勝目 梓 媚 薬 目 次  燭 台  義 歯  切 株  負い目  白い壁の部屋  髪  香 水  媚 薬  燭《しよく》 台《だい》  ドアを開けると、カウンターの中から、ママが眼を投げてきた。  ママの顔に、曖昧《あいまい》な翳《かげ》がひろがった。店は込んでいたが、空《あ》いた席がないわけではなかった。浅野は、どうしたの、と眼でママに問いかけた。  ママの視線が、長いカウンターの奥の端にすっと流れていった。そこに昭子の姿があった。  浅野はママの困惑を理解した。昭子は六年前まで、浅野の妻だった女である。別れてからは、一度も顔を合わせていない。  浅野のほうが、強引に押し切った形の離婚だった。会えば怯《ひる》む気持が、浅野にはある。昭子はまだ、浅野が入ってきたことに気づいていない。連れがあるようすだ。このまま消えちまおうか、と浅野は考えた。  ママが浅野に視線を戻した。眼が合った。 〈まずいんじゃないの?〉  ママの眼が言っていた。それが浅野に虚勢を張らせた。 〈平気、平気。親の仇ってわけじゃないんだから……〉  胸の中でママに言って、浅野はドアの近くのカウンターの席に着いた。昭子の席とは、止り木で七つほど離れている。間は客で埋まっていた。  浅野はたばこを出しながら、昭子のほうに眼をやった。客たちの肩ごしに、昭子の笑った横顔が見えた。六年前と比較すると、頬が丸くなったように見える。記憶にある彼女の頬の雀斑《そばかす》は、ここからは見えない。  小さな笑い声があがった。昭子も肩をゆすって笑っていた。連れは二人だった。一人は女だった。  ママが、酒の棚から、浅野のウィスキーのボトルをおろした。昭子がそれを見ていた。ボトルのラベルの上には、浅野の名前が大きく書かれていた。  ママはボトルを両手で持って、浅野の前にやってきた。昭子がカウンターの上に首をさしのべて、探るような眼を浅野に向けてきた。浅野は昭子に会釈《えしやく》を送った。表情が硬《かた》いのは、自分でもわかっていた。昭子は、連れとの笑いの残ったままの顔で、小さく頷《うなず》き返してきた。平静なようすだった。  ママはボトルを持ったまま、気まずそうな笑いを見せて、浅野と昭子を交互に見やった。浅野はくわえたままにしていたたばこに、火をつけた。昭子は、連れとのやりとりの中に戻っていった。 「水割りでいいのね?」 「濃いめのやつね。気を遣《つか》わしちゃったな、ママ」 「何年になる? 別れてから」 「六年かな」 「それじゃあね。会ったからって、いまさらどうってこともないか。ずっと会ってなかったんでしょう?」 「一度も。まさかママんとこで鉢合《はちあ》わせするとは思わなかったな。よく来てるわけじゃないんだろう? 敵は……」 「敵はよしなさいよ。浅野さんが敵って言うことはないわよ」  ママは小声で言って、浅野を軽く睨《にら》んだ。浅野は笑って、天井に顔を向け、たばこの煙を吐いた。 「六年間、一度も昭子さんは見えなかったわ。今夜は偶然よ。お連れさんに誘われたんだって」 「連れのほうは、よく来る人?」 「新しい常連さんてとこね。建築関係の雑誌社の方なの」 「女の人のほうも?」 「そうみたいよ。気になる? 昭子さんの連れのこと」 「まさか。おれ、そんな顔してる?」 「浅野さん、材木屋だから」 「材木屋?」 「そう。木が多い。気が多い」 「おもしろいねえ。笑ってあげましょう」  ママはいつもの顔になって、浅野の前から離れた。水割りは充分に濃いめだった。浅野は灰皿でたばこを消しながら、昭子のほうに眼をやった。待ち受けていたような昭子の眼が、そこにあった。昭子も灰皿でたばこを揉《も》み消していたところだった。眼が合うと、昭子はかすかにほほえんだ。浅野も釣られたように、表情をゆるめた。  昭子がたばこを吸うところを見てみたい。浅野は、ふっとそう思った。昔は昭子はたばこは吸っていなかった。  新しい客が、四人連れで入ってきた。  四人が一緒に坐れる席はなかった。カウンターの他には、うしろの壁ぎわにテーブルが一つだけ、という小さな店なのだ。  すぐに、昭子たちが帰る支度《したく》をはじめた。浅野は二杯目の水割りにとりかかっていた。  昭子たち三人が、ドアに向ってやってきた。浅野はいくらか構える気持になった。昭子とことばを交《かわ》さずにいるわけにはいかないだろう。 「ごめんなさい。あたし、ちょっと残るわ」  昭子は、浅野のうしろで足を止めて、連れの二人に声をかけた。 「そう。じゃあ、お先に……」  連れの二人は、意外な顔もせずに言って、短い視線を浅野に向けた。浅野は無視した。連れの二人は、浅野が昭子の知合いであることを聞かされていたようすだった。女のほうが、ドアのところで昭子に手を振った。昭子も浅野の頭のうしろあたりで、ひらひらと手を振って応《こた》えた。そのようすが、浅野の正面の酒の棚の扉のガラスに、ぼんやりと映っていた。  浅野の隣の止り木は空いていた。昭子はカウンターにバッグを置き、両手でスカートの裾を押えて、止り木に腰をおろした。 「しばらく……」  バッグを膝の上に置いて、昭子が言った。 「元気そうじゃないの。飲む?」  浅野は昭子のほうに顔を向けた。薄い化粧の下に、頬の雀斑が見えた。 「いただこうかな」 「水割りでいいの?」 「お酒、強くなったのよ。何でも飲めちゃうの」  昭子は笑って言って、バッグからたばこの袋と使い捨てのライターを出し、カウンターに置いた。浅野は前の白い布の上に伏せて並べてあるグラスを勝手に取り、氷をつまんで入れた。昭子はライターをつけた。  酒が強くなった、と言った昭子のことばが、浅野の中に残っている。酒が強くなったのは、あなたのせいよ、と言われている気がしてならなかった。昔も昭子は酒を飲んでいた。それは浅野の相手で飲む、といった程度だった。  こしらえた水割りを、浅野は黙って昭子の前に置いた。ママは意識してか、離れたところで他の客の相手をしていて、寄ってこない。 「ありがとう」  昭子がグラスを取って小さく宙に浮かせた。グラスはそのままそこに留まっている。乾杯の催促か、と浅野は思ったが、気づかぬふりをした。昭子はわずかに首を突き出すようにして、グラスに口をつけた。 「変らないわね、あなた」 「腹が少し出てきたよ」 「あ、ラクしてるんだ。三十五でお腹が出るのは、ちょっと早いと思うな」 「ラクなんかしちゃいないけどね」 「あたし、変ったでしょう?」 「少し痩《や》せたのか?」 「体重は変らないの。そんなことじゃなくて、貫禄ついたと思わない?」 「酒は強くなったし、たばこも吸うようになったからな」  昭子は、前を向いたまま、含み笑いを洩《も》らした。何を考えているのかわからない、といった女に見えた。そういうところは、たしかに以前の昭子ではなかった。それはしかし、昭子の言う貫禄というようなものとは、別のことに、浅野には思える。手強《てごわ》い女になったように見えるな——そういうことばが、浅野の喉元《のどもと》でせき止められた。 「よく飲んでるのかい? お酒」 「週に一日だけ。飲まない日がね」 「すごいね」 「なんとなく、飲む友だちばかりが増えていくの。不思議ね。お酒でおつきあいが始まるわけじゃないんだけど」 「さっきの二人も飲み友だち?」 「みたいなものね。はじめはお仕事で知合ったんだけど」 「仕事、忙しい?」 「ここんとこ、そうでもないの。いま必死でワープロの練習してるの。そのうちに、速記もワープロ叩いて取る時代になると思うの。速記という仕事、いずれはなくなるんじゃないかしら。音声を活字にしてしまうワープロだって、いずれ普及するでしょうし」 「だけど、先の話だよ、それは……」 「そうでもないわ。見えてる先だもの。心細い話……」  ことばほどには、昭子は深刻なようすではない。 「ごめんなさい。つまんない話になっちゃった。あたしね、実は今夜、期待してたんだ」  昭子は小声で言って笑った。浅野に向けた彼女の眼の奥に、細い光が揺れていた。そこで顔を合わせてから、昭子がはじめて見せた、生々しい表情だった。 「何を期待してたんだい?」  浅野は、昭子から眼を逸《そ》らして、グラスに手をのばした。 「誘われてここに来たんだけど、ひょっとしたら、浅野サンが現われるかもって思ったの。棚に浅野って書いたボトルがあったし、ママに訊《き》いたら、あいかわらずよく来てるって言うから」 「うさぎで飲もうって誘われたとき、ヤバイって思わなかった?」 「思った。思ったけど、別れた亭主の馴染《なじ》みの店だから、うさぎはいやとは言えないでしょう」 「怖い偶然てやつだ」 「怖いと思ったの? 浅野サンとしては」 「ハッキリ言って、逃げようと思った」 「そうかもね。それ当ってる。あたしは、意地のわるーい気持で、浅野サンの現われるの期待してたんだもの」 「あんまりいじめないでくれよ。でも、さっき、最初に顔が合ったときは、意地のわるい感じには見えなかったのに……」 「ばかね。冗談よ。あたし、いま三十四よ。浅野サンと別れたのが二十八のとき。女の二十八から三十過ぎまでって、忙しいのよ。いろいろとね。ほんと、忙しい。いつまでも浅野サンのこと恨《うら》んで泣いてる暇なんかなかったの」  昭子は冗談めかした笑いを見せていた。いろいろと男のことで忙しかったわけだ、と言いかけて、浅野はそのことばを酒と一緒に呑《の》みこんだ。  離婚後の昭子の暮しぶりについては、浅野は何も知らない。同じ東京に住んでいても、消息は伝わってはこなかった。昭子に新しい相手ができて、落着いた日々を送っていればいいが、という気持が、ときに浅野の胸に湧いて出るときもあったのだ。  だが、思いがけなく顔を合わせたいま、そうしたことを昭子にたずねるのは、やはり浅野には気のひけることなのだ。自分で谷から相手を突き落しておいて、どうだい、無事かね、と声をかけるようなものだ。 「万里子ちゃんて言ったっけ。大きくなったでしょう」 「うん」  昭子は、浅野の娘のことを言っている。万里子は、浅野が昭子と別れる原因となった女との間に生れた子供だった。 「どう? うまくいってる?」 「なにが?」 「なにがって、きまってるじゃない。浅野サンは、よき夫であり、よきパパであろうとして、まじめにおとなしく暮してますかって訊いてるの」 「きみにそういうことを訊かれると、やっぱり棘《とげ》を感じるな」 「棘なんかないわよ。あたしはフランク」  昭子は真顔で言った。ママがやってきて、灰皿をとりかえた。 「安心した。血の雨かと思ったけど」  ママはカウンターごしに身を乗り出してきて、浅野と昭子を交互に見ながら、笑った。 「いびられてるんだよ、ママ」 「今夜は特別にお酒、おいしいでしょう、昭子さん」 「そらそうだよな。酒の肴《さかな》がいいもの」 「そうね。別れた亭主いびりながらの酒が、こんなにおいしいとはしらなかったわ」  昭子が言って、三人は笑い出した。 「でも、いじけないでね、浅野サン」 「酒の味が落ちるってんだろう。わかってますよ。どうせおれは酒の肴だよ。しかし、それにしても、きみは酒もたばこも、ほんとにうまそうに飲むねえ」 「変るのよ、女は。ねえ、ママ……」 「そうよ。男で苦労して、味がでてくる。捨てたほうの男が、後で惜しくなるぐらいに」  ママはそう言って離れていった。  浅野は、昭子と一緒にうさぎを出ることになった。  昭子を置いて、先に腰を上げるのは、なんとなく具合のわるい思いがあったのだ。そのまま帰りそびれているうちに、うさぎは閉店の時刻を迎えていた。  新宿の区役所通りは、車の列で埋まっていた。浅野は、飲んだ酒の量のわりには、酔いが回りきらないまま、どこかでくすぶっているのを感じていた。昭子もかなり飲んでいたのだが、酔ったようすは見えない。 「浅野サンは、ずっと鷺宮《さぎのみや》?」  ビルを出たところで、昭子が浅野の住んでいる場所を訊いた。 「鷺宮のアパート住まいだよ。いまだに」 「あたしは中野。新井薬師前《あらいやくしまえ》の駅の近く。途中で落っことしてもらいたいな」  昭子は、何の屈託もないようすだった。浅野は頷いた。断わる理由はなさそうだった。それほどの回り道でもないのだ。  タクシーをつかまえやすい時刻になっていた。浅野は、先に乗って、運転手に行先を告げた。車が走り出すと、二人の間に沈黙が生れた。うさぎではあれほど快活にしゃべっていた昭子も、シートの暗がりの中で押し黙っている。そういう昭子のようすは、六年前の別れ話をつづけていた頃の彼女を、浅野に思い出させた。すると、車の中の沈黙が、ことさら浅野には気まずいものに感じられる。  それから逃れようとして、いろんなことばが浅野の喉元までせりあがってくる。六年前の仕打ちを、あらためて詫《わ》びようとする科白《せりふ》まで、浅野の胸に生れてくるのだった。そして彼は、その沈黙によって、昭子に仕返しされている、といった気持にすらなった。 「遅くなっても、平気? お家のほうは」  ようやく昭子が口を開いた。浅野はやっと息ができる、といった気持になった。 「平気だよ。いつも遅いんだ」 「無理してるんでしょう」 「そんなことはないさ。きみのほうこそ、だいじょうぶなの?」 「あたしはあなたと違うもの。午前さまだろうと、朝帰りだろうと、文句言う相手はいないわ」 「ずっと一人なの?」  訊けずにいたことが、すらりと口から出ていた。 「ずっと一人……」  鸚鵡返《おうむがえ》しの返事が来た。 「いろいろと忙しかったんじゃないのかい。おれへの恨みを忘れてしまうぐらいに……」  浅野は運転手の耳を気にして、小声で言った。聴きとりにくかったのか、昭子が浅野のほうに上体を傾けてきた。肩が触れ合った。浅野は、八年近くの結婚生活で馴染んでいた昭子の肌を思い出していた。昭子の乳房が、見くらべてはっきりそうとわかるほど、左のほうが大きいことや、下着に覆われている場所にある大きな黒子《ほくろ》のことなどが、頭に浮んだ。 「忙しかったわよ。いろいろと。でも、結局一人よ」  昭子の押えた声が、耳もとでひびいた。いくらか疲れたように声はひびいた。 「まったくの一人なの?」 「きれいなもの。寂しいくらいにね」 「信じられないな」 「寄っていかない。部屋に……」 「まちがいなく一人暮しだってところを見せたいわけ?」 「ばかね。そんなことしなきゃならない理由がある? あたしに。お茶でも飲んでいけば。お酒だっていいけど……」 「妙な具合だな」 「そうよ。妙な具合よ」 「まだ、いびりたりないわけね、おれを」 「ほんとにいびられてる気なの?」 「そこがどうもね。いまいち、はっきりしない」 「あいかわらずね、浅野サン」 「なにが?」 「ずるいとこ……」 「いま、おれ、ずるいかね?」 「あたしもずるいけど……」 「寄っていくよ。きみんとこに」 「そうこなくっちゃ。六年前に、あなたはあたしを途中で落っことして行っちゃったんだから、今夜は同じことしないで」  昭子は肩を離して、傾けていた上体を起した。昭子の息の温《ぬく》もりとかすかな湿りだけが、いっとき浅野の首のあたりに残っていた。  細い道を入った奥に、昭子の住むアパートはあった。外壁の白い、まだ新しい感じの建物だった。  浅野は、昭子のうしろに並んで、外階段を上がった。ドアの横に洗濯機が、うっすらと埃《ほこり》をかぶって置かれていた。洗濯機の横に、枯れた草花の植木鉢が二つ並んでいた。  昭子がドアを開けて、明りをつけた。小さな台所と、浴室と、八畳の部屋が一つという住まいだった。  浅野は中に入るとすぐに、トイレを借りた。トイレは浴室と一緒になっていた。小さな浴槽の蓋《ふた》の上に、汚れた洗濯物でいっぱいになった籠《かご》が置かれていた。  浅野は立って用を足しながら、せまい浴室を見まわした。浅野の知っている昭子は、掃除や洗濯に手を抜くことをしない女だった。いつでも家中が磨《みが》き立てられている、といったふうだった。だが、その浴室は、磨き立てられてはいない。  だからどうだというわけではなかったが、浅野は自分の放尿の音を耳にしながら、遠いところに来ている、といったぼんやりとした思いに包まれた。 「お酒? お茶? コーヒーもあるけど」  トイレから出てきた浅野に、昭子が言った。昭子は部屋の隅で背中を向けて、着替えをしているところだった。ブラジャーをはずした、肉の薄い、小さな背中が見えていた。 「やっぱり酒だな。こうなったら……」 「こうなったらって、どうなったの?」 「だから、こうなってる」  浅野は自分の卑《いや》しさ、図々しさを嗤《わら》いながら、うしろから昭子を抱いた。細い体が、浅野の腕の中で小さく跳ねた。浅野は、昭子の襟足《えりあし》に唇を軽くつけた。 「待って。お酒の支度するから」  昭子は低く笑った。浅野は抱きしめた腕を離して、窓の横の机の前の椅子に坐った。昭子は、裾が足首まである長袖のTシャツのような、オフホワイトの、服とも寝間着ともつかないものに着替えて、台所に行った。  小さな机の上には、辞書やテープレコーダーやカセットテープ、ゲラの束や原稿の束などが、重ねたままいくつか並んでいた。横にはワープロが置いてあった。  その机と椅子に、浅野は覚えがあった。昭子は、浅野と一緒に暮しているころから、その机と椅子を使って、家で速記の仕事をしていたのだった。机も椅子も古びていた。 「坐って飲まない?」  盆を抱えて戻ってきた昭子が、カーペットの床に腰をおろして言った。浅野は昭子の前に行って、腰をおろした。 「おもしろい話があるの」  水割りをこしらえながら、昭子がいたずらっぽく笑った顔を、浅野に向けた。 「なに?」 「女流作家のミステリの中に出てきた話なんだけど、アメリカのギャラップかどこかの世論調査所が、男性の夜の行動をいろいろ調べて、統計を取ったんだって」 「夜の行動ね」 「その中に、男性が夜中に起きてベッドを離れる理由を、それぞれ集計した数字があるわけ。それによると、夜中に起きる人の十パーセントが、水を飲むためで、十五パーセントが、お風呂に入るためなんだって。で、残りの七十五パーセントは何だと思う?」 「トイレかね」 「ハズレです。残りの七十五パーセントの男性は、家に帰るために、夜中にベッドを出るんだって。おもしろいでしょう」 「うまいね。作り話だろうけど」 「あたしが作ったんじゃないわよ」  昭子は笑って、水割りのグラスを、浅野の前に置いた。浅野も笑って、グラスに手を出そうとした。その手を昭子が押えた。 「ちょっと待って……」  昭子は立ち上がって、本棚の前に行った。本棚には、立てられた本の列の前に、さまざまな形をした燭台が並べられていた。小さな銀製のもの。銅で蔦《つた》の葉をかたどったもの。中世のヨーロッパの衣裳を着た人形を、そのまま燭台にしたもの。それらには、浅野も覚えがあった。昭子は昔から燭台が好きで、珍らしい形のものを見つけては、買い集めていた。  燭台そのものが好きだったというのではないらしい。昭子は蛍光灯の光を嫌っていた。温みがないというのだ。それで、二人が一緒に暮しているころから、部屋の明りを消して、蝋燭《ろうそく》の光の中で寝酒を飲む、ということがよくあった。そういうときの昭子は、ベッドの中で、いつになく大胆になったものだ。  蛍光灯嫌いが、昭子を燭台のコレクターにした、と言ったほうが正しいだろう。離婚してから、昭子のコレクションは、さらに数を増したようだった。それは、二つある本棚のすべての棚を埋めつくしていた。  浅野は、そこに並べられた燭台に眼をやりながら、吐息を洩らしそうになった。彼は、一人暮しの三十四歳の女が、夜ふけに蝋燭の明りの中で、ぽつねんと坐って酒を飲んでいる姿を想像したのだ。冷えびえとした切なさが、胸の底から湧いてきそうな場面に思えてくる。 「どれにしようかな」  昭子は歌うような調子で言って、燭台の列の前で指を動かしていた。 「だいぶ増えたんじゃないか? 燭台」 「そうね。海外旅行に行った人のおみやげに貰《もら》ったものも、結構あるから」 「みんな知ってるんだ、もう。きみが燭台を集めてるって」 「そういうわけじゃないんだけど、おみやげ何がいいって訊かれたら、燭台って言うことにしてるから」 「ねだってるみたいなもんだな」 「これ、シンガポールのおみやげ。おもしろいでしょう」  振り向いて、昭子は皿の餌《えさ》をついばんでいる鳥をかたどった、木彫の燭台を手にのせて見せた。餌の皿に蝋燭を立てるようになっていた。 「これがいいかな、やっぱり……」  時間をかけて昭子が選んだのは、その鳥の燭台と、クリスタルガラスの燭台の二つだった。ガラス製のほうは、ピンポン玉ほどの大きさの球に、多面体のカットをほどこしたものを、串ダンゴのように重ねたデザインのものだった。  二つの燭台に新しい蝋燭が立てられ、床に置かれて火がつけられた。電灯を消して、昭子が床に坐った。空気がそよいで、長く伸びた蝋燭の炎がゆらいだ。 「お待たせ」  昭子が言って、グラスを手に取った。浅野は、昭子が乾杯を求めてくるものと思って、グラスを手にした。うさぎでは乾杯することにこだわりがあったが、今なら平気だ、と思った。  だが、昭子は眼を上げることもせずに、手にしたグラスをまっすぐ、口に持っていった。浅野のグラスは、一瞬、宙に迷った。浅野は、はぐらかされた気持のまま、グラスに口をつけた。 「一人のときも、こうやって蝋燭の火を見ながら、やっぱりお酒飲んでるの?」 「そうよ。あぐらかいて、たばこ吹かしながらね」 「昔、こうやってよく飲んでたなあ。もっとも、あの頃はきみはまだ、そんなに酒は強くなかったけど」 「覚えてる?」 「覚えてるさ」 「忘れたこともあるでしょう?」  昭子の声が、不意に冷えていた。浅野は戸惑《とまど》った。 「何も言わないのね、浅野サン」 「何も言わないって、何を?」 「忘れちゃってるんだわ、この燭台のこと」  昭子は言って、クリスタルガラスの燭台のほうに顔を向け、細く息を吹きかけた。蝋燭の炎が大きく揺れて、消えそうになった。蝋の小さな受け皿と、多面カットの球に映っていた無数の小さな炎の色も、一緒にゆらめいた。すると、ガラスの燭台全体が、きらめきながら揺れているかのように眼に映った。  浅野はそのようすにぼんやり眼を向けていた。その燭台について思い浮ぶことは、なにひとつなかった。 「ばかね、あたしって……」  昭子はうつむいたまま言った。声が湿っていた。 「どうしたんだい、いったい?」 「どうもしてないわよ」  昭子は言って、今度は勢いよく、ガラスの燭台の火に息を吹きかけた。火はむしり取られでもしたように消え、細い煙があがった。 「この燭台、浅野サンがプレゼントしてくれたのよ」 「そうだったかな」  浅野は少し怯んだ口調で言った。彼にもようやく、昭子が咎《とが》めるような態度を見せはじめた理由が、うっすらとわかりかけていた。 「忘れてたからって、別に不思議じゃないかもしれないわね。結婚する前の年のクリスマスプレゼントに、この燭台をもらったの。あたしはコバルトブルーのVネックのセーターをあげたの」 「そうだったね。思いだしたよ」 「つまらないこと、思いださせちゃったわね。気にしないで」  昭子の声も口調も、さらに冷たいものになっていた。  浅野の記憶がはっきりした。あのとき、クリスタルガラスの小さな燭台を箱から取出すと、昭子はすぐにそれに蝋燭を立て、火をつけ、炎に息を当てては、炎の色がガラスの受け皿や多面カットの球に映るようすに眺め入り、嘆声を洩らしつづけたのだった。 「十四年前のクリスマスだったな」  ばつの悪い思いで、浅野は言った。 「へんに取らないでね、燭台のこと……」 「へんに?」 「あたし、浅野サンを試そうとしたわけじゃないのよ。燭台のこと、覚えてるかどうか」 「試されたとは思っちゃいないさ」 「試す気はなかったけど、この燭台見て、浅野サンが何か言うかもしれないって気持はあったのよ」  昭子は、片手を床に突き、横坐りになった体を少し傾けて、ガラスの燭台に眼を投げていた。一本だけになった蝋燭の光が、昭子の横顔に暗い翳りをつけていた。  浅野は、グラスの酒をあけた。胸に苦いものが溜まっていた。 「七十五パーセントの男たちが、家に帰るためにベッドを出るような時間だな」  浅野は軽い口調で言って、立ちあがり、ドアに向った。昭子がひっそりと笑った。 「ごめんなさい。引止めて」 「いいんだよ」  昭子は腰をあげなかった。 「さよなら」  浅野は言ってドアを開けた。同じことばが背中に返ってきた。浅野はドアを閉めた。浅野の脳裡《のうり》に、六年前の昭子との別れの情景が、不意に鮮やかに甦《よみがえ》ってきた。  夏の午後だった。昭子は引越荷物に囲まれて、部屋の中央に坐ったまま、先に出て行く浅野に、さよなら、ということばを投げてきたのだった。  義 歯  午前五時だった。  電話の音に、ついよくないことを想像してしまう時刻である。  伸枝《のぶえ》は寝室を出ながら、寝間着の上にカーディガンをはおった。袖《そで》は通さなかった。  電話は下の居間で鳴っていた。夜はいつも二階に切換えておくのだが、前の晩に最後に電話を使った者が、そのままにして寝てしまったのだろう。  また知子《ともこ》にちがいない、と伸枝は思った。舌打ちが出た。  火の気の絶えている家の中は、ひどく寒かった。伸枝は肩をすぼめ、カーディガンの襟《えり》もとを掻《か》き合わせて、受話器を取った。 「わたくし、大阪の垣内《かきうち》と申します」  ひどく細い女の声だった。声を聴くのははじめてだが、苗字には覚えがあった。伸枝は返事をしなかった。できなかったのだ。咄嗟《とつさ》に、いくつものことが頭に殺到してきた。 「奥さま、突然でさぞ驚かれることと思いますけど……」 「主人がどうかしたんですね?」 「急に心臓の具合が悪くなりまして……」 「心臓……」 「はい。救急車が来たときはもう駄目でした。十分ほど前です。申しわけございません」  女の声が消え入るように震えた。伸枝は受話器を持ったまま、床に正座した。寒さは忘れていた。コードで引っ張られて、電話が動き、台がかすかに揺れた。 「主人は、あなたのところにいたんですか? 垣内さん」  短い沈黙の後で、最初に伸枝が吐いたことばはそれだった。考えて言ったわけではなかった。胸に湧き返ってくるいくつもの思いのひとつが、口からすべり出ていた。 「わたくしが、矢野さんのお部屋にお邪魔していました」 「まったく駄目なんですか? 主人は……」 「たったいま、来てくださってたお医者さまも、救急車の方々も、お帰りになったところです。急でしたので、何もかも間に合いませんでした」 「そこにいるのは、あなたと主人だけですか?」 「はい」 「とにかく、そっちにすぐに行きます」  伸枝はそう言って電話を切った。すぐには立ち上がれなかった。細い女の声が、耳に残っていた。垣内幸子——そういう名前だったことを、伸枝は思いだした。一度だけ、夫の口から出た名前だった。一年近く前のことである。  伸枝は立ちあがって、居間を出た。カーディガンが肩からすべり落ちそうになった。手が無意識にそれを引きあげた。二階に上がって、子供たちを起してまわった。すぐには父親の急死は告げなかった。伸枝の寝室に呼んだ。寝室の入口に近いところに立ったままで、知子と昂《たかし》の来るのを待った。  知子も昂も、眠気の去った顔でやってきた。母親のようすで、ただごとではない、と察したのだろう。二人ともパジャマのままだった。伸枝は口を開く前に、壁ぎわのストーブをつけた。 「二人とも、落着いて聞いてちょうだい」  ストーブの前に坐って、伸枝は子供たちを見た。知子がストーブの前にしゃがんだ。昂がそのうしろに立った。 「お父さん、どうかしたの?」  知子が訊《き》いた。 「死んだのよ。いま電話が来た……」 「死んだって、なんで?」  昂が高い声を出した。 「心臓の発作だって。発作が起きたのが、三十分前ぐらいらしいの……」 「誰が知らせてきたの?」  知子の声が震えた。昂はストーブの前を離れて、伸枝のベッドに腰をおろした。 「お父さんの部屋の隣の人よ。お父さんが救急車を呼んでほしくて、起きてもらったらしいの」  子供たちには、そう言って取りつくろうしかなかった。 「救急車が間に合わなかったのかなあ……」  昂の口調はぼんやりしたものになっていた。知子が不意に泣き声をあげた。 「救急車が来たときは、もう駄目だったんだって。近所のお医者さんも来てくれたらしいけど……」 「おやじさん、心臓がわるかったの?」 「そんなことなかったのに……」 「おれたちはどうするの? 大阪行くの?」 「お母さんだけ行ってくる。車で遺体を運んでもらうわ。横浜の伯父《おじ》さんに来てもらって、お通夜とお葬式の手配をしてもらうから、あなた方は家にいてちょうだい」  伸枝は言った。夫の会社への連絡のことが頭に浮んだ。大阪支社の夫の同僚や部下たちは、夫に垣内幸子という女がいたことを知っているのだろうか。それによって、会社への連絡の仕方を考えなければならないだろう。伸枝はそういうことを考えた。 「お父さん、いくつだった?」  しゃくりあげながら、知子が言った。 「四十六。先月が誕生日だったから、四十七になったところね」 「学校は今日から忌引《きび》きになるんだろう?」 「そうよ。自分たちで学校に電話しなさい。お母さん、すぐに出かけるから。なるべく早い新幹線に乗りたいの」 「飛行機は?」 「切符が手に入るかどうかわからないもの」 「おやじ、かわいそうに……」  昂が声を詰まらせ、うつむいて拳《こぶし》で眼を拭《ぬぐ》った。 「お母さん、支度《したく》するから」 「横浜のおじさんの電話は?」 「昂、あんたしてちょうだい。お母さん急ぐから。二人で他のおじさんやおばさんたちにも知らせてあげて」 「お母さん、涙出ないの?」  知子が立ちあがって言った。 「泣いていられないわよ。お父さんを連れて帰ってくるまでは……」  伸枝は強い口調になった。子供たちは、部屋を出ていった。伸枝は鏡の前のスツールに腰をおろした。そのまま放心しそうになる。しかし、悲しみはもどかしく思うほど、湧いてこない。  夫の遺体に付き添っている垣内幸子の姿が、脳裡《のうり》に貼りついていた。会ったことはない相手だ。  きれいに化粧して、いい服を着ていこう、と伸枝は鏡の中の自分に言った。  矢野滋彦が大阪支社に転勤になったのは、二年半前だった。  その頃、知子は高校受験を控《ひか》えていた。昂も一年遅れて高校にあがる、というときだった。それが、矢野にはじめから単身赴任を覚悟させた理由だった。 『おれ、ひとりで大阪に行くよ。子供たちのこともあるしな……』  転勤を告げたその口で、矢野は伸枝にそう言った。伸枝はそれを聞いて、ほっとした。  転勤の気配のあることは、前から夫に聞かされていた。伸枝は東京を離れたくなくて、その話に気を揉《も》んでいた。転勤となると、子供たちの進学のことが、夫婦にとって最大の悩みの種だった。できれば転校はさせたくなかった。  それに、伸枝は国分寺《こくぶんじ》のその家での暮しが、気に入っていた。暮しはじめてまだ二年にしかならない分譲地の建売りの家だった。そこから他に移るのは、気が進まなかった。夫がいない日常というのも、気が楽で、のんびりできそうに思えた。  それらのことはしかし、口に出して言えることではなかった。夫の転勤が決まったら、子供たちの学校のことだけを理由にして、二重生活を夫に求める肚《はら》づもりでいたのだ。  矢野の会社は、週休二日制をとっている。単身赴任した矢野は、金曜日の夜か、土曜日の午前中に東京に帰り、日曜の夜か、月曜の早朝に、大阪に向う、という生活を始めた。  帰ってくるたびに、矢野は大阪や神戸のみやげ物を買ってきた。それが種切れになると、京都の漬物や菓子に変り、名古屋のういろうになり、静岡のわさび漬になる、といったふうだった。  やがて、みやげはすっかり種切れとなって、矢野は洗濯物だけをボストンバッグに詰めて戻ってくるようになって、彼の単身赴任と、伸枝と子供たちだけの暮しに、みんなはそれぞれに慣《な》れていった。  二年半の間に、伸枝が一人で大阪に出かけていったことは、かぞえるぐらいしかなかった。子供たちだけを残して、泊りがけで出かけるということには、どうしても伸枝は二の足を踏んでしまうのだった。矢野からの誘いの電話があっても、子供のことを半ば口実に使って、伸枝は腰を上げなかった。何度か出かけたときも、日帰りで帰ってきた。大阪に泊ったのは、春や夏や冬の、学校の休みのときに、子供と一緒に行ったときだけだった。そのときはホテルに泊った。  大阪に行くのに、自分の腰の重い理由が、伸枝にはわかっていた。それは、誰にも言えないような事柄だった。  矢野は、歯の弱いたちだった。歯の質が脆《もろ》いらしい。若いときから虫歯が多いくせに、歯医者嫌いで通していた。痛みはじめると売薬の痛み止めでやり過し、抜けたら抜けたまま、欠けてもほっておく、というふうだったのだ。  矢野の口がかすかに匂うことに伸枝が気づいたのは、交際が始まって二、三ヵ月が過ぎたころだった。キスのときにそれがわかった。だが、気にはならなかった。その頃からすでに、矢野はしょっちゅう歯の痛みに悩まされていた。口がかすかに匂うことがあるのも、虫歯のせいだ、と伸枝は思った。  それでも、伸枝は矢野がプロポーズしてくれるのを待っていた。ベッドでいくらかふざけ気味のキスをしていて、伸枝の舌の先が、虫歯になって欠けている矢野の奥歯に触れたことがあった。結婚する前だった。伸枝はそれで気持が醒《さ》めることはなかった。  結婚して、伸枝がうるさいくらいに言っても、矢野は歯医者に行こうとはしなかった。もうすこし頑張って、歯が全部駄目になるのを待って、総入れ歯にして、一挙に問題を解決するのだ、などと冗談とも本気ともとれる言い方を、矢野はつづけていた。  そのとおりにはならなかったが、それに近い状態になったのは、矢野が四十一のときだった。矢野の下の歯の大半が、使いものにならなくなった。  矢野は一大決心をして、歯医者に行き、医者を驚かせて帰ってきた。ずいぶん我慢づよい人だ、と医者は矢野のことを言ったらしい。結局、矢野は上下合わせて自分の歯は七本だけで、あとは義歯ということになった。下の歯は二本だけしか残らなかった。  矢野は、朝晩に、義歯をはずして磨《みが》くようになった。食事の後で、口に含んだ茶で、義歯の人工の歯茎と土手の間にはさまった喰べ物の滓《かす》を濯《すす》ぐようにもなった。  それは、伸枝には眼にしたくない光景だった。歯を磨くところは見なくてもすむが、食事の後の義歯の濯ぎは、眼の前で行なわれるのだから、見ないふりをするしかなかった。  義歯を入れる少し前ごろから、矢野は髪が薄くなりはじめた。屈《かが》んだところに上から眼をやると、頭頂の部分が寒々としたようすになっていた。退化の速度は、矢野自身も驚くほど早かった。歯と髪とは、関係があるのだろうか、などと伸枝は考えたりした。  憂慮されるのはしかし、歯と髪だけで、矢野は壮健だった。老眼の兆《きざし》も生れていなかった。血圧も正常だった。単身赴任してからは国分寺の家に帰ってきた矢野が、伸枝の体に手を伸ばしてこないことは一度もなかった。そのことのために、週末ごとに几帳面《きちようめん》に帰ってくるのではないか、と思えるほど、矢野はベッドの中で情熱的になった。  