勝目 梓 女王蜂の身代金 目 次  一章 共犯者  二章 私立探偵  三章 身代金  四章 バージニアスリム  一章 共犯者     1  車は新宿をめざしていた。  白いソアラだった。ソアラを運転するのは、犬塚昇《いぬづかのぼる》はそれが初めてだった。よく走る車だ、と思った。自分もこういう車がほしい、と彼は考えた。  ソアラは鳥飼圭子《とりかいけいこ》の持ち物だった。鳥飼圭子は助手席で黙りこくって、バージニアスリムを吸っていた。  メンソールのたばこを吸うと、頭がスッキリと軽くなる、と鳥飼圭子は言う。犬塚昇も一、二度バージニアスリムを試してみたことはある。彼はそれで頭がスッキリと軽くなった、という気はしなかった。  犬塚昇が知る限り、鳥飼圭子はメンソールのバージニアスリムしか吸わない。だから彼女の頭はいつだって軽くスッキリとしているはずだ、と犬塚昇は思っている。そういう頭で鳥飼圭子がいつも何を考えているのか、ということが犬塚昇にはいつだってわからない。  それがわからないので、ソアラがいい車であることが自信をもってわかったようには、鳥飼圭子という女がいい女かどうかということが、犬塚昇にはわからない。それがわからないから、自分が鳥飼圭子を自分の女にしたいと思っているのかどうか、といったことがわからないのだ、というところだけはしかし、犬塚昇にもわかっていた。  首都高速四号線の下りは、車の数は多かったが、流れはスムーズだった。  日が沈んだところだった。新宿の高層ビルの並び立った向うに、初冬の夕空のひろがりがあった。残照《ざんしよう》の空は眩《まぶ》しいほど明るく、近くの神宮の森は、早くも宵闇《よいやみ》の気配を濃くして黒々と見えた。 「日和《ひより》って言うだろう、よく」  犬塚昇が口を開いた。鳥飼圭子が運転席に視線を向けた。犬塚昇も短く眼を合わせた。 「ヒヨリ?」  鳥飼圭子はフロントガラスに眼を戻し、バージニアスリムを吸い、煙を吐いて言った。 「言うじゃないか。行楽《こうらく》日和《びより》とかさあ」 「それがどうしたの? いきなり」 「あれは昼間だけのことなのかな。夕方とか夜にはナントカ日和とは言わない?」 「知らない。なんで?」 「昼間じゃなくてもそう言うんだったら、きょうみたいな夕方は誘拐日和だなって、そんな気がしただけだよ」 「どうして誘拐日和なのよ?」 「何事もなく穏やかに終りそうな一日って感じがするじゃないか。いい天気だったし、夕焼けはきれいだしさあ」 「わからないわ、あんたの言うこと……」 「何事もなく一日が終りそうなときに事件を起こすのって、なんかこうゾクッてするじゃないか。そう思わないか?」 「ゾクッてするの? してるの? あんた」 「だってそうじゃないか。おれたちのまわりにはいっぱい車が走ってるのに、これから誘拐事件を起そうとしてる犯人たちが、こうやって同じ道を車で走ってるなんて考えてる奴も知ってる奴も、一人もいないんだぜ」 「あたりまえじゃないの、そんなこと」 「あたりまえだけど、ゾクゾクしてくるよ。あんたゾクゾクしないのか?」 「しない」 「どんな気分なんだ? いま……」 「別に。だって事件と思ってないもの」 「でも誘拐だぜ」 「そりゃそうだけど、警察沙汰になって、マスコミが騒がなきゃ、そんなの事件じゃないじゃない」 「確実なんだろうな。向こうが警察には知らせないってのは」 「完全犯罪だって言ってるじゃないの、何回も。警察に届けそうになったら、秋子が知らせてくるんだから」 「なんかつまんねえな」 「何が?」 「ほんものの誘拐じゃないみたいな気がするからだよ」 「あんた、何考えてるの。そりゃ秋子はグルだけど、誘拐はほんとうじゃないの。あんたは警察に追われたいわけ?」 「そうじゃないけどさあ……」  犬塚昇は曖昧《あいまい》に笑って口を閉じた。言うことがなくなっていた。  彼がゾクゾクしているのは事実だった。これからやろうとしているのが、一種の狂言《きようげん》誘拐であり、だからゾクゾクの感じにいまひとつ緊張感が足りなくて、なんかつまんねえのもそのとおりだった。  だが、そういうことを鳥飼圭子に話したくて、犬塚昇は口を開いたわけではなかった。そういう話をすれば、鳥飼圭子が計画実行を目の前にしている今、何を考え、どういう気分でいるのかといったことの見当《けんとう》がつくような科白《せりふ》が返ってくるかもしれない、と犬塚昇は考えていただけだった。  期待ははずれた。首都高速の新宿ランプが見えてきた。鳥飼圭子が何を考えているのかということを考えるのはやめよう、と犬塚昇は考えた。この女はおれが考えるようなことを考えたり、そういうことが頭に浮かんでくる女じゃないのかもしれない。こいつは何か考えているように見えるだけで、考えるというほどのことは何も考えないでいる女なのだ——犬塚昇はそう思うことにした。  そう思ってしまうと、犬塚昇の頭と気持ちは、これからやろうとしていることのほうに、まっすぐに向っていった。高速道路の出口の傾斜路を下りるときは、彼はその誘拐計画を考え出したのが自分であるような気分になっていた。  下の道路に下りると、まわりの宵闇がいくらか濃くなっていた。めざすマンションは、新宿中央公園の裏手にあった。建物が邪魔をしていなければ、すぐそこに見える距離だった。 「新しい都庁の建物って、なんかパリのノートルダム寺院みたい……」  鳥飼圭子が言った。都庁は車の右手にそびえ立って見えた。 「パリに行ったことがあるのか?」 「ヨーロッパのツアーに行ったから」 「ローンで行ったのか?」 「クレジットカード。でなきゃ行かないわよ。お金ないんだもん。パリはよかったなあ。行ったことある?」 「北海道も行ったことがない」  犬塚昇は言った。信号は青だった。左折した。二つ目の角を右折した。 「着いたわね」  鳥飼圭子が言った。車のスピードを落して、犬塚昇はダッシュボードの時計を見た。デジタル時計は五時七分を示していた。待っても十分か十五分だろう、と犬塚昇は思った。白いソアラはめざすマンションの地下の駐車場の傾斜路にすべりこんだ。  車の向きを出口に向けて、通路に止め、スモールランプを消し、エンジンを切った。すぐ横に、馬場秋子《ばばあきこ》のインテグラが駐車してあった。  バックミラーに、エレベーターのドアが映っていた。そのドアが開いて、セーター姿の中年男が中から降りてきた。茶色と白の毛のまじったシーズーを胸に抱いていた。男はソアラの横を通って、先のほうに駐車してあったミニクーパーに、犬と一緒に乗った。ミニクーパーはすぐに傾斜路を登って駐車場を出て行った。  誘拐が警察に知らされれば、シーズーを抱いていた男は、駐車場で見なれない白のソアラが通路に停まっていたことを、聞込みの刑事に話すかもしれないな——犬塚昇は考えた。彼は助手席に眼をやった。鳥飼圭子はシートに背中をつけて、バックミラーに視線を向けていた。きれいな横顔だった。  鳥飼圭子は、アーモンド形のはっきりした眼と、姿のいい鼻と、ふっくらとした唇を持っていた。愛嬌《あいきよう》のあるほうではないが、美人と言える顔立ちである。犬塚昇はとくに、彼女の横顔の感じがきれいだと思っている。  初めて鳥飼圭子の全裸になった姿を眼にしたときは、きれいだと思っていた彼女のその顔が、犬塚昇には一瞬、白い輝きを放っているように見えた。 「ちょっと手を貸して……」  ひそめた声で、突然に鳥飼圭子が言った。彼女は口もとに笑いを浮かべていた。妙に粘《ねば》っこい笑いだった。犬塚昇は曖昧《あいまい》な動作で左手をさし出した。 「さわってみて」  鳥飼圭子はパンツのファスナーを下げた。犬塚は面くらった。鳥飼圭子はパンツの中に自分の手と左手を深くさし入れた。その手でパンティストッキングが内股のあたりまでおろされた。そこにパンティが小さくのぞいて見えた。犬塚昇の左手は、鳥飼圭子の右手でパンティの上に導かれた。犬塚の左手の指先は、磁石に吸い寄せられるように、パンティの股のところから中にくぐり入った。否も応もなかった。 「濡れてない? 濡れてるでしょう」  鳥飼圭子が言った。あっけらかんとした口調だった。顔も笑ったままだった。陰毛に囲まれたやわらかい肉のはざまは、火照《ほて》ったような温《ぬく》もりとともに、たしかにうるみのひろがっていることを、犬塚昇の指に伝えてきた。 「なんなんだよ、こんなときに」 「わかんない」 「おかしいんじゃないか? あんたの頭か、ここんところが……」  犬塚昇は『ここんところ』を指先で乱暴にかき回すようにして言ってから、そこから手を引き戻した。 「気がついたらこうなってたのよ。へんなこと考えてたわけじゃないのに。ジュワーッと熱くなってきたから、生理にしちゃおかしいなって思ったの」  鳥飼圭子はパンティストッキングを元に戻しながら言った。ファスナーが閉められた。犬塚昇は不意討ちをくらった気分で、バックミラーに眼を戻した。そのときは、バックミラーに映っているエレベーターのドアが開きはじめていた。開いていくドアの奥に、馬場秋子と、小さな女の子の姿が見えた。母親と子供は手をつなぎ合っていた。女の子は母親のスカートの腰のあたりを片手でつかんで、顔を見上げて何か言っていた。 「来た」  犬塚は小声で言った。馬場秋子が子供の手を引いて、エレベーターから降りてきた。その後ろでエレベーターのドアが閉まった。降りてきたのは、馬場秋子と彼女の娘だけだった。 「チャンスだ。親子しかいない」  犬塚昇はバックミラーから眼を放して、鳥飼圭子に言った。鳥飼圭子は、まだどこかに笑いを残したように見える顔でうなずいた。鳥飼圭子の片腕がリヤシートに伸びて、そこに置いてあった彼女のウールのコートを引き寄せた。犬塚昇は革ジャンパーのポケットから、革の手袋を出してはめた。  馬場秋子は、ソアラの横を通り過ぎて通路をそれ、インテグラの横に入っていった。小さな娘のほうは、助手席のドアのほうにまわった。  それを待って犬塚昇はソアラを降りた。ドアは閉めなかった。同時に鳥飼圭子も車の外に出た。彼女も開けた車のドアをそのままにしていた。  犬塚昇はもう何も考えなかった。指先にはまだ、鳥飼圭子の陰毛や濡れたやわらかい肉の感触が消え残っている気がどこかでしたが、すぐにそれも意識から消えた。  インテグラの車体の向うで、馬場秋子の娘が、甘えた口調で母親に何か言った。犬塚昇はその声は耳に入ったが、ことばは聴いていなかった。馬場秋子はハンドバッグから車のキーを取り出したところだった。犬塚昇は寄っていった。馬場秋子は犬塚昇の足音が耳に入らないかのように、顔を向けてはこなかった。  足を停めると同時に、犬塚昇は右の拳《こぶし》で馬場秋子の細い顎《あご》を突き上げた。遠慮はしない、という約束になっていた。馬場秋子は小さな悲鳴をあげてのけぞった。犬塚昇はさらに馬場秋子の腹を左の拳で突き上げた。馬場秋子は腰を折ってくずれ落ちかけた。折れた腰がインテグラのドアに当り、はねとばされ、隣に止めてあった車に頭を打ち当てた。そこを犬塚昇はさらに蹴り上げた。腰から落ちた馬場秋子の髪をつかみ、頬とこめかみに右のパンチを入れた。あくまでも手加減はしなかった。馬場秋子の顔にはパンチの跡を残しておかなければならなかった。馬場秋子は、こめかみに入ったパンチで眠っていた。  車のキーは、インテグラのドアのキーホールに、さし込まれたままになっていた。ハンドバッグとコートが、コンクリートの床に落ちていた。  犬塚昇はキーホールのキーを抜いた。馬場秋子は、眠っているのか、眠ったふりをしているのか、見た眼にはわからなかった。唇が切れて血を流していた。セットした髪が寝起きのときのようなようすになっていた。犬塚昇は、馬場秋子の両の手首をつかんで、インテグラの後ろのほうに引きずっていった。トランクルームの鍵を開け、フードをはね上げた。馬場秋子の体を抱え上げ、トランクルームの中に押し込んだ。スカートが大きくめくれていた。コートとハンドバッグと車のキーも、トランクルームに放り込んだ。インテグラのドアのロックがはずれているのを確かめることも、犬塚昇は忘れていなかった。それを確認してから、トランクルームのフードを閉めた。  鳥飼圭子はすでに、ソアラの助手席に乗っていた。彼女は丸くふくらんだコートを、胸に抱えこんでいた。コートの下から、馬場みちるのくぐもった叫び声が洩れていた。幼ない人質《ひとじち》は頭からかぶせられたコートで、すっぽりと全身を覆われていた。  犬塚昇はソアラを出した。思わずアクセルを踏み込んで、急発進しそうになるのを、彼は自分をなだめて、ゆっくりと駐車場を出た。 「問題はないな?」 「予定どおりよ」 「うまくいったわけだな」 「きまってるじゃないの。うまくいかないわけないわよ。あんたのほうは?」 「やりすぎたかもしれない。女を殴るってのは、気色《きしよく》のいいもんじゃねえな」 「カムバックしようというプロボクサーが、何を言ってんの。殴るの商売じゃないの。男も女もないんじゃないの」  鳥飼圭子が言った。コートの中の人質は、叫ぶのをやめて泣きはじめていた。鳥飼圭子が、声に出さずにコートの上から、人質の背中を撫でたり頭のあたりを撫でたりしはじめた。  犬塚昇は、たばこをくわえた。車のライターを押し込んだ。ゾクゾクするような気分が戻ってくるのを彼は感じた。そのゾクゾクの感じは、計画を実行する前よりもはっきりと強いものに変っていた。  車のライターがとび出す小さな音がした。手を伸ばしたのは鳥飼圭子のほうが早かった。彼女はくわえていたバージニアスリムに火をつけてから、ライターを犬塚昇に渡した。鳥飼圭子がいつたばこを出してくわえたのか、犬塚昇はまったく気がつかなかった。 「やだ、この子。おもらししてる」  鳥飼圭子が、たばこをくわえたままの口で言った。     2 〈猪《いの》河原《かわら》公一郎《こういちろう》東京連絡事務所〉  長たらしい名称の看板が、ドアの横にかけられていた。赤坂の大きなマンションの一室である。  二LDKといったタイプの作りになっている。リビングルームは応接室として使われていた。残りの二部屋の中の一つが事務室で、和室のほうは猪河原公一郎のプライベートルームになっている。  猪河原公一郎は、東京に滞在するときは、その部屋に寝たり、ホテルに泊ったりする。  連絡事務所には、常駐のスタッフは一人しかいない。鹿沼真知子《かぬままちこ》という名前の二十六歳の女性である。猪河原公一郎が彼女をスタッフとして採用した理由は一つしかなかった。鹿沼真知子が美人でグラマラスなプロポーションの持主だからだった。鹿沼真知子のほうも、自分が採用されたほんとうの理由を承知している気配があった。ミニスカートや、体の線がくっきりと現われる服を、彼女は仕事服と心得ているように見えた。  その事務所には、電話が二本入っている。一本は応接室にあって、一本は事務室に引いてある。事務室の電話は、猪河原公一郎のプライベートルームに切換えることができるようになっていた。  その電話は事務室のほうにかかってきた。  午後六時二十分ごろだった。電話に出たのは、牛尾修二《うしおしゆうじ》だった。牛尾修二は猪河原公一郎の政治活動関係の秘書をつとめている男である。猪河原公一郎は、猪河原産業株式会社の社長であるとともに、東京の隣県の県会議員であり、次の国会議員の選挙に立候補を決めている野心家であった。彼の東京連絡事務所は、国会議員の選挙に出馬するための、東京での活動の拠点として、新しく設けられたばかりのものだった。  その電話がかかってきたのは、猪河原公一郎と牛尾修二が、外出先から帰ってきたばかりのときだった。猪河原公一郎は、迎えに出た鹿沼真知子に上衣《うわぎ》を脱ぐ手伝いをさせ、応接室のソファに陣どり、グラマーな美人スタッフに夕刊を持ってくることと、コーヒーをいれることを言いつけた。猪河原公一郎東京連絡事務所にいるときの猪河原公一郎は、いつもそうやってつぎつぎに細かい用事を言いつけて、鹿沼真知子を自分のそばにいさせたがる傾向が見られた。  それが秘書役の牛尾修二には頭痛の種になっていた。国会議員をめざそうという猪河原公一郎に、いま以上に女性関係を増やしてほしくない、というのが牛尾修二のひそかな願いだった。牛尾修二の勘と観察によれば、まだいまのところは、猪河原公一郎にとって鹿沼真知子は、観賞用の女に留まっている。関係は無関係のままだろう。だが油断はできない。多くの男女関係はたいてい、観賞からスタートする。猪河原公一郎の場合は、観賞の域に留まるケースは少ない。観賞から賞味へと突き進む場合が多いのだ。そのようにして突き進むときの猪河原公一郎のエネルギーには、すさまじいものがある。普通にしていては女が相手になりたいと思うようなタイプ、容貌ではない、ということを猪河原公一郎自身がよくわきまえている。だから始末《しまつ》がわるい。もてない分をエネルギーで補おうというのが、猪河原公一郎の女性に対する戦略であって、ゆえに恥知らずなエネルギーは、当人にとっては見事に正当化されている、と牛尾修二は分析している。  事務室の電話が鳴りはじめたときは、猪河原公一郎は、夕刊の束《たば》を持ってきた鹿沼真知子に、たばこの火をつけさせていた。火をつけてもらいながら、猪河原公一郎の視線は、鹿沼真知子の脚や、ミニスカートに包まれた腰や、薄手のニットのセーターの胸のあたりを這っていた。彼の眼はすでに観賞者であることに留まっている自分を断罪せんばかりのギラついた光をのぞかせていた。そうしたようすを眼の端に捉えたまま、牛尾修二は応接室を出て、電話の鳴っている事務室に行ったのだ。 「はい。猪河原公一郎東京連絡事務所でございます」 「あんた、牛尾さんかい」  いきなりそういうぞんざいなことばが返ってきた。男の声だった。牛尾修二はその声に心当りがなかった。若いと思えば若そうだし、若くないといえばそうにも聴こえる、特徴のない声だった。 「はい。牛尾でございますが、どちらさまでしょうか?」 「どちらさまなんて面倒《めんどう》くせえ者じゃねえ。こちらさまはただの厄病神《やくびようがみ》だよ。名前がなきゃ困るんなら、コチラサマとでも、ヤクビョウガミとでも、好きに呼んでくれ」  牛尾修二は面くらった。相手はふざけている口調ではなかった。 「ご用件は?」 「サイノカワラコウイチロウはいるかい?」 「猪河原のことですか?」 「選挙に出るんだろう? 国会の選挙に。猪河原よりもサイノカワラのほうが、名前としちゃコンパクトがあって、有権者がおぼえやすいぜ」 「コンパクトじゃなくて、インパクトだよ。それを言うんだったら」 「知ってるよ、そんなことは。相手がサイノカワラ先生だから、わざとまちがえてやったんだよ。シャレのわからねえ秘書だな。サイノカワラ先生が、今年の地元の成人式に県会議員として出席したとき、スピーチの中でプラトニックラヴを、ヘアトニックラヴって言ったってのは、有名な話じゃないか」 「あれは単なる言いちがえだ。用件はなんなんだ。用がないなら電話切らせてもらうよ」  牛尾修二もことばつきを変えた。行儀《ぎようぎ》よく応対しなきゃならない相手でないことは、すでにはっきりしていた。 「サイノカワラはいるのか?」 「外出中だ。伝言があればわたしが伝える」 「一億円用意しろってサイノカワラに言ってくれ」 「イチオクエン?」 「身代金《みのしろきん》だ」 「誰の?」 「馬場みちる。サイノカワラが馬場秋子に生ませた子供だよ」  牛尾修二は、ことばつきのつぎに、顔色も変えた。彼は受話器を耳に当てたまま、思わず応接室のほうに眼をやった。そこからは応接室は見えなかった。鹿沼真知子に何か言って笑っている猪河原公一郎の声が聴こえた。鹿沼真知子の声は聴こえなかった。 「なんの話かよくわからないな」  牛尾修二は声を落して言った。下手な受け応《こた》えをして、猪河原公一郎の隠し子の存在を認めてしまうような軽率《けいそつ》なことは、してはならない、と牛尾修二は猪河原公一郎の笑い声を耳にしながら考えたのだ。 「あんたはわからなくても、サイノカワラ大先生はよくおわかりだ。おれの言ってることが嘘《うそ》だと思うなら、西新宿の馬場秋子のマンションに行けばわかる」 「何がわかるんだね?」 「マンションの地下駐車場に、馬場秋子のインテグラがある。インテグラのトランクの中に、みちるの母親が放り込まれてるよ。みちるはおれが預ってる。母親も一緒に人質にして、ベッドでおもちゃにしてやろうかとも思ったけどな。サイノカワラ大先生の使い古しじゃ味が落ちてるだろうからやめたよ。政治屋と兄弟になるほど、おれはまだ落ちぶれちゃいないしな。それよりか誘拐犯人になるほうがましだからな」 「それだけかね? メッセージは」 「いまのところはな。警察に届けたら人質は死ぬぞ。そんなことになったら、サイノカワラ大先生は困るだろう」 「よくわからない話だが、一応は猪河原に伝えておく」  返事はなかった。電話が切れた。牛尾修二はゆっくりと受話器を戻した。 「他にはご用はありません?」  応接室で鹿沼真知子が言うのが聴こえた。 「用はないけど、もう帰るのかね?」 「六時半ですから、一応……」 「もうそんな時間か。彼氏とデイト?」 「そんな人いませんよ」 「たまには一緒に夕飯でも食べないか、鹿沼君。おいしい物ご馳走《ちそう》するよ」 「今夜はちょっと……」 「先約ありか。残念だな。やっぱり彼氏だな。そうだろう。どんな男なの?」 「センセエ、やめてください。彼氏なんていないんですから、ほんとに……」  言いながら鹿沼真知子は応接室を出て、事務室に入ってきた。帰り支度《じたく》をする鹿沼真知子と入れ替りに、牛尾修二は事務室を出た。  猪河原公一郎は、ソファの前のテーブルに夕刊をひろげて読んでいた。牛尾修二が応接室に入っていくと、猪河原公一郎は夕刊から眼を上げた。入ってきたのが、鹿沼真知子ではなくて、牛尾修二だとわかって、猪河原公一郎は露骨《ろこつ》にしらけた顔になった。国会議員立候補予定者は、グラマラスな女の子を夕食に誘うことに、まだ未練《みれん》を残していたようすだった。  それを見て、牛尾修二はふと、ひそかな快感を覚えた。自分の隠し子が誘拐されて、一億円の身代金を要求されるという事態が起きたのも知らずに、美人のスタッフを誘惑しようとしている猪河原公一郎が、牛尾修二の眼にはおめでたい馬鹿に見えたのだ。降って湧いたようなその誘拐事件は、病気としか思えないほどの漁色《ぎよしよく》家である猪河原公一郎にお灸《きゆう》をすえるための、天の配剤《はいざい》かもしれない、と牛尾修二は考えた。  彼は冷静だったわけではない。動転していたのだ。動転を抑えて、冷静であろうと努めていたために、考えることが問題の中心から妙なところにずれていくのだった。  牛尾修二は、そっとソファに腰を落した。猪河原公一郎とテーブルの角をはさむ位置だった。 「電話はなんだった?」  猪河原公一郎が、新聞に眼をやったままで言った。 「待ってください」  牛尾修二は小声で言った。猪河原公一郎がそのことばで顔を上げた。猪河原公一郎は、訝《いぶか》る眼で牛尾修二を見た。牛尾修二は無言で事務室のほうに眼をやり、小さく顎をしゃくってみせた。鹿沼真知子が帰ってから話す、と言ったつもりだった。 「あれがどうかしたのか?」  猪河原公一郎には、牛尾修二のゼスチュアが通じなかったようすだった。彼は小声でそう言った。牛尾修二は腰を上げ、猪河原公一郎の耳もとに口を寄せ、囁《ささや》いた。 「おどろかないでくださいよ、先生」 「なんだ?」  猪河原公一郎も囁き声になっていた。 「みちるちゃんが誘拐されたかもしれないんです。さっきのは犯人らしい男からの電話だったんです」  唸《うな》り声を洩《も》らして、猪河原公一郎が体をはねあげるように、勢いよく立ちあがった。はずみで猪河原公一郎の頭が、牛尾修二の丸い鼻の頭を小突《こづ》きあげた。牛尾修二ははねとばされる恰好《かつこう》で、ソファに尻餅を突いた。小鼻がジーンとしびれたと思ったら、鼻血が細く筋を引いて流れてきた。  帰り支度をした鹿沼真知子が、応接室のドアを開けて、顔をのぞかせた。彼女はきれいに化粧を直していた。 「お先に失礼します。先生、今夜はとっても残念なんですけど、またお食事に誘ってください。楽しみにしてますから……」  鹿沼真知子が言った。牛尾修二は、ハンカチを当てて、鼻血を押えたところだった。 「どうしたんですか? 牛尾さん。鼻血が出たんじゃないんですか?」  鹿沼真知子が、めざとく気がついて言った。押えたハンカチの端が、血で光っていた。 「なんでもない。のぼせらしい」  牛尾修二は言った。 「若いんだよ、牛尾君は。忙しくて奥さんとの間であっちのほうがごぶさたらしいんだ。それで、鼻血ブーなんだって」  猪河原公一郎が、古くさいギャグをとばした。だが、猪河原公一郎の顔は、聴いたばかりのショッキングな知らせで、うつろな感じにこわばったままだった。 「あっちのほうって、そうなんですか、男の人は」 「ばかだな。冗談だよ」  牛尾修二はむっとして言った。鹿沼真知子の口調には、とぼけてからかっている感じがあったのだ。 「ぼくも残念だよ、鹿沼君。また機会を作るからね」  猪河原公一郎は、無理にこしらえた笑顔で、鹿沼真知子にことばを投げた。彼の眼はしかし、ショックの影響から脱け出てはいなかった。鹿沼真知子は、濃いめに化粧を直した顔にも、ドアを閉めながらひねった腰のあたりにも、コケティッシュな気配を漂わせて、姿を消した。それが意識してのことかどうか、牛尾修二にはわからなかった。だが牛尾修二は、鹿沼真知子が猪河原公一郎の気を惹《ひ》いたり、じらしてみたりして、それを楽しんでいるのではないか、と考えた。 「どういうことなんだ?」  鹿沼真知子が、玄関を出て帰って行くとすぐに、猪河原公一郎はソファに尻を叩《たた》きつけるようにして坐って、口を開いた。声は怒声《どせい》に近かった。だが、猪河原公一郎の眼は不安に揺れてくもっていた。彼は怒っていいのか、うろたえるべきなのかわからずにいるようすだった。 「犯人らしい男は、みちるちゃんの身代金として、一億円を要求してきてます」  牛尾修二は言って、�コチラサマ�とでも�厄病神�とでも、好きな呼び方をしろと言った男との、電話のやりとりを猪河原公一郎に伝えた。 「一億円だと。ふざけやがって」  猪河原公一郎はテーブルを叩いて唸り声をあげた。顔面がまっ赤になっていた。 「警察に届けたら、みちるちゃんを殺すと言ってます。そうなると先生が困るだろう、と犯人は言ってるんです」 「そいつはどうやって、みちるの父親がこの猪河原公一郎だってことを知ったんだ?」 「わかりません。わかりませんが、逆に言えば、馬場秋子さんと先生との関係を知っている者の犯行だということが、これでわかったわけです」 「選挙がらみのいたずらとか、脅しとかじゃないのかね? まさか秋子が仕組んだ狂言誘拐じゃないだろうな。秋子はそんなことのできる女じゃないはずだがな」 「ともかく西新宿に行ってみます。車のトランクの中に押しこめられてるという馬場さんのようすを確かめるのが先決ですよ、先生」 「そうだな。おれも行くよ、西新宿に……」 「警察はどうします?」 「どうしますって、知らせるわけにいかんじゃないか。みちるがおれの子供だってことは、マスコミに知られちゃならんのだ。事件が明るみに出れば、何もかもマスコミは暴《あば》き立てるにきまっとる。熱血と正義の人、猪河原公一郎に、隠し子がいたなんてことがわかってみろ。選挙はとてもじゃないが戦えなくなる」 「行きましょう、新宿へ」  牛尾修二は言って立ちあがった。猪河原公一郎も、また勢いよく立ちあがった。     3  馬場秋子は、ドアをロックして、ドアチェーンをかけた。  猪河原公一郎と、牛尾修二が帰っていったところだった。馬場秋子の髪は、まだ乱れたままだった。猪河原公一郎と牛尾修二の手で、インテグラのトランクルームから抱え出されたときから、馬場秋子は髪が無残に乱れていることも忘れたふりをしとおしてきた。犯人役の犬塚昇に殴られた唇は、切れて腫《は》れあがり、頬にも顎にも紫色の痣《あざ》ができていた。  馬場秋子は玄関から戻りがけに、キッチンに行き、冷蔵庫からバドワイザーの缶を出した。缶の口を開け、立ったままひと口ビールを飲んでから、居間のソファに戻った。またビールを缶から飲み、大きく息を吐いて、たばこに火をつけた。ひとりでに口もとに笑いが浮かんできた。笑うと切れている唇が痛んだ。それで笑いをひっこめた。痣になっている頬と顎の痛みもつづいていた。火照《ほて》りながらズキンズキンと頭の芯にひびくような痛みだった。一回のズキンとする痛みが、いくらの金になるのだろうか、と考えて、また馬場秋子は笑いを浮かべそうになった。  時刻は午後十時をまわっていた。人質役のみちるのことが、馬場秋子の頭に浮かんできた。みちるは自分が人質役を演じているなどとは、もちろん思っていない。正真正銘の人質の気分を、みちるは味わっているにちがいないのだ。それがどんな気分なのかは、しかし馬場秋子にはわからない。いきなり母親から引き離されて、わけもわからずに怖がっているかもしれないが、圭子がうまくあやしてくれているはずだ、と馬場秋子は思っていた。人質といっても、圭子と犬塚昇がみちるにひどい扱いをする心配はなかった。十時ならいつもはみちるは、夜間の託児所のベッドで眠っているころだ、と馬場秋子は考えた。  ふと思いついて、馬場秋子はソファから立ちあがり、寝室に行った。ドレッサーの鏡に顔を映した。ひどい顔になっていた。その顔を見て、馬場秋子はまたこみあげてくる笑いをこらえた。さらに彼女は、着ていた服を脱いで、パンティだけの姿になった。脇腹と胸の下と腰のところにも、打撲《だぼく》の痕《あと》が青黒い痣になって残っていた。手をやると、痣のところは熱を持っていた。  馬場秋子は、部屋着に着替えて居間に戻り、ビールの残りを飲んだ。ようやくいくらか喉《のど》の渇《かわ》きが治まった。猪河原公一郎と牛尾修二が帰っていってから、二十分が過ぎていた。猪河原公一郎が引き返してくることは、もうないだろう、と考えて、馬場秋子はサイドボードのところに行って、電話の受話器を取った。鳥飼圭子の部屋の電話番号を押した。呼出信号が鳴ったと思ったら、電話はつながった。鳥飼圭子が電話に出た。 「あたしよ……」 「秋子。無事に出られたのね、トランクから」 「出られなきゃ困るわよ。長くいるところじゃないわよ、車のトランクの中って」  馬場秋子は低くした声で言った。 「怪我した?」 「したわよ。あいつほんとに本気でやったわよ。さすがに元プロボクサーね。頭の横んところ殴られて、あたしほんとに気絶しちゃったわよ。唇は切れるし、顔は痣だらけ。当分お店に出られないわね、この顔じゃ」 「迫真《はくしん》の演技だったわけね、犬塚は」 「演技じゃなかったってば。本気だったわよ、彼は」 「で、どうだったの? 猪河原公一郎と牛尾修二の反応は」 「だいじょうぶ。狂言だなんて疑っちゃいないわ、二人とも。第一段階は大成功よ」 「最初に狂言を疑われるようじゃ、どうしようもないもんね」 「信用あるのよ、あたしは猪河原に。欲のない愛情の細やかな、おとなしい愛人だってあたしのことを思いこんでるの、あいつは」 「もうひとつあるでしょう」 「なにが?」 「フェラチオが上手な女だって……」 「そうね。上手なフェラチオをしてくれるその同じ口で、あたしが大嘘をつくなんて思ってもいないわよね、あいつは」 「六年間の努力が実ったじゃないの」 「ちょっと、圭子。あたしは最初からこういうことをやろうと考えて、猪河原の愛人をやってきたわけじゃないわよ」 「わかってるわよ。あたしを助けてくれるつもりで始めたことなのよね。ありがたいと思ってるわ」 「それもあるし、包茎の猪河原にフェラチオしてやるのにも、あいつのワンパターンのセックスにも、そろそろ飽きてたってこともあったしさ」 「包茎なの? 猪河原公一郎って……」 「そうよ。仮性だけどね。だから彼はイクのが早いの。早い分だけ、スケベだから前戯が長いけどね。でも楽よ、早いから」  馬場秋子は言って笑った。 「早くて楽なのはいいけどさ。包茎の男が国会議員の椅子を狙うなんて許せないわね。日本の将来が先すぼみになるみたいで心配じゃない」  鳥飼圭子も笑って言った。圭子の冗談のほうがキツい、と馬場秋子は思って、また笑った。 「みちるはどんなふうだった? 泣きわめいたんじゃない?」  馬場秋子は鳥飼圭子の笑い声を受話器に聴きながら訊《き》いた。 「わめくほうはたいしたことなかったけど、だいぶん泣いたわ。犬塚の声がすると黙るけど、すぐにまた泣くの。男の声ってやっぱり子供でも怖いのかしら?」 「怖いんだと思うよ。男と一緒に暮していないから。いまはどうしてる? みちるは」 「さっき、やっと寝かせつけたところ。ぬいぐるみと、ジュースと、ハンバーガーで、やっとおとなしくなって眠ったわ」 「三つとも大好物だからね。そうそう、言うの忘れたけど、みちるはマクドナルドよりもモスバーガーのハンバーガーとかてりやきバーガーのほうが好きなの」 「わかった。明日はモスバーガーの店を見つけて買ってくる。で、包茎と包茎の秘書はどう言ってるの?」 「まず、警察には届けるつもりは絶対にないわ。それははっきりしてる。猪河原の奴、人質の安全なんかよりも、隠し子のスキャンダルが表沙汰《おもてざた》になることのほうが心配なんだから」 「なに言ってんの。そこがこっちのつけ目じゃないのよ、秋子。人質は安全に決まってるんだから」 「そりゃそうだけど、猪河原はこれが狂言の誘拐事件だなんて思っちゃいないんだから、まっ先にみちるの身の安全のことを考えるべきじゃない。父親としてはよ。それがさあ、みちるのみの字も言わないんだから、あの包茎男は」 「それで秋子の目的の一つは達成したわけじゃない。猪河原がほんとうにみちるちゃんに対して、父親としての責任と愛情を感じているかどうかってことが、誘拐事件の反応でわかるはずだって、あんた言ってたじゃない」 「そうなのよ。狂言誘拐はやっぱり正解だった。猪河原の本性がこれではっきりわかったもの。あいつはあたしの肉体とフェラチオのテクニックに執着してるだけなのよ。結局のところね」 「それで狂言誘拐で大金をふんだくって、包茎と別れる決心がついたでしょう、きっぱりとね」 「別れる決心なんかとっくの昔についてたけどさ。高値で手を打って別れなきゃ損じゃない。六年間もフェラチオしてやったんだからさあ」 「犬塚には身代金は一億だと言わせたんだけど、出しそうなの? 猪河原は」 「圭子。さっきからあんた、犬塚、犬塚って呼びすてにしてるけど、彼はいないの? そこには」 「いるけど、いまお風呂に入ってる」 「猪河原は、一億円は出ししぶってるの。値切れるだけ値切る肚《はら》でいるのよ。牛尾にそう言ってたの。そっちからの電話には牛尾が猪河原の代理で出るはずよ。猪河原は犯人との交渉は一切、牛尾にまかせるつもりなの」 「なぜ?」 「そういう男なのよ、猪河原は」 「そういうって、どういうの?」 「ずるいのよ。自分の責任はなるべく小さくして、あとは人に押しかぶせるの。そのかわり、手柄となると人のぶんまで横取りしちゃうのよ。犯人との話をまとめれば、金は出す。そのかわり事件と自分の関わりが形としてあとに残るようなことは一切ないようにしろって、猪河原は牛尾に言ってたわ」 「形として残るって言ったって、警察が知らなきゃ事件が表沙汰《おもてざた》になる心配はないはずじゃない。猪河原は何をそんなに心配してるのかしらね?」 「用心深いのよ、あいつは。猪河原はこう言うの。自分が事件を警察に届けなくても、みちるがあとで子供なりに、誘拐のことを誰かにしゃべるということも考えられるし、犯人が他のことで警察に逮捕されて、そいつが説明のつかない大金を持ってることがわかったりして追及されたら、猪河原公一郎の隠し子を誘拐したことを自白するってことも、ないとは言い切れないって。もし万が一そういうことになったら、みちるの父親は自分じゃなくて、牛尾修二だってことにしてほしいってことまであいつは言ったわ」 「あんたと牛尾はどう言ったの?」 「あたしはそうするって言ったわよ。身代金を取っちゃえば、そんなことどうでもいい約束になるんだから。牛尾もそうするって言ったわ。牛尾は猪河原公一郎を国会議員にして、議員秘書になることに命を賭けてるという男だもん」 「猪河原も猪河原なら、牛尾も牛尾ね」 「そうよ。あいつらホモのカップルみたいなもんだからね。一心同体だとか気色のわるいこと言ってさ」 「牛尾を脅しまくって、正札どおり一億円をふんだくらなきゃね」 「そういうこと。ただし、牛尾はしぶといわよ。犬塚が負けなきゃいいんだけど」 「犬塚の尻を叩くわよ、あたしが」 「考えるとかわいそうね、犬塚は。あんたにうまく乗せられて、がんばるだけがんばらされて、最後はただ働きになるんだもんね」 「いいの。そのぶんフェラチオしてやってるんだから」 「ひとつだけ気がかりなことがあるのよ、圭子」 「なに?」 「猪河原はね、牛尾に信頼できる私立探偵を探して、みちるを誘拐した犯人を探させろって言ってるの。猪河原と牛尾は、みちるの身代金の要求がいきなり猪河原のところに突きつけられてきたんで、犯人はみちるの父親が猪河原公一郎だってことを知っている人間にちがいない、と思ってるわけ。だから、それを知ってる人間の身のまわりを私立探偵に調べさせようとしてるのよ」 「どうしてそれが気になるの? 心配いらないわよ。秋子とあたしがいまもつき合ってることを知ってる人間はいないはずよ。犬塚は別だけど。犬塚だってあんたとあたしのほんとうの関係は知らないのよ」 「それはそうなのよ。だからわたしもそんなに心配はしてないけどさ。でも、私立探偵がどこまで調べるかわからないけど、容疑者が出てこなくて、調べがエスカレートしていったら、圭子とあたしが高校のときのクラスメートで、そのころとっても仲がよかったってことぐらいは、調べがつくかもしれないわ」 「平気だよ、そんなの。心配することないって、秋子。高校を出てからは、あたしたちは離ればなれになってたんだから。それから何年もたってから、二人が東京で偶然に出合って、途切れていた高校時代の関係が復活したなんて、誰も知らないことじゃない」 「そうよね。あたしは大学時代からアルバイトでやってたホステスが本業になって、ずっとその世界にいるんだし、圭子は高校を出てすぐにいまの会社に勤めて、そのままずっとOL生活してるんだものね。それに、あたしたち、世間の口がうるさいから、こっそりとしか逢《あ》わないもんね」 「こっそりも何も、逢うのはいつも、秋子がクラブの仕事を終えたあとの夜中だし、場所だってあたしの部屋と決めてるから、誰も知らないわよ」 「そうね。ああ、思い出しちゃう。こんな話してたら、圭子の部屋に行きたくなっちゃった」 「あたしもよ、秋子。夕方さあ、あんたのマンションの地下駐車場で、あんたとみちるちゃんがエレベーターで降りてくるのを待ってるとき、何もかも無事に終ってから、秋子と一緒に暮すときのことを考えてたの。そうしたら濡れてきちゃった」 「だめ、圭子。言わないで。あたしも濡れてきそう……」 「電話切るわ。お風呂場が静かになった。犬塚がお風呂から上がったみたい」  電話が切れた。馬場秋子は吐息を洩らして受話器を戻した。体の芯がかすかに熱をはらんでいるのが感じられた。馬場秋子は部屋着の裾《すそ》から手をさし入れて、パンティの下をまさぐった。まだ濡れてはいなかった。だが、その気配が生れていた。  欲望が馬場秋子に、あらためてみちるの不在を意識させた。彼女は奇妙な伸びやかさを感じて、寝室に行った。圭子が、風呂からあがった犬塚昇に抱かれる光景が、馬場秋子の脳裡《のうり》に浮かんだ。狂おしい嫉妬《しつと》の気持が、馬場秋子の欲望をさらにややこしく刺激した。  馬場秋子はベッドに横たわり、パンティを脱いで、オナニーをはじめた。彼女は眼を閉じて、自分の指を圭子の指に見立てた。すぐに、圭子のなめらかな肌や、温い息の気配を、馬場秋子は想像の中で感じ取った。すると部屋着が邪魔になった。彼女はベッドに横たわったままで、手足を窮屈に折り曲げ、身をくねらせて部屋着を脱いだ。起きあがって脱ごうとしなかったのは、圭子に脱がせてもらっているつもりでいたかったからだった。  やがて馬場秋子は、乳房をさすり、もうひとつの手の指でクリトリスを静かに揉《も》みながら、小声で圭子の名を呼んだ。     4  犬塚昇は、ジーパンに半袖のアンダーシャツという姿で、浴室を出た。  そこは大田区六郷にあるマンションの、鳥飼圭子が住んでいる部屋である。風呂から上がった犬塚昇が着るバスローブやパジャマなどは、そこにはない。  