本が入江礦業の労働組合で、三期にわたって書記長をつとめていたことを確めた。天本はかなり戦闘的な書記長だったらしい。  入江周文が炭坑の労働争議のとりまとめに、暴力団を使っていたことは、天本の妻も知っていた。争議中に天本の炭住に、深夜、暴力団の幹部が現われて、長時間居すわったこともあったらしい。『長い金でケリをつけるか、丸い金でケリをつけるか』といった科白《せりふ》を、そのとき暴力団の幹部が吐いたことを、天本の妻は覚えていた。長い金というのはドスのことであり、丸い金というのは札束のことだ、とすぐにわかった。ドスで争議を切り崩されるほうがいいか、組合幹部への賄賂《わいろ》で争議を終結に持ち込むほうがいいか、という脅しと懐柔のことばだった。  結局、その争議は、丸い金でケリがつけられた。天本も、命が惜しい、と妻に口惜《くや》しげに語ったというのだ。天本の妻は、深夜に炭住に脅しにやってきた、暴力団の幹部の名前を憶えていた。 「忘るるもんですか、あんた。うちのとがあんなに口惜しか顔ば見せたことはなかったですもん」  天本の妻は、お国|訛《なま》りをまじえて言い、炭住に脅しに来たのは、筑豊一帯を縄張りにしていた島根一家の中の、柿田組の幹部で、一之瀬勇次という男だった、と明言した。  さらに、天本の妻は、原のさりげない質問に答えて、夫が死の数ヵ月前から、数人の新聞記者と会っていたらしい、と語った。天本の妻は、それを夫に確めたわけではなかった。ただ、ビルの七階の居室の事務机の上に、新聞記者の名刺が何枚かのっているのを目に留めたことがある、と言った。  そこまで聞いて、原は聞込みの目的は達した、と考えた。  天本の碁仇だった元教師の話によれば、不慮の死を迎える前に、急に金まわりがよくなり、酔って、世間が驚くようなことが近く起る、と口走っていたというのだ。そして、彼の居室の事務机の上には、数枚の新聞記者の名刺が置かれていたという。  そうしたことから原は、天本がマスコミ向けに、入江周文の旧悪を暴露した一人にちがいない、と確信した。金まわりがよくなったのは、口を開くのをしぶる天本に、記者の誰かが取材の謝礼を贈ったか、あるいは天本がそれを要求したかしたものだろう、と思われた。それは、堂本たち掃除屋グループにとっては、もはやどちらでもよい事柄だった。  沙織は、西新宿のキングス第二マンションの九階の一室の、ベッドの上にいた。彼女は素裸だった。横に佐野めぐみが横たわっていた。めぐみも身に一糸もまとっていない。  めぐみは、沙織に半ば胸を重ねるようにして、沙織の乳房を手でさすり、唇を重ねていた。沙織も舌をからませ、めぐみの両の脇腹や臀部を、手で静かにさすりつづけている。  沙織は矢田の指示で、佐野めぐみがつとめている新宿のクラブ、フローネに、ホステスとしてもぐり込んだのだ。二週間近く前である。めぐみに近づき、堀切組の組長の堀切清太郎を殺した、林幸一の話を聞出すためだった。  矢田は池袋のピンクキャバレーのホステス由美から、佐野めぐみがバイセクシュアルであることを聞き、沙織の起用を思いついたのだ。女同士ならめぐみも気を許すはずだった。まして、レズビアンの相手ならばなおさらだろう、と矢田は思った。  沙織は矢田の話を聞いてもたじろがなかった。彼女はフローネにもぐり込んで五日目には、酔ったふりをして、めぐみの部屋に泊り込んだ。めぐみは寝入っているふりをしている沙織の体に触れてきた。沙織は拒まなかった。  それ以来、めぐみは店の帰りに、毎晩のように沙織を自分のマンションの部屋に誘った。沙織は断わりつづけた。めぐみをじらすためだった。そして、一週間が過ぎたその夜、ようやく沙織はめぐみの誘いに応じたのだ。めぐみが充分にじれていることが見てとれたからだった。  タクシーで店からマンションに向うときから、めぐみははしゃいでしゃべりつづけ、さりげないふうを装って、沙織に体をすりつけてきた。部屋に入るとすぐに、めぐみは沙織にシャワーを浴びるようにすすめた。沙織には相手の魂胆が見えすいていた。案の定だった。沙織がシャワーを浴びているところに、めぐみもやってきた。  体を洗ってやると言って、めぐみは石鹸をつけたスポンジを沙織の体に使いはじめたが、その手はすぐに露骨な愛撫に変った。沙織は毛すじほどの嫌悪感も表に出さず、息をはずませ、自分からめぐみの乳首を吸いにいった。  そのときから、めぐみの愛撫は蜒々《えんえん》とつづいているのだ。沙織の中で嫌悪感が次第にうすれかけていた。ひたひたと体を浸《ひた》してくる甘美な感覚に、沙織は何度も身を任せてしまいそうになった。  めぐみは重ねていた唇を離すと、沙織の乳首を舌で掃くようにしはじめた。めぐみの片手は、しげみに薄く覆《おお》われた、沙織の小さなふくらみを撫でさすっていた。脇腹を押してくる他人の乳房の感触は、はじめのうち沙織にはどことなく気味わるく思えたが、それもいまは馴れてしまっている。  めぐみはゆっくりと体をずらしながら、唇を沙織の胸から腹へと移していった。沙織には、めぐみの唇の行きつく先が予想できた。嫌悪の思いと、期待する気持とが、ともに揺れていた。沙織は拒むわけにはいかなかった。めぐみの気持をしっかりと惹《ひ》きつけなければ、林幸一の話は切出せなかった。  めぐみは、沙織のしげみに頬をすり寄せた。沙織は熱い息が、股間にかかるのを感じて、かすかに体を固くした。  めぐみの舌が、沙織のクレバスを静かに上下になぞりはじめた。そうしながら、めぐみは何度も、感きわまったような声と共に深い吐息をもらした。  めぐみの固くとがった舌が、沙織のクレバスを押し分けた。隠れていた二枚の花びらに似たものが、掘り出されるように現われた。濡れてうっすらと光る花びらを、めぐみは唇で柔らかくついばんだ。舌がそれを左右にそよがせた。沙織は花びらの上の敏感な部分に、じらされるような刺激を覚えた。思わず口から声がもれた。  めぐみは待っていたように、舌を上に移した。体の芯を羽毛でくすぐられるような、繊細でひそやかな快感が湧いてきて、沙織は息を詰めた。詰めた息を吐くと、それはそのままあえぎの声に変った。  めぐみは舌と唇を動かしながら、腰を浮かし、太腿《ふともも》の間に沙織の片脚をはさみつけた。膝のあたりに、うるみをたたえためぐみの性器が押しつけられるのを、沙織は感じた。そこに性器を強く押しつけたまま、めぐみは腰をうごめかせつづけた。  沙織は少しずつ、残っていた理性を失っていった。彼女はめぐみの舌の愛撫を受けながら、識《し》らぬまに腰を反らし、高い声を放っていた。ぐいぐいと削《けず》りこんでくるようなめぐみの舌の動きは、次第に力強さを増してきて、沙織から思考力を剥《は》ぎとっていった。  息が詰まるほど感覚が高まり、沙織は両手でシーツをつかみ、両脚を強く伸ばしたまま、腰を反らした。そのまま何かがはじけるような、鋭い快感に包まれて、沙織は声を放った。反っていた腰が、切って落されでもしたように沈み、沙織の全身を短い痙攣《けいれん》が貫いて走った。 「かわいい子……」  めぐみが呟くように言い、ぴったりと体を重ねてきた。二人の乳房が上下に重なり、一つに溶け合ったように形を変えた。しげみが合わさったままもつれ合った。沙織はめぐみのクレバスと自分のそれとが、強くこすり合わされるのを感じて、ふたたび声を放った。少し遅れて、めぐみも唸《うな》るような声をあげ、唇を寄せてきた。めぐみはそよぐようにして舌をからませながら、たてつづけに全身をわななかせた。  それがめぐみの長い愛撫の終りだった。そして、沙織の仕事のはじまりでもあった。 「すばらしかったわ。あたし、もう放さないわよ」  めぐみは沙織の胸に頬をつけたまま、彼女の肩を抱きしめた。 「あたしもよ。男なんていらないと思ったわ。はじめてよ、こんなの」  めぐみの髪を手の指で梳《す》くようにしながら、沙織は言った。 「ねえ、一緒に住まない? 二人で……」 「それは困るの」 「どうして? 男と別れられないの?」  めぐみは顔を上げ、訴える眼差しを沙織に向けて訊いてきた。 「男は死んだわよ。林幸一っていう生駒組のチンピラにピストルで撃たれたことになってるわ」  沙織は、めぐみと眼を合わせたまま、瞬《またた》きもせずに言った。めぐみは強く息を引いた。沙織の体の上で、めぐみの体がはじかれたように鋭くはねた。 「おどろかないでもいいのよ、めぐみさん。あたし、あんたに抱かれて気持が変っちゃったわ」  沙織は眼を閉じて、力なく笑ってみせた。めぐみはことばを失ったまま、のろのろと沙織から離れ、ベッドの上に横坐りになった。眼は大きく見開かれたまま、沙織に注がれていた。その眼には、たったいままで見られた快楽の名残りは消え失せ、怯《おび》えの色が生れていた。 「あたし、堀切組の組長の女だったの。組の若頭に言われて、林幸一の話をあんたから聞き出すために、こうしてあんたに近づいたのよ。ごめんね。でも、もういいの。あたしは堀切清太郎という男とは関係があったけど、堀切組には義理なんかないんだもの」 「どうして、堀切組の若頭は、あたしから林幸一の話なんか聞き出そうとしてるの?」 「あたしにも詳しい事情は教えてくれないのよ。ただ、若頭は組長を殺したのは、林幸一じゃないし、組長が殺された理由も、堀切組の組員と林幸一との喧嘩が原因じゃないって考えてるらしいのよ。他に理由があるはずだって……」 「幸一が堀切組の人と歌舞伎町の飲み屋で喧嘩したのは事実よ」  めぐみが言った。 「でも、堀切組の組長を殺したのは、林幸一じゃないんでしょう?」  たたみかけるように、沙織は言った。めぐみは眼をそらして答えなかった。沙織は確かな手応えを感じながら、わざと溜息をついてみせた。 「堀切組の若頭は、人を使って林幸一のことを調べたのよ。それで、彼と同棲していたあんたのことも判って、あたしを近づけさせたの。若頭は、あんたが知ってることを話さないようだったら、あたしをだしにしてあんたを捕《つか》まえて、口を割らせる肚《はら》なのよ。若頭はあんたが林幸一のおかげで、シャブ中毒になってるってことも知ってたわ」  めぐみの顔に、すくんだような表情が現われていた。沙織はめぐみの手をとって握りしめた。 「ねえ、二人でどこかに逃げようよ。堀切組の連中の眼の届かないところに。でなきゃ、あんた、ひどいめにあうわ。あたしだって、あんたとこんな仲になっちゃったんだもの。若頭にあんたをかばってることがわかったら、ただじゃすまないわ」 「どこに逃げる?」 「若頭にうまいこと言って、あたしが時間を稼ぐわ。その間に逃げる先を考えよう、二人で……」 「ありがとう。ごめんね……」  めぐみはふたたび、沙織の胸に身を投げかけてきて、すすり泣きをはじめた。沙織はふるえているめぐみの背中を撫でてやりながら言った。 「あんたもやくざな男のために苦労させられるわね。好きだったの? 林幸一のこと」 「好きなもんですか。あたし、あの男に強姦された上に、シャブ中毒にさせられたのよ。でも、あんな奴、かばうわけじゃないけど、堀切組の組長を殺したのは、幸一じゃないはずよ。幸一は、生駒組の組長にじかに言われて、身替りで自首して出たのよ。まとまったお金もらってね」 「もういいわよ、そんなこと、どうでも」  沙織は言った。それだけ聞けば充分だった。堀切清太郎を殺した真犯人の名を、めぐみが知っているとは到底思えなかった。  宇佐見と原が、大阪から帰ってきた。  宇佐見は、細谷昇の妻の孝子をベッドに誘い、話を聞出すことに半ば成功していた。宇佐見は、持ち前の甘いマスクと、やさしげな言動で、細谷孝子の女心をくすぐり、心を開かせ、殺人犯の妻という立場に同情してみせて、彼女に口を開かせたのだ。  金ほしさに事務所荒しを思いついて、ビルに押入った、という細谷の自供には、やはり裏があったのだ。ビルの管理人の天本忠司は、はじめから誰かに命を狙われていたのだ。細谷の自供した犯行と動機は、天本忠司殺しを、偶発的なものに見せかけるためのカムフラージュにすぎなかった。 「ほんまはうちの人、人殺しやなんてしてへんのよ。あの人、借金抱えて往生《おうじよう》しとったさかいに、金欲しさに、頼まれて犯人の役を引受けただけなんよ。身替り犯人や。あの人の指紋も、ナイフやシャツの血の跡も、みんなわざと見つかるようにしむけてあったんよ。あの人、警察の人が来やはる前の晩に、うちに言うてたわ。孝子、人殺しの身替り犯人引受けたら、一千八百万円の借金は全部払えるんや。刑務所に入ったかて、模範囚としてつとめたら、長うて五、六年のもんやろ。五、六年で一千八百万円の銭つくること、でけへんで。借金には利息がつく。ごっつい利息や。五、六年の間には、一千八百万じゃすまへん。いま、人殺しの犯人の替りにくさい飯喰うたら、借金が全部ケリついてしまう。そら世間の連中は、人殺しや、人殺しの家の者《もん》やとうしろ指さしよるやろ。かまへんがな。銭のためや。好きなように言わしとけ。ほんまは人殺ししてへんのやから、平気や」  細谷孝子は、裸でベッドの上に坐り、泣きながらそういう話をした。しかし、孝子は、金を餌にして夫に殺人犯の身替りをすすめたのが、どこの誰であるかは、知らないようすだった。細谷昇は、そのことについては一切、孝子には話さなかったという。詳しいことは知らずにいたほうが、余計なことを考えずにすむ、と細谷昇は言ったらしい。  東京と大阪で集められた、林幸一と細谷昇の情報が整理された。状況は明白だった。  堀切清太郎と天本忠司は、入江周文と暴力団の黒いつながりを隠蔽《いんぺい》するために、殺されたのだ。堀切と天本はともに、入江にとっては危険な証言者だったにちがいない。  殺しの真の目的を擬装するために、林幸一と細谷昇というダミーが仕立てられ、殺しの動機もすり替えられた。  堂本を中心にして、作戦が練られた。  的の一つは、すでにはっきりしていた。林幸一を身替り犯人に仕立てた、暴力団生駒組の組長である。生駒組の組長を捕え、入江周文のスキャンダルと、その隠蔽工作の全貌を吐かせる——作戦はその一点に集約された。矢田以下の四人のメンバーに、役割が与えられた。全員が動きはじめた。  矢田は、刑事時代に、生駒組の名前は聞き知っていた。しかし、組長の顔や名前までは知らなかった。大きな勢力を持った組織ではなかった。大きな事件を起した組でもなかったのだ。矢田が知っているのは、それが広域暴力団新生会の傘下《さんか》にある組だ、ということぐらいだった。  矢田は久しぶりに警視庁に足をはこんだ。親しかったかつての同僚に頼んで、生駒組に関する資料を手に入れた。ある民事事件の調査に必要だから、という矢田の口実を疑うこともなく、かつての同僚は快く力を貸してくれた。  生駒組は、組長生駒春男以下二十七名から成る暴力団だった。池袋から練馬までの東上線沿線に勢力を張っている。主な資金源はラブホテル、スナックなどの利益と、花札|賭博《とばく》で、賭博で過去に三回の手入れを受けていた。事務所は板橋区大山町にあり、組長の自宅は、やはり板橋区常盤台にあった。  警視庁の資料に添えられていた写真で見ると、生駒春男は頭のはげあがった丸顔の男で、眼が細く、どこにもやくざらしい凄味《すごみ》の感じられない顔立ちに見えた。小心な初老の男といった印象だった。年は五十八歳である。  矢田は常盤台の生駒の住んでいるマンションの前に車を停め、張込みに入った。望遠レンズを装着したカメラを用意していた。  一日目は、生駒は姿を見せなかった。二日目の午後遅くに、白いベンツがマンションの玄関の前に横付けにされた。中から二人の男が降りてきて、マンションの中に消えた。一人は濃紺のスリーピースを着込んでいた。一人は背広の襟にオープンシャツの襟を重ねてきていた。二人とも三十前後に見えた。一眼で暴力団員とわかる人相と雰囲気を持っていた。  十分余りしてから、その二人の男をうしろに従えた、大柄な初老の男が出てきた。警視庁で見た写真を思い出すまでもなく、それが生駒春男であることが、矢田には判った。矢田は車のフロントガラスに、カメラの望遠レンズのフードを押しつけるようにして、シャッターを切りつづけた。  ノーネクタイの男が、ベンツの後部ドアを開けた。生駒春男は、車に乗り込んだ。スリーピースの男は助手席に乗った。ノーネクタイがハンドルをにぎり、ベンツは矢田の車の鼻先をかすめるようにして、走り去った。  矢田が写した生駒の顔写真が、堂本以下全員に配られた。  矢田、宇佐見、沙織の三人が、交替で生駒の行動をマークしつづけた。生駒を襲って捕える計画をたてるために、彼の日常の行動を知っておく必要があった。  原には、例によって盗聴機を密《ひそ》かに仕掛ける、という大仕事が残っていた。原にはそれは、手馴れた仕事になりつつあった。  原は電電公社の職員になりすまして、生駒のマンションの部屋を訪れた。生駒の妻と思える、三十七、八歳の小柄な女が、応対に出てきた。髪を栗色に染めていて、吐く息がかすかに酒くさかった。  原は電電公社の技術サービス員と名乗り、電話の利用状況に関するアンケートを取りに来た、と言った。原の用意したもっともらしい質問に、女は面倒くさそうに答えた。最後に原は、電話機と回線の点検をさせてくれと言った。女は疑うようすもなく、原を中に入れた。  中は四LDKという間取りになっていた。原は間取りを頭に入れた。電話はリビングルームのサイドボードの上にあった。原は電話機の底板をはずしたり、配線をたどったりした。女はしばらくリビングルームの入口に立って、原のすることを見ていたが、そのうちに、隣の部屋に引込んでしまった。  原は誰にも邪魔されることなく、堂々と電話に盗聴機をセットすることに成功した。原は点検カードに見せかけた紙片に、借りた印鑑まで捺《お》してみせて、引揚げた。  入江周文の自宅は、渋谷の南平台にあった。静かな屋敷町である。そこでは原は電電公社の下請工事人になりすました。入江周文の家の電話に盗聴装置をセットするためだった。  原は、車体に〈新和電工〉と書かれた軽トラックを道の端に停め、すばやく仕事をすませた。軽トラックはそういう仕事のときに使うために、わざわざ堂本が買い求めていたものだった。原は入江邸を巡視する警官に見咎《みとが》められることもなく、引込線の端子に、盗聴機をセットした。  生駒春男の行動をマークする仕事は、矢田たちによって十日間つづけられた。  生駒は週に一回、大塚のマンションに住む愛人宅に泊まる以外は、常盤台の自宅に帰ってくる。帰宅時間はまちまちだが、午前三時より遅くなることはない。  毎日、午後二時から三時の間に、マンションを出て、大山町の事務所に向う。夜まで事務所から一歩も出ないときもあれば、近くのゴルフの練習場に出かけることもある。  夜になると、池袋から銀座まで足をのばして、クラブをはしごして飲み歩く。  それが生駒のおよその日常のようすだった。ときおりは、自分が経営するラブホテルやスナックを見回ることもあるらしい。そういうことが、矢田たちがマークをつづけた十日間に、一度だけあった。  生駒は自分では車を運転しない。どこに行くにも、二人の男を連れている。連れ歩く男二人の顔ぶれは変らない。矢田が生駒の写真を撮ったとき、そばについていたスリーピースとノーネクタイの二人だ。