抱け、そして撃て(「血の勲章」改題) 勝目 梓 著   目次 第一章 死神 第二章 沈黙 第三章 狂気の部屋 第四章 捨て身 第五章 証言 第六章 遺書  第一章 死神 1  その子は声もあげなかった。  叫ぶひまはなかった。おれが銃声を聴いたときは、その子は倒れていた。頭を吹っとばされていた。  五歳か六歳くらいの女の子だった。赤とグリーンの縞柄のセーターに、ジーンズのオーバーオールを着ていた。ズックは赤だった。  骨をはじきとばされた頭の傷口に、血で束になった髪がはりついていた。道路に流れ出た血に、夕日の光が当たって光っていた。  よく晴れた十一月半ばのゆうがただった。おれは店に出かけるところだった。  女の子は自転車に乗っていた。マンションの玄関の斜め向かいに、トラックが停まっていた。荷台に幌《ほろ》をつけた小型トラックだった。道に出たときおれが見たのは、それだけだった。ほかには通行人も車もいなかった。  おれのカローラは、玄関の前のカースペースにいつも置いてある。手には籠をさげていた。店の仕込みの買い物に使う籠だ。  マンションの玄関を出て、カローラのところに行きながら、おれは買い物籠の中をのぞいた。財布を忘れてきた、と思ったのだ。財布は籠の中に入っていた。それを見たとたんに、おれは犬に餌をやってくるのを忘れていたことを思い出した。  それが、おれの命を救い、代わりに女の子の命を奪う、運命の分かれ道になった。  犬の餌のことを思い出して、引き返すつもりでおれは体の向きをかえた。銃声はそのときひびいた。乾いた音だった。その後ろで自転車の倒れる音もしたはずだが、それはおれの耳には残っていない。  おれは銃声と縁のない生活を始めて四年近くになっていた。その音に、おれの体はすぐには反応しなかった。車のバックファイヤーの音と思った。おれが咄嗟《とつさ》にトラックのほうをふり向いたのは、そのためだった。  ふり向いたとたんに、二発目の銃声がひびいた。トラックの荷台の後部の、幌の角の隙間に、小さな火が走り、硝煙がひろがるのを、おれは見た。おれは、カースペースの車の間にとびこんでうずくまった。  銃声は二発で止《や》んだ。トラックは走り出していた。おれは車のフェンダーの陰で頭を起こした。トラックのナンバーは読みとれなかった。トラックはすぐに角を曲がって姿を消した。  女の子は道路の端に、体を折るようにして倒れていた。撃たれたその子が、自転車ごと倒れる一瞬を、眼の端に見たのを、そのときになっておれは思い出した。  車の陰からおれはとび出した。女の子に駆け寄った。子供の小さな体は静止していた。動いている部分はひとつとしてなかった。  命を狙われる覚えは、おれにはまったくなかった。だが、銃口がおれを的《まと》にしていたのは、まちがいなかった。トラックの荷台の幌《ほろ》の隙間からのぞいていた銃口は、まっすぐにおれに向けられていた。拳銃だったはずだ。口径は小さくはなかった。  銃声を耳に留めた者はいなかったらしい。道にとび出してくる人の姿はなかった。何事もなかったように、道は静かになっていた。  おれはマンションの玄関にとびこんだ。管理人室に行き、起きたことを告げた。管理人は、子供が撃たれたと聞いて、すぐには事態が呑みこめなかったようすだった。警察と消防署への連絡の電話は、おれが管理人室からかけた。  人だかりができたのは、パトカーと救急車が来てからだった。  女の子は即死だった。遺体は救急車で運び去られた。乗っていた自転車に、女の子の住所と名前が書かれてあった。それで身許がわかった。すぐ近くに住んでいた、秋山《あきやま》みどりという子供だった。  おれは管理人室で、警察官に事情を訊かれた。目撃者はおれのほかには誰もいなかった。玄関の前で眼にしたことを、おれはすべて話した。見なかったことも話した。 「わたしがマンションの玄関を出たときに、銃声がしたんです。道にいたのは、自転車に乗ってた女の子と、背広姿の二人連れの男たちだけでした。二人連れの男たちと、自転車の女の子が、マンションの玄関の前ですれちがったんです。そのとたんに銃声がひびいたんです。つづけて二発です。わたしは、トラックの荷台の幌の間から、小さな火と、青っぽい煙がパッと出たんで、銃声だと思ったんです。それで、びっくりして、玄関の横に駐車してある車の間にとびこんだんです。二人の背広姿の男は、銃声と同時に走り出したようです。どっちに向かったか、わたしは見てないんです。トラックはすぐに走り出したみたいです。エンジンの音を聴きましたから。エンジンは最初からかかってたような気もします。トラックのナンバーは見てません。トラックのボディの色は、青色か緑色だったと思います。幌は普通のよく見る幌の色です。小型トラックです。ボディに何か字が書いてあったような気もしますけど、はっきり見てません。わたしが車の間から出てきたときには、もうトラックも、二人の男もいなくなってました。なにしろ突然だったので、何がなんだかわからなかったんです。誰も銃声には気がつかなかったみたいです」  そういうふうに、おれは警察官に話した。命を狙われたのがおれだということを、警察に知られたくなかった。命を狙われる覚えはなかったが脛に傷を持つ身の覚えは山ほどある。どれもみな、四年以上前のものだ。だからといって、それがあばかれれば、おれは法の裁きを逃れるわけにはいかない。幻の�背広姿の二人連れの男たち�に、事件の主役を譲って、おれは第三者の仮面をかぶった。  事情聴取が終わったときは、外はすっかり暗くなっていた。おれは部屋に戻った。ソファに寝そべっていたアフガンハウンドの牡のロッキーが、上目遣《うわめづか》いにおれを見た。餌をやるのを忘れていたおれを、咎《とが》める眼つきだった。おれはロッキーを睨みつけた。ロッキーも睨み返してきた。  ベランダからロッキーの餌の皿を持ってくると、ロッキーはおれと入れ代わりにベランダに出た。皿にドッグフードと、ペット用の缶詰の肉を盛って、ベランダに運んだ。  ロッキーはすぐに餌に喰いつくことはしなかった。せっかくだから、喰ってやるか、といったようすで、間《ま》をとってから餌の前にきた。喧嘩を売っているのだ。餌をやるのを忘れたおれが、睨みつけたのが気にくわないのだ。そういう奴だ、ロッキーは。 「さっさとすませろよ、飯を。おれは仕事に行かなきゃならないんだからな」  ロッキーに言って、おれは部屋に入り、ベランダのガラス戸を閉めた。返事の代わりの尻尾《しつぽ》を、ロッキーは振ろうとしなかった。  おれはソファに坐り、たばこに火をつけた。頭を吹っとばされた、秋山みどりの姿が眼にやきついていた。  何が起きたのかわからないままに、あの子は死んだにちがいない。あの子の心はまだいまも自転車に乗って走っているつもりでいるのかもしれない。せめて叫び声くらいあげてから、死んでいきたかったのではないだろうか。泣き声をあげて、親に救いを求める叫びをあげてから死にたかったのではないだろうか。  ロッキーと、秋山みどりという女の子のおかげで、おれは命を拾った。それは確かなことだった。  あのときおれが、ロッキーに餌をやるのを忘れていたことを思い出さずに、そのままカローラのところに向かっていたら、道にころがっていたのはおれのほうだったはずだ。おれが足を停め、引き返すために体を回したために、的がはずれたのだろう。はずれた弾道の前に、たまたま自転車で通りかかった秋山みどりが入ってしまったのだ。  そうではなくて、殺し屋の射撃の腕がお粗末だったのだとしても、事は同じだ。秋山みどりの頭を吹っとばしていなければ、殺し屋はおれを仕留めるまで撃ちつづけたはずなのだ。誤射に気づき、女の子の頭を撃ってしまったために、殺し屋を乗せたトラックの運転手は、その場から離れなければならなかったのだろう。  おれの身代わりになってしまった、通りがかりの知らない女の子。声もあげずに死んでしまった女の子。秋山みどり。秋山みどり——。四年前までは、ひそかに人の命を奪うことを仕事としていた男の身代わりとなって、小さな頭を吹っとばされ、命を失った秋山みどり——。  おれはうなだれた。  ロッキーが尻尾を振って、ベランダのガラス戸をノックした。食事が終わった合図だ。おれは立っていってロッキーを部屋の中に入れた。餌の皿は空っぽになっていた。  ベランダのガラス戸を閉めた。鍵はかけない。ロッキーは、小便と大便のときは、おれがいなくても、自分で長い鼻を使ってガラス戸を開け、ベランダに出てペット用のトイレで用を足す。  ソファは、おれと入れ替わりに、ロッキーが占領していた。おれはソファの前の床にあぐらをかき、ロッキーの両耳の付根をつかみ、顔に軽い頭突きをくらわせた。 「おい、ロッキー。まいったぞ、おれは、おまえのことなんか命の恩人だなんて思わないけどな、おれには小さな女の子の命の恩人ができちまった。どうすりゃいいんだ。トラックの幌の中に隠れてた殺し屋野郎を、草の根分けても探し出して、そいつの頭を吹っとばすか。吹っとばすべきだよな。おまえもそう思うか? ロッキー。返事をしろ、この野郎」  また頭突きをくらわせた。ロッキーが頭を強く振って、耳の付根をつかんだおれの手を振り放そうとした。 2  二時間遅れて店を開けた。  カウンターだけの小さなバーだ。マスターのおれのほかには、バーテンもホステスもいない。カラオケもない。場所は新宿《しんじゆく》の三光《さんこう》町。  店の名前は〈鬼《おに》の部屋《へや》〉。鬼頭克行《きとうかつゆき》という自分の名前をそのまま店名にした、と訊かれれば答える。まんざら嘘じゃない。が、ほんとうは、他人さまの命をとって喰ってた四年前までの商売にちなんだ店の名だ。  たいしてはやっている店じゃない。常連の客も、いるにはいるが多くはない。ホステスがいなくて、カラオケがなくて、マスターが無愛想で、カードもツケもきかない店が、いまどきはやるわけがない。それでも店がつぶれないのは、そういう店が好みだという変わり者の酒飲みが、いくらかは世の中にいるせいだ。  十時近くまで、客は一人も来なかった。テレビが九時のニュースで、中野坂上《なかのさかうえ》で夕方に起きた発砲事件を伝えた。事件の目撃者の名前は出なかった。  秋山みどりの顔写真が出た。報道陣のインタビューに答える秋山みどりの父親の姿が、画面に映された。秋山みどりの母親は、ショックで倒れて、娘が担ぎこまれた病院に入院している、とニュースは伝えていた。秋山みどりが、小学校一年生だったことを、おれはそのニュースで知った。  警察は、幻の�背広姿の二人連れの男�の行方を追っていた。殺し屋を乗せていたトラックの割り出しにもかかっていた。現場には、二発の銃弾が残っていた。一発は秋山みどりの頭を砕いて抜けていた。一発はマンションのコンクリートの外壁に入っていた。ニュースがそう伝えていた。  あの殺し屋が、前歴のある銃を使っていない限り、遺留品の銃弾は手がかりの役には立たない。おれは、あの殺し屋が警察の捜査の網にかからないことを祈った。射撃の腕はわるくても、捜査の手から逃げのびることのうまい殺し屋であってくれ、と、祈った。  秋山みどりの冥福《めいふく》は祈らなかった。それを祈るのは、おれが殺し屋を仕留めてからにする、と決めていた。  初めて顔を見る客が、四人来た。最初に来たのは、サラリーマンふうの中年男と、二十代と思える男だった。会社の上役と部下、といった取り合わせに見えた。金利と株の話をしていた。一時間ばかりで帰っていった。  アヴェックの客は、十一時近くに現われた。男は長髪の頭にグレーのソフトをかぶり、縁なしの眼鏡をかけ、黒の革のコートを着ていた。両手の指に指輪を五つはめていた。歳は三十前後だろう。女はグレーと赤の太い横縞のニットのワンピースにロングブーツ。黒のハーフコート。二十六、七歳といったところ。二人はおれの知らないミュージシャンの、コンサートの話をしていた。  おれはその二組の初めての客の顔を、頭にやきつけた。この先も毎晩、新しい客の顔を憶《おぼ》えるつもりだった。敵が姿を見せない限り、おれの前に現われる素性《すじよう》の知れない相手は、全員が殺し屋だと思わなければならない。外を歩くときは、地雷原《じらいげん》を進む気分になる。店に来るときに、すでにおれはその気分を味わった。  カローラで走っているときは、まだいい。店の仕込みの買物をするスーパーの前で、車を降りるとき。スーパーの中で買物をするとき。車に戻るとき。カローラをいつも停める月極めの駐車場から店までの、五分ぐらいの道のりを歩くとき——。ほとんどおれは息を詰めどおしだった。  見なれている新宿の街のようすが、一変して、見知らぬ土地のように思えた。空も空気も凍ったように感じられた。  恐怖と緊張が、全身を締めつけてきた。体じゅうに鳥肌が立っているのがわかった。足がちゃんと道路を踏んでいないような気がした。  そうやって、四年間眠っていたおれの、獣《けだもの》が身に備えているような暗い警戒心を目覚めさせていった。危険を鋭く察知し、それに備えるための神経経路が、少しずつ甦《よみがえ》っていった。  おれは穴熊みたいに、巣の中にうずくまっていたかった。店を閉め、マンションの部屋から外に出ずに、姿を見せない、正体のわからない殺し屋の殺意にふるえあがっていたかった。  命を脅《おびや》かす恐怖というものが、どんなものか、おれはよく知っていた。目の前に突きつけられる銃口や刃物よりも、見えないままに自分の胸に牙を立ててくる恐怖のほうが、人間を打ちのめすことを、おれはよく知っている。命を脅かす恐怖の前では、人間が人間でなくなることを、おれはよく知っている。  そういう恐怖にさらされた者の姿を、おれは四年前までつづけていた仕事の中で、何回か眼にしてきた。自分も同じ恐怖にさらされたことがある。  けれども、おれはうずくまっているつもりはなかった。おれを殺そうとした奴を、赦《ゆる》すつもりはなかった。それ以上に、おれの身代わりとなって死んだ、小さな女の子の姿が、おれを駆り立てた。 3  店は二時過ぎに終わった。  ビルの出入口はひとつしかない。新宿の街には夜がない。通りには車が列を作って走り、歩道にはたくさんの人の姿があった。  駐車場までのわずかな距離の道が、ひどく遠いものに思えてならなかった。  カローラの運転席に体を入れ、ドアを閉めて、おれは大きな吐息をはいた。  駐車場を出て、大塚《おおつか》に向かった。四年来、一度も顔を合わせたこともなく、電話で話をすることもなくなっていた相手を、訪ねなければならなかった。  松永敏恵《まつながとしえ》。三十九歳。独身。新橋《しんばし》の烏森《からすもり》にある小料理屋〈まつ〉の女将《おかみ》。殺し屋の斡旋《あつせん》屋。松永敏恵についておれが知っているのはそれだけだ。  過去におれが手がけた殺しの仕事は、すべて松永敏恵のところから回ってきた。その仕事が、どういう経路で松永敏恵のところに回ってくるのか、おれは知らない。知ってはならないし、知ろうとすることもタブーとされていた。すべては闇に包まれている。  おれが初めて松永敏恵に会ったのは、十三年前だった。おれは、服役中に知り合った老人に、娑婆《しやば》に出て喰えなくなったら、烏森の小料理屋〈まつ〉の女将を訪ねてみろ、と言われた。  おれと同じ殺人罪で、終身刑を受けている老人だった。やくざの世界にいた男じゃなかった。おれもやくざの飯を喰ったことは、一度もない。老人がどういうわけで、終身刑をくらうような殺人をしたのか、受刑者たちは誰も知らなかった。老人の娑婆での経歴も、まったくわからなかった。  娑婆に出て、喰えなくなったわけではなかったが、おれは松永敏恵に会いにいった。松永敏恵を訪ねてみろ、と言った老人の言い方に、何かおれの心をそそるところが感じられたからだ。 〈まつ〉を訪ねて、松永敏恵に、老人の名前を告げた。名前と連絡先を訊かれた。それだけだった。  一ヵ月後に、松永敏恵のほうから電話がきた。都心のホテルの名前と部屋の番号を告げて、すぐにそこに来るように、と松永敏恵は言った。  ホテルの部屋で、身上調査をされた。本籍地。生年月日。係累《けいるい》。学歴。刑務所に入ることになった殺人の経緯《いきさつ》。刑期。出所の期日。根掘り、葉掘りの質問は二時間半つづいた。その間、松永敏恵は、ファイルにとじた書類のコピーや、事務用箋らしいものに書かれた何かの書類に眼をやりながら、おれの答えることを聞いていた。  確かめたわけではないが、松永敏恵がそのとき持っていたファイルの中身は、おれ自身の個人的な事柄に関する資料だったにちがいない。おれはいまでもそう思っている。  おれをそのホテルに呼び出すまでの一ヵ月の間に、どういう方法をとったのかわからないが、松永敏恵はおれについての個人的な情報をかき集め、調べつくしたにちがいなかった。  二時間半にわたる身上調査が終わるまでの間、おれのほうからの質問には、一切答えが返ってこなかった。松永敏恵はそれをすべて聞き流した。そういう扱いを受けたにもかかわらず、おれが途中で席を立って帰らなかったのは、ただただ好奇心のせいだった。  おれは、松永敏恵がおれにやらせようとしている仕事が、どういうものなのか知りたかったのだ。いきなりホテルの部屋に呼びつけ、一方的な質問を二時間半もつづけ、その間松永敏恵はまったく無表情のまま、という状況は、どう考えても異様だった。異様さに加えて、おれはなんとはなしに、そこに秘密の匂いを嗅《か》ぎつけていた。  そういった手続きを経た上でやらされる仕事は、何か特別のものにちがいない、とおれは考えた。しかも、おれを松永敏恵に会わせたのは、殺人罪で終身刑を受けている老人であり、おれ自身も殺人罪で服役していた男であることが、相手はわかっているのだ。人を殺した過去を持っている男に、あえてやらせようという仕事がどういうものなのか、おれはぜひとも知りたかった。  だが、それが人の命を奪う仕事だということは、おれにはまったく思い及ばなかった。  身上調査が終わると、松永敏恵は、おれにシャワーを浴びてこい、と言った。それも、身上調査のつづきのような、冷たい事務的な口調だった。おれは戸惑《とまど》ったが、言われたとおりにした。  浴室から出てくると、窓のカーテンが閉められていて、部屋はほの暗くなっていた。そして、松永敏恵はベッドに入っていた。裸の腕と肩が、毛布の外に出ていた。眼は閉じられていた。  おれは、しばらくベッドの脚もとに立ったまま、眼を閉じて仰向けになったまま動かない松永敏恵の顔を黙って見ていた。そのときおれの頭にあったのは、ベッドに入った松永敏恵を抱きたいということと、彼女がしていることは、おれに対する何かのテストなのではないか、という疑いだった。テストだとすれば、彼女を抱くのが正解なのか、抱かずにいるのが正解なのか、おれにはわからなかった。わかりっこない問題だった。  おれはサイコロを投げるようなつもりで、抱かないほうを選んだ。 『もう用はすんだのかな?』  おれは立ったままで松永敏恵に訊いた。 『すんだわ』  松永敏恵は眼を閉じたままで答えた。 『で、仕事はもらえるのかい?』 『いまはなんとも言えないわ』  それを聞いて、おれは黙ってその部屋を出た。  それから五ヵ月後に、松永敏恵から連絡がきた。その間、彼女からはなんの音沙汰もなかった。  二度目もホテルの部屋で会った。そして、そのとき初めて、おれは仕事の内容を知った。消すべき相手についての資料を受け取った。十日以内に、どういう方法で消すかということを決めるように求められた。方法が決まったら、それに必要なものはすべて松永敏恵が用意することになった。そして、その日から三週間以内に仕事を終わらせることを約束させられた。示された報酬の額が、果たして多いのか少ないのか、おれにはわからなかった。  おれは、その仕事を引き受ける、という返事をその場でした。話が終わると、松永敏恵は、今度ははっきりと自分から、抱いてほしい、とおれに言った。おれは抱いた。  そうやって、おれは殺し屋の稼業を始めた。おれは三十一歳になっていた。松永敏恵はまだそのとき二十六歳だったことになる。殺し屋になる肚《はら》を固めたばかりの三十一歳の男と、二十六歳の殺人者斡旋業の女は、その最初の抱擁のときから、はげしく欲望をぶつけ合った。 4  大塚のそのマンションをおれが訪ねるのは、それが二回目だった。  四年前に、殺し屋稼業から足を洗ったおれを、松永敏恵が自宅に呼んでくれた。二人だけの引退と別れの会を開こう、と彼女が言ったのだ。それが、松永敏恵の住まいを訪ねた最初だった。  それまでの仕事の連絡と打ち合わせは、すべてホテルの部屋で行なわれた。そして、そのとき以外は、おれと松永敏恵が顔を合わせたことは、一度もなかった。そういう約束になっていたのだ。だから、おれと松永敏恵が、体を重ね合った数は、おれが仕事として命を奪った相手の数と、ぴったり一致する。  おれは、表通りをへだてた反対側の裏道に車を停めた。電話ボックスを探して、松永敏恵に電話をかけた。彼女は店を終えて帰っていた。おれが名前を名乗ると、松永敏恵は一瞬、息を呑んだようすだった。おどろいた気配がはっきり受話器に伝わってきた。 「近くに来てるんだ。話したいことがある」 「なに?」 「あんたの力を借りたいと思ってるんだ。会ってからじゃないと話せないな」  返事が帰ってくるまで、かなりの間があった。おれは黙って待った。会うことを断られたら、押しかけるつもりだった。松永敏恵は断らなかった。  四年ぶりに見る松永敏恵は、少しも変わっていなかった。解いた髪を垂らした頭に、赤紫色のバンダナを巻き、黒の上下のトレーナーという姿だった。和服姿以外の松永敏恵を見るのは、おれはそれが初めてだった。化粧を落とした顔を見るのも、初めてだった。  おれたちは、四年ぶりの再会だったのに、それらしいことばはひと言も交わさなかった。仕事で会っていたときもそうだった。知り合い同士が顔を合わせたときに、自然に口から出る挨拶のことばが、おれと松永敏恵の間でやりとりされたことは、一度もなかった。  テーブルに紅茶を運んできて、向かい合ってソファに腰をおろすと、松永敏恵は表情を殺した顔をおれに向けた。口は開かなかった。おれは話を始めた。 「誰かが、おれを消そうとしてるんだ。きょうのゆうがた、十二時を回ってるから、きょうじゃないな。きのうだ。中野坂上で発砲事件があって、秋山みどりという六歳の女の子が撃たれて死んだというニュース、テレビで見なかったかい?」 「知らない」 「その事件が起きたのは、おれのマンションの玄関の前なんだ。狙われたのはこのおれでね。秋山みどりという女の子は、とばっちりをくって死んだんだ」 「運のわるい子ね」 「その子にとっては、おれは死神だったわけだ」 「あんたがその子の死神になろうと思ってなったわけじゃないでしょう」 「その話は措《お》いとこう。おれが知りたいのは、どうしておれが命を狙われなきゃならないのかってことなんだよ」 「覚えはないの?」 「あるとすれば、あんたのところでやってた前の仕事に絡《から》んだことだけなんだ。ほかにはない」 「足を洗って四年になるのよ、あんたは。どうしていまごろ、それが絡んでくるの?」 「わからない。いまになって、おれを消してしまわなければならない事情が持ちあがったのかもしれないだろう。誰かの上に……」 「たとえばどんなふうな? あんたが考えてることを話してみて」 「考えられることは二つだ。ひとつは復讐さ。むかし、おれに仕事で消された相手の怨みを、誰かがはらそうとしておれを狙ったのかもしれない。おれだけじゃなくて、その人間を殺すために殺し屋を雇った、もともとの依頼人も命を狙われてるかもしれない」 「もうひとつは?」 「おれが関わった殺しのどれかが、いまになって、もともとの依頼人にとってヤバい火種になってきたのかもしれない、という考えだ。依頼人が、殺し屋を雇って、邪魔な相手を殺したんだという疑いが、いまになって濃厚になってきたのかもしれない。そうなったら依頼人にとっては、雇った殺し屋を消してしまうことが、いちばん手っとり早くて確実な策なんじゃないかね?」 「そのために、また別の殺し屋を雇わなければならないのよ。そうだとしたら」 「そんなことをためらってなんかいられない事態になったとしたら?」 「やるかもしれないわね。でも、その場合はわたしのところには話は回ってこないはずね。あんたを消す仕事の話を、わたしのところに持ってくれば、むかしやった仕事の絡みであんたが狙われることになったんじゃないかって疑われてしまうもの」 「おれを消す仕事の話は、あんたのところにはきてないんだな?」  おれは松永敏恵の眼を見据《みす》えて念を押した。松永敏恵は、おれの視線をまっすぐに受けたままで、首を大きく横に振り、きっぱりとした口調で言った。 「きてないわ。そういう話がきても、わたしはそれは請《う》けないわ。それを請けてたら、わたしはこの仕事つづけてこれなかったし、これからもつづけていけないわ。どんなに悪辣《あくらつ》で冷酷な仕事でも、最低の仁義は守っていたいもの」 「信じてるよ、それは……」 「あんたが復讐されようとしているんだとしても、誰かがむかしあんたにやらせた殺しを隠そうとして、あんたを消しにかかっているんだとしても、その相手が誰かってことはわたしにもわからないわよ。わたしだってあんたと一緒で、回ってきた仕事の取り次ぎはやるけど、的にされてる相手が、どういうわけで消されなきゃならないのかってことの事情や経緯は、いつだって知らされちゃいないんだから。あんたは、それをわたしから訊き出そうと思って、ここに来たんでしょうけど」 「あんたは何も知らないかもしれない。だが、あんたのところに仕事を持ち込んでくる人間は、事情を知っているかもしれないだろう?」 「それはわたしにはわからないことだわ。それに、その人が仮に事情を知っているとしても、わたしがそれを訊けると思ってるの? 訊かれた相手が話をしてくれると思ってるの? そんなことがまかり通るようじゃ、この仕事は成り立たないことぐらい、あんたが知らないはずはないじゃないの」 「おれは命を狙われたんだ。そして代わりに六歳の女の子が殺された。なんの罪もない女の子がだよ」 「だからわたしに、あんたの命を狙った相手を捜し出す手伝いをしてくれっていうの? してあげたいわよ。あんたのいまの気持、わたしだってよくわかるわ。でも、手伝いは断るわ。あんたもよく知ってるとおり、この仕事でいちばん大事なのは、穿鑿《せんさく》しないこと、好奇心を殺すこと、無関心でいることなのよ。あんたの力になってあげようと思って、わたしが穿鑿をはじめれば、つぎに命を狙われるのはわたしだわ」 「あんたのところに仕事を持ち込んでくるのが誰かってことも、教えるわけにはいかないってことだな?」 「断るわ。無理を百も承知で、あんたがそういうことを言うくらいだから、よほどのことだとは思うけど……」 「あの稼業から足を洗って、おれもヤキが回ったのかもしれないけどね。おれのせいで罪もない女の子が殺されたんだと思うと、いても立ってもいられない気持なんだ」 「それはわかるわよ。でも、わたしにもできることとできないことがあるわ」 「おかしな話だよな。自分とは何の関わりもない相手の命を奪う仕事をしてきたおれが、秋山みどりというあの女の子のことになると、平気でいられないんだから。仕事でじかに手を下した相手には平然としていられたおれが、あの女の子に対しては、まるで自分が直接、引鉄《ひきがね》を引いて殺しちまったような気になってるんだよ。もちろん、おれが狙われたことも、赦せないと思うけどな」 「仕事で始末する相手は、あんた自身には殺す理由も動機もなかったからじゃないの」 「それだけじゃない。仕事をするとき、おれは相手に対する殺意だって、ほとんどなかったよ。頭の中にあるのは、うまく仕事をやりとげることだけでね。殺人の道具そのものには殺意がないのと同じで、仕事のときのおれも殺人の道具のひとつだと、自分で思ってたよ。だから殺意がなくてもやれた。殺意がなくてやった相手だから、平気でいられた。けど、あの女の子の場合は、あの子が殺された原因がおれにあったんだよ。平気でなんかいられないさ」 「わたしにできることが、ひとつだけあるわ」 「なんだい?」 「相手に圧力をかけることならできるわ。それとなくね」 「圧力?」 「ほかには命を狙われる覚えが、あんたにないのなら、たしかにあんたが言うように、きのうのゆうがたの発砲事件は、むかしあんたが請けてやった仕事のどれかに絡んだものなんだろうとわたしも思うわ。だから、この先も自分が狙われるようなことがあれば、むかし自分が手がけた仕事のことを、なんかの方法で世間にぶちまけると、そういうふうにあんたが言っているってことをほのめかすのよ。わたしに仕事を持ち込んでくる人間にね。そうすれば、あんたがそう言っているってことが、仕事が回ってくる道を逆に辿《たど》って、もともとの依頼人のところに伝わっていくはずよ」 「それはそうだな。ぜひ頼む。そうしてくれ。ハッタリじゃなくて、おれは本気でそうしてもいいと思っている。けど、圧力をかければ、相手はおれを殺すことは見合わせるかもしれないけど、秋山みどりの霊は浮かばれないままだよな」 「どうしてもその女の子のために、相手を突き止めるというのなら、それはもうあんたが一人でやるしかないわ。それ以上のことはわたしにはできないもの」 「もうひとつ、頼みがある。拳銃と、防弾チョッキを貸してもらいたいんだ。あんたの仕事をするわけじゃないのに、道具だけ貸せってのは、勝手な話だってことは、よくわかってるよ」 「いいわ。道具を貸すことぐらいは、わたしの一存でできることだから」 「助かる。礼を言うよ」  おれは頭を下げた。 「冷たいことを言ったけど、ほんとはわたしも肚《はら》に据えかねてたのよ。むかしの仕事の絡みであんたが命を狙われたんだとすれば、それをやらせてる張本人は、あんただけじゃなくて、わたしを裏切ってることにもなるのよ。そうでしょう。仕事はみんな、あんたと組んでやったんだから。あんたがやった仕事を闇の底に沈めるためには、あんたとわたしを消しちまえば、完璧なのよ。わたしのところに仕事を持ち込んでくる人間は、わたしが誰にその仕事を回したかってことは、一切知らないんだから。糸はわたしのところで切れる仕組みになってるのよ。ということは、あんたが狙われるってことは、わたしが狙われたのと同じことだわ」  松永敏恵は、眼に冷たい怒りを表わして言った。おれはうなずいた。松永敏恵の言うとおりだった。ただし、彼女がほんとうに何も知らずにいるとすれば、だ。 「あんたも気をつけたほうがいいな。狙われないとは言い切れないぞ」 「わかってるわ。でも、あんたより先にわたしが殺されるってことはないはずよ。あんたが狙われた後でわたしが消されれば、あんたが狙われた理由が、ますますはっきりしてくるわけだから」 「たしかにな」 「シャワー浴びない?」  だしぬけに、松永敏恵が言った。それまでの話のつづきのような口調だった。表情もまったく動かなかった。おれは、むかしを思い出した。松永敏恵は、おれたちが殺し屋とその仕事の周旋人の関係であったときと、少しも変わらないようすで、おれをベッドに誘っているのだった。  おれも四年前までと同じように、表情を締まりなくゆるめたりすることをせず、無言で立ちあがって浴室に行った。 5  裸になった松永敏恵の体も、四年前とほとんど変わっていなかった。  十三年前に始まったおれと松永敏恵とのセックスは、客と娼婦とのセックスに、どこか似ていた。気持が通い合った上でのセックスではない、という点で、だ。  客と娼婦の関係とちがうところと言えば、金銭のやりとりが行なわれないところだけだった。金銭の代わりにおれたちがやりとりするのは、純粋に快楽だけだった。たがいに相手の快楽のために奉仕し合うという意味では、松永敏恵が娼婦であるのと同じように、おれもまた彼女の相手をする娼夫だった。  そうやって、純粋に快楽そのものだけの、やりとりのために、たがいに奉仕し合う姿が、形の上ではげしく愛し合っているカップルに似て見えるのは、皮肉で滑稽なことだ。  その夜のおれたちのベッドでのようすも、やはり深く愛し合っている男女の姿に見えたかもしれない。  おれは手抜きはしなかった。丹念な愛撫をつづけた。相手にも手抜きをしてほしくなかったからだ。  豊満というにはいくらか量感に欠ける、しかし手で包みきることはできない松永敏恵の乳房を、おれは十分に揉みしだいた。乳首に舌をまとわりつかせながら、手で彼女の頸《くび》すじや、体の脇の線を腰まで静かになぞった。  乳首と乳房を同時に愛撫しながら、今度は舌と唇を彼女の頸すじや、腋の下のくぼみや、脇腹に這わせていった。乳首を強く指先ではさみつけるようにして揉みながら、腋の下のくぼみに舌先を静かに這わせていくと、松永敏恵は首をのけぞらせ、はげしく息をふるわせながら、乳房の上のおれの手を乳房ごとつかみ、全身を細かくわななかせた。そして彼女のもうひとつの手は、しっかりとおれのペニスをにぎりしめ、わななきはその手にも伝わってきた。  おれはさらに、片手で乳房と乳首をもてあそびながら、松永敏恵の両脚を押し開き、その間に頭を落とし込み、彼女の両脚の付根や、陰毛の生えぎわを、とがらせた舌の先でそっとなぞることをつづけた。クレバスが開き、そこから溢《あふ》れ出ている体液が、おれの頬を濡らしてくる。けれどもおれはまだ、女陰に舌や唇を当てることはしない。おれはさらに、彼女の両の大腿《ふともも》の内側から、ひかがみまで、舌を進めていく。  そのうちに松永敏恵は、自分から腰をひねり、うつ伏せになって、つぎの愛撫を無言のままおれに求めてくる。おれはうつ伏せになった彼女の、大きく開かれた両脚の間に膝を突き、豊かな尻の上に身をかがめる。おれの両手は上に伸びて、松永敏恵の胸の下に入り、乳房を掌に受ける。そうやって乳房をなおも愛撫しながら、おれは松永敏恵の尻の二つの丘に舌を這わせ、そっと歯を立てる。その愛撫は、感覚そのものよりも、そうした二人の姿が松永敏恵をひどく淫《みだ》らな気分に駆り立てていくらしい。  しかし、もちろん淫らな気分だけで彼女の気がすむはずはない。おれはやがて舌を彼女の尻の谷間に移していく。舌先は尻の谷間のはじまる|尾〓骨《びていこつ》のところからスタートして、ゆっくりと静かに下に這いおりていく。すると松永敏恵は喘《あえ》ぎを高め、腰をうねらせながら、両膝を立ててベッドに突き、高く尻を上げてくる。そのようすには、憚《はばか》るところはまったくない。彼女はそういう姿勢をとって、おれの前にアヌスも女陰もあからさまにさらして、欲望を剥き出しにしてくる。  おれは片手を乳房から離し、女陰に移す。親指で松永敏恵の膣口の周辺の折り重なった襞《ひだ》を静かになぞり、人さし指でクリトリスをやわらかく揉み、中指で小陰唇をもてあそびながら、おれは暗い色を見せている彼女のひきしまったアヌスの上で舌をそよがせる。  舌の愛撫を受けているうちに、ひきしまっていたアヌスはやわらかくほぐれてくる。するとその部分が、そこでうごめいているおれの舌先を中に誘い込もうとするような、小さな収縮の動きをはじめる。そして松永敏恵の口からは、押し殺したような甘美な呻《うめ》き声が、絶えることなく洩れつづけ、次第に高まっていく。  やがてまた彼女は、自分からつぎの愛撫を求めて起きあがり、おれの肩を両手で押してくる。おれたちはことばを持たない二匹の獣のように、ひと言も口をきかずにことを進める。肩を押されておれは仰向けに体を伸ばす、すぐに松永敏恵がおれのペニスに唇をかぶせてくる。フェラチオをはじめながら、彼女はおれの頭のほうに足を移してきて、膝でおれの胸をまたぎ、自分もクンニリングスを求めてくる。  おれはふたたび片手を松永敏恵の乳房に伸ばし、クンニリングスを行ないながら、もうひとつの手の指で、彼女のアヌスと膣口への愛撫をつづける。  おれの胸の上で松永敏恵の体がふるえ、ひくつく。背中が丸くなったり反ったりする。浮かせた胸の下で乳房がはずむ。松永敏恵の唇と舌も、ペニスだけにかかりきりになってはいない。おれの脚の付根や、ふぐりや、会陰部を彼女の舌が巧みに掃いてまわり、やがてその舌はおれのアヌスにも伸びてくる。おれのアヌスに舌を這わせながら、彼女の片手はおれのペニスをにぎり、先端の過敏な部分で自分の乳首をころがすようにする。それはおれへの奉仕であると同時に、彼女自身の欲望を高めるための愛撫ともなる気配なのだ。  そしておれは、すっかりやわらかくほぐれた彼女のアヌスに、浅く指をくぐらせる。同時にクンニリングスにはげしさを加えながら、膣口にも指を沈めていく。松永敏恵のフェラチオも、そこで一気にはげしさをつのらせ、狂おしげな様相に変わる。彼女の腰がおれの胸の上で悩ましげにうねり、そのために彼女のアヌスと膣口にくぐらせたおれの指は、誘いこまれるようにして奥に進んでいき、不意に松永敏恵は喉の奥にくぐもった呻き声をひびかせて全身をこわばらせ、背中を強く反らせて果てる。その間、おれのペニスは強く吸われつづけている。  おれの二本の指には、強く刻みこんでくるような松永敏恵のリズミカルな痙攣《けいれん》が伝わってくる。その痙攣が鎮《しず》まりきらないうちに、彼女は腰を下ろして上からおれに体をつないでくる——。  そんなふうにして、四年ぶりのおれたちのセックスは進められていって、すっかり欲望が鎮まったときは、夜明けに近い時刻になっていた。 6  敵を追いつめる手がかりは、おれにはなにひとつなかった。  住宅地の中で起きて、秋山みどりの小さな命を奪った発砲事件の警察の捜査も、まったく進んでいないようすだった。  手がかりがなければ、それをこちらが誘い出すことを考えなければならなかった。  おれは、松永敏恵から借りた防弾チョッキを着込み、拳銃を服の下に隠して、それまでと変わらないように、店に出た。  それまでは昼間の時間に一回だけと決めていたロッキーの散歩も、昼間と深夜の二回に増《ふ》やした。用がなくても、外を出歩いて、敵に襲撃のチャンスを与えてやることにつとめた。  おれをふたたび襲えば、おれが過去に手がけた殺しのことを明るみにさらす、という脅しが、松永敏恵から殺しの依頼人たちに伝わったかどうか、おれには確認のしようがなかった。また、その脅しが伝わっていたとしても、相手がおれを消すことをすっかり断念するとは限らない。いわば自分自身を囮《おとり》にした罠というべきおれの外出作戦は、危険は伴うものの、相手におれの戦意を見せる上でも、意味のあるものとおれは考えていた。  一方ではおれは、いくつかの図書館に足を運ぶことも始めた。古い新聞や週刊誌に眼を通すためだった。  おれは、殺し屋として過ごした九年間に、六人の人間をこの世から消した。その六件の仕事を決行した方法、日時と場所、相手の名前や住所や勤め先といったものは、すべておれの記憶の中に正確に残っている。そして、その六件の殺人事件は、起きた当時の新聞や週刊誌に、すべて記事として掲載されていた。  おれは、犯行当時のそうしたマスコミの報道記事や追跡記事を、丹念に読み返すことによって、そこから何か手がかりがつかめはしないか、ということを思いついたのだ。  殺人請負業という仕事が成立するのは、ある人間の死によって、有形無形の利益を手に入れることができる人間が片方にいるからだ。相手の死によって利益を得ようと考えた人間は、自分が殺人者になるか、殺人請負業者に、その仕事を依頼するかしかない。  おれが手がけた六件の仕事にも、それぞれ相手の死によって利益を得た人間が必ずいる。おれは、それが誰なのかということを突き止める手がかりを古いマスコミの報道記事の中から探し出せないか、と期待していたのだ。  それは根気と時間のいる仕事だった。とりかかってみて、それがわかった。その事件に関する記事が出ているということがはっきりわかっているのは、事件直後の第一報をのせている新聞だけなのだ。第一報の記事を探るには、事件が発覚した日付の新聞を開けばすむ。