TITLE : 死体は語る 〈底 本〉文春文庫 平成十三年十月十日刊 (C) Masahiko Ueno 2003  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 死者との対話 人を食った話 検土杖 親子鑑定 赤坂心中 情 交 安楽死 死者は雄弁である 衝 撃 死者は生きている 死後も名医にかかれ 小さなアピール 終 焉 相続人 不 信 髪の毛 ミカン 生命の値段 個人識別 保険がらみ 崩 壊 医学と法律 ネズミモチ 木口小平 検視と検死 愛の頬ずり 死者の側に立つ医学 堕 胎 サバイバル 殺人者からの電話 心臓麻痺 カレン事件 モナリザ 命の残照 嘘 すばらしき提言 責 任 夢の殺人 酒は百薬の長か アルコール依存症 中高年者とスポーツ 法医学は知っていた 異なる結論 死者の人権を守れ  あとがき  文庫版あとがき 章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 死体は語る 死者との対話  私は医者になったとき、何科を専攻しようかと迷った。  おかしな話であるが、医学部に入るときは、無我夢中でただ医者になれさえすればと、それだけを願っていたが、いざ卒業しインターンを終え、国家試験に合格してみると、さて何科を専門にして自立したらよいのかわからなくなっていた。  へき地で医者をしていた父は、何科の区別など全くない何でも屋であった。肺炎、結核、腸チフス、捻挫《ねんざ》、骨折、切り傷のほか、中耳炎、トラコーマ、はたまたお産まで昼夜の区別もなく、地域の患者は何でも診なければならなかった。重症者は、遠くの町の病院に送り込めばよい。いわば野戦病院のような感じであった。  そんな環境の中で育った私には、医者が一つの科だけを専門としなければならないなどとは考えられなかった。しかし、医学を知るにつれ、一つの科でさえマスターするのが大変なのに、オールマイティーに患者を診るなどありえないことがわかってくると、悩みは深刻であった。  内科は外側から患者を診察して、中の病気を予測し、治療をするので難しい。重箱の外側を触って中身が赤飯かぼた餅《もち》かを当てるようなもので、見方によってはかなりいい加減だ。  外科はどうだろう。もっと大ざっぱで、悪いところを切り取って捨ててしまうのである。これでは医者ではないような気もした。  いろいろ考えたが、自分に適した科は見当たらない。やはり趣味と実益をかねて、産婦人科でもやろうかと思ったりした。  それがどうだろう。  医者になったら、生きた人には縁がなくなってしまった。法医学を専攻したからである。  理由も目的もあまりはっきりしていないが、いきなり臨床医になって診療するよりも、それ以前の人間の問題として、生きるということの意義、そして死とは何であるのか、そんなことを勉強するのも、将来患者に接したときの自分にプラスになるであろうと考えたからであった。 「医者は商売ではない」と言っていた父も大賛成であった。だから臨床の経験もないまま、大学の法医学教室に入ったのである。将来は臨床医に戻るとしても、二〜三年研究生活を味わうのも決して無駄なことではないと思った。  動物を使って中毒や血清学的実験を四年ばかりやってみた。しかし、自分が期待していた法医学とは違っていたし、なんとなくかゆいところを着物の上からかくようなもどかしさを感じた。  やはり事件の現場に立って、検死や解剖をする実践法医学の方が、自分の性格に合っているような気がした。  東京都には監察医務院という事業所がある。異状死体(不自然死または変死)を検死したり、解剖して、死因が何であるのかを決定して、警察官の検視に医学的協力をし、社会の秩序を保つと同時に、公衆衛生の向上や予防医学に貢献するという役割をもつものである。  普通、患者は医師に咳《せき》が出る、熱がある、などと病状を訴え治療をしてもらうが、時として元気な人が突然死するようなことがある。周囲の人も、家族も、あるいは本人自身も、恐らく納得のいかない死亡であろう。病死なのか事故死なのか、あるいは自殺か他殺かと考えれば疑問は残る。  監察医務院は、この疑問に答え、もの言わずして死亡した人々の人権を擁護する、いわば死者の側に立った法医学のメッカでもあった。そこで私は、監察医務院の監察医になったのである。  以来この道にのめり込み、気がついたときには、もう臨床医に戻る気持ちなどはなくなっていた。  幼女がはいはいしていて、石油ストーブにぶつかった。運悪く熱湯の入ったヤカンが彼女の背中に落ちて大火傷《やけど》を負った。救急病院で手当てを受けたが、一日足らずで死亡した。  母親は狂乱状態であった。担当医は火傷死という死亡診断書を発行した。父親は区役所に死亡届を提出しに行ったが、このような外因死(熱湯という外力作用による死亡)は一般の医師が診断書を発行しても正式のものとは認められず、受理されなかった。  法律があって、医師は警察に異状死体(変死)の届出をすることになっている。とくに監察医制度のある都内では、警察官立ち会いで監察医が検死をするのである。  なぜならば、治療に当たった医師は、死因は火傷死とわかるであろうが、どうして幼女の背中に熱湯がかかったのか、その理由まではわからない。家族や周囲の人の話を聞いて、医師が災害事故死などと死亡の種類まで決めてしまうわけにはいかない。  やはり他人の秘密に立ち入って調べることのできる警察官の捜査によって、どのような状況、原因があったかを調査しなければ、彼女の人権は擁護できないからである。  父親が区役所で受理されなかった死亡診断書を病院に持ち帰ってきたので、担当医も気がついた。すぐに変死の届出がなされた。  監察医は補佐を伴って検案車に乗り込んだ。運転手は都内の地理に明るい。混雑した道を避け、依頼のあった警察へ急行した。警察官に案内されて、病院の霊安室に入ると、遺体に目礼をした監察医補佐は、幼女の着衣をぬがせ、ぐるぐる巻きの包帯をほどきはじめた。  立会官の捜査状況を聞きながら、監察医の検死が始まる。火傷を見て驚いた。背中にまるい火傷があったからである。  母親は取り乱していて、詳しいことは聞き出せないが、ストーブにぶつかり熱湯の入ったヤカンが落ちた自己過失に間違いないというのだ。それならば熱湯は不整形に背中に散らなければならない。  状況と死体所見が違うのである。誰かが嘘《うそ》をついている。監察医の指摘によって、警察は捜査をしなおすことになった。  時間はかかったが、母親が自供した。知恵遅れの子供の前途を悲観した母が、過失をよそおって殺そうと、ヤカンの熱湯をかけたのであった。  家族の負担になっていた知恵遅れの次女。一家のためにも、本人のためにも、死んだ方が幸せであろうと、母は、自分本位に考えてやったのである。  しかし、悪事はうまくいかなかった。お湯の量が少なかったのである。熱湯は着込んだ幼女の着物に吸い取られて、流れ出なかった。まるい火傷はそのためであった。  母と子という関係にあるにせよ、加害者に対する被害者の必死の抵抗が、熱湯を決して流れ出させなかった。天の救いか、幼女の執念か。これが解決の糸口だったのである。  病院の医師は治療に専念しているから、そこまで考えは及ばなくても致し方はないにしても、変死の届出を忘れてはならない。幸いにも区役所の戸籍係がベテランであったがために、変死扱いになり、正規のルートで検死することになって、事件は解決した。  今の若い母親の中には、生まれてくる子が五体満足でなかったら育てる自信がないから、生かさないで欲しいと平気で医者に言ってくる者がいるというのである。自分本位で身勝手で、命を命と思わない。  なぜこうなったのかはさておき、監察医は臨床医とは全く逆の方向から、医学をみるのである。  