居間のガラスのドアごしに、電話の前から離れようとしている鳥飼圭子の姿が見えた。 「秋子さんから電話が来たのか?」  犬塚昇は居間に入るなり、低めた声で鳥飼圭子に訊いた。鳥飼圭子は小さなソファの前に立ったまま、ふり向いてうなずいた。 「やっときたわ、秋子の電話……」 「で、どうだって?」 「心配いらないわ。何もかもうまくいってる。あたしの思ったとおりに進んでる」  鳥飼圭子が体を寄せてきて、犬塚昇の耳に囁《ささや》いた。 「サイノカワラは一億円積みそうなのか?」  犬塚昇も囁き声を出した。アコーディオンカーテンでへだてられた隣のベッドのある部屋で眠っているはずの、人質の耳を犬塚昇も気にしたのだ。 「ばかね。つまらないシャレを何度も言わないの。猪河原は身代金を値切れるだけ値切るつもりみたいなの。こっちとの交渉は全部、秘書の牛尾がやることになってるそうよ」 「交渉相手が誰だろうと、ゼニは猪河原が出すしかないだろうにな」 「そうよ。交渉相手が誰だろうと、こっちは一円だって値切られてやるつもりはないわ。そういう気合《きあい》で、あんた牛尾と交渉しなきゃだめよ。値切られるかどうかは、あんたの気合と腕次第で決まるんだから、頼むわよ」 「心配するな。だけど、どうして猪河原はおれたちとの交渉を牛尾に任せたのかね?」 「わからないわ。秋子は、猪河原公一郎というのはそういう男だって言ってた」 「そういう男って、どういう男だい?」 「だから、気が小さくて、自分では責任をとりたがらない男って意味じゃないの」 「それだけかね? 何か考えてるんじゃないのか、猪河原は……」 「何かって、何を?」 「わからないけどさ。警察には届けないけど、たとえば私立探偵か何かを雇って、誘拐犯人を突きとめさせるとかさ」 「そうだとしても、そのためにどうして交渉役を牛尾にやらせる必要があるわけ?」 「探偵を雇うのに、みちるちゃんの父親が猪河原公一郎だってことがわかるのはまずいから、みちるちゃんは牛尾の隠し子だってことにしようって肚でいるのかもしれないじゃないか」 「あんた、猪河原が私立探偵を雇うのが怖いのね。だからそんなことを考えちゃうんだわ。だめよ、そんなこと怖がっちゃ。怖がってると、身代金の交渉に気合が入らないわよ。私立探偵に突きとめられる前に、早いところ身代金を手に入れてケリをつけようなんて気持があると、つい妥協したくなって値切られちゃうじゃないの。だいじょうぶ。私立探偵なんかに何ができると思うの。そんなこと怖がらないで、しっかり要求を貫《つらぬ》きとおしてくれなきゃだめよ。いいわね」 「怖がっちゃいないよ、おれは。心配するな。肚をすえなきゃこんなことできないぜ」 「それならいいわ。頼りにしてるんだから。あたし、お風呂入ってくる」  言って鳥飼圭子は居間を出て行った。  犬塚昇は、アコーディオンカーテンをそっと小さく開けて、ベッドの上をのぞいた。ピンク色の大きな兎の縫いぐるみと一緒に、馬場みちるは顎まで蒲団《ふとん》をかぶせられて、眠っていた。涙のせいか、それともいつもそうなのか、瞼《まぶた》が脹《は》れぼったく見えた。寝息は規則正しくつづいていた。だが、馬場みちるの頬は、青白かった。  犬塚昇は、まだ人質とは一言もことばを交していなかった。人質の体に触れてもいなかった。人質は犬塚昇の声を聞いたり、彼と眼が合ったりすると、鳥飼圭子に見せる以上の恐怖のようすを示した。それが自分の心を妙なぐあいに刺激するのを、犬塚昇は感じていた。彼は人質が怖かった。怖さは何かのちょっとした作用で、わけのわからない憎悪のような気持に変りそうだった。その二重の恐怖が、人質に声をかけたり、その体に触れたりすることを、犬塚昇に避けさせていた。  アコーディオンカーテンを閉めて、犬塚昇はソファに腰をおろし、たばこに火をつけた。籐の二人掛けのソファで、紺の地にピンクの花柄の布のクッションが使われていた。身動きすると、籐のソファは小さなきしむような音を立てた。  喉が渇いていた。冷蔵庫の中にハイネケンの缶が入っているのを、犬塚昇は思い出した。立って行ってハイネケンの缶を取り出し、ソファに戻った。ローンとサラ金からの借金で、首が回らなくなって、友だちを巻き込んでその友だちの子供を誘拐することを思いつく女が、ソアラの三リッターのリミテッドを乗り回し、ハイネケンを飲んでいる。それを知ったとき、犬塚昇は笑った。  だが、今はもう彼はそれを笑う気になれなかった。笑いたくても笑えなかった。一億円になるはずの小さな人質が、アコーディオンカーテンの向うで寝息を立てているのだ。ゾクゾクする気分は、いまはもうすっかり高まって、犬塚昇の全身を支配していた。  そこに来るまでの二ヵ月足らずをふり返ると、犬塚昇にはすべてがよくもわるくも、夢のような気がして、そうなったことがまだどこかすっかり現実とは信じられない思いが残る。  犬塚昇は、九ヵ月前までは、昇り調子のライト級のプロボクサーだった。デビュー以来、九戦してそのすべてをノックアウトで勝ちつづけた。それももっとも長く戦ったラウンドが六回までで、それまでの間に九人の対戦相手をマットに沈めてきた。  十戦目は日本のライト級のタイトルを賭けた試合になった。相手は世界ランキングの八位にいる選手だった。犬塚昇の陣営は、チャンピオンからベルトを奪うと同時に、世界ランキング入りを果そう、と意気込んでいた。それが決して夢ではないことを、下馬評《げばひよう》が語っていた。犬塚昇ももちろん自信があった。相手のチャンピオンは、ノックアウト率が七割という強打者のファイターだったが、年齢が二十九歳で、ボクサーとしての力はとっくに峠を越えていた。  タイトル戦の結果は、犬塚昇の自信と、彼の陣営の意気込みと、大方《おおかた》の下馬評のすべてを裏切るものになった。四ラウンドが始まってすぐに、チャンピオンのとびこみざまの左のロングフックが、正確に犬塚昇の顎《あご》の先端を捉えた。その一発で犬塚昇の意識が白くにごった。犬塚昇はそのとき倒れるべきだった。倒れずに彼はにごった意識のまま、チャンピオンに反撃を試みた。リングに上がっているときのボクサーの反射神経がそうさせた、としか言いようがない。  チャンピオンの狙いすました右フックが、犬塚昇のこめかみを襲った。つづけて左の強烈なアッパーが、顎を突き上げた。同時に犬塚昇のセコンドがタオルを入れた。リングに投げ込まれたタオルは、アッパーを喰《くら》って棒のようにまっすぐにゆっくり倒れていく犬塚昇を追いかけでもするように、彼の胸の上に落ちた。  犬塚昇の意識が戻ったのは、それから二週間後だった。病院の集中治療室で眼を開けたとき、犬塚昇は自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。彼は最初に喰ったチャンピオンの左のロングフックすら、まったく覚えていなかった。彼の二週間ぶりの意識の回復は、奇跡として大きく新聞で報道された。その記事を見せられ、トレーナーにベッドの横で読んで聞かされて、はじめて犬塚昇はボクサーとしての自分の挫折を納得した。医師はむろんのこと、ジムの会長もトレーナーも、犬塚昇に彼のボクサー生命の終りを説いていた。  結局、半年近い入院生活を犬塚昇は送った。苦しいリハビリテーションにも耐えて、退院するときは、ほとんど体は元の状態に戻っているように、犬塚昇には思えた。すると、リングにあがっている自分の夢をよく見るようになった。脳の仕組みについては、入院中にいやというほど医者から話を聞かされていた。カムバックは無理だということはよくわかっていた。それでも体が元どおりに動くようになると、手が届いていたかもしれない世界の王座への思いが甦ってきて、犬塚昇を苦しめた。  夢が果せないという思いが、犬塚昇の気持ちを荒れさせた。彼は最後の試合のときまで勤めていた大手の印刷会社を退職して、アルバイトの運転手暮しを始めた。荒れたいだけ気持ちを荒れるに任せておけば、いつかは立ち直るときがひとりでやってくるだろう、と犬塚昇は投げやりに考えていた。投げやりな気分が、いちばん居心地《いごこち》がよかった。  そういう毎日を送りはじめて間もなく、犬塚昇は鳥飼圭子と知り合ったのだった。新宿の盛り場をうろついていた犬塚昇に、鳥飼圭子のほうが声をかけてきたのだ。 『あなた、ボクシングやってた犬塚昇さんでしょう。世界チャンピオンまちがいなしって言われてた、あの犬塚さんでしょう。あたし、ボクシングのこと詳しいの。あなたのファンだったのよ。今年の二月のあなたの最後の試合も、後楽園であたし見てたのよ』  鳥飼圭子はいきなり声をかけてきて、一気にまくし立てるようにしてそう言った。ファンだったという彼女の一言が、犬塚昇の荒れた心をざわめかせ、掻《か》き立てた。そう言われたことが、彼にはうれしくもあり、同時に肚《はら》立たしくもあった。すぐに肚立たしさだけが残った。犬塚昇はそのとき酒に酔っていた。鳥飼圭子も酔っているのだ、と言った。彼女は一緒に飲んでいた友だちと別れたところだ、とも言った。犬塚昇は、いきなりファンだったと声をかけてきたその女を、ナンパしてホテルに連れ込むか、強姦するかしてやろう、と考えた。考えるより先に決めていた、と言うべきか。  何の手間もかからなかった。一緒に飲もうと誘うと、鳥飼圭子はうれしそうな顔でついてきた。スタンドバーを出て、犬塚昇は何も言わずにラブホテルがかたまっている一画に向った。鳥飼圭子も何も言わずについてきた。別れぎわに鳥飼圭子は、自分の部屋の電話番号をメモにして、犬塚昇に渡した。  最初のとき、鳥飼圭子は犬塚昇の愛撫《あいぶ》を受けている間じゅう、全身をヒクヒクと小さく痙攣《けいれん》させて喘《あえ》ぐような呼吸をつづけた。彼女の見事なプロポーションの肉体と同じように、その全身の細かな痙攣のようすが、犬塚昇には忘れられないものになった。一日おきぐらいに、彼は彼女に電話をした。電話のたびに、鳥飼圭子は彼の誘いに応じた。  三回目のときに鳥飼圭子は、自分からフェラチオを始めた。決して巧みとは言えないやり方だった。だが、プロの女以外の相手からフェラチオをプレゼントされたのは、犬塚昇はそれが最初だった。それが最初だということに彼は少し心を動かされた。そのことに何か特別の意味があるような気に、彼はなった。  犬塚昇は、返礼をせずにはいられなかった。犬塚昇にとって鳥飼圭子は、生れてはじめてクンニリングスをプレゼントする相手となった。それをしているとき、鳥飼圭子の全身の細かな痙攣と呼吸の乱れは、いっそう強まった。生れて初めて間近に女陰を眺め、それに唇と舌を押しつけたとき、犬塚昇は奥の深い世界に自分が足を踏み入れた、といったような思いを味わった。世の中の裏がひとつ見えた、というような気もした。  そのころから、鳥飼圭子は自分の経済的な窮状《きゆうじよう》を少しずつ、犬塚昇に洩らすようになった。まるでそういう打明け話と、クンニリングスをしてもらったこととが、関係があるかのように、その時期は重なっていた。そういう話を聞きながら、犬塚昇は鳥飼圭子が金を借りたがっているのかもしれない、と思っていた。貸す金が犬塚昇にあれば、彼は貸していたことだろう。  ローンの返済と、サラ金の借金の返済で追われていて、サラ金の取立屋にソープランドで働けるように世話してやろうか、と言われている、というようなところまで、鳥飼圭子の話は進んだ。その話をしなくなったと思ったら、そのつぎに鳥飼圭子は高校のときのクラスメートの馬場秋子の話を始めた。馬場秋子とは高校を卒業してから会っていないが、彼女が未婚の母となって女の子を育てていて、その子供の父親が、県会議員から国会議員になろうとしている金持ちの男だ、と鳥飼圭子は言った。  その県会議員は、家庭用のゴミの焼却炉の製造販売の仕事で成功し、そのつぎにトイレの浄化槽と新型の便器の製造販売でまた成功し、不動産業にも手をひろげて会社を大きくしたという話だ、というようなことも鳥飼圭子は言った。  そういう話を聞きながら、犬塚昇は、プロの女でもないのに熱心にフェラチオをしてくれる鳥飼圭子が馬場秋子とそのゴミ焼却炉やトイレの浄化槽や新型便器で成功した男との関係を利用して、それを金に替えたがっているのではないか、と考えた。それならば力を貸してやってもいい、と犬塚昇は考えた。鳥飼圭子に金を貸してやることはできないが、彼女を借金地獄から救い出すために力を貸してやることはできる、という気持に彼はなった。  水を向けたのは犬塚昇のほうだった。馬場秋子を誘いこんだ上での誘拐という方法を考えついたのは鳥飼圭子だった。馬場秋子と猪河原公一郎に関する細かな情報を集めてきたのも、鳥飼圭子だった。犬塚昇はもっぱら、西新宿の馬場秋子とみちるが住んでいるマンションを張込んで、未婚の母で銀座のクラブのホステスをしている女とその娘の、日常の行動を観察する仕事に当った。その結果、馬場秋子が夕方クラブに出勤するときに、マンションの地下駐車場でみちるを誘拐するのが最もいい方法だ、ということになった。馬場秋子が、クラブに出勤する途中で、みちるを夜間の託児所に預けることがわかったからだった。その間に、鳥飼圭子は馬場秋子に接近し、誘拐計画を打明け、彼女をその計画に加担させるように説得してみせる、と言った。  そして、すべては筋書きどおりに事がはこんだ。信じられないくらいにうまくいった、と犬塚昇は思った。そこまでスムーズに事がはこんだからには、どんなことをしてでも一億円はふんだくってみせる。猪河原公一郎が直接の交渉の相手として電話口に出てこないというのが気にくわないが、どうってことはないだろう。相手が私立探偵を雇ったって、おれは平気だ。おれは怖がってなんかいないぜ。おれが怖いと思うのは、人質のみちるの泣き声と、涙で濡れて赤くなってるあの子の眼だけだ。どうしてあんなものが怖いんだろう。ただのガキじゃねえか。     5  部屋はヒーターで温まっていた。  半袖のアンダーシャツだけでも、犬塚昇は寒さを感じなかった。  彼は二本目のハイネケンの缶を取りに、冷蔵庫のところに行った。浴室は静かになっていた。冷蔵庫の前でハイネケンの缶のプルトップを引きながら、犬塚昇は浴室で体を拭いている鳥飼圭子の姿を想像した。浴室のドアを開けて、その姿を眺めたい、と思った。  その必要はなかった。犬塚昇が居間に引き返そうとしてキッチンを出たとき、浴室のドアが開いて、鳥飼圭子が出てきた。彼女は素裸のままで、手にしたバスタオルで髪や首のあたりを拭きながら姿を現わした。  色白の全身の肌がピンク色に上気していた。そのために皮膚がいっそう薄くて肌理《きめ》の細かいものに見える気がした。タオルを使う手が動くたびに、二つの乳房が重そうに揺れた。チャコールグレイに見える陰毛が、小さくふくらんでいて、仔猫が毛を逆立てたときのようすを連想させた。 「背中拭いて」  鳥飼圭子は、ニッと笑って言った。バスタオルが缶ビールを持った犬塚昇の腕に掛けられた。ハイネケンの缶を犬塚昇の手から黙って取ると、鳥飼圭子は彼に背中を向け、ビールを立ったまま呷《あお》った。鳥飼圭子の背中は、汗か湯の滴かわからないもので、濡れていた。犬塚昇はバスタオルをひろげて、彼女の背中を拭いた。腕の下や脇腹や尻も拭いた。拭いた尻を手で撫《な》で、盛りあがった肉を掌の中ににぎりこむようにしてやわらかくつかんだ。鳥飼圭子が体を回して犬塚昇のほうに向き直った。 「前も拭いて……」  鳥飼圭子が言った。缶ビールを口に当てたままだった。首と鎖骨のところと、乳房の谷間のところに、汗が流れていた。鳥飼圭子の胸のあたりから、いい匂いが漂ってきた。乳房の谷間を拭きながら、犬塚昇は乳首を唇で強く吸った。乳房のひとつを押すようにして揉んだ。犬塚昇は勃起しはじめていた。鳥飼圭子が両脚を開いた。股を拭いてくれ、と言っているように見えた。犬塚昇は彼女の前に膝を突き、ひろげたタオルで裸の腿を包むようにして、左右と拭いた。タオルをとおして女陰のやわらかいふくらみの感触が、犬塚昇の手に伝わってきた。  最後に犬塚昇は、手で陰毛を撫であげておいて、女陰のふくらみに唇をつけ、舌でクレバスを押し分けた。 「そろそろ、二発目の電話をしといたほうがいいんじゃない?」  犬塚昇の頭の上から、鳥飼圭子の声が落ちてきた。クレバスを舌で押し分けられていることなんか頭にない、といったような声だった。犬塚昇は立ちあがって、タオルを鳥飼圭子に渡し、彼女の手からハイネケンの缶を取り戻した。缶はすっかり軽くなっていた。犬塚昇は残っているビールを飲み干し、キッチンに入って空き缶を捨て、新しいハイネケンを二本出して、居間に戻った。鳥飼圭子はバスタオルを体に巻いて、ソファに腰をおろしていた。 「もうじき十一時か。猪河原と牛尾はまだ事務所にいるかね?」  犬塚昇はハイネケンの缶を鳥飼圭子に渡しながら言った。 「いるわよ。いるに決まってるわ。いつもとはちがう夜なんだもん」  鳥飼圭子は言った。犬塚昇は電話の前に行った。電話はイタリア製だという小さな寄木《よせぎ》細工のサイドボードの上に置かれていた。犬塚昇はビールの缶を開け、ひとくち飲んでから受話器を上げた。電話の横に、猪河原公一郎東京連絡事務所と、猪河原公一郎の自宅と、牛尾修二の自宅、猪河原産業株式会社本社社長室などの電話番号を書いたメモが置いてある。犬塚昇はメモを見ながら猪河原公一郎東京連絡事務所の電話番号を押した。最初の呼出信号が鳴ると同時に相手が出て、長たらしい事務所の名前を名乗った。 「猪河原先生はいるかい?」 「猪河原は自宅に戻りましたが、どちらさまですか?」 「あんた牛尾さんだな?」 「牛尾だが……」 「コチラサマだよ。厄病神《やくびようがみ》。西新宿には行ったのかい? 警察は呼んでないだろうな?」 「新宿に行ってきた。警察には知らせてないよ」 「車のトランクの中のものは出したんだな? おれがほんとの厄病神だってことがわかっただろう」 「馬場秋子さんから話は聞いたよ。ひどいことをするじゃないか。みちるちゃんは無事なんだろうね?」 「一億円になる人質だからな。大事に大事に扱ってるよ」 「馬場秋子さんは半狂乱になってる。かわいそうだとは思わんのかね」 「かわいそうだな。早いとこなんとかしてやれよ。子供が戻ればすむ話なんだから。猪河原先生には、一億円の取引だってことを伝えてくれたんだろうな?」 「伝えた。わたしがあんたとの交渉に当ることになった」 「交渉? 何を交渉しようってんだ。交渉で事を決めるつもりはおれにはないぜ。一億円がだめなら、人質は殺す。殺してバラバラにした死体を、猪河原先生の自宅の門の前に置く。本気だぜ、おれは。そうなったらどうなると思う?」 「警察が殺人犯人を追っかけるだろうな」 「おれはつかまらないぜ。だが、殺されたのが猪河原大先生の隠し子だってことは、あっというまにわかって、マスコミが書き立てるだろうな。馬場秋子だって、猪河原大先生が黙って一億円を出せばいいものを出さなかったばかりに娘が殺されたとなれば、大先生を怨《うら》むだろうよ。怨めば馬場秋子はマスコミの取材に答えてペラペラと大先生とのことをしゃべりたくもなるだろうしな」 「しかし、一億円というのは大金だよ」 「その大金を手に入れたくておれは厄病神をやってるんじゃないか。とにかく交渉はなしだ。札束ばらまいて国会議員になろうという大先生が、一億円ぐらいの金の用意ができねえはずはねえ。身代金《みのしろきん》は明日の夕方までに用意しろ。また電話する」  犬塚昇は言って、電話を切った。ふり向いた犬塚昇に、鳥飼圭子が笑顔を見せた。 「交渉で事を決めるつもりはないぜっていうのは、いい科白《せりふ》ね。やるじゃない、あんた」  鳥飼圭子は言った。犬塚昇は彼女と並んでソファに腰をおろし、ビールを飲んだ。 「人質をバラして、切り刻んだ死体を猪河原の自宅の門の前に置くっていうのも、効く文句よね。牛尾はふるえあがってたでしょう」  鳥飼圭子は裸の肩を犬塚昇の腕にすりつけてきた。 「ふるえあがっちゃいなかったけど、あわてたみたいだったな」 「さっきのつづき、しよう……」  鳥飼圭子が色っぽい眼で犬塚昇を見た。彼女の手が伸びてきて、犬塚昇のペニスをジーパンの上からまさぐった。犬塚昇は立ちあがってジーパンを脱いだ。鳥飼圭子が犬塚昇のトランクスを下げ、ペニスに唇をかぶせてきた。舌がやわらかくまとわりついてきた。  犬塚昇は立ったままで、まだ濡れたままの鳥飼圭子の髪を手でまさぐった。髪にドライヤーを当てることもせずにフェラチオを始めている鳥飼圭子の姿は、犬塚昇の眼にはいかにも好き者といった印象に映った。  犬塚昇はたちまちのうちに勃起した。はげしい勃起だった。アコーディオンカーテンの向うに、四歳の人質の女の子がいても、平気でおれは勃起する——そう考えると犬塚昇はうれしかった。こういうときに勃起しないような男じゃ情ない、と彼は思った。そう思うと、いっそう欲望がふくれあがってきた。 「今夜は特にすごいじゃん。太さも固さも、長さだっていつもとちがうみたい……」  鳥飼圭子がペニスに手を添え、亀頭に下唇を当てたまま、犬塚昇を見上げて言った。 「一億円で張り切ってんだよ」  犬塚昇は言って、鳥飼圭子の体に巻きつけられているバスタオルを解いた。鳥飼圭子はそのバスタオルを絨毯《じゆうたん》の床にひろげ、その上に仰向けに体を横たえた。犬塚昇も横になった。  鳥飼圭子が彼の首に腕を巻きつけてきた。犬塚昇は彼女に唇を重ねた。すぐに舌が絡《から》み合った。唇を寄せ合ったまま、犬塚昇は乳房に手を押し当てた。乳首が固くなっていた。固くなった乳首はかすかに火照《ほて》っていた。ひろげた犬塚昇の掌の中で、乳房がうねるようにしてはずんだ。  あんたとセックスするようになってから、オッパイが大きくなったみたい、といつか鳥飼圭子が言ったのを、犬塚昇は思い出した。ほんとうに大きくなったような気が、犬塚昇もした。考えてみればオッパイだってただの肉の塊りで、尻なんかと変りはないはずなのに、揉《も》んだりさわったりしていると、どうしてこんなに気持がいいのだろうか、と犬塚昇は考えた。  答は出てこなかった。だから彼はオッパイをさわりつづけた。答を知っているのは、さわっている手と、さわられているオッパイだけなんだ——そう思って犬塚昇は答を探すのを止めた。手は下にすべらせて、女陰をまさぐりにいった。  鳥飼圭子の全身に、いつものあのいかにも悩ましげな、快感に耐えかねているような、細かい痙攣《けいれん》が生れていた。彼女は飽きるようすもなく、どこか狂おしげに犬塚昇の舌を吸ったり、唇を舌で掃くようにしてなぞったりしながら、その口からかすかに喘ぐような細い声を洩らしつづけていた。  鳥飼圭子のチャコールグレイの陰毛は、やわらかい手ざわりを伝えてきた。生えぎわは一直線にそろっていて、そこから長方形に下に生えひろがっている。密生ではないから、白い地肌がすけて見える。そこのしげみを手で撫でるのが、犬塚昇は好きだった。毛のやわらかい感触もすばらしいし、ふっくらと盛りあがった陰阜と、そこからはじまる女陰のふくらみのやわらかな手ざわりもすばらしい。二つのすばらしいものを同時に味わえる。それを味わいながらそこを撫でていると、ひどくエッチな気分になる。  鳥飼圭子のほうもそうらしくて、彼女はそこを撫でられているうちに、初めは腰を小さく浮かせたり、横にゆすぶったりする。そうしながら彼女の膝は少しずつ開いていく。膝が開かれると、犬塚昇の手はさらに広い活躍の場を与えられて、彼のクレバスに添って伸びている中指の腹に、コロコロとしたクリトリスの感触や、やわらかくまとわりついてくるような小陰唇の感触が伝わり、指の先は温い小さな沼のような状態になっているくぼみの中に、ひとりでに浅く沈みこんでいく。 「舐《な》めて。おねがい……」  鳥飼圭子が囁《ささや》くような声で言った。語尾にとろけるような甘いひびきがこめられていた。犬塚昇は、鳥飼圭子の膝の間にうずくまり、彼女の脚をさらに大きく開かせる。すぐにはクンニリングスにとりかからずに、彼はあからさまな姿になった女陰を指先でいじりながら眺める。一億円の身代金のことも、小さな人質のことも、犬塚昇の頭から遠ざかっていく。それを遠ざけるために、欲望がいつもとちがうはげしさで頭をもたげてきたのかもしれない、と彼は思った。  指先で触れると、女陰はそれがどの部分だろうと、突つかれた奇妙な形の生き物のように、小さなうごめきを見せる。大小のふくらみと起伏と突起、そして折り重なるような襞《ひだ》でできている生き生きとしたそのものが、犬塚昇の目を惹《ひ》きつけて放さない。眺めていると、鳥飼圭子という女を裏返しにして見ているような、言いようのない妙な気分に包まれてくる。裏返しにした気分でそうやって眺めても、犬塚昇には鳥飼圭子という女の何かが新しくわかるわけではなかった。  顔を近づけると、そこにはまだかすかな湯と石鹸の匂いが残っていた。それとは別の甘酸っぱく濃密な感じのする匂いが、熱い湯気でも浴びるように鼻先をふさいでくるのを犬塚昇は感じた。その匂いは、いつもよりも濃くたちのぼってくるように思えてならなかった。それが犬塚昇には、鳥飼圭子の欲望のいつもとちがう激しさを物語るもののように思えた。この女も、一億円や幼い人質のことをしばらく、忘れたいと願っていて、そのために欲望がふくれあがっているのかもしれない、と犬塚昇は考えた。  それに応えてやるようなつもりになって、犬塚昇は鳥飼圭子の両膝を腕で高々とすくいあげ、押し開いた。鳥飼圭子の腰が床から離れて浮きあがった。犬塚昇はそうやって鳥飼圭子の腿《もも》を両肩にかつがんばかりにして、クンニリングスをつづけた。  邪魔をしてくる陰毛を鼻の先で押しやり、クレバスを上から下へ、下から上へと舌で舐めた。溢《あふ》れてくる熱い愛液を音を立てて吸った。クリトリスを小刻みに舌の先でこすった。そこも吸った。小陰唇が口もとにまとわりついてくれば、それも吸った。鼻の頭をクリトリスにこすりつけながら、細く固めて伸ばした舌の先を、膣口の中になんとかくぐらせようといった試みにも挑んだ。鳥飼圭子ははげしく喘《あえ》ぎ、こらえかねたように声を洩らし、狂いそうよ、などと言い、犬塚昇の片手をとって、乳房の上に導き、そこに押しつけた。犬塚昇は乳房を揉《も》み、舌と唇を使いながら、もうひとつの手の指を少しずつ彼女の中にくぐらせていった。指が刻むようにして進むたびに、鳥飼圭子の全身が小さく攣《つ》るように跳ね、入口のところの見えない肉の環のようなものが、彼の指を一瞬固く締めつけた。 「猪河原公一郎に電話したくない?」  喘ぎを抑えて鳥飼圭子が突然言った。 「あとでな」 「ちがうの。いまよ。ねえ、入れて。入れたまま、しながら猪河原に電話して」 「息がはずんでへんな声になっちまうよ」 「いいからして。してみたいの。セックスしながら誰かに電話してみたいのよ。電話するのはあんただけどさ。おもしろそうじゃない」  犬塚昇は笑った。バージニアスリムを吸ってると、頭がすっきりしてそんなことを思いつくのかもしれない、と考えたからだった。  犬塚昇は、鳥飼圭子に体を重ねた。 「入れたままで電話のところまで行こう」  鳥飼圭子が言った。彼女は言いながら、立てた腿の下から回した手で、犬塚昇のペニスをつかみ、導いた。亀頭が温かくてなめらかなやわらかいくぼみに包まれるのを感じて、犬塚昇はゆっくりと腰を突き出し、くぐり入った。鳥飼圭子は両腕を下から犬塚昇の首に回してぶらさがった。犬塚昇は鳥飼圭子の腰を両腕で抱えこみ、膝でいざってイタリア製のサイドボードの前まで進んだ。犬塚昇にぶらさがったままの鳥飼圭子が、彼に腰をゆすりながら強く押しつけてきて、声をあげた。  猪河原公一郎は自宅に帰っていた。電話に出たのは女の声だった。犬塚昇は、床に仰向けになって彼を受け入れている鳥飼圭子の乳房を片手で揉みながら、牛尾修二の代理の者だと言って、猪河原先生をお願いします、と受話器にことばを送った。しばらく待たされた。待っている間も彼は腰をゆっくりと躍らせながら、乳房を揉みつづけた。乳房は張りを強めているように感じられた。  猪河原公一郎が、電話に出た。横柄《おうへい》な感じの声だった。犬塚昇は腰の動きを止めた。鳥飼圭子は動きつづけた。彼女は閉じていた眼を開けて、下から犬塚昇を見た。うすく充血したようになったその眼には、粘っこい感じの笑いがあった。 「牛尾にも言っといたけど、交渉なんてまどろっこしいことはしないぜ、おれは。一億円は一円も値引きはしない。おれは正札での取引しかしないんだ。そのつもりでいてくれ。いいな」  犬塚昇はいきなりそう言った。受話器に猪河原公一郎の強く息を吸いこむ音と、かすかな短い唸り声が伝わってきた。 「話は牛尾が聞く。こっちに電話するのは遠慮してくれないかね。わかるだろう。ルールをもうけて、スムーズなやり方で、お互いにうまくいくように事をはこぼうじゃないか。事を荒立てようとしていきり立ってる人間もいるんだ。わたしがそれを押えてるんだよ。そこらあたりも少しは汲んでもらいたいね」  猪河原公一郎は、呟《つぶや》くような低い声でそう言った。 「事を荒立てたがってるのは、馬場秋子だろうな。それをあんたが押えてるからって、こっちが恩にきなきゃならない理由はないぜ。馬場秋子が警察に事件を知らせたら、困るのはあんたじゃないか」 「わかった。希望に添うようにしよう。少し時間をくれないか」 「時間はくれてある。牛尾に言ってあるんだよ。明日の夕方までだってな」  言って犬塚昇は電話を切った。鳥飼圭子が下から伸ばしてきた腕で、犬塚昇の首を抱き寄せた。犬塚昇は呻き声をあげて、中断していた快楽の世界に立ち戻っていった。  二章 私立探偵     1  私立探偵は、午前九時半に猪《いの》河原《かわら》公一郎《こういちろう》東京連絡事務所にやってくることになっていた。蛭田貫一《ひるたかんいち》という男だった。  蛭田貫一を雇うことに決めたのは、猪河原公一郎だった。猪河原公一郎は、その日の朝の七時に、事務所に電話をかけてきて、泊りこんでいた牛尾修二を叩き起した。 「腕が立つという評判の私立探偵を見つけたぞ。おれの知合いのプラスチック関係の会社の社長が、前に仕事を頼んだ探偵だ。その社長のところの経理の実務の責任者が、五千万円ばかり会社の金を横領して、蒸発したことがあってな。ところが横領したのは会社の裏金《うらがね》で、そいつは裏金から裏帳簿のからくりまで全部知ってたもんだから、警察に訴え出るわけにいかずに、私立探偵を雇って、横領した奴の居所を探させることになったんだ。雇われた探偵は、三週間後に横領男の居所を見事に突き留めたそうだ。その探偵さんに働いてもらって、みちるを誘拐した奴を突き留めてもらおうと思うんだ。蛭田貫一という探偵だ。名前からして、喰らいついたら離れずに目的を貫き通しそうな探偵じゃないか。プラスチック会社のその一件をゆうべの夜中にふっと思い出したんだ。それでさっき、プラスチックの会社の社長の家に電話して、知合いに優秀な私立探偵はいないかって相談されたことにして、蛭田貫一の事務所と自宅の電話番号を訊いたんだ。きみ、依頼人になって、事件の調査を頼んでくれ。犯人からの電話がかかってくるだろうから、きみは事務所をあけるわけにいかんだろう。きょうは鹿沼君をおれが連れて歩くから、蛭田貫一を事務所に呼んで、話をしてくれ。鹿沼君のいるところで誘拐の話なんかしないほうがいいからな」  早朝の猪河原公一郎の電話は、そういうものだった。牛尾修二はムカついた。秘書を誘拐された隠し子の父親に仕立てて、私立探偵に犯人捜しを依頼させておいて、自分は美人でグラマーでコケティッシュなスタッフの鹿沼真知子を連れて歩こう、と猪河原公一郎は言うのだ。スキャンダルが明るみに出ることを虞《おそ》れなければならない国会議員選挙立候補予定者の立場からすれば、猪河原公一郎の言い分は、やむをえないこととしてそれなりに理屈は通っていた。理屈が通っているだけに、身勝手なその言い分が、牛尾修二には面白くないのだった。  だが、親分と一心同体であるべき秘書としては、ムカついてもその身勝手につき合うしかなかった。牛尾修二は、メモしたばかりの蛭田貫一の自宅の電話番号を押した。すこぶる元気のいい声の男の子が電話に出た。蛭田貫一の息子なのだろうと思って、お父さんを呼んでくれ、と頼んだ。蛭田貫一はまだ眠っていた。母親が代って電話に出てきて、それがわかった。急ぎの仕事を頼みたいから、と言って、牛尾修二は私立探偵をベッドから引きずり出してもらった。 「お休みのところ恐縮です。わたしは牛尾修二という者ですが、実は事情のある四歳になる娘が誘拐されてしまったんです」 「それなら警察に任せなさい。それがいちばんです」  蛭田貫一はぶっきらぼうなことばを返してきて、電話を切りそうになった。眠りを邪魔されて機嫌《きげん》がわるそうだった。 「それができない事情があるんです。ぜひとも蛭田さんのお力を借りなきゃ困るんです」 「困ると言われても、こっちも困るな。そういう事件は私立探偵の手に負えないんですよ。組織的な機動力を要求されるんでねえ」 「身代金は払うつもりです。きょうの夕方までというタイムリミットを要求されてますのでね。身代金を払って、人質を取り戻してからでいいんです。犯人を突き留めるのは。それなら組織も機動力もいらないんじゃないですか?」 「そりゃそうだが、そうなってからじゃ捜査は相当にむつかしくなりますよ。ぼくを雇っても無駄になるかもしれない。それでもいいんですか?」 「かまいません」  押し問答の末に、結局、蛭田貫一は九時半に事務所に来ることになった。牛尾修二はあわてなければならなかった。蛭田貫一が現われる前に、猪河原公一郎が事務所に来て、九時には出勤してくる鹿沼真知子を外に連れ出さなければならないのだ。  牛尾修二は急いで猪河原公一郎の自宅に電話をかけた。猪河原公一郎は家にいなかった。電話に出た家政婦が、猪河原公一郎は早朝の約束があると言って、六時半に自分で車を運転して家を出た、と言った。六時半に出発したのなら、遅くても九時には事務所に到着するはずだった。牛尾修二は胸を撫《な》でおろし、すぐにまた自分が胸を撫でおろす気になったことにムカついた。自分が胸を撫でおろさなきゃならない事柄ではないことに気がついたからだった。  蛭田貫一同様に、牛尾修二も早朝の電話で叩き起されて、機嫌がよくなかったのだ。その機嫌のわるさも、長くはつづかなかった。目を覚まして時間がたつにつれて、牛尾修二はいつもの冷静で忍耐づよい性分をとり戻した。親分の身勝手も許せる気持になった。  猪河原公一郎も、身勝手ではあるが、事態の打開に頭を痛めているのだ、と牛尾修二は思った。彼が夜中に蛭田貫一という探偵のことを思いついたのは、誘拐事件のなりゆきが心配で、眠れなかったせいだろう。彼が六時半に自宅をとび出したのは、九時に出勤してくる鹿沼真知子をすぐに外に連れ出して、いつ蛭田貫一が事務所にやってきてもいいようにするためだったのだろう。事務所に向ってくる途中で自動車電話をかけてきたのだ。  そういうふうに考えてくると、牛尾修二は親分の苦境に、心からの同情をするというところまではいかないが、力になって支えてやるしかない、といった気持にあらためてなるのだった。  猪河原公一郎は、八時四十分に事務所にやってきた。 「いい機会だから、きょうはおれは、鹿沼君を連れて、京都まで行ってくるよ」  顔を見るなり、猪河原公一郎は言った。 「京都ですか?」  なにが『いい機会だから』なのかよくわからないままに、牛尾修二は訊いた。見ると猪河原公一郎は、ダンヒルの小型の革のボストンバッグを手にさげていた。彼はボストンバッグを玄関の下駄箱の上に置いて応接間に行き、ソファに腰をおろした。 「京都の先生のところに行って、二十一世紀のヴィジョンと政策について、じっくりレクチュアを受けてくるつもりだ。鹿沼君にメモと録音テープを任せてね。一晩泊ることになると思うよ。きょうと明日は、身代金《みのしろきん》の受渡しや、人質の受渡しの連絡で、事務所はがたつくだろう。鹿沼君を二日間ここから引き離しておくには、京都に行くのがいちばんいいと思ってな。そうすることにした」  猪河原公一郎は言った。牛尾修二は、猪河原公一郎の言う『いい機会』の意味を理解した。理解はしたが、同感はしなかった。 『京都の先生』というのは、高名な大学教授で、評論家としてもマスコミで活躍している人物だった。猪河原公一郎は人を介してその教授と知り合い、政治活動の上でのブレーンになってもらえたつもりで、何回か席をもうけて『ご高説を拝聴《はいちよう》』していた。それで今度は『いい機会だから』こちらから泊りがけで京都まで足を伸ばし、美人でグラマーで猪河原公一郎が食指を動かしているスタッフを、『ご高説』の記録係として同伴の上、時間をかけてじっくりと、二十一世紀のヴィジョンと政策を仕入れてくる、というのだ。その言い分も、身勝手で都合がよすぎはするものの、それなりの筋は通っているようだった。 「京都はいいとして、身代金のほうはどうするんですか?」  朝の不機嫌がぶり返しそうになるのを、グッと抑えて、牛尾修二は言った。 「ゆうべ一晩、ほとんど眠らずに考えたんだ。それでひとまず犯人の言うとおりに、一億円を渡してやろうと決めたよ。とにかく金を渡して、みちるを早く取り戻さんことには、秋子の奴が我慢しきれずに、警察にかけこむかもしれんからな。それに、交渉で時間を稼いだって、こっちには反撃する手はいまはないだろう。身代金の額の交渉で時間がたっていくうちに、犯人がいらついてみちるに手を出すことだって考えられないことじゃない。みちるが殺されたら、事件になるのは防げないよ。はっきりいって、おれは事件が表沙汰《おもてざた》になるのがいちばん困る。この猪河原公一郎と、きみとの将来が危ぶまれることになりかねないからな。きみだって、国会議員の第一秘書として、権勢《けんせい》をふるいたいだろう。ここはひとつ、耐えがたきを耐えてだな、この猪河原公一郎と、きみ、牛尾修二君と、二十一世紀をめざす日本の国政のために、しゃあない、憎ッくき誘拐犯人と妥協するしかない。かつて福田赳夫《ふくだたけお》首相も、人命は地球より重しと名|科白《せりふ》を吐いて、赤軍派のテロリストと妥協して、服役中の過激派の人間たちを釈放したことがあったじゃないか。あれは何の事件のときだったかね?」 「他の事件なんかどうでもいいでしょう。妥協するのはいいとして、一億円はどこから持ってくるんですか?」 「心配するな。手配はもうすませてある。ここに来る途中で、東西銀行と光洋銀行と大福銀行の赤坂支店の支店長の自宅に電話した。東西が三千万、光洋が二千五百万、大福が四千五百万、現金でそろえてくれることになってる。昼までには担当の奴がそれぞれここに金を届けてくるはずだ。まちがいない。みんな預金|担保《たんぽ》で借りる金だ」 「じゃあ、もう値切らなくていいんですね、身代金は」 「勇気ある妥協だよ。それも政治家には必要なことだ。私立探偵のほうはどうなっとるのかね?」 「九時半にここに来てくれることになってます」 「そうか。よろしく頼むぞ、牛尾君。ひとまず身代金は要求どおり渡す。みちるは取り返す。その間に蛭田貫一に目一杯《めいつぱい》働いてもらって犯人を突き留める。身代金を値切るのはそれからだよ」 「はあ?」 「いいか。蛭田貫一に頼んで、これからかかってくる犯人の電話は全部録音させろ。秋子の顔も、みみず脹《ば》れやら青痣《あおあざ》が消えないうちに写真に撮っとくように言うんだ。そうやって誘拐の証拠をそろえておいて、後で犯人に突きつける。そうなれば、弱みは五分と五分だ。誘拐犯人の犯行の秘密と、おれの隠し子の秘密で痛み分けだ。まあ五百万か一千万の出費は、隠し子の件の口留料として我慢しよう。残りの金は取り戻す。そういう交渉をしかるべきスジの者にやらせるつもりだ。この猪河原公一郎、必要とあらば妥協は辞さぬが、いたずらな屈辱と敗北に甘んじる男じゃないッ!」  テーブルを叩かんばかりの口調で、猪河原公一郎は言った。  牛尾修二は手帳を開き、その日の猪河原公一郎のスケジュールを調べた。ボスが京都に行くのなら、スケジュールを調整する必要がある。その日は猪河原公一郎が顔を出すことにしていたパーティが二つ予定されていた。秘書はそのことをボスに告げた。ボスは秘書に一任すると言った。ボスの心はすでに京都にとんでいるようだった。  九時ちょうどに、鹿沼真知子が出勤してきた。彼女もルイ・ヴィトンのボストンバッグを手にさげていた。それを見て牛尾修二は、自分の親分の手回しのよさに、ほとんど感服した。猪河原公一郎は、前日の夜かその日の早朝に、美人でグラマーでコケティッシュなスタッフに、緊急の京都出張の命令を電話で出していたのだろう。 「よし。鹿沼君ご苦労さん。出かけよう。