伸枝もどこかでそれを待つ気持があった。一緒に暮しているときには感じられなかった新鮮さが戻っていた。それはしかし、当然のことに、いつまでも保《も》つというものではなかった。新鮮に思えたものが、ただの習慣として色褪《いろあ》せるのに、それほど時間はかからなかった。  ある夜、伸枝は裸の腹に、なま温く濡《ぬ》れたものが触れてくるのを感じた。矢野は大きく開かれた伸枝の内股の間に、顔を伏せていた。離れていったばかりの夫の片方の手が、すぐに伸枝の乳房に戻ってきた。その手の指も、わずかに濡れているように、伸枝は感じた。  伸枝は気になって、枕の上で頭をもたげ、眼を開けた。伸枝の裸の腹の上に、矢野のはずした義歯が置かれていた。総入れ歯に近い下のほうの義歯だった。並んだ小粒の歯の先が、上に向けられたまま、うっすらと光っていた。鮮やかなピンク色の人工歯茎も、固い光を放っていた。  伸枝ははじめ、不気味なものを見た思いに襲われた。事情はすぐに納得がいった。土手が痩《や》せてきて、義歯がゆるんできている、と矢野は前から言っていたのだ。 『いちばん困るのは、おまえと寝るときなんだ。うつむいて、舌を動かしていると、下の入れ歯がゆるんで躍り出すんだよ』  そういうことを、ニヤニヤした顔で矢野が言ったのも、前回か前々回のときだった。  不気味さはすぐに消えた。するとひどく滑稽な思いが湧いてきた。それもすぐに消えて、言い知れない嫌悪感だけが残った。 「あなた、歯をそこに置かないで……」  伸枝は思わずそう言った。矢野が顔を上げた。彼は一瞬きょとんとしていたが、すぐに照れたように笑った。義歯をはずした夫の笑った顔も、伸枝のそのときの気分に水をさした。矢野はすぐに、伸枝の腹の上から義歯をつまみあげた。彼はしかし、それを口に戻そうとはせずに、押し開かれた伸枝の太腿《ふともも》の間に置いた。伸枝には、それがわかっていた。  伸枝はその夜、夫を欺《あざむ》いてきちんと果てたふりをした。そして、そのふりは、その後もしばしばくり返された。  矢野はそういうことがあってからは、はずした義歯を伸枝の腹の上に置くようなことは、しなくなった。だが、はずした義歯が、その間、自分の内股の間に置かれていることは、伸枝にはわかっていた。腹の上に置かれた光る歯が、呼吸のたびに上下する腹と一緒に小さく動いているありさまは、伸枝の眼に灼《や》きつけられていた。実際に眼にしたことはないのだが、内股の間にころがっている義歯も、まるで見たことのあるもののように、伸枝の脳裡に浮かんでくる。  歯をはずさなければならないような愛撫は、してほしくない、と伸枝は思うようになった。遠回しの言い方でそれを矢野にも言ってみた。矢野はしかし、止めなかった。  自分にとって問題であるのは、夫の義歯そのものではないことが、伸枝にはわかっていた。歯をはずす必要を伴うその愛撫が問題である、ということでもなかった。はずした歯を、何の気遣いもなしに相手の腹の上に置く夫の、憚《はばか》りのなさ、無神経な気持、といったものが、伸枝にはたまらなかった。相手が長年連れ添った女房だとはいえ、歯をはずしたことを気取られまいとするくらいの、緊張といったようなものがあってもいいじゃないか。  それがあれば、歯をはずしていることがたとえわかっても、気持が冷えることはなかっただろう、と伸枝は思うのだった。  矢野が大阪に女をこしらえた、とわかったとき、伸枝は自分でも意外に冷静だった。  夫に女がいるのではないか、という気配を伸枝が感じはじめたのは、彼が転勤して一年ほどたってからだった。きっかけは矢野の洗濯物だった。彼はときどき、洗濯物を持たずに帰ってくるようになっていた。そのつど彼は、忘れたとか、自分で洗ったなどと言っていた。  垣内幸子のことがわかったのは、矢野が新しいセーターを着て帰ってきたときだった。矢野はそれを自分で選んで買った、と言ったのだが、伸枝にはそれが嘘であることが、すぐにわかった。何種類もの色のまじった毛糸で編んだ、淡《あわ》い感じのモスグリーンに見える丸首セーターだった。矢野がそういう微妙で美しい色のものに眼を惹《ひ》かれる、というふうには伸枝には思えなかった。女の眼を伸枝はそこに感じとった。  問い詰める、という言い方にならないうちに、矢野はあっさり白状した。相手は三十七歳になる小料理屋の女で未亡人だ、という話だった。 『ただのセックスフレンドだよ。向うもそれは承知している。わかってくれよ。おれは男盛りだよ。厄介《やつかい》なことになる心配はないんだから……』  矢野は居直ったようすでそう言った。伸枝は、わかった、とは言わなかったが、黙認の態度をとろうと決めた。気持はさすがに穏やかではなかったが、騒ぎ出す気にはなれなかった。腹の上に置かれた義歯のせいだった。それが伸枝にはわかっていた。そして、夫の単身赴任を自分がひそかによろこんだのも、あるいははずした義歯に歯ブラシを当てたり、食事の後で茶を含んだまま、口をもぐもぐさせる姿を見なくてすむ、という気持があったせいかもしれない、と伸枝はそのとき考えていた。  矢野の遺体は、ベッドに寝かされていた。ナイトテーブルの上に、白と黄色の菊が供えられ、線香が煙を上げていた。花は小さな籠に活《い》けられていた。真新しい線香立てには、定価票を剥《は》がした後《あと》が残っていた。  八畳たらずのワンルームのマンションの部屋には、垣内幸子の他には誰もいなかった。伸枝を迎えた垣内幸子は、無言で深々と頭を下げた。伸枝はそれを無視して、まっすぐに遺体の前に行った。部屋に薄くたちこめていた線香の煙がゆらいだ。  伸枝はベッドの横に膝を突き、中腰のまま夫の死に顔に眼を注いだ。涙が溢《あふ》れてきた。電話でその死を知らされてから、はじめて落す涙だった。胸が痛くてならなかった。涙は堰《せき》を切ったようになっていた。濡れてぼやけた眼のまま、伸枝は線香をあげ、合掌《がつしよう》した。嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。うしろで垣内幸子が洟《はな》をすする音がした。こんなところで泣くのはいやだ、と伸枝は思った。すると涙は止まった。  眼を拭いて、また夫の死に顔に眼をやった。ゴルフでよく陽やけした顔の艶《つや》さえ失われていなければ、まだ寝顔と見まがうようだった。薄くなった髪には、櫛《くし》が入れられてあった。  下唇のすぐ下にくぼみができていて、口の両端にも、八の字の皺《しわ》がのびていた。それが矢野の顔をいくらか年寄りくさく見せていた。義歯をはずしているせいではないか、と伸枝が思い当ったのは、しばらくしてからだった。  伸枝は手を伸ばして、遺体の下唇をひっぱるようにして、小さくめくってみた。義歯ははずされたままになっていた。そこにのぞいた小さな暗い空洞が、夫の死そのもののように伸枝の眼を打った。伸枝は唐突な怒りに襲われた。自分でもよく筋道のわからない、発作のような感情だった。 「入れ歯がはずれてますけど、どうしたんでしょうか?」  伸枝は首だけ回して、垣内幸子を見た。 「入れ歯ですか……」  垣内幸子は、一瞬、何を言われたのかわからない、といった顔を見せた。すぐにその顔に、当惑の表情が現われ、眼が伏せられた。 「入れ歯をはめておりませんのよ。発作のときにまさかはずれて呑《の》みこんでしまったわけではないでしょうねえ」  研《と》ぎすましたような冷たい表情が、伸枝の顔にはりついていた。垣内幸子は、眼を伏せたまま、そっと立ってベッドの横にやってきた。垣内幸子の手で、遺体にかけられていた蒲団《ふとん》が静かにめくられた。伸枝は、息の詰まりそうになるのをこらえた。  義歯は蒲団の中には見当らなかった。垣内幸子の手がすぐに伸びて、遺体の太腿《ふともも》の下をさぐった。その手が、義歯を中に握り込むようにして、そこから出てきた。彼女の手の端から小さくのぞいている義歯は、乾ききって光沢が失《う》せて見えた。 「どうして入れ歯がそんなところにあるんでしょう?」 「わかりませんわ」 「おわかりにならないって、あなた入れ歯がはずれていることに、お気づきにならなかったの?」 「動転していたものですから、入れ歯のことなんか考えつきもしませんでした」 「だって、死に顔を見れば、口もとのようすがへんだって、すぐにわかりますのに……」 「気がつきませんでした。ぼんやりしてたんです」 「でも、どうして入れ歯が脚の下敷きになってることが、すぐにおわかりになったのかしら」 「発作が起きて苦しんだときに、もしかして入れ歯がはずれて、蒲団の中にそのままになっているんじゃないかと、ふと思ったものですから……」  咄嗟にしては上手な嘘だ、と伸枝は思った。垣内幸子はめくった蒲団を元に戻し、眼を伏せたまま、持っていた義歯を両手で伸枝の前にさし出した。 「それ、あなたにさしあげますわ」  伸枝は、自分でも思ってもいなかったことを、口にしていた。 「はあ?」  垣内幸子が眼をあげた。伸枝はあらためて相手の顔を値踏みする眼で見やった。水商売の女には見えなかった。細面《ほそおもて》のととのった顔立ちだが、華やいだところも、柔らかい感じもない。化粧をしていないせいだけでもなさそうだった。三十九歳になるはずだが、伸枝の眼には、垣内幸子は夫と同じくらいの年齢に見えた。 「主人がいろいろお世話をかけました」  伸枝は、垣内幸子のほうに膝をまっすぐ向けて、頭を下げた。垣内幸子も、膝を突いたまま浮かしていた腰をおろして坐り直した。義歯は、膝の上に置かれた垣内幸子の手に握られたままだった。それが伸枝には、そこに夫の笑った口が見えるようで、怒りがこみあげてくる。 「お世話だなんて、とんでもありません。わたしのほうこそ、奥さまに何とお詫《わ》び申しあげればいいのか……」 「主人とはいつからでしたの?」 「矢野さん、何も奥さまにはお話しになっていなかったんですか?」 「詳《くわ》しいことは何も聞いていませんのよ」 「二年近くになりますかしら……」  大阪に転勤になって半年余り後ということか——伸枝は頭の中で年月を逆に辿《たど》った。 「垣内さんはお子さんは?」  垣内幸子は、首を横に振った。 「お住まいは近いんですの? ここから」 「車で二十分ほどのところです」 「じゃあ近いですわね。主人もあなたのところによく行ってたんでしょう?」  答はなかった。垣内幸子は、膝の上で義歯を手に持ったまま、わずかに首を斜めにしていた。はじめに見せていた、恐縮したような神妙さが、少しずつ薄れていくようすに見えた。 「主人の会社の人たちは、あなたと主人のこと、まさか知ってはいませんよね」 「誰も知らないはずです。わたしが働いているお店の人たちも……」 「その入れ歯は、あなたにさしあげます。まさか遺骨をお分けするわけにもまいりませんのでね。その替りと思ってください」 「でも、どうして入れ歯を?」  垣内幸子の眼の奥に、にぶくゆらめく光があった。伸枝には、垣内幸子が一瞬、挑戦的な笑みを洩らしたように見えた。 「遺品ですもの」 「そうですね……」  垣内幸子はあっさりとした言い方をして、顔を伏せた。そして今度ははっきりと、口もとをゆるめて笑った。勝ち誇ったような笑い方だった。それはすぐに消えた。 「これから主人の会社のこちらの支社に連絡をしますので、お引きとりください」  伸枝は切口上で言った。垣内幸子は、ナイトテーブルの脚のところに置いてあった黒いハンドバッグを手もとに引き寄せて、口金を開けた。中からティッシュペーパーを取り出して、それで義歯を包んだ。叮嚀《ていねい》な包み方だった。義歯はそっとバッグの中に納められた。  垣内幸子は、ベッドのほうに膝を進めて、もう一度線香をあげ、手を合わせた。それから腰をあげ、遺体の顔に眼をやり、また合掌した。長い合掌だった。それが終って、垣内幸子はもう一度膝を折って、伸枝に向ってゆっくりと頭をさげてから、無言で部屋を出て行った。  伸枝はしばらくは、坐ったまま動かなかった。  矢野の遺体は、その日のうちに寝台自動車で、東京に運ばれた。  湯灌《ゆかん》のときも、出棺の前に近親者が遺体の唇を水で湿らせて別れを告げたときも、矢野の義歯がはずされたままであることに気づく者はいなかった。  会社の人間や、取引先の関係の参列者などで、盛大な葬儀になった。  知子と昂は、眼を泣きはらして、青い顔をしていた。伸枝も、泣こうと思えばいつでもそれに合わせて涙がこぼれてきた。泣くまいと思うと、涙は栓を閉められたように、湧いてこなかった。伸枝は自分が悲しいのか、悲しくないのか、よくわからなかった。  火葬場で、矢野が骨になる間に、控室で時間を過した。誰も伸枝には遠慮して、ことばをかけてこなかった。  伸枝は、垣内幸子が別れる前に見せた、あの勝ち誇ったようなかすかな笑いを思い出していた。垣内幸子が、言われるままに遺品として義歯を持って行ったことの意外さが、時間がたつにつれて、伸枝の中で少しずつ大きなものになっていくようだった。  あのとき伸枝としては、義歯は半分は本気で、垣内幸子にくれてやる、といった気持が動いていた。それが蒲団の中にころがっていたからだった。  だが、まさか本当に相手がそれを受け取るだろうとは思えなかった。垣内幸子の立場からすれば、遠慮するのが当然だろう、と伸枝は考えていたのだ。  伸枝の脳裡に、膝の上にティッシュペーパーを重ねてひろげ、いかにも大切なものを扱うような手つきでそれを包んでいた、垣内幸子の姿が浮かんでくる。  垣内幸子は、あの義歯にほんとうに矢野への思いをこめて、遺品として大切に扱ってゆく気持でいるのだろうか。  垣内幸子は、あの義歯がベッドの中にころがっていたことの意味を、あたしが知っている、と見抜いたにちがいない。垣内幸子が見せたあの挑戦的な薄笑いの裏には『矢野さんが奥さまにしてあげていたのと同じことを、あたしにもしてくれてたってことが、これでよくわかったでしょう』といったことばが隠されていたのではないか。  だからこそ、垣内幸子は伏せた顔の陰で薄笑いを浮かべ、これ見よがしに、義歯を叮嚀に包んだりしたのではないのか。ティッシュペーパーに包まれた義歯は、垣内幸子の手であっさりどこかに捨てられることになるかもしれない——。  火葬場の控室の人々の声が、伸枝の耳から消えていた。  伸枝は、それまでに抱いたことのないような、はげしい嫉妬《しつと》に襲われていた。知らぬまに、痛みを覚えるほどに歯を噛みしめていた。垣内幸子の手から、夫の義歯を取り返さなければ、と彼女は思った。  昂に肩を突つかれて、伸枝はわれに返った。まわりの者たちが立ちあがっていた。係員が、矢野が骨になったことを告げに来たのだった。伸枝は参会者たちに囲まれるようにして、控室を出た。  ローラーに載って引き出されてきた鉄板の上に、白い灰と骨が散っていた。みんなが長い箸《はし》を持って、台のまわりに集まった。伸枝と知子と昂が、押し出されるようにして前に出た。骨拾いが始まった。 「お母さん、入れ歯も焼けちゃうのかねえ。残ってないみたいだよ」  昂が小声で言った。それを聞いて、知子が箸を持った手を眼に当てた。伸枝は無言で頷《うなず》いただけだった。  切 株  迷子《まいご》を知らせる放送が流れていた。  スピーカーの女の声は、遠くなったり近くなったりしながら聴《き》こえた。上空には風があるのだろう。  友田は芝生《しばふ》の土手でまどろんでいた。  不意討ちのようにして襲ってきた眠気だった。眠っていた時間は数分のはずだったが、眠りは深かった。スピーカーの声で目を開けたときは、まだ頭の中は白い膜がかかったようになっていた。  迷子と知って、友田の眠気はたちまち払われた。体を起して、雅美《まさみ》の姿を探した。雅美は馬に乗っていた。  土手のすぐ先に、牧場を模した小さな柵囲いがあった。そこにモーターで動く馬が三頭置いてあった。大きさも作りも本物そっくりの馬だった。鞍《くら》の横には子供の乗り降りにそなえて、踏台が置いてある。  雅美はその馬が気に入ったようすだった。踏台から鞍に乗り移るとき、友田が手を貸そうとすると、雅美はその手を払った。怒ったような顔になっていた。  馬の首のところに、ボタンが三つ並んでいた。ボタンは白と青と赤に色分けされている。白いボタンを押すと、馬はゆるやかに走るときの動きになる。赤いボタンを押すと全力疾走で、青ボタンがその中間というわけだった。実際には走らないのだが、ボタンの選択によって、跳《は》ねるような動きの度合が変る。  雅美はコイン一個分のノルマを果して馬が動きを止めると、鞍にまたがったまま、友田につぎのコインをねだった。  二度目で雅美は赤いボタンに挑戦した。鞍の上で雅美の小さな体が跳ねあがった。雅美はしかし、声をあげることもせずに、手綱《たづな》ごと馬の首にかじりついた。青か白のボタンに替えてやろうか、と友田は言った。雅美は首を振ってそれを拒んだ。必死の形相と言いたくなるような雅美の顔を見て、友田はおかしさをこらえきれなかった。  馬の動きが停まると、雅美はやおら体を起し、鞍の上から父親を見おろして、さも得意げに笑ってみせた。それから雅美は友田にまとめてコインをねだり、彼を柵の外に追いやった。 『お父さんがそばについてると、おもしろくないもの』 『どうして?』 『ひとりで乗ってるみたいじゃないから』 『落っこちても知らんぞ』 『落ちないよ、雅美は……』 『わかった。でも気をつけるんだよ。お父さん、そこの土手のところで見てるからね』  そう言って土手に腰をおろし、肘《ひじ》を突いて体を倒し、しばらくすると猛然と眠くなったのだった。  雅美はいまも馬の首にしがみついていた。また赤いボタンだな、と友田は思った。鞍の上で危うくバランスをとりながら跳ねつづけている雅美の体が、ひどく小さく頼りないものに見える。小学校三年生として、雅美の体が大きいほうなのか小さいほうなのか、友田には見当がつかない。友田が娘と離れて暮すようになって、二年が過ぎている。雅美と会うのは月に二回と決められていた。  小さいときから雅美には強情な一面があった。そのくせに甘えん坊で怖がり屋だった。その娘が、一人で馬に乗った気がしないからと言って、父親をそばから追い払ったのだ。友田は実際、追い払われたと思っていた。  離れて暮すうちに、娘は着実に小さな成長を重ねていき、甘えん坊の怖がり屋が、男の子のような冒険好きに変貌している。それを頼もしく思いながら、寂《さび》しさや戸惑《とまど》いも友田にはあった。  馬の動きがゆるやかになり、やがて停まった。鞍の上で体を起した雅美が、友田に向って笑って手を振った。友田も手を振って応《こた》えた。雅美は鞍にへばりつくようにして、踏台に足を移した。  友田は腰を上げながら、雅美が馬からおろしてほしい、と自分を呼んでいるところをちらと頭に思い浮べていた。そういうふうであってほしいと思うのが、勝手な期待だということは友田にもわかっていた。  雅美は馬の踏台についている踏段は使わずに、いちばん上からとびおりて柵の外に走り出てきた。 「満足した?」 「うん。おもしろかった。ずっと赤ボタンで乗ったよ、あたし……」 「知ってる。お父さん見てたもの」 「うそ。お父さん居眠りしてたでしょう。あたしが手を振ったの知らなかったくせに」 「あ、ほんのちょっとだけ眠ってた」 「でしょう。あたし見てたんだから」 「ごめん、ごめん……」  友田は苦笑した。油断のならない娘だと思いながら、彼は雅美に手を伸ばした。雅美は手をつないできた。小さな手は汗ばんでいて、いくらかべとついていた。つぎつぎにコインで動く乗物に乗って、そのたびに乗物のハンドルをつかんできたせいだった。 「そろそろお昼を食べないか?」 「お昼はまだいい。お腹《なか》すいてないもん」 「そうか。今度は何に乗る?」 「何にしようかなあ」  日曜日で、遊園地は賑《にぎ》わっていた。電動式の乗物の豊富なところだった。つぎのあてがあるのかどうか、雅美は友田の手を引くようにして、きょろきょろしながら、人ごみを分けて歩いていく。  父親らしい若い男が、男の子を肩車にして歩いていた。男の子はジャイアンツの野球帽をかぶっていた。 「肩車してやろう、雅美……」  友田は言って、雅美の手をとったまましゃがみこんだ。雅美は黙って友田の肩に乗り、頭をつかんだ。友田は雅美の足首を持った。細くて骨ばった雅美の脚が、友田の首すじや頬をしめつけてきた。 「お父さん、あれ、何ていうんだっけ。空にあがっていく揺り籠《かご》みたいなの」  雅美が指さしていたのは、巨大な車輪のようなものに吊られたゴンドラが、回転しながら空の高みに上がっていく乗物だった。 「あれね。観覧船とかっていうんじゃないかなあ。あれに乗るか」 「うん」 「今度はお父さんも一緒に乗るんだぞ」 「おとなも乗れるの?」 「乗ってるじゃないか、ほら。子供つれたお母さんとか、大きなお兄ちゃんとお姉ちゃんの二人連れとか」 「アヴェックっていうのよ、ああいうの」 「アヴェックか。よく知ってるね、雅美」 「みんな知ってるわよ、そんなことぐらい」  観覧船のチケット売場の前に、短い行列ができていた。友田は行列のうしろについて、雅美を肩からおろした。思ったよりも雅美の体は重くなっていた。  ほとんど待たずに、観覧船に乗れた。友田は雅美と並んで、ゴンドラの中の小さな座席に腰をおろした。ゴンドラはゆらゆらと小さく揺れながら、少しずつ上昇していった。 「うわー、高い。遊園地がみんな見える」  雅美がゴンドラの窓に額をつけて言った。 「まだまだ高くあがるよ」 「雅美のお家、見えないかなあ、お父さん」 「それはちょっと無理じゃないかなあ」 「お家が見えたら、お母さんも見えるかもしれないのにねえ」 「ここからじゃ、望遠鏡でも無理だろうな」 「お家のあるのはどっちのほう?」 「だいたい、こっちの方角だな」  友田は地図を頭の中にひろげ、おおざっぱな方角の見当をつけて指さした。遠い視界の中に、郊外の住宅地の密集した家並みが、白茶けてかすんだようにひろがっていた。 「あんなにいっぱいお家があるのに、雅美のお家は見えないんだね、お父さん」 「だってここから遠いもの」 「お父さん、知ってる?」 「何を?」 「知らないんだね、お父さん」 「だから何を?」 「お母さんには恋人がいるんだよ。知らなかったでしょう、お父さん」  雅美は体をひねり、横の窓に額をつけたままで、そう言った。雅美の言ったことがひどく唐突《とうとつ》に思えて、友田は面喰《めんくら》った。 「そうか。お父さん知らなかったなあ。お母さん、恋人ができたのか」 「そう。アヴェックしてるの、お母さん……」 「雅美はどうしてそんなこと知ってるの?」 「だってわかるもん」 「どうしてわかるの」 「お母さん、きれいにお化粧して、きれいなお洋服着て、うれしそうだもん」 「お化粧したり、きれいなお洋服着たりするのは、お仕事に行くからだろう?」 「それもあるけど、お母さん、前よりうんときれいなの。それから、夜遅く、お酒飲んで帰ってくるの」 「だからお母さんに恋人ができたって、雅美は思ってるの?」 「そうじゃないよ」 「じゃあどうしてそう思うの?」 「お父さん、お母さんに恋人ができたから平気じゃないんだ」  友田は一瞬、ことばに詰まった。雅美は窓に額を押しつけたままの姿勢をかえていない。ゴンドラはいちばん高いところまで昇りきったのか、小さく揺れながら、少しずつ横に移動しているようだった。 「お母さんが雅美に、恋人ができたって言ったのかい?」 「そうだよ。おばあちゃんもそう言ったよ」 「お母さんに恋人ができたって、おばあちゃんが言ったの? 雅美に……」 「そうだよ。その人、雅美のお家にもよく来るよ。泊まっていくこともあるもん。そのときは雅美はおばあちゃんの部屋にお蒲団《ふとん》敷いてもらって寝るんだよ」 「そうか。その人、雅美のお家にも来るのか。それならやっぱりお母さんの恋人なんだ」 「やっとお父さん、本気にしたのね。びっくりした?」 「びっくりなんかしないよ。お母さんだってまだ若いし、きれいだから、恋人ができるの当りまえだもん」 「そうよね」  雅美は言って、窓から顔を離し、友田を見て笑った。作り笑いだった。それがわかった。友田は胸が疼《うず》いた。雅美は子供なりに、祖母と母親と、母親の�恋人�たちの間で、何かを感じたり考えたりしながら暮しているのだろう。友田はそう思った。彼は揺れるゴンドラの中で、雅美の小さな体を抱きしめずにはいられなかった。雅美は友田の腕の中で、ちょっと肩を振ってもがいたが、すぐに体の力を抜いた。雅美の光沢のあるさらさらした髪は、日向《ひなた》の匂いがこもっていた。 〈お母さんに恋人ができて、雅美はうれしいかい?〉  友田はそう訊《き》いてみたいのをこらえた。 「お母さんの恋人って、どんな人?」 「やさしそうな人よ」 「そうか。よかったな、やさしそうな人で」 「うん。お父さん、気になる? お母さんの恋人のこと……」 「うーん。ちょっぴりね」  友田の腕の中で、雅美の体がヒクヒクと震えた。泣きだしたのではないかと思って、友田は雅美の顔をのぞきこんだ。雅美は笑っているのだった。笑いをこらえようとしているために、小さな体が震えていたのだ。  友田は雅美の体から腕を放した。雅美はすぐにゴンドラの外に眼を投げた。もう笑ってはいなかった。友田は自分がひとり相撲をとっているような気がした。  私鉄の駅の改札口で、雅美を郁子《いくこ》に渡したのは、午後四時半だった。  郁子は、朝そこで会って雅美を預ったときと同じの、白い半袖のTシャツとジーパンという姿だった。  雅美は改札口を抜けると、つないでいた友田の手を放して、郁子のところに走って行った。郁子が雅美に向けた笑顔のまま、友田を見て小さく頭を下げた。 「たのしかった? 雅美ちゃん」 「うん。いっぱいいろんな乗物に乗った」 「お父さんと一緒に乗ったんでしょう?」 「一緒に乗ったのは観覧船だけ」 「観覧船て、お船?」 「お船じゃない。ぐるぐる回りながら、ずっと高くお空にあがっていくの」 「ああ、あれね。あれは観覧船じゃなくて、観覧車っていうんじゃなかったっけ?」 「そうなの? お父さん」 「さあ、どっちだったかなあ。お父さんもはっきり知らないや」 「どっちなのかなあ?」 「どっちでもいいじゃない。お父さんと一緒でたのしかったんだから」 「うん。でも、どっちなのか、お家に帰って百科事典で調べてみようよ、お母さん」 「そうね。そうしましょう。じゃあ帰ろうか。お父さんも遅くなっちゃうとたいへんだからね」 「じゃあ雅美、つぎのつぎの日曜日に、またお父さん来るからね」 「うん。今度はプールに連れてって、お父さん」 「よし。プールだな。わかった」 「じゃあね。バイバイ」  雅美は体の向きを変えて歩き出した。 「どうもご苦労さま……」  郁子が友田に向ってペコリと頭を下げた。友田は駅のホールの人ごみの中に立って、バス停に向って歩いていく雅美と郁子の姿に眼を投げていた。  雅美が歩きながら母親を見上げて、何か言った。郁子がおかしそうに笑って娘の薄い背中を手で軽く叩いた。雅美が何を言ったのか、もちろん友田にはわからない。雅美のほうを見て笑った郁子の笑顔は西陽《にしび》を受けていた。歯が白く光って、郁子の横顔は友田の眼に若々しく見えた。  きれいな服を着て、きれいに化粧して、お母さんはうれしそうだ、と言っていた雅美のことばが思い出された。  友田はそのまま電車に乗る気がしなくなった。駅舎を出て、すぐそばのケーキ屋の二階の喫茶店に行った。階段をあがりながら、生ビールの飲める店にすればよかった、と友田は思った。  喫茶店はそれほど込んでいなかった。窓ぎわの席があいていた。そこから駅前のバスの発着所が見おろせた。郁子と雅美の姿が、バスを待つ人たちの列の中に見えた。顔まではっきり見える距離ではなかったが、二人の着ているものでそうとわかった。  友田はたばこに火をつけながら、自分がビールがほしいのに、その二階の喫茶店にやってきたのは、そこからバスを待つ雅美と郁子の姿をそっと眺めていたいからだったのではないか、と思った。  雅美と郁子はずっと何か話をつづけているようすだった。雅美は郁子のほうに体を向けたり、前に向き直ったり、スキップでちょっと行列から離れて、すぐにまた戻ったりしていた。郁子がうしろからかがみこむようにして、雅美の首を両腕で抱いた。  そうしたようすを、友田はずっと西陽の射《さ》す中に見ていた。そして、遊園地に友田と二人でいたときにくらべて、雅美のようすがずいぶんのびのびと幼なげに見えることに気づきもした。  コーヒーが運ばれてきた。友田はコーヒーに砂糖を入れてかきまぜた。眼をあげると、雅美たちの乗るバスが、乗客の列の前に停まるところだった。  列が動きはじめた。雅美ははしゃいだようすで、郁子の手をとり、体を前に傾け、母親を早く早くとせきたてるようにして、前に進んでいく。  母と娘が坐った席は、友田のところからは向う側だった。手前の席に坐った乗客の後姿に遮《さえぎ》られて、雅美と郁子の姿は見えなくなった。  駅前からバス停で五つ目の町に、郁子たち親子は住んでいる。小さな建売りの家は、買ってから九年になる。雅美はその家で生まれた。二年前までは、友田もその家から都心のデザイン事務所に通っていた。  駅前の街のたたずまいをあらためて見おろすと、懐《なつか》しい気持が湧く。けれどもそこがわが街だという思いは、もう友田の中にはない。懐しさと同時に、ある種のよそよそしさを感じてしまう。  自分がそう感じるのか、街がよそよそしい風を送ってよこすのか——その両方なのだろうと友田は思う。二週間に一度ずつ定期的に雅美に会いにきている街なのに、そのよそよそしさは消えることがない。  それは、郁子に感じるよそよそしさとたぶん同じものなのだろう、と友田は思う。  友田は、月に二度の雅美との面会日のたびに、雅美の送り迎えをする郁子とも、その駅で顔を合わせている。だが、そういうときに挨拶のようなことば以外のやりとりを郁子と交した記憶はない。  友田のほうは、気持のこだわりがあって、郁子にことばをかけずにいるわけではない。いくらかは照れくさいし、何を話せばよいのかわからないだけなのだ。  郁子のほうには、雅美の学校のことなど、話すことはいくらでもありそうなものだが、そういう話題に触れてこようとはしない。彼女のほうにもまだ気持のこだわりがつづいているのだろうか、と友田は思ってみるが、そうした気配はうかがえないのだ。  かつて夫婦だった友田と郁子の間で、月に二度だけ、雅美がまるで荷物か何かのように、事務的にといいたいほど淡々としたやり方で受け渡しされている。  友田と郁子の離婚の原因は、どちらかの浮気といったような華々しいものではなかった。誰かに訊かれると、友田は性格の不一致というふうに答えることにしている。  友田が郁子と別れようと思ったほんとうの原因は、郁子の母親の菊江《きくえ》にあった。友田は菊江と仲よくやっていけなかったのだ。性格の不一致は、妻との間にあったのではなくて、同居している妻の母親との間にあった。  郁子は一人っ子だった。友田が郁子と結婚して二年目に、郁子の父親が仕事の上での事故で急死した。郁子は一人になった母親を引きとって一緒に暮したい、と言った。友田もそれをすすめた。そのときは友田は菊江の性格や物の考え方を、それほど深くは知らなかった。友田にとって、菊江は妻の母親ではあっても、関わりを持つ相手としてそれまでは遠い存在だったのだ。  菊江と同居をすることになって、郊外の街に建売住宅を買った。頭金は菊江が出した。郁子は共働きをつづけていた。家事はすべて菊江が引受けていた。  同居をはじめて半年もするころには、友田は菊江の顔を見るのもいやになった。どっちがいいとかわるいとかの問題ではなかった。たがいに相手の言うことなすことが神経に障《さわ》る、といっためぐり合わせのわるいとしか言いようのない組合せが世の中にはある。友田と菊江がまさにそれだった。  小さなことで言えば、友田は菊江の使う京都弁が好きになれなかった。菊江の作る料理が嫌いだった。相手がいやがることを承知で何か言うとき、菊江は必ず斜《はす》かいから窺《うかが》うような、なんともいえない冷めたくて底意地のわるい眼を見せる。それがたまらなくいやだった。洗面所に置いてある菊江の歯|刷子《ブラシ》の牡丹《ぼたん》色の柄《え》を見るだけで、友田は嫌悪感に顔をしかめた。  友田が耐えなければならないのは、そうした日常茶飯のことだけではなかった。菊江は一人っ子の郁子を溺愛《できあい》していた。その結果、自分同様に、友田にも郁子に姫に仕える従僕になれと言わんばかりだった。  共働きをしているのは、郁子自身の希望であったのに、それは友田の甲斐性《かいしよう》がないせいだ、と菊江は考えていた。郁子の帰宅が夜になり、友田もまだ帰っていないというようなことがあると、菊江は遠回しに、大事な妻が夜道を一人で帰ってくることを気にもかけないでいる亭主は、思いやりのない薄情者だ、と非難するのだった。  友田は、そういうことにはすべて耐えた。彼は辛抱の足りないほうではなかった。肚《はら》の中が煮えくり返っても、友田は家の中では何も感じていないふりをした。自分が菊江を嫌っている理由の大部分が、性格の不一致としか言いようのないことであることを、友田は覚《さと》っていた。覚ったほうが我慢をして譲るしかない、と自分に言い聞かせた。  菊江のことで肚が立っても、友田はそれを郁子に洩《も》らすこともしなかった。洩らせば郁子が間に立って辛い思いをするばかりなのだ。菊江の言動が、夫にどんな思いを与えるかということに思いがいけば、自分が何も言わなくても郁子が母親をたしなめるだろう、と友田は思っていた。事実、郁子も三回に一回ぐらいは母親をたしなめるのだった。  友田の我慢が限界に達して爆発したのは、彼がそれまで勤めていた大手のデザイン事務所を辞《や》めて、友人と二人で独立する、というときだった。  友田の独立に、郁子は不安を示した。菊江は猛反対した。独立して仕事に失敗すれば、郁子と雅美が路頭に迷う。そういう無責任なことがよく考えられるもんだ、と菊江は面と向って友田に言った。  友田はいっぺんに冷静な気持を失った。菊江と事をかまえないように、家の中に波風を立てないようにと我慢をしていれば、自分はまるで養子みたいな意気地のない人生を送らなければならない。菊江と一緒に住む限りそうなる。それはごめんだ。  友田は何年間も胸にくすぶりつづけていたものを、一気に吐き出した。そのときはとり返しのつかないことになるとは思っていなかった。菊江はどうであれ、最後は郁子は自分につく、と思っていた。  都心のマンションの一室を借り、スタッフもそろえて、友田は独立した。ある化粧品メーカーの口紅のパッケージのデザインが評判をとって、仕事は好調なすべり出しを見せた。友田は仕事に打ちこんだ。大樹の陰で禄《ろく》を食《は》んでいたときとは、仕事の取組み方がちがった。何日もマンションに泊りこんで、仕事をつづけることもしばしばあった。友田は意識して家庭を顧《かえり》みまいとした。顧みるには、不満と不快の多すぎる場所だった。  友田が家に帰らない日が多くなると、郁子はそれを浮気のせいだと疑いはじめた。釈明は受けいれられなかった。友田は、郁子がだんだん菊江と同じ人間のように思えてきた。  