まず死体がある。  なぜ死んだのかを調べていく。  やがて一つの死と、それにまつわるさまざまな事情がはっきりしてくる。  生きている人の言葉には嘘がある。  しかし、もの言わぬ死体は決して嘘を言わない。  丹念に検死をし、解剖することによって、なぜ死に至ったかを、死体自らが語ってくれる。  その死者の声を聞くのが、監察医の仕事である。  話をじっくり聞いて、死者の生前の人権を十分に擁護するとともに、多くの解剖結果から、健康であるための方法を生きている人のために少しでも還元することができれば、直接病人を癒《いや》すことができない私でも、医師としての使命を十分に果たすことができると思っている。 人を食った話  以前、吉田茂という宰相がいた。  高齢であったが、至極元気であった。対談で長寿の秘訣《ひけつ》として、「食事などに留意されておられますか」との質問に、 「私は、人を食って生きているからね」  と笑わせていたのを覚えている。  フランス小噺《こばなし》風でユーモアに富み、人柄がにじみ出ていて面白い。  ところが同じ話でも、こちらは深刻である。アンデス山中に旅客機が墜落し、死者も出たが生存者も多かった。発見が遅れ救助されるまでにかなりの日数がかかり、食糧に窮した人々は、ついに死者の肉を食べ生命をつないだという体験リポートを読んだことがある。確か、食べずに死を選んだ人もあったと記憶している。生存者は、緊急避難(やむをえない行為)的要素があるので法律上問題にならなかった。  私の事例は少し違っている。  廃品回収業の池さんは変わり者だった。気がむくとリヤカーをひいて仕事に出て行くが、あとはほとんど掘っ立て小屋のガラクタの中で焼酎をのみながら、数匹の猫を相手に暮らしていた。近所のおかみさんたちも心得たもので、残飯などを猫にやったりしていた。  あるとき、猫が一匹少ないので、 「どうしたの?」  と尋ねると、 「酒の肴《さかな》がなかったので、焼いて食ってしまった」  と平気で答えたという気味の悪い話も伝わっている。  繁華街の裏手の空地の片隅に、六十を少し過ぎた池さんは、変わり者とか奇人といわれながらも、下町の人情に支えられてか、彼なりの人生を送っていた。  しかし、最近は仕事に出る日が少なくなっていた。ここ四〜五日姿を見せないので、近所のおかみさんが心配して中の様子を見ようと、酒屋に相談した。そういえばここ数日、酒を買いに来ていない。それではと、酒屋の主人が戸のない出入口から中を覗《のぞ》き込んだ。 「ヒャー」  と大声をあげて戻ってきた。 「化け物が寝ている」  と言ったから大変である。  近所の人たちが集まってきて、おそるおそる中を覗き込み、騒ぎはさらに大きくなった。池さんは死んでいたのだ。  間もなくサイレンを鳴らしてパトカーがやってきた。警官が中に入り、現状を確認するとすぐに無線で連絡をとりはじめた。小屋の周囲には立ち入り禁止のロープが張りめぐらされ、本庁から捜査一課や鑑識の車が次々と集まってきた。  化け物は万年床から少しはみ出して、仰向けに倒れていた。口や鼻の周りには無数のウジ虫がうごめいているが、額から眉《まゆ》にかけてはわずかに池さんの面影を残している。右頬《ほお》から右顎《あご》にかけては、白い下顎《かがく》骨が露出し、顔貌は腐敗も加わって仁王様のような恐ろしさである。化け物が寝ているといったのも、無理からぬことである。  肌寒い季節であったから、汚れたジャケツを重ねて着ているが、下半身はなぜか裸である。股《また》を少し広げ、陰部はほぼ逆三角形にえぐり取られたように、陰茎も陰のうも睾丸《こうがん》もなくなっている。  猟奇事件である。  昭和十一年、世間を騒がせた阿部定事件以来のことであろう。このときは、料亭の女中定が、自分の主人吉蔵を扼殺《やくさつ》し、外陰部を切り取り、死体の左内股に、“さだきち二人ぎり”と血で書き、左腕には刃物で“さだ”と自分の名を刻んで逃げた。  二日後、定は逮捕されたが、その時、彼女は切り取った男根を大事に持っていたという。この事件は当時から、興味本位に猟奇的に扱われてきた。  しかし、医学的には二人はサディズムとマゾヒズムの関係にあったといわれている。異性を虐待し精神的・肉体的苦痛を与えることによって、性的快感を覚えるのがサディズムで、その逆がマゾヒズムである。  男にサディズムの傾向が強いと、女は少なからずマゾヒズムに傾くといわれる。元来、女性は受動的であるからマゾヒストが多い。しかし、吉蔵と定の関係は逆で、吉蔵が強いマゾヒスト、定はサディストであったという。  池さんの場合も、似たような背景が潜んでいるのであろうか。小屋の中は死体の腐敗臭が強烈で、まともに息もできない。ウジ虫の徘徊《はいかい》もあって、つばを吐き、ゲーゲーやっている刑事もいる。鑑識のカメラがフラッシュをたいたとき、小屋の隅にいた一匹の猫が驚いて逃げ出した。現場検証と並行して、私服刑事の聞き込みがすみやかに行われていた。  監察医の出番である。  いくら慣れているとはいえ、このような現場は苦手である。臭くて、汚くて、たまったものではない。それにウジ虫の集団がうごめく様を見ていると、からだ中がザワつくような異常感が走って、薄気味悪くなる。しかし、職務上手を抜くわけにもいかない。ゴム手袋をした刑事が、着衣をぬがせ全裸にする。大変な作業である。  検死が始まる。頭部に外傷はない。首を締められたような痕跡も見当たらない。ただ右の耳たぶがギザギザに切り取られたように半分なくなっているが、周囲に出血がないので、死後の損傷と思われた。  陰部も耳と同じように、えぐられ、その周辺に出血はなく、現場にも血液の流出や血痕などは見当たらない。また池さんが犯人と格闘したような乱れや抵抗の様子もなく、防御創などもない。  やはり、死後何者かに切り取られたのであろう。その他、下腹部に線状の擦過傷が十数本縦に横に不揃《ふぞろ》いに散在している。しかし、外観から死因になるような所見は見当たらなかった。  聞き込みその他捜査状況からも、疑わしい点はなく、殺しの線も出てこない。とりあえず、死因究明のため監察医務院で行政解剖をすることになった。解剖室のライトに照らし出された死体には、監察医をはじめ立ち会いの警察官など十人近い人の眼が集中していた。  胸から腹へとメスが走る。  各臓器はかなり腐敗が加わっているものの、これという病変は見当たらない。ただ肝臓は肝硬変があって、アルコール中毒を思わせた。頭蓋《ずがい》も開けられた。しかし、外傷や脳出血などもなかった。  無言のうちに解剖は進んでいく。 「これだ」  という監察医の声に、一同の眼はその方向に向けられた。喉頭《こうとう》部の気管の入り口に、クルミ大の食物塊が詰まっている。カメラのフラッシュがたかれた。  団子のように丸まった食物塊をピンセットでほぐしながら観察する。マグロのブツギリのようであった。これがのどに詰まって窒息したのだ。  陰部、顔面、右耳の損傷および下腹部の線状擦過傷には、すべて生活反応がなく、死後の損傷であることがはっきりした。  胃内容、血液、尿などの化学検査の結果を待たなくては結論は出せないが、解剖終了の時点では、酒好きの池さんが、マグロの刺し身をおかずに焼酎を飲んでいるうちに、誤ってのどにひっかけ、窒息死したものと推定された。  主《あるじ》の急死によって、数匹の猫たちは餌に窮した。小屋の中の食べ物が全部食べ尽くされると、あとは池さんののどに詰まっている魚だけである。猫がその魚を食べようと必死になり、口の周りを食べていく。しかし、のどの魚までは届かない。  顔がやや右下向きになっていたので、池さんのよだれが頬を伝わり右耳に達していたのだろう。空腹の猫は右頬から右耳たぶまでかじった。  