勝目 梓 炎 目 次  一章 脅迫者  二章 犠牲者  三章 漂流者  四章 勝者、敗者  五章 復讐者  一章 脅迫者   1 〔一九九〇年五月八日 火曜〕  その電話は総務課長の席につながれた。  課長は席にいなかった。電話には課員の相原和子《あいはらかずこ》が出た。  午後一時ちょうどだった。昼休みからの帰りが遅れている者が多かった。相原和子も昼食とお茶をすませて戻ってきたところだった。彼女は自分の席を素通《すどお》りして、課長のデスクの前に行き、鳴りはじめたばかりの電話の受話器を取った。 「城島《じようとう》建設総務課でございます」 「課長さんはおいででしょうか?」  ひびきの柔らかい、落着いた感じの男の声だった。 「申し訳ございません。課長はただいま席をはずしておりますが、間《ま》もなく戻ると思います。失礼ですがどちらさまでしょうか?」 「『労働災害を考える働く者たちの会』の代表をやっております堀越栄一《ほりこしえいいち》と言います」 「堀越さまでいらっしゃいますね」 「そうです。課長さんは間もなく帰ってこられるということですから、このまま待ちましょうか?」 「お待ちいただくのも失礼ですから、課長が戻りましたらこちらから電話をさしあげるように申し伝えましょうか?」 「ではそうしてください。必ず電話をくださるように願いますよ。用件は千葉のサンリーフレジャーランドの労働災害の件だとお伝えください。こちらの電話番号を申しあげます……」  相原和子は、メモした堀越という名前につづけて相手の告げる電話番号を書き留めた。さらに電話を終えてから、相原和子は、男が名乗った会の長たらしい名称も、記憶を辿《たど》りながらメモした。一度聞いただけなので、自分の記憶に自信が持てず、その会の名称の末尾に?をつけた。  堀越と名乗った男の声もことばつきも、一貫して穏《おだ》やかだった。だが、課長が席に戻るまで電話をつないだまま待つ、と言った相手のことばには、かすかな威圧《いあつ》の気配《けはい》が感じられた。用件が、城島建設が元請《もとう》けとなって建設工事を進めているレジャーランドで起きた労働災害に関するものだということもあって、相原和子はその電話が、トラブルにつながる厄介《やつかい》なものかもしれない、という予感を抱いた。  サンリーフレジャーランドの工事で、隧道掘穿《すいどうくつせん》中に地盤の崩落《ほうらく》事故が起き、三名の作業員が死亡するという出来事が起きたのは、ちょうど二ヵ月前だった。そこの工事現場での労働災害といえば、その死亡事故の他には、相原和子が聞き知っているものはなかった。  課長の富岡義光《とみおかよしみつ》は、相原和子が自分の席に戻ってしばらくしてから帰ってきた。富岡は、脱いだ上衣を肩に担《かつ》ぐようにしていた。薄くなった前額部にうっすらと汗がにじんでいた。がっしりとした体格と、一見して押しの強さを感じさせる容貌《ようぼう》の持主である。  相原和子は、富岡が自分の席に着くのを待って立って行き、堀越という男からの電話のことを伝えた。 「なんだって……。労働災害を考える働く者たちの会。こんな会があるのかね」  富岡は、相原和子に渡されたメモに眼を走らせながら言った。 「課長が戻ってきたら、電話をくださいとのことでした」 「サンリーフの事故のことだって言ったんだな。何かイチャモンつけてくるのかね」  富岡は、メモをデスクの上に放《ほう》り出して言った。堀越という男の電話を気にかけるようすではなかった。相原和子は、自分の務《つと》めは終ったと思って、席に戻った。  富岡は、たばこに火をつけて咥《くわ》えると、椅子《いす》の背もたれに躯《からだ》をあずけ、頭の後ろで腕《うで》を組んだ。思案顔《しあんがお》になっていた。それは長くはつづかなかった。上体を起すと、富岡は電話の受話器を取り、内線のボタンを押した。彼が呼び出したのは、建設部第三課の課長である島田功《しまだいさお》だった。島田は席にいた。 「島田さん? 総務の富岡です」 「ああ、総務課長……」 「千葉のサンリーフは島田さんのところの担当だったな、たしか」 「そうだよ。何かあったの?」 「労働災害を考える働く者たちの会という、グループだか団体だか知らないが、そういうのに心当りはないかな?」 「労働災害を考える働く者たちの会。ずいぶん長い名前だな。聞いたことないなあ。それがどうかしたの?」 「その会の代表だという堀越栄一という男から、こっちに電話がかかってきてるんだ。用件はサンリーフの労働災害のことらしい」 「サンリーフの?」 「電話はぼくの留守《るす》にかかってきたんで、それ以上のことはわからないんだがね。向うはこっちの電話を待ってるところなんだ。何か思い当ることはないかと思って、あんたに電話してみたんだよ」 「サンリーフの労働災害なら、隧道掘穿現場の例の死亡事故しかないけどねえ。どういうことだろう?」 「会の名称から考えると、何か運動屋の集りみたいな気がするんだけどね」 「サンリーフの事故は、うちと現場の責任者が、労働安全衛生法違反容疑で書類送検されてるし、業務上|過失致死傷《かしつちししよう》容疑でも送検されてるんだからね。新しい問題はないはずなんだがなあ」 「どうもうれしくなるような話じゃなさそうだが、放っとくわけにもいかんだろうから、電話をしてみるよ」 「あとで電話くれるかね。どういうことなのか、ぼくも知っておきたいから」 「そうするよ」  富岡は電話を切って、受話器を戻した。それを待っていたように、コールサインが鳴った。電話は一階の受付からだった。 「労働災害を考える働く者たちの会の堀越さまとおっしゃる方が、課長にお会いしたいとおっしゃってお見えになってます」 「来たのか……」 「さっき電話をかけて、面会できることになっているはずだとおっしゃってるんですが」 「まあ、いい。四階の応接室に通してくれ」  富岡は電話を切って、相原和子に声を投げた。 「さっきの電話の堀越って男は、おれに会いたいと言ったわけじゃないんだろう?」 「そういうことはおっしゃってませんでしたわ。わたしが聞いたのは、課長さんに電話をくれるように伝えてくれということだけでした」 「電話をする前に来ちまったよ。面会の約束ができてるようなことを受付で言ったらしいな」 「面倒《めんどう》な人なんでしょうか?」  相原和子が表情をくもらせて言った。 「たぶんな。相原君、応接室にお茶を頼むよ。日本茶でいいからな」 「一人なんでしょうか? お客さまは」 「わからんな。受付に訊《き》いてくれるか」 「はい……」  相原和子が自分の前の電話の受話器に手を伸ばした。富岡はまたたばこに火をつけた。富岡は大手の建設会社の総務課長になって、二年余りが過ぎていた。その間に、総会屋とのつきあい、雑誌ゴロの捌《さば》き方、暴力団との応対といった厄介《やつかい》な仕事の呼吸もつかんできたつもりだった。だが、素性《すじよう》も話の中身も見当《けんとう》のつかない相手と初めて顔を合わせるときの気の重さには、いまだに馴《な》れることができずにいる。 「お客さまは三名だそうです」  相原和子が自分の席から声を投げてきた。富岡はそれに頷《うなず》いてから、課長補佐の佐藤修二《さとうしゆうじ》に声をかけて手招《てまね》きした。 「労働災害を考える働く者たちの会というのを聞いたことあるかね?」  富岡はデスクの前に立った佐藤に訊いた。佐藤はその名称に心当りはない、と答えた。富岡は、堀越という男の電話の内容と、そのことで建設三課の島田課長に問合せてみたことを告げ、堀越との面談の席に同席することを佐藤に求めた。佐藤は承知した。素性も用件もはっきりしない相手と会う場合は、相手が一人でもこちらは複数の人員で応対するのが、総務課の仕事の鉄則の一つとされていた。 「じゃ、行ってみるか」  富岡は言って立ちあがり、椅子の背にかけてあった上衣をつかんで袖《そで》を通した。相原和子が気遣《きづか》わしげな眼を富岡に向けていた。それに気づいて、富岡は何でもない、といった表情を作ってみせた。  廊下《ろうか》に出てから富岡は、相原和子が建設三課の島田課長とは義理の兄妹の間柄《あいだがら》に当ることを思い出した。島田の妻が、相原和子の姉になるのだった。富岡は応接室に向いながら苦笑いを噛《か》み殺した。相原和子が見せた気遣わしげな顔は、上司に対するものではなくて、義兄が面倒なことに巻きこまれるのではないかと案《あん》じてのことだったのだろう、と富岡は納得《なつとく》を覚えた。   2 〔同月同日〕  応接室のドアを開けた途端《とたん》に、富岡の緊張はつのった。  三人の客の中の二人は、ソファのすぐ後ろに間隔をあけて立っていた。二人とも髪を短く刈《か》っている体格のよい若い男だった。二人は腰の後ろに両手を回し、胸を反《そ》らした恰好《かつこう》で立っていた。富岡と佐藤の姿を見ると、その二人の男たちは斬《き》りつけてくるような視線を向けてきた。二人ともスリーピースのダークスーツを着込んでいたが、それよりも迷彩の戦闘服か何かのほうが似合いそうだった。  もう一人の男は、ソファのまん中にゆったりと腰をおろしていた。小柄な四十がらみの男で、髪をきちんと分けて、縁《ふち》なしの眼鏡をかけていた。明るいグレイのスーツに黒のネクタイという姿が、この男だけは似合っていた。それが堀越栄一にちがいない、と富岡は思った。その男だけが、富岡と佐藤が入って行くと、立ちあがって表情をやわらげ、黙礼《もくれい》を送ってよこした。そうした男の態度、物腰、印象のすべてから、富岡は相手の人物も用件も、手強《てごわ》いものにちがいないと直感《ちよつかん》した。 「お待たせいたしました。わたくし、総務課の課長補佐を務めております佐藤と申します。こちらが課長の富岡です」  佐藤が、立ったままのグレイのスーツの男に言って、名刺を出した。富岡も名乗って名刺を渡した。 「わたし、こういう者です。初めまして」  グレイのスーツの男も、富岡と佐藤に名刺をさし出した。 〈旭道青年塾《きよくどうせいねんじゆく》塾頭《じゆくとう》 労働災害を考える働く者たちの会代表 堀越栄一〉  そういう名刺だった。 「後ろの二人は、わたしのところの塾生で労働災害を考える働く者たちの会のメンバーです」  堀越が言った。佐藤がソファの後ろに立っている二人に名刺を渡した。二人は険《けわ》しい眼つきのまま名刺を受取って、すぐにポケットに入れた。二人は名前を名乗るようすもなく、名刺も出さなかった。それは富岡には予測できた。富岡はその二人には名刺は出さないことにした。与《くみ》し易《やす》いと思われてはならなかった。 「どうぞ……」  佐藤が堀越に坐るようにすすめ、自分もソファに腰をおろした。 「早速《さつそく》ですが、どういうご用件でしょう?」  佐藤が口火《くちび》を切った。富岡はもっぱら相手の三人のようすを観察し、口から出されることばの裏にあるものを判断する役割りに回った。 「本題に入る前に、自己紹介を兼ねて、いささかわたしが行っている仕事についてお話しておきましょう」  堀越が言って、ポケットから両切りのピースの箱を取り出した。同時に後ろに立っている男の一人が、ベストのポケットからライターを取り出した。男は堀越がたばこを口に持っていくとすかさず、ライターをつけて、片手で炎を囲《かこ》うようにしてさし出した。その光景は、暴力団との応対の席で、何度か富岡が見たものとそっくり同じだった。そうやって相手が自分たちの本性《ほんしよう》を、いささか芝居《しばい》じみたやり方でほのめかしているのだということが、富岡にはわかっていた。  堀越は煙を吐き、ソファの背もたれに背中をつけ、脚を組み、口を開いた。 「毒を以《も》って毒を制すということばがあります。わたし、そういう男なんです」  堀越の眼が縁なし眼鏡の奥で細められていた。富岡は相手が金銭目当ての会社ゴロと呼ばれている男たちの一人であることを、もう疑っていなかった。 「と言いますのは、この数年来、わたしは弱年層の教育に情熱を燃やしておりまして、その活動の一つが旭道青年塾の運営なんですが、この塾で行われているのは、一言で言うと落ちこぼれとか、非行少年とか、暴走族といったような、親も教師も手を焼いて見放《みはな》してしまっている若者たちを更生させるための教育なんです。そういった箸《はし》にも棒にもかからない厄介者《やつかいもの》とされている若者たちの教育に際して、わたしの執《と》っている方法が、最初に申しあげた毒を以って毒を制すというものなんです。正直に申しあげて、若いころのわたし、ワルでした。やくざの飯《めし》を喰ってた時代も短くなかった。わたしのワルぶりからすれば、旭道塾で預っている若者たちは赤ん坊のようなものです。だからわたしには、彼らの心の中がよくわかる。わたしは自分がワルだったことを若者たちに隠しません。かつて自分が持っていたワルの心の毒で、いまわたし、若者たちの心に巣喰《すく》う無気力、無関心、無感動、無責任といった毒を退治してやってます。教育というものは知識や技術ももちろん大切だが、何よりも基本は導く側と導かれる側との心の交流をどこまで深められるか、という点です。わたし、自分が裸になることで、若者たちの心をつかんでいます。若者たちも、身も心もわたしに預けてくれています。親よりも教師よりもわたしを信頼しています」  ドアがノックされた。堀越の長広舌《ちようこうぜつ》が途切《とぎ》れた。相原和子が茶を運んできた。 「まったく、お説のとおりだと思います」  佐藤が、頷きながら合槌《あいづち》を打った。富岡もかすかに頷いてみせた。ソファの後ろの二人は置き物のように動かない。その二人の分の茶碗をどこに置くべきか迷ったようすで、相原和子が富岡を窺《うかが》うように見た。富岡は無言でテーブルを指し示した。相原和子は、堀越の前に置いた茶碗に並べて、二人のための茶碗を置いた。  相原和子が一礼してドアに向うと、堀越がふたたび口を開いた。茶には手を出さない。 「ま、そういったことで、わたし、おおぜいの問題児の面倒を見ているわけですが、旭道塾の塾生たちはほとんどがブルーカラーの労働者として、いろんなところで働いています。わたしの塾は学問を教えるところではなくて、人間学を教え込むところです。まじめに一所懸命汗を流して勤労のよろこびを知り、人を愛する心を養い、能力の豊かな人間となってお国のために報《むく》いる人間を、わたし育てているわけです。したがって、若者たちの勤労の面にも多大な関心を払っています。とりわけ彼らの労働条件とか労働環境の問題は重要だと思います。条件と環境が劣悪だと、若者たちの勤労意欲が低下するだけでなく、労働災害を生みます。そのためにひどい怪我《けが》を負《お》って不幸な生涯を送る運命を若くして背負わされたり、不運にも大切な生命を失ったりするケースさえ、実際に起きているのです。そうしたことから、わたし、旭道塾の活動と併行して、労働災害を考える働く者たちの会というものを組織して、労働災害の絶滅をめざす独自の運動を展開しているんです。もちろんこれは、弱年層の労働災害だけを問題にしているわけではありません。働く者たちすべてを労働災害の危険から解放しようというのが目的です。その運動のやり方も、行政機関や企業や労働組合、あるいはその他の研究機関などのそれぞれの路線とは異なる、独自のものです。わたし、まどろっこしいことが嫌《きら》いなんです。ですから、わたしの会では、直接的で即効性の高い手段を用います。具体的に申しあげると抗議と警告ということになります。つまりわが会では、発生した個々の労働災害についての綿密《めんみつ》で正確な調査を行い、それによって原因を突きとめ、その原因が抗議と警告を必要とするものであれば、果敢《かかん》にそれを行うことになるということなんです」  堀越はよどみなく流れ出てくることばをいったん止《と》め、茶碗に手を伸ばした。茶と唾液《だえき》で濡れた堀越の、薄くて横に大きく伸びている唇《くちびる》の形が、小柄なその男をいかにも酷薄《こくはく》な、油断《ゆだん》のならない男に見せていた。  富岡は、相手の話がようやく核心に近づいてきた、と思った。佐藤は堀越が口を動かしていないときも、小さく頷きつづける動作を止めなかった。 「おっしゃるとおり、労働災害の問題は、わたしどもも重要な課題として、監督官庁や関係機関のご指導の下《もと》に、鋭意取組んでいるところでございます」  佐藤が短い沈黙を埋《う》めるためのように、テーブルに眼を落したままで言った。富岡は佐藤のそのことばを、言わずもがなのこと、と思った。相手に呼び水を向けてやることになりかねない、と考えたからだ。  案《あん》の定《じよう》だった。佐藤がそれを言い終えたとき、堀越が茶碗に伏せていた眼を上げた。その眼は一瞬、刃《やいば》のような強い光を見せた。同時にグレイのスーツに包まれた堀越の左肩だけがすっととがった。 「課長補佐さん。わたし、建《た》て前《まえ》の話をしに伺《うかが》ったんじゃないんですよ」  堀越が茶碗を茶托《ちやたく》に戻して言った。いくらか声が低くなっていた。 「はあ……」  佐藤は短く、曖昧《あいまい》な声を出した。 「労働災害の絶滅に鋭意取組んでおられる城島建設の建設現場で、なぜ三人もの作業員の生き埋め事故なんぞが起きるんですか?」 「それはサンリーフレジャーランドの建設現場でのことをおっしゃってるのだろうと思いますが、あの事故はわたしどもとしましても、ひじょうに残念だと思っておりますし、亡くなられた三人の方々には、ほんとうにお詫《わ》びのしようがないと……」 「それが建て前論だと申しあげているのですよ」  堀越は佐藤のことばを遮《さえぎ》って口を開いた。富岡は軽い咳払《せきばら》いをした。そこから先は自分が話の聞き役になるから、堀越の発言を正確に記憶しておけ、という佐藤へのサインの咳払いだった。それを見抜いたように、堀越が富岡に視線を移した。 「いいですか、総務課長。まことに残念ながら、わたしの会では、城島建設が労働災害というものをきわめて軽視しているばかりか、明らかに危険が予測されるような状況をあえて招き寄せておいて、そこで作業員たちを働かせていると断じざるをえない証拠をつかんでおるんです」 「それはどういうことですか?」  富岡は言った。 「あなたは総務課長さんだから、建設現場でどういう不正が行われているかご存じないかもしれないが、城島建設が元請けになって工事を進めているサンリーフレジャーランドのトンネル工事で、重大な手抜《てぬ》きが行われている。具体的に申しあげると、地盤を固めるための凝固剤《ぎようこざい》が設計どおりに注入されていないということです」 「それがもし事実だということなら、事は重大ですが、わたくしにはそういう手抜きがなされてるなどとは信じられませんが……」 「でしょうな。誰だって信じられません。設計どおりの凝固剤が注入されなければ、当然地盤が固まらず、崩壊《ほうかい》する。作業員は生き埋めになる。これはもう誰が考えてもわかることですからね。そういう危険きわまりない悪質な手抜きを、天下の城島建設ともあろう一流企業がするはずはない、とわたしも考えたいところだが、事実はさにあらずです」 「わたしどものほうでも、ご指摘のような事実が実際に存在したのかどうか、早速に調査を進めたいと思いますが、その参考のためにも堀越さんがつかんでおられるというその証拠というものを伺っておきたいのですが……」 「確かな証拠はいくつかあります。わたしの会にもたらされたサンリーフ建設現場で働いている作業員からの内部告発が、まずその一つです」 「内部告発があったんですね?」 「ありました。その告発をもとに当方で調査を進めたわけです。この席で証拠の一つ一つをお示ししてもよろしいんだが、それではいきなりこちらが城島建設を有無《うむ》を言わせず、逃げ場のないところに追い詰めることになる。わたし、そういうことはしたくないんですよ。わたしどもの会の趣旨《しゆし》は、不正を裁《さば》くことではなくて、あくまでも抗議と警告というところにありますのでね。裁きは法律の仕事でしょうから。そういった意味で、証拠を突きつける代りに、その証拠が示している事実を申しあげておきましょう。サンリーフレジャーランドの付帯設備の一つである専用道路のトンネル工事でなされた凝固剤注入の手抜きは、元請けの城島建設を中心として、凝固剤のメーカー、注入業者、工事の下請け業者などをひっくるめた構造的な悪質きわまる不正であるというのが、わたしどものつかんだ事実です。そしてこの不正による最大の受益者《じゆえきしや》が城島建設だということも申しあげておきます。凝固剤の注入で手抜きを行うことによって、城島建設は下請けにおろす請負《うけおい》価格を大幅に抑えて、自社の利幅《りはば》をひろげているのですからね。手抜きの手口も計画的です。凝固剤メーカーに架空《かくう》の発注伝票を出したり、凝固剤を積んでもいないタンクローリー車を現場に走らせて、注入を行うふりをしたり、しかも、その空《から》注入の現場には城島建設の現場監督も立ち会っている。もちろん注入用のパイプの中を流れているのが空気だけだということを承知の上で、立ち会いが行われていたという事実も、われわれは関係者の証言でつかんでいるのです。どうぞ課長さん、存分にお調べください。わたしが根も葉もない言いがかりをつけているのでないことがおわかりになるはずです。では、きょうのところはこれでひとまずおいとましましょう」  言い終えると同時に、堀越はすっと立ちあがり、ドアに向った。ソファの後ろに立っていた二人が音もなく堀越につづいた。佐藤が急いで立っていき、ドアを開けた。富岡は立ちあがって、無言で一礼した。ことばが出てこなかったのだ。  堀越たち三人を送り出した佐藤が、テーブルの横に戻ってきた。富岡は立ったままでいた。 「自信たっぷりでしたね、向うは……」  佐藤が小声で言った。 「ゆすり屋にきまってるさ。だが、いやな予感がするよ」  富岡は言った。 「奴のつかんでいるネタのことですか?」 「まさかとは思うけどね。建設三課の島田課長を呼んできてくれ。おれは会議室に行ってるから」  富岡は言った。佐藤も緊張した表情で頷いた。二人はそろって応接室を出た。   3 〔同月同日〕  会議室に入ってきた建設三課長の顔にも、緊張が現われていた。  ロの字形に並べられた長テーブルの奥の角《かど》をはさんで、富岡と島田と佐藤が顔を突き合わせるようにして坐った。 「佐藤君からあらましの話を聞いたよ」  島田が言って、たばこに火をつけた。佐藤も誘われたようにたばこを取り出した。富岡はたばこは吸わない。 「客には、こちらで事実を調べてみると言っといたんだがね。ズバリ訊《き》くけど、どうなんだ? 凝固剤の問題は……」  富岡は息をひそめる思いで、小声で訊いた。島田はうつむいた。 「手抜きは事実なんだよ。それは部長も知ってることなんだ」  島田も低い声を出した。富岡はかすかな唸《うな》り声を洩《も》らした。 「凝固剤メーカーも注入業者も下請けも、総ぐるみの計画的な手抜きだと、堀越は言ってたが、それも事実なのか?」 「事実だ。向うはかなりのところまでつかんでるようだな」 「島田課長のところの現場監督が、凝固剤の空注入のときに、それを承知で現場に立ち会ってる、ということも堀越は言ってましたが、そうなんですか?」 「そういうこともあっただろうな。否定はできない。手抜きそのものをつかまれてるんだから」 「つまり、事実関係で争う余地はないということなのか?」 「そういうことになる」  島田が苦痛のにじむ口調で答えた。 「となると、傷口を最小限に押さえることしかできることはないんだな?」 「堀越の狙いは、やっぱり金銭なんだろうな?」 「十中、八九そうだと思う」 「まさか、告発なんかを考えてるわけじゃないだろうな」 「そんなタマじゃないと思いますよ。旭道青年塾とか、労働災害を考える働く者たちの会なんていうのは恐喝《きようかつ》の道具で、要するにやくざですよ。右翼の青年塾をやっていると見せかけて、プレッシャーをかけてるんです。見ればわかりますよ。ねえ、課長」  佐藤が言った。富岡は頷いた。 「金銭的な解決でカタがつけられれば、これに越したことはないんだが……」  島田が言った。重苦しい空気が、広い会議室にひろがっていた。 「カタはつけるさ。できる限り傷が小さくてすむやり方でね。それがおれたちの仕事だ。だけど、向うににぎられてるネタがちょっとでかいからね。どこで折合《おりあ》いがつけられるかだ」 「サンリーフの現場はまずかった。死人を出してるんだからねえ」 「島田さん。いまそんなこと言ったって仕方がないよ。大事なことは守りを固めることだ。堀越は、サンリーフの現場で働いている人間から内部告発があったと言ったんだ。現場の作業関係者から、このネタが洩れて、直接か間接かしらないが、堀越の手に渡ったことはまちがいないんだ。そのネタを洩らした元の人間を突きとめることはできないかね? 島田さんのほうで」 「やってみよう。この件で騒がれて窮地《きゆうち》に立つのは、うちだけじゃない。下請けも注入業者もメーカーも一緒だからな。総がかりで告げ口した奴を探し出すようにするよ」 「そうですね。もしこの話が、誰かの口を介《かい》して堀越の耳に入ったのだとしたら、堀越の耳に入れた人間の口も塞《ふさ》がなきゃならないわけですから」  佐藤が言った。 「そういう人間がいたら、堀越にそいつの口を塞がせるのがいいんだがな。佐藤君、きみは堀越という男についての情報を至急、集められる限り集めてくれ。特に奴をとり巻いている人間関係というか、人脈をな。それを使って、うちのほうの人脈の中に、力になってもらえる人がいるかもしれんからな」 「口をきいてもらえる有力者がいるといいんだがね」  島田が言った。島田は表情にも口調にも弱々しいものを見せていた。 「できることをやっていくしかない。できることは全部やるんだよ。守り抜くしかないんだから。攻められたからにはな」  富岡は、弱気をうかがわせる島田のようすに、かすかないらだちを覚えて言った。技術屋の島田が、やくざとか恐喝といった事柄に富岡ほどは馴れていなくて、怯《おび》えを見せるのは無理もなかった。それは富岡も理解できる。富岡のいらだちの中には、会社が手抜き工事を行ったために、恐喝屋が乗りこんでくる結果になったことへの肚立《はらだ》ちもまじっていた。 「とりあえず、いまやらなきゃならないのは、密告屋を突きとめることと、堀越栄一という男の情報をできるだけ多く集めることですね?」  佐藤が言った。 「それも、できるだけ短時間のうちにだ。調査は第三者の手に依頼するわけにいかないからな」 「わかってます」 「島田さんのほうもだよ。関係者がそれぞれの立場で直接、調査してほしいんだ」 「わかった。そうするよ。すまないな。厄介をかけて……」 「仕方がないさ。あんた個人がまいた種じゃないんだから。とりあえず、おたくの部長とうちの部長には事態を報告して、指示を仰《あお》ごうと思うんだが、これから部長たちに集まってもらって、あんたと二人で説明をしようか」 「そうしよう」  島田が言って、会議室を出ていった。 「佐藤君は、早速、堀越の調査にかかってくれ。落合《おちあい》さんあたりに最初に当ってみたらどうかね?」  富岡は、城島建設と関わりの深い総会屋の名前を挙げた。   4 〔同月十一日 金曜〕  午後十一時を回っていた。  長峰重行《ながみねしげゆき》は酔っていた。道はゆるやかな長い登り坂になっている。板橋《いたばし》区|志村《しむら》二丁目の住宅地の中のその坂道を長峰が登るのは、いつも決まって夜ふけであり、ほとんどの場合、彼は酔っている。  アルコールの入った三十九歳の男の心臓には、ゆるやかな長い坂道がいくらかこたえる。けれども、そのこたえかたが長峰は嫌いではない。いかにも、惚れた女のもとに通《かよ》っているのだ、といった気持をつのらせてくれるからだ。  坂道を登りきったところに、そのマンションはある。マンションの前で長峰は足を停《と》める。それもいつものことだった。足を停めてはずんでいる呼吸と心臓の鼓動を鎮《しず》めながら、長峰はマンションの四階の窓を見上げる。  相原和子の部屋の窓には、カーテンごしの明りが見えた。しかし、ときにはその窓に明りの色が見られないときもある。そういうときは長峰は、登ってきたばかりの坂道を下って、電車を乗《の》り継《つ》ぎながら、国分寺《こくぶんじ》市のアパートの、一人暮しの部屋に帰ることになる。  そういう無駄足《むだあし》を踏みたくなければ、相原和子にあらかじめ電話をかけて、逢いに行くことを伝えるなり、相手の都合《つごう》を訊くなりすればいいのだが、長峰は一度もそうしたことはない。無駄足もまたわるくない、と思っているところが彼にはある。無駄足に終ったことを相原和子に告げたり、それを恨《うら》んだりしたことも、長峰は一度もない。  足を停めてしまうと、躯《からだ》がうっすらと汗ばんできた。長峰は上衣のポケットからハンカチを出して、額《ひたい》と頸《くび》すじを拭《ぬぐ》った。ふと、このまま、和子の部屋の窓明りを見ただけで今夜は帰ろうか、という気持が長峰の胸をかすめる。それもよくあることだった。だが、惚れた女の部屋の窓明りを見ただけで満ち足りた思いになったことは、まだ一度もない。  そうやって、無駄足を踏むことをあえて厭《いと》わなかったり、窓明りを見ただけで引返そうか、と自分をそそのかしたりすることで、和子に対する自分自身の執着《しゆうちやく》の強さを常に測ろうとしているのだということが、長峰にはわかっていた。  汗を拭《ふ》いたハンカチをポケットに戻して、長峰はマンションの玄関に入った。そこからは彼の足は早くなる。エレベーターの動きをもどかしく思うことさえあるのだ。  相原和子は、パジャマ姿で長峰を迎え入れた。白地に淡いピンクのストライプの入った、袖《そで》も丈《たけ》もたっぷりと長い、上衣だけのパジャマだった。 「来てくれるんじゃないかな、と思ってた」  入口のドアを閉めて向き直った長峰に、和子が笑いかけてきた。風呂上りと見えて、髪が濡れていて、化粧気のない頬《ほお》がつややかに光っていた。長峰はその頬に立ったまま唇をつけた。 「飲んでるのね?」 「少しね」 「でもないみたい。姉から電話がかかってるの。すぐにすむから」  和子は言って、長峰の前にスリッパを置いた。パジャマの胸もとがあいて、乳房のふくらみが覗《のぞ》いた。それを眼に留めながら、長峰は手には和子の乳房の豊かなはずみの手ごたえを甦《よみがえ》らせていた。  ワンルームの作りの部屋だった。電話は壁ぎわに置かれたベッドの横の、小さな丸いテーブルの上に置かれていた。和子はベッドに腰をおろし、受話器を耳に当て、灰皿の上で細い煙を上げていたたばこを指にはさんだ。 「うん、いいの。長峰さんなの」  和子は受話器に声を送ってから、長峰にまた笑いかけた。長峰は窓ぎわに置かれている小さなカウチに腰をおろした。壁にインディアンの民芸品のタペストリーが飾ってある。他には若い女の一人暮しの部屋らしい装飾は見られない。長峰は上衣を脱ぎ、たばこに火をつけた。 「お兄さん一人の責任じゃないのに。気持はわかるけど、サラリーマンなら誰でも、大なり小なり、そういう矛盾《むじゆん》に苦しむわよ。だからって、それをお姉ちゃんが離婚の理由にするのは酷《こく》じゃない?」  和子は電話に向かって、そういうことを言っていた。言いながら和子は、長峰に向って冷蔵庫を指さし、何かを飲む身ぶりを送ってよこした。 「ビール?」  長峰が小声で訊くと、和子は頷《うなず》いた。長峰は立っていって、流し台の横の冷蔵庫から缶《かん》ビールを出し、グラスと一緒に和子の前に持っていった。缶のトップを開け、グラスに注《つ》いで、ひとくち飲んでからテーブルに置いた。それを見ていて、和子が笑った顔で長峰を睨《にら》んだ。和子は姉の電話の話を聴きながら、送話口を手で押えた。 「シャワー浴《あ》びてきたら?」  和子が言った。長峰は頷いた。  せまい浴室には、まだ湯気がこもっていた。湯気と一緒に、そこには和子の肌の匂いも残っているように、長峰には思えた。長峰は思いきり温度を上げて、シャワーを浴びた。  浴室から出ると、和子の電話は終っていた。和子はカウチの上であぐらをかいて、ビールを飲んでいた。ベッドの上に、長峰のパジャマが出してあった。その部屋に一着だけある男物のパジャマだった。和子がそれを見立てて買ってきたのは、一年前の夏だった。 「何か飲む?」 「ぼくもビールにするかな」  長峰は言って、ひろげて背中にひっかけていたバスタオルをとり、パジャマに袖を通した。まだ汗はひっこんでいなかったが、和子の前で若さを失った裸の躯をさらしているのは気がひけるのだ。  長峰は自分では、年齢の割には筋肉質のひきしまった躯つきを、まだ保っている、と思っている。三十代半ばまではそれを、高校から大学までつづけた剣道のせいだと言って自慢できた。  だが、四十も間近になった今は、もうそれを自慢する気はなくなっている。体形が多少の若々しさを保っているとしても、それは若いときの鍛錬《たんれん》の賜物《たまもの》ではなくて、人よりもいくらか多かった過去の蓄《たくわ》えを結局は喰《く》いつぶしていっているだけのことだということが、自分ではわかっているのだ。 「お姉さん、ぼくのこと気にしてるんだろう?」  カウチに和子と並んで坐り、彼女が注いでくれたビールを勢いよく呷《あお》ってから、長峰は言った。 「平気よ。関係ないもん」 「何も言わないの?」 「言ったって仕方がないと思ってるみたい。ほんとに仕方がないわけだけど……」 「結婚しちまうか」 「無理すんじゃねえよ、長峰。年の差を気にしてるくせに……」 「気にしてるわけじゃないけどね。でも考えるよなあ。ぼくが七十で死ぬとするだろう。そのときオカズは五十三だ。五十三で女が一人になるのは辛《つら》いぞ、やっぱり」 「止《や》めようよ、そんな話。自分の五十三のときなんて考えたくもないわ。結婚したって同じよ。別れるときは別れるんだから。姉のところもいまピンチなのよ」 「さっき、電話でそんなこと話してたね」 「姉のほうが離婚したがってるのよ。もう忍耐の限界なんだって。兄さんもわるいんだけどね。外のストレスを全部家の中に持ち込むみたいだから」 「両方わかるな、ぼくは。お兄さんの辛さもお姉さんのやりきれなさも。ぼくもストレスを家に持ち込んでたからな」 「でも、ミネさんは潔《いさぎよ》いわよ。奥さんが外で恋愛したことを許した上で、別れて自由にしてあげたんだから」 「潔いわけじゃないよ。自分が楽になりたかっただけだから」 「兄さんはいま、特に辛いのよ。わかるわ、家の中で八つ当りしたくなる気持。気が小さいといえばそうかもしれないけど……」 「相当深刻になってるの? お姉さんとこ」 「もっと深刻になると思うわ。あのお兄さんなら」 「原因は会社のこと? さっき電話でサラリーマンの矛盾がどうとかって言ってたけど」 「会社もひどいのよ。自分の会社の非難はしたくないけど……」  和子は言って、たばこの袋をつかみ、中身を乱暴な手つきで振り出し、くわえた。 「いつかの千葉のほうのレジャーランドの建設現場での死亡事故のことで、お兄さんはまだ悩んでるの?」 「そうなの。姉のさっきの電話での話だと、悩んでるというより、完全に参ってるみたいなの」 「事故の処理が揉《も》めてるの?」  長峰は訊いた。和子はすぐには答えずに、たばこの煙を細く吐《は》き、ビールのグラスを口に運び、それから長峰を見た。 「事故処理が揉めるどころの話じゃないの。わたしんところの会社がひどいことしてるのがわかったのよ。千葉のサンリーフの建設現場の死亡事故は、起きるべくして起きたものらしいの。工事の手抜きをやってたわけ」 「手抜き工事か……」 「トンネルを掘るのに、まわりの地盤が崩れないように、地盤の凝固剤というのを注入するらしいんだけど、その凝固剤を設計で決められた量だけ入れていなかったんだって。わたしは、さっきの姉からの電話で初めてそれを知ったんだけど、兄さんはその工事の担当責任者の課長だから、当然初めから手抜きを知ってたのね。それで、作業員の三人の人が死んでから、ずっと苦しんでたらしいの。姉もその手抜きのことは、おとといの夜に初めて兄さんに聞かされたらしいの。それで、姉は姉で結婚生活をつづけていく自信がますます失《な》くなったって言って、わたしに電話をかけてきたの」 「作業員の死亡事故が会社の手抜き工事のせいだと聞かされたから、お姉さんは自信を失くしたわけなの?」 「そうなの。というのは、その凝固剤の注入の手抜きのことが、プロの恐喝屋の耳に入って、会社がいま脅《おど》されてるのよ。それで、姉の話だと兄さんがパニック状態になってて、家の中でひどいらしいの」 「たいへんだなあ、それは……」 「もともと姉と兄さんはしっくりはいってなかったのよ。姉に言わせると、兄さんの性格が暗くて融通《ゆうずう》がきかないのが原因だってことになるんだけどね。わたしはどっちもどっちだって気がするわ。とにかくそんなふうだったところにもってきて、プロの恐喝屋みたいなのが現われて、兄さんがおかしくなったもんだから、姉は旦那さんを支えなきゃいけないのに、自分も悲鳴をあげてるわけなの。でも、別れるにしても、いま兄さんを一人にしてしまうのはちょっと酷だって思うな、わたしは。だいいち兄さんが今は離婚の話なんかをちゃんとできる状態じゃないだろうに」 「その恐喝屋っていうのはやくざなの?」 「だと思うわ。労働災害を考える働く者の会とか名乗ってたけど。そこの男から会社にかかってきた最初の電話はわたしが取ったのよ。そのあとどうなってるのか、わたしはわからないけど、総務課長と課長補佐がしょっちゅう兄さんのいる建設部と連絡とりあってバタバタ対策に追われてるみたいなの」 「どこの企業にもそういうのが現われるんだよね」 「ミネさんところも?」 「同じだよ。うちは食品メーカーだから、製品にイチャモンつけてくるみたいだね。それも最近は消費者運動みたいなふりしてやってきて、もっともらしい理屈を並べるけど、要するにやくざ者のお金《かね》目当てっていうのが多いようだよ。ぼくは厚生課の窓ぎわ族だから詳しくは知らないけど……」 「企業もわるいわよね。わたしは思うのよ。兄さんも、作業員の死亡事故で悩んだり、自分が書類送検されたことを口惜《くや》しがるんだったら、マスコミに内部告発して、会社の不正をあばいてやればいいのにって。そういうことはしないで、ただ会社と自分の良心の板ばさみに苦しむだけじゃ、どこにも出口がないじゃないの。ねえ」 「日本のサラリーマンは、なかなかそういうふうにはできないんだよねえ」 「できないんじゃなくて、やろうとしないのよ。そして、悩むことで自分の良心を示したりしてるのよ。わたし、兄さんの代りに内部告発やってやろうかしら」 「告発者が義理の妹だってことが会社の中でわかったら、お兄さんはもっと悩むだろうな、きっと」 「そうよね。なんだか、ミネさんに関係のない話しちゃったわね」  和子は言った。 「ドライヤー持っておいで。髪を乾かしてあげるから」  長峰は言った。和子は、ベッドの足もとに置いてあるドレッサーの上にあったドライヤーを取ってきて、横のコンセントにコードをつないだ。長峰はカウチの上で和子のほうに躯を向け、ドライヤーのスイッチを入れた。  和子はそうやって髪を乾かしてもらうのが好きだった。楽だということだけでなくて、甘えているような気分になるのが好きなのだ、と言うのだった。