だが、続報となるとそうはいかない。事件の第一報が出て、数ヵ月もしてから、新しい事実が判明して、新聞に出るということだって考えられるのだ。だが、おれは六つの仕事それぞれについて、マスコミがいつどのような事件の続報を伝えたか、ということまでは記憶していないのだ。  新聞以上に厄介《やつかい》なのは、週刊誌だった。関連する記事の量からいえば、おしなべて新聞よりも週刊誌のほうが上まわっていた。だがそれらを洩れなくピックアップするためには、事件当時のあらゆる週刊誌の目次をまず、片《かた》っ端《ぱし》からチェックしていかなければならないのだった。  おれはしかし、根気と時間を惜しむ気はなかった。毎日、三時間は図書館で過ごすことを始めた。徒労に終わるかもしれないことも、覚悟していた。何かをしていなければ、なによりもまず秋山みどりに対して、心が責められるのだった。  そうやって、十日余りがまたたくまに過ぎたある夜に、おれは二度目の襲撃を受けた。  その夜、店を終えてマンションに帰ったのは、午前二時半ごろだった。  深夜のロッキーの散歩を兼ねたジョギングは、最初の襲撃を受けてから新しく始められた、おれの日課になっていた。  店から帰ると、おれはいつものように、防弾チョッキの上から、トレーナーを着込んだ。ズボンもトレーナーパンツに着替えた。トレーナーの上から拳銃のショルダーホルスターをつけて、銃を吊り、上からフードつきの紺色のアノラックを着込んだ。頭はヘルメットでガードしたいところだったが、ジョギング中にヘルメット姿では異様すぎて、パトロールの警官の眼を惹きそうに思えたので、思い留まった。  マンションを出ると、おれはロッキーに気合をかけて、ゆっくりと走り始めた。ロッキーは機嫌がよくなかった。すでに老犬である上に、アフガンハウンド種の特徴なのか、ロッキーはあまり散歩が好きではない。日がな一日、ソファの上に寝そべって、眠りこけているのが最高のしあわせ、という犬なのだ。それが、日に一回ですんでいた散歩が二回に増え、おまけに夜の散歩は走らなければならないときているので、ロッキーとしては面白くないのだ。  それでも奴は、曳き綱で曳かれ、おれに尻をポンと蹴とばされると、しぶしぶと走り始めた。  おれは少しずつ歩速を速めた。おれがジョギングを始めたのは、突然に仕掛けられてきた戦いに備えて、なまっていた体を作り直し、体力をつける、という目的もあった。泥縄で始めた体力づくりが、いつ何が起きるかわからないという戦いに、間に合うかどうか心もとない限りだったが、それでも気持をひきしめる上では、効果がないとは言えなかった。  おれは表通りを避けて、寝静まった人通りの絶えた住宅地の道を走りつづけた。すぐに体が温まり、呼吸がはずみ始めた。ロッキーの呼吸の音も、はずみ始めた。  そいつが姿を現わしたのは、小さな公園と中学校が隣合った十字路まで来たときだった。そのときは、おれの体は汗ばみ始めていた。  一台の乗用車が、後ろから走ってくるのは、エンジンの音とライトの光でわかっていた。ほかには走っている車はなかった。おれはふり向くことはしなかったが、全神経を後ろに集中して、エンジンの音とライトの光だけで、車との距離を測っていた。  車を凶器に使うつもりなら、不意にスピードをあげて突っ込んでくるはずだった。車の中から銃撃してくるつもりなら、逆に距離を詰めておいて、車のスピードを落とすはずだった。  おれは走りながら、右手をアノラックの下に入れ、ホルスターのストッパーをはずし、拳銃を抜き、安全装置をはずした。薬室にはすでに第一弾目の弾丸を送りこんであった。気がつくと、おれの呼吸は細かく浅いものに変わっていた。  車は同じスピードで近づいてきた。狙撃してくるつもりなら、すでにおれは射程距離に入っているはずだった。  車はスピードをあげて突っ込んでくることもなく、銃声もひびかなかった。運転席にいる男の横顔と、手前の助手席の女の顔が、ライトの照り返しの中で、ぼんやりと見えた。そのまま、車はおれとロッキーの横を通り過ぎた。黒のランサーだった。  おれはランサーのナンバープレートに眼をやった。念のため、といった思いがよぎったのだ。練馬《ねりま》ナンバーだった。  おれが後頭部に衝撃と痛みを覚えたのは、走りながらランサーのナンバープレートから眼を離したときだった。反射的に、おれは横に跳び、銃を体の前でかまえた。おれの眼にとびこんできたのは、ライトを消した自転車に乗った、長い刃物を手に持っている男の姿だった。 7  道は暗かった。  男の姿は黒い影にしか見えなかった。自転車のハンドルが、わずかに白かった。  後頭部の一撃が効《き》いていた。おれの頭の中には、重い波が立っていた。膝が硬かった。ロッキーが低く唸った。その声がおれを力づけた。  おれは両手で拳銃をかまえていた。はずしてあった安全装置を元に戻した。撃つのを思い留まった。  咄嗟の判断だった。男を捕えて、口を割らせるつもりになった。暗がりの中で、うまく急所をはずして撃つのはむつかしい、相手を殺せば、せっかくつかんだ糸はそこで切れる。おれが狙わなければならないのは、その男ではない。その男の後ろに隠れている奴だった。  自転車が傾いた。男は倒れる自転車と一緒に、道路に体を投げ出した。おれの銃撃をかわすつもりと見えた。  おれも男も声を出さなかった。おれの呼吸ははずんでいた。ジョギングのせいだった。呼吸を鎮め、後頭部の衝撃のダメージがうすれることを願った。  時間をかせぎたかった。拳銃をかまえて、おれは動かずにいた。ロッキーはおれの膝の横に立っていた。  男はおれに時間をくれなかった。刃物の光は見えなかった。道に投げ出された男の体が動いた。背中が起きた。同時に、倒れた自転車が飛んできた。  おれは虚を突かれた。よけられなかった。自転車はよけるには大きすぎた。投げつけられた自転車のハンドルが、おれの肘を打ち、腰に当たり、膝の上ではずんで道に落ちた。ロッキーが悲鳴をあげた。自転車はロッキーも襲ったようだった。おれの手から拳銃が落ちた。肘のしびれが手まで走った。  黒い影が横から襲いかかってきた。跳び蹴りが肩に入った。おれは横に吹っとばされた。男の鋭い呼吸の音が聴こえた。おれはなんとか踏み留まった。  体を立て直す間はなかった。眼の端に白い光が走った。刃物のきらめきだった。男はおれの斜め後ろから突っ込んできた。  体を回した。後ろから狙ったのはフェイントだった。刃物が男の左手から右手にとび移るのをおれは一瞬、見た。男の右手がおれの腹にまっすぐ伸びてきた。  おれにできたのは、腰を引き、腹を一センチでも刃物から遠ざけることだけだった。おれはそうした。  腹に衝撃がきた。痛みはなかった。防弾チョッキが刃物を受けてくれた。おれはしかし、防弾チョッキを着けていることなど忘れていた。  夢中だった。腹に伸びてきた男の右の手首を両手でつかんだ。うまく体を回した。逆手に固めた男の右肘は、おれの肩の上にあった。肩で肘をへし折るつもりで、おれは両手でつかんだ手首を押し下げようとした。  一瞬遅れた。男の肘打ちがおれの首を襲った。意識がにごった。体の力が抜けた。恐怖がおれを救った。男の手首をつかんだ手だけは放さずにすんだ。その手首を押し下げた。  肘は折れなかった。男の腕がおれの肩からすべってはずれた。だが、刃物は男の手から落ちて、おれの足もとで跳ねた。おれはそれを遠くに蹴とばした。  後頭部に頭突きがきた。二発目は左側頭部への手刀だった。心得のある動きだった。効いた、頭突きでおれの頭の中にまた重い波が立った。こめかみにくらった手刀の一撃が、おれの意識に白い霞をひろげた。膝から力が抜けた。  おれは男の手首をつかんだまま、それにすがる恰好《かつこう》で腰を落としかけた。まぬけで薄情なロッキーは、そのときになってようやく、飼い主のピンチを認識したらしい。  男の体がおれの背中の後ろで躍りあがった。男は呻き声を洩らした。ロッキーも唸り声をあげていた。おれは男の攻撃が止んだのに救われた。沈みかけていた腰を立て直し、ふらつく足でなんとか体を支えた。  ロッキーは男の左の肘あたりに喰らいついていた。四肢を踏んばり、頭をはげしく振って、ロッキーは男の腕の肉を噛みちぎろうとしていた。  そのようすが、おれに気力を与えてくれた。気力がおれの意識のにごりを吹き払った。膝にも力が戻ってきた。  おれは腰をひねって身がまえた。男の膝を狙って蹴りをとばした。そのまま踏み込んで、拳で男の腹を突き上げた。男はおれの攻撃をロッキーの体でかわそうとした。男は右腕でロッキーの長い首を抱えて、ロッキーをおれに叩きつけるようにして振り回した。  ロッキーの硬い腰骨が、おれの頬骨に当たった。ロッキーの鋭い牙は、男の腕に固くくいこんだままだった。ロッキーの唸り声と、男の苦痛の声が重なった。  おれは男の背後に回ろうとした。男はロッキーの首を抱えたまま、走り出した。そのまま逃げようというつもりのようだった。おれは追いすがり、跳んだ。男を蹴倒すつもりだった。  一発目は浅かった。男は前のめりになって足をもつれさせた。しかし倒れなかった。背中を丸めて走りつづけた。足が速かった。おれはふたたび跳んだ。蹴りは男の脇腹をかすめた。  ロッキーが妙な声をあげた。おれは男の背中に跳びつこうとした。そのおれの足もとに、ロッキーの体が落ちてきた。おれはロッキーの背中を踏んで、足がもつれた。そのまま前のめりに倒れた。  すぐに跳ね起きた。ロッキーは道にころがったままだった。男は走りつづけていた。おれは追った。追いつけなかった。見るまに引き離された。  おれは諦《あきら》めなかった。男は角を二つ曲がった。そこで男の姿がおれの視界から消えた。足音は聴こえていた。足音を追った。その音もすぐに小さくなり、やがて消えた。  おれの足は停まった。その場におれはしゃがみこんだ。心臓がはげしいタップダンスを踊っていた。うまく空気が吸い込めなかった。トレーナーの下に汗が噴き出していた。アノラックも防弾チョッキもトレーナーも脱ぎすてて、その場に横になりたかった。  すぐに不安が胸を襲ってきた。襲われた場所には、おれの拳銃と男の持っていた刃物が落ちたままになっていた。自転車も倒れたままだ。ロッキーはどうしたのか? 男が先回りして元の場所に戻っているかもしれなかった。  おれは腰をあげた。腰も脚も鉛を巻きつけられたように重かった。もう走れなかった。おれは歩きながら、呼吸の鎮まるのを待った。自分の心臓と肺と筋肉の性能と、殺し屋のそれとをくらべた。殺し屋はおれの半分くらいの歳の奴にちがいない、と思った。  ロッキーは道に倒れていた。動かなくなっていた。暗がりの中で、おれはロッキーを抱えあげた。頭が腕から垂れ下がった。血は出ていなかった。ロッキーの体を道の端に下ろした。  自転車も道のまん中に倒れていた。おれはそれも道の端に移した。アノラックのポケットをさぐり、ライターを出した。ライターの炎の光で、拳銃を探した。拳銃は電柱の根元に落ちていた。反対側の公園の柵のところに、光るものが見えた。刃物だった。持ち重りのする、先の鋭くとがった、二十センチほどの刃渡りの刃物だった。柄に近い根元の部分は、太い三角形になっていた。  おれはロッキーのところに行った。ライターをつけた。ロッキーの鼻面と口のまわりの毛が、血で光っていた。ロッキーは紺色のナイロンの布ぎれと、ひとかたまりの肉片をしっかりと口にくわえたまま、絶命していた。  ナイロンの布片は、殺し屋が着ていたジャンパーの袖の一部だった。肉片は殺し屋の腕の肉だった。 「ロッキー——」  おれは答えるはずのない犬の名前を口にした。抱《かか》えあげて抱きしめた。ロッキーの長い首が不自然に曲がり、頭が垂れさがった。おれはロッキーの首を両手でまさぐってみた。ロッキーの首の骨は完全に折れていた。  戦慄《せんりつ》がおれの背すじを這いあがってきた。殺し屋は、ロッキーに左腕を噛みつかれたまま、右腕一本で首の骨をへし折ったのだ。それも走って逃げながらだ。  ロッキーは老犬とはいえ、体重二十七キロのアフガンハウンドだった。並みの男なら、そういう犬の首の骨を、走りながら片腕でへし折るのは、やさしい仕事ではない。  殺し屋の手刀と肘打ちのダメージの強烈さを、おれは思い出した。蹴りのスピードを思い返した。鍛え抜かれた技を思わせる攻撃だった。  それ以上に、腕の肉を喰いちぎられながら、ロッキーの首の骨を片腕でへし折って逃げ去った男の気力に、おれは圧倒された。そら恐ろしい相手を敵に回していることを、おれは思い知らされた。  ライターの炎の光で、自転車を調べた。どこにでもありそうな、スポーツタイプの黄色い自転車だった。持ち主の名前も、盗難予防の登録カードも付いていなかった。車体は古びていた。  おれはロッキーの血まみれの口を手で押し開き、布片と肉片を吐き出させた。それを手でつかんで道路に力まかせに叩きつけた。犬を殺され、痛めつけられ、相手をとり逃がした肚いせに、おれはそれぐらいのことしかできなかった。  ロッキーを抱いて、歩いてマンションに帰った。いつか必ず仇は取ってやるからな、とロッキーに言って、詫《わ》びた。  第二章 沈黙 1  ロッキーはひと晩だけ、おれのベッドに寝た。  そこはロッキーのお気に入りの寝場所だった。奴はいつもそこで寝たがった。おれはよほど機嫌のいいときでなければ、ロッキーとベッドを共にして寝ることはしなかった。  おれの機嫌のいいことなど、そうしょっちゅうはないことだった。だからロッキーはたいていの夜は、二番目にお気に入りの場所である、ソファで寝ていた。  死骸になったロッキーは、最期《さいご》におれのベッドに寝たわけだが、それを奴がよろこんだとは思えなかった。  翌日の昼前に、連絡を受けた保健所の係員が、ロッキーの死骸を引き取りにきた。あっけない別れだった。  ロッキーの死骸を送り出してから、おれはホテルの部屋を予約した。四本目の電話で、京橋《きようばし》のシティホテルに空いた部屋が見つかった。  五本目の電話の相手は、松永敏恵だった。松永敏恵は、目が覚めたばかりだと言った。 「午後はあいてないか?」 「何かあったの?」 「会いたいんだ。ホテルの部屋を用意した」 「どこ?」 「京橋ホテル。一九七九号室」 「二時なら行けるわ」 「待ってる」  電話を切って、おれは昼食の用意をした。冷蔵庫に冷飯が残っていた。ハムとピーマンがあった。ワンタンの皮もあった。焼飯とワンタンスープを作って食べた。  台所を片づけた。殺し屋が置きざりにしていった刃物を、折りたたんだ新聞の間に入れた。防弾チョッキを着て、上からセーターを重ねた。ホルスターの拳銃を肩に吊り、革ジャンパーを着た。刃物をはさんだ新聞をさらに二つに折り、脇にはさんで部屋を出た。  京橋のホテルの駐車場にカローラを入れたのは、一時半だった。チェックインして部屋に入った。尾行はついていなかった。自信があった。  部屋のテレビをつけた。国会中継をやっていた。チャンネルは替えなかった。音量を絞った。つまらないテレビを見ていると、考えごとに集中できる。馴れない場所で考えごとをするのには、いい方法だ。おれが殺し屋時代にあみ出したやり方だった。  馴れない場所では、部屋のようす、外の景色が眼につく。気が散る。それを防ぐのにテレビが役立つ。それとたばこだ。アルコールは避けたほうがいい。酒は集中力を殺す作用しかない。  たばこを四本吸ったとき、ドアチャイムが鳴った。二時少し前だった。おれは足音を殺して、ドアの前に行った。ドアレンズに眼を当てた。和服姿の敏恵が、ハンドバッグを胸にかかえて立っていた。  おれは返事は省いた。ドアチェーンをはずし、ドアを開けて、松永敏恵を中に入れた。すぐにドアをロックし、チェーンをかけた。奥に行ってテレビを消した。 「何か飲むかい?」  椅子に坐った松永敏恵に言った。彼女は返事をしなかった。立っていって、自分で冷蔵庫のドアを開け、しゃがんで中をのぞいた。紅茶の缶を出してグラスを取り、松永敏恵は、テーブルの前に戻ってきた。 「犬が殺されたよ」  おれは話を始めた。 「犬が?」  グラスに缶の紅茶を注ぎながら、松永敏恵が眼を上げた。 「ロッキー。アフガンハウンド十一歳。牡。おれが飼ってた犬だ」 「死んだんじゃなくて殺されたのね?」 「おれのボディガードの役を果たして、殺された。首の骨を折られてね」 「襲われたのね、また——」  おれは、その日の真夜中のジョギング中の出来事を、松永敏恵に話した。 「最初は秋山みどりという小さな女の子が、おれの身代わりになって殺された。そのつぎがロッキーだ。知らない女の子と犬のおかげでおれはまだ生きてるわけさ。いい気分じゃないよ、まったく」 「ロッキーが殺し屋の腕に噛みつかなかったら、あんたは殺されてた?」 「たぶんな。グロッキーになりかけてたんだから」 「自転車で現われたの?」 「変わった殺し屋だろう」 「そうね」 「自転車はほとんど音がしないからな。襲うのには都合がいい。おまけに、車のすぐ後ろから、無灯火で近づいてきたんだ」 「その車は偶然に通りかかったの?」 「そうは思えない。車は囮《おとり》だったという気もする。練馬ナンバーの黒のランサーだった。男が運転して、助手席に女が乗ってたよ」 「顔は見たのね?」 「見たことは見た。けど、ぼんやりとしか見えなかったな。おれはそのランサーだけに全神経を集中してたから、自転車が後ろにつづいてるとは思いもしなかったんだ」 「車が囮だったというあんたの考えは、当たってるかもしれないわね」 「ランサーが通り過ぎたんで、おれはほっとしたよ。その途端に後頭部に一発くらった」 「何か道具で?」 「手刀だったと思うな」 「おかしくない? 殺し屋なら自転車の上から拳銃で撃つはずじゃない。殴ったりする必要はないんじゃないの?」 「おれもそう思う。だが、そいつは拳銃を持っていなかった。代わりにおもしろい道具を持ってたんだよ」  おれはテーブルの上の新聞を開いた。中にはさんであった刃物が現われた。松永敏恵がそれを見た。 「自転車に乗った殺し屋は、拳銃よりもこの刃物を使うのが得意な奴らしいんだ」 「ドスじゃないわね。初めて見たわ、こんなの」 「レックチャーという刃物だ。タイ人の殺し屋がよく使う道具だよ」 「タイ人の?」 「ああ。むかし、写真で見たことはあるけど、実物を見るのは、おれも初めてだ。腹か背中を刺すんだそうだ。骨に当たっても、先がこんなに錐《きり》のようにとがっているから、骨の横をすべって深く入るらしい。細身だし、刺して使うから、血もあまり出ないだろうな。確実に死ぬと言われている道具だ」 「詳しいのね」 「欲しいと思って、手に入れそこなったことが前にあったからな」 「あたしと知り合う前の話?」 「うんと前だ。おれが懲役くらう前」  松永敏恵は黙って、紅茶のグラスを、口に運んだ。 「奴はこの道具しか持っていなかった。自転車に乗ったまま、片手でこのレックチャーを使うのはむつかしいはずだよ。力が入らないだろうからな。だから奴は、手刀でおれを眠らせておいて、レックチャーを使うつもりだったんだろうな。手刀なら、自転車のスピードも加わって、よけいに効くからね」 「レックチャーというのは、タイ人しか使わないものなの?」 「そうとは言い切れないさ。おれもむかし、手に入れば使ってたはずだからな。けど、日本じゃとても珍しい道具だよ。おれも初めて見るくらいだからな」 「タイじゃ珍しくないの?」 「タイなら珍しくないだろうな。タイの殺し屋は、拳銃かレックチャーか、どちらかを使うという話だ。それもレックチャーを自分で作っちまう奴もたくさんいるって話だからな」 「あんたを狙ったのはタイ人の殺し屋かもしれないってことね?」 「そう疑いたくなるだろう。ところが、おれはタイ人に命を狙われる覚えはない。タイなんて行ったこともないし、タイ人の知り合いもいないんだ。タイ料理は何度か喰いに行ったことがあるけどね」 「その殺し屋は、外国人だったみたい?」 「わからないんだ。そいつはひと言もしゃべらなかったよ。声を出したのは、ロッキーに腕を噛みつかれたときの呻き声だけだった」 「しゃべると外国人だってことがわかるからだったのかもしれないわね?」 「奴が外国人だとしたら、白人じゃないだろうな。暗くて顔はほとんど見えなかったけど、顔の色は白くなかったし、体つきだってアジア人って感じだったよ」 「東南アジア?」 「わからない。そこまではね。おれがあんたから請けてやった仕事で、外国人がらみのものがあったのかどうか、あんたにもわからないだろうな?」 「それはわからないわ。受ける仕事の経緯までは、あんたと一緒であたしも知らされちゃいなかったんだから。あんたが始末した六人の中には、外国人は一人もいなかったはずよね?」 「いなかった。日本人だけだった」 「わたし、あんたが殺《や》った六つの仕事をわたしのところに持ち込んできた相手に、あんたが狙われたことを話したわ。もう一度狙われたら、あんたがむかし、殺し屋として六人の人間を始末したことを、世間にばらすと言っているってことも、その相手に伝えたのよ」 「相手はなんて言った?」 「あんたが襲われたことを、あんたの言っていることを、その先の取り次ぎ人に伝えるって言ったわ」 「二回目の襲撃は、おれを試《ため》すつもりだったのかもしれないな」 「試すって、何を?」 「おれがほんとに、六件の依頼殺人をばらすつもりかどうかをさ」 「それを試しても意味がないんじゃないの。あんたがむかしやった仕事をばらす気がないと向こうが受け取ったとしても、それであんたの命を狙うことを止めるわけじゃないでしょう」 「そりゃそうだな、たしかに——」 「ばらす? 予告どおりに、六件の殺しを」 「それをゆうべからずっと考えてたんだよ。ばらすのは簡単だ。いつでもできる。だが、おれのいまの敵は、その六件の殺しの依頼人の中の一人だ。残りの五人の依頼人は、言ってみればおれには客だった連中だ。大金を払ってくれた客だった。その客たちを、一人のためにうろたえさせるのもどうかなって気がするんだ」 「わたしは、あんたにどうしろなんて言えないわ。命を狙われてるのはわたしじゃなくてあんたなんだから。そりゃ、あんたのつぎはわたしがターゲットにされるのかもしれないけど——」 「もう少し考えてみるよ」  おれは言った。かすかな失望があった。タイ人の殺し屋が使うレックチャーで、松永敏恵が何かを思い出し、それを話してくれるかもしれない、といった期待は、空振りに終わった。 「シャワーを浴びてくるわ、わたし——」  松永敏恵は言って立ちあがった。 2  おれはその後も図書館通いをつづけた。  活字はおれの苦手な分野だった。辛気《しんき》くさい時間に耐えるには、根気と執念に支えられなければならなかった。それが救いだった。根気と執念だけは、おれは十分に持ち合わせていた。  ひとつの目安が生まれていた。おれはレックチャーと呼ばれている凶器にこだわっていた。かつておれが仕事として関わった六件の殺人事件に関する、当時の新聞と週刊誌の記事の中に、外国人の影のちらつくものがないかどうかに、おれは特に注意を払った。  それがほんとうに探し物の目安になるかどうか、もちろんわからなかった。  図書館での仕事ははかどらなかった。おれはしかし、諦めるつもりはなかった。さし当たっては、古い日付の新聞や週刊誌の活字の中から、敵を探し出す手がかりをつかみ出すことしか、方法がなかった。  もちろん、松永敏恵を強引に責《せ》める手がないわけではなかった。その手はいつも、おれの気持を誘惑しつづけていた。松永敏恵を責めて、彼女のところに殺しの仕事を持ち込んでくる相手の素性を吐かせる。そうやって依頼殺人が殺し屋の手に下りてくる順路を逆に辿っていけば、まちがいなく大元《おおもと》の依頼人に行きつくのだ。  それは、いま以上に危険な道ではあった。しかし、危険を虞《おそ》れておれはその道を避けたわけではなかった。おれは松永敏恵を、責めたてる気になれなかった。  彼女の口を強引に割らせて、危険な立場に追い込みたくなかった。  松永敏恵が、自分のところに殺しの仕事を持ち込んでくる人間の素性をおれにばらせば、おれはつぎにその人間を責める。責められた人間は、自分のことをばらしたのが、松永敏恵のほかにはいないことにすぐに気づく。報復が松永敏恵のところに向けられないはずはない。殺しの仕事は、闇に閉ざされた固い秘密の上にしか成り立たない。秘密を守れなかった者への報復は死だ。  おれは、松永敏恵を殺させたくなかった。惚れていたからなどということではない。おれには、命を狙われているおれと同じように、松永敏恵が怯《おび》えているのがわかっていた。彼女も、いずれはおれの後に、おれが殺された後に、自分が命を狙われる、という恐怖に駆られていた。  それを彼女は、はっきりと口に出してはいない。けれどもおれは、松永敏恵の心を、底深い恐怖がむしばんでいることが、はっきりわかっていた。四年ぶりにおれが突然に訪ねて行ったとき、そして京橋のホテルで会ったときの、ベッドの中での彼女のようすで、おれはそれを感じ取った。  松永敏恵が、底深い恐怖をまぎらす手段として、はげしいセックスに溺《おぼ》れることしか知らない女であることを、おれは前からよく知っていた。彼女は、おれが現役の殺し屋だったころ、おれに殺しの仕事を取り次ぐたびに、きまっておれをベッドに誘った。  そういうときの松永敏恵の眼には、恐怖と情欲がないまぜになった、暗い光がはりついていたのだ。的となった相手の息の根を止めるのはおれだった。松永敏恵は、その仕事の取り次ぎ人にすぎなかった。 『わたしはただの取り次ぎ人とはちがうのよ。実際に仕事をするあんたにじかに接触する、ラインの末端の取り次ぎ人よ。殺される人たちの返り血を浴びるぐらい近いところにいる取り次ぎ人だわ。だから怖いの。ただの恐怖じゃないわ。あんたに仕事を取り次ぐたびに、それからあんたがその仕事をやりおおせたことがわかるたびに、わたしは、自分がこの手で人を殺したような気になるの。そのときの気持は、ことばでは言えないわ。お金でも、お酒でも、旅行でも、買物でも、その恐怖は消せないの。セックスでなきゃ消せないの。それも、わたしが取り次いで、人を殺してきたあんたとのセックスじゃなきゃ、その恐怖も、そのときのことばにならない気持も拭《ぬぐ》い去れないの』  松永敏恵がおれにそう言ったのは、おれが二度目に彼女の仕事を受けて、それをやり終えたときだった。そのときもおれたちは、狂ったようなセックスをした後だった。  京橋のホテルでも、松永敏恵は狂おしく悶《もだ》えた。彼女の歓喜は、おれには彼女の恐怖の叫び声に聴こえた。  おれと同じように、見えない敵の殺意の前で怯えている松永敏恵を責めたてて、殺人依頼のルートを探ることは、おれにはできないことだった。  図書館で、おれが手を下した古い殺人事件の記事を読みつづけているとき、おれはよく、初めて人を殺したときのことを思い出させられた。  初めておれが人を殺したのは、二十二のときだった。それでおれは九年間の刑務所《ムショ》暮らしを送ることになった。  つまらない殺しだった。殺した相手は二人だった。一人はおれと同じ年の女。もう一人は三十四歳の男。女はおれの恋人だった。そのときは恋人だと思っていた。男はやくざ者だった。  そのころ、おれは平凡なサラリーマンだった。デパートで玩具を売っていた。女は同じそのデパートの時計売り場で働いていた。休みの前日の夜は、おれが彼女の部屋に泊まるか、彼女がおれの部屋に泊まるかしていた。そういうつきあいが、一年近くつづいていた。おれは、そいつと結婚してもいい、と思っていた。  おれが初めて買った車は、スカイラインGTの、ほとんど新車と変わらない中古車だった。その車を買って間もないころ、おれは時計売り場の恋人を乗せて、ドライブに行った。三浦半島を走り回った。  帰りに横須賀《よこすか》を通った。追浜《おつぱま》を過ぎたところで、一台の車がおれのスカイラインの鼻先をかすめるようにして、前に割り込んできた。おれは急ブレーキを踏んだ。それからクラクションを鳴らした。怒鳴りつける代わりにそうした。  前に割り込んできた車が停まった。進路はふさがれていた。おれも車を停めるしかなかった。クラクションを鳴らしたことを、おれは後悔した。しかし同時に、乗せている女にみっともなく怯えた姿を見せたくない、という気持もあった。  前の車からスーツ姿の男が降りてきた。女が何か言った。だが、そのことばはおれの耳に入らなかった。おれは怯えと後悔を隠すのと、恰好をつけようとする気持とで、頭を火照《ほて》らせていた。  おれは車から降りようとした。前の車から降りてきた男は笑っていた。それでおれは安堵《あんど》と拍子抜けを覚えた。男が運転席のドアの横に立った。おれは運転席の窓を下げた。そこから男の腕が伸びてきて、おれの髪をつかんだ。拳が飛んできた。女が叫んだ。二発目は頭突きだった。さらに男は、両手でおれの頭をつかみ、運転席の窓の縁に何度も叩きつけた。窓のガラスは、五センチほど縁から上がったままになっていた。ガラスの縁がおれの額を切った。ガラスが割れた。  あっという間の出来事だった。その間、男はひと言も口をきかなかった。黙って自分の車に戻って、そのまま走り去った。おれはやられっ放しで何もできなかった。  血が眼に入って、車の運転がすぐにはできなかった。車を道の端に寄せた。女が額の血を拭い、傷口にハンカチを当てた。  おれはその手をはたいた。おれは本物の度胸も根性もないくせに、恰好をつけて突っ張るばかなガキだった。もっと最低だったのは、やられた後で、女に八つ当たりしたことだった。  女は警察に届け出ようと言った。それにもおれは怒った。自分の手で仕返しをすると言って、また恰好をつけた。仕返しのしようなどはなかった。相手がどこの誰なのかわからず、車のナンバーさえ見ていなかったのだ。そんな余裕はおれにはなかった。相手の居所がわかったとしても、それだけのことだった。おれは、仕返しをする根性も持てなかっただろう。  二ヵ月後に、おれはその女に捨てられた。女には新しい男ができていた。あるとき、おれがその女のアパートに行ったら、男がいた。追浜でおれを痛めつけたその男だった。女はその男の前で、おれに帰ってくれと言った。せっかくその男にそうやって巡り合い、恋人まで盗まれていたのに、おれはそのとき何もできなかった。仕返しどころじゃなかった。  三ヵ月後に、女はデパートを退職した。銀座のクラブで働き出した。女の相手の男がやくざだということも、おれは女のデパート時代の同僚たちの何人かから聞かされた。相手がやくざであるために、その女が泣きを見ているという話ではなかった。女は本気でその男に惚れている、という話だった。デパート時代とはくらべものにならない、いい生活をしている、という話だった。  やくざにつかまって、女が泣きを見ているということになっていたとしたら、おれは人殺しなんかしていなかったかもしれない。女がおれを追浜で痛めつけたやくざに惚れて、いい生活を送って、それに満足していると聞いたとき、初めておれは本気で仕返しをする気になった。人を殺す方法や、そのための道具のことを研究し始めたのも、そのころだった。レックチャーを手に入れたい、と考えたのもそのひとつだ。  レックチャーのことを書いた本には、それほど簡単に、深く刺せて、しかも出血が少なく、確実に人の命を奪うことになる刃物はほかにない、と書いてあった。タイの殺し屋たちは、レックチャーを折りたたんだ新聞の間にはさんで持ち、新聞紙にはさんだままで狙った相手の背中か腹を刺して殺す、ということが書いてあった。相手に凶器を見られることなく、しかも簡単に確実に命を奪えるというところが、おれの心を捉えた。  根性をすえて、女とそのやくざを殺そうと考えてからのおれも、ばかなガキだった。ばかな上に、おれは本気で二人を殺す気になっていた分だけ、狂っていた。  仕返しがそのまままっすぐに殺すことに結びついてしまったところは、狂っていたと言えば言えるけど、それがおれの隠れていた本性の一部だった、と言ったほうが当たっている。その本性のために、おれは殺し屋になったにちがいないのだ。  殺しのための道具は、なにひとつ手に入らなかった。刃物ならナイフでも包丁でも、いくらでも手に入った。けど、ナイフや包丁でやくざ者を殺せる自信はおれにはなかった。圧倒的に有利な武器で、圧倒的に有利な条件の中でしか、おれにはその男を殺せないと考えた。  考えはじめてから犯行まで、二ヵ月近くかかったのだから、おれの殺意は半端《はんぱ》じゃなかったわけだ。結局、おれが用意した道具は、野球の金属バットと、植木鉢ぐらいの大きさのプライヤーとカッティングプライヤーの三つだった。大型のプライヤーで、ロックされたドアのノブが回せることを、おれは自分の部屋のドアのノブで実験した。カッティングプライヤーで、ドアチェーンが切れることも試した。  けれども、二人を殺した後のことは、おれは何も考えていなかった。思考はそこでストップしていた。そこから先のことは、頭からきれいさっぱり抜け落ちていた。それが抜け落ちていたからこそ、おれは二人を殺せたのだろう。そういうことがきれいさっぱりと抜け落ちるようにできている頭の持ち主だからこそ、おれは殺し屋もつとまったのだろう。  女とやくざ者が住んでいるマンションは、突き止めてあった。おれは道具を持って、真夜中に二人の部屋に行った。やくざ者が運転する白のコロナのハードトップで、二人が外から帰ってきたことも、おれは張り込んでいて見ていた。二人の部屋の明かりが消えてから、さらに二時間待ってから、おれはそのマンションの中に入っていった。  大型プライヤーとカッティングプライヤーのおかげで、おれはたいして物音をたてずに二人の部屋に押し入ることができた。玄関、居間、寝室と、土足のまま奥に進みながら、順に電灯をつけていった。  女とやくざ者は、大きなベッドに寝ていた。二人とも毛布を蹴りはいで、素っ裸で眠り込んでいた。やくざ者の腕と肩には入れ墨があった。二人とも仰向けになっていた。女の片方の脚が、やくざ者の膝の間に落ちていた。その脚の大腿のところを、やくざ者の片手が、抱え込むようにしていた。やくざ者の片方の膝はくの字に曲がり、ペニスが勃起していた。  明かりをつけても、二人はすぐには目を覚まさなかった。おれはベッドの横にバットを持って立ち、しばらく二人の姿を眺めていた。その女の裸の姿を見るのは、おれはしばらくぶりだった。何もかもが明かりの下にさらされていた。おれがいつも唇を這わせていた白くて細い女の首の下に、やくざ者の腕が伸びていた。おれが飽きることなく揉んだり、さわったり、頬ずりしたり吸ったりした乳房と乳首が、前と同じ姿でそこにあった。おれの手がよく手ざわりを覚えている陰毛に覆われた女陰が、少しだけわれ目をのぞかせてそこにあった。おれがいつも夢中になって舐めてやっていたわれ目だった。眼を近づければ、左側にゴマ粒ぐらいのほくろのあるクリトリスの包皮も見えたかもしれない。  裸の姿をさらしている女のすぐ横には、やくざ者の勃起しきったペニスがあった。堂々としたサイズの、黒光りするようなペニスだった。そいつは、横に寝ている裸の女はおれのものだ、と言ってふんぞり返っているように見えた。  先に目を覚ましたのは女のほうだった。トロンとした眼で、女はおれを見た。それから女が叫び声をあげるまで、三十秒ほど間があった。女が叫び、男が眼を開けた。おれは最初のバットの一撃で、やくざ者の勃起したペニスを狙った。それだけは妙にはっきり覚えている。その先のことはしばらくの間、記憶が途切れている。  気がついたら、おれは喉が裂けるような叫び声をあげながら、バットを打ちおろしていた。そのときは、女も男も動かなくなっていた。二人とも完全に頭を叩き割られていた。女はベッドの上の壁ぎわで、おれに背中を見せていた。やくざ者は床にころがっていた。  それから二十年が過ぎている。おれはばかな根性のすわっていないガキではなくなっている。プロの殺しの仕事もこなしてきた。自分の本性も心得ている。  けど、秋山みどりという小さな女の子が、おれの眼の前で撃たれて死んだときから、おれの胸の中には二十年前の、女とやくざを本気で殺そうと考えていたころとそっくり同じ気持が戻ってきている。おれは二十年ぶりに、仕事ではなくて、自分の本性で人を殺そうとしていた。  それがおれの底深い、恐怖の源であり、松永敏恵の底深い恐怖の源になっていた。恐怖は外からはやってこない。みんなてめえの心の中から生まれてくる。 3  おれは店に出ていた。  客はひと組しかいなかった。二丁目のおかまバーのママと、ママが連れてきた中年の男だった。  ママはおれの店の常連だった。連れの男は初めて見る顔だった。ママがその男をおれに紹介した。ニューヨークから帰ってきたばかりの、舞台美術家だということだった。  ロッキーが殺された夜から、十日が過ぎていた。何事も起きない十日間だった。ロッキーに腕の肉を噛みちぎられて、殺し屋も休業中なのか、と思われた。  危ないことも起きなかったが、殺し屋の尻尾がつかめるかもしれない、とおれが胸を躍らせるようなことも、なにひとつ起きなかった。  電話が鳴ったのは、その夜の午前一時近くだった。 「わたしのお店からだったら、わたしはもう帰ったって言って、マスター」  おかまバーのママが、電話が鳴るなり言った。ママと舞台美術家は、カウンターの隅で肩を寄せ合って、ニューヨークのどこかのジャズを聴かせる酒場の話に、話題を移したところだった。  電話は松永敏恵からだった。 「いま、いい?」 「どうぞ——」 「電話のそばにお客さんがいるの?」 「いや、いない」 「役に立つ話かどうかわからないけど、わかったことがあるの」 「なに?」 「こないだの夜の、練馬ナンバーの黒のランサーの持ち主がわかったの」 「教えてくれ」  おれは胸が躍った。声も口調もいつもと同じにしていたが、カウンターの陰の手は、思わず拳をにぎっていた。その手でおれは電話の横のメモとボールペンを引き寄せた。 「ランサーの持ち主は、緒方純子《おがたじゆんこ》という女なの。住んでいるところは中野区|若宮《わかみや》三丁目五ノ五。それだけしかわからないんだけど」 「十分だよ。どうしてわかったんだ?」 「教えてくれたのは、例のルートの、わたしとつながっている相手なの。その人がどうやって車の持ち主のことを突き止めたのか、詳しいことはわからないのよ。その人はコネをきかせたんだとしか言わないの」 「こないだの夜のこと、その相手に話したのか?」 「その後どうなったのかって、向こうがあんたのことを訊いてきたのよ。だからまた襲われたという話をしたの。その人も気が気じゃないのよ。そうしたら、黒の練馬ナンバーのランサーの持ち主が、うまくいったらわかるかもしれない、と言ったの。それが一週間ばかり前なの。そしてたったいま、わかったって電話がきたところなのよ」 「いま、あんたどこなの?」 「家よ。どうして?」 「訊いただけだよ。とにかく当たってみる」 「大穴ってことになればいいわね」 「当たれば穴だ。大きいかどうかはわからないけどな」  おれは電話を切った。メモを破り取ってポケットに入れた。ママと舞台美術家は、まだニューヨークのどこかの、ジャズを聴かせるバーの話をしていた。おれが電話を切ったときは、ママがその店で、日本の若手の小説家の男が、黒人の男と舌をからめてキスをしているのを見た、という話を陽気な大声で、その小説家の名前を挙げて話していた。  ママと舞台美術家が帰っていったのは、午前一時半ごろだった。新しく入ってきた客はいなかった。  おれは店を閉めた。店にいるときも防弾チョッキをセーターの下に着込んでいたが、拳銃はホルスターと一緒に、スーパーのビニール袋に入れて、カウンターの陰に置いてあった。ホルスターをつけ、革ジャンパーをはおり、店の片づけは省いて外に出た。  中野坂上のマンションに寄り、部屋に行って、東京都の区分地図をひっぱり出した。黒のランサーの持ち主の住所を、地図の上で調べた。西武《せいぶ》新宿線の|鷺ノ宮《さぎのみや》駅に寄ったあたりだった。  