そこまでの推理は簡単であった。耳たぶのギザギザの咬創《こうそう》は、それを裏付けている。ネズミや犬の咬創とは、歯型が違う。  それでは、陰部はどうしたものか。えぐり取られたようになっているが、出血などの生活反応はなく、黄色い皮下脂肪が露出し、死後の損傷であることは明白である。まさかこの汚い小屋に女性が訪れてくるとは考えにくい。 「やはり猫の仕業か?」  解剖に立ち会っていた検視官は、そうつぶやいた。  とすれば、池さんは死亡前に下半身だけ裸になっていたことになる。暑い季節ではない。むしろ肌寒いのである。そう考えるならば陰部にも魚の臭いがついていた方が都合がよい。  独り暮らしの池さんが、ズボンをぬぎ、下半身を裸にして、そこに魚の汁などをつけて猫になめさせ快感にひたっていたとは、考えすぎであろうか。  下腹部の線状擦過傷は猫の爪痕《つめあと》のようなのである。食べにくい股間の場所がらを思うと爪痕ができておかしくない。  うがった考えだが、推定の範囲を出ない。現場には数匹いた猫が、一匹しか残っていなかった。食べ物がなくなったので、あとの猫は居所を移したのだろう。  数日後、化学検査の結果がわかった。血液、尿中から多量のアルコールが検出された。胃内容から毒物は検出されなかった。池さんは予想した通り、泥酔状態で魚を誤嚥《ごえん》し窒息死したのである。  陰茎から睾丸まで根こそぎもぎとった猟奇事件も、結局犯人は猫のタマであったということで落着した。追いつめられたとき、人間はどうするのか、考えさせられる事件であった。 検土杖  一月中旬ともなれば寒さは一段と厳しい。温暖な季節よりも、寒い季節の方がはるかに変死の数は多くなる。とくに高齢者の突然死が増えるからである。  監察医の仕事は盆も正月もない。連休で病院や開業医が休診のときなどは、診てもらう医者がいないので変死扱いになるケースが多く、ことのほか忙しい。  そんなある日、私は警視庁捜査一課の刑事さん二人の訪問を受けた。警察官の検視に医学的知識で協力するのが監察医の役割でもあるから、検死の現場では、当然法医学的な質問を受けることになる。時には北海道や九州などからも、警察電話で質問を受けることがある。眼瞼《がんけん》結膜下に溢血点があっても病死でよいか、病死とすれば死因は何が考えられるか、など高度な質問が多い。  それも、そのはずである。変死体に直面して、これをどう判断すべきか。判断いかんによっては単なる病死か、あるいは殺人事件にもなりかねないからである。岐路に立たされた責任ある警察幹部検視官の苦悩が電話越しに伝わってくる。  しかし、今日の質問は違っていた。二人の刑事は真黒に日焼けしていた。 「実は、女子大生殺しの担当の者です」 「八王子の別荘周辺に死体を埋めたとの判断で、そのあたりを掘り返しているのですが、半年を過ぎても、遺体は見つからないのです」  とくに、十二月に入ってからは冷え込みが厳しく、関東ローム層が二〜三〇センチにわたって凍りつき、とても掘るどころではないというのである。両手をひろげて、豆だらけのぶ厚い手のひらを見せてくれた。  事件というのは、ある大学の大学院の女子学生が妻子ある助教授と恋仲になった。妻子と別れて結婚するとの約束になっていた。しかし、実現はしなかった。  男にとって、妻子と別れるということは、そう簡単なことではない。肉体関係を続けるための口実にすぎないとみるべき場合が多いものだ。話はもつれ、彼女は必死に妻の座を要求した。要求すればするほど、男にとっては女の存在はうっとうしくなる。  その年の夏休みに入って間もない七月のなかごろから、彼女は行方不明となった。実家には「二週間ほど旅行に出ます」との自筆の手紙が届いていた。しかし、このとき彼女は殺されていたのである。  助教授はいろいろなアリバイ工作を行っていた。その反面、大学の親しい友人に、大変な方法でケリをつけたことを告白していた。良心の呵責《かしやく》にさいなまれ、強度の精神不安に襲われていた。  夏休みが終わって、新学期が始まろうとしていた九月の上旬、伊豆半島の石廊崎で助教授一家四人の心中死体が発見された。  女子大生殺人事件は、皮肉にも助教授一家の心中が報道され、その動機を取材中に、恋のもつれから助教授が教え子を殺したことがわかったのである。つまり事件がすべて終結した時点で発覚し、捜査が開始されたのである。  しかし、関係者が語っているように、果たして女子大生は本当に殺されているのか否か、定かではない。遺体は発見されないままである。  大学という環境、そして助教授と女子学生の愛憎、殺人、一家心中と舞台背景にこと欠かない。ショッキングな内容であったから、世間の関心はとくに大きく、マスコミの格好のえじきになって、こと細かく報道され続けた。しかも、彼女は二ヵ月も前に殺されているというのである。  警視庁は捜査本部を設けて、遺体発見に乗り出した。犯人が逃亡中の事件と違うので、捜査員の数は少ない。殺して埋めたら発見できないのかと、警察も言われたくないのだろう。刑事の気迫というか、執念がその手のひらに感じられた。  半年間、遺体の捜査をしてきたがまだ見つからない。別荘周辺を掘り尽くした苦労と、焦りがあった。しかも、発掘捜査も地面が氷結したため、春まで延期せざるを得なくなった刑事さんたちは、やむなく小休止し、春からの捜査方法を検討中であった。  遺体発見に何かよい方法はないか、というのが私を訪ねた理由であった。検死や解剖についての質問であればともかく、監察医に地下に埋められた死体の発見方法を聞きにきたのである。  私は以前、腐敗の研究をしたことがあったが、一瞬これは難しいと感じた。しかし、口には出さなかった。逆に、私は全く別の話を始めてしまったのである。 「別荘の周りには、遺体はないと思うのだが……」  突然の言葉に刑事さんは、戸惑いと反発を覚えたに違いない。自信をもって捜査を続けてきた二人にとっては、当然のことであろう。 「一生懸命発掘しているお二人を前に、無責任な発言でお叱りを受けるかも知れないが、参考までに聞いてください。──私は水の中、湖底だろうと思っているのです」 「え! 湖ですか」 「そうです」  私はこの事件が報道されたときから興味をもち、自分なりに推理していた。湖底であるとの考えには、二つの理由があった。  まず、犯人一家は入水心中をしているので、犯罪心理学的に考えて、殺しも水の中ではないだろうか。愛人を水で殺したから、自分も水に帰るつもりになったと考えられないか。一家心中するのに、わざわざ石廊崎まで行って崖《がけ》から海に飛び込まなくても、安易な方法はいくらでもあるはずである。  もう一つの理由は、天下の警視庁が半年も別荘の周りを探しているのに、発見できないのは、遺体はそこにないからであろう。 「別荘周辺ではなく、やはり深い湖の底にでも沈んでいるのではないかと……」 「先生、それは違います」  話が終わるのを待ちかねたように、刑事は私の推理を否定した。二人は自信に満ちた顔つきであった。  遺体を埋めた場所は、別荘周辺以外には考えられないことを、捜査の経過から割り出していたのである。それは推理小説の謎《なぞ》解きのような理論の飛躍も、華麗さもない。  夏休みに入って間もない七月中旬、女子大生と助教授は一緒になるか、別れるか、最後の結論を出す約束で、京都旅行を計画していた。午後四時、新幹線下り「ひかり号」に乗る予定で、二人は東京駅のホームで待ち合わせた。しかし、新幹線には乗らなかったのである。  結ばれるか、別れるか。いずれにしろ結論が出る京都旅行を、彼女は待ち望んでいた。それを中止し、東京駅から突然、相模湖なり芦の湖行きに変更される理由は、彼女の側からは考えられないことである。  観光旅行でも新婚旅行でもない。