女の髪というものが、濡れていなくても、手でそれを受けると意外な重みを感じさせることを、長峰は和子の髪をいじるようになって知った。 「すっかり上手になっちゃったわね。美容師みたいよ、手つきが……」 「美容師になればよかった」 「もう遅いわよ」 「残念だな。女性の髪をさわって一生を送るなんて、ちょっと憧《あこが》れるな」 「商売になると、ドライヤー使いながら、襟足《えりあし》にキスしたりするわけにいかないわよ」 「こんなふうに?」  長峰は、ほとんど乾いた和子のパーマのかかっていない長い髪を横に手で梳《す》き流して、あらわになった襟足に唇をつけた。和子の躯が一瞬、ちぢまり、すぐにほぐれるように力が抜けて柔らかくなった。 「泊っていく? 今夜……」 「明日はオカズは会社、休みだろう?」 「土曜日だもん」 「オカズをベッドに残して出勤していくときの気分が好きなんだ、ぼくは」 「へんなの。普通はそういうときって会社に行きたくなくなると思うけど……」 「会社には行きたくないさ、そりゃ。でもちょっといい気分なんだ。自分の娘みたいに年の離れた女の寝ているベッドから這《は》い出して会社に出て行くのって、なんかいいもんだよ。天気はいいけど荒れた感じの風が吹いてる秋の日暮れみたいでさ」 「朝から秋の日暮れの気分なの?」 「おまえさんにはまだわからんさ。中年てのは朝からずっと日暮れなんだよ」 「信じられない。ベッドの中だとミネさんはいつだって真夏の昼間みたいな感じなのに」  和子は笑って言った。長峰も笑った。  長峰はドライヤーを停めると、後ろから和子を抱きしめた。和子が長峰に躯をあずけ、肩に頭をのせてきた。長峰は和子の頸《くび》すじに唇をつけ、パジャマの上から乳房を手で押し包むようにした。 「真夏の昼間になるぞ」  長峰は和子の耳に唇をつけて囁《ささや》いた。和子は声を出さずに笑って、乳房の上の長峰の手に手を重ね、その手を胸に押しつけた。   5 〔同月十三日 日曜〕  長峰はアパートの自分の部屋にいた。  テレビの日曜洋画劇場は、SF映画をやっていた。長峰は途中までそれを見て、チャンネルを回した。どの局も見たいと思うものはやっていなかった。  グラスの酒はほとんどなくなっていた。長峰はそれを飲み干すと、立ちあがって台所に行き、三杯目のウイスキーの水割りを作り、小さな食卓の上に置いた。  日記帳は小さな本棚の抽出《ひきだ》しに入れてある。ありふれた厚手の大学ノートで、中にボールペンがはさんである。長峰はそれを取り出して食卓の上に置き、テレビを消した。  長峰が日記らしいものをつけるようになったのは、離婚して一人暮しを始めてしばらくたってからだった。日記といっても、彼の場合は毎日つけるわけではない。思いたったときに、胸の底にあるものを掻《か》き出すようにして文章を綴《つづ》るだけである。だから日付は書かれていない。一人暮しを始めて、部屋で一人で酒を飲んでいるときに、ふとそういうものを書き綴ってみることを思いたったのが、始まりだった。  最初の頃は、壊《こわ》れてしまった自分の結婚生活の回顧《かいこ》や、離れて暮すことになった二人の子供たちへの思いといった事柄が、日記帳のページを埋めていた。誰に読ませるつもりもないものをそうやって書き記《しる》していると、長峰はあらためて、よりよく生きるということが、自分にとっていかに難事だったかということを思い知らされる気がした。同時に、自分が抱えている孤独というものの姿が、より鮮明に浮かびあがってもきた。  相原和子と知り合ってからは、日記の中身の中心は彼女が占めるようになった。それも、彼女との性愛の記録が大半で、ところどころに、口に出すことをせずにいる彼女へのありのままの思いといったものがさしはさまれるだけである。  はじめからそういうことを記録しようと考えたわけではなかった。気がついてみると、記述の大半がベッドでの行為の再現になっていた。そしてそのことに気がついてからは、長峰は和子との性愛をそういう形で記録することに、情熱を抱いた。その情熱のいわれは、長峰自身にもよくわからない。彼にわかっていることは、そこにはほとんど好色な心の動きはない、ということだけだった。  長峰には、いつかは和子を失うか、自分が退くかして、彼女とのことが終る日がくるという予感が強くある。そのときに自分が抱くであろう未練をあるいは先取りして、性愛日記を書いているのかもしれない、と思うこともある。  あるいはまた、無残な形で破局を迎えた結婚生活を日記の中で回想して、そこに浮き出てくる自分の人生の貧寒《ひんかん》とした姿にとり返しようのない失意の嘆息《たんそく》を洩らしたように、若い女との性愛にふける自分の淫《みだ》らな痴態《ちたい》をあえて書き留《とど》めることで、さらに自分を荒野《あれの》のような場所に追い詰めようとしているのか、と考えてみるときもある。  長峰は食卓の前の椅子にあぐらをかき、ボールペンを手に取るとすぐに、その日記のようなものを綴りはじめた。 [#ここから2字下げ] 金曜日、和子の部屋に泊。はずみがついて土曜日も会社から板橋へ行って泊。日曜の夕方、和子と池袋《いけぶくろ》に出て、イタリアンレストランで食事して別れる。帰宅八時半。土曜の朝、和子は一緒に起床、コーヒー、ハムエッグ、トースト、トマトサラダの朝食をこしらえてくれた。 前夜に、若い女をベッドに残して出勤するのが好きだと言ったことを、和子は何かとりちがえて解釈したのかもしれない。朝食の支度《したく》はうれしく、ありがたいが、自分としては和子が眠っていてくれたほうがありがたい。朝見る若い女の寝顔には、不思議な美しさがある。夜とは別のエロティシズム。それを眺めることも好きだし、つややかな頬や額にそっと唇をつける愉《たの》しみもある。頬や額だけではない。寝乱れて乳房や脚があらわになっていれば、そこにも唇をつける。 若い女と夜を過して、情事の匂いと余韻《よいん》のこもっているベッドから抜け出て、女の汗や髪や肌の匂いや、分泌物《ぶんぴつぶつ》の名残《なご》りを躯につけたまま、満員電車に乗り、職場に出るときの、ほどよい荒廃の気分が、いまの自分にはいちばんしっくりくる。 そうした気分にますます惹《ひ》かれていく。それは和子とは関わりのないことだ。荒廃と和子の甘美な女体。それがいまの自分の世界。結局、自分は和子の若さを盗み喰いしている男だと思う。 きょうの午後、台所の片づけと、部屋の掃除と、洗濯を終えたばかりの和子を抱いた。まめまめしく動いたあとの和子の躯には活力が漲《みなぎ》り、かすかに汗ばんだ肌の匂いは、いっそう濃密な甘さを醸《かも》し出していた。窓にはレースのカーテンだけが引かれていた。外は五月《さつき》晴れだった。カウチに腰をおろして、アイスティーを飲み、新聞を読みはじめたばかりの和子の汗ばんだ項《うなじ》にキスをした。Tシャツをまくり上げ、背中に唇を這《は》わせた。カーテンのレースの模様が、和子の白い肉の薄い背中に淡い影を落していた。背骨の小さな隆起《りゆうき》をひとつずつ唇で辿《たど》った。和子はくすぐったがって、忍《しの》び笑いを洩らしながら身をよじった。 和子はブラジャーを着けていなかった。乳房はひんやりとしていたが、胸の谷間はやはり汗ばんでいた。 二つの乳房を両手でそっと撫《な》でながら、背中へのキスをつづけた。舌を這わせると、かすかに汗の味がした。ジーパンのウエストのところに、脇腹の小さなくびれができていた。かがみこんでそこを唇でついばむようにした。そっと歯を立てた。立てるというよりも歯をすべらせるといったやり方だった。和子は新聞を放り出し、カウチの上で躯を曲げてかがみこんでいる自分の肩の上に、上体を倒してきた。和子の手が自分の膝を撫でた。その手がいたずらっぽく自分の股間に伸ばされてきた。 昼間するのは、すごくエッチな気がして燃えちゃう、と和子は息をはずませてささやいた。和子のそのことばが、勢いをつけてくれた。野放図《のほうず》な欲望が自分を突き動かしてきた。明るい外光の下で和子の性器を眺めたい、と思った。 Tシャツは和子が自分で脱いだ。乳房が張りを強め、乳首は固くひきしまっていた。指先でそっと撫でただけで、乳首は強く跳《は》ねるようにして躍《おど》った。乳暈《にゆううん》の中にある小さないくつかの突起が、明るい光の中で濡れているようにきらめいて見えた。乳首と乳暈の色も、夜の明りの下で見るときよりも冴《さ》えていた。 乳首に唇と舌を使った。舌ではじくと乳首が跳ね、つられるようにして乳房にもかすかな揺れが伝わっていくのが見えた。和子を立ちあがらせ、ジーパンを脱がせた。薄いグレイに斜めのグリーンの細い縞《しま》の入ったパンティをはいていた。パンティのゴムの部分と股ぐりのところから、数本の陰毛がはみだしていた。いとしさがこみあげてきて、はみだしている陰毛と、性器のやわらかいふくらみにパンティの上から唇を押しつけた。パンティにはわれめの形がそのまま刻まれていた。鼻の頭がそのわれめに少しだけくいこんだ。和子の甘い躯の匂いと彼女の情欲の匂いがそこから立ちのぼっていた。 立ったままの和子の前に膝を突き、彼女の腰を抱きしめた。乳房に頬ずりし、乳首を吸い、パンティをおろしていった。陰毛に頬ずりし、そこに唇をつけた。それからベッドに行った。カウチからベッドまでのわずかな距離を歩いていく和子の姿は輝いていた。髪が光り、乳房が重たげにはずみ、交差する太腿の間で陰毛が小さくうねり、美しく充実した臀部《でんぶ》がうねった。後ろからその臀部に唇をつけた。 和子はベッドにうつ伏せに躯を横たえた。その姿には伸びやかな欲望と恥じらいとが感じられた。 和子の両脚を開かせ、膝の間に正座した。尻のわれめの線が左右に分れていくところに、陰毛をまとわりつかせた性器のふくらみがのぞいていた。性器の深いわれめは、分泌物があふれ出て濡れ、光っていた。 量感をたたえている臀部。そこから伸びるすらりとした若々しい脚。愛らしい尻のわれめ。その底に見える、色のうすい陰毛とふくらみのきわだっている女陰——それのすべてが自分を熱く酔わせた。愛撫《あいぶ》を待ちうけてすべてを自分の眼にさらしている和子のようすが、狂《くる》おしいほどいとしくてならなかった。舌の先で尻のわれめをなぞった。われめを手で押し開き、会陰《えいん》部から肛門へと舌を這わせた。暗褐色《あんかつしよく》の肛門も、外光の中でつややかに光って見えた。それすらもいとしかった。そこに舌を這わせることが、愛の秘跡のように思われてならなかった。 和子は、かすかな喘《あえ》ぎを洩らしながら、腰をゆすり、うねらせた。そのたびに性器のわれめがよじれ、分泌物がにじみ出すのが眼に留まった。それがもし雫《しずく》となってしたたるのなら、口に受けたいと思った。 和子を仰向《あおむ》けにさせた。和子は眼を閉じ、両腕を曲げて枕の両端をつかんでいた。頬が上気し、わずかに開かれた唇の内側の濡れたところが、たゆとう翳《かげ》を映している水面《みなも》のように、かすかにうごいていた。 陰毛を片手で撫で上げ、性器をむき出しにした。そこに手をかぶせた。湿った大陰唇のふくらみが、すっぽりと収まって掌《て》のくぼみに添うようにして触れてきた。陰毛をのせた陰阜《いんぷ》のふくらみの美しさにも、あらためて魅了された。この世のすべてのものの美しさを色褪《いろあ》せさせるほどだ。 女陰に手を押し当てたまま、和子の両の内股に気のすむまで舌を這わせ、唇を押し当てた。若い女の性器の前に文字どおり跪《ひざまず》いた。若い女との性愛に酔い痴《し》れた。分泌物を吸った。和子の性器に眼を注いだ。至福《しふく》を覚えた。 八の字形に開いたわれめの底は、明るく澄んだ輝きを見せていた。クリトリスの包皮の色と隆起の優美さをあらためて知った。クリトリスは色づいてふくらんでいた。小陰唇は頼りなげに身を起して、フルフルとふるえていた。その下の折り重なった襞《ひだ》に囲まれるようにして、膣口《ちつこう》がナイフで入れた浅い切れめのような姿をのぞかせていた。そこに舌の先を当て、分泌物をすくい取り、クリトリスに持っていった。そっと舌の先を這わせると、クリトリスはうねるようなかすかな蠢動《しゆんどう》を見せた。それを唇で浅く捉えて柔らかく吸った。和子のふくよかな白い腹に、さざ波を思わせる痙攣《けいれん》が走った。 長い時間、和子の性器の上に顔を伏せて、舌と唇で彼女を味わいながら、乳房を揉んだ。すばらしい日曜日だった。自分は淫らで自由な一匹の獣《けもの》になった。和子との性愛の他に、心を満してくれる何物もないことを、手に伝わる乳房のはずみや、舌と唇に伝えられてくる味わいが、有無を言わせぬ強さであらためて物語っていた。 [#ここで字下げ終わり]  二章 犠牲者   1 〔同月二十四日 木曜〕  突然の訪問だった。  インターフォンのチャイムが鳴ったとき、相原和子はドレッサーの前でヘアドライヤーを使っていた。時刻は午前零時になろうとしていた。  和子はドライヤーのスイッチを切り、表情をゆるめて立ちあがった。てっきり長峰が来てくれたのだ、と考えたのだ。ヘアドライヤーを使いながら、長峰に髪を乾かしてもらうときの気分を思い出していたせいもあった。その時刻にインターフォンを鳴らす相手は、長峰の他には考えられなかった。インターフォンの送話口に送った和子の声も、表情と同じように和《やわ》らいでいた。 「和ちゃん、ぼくだ。島田だよ」  返ってきたのは、義兄の島田功の声だった。思いがけない訪問者だった。和子は返事を送り、急いでパジャマを脱ぎ、Tシャツとジーパンに着替えてから、ドアを開けた。  島田は疲れきったようなようすで、ドアの横の壁に片手をついて立っていた。彼は和子と眼を合わせても、打ちひしがれたような暗い表情を変えずに、中に入ってきた。髪とジャンパーの肩に、滴《しずく》がついて光っていた。外は雨だった。 「どうしたの? お兄さん。何かあった?」 「頼みがあるんだ、和ちゃんに……」 「とにかくあがって……」 「前の道に車を停《と》めてあるんだけど、だいじょうぶだよね?」 「夜は平気だと思うわ。みんな停めてるし」  和子は言って、食卓の椅子を島田にすすめた。 「何か飲む? 冷たいものがいいかしら」 「ビールもらえるかな?」 「車なんでしょう。だいじょうぶ?」 「一杯ぐらいならどうってことないから」  島田は言って、テーブルに肘《ひじ》を突き、両手を頭に当てた。島田の口から吐息《といき》が洩《も》れるのを和子は聴いた。  缶ビール二本と、グラス二つをテーブルに置いて、和子も椅子に腰をおろした。 「一本もらっていいかね」  島田が食卓の上にあったたばこの袋を指さした。 「どうぞ。お兄さんいつからまたたばこ吸うようになったの? やめてたでしょう?」  二つのグラスにビールを注《つ》ぎながら、和子は言った。 「十日ぐらい前から、また始めちゃったんだよ」  煙を吐《は》いて言うと、島田はビールを一気に半分ほど飲んで、また吐息を洩らした。 「会社、たいへんなんでしょう? お姉ちゃんに話を聞いたわ」 「和ちゃんところの課長の富岡さんに、面倒かけてるよ」 「課長はあたしたちには何も言わないし、課の人間も、堀越って男に会社が脅迫《きようはく》を受けてること知らないみたいだから、わたしもようすがわからないんだけど、ケリはつきそうなの?」 「まだ目鼻はまったくついちゃいないんだ。なんとかケリをつけなきゃどうにもならないんだけど、打つ手がなくてね」 「堀越って男はやっぱりお金を要求してるんでしょう?」 「要求を出さないんだよ。富岡さんに言わせると、具体的な要求を出すと、事件になったとき恐喝《きようかつ》の意志があったとみなされるから、いくら金を出せとか、どうしろとかということを言わないそうなんだ。堀越のような連中は」 「それじゃ、話のしようがないわよね」 「そうなんだけど、堀越は旭道青年塾《きよくどうせいねんじゆく》という自分がやっている塾と、労働災害を考える働く者たちの会に、資金援助をすることと、堀越の支持者だという土建業者を、うちの下請けグループに加えろということを、ほのめかしてるんだよ。それとなくね」 「資金援助ってどれくらいの額を考えてるのかしら? 向うは」 「わからないけど、富岡さんとか、総務部長の推測じゃ、十億ぐらいのところを狙ってるんじゃないかって言うんだ」 「十億!」 「完全に弱味につけこまれてるからなあ。向うは凝固剤注入の手抜きの証人をつかんでるし、こっちは死亡事故を起してるからねえ」 「会社はお金を出すつもりはあるんでしょう?」 「あるんだけどね。それもおいそれとはいかないんだ。額が大きくなると、経理上の処理の問題もあるし、それも相手が満足するだけの金が出せるかどうかといったこともあるし、それより何より、金を出すなら一回きりで終るという保証がなければ、恐喝がくり返される可能性もあるわけだからね。その保証をどうやってとりつけるか」 「堀越って男はやくざなの?」 「堀越の素性《すじよう》は、総務課で調べてるんだ。堀越は暴力団の看板はかかげてはいないけど、本性はやくざらしいんだ。いまは旭道青年塾というのをやって若い連中の教育にたずさわっているということになってるけど、塾の実態はよくわからないし、堀越は以前は笠城《かさぎ》組というれっきとした暴力団の幹部だった男なんだ。笠城組は四年前に解散して、いくつかの右翼団体に分れていって、旭道塾というのもその中の一つだというんだ」 「どっちにしても、ひとすじ縄《なわ》ではいかない相手なんでしょう?」 「こっちに決定的な弱味があるからなあ」 「それで、お兄さん、わたしに頼みがあるって、何なの?」  和子は訊いた。島田は頷いてから、肩を落し、吐息を洩らした。 「実は、広子のことなんだよ。困ってるんだ、おれ」  島田は言った。伏せていた眼を上げた島田の顔に、気の弱そうな表情と、それでいて頑固《がんこ》な性格を窺《うかが》わせる感じがにじみ出ていた。 「姉ちゃんがどうかしたの?」 「おれのところがうまくいってないってことは知ってるんだろう? 和ちゃん」 「このまえも姉ちゃんが電話かけてきて、いろいろ愚痴《ぐち》をこぼしてたけど……」 「広子に言わせれば、おれが神経質で優柔不断《ゆうじゆうふだん》だから、家の中が暗くなるっていうんだけどね。まあ、いろいろあって、おれも広子と性格が合わないのは認めるんだけどね」 「離婚したがってるんだって? 姉ちゃん」 「そうなんだよ。それはもういま始まった話じゃないんだけどね。今度の堀越の脅迫の件で、おれがまいっちゃってるもんだから、広子も疲れが出てきたらしいんだよ。凝固剤の手抜きのことは、立場上、おれが現場の責任者ってことになるんだよ。だからおれも気持のゆとりを失《な》くしてて、広子や子供たちに八つ当りしたりして、まずかったとは思ってるんだ。それを広子は大目《おおめ》に見て許してくれるということはしてくれないんだ」 「それで、離婚の話をむし返してきたわけなのね?」 「離婚話よりも、広子は凝固剤の手抜きは会社ぐるみでやったことなんだから、おれ一人が悩んだり、会社の中の立場と良心のジレンマに苦しむくらいなら、匿名《とくめい》で会社の不正を告発したらいいじゃないかって言ってるんだよ。おれにその勇気がないのなら、広子は自分がやるって言い出してねえ」 「姉ちゃんらしいわ」 「それはそうなんだけど、そんなに単純明快に事ははこばないんだよ。おれも会社の不正には憤《いきどお》りを覚えるけどさ、内部告発というのはなんだか裏切りみたいで、そこまで思いきったことはできないって言ってるんだよ。それに、この件を誰かが告発して明るみに出せば、会社はむろんのこと、おれ自身も不正に手を貸しているんだから当然、罪を逃れるわけにいかないからね。おれは自分を自分で裁《さば》く勇気がないんだ」 「それで?」  和子は、義兄が自分に何を頼みたいと考えているのか、いっこうに察しがつかず、少しいらだちを覚えた。 「うん。それで、実は和ちゃんに預ってほしいものがあるんだ」 「なに?」 「このノートなんだけどね」  島田は言って、ズボンの尻のポケットから、小型の薄いノートを取り出して、和子の前に置いた。 「このノートには、千葉のサンリーフレジャーランドだけじゃなしに、うちの会社が請負《うけお》った工事で、凝固剤の不正と手抜きがどういうふうに、どれだけの規模で行われたかということが、すべて書いてあるんだよ」 「お兄さんが書いたものなの?」 「そうなんだ。何かに使おうと思って書いてたわけじゃないんだけどね。おれとしては不正の事実をこっそり記録しつづけることで、いくらかでも自分の個人としての良心に言いわけをしてる気になってたように思うんだ」 「でも、そのノートをどうしてわたしが預るの?」 「家に置いとくと危ないんだよ。広子が見つけ出して、告発の材料に使いかねないんだ。あいつはやると言い出したら本気で何でもやりかねないから」 「姉ちゃんはお兄さんがそういうノートをつけてたことは知ってるの?」 「知ってるはずなんだ。前におれが話したことがあるから」 「お兄さんとしては、姉ちゃんが会社の不正を告発するのは困ると思ってるのね? たとえ匿名《とくめい》でも……」 「そりゃやっぱりまずいだろう。まずいよ」 「そうよね。姉ちゃんが告発してもいいと思うくらいなら、お兄さんが自分でやるわね」 「会社はたしかに不正をやってるけど、内部告発して自分の会社のイメージがダウンしたり、社内が騒がしくなるのを、知らん顔して見てるのは、やっぱりいい気分じゃないと思うんだよ」 「まあね。でも、誰かが告発してくれればいいという気はあるんでしょう?」 「そりゃまあ、あるよ。不正が明るみに出れば、堀越の脅迫の件は自然に解消するわけだし、これから先、おれが工事の責任者として手抜きや不正に悩むこともなくなるだろうからね」 「いいわ。ノート預ってあげるわ」 「そうしてもらうと助かるんだ。頼む。広子の妹の和ちゃんに、こんな話も頼みごともしたくなかったんだけど、他には頼める人間はいないし、和ちゃんなら会社の不正のことも広子に聞いて知ってるということだったから、こんな時間にと思ったけど、思いきってやってきたんだよ」 「あたし、このノート見ていい?」 「それはかまわないけど……」 「あたしが姉ちゃんに代って、匿名で会社の不正をマスコミに告発したら、お兄さんどうする?」 「まさか……。本気でそんなこと言ってるんじゃないんだろうね、和ちゃん」 「本気だと言ったら、ノート預けないで帰る? お兄さん」  和子は、いくらか意地《いじ》のわるい思いを愉《たの》しみながら、笑って言った。和子も広子同様に、良心を気にしながら何の行動も起さずに、うじうじと悩んでいる島田のような男たちには、軽蔑《けいべつ》とまでは言わないにしても、歯痒《はがゆ》さを覚えないではいられない。 「広子の場合とちがって、和ちゃんは義理の兄妹なんだからね。そこまで和ちゃんの考えをおれがどうこうするということはできないよ。和ちゃんの正義感の問題なんだから。和ちゃんはまして城島建設の社員なんだから、社員として自分の会社の不正を見過《みすご》せないという気持を抱けば、誰も告発は止められないさ。でも、ぼくとしてはそれはできれば避けてほしいと思うな」 「お兄さんのノートが告発に使われるからなの?」 「それもあるけど、和ちゃん自身が告発者だということがもし会社に知れたら、決していい結果は生まないと思うからだよ」 「それはそうね、おそらく……」  会話が途切れた。島田はまたテーブルに眼を伏せた。 「それにしても、どうして凝固剤の手抜きのことが、堀越という男の耳に入ってしまったのかしらね?」  和子は話題をかえた。島田が顔を上げて口を開いた。 「それはぼくが下請けの業者を通じて調べてるんだけどね。作業員の中に、手抜きのことをどこかで洩らした人間がいることはまちがいないんだけど、それが誰で、どういう経路で堀越とつながってるのかってことは、まだ突きとめられないでいるんだよ」 「堀越を押えつけて脅迫を止めさせることができるような政治家なり、暴力団の世界の大物なりにコネのある人は、うちの会社のトップの中にはいないのかしら?」 「いないこともないらしいんだよ。総務の富岡課長の話ではね。でも、そういう人間を動かすにはやっぱり金がかかるし、なんといってもサンリーフの現場で死人を出してるから、第三者の仲介を頼んで不正を知ってる人間の数を増やすより、今度は堀越だけを相手にして、できるだけ傷口を小さく押さえることを考えながら切り抜けようということをトップは考えてるらしいんだ」 「結局、総務課長とか、お兄さんとか、矢面《やおもて》に立たざるをえない人間が、辛《つら》い思いをすることになるわけね」 「仕方ないさ。それが会社っていうもんなんだから」  島田は大きな吐息をついて言った。 「このノート、わたしが預ってもいいのね? お兄さん」  和子は島田を正面から見つめるようにして言った。 「頼むよ」  島田は言って、すぐにまた眼を伏せた。   2 〔同月二十五日 金曜〕  和子は、義兄の島田功から預ったノートを、その夜のうちに読んでしまった。  ノートに書かれてあったことは、和子の心に重くのしかかってきた。そこには弁解の余地のない企業のエゴイズムと、利益への悪辣《あくらつ》な執着《しゆうちやく》ぶりが、あからさまに記されていた。凝固剤のメーカーから注入業者までを巻きこんで、空《から》の発注伝票を出したり、空車のタンクローリーを現場に走らせて、凝固剤を注入するふりまでしての手抜きと擬装《ぎそう》は、すべて、元請《もとう》けの城島建設の主導で進められたことだった。それは、下請け業者におろす工事の請負《うけおい》価格を低く抑《おさ》えて、元請けの利幅をひろげるためだった。  そうした不正の発案者は、島田のノートの記述によれば、城島建設の営業本部長と、建設部長ということになっていた。  和子は、ノートを読み終えて、ショックを受けた。工事に手抜きの不正が行われていたことは、すでに和子にはわかっていた。だが、その不正を行う計画に、城島建設の関係者をはじめとして、メーカーや注入業者まで含めて、何人もの人間が関わっていながら、一人としてそのことに反対したり、ブレーキをかけようとした者がいなかった、という事実が、和子にはおどろくべきことに思えてならなかった。得体《えたい》の知れない恐怖さえ、和子は覚えさせられた。  和子はたしかに義憤《ぎふん》のようなものを感じはしたが、そのためにすぐに告発をしようというふうに考えたわけではなかった。  告発をしたいという気持は、はじめから漠然《ばくぜん》とした形で和子の中にはあった。それは正義のためというよりも、会社が行っている不正のために、義兄が苦しみ、それが姉夫婦の結婚生活に重苦しい影を落していることの理不尽《りふじん》さに、怒りを覚えたからだった。だがその怒りも、姉の愚痴めいた話を聞かされたときの、いわば一時的な反応にすぎなくて、それほど深いものとはなっていなかった。  だが、島田のノートを読んでしまってからは、和子の心は微妙に揺れはじめた。義憤や姉夫婦の不和を見兼ねて、そのために会社の不正を内部から告発する、といった表層的な気持を、ノートは吹きとばしてしまった。  ノートの中身は、城島建設の社会的な信用をいっぺんに失墜《しつつい》させるものだった。いわばそれは強力な爆弾であり、和子は思いもよらずに、その危険な爆弾を預ってしまった、といった気持にさせられた。ノートによって知った秘密は、和子をひどく落着かない気持にさせた。秘密は和子にとっては、危険な爆弾であり、毒薬でもあった。それが自分の手の中にあることが、怖ろしくもあり、躯《からだ》がふるえだしそうなスリルを感じさせもした。  毒薬であり、爆弾であるものの破壊力を試《ため》してみたい、といった気持が自分の中に頭をもたげてくるのに気づいたとき、和子は恐怖と、いい知れない恍惚《こうこつ》を覚えた。毒薬も爆弾も、それを使われる側にとってはパニックだが、使う側にとっては甘美な秘薬となる予感を、和子は抱いたのだった。その甘美なものが、読み終えたノートを閉じた瞬間から、和子を誘惑しはじめた。  告発が行われれば、手ひどいダメージをこうむるのはまず、和子自身が勤めている城島建設だった。むろん義兄の島田功も、不正の直接の実行者として、法の咎《とが》めを受けることになる。そうなったときに、姉夫婦の関係が今よりよいものになるのか、さらに悪化して破局に向っていくのか、和子には予測はできなかった。  また、不正が発覚して、城島建設が連日、マスコミの非難の的《まと》となり、司法当局の捜査が始まる中で、当の城島建設の社員であり、内部告発者でもある自分自身が、どういう気持で騒ぎを受けとめることになるのか、といったことも和子には想像がつかなかった。  和子の思慮《しりよ》と分別《ふんべつ》は、告発などするな、と言いつづけていた。だが、自分が重大な秘密をにぎっているという思いは、思慮や分別の声を遠ざけ、毒薬のかもし出す甘美な匂いのほうに気持を傾けさせていった。そっちのほうに気持が傾いていくこと自体が、すでに和子にとっては陶酔《とうすい》となってはたらいた。  それは、正義心というようなものとは関わりがなかった。和子は城島建設に対して、特別の愛社精神を抱いているわけでもないし、恨みを抱いているわけでもなかった。会社は彼女にとって、働いて給料を稼《かせ》ぐ場以上のものでも以下のものでもなかった。  自分が毒薬の誘惑に負ければ、義兄の島田が窮地《きゆうち》におちいることもわかっていた。和子が誘惑に逆《さか》らおうとした唯一の理由が、義兄を追いつめることへのためらいだった。  だが、それも長くはつづかなかった。本気でそう考えていたのではないにしても、和子は島田に告発の意志がまったくないわけではないということを話している。義兄はそれを承知で自分にノートを預けたのだ、という思いが、和子には生れていた。そればかりではなかった。義兄は内心では、自分が告発者となることを望んで、ノートを預ける気持になったのではないか、とさえ和子は考えるようになったのだった。  その日一日、和子は自分が犯罪者になったようなうしろめたさと、落着きのなさと、甘美な陶酔の予感を胸の深くに抱いたまま、会社で仕事をした。食欲がなかった。前の晩によく眠れなかったせいもあった。昼食はサラダとコーヒーしか入らなかった。自分の躯が宙に浮いている気分だった。退社後に一緒に食事をしないかと、同僚の女子社員たちに誘われたが、和子はそれも断わって、まっすぐに板橋のマンションに帰った。  毒薬の誘惑は、一人になるとさらにつのった。和子は自分がそれに勝てないことがよくわかっていた。部屋に帰ると、和子は着替えもせずに、ベッドに躯を投げ出した。ベッドの足もとに置いてあったその日の朝刊が足に触れた。新聞の一面の紙名の題字の下には、新聞社の電話番号が出ていることを、和子は思い出した。躯を起して、ベッドの横のテーブルの上の電話に手を伸ばしさえすれば、それだけで自分にとっては心の揺れ動きの終りがやってくるし、会社と義兄にとってはパニックの始まりが訪れるのだ、と和子は思った。  和子は眼を閉じて、深く息を吸い、吐いた。自分が、手渡された秘密の重さを持ちこたえ、甘美な誘惑に耐えるには、すでに限界を越えてしまっているのが、和子にはわかっていた。眼を閉じてから、軽い眩暈《めまい》が和子を襲ってきた。眩暈の中でも、和子はすでに、ノートの中身をどのように要約して、新聞記者に電話で伝えるかということを考えていた。告発者として名前を相手に告げるつもりはなかった。身分も明かさずにおこうと考えた。もちろん、不正が行われるに至ったいきさつや、その実態を記したノートがあることも伏せておくつもりだった。話を聞いた新聞記者が、関係者に取材をしていけば、不正の事実はきっと記者たちの働きによって全容が浮かびあがってくるはずだ。自分はその取材のきっかけを与えるだけでいい——そう考えたとき、和子は眼を開き、躯を起して、ベッドの足もとの朝刊を手に取った。  朝刊の一面の題字の下には、その新聞の本社の代表の電話番号が出ていた。和子は酒に酔ったときのような感じに包まれたまま、受話器をとり、新聞社の電話番号を押した。  電話がつながり、交換手の応答の声を聞いた瞬間に、和子ははげしい後悔《こうかい》の念に襲われた。同時に、それまでどこかに押しやられていた�正義�ということばが不意に彼女の中に甦《よみがえ》ってきた。それが後悔の気持を今度はどこかに押しやった。 「社会部の責任者の方をお願いします」  和子は言った。語尾がふるえた。 「どちらさまですか?」  交換手が訊いた。 「事情があって名前は言えないんですが、ある建設会社がやっている不正のことで、告発をしたいんです」 「社会部のデスクにつなぎます」  交換手は言った。コールサインが受話器にひびき、すぐにぶっきらぼうな調子の男の声が送られてきた。和子はいきなり話しはじめた。 「城島建設が工事の手抜きをやっているのです。そのために建設現場で死亡事故が起きています。千葉のサンリーフレジャーランドの建設現場で、二ヵ月前に三人の作業員が死亡したのは、城島建設が設計どおりの地盤の凝固剤を注入しなかったからです。これは人命にかかわる重大な不正行為です。それをわたしは告発したいんです」  和子は、押し殺した声で一気に言った。やはり声がふるえた。自分が冷静なのか、ひどく混乱しているのか、和子は自分でもわからなかった。話しはじめると、ふたたび�正義�ということばはどこかに遠ざかり、不思議に心地よい気持の昂《たか》ぶりが生れてきていた。 「落着いて話してください。お話を聴きましょう。その前に、二、三質問させてほしいんですが」  相手が言った。和子は受話器を耳に当てたまま頷いた。 「はい。どうぞ……」 「あなたのお話が事実であることを示すものが何かあるんですか?」 「ノートがあります」 「何のノートですか? それは」 「不正な手抜きの全容を、事の最初から記録したノートです」 「そのノートはあなたがお書きになったものなんですか?」 「書いたのはわたしじゃありません。わたしはそれを書いた人からノートを預ってるだけです」 「書いた方《かた》はどういう立場にいる人なんですか?」 「城島建設の凝固剤の不正行為にはじめから関わっている人間です」 「城島建設の社員の方なんですね? その人は」 「それは言いたくありません」 「あなたはどういう立場におられる方なんですか?」 「それも伏せさせてください。わたしの言ってることは事実なんです。嘘《うそ》じゃありません。城島建設の不正行為が事実だということがわかれば、告発者が誰かということなんかはどうでもよいことでしょう?」 「それはそうですが、新聞社にはニュースソースを秘匿《ひとく》する義務がありますから、この電話であなたや、ノートの持主の名前や身分を明かしても、何も心配はいらないんですけどね」 「わたし、ノートの持主にも内緒でこの電話をかけてるんです。わたしも名前なんかを知られたくはないんです。わたしの話が事実かどうかは、取材をなさればはっきりするはずでしょう。凝固剤の不正には、城島建設だけじゃなくて、凝固剤のメーカーや、それを注入する業者や、工事の下請けの業者なんかも関わってるんですから、取材するところはいくらでもあるはずです」 「ノートのコピーをこちらに匿名《とくめい》で郵送してもらうことはできませんか?」 「それもしたくないんです。告発の証拠を残すことになると困りますから」 「わかりました。話を聴きましょう。どうぞはじめてください」  相手は言った。和子が拍子抜《ひようしぬ》けするほど、相手の声は落着いていた。和子は話しはじめた。頭の中がまっ白になっていた。   3 〔同月二十六日 土曜〕  その夜も長峰は酔っていた。  高校の同窓会の東京支部の総会が行なわれたのだ。長峰は同期の者たち何人かと、三次会まで流れていったので、酔いは浅くはなかった。  長峰が和子の部屋のインターフォンを鳴らしたのは、午前零時半だった。和子の返事はなくて、いきなり中からドアが開けられた。 「まだ起きてたんだね」  長峰は酔いの現れた眼で和子を見て言った。和子はかすかに口もとをゆるめ、無言で首を横に振った。いつもの和子にくらべると、疲れ果てたように生気がないのが、酔っている長峰にもわかった。 「具合がわるいんじゃないのか?」  長峰は玄関に入り、ドアを閉め、そのドアに背中でもたれかかって訊いた。 「なんでもないの」  和子は言った。 「なんだかひどく疲れてるみたいだよ。風邪《かぜ》か?」 「なんでもないって言ったのに……」 「顔見たら気がすんだよ。ぼくは帰ったほうがいいのかな?」 「誰も帰ってほしいなんて言ってないわ。そんなとこに立ってないで、上がって」  和子は笑って言ったが、声にはいつものうるおいが欠けていた。長峰はためらいながら靴を脱いだ。  先に立って部屋に入った和子が、ベッドの横で足を停め、ふり向きざまに長峰に抱きついてきた。不意をくらって、長峰は和子の背中に腕を回したまま、よろめいた。 「やっぱり何かあったんだね。どうしたんだ?」 「いいの。なんでもないの。ミネさんに無茶苦茶に抱かれたいだけなの。抱いて!」  低く叫ぶように言って、和子は長峰の胸に顔を埋め、しがみついてきた。彼女のやわらかい躯《からだ》が、一瞬かすかにふるえた。 「お姉さんにぼくとのことを何か言われたのかな?」  長峰は片手で和子の髪を撫でながら言った。和子は強く首を横に振った。 「そうじゃないの。何も言わずに抱いて。お願い……」 「わかった。何も言わないよ」  長峰は言って、和子を抱きとめたまま、ベッドに腰をおろさせた。 「脱がせて……」  和子が言った。眼がいくらかうるんでいた。長峰は自分の気がかりを棚上げにして、和子の前に膝を突いた。和子は何かに怯《おび》えているのではないか、と長峰はふと思った。パジャマを脱がせようとして、肩に手を当てたとき、その肩が小刻《こきざ》みにふるえていたからだった。長峰はしかし、質問を自分で封じて、和子のパジャマの上衣のボタンをはずしはじめた。  乳房が現れた。長峰は二つの乳房にそっと唇をつけ、パジャマを和子の腕から抜き取った。和子が立ちあがった。長峰は床に膝を突いたまま、パジャマのズボンを脱がせ、パンティをおろした。あらわになった和子のしげみにも、長峰は頬ずりをくれ、唇を押しつけた。 「立って。今度はわたしがミネさんを脱がせてあげる」  和子は言って、長峰の腕をつかみ、立たせようとした。和子の声がいくらかうるおいをとり戻していた。長峰は立ちあがった。和子が笑いかけてきた。眼がうっすらと充血していた。さっきの眼のうるみはにじみ出た涙のせいだったのかもしれない、と長峰は酔った頭で考えた。  上衣が脱がされ、ネクタイがはずされた。服を脱がされながら、長峰は和子の背中や脇腹を両手で静かにさすりつづけた。和子のやわらかくて繊細《せんさい》な肌の手ざわりが、ようやく少しずつ長峰の欲望をそそりはじめた。  和子は長峰の裸になった胸に唇をつけ、舌の先で乳首をそっとなぞるようにして舐《な》めた。その間に、彼女の手は長峰のズボンのベルトをはずし、ファスナーをおろしていた。  和子は長峰の前にしゃがみ、ズボンを脱がせた。脱がした上衣やシャツやズボンは、無造作《むぞうさ》な手つきで床の絨毯《じゆうたん》の上に投げ出されていった。いつもの和子なら、そういうことはしないはずだった。脱がせた服はベッドの上に置くか、カウチの上に置くかするところだった。  和子は自分と別れる決心をしたのかもしれない、といった考えがふと長峰の頭をかすめた。