車は置いていくから、必要があったら使ってくれ、牛尾君。おれたちは下でタクシーをつかまえて、東京駅に行く」  猪河原公一郎はそう言って立ちあがると、鹿沼真知子を追い立てるようにして出て行った。それを玄関で見送って、応接室に戻ってくると、牛尾修二は体を投げ出すようにしてソファに仰向けに倒れこんだ。 (ばかやろう! 何が必要があったら車を使えだよ。てめえは京都でなにを使うつもりだい。必要もないのに……)  牛尾修二は胸の中で毒づいた。しかし、彼はすぐにはね起きた。私立探偵の蛭田貫一は、誘拐現場にいあわせた馬場秋子の話を聞きたがるはずだ、ということを思いついたのだ。それだけではなかった。犯人はみちるの父親が誰かということを知っているのだから、どこかで馬場秋子と接点を持っている者の犯行である可能性が大きいのだ。その点でも、蛭田貫一は馬場秋子から話を聴く必要があるはずだった。  牛尾修二は、馬場秋子に電話をかけた。彼は、私立探偵を雇ったことと、探偵にはみちるの父親が猪河原公一郎ではなくて、牛尾修二であることにして、話をする必要があることを伝えた。 「わかったわよ。そうするわよ。日陰の女になりきることははじめから覚悟してたあたしだから。それより、犯人はあの後は何も言ってきてないの?」 「二度目の電話がゆうべ遅くかかってきました。今日の夕方までに一億円を用意しろって。要求額の交渉には一切応じないそうです。先生はすでに一億円の手配をすませています」 「あたし、気が気じゃないから、そっちに行くわ」  馬場秋子は自分から電話を切った。牛尾修二はソファに戻り、ポケットから手帳を出して開いた。猪河原公一郎が出席を予定していたその日の二つのパーティは、一つが午後一時の開会で、もう一つが午後六時からとなっていた。親分の代理で牛尾修二がパーティに出席することも、それまでには何度もあった。親分も秘書も顔を出せないとなると、会場に花を届けさせて義理を果たすことになる。  その日は誘拐さわぎで、パーティどころではなくなることがわかっていた。 「花」  牛尾修二は声に出して言うと、手帳を持ったまま立ちあがり、ふたたび電話の受話器を取った。花屋に花の手配をさせるためだった。ボスの電話で叩き起されてから、まだ二時間ぐらいしか過ぎていないのに、牛尾修二は早くもくたびれ果てた気分になっていた。     2  電話が鳴った。  犬塚昇は籐の花柄クッションのソファに腰をおろして、朝刊に眼を落していた。テレビもついていた。テレビは朝のワイドショーをやっていた。犬塚昇は眼で朝刊の見出しの活字をひろいながら、耳でテレビを聴いていた。新聞もテレビも、犬塚昇の関心を惹《ひ》くようなことは知らせてくれなかった。  鳥飼圭子は、アコーディオンカーテンの向う側にいた。人質のみちるに、しきりにことばをかけながら、朝食をたべさせているところだった。ゆで卵とフレンチトーストとオレンジジュース、ミルクというのが、人質に与えられた朝食のメニューだった。  それをこしらえたのは、犬塚昇だった。鳥飼圭子は、フレンチトーストの作り方を犬塚昇に教えて、それが出来あがり、卵がゆだるまで、人質と一緒にベッドに寝ていた。彼女は前の日から有給休暇を取って、勤めている会社を休んでいた。  電話が鳴ると、鳥飼圭子がアコーディオンカーテンを開けて出てきた。彼女はそのままイタリア製のサイドボードのところに行って、電話に出た。  アコーディオンカーテンは半分近く開けられたままだった。犬塚昇は立っていって、それを閉めようとした。ベッドの上に坐っていた人質と視線が合った。とたんにみちるの顔がひきつったように歪《ゆが》み、涙よりも先に泣き声が洩れてきた。 「泣くんじゃない。お姉ちゃんは電話なんだから。電話がすんだらすぐにお姉ちゃんはもどってくるから」  犬塚昇は人質に向って言った。それを聞くと、みちるは手に持っていたフォークを投げすてて、泣き声を一段と張り上げた。投げすてられたフォークの先には、小さく切ったフレンチトーストが突き刺してあった。フレンチトーストの切れはしが、フォークからはずれて床に飛んだ。  犬塚昇は叩きつけるようにして、アコーディオンカーテンを閉めた。人質の泣き声が彼をいらつかせた。自分が作ってやったフレンチトーストが、フォークごと投げすてられたのも、ムカッときた。憎たらしいガキだと思った。怖ろしいものを見るような眼で自分を見た人質のその眼が、犬塚昇をもっともいらつかせた。  鳥飼圭子はまだ電話をつづけていた。彼女のほうは話をせずに、短い返事をくり返しながら、相手の話を聴いているだけだった。人質の泣き声は、アコーディオンカーテンを通してひびいてきた。その声はますますはげしくなっていくようだった。 「誰からなんだ? 電話は」  犬塚昇は鳥飼圭子に声をかけた。鳥飼圭子は受話器の送話口を手で押えて、大きく唇だけを動かして、何か言った。 「馬場秋子か?」  鳥飼圭子の唇の動きを読みとって、犬塚昇は彼女のそばに行き、人質に聴こえないような声で言った。鳥飼圭子はうなずいた。 「そうなの。なんか知らないけど泣いてるのよ」  鳥飼圭子が送話口にことばを送った。 「それはいいけどさ。この電話はそっちからかけてきたのよ。あの子にだってそれはわかってるわよ。それなのに電話替わったらへんじゃない。あんたがここの電話を知ってたってことが、人質の口から後でわかったら、まずいわよ」  鳥飼圭子が、押えた声で馬場秋子に言った。馬場秋子が、人質の泣き声を受話器の中で聴きつけて、みちるを電話に出してくれ、と言ったのだろう、と犬塚昇は考えた。  確かに鳥飼圭子が言うとおりだ、と犬塚昇は思った。母親の声を電話で聴けば、みちるは少しは安心して泣きやむかもしれない。だが、その電話が母親のほうからそこにかかってきたものだということは、四歳のみちるにもわかるだろう。わかればみちるは、解放された後で、訊かれるままに猪河原公一郎あたりにそれを話すかもしれないのだ。  ソファの前のテーブルの上に、鳥飼圭子のバージニアスリムの箱があった。電話は終らず、人質の泣き声はいまや最高潮といった感じになっていた。犬塚昇はバージニアスリムを箱から抜いて、火をつけた。深く煙を吸いこんでみた。頭は軽くもスッキリともならなかった。 「あの子をなんとか黙らせろ。電話の用件はおれが聞くから」  犬塚昇はたまりかねて、鳥飼圭子に言い、灰皿でバージニアスリムの火を揉み消した。細巻きのロングサイズのたばこは、途中で折れてしまった。 「へんな人。あの子が彼のことを怖がるもんだから、彼もあの子が泣くと眼つきが変って怒りはじめるのよ。相性がわるいのね、きっと。彼と替わるわね」  鳥飼圭子が、笑った顔を犬塚昇に向けたままで、電話の相手の馬場秋子に言った。犬塚昇は鳥飼圭子のさし出した受話器を取って、声を送った。 「みちるはどうして泣き出したの?」  馬場秋子が言った。 「知らないよ。アコーディオンカーテンが開いてたから、閉めに行って眼が合ったら泣き出したんだ。おれにだけだぜ、泣くのは。まるでおれが一人であの子をここに連れ込んだみたいに……」  犬塚昇は言った。鳥飼圭子が人質のそばに行き、アコーディオンカーテンを閉めた。 「見てたんだと思うわ、みちるは」 「何を?」 「マンションの駐車場で、あんたがあたしを殴るのを。そしてあの子は、知らないお兄ちゃんとお姉ちゃんに、知らないところに連れていかれたわけだから、あんたのことをわるいお兄ちゃんだとあの子は思ってるのよ、きっと」 「お姉ちゃんのほうはわるくないわけ?」 「お姉ちゃんは、わるいお兄ちゃんが怖いから、仕方なしに言うことをきいてるんだと思ってるんじゃないかしら」 「だとしたらワリが合わねえな」 「でも、頼むからあの子をあんまり怖がらせないで。泣いたからって怒らないで」 「勝手な母親だな。いちばんわるくて怖いのはあんただぜ。そうだろう?」 「まあね。でも、親子の間のことだもん。喰い物にするくらいは我慢してもらわなきゃ。ほんの一日か二日のことなんだもん、それも……」 「向うはどんなふうなんだ?」 「一億円の手配をすませたそうよ、彼は。牛尾が電話でそう言ったわ」 「今日の夕方までって、期限を切ったのが効いたんだな」 「向うとしては、早くケリをつけたいのよ。妙なさわぎに発展しないうちに」 「隠し子がばれるようなさわぎってことかい?」 「そうよ。みちるの命より何より、あいつはそれがいちばん心配なのよ」 「金の用意ができたのなら、今日で一件落着だな」 「それはいいんだけど、あいつ、ほんとに私立探偵を雇ったのよ。九時半にその私立探偵が事務所にくるんだって、牛尾が言ってたから、そろそろよね。あたしも事務所に行って、私立探偵がどんな奴で、どんなことをするのか見ててやろうと思ってるの」 「身代金《みのしろきん》の受渡しとか、人質を返すときに、私立探偵を張込ませとくつもりだな」 「それだけならいいんだけどね。猪河原は私立探偵に犯人を突き留めさせて、身代金を取り返す気でいるっていうのよ。牛尾の話だけど」 「どうやって身代金を取り戻すつもりなんだ?」 「殴られたあたしの顔の写真とか、犯人からの電話の録音テープとかが、誘拐の証拠になるから、それを犯人に突きつけるんだって。そうすれば、猪河原の隠し子の秘密と、犯人の誘拐の秘密とで五分五分になるから、五百万か一千万円ぐらい払って、あとはチャラにできるって、猪河原は考えてるらしいの」 「探偵にこっちが突き留められさえしなきゃいいんだよ。そうすりゃ誘拐の証拠なんかクソの役にも立たないからな」 「そこは、身代金を受取りに行くあんたの腕にかかってるのよ。うまくやってね。人質を返すときもそうだけど」 「うまくやるさ。だけど、保険もかけといたほうがいいぞ」 「保険?」 「たとえば、身代金と一緒に、誘拐された子供が大先生の隠し子だってことが証明されるような物をよこせって言うんだよ。自分がその子の父親だってことを認める大先生の一筆でもいいじゃないか」 「それをどうするのよ?」 「万が一、私立探偵がおれたちを突き留めたとき、その一筆が物を言うじゃないか」 「だって、身代金と一緒に、その一筆も返せって言われるにきまってるわよ」 「そりゃ言うだろう。そのときこそ交渉だよ。交渉は力を持ってるほうが有利だからな」 「隠し子を認める一筆をこっちがにぎってる分だけ、交渉が有利になって、身代金の払い戻しが少なくてすむってわけね?」 「そういうこと。隠し子のスキャンダルって言ったって、動かせない証拠があっての話と、話だけというのとじゃあ、コンパクト、じゃねえや、インパクトがまるっきしちがうからな」 「なるほどね。保険ね。それはグッドアイデアだわ。頼もしいのね、犬塚さんて。腕力だけじゃなくて、頭だって切れるじゃないの。圭子があたし羨《うらや》ましいわ」 「なんで?」 「犬塚さんみたいな人がついてるんだもの。圭子はあんたに惚れきってるわよ。ゆうべも圭子を抱いてやったんでしょう?」 「いまはそれどころじゃないだろうが」 「腕力があって頭が切れる男の人って、セックスも上手だって言うわよ。だからあたしは圭子のことが羨ましいの」 「ばかなこと言ってないで、早く大先生の事務所に行けよ。いくら本物の誘拐じゃないっていったって、遊びじゃないんだからな、これは」 「わかってるわよ。向うに行って、連絡できるようだったら、また電話して情報を入れるから」  馬場秋子はそう言って電話を切った。犬塚昇はキッチンに行って、コーヒーメーカーのポットに残っていたコーヒーをカップに注いだ。人質のいる部屋は静かになっていた。  鳥飼圭子がキッチンに入ってきた。みちるの朝食に使った皿やグラスをのせたトレイを手に持っていた。ゆで卵はきれいに食べていたが、フレンチトーストは、二枚焼いたうちの一枚が、そっくり残されていた。 「電話で話す声、あの子に聴こえてたかね?」  犬塚昇は鳥飼圭子にたずねた。 「ところどころはあたしにも聴こえてたからね。でも、あの子は聴いたって話はわからないわよ。なんのことだか」 「わからないように気をつけて話してたんだけどさ」 「フレンチトースト、おいしくなかったんだって」  鳥飼圭子が笑って言った。 「くそガキが」 「かわいいじゃない、あの子。どうしてあの子のことになるとカッカするのよ」  鳥飼圭子が笑った顔で言った。犬塚昇は答えなかった。彼には、自分が人質に対して抱いている気持が、恐怖につながっていくものだということが、漠然《ばくぜん》とわかっていた。  その誘拐は、犬塚昇と鳥飼圭子と馬場秋子との三人の間では、狂言の犯行だと言えた。だが、人質のみちると、猪河原公一郎にとっては正真正銘の本物の誘拐事件なのだ。人質の幼女が示す恐怖も不安も、すべてが本物なのだ。  幼女が全身で表わす本物の恐怖や不安や怯《おび》えを眼にすると、犬塚昇はそれが狂言の誘拐だからなどと言ってのんびりしていられない気持になってしまう。幼ない人質の姿を見ていると、自分が加担しているのが、狂言とは言いながら同時に正真正銘の本物の誘拐だという事実を突きつけられている気が、犬塚昇はしてくるのだった。  そして彼には、狂言だということで、たいして緊張のようすも見せていない二人の共犯者の気持がわからなくなる。一億円のために自分の幼ない娘に恐怖を味わわせて平然としている、馬場秋子の気持もわからないし、不安と怯《おび》えで青ざめた顔になっている人質と一緒にいながら、それを気にもかけていないようすの鳥飼圭子の気持も、犬塚昇にはわからない。人質が鳥飼圭子がそばにいる間は泣きわめくこともせず、わるいお兄ちゃんを見るとふるえあがってしまう、というのも犬塚昇には、わかるようでいて、いまひとつ肯《うなず》けない気がする。  ほんとうにわるいのは、そのお兄ちゃんではなくて、お兄ちゃんと一緒にいるお姉ちゃんと、人質の母親じゃないか、と犬塚昇は思う。それなのに、人質がお兄ちゃんだけを怖がるのは、もしかしたらお姉ちゃんがあることないことを人質の耳にこっそり吹き込んで、お兄ちゃんだけを悪者に仕立てているからじゃないのか、ということまで、犬塚昇は思ってしまうのだった。 「私立探偵を雇ったそうだぜ、大先生は」 「それで?」  小さなキッチンの流し台の前に立ったままで、犬塚昇は馬場秋子と交した電話の話の中身を、鳥飼圭子に話しはじめた。     3  私立探偵は約束の時間を守って、ドアチャイムを鳴らした。  牛尾修二は私立探偵を応接室に通して、名刺を交換した。 〈蛭田貫一調査事務所 所長 蛭田貫一〉  そういう名刺だった。蛭田貫一調査事務所の所在地は世田谷の烏山《からすやま》となっていた。所長の住所も同じ場所だった。電話だけが事務所と自宅が別の番号になっていた。 「事務所がご自宅になってるんですね。便利でしょう」  お世辞のつもりで、牛尾修二は言った。 「自宅が事務所になってるんです。調査事務所ったって、所長一人しかいないんです。一人の働きじゃ、住まいの他に事務所までかまえるなんて、夢のまた夢ですよ。それでも食えないから、女房が喫茶店をやってんです。自宅の電話ってことになってるのは、女房の喫茶店の電話でね。あたしも調査の仕事のないときは、店でトースト焼いたり、コーヒー豆|挽《ひ》いたりしてるんです」  ボソボソとした口調の、ぼやくような言い方で蛭田貫一は言った。小柄で痩《や》せていて、眼が細い分だけ鼻が丸いといった、どうにも冴《さ》えない風采《ふうさい》の四十男だった。着ている紺の背広もネクタイも、持主と競争しているようにくたびれていた。  そういう男が、脱いだうす汚れた感じのコートを丸めて膝の上に置いて、ボソボソと何か言うのを聞いていると、その口から出てくるのはすべて愚痴かボヤキだけなのではないか、と牛尾修二には思えてきた。腕の立つ私立探偵だという猪河原公一郎のふれこみが、牛尾修二には信じられなくなった。  ポットの番茶を出して、牛尾修二もソファに腰をおろした。私立探偵はコートをのせた膝の上にかがみこみ、音を立てて番茶をすすり、洟《はな》をすすってからたばこに火をつけた。 「ここは牛尾さんの住まいじゃないんですか? 猪河原公一郎というのは何者ですか? 東京連絡事務所って看板が出てましたね」  私立探偵が訊いた。 「ぼくは埼玉県の浦和に住んでるんです。猪河原公一郎っていうのは、住宅機器の製造販売と不動産の会社をやっている人間で、県会議員もつとめてるんです。今度、猪河原が国会に打って出ようということで準備を進めておりましてね。ここはそのための連絡事務所なんです」 「立派な事務所だなあ。相当もうかってるんでしょう、猪河原さんて人の会社。住宅機器ってのはなんですか?」 「ゴミの焼却炉とか、トイレの浄化槽とか、便器とか、いろいろなんです」 「そういうものを扱う仕事というのは意外にうまみがあるって言いますね」 「どうなんですかね。ぼくは猪河原の政治活動のほうの秘書ですから、会社のほうのことはよくわからないんです」 「ところで、どうしてまた、掃いて捨てるほどいる探偵屋の中から、このあたしを選んで雇う気になったんですか? 牛尾さんは。誰か紹介でもしてくれる人がいたんですか?」  雇われたのが迷惑なのか、と心の中で言いながら、牛尾修二はボスが蛭田貫一を雇うことにしたいきさつを話した。 「たしかにそういう仕事をしたことがありました。プラスチックの成型をやっている会社の金を横領して姿を消した経理マンをね、捜し出したんです。けど、あれは運がよかったから見つかっただけでね。あたしの腕のせいじゃないんだ。その経理マンが惚れていれあげてたファッションマッサージのお姉ちゃんがいたのがわかったんです。そのお姉ちゃんに張りついてたら、彼女が大阪に逃げてた経理マンに逢いに行ったんです。それでわかったってだけの話でね。その仕事じゃあたしはただ単にツイてただけですよ。あたしらの仕事は腕じゃないね。ツキと根気だけです」  よくボソボソとしゃべる男だ、と牛尾修二は思った。いつ話が本題に入るのかわからなかった。探偵の仕事がツキと根気だというのが、蛭田貫一の謙遜《けんそん》のことばなのか、本音なのか、牛尾修二にはわからなかった。そのことも牛尾修二を心細い気にさせた。 「ぼくがお願いする仕事にも、ツキが回ってくることを祈ってますよ、蛭田さん」 「これがねえ、ツキってやつはそのときにならなきゃわからないんでねえ。ま、話を聞きましょう。いつ、誰が、どんなふうにして誘拐されたんですか?」  ようやく仕事をする気になったようすで、私立探偵は背広のポケットから手帳を出し、膝の上の丸めたコートを横のソファの上に置いた。牛尾修二は、前日の夕方にかかってきた�厄病神�からの電話で始まった事のいきさつを、順序を追って話した。蛭田貫一はときどき手帳に何かメモをしながら聞いていた。牛尾修二は、ひとまず起きた事実だけを私立探偵に伝えた。誘拐された馬場みちるが、自分の隠し子だという擬装のための作り話をしようと思うと、牛尾修二の舌は重たくなってしまうのだった。できることなら彼に、人質の父親が誰であるか、というようなことには触れずにすませたかった。 「犯人はみちるという女の子を誘拐すると、まっ先に牛尾さんのところに電話をよこしたわけですね?」 「はい……」 「それはなぜ?」 「つまりその、お恥ずかしい話なんですが、みちるは馬場秋子にぼくが産ませた子供だもんですから」  牛尾修二は眼を伏せて、喉につまった異物を吐き出すような気分で言った。触れずにすませるわけはなく、触れられて答えはしたものの、異物を呑みこんだ感じは消えなかった。 「恥ずかしいことじゃない。羨《うらや》ましい話ですよ。あたしもあれはあたしが誰それに産ませた子供だ、という科白《せりふ》を吐いてみたいくらいのもんだ。産ませちゃならない女に子供を産ませるぐらいでなきゃ、男はつまらないじゃないですか」 「つまらないって、そんな……。ぼくの場合はただなりゆきでそうなっただけで……」  他人の隠し子の父親になりすますぐらいつまらないことはない、と思いながら、牛尾修二は言った。 「みちるちゃんは四歳でしたね。つまり馬場秋子さんと牛尾さんとの仲はすでに四年以上ってことになりますね」 「そうなります」 「四年もたつと、そういう二人の仲を知ってる人間も増えてきてるでしょうが、その中に誘拐をやりそうな奴の心当りはありませんか? 犯人は牛尾さんがみちるちゃんの父親だってことを知ってる人間のはずだから……」 「それが、いろいろ考えてみたんですが、心当りの者が思い浮かばないんです。ぼくも秋子も、二人の関係を人に知られまいとして、相当注意はしてきましたから、みちるの父親が誰だってことを知ってる人間は、そう多くはないはずなんです」 「馬場秋子さんにも話を聞いてみなきゃならないな」 「彼女はまもなくここに来るはずです。蛭田さんに調査をお願いしたことも話してありますから」 「ゆうべは馬場さんは牛尾さんと一緒じゃなかったんですか?」 「ぼくはここに泊ったんです。犯人から電話がかかると思って。秋子は車のトランクから出してやってからずっと、新宿のマンションの自分の部屋にいたんです」 「そうですか。あたしはまた、犯人からの電話が気になって、馬場さんもここに泊ってたんじゃないかと思ったんです」 「本人はここに来ると言ったんですが、ぼくが止めたんです。秋子はとり乱してたし、ここはプライベートな場所じゃなくて、ぼくの職場ですから」  いささか苦しい思いをしながら、牛尾修二はとりつくろった。事実は、馬場秋子はとり乱してはいたが、そこに来るとは言わなかった。猪河原公一郎が、犯人からの電話に備えて、牛尾修二に事務所に泊りこんでくれ、と言ったからだった。それを聞いて、馬場秋子のほうも、犯人が自分の部屋に電話をかけてくることもあるかもしれないから、部屋にいると言ったのだった。 「それにしても、一億円の身代金《みのしろきん》とは、吹っかけたもんですね」  蛭田貫一は、ショートホープに火をつけてから、盛大に鼻から煙を吐き出しつつ言った。ヤバイ、と牛尾修二は思った。国会をめざしているとはいえ、いまのところは一介《いつかい》の県会議員にすぎない男の政治活動を助けているただの秘書|風情《ふぜい》に、犯人が一億円の身代金を要求してきたことに、蛭田貫一は不審を抱いているのではないか、と牛尾修二は考えたのだ。そう言えば、馬場秋子が娘を誘拐されながら、その夜は犯人が電話をかけてくるはずの場所に、その娘の�父親�と一緒にいなかったことにも、蛭田貫一は不自然な感じを抱いた気配がある。このしょぼくれた印象の小男の私立探偵は、仕事の成否はツキと根気だなんて頼りないことばかり口にしているけれど、ほんとうはボスの前ぶれどおりの凄腕の男なのかもしれない、という気も牛尾修二はしてきた。 「たしかに一億円というのはべらぼうな要求です。ぼくなんかにはとても工面《くめん》できない金額ですよ」  牛尾修二は言った。そのときチャイムが鳴った。馬場秋子がやってきたにちがいない、と牛尾修二は思った。 「ちょっと失礼します。秋子が来たようです」  牛尾修二は立ちあがって、応接室を出た。彼は新たな緊張を覚えた。馬場秋子が話に加わって、彼女がうっかりしたことを言えば、みちるの父親が牛尾修二であるという作り話はピンチに見舞われるのだ。牛尾修二はそれを心配した。蛭田貫一は見かけによらず鋭いところを持った男かもしれないのだ。どんな隙《すき》を突いてくるかわからないぞ——。  いまはそのことしか牛尾修二の頭にはなかった。隠し子の父親の作り話がばれてしまうことより、誘拐犯人を突き留めることのほうが大事だ、ということを彼は忘れていた。  ドアののぞき穴にあてた牛尾修二の眼に、大きなサングラスと大きなマスクを当て、頭からすっぽりとネッカチーフをかぶった女の顔が見えた。 「私立探偵の人、見えたの?」  玄関に入ってくるなり、馬場秋子が言った。言いながら彼女はネッカチーフを取り、サングラスをはずし、マスクを取った。取り去られたものの下から、誘拐事件の証拠になるはずの顔が現われた。頬の殴られた跡の痣《あざ》は、前の晩より大きくなって、色も黒ずんだものに変っていた。切れて脹《は》れあがっている唇には、テープが派手に貼られていた。化粧はしていなかった。 「気をつけて話すんですよ。みちるちゃんの父親はぼくですからね」  ブーツを脱ぐために前かがみになった馬場秋子に、牛尾修二は囁《ささや》いた。馬場秋子はタイトル戦を戦ったあとのボクサーのような顔を上げて、無言でうなずいてから口を開いた。 「あれから犯人は何か言ってきたの? オトウサン」  馬場秋子の声は、びっくりするほど大きかった。いくらなんでも、その声のとってつけたような大きさと�オトウサン�は、やりすぎじゃないか、と牛尾修二は思って、また作り話の危機を感じた。     4  馬場秋子が応接室に入っていくと、蛭田貫一が手帳に何かメモしていた手を止めて、顔をあげた。その拍子《ひようし》に、蛭田貫一がくわえていたたばこの灰が、丸くふくらんだようになっている彼のズボンの膝の上に落ちた。  そうした蛭田貫一のようすと、彼の冴えない印象の顔と、糸のように細くて眠っているようにしか見えない眼を見て、馬場秋子はひそかに安堵《あんど》した。ほくそえみたくなった。 (テレビドラマのコロンボ刑事も冴えない見かけの男だけど、コロンボは眼は大きいわ。こんな細い眼をした、ゴボウの尻尾《しつぽ》みたいな探偵なら、誘拐犯人を突き留めるのはまず無理ね。安心してもいいんじゃないかな、圭子……)  馬場秋子は胸の奥で鳥飼圭子に向って呟《つぶや》きかけながら、しかし肩は力なく落としてソファの前に行った。顔では娘を誘拐された未婚の母親の芝居をする必要はなかった。痣《あざ》のひろがった、唇のはれあがった自分の顔が、下手な芝居以上に、悲劇のリアリティを備えていることを、馬場秋子は知っていた。 「馬場秋子です。こちら、私立探偵の蛭田さんだよ、秋子」  牛尾修二が紹介した。蛭田貫一は、手帳を持ったまま立ちあがった。 「誘拐されたみちるの母でございます。このたびはご面倒なお願いをしまして、ほんとにご厄介《やつかい》をかけます。どうかみちるを無事に連れ戻してください。この人が、みちるという隠し子のいることをどうしても世間に知られたくないって言い張って、警察に届けさせてくれないんです。ですからわたしとしてはもう、蛭田先生のお力におすがりするしかないんです。どうかよろしくお願いいたします」  土下座せんばかりにして、馬場秋子は言った。蛭田貫一は何か口の中でボソボソと言っただけで、すぐにソファに腰を戻した。 「ひどい顔になりましたね」  蛭田貫一がまっすぐに馬場秋子に顔を向けていった。それから彼は、みちるが誘拐されたときのようすを話してくれ、と馬場秋子に言った。あんたの顔だって相当ひどいわよ、そっちは生れつきのひどさでしょ——と心の中で言い返しながら、馬場秋子はひどいと言われた顔をわざとひどくなるように歪《ゆが》めて、探偵の質問に答えた。蛭田貫一はときどき手帳に何か書きながら、馬場秋子の話を聞いていた。馬場秋子は、探偵が何をメモしているのか、気になった。だが、相手の眠っているようなしょぼくれ顔は変らなかったので、この男にそんなたいしたことがメモできるはずはない、と思うことにした。 「牛尾さんが事件を警察に届けなかったのは、隠し子がいることが世間に知られるのがいやだからだということですが、あたしなら一億円もの身代金《みのしろきん》を犯人に払うよりは、世間に恥をさらすほうを選ぶかもしれないなあ」  馬場秋子の話が終ると、蛭田貫一がそう言った。明らかに、誘拐事件を警察に届けていないことを不審に思っている口調だった。 「そうですよね、蛭田先生。わたしもそう言ったんです。でもこの人は絶対に警察には知らせるなって言ってきかなかったんですよ」 「馬場さん。センセイは困るなあ。あたしの仕事は人さまに先生って言われるようなもんじゃないんですから、それ、やめてください」 「はい……」 「どうです、牛尾さん。これからでも遅くはないですよ。警察に通報したほうがいいんじゃないかな。馬場さんもそれを望んでるんだから」  蛭田貫一は牛尾修二のほうに眼を移して言った。馬場秋子は内心で嗤《わら》った。ヘッポコ探偵は自信がないものだから、仕事を警察に押しつけて手を引こうと思っているのだ、と彼女は思った。 「困りますよ、蛭田さん。事情があって警察には届けられない事件だということでお願いして、蛭田さんは承知してくださったんじゃありませんか。いまさらそんなこと言わないでくださいよ」  牛尾修二が必死の面持ちで言った。 「いまさらったって、いまはじめてひととおり話を聞いただけですよ。話を聞いてみて、あたしはますますわからなくなってるんですよ」 「なにがですか?」 「牛尾さんが言ってる、警察に届けられない事情というやつがですよ。どうもあたしにはこれがただの身代金《みのしろきん》目当ての誘拐じゃないんじゃないかって気がしてきてるんだなあ」 「それ、どういう意味ですか?」  馬場秋子は思わず、強い口調で言った。寝呆《ねぼ》けているようにしか見えない私立探偵の口から吐かれた後のほうのことばが、彼女をドキリとさせたのだ。 「ただの身代金目当ての誘拐じゃないとしたら、何が目的の犯行なんですか?」  牛尾修二も、ドキリとしたようなようすで探偵に言った。牛尾修二にドキリとしたようなようすをさせたものが何なのか、馬場秋子にはわからず、それが気になった。 「何が目的かって訊かれたって、あたしにはわからないんだけどねえ。なんだかあたしが話を聞いた他にも、入り組んだ事情が別にあるんじゃないかって気がしたんでね。それだとあたしの手には負えないなって思うんだ」 「入り組んだ別の事情なんて、何もありませんよ。ねえ、オトウサン」 「そりゃね、蛭田さん。たしかにぼくは世間に名前を知られてる人間じゃないし、一億円の身代金を右から左に払えるような力を持ってる男でもないですよ。そういう男が、隠し子がいることを世間に知られるのを怖れて、誘拐事件を警察に届けようともしないで、身代金を黙って犯人に払おうっていうんだから、蛭田さんが首をひねりたくなるのはわかりますよ」 「そうなんだ。そこなんですよ。あたしがさっきから首をひねってんのは。牛尾さんがスキャンダルを怖れる有名人だとか、社会的な地位のある人だっていうのならわかるんですけどねえ」 「ぼくは名もない庶民です。ですが、ぼくは県会議員から国会に打って出ようという猪河原公一郎の秘書をつとめてる男なんですよ。そこんところをわかってくださいよ、蛭田さん。ぼくのしでかした不始末が世間に知られることは、大なり小なり猪河原公一郎の名前にひびくんですよ。下手すればそれが猪河原公一郎のスキャンダルにもなりかねないんです。だから警察に頼むわけにはいかないんです」  そうよ、そうなのよ、探偵さん——と、思わず馬場秋子は大きな声で言いそうになって、あわてて喉のところでことばを呑みこんだ。わが子を誘拐されて、警察の力を借りたがっている母親が、国会議員をめざしているだけで、まだ当選するかどうかも知れぬ男の体面《たいめん》なんかに大きな声で理解を示しては、話のスジが通らなくなる。そのことに馬場秋子は危ういところで気がついた。自分が誘拐事件の共犯者であることと、みちるのほんとうの父親が誰かってことと、二つを平行して隠しながら、スジの通った話をするのは、ほんとにむつかしい、と馬場秋子は思うのだった。 「なるほどね。それなら少しは話はわかりますよ。それで、猪河原公一郎という議員の先生は、みちるちゃんという子供が牛尾さんの子で、その子が誘拐されてるってことは知ってるんですか?」 「知ってます。ぼくが話しました」 「すると、身代金の一億円も、議員先生が工面《くめん》してくれることになったわけですか?」 「そうなんですよ、蛭田さん。猪河原公一郎先生という方は、とっても人情深い、話のよくわかるお人なんです。わたしも、猪河原先生がみちるの身代金を用意してくださるってこの人から聞かされたものですから、警察に届けるって気持を押えたんです。そこまで猪河原公一郎先生が心配してくださるのに、それを押し切ってまでして警察|沙汰《ざた》にするのも、猪河原公一郎先生に楯《たて》を突くようなことになると思ったもんですから」  馬場秋子は、今度はことばを呑みこまずに、一気にそう言った。それで自分がわが子の誘拐を警察に届け出ずにいた理由が、立派に説明できると思うと、彼女の口調はいやが上にもなめらかになり、声も大きくなった。うまいときに、うまいぐあいに包茎男の名前を出して、うまい嘘を並べ立てるもんだ。議員秘書というのはこうでなきゃ勤まらないのね。牛尾って男はどこか頼りなくて、こいつも親分に似て包茎じゃないかと思ってたけど、意外とヤルじゃないの——馬場秋子はそう思って、青痣《あおあざ》に囲まれた眼で牛尾修二を見た。 「そりゃ立派な議員先生ですねえ。普通は議員がスキャンダルの種作ったり、わるいことやったりして、それを秘書のせいにするってのが世間の相場なのに、おたくはその逆をいってるわけだ。もっとも、人情と物分りのよさだけじゃなくて、選挙でのイメージダウンが怖いということも議員先生のほうにはあるんでしょうから、ま、利害は一致してるとも言えるんだろうけど……」 「それもないとは言いません」  牛尾修二が眼を伏せて言って、吐息を洩らした。 「この人はいつも言うんですよ、蛭田さん。議員と秘書は一心同体、運命共同体だって」  馬場秋子は言った。牛尾修二がにらむような眼を彼女に向けた。アンタ、スコシ、ダマッテテクレナイカ、とその眼は言っているように、馬場秋子には思えた。彼女は眼を伏せた。自分でもうっかり口を開くと、余計なことを言ってしまいそうな気がしていたのだ。 「そういうことならよく事情がわかりましたよ。みちるちゃんは、牛尾さんの隠し子ではあるけれども、それが世間に知られると、猪河原公一郎氏のスキャンダルになりかねないという意味では、みちるちゃんは猪河原氏の隠し子であるのと同じようなものだ。したがってこの誘拐事件は警察の手にゆだねずに、内密のうちに解決をはかりたい、とこういうことですな」  私立探偵は、ボソボソとした口調で、まわりくどい言い方をした。馬場秋子は、いやな感じでそれを聞いた。できそこないのコロンボ刑事みたいな、タソガレきったように見えるこの探偵は、みちるのほんとうの父親が猪河原公一郎だってことを見抜いたのではないか、という気が彼女はしたのだ。そう思いながら馬場秋子は、牛尾修二に眼をやった。牛尾修二は視線を自分の膝のところに落として、唇を妙な形にすぼめていた。そのようすが馬場秋子には、牛尾修二もみちるの父親の話の嘘を探偵に見抜かれたことを感じとっていて、なんとも言えないバツのわるい思いに耐えているように見えた。  蛭田貫一が、牛尾修二の並べ立てた作り話を見抜くのは、馬場秋子にとってはそれほど困ることではなかった。だが、作り話を見抜く力と頭を、できそこないのコロンボ刑事が持っているのは、彼女には迷惑なことなのだ。馬場秋子は、自分が誘拐事件の共犯者であることまで、蛭田貫一に見抜かれそうな気がして、肛門のあたりから鳥肌が立ってくるような感じに襲われた。 「おっしゃるとおりの事情なんですよ、蛭田さん。ひとつよろしくお願いします」  牛尾修二が言って、蛭田貫一に向って頭を下げた。 「わかりました。やってみましょう。それで、身代金は犯人の要求どおりに払おうということになってるんですね?」 「猪河原がそうしてくれると言ってますのでね。猪河原はいったん身代金《みのしろきん》を払って、その上で蛭田さんに犯人を突き留めてもらえと言ってるんです」 「その上で、犯人を警察に突き出すわけですね?」 「そういうことになると思います。ですから、秋子のこのひどい顔の写真とか、犯人からかかってくる電話の声を録音テープに採るとか、そういう誘拐の証拠を蛭田さんに集めていただいて、犯人を告発するのに使おうと思うんですが、どうでしょう?」 「それはいいけど、事件を警察に知らせずに、私立探偵を雇って犯人をつかまえさせたとなると、警察はいい顔をしないと思うな。警察ってところは、メンツをつぶされると命を取られたぐらいに思っちゃうから」 「そういうことを猪河原も言ってました。猪河原は、蛭田さんが犯人を突き留めて、その犯人たちが身代金をそっくり返してくれば、警察に突き出すことまでしなくてもいい、とも言ってるんです」 「それはある意味じゃ利口なやり方と言えるかもしれませんね。警察に犯人を突き出して、事件が新聞ダネになれば、猪河原氏の秘書の隠し子の誘拐ということで、猪河原氏の名前まで記事に書かれないとは限りませんからね。それを書かれるのはいいとして、勘ぐることの好きな世間だから、誘拐されたのはほんとは秘書の隠し子じゃなくて、親分の猪河原公一郎の隠し子じゃないかなんてねえ、痛くない腹さぐられたりしたら、猪河原氏としては迷惑でしょうしね。そうでなくても、秘書のやったことは親分の先生のやったことって、世間は思いますからな」 「その心配は大いにあります。ですから、あるいは犯人を突き留めていただいた上で、身代金を取り戻す折衝《せつしよう》のほうも、蛭田さんにお願いすることになるかもしれません」 「ま、そいつは犯人を突き留めてからの話にしませんか」  蛭田は言って、手帳をポケットに入れた。馬場秋子はまたしても、牛尾修二の話の持っていき方の巧みさに感心した。犯人を警察に突き出すという話から、それをどういうふうにして、身代金を取り返して内密に始末をつけるというところに持っていくのだろうか、とハラハラしながら彼女は牛尾修二の話を聞いていたのだ。  だが、私立探偵がみちるのほんとうの父親が猪河原公一郎ではないかと見抜いているせいもあるのだろうが、牛尾修二はスンナリと自分の思っているところに話を持っていってしまったのだ。この男は親分とちがって包茎ではないのかもしれない。見かけによらず、立派なお道具を持っているのかもしれない、と馬場秋子は思った。 「電話は一本だけですか? 線は」  蛭田貫一が、膝の横のソファの上に置いてあった、ヨレヨレのレインコートを手で持ちあげながら言った。 「二本引いてあります。この応接室と、向うの事務室です。事務室のは、その奥の和室の電話と親子になるホームテレフォンです」  牛尾修二が説明した。蛭田貫一は、レインコートのポケットから、小型のカメラと、小型のテープレコーダーと、馬場秋子には何だかわからない小さな器具を、つぎからつぎに手品みたいに取出して、テーブルの上に並べはじめた。 「犯人はどっちの電話にかけてきてるんですか? 牛尾さん」 「事務室のほうの電話でした。二回とも」 「そりゃ助かるな。事務室の電話は親子になってるってことでしたね。子のほうの電話で犯人の話があたしも一緒に聴けるんだ。これがほんとの隠し子、なんてね」  蛭田貫一は言ってニヤリとした。馬場秋子も危なくつられて笑ってしまうところだった。牛尾修二は、探偵が口にしたシャレが通じなかったようすで、表情を変えなかった。     5 「やっと眠ったみたい」  ベッドのある部屋から、鳥飼圭子が出てきて、犬塚昇に小声で言った。  人質のみちるは、昼食のモスバーガーのハンバーガーを少しだけかじると、家に帰りたい、と言ってぐずりはじめた。それを鳥飼圭子がなだめすかして、昼寝をさせるところまで持ちこんだのだった。 「二時か……。そろそろ電話をかけるか」  犬塚昇は言って、たばこに火をつけた。 「向うには蛭田とかって探偵が行ってるはずよ。気をつけて話をしてね」  鳥飼圭子が言った。彼女もバージニアスリムをくわえて、火をつけた。バージニアスリムの煙と、犬塚昇が吸っているキャビンマイルドの煙が、二人の間の空間でまじり合った。 「わかってるさ。心配するな。うまくやるって」  犬塚昇は言って、ソファから腰をあげた。気をつけて話をしろ、と鳥飼圭子に言われて、わかっている、と答えはしたが、何に気をつけなければならないのか、犬塚昇はよくはわかっていなかった。  猪河原公一郎東京連絡事務所に、私立探偵の蛭田という男が詰めているのはわかっている。だが、蛭田が何かの手を打てば、猪河原公一郎の事務所に行っている馬場秋子が、そのことをこちらに知らせてくるはずなのだ。誘拐事件は警察にも知らされていない。気をつけなければならないようなことは、何もないはずだ、と犬塚昇には思えるのだ。  それでも、いよいよ一億円の身代金《みのしろきん》の受渡しについての、一回目の電話をかけるのだと思うと、身のひきしまる、といった気分が生れてくる。その緊張感が、漠然《ばくぜん》としたまま、気をつけなければならない、という思いを生んでくるようだった。  それは鳥飼圭子も同じことらしくて、彼女はソファに腰をおろして、気ぜわしそうにバージニアスリムの煙を吐き出していた。  