押し入れの奥から、ガラクタの入っているダンボール函を出した。文字どおりガラクタしか入っていなかった。その中に、ステンレスの小さな犬の餌皿と、細い茶色の革のリード綱がまじっていた。ロッキーがまだ仔犬だったじぶんに使っていたものだった。そういうものがまだとってあったことなど、おれは忘れていた。仔犬だったころの、まだ毛並みがととのっていないロッキーのようすを、おれは思い出した。  そのダンボール函の底に、古びた車のナンバープレートがペアで入っていた。現役の殺し屋時代に、廃車置場からおれが盗んできて、使っていたものだった。いざ仕事にかかるというときに、おれは盗んできたナンバープレートを車に取り付けて出かけていた。万が一の目撃者の目をごまかすためだった。仕事を離れて四年もたってから、そんなものの出番がまた巡ってくるとは、おれは思っちゃいなかった。なんでも捨てずにとっておくのも、わるいことじゃない。消し去りたい記憶以外は。  おれは区分地図と、二枚のナンバープレートを持って、部屋を出た。マンションの前の道は、人通りが途絶えていた。おれはカースペースに停めたカローラのトランクを開け、工具袋を取り出した。  車はボンネットの鼻先を、マンションの外壁に向けて停めてあった。おれは外壁と車の間に入って、フロントのナンバーを先に取り換えた。それから車をバックで停めなおして、後ろのナンバープレートを取り換えた。そこまで用心する必要があるかどうかは考えなかった。おれは用心深い男だ。その用心深さが、殺し屋の仕事を助けてくれたことを、忘れていなかった。  深夜の道はすいていた。鷺宮の近くで、おれは車のルームランプをつけ、もう一度地図を開いた。少し北西に来すぎていた。  あとは見当をつけて、ゆっくり車を走らせた。電柱の町名表示板が道案内をしてくれた。若宮三丁目五ノ五という表示板は見当たらなかった。けれども、おれが探し回らなければならない範囲が、ひとつのブロックにせばまっていることは、見当がついた。  下駄ばき式のマンションが眼についた。下駄をはかして建物の一階を高くして、その下が駐車場になっているマンションだった。  勘がはたらいた。おれは車を少し離れたところに進めて停めた。歩いて引き返し、そのマンションの駐車場に入った。  勘は当たっていた。駐車場の奥に、黒のランサーが停めてあった。おれが頭にメモしておいたナンバーのランサーだった。車のドアはロックされていた。駐車場のほの暗い明かりの下で、おれはランサーの中をのぞきこんだ。  ダッシュボードの上に、セーラムの箱が置いてあった。運転手のシートの上に、女物と思える赤のドライバーズグローブが放り出してあった。リヤシートには、英字新聞が折りたたんで置かれていた。  おれは駐車場を出た。そのマンションの玄関の前に行った。ガラスかアクリルかの、透明なドアの横のタイルの壁に、プレートがはめこんであった。ステンレスのプレートには〈ハイム若宮〉という文字が刻まれていた。その下に小さな文字で、所番地も出ていた。松永敏恵が知らせてきた所番地と合っていた。  おれはドアを押して、マンションの中に入った。鉤《かぎ》の手になったフロアの曲がったところに、メールボックスとエレベーターが並んでいた。メールボックスのネームカードに眼を通した。〈501 緒方純子〉というネームカードが見つかった。  エレベーターのボタンを押した。乗って五階に上がった。エレベーターを降りた。廊下は外についていた。ドアを開けて外廊下に出た。五〇一号室は、廊下のいちばん奥の端だった。  おれは五〇一号室の、ドアの前まで行った。ドアの横のインターフォンの上に、プラスチックのネームプレートが出ていた。緒方純子の名前しかなかった。  おれはしゃがみこんで、ドアの下の隙間をのぞいた。明かりは洩れていなかった。ドアに耳をつけた。物音は聴こえなかった。  エレベーターで下りた。角を曲がってマンションの裏手の道に回った。そこから五〇一号室のベランダとガラス戸が見えた。そこにも明かりの色は見えなかった。  おれはたばこに火をつけて、車に戻った。歩きながら吸うたばこの味が、格別にうまく思えた。 4  つぎの日から、昼間の図書館通いを中断した。  三種類の形のちがう眼鏡と帽子を買った。望遠鏡とウールのリバーシブルのジャンパーも買った。ちょっとした変装に使うためだった。  レンタカーは毎日取り換えて借りた。変装の道具はまとめてバッグに入れて、いつも持って出た。  ハイム若宮の張り込みは九日間つづいた。張り込みだけではなかった。緒方純子が外出すれば、おれは彼女のランサーをレンタカーで尾行した。  緒方純子は、彫《ほ》りの深い派手な顔立ちの美人だった。女優になれそうなくらいだった。二十代後半といった感じで、背が高かった。ミニスカートがよく似合った。本人もそれを知っているらしくて、たいていそれをはいていた。それも大胆な短さのスカートだった。そのために、いっそう脚が長く、長身に見えた。  初めて緒方純子を見たとき、おれはそれがあの夜、おれの横を走り過ぎていったランサーの助手席に乗っていた女かどうか、確信は持てなかった。ぼんやりとしか見えなかった顔の印象は、ぼんやりとした記憶にしかなっていなかった。けれど、そのミニスカートのよく似合う美人が、あの夜、殺し屋の乗った自転車のすぐ前を走っていた車の持ち主であることは、はっきりしていた。  最初にわかったことは、緒方純子が恵比寿《えびす》の駅前のビルの中にある、モデルクラブに所属するモデルらしいということだった。張り込みと尾行を始めてから三日間、緒方純子は毎日昼前にランサーで恵比寿に行き、そこから赤坂にあるスタジオに通った。恵比寿からは、モデルクラブの名前をボディに掲げたワゴン車で、赤坂のスタジオに向かった。モデル仲間らしい四人連れが一緒だった。その顔ぶれも三日間変わらなかった。  緒方純子に、恋人がいるのがわかったのは、張り込みを始めて五日目だった。その日は緒方純子はマンションの部屋にいた。おれはマンションの斜め前の道に車を停めて、張り込みをつづけていた。車はときどき、小さく移動して場所を変えた。しかし、マンションの玄関の人の出入りと、緒方純子の部屋の人の出入りが外廊下越しに見えるところに、いつも車を停めた。  緒方純子の部屋のドアが開いて、その男が姿を現わしたのは、その日の昼過ぎだった。  おれはすぐに望遠鏡を使った。外廊下の手すり越しにレンズが捉えたのは、東南アジアのどこかの国の男だった。顔の色が黒くて、つややかな髪がカールしていて、眼は奥眼で大きかった。細面《ほそおもて》のひきしまった顔をしていた。襟に毛皮のついた茶色の革ジャンパーに、赤のタートルネックのセーターという姿だった。  その男はすぐにマンションの玄関から出てきた。駐車場に行き、緒方純子のランサーに乗って出てきた。おれは襲われた夜に、そのランサーを運転していた男の顔を思い出してみた。けれども記憶は役に立たなかった。そのときの車の中に見た男の顔も、緒方純子と同じように、おれにはぼんやりとしか見えなかったのだ。  その男の革ジャンパーに包まれた左腕の動きにも、おれは離れた位置から注目した。その腕は負傷しているようには見えなかった。  おれは男の運転するランサーを尾行した。尾行はすぐに終わった。男が車を降りたのは、鷺ノ宮駅の近くのスーパーマーケットの駐車場だった。男はそのままスーパーマーケットの店内に入っていった。出てきたときは、男は片手にスーパーのマークのついたビニール袋をぶらさげていた。ビニール袋の口から、レタスと、牛乳のパックがのぞいていた。袋は大きくふくらんでいた。それを男は左手にさげていた。  男はふたたびランサーでハイム若宮に戻った。おれは張り込みをつづけた。  そのつぎに緒方純子の部屋のドアが開いたのは、夕方の四時過ぎだった。今度は東南アジアのジャンパーの男につづいて、緒方純子も姿を現わした。緒方純子は、まっ白のハーフコートに黒のストッキング、黒のロングブーツという姿で、黒の長いマフラーをコートの襟に巻きつけていた。コートの裾からいきなりストッキングの長い脚が出ていて、スカートは見えなかった。男のほうは、昼間に買い物に出たときと同じ、革ジャンパーにジーパンという姿だった。  二人はランサーに乗って出かけた。ハンドルは緒方純子がにぎっていた。  ランサーが最初に停まったのは、赤坂の一《ひと》ツ木《ぎ》通りの途中の、大きなバービルの前だった。そこで男が降り、すぐにランサーは走り出した。おれは迷わず、ランサーの尾行を中止した。  尾行を気にしているようすは、男には見えなかった。おれは路上駐車の列の隙間に、強引に車の尻を突っ込んだ。なんとかほかの車の進路妨害にはならずにすみそうだった。  革ジャンの男は、道を横切り、たばこ屋の前で足を停めた。たばこを買っているようだった。そこを離れると、また道を横切り、はじめに車を降りた場所の前のビルの中に入っていった。  おれは車の外に出た。ハンチングと眼鏡だけの変装の効果を、おれは無理にも信じた。多少の危険を冒《おか》してでも、男の行き先を突き止めたかった。  おれがビルの入口に立ったとき、男はエレベーターの前に立っていた。エレベーターを待っているのは、その男だけだった。おれはビルの入口の、テナントの店名の並んだ案内用のパネルを見るふりをして待った。  エレベーターが降りてきて、男が乗った。エレベーターのドアが閉まるのを待って、おれは閉まったばかりのドアの前に行った。ドアの上の階数表示のランプに眼をやった。エレベーターはノンストップで七階まで上がり、そこで停まった。乗っているのは革ジャンの男だけだった。  おれはエレベーターを呼んだ。三基並んでいる中の一台が、すぐに降りてきた。乗って七階まで行った。  七階のテナントは二軒だけだった。一軒は石舟《いしふね》という名前の日本料理店だった。もう一軒はピチカートというクラブだった。廊下には人の姿はなかった。  おれはトイレを探した。通路の奥の行き止まりに、トイレはあった。おれはドアを押して中に入り、しばらく時間をつぶした。洗面台の前に立って、たばこを一本吸った。  外で話し声がした。怒鳴るような男の声とそれに答える短い返事だった。声はその後もつづいた。  おれはトイレを出て、エレベーターホールに戻った。クラブ・ピチカートの木のドアが開け放たれていた。ドアはその前に置かれた椅子で、閉まらないように停めてあった。ドアの向こうから、二人の男がカーペットを筒状に丸くしたのを抱えて出てくるところだった。二人とも白のワイシャツにグレーのベスト、黒ズボンという姿だった。その中の一人が、緒方純子のランサーの助手席に乗って、このビルまでやってきた男だった。  おれはエレベーターのボタンを押した。二人の男は、ピチカートのドアの前から、外のエレベーターホールに向かって、丸めたカーペットをころがしながら敷きはじめた。エレベーターのドアが開き、おれは乗った。エレベーターのドアの前から、ピチカートのドアの前まで、二メートルほどの幅の赤いカーペットが敷かれようとしていた。店の客を迎えるための準備にちがいなかった。  そのようすは、閉まりはじめたエレベーターのドアの向こうに隠れた。男たちは二人とも、最後までおれには眼もくれなかった。おれは緒方純子の部屋から出てきた男が、ピチカートのウエイターかバーテンダーにちがいない、と思った。  その夜は、おれは店を早く閉めた。午前零時近くに客が途切れた。それでカンバンにして、おれは車でハイム若宮まで行った。ランサーはまだ駐車場には帰ってきていなかった。車を停めて張り込んだ。  黒のランサーが帰ってきて、マンションの駐車場にすべりこんだのは、午前三時近くだった。  ランサーの運転席から緒方純子が降りてきた。彼女はゆうがたに家を出たときと同じ服装だった。助手席からは、ピチカートのドアの前でカーペットを敷いていた男が降りてきた。男もゆうがたに緒方純子の部屋を出たときの、革ジャンにジーパンという姿に戻っていた。  二人は駐車場を出て、部屋に入った。さらにおれは待った。男が緒方純子の部屋から出てくる気配はなかった。二時間近く待ってから、おれは車を降りた。マンションの裏手の道を回ってみた。ハイム若宮五〇一号室の明かりは、すでに消えていた。それでおれは、その東南アジア系のひきしまった顔つきの男が、緒方純子の恋人だということを知った。  緒方純子が、その男とその部屋で同棲しているわけではないのがわかったのは、それからさらに四日後だった。 5  その日もおれは、午後の早い時間に、ハイム若宮の張り込みに入った。おれがそこに行ったときは、駐車場には黒のランサーは停まっていなかった。おれはマンションの裏手に回って、緒方純子の部屋のベランダを見上げた。ベランダのガラス戸のカーテンは開いていた。はっきりとは見えなかったが、ガラス戸に何か動くものの影のようなものが、ぼんやり見えた。  おれは車に戻って待ってみた。待った甲斐《かい》があった。一時間近く過ぎたころに、緒方純子の部屋のドアが開いた。出てきたのはピチカートで働いている男だった。緒方純子は出てこなかった。  男はドアをロックした。マンションの玄関から出てきた男は、手に紙袋をさげていた。革ジャンパーにジーパンという姿は、変わっていなかったが、セーターが黒の丸首に変わっていた。  男はそのまま歩き始めた。おれは車を降り、ドアをロックして、尾行を始めた。駐車違反のステッカーを貼られる心配は、頭に思い浮かばなかった。思いがけなく、長い尾行になった。  男は鷺ノ宮駅まで歩いて、新宿《しんじゆく》行きの電車に乗った。高田馬場《たかだのばば》で降りた。山手線に乗り換えて、池袋《いけぶくろ》で降りた。今度は赤羽《あかばね》行きに乗り換えた。赤羽で降りた。  赤羽駅を出て、男は荒川《あらかわ》のほうに向かって歩いた。尾行を警戒するようすは、まったく見られなかった。それがよろこぶべき徴候《ちようこう》なのかどうか、おれには見当はつかなかった。相手に、尾行されるような覚えがまったくなければ、警戒心が湧かないのは当然なのだ。  おれは殺し屋時代に、仕事を請けるたびに入念にくり返した、ターゲットの張り込みと尾行を思い出した。張り込みにも尾行にも、おれはそれなりの経験を積んでいた。だが、殺し屋時代の張り込みと尾行は、相手に警戒心がない場合がほとんどだっただけに、楽な面もあった。彼らは、いつか自分が殺されるかもしれない、などとは思っていなかったのだろう。思っていたとしても、見も知らぬおれに殺されることは、知らなかったはずだ。だから、ターゲットになった連中がおれの眼にさらしていた無警戒ぶりを、おれは納得できた。  だが、緒方純子の恋人の、警戒心を感じさせないようすは、おれには最後まで気がかりでならなかった。  男は新荒川大橋《しんあらかわおおはし》の手前で右に曲がり、さらに左に入って、アパートの門の中に入った。古ぼけたモルタル塗りの二階建てのアパートが、二棟並んでいた。  外階段の上り口のところの壁に、郵便受けが並んでいた。男は左側の棟の郵便受けのひとつをのぞいて、中から封筒を取り出した。エアメールだった。封筒の赤と青の縁どりでそれがわかった。おれはアパートのブロック塀越しに、それを眼に留めた。男はそのまま外階段を上り、四つ並んだ部屋の左から二つ目の部屋に入った。  おれはブロック塀の前から離れて、歩き出した。アパートの門に、白い陶器の表札が出ていた。〈清和《せいわ》アパート〉と書いてあった。その陶器の表札も、表札の文字も、アパートの建物やブロック塀と同じように古めかしいものに見えた。  おれは先の角までゆっくり歩いた。電柱には岩淵《いわぶち》町一丁目という表示板が出ていた。角を曲がって、少ししてから、おれはまた清和アパートの前までぶらぶらと引き返した。  アパートの庭にも、外廊下にも、人の姿はなかった。おれは門から庭に入った。庭の隅に、二台の自転車と、子供の三輪車が置いてあった。  おれは左側の棟の階段の上り口の壁のところまで行った。男がエアメールを取り出した郵便受けを見た。郵便受けの蓋《ふた》のネームカードには、アルファベットに片仮名をつけた名前が二つ出ていた。 〈セベ・マリノ〉〈マナパット・レイエス〉  おれには、それがどこの国の人間の名前かということも、それが男なのか女なのかの区別もわからなかった。なんとなく、フィリピン人やタイ人のような感じがしただけだった。  けれども、おれの心はそれだけで、躍り出しそうだった。タイ人らしい感じの名前が、レックチャーのことを思い出させたからだった。  おれはアパートの門を出た。門の斜め前に、汚れたワゴン車が停まっていた。おれはワゴン車の陰に体を入れた。ワゴンのサイドドア越しに、アパートの二階の部屋のドアが見わたせた。  十分と経たないうちに、アパートの左側の棟の、左から二番目のドアが中から開けられた。男が出てきた。緒方純子の恋人とは別の男だった。  その男も東南アジア系の顔立ちだった。肌の色が黒くて、つややかな長い髪がゆるやかに波を打っていた。眉と眼の間が迫っていた。男は黒のトレーニングウェアの上下を着て、赤いウインドブレーカーを、腕を袖に通さずに、肩にはおっていた。右手に青いビニール袋をさげていた。  ドアのすぐ横の外廊下に、埃をかぶった洗濯機が置いてあった。男は洗濯機の前にビニール袋を置いた。右手で洗濯機の蓋を開いた。右手でビニール袋を持ちあげ、逆さまにして中身を洗濯機の中に落とした。  そのとき、男の肩からウインドブレーカーがすべり落ちた。ウインドブレーカーの陰になっていた男の左腕があらわれた。黒のトレーナーの左の袖だけが、二の腕のあたりから先が切り取られて、半袖のようになっていた。そこから伸び出た男の左腕は、肘の上から手首に近いところまで、ぶあつく包帯が巻かれていた。ロッキーが肉を喰いちぎったのは、殺し屋の左腕の肘のあたりだった。  おれの心は躍りはじめた。男は右手でウインドブレーカーを拾いあげ、不自由そうなようすで、右手だけで肩にはおった。男の姿がいったんドアの中に消えた。外廊下に面した窓が細く開けられた。窓の桟の間から、青いゴムホースが外に突き出されてきた。そしてすぐにまた、右腕だけしか使えないようすの男が廊下に出てきた。男は、今度は洗剤の函を右手に持っていた。  男は洗剤を洗濯機に入れ、ゴムホースを洗濯機の中に引き入れ、窓越しに部屋の中に声をかけた。その声はおれの耳にも聴こえたが、なんと言ったのかわからなかった。日本語ではなかった。  おれは、男が洗濯機の蓋を閉め、スイッチを入れて部屋の中に戻るのを待って、ワゴン車の陰から出た。歩いて赤羽駅まで引き返した。  おれはあらためてロッキーに感謝した。遅ればせながら、どこかにペットの墓を買って、墓参りができるようにしてやろう、と本気で思った。  あの夜、おれはレックチャーを持った殺し屋の顔を見とどけることはできなかった。暗がりのせいだった。だが、ロッキーが殺し屋の左腕の肉を二百グラムほど喰いちぎってくれたおかげで、おれは遂に殺し屋を捜し出せた。おれはいま見たばかりの男が、あの夜の殺し屋であることを疑っていなかった。  もちろん、証拠はなかった。しかし、状況はすべて、その男がおれを殺しそこね、代わりにロッキーの首の骨をへし折った殺し屋であることを物語っていた。  そいつは左腕に大怪我をして、包帯を巻いている。その腕は洗濯機を使って洗濯するという簡単な仕事にも使えない状態になっている。そいつはタイ人かフィリピン人らしい名前の持ち主だ。レックチャーを持っていてもおかしくない。  そしてそいつはあの夜の自転車での襲撃の、囮の役目を果したにちがいない黒のランサーの持ち主との間に、間接的な接点を持っている。そいつの体格と、おれを襲ったレックチャーの殺し屋の体格とは、ほぼ一致する。顔は見とどけてはいないが、格闘した相手の体格は見当がつく。  これだけの材料がぴたりそろった状況が、なんの関わりもない第三者の上に出現するなんて偶然が起こるわけがない。もしそれが偶然の一致だとしたら、おれはよっぽどツキに見放されていることになる。  おれは偶然を信じたくなかった。ツキを信じたかった。 6  おれは事を急ぐことはしなかった。  万全の態勢をととのえた。殺し屋を襲って、いきなり殺すわけにいかなかった。殺すのは奴の雇い主の名前と素性と、雇い主がおれの命を狙ったわけを吐かせてからのことになる。  殺し屋がすぐに口を割るとは限らない。二日も三日も、一週間も十日も、奴はがんばりつづけるかもしれない。  口を割らせなければならない相手は、殺し屋一人ではない。秋山みどりが撃たれたとき、相手は少なくとも二人はいたのだ。トラックの荷台の中に隠れて、拳銃の引鉄を引いた奴と、トラックを運転した奴と。  二度目の襲撃のときは、黒のランサーを運転していた奴と、ランサーの助手席に乗っていた女とがいた。ランサーの二人は、緒方純子とその恋人だったと見て、まずまちがいはないだろう。  その三人の口を割らせて、三人の話が合致すれば、その話を信じてもいいだろう。おれはそこまでやるつもりだった。いい加減な話を真に受けて、その先に事を進めていくわけにはいかないのだ。  拷問部屋が必要だった。そこが私設の留置場にもなるはずだった。まずおれは、拷問部屋探しにかかった。人目につきにくい一軒家がほしかった。できればそれも、隣近所と離れて建っている家が理想的だった。東京から離れた場所でもよかった。  おれは、松永敏恵にも、拷問部屋探しを頼んだ。そしてそいつは簡単に見つかった。それも理想的な物件だった。  松永敏恵が、千葉の勝浦《かつうら》の海を見おろす場所に、小さなログハウスの別荘を持っていたのだ。庭が百二十坪あって、隣近所と言える距離には建物はひとつもない、という場所だった。  おれは、松永敏恵を車に乗せて、勝浦まで下見に行った。文句のない場所だった。小さな岬の中腹の斜面を利用した敷地だった。ダイニングキッチンと、寝室が二つと、地下室がついていた。地下室は小さなジムになっていて、サウナ風呂がついていた。ジムには美容体操用のいくつかの機具と、卓球台が置いてあった。  おれと松永敏恵は、海の見わたせる居間の床で抱き合った。カーテンを開け放った居間のガラス戸からは、初冬の午後の明かるい陽光がさしこんでいた。陽の光の中でのセックスは、おれたちを新鮮な欲望の虜《とりこ》にした。  とんぼ返りで東京に戻った。おれにも松永敏恵にも、店の仕事が待っていた。店は休めたとしても、海辺の別荘でのんびりする気持のゆとりは、おれたちにはなかった。  おれは必要なものをリストアップして、買いそろえた。大型のプライヤーとカッタープライヤーを買ったときは、おれは二十年前の最初の殺人のことを思い出さずにはいられなかった。  手錠はアメ横のモデルガンの店で買った。本物とほとんど変わらない作りになっていた。ほかにもこまごまとした物をそろえた。それらはまとめて大きなバッグに入れて、車に積んでおいた。  そうした準備に四日を費やした。さらに決行のチャンスが訪れるまで、また四日間待たされた。その間も、おれはハイム若宮の張り込みをつづけた。おれは、清和アパートの部屋で、殺し屋が一人で夜を過ごすときを狙っていたのだ。  その日の夜に、黒のランサーがハイム若宮に帰ってきたのは、午前一時近くだった。ランサーには、緒方純子と彼女の恋人が乗っていた。二人は部屋に入った。部屋の明かりが消えたのは、午前三時過ぎだった。おれは緒方純子と恋人が、恋人同士らしくベッドに入ったことを、そうやって見とどけてから、北区岩淵町の清和アパートに向かった。車のスピードをあげた。  清和アパートの門の横に車を停めた。殺し屋の部屋の明かりは消えていた。おれは車のトランクを開いた。そこに積んであったバッグから、大型プライヤーとカッタープライヤーを出した。武器はナイフだけにした。革手袋をはめた。テニスボールをズボンの中のポケットに押し込んだ。ペンシルライトをジャンパーの内ポケットに入れた。  アパートはどの部屋も明かりを消して寝静まっていた。ドアは簡単に突破できた。ドアチェーンはかかっていなかった。中に入り、ドアを閉めた。暗がりの中で耳をすました。歯ぎしりの音が奥から洩れてきた。  ペンシルライトをつけた。プライヤーとカッタープライヤーを、入口の踏み込みに置いた。横に小さな台所があった。台所と奥の部屋とは、ガラスの引き戸で仕切られていた。おれは土足で上がった。ナイフを右手に持った。ペンシルライトを左手に持った。引き戸を土足の爪先でそっと開けた。  六畳ひと間の部屋の中央に、蒲団《ふとん》が敷いてあった。人が寝ていた。乱雑な部屋だった。家具はなかった。小さなテレビと石油ストーブと電話が、畳の上に置かれていた。そこらじゅうに衣類が投げ散らかされていた。  おれは中に入った。ペンシルライトを消した。部屋の明かりをつけた。おれの顔をしっかりと相手に見せるためだった。  ペンシルライトをポケットに戻した。男のかぶっている蒲団を剥いだ。男は黒のトレーニングウェアの上下を着ていた。左の袖は途中で切り取られていた。  男はすぐに眼を覚まさなかった。蒲団を剥がれて、体を丸めた。頭が汚れた枕からはずれた。おれは土足で枕を横に蹴りやった。枕の下には武器は隠されていなかった。  男が低い呻き声を洩らして、眼を開けた。とたんに奴は跳ね起きた。眼が吊りあがり、顔がひきつった。おれは奴が叫び声をあげるかと思った。奴は叫びかけて声を呑みこんだ。  おれは無言のまま、奴の脇腹に蹴りを入れた。蒲団の上に坐ったままで、奴は上体をねじった。おれはカールした奴の髪をつかんだ。顔を起こし、顎の下にナイフを近づけた。奴が恐怖で光を失った眼をおれに向けたまま、首を横にはげしく振った。奴も口をきかなかった。 「おれの顔を見るのは、初めてじゃないだろう?」  おれは言った。返事はなかった。首は縦にも横にも振られなかった。 「日本語がわからねえってのか?」  おれはナイフの刃を横にして、奴の顎の下に当てた。奴の頬と唇がふるえた。 「ユー・ノウ・ミー?」  おれは言った。一語ずつ区切って、ゆっくり言った。髪をつかんだ左手を放し、人さし指で奴の眼を指さし、つぎにおれの顔を指さして、もう一度ブロークンな英語で同じことを言った。  奴が何か答えた。短いことばだった。意味がわからなかった。英語でないことだけはわかった。奴の表情がはげしく揺れた。 「ユー・ノウ・レックチャー・ナイフ?」  おれは左手で奴の髪をつかみなおし、ナイフで奴の腹を刺すゼスチュアをしながら言った。奴は眼を閉じ、顔を上に向けて呻くような声を出した。その声につづいて溜息が洩れてきた。観念した、といったようすに見えた。  おれは髪をつかんだまま、奴を引き倒した。額を膝で踏みつけ、ナイフで奴の口をこじあけた。唇が切れた。ナイフを口の中に入れた。奴は大きく口を開け、喘いだ。おれはポケットから出したテニスボールを、奴の口の中に押し込んだ。手を使わない限り、ボールを口から出すことはむつかしかった。  おれは奴の右腕をつかんで立たせた。ナイフを背中に当てて歩かせた。靴もサンダルもはかせなかった。素足のトレーナーの上下だけの姿で、おれは奴を外へ連れ出し、車のトランクルームに押し込んだ。両腕を背中に回させて、手錠をかけた。包帯を巻いた左腕をつかんで後ろに回したとき、奴はテニスボールの猿轡《さるぐつわ》を咬まされた口で、喉を押しつぶされたような呻き声を放った。  おれは奴の足首にも手錠をかけた。道具の入っている大きなバッグをトランクルームから出して、フードを閉めた。  バッグは車のリヤシートに移した。アパートの部屋に引き返し、プライヤーとカッタープライヤーを脇に抱え、部屋の明かりを消した。  車に戻り、たばこに火をつけ、走り始めた。  赤羽《あかばね》駅の近くで、電話ボックスが眼に留まった。車を停めて、松永敏恵のマンションの部屋に電話をかけた。やがて午前五時になろうとしていた。五回目のコールサインで、電話がつながった。松永敏恵の声はにごっていた。 「起こしちまったかな?」 「いいの。どうしたの?」 「これから勝浦に行く。いま赤羽なんだ」 「うまくいったのね?」 「いまのところはな。あんた、英語はできないか?」 「まるっきりだめってことでもないけど。日本語がわからない奴なの?」 「ほんとにわからないのか、わからないふりしてるのか、まだよくわからないけどね」 「なんだったら、あたしも勝浦に行こうか? かまわないわよ」 「いますぐじゃなくてもいいよ。奴がほんとに日本語がわからないんだとなったときには、連絡するから来てくれ」  電話を切って、おれは車を出した。  第三章 狂気の部屋 1  勝浦のログハウスに着いたのは、朝の六時半だった。  殺し屋を車のトランクルームから引きずり出して、ログハウスの地下室に放りこんだ。車の中のバッグを、居間に運びこんだ。  部屋のヒーターをつけた。バッグから、もうひと組の手錠と、新しい錠前を二つ出した。小さなドライバーを出した。それを持って、地下室に下りた。  地下のジムは、空気が冷えきっていた。暖かい南の国に生れ育ったはずの殺し屋は、黒のトレーニングウェア一枚で、板張りの床の上で体を丸めてうずくまっていた。手錠がしっかりと奴の両手首にくいこんでいた。寒さと恐怖で、殺し屋は白っぽく粉をふいたような顔色になっていた。力なく開いた眼も光を失い、白くにごり、猿轡《さるぐつわ》代わりのテニスボールを押し込まれた口の端から、涎《よだれ》が垂れていた。  おれは持ってきた手錠で、殺し屋の両足をつないだ。ナイフを出した。殺し屋の眼がひきつり、全身に痙攣が走った。おれは殺し屋を床に引き倒した。ナイフで奴のトレーニングウェアを切り裂き、裸にした。トレパンも切り裂いてむしり取った。ブリーフも裂いて剥ぎ取った。むき出しになったペニスが、芋虫のようにちぢみあがっていた。  おれは口をきかなかった。殺し屋も声を出さなかった。おれは頭の中のプログラムに従って、決めたことをつぎつぎに片づけた。地下室のドアに外から錠前を取りつけた。サウナルームの扉にも外から南京錠を取りつけた。剥ぎ取った殺し屋のトレーニングウェアは、地下室の外の通路に出した。  居間に戻り、バッグからウォークマンを出した。中にはハードロックのテープがセットしてあった。それと粘着テープを持って地下室に戻った。  殺し屋は床にうずくまり、素っ裸の体を丸められるだけ丸めて、ふるえていた。ウォークマンのヘッドフォンを、殺し屋の耳に当てた。殺し屋が怪訝《けげん》な顔を見せた。ヘッドフォンははずれないように、粘着テープで固定した。ウォークマンも、テープで殺し屋の裸の胸に固定した。ウォークマンのスイッチを入れ、ボリュームを限界点まで上げた。ヘッドフォンから洩れてくるハードロックのビートが、かすかにおれの耳にも聴こえた。殺し屋が、不意に強烈なサウンドを耳から叩きこまれて、体をびくりとふるわせた。  サウナのスイッチを入れた。殺し屋の前に行き、おれはゼスチュアを送った。奴の喉を指でさし示し、それからおれは、自分の喉をナイフで切り裂く身ぶりをした。最後にもう一度、奴の喉を指さした。  死の宣告のゼスチュアだった。通じた。殺し屋は眼に恐怖と絶望の色を浮かべた。すぐにその眼が閉じられ、首が前に落ちた。眼を閉じれば、恐怖と絶望から逃れられる、とでもいうように。  おれは地下室に鍵をかけ、上にあがった。寝室から毛布を持ってきた。七時になろうとしていた。十時に目覚まし時計をセットして、ソファの前のテーブルに置いた。ソファに体を横たえ、毛布をかぶった。  居間は静かで暖かかった。ヒーターが効き始めていた。地下室の殺し屋は、十二月半ばの寒さと、両の耳から間断なく叩きこまれてくるロックのサウンドの音量と闘わなければならないはずだった。肉体と神経がいためつけられないはずはなかった。それが奴の最初の試練になるわけだった。  時計のアラームで目を覚ました。地下室に下りた。殺し屋は床に両頬と額を押しつけて、背中を丸めていた。全身が鳥肌立って、血の気を失っていた。ふるえがはげしかった。  おれは奴の頭からヘッドフォンをはずした。とたんに殺し屋は、横に体を投げ出して床に力なくころがった。奴の胸にはりつけたウォークマンもはずした。  サウナは百十度の温度になっていた。温度のセットはそのままにして、殺し屋をサウナに引きずり込んだ。扉を閉め、鍵をかけた。扉のガラスの小さな窓からのぞいた。殺し屋はサウナルームの床に尻を落とし、壁の腰掛けに背中をもたせかけて、がっくりと首を落としていた。寒さと音のつぎは、高温が殺し屋を苦しめることになった。それを交互におれはくり返すつもりだった。殺し屋の自律神経と、生理的な抵抗力は、正常な機能を奪わずにはすまないはずだった。  暴力がもたらす肉体の痛みと恐怖は、いわばそのときだけのものだ。神経と生理に加えられる攻撃は、暴力以上の底深い恐怖を心にかき立てずにはおかないだろう。底深い恐怖に、殺し屋の精神がどこまで耐えられるか、おれは見ものだと思った。  上にあがり、シャワーを浴びた。下の町まで車を走らせて、食料品を買い込んだ。戻ってきたときには、十一時四十分になっていた。殺し屋は、ほぼ一時間半にわたって、百十度の高温の小部屋に閉じこめられていたことになる。  買ってきた食料品を冷蔵庫に入れてから、地下室に下りた。殺し屋をサウナルームから引きずり出した。殺し屋の細いひきしまった体に、汗が滴《したた》っていた。奴の体を引きずった地下室の床に汗の跡が帯のように残った。その汗が絞りきられて出なくなったときが、殺し屋にとってはほんとうの地獄になるはずだった。  すぐにまた、ヘッドフォンを殺し屋の耳に当て、ウォークマンのスイッチを入れた。たばこを吸いながら、おれは奴の汗が引くのを待った。汗が乾かなければヘッドフォンとウォークマンを固定する粘着テープが、剥がれる心配があった。  殺し屋は床にころがり、ぐったりとなって眼を閉じていた。汗の滴《しずく》をつけた陰毛の中で、ペニスはちぢんだままだった。陰嚢だけが赤みをおびて、ばかに大きく見えた。おれは無言を通した。殺し屋も口を開きたがっているようすは見せなかった。奴の体は弱り始めていても、根性はまだ衰えていないようすだった。  ウォークマンとヘッドフォンをテープで固定し、地下室の扉に鍵をかけ、上にあがって、朝昼兼用の食事をした。飯を炊き、肉を焼き、サラダとワカメの味噌汁を作った。コーヒーを飲んだ。殺し屋に食事を与えるつもりはなかった。  午後二時に、殺し屋をふたたびサウナ風呂に入れた。三時半にサウナ風呂から出した。殺し屋の汗の量は、目に見えて減っていた。  四時に電話が鳴った。松永敏恵からの電話だった。おれは状況を伝えた。 「そいつは、日本語をしゃべれそうなの?」 「わからない。まったくしゃべれないってことはないはずだ。アパート借りて、日本で暮らしてるんだからな」 「口を割りそうな気配は見せていないの?」 「いまのところはな。けど、時間の問題だよ。寒さと暑さと、ウォークマンの音と、腹が減ったのと、ロッキーに咬み切られた腕の傷の痛みと、恐怖心と、それだけのものに野郎は耐えなきゃならないんだ。耐えきれるわけがない。気持は耐えるつもりでも、体がそれに逆らって音《ね》を上げるに決まってるんだ」 「わたし、そっちに行かなくてもいい?」 「いまのところはいいよ。あんたはなるべく動かないほうがいい。殺し屋の姿が消えたとわかれば、敵はおれが殺し屋を捕らえたと考えるはずだ。そしてあんたの動きに眼を向けるかもしれないんだ。あんたは関わりのないふりをしてたほうがいい」 「でも、わたしの前のポジションにいる組織の男は、今度の件にわたしが関わってることを、もう知ってるのよ。緒方純子のことを知らせてくれたのはその男なんだから」 「それはわかってるさ。けど、なるべくあんたは動かないでいたほうがいい。動けばそれだけ相手にとってあんたもおれと同じ敵ってことになる。好きこのんで危ないところに入っていくことはないだろうが」 「わかったわ。でも、殺し屋が日本語がだめな男だとわかったら、連絡して」 「そのときは頼むよ」  電話を切った。目覚まし時計をセットして、また三時間眠ることにした。殺し屋はその三時間を、寒さとの闘いに費やすことになった。 2  午前三時だった。  おれは何度目かに、殺し屋をサウナ風呂から引きずり出した。奴の体は枯れ木のように乾ききっていた。一滴の汗も出ていなかった。  ジムの板の床にころがった殺し屋の体は、ほぼ一昼夜のうちに、ひと回りちぢんだように見えた。浅黒い肌は、光沢と張りを失って、死人のように見えた。  喘ぐような細い呼吸をつづけながら、殺し屋は眼を閉じていた。おれは奴の頬を叩いた。奴が細く眼を開けた。その眼の前で、おれはヘッドフォンをぶらぶらさせた。奴が怯えた犬の眼になって、首を小さく横に振った。 「水が飲みたいか?」  おれは言った。殺し屋の眼に光が宿り、奴は必死のようすでうなずいた。おれは奴の頭をつかみ、床に叩きつけた。 「日本語がわからないふりをしてたってわけか」  おれは言った。奴の顔にうろたえの色が走った。それはしかし、すぐに消えた。表情が死んだ。おれは殺し屋の精神力が限界を超えたことを見て取った。 「水が飲みたいか、という日本語はわかったわけだな?」  おれは言った。殺し屋はうなずいた。 「口を割る気になったのか、という日本語はわかるか?」  奴は首を横に振った。 「おれを殺そうとしたのはなぜだ。誰に金をもらっておれの命を狙ったんだ、という日本語はわかるか?」  奴は今度は、眼を閉じてうなずいた。おれは地下室を出て居間に行った。薬缶《やかん》に水道の水を汲んだ。グラスを出した。薬缶とグラスを持って、地下室に戻った。  殺し屋の口から、テニスボールを取り出した。奴の口から喘ぐような息が吐かれた。奴の眼は床に置かれた薬缶とグラスに注がれていた。狂ったような眼だった。おれは薬缶の水をグラスの底に少しだけ注いだ。奴が床にころがったまま、頭をもたげた。おれは奴の口にグラスをつけ、傾けた。奴の喉が鳴った。 「もっと、水をくれ」  殺し屋がかすれた声を出した。上手な日本語だった。おれは首を横に振った。 「声が出るうちは、まだ死ぬ心配はない。名前は?」 「マナパット・レイエス」 「国はどこだ?」 「フィリピン」 「緒方純子は知ってるな?」 「知ってる」 「緒方純子の男はなんという名前だ?」 「セベ・マリノ」 「セベ・マリノと、緒方純子も、おまえの殺しの仕事を手伝ったんだな?」 「殺しの仕事、ジュンコ知ってる。セベ、知らない。わたし、知らない」 「どういう意味だ?」 「わたし、あなたを殺そうとした。その仕事、セベが持ってきた。セベに殺しの仕事持ってきたの、ジュンコ。それ、ほんとうのことだよ」 「緒方純子のところに、殺しの仕事持ってきたのが誰かということは、おまえは知らないと言ってるんだな」 「そう、わたし、それ、知らない。水を、飲ませてください。お願いします。わたし、殺さないでください」  殺し屋は、うつろな眼で言った。気力も体力も、すっかり使い果たした、といったようすに見えた。おれは殺し屋の背中に手を当てた。奴の体はもうすっかり熱を奪われて、冷たくなっていた。おれは立っていって、サウナの扉を開けた。 「這ってこい。ころがって来てもいい。もう一度、サウナに入れ。自分で入るんだ」  おれはサウナ風呂の開けた扉を押さえて言った。 「わたし、もう入らない。わたし、知っていること、全部、話した。もう何も知っていることはない。ゆるしてください」  殺し屋は、額を床にすりつけて言った。呼吸が苦しげに乱れ、声が弱々しくかすれていた。 「知っていることを、おまえが全部話したかどうか、おれにはわからないからな。それを知るためには、おれはおまえを苦しいめにあわせるしか方法はない。ほんとうに死にそうになったら、おまえはまだ話していないことを話す気になるだろうよ。ほんとうにおまえがもう全部話してしまってるんだったら、そのままおまえは死んでいく。どっちにするか、決めるのはおまえだ。