和子との間に何か異変めいたことが起きるたびに、長峰はくり返しそうした予感を胸に抱いてきた。そういうときが到来しても、少しも不思議ではない、と長峰は常に考えているのだ。  長峰のブリーフが足首から抜きとられた。ブリーフを床の上のズボンの上に落すと、和子は長峰の腰に両腕を回し、彼の性器に頬ずりをした。不意にペニスに唇がかぶせられてきた。長峰はうろたえた。 「おい、おい。シャワーまだなんだぞ」 「平気。わたしだってまだお風呂に入っていないわ。いいじゃない。無茶苦茶したいんだから」  和子は言って、ペニスに舌をまとわりつかせてきた。いったい何があったんだ、ということばが口を突いて出かかったが、長峰はそれを呑みこんだ。 「すてき。元気になったわ。酔っぱらいのおじさんが」  和子は笑って言うと、勃起した長峰のペニスをにぎりしめて笑顔を見せた。ペニスが和子の手で、彼女の胸の谷間にはさみこまれた。しっとりとした感触の張りの強い乳房が、ペニスを左右から揉《も》むようにして締めつけてきた。そうしながら、和子は首を深く折り曲げて、ペニスの先端に舌をまとわりつかせてきた。  そうした愛撫を長峰が和子から受けるのは、そのときが初めてだった。何が和子をいつにないはげしさでそのように駆《か》り立てているのか、長峰にはわからなかった。ただ、それが欲望のためではなくて、何かによって気持が揺れ動いていることの現れなのだろう、ということは見当がついた。セックスの戯《たわむ》れにふけることで、和子のその気持の揺れ動きが鎮《しず》まるものなのかどうかも長峰にはわからない。だが、和子がそれを望んでいるのなら酔い痴《し》れさせてやりたい、と長峰は思った。  長峰は、床にしゃがんでいる和子を立ちあがらせて、ベッドにうつ伏せにさせた。和子ははじめから両脚を大きく開いていた。その姿が長峰の欲望をはげしくそそった。  長峰は上から和子に躯を重ねた。開かれた和子の両脚の間に、長峰は脚をそろえて伸ばした。ペニスが和子の尻の谷間に添って埋まった。和子が腰をゆすり上げてきて、低い笑い声を洩らした。  長峰は和子の背中に胸をつけ、彼女の胸の下に両手をさし入れた。和子が躯を浮かせて、長峰に乳房をつかませた。長峰の両手に、やわらかいはずみがいっぱいに満ちひろがった。乳首が固く張りつめていた。長峰はそれを指の間に捉《とら》えてはさみつけたまま、乳房を静かに揉み立て、襟足《えりあし》や肩に唇を這わせた。襟足と肩口は、和子が過敏な反応を示すところだった。和子の躯が小刻みにふるえ、髪が揺れ動き、かすかな声が口から洩れた。  長峰は、和子の上で少しずつ躯を下にずらしていきながら、彼女の背中や脇腹や臀部《でんぶ》に丹念に唇と舌を這わせていった。腰の下に回した手でまさぐると、和子の女陰は豊かなうるみを湛《たた》えていた。指がクリトリスに触れると、和子は跳ねあがるように高い声を短く放って、息を詰め、丸く張った腰をうねらせた。  長峰は躯を起し、和子の足もとにかがみこんだ。和子の足を手ですくい上げ、甲《こう》の部分に唇をつけた。足指を一本ずつ口に含み、舌をまとわりつかせた。和子が声をあげ、逃げようとするかのように足を跳ねさせた。長峰はその愛撫をつづけた。和子の声はすぐに甘くやわらかいひびきに変った。  長峰の愛撫は丹念で濃厚だった。彼はうつ伏せになって伸ばされている和子の両脚の裏側を、足首の部分からふくらはぎへと、舌と唇で辿《たど》っていった。膝の裏の柔らかい皮膚に舌の先を這わせると、和子は背すじを反《そ》らし、腰を左右に悩ましげにゆすり、細くふるえる声を洩らした。  丹念で濃厚な愛撫は、いつしか長峰自身をも、はげしい興奮の中に誘い入れていた。長峰は和子の両脚の腿《もも》の内側に舌をすべらせながら、彼女の股間の眺めを愉《たの》しんだ。内股の奥に、薄く陰毛をまとわりつかせた女陰のふくらみが、ひっそりとのぞいていた。わずかにほころびを見せているクレバスは、たっぷりとしたふくらみに囲《かこ》まれて、深いものに見えた。  内股の深くに忍びこんだ長峰の舌が、熱いうるみに触れた。和子が高い声を放った。長峰はそこにのぞいている短いクレバスを舌でなぞり、さらに尻の谷間に舌を移した。舌はすぐに会陰《えいん》部を過ぎてアヌスに届いていた。一瞬、和子がおどろいたような声をあげ、尻の谷間がすぼめられた。長峰は尻にやわらかく歯を立てた。  長峰は和子を仰向けにさせた。しげみを手で撫で、女陰を掌《て》で押し包んで揉んだ。うるみが掌を濡らした。和子が甘やかな喘《あえ》ぎを洩らしながら、腰を反らした。  深く眼を閉じ、唇をうすく開いて、枕の上で首をのけぞらせている和子の顔にも、すべてをさらけ出した全身のようすにも、熱っぽい陶酔の色が現われていた。  長峰は指で和子のクレバスを開いた。包皮を反転させて、クリトリスを露頭《ろとう》させた。クリトリスはふくらみきって、輝くように赤味を強めていた。頼りなげに身をもたげた小陰唇が、フルフルといった感じでかすかに揺れ動いていた。  長峰は没頭した。クリトリスに唇をかぶせて甘く吸った。小陰唇も唇で捉えて吸った。鮮やかな色合いの襞《ひだ》に囲まれた膣口のくぼみのところに指をそっと這わせてまさぐりながら、クリトリスに舌を這わせた。  和子の白いふっくらとした腹に、細かな痙攣《けいれん》が走り、口から洩れる声がいっそう乱れたものに変っていた。  長峰は、片手を和子の乳房に伸ばして、いくらか強く揉みしだいた。長峰の手指の一つが、膣口をまさぐるのと同じやり方で、彼女のアヌスの上をそっとまさぐるように動いていた。  そのまま長峰は、膣口の中に浅く指をくぐらせていった。指は強い力で捉えられた。アヌスにあてがわれている指も、進入をはかろうとするかのように、強くそこに押し当てられた。  和子は呻《うめ》き声を洩らし、長峰の名前を呼び、不意に高く乱れた声を放って果てた。 「ミネさん、来て。早く、入れて……」  果てながら、和子はかすれた声で言った。 「もう質問してもいいかな?」  甘い熱狂のときが過ぎてから、長峰は裸のままうつ伏せになっている和子の背中を撫でながら言った。 「ごめんなさい。わたし、へんだったでしょう」  和子は寝返りを打ち、長峰のほうに躯を向けて言った。 「セックスのほうはすばらしかった。だが、その前はいつものオカズじゃなかったね。いったい何があったんだ?」 「ミネさんに預っててほしいものがあるの」 「何だい?」 「ノートなんだけどね」  言って和子は裸のままベッドを降りて、洋服|箪笥《だんす》の前に行き、扉を開けて中の抽出《ひきだ》しから小さなノートを取出した。 「何のノート?」 「姉の旦那さんから預ったものなんだけど、これには城島建設がやってる工事の手抜きのいきさつが、全部書いてあるの」  ベッドに戻ってきた和子が、横坐りになって、前にノートを置いた。長峰も起きあがった。 「お兄さんのノートをどうしてオカズが預ったの?」 「姉がこのノートをマスコミに公表して、城島建設の不正を暴《あば》いてやるって言い出したらしいの。姉としては、亭主が会社の不正のことで悩んでるくせに、何もしないでいるのが歯痒《はがゆ》いらしいのよ」 「お兄さんは不正を告発するつもりで、そのノートを書いたんじゃないのか?」 「兄はそこまでの勇気はないって、自分で言ってたわ。でも、不正が行われるようになったいきさつや、その実情だけは記録しておこうと思って、ノートを書いたらしいの」 「で、そのノートをオカズが持ってると、何か具合のわるいことでもあるの?」 「具合がわるいというより、わたしはこのノートをそばに置いときたくないの。わたし、ゆうべ、新聞社に匿名《とくめい》で電話をかけて、城島建設の不正のことを話してしまったのよ」  和子は言った。和子の大きな眼に怯《おび》えの色がにじんでいた。長峰はことばにつまった。不正を告発したという和子の勇気と決断には感嘆を覚えて、拍手を送りたかったが、彼女の怯えた顔や、義兄のノートを預っていたくないということばが、長峰には告発者の精神的な負担の大きさを示すものに思えたのだ。 「告発したあとで、怖くなったんだね?」 「そうなの。大きな時限爆弾を仕掛けた犯人は、爆発が起きるまではきっと、いまのわたしみたいな気持なのかもしれないと思うわ」 「気持はわかるような気がするよ。でも、新聞社には名前は告げちゃいないんだろう? 正しいことをしたんだから、怖がることはないと思うけどね」 「正しいことをしようなんて思って、新聞社に電話をかけたんじゃないのよ、わたしは。正義のためだと思ってやったのなら、怖くても覚悟ができるわ。でも、わたしは、ただの告げ口屋なのよ。兄からたまたまノートを預って、その中に出てくる会社の秘密や、不正をやらせている部長たちの名前を知ったら、それを自分の胸にしまっておくことができなかったの。告げ口せずにはいられなかったの。告げ口の快感を味わっただけなのよ。快感はすぐに消えちゃって、えらいことをしてしまったという思いだけが残ってるの。わかるでしょう、ミネさん」 「わかるよ。でも、動機はどうであれ、オカズがしたことは、結果としては正義なんだよ。そう思わなきゃだめだ。自分で自分をおとしめることはない」 「とにかく、このノートをそばに置いときたくないの。これがそばにあるだけで、わたしはとても落着かない気持になるの。ノートを誰かに預けて、新聞社に電話したことも忘れてしまいたいの」 「わかった。ノートはぼくが責任もって預るよ。オカズは気持を落着けなきゃだめだぞ。そんな顔で会社に出てると、告発があったことがみんなにわかったとき、まっ先に疑われかねないよ」  長峰は言った。和子は頷いて、無理してこしらえたとわかる笑顔を見せた。   4 〔同月三十一日 木曜〕  ドアが中から開けられた。  和子はTシャツにジーパンという姿だった。島田は義妹の顔を見て、笑顔を向けようとしたが、こわばった口もとが歪《ゆが》んだだけで、笑うことはできなかった。和子も表情をくずさなかった。  その一瞬のうちに、島田は自分が胸に抱いた疑念が的中したことを覚《さと》った。 「よかった。留守かもしれないと思ったりしながら来てみたんだけど……」 「会社からまっすぐ帰ってきて、いまごはん食べたとこ」 「ちょっといいかな?」  島田は言った。和子は小さく頷いてから、スリッパを出してそろえた。  小さな丸い食卓の上には、食事のあとの食器が、置かれたままになっていた。和子はそれを流しに運んだ。島田は窓ぎわのカウチに腰をおろしたまま、上衣を脱ぎ、ネクタイの結び目をゆるめた。和子は口を開こうとしなかった。茶の支度《したく》をはじめた。 「ビールないかね?」  島田は言った。飲みたかったわけではなかった。和子の沈黙が島田には重苦しく感じられてならなかった。なんでもいいから和子に口を開いてほしかったのだ。和子は島田に横顔を見せたまま無言で頷くと、冷蔵庫の前に行った。  島田はそっと吐息を洩らし、視線を落した。カウチの肘掛《ひじか》けの上に夕刊が置かれていた。全国紙の日東新報《につとうしんぽう》だった。島田は自分のまわりの空気が薄くなっているような感覚にまた包まれた。その日の午後に、役員会議室で開かれた内密の緊急会議のときも、島田はいくら深く息を吸い込んでも、空気が肺に入っていかないような感じに何度も襲われた。  和子は缶ビールとグラスを食卓に置き、椅子に腰をおろした。無言がつづいていた。島田は立っていって、食卓の前の椅子に腰をおろした。グラスは空《から》のままだった。自分でビールをグラスに注ぎながら、島田は口を開いた。 「和ちゃんは飲まないのか?」 「いらない。ごはん食べたあとだもの」 「日東新報を取ってるんだね? 和ちゃん」  島田は言ってからビールを飲んだ。呷《あお》るような飲み方になっていた。声がこわばったのが、自分でもわかった。和子はテーブルに眼を伏せた。返事はなかった。 「日東新報が取材を始めてるんだよ」 「なんの取材?」  和子は眼を伏せたままだった。和子の声も硬かった。島田は冷めたいビールがそのまま胃の中で氷の塊《かたまり》になっていく気がした。 「なんの取材かわかるだろう? 和ちゃんには」 「凝固剤のこと?」 「日東新報はきょう、うちの本社にも取材にきたんだ。広報課を通じてね」 「お兄さんが取材を受けたの?」 「課長代理が記者と会ったんだ。そのあとで社内の関係者が集まって、内密の緊急会議が開かれた」  島田は残りのビールをグラスに注《つ》いだ。和子の視線はふたたび食卓に向けられていた。 「どうして内密の会議になったか、わかるだろう? 和ちゃん」 「どうして?」 「会議が開かれたのは、内部告発者を探し出すためだったんだよ」 「内部告発があったんだって、新聞記者が言ったの?」 「記者はそういうことは言わなかったそうだけど、記者の質問を分析してみて告発が社内から行われたことがわかったんだよ」 「なぜ?」 「社内の、しかもサンリーフのプロジェクトに直接関わってる人間、というよりも凝固剤の手抜きの事情をすべて知っている人間にしかわからない事を、すでに新聞記者は知っていたんだ」 「それで、会社は手抜きのことを記者に認めたの?」 「そんなこと、認めるわけにいかないさ。相手は証拠をつかんでるわけじゃないんだからね。悪質な中傷だということで突っぱねたんだ」 「それで向うは引きさがったの?」 「きょうのところはね。でも、諦《あきら》めちゃいないはずだよ。日東新報は、凝固剤のメーカーや下請けの関係会社、現場の作業員と、取材の対象をひろげてかかっているようだからね」 「会社はどうするつもりかしら?」 「もう証拠を消しにかかってるよ。消しきれずに手抜きの事実が明るみに出たとしても、それが城島建設の主導でやられたということがおおやけになることだけは、なんとしてでも防ぐんだと、上のほうは言ってる」 「お兄さんはどう考えてるの?」  和子が言った。眼は伏せられたままだった。島田は不意の質問に面くらった。 「どうって、何を?」 「不正を認めて責任を取ろうとしない会社のやり方に、またお兄さんは新しい良心のジレンマを抱えこむわけね?」 「いまはそれどころじゃないんだ。わかるだろう? 和ちゃん」  島田は言った。和子は口を閉じていた。 「きょうの緊急会議の席で、おれはずっと針の筵《むしろ》の上に坐っている気分だったんだよ。みんなが裏切者を見るような眼でおれを見ている気がしてね」 「内部告発をしたのは島田課長だって疑われてるの? お兄さん……」 「わからない。まさか疑われちゃいないだろうとは思うんだけどね。でも、手抜き工作の中心にいるのはおれなんだ。だから情報もおれがいちばんたくさんにぎってる。そのたくさんの、しかも正確な情報が日東新報に流されてるんだよ。告発者として疑われるとすれば、おれがまっ先さ」 「会社は告発した人間を探し出して、どうするつもりなの?」 「そこまではまだ決まっちゃいないけど、かなりのことをやるだろうな」 「かなりのことって、たとえば?」 「手抜きが日東新報に暴露《ばくろ》されて困るのは、城島建設だけじゃないからね。会社を脅迫してる堀越栄一という男だって、脅迫のネタが物を言わなくなるわけだよ。だから堀越だって会社と同じように、必死になって手抜きが暴露されないための手を打つはずさ。その点では、会社と堀越栄一は利害が一致することになる」 「それで?」 「堀越がどういう手を打つかはわからないけど、会社は堀越の動きに暗黙の期待をかけるかもしれない」  島田は言った。彼は自分の口調に、和子を脅《おど》すひびきがこもるのを抑えようとしなかった。同じひびきの脅威《きようい》を、島田自身がその日の緊急会議の席での数名の出席者の発言の中に、それとなく感じとっていたのだ。  和子が顔を上げて島田を見た。その眼には、脅しの効果がはっきりと見てとれた。島田は息が詰まりそうだった。和子が何か言いかけて、眼を逸《そ》らした。 「和ちゃんだろう? 日東新報に情報を流したのは」  島田は思い切って訊いた。息苦しさは少しも変らなかった。和子は否定も肯定もしなかった。 「正直に言ってほしいんだ。告発者が和ちゃんなら、早く手を打たなきゃたいへんなことになる」 「期待していなかったわけじゃないでしょう? お兄さんも」 「何を?」 「わたしが告発者になることを……」 「やっぱり和ちゃんだったんだね」  島田は、自分にもやっと聴きとれるほどの低い声で言った。顔をはね上げるようにして、和子が島田に眼を向けてきた。 「あたし、お兄さんは期待してると思ってたわ」 「まさか……。おれはそんなつもりはなかったよ。おれがそれを期待してると思ったから告発したわけじゃないんだろう?」 「もちろんそれだけじゃないけど……」 「おれのあのノートはまさか、日東新報の手に渡ってるわけじゃないだろう?」 「ノートはわたしが持ってるわ。中身のほとんどは日東新報の人に話したけど……」 「えらいことをしてくれたよ、和ちゃんは」 「えらいことなの?」 「当り前じゃないか」 「えらいことって言うのは、会社が? それともお兄さんが会社の裏切者として疑われることが? どっちなの」  和子の眼が一瞬、冷めたい光を放って細められた。口もとにはかすかな、しかしはっきりそうとわかる冷笑が刻まれていた。島田はことばに詰まった。思わずたじろいで、眼を伏せた。 「いい機会じゃない。肚《はら》を据《す》えたら、お兄さん」 「肚は据わってるつもりだよ」 「うろたえてるように見えるわよ」  和子が言った。嘲《あざけ》るひびきがあった。島田の中に、言いようのない怒りが一気にふくらんできた。島田はそれを懸命に抑えた。 「ノートを返してくれないか、和ちゃん」  落着いた口調で島田は言った。 「なぜ?」 「あのノートは、こうなったらおれが持ってたほうがいい」 「ノートを処分して、告発の裏付けを消すわけね。緊急会議の決定に従って……」 「そうじゃない。和ちゃんがあのノートを持ってるのは危険だよ。ノートを持ってるってことは、告発者として疑われるってことなんだから」 「わたしのところにノートがあることを知ってるのは、わたしとお兄さんだけなんでしょう? 誰にもわかりっこないわ」 「そうはいかないさ。おれが疑われるということは、義理の妹で城島建設の社員でもある和ちゃんも疑われるってことなんだよ」 「誰かがわたしの部屋を家捜《やさが》ししにくるというの?」 「恐喝屋でやくざの堀越栄一なら、そういうこともやりかねないさ」 「だめ。ノートは渡さないわ。お兄さんはやっぱり肚なんか据えてないじゃない。わたしの告発が不発に終ることと、自分が告発者として疑われたくはないってことしか考えちゃいないんだわ、お兄さんはやっぱり……」 「弱虫の卑怯者《ひきようもの》と言いたいんだろう?」 「わたしだって弱虫だし、卑怯者じゃないとは言わないわ。でも、わたしは偽善者《ぎぜんしや》じゃないつもりよ」 「おれが偽善者だっていうのか?」 「あのノートをお兄さんが書いたのは、やっぱり偽善くさいわ。ノートは会社の不正を告発するために書かれたのでなきゃ、意味がないじゃない。お兄さんにとっては、あのノートを書くことで、自分の良心の自己満足は得られたかもしれないけど……」 「言うもんだね、和ちゃんも。広子と同じだ。姉妹の血は争えないってわけだ。いいよ。おれは偽善者でも卑怯者でもいい。けど、おれにも家族と会社に対する立場と責任がある。良心だけじゃ家族は養っていけないしね。だからノートを返してくれないか」  島田は笑って言った。ゆとりの笑顔のつもりだったが、表情は歪《ゆが》んでいた。 「わたしだって、ずいぶん悩んだ末に決心して内部告発に踏みきったのよ。いまお兄さんにノートを渡したら、証拠が消されて、告発が空振りになるかもしれないじゃない。いや、絶対にそうなるわ。ノートはだから返さないわ」 「どうしてもか?」 「どうしてもよ」  義理の兄と妹は、いまはもうともに自分の気持をあらわにして、短い間けわしい眼で睨み合っていた。   5 〔同月同日〕  電話が鳴った。  和子はベッドの中にいた。眠ってはいなかった。部屋の明りはすべて消してあった。暗い部屋の中で鳴り出した電話の音が、和子をおどろかせ、怯《おび》えさせた。  怯える理由が和子にはわかっていた。電話は寝たまま手を伸ばせば届くところにある。だが、すぐには手が伸びていかなかった。コールサインを四回聴いたところで、和子は上体を起し、スタンドの明りをつけた。受話器を取って、耳に当てる前に大きく息を吸い込んだ。一度だけ電話で聴いたことのある、堀越栄一の声が耳に送られてくるのではないか、という気がしてならなかった。 「もしもし……」  和子は名乗らずに応答の声を送った。 「ああ、和子……」  姉の広子が呼びかけてきた。こわばっていた全身から、思わず力が抜けていくのを和子は感じた。時計に眼をやった。午前一時をまわっていた。和子は姉の声に応《こた》えた。 「まだ起きてたのね」 「何かあったの? お姉ちゃん」 「どうして?」 「だって時間が……」 「何もないけどね。うちの人が今夜、和ちゃんところに行ったそうね?」 「来たわよ。九時過ぎに帰ったけど」 「べろんべろんになって帰ってきて、さっきやっと寝たわ。話は聞いたわ。あんたに偽善者呼ばわりされたって……」 「言いすぎたと思ってるわ」 「そんなことないわよ。そのとおりなんだから。ほんとのことを言われたから、余計にこたえたんでしょう、きっと」 「わるかったと思ってる。余計なことを言ったわ」 「和子って、ときどきびっくりするような大胆なことをやるわね」 「告発のこと?」 「そうよ」 「しないではいられなくなったのよ。でも、後悔もしてるわ」 「もう間に合わないわよ」 「そりゃそうだけど。お姉ちゃんも告発したかったんでしょう?」 「そう思ってたわ。いざとなったとき、あんたのように大胆になれたかどうかわからないけど……」 「お兄さん、まいってた?」 「まいってたなんてもんじゃないわ。打ちひしがれてたわね」 「ごめん……」 「うちの人がばかなのよ。そんなノートをあんたに預けたりするんだから」 「お姉ちゃんも、わたしがえらいことをやらかしてくれたと思ってるの?」 「やっぱり思うわね。正直に言って……」 「告発すればいいって、お兄さんに言ってたんでしょう、お姉ちゃんだって。自分でも告発したいって言ってたじゃないの」 「それはね、そういうことが夫婦|喧嘩《げんか》の中で口からとび出したことはあるけど、本気でそう思ってたわけじゃないのよ。あの人がいつもウジウジ悩んでるようすをしてるから、ついそんなことを言っただけよ」 「そういうことだったのね」  和子は電話を切りたいと思った。怒りが生れていた。何に対する怒りなのか、よくつかめなかった。自分自身にも怒りが向けられている気がした。 「告発なんて、出しゃばったまねをしてくれたって言いたくて、夜中に電話をかけてきたわけね、お姉ちゃん」  和子は言った。声がふるえて涙がこぼれ落ちた。 「そんなこと言ってないでしょう。言うつもりもないわ。ただ戸惑《とまど》ってるだけよ、わたしは。だって突然こういうことになって、うちの人は自殺でもするんじゃないかって顔してるから。でも、これでよかったのかもしれないって気もしてるのよ。そんなことを和子に話してみたかったから電話したんじゃないの」 「ごめん、へんなこと言って……」 「気にしちゃいないわ。うちの人も、わたしも、和子も、いまみんな気持が昂《たか》ぶってるのよ。それぞれがいろんなことを考えてね」 「お兄さんは、告発のこと、よかったなんて思っちゃいないわよ。偽善者と言われても家族と会社を守るんだって言ったわ」 「仕方ないわよ。サラリーマンだし、家族を背負ってるんだから」 「お姉ちゃんはどう考えてるの?」 「そんなにすぐには考えは決まらないけど、おかげで風穴が開いたって気はするわ。離婚するにしてもしないにしてもね」 「わたしはノートをお兄さんが預けにきたとき、告発するかもしれないわよって、そのときは冗談半分だったけど言ったのよ。お兄さんは、自分に代ってわたしに告発してほしいって思ってるんじゃないかって気もしたわ」 「誰だって、そういう気持は持ってるのよ、きっと。わたしだって、自分はそこまでは決心できないけど、誰かが城島建設の不正を暴《あば》いてくれれば、うちの人だってずいぶん楽になるだろうなって、ずっと考えてたもの」 「その役がわたしに回ってきちゃったのよ」 「というよりも、和子がその役を自分から引受けてくれたのよ」 「いやな役だわ」 「どうして? 正義の味方の役でしょうに」 「冗談じゃないわ。恨《うら》まれ役よ。裏切者の役よ。告発を願ってたお兄さんからも、お姉ちゃんからも、ちっとも感謝されないし、お兄さんなんか、わたしを殺しそうな眼で睨んでたわ。帰っていくときに」 「それはあんたがノートを返さないって言ったからなんでしょう?」 「だって、ノートを返して処分されたら、告発は空振りになって、わたしはピエロになっちゃうもの」 「それはわかるわよ。でも、わたしは心配なのよ、和子。いまよりもっと大きな怖ろしい渦《うず》の中に、あんたが巻きこまれるんじゃないかと思って……」 「怖ろしい渦って何よ?」 「会社も、堀越っていうやくざ者も、告発した人間と、不正の証拠を捜し出すのに必死になっているっていう話だから……」 「平気よ。ノートはもうわたしの部屋にはないから」 「ないって、どういうこと? 誰かに預けたの?」 「訊かないで。お姉ちゃんに言えば、お兄さんに伝わるもの」 「ねえ、和子。告発は成功したも同じじゃない。日東新報は取材を進めてるんだから。あんたがやったことが無駄になることはないわよ。だから、いまわたしたちが考えなきゃならないのは、自分たちの身を守ることよ。わたしはあんたにもうちの人にも、厄介事《やつかいごと》が起きてほしくないのよ。告発したって疑われても、何の得にもならないでしょう。自分からすすんで立場をわるくすることはないわ」 「だからどうしろって言うの?」 「ノートを始末してしまうことよ。ノートさえ出てこなきゃ、あんたが告発したってことは誰にもわからないし、もちろんうちの人がそういうノートを書いてたってことも知られる心配がないでしょう?」 「それはそうだけど、他の考え方もあるわ」 「他の考えってどういうこと?」 「ノートを書いたのはお兄さんだけど、それを使って告発したのはわたしよ。そのノートが会社にも堀越ってやくざの手にも渡らない限り、わたしもお兄さんも安全だわ。ノートは会社を吹っとばす爆弾であると同時に、こうなったらわたしとお兄さんを守ってくれる強力な武器でもあるでしょう。その武器を処分するのは、かえって危険だわ」 「そりゃそうだけど、それならあんたとうちの人は手をつなげるわよね。だったらノートをうちの人に返して安心させてやってくれてもいいでしょう?」 「そうしたいわよ、わたしだって。だけど、悪いけどわたし、このことではお兄さんが告発したわたしと同じ立場に立ってくれるとは思えないの」 「信用してやってよ。わたしの夫なのよ」 「ノートがマスコミに渡りさえしなきゃいいんでしょう。それから、ノートを書いたのがお兄さんだってことが会社にわかりさえしなければ。それならだいじょうぶよ。安心していいわ」 「誰に預けたの? ノートは。長峰さん?」 「ばかねえ。長峰さんにそんなもの預けるわけないでしょう。銀行よ。銀行の貸金庫」 「貸金庫なんて持ってたの? あんた」 「わたしだって、ほんのちょっぴりだけど財産があるわ。定期預金とか、株券とか。一人暮しで不用心だから、貸金庫を借りてるの」 「そう。銀行の貸金庫なら安心だわね」  広子はそう言った。安心した口調ではなかった。  電話を切ってから、和子はベッドを降り、グラスにブランデーを注いだ。眠りがほしかった。電話で話している広子のそばに、義兄もいたにちがいない、という思いが、和子の脳裡《のうり》から消えなかった。義兄は実の姉の立場を利用して、広子にノートの返却を説得させようとしたのだ、と和子は考えていた。  いざとなると、姉妹よりも夫婦のつながりのほうが力を持つのかもしれない。そう考えると、和子は広子への怒りよりも先に、言いようのない孤立感を覚えた。  ブランデーのグラスを空にしてから、和子は長峰に電話をかけることを思いついた。時刻は一時半になっていた。三回目のコールサインまで待って長峰が電話に出なかったら、受話器を戻すつもりだった。  長峰は、三回目のコールサインが終らないうちに、応答の声を送ってきた。 「こんばんは。わたし」  和子は柔らかい声を出した。眉《まゆ》が上がり、表情がほぐれていた。 「オカズか。どうかした?」 「なんでもない。寂しかっただけ。声を聴きたくなったの。眠ってた?」 「横になったばかりだ」 「起したわけじゃないのね?」 「起されたとしてもよろこんでたさ」 「電話だとミネさんも結構、女心をくすぐるような科白《せりふ》が言えるのね」 「だいじょうぶらしいな。そういう憎たらしいことが言えるところを見ると……」 「だいじょうぶよ」 「例の件、その後どうなった?」 「日東新報が取材をやってるんだって。記者がきょうはじめて、うちの会社にも来たそうなの」 「しっかりしてなきゃだめだぞ。これから告発者捜しがはじまるぞ、きっと」 「もうはじまってるみたい。でも平気。ミネさんの声を聴いたら元気が出てきた。寝なきゃね、もうおたがいに……」 「そうだな。今度の日曜日にそっちに行くつもりだけど、何か予定はあるの?」 「ないわ。あってもミネさんが来るのなら変えちゃう。でも、もう六月になるから、つぎは第一日曜日よ。子供さんたちと会う日でしょう、ミネさんは」 「そうなんだけどね。都合がわるいから、前の日の土曜日に変えてくれって連絡があったんだよ」 「わかった。じゃあ日曜日ね」  笑った顔で、和子は電話を切った。それから枕に頭をつけて、別れて暮している子供たちと会っているときの、父親としての長峰の顔を想像しようとした。子供と過しているときの長峰の顔やようすは、和子の脳裡《のうり》には浮んでこなかった。   6 〔六月二日 土曜〕  午前零時になろうとしていた。  その車はゆっくりと坂道を登ってきて、マンションの入口を少し過ぎたところで停まった。  ライトが消され、エンジンが停められた。しばらくしてから、運転席と助手席のドアが開いて、男が二人降りてきた。体格のがっちりした、髪の短い男たちだった。  運転席から降りた男が、後部座席の窓のガラスを外からノックした。いらだちを含んだようなノックだった。中からドアが開いた。降りてきたのは島田功だった。三人は車を離れて、マンションまで引き返し、玄関に入った。三人とも口を噤《つぐ》んでいた。玄関ホールの明りを受けた島田の顔は、はげしい怯《おび》えを現わしていた。髪の短い二人の男も、こわばった表情を見せていた。  エレベーターを降りた三人は、足音を殺す歩き方で廊下を進み、相原和子の部屋の前で停まった。廊下は静まり返っていた。男の一人が、無言で島田に向って顎《あご》をしゃくった。島田は足もとに眼を落したままで、インターフォンのボタンに手を伸ばした。  インターフォンから相原和子の応答の声が洩れてきた。 「おれだよ、和ちゃん。島田だ」  島田はインターフォンの送話口に口をつけるようにして、低い声を送った。男の一人がドアの横の壁に背中をつけて立ち、ジャンパーのポケットに手を入れた。もう一人の男はインターフォンの横に立った。男たちの眼がぎらつくように光っていた。 「なに? お兄さん」 「どうしても話しておきたいことがあるんだ。開けてくれないか」 「ノートのことならわたしはもう何も話すことはないわよ」 「ノートのことはもういいんだ。おれも考えを決めたんでね。そのことで話したいんだ」  インターフォンの声が途切れて、ドアに近づいてくるかすかな足音が聴こえた。インターフォンの横に立っていた男が、島田の肩を押して、ドアの正面に立たせた。島田はうつむいた。ドアの横の壁に背中をつけている男が、ポケットから手を出した。その手にスタンガンがにぎられていた。  ドアチェーンをはずす音と、ロックが解《と》かれる音がして、無造作《むぞうさ》にドアは中から開けられた。そのドアに躯《からだ》をぶつけるようにして、スタンガンを持った男が中に躍《おど》りこんだ。相原和子が、短い声をあげた。声は喉《のど》に詰まって、低い呻き声のようなひびきに変った。男がスタンガンを相原和子の胸に押しつけると同時に、手で彼女の口を塞《ふさ》いでいた。相原和子は横の下駄箱に腰を押しつけられ、上体をのけぞらせたまま、全身の力を奪われて崩れ落ちはじめた。男がそれを抱きとめた。  すぐにもう一人の男も玄関に入り、ドアを閉めた。島田はドアの外に立っていた。閉められたドアが島田の視界を塞いだ。島田はしかし、はじめから何も見ていなかった。彼はドアの間から顔をのぞかせた義妹の顔さえも見ていなかった。見ることができなかった。  ドアが閉められたとき、島田の心を占めてきたのは、わずかな安堵《あんど》に似た思いと、脚がふるえ出すほどの恐怖だった。後悔もいくらかはまじっていたが、それも恐怖がどこかに押しやった。島田は閉められたドアの前からすぐに離れ、大急ぎでエレベーターに戻った。駈け出したいくらいだった。  マンションの玄関を出て、島田は停めてある車に戻った。リアシートに躯を入れ、ドアを閉め、シートの上に横ざまに躯を投げ出した。車を出てからふたたびそこに戻ってくるまでの間に、連れの男たちと義妹の他には誰とも会わずにすんだことを、島田ははげしい恐怖と怯えの中で、わずかによろこんだ。気がつくと、両手にも額《ひたい》にも、胸や腋《わき》の下にも、粘《ねば》っこくて冷めたい汗が噴《ふ》き出していた。  スタンガンの高圧電流が、完全に相原和子の意識を奪っていた。  二人の男は、部屋のドアをロックし、ドアチェーンをかけ、相原和子を部屋の奥に運び、ベッドの上に横たわらせた。  一人がポケットから粘着テープを取り出し、相原和子の口を塞いだ。その間に別の一人が、彼女のTシャツを脱がせ、ブラジャーをはずし、ジーパンと下着をむしり取った。相原和子の両の手首にも、粘着テープが巻きつけられた。  最初に男たちがしたのは、相原和子が着ていたTシャツとパンティを引き裂き、床に投げ散らかすことだった。つづいてブラジャーのストラップがちぎられ、ジーパンのホックもむしりとられた。それらも床に放り出された。  それから男たちは家捜しを始めた。二人とも口はきかなかった。ベッドに放り出されて意識を失っている相原和子の裸の躯に、視線を這わせることも男たちはしなかった。  入念で執拗《しつよう》な家捜しだった。捜した場所はつぎつぎにきちんと元通りの状態に戻されていった。終ったときは、家捜しが行われた痕跡《こんせき》は見られなかった。  男たちは食器棚や冷蔵庫の中まで調べた。家具類と壁の間、家具の下、カーペットの下、浴室と、あらゆるところが捜された。残るのはベッドだけだった。  男たちは、相原和子をベッドから床におろした。床に裸の背中がついたとき、相原和子は細い呻き声を洩らして眼を開けた。光を失ってにごったその眼に、たちまち恐怖の色が漲《みなぎ》った。ガムテープで塞がれた口から、くぐもった叫び声がこぼれ出た。男の一人が、相原和子の脇腹を蹴《け》りつけておいて、ドスを彼女の眼の上にかざした。相原和子は叫び声を呑みこみ、固く眼を閉じた。ドスを持った男は、相原和子のそばから離れなかった。  もう一人の男が、ベッドを調べた。マットレスも剥《は》がされた。マットレスのカバーのジッパーも開けられ、その中も捜された。家捜しは収穫を見ずに終った。ベッドは元通りにされた。  二人の男は、床に仰向けに寝かされている相原和子の両側に立った。相原和子はテープで縛られている両手を胸に当てて、乳房をなんとか隠そうとしていた。そろえた膝を曲げ、腰をねじるようにして、下腹部も男たちの視線から隠したがっていたが、その望みは十分に叶《かな》えられているとは言えなかった。彼女の固く閉じられている瞼《まぶた》がふるえ、眼尻《めじり》にうっすらと涙が出ていた。小刻みな躯のふるえが、むきだしの乳房にもっともよく現われていた。  男の一人が、無言のまま、相原和子の腹と太腿と肩を蹴りつけた。加減を加えた蹴り方ではなかった。相原和子は顔を歪《ゆが》め、くぐもった呻き声を洩らした。裸の白い躯が跳《は》ね、肉を蹴る湿った感じのにぶい音が、三回つづけて陰気にひびいた。  別の一人がかがみこんで、ドスを相原和子の乳房に当てた。ドスの腹に軽く押されて、乳房にくぼみができた。 「おれたちが何を捜してたのか、わかってるだろうな?」  男は乳房にドスを当てたまま囁《ささや》くような声で言った。相原和子は後頭部を床から離して、頷く動作を見せた。 「取られて困るのはおまえの命か。それともノートか。命か?」  男は小さな声で言った。大きく見開かれた相原和子の眼が、はげしく揺れながら光を失っていった。 「命か?」  男が囁いた。相原和子ははじかれたように大きく頷いた。 「ノートはどこにある?」  相原和子は今度は首を横に振った。立っている男がすかさずまた、相原和子を蹴りつけた。今度は脇腹だけを五発蹴った。 「銀行の貸金庫に入れてあるという話はでたらめなんだな?」  男が言った。相原和子の首は縦《たて》にも横にも動かなかった。 「貸金庫の契約書なんかどこにもないじゃないか」  男は言った。ドスが相原和子の顔のすぐ横に、力まかせに突き立てられた。相原和子は眼を閉じ、躯をちぢめた。躯のふるえがはげしくなった。 「ノートは誰に預けたんだ」  言いながら男は相原和子の乳房と女陰に、同時に手を伸ばした。二つのものが男の手でわしづかみにされた。相原和子は身をよじって、男の手から逃れようとした。立ったままでいた男がすぐに、相原和子の両の足首をつかんで引き離し、そのまま床に押えつけた。相原和子の躯に触れている男は、膝で彼女の鎖骨のところを踏みつけた。 「しゃべる気になったら頭を振って合図しろ。いつでも止めてやるからな。合図がなきゃおれたち二人が交替でいつまでもおまえをおもちゃにするからな。おまんこだけじゃねえ。尻《ケツ》の穴にもぶちこむぞ」  男は表情を動かさずに言った。男の手は荒々しく乳房を揉みしだいていた。もうひとつの手は女陰を押し開き、指を押し入れてそこを弄《もてあそ》んでいた。  相原和子は、眼を見開いていた。身動きができないまま、汚辱《おじよく》と闘う術《すべ》は眼を閉じないでいることしかない、と考えているかのようだった。息を詰め、全身をこわばらせているのが、ようすでわかった。  縛られた相原和子の両手は、頭の上に押し上げられていた。その手が縛られたまま、力のないようすで持ち上げられ、彼女の顔の上に置かれた。彼女の両手はさらに顔の上からすべり落ちるようにして横に動いた。  男たちの視線は、相原和子の乳房や、無残《むざん》に弄ばれている女陰に向けられていた。相原和子が、手首を縛り合わされたままの両手で、顔の横のドスをつかんだときも、男たちの眼は彼女のむきだしの躯から離れなかった。  相原和子は逆手《さかて》にドスの柄をつかみ、床から引き抜いた。引き抜きざまにドスは横に振られた。  相原和子の胸を膝で踏みつけていた男の、ジャンパーの肩が切り裂かれ、さらに顎《あご》から耳の近くまでを、ドスは切り裂いていた。男が短い声を放ってとびすさった。相原和子ははね起きざまにドスを突き出した。ドスは男の膝の横をかすめた。  男は跳ねあがるようにして、蹴りをくり出した。男の眼がすわっていた。蹴りは相原和子のこめかみを直撃した。相原和子は薙《な》ぎ倒されるように横に倒れた。両足は押えられたままだった。彼女の手からドスが落ちた。