犬塚昇は、いったん電話のところに行ってから、電話の横に灰皿がないことに気がついて、ソファの前に戻った。 「どうしたの?」 「灰皿……」 「そんならいいけど」 「なんだと思ったんだ?」 「電話するのが怖くなって、戻ってきちゃったのかと思った」 「ばか言うな。どうしてそんなもん、怖がらなきゃならねえんだよ」 「早く電話してよ、そんなら。たばこは電話してからゆっくり吸えばいいじゃない」 「いらついてんな、あんた。怖いのか?」 「ばかね。さわってごらん。また濡れてるから」  鳥飼圭子が言って、笑った眼を犬塚昇に向けた。犬塚昇は、みちるを誘拐する直前の、西新宿のマンションの地下駐車場での出来事を思い出した。  彼は吸いかけのキャビンマイルドを、テーブルの上の灰皿の中に落とした。鳥飼圭子は立ちあがった。笑った顔のままだった。彼女はピンクのトレーナーとトレパンという姿だった。鳥飼圭子がトレーナーの裾《すそ》を上に上げた。白い腹が現われた。犬塚昇はそこからトレパンの下に手をすべりこませた。 「あんたの手、冷めたい……」  鳥飼圭子が言って、くすぐったそうな忍び笑いを洩らした。犬塚昇は一億円の電話のことを一瞬忘れて、手をパンティの下に進めた。柔らかい手ざわりの陰毛の中に指をくぐらせていくと、クレバスに触れた。鳥飼圭子が少し脚を開いた。犬塚昇の指は、うるみにまみれた感じの温かいはざまを探り当てた。 「あたしって、ドキドキすると濡れてくる人みたい。はじめてわかったわ」  犬塚昇の指をそこにはさみこませたままで、鳥飼圭子が言った。 「ドキドキっていったって、ときと場合によるだろう。あんた、頭の線のつなぎ方が、どこかまちがってんじゃないのか。こんなときに濡れるなんて」 「こんなときに濡れる女って嫌い? セクシーだと思わない?」 「そりゃ思うな。けどいまはそれどころじゃないだろう」  犬塚昇は言って、そこから手を抜き取った。指の先にも、頭の中にも、もっとそこをさわっていたい、という未練《みれん》が生れていた。一億円の電話のことなど忘れて、そのまま不思議な濡れ方をする鳥飼圭子の性器に触れていたかった。 「濡れた指で電話さわっちゃいやよ。どの指だった?」 「これ……」 「舐めて」  鳥飼圭子が言った。犬塚昇は濡れているその指をくわえて吸った。それからイタリア製のサイドボードの前に行った。最初に電話の前に立ったときの緊張感がうすらいでいた。指を濡らしたせいかもしれない、と思いながら、犬塚昇は電話の受話器を取った。  受話器に送られてきたのは、馬場秋子の応答の声だった。犬塚昇は一瞬、戸惑った。電話には牛尾修二が出るものと思いこんでいたからだった。 「おれだ。牛尾はいるか?」  犬塚昇は小声で言った。返ってきたのは、馬場秋子の悲鳴だった。それが、その場にいる牛尾修二や探偵の蛭田に聴かせるための芝居だとわかっていても、いきなりの悲鳴だったので、犬塚昇はびっくりした。 「わたし、みちるの母親です。みちるはどうしてるんですか? 食事はちゃんと食べさせてくれてるんですか? あの子、怖がって泣いてるでしょう。みちるを電話に出してください。あの子の声を聴かせて。お願い!」  悲鳴につづけて、馬場秋子が勢いこんでしゃべりはじめた。真に迫った科白《せりふ》まわしに聴こえた。一億円を手に入れるために、みんな必死なんだ、鳥飼圭子なんかはおまんこまで濡らしちゃってんだから——と、そんなことを思いながら、犬塚昇は馬場秋子の声を聴いていた。 「人質は元気だ。飯もちゃんと喰《く》ってる。娘に早く帰ってきてもらいたきゃ、こっちの言うことをきくしかないぞ」  犬塚昇は言った。その電話は、探偵の蛭田が横で聴いているもの、と考えなければならなかった。だが、共犯者の馬場秋子が相手だと、犬塚昇は白じらしい気分が生れてきて、科白《せりふ》に熱がこもらなかった。 「わかってます。だからそちらの言うとおりにしてるじゃないですか。みちるの声を聴かせてください」 「こっちの話が先だ。牛尾と電話を替われ」 「お願いです。一言でいいからみちるの声を聴かせて!」 「警察に届けてんじゃねえのか? そこに刑事がいて、電話の逆探知をやるから、会話を長びかせろって指図してるんだろう。警察が入ってたなら、人質は生きちゃ帰れないぞ。わかってんのか?」 「わかってます。信じてください。警察には届けちゃいませんよ。ほんとです」 「だったらさっさと牛尾を出せ」 「いま替わります」  ようやく熱演型の女優が退場して、電話口に牛尾修二が出てきた。犬塚昇は気合を入れなおした。 「もうわかってるだろう。厄病神《やくびようがみ》だ。一億円の用意はできたのか?」 「現金はそろってる。どこに持っていけばいいんだ?」 「一億円全部そろってるんだな?」 「そうだ。全額だ」 「こまかいことは、あとでまた連絡する。身代金のほかに、もうひとつ用意してもらうものがあるんだ」 「もうひとつ? 何だね?」 「文書だ」 「ブンショ?」 「書いたものだよ。保険をかけときたいんでね」 「どういう文書がほしいんだ?」 「馬場秋子の愛人が誰で、そいつがみちるという隠し子を愛人に生ませて、そのみちるが誘拐されて、一億円の身代金《みのしろきん》をとられたってことのいきさつをそもそものはじまりから書いてもらうぜ。誘拐事件を警察に届け出られなかったほんとうの理由も書くんだ。そっちがほんとに警察に知らせてないかどうか、わかったもんじゃないけど、それはいまはどうでもいい。そういう文書を、みちるのお父っつぁんでもおっ母さんでもいいから、自分で書いて署名して、判こを押せ」 「そんなものをどうする気なんだ?」 「わからねえ野郎だな。保険だって言ってんじゃねえか」 「わからないんだよ、ぼくは。その保険という意味が」 「身代金をおれが受け取って、人質が帰ってきたとき、おまえらはおれに渡した一億円が惜しくなるかもしれないだろう。いや、きっと惜しくなるにきまってる。そして警察にあらためて事件を届け出たくなるはずだ。事件は一応終ってるんだからな。事件が終ったあとなら、そっちは猪河原公一郎大先生のコネと力のありったけを使って警察に手を回して、隠し子の父親の名前がマスコミに出ないようにすることだってできるはずだよ。時間はたっぷりあるんだからな。だからこっちはそれに対抗して、サツにパクられたらその文書がマスコミに流れるように手を打っとこうってわけだよ。わかったか、ボンクラ秘書」 「ぼくはボンクラなんてあんたに呼ばれる筋合いはないぞ。こういうことに馴れてないから頭がまわらないだけだ」 「それをボンクラって言うんだ。ボンクラとヒステリー女のせいで時間が長引いた。逆探知がやばいからこれで終りだ。文書、用意しとけよ、ボンクラ」  犬塚昇は電話を切った。     6 「待て。話はまだ終っちゃいない……」  牛尾修二はあわてて声を大きくした。だが、電話の切れる音が受話器に小さくひびいた。牛尾修二は強い舌打ちをして、いまいましい思いで送話口を手ではたいてから、受話器を戻した。彼はボンクラ呼ばわりされたことには肚《はら》を立てていたが�文書�の話で犯人が、みちるの父親として猪河原公一郎の名前を出さなかったことでは、胸をなでおろしていた。その電話は隣の和室で蛭田貫一も聴いていたのだ。 「電話、切れちゃったの?」  横に立っていた馬場秋子が言った。 「逆探知されてると思ってるらしい」 「ばかねえ。もう! 警察には届けていないって言ってるのに」 「そんなこと言ったって、犯人がそれを真《ま》に受けるわけないでしょう」  牛尾修二は言った。馬場秋子がにらみつけるような眼で眼配《めくば》せを送ってきた。彼女はさらに、牛尾修二の二の腕のあたりを、服の上から強くつねった。それで牛尾修二はハッとした。彼はたったいま自分が、馬場秋子に向って『でしょう』といったいつものていねいな口のきき方を、うっかりしてしまったことに、つねられた腕の痛みで気がついた。隣の和室には、探偵の蛭田貫一がいるのだ。蛭田貫一には、牛尾修二と馬場秋子は、隠し子までもうけた愛人関係にある、ということになっているのだ。そういう仲の男女が、こういう緊迫した事態の中で、ていねいな口のきき方をするのは不自然なことにちがいない。口のきき方に気をつけなければ、と牛尾修二は思って、自分の口を手でふさいだ。 「あたしのおっぱいでもどこでも、いいからさわって。そしたらほんとの愛人のつもりになれるかもしれないでしょう」  馬場秋子が体を寄せてきて、牛尾修二の耳にささやいた。牛尾修二はそのことばにも不意を突かれた。そのときはすでに、馬場秋子の手がすばやく伸びてきて、牛尾修二の手を取り、そのままその手をスカートの上から女陰に押し当てていた。  その手に牛尾修二は、馬場秋子の恥骨の固い丸味と、その下の布地に包まれたやわらかいものとの感触を感じとり、一瞬ドキリとして、ドキリとしたはずみのようにもうひとつの手がひとりでに伸びて、馬場秋子の普段着らしい枯葉色のセーターの上から乳房をつかんでいた。 「いいわね。しっかりその気になってくれなくちゃだめよ。先生のためなんだから」  耳もとで囁《ささや》きながら、馬場秋子が手を伸ばしてきて、牛尾修二の股間のものをズボンの上から捉え、やわらかく揉むようにしてにぎった。しかし、その手も、馬場秋子の体も、すぐに牛尾修二から離れた。乳房と女陰に触れていた牛尾修二の両手だけが、まだそこにすばらしい感触のものがあるかのように、数呼吸の間、宙に留まっていた。  そこに、隣の和室から、蛭田貫一がのっそりと出てきた。牛尾修二は妙にドギマギした気持に襲われて、宙に留まっていた両手を振り回した。 「くそ! 何が保険だ。勝手なことをほざきおって」  牛尾修二は腕を振り回しながら言った。電話を途中で切られたことに肚《はら》を立てているように見せかけたつもりだった。 「保険? 何のことなの?」  馬場秋子が訊いた。蛭田貫一が馬場秋子に視線を移して言った。 「馬場さんはいまの電話の内容はまだ知らないんですね?」 「知りません。だって、電話は途中でこの人と替わったから」  馬場秋子は怒ったような口調で私立探偵に答えた。 「あたしはまた、牛尾さんと馬場さんが、頬ぺたをくっつけ合って、一緒に電話を聴いてたんじゃないかと思ったもんだから」 「頬ぺたくっつけると、受話器の中の声が横から聴こえます? 犯人はずいぶん低い声で話してたけど……」  今度は馬場秋子は、なんだかむきになっているような言い方になった。この女はまるで、頬ぺたをくっつけ合って、二人で一緒に電話を聴かなかったのを、蛭田貫一に咎《とが》められたと思ってでもいるようだ、と牛尾修二は思った。 「聴こえるかもしれないでしょう。今度電話がかかってきたら、試してみてください。たいてい聴こえるもんですよ」  蛭田貫一は言って、和室に引き返して行った。蛭田貫一の言い方も、馬場秋子が電話を横から聴こうとしなかったことを咎めているわけではないだろうが、言い方が少ししつこいように、牛尾修二には思えた。  私立探偵も馬場秋子も、こういう事態の最中だから、気が立っているせいだ、と牛尾修二は考えた。気が立っていて、いつもとは神経のぐあいもちがうありさまになっているからこそ、馬場秋子は自分の乳房や股間をさわらせたり、自分でもこっちの股間に手を伸ばすようなことをしたのだろう、というふうにも牛尾修二は考えた。そう考えながら、しかし牛尾修二は、まだそれぞれの手に残るなんとも言えないエロティックな感触を、宙《そら》で味わいなおしていた。そうやって思い返しているときのほうが、実際にエロティックなものに触れたときよりも、生なましさが増していた。  和室に入っていた蛭田貫一は、すぐにそこから引き返してきた。手には小型のテープレコーダーを持っていた。  蛭田貫一は、テープレコーダーを事務机の上に置き、スイッチを入れた。カセットテープから、犯人と馬場秋子の声が流れてきた。 「電話の録音、うまく行ったんですね」  牛尾修二は私立探偵に言った。蛭田貫一は無言でうなずいてみせて、たばこをくわえ、使い捨てのライターをつけた。馬場秋子は立ったままで、事務机の端を両手でつかむようにして、カセットテープが送り出してくる犯人と彼女自身の、押し問答のようなやりとりに耳を傾《かたむ》けていた。  やがて、カセットテープは、犯人と牛尾修二とのやりとりに替わった。蛭田貫一が吸っているショートホープの先から、灰が小さな塊となって事務机の端に落ちた。蛭田貫一はゆっくりとかがみこんで机の上に顔を近づけ、息を吹いてたばこの灰を床に飛ばした。無意識の動作のように、それはなめらかに見えた。そういう不作法《ぶさほう》なことを自分がしたことに、本人は気がついていないのかもしれない、と牛尾修二は思った。  牛尾修二は、机の上にあった小さなガラスの灰皿を、蛭田貫一の立っている前の机の上に移した。するとおどろいたことに、私立探偵は今度はさっきと同じようにして、灰皿の中の灰を息で吹きとばそうとした。牛尾修二はあわてて灰皿の上に手をかぶせた。 「あ、いけねえ。失敬、失敬。たばこの灰を見ると、フッと吹いて吹きとばす癖がついちまってるんです。条件反射だな、こりゃ」  蛭田貫一は笑って言った。この探偵は相当な変り者なのかもしれない、と牛尾修二は思って、怖る怖るといった気分で、灰皿の上から手を引いた。 「どういうの? これ」  犯人と牛尾修二とのやりとりの録音が切れると、馬場秋子が机の端をつかんでいた手を放して言った。 「どういうのって、何が?」  牛尾修二は言った。 「あなたが電話で文書とか保険とかって言ってたから、何の話かと思ってたら、こういうことだったのね」  馬場秋子が言った。 「どうします? 牛尾さん。犯人の言ってる保険用の文書、書きますか?」  蛭田貫一がショートホープの灰を灰皿に落としながら言った。その眼の前で、馬場秋子が大きく手を横に振ってことばをはさんだ。 「この人はだめです。そんな文書は書きたがらないにきまってるわ。この人はなにかというと、猪河原先生のためだって言うんです。猪河原先生に迷惑がかかるといけないから、離婚もしない、みちるも隠し子のままにしといてくれって、いつも言ってる人だから。その文書、わたしが書くわ」 「しかし、犯人は猪河原公一郎大先生の秘書の直筆で署名入りの文書にしろと言ってますよ、馬場さん」  探偵が言った。 「そんなのどっちだって同じでしょう。みちるの父親が猪河原先生の秘書の牛尾修二だってことが証明されさえすれば、犯人にとっては保険になるはずですもの」 「それはそうだが、万が一その文書がマスコミに流れるようなことになったら、たとえ馬場さんが書いたものでも、猪河原先生に迷惑がかかるという牛尾さんの危惧《きぐ》はそのまま残るわけですよ。いいんですか? 牛尾さん」  牛尾修二は返事に困った。彼は頭が混乱するのを覚えた。困る理由がいくつもあるように思えたからだった。だが、それがいったいいくつかぞえあげられるのか、牛尾修二は咄嗟《とつさ》には思い浮かばなかった。  それは思い浮かばなかったが、いくつもの困る理由を生み出している大本《おおもと》は、みちるの父親が牛尾修二自身である、というふうに、嘘の話を私立探偵にしてしまっていることにあるのだ、ということはすぐに彼にもわかった。  犯人が保険に使うという文書を、たとえ馬場秋子が書くとしても、それを身代金と一緒に犯人に渡すかどうかは、猪河原公一郎に相談なしでは決められない、と牛尾修二はまず考えた。犯人はみちるの父親が猪河原公一郎であることを知っているのだ。  私立探偵についているような嘘は、犯人には通用しない。要求に従って文書を犯人に渡すとなれば、その中にはみちるのほんとうの父親の名前が書かれることになる。その文書を私立探偵が読みたいと言い出したら、それまでの嘘がいっぺんにばれてしまう。そういう厄介《やつかい》な問題をいくつも孕《はら》んでいるのに、馬場秋子が簡単にその文書を自分が書く、などと言い出したことも、困る理由のひとつなのだ、と牛尾修二は胸の中でぼやいた。  それを馬場秋子が書くのはいいとしても、書いたものが探偵の眼にふれたら、隠し子のほんとうの父親が誰かということが、いっぺんにわかってしまうではないか。馬場秋子はわが子を誘拐されて動転している。冷静さを失って、物事が見えなくなっている。ここはなんとかとりつくろっておかなければ——牛尾修二はそう思って、口を開こうとしたが、その前に馬場秋子がヒステリックな口調で口を開いた。 「蛭田さん。この人はいつもこうなんです。自分が都合がわるくなると、貝みたいに口を閉じて黙りこんでしまう人なんです。わたし、犯人が言ってる文書、書きます。犯人を怒らせたら、みちるは殺されるかもしれないもの。みちるの命がいちばん大事だわ。みちるを見殺しにしてまで、わたしはこの人や、猪河原先生の体面《たいめん》を守ってあげるつもりはないわよ。いいわね、あなた」  突き刺すような馬場秋子の視線が、牛尾修二に向けられた。 「馬場さんの言うのはもっともだな。あなたがそれを書くと言えば、誰もそれを止められないわな。母親なんだから。じゃあ、馬場さん、それ書いといてください。あとで読ませてもらいますから」  蛭田貫一が言った。牛尾修二は、そらきたと、思った。とたんに馬場秋子が、突き刺すような視線を今度は私立探偵に向けた。 「どうしてそれを蛭田さんに見せなきゃいけないんですか。そんなのプライバシーの侵害でしょうに。犯人を突き留めるのに、わたしの書いた文書に眼を通す必要があるっておっしゃるのなら、身代金《みのしろきん》の一億円も、一万円札を一万枚全部、眼を通さなきゃならないってことになるわよ。そうでしょう」  すごい見幕《けんまく》で馬場秋子はまくし立てた。牛尾修二はおどろき、同時に感心した。なるほど、馬場秋子の言うとおりだ、と思った。私立探偵に犯人を突き留めることを依頼はしたが、だからといってプライバシーのすべてをさらけ出す必要はないのだ。馬場秋子の言い分にスジが通っていようといまいと、あのような見幕で、あのようなことを言えば�文書�を蛭田貫一に見せずにすむではないか——。 「おっかない人だな。そう怒鳴ることはないでしょう。わかりましたよ。文書は読ませてもらわなくても結構です。なに、ちょいと職権乱用で、あなたたち二人の仲のいきさつをのぞき見したいと思っただけなんだから。犯人は二人のなれそめのはじめのいきさつから書けって言ってたんでね」  蛭田貫一はケロリとした口調で言った。その口もとにはうっすらと笑いがひろがっていた。何か気になる笑いだ、と牛尾修二は私立探偵の横顔を見ながら思った。  私立探偵は、ほんとうに自分ののぞき趣味が邪魔されたことを、照れくさく思って笑ったのだろうか。それとも�文書�を見せることを拒《こば》んでいきり立った馬場秋子のようすから、探偵はみちるのほんとうの父親が猪河原公一郎であることの、強い手応えを感じとったために、思わずうす笑いを浮かべたのだろうか——牛尾修二は考えてみたが、どちらとも答をきめかねた。     7  みちるはまだ昼寝をつづけていた。  時刻は二時半になっていた。犬塚昇はイタリア製のサイドボードの前に立って、電話の受話器を取った。  光沢のあるサイドボードの天板に、うっすらと犬塚昇の顔が映っていた。ボクサー時代といっても、ついこの前なのに、そのころにくらべると彼の顔はずいぶんふっくらとしていて、それが自分でもわかった。  サイドボードの天板に映った自分の顔が眼に入ったとき、犬塚昇はなぜだか不意に、自分がかつての自分ではなくなってしまっていることを、あらためてふっと思い知らされた気がした。それは、みちるの誘拐に手を貸すことを決めたときも、実際にそれを実行したときも、犬塚昇の中に生れてくることのなかった思いだった。  犬塚昇には、その思いはいやな感じのものだった。彼はそこに映っているふやけたような自分の顔から急いで眼をそらし、電話の番号ボタンを押した。  今度ははじめから牛尾修二が電話に出た。 「ボンクラかい?」 「厄病神《やくびようがみ》だな」 「文書は書いてるか?」 「そのことで話がある」 「文書を書くのは勘弁《かんべん》してほしいという話なら聞かないぜ」 「そういうことじゃない。書くものはちゃんと書く。ちゃんと書くが、書き手はぼくじゃなきゃだめだってことはないだろう? じつは馬場秋子が書くと言ってるんだ」 「いいだろう。母親が、この娘の父親はダレソレですって書けば、父親が書いたも同じことだろうからな。けど、あんたはどうして書かないんだ?」  犬塚昇は、笑いたくなるのをこらえて言った。私立探偵の前で、やりたくもない隠し子の偽《にせ》の父親役を、一所懸命につとめている牛尾修二を、少しからかってやりたくなったのだ。 「そんなことはどうでもいいだろう。どっちが書いても同じだって、あんたが今言ったばかりじゃないか。それより、身代金《みのしろきん》の受渡しをどうするつもりなんだ?」 「そっちには携帯電話はあるか?」 「ある」 「車には電話がついてるのか?」 「それもついてる」 「それならいい。最終的な連絡は、電話でする。いつでも受渡しの場所に行けるように用意しとけ。一億円は新宿駅の構内のコインロッカーに入れとけ」 「コインロッカーに一億円を? どういうことだ?」 「どういうことか、おまえはわからなくてもいいんだよ」 「受渡しするのは、現金じゃなくて、コインロッカーの鍵でやろうってことかね?」 「おまえは何も知らなくていいんだよ。言われたとおりにするだけでいい。ボンクラのロボットはな」 「受渡しに出向くのはぼくでいいんだな?」 「それもあとで連絡する」 「あと、あとと言われても困るんだよ。ぼくだってここにずっと詰めてるわけにはいかないんだ。外に出て行かなきゃならない用だってあるんだし」 「ヒステリー女がいるじゃないか」 「みちるの母親のことか?」 「そうだよ。あんたが外に出かけてたって、ヒステリー女が車の電話か携帯電話で、こっちの電話の連絡をとりつげばすむことだぜ」 「そりゃそうだが……」 「何を心配してるんだ? そんなに。身代金の受渡しについての段どりがあらかじめわからなきゃ、刑事たちを張込ませるのに手間どっちまうって、警察に言われたんだろう」 「何回言えばわかるんだ。警察には知らせちゃいないって言ってるじゃないか」 「だったら言われたことだけを、まちがいなくやってればいいんだよ」 「コインロッカーの鍵は、ぼくが持っててもいいんだな? 外出するときも」 「好きにしろ。身代金と一緒に、文書も入れとくんだぞ。忘れるなよ」 「わかってる」 「一億円は何に入れてコインロッカーまで運ぶつもりだ?」 「大きな黒の布製のスポーツバッグだ。かなり重たいぞ」 「だろうな。こっちにとっちゃうれしい重さだが、そっちにしてみりゃ肚《はら》の立つ重さだろうな。ごくろうだが運んでくれたまえ。ほんじゃまた……」  犬塚昇は電話を切った。みちるの声を聴かせてくれ——そういう声が追いかけるようにして受話器にひびいたが、犬塚昇はそれを無視した。 「まずはそこまでね」  ソファでバージニアスリムを吸っていた鳥飼圭子が言った。 「身代金をコインロッカーに入れろって言ったら、牛尾の奴はびっくりしてたよ」  鳥飼圭子と並んでソファに腰をおろして、犬塚昇は小声で言った。鳥飼圭子はうれしそうな笑顔を見せた。 「そりゃそうよね。現金の受渡しなら一回ですむのに、コインロッカーを使えば、むこうは犯人と接触する機会に二度も恵まれるわけだもの。ロッカーの鍵を渡すときと、ロッカーの金を犯人が取り出すときと……」 「犯人のほうが、どうしてそんなありがたいチャンスを二度もわざわざ恵んでくれるのか、牛尾はわからなかったみたいだぜ」 「私立探偵にもわからないと思うわ」 「わかったってどうってことはない。わかって奴らが何か手を打てば、秋子さんが知らせてくるはずだもんな」 「そのときはまた別の手を考えるわよ。コインロッカーと聞いて、向うがまごついて、一所懸命に頭をひねる。それがこっちの狙いなんだから」 「奴らが何も手を打たずにいるとしたら、探偵は一億円を入れたコインロッカーのところに張込むにきまってる。こっちは牛尾を別のところに呼び出して、ロッカーの鍵を受け取って、しばらく奴を動けないようにする。それで向うは人手を二つに分散させられることになる。こっちは秋子さんが探偵の人相なんかをそのうち知らせてくるはずだから、ロッカーを開ける前に張込んでる探偵の眼をごまかすだけでいい。探偵の眼をごまかすのは簡単だ。変装しちまえばすむことだからな。こっちが人質を解放するまでは、向うはこっちに手を出せない。コインロッカーからおれが一億円を出すところを見ていても、探偵は何もできない。尾行するのがやっとだ。尾行させて、人目につかないところでおれが探偵を叩きのめす。それで終り。まったくうまい手をあんた考え出したよな。バージニアスリムで頭をいつもすっきりさせてるせいかな」 「ばかね。向うが警察に通報していないってことがはっきりしてるからこそ、使える手なのよ。頭がすっきりしてなくったって、こんなことぐらい誰でも思いつくわよ。向うの頭を混乱させるのと、人数を分散させるのが、コインロッカーのアイデアの味噌《みそ》なのよ。もし向うの探偵が、こっちの狙いを見破って、仲間の探偵の応援を集めたりするようだったら、直接現金の受渡しってことになるわよ。そうなったらあんた、わるいけど重たい一億円をかついで死物狂いで走るようなこともしなきゃならないかもしれないんだから、がんばってね」 「まかせとけって。おれ、ボクシングで頭殴られてるせいか、あんたみたいにアイデアはひらめかないけど、体には自信あるからな」 「アイデアがひらめかないのは、ボクシングで殴られたせいじゃなくて、まだセックスが足りないからじゃない?」 「溜まってるものが抜け切ってないのかな」 「そうよ。抜いてあげようか……」  鳥飼圭子は全身で犬塚昇に寄りかかってきて、ニッと笑った眼で彼を見上げた。鳥飼圭子の笑った唇の間から、濡れたピンクの舌がそそるような感じでのぞいていた。犬塚昇はその舌にも、粘っこく笑った鳥飼圭子の眼差《まなざ》しにも、やわらかくもたれかかっている彼女の体のはずむような重みにも、十二分にそそられた。  犬塚昇は、鳥飼圭子の肩に腕を回して、唇を重ねた。鳥飼圭子がすぐに舌を伸ばしてきた。その舌はたちまち犬塚昇の舌をねっとりと絡《から》め取った。犬塚昇は鳥飼圭子のトレーナーの裾から手をさし入れた。彼女はブラジャーをつけていなかった。  乳房に手を押しかぶせながら、犬塚昇はアコーディオンカーテンの向うの気配をうかがった。何の物音も聴こえなかった。幼ない人質はまだ昼寝の最中のようすだった。みちるが昼寝にみる夢は、恐怖と不安に彩《いろど》られているのではないか、というような思いが、欲望で熱をおびはじめている犬塚昇の頭のどこか隅っこをちらとかすめて、すぐに消えた。鳥飼圭子の手が伸びてきて、彼のジーパンのベルトをはずし、ファスナーを下ろしはじめたからだった。 「脱いで。舐めてあげるから」  鳥飼圭子が耳もとで囁《ささや》いて、犬塚昇の耳たぶを甘く咬《か》んだ。ジーパンのファスナーは半分近くまで下ろされていて、トランクスの上から鳥飼圭子の手がペニスをつかんでいた。にぎりしめられたその手の中で、勃起したものがひとりでに跳ねるように躍動《やくどう》した。それを手に感じとったのが面白いのか、鳥飼圭子は小さな笑い声を洩らした。  犬塚昇は立ちあがって、ジーパンを脱いだ。鳥飼圭子がソファからすべり下りて、犬塚昇の前に回り、床に坐りこんだ。犬塚昇がトランクスを下ろそうとすると、その手を鳥飼圭子が押えた。彼女はトランクスの上から、それを突き上げているペニスに唇をかぶせ、甘く歯を立ててきた。それが犬塚昇の興奮をはげしく煽《あお》り立てた。トランクスの上からそれをくわえるというやり方も、ひどく刺激的に見えたし、布地ごしの歯の感触も、疼《うず》きを高めて、犬塚昇は思わずうめき声を洩らした。トランクスは鳥飼圭子の手で脱がされた。犬塚昇は大きく膝を開いてソファに腰を戻した。開いた膝の間に体ごと割りこんできた鳥飼圭子が、すぐにフェラチオを開始した。  ダイナミックで煽情《せんじよう》的なフェラチオだった。鳥飼圭子の舌は、亀頭の先端でヒラヒラと躍《おど》ったかと思うと、一転して陰茎の根元に移ってきて、横の面や裏側をなぞるようにしてすべり、今度は亀頭の張り出しの部分に巻きつかんばかりにまとわりついてきた。するとつぎに口唇が出番を待ちかねていた、と言わんばかりにすっぽりと覆いかぶさってきて、大きく強いストロークを見せるのだった。  そしてその間、彼女の口の中には温いなめらかな唾液がつぎつぎに溢れてきて、舌と唇に次ぐ三番目の働き手として、精妙な刺激を送りこんできた。彼女の手も休んでいることはなくて、ひとつの手はペニスに添えられたまま、主として圧迫と摩擦を送りこんでくるのに用いられ、もうひとつの手は興奮のためにひきしまっているふぐりをまさぐったり、シャツの裾から入りこんできて、彼の胸をさすったりしつづけた。  犬塚昇は、はじめのうちはソファの背もたれに体を預けて、くつろぎきった姿勢で鳥飼圭子の奉仕を受けていた。美しくてセクシーな女の、よろこび勇んだようすの奉仕と、それがもたらす蜜のような快楽が、犬塚昇を陶酔に導いた。その陶酔の中に、ときどき一億円の中の自分の取り分が誘い出す夢が加わった。ペニスが快楽に包まれていると、一億円の中の自分の取り分も、すでに手に入れたかのような気分になってきて、その気分がまたペニスが味わっている快楽を増幅させるようだった。  一億円の中の自分の取り分は三分の一だが、それに鳥飼圭子の取り分を加えると、六千万を超える額になる、と犬塚昇は思った。六千万円あれば、鳥飼圭子と二人で、何かうまい商売が始められる。商売などとケチなことを考えなくても、その六千万円で二人しておもしろおかしいひとときを遊び暮したっていいじゃないか。リングでの夢はつぶれたが、大金と美女はもう手に入ったも同然だ。それ以外に何が要《い》るというんだ——。  そう考えていくうちに、ますます犬塚昇はいい気分となり、鳥飼圭子のトレーナーを大きくたくしあげて、乳房を揉みはじめた。乳首が固く張りつめているのがわかった。その乳首を指先でつまんで揉むと、鳥飼圭子は塞《ふさ》がった口の中でくぐもった喘《あえ》ぎ声を洩らした。豊かな張りの強い乳房は、揉み立てられるたびに、強いはずみを見せて犬塚昇の手を押し返してきた。  鳥飼圭子は、フェラチオを中断することなしに、腕を上に伸ばしてトレーナーを脱ぎすてた。それから彼女は顔を上げ、犬塚昇を見てニッと笑い、自分の両手に唾液を落とし、それを胸の谷間に塗りひろげ、そこに犬塚昇のペニスをしっかりとはさみつけ、乳房に両手を当てて揉み立てるようにして、刺激を送りこんできた。 「すごいでしょう」 「気が狂いそうだよ。どこでそんなこと覚えてきたんだ?」 「いま思いついたの。このままいっちゃっても、いいのよ」  言って鳥飼圭子は深く首を折り、乳房の谷間から突き出た恰好の亀頭部に、はげしく舌をまとわりつかせてきた。 「このままいくなんてもったいない。おれにもやらせてくれ」  犬塚昇は言って、鳥飼圭子を押しのけ、ソファからおりた。鳥飼圭子はいそいそとしたようすで、トレパンとパンティを一緒におろして、足首から抜き取り、床に投げ、ソファに裸の尻をおろした。犬塚昇は息をはずませながら、床に膝を突いて、鳥飼圭子の両の乳房に手を押し当て、乳首に交互に舌を躍《おど》らせた。鳥飼圭子の陰毛が犬塚昇の腹をくすぐった。 「クリちゃんをさわりながら、乳首をそっと咬《か》んで……」  喘ぎながら鳥飼圭子が囁《ささや》いた。彼女は開いた膝を折り、両足をソファに上げていた。犬塚昇はクリトリスをまさぐりながら、乳首に歯を当てた。とたんに鳥飼圭子の口から押し殺した甘い声が洩れ、のけぞった頭がソファの背もたれの上で揺れた。 「下を舐めて。あんたにいろいろされると、どんどんよくなって、あたし、どんどん欲張りになっちゃう……」  息をはずませて、うわごとのように鳥飼圭子は言った。犬塚昇も欲張りの気持にさせられて、頭の位置を下げた。チャコールグレイの陰毛に囲まれた女陰が、あからさまな姿を真昼の光の中にさらしていた。ほころんでいるクレバスは、犬塚昇の眼には、濡れてよじれた赤い花のように見えた。そうした姿勢の鳥飼圭子のそこを、そうした角度から、しかもまっ昼間に眺めるのは、犬塚昇ははじめてだった。  うっすらとした光沢を見せて押し開かれ、クレバスの縁《ふち》に身を伏せている小陰唇は、妙に愛嬌《あいきよう》がある、と犬塚昇は思った。やわらかい包皮の中から少しだけ頭をのぞかせているピンク色のクリトリスは、とても愛らしかった。体液にまみれて鮮やかな色に輝いている襞の集まりと、その中心の小さなくぼみにしか見えない膣口のあたりは、不思議な明るさに満ちた複雑怪奇を思わせた。  そうした眺めを眺めながら、犬塚昇はとてもリッチな気分を味わった。眼を凝らすと、あふれひろがった体液は、クレバスの縁を越えて、そこの両岸に並んでいる短い陰毛とそのあたりの地肌まで濡らしていた。そのありさまが、犬塚昇の眼には鳥飼圭子の興奮のはげしさをそのまま示しているように思えて、それがまた彼の気持を熱くそそり立てた。  犬塚昇はすっかり眺めつくした気分になると、つぎにはそれを舌と唇で味わった。小さなくぼみに湛《たた》えられているうるみを、舌の先ですくって、クリトリスに移した。小陰唇を舌の先で掻き起した。クリトリスの上で小刻みに舌を躍らせたり、それを唇で捉えて吸ったりした。鳥飼圭子が犬塚昇の手を乳房に導き、そこに強く押しつけた。もうひとつの手の指で、襞に囲まれたくぼみのあたりを静かにまさぐったり、くぼみに指先を浅く沈めたりしながら、クンニリングスが続けられた。  やがて鳥飼圭子は、犬塚昇の頭を押しのけソファの上で体の向きを替えた。 「もうだめ。限界。して。うしろから……」  鳥飼圭子はソファの上に開いた膝を突き、背もたれに胸をあずけ、肩ごしにふり向いて言った。犬塚昇は立ちあがり、鳥飼圭子の形のよい尻に手を置き、腰を突き出した。体の下から伸びてきた鳥飼圭子の手が、ペニスに添えられ、導いた。犬塚昇は導かれるままに突き入れ、すっかり埋めこんでしまうと、鳥飼圭子の背中に胸を重ね、両手を乳房に回した。  鳥飼圭子が背中を反《そ》らして、腰を突き出してきた。彼女はせりあがってくる甘い声をこらえかねたように、身を揉み、髪をふり乱した。籐のソファが軋《きし》んで音を立てた。     8  猪河原公一郎東京連絡事務所のインターフォンのチャイムが鳴った。  事務所にいた牛尾修二が、インターフォンの受話器を取った。チャイムを鳴らしたのは、近くのレストランのボーイだった。牛尾修二と蛭田貫一が昼食に取った日替りランチの出前の皿を下げにきたのだ。  馬場秋子は、応接室のソファの上に、体を横たえていた。彼女は眼を閉じたまま、チャイムの音や、インターフォンで応答する牛尾修二の声や、彼が玄関に出て、レストランのボーイに出前の皿を渡す気配などを聴いていた。  馬場秋子ははげしい空腹と戦いながら、いくつか頭に浮かんでいるアイデアの検討をつづけていた。  彼女は昼食を食べなかった。いとしいわが子を誘拐された母親が、出前の日替りメニューのランチなんかをパクつくのはもってのほかと言うべきだ、と馬場秋子は自分の胃袋に強く言いきかせた。同じことを、みちるの偽の父親役を演じている、牛尾修二の胃袋にも言いきかせたかったのだが、牛尾修二は胃袋まで芝居にまきこむつもりはないようすだった。  馬場秋子がソファに横になって眼を閉じているのも、もちろん空腹のためではなくて、人質になっているわが子の安否を気づかい、事件のショックのもたらした憔悴《しようすい》のために、立っているのが辛いのだ、と見せかけるつもりからだった。  蛭田貫一は、事務所の奥の和室にこもっていた。牛尾修二は事務室からほとんど出ずに、いつかかってくるかわからない�犯人�からの電話を待ちつづけていた。和室からは蛭田貫一が録音した�犯人�との電話のやりとりのテープからの声が、さっきからくり返し洩れてきていた。私立探偵は、そうやって、そのテープを何回となく聴きつづけながら、そこから�犯人�を突き留める手がかりを探し出そうとしているのだ。  しょぼくれた風体の、ばかなのか利口なのかわからない、少し変り者であることだけは確からしい私立探偵の蛭田貫一は、すでにその録音テープから、いくつかの手がかりとなりそうな事柄を探し出して、馬場秋子と牛尾修二に披露《ひろう》して見せていた。  それは決定的な手がかりと呼べるようなものではもちろんなかったが、馬場秋子を不安にさせていた。彼女はそれを一刻も早く、鳥飼圭子と犬塚昇に知らせなければならない。そのためには、事務所を出て、外の公衆電話を使うしかないのだ。そして、事務所の外に出ていくためには、蛭田貫一と牛尾修二を納得させるような、もっともらしい外出の口実が必要なのだ、となぜか馬場秋子は思いこんでいて、さっきからその口実の検討に頭を絞っているのだった。  昼食のしばらく後で、蛭田貫一がコーヒーを飲みたいと言い出した。 「あたしは考えごとをするときは、コーヒーがなきゃだめなんだ。それも舌がしびれて、胃袋の壁がピリリとひきつるぐらいに濃いやつをブラックでがぶ飲みするんです。そうすると頭が冴える。これには科学的な根拠があるんですよ、ちゃんとね。ま、カフェインで興奮して頭が冴えるということもありますがね。それだけじゃないんだ。人間の脳味噌と胃袋は神経でつながってる。だからストレスがたまると神経性胃炎なんてのが起きるわけね。それなら胃をむちゃくちゃに刺激すれば、神経回路の道を辿《たど》って、それが脳味噌に伝わって頭の中が活性化されるはずなんだ。それでね、コーヒーはあたしの必需品なんです」  和室から事務室に出てきて、私立探偵が牛尾修二にそんなことを言っているのを聴きながら、馬場秋子はソファからはね起きた。蛭田貫一はがぶ飲みするくらいのたくさんのコーヒーを必要としている。それなら出前を取るよりも、事務所のキッチンでいれたほうがよい。事務所にコーヒーや、ペーパーフィルターなどの買い置きがなければ、自分がそれを買ってくるという口実で、外に出られるではないか、という考えが馬場秋子の頭にひらめいたのだ。コーヒーやペーパーフィルターの買い置きがあったとしても、それがなかったことにすればいい。  そう考えて、馬場秋子は応接室を出た。そしてキッチンの入口で牛尾修二と鉢合《はちあ》わせしたのだ。牛尾修二は、コーヒーは自分がいれるから、ソファで横になっていればよい、と彼女に言った。  折角《せつかく》のアイデアは、そうやって呆気《あつけ》なくつぶれてしまった。そしてそれからは馬場秋子の考えることのテーマは、コーヒーやペーパーフィルターに代る買物の口実はないか、ということに集中した。必要不可欠で、すぐにでも買いに行かなければならない物はないか——その一点に彼女の考えは向っていった。  事務所で電話が鳴った。同時に和室から流れてくる録音テープの声が止んだ。それにつづいて、牛尾修二に録音の用意ができたことを伝える蛭田貫一の声が聴こえた。馬場秋子はのっそりとソファの上で体を起した。それから急いで応接室のドアに向った。娘を人質に取られている傷心の未婚の母親の演技にとりかからなければならなかった。 「ああ、先生ですか。いまどこです? 京都のホテルですか?」  電話に出た牛尾修二の、いくらか拍子《ひようし》抜けしたような声が、応接室のドアを開けたとき聴こえてきた。�犯人�からの電話ではなくて、それが猪河原公一郎からのものらしい、とわかって、馬場秋子はソファに戻った。 「はい。蛭田さんはきてくれました。秋子もここにいます。身代金も銀行から届いてます。犯人からの電話は、きょうは二回あっただけなんです……」  事務室から聴こえてくる牛尾修二のことばで、電話の相手が猪河原公一郎にまちがいない、と馬場秋子は思った。とたんに彼女は、栄養ドリンク剤を買いに行くことを思いついた。蛭田貫一にとって、考えごとをするときにコーヒーが必需品であるように、猪河原公一郎にとっては、馬場秋子とベッドを共にする際には、栄養ドリンク剤が必需品とされていた。そのことを彼女は不意に思い出したのだ。  わが子を誘拐されて、不安と憔悴《しようすい》から食事も喉を通らなくなっている母親が、強力な栄養ドリンク剤で体力を維持しようと考えるのは、ごく自然なことであるはずだった。それが自然なら、黙って勝手に外に出て行って、それを買ってくるというのも自然な振舞いというべきだ。わざわざ私立探偵と牛尾修二に、栄養ドリンク剤を買いに行くなどとことわって出るほうが、むしろ不自然ではないか、ということにも、馬場秋子は思い至った。  猪河原公一郎の電話は、すぐに終った。