女の将来を決める重要な意味のある旅行を、いとも簡単に行先変更に応ずるはずはない。それなりの理由がなければ、京都行きは中止されないのである。  助教授は、恩師の教授の八王子の別荘を借りて彼女としばしば会っていた。教授も成り行きを心配して、何回となく相談にのっていた。  助教授は教授の別荘で、教授にも話に加わってもらい、納得のいく結論を出そうと彼女を説得し、半ば強引に京都行きを変更させたと推理するのが妥当であろう。京都行きの二枚の切符が、使われないまま、研究室の助教授の机の中から発見された事実は、何を物語っているか。どうしても別荘に向かったとしか考えられないのである。  この結論は、別荘周辺から彼女の靴の片方が発見されたり、その他の捜査状況とも一致し、理屈などではなく、状況証拠の裏付けがあったのだ。  説得力のある話の展開と、その気迫に、私の頭の中の遊びのような推理などは、いっぺんに吹き飛んでしまった。  結局、別荘周辺を掘り返す話に戻った。刑事さんの質問に答えねばならなくなった。人間が死ぬと、徐々に腐敗が始まる。夏と冬とでは腐りの速さが全く違う。東京と大阪でも、腐敗の進行度に大きな違いがある。同じ部屋でも日当たりのよい場所、悪い場所でかなりの差が生じ、また太った人とやせた人でも違ってくるので、腐敗の基準はない。ケースバイケースなのである。そこに、死後変化の難しさがある。  かつて、カスパーという学者は、空気中に置かれた死体の腐敗の進行度を1とすれば、水中死体の腐敗度は二倍遅くなり、土中に埋めた場合は八倍遅いと報告している。とはいえ、必ずしもこれにあてはまる死体ばかりではない。  いずれにせよ、彼女は土中に埋められ半年間、東京の八王子で夏、秋、冬と三つの季節を過ごしていることになる。  一般的には、腐りはじめは酸化作用が強く、酸性腐敗となってガスが発生し、死体は土左衛門といわれるようにふくれあがる。そのうちに体のたんぱく質が分解して組織が融解し、腐敗液汁が流れ出すと、アルカリ性腐敗に変化し、その悪臭は一段と強くなる。  しかし、土中に二〜三〇センチ埋められていると、腐敗臭は地上に上がってこない。犬を使う方法もあろうが、警察犬は人間の腐敗臭について訓練を受けていないので、覚えさせるには数年かかるという。たとえ訓練ができても、土中に二〜三〇センチ埋まっていれば、犬の鼻も役立たない。  私も池の鯉《こい》や金魚が死んだとき、実験したことがある。深さ五センチ、一〇センチ、二〇センチと穴を掘り魚を埋めておく。近所の猫がやって来て、五センチの深さに埋めた魚は掘り返して食べてしまうが、一〇センチ以上になると、臭気は地下に密閉されるのだろう、その上を猫も気づかず通過してしまうのである。 「先生、探知機のようなものはないのですか」  臭《にお》いは音などと違って簡単に数量化できないものの一つである。悪臭公害も結局は、数量化できないので、取り締まりにくいといわれている。つまるところ、アルカリ性腐敗臭を人間の鼻で嗅《か》ぎ分ける以外に方法はない。  スコップで土を掘り返すよりも、パイプを土中に打ち込み、抜き取った穴の中の臭いを嗅ぐか、パイプの中の土の臭いを嗅げば、地面が氷結していてもできないことはない──と話をした。  探知機はこの鼻か、と刑事さんは、自分の鼻をつまんで笑った。  それから一ヵ月半たった、ある寒い朝早く、私は電話で起こされた。 「先生、私です。ありがとうございました。おかげ様で見つかりました」  聞き覚えのある刑事さんのはずんだ声であった。ニュースは女子大生の遺体発見を大々的に報道していた。 「執念の捜査七ヵ月」 「別荘裏、地下五十センチ」 「腐敗臭をつきとめた検土杖」  と見出しは派手であった。  大手柄の二人の刑事さんの写真も載っている。  犯人は死亡し、目撃者もいない。  殺して埋めたらわからないといわれた難事件も、春を待たずに解決した。 親子鑑定  女性の社会への進出がめざましい反面、わが国でも欧米なみに離婚が増えたり、性意識の乱れとともに親子鑑定なども年々増加している。  むかしの親子鑑定は、大岡越前守の裁きに代表されるように、科学的決め手がなかったから、人情などに訴えざるをえなかった。  フランスでも、私生児が生まれると、その母たる女が父親を決める権利があったそうである。女は自分と関係のあった何人かの男の中から経済的にゆとりのある男を、当然父親として選ぶことになる。金持ちのプレーボーイたちは大いに困ったという。  今日では、血液型の遺伝形式が詳細に研究され、また形態学的な遺伝形質についても研究が進んで、指紋、掌紋《しようもん》、人類学的生体計測、産婦人科学的考察などを総合して、鑑定が行われるようになっている。主に法医学者が鑑定をしている。  血液型の遺伝形式が合わない場合は、親子の関係は完全に否定されるが、血液型が合っていて肯定する場合には、父権肯定の確率を算出して判断している。近い将来、染色体の研究などが進み、親子鑑定も科学的に精度の高いものになるであろう。  法医学者の鑑定は、あくまでも裁判上の参考資料であり、判定は裁判官によって決められる。とはいえ、法医学者の鑑定結果が尊重されるのはいうまでもない。  そこで、これから親子鑑定をめぐる二つの相異なる裁判をご紹介しようと思う。  この事件は、夕刊に小さく載っていた。子供のないある会社の支店長が、電車に飛び込み自殺をしたというのである。迎えの車で出社中、電車の通過待ちで、運転手は踏み切りで、一時停止をしていた。後部座席に乗っていた支店長は、何を思ったのかドアを開け、車から降りるなり、遮断機をくぐり抜け、やって来た電車に飛び込んでしまったのである。  一瞬の出来事に、運転手はハンドルを握ったまましばし茫然としていた。動機は組合交渉で心身ともに疲れ果てたためとあった。初老期のうつ病とも思える自殺である。  通夜の晩、小柄な中年の婦人が小学校三〜四年とおぼしき男の子を連れて参列したことから、この事件は波乱の幕が開くことになる。集まった親戚のものをはじめ、会社関係の人たちも、その子連れの婦人と面識はなかった。襟元が美しいその女性は、ことのほか目立った。  不審に思って、丁重に、 「どちら様ですか」  と尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。 「私は十年来、故人と関係のあったものでございます」  支店長の奥さんは驚いた。寝耳に水である。そんな馬鹿な話はない。夫と私の間に、そのような隠し事があるはずはないと否定した。  しかし、その女性は男の子を引き寄せて、 「これが何よりの証拠です。パパとの間の子供です」  と言いながら、ハンドバッグから数枚のスナップ写真を取り出した。子供を中に親子三人が睦《むつ》まじく写っている。母と子はまさにここにいる本人たちであり、父とおぼしき男は間違いなく自分の夫であった。  支店長に愛人があり、子供まであったなどとは誰も知らないことであった。しかも、子供は十歳ぐらいだから十年来の秘密ということになる。  奥さんのショックは大きかった。愛人は当然のことながら、子供の認知と遺産の分配を要求したのである。  大変な通夜になってしまった。  身内のもの数人を残して、客は早々に帰っていった。夫にあざむき通された子のない妻は、哀れであった。この夜のハプニングは、どうやら本妻の負けの印象が強かった。  見ず知らずの子連れの女が、こともあろうに夫の通夜に突然現れ、しかも子供の認知を迫ったのである。腹立たしいことであったが、無視することもできない。本妻は、重い口を開かねばならなかった。夫婦間の秘密を、今ここで他人のあなたに話す必要はないのだが、あまりにも馬鹿げた非常識きわまりない話であり、遺産欲しさのために仕組んだ芝居のようで、相手にできないけれど、あなたがそう主張する以上、こちらも一応の説明はしておきましょう。