顎から血をしたたらせている男が、ドスを拾った。相原和子の足をつかんでいる男が、ことばにならない声をあげた。そのときはドスが相原和子の脇腹に深々と突き立てられていた。あっという間の出来事だった。 「やばいぞ」  相原和子の足をつかんでいた男が、その手を放すことも忘れたようすで、呆気《あつけ》にとられた口調で言った。刺した男も、相原和子の脇腹に柄元《えもと》まで埋まったドスを抜きもせずに、その場に坐りこんだままでいた。相原和子は塞がれた口で呻き声をあげ、もがいていた。 「口を割らせる前にやっちまって、どうすんだ」 「くそ!」  ドスが相原和子の脇腹から抜きとられた。 「やっちまったものは仕方がねえ」  刺した男は低く呟《つぶや》きながら、両逆手に持ち替えたドスを、今度は相原和子の胸に突き立てた。相原和子の喉から、固い物が詰まったような低い短い呻き声が洩れた。彼女の足をつかんでいた男が、ふらふらと立ちあがった。 「こいつはどうしても口を割らなかった。それどころか、あばれておれに傷を負わせた。それで、おれがかっとなって殺した。そういうことにしてくれ」  刺した男は、かすれた低い声で、息をはずませながら言った。  車のドアが開いて、男たちが乗ってきた。島田はリアシートの上で躯を起した。  車はすぐに走り出した。助手席に坐った男は、ハンカチのようなものを持った手を右の顎の横に当てていた。島田は、男たちがした仕事の結果をすぐにも知りたいと思いながら、口が開けずにいた。 「ノートのある場所はわからなかったぜ」  助手席の男が口を開いたのは、車が走り出して少したってからだった。 「和子はしゃべらなかったんですか?」  島田は訊いた。男たちは返事をしなかった。島田は、かすかな肚立《はらだ》ちを覚えて、さらに言った。 「どんなことをしてでも口を割らせるって言ってたじゃないですか」 「あの女は死んだよ」 「死んだ!」 「口を割るより殺されるほうがましだと思ったらしいな」  運転している男が言った。島田は悲鳴のような短い声をあげた。助手席のシートにつかまった。躯が揺れて倒れそうだった。 「おどろくことはねえだろうが。どっちみちあんたは義理の妹が消されることを承知してたんだからな」  助手席の男がふり向いて言った。 「そんなことじゃない。ノートが見つからなかったのは誰かが預ってるからだ。誰に預けたかもわからないのに、和子を殺したんだろう、あんたたちは。和子が殺されたことがわかれば、ノートを預ってる奴にはすぐに、和子が何のために殺されたかってことがわかっちまうじゃないか。どうするんですか……」  島田は喘《あえ》ぎながら言った。全身が冷えていって、足もとから沈みこんでいくように思えてならなかった。 「心配するこたねえよ。ノートは長峰って男が預ってるにきまってる。あんたの義理の妹は、強盗に強姦されて殺されたってことになるさ。そういうふうに見えるように、ちゃんと手を打ってきたからな」  助手席の男は言って、顔を元に戻した。島田はリアシートに倒れこんだ。  三章 漂流者   1 〔六月三日 日曜〕  長峰は坂を登りつめたところで足を停《と》め、いつものように和子の部屋の窓を見上げた。  午後一時過ぎだった。和子の部屋の窓にはカーテンが引かれていた。いつもなら、長峰はカーテンが閉まっているのを見ただけで、引き返していたかもしれない。彼がそうしなかったのは、日曜日に自分が訪ねていくことを、和子に告げてあったからだった。  マンションの玄関に入りながら、和子は日曜日の寝溜《ねだ》めをきめこんでいるか、近くに買物に出たか、どっちかだろうと長峰は考えた。  和子の部屋のドアはロックされていた。長峰はその部屋のドアの鍵を、ずいぶん前に和子から渡されていた。だが、その鍵を彼が使ったことはまだ一度もない。鍵を使って和子の留守の部屋に入ることには、長峰は説明しにくい妙な遠慮がはたらくのだった。そのことを和子に話して、長峰は笑われたことがあった。ベッドの中では遠慮のエの字も頭にないみたいなのに、と言って和子は笑ったのだった。しかし長峰は笑われても、遠慮がはたらく理由を、和子にうまく説明することはできなかった。説明する必要はなくて、自分だけでひそかにこだわっていればよいことではあったのだ。  長峰はインターフォンを四回鳴らして諦《あきら》め、ようやく鍵をポケットから取り出した。その部屋の鍵は、長峰自身の部屋の鍵と一緒に、キーホルダーにつけられていた。一度も使われたことのない鍵は、使われることのないままに、新品のときの光りや輝きを失っていた。  鍵を開け、ドアチェーンがかかっていないことを知って、長峰は和子が近くまで買物か何かに出たのだ、と思った。玄関の土間《どま》に、和子の普段ばきのビニールのサンダルと、踵《かかと》のそれほど高くない茶色の革の靴が、乱雑に脱ぎ散らされていた。革の靴の片方は横倒しになり、ビニールサンダルの片方は、下駄箱の下に爪先《つまさき》を半分突っこんだ恰好《かつこう》になっていた。珍らしいことだった。長峰はしかし、気には留めなかった。はねとばされたようになっている和子のはき物をそろえてから、彼はあがった。  スリッパをはいて数歩進んだところで、長峰は足を停めた。部屋の中ほどの床の絨毯《じゆうたん》が、黒く色を変え、そこに乱れた髪の毛の先が小さな束《たば》になって落ちているのが見えた。それが、長峰が異変を感じとった最初だった。  部屋の全体が視野に収まるところまで足を運んで、長峰ははげしく息を呑《の》んだ。吸いこんだ息が、低い呻《うめ》き声と一緒に洩《も》れ出た。長峰は足を停めた場所に立ちつくした。  全裸の和子が、腰をよじった恰好で床にころがっていた。胸から太腿のあたりにかけて、血の跡がひろがっていた。血はすでに乾いているようすで、褐色に変っていた。まわりのスカイブルーの絨毯も、血を吸って黒く染まっていた。  長峰は声を失った。寄っていって、和子の頬に手を当てた。冷めたかった。生命の温《ぬく》もりはまったく感じられなかった。大きく見開かれた和子の眼は、長峰のほうに向けられてくることはなく、あらぬところを凝視《ぎようし》したままだった。脇腹と左の乳房のところの傷口も、血の塊《かたまり》でふさがれたようになって、乾いていた。ようやく長峰の眼に、和子の口を塞《ふさ》いだガムテープが留まった。半《なか》ば躯《からだ》の下敷きになっている両の手首にも、ガムテープが巻きつけられていることに、長峰は気がついた。  室内は荒らされていた。ベッドもひどく乱れていた。引き裂かれた下着やTシャツが、ベッドの横の床に投げ捨てられていた。  長峰は死体の横に膝《ひざ》を突いたまま、呻き声をあげた。そこには長峰が強い執着《しゆうちやく》を抱きつづけてきた和子がいた。和子の躯《からだ》は血で汚れて冷たくなっていた。それを見つめたまま、長峰の心は空《から》っぽのままだった。衝撃が感情の動きを奪い去っていた。そこで何が起きたのかということを考えることさえ、長峰にはできなかった。  長峰の中では時間が停まっていた。どれくらいたってからかわからなかったが、長峰は這うようにしてベッドの横に行き、丸テーブルの上の電話の受話器を取った。警察を呼ばなければ、というのが、長峰の頭の中に浮かんできた、最初の現実的な考えだった。一一〇番を回した。  通話は長くはかからなかった。話しているうちに、長峰はいくらか心の落着きをとり戻した。するとあらためてショックが前よりもはげしく襲ってきた。  受話器を戻して、長峰はベッドの端に腰をおろした。部屋の入口に近いところに、長峰のキーホルダーが落ちていた。その部屋で起きた異変を知ったとき、長峰はそうと気づかないまま、そこでキーホルダーを手から放したのだった。  長峰は立っていって、キーホルダーを拾い上げた。和子から渡されていた鍵を初めて使ったときが、彼女の死体と対面するときになったのだ、という思いが長峰の胸を襲ってきた。  いくらもたたないうちに、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。  長峰は駈けつけた警察官たちのために、ドアを開けた。それから、長峰にとっては長い、いらだたしい時間が始まった。長峰は、マンションの管理人室に連れていかれて、刑事たちの質問に答えつづけた。答えながら、長峰は心に受けたはげしいショックから少しずつ立ち直り、頭が物を考える力をとり戻していった。  長峰の脳裡《のうり》を、和子は城島建設の工事の手抜きを告発したことに絡《から》んで殺されたのではないか、という考えがよぎったのは、刑事の質問に答えているときだった。  刑事たちの質問は、長峰と和子との関係に集中していた。長峰は正直に質問に答えた。答えながら彼は、自分が殺人者として疑いの目で見られていることに、すぐに気づいた。そのことは、まったく気にはならなかった。捜査にたずさわる側の人間としては、それは抱いて当然の疑惑だろう、と長峰は考えた。  自分が殺人者でないことは、長峰自身がいちばんよく知っている。刑事の質問は、誰が何のために和子を殺害したのか、といった問いのほうに、長峰の思考を導いていった。  まっ先に長峰の頭に浮かんだのは、強盗の仕業《しわざ》ということだった。和子の部屋がひどく荒らされていたことからの推測だった。その推測に、長峰は不満を覚えたわけではなかった。彼が考えたのは、強盗が奪っていったものは何か、ということだった。  事件は給料日の数日後に起きている。和子の部屋には多少の現金はあっただろう。多少の宝石類もあっただろう。それらのものと、おそらくは和子の肉体を汚《けが》し、命を奪ったことが、その強盗殺人者の収穫だったということになる。  そう考えたとき、初めて長峰の頭に、和子が城島建設の不正を告発したばかりだったことが思い浮かんだ。そして彼はこれも初めて、強盗がなぜ和子を殺さなければならなかったのか、という問いにぶつかった。それも脇腹と左の胸と、二ヵ所も刺してだ。二度も刃物を突き立てるには、はっきりとした殺意がなければ適《かな》わないことではないのか。相手は抵抗する力の弱い女なのだ。  そう考えたとき、ひどく荒らされていた部屋と、そこで全裸で殺されていた和子のようすとが、様相を一変して、長峰の脳裡《のうり》に浮かびあがってきた。和子を殺した人物が、彼女の部屋を荒らして捜し回ったのは、現金や金目《かねめ》のものではなくて、彼女を城島建設の不正を告発する気持にかり立てた、あのノートだったのではないか、と長峰は考えた。  その考えは、刑事の質問に答えている間に、くり返し長峰の頭に浮かんできた。浮かんでくるたびに、その疑惑は次第に深まっていった。そして、長峰自身も説明のつかない思いが、どこか心の底の深いところから生れてきて、彼に囁《ささや》きかけた。その声はこう言っていた。和子が行なった城島建設の不正の告発のことは、刑事には話さずにおけ。おまえが抱いた疑惑はおまえだけのものだ。疑惑を解《と》くのはおまえの仕事だ。それを和子も望んでいる——。   2 〔六月十一日 月曜〕  電話が鳴った。夜ふけだった。  島田は居間で寝酒を飲んでいた。寝酒というよりも、濃い水割りは彼には精神安定剤の代りをつとめていた。  電話は居間と間《ま》つづきになっているダイニングキッチンの壁ぎわに置かれていた。島田はグラスを持ったまま、ソファから離れて、受話器を取った。 「島田さん?」  覚えのない男の声が受話器に送られてきた。島田は返事をした。 「塾頭と代ります」  相手が言った。島田はそれで、電話の相手がわかった。一瞬、彼は躯をこわばらせた。浴室のドアに眼をやった。中で物音がしていた。広子が風呂を使っていた。島田は咄嗟《とつさ》に、広子が風呂に入ってからの時間を、頭の中で辿《たど》った。まだ十分ほどが過ぎたばかりだった。堀越栄一はなかなか電話に出てこなかった。堀越が何のために電話をかけてきたのか、島田にはわからなかった。しかし、見当はつかないでもなかった。堀越の電話が長びくことなく、広子が浴室から出てくる前に終ってくれることを、島田は願った。胸のあたりが重苦しくて、頭と顔が熱をおびてくるのがわかった。アルコールのせいではないことも、彼にはわかっていた。 「どうだい?」  ようやく電話に出た堀越は、いきなりそう言った。何を訊《き》かれたのかわからずに、島田は面くらった。 「なんとか……。変ったことはありません」 「妙な奴から、ノートを預ってるという電話もこないんだな?」 「ありません」 「日東新報のほうは?」 「なんとか切り抜けられそうな気配が出てきました。取材をすっかり諦めたわけではないようですが、決定的なネタがつかめずに手詰まりになっているようすなんです」  島田は、浴室の中のようすを気にしながら、ひそめた声で言って、グラスを口にはこんだ。喉《のど》がひきつるような気がしてならなかった。 「警察のほうはどうなんだ? 捜査のようすが新聞に出なくなってるが……」 「まだ、流しの強盗殺人事件という見方を変えていないようです。警視庁の記者クラブのほうから、城島建設の不正工事の匿名《とくめい》の告発があったという話が、義妹《いもうと》の事件の捜査員たちの耳に流れたそうですが、注目されてるようじゃありませんね」 「あんた、その話、どこで聞いた?」 「家内が聞いてきたんです。先週の末に、家内は板橋まで行って、義妹の部屋にまた花を飾ってきたんです。そのとき、義妹の部屋に来てた刑事が、雑談の中で思い出したように、城島建設の話を持ち出して、匿名の告発があったということを聞いたって言ったそうなんです」 「それで?」 「家内は、妹は強盗に殺されたと思いこんでますから、その話を聞いてはじめて、義妹の事件と告発の一件とを結びつけて考えたんで、二つの事件が関係があるんじゃないかって、その刑事にたずねたって言うんです。刑事はしかし、まるっきり興味を示さなかったといいます」 「いい話じゃないな」 「そうですか?」 「警察を甘く見るとえらいめにあう。いまは興味のない話でも、いつかデカたちが一斉《いつせい》に告発の一件にとびついてこないとは限らないぞ」 「どうするんですか、そうなったら」 「どうするのかだって? 他人《ひと》ごとみたいな言い方だな、島田さん。告発のタネをまいたのも、あんたの義理の妹さんが若死にしたのも、みんなあんたから始まってるってことを忘れてもらっちゃ困る。それだけじゃない。あんたは義理の妹さん殺しの手伝いもしてるんだからな」 「しかし……」 「しかし、義理の妹を殺してくれと頼んだ覚えはないと言いたいのかな? それはないだろう。告発をやらかしたのは相原和子だとあんたがわたしのところに知らせてきたからには、こうなることはわかってたはずだろう。つまりあんたは、自分が城島建設の不正を記録したノートを持っていることと、そのノートをもとにして義理の妹が匿名で会社を告発したことが発覚するのを虞《おそ》れて、わたしに相談を持ちかけてきた。わたしは告発が成功してしまえば、城島建設からおいしい物をもらえなくなるから、相原和子を始末した。あんたとわたしは、そういうことで同罪だ。わたしは肚《はら》をくくってる。あんたにもそうしてもらわなくちゃな」 「肚はくくってるつもりですよ」  島田は言った。喉の渇きはおさまっていなかった。水割りのグラスは空《から》っぽになっていた。 「いざとなったら、強盗殺人犯を自首させる。それで、事件と告発の一件との関係を断ち切るつもりだ。わたしはそれだけの用意はしてある。それで、あんたのほうにもやってもらいたいことがある」 「なんですか?」 「なんですかじゃない。ノートだよ。何がなんでもノートをこっちの手で押えなければ、あんたもわたしも困ったことになる」 「それはわかってます」 「わかってたら、長峰とかって男の住んでる場所を探《さが》し出すぐらいのことは、自分からやってくれなくちゃ困るんだよ。ノートは必ず誰かが持ってるはずだ。それが長峰であるかどうかはもちろんわからない。長峰でなかったら、また他を探《さぐ》らなきゃならない。ぐずぐずしてはおれんのだ。相原和子が殺されて、ノートを預ってる者がいまだに沈黙を守ってるのは、わたしにはよろこぶべきことだとはどうしても思えないからな」 「ノートを預ってる人間が、何かを企《たくら》んでるということですか?」 「あるいは何かを疑いはじめてるかもしれないだろう」 「ぼくは長峰という男については、名前と義妹との関係以外のことについては、何も知らないんですよ」 「知らないではすまされないだろうが。奥さんはどうなんだ? 奥さんとは実の姉妹なんだから、詳しい話をしてたんじゃないのか? 妹さんは」  堀越は言った。浴室の物音が絶えていた。電話を切らなければ、と島田は考えた。 「わかりました。家内に話してみます」  島田は言って、話を切り上げた。受話器をそっと戻して、新しい水割りを作っているときに、バスローブを身にまとった広子が浴室から出てきた。ローブの胸元《むなもと》が開いていて、乳房のふくらみがのぞいていた。島田は唐突《とうとつ》な欲望を一瞬覚えて戸惑《とまど》った。頭の動きと肉体の働きとがちぐはぐになったかのように思えた。  性的な欲望は、たちまちのうちに消え去っていた。それどころではない、といった思いが、一瞬、謀叛《むほん》を起しかけた肉体を統御《とうぎよ》した。しかし、抱えきれないほどの大きな不安と恐怖と、破滅の予感を詰めこんだ島田の頭は、はげしいセックスがそこからの逃避にあるいは役立つのかもしれない、ということも考えていた。 「おまえ、長峰って人の住んでるところは知らないのか?」  島田は居間には戻らずに、食卓の前の椅子に腰をおろして、広子に言った。広子はだしぬけの夫のことばに、軽く戸惑ったようすを見せた。だが、彼女は夫が何を考えているのか、すぐに察しがついたようすだった。広子は冷蔵庫から缶ビールを出し、グラスと一緒に食卓に置くと、島田と向き合って椅子に腰をおろした。 「ノートのことを考えてるのね?」  広子が言った。 「強盗があんなノートを持っていくとは思えないからな。和ちゃんの遺品の中には、銀行の貸金庫の書類らしい物もなかったんだろう? そうなると、ノートを預ってるのは、ひょっとしたら長峰って人じゃないかって思うんだよ」 「だったら、長峰さんはノートを返してきそうなものだわ」 「そりゃわからんよ。長峰って男がどういう人間かわからないけど……」 「長峰さんがノートをマスコミに渡して、城島建設の不正をあばくっていうの?」 「その可能性がないとは言いきれないよ」 「和子はまさか、あなたのノートが原因で殺されたわけじゃないわよね?」  広子のことばは、島田の胸を突き刺した。彼女がそういう疑問を口にしたのは、そのときが初めてだった。島田は固い物をひそかに飲み込むような思いを味わってから、口を開いた。 「ばかなことを言うなよ。誰が、和ちゃんが告発者で、おれのノートを預ってたなんてことを知ってたというんだ。それを知ってたのは、おれとおまえと、和ちゃんからノートを預ってる人間だけなんだぞ」 「そうよね」 「おまえは和ちゃんから長峰って人の住所を聞いたことはないのか?」 「住所は知らないわ。京橋《きようばし》の光和《こうわ》産業という食品関係の会社に勤めてる人だってことは聞いたけど」 「会社の名前がわかってれば、連絡はつくじゃないか。あのノートを取り返さないと、心配でならないんだ」 「それはわかるけど、どういうふうに長峰さんに話すつもりなの? 妹からノートを預っていませんかって訊くの?」 「それをおまえにうまくやってもらいたいんだよ」 「わたしが?」 「義理の兄のおれよりは、実の姉のおまえが話すほうが自然だろう。ノートのことを訊くのがむつかしかったら、香典返《こうでんがえ》しの送り先のリストを作るとかなんとか言って、住所だけでも聞き出してくれれば、それでもいい」 「住所だけわかって、どうするの?」 「そうしたら、おれが本人に会いに行ってもいいと思ってる」 「だったら、はじめからあなたが長峰さんの住所を訊けばいいじゃないの。そのほうが手間がはぶけるのに……」 「そりゃそうだな。じゃあそうしよう」  島田は言って、胸を撫《な》でおろした。長峰の住んでいる場所がわかれば、そこから先は堀越のほうで仕事を進めるものと、島田は決めこんでいたのだ。そのために、長峰の住所を知ることしか考えていなかった。だから、長峰の住んでいる場所がわかったらどうするのかと広子に訊かれたときは、虚《きよ》を突かれた思いに襲われた。もう少しのところで、長峰の住所を知ることにこだわる理由を、広子に訝《いぶか》られるところだった、と島田は思わずにはいられなかった。  広子はいまのところはまだ、和子は強盗に殺されたもの、と思っている。だが、夫と堀越との間に生れた秘密のつながりを知れば、広子は妹が殺された事件に、新たな疑惑を抱かないとは言いきれない。島田は、そうなることを、和子の告発の行為や、そのきっかけとなった自分のノートの存在などが明るみにさらされることに劣らぬほど、怖れていた。  ノートの存在や、それが和子の告発につながった事実は、正義が認めてくれるとしても、義理の妹を死に追いやる計画に加担《かたん》したことは、逃れようのない立場に彼を追いつめずにはいないのだから——。   3 〔六月十四日 木曜〕  長峰が国分寺《こくぶんじ》市のアパートに帰ったのは、午後十時近くだった。  夕食と軽い晩酌《ばんしやく》は、会社がひけた後に、有楽町《ゆうらくちよう》の居酒屋ですませてきた。そのまま国分寺まで帰ってきたのだが、電車を降りてから、駅前のスタンドバーに寄った。晩酌だけでは酒が足りない気がしたのだった。  長峰はしかし、酔っているというほどではなかった。このまま風呂に入り、もう一杯だけウイスキーを呑《の》み足せば、スムーズに眠りに落ちていける、という程度の酒の回り方だった。酔いたいという思いは、和子がこの世にいなくなってからは消えていた。酒は眠るためだけに必要なものになっていた。眠りそびれると、和子のことが頭から去らないままに、朝を迎えてしまうことになるのだった。  部屋のドアの鍵は、ちゃんと閉まっていた。ドアを開けて、暗い踏込みに入ったとき、何かが腿《もも》のところに触れた。手で探ってみて、それが作りつけの下駄箱の観音開《かんのんびら》きの扉であることがわかった。はじめて予感が長峰の胸をよぎった。下駄箱の扉を開け放しにしたまま部屋を出た覚えは、長峰にはなかった。  長峰はドアを閉め、壁を手でさぐって明りのスイッチを押した。下駄箱は開け放され、中に入れてあった靴の紙箱が、三つとも蓋《ふた》をとった状態で、下駄箱の上に放り出されていた。  台所の小さな食器棚の抽出《ひきだ》しが、引き出されたままになっていた。食器棚は壁からいくらか離れた位置にずらされていた。流し台の下の物入れの扉も、すべて開け放されていた。奥の部屋との仕切りのガラス戸は、半分開けられたままになっていた。そこからは、台所や踏込み同様に荒らされている部屋のようすが見てとれた。  それらを次ぎつぎに眼に入れていきながら、長峰の胸をまっ先に占めてきたのは、おどろきでも戸惑いでもなかった。長峰は手を叩《たた》きたいほどの歓びに似た気持を覚えた。明るい歓びではむろんなかった。暗くて、冷めたい怒りを伴《ともな》った歓び、というべきものだった。  長峰は部屋の明りもつけた。さまざまなものが、床に放り出されていた。押入の中もかきまわされていた。ベッドのマットは、半分床に落ちていた。  ひとつだけあるアルミサッシの窓のガラスが、クレセントのところだけ、四角に破られていた。人の手が入るほどの大きさに、ガラスが切りとられていた。クレセントははずれたままになっていた。畳には靴の跡らしいものは残されていなかった。土足で人の部屋に押入る無礼だけは慎《つつし》んだらしい、と考えて長峰は頬に笑いを浮かべた。  ざっと見回しただけで、盗まれた物がないことがわかった。ただの空巣狙《あきすねら》いの仕業《しわざ》でないことは、はじめから長峰にはわかっていた。留守の間に部屋が荒らされることを、長峰はいくらか予測していたばかりでなく、むしろそれを期待してさえいた。  長峰の勤め先に、島田功が電話をかけてきたのが、一昨日の十二日の午後だった。義妹《いもうと》の相原和子の香典返しのリストを作るので、住所を知りたい、という電話だった。その電話を受けたときから、長峰は自分の部屋に誰かが押入ることを、なんとなく予測し、やがてそれを期待するようになったのだった。しかし、そうした予測と期待を生むきっかけを、和子の義兄に当る人物がもたらしてくるとは、長峰も考えていなかった。そこまでは、まさかという思いが先に立って、考えることができなかった。  だが、ベッドのマットまで引きはがした跡を留《とど》めた部屋の光景を眺めているうちに、長峰は、部屋を荒らしていった男の抱いていた目的と、自分の住所を問合わせてきた島田の隠された目的とが、ひとつのものであることを、ほとんど確信した。  それを確信するだけの材料はそろっていた。島田功が、城島建設の行ってきた凝固剤の不正な手抜きのいきさつをノートに記録し、そのノートが義妹の和子に預けられ、それを読んだ和子が不正を匿名《とくめい》で日東新報に告発したことを知っている者は限られている。  島田功は、彼自身はもちろんのこと、誰かが凝固剤の不正を表沙汰《おもてざた》にすることを望んではいなかった。だからこそ島田は、そのノートが妻の眼にふれて告発に使われることを虞《おそ》れて、義妹の和子に預けたのだ。預けたあとで、島田は和子によって告発が行われたことを知った。  このときから、ノートを預けた者と預った者との関係は一変した。ノートの存在が明るみに出ることは、島田にとっては、直接に告発の疑いを向けられたり、誰かに告発をそそのかしたと受けとられかねない事態となる。和子の告発で追いつめられた思いにかられた島田が、脅迫者と、こっそり手を結んで、ノートを自分の手に取り返そうとしたとしても、不思議ではない。  和子が殺されたのは、島田のノートを預り、それを使って告発を行ったからではないか、といった疑惑は、事件の直後から長峰の胸にわだかまっていた。その疑惑は、長峰自身の部屋が家捜しされたことによって、動かしようのないものに変った、と思われた。そして、和子が殺害されたのが、告発とノートのためだとすれば、島田功が今は和子を殺害した者たちの側に立っていると見るのが、筋《すじ》のとおる推理と言えた。和子がノートを預けられた者であり、告発者であることを知っている、限られた者たちの一人が島田功なのだから。  長峰は上衣を脱ぎ、ネクタイをはずし、ワイシャツの袖《そで》をまくって、荒らされた部屋の片づけを始めた。空巣狙いに入られたことを、警察に届けるつもりはまったくなかった。和子から預った島田功のノートは、和子の死体を発見したつぎの日に、勤め先の自分のデスクの、鍵のかかる抽出しに保管した。誰かがいつかはそのノートを狙って、部屋に押入ることがあるかもしれない、という考えを捨てきれなかったからだった。長峰は、そうした予感は、きっと和子の霊が自分にもたらしたものにちがいない、と考えていた。予感が的中して現実となったいま、その思いはいっそう強くなっていた。  暗くて冷めたい歓びは、部屋を片づけていく間にも、ますます長峰の中でふくれあがってきた。和子を失って、代りに得た歓びがそれなのだ、と長峰は考えた。その考えがことのほか、長峰の心の底深くまで下りていった。新たな生き甲斐《がい》を得た気持に、長峰はなっていた。  床に放り出されていた毛布の下から、ページが開かれたままの一冊のノートが現われた。長峰が日記代りに使っていたノートだった。ノートのページは、和子と巡《めぐ》り合ってからは、彼女との性愛のようすを綿密に綴《つづ》った文章でほとんど埋められていた。それが、部屋に押入ってきた者の眼に触れたことは、疑いようがなかった。長峰はそのことにも怒りを覚えた。和子の裸身を覗《のぞ》き見されたのに似た怒りだった。  長峰は部屋の片づけを中断して、ベッドに腰をおろし、ノートの開かれていたページに書かれていることを読みはじめた。日付がないので、そこに書かれているのが、和子と自分のいつのようすなのか、長峰は思い出すことができなかった。そのページの記述は、長峰が和子の女陰に頬ずりをくれているところから始まっていた。 [#ここから2字下げ] 和子をパンティだけの姿にした。すぐにそれまで脱がせてしまう気には、自分はならなかった。パンティだけを身に着けてベッドに横たわっている和子の姿は、何も身に着けていないときの彼女の姿と同じようにすばらしい。 白にブルーの細い縞《しま》の入ったコットンのパンティだった。白い部分に、うっすらとした影のように陰毛がすけて見えていた。ゴムの部分と股ぐりの部分から、わずかに陰毛がはみ出てもいた。パンティの上から女陰のふくらみに頬ずりをした。いとしさがこみあげてきた。頬ずりに応《こた》えるように、和子は腰を浮かせた。パンティの上から、やわらかい女陰のふくらみを甘く歯で咬《か》んだ。和子は息を殺していた。歯と歯の間でふくよかな肉がはずみ、クリトリスの存在がかすかに感じとれた。 パンティの上から、女陰を押し包むようにして掌《て》をかぶせた。得がたいものに触れているといった思いがこみあげてきた。和子と結婚することを、自分がためらっている理由が、自分でわからなくなるのはそういうときだ。 和子を愛している。熱愛している。それは疑いようのないことだ。だが、同時に自分は、和子と人生を共にすることのためらいを捨てることができない。和子はそれを年齢のギャップのせいだと考えている。自分もそう思わせるように仕向けている。 年齢のこともためらいの理由の一つである。けれどもそれは、大きな理由ではない。自分の人生にあらゆる種類の期待を持てなくなってから、ずいぶん長い年月が過ぎている。愛人をこしらえた妻の望むがままに離婚に応じたのも、理解ややさしさなどのせいではなくて、すべてに投げやりで虚無的な心情から出たことだった。 自分は一匹の虫のように、ただ生きているだけの者だ。その心情はもう変ることがあるとは思えない。失意がそうさせたのか、生きることに倦《う》み疲《つか》れたためなのか、それともこれは生来のものなのか、自分でもわからない。わかりたいとすら思わない。 ただの一匹の虫のように生きている者に、和子のような若い女の人生を左右する資格はない。ためらいはそこから生れてくる。一匹の虫は、ただいっとき、和子の若い肉体を盗み、その味わいに酔い痴《し》れるだけだ。それが本音《ほんね》であることを和子に覚《さと》らせるためにも、自分はベッドで痴戯《ちぎ》にことさらふけろうとする。和子をいとしみ、賞《め》でながら、彼女を喰《く》らっている。 パンティをはいたまま、そこに刻まれているわれめを、舌で強くなぞった。パンティの股ぐりの部分を指ではさんでつまみ寄せ、あらわになった鼠蹊部《そけいぶ》に、そっと舌を這わせた。陰毛がさらさらと口もとにまとわりついてきた。つまみ寄せられたパンティが紐《ひも》のような形になったまま、われめに浅くくいこんでいた。その眺めが、淫《みだ》らな虫をこの上なくよろこばせた。 和子の脚に舌を這わせ、唇《くちびる》をまとわりつかせた。足の甲に口づけをした。足指を一本ずつ順に口に含み、舌の先を這わせた。和子は躯《からだ》をひくつかせて、細い笛《ふえ》の音のような声を洩らした。躯が痙攣《けいれん》するようにひくつくたびに、二つの乳房が重たげに揺れた。自分は熱く酔っていた。覚めてほしくない酔いだった。 和子のパンティは濡れてしみをつけたようになっていた。それを脱がせて、あらわになったものに唇を押しつけた。そこに溢れているものを吸いながら、名前を呼びかけてくる和子の喘《あえ》ぐような声を聴いた。 唇を離して、和子の女陰に見入った。狂おしいほどのいとしさを覚えた。濡れたものにまたはげしい頬ずりをした。 朝、目が覚めたとき、和子はパジャマも下着も着けていなかった。そのままの姿で、和子は上から体を重ねてきた。カーテンの隙間から、陽光がさしこんでいた。 和子は願いを聞き入れてくれて、羞《は》じらいながら、顔の上にまたがってくれた。やわらかい濡れた女陰が、口もとをそっと塞《ふさ》いだ。かぐわしい欲望の香りを思いきり吸った。クリトリスに舌を這わせた。愛液を存分に吸った。細くとがらせた舌の先を、なんとかして和子の中にさし入れようと試みた。自分は入っていないと言い、和子は少し入っていると言った。たわいのない論争も、二人の興奮を高めるはたらきをした。和子のほうが挿入を求めてきた。彼女は終始、上にいた。躯をつないでから終るまで、自分は和子の乳房から手を離さなかった。挿入したまま乳房を揉みしだかれることを和子が好むのを、はじめて知らされた。和子はそれまでになく、深い歓喜を味わったようすだった。上から胸に倒れこんできたまま、和子はしばらく動けなかった。 ようやく躯を起した和子が、トイレに立とうとした。自分はそれを妨げた。和子は長い抵抗の末に、その日の朝の二つ目の願いをようやく聞き入れてくれた。彼女はティッシュペーパーで、歓喜の跡始末をしてから、ふたたび顔の上にまたがってくれた。和子の尿は熱く、甘かった。それを飲みつくした自分の口に、和子は何か小声で叫びながら唇を重ねてきた。このキスの味を、自分は忘れない。願わくば、この世から消え去る最期のときに、あの味を思い出したい。それが叶えられることの他に、望みはない。 [#ここで字下げ終わり]  そのくだりのノートの記述は、そこで区切りを迎えていた。長峰はノートを閉じ、たばこに火をつけた。読んだばかりのノートの文章が、そこに書かれてあることが行なわれた朝の記憶を、鮮やかに甦《よみがえ》らせていた。その朝のキスの味も、むろん長峰は忘れていなかった。キスまでの経緯とは裏腹に、性的な匂いのほとんどない、哀しく澄んだ心の景色が見えてくるようなキスだった。  その味わいを思い浮かべたとき、長峰の脳裡《のうり》にひとつの思いつきが生れた。和子の命を奪った者たちへの、いわば宣戦布告のための思いつきだった。   4 〔六月十七日 日曜〕  午後二時だった。  島田は新宿駅の駅ビルの東口の地下駐車場の出口に近い傾斜路の端に立っていた。いくらも待たされなかった。シルバーグレイのベンツが、傾斜路を登ってきて、島田の前で停まった。  ベンツのリアシートに、堀越栄一の姿があった。ハンドルをにぎっているのは、髪の短いワイシャツ姿の若い男だった。ベンツのリアドアが、堀越の手で開けられた。島田はリアシートに躯《からだ》をすべりこませた。ベンツはすぐに走り出し、駐車場の出口を出た。  日曜日で、新宿の街は人が溢れていた。ベンツは駅の東口から、甲州《こうしゆう》街道の下を抜けて、明治《めいじ》通りに向った。 「いつだ? 速達が届いたのは」  堀越がシートに躯を埋め、高々と脚を組み、前に視線を投げたままで口を開いた。 「きのうの夜です。ぼくの自宅のほうに届いたんです。ゆうべは堀越さんと連絡がとれなくて……」  言いながら、島田は速達のスタンプのある封を開けられた封筒を、ジャケットの内ポケットから出して、堀越に渡した。  堀越が受け取った封筒に眼を向けた。宛名《あてな》は島田功となっていた。裏には差出人の名前はなかった。切手の上に、東京の中央郵便局の消印があった。堀越はそれらを確かめてから、封筒の中身を取り出してひろげた。ベンツは明治通りに出て、千駄《せんだ》ケ谷《や》のほうに向っていた。  封筒の中身は、城島建設の凝固剤の手抜きの計画と実行の経緯を記録した島田のノートの、一ページだけをコピーしたものだった。それ以外のものは入っていなかった。  任意に開いたページのひとつをコピーしたものと見えて、その部分だけを読んでも、ノート全体が記録している事柄については見当がつかなかった。 「あんたのノートの一部をコピーしたものにちがいはないんだな?」  堀越は、コピーに眼を通してしまうと、はじめて島田に視線を向けた。コピーは元どおりにたたまれて封筒に戻された。堀越はそれを島田の手には返さずに、自分の紺色《こんいろ》のスーツの内ポケットに入れた。 「まちがいありません」 「これだけを読んでも、事情を知らない者には、何が書いてあるのかわからんが、事情を知ってる者が読めば、建設第三課長のあんたが、自分の会社の、それもあんた自身が直接関わっている手抜き工事のいきさつを、ずいぶん綿密にノートに記録してたんだってことが、コピーされた一ページだけでもよくわかるな」 「コピーを返してくださいよ」 「預っとく。使い途《みち》があるかもしれないからな」 「何に使うんですか?」 「そいつはまだわからない。だが、コピーがあれば、城島建設の手抜き工事の内実を記録したノートがあるってことの証明になる」  堀越は、ほとんど表情の窺《うかが》えない眼を、横から島田に向けたままで言った。口調もまるで独り言のように抑揚《よくよう》にとぼしく、声も低かった。  島田は眉を寄せ、堀越から視線をそらした。もがけばもがくほど、底のほうにすべり落ちていくという蟻地獄《ありじごく》のことを、島田は考えた。堀越によって、自分のノートの存在が明るみに出され、社内で裏切者のレッテルを貼られる事態を、島田は想像した。堀越の言うままに、ノートのコピーの現物を持ってきてしまったことを島田は後悔したが、後の祭りだった。車は外苑《がいえん》ランプから首都高速四号線に入っていた。 「長峰なんですかね? コピーを送ってよこした奴は」  島田は話の先を急いだ。 「十中、八九、そうだろうな。長峰のアパートを家捜ししたのが三日前の十四日だ。タイミングは合ってる」 「しかし、長峰の部屋にはノートはなかったんでしょう?」 「あったけど捜し出せなかったのかもしれないし、長峰が別の場所にノートを隠しているのかもしれないだろう」 「そりゃそうですが……」 「それが長峰か、そうでないかは別にしても、ノートを持ってる奴が考えていることは、コピーを送りつけてきたことではっきりしたじゃないか。少なくともノートを持ってる奴は、そのノートをマスコミに渡して、城島建設の不正を暴《あば》くつもりは、いまのところはない。不正を暴露《ばくろ》するつもりなら、コピーをあんたのところに送ったりはしないはずだよ」 「それはぼくもそう思います。問題は、何のつもりでコピーを送ってきたかですよ」 「金が目当てということも、ひとつは考えられる」 「口止料ですか?」 「ノートを買い取れということかもしれん」 「それなら、そういう意志表示をしそうなもんでしょう」 「これからしてくるかもしれんさ」 「金以外の目的は考えられませんか?」 「あるだろうな」 「どういうことですか?」 「ノートを持っている奴が、相原和子は強盗に殺されたんじゃなくて、告発をしたためと、ノートを隠したためにああいうめにあったんじゃないかと疑ってるか、そう思い込んでるとしたらってことを考えてみればいいだろう」 「和子の事件の真相を暴こうとしてるってことですか?」 「可能性はある。真相を暴くというだけでなくて、相原和子のために復讐をしようとしているってこともありうる」 「そうだとなると、ノートはやっぱり長峰が持っているってことになりますね?」 「長峰の部屋に、ノートがあった。あんたのノートじゃない。長峰が使ってるノートだ。それに何が書いてあったと思う?」 「何が書いてあったんですか?」  島田は思わず、堀越のほうに身を乗り出した。 「長峰はそのノートに、相原和子と逢ってセックスしたときのことを、延々と書き留めてたそうだ。