離婚を言い出したのは、友田のほうだった。菊江はまるでそれを望んでいたかのように、珍らしく何も言わなかった。  コーヒーの残りは冷めたくなっていた。陽が落ちかけていた。茜《あかね》色の空の明るさの下で、駅前広場に翳《かげ》りがひろがっていた。  友田は腰を上げた。喫茶店を出ると、友田はバス停に向った。郁子たちの住んでいる家を外からそっと眺めてみたい、と思ったのだ。ふと湧いたその思いつきを、友田は押えることができなかった。雅美から聞いた、郁子の恋人の話が、心の中にずっとひっかかっていて、それが郁子たちのいる家のようすを見たいという思いつきにつながっていることに、友田は気づいていた。  二年ぶりに見る小さな家には、明りがついていた。変ったところといえば、表札が郁子の旧姓になっていることと、せまい庭に植えられた何本かの木が、枝をひろげ、丈も高くなっていることくらいだった。  友田は通行人を装って、フェンスごしに中に眼を投げながら、そこを通りすぎた。家の中からは何も聴こえず、明りの中に人の姿も見えなかった。ガラス戸ごしにこぼれる明りが、黒い土をむきだしにした庭を照し出していた。友田の眼には、草一本、枯葉一枚落ちていない黒いその庭が、ふと何かの死骸のように思えた。  小柄な菊江が背中を丸くして、庭の草を抜いている姿が、友田の脳裡に浮んできた。菊江は昔から、庭に一本でも雑草が生えると、まるでそれが親の仇《かたき》ででもあるように、抜きとらなければ気がすまないたちだった。それは菊江の中に潜《ひそ》む一種のヒステリーの発作ではないか、と友田は前から考えていた。  友田は急ぎ足になって、郁子たちの住む家の前を通りすぎた。彼はそこにわざわざ足をはこんできた自分の物好きな気まぐれを後悔していた。黒々とした土のむき出しになった庭は、友田がいちばん見たくないものだったのだ。いちばん眼にしたくないものがそこにあるということを、友田は忘れていた。 「これからおれの部屋に行かないか?」  友田は水割りのグラスを揺すりながら言った。モーツァルトのピアノの曲がかかっていた。曲の名は友田は知らない。だが好きな曲だった。怜子《れいこ》はかなりの数のモーツァルトのレコードを持っている。 「あなたのお部屋に何かあるの?」 「何もありはしないけどさ」  怜子がいたずらを企《たくら》んだときのような笑った顔で、横から友田の顔をのぞきこんだ。怜子は湯上りで、丈の長いパジャマの上衣だけを着ていた。 「心境の変化?」 「なにが?」 「あなたが自分からお部屋にあたしを誘ったことは一度もなかったのよ、この一年間。わかってる?」 「誘わなかったけど、きみは来るじゃないか。同じだろう?」 「ちがうわ。大きくちがう。それに、あなたはあたしの部屋に泊るけど、あたしはあなたの部屋に泊めてもらったこと一度もないわ」 「だから今夜泊まってもらいたいんだ」 「何かあったんだわ、やっぱり」 「どうして?」 「王子さまがご自分のお城を姫君に明けわたそうとおっしゃってるんだもの」 「大袈裟《おおげさ》だね、きみも……」 「あなたは自分の城を守ろうとしてる。だからあたしを部屋に誘わないし、泊めることもしないでいる。あたしはそう考えてたのよ」 「見当ちがいだな、それは。おれは男と女のことで言うと、距離をなくすのに時間のかかるほうなんだよ。形にこだわるたちだと言ってもいいがね」 「一年たって、やっとあたしに気をゆるす気になったってわけ?」 「まあね」 「あたし、よろこんでいいのかどうかわからないわ。そうなるまで一年もかかったなんて。それまでのあたしは、あなたにとって何だったの、と言いたい。商品見本?」 「怒るなよ」 「怒るわよ。冷めたい奴」  怜子はしかし、本気で怒っているわけではなかった。それが友田にもわかっていた。  怜子はブックデザイナーだった。友田とは別の事務所に勤めている。二人は、怜子の勤めている事務所の代表が、広告デザインで小さな個人賞を貰《もら》ったのを祝うパーティで、初めて顔を合わせた。賞をもらった怜子のボスに当る男は、友田とは美大時代からの仲間だった。  郁子と別れてからの友田は、何人もの女たちと短い関係をつづけてきた。はじめから遊びだと相手に思わせるやり方で、友田は女たちをベッドに誘った。失敗の数も成功の数も多かった。  本気になるほどの相手が一人もいなかった、というのではなかった。本気になることを踏み留まらせるものが、ずっと友田の中につづいていた。それが郁子なのか、雅美なのか、友田にもよくわからない。わからないまま友田は、郁子と雅美のもとに帰る自分を、漠然と頭の中に描いていた。菊江さえいなければ、郁子との結婚生活は破綻《はたん》していなかったのだ。それははっきり言える。そして菊江がいなければ、郁子も変るにちがいないのだ。  菊江がいなくなるときに備えて、いつでも郁子と雅美のところに戻れるようにしておきたい、という考えが友田の中にはずっとあった。  それは決して明確なものとは言えなかった。切株のようなものだった。幹《みき》は伐《き》られて姿はないが、見えないところで根は生きている。ひこばえが芽吹き、それが育って新しい幹となるかどうかはわからない。  その切株のようなもののために、友田は女たちとの関わりを深めることを避けてきた。ずるさを承知で、そういうことができる年齢になってもいた。  怜子とは友田はうまが合った。本気になってしまいたい相手だった。だが、怜子に対しても友田は距離を保ってつき合ってきた。ひこばえが芽吹くかどうかわからない切株のせいだった。  だが、今はその距離を一気にちぢめてしまうことに、友田はためらいを覚えていない。昼間に遊園地の観覧船のゴンドラの中で、雅美から郁子に恋人ができた、という話を聞かされたからだった。それははっきりしていた。切株はただの切株になっていた。根は死んでいて、ひこばえが芽吹くことはもう望めない。怜子に対する気持の傾きに、ブレーキをかける必要はない。  切株が朽ちてしまっていたことに、友田はことさら失望は覚えなかった。ようやく何かがふっきれたといった、身軽な気持のほうが勝っていた。 「雅美ちゃん、元気だった? 今日は面会の日だったんでしょう?」  怜子が空になった自分のグラスに、新しく水割りを作りながら言った。 「女の子も小学校三年ぐらいになると、だんだんかわいげがなくなるね」 「そうかしら。何か言われたの? 雅美ちゃんに……」 「そうじゃないけど、生意気に親に甘えたり助けをほしがったりしないんだ」  友田は雅美に馬のそばから追い払われた話を怜子に披露した。 「父親って、そんなところでいじけちゃうんだ。それは雅美ちゃんがかわいげがないんじゃなくて、あなたのほうが甘ったれてるんだわ」 「そうかね?」 「あなたの前の奥さん、まだ再婚していないの?」 「どうして?」 「どうしてってことないけど、いまふっとそう思ったの。前の奥さんが再婚したから、あなたがあたしを自分の部屋に泊めようと思ったんじゃないかって……」 「きみとのことと、別れた女房とのことは関係なんかないよ。何を言ってるんだい」 「もちろんよ。あたしもそう思うわ。でも、あなたの中にはずっと前の奥さんのことがひっかかってるように見えてたわ」 「きみの気のせいだろう、それは……」 「わかるの。あたしにはわかってたわ。もちろん、あなたがあたしのことを大事に考えてくれてることも含めて、わかってた」 「きめつけないでほしいな」 「あたし、あなたを責めてるんじゃないのよ。誤解しないでね。でも、あなたの気持、あたしはわかってるつもりよ。だからあなたのお城に入れてもらえないことも、寂しいなって思いながら我慢できたのよ」 「やっぱり責められてる気がする」 「あなたはきっとやさしすぎるのよ。だから、離婚したからって、消しゴムで消すみたいには、気持がふっきれなかったんだと思うわ。奥さんとの間がうまくいかなくて離婚したんじゃないから特にね。だって、あなたは雅美ちゃんと会ってきた日は、いつも印象が変わるのよ」 「どんなふうに?」 「どうってうまく言えないけど、あたしから見ると、なんだかあたしの知らない遠いところに行ってきて、まだそこから心がこっちに帰りついていないっていうふうなの」 「いまはもう心も帰りついてるようかね?」 「いまじゃなくて、今夜はあたしの部屋のドアを開けたときから、あなたの心は全部あたしのほうを向いてたわ」 「まいったなあ」 「すごいでしょう。あたし読心術の名人よ」 「ばかだな。調子に乗るなよ。まいったというのは、きみの言うことが当ってるからじゃないぞ。その逆だ。よくそこまで勝手な推測を組み立てられるもんだと思って、それに感服しただけだよ」  友田はごまかした。ごまかしが通用したかどうかはわからなかった。怜子のことばが当っていることを認めてしまうのは、彼女への思いやりに欠けることのように、友田には思えたのだ。 「一度だけ、あたしにお臍《へそ》をまげさせて」 「なに?」 「今夜、やっぱりあなたのお部屋にあたし行かない。つぎから行くわ。あたしもあなたと一緒で、妙に形にこだわるところがあるの」 「きみは自分の読心術の腕に自信を持ってるってわけか」 「一度だけあなたに意地わるすれば、それで気がすむの」 「わかったよ。いい迷惑だな、きみの読心術は。そういうことになると、ぼくも今夜はここに泊らずに帰ったほうが、きみの意地わるはさらに完璧なものになるんじゃないかな」 「ほんとに形だけのことよ。いい?」 「わかったよ。形だけじゃなかったら、おれはいやだぜ」 「ありがとう」 「意地わるさせてもらう礼か? それは」 「それもこれも含めてのお礼よ」  怜子が顔を寄せてきた。怜子の眼はかすかにうるんでいるように見えたが、顔は笑っていた。友田は怜子に唇を重ねた。  怜子と別れて友田が自分の部屋に帰ったのは、午前零時過ぎだった。  パジャマに着替えようとしているときに、電話が鳴った。 「郁子です。遅かったんですね」  受話器にひびく声は細かった。声をひそめているようすだった。菊江にかくれて電話をしているのだろう、と友田は思った。郁子が電話してくることなど、離婚してからは一度もなかったのだ。 「いま帰ったんだ。電話したの? 前にも」 「一時間ぐらい前に一度だけ……」 「どうかしたの?」 「どうもしないけど、今日は雅美がお世話になりました」 「何だい、あらたまって……」 「雅美、まごついてました」 「まごついてたって、どうして?」 「あたし、雅美をあなたに渡す気はありませんから……」  友田はだしぬけにそう言われて面喰った。郁子の声に怒りが含まれていることに友田が気づいたのもそのときだった。 「ちょっと待てよ。藪《やぶ》から棒に何を言い出すんだ。どうしたんだ、いったい……」 「雅美に聞きました。今日、遊園地に女の方を待たせてたんでしょう。その女の方のことを雅美にママって呼ばせようとしたくせに」  友田は息を呑んだ。いまだかつて味わったことのない種類の、深いおどろきと戸惑いが、友田の胸を襲っていた。 「待ちなさい。ほんとに雅美がそういう話をあんたにしたのかね?」 「きまってるじゃないですか。だからこんな夜中に電話してるんです」 「わけがわからんな。雅美は嘘をついてるぞ。なぜなんだ?」 「嘘ですって? 子供にそんな嘘がつけるわけないわ」 「子供だっていろんなことを考えて生きてるさ。だから嘘も思いつく。雅美はあれなりに、きみの気持を軽くしてやろうと思って、そんな嘘をついたんじゃないのかな?」 「どうしてそれであたしの気持が軽くなるっていうんですか?」 「きみの新しい相手が、雅美を邪魔に思ってると、雅美が勝手に思いこんでるとしたら、あたしはお父さんのところに行くから心配しないでって、きみに言いたくなるかもしれないじゃないか。それをきみに伝えたくて、雅美はそんな嘘を考えついたんじゃないか?」 「あなた、何を言ってるの。あたしの新しい相手ってどういう意味? そんな人がいるわけないじゃないですか」 「ぼくらはもう離婚してるんだよ。いいじゃないか、新しい相手ができたって……」 「きめつけないでください。そんな人いません。何を根拠にそんなことを言うんです?」 「雅美に今日聞いたんだよ。お母さんに新しい恋人ができて、その恋人がお家に泊るときは、あたしはおばあちゃんの部屋に蒲団をしいて寝るんだって……」 「嘘! 嘘よ。ほんとに雅美がそんなことを言ったんですか?」 「言ったよ。雅美に聞いてごらん」 「そんな嘘をあの子がこしらえるなんて、あたし信じられないわ」 「ぼくも信じられないよ。きみに新しい相手ができたというのが嘘だとすると、雅美はきみとぼくの両方に嘘をついてることになる」 「遊園地の女の人の話、ほんとに嘘なんですか?」 「嘘にきまってるだろう。考えてみろよ。ぼくがいきなり誰か女の人を雅美に会わせて、お母さんと呼ばせるような非常識なことをするわけがないじゃないか」 「あたしに誰か相手がいるなんていうのも嘘よ。気味がわるいわ。あの子いったい何を考えてるのかしら?」 「眠ってるのかね? 雅美は」 「時間が時間ですもの」 「放っといたほうがいいかもしれないな」 「でも……」 「あの子はそういう嘘をつくことで、無意識に自分の心のバランスをとってるのかもしれないじゃないか」  しばらく沈黙が続いたすえに郁子が心細げな声で言った。 「このまま放っといていいのかしら?」 「それがいちばんいい。あの子はあの子で一所懸命何かを考えてるんだ。それをぼくらが留めることはできないよ」  友田は言った。電話を切った。  昼間、遊園地で、雅美を肩に乗せたときの身体の重さや、手をつないだときの彼女の湿って粘りつくような手の感触が、一瞬、鮮やかに、友田に甦《よみがえ》っていた。  負い目  夕方の買物どきで、スーパーマーケットは込んでいた。  夫婦らしい二人連れの姿がちらほら眼につくのは、土曜日のせいだろう。  一階が食料品売場で、二階は衣料品と雑貨を扱っていた。柳田《やなぎだ》は混雑の目立つ一階での買物をあとまわしにして、階段をあがった。  階段の手すりと壁の間のせまい場所に、商品見本の自転車が数台並べられていた。見るからに軽快な感じのスポーツタイプのものが、柳田の眼を惹《ひ》いた。  自転車がほしい、と思うことが柳田にはよくあった。通勤のときの駅までの行き帰りや、日曜日の早朝のグラウンド通いのときなどである。  柳田は郊外のその町に住んでいる。アパートから私鉄の駅までは、バスで行けば停留所三つの距離である。歩くにしては気の重いときがあるが、バスに乗るほどの道程《みちのり》でもない。柳田は雨でも降らない限り歩くことにしている。体のためを思ってのことだった。  日曜日の早朝にグラウンドに通うのは、子供たちに野球を教えるためである。正式に乞《こ》われてコーチを勤めているわけではない。いわば押しかけコーチだった。  子供たちのチームも、しかるべき後楯《うしろだて》があって出来たものではなかった。その町に住む小学生たちがなんとなく集まって、気楽に野球をたのしんでいたのだ。  あるときそれを眼に留めた柳田が、技術的なことで口を出した。それがきっかけだった。柳田はそのうちに、子供たちの練習を基本からやり直して、チームとして育ててみたいと思うようになった。子供たちも�コーチのおじさん�として、柳田を頼りにするようになっていた。�コーチのおじさん�は、今では子供たちの親にもその存在を認められた恰好になっていて、町で顔を合わせると挨拶をされる。  手すりの横に飾られている自転車は、その気になれば柳田が買えない値段ではなかった。だが、その気にはならなかった。若いときの柳田とちがって、今の彼はほしい物があっても我慢してしまう男になっていた。いじけている、と自分で思うこともある。  男物の下着売場は、奥のほうにあった。二階はそれほど込んではいなかった。小さな男の子が、通路を駈けまわっていた。  柳田はランニングシャツを二枚選んで、手にさげた籠に入れた。靴下売場は少し離れた場所にあった。柳田は白のコットンのソックスを二足買った。コットンの靴下をよく買うようになったのは、野球のコーチを始めてからだ。子供たちはユニフォームを持っているのだが、柳田はジョギングウェアにジョギングシューズという姿で、グラウンドに出る。  ソックスを籠に入れて、その場を離れようとしたとき、柳田の視線が一ヵ所に釘づけになった。  そこは婦人服の売場になっていた。ハンガーに吊るしたスカートのスタンドの前に、女が立っていた。柳田のところからは、女のうしろ姿が見えていた。  女はハンガーからはずしたスカートをくるくると丸めて、肘《ひじ》のところにかけていた花柄の大きなバッグにスルリと押し込むところだった。バッグのジッパーがすぐに閉められた。一瞬の出来事のように、柳田には思えた。薄いグリーンのコットン地らしいスカートが、バッグの中に消えるようすが、柳田の眼に鮮やかな残像を結んでいた。  女のようすにおどおどしたところはなかった。彼女は手に残ったハンガーをスタンドに戻して、ゆったりとした足どりでその場を離れた。  柳田は女の姿を眼で追った。何をどうしようというつもりもなく、何か珍らしいものを見る思いだった。  女は次に折りたたみの傘の並べてある台の前で足を止めた。青と白の花柄の傘が、また女のバッグの中に吸い込まれるようにして消えていった。女はあたりを気にする気配も見せずに、まことに堂々と迅速《じんそく》に、かつ鮮やかに事をすませた。  柳田は女の手並みに舌を巻いた。傘の台の前を離れようとして、女が体の向きを変えた。女の視線がまっすぐに柳田のほうに向けられてきた。とたんに女の表情がこわばった。万引きの現場を柳田に目撃されていたことに気づいた顔だった。  女と眼が合った瞬間、柳田のほうもどぎまぎした。女の顔に柳田は覚えがあった。野球を教えている子供の母親だったのだ。  そうとわかったとき、柳田は咄嗟《とつさ》に笑顔をこしらえた。笑った顔のまま、柳田は小さく首を左右に振って見せた。何も見ちゃいませんよ、と言ったつもりだった。柳田の笑顔はぎごちのないものになっていた。女は臆したような眼の色を見せたまま、柳田に無言で会釈を送り、背中を見せて足早に階段のほうに去っていった。  女の眼の色を気にせずにいれば、彼女の会釈は顔見知りの相手に送ったものと変りなく見えた。柳田はレジに向った。困惑はまだ残っていた。  階段をおりるとき、見本の自転車がまた柳田の眼を惹いた。さっきの女に頼んで、自転車を万引きしてもらうわけにはいかないものか、と柳田は思った。自分に向って投げたその冗談が、柳田の困惑をいくらか軽いものにしていた。  一階の食品売場は、人をかき分けなければ進めないほどだった。一週間分の食料の買込みをしながら、柳田の眼は無意識に客の中にさっきの女の姿を探しかけ、すぐに止めるのだった。  柳田は、その女の子供の顔を思い浮かべようとした。野球チームには二十名余りの子供たちがいる。その顔と名前はすべてたちどころに浮かんでくるのに、さっきの女がどの子供の母親なのかがはっきりしなかった。  子供の顔と親の顔とがそらで結びつかないということは、他の場合にもよくあった。だが、万引きの女が、野球チームのメンバーの母親であることだけは、はっきりしていた。独り暮しの柳田がその町で顔を見識《みし》っている相手は、男女を問わず限られているのだ。  柳田がその町に移り住んできたのは、三年余り前だった。  それまでは、江戸川区の東篠崎町《ひがししのざきまち》というところに住んでいた。東京の東のはずれの江戸川べりの町だった。そこには四年間住んだ。  東篠崎町に住むようになる前は、柳田は静岡の刑務所に服役していた。横領罪で一年八ヵ月の刑を受けたのだった。  横領したのは、勤め先の信用金庫の金だった。八千七百万円余りのその金を、柳田は二年で使い果していた。注ぎ込んだ相手は馬と女だった。  初めは競馬だった。そして女が加わった。馬はもちろん一頭ではなかったが、女は最初から最後まで一人だった。銀座のクラブで働いている女だった。  柳田は都立の商業高校を卒業してすぐに、東京の南部を営業地盤にしている信用金庫に就職した。父親が早くに病死していたし、柳田は長男で、下に妹と弟が一人ずついたので、大学進学は諦めていた。  信用金庫の仕事は楽ではなかった。客には頭を下げ、上役には口うるさい小言を言われつづけた。柳田はしかし、そういうことは苦にならなかった。客に頭を下げるのは当然だし、一人前に仕事ができるようになるまでは、上役や先輩にしごかれるのも仕方がない、と割り切っていた。  物事にこだわったり、愚痴《ぐち》をこぼしたり、弱音を吐いたりする性格ではなかった。人にもわりあい好かれるほうだった。柳田は自分がそういう性分に生れついたことを、ありがたいと思うようになった。その性分のおかげで、職場での生活や仕事の辛さが、ずいぶん軽減されていることが、わかっていたからだった。  柳田は仕事の呑《の》みこみも早かった。身も軽かった。気配りもできた。人づきあいが苦手だということもなかった。そういうところを見込まれて、顧客先係にまわされた。顧客の面倒を柳田はまめにみてやった。客たちにも気に入られた。客も預金のノルマの面では、柳田を助けてくれた。  客の世話で知り合った相手と、見合とも恋愛ともつかない結婚をしたのが、入社五年目だった。一年後には女の子が生まれた。その二年後にまた女の子が生まれた。  最初の子供と二番目の子供が生まれる間に、柳田の心に魔がさした。  柳田の妻の幸子《さちこ》は、子供を腹に宿すと、人が変ったように感情の起伏のはげしい女になる傾向があった。はじめは柳田も、突然ヒステリックにわめき出す幸子に面喰《めんくら》い、肚《はら》を立てて怒鳴り返していた。  幸子の情緒不安定は、出産の後も半年以上ほどつづいた。それが妊娠と子育ての緊張や不安によるものだ、という話を柳田は彼の母親から聞かされて、納得した。それからは彼は、幸子に怒鳴り返すようなことはしなくなった。幸子を刺激しないように気を配った。それでも幸子はよく荒れた。柳田は自分を抑えて我慢した。我慢は辛くはなかった。  柳田が競馬を始めたのは、最初の子供が生まれて間もなくだった。信用金庫の顧客の一人に誘われて、気軽に場外馬券を買ったのが最初だった。それも顧客とのつきあいのうちだ、という気持からだった。  柳田は酒が飲めない体質だった。千円か二千円ずつ馬券を買うぐらいのことは、酒を飲むのにくらべれば、なんでもなかった。  馬券の成績は、小さく取ったり取られたりがつづいた。そのうちに柳田は競馬に夢中になった。大きな穴を当ててからは、いっそうやみつきになった。坂道と気づかぬまま歩いていたら、いつのまにかそこは地獄坂となっていて、柳田はその坂を急速度でころがり落ちていった。  横領の手口は単純なものだった。他の用件で印鑑を預った客の預金を、頼まれたふりをして勝手におろし、後で埋めておくというやり方だった。  いつかはそれが発覚することは、目に見えていた。それがわかっていて、柳田は自分を抑えることができなかった。発覚したときのことを考えても、恐怖はそれほど切実ではなかった。妻の幸子が、妊娠と育児で神経が正常のバランスを失うのと同じように、柳田の神経もそのときは競馬の魔力の虜《とりこ》となって、正常を失っていたとしか思えなかった。  そうなるとおかしなもので、柳田は飲めない酒に手を出すようになった。酒に女はつきものと相場がきまっている。そっちにも地獄坂が待っていた。  相手は瑠美子《るみこ》という女だった。柳田は顧客を接待する上役のお供《とも》で行った銀座のクラブで、瑠美子と知り合った。その頃、幸子は二番目の子供を身籠《みごも》っていた。それでなくても柳田は心に怯《おび》えと鬱屈を抱えていた。まるで絵に描いたように条件はそろっていた。  瑠美子はあっさり柳田に身を任せたわけではなかった。そうかといって、柳田を嫌っているようすでもなかった。  最初にホテルに行ったとき、瑠美子は自分に医者の卵の恋人がいることを打明けた。それが柳田の気持に火をつけた。大穴の馬券を取ってやろうというときと同じような気持で、柳田は瑠美子を彼女の恋人から奪ってやろうと思ってしまったのだ。  馬に加えて女にまで金を注ぎこむことになって、柳田の横領はいっそう大胆になった。まるで誰か早く悪事に気づいてくれ、と言わんばかりだった。そしてそのとおりになった。途端に柳田は憑《つ》き物が落ちたようになった。馬も瑠美子も、過ぎ去った悪夢の中の出来事のように、彼の心の中から消え去っていった。  横領した金の大半は、伯父たちが分担して弁償した。柳田の母も、なけなしの蓄えをはたいた。幸子は離婚したい、と言ってきた。柳田は拘置所の中で離婚届に署名した。  柳田は模範囚だった。刑期を八ヵ月残して出所した。東篠崎町で小さな運送店を開いている伯父のところで働くことになった。伯父の家族の他は、柳田の前科を知っている者はいなかった。柳田はそれでも、自分の心の負い目を忘れることはできなかった。誰もが自分の犯した横領のことを知っていて、内心ではこいつは泥棒なんだ、と思っているにちがいない、という妄想から柳田は逃れることができなかった。  一年たち、二年たち、三年が過ぎるころに、ようやく柳田は生来の明るさを取り戻していた。妄想は薄れていき、自分がわけへだてなくまわりの者たちに受け入れられているらしい、と思えるようになった。  世間はしかし、広いようでいて狭かった。伯父が、辞めていった運転手の補充に雇い入れた男と顔を合わせたとき、柳田は一瞬、視界にひび割れが走るような感じに襲われた。新しく雇われた中年の運転手は、静岡の刑務所で、柳田の隣の雑居房にいた男だったのだ。相手も柳田の顔を見て、刑務所時代を思い出したかどうか、柳田にはわからなかった。仮にそのときは思い出さなくても、一緒に伯父のところで働いているうちには、遠くない先に相手も柳田のことをそうと気づくにちがいなかった。  柳田は進退|谷《きわ》まった気持になった。足もとの砂が少しずつ崩れていく気分だった。相手の男も前科持ちなのだから、自分の過去に蓋《ふた》をするのと同じように、こっちの秘密にも触れようとはしないだろう。そうは思っても柳田の気持は休まらなかった。知られたくない汚点を知っている男が身近にいる。それだけで柳田は裸の体を人の眼にさらしている気持になるのだった。  伯父の運送会社を辞めて、東篠崎町から離れよう、と柳田は決心した。だが、その理由をありのままに伯父に話すのはためらわれた。話せば伯父は、新しく雇い入れた男が前科持ちであることを知ってしまう。その結果、相手の男は折角得た就職口を失うことになるかもしれない。そうでなくても、自分の秘密に怯えるあまり、他人の秘密を伯父に洩《も》らすことは、やはり気が咎《とが》めた。  そうかといって、横領した金の弁償や、出所後の世話などで、柳田は伯父には恩義があった。よそで働きたいなどと、勝手を言い出せる立場ではなかった。結局、柳田は無断で伯父のもとを去ることにした。  新聞の求人広告で、多摩地区に倉庫管理の仕事を見つけた。採用がきまって、今住んでいる町にアパートを見つけて、夜逃げ同然のようにして、移ってきた。東篠崎町は東京の東のはずれで、いま住んでいる町は東京の西のはずれに近かった。その隔りが柳田をなんとはなしに安堵させた。  それまでは給料から伯父が差引いていた、弁償金を柳田は毎月、住所を隠して送金した。幸子への慰謝料と子供の養育費も、住所を書かずに送りつづけている。  当然、柳田の生活には、金銭的な余裕はない。それでも柳田は、今の町に住むようになってからはじめて、自分の心がほんとうに晴れるのを味わうことができた。伯父のもとを離れてみると、それまでことさら意識しなかった伯父一家の存在から受ける圧迫感のようなものが、いかに大きかったか、ということをあらためて思い知らされた。今住んでいる街には、柳田に横領の前科のあることを知っている人間はいないはずである。柳田は空気の味がちがうような伸びやかさを、その町ではじめて味わっているのだ。  伯父たちへの弁償金や子供たちへの養育費で、切りつめた生活をしなければならなかったが、それはさほど苦にならなかった。懲役のつづきだと思えば何でもないのだ。その上に、子供たちに野球を教える愉《たの》しみがある。それが柳田の心を支え、なぐさめてもくれる。  中学、高校と柳田は野球をつづけていた。ずっとレギュラーだった。高校ではショートを守っていたが、内野手ならどこでも守れた。東京の地区予選に二度も最後まで残りながら、決勝で敗れて甲子園出場は叶《かな》わなかったが、それでも野球は今の柳田にとって、心の拠《よ》りどころのようなものになっていた。自分の三十余年の人生の中で、野球にまつわる思い出だけが、黄金のように輝いて見える、といったようなものだった。  翌日の日曜日も、柳田はいつものように六時に起きて、グラウンドに出た。  二十名余りのメンバーが、いつも全員そろうわけではない。毎回、何人かの欠席者がいるのは、珍らしいことではなかった。だが、中には柳田と一緒で、一度も練習を休んだことがない、という子供も七、八人はいた。そういう子供の名前は、柳田の頭に特に強く刻みつけられている。そういう子供に限って、野球の素質にいまひとつ光るものがない場合が多くて、柳田はときどき切ないような思いにおちいることがある。  武井洋平《たけいようへい》が、そういう子供の一人だった。小学校五年生の洋平は、外野手で打撃の勘もよかったが、残念なことに足の遅い子供だった。守備は決して下手ではないのだが、足が遅いために、捕れる球をヒットにしてしまうというようなことがよくある。だが、練習熱心なことにかけては、洋平は他の誰にも負けない子供だった。  その日、洋平は珍らしくグラウンドに姿を見せなかった。柳田がコーチを勤めるようになってから、洋平が練習を休んだことなど一度もなかったのだ。  柳田は、洋平の家の近くに住んでいる子供に、欠席の理由をたずねてみた。だがどの子供に訊《き》いても要領をえない返事しか返ってこなかった。どの子供も、練習を休むという話は洋平から聞いていなかった。  子供たちと一緒に、練習の前の柔軟体操をしているときに、柳田の頭にひらめいたものがあった。前の日のスーパーマーケットで万引きをはたらいた女の顔と、洋平の顔とが、めくった本のページの左右に並んでいるもののように、柳田の頭の中でスッと結びついたのだ。  ただの推測ではなかった。前に二、三度、洋平が母親と一緒にいるところに、柳田は行き合わせたことがあったのだ。一度はやはり、きのうのスーパーマーケットの店内でだった。あとのときは場所がどこだったか、柳田は忘れていた。スーパーマーケットで出合ったときも、他のときも、洋平の母親は柳田にきちんと挨拶をした。  前の日に、万引きをした女の顔を見てすぐに、それが野球のメンバーの中の誰かの母親であることを、柳田は思い出した。同様に、相手の女もあのとき、自分の万引き行為の目撃者が、わが子の野球チームのコーチであることに気づいていないはずはない。  そのことを気に病んで、母親が洋平にその日の練習を欠席させたのではないか——柳田はそう考えた。ありそうなことだった。柳田は気が滅入《めい》った。  万引きの現場を眼に留めたときもそうだったが、その後もずっと柳田は、そこで見たことは自分ひとりの胸に収めておくつもりでいるのだった。相手が野球を教えている子供の母親だから、というのではない。面識のない人間が万引きをしているところを見ても、自分は同じ考えを選んだにちがいない、と柳田は思っていた。  刑務所で暮したことのある人間に、人の悪事を暴《あば》く資格などないだろう、という思いももちろん、柳田にはある。  柳田はしかし、それよりも先に、悪事が明るみに出てしまったときの、居場所のないような思いに押し包まれる相手の気持を考えてしまう。居場所のない思いは、横領が発覚したときはもちろんのこと、刑務所を出てからも、長いこと柳田につきまとって離れなかった。そのことを柳田は忘れることができないでいるのだ。  万引きを見られたことを気にして、母親が洋平に練習を休ませたのだとしたら、そのことにすでに、相手の居場所のない思いの程が現われているように思えてならない。それが柳田にはいたたまれない。自分に限って、そういうことは一切気に留める必要はないのだということを、万引きの現場で眼が合ったときに、笑顔で首を横に振って、柳田は知らせたつもりでいた。  それはどうやら相手には通じていないようすなのだ。あのとき首を横に振ったのがいけなかったのではないか、と柳田は真剣に悩んだ。あの場面で首を縦に振っていれば、相手の行為を黙認するサインとして、気持のままに受け取ってもらえたかも知れない。首を横に振る仕種《しぐさ》には、どうしても否定のニュアンスがつきまとう。  柳田は、横と縦と、首の振り方ひとつの違いで、自分が洋平の母親を窮地に追いやってしまったような悔いを味わった。自分が推測しているような事情で、洋平が練習を休んだのだとしたら、洋平もかわいそうだ、と柳田は思わずにはいられなかった。  柳田がコーチを勤めている限り、洋平はその日だけでなく、それっきり野球チームから離脱していくことだって考えられるのだ。それを考えると、柳田はますます辛い気持におちいっていく。  洋平は練習を休むつもりはなくて、ただ何かの都合で顔を見せるのが遅くなっているだけのことかもしれない——柳田はそう考えることにして、ひとまず屈托《くつたく》を押しやった。  体操が終り、ランニングをすませ、キャッチボールやトスバッティングが始まり、練習試合に移っても、洋平は姿を見せなかった。  練習の間ずっと、柳田の頭の中には、洋平とその母親のことが張りついていた。  知るともなしにいつのまにか知った、洋平の家のことなども、ひとりでに柳田の頭の中に浮かんできた。  洋平の家に父親がいないことは、柳田も知っていた。離婚したのか、病死したのかというところまではわからない。洋平には小学校二年生になる妹がいることや、母親がどこかの病院に勤めているということは、子供同士のやりとりを通じて、柳田の耳にも伝わっていた。  結局、洋平はその日の練習が終るまで、グラウンドには現われなかった。  アパートに帰ってから、柳田は何度も洋平に電話をかけるか、家に訪ねていくかしてみようか、という思いにかられた。  洋平の住んでいる場所や電話番号は、調べればわかるはずだった。それまで皆勤をつづけていた洋平が、練習を休んだのだから、コーチとしては気にかけていることを示すのは当然と思える。 〈来週の日曜日は、元気でグラウンドに出てこいよ〉  そういうことばを洋平にかけることで、万引きの件は気に病む必要はないというこちらの気持を、母親にそれとなく伝えることができるかもしれない。  柳田はしかし、洋平の家を探したり、電話番号を調べたりする決心がつかなかった。あのときの首の振り方の、縦と横のちがいと同じようないきちがいが、また起きないとも限らない、と柳田は考えた。  野球のことにかこつけて洋平に電話をかけたことが、母親には逆に、彼女の万引きに対する柳田の底意地のわるい関心の現われ、と見えかねない。その誤解は、首を横に振ったことで生れているかもしれない誤解とは較べようもないほど、救いがないものになるだろう。  