ボディガード兼運転手というところらしい。  二人は生駒が大塚の愛人のところに行くときも付いていく。生駒が一人になるのは、マンションの玄関でベンツを降り、エレベーターで愛人の部屋に行くまでの間だ。それは自宅に帰るときも同じだった。  二人の男は、常盤台のマンションでも、大塚のマンションでも、生駒を迎えに来たときは部屋まで足をはこぶが、送ってきたときは、マンションの玄関先で別れるのだ。  堂本たちは、常盤台のマンションの中で、生駒春男を捕えることに決めた。  すべての準備がととのった。  堂本は夜ふけを待って、四谷の事務所から入江周文の自宅に電話をかけた。入江の自宅の近くには、原が車の中に待機していた。入江の帰宅を確認し、電話を盗聴してテープに収めるのが、原の与えられた仕事だった。  宇佐見は常盤台の、生駒のマンションの近くに停めた車の中にいた。宇佐見の仕事も、原と同じだった。  矢田と沙織は事務所に残っていた。入江周文が帰宅した、という連絡の電話が原から入ったのは、午後十時半だった。午後十一時には、生駒がマンションに入った、という電話が、宇佐見からかかってきた。  それを待って、堂本は入江邸の電話番号をダイヤルしたのだ。  電話には女が出た。入江の家族の誰かか、家政婦かだろう、と思えた。堂本は落着いた低い声で、検察庁の者と名乗り、入江先生に極秘にお伝えしたいことがある、と言った。代って出てきたのは、入江の秘書と名乗る男だった。  入江に代って話を聞く、と言い張る男を、堂本は軽くあしらった。 「人を介して伝えるわけにはいかない話です。私は先生の政治生命を憂える者として、自分の置かれた検事という立場を離れて、こうしてお電話をさしあげたのです。先生にそうお取次ぎください。名前は直接先生がお出になったら名乗ります」  堂本はそう言った。検事ということばが、秘書に緊張を与えたのはたしかだった。いくらもたたないうちに、受話器にテレビで聞き覚えのある入江周文の声がひびいてきた。 「入江だが……」 「わるい知らせです。極秘ですが、大阪地検に、天本忠司殺しを洗い直そうという動きが出ています。天本忠司を殺したことになっている細谷昇の負債を、細谷の母親が肩替りして返済したことにしたのは、失態でしたね。細谷の母親にそれだけの経済力がないことが、ひょんなことから判ったんです。先生、ご用心下さい」  堂本は一気に言い終えると電話を切った。  三十分後に電話が鳴った。堂本が受話器を取った。 「原です。おどろきました。入江は黒島隆三郎に電話しましたよ。テープ流します」  原の声につづいて、録音機のスイッチを入れる音がした。つづいてテープに収められた入江と黒島のやりとりが受話器に流れてきた。やりとりは短かった。 「入江です」 「やあ、黒島だ。なんですか?」 「約束がちがうんじゃありませんか、黒島先生。私が手に入れた極秘情報によると、大阪地検が、例のビル荒しの殺人事件を洗い直すそうですよ」 「そんなばかなことは起りっこない。どういう筋の情報なんだね、それは?」 「地検内部から出た情報です。事実だとしたら黒島先生、また抑えてもらえるんでしょうね?」 「事実ならね。わたしには考えられんがね」 「私の身辺がもう一度ざわつくようなことになったら、この前の約束は反古《ほご》にしますよ。冬には私が立つなり、代りを立てるなりすることになる。そうお考えください」 「入江君、きみも短気だな、あいかわらず。もっともわたしはきみの年のころはもっと短気だったがね。黒島隆三郎、やると言ったことはやります。まかせておきなさい」 「おことば、しっかり耳に入れときます」 「それより、きみの言う極秘情報の出所のほうが気になるな」 「出所は調べさせてお知らせします」 「頼むよ。近ごろは名のある政治家が謎のまま失踪することがつづいてるだろう。テロ組織の暗躍という見方も出てきておるぐらいだからな。きみの言う秘密情報が、テロ組織の謀略ということもありうるんでね」 「わかりました」  テープの声はそこで終っていた。原も電話を切った。 「入江と黒島は、冬の総裁選で取引きをしてるんだな。入江の暴力団との癒着問題の捜査を打切らせたのは、黒島だよ。奴が警察と国会の調査委員会に、圧力をかけたんだ」  堂本は、うす笑いを浮べて言い、電話で聞いたばかりのテープのやりとりの内容を、矢田と沙織に伝えた。 「入江の暴力団癒着問題を黒島がもみ消す。入江は冬の総裁選で出馬を辞退し、自分の派閥の票をとりまとめて黒島派に協力する。代りに黒島派は次かその次に、総裁の席を入江にまわす——そんなところでしょう」  矢田が言った。堂本はうなずいた。  十二時近くに、宇佐見から電話が入った。入江が生駒に電話をかけてきた、という知らせだった。堂本は、入江と生駒の電話のやりとりを収めたテープを、電話を通して聞いた。そのやりとりも短かかった。 「入江だよ」 「生駒です。ごぶさたしてます」 「大阪がまずいことになりそうだ。あの、喫茶店やっていたという男の借金の件、あれはミスだったな」 「ミスといいますと?」 「借金を肩替りしたのが、あの男の母親じゃないってことが判ったらしいんだよ」 「どうして今ごろそんなことが?」 「詳しいことはわからん。わしもいま聞いたばかりだ。そっちにも何が起るかわからんからな。気をつけてくれ。それだけだ」  入江と生駒のやりとりは、そこで終っていた。 「やっぱり大阪のほうも、生駒が段どりつけてたんだな」  宇佐見との電話を終えてから、堂本が言った。堂本は矢田と沙織に、入江と生駒の電話のやりとりを、かいつまんで伝えた。 「やばいな……」  矢田が呟いた。矢田の眼は鋭い光をたたえて、宙にとまっていた。 「やっぱり危いか……」  堂本が火の消えたパイプの吸口を、自分の右のこめかみに強く押しつけて言った。 「入江は生駒を消すことを考えかねませんよ。生き証人の生駒が消えてしまえば、堀切清太郎殺しの背景も、天本忠司殺しの背景も、闇の中ですからね」  矢田が言った。 「おれは、大阪の仕事は生駒じゃあるまいと思ってたんだ。入江を電話でゆさぶったのは軽率だったな」 「計画を変えましょう。今夜のうちに、生駒をこっちで押えちまうんです」 「わかった。すぐ行ってくれ。おれはここに残る。連絡入れてくれ」  堂本が、珍しく重苦しい表情を見せた。矢田と沙織はすでに立ち上がっていた。沙織が壁ぎわのロッカーの扉を開けた。中に段ボールが入っていた。蓋はテープで封がしてある。沙織はテープを剥《は》がし、蓋を開いた。古いファイルの束が現われた。ファイルの束の下に、数挺の拳銃、ホルスター、分解されたライフル銃などが入れてあった。  沙織は矢田を見た。 「念のためだ。拳銃四挺だけ持っていこう」  矢田は言った。沙織はうなずいた。  拳銃がそばのテーブルに並べられた。沙織は段ボールを元の状態にもどした。矢田はホルスターを両の肩に吊り、四挺の拳銃をつぎつぎに点検し、弾丸のカートリッジもあらためた。左右のホルスターに銃を収めた。  沙織は一挺の拳銃をショルダーバッグに押込み、残りの一挺はスカートの腰にはさみ、上からブラウスの裾で覆った。 「では……」 「頼む……」  矢田と堂本がことばを交した。矢田と沙織は部屋を出た。  沙織が車を運転した。車はスピードをあげて渋谷の南平台に向った。そこで、入江邸の電話盗聴に当っていた原と落合った。二台の車は、そこから板橋の常盤台に向った。  常盤台の生駒の住むマンションの前に着いたのは、午前一時近くだった。  宇佐見が、マンションの横手の道の入口近くに、車を停めていた。原がそのうしろに車を停めた。矢田は沙織に、マンションの門のすぐ横に車を停めさせた。  宇佐見が大股で矢田たちの車に近づいてきた。宇佐見は黙ってリヤシートに乗りこんできた。 「生駒はこれから大塚の愛人のところに行くつもりですよ。さっき組員に電話して車で迎えにくるように言ってました」  宇佐見が囁《ささや》くような声を出した。 「用心する気だな……」  矢田も小声で言った。 「用心? なんの用心ですか?」 「生駒は入江に消されることを心配してるんだよ、きっと」  矢田は、さっき事務所で、堂本とほとんど同時に抱いた懸念《けねん》を、宇佐見に説明した。 「入江にとって生駒は、知りすぎた男ってわけか……」  宇佐見がうなずいて言った。 「生駒が車を呼んだのは、どれくらい前だ?」 「二十分近くになるかもしれません」 「二十分か。細工する時間はないと思ったほうがよさそうだな」  矢田は言った。彼は一分余り、フロントガラスをにらみつけていた。やがて彼はてきぱきと指示を出した。 「この車を前に出して、マンションの門を塞《ふさ》ぐんだ。迎えの車が入れないようにする。沙織はリヤシートに移れ。宇佐見は運転席だ。生駒の車の運転手が、道をあけろとクラクション鳴らすだろうが、無視しろ。車から降りてきて、文句言うまで待て。車から降りたらおれが始末する。沙織は拳銃出しとけ。万一のときの威嚇《いかく》だ。生駒とボディガードと運転手を別々に引き離すための段どりだ。わかるな?」  宇佐見と沙織はうなずいた。矢田は車を降り原の車に移った。矢田は原に指示を与えた。  宇佐見が車を出して、マンションの門の前を塞いだ。矢田と原は車を降りた。二人はマンションの門と向き合った家の門扉《もんぴ》をそっとあけ、中に身を潜めた。矢田は暗がりの中で、拳銃の一つをホルスターごとはずして、原に渡した。  七、八分後に、車の音がひびいてきた。ライトが近づいてきて、道を明るく照し出した。車はマンションの門の手前で停まった。  クラクションが鳴りはじめた。四、五回それはくり返された。くり返されるたびに、クラクションの音は長くなり、いらだたしげにひびいた。  ライトがスモールに変り、運転席からとび出すようにして、男が降りてきた。ドアを開け放したまま、男は門を塞いでいる車に歩み寄っていく。  矢田は原に合図を送り、道路に出た。原もつづいた。  矢田はまっすぐ、宇佐見たちの車に歩み寄った。原は停まっている白いベンツに向って足を早めた。 「てめえ、このやろう、クラクションが聞こえねえのか!」  ベンツから降りた男が、門を塞いだ車のドアを足で蹴った。矢田は男に近寄りざま、相手の首のうしろに、手刀を打ち込んだ。男は腰を落しかけて踏みとどまった。矢田の両手が男の頭をつかむのと、顎に膝蹴りが入るのと同時だった。  男はうめいて路上に崩れ落ちた。宇佐見が車から降りてきた。 「ベンツのトランクに押し込んどけ」  矢田は言って、ベンツのほうに眼をやった。原がベンツの助手席の男に拳銃を突きつけ、車から降りるように命じていた。男は黙って助手席のドアを開けた。頭に両手をあてて降りてきた。  路上に降り立ち、かがめていた腰をのばすと同時に、男の腕が不意に横に走った。男は原の拳銃を奪おうとしたのだ。  原はあわてなかった。拳銃を持った手をすばやく引くと同時に、原の膝が男の股間に飛んだ。同時に拳銃のグリップが首のうしろを、したたかに一撃した。  男は車の後部ドアに背中をもたせかけたまま、しゃがみこんだ。  矢田は寄っていき、男の脇腹に蹴りを入れた。すさまじい蹴りだった。しゃがんだ男の体がはね上がり、そのままはじきとばされたように、男は路上に突っ伏した。男はにごった声をあげて、何かを口から吐いた。  沙織がベンツのトランクを開けた。宇佐見が男の一人の首を絞めて失神させていた。 「こいつも落しますか?」  原が言った。矢田はうなずいた。原は足元に倒れている男の首に腕を巻きつけ、絞めた。男は呆気なく失神した。  二人の男は抱えあげられ、ベンツのトランクに押し込まれた。 「沙織、門の前の車を玄関につけろ。宇佐見はベンツをマンションの駐車場に入れるんだ。鍵は抜いとけ。ドアは全部ロックするんだ。原はおれと上に行く」  矢田は急ぎ足でマンションの玄関に向った。原がつづいた。  生駒の部屋は七階だった。  原がドアのブザーを押した。矢田はドアスコープの正面に立った。 「タケか?」  ドアの向うから、野太い声が返ってきた。 「板橋署の者です。ちょっとドアを開けてください、生駒さん……」  矢田は押えた声で言った。 「板橋署だって? なんの用だい、こんな真夜中に……」 「緊急保護指令が出てるんですよ、生駒さんに……」 「保護指令?」  声と共に、鍵とドアチェーンをはずす音がした。ドアが開き、スーツ姿の生駒が顔を出した。 「大阪府警からの連絡で、生駒さんを保護しろということです。事情はこっちにはわからないんだが、あんた、誰かに命を狙われてるらしいんです」  矢田のことばで、生駒の顔が瞬時に変った。柔和な印象の細い眼が、剃刀《かみそり》のように鋭い光を放った。 「参ったな。サツの旦那方がおれの命を守ってくれるのかい。で、どこに行くんだ?」 「伊豆の某所に場所を用意してあります。行きましょう」 「断わる。てめえの命はてめえで守りたいんでね」  生駒はドアを引いて閉めようとした。原が肩を割り込ませた。矢田が閉まりかけたドアを力まかせに引いた。ドアと一緒に生駒が引かれ、たたらを踏みながら上半身を前にのめらせた。原が生駒の腹を蹴りあげた。 「おとなしく来るんだ」  矢田が言った。生駒の妻らしい女が、ネグリジェ姿のまま出てきた。 「板橋警察だ。旦那を借りるからな」  矢田は言って、生駒の腕を抱え、ドアを閉めた。生駒はあばれた。原が拳銃を抜いて、生駒の腹にあてた。 「くそ! これじゃ逮捕よりひでえじゃねえか。人権|蹂躙《じゆうりん》だぞ、てめえら」 「吠えるんじゃないよ。ご近所迷惑だぞ」  矢田は生駒の腕を逆に固めて、エレベーターに押し込んだ。エレベーターの中でも、生駒はわめいた。原が思いきり生駒の向脛《むこうずね》を蹴とばした。生駒はエレベーターの壁に背中を打ちつけ、倒れそうになった。矢田が腕を抱えて支えた。 「静かにしないとぶっ殺すぞ」  原が凄《すご》んでみせた。 「てめえら、警察の人間じゃねえな。手帳を見せろ」  生駒ははじめて、すくんだような顔になって言った。 「警察じゃない。警察よりよっぽど怖ろしい人間だ、おれたちは」  矢田が言った。 「入江に頼まれてやってきたのか?」  生駒の声がやっと細くなった。矢田も原も口をつぐんだ。  西伊豆の賀茂村の別荘に着いたのは、夜明けだった。  矢田は生駒を別荘の地下室に入れさせ、素裸にして手足をしっかり縛らせた。生駒は悪態をついたが、声に元気はなかった。彼が怯《おび》えと恐怖を隠そうとしていることが、矢田の眼にはよくわかった。  矢田は、原に言いつけて、生駒の前で、入江と黒島の電話のやりとりのテープと、入江から生駒にかかった電話のテープとを再生させた。 「警察じゃないとすれば、おまえら何者なんだ?」  生駒は唸《うな》るような声で言った。矢田は何も答えず、原たちを促して地下室を出た。  そのまま、生駒はそこに放置された。喰べものはおろか、水一杯、与えられることもなかった。明りを消して、入口のドアを閉めてしまうと、地下室にはどこからも光は射さない。闇と飢えと渇きの中に、生駒は体の自由を奪われて、閉じこめられることになった。  そのまま、丸二日が過ぎた。矢田たちが地下室に降りたのは、二日目の夜ふけだった。地下室の入口のドアを開けたとたんに、生駒は意味不明の声をあげた。安堵《あんど》の声とも、恐怖の声ともとれた。部屋に尿の匂いがこもっていた。生駒は尿にまみれて、床にころがっていた。 「どうだ? 気分は」  矢田は立ったまま訊いた。原がテープレコーダーをセットした。 「殺せ、さっさと。おれにはわかってるんだ。おまえら平気で人を殺せる人間だ。なんのためにおれを殺そうとしてるのか、わからないがなあ」 「安心しろ。殺しゃしないよ。お前の命を入江の手から守ってやるために、ここに連れてきたんだ。だが、場合によっちゃおまえを殺さなきゃならんかもしれない」 「どんな場合だ?」 「おまえがおれたちに協力しなかった場合だよ」 「協力だと? なにに協力するんだ?」 「簡単なことだよ。おまえが林幸一と細谷昇を、殺人犯の身替りに仕立てたことはわかってる。誰に頼まれた、誰に堀切清太郎と天本忠司を殺させたか、それを吐くだけでいいんだ。何もむつかしいことはない」 「水を一杯くれるか? それから起して坐らせてくれ」 「いいだろう」  沙織が水を汲みに行った。宇佐見が素裸で縛られている生駒を起した。足首を縛られているので、生駒はあぐらをかくわけにいかなかった。 「あぐらをかかせてくれ。こんな女みてえな情ねえ坐り方で死にたかねえんだ。しゃべるよ、おれは。だがな、勘ちがいするなよ。おれは命が惜しくてゲロするんじゃねえぜ。おれがゲロしたあと、おまえらがおれを殺すってことはわかってるんだ。それほどおれは人間が甘くはねえぜ。どうせ殺されるってわかっててゲロするのはな、入江や一之瀬だけがいいめにあって、おれだけが奴らに端金《はしたがね》でいいように使われてきたのが、肚《はら》にすえかねるからよ。奴らも一緒に地獄に引きずりこみてえからよ」 「足も手も解いてやれ」  矢田は宇佐見に言った。手足を解かれると、生駒は息をつき、あぐらをかいた。矢田は黙って、生駒の衣服を前に投げてやった。 「話がわかるじゃねえか。一足先に地獄に行って、おめえのこと閻魔《えんま》さんに言っとくぜ。こういう人相の男がやってきたら、人殺しだがいいところもある奴だから、少しは情をかけてやってくれってな」  生駒はへらず口を叩きながら、服を着た。沙織が汲んできた水を、ゆっくり惜しむように、生駒は飲んだ。飲み終えるのを待って、矢田が口を開いた。 「一之瀬ってのは、九州の筑豊でがんばってた島根一家の中の、柿田組にいた一之瀬勇次のことかい?」 「知ってるのか? 一之瀬を……」 「一之瀬が、入江礦業でストライキの邪魔をしてたってことぐらいは知ってるよ」 「一之瀬はいまは、新生会の若頭の一人になってるよ。入江がいちばんあてにしてる男さ。堀切と天本を消せとおれに言ってきたのも一之瀬さ」 「じっさいに堀切と天本をやったのは?」 「おれだよ。一之瀬はおれに一切合財《いつさいがつさい》やれって言ったんだ。奴はそういう仕事はてめえで見込んだ奴にじかにやらせる主義なんだ。おれは一之瀬とは四十年近くつづいた兄弟分だ。奴のおかげで一家が張れたんだ。断わるわけにはいかなかったのよ。さあ、おれの話はこれでおしまいだ。さっさと鉛の玉ぶちこんでくれ」  生駒はあぐらをかいたまま、胸を張った。額に脂汗がにじんでいた。細い眼は暗くすわったままだった。 「わるいが、もう一度縛らせてもらうぜ」  矢田は宇佐見を眼で促した。すぐには殺されないと知ると、生駒は不意に、がっくりとうなだれ、荒い息を吐いた。  つぎの日の午後十一時に、黒島隆三郎の屋敷に、一台の黒塗りのリンカーン・コンチネンタルがすべりこんできた。  車は黒島邸の車寄せに停まった。運転しているのは、一之瀬勇次だった。六十歳前後の、細面の男だった。髪が白い。リヤシートには、和服姿の入江周文が一人で腕組みしていた。  一之瀬と入江が車を降りた。それを待っていたように、玄関のドアが開き、黒島が姿を見せた。黒島のうしろに、堂本が立っていた。黒島の表情は固かった。 「遅くなりました……」  入江が言った。