事こまかにな。セックスのことだけじゃない。自分がどれくらい強く相原和子に執着してるかってことも、そのノートには書いてある。その執着の対象を長峰は奪われたわけだ」 「何か手は打てませんかね? 長峰がもし、堀越さんの言うようなことを考えているとしたら、城島建設の手抜き工事が暴露されるより何より、和子の件があばかれることのほうが致命的《ちめいてき》ですよ」  島田は新たな恐怖と不安に初めて気がついた、とでもいうように顔を歪め、躯ごと堀越のほうに向けて言った。 「自分のノートに何を書こうが、それは何の罪にもならない。だが人殺しの手伝いは、立派に犯罪だからな」  堀越は島田のくいいるような視線をはずして、からかうような口調で言った。堀越の口もとには、冷めたい微笑が浮かんでいた。 「困るのはぼくだけじゃないでしょう?」  島田は言った。呟《つぶや》くような声になった。 「何か打つ手はありませんかね? 島田さん……」  堀越は笑った顔で言った。島田はこわばった顔を伏せた。ことばは出てこなかった。 「打つ手は決まってるじゃないか。ノートを持ってるのが長峰かどうかを確かめること。長峰がノートを持ってることがはっきりしたら、そいつを取り返して、長峰をおとなしくさせること。打たなきゃならない手が他にあるのかね?」 「それはわかってますけど……」 「けど、なんだい? 自分ではそれはできないっていうのか? あんたのノートだろう。あんたのノートが厄介事《やつかいごと》の種をまき散らしてるんだ。わたしはあんたの庇護者《ひごしや》じゃない。ノートと告発の件に関してだけ、たまたま利害が一致しただけのことだ。あんたの義理の妹は、わたしのほうで始末した。今度はあんたがノートの一件の始末をつける番だ。こっちにだけ手を汚せというのじゃ、虫がよすぎるだろう。ちがうかね?」 「長峰を殺せっていうんですか? ぼくに」 「それはあんたが決めることだ。ノートの所在を問いただすのに、ノートの持主以外の者が顔を出すのはおかしいだろうが。ノートの持主のあんたが、義理の妹からノートを預ってはいないかと長峰に訊くことは、ちっとも不思議じゃないからな」 「しかし長峰はもう、自分の部屋を家捜しされたことで、ノートのことに第三者が絡んで動いてることに気づいてるはずですよ。そういうことに気づいたからこそ、彼はノートのコピーを送りつけてよこしたんじゃないんですか?」 「かまわんさ、そんなこと。部屋が家捜しされたのが、ノートを探すためだったと長峰が考えていたって、そうだという証拠はないんだからな」 「ノートを預ってるということを、長峰が素直に答えると思いますか?」 「思わない。答えなくてもかまわない。奴のようすで、ほんとうの答は見当がつくだろう。それくらいの眼力はあんたにだってあるだろう。長峰を殺すかどうかは、それを見きわめたときに、ひとりでに決まるだろうよ」 「ぼくには人殺しはできない。とてもそんなことはできない……」 「ならやめとけ。だが、あんたは城島建設にはいられなくなるな。いられるかもしれんが、居心地はひどいものになる。あんたが告発者の義理の兄で、物騒《ぶつそう》なノートをせっせと書き綴ってたってことが、社内じゅうに知れわたるだろうからな」 「ぼくを脅《おど》してるんですね?」 「冗談じゃない。忠告してるんだ。会社を裏切って、義理の妹を殺す手伝いをした男として、みんなに憎まれ、白い眼を向けられるのと、厄介事の芽を摘《つ》み取って自分を守るのと、どっちを選ぶべきかよく考えてみることだ、という忠告だよ」 「和子の件は、堀越さんだって同罪ですよ。明るみに出ればね」 「立派な覚悟だ。わたしと刺し違える肚《はら》がまえで、警察に駈け込んで、洗いざらい話をぶちまけてみるかね? 島田さん」  堀越が低い力のこもった声で言った。島田は顔を伏せたまま、ことばが返せなかった。こめかみのあたりに、堀越の刺すような視線を感じていた。 「つぎの出口で高速をおりろ。そこで島田さんに降りてもらう。話は終りだ」  堀越が運転席の男に言った。   5 〔同月同日〕  ベンツは汐留《しおどめ》ランプで高速道路を出た。そのまま、車は道路の端に寄って停まった。  堀越はシートの背もたれに頭をつけ、前を見ていた。無言だった。運転席の男がふり向いて島田を見た。さっさと降りろ、とその若い男のとがった眼が言っていた。 「長峰とともかく会ってみます」  島田は口ごもるような言い方をした。堀越は口を開かなかった。島田は車を降りた。ベンツは走り出すようすはなかった。島田はベンツに背中を向けて歩き出した。  どこに行くあてもなかった。新橋《しんばし》駅に足が向いた。酒を飲みたい、と思った。頭を空《から》っぽにしたい、と考えた。島田はうつむいて歩いた。梅雨《つゆ》が始まっていたが、空は晴れていた。陽《ひ》ざしが明るかった。歩いていると汗ばんできた。堀越を怒らせてしまったのだろうか、と島田は考えた。堀越が会社をゆすっているだけのときは、島田は彼に対して嫌悪感しか感じていなかった。だが、和子のことを相談してからの堀越に対しては、島田は底の知れない不気味さと恐怖を抱きつづけていた。自分たちとはまったく異なる世界にどっぷりとつかって生きている、プロの犯罪者といった実感が、堀越の全身から漂《ただよ》ってくるのを感じないではいられない。  新橋駅の構内のキヨスクの前で、島田は足を留めた。ウイスキーのポケット壜《びん》が、棚に並んでいた。島田はそれを買った。すぐにでも壜の蓋《ふた》を開けて口をつけたかったが、真昼間の駅の人ごみの中で、そういうことをするのはためらわれた。  映画館のことが頭に浮かんだ。映画館の客席ならば、誰の眼も気にせずに酒が飲めると思った。新橋駅のすぐ近くに、ポルノ専門の映画館があることを、島田はすぐに思い出した。入ったことはないが、どぎついタイトルと絵柄のポスターで埋められたその前を通ったことは何度もあった。すると、ウイスキーを飲むことだけではなくて、ポルノ映画を見ることも、頭を空っぽにするのに役立つにちがいないと思った。  映画館はすいていた。まばらな観客たちは、できるだけそばに人がいない席を選んだかのように、離ればなれに坐っていた。島田もそうした。  スクリーンには、ふとった裸の女が、上からのしかかった男に乳房をわしづかみにされていた。男はポロシャツを着ていた。ポロシャツの肩に、女のむきだしの両脚がかつぎ上げられていた。女は男の裸の腰を両手でつかんで、派手な声をあげていた。カーセックスのシーンだということが、しばらくしてから島田にはわかった。  島田はスクリーンに眼を向けたまま、箱の中からウイスキーのポケット壜を取り出し、蓋を開けた。壜に口をつけて飲んだ。酒が喉を灼《や》いて走った。島田は息を洩らした。さっきまでの、崖《がけ》っぷちに立たされているような息苦しさと焦躁感《しようそうかん》が、ふっとやわらぐ気がした。  スクリーンのふとった女が、不意に眼を開けて叫び声をあげた。歓喜の声ではなかった。数人の男たちの顔が、車の窓にはりついていた。二人のセックスのようすを外から覗いている男たちだった。  ストーリーは島田の予想を裏切らなかった。車の窓ガラスが、野球のバットで破られ、重なり合っていた男と女が離れた。男が車の外に引きずり出された。下半身をむき出しにした男と、三人の男たちの間で格闘が始まった。一人の男が全裸の女を車から連れ出し、髪をつかんで引きずっていった。  ズボンと下着を着けていない男は、あっけなくバットで殴り倒された。裸の女は別のワゴン車の中に引きずりこまれた。他の男たちがワゴン車にとび乗った。ワゴン車はタイヤをきしませて走り出した。裸の女は、寄ってたかって男たちにシートの上に押えつけられた。男たちの手が女の躯の上を這いまわった。一人が女の髪をつかんで上体を引き起した。男は片手でズボンのベルトをはずした。それから女の顔が男の股間に押しつけられた。  画面が変って、マンションの一室らしい場所が映し出された。車で連れてこられた女は、カーペットの床の上に仰向けにされていた。四人の男たちが、女を凌辱《りようじよく》しはじめた。  島田は呷《あお》るようにウイスキーを飲みつづけた。酒が喉を灼く感じはもう消えていた。自分が野球のバットで長峰を殴り殺す場面が、ふと頭に浮かんできた。スクリーンに映っているような、若くて豊満な女の肉体に触れたい、と思った。生身《なまみ》の若い女の裸の躯を見たい、と思った。はげしい喉の喝きのような欲望が、たちまちのうちに島田を捉えてきた。  浅草《あさくさ》か新宿に行けば、ストリップ劇場があることは、島田も知っていた。ストリップ劇場では、自分の欲望は満たされそうもなかった。ソープランドの経験は島田にはなかったが、ひととおりの知識はあった。心が動いた。スクリーンでは、凌辱されている女が、よろこびの声をあげていた。島田は、和子とのセックスのようすをノートに書き記していたという長峰のことを思い浮かべた。ノートの記述を想像した。スクリーンに映っている女の裸身が、和子のそれと一瞬重なるように思えた。それが、妻の広子の躯を思い出させた。  いま自分を捉えている欲望は、広子によって満たされる類《たぐ》いのものではない、と島田は考えた。和子が殺されてから、島田は一度として広子に情欲をそそられたことがなかった。広子は、彼が手を貸して命を奪った女と血をわけた姉だった。そのことが島田の頭を離れることはなかった。  ポケット壜は、飲みはじめていくらもたたないうちに、空《から》っぽになった。島田は映画館を出た。急激にアルコールが回ってくる気がした。酔いが回るという感じではなかった。  島田は地下鉄に乗った。浅草で降りた。求めているもののある場所はわかっていた。  道の両側に、ソープランドの店が立ち並ぶ一角に出た。人通りは少なかった。客引きらしい男たちの姿が眼についた。島田は店を選ばなかった。一刻も早く道から姿を消したかった。行きあたりばったりの店にとびこむようにして入った。店の名前すらわからなかった。  入口で入場料を払い、待合室らしいところに通された。飲み物の注文を黒い服の男に訊かれた。スコッチのオンザロックを頼んだ。また酒にありつけたのがうれしかった。指名したい相手がいるかと訊かれた。島田は無言で首を横に振った。  オンザロックをあらかた飲んでしまったとき、名前を呼ばれた。  待合室を出た横手のところに、女が正座し、床に手を突いて頭を下げていた。女は名前を名乗った。島田はそれを耳にしたとたんに忘れていた。  女は立ちあがり、島田の腕に腕をからめて、個室に案内した。 「もう一杯、オンザロックがほしいんだけど、もらえるかな?」  小さな丈《たけ》の低いベッドに腰をおろして、島田は言った。女は笑顔でうなずくと、壁にとりつけてある電話の受話器を取った。細面《ほそおもて》の、眼もとの明るいかわいい顔立ちの女だった。二十三、四歳だろうか、と島田は思った。 「お客さん、初めて?」  女が電話を終えて、島田の上衣を脱がせながら言った。 「初めてだ。よろしく頼むよ」 「まかせて。やみつきにしてあげるから」 「怖《こわ》いな」 「怖くなんかないわよ。楽しいわよ」  島田の上衣をハンガーにかけて、クロゼットの中にかけると、女はするすると着ている物を脱いだ。パンティだけの姿になった女は、洗い場におりていって浴槽の湯を出し、支度《したく》をはじめた。大理石ふうの浴槽だった。エアマットが壁に立てかけてあった。蒸気風呂が隅《すみ》に置かれていた。蛇口《じやぐち》から出る湯に手を当てて、女は湯加減を見ていた。腕の陰に大きな若々しい乳房が見えた。小さなパンティの端から、わずかに尻のわれめがのぞいていた。島田は、アルコールとは別のものに酔ったような気分になっていた。若い魅力的な女の裸の姿を、こんなに簡単に眼にすることができるのが、妙に不思議なことに思えた。眼にするだけでなく、抱くことさえできるのだ。  ほんの一歩、足を踏み出すだけで、それまで自分が住んでいたのとはちがう、蜜《みつ》のような世界がある。ほんの僅《わず》かの間、地下鉄に乗り、少しだけ歩いたところに——島田はそんなことを考えた。同じように、ほんの一歩、足を踏み出すだけで、ノートのことも長峰のことも、ケリがつくのかもしれない、といった思いが、その後につづいて浮かんできた。  ドアが控え目にノックされた。女が返事をした。女はドアを細く開け、入口の床のところにトレイにのせて置かれていたグラスを取り、島田に渡して、横に並んで腰をおろした。女の裸の肩が島田の肩に触れていた。パンティの腹のところに、陰毛がのぞいていた。島田は女の膝に手を置き、ウイスキーを呷った。 「脱いじゃったら? 脱がせてあげる」  女は言って、島田の前に膝を立てて坐り、靴下から脱がせはじめた。島田は思いきって女の乳房に手を伸ばした。張りの強い豊かな乳房が、島田の手と指をはじき返すように固くはずんだ。 「好きなようにしていいのよ」  女が笑って言った。島田はなぜだか、不意に胸の詰まるような感情に襲われた。そうではないとよく承知していながら、女の口から吐かれたことばが、そのまま彼女の心からのもののように思えた。柔らかくてやさしいものが、心を押し包んでくる思いがあった。  グラスは空になった。女は島田をブリーフ一枚にした。脱がせたものは、クロゼットの中に収められた。女はたばこを吸っている島田の後ろに回り、肩や首すじを揉んだ。心地よさに、島田は声を洩らした。 「すっごい凝《こ》ってる。バンバンよ」 「ちょっと疲れぎみでね」 「あそこが疲れてちゃいやよ」 「そっちはバンバンだ」  島田は言って笑った。女も笑った。  女に促《うなが》されて、腕をとられたまま洗い場に下り、奇妙な形の腰かけに腰をおろした。すっかり裸になった女は、島田の前に正座して、彼のペニスを洗いはじめた。乳房が揺れた。そろえた女の両脚の付根に、光沢《こうたく》のある陰毛が小さな三角形になってのぞいていた。島田は勃起した。両手で女の頬を撫でた。  女は椅子の中央のくぼみに腕をさし入れて、島田の肛門も手で洗った。やさしい手つきだった。石鹸の泡を洗い流すと、女は島田の膝の間に躯を割りこませてきて、なんのためらいも見せずに、ペニスに唇をかぶせてきた。島田は女の躯の両側から手を回して、二つの乳房を揉み立てた。  すべてが島田には初めてのことだった。女の動作は、どれひとつとして客の性的な興奮に奉仕しないものはなかった。バスタブに横たわれば、女は脚と膝を使って島田の躯を浮かせて支《ささ》え、湯の表面に突き出たペニスにフェラチオを行なった。  マットの上に横たわった島田の全身を、女が全身を使って洗い立てた。指が女陰に誘い入れられた。腕が女の股間にしっかりとはさみつけられた。女はそのまま島田の腕の上をすべるようにして腰を動かした。陰毛と女陰が、そうやって腕を洗った。  後ろ向きに島田の胸にまたがった女が、そういう姿勢のまま、躯を前後にすべらせた。石鹸の泡をつけた女の肛門や女陰が、すべりながら眼の前に迫ってくるのを、島田は何度も眼にした。女の脚が、たがいちがいの向きで島田の脚にからめられた。島田はマットの上で、女に翻弄《ほんろう》された。女は島田の躯を巧みに操《あやつ》った。うつ伏せにされた背中の上を、乳房がすべっていった。アヌスに女の舌が伸びてきたときに、島田は思わずおどろきの声をあげた。  不意に女が上から躯をつないできた。女は島田の腰に後ろ向きにまたがったまま、挿入した。 「このまま立ちあがって。はずれないようにね」  女が言った。島田は起きあがって、後ろから女の腰を抱いた。女の動きに合わせて立ちあがった。女は壁に両手を突き、上体を前に倒して、大きく脚を開いていた。島田は女の腰を抱えこみ、片手で乳房を揉み立て、片手でクリトリスをまさぐった。立ったままで後ろから突くというやり方が、島田の頭を完全に空白にした。  女ははげしく喘《あえ》いだ。島田にはそれが営業用のよがり声とは思えなかった。女はクリトリスをまさぐっている島田の手に片手を重ねてきて、島田の指をクリトリスにはげしくこすりつけさせた。島田は猛然と突き立て、果てた。 「してほしいことない?」  バスタブの中で向き合ってから、女が言った。してほしいことが無数にあるような気がしていた。だが、島田はなにひとつ思い出せなかった。彼が女に求めたのは、女陰を押し開いて見せてほしい、ということだけだった。女は立ちあがってバスタブの縁《ふち》に片足をのせ、腰を落した。女の両手が濡れた陰毛を分け、われめを大きく押し開いた。  クリトリスはむき出しになっていた。小陰唇も指で押し開かれていた。膣口は小さな鮮やかな色の襞《ひだ》に囲まれて、小さく口を開いていた。島田は呆《ほう》けた顔でそれに見入った。それから吸い寄せられるような思いでそこに顔を近づけ、われめに唇を這わせた。膣口に唇を押しつけて吸った。 「ベッドに行こう。もう一回して……」  女が腰をゆすり立てながら言った。そのとき、島田の頭の中に衝動が生れた。してほしいことの、それが二つめだった。三つめは思いつきそうもなかった。 「おしっこ飲ませてくれないか」  島田は言った。声が少しひきつった。女は笑った。 「そういうのが好きなのね。出るかなあ。待って。やってみる」  女にはまったく屈託《くつたく》がなかった。島田は女陰に唇をつけて待った。 「出る……」  女が言った。島田は唇の下でクリトリスが小さくうねるようにうごめくのを感じた。それから熱いものがほとばしるようにして舌を打ってきた。島田は眼を閉じ、口の中に溜まっていくものを飲んだ。ほとばしるものはすぐに止《や》んだ。止んだあとも島田は女のそこから唇を離さなかった。吸いつづけた。それから念入りに舌を這わせた。  自分のしたことが、島田は信じられなかった。別人になった思いがあった。汚れていくと思った。そこに来る前に、おまえはすでに汚れていたじゃないか、という声が、どこか遠くから聴こえてきた。  四章 勝者、敗者   1 〔六月二十一日 木曜〕  午後九時になろうとしていた。  アパートの近くで、長峰はバスを降りた。雨は降りつづいていた。長峰は傘《かさ》を開いて、アパートへの道に入った。丈《たけ》の高い並木で仕切られた畑ぞいに、暗い道がのびていた。長峰が住んでいるアパートは、その道からさらに角《かど》をひとつ曲った行きどまりにある。  暗がりの中で、小さな水溜《みずたま》りがにぶく光って見えた。いつものように、国分寺の駅前のスタンドバーに寄ってきたほうがよかったかもしれない、と長峰は悔《く》やんだ。そうしなかったのは、雨のせいだった。駅からのバスは十一時近くには終ってしまう。その後はタクシーを使うことになる。雨の日はいつもよりも長いタクシー待ちの客の行列ができることを、長峰はよく知っていた。といって、スタンドバーに行けば、バスがある間にスツールから腰を上げる気にはならないことも、自分でよくわかっていた。  早く帰った分だけ、夜が長くなる——長峰は水溜りを慎重によけて歩きながら、胸に呟《つぶや》いた。眠れない夜がつづいていたのだ。寝酒の量は日ましに増えていた。島田功に、彼のノートのページのコピーを速達便で送りつけてからは、気持が昂《たか》ぶって、いっそう眠りが手に入りにくくなっていた。  長峰は、焦《あせ》りを覚えていた。彼は、コピーの速達便の反応が、すぐになんらかの形で現われるものと、思いこんでいた。速達便を投函《とうかん》したのは、前の週の土曜日だった。会社でノートの一ページをコピーして、中央郵便局で投函したのだ。それから五日が過ぎようとしている。島田功も恐喝屋も、鳴りをひそめたままだった。  いつ何が起きてもいいように、長峰は登山ナイフまで買って、持ち歩いていた。ナイフを買ったのも、先週の土曜日だった。相手が鳴りをひそめているのは、ノートのコピーが島田功や恐喝屋にとって、何の脅威にもならないからではないか、といった考えさえ長峰は抱くときがあった。そうだとすれば、和子は島田からそのノートを預り、告発を行なったがために殺された、とする長峰自身の疑惑自体が、見当はずれということになりかねない。長峰の焦《あせ》りの気持は、そこから生れていた。  アパートの門灯を、何かが半ば遮《さえぎ》っていた。それがひろげられた傘だということがわかったとき、長峰はふっと歩速をゆるめた。傘をさした人影が、アパートのコンクリートブロックの門の陰に見えた。門灯の逆光を浴びた傘の端ははっきりと見えたが、人影のほうは塀と重なっていて、眼を凝《こ》らさなければそうとわからなかった。  長峰はゆっくりと足を進めながら、ズボンのポケットから、ナイフを出し、折りたたまれている刃の部分をつまみ出した。傘のスプリングのボッチを押して、すぐにたためるようにすることも思いついた。ナイフだけでなく、傘も武器に使えるかもしれない、と思ったのだ。  門のところに立っている人影は、ひとつだけだった。だが、見えないところにも敵が潜《ひそ》んでいないとは限らない、と長峰は考えた。傘をさして立っている相手は、男か女かもわからなかった。そこに誰かが立っているというだけで、長峰は相手を敵と見ていた。そういうふうにしか、思考も神経も反応しなかった。恐怖は生れてこなかった。全身がひきしまるような戦慄《せんりつ》は、むしろ心地よく思えた。待ち望んでいたものがようやく現われた、と長峰はそれだけを思っていた。  門灯の逆光の中で、傘が動いた。足音に気づいたようすの相手が、長峰のほうに躯《からだ》を向けた。門灯の明りは、にぶく長峰のところまで届いていた。長峰は自分の顔が門灯の光にさらされているのを意識した。相手の顔は黒い影にしか見えなかった。長峰はナイフを持った右手を太腿《ふともも》の後ろに回したまま、足を進めた。こめかみのあたりが、キリキリと痛んだ。 「長峰さんですか?」  相手が言った。はっきりした声だった。傘が後ろに傾けられ、門灯が横から男の顔を照らし出した。島田功だった。長峰はその顔を、和子の葬儀のときに一度見ただけだったが、忘れてはいなかった。 「長峰です」  答えながら、長峰は太腿の後ろにナイフの峰のところを押しつけて、刃を折り込み、ポケットに戻した。こめかみのキリキリとした絞《しぼ》られるような痛みは、まだ消えていなかった。 「突然で申しわけないんですが、どうしてもお目にかかって、内々にお話したいことがありましてね。それでお帰りを待たせてもらったんです」  島田が言った。長峰は頷《うなず》いた。島田が内密に話したいというのが何のことなのかは、長峰には考えるまでもなかった。 「中に入りましょう」  長峰は言って、先に立ち、アパートの門をくぐった。部屋は一階である。島田は無言で後ろからついてきた。  長峰はドアの前に立って傘をたたみ、ポケットからキーホルダーを出した。キーホルダーからは、すでに和子のマンションの部屋の鍵は消えていた。和子の死体を発見したときに、知らせで駈けつけてきた警察官に、その部屋の鍵の提出を求められて渡したのだ。  島田が、たたんだ傘を振って滴《しずく》を切る音がした。その音は長峰のすぐ後ろで聴こえた。音につられて長峰はふり向いた。手はキーで鍵穴をさぐっていた。島田は長峰のま後ろにいた。二人の躯は五十センチと離れていなかった。眼が合ったとたんに、島田が視線を落した。長峰も顔をドアのほうに戻した。長峰の瞼《まぶた》には、一瞬眼にした島田のこわばった顔と、まるで恐怖を示すようにひきつって見えた彼の眼の表情が、残像をむすんでいた。長峰は、ノートのコピーを送りつけた相手を、自分がまちがえていなかったことを、そのときはっきりと確信した。  長峰が入口の明りをつけ、島田が中に入ってドアを閉めた。長峰はあがって部屋の明りをつけた。家捜《やさが》しのために破られた窓のガラスは、そのままになっていた。切り取られた四角な穴の部分は、ゴミ用のビニール袋を切り取ったものを貼りつけて、ふさいであった。 「何か飲みますか?」  上衣を脱ぎながら、長峰は言った。 「いえ。おかまいなく……」 「ビール、どうですか。ぼくは飲みますが」 「では遠慮なく……」 「坐ってください」  長峰は部屋の台所との仕切りのガラス戸に寄せて置いてある、小さな食卓の前の椅子を手でさした。島田は坐るとすぐに、服のポケットからたばこを出して火をつけた。落着かないようすだった。島田の服の肩や腕や、ズボンの裾《すそ》に、雨の滴がついていた。 「話、聞きましょう」  長峰は、缶ビールとグラスをテーブルに出し、椅子に腰をおろすとすぐに言った。島田は缶ビールのプルトップを引き、グラスにビールを注ぎはじめた。口は開かない。どういうふうに話を切り出すか、決めかねているように見えた。長峰もグラスに注《つ》いだビールを呷《あお》った。 「じつは、義妹《いもうと》の和子のことなんです」  ビールをすするようにして飲み、たばこを吸い、灰を灰皿にすりつけるようにして落してから、ようやく島田は口を開いた。視線はテーブルに向けられていた。長峰は黙っていた。それが島田の話を促《うなが》すための最良の方法らしい、と気がついたからだった。 「和子とは長かったんですか? 長峰さん」 「長いといえば長い。短いといえば短い。二年余りになってました」 「和子は本気だったようですね。長峰さんとのことは」 「ぼくもいい加減な気持じゃなかったつもりです」 「わかってます、それは。和子が家内にいろいろあなたとのことを話して、それをぼくも家内から聞いてましたから」  島田は言って、ビールのグラスを口にはこんだ。長峰は頷くだけで応《こた》えた。話はまだ本題に入っていない。それが長峰にはわかっていた。沈黙がつづいた。次第に緊張を孕《はら》んでいくような沈黙だった。島田の顔がこわばり、薄い眉《まゆ》が寄せられた。長峰は表情を殺していた。島田が沈黙を破った。 「じつはですね、長峰さん。現在ぼくはひじょうな窮地《きゆうち》に立たされてましてね」  重い声を無理に押し出すような話し方だった。長峰はまた頷きだけを返した。あんたが立たされている窮地がどういうものなのか、わかっている、といったようすを長峰は示したつもりだった。 「和子が、ある軽率な行動に走ったのが、その原因なんです」 「軽率な行動というのは、城島建設の凝固剤についての不正を、彼女が新聞社に告発したことですか?」 「知ってらしたんですね? 長峰さんは」  島田の頭がはねあがるようにして起き、はじめて視線がまっすぐに長峰を捉《とら》えてきた。自分に向けられた島田の眼に、打ちひしがれたような表情が浮かんでいるのを、長峰は見た。 「知ってます。和子さんから聞きました」 「やっぱりそうでしたか。そうだろうと思ってました」 「彼女の取った行動は軽率だったんですか? 島田さん」 「結果的にはね。和子が新聞社に告げた話の内容は、かなりの点で事実に即《そく》していることが、日東新報の取材のようすでわかったんです。その中には、社内でその仕事にたずさわっている者しか知り得ないようなことも、いくつかまじってるんです。自分の会社のスキャンダルをお話するのは辛《つら》いんですが、ま、そういうことなんです。そのために、告発者はぼくじゃないかという噂《うわさ》が、社内に流れはじめていましてね。和子は総務課の人間だったから、凝固剤を使う工事がどんなふうに行われていたかなんてことは知らないのが当り前ですから、誰も和子が告発者だなんて考えもしなかったんです」 「しかし、和子さんは凝固剤の不正の実態のすべてを詳しく知っていた。それはなぜなんですか?」  刺すような皮肉になることを承知で、長峰は言った。島田の視線がたじろいだように揺れた。だが、島田も皮肉っぽい反撃を見せた。 「なぜだと思いますか? 長峰さん」 「ようやく本題に辿《たど》りつきましたね。つまりノートの話に」  長峰は言った。島田は答えずに、唾《つば》を飲みこんだようだった。細い首の正面に突き出た島田の喉仏《のどぼとけ》が、うねるように上下に動いた。長峰は、島田のかすかな表情の変化も、仕種《しぐさ》も、声や口調に現われるニュアンスも見逃すまいと思った。二人ともビールのグラスに手を伸ばすことを忘れていた。 「ノートの話も和子から聞いてるんですね? 長峰さんは」 「聞きました。告発をしたことを聞いたときにね。あなたが会社の中で行われている凝固剤についての不正のいきさつと実態を記録して、それを和子さんに預けたという話でした。あなたの奥さんが、そのノートを使って城島建設の不正を告発しかねないようすがあったから、ノートは和子さんのところに預けられたんだということも聞きました」 「そうなんです。そのノートが、いまぼくを窮地に立たせているんです」 「なぜですか?」 「ノートが和子の手から他の誰かに移ってるんです。そして現在ノートを持っている者が、ノートをにぎっているということを、脅迫めいたやり方でぼくに知らせてきたんです。ノートのある一ページをコピーしたものが、速達でぼくの家に送り届けられてきたんですよ」 「そのノートの存在が、島田さんを脅《おび》えさせてるということですか?」 「当然でしょう。そのノートがマスコミに渡っても、会社のしかるべき立場にいる人間の手に渡っても、ぼくは大きなダメージを受けるわけですから。わかるでしょう? 日本のサラリーマン社会では、内部告発が美徳だというふうには、まだ受けとられませんから」 「それで?」 「はあ?」 「それで、ぼくに何をしてほしいんです?」 「つまり、その、もしかして、和子がノートを預けた相手というのは、長峰さんじゃないかという気がしたもんですから、こうして思いきって話をしてみる気になったんです」 「なるほど。そのノートを躍起《やつき》になって捜してるのは、あなただけなんでしょうね? 他にもノートを血眼《ちまなこ》になって捜してる人間がいますか?」 「いないはずです。だって、そういうノートがあることを知っているのは、ぼくと家内と和子の他には、和子からノートを預った人間だけのはずですから」 「じゃあ、偶然なのかなあ」 「偶然? 何がですか?」 「先週の木曜日に、この部屋に空巣狙《あきすねら》いが入りましてね。こいつが妙な泥棒で、冷蔵庫の中から食器棚の後ろ、ベッドのマットレス、下駄箱と、ありとあらゆるところをひっくり返していってるんです。下駄箱の中まで荒らす泥棒というのも珍しいでしょう。だからぼくは、その泥棒の目的は、金品ではなくて、島田さんのノートだったんじゃないかと思ったんです」 「ノートは長峰さんが預ってるんですね、やっぱり」  島田は言った。今度は彼の喉仏は動かなかった。かわりに、唇《くちびる》の端から頬《ほお》にかけて痙攣《けいれん》が走るのが見えた。 「あの妙な空巣狙いは、島田さんが雇《やと》ったんですか?」  長峰は言った。島田の顔がひきつり、血の気《け》が失われていくようすを、長峰はどこか残忍なよろこびを感じながら眼にした。 「冗談じゃない。どうしてぼくが泥棒なんかを雇わなきゃならないんだ?」 「あなたがこの部屋を誰かに家捜しさせたんじゃないとしたら、あなたの他にも必死になってノートを探してる奴がいるってことになる。誰なんです? そいつは」 「知りませんよ、そんなことは。それがただの金目当ての泥棒じゃなかったと、どうして決めつけられるんですか?」 「そりゃそうだ。だから偶然の出来事かなとも思ったんですよ。むしろ偶然だと考えたほうが、筋《すじ》は通るわけですから。偶然じゃなくて、泥棒がノートを盗み出すためにこの部屋に忍びこんだんだとしたら、そいつかそいつを雇った奴は、ぼくと和子さんとの関係を知ってて、和子さんがぼくにノートを預けたかもしれないということを考えることができる人間だということになりますからね。そういう条件に当てはまる人は限られてくる」 「話を逸《そ》らさないでください。あなたはノートを預ってるんでしょう? 答えてくださいよ」  島田の声はひきつって、語尾がかすれた。長峰は、声を出さずにニヤリとしてみせた。できるだけ下卑《げび》た表情を作ろうと心がけた。 「何がおかしいんだ?」  島田がまたかすれた声を出した。逃げ場のない場所で、銃口か刃物を突きつけられでもしているような追いつめられた表情が、島田の顔を分厚く覆《おお》っていた。 「心配しなさんな、島田さん。ノートはぼくがある安全な場所に保管してある。誰の眼にも触れる心配のない場所だ」 「どこなんだ?」 「それは言えない。それよりも、ぼくがノートの一ページをコピーして送りつけた目的を訊《き》いたほうが、現実的な話になると思うよ」 「何を考えてるんだ? あんたいったい、どういう人間なんだ?」 「あんたと同じように、ろくでなしだと思ってもらって結構だ。あんたは自分の身を守るために、ノートを取返したいと思ってる。ぼくは楽《らく》して金が手に入ることを望んでる。城島建設のスキャンダルが明るみに出たって、たいしてよろこぶ人間はいやしない。ここは誰もがひどいめにあわないように、丸くおさめるのが、世間を知っているおとなの知恵ってもんだ。一千万円と言いたいところだが、サラリーマンのあんたにはそれは無理だってこともわかってる。半額で手を打とうと思うんだが、どうだろう」  長峰は言った。島田はしばらく長峰を睨《にら》みつけていたが、そこにビールがあったことを突然に思い出したように、グラスをつかみ、口にはこんだ。 「わかったよ。五百万円だな。三、四日待ってくれ。返事はその後だ。五百万だってぼくには大金だから、いろいろ検討してみなきゃ即答はできない」 「待つ。無理な期限をもうける気もないよ。あんたは必ず金を都合《つごう》するはずだと思ってるから」  長峰は言った。島田はグラスを空《から》にすると、立ちあがった。彼は口を引き結んだまま、一語も発せずに帰っていった。長峰は見送らなかった。そのとき長峰の頭を占めていたのは、敵の次の出方を推測し、こちらの対応を決めるということだけだった。   2 〔同月同日〕  雨が降りつづいていた。  島田は長峰の部屋の外に出ると、傘をさすのも忘れて、足を踏み出した。頭の中が沸騰《ふつとう》していた。しかし、自分が何を考えようとしているのか、わからなかった。  雨が頬を打ってきた。島田は半ば無意識のまま、傘をひろげた。  長峰がノートを持っていることは、はっきりした。それが、自分にとってよろこぶべきことなのかどうか、島田にはわからなかった。抜け出すことのできない泥沼に自分がはまりこんでいる気持のほうが強かった。  五百万円という金を長峰が要求してきたことは、さほど意外ではなかった。だが、その金額が妥当《だとう》なものかどうか、島田は判断がつかなかった。法外な額にも思えたし、意外に少ない額にも思えた。だが、五百万円の現金の調達が、自分にできるかどうか、といったことは、まったく見当がつかなかった。五百万円でノートを取り戻して、それですべてが落着するのかどうか、といった疑問も、島田にはあった。  暗い水溜りの多い畑ぞいの道が、バスの通っている道にぶつかる少し手前に、シルバーグレイのベンツが停《と》まっていた。ベンツが停まっていることは、眼を向けなくても島田にはわかっていた。  ベンツの横で、島田は足を留め、車のリアドアを自分で開けた。傘をたたんで、急いで車の中にすべりこんだ。リアシートに堀越がいた。堀越は火のついていないたばこをくわえたまま、無言で島田を眼で迎えた。運転席にいるのは、四日前の日曜日に島田が新宿でベンツに拾われたとき、ハンドルをにぎっていた男だった。ベンツはすぐに走り出した。 「どうだったんだ?」  堀越が口を開いた。 「長峰はやっぱりノートを持ってます」  島田は言った。 「本人がはっきりそう言ったのか」 「はっきり言いました」  島田は頷いて答えた。堀越はスーツの内ポケットからライターを出して、たばこに火をつけた。島田もたばこを取り出した。 「五百万円で、ノートを買い取れと長峰は言ってるんです。金が目当てで、ノートのコピーを送ったと言いました」  島田はたばこに火をつけてから言った。 「それで?」 「三、四日考えさせてくれって返事しときました。五百万円の金策の手立てを考えるからと……」 「長峰が、ノートが五百万円で売れると考えたわけは?」 「もちろん、城島建設にとっては外部に知られては困ることが、ノートに書いてあるからですよ」 「それだけかね? それだけなら長峰は直接、城島建設にノートを持ち込んだほうが、もっと金になると考えそうなもんじゃないか」 「そりゃそうですが、彼はそこまであくどいことのできる男じゃないんだろうと思うんです。会社にノートを持ち込めば、ノートを書いたのがぼくだってことがわかってしまう。和子との線で、そこまでしてぼくを苦しめるのはどうか、と長峰も考えたんでしょう」 「長峰自身がそう言ったのかね?」 「言いはしませんでしたが……」 「甘いね、島田さん。長峰の狙いは五百万円なんかじゃないかもしれんぞ」 「そうでしょうか?」 「長峰は、部屋に泥棒が入った話はしなかったのか?」 「してました。でも、それがノートのせいだということは、半信半疑でいたようです」 「半信半疑ということは、疑ってたってことだ。そうだろう」 「はあ……」 「はあじゃないよ。長峰は、わたしが城島建設に凝固剤のことで圧力をかけていたことを、相原和子から聞いて知ってたはずだ。知らなくても、あんたのノートにわたしのことが書いてあれば、知ることができる。そうだろう?」 「ノートには堀越さんのことは一行も書いてはありませんよ」 「書いてないから、長峰がそれを知らずにいるとは言い切れないさ。長峰の考えることはみんな、自分が惚れてた女が、素っ裸にされて、刃物で刺されて殺されたってところから始まってるはずだ。城島建設の不正工事なんぞは、奴にとってはどうでもいいことなんだろう。もし長峰が、相原和子を殺したのは強盗じゃなくて、告発の仕返しとノートを取り戻すためだというふうに疑ってたとしたら、どうなると思う?」 「しかし、現に長峰は五百万円払えばノートをこっちに渡すと言ってるんですから」 「いいか、島田さん。空巣《あきす》が入った。その後であんたがノートのことで会いにきた。長峰は空巣の目的はノートだったと疑ってた。するとつまり、空巣をやった奴とあんたが、ノートを欲しがってるんだ、と長峰は考える。それから、空巣をやった奴は、どうして自分に狙いをつけることができたのかってことも、当然、長峰は考える。これがどういうことを意味するかわかるだろう。長峰はいまはもう、あんたが城島建設をゆすっている人間と、ノートのことで手を結んでることに気がついてるってことだよ。それはまた、あんたが相原和子を殺すのに一役買ってたってことを、確信しているってことだよ」  堀越の声は低いけれどもはっきりとしたひびきを持っていた。口調は静かでゆっくりとしたものだった。堀越の一語一語が、島田の心臓をわしづかみにした。堀越が言ったことは、島田自身もまったく考えていなかったわけではない。考えるたびに否定し、考えることを自分に禁じようとしていたことだった。 「つまり、ぼくは、和子を殺した共犯者だと、名乗りをあげるために、今夜、長峰に会いに行ったようなもんじゃないですか。会いに行けと言ったのは、堀越さんですよ」 「わたしのためだけで長峰と会ったわけじゃあるまい。長峰がノートを持っているかどうかを確めなきゃ、あんたがいちばん困るんだよ。この前も言っただろうが。すべての種をまいたのはあんただって。だから刈り取るのもあんたがやらなきゃならない」 「刈り取るつもりです。なんとかして五百万円をこしらえて、ノートを取り戻しますよ」 「それじゃ刈り取ったことにならんね。長峰に死んでもらわなきゃ」 「ぼくにはそれはできない。どうやってやれって言うんですか。