さっさと入れ、サウナに」  おれは、ことばが奴の恐怖にまみれた心に深くしみこむように、一語ずつゆっくりと口に出して言った。奴は動こうとしなかった。  おれは奴の横に行った。ロッキーに咬みちぎられた腕の傷の包帯が、あせの跡と埃で黒ずんでいた。おれはそこを爪先で蹴った。殺し屋が呻いて、床を力なくころがった。ころがりながら、奴はサウナルームの中に入っていった。おれは扉を閉め、鍵をかけた。  三十分後に、奴をサウナから出した。やはり汗は一滴も出ていなかった。奴の眼はかすんだようになっていた。息が細かった。 「水……」  虫の息で、奴が言った。おれは薬缶の水をほんの数滴、奴の口もとに垂らしてやった。殺し屋の舌がとび出してきて、口もとを濡らしたわずかな水を、狂ったように舐めた。そのままおれは薬缶を持って地下室を出た。  二時間だけ眠った。目覚まし時計のアラームで起きた。バッグの中から、殺し屋が使っていたレックチャーを出した。水の入った薬缶を持って、また地下室に下りた。  殺し屋は、サウナルームの扉に背中を押しつけるようにして、扉の前に横たわっていた。床をころがって、そこまで移動したようすだった。サウナの扉のわずかな温もりでも、それを求めずにいられなかったのだろう。それは、殺し屋が寒さに対する抵抗を失いきっていることを示していた。  全身をわななかせながら、奴はそれでもおれの顔を見るなり、かすれた細い声で、水を求めた。奴の顔は土気色から、紫色に変わっていた。脇腹には、それまで見られなかった細かな皺が生まれていた。死が近くまで迫っているのが、奴の形相《ぎようそう》でわかった。奴は、おれが手に持っている薬缶は眼に入ったが、レックチャーは見えなかったらしい。  おれはグラスの底に、またわずかな水を注ぎ、殺し屋に与えた。喉と口の中を湿らせるぐらいの水でしかなかった。 「初めてのとき、トラックの中から、おれを撃ったのは、おまえか?」  おれは訊いた。 「わたしが、撃った。小さな女の子死んだ。それ、知ってる」  殺し屋が、床に頬をつけ、すぐ前に置かれている薬缶に視線を向けて言った。半ば死人の眼になっていた。 「トラックを運転してたのは、セベ・マリノだったのか?」 「セベ、トラック運転したよ」 「それから?」 「それから、なんですか? それから」 「知ってることを話せと言ってるんだ」 「話せないよ。知ってることないよ」 「汗はもう絞りとった。つぎは血を絞りとるか?」 「殺さないでください。助けてください」 「おまえに撃たれて、かわいい女の子が死んだ。おれがかわいがっていた犬もおまえに殺された。おまえはおれを殺そうとした。それも金のためだけでだ。おまえは自分だけ生きるつもりか」 「水をください」 「苦しいか?」 「眼が見えない。眠いよ。死ぬよ、わたし。死にたくないよ」 「血を絞り出してやるからな。ゆっくり死ね。眠くなったら、死んだ女の子とおれの犬の夢を見ろ」  おれは殺し屋の大腿に、レックチャーを当てた。鋭い刃先が大腿にわずかに埋まって、そこから血が玉のようにふくらんで盛りあがり、すぐにくずれてすじをひき、床に滴り落ちた。おれはさらに一センチほど、レックチャーを静かに刺し入れた。殺し屋は叫び声をあげたが、声はかすれたまま、すぐに途切れて、息の音しか聴こえなかった。レックチャーを抜いた。流れ出る血の量が増えた。殺し屋が喉の奥に嗚咽《おえつ》のような声を立てた。 「アサハラ・ユウジ」  殺し屋が、呻くような声で言った。初めは、それはおれには、人の名前には聴こえなかった。殺し屋がフィリピンのことばで何か言ったのか、と思った。 「おれにわかることばでしゃべれ」  おれは、もう片方の殺し屋の大腿を、レックチャーで浅く刺してから言った。殺し屋の眼は、恐怖と絶望で完全に輝きを失い、くもったガラス玉にしか見えなかった。 「ジュンコに聞いたよ。殺しのビジネス、ジュンコのところに持ってきた人、アサハラ・ユウジという名前だ」  おれはグラスに三分の一だけ水を注いで、殺し屋に与えた。苦しげに顔を歪めて、奴はそれをむさぼるようにして飲んだ。 「何者だ? アサハラって奴は」 「知らない。ジュンコは会社の社長だと言ってる。わたし、それしか知らない。ジュンコ言ったの、それだけだった」 「おれを殺せば、ギャランティをいくらくれるってアサハラは言ったんだ?」 「知らない。わたしアサハラと会ったことない。話したことない。ジュンコ、殺しの仕事したら、わたしに百万円払う言ったよ」  アサハラユウジという名前に、おれは覚えはなかった。  おれは殺し屋に、グラス一杯の水を与えて、上にあがった。コンロでミルクを温め、砂糖を入れた。温めたミルクをグラスに注ぎ、毛布と一緒に地下室に運んだ。殺し屋にミルクを飲ませ、体に毛布をかけてやった。 「セベ・マリノと緒方純子をここに連れてくる。奴らにもおまえと同じ質問をする。そうすれば、誰が嘘をついてるか、誰が知っていることを隠してるかわかるからな。おまえが死ぬのはその後だ」  おれは言って、地下室を出た。 「わたし、嘘言わない。殺さないでください」  閉めた地下室のドアの向こうから、殺し屋のわめいてはいてもかすれて泣くような弱々しい声が聴こえた。おれはドアに鍵をかけて、居間に戻った。  松永敏恵に電話をかけた。彼女はまだ起きていた。松永敏恵もアサハラユウジという名前に、心当たりはないと言った。  電話を切って、おれは眠った。 3  翌日の正午に起きた。  体が軽くなっていた。シャワーを浴びて、昼飯を喰った。  ミルクとロープを持って、地下室に下りた。殺し屋は眠っていた。起こしてミルクを飲ませた。奴の顔色は、紫色から土気色に戻っていた。死の渕から何歩かは後戻りしたらしい。  殺し屋の体から毛布を剥ぎとった。足と手の手錠をはずし、代わりに手足をロープで縛った。手は腰の後ろで縛った。床にころがして、毛布をかけた。殺し屋は口を開かなかった。意志も気力もすっかり失くしているのが、表情の動かない顔のようすでわかった。  必要なものをバッグに詰めた。バッグを車に積んで、東京に向かった。午後二時半だった。  風が強かった。快晴だった。冬の海が光っていた。  首都高速は亀戸《かめいど》から渋滞していた。あせる必要はなかった。新宿で下りた。ハイム若宮に直行した。六時半になろうとしていた。  ハイム若宮の駐車場をのぞいた。緒方純子のランサーは、そこにはなかった。車を停め、マンションの裏手に回った。緒方純子の部屋の明かりは消えていた。車に戻った。  車を走らせて、車を停めて食事のできる場所を探した。ファミリーレストランがあった。駐車場に車を入れ、食事をすませた。ゆっくりとコーヒーを飲んだ。  車を出して、ハイム若宮に戻った。緒方純子のランサーは、まだ駐車場に帰っていなかった。部屋の明かりも消えたままだった。おれは車をハイム若宮の駐車場に入れた。入口に近いところに、来客用の駐車スペースが二台分もうけてあることを、おれは知っていた。来客用の駐車スペースは空いていた。おれはそこに車を停めて待った。ナイフと手錠はいつでも使えるように、腰のベルトにはさんでおいた。拳銃はホルスターに吊って、肩からさげていた。防弾チョッキも着けていた。  五時間余り待った。緒方純子のランサーが駐車場に入ってきたのは、午前二時近くだった。おれは車のトランクルームの、オープナーレバーを引いた。  ランサーには、二人乗っていた。ハンドルをにぎっているのは、セベ・マリノだった。緒方純子は、助手席の窓に頭をつけていて、ぐったりとしたようすに見えた。二人の顔が、駐車場のほの暗い明かりの中で、はっきり見えた。  おれはホルスターから拳銃を抜いて、車から降りた。ランサーが通路の奥の駐車スペースに停められたところだった。おれは奥まで走った。ランサーのライトが消え、エンジンが停まった。おれはライトの後ろに立った。  セベ・マリノが、小声で何か言いながら、助手席の緒方純子の肩を揺すっていた。緒方純子が、傾けていた体を起こした。おれは動かずに待った。駐車場は静まりかえっていた。人の気配はほかにはなかった。  助手席と運転席のドアが、同時に開いた。二人が車から降りた。最初におれの姿に気がついたのは、セベ・マリノだった。おれはセベ・マリノに銃口を向けた。 「二人とも両手を頭の上に置け。声を出すな。騒いでみろ。遠慮なく撃つぞ」  おれは低い声で言った。緒方純子がおれを見た。彼女の肩が跳ねあがり、口からヒッという声が洩れた。セベ・マリノは、おれが誰なのかということが、すぐにわかったらしい。顔がひきつった。二人はそろそろと両手を頭の上に持っていった。 「ゆっくりとそこから出てこい」  おれは少し後じさって言った。二人は車の後ろまで出てきた。 「セベ・マリノは両手を後ろに回して、トランクルームの上に上体を伏せろ」  おれは言った。セベ・マリノはそうした。おれは緒方純子を手招きした。緒方純子は、ひきつった眼でおれを見ながら、近づいてきた。おれはベルトにはさんだ手錠の一つを抜き取り、緒方純子に渡した。 「セベに手錠をはめろ」  緒方純子の髪を左手でつかんで言った。緒方純子が手錠を取り落とした。拾わせて、セベ・マリノのところに髪をつかんだまま、緒方純子を連れて行った。緒方純子は、セベ・マリノの両手に手錠をかけた。おれは手錠をしっかり締めさせた。 「セベと同じ姿勢になれ」  緒方純子に言った。緒方純子は、トランクのフードの上に胸をつけ、両手を腰に回した。長い髪がフードの上に垂れて、彼女の顔をかくした。おれは緒方純子の手に手錠をはめた。 「歩け」  二人の尻を蹴った。緒方純子の茶色のスエードのミニスカートが、尻を蹴られたはずみでめくれあがり、パンストとパンティに包まれた尻がのぞいた。二人は交互に背中を銃口で小突かれて歩いた。  車のトランクルームを開けた。セベ・マリノをそこに押し込み、フードを閉めた。カローラのトランクルームは、セベ・マリノの体だけでいっぱいになった。緒方純子はカローラのリヤシートに押し込んだ。  バッグからロープとテニスボールを出した。緒方純子の体を仰向けにしてリヤシートの上に押し倒した。拳銃の銃口を使って、テニスボールを口に押し込んだ。ボールには口紅が塗りついた。  ロープを緒方純子のスカーフを巻いた首にひと巻きした。ロープの端はたるみをなくして、運転席のシートの脚に結びつけた。彼女は身動きができなくなった。外も見えないはずだった。外が見えなければ、どこに運ばれていくか、知ることもできない。  ランサーの運転席と助手席のドアは、開いたままだった。おれはランサーのところに戻った。車のキーが運転席の外に落ちていた。キーはエンジンのキーホールに戻した。車のリヤシートに、緒方純子のコートとハンドバッグが置いてあった。おれはコートとバッグを出した。ランサーのドアを閉め、カローラに戻った。  緒方純子の呻き声が聴こえた。おれは彼女の顔と体をコートで覆った。ハンドバッグの中身を調べた。名刺入れがあった。もらったらしい名刺が七枚入っていた。アサハラユウジの名刺はそこにはなかった。  おれはたばこに火をつけてから、車を出した。  公衆電話のボックスが眼に留まった。車を停め、松永敏恵に電話をかけた。松永敏恵はすぐに電話に出た。 「おれだ。緒方純子と、セベ・マリノをこれから勝浦に運ぶところだ」 「心配してたのよ。勝浦に電話したけど出ないから」 「何かあったのか?」 「何もないけど、殺し屋が新しくまた何かしゃべったかもしれないと思ったから」 「マナパット・レイエスは、おそらく知っていることは全部しゃべったんだと思うな。あいつは死ぬ寸前のところまでいったから」 「緒方純子とセベ・マリノが、どこまでのことを知っているか、だわね」 「おれを消させようとした奴は、あんたのルートを使っちゃいない。ということはほかのコネでセベ・マリノを雇ったわけだ。殺し屋のルートが、そんなにいくつもあるわけはないからな。アサハラユウジか、その先にいる奴ぐらいで、辿らなきゃならないルートは終わるはずだとおれは見てるけどな」 「そうね。それはそうだわね」 「女の口を割らせる方法だけどね。あんたならどんなやり方をされるのがいちばんこたえる?」 「女は痛みには強いわよ。肉体的な苦痛にはね。あたしなら性的な拷問がいちばんこたえるわね、きっと。それも恐怖と屈辱を味わわされるやつが」 「やっぱりそうか」 「男もそうかもしれないけど、女は、自分が女だってことが思えなくなったら、気持からくずれていくわよ。獣《けだもの》にされたって思わせればいいのよ。それも惨めで汚ない獣にね。強姦は怖くないわよ。そんなのは眼をつぶればいいんだから」 「わかった。獣にしてやるよ。緒方純子をな」  電話を切って車を出した。 4  二時間半で勝浦に着いた。  緒方純子とセベ・マリノを地下室に連れて行った。  毛布にくるまっていたマナパット・レイエスが、首を回してドアのほうに眼を向けてきた。 「マナパット!」  セベ・マリノが声をあげた。緒方純子は、テニスボールを詰められた口で、呻き声をあげた。マナパット・レイエスは、何も言わずに、すぐ眼を閉じ、頭を床に落とした。 「床にうつ伏せになれ」  おれは立っている二人に言った。二人は床に膝を突き、上体を前に投げ出した。おれはナイフを使って、緒方純子とセベ・マリノの服と下着を切り裂き、むしり取って裸にした。下半身も剥き出しにした。途中でセベ・マリノが叫び声をあげた。恐怖の声だった。おれは聞き流した。緒方純子は声をあげなかった。  つづいておれは、セベ・マリノの左手の手錠をはずし、それを奴の左の足首にかけなおした。奴の右手は体の前を通って、手錠で左の足首につながれた。緒方純子にも、おれは同じことをした。手錠は二組しか用意していなかったからだ。片手と片足をつながれた二人は、立って体を伸ばすことはできなくなった。  さらにおれは、二人の左腕をロープで腰に縛りつけた。それで二人は完全に体の自由を奪われた。緒方純子のストッキングで、マナパット・レイエスに猿轡を咬ませた。セベ・マリノの口には、奴のトランクスと緒方純子のパンティを押し込んだ。緒方純子はテニスボールを口に入れられたままだった。それで三人は、おれがその場を離れても、勝手なおしゃべりはできなくなった。おれは、三人がひそかに口裏を合わせて、嘘の話をでっちあげるのを、防がなければならなかった。  サウナ風呂のスイッチを入れて、おれは上にあがった。グラス一杯のミルクを電子レンジで温めて、砂糖を入れ、地下室に持っていった。マナパット・レイエスを抱え起こして、ミルクを飲ませた。グラスはあっという間に空になった。 「こいつをアパートからここに連れてきたのは、おとといの夜明けだ。それからこいつは素っ裸にされて、寒い地下室にころがされたり、サウナに一時間半ずつ放りこまれたりってことをくり返し、やられた。それで、きのうの夜明けには死にかけたよ。死にかけて、こいつは知ってることをおれにしゃべった。けど、それがほんとうのことかどうか、おれにはわからない。こいつが全部吐いたかどうかも、おれにはわからない。だからおまえら二人もここに連れてこられることになったわけだよ。そしておまえらにも、こいつと同じ命がけの経験をしてもらう。そのつもりでいてくれ」  おれは言った。地下室の明かりを消した。ドアを閉め、鍵をかけて、居間に戻った。目覚まし時計をセットして、ソファに横になった。  三時間後に起きた。すっかり朝になっていた。コーヒーをいれて飲んだ。鋏《はさみ》を探した。テレビの台の引き出しに入っていた。事務用のよく切れそうな、まだ新しい鋏だった。風呂場の前の洗面台の物入れに、剃刀《かみそり》があった。まだ使われていない、ピンクの柄のついた簡便剃刀が、輪ゴムで束ねて置いてあった。婦人用の剃刀だった。  性具は用意してあった。バッグの中に二つのバイブレーターが入れてあった。一つはヴァギナ用で、もうひとつはアナル用だった。ヴァギナ用には、挿入したままでクリトリスにもバイブレーションを送る仕掛けがついていた。張形の部分は、黒いペニスの形になっていた。  そろえたものを持って、おれは地下室に下りた。ドアを開けたとたんに、小便が臭ってきた。明かりをつけた。緒方純子とセベ・マリノは、床にころがったまま、小便を洩らしていた。二人の尻の下に、小便がひろがって床を濡らしていた。 「床を舐めてきれいにしろ。おたがいに場所を替えろ。相手が洩らした小便を舐めるんだよ」  おれは言って、緒方純子の口からテニスボールをつかみ出した。持ってきた鋏を使って、セベ・マリノの口の中からパンティとトランクスを取り出した。  二人は動こうとしなかった。おれは二人の脇腹を交互に蹴った。二発ずつで事は足りた。二人は寒さにはげしくふるえながら、床を這って場所を替え、床に顔をつけて、そこに溜まった小便を舐め、すすった。セベ・マリノは泣きはじめた。緒方純子は泣いていなかった。緒方純子の長い髪が、小便に濡れた床の上を束になって這った。マナパット・レイエスは、眼を開けなかった。自分のこと以外にはまったく関心が向かない、といったようすだった。  床の上の二つの水溜りが消えた。テニスボールと、下着が、それぞれ元のように二人の口の中に戻った。おれは緒方純子とセベ・マリノを、サウナルームに追い込んだ。今度は蹴る必要はなかった。二人は芋虫のように這って、サウナ室に入った。  二十分後に、緒方純子だけをサウナルームから出した。緒方純子の体は汗で光っていた。濡れて光る乳房や腰が、おれの欲望をそそった。おれはそれを抑えた。いつまで抑えていられるか、自信はなかった。  緒方純子の髪も、汗ですっかり濡れていた。おれは緒方純子を床に坐らせた。何も言わずにおれは緒方純子の髪をつかみ、根元に鋏を入れて切り落した。緒方純子が喉の奥で叫び、はげしく肩を振った。おれは切り取って左手に残った髪の束で、物も言わずに緒方純子の横っ面を殴りつけた。濡れた髪の束は鞭となって緒方純子の顔面に襲いかかった。緒方純子の目尻がわずかに切れて、血がにじんだ。 「文句があるなら、マナパットに言え。おまえがどこからか、殺しの仕事を引き受けてきて、その仕事がマナパットのところに回ってきたんだって話を、マナパットが吐いてるんだ」  おれは鋏を使いつづけながら、緒方純子に言った。緒方純子は、もう叫び声をあげようとしなかった。肩も振らなかった。緒方純子の頭をネギ坊主みたいにするのに、たいして時間はかからなかった。終わったときは、緒方純子は泣きはじめていた。  おれは鬼になっていた。緒方純子を仰向けに床に引き倒した。足首に手錠のかかっているほうの膝が上がった。それを外側に押し倒して、おれは膝で押さえつけた。緒方純子の股が開き、女陰があらわになった。手錠で足首につながれた右腕が邪魔だった。それも膝で踏んで、緒方純子の大腿に押しつけた。剃刀を使った。陰毛を剃り落とした。  われ目が剥き出しになった。そこから小陰唇の先がのぞいていた。黒ずんだ小陰唇は、ひとつにより合わされたようになっていて、小さなケロイドのように見えた。会陰部に近いあたりには、まだ短い陰毛が残っていた。残したままにした。剃り残された少ない毛のために、女陰はいっそう無残な姿に見えた。緒方純子の白い腹と乳房が、ひくひくと痙攣をつづけていた。嗚咽を噛み殺しているためだった。  おれは緒方純子を起きあがらせた。それから言った。 「しゃがんでおまんこをのぞけ。おもしろい恰好になってるぜ」  緒方純子は首を横に振った。はげしい振り方だった。おれは蹴り倒した。緒方純子の片方の膝を高々と抱えあげた。頭をつかんで股倉に押し込んだ。緒方純子が眼を開けて、無残な姿になった自分の性器を見ていなかったとしても、おれはかまわなかった。だが、緒方純子はそこを見ていた。涙で濡れたその眼は、放心しているように瞬《まばた》きを失っていた。  おれはふたたび緒方純子をサウナルームに放り込んで、居間に戻った。  シャワーを浴びた。トーストとハムエッグの朝飯をすませた。コーヒーをブラックで二杯飲んだ。 5  九時に地下室に下りた。セベ・マリノは一時間四十分、サウナに入っていたことになる。緒方純子も、前後一時間余りはそこにいた。  おれは二人をサウナから出した。二人とも完全にゆであがって、全身に湯気を立てていた。手錠がサウナの熱で焼けて緒方純子の右の手首に火ぶくれを作っていた。おれは緒方純子の口から、テニスボールを出した。緒方純子は、喘ぐような声と一緒に、火のように熱い息を口から吐いた。 「水を飲ませて……」  緒方純子が言った。おれは無視した。セベ・マリノの口から、パンティとトランクスを引き出した。 「水をくれ。喉が渇いて死にそうだ」  セベ・マリノが床にころがって喘ぎながら、犬のように怯えた眼でおれを見上げて言った。 「勝手に死ね。死にたくなきゃ、知ってることをしゃべるんだな。そうすりゃ水もやる。マナパットみたいに、ミルクと毛布もやる」  おれは言った。セベ・マリノは首をねじまげ、自分の肩を流れ落ちる汗の滴を舌で舐めはじめた。水の代わりにするつもりのようだった。二人とも口を割る気はなさそうだった。  おれは緒方純子を仰向けにころがした。脚を押し開き、膝で押えた。汗で光る緒方純子の乳房をゆっくりと揉みしだいた。二つの乳房がおれの掌の中でうねり、はずんだ。 「だめだー、やめろー、ジュンコにさわるなー、やめてくれー」  セベ・マリノがひきつった声をあげ、床の上でもがいた。緒方純子は歯をくいしばり、眼をしっかりと閉じていた。強姦は口を割らせる上では役に立たない、と松永敏恵は言った。それをおれは忘れていなかった。欲望がおれを駆り立てていた。ネギ坊主のような頭をして、全身から汗の匂いを立て、陰毛のない女陰をさらしている若い裸の女は、おれの情欲をそそらずにはいられなかった。セベ・マリノの叫び声も、残忍なおれの復讐心を刺激した。  おれは両手の指で、固くとがってきた緒方純子の乳首をつまみ、静かに揉んだ。荒々しく犯すつもりはなかった。恋人のセベ・マリノの前で、緒方純子を快感の絶頂に追いあげてやるつもりだった。そのほうが、見ているセベ・マリノにも緒方純子にも心理的な拷問の効果は大きいものになりそうだった。  二つの乳首は石のように張りつめて固くなった。指先で乳首をもてあそびながら、掌で乳房を揉みつづけた。緒方純子の瞼《まぶた》と唇の端が、こまかく痙攣していた。セベ・マリノは足で床を蹴り、唸り声をあげつづけた。  おれは片方の手を緒方純子の女陰に移した。汗にまみれた女陰のふくらみを、すっぽりと掌で押し包み、ゆっくりと全体を揉み、さすった。緒方純子の腹にふるえが走った。首がのけぞり、固く結ばれていた唇が開いた。唾を飲みこむのがわかった。  おれの指の腹に、小陰唇が触れ、クリトリスのコロコロとした感触が伝わってきた。われ目に埋まった指先には、やわらかい襞がまとわりついていて、そこは汗とは別のものであることがはっきりわかる体液で濡れ始めていた。おれは体液で濡れた指先でわれ目を上に向けてなぞり、小陰唇を分け、クリトリスを包皮の下から剥き出しにした。  セベ・マリノが泣き声を出して、何かわめいた。ことばははっきり聴きとれなかった。  マナパットは頭から毛布をかぶったままで、寒さに耐え、体をふるわせているだけだった。  おれは緒方純子の女陰を遠慮なく眺めながら、刺激を送りつづけた。肉のうすい小陰唇は、指先で押しひろげると、黒いラン科の花のように、大きく左右に開いた。クリトリスは粒がたっぷりと大きくて、赤く光っていた。おれは体液をたっぷりと塗りつけた指の先で、クリトリスをこすった。  すぐに緒方純子は息を乱し、こらえかねたように細い声を洩らしはじめた。しかし、その声はどこか芝居くさかった。しかし、彼女の女陰はたっぷりと溢れ出てくる体液にまみれ、襞に指を使うと、湿った小さな音を立てた。 「アサハラだよ。アサハラユウジだ。アサハラという人が、あんたを殺してくれって、ジュンコに言ったんだよ」  突然、セベ・マリノが言った。緒方純子が眼を開けて、おれを見た。 「おれが知ってるのは、それだけだ。水をくれ。ジュンコから離れてくれ。頼む」  セベ・マリノは、床に頬をつけて、おれのほうを見ていた。 「あたしは何も知らないわよ!」  緒方純子が叫んだ。おれは立ちあがった。セベ・マリノの体の汗は乾いていた。ヘッドフォンをセベ・マリノの耳に当て、テープで固定した。ウォークマンを奴の胸にテープで留めた。スイッチを入れ、ボリュームを最高にあげた。セベ・マリノは破壊的な音の侵入から逃れようとして、頭を振った。  おれは緒方純子のところに戻った。左手で乳房を揉みたてた。右手の親指でクリトリスをはげしくこすった。右手の人さし指と中指を、緒方純子の膣に入れた。薬指でアヌスをまさぐった。それだけのことを同時に進めた。緒方純子が声をあげ、腰をゆすった。 「アサハラユウジって名前は、マナパットの口からも、セベの口からも出てきた。そして二人とも、殺しの仕事をアサハラユウジから受けてきたのはおまえだと言ってる。けど、おまえは何も知らないというわけだ」 「知らないわよ」 「まあ、せいぜいがんばれ。どこまでその根性が持つか知らないけどな」  おれは言って、中指も強引にアヌスにくぐらせた。セベ・マリノは強烈なサウンドのひびきに脳味噌を叩かれながら、おれのほうを見ていた。おれが緒方純子に何か言っているのが、セベ・マリノにはわかったはずだ。けれども、おれと緒方純子のやりとりの中身は、セベ・マリノの耳には聴こえない。それがセベ・マリノを不安な気持にさせているのが、奴のようすでわかった。セベ・マリノの示している不安は、奴がまだ知っていることを隠していることの証拠だ、とおれは考えた。  アヌスと膣に埋めこんだおれの指に、固く締めつけてくるような律動が伝わってきた。緒方純子は眼を閉じ、口を開いて、押し殺した喘ぎを洩らしていた。腰が揺れ、腹が痙攣し、乳房が揺れ、まちがいなく快感の高波が緒方純子を襲っているのがわかった。  おれは緒方純子の体を裏返しにして、腰を抱えあげた。緒方純子は床に膝を突き、上体を床に投げ出し、押し上げた腰を保持した。おれはズボンと下着をおろし、勃起しきったペニスを出した。セベ・マリノが床の上で力なく首を振り、眼をそむけた。おれは緒方純子の腰を抱え、突き入れた。 「これが拷問だと思うなよ。こんなものは初対面の挨拶代わりだ。おまえが口を割るまで、おれは手抜きなしできっちり責めるからな。肚をすえとけよ」  おれはゆっくりと強く深い突きをくれながら入った。緒方純子は、もう声を押し殺すゆとりを失っていた。自分からおれの下腹に尻を打ちつけてきた。声を詰まらせ背中を強く反らして、緒方純子は果てた。おれはすぐにペニスを抜き、それを緒方純子のアヌスに移した。強引に割り込み、押し入り、貫いた。緒方純子の声が苦痛にまみれたものになった。おれはかまわずに抽送を加え、果てた。  緒方純子のパンティでペニスを拭き、それをトランクスと一緒に、セベ・マリノの口に押し込んだ。緒方純子の口にもテニスボールを押し込んだ。セベ・マリノと緒方純子の体に、鳥肌が立っていた。サウナ風呂の炎熱地獄のほとぼりが冷め、替わって寒冷地獄の苦しみが、二人に訪れ始めていた。 「初対面の挨拶はこれで終わりだ。死ぬか狂うかする前に、楽になることを考えたほうが利口だと思うがね、おれは」  おれは言いながら、ペニスの形をしたバイブレーターを、緒方純子の膣に挿入し、テープでがんじがらめに固定した。クリトリスにもバイブレーターの先を当て、テープで留めた。陰毛を剃ったあとなので、テープを貼るのに苦労はしなかった。緒方純子は腰をよじった。おれはアヌス用の小さな卵形のバイブレーターも挿入した。それはひとりでにはみ出してくる心配はなかった。すっぽりと呑みこんで、ひきしまったアヌスが中に閉じこめた。 「極楽かもしれないぞ。そうやって床にころがってるだけで、何もしないでいい気持になれるんだからな。電池のスペアはたっぷりあるから心配するな。いきっ放しにいって、頭の中はまっ白になるだろうよ」  おれは言って、二つのバイブレーターにスイッチを入れた。モーターが耳ざわりな音で唸りはじめた。バイブレーションを受けているクリトリスがふるえた。おれは立ちあがってドアに向かった。緒方純子がネギ坊主の頭を床に打ちつけ、大きな声で呻いた。おれはふり向いた。緒方純子が何か言いたそうな、必死の眼差しをおれに向けていた。 「何か言いたいことがあるのか?」  緒方純子がうなずいた。おれは引き返して、緒方純子の口からテニスボールを出した。 「アサハラユウジが、あたしにあんたを殺す仕事を持ち込んできたっていうのは、ほんとうだわ」  緒方純子はふるえをおびた声で言った。声のふるえは、作動中の二つのバイブレーターのせいだった。体をくの字に折って床に横になっている緒方純子の腰が、たえず小さくうねるように動かされ、それにつれて乳房も細かな揺れを見せていた。 「どこに行けば、そのアサハラって奴に会えるんだ?」 「それはあたしも知らないわ。いつも外でしか会ったことないから」 「何者なんだ? そいつは?」 「それもわからないのよ。そういうことは一切教えてくれなかったから」 「そういうのを子供だましの話って言うんだよ」  おれは言って、テニスボールを緒方純子の口に押し込んだ。地下室を出て、ドアに鍵をかけた。十時を回っていた。 6  三時間だけ眠った。  時計のアラームで目が覚めた。外はみぞれまじりの雨だった。  地下室で物音がひびいていた。おれは階段を駆け下りた。物音が止んだ。鍵を開け、中に入った。  マナパット・レイエスを間にはさむようにして、三人が団子になってかたまり、床にうずくまっていた。マナパット・レイエスの体にかけてあった毛布が、地下室の隅に落ちていた。  おれは声をあげて笑った。物音の原因も察しがついた。寒さに我慢できなくなった緒方純子とセベ・マリノが、マナパット・レイエスの毛布を欲しがって、そばにころがって行ったのだ。取り合いをしているうちに、毛布は地下室の隅までとんでいってしまったらしい。  おれは緒方純子とセベ・マリノを、マナパット・レイエスのそばから引き離した。緒方純子の体に装着した、二つのバイブレーターの具合をチェックした。異常はなかった。緒方純子は、蒼白な顔に苦悶の表情を浮かべていた。三時間にわたるバイブレーターの刺激が、女の体と心にどんな症状をもたらすのか、おれにはわからなかった。緒方純子の眼は、焦点を失ったように見えた。魚の目を思い出させた。  はげしい体のふるえは、バイブレーターのせいだけではなかった。地下室は氷室さながらに冷えきっていた。三人とも首が揺れるほど、はげしくふるえていた。セベ・マリノの眼には、死の恐怖がにじんでいた。おれは鬼の心を持ちつづけた。容赦する気など、さらさらなかった。  ミルクを温めて、マナパット・レイエスに飲ませ、奴の体を毛布で包んだ。マナパット・レイエスの肌はすっかり乾燥して、生気を失い、たるみを生んでいた。飢えと寒さで、奴の眼は深く落ちくぼみ、小さくなっていた。  セベ・マリノが、何か言いたそうな顔をした。おれは無視した。奴の頭からヘッドフォンをはずし、ウォークマンもはずして、サウナ風呂に追い込んだ。緒方純子の体から、二つのバイブレーターをはずし、やはりサウナに追い込んだ。  居間に戻った。昼食の時間だった。飯を作るのは面倒ではなかった。いつもは面倒に思えるときがあって、外食に頼ることも珍しくないのだ。殺し屋たちをじりじりと死の渕に追いつめていく合間に、食事の支度をしていると、戦場にいて休息を取っている、といった気分になるのだった。  時間はもて余すほどあった。精神は張りつめていた。神経も鋭くとがっていた。飯を作っているときの、軽い集中の状態は、精神と神経の緊張と、うまく釣り合った、心地よささえ感じられた。  念を入れて、オニオングラタンスープを作った。オムライスを作った。ライスはニンニク入りのバターライスにした。トマトとキュウリとワカメを使って、中華風のサラダを作った。アジのひらきを焼いて、大根おろしをつけた。  食事の支度が終わったところで、サウナ風呂の二人を外に出した。二人の汗の量がめっきり減っていた。またセベ・マリノが、何か言いたそうな眼を見せた。おれは無視した。緒方純子は、初めから眼を閉じたままで、骨まで高い熱気でやわらかくなったかのように、深くうなだれ、喘いでいた。  おれは上にあがって、ゆっくりと食事をした。コーヒーを飲み、たばこを吸い、台所を片づけ、地下室に下りた。  毛布の取り合いは、まだ始まっていなかった。おれはセベ・マリノの口の中から、パンティとトランクスを出した。 「水をくれ!」  セベ・マリノが言った。おれはペニスを出して、セベ・マリノの口もとめがけて放尿した。セベ・マリノが顔をそむけた。 「水はやれないが、小便ならいくらでもやるから、飲め!」  おれは言った。 「ジュンコ、何もかも話してしまうんだ。早くだ。おれはもうこういうことはいやだ。我慢できないよ」  セベ・マリノが床に顔を伏せて言った。おれは放尿を中断し、緒方純子のところに行った。彼女の顔に向かって放尿を再開した。緒方純子は、顔をそむけようとしなかった。それだけの気力と体力が、すでになくなっているかのように見えた。  セベ・マリノが声を洩らして泣きはじめた。生死の境をさまよっているマナパット・レイエスだけが、すでに死人になったかのように静かだった。セベ・マリノも、緒方純子も、沈没寸前の船だった。奴らの表情からも体の動きからも、踏み留まろうとする力はもう感じられなかった。おれにはそれがわかった。そしておれは、いくらでも冷酷になれた。冷酷にならなければ、理由もなく撃たれて死んだ六歳の女の子と、首の骨を折られて死んだロッキーヘの償いは果たせなかった。  おれは泣いているセベ・マリノに、ふたたびハードロックを、最大音量で聴きつづけてもらうことにした。奴の頭にヘッドフォンをつけ、胸にウォークマンを固定した。  緒方純子の口から、テニスボールを取り出した。腰に縛りつけていた左腕を解いた。手首と足首につないだ手錠をはずした。緒方純子がぼんやりと眼を開けた。魚の目のようににごったその眼に、恐怖の色がはりついていた。手足を自由にされたことが、新しい恐怖となって、緒方純子を怯えさせているようすだった。 「せっかく、水代わりに飲ませてやろうとした小便を、床にこぼしちまったな。全部、舐めろ。セベのまわりの小便もだ」  おれは緒方純子に言った。動こうとしなかった。おれはナイフを出した。緒方純子は仰向けに横たわり、手足を投げ出していた。脚は開かれていた。女陰の数センチ下の、大腿の間を狙って、おれはナイフを振り上げ、床に突き立てた。緒方純子は声をたてて息を呑み、全身をこわばらせた。ナイフの刃は女陰のほうを向いていた。おれは緒方純子の両の足首をつかんだ。そのまま引いた。床に立っているナイフの刃が、女陰のわれ目に触れる寸前で止めた。 「止《や》めて。放して。おしっこ舐めるから」  緒方純子が言った。老婆の声のようにしわがれた声だった。おれはつかんでいた足首を放し、床のナイフを抜き取った。緒方純子はうつ伏せになり、腕と膝で体を支え、床に顔をつけ、小便を舐めて回った。胸の下で二つの乳房が揺れた。尻の谷間の陰に、剃り残しの陰毛をまとわりつかせた女陰が、見え隠れした。おれはそこが眺められる位置にいつづけた。眺められていることを緒方純子に意識させた。それも緒方純子の気力を奪い、心をいためつけるパンチになるはずだった。  すっかり小便を舐め取ってしまうと、緒方純子は床にうつ伏せになった。 「寒さで死ぬのがいいか。サウナでミイラみたいになって、干物になるか。飢え死にか。好きな道を選べ。死にたくなきゃ、アサハラのことをしゃべるか、オナニーをするか。どっちを選んでもいいんだ。好きにしろ」  おれは言った。 「アサハラのことはもうしゃべったわ」 「なら、オナニーだ。やれ。おれが止めろというまでつづけるんだ。それで死ねるかもしれないぞ。オナニー覚えた猿は死ぬまでやりつづけるっていうからな」  おれは言った。緒方純子は力なく寝返りを打った。仰向けになった。右手の指がわれ目に沈み、クリトリスをこすりはじめた。 「腰を上げろ。左手でわれ目を開け。クリトリスこすりながら、ケツとおまんこに指を突っこめ。中学生のオナニーじゃねえんだ」  おれは足で緒方純子の乳房を踏みにじって言った。緒方純子は両足を踏んばって腰を上げた。左手の指がわれ目を押し分けた。人さし指はクリトリスを押しつぶすようにしてこすりつづけた。中指が浅く膣の中に沈んだ。薬指がアヌスに突き入れられた。  だが、すぐに緒方純子は宙に上げた腰を床に落とした。体力を消耗しつくしているために、肩と足だけで体重を支えて、腰を浮かせているのが、どれほど苦痛であるか、おれにはわかっていた。 「腰を上げろ」  おれは乳房を力まかせに踏みにじって声をとばした。緒方純子は腰を上げた。おれは床に片膝を突き、押し上げられた緒方純子の尻の下にナイフをさし出した。刃を上に向けて立てた。逃げられないように、緒方純子の右膝をつかんだ。 「止めて! ナイフをどかして!」  緒方純子が叫んだ。踏んばった脚と尻がふるえていた。 「オナニーの手が止まってる。つづけろ」  おれはゆっくりとした口調で言った。緒方純子の両手が股間から離れ、床につけられた。腰を落としてナイフが尻に突き刺さる恐怖のほうが、緒方純子には切実な問題だった。床に下ろされた両腕の肘を、体重を支える力の足しにしようというわけだった。  それでも支えきれる力はもう緒方純子には残っていなかった。宙に押し上げられている腰は、じりじりと下がりかけてはわずかに上げられ、また下がりはじめる、といったことをつづけた。そしてナイフの刃先と尻の肉との間隔は次第にちぢんでいた。 「これでさっきみたいなバイブレーターを前と後ろの穴に入れたら、どうなる?」  おれは言った。緒方純子が呻いた。緒方純子は歯ぎしりした。そしてついにギブアップした。 「話すわよ、アサハラのこと。だから、ナイフをどかして!」  閉じていた両眼を大きく見開き、全身をわななかせながら、緒方純子はかすれた声で叫んだ。おれはナイフを引いた。つかんでいた緒方純子の膝から手を放した。緒方純子の腰が、打ちつけられるように音をたてて床に落ちた。緒方純子は手足を投げ出し、はげしく呼吸をはずませていた。 7  おれは緒方純子を居間に連れていった。緒方純子の口から出る話を、地下室の二人に聴かせるわけにはいかなかった。セベ・マリノの耳はハードロックの音で塞《ふさ》いであったが、マナパット・レイエスの耳は開いたままだった。  緒方純子は、ヒーターで暖められた居間に入ると、初めて涙を流した。生き返ったような顔を見せた。おれは緒方純子をソファに坐らせた。薬缶に水を汲み、グラスと一緒にソファの前のテーブルに置いた。グラスの底に少しだけ水を注ぎ、緒方純子の前に置いた。 「水でもなんでも、欲しいものがあるなら、知ってる限りのことを全部しゃべることだ」  おれは言った。緒方純子は水を飲んだ。後を催促することはしなかった。素直に水を飲ませてくれる相手じゃないことが、緒方純子にはわかっていたのだろう。 「アサハラユウジは金融ブローカーなのよ」  緒方純子はソファの上に上体を倒し、眼を閉じて話し始めた。 「どんな字だ? アサハラの名前は」 「浅い深いの浅。原っぱの原。英雄の雄。数字の二」 「住んでる場所は?」 「自宅は知らないけど、事務所は溜池《ためいけ》にあるわ。虎《とら》ノ門《もん》から溜池の交差点に行く道の、交差点に出る少し手前のタイガービル。そこの四階に、金融情報コンサルタント、浅原雄二事務所というのがあるわ」 「金融ブローカーか、コンサルタントの看板出してるのか?」 「あの人の仕事のことは、あたしはよく知らないわ。本人は金融ブローカーだって言ってるのよ」 「おまえとはどういう関係なんだ? 浅原は」 「あたしがアルバイトで働いてる、赤坂のクラブのお客さんなのよ。そこであたしは浅原と知り合ったのよ」 「それだけの関係で、浅原がおまえに殺しの仕事を頼んでくるのはおかしいじゃないか」 「それだけの関係じゃないわ。