一之瀬は黙って黒島に頭を下げた。車寄せの横の暗がりで、影が動いた。三方から人影が湧いた。矢田と宇佐見と原だった。三人とも銃を手にしていた。 「動くな。手を上げろ。声を出しても無駄だ」  矢田が低い声で言った。宇佐見と原が背後から、入江と一之瀬に拳銃を突きつけた。矢田は一之瀬の正面に立ち、ボディチェックをすませた。一之瀬は武器を持っていなかった。彼は表情を変えず、口もきかなかった。入江は眼をひきつらせていた。 「どういうことです、黒島先生!」  入江がかすれた声で言った。 「わたしにもどうにもならんのだよ」  黒島が苦々《にがにが》しげに言った。 「わたしを罠にはめて、呼び出したんですか? 黒島さん!」  入江はなおも言った。その声は途中で原の手で塞がれた。原は入江の口に拳銃を押しあてたのだ。後は誰も口をきかなかった。  沙織が堂本のうしろから出てきて、リンカーン・コンチネンタルのトランクを開けた。入江がまず、原の手で体をへし折られるようにして、トランクルームに押し込まれた。一之瀬は促されると、無表情のまま、自分からトランクルームの中にもぐり込み、脚を曲げて横たわった。  トランクの蓋が閉められた。堂本が黒島を促した。黒島はリンカーン・コンチネンタルのリヤシートに乗った。堂本がつづいた。原がリンカーンのハンドルをにぎった。すべてはあっという間の出来事だった。 「今度の仕事はやり甲斐があるんじゃないかな、黒島さんとしては。なにせ苦労なしに対立派閥の領袖を、あの世に送りこめるんだからな」  走り出したリンカーンの中で、堂本が言った。黒島は口をへの宇に結んだまま、答えなかった。  リンカーン・コンチネンタルと、矢田たちの乗った車が、伊豆の処刑場に着いたのは、真夜中だった。  トランクルームから、入江と一之瀬が引き出され、リンカーンのリヤシートに座らされた。車の窓はすべて開けられた。宇佐見が山荘の地下室から、生駒を連れ出してきた。生駒は薄笑いを浮べたまま、宇佐見に言われて一之瀬の隣に座った。 「何がはじまるんだい?」  一之瀬がはじめて口をきいた。 「おれたち三人、こいつらにぶっ殺されるんだそうだぜ」  生駒が笑った顔で言った。 「黒島さん、テロ集団というのは、こいつらですか?」  入江が車の横に立っている黒島に言った。 「ここで何人かの政治家が殺されたよ、入江君。こいつら掃除屋だと自分たちで言ってるがねえ」  黒島は力のない声で言い、吐息をついた。 「静かにしてもらう」  堂本が言った。原が録音機のスイッチを入れた。盗聴した電話の入江と黒島の声、入江と生駒の声が、夜霧で湿った夜気の中に流れた。矢田はそれを聞きながら、ライフルの用意をした。矢田の手にあるライフルを見て、黒島が眉をしかめた。  テープの声がやんだ。 「処刑される理由はわかったな?」  堂本が、車の中の三人に言った。 「処刑だと?」  入江がわめいた。矢田はライフルを黒島の手に押しつけた。黒島の喉がぴくりとふるえた。 「くそ! てめえら。いい気になりやがって」  不意に一之瀬がわめいて立ち上がろうとした。銃声が夜空にこだました。黒島が引金を引いていたのだ。一之瀬の顔の下半分が、ただの血と肉の塊りと化していた。入江はそれを見て失神した。生駒の顔から薄笑いが消えていた。つづいて銃声が二発つづいた。静寂がもどってきた。  第四話 炎よ闇を走れ  十一月の終りに近い土曜の夜だった。  堂本英介《どうもとえいすけ》以下五人の、掃除屋《スウイーパー》のメンバーが、密《ひそ》かに顔をそろえていた。  場所は白金台にあるマンションの一室である。玄関のドアには、女の名前のネームカードが出ていた。  東京地検特捜部の検事、辻正毅《つじまさたけ》がその部屋に現われたのは、九時近くだった。  紺色のハンチング、紺のスウェードのダッフルコートに赤いバルキーセーター。辻はそういういでたちだった。濃いサングラスをかけて、紺に白の水玉のアスコットタイを巻いていた。 「キザな中年プレイボーイってとこだな。よく似合うぜ」  堂本がパイプの灰を掻《か》き出しながらひやかした。原徹《はらとおる》と宇佐見明《うさみあきら》が、笑いをかみ殺した。植田沙織《うえださおり》も、眼に笑いを浮かべ、辻の脱いだコートを受取った。矢田直彦《やだなおひこ》だけが表情を動かさない。 「ばかに女くさい部屋だな」  辻は室内を見まわして言った。 「あたしのお友だちの部屋なんです。旅行に出て留守なんで、借りてあるんです」  沙織が答えた。辻は沙織が壁にかけたコートのポケットを探った。中からビデオテープのケースを取出し、沙織に渡した。  沙織は黙って受取り、部屋の隅《すみ》のテレビの前に行った。辻はソファの空いている場所に腰をおろした。沙織がビデオテープをデッキにセットしている。 「笹島建設の社長を狙うとは、思いきったことを考えたもんだな、堂本」  辻が言った。 「庶民のマイホーム熱をいいことに、悪徳商法で金を稼いでいる企業が多いだろう。それでのうのうとしてる連中に警告を発したい。笹島建設の君田社長を殺そうとして逮捕された、渡部《わたべ》って男も哀れだしな」  堂本は低い声で答えた。 「はじめます」  沙織が声をかけ、テレビとビデオカセットのスイッチを入れた。打楽器だけの音楽と共に、タイトルが画面に現われた。〈木曜ルポルタージュ マイホーム流失〉とあった。  あるテレビ局が、すでに放映したドキュメント番組を録画したテープだった。  その前年の六月に、横浜市の郊外の新興住宅地に、集中豪雨による土砂崩れが起きた。現場は山林を開いて造成された宅地で、階段状に家が建ち並んでいた。  午後から夜半までの降雨量は、三百ミリを超えた。被害は大きかった。山の斜面に建ち並ぶ家百二十戸の大半が、土砂崩れで倒壊した。造成された階段状の宅地も、ただの土砂の斜面と化した。死者は十一名にのぼった。  天災か、人災か、といった論議が、新聞をいっとき賑《にぎ》わした。現場が、宅地とするには地質学的に問題のあるところだったことは、造成に着工するときにわかっていた。  開発を企画した笹島建設は、一部上場の大手企業である。笹島建設は、近代的な工法で、地質学的なマイナス条件を克服しうる、として開発に乗出した。他にも同じような地質の山林を宅地として開発し、五百ミリの雨量に耐えた、という実績があったからだった。  家と土地を失った被害者と、笹島建設との間に、補償交渉が行なわれ、訴訟にもつれこんだ。訴訟の経過の中で、一部に手抜き工事が行なわれていた疑いも出てきた。土砂の崩壊を防ぐためのコンクリートの強度が、規格以下だったのではないか、という疑惑だった。  笹島建設は、工事を請負った下請会社の資料と、自社の工事監理記録をもとに、その疑惑をはねのけた。  それが一年余りつづいた裁判の結着を決めた。被害者同盟は、実質的な敗訴に終った。被告の行政機関と笹島建設には、直接負うべき責はない、という判決だった。笹島建設は、被害者に対し、最高百万円を限度として、それぞれの被害程度に応じた見舞金を出すことで、事態を収めた。 〈マイホーム流失〉というタイトルのドキュメント番組は、土砂崩れ直後の現場のシーンにはじまって、裁判の判決までを追う、といった構成になっていた。  被害現場にやってきた笹島建設の部長を、激昂《げきこう》した被害者たちが取巻く、といったシーンもあった。粒々辛苦《りゆうりゆうしんく》して手に入れた土地と家を無残に失った悲しみと怒りを、眼に涙を浮べて訴える中年男の顔の、クローズアップもあった。  補償交渉の席に一度だけ姿を現わした、笹島建設社長の君田八郎の、ときに挑戦的にも見える表情と発言も捉《とら》えられていた。  辻は何度か、ビデオテープを止めさせた。動きを止めた画面に映っている人物が誰であるかを、メンバーに覚えさせるためだった。 「これが君田社長を殺《や》ろうとした、渡部進だよ」  何度目かに画面を止めさせたとき、辻が言った。四十半ばの男が、眼を吊り上げ、歯をむいた表情で、画面に大きく映っていた。社長の君田に向って怒鳴っているところだった。 「渡部はレストランのコックだったんだが、土砂崩れで、家と土地の他に、妻と一粒種の娘を失っているんだ」  辻が説明した。 「それで、見舞金百万円だけというんじゃ、誰だって腹の虫はおさまらないだろうな」  堂本が呟《つぶや》くように言った。  渡部進が、君田八郎を殺そうとして果せず、逮捕されたのが、一ヵ月ほど前だった。土砂崩れの補償をめぐる裁判の判決が出た、二週間後だった。  渡部は自分の勤めている、レストランの調理場から持出した、肉切包丁を持ち、会社から帰宅した君田を、君田邸の門前で襲ったのだった。  夜だった。通行人を装った渡部は、車から降りた君田に、いきなり躍りかかった。君田は、持っていた鞄《かばん》で肉切包丁を払ったが、肩口を切り裂かれ、そのまま門の中に走り込んだ。  追おうとした渡部は、君田の車の運転手に羽交締《はがいじ》めにされ、通報で駈けつけた派出所の警官に、呆気《あつけ》なく逮捕された。  君田の傷は浅かった。渡部ははじめから殺すつもりでいた、と殺意を認めた。動機は笹島建設の手抜き工事で、マイホームと家族を失った怨《うら》みによるものだ、と自供した。  裁判の判決を不服とする被害者たちの声と、崩壊したまま放置されている、災害の現場のようすをダブらせたカットで、テープは終っていた。沙織がスイッチを切った。 「今度の仕事には決断が要るぞ」  辻が誰へともなく言った。 「笹島建設の宅地造成工事に、不正な手抜きがあったかどうかの決め手に欠ける、ということだろう?」  堂本がパイプに新しくたばこを詰めながら、辻を見た。 「それについては、いろんな情報があったよ。監督官庁の役人の黒い影や、札束の噂もちらついたようだ。大きな争点になった、コンクリートの強度の件でも、キナくさい話が流れた」 「どういう話ですか? 辻さん」  矢田が訊《き》いた。 「法廷に出された工事関係の資料や記録には、改竄《かいざん》の疑いがあるとかね。工事の認可に金が動いたとか……」 「よくある話ですね」 「というより、信じたくなる話さ。だからおれたち特捜班も、内密に動いてみた。刑事も走りまわったんだ。だが、影ばかりで、結局は実態はあぶり出せずに、立件できなかった。裁判は民事だけで終ったんだ」 「つまり、笹島建設が不正と悪徳を匿《かく》しているかどうか、断定はできない、従って代表者の君田社長を処刑する根拠が薄弱だ、というわけか?」  堂本が訊《き》いた。辻は答えなかった。無言で堂本を見ている。 「笹島建設の工事に、手抜きや不正があったかどうか、ということは問題じゃないと思うんですよ、辻さん」  矢田が口を開いた。堂本が後を受けてつづけた。 「おれたち掃除屋の仕事は、法で裁《さば》けない悪人を、何者かに代って裁く、というものだ。仮に工事に問題はなくても、現実には、笹島建設はあの土地を造成し、家を建て、それを売却して巨額の利潤をあげている。苦労を重ねて、念願のマイホームを手に入れた人たちは、一夜にしてその財産を失って裸になったわけだ。だからといって、法律は、笹島建設に、問題の場所の宅地造成で得た利潤を吐き出して、被害者ともども裸になれとは命じられない。それが法律というもんさ。そこでおれたちが出る」 「じっさい、おれは君田社長を殺《や》ろうとした渡部って男の気持、よくわかるなあ。おれだって渡部みたいなめにあえば、君田を殺ろうと思うもの」  矢田が独り言のように言った。 「渡部の犯行の動機は私憤《しふん》だよ。その私憤はしかし、法の秩序の下で歯ぎしりしている他の多くの人たちの気持にそのまま重なる性質の私憤だろうと思うがね、辻……」 「その私憤を掃除屋グループが代行しようってことなんだろう? わかるよ。そう決断したからこそ、こうして集まったんだろうからな。それに、おれたちの内偵の結果を見ても、心証の上では笹島建設がこの件でまっ白白の潔白だ、とも言い切れないからな」 「総指揮を取ってきた君田八郎社長には、気の毒だが断頭台に立ってもらう」  堂本が言った。語調は静かだったが、ためらいの気配はどこにもなかった。  調査がはじめられた。  堂本は弁護士である。矢田と宇佐見と原は、前は刑事だった。それぞれ調査にかけてはプロだった。  笹島建設の経営の内情と、社長の君田八郎に関する情報が集められた。  笹島建設は、大は海外の大規模な建設開発工事から、小は国内の宅地造成までを、幅広く手がけて、経営は安定していた。君田が社長に就任してからの三年間も、業績は順調な伸びを見せていた。  君田の社長就任は、予想外のものとして、当時は経済界で話題を呼んだ。  笹島建設の役員の間には、長い間にわたって確執《かくしつ》がつづいていた。創業者の笹島詮造が、社長の座を退いて、会長となってからはじまった、派閥争いだった。争いの焦点は、言うまでもなく社長のポストである。  笹島詮造が引退したあと、推されて社長となったのは、笹島詮造の娘婿《むすめむこ》である磯貝幸彦だった。  磯貝幸彦は、創業者の姻戚《いんせき》であることを笠に着て、専横ぶりを発揮した。これに異を唱える者たちが、密かに反磯貝派を結集し、磯貝追い落しの機会を狙っていた。画策もなされた。  磯貝幸彦が、二代目の社長に決まったのは、当時、まだ会長の笹島詮造が存命中だったことと、磯貝派が、反磯貝派を押え込むのに成功したためだった。創業者の娘婿の専横な社長ぶりを高齢の会長の耳に入れようとする者はいなかった。  会長の死を待って、反磯貝派が強力な巻き返しをはかった。陣頭に立ったのは、専務の山根勲だった。機は熟していた。磯貝は社内で信を失いつつあった。業績の不振もたたった。いくつかの有利な背景を背負って、今度は山根派が磯貝派を押え込むのに成功した。  磯貝は常務に格下げとなり、山根勲が社長の座に着いた。  山根も磯貝に劣らず、アクの強い人物だった。彼が社長として最初に行なったのは、人事の刷新だった。刷新といえば聞こえはいいが、要するに磯貝色の一掃である。意図の露骨さのあまり、それは社の内外で報復人事と呼ばれて非難された。山根は強行した。  山根は強気な性格だった。それが経営にも現われた。活力に満ちた派手な経営と映った。強行策は当れば鮮かだが、はずれたときのダメージも大きい。  そして、社内には報復と呼ばれた人事のしこりが、あらゆる面にはびこりはじめていた。士気が落ちた。不況も山根の強気の足を引っ張った。磯貝派はそこを突いて、反撃に転じた。両派の権力争いは激化した。社内で口もきき合わない役員も何人かいる、といったありさまだった。  山根も社長としての信を失いはじめた。半ばは自ら墓穴を掘る、といった形だった。致命傷は、山根の指揮による脱税と特別背任が明るみに出たことだった。国税庁の税務調査で、十二億の脱税が摘発されたのだ。山根がそれに直接関与していることも立証された。  脱税によって作られた会社の裏金のうち、一億円余りの使途不明金が発見された。その解明の中で、山根の背任行為が発覚したのだった。  山根は、役員間の対立につけ入ってくる総会屋や、ブラックジャーナリズムへの対応に、機密費から金を支払ったことにして、その一部、七千万円余りを横領していたのだ。  社長を辞任した山根の後任に選ばれたのが、君田八郎だった。  君田は、株主総会の大方の支持を得て、社長となった。君田はそれまで常務にすぎなかった。それが一気に社長に躍り出たわけである。  君田は、磯貝派にも山根派にも属さない、数少ない役員の一人だった。有能と目されながら、中立を保ってきたために、長い間、常務のまま、かすんだ位置に置かれていたとも言える。君田は技術畑出身だった。なまぐさい権力争いには不向きな人柄、という定評もあった。  社内は派閥争いと、脱税、社長の横領などの汚名、業績不振で、荒廃していた。山根の後任社長に、反対派の磯貝陣営の中から人選がなされるとしたら、荒廃は留めようがない。そういう危機感が、社内にも株主たちの間にもひろがっていた。  そうした中で生れた、君田の社長就任だった。中立派の君田が社長になることには、誰もが異を唱えることができなかったのだ。君田に、社内の人心を一新し、二派の確執がもたらしたきしみやひずみを是正する救世主の働きを期待する声は高かった。  君田も、心中に期するところはあったのだろう。社長就任の挨拶は、珍しく決意と自信に満ちた、型破りな内容として、評判になった。  技術畑出身らしく、君田は人事には実力主義と適材適所の考え方を採った。経営上の判断と決定には、徹底した情況分析を怠らなかった。堅実だった。同時に鋭く大胆な洞察と先見性も、君田は備えていた。  不振におちいっていた業績が上向き、社内の士気も回復した。社の内外の、君田社長に対する評価は高かった。  裁判にまでもつれ込んだ、横浜の住宅地の土砂崩れは、順風|満帆《まんぱん》だった社長の君田にとって、初めての試練と目されていた。君田はそれをも、裁判の勝訴をかちえて、見事に乗り切った。そして、君田が社長でいる間は、磯貝派も山根派も、確執を再燃する隙《すき》はない、というのが大方の一致した見方だった。  そうした情報は、主として弁護士の堂本が集めてきた。彼は民間の信用調査機関を利用し、あるいは財界の事情に通じている弁護士仲間の話などを聞込んで、それを整理した。  矢田と宇佐見と原は、堂本とは逆に、地べたを這《は》ってまわるような聞込みを重ねた。彼らのもとには、磯貝派、山根派の両派からの情報と、総会屋やブラックジャーナリズムからの情報が、数多く集められた。当然のことに、それらの中には、なまぐさいもの、キナ臭いものも含まれていた。  矢田たちは、そうした情報の裏を一つ一つ、取って歩いた。ガセネタも多かった。裏付けがなく、噂の域を出ないものもあった。  確実な裏付けのとれた情報が二つあった。  一つは、君田の個人的な醜聞だった。君田は南麻布のマンションに、愛人を囲っていたのだ。銀座裏で小さな和風のクラブを経営している、浅尾稲子という女だった。君田が常務に昇進する前からの仲だった。当時、浅尾稲子は、やはり銀座の名の知れたクラブでホステスをしていたことも、原が突きとめてきた。  あと一つの情報は、横浜の造成宅地の土砂崩れに関するもので、君田にとっては爆弾に等しいものだった。  補償問題が法廷に持ち込まれて間もなく、社長室で君田が、珍しくある部長に怒声を投げたことがある、という話を聞込んだのは、矢田だった。話の出所は、小物の総会屋の下働きをしている男だった。君田に怒鳴られたのが、土砂崩れを起した横浜の宅地造成工事の指揮をとっていた部長だ、という点が、矢田の興味をそそった。  石沢茂夫という名の部長だった。矢田は石沢に密かに喰いついた。  糸口は心細いものだった。だが、たぐり寄せた獲物は大きかった。  石沢は賭博狂だった。それも、競輪や競馬には手を出さず、暴力団のとりしきる秘密の賭場の、サイコロ博奕《ばくち》に熱中していたのだ。借金もあったが、さほどの額ではなかった。  矢田は、刑事時代のコネで、賭場を開いている暴力団の筋の情報を集めた。  その結果、石沢が下請業者から多額の賄賂《わいろ》を受取っている疑いが出てきた。