それを待って、馬場秋子は応接室を出た。そのまま玄関の扉を押して外に出ると、エレベーターに乗った。呆気《あつけ》なく外に出られたことを彼女はよろこんだが、すぐに肚《はら》が立ってきた。そんなに簡単なことをするために、短いとは言えない時間をかけて外出の口実を考えあぐねてきたことが、あほらしく思えたのだ。  ちょっとの間外に出るのに、そこまで自分が苦労をしたのは、蛭田貫一に対する警戒心のせいだ、ということが、馬場秋子にはわかっていた。ばかにも利口にも見える変り者らしいしょぼくれた私立探偵が、意外に油断のならない相手なのかもしれない、という思いは、早くも馬場秋子の胸に、小さなとげのように刺さっていたのだ。  表通りに出た角に、電話ボックスがあった。その角を曲った先に、薬屋の看板が眼についた。馬場秋子は、後ろを振り向き、私立探偵も牛尾修二も自分を尾行していないことを確かめると、電話ボックスにとびこんだ。  電話には鳥飼圭子が出た。馬場秋子は電話ボックスの中から道路に眼を配りながら、話をはじめた。 「あたし。みちるはどうしてる?」 「さっき昼寝から目をさまして、ジュースを飲んだところ。いまは一人でお絵描きしてる」  鳥飼圭子は、みちるの耳を気にしているようすで、押し殺した声を送ってきた。 「あの子、お絵描きしたいって言ったの?」 「そうじゃないの。青い顔して泣きそうにしてるから、あたしがお絵描きでもしたらって言ったの」 「なに描いてる?」 「ママの顔だって言ってるけど、あたしにはなんとかただの人間の顔にしか見えないわ。あの子、絵の才能はなさそうね」 「かもしれない。父親が父親だもん」 「あんた、外から電話してるんでしょう?」 「あたりまえじゃない。近くの公衆電話。早く連絡しようと思ってたんだけど、なんか外に出にくくてさ」 「どうして? 秋子が人質になってるわけじゃないのよ」 「そりゃそうだけど、蛭田って私立探偵がさあ、なんか気になって気色がわるいのよ」 「どうして?」 「どうしようもなくヨレてる感じの中年男なんだけどさあ。見かけどおりににぶい奴かと思ってると、ときどきドキッとするようなこと言うのよ。もしかしたらこいつ、あたしのこと共犯者かもしれないって疑ってんじゃないかって気がしてくるくらいなの」 「まさか……」 「まさかと思うのよ、それは。でも、あいつはみちるの父親が牛尾じゃなくて、ほんとうは猪河原公一郎だってことは、ひょっとしたらもう見抜いてるかもしれないわ」 「そんなようなことを言ったの? その蛭田って私立探偵が……」 「うん。あいつは犬塚がきょうかけてきた二回の電話の中身を、全部録音してるんだけど、そのテープをずっとくり返し聴いてるの。まるでBGMみたいに。テープから犯人の手がかりを探し出すとか言って……」 「何か探し出したわけじゃないでしょう?」 「そうじゃないけど、けっこう鋭いことを言ったわよ」 「どんなことを言ったの?」 「電話の中で犬塚は、猪河原公一郎という名前を使わないで、みちるの父親とか、隠し子の父親という言い方をしてたのよね」 「だって、その電話は私立探偵が一緒に聴いてるかもしれないし、一緒に聞かなくても録音されるのはわかってたんだもん。猪河原の命令で、みちるちゃんの父親は牛尾だということにして、探偵に話をするってことも、あんたから聞いてたからね。だからこっちはみちるちゃんのほんとのパパの名前を電話で言うわけにいかないと思ったのよ」 「それはいいのよ、それで。ところが探偵の奴はそこに何か疑問を持っちゃってるみたいなの。人質の父親の名前をはっきり言わないのは、話し方として不自然だって。ね、鋭い指摘だと思わない?」 「まあね。それで秋子は、その蛭田って探偵が、みちるちゃんは猪河原の隠し子だってことに気がついてるんじゃないかって思ったわけね」 「そうなんだけど、あいつが見抜いてるのはそれだけじゃないんじゃないかって気がしてきたのよ」 「それだけじゃないって、どういうこと?」 「蛭田がみちるは猪河原の子供だってことを見抜いているとしたら、犯人が電話で猪河原の名前を出さずに、わざわざ回りくどい話し方をするのは、探偵の前ではみちるの父親は牛尾だということにしておこうということを、犯人も知っているせいじゃないかっていうふうに、蛭田は考えるんじゃないかって気がしてるのよ、あたしは。ヤヤコシい言い方になっちゃったけど、わかる? 圭子」 「わかるわよ。要するに、猪河原が牛尾に、みちるの父親は牛尾修二だということにして探偵に話をしろって言ったことを、犯人は知ってるんじゃないかと、だから犯人のほうがそれに話を合わせて、電話で猪河原の名前を出さずにいるんじゃないかと、そういうふうに蛭田は考えてるような気がするって、あんたは言ってんでしょう」 「わかればいいのよ。それで、蛭田がそう考えてるとしたら、みちるの父親は牛尾だということにしてあることを、犯人はどうして知ってるのかっていう疑問が、蛭田の胸に湧いてこないはずないと思わない?」 「そうなれば、そうなるとは思うわよ。だけど、そうなってるってことがはっきりしたわけじゃないじゃない。それはあくまでも秋子の推測よね」 「そりゃそうだけど……」 「いくらなんでも、犯人が電話で猪河原の名前をはっきり口にしなかったというだけのことから、秋子を共犯者かもしれないなんてことまで見抜けるとは、あたしは思わないわ。秋子の思い過しよ。論理の飛躍よ、それは」 「それならいいんだけどさあ……」 「他にはどんなこと言ってるの? 蛭田は」 「電話の会話と録音したテープに、車のクラクションの音と、どこかの幼稚園か小学校のチャイムとスピーカーのアナウンスの音が入ってるっていうのよ」 「入ってるかもしれない。あたしの部屋は下からの車の音が聴こえるし、すぐ近くに幼稚園もあるから」 「そうなのよね。あれ、ひまわり幼稚園っていったっけ。あるわよね。あたしもテープを聴いたけど、気がつかなかったの。だけど蛭田が持ってるレシーバーで聴いたら、ほんとに車の音も、幼稚園のチャイムとかアナウンスも聴こえたわ。それから蛭田は、声の感じからして、犯人はまだ二十代じゃないかってことも言ってた」 「彼、二十七なのよね」 「当ってるのよね」 「そんなの当ってるうちに入らないわよ。蛭田はコインロッカーのことで、何か言ってないの?」 「そうそう、それも言ってた。身代金《みのしろきん》を現金で受け取れば、犯人はこっちに姿をさらすのが一回ですむけど、コインロッカーに身代金を入れさせると、ロッカーの鍵をまず受け取って、それからロッカーを開けに行かなきゃならないから、危険を二回おかすことになる。わざわざそういうことをするのはおかしいって、蛭田は言ってるの。犯人は、事件が警察に知らされているかもしれないってことを考えないはずはないし、それを考えれば刑事たちの張込みを二度も突き破らなきゃならないようなやり方を選ぶはずはない。だから犯人は、絶対に警察が動いていないってことを知ってるんじゃないかって、蛭田は言うの」 「だって、人質はスキャンダルの種になるにきまってる猪河原公一郎の隠し子よ。だから猪河原は絶対に警察に届けないってことを犯人が見抜いてたって、別に不思議じゃないじゃない」 「蛭田もそれだけのことしか考えていないんだったらいいけど、あいつが、被害者の側に共犯者がいるから、犯人は警察が動いてないことを知ってるんだ、と思ってるんじゃないかって思って、あたし心配になってきたの」 「蛭田は、張込みのために、他の私立探偵の応援を頼むようなことは言ってないのね」 「それは言ってないわ」 「一億円はもう新宿駅のコインロッカーに入れた?」 「まだなの。さっき、京都に行ってる猪河原から牛尾に電話があったの。その電話で牛尾が、猪河原の代理でパーティに顔を出す予定があるから、そのときお金をコインロッカーに入れに行くって言ってたわ」 「その、パーティは何時からどこであるの?」 「新宿のホテルで六時からだって言ってた」 「秋子。何も心配することも怖がることもないわよ。あんたが蛭田を怖がってビクついてると、かえって怪しまれるわよ。もうあと何時間かで終わっちゃうんだから、肚《はら》を据《す》えててね。もう後戻りはきかないんだから」 「わかってる。怖がってるわけじゃないけど情況をそっちに報告しとかなきゃと思ったのよ。あんたの使い捨ての坊やはどうしてる?」 「ご機嫌よ」 「ただ働きの使い捨てになることも知らないで?」 「当り前よ。そんなこと知るわけないわよ」 「そんなこと疑うひまもないくらい、セックスさせてるってわけね、圭子が」 「まあね。さっきもそうだった」 「だめよ、圭子。オトコのほうがいいなんて気を起しちゃ」 「ばかねえ。いいわけないじゃない。あんなへんてこりんな棒っきれみたいなのが」 「そうよ。おたがいにへんてこりんな棒っきれとバイバイするために、ゆうべから苦労してるんだからね。それ忘れちゃいやよ、圭子」  馬場秋子は甘えるような声で言って、電話ボックスを出た。  彼女が栄養ドリンク剤のパックを抱えて事務所に戻ると、事務室からは誰かと電話で話している牛尾修二の声が聴こえた。和室からはまだ、録音テープからの声が洩れていた。  馬場秋子は応接室に入り、ドリンク剤を飲んでソファに横になった。牛尾修二が笑いながら電話の相手と話していた。誘拐事件とは関係のない電話のようだった。私立探偵も応接室をのぞきにくるようすはなかった。馬場秋子はなんとなく安心した。すると急に、口の中に残っているドリンク剤の不快な甘味が気になりはじめた。  その不快な甘さを追い払おうとして、馬場秋子は鳥飼圭子の腋の下にかすかに漂う甘い体臭と、愛液の味を思い出した。それらのものはすぐに嗅覚と味覚に記憶として甦ってきて、馬場秋子を悩ましい気分にさせた。  三章 身代金     1  牛尾修二は、午後六時近くに、新宿駅ビルの地下の駐車場に、猪《いの》河原《かわら》公一郎の紺色のシーマを停めた。  車を降りて、バーバリーのコートをはおると、牛尾修二は車のトランクルームを開けた。中には一億円の札束と、馬場秋子が書いた便箋三枚の�文書�を入れた、黒いバッグが入れてあった。  布製の黒の大きなスポーツバッグは、猪河原公一郎東京連絡事務所の押入れの中に前からあったものだった。以前にも牛尾修二は、そのバッグに札束を入れて、車である場所に運んだことがあった。運んだ場所はある現職の国会議員の自宅だった。運んだ金はそのときは身代金《みのしろきん》ではなくて、闇の政治献金だった。  その金は、猪河原公一郎が自分の会社の事業を通して生み出した裏金《うらがね》だった。それが国会議員の選挙のための裏金に流れていった。バッグはそのときの裏金の運搬用に買い求められたもので、今度が二度目の出番ということになったわけだった。  裏金は裏金として選挙に使われ、それを運ぶために新しく買い求められたバッグは、二度目の務めも身代金といういわくつきの金の運搬に使われる。金にも物にも、何か定められた運命があるのかもしれない——そういった妙な感慨を覚えながら、牛尾修二はトランクルームから黒いバッグを抱え出した。バッグはかなりの重量になっていた。  牛尾修二はそれを右に左に持ち替えながら手にさげて、駐車場の道路を進み、エレベーターに乗った。コートのポケットに押し込んである小型の携帯電話が、重たいバッグをさげて歩くのに邪魔になった。  エレベーターを降りたところは、JR新宿駅の東口の構内ホールだった。夕方のラッシュアワーを迎えて、ホールは人でごった返していた。  牛尾修二は、一億円の入った重たいバッグで、人々を押しのけるようにしながら、コインロッカーのコーナーに行った。  最初に入ったコーナーには、そのバッグが入るだけの、大型のロッカーの空きが見つからなかった。別のコーナーにようやく空いている大型ロッカーを見つけた。牛尾はバッグを半ば立てるようにして、ロッカーの中に押し込んだ。コインを入れ、施錠《せじよう》してから、扉を動かしてロックを確かめ、抜き取ったキーは手の中にしっかりと握りこんで、拳《こぶし》ごとコートのポケットに入れた。  猪河原公一郎の代理として出席することになったパーティの会場は、新宿駅の近くのホテルのバンケットルームとなっていた。歩いても十分たらずの距離だった。  牛尾修二は、駅のホールから階段を上がって、東口に出た。外の歩道も渦《うず》を巻くような人の波で埋まっていた。  赤信号で立ち止まったとき、牛尾修二はふと不安に襲われた。コインロッカーに入れた一億円が、たとえば火災で燃えてしまうとか、何かのまちがいで扉が開いてしまって、誰かが持ち去るのではないか、といった思いが頭をよぎったのだ。  そんなことはまず起りっこない、と考えて彼は不安を追い払った。すると、犯人が身代金をコインロッカーに入れさせたことの謎について、蛭田貫一が言っていたことが、牛尾修二の頭に浮かんできた。  蛭田貫一は、いくつかの仮説を立てて、その謎を解こうとしていたが、結局はこれといった答は見つけ出せずにいるようすだった。私立探偵に解けない謎が、秘書のプロにすぎない自分に解けるはずはないと思って、牛尾修二はそのことについて考えるのは止めてしまった。どんな謎がそこに隠されていようと、猪河原公一郎がとにかくいったんは身代金を犯人の手に渡そうと考えている以上は、犯人が無事に一億円を受け取ることになるのだ。  そう考えてはいたものの、実際に一億円という大金をコインロッカーに入れてしまうと、解くことを放棄していた謎が、ふたたび牛尾修二の前に立ちふさがるようにして現われてくるのだった。  その謎も頭から追い払って、牛尾修二は横断歩道を渡った。少し歩くと、歩道の人の群《むれ》がいくらかまばらになった。牛尾修二はコートのポケットから手を出し、スーツのポケットからたばことライターを取り出した。盛《さか》り場《ば》の雑踏《ざつとう》の中で、深々とたばこの煙を吸って吐き出すと、一瞬、心が軽くなった気がした。重たいバッグの運搬から肉体的に解放されたせいのようにも思えた。そして牛尾修二の気持は、これから出席するパーティのほうへと、たばこの煙のように流れていった。  そのパーティは、県会議員猪河原公一郎の地元の市で発行されているタウン誌と、文芸同人誌の創刊二十周年と十周年を祝うという主旨で開かれるものだった。  タウン誌と文芸同人誌の発行元は、同じ雑誌社だった。その雑誌社の社長で、タウン誌の編集長を兼ねている人物が、タウン誌の創刊より十年遅れて、季刊の文芸同人誌『地平線』を創刊した。親雑誌の社長は、中央の詩壇にも名前を知られている、キャリアの長い詩人でもあった。タウン誌と文芸同人誌『地平線』が、そろって区切りのよい時期を迎えたので、有志の間で祝いの集りを開こうという相談がまとまったのだった。  猪河原公一郎は、県会議員として、また猪河原産業株式会社の社長として、そのタウン誌とは名刺広告などで古くから儀礼的な交際を持っていた。創刊二十周年と十周年を祝う会に猪河原公一郎が呼ばれたのは、そういったことがあったからだった。  牛尾修二のほうも、タウン誌の編集発行人の老詩人と、個人的な交際があった。牛尾修二は、タウン誌よりもむしろ、文芸同人誌『地平線』との縁が深かった。牛尾修二は、一年に一作か二作の小説を書きあげては『地平線』の主宰者である老詩人に読んでもらう、ということをすでに十数年にわたってつづけていた。  牛尾修二が書いた小説に対する老詩人の評は、いつも似たりよったりだった。テーマと素材が観念的すぎるし、文章も力こぶが入って晦渋《かいじゆう》である、といった指摘がついてまわった。それでも二度だけ彼の作品が『地平線』に掲載されたことがあった。二度目の作品が掲載されてから、すでに四年が過ぎている。だが、牛尾修二はまだ年に一、二作の小説を書きあげることを、ノルマのように自分に課しつづけている。  猪河原公一郎の隠し子が誘拐されて、一億円の身代金を要求されている最中ではあったが、できればそのパーティに出席したい、と牛尾修二が考えていたのは、そういう彼自身の個人的な思いが、老詩人と『地平線』に対して寄せられていたからだった。  名目の上では牛尾修二は、県会議員猪河原公一郎の代理として、そのパーティに出席することになる。だが、牛尾修二自身は文芸同人誌『地平線』の会員として、パーティの会場に足をはこぶ気持になっていた。『地平線』の会員には、特にパーティの案内状などは出されていなかったが、出席する資格は立派に牛尾修二にもあったのだ。  ホテルの玄関を入っていきながら、牛尾修二は、せめてパーティの終了時刻となっている八時までは、携帯電話のベルが鳴らずにいてくれればいいが、と思った。パーティの盛りあがっている最中に、電話のベルが鳴って、犯人が身代金の受渡しについての指示を伝えてくる、といったことになんかなってほしくはなかった。ほんの二時間たらずの間だけは、猪河原公一郎の秘書であることからも、誘拐事件の渦中にある身であることからも離れて、文学的な雰囲気に浸《ひた》っていたい、と牛尾修二は願っていた。  宴会場専用のクロークは、パーティの会場のある階にあった。そこで牛尾修二はバーバリーのコートを預け、プラスチックの合札を受け取った。コートのポケットの中に押し込んでいた携帯電話だけは、いまいましい思いを抱きながら取り出して、脇にはさんだ。  会場の入口に、受付が設けてあった。カバーのかかった受付の長いテーブルには、筆と芳名帳が並べて何冊か置かれていた。牛尾修二は、会費を払って筆を取った。彼は芳名帳にためらわずに自分の名前だけを書いた。猪河原公一郎の代理だという気持は、すでにすっかり消えていた。  名前を書き終えて顔を上げると、横に来た一人の客が、芳名帳に署名をしようとしていた。その横顔に眼をやって、牛尾修二は軽い興奮を覚えた。その客はテレビでもよく顔を見る高名な作家だった。  パーティはすでに始まっていた。会場には二百人近いのではないかと思える人たちが集まっていた。金|屏風《びようぶ》を立てた正面の壇上で、白髪の初老の男がスピーチをしていた。そのタウン誌の地元の市長だった。  人々は、手に飲物のグラスを持って、私語を交しながらスピーチを聞いていた。牛尾修二は、車の運転と、いつ行なわれることになるのかわからない身代金の受渡しを控えているので、アルコールに手を出すのは慎《つつし》まなければならなかった。それがいまは牛尾修二にとっては、この上なく残念なことに思えた。このパーティだけは、心ゆくまで酒を飲んで、知合いの誰彼《だれかれ》となく話を交して、ゆっくりと過したかった、と彼は思った。  つぎつぎに司会者が来賓客の名前を呼んで、壇の上に招き、スピーチを求めていった。受付で牛尾修二が見た高名な作家も呼ばれた。その他にも、牛尾修二が名前と顔を覚えていて、作品も読んだことのある作家や、名前だけしか知らない作家や、何人かの詩人たちが、お祝いのスピーチをした。そうした人たちはすべて、タウン誌と『地平線』の主宰者である老詩人の友人や知己《ちき》たちだった。  スピーチがひととおり終ったところで、牛尾修二は人垣《ひとがき》の中を進み、正面の壇のそばで人々に囲まれている老詩人のところに足をはこんだ。猪河原公一郎の欠席の詫《わ》びと、お祝いの挨拶と、牛尾修二自身の祝いのことばを老詩人に述べるためだった。  老詩人を囲んでいるのは、スピーチをした作家や詩人たちだった。そこに向けてカメラのストロボが光り、ビデオカメラのライトが浴びせられていた。牛尾修二は、気おくれを覚えて、その輪の中に入っていくのがためらわれた。同時に彼は、文学的な香気《こうき》がその輪の中から立ちのぼり、自分がそのすぐそばに立っていることに、浮き立つような心の昂《たか》ぶりを味わっていた。  老詩人を囲む人々の顔ぶれが、少しずつ変っていった。それにつれて、牛尾修二が感じていた高尚な文学的香気がそこからいくらか薄れていった。  牛尾修二はようやく老詩人の前に行って声をかけ、二人分の挨拶をすませた。 「どう? 書いてる?」  挨拶に応えてから、老詩人がにこやかな顔で牛尾修二に言った。 「なかなか読んでいただけるような自信作はできませんが、書くことを止めるつもりはありません」 「冗談言っちゃ困るよ。自信作なんてものがそう簡単に書けるわけはない。芸術は持続ですよ、つまるところね」 「持続……。そうですね、ほんとに」 「あなたのように、政治家の秘書という現実のせめぎ合う坩堝《るつぼ》のようなところに身を置いている人こそ、ほんとうに白熱した現代の小説が書けるはずですよ。ぜひ書いてもらわなくちゃ」  老詩人はそう言って、牛尾修二の肩ごしに視線を投げ、誰かに向って会釈を送った。牛尾修二もつられてうしろを振り返った。有名な洋画家が、にこやかな笑顔で老詩人のほうに足をはこんできた。牛尾修二は、がんばって小説を書くからまた批評してほしい、という意味のことを老詩人に言って、その場を離れた。『白熱した現代小説が書けるはず』だと言った老詩人のことばが、牛尾修二の頭の中で、それこそ白熱した光を放つ飛行物体のようにとび回っていた。けれども『白熱した現代小説』というもののイメージは、少しも彼の頭の中には浮かんでいなかった。  会場には文芸同人誌『地平線』の編集同人や会員たちの顔もたくさん並んでいた。牛尾修二は、その中の顔見知りや親しい相手の何人かと、きれぎれのやりとりを交した。話題のほとんどが、スピーチをした作家や詩人たちの印象や、その人たちの作品についての、ほとんど思いつきに近いと思える批評などだった。  途中でタウン誌の地元の市に伝わる、郷土芸能の舞いと踊りが、アトラクションとして披露《ひろう》された。そして最後に老詩人のお礼と、タウン誌、文芸同人誌双方にかける新たな抱負を語るスピーチがあって、パーティは閉会となった。  牛尾修二は、アルコールは控えていたが、久しぶりに文学的な雰囲気を味わって、いささか酔ったような気分になっていた。酒が入っていたら、もっと心地よく気分が昂揚して『地平線』の同人や会員たちの会話にも、さらに多弁になっていたかもしれない、と心残りも覚えた。  クロークは混雑していた。牛尾修二は、ずっと小脇に隠すようにしてはさんでいた携帯電話が、パーティの間、沈黙を守り通してくれたことに感謝した。  パーティがもたらした牛尾修二の昂揚した気分は、しかし長くはつづかなかった。  新宿駅ビル地下の駐車場に行き、車のドアを開けようとして、コートのポケットに手を入れて、牛尾修二は首をひねった。そこに入っているはずの車のキーがなかったのだ。ズボンと上衣のポケットも調べてみたが、キーはなかった。コートのポケットから出てきたのは、コインロッカーの鍵だけだった。  首をひねりつづけながら、牛尾修二はコートのポケットに穴があいていはしないか、と思って調べてみた。穴はあいていなかった。穴があいていない限り、車のキーを落としてしまうはずはなかった。ズボンと服のポケットも、穴などあいていなかった。狐につままれた気持でいるうちに、牛尾修二は奇妙なことに気がついた。バーバリーのコートの内側にあったはずの、牛尾のローマ字のネームが消えていたのだ。  そんなはずはない——胸の中でそう呟《つぶや》いたとたんに、牛尾修二は頭から一気に血がひいていくような衝撃に見舞われた。彼はひきむしるような勢いでコートを脱いだ。バーバリーのコートにはちがいなかった。だが、どこにも彼のネームはついていなかった。よく見ると、同じバーバリーのコートでも、それは牛尾修二自身のものよりもくたびれていて、襟《えり》のところにはうっすらとした垢《あか》の汚れがついていた。  牛尾修二は眩暈《めまい》を感じた。いったん頭からひいていった血が、逆流をはじめて頭にかけのぼってくる気がした。頭の中は冷めたいのに、顔がはげしく火照《ほて》っていた。パーティの行なわれたホテルの、宴会場専用のクロークの、混雑したようすが、悪夢の中の光景のように、牛尾修二の脳裡《のうり》に甦《よみがえ》ってきた。ごった返していたクロークの係員が、まちがえてコートを渡したのだということは、もはや疑いようがなかった。  問題はしかし、コートでもなければ、コートと共に誰かの手に渡った車のキーでもなかった。コートの中に入っている、コインロッカーの鍵だった。一億円の身代金が入れてある、コインロッカーの鍵だった。  牛尾修二は今度は、目の前がまっ白になるのを覚えた。自分の心臓の躍るような鼓動《こどう》の音が、耳もとで打ち鳴らされるドラムの音のように聴こえた。彼は自分のものではないことがはっきりしたコートのポケットに手を突っ込み、ふたたびそこからコインロッカーの鍵を取り出した。その鍵もコートと同じように、自分が使っているロッカーの鍵ではないのがわかっていた。わかっていたが、まちがえられたコートとコートの間で、ロッカーの鍵だけが入れ替わって、いま手にしているのが自分が使用中のロッカーのものである、ということが実際に起らないとも限らない、と牛尾修二は本気で考えた。  彼はポケットから出したロッカーの鍵を凝視《ぎようし》した。一億円を入れたロッカーのナンバーは、ぼんやりとしか覚えていなかった。だがいま手にしている鍵のナンバーが、うろ覚えのナンバーとはまったく別のものであることだけははっきりした。奇跡は起きなかったとわかって、牛尾修二は叫び声とも呻《うめ》き声ともつかない声を洩らした。  彼は脱いだコートをひっつかみ、ガラクタ同然のロッカーの鍵を恨みをこめて握りしめて、エレベーターめがけて突進した。いまにも、身代金の受渡しを指示する、犯人の電話がかかってくるかもしれない、という考えが頭をかすめた。とたんに牛尾修二はシーマの屋根の上に、携帯電話を置き忘れていることを思い出し、今度は車めがけて突進した。冷めたい汗が背中を流れ落ちていった。  エレベーターの動きが、牛尾修二にはひどくもどかしく思えた。扉が開くのを待ち兼ねるようにして、彼は外にとび出し、コインロッカーのコーナーめがけてダッシュした。一億円の入ったバッグを入れたロッカーの番号はうろ憶えだったが、そのロッカーの位置ははっきり覚えていた。  ロッカーの列の間の通路を進みながら、牛尾修二は足がすくんだ。走れなかった。恐怖の源に近づいている気がした。一億円入りのバッグを入れた大型ロッカーの前で足を止めた牛尾修二は、その場に崩れ落ちるようにして坐り込んだ。ロッカーの鍵穴には鍵がさしこんであった。扉についているナンバープレートの数字が、うろ憶えの記憶をはっきり甦らせてくれた。坐り込んだままで牛尾修二はその扉に手を伸ばし、開けてみた。扉はなんの抵抗もなく開き、空っぽのスチールの箱の内部が牛尾修二の眼に映った。彼にはそれが、哄笑《こうしよう》をあげつづけている何かの大きく開けられた黒い口のように見えた。  吐き気が胸から突き上げてきた。額から冷めたい汗が滴《したた》り落ちた。 「気分がわるいんですか?」  誰かが声をかけてきた。牛尾修二は顔を上げた。中年の夫婦者らしい男女が横に立っていた。牛尾修二は二人に力なく横に手を振ってみせた。それから彼は言った。 「このロッカーを誰かが開けるところを見なかったですか?」  夫婦者は戸惑ったように首を横に振った。     2 「さあ、いよいよだぞ」  犬塚昇は、鳥飼圭子の耳もとに口を寄せて言って、ソファから腰を上げた。鳥飼圭子も立ちあがって、犬塚昇の前に体を持ってきた。犬塚昇を無言で見上げた鳥飼圭子の眼に、粘っこい笑いが浮かんでいた。犬塚昇も声を立てずに笑った。彼は鳥飼圭子が自分の前に立って、粘っこい笑いを見せたわけを、即座に理解して、彼女のトレパンの中に手をさし入れた。 「ね?」 「うん、濡れてる。おまじないみたいだな。電話するたびにさわるのって……」 「そうよ。おまじないなのよ。あたしのってアゲマンだから、さわるときっとうまくいくわよ。少し指を入れると、もっと効果があるかも」  鳥飼圭子が囁《ささや》き声で言った。犬塚昇はやわらかい肉のはざまを中指でまさぐり、くぼみに指先を入れた。すぐに鳥飼圭子が喉の奥にこもった笑い声をひびかせて腰を引き、犬塚昇から体を離した。犬塚昇は濡れている指を自分の口に深くさし入れて、舌と唇で鳥飼圭子の体液を舐めとった。  アコーディオンカーテンの向うから、人質が洟《はな》をすする音と、プラスチックの積み木をいじっている音が洩れてきた。犬塚昇は電話の受話器を取った。 「はい。猪河原公一郎の事務所です」  馬場秋子の勢いこんだような応答の声が、受話器にひびいた。 「厄病神《やくびようがみ》だ。ボンクラはいるか」  犬塚昇は馴れ合いの芝居をはじめた。馴れ合いでも、いよいよ一億円の受渡しを始めるための電話だと思うと、芝居に熱が入る気がした。 「牛尾さんは出かけてるわ。あんた、いつになったらみちるの声を聴かせてくれるんですか!」 「うるせえ! 身代金《みのしろきん》を受け取ったら娘は返してやる。そうしたら声はいくらでも聴けるだろうが。ボンクラが使ってる携帯電話と車の電話の番号を教えろ」 「身代金の受け渡しを始めるのね?」 「ああ。番号は?」  馬場秋子が、二つの電話の番号を伝えてきた。犬塚昇はそれをメモし、復唱して確かめた。 「金は言ったとおり、新宿駅のコインロッカーに入れたんだろうな?」 「牛尾さんが入れたはずよ。出かけるときに持って出たから。みちるはいつ返してもらえるんですか?」 「時間は言えないが、今夜中には返してやるよ」 「どうやって返してくれるんですか?」 「そいつは後で連絡する」  犬塚昇は電話を切った。バージニアスリムの匂いがした。たばこを指にはさんだ鳥飼圭子が、犬塚昇の横にやってきた。 「牛尾は外出中らしい」 「猪河原の代理でパーティに出るとかって、秋子が電話で言ってたから、そこに行ってるのね、きっと」  鳥飼圭子が言うのを聴きながら、犬塚昇は車についているほうの電話番号を押した。電話はつながったが、牛尾修二は出なかった。 「車の中にはいないな。まだパーティの会場にいるのかな?」  犬塚昇は独り言のように言って、牛尾修二が持っている携帯電話の番号を押した。 「はい……」  受話器には、何のものかわからない潮騒《しおさい》のような雑音が入っていた。その中からひびいてきた応答の声は、病人の声かと疑いたくなるほど生気がなくて、かすかにふるえていた。 「ボンクラか?」 「ああ……」 「厄病神《やくびようがみ》だ」 「わかってる」 「いまどこにいるんだ?」 「新宿駅のコインロッカーのあるところ」 「そこで何してるんだ?」 「何も……」 「おい、ボンクラ。どうかしたのか。幽霊みたいな声出すんじゃねえ。車はどこに置いてあるんだ?」 「ここの駅ビルの地下駐車場」 「すぐに車に戻れ」 「戻ったって車は使えないんだ」 「なんだって! 故障か?」 「鍵がないんだ。ロッカーの鍵もない。コートをまちがえられたんだ」 「鍵がないだと? ロッカーの鍵もない? おまえ、何を言ってんだ。いかれちまったのか、頭が。それともとぼけてんのか」  犬塚昇は自分の頭がいかれでもしたように面喰らった。鳥飼圭子が犬塚昇の受話器を持っているほうの腕を強くつかんで、横から彼の顔をのぞきこんできた。彼女の顔にも、戸惑いと不安の色が浮かんでいた。 「頭はいかれてない。いかれたのはロッカーに入れといた一億円のほうだ。誰かが持っていっちまった。それがいまわかったんだ」  牛尾修二の芯の抜けたようなひびきの声が、受話器に送られてきた。受話器に横から耳を寄せて聴いていた鳥飼圭子の眼と眉が吊り上がった。犬塚昇は大きく息をひとつ吸いこんでから、低い声でゆっくりとことばを送った。 「おい、牛尾。ふざけると人質は戻っちゃこねえぞ。殺して埋められることになるぞ。ふざけてねえんだったら、寝言はやめろ。わかるように話せ」 「ふざけていられたらどんなにいいか。顔を出さなきゃならないパーティが、新宿のホテルであった。そこのクロークでコートをまちがえられたんだよ。わかるか?」 「他の奴のコートを受け取ってきたのか?」 「そうなんだ。同じバーバリーのコートだったから、その場じゃわからなかった。駐車場で車に乗ろうとして、やっと気がついた。コートのポケットに入れていた車のキーがなかったからだ」 「コインロッカーの鍵もコートのポケットに入れといたのか?」 「そうなんだ。それでコインロッカーのところに駈けつけてきたら、金を入れといたロッカーは開けられてて、中は空っぽだった。おまえがロッカーに金を入れさせたのがいけないんだ。おまえのせいだぞ、みんな」  犬塚昇は唸《うな》り声をあげた。立っている床が抜けて、体が一気に深い穴に落ちていく気がした。頭はラビットパンチをくらったようにクラッとした。体はキドニーブローを見舞われたように力が抜ける気がした。鳥飼圭子がつかんでいる犬塚昇の腕を強く振った。彼女はもうひとつの手で受話器の送話口をつかんで塞《ふさ》ぎ、するどく囁《ささや》いた。 「ばか! 信じちゃだめだ。作り話にきまってるじゃないか。誰かがお金を持って行ったんなら、もう一度一億円を用意しろって言いな。でなきゃみちるの命はないって」  犬塚はうなずいた。抜け落ちた床が元に戻り、後頭部と脇腹のパンチのダメージが拭い消された。 「おい、牛尾。作り話をするなら、もっとうまく作れよ。そんな話はおれには通用しないからな。作り話じゃないってんなら、もう一度、一億円用意しろ。でなきゃ人質はほんとに死ぬぞ」 「作り話なんかじゃない。おまえこそ嘘をついてるんじゃないのか。ホテルのクロークからおれのコートを持って行ったのは、おまえなんだろう。そういうトリックを使うつもりでコインロッカーに金を入れさせたんじゃないのか?」 「ばかやろう! どうやっておれがクロークでおまえのコートを受け取るんだよ。コインロッカーの鍵がおまえのコートのポケットに入ってるってことが、どうしておれにわかるんだよ」 「ほんとにおまえじゃないんだな、金を持っていったのは」 「明日中に、新しく一億円をそろえとけ。それ以上は待てない。それができなきゃ、人質は土の中で骨になる。わかったな」  犬塚昇は電話を切った。 「どうなってんだ! ここまできてから。もうちょっとでゼニに手が届いてたってのに」  犬塚昇は平手をイタリア製|寄木細工《よせぎざいく》のサイドボードの天板に叩きつけた。そこに置いてある平べったいオフホワイトの電話機が、レースの敷物の上で小さく跳ねあがった。 「サイドボードに八つ当りしないでよ。こわれたら弁償させるわよ。安物じゃないんだから」  鳥飼圭子が言った。その声は低かったが、それまでに犬塚昇が一度も聴いたことがないほど、冷めたくて、はねつけるようなひびきを持っていた。犬塚昇に向けられた彼女の眼も、刃物のように冷めたい光を放っていた。乳房の谷間にペニスをはさんでくれるときの鳥飼圭子とは、別の女としか思えず、犬塚昇は一瞬、度肝《どぎも》を抜かれた。  だが、犬塚昇はすぐに気をとり直した。自分がサイドボードに八つ当りしたように、鳥飼圭子は相棒に八つ当りしたのだ、と彼は考えた。  鳥飼圭子は電話の前を離れて、アコーディオンカーテンの前に行った。積み木の音と、湿った悲しげな、鼻をすする音が、アコーディオンカーテンの向うでまだつづいていた。鳥飼圭子がアコーディオンカーテンを小さく開けて、人質のようすをうかがった。人質と誘拐犯人との間にことばは交されなかった。  犬塚昇はソファに戻りかけ、途中でキッチンに行き、冷蔵庫から勝手に缶ビールを出して、プルトップを乱暴に引いた。立ったままビールを飲んだ。ひきむしったプルトップを口に入れ、歯で噛《か》んで二つに折り曲げ、キッチンの床に吐きすてた。  猫のように足音も立てずに、鳥飼圭子がせまいキッチンに入ってきた。彼女も冷蔵庫からハイネケンの缶を出した。 「コインロッカーに入れといた一億円を、誰かが持っていったっていう牛尾の話が、作り話だろうと、ほんとのことだろうと、あたしたちには同じことなのよ。いいわね。わかってるわよね?」  丈《たけ》の低い冷蔵庫のドアに腰で寄りかかって、ビールをひとくち飲んでから、濡れた唇のままで鳥飼圭子が言った。念を押す言い方だった。犬塚昇は無言でうなずいた。だが、鳥飼圭子が何を言おうとしているのか、彼は見当がつかなかった。わかっているのは、依然として鳥飼圭子の声が突き放すように冷めたくて、眼も顔も凍りついたような感じに見えて、彼女のようすがいつもとはっきりちがってしまっている、ということだけだった。 「向うが何を言おうと、入るはずの一億円がこっちには入っていないのよ。大事なのはそれだけ。あたしはどんなことをしても、何があっても身代金を手に入れるわ」 「ここまでやってきたんだもんな」 「猪河原は時間稼ぎを狙ってるのよ。そのために、コートをまちがえられて、ロッカーの一億円を誰かに横取りされたなんて、見えすいた作り話を牛尾にさせてるのよ」 「そうかもしれないな」  犬塚昇はいま聴いたばかりの牛尾修二の半病人のような声を思い出した。あれが作り話なら、牛尾修二も相当な役者だ、と思ったが、それは口には出さなかった。 「かもしれないじゃないわよ。そうにきまってるわ。時間を稼いで、その間に蛭田とかっていう私立探偵に犯人を突き留めさせようって考えなのよ。作り話で時間が稼げるって猪河原が考えてるのは、あたしたちをあいつが舐めてる証拠よ。圧力をかけて、それが大きなまちがいだってことを、猪河原に思い知らせてやるわ」 「圧力って、どうやって?」 「やり方はいくらでもあるわ。みちるの手の指でも、耳でも切り落して送りつけてやってもいいわ」 「おい、本気か?」 「怖いの?」 「だって、あの子は秋子さんの娘じゃないか。そんなことしたら秋子さんが黙っちゃいないだろう」  おどろいて犬塚昇は言った。だが、目の前に立っている鳥飼圭子を見ていると、言ってることが口先だけではないという気がした。 「娘の命を取ろうっていうんじゃないわ。秋子には泣いてもらうわよ。あたしが説得するから」 「できるのか? 説得なんて」 「あんたは知らないのよ。秋子は猪河原を憎んでるわ。なぜだかわかる? 猪河原は秋子がみちるを生んでからは、膣外射精専門なんだって。二人目の隠し子を産まれるのが怖いからなのよ。膣外射精っていったって、体の外に出すんじゃないのよ。アヌスか口の中なんだって。いつも。毎度毎度そんなことされてたら、秋子だって相手を憎みたくなるわよ。秋子のほうは生殺しの状態でいつも終るわけだし、お尻だって痛いだろうし。みちるは秋子が産んだ子だけど、種はそういうことをしている男のものなのよ。秋子がほんとうにみちるを愛してたら、たとえ狂言だって、みちるを誘拐させるわけないじゃない。みちるはそれが狂言だなんて思っちゃいないんだから、本気で人質にされて恐怖を味わうんだもん。そうでしょう。そうでなきゃ困るわけだけどさ。みちるに狂言だってことを教えたら、解放したあとで猪河原にいろいろ聞かれたら、子供だから何を言っちゃうかわからないもの」  鳥飼圭子は言って、ハイネケンの缶を口にはこんだ。女ってやつは一筋縄じゃいかないもんだ——犬塚昇は胸の中で感嘆のつぶやきを洩らした。友だちの娘の指や耳を切り落とすなどと言い出す、鳥飼圭子の頭の中の仕組みも、何年もの間、アヌスと口の中にザーメンを撒《ま》き散らされるままに、その男の愛人であることをやめようとしなかった馬場秋子の心の中の景色も、犬塚昇には理解できなかった。  それは理解できなくてもいっこうにかまわなかった。だが、あの小さな女の子の指や耳を切り落とす仕事は、結局は自分に回ってくるにちがいないと思うと、犬塚昇は尻の穴のあたりが痛いくらいにひきしまって、ゾッとするものが背すじを這いあがってきて、落着いていられなかった。     3  馬場秋子は、猪河原公一郎の事務所の事務室の床に坐り込んでいた。  立てた両膝を腕で抱えこみ、膝頭《ひざがしら》の上に額をつけて、壁に背中をつけていた。  蛭田貫一は、事務机の前の椅子に腰をおろして、さっきからひっきりなしにショートホープに火をつけては、そこらじゅうを灰だらけにしていた。  馬場秋子が坐りこんでいる場所は、事務机のすぐ横だった。椅子に坐っている私立探偵とは、はす向いに向きあう位置である。そうやって二人は、牛尾修二からの連絡の電話が入るのを、待ち受けていた。  馬場秋子が、身代金《みのしろきん》の受渡しを始めるという犬塚昇の電話を受けてから、十五分ばかりが過ぎていた。犬塚昇は、馬場秋子が伝えた牛尾修二の携帯電話か、猪河原公一郎の車の電話かに指示を出して、牛尾修二を身代金の入ったコインロッカーの鍵の受渡場所に向かわせたはずなのだ。だが、牛尾修二からはその後の連絡が入っていない。馬場秋子は、その連絡をじりじりしながら待っていた。  蛭田貫一も、同じ思いで牛尾修二からの電話を待っているはずだったが、私立探偵のようすには、どこか余裕が感じられた。