落ち着きを取り戻したせいもあってか、一時荒かった語気もやがて諭《さと》すような口調に変わって、 「実は主人は無精子症だったのです」  なんと迫力のある言葉であろう。  身内のものはそれとなく知ってはいたが、改めて彼女の口からこの言葉を聞いたとき、子のない妻の哀れさを感じた。同時に、その言葉には相手の女性を十分説得させるだけの重みがあった。  結婚この方、私どもは子宝に恵まれなかった。だからあなたとの間にも子供が生まれるはずはない。そう言っているうちに、再び感情がたかぶり、腹が立ってきたのだろう。 「でたらめを言うのも、いい加減にしなさい」  と最後は相手を怒鳴ってしまったのである。  切り札が出されたのだ。  ところが愛人もさるものである。ひるむどころか、かえって闘志をみなぎらせて反撃に出たのである。あなたが今、認知してくれなければ、くれないでもよいのです。私は裁判所で親子鑑定していただきますから結構です。多分こんなことになるだろうと思って、弁護士さんと相談して手は打ってあります、というのである。  なるほど、女だけの知恵ではなかった。  飛び込みの現場で、私はパパの骨と肉を拾って持っています。これを裁判所に提出して、血液型を鑑定してもらい、親子関係をはっきりさせます、というのである。  万事用意周到な運びで逆襲してきた。  自分の腹を痛めた子供がここにいる。  母は強かった。  熾烈《しれつ》な女の対決に相談相手にと残った身内の男たちも、意外な成り行きに、なすすべもなかった。  結局、民事裁判にもつれ込んだ。裁判所は、愛人側から出された骨と肉を、ある著名な法医学者に鑑定を依頼した。  鑑定はまず骨と肉が獣のものではなく、人間のものであるか否かから始められた。数ヵ月後、結果は鑑定書として裁判所に送られてきた。  人間の骨と肉であり、骨は扁平《へんぺい》で骨盤を形成する腸骨の一部分と推定された。血液型は骨、肉ともにB型であった。つまり支店長はB型と判断された。なお母親の愛人はO型で、その男の子はB型であった。  したがってB型の支店長とO型の愛人から、B型の子供が生まれても矛盾はなかった。しかし、支店長の子供であると判定するわけにはいかない。世にB型の男は支店長以外にごまんといるからである。  たとえば、子供がA型であれば、BとOの夫婦からA型の子供は生まれないから、この場合は完全に否定することができる。血液型はいわば否定の学問で、肯定の学問ではない。鑑定結果は、親子関係があってしかるべきである、ということになったのである。  本妻側は反論した。骨片は骨盤の一部を形成する腸骨であるというが、果たして夫は骨盤部を轢断《れきだん》されていたか。弁護士は警察へ行き、当時の記録を調べた。  死体所見については、これを検死した監察医の死体検案調書がなによりの証拠である。奥さんを伴い監察医務院を訪れた弁護士は、検死をした監察医に面会を求めた。  頭蓋骨は粉砕骨折し、顔面は原形をとどめないほど変形している。さらに骨盤部は、挫滅轢断《ざめつれきだん》状態との記載があり、腸骨が粉砕骨折して骨片となっていても矛盾はない。彼女が、骨片や肉片を拾ってきたとしてもおかしくなかった。  弁護士は、次なる反証に移らねばならなかった。飛び込みの現場で、骨と肉を拾ったという彼女の申し立ては本当だろうか。現場付近の住民から、当時の模様を聞いて廻った。  事件後、直ちに十数人の駅員や警察官が散乱した骨片や肉片をポリバケツに拾い集めているのを目撃しているが、その中に女性が加わっていたかどうかは、はっきりしない。そして、十数分後には電車は次々とそこを通過し、正常運転に復帰したとのことである。彼女が事件発生後、十数分以内に現場に現れる可能性はない。地理的にも不可能である。  運転手は、支店長の奥さんと会社にはすぐに通報したというが、事故発生から十分以上はたっていた。後日、拾いに来たとしても、都内の専用軌道内で、それらをうまく拾得できただろうか。その目撃者もいなかった。  いずれにせよ、論争は四分六分で本妻側は押され気味であった。最後の手段に望みを託すことにした。夫の無精子症が証明されれば、勝てると考えたからである。  十数年前、夫婦で診察してもらった病院を訪れた。年をとったがその医師は健在であった。しかし、医師はカルテの保存義務は五年間で、古いカルテは焼却してしまうので、記録がないから証明することはできないとの返事である。  弁護士は、それではこの奥さんに見覚えがありますか、と医師に尋ねた。  診たことがあるような気もするが、始終このようなご夫婦の患者を診察しているので、はっきりした記憶はないとのことで、反証の手がかりを失ってしまった。  そればかりではなく医師は、無精子症といっても全く精子がないというのはごく稀《まれ》で、多少は存在している。ただ精子の数が少なく受胎しにくい場合も含めて、無精子症といっているので、ときには子供が生まれることがあっても不思議ではない──と医学的解説に及んだのである。  最後の望みも、その瞬間に消え、失望と焦燥《しようそう》の中で、本妻も弁護士も打つべき手段を見失ってしまった。  裁判とはいいながら、死んで半年以上もたっている人の血液型や無精子症の証明をしようというのであるから、これはむしろ医学上の問題であった。弁護士はある大学の法医学の教授に相談することにした。法医学教室では、親子鑑定が数多く取り扱われていた。  教授は、夫の遺品の中から血液型を判定できるものを探し出すようにと指示してくれた。毛髪や爪などでよい。また、汚れたちり紙やハンカチ、タバコの吸いがらなどでもよかった。これらには汗、唾液《だえき》、痰《たん》、鼻汁などが付着しているから血液型を割り出すことができるのである。  しかし、そのほとんどは汚物に類するもので、探すまでもなく、とっくに廃棄されている。それでも妻は、夫の旅行用洗面具セットの中から、櫛《くし》についていた毛髪三本を見つけ出した。  また、法廷には愛人の方から、生前月々パパから仕送りされていたという現金書留封筒が束ねられて提出されていた。公的機関を使っての送金の事実は、二人の関係が親密であったことを明確に証明する有力な証拠物件となっていた。加えて、現金書留封筒に書かれた文字は、まぎれもなく夫の字であることを、本妻も法廷で認めていたのである。  かなり以前から、夫に愛人がいたことが明らかになり、愕然《がくぜん》としながらも、彼女は子供の件については、どうしても納得しえなかったのである。  話を聞いていた教授は、 「現金書留封筒。それですよ」  とつぶやいた。  封筒に貼《は》ってある切手には、恐らく支店長の唾液がついているだろうとの推測からである。本妻側が、切手についている唾液の血液型鑑定をしてもらうよう、裁判所に申し立てをしたのはいうまでもない。  裁判長は束ねられた封筒の中から、無選択的に十通を取り出し、別の医大の法医学教授に、血液型の鑑定を依頼した。相手方の有力な証拠物件を逆手にとった、巧妙な反撃であった。無論、洗面具セットごと三本の毛髪も同時に鑑定に出された。裁判の成り行きは、鑑定いかんにかかっていた。  親子の区別はきわめて論理的で、血液型が遺伝形式に適合していなければ否定される。法廷でもこの医学的判断によって、裁かれるのは当然である。  ところが、アメリカでのチャップリンの親子鑑定は違っていた。企画、演出、監督、そして主役の俳優から音楽まで、彼一人で器用にこなし、今なお世界中の人々の感動を誘う名作を次々に発表してきたチャップリンは、まさに偉大な天才的芸術家に違いない。とはいえ、その彼もこと女性に関しては、まことにだらしなかったようである。  一九四三年、彼は以前同棲《どうせい》し一緒に映画をつくっていた女優から、子供の認知をするよう訴えられた。