石沢はその金を博奕に注《つ》ぎこんでいる気配だった。  矢田、宇佐見、原の三人は、石沢の動きを徹底的にマークした。尾行は昼夜の別なく、二週間にわたってつづけられた。石沢が接触する人間は、片端から隠し撮りのカメラに収められた。  石沢が、夕暮れ近い日比谷公園で、若い女と会ったのは、十二月の半ばだった。石沢は女のさし出す書類封筒を受取ると、すぐに相手と別れて、公衆便所に入った。出てきたとき、石沢の手には書類封筒はなかった。  原が女を尾行した。女は鶴見にある、ある大手の生《なま》コンクリートを作っている会社の事務員だった。  あとは簡単だった。矢田たちの攻略目標は、鶴見の生コン会社に移された。笹島建設との取引きに当っている生コンクリート会社の社員は、すぐに割り出された。大里到という課長だった。  矢田と原は、暴力団員に化けて、大里と接触した。日比谷公園で、生コン会社の社員が、石沢に書類封筒を渡す現場を写した写真が物を言った。  矢田と原の態度は、本物の暴力団員以上に不気味だった。四回目に会ったとき、責めつづけられてきた大里は、たまりかねたように、爆弾級の事柄を吐いた。土砂崩れの補償の裁判に出された、コンクリートの強度に関する資料に、改竄《かいざん》が行なわれたことを、大里は認めたのだ。宅地造成に使われた一部のコンクリートの強度は、やはり規格以下のものだった、というのだった。規格以下のコンクリートを使うことを指示したのは、大里自身だった。大里は原料を管理している同僚と結託して、セメントを浮かし、それを横流しして金を手に入れていたことも吐いた。  そのことを、工事を管理する責任者の立場にいた石沢は、知らなかった。石沢が知ったのは、法廷に工事の関係資料を出すことになった直前だった。  石沢はあわてて、その事実を社長の君田の耳に入れた。石沢が君田に社長室で怒声を浴びせられたのは、そのときだった。君田は石沢の無責任を難詰《なんきつ》し、その場で生コン会社に資料の改竄《かいざん》をさせるように命じた、というのだった。  資料の改竄によって、裁判に勝ち、笹島建設ともども、生コン会社もピンチを脱した。その後、石沢は半《なか》ば公然と、大里を通じて生コン会社に多額のポケットマネーを要求するようになった。生コン会社にとって、石沢は大口の取引先の部長である。おまけに資料の改竄を行なって、土砂崩れの被害の責を問われることを、不正に免《まぬか》れた、という弱味もある。石沢の図々しい要求を蹴るわけにはいかなかった——大里はそういう事情を明した。  大里の話はすべて録音された。矢田は大里に、同じ主旨の証言を、君田と石沢の前で行なうという一札を書かせた。  同時に、資料の改竄と、石沢のたかりの件を矢田たちに吐いてしまったことを、誰にも話さない、という約束をさせた。  銀座に、女子大生ばかりをホステスとして集めている、というクラブがあった。女子大生ホステスと低料金が、その店の売物だった。  石沢茂夫が、その店によく顔を出すことは、それまでの尾行でわかっていた。  沙織は女子大生に化けて、ホステスとしてその店に入りこむのに、難なく成功した。その店で、沙織は積極的に石沢に近づいた。  石沢はすぐ誘いに乗ってきた。沙織はたじろがなかった。  石沢が沙織をラブホテルに誘ったのは、彼女がホステスに化けてから一週間目だった。石沢の誘いは露骨だった。金額まではっきりと口にした。 「ホテルにお金払うなんて、もったいないじゃない。マンションのあたしの部屋に行かない? そうすれば、ホテル代が浮くから、つぎにまた来れるわよ」 「ついでに、きみの取り分をもうすこしディスカウントしろよ。そうしたら、さらにもう一回余分に行けるってことになる」 「いいわよ。そして、あたしのこと気に入ったら、愛人にしてほしいな。月ぎめで十万円だったら大感激よ」 「ぼくはベッドでの注文がうるさいぞ」 「いいわ。なんだってあたし応じるわよ。ちょっとだけだけど、SMクラブでアルバイトしたこともあるのよ、あたし」 「ほう……。なんで辞《や》めたの? そこ……」 「だって、ほんもののマゾになりそうで怖かったの。石沢さんは、サドじゃないわよね、まさか……」 「その気《け》はないよ。安心しなさい」  石沢には、警戒の色などまったく見られなかった。  沙織は、原の住んでいる大森のマンションの部屋に、石沢を連れて行った。原の部屋には、沙織の部屋から家具や衣類などがすでに持込まれて、いかにも女の住む部屋に見せてあったのだ。そしてそこには、原がカメラを用意して、ベランダからベッドのようすを隠し撮り出来るように、準備もととのえられていた。すべて、沙織の足跡を消すための配慮によるものであった。万が一、計画に破綻《はたん》が生じた場合、石沢を罠《わな》にはめた沙織の素性《すじよう》が探られる虞《おそ》れがあった。しかし、誰かが原のマンションを訪ねてきても、原があずかり知らぬと突っぱねればすむことだった。酔った石沢の勘ちがいのせいにすることもできるのだ。  そういう場所に、石沢は無防備のままとびこんだことになる。  部屋に入ると、石沢はワンルームの室内を、物珍しげに見まわしていた。沙織はヒーターをつけ、湯舟に湯を溜め、ウィスキーの水割りの支度をした。  ソファの前のテーブルの横にしゃがみ、水割りをこしらえている沙織を、石沢はいきなり抱きすくめ、唇を吸ってきた。  沙織は動じなかった。派手な嬌声《きようせい》をあげて、自分から床に体を倒した。石沢はすぐに、ブラウスの胸をはだけ、ブラジャーを押し上げて、乳房をつかんできた。  ベランダのカーテンの端には、あらかじめ隙間《すきま》がもうけてあった。そこから原が、カメラを窓ガラスに押しつけて、二人の痴態を撮影していた。カメラには高感度のフィルムが入れてあった。  ベッドの下には、盗聴マイクとテープレコーダーが仕掛けてあった。 「石沢さん、おいくつ?」 「五十二歳だよ。どうして?」 「元気ね。こんなだもん」  沙織はズボンの上から、石沢の股間《こかん》をまさぐって言った。石沢は、沙織の乳房に頬ずりしながら、片手をスカートの内側に這わせてきた。 「笹島建設の部長さんて、仕事が楽なのね。だから精力もてあましてんでしょう」  沙織はからかうように言って笑った。 「ばか言っちゃいけない。仕事はハードだが、おれは体を鍛えているんでね。衰えを知らないのさ」  石沢の指が、パンティストッキングを押しさげにかかった。沙織は自分から石沢の唇に軽く唇をつけて、体を起した。 「お風呂に入ってからのおたのしみ。でなきゃばっちいでしょ」 「ばっちいのが、おれ、好きなんだよ」 「おじさま族って、よくそう言うわね。気が知れないわ」 「頼むよ。下着脱いで、おれの顔にまたがって、顔じゅうにきみのばっちくてかわいいそこをねじりつけてくれないか」 「へんなの……。でも、それがお好きなら、やったげるわよ」 「愛人にしたくなっちゃうかもしれないな」  石沢はにやついた顔で言い、床に仰向けになった。沙織は立って下着を脱ぎ、スカートをたくしあげた。ふくらみを持った白い腹と、肌にはりついてもつれ合うしげみと、ひきしまった長い脚が、明りにさらされた。絡《から》みつくような石沢の視線が、そこを這いまわった。  沙織は屈託《くつたく》のない笑顔を見せて、石沢の頭をまたぎ、そのまま勢いよく腰を割った。石沢はうめきとも感嘆の声ともつかぬものを洩《も》らし、自分から顔をすりつけてきた。  沙織は小さく腰を動かしながら、ベランダを見やった。原の姿は、カーテンの隙間からは見えなかった。彼女は、片方の脚の位置を小さくずらした。石沢の顔が、脚の陰になって、カメラに写らないのではないか、と気遣《きづか》ったのだ。  石沢の鼻と舌と唇、さらに顎《あご》までが、沙織のクレバスを押し開き、はざまを抉《えぐ》るようにして上下に滑ることをくり返した。沙織はにぶい性感が、体の芯《しん》にざわめきとなって生れるのを覚えた。  かすかなためらいが、沙織を立ち上がらせた。追いかけるようにして、石沢が頭をもたげた。 「お風呂、溜まったわ。入ってきて……」  沙織はたくしあげていたスカートをおろした。石沢も体を起した。 「一緒に入らないか、きみも……」 「それは無理なの。見ればわかるけど、棺桶《かんおけ》よりも小さい湯舟だし、洗い場だってないのよ。トイレと一緒だから」 「バス式か。マンションの風呂ってのはそういうのが多いんだよね」  石沢は服を脱ぎながら言った。沙織は石沢の脱いだ服とシャツをハンガーにかけ、壁に吊るした。石沢は下着一枚で浴室に消えた。  沙織は、浴室に湯の音が立ちはじめるのを待って、ベランダの窓に近づいた。カーテンを開けると、黒の革ジャンパー姿の原が、カメラを持って立っているのが見えた。沙織はガラス戸を細く開けた。 「オーケー?」  ささやく声で沙織は訊《き》いた。 「オーケーだ。つづけてくれ」 「寒いでしょう?」 「ああ……」 「ウィスキーのお湯割りあげようか?」 「助かるな」 「たいへんね」 「あんたのほうさ、たいへんなのは」  原は視線をそらして言った。沙織はガラス戸の前を離れた。モーニングカップに、濃いめのウィスキーのお湯割りをたっぷりと作り、原に手渡した。二人はもう口はきかなかった。ガラス戸が閉められ、カーテンが元にもどされた。  部屋は温まっていた。沙織は着ていたものを脱ぎ、素裸の上にネグリジェを着た。作りかけのままになっていた水割りを、二つこしらえた。二口、三口それをすするうちに、石沢が浴室から出てきた。石沢は腰にバスタオルを巻いていた。脱いだ下着を丸めて手に持っていた。 「あたし、お風呂に入ってきたほうがいいかしら?」  沙織は科《しな》をつくり、石沢に流し目をくれた。石沢は下着を放り出し、沙織を抱きすくめ、ベッドに押し倒した。 「一ヵ月風呂に入ってないきみだって、大歓迎さ」  石沢は言いながら、沙織のネグリジェを剥《は》ぎとった。石沢の手が、沙織の両の乳房を左右から掻き寄せるようにした。押されて乳房は張りのあるたわみを見せた。色の淡い乳暈《にゆううん》と乳首が、明りを受けてうっすらと艶を放っていた。  石沢は乳房を中央に寄せたまま、頂《いただき》にねっとりと舌を這わせてきた。とがった舌の先が、乳暈の縁をゆっくりとたどり、螺旋《らせん》を描くようにして乳首に迫り、そこにまとわりついた。  石沢は左右の乳暈と乳房に同じことをくり返した。  その間に、彼の片方の膝が、沙織の膝を割り、太腿《ふともも》が彼女の股間に強く押しつけられていた。石沢の太腿の下で、踏みにじられた沙織のしげみが擦《こす》れ合い、かすかな音を立てた。  やがて石沢は、沙織の開いた膝の間にうずくまった。石沢の舌が、ヘアに薄く覆《おお》われた沙織のクレバスを押し分けた。石沢は舌ですくった潤《うる》みを、クレバスの上のほうに移した。  クレバスの縁に伏せていた、小さな二枚の花びらを、石沢の舌が掻き起し、そよがせた。何かの芽の形をした小粒のものが、分けられたクレバスの間に露出していた。石沢の舌は、いっときその上で小刻《こきざ》みに躍った。  沙織は体の潤みが増すのが、自分でもわかった。同時に彼女は、ベランダにいる原が耐えている寒さを想った。インパクトの強い写真を手に入れたい、という思いもあった。それらが辛《かろ》うじて、沙織の官能を制御していた。 「ねえ、お願い……」  沙織はあえぎながら言った。 「なんだい?」  石沢が顔を上げた。沙織は上体を起した。 「アヌスにキスして……」  沙織は狂おしげに言って、ベランダのほうに頭を向け、伏せた恰好《かつこう》のまま、腰だけを高々とあげた。カメラのアングルを考慮に入れてのことだった。 「それ、好きなのかい?」 「好き。狂っちゃうの」 「おれも狂いそうだよ」  石沢の声はふるえていた。彼は、沙織の腰をうしろから抱え込むようにして、尻に頬ずりをし、舌を這わせた。その舌は、すぐに沙織の尻の谷間を這い下り、くすんだピンク色の小花を思わせるアヌスの上でうごめきはじめた。  ベランダでは、原が無表情のまま、シャッターを切りつづけていた。ファインダーに、沙織の高くかかげた腰と、その向うに顔の上半分をのぞかせた石沢が、しっかりと捉《とら》えられていた。  原の足もとに置かれた、モーニングカップの中身は、半分ほどに減っていた。しかし、そこから湯気が立ちのぼる気配はない。原の吐く息だけが、鮮やかに白かった。  堂本たちの動きはすばやかった。  沙織が原の部屋に、石沢を連れ込んだ翌日の夜には、掃除屋グループは計画の最終段階の実行に踏み切った。  その夜の七時近くに、矢田と沙織が、石沢を捕えた。二人は、笹島建設本社ビルの通用口の近くに、車を停めて待機していたのだ。仕事を終えて通用口を出てきた石沢に、矢田が歩み寄った。石沢には数人の連れがいた。矢田は石沢の名を呼んで呼び止めた。石沢の連れは、軽くふりむいただけで、足を止めようとはしなかった。  矢田は手にしていた写真の一枚を石沢の前に突き出し、ライターをつけた。口はきかなかった。揺れるライターの明りが、写真を照らした。沙織の尻に頬をつけている石沢の顔が、はっきりと写し撮られていた。石沢の喉《のど》の奥に、低いうめき声がひびいた。石沢はひきつった顔を矢田に向けた。 「話がある。車を用意してるんだ。一緒に来てもらうぞ」  矢田は言った。矢田の右手は、目立たないまま、石沢の腰に伸びて、コートと上衣の上から、腰のベルトをしっかりとつかんでいた。石沢はうなだれた。矢田はベルトをつかんだ手で石沢を押した。石沢は顔を上げて、先を歩いていく連れたちを見た。まだ声の届く距離に彼らはいた。 「先に行ってくれ。おれは用ができた」  石沢は連れに声を投げた。連れは石沢の部下たちだったようだ。足を停めてふりむいた連れたちは、口々にていねいな挨拶を送って、すぐに歩き出した。  矢田は車のリヤシートに石沢を押し込んだ。運転席にいた沙織の顔を見て、石沢は叫び声をあげ、つかみかかろうとした。矢田は石沢と並んでリヤシートにいた。矢田の手刀が二発飛んだ。一発は石沢の喉に入った。喉笛がにぶく鳴った。つづく一発は、石沢の首のうしろに打ち込まれた。石沢の頭が撥《は》ねた。石沢はフロントシートの背もたれに胸を打ちつけ、シートとシートの間にはまり込むようにして崩れ落ちた。矢田は石沢の眼をガムテープで覆った。  沙織は無言で車を出した。車はそのまま、西伊豆の賀茂村の、彼らの処刑場に向った。  布陣はすでに終っていた。宇佐見は朝から君田八郎の動きをマークしていた。君田が外でのスケジュールを消化して帰宅するのを見届けて、賀茂村の処刑場に連絡する。それが宇佐見の当面の役割だった。  連絡を受けて、堂本が、君田八郎に電話を入れ、爆弾通告をする。宇佐見はすかさず君田邸に入って、君田八郎を処刑場まで運ぶ。そういう手筈《てはず》だった。  原はその日の朝から、生コン会社の大里到に張りついていた。大里が会社の仕事を終えて出てくるのを待って、原は彼をやはり賀茂村に連れてくることになっていた。大里は、原のことを暴力団員と思い込んでいる。連行に手間はかからないはずだった。  堂本はすでに、車のトランクに、処刑用のライフルを忍ばせて、処刑場に先行していた。一切《いつさい》の計画は、とどこおりなく進んでいたのだ。  沙織の運転する車が、西伊豆賀茂村の古い別荘に着いたのは、午後十時半ごろだった。庭に車が二台停まっていた。堂本のアウディと、原が使っているマーク㈼だった。  矢田は石沢を車から引きずり出した。石沢は、恐怖と虚勢をないまぜにして見せていた。玄関に堂本が迎えに出てきた。 「原と荷物がいま着いたところだ。地下室にいるよ。君田は三十分前に家に帰りついたそうだ。宇佐見君から連絡が入った」  堂本が言った。矢田は眼顔でうなずいた。沙織が玄関のドアを閉めた。矢田は石沢の腕をつかんだまま、地下室に降りた。そこで矢田は、石沢の眼を覆ったガムテープを剥《は》がした。  大里が埃《ほこり》の積もった床に正座させられていた。その姿を眼に留めた石沢が、眼をむき、声をあげた。大きな声だった。その声で大里が眼をあげた。大里は何も言わずに、すぐに眼を伏せた。大里の眼のまわりにも、ガムテープを剥がした跡があった。  矢田は石沢を、大里と向い合わせの位置に正座させた。石沢は挑戦的な表情を見せ、すぐにあぐらをかいた。 「おまえら何者かしらんが、おれの扱い方には気をつけろよ。おれは暴力団に知合いがわんさといるんだ。ただじゃすまないぞ」  石沢が肩を揺するようにして凄《すご》んだ。矢田が石沢の横にしゃがんだ。矢田は無言で石沢の左の手をつかんだ。矢田の指が、石沢の左手の人さし指と中指に絡みついた。とたんに石沢が表情を歪《ゆが》め、喰いしばった歯の間からうめき声をもらした。つかまれた石沢の二本の指が、にぶい音を立てた。二本の指は付根から折れて裏返しになり、手の甲についていた。  矢田はつかんでいた石沢の手を放した。石沢は右手で左手をしっかりとつかみ、胸に抱えこんだまま、上体を前に倒した。石沢の全身が小刻みにわなないていた。うめき声が地下室ににぶくこだました。 「暴力団より怖《おそろ》しいものがこの世の中にあることを知らないな、おまえ……」  矢田は呟《つぶや》くような声で石沢に言った。 「どうしてここに連れてこられたか、二人ともわかってるな?」  堂本が、大里と石沢の横に立って言った。大里は曖昧《あいまい》にうなずいた。石沢はうめくばかりだった。堂本は石沢を引き起した。 「なぜここに連れてこられたか、わかってるんだろうな?」  堂本は石沢の顔をのぞきこんだ。 「わかるわけがないだろう。おれが何をしたというのだ。その女との一件ならおれにも言い分があるぞ。持ちかけてきたのは女のほうなんだ」  石沢は歪《ゆが》んだ顔を沙織に向けた。痛みのために額に脂汗が浮き、唇がふるえていた。沙織は無言のまま、ショルダーから小型のテープレコーダーを出した。それを手に持ったまま、彼女はスイッチを入れた。  テープレコーダーから、大里の声が流れはじめた。矢田と原に向って、コンクリートの強度に関する資料を、改竄したいきさつを語ったときのやりとりを、録音したものだった。  石沢はうなだれてそれを聞いていた。大里も深く首を前に折っていた。しばらくは、地下室にテープの大里の声だけがひびきつづけた。 「いまの声は、おまえのものにまちがいないな? 大里……」  堂本が念を押した。 「あたしの声です。まちがいありません」 「テープに吹き込まれている話も、事実なんだな?」 「事実です」  大里はうつむいたまま、素直に答えた。 「いまのテープの大里の話、おまえはどう思う? 石沢」 「どうって、何が?」 「事実と認めるかと聞いてるんだよ」 「大里さんがしゃべっちまったんなら、ごまかしたって仕方がない。事実だよ」 「念を押すぞ。おまえは君田社長の命令で、大里に、法廷に提出するコンクリート関係の資料を、都合の好いように改竄することを要求した。それを認めるわけだな」 「くどいな。認めるよ」 「君田社長の前で、それを証言できるな?」 「やらせたのは社長だからな。はっきり言ってやるさ」  石沢はばかに思いきりのよい態度に変っていた。 「よし、電話だ」  堂本が立ち上がって言った。