私立探偵の視線が、斜め向いの床に膝を抱えて坐りこんでいる馬場秋子のスカートの奥にときどきさりげなく向けられてくるのに、馬場秋子自身も気づいていた。油断のならない気配のある私立探偵の頭が、それで霞がかかったようになるんだったら、知らんふりしてスカートの奥をのぞかせてやってもいいんだけど、と馬場秋子は何回か思った。  玄関で小さな物音がした。馬場秋子は膝の上に伏せていた頭を起した。蛭田貫一も事務室のドアに眼を投げて、耳をすましているようすを見せていた。  すぐに玄関で小さな足音がして、ドアの閉まるときのかすかな金属音が聴こえた。馬場秋子は腰を上げた。京都に行っている猪河原公一郎が帰ってきたのかもしれない、という気がした。 「誰ですかね?」  蛭田貫一が言って、膝の上に落ちたたばこの灰を手で払った。馬場秋子は答えずに、事務室のドアに向った。そのドアが外から開けられて、牛尾修二が姿を現わした。 「牛尾さん……」 「どうしたんですか?」  馬場秋子と蛭田貫一が、同時に口を開いた。牛尾修二は無言で首を横に振り、手に持っていた茶色のビニールレザーらしいボストンバッグを足もとに落とし、力のない足どりで中に入ってきた。牛尾修二の髪はかきむしったように乱れていて、眼も顔もうつろに見えた。 「何があったの?」 「犯人とは接触できたんですか?」  馬場秋子が言い、私立探偵が訊いた。 「坐らせてください、そこ……」  牛尾修二は、二人の質問を無視して、蛭田貫一が坐っている椅子を指さした。蛭田貫一は牛尾修二に眼を注いだまま、立ちあがって席をゆずった。よろめくようにして机に手を突き、椅子に腰をおろすと、牛尾修二は服のポケットから手帳を出して、ページをめくりはじめた。 「いったいどうなったのよ! 何があったのよ! 黙りこんでないで話してくんなきゃわからないじゃないのよ! みちるはどうなるのよ!」  たまりかねて馬場秋子は叫び、牛尾修二の肩をつかんで揺すり立てた。椅子の上で牛尾修二の上体が風にそよぐススキの穂のように揺れた。 「あのバッグは何なのよ! 身代金《みのしろきん》を入れていったバッグとはちがうじゃないの」  馬場秋子はドアのところに放り出された茶色のバッグを指さして、また怒鳴った。その声も一切耳に入らないかのように、牛尾修二は口を噤《つぐ》んだまま、机の上の電話に手を伸ばした。 「どこに電話しようって言うのよ!」  馬場秋子は、電話に伸ばした牛尾修二の腕をつかんだ。誘拐事件のすべてのからくりがわかってしまって、牛尾修二は警察に電話をかけようとしているのかもしれない、という恐怖の思いが彼女の頭をかすめた。 「馬場さん、落着きなさい。牛尾さんは何かしらないがショックを受けてるんだ。ちょっと待とう」  私立探偵が横からことばを投げてきた。牛尾修二は馬場秋子に腕をつかまれたまま、受話器を上げ、机の上で開いた手帳のページを見て、番号ボタンを押しはじめた。馬場秋子は牛尾修二の指先を注視した。その指が075という順に番号ボタンを押していくのを見て、それが京都の市外局番であることに、馬場秋子は気がついた。彼女は机の上の牛尾修二の手帳に眼をやった。そこには京都のホテルの名前と、ルームナンバーらしい数字と、電話番号が走り書きされていた。馬場秋子はようやく、牛尾修二が猪河原公一郎に電話をするつもりであることを納得した。しかし、それ以外のことはなにひとつ合点《がてん》がいかなかった。  電話がつながり、牛尾修二がルームナンバーと猪河原公一郎の名前をホテルの交換手に告げた。猪河原が電話に出たようすで、牛尾修二が話しはじめた。生気を失った声だった。 「牛尾です。申しわけありません。緊急事態です。ぼくのミスが原因です。一億円を何者かに横取りされてしまったんです」  牛尾修二は受話器をぴったりと耳に押しつけ、眼を閉じ、両肘を机に突き、ひと息にそう言ってことばを切った。猪河原が何か言っているらしいが、その声は受話器からこぼれ出てこなかった。  馬場秋子は、牛尾修二の言ったことが、すぐには呑みこめなかった。呑みこめないなりに『緊急事態』『ミス』『横取り』といったことばに、彼女はショックを受けた。それらのことばが、決していい知らせでないことだけは察しがついた。牛尾修二がまた話しはじめた。 「パーティ会場のクローク係が、ぼくのコートと誰かのコートをとりちがえて渡したんです。そのコートの中に、身代金を入れたコインロッカーの鍵と、先生の車の鍵が入れてあったんです。すぐに気がつけばよかったんですが、駐車場に行って車に乗るときになって、車のキーがないことから、コートのまちがいに気がついたんです。すぐにコインロッカーのところまで走って行ったんです。はい。犯人が新宿駅のコインロッカーに身代金を入れろって言ったんです。駈けつけてみたら、コインロッカーは空っぽでした。まちがえられたぼくのコートを受け取った奴が、一億円を横取りしたんです。はい。コインロッカーの鍵をコートのポケットに入れたのは、たしかにぼくの不注意でした。はい。いいえ。犯人には金は渡っていないと思います。犯人から電話があったんです。身代金が横取りされたことを言いました。はい。明日中にもう一度一億円を用意しろと言ってます。それができなきゃ、みちるちゃんは土の中で骨になると言ってるんです……」  牛尾修二の言うことを聴いているうちに、馬場秋子の胸に猛烈な怒りがこみあげてきた。それまで一度も覚えたことのないような、どうしていいのかわからないような、はげしい怒りだった。それが急ピッチで水位をあげてきて、遂に爆発した。彼女は獣じみたひびきの声を喉の奥からほとばしらせた。自分ではそうしようと思ってもいなかったのに、拳《こぶし》に固めた手が、牛尾修二の頭を力まかせに殴りつけていた。  殴られたはずみで、牛尾修二は電話の受話器を取り落した。机の上で音を立ててはずんだ受話器から、唸るような猪河原公一郎の声が洩れた。牛尾修二は殴られたことに気がつかなかったかのように、馬場秋子のほうを見ることもせずに、急いで受話器を取り上げ、耳に押し当てた。馬場秋子は今度は牛尾修二の背中を両手の拳で殴りつけた。牛尾修二は雨あられと降ってくる拳をよけようともせずに、受話器の送話口に向って『はい、はい』と短い返事を送りながら、猪河原公一郎の話を聴いていた。  馬場秋子の手首から、腕時計がはずれて飛び、机の横の壁に当って床に落ちた。拳で牛尾修二の背中を殴りつける衝撃で、時計の鎖のベルトの留金がはずれたのだ。彼女は牛尾修二へのパンチのラッシュ攻撃を止め、床に落ちた時計を拾いに行った。そして、壁にもたれるようにして立っている蛭田貫一と眼が合った。一瞬、蛭田貫一の口もとにうす笑いが浮かんだように、馬場秋子には見えた。彼女はわけもなくハッとした。怒りをあらわにして牛尾修二を殴りつけた自分の姿が、私立探偵の眼には、身代金を横取りされた犯人の怒りそのものに見えたのではないか、と馬場秋子は考えた。そして彼女は、それを娘の生命の危機に直面した、愛情深い母親の狂乱の姿だと、探偵が受け取ってくれることを祈らずにはいられなかった。  馬場秋子はしゃがんで時計を拾いあげた。立ちあがらずにそのまま床に膝を折って坐った。時計を手に取ったままうなだれた。眼の横に蛭田貫一のズボンの裾《すそ》と、すりきれたようなグレイの靴下に包まれた、スリッパをはいた足が見えた。 「そういうわけなんです」  電話を終えた牛尾修二が、馬場秋子へとも蛭田貫一へともなく言った。疲れきった口調だった。 「先生はなんて言ったの? 身代金《みのしろきん》のこと」  馬場秋子は顔を上げて言った。 「明日の朝一番で京都を出て帰ってくるそうです。東京に着き次第、金策に走り回ってなんとかするって言ってる」 「あてはあるのね?」 「あるんでしょう。先生が金策に動くと言ってるんだから」 「借金してでも、猪河原氏はまた一億円用意するでしょう。かわいいわが子のためだもん。ちがうかな?」  蛭田貫一が言った。馬場秋子は蛭田貫一を見た。私立探偵はニヤリと笑った。馬場秋子は急いで視線を牛尾修二に移した。牛尾はいま蛭田貫一の言ったことが耳に入らなかったのか、それともみちるの父親が猪河原公一郎だと探偵が見抜いていることを、すでに知っていたのか、うろたえたようすも見せずに、床に視線を落していた。 「つまらない作り話がばれたからって、あわてることはないですよ、馬場さん。いまはそれどころじゃないはずだ」  蛭田貫一が壁から離れて、机の上に腰をおろして言った。 「どうしてそれが作り話って言えるんですか?」  ひっこみのつかない思いにかられて、馬場秋子は言った。さすがに声は弱かった。 「わかりますよ、そんなこと。だいいち、秘書の隠し子のために、選挙を控えていくら金があっても足りない国会議員立候補予定者が、二つ返事で二億円もの身代金の調達を引き受けるわけがない、というのが常識です。秘書の隠し子のスキャンダルが選挙にひびくというのなら、その秘書をクビにすればすむことだ。それからね、あたしには特技があってね。男と女が二人並んでるのをしばらく眺めてれば、その二人が一緒に寝てる仲かどうか見抜けるんだ。それに、さっき牛尾さんは猪河原氏との電話の中で、あんたの娘のことをみちるちゃんて呼んだじゃないですか。いくら隠し子だって、他人に向って自分の子供をちゃんづけで呼ぶことはしませんよ」  蛭田貫一は言った。面白がっているような言い方に聴こえたが、馬場秋子は反論できなかった。牛尾修二も黙りこくっていた。 「ま、そんなことはどうでもいい。どうしてもみちるちゃんの父親は牛尾さんだってことにしときたいなら、そうしときましょ。牛尾さん、あのバッグはどうしたんです?」  私立探偵は言って、牛尾修二が持って帰ってきた茶色のボストンバッグを指さした。 「一億円を横取りしていった奴の荷物です。ぼくにまちがって渡されたコートのポケットに、新宿駅のコインロッカーの鍵が入ってたから、そのロッカーを探して開けたら入ってたんです。相手の身許《みもと》か何かのわかる物が入ってるかもしれないと思って開けたんですが、そういう物は何も入っちゃいなかった」  牛尾修二が言った。蛭田貫一が茶色のバッグを机の前に持ってきてファスナーを開け、中のものをつぎつぎに取り出しては、床の上に並べはじめた。  最初にインスタントカメラが出てきた。つづいて洗濯物らしい靴下や下着などを丸めて突っこんだ、ビニール袋が出てきた。柄物《がらもの》のウールのシャツ、ジーパン、タートルネックのグレイのセーター、茶色の格子柄のハンチング、サングラス、洗面道具と電気|剃刀《かみそり》の入った小型のバッグ——床に並べられたのはそれだけだった。私立探偵はボストンバッグの中のポケットの中も調べた。そこには何も入っていなかった。バッグには名札用のタグが付いていたが、名札は入っていなかった。 「旅行帰りの男が、新宿駅に着いて、荷物をコインロッカーにいれて、ホテルのパーティに出たってとこかな?」  蛭田貫一は言いながら、ジーパンのポケットを探った。汚れたハンカチしか出てこなかった。つづいて彼は、柄物のウールのシャツを引き寄せ、胸のポケットを探った。蛭田貫一はそこから小さな紙片をつまみ出した。 「飛行機の搭乗券の半切れだ。全日空の山形から羽田までの便。日付はきょうだな。シートナンバーが38のE。山形発が一時十分だから、羽田には二時か二時半には到着するだろうな。パーティに出るには早い時間だから、ボストンバッグをロッカーに入れて、どこかで時間をつぶしてたってところかな」  蛭田貫一は独り言のように言って、腕の時計を見た。 「九時半か。もう全日空は閉まってるな。明日だ」  蛭田貫一が言って、手にしていた搭乗券の半切れを、ポケットから出した手帳のページの間にはさんだ。 「何が明日なの?」  馬場秋子は私立探偵に訊いた。彼女には彼が何を考えているのかわからなかった。蛭田貫一は牛尾修二を見て言った。 「牛尾さん。一億円を横取りした奴は、山形から帰ってきて、駅のトイレかどこかでシャツを着替えたんですよ。パーティに出るためにね。そのまま奴は、着替えたシャツのポケットに搭乗券の半切れを入れといたことを忘れちまったんだ。だからボストンバッグの中には自分の身許《みもと》がわかるようなものは何もないと思って安心して、このバッグと一億円入りのバッグを交換する気になったんですよ。明日全日空に行って、この半券を見せて、この便の38Eの座席に坐ってた奴の名前と年齢を教えてもらう。適当な口実を作ってね。名前がわかれば、パーティの出席者名簿の中から、その名前を拾い出す。パーティの出席者名簿には、住所も書いてあるんじゃないかな。うまくいけば一億円は取り戻せると思うな」  蛭田貫一が言い終らないうちに、バネ仕掛けの人形のように牛尾修二が椅子から立ちあがった。彼はそのまま腰を二つに折って、私立探偵に向って深々と頭を下げた。 「助かった。ありがとうございます。蛭田さん。何の役にもたたないと思いながら持ってきたバッグだったけど、よかったあ……」  感に堪えたような口調で、頭を下げたまま牛尾修二は言った。 「さすがだわ、蛭田さん。そういう手があったのね。やっぱりプロはちがうわあ」  馬場秋子も言った。心からなる讃辞だった。彼女の顔には隠しきれないよろこびの表情が現われていた。蛭田貫一は、二人の感謝と褒《ほ》めことばにはにこりともしなかった。 「まだ一億円が返ってきたわけじゃないですよ。そいつが何か事情があって、偽名を使って飛行機に乗ってたかもしれないし、うまくそいつをつかまえたって、すんなり一億円を返してくれるとは限らないんだから」  私立探偵はそう言った。 「どうしてですか? だってその一億円は人のお金を横取りしたものよ。泥棒と同じじゃないですか」  誘拐事件の共犯者である身を忘れて、馬場秋子は泥棒を非難した。 「忘れたの? 馬場さん。身代金の入ってたバッグには、おたくが犯人の要求に応じて書いた例の�文書�が入ってんですよ。その中には、馬場みちるという女の子が隠し子で、その父親が隣の県の県会議員をしてる猪河原公一郎だってことが書いてあるんじゃないの? 牛尾さんの名前が書いてあるわけじゃないでしょう?」 「あの文書が、新しくゆすりの種に使われるってわけですね」  牛尾修二が言った。 「その可能性がないとは言えないな。一億もの人の金を横取りしていくような相手ですからね。しかも金はもうそいつの手に渡ってるんだ。そいつを突き留めて、一億円返せって言っても、向うは例の文書に一億円の値段をつけて買い取れって言うかもしれないんだ。だからね、あたしを褒《ほ》めるのはまだ早いの。ほんとに褒めてもらえるときは、ことばはいらないから、一億円を取り返したぶんのギャラを上乗せしてくれればいいですよ」  言って、私立探偵はニタリと笑った。     4  馬場秋子は、西新宿のマンションの自分の部屋に帰るとすぐに、電話の受話器を取り、鳥飼圭子の部屋の電話番号を押した。  電話には鳥飼圭子が出た。鳥飼圭子の声はひどく不機嫌そうに聴こえた。馬場秋子には、鳥飼圭子の機嫌がよくない理由はわかっていた。 「どこかのばかに、一億円を横取りされて、頭にきてるんだね、圭子」 「あんた、どこから電話してるの?」 「あたしの部屋。着替えを取りに行くって言って、帰ってきたの。いま帰ってきたばっかり」 「牛尾がホテルのクロークでコートをまちがえられて、一億円を横取りされたって話、ほんとなの?」 「それが、ほんとなのよ。あの牛尾のドジ男、死人みたいな顔して事務所に帰ってきたわ」 「それで、猪河原にはそのこと知らせた?」 「牛尾が京都のホテルに電話したの。猪河原は明日の朝一番で東京に帰ってきて、一億円をかき集めるって言ったそうなの」 「時間稼ぎする気じゃないの?」 「かもしれないけど、蛭田が横取りされた一億円を、うまくすれば取り戻せるかもしれないって言うのよ」 「どうやって?」 「ドジの牛尾が、まちがえて受け取ったコートの中に入ってたコインロッカーの鍵で開けたロッカーに、ボストンバッグが入ってたの。牛尾がそのバッグを持って帰ってきたんだけど、その中に飛行機の搭乗券の半券が入ってたの。シートナンバーなんかが書いてあるあれ。そのシートナンバーから、そいつの名前を割り出せるかもしれないって……」 「そんなのあてにならないわよ。それに、身代金《みのしろきん》の入ってたバッグの中には、秋子が猪河原の愛人で、みちるちゃんが猪河原の隠し子だってことを書いたものが入ってるわけじゃない。脅迫の材料を添えてあるようなものよ。それ読めば誰だって横取りしたお金をあっさり返す気になんかならないわよ」 「やっぱりそうか。蛭田もそう言ってたわ」 「え? 蛭田がそう言ったの?」 「言ったわよ。どうして?」 「だって、おかしいわよ、それ。蛭田はみちるちゃんの父親が猪河原だってことは知らないわけじゃない。だからあんたが書いたものに出てくる隠し子の父親は牛尾だって蛭田は思ってるわけでしょう。猪河原なら話は別だけど、どこの誰かもわからない牛尾の名前を見たって、お金を横取りした奴が脅迫できると思うってことにはならないって考えるのが普通よ」 「それはそうね。でもちがうの。みちるの父親が猪河原だってことを、蛭田はやっぱり見抜いてたのよ。はっきりそう言ったわ。牛尾が電話で猪河原と話してるときに、みちるをちゃんづけで呼んだりしたもんだから」 「それなら話はわかるわ。蛭田は猪河原の事務所で何してるの? こっちがかけた電話の録音テープを聴いてるだけ?」 「いまはね。とにかくまず犯人に身代金を渡して、人質を取り返してから、蛭田に犯人探しをやらせるっていうのが猪河原の考えだから。蛭田はあたしに、あたしと猪河原との関係を知ってる人間の名前を全部教えろって言ったわ。そこから調べはじめるんだって。だから、圭子以外の名前は全部教えてやったわ」 「安心できないわ、あたし……」 「どうして? 圭子の名前は出してないんだから、蛭田が犯人を探せるわけないわよ」 「そうじゃないの。蛭田なんかどうでもいいのよ。いくらでも犯人探しをやらせればいい。安心できないってあたしが言うのは、アヤがついた気がするからなの」 「なんでアヤがついたの?」 「一億円を横取りされたってことが、なんかあたし、いやな気分なのよね。ケチがついたっていうか……」 「でも、猪河原はもう一回身代金をそろえるつもりでいるのよ」 「身代金を横取りされたのは事実かもしれないけど、こっちにしてみればそんなの信じられない話じゃない。ひょっとしたら、横取りされたというのは、向うの予定の筋書きで、秋子だけがそれを知らなかったのかもしれないし……」 「でも……」 「とにかく、身代金を横取りされたってことで、結果的にはあたしたちはタイムリミットを一日延ばしてやったのよね。だから向うはこっちを甘く見て、時間稼ぎしながら、何かまた他の手を使うんじゃないかって気がして仕方がないのよ」 「身代金を横取りされたというの、嘘なのかしら? あたし、わからなくなったわ」 「嘘だっていう可能性はあるわ。蛭田がもし、秋子を共犯者だって疑ってるとしたら、あんたを蚊帳《かや》の外に置いといて何かやるかもしれないもん」 「ほんとに蛭田はあたしのこと疑ってるのかしら?」 「圧力をかける必要があるのよ。甘く見られないためにも、秋子を共犯者かもしれないって疑わせないためにも」 「どうやって圧力をかけるの?」 「犬塚さんは、みちるちゃんの指か耳を切り落として、向うに送りつけようって言ってるんだけどさあ」 「指か耳って、そんなあ。やめてよ。かわいそうじゃない」 「そうなのよね」 「あの使い棄て男、そんなこと言ってるの?」 「一億円取りそこなうようなことがあったら人質は殺すって、犬塚さんは言ってるよ」 「やめてよ、圭子。まるであたしが圧力かけられてる感じじゃない」 「父親が猪河原公一郎だと思うと、みちるはかわいくないって言ったの、あれ、嘘なの? 秋子」 「かわいくないって思うときがあるって言っただけよ」 「そりゃそうよね。自分が産んだ子供だもんね。でも、こうなったら秋子もちょっぴりは鬼にならなきゃだめよ。指とか耳とかまではやらないとしても、みちるちゃんの髪を切るぐらいなら我慢できるでしょう?」 「あの子の髪を切って、猪河原の事務所に送りつけるの?」 「そうよ。そうやって圧力かけるのよ。髪のつぎは指が届くぞとかさ。そうすれば秋子が共犯者かもしれないっていう蛭田の疑いも消えるはずよ。いくら共犯者でも、自分の娘にそこまでひどいことをするとは、蛭田も思わなくなると思うのよ」 「そうね。そう思うわよね」 「あたしがついてるから、犬塚さんにはそんなにひどいことさせないわよ。でも、髪ぐらいは仕方がないよ、この際」 「丸坊主?」 「それぐらいしなきゃ圧力にならないと思うのよ」 「指とか耳とかは切っちゃうともう生えてこないけど、髪なら生えてくるもんね」 「みちるちゃんをうまくなだめて、怖がらせないようにしてあたしが切るから」 「わかったわ」 「あんたは、なるべく早く猪河原の事務所に行ったほうがいいわよ。あんまりちょくちょく外に出ると疑われるし、向うの動きを見ててもらわなくちゃ困るから」 「そうする」  馬場秋子は言って電話を切った。丸坊主にされたみちるの姿が彼女の眼に浮かんできた。切られた髪はどれくらいすれば元に戻るのだろうか、と馬場秋子は考えた。しかし、すぐにそういうことを考えるのを止めにした。  圭子の言うとおりだわ。圧力をかけなければ、いつ一億円が手に入るかわからなくなるかもしれないし、身代金を横取りされたというのも、あたしに隠れて蛭田が牛尾に入れ知恵して打たせた芝居かもしれないじゃない。そうじゃないって証拠はないもん。それに、みちるが丸坊主になることで、あたしの共犯者の疑いが消えるというのも、圭子の言うとおりだわ。そうよ。鬼にならなきゃ。一億円のためだもの。犬塚は使い棄てだから、一億円はあたしと圭子のものよ。それを元手に、誰も知らない土地に圭子と行って商売しながら、二人だけの愛の世界を築こうといって始めた計画だもの。二人だけといってもみちるがいるけどさ。一億あればみちるだって幸せになるわ。猪河原にばかり似てあんまりかわいい子供じゃないけど。ときどき重荷になる子だけど。場合によったら、髪だけじゃなくて、指の一本ぐらいあの子にも我慢してもらおうかなあ。耳がないと目立つし、大きくなってサングラスなんかかけるとき困るけど、指は容貌とあんまり関係ないかもしれないしさ。そうよ、耳だって、髪が伸びたら髪で隠せるわ。サングラスかけるのに不便だったらかけなきゃいいんだもん。とにかく鬼にならなきゃね。渡る世間は鬼ばかりって言うじゃない。みんな鬼になってるんだわ、きっと、ほんとはね——。  馬場秋子はそんなことを胸の中で自分に言いきかせながら、大急ぎで着替の下着などをそろえにかかった。     5 「オーケイよ」  電話の受話器を戻した鳥飼圭子が、ふり向いて犬塚昇に言った。鳥飼圭子は素裸の体で、肩にバスタオルをかけただけの姿だった。彼女がちょうど風呂から出てきたときに、馬場秋子から電話がかかってきたのだ。  犬塚昇はソファに腰をおろして、音量を小さく絞ってあるテレビの画面と、素裸で電話に出ている鳥飼圭子のヒップとを、交互にぼんやりと眺めながら、鳥飼圭子が電話で話していることを聴いていた。それが馬場秋子からの電話であることは、聴いていてすぐにわかった。 「オーケイって、何が?」  犬塚昇はたずねた。鳥飼圭子は、タンスの抽出《ひきだ》しからパンティを出し、犬塚昇のほうに体を向け、パンティに足を入れながら言った。 「あの子の散髪していいって。彼女承知したわ」  犬塚昇は返事をしなかった。前かがみになってパンティをはいている鳥飼圭子の胸もとで、豊かなDカップの乳房や、ぶつかり合うようにして揺れるところや、両脚の付根に小さく見えている陰毛に、眼を向けていた。 「これから早速、やろう。散髪。そして今夜のうちに配達をすませるのよ」  足を通したパンティを膝から上に引きあげながら、鳥飼圭子は言った。うすいピンク色のパンティで、まん中のところに斜めにレースがあしらってあった。レースの下の陰毛がすけて見えた。 「さっきから何をむっつりして、人の体ばかり見てるの。あとでいくらでも見せてあげるから」  鳥飼圭子はソファのところにやってきて、裸の腰で犬塚昇の肩をチョンと突いてから、そこに脱ぎすててあったトレーナーの袖に腕を通した。 「むっつりしてるわけじゃないよ」 「あの子の耳とか指とかを切り落すって言い出したのが、あんただって秋子にあたしが言ったのが、気にくわないのね。わかってるわよ。でも、そう言って脅さなきゃ、秋子はその気にならないし、それが昔からの友だちのあたしの考えだっていうのは、言いにくいじゃない。わかるでしょう?」 「わかるよ、それは。秋子さんは脅されてその気になったわけだな」 「味方を脅したと思ってる?」 「みたいなもんだろう?」 「ちがうわ」 「何がちがうんだ?」 「立って……」  鳥飼圭子が、犬塚昇の両手を取って引いた。彼女の眼の底に、また冷めたく据《す》わったような強い光がこめられていた。犬塚昇は手をひかれるままに立ちあがった。鳥飼圭子は、犬塚昇の両手をにぎったまま下におろし、彼を見つめたまま、体を寄せてきた。トレーナーの下の乳房のはずみが、犬塚昇の胸に伝わってきた。にぎられた手の甲に、まだトレパンをはいていない鳥飼圭子の裸の脚が触れた。 「ちがうのよ。秋子はあたしたちの味方なんかじゃないの。一億円は、あたしとあんたと、二人のものになるの。わかる? あたしの言ってること」  息のかかる近さに顔を寄せてきて、鳥飼圭子が囁《ささや》くような声で言った。 「味方じゃないって、秋子さんをおれたちが裏切るって意味か?」 「そうよ。あたしははじめからそのつもりだったの。秋子にはわるいけど、共犯者同士のふりをして、利用させてもらっただけ。使い棄てにさせてもらうの。一億あれば、あんたとあたしの将来の生活設計ができるわ。そうでしょう」 「秋子さんは裏切られたままで黙ってるかな? 泣き寝入りはしないだろう」 「泣き寝入りするしかないわよ。彼女が共犯者だったってことは消えないんだから。一億円を受け取ったあたしたちが姿を消せば、秋子は黙って諦らめるしかないわよ」 「そりゃそうなるかもしれないけどな」 「あたしはあんたを信頼して、打明けたのよ。あんたとの将来にあたしは夢も持ってるわ。うまくやっていけるわよ、あたしたち。それともあたしの考えに、あんた反対?」 「それは結局、おれにあんたか、秋子さんかを選べってことと同じだよな。だったら答は一つしかないよ」 「どっち? はっきり言って」 「きまってるだろう。あんただよ」  犬塚昇は言った。言い終ると同時に、鳥飼圭子が首に両腕を巻きつけてきて、体をぶつけるようにして唇を重ねてきた。鳥飼圭子の舌が、犬塚昇の口の中でうねるようにして舞った。犬塚昇はそれに応えながら、鳥飼圭子の腰を強く抱き寄せた。 「あんたのせいよ。秋子を利用して大金をつかもうってあたしが考えるようになったのは。あたしに友だちを裏切らせたのは、あんただから、これからしっかりあたしを支えてくれなきゃいやよ」  鳥飼圭子は唇を離すと、犬塚昇の胸に顔をすりつけるようにして言った。犬塚はそのことばを信じようと思った。それを信じれば、友だちの娘の髪を切り落したり、指や耳を切り落すなどと言い出した鳥飼圭子の気持も、それなりに肯《うなず》ける、と犬塚昇は思った。 「あんたはおっかないけど、すごくいい女だよ。放さないからな」  犬塚昇は言って、今度は自分から鳥飼圭子の唇と舌を吸いにいった。キスは激しかったが長くはつづかなかった。 「あたしがあの子の髪切るから、あんたもそばにいて。眠ってると思うけど、途中で目をさまして泣き出したら困るから。あんたがそばにいたら、あの子は怖がって泣くのを我慢するはずよ」  トレパンをはきながら、鳥飼圭子が小声で言った。犬塚昇は、アコーディオンカーテンを小さく開けて、人質のようすをうかがった。みちるはベッドの上で体を丸めるようにして眠っていた。鼻の詰まった寝息の音が聴こえた。小さな人質の耳や指を切り落すことにはならなかったということだけで、犬塚昇の気持はいっぺんに軽くなっていた。『あんたのせいで、友だちを裏切る気になったのよ』といった鳥飼圭子のことばが、軽くなった気持にさらにくすぐったいようなはずみを与えていた。小さな女の子の髪を切るぐらいなら、どうってことない、と犬塚昇は考えた。 「眠ってる?」  鳥飼圭子が訊いた。犬塚昇はアコーディオンカーテンから離した顔をうしろに向けてうなずいた。鳥飼圭子はたたんだ新聞紙と、鋏《はさみ》を手に持っていた。犬塚昇がアコーディオンカーテンを押し開けた。二人はベッドのところに行った。  鳥飼圭子はベッドの端に横向きに腰をおろし、持ってきた新聞紙を枕の横に静かにひろげた。犬塚昇はベッドのヘッドボードに片手をのせて床に立っていた。  鳥飼圭子はすぐに鋏を使いはじめた。無造作《むぞうさ》な手つきだった。人質のおかっぱの髪を左手で小さな束にしてつかみ、髪の根本に鋏を入れ、切り取った髪をひろげた新聞紙の上に置いた。それがくり返された。長さが十五センチほどの、ありふれた事務用の鋏だったが、切れ味はわるくないようだった。鋏の刃が髪を切っていく固い感じの小さな音を聴き、人質の青白い頭の地肌が少しずつあらわになってひろがっていくのを見ていると、なんでもないと思いながら、犬塚昇はやはりいくらかたじろぐ気持に襲われた。思った以上にそれが陰惨なものに思えてきたのだ。  異変は突然に起きて、あっというまの嵐のように犬塚昇を捲《ま》きこんでいった。予測にない出来事ではなかったが、起きてしまうと結果は予測をはるかに越えていた。  鋏がみちるの左の耳の近くの髪を切っているときだった。鋏の音が眠っている耳にひびいたのか、それとも髪を切られているうちに眠りが浅くなりはじめていたのかだったのだろう。不意にみちるがうるさそうに頭を振った。その拍子《ひようし》に鋏の先が耳たぶの付根に近いところを突いた。耳たぶが切れて血が流れ出たと思ったら、みちるが眼を開け、顔を歪め、血の出ている耳に手をやろうとした。その手が、鳥飼圭子が手を止めて宙に持っていた鋏の先に強く当った。  みちるは中が全部見えるほど大きく口を開け、爆発するように泣きはじめた。そのはげしい泣き声が、犬塚昇の動転を引き起す一発目のパンチとなった。犬塚昇は咄嗟《とつさ》に人質の口に掌を押しかぶせた。人質は泣き声を喉につまらせ、いったん閉じた眼を大きく見開いた。涙で光る人質の眼が、下から犬塚昇に向けられた。その眼は恐怖と苦痛にまみれているだけではなかった。冷酷で邪悪で醜悪な野獣を見ている眼になっていた。  その眼が二発目の強烈なブローとなって、犬塚昇を混乱の中に引きずりこんだ。彼はその眼から逃れたくて、片手で蒲団《ふとん》をつかみ、それを人質の顔面に押しかぶせ、頭からすっぽりつかみ、口を塞《ふさ》いでいる手を蒲団の下から引き抜いた。とたんに勢いをとり戻した泣き声が、蒲団の下からひびきわたってきた。その泣き声が犬塚昇の耳を打った。彼は蒲団の上から人質の顔を両手で押えつけた。どこが泣き声をほとばしらせている口なのかわからなかったからだった。  泣き声はすぐにくぐもったひびきに変った。だが、犬塚昇の眼には、冷酷で邪悪で醜悪な野獣を見るような人質のあの眼が焼きついていた。その眼は見ているとおりのものになれ、と犬塚昇に泣き叫びながら言いつのっているように、彼自身には思えた。 「手を放しちゃだめ! そのまま押えとくの。放したらまた泣きわめくにきまってる」  耳もとで鳥飼圭子が囁《ささや》くのが聴こえて、犬塚昇はそのとおりだと思った。その囁き声と声の主がそばにいることが、彼の心の助けになった。助けと救いだけがほしかった。自分がいま何をしているのかということも、犬塚昇はわかっていなかった。していることの結果を思ってみることも、彼はできずにいた。  どれくらいの時間がたったのか、犬塚昇はわからなかった。部屋は静まり返っていた。その中でひびく、自分の荒い呼吸の音で、犬塚昇はわれに返った。蒲団とその下の小さな丸いものを押えつけている両手と両腕が固くこわばっていた。額と首すじから汗が流れ落ちるのがわかった。そして犬塚昇ははじめて、自分がそれまでしていたことと、していたことの結果を考えた。  彼は少しずつ手と腕の力を抜いていった。いまにもあの恐怖の泣き声が蒲団の下からぶり返してきそうな気がした。だが、室内の静かさは変らなかった。犬塚昇はそっと蒲団から手を浮かした。蒲団の下のものが動き出す気配はなかった。犬塚昇はそのまま床に坐りこんだ。蒲団をめくって見る勇気はなかった。眼を床に落して、腕で額の汗を拭いた。 「死んでる……」  鳥飼圭子が言った。頭から血が引いていくのを感じて、犬塚昇はそのままうしろに体を倒した。鳥飼圭子が上から抱きついてきて、犬塚昇に頬をぴったりと重ねてきた。犬塚昇の体に痙攣《けいれん》が生れていた。それを治めようとするかのように、鳥飼圭子が彼を抱きしめた。 「だいじょうぶ。心配しないで。死体はバッグに詰めるわ。あたしがやる。残りの髪もあたしが切る。終ったらあんた、死体をどこかに捨ててきて。見つからないところに。それから切った髪を猪河原の事務所の郵便受けに入れてくるのよ」  頬を重ねたままで、鳥飼圭子が言った。その声も口調も、取乱したようすはなくて、犬塚昇の耳には力強くひびいた。彼はふたたびその声と声の主に心の助けを感じてうなずいた。 「あとのことはあたしが考えるから、心配しないで。一億円は絶対に手に入れるから。こうなったら秋子にも死んでもらうしかないけど、仕方ないわ。身代金《みのしろきん》がこっちに渡ったのに、人質が返ってこないで、あたしとあんたが姿を消したとなったら、秋子もいくら共犯でも黙っちゃいないはずだから」  鳥飼圭子が言った。そのとおりだ、と犬塚昇は思った。すると何の脈絡もないままに、死体になった人質の棄てる場所がひとつ、ポンと頭に浮かんできた。 「相模原に車の解体屋があるんだ」 「それがどうしたの?」 「そこに行けば、車の車輪のドラムとか、ギヤミッションとかがいくらでもころがってるんだよ。おれアルバイトの運転手の仕事でよくその前を通るから知ってるんだ。そこからは津久井湖も近いからな。車のドラムか何か重たいものをくっつけて、死体を津久井湖に沈めるんだよ。どうだ? この考え」 「いいわね。でも、待って。みちるの死体は棄てないほうがいいかもしれない。秋子を殺すのに使えそうな気がするわ」 「使うって、どんなふうに?」 「いまはまだ考えがまとまらないけど、何かアイデアが浮かびそうなの」 「そうだな。落着いて考えよう。おれも考えるよ」  犬塚昇が言った。鳥飼圭子がはげしく唇を重ねてきた。二人の口はたちまち唾液まみれになった。また何の脈絡もなしに、ひとつの思いがポンと頭に浮かんできて、犬塚昇はそれを口にした。 「ちょっと、おまんこ見せてくんないか。見たいんだ。あんたのアゲマンなんだよな。見ればうまく死体を棄ててこれるって気がするんだよ」  鳥飼圭子は無言でうなずくと、立ちあがってトレパンとパンティをおろし、片方だけ足を抜き取った。犬塚昇は床に仰向けになったまま、下からそこに視線を向けた。まだ起きあがる気がしなかった。それを見て鳥飼圭子が彼の顔をまたぎ、しゃがみこんできた。 「ほら、見て。アゲマンよ。だから濡れてるでしょう」  鳥飼圭子が言った。顎の前に突き出されてきた女陰に、犬塚昇はくいいるような視線を注いだ。陰毛の下で割れているクレバスは、すっかり濡れて赤く輝いていた。体液はクレバスの両岸を越えて、細い毛の列とそこの地肌を濡らしていた。そのときも犬塚昇は、自分が何をしているのか、よくわからない気持に包まれていた。 「さあ。仕事、仕事。あとでまたゆっくりね」  鳥飼圭子が言って、低くしゃがめていた腰を上げた。犬塚昇もはね起きた。今度はさっと起き上がれた。まるで、遠ざかっていくおまんこを追っかけるみたいに起きたな、と思って、犬塚昇は笑いたくなった。     6  電話が鳴ったのは午前六時だった。  牛尾修二はその音で目を覚ました。牛尾修二と蛭田貫一は、猪河原公一郎東京連絡事務所の和室に寝床を並べて寝ていた。  蛭田貫一も、牛尾修二とほとんど同時に、蒲団の上で起きあがった。電話は和室と隣の事務所で一緒に鳴りひびいていた。  蛭田貫一がすぐに隅の電話のところに行って、録音テープのスイッチを入れた。牛尾修二は引き戸を開けて、スリッパをつっかけ、事務室に入って受話器に手をかけた。応接室のソファで寝ているはずの馬場秋子は、まだ姿を見せていなかった。 「オーケイ。電話出て、牛尾さん」  和室から蛭田貫一が声を送ってきた。寝起きのにごった声だった。牛尾修二は咳《せき》ばらいをひとつしてから、受話器を上げた。 「ボンクラかい」 「厄病神《やくびようがみ》だな」 「眠ってたのか? 電話に出るのが遅かったじゃないか」 「用は何だ?」 「身代金《みのしろきん》を誰かに横取りされたなんて話を、おれは信用してるわけじゃないからな」 「そっちが信用しないのは勝手だが、一億円を誰かにコインロッカーから持っていかれたというのは嘘じゃない」  牛尾修二は言った。事務室のドアが開いて、馬場秋子が入ってきた。 「犯人からなのね?」  馬場秋子が小声で言った。寝起きの声に聴こえた。彼女の眼も眠っていたことを示すように、腫《は》れぼったくなって、少し充血していた。牛尾修二は馬場秋子の声に応えて小さくうなずき、彼女から眼を逸《そ》らした。 「いいか、ボンクラ。ゆうべのようなせこい時間稼ぎは、二度と通用しないからな。夜が明けたら、銀行でもどこでも走り回って、また一億円をかき集めろ。夕方までに金をそろえとけ」 「わかってる。うちの先生は朝一番で京都から帰ってきて、金策をすると言ってるんだから、だいじょうぶだ」 「猪河原大先生も迷惑な話だな。おめえみてえに女癖がわるくて、スキャンダルの種を作る秘書をかかえてるんじゃ」  厄病神の言うことを聴きながら、牛尾修二は、いったん逸《そ》らした眼をふたたび馬場秋子に戻した。馬場秋子は眉を強く寄せた顔を見せて、事務机の横に立っていた。受話器に送られてくる厄病神の声は、彼女の耳には届いていないようすだった。牛尾修二は、いま自分が感じている衝撃が、馬場秋子に向けた視線に現われていなければよいが、と思った。 「ぼくの女癖がよかろうとわるかろうと、大きなお世話だ」 「そこの一階のフロアの、おまえんとこのメールボックスの中に、プレゼントの品を入れといたから見に行ってみろ。おれを甘く見るなよ、ボンクラ。いつまでも舐めたまねしてると、二度目はもっとすばらしいプレゼントが届くことになるぞ」 「なんだ? プレゼントっていうのは」  牛尾修二は言った。受話器に返ってきたのは、電話の切れた後のツーツーという音だった。牛尾修二は声を出して舌打ちをしてから、受話器を戻した。 「何だって言ってきたの? 犯人は」  机の上に身を乗り出すようにして、馬場秋子が言った。 「下の郵便受けに、何かプレゼントの品物を入れといたって言ったんです」  牛尾修二は答えた。 「プレゼント? どういう意味?」 「プレッシャーをかけてこっちをゆさぶるために、何か入れたんでしょう」  和室から出てきながら、蛭田貫一が言った。牛尾修二は蛭田貫一と眼を合わせることも避けた。さっき覚えた衝撃が蛭田貫一に向けた視線に現われて、それを馬場秋子に見られることを虞《おそ》れたのだ。 「何かって、何を入れたのかしら?」  馬場秋子が、両手をセーターの胸の前で強くにぎり合わせて言った。 「そうだな。助けてほしいというみちるちゃんのメッセージを吹きこんだテープか、縛られて泣いてるところを写した写真か、そんなところじゃないかな。あたしが行って取ってきますよ」  蛭田貫一が言って、事務室のドアに向いかけた。馬場秋子がそれを押し留めた。 「いいわ。あたしが行ってくる!」  叫ぶように言って、馬場秋子がとび出して行った。玄関のスチールドアの閉まる音が聴こえた。それを聴いて、牛尾修二は蛭田貫一に眼を向けた。蛭田貫一はうつ向いてシャツのポケットからショートホープを取り出すところだった。 「気がつかなかったんですか? 蛭田さん。犯人はいま、おかしなことを言ったでしょう」  牛尾修二はひそめた声で言った。早口になっていた。 「猪河原大先生は女癖のわるい秘書を持って迷惑だって言ったことでしょう? 気がついてますよ」  興奮したようすもなく言って、私立探偵はショートホープに火をつけた。そのようすが牛尾修二にはもどかしくてならなかった。 「犯人は一回目の電話では、はっきりとみちるが猪河原の子供だって知ってて、猪河原に身代金を要求してきたんですよ。