何もせずに、じっと目をつぶっているしかない——柳田が辿《たど》りついた結論は、そういうものだった。  柳田の部屋のドアがノックされたのは、同じその日曜日の夜の八時過ぎだった。  柳田は食事の跡片づけもすませて、ベッドに寄りかかった姿勢で、巨人と中日のゲームの実況中継をテレビで見ていた。  酒も飲まず、他の遊びもせず、勤め先は小さな倉庫会社という柳田には、アパートに訪ねてくるような相手はほとんどいなかった。  テレビの画面では、三塁にランナーを置いて、篠塚がバッターボックスに入っていた。ヒットが出れば巨人が同点に追いつく、という場面だった。柳田は巨人を贔屓《ひいき》にしていたが、それは篠塚がいるからだった。篠塚の攻守に見せる職人芸のような技術の冴《さ》えに、柳田は強く惹かれていた。  テレビの画面に半分眼を向けたまま、柳田は立っていってドアを開けた。  ほの暗い廊下に女が立っていた。女は開けられたドアの前で顔を伏せていたが、柳田にはそれが武井洋平の母親であることが、すぐにわかった。  相手は顔を伏せたまま、口をきくでもなく、眼を上げるでもなく、ただじっと動かずに立っているだけだった。柳田のほうも戸惑ってしまって、すぐには声が出なかった。 「どうぞ、入ってください」  いつまでも黙って突っ立っているわけにもいかずに、柳田はつとめて軽い口調で言った。女は頷《うなず》いて、伏せた顔はそのままに、中に入ってきてドアを閉めた。ドアが閉まると、せまい踏込みの空気が、ふと何か濃密なものに一変するのを、柳田は感じた。  女はドアを閉めて向き直り、もう一度会釈するように頭をさげてから、靴を脱ぎはじめた。はじめから部屋に上がるつもりでやってきたようすの、女の態度だった。それを見て柳田も、ドアの前での立話で終るような話ではないだろう、という気になった。  部屋は六畳|一間《ひとま》だった。畳はけばだっていた。ベッドが置いてあるのでせまかった。クーラーはない。小さな扇風機が窓ぎわで回っていた。座蒲団もなかった。 「その辺に坐ってください。せま苦しくてすいません」  柳田は扇風機の前のあたりを指でさしてから、台所の冷蔵庫を開けた。缶のコーラが冷えていた。それを二つのコップに注いで、部屋の隅に置いてあった小さな折たたみ式のデコラの食卓に置いた。コーラのコップをのせたままの食卓を、柳田は女の前まで運んだ。テレビはつけたままにしておくことにした。部屋の中が静かになるのは気が重かった。  テレビの画面では、篠塚が二塁に出ていた。スコアは同点になっている。 「窓を閉めてもいいですか?」  女はやはり眼を伏せたままで言った。それが彼女の最初のことばだった。道をへだてた向いもアパートだった。窓に灯が見えていた。外からの人の眼が気になるのだろう、と柳田は考えた。彼は返事をする前に、立っていって窓を閉めた。柳田も落着かない気分だった。 「コーラ、どうぞ……」 「はい」 「洋平君、今日は練習に来なかったですね」 「すみません」 「お母さんが休むようにおっしゃったんですか?」  女は返事をしなかった。スカートに包まれた膝の上で、彼女は手にしたハンカチを両手で揉《も》むような仕種をつづけていた。 「お母さんは、わざわざここに来ることなんかなかったんですよ。洋平君にも練習を休ませる必要なんかなかったのに」 「洋平は他に用があったんです。ですから練習に行けなかったんです」 「ぼくは気にしてませんよ、きのうのことは。忘れることにしてるんです」 「わたし、武井|律子《りつこ》といいます。ひどいところを見られちゃったわ、きのうは……」 「ぼくは何も見ちゃいませんよ。病院にお勤めなんですってね?」 「どこの病院か、もうご存じなんでしょ?」 「知りません」 「お調べになったんでしょ?」 「調べるって、何を?」 「わたしの勤め先です」  武井律子は、はじめて眼を上げて柳田を見た。打ちひしがれた眼の色ではなかった。妙に静まりかえったように見える眼だった。彼女の口調も、自分から唐突に名前を名乗ったあたりから、かすかな皮肉めいた調子がふくまれていた。  柳田は、武井律子の表情にも、彼女のことばにも戸惑った。戸惑いながら彼は、相手が何を考えているのか、見当がついてきた。 「武井さん、あなた、考えすぎてるんじゃないですか? どうしてぼくがあなたの勤め先なんかを調べなきゃならないんですか」 「脅迫するには、勤め先を突きとめなきゃならないでしょう? あたしは柳田さんに決定的な弱味をにぎられてるんですもの。きのうのことを他の人に知られまいと思ったら、あたしは柳田さんの言いなりになるしかないんです」 「ばかなこと言わないでくださいよ。ぼくがあなたを言いなりにする気でいると思ってるんですか?」 「わからないわ。わかりません。約束の成り立つようなことじゃないでしょう?」 「約束しますよ。誰にも言わないって……」 「わたしは柳田さんがその約束を守るかどうか、あなたをずっと見張ってるわけにはいきませんもの」 「ぼくが信用できないってわけだ」 「信用したいわ。でも安心できないんです」 「どうしたら安心できるって言うんです?」 「あたし、病気なんです。自分でわかってるんです」 「病気って……」 「生理が近づくと、きのうのようなことをしてしまうんです。自分を抑えることができないんです、そういうときは」 「だろうな。武井さんは何もなければそんなことをする人には見えないもの。生理のときにそういう気持になってしまう女の人がたまにいるって話は、ぼくも聞いたことがありますよ」 「きのう盗んだスカートと傘は、今日あの店にこっそり返してきました。いつもそうするんです。盗んでいったん家に持って帰れば気がすんじゃうんです。あたし、盗んだものをそのまま自分のものにしたことなんかありません」  武井律子は声を詰まらせた。肩がふるえて、涙が落ちるのが見えた。 「危いなという時期は、買物に行かないようにしたらどうですか。そういうときってのは、自分が自分じゃなくなるんですよ。あなたのせいじゃないんだ、きっと」 「ひとり暮しならいいんですけど、子供がいると買物をしないわけにいかないときがあるんです。それに用がなくてもそういうときはどうしてもお店に足が向いちゃうんです」 「いままで、人に見つかったことはないんですか?」 「ありません。自慢するわけじゃないけど」 「専門のカウンセラーとか、医者なんかに相談したほうがいいんじゃないですか、いまのうちに」 「いつもそう思うんです。でもいざとなると相談する勇気が出ないんです」 「いままでは誰にも見つからなかったけど、ぼくは見ちゃったんですよ。ぼくだからよかったけど、つづけてるとまた誰かに見つからないとは限らないでしょう。警察沙汰になったら、洋平君と娘さんがかわいそうですよ」 「わかってるんです」 「洋平君たちのためにも、ぼくと約束してくださいよ。専門家のところに相談に行くって。もし一人で心細ければ、ぼくが一緒についていってあげてもいいですよ」 「専門家に相談して治ればいいんですけど」 「やってみなきゃわからないでしょう」 「柳田さんはいい人なんですね」  武井律子は涙で赤くなった眼を上げて言った。涙は止まっていた。吐かれたことばとは裏腹に、彼女の口もとの表情と口調には、さっきの冷めたい皮肉っぽい感じが戻っていた。くるくると変る相手のようすに、柳田はふと、別れた幸子のある時期の姿を思い出していた。 「いい人だなんて言われると、面喰っちゃうけど、ぼくは口は固い男ですから、ほんとに妙な心配はしないでいいですよ。信用してください、その点は」 「あたし安心したいんです。安心させてください」  そう言って武井律子は膝の前の食台に手をかけた。食台が脇に押しやられ、上にのっているコップが躍《おど》り、中のコーラがはねてテーブルを濡《ぬ》らし、武井律子の体が柳田のあぐらの膝の上に倒れこんできた。  そうした一連の出来事のすべてを、柳田は妙にくっきりと眼に留めていた。彼は自分がうろたえているのか、落着いているのかわからなかった。そういうことが起きることを、自分が頭の隅で予想し、期待していたような気もした。期待は抱かなかったとしても、一片の予想もなかった、とは言えなかった。  相手をたしなめようとするいくつかのことばが、柳田の胸に浮んだ。それらはすべて喉元《のどもと》まで出かかって止まった。柳田の手は、膝の上の武井律子の背中から彼女の体の脇のところまで伸びていた。武井律子の乳房のはずむような感触が、柳田の膝の上にあった。  柳田の体は熱くなっていた。その熱さが彼を押し流した。否も応もなかった。  テレビの野球中継は終っていた。  それがいつ終って、巨人と中日のどっちが勝ったのか、柳田にはわからなかった。  武井律子は裸のまま、畳の上にうつぶせになっていた。重ねた腕の上に伏せた顔は柳田のほうに向けられていたが、眼は閉じたままだった。  柳田も裸のままだった。彼は体を起し、食台の上のコーラのコップに口をつけた。コーラはすっかりぬるくなっていた。  武井律子の首すじに、汗が光っていた。肉の薄い色白の背中には、けば立った畳の屑《くず》がついていた。肩の下あたりには、畳の跡もうっすらと残っているのが眼についた。  柳田は武井律子の背中を撫でた。畳の屑は汗ではりついたようになっていて、とれなかった。柳田はそれをひとつずつ指でつまんで取った。ついいましがたまで、自分の腕の中ではずんでいた武井律子の、燃えるように熱くて柔らかな肌の記憶が、柳田の指の先から甦ってきた。  後悔はなかった。自分に言いわけをする気も柳田にはなかった。 「コーラ、ぬるくなってるよ。冷めたいのを持ってきてあげようか?」  武井律子は頷いた。柳田は下着をつけて台所に行った。新しく注いだコーラのコップを持って戻ると、武井律子は壁のほうを向いて身仕舞をはじめていた。柳田はタオルを出して彼女の肩の上に置き、自分も汗を拭いた。 「弱味を知られた人間の不安な気持ってのは、ぼくは人一倍よくわかるんだよ。ぼくにも覚えがあるからね。武井さんだから話すけど、ぼくには横領の前科があるんだ」  体の汗を拭いている武井律子の背中に向って、柳田は言った。なんのためらいもなく、ことばが口からすべり出ていた。汗を拭いている武井律子の手が止まり、彼女は首だけを回して、柳田を見た。武井律子はおどろいた顔になっていた。 「前科者が、子供たちの野球のコーチなんかしてちゃいけないんだけどね、ほんとは」  柳田は照れて笑った。武井律子は視線を元に戻し、ブラウスの袖に腕を通した。 「競馬と女に狂っちゃってね。勤めてた信用金庫の金を横領しちまったんだ。一年八ヵ月の刑だよ。昔の話だけどね」 「横領って、いくら?」 「八千七百万とちょっと……」 「どうしてわたしにそんな話をするの?」 「どうしてってことはないけどね。誰にもこんな話はしたことないよ。武井さんには話さなきゃいけないような気がしたんだ」  スカートをはきおえた武井律子が、身づくろいをしたその場所に坐った。彼女は体を柳田のほうに向けていたが、冷めたいコーラのコップのある食台のところに寄ってこようとはしなかった。  それが気になって、柳田は武井律子に眼をやった。離れたところに膝をそろえて坐っている彼女は、その姿も表情も、何かに向って身がまえているように見えた。 「どうかしたの? 武井さん」 「横領の話、嘘でしょう?」 「嘘? どうしてぼくがそんな嘘を……」 「わたし、そんな話を聞いても安心できないわ」 「わからない人だなあ。何をそんなに急に怒り出すの?」 「やっぱり柳田さんのこと、信用できないわ、わたし」 「前科者だからですか?」 「嘘つきだからよ。前科の話がほんとうなら、柳田さんはそれを隠しといてあたしを抱いたわけよね。自分には弱味は全然ない。だから口止め料をもらうのは当然だって顔して……」 「そうだな。そう言われれば一言もないよ」 「何が一言もないですか」 「でも、弁解に聞こえるかもしれないけど、武井さんを抱くために、わざと前科のことを黙ってたんじゃないよ。抱くなんてことになるとは思っちゃいなかったんだ。ほんとだよ」 「だったらどうして、抱いた後で前科のことなんか話したの?」 「秘密とか負い目とかを持ってるのは、武井さんだけじゃないってことを話して、慰《なぐさ》めてあげたかったんだろうと思うよ。どうして急にあんな話をする気になったのか、自分でもよくわからないんだ。気を許したのかもしれない」 「あたし、ばかなことをしたんだわ。これで万引きのことと、それの口止めのために柳田さんに体を投げ出したことと、二つも弱味をにぎられることになったわけよね」  武井律子は立ちあがっていた。そのまま彼女は部屋を出て行った。柳田は声もかけず、引き留めることもしなかった。武井律子の不信でこりかたまった暗い眼の光だけが、鮮やかな残像のように、柳田の胸に残った。その眼は、東篠崎町で怯えを抱いて暮していた頃の、柳田自身の眼でもあった。  柳田は立っていって窓を開け放った。テレビを切った。立ったままコーラを飲んだ。 〈この町ともまたお別れだな……〉  柳田は胸の奥で呟《つぶや》きを洩らした。  白い壁の部屋 「ヒデマル……」  治美《はるみ》はバッグから部屋の鍵を取り出しながら、小声で猫の名前を呼んだ。ドアのすぐ向うから、ヒデマルが短い声で応《こた》えてきた。飼いはじめて二ヵ月になる、チンチラ種の牝《めす》である。  治美が外から帰ってくると、足音を聴きつけるのか、いつもヒデマルはドアの前まで出てきている。それがわかってから、治美も帰ってきてドアの前に立つと、ヒデマルに声をかけてやるのが、決まりのようなことになっていた。  治美はドアを細く開けて、隙間をハイヒールの足で塞《ふさ》ぐようにした。迂闊《うかつ》な開け方をすると、ヒデマルが外にとび出すのだ。一度だけだが、逃げられて捕まえるのに手を焼いたことがあった。  体を横にしてドアの中にすべりこんだ治美の足首のところに、ヒデマルが首すじをすりつけてきた。治美はドアを閉め、鍵とチェーンをかけてから、ヒデマルを片手で抱きあげた。 「おい、今夜オレ、酒臭いだろう。職場の忘年会で飲んできたんだ。二次会で課長のバカが踊りながらオレのケツさわりやがったから、ハイヒールで足を踏んづけてやったんだ。冗談じゃないよな、ヒデマル」  治美は明りのついていない踏込みに立ったまま、ヒデマルのおでこに額《ひたい》をつけて呟《つぶや》いた。ヒデマルは喉《のど》を鳴らしていた。  明りをつけて、ヒデマルを絨毯《じゆうたん》の床におろすと、治美はバッグをベッドに落し、コートを脱いだ。部屋は冷えていた。壁に取付けてあるヒーターは使っていない。空気が乾いてしまうからだ。ガスストーブをつけた。  脚が冷めたかった。治美はストーブの前に立って、ストッキングの脚をあぶった。ヒデマルが寄ってきた。治美の足もとで、ヒデマルは背中を丸くしてうずくまった。  風呂の湯を出して戻ってきたとき、電話が鳴った。電話はベッドの枕もとの台の上にある。治美は受話器を取った。名乗らずに声だけ送る。女が一人で都会で暮していると、なんとはなしの用心深さが、自然に身についてくる。  相手は声を返してこなかった。いたずら電話ではないか、と思いながら治美はもう一度声を送った。ことばが返ってきた。 「元気かい?」  声で五十嵐だとすぐにわかった。三ヵ月ぶりに耳にする声だった。今度は治美が口を噤《つぐ》んだ。胸の奥がざわついていた。 「おとといから札幌に来てるんだよ。出張でね。すごい雪だよ、こっちは……」  三ヵ月の空白を無視したような口ぶりで、五十嵐は言った。 「どうしてこの電話の番号がわかったの?」  治美は胸のざわつきに気を取られていた。わざと硬い声を出した。 「きみがそこに引越して、しばらくしてからわかったんだ。ある人に教えてもらったよ」 「誰なの? ある人って」 「それはきみに言わないって約束で教えてもらったんだ。名前を言うのは勘弁してほしいな」 「あたしがどうして引越しをしたか、わかってるはずなのに」 「わかってる。だから三ヵ月我慢して、電話もかけずにいたんだ。きみは我慢の必要なんか感じなかった?」  治美は返事をしなかった。無言がひとつの返事になることはわかっていた。 「猫と暮してるんだってね。これも電話番号を教えてくれたある人に聞いたんだ」 「ヒデマルっていうの。貰ってきたとき、耳がまだ小さくて、顔がひどく丸く見えたの。ひでえ丸顔だからヒデマルって名前にしたのよ」 「ほっとしたよ」 「なにが?」 「きみが猫と暮してるって聞いたときさ」 「男と暮してるって思ったの?」 「ぼくとのことを終りにしたいって、きみが言い出したときから、ずっとそう思ってた」 「あんなに何回もあたしの気持を話したのに、なにを聞いてたの」 「嫉妬深いんだろうな、ぼくは……」 「なに言ってるの。あいかわらず勝手なんだから。三年もの間、あたしに嫉妬させつづけてたくせに……」 「それが、ちょっとようすが変ってきてね、ここんところ」 「なんのようすが?」 「女房がね、別れてもいいようなことを言い出してるんだ。きみがぼくから離れていったことがわかったかららしいんだ」 「皮肉ね、いまになって……」 「人ごとみたいな言い方だな。うれしくないのかい?」 「そんなに単純な話じゃないと思うけど」 「一度、逢いたいんだよ。二度と逢わないって決めてるわけじゃないんだろう?」 「決めてる……」 「雪を見に札幌にこないか。明日は金曜日だろう。すぐに飛行機予約すれば、明日の夜か土曜日にはこられるじゃないか。日曜の遅い便で帰ればいいんだし」 「いまどこからあなたが電話かけてるか、当ててみようか。ホテルの部屋でしょう?」 「さっき一杯飲んで帰ってきたんだ。窓のカーテンが開けてあるんだけどね。街は雪で真っ白だよ。それがどこまでも続いているように見えるんだ」 「ひとりで寂しくなって、出張先のホテルからあたしに電話するのって、ちょっと安直じゃない?」 「札幌にくる気はないようだね」 「東京も明日あたり雪になりそうよ」 「気が変ったら電話をくれないか。空港まで迎えに出るよ。ホテルの電話番号言うよ」  治美は黙っていた。手は迷いながら、電話の横のメモの台紙についているボールペンを取っていた。  電話を切った後で、治美はメモしたばかりの札幌のホテルの電話番号を眺めていた。メモの余白に、バカと大きな字で書いた。  ベッドの上に置いてあったバッグから、たばことライターを出した。風呂の湯を出していたことを思い出して、バスルームに行った。もう少しで湯は小さな浴槽からあふれそうになっていた。  湯を止めて部屋に戻ると、治美は窓を小さく開けた。カーテンも少し開けてから、そこに立ったまま、たばこに火をつけた。部屋でたばこを吸うときは、開けた窓のところで、と決めている。その部屋に越してきて、新しく貼った白い壁紙が、たばこの脂《やに》で黄ばむのがいやなのだ。  吐いた煙は、冷えきった外の夜気に吸われるようにして、流れ出ていった。治美の視線は、ひとりでに道をへだてた向いのマンションの、手前の角の一室に向けられていた。  三階のその部屋の外廊下に面したドアと、小さな窓が、治美の部屋の正面に見える。窓には明りの色が映っていた。人の影は見えない。  あるとき、その窓のカーテンが半分近く開いていて、その向うで裸の男と女が抱き合っている姿が見えたことがあった。治美がその部屋で暮すようになって間もない頃である。やはり夜で、そのときも治美はたばこを吸うために窓を開けて、たまたまそれを眼に留めてしまったのだ。向うの顔がぼんやり見えるくらいの距離だった。  なまなましい光景だった。窓辺にベッドが置いてあるようすだった。男はベッドの上に膝で立っていた。その前にかがみこんだ女の頭は、男の下腹のところにあった。  それを眼にしたとき、治美は一瞬、息が詰まったようになった。たちまち口の中が乾いてしまって、たばこがひどくえがらっぽく感じたのを覚えている。  そういうことがあってから、窓ぎわに立つたびに、治美の眼はなんとなく向いの部屋に向いてしまうようになった。  その部屋に住んでいるのが、治美よりはいくつか年上に見える会社員らしい女で、彼女のもとには、二人の男が通ってきている、というようなことが、三ヵ月住んでいるうちに、治美にもわかってきた。二人の男のうち、一人は中年に見えた。もう一人は、女より少し年長だろうと思える長身の男だった。  治美が窓ごしに見た裸の男は中年のほうだったが、外廊下のドアのところで、女が長身のほうの男と唇を重ねているところも、治美は偶然に眼に留めていた。相手の男はそのとき、女の部屋から帰っていくところだったのだろう。女がドアのところまで送ってきた、といったようすだった。半開きに開けたドアのところで、二人はどちらからともなく唇を寄せ合い、女のほうが男の腰に腕を回したのだった。  その光景を眼にしたときは、治美はなまなましい感じはしなかった。だが、ついこの前までは、治美自身も向いの女と同じように、帰っていく五十嵐を部屋の入口まで送って出て、いつも自分のほうからキスを求めていたことを思い出して、胸が疼《うず》いた。  たばこは短くなっていた。手に持った灰皿でそれを消し、治美は少しでも煙が部屋に残らないようにと、神経質に手を振り回してまわりの空気を外に掻き出してから、窓を閉め、カーテンを引いた。  ベッドの横で服を脱ぎながら、治美は電話の横のメモ帳の、札幌の電話番号に眼を投げた。ヒデマルはストーブの前に体を長く伸ばして横たわっていた。  治美は素裸のままで浴室に行った。裸で部屋の中を平気で歩くようになったのは、五十嵐との関係が始まってしばらくしてからだった。治美がたばこを吸うようになったのも、五十嵐の影響だった。  湯舟に体を沈めて、治美は腕や肩や首すじを手で撫でた。脇腹をつまんだ。裸になるたびに、体に肉がつきはじめたような気がしてならないのだ。  湯の中で治美は両の乳房の下に手を添えて、押し上げるようにした。乳房の張りもいくらかゆるんできたような気がする。五十嵐が美しいと言って、とりわけ執着を見せつづけた乳房だった。治美の体にも、五十嵐の影のようなものがしみついているはずだった。治美もそれを自覚している。三年かかってしみついたものが、三ヵ月やそこらで消え去るはずはない、と治美は思うのだ。  五十嵐と深い仲になったとき、治美はもう少しで二十四歳になるところだった。それから三年間、治美は自分の年齢を意識することがほとんどなかった。  二人の関係に疲れを覚えるようになったときは、二十七歳になっていた。三年余りの五十嵐との関係は、治美にはせいぜい一年か一年半の長さにしか感じられなかった。  自分がいつのまにか二十七歳になっている、と気づいたとき、なぜだか治美は、二十七歳のいま五十嵐とのことを清算しなければ、生涯別れられなくなる、と思いこむようになったのだった。  五十嵐昌彦は、独立して事務所を開いている弁護士だった。  治美は、私立の女子大を卒業して、就職に失敗したまま、アルバイト暮しをしていた。そういうときに、郷里にいる母が、法律事務所に勤めたらどうか、という話を持ってきた。母方の伯父の知人が、五十嵐の古い友人だったのだ。母の持ってきた話は、その伯父から出たものだったのだ。  そういう縁で、治美は五十嵐のもとで、秘書兼、事務員として働くようになった。五十嵐は独立したばかりだった。  はじめて会ったときの五十嵐は、治美の眼には冷めたい印象に見えた。ととのった顔立ちのせいもあったのかもしれない。いかにも冷静で、強靭な精神を持った法律家のように、治美の眼には映った。  事務所には、五十嵐と治美しかいなかった。五十嵐が事務所にいるときは、治美は何だか気圧《けお》される思いがしてくつろげなかった。長い間、それがつづいた。  そういう一種の緊張の気分は、苦痛といえばたしかにそのとおりだったが、治美はそれを嫌ってはいなかった。息苦しい緊張というのではなかったからだ。静かで、ピリッとしたところのある職場の空気になじむことで、何か大事なものが自分の中に培《つちか》われていくように、治美には思えたのだ。  それに、終日そうやって五十嵐と顔を突き合わせているわけではなかった。自分が関わっている法廷の開かれる時間は、五十嵐は留守になる。それ以外にも、五十嵐には外出の用件がいくつもあった。  はじめの頃は、五十嵐が事務所を出ていくと、治美はすっと肩が軽くなるような気分になっていた。それが、馴《な》れてしまうと、事務所で一人になっても、ことさら気をゆるめたくなるようなこともなくなっていた。  そして、そうなった頃には、五十嵐が見かけとは別に、やさしい包容力を持った人物であり、古いジャズのレコードの収集を趣味にしている、といったようなことが、治美にもわかってくるようになった。  ジャズのレコード収集の話は、何かのちょっとした雑談のときに、五十嵐の口から聞いて知ったことだった。しかし、五十嵐が包容力のある人間だとわかってきたのは、治美がそれに直接触れるようなことがあったからではなかった。  そうしたものは、五十嵐の弁護士としての仕事ぶりに現われていた。とかく自分本位になりがちな依頼人の話を聞くときの五十嵐の応対の態度や、彼が手書きして、治美がワープロで打つことになる訴訟のための書類の文面などを通じて、彼の人柄といったものが治美にも伝わってくるのだった。  治美は少しずつ、五十嵐に好意を持ちはじめていった。その好意が、相手を異性として意識してのものであったことに、治美自身は長い間気づかずにいた。  治美が五十嵐の下で働きはじめた翌年のことだった。治美はその日、五十嵐の使いで裁判所に書類を届けに行った。帰ってみると、治美の机の上に、リボンのかかった小さな箱が置かれていた。  それが五十嵐からの誕生日の贈り物だとわかったとき、治美は自分でも滑稽に思えるくらいにまごつき、おどろき、よろこんだ。しどろもどろに五十嵐に礼を言いながら、治美は自分の顔が火照《ほて》っていることに気がついた。  プレゼントの箱の中身は、彫金細工の蝶のブローチだった。五十嵐はそのブローチをその場でつけて見せてほしい、と言った。治美は五十嵐のデスクの前に立ったまま、胸にブローチをつけた。  プレゼントはブローチだけではなかった。その夜、五十嵐は仕事が終えたあとで、飯倉の小さなフランス料理の店に、治美を連れていってくれた。  事務所でプレゼントのブローチをつけた治美を見たときと、レストランで食事をしているときの五十嵐は、いつもとちがって柔らかい顔に見えた。それは治美が初めて見る顔だった。  その夜、治美はなんだか気持がいつまでもうわずっていて、なかなか寝つけなかった。その日が自分の誕生日であることは、もちろん覚えていた。だが、五十嵐がそれを憶えていて、プレゼントをくれたり食事に招待してくれるなどとは、治美は思ってもいなかった。五十嵐のその心遣いが、蝶のブローチや食事の招待そのものよりもうれしかった。うれしさの中に、かすかな甘やかさがひそんでいることにも、治美は気づいていた。  そうやって、二人のデイトは始まった。五十嵐のほうが、月に一、二度、治美を夜の食事に誘うようになったのだ。それをデイトと呼びはじめたのも、五十嵐だった。  デイトはすぐに、月に三度、四度といったぐあいに、増えていった。はじめは食事だけだったのが、六本木のジャズのライブハウスや、ホテルのバーといったふうに、酒を飲む場所にも足が伸びるようになっていた。  最初の誕生日のときのプレゼントと食事の招待を、五十嵐が治美とのデイトのきっかけにしようと、はじめから考えていたのだということがわかったのは、体の関係ができてからだった。そうなるまでには、さらにそれから一年近くが過ぎていた。  治美は、五十嵐が最初の男というわけではなかった。はじめて五十嵐に抱かれたとき、ずいぶん長い間待った、と思った。とたんに涙がこぼれてきた。自分は待ち、妻と子供を持っている五十嵐は耐えてきたのだろう、と治美はそのとき考えた。  そういう仲に変ってしばらくしてから、治美は自分から言い出して、五十嵐昌彦法律事務所をやめて、今の会社に転職した。五十嵐が恋人であり、自分の雇い主でもあるという状態が、治美にはどこか居心地がよくなかった。仕事と私的な感情のけじめがつかなくなるような気がしたのだ。  それは五十嵐のほうも同じだったようすで、転職の話をすると、彼はほっとしたようすを見せた。  治美の新しい勤め先が決まってからは、二人が逢う機会は、急速に増えていった。外で逢うことはほとんどなくて、もっぱら治美の住んでいたアパートの部屋が、二人の逢《あ》い曳《び》きの場所になった。  そして治美は、妻子のある男を恋人にした女が味わう数々の思いを経験することになった。思いのひとつひとつが、そのつど胸をはげしく灼《や》き、あるいは噛んできた。  五十嵐との別れを心に決めたとき、治美はすぐに引越しのことも考えた。五十嵐との三年に及ぶ思いの詰まった部屋に、そのまま住みつづける気には、とてもならなかった。  転居を思い立つと、治美の頭の中には、白い壁の部屋がイメージとして浮かんできた。朝起きて、窓を開けると、金色の陽光がさしてきて、白い壁に自分の影やベランダの鉢の植物の影がさわやかにくっきりと映るような部屋に住みたい、と考えたのだ。その上に、猫を飼ってもかまわないという部屋なら、申し分はなかった。  新しく見つけた賃貸マンションの部屋は、ペットを飼ってもかまわない、ということだった。自費でなら壁紙を張り替えるのも自由だと聞いて、治美はすぐにそこに決めた。  治美が選んだ壁紙は、オフホワイトだった。遊びにやってきた口のわるい女の友人は、白い壁の部屋を見て、病室みたいだと言って笑った。  治美はしかし、その部屋が気に入った。白い壁は、朝も昼も夜もすがすがしく眼に映った。その壁を汚すまい、と治美は思った。たばこを吸うたびに、窓を開けて煙を外に出すのを面倒だと思ったことは、一度もない。壁を汚さないようにして暮すことが、何かよろこばしいことのように思えるときがあるくらいだった。  治美は、五十嵐が出張しているという札幌には、結局行かなかった。  だが、五十嵐に告げられて控えた札幌のホテルの電話番号のメモは、破り捨てられることはなく、しばらく電話の横に残されていた。  電話番号の下に書かれた、バカという文字は、黒く塗りつぶされていた。いっぺんに塗りつぶされたのではなかった。はじめはその文字は、ボールペンの線で丸く囲まれた。  そのうちに、何日かかけて、丸く囲んだ線の数が少しずつ増えていって重なりはじめ、やがて黒い丸に変ってしまったのだ。夜、ベッドに入る前の手持ちぶさたな時間に、ふと手が動いて、そういういたずら書きを始めていた。  つぎの夜にも、バカという文字が丸い線で囲んであるのが眼に留まると、治美は同じいたずら書きを始めずにはいられなくなった。意味もなくボールペンで丸い線を書きながら、治美は自分が札幌に行く気はないが、五十嵐がまた電話をかけてくることは期待している自分に気づいていた。  五十嵐の妻が、離婚に応ずるようなことを言いはじめている、という話を聞いたときは、今さらと思って治美は肚立《はらだ》ちを覚えた。肚立ちはすぐに消えた。  当然のことだが、五十嵐の妻の側にも、夫と治美との関係を知ってからは、胸を灼いたり噛んだりしてくる思いはあったはずだ。彼女が、夫と治美との仲が終ったとわかってから、離婚に応ずるようすを見せはじめたのは、意地とプライドの現われなのだろう、と治美には思えるのだった。  治美にも意地とプライドはある。治美は五十嵐に結婚を求めたことは一度もなかった。それを意地というふうに呼んでいいものかどうかわからないが、よその家庭を壊し、人の夫を奪った女、と言われたくないという思いを、治美は抱き続けていたのだ。それはしかし、自分一人だけが納得できるものであって、五十嵐の妻や、第三者まで頷《うなず》かせることはできない理屈であることも、治美は承知していた。  五十嵐のほうは、治美との結婚を真剣に望んでいた。五十嵐のその気持を、治美は疑ったことはなかった。妻との離婚は、五十嵐のほうが言い出したのだ。 『弁護士が自分の離婚に手こずってるんだから、漫画だね』  五十嵐はそう言って暗い笑いを見せたことが、何度かあった。  今になって、五十嵐の離婚が実現するかもしれないと聞けば、治美の気持はやはり動く。倦《う》みきって別れた相手ではないのだ。けれども、五十嵐の誘いに応じて、さっと札幌まで飛んでいく気持にもなれなかった。どうしてそういう気持になれないのか、治美にもわからない。  週が替わって火曜日の夜に、五十嵐はまた電話をかけてきた。 「今日の最終便で帰ってきたんだ。札幌、来てくれなかったね」 「咎《とが》めてるの?」 「でもないさ。寂しかったがね。期待しただけに」 「やっぱり咎めてる」 「そうだと言ったら、埋合わせしてくれるかね?」 「ほんとに寂しそうね」 「正月はどうするの?」 「松江に帰ることにしてるの。父の法事もあるし」 「また電話してもいいかね?」  治美は返事に迷った。五十嵐の電話を待っていた自分の気持を、素直に口にするのがためらわれた。 「いけないとは言えないわ。電話は鳴れば相手が誰だかわからなくても、出なきゃならないでしょう。出て、相手があなただってわかったら、やっぱりこうして話すことになるもの」  言いながら、治美は自分のことを、なんていやな女なんだろう、と思った。 「松江も正月ごろは雪なんだろうな。風邪なんかひかずに帰っておいでよ」  五十嵐はそう言って電話を切った。いかにも間のわるそうな口調だった。電話をかけてもいいかと訊《き》いたことを、五十嵐は悔やんでいるにちがいないと思うと、治美はたまらない気持になった。  受話器を戻してから、治美は腰をおろしていたベッドに、そのまま体を倒した。うっすらと涙がにじんできた。前に住んでいたアパートの部屋で、五十嵐を送り出してから、そうやってベッドに体を投げ出して、よく一人で涙を流していたことを、治美は思い出した。五十嵐が部屋を出ていくとき、いつも間のわるそうなようすを見せていたことも、思い出された。  手がひとりでに、たばこに伸びていた。だが、火はつけなかった。ヒデマルがベッドに上がってきた。  治美はパジャマの代りにしているスウェットシャツとパンツの裾と袖をまくりあげ、ヒデマルを抱いて浴室に行った。  浴室に入っただけで、ヒデマルは細い声をあげ、治美の腕から逃れようとした。ヒデマルはシャンプーをされるのが嫌いなのだ。 「オレが折角親切に体を洗ってやろうって言ってんだぞ、コノヤロー。おとなしくしてろ。オマエは知らねえだろうが、五十嵐のオッサンなんか、オレが体洗ってやるって言っただけでオマエ、涙流してよろこんでたんだから。ほんとだぜ、オマエ」  治美は声に出して言いながら、ヒデマルの体にシャワーの湯を浴びせ、シャンプー液をふりかけた。濡《ぬ》れた長い毛がぴったりと体にはりついて、ヒデマルは小さくて細っこい体の骨格があらわになった。ひどくみすぼらしい姿に見えた。  シャンプーをすませたヒデマルの体を、ドライヤーを当てて乾かすのが、またたいへんなのだ。ドライヤーの音と熱風を、ヒデマルはシャンプー以上に嫌っている。  ドライヤーが終ると、治美は今度は床の絨毯とベッドの上の、ヒデマルの抜け毛を取る仕事をはじめた。粘着テープを巻いたローラーに、長い柄のついた道具を使ってやるのだ。