原がうなずいて、壁ぎわの電話の前に行った。原はメモを見ながらダイヤルを回した。君田八郎の家の電話番号だった。原は相手が出ると、通話先を確認してから、堂本に受話器を渡した。 「わたくし、笹島建設の石沢部長の代理の者です。夜分に恐れ入りますが、君田社長をお呼び願いたいんですが……。会社のことで急用がございまして。緊急事態が発生した、とお伝えください」  堂本は言った。石沢と大里が、緊張した顔を堂本に向けていた。  受話器に、電話を切り換えるような気配が伝わってきた。つづいてすぐに、君田八郎が電話に出た。 「君田だ……」  その声は落着いていた。 「横浜の造成宅地の土砂崩れの件ですが、あれが人災だってことがはっきりしたんですよ、君田さん……」  堂本も奥行きのある静かな声で言った。吐かれたことばはしかし、君田の耳には唐突にひびいたにちがいない。君田はすぐにはことばを返さなかった。 「きみは誰なんだね?」  君田はしばらくして声を送ってきた。 「フリーのジャーナリストで、田中という者です」  堂本は出まかせを言った。 「補償裁判の法廷に提出された、コンクリートの強度に関する資料が、君田さんの指示で、改竄された、という事実をつかんだんですがね」 「きみ、いまは何時だと思ってるんだね。十一時をまわってるんだ。酔っぱらいのたわごとの相手をしてるほど、ぼくはひまな人間じゃないんだ」 「酔っぱらいのたわごとかどうか、ここにあんたの資料改竄の指示を直接受けた、部長の石沢茂夫がいるんだ。彼を電話に出しましょうか」  君田はまたことばに詰まったようすだった。堂本は追い討ちをかけた。 「石沢茂夫と、資料の改竄を手がけた生コン会社の大里到もここにいる。二人はすでに事実を認めてるんですよ。わるあがきはよしたほうがいいな」 「石沢を電話に出してくれ」  君田は喉に詰まったような声で言った。堂本は電話機を手にさげて、石沢のそばに足をはこんだ。 「社長がご用だそうだ」  石沢はふてくされたようすで、受話器を受取った。折れた二本の指の付根が、大きくはれあがっていた。 「石沢です。申訳ありません。いま電話でお聞きになったとおりです」  石沢は言った。さばさばしたことばつきだった。堂本はすぐに石沢の手から受話器をひったくった。 「まだ、酔っぱらいの寝言《ねごと》だと思うかね?」  堂本は言った。 「きみはジャーナリストだと言ったな。記事にするのかね?」 「ジャーナリストは書くのが商売だが、書かないこともまた商売なんですよ」 「金かね? 狙いは」  君田のことばつきに、心なしかゆとりが生れていた。 「委細面談といきましょう。十分以内にぼくの代理人がお宅に伺《うかが》う。その男があんたをここに案内するはずです。むろん、断わらないでしょうな? 君田さん」 「わかった」  返事を聞いて、堂本は電話を切った。原が替わって受話器を取り、宇佐見が待機している場所に電話を入れた。  三時間たらずの後に、宇佐見が君田八郎を別荘に連れてきた。君田は自分でベンツを運転してきた。案内役の宇佐見は助手席に乗っていた。ベンツは君田のものだった。  地下室に連れ込まれた君田は、あっさりと資料の改竄を指示したことを認めた。認めるしかなかったのだ。認めた上で、君田はすぐに、取引きの条件を提示した。そこにくるまでに考えてきたものだろうと思えた。君田のことばつきには澱《よど》みがなかった。  堂本はむろん、君田の提案を無視した。矢田たちは口を噤《つぐ》んだまま、処刑の支度をすすめた。  処刑が終ったのは、三時四十分だった。冬の夜明けは遅い。一切《いつさい》は濃い夜の闇の中で行なわれた。君田八郎、石沢茂夫、大里到の三人は、君田のベンツのリヤシートに並んだまま、ライフルの至近弾で頭を撃ち砕《くだ》かれた。 「きみら、土砂崩れの被害者たちか?」  最初に銃口を向けられた君田は、堂本に言った。表情はこわばっていたが、声に取乱したところはなかった。 「そう思ったほうがいい。インチキ工事で命や家や土地を失った人たちに処刑されると思えば、覚悟もきまるだろう」  堂本は答えた。君田は眼を閉じた。覚悟が表情に出ていた。  石沢と大里は、歯の根が合わぬほどふるえていた。石沢は失禁していた。君田の肚《はら》のすわった最期のようすとは対照的だった。  三人の死体は、燃料とオイルをすっかり抜き取ったベンツと共に、西伊豆の海に沈められた。  一週間後に、君田たち三人の死体が、海中で発見された。  発見の経緯《けいい》は偶然だった。東京から遠征したダイバーが、賀茂村の海で潜水中に、まずベンツを見つけ、中に浮いている三つの死体を発見したのだ。ダイバーはそのことを電話で地元の警察に通報してきた。しかし、彼は名前を名乗らなかった。  現場一帯の海は、サザエ、アワビ、伊勢エビなどが採れる。しかし、それらは地元の漁業組合が漁業権を持っていて、部外者の漁を禁じている。死体を発見したダイバーは、密漁を咎《とが》められることをおそれて、名前を告げなかったのだろう、というのが警察の推測だった。  ベンツのナンバー、死体がまとっていた衣服のポケットにあった物などから、頭を撃ち砕かれた三人の身許《みもと》はすぐに判明した。ベンツの中に残っていたライフル弾と頭の傷が、三人の死因をはっきり示していた。  新聞やテレビが、第一報を流したのは、十二月の二十八日だった。第一報は、西伊豆の海中でベンツと三つの死体が発見された、というだけの簡単なものだった。  翌日の続報は、師走《しわす》のあわただしい気分に包まれている人々に、大きな衝撃を与えた。新聞は各紙とも、社会面の大半を費《ついや》して、事件を大きく扱っていた。それは、警察がはじめから、横浜の造成宅地の土砂崩れの被害者の、怒りと怨恨《えんこん》による殺人、といったセンセーショナルな断定を下していたからだった。  殺された三人はいずれも、問題を起した宅地造成工事の、重要な責任者の立場にいた。土砂崩れでは多くの人が家族を失い、家と土地を失った。損害補償の裁判は、被害者同盟の敗訴に終っている。中の一人が、そうした怒りから、笹島建設の社長を襲い、殺人未遂で逮捕されてもいる。  そうした背景の中で三人は殺された。三人には他に、人に命を狙われるような理由はない。土砂崩れで被害を受けた者以外の犯行とは考えられない——それが警察の判断だった。  翌日の第三報は、さらに大きな衝撃を人々に与えた。警察は、前日に発表した、怨恨殺人説を早々と撤回して、新しいテロリストグループの暗躍の可能性あり、という見解を発表していた。  君田八郎たちの死体を積んだベンツが沈んでいた近くで、リンカーン・コンチネンタルが新たに発見されたのだ。  それを見つけたのは、警察のダイバーの一人だった。彼は、君田八郎たちの死体が発見された事件の補充捜査のために、ふたたび付近の海に潜り、偶然にそこに沈んでいるリンカーン・コンチネンタルを見つけたのだった。  リンカーン・コンチネンタルの中にも、一体の死体があった。それはすでに完全に白骨化していた。  まず車の所有者が簡単に判った。リンカーン・コンチネンタルは、謎の失踪を遂げた政治家として、ひところマスコミを騒がした、自由党代議士の倉持賢一のものだった。つづいて死体の歯形から、それが倉持賢一自身の死体であることも判明した。  リンカーン・コンチネンタルの車内には、すっかり錆びついたライフルの弾丸が残っていた。死体の頭蓋骨は砕け散っていて、それが銃撃によるものであることも証明された。  君田八郎たち三人を殺害した手口と、すべてが同一であることが注目を惹《ひ》いた。そこから、君田八郎たち三人が殺された事件に対する、捜査当局の見方が一変した。テロリストグループの組織的犯行、という見方が浮上したのだ。  自由党代議士の倉持賢一は、金権代議士として世論の集中攻撃を浴びた札つき政治家だった。選挙のたびに派手に現金をばらまき、大量の選挙違反による逮捕者を出しながら、連座をまぬがれ、強引に国会議員の席に居すわってきたのだ。  その倉持賢一が、自分の車もろとも姿を消して、二年近くが過ぎていたのだ。失踪の原因はいろいろと取沙汰されたが、どれも憶測の域を出ないものばかりだった。  それが突然、西伊豆の海中で、車とともに発見されたのだ。しかも殺害の手口は、土砂崩れ事件の三人と、寸分ちがっていない。倉持賢一と、君田八郎、石沢茂夫、大里到の三人とを結びつけるものは何一つない。殺し方の手口だけが共通しているのだ。  テロリストグループが、倉持賢一の金権選挙に怒り、また一方では、土砂崩れで大きな被害を招きながら、利潤追求と企業のエゴイズムを第一義に押し通そうとする者たちを怒り、犯行に及んだのではないか——捜査当局がそういう見方に傾いたのは、当然と言えた。  テロリストグループの存在が、疑いもないものとして、新聞に報道されたのは、大《おお》晦日《みそか》だった。  警察は、他にも海に沈んでいる車と死体があるのではないか、という疑いを持って、さらに賀茂村の海中を探索したのだ。探索は無駄ではなかった。さらに新しく、一台のリンカーン・コンチネンタルと、ベンツが発見された。二つの車には、それぞれ三体ずつの白骨死体が閉じこめられていた。  六つの死体の頭蓋骨が、すべて銃撃で砕かれた跡をとどめていること、車内からライフルの銃弾が発見されたことなど、すべては君田八郎たち三人や、倉持賢一の場合と同じ状況だった。  新しく見つかった、リンカーン・コンチネンタルの中で殺されていたのは、自由党代議士で、総裁選挙に出馬することを表明していた、大物政治家の入江|周文《かねふみ》と、暴力団の組長と幹部だった。  入江周文は、一部の暴力団との癒着《ゆちやく》を問われて、国会に特別調査委員会が発足する、といった騒ぎを巻き起したことがあった。調査委員会は、何の成果も生まずに解散したが、その間に、東京と大阪で、二人の人間が殺された。二人とも入江周文と暴力団との長年にわたる癒着の実態を知っている人間だった。しかし、その二人が、入江周文の差金《さしがね》で殺された、という証拠は現われずじまいだった。  一方、あとから見つかったベンツの中で殺されていたのは、失踪するまで自由党の幹事長をつとめていた溝呂木《みぞろぎ》和久、その私設秘書の古屋良太郎、N製薬社長の岸部治の三人だった。  N製薬は、以前にアルファ・エリグロンという名の肝臓治療薬を開発して売り出した。その薬には、奇型児を産む毒性があるという説と、毒性なしとする説とが、専門家の間で論議されたことがあった。  その最中に、N製薬の研究室にいる社員の一人と、その社員と交渉のあった新聞記者とが殺される、という事件が起きた。犯人は大阪の暴力団員で、覚醒剤中毒にかかっている男だったことから、幻覚による発作的な犯行ということでケリがついた。  ところがその後、東京地検に匿名の密告があった。殺されたN製薬の社員は、知合いの新聞記者と組んで、アルファ・エリグロンの毒性に関する内部告発をはかっていた人間であり、二人の死は、覚醒剤中毒のヤクザの発作的犯行に見せかけた、計画殺人である、というのが匿名の密告の内容だった。  地検と警視庁が再捜査を行なったが、計画殺人は立証されず、捜査は打切られた。そういう出来事が過去にあったのだ。テロリストグループが、アルファ・エリグロンの毒性問題をめぐって、殺された三人が不正をはたらいたことをつかみ、殺害に及んだものではないか、という見方で、大方が一致した。  二台のベンツと二台のリンカーン・コンチネンタルの中から発見された、ライフルの銃弾の線条痕《せんじようこん》検査が、テロリストグループの存在を確定的なものにした。すべての銃弾の線条痕が一致したのだ。つまり、それらは同一のライフル銃から発射されたものであることが、明白になったのだ。  一連のニュースは、年の瀬の押しつまった慌《あわただ》しい空気の世間に、大きなショックと話題を提供する結果となった。誰もがテロリストグループの存在を疑わなかった。ジャーナリズムは一致して、これを〈ノンポリ・テロ〉と呼びはじめた。一連の犯行に、政治的、思想的な背景や動機がうかがえないためだった。そこに共通して見られるのは、社会的、政治的の別なく悪を葬るという、単純明快な動機だけだった。  テロリストグループに関する記事は、新年を迎えても、新聞や週刊誌をにぎわしつづけた。  堂本たち掃除屋のメンバーも、むろんそれらに眼を通していた。彼らはしかし、浮足立ってなどいなかった。 「ノンポリ・テロとはよくぞつけたりってとこだな。テロの新概念だぜ、これは」  堂本は新聞を見て笑っていた。  テロリストグループの正体を知っているのは、自由党の大立者である黒島隆三郎だけである。その黒島は、堂本たちに数々の秘密をにぎられている。それだけではない。黒島自身、処刑人として、二度もライフルの引金を引いているのだ。自由党幹事長で、N製薬会社社長の岸部治と一緒に死んだ溝呂木和久は、黒島が射殺したのだ。やはり大物政治家の入江周文と共に死んだ、暴力団員の一人も、黒島が放ったライフル弾で、頭を撃ち砕かれて絶命している。 「黒島もいわばおれたちのメンバーの一人ってことになる。一蓮托生《いちれんたくしよう》だ。黒島がおれたちのことをばらす心配はないさ」  堂本に言わせれば、そういうことになるのだった。  その堂本が、珍しく険《けわ》しい顔で四谷の事務所に現われたのは、正月の休みがあけた、仕事始めの日の朝だった。メンバー全員が顔をそろえていた。  堂本は無言で自分のデスクに着くと、眼顔で矢田を呼んだ。矢田が立って行くと、堂本は、持ってきた書類鞄の中から、一冊の週刊誌を取出し、矢田の前に置いた。 「笹島建設のことが出ている」  堂本はそう言った。あとは口を噤《つぐ》んだままだった。矢田は席にもどった。宇佐見と原が寄ってきて、矢田の手もとをのぞきこんだ。沙織は堂本のデスクに茶をはこび、盆を持ったまま、矢田の席にきた。  矢田は週刊誌の目次に目をやった。 〈揺らぐ笹島建設。テロルに倒れた君田社長は罠に陥《お》ちたのか?〉  そういう文字が目に留まった。矢田はページを開いた。宇佐見や原たちも、無言で活字を追いはじめた。すぐに矢田たち四人の顔が、堂本と同じように険しいものに変っていった。  記事はあらまし、こういうものだった。  鶴見の生コン会社の社員だという男から、週刊誌の編集部に、匿名の電話があった。それが発端だった。男は、笹島建設社長の君田八郎たち三人が、なぜテロリストの凶弾に倒れたか、その理由を知っている、と言った。  男の話はこうだった。君田社長は、横浜の造成宅地の土砂崩れの補償をめぐる裁判で、法廷に出す工事関係の資料を改竄させたと思いこまされて、テロリストに殺されたのである。  だが、これは、君田社長の失脚を狙う、笹島建設重役陣内部の一派が仕組んだ謀略であり、実際には法廷に出された工事資料が改竄された事実はない。  君田社長と一緒に殺された、笹島建設の部長、石沢茂夫と、生コン会社の課長の大里到の両名は、君田社長を失脚させる謀略に加わっていた人間で、計画の実行は、ほとんどこの二人が受持った。  謀略そのものの手口は簡単なトリックにすぎなかった。石沢茂夫が意図的に虚偽の情報を伝えたために、君田社長は、裁判で争っている宅地造成工事に、規格以下の強度しかないコンクリートが使われたと思い込んでしまった。そこで君田社長は、裁判に不利を招くことを虞《おそ》れて、石沢に生コン会社に工事資料の改竄を求める交渉をやらせた。  実際に問題の工事に使われたコンクリートの強度は、規格にかなったものであり、従って法廷に提出する資料には、改竄の必要などまったくなかったのだ。にもかかわらず、石沢は生コン会社を説得して、改竄を承知させたかのような報告を君田社長に行なった。君田社長は、石沢の報告を疑わなかった。  謀略を企んだ一派は、そうやって資料改竄を捏造《ねつぞう》し、それを種に騒ぎを起して、君田社長を失脚させる計画だった。ところが、捏造された資料改竄の一件が、どこをどう伝わったのか、テロリストの知るところとなった。テロリストたちも、資料改竄がでっちあげとは知らずに、君田、石沢、大里の三名がそれに関わったと思いこみ、その三名を血祭りにあげたものである。事実、大里課長から、笹島建設経営陣の反君田派の謀略の内容を直接聞いているし、また、大里課長がテロリストグループのメンバーらしい二人の男と接触している現場を、数回にわたって目撃もしている——。  生コン会社社員だという、匿名の男の話は、電話だけではなく、直接顔を合わせての、数回の取材によってまとめられたものだ、と記事では断わってあった。  取材は当然、生コン会社に対しても、笹島建設に対しても行なわれていた。  反君田派の陰謀を裏付ける発言と、それを否定する発言が、笹島建設内部からいくつもとび出した。陰謀を肯定する声のほうが強かった。それには石沢茂夫が、前の前の社長だった磯貝幸彦に、以前からかわいがられていた、という事実も作用しているようすだった。そして肯定派は口をそろえて、君田八郎の剛直で清廉潔白《せいれんけつぱく》な人柄と、経営者としてのすぐれた資質をたたえていた。  笹島建設は、君田社長の出現で、長年つづいた権力争いに幕が引かれたが、争いの根は依然として残っていた。君田社長が失脚すれば、抗争が再燃するのは必至の情況である。失脚しないまでも、土砂崩れ裁判で敗訴すれば、そのことを社長の失点として退陣を迫る動きが起きたであろう。それが抗争再燃のきっかけになることを虞《おそ》れて、君田社長が偽情報に操《あやつ》られ、資料改竄を命じたことは、充分に考えられる。それは、君田社長の保身のためではなく、あくまでも社内の和と秩序と利益を守る、という考え方によるものだったにちがいない——そういう主旨の発言が目立っていた。  記事を読み終えて、矢田は週刊誌のページをゆっくりと閉じた。宇佐見と原と沙織が、それぞれ自分の席に戻っていった。誰も口をきかなかった。 「この記事どおりに、資料の改竄が事実無根だとしたら、おれたちは意味のない人殺しをしたことになるわけだ……」  矢田が低い声で言った。 「資料のごまかしが事実かどうかまでは、おれたちも調べなかったからなあ」  堂本が言った。沈痛な声だった。原も宇佐見も沙織も、こわばった表情のまま、机に眼を落していた。沈黙がつづいた。 「まさかと思うんですが、こういうことは考えられませんか?」  しばらくして、矢田が堂本に言った。堂本は問うような眼を矢田に返した。 「すべては、おれたちをはめるための、黒島隆三郎《くろしまりゆうざぶろう》の罠だった、ということは考えられませんかね」 「すべてとは?」 「つまり、石沢も大里も、笹島建設の反君田派の重役の陰謀のために動いたんじゃなくて、何も知らずに黒島に操られていたんじゃないかってことですよ」  堂本は、矢田のことばに無言で小さくうなずいた。 「黒島が、前からずっとおれたちの動きを追っていたとします。そうすれば奴は、おれたちが今度は君田八郎を狙おうとしていることに気づくはずです。そこで奴は、総会屋やブラックジャーナリズムの連中を使って、ガセネタを流します。そしておれたちの前に石沢や大里を意味ありげにちらつかせる。