ところが今の電話じゃ、ぼくをみちるの父親だということにして話をしたじゃないですか。つまり犯人は、猪河原が体面を気にして、蛭田さんにはみちるがぼくの隠し子だということにしていることを、ちゃんと知ってるんですよ」 「それだけじゃない。犯人は、私立探偵がここに詰めて、電話を傍受してることも知ってるってことが、これではっきりしたわけですよ。前にもあたし、言ったでしょうが。犯人が電話で、みちるちゃんの父親の名前を言わずに、まわりくどい話し方をしてるのはへんだって……」 「つまり、馬場秋子が犯人とこっそり連絡をとり合ってるってことじゃないですか、これは。あの女は共犯者ですよ」 「こっちの動きを知ることのできる人間は、馬場秋子だけじゃなかったわけだから……」 「蛭田さん、冗談はやめてくださいよ。ぼくが共犯者だって言うんですか!」 「かもしれないと思ってたな。疑える人間は牛尾さんと馬場秋子の二人だけだから、どっちかだろうと思ってた。けど、いまは九十九パーセント、牛尾さんは白だと思ってます。でなきゃ、自分から共犯者がここにいるなんて言い出さないはずですからね。犯人は、みちるちゃんの父親が牛尾さんだと思ってるふりをしなきゃ具合がわるいんですよ。共犯者の内通がばれちまうから。馬場秋子が帰ってきたら、いまの電話の録音を聴かせますよ。それであの女が、牛尾さんと同じ疑問を言い出さなかったら、まず共犯者は彼女のほうだ。こりゃたのしみがひとつできたな」 「そこまでわかってて、どうしてぼくは百パーセントの白にならないんですか?」 「主義。あたしのね。あたしはいつだって、相手が誰だって、百パーセントその人間を信用することはしない主義なんです」 「それはどうでもいい。どうします? これから。共犯者が目の前にいるのがわかってるのに、身代金の用意なんかすることはないでしょう」 「心配が一つあるな。共犯者とミスター厄病神《やくびようがみ》とがどういう間柄《あいだがら》かわからないが、それによっては、こっちが逆襲に出たために、厄病神がヤケになって人質を始末する可能性も、まったくないとは言えないですよ。共犯者を締め上げて一挙にケリをつけるか、あの女を泳がせておいて、身代金をいったん渡して人質を返させてから厄病神をとっつかまえるか。二つに一つだが、それを決めるのは猪河原氏でしょう」 「そうですね。馬場秋子にわからないようにして、早急にぼくは猪河原と連絡をとりますよ。まずそれが先だな」  牛尾修二は自分に言い聞かせるように言った。 「お帰りになったようだな」  私立探偵が足もとの床にショートホープの灰をはたき落として、小声で言った。外の廊下を近づいてくる小走りの足音が聴こえてきた。玄関のドアが開く音につづいて、牛尾修二の名前を呼ぶ、悲鳴のような馬場秋子の声がひびいた。なんとクサい芝居だと思いつつ、牛尾修二は事務室から出た。蛭田貫一もつづいて玄関に通じる廊下に出てきた。  馬場秋子は玄関マットの上に突っ伏していた。両手で何かを胸に抱えこんでいた。 「馬場さん! 何が入ってたんですか。しっかりしてください」  蛭田貫一が叫んで、牛尾修二を押しのけ、とびつくようにして馬場秋子の体を抱え起した。それも馬場秋子に劣らぬほどのクサい芝居だった。抱え起された馬場秋子の手から、丸めたようになった新聞紙がころがり落ちた。馬場秋子は失神でもしたようにぐったりとなったまま、中腰になった蛭田の胸にもたれかかった。牛尾修二は廊下にころがり落ちた新聞紙を拾いあげ、ひろげた。中から人の髪の毛がこぼれ落ちてきた。  牛尾修二は低い呻き声を洩らした。それは芝居ではなかった。新聞紙の中から小さな束になってこぼれ落ちてきた髪の毛の不気味さに、牛尾修二は思わずたじろいだのだ。彼は急いで丸められた新聞紙を廊下に置き、そっと開いた。人質の丸坊主にされた頭が目に浮かんでくるほどの量の髪の毛が、かたまったまま現われた。黄色い小さなリボンに束ねられたままの髪の毛もあった。 「ひどいことをする奴だな」  蛭田貫一が言った。彼の眉をひそめた表情も、芝居とは思えなかった。 「みちるの髪の毛よ。リボンもそうだわ。リボンをつけたままの髪の毛を、平気で切るような奴なのよ、犯人は。鬼だわ」  馬場秋子は、蛭田貫一の腕に抱かれたままで、呻くような声で言った。 「とにかく、応接室に行こう、馬場さん。ソファに横になったほうがいい。歩けますか?」  蛭田貫一は芝居を再開した。馬場秋子は首の骨が折れでもしたように、深くうなだれたまま、立ちあがろうとしなかった。作り物の悲嘆と不安と恐怖の表情を見られるのがいやだから、この女は顔を上げないのだ、と牛尾修二は思った。しかし、ぞっとするような本物の不安も、牛尾修二の胸には生れていた。丸坊主にされているにちがいない幼い人質の顔が、眼に浮かんだまま消えないせいだった。そういう無残なことをする犯人なら、人質が自分の共犯者の娘であっても、まだ何をやらかすかわからない、と牛尾修二は思った。  蛭田貫一が、馬場秋子を抱きかかえるようにして、応接室に連れていった。馬場秋子は、ソファの上に身を投げ出すようにして突っ伏した。 「まずいな。犯人はゆうべ身代金《みのしろきん》が手に入らなかったことで、荒れ狂ってるんだ。さっきの電話で言ったことを、犯人は本気でやりかねないですよ、牛尾さん」  蛭田貫一が重々しい声で言った。 「何て言ったの? 犯人は。何をするって言ったの!」  馬場秋子が顔を上げて言った。まずまずの演技だ、と牛尾修二は思った。 「テープ、聴きますか? 馬場さん。犯人のさっきの電話のテープ。ぼくも奴の言ったことを正確には憶えてないんですよ」  牛尾修二は水を向けた。 「聴かせて! テープを」  ソファの背もたれに腕をかけて、崩れ落ちそうな姿勢になって、馬場秋子が言った。蛭田貫一が無言で応接室を出て行った。 「犯人は、二度目はもっとひどいプレゼントになる、というようなことを言ったんです」  牛尾修二は足もとに眼を落として言った。馬場秋子が何か言いかけたとき、テープレコーダーを手にした蛭田貫一が戻ってきた。彼はテープレコーダーをテーブルの上に置いて、スイッチを入れた。牛尾修二と厄病神《やくびようがみ》のやりとりの声が流れはじめると、馬場秋子はテープレコーダーに眼を据えた。  牛尾修二は、馬場秋子の横顔に眼を注いで、厄病神の�問題発言�の箇所が巡ってくるのを待ち受けた。すぐにその部分が声になって流れ出てきた。馬場秋子の表情は少しも変らなかった。彼女が犯人の�問題発言�になんの問題も感じていないことはまちがいない、と思った。  皮肉な笑いがこみあげてくるのを、牛尾修二は必死に抑えた。その誘拐事件のほんとうの被害者が猪河原公一郎であることを、すでに見抜いていた、と蛭田貫一が言ったのはゆうべのことだった。そしてそのあとで馬場秋子は、着替えを取ってくると言って、西新宿のマンションに帰っている。そのとき馬場秋子は犯人に電話するか、直接会うかして、みちるの父親が猪河原公一郎であることが、探偵に見破られたことを知らせたかもしれない。だが、犯人はそれを知らされたことをこっちに気づかれてはならないのだ。だからそれまでどおりに、みちるの父親が牛尾修二だと思っているふりをした。ほんとうにそれまでどおりなら、犯人にとっては何も問題は起らなかったのだ。蛭田が盗聴するようになってから犯人はまだ一度も、みちるの父親を名ざしで呼んだことはなかったのだから。ところが、さっきの電話では、名前こそ口にしなかったものの『女好きの秘書を持って猪河原大先生は迷惑』だという言い方をした。その余計な一言が、馬場秋子の仮面を剥《は》ぐ結果に結びついた。犯人がことさらに、内通者の存在を見破られまいとする余りに、その余計な一言を口にしたのだとすれば、墓穴を掘ったということになる。なんという皮肉だ。これが笑わずにいられるか——そう思いながら、牛尾修二は笑いをこらえていた。  テープの電話のやりとりが終り、蛭田貫一がテープレコーダーのスイッチを切った。 「蛭田さん。早くなんとかして。牛尾さん、先生は何時に東京に着くの? ぐずぐずしてると、今度は犯人は、みちるの耳とか指とかを切り落して、郵便受けに放りこんでくるかもしれないわ」  馬場秋子がおろおろした声で言った。 「落着いて、馬場さん。犯人は夕方までに金をそろえろと言ってるんだ。それまでには猪河原氏が身代金を調達するということになってるじゃないですか。だいじょうぶですよ」  蛭田貫一は、わざわざ馬場秋子の横に行ってソファに腰をおろし、彼女を抱きかかえるようにして背中を撫でてやりながら言った。牛尾修二には、蛭田貫一がさっきから�芝居�にことよせて、やたらに馬場秋子の体に手を触れているように思えてならなかった。背中を撫でられながら、馬場秋子はまた私立探偵の胸にもたれかかっていった。  二人とも勝手にやってろ——牛尾修二は胸の中で捨て科白《ぜりふ》めいたものを吐き、黙って応接間を出て、玄関に向った。みちるの髪の毛をのせた新聞紙は、まだ玄関マットの横に置いたままになっていた。牛尾修二はそれから眼を逸《そ》らして靴をはき、玄関を出た。  腕の時計は六時十七分になっていた。うまくすれば猪河原公一郎はまだ、京都のホテルにいるかもしれない時刻だった。下に降りるエレベーターの中で、ふと牛尾修二は、猪河原公一郎は京都で鹿沼真知子をくどき落すことができたのだろうか、と考えた。  公衆電話は、一階のロビーの隅にあった。猪河原公一郎はまだ、京都のホテルの部屋にいた。 「わかった。さわぎ立てるな。知らんふりして、相手の言うとおりに、ひとまずしよう。すべてはみちるが帰ってきてからだ。蛭田さんの危惧は、わしももっともだと思うからな」  秘書の話を最後まで口をはさまずに聴いてから、国会議員立候補予定者はそう言った。事情を知らない者が聴いていても、それが何の話なのかわからなかったはずである。そうした用心深い猪河原公一郎の話しぶりから、牛尾修二は電話のそばに鹿沼真知子がいるのだろう、と考えた。その時間に彼女が猪河原公一郎と同じ部屋にいるのなら——そこまで考えて牛尾修二はひそかに吐息を洩らした。女好きでスキャンダルの種を抱えたボスに仕える秘書は、楽じゃないのだ、と彼は思った。  四章 バージニアスリム     1  午前九時に、蛭田貫一が猪《いの》河原《かわら》公一郎東京連絡事務所を出て行った。新宿駅のコインロッカーから、一億円の入ったバッグを持ち去った男を探し出すためだった。  蛭田貫一は出かける前に牛尾修二に、すでに前に質問ずみのことを、もう一度確認するようにして訊いた。それは、前日の夕方に、牛尾修二がホテルのクロークでコートを預けたときに受け取った、合札の番号と、そのとき牛尾修二が出席したもの以外にも、同じフロアで他のパーティが開かれていたか、どうか、といったことだった。  牛尾修二の答えはそのときも曖昧《あいまい》だった。彼はクロークの合札の番号については、まったく憶えがないと言った。同じフロアで他にもパーティが開かれていたかどうかについては、開かれていたような気もするし、開かれてはいなかったような気もする、と牛尾修二は答えていた。  そうした秘書と私立探偵とのやりとりを、馬場秋子は応接室のソファに横になったまま聞いていた。彼女は、牛尾修二の物覚えのわるさと注意力の散漫なことに肚《はら》を立てそうになったが、すぐに思い直した。横取りされた一億円が取り戻せなくても、猪河原公一郎はあらためてまた一億円の身代金《みのしろきん》を用意すると言っているのだから�ボンクラ�のぼんやりぶりに肚を立てることもないわけだった。  蛭田貫一が出かけてから三十分後に、今度は牛尾修二が出て行った。牛尾修二は、前日から新宿駅ビルの地下駐車場に置き放しにしてある猪河原公一郎のシーマを取りに行き、そのまま東京駅に回って、京都から帰ってくるボスを出迎える、と馬場秋子に言った。シーマのスペアキーが、事務所に置いてあることがわかったのだ。 「いいですか、馬場さん。ぼくと蛭田さんの留守の間に、犯人から電話がきたら、落着いて応対するんですよ。必らず和室の電話に出てくださいね。和室の電話には、蛭田さんがテープレコーダーをセットしてますから、それのスイッチを入れ忘れないこと。あわてて電話に出ると、忘れますからね。お願いしますよ」  牛尾修二はそう言い残して出かけて行った。玄関のドアの閉まる音を聴くと、馬場秋子はソファの上で大きく伸びをしてから、むっくり起きあがった。傷心を装ってずっと体を横にしているのも、決して楽ではなかった。ほんと、疲れるわ——起きあがったとたんに、独りごとが胸に生れた。そうやって一人になると、手枷足枷《てかせあしかせ》がはずれて、身も心もせいせいするのを彼女は感じた。  ソファの前のテーブルには、新聞紙に包んだみちるの頭髪が置いてあった。牛尾修二が玄関から持ってきたのだ。包みは元に戻されていて、髪の毛も黄色いリボンも眼には映らない。だが、さすがに馬場秋子はそこから眼を逸《そ》らした。さっさとそれを眼に入らないところに始末したいのだが、猪河原公一郎の前で包みを開いて、切り取られたみちるの髪の毛の束を彼に見せよう、と馬場秋子は考えていた。猪河原公一郎にこそそれを見せてやらなければ、圭子の言う圧力をかけるということにはならないのだから——。  それにしても、猪河原公一郎はあらためてまた一億円の身代金を用意することを、よくすんなりと承知したものだ、という思いがまた馬場秋子の中に湧いてきた。それが、みちるの身を思いやる父親の気持からではなくて、誘拐事件がおおやけになって、隠し子のスキャンダルが明るみにひき出されることを虞《おそ》れてのことだ、ということが馬場秋子にはよくわかっていた。  いったい猪河原の奴、どれくらいの金を持っているのかしら。二度目の身代金の用意ができるくらいだから、あたしが考えている以上にあいつはリッチマンなんだわ。こんなことならはじめから身代金を二億円とふっかけとけばよかった。それでもあいつはきっと出したわ。スキャンダルが怖いんだから。二億どころか、五億円といっても黙って払ったかもしれないわよ——。  馬場秋子は応接室を出て、玄関に行った。玄関のドアを開けて廊下を窺《うかが》った。私立探偵が外出するふりをして、自分の動きを見張ってるかもしれない、と彼女は考えたのだ。廊下には人の姿はなくて、静まり返っていた。玄関のドアを閉め、キッチンに入り、冷蔵庫を開けた。前の日に近くの薬局でパックごと買ってきた栄養ドリンク剤が入っていた。それを一本飲んでから、応接室に戻り、隅の電話の台の前に行った。ドリンク剤が胃袋を刺激したせいか、猛烈な空腹感が襲ってきた。前日から、ほとんど物を口に入れていないのだ。一億円と鳥飼圭子との蜜のような生活への夢を押し隠して、わが子を誘拐された母親の傷心を表現するには、絶食がいちばんだ、と馬場秋子は心得ていた。  呼出音がつづいたが、鳥飼圭子も犬塚昇もなかなか電話に出てこなかった。やっと鳥飼圭子が応答してきたが、その声はひどくかすれていた。 「あたし。秋子。どうしたの? 眠ってた?」 「そう。ゆうべなかなか寝つけなかったもんだから、うとうとしてた」 「あたしはまた、朝から使い棄て男にあんたがねだられて、セックスしてるのかと思った」 「ばかね。彼もまだ寝てるわ。朝方、牛尾に電話してから、彼は眠ったみたい」 「届いたわよ、髪の毛。髪の毛ってあんなふうにして見ると、なんか気味がわるいわね。みちる、泣いたでしょう?」 「目が覚めて、髪の毛が短くなってるのに気がついてから、ちょっと泣いたわ。でも、あたしがショートも似合うわよって言ってやったら、泣きやんだわ」 「眠ってるときに髪切ったの?」 「そうよ。上手にカットしたからみっともなくないわよ。効いたでしょう? 髪の毛の圧力」 「うん。あたしも大芝居したもん。牛尾の奴は冷めたかったけど、蛭田はあたしを抱きかかえて慰めたり力づけたりしてくれたわよ」 「今夜には結着がつくわ。もうしばらく大芝居つづけてて。そっちは何か変ったことあるの?」 「ないわ。順調よ。蛭田は一億円を横取りした奴を探しに行ったし、牛尾は猪河原を迎えに行って、あたしいまここに一人なの。だからそっちがどういうふうかと思って電話しただけよ」 「こっちも順調よ」 「みちるはいま何してる?」 「テレビ見てる。フレンチトーストたべながら」 「何かあったらまた知らせるから……」  馬場秋子は電話を切って、自分も応接室のテレビのスイッチを入れた。他にはすることがなかった。  十一時過ぎに、牛尾修二が猪河原公一郎を連れて帰ってきた。廊下の足音を聴きつけて、玄関のドアが開く前に馬場秋子はテレビを消していた。  牛尾修二は帰ってきたと思ったら、すぐにまた出て行った。 「みちるの髪を切って届けてきたそうだな」  応接室に入ってくるなり、猪河原公一郎が言った。彼はテーブルをはさんで馬場秋子と向き合って坐った。馬場秋子は力なくうなずいて見せて、テーブルの上の新聞紙の包みを無言で指さした。 「いいよ。見たからって、あの子の髪が一足とびに元に戻るわけじゃない」 「ごめんなさい。二回もお金の心配をさせちゃって……」 「工面《くめん》するあてがあるから、心配するな。いま牛尾君に行ってもらった。災難だったと思って諦めるしかない。だが、身代金は必らず取り返すぞ。探偵の蛭田さんは腕がいいそうだから、きっと犯人を突き留めてくれるよ」 「そうなるといいんだけど……」 「そうなるさ。蛭田さんは、わしがほんとうの被害者だってことをさっさと見抜いてたっていうじゃないか」 「そうなの。おどろいたわ」 「蛭田さんて人が頼りになる証拠だよ」 「鹿沼さんが一緒じゃなかったの? 京都は……」 「秋子。おまえ妬《や》いてるのか? こんなときだっていうのに」 「ばかなこと言わないで。そういうつもりじゃないわよ。鹿沼さんも一緒に帰ってくるのかと思ったから訊いたのよ」 「警察に届けるわけにいかない誘拐事件が起きてるのに、事情を知らない鹿沼君が事務所にいては困るじゃないか。ここには犯人が電話をかけてくるんだから。彼女には用をこしらえて、名古屋で新幹線を降りてもらったんだよ。明日の夕方じゃなきゃ帰ってこないはずだ」  言って猪河原公一郎は、ソファの上で上衣を脱ぎ、ネクタイをゆるめた。部屋の空気はヒーターで温まっていた。 「何か冷めたい飲物くれ」 「缶ビールと栄養ドリンクぐらいしかないわよ、冷たいものは」 「栄養ドリンクがあるのか?」 「あたし、ごはんが喉を通らないのよ。だからきのうまとめてドリンク剤を買ってきたの」 「それはいい。一本飲もう」  猪河原公一郎が言った。馬場秋子は立ちあがって、応接室を出た。ドリンク剤を取ってくるつもりだった。 「和室にいるからドリンク剤そっちに持ってきてくれ。玄関はロックしとけよ」  応接室を出たところで、うしろから声が投げられてきた。ばか——馬場秋子は口の中で呟《つぶや》いた。それから、まさか、と思った。猪河原公一郎がこれからセックスをするつもりなのではないか、と思ったのだ。いくらなんでもこんな事態の最中に、という気はしたが、玄関のドアをロックしておけ、といった猪河原公一郎のことばは、どうやら彼がその気になっていることを示しているようだった。  猪河原公一郎が、その方面のことでいったんその気になったら、途中で諦める男でないことを、馬場秋子は知り抜いていた。拒めば限りなくうるさく、しつこい。だから彼女は時と場合を選ばず、求められれば応じる。だが、いまという時と場合は、尋常な時と場合ではない。猪河原公一郎が、隠し子のみちるにそれほどの愛情を抱いていないのはわかっているし、だからみちるが誘拐されている最中に彼がセックスを求めてきてもおどろく必要はないのかもしれないが、みちるの母親のあたしがそれに応じるのは具合がわるい。あたしはいま、食事も喉を通らない傷心の身なのだから。拒みきれずに応じて、少しでも体が濡れたりして、それを猪河原公一郎に気づかれたら、ますます具合がわるい。いまの時と場合は、それこそ処女になったつもりで拒み通さなければ——。  馬場秋子はドリンク剤を持って、和室に行った。玄関のドアはロックせずにおいた。和室には、牛尾修二と蛭田貫一が使った寝床が敷いたままになっていた。寝床のひとつの上に立って、猪河原公一郎はすでにズボンを脱ぎ、パンツをおろしかけたところだった。上半身はワイシャツを着たままだったが、ネクタイははずしていた。 「そこ閉めて、おまえも脱げよ」  パンツを脱ぎ、馬場秋子の手から栄養ドリンクの瓶を受け取って、猪河原公一郎は表情も変えずに言った。 「こんなときに何を考えてるの? どういう人なの、あなたって」 「こんなときだからやるんだよ。やって元気とり戻すんだよ。おまえもだ。心配することはないんだから。犯人の要求はみんな呑んで、身代金を払うんだから、みちるは無事に帰ってくるにきまってるじゃないか。ほら、早く脱げ」  空っぽにしたドリンク剤の瓶を壁ぎわの座卓に置くと、猪河原公一郎はいきなり後ろに回って、馬場秋子のスカートを引きおろした。乳房がつかまれ、もうひとつの手がパンティの下にすべりこんできた。 「止めて! いまはそんな気になれないわ。玄関だって鍵かかってないのよ」 「いいから、いいから」  馬場秋子は寝床の上に後ろ向きに引き倒された。すぐに猪河原公一郎が胸の上にまたがってきて、柔らかいままの包茎のペニスを馬場秋子の口もとに押しつけてきた。後の片手は後ろに伸びて、馬場秋子のパンティを押しやり、女陰を掌《て》で揉みはじめていた。 「ほら、元気出して、秋ちゃん。いつもみたいにしゃぶって……」 「わかったわ。してあげるから、あたしのさわらないで。気持がそこにいかないときさわられるのって、いやなの」 「さわらなきゃ、立たないの、知ってるだろうが、よく。人がくるといけないから、さっとすませるから。ほら、元気出して、早く」  猪河原公一郎の指が、クリトリスを揉みはじめていた。馬場秋子はフェラチオをはじめた。体が濡れてこないうちに、こいつを早くいかせちゃわなきゃ——と思った。猪河原公一郎は腰を浮かし、馬場秋子のセーターを片手で首までまくりあげ、ブラジャーの下から乳房をつかみ出して揉みしだきはじめた。口の中で勃起しはじめたペニスから、鹿沼真知子の匂いが漂ってくるような思いにかられたが、馬場秋子は気にしなかった。それどころじゃなかった。救いは猪河原公一郎が愛撫の下手な男であることだった。テクニシャンなら時間をかけずにその気にさせられてしまうところだ、と馬場秋子は思った。 「よし。ほら、ここ……」  猪河原公一郎が、馬場秋子の胸から体をどかして、彼女のアヌスのあたりを指で突ついた。こいつ、人が濡れてもいないのに、うしろに入れる気だな——馬場秋子は思ったが、逆らわなかった。苦痛は覚悟した。考えてみれば、それが最後の苦痛になるはずだった。苦痛よさらば、一億円よこんにちは——呪文のように胸に呟《つぶや》きながら、馬場秋子はパンティを脱ぎ、寝床に開いた両膝を突いて、上体を前に倒した。  猪河原公一郎は、馬場秋子の高くかかげられた尻をつかみ、アヌスに唾を吐きかけた。それからそこに一気に押し入り、貫いてきた。馬場秋子は思わず痛みに呻いて背中を丸め、歯をくいしばった。いつもとちがう乱暴な猪河原公一郎のやり方だった。まるで憎しみがこもったような突っ込み方だ、と馬場秋子は思った。 「だいじょうぶ。ほら、おまえも濡れてきたじゃないか」  猪河原公一郎が、息をはずませて下腹を馬場秋子の尻に打ちつけながら言った。彼の片手は下から伸びていって、馬場秋子の女陰をまさぐっていた。そこがかすかに火照《ほて》りをおびて、奥のほうから疼《うず》きの波が湧いてきそうな気配を、馬場秋子は感じていた。     2  牛尾修二は、猪河原公一郎の代理で、銀行回りをしていた。身代金《みのしろきん》の一億円をそろえるためだった。  あらましの話は、猪河原公一郎が京都から帰る途中の新幹線の中から、それぞれの銀行の支店長に直接、電話ですませていた。二度目の身代金の調達のために、猪河原公一郎があてにした銀行は五店になっていた。  最初の銀行での用件をすませて、つぎの支店に向う途中で、シーマの自動車電話が鳴った。 「事務所に電話したら外だってことだったんで……」  受話器に蛭田貫一の声が送られてきた。 「銀行を回ってるんです。例の件でね」 「事務所の電話には、猪河原公一郎氏が出てね。蛭田だって言ったら、照れくさそうに挨拶してましたよ。気のよさそうな感じの先生じゃないの。声の印象じゃ」 「愛嬌《あいきよう》のある男なんです。たしかに気のいいところもある。特に女にはね。だから飼い犬に手を咬《か》まれたりするんですよ」 「全日空、行ってきましたよ」 「名前がわかったんですか? 横取り男の」 「ずいぶん手間取ったけどね。カニサワトシオって男です。年齢は五十一歳。いま、あたしは新宿のホテルに行ってきたとこだけど、牛尾さんが出たパーティとかち合ってるパーティってのはなかったそうです」 「じゃあ、カニサワトシオって男も、ぼくと同じパーティに出てたんですね」 「たぶんね」 「じゃあ、パーティの主催者にさっそく、問い合わせてみます。カニサワトシオって名前が、出席者のリストの中にあるかどうか」 「そうしてください。わかったらポケベルであたしを呼んでちょうだい。新宿でブラブラしてるから」 「そうします。ホテルのクロークの係員は、何も覚えちゃいないでしょうな? ぼくが合札の番号を記憶してないんだから、話の訊きようがないか……」 「牛尾さんが受け取った合札の番号は、161だったんだ」 「え? どうしてそれがわかったんです?」 「合札だから、預った品物を客に渡したら、荷物につけてあったほうと、客に渡してあったほうと、二つの札を一緒にそろえておくはずでね。もしそうなら、番号のちがう札が一緒になってるわけだと思ってね、クロークに行って訊いてみたんですよ」 「なるほど。それでわかったわけですね。ぼくの合札の番号が……」 「牛尾さんのが161番。横取り野郎のが191番。6と9を両方ともさかさまに読んじまったんだね。シックスナインは気をつけなきゃいけないな。まちがいの元だ」 「冗談なんかどうでもいいですよ。クロークの係員は、ぼくのコートを渡した奴のこと、何か覚えてなかったんですか?」 「残念ながら、思い出せないそうです。番号ちがいの札が組み合わされてるのに気がついたのは、クロークを閉めてからだったらしいから。いいじゃないの。カニサワトシオって名前まではわかったんだから」 「そうですね。折り返し連絡します」  牛尾修二は電話を切った。二番目に行くべき銀行の近くまで車はやってきていた。  車を銀行の駐車場に入れて、牛尾修二は銀行の一階のフロアの隅の公衆電話で、タウン誌と文芸同人誌『地平線』を出している雑誌社を呼び出した。女子社員が電話に出た。牛尾修二は名前を名乗り『地平線』の会員であることを告げた上で、用件を伝えた。クロークでコートをまちがえられたことも、横取りの一件も伏せて、カニサワトシオという人物が前日のパーティに出席していたかどうかだけをたずねた。  返事は牛尾修二が二階に上がり、銀行の貸付課長と用談中に、彼の携帯電話にかかってきた。雑誌社の女子社員が、パーティの芳名帳を調べるのに、少し時間がかかりそうだと言ったので、牛尾修二は自分の携帯電話の番号を告げて、いったん電話を切ったのだ。 「蟹沢利夫さんという方は、たしかにパーティに出席なさってます」 「どういう字ですか? カニサワさんというのは」 「エビ、カニの蟹、金沢の沢、利益の利、夫の夫です」 「住所わかりますか?」 「東京ですね。東村山市青葉町三、青葉団地五の四一六となってます」 「どういう職業の人か、わかりませんか?」 「さあ……」  雑誌社の社員は困ったような返事をした。牛尾修二は電話を切った。  銀行の用をすませて車に戻ると、牛尾修二は猪河原公一郎の事務所に自動車電話をかけた。猪河原公一郎が何かのつてで、蟹沢利夫《かにさわとしお》という男のことを聞き知っているかもしれない、と考えたのだ。知っていないとしても、蟹沢利夫は、馬場秋子が書いて身代金に添えた�文書�によって、猪河原公一郎に対する脅迫者となるかもしれない相手であることを考えると、秘書としては急報しておきたかった。  猪河原公一郎は、蟹沢利夫という名前には心当りがない、と言った。牛尾修二はボスに銀行の用件の進みぐあいを知らせて電話を切った。  それから牛尾修二はたばこに火をつけ、知恵を絞った。タウン誌と文芸同人誌の編集発行人である老詩人なら、彼の主催したパーティの出席者のことは、たいていわかるはずだった。だが、それを訊くのに、ありのままの事情を話すのは憚《はばか》られた。口実がほしい、と牛尾修二は考えた。  二本目のたばこが半分近く灰になってから、牛尾修二は自動車電話の受話器を取った。思いついた口実の出来は、牛尾修二自身も三十点ぐらいの評価しかできなかったが、思いついた中では、それが最高点だったのだ。  老詩人はまだ出社していなくて、自宅にいた。牛尾修二は前夜のパーティの席で老詩人ともっとゆっくり話したかったが、残念だった、と挨拶代りのことばを並べた。老詩人はパーティの二次会で調子をあげすぎて、宿酔《ふつかよい》だと笑った。 「ところで先生。つかぬことを伺いますが、蟹沢利夫さんという方をご存じないですか?」 「蟹沢君なら知ってるよ。ゆうべのパーティにも来てた。蟹沢君がどうかしましたか?」 「やっぱりそうですか。ゆうべのパーティに出てた方でしたか。いえね、ぼくは出先でいただいた名刺は全部ホルダーに入れて、何月何日にどこでお会いした、どういう関係の方だということを記録してるんです」 「ずいぶん几帳面《きちようめん》なことしてるんだね」 「猪河原の秘書として、本人の代理でいろんな方にお会いするもんですから、それも秘書業務のひとつと思ってるんです」 「なるほど。それはそうだろうね」 「それで、さっききのうの一日分の名刺の整理をしていたら、蟹沢さんの名刺が出てきたんですが、ご本人のことをまったく思い出せなかったんです。どこでお会いしたどういう方だったのか。それで、もしかしたら先生のパーティでどなたかが紹介してくださって、蟹沢さんと名刺を交換したのかな、と思ったもんですから、先生にお電話したんです」 「珍らしいな。蟹沢君が名刺なんか交換するなんて……」  老詩人のことばは、牛尾修二をヒヤリとさせた。口実の出来の評価が正しかったことを彼は思い知らされたが、めげずに踏み留まった。 「そういうことはいつもはしない方なんですか? 蟹沢さんという人は」 「ちょっと変り者でね。一種の天才肌とでもいうのかね。画家だったんだ。だった、じゃなくて今でも絵筆一本で喰ってるようだから画家にはちがいないんだろうけどね。若いときは才気のほとばしるような、いい絵を描いてた。画壇で注目もされてたんです。けど、その頃から酒の手放せない男でね。生活がルーズだったんだな。四十歳になる前に、蟹沢利夫は画壇から消えてしまったんです。才能の問題というより、性格と生活態度が彼をだめにしたんだ、という人が多いね。いまは挿画《そうが》とかカットとか、レタリングとか、そんな仕事で生活してるようです。ぼくは彼がまだ新進気鋭と言われてるときに、詩集の装幀《そうてい》をしてもらったのが縁で知り合ったんだ。それで、うちのタウン誌の仕事をやらせてくれっていうから頼んでたんです。そこがまた蟹沢君のいいところというか、変ったところというか、勢いのよかった頃のことを知ってるぼくなんかに、彼は平気で、仕事がなくて困ってるから助けてくれなんて言うんだなあ。こだわりはないんだね。ゆうべのパーティでしばらくぶりに顔を合わせたら、ばかに痩せてて顔色がよくないんで、気になって訊いたら、肝臓の癌だって言ってた。嘘かほんとか、自殺するつもりで一週間ばかり山形の山の中を歩き回ってきたけど、死ねなかったなんて言って笑ってました。そういう男なんです。七年前に奥さんに死なれて、家族のいない男だし、彼が自殺なんて言うと、まるっきり冗談にも聞こえないところがあってねえ、ぼくもなんとなく気になってるんですよ」  話し好きの老詩人は、牛尾修二が必要としている以上の情報を、気前よく与えてくれた。牛尾修二の中に、その情報から生み出されてきた蟹沢利夫という男のイメージが浮かんでいた。そのイメージの中の蟹沢利夫が、思いがけないいきさつで出合った一億円の札束を横取りしそうかどうか、という点は、牛尾修二は決めかねた。イエスともノーとも言えそうで、しかも正反対の二つの答が、ともにぴったりはまってしまいそうな男にも思えるのだった。  牛尾修二は、また自動車電話の受話器を上げて、蛭田貫一のポケットベルに通じる番号を押した。受話器を置いて一分とたたないうちに、自動車電話が鳴った。受話器に送られてきたのが、蛭田貫一の声だったので、牛尾修二は意外に思った。 「ずいぶん早いですね。電話のそばだったんですか?」 「まあね。ここ、どこだと思います? 牛尾さん」  蛭田貫一はひそめたような声で言った。 「さあ。新宿界隈ってことはわかりますけど。さっき、新宿をぶらつくってことだったから……」 「西新宿。パークビレッジ八〇二号室」  蛭田貫一が告げた場所がどこなのか、咄嗟《とつさ》には牛尾修二は思い出せなかった。思い出したとき、彼はおどろきの声を洩らした。 「パークビレッジ八〇二号室って、馬場秋子の部屋じゃないですか」 「ちょっとね、鍵をいたずらして忍びこんだんです。ひょっとして、何かいい物が見つかるんじゃないかと思ってね」 「見つかったんですか?」 「まだ家捜しがすっかり終ったわけじゃないんだ。カニサワトシオの住所、わかったんですか?」 「住所以外のことまでわかりました。だけどこの電話で話しててだいじょうぶかな。誰か馬場秋子の知合いがそこに訪ねてきたりしたらどうするんですか? 空き巣狙いとまちがえられて一一〇番されますよ」 「だいじょうぶ。電話が終ったら留守録に切り替えるから。ドアチェーンもかけてある。カニサワのこと話してください」  私立探偵は落着きはらっていた。牛尾修二は、老詩人から聞き出したことを、蛭田貫一に伝えた。 「芸術家くずれのアル中のおっさんか。独り者で、癌で、自殺したがってるんだってえ。明るくないねえ。ネクラの卸元《おろしもと》みたいな奴らしいな」 「そうですね」  牛尾修二は少し白けた返事をした。牛尾修二自身も、卸元とまではいかないが、小売店ぐらいには根がクラいことを自覚していた。 「ところで牛尾さん、馬場秋子から、トリカイケイコって名前、聞いたことないかな?」  蛭田貫一が言った。 「トリカイケイコ? 聞いた覚えないなあ。誰なんですか? それ」 「わからないんだが、ちょっと気になるんだ。ここにある馬場秋子の電話番号のリストの中に、片仮名でケイコって名前があるんだけどねえ」 「どうしてそれが気になるんですか?」 「ここにある電話のリストの中で、苗字がなくて名前だけってのは、このケイコさんが一人だけなんだな。苗字を省くってのは、相当親しい相手じゃないかって気がするんです。もしそうなら、ケイコさんは、馬場秋子が猪河原氏の愛人で、二人の間にみちるという父なし子がいるってことも知ってるかもしれない。だったら馬場秋子が書いてあたしに渡してくれた友人関係のリストに、ケイコさんの名前が出ててもよさそうなもんだが、それがないんだなあ」 「なるほど。それは気になりますね」 「だから、ケイコさんの番号に電話してみたんですよ。まちがい電話のふりして、ケイコさんの苗字を聞き出したんだ。松坂慶子さんのお宅ですかって。ちがいますッ。あれ? 松坂さんのお宅じゃないんですか? うちはトリカイですッ、ガチャン。すっげえおっかない声の女だったなあ」 「厄病神《やくびようがみ》が馬場秋子を殴りつけてる間に、もう一人の女がみちるちゃんを抱えて車に押し込んだってことも考えられますよね。犯人の一人が女だとしてもおかしくはないなあ」 「ま、とりあえずケイコさんの名前は頭に留めときましょう。必要があれば、電話帳でトリカイケイコを引いて、この電話リストの番号と照合すれば住所は簡単にわかるから、会いに行くのはいつだってできるから」 「トリカイケイコは、どこの電話番号になってるんですか?」 「都内です。市外局番はついてないから。3772という局番だから、大田区とかあっちのほうだな。もうちょっとここで働いてから、あたしは東村山のネクラのおっさんのようすを見に行きますよ」  私立探偵はそう言った。牛尾修二は車を出して、三軒目の銀行に向った。  最後の銀行での用をすませて、牛尾修二が猪河原公一郎の事務所に帰ったのは、午後三時近くだった。一億円の調達は無事に終えた。先に回った三店の銀行からは、すでに事務所に現金が届けられていた。残りの二店で調達した金は、牛尾修二が新しく買ってきた旅行バッグに入れて、自分で運んできた。  猪河原公一郎と馬場秋子は、応接室にいた。馬場秋子はソファに横になっていた。  テーブルの上に、蛭田貫一のテープレコーダーが置かれていた。 「犯人の声のテープを聴いてたんだ。まだ若そうな男じゃないか。アホな奴だよな。あとで警察よりおっかないお兄さんが現われて、折角手に入れた一億円を取り返された上に、半殺しにされるのも知らずにいるんだから」  猪河原公一郎が、牛尾修二に言った。牛尾修二は馬場秋子の表情をうかがった。彼女は猪河原公一郎の科白《せりふ》が、自分に向けられたものだなどとは、まったく思っていないようすだった。  蛭田貫一が事務所に戻ってきたのは、夕方の六時近くだった。牛尾修二が私立探偵を依頼人に引き合わせた。初対面の挨拶の後で、蛭田貫一は、東村山市の青葉団地に住んでいる蟹沢利夫が、ちょうど一週間前から家を留守にしたまま、まだ帰っていないことを、依頼人とその秘書と、依頼人の愛人に告げた。 「蟹沢利夫の郵便受けに、一週間前からの新聞が、配達されたままになってるし、近所の人たちも留守らしいって言うんです。一週間の留守は山形旅行だったんだろうけど、きのう全日空の飛行機で山形から帰ってきたまま、奴は家には帰ってないんだろうなあ」  私立探偵は言った。 「一億円の現金を道端で拾った気になって、どっかでうまい酒くらって、きれいな姉ちゃんに囲まれて、家に帰るの忘れてんじゃないかね」  猪河原公一郎がいまいましげに言った。秘書は首をちぢめた。     3  犬塚昇は、角の電話ボックスのドアを開けて入った。そこから猪河原公一郎東京連絡事務所のあるマンションの玄関の前と、地下駐車場の出入口が見とおせた。夜の十時をまわったばかりだったが、赤坂の街は明るかった。電話ボックスのすぐ横に、鳥飼圭子のソアラが停めてあった。車の持主は運転席でバージニアスリムを吸っている。  犬塚昇は、電話の受話器を取り、カードをさし入れた。電話番号はもうすっかり馴染《なじ》みになって頭に入っている。電話に出た相手の声も馴染みのものだった。 「ボンクラか?」 「厄病神《やくびようがみ》だな」 「準備オーケイだな?」 「だいじょうぶだ」 「車は馬場秋子に運転させろ。いますぐだ。おまえは身代金《みのしろきん》の入ったバッグを膝の上に置いて、助手席に乗れ。バッグに�文書�を入れるのを忘れるんじゃねえぞ」 「わかった。で、どこに行けばいいんだ?」 「事務所を出て、外苑の料金所から首都高速に入れ。すぐに三宅坂トンネルだ。トンネル入ると、竹橋方向と霞ケ関方向に道がわかれてるだろう。右に行け。霞ケ関のほうだ。そこで道は一車線になる。左側がゼブラゾーンになってる。つぎの合流点の手前だ。ゼブラゾーンまで行ったら車からバッグを落せ。車は停めるな。スピードを落して、助手席のドア開けて、バッグを落すんだ。わかったな?」 「今度はコインロッカーは使わないのか?」 「おまえにコインロッカーの鍵を持たせると、何が起きるかわからねえじゃねえか」 「三宅坂トンネル、霞ケ関方向のゼブラゾーンだな。わかった」 「バッグを落したら、そのまま進んで、霞ケ関で首都高から出ろ。そして事務所に帰れ」 「みちるちゃんはいつ返すつもりだ?」 「金を受け取ってチェックする。�文書�もチェックする。問題がなければ今夜のうちに連絡する」 「今夜のうちにみちるちゃんを返すってことだな?」 「問題がなければな」  犬塚昇は言い捨てて受話器を掛けた。カードがうるさい電子音と共に、ベロのように吐き出されてきた。それをひっつかみ、抜き取って電話ボックスを出て、犬塚昇はソアラの助手席に戻った。車の中にバージニアスリムの煙がこもっていた。 「オーケイ?」 「オーケイだ」  鳥飼圭子が訊き、犬塚昇が答えた。  マンションの玄関口の明りの中に、男が一人姿を現わした。コートは着ていなかった。紺か黒の背広姿で、ノーネクタイだった。中年男のようだが、顔までは見えなかった。