そういう仕事は堀越さんのほうが得意でしょう」 「人間その気になれば、人殺しぐらいやれる。知らん顔して、駅のホームから電車の前に突き落すぐらいのことは、子供にだってできるさ」 「ノートが残りますよ。長峰が死んでも」 「もちろん、ノートを取り戻した上で、奴には死んでもらうんだよ」 「ノートのコピーを取ってるかもしれないでしょう。それが出てきたらどうするんですか?」 「どうもしないね。現物が存在しない限り、コピーが偽物か本物かは決めようがないからな。五百万円はわたしが用意する。あんたはそれを長峰に渡してノートを取り戻してから、奴を始末するんだ。それが、自分がまいた種を刈り取るということだよ」 「もし、ぼくが長峰を殺しそこなったら、事態は最悪になりますよ。ぼくにとっても堀越さんにとっても……」 「殺しそこねたらな。だから失敗は許されないね。万が一あんたがしくじったら、わたしもあんたも覚悟を決めなきゃな。やっちゃならない悪事を働くというのは、そういうことだよ。あんたはもう、やっちゃならないことをしてしまったんだから、後戻りはできないよ」  堀越は、やさしく諭《さと》すような言い方をした。島田は車の外に眼を投げた。どこを走っているのか、島田にはわからなかった。   3 〔六月二十五日 月曜〕  長峰は午後三時に、会社を早退した。  島田からの電話が会社にかかってきたのは、その日の朝の十時ごろだった。 『例のものが用意できましたので、今夜八時ごろに、お宅に行きたいんですが』  島田はそう言った。長峰は承諾《しようだく》の返事をした。その電話がかかってくる十分前に、長峰は島田のノートのすべてをコピーしたものを隠しておく場所を思いついた。トイレに入っているときだった。ノートのコピーを隠しておく場所を思いついた直後に、島田の電話が来るという偶然を、長峰はひそかに笑った。ちょっと愉快な偶然に思えたのだ。  島田のノートは、すでにすべてコピーしてあった。会社のコピー機を使って、少しずつ進めた仕事だった。そのコピーと、ノートの現物を、書類封筒に入れて、長峰は会社を出た。  デパートに寄った。地下の日曜大工のコーナーで、小さなドライバーと金槌《かなづち》と釘《くぎ》を買った。念のために木工用の接着剤も買った。  アパートに帰り着いたのは、五時過ぎだった。長峰は普段着に着替えると、すぐに仕事にかかった。  ドライバーで、浴室のドアの蝶番《ちようつがい》のネジをはずした。ドアは合板《ごうはん》と桟《さん》でできていた。合板は、白いプラスチックを貼りつけて化粧してあるものだった。表と裏の二枚の合板の間は空洞になっていた。それはドアを叩いたときの音でわかったし、確めるまでもなく、見当はついていた。  ドアの空洞の部分に、ノートのコピーを隠すことを思いついたのは、会社のトイレでたまたま、ドアの修理が行なわれているところに行き合わせたからだった。トイレのブースのひとつの鍵がこわれたようすで、ビルの管理会社の作業服を着た男が、鍵を取り替えていた。そのとき、こわれた鍵だけが抜き取られていて、ドアの内部が空洞になっているところが、長峰の眼に留まったのだ。  長峰は、側柱からはずした浴室のドアを、部屋の中に運びこみ、床に寝かせて置いた。接着剤を買うことを思いついたことを、長峰はよろこんだ。ドアの合板は、釘ではなくて接着剤で桟につけられていた。  長峰は、ドアの敷居《しきい》に接する側の桟と合板との間にドライバーを当て、ドライバーの頭を金槌で軽く叩いた。ドライバーは鑿《のみ》のように、合板と桟との間に入っていった。合板に貼られている化粧用のプラスチック板が、板がささくれ立つのを防いでくれた。  接着剤でつけられた合板を、桟から剥《は》がすのは、長峰が思っていたほどやさしくもなかったし、手間も時間もかかった。ようやく両手が入る程度に合板を剥がし終えるのに、一時間半ほどかかった。急いで事を進めて、ドアに損傷を残すのは、避けなければならなかった。  ドライバーと金槌を放すと、長峰は新聞紙でノートのコピーをしっかりと包み、テープで留めた。それを桟から浮かせたドアの合板の下にさし入れた。新聞の平たい包みを、ドアの下辺の桟に添わせておいて、さらにそれをテープでしっかりと固定した。上から合板をかぶせてみた。ドアにはふくらみは生じなかった。  合板の剥がした部分を、接着剤でつけた。接着剤が乾くまで、膝《ひざ》と両手で合板を押えつけた。合板と桟の間から押し出されてきた余分の接着剤も、念入りに拭《ふ》きとった。  ふたたびドアを側柱にとりつけた。乱暴にドアを動かしてみた。合板と合板の間に何かが入っているとわかるような音はしなかった。いくらかドアが重い感じがするだけだった。しかし、不審を招くほどの重さではなかった。  手を洗ってから、長峰は近くの店に夕食に出た。島田のノートは、その日の夕刊の間にはさんで持って出た。ノートを留守の部屋に置いて行く気にはなれなかった。ビールの中壜《ちゆうびん》を一本飲んだ。肴《さかな》は冷やっこと枝豆にした。アジのフライの定食を食べた。  食事を終えてアパートに帰ったのは八時近くだった。  ドアがノックされたのは、八時十五分だった。長峰は返事はしなかった。見るともなしに見ていたテレビの音量を少しだけ上げ、足音を殺してドアの前に立った。ドアの覗《のぞ》き穴の魚眼レンズに、島田の姿が映っていた。長峰は無言でドアの鍵を開けた。部屋の入口のガラス戸のところまでさがり、ポケットに入れていたナイフに手を伸ばしてから、長峰は声を送った。魚眼レンズに姿の映っていなかった男たちが、島田の後につづいて部屋に入ってくることを、長峰は警戒していた。  ドアが開き、島田が入ってきた。つづいて入ってくる者はいなかった。島田はドアを閉めた。クラッチバッグを脇にはさんでいた。 「ドアにチェーンをかけてくれませんか。いつもそうしてるんでね」  長峰はナイフの入っているポケットから手を出して言った。島田はドアをロックし、チェーンをかけて、部屋に入ってきた。食卓をはさんで向き合ったとき、長峰は島田の顔になんとも言いようのない、暗い疲労の色が浮かんでいるのを見た。 「金策はたいへんだったらしいね。顔にそう書いてある」  長峰は言った。島田の眼に怒りの表情が浮かんだが、すぐに消えた。 「ノートは?」 「金は?」  島田が脇にはさんだままのクラッチバッグを食卓の上に立てるようにして置き、中からつぎつぎに札《さつ》の束《たば》を取り出して重ねた。束は五つだった。 「ノートを渡してくれ」  島田は、重ねた札束の上に両手を置いて、睨みつけるような眼で長峰を見た。 「その前に、あんたと話がしたい」 「何の話だ? いまさら……」 「いまさらということはないさ。その五百万はどうやってこしらえたんだ?」 「そんなこと、あんたに話す必要はないだろう」 「必要があるんだよ、島田さん。あんたが自分のノートを五百万円も出して取り戻すことは、あんたの奥さんも承知してるのかな?」 「家内が承知してるかどうかってことが、あんたとどういう関係があるんだ? いったい……」 「奥さんが何も知らずにいるとしたら、内証で五百万円を調達するのはたいへんだっただろうと思ったんだよ」 「余計なお世話だと思うがね」 「余計なお世話にはちがいないがね。実のところ、ぼくはおどろいてるんだよ」 「何をおどろいてるんだ?」 「あんたが五百万円を用意したことをさ」 「ふざけちゃいけないよ。五百万出さなきゃノートを渡さないと言ったのはあんただぞ」 「ぼくは、まさかあんたがほんとうに五百万円持ってくるとは思っちゃいなかった」 「からかってるのか? おれを……」  島田は眼をむいた。首が見るまにまっ赤に染まって、その色がワイシャツの白い襟《えり》にまでうつるかと思うほどだった。すぐに島田の疲れてむくんだような顔も、怒りで赤黒い色に変った。食卓が小刻《こきざ》みに揺れた。食卓に突いた島田の両手の震《ふる》えのせいだった。 「からかってなんかいない。五百万といえばサラリーマンには大金だ。あんたの年収がいくらか知らないが、一千万としてもその半分に当る額だ。それだけの犠牲を払ってあんたはノートを取り戻そうと考えている。それは何のためなんだ? 五百万円であんたは何を守ろうとしているんだ?」  長峰は静かに言った。島田は唇を噛《か》んだ。 「きまってるじゃないか。裏切者の汚名をきせられないためだ。会社を追われて家族を路頭に迷わせないためだ」 「ぼくなら五百万出してノートを取り戻そうとは考えないね。ノートが明るみに出されたら、会社をやめればいいことだ。裏切者の汚名がそんなに怖いのかね。和子さんが告発した気持を継いでやろうという気はないのかね。五百万円をノートのために払ったことが、もし奥さんに知られたら、奥さんだっておれと同じことを言うんじゃないかね。五百万のことを奥さんが知らずにいるとしての話だがね。もっとも、この五百万円があんたの懐《ふところ》から出た金じゃなくて、誰かが出してくれたんだとしたら、話は別だけどね」 「誰がそんな金を出してくれるというんだ」 「ノートを欲しがって、ぼくの部屋を家捜ししていった連中が出してくれるかもしれないじゃないか」 「そんな連中のことは、おれは知らないぞ」 「だが、その連中はなぜだか、ぼくがノートを持ってるかもしれないと考えて狙いをつけてきた。不思議な話じゃないか」 「またその話か。いい加減にしてくれ」  島田は言って眼をそらした。島田の顔は赤みが消えて、いまは青黒い色に変っていた。 「いい加減にできると思うのか? 和子さんのことを考えてみろ。あんたの義理の妹だ。彼女が殺されたのは、強盗に押入られたからではなくて、もともとはあんたのノートを預ったことから起きた殺人だとしたら、あんたにも責任があるはずだろう」 「おれに何の責任がある! 和子は強盗に殺されたんだ。警察だってそう言ってる。言いがかりにしてもひどすぎるぞ、それは」  島田は声をふるわせた。充血した彼の眼が、焦点を失ったように見えた。 「警察が強盗説をとってるのは、状況から生み出した推理だろう。和子さんが告発とノートのことで殺されたと考えるのも、ぼくの推理だ。それも根拠のない推理じゃない」 「根拠? 妄想じゃないのかね?」 「城島建設が凝固剤の不正で、プロの脅迫屋の攻撃を受けてたってことは、ぼくは和子さんから聞いた。あんたのノートが明るみに出されれば、脅迫屋は仕事にならない。その点じゃ、理由はそれぞれちがっても、ノートが公表されては困るというところで、あんたと脅迫屋は同じ立場に立つことになる。ノートを取り戻したい一心で、あんたはそのことを脅迫屋に相談する。脅迫屋が強盗に化けて和子さんの部屋に押入り、ノートのある場所をしゃべらせる。ということは、脅迫屋と義兄のあんたが手を結んでるということを、和子さんに知らせることだ。だから和子さんは殺されなきゃならなかった。あんたと脅迫屋が手を結んでるからこそ脅迫屋にはぼくがノートを和子さんから預ってることがわかった——これがぼくの推理だ。反論があったら聞こうじゃないか」 「こじつけの理屈に反論したって意味はないからな。だいいち、あんたの話には証拠がないじゃないか」  島田は言った。喘《あえ》ぐような言い方だった。長峰はすでに十分に島田を追いつめた、と考えた。長峰は自分の推理が正確に事実を突いていることを確信した。長峰は椅子から立ちあがって、冷蔵庫から缶ビールを二本出し、島田と自分の前に黙って置いた。グラスは出さなかった。プルトップを引いて、缶に口をつけて飲んだ。島田にも眼でビールをすすめた。島田は乱暴な手つきで缶をつかみ、プルトップを引き、呷《あお》るような飲み方をした。 「さっさとノートを渡してくれ。約束は守ってもらうぞ、長峰さん」  濡れた口を掌《て》で拭《ぬぐ》って、島田が言った。 「約束を守るかどうかは、あんたの気持をはっきり聞いてから決めるよ」  長峰は言って、ベッドの枕の下に入れてあった島田のノートを取出し、食卓の上に置いた。島田がノートに手を伸ばしてきた。長峰はすばやくその手をつかんだ。長峰のもうひとつの手は、ノートをしっかりと押えた。 「いいか、島田さん。よく聞け。たしかにぼくの推理には客観的な証拠はない。だから当ってるかどうかはわからない。それはいまは置いとこう。だが、あんたには、ぼくの推理が事実を言い当てているかどうかわかるはずだ。あんたが脅迫屋と手を結んだ覚えがあるかどうかが、ぼくの推理の当否の岐《わか》れめなんだからな。それについて返事はしなくてもいい。もし、ぼくの推理が正しいのなら、あんたがしてることがどういうことかわかるだろう。そこをよく考えてほしいんだ。正義とかなんとかのためじゃない。自分の妻の妹を死に追いやったことに目をつむったままで、あんたが平気でこの先、生きていけるかどうかってことだ。どっちが自分のためか、選ぶのはあんただ。選ぶ時間はまだある。この先もうんとある。このノートを持って、あんたが警察に行けばいいんだから。それについて考えてみる気があるのなら、ノートは無条件でいま返す。五百万円と一緒に持って帰ってくれ。考えるつもりがないのなら、ノートは持って行ってもいいが、五百万円は置いといてくれ。口止料としてもらっとく」  言い終えて、長峰はつかんでいた島田の手を離した。島田の手首はつかまれていたところが指の形のままに白くなっていた。長峰はノートの上に置いた手も引いた。ビールを飲んだ。  島田はふらふらと立ちあがって、食卓の上のノートをつかんだ。それを筒《つつ》のように丸くして両手で持って胸の前に当てた。 「説教はたくさんだ」  島田は呻《うめ》くような声で言うと、五百万円を入れてきたクラッチバッグをつかみ、そのまま部屋を出ていった。叩きつけられるようなドアの閉まる音を長峰は聴いた。五百万円は食卓の上に残されていた。   4 〔六月二十六日 火曜〕 [#ここから2字下げ] 和子と一緒に風呂に入った。和子のマンションの小さな風呂だ。和子の全身をていねいに洗ってやった。和子は気の強いところが大いにあるが、同時に甘えん坊の一面も持っている。髪にドライヤーをかけてもらったり、躯《からだ》を洗ってもらったりするときの和子のようすに、それが隠しようもなく現われる。すっかり心を許して甘えているときの和子が自分は好きだ。美しい裸身に熱をおびて喘《あえ》ぎもだえているときの和子と同様に好ましい。 きょう、和子の乳房はいつもより固く張っていた。生理が近いからだという。自分は和子のすべてに強く惹《ひ》かれているが、とりわけ彼女の乳房と陰毛に執着《しゆうちやく》を覚える。躯を洗ってやるときの愉《たの》しみの大部分を、その二つのものに思うさま触れられることが占めている。 ベッドに入って愛撫《あいぶ》を重ねるときももちろん、心ゆくまで乳房と陰毛に触れるし、眼にもする。しかし、愛撫のためにそうするときとは異なった歓喜と満足とが、躯を洗ってやるときは得られるのだ。そのちがいをことばで説明するのはむつかしい。二つの場合のよろこびと満足とは、ともに性的なものだという点では同じだが、味わいの面では大いに異なる。愛撫のときよりも、躯を洗ってやるときのよろこびと満足のほうが、それ自体としては大きく深い。あるいはそれは、直接的なセックスの満足のための手だてにそれに触れるのではなくて、触れ、眺めること自体が目的となっているために、より淫《みだ》らな行為に思えるせいかもしれない。 そうやって、躯を洗われながら、一種、偏執的《へんしゆうてき》に乳房と陰毛に触れられ、そこを見られることに、和子も性的気分を昂《たか》めているのかどうかわからない。必要以上にそこをさわられたり見られたりすることに、和子がこだわっているようすはない。 あるいはそれは、ベッドの上で自分と和子が行なうことよりも、ある意味では淫らな行為と言えるかもしれないが、彼女の躯を洗うとき、ことさら淫らな姿勢を求めたり、こちらが不自然な姿勢をとらなければ見えないような部分の陰毛を眼に収めようとしたりすることは、自分はしない。 乳房と陰毛に執着を持ってはいるが、躯を洗ってやるときは、ごく自然な姿勢のままの和子のその部分を眺め、触れるのが自分は好きなのだ。また、そういう自然な姿のときのほうが、乳房も陰毛も清々《すがすが》しい美しさを感じさせる。 和子の乳房は豊かなほうである。乳暈《にゆううん》も広い。乳首は張りつめてくると細長い形になって、いくらか赤味を増してくる。乳首の付根《つけね》には糸で縛ったようなかすかな細いくびれが見える。乳暈と乳首の色は薄い。乳房は左のほうがやや大きい。ブラジャーをつけてもはずしても、その二つの豊かな乳房のために、和子の輪廓《りんかく》のはっきりした、気の強さと気性《きしよう》のはげしさの窺《うかが》える顔の印象がずいぶんやわらいでいる。和子の胸は、彼女の背中や脚の美しさをも引き立てている。 ブラジャーをはずしているときは、二つの乳房はわずかに重心を下げる。そのとき、乳房と胸との間に出来る浅いくびれの部分に手をさし入れて、掌全体で受けるようにしてそれを支《ささ》えるのが好きだ。そのとき掌全体を満たしてくるやわらかい重みと弾力の魅力は、たとえようもない。それこそ神が創造した中でもっとも美しいものではないかと思う。 和子の陰毛も気持を惹《ひ》きつけてやまない。ちぢれの弱い、黒というよりはチャコールグレイに近い、やわらかい毛だ。それがふくよかな陰阜《いんぷ》の上で線でも引いたように一直線に生《は》えぎわをそろえて、短冊形《たんざくがた》にこんもりとした姿を見せる。中央の部分は毛が寄り集まってすべてを覆い隠しているが、周辺は密度がうすくなって、まばらな隙間に白い地肌がすけて見える。 湯を浴びせると、陰毛はいっとき流れ落ちる湯に薙《な》ぎ伏せられて、ぺったりと地肌にはりつくけれども、すぐに身をもたげて、前よりも高くこんもりと盛りあがるかに見える。その小さな黒いくさむらが、ふっくらとした腹部や、くびれた腰や、すらりと伸びる太腿などの要《かなめ》となって、それらの官能的な美しさを強くきわだたせる。 [#ここで字下げ終わり]  長峰は、読み返していた日記代りのノートのページを閉じた。  彼はベッドのヘッドボードに背中をもたせかけて、それを読んでいた。和子と知り合って、しばらくしてから書かれたくだりだった。長峰はノートを枕の横に置き、横のテーブルからたばこをとって火をつけ、ウイスキーの水割りのグラスを口にはこんだ。三杯目の水割りだった。  部屋の明りは消してあった。スタンドの明りだけがつけられていた。食卓の上には、百万円の五つの束が、数時間前に島田が重ねたままの形で置かれていた。それが、長峰が試みた賭けの答だった。  長峰は、賭けに敗れたと考えていた。彼が考えていた勝利は、島田の口から和子が殺されたほんとうの理由を吐《は》かせることだった。だが、島田は五百万円をそこに残して、無残なようすで帰っていった。  賭けには負けたが、長峰は失望してはいなかった。理不尽《りふじん》な殺され方をした和子のことが、長峰に失望を許さなかった。  島田は今はまだ、義妹《いもうと》を死に追いやった心の咎《とが》めと闘って、どうにか持ちこたえている。だが、攻め方を変えれば、奴は崩れる。島田を崩せば、和子を殺した脅迫屋の正体は突きとめられる。そのとき、島田と脅迫屋を裁《さば》くのは自分だ——長峰は、たばこの煙の行方《ゆくえ》を眼で追いながらそう考えた。明白な殺意が、長峰の中に生れていた。初めてのことだった。殺意は、島田にしかけた賭けに敗れたことで頭をもたげてきたものだった。長峰はそれにたじろぎも迷いも覚えなかった。疑問さえも。和子を失ったことで生じた心の空白を、島田と脅迫屋に対する殺意でもって埋めようとするかのように。  グラスは空《から》になった。長峰はテーブルの上の時計を見た。午前零時をまわっていた。目覚しは午前六時半にセットしてあった。眠れるという気はしなかった。だが、長峰はたばこを灰皿でていねいに消し、スタンドの明りを消した。眼を閉じた。  暗闇は眠りよりも、むしろ覚醒《かくせい》を長峰にもたらした。和子の笑った顔が瞼に浮かんだ。それはすぐに、裸の躯に乾いた血の痕《あと》をいっぱいにつけて、宙にうつろな眼を見開いて床にころがっていた和子の姿に変った。それが長峰が最後に眼にした和子の姿だった。和子の短い人生の終りの姿だった。長峰は眼を閉じたまま、低い唸《うな》り声を洩らした。  和子の人生の終りの姿にダブって、長峰自身の人生の終末の姿が思い浮かんだ。長峰は鉄格子《てつごうし》と壁で囲まれた独房にいた。空を眺めていた。そうやって空に眼を向ければ、そこに和子の光り輝くような笑顔が浮かび、そこから眼を他に移せば、血にまみれて息絶えた島田功と脅迫屋の姿が浮かんでくる日夜——そういう自分の人生の末路の予想は、長峰をたじろがせることがなかった。むしろ惹かれた。そういう末路が、どうということもなく、ただひとつのくすんだ暗色で表わせるような自分のそれまでの人生に、意味とまでは言わないにしても、もうひとつ別の色か光かを添えてくれる気がしたのだ。  音がした。小さな音だった。紙の立てる音に似ていた。長峰の耳はその音に馴れていた。侵入者にあけられた窓の四角い穴をふさいだビニールが、外の風を受けて立てる音だった。風が出てきたのだろう、と長峰は思った。湿度が高かった。  今度は別の音だった。何かがこすれ合うような固い音だった。窓のところで聴こえた。長峰は眼を開けた。音が変った。窓が静かに開けられる音だった。カーテンの金具がかすかに鳴った。  長峰ははね起きた。同時に強い光が長峰の眼を打った。窓からとびこんでくるいくつかの人影を、長峰は見た。ベッドの足もとに手を伸ばした。そこに脱ぎすてたズボンのポケットにナイフが入っていた。光で眼が眩《くら》んでいた。ズボンに手が触れた。ナイフをつかみ出すことはできなかった。  髪をつかまれた。口を塞《ふさ》がれた。眼の十センチ先のところに、ライトが突きつけられた。耳の下のあたりに、刃物の感触があった。両腕を捻《ね》じあげられた。視界が白くなった。眼の芯が痛んだ。 「声を出すんじゃねえぞ。服を着ろ」  耳もとで男が囁《ささや》いた。長峰は頷いた。恐怖で全身がこわばっていた。それと長峰は闘った。服を着ろといった男のことばの意味するものを考えた。この場で殺すつもりはなさそうだ、と思えた。どこかに連れ去るために服を着ろと言ってるのだ、と長峰は考えた。パジャマは着ていなかった。ブリーフ一枚の姿だった。寒い季節でない限り、自分の部屋ではいつも裸で寝る習慣が、一人暮しをはじめてから身についていた。  ベッドから引きずりおろされた。髪と腕はつかまれたままだった。口にガムテープが貼られた。両腕が放された。髪をつかんだ手はそのままだった。ライトの光と白く光るドスが、眼の前にあった。  長峰は立ちあがった。ベッドの上に脱ぎすてたスポーツシャツとズボンをはいた。ズボンのポケットの中のナイフが、脚に触れてきた。ボディチェックをされないことを、長峰は心から祈った。 「窓を閉めろ。ドアを開けて外を見ろ。テーブルの上の札束、忘れるなよ」  ライトの後ろの暗がりで、そういう声が低くひびいた。ライトの光で視力にダメージを受けた長峰の眼には、男たちの姿は見えなかった。  窓が閉められ、カーテンが引かれた。一人が部屋の入口のドアを開けて、先に外に出た。その男がふり向いて、部屋に向って手を振った。ライトが消された。長峰は両側から腕を抱えこまれた。歩かされた。靴をはかされた。素足に通勤用の靴をはいた。  アパートのブロック塀の前に、ワゴン車が停まっていた。黒っぽい色の車だった。門灯の明りで、車のナンバープレートの文字が読めた。長峰は品川《しながわ》ナンバーのプレートの数字と平仮名《ひらがな》を、頭に叩きこんだ。それが役に立つかどうかはわからなかった。いまできるのはそれだけだと思った。両腕をしっかり抱えこまれていては、ポケットのナイフを出すこともできない。襲撃した相手の人数すら、長峰には正確にはつかめていなかった。  ワゴン車の後部ドアの前に、長峰は立たされた。ワゴンのドアが開けられた。同時に、襟足《えりあし》のあたりに長峰は固くて熱いものが当てられるのを感じた。熱と、強く叩かれるような衝撃が全身に走り、一瞬のうちに長峰は意識を失った。   5 〔同月同日〕  腕の痛みで、長峰は意識を回復した。  腕の痛みの原因はすぐにはわからなかった。自分がどこでどうしているところなのか、といったことも、まだはれきっていない意識の霧の中に隠れていてわからなかった。  それを思い出させてくれたのは、頭の芯の不快な重みと鈍痛《どんつう》だった。それが、意識を失う一瞬に全身を襲ってきた衝撃を思い出させた。襟足のところにひりつくようなかすかな痛みが残っていた。  殴られた記憶はなかった。一気に全身にしびれを伴《ともな》う衝撃が走ったのは覚えている。電気に触れたときの感じに似ていた、と長峰は思った。  左の肩を下にして、くの字に躯を折り、首をねじるようにして倒れていた。左の腕が躯の下を通って、腰の下から突き出ていた。腕の痛みはそのためだった、と納得した。躯を浮かせて、左の腕を抜いた。それから眼を開けた。 「目が覚めたな」  声が頭の上から落ちてきた。そっちに長峰は眼をやった。車の天井が見えた。シートがあった。シートの上から身を乗り出してこっちを見おろしている男の顔が、ほの暗い中に見えた。ワゴン車のことが思い出された。ワゴン車の床に自分が横たわっていることを納得して、長峰の頭から霧が吹き払われた。口には粘着テープが貼られたままだった。手足は縛られていなかった。長峰はゆっくりと起きあがった。脚をさするふりをして、ポケットをなぞった。ナイフはそこに入っていた。口を塞《ふさ》いでいる粘着テープをむしり取った。男は何も言わなかった。ワゴンは停まっていた。ガレージの中のようだった。  クラクションが小さく鳴らされた。その音は、ガレージらしい建物の中で反響した。 「いい時間に目を覚ましてくれたな。電気ショックの味はどうだった?」  男が言った。髪の短い若い男だった。運転席にもう一人男がいるようすだった。電気ショックと言った男のことばで、長峰は自分が意識を失った理由を知った。どこで知って覚えていたのかわからないままに、スタンガンということばが、長峰の頭に浮かんできた。  建物のどこかでドアの開く音がして、足音が聴こえた。すぐにワゴンの後ろのドアがはね上げられた。シートから立ちあがった男が、長峰の横に膝を突いて、彼の腕をつかんだ。車の外にいた男も立ったままで、もうひとつの長峰の腕をつかんだ。  車の外には二人いた。一人がウイスキーの壜《びん》を手にさげていた。その男の顔に薄笑いが浮かんでいた。男たちはみんな二十代に見えた。長峰の躯は、ワゴンの側壁に押しつけられた。 「こっちに来て、こいつの膝を押えろ」  ウイスキーのボトルを持った男が、運転席に向って声を投げた。運転席にいた男が、車を降りてやってきた。その男は車の外に立ったままで、長峰の膝を抱えこむようにして押えた。 「一杯やれや」  ウイスキーのボトルの蓋《ふた》をはずしながら、男が言った。長峰は口を結んでいた。何が始まるのか、わからなかった。腕を抱えこんでいた男の一人が、長峰の鼻を強くつまんだ。ボトルを持った男が、腰のうしろからドスを抜き出した。刃先が長峰の唇に当てられた。 「口を開けろ。一杯飲ませてやるからよ」  ドスとボトルを手にした男が言った。唇が切れた。長峰は息ができない苦しさから、口を開けた。ドスが歯と歯の間にすべりこんできた。ボトルを持ったままの手が、長峰の顎《あご》をぐいと押し上げた。長峰の眼がひきつった。恐怖と怒りが渦《うず》を巻いていた。恐怖のほうが勝っていた。舌先がドスの刃に触れた。痛みは感じなかった。  ウイスキーのボトルの口が、下の前歯の上に当てられた。ボトルが傾けられ、酒が流れこんできた。喉《のど》が熱くなった。酒は喉の奥にじかに放りこまれるようにして、流れこんできた。それが胃に落ちていくのが、はっきりと感じられた。 「むせるなよ。ドスで舌が切れちまうぞ。むせないように飲めよ」  ボトルを持った男が、薄笑いを浮かべたままで言った。他の男たちが押し殺したような笑い声を洩らした。長峰は身動きができなかった。息が苦しかった。ドスをくわえさせられたままでは、むせるのが怖かった。必死でこらえた。唇の外にこぼれ出て行く酒よりも、胃の中に落ちていく酒のほうが多いように思えた。 「もうしばらくすると、一番電車が踏切を通るんだ。そのときおまえはもう一回電気ショックで眠るわけだよ。線路を枕にしてな。眠ったまま電車に轢《ひ》かれるんだから、痛くもなんともねえさ。楽に死ねる。安心しろ。新聞には、酒で酔っぱらった男が、線路に寝てて電車に轢かれて死んだって記事が出るだろうな」  ボトルを持った男が言った。長峰はまたむせそうになった。呼吸をとめて、詰まりそうになった喉を無理に押し開いた。恐怖で眼が眩《くら》んだ。心臓が躍《おど》りはじめていた。  ドスとボトルが、ようやく口から離された。ボトルの酒は四分の一ぐらいに減っていた。長峰は、自分の胃の中に溜まっている酒の量を考えた。寝酒の分の下地もあった。  腕が放された。膝を押えていた男も躯を起した。鼻から空気が吸えた。吸ったとたんに長峰はむせて咳《せき》こんだ。胃が躍り、中身がこみあげてきそうになった。長峰は咄嗟《とつさ》に口に指を突っ込んだ。胃の中のウイスキーを吐き出してしまおうと思ったのだ。 「ばかやろう!」  怒声が飛んだ。口もとに当てた手をつかまれた。髪をつかんで上体を引き起こされた。吐き気はどこかに消し飛んでいた。 「口に指を突っ込めねえように、両手を縛っとけ」  ボトルを持った男が言った。一人が車のダッシュボードの物入れから、粘着テープを持ってきた。長峰の両手は背中に回され、テープで縛られた。長峰は喘いだ。急速にアルコールが回りはじめていた。ワゴンのドアが閉められた。男たち全員が、ワゴンに乗った。絶望と恐怖が、長峰の胸に歯を立ててきた。ワゴンが走り出すようすはなかった。一番電車が走る時間が来るのを待っているのだろう、と思われた。男の一人が最初に『いい時間に目が覚めた』と言った意味を、長峰はそのとき理解した。  長峰は眼を閉じて、ワゴンのドアに肩でもたれかかった。和子のことを考えようと努《つと》めた。恐怖を組み伏せて、くじけかかっている気持を立て直すには、それしかないと思った。和子の笑顔は浮かんでこなかった。乳房がおぼろに思い出された。陰毛も眼に浮かんだ。すぐにそれらは消え去った。死体になった和子の姿を、長峰は思い返した。殺されはしない、と自分に声を投げた。助かるチャンスはまだある——。 「相原和子を殺したのは、おまえらだな」  ひとりでにことばが長峰の口を突いて出た。唸《うな》るような低い声だった。返事はなかった。男の一人がくぐもった笑い声を立てた。 「答えろ。おれはどうせもうすぐ、酔っぱらいの轢死体《れきしたい》になるんだろうが。ほんとうのことを教えてから殺すのも供養《くよう》のうちだと思わないのか」  長峰は言った。わずかに恐怖の重圧が軽くなる気がした。ことばを口にしているせいかもしれない、と考えた。 「おまえの供養か? それとも相原和子の供養か?」  声が返ってきた。長峰は眼を閉じたままだった。声を返してきたのが、自分の口にウイスキーを流しこんできた男だというのが、その声でわかった。顔もはっきり眼に浮かんできた。 「おれの供養だ。相原和子はおまえらの供養なんか受けはしないだろうよ」 「生きていてもらっちゃ困る奴には、死んでもらうしかない。おまえも相原和子もだ」 「島田もそう言ったのか?」 「島田だよ。相原和子とおまえにいちばん生きていてほしくないと思ってたのは。島田が相原和子の命を売りに、おれたちのところにやってきたんだぜ」 「やっぱりそうだったんだな」 「そういうことだ」 「楽しみだ」 「なに?」 「楽しみだと言ったんだよ」 「殺されるのがか?」 「新聞記事だ」 「新聞記事?」 「おれが飲みすぎて線路に寝てて一番電車にはねられて死んだというふうに、記事に出るかどうか、楽しみだ」 「何が言いてえんだ?」 「島田のノートだよ」 「ノートがどうした?」 「ノートは島田に返した。だがコピーがある。そのコピーには、おれの遺書が書き添えてある。おれが妙な死に方をしたときに、どうしてほしいかってことを書いた遺書だ。おれが普通じゃない死に方をしたってことがわかったら、遺書を書き添えたコピーはすぐに警察に持ち込まれることになってる」  長峰は言った。言いながら長峰は血で汚れた口もとに薄笑いを浮かべることができた。沈黙が生れた。長峰は眼を開けた。四人の男たちの眼が、シートごしに長峰に注がれていた。どの眼も、いま聞いたばかりの話の真偽を決めかねている表情に見えた。それらの顔が、長峰にはひどく子供っぽく見えてきた。困惑《こんわく》や狼狽《ろうばい》や、それを押し隠そうとするような凶暴さが、そこにむきだしになっていたからだった。しかし、長峰は、少しも勝ち誇った気持など味わえなかった。彼は、いまハッタリとして口にしたことを、実際に用意していなかったことを、地団駄《じだんだ》を踏む思いで悔《く》やんだ。 「呼んでこい」  助手席にいた男が、右手の親指を立てて、運転席の男に言った。親指を立てたのは、長峰の口にウイスキーを注ぎこんだ男だった。運転席の男は車を降りて、ガレージから出て行った。  男たちは口をきかなかった。長峰も黙りこんだ。ハッタリが効を奏したとしても、殺される時が少し先に延びるだけのことかもしれない、という思いが長峰に生れていた。ノートのコピーのある場所を知るために、男たちがどういう手段を取るかということは、考えてみるまでもなかった。  ガレージから出ていった男がしばらくして戻ってきた。小柄な四十がらみの男が一緒だった。その男は、髪をきちんとととのえて、縁《ふち》なしの眼鏡をかけ、夜中だというのにネクタイをしめていた。上衣は着ていなかったが、紺色《こんいろ》のベストを着ていた。ネクタイの結び目はゆるめられていた。  外からワゴンの後部ドアが開けられた。中年の男は、長峰の肩ごしに助手席の男に眼を投げ、小さな身ぶりで手招きした。助手席の男は車の横を回ってやってきた。中年男は、物も言わずにその男の頬を掌で殴りつけた。往復ビンタだった。殴られた男は倒れかかり、ガレージの壁に肩を打ちつけた。そこに蹴りが飛んだ。蹴られた男は呻き声をあげたが、すぐに直立の姿勢を取った。  中年男は殴ることを止めた。長峰は、若い男が殴られたわけを察した。中年男は、自分を呼びに来た男から、長峰とその若い男との間で交《かわ》されたやりとりを聞いたにちがいなかった。若い男が長峰に余計なことをしゃべった代償が、掌の往復ビンタと蹴りだったのだろうと思われた。 「島田のノートのコピーは、あんたの役には立ちませんよ、長峰さん。そんなものはわたしはちっとも怖くはないね」  車の外に立った中年男が、長峰のほうに躯を向けて言った。この男がプロの脅迫屋なのだろう、と長峰は考えた。小柄で平凡な容貌の男だったが、若い男を物も言わずに殴りつけたときの迫力や、長峰に向けられた眼にこもった酷薄《こくはく》な印象は、やはり尋常《じんじよう》ではなかった。 「だったら、さっさとおれを殺せばいい」  長峰は言った。口を開けばそこからことばと一緒に恐怖もいくらかは抜け出ていく気がした。 「もちろん、そうさせてもらいます」 「墓穴《ぼけつ》を掘るわけだ」 「どうかな? わたしは賭けに強い男でね。まず敗《ま》けない。島田のコピーはどこかにあるかもしれない。だが、あんたの遺書があるというほうには、わたしは賭けないね。そんなものをあんたが用意してるのなら、島田にノートを返すはずはないからですよ。あんたは五百万円で島田にノートを売った。なのにどうして遺書が必要なんだろうか?」 「こういうめにあうことも、予測していたからだ」 「予測は見事に当ったわけです。しかし、ノートのコピーも、あるかないかもわからないあんたの遺書も、日の目は見ませんね。人間て奴は動物の中でいちばん恐怖に弱い生き物ですからね。相原和子につづいて、あんたが命を失ったとなれば、ノートのコピーをあんたから預ってる人間がまっ先に考えることは、長生きしようってことです。決まってる」 「そう考えない人間もいるかもしれないぞ」 「でしょうな。いたらお目にかかりましょう。そして認識をあらためますよ」  男は言ってドアを閉め、背中を見せてガレージから出て行った。殴られた男が、直立不動の姿勢を解いて、助手席に乗り込んだ。男の口もとは脹《ふく》れあがっていた。   6 〔同月同日〕 「行くぞ。時間だ」  助手席の男が言った。  運転席にいた男が、車を降りてガレージのシャッターを上げた。外はまだ暗かった。男が運転席に戻って、ワゴンのエンジンをかけた。口をきく者はいなかった。四人の男たちは、シートに躯をもたせかけて前を見ていた。ワゴンはガレージからすべり出た。  長峰はワゴンの後部ドアの窓の外に眼を投げた。生きのびられるかどうかはわからない。だが、自分が連れこまれ、連れ出された場所がどこなのか知っておきたい、と長峰は考えた。  道は広くはなかった。ガレージも小さかった。ガレージの横に古びた粗末《そまつ》な木戸のようなものがあった。そこから有刺《ゆうし》鉄線をめぐらした囲いがのびていた。囲いの奥に、大きなプレハブらしい平家《ひらや》の建物が見えた。建物の先に、黒い木立ちが濃い影を見せていた。その木立ちをほの白く四角に区切ったようにして、宙に浮いて見えるものが眼についた。建物の屋根の上に何か乗っているようすだった。それが何であるのか、見定めることはできなかった。  ワゴンはスピードをあげた。道の両側には人家が並んでいた。住宅地かと思われた。薬屋があった。広い道路を横切った。信号があった。農協前という案内板のついた信号だった。すぐ先に、農協と思える建物が見えた。その建物の正面にシャッターがおりていた。シャッターに〈羽村町《はむらまち》農業協同組合〉という文字が並んでいるのが見えた。長峰はその町名に覚えはなかったが、東京の近郊であることはまちがいなかった。  やがてワゴンは右折した。いくらも走らないうちに、大きな道路案内の標識が見えてきた。長峰は案内板の文字に眼をこらした。前方の交差点で、その道が新《しん》青梅《おうめ》街道と交わることがわかった。交差点を左折すれば青梅に向い、右折すれば田無《たなし》に至ることを、案内板は示していた。  長峰は、自分がいる場所と、ワゴンがしばらく停まっていたガレージのある場所の見当がついた。しかし、恐怖は去らなかった。  どこかの電車の踏切のところまで行き、そこで始発電車のやってくるのを待ち、スタンガンで眠らせて——長峰は、ウイスキーを口に注ぎこまれながら聞いた男のことばを思い出した。スタンガンの威力はすでに思い知らされていた。恐怖がまたつのってきた。だが、思考までが侵《おか》されていたわけではなかった。  車は新青梅街道を右折した。長峰は車の床に投げ出した両脚を曲げ、膝を立てた。腰をわずかに前に押し出した。そのまま肩を車の側壁にもたせかけた。ナイフはズボンの尻の右側のポケットに入っていた。テープで縛られたままの手で、こっそりとナイフを取出すのは、簡単にできた。不自由な両手で、ナイフの刃を出すのは、容易ではなかった。縛り合わされた手首を必死にねじって、わずかに刃先を引き出すことがようやくできた。  長峰は男たちのようすに眼を向けたまま、その仕事に没頭した。わずかに引き出したナイフの刃先を、車の床に押しつけ、柄を手前に引くようにした。