おれたちはそれにとびついた。そして、君田が資料改竄を指示した、というガセネタに行きつかせる。そうすれば、おれたちに意味のない人殺しをやらせることができる。黒島はそれを企《たくら》んだんじゃないかって気もするんです」 「それで、黒島はどういう利益がある?」 「一つには、おれたち掃除屋の仕事に味噌をつけて、正義|面《づら》をするなと溜飲《りゆういん》をさげたかったのでしょう。もう一つは、おれたちをただの殺人集団として世間の眼にさらして、あわよくば警察の手に売ろう、という魂胆《こんたん》だったかもしれません」 「君田たちの死体を見つけたというダイバーは、たしか匿名で警察に通報してきた、という話だったですね」  宇佐見が顔を上げて、ことばをはさんだ。宇佐見の眼は、それまでとちがって燃えていた。 「おれもいま、それを言おうとしたんだ」  矢田が宇佐見を見やった。 「なるほど。君田たちの死体を発見したダイバーが、黒島とつながっているとしたら、矢田君の推理は見事に完結するわけだ」  堂本が言った。 「黒島はおれたちが、処刑したあとの死体をどこにどうやって始末するか、知ってるわけですよ。だから誰かに匿名で通報させれば、君田たちの死体はすぐに警察が発見する。ダイバーだと言った匿名の通報者は、わざわざ海に潜ることもないやな」 「君田たちの死体が出れば、あとは週刊誌や新聞に密告電話をかけて、おれたちが意味のないテロをやった、人殺し集団だと思わせればいい。あとは世論と警察権力が、おれたちを追い詰めてくれるってわけですよ」 「ところが、見つかった死体は、結果的には君田たち三人のものだけじゃなかった。黒島にとっても命取りになる死体がゴロゴロ出てきちまったなあ。そこまでは黒島も読めなかったってわけか」 「まあ、一つの仮説ですけどね。しかしありえない話じゃないですよ」 「うん。黒島隆三郎ならやりかねないな」  堂本は言って、パイプをポケットから抜き取り、たばこを詰めはじめた。 「今度のことが、仮りに黒島の罠だったとしても、生コン会社の資料改竄が事実無根だとしたら、おれたちがただの人殺しをはたらいたことには変りはないやな」  堂本が呟くようにことばを吐いた。 「でも先生、あたしたち、いつもただの人殺しをしてきたわけじゃないでしょう」  沙織が言った。細い、訴えるような声だった。 「もちろんさ。しかし、だからといって、一度だけでもただの人殺しをすれば、それが前の仕事の持つ意味で相殺《そうさい》されるというものでもないだろう」 「それより、気になることがあるんです」  原がはじめて口をはさんだ。 「さっきの週刊誌の記事の中に、生コン会社の男が、大里と会っている矢田さんとおれの顔を見た、と話してるって出てましたね」 「サツがもう動いてるかもしれんな」  原のことばに、矢田がうっそりとした声で応じた。 「おれはサツにパクられるのは死んでもごめんだな。サツが権力の圧力に弱いから、おれたちゃ掃除屋になったんだ。その掃除屋がサツにとっつかまったんじゃ、お笑いじゃないか」  矢田が片頬に笑いを刻んで言った。 「おれだってそうですよ」 「おれも刑務所はごめんだなあ」  原と堂本が言った。宇佐見と沙織も、強い眼差しを見せて、大きく何度もうなずいた。  東京地検の特捜検事、辻正毅《つじまさたけ》から、堂本に電話が入ったのは、その日の午後七時近くだった。  堂本法律事務所には、掃除屋のメンバー全員が、まだ残っていた。その日の仕事が片付いたところで、帰り支度にかかろうとしているところだった。  電話に出た堂本は、すぐに回転椅子ごと体を回して、メンバーたちに背中を向けた。辻のほうが一方的に話しているようすで、堂本は短い相槌《あいづち》をくり返すばかりだった。やがて堂本が言った。 「そういうことだな。心配するな。みんな覚悟はできてるよ。この仕事をはじめたときからな。おまえも充分、気をつけろよ」  電話はそこで終った。堂本は体の向きを元にもどして、受話器をかけた。矢田をはじめ、全員が、堂本に視線を集めていた。『覚悟はできてるよ』と言った堂本のことばが、彼らの注意を惹《ひ》いたのだ。 「警察が動いてるそうだ。それも、おれたちのかなり近くまで迫ってるらしい。辻が知らせてきた」  堂本は言って、メンバーの一人一人を見つめるようにした。 「おれたち全員のモンタージュ写真が、すでにできているそうだ。それもかなり正確なものらしい。身許《みもと》が割れるのは時間の問題だろう、と辻は言ってたよ。辻はたったいまそれを知って、外の公衆電話から連絡してきたんだ」 「ばかに早いな」  矢田が言った。 「矢田君と原君のモンタージュは、例の週刊誌の編集部に密告電話をしてきた、生コン会社の社員の証言を基にしてるらしいな」 「宇佐見と沙織ちゃんのは、きっと、今度の仕事で聞込みに歩いた、総会屋やインチキ新聞の連中の話を頼りに、こしらえてるんですよ」 「そうだって辻も言ってた。警視庁筋がそう言ってるらしいんだ」 「刑事たちを総会屋やインチキ新聞屋たちの世界に誘導した奴がいるはずですよ。でなきゃこんなに早く全員の正確なモンタージュ写真ができるはずはない」 「つまり、今度のおれたちの仕事には、やっぱり黒島の罠が仕掛けられてたってことになりそうだな」 「たぶん、ですね。どうやらおれたちは、サツと黒島が放つ殺し屋の両方から狙われることになるぞ」  矢田は、あとのほうは宇佐見や原たちに向って言った。 「倉持賢一や、溝呂木和久たちの死体までころがり出てきましたからね。黒島としちゃ大誤算でしょう。おれたちがサツに逮捕されれば、黒島のことも洗いざらい自白する、と奴は思ってるでしょうから、当然、殺し屋を向けてきますよ」  宇佐見が言った。 「どうしますか?」  矢田が堂本の決断を促《うなが》すように言った。堂本の顔にためらいはなかった。 「おれたちは掃除屋だ。それらしい身の処し方をしなきゃな。賀茂村の別荘に拠点を移そう。警察に逮捕されるのは、掃除屋にとっちゃナンセンスだ。別荘にこもって、黒島との結着をつけたら、まあ、自決か逃亡だな」  堂本は他人事《ひとごと》のように言ってのけた。全員が大きくうなずいた。 「すぐに帰って、賀茂村の処刑場に籠城《ろうじよう》する支度をととのえよう。警官隊とは銃撃戦になるかもしれないぞ。黒島を処刑場に引きずり出す交渉を進めるためだ。やむをえない。支度がすみ次第、個別に伊豆に向って、現地で落合う。それでいいな?」  堂本のことばに、全員がうなずいた。 「沙織は車が足りないから、おれが回って拾っていく。部屋で待っててくれ」  堂本は言い添えた。  事務所のロッカーには、拳銃六挺とM16ライフル二挺、それに拳銃とライフルの実包が数百発、段ボール箱に詰めて匿《かく》してあった。それは、それぞれの車に積んで、伊豆にはこぶことになった。  ロッカーが開けられ、銃器と実包が分けられた。それを手分けして、駐車場の車にはこんだ。どの顔も、ふだんとほとんど変ったところは見られなかった。  堂本は、沙織を彼女の住むマンションの前で車から降ろして、南青山に向った。  南青山には、堂本がセカンドハウスとして使っていた、マンションの部屋がある。堂本の家族は、小金井に住んでいるのだ。  堂本は、黒島隆三郎との間に結着をつけたら、自決する覚悟でいた。掃除屋グループのリーダーとして、法を超えて悪を処刑してきたことに悔《く》いはなかった。しかし、それとは別に、私人として何人もの命を奪ったことへの償《つぐな》いは免れないことも、堂本はかねてから覚悟していた。覚悟はゆるがなかった。  マンションの部屋にもどると、堂本はスーツを脱ぎ、ネクタイをはずして、黒い革のジャンパーと革のスラックスに着換えた。  しなければならないことが、もう一つあった。家族たちへの遺書を、その部屋に残しておくことだった。遺書だけを残して、伊豆に向う肚《はら》を決めていた。妻と二人の子供たちと、電話でそれとなく最期のことばを交《かわ》したい気持がしきりに動いた。堂本はそれを押し殺した。ことばを交せば、気持が揺れそうだった。  机に向って遺書を書きはじめたとき、ドアチャイムが鳴った。遺書は最初の一行目までしか進んでいなかった。  堂本はインターフォンに声を送った。デパートからの年始の品の配送だ、と相手は答えた。  堂本はテーブルを離れて、玄関に行った。ドアスコープをのぞくことは忘れなかった。作業衣姿の男が、帽子をかぶって、ドアの前に立っていた。手に四角い紙包みをさげていた。  堂本は警戒心を解いた。ドアチェーンをはずし、ドアを開けた。相手が中に入ってきた。三十前後の男だった。 「印鑑をお願いします……」  男は言った。堂本は男に背を向け、印鑑を取りに机にもどろうとした。同時に男の片腕が、うしろから堂本の頸《くび》に巻きついていた。堂本の口からうめき声がもれた。開いたままのドアから、別の男がすべり込んできた。その男の手で、ドアが閉められた。  堂本は、背中を押されて、奥に行った。男の腕はしっかりと堂本の頸に巻きついていた。息が苦しかった。  リビングルームに入ったところで、堂本は不意に体を沈め、腰をするどくひねった。頸を巻いている男の体が浮いた。男は宙に両足をはねあげて、床に落ちた。見事な背負い投げだった。  堂本は、倒れた男の腹を蹴りつけた。もう一人の男が、堂本にとびついてきた。堂本はかわさなかった。男の顎《あご》に拳を打込んだ。男の腰が落ちかけた。男は踏みとどまり、服のポケットから、ドスを取り出した。鞘《さや》を払って、低く身構えた。床にころがっている男もはね起きた。その男も、ポケットから出したドスを抜いた。 「黒島に雇われたんだな、おまえたち」  堂本は、あとじさりながら言った。男たちは答えなかった。無造作に距離を詰めてきた。堂本は壁ぎわのサイドテーブルの前まであとじさった。拳銃は車のトランクルームの中だった。それを持ってこなかったことを、堂本は悔んだ。  一人がまた一歩、前に出た。もう一人が低い姿勢で突っ込んできた。刺す気はなかったのか、男は小さく脅《おど》すように、ドスを横に払っただけだった。堂本はよけた。よけながら、わざと肘《ひじ》でサイドテーブルの戸のガラスを割った。中に酒のびんが並んでいた。  堂本はうしろにやった手で、酒のびんを逆手《さかて》につかんだ。つかむなりそれを投げた。びんが男の一人のこめかみを直撃して砕けた。血がしたたった。こぼれ出た酒が、男の眼に入ったのか、男はあとじさって、手で眼をこすりはじめた。  堂本は、さらに酒びんをつかみ出した。今度は投げなかった。投げるふりをした。相手は冷静だった。誘いに乗らなかった。低く身がまえた男の、ドスを持った手が、低い位置のまま、小さく鋭く振られた。にぶい光が宙にきらめいた。飛んできたドスが、堂本の太腿《ふともも》の付根に深々と刺さった。  堂本は、片脚が一瞬にぶくしびれるのを覚えた。体がはげしく揺れた。そのまま堂本は、ガラスの破片の散る床に倒れた。片手の酒びんは離さなかった。空いた片手で、太腿のドスを抜こうとした。  男がその手を蹴った。男の手が、堂本の腿に刺さったドスを引抜いた。同時に堂本が、男の頭を酒びんで殴りつけた。男の頭から血が飛んだ。男はしかし怯《ひる》みを見せなかった。  ドスが堂本の喉に突きつけられた。男の片手が、堂本の髪をつかんでいた。 「立て!」  男は低い声で言った。頭から幾本もの条《すじ》となって流れ落ちる血が、男の顔を彩《いろど》っていた。堂本は立てなかった。男の土足のままの足が、堂本の腹にめりこんだ。肋骨《ろつこつ》がきしんだ。堂本はうめいた。床に手を突いた。手に酒びんの口が触れた。  酒びんは半分から先が砕けていた。堂本はそれをつかんだ。 「気をつけろ!」  もう一人の男が横から叫んだ。叫びながら男は、酒びんを持った堂本の腕をドスで払った。一瞬早く、割れた酒びんのささくれ立った部分が、堂本の髪をつかんでいる男の顔面に突き立てられた。  ドスが堂本の喉を横に抉《えぐ》っていた。血が泡立ちながら、喉から音を立てて湧き出た。もう一人の男のドスが、堂本の脇腹を刺していた。  堂本は眼をむいた。そのまま彼は上体を前に倒した。床にころがった。ガラスの破片が、堂本の頬を裂いた。  堂本は床に這った。背中にドスが突き立てられた。堂本の口から、息の洩れるような頼りない音がきこえた。堂本は動かなかった。眼をみひらいていた。  その眼に、寄ってくる男の足が映った。堂本は死力をふりしぼった。男の足に両腕を絡《から》めた。そのまま堂本は背中からはね起きた。男は足をすくわれてうしろに転倒した。ドスが男の手から放れて飛んだ。  堂本はドスに飛びついた。信じられない勢いだった。ドスを抱えこむようにしてつかんだ。同時にもう一人の男が、うしろから堂本に飛びついた。ドスが堂本の首の付根に深々と打込まれた。  堂本は体をひねった。逆手に持ったドスが、男の脇腹を抉った。男は堂本の背中の上に倒れ込んできた。二人はころがった。堂本は這ったまま、男の首にドスを突き立てた。血が音を立てて、勢いよくしぶいた。それが堂本の顔に当って散った。男は頸動脈を断ち切られていた。仰向《あおむ》けにころがった。眼がうつろになっていた。堂本は両手で逆手に持ったドスを、狙い定めて男の心臓に打込んだ。  男の手からドスが放れた。堂本はそれを手に取った。ドスは二本とも、柄《え》まで血で染まっていた。  もう一人の男が、怯えた眼で堂本を見た。男はリビングルームからとび出そうとした。堂本は追えない。倒れながら、ドスで男の脚を払った。男のズボンのふくらはぎが大きく切り裂かれ、そこが見るまに血でにぶく光りはじめた。  男は片膝を突いた。堂本は這った姿勢のまま、男にとびついた。ドスが男の尻を切り裂いた。つづいてドスは横に走った。ドスは男の耳の下から頬までを、断ち割ったように裂いていた。  血が噴き出た。堂本は眼がかすんだ。呼吸がはげしくはずんでいた。男は倒れて床にころがった。這って逃げようとした。堂本は男の背中に覆いかぶさった。ドスは男の左の背中に突き立てられ、途中で折れた。 「これで狙いが狂っただろう。おれを自殺かなんかに見せかけて殺す気だったろうが、そうはいかないぞ……」  堂本は、あえぎながら、かすれた声で言った。残ったドスが、また男の頸に突き立てられた。男はもう虫の息だった。  堂本は這って男から離れた。壁ぎわまで進んだ。頸の付根からあふれ出る血を、指につけた。その指で、堂本は壁に文字を連ねはじめた。 〈悪徳政治屋、黒島隆三郎の放った殺し屋二名、ここに処刑した。堂本英介〉  書き終えて、堂本はその場に倒れこんだ。すぐに彼は、机に向って這い出した。遺書を書かねば、と思った。他には何も思い浮ばなかった。  机まで這い進み、堂本は机の端に手をかけて、上体を起しかけた。手が血ですべった。堂本は机の横に倒れた。ふたたび起きようとした。上体は起きかけてすぐに崩れた。それっきり、彼は動かなかった。  矢田が独り住まいの、高島平の団地の部屋に帰ったのは、事務所を出て小一時間後だった。  矢田はその部屋に十分余りしかいなかった。そこですることはいくらもなかった。  小さなボストンバッグに、彼は着換えのシャツと下着類を詰めた。  バッグの底には、団地の屋上から跳びおりて、親子心中を果した妻と子供の、写真を忍ばせた。  妻と娘の写真を持って出る気になったのは、矢田が逃亡の決意を固めていたからだった。矢田は、自決する気はなかった。伊豆の別荘で警官隊に囲まれることは覚悟していた。黒島隆三郎の悪を暴露し、彼を処刑するには、いまは警官隊と対峙《たいじ》するしか、途《みち》はなさそうだった。黒島を処刑した後は、矢田は逃げられるところまで逃げる覚悟でいた。逃亡も法や権力に対する戦いだ、と矢田は考えていたのだ。  矢田はくたびれたコートと背広を、ジーパンと革ジャンパーに着換えた。机の抽出《ひきだ》しからフィッシングナイフを出した。釣に凝《こ》っていた刑事時代に買ったものだった。大型のナイフである。身を守るための道具なら、いくらあっても邪魔にはならない。矢田はそう思った。彼はそれをブーツの中に押込んで、部屋を出た。  ふたたび帰ることは、おそらくないと思える部屋だった。だが、矢田はふりむきもせずにドアを閉めた。  車は団地の駐車場に停めてあった。矢田は運転席のドアを開け、ボストンバッグを助手席に放りこんだ。  イグニッションキーを回そうとしたとき、車がかすかに揺れた。同時に矢田は、うしろから頸をしめられた。後頭部に冷たく固いものが当てられた。感触で、拳銃の銃口らしい、と見当がついた。 「騒ぐんじゃないぞ。車を出せ」  耳に息がかかった。矢田はルームミラーに眼をやった。暗がりの中で、男の顔がにぶく映っていた。矢田は黙って車を出した。横に停まっていたクラウンが、すべるように走り出した。クラウンはそのまま矢田の車のあとについた。 「戸田競艇場に行ってもらう」  男の息が、また矢田の頸すじにかかった。警察の人間じゃない——矢田は思った。 「おれの命にいくらの値がついた? 黒島隆三郎にギャラもらって、おれを消しに来たんだろう?」  矢田は言ってみた。 「ふん……。あててみな、いくらか」  男は低い笑い声を洩らし、拳銃の銃口で矢田の頭を何度も軽く叩いた。団地の駐車場を出たクラウンは、ぴたりとうしろにつづいていた。  団地から戸田競艇場までは、ひと走りだった。競艇場に着くと、男は駐車場の奥に車を停めさせた。クラウンが横に停まった。駐車場はがらんとして闇に包まれていた。 「ライトを消せ」  男が言った。矢田は従った。相手の出方がわからない以上、策は立てにくかった。クラウンから男が二人降りてきた。一人が矢田の車の運転席のドアを開けた。一人は車のうしろにまわった。男たちは口をきかなかった。てきぱきと動いた。  矢田は口に布を押し込まれた。ロープで両腕ごと上体をシートに縛《しば》りつけられた。両足はサイドブレーキのレバーに縛りつけられた。一人がうしろのドアを開けて、シートに這いつくばり、何かしていた。男のしていることは矢田にはわからなかった。  それがわかったのは、別の男がクラウンの中から、コンクリートのブロックを抱えてくるのを見たときだった。男はコンクリートのブロックを、矢田の車のアクセルペダルの上にのせた。エンジンの回転が増した。矢田ははじめて、胸の底に固い何かの塊《かたまり》のような恐怖を覚えた。男たちは排気ガスを矢田に吸わせて殺す気でいるのだ。矢田が息絶えたあとで、足と体を縛っているロープを解き、口に押し込んだ布を取り去る。そうすれば自殺に見えるだろう。 「ゆっくり眠れよな。てめえの命の値段をあれこれ値踏みしながらな」  拳銃を持った男が言った。男は車を降りた。ドアが外から叩きつけるようにして閉められた。男たちはクラウンに乗り込んだ。クラウンは、ライトを消し、エンジンも切っている。動き出す気配はない。矢田が死ぬのを、そうやってたばこでも吸いながら待つ気と見えた。  矢田は縛られた両足を動かした。足を縛ったのは、アクセルペダルにのせたブロックをはずさせないためだった。両足を上げてみた。ブレーキレバーに巻きついたロープが、少しだけすべることがわかった。  矢田は苦労してロープをゆるめた。