血液型の検査で、チャップリンはO・MN型、女優はA・N型、子供はB・N型であった。MN式血液型から親子関係は適合していたが、ABO式血液型からは、OとAの間からBの子供は生まれないので、医学的にチャップリンは、その子の父親ではなかったのである。ところが、裁判ではその事実は無視されて、子供の父親と認定され、養育費として毎週七十五ドル、弁護士料五千ドルを支払うよう命じられた。  日本と違って、アメリカは陪審員制度による裁判である。一世を風靡《ふうび》したチャップリンの生活、その豊かな経済力にひきかえ、捨てられた女優はただの女の貧しい生活に戻っていた。アメリカ国民の同情もあったのだろう。一年近くの同棲期間中は、妻と同じように生活を共にし、チャップリンを支えてきた女性である。それを捨てて、次から次へと華やかに女性遍歴を繰り返す男に対する市民の怒りが、実子ではなくても、その祝福されない子供と女性のために、男としての責任を果たすべきであると宣告されてしまったのである。  この裁判は、日本人の感覚では割り切れないものを感じるが、それはともかく、ロンドン生まれのチャップリンは、当時の文明国アメリカに批判的であったし、主義主張も違っていたから、アメリカ政府から嫌われ、彼自身もまたアメリカ嫌いになって、ついにヨーロッパに移住した。その重要な動機の一つに、この裁判はなったといわれている。  さて、裁判所の鑑定依頼があってから五ヵ月後、教授の鑑定書が裁判所に提出された。毛髪はA型であった。  封筒の切手は、十通のうち七通からA型の反応が出た。しかし、残る三通は血液型の反応はなかった。切手は糊か水などによって貼られたものと推定された。結局、切手を貼った人はA型と判断されたのである。  以上の鑑定から、支店長はA型で、O型の愛人との間からB型の子供は、決して生まれない。A型の夫は、親子関係を完全に否定されたのである。  愛人側の提出した骨と肉はB型で、親子関係があると肯定され、本妻側の毛と切手はA型で、親子関係がないと否定される。  この結果は、あまりにも自分たちに都合よすぎて信憑《しんぴよう》性に乏しい感じがしないでもない。とはいうものの、双方とも鑑定人は権威ある法医学者であり、鑑定に誤りがあるなどとは到底考えられない。裁判長は、そのいずれかに軍配をあげなければならないのである。  そこで裁判官は骨と肉、毛髪と切手の四つの鑑定物件の中で、支店長と認定されてよい物件はどれかを再検討する作業に入った。まず骨と肉は飛び込みの現場で、愛人自身が拾ってきたというが、時間的にも地理的にも無理があって、支店長そのものとは考えられない。別人のものを後日用意したなどと、あらぬ疑いをかけてみる余地がないわけではない。いずれにせよ、骨と肉の信頼度は低かった。  毛髪はどうだろう。支店長の洗面具セットの中の、櫛についていた毛であるというが、どれほどの信憑性があるだろうか。たとえば他人がその櫛で頭をとかしたことはなかったか。あるいは故意にA型の人の毛をそこに入れて裁判所へ提出しなかったか。疑えばいくらでも疑う余地はあった。  残る切手の唾液はどうか。生前、支店長が愛人宛に月々現金書留として送金していたもので、この封筒は二人の関係を見事に立証した重要な証拠物件であった。しかも、二人の関係は十数年来、誰にも知られることはなかった実績を考えると、彼はひそかに封筒の宛名を書き、舐《な》めて切手を貼り、郵便局へ行き、秘密裏に送金していたに違いない。支店長という地位にあっても、このことについては部下に頼んだりはしなかったろうと思われるのである。  こう考えると、四つの鑑定物件の中で最も支店長にふさわしい物件は、封筒の切手に付着していた唾液以外にないのである。裁判長は、唾液の鑑定結果を採択した。  支店長の血液型はA型と判断され、愛人の子供との間に親子関係はないと結論を下したのであった。  本妻側は逆転、勝利をおさめた。  その夜、弁護士は相談にのってくれた法医学の教授と銀座のバーで飲んでいた。負け戦を勝利に導いてくれたお礼をかねての祝賀会であった。  子のない支店長は、愛人との関係から子宝に恵まれたので、うれしくてたまらない。その子を自分の子と信じて疑わなかった。それ故に子の成長を喜び、送金をたやすことはなかったのである。  裁判が終わり、事実が明らかになった今、その男の子は一体誰の子なのだろう。ミステリーが残った。  教授は尋ねた。  さすがは弁護士さんである。調べはついていた。  十数年前、支店長と交際が始まる直前まで、彼女は年下の男と交際があった。一ヵ月くらいの間、彼女はこれら二人の男性と関係をもっていたのである。このオーバーラップした一ヵ月の間に、彼女は若い男と別れて支店長を選んだが、そのときすでに彼女は身ごもっていたのである。  妻以外の女との出会いで、無精子症の自分も子宝に恵まれたことを、この上なく喜んだ支店長は、子を溺愛《できあい》した。若い男の存在など、知るよしもない。  彼女もまた、支店長の喜びと愛にはぐくまれ、いつしか年下の男のことを忘れ、支店長との間に生まれた子として、育ててきたのである。  皮肉にも、裁判が終わってはじめて、子供の父が支店長ではなかったことを知らされる結果になった。祝福されない子を持った女も、また哀れであった。  人工受精、試験管ベビーなど、生命の誕生と親子の関係が不確かな時代に、確かさを求めるのは無理なのだろうか。いずれにせよ、人間社会の乱れた生活の中で、親子の関係を決めるのに、医学的判断を優先するのか、それとも人間としての生き方、人情論で決めるべきなのか。  無精子症の話とチャップリンの話。この極端な日米の違いを対比させ、もう少しよい知恵はないものかと、私はいつも思うのである。 赤坂心中  赤坂で心中事件が発生したから、検死してほしい、と連絡を受けたのは、早春の午後二時を少し過ぎたころであった。  監察医は、検案車に乗って検死に出動する。運転手と補佐員がつき、三人一組になって検死の依頼があった警察へ直行する。  一組が、一日五〜六件の事件を消化するのが日課である。四組か五組の編成で朝九時半ごろ出発するが、帰りは午後の四時ごろになってしまう。交通渋滞もさることながら、検案業務そのものが、原因不明の死を解明しなければならないために、警察官との綿密な協力のうえに、自殺か他殺か災害事故死か、それとも病死なのかと、あらゆる方向から検討して、唯一の真実を見いだし、もの言わぬ死者の人権を十分に擁護しなければならないので、思いのほか時間がかかるものである。  この日も、幼児の交通事故死、一人暮らしの老人の死、青年の首つり自殺、けんかの刺殺事件と、四件の検死を終えようとしているときであった。心中事件が追加されたのである。春は自殺の多い季節でもある。  警察官に案内されて、マンションの一室に入ったとき、まだ部屋の中はガス臭がたちこめていた。  当時は石炭ガス(6B)を使用していたので、現在の天然ガスと違い、生ガスを吸うと一酸化炭素中毒から死の危険につながった。あまり苦痛を伴わず容易にできる自殺と思われてか、睡眠剤に次いで多い手段であった。  ダブルベッドに、男と女の頭だけが見える。掛け布団の赤い花模様が、事件を象徴しているかのようであった。長いゴム管が女の口元まで引き込まれている。布団をはがすと、ピンクのネグリジェを着た女は横向きに、浴衣の寝巻きを着た男は仰向けになって死んでいた。心中のなまめかしさがただよっている。  現場の状況は、逐一鑑識係のカメラにおさめられる。監察医の検死には、風情も情緒もない。ただ二人が、なぜこういう結果になったのかを冷静に観察し、死因が何であるのかを医学的に解明し、死亡時間の推定などを行うのである。  