ローラーをころがすと、眼には見えない白い猫の抜け毛が、おもしろいように取れる。その道具をスーパーマーケットの家庭用品売場で発見したときは、治美は思わず膝を叩きたくなった。  ローラーの粘着紙を何枚か取り替えて、治美はいつも以上に入念に、ヒデマルの抜け毛を取ってまわった。ヒデマルは、シャンプーとドライヤーでいじめられたと思うのか、治美が寄っていくと、長いふさふさとした尻尾を水平にして逃げまわった。  抜け毛取りが終ると、治美は窓を開けてたばこを吸った。小さなベランダには、カニサボテンの鉢が三つ並んでいた。濃いピンクとオレンジ色の花が、いくつかついていた。花の盛りは終っていた。  クリスマスには、シクラメンの鉢を買って、部屋に飾ろうと思った。花の色が白い壁にきっと映えるだろう。  向いのマンションの三階の角部屋の窓は、珍らしく明りが消えていた。  たばこを消して窓を閉め、治美は寝る支度をした。枕もとのスタンドをつけて、部屋の明りを消した。スタンドの明りが、札幌のホテルの番号と、黒丸の落書きのあるメモ用紙を、スポットライトのように照らしていた。治美はそのメモ用紙を破り取り、小さく折ってごみ箱に捨てた。  ベッドに入り、スタンドを消した。五十嵐は今度の正月はどうやって過すのだろうか、と治美は思った。離婚の空気が漂っているという夫婦と子供たちの正月の家族の光景がどんなものなのか、治美には想像できなかった。  ヒデマルがベッドに上がってきたのが、気配でわかった。ヒデマルは蒲団《ふとん》の中に入ってくることはしない。治美が仰向けになっていると、足もとからそっとやってきて、いつも彼女の両脚の付根のところの蒲団のくぼみに、体を埋めるようにしてうずくまる。 「こら、ヒデマル。オメエ、女だろうが。人の妙なところに顎なんかのっけるんじゃねえよ。レズっ気があんのか、テメエ」  治美は、恥骨のところにヒデマルが伸ばした顎を置いてくる気配を感じて言った。飼いはじめてたった二ヵ月の間に、ヒデマルの体重がずいぶん増えたように、治美には思えた。  夕方のラッシュアワーの終る頃だったが、電車は身動きならないほど込んでいた。  治美は座席の前に立って、吊革につかまっていた。それでも体をまっすぐに立てているのが難しかった。  痴漢ではないか、と治美が思ったのは、新宿を過ぎて間もなくだった。  治美の背中や腰には、コートで着ぶくれた何人かの乗客の体が、押し合いへし合いの恰好で密着していた。尻にも誰かの体のどこかが押しつけられていた。  その尻に何か違和感があった。誰かの拳《こぶし》か手首がそこに当っていて、電車の揺れに従って、中央の谷間のほうにそれが少しずつ近づいてくるように、治美には思えたのだ。  わざとそうしているのか、混雑と車体の揺れのために、やむなくそうなるのか、わからなかった。それでも治美は不快だった。  それを避けようとすれば、前の座席に坐っている乗客の前に、腰を突き出すようにするしかない。  そのうちに、拳か手首かと思われていた丸っこい感じの触感が、平たい感じに変った。それも、いつ変ったのかわからないような変り方だった。  当っている場所は、臀部《でんぶ》の横のところだった。それが人の手だとわかるまで、少し間があった。コートとホームスパンのスカートのために、肌に伝わる感触がにぶくなっていたからだ。  その手はそこから動かなかった。ときおり五本の指の先が、やんわりと臀部をつかむような感じで押しつけられてくるのがわかった。治美は腰をよじって、その手から逃れようとした。手はそこに張りついたままだった。  治美は思いきって、その手に尻を打ちつけるようなつもりで、腰を横に突き出した。吊革につかまって隣に立っていた中年の女が、治美に腰をぶつけられて、睨《にら》むような眼を向けてきた。尻に張りついた手は、指を押しつける動きを止めただけで、逃げてはいかなかった。どかすにどかせないんだから、仕方がないじゃないか、とその手は言っているようだ。  治美は正面の窓のガラスに眼をやった。窓ガラスは人いきれでうすく曇っていた。そこに背後の乗客たちの顔が、ぼんやり映っていた。  治美のうしろには、二人の男が立っていた。不自然に見えないように治美の尻にさわれるのは、その二人しかいないはずだった。二人とも三十半ばの勤め人ふうの男だった。一人は長身だった。  治美は電車の窓に映っている二人の男の顔を、交互に凝視した。長身の男の顔に見覚えがあると思ったのは、しばらくしてからだった。その男は、治美の部屋の向いのマンションの三階の角部屋に住む女のところに通ってきている男の一人に、顔が似ているように思えた。  そうだと言い切れるほど、治美は向いの部屋に出入りしている男の顔を近くで見たことはなかった。だが、感じは似ていた。それに気づいたとき、治美はなぜだか自分の尻にこっそり手を押しあてているのは、その長身の男だと思いこみたくなってしまっていた。  つぎの駅で、治美は強引に人をかき分けて、電車を降りた。尻に張りついた手から逃げるには、そうするしかなかった。降りた電車が走り去るとき、長身のその男はホームに立っている治美のほうに眼を向けていた。その眼に特別の表情が見てとれたわけではないが、治美は痴漢はやっぱりあの男だったにちがいない、という気がしてならなかった。  その男が、自分が通っている女に、もう一人別のベッドの相手がいることを知っているのかどうか、治美にはわからない。好きな女がいながら、電車の中でそしらぬふりをしてよその女の尻をさわる男に、治美はなんだか滑稽な哀れみを覚えた。  その夜、五十嵐からまた電話がかかってきた。 「明日はクリスマスイヴだからね。だからってこともないんだけど、他に約束がなかったら、食事に誘いたいと思ってね」  五十嵐はそう言った。腫《は》れ物に触れるような、といった感じの口ぶりだった。それが治美を悲しい思いに誘い、同時になぜかいらだちに似た気持にもした。 「約束は別にないけど……」 「気がすすまないみたいだね、やっぱり」  治美は黙ったままでいた。気持は揺れていた。久しぶりの五十嵐との食事に、どの服を着ていこうか、といった考えもちらりと頭をかすめた。だが、出かけていけば、それが五十嵐との関係の再燃になることは、眼に見えていた。ためらいはそこにあった。 「いま、どこから電話してるの?」 「渋谷のジョンブルだよ。覚えてるだろう」 「よく覚えてるわ。銀髪の無口なバーテンさんが一人でやってる古い作りのバーでしょう。カウンターに真鍮《しんちゆう》の握り棒がついてたわね。あの棒いつもピカピカに磨いてあったわ」 「近ごろはここでしか飲まないようになったな」  たずねなくても、五十嵐がそこで一人で飲んでいるのだということが、治美にはわかった。いくらか普通よりは丈の高い、ムクの白木でできた古びたカウンターに肘《ひじ》を突いて、一人でオールドパーのオンザロックを飲んでいる五十嵐の姿が、治美の眼に浮んできた。グラスに伸ばす五十嵐の手の指には、ラークがはさまれているはずだった。五十嵐は一日にラークを四箱も吸っていた。  そういう五十嵐の姿を思い描くと、いつもその横にいて薄い水割りを飲んでいた自分の姿も、自然に治美の脳裡に浮かんでくるのだった。 〈これからジョンブルに行くわ。待ってて〉  そういうことばが、治美の口を突いて出そうになった。治美はそれを呑みこんだ。 「お正月はどこか行くの?」  黙っているのが気まずくて、治美はそんなことを言った。 「何も決めていないんだ。年明け早々に、家のほうのケリをつけることになりそうなんでね」 「離婚のこと?」 「おそらく別れることになると思う」 「そう……」 「感想はそれだけかい?」 「それだけってことはないわ。でもむなしい気がする」 「むなしいって、何が?」 「わからないけど……」  治美は言った。何がむなしいのか、治美にはわかっていた。それを口に出したときに、むなしさの生れてくる原因が、ストンと胸に落ちてくるようなぐあいでわかったのだ。  五十嵐は三ヵ月前に、一度は治美との仲を終りにすることに同意したのだ。三ヵ月が過ぎて、ふたたび突然に五十嵐が電話をかけてくるようになったのは、離婚が実現しそうになったからだろう。  治美がどんな思いで三ヵ月前の別れを実行に移したかということを、五十嵐が知らないわけはない。それなのに、離婚が成立するかもしれないとなったからといって、縒《よ》りをもどしにかかるのは、どこか安直ではないか。縒りのもどし方が安直なのは、三ヵ月前の別れも、五十嵐にとっては安直なことだったからじゃないのか。治美はそう言って五十嵐を詰《なじ》りたい気持になるのだった。 「この三ヵ月の間に、きみはすっかりぼくを心の中から閉め出してしまったようだね」 「そう見える?」 「寂しくないのかな。ぼくは寂しいけどね」 「あたしも寂しいわ」 「ヒデマル君は元気かね」 「元気よ。育ち盛りなの」 「会ったことはないし、会うことがあるかどうかわからないけど、ヒデマル君にメリークリスマスって言っといてくれないか」 「ヒデマル、よろこぶわ、きっと」 「電話に出てくれてありがとう」 「皮肉に聞こえるわよ」 「ばか言っちゃいけない。それはきみの耳のせいだ。おやすみ」  五十嵐はむっとした口調でそう言うと、電話を切った。ばかなことを口にしたもんだ、と治美は自分を責めた。もう五十嵐からの電話はかかってこないかもしれないと思うと、治美はとり返しのつかないことをした思いになった。 「おい、ヒデマル。オレの惚れてるオッサンが、オマエにメリークリスマスって言ってくれってよ」  ストーブの前で体を長く伸ばしているヒデマルに言って、治美はたばことライターと灰皿を持って、窓ぎわに行った。  向いのマンションの三階の角部屋のドアが開いて、中から男が出てくるのが見えた。長身の男だった。女の姿は見えなかった。男は明るいグレーのトレンチコートを着ていた。治美はその日の帰りの電車の中の�痴漢�も、同じ色のトレンチコートを着ていたことを思い出した。  治美は気持が荒れていた。向いのマンションの角部屋の女に、あんたが相手している二人の男の片方は、電車の中であたしのお尻をさわったんだよ、と教えてやったらどういうことになるのだろうか、などと思った。  翌日の夕方、治美が帰ってきたとき、マンションの前の道は、車と人の群で埋まっていた。パトカーの赤いランプがいくつも回っていた。テレビカメラのライトも見えた。  人ごみの中に、マンションの管理人の姿を見つけて、治美は声をかけてわけを訊いた。 「前のマンションに住んでる女が、部屋で男を包丁で刺したんだよ。男のほうはたったいま病院に運ばれたんだが、胸と腹を刺されてて、意識がなくなってるって話だよ。中年男らしいけどね」  管理人は興奮した口調で言った。 「前のマンションのどの部屋ですか?」  まさかと思いながら、治美は訊いた。 「三階のいちばん手前の部屋だよ。刺した女はまだ若いらしいね」  管理人は、治美の部屋の向いに当る部屋のほうを指さして言った。  治美は強い衝撃を受けた。いくらかは顔も知っていて、ふしだらな私生活も垣間《かいま》見ていた女が、いきさつはわからないが、おそらくは愛憎によって男を包丁で刺したのだろうそのことが、治美には何よりもショックだった。  治美は野次馬の群の中にいることが息苦しく思えて、早々に部屋に帰った。  部屋の明りをつけたとき、しみひとつ残していない白い壁が眼を打ってきた。そこに、鮮血が飛び散るような、幻覚に似た一瞬が、治美を襲っていた。  治美は呆然とした気持で、ベッドの端に腰をおろした。部屋の白い壁がばかに眩《まぶ》しい気がした。ホテルの窓から見える、雪に覆われた夜の札幌の街の白い眺めが、どこまでも続いているように見えるといった、五十嵐のことばが思い出された。向いの部屋の女の見せた鮮烈な行為も、眩しいものに思えた。手はひとりでに電話の受話器に伸びようとしていた。クリスマスイヴの食事の誘いに応じようという思いが、治美の胸に生れていた。  髪  紀子《のりこ》の顔の感じが変っていた。  髪を短くしたせいだった。  北岡が勤めから帰ったとき、紀子は台所にいた。ドアを開けて北岡が声をかけても、紀子はその日に限って、顔を出さなかった。声だけが台所から返ってきた。  北岡は珠暖簾《たまのれん》を分けて台所をのぞいた。紀子は流し台に向ってレタスの葉を洗っているところだった。  うつむきかげんの紀子の頭が、小さく見えるような気がした。それで北岡は、紀子の髪が短くなっていることに気づいた。襟足《えりあし》から肩につづくあたりの肌が、丸首のセーターの襟のところに、白くのぞいていた。そのあたりはいつも、パーマをかけた髪で覆われていたのだ。パーマのウェイブも、紀子の髪から跡形もなく消えていた。 「ずいぶんさっぱりなっちゃったじゃないの、頭……」 「似合う? この長さにしたの初めてでしょう。なんだか落着かないの」  ふり向いた紀子は、流し台に腰でもたれかかって、髪に手をやった。てれたような笑いを見せると、紀子は北岡の視線をはずした。ちょうど顎の先端あたりの線にそろえられた髪が、ゆるく内側にカールして、紀子の顔を囲っていた。 「わるくないよ、それも……」 「無理してる。あなたはやっぱりロングヘアのほうが好きなのね」 「でも、それもいいよ。若く見えるしね。まんなかから分けると、もっといいんじゃないかな」 「そのほうが顔が細く見えるっていうんでしょう」 「あんたは丸顔だからいいんじゃないか」 「また無理させちゃったみたいね」  紀子は笑って言うと、くるりと流し台に向き直った。向き直る途中で、紀子の笑いは消えていた。 「あと二十分でご飯できるけど、お風呂はどうする?」 「寝る前でいいや」  北岡は答えて奥に行った。かすかな胸のつかえのようなものが、北岡の中に生れていた。紀子の笑顔がすっと消えるのを眼に留めたせいなのか。それとも紀子が突然に髪形を変えたことによるものなのか。どっちとも北岡にはわからなかった。  胸のつかえのようなものには、前にも一度北岡は鮮明な覚えがあった。服を着替えながら、北岡はそのときのことを思い出した。  まだコートが必要な、寒さの残っている頃だったから、二ヵ月ほど前になる。夜だった。北岡は風呂からあがって、髪を乾かすつもりで、紀子のドレッサーの前に腰をおろした。ドライヤーは、コードをコンセントにつないだまま、ドレッサーの上に置いてあった。ドライヤーを手に取ったとき、横に置いてあったクリームの瓶が倒れ、はずみで紀子の化粧バッグが床に落ちた。化粧バッグがドライヤーのコードの上になっていて、それがコードと一緒にはねあげられ、クリームの瓶に当ったようすだった。  北岡は床に落ちた化粧バッグを拾いあげた。バッグの口が開いていて、中に写真が入っているのが見えた。それが北岡の眼を惹《ひ》いた。写真がそんなところに入れてあるのが、何かいわくがあるように思えたのだ。  紀子は北岡と入れ替りに、風呂に入ったばかりだった。北岡は気の咎《とが》めを覚えながらも、その写真を見ないではいられなかった。  写真は三枚入っていた。紀子と十歳ぐらいの男の子の写真だった。一枚は紀子だけが笑顔で写っていた。一枚は男の子が一人で写っていた。あとの一枚は二人が一緒に並んで写っていた。紀子は男の子の肩を抱き寄せ、頬をつけるようにしてほほえんでいた。男の子のほうも笑っていたが、いかにもカメラを意識したような、ぎごちない笑いだった。  どこかの喫茶店で写したものと見えて、どの写真にも、前に白いテーブルと、その上に置かれたコーヒーカップとアイスクリームの皿が写っていた。  男の子が、別れて暮している紀子の子供であることは、写真を見てすぐに北岡にはわかった。その子に北岡は会ったことはなかったが、ピンとくるものがあった。面ざしにも紀子と似通ったところがあった。  それが古い写真でないことは、紀子が着ているスミレ色のアンサンブルのセーターでわかった。それは前の年のクリスマスプレゼントに、北岡が買ってやったものだった。  紀子が、家に残してきた子供と、そうやって外で会っていることを、北岡はその写真ではじめて知った。子供と会ったときに写した写真を、紀子が化粧バッグの中などに入れているそのことが、北岡の胸を突いてきた。  子供と外で会っていることを、紀子は北岡に知られたくないのだろう。そのために、写真も北岡の眼にふれにくい化粧バッグの中などを選んで、入れてあったのだろう。  それはしかし、隠さなければならないようなことだろうか、と北岡は思った。別居している夫との間にできた子供に、母親が会いたいと思うのは当然のことだ。そこまで遠慮する必要はないだろう。  そう考えているうちに、北岡は胸のつかえのようなものが、自分の気持の中に生まれていることに気づいたのだった。  子供と外で会ったことを紀子が隠しているのは、こちらに対する気遣いのためだけではないのかもしれない、とそのとき北岡は考えた。紀子が隠そうとしているのは、離れている子供に会いたいという気持の底に潜んでいるもうひとつの気持のほうなのではないか、と北岡は思った。  夫と子供を棄《す》てて家を出たことを、紀子は後悔しはじめているのではないか、と北岡はそのとき考えたのだ。  同じ考えが、髪を短くした紀子を見たばかりのいま、北岡の胸にふたたび浮かんできていた。  北岡も妻と娘のいる家を出て、紀子と一緒に暮しはじめた男だった。後悔とまでは言わないものの、出てきた家庭のほうに思いが引きずられるときが、北岡自身にもあるのだった。  北岡は新聞社の事業部で、主婦向けの趣味の講座を企画運営する仕事をしている。  その仕事を通じて、彼は紀子と知り合った。三年余り前である。その頃、紀子はある服飾学園に職員として勤めていた。その学園のデザイン科の教師を、主婦向けの趣味の講座に招くという企画を、北岡が立てた。  それが縁で、北岡はしばしばその服飾学園に足をはこぶようになった。紀子はそこで、デザイン科全般の庶務のような仕事にたずさわっていた。北岡が持ちこんだ仕事では、紀子が折衝の窓口であり、相手の教師の秘書役でありといった立場になった。  北岡が企画したその講座は、週一回で半年間つづいた。はじめは三ヵ月で終る予定だったのが、受講者たちの希望で、上級コースと名づけてさらに三ヵ月延長することになったのだ。  その間、北岡と紀子は週に一度は必らず顔を合わせることになった。それとは別に、電話での連絡や打合わせといったことも、しばしば必要になった。  講座が始まって二ヵ月ほどしてから、北岡はデザインの教師と紀子を食事に誘った。世話になっている礼のつもりだった。食事のあとで銀座のクラブに案内した。  紀子との間に、北岡が個人的な親しみを覚えるようになったのは、そのときからだった。それは紀子も同じだったようで、彼女の示す態度やことばつきに、少しずつうちとけたところが見えるようになった。  二度目に食事に招待したとき、教師に急用ができて、紀子が一人でやってきた。そのときも、食事のあとで酒場に行った。北岡が社用でよく行くクラブで、馴染《なじ》みのホステスが席についた。北岡はその席で初めて、紀子の髪形について口をはさんだ。  はじめは紀子とホステスとの間で、髪のことが話題になったのだ。洗髪の話から、女同士の話題はいつのまにか、髪形で顔の印象がずいぶんちがう、というようなことに移っていった。  その頃は紀子は、ちょっと変った形の、おかっぱふうの髪形だった。前髪を眉のあたりまで垂らして切りそろえ、横は耳がやっと隠れるぐらいで、うしろにいくといくらか長くはなっているが、それでも項《うなじ》がすっかり見えていた。  北岡の眼には、その髪形は紀子には似合っていないように思えた。紀子はどことなく猫を思わせるような丸顔で、頬骨が高い。そういう顔立ちで、眼がくっきりと大きいので、ショートのおかっぱふうの髪形は、ファニーな愛らしさを紀子に与えてはいた。けれども逆に言えば、それは彼女の頬骨の高さと、顔の輪郭の丸さを、ことさら強調することになっていた。  そのときすでに、紀子は三十二歳になっていた。ファニーな愛らしさといったようなものが、彼女の全体の印象の中で浮きあがってしまいかねない年齢だった。  そのことを紀子は自分でも意識していたのだろう。ホステスに髪形をほめられると、紀子ははっきりといやな顔をした。 『いやなの、あたし、この髪。ロングにしたいのよ。だって高校生みたいでしょう』 『あら、そんなことないのに。すてきよ。若々しくて、スポーティで……』 『だめ。似合わないって自分でわかってるの。いつか伸ばしてやろうと思ってるのよ』 『いつかって、髪ぐらいいつでも伸ばせるでしょう』  北岡はそう言って口をはさんだ。 『そうはいかないんです。うちは長髪禁止令が出てるの。主人があたしの髪の長いのは好きじゃないっていうの』  冗談とも本気ともつかない紀子のことばに、笑いが湧いた。おのろけだと言って、ホステスがひやかした。北岡ものろけられているのだと思った。だが、紀子は笑ってはいなかった。真顔で北岡に紀子が訊《き》いた。 『北岡さんはどんな髪形があたしに似合うと思う?』 『そう言われても、人の奥さんのことだから困るけど、ぼくはロングでもっとボリュームのある髪形が緒方《おがた》さんには似合うと思うな』  北岡はそう答えた。髪を伸ばしたいと言った紀子のことばに、調子を合わせる気持もあるにはあった。それだけではなく、北岡はそのとき、自分の言っているような髪形に変わったときの、紀子の顔の印象を想像していたのだ。  長くてボリュームのある髪のほうが、充分に身長のある紀子には似合いそうに思えたし、そのほうが高い頬骨と顔の丸さが目立たなくなって、女らしさが増しそうだった。 『さっきのホステスさん、北岡さんのこと好きなんじゃないかしら?』  紀子がそう言ったのは、クラブを出て、タクシー乗場に並んでいるときだった。唐突で、思ってもいない質問だったから、北岡は戸惑いながら、つい笑ってしまった。 『そんなふうに思えたとしたら光栄だなあ』 『だって、あたしが北岡さんにどんな髪形が似合うって訊いたとき、あのホステスさん、いやな顔したわ。まるで妬《や》いてるみたいに見えたの。だから……』 『まさか、妬くわけなんかないですよ』 『だったらいいんです。わたし、うれしかったわ。北岡さんは、ロングでボリュームのある髪のほうがあたしに似合うって言ってくださったでしょう。あたしも同じことを考えていたの』  紀子のそのことばが、北岡の気持を甘くくすぐった。紀子が自分に好意を寄せてくれている、と北岡は思った。北岡の中にも、紀子に対する好意が芽生えていたのだ。それが、タクシー乗場の行列の中での彼女のことばで、一気に形を成していた。  そのときから、紀子はほんとうに髪を伸ばしはじめた。そして二人は、どちらからとなく誘い合って、食事をしたり、酒を飲んだり、映画を見たり、ジャズのライブハウスに行ったりするようになった。  体の関係が生じたときは、紀子の髪はかなり長くなっていた。デザイン講座が終了してから間もなく、紀子は待望のパーマを髪にかけた。  髪はまだ充分の長さにはなっていなかったが、紀子の顔の印象は、前にくらべると年に見合った成熟を現わしていて、高い頬骨までが、セクシーなアクセントの効果を伴って見えるのだった。  北岡は、ベッドの上で髪を乱して体をわななかせる紀子を見るたびに、必らずその髪に触れ、自分が紀子を女にしたのだ、といったようなよろこびを味わうようになっていった。まるで、紀子の髪が伸びるのに歩みを合わせるかのように、二人の気持は高まっていった。逢う機会もいきおい増えた。  そうなって三ヵ月が過ぎたころ、紀子の夫が彼女の浮気を見破った。それでも紀子は北岡と逢うことを止めなかった。そのころの紀子は、捨て身といったような強い勢いを漲《みなぎ》らせていた。  北岡にもそれは言えた。北岡の場合は、捨て身といった気持は抱かなかった。北岡はうるおいの感じられない家庭生活を送っていた。それも手伝って、彼は紀子とのことを浮気だなどとは思わなくなっていた。  北岡は、紀子との仲が明るみに出てからは、紀子の夫の緒方のことも、妻の信子のことも、怖れなくなった。四十歳になろうとしている自分が、そんなふうに一途《いちず》に気持を燃えあがらせていることが、思いがけなかっただけに、むしろひそかに誇らしい気さえするのだった。  緒方は、紀子の相手の素性を知ってすぐに、信子に抗議めいた電話をかけてきた。修羅場《しゆらば》は北岡の家庭にもはじまった。  先に家を出たのは北岡だった。一ヵ月おくれて、紀子が北岡の借りたマンションに移ってきた。緒方と信子は、北岡と紀子の同棲を黙認はしているが、離婚で片をつける意向は見せていない。双方ともに膠着《こうちやく》状態のまま、北岡と紀子との生活は、やがて一年を越えようとしていた。  紀子の髪が短くなった数日後に、北岡は娘の真知子《まちこ》と会った。  真知子と北岡が顔を合わせるのは、彼が家を出てから初めてだった。紀子が外で子供と会ったことを、化粧バッグの中の写真で知ったときも、北岡のほうは真知子とは会わずにきた。  会ってみたいという気持は、そのときは動いた。紀子が子供と会っているのだから、こっちだって真知子に会ってもかまわないだろう、という考えがあった。  だが、紀子が子供と会ったことを、いまだに北岡には黙っているように、いざ真知子と会おうとすると、北岡のほうにも、紀子に対する気の咎めのようなものが生じてしまうのだった。  その日、気の咎めを押して自分が真知子と会う気になったのは、紀子が髪を短くしたこととどこかでつながっているのかどうか、北岡自身にもはっきりしなかった。  ただ、ショートヘアに変わった紀子を台所で見たときに生じた、胸のつかえのようなものが、それ以来ずっと消えずに残っていたのは事実だった。  午後から外回りの仕事に出たついでに、北岡は銀行に寄った。前日に給料が振込まれていた。給料日の翌日には、北岡は振込まれた額の六割を、毎月信子に送っていた。手もとに残る額は、そのまま紀子に渡す。北岡の給料の四割に当る額は、紀子が服飾学園でもらっているサラリーと、ほぼ同額だった。  紀子も月々、なにがしかの金を、夫の口座に振込んでいた。紀子が家を出てから、緒方はパートタイムの家政婦を雇ったという話だった。家政婦に払う賃金を、緒方は紀子に負担しろ、と要求したのだというのだ。  給料日は、北岡には気の重い日になっていた。紀子が緒方の口座に月々金を振込んでいることを、北岡が知っているように、紀子のほうも北岡がサラリーの六割を、妻と子供に渡していることは承知していた。  そのこと自体は当然のことで、二人とも不満はなかった。だが、給料日はすなわち、出てきた家への送金の日であり、いやでも北岡と紀子は、二人が棄ててきたそれぞれの家庭のことに思いがいくのだ。  棄ててきた家族のことは、厳然としてそこにありながら、しかし北岡と紀子との間ではそれは、あたかも存在しないもののように思っていたいことなのだ。  北岡も紀子も、一緒に暮しはじめてからは、別れている家族の者たちの話は、一度もしていない。話が回り回ってそこにつながっていきそうになると、二人とも急いで話題を替えるのだった。  家に残してきた者たちの話は、二人の間ではタブーのようなものになっていた。だからこそ、化粧バッグの中の写真を見たとき、一瞬、北岡は紀子の裏切りに出合ったような気持になったのだ。もちろん、裏切りという非難が筋ちがいであることは、北岡にもわかっていた。  銀行のロビーのライティングデスクで、信子あての振込用紙に記入しながら、北岡は突然、真知子に会ってみようか、と考えた。紀子への気遣いは残っていたが、ためらいはすぐに消えた。  北岡は記入しかけた振込用紙を破り捨てると、前のラックから払出し用の伝票を抜き取り、記入をすませてカウンターに行った。  真知子は中学の二年生だった。その日は真知子が進学塾に通う日であることを、北岡は思い出した。塾に行く日は、真知子はスケッチ部の部活を終えて、その足で塾に向うはずだった。  銀行を出て北岡は、急いで外回りの仕事をすませ、真知子の通っている中学校に向った。  中学校のある街は、信子と真知子が住んでいる街でもあった。そこに北岡がローンで買った、小さな建売住宅があるのだ。北岡は自分が住むことを止めてしまったその家のローンを、停年になるまで払いつづけなければならない。それを惜しむ気持は、北岡にはない。信子への慰謝料のつもりで納得しているのだ。  真知子と会うつもりで行った街で、信子と顔を合わせてしまうことがないとは言えなかった。信子と会えば具合のわるい思いはするだろうが、気持を動かされることはない、と北岡は思っていた。  心が騒ぐのは、むしろ真知子と顔を合わせるときのほうだろう、と思われた。真知子は子供からおとなに変っていきはじめるむつかしい年ごろになっている。北岡が家を出た理由も、真知子は知っている。家を出て好きな女と暮している父親を、一年ぶりに会う真知子がどういう眼で見るか、北岡には想像がついた。  それでも北岡は、真知子に会ってみたいという気持を捨てられなかった。紀子も同じような思いで子供に会ったのだろうか。そうだとしても、子供に会うときの気持を、紀子と語り合うことはないだろう、と北岡は思うのだった。  それは北岡と紀子が共通して持っているものでありながら、決して共有することはありえない心のひずみだった。  一年ぶりに見るその街は、北岡の懐しさを誘ってはこなかった。苦い気持が胸にしみわたった。見なれていた街の眺めだったが、北岡は自分が、招かれていない客のような思いを味わっていた。拒む気持は自分の側にあるのはわかっていて、北岡は街が自分を拒んでいる、と思った。  中学校前のバス停のベンチに腰をおろして、北岡は一時間余り待った。真知子が校門から姿を現わしたのは、四時半ごろだった。  真知子は一人だった。それが自分の娘だとわかるまで、ちょっと間があった。一年見ないでいるうちに、真知子は二まわりも三まわりも体が大きくなったように思えた。なによりも顔つきが変っていた。子供っぽさがすっかり消えて、おとなになったときの顔がすぐ下にすけて見えるような面ざしになっていたのだ。  真知子のほうは、眼をやるとすぐに北岡に気づいたようすだった。真知子は戸惑ったような表情を見せて、足を停めた。北岡はベンチから腰をあげて、真知子のほうに足を運んだ。ふと、真知子が逃げ出すのではないか、という思いが北岡を襲ってきた。 「元気かい?」 「どうしたの?」  真知子は無理に作ったような笑顔を向けてきた。 「仕事でこっちに来たんでね。おまえの顔を見て帰ろうと思ったんだ。元気そうだね」 「元気だよ」 「お母さんは?」 「車の免許取りに行ってるよ、いま……」 「へえ。なんでまたそんな気になったんだろうね?」 「お友だちとグループで、無農薬野菜とか自然食品のお店出すんだって。それで仕入れとか配達とかに、車運転できたほうがいいからって……」 「事故なんか起こさないように、おまえから言っときなさい」 「うん……」 「おまえ、これから塾に行くんだろう?」 「うん……」 「何か食べて行くんだろう? お父さんご馳走するよ」 「いい……」 「どうして?」 「あたし、行かなきゃならないの」 「だって塾にはまだ時間が早いだろう?」 「ちがうの。塾のお友だちと、マクドナルドの店で待ち合わせなの。一緒にハンバーガー食べて塾に行こうって約束したから」 「そうか。それなら仕方がないな。これ、お母さんに渡してくれ」  北岡は銀行の封筒に入っているその月の送金の金をポケットから出した。 「おまえに会おうと思ったから、現金で持ってきたんだ。今月の分。落っことさないように気をつけなさい」 「わかった」  真知子は金の入った封筒を、鞄の中に大事そうに入れた。それから、何か許しを乞《こ》うような眼になって言った。 「あたし、行っていい? もう……」 「行きなさい。友だち待たしちゃわるいからね。元気でな」 「うん。お母さんよろこぶわよ、きっと。お父さんがあたしの顔を見に来たってわかったら」  言って真知子は駈け出した。すぐに角を曲って消えた。北岡はその場に立ったまま、たばこに火をつけた。学校のようすや、成績のことなどを訊いてみようと思っていて、忘れてしまっていたことに、北岡は気づいた。やはり気持がうわずっていたのだ。  もう行ってもいいかと言って、許しを求めるような眼を見せた真知子の表情が、眼に残っていた。北岡は、紀子が持っていた写真の、子供のぎごちない笑顔を思い出した。子供と会って別れた後で、紀子はどんな思いを抱くのだろうか、と北岡は考えてみた。  それは容易に想像がつくようでいて、どこかにうかがい知れないところもあるのかもしれなかった。  北岡は駅までのバスを待ちながら、真知子と会ったことを後悔しはじめていた。立ち話に終ってしまったから、ということも後悔のひとつの理由だった。  もうひとつの理由のほうが大きかった。真知子と会ったことを、紀子の眼に気づかせずにおく自信が、北岡にはなかった。そのまま帰れば、いつもとちがうようすが表に出て、紀子に胸の中の景色をのぞきこまれるかもしれない、と北岡は思った。  自分も紀子も、たがいに家族を棄てたつもりでいながら、どこかでそれを引きずっている。けれども、棄て切ったふりをしあうことによって、ともに相手に対する愛の強さと深さを誇示しあっているのではないか。誇示しあわなければ不安になるようなつながりの上で、二人は向き合っている、ということなのか——北岡は自分に問うていた。  真知子と会った日は、北岡は酒に酔って遅く帰った。  紀子はちょうど風呂から出たところだった。洗ったばかりの紀子の短い髪は、濡れて光ったまま、頭にはりついたようになっていた。そのために紀子の顔の丸さと頬骨の高さが、あらわな感じで眼に映った。そういう紀子の顔を北岡が眼にするのは、初めてだった。  洗い髪のままで紀子が北岡の前に立つようになったときは、彼女の髪はすっかり長くなって、ボリュームも備わっていた。  濡れたままの短い髪を頭にはりつかせている紀子を見たとき、北岡は彼女の横に何回か会ったことのある緒方が、パジャマ姿で並んで立っているような思いにふと襲われた。 「ずいぶんご機嫌さんね」  ドレッサーの前に坐った紀子が、鏡の中で北岡に笑いかけてきた。北岡も笑顔を向けた。紀子の頬はピカピカに光っていた。 「ダイレクトメール屋さんのご招待でね。ちょっと飲みすぎたかな」 「たのしかった?」 「なんだかはずみがついちゃってさあ」  言いながら北岡は紀子に寄っていき、両手で彼女の濡れた髪をくしゃくしゃにした。紀子はおどろいた顔になってふり向いた。北岡が笑っているのを見て、紀子も安堵を覚えたように、笑顔になった。 「気にしてるのね。あたしの髪……」 「なんだか物足りないんだよ」 「前はあなたはよくベッドで、あたしの髪をいまみたいに手でくしゃくしゃにしてたのよね」 「くしゃくしゃにしてたわけじゃないよ。いとしくてまさぐってた、と言ってほしいね」 「ショートにしてまさぐれないから物足りない?」 「なんだろうね。よくわからないんだよ」 「でもあなた、このごろ髪をまさぐってくれなくなったわよ。気がついてる?」 「だからショートヘアにしたの?」 「そういうわけじゃないけど……」 「長い髪をまさぐられるの、好きだった?」 「好きよ。