あたしは浅原に狙われて、うまく罠に誘いこまれたのよ。あたしがお金をほしがってたから」 「どんな罠だ?」 「お金よ。はじめは一回寝れば十万円くれるって浅原は言ったのよ。あたし、寝たわ。そのつぎは、セベとセックスしてるところを見物させてくれれば、三十万円くれるって言ったのよ。セベもお金のほしい人だから、話をしたらオーケイしたわ」 「で、三十万円もらったわけだな」 「もらったわ」 「浅原はおまえにセベという男がいることを知ってたのか?」 「セベは前に、あたしがアルバイトでホステスしてるクラブで、ボーイやってたのよ。そのときから浅原は、あたしがセベといつも一緒にお店から帰っていくのを知ってたらしいの。最初に浅原と寝たとき、セベと恋仲なのかって訊かれたから、そうだって言ったのよ」 「で、三十万円もらってどうした?」 「そのつぎに浅原は、あたしをパーティに誘ったわ。秘密クラブの乱交パーティで、ギャラが一晩で五十万円だっていうから、セベと一緒なら出るって言ったのよ」 「出たのか?」 「出たわ。二人で百万円になるわけだから。それが罠だったのよ。暴力団が仕切ってるという乱交パーティで、コカインとかマリワナとかがいくらでもやれるというやつだったの。お金払って集まってくる人たちの中には、有名な女優もいたわ。俳優とかタレントとか、作家とか、そういう人たちもいたの。あたしたちはそういうお客の相手をしたのよ。写真もいっぱい撮《と》られたわ」 「それが罠だったというのは?」 「コカインよ。あたしもセベも一回でやみつきになったわ。浅原に言ったら、コカインはいつでも手に入るから回してやるって言ったの。だから、パーティが終わって何日かたってから、浅原の事務所に連絡したら、その夜にお店に来て、そっとコカインを渡してくれたわ。そういうことが何回かつづいてから、浅原がコカインを回すから商売しろって言ってきたの。ただし、条件つきだって。その条件というのが殺しの話だったのよ」 「おれを殺せば、コカインを回してやるから、それを売って大儲けできるって話だったんだな」 「そうよ。殺しの仕事がうまくやれたら、ギャラを一千万円出すって言ったわ。ただし、なんのためにあんたを殺すのか、ということには一切、興味も関心も持つなって」 「それでマナパット・レイエスを誘いこんだのか?」 「ちがうのよ。マナパットとは、殺しの仕事を引き受けてから知り合ったのよ。あたしもセベも。仕事を引き受けると言ったら、浅原は、北区の岩淵町一丁目の清和アパートというところに、マナパット・レイエスというフィリピンの男が住んでるから、セベが、そこに行って、浅原から頼まれたということを出さずに、殺しの仕事の話をすれば、マナパットは黙って、殺し屋を引き受けるはずだって言ったのよ。浅原はセベに、あたしの部屋を出て、マナパットと清和アパートで一緒に住め、とも言ったわ」 「どういうことなんだ?」 「あたしもどういうことか、初めはわからなかったわ。浅原に訊いても、黙って言われたとおりにしろと言うだけで、教えてくれなかったのよ。でも、セベがマナパットと一緒に住むようになってから、マナパットといろいろ話をしてるうちに、からくりがわかったのよ」 「何のからくりだ?」 「マナパットはプロの殺し屋なのよ。それで彼は、マニラの組織のボスの命令で、東京に仕事に行けって言われてきたの。だけどマニラのボスは、仕事の中身のことは何も言わないで、東京に行ったらなんでもいいから働き口とアパートをまず探して、決まったら連絡しろってことしか言わなかったらしいの。それでマナパットはビル解体やってる会社に入って、清和アパートを借りて、マニラのボスに連絡したの。そうしたらボスが、待ってればフィリピン人が殺しの仕事を持ってくるはずだから、その仕事をすませて、マニラに戻ってこいって言ったらしいの」 「で、待ってたらセベがやってきたわけだな」 「そうなの。でも、セベもあたしも、マナパットには浅原の名前を絶対に出すなって言われてたから、マナパットはその仕事がどこからきたのか知らずにいたのよ」  それでおれにも、その回りくどくてややこしいからくりが、納得できた。殺し屋と依頼人との間の線を断ち切るために、浅原は緒方純子とセベ・マリノをはさみこんだのだ。そしてそのことは、初めからマニラの組織も了解ずみで、マナパット・レイエスをただの殺しの道具として、日本に送りこんだ、というわけだ。浅原がマナパット・レイエスとセベ・マリノを一緒に清和アパートに住まわせたのは、東京の生活に慣れていない殺し屋のガイドとして、セベ・マリノを付けるためだったのだろう。 「口止めされていたはずの浅原の名前を、マナパットが知ってて、おれに吐いたのはどういうわけだ?」 「それは、セベがマナパットにうまくしゃべらされたからなのよ。マナパットは、あんたを殺す仕事を二度もしくじって、すっかり怯えてたのよ。三度目もしくじったら、自分が組織に殺されるって、マナパットはセベに言ったらしいの。それがマニラの組織の掟だって。組織は仕事をしくじった殺し屋は生かしておかないらしいの。その人間は殺しの仕事の秘密を知ってるわけだから。それでマナパットは、自分が殺されたら、その仕事の依頼人を彼の兄貴に脅迫させて、せめて兄に金をつかませてやりたいから、依頼人の名前を教えろって、しつこくせがんだらしいの」 「それでセベが教えてやったわけか?」 「セベは根負けして、浅原の名前だけは教えたのよ。アサハラユウジという名前だけなら、教えたってどうってことはないだろうって思ったっていうの。名前だけなら、どこのアサハラユウジかわかりっこないから」 「それじゃあマナパットは納得しなかっただろう」 「納得してないわ。でも、そのうちに結局、三人ともあんたに捕まって、こういうことになったのよ」  緒方純子は言って、うつろな眼を水の入った薬缶に向けた。おれはグラス一杯の水を緒方純子に飲ませてから、地下室に連れていった。もう一度、緒方純子の口にテニスボールを押し込んだ。マナパット・レイエスのストッキングの猿轡をはずした。  その後でおれはマナパット・レイエスに、マニラから東京にやってきた経緯をしゃべらせた。東京にきてから、殺しの仕事にかかるまでの経緯もしゃべらせた。マナパット・レイエスの話が、そばでロックを聴かされているセベ・マリノの耳に入る心配はなかった。  また、奴の話に緒方純子が口をはさんで、口裏を合わせさせることもできなかった。口をはさみたくても、緒方純子の口は、テニスボールで塞がれていた。  マナパット・レイエスの話は、緒方純子の話とすべて合っていた。つぎはセベ・マリノだった。セベ・マリノの耳を、ハードロックの音から解放してやった。  おれはセベ・マリノに、奴が浅原雄二と関わりを持つようになった、最初の経緯から話を始めさせた。細かい質問を重ねて、奴の話をチェックした。緒方純子の話とくいちがうところは、ひとつも出てこなかった。  おれは、緒方純子の口からテニスボールを出した。右の手首と左の足首を、元どおりに手錠でつないだ。左腕も腰にロープで縛りつけた。  ミルクを温め、砂糖を入れて、三人に飲ませた。緒方純子とセベ・マリノにも毛布を与えた。サウナ風呂のスイッチを切り、地下室のヒーターの温度を二十度にセットして、スイッチを入れた。 「助かったと思って安心するなよ。寒さとサウナからは逃れられても、しばらくは腹をすかせとくしかないぞ。当分はおまえらの胃袋には、ミルク以外のものは何も入らないからな。おれがこの一件にケリをつけるまで、ミルクだけで生き延びられたら、おまえらはもう一度太陽が拝めるだろうよ。ただし、おまえらの話が、全部ほんとのことで、隠してることもひとつもない、ということがわかったらの話だ。嘘ついてたり、しゃべり残したことがあったとわかったら、おまえら三人とも、生きた体でここから出ていくことはできないんだ。わかってるな」  おれは言った。奴らはうなずいた。おれは地下室の明かりを消し、ドアに鍵をかけて、上にあがった。  夜の九時になろうとしていた。松永敏恵は店に出ている時間だった。店に電話をするわけにはいかなかった。  ビールを飲んでから、食事の支度にかかった。すき焼きにした。うどんを入れた。途中でビールをウイスキーに替えた。今夜は酔ってもいい、と思った。  マナパット・レイエスは、マニラの殺し屋の組織から送りこまれた人間だ。敵がマニラの組織を使っているところから考えれば、依頼人までの道程は遠くないはずだった。浅原雄二が依頼人でなければ、奴のすぐ後ろにいるのが、おれのほんとうの敵にちがいない、とおれは考えた。  食事を終え、台所を片づけた。シャワーを浴びた。ウイスキーを飲みつづけた。ちょっとした祝杯の気分だった。  午前一時に、松永敏恵のマンションの部屋に電話をした。  電話は通じなかった。回線がつながらなかったのだ。代わりにチャイムが受話器にひびき、テープに吹き込まれた女の声が聴こえてきた。 〈あなたのおかけになった電話は、ただいま故障のために使用できません〉  おれは受話器を戻した。故障のための電話の不通というのは、いまどき珍しい、と思った。それ以上のことは考えなかった。胸さわぎもしなかった。祝杯気分の酔いのせいだったのだろう。  おれは松永敏恵に電話することを諦《あきら》めた。向こうからかかってくるだろうと思った。午前三時まで飲んだ。眠気が襲ってきた。おれは明かりを消し、ソファに横になった。目覚まし時計はセットしなかった。ひとりでに目が覚めるときまで寝て、それから東京に行くつもりだった。  目が覚めたのは、眠り足りたせいじゃなかった。玄関のドアが叩かれる音が、おれをソファから跳び起きさせた。  跳び起きたとたんに、おれは眠気を忘れた。明かりはつけずに、息を殺し、耳をすませた。車の音は聴いた覚えがなかった。ナイフはソファのテーブルの上に置いてあった。拳銃と防弾チョッキはバッグの中だった。そこまでのことを一瞬のうちにおれは頭に浮かべた。  暗い中でナイフを手探りした。ナイフを手にしてソファから下りた。這うようにして、バッグを置いた場所まで行った。手探りで防弾チョッキを着け、拳銃を出した。ナイフはズボンのベルトにはさんだ。拳銃を持った。音のたたないように、静かに拳銃のスライドを引き、薬室に初弾を送りこんだ。  立ちあがって、足さぐりで玄関に向かった。ノックの音は乱暴ではなかった。性急でもなかった。それがかえって、おれの警戒心をかき立てた。  玄関のドアの前に立った。耳をすませた。ノックはつづいていた。神経を聴覚に集中した。外に立っているのが、一人なのか、数人なのか、わからなかった。  おれは足音を殺して、玄関から離れた。風呂場に行った。風呂場には外から直接出入りできるドアがついていた。  そのドアの前に立って耳をすませた。そこには人の気配は感じられなかった。音を殺してドアのノブのロックをはずした。ノブを回し、少しずつドアを開けた。踏みこんでくる奴はいなかった。  おれは風呂場から外に出た。素足だった。冷たい雨が降っていた。地面は濡れていた。冷たさは感じなかった。  ログハウスの角から、玄関に眼をやった。庭に車が停めてあった。おれの車はガレージの中だった。車はライトが消され、エンジンも停まっていた。  玄関の前に、ぼんやりと人影が見えた。ノックをしている姿が、黒い影のまま見えた。そこにいるのは一人だけのようだった。暗くてよくは見えなかった。  おれはログハウスの壁伝いに、そっと進んだ。途中で庭に踏み出した。停めてある車の陰までは、ほとんど這うようにして進んだ。そこから人影の背後に回りこんだ。  立っているのは一人だった。それを見届けて、おれは相手の背中に無言で銃口を突きつけ、同時に手で口を塞いだ、手の下から相手の叫び声が洩れた。女の声だった。口を塞いだ手がつかまれた。 「わたしよ」  松永敏恵の声だった。顔はよく見えなかった。松永敏恵はその場にしゃがみこんだ。 「あんただとは思わなかった。おどろかしてくれるじゃないか」  おれは言って、拳銃を持った手を下におろした。とたんに雨に濡れた裸足の足もとから、冷気が這いのぼってきた。セーターの襟元から、雨の滴が流れこんできた。 「中に入ろう。いま玄関を開けるから。そうだ、あんた、ここの鍵は持ってこなかったのか?」  おれは言った。ログハウスは松永敏恵の持ち物なのだ。おれが預かっているのはログハウスのスペアキーだった。松永敏恵が、そこの鍵を持ってきていれば、寒い雨の中に立って、辛抱づよくノックをすることはなかったのだ。おれが気がついたとき、しゃがんでいた松永敏恵が立ちあがって、おれにしがみついてきた。 「鍵は持ってこなかったんだな?」  おれは言った。 「鍵は焼けたわよ、きっと。マンションのわたしの部屋から火が出たの。中は全部焼けたわ。隣の部屋まではひろがらなかったけど」 「火事か?」 「放火よ。焼き殺されるところだったわ」 「放火にまちがいないんだな?」 「狙われたのよ、わたしも」  松永敏恵の声は、恐怖でこわばっていた。おれは、彼女の部屋の電話が不通になっていた理由を納得した。 「とにかく、中に入ろう。風呂場のドアが開いている」  おれは言って、松永敏恵を促した。  第四章 捨て身 1  居間に入って明かりをつけた。  雨に濡れた頭から、顔に雫《しずく》が流れ落ちた。防弾チョッキも、セーターも、ズボンも、水を吸っていた。  松永敏恵が、バスルームの戸棚から、タオルを出してきた。それを食卓の上に置いた。彼女は茶色の革ジャンパーに、ジーパンという姿だった。ジャンパーも雨で濡れていた。 「緒方純子たちは?」  濡れた髪をタオルで拭きながら、松永敏恵が言った。 「地下室だ。三人とも……」  おれは、ナイフと拳銃を食卓の上に置いた。タオルを取って、頭と顔を拭いた。 「何か新しいことしゃべった? あいつらは……」 「浅原雄二って奴の素性《すじよう》がわかった。金融ブローカーらしい。事務所が溜池にあるという話だ。それより、放火というのは、まちがいないのか?」 「まちがいないわ。落ち着いて、詳しく話すから待って。着替えたいの。着る物を持ってくる」 「あるのか? ここに……」 「置いてあるの。少しだけど。男物がないのよね」 「おれは着替えを持ってきてる」  松永敏恵は、階段を上がって、二階に行った。  おれはヒーターの温度を上げた。防弾チョッキを脱いだ。セーターとズボンも脱いだ。シャツも濡れていた。裸になって、湿った体をタオルでこすった。  松永敏恵が、着る物を脇に抱えて、二階から下りてきた。 「このジャンパーもジーパンも借り物なのよ。隣の奥さんが貸してくれたの。パジャマのままで逃げ出したもんだから」  ジャンパーを脱ぎながら、松永敏恵が言った。ジーパンも脱いだ。松永敏恵は、ピンク色のジャージーのパジャマ姿に早変わりした。  パジャマは、灰か何かで、ところどころがうすく汚れていた。彼女はそれも脱いだ。 「寝てるときに火の手があがったのか?」  おれも着替えをしながら言った。 「寝入りばなだったわ。十二時半ごろだったのかな。きのうは土曜日で、お店が休みだったから、珍しく早く寝たのよ」  松永敏恵は、白のトレーニングウェアに着替えながら言った。おれは食卓の椅子に腰を下ろして、たばこに火をつけた。松永敏恵も椅子に腰を下ろした。 「火はどこから出たんだ?」 「居間からなの」 「火の気はなかったんだな?」 「ないわ。ヒーターだから、ストーブは使っていないし、灰皿の始末は、いつも寝る前にちゃんとする癖がついてるから」 「あんたが眠っているときに、誰かが忍びこんできて、火をつけたのかね?」 「それも考えられないことはないけど、わたしは、居間のテレビに時限発火装置か何かが仕掛けてあったんじゃないかと思うの」 「テレビに?」 「テレビが置いてあるところから燃え始めたみたいなの」 「きのうは家を空けた?」 「お店が休みだったから、午後から買物に行って、映画を見てきたの。映画の後で食事して、家に帰ったのが九時半ごろだったと思うわ」 「その間に部屋に押し入って、発火装置を仕掛けようと思えば、プロならやれるだろうな」 「もちろんプロよ。わたしのところは、あんたも知ってるとおり、寝室からは居間を通らないと、玄関に行けない間取りになってるでしょう」 「そうだな」 「居間に火が回ったら、逃げ道が塞がれることになるのよ、窓とかベランダから逃げるといったって、五階じゃどうにもならないもの」 「居間から火が出るようにしたのは、つまり逃げ道を塞いで、あんたを焼き殺そうとした、というわけだな」 「絶対にそうだと思う。まちがいないわ。テレビは居間から玄関に出るドアの近くの壁ぎわに置いてあるから、わたしが火事だと思って、跳び起きて寝室のドアを開けたら、もう火は居間のドアのところまでひろがってたわ」 「それで、どうしたんだ?」 「寝室の電話で一一九番を回したんだけど、電話は使えなかったの。居間に置いてあった親の電話が、そのときはもう焼けてしまってたんだと思うの。だから寝室の窓を開けて、大声で叫んだわよ」 「危なかったな」 「火に気がつくのが、もう少し遅れてたら、わたしは死んでたわ。隣の人が一一九番してくれて、梯子車で助け出されたんだけど、助かったと思ったとたんに、膝の力が抜けて、坐りこんじゃったわ」  恐怖と怒りが甦ってきたようすで、松永敏恵は声をふるわせた。眼がすわって、暗い光を放っていた。 「警察にいろいろ訊かれたんだろう?」 「訊かれたわ。でも、放火だなんて言うわけにいかないでしょう。うっかりそんなことを言うと、放火される覚えがあるのか、なんて訊かれるに決まってるわ」 「警察は失火だと思ってるんだな?」 「いまのところはね。失火か、テレビがどうかなってて、燃え出したんじゃないかってことになってるの」 「焼跡の現場検証で、時限発火装置の残骸か何かが見つかったりすると、厄介だな」 「そのときは仕方ないから、放火される覚えなんかないって言って、とぼけとおすしかないわ。そうするつもりよ」 「浅原雄二が雇った殺し屋は、マナパット・レイエスだけじゃないってわけだ」 「あんたを消そうとした奴が、今度はわたしを狙ってきた、というふうにしか考えられないからね」 「マナパット・レイエスたち三人の姿が消えたんで、浅原雄二は、レイエスたちがおれにとっ捕まったと見てるんだろう。それで、あんたを狙ってきたんだ。浅原は、緒方純子たちがおれに捕まったのは、誰かがおれに緒方純子の情報を流したからだと思ってるんだろうな。それが誰なのかってことで、あんたが疑われたんじゃないかな」 「緒方純子の車のナンバーだと思うわ。マナパット・レイエスが、二度目にあんたを襲撃してきたとき、あんたが緒方純子のランサーのナンバーを見て、覚えてたにちがいないって、浅原雄二は考えたんだと思うの。そのナンバーから、ランサーが緒方純子のものだということを調べて、あんたに教えた人間がいるから、あんたがあの三人に辿りついて、捕まえたんだ、ということを浅原雄二は見抜いたのよ、きっと」 「ランサーのナンバーから、車の持ち主を調べたのが、あんただと浅原は思ってるんだろうな」 「マナパット・レイエスにあんたを消させようとしたわけだから、浅原はある程度、こっちの殺しの組織のルートを知ってるはずだわ。だから、組織の中の誰かが、車のナンバーで緒方純子を割り出して、それをあんたに伝えたのがわたしだってことも、浅原ならわかるんじゃないかしら」  松永敏恵は言った。そういうことだろう、とおれも思った。おれは立ちあがった。 「少し眠ったらどうだ? くたびれてるんだろう」 「あんたは寝なくていいの?」 「下に行って、緒方純子たちに訊いてみるよ。浅原が雇ったプロの火つけ屋のことがわかるかもしれないからな」 「わたしも一緒に行くわ」  松永敏恵も椅子から腰を上げた。おれは一瞬、迷った。だが、すぐにうなずいた。松永敏恵が命を狙われたのだから、浅原はすでに松永敏恵のことを知っているわけだ。それなら彼女が、緒方純子たちの前に顔をさらしても、不都合なことはないのだった。 2  地下室の三人は、毛布にくるまった体を、ひとかたまりに寄せ合って、眠っていた。  ヒーターの温度を二十度にセットしたとはいえ、空気は冷えていた。おれは三人の体から毛布をむしり取った。寒さが三人から眠りを奪った。素っ裸の三人の体が、見る間に鳥肌立っていった。 「まだ生きてたな」  おれは言った。緒方純子とセベ・マリノが、そこに立っている松永敏恵を見上げて、訝《いぶか》るような表情を見せた。マナパット・レイエスは、眼を開けようとしなかった。奴がいちばん衰弱が進んでいた。 「浅原雄二のことで、もう少し教えてもらいたいことがあるんだ」  おれは三人に言った。三人は床の上で体をちぢめたままで、口を開かなかった。 「浅原は、マナパット・レイエスのほかにも、殺し屋を飼ってるはずなんだ。そいつのことを知りたいんだ」  おれは穏やかに言った。マナパット・レイエスが、床につけたまま頭を、弱々しく横に振った。知らない、と言っているようだった。 「それは、あたしは知らないわ」 「わたしも、そんなこと、知らないよ」  緒方純子とセベ・マリノが、先を争うようにして言った。 「ミルクと水をストップして、またサウナ風呂に入るかい?」  おれは言った。 「知らないよ。ほかの殺し屋のことなんか、わたし、知らない。ほんとに知らないんだ。嘘じゃないですよ」  必死の口調で、セベ・マリノが言った。 「信用してよ。知ってることは、もうみんな話したわよ。ミルクも水も飲ませてもらえなくても、サウナ風呂に放りこまれても、知らないことは話せないじゃないの。それでも信用できないのなら、気のすむようにしてよ」  緒方純子が言った。 「わかったわ。気のすむようにするわ」  松永敏恵が言った。緒方純子が松永敏恵を見た。セベ・マリノが顔をひきつらせた。 「緒方さん、こっちに這ってきて坐ってちょうだい。男は眼をつぶるのよ」  松永敏恵が言って、部屋の中央に立った。セベ・マリノは、すぐに眼を閉じた。マナパット・レイエスは、ずっと眼をつむったままだった。 「あの二人が眼を開けたら、ナイフで眼を刺してね」  松永敏恵は言いながら、トレーニング・パンツと下着を脱いだ。 「わかった。そうしよう」  おれは言った。松永敏恵が何を始めようとしているのか、ようやくおれは納得した。松永敏恵の眼が、氷の炎のような冷たい光を放っていた。緒方純子は、剥き出しになった松永敏恵の下半身から眼をそらし、唇を噛んだ。 「舐めるのよ、わたしのお尻の穴を」  松永敏恵は言って、床の上に尻をすえて坐っている緒方純子の前に、ぐいと尻を突き出した。緒方純子の右手は、手錠で左の足首につながれていた。左手はロープで腰にしばりつけてあった。そのために、緒方純子は手で松永敏恵の尻を押しやることもできず、身をかわすこともできなかった。 「なに考えてるの? 話すことは何もないんでしょう。だったら舐めるのよ。気のすむようにしてくれって言ったのは、あんたのほうなのよ」  松永敏恵が言った。緒方純子が、松永敏恵の尻に顔をつけ、舌を伸ばした。 「ちゃんと舐めるのよ。舌がお尻の穴に当たってないわよ」  松永敏恵が言った。緒方純子の口から、嗚咽が洩れ、肩と背中がふるえた。  松永敏恵が、尻を突き出したまま、横に一歩移動した。支えをはずされた恰好で、緒方純子はそのまま前に倒れた。手が使えないので、体を支える術《すべ》はなかった。緒方純子は、顔面を床に打ち当てて呻いた。 「だめじゃないの、ころんじゃ、さあ、起きるのよ」  松永敏恵は言った。緒方純子は起きあがった。同じことがくり返された。緒方純子が尻に顔をつけてくるたびに、松永敏恵は横に体をかわしたり、前に足を運んだりした。そしてそのたびに緒方純子は、体を支えきれずに前にまっすぐ倒れ、顔を床に打ちつけるのだった。  緒方純子の額が切れて、血が流れ出てきた。唇も腫れあがった。 「今度は仰向けよ。顔の上にまたがってあげるわ。それなら倒れて、おでこを切っちゃうこともないもんね」  松永敏恵が言った。緒方純子は、血と涙で顔を光らせていた。言われるままに仰向けになった。鳥肌の立っている乳房にも、額の血が滴《したた》り落ちた。陰毛の剃り跡が、青黒い影のように見えた。  松永敏恵は、仰向けになった緒方純子の顔にまたがり、少しだけ腰を浮かせた。肛門が緒方純子の腫れあがった唇の真上に突きつけられた。緒方純子が、舌を伸ばしてそこを舐めはじめた。松永敏恵の陰毛が、緒方純子の鼻のところにまとわりついていた。 「水とミルクだけじゃ、もたないわね。おなかすくでしょう。お口を大きく開いてごらん。あたしのウンチを食べさせてあげるから」  松永敏恵が言った。吐き気に襲われたように、緒方純子が喉の奥に呻き声をひびかせた。呻きながら、緒方純子ははげしく首を横に振った。 「もう止めて!」  緒方純子が、泣きながらことばを洩らした。 「止めてはないわよ。気のすむようにしてくれって言ったじゃないの。わたしはまだ、気がすんじゃいないわよ」 「シゲヤマという人がいるのよ」 「どうしたの? その人が」  松永敏恵は、緒方純子の顔の上に、尻を落して言った。 「シゲヤマという人は、浅原さんのトラブル処理係なのよ。殺し屋かどうかはわからないけど、浅原さんがほかにも殺し屋を抱えているとしたら、あたしはシゲヤマという人しか思いつかないわ」  緒方純子が言った。涙でふるえるその声は、松永敏恵の尻の下からひびいてきた。松永敏恵が、おれを見た。おれは彼女にうなずいて見せた。松永敏恵は立ちあがって、下着をつけ、トレパンをはいた。 「シゲヤマって奴のことを話してくれ」  おれは緒方純子に言った。 「字は、重い山って書くの。スーツのネームがそうなってるのを見たことがあるから。名前はわからないわ。苗字《みようじ》しか知らないの」 「重山が浅原のトラブル処理係だってのは、誰から聞いたんだ?」 「聞いたのは浅原さんからよ。鬼頭さんを消す仕事のことを、誰かに洩らしたり、しくじったりしたら、トラブル処理係の重山に、おまえらを始末させることになる、といって、浅原さんがあたしたちを脅したのよ」 「重山は今までに、どんなトラブルを処理したことがあるんだ?」 「あたしが知ってるのはひとつだけだわ。浅原さんが、あたしとセベを、コカインなんかを使う乱交パーティに誘ったという話をしたでしょう、鬼頭さんに」 「うん」 「そのパーティに出たことをネタにして、浅原さんが誰かに脅迫されたことがあったの。それを重山さんが片づけたのよ」 「おまえはどうしてそれを知ってるんだ?」 「浅原さんは、自分が乱交パーティに出たことを外に洩らしたのは、あたしかセベじゃないかって、疑ってるのよ。浅原さんが重山さんを連れて、あたしのマンションに来て、二人がかりであたしを問いつめたわ。後で疑いははれたけど。しばらくしてから、あたしが、脅迫の件はどうなったのって浅原さんに訊いたら、あれはもう重山が片づけたって言ったわ」 「どうやって片づけたんだ?」 「そこまでは知らないわ。あたしが訊いたら、浅原さんは、重山にやらせれば、なんだって跡形もなしに片づくんだよって言っただけで、ほかのことは何も話してくれなかったのよ」 「どこに住んでるんだ? 重山は」 「住んでるとこは知らないのよ。重山さんとはあたしは、一度だけしか会ってないんだもん。脅迫のことで、浅原さんと一緒にあたしのマンションに来たときに会ったきりなのよ」 「いくつぐらいなんだ? 重山の歳は」 「四十にはなってないと思うけど……」 「人相とか体つきは?」 「小柄だわ。身長も体重も、マナパットとだいたい同じくらいじゃないかしら。髪がうすくてちぢれてて、細面で目がほんとに糸みたいに細くて、顔色がわるい人だったわ。青黒くて艶がなくて、病人みたいなの。手に空手のタコがあったのを覚えてるわ」 「ほかに何か特徴はないのか?」 「ほかにはとくに眼につくことって、なかったと思うわ」  おれは質問を打ちきった。三人の体に毛布をかけてやって、松永敏恵と一緒に地下室を出た。 3  夜が明けていた。 「シャワーを浴びてくるわ」  松永敏恵が言った。おれは、ベッド代わりにしているソファに腰を下ろした。窓の外の雨の音が耳についた。それが、浴室のシャワーの音と重なった。  聞いたばかりの重山の人相や、小柄だという体つきを、頭の中で想像しながら思い浮かべてみた。イメージは思うようには浮かんでこなかった。  浅原雄二の人相も体つきも、地下室の三人を訊問したときに聞いてあった。浅原の顔や姿も、思うようには眼に浮かんでこなかった。それがおれにはもどかしかった。  松永敏恵が、浴室から出てきた。体にバスタオルを巻いていた。松永敏恵は、キッチンの食器棚からグラスを出した。食卓の上には、ウイスキーのボトルが、置いたままになっていた。 「寝酒やらなきゃ、とても眠れそうにないわ。あんたは?」  グラスにウイスキーを注ぎながら、松永敏恵が言った。 「おれはいらない。ひと眠りしたら出かけてくるつもりだから」 「東京?」 「浅原に張りついてみるつもりだ。そうすれば、重山も現われるだろうからな」 「重山って奴なのかしら? わたしのところの放火は……」  松永敏恵は、グラスを持って、ソファに来た。 「緒方純子の話がガセネタじゃなければ、その可能性はありそうだな」 「緒方純子の話のとおりの人相だとすると、重山って奴は気味のわるそうな男ね」 「ウンチは効いたな。あれで緒方純子は、重山のことを話す気になったんだからな」 「ガセネタじゃないと思うな、わたし。ガセかどうかは、いずれはわかるわけだし、その前にあいつらがここから逃げ出すことができるはずもないんだから、いい加減なことは言わないんじゃないかしら」 「おれもそう思ってはいるけどね。それより気になることがあるんだ」 「なに?」 「重山が殺し屋だとすると、浅原はどうして、おれを消す仕事を重山にやらせずに、わざわざマナパット・レイエスをマニラから呼び寄せたんだろう?」 「そういえばそうね。なぜかしら? 重山は殺しはやらないってことなのかな」 「重山が殺しをやらない奴だとしても、浅原が抱えている殺し屋が、マナパット・レイエスのほかにいるのはまちがいないわけだよ。現にあんたは命を狙われたんだからな」 「だったら、やっぱり同じことね。わたしの命を狙った殺し屋がいるのに、あんたを消す仕事にはそっちを使わずに、わざわざマニラからマナパット・レイエスを呼び寄せたのはなぜなんだってことになるわね」 「そういうことを浅原がやったのは、きっとそうしなきゃならない理由があったはずなんだ。わざわざマニラの組織を通じて、殺し屋の斡旋を頼んでるわけだからな」 「手持ちの殺し屋が仕事でドジを踏んだから、二番手としてマニラから別の殺し屋を呼んだ、というのならわかるけどねえ」 「そうじゃないんだからな。浅原は初めからマナパットを使って、おれを狙わせたんだから」 「あんたがむかし手がけた殺しの仕事で、フィリピンと関係のある経緯を持ったのがあったのかしら。でも、フィリピン人を消す仕事はなかったわよね?」 「なかった」 「マナパットは、あんたが狙われている理由は知らないでいるわけね?」 「殺し屋はいつだって、理由なんか知らないままで、請けた仕事をするからね。おれがそうだったみたいに。殺しの仕事はそういうもんだ。殺し屋はただの殺人の道具なんだよ。だから、いらなくなれば棄てられるし、邪魔になれば片づけられるんだ」 「わたしも殺人の道具みたいなものだわ。取り次ぎ屋だけど。それで邪魔になったから、片づけられようとしたってことなんだわ」  言って、松永敏恵は、グラスの底に残っていた、ストレートのウイスキーを飲み干した。  浅原雄二が、わざわざマニラから殺し屋を呼んだ理由がわかれば、おれと松永敏恵が片づけられようとした理由もわかりそうだった。考えてみても、その理由は見つかりそうもなかった。それがおれにはもどかしかった。 「抱いて……」  松永敏恵が言った。声が重かった。雨の音がつづいていた。おれは立ちあがって、着ているものを脱いだ。  松永敏恵が、裸のおれの腰に手を当てて、自分のほうに引き寄せた。松永敏恵はソファに坐ったままだった。おれはその前に立っていた。  松永敏恵の髪が、おれの下腹や脚の付根を撫でた。彼女の唇が、おれのペニスにかぶせられてきた。唇は乾いていた。  ペニスは力なく垂れていた。それをくわえたまま、松永敏恵が舌でやわらかくころがしていた。舌は温かく濡れていた。すぐに唇も濡れてきた。  松永敏恵は吸った。甘く歯を立ててきた。唇でゆっくりとしごいた。ヒーターが効いていた。おれは松永敏恵の口の中で勃起していくプロセスを、楽しみながら味わった。  ふぐりがやわらかく揉まれた。松永敏恵は指を唾で濡らした。その指が後ろから回されて、アヌスに伸びてきた。指がアヌスを静かに撫でた。そこから泡だつような性感が湧き出てきた。松永敏恵の口の中で、ペニスが強く跳ねた。  おれは腰を引いて、松永敏恵から離れた。松永敏恵が、体に巻いたバスタオルを解いた。おれはペニスの頭で、松永敏恵の頸すじをなぞるようにして撫でた。  松永敏恵は、ペニスに手を添えて、それに頬ずりをしながら、吐息を洩らした。ペニスの頭で、おれは松永敏恵の二つの乳首を薙《な》ぎ払った。乳首は小さく跳ねながら、すぐに固くとがってきた。それは、勃起しきったペニスの頭と同じような色合いを見せていた。  松永敏恵が、乳房に両手を当て、谷間にペニスをはさんで揉んだ。首を折ってうつむいた松永敏恵の口から、唾液が滴り落ちた。それが乳房の谷間を濡らした。ペニスも濡らした。  おれは松永敏恵の肩に手をかけて、腰を小さく躍らせた。抽送のたびごとに、二つの白い乳房の間から、にごった血のような色をしたペニスの頭が、現われたり隠れたりした。 「いってもいいわよ。吸っちゃうから」  松永敏恵が、おれを見上げて言った。おれは首を横に振り、彼女から離れた。  おれは床にあぐらをかいた。松永敏恵が、背中をソファの背にもたれ倒し、両膝を大きく開いて立てた。腰が前に突き出された。陰毛の陰に、赤いクレバスがわずかにのぞいた。  おれは両手で乳房を揉みながら、膝立ちして松永敏恵の腋の下に舌を這わせた。脇腹を唇でついばんだ。そっと歯でこすった。松永敏恵の体がヒクヒクとふるえた。声が洩れ、息が乱れていた。  おれは松永敏恵の膝を抱えて伸ばし、ひかがみのところで舌をそよがせた。膝から大腿の内側を辿り、内股まで舌を進めた。  あからさまに股を開き、ソファの上で腰を突き出している松永敏恵の姿が、おれの眼を愉《たの》しませていた。  おれは松永敏恵の両膝をつかんで押し開き、両脚の付根のくびれの部分にも、舌を這わせた。  女陰は濡れて光っていた。押し開かれた襞の重なりが、燃えさかる溶岩を思わせた。  おれは舌を細くとがらせて、毛をなぞった。膣口は小さな縦の切れ込みにしか見えなかった。おれは細くとがらせた舌先で、そこを突いた。  体液を吸っては、舌先で突くことをくり返した。松永敏恵の腰が、ソファの上でうねるようにうごめいた。喘ぎが高まっていた。  おれは舌で小陰唇をころがした。舌でそれを二つに分け、ひとつひとつをすすりこむようにして、唇で吸った。  指でクリトリスを露出させた。それを唇でついばんだ。そっと吸った。松永敏恵が首をのけぞらし、高い声を洩らした。  舌で小刻みにクリトリスを薙ぎ払いながら、おれは乳房を揉んだ。乳首を指先でつまんで縒《よ》りをくれた。もうひとつの手の指が、膣口の縁や、会陰部を愛撫した。  松永敏恵は、酔い痴れたように、ソファの背もたれに頭をあずけ、声を洩らしつづけた。  おれは松永敏恵を後ろ向きにさせた。彼女はソファに膝を突き、ソファの背もたれに肘を当てた。  おれは松永敏恵の尻に腹をつけて、下から回した両手で乳房を揉みながら、背中に舌を這わせていった。  松永敏恵は、背中におれのキスを受けながら、体の下に伸ばした手で、おれのペニスをつかんだ。ペニスの頭が、松永敏恵の手で、クリトリスにこすりつけられた。膣口にこすりつけられた。  おれはまた床にあぐらをかいた。目の前に松永敏恵の尻があった。尻の谷間の底に、陰毛をまとわりつかせた女陰のふくらみが見えていた。クレバスが暗い輝きを放って、息づいているように見えた。  おれは松永敏恵の尻の谷間を押し開いた。ココアのような色をしたアヌスも、豊かに溢れでる体液で濡れて、光っていた。  おれはアヌスに当てた舌を、静かに掃くように動かした。それをつづけながら、右手の中指でクリトリスをまさぐり、親指を浅く膣口にくぐらせた。強い弾力を持った肉の環が、親指を締めつけてきた。  松永敏恵は、背中をはげしく波打たせて、遠慮のない声をあげつづけた。ソファの上で跳ねあがる松永敏恵の足の踵《かかと》が、何度もおれの腰のあたりに当たった。 「もうだめ。我慢できない。入れて。入れてよ。いつかみたいに、お尻に入れて!」  松永敏恵が、はげしく息をはずませて言った。  おれは立ちあがった。松永敏恵がさらに膝を開き、腰を低め、尻をうしろに突き出してきた。  おれはペニスを浅く膣にくぐらせ、体液にまみれさせた。アヌスはおれの唾液と、松永敏恵の体液で濡れて光り、呼吸するようなうごめきを見せていた。  おれは手を添えて、ペニスを当てがった。押しつけ、埋めこむようにしてくぐらせた。松永敏恵の口から、細くて高いひびきの声が、ふるえながら洩れ出て、尾を曳いた。  くぐってしまえば、後はスムーズに進めた。松永敏恵が、呻くような声を洩らして、おれの下腹に力強く尻を押しつけてきた。  おれは松永敏恵の尻や腰や背中を、両手でさすりながら、ゆるやかな抽送に移った。松永敏恵も、背すじを強く反らしたまま、腰で抽送に応えてきた。  おれの耳から、雨の音がすっかり消え去っていた。おれと松永敏恵は、殺されかけたための怒りと、命の恐怖で魂をうちふるわせている、二匹の狂った獣のようだった。  松永敏恵は、もっと深く突き入れてほしい、と叫んだ。おれはそうした。松永敏恵の尻と、おれの下腹とがぶつかり合ってたてる、小さなにぶい音がつづいた。  その音はやがて止んだ。松永敏恵は、月に向かって吠える狼のように、もたげた頭を大きくのけぞらせ、髪を振り立てて叫びながら果てた。脈を打つような彼女の歓喜の痙攣が、刻みこむような感じでペニスに伝わってきた。  それがおれを追い立てた。おれは松永敏恵の尻を両手でわしづかみにして、呻き声を洩らした。 「ああ、また、来た!」  松永敏恵が、二度目の叫び声をあげた。おれは松永敏恵の背中に胸をつけ、彼女の腰を抱えこんだ。  しばらくして、おれの耳に雨の音が戻ってきた。 4  正午に起きた。  昼食は松永敏恵がこしらえた。  その間に、おれはシャワーを浴びた。地下室の三人に、水とミルクを与えた。  朝昼兼用の食事になった。その後で、おれと松永敏恵は、また体を重ねた。求めたのはおれのほうだった。  自分でも戸惑うほどの、突然の欲望が、おれを襲ってきた。  ソファもベッドも使わなかった。着ているものもすっかりは脱がなかった。  松永敏恵は、裸の下半身だけをさらした姿で、居間の床に横たわった。おれも下だけを脱いだ。  ペッティングもしなかった。いきなり入れた。膣を使った。松永敏恵の女陰は、乾いてはいなかった。スムーズにおれを迎え入れた。  おれたちは、たちまち燃えあがった。力強くはげしい抽送がつづいた。松永敏恵が、おれの尻に爪を立てて、先に果てた。  少し遅れて、おれは松永敏恵の唇と舌を吸いながら果てた。  すぐにおれたちは起き上がった。  おれは出かける支度をした。松永敏恵は何本かの電話をすませた。  松永敏恵には、小料理屋の女将の仕事があった。家を焼かれたからといって、店を休むわけにはいかない、と彼女は言った。勝浦のログハウスの別荘から、新橋の店に通うわけにはいかなかった。電話は、店の仕込みの指示と、仮の宿を確保するためのものだった。  松永敏恵の宿は、品川《しながわ》に決まった。ホテルの安い部屋がとれた、と彼女は言った。  午後になって、雨は小降りになっていた。  おれと松永敏恵は、それぞれの車で、ログハウスを出た。午後二時を回っていた。  