このような仕事をしているので、初対面の人は、珍しい医者もいるものだと思うのか、 「死体を検死したり、解剖して気持ち悪くないですか」  と、よく質問されるのである。  即座に、私は、 「生きている人の方が恐ろしい」  と、答えることにしている。  生きている人は、痛いとかかゆいとか、すぐに文句を言う。そして何よりも死ぬ危険があるので、私にとっては、生きている人を診るよりは死体の方がはるかに気が楽なのである。  死体がこわいとか、気持ちが悪いという感覚は、医学を志したときからすでに持ち合わせていなかったような気がする。  ベッドの二人を全裸にして、死体をくまなく観察する。手足の関節に軽度の硬直があり、背中には鮮紅色の死斑があった。まだ死体には、ぬくもりがある。死後、五〜六時間、たっているようだ。  ガス中毒の死斑は、鮮紅色をしているので、赤褐色の他の死因とはすぐに区別はつく。二人は疑いもなく一酸化炭素中毒死であった。そのとき、女の枕の下から二通の遺書が発見された。一通は母親宛であり、あとの一通は何やら男の名前が書いてある。  警察官の調べが進むにつれ、遺書の宛名の男というのは、女とここに同衾《どうきん》し、死亡している男であることがわかって、びっくりした。一体どうなっているのだ。  遺書を遺して自殺するのはわかるとしても、なぜその男が自殺した女のベッドの中で死んでいるのであろうか。  以前、似たような事件があった。アパートで一人暮らしの女がガス自殺をした。届けを受けた警察では、事実の確認と型通りの捜査をすませ、明日監察医の死体検案(検死)があるから、それまで現場をそのままにしておくようにと、家主に頼み鍵をかけて部屋の出入りを禁止した。  翌日、検死のため警察官に案内されて、女のアパートへ出向いた。家主から鍵を借りて刑事は戸を開けた。 「あっ!! 失礼しました」  部屋を間違えたのである。  あわてて、廊下へ出て回りを見渡したが間違ってはいなかった。あらためて、中を覗《のぞ》き込むと、一つの布団にやっぱり二人が寝ている。  どうもおかしい。昨日は確か、女一人が布団の中で死んでいたはずである。声をかけたが返事がない。刑事は恐る恐る、そばまで行き、顔を覗き込んだ。女に寄り添うようにして、男も死んでいたのである。  刑事はすぐに家主を呼び、この事実をただした。鍵は保管していたし、訪れた人もいないので、家主も腑《ふ》に落ちない顔付きである。そのうちに男の遺書が見つかり、謎《なぞ》は解けた。  二人は愛し合っていたが、結婚を強く反対され、女は一人でガス自殺をした。知らずにアパートを訪ねた男は、死んだ彼女のあとを追って青酸カリを飲んだのである。男は合鍵を持っていたのだ。人騒がせな事件であった。  ところでこの事件も、そのような意外性をもっているのだろうか。事実はこうである。  彼女は二十八歳。バーのホステスである。四年前、店で知り合った実業家の愛人になった。その実入りとホステス業で、生活はかなり派手であった。  男は三十一歳。彼女の勤めるバーの雇われ支配人である。しかし、旦那《だんな》の目を盗んでは時々情交を結んでいた仲であった。ところが、最近旦那に別の愛人ができて、彼女はお払い箱になってしまった。精神的ショックもさることながら、月々のお手当もなくなり、収入も激減した。  この挫折《ざせつ》を自ら切り開いていくだけの気力は、もはや四年間という堕落した生活の中ですっかり失われていたに違いない。ちょうどそのころ、バーの支配人も解雇され、二人は期せずして同じ境遇になり、意気投合した。彼女に誘われるまま、男はマンションにやって来たのである。  彼女は、今後の生活を男に求め、二人で資金を出し合ってスナックでもやろうと、結婚を迫った。しかし、男は彼女に内緒にしていたが妻子があって、この愛を受け入れるわけにはいかなかった。男はただ、女を求めに来たにすぎなかったのである。  彼女の愛の告白は、なおも続いた。男の相槌《あいづち》はいつの間にか、寝息に変わっていた。遺書の終わりに、 こんなに真剣に告白しているのに、あなたは寝てしまったのね。やはり私は天涯孤独なのです。あなたのお幸せをお祈りして。さようなら。  と書いた。書き終えた女は、ベッドにガス管を引き入れ、自殺をはかった。同じ部屋で、同じベッドに寝ている男の生命はもはや時間の問題であった。……  このようにして、心中事件は心中ではなくなったのである。女は自殺であるが、男は寝ているうちに巻き添えをくったので、不慮の中毒死になる。二人とも死んだのだから、そんな区別はどうでもよいと思うかも知れない。  しかし、それが違うのである。  後日、わかったのであるが、二人は生命保険に入っていた。彼女は、加入後間もない自殺であったため、保険金の支払いはなかった。男の方には死ぬ意志はなく、たまたま自殺者のかたわらに寝ていて巻き添えをくった、いわば不慮の中毒死であったから、災害事故扱いになり、倍額保障付きの契約をしていたため、家族は多額の保険金の支払いを受けたという。  ひところ、自動販売機にしかけられた除草剤入りドリンク剤を知らずに飲んで、死亡する事件が頻発《ひんぱつ》した。その中には、自分で除草剤を入れて服用し、あたかも犠牲者のように見せかけて自殺をするケースも出てきている。災害事故死扱いになれば、自殺と違い、世間の同情もあれば、生命保険などの支払いも有利になる。どうせ死ぬならと考えてやったとすれば、これも一つの事件に便乗した悪質な犯罪であろう。  警察の捜査はしつこいといわれるが、事実をつきとめなければ意味はない。警察官は真相を、監察医は医学的実態を解明し、協力して社会秩序を擁護するのである。  事件の裏には、いろいろな事情が隠されている。検死によって、それらが徐々に明らかにされ、死者の人間像が浮き彫りにされていく。仕事とはいえ、たまらない気持ちになることもある。  その日の仕事は終わった。  何となくずっしりした疲労を覚えながら、検案車は混雑する夕暮れの街を帰路についた。 情 交  今日は解剖当番日である。  ライトに照らし出された死体。白い解剖衣を着た職員と立ち会いの警察官らが、解剖台を取り囲む。眼は監察医のメス先を追う。  胸から腹へとメスは走る。内臓の一つ一つが取り出され、さらに細かく切り開かれて、克明に検索されていく。  三つの遺体の解剖が同時に始まった。死体の臭い、血の色が室内に広がる。チームワークよく、各自の職務を黙々と遂行する。静かだった解剖室も、その進行につれ、臓器の計測などが始まるころには、騒がしく活動的な雰囲気に一変する。  私が解剖しているのは、脂肪太りの老人である。若い女と連れ込みホテルに入って、情交中に急死したらしいという。しかし、女はどさくさにまぎれて姿をくらましたので、詳しい状況はわからない。  病死のようでもあるが、逃げた女を疑えば、一抹《いちまつ》の不安は残る。警察官三人が解剖に立ち会っているのも、そのためである。  隣の台では、一週間ほど前に交通事故で入院し、肺炎を併発して死亡した中年の男の解剖が行われていた。死因は交通事故によるものか、それとも単なる病死か、監察医の死因決定が被害者と加害者の利害に直結する。  ときどき、カメラのフラッシュがたかれる。重要な解剖所見を記録に残すためであり、また後日、補償問題などで裁判ざたにもつれ込んだ際の証拠になるからである。  もう一体は、洗濯中の主婦が急死したというケースである。  監察医の勤務は検案(検死)当番日と解剖当番日があり、ほぼ交互に年中無休で行っている。一日平均二十件近い変死があり、五台の検案車にそれぞれ監察医、補佐、運転手の三人が分乗し都内を検死して廻る。その中で、検死によっても死因がつかめないケースは、遺体を医務院に搬送し、解剖当番の監察医が行政解剖を行って、死因を明らかにする。