熱っぽく愛されてるって気がするもの」 「だったら切らなきゃよかったのに」 「切ってみたくなったの、なんだか……」 「ぼくが髪をまさぐらなくなったかららしいな、やっぱり……」 「でも、どうしてそんなに髪にこだわるの? あなた」 「妙なことを考えてしまうんだよ」 「妙なことって?」 「言っていいかな?」 「気持がわるいわよ、言ってくれなきゃ」 「あんたが髪を短くしたのは、ぼくとのことを終りにしようかと考えているからじゃないかって気がしてね」 「いやだわ……」  紀子は言って、鏡の中で眼を伏せた。声が細くなっていた。 「言わなきゃよかったな」 「あなたがそう考えているんじゃないかって気はしてたわ。だからあたし、髪を切ってしまったこと、後悔してるの。あなたとのことを終りにしようなんて、あたし一度も考えたことないのに」 「わかってるよ。思いすごしだとわかってて、ついそんなふうに思っちゃうんだ」 「もう一度あたし、髪を伸ばすわ」 「いいんだよ。今の髪形だって似合ってるんだし、あんたがそうしたかったんだから」 「いや。伸ばす。だからへんなこと考えないで、あなたも」 「わかった。髪が伸びたらまた、うんとくしゃくしゃにしてやるからね」  紀子は笑った。笑ったままの眼から涙が落ちてきた。 「泣かしちゃったお詫《わ》びのしるしだ。髪を乾かしてあげるよ」  北岡はドライヤーに手を伸ばした。コードが払い落してしまうような場所に、紀子が化粧バッグを置いていないかどうか確かめてから、北岡はドライヤーのスイッチを入れた。  香 水  贈り物の中身は香水だった。 「他にいいおみやげを思いつかなかったんですよ。気に入らなかったら、トイレの芳香剤代わりにでもしてください。香水なんかをさしあげるのは失礼かもしれないんだが、まあ許してください」  平田はそう言って、パリのみやげを規子《のりこ》にさし出したのだ。ゴルフの練習場の打席でだった。  日曜日の午後で、練習場は込《こ》んでいた。規子がボールを打っているところに、平田がやってきて声をかけた。平田はキャディバッグを肩にかついでいた。彼は打席の順番がまわってきて、これから練習を始めるところだった。  そういう場所で贈り物を手渡されたので、規子は戸惑《とまど》った。まわりの人々の眼も気になった。規子は礼を言うと、渡された包みをその場で解《と》くこともせずに、そばのベンチに脱いであったウィンドブレーカーの上に置いた。  平田の打席は、規子のところとは離れていた。規子はふたたびボールを打ち始めてから、何度か緑色のリボンのかかった贈り物の包みに眼をやった。リボンがかかっているために、その小さな包みは外国旅行のみやげというよりも、何かのプレゼントに見えてくる。  規子は空《から》になった籠《かご》を手にさげて、ボールの自動販売機の前に行った。そこから打席の平田の姿が見えた。平田はショートアイアンを振っていた。きれいなスイングとは言えない。  ボールの自動販売機にコインを入れてから、規子は平田が美織《みおり》を連れてきていないことに、はじめて気がついた。  ボールを入れた籠を手にさげて、規子は平田の打席に行った。平田が気づいてアドレスを解き、表情をやわらげた顔を規子に向けてきた。 「今日は美織ちゃんは一緒じゃないんですね。お留守番ですか?」 「ついてくるって言ったんですけどね。風邪気味なので置いてきたんです。母が相手をしてます。その籠で何発目?」  平田は笑った眼で規子のボールの籠を見やって言った。 「三百球目……」  規子も笑った。熱心ですね、とからかい気味に言われそうだったからだ。平田はしかしそうは言わなかった。 「ぼくは今日は百球でやめます。終ったら帰りにまたお茶でも飲みませんか。一緒に」 「うれしいわ。わたしもこのボール打ってしまったら今日はやめます」 「今日、あなたとお茶を飲むのは、美織には内緒にしてください、妬《や》き餅《もち》をやかれるから。美織の奴、石沢さんのことが好きだから」 「美織ちゃんが好きなのはアイスクリームなんじゃないかしら」 「そんなことはない。あなたとぼくと三人で喫茶店に行ってアイスクリームをたべるのが、美織は好きなんです」  言って平田はアドレスに入った。規子は自分の打席に戻った。  美織は平田の娘で六歳になる。規子と平田を近づけたのは美織だった。  ゴルフの練習場に、小さな子供を連れてくる者は、あまり見かけない。どんなことから事故が起きるかわからない危険な場所だからだ。そこに平田はよく美織を連れてきていた。規子が先に顔を覚えたのも、先に口をきくようになったのも、平田ではなくて美織のほうだった。  美織は平田がボールを打っている間は、打席のうしろのベンチに腰をおろして、絵本を読んだり、絵を描いたり、ジグソーパズルに取り組んだりしていた。けれども子供の熱中はそんなに長い時間はつづかない。退屈してくると、美織はベンチを離れたがってもじもじしはじめる。けれども父親の言いつけを守って我慢している。そういうようすがありありと見えるのだ。  あるとき、規子は平田と隣り合わせの打席を使うことになった。退屈したまま、ベンチに縛りつけられでもしているように、そこにじっとしている美織が、かわいらしくもあり、気の毒にも思えて、規子は声をかけた。そういうことがあってから、規子と平田はゴルフの練習場で顔を合わせるたびに、ことばを交《かわ》すようになった。  練習の帰りに、規子が平田と美織の三人で喫茶店に行くようになったのも、美織がそれを望んだためだった。お姉ちゃんも一緒にアイスクリームをたべに行こう、と美織が誘い、平田がそれに同調したのが、最初のきっかけだったのだ。  誘われて規子は迷惑には思わなかった。そのときすでに規子は、美織を介して知り合った平田に、淡い好意を抱いていた。平田のほうにも、同じ思いが芽生《めば》えているようすだった。それがなければ、規子は喫茶店への誘いは断わっていたはずだった。  平田は規子と同じ郊外の小さなその市《まち》に住んでいた。音楽関係の小さなプロダクションに平田が勤めていて、外国の音楽家との契約や、日本での著作権の管理や代理業務を担当している、というようなことを、規子はすぐに聞かされた。  規子も問わず語りに、住んでいる場所や、広告会社でディスプレーのデザインをやっていることなどを話した。  平田が二年前に離婚していて、いまは平田の母親と美織との三人暮しだということも、ほどなくして平田の口から語られた。美織が母親と一緒に暮していない子供ではないか、といった予感のようなものが規子にはあった。そのために、平田が離婚していることがわかったとき、やっぱりそうだったか、という思いが規子にはあった。  美織のどういうところに母親不在の感じを抱かされたのかということになると、自分でも規子は説明できない。しいてあげれば、美織が見せる妙に行儀のよいところと、すり寄ってくるような馴れなれしさとのアンバランスな感じや、ゴルフ練習場のベンチに坐っているときの寂しげなようすや、いつもよそ行きのような服装をしていることなどだった。いつも美織がいい服を着ているということではない。絵に描いた子供のような身なりをしているのだ。母親のいる子供なら、服装のどこかに日常的なくずれや手抜きのようなものがつきまとっていて、それがある種のほほえましい温《ぬく》もりを感じさせるものではないだろうか——規子はそう考えていたのだ。  けれども、そうした印象から、美織が母親と一緒に暮していない子供であるという推測を導き出すのは、いかにも強引すぎる。それはあるいは推測ではなくて、実はそうあってほしいという自分の潜在的な願望が生み出した�お話�のようなものだったのかもしれない、と思うときも規子にはあった。�お話�の中で、規子は美織の母親役と、平田の妻の役を演じようとしていたのかもしれない。  やがて規子と平田の交際は、行きつけのゴルフ練習場をはなれたところでも始まった。会社の仕事を終えた二人が、どちらからとなく電話で誘い合って、街で食事をしたり、酒を飲んだりして、住んでいる町に一緒に帰ってくる、といったようなことが、月に一度くらいは見られるようになっていた。  ゴルフの練習から帰るとすぐに、規子は平田からの贈り物の包みを解いた。  香水はミツコだった。ミツコがどういう香りを放つかということも、規子は知っていた。そのおとなしい芳香は、規子の好みに合っていた。  規子はミツコの小さな容器を掌《てのひら》にのせて、香りをかぐ前にしばらくそれを眺めた。規子の気持は穏やかに和《なご》んでいた。こちらの好みを知らないままに、平田がミツコを選んでくれたことが、規子にはことのほかうれしかった。自分が平田の眼には、シャネルの五番やタブーではなく、ミツコこそがふさわしい女として映っているのかもしれないと思うと、もっと規子はうれしくなるのだった。  そうした甘くはずむような規子の気持はしかし、容器の栓をあけてミツコの匂いをかいだとたんにうすれていった。  小さな香水の容器の底から立ちのぼってくる香りが、規子の記憶のひとつを不意に呼びさましていた。ふと耳にした古い音楽から、そのメロディをよく聴いていた過ぎた日々のことを思い出すときのように、記憶はいきなり規子の前に立ちふさがるようにして甦《よみがえ》ってきたのだった。  苦《にが》くて痛ましい恋の記憶だった。過ぎてから八年になる。思い出して心が疼《うず》くという時期はすでに終っていた。苦さと痛切に愚かさを悔いる思いだけが残っている。坂井信也を怨《うら》む気持は消え去っていた。  坂井との仲がつづいていた頃、規子は香水といえばミツコしか使わなかった。もともとはそれは規子自身の好みに合わせたものだったのだが、坂井も規子の肌から寄せてくるミツコの香りが気に入っていた。坂井の場合は、ほとんど執着に近いような気に入りようだった。  坂井は、生れてはじめて味わうような大きく深いよろこびを、規子に与えてくれた。まるでその埋め合わせででもあるように、大きく深い苦しみと嘆きも規子に残して、坂井は去っていった男だった。  そのために規子は、ミツコと聞いただけで反射的に坂井を思い出して心が疼いてしまう、といった時期もあったのだ。それが今は、平田にもらったミツコの香りをかぐまでは、まったく坂井のことを思い出さずにいた。そこに規子は、八年の歳月が洗い落してくれたものと、洗い落されることもなく消え残っているものとを、二つながら自分の中に見せられる気持に押し包まれた。  規子は、見たくないものを眼にしてしまったような思いにかられて、急いでミツコの容器の栓を閉めた。それをドレッサーの台の上に置いた。ミツコの小瓶《こびん》は、ドレッサーの台の上で、他のいくつもの化粧品の容器の中にまぎれたように見えた。  けれどもそれはほんのしばらくの間のことで、すぐに規子はミツコの小瓶だけが、他の化粧品の容器の群の中でひときわ強い色彩と光に包まれて、こっちの眼を惹《ひ》こうとしているような思いに捉《とら》われてしまった。それをそこに置いている限り、眼にふれれば必ず自分は坂井とのことを思い出してしまうだろう、と規子は思った。  ふと規子は、ミツコをトイレに置こうかと、本気で考えた。香りが気にいらなければトイレの芳香剤代わりにでも、と言った平田のことばを思い出したからだったが、ほんとうにそうしようと一瞬でも考えた気持の底には、坂井に対する報復めいた心の動きも、かすかとはいえ確かにまじっていた。  さすがにしかし、その考えを実行するのは、平田に対しての気の咎《とが》めが強かった。そうかといって、ミツコの容器を眼にふれる場所に置いておく気にもならず、規子は迷った。迷いながら規子は、いっとき、めまぐるしいような思いで、坂井とのことを思い返した。  坂井と規子の仲は、二年と八ヵ月で終った。坂井はフリーのグラフィックデザイナーだった。当時の規子は、美大を卒業して、いま勤めている広告会社に入社したばかりだった。ある事務機器メーカーの大がかりな宣伝の仕事で、規子と坂井は、デザイナーの卵と一本立ちしたデザイナーという取り合わせで、初めて顔を合わせた。立ちあがりからアップまで四ヵ月かかった大きな仕事だった。  その間、規子と坂井は毎日のように顔を合わせていた。規子はすぐに、坂井の仕事ぶりに憧《あこが》れの気持を抱きはじめた。それからまたすぐに、坂井の無口でシャイなところに惹かれる気持を持つようになった。  事務機器メーカーのキャンペインの仕事に入って二ヵ月ほどしたとき、坂井が他の仕事でデザイナーとしての賞をもらって、授賞式とパーティが行なわれるということがあった。パーティには規子も招かれた。  ふだんは規子は香水はつけない。だが、何かのためにドレスアップしたときだけは、出かけていく先の場所柄や雰囲気に合わせて、香水の選択にも気を配る。  坂井の受賞パーティということで、規子の気持はことのほか浮き立っていた。規子はあれこれ考えた末に、そのときはミツコを選んだ。肌が汗ばみやすい季節だったことや、ドレスアップした自分を坂井に強く印象づけたいという気持もはっきりはたらいていて、規子は素肌にいくらか強めに香水をスプレーして出かけた。  混雑するパーティの会場で、規子は祝いのことばを述べるために、坂井に近づいていった。坂井は誰かと話しながら、寄ってくる規子に気づいて、軽く手をあげた。だが、規子が前に立って祝いのことばを口にしはじめたとき、坂井はまるでいまはじめて規子の姿に気がついたとでもいうように、表情を動かした。かすかなおどろきと親しみとがいりまじった顔に見えた。 『きみはいい匂いがするね。香水?』  規子の祝いのことばに応《こた》えてから、坂井は少し体を寄せてきて、小声で言った。規子は一瞬どぎまぎした。坂井の口から出たことばと彼の仕種《しぐさ》が、規子に甘い衝撃を与えていた。そのとき規子は、自分の素肌に坂井が顔を寄せてきて、匂いを嗅《か》がれたような思いに襲われたのだ。 『香水、強く匂います?』 『その匂い、好きだな、ぼくは。何という名前の香水?』 『ミツコです』 『合ってるんだな、あなたに……』  その夜、規子は坂井とベッドを共にした。坂井はパーティの後の二次会、三次会と、規子を誘った。規子はよろこんで誘いに応じた。みんなと一緒のときは、坂井は規子に関心があるようなようすはさほど見せなかった。  三次会が終ったのは、午前二時近くだった。その店を出るとき、また坂井が寄ってきて、もう一軒つきあってほしい、と小声で規子に言った。耳うちのような言い方だった。他には坂井の誘いを受けた者はいないようすだった。そのとき規子は、坂井とベッドを共にすることになるといった予感を覚えた。  予感は規子をたじろがせることにはならなかった。  初めての夜、規子はシャワーを浴びないままでベッドに入った。坂井の懇願に従ったのだ。坂井は貪《むさぼ》るようにという言い方が決して大袈裟《おおげさ》ではないようすで、ミツコの香りを吸った規子の肌の匂いを嗅いだ。規子はさすがに羞じらいを覚えはしたが、坂井のその執着ぶりを気味わるく思う気持は、まったく湧いてはこなかった。むしろミツコの香りが太くて強い絆《きずな》となって、自分と坂井をいっそうしっかりと結びつけていってくれるかもしれない、といったよろこびの気持だけがふくらんでいった。  規子がいつもバッグの中にミツコの小瓶を入れて持ち歩くようになったのは、それからだった。最初の夜のときのように、シャワーも浴びずに坂井とベッドに入るのは、規子にはさすがに気になることだった。バッグの中にミツコを入れておけば、いつ二人きりになっても、シャワーを浴びた体に坂井の好む匂いを吸わせてベッドに入れる。  規子が最初に坂井の部屋に泊ったのは、二人の仲が始まって二ヵ月ほどが過ぎたころだった。坂井のベッドには、かすかな彼の体の匂いとまじったミツコの香りがこもっていた。洗面所には、ミツコの容器も置いてあった。規子との仲が始まってから、坂井がミツコをわざわざ買い求めて、ときどきベッドにスプレーしておいて寝るようになったという話を聞いて、規子は胸のつまるほどのよろこびを味わった。  二年八ヵ月の間、坂井は規子にもミツコの香りにも飽きることがないように見えていた。破局はしかし突然に、しかも理不尽《りふじん》な訪れ方を見せた。坂井が規子のまったく知らない相手と結婚したのだ。規子がそのことを知ったのは、坂井の結婚披露宴の行なわれた翌日だった。坂井自身の口からではなかった。会社に出入りしているコピーライターと何人かで雑談をしているときに、その話がとび出したのだ。コピーライターは前日に行なわれた坂井の結婚披露宴に出席した一人だった。  その話が聞きちがえではないとわかったとき、規子は叫び声が出そうになるのを、必死にこらえているうちに、貧血を起してしまった。そのまま、気分がわるいことを理由にして、規子は会社を早退した。  部屋に帰ってみると、坂井からの速達の手紙が届いていた。その手紙は、二重に規子を打ちのめした。坂井はその手紙で規子に詫《わ》びながら別れを告げ、別の女と結婚するに至った理由を述べていた。  坂井が結婚した相手も、香水はミツコを使っていた。同じ香水でも、それを使う者の生れながらの体の匂いがまじることによって、趣きのちがった香りを放つことは、よく知られている。坂井にとっては、規子の肌から寄せてくるミツコの香りよりも、結婚相手に選んだ女の肌に香り立つ匂いのほうが、より執着に価するものだった、というのだった。  坂井が香りに対するフェティシズムの持主らしいということは、規子もよく知っていた。けれども、そうしたフェティシズムによる選択で結婚の相手を決めたとする坂井の弁明は、規子にはただの口実としか思えなかった。もしそれが口実ではないとすれば、それまでの二年八ヵ月の間、坂井が愛しつづけてきたものは、規子自身ではなくて、規子の体臭とまざりあったミツコの香りのほうだった、ということになる。どっちにしても、救いも慰めも残されていなかった。  それ以来、規子は恋らしい恋から遠ざかって生きてきた。心惹かれる相手は何人か現われた。はずみのようにして肌を重ねた相手も何人かいる。どの相手とも長つづきはしなかった。燃えさかる前に、規子のほうがその火を消すほうに心が動いていくのだ。  坂井が残していった心の傷のために、自分が異常に臆病になっているということは、規子にもわかっている。けれども臆病を乗り越えるには、受けた傷はやはり余りにも深すぎたという思いは消えない。  そしていままた、新しく心惹かれる相手として、平田が目の前に立っている。  規子は、ドレッサーの台の上に置いたばかりのミツコの瓶を取り、それを元の紙箱に戻し、包装紙で包んだ。リボンまではかけなかったが、包みは押入れ箪笥《たんす》の抽出《ひきだ》しの奥にしまいこんだ。平田にもらったものだから、捨ててしまう気にまではなれなかった。  押入れの戸を閉めると、規子は電話帳で平田の自宅の電話番号を調べた。平田の勤め先には何度も電話をかけているのだが、自宅に電話をするのは初めてだった。  電話には美織が出た。美織はたどたどしく一本調子の口調で、応答のことばを送ってきた。電話が規子からのものだとわかると、途端に美織の口調はなめらかな甘えたものに変った。風邪をひいたとか、熱が七度二分あったとか、自分は薬を飲むのが上手だよとか、今度はゴルフの練習をしているときの規子の姿を絵に描くつもりだなどという話をつぎつぎにくり出してきて、美織はなかなか受話器を放そうとしなかった。規子は平田に電話を替わってほしいということを言いそびれていた。  受話器に平田の遠い声がまじってきて、ようやく電話に平田が出た。 「美織のやつ、誰と長話しているのかと思ったら、あなたでしたか」 「香水のお礼を言いたくて電話したんです」 「気に入っていただきましたか?」 「トイレの芳香剤にだなんてとんでもないわ。ミツコはわたしのいちばん好きな香りなんですもの」 「それはよかった。ぼくは香水のことなんかまったくわからない男だから、なんとなくあれを選んだんです」 「いただいたときに、中身がミツコだとわかってたら、すぐにもっとちゃんとお礼を言ってたと思うんです。ごめんなさい」 「あやまることはない」 「お礼をしたいんです。明日の夜、会社が終ってから、ご一緒に食事をと思うんですけど、ご都合はいかがかしら?」 「そういうお礼ならよろこんでいただきますよ。そのとき、ミツコをつけてきてください。どんな香りなのかたのしみにしてます」  平田はそう言った。声がはずんでいた。  電話を切ってから、規子は気が重くなった。平田と食事をし、軽く酒を飲んで一緒に帰ってくること自体は、規子にも心の浮き立つことだった。だが、その間はずっと、自分の鼻に寄せてくるミツコの匂いにとり巻かれていなければならないのだ。その間に坂井のことを思い出さずにいられるかどうかはわからないことだった。  西麻布のフランス料理の店を、規子は予約しておいた。  食事を終えて、その店を出るときのことだった。店の出入口まで送って出てきたウェイターが、コート掛けから平田と規子のコートとマフラーをはずして手渡した。そのとき、規子のマフラーが床に落ちた。平田がそれに気づいて、すばやく拾いあげた。  平田は拾ったマフラーを規子に渡す前に、床の埃《ほこり》をはたき落す仕種をしてから、すっと鼻の前に寄せて、匂いを嗅いだ。規子もウェイターもそれを見ていた。規子は平田がマフラーからミツコの匂いを嗅ぎ取ろうとしたのだということが、すぐにわかった。  だが、事情を知らないウェイターの眼には、マフラーにしみついた規子の体の匂いを平田が嗅いだと映りかねない仕種だった。事情がわかっている規子自身さえ、一瞬、平田に素肌の匂いを嗅がれたような、妙に生まなましい戸惑いに襲われた。それほど平田の見せた仕種には露骨な感じがつきまとっていた。  平田は鼻先からマフラーを離すと、無言のまま、さりげないようすでそれを規子の首にかけてくれた。 「ミツコをつけてきてくれたんですね」  平田がそう言ったのは、店を出てからだった。規子はひそかな疚《やま》しさを覚えながらうなずいた。ミツコは使わずに来ていたのだ。平田に嘘をつくのは心苦しかったが、それ以上にミツコの香りに身を包まれることを怖れる気持が強かったのだ。 「香りが移ってました? マフラーに……」  うしろめたさと白々しさに耐えながら、規子は言った。 「いつ香りを嗅いでみようかと、ずっと思ってたんです」 「平田さんの好きな香りだったかしら?」 「よくわからなかった。さっきの店ではずっと食べ物の匂いが鼻にまとわりついてたから。もう一度、嗅いでみたいな」  言って平田は並んで歩きながら、規子の襟足《えりあし》のあたりに顔を寄せてきた。冷めたい風にさらされている規子の耳に、温い平田の息がかすかにかかった。規子は一瞬、思わず呼吸を詰めた。 「好きだな、ぼくはこの匂い……」 「よかったわ。平田さんも好きな匂いで」  言い終らないうちに、また平田は規子の首すじに顔を寄せてきて、息を吸った。平田の唇がわずかに規子の首すじに触れた。意識してそうしたのではないか、と規子は思った。自分でもたじろぐほどの、明確で強い欲望が、規子の中に頭をもたげていた。 「あたし、さっきどきりとしたわ」 「どうして?」 「お店を出るとき、床に落ちたマフラーを平田さんが拾って匂いを嗅いだとき……」 「いけないことをしたかな?」 「そうじゃないの。あのときあたし、平田さんに肌の匂いを嗅がれたような気がしたんです」 「それは当ってるな。ぼくもそうなんだ。香水の匂いを嗅ぐつもりであんなことをしたんだけど、心のどこかにはあなたの素肌の匂いを嗅いでいるような気持がはたらいていたもの」 「なんだかあたしたち、いま、きわどい話をしてるわ」 「話題を変えますか?」 「それも不自然ね」 「あなたと、きわどい話ができるような間柄になったことを、ぼくはうれしく思ってる」  平田の声の調子が、しっとりと静かなひびきにかわっていた。規子は思いきって、平田のコートの腕に手をまわした。平田が肘《ひじ》を体に押しつけて、規子の手を強くにぎりしめでもするようにはさみつけた。  飲みに行く店を、規子はすでに決めていた。六本木の防衛庁の近くの、静かなスタンドバーだった。そこまで二人は体を寄せ合うようにして歩いて行った。規子は平田の腕にまわした手を放さなかった。その手を平田は何度も肘でやわらかくはさみつけてきた。  風は冷めたかった。規子の心は熱いもので包まれていた。けれどもその芯のところには、熱で溶かされることのない黒いしこりが残っていた。経過は異なっていたが、香水が二人の距離を一気にちぢめることになった点では、平田のときも坂井のときも同じだと言えた。  冷めたい風と車の騒音の中を、平田の腕に手を絡《から》ませ、コートをとおして伝わってくる彼の体の温もりを味わって歩きながら、規子はやはり坂井とのことを念頭から閉め出しておくことができずにいた。  スタンドバーはすいていた。客は二組しかいなかった。顔なじみのマスターとバーテンが、控えめで充分に親しみのこもった会釈《えしやく》を規子に送ってきた。聴こえるか聴こえないかの音量で、レコードが鳴っていた。曲はダイアナだった。  店の入口で規子が脱いだコートとマフラーを、平田が手を出して受け取り、壁のコート掛けにかけた。そのとき平田は笑った顔のままで、またマフラーの匂いを嗅いだ。今度は明らかに、わざとそれをして見せるといったやり方だった。規子はほの暗い明りの中で、やわらかく平田を睨《にら》んで笑った。 「風で香りがとばされちまったかな」  カウンターに並んで向かうとすぐに、平田が肩を寄せてきて、小声で言った。 「マフラー、匂わなかった?」 「どれがミツコで、どれがあなたの匂いなのか、わからなくなってしまったようだな」 「このお店のお酒の匂いのせいじゃない?」 「あなたとミツコの香りだけしかない場所で匂いをしっかりと確かめたい」  平田は笑った顔で規子を見たままで言った。冗談めかした口ぶりだったが、平田の眼には輝きがあった。規子も笑った顔のまま、眼に輝きをこめて、カウンターの陰で平田の膝に手を置いた。その手に平田が手を重ねてきた。  平田はスコッチのオンザロックスを頼んだ。規子はブランディにした。食事のときのワインが酔いの下地をこしらえていた。  その酔いも手伝って、このまま行けば平田と肌を合わせることになるのは目に見えていた。そうなることを望みながら、なおどこかに残るためらいを、規子は消せずにいた。ミツコの香りのことがきっかけになって、唐突《とうとつ》に始まった坂井とのこととよく似た経過になることに、規子はこだわりつづけていた。こだわりに意味のないことはよく承知していながら、気持の一点が糸でつながれでもしているように、そこから離れようとしないのだ。 「香水って、あたしはほんとうは好きじゃないわ」  ブランディのグラスを顔の前にかかげたまま、だしぬけに規子は言った。言ってから自分で規子はどぎまぎしてしまった。吐くつもりのないことばが、心の隙《すき》を突くようにしてとび出してしまったのだった。平田が案の定、訝《いぶ》かる眼で規子の顔をのぞきこんできた。 「ごめんなさい。へんなこと言ってしまったわね、あたし……」 「へんじゃないけど……」 「ミツコの香りはとても好きなの。ただ、香水には怖いところがあるということを、ときどきあたし考えるものだから……」 「今もそれを考えてたの?」 「なんとなくね。香水が怖いものだと言おうとして、好きじゃないなんて言っちゃったの。へんなの。怖いというのと、好きじゃないというのでは、ずいぶんちがうわよね、意味が……」 「怖いというのがどういう意味か、話を聞かなきゃよくわからないけど、それほどのちがいはないのかもしれないよ。好きじゃないというのと……」 「香水というのは、もうひとつの作られたその人の肌の匂いになっちゃうところがあると思うの。肌の匂いというか体臭ね」 「それが怖いの?」 「そうね。さっき平田さんは、どれがミツコの匂いで、どれがあたしの匂いかわからないって言ったけど、あたしがなんだか怖いなと思うのはそこなのね」  言いながら規子は、思わず口を突いて出たことばのために、自分が一歩ずつ胸にかかえているこだわりにあからさまに近づいていきつつあるのがわかっていた。 「あなたの言ってること、わかるような気がするな。つまり顔で言えば、お化粧したときと素顔のときと、というようなことじゃないのかな?」 「似ているけど、もっと微妙なことなんだわ、きっと。いやね、あたしって。ごめんなさい。ミツコをいただいたお礼にこうして一緒にいるのに、こんな話をしちゃって……」 「かまわないさ。おもしろい話だと思うよ。その微妙な問題についてもっと聴きたいね」 「よく言われてることだけど、ミツコならミツコを使っている人が何人かいるとして、その全員の体から同じ匂いが漂ってくるかというと、そうじゃなくてみんなちがうらしいのね」 「同じ香水でも、使う人の体臭はそれぞれだから、それぞれ異る体臭がミツコならミツコにまじり合うために、匂いもそれぞれちがってくると言うんだろう」 「そうなの。外国人にくらべると日本人はそんなに体臭が強くないから、個人差はそれほどきわだってはこないと思うのよ。それでもやはりちがいは人それぞれに出てくると思うのね」 「だろうね」 「そうなると、香水を使うことでその人はもうひとつ別の固有の体臭を作ることになるわけでしょう」 「それがむしろ香水本来の役割りなんじゃないの?」 「そうなのね。そうなんだけど、それはあくまでも作られた体臭であって、その人本来の体の匂いじゃないわ。それなのに作られた体臭がまるで本来の自分の体の匂いであるかのように錯覚を起しそうになるときがあるとしたら、やはり怖いと思うわ」 「そりゃそうだけど、錯覚そのものを商品にしたのが香水だという考え方もできるよ」 「どっちにしても錯覚というのは怖いわ」 「怖がらないでほしいな。ぼくがあなたとミツコの他には何の匂いもしないところであなたの肌の匂いを嗅ぎたいと言ったことには、錯覚なんかまじっちゃいないつもりですよ」 「ありがとう。うれしいわ。香水の話はもう終りにします」  規子は背すじを立てて笑って言った。そのままその話をつづけていけば、平田に向って坂井とのことを打明けてしまいたくなりそうな予感があった。 「あなたの部屋に行きたいな」  うしろでスタンドバーのドアが閉まるとすぐに、平田が言った。規子は無言でうなずいて、平田に腕をからめた。 「迷惑じゃないかな?」  平田が規子の顔をのぞきこんできた。 「あたし、迷惑そうな顔をしてる?」 「あなたとミツコの香りしかない場所と言ったら、あなたの部屋しかないから……」 「散らかってるけど、平田さんならかまわないって気がしてたの。よかった。ホテルに行こうと言われたらどうしようと思ってたんです」 「ホテルはだめだ。ぼくは最初からあなたの部屋に行きたかったんだ。これもへんな話ということになりそうだけど、あなたの部屋に行くほうが、なんだかきちんとしたやり方のように思えるんだよ」 「うれしいわ」  規子は、声がふるえるほどうれしかった。平田がホテルに行こうと言うのではないかと、規子は虞《おそ》れていたのだ。それではミツコの香りがきっかけで始まった坂井とのことと、ますます似てきてしまうではないか。だからといって、自分から部屋に行こうと誘うのも、それこそきちんとしたやり方を強要するかのようで、厭味《いやみ》に思われていた。  そうしたことにまで、いちいち坂井とのことのこだわりが尾を曳《ひ》いてくるのが、規子は哀しく、肚立《はらだ》たしくもあった。 「美織ちゃんに叱られないかしら。あなたをあたしの部屋に誘ったりして……」 「叱られはしません。むしろよろこんでくれるはずだ。やっと美織の許しが出たんだからね」 「許し?」 「あなたのことを、あのおばちゃんならママになってもらいたいって、美織が言うようになったんです。ぼくはずっと前からそうなればいいのにと思ってたんだ」 「アイスクリームのおばちゃん?」  規子は、美織の呼び方をまねて言って、声を出して笑った。 「そう。アイスクリームのおばちゃんならママになってもらいたいって。だからぼくはアイスクリームのお姉ちゃんと言いなさいって言ったんだ。そうしたら美織のやつ、ママになる人がお姉ちゃんじゃおかしいって言うんだ。ママになる人はみんなおばちゃんじゃなきゃへんだって……」 「おばちゃんでいいの。あたし、もう三十三歳だもの」 「美織の母親は、二十九歳で美織を産んで、三十三のときに恋人を作って家を出ていったんだ。そして同じ三十三歳の新しいママにあの子は巡り合うことになるのかもしれない。先走った話をしすぎてるね、ぼくは。ごめんなさい。少し興奮してるのかもしれない。気にしないでほしい」 「いいのよ。先走った話になってしまうのは、あなたの気持が錯覚じゃない証拠だわ。それよりも、あたしは、自分のほうがあなたや美織ちゃんに錯覚を与えてしまってるんじゃないかということのほうが心配だわ。自信なんかないもの、あたし……」 「自信はいらないよ。ぼくと美織がほしいと思ってるのは気持なんだから」 「気持はあるわ。充分に……」 「ありがとう。しかし、子持ちの恋ってやつは、どうも艶《つや》がないなあ。恋は錯覚だなんていうつもりはないけど、いくらかは錯覚が生む一途《いちず》さみたいなものも欲しいと思ってるんだけどね」 「そういう一途さを怖がって生きてきた女だっているわ」 「あなたのこと?」 「あたし、昔、ひどい恋をしたことがあるんです。だから情熱っていうのはみんな惨めな錯覚だと自分に言い聞かせてきたわ」 「同じかもしれないな、ぼくと。女房が家を出て行ってからは、ぼくはそういう情熱をほとんど憎んで生きてきたような気がするな」  地下鉄のホームに着いて、電車が来るまで、二人はそういう話をつづけた。  住んでいる町の私鉄の駅に着いたのは、十時半だった。バス停とタクシー乗場に人の列ができていた。その列に加わらずに、二人は歩いて規子の住んでいるマンションに向った。駅前を離れて人通りがまばらになると、規子はまた平田に腕をからませた。  部屋に入ると、平田がすぐにトイレに行った。規子はその間に急いで押入れ箪笥の抽出しから、平田に贈られたミツコの容器を取り出して、ドレッサーの台の上に置いた。それを眼にするのにこだわりがあったために、前の日に贈られたまま、ミツコの小瓶は押入れ箪笥の抽出しに入れたままにしてあった。  平田と入れかわりにバスルームに入って、規子は浴槽の湯を出した。浴槽の前に立ったままで、六本木のスタンドバーでの香水の話を、規子は思い出していた。かすかな不安が胸に生まれていた。香水は作られたもうひとつの体臭なのだ。しかし、平田が規子のマフラーに嗅いだ匂いには、ミツコの香りはまじっていない。湯から上がってベッドに入れば、いずれ平田は規子の肌の匂いを嗅ぐことになる。そのとき彼は、その夜のデイトに規子が、贈り物のミツコをつけずに来ていたことに気づくのではないだろうか——規子の胸をよぎった不安というのはそういうものだった。  平田は居間の小さな食卓の前に坐っていた。もうすこしだけ飲みたいという平田の前に、規子はアイスペールや水さしなどをのせたトレイを運んだ。平田が規子の腕をやわらかく取って椅子から立ちあがった。平田の両手が規子の肩を抱き寄せた。唇が重ねられた。