はじめからすると、足は五センチは上がるようになった。しかし、縛られたままの手で、ブーツに押込んだナイフを抜き取るまでには、まだ足りなかった。車内に排気ガスの匂いがこもりはじめた。矢田は焦《あせ》った。喉に刺すような刺激があった。  ようやくナイフの柄に指先がかかった。矢田の額から汗が落ちた。ナイフが抜けた。矢田は肘を曲げ、体を縛っているロープを切った。足も自由になった。全身から汗が噴き出した。トランクルームを開けるレバーを引いた。ルームランプのスイッチを切った。そっとドアを開け、姿勢を低くしてすばやく外に出た。這って車のうしろにまわった。ナイフは腰のベルトにさした。トランクルームの蓋を小さく上げ、腕をさし入れた。解体したライフルと拳銃の入った段ボールが手に触れた。拳銃を取り出した。  這《は》ってクラウンのうしろにまわった。リヤシートに一人、前に二人が坐っていた。拳銃を左手に持ち、ナイフを口にくわえた。這ったまま助手席のドアの横にまわった。うずくまった姿勢でドアのノブに手をかけ、一気に引き開けた。ドアに寄りかかっていた男がころがり落ちてきた。ナイフを男の太腿に突き立て、拳銃のグリップをこめかみに打ちおろした。男は動かなくなった。  矢田ははね起きた。拳銃を車の中の二人に向けた。片手に血に染まったナイフを持っていた。ナイフで運転席の男の太腿を深く刺した。悲鳴が湧いた。 「出ろ」  矢田はリヤシートの男に言った。男は車から出た。拳銃を持っていた。矢田は取り上げた。クラウンのキーを抜き取った。男の腰を蹴りつけ、矢田は自分の車に連れて行った。男に排気管につないだホースを抜き取らせ、ドアをすべて開けさせた。矢田は男を運転席に坐らせ、ロープで両手をハンドルに縛りつけた。  矢田はクラウンにもどった。運転席でうめいている男を外にひきずりおろした。こめかみに拳銃のグリップを打ち込んだ。男は静かになった。車にもどり、男の手のロープをハンドルから解いてやった。矢田はリヤシートに乗った。男は矢田に頭を拳銃で小突かれて、言われた通りに車を出した。  西伊豆賀茂村の別荘に着いたのは、午前零時近かった。矢田は車を裏庭とつづいている林の中に停めさせた。林のあちこちに、すでに三台の車がばらばらに停めてあった。堂本の車もあった。  矢田は男に拳銃を突きつけたまま、玄関にまわった。ドアを開けてくれたのは宇佐見だった。宇佐見は矢田の前に立っている男を見て、不審な顔になった。 「黒島の飼犬だよ」  矢田は言った。 「矢田さんところにも殺し屋が?」 「おまえも襲われたのか? 宇佐見」 「堂本さんがやられました」  宇佐見が言った。矢田は眼をむいた。黙って玄関のドアを閉めた。宇佐見がいきなり、男の顎に拳を打込んだ。男は一撃で玄関のたたきに崩れ落ちた。原と沙織が奥から出てきた。沙織は眼を泣きはらしていた。 「矢田さん、先生が殺《や》られたんです!」  沙織は言って、泣きじゃくりはじめた。原が替って説明した。沙織は、迎えにくるはずの堂本があまり遅いので、電話をかけてみたが、堂本は出なかった。待ちかねて沙織は堂本の部屋にタクシーで行き、そこで凄惨《せいさん》な彼の死にざまを眼にしたのだった。 「黒島の向けた殺し屋とさしちがえて、堂本さんは死んだんだ。まちがいはない」  矢田は言った。疑いの余地のないことだった。堂本を襲った殺し屋は、彼を自殺に見せかけて殺す計画だったにちがいない。だが、堂本の反撃にあって果せなかったのだろう、と矢田は考えた。それは、矢田を襲った殺し屋たちが、自殺に見せかける手口を用いようとしたことを考えあわせれば、はっきりすることだった。 「辻さんには、堂本さんのこと知らせたか?」  矢田が沙織に訊いた。 「まだです。辻さんの居所がわからないの」  沙織はもう泣き止んでいた。矢田は原と宇佐見に、殺し屋を地下にはこばせた。  玄関ホールの電話のベルが鳴った。矢田が手を伸ばして受話器を取った。 「ついさっき、きみたち全員の身許が割れたよ」  受話器に辻の声がひびいた。低い、押えたような声だった。 「きみたちの住まいの家宅捜索がはじまる。そっちの別荘もマークされることになる。そのつもりでいてくれ。おれもあとでそっちに行くつもりだ」  辻が言った。 「わかりました。こちらにも悪い知らせがあります。堂本さんが殺されたんです。むろん黒島です。殺《や》らせたのは」  矢田は言った。辻は低くうめいた。 「お願いがあります。辻さんはそっちに残ってください。運が尽きて、われわれが黒島を処刑できずに死ぬことになったら、辻さんが代りに黒島を裁いてもらいたいんです。地べたを這いまわる戦術は、こっちにまかせてください」 「わかった。しかし矢田君、こういう場合の別れの挨拶ってのは、なかなかむつかしいもんだな」 「挨拶はいりませんよ。もう一度会うことをおたがいに考えていれば……」  矢田は電話を切った。 「すっかり手が回ったらしい」  受話器を置いて、矢田は宇佐見たち三人に言った。 「いつ警察と銃撃戦になるかもしれん。車の中の銃器をはこびこもう」 「銃撃戦やりながら、黒島を引きずり出す交渉をやりますか」  原が不敵に笑った。  車のトランクからはこび出された、銃器と実包が、各自に分けられた。  二挺のライフルM16は、二階のベランダのある部屋と、階下の広間の出窓のところに置かれた。六挺の拳銃のうち、余った二挺は矢田が預かった。  各自の役割りが、矢田の指示で決められた。  原は二階のベランダのある部屋に入った。彼は、車に装備されていた無線機で、警察無線の傍受を開始した。同時に原は、ベランダの窓の雨戸を細く開けた。そこから外を見張るのも、彼の役割りだった。  別荘の建物が、警官隊に包囲されるのは、時間の問題と思われた。  宇佐見は、一階の広間のテレビの前にいた。テレビの横には、ラジオが置かれていた。テレビの音は消してあった。映像だけが出ていた。宇佐見は、忙しくチャンネルを回しつづけていた。ニュース番組か、ニュース速報の流されるのを見逃すまいとしていたのだ。横のラジオはつけっ放しになっていた。  テレビもラジオも、ノンポリ・テロリストグループに関するニュースは、まだ流していなかった。  沙織は、広間の隅に、ソファを並べて、仮眠に入っていた。彼女が眠れずにいることは、寝返りをくり返しているようすで、よくわかった。宇佐見は、それを見かねて、ラジオのボリュームを限界近くまで絞っていた。レシーバーの用意はなかったのだ。  矢田は、メンバーたちに、持場と役割りを指示したあとで、地下室に降りて行った。  矢田を襲って、逆に捕えられた殺し屋は、地下室に閉じこめられていた。  矢田は、地下室のドアの鍵をあけた。鍵をポケットにもどすと、彼は閉まったままのドアに耳をつけた。  地下室は静まり返っていた。矢田は音を殺して、ドアのノブを回した。一気にドアを押し開けた。殺し屋が、ドアの横からとび出してきた。矢田は半歩しりぞいてかわした。  殺し屋はかわされて、ドアのところの柱に肩を打ちつけていた。そのまま彼は体をひねって拳を伸ばしてきた。矢田はそれを手首で払い、蹴りをとばした。  蹴りは殺し屋の胃を直撃していた。殺し屋は体を折ってうめいた。矢田の膝蹴りと手刀はすばやかった。殺し屋は顎を蹴り上げられ、後頭部に手刀を打ち込まれて、その場に崩れ落ちた。  矢田は殺し屋の髪をつかんで、地下室の中央に引きずっていった。殺し屋はあえぎながら床を這った。矢田は髪をつかんだまま、狙いすました蹴りを、相手の腹にめりこませた。殺し屋の体がはね、床にころがった。 「訊かれたことに答えろ。黙ってるといくらでも痛い目にあう」  矢田は言った。ブーツの中からナイフを取出して、男の顎の下にあてた。刃は喉のほうを向いていた。 「名前と住んでるところは?」  殺し屋は眼を閉じ、唇を強く結んだ。矢田はナイフの先を男の鼻孔にさしこんだ。彼は表情を動かさずに、ナイフを横にすべらせた。殺し屋の口から短いうめき声がもれた。鼻翼の一方が切り裂かれていた。血がしたたり落ちた。  男は眼を開いた。暗い怯《おび》えが眼の底で揺れていた。矢田は血の付いたナイフを、男のもう片方の鼻孔にさし入れた。一瞬の間もおかずに、ナイフがすべった。新しい血が勢いよく条《すじ》となって走った。 「我慢強いのはいいことだ。だが、過ぎると後悔するぞ」  矢田はナイフを男の耳の付根に当てて言った。ナイフはすぐに鋸《のこぎり》のようにして引かれはじめた。矢田の片手は、男の耳たぶの端をつまんでいた。ナイフの動くはしから、血があふれ出た。耳たぶの一つは、たちまち切り落されていた。  矢田は鎮《しず》まりかえった眼のまま、ナイフを男の反対側の耳の付根に移した。 「止《や》めてくれ!」  男がふるえる声で叫んだ。矢田は止めなかった。ナイフが前後に引かれはじめた。 「おれは金田健三っていうんだ。西新宿のエメラルド・ハイツってマンションの四〇八号室に住んでるんだ」  殺し屋はあえぎながら言った。矢田はナイフを持った手をとめた。しかしそこからナイフを離そうとはしなかった。男の耳は三分の一ほど切り裂かれていた。 「誰に頼まれて、おれを消そうとした?」 「組の若頭《わかがしら》だよ」 「何という組だ?」 「大池組」 「森組系の大池組か?」 「そうだよ」 「それなら若頭は内山良太郎だな?」 「知ってるのか?」 「内山は誰に頼まれて、おまえらに人殺しをやらせようとしたんだ?」 「知らねえよ、それは……」  矢田のナイフを持った手が、一気に男の耳をそぎ落した。男の口からうめき声がもれた。矢田は、血に汚れた男の顔面を蹴った。男はうしろに倒れた。  矢田は男の髪をつかんで引きまわし、うつ伏せにさせた。矢田の手が、男の腕をつかみ、床に押しつけた。矢田は男の手首を靴でしっかりと踏みつけた。ナイフが男の親指の付根に当てられた。親指が飛ぶまで、ほんの一呼吸の間だった。  床につけられていた男の頭が、うめき声とともにはねあがり、背中が反《そ》った。  矢田はすぐに、ナイフを男の人さし指に移した。 「おれのところの組長は、政治家の黒島隆三郎先生と、つきあいがあるんだよ。そう言えばわかるだろう……」  殺し屋はうめきながら、一語一語を押し出すようにして言った。 「もう一つだけだ、訊きたいことは」 「何だ?」 「おれを消しにやってきた奴らと、南青山のマンションに、弁護士の堂本英介を消しに行った奴らの名前を、全部言え」  男は、頬を床につけたまま、あえぎながら四人の名前を並べた。矢田はそれを手帳に書き入れた。 「四人とも大池組の者か?」 「堂本って弁護士のほうに行った二人は、準組員だ。堂本を殺《や》れば組員になるはずだよ」 「そりゃ無理だ。二人は堂本に殺られちまったからな。おまえも命が惜しかったら、シャツでも引き裂いて、指の血だけでも止めるんだな」  矢田は言い捨てて、地下室を出た。  一階の広間に行くと、宇佐見がテレビにかじりついていた。音量が絞られていた。矢田はそっちに足を向けた。宇佐見が足音で矢田をふりむいた。テレビには、アナウンサーの姿が映っていた。 「堂本さんの部屋に家宅捜索《ガサ》が入って、堂本さんと殺し屋二人の死体が見つかりました」  宇佐見が言った。矢田はうなずいた。ニュースが終って、コマーシャルに変った。 「死体については、警察《サツ》はどう見てる?」  矢田はたずねた。 「どうやら隠密にわれわれを追ってるようですね、警察は……。堂本さんがノンポリ・テロのリーダーだってことは、警察にはわかってるはずなのに、それをマスコミには匿《かく》してるようです。ニュースでは一一〇番の通報で現場にかけつけたら、死体が三つころがっていた、というふうに言ってましたよ」 「強盗殺人か何かだという見せかけかね?」 「物盗り、怨恨の線で捜査中というのが、マスコミ向けの警察の発表です」 「身許が割れてることを匿して、おれたちに油断させようって肚《はら》か」 「でしょうね」 「堂本さんとおれを消しにきた奴らは、大池組の者たちだ。名前も全部割れたよ」 「野郎が吐いたんですか?」 「ちょっと粘りやがったけどな。黒島に頼まれて、大池組の若頭の内山良太郎が、殺し屋グループを編成したことも吐いたよ」 「黒島をここに引きずり出す材料が一つ手に入ったってわけですね」 「うまくいけばの話だがな」  矢田は言って、宇佐見に背を向けた。  矢田は広間の隅の沙織のところに行った。  沙織はソファの上で、毛布をかぶって横になっていた。彼女は、矢田の小さな足音で、眼を開いた。 「眠らなきゃばてるぞ」  矢田は小声で言った。沙織は声を出さずに小さく笑った。 「堂本さんと殺し屋二人の死体を、警察が見つけたよ。ニュースで流れたそうだ」  矢田は、宇佐見に聞いたことを伝え、殺し屋の口から吐かれたことも沙織に告げた。沙織はうなずいただけだった。  矢田は沙織の前から立去りかけて、足を停めた。沙織をふり向いた。 「いまのうちなら、ここを出て逃げられるぞ。徹底的に逃亡をつづけるのも、掃除屋らしいやり方の一つだと思うがね」  矢田は短いためらいの末に言った。 「黒島隆三郎を処刑したら、逃亡を考えるかもしれないけど、いまはその気はないんです」  沙織はきっぱりと言った。眼が静かに燃えていた。矢田はうなずいてから、広間の出入口に向った。  二階の原のいる部屋から、無線機のノイズが低くもれていた。  原は、ベランダの窓に向って、無線機を抱えこむようにして、あぐらをかいていた。 「どうだい?」  矢田は声をかけた。原がふりむいた。 「まだ動きはないようなんです。感度がわるくて、無線の傍受がうまくいかないんです。警察が出てくれば、発信位置が近くなるから、このセットでも充分いけると思うんですが……」 「間もなくくるさ、奴《やつこ》さんたち……」  矢田は言ってから、堂本と二人の殺し屋の死体が見つかったことと、地下室の殺し屋が口を割ったことを、原に告げた。  矢田はその部屋を出て、玄関ホールに出た。階段下の壁ぎわに、電話があった。矢田は足を留めて、受話器を取り上げた。黒島隆三郎の自宅の電話番号を回した。矢田の腕の時計は、午前一時を回っていた。  呼出信号の音が、くリ返し長くつづいた末に、女の声の応答があった。 「警察庁長官秘書の山本という者です。長官が直接、黒島先生にお話申しあげたいということです。緊急の用件なので、先生にぜひお取次ぎ願いたいんですが……」  矢田はよどみなく言った。女は丁重な受け答えをした。しばらくして、受話器に黒島の声が送られてきた。 「処刑執行人の矢田だ。覚えてるかい? 黒島先生……」  矢田は言った。黒島は絶句したようすだった。 「大池組がよこした殺し屋が、あんたに雇われたことをみんな吐いたよ」 「知らんな、大池組なんてものは……」  黒島は低い声を送ってきた。狼狽の気配はなかった。 「あんたが知らなくても、大池組の組長や、若頭の内山良太郎は知っているさ」 「迷惑だな」 「笹島建設の一件じゃ、うまくあんたにはめられたよ。君田社長には気の毒なことをした。あんたにも責めは負ってもらうからな」 「何の話だね、それは?」 「君田社長の死体を明るみに引きずリ出すのは、うまく成功したが、あんたがかわいがってた倉持賢一や、あんたが処刑執行をつとめた溝呂木和久なんかの死体まで出てきたのは、まずかったな」  黒島は答えなかった。 「笹島建設の一件が、あんたの罠じゃないとしたら、そして、倉持や溝呂木の死体が出てこなかったら、あんたはおれたちが警察の手に落ちるのを高見の見物としゃれこんでいられたわけだ。だから殺し屋をおれたちに向ける必要もなかった。おれたちが警察で何をしゃべろうと、呆《とぼ》けてればすんだはずだからな。だが、あんたは大池組を使って、おれたちを消しにかかった。あんたの思惑《おもわく》がはずれて、余計な死体までぞろぞろと出てきたからだよ。つまりは笹島建設の一件も、あんたの仕掛けた罠だったってことになる。ちがうかね、黒島先生……」 「勝手に創作をつづけたまえ」 「いいだろう。その余裕がいつまでつづくかな。おれたちは必ずおまえを処刑する。それも近々にだ。覚悟しておけ」  矢田は電話を切った。  銃声がひびいた。  午前三時半だった。ライフルの音だった。音は二階の原のいる部屋で湧いた。二発だった。  矢田は階下の広間のソファに、体をのばしていた。彼は一発目の銃声ではね起きた。宇佐見と沙織もはじかれたようにして、床に立ち上がっていた。 「おれは二階に行く。おまえたちは窓につけ。明りは消すんだ。危険なときだけ発砲するんだ。むやみに撃つな」  矢田は低い声で指示を送った。沙織が部屋の明りを消した。全員がペンシルライトを持っていた。  矢田はライトをつけ、光を手で囲って部屋を出た。銃声は絶えていた。静寂がもどってきた。矢田は足音を殺して二階に上がった。原のいる部屋も、明りが消えていた。  原はベランダの窓の横の壁に背中をつけていた。ライフルは手にしたままだった。雨戸が三十センチほど開いていた。硝煙の匂いがあった。 「囲まれたようです。気がつかなくて申訳ありません」  原が小声で言った。 「一階の屋根に、二人登ってきたんです。偵察か、ガス銃を打ち込む場所を探しにきたものと思います」 「撃ち落したのか?」 「至近距離でした」 「よし」  矢田は、雨戸の開いているところに顔を近づけた。闇夜だった。その中に、警官たちのヘルメットや、ジュラルミンの楯《たて》らしいものが、いくつかにぶく光って見えた。道から玄関にのびている砂利道が、いつもなら闇夜でもほの白く見えるはずだった。そこは黒々と闇の底に沈んでいるように見えた。警官たちで埋めつくされているのだろう。  同じことが、庭の芝生にも言えた。枯れた芝生は、夜目にほの白く浮いたように見えなければならないはずだった。しかし、そこも黒々と塗りこめられたように見えた。 「裏を見てくる」  矢田は原の耳にささやいて、部屋を出た。矢田は廊下の反対側の部屋に入った。窓を開け、音を殺して雨戸を少しだけ引いた。隙間ができた。矢田はそこに眼をつけた。  裏山の雑木の群が、風にゆるくざわめいていた。  窓の横手の廂《ひさし》のところに、にぶく光るものが二本突き出て見えた。ジュラルミンの梯子《はしご》だった。  矢田はホルスターの拳銃を抜いた。ゆっくりとスライドを引いた。にぶい音がした。矢田は雨戸をさらに十センチほど引いた。音は立たなかった。  ヘルメットをかぶった警官が一人、梯子を登りつめて、廂《ひさし》に這った。つづいてまた一人が現われた。肩にガス銃らしいものを背負っていた。廂の瓦が小さく音を立てた。  二人の警官は、廂を横に移動しはじめた。つづいて梯子を登ってくる者はなかった。矢田はそれを見定めると、雨戸の隙間から銃口を少しだけ出した。  一人の警官の太腿に照準を合わせた。矢田は引金を絞った。慎重な射撃だった。銃声はわずかな間をおいて、二発ひびいた。警官たちは、相ついで廂から落ちて行った。廂の下で、いくつもの足音がひびいた。声はしない。ジュラルミンの梯子がはずされた。 「指揮官に伝えろ。建物に近づく奴は遠慮なしに撃つとな」  矢田は大声を発した。下の足音が遠ざかっていった。矢田は部屋を出た。原の部屋にもどった。 「十発だけ威嚇《いかく》射撃をしろ。