京葉《けいよう》道路の千葉南《ちばみなみ》インターに入ってしばらくすると、おれたちの車ははぐれて、たがいに相手を見失った。  雨で道路は混んでいた。錦糸町《きんしちよう》と亀戸《かめいど》の中間あたりから、渋滞が始まっていた。  一寸刻みに車を進めながら、おれはまた、浅原雄二がわざわざマニラから、殺し屋を呼び寄せたことの理由を、あれこれと頭の中で探っていた。  溜池の交差点のそば。タイガービル。そこの四階——緒方純子が言ったとおりの場所に、浅原雄二事務所はたしかにあった。看板にも、事務所のドアのネームプレートにも〈金融情報コンサルタント〉という肩書きがついていた。  おれはタイガービルの地下の駐車場に車を入れて、エレベーターで四階に上がった。  時刻は六時近くだった。おれは帽子と眼鏡で、素顔を隠していた。  四階の廊下には、両側に三つずつ、ドアが並んでいた。どのドアにも、テナントの社名を記したネームプレートが掲げてあった。  浅原雄二事務所は、左側の奥の端にあった。おれはそれを確認して、駐車場に戻った。  歩いて駐車場の中をひと回りした。白線で仕切られた駐車スペースの正面の壁には、それぞれに、テナントの社名を記した、白のプラスチックの札が貼りつけてあった。  浅原雄二事務所の札もあった。だが、そこには車は停められていなかった。  おれは電話を探した。駐車場にはなかった。一階の玄関の横手に、公衆電話が三台並んでいた。電話帳も備えつけてあった。  電話帳を開いて、浅原雄二の事務所の電話番号を探した。それは見つかった。浅原雄二の名義の電話は、それだけしか見当たらなかった。おれは、電話帳で、浅原雄二の自宅の所番地もわかるかもしれない、と期待していたのだ。期待ははずれた。浅原は東京の二十三区以外のところに住んでいるのだろう、と考えた。  浅原雄二事務所に電話をかけた。返ってきたのは、テープに吹きこまれた女の声だった。 〈せっかくお電話をいただきましたが、本日の業務は終了しました。明日おかけなおしください。メッセージをお残しくだされば、あらためてこちらから電話をいたします〉  おれは駐車場の車に戻った。  そのまま二時間ばかり待ってみた。浅原雄二が現われて、駐車場の自分の専用の駐車スペースに、車を停めるということも、ないとは言い切れない、と思ったのだ。  浅原雄二は現われなかった。その日は諦めることにして、おれは駐車場を出た。  空腹だった。夜の八時を回っていた。  車を四谷《よつや》のほうに向けた。食事をする店を見つけるつもりだった。四谷か市谷《いちがや》あたりなら、車の停めておける手頃な食事の店が見つかりそうだった。  裏通りに車を停めて、とんかつ屋に入った。小さなかまえの、こぎれいな店だった。味もわるくなかった。  食事をすませて、勝浦までの夜道を思った。うんざりした。松永敏恵が泊まることになっている、品川のホテルにころがりこむ手もあった。  だが、ログハウスの地下室の三人のことを考えると、夜どおし留守にする気にはなれなかった。三人が地下室から脱出できるとは思えなかった。それでも安心はできなかった。  とんかつ屋を出て、車に戻り、エンジンをかけたとき、ふと、その考えが頭にひらめいた。  おれがマナパット・レイエスを捕らえて、勝浦に運んだのは、四日前の真夜中だった。その二日後の夜中に、緒方純子とセベ・マリノを捕らえて、勝浦に拉致《らち》した。  おれが三人を捕らえてから、まだそれほど日にちが過ぎているわけではない。浅原雄二は、マナパット・レイエスたち三人の姿が消えたことに、まだ気がついていない、ということもありうるのではないか——。  松永敏恵のマンションの部屋に火がつけられたことを、おれはマナパットたち三人を連れ去られたための、浅原雄二の反撃と、頭からきめてかかって考えていた。  あるいはそれは、反撃ではなくて、狙うべき鬼頭克行が、中野坂上のマンションにも、新宿の�鬼の部屋�にも姿を見せず、行方がつかめないために、代わりに松永敏恵を狙った、ということかもしれないではないか——。  浅原雄二が、マナパット・レイエスたち三人の姿が消えていることに気づいていたとしても、まだ数日しかたっていないので、浅原としては、三人の居所をまだ捜しつづけているのではないか。  三人で鬼頭克行に捕らえられた可能性を考えながら、それでも浅原雄二は、三人がひょっこりと姿を現わすかもしれないと考えて、いまも緒方純子の住んでいる部屋や、マナパット・レイエスとセベ・マリノが住んでいる、北区岩淵町のアパートに、電話をかけつづけたり、誰かにようすを見に行かせたりしているのではないか——。  そうだとしたら、北区岩淵町の清和アパートと、中野区若宮の、ハイム若宮を張り込めば、ようすを見にきた奴を捕らえることができるかもしれない。そいつが浅原雄二本人であったり、重山であったりする可能性だって、ないとは言いきれない。  浅原雄二か、重山が、マナパット・レイエスの部屋か、緒方純子の部屋にやってくることがあれば、それはそこに現われたそいつが、その部屋の住人とつながっている、ということの証拠のようなものではないか。  そうなったときは、その場でそいつを捕らえればいい。張りついて、泳がせて、といったまどろっこしいことをする手間が省けるというものだ。  だめでもともと——そう考えて、おれは車を出した。  迷わずに、ハイム若宮に向かった。浅原雄二は、マナパット・レイエスとの直接の接触を避けて、緒方純子とセベ・マリノを仲介役に使っている。殺人依頼のルートを、仲介者のところで断ち切るためだろう。  そのことを考えれば、北区岩淵町のアパートよりも、ハイム若宮のほうが、相手の現われる可能性は高いはずだった。 5  車を停めたのは、ハイム若宮の裏手の道だった。  そこからは、五階の端の、緒方純子の部屋の、ベランダが見えた。ベランダのガラス戸には、明かりの色は映っていなかった。誰かが、部屋の中で、緒方純子の帰りを待っている、ということはなさそうだった。  おれはカローラのトランクルームを開けた。中には緒方純子のコートと、ハンドバッグが放りこんであった。勝浦のログハウスで、緒方純子とセベ・マリノを地下室に押し込めた後で、バッグとコートだけを車のトランクルームに放りこんだのだ。  おれは、緒方純子のハンドバッグを開けた。中には鍵は入っていなかった。コートのポケットを探った。そこにも鍵はなかった。  おれは車の工具袋を開いた。中からドライバーを抜き取って、ズボンのベルトの腰のところにはさんだ。それで緒方純子の部屋の鍵を開けるつもりだった。  部屋のようすを見にくる相手が、浅原本人か、重山ならば、緒方純子から訊き出した二人の人相で、そうと見当はつく。だが、それ以外の相手だったら、そいつが浅原のところの者かどうか、おれには見分けようがないのだ。  おれは緒方純子の部屋に入り、明かりをつけて、誰かがドアをノックするのを待つつもりだった。そうしなければ、おれは相手を捕らえることはできないのだ。  ドアは覗き穴がついている。ノックに返事はせずにおく。覗き穴からそっと、ノックの主の顔を確かめる。浅原か重山だったら、ドアを開け、相手を中に引き入れ、拳銃を突きつける。浅原でも重山でもなかったら、手出しはしない。ドアも開けない。相手が諦めて立ち去るのを待つ。その上で、頃合いを見はからって部屋をとび出し、相手の尾行に移る——。  おれはそういう段どりを考えていた。  車をそこに置いて、マンションの表に回った。マンションの駐車場を眼に留めたとき、不意に、ひとつの記憶が甦った。  その駐車場で、緒方純子とセベ・マリノを捕らえたときの記憶だった。セベ・マリノは、おれの車のトランクルームに押し込んだ。緒方純子はリヤシートにころがし、ロープで首を車のシートの脚につないだ。  その後で、おれは緒方純子のランサーのところに行ったのだ。ランサーのドアが開いたままになっていたのを、閉めるためだった。ドアを開けたままにしていては、誰かに不審に思われかねない、と考えたのだ。そしてそのとき、車の横に落ちていたキーホルダーと、リヤシートに残されていた、緒方純子のコートとハンドバッグを見つけたのだった。  キーホルダーは、ランサーのエンジンのキーホールに戻したはずだ。それから、緒方純子のコートとハンドバッグを、おれの車に移した——。  おれは、ハイム若宮の玄関の前を通り過ぎて、駐車場に行った。  緒方純子のランサーは、二日前に停められた場所に、そのまま停まっていた。おれはランサーの運転席のドアを開けた。ドアはロックされていなかった。キーはエンジンのキーホールに差しこんであった。  おれは、自分の記憶の確かさに、満足した。エンジンのキーホールから、キーを抜いた。セリーヌのメダルのついたキーホルダーには、鍵が二つついていた。ひとつはランサーの鍵で、もうひとつは部屋のキーだろう。  駐車場を出て、ハイム若宮の玄関を入った。エレベーターで五階に上がり、外廊下を進んだ。  緒方純子の部屋のドアに、耳をつけてみた。念のためだった。中からはなんの物音も聴こえなかった。セリーヌのキーホルダーについているキーを、ドアのキーホールに差し入れた。何の抵抗もなく、穴はキーを受け入れた。なめらかにキーが回り、鍵は開いた。  おれはドアの向こうにすべりこんだ。ドアを閉め、ロックし、ドアチェーンをかけた。壁をさぐって明かりのスイッチを探し、押した。  せまい玄関のたたきに、茶色のスウェードのロングブーツが脱ぎすててあった。女物のスニーカーもあった。おれは靴を脱いであがった。  あがってすぐのところが、小さなキッチンになっていた。玄関の右手に、バスルームがあった。バスルームのドアの横の壁ぎわに、洗濯機が置かれていた。  おれはバスルームのドアを開けて、中をのぞいた。便器とユニットバスが並んでいた。シャワーカーテンのレールに、女物の下着が干してあった。  キッチンと奥の部屋との間には、ドアがついていた。ドアは半開きになっていた。おれは奥に行き、部屋の明かりをつけた。  十畳ほどの洋間がひとつあるだけだった。ベランダのガラス戸のカーテンは閉まっていた。部屋はひどく散らかっていた。ベッドも乱れたままだった。枕の上に女物のパジャマが脱ぎすてられていた。  食卓に使われているらしい、白木の座卓の上には、汚れたグラスや、コーラの空き缶や、吸殻のたまったガラスの灰皿、ポテトチップスの袋、たばこの空っぽの箱、ティッシュペーパーの箱といったものが、雑然とひしめきあうようにして並んでいた。  スカイブルーの絨毯が敷きつめてあったが、そこにはあちこちに、たばこの火によるものらしい、焼け焦げの跡や、何かをこぼした跡のしみがついていた。  窓ぎわにリクライニング式らしい、寝椅子が一脚だけ置かれていた。背もたれと座の部分には、セーターとジーパンと、ブラジャーとストッキングが、放り投げたようにして置かれていた。ベッドの横の床には、レディースコミックの雑誌が、ひとかかえほども、山になって積みあげられていた。  電話はベッドの横の床の上に、じかに置かれていた。留守番電話の機能のついた電話だった。留守番電話の録音ランプがついていた。おれはテープの再生ボタンを押した。 〈あたし、ミキ。また電話する〉 〈事務所のスギノだ。雑誌のグラビアの仕事が入ってるから、きょうの夕方まで連絡を待ちます〉 〈ナオミよ。ゆうべはどうしたのよ。電話もくれないで、明け方の五時まで、ミルキーウェイで待ってたんだぞ。おかげでひどい二日酔い。帰ったら電話ちょうだい〉 〈浅原だ。きのうから何回も電話してるんだぞ。どうなってるんだ。大至急、電話よこせ。マナパットに伝えなきゃならないことがあるんだ。急ぎだぞ。セベもつかまらないってのは、どういうことなんだ〉  つづいて、また女の声が、テープから流れてきた。それはもう聴く必要はなかった。おれはテープを停めた。思わず、深い吐息が口をついて出た。体の奥から、何かが湧き上がってくるのを感じた。  おれは寝椅子の上のセーターやジーパンや下着を、床に放り出した。テーブルの上のコーラの空き缶を、灰皿にするつもりで、寝椅子の横の床に置いた。寝椅子に体をあずけて、たばこに火をつけた。  浅原の留守番電話のメッセージを、頭の中で再生した。 〈……きのうから何回も電話してるんだぞ〉  浅原はそう言っていた。それは、緒方純子がおれに捕らえられたことを、浅原がまだ知らずにいる、ということを示していた。あるいは浅原は、緒方純子が鬼頭克行に捕まることがあるなどとは、頭から考えてもいないのかもしれない。  緒方純子の存在を、鬼頭克行に知られるはずはない、と浅原は安心しきっているのかもしれない。  浅原が、緒方純子を介して、急いでマナパット・レイエスに連絡しようとしているのは、どんなことなのだろうか。おれはそれを考えてみた。答えは探せなかった。  ひとつだけ、はっきりしたことは、松永敏恵が狙われたのは、おれが緒方純子たち三人を捕らえたことに対する、浅原の側のリアクションではない、ということだった。  それならば、松永敏恵はなぜ狙われたのか。答えははっきりしていた。  松永敏恵は、鬼頭克行の代わりに、部屋に火をつけられて、焼き殺されようとしたにちがいなかった。  マナパット・レイエスは、二度にわたって、鬼頭克行を殺す仕事に失敗した。二度目のときは、マナパット・レイエスは、鬼頭克行の反撃にあって、鬼頭の飼い犬のアフガンハウンドに、腕の肉を噛みちぎられた。  それからしばらくして鬼頭克行は、中野坂上のマンションから姿を消した。鬼頭克行がやっている、新宿のバー、�鬼の部屋�も、休業がつづいている。  鬼頭克行は、命を狙われていることを知って、姿を消したにちがいない。どこかに隠れて、命を狙っている相手の正体を探りにかかっているにちがいない。  それならば、鬼頭克行の代わりに、鬼頭の殺しの仕事の取り次ぎ屋だった、松永敏恵を消してしまおう。  松永敏恵が消されたことを知れば、鬼頭克行は、怖れを抱いて、いっそう深く地の中に潜るか、姿を現わして、捨て身の挑発で、三度目の殺し屋を誘い出し、そこから殺し屋の背後にいる人間の素性を突き止めるための、手がかりをつかもうとするのではないか——。  おれは、そんなふうに、敵の思惑を推測した。  電話が鳴った。十一時になろうとしていた。コールサインが切れて、メッセージを促すテープの声が、電話のスピーカーから洩れてきた。すぐに電話の切られる小さな音がして、テープの声も止んだ。  それから二十分ほどしてから、インターフォンのチャイムが鳴った。  おれは寝椅子から体を起こして立ちあがった。一瞬、迷ってから、ナイフを手にした。使うとすれば、ナイフのほうが得策だ、と判断した。拳銃は、銃声をマンションの住人たちに聴かれてしまう心配があった。  キッチンとの境のドアは、開けたままにしてあった。おれは足音を殺して、玄関に出た。ソックスのままの足でたたきに下り、ドアの覗き穴に眼を当てた。  グリーンのコートを着た女が立っていた。一人だった。インターフォンのチャイムが、鳴らされつづけていた。  グリーンのコートの女は、若かった。二十歳をいくつも出ていない感じだった。おれはドアを開けなかった。覗き穴に眼を当てたまま、息を殺して、そこに立っていた。その女が、浅原の使いではない、とは言いきれなかった。そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。  おれは迷った。迷った末にドアの前から離れて、寝椅子に戻った。確信はなかった。だが、おれはドアの外に立っている女が、緒方純子のただのともだちであるほうに賭けた。同時に、浅原が誰かをその部屋にようすを見にやらせるとすれば、重山にちがいない、というほうに賭けた。もちろん、浅原自身がそこにようすを見にくる、というほうにも賭けた。  グリーンのコートの女は、やがて諦めたようすだった。インターフォンのチャイムが鳴り止んだ。  おれはふたたび、足音を殺して、玄関に出た。ドアの覗き穴には、外廊下の手すりと、その先の暗い夜空しか映っていなかった。  インターフォンのチャイムを鳴らしたのが、若い女ではなくて、眼つきの鋭い男だったら、おれはそのまま、玄関を出て、ドアの前から立ち去っていく相手を尾行していただろう——そんなことを考えながら、おれはもう一度、寝椅子に戻った。 6  賭けが見事に当たった。  二度目にインターフォンが鳴ったのは、零時四十分だった。  一時まで待って、何事も起きなかったら、おれはひとまず、勝浦に帰ろうと考えていた。残りの二十分の時間が、おれに味方をしてくれたわけだった。  おれは玄関に出て、ドアの覗き穴をのぞいた。キャメルカラーのハーフコートの襟を立てた男が立っていた。  覗き穴のレンズに映った姿では、身長は見当がつかなかった。髪がうすくてちぢれているのはわかった。細面で、眼が糸のように細いのもわかった。顔色が病人のように青黒いかどうかは、見きわめがつかなかったが、歳恰好が四十近いということは見てとれた。  重山にちがいない、とおれは考えた。  おれは静かに後じさった。玄関マットに腰を下ろして、音を立てないように気をつけながら、靴をはいた。チャイムが鳴りつづけていた。  ナイフを右手に持った。立ちあがって、ドアに体を寄せた。左手でドアチェーンをはずした。完全に音を殺すことはできなかった。  ドアを一気に引いて開けた。ナイフをまっすぐに前にかざした。男がかすかな声を洩らして、まっすぐ後ろに跳びすさった。おれはナイフをかざしたまま、足を踏み出し、左手でドアを閉めた。  男は外廊下の手すりに、背中を押しつけていた。おれは男のコートの襟とジャケットの襟を、ひとつにしてつかんだ。腹にナイフを突きつけた。 「重山だな?」  おれは言った。男は答えなかった。唇をかすかに歪めただけだった。 「両手を組んで、頭の上に置け」  おれは言った。男はそうした。廊下の明かりの下で男の両手の甲の指の付根に、見事な空手のタコが並んでいるのが、そのときはっきり見えた。 「そのまま、ドアの前に行け。ドアの前に立って、両手を前に突け。足を大きく開いて、体を前に傾けろ」  おれは言った。半歩だけ、体を横に移した。ナイフを男の脇腹に移した。男は言われたとおりに、緒方純子の部屋のドアに両手を突き、足を開いて、上体を前に傾けた。  おれは男の真後ろに立った。体を寄せて、間合いをあけないようにした。空手の蹴りや肘打ちを封じるためだった。  念入りにボディチェックをした。男は武器は持っていなかった。ジャケットの内ポケットに、運転免許証があった。免許証の名前と住所と写真を確認した。住所を頭に刻みつけた。  重山満《しげやまみつる》——運転免許証にあった名前だ。おれは免許証を重山のコートのポケットに入れた。 「両手をズボンのポケットに入れろ、重山」  おれは言った。重山はひと言も口をきかなかった。傾けていた上体を起こし、両手をズボンのポケットに入れた。 「歩け。エレベーターに乗るんだ」  おれは言った。  ナイフを重山の腰に当てた。重山は歩き出した。おれはぴたりと後ろについた。  外廊下では、誰とも顔を合わさなかった。エレベーターは五階に停まっていた。 「一階に下りる。ボタンを押せ」  おれは言った。重山がボタンを押した。エレベーターのドアが開いた。重山は乗って、一階のボタンを押した。ドアが閉まった。エレベーターは小さく揺れて、下降を始めた。  ボタンを押した重山の右手は、まっすぐ下に垂れていた。 「手をポケットに入れろ」  おれは言った。重山はポケットに手を戻しながら、ゆっくりと首を回して、肩越しに顔を向けてきた。その顔が、おれに向かって、無言のまま、ニタリと笑った。黄色の並びのわるい小さな歯が、重山の唇の間からのぞいた。おれもニタリと笑い返した。  エレベーターが停まった。一階だった。 「玄関を出て右に進め。すぐ先の角をまた右だ」  おれはエレベーターを降りながら言った。玄関ホールにも、人の姿はなかった。おれは重山の腰からナイフを離さなかった。  玄関を出た。重山は足どりをかえることもなく、言われたとおりに、歩道を右に進んだ。若い男と女の二人連れと、歩道ですれちがった。タクシーが二台並んで、走り過ぎていった。  最初の角を右に曲がった。道は暗くなった。その先に、おれのカローラは停めてあった。カローラまで、あと十メートル余り、というところに来たときだった。  不意に重山の足どりが変わった。踏み出した足の歩幅がひろがった。一瞬、ナイフが重山の腰から離れた。  同時に、キャメルカラーのハーフコートの裾が勢いよくひるがえった。重山の腰が沈み、低い蹴りがまっすぐ後ろにとんできた。  一瞬の動きだった。蹴りがおれの膝頭の少し上を捉えた。狙いは膝の関節だったのだろう。  おれはかわす間がなかった。咄嗟にナイフを横に走らせた。蹴り出されてきた重山の脚を払うつもりだった。ナイフは空を切った。重山は向きなおりざまに、右の上段蹴りをくり出してきた。  おそろしく速い蹴りだった。おれは腕でブロックした。一瞬、遅かった。蹴りがおれの頸すじに入った。頭がクラッとした。わずかに視界がかすんだ。  膝の力が抜けかけた。おれは必死にこらえた。かすんだ視界の中に、重山の腰があった。近かった。おれはそこにナイフを突き出した。  重山が腰を開き、手刀でおれのナイフを持った手首を払った。おれのナイフも、重山の手刀も、ともに空を切った。  おれは空を突いたナイフを引かなかった。そのまま、すかさず足を踏み出した。ナイフは重山のハーフコートを切り裂き、奴の脚の付根あたりを刺した。手応えは浅かった。  おれは刺したナイフを抜く気はなかった。そのまま押して、左腕で重山の腰に組みついた。重山の腰がくだけかけた。  おれはナイフを重山の脚から抜いた。大腿をもう一度刺し直して、奴の動きを止めるつもりだった。奴の腰は抱えたままだった。  重山の動きのほうが速かった。手刀が頸すじに打ち込まれた。脳が一瞬の酸欠状態に見舞われた。つづいて、こめかみに手刀が襲ってきた。  頭の芯がすっと軽くなった。膝の力が抜けた。おれは片膝を路面に突いた。体が動かなかった。必死にナイフを振り回した。横から強烈な蹴りがとんできた。蹴りでナイフを飛ばされた。  胸を蹴られた。防弾チョッキがダメージを軽くしてくれた。それでもおれは後ろに倒れた。ホルスターの拳銃を抜くのに、少し手間どった。おれが仰向けに倒れたまま、右手をジャンパーの懐にさし入れると、重山はすっと半歩だけ、後じさった。用心したのだろう。  おれはホルスターから拳銃を抜いて、仰向けのまま、銃口を重山に向けた。安全装置ははずすふりだけして見せた。撃つ気はなかった。銃声をたてたくなかった。脅して重山を牽制《けんせい》するつもりだった。重山の蹴りの届かない間合いのところに、おれはいた。 「動くなよ。重山。両手はポケットの中に入れとけって言ったはずだぞ」  おれは言いながら、体を起こした。重山の判断は早かった。立ちあがろうとして、おれが腰を浮かせた一瞬に、奴は身をひるがえして、ダッシュした。奴はおれに背中を向けて、ジグザグに走った。  おれは立ちあがった。拳銃の安全装置に指がかかった。だが、おれは思いとどまった。重山はもう少しで、ハイム若宮の前を走っている、明るいバス道路に出ようとしていた。  おれは、重山の姿を眼で追った。重山はマンションの角を左に曲がった。そっちには、マンションの駐車場がある。  おれはカローラまで走った。走れた。ドアを開け、拳銃を助手席に放り出し、乗ってエンジンをかけた。カローラはバス通りに尻を向けていた。おれはギアをバックに入れた。アクセルを踏みこんだ。  バス通りに出て、曲がり角にバックのままで車を停めた。ハイム若宮の駐車場の出入口に眼を投げて、そのまま待った。そこから車がとび出してくるようすはなかった。  おれは諦めるしかなかった。もう一度、横道に車を乗り入れて、停めた。助手席の拳銃をホルスターに戻した。  車のエンジンを切って、外に出た。諦めたつもりだったが、思いが残った。おれはハイム若宮の玄関ホールをのぞいた。駐車場の中を見て回った。  重山の姿はどこにもなかった。おれは車に戻った。車を出した。重山の蹴りで手から飛ばされた、ナイフを探す仕事が、まだ残っていた。  場所の見当はついていた。車を停めて降りた。ライトはつけたままにした。ナイフはすぐ見つかった。横の人家の生垣の根方《ねかた》に、突き刺さったままになっていた。  車に戻り、勝浦に向かった。尾行には十分すぎるくらいに気を配った。  緒方純子の部屋の留守番電話のメッセージで、浅原雄二がまちがいなく、緒方純子とマナパット・レイエスと、セベ・マリノの三人とつながっていることがわかったことは、満足すべきだった。重山という男が実在することがわかったことも、満足すべきだった。  だが、重山に逃げられたことは、大きなマイナスだった。プラスとマイナスとくらべると、マイナスのほうが大きいのではないか、と思った。  これで浅原は、緒方純子たち三人が、おれに捕らえられていることに、気がつくにちがいなかった。少なくとも、おれが緒方純子を捜し出したことだけは、浅原にとっては疑いの余地のないことになる。  それだけではない。おれは、緒方純子の部屋のドアを開け、重山と顔を合わせるなり、奴の名前を口にしているのだ。  鬼頭克行が、重山の名前を知っていたということは、重山と浅原雄二とのつながりも、鬼頭克行はつかんでいるということだ——浅原自身は、当然そう考える。  そうして、浅原雄二は、おれに対するガードを固めることになるだろう。おれが浅原雄二に接近するのは、きわめて困難になるのではないか。  おれは、やり方を変える必要を感じはじめていた。 7  つぎの日も、おれは午後になってから、勝浦のログハウスを出た。  その日から、地下室の三人の待遇が、わずかに変わった。  毛布のほかに、掛け蒲団が一枚ずつ与えられた。水とミルクのほかに、どんぶり一杯の粥《かゆ》と梅干しが加えられた。  三人に対するおれの憎悪は、消えていなかった。しかし、いくらかうすれてはいた。三人の口から引き出した情報が、ガセネタでなかったために、おれは一歩、敵に近づくことができたのだ。それが、三人に対するおれの殺意だけはとり除かせた。  どんぶり一杯の粥と、一枚ずつの掛け蒲団が、奴らのログハウスからの脱出の意志を弱めるはたらきをすることも、おれは狙っていた。  新しい戦いの術は、すでに決まっていた。捨て身の戦術だった。  浅原雄二が、おれに対してガードを固めるだろうことは、目に見えていた。だが、浅原はガードを固めるだけではすまないはずだ。同時に、それまで以上に一刻も早くおれを消そうとして、焦りを深めるにちがいないのだ。  焦るのは、浅原だけではない。浅原におれを消す仕事を依頼した、大元の人間は、おれが反撃を企んでいると知って、浅原以上の不安と焦燥に駆られるはずだ。  そして敵は、躍起になって、おれの居所を捜しにかかるのではないか。それなら、こっちから奴らの前に姿をさらしてやろう、とおれは考えたのだ。  姿をさらせば、敵はおれを消しにかかる。おれに運があれば、それを逆手《さかて》にとって、また一歩敵に近づく手がかりをつかめるかもしれない。運がなければ、おれは殺される。  戦いに勝つか、負けるか、二つにひとつだ。ほかに手がなければ、自分を囮にして敵の動きを誘い出すしかない。危険きわまりない、無謀と言われても仕方のない戦法であることは、百も承知だった。  おれは、ためらいなく、その戦法に賭ける気になった。何かしなければ、おれには敵に近づく術がないのだ。そして、おれにできることは限られていた。おまけに、おれは一人だった。力を貸してくれる味方はいなかった。  どんなに無謀で、危険な賭けでも、そこになにがしかでも勝算があると考えられるのなら、賭けてみる値打ちはある。負けて殺されたとしても、文句は言えない。  おれもかつては殺し屋だった。ただ金銭のためだけという理由で、六人の命を奪っている。そして、その六件の殺しのどれかが、マニラから呼ばれた殺し屋に、おれが命を狙われることになった、そもそもの理由になっているのだ。  賭けに敗れたとしても、そのときは、自分が人の命を奪ったことの報いを受けたと納得して、笑って死んでやろうじゃないか。  おれはそんなつもりになっていた。  京葉道路は、その日も混んでいた。首都高速は、前の日よりもいくらか渋滞がゆるんでいた。のろのろ運転になったのは、錦糸町の料金所の手前からだった。  おれは、新宿ランプで、首都高速を下りた。午後四時を回っていた。  青梅《おうめ》街道に出て、中野坂上に向かった。マンションに帰るつもりだった。夜までマンションの部屋にいて、何事も起きなかったら、その日は引きあげて、勝浦に引き返す。そしてつぎの日は、しばらくぶりに�鬼の部屋�を開けるつもりでいた。  マンションの玄関の横のカースペースに、いきなり車を停めることはしなかった。  おれはマンションのある一角を、車で一周した。マンションの前の道には、車が何台か停まっていた。おれは徐行しながら、それらの車の中に眼を走らせた。人が乗ったままで駐車している車はなかった。  拳銃の射程距離外の車は、はじめから無視した。スコープのついたライフルで、遠くから狙われる可能性がないとは言えなかった。しかし、そこまで考えていたのでは、何もできない。そう思うことにした。ライフルの銃弾が一発でおれを倒すか、それとも弾丸がそれるか。防弾チョッキが物を言うことになるか。つまりはどっちの側にツキが回るかだった。  マンションのカースペースには、車が四台停まっていた。四台とも見覚えのある、マンションの住人の車だった。おれは、おれの専用のスペースに、カローラを停めた。まわりを見回してから、車を降りた。  マンションの壁ぞいに進んで、玄関に入った。マナパット・レイエスが撃った弾丸を浴びて、叫び声ひとつあげる間もなく死んだ、秋山みどりの小さな姿が、頭をよぎった。  メールボックスは、配達された新聞でいっぱいになっていた。入りきらなかった新聞は、下の床に重ねて置かれていた。おれは新聞の束をかかえて、エレベーターに乗った。  マナパット・レイエスに、首の骨をへし折られて死んだ、ロッキーのことを思い出した。ロッキーは、エレベーターが嫌いだった。上がるときも、下りるときも、長い尻尾を後肢の間にはさみこんで、不安げな目つきを見せていた。  ドアの鍵を開けて、中に入った。抱えていた新聞の束を、下駄箱の上に置こうとした。ドアはまだ開けたままになっていた。そのドアが動いて、下駄箱のほうに体を向けたおれの肩に当たった。  おれはふり向こうとした。そこに最初の一撃が襲ってきた。後頭部だった。ずしりと重い衝撃だった。硬い物ではなかった。ブラックジャック——芯のところから血の引いていく感じのする頭で、おれは一瞬そう思った。  脇に抱えていた新聞が、足元に落ちた、おれは下駄箱の上に倒れかかった。そこに二撃目がとんできた。それも後頭部だった。意識がまっ白になった。  それでも、ドアが音をたてて閉められたのを覚えている。玄関のたたきに、腰からくずれ落ちていきながら、ズボンの尻のポケットから、ナイフを出そうとしたのも覚えている。だが、その手がナイフに触れた記憶はない。  気がついたときは、おれは暗くて何も見えない箱のようなものの中にいた。その中で、手足をちぢめ、体を丸めていた。手首と足首は、ロープらしいもので縛られていた。眼と口に、粘着テープが貼られていた。  ちぢめた手足は、伸ばすことができなかった。体も動かせなかった。背中にも、腕にも、膝にも、爪先にも、堅い板のようなものが当たっていた。  それで、箱の中に詰め込まれているらしい、と気がついた。棺桶を想像した。死から甦ったのか、と束の間、本気で考えた。  箱は揺れていた。車のエンジンの音に気がついたのは、しばらくしてからだった。そしておれは、身動きできない箱に詰められて、車で運ばれている途中であることを、ようやく知った。  第五章 証言 1  箱に伝わってくる振動が止んだ。  車が停められたようだった。エンジンの音も聴こえなくなった。  おれが意識をとり戻してから、それほど時間は過ぎていなかった。二十分余りか、と思えた。中野坂上のマンションから、遠い所まで運ばれてきたわけではなさそうだった。  車のドアが閉まる音らしいものが、こもったようなひびきで、小さく聴こえた。砂利を踏む足音らしいものも、いくつかおれは聴いた。  粘着テープを貼られている。眼尻のあたりや、頬の皮膚が攣《つ》れていて、気持がわるかった。何が起ころうとしているのか、予測はついていた。  覚悟をするしかなかった。あてにしたツキが、おれには回ってこなかった。ツキは敵のほうにあった。とどのつまり、そういうことだ。おれは自分に言い聞かせた。  覚悟はできていたが、諦めてはいなかった。おれは、緒方純子と、マナパット・レイエスと、セベ・マリノを押さえている。その三人の後ろにいる、浅原雄二と重山の存在も突き止めた。それを切り札に使う方法はないか——。  扉の開くような音がした。おれが詰め込まれている箱の、すぐ近くで、その音は聴こえた。金属的なひびきの音だった。おれはコンテナーの扉を思い浮かべた。  箱が揺れた。人の声が聴こえた。数人の男たちの声だった。日本語のやりとりではなかった。訛《なまり》の強い英語のように思えた。箱のまわりで、いくつもの足音がひびいた。木の床を踏むような足音だった。おれはコンテナーか、トラックの荷台を想像した。  箱が傾いた。そのまま浮きあがった。運び出されるようすだった。男たちの、掛け声のような、短い声が、いくつも重なってひびいた。  箱はいったん大きく傾いた。斜めになったおれの体も、箱と一緒に前に傾いた。宙に浮く感じがあった。何かの上に箱ごと下ろされたのも、わかった。箱詰めのまま、海の底に沈められるのか。箱ごと地の底に生き埋めにしようというのか——。いまなら敵はなんでもやれるはずだった。おれにできることは、恐怖と闘いながら、頭で助かる知恵を生み出すことしかなかった。  どこかに運ばれていくようだった。箱は台車のようなものに載せられているのだろう。台車を押して運ばれていく感じだった。箱の底のさらに下から、かすかな車輪の回転する気配が伝わってきた。軽やかでなめらかな回転のように思えた。  つぎにおれが感じとったのは、上昇の感覚だった。エレベーターに乗せられたのかもしれない、と思った。台車のようなものから、箱が下ろされた気配はなかった。  エレベーターだとすると、そこは建物の中なのか。クレーンで吊りあげられたのであれば箱には揺れが生じるはずだ。揺れは感じられない。  敵はおれを殺すつもりでいるはずだ。建物の中で殺せば、死体になったおれを、もう一度、屋外に運び出さなければならないはずだ。二度手間ではないか。そういう手間を省こうとしないのは、どういうわけなのだ!  それよりも、切り札だ。何かないか。架空の協力者を使う手はどうだ。おれからの連絡が途絶えれば、協力者がすぐに動いて、緒方純子たち三人を生き証人として、浅原雄二が彼ら三人にやらせたこと、やらせようとしていることを、明かるみにさらす——。  危険なハッタリだった。おれは、松永敏恵に、姿を隠せと言わなかったことを後悔した。協力者の存在を告げられれば、敵はそれが松永敏恵のことだと受け取る。松永敏恵以外にも協力者がいる、と言っても、結果は同じかもしれない。松永敏恵を捕らえて、緒方純子たち三人が監禁されている場所を吐かせる、という手が敵にはあるのだ。  また箱が動き始めた。なめらかな車輪の回転の気配が、箱の下から伝わってくる。けれども、さっきのような回転音はひびいてこない。カーペットの敷かれた場所を進んでいるのか。  ふたたび箱は静止した。すぐに浮きあがり、下ろされた。台車がはずされたようすだった。とぎれがちの話し声がつづいていた。声は低くなっていた。日本語は聴こえなかった。  つぎに聴こえてきたのは、何かがこすれるような、小さな物音だった。何の音なのか、見当がつかなかった。  箱の中の空気が、そよぐように揺れた。と思ったら、両腕をつかまれて、それで、箱が開けられたことを知った。腕と、折り曲げていた両膝のところを抱えられた。箱から出されたのだ、とわかった。  そのまま、坐らされた。やわらかい椅子の上だった。ソファかもしれない、と思った。椅子にしては、座の部分の位置が低かった。おれは靴をはいたままだった。靴のゴム底には、絨毯の感触があった。体が軽くなっているのに気づいた。防弾チョッキが脱がされているためだ、とわかった。ホルスターの拳銃も、ポケットの中のナイフも抜き取られていた。  はじめに、足首を縛っているロープが解かれた。肩を押さえられ、上体を前かがみにさせられると、背中の後ろに回された手を縛っているロープが解かれた。  何が始まるのか、わからなかった。それが恐怖を倍にした。眼と口を塞いでいた粘着テープが剥がされた。乱暴な剥がし方ではなかった。  おれは戸惑った。最初に眼にとびこんできたのは、前に立っている二人の男だった。二人ともスーツにネクタイという姿だった。日本人ではなかった。東南アジア系と思えた。二人とも、厚い胸と鋭い眼つきの男たちだった。  男たちの肩越しに、大きな油絵の風景画のかかった壁が見えた。壁には淡いピンク地に、銀色の細い縞の入った壁布が貼られていた。絵の下には、小型のサイドボードがあった。イタリア製かと思えた。光沢のある木目が美しかった。脚には彫刻がほどこされていた。  白いドアが見えた。ドアの横の壁には、細い猫足の作りの脚を持った、小さな台が置かれていた。台の上には、レースの敷物をしいて、きれいな陶器の水さしのようなものが飾ってあった。  窓にはパールピンク色の、織柄のあるカーテンが、ぴたりと引かれていた。たっぷりと襞をとった作りのカーテンだった。おれは、グレーのやわらかな揉み革のソファの上に坐らされていた。ソファの後ろにも、スーツ姿の二人の男が立っていた。その二人も東南アジア系に見えた。  おれを運ぶのに使われていた箱も、台車らしいものも、どこにも見当たらなかった。手足のロープを解いている間に、部屋の外に運び出されていたのだろう。  一流のホテルの部屋か、と思いたくなるような場所だった。殺そうとしている人間を入れるには、およそふさわしくなかった。四人の男たちも、眼つきこそ鋭かったが、殺し屋のマナパット・レイエスや重山などとは、どこか人種がちがって、折目の正しさが感じられた。おれの戸惑いはいっそう深くなった。  それを見すかしたように、正面の右側にいる男が言った。 「おどろかしてしまって、申し訳ないです。また、乱暴なことをした点も、お詫びしなければなりません。ああいう方法でなければ、おいで願えないと思ったものですから。われわれは、あなたの敵ではないんです。味方になることを望んでいるのです。まず、その点をご理解いただきたいと思います。それから勝手ですが、防弾チョッキ、ガン、ナイフは、預からせてもらいます」  流暢《りゆうちよう》な日本語だった。 「味方になりたいとは、どういうことなのか、わたしにはよくわからないな」  おれは言った。狐につままれた気分だった。わけがわからず、警戒心も解けなかった。 「事情がおわかりにならないのは、もっともです。われわれは、鬼頭さんに、あることをお願いしたいと思っています」 「何をやらせようというんだ?」 「簡単なことです、と言いたいところですが、鬼頭さんにとっては、決して簡単じゃないということもわかっているつもりです」 「用件を言ってもらえないかな。ズバリと」 「あなたがいま、命を狙われていることは、われわれも知っています。そのことに関係のあるお願いです。もちろん、聞き入れてくだされば、相応のお礼もさせていただくつもりです。詳しいお話をする前に、少しばかりおもてなしをしたいのです。そろそろ食事どきでもありますし、われわれに、鬼頭さんに対する敵意のないところをわかっていただきたいと思いますので」 「理由のわからないもてなしを受けるのは、わたしは好きじゃないんだ」 「わかります。