規子は平田の背中に腕を回した。乳房に圧迫が来て、規子は体の奥に甘く波立つものを覚えた。唇を離すと、平田は規子の髪に鼻を埋め、そのまま鼻先をすべらせて、首すじに顔をすりつけてきた。 「ごめんなさい、平田さん。あたしミツコをつけていないんです。あなたに嘘をついていたの」  規子は妙に追いつめられた気持にかられて、平田にしがみついた恰好のままで言った。 「わかってた。だってマフラーの匂いを嗅いだときに、香水の香りがなかったから。あなたが香水が嫌いだってことが、スタンドバーでの話でわかって、ぼくは二度もマフラーの匂いを嗅いだりしたことを後悔してたんだ。あんなことをしなきゃ、あなたに嘘をつかせることにもなっていなかったと思ってる」 「ミツコの香りは好きなの。それは嘘じゃないわ。ただ、その香りを自分の体につけるのが好きじゃないの」 「それでいい、香水なんか使わなくても、あなたはとってもいい匂いがするもの。髪だって肌だって……」  そう言って平田は規子の首すじの匂いを、胸いっぱいに吸った。規子は、坂井とのことをいますぐに平田に打明けてしまいたい衝動を抑えた。  いつかはその打明け話を平田に聞かせることになるだろう、と規子は思った。そう思っただけで、気持がいくらか楽になるのを覚えた。そしてその時が来て、平田に坂井とのことを話してしまえば、はじめて自分は八年前の心の傷から完全に解放されるにちがいない、と規子は思った。いまはまだそのときではないと——。  媚《び》 薬《やく》  信号は赤になっていた。  足を止めた片柳《かたやなぎ》の腕に、阿佐美《あさみ》が手をかけてきた。片柳はコートのポケットに手を突っ込んだまま、腕で阿佐美の手を軽くはさみつけるようにした。 「そこはクラブなの?」 「そうだよ」 「クラブって女の人がいるんでしょう? ホステスの人が……」 「いるよ」 「たくさん」 「五、六人いるのかな。クラブといっても、夢の木はミニクラブだから、ホステスはそんなに多くはないよ」  片柳は答えて、阿佐美を見やった。阿佐美は、夜の銀座の明るい街並みや、歩道を往き交う人の群に、上気したような眼を投げていた。  信号が変って、二人は歩き出した。阿佐美が片柳に寄り添ってきた。片柳は阿佐美に合わせて歩速をゆるめた。ふと彼は、魚の干物の話を思い出した。  格別に上等の品でなくても、魚の干物は焼く前に一時間ほど天日《てんぴ》に当ててやると、ぐんと味がよくなる。それと同じで、古女房でも、ときどき外に連れ出して街の風に当ててやり、夫婦二人きりで食事をしたり一杯やったりすると、どことなく瑞々《みずみず》しさをとり戻して、ちょいといい味になる——。  その話を片柳は、高齢の親しい知人から聞いた。話をしてくれた相手が、家庭の外でも女色の探求にかけては勇名をとどろかせた人物であることを、片柳は知っている。それだけにその話は、片柳には印象が深い。  先達《せんだつ》から聞いた干物の話が、阿佐美の場合にもあてはまるものなのかどうか、片柳にはわからない。彼は、阿佐美と結婚してから、最後に二人きりで外でゆっくり食事をしたのがいつのことなのか、覚えていない。すくなくとも、最初の子供ができてからは、そういうことは一度もなかったように思える。その子供は今年、成人式を迎えた。そんなふうだから、自分の行きつけの酒場に妻を連れて行くことなどは、片柳は思いついたことすらなかった。  その彼が、阿佐美を街の風に当てさせてやろうと考えたのは、干物の味の話の当否を確かめてみようと思ったためではなかった。  数日前の夜のことだった。  風呂から上がって寝室に入ってきた阿佐美が、暑いと言って窓を大きく開け放った。十一月の初旬である。いくら風呂上がりとはいえ、窓を開け放って外の風を入れたくなる季節ではなかった。阿佐美が汗ばんでいるようすも見られなかった。外の空気は冷めたかった。ベッドで寝酒を飲んでいた片柳は毛布の下に脚をさし入れた。  阿佐美は窓をいっぱいに開けると、ネグリジェの裾を蹴るような歩き方でドレッサーの前に行き、スツールに腰をおろしてヘアドライヤーを使いはじめた。乾いた髪にブラシを当てる阿佐美の手つきに、いつにないいらだたしげな、荒っぽい感じがあった。  それを見ながら、片柳は阿佐美との間にしばらく愛の行為が途絶えていることを思い出した。片柳のほうがなんとはなしに死んだふりをつづけていて、阿佐美のほうも事を起そうとする気配を見せないまま、何週間かが過ぎていたのだ。  窓を閉め、カーテンレールの音を高々とひびかせてカーテンを閉めてベッドに入った阿佐美の顔は、スキンクリームをつけていたにもかかわらず、どこか粉っぽく見えた。  その夜、片柳は久しぶりに阿佐美のベッドに入っていった。暗黙の催促を受けた気がしたのだ。  片柳の心は、行為の最中も死んだふりの状態からたいして脱け出てはいなかった。だが、阿佐美の顔の粉っぽい感じはたちまち消えて、赤味をさした皮膚につややかさが生れていた。それに気づいたとき、片柳はふと、阿佐美を街の風に当ててやることを思いついたのだった。寂しい思いをさせていることの償いのつもりからだった。  夢の木は込んではいなかった。時間が早いせいだった。その店では、片柳は大事な客とされている。社用でよく使うだけでなく、プライベートのときも、部下や友人を連れて顔を出すことが多いのだ。  ママの柏木節子《かしわぎせつこ》と、裕子《ゆうこ》という名前のホステスが、片柳と阿佐美の席についた。阿佐美は物珍らしいようすを隠さなかった。店の中を見まわしたり、運ばれてきた乾き物のつきだしや、グラスや、ボトルの銘柄に興味と好奇心を示して眼を向けた。  裕子の表情にも、阿佐美に対する好奇心が感じ取れた。片柳が女連れで現われたのが、ホステスたちには珍らしく思えたようすだった。 「おきれいな方ね。紹介してくださらないの? 片柳さん」  ママが席にやってくるなり言った。 「ぼくの愛人の野村阿佐美さんだよ」  片柳は旧姓で阿佐美を呼んだ。ママは阿佐美に向って初対面の挨拶をした。愛人と言われて、阿佐美は曖昧《あいまい》に笑っていた。ママも裕子も、片柳の言ったことばを真《ま》に受けているようすではなかった。 「結構やるんですね、片柳さんも。真面目そうな顔をしてて愛人を作っちゃうんだから」  裕子が言った。ママがつづけて口を開いた。 「真面目そうな顔は許せるわよ。でも何よ。いつも家の外に女を作る元気のある奴が羨《うらや》ましいなんて、もっともらしく言ってるくせして……」 「人並みにおれにも元気が出てきたんだよ」 「それはいいことだわ。でも、それなら愛人だけじゃなくて、奥さまにもその元気を分けてさしあげなきゃだめよ」 「仕事とセックスは家庭に持ち込まない主義だから、おれは」 「いろんな逃げ方があるのね。いつかは片柳さんは、子供の母親とセックスするのは近親相姦だからいやだって言ってたわ」  裕子が笑って切り返してきた。片柳は笑ったまま、口を閉じた。阿佐美の前でそうした酒場向きの軽口の叩き合いをするのが、妙に照れくさくなったのだ。 「きょうは結婚記念日かなにか?」  ママが片柳に訊《き》いた。 「結婚記念日? どうして?」 「だって奥さまとご同伴だから……」 「あら、わたしは奥さまじゃないわ。片柳さんの愛人なんですよ」  阿佐美が笑って言った。間の抜けた冗談になってしまっていることに、阿佐美は気がついていないようすだった。 「わかるかね? やっぱり」  片柳は急いで言った。阿佐美にそれ以上、気のきかない科白《せりふ》を吐かせまいと思ったのだ。 「わかるわよ、そんなこと」  ママが手を小さく振って笑った。 「だって、片柳さんと同じ結婚リングをはめていらっしゃるんだもの」  裕子も言って笑った。 「折角、見栄をはろうと思ったのになあ」 「男の人にとっては、愛人がいるというのはやっぱり見栄になるのかしら?」  ママが首をかしげた。 「そりゃそうだよ。もてることの証拠じゃないか」 「わたしも見栄をはれると思ってたわ。不倫してるって思われるかもしれないって……」 「残念でした。ごめんなさい、化けの皮を剥《は》いでしまって……」 「いやだなあ。おれ、佗《わび》しくなってきたよ。夫婦で妙な見栄をはろうとして、はりそこなってるんだからなあ」 「でも、片柳さんはいいところあるんですね。奥さまと二人でこうして夜の街に遊びに出てくるんだから」  裕子が言った。 「どこに行ってらしたんですか? 奥さま」  ママが訊いた。 「お食事して、ここに来ただけなんですよ」 「何を召しあがりました?」 「フグです。今年はじめて……。もっともフグなんて、一回も口に入れないで終っちゃう年のほうが多いんですけど」 「おやさしいのね、片柳さん」  ママが片柳を見て言った。感心した口ぶりだったが、どこかにからかうような調子もこもっているように、片柳には思えた。 「やさしくなんかありませんのよ。こんなことは、子供が生れてからは絶えて久しくなかったことなんですから……」  阿佐美は甘く睨《にら》む眼を片柳に向けてきた。その眼には生気が溢《あふ》れ、底に濡れたような輝きが生れていた。 「これからは前向きの姿勢で取組み、心がけて善処することをお約束いたします」  片柳はふざけて言った。 「わたしの前で奥さまに約束してさしあげて。片柳さん。せめて月に一、二度ぐらいは、奥さまと二人だけでデイトして、夢の木におそろいで顔を出してくださるって……」 「この店はママが客引きやるのか」  片柳は大声で言った。笑いが湧いた。  帰りはタクシーを奮発した。  夢の木にいたのは一時間半ほどだったが、食事のときに飲んだ日本酒も手伝って、片柳はいくらか酔っていた。馴れていない妻とのデイトのためか、くすぐったさとは別に、やれやれといった思いも片柳の中に生れていた。  阿佐美のほうは、酒とは別のものに酔っているようすだった。彼女はタクシーのシートの上で、片柳に躯を寄せてきて、腕をからめた。 「愉《たの》しかったわ。癖になりそう。フグもとってもおいしかったし」 「そうだな。こういうデイトもわるくない。ときどきやるか」 「無理しなくてもいいのよ。気が向いたときだけで。ストレス解消になるもの」 「ケーキ忘れてないね。子供たちのみやげの……」 「ちゃんと持ってます。酔ってないもの、わたし」 「おれは少し酔った」 「夢の木のママさんて、きれいな方ね。気性もさっぱりしてるみたいで……」 「亭主と別居結婚してるんだよ、彼女。週末で店が休みになると、練馬のほうの家に帰るんだそうだ。ふだんは都心のマンションに一人で暮してるって話だ」 「きっと物わかりのいいご主人なのね」 「だろうな」 「寂しくないのかしら? ふだんは」 「寂しいったって、月曜から木曜までで、金曜の夜は旦那のいる家に帰るんだから」 「お子さんはいらっしゃらないの?」 「子供がいるという話は聞かないな」 「わたしなんか、子供が二人いて、亭主は毎晩となりのベッドで寝てるけど、寂しい思いをする夜が多いのよ」  阿佐美は顔を寄せてきて、片柳の耳にささやくと、彼の耳たぶを甘く咬《か》んだ。 「申しわけない。いまおれ、中だるみの時期を迎えてるらしいんだな」  片柳も阿佐美の耳もとに口を寄せて、小声で言った。阿佐美は答えずに、首を回して片柳に唇を重ねてきた。片柳は運転手を気にしながら、ほんの短い間キスに応えた。阿佐美はしかし、キスを止めようとしなかった。舌をからませてきた。阿佐美の手がコートの下に入ってきて、片柳の腿《もも》の内側を撫でていた。 「ホステスの人たちって、みんなこうするのね」  ようやく唇を離すと、阿佐美は片柳の肩に頭をのせかけたままで、太腿をさすりつづけて囁《ささや》いた。片柳は小さく笑った。 「中にはこんなことする人だっているんじゃないの?」  阿佐美は言って、手を上にすべらせ、片柳の股間をズボンの上からまさぐった。 「それはいないだろう。そこまでは……」  片柳は言った。阿佐美は低い笑い声を洩らして、片柳の性器をまさぐりつづけた。彼女はタクシーの運転手のことを、さほど気にかけているようすではなかった。いつもの阿佐美とは別人のように思えた。それが酒の酔いのせいなのか、街の夜風に当ったせいなのか、片柳にはよくわからなかった。わからないままに片柳は、思いきった振舞いを見せる阿佐美に、新鮮なおどろきや戸惑いを覚えた。  その夜は、阿佐美のほうが片柳のベッドに入ってきた。上の娘のみちるは、まだ自分の部屋で起きている気配があった。片柳はそのために怯《ひる》みを覚えたが、すぐに阿佐美に押し切られた。  阿佐美ははじめから下着をはいていなかった。彼女の躯が火照《ほて》っているのは、湯上りのせいだけではないようだった。阿佐美はいきなり片柳の下着の下に手をさし入れてきて、愛撫をはじめた。片柳のパジャマのズボンとブリーフを脱がせたのも阿佐美だった。阿佐美はむきだしにした片柳の腰の上にかがみこみ、ペニスに唇をかぶせてきた。  それも珍らしいことだった。いつもは片柳のほうが、勢いをつけるためにそれを求めない限り、阿佐美のほうからすすんで行なうことはない愛撫だった。  片柳は阿佐美のようすに圧倒と戸惑いと、わずかにたじろぐものも覚えながら、煽《あお》られていった。心なしか、阿佐美の舌と唇の動きも、いつもより淫らな感じを強めているように思えた。片柳は片手で阿佐美の髪をまさぐり、もうひとつの手は乳房に伸ばしながら、腰を反らした。阿佐美は深く片柳を受け入れたまま、かすかな声をふさがれた口の端から洩らし、ねっとりとした感じで唇をすべらせた。 「その気になれば、ちゃんとなるじゃない」  顔を上げて、阿佐美が片柳のペニスを強くつかんで言った。声が低くくぐもっていた。たしかに片柳は、自分の性器にいつもとはちがう力と充実感を覚えていた。 「脱がせて……」  ベッドに仰向けに躯を倒して、阿佐美が言った。片柳はベッドにあぐらをかいて、阿佐美のネグリジェのホックをはずしていった。ネグリジェの裾が大きくめくれて、陰毛の端がわずかにのぞいていた。デイトと酒の酔いが、阿佐美の心を解き放っているのは確かだった。そのデイトで、阿佐美が若やいだ気分になっていることも明らかだった。そうした心の動きが、甘やかでロマンティックな気分を生んだ気配もわずかにあった。だが、心に受けた刺激のほとんどが、むきだしのセックスへの情熱となって作用しているらしいなりゆきに、ふと片柳は自分たちの結婚生活の上を過ぎていった時の長さを思わせられるのだった。  片柳は、上から阿佐美に躯を重ねて抱きしめた。阿佐美は両脚を開いて、太腿で片柳の腰をはさみつけた。阿佐美の陰毛が片柳の下腹をくすぐった。下腹をそこに強く押しつけると、うるみに濡れた女陰が、うるみの感触とともに触れてきた。片柳は静かに腰をゆすり立てて、下腹で女陰をこすりながら、二つの乳房を揉《も》み立てた。乳首を指先で縒《よ》るようにしてつまんだ。 「乳首をもっと強くして……」  押し殺した喘《あえ》ぎ声を洩らして、阿佐美が言った。片柳は掌を乳房に押しつけるようにして揉み立てながら、乳首をつまみつづけた。 「ああ、たまらないわ。ねえ、舐《な》めて……」  阿佐美は片柳の腰のあたりに浅く爪を立てて言い、全身をゆすり立てた。  片柳は躯を下にずらして、阿佐美の陰毛に頬ずりをくれた。頬の下で陰毛がすれ合うかすかな音がした。頬ずりにつれて、ほころびを見せているたっぷりとしたクレバスが、よじれるように動くのが、ぼんやりと眼に映っていた。  片柳は、しばらくぶりに阿佐美の女陰を眼にしていた。眼に映るものは、すっかり馴染んだものだった。そのものの眺めよりも、そこにあからさまに眼を向けている自分の姿のほうが、片柳の淫らな気分をかき立ててくるようだった。  片柳は、女陰に唇をつけた。うるみが唇を濡らした。肉の厚い大陰唇が、プクプクと唇にまとわりついてくるようだった。片柳は陰毛の生えぎわを舌の先でなぞった。鼠蹊部《そけいぶ》にもそっと舌先をすべらせた。そうした愛撫をつづけるうちに、眼に映る阿佐美の女陰に片柳は、なま温かい親近感と、見馴れた顔に出合ったようなくつろぎを覚えていた。 「ねえ、入れる前に一回いかせて。ずいぶん長いこと、あたしはちゃんといったことがないのよ。黙ってたけど……」  阿佐美が言った。咎《とが》めだての口ぶりではなかった。 「知らなかったなあ。ほんとか?」 「ほんとよ。前みたいにあなたがいろいろしてくれないせいよ、きっと。それともわたしが欲ばりになったのかなあ」 「よし。いかせてやる」  片柳はむきになったように言った。阿佐美の口調が不平を並べる調子ではなかったので、彼はほんとうにむきになっていた。 「いかせて。前みたいにいろいろして……」  阿佐美は言って、自分の両手で陰毛を撫で上げ、クレバスを押し開き、クリトリスを露頭させた。クリトリスは熟れたように色づいてふくらんでいた。  片柳はそこに舌の先を這わせた。唇をつけてそっと吸った。吸われると阿佐美は細い声を洩らして腰を反らせた。うるみにまみれた柔らかいくぼみに、片柳の顎の先が浅く埋まった。  片柳は片手で阿佐美の乳房を揉みながら、もうひとつの手の指のすべてを使って、襞《ひだ》に囲まれたくぼみのところを静かにまさぐった。彼は、阿佐美が言った『いろいろ』の愛撫や戯れのひとつひとつを覚えているわけではなかった。だが、阿佐美にわれを忘れさせる確実な方法だけは、ちゃんと記憶していた。  クリトリスの上で小刻みに舌先を躍らせながら、片柳は指のひとつで彼女の会陰部を強く押すことをくり返した。さらに彼は、指先ですくい取ったうるみを、阿佐美のアヌスに塗りひろげた。アヌスを指先でそっとまさぐるようにすると、すぐに阿佐美の呼吸がはげしく乱れはじめた。阿佐美は口から洩れ出る声を噛み殺すために、拳《こぶし》を口に押し当てた。まさぐられているうちに、固くひきしまっていた菊座がほぐれたように柔らかくなり、息づくような収縮と膨満の動きを指先に伝えてきた。  片柳は、阿佐美の女の部分にまず浅く指をくぐらせた。阿佐美が一瞬、息を詰め、躯をわななかせた。指は固く締めつけられていた。その指をかすかに前後に動かしながら、片柳はアヌスに指先をやんわりと押しつけていった。わずかに埋まる感じがあって、阿佐美の口から押さえかねたように声が洩れた。片柳は二つの指に小さな動きを与えながら、舌先でクリトリスをはげしくはじくことをつづけた。  その愛撫で、阿佐美はたちまち昇りつめていった。拳だけでは足りずに、阿佐美は最後には口もとに枕を強く押し当てて、ほとばしりでる声を塞《ふさ》いだ。片柳は二つの指に刻み込まれてくるような、阿佐美の強い痙攣《けいれん》を感じながら、それが治まるまでクリトリスを唇で吸いつづけた。  だが、ようやく阿佐美に躯をつないだときは、片柳はひと仕事終えた気分にとりこまれてしまって、熱中の度合は薄れていた。それは阿佐美の中に収まっているものの勢いにも、微妙な差となって現れていた。片柳はその微妙なちがいを阿佐美に気取られまいとして、奮闘をつづけなければならなかった。  片柳が老眼を自覚しはじめたのは、三年ほど前だった。一年前には、ついに痩せ我慢を捨てて眼鏡を使うようになった。  歯のほうは片柳はまだ、自前ですべてそろっていて、欠損は生じていなかった。眼と歯につづいて衰えるものについても、片柳自身は衰えの自覚は持っていなかった。  たしかに片柳のほうが阿佐美のベッドに入っていく回数は、次第に減ってきている。それはしかし、性欲の衰えを示すものではなくて、夫婦生活の倦怠と弛緩《しかん》のしからしむる自然のなりゆきにすぎない、と片柳自身は考えていた。  だからといって、阿佐美以外の女のベッドに入っていかなくては収まりがつかない、といったことも片柳の場合はない。それをむしろ片柳はありがたいことと考えている。持て余すほどの元気があって、しかし女房のベッドは敬遠したいということになったら、それはそれで苦労の多い毎日になるだろう、と片柳は考える。  それを苦労と考える分だけ、元気が衰え、分別が勝っているのだろう、と片柳は醒《さ》めた眼で自分を眺めている。分別と欲望とが均衡を保っていて、そこから生れてくる一種の静穏の気配を、片柳は好もしく思っていた。その静穏のために、いくらかは阿佐美に寂しい物足りなさを覚えさせているかもしれないが、それはとり立てて言うほどのことではなくて、阿佐美のほうもその静けさを当然のものとして受けいれている、というふうに片柳は勝手に思いこんできた。  それが自分の勝手な思い込みにすぎなかったことを、片柳は阿佐美とのデイトの夜に思い知らされた。阿佐美は決して、そっちの方面では静けさや穏やかさに甘んじていたわけではなかったのだ。  デイトから帰ってきたあとで、阿佐美がベッドの中で口にしたことばは、時間がたつにつれて効いてくるボディブロウのように、片柳をたじろがせた。長い間、完全なオルガスムスを味わったことがないとか、以前のように熱意と工夫を注ぎこんだ愛撫が欲しいというようなことばを、阿佐美から向けられるとは、片柳は思っていなかったのだ。  そうしたことばを向けてくる阿佐美を、別人のようだとは片柳は思わなかったが、いつのまにか自分ひとりがさっさと凋落《ちようらく》への道を進んでしまっていて、ふり向くと一緒に歩いていると思っていた阿佐美は置いてけぼりをくったように、まだずっとうしろのほうにいたことに、片柳は気づかされた。  それは重大でありながら、どこか笑ってしまいたくなるような、そら怖ろしいようでいて、滑稽なうら哀しさも拭いきれない、といった感じの発見となった。片柳は厄介な課題に直面した思いに包まれるのだった。  けれども、片柳自身は、性的なポテンシャルの衰えを自分で認めながら、中年男らしい好色な感度は逆にひそかな形でつのってきていることにも気づいていた。  会社に行けば、グラマラスな若い女子社員たちの胸や臀部にひとりでに眼が行く。街を歩いていたり、電車に乗っていたりするときも、それは変らない。顔見知りの女子社員が相手でないときは、視線はおそらくもっと露骨になっているかもしれない、と自分でも思う。どうかすると、衣服の下に隠された相手の乳房の形や、陰毛や女陰の眺めを微に入り細を穿《うが》つようなやり方で想い描いたり、その相手をどぎつい性的趣味の持主に仕立てて、そのときの光景を勝手に頭の中に浮かべてみたりもする。  相手が若くてセクシーな女の場合だけとは限らない。阿佐美と同年ぐらいの相手でも、それより年上と思える女でも、量感の豊かな腰やヒップや、肉感的な唇や、色気を感じさせる眼の持主に出合ったりすると、片柳はたいてい淫らな思いをそそられる。ポテンシャルが落ちた分だけ、気助平の度合が増して、妄想を愉しむ傾向が強まっている。  しかし、気持の上での助平も妄想も、それだけで終ってしまって、実践に結びつくエネルギーにはならない。仮想敵国との戦いを想定して訓練にはげみ、戦力を増強してきた自衛隊に似てはいるが、こちらの戦力は増強とは逆の途《みち》を辿《たど》っている。  それが中年の男の性衝動というものだという思いはあるが、寂しさは拭いきれず、さりとて実践の道に踏み出すのは足が重く、腰も定まらない。そこでやむなく、寂しさは避けられない人生的境地と受けとめて、それをしみじみと味わうほうに舵《かじ》をとっている——。  デイトの夜のベッドでの阿佐美のことばと振舞いは、そうした片柳のありようを、批判をこめて突きつけてきたものと彼には思えてきた。境地などというものは、それをめざして切り拓いてこそ意味も値打ちもあるのであって、どこからともなく風に吹かれて目の前に漂い流れてきたようなものを、もっともらしく味わっているのは、それ自体が要するにただの衰弱と凋落の現われなのよ、と阿佐美に言われているような気が、片柳はしてくるのだった。  その夜、片柳は偶然に、夢の木のママを彼女のマンションまで送ることになった。  片柳は赤坂にいた。会社の客を接待したあとで、二人の部下と一緒に別の店に移ってさらに少し飲んだのだ。部下をその店に残して先に帰ることにして、片柳は無線タクシーを呼んでもらった。  そのタクシーが停まっている場所まで歩く途中で、柏木節子とばったり出合ったのだ。柏木節子は、自分の店が終ってから、友人の店に遊びに行って帰るところで、彼女も空車のタクシーを待っていたのだ。柏木節子は中野坂上に住んでいる。国分寺まで帰る片柳にとっては、ほとんど同じ道すじになる。  片柳が柏木節子と顔を合わせたのは、阿佐美とのデイトの夜以来だった。  タクシーが走り出すと、柏木節子は阿佐美の話題を持ち出した。当然のことながら、お世辞もまじったほめことばが並べられた。片柳の二人の子供のことも話にのぼった。そのあとで、不意に柏木節子が片柳のほうに躯を倒すようにして、耳もとで囁いた。 「デイトのあとでお家に帰ってから、奥さまにせがまれたでしょう、セックス……」 「アホくさ……」  柏木節子の温い息と、甘い化粧品の香りをほのかに耳もとや鼻に感じながら、片柳はおどけて関西弁で応じた。柏木節子はもたれかかった躯を元に戻そうとはせずに、いたずらっぽく笑った眼を横から片柳に向けてきた。 「抱いてあげた?」 「まあね……」 「奥さま方って、外でご主人と二人きりで過した夜は燃えるんだって。そんな話をよく聞くわよ」 「燃えたって古女房じゃどうしようもない。勘弁してくださいてなもんだ」 「古女房が燃えてくれるのが好きだって男の人もいるのよ。そうじゃなきゃ今の時代はいい亭主とは言えないんだって」 「じゃあ、おれは時代遅れの亭主だ」 「開き直ってどうするの。努力しなきゃだめよ」  笑って言うと、柏木節子は躯を離した。片柳の肩や腕に、彼女の柔らかくはずむような小柄の躯の温《ぬく》もりと感触が、余韻を残していた。片柳は、デイトの帰りのタクシーの中で、阿佐美が彼の股間をまさぐってきたことを思い出した。魚の干物の味の話も頭に浮かんできた。 「たしかにそうだな。努力しなきゃだめなのかもしれないな」  片柳はぼんやりとした口調で、なんとなく独り言のように呟《つぶや》いていた。柏木節子が横で低い笑い声を洩らした。片柳は妙なところに酒の酔いが沈澱していくような気分に包まれた。  車は青梅街道からそれて、住宅地の道に入っていた。 「うちに寄っていかない? 片柳さん」  柏木節子がそう言ったのは、運転手に最後の道順の説明を終えたすぐ後だった。 「うれしいけど、時間が遅いし、折角タクシー呼んだんだから……」 「盛り場じゃないから、タクシーはすぐ拾えるわよ。心配いらない。お茶ぐらい飲んでいって。ね」 「わるいことしたくなるかもしれないぞ」 「いいじゃない。したって……」  柏木節子は、片柳を見て言った。通り一遍の誘いとは思えなかった。片柳は気持が揺れた。心をくすぐるような妄想が浮かびかけていた。それがおそらくは妄想に終るだろうということも、片柳には予測がついた。その予測に反撥したい気持が不意に衝動のように、片柳を押し包んできた。  車はゆるやかな坂道を登りはじめていた。その先にマンションらしい建物が見えてきた。運転手への柏木節子の説明で、その建物が彼女の住んでいるマンションだということは見当がついた。 「わるいけど運転手さん、おれも降りるよ」  片柳は運転手に言った。初老と思える坊主頭の運転手は、返事をしなかった。国分寺までの長距離が稼げると思っていたのが、あてがはずれたのだ。愛想がいいはずがない。  車は坂道を登りつめたところで停まった。片柳は料金に千円のチップを添えて、運転手に渡した。 「千円なんてやることないのよ。人がいいんだから……」  マンションの玄関を入りながら、笑った顔で柏木節子が言った。わるいからさ、と言いかけて、片柳はことばを呑《の》みこんだ。  エレベーターの中で、柏木節子は壁に寄りかかったままで片柳に眼を向け、笑顔を見せた。 「思い出し笑いか?」 「そうじゃないけど……」 「何がおかしいんだい?」 「おかしいんじゃないわ。うれしいの。片柳さんが一緒に車を降りてくれたから……」 「お茶を飲みたいから降りたわけじゃないからな」 「あら。いいの? そんなこと言って。本気にするわよ、わたし……」 「当り前だ。本気にしてくれなくちゃ困る」  軽口のやりとりのつもりで、片柳は言った。しかし、それが吐かれたことばどおりに、くどき文句として柏木節子に受け取られることも、いくらかは本気で期待した。片柳の中で妄想がひろがった。  柏木節子の部屋は五階にあった。広い感じのするワンルームの作りだった。ウイークデイだけの寝泊りの部屋にしては、家具や調度品が多く、雑多な物がいろんな場所に置かれていた。 「ほんとにお茶にする? それともお酒?」  壁ぎわに置かれたベッドの横に立って、ウールのグリーンのハーフコートを脱ぎながら、柏木節子が言った。 「もう一杯飲むかな」 「ビール、ウィスキー、ブランデー、焼酎《しようちゆう》、ワイン、日本酒、ジン、それからズブロッカ。あるのはそんなところかな。何がいい?」 「初めて来た美人の部屋で、しかも夜ふけの時間に、ビールじゃしまらないな。ウィスキーの水割りにしよう」 「水割りというのもしまらないんじゃない。ストレートとか、せめてロックにしなきゃ」 「そうか。じゃあロックだ」 「酔いつぶれたっていいのよ。片柳さんだったら……」  笑って言って、柏木節子はヒーターを入れた。片柳はコートを脱いだ。柏木節子がそのコートを片柳の手から取って、ベッドの上に脱いで置かれている彼女のコートの上に、無造作に重ねて置いた。二人のコートの袖がベッドの上で絡み合うような形で交錯した。片柳は眩《まぶ》しいものを眼にした気がして、視線をそらした。  ベランダのガラス戸を背にして、小さなソファが置かれていた。その前にはしゃれた作りの西洋|骨董《こつとう》ふうの小さなテーブルが置かれていた。テーブルの上の青い陶器の灰皿に、口紅の跡のついた吸殻が二本ころがっていた。  柏木節子が、白いトレイにボトルやアイスペールやグラスなどをのせて運んできた。ソファは一脚だけだった。柏木節子はテーブルにトレイをおろし、ツーピースの上衣を脱ぎ、それをベッドの上の片柳のコートの上に放《ほう》るようにして置くと、並んでソファに腰をおろした。グラスに氷が落とされた。 「根が生えそうだな」 「生やしちゃいなさいよ」 「そうもいかないよ」 「奥さまが怖い?」 「突っ込むねえ」 「浮気したことあるんでしょう? 片柳さんも」 「元気なころはなかったとは言わない」 「いまは元気がない?」 「あるとは言えない。残念ながら」 「試してみたいと思わない?」  グラスを渡しながら、柏木節子が眼の色を深くして笑いかけてきた。水を向けられているのはもはや明らかだ、と片柳は思った。据膳《すえぜん》ということばが頭に浮かんできた。同時にしかし、片柳の頭には、据膳に手をつけたあとのあれこれの事柄が、いまいましいほどの冷静さでまとわりついてきた。最初にまとわりついてきたのが、さらに遅くなる帰宅の時間であり、阿佐美に対して用意しなければならない口実のことだった。 「乾杯……」  片柳は渡されたグラスをさし出した。柏木節子は無言でグラスを合わせてきた。片柳は、練馬に住んでいるという柏木節子の夫のことをふと考えた。夫の眼を盗んで、柏木節子はちょっと愉しみを味わいたがっているのだろう、と思った。そうした気持が動くことが女にだってあるのは、片柳にもわかる。 「愉しい? いま」  柏木節子が言った。 「愉しくないわけがないだろう」 「何が愉しい?」 「ちょっと怪しくて危険なムードじゃないか。おれたち、いま」 「ずるいわ、片柳さん」 「どうして?」 「怪しくて危険なムードだけを愉しんで、満足しようとしてる。そうでしょう?」 「するどい指摘だなあ、それは」 「そんなにあっさり認めないでよ。拍子抜けしちゃうじゃないの」  柏木節子は笑って言った。 「危険なムードも愉しんでる……」  片柳は言って、柏木節子の肩に腕を回した。柏木節子は笑ったままの顔を片柳に向けて、躯を寄せてきた。片柳は彼女の頬に唇をつけた。柏木節子は動かなかった。片柳はそのまま唇を横にすべらせて、彼女の唇にそっと重ねた。短くて行儀のよいキスだった。先に唇を離したのは柏木節子のほうだった。彼女は両手を片柳の耳の下に当て、彼の頬に軽く唇をつけてから、躯を離した。 「ごめんなさい。もう気がすんだわ。あたし片柳さんをちょっと困らせてみたかったの」  柏木節子はなにもなかったような、さばさばした口調で言った。 「困ってなんかいないさ、おれは」 「無理しなくていいの。困ってないって言いながら、ほっとした顔になってるわよ」 「嘘だよ。がっかりしてるんだぜ」 「でも、いい感じよ、片柳さんらしくて」 「はぐらかさないでもらいたいな」 「そうじゃないの。ガツガツしてないからいい感じって言ったの。ちょっと餌をちらつかせただけで、ダボハゼみたいに喰いついてくる男の人って、興醒めだもの」 「つまり、ママも怪しくて危険なムードだけをちょっと愉しんでみたかったというわけなんだな?」 「そう。わたしもね」  柏木節子は言って、グラスを口に運んだ。片柳もグラスを回して氷を鳴らしてから、ウィスキーを口に含んだ。  一杯だけで片柳は腰を上げた。  部屋のドアの前まで送って出てきた柏木節子が、うしろから片柳にコートを着せかけた。ふり向いてもう一度唇を合わせたい、という思いが、片柳の胸をよぎった。片柳はしかし、ふり向かずにドアのノブに手を伸ばした。  降りていくエレベーターの中で、片柳は柏木節子の唇や頬の感触を反芻《はんすう》するように、唇に甦《よみがえ》らせていた。怪しく危険なムードだけを愉しもうとしている、と言った柏木節子のことばが、耳に残っていた。確かに片柳は、自分がそれを愉しんでいたことを、認めざるをえなかった。  おとなの男と女の間に、そうした愉しみ方があるのも事実だった。それを煮えきらないとか、いやらしいとかと思うかどうかは、人によって異なってくるだろう。スマートだと考える者だっているかもしれない。  片柳の愉しみ方は、どこか空手形に似ていた。実行の一歩手前のきわどいところで揺れていること自体が、彼をよろこばせていた。彼にとっては、軽く唇を重ね合わせたにすぎない柏木節子も、それだけですでにベッドを共にしたも同然の相手と考えることができる。その先の進展に執着がないわけではない。けれども、その先に進まなくても、まあいいや、といった気持が生れてくる。  そこで踏み留まるのなら、はじめから気のあるふりをしたり、相手の気を惹くようなことを言ったりしなければいいようなものだが、きわどいところで踏み留まるつもりで始めてしまうところに、中年のややこしい賤《いや》しさがあるのだろう——マンションの前の坂道を下りはじめながら、片柳はそんなことを考えた。  坂道は暗かった。道沿いの家は明りを消して、黒い影となって重なるように並んでいた。坂道を下りきったあたりに外灯があった。外灯の明りが白っぽく路面を暗がりの中に浮きあがらせていて、そのためか道は先に進むにつれて細くなっているように眼に映った。一人になると酔いと疲れが足もとから背中のほうに向って這いあがってくるような気がするのは、いつものことだった。坂の道を一歩下るごとに、片柳は躯が地面に沈みこんでいくような気分に包まれた。  引き返して柏木節子の部屋のドアを叩く自分の姿が、片柳の脳裡《のうり》に浮んできた。