庭の立木を狙うんだ。ライフルがいい。木の枝が吹っとべば空砲じゃないことがわかるだろう。弾丸を散らして打てよ。おれは警察庁長官と交渉をはじめる」  矢田は言った。彼が部屋を出ないうちに、原は撃ちはじめていた。銃声が静かさを破り、砲火が闇を裂いた。  広間におりると、矢田は宇佐見と沙織にも、十発ずつの威嚇射撃を命じた。指示を受けて、宇佐見がライフルを持ち、前庭に面した窓を小さく開けた。沙織は拳銃を持って、裏庭に面した窓に走った。 「おれが電話で長官と話をはじめてから撃ちはじめてくれ」  矢田は言って、広間の隅の電話まで走って行った。  警察庁長官と、直接通話ができるまで、矢田はずいぶん待たされた。  長官は私邸にいた。秘書だという男が電話に出た。長官は就寝中だと答えた。矢田は手配中のテロリストグループの者だと言って名前を告げた。長官との直接の話合いを求める矢田に対して、秘書は頑強に抵抗した。  矢田は、すでに伊豆賀茂村の現場で、警官隊が四名狙撃されたことを告げ、死傷者の増えることを警告した。  結局、秘書官は折れた。二階で原が間を置いてつづけていた威嚇射撃の音が、受話器を通して、相手の耳にも届いていたにちがいなかった。矢田はさらに、関係のない通行人四名を人質にとっている、と出まかせを言って相手を脅すこともした。東京から伊豆に向う途中で、乗用車に乗っている四人を捕えて、車ごと別荘に連行した、と言ったのだ。 「矢田君と言ったな。かつては優れた刑事だったと聞いているぞ。きみらのやっていることは、ただの人殺しじゃないか。恥を知らんのか、きみたちは」  電話に出た長官は、いきなりそう言った。 「恥を知るべきはそっちだと思うがね」  言って矢田は、宇佐見と沙織に手で合図を送った。二人は交互に発砲をはじめた。銃声につづいて、立木のはじける音が、鋭くひびいた。 「警察がどれくらい権力に弱いか、おれたちはよく知っている。これまで、政治家の悪業が、警察の手でどういうふうに、どれくらい揉《も》み消されたかも、おれたちはよく知っているんだ。警察庁の長官や、警視総監だった男が、退官して政治家になり、金権の前にひれ伏して、権力の醜い番犬になり果てているのも、よく知っている。恥ずべきはどっちだね?」 「演説は聞く気はない。用件はなんだね?」 「銃声が聞こえるか?」 「聞こえてるよ。抵抗しきれるものじゃないぞ」 「抵抗する気はない。やり残した仕事を終えたら、銃器を捨てて投降する覚悟だ」 「なんだね、やり残した仕事とは……」 「黒島隆三郎をここに連れてきてもらいたい。奴もわれわれテロリストの同志なんでね」 「黒島隆三郎……」 「南青山のマンションの一室で、堂本英介と一緒に死んでいた二人の男の身許は、暴力団大池組に訊けばわかるはずだ。あの二人は黒島隆三郎がおれたちにさしむけた殺し屋だ。他にも三名の殺し屋が放たれたんだ。一人はおれがつかまえた。みんな大池組の組員だ。つかまった殺し屋が口を割ったよ。五人の殺し屋の名前を言うから、裏付けをとってみるんだな」  矢田は、手帳に控えた五人の名前を、長官に伝えた。 「黒島さんをどうする気だね?」 「奴のはたらいた悪の数々を吐かせた上で処刑する」 「どういう権限があって、そんなことをするというんだ?」 「私怨《しえん》だ、とあえて言っておくよ。誰にだって、そしてどういうことに対してだって、怒る権利がある。それだけで充分だ。黒島をここに連れ出すこと。テレビカメラとインタビュアーを一名、ここにさし向けること。あんたにやってもらいたいことはそれだけだ」 「無茶な要求だな」 「協力できないというのなら、おれたちは手段を選ばない。これはゲームじゃないんだ」 「テレビカメラとインタビュアーの件は約束する。だが、黒島さんの件は、ご本人の意志もあることだ。それに、仮りに黒島さんが承諾なさっても、殺されるとわかっている場所にお出向き願うことなんかできない。断わる」  電話は長官のほうから切れていた。  威嚇射撃は終っていた。警官たちも鳴りをひそめていた。  十分後に電話が鳴った。矢田が受話器を取った。 「黒島だ」  受話器に黒島の声がひびいた。 「わるあがきは無駄だぞ。処刑されるのはきみらだ。警察は午前五時に一斉《いつせい》攻撃することを決めたよ。わしの陰の助言をいれてな。ただし、抵抗をやめて投降すれば別だ。むろんきみらは殺人罪で服役するだろうが、その場合も、わしの助言は物を言うぞ」 「首は洗ったかね、黒島。おれたちを甘く見ないほうがいいぞ」  矢田は言って電話を切った。  十五分後に、ふたたび電話が鳴った。辻からだった。やはり矢田が電話に出た。 「午前五時に、警察は短期決戦に出ることを決めたよ。まず、クレーン車で鉄の球を吊りあげて、建物の壁を破壊して突破口をあける作戦だ。ついでガス弾を撃ちこむはずだ。抵抗を理由に全員射殺の丸秘指令も出ている。黒島の差金《さしがね》だよ」  辻は沈痛な声で言った。 「黒島からも、いまそういう電話がきましたよ」 「警察は、きみたちを凶悪な暴力主義者と断ずることで、射殺を正当化しようと、マスコミ操作をはじめたよ。マスコミも暴力にはアレルギーを持ってるから、乗ってしまうだろう」 「孤立は覚悟の上です。もともと私怨、私憤から出発したんですから」 「どうだね。警察が行動をはじめるまえにそこをこっそり脱出して、黒島の邸を襲うという手もあるが……」 「それを考えていたところです。二手に分れようと思うのです。黒島を襲うまで、二名がここに残って抗戦するんです。全員がここにたてこもっていると思わせなければ、警察は黒島邸の警備を固めるでしょうから」 「いまのところ黒島の邸は平常どおりの警備しか敷いていないようすだ」 「とにかくやってみます」 「別れは言わないことにしたんだったな」 「辻さん、わたしは死ぬまで逃亡をしつくしてみせますよ。簡単に殺されたりとっつかまったりはしません。ご安心を……」  矢田は電話を切った。  午前四時十分だった。  別荘の裏手の勝手口から、二つの人影が現われた。矢田と沙織だった。  二人はせまい裏庭を突っきって、急斜面の雑木林の中にとびこんだ。警官隊の姿は眼につかなかった。そのまま二人は足音を殺して、立木の間をぬいながら、斜面を進んだ。  原と宇佐見が別荘に残った。人選は矢田の発案でスムーズに決まった。別荘に残って、陽動作戦につくことも、黒島を処刑する仕事と同じ意味を持つことを、宇佐見も原もよくわきまえていた。意味のない功名心にはやる二人ではなかった。  別荘に残るには、射撃の腕が必要だった。その訓練を受けていない沙織をそこに残すのは、犬死を強いるようなものだった。矢田はそのことを考えたのだ。  矢田と沙織は、山の中を歩きつづけた。星と海鳴りの音だけが、方角を知る手がかりだった。  三十分余り歩くと、二人は舗装された道路に出た。夜の明ける気配はまだなかった。車の往来もなかった。  二人は急ぎ足に歩いた。また三十分が過ぎた。別荘の一斉攻撃が、すでに始まっている時間だった。銃声はそこまでは届かなかった。午前五時に、矢田と沙織はそれぞれ腕の時計を見た。だが二人は口をつぐんでいた。  採石場の入口を示す立札が眼についた。矢田はその道に入っていった。トラックかダンプカーが、駐車してあることを、矢田は祈った。  祈りは叶《かな》えられた。七台の大型ダンプカーが、闇の中に黒々と列を作って停めてあった。矢田は、一台のダンプカーの、運転台の窓のガラスを、拳銃のグリップで叩き割った。  イグニッションの配線コードを、直結に変えるのに、いくらも手間はかからなかった。エンジンがかけられた。燃料は満タンになっていた。沙織が助手席に乗り込んだ。矢田は大きくハンドルを切って、採石場の出口に向った。赤土のむき出しの道で、ダンプカーは大きくはずんだ。  舗装道路に出ると、矢田はスピードをあげた。  死ぬまで逃げ切ってみせる——辻に言ったことばが、矢田の胸に甦《よみがえ》ってきた。逃亡の決意は、彼の中で消えていた。  別荘に残った宇佐見と原が、生きて警察に逮捕される可能性はゼロと考えなければならなかった。状況は変ってしまったのだ。宇佐見と原の死が動かないいま、矢田は逃亡の決意を捨てていた。黒島を処刑して自決することしか、彼は考えていなかった。  沙織も同じ覚悟を決めているようすだった。それが、澄んだ表情にも、落着き払ったようすにもうかがえた。それが矢田の気持を軽くしていた。  沙織は堂本を愛していたにちがいない、と矢田は思った。堂本の死を矢田に告げたときの、沙織のはげしい泣き方が、矢田の胸に甦っていた。 「ひと眠りしろよ。東京まではちょいとあるぞ」  矢田は言った。 「もうすぐぐっすり眠れるわよ。東京に着いた後は……」  それが沙織の返事だった。 〈そうだな。堂本のそばでぐっすり眠れるよ、沙織〉  矢田は胸の中でそう答えていた。  そのころ、賀茂村の別荘は、銃声と硝煙に包まれていた。  警官隊は、午前五時きっかりに、行動を開始した。  十台近い投光機から、一斉に光の矢が放たれ、闇の中に別荘の建物を浮きあがらせた。  クレーン車が、庭木を押しひしいで前庭に進み出てきた。クレーンにはすでに、大きな鉄球が吊りさげてあった。  宇佐見と原は二階の二つの部屋に散っていた。手には二人ともライフルM16を持っていた。投光機が点灯すると同時に、二挺のライフルが火を噴いた。  いくつかの投光機は、煙をあげて消えた。警官隊も一斉に銃撃してきた。狙撃隊が出ているようすだった。銃声はすべてライフルのものだった。原と宇佐見は、忙しく場所を変えながら応戦した。一ヵ所に留まると狙い撃ちされた。それに、四人が撃っている、と思わせる必要があった。  裏庭からの攻撃にも備えなければならなかった。二人は銃と実包を詰めた段ボール箱を抱えて、建物の中を走りまわった。  投光機を狙撃して、明りを奪うことは、すぐに断念した。二人は役割りを決めた。原が狙撃隊の隊列を狙って迎撃した。宇佐見は、一階の窓から、クレーン車の運転手を狙撃した。宇佐見のほうが、射撃の腕は上だったのだ。  クレーン車の運転室の窓は、ジュラルミンの楯で覆われていた。ロープで車体ごと縛りつけてあったのだ。運転のための、わずかな隙間しかあいていなかった。  宇佐見は楯を縛っているロープを狙って撃った。しかし、それはすぐに止めた。投光機の光と、クレーン車のライトが眩《まぶ》しかった。その上、暗がりの中にあるロープは、よく見定めることができなかったのだ。  クレーン車は、狙撃をかわすつもりか、運転台をたえず右に左に振りまわすようにして進んできた。宇佐見は小さくあけられた楯の隙間を狙った。そこに運転手の頭があるはずだった。  七発目に、楯の間に小さくのぞいていたガラスが、赤く染まった。クレーン車はつまずきでもしたように、車体をふるわせて停止した。宇佐見は手応えを感じた。  いくつかのヘルメットが、物陰をぬうようにして、クレーン車に駆け寄ろうとした。宇佐見は人影を狙って、仮借《かしやく》なく引金を引いた。ライフルの弾丸が尽きると、装填《そうてん》は後回しにして、拳銃で狙い撃った。  クレーン車の陰に、二人がとびこんだ。他は地にころがり、這って散った。二つの影は、枯芝の上にころがったまま動かなかった。  やがて、ふたたびクレーン車が動き出した。宇佐見はライフルに弾丸を装填した。狙撃をはじめた。とたんに、宇佐見めがけて集中砲火が浴びせられてきた。すべてライフルの弾丸だった。  銃声がひっきりなしに耳をつんざいた。窓のガラスが飛んだ。窓枠と壁がはじけた。カーテンが焦げた。破れた窓を抜けた弾丸が、広間のシャンデリアを撃ち落した。シャンデリアはすさまじい音を立てて床に落ち、散った。埃が舞った。  宇佐見は場所を変えた。二階に行くわけにはいかなかった。破れた窓から、警官隊が中にとびこんでくる虞《おそ》れがあった。  宇佐見は別の窓ぎわにとびついた。しかし、遅かった。クレーン車は、建物にアームの届くところまで進んできていた。鉄球が吊り上げられ、アームが動きはじめていた。  宇佐見はそれでも、クレーン車を狙って撃った。一発打つと、すぐに集中砲火が浴びせられてくる。宇佐見は唇を噛んだ。ライフルの弾倉は空になっていた。  宇佐見は床に這ったまま、弾丸を装填した。建物が揺れた。腹にひびく揺れ方だった。壁の砕ける音がした。宇佐見は外をうかがった。投光機の光の中で、宙吊りの鉄球が揺れていた。それが勢いを増し、建物めがけて突進してきた。ふたたび家鳴りと震動がきた。二階の壁を壊しにかかっているのだった。  宇佐見はそっと体をまわし、狙撃隊に銃口を向けた。二発撃って、彼は窓ぎわを走った。不意に宇佐見ははずむようにして、前につんのめった。肩に灼《や》けたハンマーで殴られたような痛みが走った。ライフルの弾丸が、宇佐見の左の肩の肉を抉《えぐ》り、骨を砕いていた。  宇佐見はしかし、すぐに起きた。窓の横の壁に、血を噴き出している肩をつけた。銃身は窓枠にあずけて、彼は引金を引いた。狙撃隊員の一人が、銃を宙に放り上げたまま、うしろにはじきとばされるようにして倒れた。  宇佐見は這いながら、裏庭に面した窓に向った。そっちのほうからも銃撃がはじまっていたのだ。  原は二階の四つの部屋を、こまねずみのように巡《めぐ》りながら、銃撃をつづけていた。彼はさっきから、クレーン車のガソリンタンクを狙い撃っていた。鉄球で壁に穴をあけられたら、そこからガス弾と放水がとびこんでくることが予想された。催涙ガスは銃弾より厄介《やつかい》だった。  不意に、クレーン車の運転席の下のガソリンタンクが火を噴いた。つづいて爆発音がひびき、炎が立った。原は叫んだ。クレーン車はたちまち炎に包まれた。  運転台から二人の警官がとび降りてきた。原は立ちあがって、ライフルの引金を引いた。クレーン車の運転台からとび出してきた一人の体が、宙にはね上がった。つづいてもう一人が、頭を打ち砕かれてつんのめり、芝生の上にころがった。  原はすぐにその部屋を出ようとした。原はしかし、腰から砕け落ちるようにして、床にころがり、壁に頭を打ちつけていた。原の臀部《でんぶ》を、ライフル銃が斜めに貫いていたのだ。原は立てなかった。腰の骨を砕かれたようすだった。彼は這って廊下に出た。  原は階段の手すりの間から顔を突き出し、階下の宇佐見を呼んだ。銃声にまじって、宇佐見の応答の声があった。声は勢いがよかった。原は苦痛に歪《ゆが》む口もとに、笑いを刻《きざ》んで、大きな声を送り返した。原はライフルを抱えて這いながら、廊下を奥に引き返した。ライフルの銃身が、熱く灼けはじめていた。  黒島隆三郎の門の横手に、二名の制服の警官の姿があった。  時刻は午前七時をまわったばかりだった。矢田は、ダンプカーのフロントガラス越しに、二名の警官の姿を見ていた。沙織の澄んだ表情は変っていない。  矢田はわずかにダンプカーの速度を落した。ギアをサードに変え、さらにセカンドに落した。黒島邸の冠木門《かぶきもん》はすぐ眼の前に迫っていた。  矢田は不意にハンドルを右に切った。ダンプカーは対向車線にとび出した。しかし、すぐにそれは、黒島邸の門に斜めに向き直った。二人の警官が、眼をむいて、大きく手を上げた。  矢田はかまわず、アクセルを踏み込んだ。ダンプカーは冠木門を突き崩して、中に突入していた。叫び声があがった。  矢田はスピードをあげて、玄関に向った。玄関までの道の両脇に並んだ植木が、薙《な》ぎ倒された。倒れた植木の向うに、庭に立っている、和服姿の黒島隆三郎の姿が見えた。  黒島はそこで、番記者たちに囲まれていたのだ。そこからもいくつもの叫び声が湧いた。黒島は口を大きく開けたまま、一瞬、呆然《ぼうぜん》とした顔を見せていた。  矢田はハンドルを左に切った。ダンプは黒島めがけて、はずみながら広い庭を突っ切っていった。  番記者たちの人垣が散った。黒島は下駄をはねとばして、縁側に這い上がり、家の中に逃げこみはじめた。  矢田はさらにアクセルを踏みこんだ。沙織は、ダッシュボードの下にもぐりこんだ。矢田は両足を踏んばり、ハンドルを持った腕をまっすぐに伸ばした。  ダンプはすさまじいスピードで、縁先に突っ込んでいった。黒島の体が大きくはね上がった。  柱が折れ、廂《ひさし》が落ちてきた。縁板がはねとび、折れた。ダンプは唸《うな》りながら停止した。  矢田はドアを開けてとび出した。沙織がつづいた。  座敷の奥に、黒島が坐りこんでいた。黒島は、怯《おび》えきった眼で、いざって逃げようとしていた。黒島はダンプにはねられて、両膝を砕かれていたのだ。 「おれたちを甘く見るなと言ったはずだぞ」  矢田は言った。拳銃を抜き、スライドを引くなり、黒島の頭に銃口を押しつけた。 「寄らないで! 撃つわよ」  沙織がうしろをふり向いて叫んだ。門の前にいた警官が、拳銃を抜いたまま、土足で座敷にかけこんできたのだ。  警官たちは、のめるようにして足を停めた。矢田はためらわずに引金を引いた。黒島の頭から血が噴き上がった。矢田は二発撃った。それから彼はふり向いて、警官たちに銃口を向けた。 「沙織、黒島にとどめをさせ」  矢田は言った。沙織は黒島の顔面に一発、左の胸に一発、拳銃を撃ちこんだ。 「沙織、電話だ。原たちに処刑の終ったことを伝えろ。おれも出る」  矢田に言われて、沙織は床の間の横の違い棚の前の電話に走った。矢田は警官たちに銃口を向けたまま、電話のほうに移動した。 「あ、宇佐見さん? 沙織です。たったいま、黒島を処刑したわ。矢田さんに替ります」  沙織が矢田に受話器を渡した。警官たちはすくんだ表情のまま、拳銃をかまえていた。その場のようすに、すっかり呑まれてしまっているようすだった。 「おお、宇佐見か。終ったぞ。そっちは?」 「そろそろ終りです」 「よく持ちこたえたな」 「なんとか……」 「おまえ傷を負ってるな。声がおかしいぞ。原もか?」 「原はもう動けません。おれもです」  受話器に間近い感じの銃声がひびいた。 「原が自決しました。矢田さんに別れの挨拶を伝えてくれとのことでした。おれもいきます。さよなら、矢田さん。沙織にもさよならを言ってください」  銃声と共に、電話の応答は絶えていた。 「原と宇佐見がさよならと伝えてくれと言ってた」 「矢田さん、さよなら」  沙織が言った。こめかみに銃口があてられていた。 「冥土《めいど》に行ったら、堂本にはおまえから、黒島を処刑したことを伝えてくれ」  矢田は言った。沙織は一瞬はにかんだように笑い、引金を引いた。  矢田も一瞬後に、こめかみを撃ち抜いて、その場に崩れ落ちた。  記者たちが、声をあげて座敷にとびこんできた。二名の警官が、あわててそれを制した。一人の記者が電話にとびついた。どこかでパトカーのサイレンの音がひびいてきた。 初出誌一覧  第一話 骸たちの儀式 小説現代 昭和57年8月号  第二話 毒の報酬     〃  昭和57年9月号  第三話 黒の葬送曲    〃  昭和57年12月号  第四話 炎よ闇を走れ   〃  昭和58年3月号     * 本書は一九八三年五月小社より刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九八六年六月刊)を底本としました。