男はマンションの玄関の前の歩道に立って、たばこに火をつけた。 「あれ、蛭田って探偵じゃないかしら? マンションの玄関に立ってるの」  鳥飼圭子が言った。 「おれもいま、そう思って見てた」  犬塚昇は言った。鳥飼圭子がおかしそうな笑い声を立てた。 「あれが探偵なら間抜けね。秋子たちの乗った車をこっちが尾行すると思って、動き出す車を見張るつもりよ」  鳥飼圭子は言いながら車を出した。マンションの前を通り過ぎながら、犬塚昇は玄関の前に立っている男に眼をやった。眠そうな眼をしたおっさんだった。  鳥飼圭子は一つ目の角を右折した。そこで車を停めた。停まりきらないうちに、犬塚昇がドアを開けて、車を降りた。犬塚昇は曲ってきた角まで急いで戻った。そこからもマンションの駐車場の出入口が見えた。そこに紺色のシーマが現われた。シーマはタクシーを二台やり過してから、車道に出てきて、犬塚昇の立っているほうに鼻を向けた。  犬塚昇はシーマから眼を放さなかった。シーマはすぐに犬塚昇の眼の前を通りすぎた。運転席に馬場秋子の顔が見えた。助手席には犬塚昇が初めて見るボンクラの顔があった。車のナンバーは、馬場秋子が言ったとおりのものだった。シーマのあとには、タクシーが三台つづいていた。犬塚昇はソアラに駆け戻った。犬塚昇が助手席のドアを閉め終らないうちに、ソアラはスタートした。  直進して青山通りに出た。左折して、鳥飼圭子は車を左側に寄せ、ゆっくりと進んだ。つぎの角の手前でほんの少し待った。すぐにその角から馬場秋子の運転するシーマが現われた。鳥飼圭子は、白いボルボと黒のセリカを間に入れて、うしろについた。  外苑の料金所近くに来たときは、シーマとソアラの間に、ランドクルーザーとハイヤーのクライスラーがいた。ソアラのうしろはタクシーと軽トラックだった。  シーマは左折して料金所に入った。ランドクルーザーとハイヤーは直進した。ソアラも直進した。だが、鳥飼圭子はすぐにソアラを左に寄せて停めた。うしろにつづいていたタクシーと軽トラックが、ソアラの横をすり抜けていった。 「オーケイ。バックだ」  車のうしろに眼を向けていた犬塚昇が言った。気になる動きを見せている車は、後方にはいなかった。ソアラはバックして、あらためて料金所の入口に鼻先を向けた。シーマの姿は本線への進入路のカーブの先に消えていた。  首都高速の本線は、スムーズに車が流れていた。合流ラインから本線に入ろうとしているシーマの後姿が、犬塚昇の眼に入った。  本線に合流したときは、前をふさいだコンテナーの大型トラックに隠れて、シーマの姿は見えなくなった。  すぐに三宅坂トンネルに入った。分岐点では竹橋方向に進んでいく車が圧倒的に多かった。分岐点を過ぎたところで、前を行くシーマらしい車が見えた。鳥飼圭子がソアラのライトを消した。犬塚昇はうしろを見た。普通トラックが百メートルほどうしろにつづいていた。  ゼブラゾーンの手前で、シーマのブレーキランプが点滅した。犬塚昇は息を詰めた。シーマの助手席のドアが少し開いた。ドアを押し開けるようにして、茶色のバッグがドアの陰にのぞいた。押し出されたバッグが支えを失ったように宙に躍り、ドアの端に当ってはじかれ、ゼブラゾーンの上にころがった。  一瞬のことだった。うしろでトラックがホーンを鳴らした。鳥飼圭子が車を左に寄せた。ソアラは停まった。トラックが速度を落しながら、ソアラの横を走り過ぎた。それを見ながら、犬塚昇はソアラからとび出した。鳥飼圭子がレバーを引いてトランクルームを開けた。犬塚はバッグを抱えた。重かった。うしろを見た。乗用車と見える車のライトが近づいているのが見えた。スピードを出していた。犬塚昇はバッグをソアラのトランクルームにほうり込んだ。乗用車が犬塚昇の横を、風を捲き上げて走り過ぎた。 「やったぜ!」  助手席にとびこんで、犬塚昇は叫んだ。鳥飼圭子は無言で車を出し、ライトをつけた。  ソアラは霞ケ関で高速道路から出た。溜池を抜けて、飯倉であらためて首都高に入り直した。その間、犬塚昇は尾行車の有無に注意を払いつづけた。 「よし。だいじょうぶだ。尾けてる車はないぞ」  本線に合流してから、犬塚昇は言った。 「心臓さわって。あたしの……」  鳥飼圭子が言った。真顔だった。犬塚昇はセーターの上から乳房を押し上げるようにして、鳥飼圭子の胸に手を当てた。躍るような心臓の鼓動が、犬塚昇の手に伝わってきた。それで犬塚昇は、自分の心臓も同じようにはげしく躍っているのに、はじめて気がついた。  ソアラは市街の鳥飼圭子の部屋に向った。     4  蛭田貫一と猪河原公一郎の質問には、牛尾修二が答えた。馬場秋子は黙りこくっていた。霞ケ関ランプを出て、猪河原公一郎の事務所に帰りつくなり、馬場秋子は応接間のソファに腰をおろした。  もう体を横にすることはしなかった。演技プランに従ったのだ。馬場秋子はソファの上で体をこわばらせ、視線だけは落着きを失ったようにたえず動かしつづけた。人質の解放についての、犯人の電話を、今か今かと待ち受けている母親のつもりに、彼女はなりきっていた。  その横で、牛尾修二が立ったままで、蛭田貫一と猪河原公一郎の質問攻めにあっていた。それも長くはつづかなかった。牛尾修二は、シーマのうしろに見え隠れしていたソアラには、まったく気づいていないはずだった。牛尾が答えたのは、三宅坂のトンネルの中のゼブラゾーンに落したバッグを拾ったのが、白っぽい乗用車から降りてきた男だった、ということだけだった。白っぽい車はライトを消していたし、距離も離れていたので、ナンバープレートの数字は読みとれなかった、と牛尾修二は言った。  質疑応答がむなしく終り、重苦しい空気が応接間に満ちていった。猪河原公一郎はソファの上であぐらをかいて、ときどき唸り声をあげるばかりだった。牛尾修二は応接室と事務室を行ったりきたりした。蛭田貫一は、ポットのコーヒーをがぶ飲みしていた。全員の口数が少なくなっていた。  そうやって、時間が過ぎていった。馬場秋子は、くり返し腕の時計に眼をやった。シーマの助手席から牛尾修二が身代金《みのしろきん》と�文書�の入ったバッグを落したのが、十時十七分だった。馬場秋子はそれをシーマのダッシュボードのデジタル時計で確認していた。それからソアラが六郷の鳥飼圭子のマンションに帰り、ソアラのリヤシートに乗せられていたはずのみちると、トランクルームの中のバッグを部屋に運び込み、現金と文書のチェックをするのに、二時間。アクシデントがなければ、自称�厄病神《やくびようがみ》�の使い棄て男が電話をかけてくるのは、十二時半から一時の間だろう、と馬場秋子は読んでいた。  猪河原公一郎が、また唸《うな》り声をあげ、腕組みをして天井をにらみつけた。馬場秋子は、その日の昼前に、奥の和室でアヌスを猪河原公一郎に犯されたときのことを思い出した。いつもとちがって、ほんとうに犯すようなやり方だった。猪河原公一郎がウンと唸って深々と突き入れてきて射精したときは、胃袋までその突きがひびいて、苦痛に息が詰まった。思い出すといまでもアヌスが痛む気がする。けど、それがペッティングもクンニリングスも下手くそな包茎男との、最後のセックスだと思えば許せる。  最後といえば、あの使い棄て男も、そうとは知らずに最後のセックスを圭子にさせてもらったかしら、と馬場秋子は思った。みちるを返しにくる前に、一億円の札束を見た使い棄て男が、ゴキゲンになりすぎて圭子を求めたりしたら、その時間だけあたしが札束を拝むのが遅くなっちゃうじゃない。だめよ、圭子、もうやらせちゃあ——。  馬場秋子の読みははずれなかった。十二時五十分に事務室の電話が鳴った。応接室にいた四人が一斉に立ちあがって、事務室に突進した。私立探偵だけが和室にとびこんだ。探偵が和室から合図の声を送り、牛尾修二が事務室の机の上の電話に出た。  牛尾修二が応答し、二言、三言、短い返事を送った。馬場秋子には�厄病神�が牛尾修二に言っていることはわかっていた。 「わかった。そのとおりにする。すぐ行ってもらう」  牛尾修二はそう言って、電話を切った。 「なんだって言ってるんだ? 犯人は」  猪河原公一郎が牛尾修二に訊いた。 「まず、馬場さんを一人で西新宿のマンションの部屋に帰らせろと言いました。つぎの指示は、馬場さんの部屋に電話をかけて出すそうです。馬場さんに誰か付いていったり、西新宿のマンションを張込んだりしたら、人質は死体にして返すことになると……」 「くそったれめが! いつまで待たせるんだ。仕方がない。みちるを取り返すまでは、くそったれの言うとおりにしよう」  猪河原公一郎が唸るような声で言った。 「車貸して。あたし行くわ。車のキーは応接室だったわね」  馬場秋子は言って、事務室を出た。和室から出てきた蛭田貫一の声が背後で聴こえてきた。 「マンションを張込んだほうがいいんじゃないかな。犯人はマンションの近くで人質を放すつもりかもしれないですよ」 「止めて! そんなことしないで! 犯人の言うとおりにして! 張込みに気づかれたら、みちるが殺されるのよ!」  馬場秋子は事務室のドアのところでふりむいて叫んだ。もう少し大声で叫んだほうがよかったかもしれない、と彼女は思った。 「わかってるよ、秋子。犯人の言うとおりにするって、わしが言っとるだろうが。早く行け」  猪河原公一郎が言った。 「もっとも、犯人は馬場さんのマンションを先にもう張込んでるかもしれないな。用心深い奴みたいだから。無理しないほうがいいか……」  蛭田貫一が独り言のように言った。ばかたれ、脅かすんじゃないよ——馬場秋子は心の中で私立探偵に毒づき、応接室に駈けこみ、テーブルの上のシーマのキーをつかむと、玄関からとび出した。  地下駐車場でエレベーターを降りて、馬場秋子は時計を見ながら五分間だけ、その場に立っていた。蛭田貫一がまた考えを変えて、西新宿に行く気になるかもしれない、と考えたのだ。それならばエレベーターが上に呼び戻されるはずだった。五分待ったが、エレベーターは地下駐車場に停止したままだった。馬場秋子はシーマに乗り、駐車場を出た。  赤坂界隈の道は、空車のタクシーで道が込んでいた。さっき出たばかりの霞ケ関ランプから首都高四号線に入った。新宿は目と鼻の先だった。  マンションの前の道には、駐車の列ができていた。いつものことだった。なんとか停められる場所を見つけて、シーマをそこに押し込んだ。駐車の列が道の片側をふさいでいることを、馬場秋子はよろこんだ。蛭田貫一が張込みをしようと思えば、二重駐車をするしかない。二重駐車は上から見れば目立つ。そう思った。  部屋に入ると、馬場秋子はヒーターのスイッチを入れた。すぐに電話の受話器を取った。鳥飼圭子が出た。 「やったわね、圭子。いま新宿に戻ったの。何も問題なしよ。順調」 「蛭田がそこのマンション張込んでない?」 「あいつは張り込むって言ったけど、猪河原が止めさせたわよ。それで蛭田の奴もあきらめたみたい」 「尾行されなかった?」 「だいじょうぶ。それにさ、マンションの前の道は、もう車停めるところないから、張込めばすぐにわかるわ。上から気をつけて、へんな車が来ないかどうか、あたし見てるから。近くにきたら、もう一回電話ちょうだい」 「そうするわ」 「いよいよ終りね」 「いよいよよ、ほんとに……」 「使い棄て男はどうしてる?」 「張りきってる」 「みちるをここに連れてきたら、予定どおりあんた、あいつをラブホテルに誘うんでしょう?」 「そのつもりよ」 「仏心なんか出して、一発やらせてから始末しようなんて考えないでね。部屋に入ったらさっさと殺すのよ。使い棄て男がさわったり入れたりしたすぐあとで、ケイコのかわいいあそこにキスしてあげるの、あたしちょっと抵抗するものがあるからね」 「なに言ってんの、秋子。わかってるわよ。そんなことするわけないでしょう」 「わかってるわよ。言ってみただけ。じゃあ待ってる。この時間なら三十分でこっちに来れるわよね」 「それくらいね。近くまで行ったら電話するから」 「みちるは眠ってる?」 「ぐっすりよ」 「じゃあね」  馬場秋子は電話を切った。隣の寝室に行った。寝室の電気はつけなかった。カーテンも開けずにおいて、窓だけをそっと開いて、ベランダに出た。そこから下の道を見た。二重駐車している車はなかった。新宿の高層ビルのまばらな灯の間に、盛り場の街明りがひろがっていた。馬場秋子は言い知れない満足感を覚えて、夜空を仰ぎ、胸一杯に夜の空気を吸った。空気はいがらっぽい感じがしたが、それでもいつもよりはすがすがしい、と馬場秋子は思った。     5  ソアラは電話ボックスの横で停まった。  犬塚昇が助手席から降りて、電話ボックスに入った。すぐ近くに、新宿中央公園の木立ちが、大きな黒い影のかたまりとなって見えていた。 「はい。馬場です」 「犬塚。そっち、異状なし?」 「だいじょうぶ。ついさっき牛尾から電話がきただけ」 「どういう電話?」 「犯人からの連絡はまだないのかって、訊いてきたの。だから、あたしが部屋に帰ってきて十五分ぐらいしてから、いつでも出かけられるようにしとけって言ってきたって言っといた。いまどこなの?」 「すぐ近くだ。これからそっちに行く」  犬塚昇は電話ボックスを出た。鳥飼圭子がソアラを出した。ソアラは新宿中央公園を一周する形で、マンションの裏手の道に入った。そこからさらに、マンションのまわりを一周して、鳥飼圭子は車を停めた。鳥飼圭子の手が助手席に伸びてきて、犬塚昇の手をにぎった。 「へんな車はいなかったよな」 「だいじょうぶ。最後の一仕事よ。だいじょうぶ? ノボル」 「心配すんな」 「落着くのよ」 「わかってる」 「じゃあ、行こう」  鳥飼圭子が言って、犬塚昇の手を放し、トランクのオープナーレバーを引いた。トランクのフードが開く小さな音がした。犬塚昇は車を降り、トランクのフードを押し上げた。中にグリーンのビニールコーティングした大きな旅行バッグが入っていた。そこから顔をそむけたくなるような異臭が漂い出してきそうな気がして、犬塚昇は顔を歪めた。  バッグは抱え上げると、中で氷の触れ合う小さな固い音を立てた。犬塚昇は革の手袋をはめた手にバッグを下げて、トランクのフードを閉めた。バッグはずしりとした重みを犬塚昇の手から腕を通り、肩を経て心臓にまで伝えてきた。小さなバッグを胸もとで持った鳥飼圭子が、無言で寄り添ってきて、犬塚昇の空いているほうの腕に腕を絡ませてきた。二人は無言でマンションの玄関に向った。  エレベーターで八階に上がり、馬場秋子の部屋の前で足を停めた。誰とも顔を合わさなかった。バッグが犬塚昇の膝のあたりに軽く当って、また氷が音を立てた。鳥飼圭子がインターフォンのボタンを押した。ひそめた声の返事があった。それ以上にひそめた声を、鳥飼圭子が中に送った。  ドアチェーンのはずれる音がした。ドアが中から開き、馬場秋子が満面に笑みをたたえた顔をのぞかせた。鳥飼圭子も満面の笑みを返した。犬塚昇は笑えなかった。自分の心臓の鼓動がシンバルの音のように耳にひびいていた。顔は伏せていた。鳥飼圭子につづいて、犬塚昇は中に入り、ドアを閉めた。 「みちるは?」  馬場秋子が訊いた。鳥飼圭子が答えた。 「ごめん。バッグの中で眠ってるの。万が一張込まれていたらいけないと思って。みちるちゃん抱いてマンションに来たら、張込まれてたら一発でこっちの顔見られちゃうじゃない。だから、車降りるとき、バッグの中に移したのよ。あの子、それでも目を覚まさないの」 「平気? 息できるかしら」 「だいじょうぶ。ファスナーの端を少し開けてあるし、ちょっとの間だから」  三人は居間に入った。犬塚昇は体がふるえ出しそうだったから、頭を空っぽにした。馬場秋子が足を止めて立っている前に行って、そこにバッグをおろした。また氷の音がひびいた。バッグから放した右手を拳ににぎり、体を起しざまに、馬場秋子の顎に狙いすましたアッパーカットを叩き込んだ。呻き声がして、馬場秋子の上体がのけぞり、頭が跳ねあがった。犬塚昇はすかさず半歩踏み込んで、右のフックを放った。フックは狙いどおりに馬場秋子の顎の先端を捉えた。白い女の顔が、眼をうつろにしたまま、ねじ切れんばかりに横にねじれ、彼女は声もあげずに膝から床にくずれ落ちた。その頭を犬塚昇はつづけざまに二発蹴った。馬場秋子は完全に意識を失っていた。 「隣の部屋の窓を開けてくる。死体を出して。急いで!」  鳥飼圭子が言って、居間を横切り、隣の部屋に行った。犬塚昇の頭は空っぽのままだった。彼はバッグのファスナーを開けた。眼をつぶって、中のものを抱え出し、床に置いた。バッグの底にビニール袋に入った氷が並べてあった。小さな死体はその上に横たえられていた。犬塚昇は、氷だけになったバッグのファスナーを閉めた。それから馬場秋子の体を肩にかつぎ上げた。  隣の部屋に行った。その部屋の明りは消してあった。鳥飼圭子がベランダにしゃがんで、犬塚昇に向って無言で手招きをしていた。カーテンは半開きになっていた。犬塚昇は敷居をまたいでベランダに出た。 「平気よ。誰もいない。車も通ってないわ。いまよ。やって!」  鳥飼圭子がしゃがんで下をのぞきながら言った。犬塚昇は手すりの前に立ち、はずみをつけて馬場秋子の体を宙に放り出した。スカートがふわりとふくらみ、そこから二本の脚が躍るようにして突き出され、すぐに膝のところで折れた。犬塚昇は肩の荷をおろした気になった。  二人はすぐにベランダから暗い部屋にとびこんだ。一瞬おくれて、重くてにぶいひびきの落下音が、下から風に乗ってはこばれてきた。犬塚昇は居間にかけこみ、用のすんだバッグをつかみ、玄関に走った。鳥飼圭子が玄関のドアに耳をつけていた。そのままの姿勢で彼女はドアをそっと細く開け、廊下を窺った。それから鳥飼圭子が小さく手を振って、犬塚昇を促した。  廊下は無人だった。エレベーターは八階にまだ停まっていた。乗りこんでエレベーターの扉が閉まると、犬塚昇はそのまましゃがみこんだ。鳥飼圭子は壁にもたれて顔を天井に向け、眼を閉じていた。二人とも口をきかなかった。  誰とも顔を合わすことなく、二人はソアラに戻った。騒ぎはまだ始まっていなかった。鳥飼圭子はすぐに車を出した。犬塚昇は持っていたバッグをリヤシートに投げた。氷の音がした。それが人質の死顔と、抱えあげたときの腕に伝わってきた重みを犬塚昇に思い出させた。 「やっと、終った……」  鳥飼圭子が車を走らせながら言った。犬塚昇は黙りこんでいた。まだ口がきけなかった。 「ホテルに行きたい。なんだか、すごくノボルがほしい。いますぐほしい」  鳥飼圭子が言った。泣いているような声に聴こえて、犬塚昇は彼女に眼をやった。泣いてはいなかった。 「ホテルに行こう。どこでもいい。ちょっと休みたい」  犬塚昇は言った。街の明りと、車のヘッドライトの光がばかに眩しくて、針で目を突かれているみたいだ、と犬塚昇は思った。  鳥飼圭子は、大久保のホテル街に車を乗り入れた。車はすぐにホテルの駐車場にすべりこんだ。車を降りると、鳥飼圭子は両手で犬塚昇の腕にすがってきた。乳房が腕に押しつけられてくるのを感じとりながら、犬塚昇は駐車場の出入口の短い階段を上がった。フロントで鍵を受け取ったのは、犬塚昇だった。鳥飼圭子は犬塚昇の肩口に額をつけ、顔を伏せていた。  部屋に入ると、鳥飼圭子が犬塚昇に抱きついてきた。舌と唇がたがいに相手をむさぼり合った。 「お風呂、溜めてくる」  鳥飼圭子が体を離して、浴室に向った。犬塚昇はソファに坐りこんだ。はじめてたばこのことを思い出して、火をつけた。煙を吸いこむときに、喉がはげしく渇いていることに気がついた。立っていって冷蔵庫を開け、ビールを出した。  鳥飼圭子が戻ってきた。二人はビールのグラスを合わせ、無言の乾杯をした。 「ノボルはよくやったわ」 「もう、夢中だった。ドジは踏んでないよな、おれ」 「だいじょうぶ。誰とも出合わなかったし。ツイてるのよ、あたしたち」 「ツイてた。たしかに……」 「これからはもっとツキが回ってくるわよ。一億円がツキを呼んでくれるわ」 「とうとうやったね」 「やり遂げたわ。犯人が言った場所に行ったら、人質の死体が置いてあった。秋子はそれを部屋に連れて帰ったけど、ショックで発作的にベランダからとびおりた。猪河原公一郎たちはそう思うわよ」 「秋子さんが死んじまったいまは、警察が誘拐事件の捜査はじめたって、犯人はつかまりっこないもんな。やっぱりケイコはすげえ、頭切れるよ。完璧の筋書きだし、そのとおりやってこれたんだから……」 「ノボルがいたからやれたのよ。お風呂見てくる」  鳥飼圭子は言って、立ちあがった。犬塚昇は、たばこと、ビールと、過ぎていく時間に助けられて、少しずつ落着きをとり戻していた。 「お湯、溜まったわよ。先に入ってて。トイレ行ったら、あたしもすぐ行くから」  戻ってきた鳥飼圭子が言って、残りのビールを自分のグラスに注いだ。犬塚昇は立ちあがり、着ている物を脱いで、浴室に行った。  少し遅れて、鳥飼圭子が浴室に入ってきた。手にタオルを丸めて持って入ってきた素裸の鳥飼圭子の姿を、犬塚昇は湯舟に体を沈めたまま、見上げた。小さな死体や、宙にふくらんだスカートから突き出ていた二本の脚のことはさっさと忘れて、これからはこの目の前のすばらしい体のことだけを考えよう、と犬塚昇は思った。 「体にお湯かけて」  鳥飼圭子が、湯舟の横にしゃがんでいった。犬塚昇は立ちあがり、湯桶で湯舟の湯を汲んで、彼女の体にかけてやった。  鳥飼圭子は、湯桶の中に丸めたタオルをそっと置き、湯舟の中に体を沈めてきた。犬塚昇はすぐに彼女の体を引き寄せ、伸ばした膝に坐らせようとした。鳥飼圭子は犬塚昇の肩に左腕を回し、体を横向きにして彼の膝の上に腰をおろした。唇が重ねられた。  鳥飼圭子の右腕が、湯舟の縁を超えて、タオルを入れてある湯桶に伸びたときも、二人は唇を吸い合い、舌をからませ合っていた。  鳥飼圭子の右手が、湯桶の中のタオルの上で小さく動いた。タオルがそっととりのぞかれた。その下から大型のカッターナイフが現われた。鳥飼圭子がカッターナイフをつかんだ。その手はすぐに湯舟の下にくぐり、鳥飼圭子の腰のうしろに回された。  鳥飼圭子は重ねていた唇を離し、吐息をついて、犬塚昇の肩に回していた手で、彼の髪をまさぐった。それからカッターナイフを持った彼女の腕がすばやく動いて真横に走った。犬塚昇はグッと呻いて目をむいた。カッターナイフは彼の喉笛を深く切り裂いていた。血が飛んだ。鳥飼圭子は湯をはねあげて立ちあがり、髪をつかんだ手で、犬塚昇の頭を湯の中に力まかせに押し込んだ。すかさずカッターナイフが、哀れな男の耳の下の太い血管を、湯の中で切り裂いた。  湯の中で噴き出る血が煙のようにひろがり渦をまいた。湯舟の湯の血の色が見るまに濃くなっていった。哀れな男の頭は湯の中でいっときはげしく動き、彼の両手が鳥飼圭子の腹や太腿をかきむしり、わしづかみにした。その手から力が抜け、湯に沈められた頭が静かになるまで、長い時間はかからなかった。鳥飼圭子がつかんでいた髪を放すと、哀れな男の頭が血の色をした湯から浮き上がり、うしろに傾きながら、ひねるようにしてまた半分だけ湯につかった。  鳥飼圭子は湯舟から出た。シャワーの湯を出した。カッターナイフの血をシャワーで念入りに流し、それから頭から湯を浴びはじめた。裸の彼女の体の前面や腕、顔といったところに、血しぶきの跡が塗りつけられていた。シャワーの湯がそれを洗い流した。 「ほんとに筋書きどおりに、何もかも終ったのよ、これで……」  鳥飼圭子は低い声で呟いた。  一時間余りしてから、鳥飼圭子は部屋を出た。別人のように顔の印象が変っていた。化粧と大きな黒縁の丸い眼鏡のせいだった。彼女は、フロントの男に、巧みな関西弁で、連れの男は泊ることになったので、よろしく頼む、という意味のことを言って、駐車場に下りた。駐車場には人の姿はなかった。それを念入りに確かめてから、鳥飼圭子はソアラに乗り、そこを出た。     6  蛭田貫一からの電話がかかってきたのは、午前四時近くだった。  馬場秋子が、犯人の指示で猪河原公一郎の事務所を出て、一人で西新宿のマンションに帰ってから、四時間近くが過ぎていた。その間、馬場秋子からは何の連絡もなかった。午前一時半ごろに、牛尾修二がようすを訊くために、馬場秋子の部屋に電話をした。電話に出た馬場秋子はそのとき、犯人からいつでも出かけられるようにしておけ、という電話がかかってきた、と告げた。  それが最後の連絡となった。二時半、三時と、牛尾修二は馬場秋子に電話をかけた。応答はなかった。猪河原公一郎が、いらだちをあらわにしはじめた。共犯者の疑いの濃い馬場秋子が、犯人とともに姿を消したのではないか、というのが猪河原公一郎のいらだちの原因だった。彼はそれを口に出して言った。  蛭田貫一が、西新宿のマンションにようすを見に行ってみる、と言った。牛尾修二もそうすべきだと思った。猪河原公一郎はせき立てるようにして、私立探偵を送り出した。それが二十分余り前だった。  電話には牛尾修二が出た。蛭田貫一の知らせに、牛尾修二は電話口でおどろきの声をあげ、絶句した。 「ひとまず、あたしはそっちに戻りますよ。猪河原氏の考えを聞いてみないことにはね。誘拐事件でさえ、警察に届けなかった猪河原氏のことだから、殺人事件の関係者になるのは、気が進まないんじゃないかな」  蛭田貫一は、さほど衝撃を受けてもいないような口調で言った。牛尾修二がショックを受けたまま、返事に迷っているうちに、蛭田貫一は電話を切った。 「何があったんだ? どうなっとる?」  応接間で猪河原公一郎が声をあげた。牛尾修二は事務室から応接室に戻った。 「西新宿は大騒ぎになってるそうです。馬場さんがマンションの部屋のベランダからとび降りて死んでたっていうんです。部屋にはみちるちゃんの死体が置いてあったそうです」  牛尾修二は言った。猪河原公一郎が唸り声をあげ、眼をむいた。見るまに彼の肉の厚い顔が赤く染まった。 「死んだって、蛭田さんがそれを見つけたのか?」  猪河原公一郎が言った。声がこわばっていた。 「馬場さんの死体は、三十分ぐらい前に、通行人が見つけて、一一〇番したんだそうです。蛭田さんが向うに着いたときは、パトカーと救急車がもう来てて、野次馬が集ってたそうです。マンションの住人の一人が、死体を見て、馬場さんだってことに気がついたらしいんです。みちるちゃんの死体は、部屋に入っていった警察官が発見したようです。蛭田さんは、野次馬たちからそれだけの話を聞き出して、電話で知らせてきたんです」  話しているうちに、牛尾修二はいくらか落着きを取り戻した。話し終えると、猪河原公一郎がもう一回おどろいたように、ソファの上でガクンと体を跳ねさせて言った。 「蛭田さんを呼び戻せ。急ぐんだ。彼はポケベルを持ってるんだろう」 「蛭田さんはひとまずここに戻ってくると言って、電話を切りました」  牛尾修二は言った。彼には、猪河原公一郎が、あわてたようすで、蛭田貫一を呼び戻させようとした理由が、わかっていた。猪河原公一郎がそうするだろうという予測も、牛尾修二にはあった。  そうした予測を自分が抱いていたことと、結果が予測どおりになって現われたことに、牛尾修二はしかし、戸惑いを抱いた。いやな感じの戸惑いだった。 「つまり、秋子は共犯者じゃなかったわけだな。こうなったということは……」  猪河原公一郎が言って、乱暴な手つきでたばこをくわえ、火をつけ、ライターを音を立ててテーブルに投げ出した。牛尾修二は、猪河原公一郎を新たな、そしてさっきとは比較にならないくらいに重苦しいいらだちが襲っているのだ、と思った。 「そういうことになるんでしょうか?」 「犯人が知らせてきた場所に行って、そこで秋子はみちるの死体と対面したんだろう。それでショックを受けてとび降り自殺をしたんだ。きっとそうだろう。かわいそうなことをした」 「しかし、馬場さんが共犯者じゃないとすると、説明のつかなくなることがありますよねえ。犯人は一度だけですが、電話の中ではっきりと、ぼくがみちるちゃんの父親であると思いこんでるふりをしたんですから……」 「ウイスキーをくれ」 「はい……」 「説明はつかなくていい。誘拐事件はもう終ったんだ。いや、はじめから誘拐事件はなかった。なかったことに説明なんかいらん。秋子は、何か他の理由でみちるを殺して自殺したんだ」  猪河原公一郎は、宙を見すえてそう言った。牛尾修二は、サイドボードからスコッチのボトルとグラスを出した。キッチンに行って、冷蔵庫から氷とミネラルウォーターを出して、応接室にはこんだ。さっきのいやな感じの戸惑いが、いやな感じとともにいっそう深まっていた。さっきははっきりしなかった戸惑いの原因も、いまは明らかになっていた。  猪河原公一郎は、殺人までひき起してしまったいまも、誘拐事件はなかったことにする、と言っている。けれども、幼ない人質の生命を奪った犯人を、そのまま見逃すことはできない、という思いが牛尾修二の胸にはある。その胸の思いと、すべてを内密にして蓋《ふた》をしてしまおうとするボスの考えとの間には、大きなギャップがある。そのギャップが、いやな感じの戸惑いを自分の中に生んでいる。それを牛尾修二は少しずつ覚っていった。 「きみも一杯やれ」  ボスの水割りをこしらえている牛尾修二に、猪河原公一郎が言った。はい、と返事をしたが、牛尾修二は自分のグラスを出す気にはならず、たばこに火をつけた。 「そうか。蛭田さんは自分から、ひとまずここに戻ってくると言ったのか。なかなか冷静な人なんだな」  猪河原公一郎が、水割りを呷《あお》ってから言った。安堵がことばに現われていた。牛尾修二は、胸の中で渦を巻いている思いに押されて、口を開いた。 「まるっきりなかったことにできますかねえ、誘拐事件が。みちるちゃんは殺されて、馬場さんは自殺してるんですから」 「できるさ。事件があったことを知ってるのは、犯人とわしときみ、それに蛭田さんだけじゃないか。するんだよ、なかったことに」 「警察はそんなに甘くはないんじゃないですか? みちるちゃんは髪を切られてるんですよ。きっとざん切り頭になってるでしょう。犯人がいつみちるちゃんを殺したのかわかりませんが、死因を調べるのに解剖するでしょう、おそらく。その結果、死因とか、死亡した時期なんかと、馬場さんのおとといあたりからの行動とかの間に不審な点が出てくるかもしれません。そうなったら馬場さんの自殺とからめて、事件性が強いということになって、警察は本格的な捜査をはじめるんじゃないですかね?」 「はじめるさ。はじめるに決まってる。刑事がわしと秋子との関係を知って、ここに話を聞きにくるのも決まっとる。だが、誘拐事件はなかったんだよ。こっちが話さない限り、そんなもんがあったってことは、警察だって探り出せっこないんだから。そうだろうが」 「そりゃそうですが……」 「おい。牛尾君。しっかりしてくれよ。隠し子がいて、それが誘拐されて殺され、隠し子の母親が自殺したなんてことを世間に知られた男が、国会議員の選挙に勝てると思うのかね。勝つも負けるも、立候補そのものが吹っ飛んじまうぞ。そうなったら、猪河原公一郎、国政への参加はおろか、県政にたずさわることすら危うくなるにきまっとるだろう。そりゃわしだって人の子。血もあれば涙もある。みちるも秋子もかわいそうなことをしたと、胸がはりさける思いでいるんだよ。けど、政治に私情は禁物だ。それはそれ、これはこれ。みちると秋子の供養は、十分に手厚くしてやるつもりだ。これはきみ、政治家猪河原公一郎の一大ピンチなんだよ。わしは、断乎、戦って、この一大危機を乗り越えなきゃならんのだよ。乗り越えて見せる。わかるだろう、牛尾君」 「わかります。しかし、わかりません」  牛尾修二は言った。思わず口からこぼれ出てしまったことばだった。猪河原公一郎の眼が吊《つ》りあがり、分厚い唇が肉瘤《にくりゆう》のように突き出された。猪河原公一郎は拳《こぶし》でテーブルを叩いた。 「わかるのか、わからないのか、どっちなんだ! きみはこの猪河原公一郎の苦境がわからんのか!」  また拳がテーブルを打ち据え、水割りのグラスとボトルと、アイスペールとミネラルウォーターのボトルが小さくはねあがった。そのとき、応接室のドアが開いて、蛭田貫一がのっそりと姿を現わした。 「ああ、蛭田さん。どうもご苦労をかけました。えらいことになりましたな。いや、猪河原公一郎、大困惑しとります。スコッチどうですか? どうぞ一杯やってください。牛尾君、蛭田さんのグラス……」  猪河原公一郎がせき立てるようにして、牛尾修二に手を振った。牛尾修二は立ちあがろうとした。 「自分で出すからいいですよ、牛尾さん」  蛭田貫一が言って、サイドボードからグラスを出し、牛尾修二の正面のソファに腰をおろした。 「警察のほう、どうするか、話は決まりましたか?」  蛭田貫一は水割りをこしらえながら、猪河原公一郎へとも、牛尾修二へともなく言った。 「決まったも同然なんですが、ただ牛尾君がいささか不安を抱いておるようすなんでね」  猪河原公一郎が言った。 「どう決まったんです?」  氷を入れたグラスにたっぷりと二十一年物のバランタインを注ぎながら、蛭田貫一が言った。 「つまりその、さまざまな見地から検討した結果、誘拐事件というものははじめから存在しなかった、という認識に立とう、とこういうわけです」  猪河原公一郎は言って、空っぽになっているグラスを無言で牛尾修二の前に置き、それを指でさした。牛尾修二はそのグラスに新しく水割りを作りにかかった。 「やっぱりそうなったんですか。それで、牛尾さんの抱いてる不安というのは?」  蛭田貫一が言って、うまそうに水割りを飲んだ。 「ぼくは先生とちがって、日本の警察をもう少し厳しい目で見てるんです」  牛尾修二は言って、すでに猪河原公一郎に言ったようなことを、蛭田貫一に話した。 「そりゃ、牛尾さんの見方のほうが正しいね。子供が一人殺されてるんだからね、なんてったって。警察は一も二もなく本格捜査にかかりますよ」  蛭田貫一は言った。 「もちろんです。そりゃわしもわかっておる。しかし、関係者が固く口を噤《つぐ》んでおれば、警察だってどうにもならんでしょう、蛭田さん。わしは、警察に秋子との関係を穿鑿《せんさく》されることまでは覚悟してますよ。それさえもなかったことにするのは無理だ。だが、率直に申しあげて、誘拐事件は困るんです。殺人や自殺はもっと困る。刺激が強すぎます。スキャンダルとしてはね」 「関係者が全員そろって口を噤んでくれりゃあいいですよ。だが、危ないのが一人いる。蟹沢利夫がね。蟹沢利夫の手には、一億円と一緒に、馬場さんが先生との関係から、誘拐事件が起きたことから、いろいろ書いたものが渡ってますからねえ。みちるちゃんが殺されて、馬場さんが自殺したことがニュースで出れば、蟹沢はそれを誘拐殺人事件に結びつけて考えないはずはないでしょう」  蛭田貫一が言った。牛尾修二は大きくうなずいて口を開いた。 「そうですよ、先生。蟹沢の口は塞《ふさ》げませんよ。やっぱり無理です、この話は……」 「どこが無理なんだ。きみは猪河原公一郎の窮地を救う気はないのか! わしの足を引っ張るのか! このわしを見殺しにする気か! それでも政治家の秘書か! あらゆる困難に身を挺して政治家を守り抜き、よってもって国政に陰ながらの貢献をするというのが、政治家の秘書道というものじゃないか」  猪河原公一郎は、またテーブルを叩いて怒鳴った。牛尾修二は体がふるえ出した。突然わけのわからない怒りが肚《はら》の底からこみあげてきたせいだった。牛尾修二は立ちあがった。坐っていると自分もテーブルを叩きそうだったからだ。 「秘書だって人間です。良心というものがある。眼をつぶれる事と、つぶれない事がありますよ。さっき、ぼくが、わかるけどわからないと言ったのは、そういう意味のことを言いたかったんです」  牛尾修二は怒りで顔をひきつらせ、声をふるわせ、何度もつっかえながらことばを吐いた。言い終っても、体が硬直してしまって、坐れなかった。 「こいつ、頭がどうかしちまったんだ。まあいい。きみとはあとでゆっくり話そう。それでね、蛭田さん。あなたのおっしゃる蟹沢利夫の件だが、あなたにお願いしたいと思ってるんです」  猪河原公一郎は、体ごと蛭田貫一に向けて言った。 「お願いとは?」 「蟹沢利夫には、すでに一億円の口留料を先払いしたも同然ですからな。あなたに一刻も早く蟹沢利夫に会っていただいて、ダメ押ししてもらいたいんです」 「なるほど。あたしが会いに行けば一億円をコインロッカーの中から横取りしたことがこっちにばれたってことがわかるから、奴も弱味をにぎられたと知って、余計なおしゃべりはしないでしょうな」 「もちろん、そのダメ押しの分のお礼は別途にさしあげます。話の持っていきようで、仮りに蟹沢利夫の口が五千万円で塞《ふさ》げるということになれば、残りの五千万円は蛭田さんにさしあげましょう。プレミアムですな」 「うまい考えだし、おいしい話だが、だめです。その話、あたし乗れない。断わります」 「なぜ? どうしてですか、蛭田さん」 「牛尾さんはいいこと言った。眼をつぶれることとつぶれないことがあるってね。あたし、貧乏してるんでねえ。お金ほしいですよ。別口の礼金とか、五千万円とか聞くとね、クラッとくるんだ。眼だってあたしのは細くてちっこい。いつもつぶってるような眼ですがね。それでも見えるものは見えちまう。見えちまったものは見えなかったことにするわけにはいかないからねえ、厄介なことに」 「蛭田さんまでそんなこと言うんですか! だったらあんた、西新宿からどうしてここに戻ってきたんですか!」 「きまってるでしょう。事件は警察の手に渡って、あたしの仕事は終っちまったんでね、ギャラをもらいにきたんですよ。いただく物をいただいたら、警察にちょっと協力して、貸しをこしらえとくつもりです。警察に恩を売っとくと、私立探偵って商売はなにかと便利なことがあるんでね。いま、ギャラの請求書、書きますからね」  蛭田貫一は言った。猪河原公一郎はまた拳でテーブルを叩いた。今度はしかし、彼の口から出てきたのは、怒りと絶望にまみれた呻き声だけだった。 「ぼ、ぼくは、辞表を書きます」  牛尾修二は立ったまま言った。言ってしまうと、硬直していた体からすっと力が抜けて彼はなめらかな動作でソファに腰をおろすことができた。     7  牛尾修二と、蛭田貫一がもたらした情報が、警察の捜査を大きく推進させた。  蛭田貫一は、馬場秋子の電話帳の中にあったケイコに、自分が関心を惹《ひ》かれたことも、捜査本部で話した。  捜査が開始されて四日目に、蟹沢利夫が東村山市の自宅で逮捕された。蟹沢利夫の自宅にあった、牛尾修二のネームの入ったバーバリーのコートと、黒のスポーツバッグの中に入っていた九千九百万円余りの現金も、同時に押収された。  それから十一日後に、鳥飼圭子が逮捕された。鳥飼圭子の部屋にあった現金、八千万円余りも押収された。  鳥飼圭子は、二千万円余りの借金を抱えていたが、それをその二週間ほどの間につぎつぎに返済していることが判明した。しかし、その金の出所を捜査員に訊かれて、彼女は合理的な説明ができなかった。逮捕の決め手になったのは、鳥飼圭子の部屋のベッドの周辺の床から採取された頭髪が、馬場みちるのものであることが立証されたことだった。  それで鳥飼圭子の否認は突き崩された。自白をはじめると、鳥飼圭子の口はなめらかになった。彼女は馬場秋子を自殺に見せかけて犬塚昇に殺させ、犬塚昇を大久保のラブホテルで殺害したことまでを、一気に吐いた。  牛尾修二は、鳥飼圭子の自供によって、事件が完全に解決を迎えたことを、新聞の記事で知った。同じ紙面に、猪河原公一郎が県会議員を辞職したことが、関連記事として出ていた。  その記事をすべて読み終えたとき、牛尾修二の頭に浮かんできたのは、新宿のホテルでのパーティの席で、文芸同人誌『地平線』の主宰者である老詩人の口から出たことばだった。老詩人はそのとき牛尾修二に『白熱した現代小説を書きなさい。きみなら書ける』と言ったのだ。  そのことばを思い出した牛尾修二は、解決したばかりのその誘拐殺人事件こそ、まさに白熱した現代小説の恰好の素材たりうるのではないか、と考えた。すると、まだ一行も書いていないその小説のタイトルが、スッと牛尾修二の頭に浮かんできた。 『女王蜂の身代金』——うん、わるくない。タイトルはこれでいこう。あとは書くだけだ——。  牛尾修二は胸に呟いて、ひとりで深くうなずいた。 (この作品はフィクションであり、実在する個人、団体等にはまったく関係ありません)      * 本書は、一九九二年一月に小社より講談社ノベルスとして刊行された『誘拐狂想曲』を改題した作品です。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九五年一月刊)を底本としました。