自分はいったい何にこだわっているのだろうか、といった思いが湧きあがってきた。ためらい坂ということばが、不意に胸に浮かんできた。下るのも登るのもためらいとなる坂の途中に自分はいる、と片柳は思った。  片柳は足を停め、出てきたばかりのマンションの建物をふり返った。建物は意外に近くに見えた。片柳は引き返して坂を登りはじめた。柏木節子の柔らかくはずむ小柄な躯の感触が思い出された。甘い化粧品の香りも鼻に残っていた。軽くまとわりつくように触れてきた唇。シルクの薄いグレイのブラウスに包まれていた胸のふくらみ。丸く張って形よくせり出していた臀部——そういったものが、片柳の瞼に浮かんできた。片柳はそれらのものに思いを集中させた。  玄関を入ると、片柳の足は早くなっていた。急いでエレベーターに乗って、ドアを閉めてしまいたかった。エレベーターは一階に停まっていた。自分が引き返してくるのをエレベーターが待っていてくれたような気に、片柳はなった。  インターフォンのブザーを短く鳴らした。返事はなかったが、かすかな足音が近づいてきて、わずかな間をおいて、ドアが開けられた。柏木節子はグレイのブラウスのボタンをはずしたまま、両手で掻き合わせるようにして、胸を覆っていた。着替えようとしていたところだったのだろう、と片柳は思った。 「気が変ったんだ。ムードだけじゃ治まらなくなっちゃったんだよ」 「入って……」  笑った顔で片柳は中に入り、ドアを閉めた。ロックボタンを押し、ドアチェーンをかけて向き直った。柏木節子が胸の前でブラウスを押えていた両手を放し、片柳の首に腕を回してきた。片柳は彼女の腰に腕を回して引き寄せた。ブラジャーの下に、深い谷間がのぞいていた。片柳は吸い寄せられるような思いで、そこに唇をつけた。 「手間のかかる人ね……」  柏木節子が片柳の頭を抱きしめ、襟足にかかった彼の髪の中に指をさし入れて言った。 「ほんとはおれ、ガツガツしてるんだ」  靴を脱ぎながら、片柳は言った。玄関のすぐ横の浴室らしいドアの中から、水の音が洩れていた。 「だったらシャワー浴びないで、いきなりベッドに行く?」  柏木節子は笑っていた。 「シャワーぐらいは浴びたいね。いくらガツガツしていても」 「平気? 時間は」 「おい。色気のないこと言うなよ」 「いざとなると、度胸がいいのね」 「先にお風呂に入っといで。溜めてるんだろう? お風呂。音がしてる」 「シャワーを出してるの。湯気を立てとくと入ったときひやっとしないから」 「なんだ。おれが引き返してくると思って、お湯を出してたんじゃないのか」 「急になんだか自信たっぷりになったのね」  笑いながら、柏木節子はベッドの横で片柳に背中を向け、着ている物を脱ぎはじめた。片柳はコートを脱いでソファに腰をおろし、自分でオンザロックスをこしらえた。 「あとでコート、掛けるわね」  言いながら、パンティだけの姿になった柏木節子は、浴室に入っていった。片柳はグラスを手にしたまま、そのうしろ姿を見送った。小さなパンティの陰から、尻のわれめが少しだけのぞいていた。一人になると、片柳は思わず腕の時計に眼をやった。午前一時を回っていた。家に帰り着く時間を考えた。とんでもない時間になるのは目に見えていた。阿佐美への言い訳は、すぐには思いつかなかった。実践というのはこういうものだ、と思うと、なぜだかおかしさがこみあげてきて、片柳は口もとをゆるめた。  柏木節子は、躯にバスタオルを巻き、髪をタオルで包んだ姿で、浴室から出てきた。そのままの恰好で彼女は片柳の使うバスタオルを出してきて渡した。  シャワーを浴びながら、片柳は国分寺に向うタクシーの中にいる自分の姿をふと思い浮かべた。タクシーの中で居眠りをしていたかもしれない自分が、いまは思いがけなく柏木節子の部屋でシャワーを浴びている。そのなりゆきに戸惑いを残しながらも、片柳は気持をはずませていた。しかし、手放しのよろこびができないのが、自分でも歯痒《はがゆ》い。居直ったつもりでいても、どこかにまだためらいは残っていた。阿佐美の存在だけがためらいの種になっているのではなかった。自分自身の中のあの静穏の境地がかき乱されることも、ためらいの因《もと》になっていた。  柏木節子は、裾が膝のあたりまであるパジャマの上衣だけを着て、ソファに腰をおろし、ビールを飲んでいた。部屋はすっかりヒーターで温められていた。 「ビール、どう?」 「いいね……」 「お腹、全然出てないのね、片柳さん」  立ちあがりながら、柏木節子が言った。片柳はトランクス一枚の姿で、肩にバスタオルをはおるようにしてかけていた。ソファから立ちあがるとき、柏木節子のパジャマの胸もとが開き、裾が割れた。乳房が一瞬覗いた。彼女はパンティを着けていなかった。そういうところを一瞬のうちに眼に収めてしまう自分と、なおためらいを残している自分の両方を、片柳は自ら嗤《わら》うしかなかった。  柏木節子は新しいグラスとハイネケンの缶を手に持って戻ってきた。 「ほんとのこと言うわね。わたし、今夜は妙に男が欲しかったの。だから……」  柏木節子は、ビールをグラスに注ぎながら、声を落して言った。組んだ脚の上でパジャマの裾が開いていた。つややかな脚が太腿の半ばあたりまでむきだしになっていた。その奥にあるものに思いを向けながら、片柳は口を開いた。 「そこに運よくおれは現れたわけだ」 「それはちがうわ。いくらなんでも、そんな、目の前に現れた男なら誰でもいいってわけにはいかないわよ。そりゃ選ぶわよ、わたしだって。フィーリングが合わなきゃだめなのよ、女は」 「合って光栄だよ」  片柳は注がれたビールを一気に呷《あお》った。それで喉《のど》が渇いていたことを知らされた。柏木節子が片柳の裸の肩に頬を重ねてきた。片柳は彼女の肩を抱いた。唇を重ねた。舌が触れ合ったとたんに、柏木節子の躯が張りを失ったように柔らぎ、片柳の胸に倒れこんできた。  すぐに二人はベッドに移った。柏木節子は自分でパジャマを脱いだ。彼女がそれを脱ぎ終らないうちに、片柳は彼女の脇腹と乳房の片方に手を当て、もうひとつの乳房に唇を押しつけた。片柳は阿佐美の張りの弱くなっている乳房の感触を思い浮かべた。不意にそれを思い出してしまうほど、節子の乳房は若さを湛《たた》えていた。  すっかり裸になると、節子は片柳の首に腕を絡めたまま、仰向けに躯を倒し、脚を伸ばした。片柳は節子の首の下に腕をさし入れ、横から胸を重ねて、彼女の唇を唇でついばみ、その輪郭を舌の先でそっとなぞった。すぐに節子の舌が迎えに出てきて、片柳の舌を誘い入れた。  片柳は唇を重ねたまま、節子の髪を撫でた。頬を撫でた。指先でそっと頸すじから襟足をなぞった。耳の縁《へり》を指先で軽くはさんだまま、なぞるようにすべらせた。節子の小さな丸い肩がうねるように上がり、片柳の背中に回された彼女の手が、そこに押しつけられてきた。節子は片柳の舌を吸い、胸を反らして彼の胸に乳房をすりつけるような身振りを見せた。  片柳は節子の乳房に手をやった。唇で彼女の顎の下や喉や首すじを、甘くついばむようにした。耳たぶを唇で捉えた。そこに舌の先をまとわりつかせた。  指先で軽くひと触れするたびに、乳首は固さを増して張りつめ、とがったような形に変ってきた。片柳は手で乳房を下から押し上げるようにして、静かに揉んだ。掌を満たしてくる豊かなはずみと張りと重みの感触が、片柳を酔わせた。  淡紅色の乳首と乳輪が、しっとりとした光沢を見せていた。乳輪は大きくて、乳房との境い目に小さな段差をつけ、わずかに盛りあがっていた。胸の谷間から甘やかな肌の香りがほのかに立ちのぼってくる気がした。  片柳は乳房の麓から頂《いただき》をめざして、ついばむようにしながら、ゆっくりと螺旋《らせん》状に唇を移していった。唇がつけられるたびに、乳房はかすかに揺れ動き、それにつられて小さな乳首が躍るように跳ねた。片柳は、久しい間忘れていた貴重なものに巡り合った思いで、その愛撫に熱中した。  唇はやがて、ようやく乳首に辿りつき、それを含んだ。乳首を吸われると、節子は顎を押し上げるようにして首を反らし、小さな声を洩らした。片柳は二つの乳首を交互に吸い、それを舌で薙《な》ぎ払うようにした。節子は細い声を洩らしながら、片柳のトランクスの下に手をさし入れてきた。片柳のペニスは、彼自身がそこに熱っぽさを覚えるほど、強く勃起していた。  節子の片手が、胸の上にある片柳の頬を撫で、髪をまさぐっていた。彼女の腋窩《えきか》に近いあたりの繊細な肌の色と光沢が、片柳の眼を惹いた。片柳は節子に胸を重ね、彼女の乳房の横から腋にかけて、そっと舌をすべらせていった。節子の躯に小さなわななきが走り、口からふるえるように尾を曳く細い声が洩れた。  片柳は、埋もれていた泉脈を探し当てたような思いに駈られた。彼は節子の腕を手で押し上げて、白い腋窩をさらけ出させた。そこに舌の先を静かにすべらせた。節子のわななきが強まり、声が細いままに高くなった。声が高くなるたびに、節子はトランクスの中でペニスを強くにぎりしめてきた。片柳は腋の下のくぼみだけでなく、二の腕の内側や、胸の側線にもなぞるようにして舌をすべらせた。節子は大きくのけぞるようにして躯を反らし、腰をひねって片柳に押しつけてきた。  節子のしげみが片柳の腿のあたりをくすぐった。片柳は膝で節子の膝を押し割り、そのまま太腿を彼女の女陰に押し当てた。節子は小さな呻き声を洩らして、片柳の腿を柔らかい内股で締めつけてきた。陰毛に覆われた性器のふくらみが押しひしがれ、濡れた襞の感触が片柳の腿に伝わってきた。  片柳はそこに手をすべらせていった。ふくよかな節子の腹が、片柳の手の下で小刻みにふるえていた。いくらか手ざわりの固い陰毛が、片柳の手をくすぐり、指の間にまとわりつくようにして挟まれていた。片柳は恥丘のなだらかな隆起の具合や、女陰のふくらみのようすを、掌で測る思いでそこをすっぽりと手で押し包み、その手をやんわりと押しつけた。中指の先が、柔らかくて温い濡れているくぼみに浅く沈んだ。中指の付根のあたりには、コロコロとしたクリトリスと、柔らかくまとわりついてくる小陰唇の感触があった。 「すてきなの、とっても。頭も躯も芯のところからトロトロに溶けてくるみたいで……」  いくらかかすれをおびた声で節子は言って、ゆっくりとせり上げてくるようにして腰を浮かせた。節子の口からまた喘ぎ声がこぼれた。  片柳は、前よりもこまめに夢の木に顔を出すようになった。  店に足を運ぶだけではなかった。片柳は二度ばかり、中野坂上の柏木節子のマンションの前まで行ったこともあった。  一度は午前一時ごろだった。節子の部屋の窓には明りが見えた。片柳はしかし、マンションには入らずに、そのまま引き返してきた。二度目は夕方の四時ごろだった。会社の用で外出して、用をすませてから中野坂上に回ったのだ。会社には出先からそのまま帰宅するという連絡を入れてあった。  柏木節子が店に出る時間は、いつも八時か九時だった。夕方の四時なら、まず彼女が自分の部屋にいることはまちがいないと思われた。事実、節子の部屋の窓のカーテンは開いていた。だが、そのときも片柳は、マンションの前から坂道を歩いて引き返した。  はじめから、柏木節子の部屋の窓を見上げるのが目的で、そこまで足を運んだわけではもちろんなかった。初めて節子とベッドを共にしてから、彼女に対する執着は、片柳の中につのっていた。二度とも片柳は、節子との情事の誘惑にかられて、彼女のマンションに向ったのだ。  それなのに、彼の足はマンションの玄関のほうには向かずに、やって来た道を引返した。そうさせた理由の中には、片柳自身がわかるものと、わからないものがあった。逡巡《しゆんじゆん》と、奇妙で滑稽な満足感のせいだということは、片柳はわかっていた。  逡巡はいくつもの思いから生れていた。節子に深入りするのは避けたほうが賢明だという分別もあったし、出合頭のようななりゆきで一度寝ただけの相手に執着を見せては、節子に嗤われるのではないか、といった気おくれもあった。  いざマンションの玄関に入ろうとすると、そうした思いが攻勢を強めてきて、足が停まってしまう。すると思いがけない援軍の出現のように、その満足感が胸のどこからともなく滲み出てくるのだ。一人の女に執着してそこまで足を運んでくる若さと情熱が、まだ自分の中には埋もれていたのだ、といった満足感だった。それは実践に結びつかない性的な妄想とよく似ていた。おれもまだ捨てたものじゃない、という思いはそれだけで片柳をいい気分にさせた。  夢の木に行っても、片柳は節子の前で物ほしげな言動は見せなかったし、二度目の情事に誘うこともしなかった。彼女のほうもそれは同じで、水を向けてきたり、片柳に対する態度が以前とは変ったということもなかった。片柳としては、節子の顔を見に夢の木に行く自分の姿に、奇妙なひとりよがりの満足を覚えていたのだ。  店で節子と、毒にも薬にもならない話を交したり、他の客の席についている彼女を眺めたりしながら、片柳は一度だけで終っている情事のあれこれを思い出す。節子の張りの強い豊かな乳房や、二枚貝の貝殻の内側のような繊細な光沢と淡い翳《かげ》りをおびた腋の下のくぼみやちぢれの強い陰毛や、ひとつに合わさっているときは、小さな暗褐色の肉瘤のようにみえる小陰唇などが、ぼんやりと瞼に浮かんでくることもある。  そういうときは、節子との情事に対する執着と誘惑が強まるが、逡巡を突き崩すまでには至らない。情事の回想は、それ自体が彼の性的妄想と同じで、足踏みをつづけるだけで足を踏み出す原動力とはならない。  しかし、片柳にまったく異変が起きなかったわけではない。彼が好もしく思っている静穏の境地は、柏木節子との間では保たれていたが、阿佐美との間には様変りが生れていた。柏木節子との情事を経験してからの片柳は、阿佐美との性生活に意欲を抱くようになっていた。  柏木節子とベッドを共にした夜、家に帰った片柳は、夜明けが近い時刻だったにもかかわらず、阿佐美のベッドに入っていった。夫の明け方近くの帰宅に、阿佐美が機嫌をわるくしていたためではなかった。また、家にちゃんと備わっているものを用いずに、外にあるものに手を出したことの疚《やま》しさからでもなかった。  柏木節子のベッドで十二分に堪能したはずなのに、家に帰って阿佐美の顔を見たとたんに、思いがけず片柳は強い欲望を覚えたのだ。はずみがついたとしか思えないなりゆきだった。  その夜だけではなかった。その後も片柳は、阿佐美にからかわれるほど、しばしば彼女を求めるようになった。自分でも、節子に対する情熱や執着を、そのまま阿佐美に振替えている、としか思えなかった。事実、片柳は、節子との一度の情事が、効力の強い媚薬《びやく》のように思えてならなかった。  阿佐美の乳房を愛撫しながら、片柳は節子の乳房を思い出す。それが妻への背信だという思いは湧いてこない。節子の乳房に最初に触れたとき、張りの衰えた阿佐美の乳房を思い出したことが、不思議な懐しさに似た気持を誘い出すだけだった。  節子という名の�媚薬�は、片柳を突然に愛妻家に変えただけでなく、性愛の果敢なチャレンジャーに仕立てていくようでもあった。彼は阿佐美を抱きながら、節子を相手にどぎつい性戯にふける妄想を思い描く。そのうちに、片柳の頭の中では、阿佐美と節子がひとつになる。そのとき片柳が抱いているのは、阿佐美でも節子でもない一人の属性を消し去った女の肉体である。阿佐美でも節子でもない一人の女を抱いているという意識が、彼の欲望を支え、淫らな行為へと駈り立てるのだった。  その夜は、阿佐美のほうがなんということもないように見える笑いを浮かべて、片柳のベッドに入ってきた。毛布をめくる阿佐美の手の、マニキュアの色がそれまでと変っていた。以前は沈んだ色合いの赤だったのが、明るいピンクがかったワインレッドになっていた。 「マニキュア、変えたんだね」 「気がついた?」 「いい色じゃないか。明るくて……」 「このごろあなたがやさしくしてくれるから、少しおしゃれしたくなったの」  言いながら阿佐美は、パジャマの上から片柳のペニスを愛撫しはじめた。片柳も阿佐美のパジャマの前を開き、乳房をさすり、乳首に指をまとわりつかせた。やさしくしてくれる、と言った阿佐美のことばは、片柳にはこそばゆく、うしろめたいばかりだった。  阿佐美の乳首に舌をまとわりつかせながら、片柳は彼女の腋の下に舌を這わせてみたくなった。阿佐美にはそうしてやったことは一度もなかった。そこに舌を当てられたときの節子の躯のふるえや、口から洩れた細い声が思い出された。  片柳は阿佐美の腋の下を押しひろげて、そこに舌を伸ばしていった。 「あ、それ、すてき……」  阿佐美が囁いた。息が乱れていた。片柳は、いくらか脂肪のついている阿佐美の脇腹や腰や太腿を手で静かに撫でながら、腋窩への愛撫をつづけた。阿佐美はかすかに身もだえながら、押し殺した喘ぎを洩らした。片柳の頭に、節子のアヌスに舌を這わせている自分の姿が浮かんできた。仰向けになった自分の顔の上に、膝を開いてしゃがみこんでいる節子の姿も浮かんできた。そうした戯れ方を節子と実際に行なったわけではなかった。阿佐美にも試みたことはなかった。頭の中のどこともつかない暗がりの底から、不意に浮かんできたことだった。  阿佐美は求められるままに、ベッドにうつ伏せになり、腰を高く上げ、大きく両膝を開いた。片柳は阿佐美の尻のうしろにあぐらをかいた。ココア色をしたアヌスと、陰毛をまとわりつかせた女陰が、ゆるくクレバスを開いた姿で、片柳の前にさらけ出されていた。片柳にとっては、それらは阿佐美のものであり、同時に節子のものだった。  片柳は、片手を白い豊満な臀部に当て、ためらいもなく舌を伸ばした。尻の谷間が一瞬強くすぼめられたが、すぐにゆるんだ。片柳は細くとがらした舌の先で、赤いはざまに満ちているうるみをすくい、それをアヌスに移した。舌の先でそこを静かにまさぐった。もうひとつの手の指でクリトリスを探り、別の指は襞に囲まれたくぼみの中心に浅く埋めた。白い背中が波を打つように揺れ、腰が反ったり、丸められたりした。阿佐美は枕に口を押し当てて、洩れ出てくる声を塞いでいた。  片柳は収まりがつかなくなっていた。阿佐美もすっかり煽《あお》り立てられていた。彼女は焦点の定まらなくなったような眼で、言われるままに、無言で片柳の顔の上にしゃがみこんできた。笑うこともしなかった。  濡れた陰毛が、片柳の口もとにまとわりついてきた。片柳は女陰に唇を押しつけた。そこに指を使いながら、クンニリングスを行なった。愛撫は短い間に終った。阿佐美が低く呻くような声を放って果てたのだ。阿佐美は声と同時にうしろに躯を倒し、片柳の両手をつかんで自分の乳房に押し当てた。それから彼女は、片柳の躯の上からころげ落ちるようにして、ベッドにうつ伏せになった。  片柳は起き上がって、うしろから阿佐美に躯をつないだ。  事が終ってから、片柳はトイレに立った。彼が寝室から出たとき、廊下の先のトイレのドアが開いて、長女のみちるが中から出てきた。一瞬、片柳はあとじさって寝室の中に身を隠そうとした。反射的に躯がそのように動きかけたのだ。  みちるは髪が乱れていて、半ば眠ったままのような顔をしていた。頬がうっすらと上気していて、つややかに光っていた。父親と娘は無言のまま廊下ですれちがった。  トイレに入ってドアを締めたとき、片柳は咄嗟《とつさ》にみちるの眼から逃れようとしたわけを納得した。彼は、終ったばかりの阿佐美との狂ったような一連の淫らな行為を、みちるに見られていたような思いに襲われたのだ。  しかし、そうした行為を娘に愧《は》じる気持は、湧いてこなかった。自分の心が何かひどく遠いところにさ迷い出てしまっているような思いが、ぼんやりと湧いてきただけだった。 「中野坂上にちょっと寄っていきたいんだ」  ハイヤーが走り出すとすぐに、片柳は運転手に言った。彼は酔っていた。その夜は彼は社用で客を接待する立場とは逆に、接待される側にいた。帰りのハイヤーも、接待してくれた取引会社が呼んでくれたものだった。  時刻は午前一時をまわっていた。柏木節子が店の仕事を終えて部屋に帰っているかどうかはわからなかった。その夜も片柳は、自分が節子の住んでいるマンションの前で引返すことになるのだろう、とどこか他人事のように考えて、そういう自分を嗤っていた。  車のフロントガラスの先に、マンションの建物と、暗い坂道が見えてきたとき、片柳は車を停めさせた。坂道を歩いて登ってみたい気持に駈られたのだ。  片柳はハイヤーをそこに待たせておいて、だらだらと登っている坂道をゆっくりとあがりはじめた。なぜそういうことをしたくなったのか、片柳にもわからなかった。夜ふけに惚れた女の部屋を訪ねようとしている不良中年といったイメージも気分も湧いてはこなかった。だが、酔ったままフラフラと歩くのは、気分が解き放たれる気がした。  まもなく坂を登りつめるというあたりで、一台のタクシーが片柳を追い越していった。タクシーはマンションの前で停まった。片柳は少し胸をはずませた。そのタクシーの客は節子ではないか、と思ったのだ。もしそうなら、今夜はそこから引き返すことはせずに、節子の部屋まで行ってもいい、と彼は思った。  タクシーから降りたのは女だった。顔は見えなかった。女はマンションには入らずに、片柳のほうに向って坂を下りてきた。 「やっぱり片柳さんだったのね。車の中から見たとき、そうじゃないかと思ったの」  坂の上から節子の声が投げられてきた。片柳は返事はせずに、節子が立ちどまっているところまで歩いていった。 「とうとう来ちまった。いま帰り?」 「そうなの。わたしに逢いにきてくれたの?」 「お茶をご馳走になりたいと思ってね」 「行こう……」  節子は片柳の腕に腕をからませて言った。ハイヤーを待たせる時間がどれくらいになるのかな、と片柳は考えながら、マンションの玄関を入った。 「とうとう来ちゃったって、片柳さん言ったわね」  エレベーターの中で、節子はそう言って、片柳の顔を横から見あげてきた。いたずらっぽい笑いをにじませた視線だった。 「ああ、言った。ほんとにとうとうなんだ」 「わたしは、やっぱり来てくれたって思ったわ」 「待っててくれたのかい?」 「待ってるというのとはちょっとちがうんだけど、やっぱり待ってたわ。また片柳さんとああいう夜を送りたいなって思ってたから」 「おれはずっと我慢してた。そして今夜、誘惑に負けた」 「わたしがまだ帰ってなかったら、どうしてた?」 「しばらく待ってただろうな?」 「しばらくだけ?」 「朝まで……」 「嘘ばっかり」  節子は笑った。片柳も笑った。片柳の脳裡には、節子の腋窩の眺めや、彼自身の顔の上にしゃがみこんでいる節子の姿が浮かんでいた。  部屋に入ると、節子は片柳のコートを脱がせてベッドの上に起き、その上に自分の脱いだコートを重ねておいた。片柳はふざけて、二人のコートをわざわざ向い合って抱き合った形に作りなおした。節子はそれを見て笑い、コンロに薬缶をかけた。彼女はその夜は、青味がかったグリーンの、躯の線が浮き出る細身のワンピースを着ていた。片柳はソファに腰をおろして、たばこに火をつけた。 「来週の週明けに、片柳さん、時間作れる? わたしと逢う時間」  ソファに並んで腰をおろした節子が言った。片柳は節子の髪に鼻をすり寄せてから、口を開いた。髪と肌の匂いが漂った。 「夜ならあいてるよ」 「お店が終ってから? それとも前? どっちがいいかしら?」 「どっちでもかまわない。ママと逢うためなら」 「前のほうがいいわね。後だとまたこの前みたいに明け方になっちゃうわよ」 「じゃあそうしよう。どこかで食事でもするか。そのあとでお店に行こう」 「まず、ここに来て。それから出かけたいの。いつにする?」 「月曜日の六時ならだいじょうぶだ」 「決まりね」  節子は言って、指切りげんまんの形にした小指を片柳のほうにさし出した。こそばゆい思いを味わいながら、片柳は小指を絡めた。片柳のその手を節子がもうひとつの手で包みこむようにしてから言った。 「今夜はお茶だけにして、週明けまでお預けということにしてほしいの」  声が少し細くなって、節子の眼の奥に困惑とも照れくささとも受けとれる表情が揺れて見えた。 「べつにかまわないよ。ちょっと残念だけどね」  お茶だけにしたいという理由を訊ねるかわりに、片柳はそれを頭の中であれこれ穿鑿《せんさく》しようとした。 「トマトちゃんなの、いま……」 「トマト?」 「そう言うのよ。若い女の子たち、生理のことを……」  笑って言うと、節子は立ちあがってコンロの前に行った。赤い琺瑯《ほうろう》の薬缶が湯気を吹き出していた。 「日本茶、コーヒー、ウーロン茶、柿の葉のお茶もあるわよ。何がいい?」  薬缶をおろしながら、節子が言った。コーヒー、と片柳は答えた。片柳は、ベッドの上の抱擁の形で重なっているコートに、なんとなく眼をやった。生理のことをトマトと呼ぶのは、色からの連想なのだろう、などといったことがふと頭に浮かんできた。トマトと聞いてから、片柳には節子との間柄が、それまでとちがってにわかになまなましい現実味を備えたものに思えてきた。  コーヒーの香りが漂ってきた。節子がトレイにポットやマグカップやシュガーポットをのせて、運んできた。彼女の手は指が長く、ほっそりとして美しかった。その手がポットを傾けてコーヒーを注ぐのを、片柳は見惚れる思いで眺めた。彼の膝のすぐ横には、ワンピースの布地にぴったりと包まれて輪廓を浮き出している節子の腿や臀部があった。それらが、目に見えない強力な磁気を放っているかのように、片柳の心を捉えていた。折角そうやって二人きりで躯を寄せ合って並んでいるのに、週明けまで節子に触れることができないと思うと、彼はいっそう彼女の魅力に惹きつけられた。マンションの前まで来て、そのまま引返したことがあるのが、自分でも信じられないほどだった。 「お砂糖は?」 「一杯だけ入れてもらおうか」  片柳は、節子の背中に手を当てて答えた。服の布地を通して、節子の肌の温もりだけでなく、しっとりとした滑らかさや張りの感じまでが伝わってくるようだった。 「一応、ブルーマウンテンなのよ、豆は。おいしくいれられたかどうかわからないけど」  大ぶりのコーヒーマグが、片柳の前に置かれた。片柳は節子の背中に手を当てたまま、コーヒーをすすった。 「うまいね」 「そう。よかった」 「待ちどおしいな、月曜日が……」 「ごめんなさいね」 「あやまることはない」 「トマトっていうのは嘘なの。ほんとうは今夜でもいいんだけど、週末はわたし、なんだかだめなの。練馬に帰るのが近い日は……」  コーヒーマグを手に持って小さく回すようにしながら、節子は眼を伏せて言った。 「なるほどね。それはわかる気がするよ」  片柳は言った。週の終りには、節子は夫の待つ練馬の家に帰るのだ。そのために夫のことが心を占めてくる。そういうときに他の男と情事を持つ気にはならない——節子はそう言いたいのだろうと片柳は考えた。 「わたし、片柳さんとのことでもう、彼を一度裏切ってるわけよね。だから、週末だからって操《みさお》を立てるのはナンセンスなんだけど、どうもね。浮気はわたしそんなに気にならないの。ほんとの浮気ならね。でも、週末にそういうことをして、一週間ぶりに彼に抱かれると、やっぱり浮気のことが思い出されて、彼との間で気分が乗らないの。そういうのって、相手にわるいなって思っちゃうのね」  節子はそう言った。節子との最初の情事がたしかに週の初めだったことを、片柳は思い出した。それから彼は、節子との一回だけの情事を媚薬のようにして、阿佐美を相手に事に精出している自分と、浮気が夫とのセックスの妨げになるという節子とのちがいに感じ入った。 「ご主人を愛してるんだな、ママは……」 「愛してるかどうかわからないけど、仲はいいほうみたいね。上手にやってるから。わたしも彼も」 「夫婦はたがいに上手にやれれば上等だな。それができるというのは愛情があるからだろうからね」 「まあね。片柳さんは上手にやってる?」 「いまのところはね」 「奥さんと仲がよくなったんじゃない? このごろ特に……」  笑った顔で節子は片柳の眼を覗きこんできた。 「また夜遊びに連れてってくれってせがまれてるよ」 「男と女ではやっぱりちがうらしいわね。わたし、お店のお客さんたちによくたずねるんだけど、たいていの人が浮気をすると、なんとなく奥さんと仲よくする回数が増えるって答えるのよね。ところが浮気してるわたしの友だちの女性たちはその逆が多いわね。外で他の男の人と寝て帰ってから、ご主人とか恋人とかに求められると、なんとなく腰が引けちゃうって言うの」 「なんだろうね? そのちがいは」 「女の躯って、そういうふうにもともとできてるのかもしれないわね。女性のほうが正直だからそうなるということじゃないと思うな」 「だとすると、男のほうも浮気するとはずみがついて、女房に対してもハッスルするように、もともと躯がなってるわけか」 「ハッスルしてる? 奥さんに……」 「なんとか尻を叩かれてね」 「いいことよ、それは……」  二十数年一緒に暮している女のアヌスを舐めたくなったり、その女を顔の上にまたがらせてクンニリングスをしたくなるのが、果していいことなのかどうか、片柳には答を探すのがとても難しいことに思えた。  つぎの週末に、せがまれるままに片柳は、阿佐美とデイトをした。  西麻布のイタリア料理の店で食事をして、六本木のジャズのライブハウスで二時間ばかり過す、という予定だった。  ライブハウスを出たのは十時過ぎだった。そこで予定が変った。阿佐美が夢の木に行きたい、と言い出したのだ。  夢の木は込んでいた。カウンターの席があいていたので、片柳はそこに坐ろうとした。するとバーテンがママを呼び、ママが奥まった場所に席を融通してくれた。万里子という名前の、女子大生だというアルバイトのホステスが、片柳の席についた。  万里子が大学生だとわかると、阿佐美はやはり大学二年の娘のみちるのことを思い出したようすで、万里子と話をはじめた。  片柳は、万里子と阿佐美のつぎつぎに話題の飛び移るやりとりをなんとなく耳に入れながら、眼の隅でママの節子の姿を追っていた。節子はその夜は、胸の大きく開いた、紫とグレイのいりまじったような色合いの服を着ていた。小さなダイヤが入っているらしいイヤリングが、髪の下で見え隠れしていた。  片柳と節子との二度目の情事が持たれたのは、その週の初めだった。片柳は、節子の右の脇腹の腰とヒップに近いところにある、小さくて色の濃いつややかなほくろのことを思い出した。裸でうつ伏せになると、そのほくろはとてもセクシーな印象を放っていた。片柳は四日前の宵の時間に、うつ伏せになった節子の背中に覆いかぶさるようにして、彼女の背中からヒップに舌を這わせ、最後にはアヌスにもキスをした。  客が一組帰っていって、ママとみどりという名前のホステスが、片柳の席に移ってきた。阿佐美がママやホステスたちに飲み物をすすめた。彼女たちは口々に飲み物の名前をバーテンに告げた。  阿佐美は前回のときとちがって、そういう場所にはすっかり馴れているといったようすで、のびやかに振舞っていた。  阿佐美がトイレに行くといって立ちあがった。ちょうど、また一組の客が腰を上げたときだった。その席についていたホステスの裕子が、客が帰ることをママに知らせる声を投げてきた。節子は頷《うなず》き、トイレに向う阿佐美に眼を向けて立ちあがった。節子はしかし、そのまま客を送りに行くことはせず、片柳が坐っている椅子のうしろに立って、彼の耳もとに口を寄せてきた。 「どう? ちょっとしたハーレムの王さまみたいな気分じゃない? 奥さまとわたしを並べてると……」  節子はそう囁いた。節子の唇が片柳の耳にわずかに触れ、温い息がかかった。片柳がことばを返す間はなかった。寄せていた顔を離すと、節子は帰っていく客を送り出すために、ドアに向って歩いていった。返事をする間があったとしても、片柳は咄嗟にことばを思いつかなかった。  節子の表情を見ることはできなかったが、囁いた口調で、彼女が軽いからかいをこめてそれを言ったのだろうということは察しがついた。あまり趣味のよいからかい方だとは言えなかった。  たしかに片柳はその場で、躯を重ね合った二人の女と同席していた。だが、そのことを彼がはっきりと意識していたのは節子のほうだけで、阿佐美についてはその思いはまったくなかったのだ。そのために、ハーレムの王さまといった節子のことばは、むしろ片柳には意外に思えてしまった。戸惑いはそこから生れていた。  片柳の瞼に、真下から見たときの阿佐美と節子のそれぞれの女陰の眺めが、ぼんやりと浮かびかけていた。だが、それは二つともほとんど同じ姿にしか思えず、すぐに白っぽくぼやけて消え去った。  ハーレムの王さまにはほど遠い心境だな。結局おれは、どうやらやっぱり、阿佐美でも節子でもない一人の�女�を相手にしているようだからな——ようやく片柳の胸に、節子の突然の囁きに対する答が生れてきた。もちろんそれは、そのまま節子に返せる答ではなかった。  阿佐美がトイレから戻ってきた。一足おくれて、節子も戻ってきた。みどりが、片柳と阿佐美が夫婦だと知って、しきりに羨ましがることばを口にした。 「わたしの両親はもう十年ぐらい前に離婚したんだけど、両親のことでわたしが憶えてるのは、二人が喧嘩してる姿だけなの」  みどりはそんなことを言った。 「いつも仲がいいわけじゃないのよ、うちだって。よくなったりわるくなったりよ。ねえ、お父さん」  阿佐美が言った。阿佐美の眼にはほのかな酒の酔いがにじみ出ていた。 「お父さんて呼び方、いいわね」  万里子が言って、みんなが笑った。たしかにそれは酒場で耳にするとおかしさが感じられた。 「お母さんって、奥さんを呼んでみて」  みどりは笑いながら言った。片柳は阿佐美に顔を向けてそう呼んだ。また笑いが湧いて拍手が加わった。阿佐美までが手を叩いていた。夢の木の雰囲気が、阿佐美はすっかり気に入って、そこに溶けこんでいるように思えた。 「あんまり仲のいいカップルを見ると、わたしはなんだか旦那さまにちょっかい出したくなる癖《へき》があるの」  節子が言った。 「ちょっとなら出してもいいわよ。お父さんもリフレッシュするかもしれないから」 「余裕ですね」  万里子が言って笑った。片柳はそうしたやりとりを、その場かぎりの軽口として聴きながら、ふと、阿佐美と節子がひそかに示し合わせて、二人がかりで自分をハッスルさせようとした結果が、あの突発的な節子との情事だったのではないか、といった気持になった。  ハーレムの王さまということばは、まだ片柳の中に戸惑いを残していた。王さまの気分どころか、ハーレムで逞《たく》ましく健やかに欲情しているのは、女たちのほうではないか、と片柳は胸に呟いていた。 初出一覧  燭 台     「別冊小説現代」85年春号  義 歯     「別冊小説現代」86年春号  切 株     「小説現代」87年8月号  負い目     「小説現代」87年10月号  白い壁の部屋  「小説現代」88年2月号  髪       「小説現代」88年6月号  香 水     「小説現代」89年2月号  媚 薬     「小説現代」90年12月号     * 本書は一九九一年八月に小社より刊行された作品です。 本電子文庫版は本書講談社文庫版(一九九四年八月刊)によりました。