かすかなスプリングの手応《てごた》えとともに、ナイフは伸びた。  困難がもうひとつ待っていた。手首に巻きつけられている粘着テープを切らなければならなかった。長峰はナイフを逆手《さかて》に持って、手首を強く曲げ、手首とテープとのわずかな隙間を刃先で探し、そこにナイフをすべりこませることを、くり返し試みた。何度も刃先が手首を刺した。  ワゴンはしばらく走ってから、大きな交差点を右折した。それが府中《ふちゆう》街道だということも、道路案内板が長峰に教えてくれた。  ナイフはようやくめざす場所を探しあて、そこにすべりこんだ。粘着剤がナイフにくっついて、テープは簡単には切れなかった。切れるはずだ、ということしか長峰の頭にはなかった。繊維《せんい》を織り込んだ作りのテープだった。ナイフがその繊維を断ち切る手応えがつづいた。そして不意に、両の手首が離れた。長峰はひそかに吐息《といき》をついた。両手は後ろに回したまま、手首に貼りついているテープを剥《は》がした。それからナイフを右手ににぎり、背すじを立てた。両手は後ろに回したままにした。テープを切ったことは、男たちにはまだ知られてはならなかった。  いくらか空が白みはじめていた。ワゴンは五日市《いつかいち》街道に出て左折した。そのあたりにくると、長峰にも土地勘《とちかん》がはたらいた。  ワゴンが停まったのは、立川《たちかわ》市と国立《くにたち》市の境界に近いあたりと思われた。一方通行の住宅地の中の道だった。ワゴンのライトが消され、エンジンが停められた。うしろのシートに坐っていた男が、たばこに火をつけた。すると、他の三人もつられたようにたばこを取出した。口をきく者はいなかった。  長峰は、頭の中で地図を開いた。近くにJR中央線の線路が走っているはずだった。だが、それらしいものは長峰のいる場所からは見えなかった。腰の後ろに回してナイフをにぎりしめている手と腕がこわばっていた。そこから先に男たちがどう動き、どういう結果が自分を待ち受けているのか、長峰には見当がつかなかった。  結果は二つに一つだった。殺されるか。死地を脱するか。——長峰は識《し》らぬまに、きつく歯を噛みしめていた。自分の胸に歯を立ててくる圧倒的な恐怖を、長峰は嘲笑したかった。自分の人生に何の未練もない、などと多寡《たか》をくくったつもりになっていた自分を嘲笑したかった。 「時間だ」  助手席の男が言うのが聴こえた。長峰は息を詰めた。全身の肌が粟立《あわだ》った。毛穴と毛根のすべてが、音を立てて口をひろげていく気がした。  男たちがワゴンから降りた。ワゴンの後部ドアが勢いよくはねあげられた。四人とも並んでそこに立っていた。助手席にいた男が、手に角ばったものをにぎっていた。スタンガンにちがいない、と長峰は思った。  一人が無造作《むぞうさ》に手を伸ばしてきて、長峰の髪をつかもうとした。長峰の頭の中は空白で占められた。長峰は腰の後ろに回した右手を斜め前に突き出した。ナイフは長峰の髪をつかもうとしていた男の下腹を刺していた。長峰はそのまま、その男に体当りして、車の外にとび出した。刺された男が喚《わめ》き声をあげてはじきとばされた。長峰も膝が折れて路面にころがった。声を立てるな、と言う低い怒声を耳にしながら、長峰は立ちあがろうとした。  男の一人が横から長峰にとびかかってきた。長峰は反射的にナイフを突き出した。ナイフは男の膝の上を刺した。倒れかかってきた男の上体を肩ではじきとばして、長峰は立ちあがった。 「くそ!」  呻《うめ》くような声を立てて、男の一人がドスを抜いた。男の左手にはスタンガンらしいものがにぎられていた。立っているのは長峰の他には二人だけだった。一人は素手で身がまえていた。  助かった、という思いが、空白になっていた長峰の頭に光のようにさし込んできた。 「おい、スタンガン持て」  ドスを持っていた男が、長峰に眼を向けたまま、もう一人の男に言った。スタンガンがその男に手渡された。同時に、ドスを持った男が突っこんできた。長峰は横に跳んでかわしたつもりだった。思うように躯はすばやくは動かなかった。ドスが無意識に宙に躍った長峰の左の手首のあたりを叩いた。長峰はほとんど反射的にナイフを横に払った。  男の動きが一瞬、止まった。映像のストップモーションのようだった。長峰はザクッとした手応えと一緒に、ひろげた布を細い棒で叩いたような音を聴いた。男の首から血が吹き出した。血は吹き出した一瞬は、赤い短い棒のように見えた。ナイフは男の耳の下から喉のあたりまでを、一気に鋭く切り裂いていた。  男の手からドスが落ちた。男の両膝が折れ曲った。男の躯はまるでたたまれてゆく提灯《ちようちん》のように沈みこみ、路上にころがった。スタンガンを持った男は、呆然《ぼうぜん》と立っているだけだった。  長峰は、身をひるがえして走り出した。他にはすることを思いつかなかった。誰も追ってこなかった。長峰は二つめの角をあてなしに曲った。そこで足を停めた。左の手から血が滴《したた》り落ちていた。痛みは感じなかった。  服の袖《そで》をまくった。手首から先が血で染まって光っていた。傷の程度はわからなかった。角のブロック塀に躯を寄せて、長峰はワゴンの停まっているほうに眼を投げた。  ワゴンのルームランプが見えた。街灯の明りも見えた。男が長峰に刺された三人の男たちを、一人でワゴンの中に担《かつ》ぎこんでいるところだった。  長峰はそこから眼を離さなかった。空がかなり明るくなっていた。電車の音が、遠くからひびいてきた。男はようやく三人の男たちをワゴンに担ぎこみ、後部ドアを閉めた。  ワゴンはすぐに走り去った。ワゴンのライトが、踏切の遮断機《しやだんき》と警報器を照らし出した。ワゴンが視界から消えた。長峰はその場に坐り込んだ。右手に持ったままのナイフの先からも、小さな血の雫《しずく》が滴り落ちていた。それが、路面に小さな黒いしみをつけていた。首から棒のように血を吹き出した男は、助かるまい、と長峰は考えた。頸動脈《けいどうみやく》からの出血と思われた。人を殺した、と思った。だが、その実感はなかった。  電車の音が近づいてきた。踏切の警報がひびきはじめた。赤いランプが点滅《てんめつ》をはじめていた。長峰は立ちあがった。ナイフを折りたたんで、ポケットに入れた。右手も男たちの血で手首まで濡れていた。服の右の袖と胸の右側半分にも、返り血を浴びていた。そういう姿を人に見られてはならない、と長峰は考えた。電車が踏切を過ぎていった。  アパートにひとまず帰るしかなかった。方角の見当をつけて長峰は歩き出した。  すぐに小さな幼稚園らしい建物と庭が眼についた。長峰は幼稚園の庭をフェンスごしに見回した。建物の前に水道の蛇口《じやぐち》らしいものがあるのが、ぼんやり見えた。門は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。門扉に血がつくのを虞《おそ》れて、足で押して門を開けた。水道を出して、両手の血を洗い流した。上衣は脱いだ。  返り血はシャツにもしみとおっていた。長峰は脱いだ上衣をナイフで裂き、それを使って手首の傷口を縛り、止血《しけつ》をした。左の手首の外側の肉が、五センチぐらいの長さで断ち割られたようになって開いていた。水道の水で洗っているときに、開いた傷口の底に白いものが見えた。骨だろうと思われた。  また歩いた。傷が痛みはじめた。胸がむかつき、頭がズキズキと疼《うず》いた。無理に胃の中に注ぎこまれたウイスキーのせいだった。心臓が躍っていた。  見覚えのある商店街に出た。国立市だった。そこからは国立駅まで、歩いて十分ぐらいの距離だった。国立駅から長峰のアパートまでは、さらに二十分はかかる。  長峰は、脱いだ上衣を右の肩に担ぐようにして、シャツの返り血をかくし、歩きつづけた。   7 〔六月二十七日 水曜〕  午後十一時になろうとしていた。  島田は高島平《たかしまだいら》で地下鉄を降りた。足もとがふらつくほど、島田は酔っていた。  地下鉄を降りて、団地に向う人の列ができていた。島田はたちまちその列からとり残されていた。列から離れていくにつれて、島田の足はますます遅くなった。  団地の敷地内に入る手前に、シルバーグレイのベンツが停まっていた。島田は首を前に落して、躯をゆらしながら歩いていた。彼の眼にはベンツは映っていなかった。ベンツの横を通りすぎるときも、彼はその車に眼をやろうともしなかった。  ベンツのドアが開いて、中から堀越が半身を外に乗り出し、島田の名前を呼んだ。島田は足を停め、大きく躯をゆらめかせてふり向いた。 「堀越さん……」  島田はにごった声を出した。呂律《ろれつ》はさほど乱れていなかった。 「乗らないか。話がある」  堀越は言って、シートの奥にひっこんだ。島田は堀越の横に腰をおろしながら、運転席にいる男を見た。いつもベンツを運転している男ではなかった。はじめて見る顔だった。助手席にも若い男がいた。その顔にも島田は覚えがなかった。 「ドアを閉めてくれ。ちょっとドライブしよう、その辺を……」  堀越が言った。島田は車のドアを閉めた。ベンツが走り出した。 「ご機嫌《きげん》らしいね。だいぶん入ってるな」  堀越が言って、たばこを出した。 「思ったほどは酔えないもんですね、こういうときは」  島田は助手席のシートの背もたれを両手でつかみ、肩の間に首を落し込んだ恰好《かつこう》で言った。その鼻先に、堀越が蓋を開けたままのパーラメントを突き出してきた。島田は顔を上げて、戸惑った眼で堀越を見た。堀越にたばこをすすめられたのは、それがはじめてだった。 「どうぞ……」 「いただきます」  島田はパーラメントを一本抜き取った。堀越が金張《きんば》りのダンヒルの火をつけて、島田のほうにさし出した。島田はたばこに火をつけた。堀越もくわえていたたばこに火をつけた。 「うまくいったんですね?」  島田が言った。 「それが気になったんで、思うだけ酔っぱらうつもりで、酒を飲んでたってわけか?」 「気になって落着かなかったんです。どの夕刊にも長峰のことは出ていないし、飲み屋のテレビにも気をつけてたんですが、そういうニュースは出なかったものですから」 「状況が変っちまってね、島田さん」 「変ったって、どう?」 「悪いほうに変った。最悪のほうにね」  堀越は言った。口調はいつもと変らず、静かだった。 「どういうことですか?」 「若い者がドジっちまった」 「じゃあ、長峰は生きてるんですか?」 「死んだのはうちの若い者だ。あんたも何度か会ってる男だ。わたしの運転手とボディガードをつとめてた男さ」 「あの人は死んだんですか?」 「土壇場《どたんば》で長峰にやられた。油断があったんだ。長峰って男を甘く見てた。長峰はナイフを持ってたんだ。あの男は本気だったんだね。本気で相原和子の事件の真相を暴《あば》くつもりでいたらしい。だからナイフまで持ち歩いてたんだろう、きっと」 「ナイフで刺されて死んだんですか? あの人は」 「一発で首の動脈を切られたようだな。ただ者じゃないと思うな、長峰って男は」 「どうなるんですか、これから……。死んだその人のことで、警察が動くでしょう?」 「それは手を打った。奴の死体を刺された現場に戻させたんだ。喧嘩《けんか》して殺されたと警察では見ている。夕刊にそう出てた。長峰が人を殺したと言って自首して出ない限り、喧嘩の相手は見つかりっこない」 「自首するんじゃないですか? 長峰は。そして何もかも警察に話すんじゃないんですか? 堀越さん」  島田の声はひきつっていた。 「そうなったら、あんたもわたしも一巻の終りだ。だが、そうはならんさ」 「断言できますか?」 「断言はできない。だが、わたしにはわかる。何もかも警察にばらすつもりなら、長峰はもっと早くやってるよ。あんたがノートを五百万円で買い取ると言ったときにね。あんたがノートに五百万円を払うつもりだと知ったときに、長峰はあんたが相原和子殺しに関わってるという確信を持ったはずだよ。だが、長峰は警察には行かなかった。ノートも返した。いまは長峰は殺人犯になった。正当防衛だって人を殺したことに変りはない。それでも、奴はまだいまのところ、警察に駈け込んだようすはないんだ。それは、長峰の目的がはじめから、ただ事件の真相を暴くということだけじゃなくて、相原和子の復讐にあったからだ、とわたしは見てる。それに加えて、自分が電車に轢《ひ》かれて殺されるところだったということがわかったいまは、長峰はいっそう復讐の気持を強くしてるはずだよ」 「奴は、長峰はいまどこにいるんですか?」 「わかってたら、あんた、奴を殺しに行くかね? 島田さん」 「それは、できないって、ぼくにはやれないって言ったじゃないですか」 「長峰は姿を消した。アパートにいないんだよ」 「探し出して、始末してください。頼みますよ、堀越さん」  島田は堀越のほうに躯をふり向け、堀越の膝を両手でつかんではげしくゆすり立てた。 「探し出すことはない。奴は自分から姿を現わすよ。わたしの前と、あんたの前に必ずね。もちろん、あんたの前に現われるほうが先だろう。長峰はわたしのことも旭道《きよくどう》青年塾のこともまだ知らないはずだから。あんたのノートにも、わたしが城島建設に圧力をかけていることは書かれちゃいなかったしね」 「長峰はぼくを殺す気なんだ。なんとかしてください、堀越さん。頼みます。ぼくを守ってくださいよ」 「終りだな」  堀越は言って、膝をつかんでいる島田の手をつかみ、ゆっくりとひとつずつ押しのけてはずさせた。島田が息を呑《の》んだ。 「終りって、どういうことですか?」 「あんたを守ってやりたいけどね、守りきれるという自信はないんだよ。そうだろう。長峰がいつどこであんたを殺しに出てくるか、まったくわからないんだよ。予測はつかない。あんただって会社もあれば家庭もある。四六時中ボディガードに張りついてもらうわけにいかないだろうが……」 「どうすればいいんですか?」 「自分の身は自分で守るしかないね。もっとも、殺される前に自殺するという手はある」 「自殺……」 「楽になるよ。死んでしまえば一切《いつさい》が終るんだから。わるい手じゃないと思うがね」  島田の喉が鳴った。嗚咽《おえつ》をこらえたような音だった。彼は両腕で頭を抱えこんだ。 「長峰はあんたの前に必ず現われる。そして殺す前に、わたしの素性《すじよう》や住んでる場所なんかをあんたにしゃべらせるはずだ。あんたはしゃべらずにいられる男じゃない。自分で自分の身も守れない男が、だらしのない口に蓋をしておくことができるはずはないからな。その証拠に、相原和子が告発をして、ノートを誰かに預けたとわかったとたんに、あんたはわたしのところに泣きついてきたじゃないか」 「自殺しろと言うんですか、ぼくに。長峰に素性をしゃべられたくないから、ぼくに死ねって言うんですか?」 「誰だって自分の身を守るときは必死だ。遺書を書く気はないかね? そうすれば楽にしたまま死なせてあげることもできるんだよ、こっちで……」 「殺す気だ。そうなんだ。そうなんですね。ぼくを殺すつもりなんだな」  ベンツの車内に、ひきつった悲鳴のような島田の声がひびきわたった。 「働き盛りの男が、発作的に自殺するのは珍しくない話だ。たいていはストレスからの鬱《うつ》状態が原因らしいな。それも小心でクソ真面目《まじめ》なサラリーマンが多いそうだ。条件はそろってるじゃないか、島田さん」 「冗談じゃない。自殺するくらいなら、殺されるくらいなら、刑務所の中でも生きてたほうがいい。ぼくは警察に出頭しますよ」 「義理の妹を、女房の妹を殺す手引きをしましたって言って、自首するわけかね? それもひとつの道だな。だが、奥さんと子供さんたちは、どういう気持を味わうかね? そういうことも考えてみるべきじゃないかな」  島田は何も言わなかった。唸り声のようなものを洩《も》らしただけだった。堀越は車のダッシュボードの時計に眼をやった。午後十一時半になろうとしていた。 「肚《はら》を決めてもらわなくちゃな、島田さん。何度も言ったことだが、種はあんたがまいたんだ。みんなね。楽になったほうがいいんじゃないか。黙ってこの世から消える。それがあんたにとっても、家族にとっても、会社にとっても、いちばんいいことだよ。結局のところはね」 「いちばんいいのはあんたにとってだ」  島田が言った。亡霊のように打ちひしがれた声だった。 「わたしのどこがいい。長峰のことを忘れちゃ困るな。長峰がわたしを殺すか、わたしが長峰を殺すか。どっちにしろそのケリをつける仕事がわたしには残ってる。あんたがまいた種の尻拭いがね」 「ぼくが死んでしまえば、長峰にはあんたの素性はわからずじまいになるんだ」 「そうはいかない。素性がわからないからって、長峰を放っとくわけにいくのかね? それで長峰が何もかも忘れておとなしくしてくれると思うかね? 奴を探し出して口を塞《ふさ》がなきゃならんだろう。奴を殺すか、こっちが殺されるか、どのみちケリはつけなきゃならん。わからんのか、それが」  堀越の声に、初めて怒りがこめられた。 「だったら、早くケリをつけてくださいよ。それまでぼくはどこかに身を隠すから」  島田は打ちひしがれた声のまま、それでも言い返した。 「無駄だな、話しても。はっきり言わなくちゃわからんらしいな、島田さん。あんたにはどうあっても死んでもらわなきゃならない。あんたは秘密の守れる口を持ってる男じゃないからだ。共犯者はいつでも相手を裏切って、味方を売ることができる。何もかも人のせいにすることだってできる。長峰があんたをどう使うつもりか、わたしには予測がつかない。あいつは頭も切れるし、肚もすわってる男だ。いまはわたしにとっては、長峰よりも島田功という男のほうが、危険な存在なんだよ」  堀越が言った。島田の口から狂ったような泣き声がほとばしった。島田は背中を丸め、頭を抱えこんだ。泣き声はすぐに絞《しぼ》り出すような嗚咽《おえつ》に変った。  堀越はたばこをくわえて火をつけた。 「そろそろいいだろう。団地に引き返せ」  堀越が、運転している男に言った。  不意に島田の躯が跳ねあがった。島田は叫び声をあげ、ドアに躯を打ちつけた。ドアが開き、島田の上体が車の外にとび出しかけた。堀越がすかさず、島田の腰に抱きついた。 「ストップ!」  助手席の男が叫んだ。タイヤをきしませてベンツは急停車した。開いていたドアが反動で勢いよくはね返り、島田の上体をシートの奥にはねとばした。ドアははげしい音を立てて閉まった。島田は堀越に腰を抱えこまれたままであばれた。 「眠らせろ」  堀越が言った。助手席の男がシートから身を乗り出してきて、島田の頭を押えつけ、首すじにスタンガンを押し当てた。島田の全身がガクンと跳ねた。一瞬、青白い火花のようなものが散った。島田の躯は堀越の膝からすべり、腰が車の床にころがり落ちた。  シートの上で、堀越が吸っていたたばこが、折れたまま細い煙をあげていた。堀越はそれを拾って、灰皿に入れた。  迂回《うかい》したベンツは、高島平の団地に戻り、敷地の中に入っていった。建ち並ぶ高層の団地の窓の明りは、あらかた消えていた。  ベンツはひとつの棟の前で停まった。ライトが消された。人の姿はどこにもなかった。助手席の男が、車の中でもう一度、島田の首すじにスタンガンを押し当てた。  運転席と助手席の男が、車を降りた。二人はスニーカーをはいていた。リアドアが開けられ、二人がかりで島田の躯が外に引き出された。 「気をつけてやれよ。靴を脱がすのを忘れるんじゃないぞ」  車の中に残った堀越が、ひそめた声で男たちに言った。男たちも低い声で返事をした。二人の男は、両側から島田の躯をはさむようにして、腕を肩に担ぎ、立ちあがらせた。そのまま島田は運ばれていった。二人の男と島田の姿は、すぐに棟の端の暗がりに消えた。  二人は足音を殺して、島田を抱えたまま、非常階段を昇った。  十三階の踊り場で、二人は足を停めた。島田は意識を失ったままだった。助手席にいたほうの男が、島田の腹に肩を当て、そのまま担ぎあげた。もう一人の男が宙に浮いた島田の靴を脱がせた。  島田の躯は、男の肩の上で二つに折れていた。男は踊り場の手すりにしっかりと腰を押しつけるようにしてから、わずかに身を乗り出し、島田の躯を振り落した。そのまま男はその場にしゃがみこんだ。それから彼は両手で耳をふさいだ。もう一人の男も、両手に持っていた靴を急いで踊り場に下ろし、立ったままで耳を塞いだ。  五章 復讐者   1 〔七月二日 月曜〕  長峰は神田《かんだ》の小さなビジネスホテルに移っていた。  血で汚れた姿で、夜明けにアパートに帰り着いたその日から、彼のホテル暮しは始まった。素性《すじよう》のわからないプロの脅迫屋の一味から、姿をくらますためだった。逃げるというつもりはまったくなかった。  アパートに帰り着いて、長峰はあり合わせの薬で、手首の傷の手当てをした。服を着替えて、荷物をまとめた。バッグに詰めこんだのは、着替えの下着類と、彼の日記代りのノートだけだった。浴室のドアの中に隠した島田のノートのコピーは、そこに残しておくことにした。ナイフは着ている服のポケットに入れた。会社に出す辞表を書いた。  いつもと同じ時間にアパートを出て、電車に乗った。満員電車の中で、長峰は左手の傷をかばわなければならなかった。それはしかし、苦痛ではなかった。かえって気持を昂揚《こうよう》させた。  朝の満員電車の中で、長峰は自分の人生が一変していることを、心の底から実感した。和子が殺され、その殺人に隠された意図がひそんでいるという疑惑を抱いたときから、長峰は自分がするどい牙《きば》を持った獣《けもの》のような存在に変る予感を抱きはじめていた。  予感がどういう形で現実に現われるのか、長峰にはしかしよくわかっていなかった。予感は予感のまま、ときにファンタジーのように彼の心を騒がすだけだった。そのときまでは、長峰も朝晩にラッシュの電車に揺られて移動する、従順で寡黙《かもく》で忍耐づよく勤勉なサラリーマンの群《むれ》の一人にすぎなかった。長峰自身がそういう自覚の中に留《とど》まっていた。  だが、その朝の長峰は、すでに群の中の一匹の羊ではなくなっていた。夜ふけの襲撃や、力ずくの拉致《らち》や、スタンガン、ドスといったものが、彼が抱いていた、そしてどこかファンタジックにも思えていた予感を一気に現実のものにした。それらのもたらした底知れない恐怖も、過ぎ去ったいまは陶酔の余韻《よいん》に似たものに思える。  前の日までおとなしい無気力なサラリーマンの一人だった長峰重行という三十九歳の男は、その朝はナイフで一人を殺し、二人を刺し、自分もドスで手首に傷を負った男となり、十七年間勤めた会社に提出する辞表を胸のポケットに入れて、通勤電車に乗っているのだった。  辞表はなんのためらいもなく書けた。理由は一身上の都合《つごう》とした。その常套句《じようとうく》が、長峰にはこの上なく適切であり、切実にも思えた。まさに一身上の都合によって、彼は会社を辞職するのだった。理不尽《りふじん》に若い生命を奪われた和子の怨《うら》みと、彼自身の命を奪おうとした者たちへの怒りを宿してしまった一身には、会社勤めはできなかった。行動に制約を受けるし、すでに行なった殺人と、これから行なわれる殺人が、会社に迷惑を及ぼさずにすむとは思えない。  すでに行なった殺人の行為に、長峰は怯《おび》えを覚えなかった。同様に誇らしさも痛快な思いもいだかなかった。彼が虞《おそ》れているのは、すべてが終らぬ前に、脅迫屋の手先を殺傷した科《とが》で警察に追われるようなことになる事態だけだった。  だが、人を殺したことへの嫌悪感《けんおかん》は、どこか生理的な反応のように、ときどき不意に長峰を襲ってきた。ナイフを振るった右手や腕に、刃が相手の皮膚と肉と血管を切り裂いたときの強い手応《てごた》えを、なんの脈絡《みやくらく》もなしに思い出す。耳がそのときの音を甦《よみがえ》らせる。眼が相手の躯《からだ》から吹き出した血を再現する。そして長峰はかすかな嘔吐感《おうとかん》に襲われる。けれども、そうした嫌悪感が、彼の心や精神にまで及ぶことはなかった。  いつも降りる地下鉄の京橋《きようばし》駅で電車を降りて、長峰はバッグをコインロッカーに入れ、会社に行った。  長峰に辞表を渡された上司は、それが突然のことなのでおどろきはしたが、困惑《こんわく》は示さなかった。辞職の具体的な理由についても、しつこく問われることはなかった。厚生課の課長補佐の辞職は、会社にとっては痛くも痒《かゆ》くもない出来事だったにちがいない。それは長峰にもわかっていたことだった。  部下たちが、送別会をやりたいと言い出した。長峰がデスクやロッカーの中の私物を整理しているときだった。長峰は、しばらく旅行に出るので、帰ってきてから相談しようと答えた。感傷はまったく生れてこなかった。さばさばとした気分だったわけでもない。長峰は緊張していたし、その緊張を周りの眼から隠さなければならなかったのだ。彼は、左手に傷を負っていることも、会社の者たちに知られまいと努《つと》めた。  業務の引継ぎは、夕方までで終った。昼休みに食事に出たときに、上野のビジネスホテルの予約をすませていた。会社のビルの裏口にタクシーを呼んで、上野のホテルまで行った。フロントでチェックインをすませると、長峰はその足で外に出て、傷の手当てに必要なものと、夕刊を何紙か買ってから、部屋に入った。  ホテルまでのタクシーの中では、尾行に注意の眼を向けつづけていた。尾行されている気配は感じなかった。薬と夕刊を買いに行くときも、警戒は怠《おこた》らなかった。ホテルの部屋に入って、長峰ははじめて緊張を解《と》いた。  まっ先に、買ってきたばかりの鎮痛剤を飲んだ。傷口に消毒薬のスプレーをたっぷりとかけた。骨が見えていた。抗生物質の入った薬をつけ、ガーゼを当て、包帯を巻いた。三十分ほど、傷の痛みをこらえて、ベッドに横になった。会社にいた間にどこかに閉じこめられていた痛みが、いっぺんに吹き出してきたか、と思えるほどだった。  鎮痛剤の効果が現われてから、長峰は買ってきた夕刊の社会面に、ていねいに眼を通した。国立市の住宅地の路上で、無職の二十二歳の男が、首の動脈を刃物で切られて死んでいるのが見つかった、という記事があった。殺されていた男は、石倉伸夫《いしくらのぶお》という名前だった。暴力団の組員だとは書いてなかった。立川署は、喧嘩《けんか》による殺人事件という見方で捜査を始めているようすだった。  夕刊のその事件の記事は、どれも同じだった。長峰が知ったのは、自分がナイフで首に切りつけた男が死亡したことと、脅迫屋の手下がいったん現場から運び去った死体を、ふたたび元の場所に戻した、という二つの事実だけだった。死体が元の場所に戻された理由は、すぐに長峰にも推察がついた。脅迫屋はその死体が、和子を殺した事件の真相発覚の糸口になることを避けようとしているのだろう、と長峰は思った。  そのことは、脅迫屋がいまもなお、自分の生命を狙っていることを意味しているもの、と長峰は受け取った。脅迫屋のその意図は、長峰をよろこばせた。法の裁《さば》きを逃れたところでケリをつけたいと願っている点では、長峰も脅迫屋も考えが一致している。その皮肉を、長峰は笑った。  夕食はビジネスホテルのレストランですませた。傷のことを考えて、アルコールは我慢した。ベッドに入ると、いくらもたたないうちに眠気がさしてきた。長峰は、自分が四十時間余り眠っていなかったことを、そのときようやく思い出していた。  翌日の夕刊で、長峰は島田功の死を知った。一段の見出しのついた小さな記事だった。島田功の死体は、彼が住んでいた高島平《たかしまだいら》の団地の一棟の、非常階段の前で発見されていた。十三階の非常階段の踊り場に、島田の靴がそろえて置かれていたことから、飛び降り自殺と見られている、と記事は伝えていた。家族の話として、島田はしばらく前から胃の不調を訴え、疲労のようすを見せていたが、自殺の理由は思い当らない、という一節も記事には添えられていた。  長峰は、島田の死に怒りを覚えた。逃げられた、という思いが強かった。脅迫屋が、長峰重行を殺すことに失敗したのを知った島田は、おれの反撃を怖れて自殺したにちがいない——夕刊を読んで、長峰の頭に浮かんだのは、そういうことだった。  島田の死は、長峰には痛手《いたで》だった。長峰は島田を捕えて、彼の口からはっきりと和子の死の真相を告白させ、脅迫屋の素性《すじよう》も聞き出すつもりでいたのだ。  失望はそれだけではなかった。脅迫屋の素性をつかむ手がかりを失ったことよりも、自分の手で島田に死の恐怖と苦痛を与えてやる機会を失ったことのほうが、長峰には無念でならなかった。  長峰は、上野のビジネスホテルで四日間を過した。まず、手首の傷を治《なお》さなければならなかった。医者に診《み》せて傷口を縫《ぬ》えば治りが早いのはむろんわかっていた。だが、傷を見た医者が、それに不審を抱くことを長峰は虞《おそ》れた。過剰な警戒心だとは思わなかった。  ホテルは上野の動物園に近かった。長峰は午後の数時間を動物園で過した。部屋に閉じこもっていて、ホテルの者に訝《いぶか》られるのを避けるためだった。動物園を選んだのは、そこが比較的安全な場所だろうと思えたからだった。  いつまでも同じホテルにいつづけることも、長峰は賢明ではないと考えた。プロの脅迫屋は、血眼《ちまなこ》になって自分の居所を捜しまわっているにちがいないのだ。  上野から神田のビジネスホテルに移ったその日に、長峰は髪をスポーツカットにした。アパートを出た日から、髭《ひげ》は剃《そ》っていなかった。理髪店でも髭は剃らせなかった。理髪店の鏡に映った自分の顔に、長峰は満足した。髭を伸ばし、髪を短くしただけで、顔の印象はずいぶん変っていた。  理髪店を出て、長峰は眼鏡屋に行った。サングラスと、素通《すどお》しの黒縁《くろぶち》の眼鏡を買った。眼鏡店の鏡に映した自分の顔にも、長峰はさらに満足した。サングラスはむろんのこと、黒縁の眼鏡も、彼の顔を別人のように見せた。知っている相手でも、すぐにはそうと気がつかないのではないか、と思えるほどだった。  眼鏡をかけて眼鏡店を出ると、長峰はその足で、あらかじめ所在地を調べておいた近くのレンタカーの営業所に行った。車を借りたのは、張込みのときに人の目を惹《ひ》くことがないように、といった配慮のためだった。  羽村《はむら》町が、東京の西の郊外の町であることを、長峰は地図で調べて知った。地図には羽村町の農協の所在地も記されていた。  地図の助けがあったとはいえ、長峰の記憶も確かだった。恐怖にとり囲まれた中での記憶であったがために、かえってそれは鮮明さを保つことができたのかもしれない。新青梅街道を車で進んでいるうちに、長峰はあのとき彼をのせたワゴン車が新青梅街道に出て右折した交差点を、はっきりと思い出した。  彼はためらわずにそこを左折した。すると、ガレージを出た恐怖のワゴン車が走った道も、まるで通いなれた場所のように、頭の中に甦《よみがえ》ってきた。  羽村町の農協を過ぎた。記憶に刻《きざ》みこんだ薬屋も、記憶のままフロントガラスの先に現われてきた。さらに広い道を横切った。  道の右側に、有刺《ゆうし》鉄線で囲われた場所が現われた。平家《ひらや》の建物もあった。ガレージにははっきり見覚えがあった。建物の入口のところの屋根に、それほど大きくはない看板が掲げられていた。そこには旭道《きよくどう》青年塾修道場という文字が並んでいた。あのとき、ワゴンの中から見た、白い四角な影のようなものはその看板だったのだろう、と長峰は考えた。  建物の入口のドアは閉まっていた。中に人がいるのかどうか、わからなかった。庭にも人の姿はなかった。ガレージのシャッターはおりていた。  長峰は、ガレージと建物の出入口が見える場所に、十分間だけ車を停めていた。  旭道青年塾というのがどういう種類のものなのか、長峰には見当がつかなかった。なんとなく右翼が主宰《しゆさい》している塾ではないか、という印象を受けただけだった。だが、それが脅迫屋につながる唯一の手がかりとなるものであることは、まちがいがなかった。彼らはそこのガレージを使い、殺そうとしている男に擬装《ぎそう》のためのウイスキーを飲ませ、脅迫の首謀者と思える中年男も、その敷地の中にある建物から、呼ばれてガレージの中に姿を現わしたものと思えたのだから——長峰は、停めた車の中でそう考えた。  建物にもガレージにも、人の出入りは見られなかった。長峰は車を出した。手の傷はようやく痛みが軽くなったばかりで、傷口はまだ開いたままだった。軽はずみな行動は慎《つつし》むべきだと、長峰は逸《はや》る自分の気持をなだめて、ホテルに向った。必死の思いで記憶に刻みつけておいた場所の確認をすませたところで、ひとまずは満足すべきだった。  田無《たなし》の商店街を走っているとき、長峰はスポーツ用品店の看板を目に留めた。車をその店の前で停めたのは、店先に木刀が筒《つつ》のようなものに入れて売られていたからだった。  長峰は、中学と高校までの六年間、剣道をやっていた。二段までしか昇段できなかった。自分が剣道部にいたということを思い出すことも滅多《めつた》にないまま、長い年月が過ぎていた。スポーツ用品店の店先に置かれている木刀の束《たば》を眼にしたとき、長峰は護身と攻撃のための武器のことと、剣道の記憶とを、ほとんど同時に頭に浮かべていた。  そのスポーツ店では、川釣りの道具などもそろえていた。長峰は木刀と、釣竿《つりざお》と、竿を入れるビニールの袋を買った。釣竿は無用のものだったが、竿の袋だけを買うのもへんに思われるのではないか、と気遣《きづか》ったのだ。袋には、竿と一緒に木刀が収まるだけのゆとりがあった。木刀を袋に入れて持ち歩く分には、ホテルの出入りのときに怪しまれる心配はないと考えた。   2 〔七月三日 火曜〕  一人暮しを始めてから、長峰は朝食をとらなくなっていた。かわりに、コーヒーを朝食代りにする習慣が身についていた。その習慣は、逃亡者さながらのホテル暮しを始めても変らなかった。  神田には喫茶店が多く目についた。長峰はその朝は、ホテルのレストランの前を素通りして、近くの喫茶店に行った。ホテルのよりも喫茶店のほうが美味《うま》いコーヒーを飲ませてくれるのではないか、と思ったのだ。  そのとおりだった。長峰はコーヒーをお代りして飲みながら、朝刊を読んだ。長峰が虞《おそ》れを抱かなければならないような記事は、どこにも出ていなかった。  擬装殺人が発覚した、という大きな見出しの記事があった。群馬県の小さな町で、農家の主《あるじ》が車ごと用水路に転落して死亡した、という事件だった。飲酒運転が原因の事故と見られていたが、それが生命保険金の詐取《さしゆ》を目的とした計画的な殺人事件だったことが発覚した、といった記事だった。  似たような殺人の手口を考える奴がいるものだ、と長峰は思った。脅迫屋のもくろみどおりに、自分が電車に轢断《れきだん》されて殺されていたとしたら、その群馬県の殺人事件のように、それが擬装殺人であることを警察は見破ってくれただろうか、という思いも長峰の中に浮かんできた。その連想が、もうひとつの連想を招き寄せたのは、喫茶店からホテルに帰る途中のことだった。  長峰が、島田功の自殺に対して疑惑を覚えたのは、そのときが初めてだった。  島田功の死が、自殺であれ他殺であれ、それがあの小柄な縁なし眼鏡をかけた脅迫屋に、ひとつの利をもたらしたことはまちがいがない。島田は、和子の死の真相と、長峰に対する未遂《みすい》に終った殺人の計画と、脅迫屋の素性を知っていた。長峰重行を殺すのに失敗した脅迫屋は、長峰重行が島田を襲って、すべてを告白させるにちがいない、と考えただろう。島田功を殺して口を塞《ふさ》げば、自分の素性を長峰重行に知られずにすむ、と脅迫屋は考えただろう。  長峰は、そうした推論に、ほとんど確信に近いものを抱いた。和子の場合といい、自分の場合といい、擬装殺人は脅迫屋の得意技のようなものではないか、と長峰は思った。  長峰はホテルには帰らずに、その足でレンタカーの営業所に向った。高島平の団地に行って、島田の妻の広子に会ってみよう、と考えたのだ。  カローラを借りて、いったんホテルに戻り、釣竿の袋に入れた木刀を車の助手席に置いて、長峰は高島平に向った。島田の家の所番地は、彼のノートのコピーを匿名《とくめい》で郵送したときに、電話帳を使って調べてあった。  団地に着いたのは正午過ぎだった。長峰は団地の近くのラーメン屋で昼食をすませてから、島田の家に行った。  広子は一人で家にいた。彼女と長峰は初対面だった。妹の恋人だった男の突然の訪問に、広子はおどろいていた。長峰のほうは、妹と夫をたてつづけに失った広子が、思ったほどには打ちひしがれていないようすを見せていることに、いくらか意外な感じを持った。  小さな真新しい仏壇が、居間のサイドボードの上に置かれていた。骨壺《こつつぼ》の箱が仏壇の前にあった。長峰は線香を供《そな》え、手を合わせてから、すすめられてソファに腰をおろした。広子が紅茶を出して、長峰と向き合って坐った。長峰は島田の悔《くや》みを言った。 「和子さんがああいうことになった矢先のご主人の不幸ですから、ほんとうにお気の毒に思います」 「ありがとうございます……」 「新聞には、島田さんの自殺の理由が思い当らない、と奥さんが話されたと出ていましたが……」 「そういう気配は見えなかったんです。もっとも、島田はいつも暗い顔をしている人でしたけど」 「会社のことで悩んでおられたんでしょう? 和子さんから少し話を聞きましたけど」 「どういう話ですか?」 「城島建設の工事の手抜きのことで、島田さんが良心の呵責《かしやく》を覚えていたということと、その工事の手抜きのことで、会社がプロの脅迫屋からゆすられていることで、とっても島田さんが頭を悩ませている、という話でした」 「では、長峰さんは、和子が城島建設の不正工事のことを新聞社に匿名で告発したこともご存じなんですか?」 「知ってます」 「そうですか。それならお話してもかまいませんね。島田が自殺を思い立ったのは、和子が会社を告発したせいじゃないかって、わたくしは考えてるんです」 「告発したのが、自分の義理の妹さんだからということですか?」 「それもあったでしょうけど……」 「ノートの一件のせいですか?」 「島田のノートのこともご存じなんですね、長峰さんは」 「知ってます。島田さんにノートを預らなかったら、告発はしなかったし、できなかったと、和子さんは話してました」 「そのノートを、和子はまた誰かに預けてしまったんです。誰に預けたかってことを、和子は島田にもわたくしにも教えてくれなかったんです。そのときから、島田のようすがおかしくなりましてねえ。あの人はノートがマスコミに渡るんじゃないかって心配して、夜も眠れないようすだったんです」 「結局、ノートの行方《ゆくえ》はわからずじまいなんですか?」 「そうなんです。それで島田は自殺したんじゃないかと、わたくしは思ってるんです」  長峰は、自分がそのノートを和子から預り、ふたたび島田の手に返したことを、話しそびれた。そして、ノートは脅迫屋が島田から取り上げたのだろう、と考えた。 「しかし、そんなことで命を捨てなくてもよさそうにって気もしますけどね」 「とっても気の小さい人でしたから、思いつめてしまったんでしょう、きっと」 「ぼくは、和子さんが殺されたのは、強盗のせいじゃなくて、島田さんのノートを彼女が預ったり、告発したりしたことが原因じゃないかって気がしてきてるんです。別に根拠があってそう考えてるわけではないんですがね。