が、われわれの流儀《りゆうぎ》でやらせてください。それから、こちらには敵意はないと言いましたが、それは鬼頭さん次第だということも、申し添えておきます。われわれとの友好的な関係を、鬼頭さんがお望みにならないということであれば、話は別です」 「なるほど、あんたがたの願いごととやらをわたしが聞き入れないとなったら、味方じゃなくて敵になるわけだ」 「そのとおりです」 「つまりは脅迫だ」 「しかし、鬼頭さんのお考え次第で、あなたとわれわれの利害は一致するはずです。あなたは、いまのご自分の敵の正体をお知りになりたいはずです。浅原雄二の背後にいる人物をです」 「あんた、その人間のことを知ってるかね?」 「知っています。そして、われわれと鬼頭さんの利害は一致するのです」 「あんたたちの流儀に従ってみるか……」  おれは、独り言のように言った。男たちの素性は見当がつかなかった。だが、浅原雄二の背後にいる奴のことを知っているというのなら、話を聞くだけは聞いてみよう、という気持におれはなっていた。 2  ホテルのルームサーヴィスそのままだった。アイロンのきいた、純白のテーブルクロスのかかった、ワゴン式のテーブルが運びこまれた。  ワゴンを押してきたのは、スペイン系と見える、美しい顔立ちの女だった。体の線の浮き出る、ぴっちりとしたオリーブグリーンの半袖のワンピースを着ていた。彼女は、おれの顔を見ると、人なつっこそうな笑顔を見せた。ワゴンの上には、ワイン用のグラスと、きちんとたたまれたナプキンと、フルコース用のフォークとナイフ、空《から》の大皿が二枚重ねて、置かれていた。  女がワゴンを運んでくるのと入れ替わりに、四人の男たちは部屋を出ていった。そのとき、ドアの前の廊下に、出ていく四人とは別に、二人の男が立っているのが見えた。二人の男は、腰のベルトに警棒のようなものを吊っていた。おれは軟禁状態に置かれているようだった。あからさまなやり方で、おれを見張らないでいるところが、形のうえでは『友好的』というつもりなのだろう。  女が寄ってきて、おれに笑顔で何か言った。スペイン語のようだった。意味はわからなかった。女もことばが通じないとわかったようだった。彼女はおれの手を取って、ドアの前に連れていった。廊下に面したドアではなかった。隣の部屋とをつなぐドアだった。女がそのドアを開けた。右側にクロゼットらしい扉があった。扉と向き合って壁一面に鏡をはめた化粧テーブルがしつらえてあった。その先が、広々とした浴室になっていた。クロゼットと反対側は、寝室になっていた。大きなベッドが、カーテンを引いたほの暗い中にぼんやりと見えた。  女はどうやら、その部屋のそうした間取りを、おれに教えようとしていたらしい。ひとつひとつのドアや扉を開けて見せた。それから彼女は、おれを浴室の洗面台の前に連れていった。女はそこで、蛇口をひねり、湯を出し、プラスチックの容器に入っていた新しい石鹸を出し、金色の包装紙を破くと、陶器の皿の上にその石鹸を置いた。食事の前の手洗いを、おれにすすめているのだった。  おれは口もとをゆるめ、軽く笑って女にうなずいてから、顔と手を洗った。横で女が両手でまっ白のタオルをひろげて、捧げ持つ恰好で待っていた。  部屋に戻るとすぐに、銀の盆にのせた赤と白のワインのボトルと、オードブルが運ばれてきた。オードブルは、エスカルゴだった。運んできたのは、白の詰襟服《つめえりふく》に白のズボンのボーイだった。それも東南アジア系の男だった。  いたれりつくせりのもてなしだった。それは、つまりは、正体不明の男たちの願いとやらを、おれに聞き入れさせるための、賄賂《わいろ》のようなものにちがいなかった。おれは遠慮なしに、もてなしにあずかることにした。とりあえずは、友好路線で行ってみるしかなかった。肝心の話を先に延ばしているのは、相手のほうなのだ。  おれの世話係らしい、スペイン系の美人は、おれが食事をしている間、ずっと静かに後ろに控えていた。ワイングラスの中身が少なくなると、彼女が寄ってきて、ワインを注いだ。料理の皿が空になると、すぐに脇に片づけた。ワインも、料理も、申し分のない味だった。  おれはデザートもきれいに平らげた。勝浦のログハウスでは、ゆっくりとした食事には縁がなかったので、久しぶりに満足した。  テーブルが下げられ、ソファの前のテーブルに、コワントロのグラスが運ばれてきた。女が、テレビのリモコン・スイッチを、おれの前に置いて、笑顔を残して部屋から出ていった。おれはテレビをつけた。時刻は夜の八時になろうとしていた。  テレビの映像も音声も、頭に入ってこなかった。おれは食後酒を飲み、たばこを吸いながら、おれを捕らえてそこに連れてきた連中の素性について、あれこれと推測をつづけた。  中野坂上のマンションの部屋で、後頭部に一撃をくらって以後の、相手の一連の動きには、何か組織的な機能性がうかがえる気がした。連れてこられた場所にしても、普通ではない。そして、このもてなしだ。相手は東南アジアのどこかの国の、何かの機関に属している連中ではないのか、とも思えた。  仮にそうだとしても、そういう相手と、見えない敵に命を狙われているおれとの間に、一致する利害があるというのが、どういうことなのか、よくわからなかった。おれの敵が、彼らの敵でもあり、その敵を殺す仕事をおれにやらせようとしている、という推測は成り立つかもしれない。だが、それならおれなんかを使うよりも、彼ら自身の手でやれるのではないか。一人の人間を始末する仕事など、朝飯前にやってのけそうな、隙も無駄も見せない動きを、彼らはおれをそこに連行する仕事で見せているのだ。  一時間近くが過ぎたころに、ドアが開いた。入ってきたのは、おれの期待した最初の男たちではなかった。さっきのスペイン系の女だった。  女は胸の前に突き出した両腕の上に、大きな銀の盆をのせていた。盆の上には何種類かの酒のボトルと、アイスペール、グラスなどがのっていた。それをテーブルに下ろすと、女は浴室に行った。浴室から、バスタブに湯を溜めているらしい音がした。今度は風呂のもてなし、ということのようだ。  浴室から戻ってきた女が、テーブルの上のボトルをつぎつぎにさしながら、問いかける眼でおれを見た。口もとの笑みは消えていない。どのボトルも、封は切られていなかった。おれはワイルドターキーのボトルを示し、オンザロック、と言った。  酒のグラスが、おれの前に置かれた。女はまた浴室に行った。しばらくして、浴室の湯の音が止んだ。女が戻ってきた。女は素っ裸になっていた。顔にも眼もとにも、おれをとろけさせるような、挑発的な表情がたたえられていた。その顔の下には、もっとすばらしいものがあった。  おれは短く口笛を吹いてみせた。女が笑ってうなずき、おれの横にやってくると、服を脱がせはじめた。下にもおかぬもてなし、というわけだ。  すっかり裸になったおれは、女に手を引かれて、浴室に行った。連中はそうしたもてなしのノウハウを、日本のソープランドで仕入れてきたのではないか、と思った。  女は一緒にバスタブにつかり、おれの体を洗ってくれた。シャワーを浴びせてくれた。女がペニスを洗いはじめたときは、おれはもう勃起を抑えることができなかった。湯に濡れた女の背中を撫で、乳房に手を移すと、女はペニスを洗いながら、乳房をまさぐっているおれの手に唇をつけた。  バスローブをまとって、そのまま寝室に行った。女がバーボンのグラスを寝室に運んできた。バスローブの裾の間に見え隠れする、女のすらりとした形のいい脚が、おれの気持をそそった。  女は、バスローブを脱いで、ベッドに体を横たえた。乳房と腰の量感が目立った。ちぢれの強い、毛足の短い陰毛が、小さく女の股間を覆っていた。  見事な乳房だった。そばかすが散っていた。乳暈《にゆううん》と乳首は、明るいピンク色を見せて、うっすらと光っていた。広い乳暈が、段差をつけて盛りあがっていた。手を添えると、豊かな乳房は、強い張りと心地よい重みを伝えてきた。  女がおれを見て何か言った。笑っていた。ことばはわからなかった。おれは乳房を撫で、女の肩から頸すじに唇を這わせていった。耳を甘咬みした。女が眼を閉じ、小さくのけぞって、すぼめた唇の間から細い息を洩らした。女はもう笑ってはいなかった。女の手が、おれのペニスを捉えた。指が亀頭のふくらみと笠の縁をそっと撫でた。  固く張りつめてとがった女の乳首が、おれの掌をころころとくすぐった。おれは乳首を舌で薙ぎ払いながら、手で乳房を揉み立てた。乳房の豊かさと、張りの強さが、おれを愉しませた。押しつけた掌を回すようなやり方で乳房を揉まれると、女は声を洩らし、胸を突き上げてのけぞった。  女の陰毛は、とてもやわらかい手ざわりを備えていた。大陰唇のふくらみを指ではさみつけると、クリトリスのころころとした感触が伝わってきた。おれはそうやって、大陰唇ごと、クリトリスを揉んだ。女は息をはずませて、短いことばを吐き、豊かな腰をせりあげるようにして反らした。  クレバスに指を沈めてみると、温かい体液があふれていた。粘膜がおれの指を浅く包み込んだ。おれはクレバスに当てた指を、小刻みにふるわせて、バイブレーションを女陰に送った。女が甘い呻き声をあげた。  やわらかい陰毛を撫であげ、クレバスをあらわにして、おれはクリトリスを露出させた。指ですくった体液をクリトリスに移し、そこを静かに指先で撫で回した。女の喘ぎが高くなった。女の白い脇腹に、さざ波のような痙攣が生まれていた。  女がけだるそうに上体を起こした。眼は閉じたままだった。片手で髪をかきあげると、女はそのまま上体を前に倒し、胸の下におれの腰を抱えこんだ。女の手が、おれの脚を押し開かせた。  ペニスに乳房が押しつけられてきた。同時に女の濡れた舌が、おれの両の内股を静かに這って、脚の付根に進んできた。脚の付根の浅くくびれたところを、女の舌がなぞるようにして進み、会陰部にやってきて、そこをくすぐった。  ふぐりに唇が押しつけられてきた。睾丸が軽く吸われた。舌がペニスの裏側を、付根から先端に向かってなぞっていった。舌は笠の縁をゆっくりと一周して、唇と交替した。亀頭の先端に当てられた唇は、ちょっとの間そこのふくらみをついばむような動きを見せ、それからすこしずつ開いていって、亀頭全体を中に収めた。そのまま唇は、しっかりとペニスを捉えたまま、下にすべりおりてきた。  おれは女の膝に手をかけて引いた。それだけで、女はおれが望んでいることを察した。フェラチオをつづけながら、女が膝でおれの胸をまたぎ、ベッドに開いた両膝を突いた。  おれは女の腰を引き寄せた。鮮やかな色合いを見せて光っている女陰が、おれの顔の上にきた。包皮から半分だけ頭をのぞかせた大粒のクリトリスが、包皮と一緒に、呼吸を思わせる小さなうごめきを見せていた。肉のうすい、何かの舌のような小陰唇が、よじれた形で、半ば立ちあがったまま、左右から寄り合っていた。その下の襞の折り重なったくぼみの部分に、おれは舌の先を分け入らせた。  女がペニスをふくんだままの口で、くぐもった声をあげた。悲鳴のような声だった。おれは舌先で襞を押し分けて進み、クリトリスを唇でそっと吸った。女の腰がうねりを見せた。舌の先をクリトリスに当てて、静かに掃くようにして動かしはじめると、女ははげしくおれのペニスを吸いながら、おれの脚を胸に抱えこんだ。 3  シャワーを浴びると、女は服を着て、バーボンのオンザロックを新しく作り、おれの頬にキスをしてから部屋を出ていった。  おれもシャワーを浴び、服を着て、グラスを持ってソファのある部屋に行った。  バーボンのグラスの中身が、半分ほどに減ったころに、ドアが開いた。入ってきたのは、最初におれが顔を見た、スーツの四人の男たちだった。  男の一人は、ヴィデオカメラのハードケースを手にさげていた。もう一人の男は、アタッシェケースを持っていた。  カメラのケースを持った男と、アタッシェケースを持った男が、おれが腰をおろしているソファの後ろに並んで立っていた。カメラケースとアタッシェケースが、男たちの足もとに置かれた。別の二人は、テーブルをはさんで、おれの向かいのソファに深く腰をかけた。流暢な日本語を話す男が、右側にいた。 「愉しんでいただけましたか? 鬼頭さん」  右側の男が言った。口調はやわらかかったが、顔の表情は動いていなかった。 「あんたたちの流儀に従ってね」  おれも表情を殺して答えた。 「ワインと料理は、お気に召しましたか?」 「なかなかけっこうだった」 「それはよかった。よろこんでいただけて、安心しました」 「おかげでようやく、後頭部にくらった打撃のしびれが、少しは消えたよ」 「皮肉ですか。勘弁してください。あれもわれわれの流儀のようなものなんですから」 「皮肉を言ったつもりじゃないさ。もてなしの礼を言ったんだ」 「おそれいりますね」 「そろそろ、気を持たせるのは止めてもらえないかな。話を聞こうじゃないか」 「そのつもりで来たんです。実は、鬼頭さん、あることの証人になっていただきたい、とわれわれは思ってるんです」  その男は言った。それまでの静かな物言いとちがって、声が低くなり、口調に力がこめられていた。ほかの三人は、日本語が話せないのか、ひと言も口をきかなかった。だが、その三人の眼つきや表情も、厳しいものに変わったのを、おれは感じとった。  その場の空気は、連中が何かをおれに頼むといったものではなくて、厳しい強要を感じさせるものに変わっていたのだ。 「あんたたちの証人になれるようなことがあるとは、わたしには思えないけどな」  おれは言った。事実、思い当たることは何もなかった。 「鬼頭さんにその覚えがないのは当然です。あなたは、われわれのことも立場も、まだご存じないのですから」 「だったら、それを先に説明してもらいたいもんだね」 「説明しましょう。すでに察しがついておられるかと思いますが、われわれは日本人ではありません。ある国のある政治的な勢力に属しているグループのメンバーだと、お考えください」 「政治がらみの話かね? それなら、わたしにはまったく縁のない世界のことだよ」 「直接的にはそうかもしれません。まあ、われわれの話を最後までお聞きになってください。われわれの国は、つい数年前までは、腐敗した独裁政権によって牛耳られていました。独裁者のMは、強権政治を行なって、莫大な利権を一手に握って、私服を肥やしつづけたのです」 「フィリピンのマルコスのことを言っているのか?」 「どこの国の話かということは、ご想像にまかせます。話の本筋とはあまり関係のないことですから」 「いいだろう」 「そうしたMの不正な手段による私財の蓄積には、たくさんの日系の企業人や政治家が関わっていました。その後、M政権は、腐敗政治を一掃しようというわが国の、幅広い層にわたる民衆の力で、逆に倒れたのです。その後で、現在の反M派の勢力による政権が樹立されて、国情の安定と経済の回復につとめてきたわけです。そしていま、わが国では、M政権が崩壊してから二度目の、大統領選挙が行なわれようとしているところなんです」  男はひと息入れるように、ことばを切った。おれは、よその国の政治の話が、どこでどういうふうに、おれにつながってくるのか、見当がつかずに、いらだちを感じた。男はまた話を始めた。 「大統領選挙には、いくつもの勢力の陣営が、それぞれに、候補者を立てて争おうとしています。われわれの属している勢力も、もちろん大統領の選挙戦に加わります。はげしい乱戦が予想されています。今度の大統領選挙には、次第に勢いを盛り返してきつつある、旧M政権派の陣営も、闘いを挑んでくることになっています。かつての独裁者Mの実子の一人が、名乗りをあげているんです。もちろんその背後で糸を引いているのはMなんです」 「どうも、そういう他人の権力争いの話は、わたしは興味が持てなくてね。話の本筋を示してもらえないか」  おれはたまりかねて言った。男は表情を動かさずに、ゆっくりとうなずいた。 「長い前置きになりましたが、それをひととおりお話ししなければ、話の本筋もわかっていただけないと思ったんです。そういうことで、われわれの陣営は、大統領選挙に勝利をおさめるのはもちろんですが、仮にわが派が敗北するとしても、旧M派につながる勢力が政権を握ることだけは、どんなことをしてでも阻止しなければならない、と考えているわけです。そのために、ぜひとも鬼頭さんにご協力をお願いしなければならないんです」 「それがどういうことだか知らないが、わたしが何かを証言することで、大統領選挙でM派にダメージを与えることができる、というような話なのかね?」 「そういうことなんです。われわれは、鬼頭さんに、四年前に東京で起きた、ある殺人事件についての、証言をお願いしたいんです」 「殺人事件」 「そうです。四年前の東京でのその殺人事件は、旧M政権とM自身の行なった政治の、悪辣《あくらつ》な犯罪性、いや犯罪そのものを示す、数多い出来事の中の、ひとつの典型的な事例なんです。われわれは、その殺人事件が、どういった背景から生まれ、どのようにして一人の生命が奪われ、独裁者Mがどういう形でそれに関わっていたか、ということをすでにつかんでいるんです」 「それだけじゃ足りないのかね?」  おれは言った。ようやくおれにも、話の本筋が見えてきた。相手がおれに何を証言させようとしているのか、ということも、おれはわかった。 「そうなんです。それだけじゃ足りないんです。決定的なインパクトになるものが足りないんです。それは、その殺人事件の殺人の実行者自身の証言です。われわれはそれが欲しいんですよ、鬼頭さん。その殺人の実行者が、四年後のこんにち、今度はその殺人を依頼した側から、口封じのために、命を狙われている、という証言も併せてです」  男は言った。男の眼はまっすぐに、おれに向けられていた。その視線を受けたまま、おれは沈黙を守っていた。  男は、おれの沈黙を、拒絶の意思表示と受けとったのかもしれない。あるいは、おれが、話の筋がわかっているのに、白《しら》を切ろうとしている、と見たのかもしれない。彼は、ソファの後ろに立っている男の一人に、おれにはわからない、彼らの国のことばで、何か言った。  ソファの後ろで、アタッシェケースを開ける気配がした。それから、おれの肩越しに、腕が伸ばされて、書類封筒がおれの前に坐っている、日本語を話す男に手渡された。すぐに封筒の口が開けられ、中から何枚かの写真がとり出された。  男は、その写真を、おれのほうに向けて、テーブルの上に無言で並べた。カラーのキャビネ判の写真が、五点あった。その中の三点は、マナパット・レイエスの顔写真だった。正面と左右の横顔が写されていた。  残りの二点の写真に写っているのは、初老の日本人の顔だった。二点とも、同じ人物の顔写真だが、少し角度がちがっていた。おれは、その日本人の顔に、はっきりとした記憶があった。四年前に、おれが殺した男だった。殺し屋としてのおれの、最後の仕事の的《ターゲツト》になったのが、その初老の男だった。その仕事を最後にして、おれは人をあやめる稼業から足を洗ったのだった。 4 「ご存じですね? 鬼頭さん。写真のこの二人の人物を……」  男がテーブルの上の写真を指でさして言った。男の視線はおれに向けられていた。おれは黙ってうなずいて見せた。 「鳥井敏彦《とりいとしひこ》。ゼネラル通商の役員の一人だった人物ですね?」  男が言った。男の指が、写真の初老の男をさしていた。おれはまたうなずいた。その的が、そういう名前で、ゼネラル通商の役員だったことまでは、おれもその仕事を請《う》けるときに聞かされた。ゼネラル通商本社の所在地と、鳥井敏彦の自宅の所在地と、鳥井敏彦が持っていた、熱海《あたみ》の別荘の所在地も、知らされた。しかし、それ以外のことは、おれはなにひとつ、情報の提供を受けていなかった。  鳥井敏彦が、どこかの国の独裁者との関わりによって、殺し屋を差し向けられることになった、などということは、おれは初めて聞く話だったのだ。 「こっちの男は、マニラに住んでいるプロの殺し屋で、マナパット・レイエスという男です。ご存じですね? 鬼頭さん」  男は言った。おれは返事をためらった。  その連中は、おれが命を狙われていることは知っている。  マナパット・レイエスが、おれを消すために、東京に送り込まれてきた殺し屋だということも、その男たちは知っているようすだった。  だが、おれがマナパット・レイエスを知っている、と答えれば、連中はそのわけを訊きたがるかもしれない。おれは、その男たちに、マナパット・レイエスがおれの命を狙っている殺し屋であることを突き止めた経緯を、知られたくなかった。マナパット・レイエスたち三人が、勝浦のログハウスの地下室に捕らえられていることも、その男たちに知られたくなかった。  はっきりした理由があったわけではない。相手がどうころぶかわからない間は、用心が必要だ、と考えていたのだ。 「マナパット・レイエスという名前なのか、こいつは……」  おれは写真を見て言った。 「名前はともかく、この男の顔は知っているでしょう。あなたを殺しにいって、失敗した男なんですから」  男がそう言った。 「顔はちらっとだけだが、たしかに見たことがあるな」  私は言った。 「マナパット・レイエスは、マニラの大きな殺人請け負い組織のメンバーなんです。われわれは、すぐれた情報網を持っているんですよ、鬼頭さん。そのネットワークのアンテナは、マナパット・レイエスが属している組織の内部にも、張りめぐらされているんです。ですから、マナパット・レイエスが鳥井敏彦を殺した殺し屋を消すために、東京に向かった、ということも、マナパット・レイエスが狙っている相手が、鬼頭さんだということも、われわれは知ることができたわけなんです。しかし、危ないところでした。マナパット・レイエスについての情報の入るのが、もう少し遅れていたら、そして、マナパット・レイエスが、鬼頭さんを消す仕事に失敗していなかったら、われわれはこうして、鬼頭さんとお会いすることができなかったんですから」 「わたしのことは、すべてそっちにはわかってる、というわけだ」 「そのとおりです。ですから、鳥井敏彦を消したという証言をお願いしたいんです。何年の何月の何日の何時ごろ、どこで、どういう方法で鳥井敏彦を殺害し、死体はどういう状態だったか、傷はどうだったか、といったことを話してもらうだけでいいんです。つまり、殺人の実行者しか知りえない、犯行にまつわる細部を述べていただくことによって、その証言がでっちあげなんかではなくて、真実のものだ、ということを示したいんです。それによって、その殺人事件が、Mの独裁的腐敗政治の中から派生したものであることを訴えたいんです」  男の口調に、熱がこもっていた。おれはうす笑いを浮かべた。 「それは、そうなれば、あんたたちにはけっこうな話だろうな、けど、わたしにとっては、少しもけっこうな話じゃないな」  おれは言った。 「なぜです?」 「日本の法律では、殺人罪の時効は十五年となってるんだ。鳥井敏彦の事件は、起きてからまだ四年と少ししか経っちゃいないんだ」 「そういうことの心配は、まったくいりません。いくらわれわれでも、鬼頭さんを日本の司法当局に逮捕させるようなやり方で、証言をお願いするようなことはしませんよ」 「しかし、そんなことができるのかね?」 「証言は、ヴィデオテープに収めます。ただし、収録の場合は、鬼頭さんには頭巾ですっぽりと顔を覆ってもらいます。それから、声も細工を施して変えます。むろん、鬼頭さんの名前も出しません。証言のヴィデオテープが、そのままわが国のマスコミに流されることもありません。マスコミに流すとすればすべて、静止した写真だけに限ります。証言者の身許の秘密は、われわれが責任をもって守ります。これは約束できます」 「しかし、あんたたちには、わたしの身許はすでに割れてるんだ。秘密厳守の約束が守られる、という保証はないじゃないか」 「仮に、われわれ自身が、鬼頭さんとの約束を裏切って、秘密を暴露したとしましょう。そのとき、鬼頭さんはきっと、ヴィデオテープで証言をしているのは、自分ではない、自分はまったく無関係だと主張するでしょう。それは、つまり、われわれが入手した証言のヴィデオテープの信憑性《しんぴようせい》に、疑問を向けさせることです。われわれが、そんな事態を招くようなことを、わざわざすると思いますか?」 「それはなんとも言えないね」 「拒絶ですか? 返事は」 「返事をする前に、鳥井敏彦が消された理由を、わたしは聞きたいな」 「いいでしょう。話してあげましょう。こういうことですよ」  男は言って、ひと息入れた。  独裁者Mは、自国の公共事業を委託したり、経済進出をはかっていたりする日本の多くの企業から、莫大なリベートを受けとっていた。そのリベートの一部は、日本の企業を通じて、日本の政界の有力者たちの手に、バックリベートとして還流していた。そこには、独裁政権と、日本の政治家と企業との、三者の癒着《ゆちやく》の構造が組みあげられていた。  ゼネラル通商も、そうした企業のひとつだった。そして、鳥井敏彦は、個人的にもMとの関わりが親密で、両者は深い信頼関係で結ばれていた。そのために鳥井敏彦は、ゼネラル通商だけではなくて、他の企業とM、さらに日本の政界とをつなぐ、癒着構造のパイプ役といった立場に、いつしか立つようになった。  そうした立場にいた鳥井敏彦は、したがって、その癒着の構造の中で流れ動く、黒い金銭の、動きの実態を、広く深く知るようになった。つまり、彼は知りすぎた男だったわけである。  独裁者Mの、そうした日本企業と政治家との癒着を告発する火の手は、最初にMのお膝元から上がった。Mの国の新聞のひとつが、告発記事を連載しはじめたのだ。Mはただちに、圧力を加えて、その火の手を潰《つぶ》した。ところが、いったん消されたその火の手が、海を渡って、日本で大きく燃え上がった。日本の大新聞と、同じ系列のテレビ局とが、発展途上国を喰い物にしている、日本の企業と悪徳政治家の実態をあばくレポートをつぎつぎに流していった。  それがきっかけとなって、その問題は、日本の国会でも論議の的となり、特別調査委員会による調査や、それに伴う証人喚問などが避けられそうもない雲行きとなった。  鳥井敏彦が、熱海の自分の別荘の浴槽の中で、溺死体となって発見されたのは、そういう矢先だった。死因は窒息死だった。結果的には、鳥井敏彦は事故死と判断された。  鳥井敏彦が、独裁者Mと日本の企業、政治家とを結びつけている利権の癒着構造の実態を、詳細に知っている人物であることは、そのときは限られた一部の間にしか知られていなかった。新聞にも、国会での論議の中にも、鳥井敏彦の名前がその問題で出されたことは一度もなかった。そのために、鳥井敏彦の急死に、疑問を抱く者も、ほとんどいなかった。  だが、事情に通じている者たちの間では、日本の国会が特別調査委員会を設置すれば、鳥井敏彦が証人として喚問されるのは必至だろう、とささやかれていた。  証人として鳥井敏彦が国会に呼ばれれば、彼は偽証を強いられるにちがいなかった。そのことを、本人も覚悟していた。その上で鳥井敏彦は、Mと、日本の大物政治家の一人に、巨額の代償を要求してきた。偽証を引き受けるための代償だった。要求が入れられなければ、自分が所持している私的なメモを基にして、真実の証言を国会で行なう、と鳥井敏彦は主張した。  そこで、巨額の代償を求められた日本の政治家とMは、それを鳥井敏彦の背信行為と受けとり、鳥井敏彦を消すことで、意見が一致した。そのための経費をMが負担し、実行面の手配を、日本の政治家が行なうことでも、両者は合意した——。  そういう話だった。 「それで、鳥井敏彦を消すことをMと話し合った、日本の政治家というのは誰なんだ?」  話を聞き終えて、私は男に訊いた。 「それはまだお教えするわけにはいきません。鬼頭さんが、われわれの頼みを聞き入れてくださった後でなら、よろこんでお話しします」  男は首を横に振った。 「鳥井敏彦が消されたわけはわかった。だが、いまごろになって、鳥井敏彦を消した殺し屋が、命を狙われなきゃならないのは、どういうわけなんだ?」  おれは質問をつづけた。 「さっき、われわれは、優秀な情報収集のネットワークを持っている、と言いました。Mも、われわれに劣らないほどの情報収集力を持っています。Mは、今度の大統領選挙のために、われわれの陣営が、四年前の鳥井敏彦が殺された事件の真相を暴露《ばくろ》しようとしていることを、すでに察知しているんです」 「つまり、Mは、おれが鳥井敏彦の事件のことを証言することになる虞《おそれ》を察知して、おれを消しにかかった、ということなんだな?」 「そういうことなんですが、Mに鬼頭さんを消すようにすすめたのは、鳥井敏彦の件でMと最終的な相談をした、日本の政治家なんです」 「それはどういうわけだ?」 「われわれが、鳥井敏彦の事件を日本で調べている、ということを最初に気づいて、Mの耳に入れたのが、その政治家なんです。そこで二人はまた、鳥井敏彦のときと同じような相談をしたわけです。前のときとちがうのは、鬼頭さんを消すための経費も、殺し屋の調達もMが受け持って、日本の政治家が、東京で計画実行の準備に当たる、という点だけだったようです」 「わたしには、敵が二人いるということなんだな。Mと、日本の政治家と……」 「そういうことです。鬼頭さんが、その二人の敵を倒すおつもりなら、Mについてはわれわれも陰でお手伝いしますよ」 「わたしが証言すればだろう?」 「もちろんです」 「しかし、わたしの素性が外に洩れない、という具体的で、絶対的な保証がない限り、証言する気にはなれないな。ただし、代案ならひとつ持ってる」 「どういう代案ですか?」 「マナパット・レイエスに、わたしの代わりに証言させる、という案だ」 「マナパット・レイエスに何を証言させるんですか?」 「鳥井敏彦を消した殺し屋を殺すために、東京に行った、ということを証言させるんだよ。それならば、間接的だが、Mが日本の政治家と手を結んで、鳥井敏彦を消したことを立証することになるだろう」  おれは、駆け引きを持ちかけてみた。男はすぐには返事をしなかった。 「わたしは、マナパット・レイエスを、あんたたちのところに連れてくることができるんだ。奴の住んでいるアパートを突き止めているからね。おれは、マナパット・レイエスの雇い主を突き止めるために、奴を泳がしてるんだ」  おれは言った。男が、ゆっくりと首を横に振った。 5  おれは、ふたたび、手足を縛られ、テープで目と口を塞がれて、箱のようなものに入れられた。  結局、おれの持ちかけた駆け引きに、連中は乗ってこなかった。鳥井敏彦の死が、事故によるものではなくて、Mと日本の政治家とが差し向けた殺し屋の手によって殺されたことを示す、直接的な証言でなければ、価値がない、と言うのが、彼らの主張だった。  おれは証言を引き受けるしかなかった。拒めば、連中は非友好的なやり方で、力ずくでおれから証言を引き出す、といったかまえを見せた。  おれは、ヴィデオカメラの前で、目と口のところだけに穴のあけられた、黒い頭巾のようなものをかぶって、鳥井敏彦の殺害について、証言した。  証言の代償として、おれが手に入れたのは、小花沢忠俊《おばなざわただとし》という政治家の名前と、一億円の現ナマだった。  現ナマは、連中が預かっていた、おれの防弾チョッキと拳銃とナイフと一緒に、ナイロンのバッグに詰められた。そこまではおれも自分の眼で見ていた。  だが、そのナイロンのバッグが、ほんとうに連中が言ったとおりに、おれの体と一緒に、箱の中に入れられたかどうかは、確かめようがなかった。バッグを箱の中に入れるところは、おれは見ていなかった。そのときすでにおれは、目隠しをされていたのだ。  箱の底に、たしかにナイロンバッグらしいものが入っているのは、それが足にふれてくる感触でわかった。だが、そのバッグの中身が、おれが思っているとおりのものかどうかは、箱の中では確かめようがなかった。おれの両手は、背中の後ろで縛られていたのだ。  台車で運ばれたり、エレベーターに乗せられたり、車に積み込まれたりする気配を、おれはまた箱の中で感じとっていた。  おれの命を狙っている、敵の素性がわかったことは、たしかに大きな収穫だった。だが、収穫を手にしたよろこびよりも、新しく生まれた不安のほうが大きかった。  おれは、証言を求めてきた連中のことは、なにひとつわかっていないのだった。連中に捕らえられている間に、おれが見たものは、あの豪勢なホテルの客室のような、スイートの部屋と、四人の男たちと、フェラチオの上手な、スペイン系の女の顔と体だけだった。  その女の名前も、四人の男たちの名前も、おれは知らされずじまいだった。連れ込まれていたその場所が、どこにあるのか、どういう外観を持った建物なのか、といったことも、なにひとつおれにはわかっていない。  そういう意味では、連中のやり方は完璧だった。そしておれは、素性のまったくわからない、東南アジアの某国の、政治的なグループに属する連中に、四年前の殺人行為の当事者として、証言をしたのだ。  証言をしたおれの素性が、秘密のままで守られていく、という保証はないのだ。それがおれを不安にした。自分が職業的な殺人者だったことが、その証言から発覚することも、おれは恐ろしかった。だが、それ以上に虞《おそ》れたのは、小花沢忠俊をおれが倒す前に、自分が殺し屋だったことが発覚して、逮捕される、という事態を迎えることだった。  おれは、事を急がなければならなかった。おれが小花沢忠俊を倒し、彼の死がニュースになって、あの某国の四人の連中のところに届けば、そのときあらためて、あの連中はおれに接触を求めてくる、と言った。その上で、おれが二人目の敵であるMを倒すための、手助けをすることを、連中は約束した。  その約束が守られるかどうか、これまた保証の限りではなかった。その約束が守られたとしても、その前に、おれが鳥井敏彦を殺した殺人犯として逮捕されてしまえば、すべてはそこで終わってしまう。  走っている車の振動を、窮屈《きゆうくつ》な箱の中で感じながら、おれは不安とあせりを、いやというほど味わっていた。  やがて、車は停まった。連中に連れてゆかれたときに要した時間と、ほぼ同じように思えた。おれは、中野坂上のマンションの近くで、連中から解放されることになっていた。  小さな物音や、足音がして、箱が開けられた。おれはすぐに、箱から抱え出された。手足のロープも解かれた。だが、眼と口を塞いだテープを剥がすことは、止められた。  ナイロンのバッグを、手に持たされた。バッグは重かった。片腕をとられて、数歩だけ歩いた。そこでまた、誰かがおれの体を抱えて、下におろした。トラックの荷台か、コンテナーからおろされたようだった。コンテナーの扉を閉めるような音がした。  目と口のテープが剥がされた。横にコンテナートラックが停まっていた。暗かった。コンテナーのナンバープレートの文字は、読みとれなかった。二人の男が、無言でおれから離れていって、トラックに乗った。トラックはライトを消したまま、走り去った。ナンバープレートの数字をおれに読まれるのを防ぐつもりだったのだろう。  おれは、服のポケットを探った。ライターをとり出した。ナイロンのバッグのファスナーを開けて、ライターの光でバッグの中を照らした。ナイフと拳銃と、防弾チョッキが、いちばん上に入っていた。その下にあるのは、一万円札大に切った新聞紙の束だった。  おれは、あの連中が最後まで見せた、徹底した用心深さの理由の一端を理解した。拳銃の弾倉を調べた。弾丸は抜かれていなかった。奴らの、せめてもの良心の証《あかし》というわけだった。  おれはその場で防弾チョッキを着けた。あたりを見回した。おれが住んでいるマンションの、裏側の道だとわかった。車はマンションのカースペースに停めたままだった。  もう一度ライターをつけ、たばこに火をつけ、ついでに炎の明かりで腕の時計を見た。午前一時になろうとしていた。おれは、ひとまず勝浦に行って、マナパット・レイエスたちに、飯を喰わさなければならなかった。その前に、品川のホテルにいるはずの、松永敏恵に電話をしておこう、と考えた。  おれは、たばこを吸いながら、街灯のついている小さな十字路にさしかかった。銃声はおれの後ろでひびいた。同時におれは、左の肘のあたりを、焼け火箸《ひばし》で叩かれたような衝撃を受けた。  反射的に道路に体を投げ出し、ころがって十字路の角のブロック塀の陰に体を隠した。ホルスターの銃を抜きながら、おれは別れたばかりの、四人の男たちの顔を思い出していた。 6  おれは左腕の痛みを忘れていた。  耳と全身の神経を研《と》ぎすませた。足音は聴こえなかった。物音は途絶えていた。  銃声から判断して、相手が使ったのは拳銃にちがいなかった。それならば、敵はすぐ近くに潜んでいるはずだった。  そばにナイロンのバッグがころがっていた。札束に見せかけた、新聞紙の詰まったバッグだった。中身の偽《にせ》の札束が人の目にふれて、不審を買うことを避けるつもりで、おれはバッグを持って、マンションに向かっていたのだ。  おれは静かに体を起こした。靴を脱いだ。靴は腰のベルトにはさんだ。拳銃もベルトの腹のところに突っ込んだ。音をたてないようにして、両手でナイロンのバッグをつかんだ。  バッグを持ちあげると、左の肘の下あたりの内側に、疼《うず》くような痛みが走った。そこに弾丸を喰らっていた。  小さな十字路のところだけが、街灯の光で照らされていた。おれは、正面の角の物陰めがけて、ナイロンバッグを放り投げた。バッグはほの暗い光の中を低く飛び、音をたてて塀ぎわに落ちた。  狙いは当たった。小さな足音が聴こえた。おれは体を隠しているブロック塀の上端に、両手でとびついた。そのまま、手足を使って、静かにブロック塀の上によじ登り、そこに体を伏せた。拳銃を抜いた。左の肘のあたりが、またはげしく疼いた。  おれは、ブロック塀をまたいだ両膝を締めて、不安定な体を支えた。そっと頭をもたげた。視線を回して、動くものを探した。  ぼんやりとした影が動いていた。二つだった。影の本体のほうは、向こう側のブロック塀に張りついたまま、ゆっくりと十字路のほうに進んでいた。  影の動きでそうと察しがついた。本体の姿は、ブロック塀に吸いとられでもしているように、見定めがつかなかった。  おれは待った。二人の殺し屋は、必ずブロック塀から離れて、街灯の明かりの下に体をさらすはずだった。塀から離れなくても、塀の角まで行けば、頭くらいはのぞかせるはずだった。おれが投げたバッグを見て、殺し屋たちがそれに注意を向けていればの話だ。おれは、道を突っきって、反対側の角に跳びこんだと見せかけるために、バッグを投げることを思いついたのだ。  その狙いはどうやらはずれていなかったようだ。だが、すべてがおれの思惑どおりに運んだわけではなかった。  塀から離れた二人が、ほとんど足音をたてずに、道を横切った。おれは撃てなかった。殺し屋たちが道を横切った場所には、街灯の光は届いていなかった。二人の姿はそのまま、おれの死角の中に消えた。奴らは、おれが伏せている側の塀に張りついているにちがいなかった。  おれは、ブロック塀の上に伏せたままで、一メートルほど静かに前進した。おれの頭は、塀の角のすぐ近くのところにあった。眼の下の右のほうに、塀に背中をつけて、そろそろと進んでくる殺し屋の頭と、肩が見えた。  おれは腕の痛みをこらえて、左手でポケットからナイフを出した。できればナイフを使いたかった。銃声はたてたくなかった。たてたにしても引鉄を引く回数を一回でも減らしたかった。ここまできて、警察に追われるのは、なんとしても避けなければならなかった。  ナイフを右手に持ち替えた。拳銃は左手に移した。二人の殺し屋は、肩を並べるようにして、近づいてきた。奴らの注意は、十字路の向かい側の角のあたりにしか向けられていなかった。  二つの頭が、おれが伏せている塀の真下に来た。成算があるかないかということは、おれは考えなかった。やるだけだ、と自分に言い聞かせた。ためらわなかった。ナイフは逆手に持っていた。  最初に左側の男を狙った。伏せたままの体を塀の端からのぞかせておいて、男の首の耳の下のあたりに、力まかせにナイフを突き立てた。すぐに抜いた。血の噴き出す音を聴きながら、抜いたナイフをそのまま、右側の男の喉に突き刺した。  殺し屋たちは、短い呻き声を洩らして、腰からくずれ落ちた。後頭部が音を立ててブロック塀に当たり、はずみで二人の体がはじかれたように、前に倒れた。そのまま、もがいていた。起きあがろうとはしなかった。  おれは塀からとび下りた。まわりを見回した。殺し屋たちの拳銃のひとつは、塀の根方《ねかた》に落ちていた。もう一挺はまだ、片方の殺し屋の手に残っていた。  拳銃を持ったほうの殺し屋が、仰向けに寝返りを打とうとしていた。狙ってくるつもりと見えた。おれは拳銃を握った奴の手を踏みつけ、かがみこみ、胸にナイフを突き立てた。ナイフの柄《え》もおれの手も、すでに血で濡れていた。それで力がそがれて、刃は浅いところで止まった。おれは靴下だけの足を、ナイフの柄の端にかけて、体重を使ってさらに深く踏み下げた。  男の体がはじかれたようにちぢみ、手足に痙攣が走った。おれは、ナイフを抜いた。拳銃を握った男の手の指は、力なく開いていた。おれは拳銃を奪った。  もう一人の男は、静かになっていた。おれはそいつの頭を蹴った。何の反応もなかった。男たちの体のまわりに広がった血が、街灯の光をにぶくはね返していた。おれは男たちの髪をつかみ頭を起こして、顔をのぞきこんだ。はっきりと見覚えのある顔だった。日本人ではなかった。その二人は、おれが連れ込まれていた、あの豪華なホテルのような部屋のドアの外に立って、ガードを固めていた男たちに、まちがいなかった。  おれは、男たちの服のポケットを探した。見事に何も入っていなかった。持ち物から殺し屋たちの身許をつかもうとした思いつきは、空振りに終わった。  だが、おれは、まだツキから見放されていない、と思った。銃声をたてることなく、二人の殺し屋を倒せたのは、状況から考えても上出来と言うべきだった。目くらましに使ったバッグを、二人の殺し屋の死体のそばに放り出し、奴らが持っていた拳銃も、指紋を拭きとって、その場に残した。  靴をはいて、おれは急いでマンションの部屋に戻った。傷の手当てに必要なものをそろえた。ベッドのマットレスの中に隠しておいた拳銃の弾丸をすべてとり出した。血で汚れた服を着替え、手や顔の返り血を洗い流した。左の肘のすぐ下の内側の肉が、少しだけ抉《えぐ》り取られていた。殺し屋の銃弾がむしり取っていったのだ。ネクタイをひっぱり出して、腕を縛り、仮の血止めをした。  血のついた服と、傷の薬と、拳銃の実包をバッグに放りこんで、部屋を出た。  マンションの周りには、まだ騒ぎは起きていなかった。カースペースに置いてあった車を出して、おれは品川のホテルに向かった。  時刻は午前二時になろうとしていた。途中|山手《やまて》通りで車を停めて、おれは電話ボックスに入った。ホテルの松永敏恵の部屋に電話をした。合図どおりに、コールサインを五回鳴らしてから、いったん電話を切った。その後でもう一度、ホテルの交換台を呼び出した。  松永敏恵は、二度目の電話ですぐに声を返してきた。そろそろベッドに入ろうか、と思っていたところだ、と松永敏恵は言った。おれはこれから部屋に行く、と伝えて電話を切った。  第六章 遺書 1  ホテルの部屋に入ると、おれはまっ先に傷の手当てにかかった。 「誰にやられたの? 重山?」  傷口をのぞきこんだ松永敏恵が言った。 「どこの連中かわからないんだ」  おれは、傷口に消毒薬のスプレーをかけながら言った。マンションの部屋で、待ち伏せを喰い、箱詰めにされてどこかに連れていかれてからの経緯を、手短に松永敏恵に話した。 「それで、証言したの?」 「したよ。心配するな。奴らはおれの殺しの仕事のルートについちゃ、何も訊かなかったし、興味も示さなかった」 「それで?」 「連中は約束を守った。ただし、半分だけだ」 「どっちの半分? お金? それとも浅原雄二の後ろにいる奴の名前を教えること?」 「おれの命を狙ったり、あんたのマンションの部屋に火をつけたりしたのは、小花沢忠俊だ。謝礼の札束のほうは、ただの新聞紙だった」 「小花沢忠俊って、政治家の?」 「永田町の寝業師とかって言われてる奴だ」  おれは言った。松永敏恵の顔色が変わった。  おれは、小花沢忠俊という名前の大きさに、松永敏恵が恐れをなしたのだろう、と思った。かまわずに、おれは話をつづけた。  中野坂上のマンションの近くで、二人の殺し屋におれが襲われた、という話は、松永敏恵の耳にはちゃんと入らなかったらしい。 「それで、腕を撃たれたのは、いつのことなの?」  松永敏恵は、おれが話を終えると、われに返ったような声でそう言った。 「だから、また箱詰めにされて、マンションのそばまで運ばれて、解放されたすぐ後だよ。話を聴いてなかったのか?」 「ごめんなさい。考えごとをしてたのよ。で、その二人の殺し屋は何者なの?」 「日本人じゃなかった。だから、おれに殺しの証言をさせた連中の組織の人間だろうよ。東南アジア系の顔だったしな、二人とも」 「証言させといて、殺す気だったのね?」 「厄介払《やつかいばら》いがしたかったんだろうな。連中はおれに一億円の現ナマを渡すかわりに、新聞紙をくれたわけだしな。連中にすれば、おれが証言をひっくり返すかもしれないという心配もあったんだろうよ。それに、証言したおれが、誰かに殺されたってことになったほうが、おれの証言の信憑性が高くなる、という計算もあったはずだよ」 「ものすごい世界ね。そこにいるのね、あんたとわたしは……」 「そういうことだ。殺しの仕事をしてたころは、そういうものすごさなんか、考えたこともなかったけどな」 「それで、どうするの? これから」 「やらなきゃならないことが四つある。小花沢忠俊を殺すこと。おれに新聞紙の札束を渡して、命を取ろうとした連中の正体を突き止めること。その上で、その連中に、小花沢忠俊とつるんでた、東南アジアのどこかの国のMという野郎の首を取らせて、おとしまえをつけさせること。それから最後に、てめえの命を守り抜くこと」 「やれる? 全部」 「わからない。小花沢忠俊の首は取れる。正体不明の連中とMとのことは、見通しは立たないな。なにせ、手がかりゼロだ。マナパット・レイエスが、もしかしたら何か知っているかもしれないけどね。とにかく、まず小花沢忠俊の首を取る。やれることからひとつずつケリをつけていくしかないからな」 「小花沢忠俊をやりそこなったら、あんたは確実に殺されるわよ」 「覚悟はできてるさ。おれも見ず知らずの六人の人間の生命を奪った。金のためにだ。殺し屋の足を洗ったからって、満足な死に方ができるとは思っちゃいなかったからな」 「小花沢忠俊は、裏の世界でも大物よ。わかるでしょう?」 「詳しいことは何も知らない。裏の世界というのは、つまりやくざの世界か?」 「まあ、そうね」 「だろうな。でなきゃ、奴と東南アジアのどこかの国のMとが相談して決めた、ゼネラル通商の鳥井敏彦を消す仕事が、おれのところに回ってきたりするわけもないし、奴がおれの命をマナパット・レイエスに狙わせるようなことだって、できるはずはないからな」 「小花沢忠俊がどこに住んでるか、わたしは知ってるわ。彼は広尾《ひろお》のマンションの、最上階の全フロアをひとり占めにして住んでるの」 「あんた、どうしてそんなこと知ってるんだ?」 「あんたなら、あの男の首を取れるわね。きっと取ってちょうだい。小花沢忠俊の首を」  松永敏恵が言った。眼がすわっていた。ただの励ましのことばとは思えないようすだった。 「どうしたんだ? あんた、小花沢忠俊と何か因縁でもあるのか、さっき、おれが初めて小花沢って名前を口にしたときから、あんたのようすは普通じゃないぜ」 「なんでもないわ。ただ、ちょっと知ってるだけなの」 「まさかあんた、おれに殺しの仕事を回してたころから、その仕事の元の依頼人が小花沢忠俊だってことを知ってたわけじゃないだろうな?」 「勘ちがいしないでほしいの。それはあんたの見当ちがいよ。それを知ってたら、わたしは家を焼かれる前に、あんたに話してるわ。わたしが小花沢忠俊のことを少し知ってるのは、わたしの個人的な事情からなの。それは信じてほしいわ。嘘は言わない。あんたに嘘をついたことは、一度もないわ、わたしは」 「わかった。疑ってわるかったよ」  おれは言った。松永敏恵を疑う気持はなかったのだ。まさか、と思ったことが、ついそのまま口を突いて出ただけのことだった。 「いいの。気にしていないわよ。それより、シャワーを浴びてきて」 「やめとくよ。腕の傷を気にしながらシャワーを浴びるのも面倒だからな」 「じゃあ、わたしが体を洗ってあげる」 「ここに泊まるわけにはいかないんだ。勝浦に戻って、三人の連中に餌をやらなきゃならないし、ほかにも向こうでやらなきゃならないことがあるんだ」 「わかってるわ。でも、抱いてほしいの」  松永敏恵は、眼を伏せて言った。彼女がそういうはっきりとした言い方で、おれをベッドに誘ったのは、初めてのことだった。松永敏恵の心の中で、何かがはげしく揺れ動いているようだった。それが、小花沢忠俊と関わりがあるという、彼女の個人的な事情によるもののせいなのか、それとは別の何かのせいなのか、おれにはわからなかった。  気にはなったが、おれはあえて穿鑿《せんさく》しなかった。人の心の中に踏み入っていくことを、おれはとうのむかしに止めていた。それを止めなければ、金のために、なんの関わりもない他人の生命を奪う仕事など、やりつづけることはできなかった。人の心だけではない。おれは自分の心の中をのぞきこむことも、滅多にしなくなっていた。 「もうひとつ、あんたに言っとかなきゃならないことがあるんだ」  おれは立ちあがって、着ている物を脱ぎながら言った。松永敏恵が、顔を上げた。 「おれにはあまり時間がないと思うんだ。今夜、おれを消しそこなった組織の連中は、それで終わらせるはずはない。奴らは血眼になって、おれを捜しはじめるはずだ。連中は相当な情報網を持ってるらしいんだ。だから、小花沢忠俊の下で動いている浅原雄二や重山たちだけじゃなしに、あの正体不明の組織の連中だって、どこかであんたのことを知れば、居所を捜しはじめるはずだよ。おれは、小花沢の側にも、東南アジアの組織の連中にも捕まらないうちに、とにかく小花沢をやらなきゃならない」 「わかってるわ。あんたの言いたいことは。わたしの身を守ってやる余裕はないから、自分の命は自分で守れってことなんでしょう」 「そういうことだ。わかってるなら、何も言うことはない」 「覚悟はできてるの。あんたと同じよ。わたしもお金のために、縁もゆかりもない人さまの命を奪う仕事に関わってきた人間よ。どうせまともな死に方はしないって、肚の底で思って生きてきたんだもの」  落ち着いた声で、松永敏恵は言った。 2 「血の匂いがするわ。あんたの体……」  バスタブの中に腰をすえたおれの体を洗いながら、松永敏恵が低い声で言った。 「四年ぶりだよ。人を殺したのは」  おれは、向き合って湯につかっている松永敏恵の乳房に手をやって言った。すぐに乳首が固くとがってきた。松永敏恵の眼は、体の芯ではげしく疼いている情欲のはげしさを、暗い輝きにして表わしていた。 「因果な癖がついちゃったわ。わたしが殺しの仕事で組んだ相手は、あんたのほかにはいないの。あんたが初めて、わたしの回した仕事をやると決めたとき、わたしは頭がクラクラするほど興奮したわ。性的な興奮だったの。覚えてるでしょう?」 「いきなり、シャワーを浴びてこいって、あんた言ったんだ。そしておれをベッドに誘った」 「そうよ。そうしたくてたまらなかったの。わたしは燃えあがったわ。あのときから、わたしは、あんたと組んで殺しの仕事をするたびに、セックスがほしくなる女だってことが、自分でわかったの」 「いまもそうだな。今夜おれは二人の男を殺してきた。だからあんたは、人を殺してきたおれの体が、無性に欲しくなったわけだ」 「そうよ。それも、今夜のことは、わたしの知らない殺しなのにね」 「つまり、癖になったってわけだ」 「理由は、わたしなりにわかってるの。まちがってる解釈かもしれないけど。わたしが考えついた理由はこじつけで、ほんとはわたしが、殺し屋に異常にセックスを感じる変質者だ、ということなのかもしれないけど。殺し屋にしか惚れることのできない女、と言い換えてもいいわ」 「あんたの解釈を聞きたいね」 「わたしは、誰かを殺したいって、心の底でずっと思ってたような気がするの。そいつを殺したらどんなにかいい気分がするだろうって。でも、女のわたしには、人を殺すだけの力も度胸もない。だから殺し屋に憧れる。その殺し屋が、ほんとうに人を殺しに行くとわかると、殺しに行くのが、わたしが殺したい誰かだっていうような気がする。すると、全身がなんとも言えない興奮を感じて、ぞくぞくしてきて、心も体も息が苦しくなるほど燃えあがってしまう。そういうことのような気がするの」 「誰を殺したいんだい? あんた。小花沢忠俊か?」 「わたしの母は、新橋《しんばし》に出てた芸者だったの。もう八年も前に死んだけど。母にわたしを産ませたのが、小花沢忠俊なの。もちろん私生児よ。わたしがそれを知ったのは、母が死ぬ二日前だったわ。母からじかに聞いたの。でも、小花沢はわたしが自分の娘だってことは知らないはずよ。わたしはある男の愛人になってた時期があるの。その男は裏の世界に住んでるんだけど、やくざじゃないの。その男が、わたしを仲立ちにして、あんたに殺しの仕事を回してた人間なの」 「その男が、車のナンバーから、緒方純子の名前と住所をおれたちに教えてくれたわけだな?」 「そうなの。わたしに、殺しの仕事の仲立ちをやらせるようになったのも、その男なの。それはわたしが、その男とは男女の仲じゃなくなってからの話だったけどね」 「どうしてその男と別れたんだ?」 「理由は簡単よ。いまその男は八十七歳になってるわ。もう女の体がいらなくなったし、女をベッドでよろこばせることもできなくなったから、わたしを自由にしてくれたの。その男が、一度だけ、わたしを広尾の小花沢忠俊の家に連れていったことがあるの」 「どういうことでそういうことになったんだい?」 「わからないわ。ただ、その男に連れられていって、三十分ばかり坐ってただけだから。わたしはてっきり、小花沢忠俊がわたしのことを芸者に産ませた自分の娘だと思って、一緒に行った男も、そういう事情を知ってて、それとなく親子の対面の場を作ったんじゃないかと思ってたの。でも、そうじゃなかった。そうじゃないってことは、小花沢と、一緒に行ったその男のようすで、わたしにはわかったわ」 「そういうことは、その場の空気でわかるものだろうからな」 「きっとわかるはずよ。おたがいに何も言わなくても。でも、いまは、あのときどうしてわたしが小花沢の家に行くことになったのか、見当がつく気がするの」 「どういうこと?」 「ゼネラル通商の鳥井敏彦を消す仕事が、小花沢忠俊から出た依頼だって話を、さっきあんたから聞いて、わたしはピンときたの。あの仕事を殺し屋に仲介する女が、どんな顔をしているか、小花沢は見てみたかったんだわ。ただの興味もあっただろうし、その女の顔を自分の眼で見なきゃ、安心して鳥井敏彦を消す仕事を頼めない、という気持もあったんだと思うの。わたしがその男に連れられて、小花沢の家に行ったのは、鳥井敏彦を消す仕事の話がわたしのところにくる少し前だったの。それはまちがいないわ。さっき、あんたの話をちゃんと聞いていなかったのは、その時期を確かめようと思って、記憶を辿っていたからなの」 「なるほど。そういうことだったのかもしれないな。小花沢は、自分の血を分けた娘が、殺しの仕事の仲介をやってるなんて知らずにあんたと会ったわけだ」 「おそらくね。わたしは、自分の父親が誰かってことがわかってから、小花沢忠俊を憎みはじめたわ。この気持はうまく説明できないわね。父親らしいことを何もしてくれなかったから、というようなことから生まれてくる憎しみじゃなかったわ。それだけははっきりしてるわね。どう言ったらいいのかな。私生児に生まれたために、わたしは男という生き物そのものを怨んでて、それが小花沢忠俊が父親だとわかったときに、初めてそれまでの男全般への怨みやら憎しみやらをぶつける的《まと》が見つかった気がしたのね」  おれは口を噤《つぐ》んだ。おれには、松永敏恵の言っている理由はわからなかった。わかろうとも思わなかった。おれがそのとき考えていたのは、松永敏恵の話が事実なら、おれは彼女の父親を殺そうとしていることになる、ということだった。そしておれは、松永敏恵の話を事実だと考えることにした。それが事実なら、彼女が自分の父親に当たる男の死を願っていることも本心として受けとることができて、おれは余計なことを考えずに、小花沢忠俊を殺せるわけだった。もちろん、松永敏恵が、血を分けた娘として、小花沢忠俊の死を望まなかったとしても、おれの気持は動くことはなかったはずだ。 「わたしが、自分の歳の倍以上の、気色のわるい変態の、裏の世界に住んでる男に飼われる気になったのも、男全般が嫌いで、怨んだり憎んだりしてたからだし、殺しの仲介に手を染めたのもそうなの。わたしは、男たちや世の中だけじゃなくて、自分自身も憎みながら生きてきた気がするわ。どいつもこいつも死ねばいいって、いまでも思ってる。だから死の臭いが好きなのよ。それだけがわたしを夢中にするの」  松永敏恵がそう言ったのは、湯からあがったばかりの素っ裸の体をベッドに横たえてすぐだった。  そう言って、松永敏恵は、上からおれに全身を重ねてきた。彼女は、おれの体から、死と血の臭いを嗅ぎつくし、吸いつくし、味わいつくそうとでも言うように、おれの全身に舌と唇と手を這わせてきた。  おれには、松永敏恵という女の心の中の景色も、気持の動きもわからなかった。わかりたいとも思わなかった。どんな理由を並べようと、彼女も殺し屋の片割れの女だったことに変わりはない。おれにわかるのは、松永敏恵がおれに味わわせてくれる、セックスの味わいのすばらしさだけだった。  おれは左腕の痛みを忘れて、そのときもそのすばらしさに酔い痴れた。おれたちは、淫《みだ》らで、貪欲《どんよく》な二匹の獣となって、長い時間たがいの体を貪《むさぼ》り合い、絡み合って、そのまま朝を迎えた。  ホテルを出たおれが、勝浦のログハウスに帰り着いたのは、すっかり日が昇ってからだった。おれは地下室の三人に食事を与えた。  奴らはそこに連れてこられてから、はじめて粥《かゆ》ではなくて、にぎり飯を口に入れた。  おれも食事をすませて横になった。すぐに眠気が襲ってきた。 3  眼が覚めたのは、午後四時だった。  腹が減っていた。ありあわせのもので食事をすませた。にぎり飯を持って、地下室に下りた。地下室の臭気は、強烈なものになっていた。三人の奴らの、排泄物の臭いだった。素っ裸のままで、手足を縛られているために、奴らは汚物を垂れ流しにするしかなかった。  三人が食事をすませてから、おれは緒方純子だけを地下室から出して、居間に連れてゆき、シャワーを浴びさせた。その間、おれは二階に行って、松永敏恵の箪笥《たんす》の中から、彼女の下着と服をひとそろいとり出した。 「このままずっと、下の豚小屋でおれに飼われていたいか。それともここから出ていきたいか? どっちか好きなほうを選べ」  浴室から裸のままで出てきた緒方純子に、おれは言った。 「何をすれば、ここから出してもらえるの?」 「まず、訊かれたことに答えろ。何かをしてここから出ていけるのは、おまえだけだ。ほかの二人は何も選べない。おれがこのまま飼いつづける」 「出ていきたいわよ、それはもう……」 「どうしてもおれは浅原雄二に会いたい。そのために、おまえに何かできることはないか考えろ」 「何か飲ませて。それから、たばこを吸いたいわ」 「冷蔵庫に何か入ってる。温かいものがほしけりゃ、自分で作れ」  おれはテーブルの上にたばことライターを置いて、言った。緒方純子は、冷蔵庫からミルクを出した。ミルクをグラスに注ぎ、たてつづけに二杯飲んでから、ソファに腰を下ろして、たばこに火をつけた。 「浅原は、重山のところにいるのかもしれないわ。あの二人はホモなのよ。重山は男専門だけど、浅原は両刀遣いなの。一緒にいないとしても、重山を見張ってれば、きっと浅原が現われると思うわ。重山の住んでるところなら、あたしは知ってるわ」 「どこだ?」 「代々木上原《よよぎうえはら》のマンションなの。部屋じゅう花だらけみたいなところに、重山は住んでるわ。生け花が趣味なのよ」 「行ったことがあるんだな?」 「二度行ったわ。二度とも、浅原に呼ばれて行ったのよ。マナパット・レイエスに近づくための指示を受けたのは、そのときよ。二度とも、花だらけのその部屋に、浅原も重山もシルクのパジャマ姿でいたわ。おまけに重山は、女物のパジャマで、きれいにお化粧をしてたのよ。だからあたしは、この二人はホモなんだなってわかったの」 「よし。服を着ろ。重山のマンションに行くから、道案内をしろ」 「服はないわ。ここに連れてこられたとき、あんたがナイフで切り裂いて、あたしを裸にしたじゃない」 「代わりの服がある。あれを着るんだよ」  おれは二階から持ってきた、食卓の椅子の上に重ねておいた服を指さした。 「重山のマンションまで、あんたを連れていけば、それであたしを自由にしてくれるのね?」 「そこに浅原が姿を見せたらな」 「浅原と重山を殺すの?」 「殺してほしいのか?」 「あたしがあんたを重山のところに連れていったことがわかれば、あの二人はあたしのことを放っとかないわ。重山はきっとあたしを殺すわ」 「心配するな。重山にも浅原にも、おまえの姿は見えないようにするよ。だいじょうぶだ」 「あんたを信用するしかないわね。どっちにしろ、殺されたって仕方がないようなもんなんだから。あんたか重山のどっちかにさ」  最後は投げやりな口調で言って、ようやく緒方純子は、松永敏恵のパンティをはき、ジーパンに足を通し、ブラウスの上にセーターを重ね、ウールの古ぼけたハーフコートをはおった。 4  新宿で首都高速を下りたのは、夜の九時半だった。  緒方純子は、おとなしく助手席に乗っていた。おれは勝浦を出てから、ひと言も口をきかなかった。緒方純子も口を噤《つぐ》んでいた。彼女が口を開いたのは、新宿に着いて、道案内を始めたときが最初だった。  そのマンションは、井《い》の頭《かしら》通りから少しだけ南に入った場所にあった。あたりは静かな住宅地だった。  こぢんまりとした構えのマンションだった。車の中から、明かりのついた窓の並ぶ建物が、眼の中に収められた。緒方純子が、重山の部屋だと言って指さした窓には、明かりはついていなかった。緒方純子は、助手席でふるえていた。  おれは車をマンションの前から少しだけ前に移動させた。緒方純子を車から外に出して、トランクルームに移した。車の中におれと一緒にいるところを、浅原たちに見られたくはないだろう、と言うと、緒方純子は急いでトランクルームの中に体を入れた。  トランクのフードをきっちり閉めて、おれはマンションの前に引き返した。完全武装だった。防弾チョッキを革ジャンパーの下に着込み、ジャンパーのポケットは実包でふくらんでいた。拳銃はホルスターに入れて肩から吊っていた。ナイフは腰のベルトにはさんであった。  マンションの玄関に入り、ホールのメールボックスの列に眼を走らせた。重山満《しげやまみつる》というネームプレートのついたボックスがあった。部屋は四階だった。緒方純子が車の中から指さした部屋も四階だった。  エレベーターで四階に上がった。部屋の入口のドアの上にも、重山満のネームプレートが出ていた。ドアの下の隙間に眼をやった。中からの明かりは漏れてきていなかった。おれはドアに耳をつけた。何の音も聴こえなかった。ノブを回した。ロックされていた。インターフォンを鳴らしてみた。返事は返ってこなかった。  おれは車に戻った。トランクルームから緒方純子を出して、助手席に乗せた。車の向きを替えて、マンションの門の、人の出入りの見える近さに車を停めた。 「見られちゃうじゃないの。ここにいたら」  緒方純子が、声をふるわせて言った。おれは黙って、緒方純子の頭をつかみ、下に押しさげた。緒方純子は、体をねじり、姿勢を低くして、ドアの把っ手のあたりに頭を押しつけた。 「殺すの? 浅原たちを」  しばらくして、緒方純子がシートにうずくまったままで言った。 「浅原たちを殺す気なら、ここに出てくるときに、マナパットたちもおれは殺してるよ。おれが殺さなきゃならないのは、おまえらや浅原たちを使って、おれを殺そうとした張本人だけだ」 「だったら、あたしのことも殺さないのね」 「おれは殺人鬼じゃないぞ。殺し屋はやってたけどな。だから、ゼニのために仕事でおれを殺そうとした奴は見逃してやるさ」 「ありがとう……」  細い声で、緒方純子が言った。それから彼女は、押し殺したようなすすり泣きの声を洩らしはじめた。おれは放っておいた。彼女の涙の原因がなんであろうと、おれにはどうでもいいことだった。  その車が、マンションの門を入って、玄関の横手の駐車場に停まったのは、午前二時を回ったころだった。駐車場には明かりがついていた。玄関の明かりも、そのあたりまでひろがっていた。その明かりの中に、車の運転席から出てきた男が立った。重山だった。すぐに助手席からも男が降りた。  おれは助手席にうずくまっている緒方純子を小突いた。緒方純子が少しだけ頭を起こした。 「重山が帰ってきた。連れがいる。浅原かどうか、見てくれ」  おれはささやいた。緒方純子が、おれの肩に隠れるようにして、マンションの駐車場に眼をやった。 「そうよ。コートを肩にかけてるのが、浅原よ。黒のジャンパーが重山だわ」  緒方純子が言った。重山は車のトランクルームを開けて、中から何かをとり出そうとしていた。 「消えていいぞ。わかってるだろうが、警察に駆け込んだりするなよ。おまえも浅原とつるんで、おれを殺す仕事を手伝った人間なんだからな」  おれは言って、キーを抜き、車の外に出た。緒方純子はシートの上で動かなかった。  重山が、車のトランクルームのフードを閉めた。重山も浅原も、胸に大きな紙袋らしいものを抱えていた。二人は車を離れて、肩を並べて玄関に向かった。おれは足音を殺して、二人の後を追った。  エレベーターは、鉤の手になったホールの奥にあった。おれはホールの壁の角に体を寄せた。重山と浅原の話し声が聴こえていた。飛行機の予約のことを話しているようすだった。その声に重なって、エレベーターの降りてくる音が、低くひびいてきた。  おれはエレベーターが停まる音を聴くと同時に、足を踏み出した。 「二人とも動くな」  おれは拳銃を向けて、低い声を出した。同時に壁に飛びつき、エレベーターの扉の横のボタンを手で押した。扉を開けたままにしておくためだった。  浅原の腕の中から、抱えていた紙袋が落ちた。中から牛乳パックとトマトがとび出した。 「鬼頭、てめえ!」  重山が呻くような声を洩らした。歪んでいた浅原の顔が、それを聞いてさらにひきつった。 「二人ともエレベーターに乗れ」  おれは言った。二人は凍りついたように、動かなかった。おれは浅原の腰を蹴った。つんのめった勢いで、浅原はエレベーターの中に跳びこんだ。重山は自分から足を踏み出して、おとなしく浅原の横に行った。おれは床に落ちたままの紙袋や、牛乳パックなどを、エレベーターの中に蹴りこんでから乗った。浅原は、紙袋も牛乳も拾おうとしなかった。 「拾えよ。せっかく買ってきたんだろう?」  おれは言って、重山に銃口を向けたまま、四階のボタンを押した。四階で降りて、重山の部屋のドアを開けさせた。先に浅原を中に入れた。おれは後ろから重山のジャンパーの襟首をつかみ、背中に銃口を押し当てて、中に入った。ドアを足で閉め、そのままおれは土足で上がった。緒方純子が言ったとおりだった。小さな玄関から、ゆったりとしたワンルームの室内から、どこもかしこも花だらけの部屋だった。  床には淡いグレーの、ループの絨毯が敷いてあった。セミダブルのベッドには、サテンの青紫色のカバーがきちんとかけてあった。  おれは二人を、床にうつ伏せにさせた。両手をまっすぐ前に伸ばして、床に置かせた。重山の後頭部に、銃口を当てた。そうしておいて、浅原のネクタイを解いて、それで重山の両手を後ろ手に縛るように命じた。浅原はそうした。終わると浅原をふたたび、床に伏せさせた。おれは拳銃をホルスターに戻し、ナイフを手に持った。浅原の耳をつまみ、耳の付根にナイフを当てた。 「誰がおまえらを使って、マナパット・レイエスにおれを消させようとしてるのか、おれは知ってる。突き止めたんだよ。だが、そいつの名前をお前の口から聞きたいんだ。言ってくれ」  おれは言った。浅原の口から洩れたのは、呻くような声だけだった。おれはナイフを引いた。浅原の耳の付根を、ちょうどナイフの刃の幅の分だけ切り裂いて、手を止めた。絨毯に血が滴り落ちた。浅原は血の気を失っていた。 「言いたくないか?」  おれは言って、人さし指を浅原の首に当て、頸動脈を探った。そこにナイフを当てた。 「言いたくなきゃ、死ね。ここを刺してやる。楽に死ねるからな」  おれは言って、左手で浅原の頭を押さえた。それで浅原は、ほんとうに殺されると思ったようだった。奴はかすれた声で、小花沢忠俊の名前を言った。名前だけが、浅原の口からとび出してきた。 「これから、広尾の小花沢の家に行く。おまえも一緒に行ってもらうからな」  おれは言って立ちあがった。フロアスタンドのコードを抜き、接続口をナイフで切った。それを浅原の前に投げて、重山の足を縛るように命じた。  浅原がのっそりと起きあがった。立ちあがると見せて、浅原は床に膝を突いたまま、とびついてきて、おれの膝を抱えこみにきた。おれは反射的に体を開き、ナイフで浅原の腕を払った。ナイフは浅原の頬と手首のあたりを切り裂いた。倒れかかってくる浅原の顎《あご》を蹴りあげた。蹴りはカウンターとなって、まともに的を捉えた。浅原は顔を床に叩きつけて倒れた。  同時に、おれは脇腹に重山の蹴りをくらった。重山は完全に立ちあがっていた。重山の蹴りがまともに入った。一瞬、息が詰まり、体の力が抜けた。倒れまいとして踏み留まった分だけ、キックのダメージは大きかった。  体を折ったおれの顔面に、重山の膝蹴りがとんできた。体勢を立てなおす間はなかった。膝蹴りももろに入った。眼がかすんだ。意識がふっと遠のきかけた。おれは床に片膝を突いた。ナイフを持った右手は、体でガードした。三発目の回し蹴りが、後頭部にとんできた。おれは体を投げ出して、やっとのことでそれをかわした。  蹴りを空振りした重山が、バランスをくずして尻餅を着いた。両手を後ろ手に縛られていたせいだった。立つのはおれのほうが早かった。重山は立ちあがろうとしてもがいていた。両手を使えないのは、奴にとっては大きなハンディだった。浅原も立ちあがろうとしていた。意識が戻ったようすだった。  おれは浅原の頭を蹴った。浅原はその一発で、また眠りこんだ。おれは重山が立ちあがるのを待った。ナイフはベルトにはさんだ。立ちあがった重山の膝頭を蹴った。よろめいた重山の腰を蹴った。重山は浅原の上に倒れこんだ。重山の眼に、初めて恐怖の色が浮かんだ。おれは重山の顔面を蹴りあげた。重山は背中の下に浅原を敷いたまま、後頭部を床に打ちつけて、仰向けにころがった。おれは重山の頭を蹴り、顔を踵で蹴りつけた。それをくり返した。額から汗が滴り落ちるまでつづけた。靴の爪先が破れ、踵の底がとれた。それで蹴るのを止めた。重山の顔面は血で染まっていた。鼻がつぶれ、前歯が欠けていた。重山は目を閉じて、ぐったりとなっていた。死んではいなかった。呼吸をしていた。意識は失っていたかもしれない。  おれはスタンドコードで重山の両足を縛った。手も縛りなおした。ベッドカバーを剥ぎ、枕カバーを丸め、ナイフでこじあけた重山の口に押し込んだ。最後に、電話のコードをナイフで切った。  浅原は意識を取り戻していた。おれは浅原を立たせた。 「殺したのか? 重山を……」  浅原がうわずった声を出した。 「運がよけりゃ、死なずにすむだろうよ」  おれは言って、浅原の腕をつかみ、玄関に向かった。 「おまえも運がよけりゃ、死なずにすむ。生きていたけりゃ、おとなしくして、おれの助っ人をつとめろ」  おれはエレベーターの中で、浅原に言った。 「何をやらせるんだ? おれに」  浅原は、血まみれの顔をおれに向けてきた。奴の目は、恐怖で灰色ににごっていた。 「小花沢のマンションの玄関のドアは、オートロックだ。インターフォンでおれの名前を言ったって、ドアを開けてくれるわけはないが、おまえなら開けてくれる。なんでもいいから、口実を使って、おれが小花沢の家の中に入れるようにしろ」 「それはだめだ。あの先生は、おれとは絶対に自宅では会わないよ。インターフォンでおれの名前を言ったって、秘書が出てきて、浅原なんて男は知らないって言うに決まってるんだよ。そういう約束になってるんだ。でも、いい手がある」 「なんだ?」 「朝日が昇るころに、あの先生は雨さえ降らなきゃ、必ずマンションの屋上に出てきて、太陽を拝んでから、太極拳か何かの体操のようなことをやるんだ。嘘じゃない。屋上にはエレベーターを使わなくても、非常階段で上がれる。あんたが信用しないっていうのなら、おれも一緒に屋上まで行くよ」  浅原はそう言った。おれはその話を信用してみることにした。  緒方純子の姿は車の中から消えていた。おれは浅原を車のトランクルームの中に押し込んでから、広尾に向った。午前三時ちょうどだった。 5  陽が昇りはじめていた。  屋上は、凍《こご》えるほどの寒さだった。身を切るような強い風が吹いていた。  おれは屋上の出入口の、ドアの横の壁に体を寄せていた。浅原はおれの前に背中を見せて、しゃがみこんでいた。  階段を上がってくる足音が、ドアの向こうから聴こえてきたのは、午前六時二十分だった。浅原が立ちあがって、ひきつった顔をおれに向けた。おれは浅原を立たせて、並んで壁に背中をつけさせた。おれはナイフを手に持った。  聴こえてくる足音は二つだった。音のひびきはやわらかかった。ゴム底の靴の足音のようだった。  ドアが勢いよく開けられた。見事な銀髪の大柄な老人が、厚手のウールのジャンパーを着て、毛糸の帽子をかぶった姿で現われた。おれがテレビや新聞の写真で見知っている、小花沢忠俊にまちがいなかった。  小花沢の後ろには、ウインドブレーカーを着た、三十代半ばの眼鏡をかけた男がついていた。二人は、そこに立っているおれと浅原の姿が、目にとまらなかったようすで、そのまま屋上の中ほどに向かって進んでいった。  おれは浅原の服の襟をつかんで、足を踏み出した。前を行く小花沢と、ウインドブレーカーの男が足音に気づいてふり向いた。  最初に小花沢の口が歪み、そこから低い唸り声が洩れた。わずかに遅れて、ウインドブレーカーの男が、おれの手のナイフに目を走らせて、大きな叫び声をあげた。  ウインドブレーカーの男は、小花沢の前に立ち、腰を沈め、後ろにひろげた手で、小花沢の体をかばうかまえを見せた。 「おれは鬼頭だ。浅原の顔は知ってるな、小花沢さん」  おれは言った。 「知らんね。朝の日課の邪魔をせんでくれ」  小花沢は言った。声がわずかにうわずっていた。 「知らないそうだ、浅原。おまえのことは」  おれは言った。浅原は襟をつかんだおれの手をふりほどくようにして、土下座をした。おれは浅原の後ろに回った。 「先生! 申しわけありません!」  浅原がコンクリートの床に両手を突いて、額を床にすりつけた。 「ゼネラル通商の鳥井敏彦を殺す仕事の依頼人は、あんたと、東南アジアのなんとかって国の大統領だったってことも、おれは突き止めてきた。その殺しの仕事を、おれのところに仲立ちしたのは、松永敏恵という女だが、松永敏恵が、むかしあんたが新橋の芸者に産ませた娘だってことも、ついでにおれは突き止めてきた。あんたが知らないんじゃないかと思ってね」 「なんだって!」  小花沢忠俊の目が皿になった。 「松永敏恵は、父親のあんたに死んでもらいたいそうだ。おれもあんたを生かしとくわけにはいかない。おれはむかし、殺し屋だった男だが、小花沢さん、あんたも裏に回れば人殺しと変わらない面《つら》だ。往生際《おうじようぎわ》ぐらいきれいにしたほうがいいな」  おれは言った。  最初に動いたのは、浅原だった。浅原は跳ね起きるようにして立ちあがると、屋上の出入口のドアに向かって疾走した。おれはナイフを低くかまえて、足を踏み出した。  秘書らしい男が、ウインドブレーカーを脱いだ。男の目は吊りあがり、顔から血の気が失せていた。小花沢忠俊の端整な顔も、まるでひび割れでも入ったように、青ざめたまま歪《ゆが》んでいた。 「そこをどいてくれ。親分と一緒に命を落としていいっていうのなら別だけどな」  おれは男に言った。恐怖の極みの発作に襲われたように、男がすさまじい叫び声を放ち、ウインドブレーカーを振り回して、突っこんできた。おれは体を低くして、踏み出してきた男の大腿を、ナイフで横に払った。男はそのまま体当たりしてきた。組み止めたとき、おれの手からナイフが落ちた。  小花沢忠俊が、両手を横にひろげてパタパタやりながら、不様《ぶざま》な恰好で、屋上の出入口に向かって走り出した。おれは、腰に組みついた男の首の下に腕をさし入れ、締めあげながら、腹に膝蹴りを連発で入れた。男はしぶとかった。おれは男の首を放し、ホルスターの拳銃を抜き、グリップで男の後頭部を殴りつけた。  男がコンクリートの床に膝を突いた。おれの腰を抱えこんでいた男の腕から力が抜けた。おれは体を回し、男をそこに引き倒して、走り出した。よたよたと走る小花沢の姿が、出入口のドアの向こうに消えるのが見えた。  おれはドアに体当たりして中にとびこんだ。階段の途中の踊り場で、小花沢に追いついた。小花沢はなおも階段を駆け下りようとして、足を踏みはずした。奴は手足を宙に躍らせながら、短い階段をころげ落ちた。落ちながら奴は、悲鳴に近い声をあげた。恐怖のあまり、声が出たのか、助けを求めるつもりだったのか、それともおれに命乞《いのちご》いをするつもりが、ことばにならなかったのか、どっちかだろう。  その声で、廊下に並んだドアのいくつかが中から開けられ、そこから人が顔をのぞかせた。何人かの者たちが、そのままドアを開けて廊下に出てきた。それはおれにとっては予想外の事態だった。  おれは肚を決めた。小花沢忠俊は、エレベーターの扉の前にころがったまま、裏返しにされた亀さながらに、手足を上にあげて、ばたつかせていた。おれは拳銃のスライドを引いた。廊下で叫び声が聴こえた。警察、と叫ぶ声もおれは聴いた。  弾倉には七発の実包が装填《そうてん》されていた。おれは五発を小花沢の大柄な上体に撃ちこんだ。二発は頭を狙った。あっというまに、弾倉は空になった。跳ねとんだ薬莢《やつきよう》が床に散った。小花沢の、長年にわたって悪事の企みに使われてきたはずの頭は、半分だけが吹っとんでいた。  三分とたたないうちに、パトカーがやってきた。おれはエレベーターの前で、小花沢忠俊の死体と共に、警官の到着を待った。  その日のうちに、マナパット・レイエス、セベ・マリノ、緒方純子、浅原雄二、重山満の五名が、逮捕された。  松永敏恵が、新橋の彼女の店の中で、柳刃包丁を喉に突き立てて死んだのは、その翌日の夜明けだった。自殺だった。  おれは取り調べに当たっている刑事から、それを聞いた。松永敏恵は、おれ宛の短い遺書を残していた。 〈生まれかわって、もう一度あなたと出会うことを、この世の最期の夢として、自分の身を始末することにしました。こんどはもっとましな出会いとなることを祈ります〉  おれは遺書をたたんでポケットに入れた。刑事は咎《とが》めなかった。 本書は、一九九三年一一月にスコラ社から出版された「血の勲章」を改題し、一九九四年一〇月に講談社文庫として刊行された作品です。