島田さんが自殺なさったことを知ってから、特にそういう疑いが強くなってきたものですから、こういう話を奥さんとしてみたいという気になりましてね。それでお邪魔にあがったんです」 「じつは、わたくしも和子が殺されたとき、長峰さんがいまおっしゃったようなことを、ふと考えたんです。でも、和子が告発したことや、あの子が島田からノートを預ってることを知っていた人間が、他にいたとは思えないんです。そういう人間がいて、和子の告発を怨みに思ったり、ノートを手に入れなきゃ困るということにならなければ、そのために和子が殺されたという疑いは成り立たないんじゃないでしょうか?」 「そうなんです。ですからぼくのも、漠然《ばくぜん》とした疑いでしかないんですけどね。そういう動機で和子さんを殺しそうな人間がいたとは、奥さんには思えないわけですね?」 「島田も何も言ってませんでしたしねえ」 「城島建設を脅迫していた人間が、何かで和子さんの告発のこととか、島田さんのノートのこととかを知ってたとしたら、話は別なんですけどねえ」 「自分のノートのことや、会社を告発したのが和子だということを、島田が他の人に自分から話すなんて、考えられませんから……」 「脅迫者のことは、島田さんは何かおっしゃってましたか?」 「右翼を擬装してるやくざじゃないか、という話はしてました。旭道青年塾とかの塾頭の堀越栄一という男なんだそうです」 「その男が、島田さんのノートのことや、告発者が和子さんだということを知ったとしたら、さっきのぼくの疑いが成り立つんですけどね。告発やそのノートで、城島建設の不正が明るみに出てしまうと、脅迫は意味がなくなるわけですから」 「それはそうですけど、そういうことはありえないでしょう。島田が堀越という男に自分から和子のことやノートのことを話すはずはないんですから」 「そうですねえ。やっぱり無理ですね、ぼくの推理は……」  長峰は言った。彼は、和子を死に追いやったのが島田であるということを、広子に知らせてやりたい衝動を、懸命に抑えた。 「不思議なのは、島田が自殺したいまも、ノートがどこにあるのかわからないことなんです。島田が死んだことがわかれば、和子からノートを預ってる人が、それを返してくるなり、マスコミに渡すなりするんじゃないか、とわたしは期待してたんですけどねえ」 「島田さんが亡くなってから、今日で六日目になりますね」 「そうなんです。ノートを預ってる人が、どういうつもりで沈黙してるのか、わたくしにはわかりません。ノートが返されてきたら、わたくしはそれをマスコミに公表しようと思ってるんです。そうすれば、告発をした和子の霊も、会社の不正のために苦しみつづけた島田の霊も浮かばれるんじゃないかって思ってるんですけどねえ。島田が死んだいまは、城島建設に気兼《きが》ねすることなんか、なにひとつないんですから」 「それはいいお考えだ。ノートが戻ってくればいいですね」 「わたくしは、じつは、長峰さんを疑ってたんですよ。ですから、さっきお見えになったとき、まっ先に長峰さんがノートを返しに来てくださったんだと思ったんです」 「疑われても当然ですね。和子さんとぼくとの関係から考えれば。でも、ノートを預ってるのはぼくじゃないんです」 「誰に預けたか、和子は長峰さんにも打明けてはいなかったんですね?」 「ぼくは彼女がノートを誰かに預けたということも知らなかったんです。ですから和子さんが殺されたことを知って、ノートを奪いにやってきた奴が彼女を殺したんだ、と思ってしまったんです」 「そうですか。そうですよね。長峰さんがノートを預っておいでなら、和子の気持を汲《く》んで、島田の死後にでもマスコミに公表なさるはずですものね」 「たぶん、そうしてたでしょうね、ぼくがノートを預ってたら」 「島田も、自分が死ねば、誰かがノートを公表して、城島建設の不正をあばいてくれるかもしれない、と考えていたのかもしれない、とわたくしは思ったりするんです」 「そういうようすが見えたんですか? 島田さんに」 「そういうわけじゃありませんけど、そうとでも考えなければ、島田があまりにも哀れですもの。会社から帰ってきて、自分の家のドアがすぐそこなのに、子供たちの顔も見ないで踊り場から飛び降りちゃったんですから」  そう言って、広子ははじめて涙をこぼした。長峰はただ頷《うなず》くしかなかった。   3 〔七月十三日 金曜〕  午後十一時になろうとしていた。  長峰は、羽村町《はむらまち》の旭道《きよくどう》青年塾の近くの道に停めた、レンタカーのカローラの中にいた。  旭道青年塾のガレージはシャッターが降りていた。そのシャッターの前に、黒のプレリュードが駐車してあった。  プレリュードがそこに停められたのは、午後の七時半ごろだった。そのときも長峰はカローラの中にいた。プレリュードから降りてきたのは、丸刈りの頭の若い男だった。長峰は、近くの外灯の明りを受けたその男の顔を、望遠鏡のレンズで捉《とら》えた。はっきりと覚えのある顔だった。長峰が始発電車に轢《ひ》かれて殺されるはずだったあの夜明けに、彼をのせたワゴンを運転していた男だった。  その男はプレリュードのドアをロックして、旭道青年塾という看板を屋根に掲げた建物の中に入っていった。入っていった男は、いつか必ずまた出てくる。それを待とう、と長峰は思った。  その日が、十三日の金曜日であることを、長峰は思い出した。縁起《えんぎ》をかつぐたちではなかったが、プレリュードの男にとって、十三日の金曜日が厄日《やくび》になるという迷信が的中する、という予測が、長峰の気持を昂《たか》ぶらせた。  左の手首の傷は、ほとんど治っていた。長峰はホテルを転々と移りながら、部屋で木刀の素振りをつづけてきた。手首の傷が治っていくにつれて、素振りにも鋭さが生れていた。  望遠鏡を用意して、旭道青年塾の張込みを始めたのは、三日前の夜からだった。張込みは夜の間だけつづけた。相手に気づかれることを虞《おそ》れたからだった。そしていま初めて長峰はそこで、覚えのある顔を眼にすることができたのだった。  旭道青年塾の木戸のような粗末な門から、人影が二つ現われた。長峰は望遠鏡を眼に当てた。プレリュードの横に立った男たちの顔を、外灯の光が照らし出した。一人はそこにプレリュードを停めた男だった。もう一人の男の顔には、長峰は覚えがなかった。  プレリュードが走り出した。長峰は尾行をはじめた。小一時間の尾行になった。  プレリュードが最初に停まったのは、所沢《ところざわ》市の商店街の、茶屋の看板のある家の前だった。助手席に乗っていた男が、そこでプレリュードを降りた。車に残ったのは、長峰が顔を覚えているほうの男だった。  ふたたびプレリュードは走り出した。それが停まったのは、八王子《はちおうじ》市の、京王《けいおう》線|北野《きたの》駅の近くの、マンションの駐車場だった。男はプレリュードを停めると、マンションの玄関に入っていった。  長峰は車を停めて待った。そのマンションの各階の廊下は、外から見える作りになっていた。その幸運を長峰はよろこんだ。彼は望遠鏡を手に取って、男の姿が外廊下に現われるのを待ち受けた。  男は三階に現われた。廊下の中ほどの部屋のドアを開けて、その中に入っていった。室内は暗かった。長峰は、廊下に並んでいるグレイのドアの数を端から二度かぞえて、男が入っていった部屋を確認した。その部屋の中が暗かったことが、中には男の他には誰もいないことを示していた。  長峰は車を降りた。釣竿の袋に入れた木刀を手に持った。ナイフはポケットの中だった。全身が鳥肌立ってくるのを感じた。しかし心は冷めたく静まりかえっていた。  男が入っていったドアの横に、ネームプレートが掲げてあった。田村誠一《たむらせいいち》とあった。ドアの向うから、かすかなテレビのものらしい音が洩《も》れていた。ドアはロックされていた。インターフォンはついていなかった。  長峰はドアをノックした。ドアのレンズに顔が映らないように、深くうつむいた。 「誰?」  声が送られてきた。 「警察の者だがね。ちょっと聞きたいことがあるんだ、田村さん」  長峰は用意の科白《せりふ》を、いくらか大きな声で言った。ドアチェーンをはずし、ロックを解く物音が聴こえた。長峰はポケットのナイフを出し、刃をつまみ出し、躯《からだ》の後ろに隠した。木刀を持った手も、後ろに回した。  ドアが開けられた。顔をのぞかせたのは、さっきの男だった。長峰は一瞬、笑顔をこしらえた。男はそれが長峰であることに気づいていないようすだった。髪を切り、髭《ひげ》を伸ばし、縁の黒い眼鏡をかけたことの効果が、男の顔に現われていた。  長峰は両手を後ろに回したまま、中に入り、足で蹴ってドアを閉めた。男が長峰のその仕種《しぐさ》に、怒った顔を見せた。長峰はその顔の前に無言でナイフを突きつけた。  男の眼が丸くなった。男は顔を後ろに引き、身をひるがえして奥に駈け込もうとした。袋に入ったままの木刀が、男の股間を鋭く突き上げた。男は呻《うめ》き、上体を折った。長峰は男の眼を狙って、木刀の柄を突き出した。血が飛んだ。男はその場に尻餅《しりもち》を突いた。長峰は男の首にナイフを当てた。 「おれが誰だかわかっただろう」  長峰は言った。 「誰なんだ? あんた……」  男はそっと顔を上げ、上眼遣《うわめづか》いに長峰を見た。男の右の上瞼《うわまぶた》が裂けて、血が流れ出ていた。右眼は閉じられていた。眼を突かれたことで、男はいっぺんに恐怖に襲われたようすだった。 「おまえらが一番電車に轢《ひ》き殺させようとした男だ」  長峰は言った。男はまた眼を丸くした。閉じられていた右眼も開けられた。眼球に血がにじんでいた。男の頬《ほお》と唇《くちびる》が痙攣《けいれん》した。 「くそ! なんでここがわかったんだ?」  男が言った。 「おまえが教えてくれたんだよ。奥に行け。立つな。這《は》っていけ」  長峰は言った。男は這って奥に進んだ。  部屋はこぎれいに飾られ、片づいていた。ベッドがあった。ディレクターチェアがあった。白木《しらき》の洋服|箪笥《だんす》があった。壁にはフォーミュラーカーのポスターと、ヌードのカレンダーが貼ってあった。 「腹這いになるんだ。大きな声を出したければそうしろ。近所の者が一一〇番するだろう。困るのはおまえだ。おまえは殺人未遂事件の犯人の一人だからな」  長峰は言った。男は部屋の中央に腹這いになった。長峰は洋服箪笥の扉を開けた。扉の裏にネクタイが数本かけてあった。長峰はネクタイを束にしてつかみ、抜き取った。ナイフはポケットに戻した。 「自分で両足を縛れ」  長峰は言って、ネクタイの一本を男の顔の前に投げた。男は動こうとしなかった。 「縛りたくなきゃそれでもいい。臑《すね》の骨を叩き折って動けなくしてやるから同じことだ」  言い終らないうちに、長峰は腰を沈め、男の踵《かかと》に近いあたりを木刀で一撃した。男の足が跳ねあがり、呻き声が洩れた。男は寝返りを打って、躯を横向きにした。すかさず木刀が男の膝頭《ひざがしら》を襲った。 「縛るよ。わかった。殴らないでくれ」  男が腕を前に突き出して言った。長峰は殴るのを止めた。男の声はふるえていた。彼は躯を起し、ネクタイを手に取り、両膝を立てて、足首を縛りはじめた。長峰はしっかりと縛らせた。それが終ると、長峰は男の両手を後ろに回し、手首をネクタイで縛り合わせた。男の躯を引き倒した。 「質問が三つある。答えなければおまえは死ぬんだ。脅《おど》しじゃないぞ。いいな」  長峰は、横倒しにした男の頬を土足で踏みつけ、丸刈りの頭に木刀を押し当てた。 「答えろって言われても……」  男が口ごもるように言った。 「言われても、何だ?」 「知ってることは答えられるけど、知らないことは返事ができないから……」 「相原和子は、誰がどうやって殺した?」 「島田がインターフォンで女を呼んで、ドアを開けさせたって話だ」 「島田も相原和子が殺されたとき、現場にいたんだな?」 「島田はいなかったらしい。ドアが開いてすぐに、島田はそこから引返したんだろう」 「中に入ったのは誰だ?」 「一人は、もう死んでるよ。あんたに首の動脈を切られて死んだ石倉だよ」 「他は誰だ?」 「それを聞いてどうするんだ?」 「答えろ。答えなきゃそいつの代りにおまえが死ぬんだ」 「もう一人は入院してるよ。石倉と一緒に、あんたに下腹を刺された男だ」 「名前は?」 「中川《なかがわ》。中川治《おさむ》っていうんだ」 「どこの病院に入院してる?」 「青梅《おうめ》市の津田《つだ》外科だよ。津田先生は、警察|沙汰《ざた》にできない怪我をした患者を、内証で治療してくれるらしいんだ」 「堀越栄一のコネでそこに入院したのか?」 「そういう話だ」 「嘘じゃないな?」 「何が?」 「いま話してること全部だ」 「嘘を言うわけねえだろうが」 「嘘だってことがわかったら、おまえは生きちゃいられないんだ。いいな?」 「おれはほんとのことを言ってるんだ」 「島田功は、自殺したのか? それとも堀越が殺させたのか?」 「それは知らねえよ。自殺だろう。新聞にもそう出てたんだから」 「相原和子も新聞には強盗に殺されたって書いてあったよな」  長峰は言った。男は口を閉じていた。長峰は台所に行った。赤い琺瑯《ほうろう》びきの薬缶《やかん》があった。薬缶にいっぱいに水を入れ、コンロにかけて火をつけた。男のそばに戻り、長峰はたばこに火をつけた。 「相原和子を殺すことになった理由は?」  長峰は言った。 「島田が塾頭のところに泣きついてきたんだよ。妹に預けたノートを取り戻してほしいって。相原和子が城島建設のインチキ工事のことを、新聞社にタレこんだってことも、島田が塾頭に話したんだ」 「そのために相原和子は殺されたんだな」 「ノートを誰に預けたかってことを吐かせようとしてたんだそうだよ。その途中で、女のほうが中川が床に突き立てておいたドスを引き抜いて、中川に切りかかってきたって話だ。それで頭に血ののぼった中川が女を刺したらしい」  男は言った。長峰は、ドスを手にして相手に切りかかっていったという和子のようすを想像した。和子が全裸にされて殺されていたのは、ノートのありかをしゃべらせるために、性的な暴力を加えられたからにちがいなかった。  長峰は胸が詰まった。ノートを誰に預けたかということを明かすことを、和子は最後まで拒《こば》んで殺されていったのだ、という思いが長峰の心をゆさぶった。 「島田のことを話せ。奴は殺されたのか? 自殺したのか?」 「自殺だって言ってるだろう」 「わかった。で、堀越はどこに住んでる?」 「住んでるところは、おれは知らないよ。塾頭の家に行ったことはないから」  男は言った。長峰はたばこを消して、また台所に行った。薬缶の湯が沸騰《ふつとう》するのを待った。 「そこで何やってんだ?」  男が声をかけてきた。不安と恐怖がその声をくもらせていた。長峰は答えなかった。  湯が沸いた。長峰は薬缶を手にさげて、部屋に戻った。開け放しになっていた洋服箪笥の中から、ポロシャツをつかみ出した。ポロシャツが男の顔と頭にすっぽりとかぶせられた。長峰はナイフを出した。ナイフの刃が、ポロシャツの端をそっとめくった。男の口もとがあらわれた。ナイフが唇に当てられた。 「口を開けろ」  長峰は言った。 「どうしようってんだ!」  男がひきつった声を出した。長峰はかまわずにナイフで男の口を押し開けた。唇から血が流れ出た。ナイフで歯をこじ開けられて、男は呻き声をあげながら、口を開いた。ナイフがそこにすべり込んだ。 「声をあげると舌が切れる」  長峰は言って、薬缶の熱湯を男の顔に注いだ。男が首を振った。ナイフが男の唇の端を切り裂いた。男は首を振るのを止めた。全身をわななかせ、喉の奥で呻き声をあげた。熱湯を吸ったポロシャツが、男の丸刈りの頭と顔面に貼りついていた。薬缶は空っぽになった。 「もう一杯、湯を沸かすか?」  長峰は男の口からナイフを抜き取って言った。男ははげしくもがいて、顔に貼りついたポロシャツを振り払おうとした。ポロシャツは貼りついたまま、熱い滴《しずく》をまわりにとばした。 「島田は殺されたんだ。スタンガンで眠らされたまま、非常階段の踊り場に担《かつ》ぎ上げられて、そこから落とされたんだよ。けど、おれはそのときはその場にいなかったんだ」  ポロシャツの下から、途切れながら男の声が洩れてきた。男は呻き、喘《あえ》いだ。 「もう一つの質問の答は?」 「塾頭は、いつもは日野《ひの》市のマンションにいるんだけど、いまはずっと塾に寝泊りしてるよ。あんたに襲われるのを恐れてるからだ」 「日野のマンションの名前と所番地は?」 「レジデンス日野って名前だ。所番地はわからないけど、JRの日野駅の少し先の甲州《こうしゆう》街道沿いに建ってるマンションだ。そこの八階に住んでる」 「塾には何人が寝泊りしてるんだ?」 「いつも七、八人いるよ」 「そいつらはみんな、堀越が相原和子を殺させたことや、島田のこと、おれのことのいきさつを知ってるのか?」 「二人は知ってるよ。島田を殺した二人だ」 「他の連中はどうなんだ?」 「何にも知らないはずだ」 「知らなくても、堀越には絶対服従なんだな?」 「一応はそうだよ。塾頭だから」  長峰は質問を止めた。男の足首を縛ったネクタイを、ナイフで断ち切った。顔に貼りついたポロシャツを、ナイフの先ではねのけた。男の顔面と頭の地肌の一部が、赤くただれたようになっていた。 「立て」  長峰は言った。 「どうしようってんだ、今度は。知ってることはみんなしゃべったじゃないか」 「それが嘘じゃないってことがわかるまでは、おれにつき合ってもらう」  長峰は言って、男の腕をつかんで立たせた。男は諦《あきら》めきったようすで、腕をつかまれたまま歩き出した。 「青梅の津田病院の場所。中川治の病室の番号。知ってるな?」  エレベーターの中で、長峰は男に言った。男はうなだれたまま答えた。  誰とも顔を合わさずに、長峰は男をマンションから連れ出した。男をレンタカーのトランクに押し込んだ。   4 〔七月十四日 土曜〕  津田外科は、青梅市の河辺《かべ》町にあった。田村誠一が言ったとおりに、奥多摩《おくたま》街道沿いに車を走らせていくと、すぐに眼についた。  三階建ての建物の明りは、あらかた消えていた。長峰は駐車場に車を停めた。木刀は車の中に残した。ナイフと、田村誠一の部屋から持ち出してきたネクタイを、ポケットに入れていた。  病院の正面玄関は閉まっていた。午前三時をまわっていた。長峰は建物の裏手に回った。職員専用という表示のある出入口が、すぐに眼についた。ドアには鍵はかかっていなかった。  田村誠一の話では、中川治は三階の個室に入院しているということだった。廊下の明りは消えていた。建物の中は静まり返っていた。人の姿はどこにもなかった。長峰は、正面玄関のほうに方角の見当をつけて進んだ。  エレベーターのゲージランプの明りが、ぽつんと狐火《きつねび》のように暗闇の中に浮かんでいた。その先に階段があった。踊り場には明りがついていた。階段はスロープと並んで上にのびていた。  長峰は階段を上がって、三階に行った。三階の廊下には、ほの暗い明りがついていた。ナースセンターの前に出た。そこだけは明るかった。ドアは半開きになっていた。長峰は足音を殺して、その前を通り過ぎた。ドアの間から、机に向っている二人の看護婦の後姿が見えた。  中川治の名前の出ている個室は、廊下のいちばん奥にあった。すぐ前が非常出口になっていた。  長峰はドアのノブをゆっくりと回した。室内は暗かった。長峰はドアの中にすべりこんだ。壁のスイッチを手探りした。明りがついた。小さな部屋だった。ベッドに男が寝ていた。眠っているようすだった。ベッドの中ほどは、タオル毛布が高く盛りあがっていた。患者の下腹部の傷をかばうために、支《ささ》えが置かれているようすだった。  長峰は、そっとベッドに近づいた。髪の短い若いその男の顔をのぞきこんだ。覚えのある顔だった。タオル毛布から、両腕と胸のところがはみ出ていた。  長峰はナイフを出した。男は寝息を立てていた。ナイフが男の口元にぴたりと当てられた。長峰は片手で男の頬を軽く叩いた。男は寝呆《ねぼ》けた声を洩らし、小さく身じろぎしてから、ぼんやりとした眼を開いた。明りが眩《まぶ》しかったのか、男は眼を細めた。まだ何も映していない眼に見えた。 「声を出すんじゃないぞ、中川」  長峰は小声で言った。男の眼に次第に光が戻ってきた。その眼がひきつった。中川は何か言おうとして、ようやく口にナイフが当てられていることに気づいたようすだった。 「相原和子を殺したのは、おまえと、おれに首の動脈を切られて死んだ石倉なんだな?」  長峰は言った。中川の全身が、ベッドの上でこわばった。ベッドがきしんだ。長峰はパジャマの襟《えり》をつかみ、中川の胸元で手首を交差させ、彼の右の耳の下にナイフを移した。 「長峰……」  中川の唇が動いた。洩れてきたのは息の音だけだった。唇の動きで、中川が自分の名前を口にしたのが、長峰にはわかった。 「答えろ。おまえと石倉が相原和子を殺したんだな?」 「なんでわかったんだ?」  中川の声は、まるで喉を絞められでもしているように苦しげにひびいた。血走った眼から、輝きが失《う》せていた。 「相原和子を殺し、おれを電車で轢き殺そうとして、おまえは堀越から何をもらったんだ? 金か?」 「何ももらっちゃいない」 「ただ働きか?」 「まだ金になっちゃいないから……」 「城島建設から金をゆすり取ってないってことか?」 「塾頭はそう言ってる」 「金が入ったらいくらもらえることになってたんだ?」 「一本……」 「一千万円か?」 「そう言われて、やったんだ。塾頭に」 「どんな気分だ?」 「気分て?」 「いま、どんな気分だ? 何を考えてる?」 「わかんねえよ」 「言いたいことがあるか?」  長峰は言った。静かな口調だった。顔にも何の表情も浮かんではいなかった。中川は黙っていた。長峰は中川の顔に唾《つば》を吐きかけた。中川が顔をゆがめた。 「相原和子に詫《わ》びる気はないらしいな。おれを殺そうとしたことも、何とも思っちゃいないわけだ」  長峰は言った。 「わるかったと思ってるよ。相原さんにもあんたにも……」 「それだけか?」 「どう言えばいいんだ?」 「何も言わなくていいさ。言う気もないし、言えないんだってことがわかったからな」 「どうしろってんだ?」 「死ぬんだよ。死んでもらう」 「くそ! おれは塾頭には逆《さか》らえなかったんだ。言われてやっただけなんだ」 「堀越も死ぬよ。もうじきだ」  長峰は、中川のパジャマの襟を放し、ポケットからネクタイを出した。ナイフは首に当てられたままだった。ネクタイが中川の首の下をくぐった。中川の全身のふるえがはげしくなった。長峰は片手で中川の首にネクタイを巻きつけた。中川の口から、ことばにならない呻き声が洩れた。眼がいっぺんに落ちくぼんだように見えた。 「人を呼ぶか? 呼んでもいいぞ。おれもおまえも人殺し同士だ。どっちを選ぶ? おれに殺されるのと、警察に捕まるのと」  長峰は言った。中川は何も言わなかった。歯の根が合わなくなっていた。歯がぶつかり合って小さな音を立てた。尿の匂いが漂《ただよ》った。中川は失禁したようすだった。 「堀越はどこにいるんだ?」 「日野のマンションか、羽村町の塾か、どっちかにいるはずだ」  中川は答えた。ようやく聴きとれるほど、その声は小さく、乱れていた。 「塾にはいつも何人が寝泊りしてるんだ?」 「たいてい、七、八人はいる」 「そいつらは全部、今度の一件で堀越がやったことを知ってるんだな?」 「全部じゃない。知ってるのは二人いいや三人だ」 「そいつらの名前を言え」 「大橋豊《おおはしゆたか》。田村誠一。山野修《やまのおさむ》……」 「塾じゃ堀越はどの部屋に寝てるんだ?」 「塾頭の部屋があるんだ。玄関を入って廊下を右に行った突き当りの部屋だ。塾頭はそこにベッドを入れて寝てるって聞いたよ」  長峰は口を閉じた。ナイフを足元に落した。ネクタイを両手でつかみ、手にひと巻きして絞めつけた。  中川が叫び声をあげた。一瞬の声だった。声はすぐに、喉にくいこんだネクタイによってせき止められ、呻き声に変った。  中川があばれた。タオル毛布と一緒に、それを支えていたプラスチックの籠《かご》のようなものが、床にはね落ちた。長峰は中川にのしかかり、かまわずに絞めた。  中川の喉がにごった音を立てた。首に血がにじんだ。長峰の額《ひたい》から汗が滴《したた》り落ちた。中川の顔面が、赤から次第に紫色に変色していった。中川の両手が、長峰の腕から離れてベッドに落ちた。静寂が生れていた。長峰は何も考えていなかった。なお絞めつづけた。中川の舌がおどろくほどの長さで、口の中から力なく伸び出ていた。  長峰はようやくネクタイを放した。息を吐いた。長峰の喉もかすれた笛の音《ね》のような音《おと》で鳴った。指が凍りついたように曲がったまま伸びなかった。  長峰はナイフを拾った。額の汗を腕で拭《ぬぐ》った。明りを消して、病室を出た。非常ドアを開け、非常階段を降りた。  駐車場に戻り、車のトランクルームを開けた。田村誠一が、怯《おび》えた犬のような眼で長峰を見上げた。長峰はナイフを出して、田村がはいているズボンを切り裂いた。それで田村の両足を縛り、猿轡《さるぐつわ》を咬《か》ませた。 「中川は死んだ。殺される思いをすれば、どんなことだって我慢できるだろう」  長峰は言って、トランクルームを閉めた。車を出した。  国分寺のアパートに帰るのは、十八日ぶりだった。張込まれているようすはなかった。  長峰はアパートの前にレンタカーを停め、部屋に入った。  まず、浴室のドアをはずし、ドアの中に隠した島田のノートのコピーを取り出した。ドアを元に戻すと、長峰は便箋《びんせん》とボールペンを出して、食卓の前に坐った。書くべきことは決まっていた。遺書のつもりだったが、遺書を書いている、といった思いはなかった。  相原和子が、何のために、誰の指図で、どうやって殺されたか、ということをまず書いた。それから、長峰自身が殺されかけたことと、石倉という男を殺したことを書いた。中川治を殺したことを書いた。島田の死が自殺でないことも書いた。長峰自身の行なった殺人が、和子の復讐のためであることも、簡潔に書いた。名宛人は島田広子とした。  長峰は、あり合わせの書類封筒に、遺書のつもりの短い手紙と、島田のノートのコピーを入れ、宛名を書いた。それを持って長峰はアパートを出た。   5 〔七月十五日 日曜〕  ホテルの部屋で、長峰は目を覚《さ》ました。  午後一時四十分だった。熟睡はしていなかった。だが、目が開いたとたんに、眠気は消え去っていた。  最後の一日、という思いは生れてこなかった。自分が長い旅行をつづけていて、見知らぬ町のホテルで目覚めた、といった気分を覚《おぼ》えた。  長峰はベッドを離れ、部屋の窓を開けた。窓は頭がやっと外に出るだけの幅しか開かないようになっていた。真下にホテルの駐車場が見えた。借りたままになっているレンタカーのカローラの屋根が、強い陽光をはね返していた。警察官の姿も、人だかりもなかった。カローラのトランクルームの中に、男が閉じこめられていることに気づいた者は、いなかったようすだった。  長峰はシャワーを浴びた。そのとき、突然に終末の感じが胸に生れた。つぎにシャワーを浴びるなり、風呂に入るなりする機会があれば、それは監視つきの状況の中でなのだろう、と長峰は考えた。その機会が訪れないとすれば、いまが躯の洗いおさめだ、と思った。思っただけだった。心は静まり返ったままだった。自分の心と感情は、すでに一足先に死に絶えたようになっているのかもしれない、と考えた。  別れて暮している子供に、最後に会っておきたい、という考えが頭をもたげてきた。しかし、長峰はその考えに背を向けた。子供に会いたいといった思いと、彼がこれからやろうとしていることに向けている思いとは、あまりにもかけ離れすぎていた。二つのかけ離れた思いに自分が引き裂かれるのを、長峰は虞《おそ》れた。子供は離婚が決まり、別々の暮しが始まったときに、縁が切れたのだと自分に言い聞かせた。  死ぬことを覚悟してみると、自分を縛っているしがらみの少ないことに、長峰はおどろいた。切ろうと決意しても切れないしがらみといったもののないことを、長峰は思い知った。それは長峰を寂しがらせはしなかった。むしろそのことに長峰は力を得た。  死のうと考えているわけではなかった。しかし、それを覚悟しなければ、屈強《くつきよう》な若い男たちに守られている堀越を殺害することはできそうもなかった。死なずにそれをやりおおせたとしても、自分の人生にその先があるとは、長峰は思っていなかった。それを期待する気持もなかった。  五時にホテルをチェックアウトした。池袋のビジネスホテルだった。  車を駐車場から出すときに、トランクルームを開けて、田村のようすを確かめた。田村は涙の跡でうす汚れた顔を、力なく長峰に向けた。長峰は何も言わずにトランクルームを閉めた。  ゆっくりと夕方の街に車を走らせて国分寺のアパートに向った。危険を示すものはなにも眼に留まらなかった。長峰は部屋に入った。  食卓の上に、島田広子に宛てた手紙と、ノートのコピーをいれた書類封筒をのせた。持ち歩いていた預金通帳とキャッシュカードを並べて置いた。  バッグの中から、和子との性愛のようすを記録したノートを取り出した。台所からボウルを出してきた。ノートのページを一枚ずつ破りとって、ボウルの上で火をつけ、焼いていった。ノートは読み返さなかった。すっかりノートを灰にするのに、一時間余りの時間がかかった。部屋に煙が立ちこめた。長峰は窓を開けた。煙がすっかり外に流れ出てしまうと、気持が一本の鋭い鋼《はがね》のようになった。  アパートでしなければならないことは、もうなかった。戸締りをすませ、そこを出た。  途中で軽い夕食をすませ、羽村町《はむらまち》に向った。旭道《きよくどう》青年塾の近くに車を停めたのは、八時半だった。  ガレージは閉まっていた。塾の建物には明りがついていた。近くには長峰の車の他には駐車されている車はなかった。  十一時近くに、一台のベンツがガレージの前に停まった。ベンツの助手席のドアが開いて、若い男が降りてきた。男がガレージのシャッターを開けた。ベンツの助手席のドアは開いたままだった。ルームランプの明りが、ベンツの中を照らし出した。運転席と後部座席に男が乗っていた。後部座席の男は、きちんと髪をととのえ、縁なしの眼鏡をかけていた。堀越栄一にちがいなかった。  ベンツの助手席のドアが、外から閉められた。ガレージの明りがつけられた。ベンツは向きを変え、バックでガレージに入っていった。長峰は望遠鏡で、堀越栄一の横顔をしっかりと捉えた。  ベンツはガレージに入った。ガレージの入口に立っていた男が、外からシャッターをおろした。男はそのまま、木戸のような門を押して、中に入っていった。  長峰は待ちつづけた。行動を起すのは夜中と決めていた。寝込みを襲うつもりだった。  堀越は、中川治の通夜に顔を出して帰ってきたところかもしれない、と長峰は考えた。長峰はその日は、新聞もテレビも見ていなかった。ニュースは知らなくても、青梅市の津田病院の三階の個室の病室で、中川治の絞殺《こうさつ》死体がすでに発見されていることは、疑いようがなかった。その殺人事件の捜査のなりゆきは、まったく長峰の関心を惹《ひ》かなかった。まもなくすべてが終る、といった思いが長峰の胸を満たしていた。すべてが終るといった思いの前では、青梅市の殺人事件のニュースなど、とるにたりないことだった。  旭道青年塾の明りがすっかり消えたのは、午前零時過ぎだった。その三十分後に、長峰は、車から外に出た。  手にしていたのは、木刀だけだった。ナイフは刃をだした状態で、ズボンのベルトの腰のところにはさんだ。有刺鉄線で囲まれた敷地の中に入った。  玄関のドアはロックされていた。長峰は足音を殺して、建物のまわりを一周した。塾頭室があるという、建物の右端には、窓があった。窓にはアルミの雨戸が引かれていた。忍びこめそうな場所は、どこにもなかった。  ガレージの庭からの出入口のドアには、鍵がかかっていなかった。長峰はガレージの中に忍びこんだ。最悪の場合は、レンタカーのカローラを使うつもりでいたのだが、ベンツがあればこれに越したことはなかった。  ベンツのドアはロックされていた。ガレージの隅《すみ》の石油缶の上に、大きな工具箱が置いてあった。長峰はそれを開けた。中にモンキースパナがあった。中にウェスも突っこまれていた。長峰は、ウェスをスパナの先に巻きつけ、それでベンツの運転席の窓ガラスを叩きはじめた。  急がなかった。大きな物音を立てたくはなかった。間《ま》を置いて、窓のガラスを叩きつづけた。ウェスが音を弱めてくれた。ガラスに亀裂が走り、それが少しずつひろがっていった。穴が開いた。そこから腕をさし込んで、長峰はドアのロックをはずした。  つぎにガレージのシャッターを開けた。音がひびかないように、それも時間をかけて少しずつ上げていった。ベンツが通るところまで上げた。  長峰はベンツの運転席にもぐりこんだ。木刀は助手席に置いた。イグニッションの電気回路を直結にした。長峰が物音を気にしたのはそこまでだった。  ベンツのエンジンが始動した。長峰はベンツをガレージから出した。前の道でベンツの向きを変えた。塾の明りがつくようすはなかった。  長峰はハンドルを切りながら、アクセルを踏みこんでいった。ベンツは塾の門に向けられた。長峰はギアをセカンドレンジに入れて、アクセルを思い切り踏んだ。  粗末な門扉《もんぴ》が、ボール紙のように吹っ飛んだ。玄関のドアが、見るまにベンツのフロントガラスに迫ってきた。長峰は唸《うな》り声をあげた。アクセルは踏んだままだった。ハンドルをにぎったまま、両腕を強く伸ばして、背中をシートに押しつけた。  衝撃が来た。思ったほど強い衝撃ではなかった。はげしい物音とともに、玄関のドアがはじけとんだ。その後に強いショックが襲ってきた。ベンツのエンジンが停まった。ベンツの鼻先は、玄関の上り口に突っ込んでいた。奥で怒声があがった。ベンツのライトの中で、埃《ほこり》が舞い上がっていた。  長峰は木刀をつかみ、ベンツからとび出した。廊下が明るくなった。明りがつけられた。長峰は廊下を右に進んだ。男が二人とび出してきた。 「なんだ! てめえ」  声がとんできた。ボクサーパンツ一枚の姿の男と、パジャマ姿の男だった。 「堀越と大橋豊、それに山野修。その三人に用がある。他の者は手を出すな。出したら遠慮せずに叩きのめす」  長峰は足を停めずに言った。ボクサーパンツの男は、長峰の気迫に圧《お》されたようすで口を噤《つぐ》んだ。だが、パジャマ姿の男は、物も言わずに、頭から長峰めがけて突っ込んできた。廊下は広くはなかった。長峰は腰を沈め、両手で木刀をまっすぐに突き出した。喉を突かれた男がのけぞった。長峰の動きはすばやかった。のけぞった男の額《ひたい》を木刀が叩き割った。さらに木刀は男の眼を正確に突いた。男は首を折った恰好《かつこう》のまま、とび出してきたドアに躯を打ちつけて、部屋の中に倒れこんだ。長峰は走った。  廊下の突き当りにドアがあった。そのドアが小さく開いた。そこに堀越の顔がちらとのぞいた。ドアはすぐに閉められた。長峰はそのドアに体当りした。  三度目の体当りで、ドアの鍵が吹っとんだ。中に二人の男がいた。二人とも素裸だった。一人は堀越だった。もう一人は長峰の知らない若い男だった。 「叩き殺せ、この野郎を!」  堀越がわめいた。部屋の入口に、男たちが重なり合うようにして立っていた。だが、とびこんでくる者はいなかった。 「堀越と大橋と山野は、人殺しだ。おれも人殺しだ。人殺しが、わけがあって人殺しを殺しに来た。手出しする奴は死ぬ覚悟でこい」  長峰は、ドアの横の壁に背中をつけて言った。堀越も、もう一人の男も、自分たちが素裸であることを忘れているように見えた。 「とびかかれ。野郎を押えろ。ドスを持ってこい!」  堀越は、ベッドの上に立ったままで言った。とびかかってくる者はいなかった。長峰は横に歩いて、ベッドに近づいた。ベッドの向うは壁だった。木刀が堀越のむき出しの臑《すね》を払った。堀越の躯《からだ》がベッドの上で跳ねあがり、そのまま落ちてきた。裸の若い男が、すさまじい叫び声をあげて、長峰の腰にとびついてきた。長峰は、木刀の柄先で、力まかせに男の眼を突いた。膝で男の腹を蹴った。男はまた狂ったような叫び声をあげ、床に仰向けにころがり、眼を押えた。  堀越はベッドの上でもがいていた。殴られた臑を両腕で胸に抱えこんでいた。 「おかま野郎!」  長峰は膝を抱えている堀越の手首に、斜めに木刀を打ち込んだ。骨の折れる乾いたひびきの音がした。堀越はベッドの上からころげ落ちた。 「くそ! てめえらぼやっとしてんじゃねえ!」  堀越は若い男たちに向ってわめいた。ドアのところに立っている男たちは、どの顔も青ざめていた。 「大橋と山野というのはどいつだ?」  長峰は言った。誰も答えなかった。 「名前は?」  長峰は、床にころがって眼を押えている男の、むき出しの股間を蹴りつけて言った。男は答えなかった。長峰はベルトにはさんだナイフを出した。物も言わずに、ナイフを振りおろした。ナイフは堀越の右の耳を半分切り裂いた。堀越は叫び声をあげた。手首が妙な形にひん曲り、折れた骨が皮膚を押し出していた。 「旭道青年塾だってな。笑わせるなよ、おかまの塾頭先生。てめえがやった人殺しのいきさつを、塾生たちに話してやれ」  長峰は血を吹き出している堀越の耳のところに木刀を突き立てて言った。 「大橋はどいつだ? 山野は?」  長峰は言いながら、土足で堀越の躯を蹴りつづけた。 「島田を自殺に見せかけて殺したのが、大橋と山野だってことはわかってるんだ。だが、もういい。大橋と山野は法律が裁くだろうからな。おれには島田の復讐をしてやらなきゃならない義理はないんだ。堀越、おまえは法律じゃ裁かせない。おれが裁く」  長峰は言った。彼はナイフを口にくわえた。木刀を両手でつかんだ。 「ゆっくり死ね。てめえじゃ人殺しもできねえおかま野郎」  長峰は言った。木刀が、堀越の全身をつぎつぎに襲った。皮膚が裂け、骨の折れる音が不気味にひびいた。鼻がつぶれた。瞼が裂けた。木刀の先が眼窩《がんか》にめりこんだ。眼球の一つが半ばとび出した。  嘔吐《おうと》の声がした。ドアのところに立っている男たちの一人が、両手で口を押えていた。一人は血の気を失った顔で、その場に坐りこんでいた。  木刀が折れた。長峰は木刀を捨て、くわえていたナイフを逆手《さかて》に持った。長峰は堀越の髪をつかんで引き起し、背後に立った。ナイフが堀越の喉に突き立てられた。そのままナイフはゆっくりと耳の後ろまで引かれていった。音を立てて吹き出した血が、横の壁を打ち、赤いしぶきをあげた。 「くそだ」  長峰は吐きすてるように言って、ベッドの端に腰をおろした。 「警察を呼べ」  長峰は、ドアのところに集まっている男たちに声を投げ、ベッドのシーツで手の血を拭い、たばこを取出して火をつけた。終った、と思った。考えたのはそれだけだった。 (この作品はフィクションであり、実在する個人、団体等にはまったく関係ありません)     * 本書は、「小説現代」臨時増刊(一九九一年四月発行)に掲載の「牙の紋章」を改題し、一九九一年六月に小社より講談社ノベルスとして刊行された作品です。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九四年六月刊)を底本としました。