一日平均六〜七体が解剖されている。  病死、外傷死、中毒死、災害事故死、あるいは自殺、と解剖のケースは多彩である。ときには、行政解剖中に殺人事件を発見することもある。  脂肪太りの老人は、心臓の栄養血管である冠状動脈に強い硬化があって、心臓も肥大していた。大動脈の硬化も強い。頭蓋が開けられる。しかし、外傷や死因になるような病変はない。頸部《けいぶ》にも異常はない。  解剖中に警察から電話があって、立ち会い中の刑事にその後の調査結果が知らされた。  男は六十九歳の土建業者である。昨夜、若い女を伴ってホテルに入った。一時間ぐらいしたころ、女からフロントに電話があった。慌てているようで、内容はよくわからない。様子がおかしいので係が急いで部屋へ行ってみると、小柄な女が両手を顔に当てて泣いている。二十歳ぐらいであろうか。布団の上には体格のいい男が、全裸で仰向けになったまま、意識不明でいびきをかいていた。係は大急ぎで一一九番をかけに行き、部屋に戻ると女の姿はない。救急車が到着したとき、男はすでに死亡していたという。男も女もどこの誰だかわからない。変死である。  警察官が現場に急行し、捜査が始まる。顔面のうっ血が著しい。眼瞼結膜下には溢血点が出現している。窒息死のようでもあり、急病死のようでもある。  監察医も検死だけでは明確な死因はつかめないので、行政解剖をすることになったのである。胃内容の簡単な毒物検査は、陰性で服毒の可能性はない。 「やはり情交中の心筋梗塞《こうそく》ではないでしょうか」  と、私は立会官に話しかけた。 「売春婦の場合、男が具合悪くなると、かかわり合いを恐れて逃げ帰ってしまうんです。無責任というか、本当にたちが悪くて困ります」  と、立会官は言う。 「先生、男の女房の話では、本人は糖尿病でここ十年来夫婦関係はないとのことでした。糖尿病は、できないんでしょう?」  それが、情交中というのは、刑事さんには納得がいかないらしい。  私は解剖の手をとめて、 「糖尿病は電信柱ですからね」 「え? 電信柱って何ですか」 「電信柱は、家の中では立っていないが、外ではやたらに立っていますね」  笑いがもれる。家では立たないが、外では立つ。これが糖尿病患者の女房をだます手なのである。  そのころ、女の素姓もわかった。喫茶店のウエートレスをしている十八歳の小娘であった。今年の春ごろ知り合い、時々情交をもち、小遣いをもらっていたという。年齢差は実に五十一歳である。まさしく情交中に心臓発作を起こしたのであった。  このような死に方は、決して稀《まれ》なことではない。しかしまとまった研究はなかったので早速、医務院でのデータを調査してみることにした。  年間二十例近くある。男に圧倒的に多いことがわかった。しかし女にもあるのである。論文として、『日本法医学雑誌』に発表するため、文献を調べてみると、中国に世界最古の法医学書といわれる『洗冤録《せんえんろく》』という本がある。一二四七年の著書であるから、日本の鎌倉時代に相当する古いものである。その中に「作過死」という項目があって、次のような文章が書かれている。 「凡男子作過太多精気耗尽脱死於婦人身上者。真偽不可不察真則陽不衰偽者則痿」  読めなくとも、何とか意味はわかる。 「およそ男子の性行為が過度になると、精気をことごとく使い果たし、婦人の身の上で死亡することがある。真か偽りか見分けられないことはない。真の場合(腹上死)はペニスは衰えず勃起しているが、偽りの場合はすなわち萎縮《いしゆく》している」  というもので、このときの死を作過死《ツオグオス》と言った。  しかし、監察医として長年検死や解剖をやってきた自分の経験から、この作過死に全面的に賛成することはできない。若い男は誰でも過淫の傾向があるだろう。しかしそのために死亡する者はほとんどいない。また、作過死の場合は勃起したままであり、偽りの場合とは区別できると述べているが、この表現は間違っている。死ぬと神経系の緊張は解けるから、ペニスは必然的に萎縮するのが普通である。  それにしても、日本の鎌倉時代に無実の罪を洗うために『洗冤録』という法医学書を出版し、このように学問的形式を整えていた中国の努力は高く評価しなければならない。  それはともかく、この文章の中から語源を見いだすことができた。作過死《ツオグオス》、脱陽死《トンヤンス》がそれであり、朝鮮半島では腹上死(死於婦人身上者)という文字が使われていた。やがてこの文字が朝鮮を経て、日本に上陸したものと推測されるのである。  さらに面白いことに、台湾では性交中の急死を上馬風《シヤンベホン》、行為後の急死を下馬風《エベホン》と言い、両者を総称して色風《シエクホン》と言っている。さすがは文字の国、優雅なこの表現に感心した。  わが国では、それらの区別もなしに俗に腹上死と呼んでいる。この文字のためか、われわれは行為中の死亡のみを腹上死と理解してしまっているが、それは誤りで、正しくは行為後の死亡も含めて腹上死、すなわち台湾でいう色風と考えなくてはならないのである。  ところが、女性が死亡した場合は腹下死だなどと勝手な表現をして、面白がっているのは、およそナンセンスと言わざるをえない。また、腹上死という言葉はそのときの状態を表す用語であって、決して死因ではない。  たとえば、交通事故によって頭蓋骨骨折や脳挫傷《ざしよう》を起こして死亡した場合、脳挫傷が死因であり、交通事故死したというのは、そのときの状態を表す言葉であり、死因ではない。だから腹上死も、死因は心筋梗塞《こうそく》とか脳出血という病名になるので、厚生省でも腹上死したケースの統計を取ることはできない。死因を調査している監察医務院ならではである。  それはともかくとして、性行為をするような元気な人が突然死亡するから、変死扱いになるのは当然である。警察の事情聴取後、監察医の検死を受けることになる。  しかし、事柄の性質上、羞恥《しゆうち》心が先に立って実態があまりはっきりしない場合が多い。すると逆に警察は調べ中、死に立ち会っていながら肝心なところがうやむやだから、疑いをもつ。  ヒルディコ妃の話も、そうである。五世紀の中ごろ、フン族の大軍がヨーロッパに攻め入った。民族大移動の端緒がこれである。アッティラ王の率いる軍隊は破竹の勢いで全域を支配するかにみえたが、王は陣中でヒルディコと結婚。その夜、王は急死した。フン帝国はたちまち瓦解したといわれる。  アッティラ王の陣中急死は、ヒルディコ妃が殺したという説が有力である。しかし、これが史上に示された最初の情交中の急死であると言う人もいる。ヨーロッパ全土にその名をはせた英雄が、結婚初夜に妃によっていとも簡単に殺されてしまうものだろうか。  情交中の急死と考えた場合、妃がことの真相を重臣たちに素直に説明できたであろうか。曖昧《あいまい》な話しかできなかったと思われる。その曖昧さが疑惑となって憶測を呼び、死は謎となって今日に至っていないだろうか。  一般の家庭の場合、生き残った妻は子供や親戚の手前、ことの真相を説明するわけにもいかず、警察の調べにも奥歯にものがはさまったような感じで、ヒルディコ妃と同様、聞く側からすれば何かを隠しているようで、かえって怪しまれる。  ラブホテルの場合などはもっと大騒ぎになる。チェックアウトの時間が過ぎても帰らないので、係が様子を見に行くと、ベッドの中で男が死んでいる。そういえば、女は夜中にそそくさとホテルを出て行った。事件だということで捜査が開始されるが、解剖の結果心筋梗塞《こうそく》、病死と判明して事件にならずに済む。  このように生活に密着していながら、人間の歴史の中で隠蔽《いんぺい》されつづけているのも、ことの性質上やむをえないことであろう。統計的に、解剖所見をまとめてみると、発症のもとになる疾患として動脈硬化、脳動脈瘤《りゆう》(動脈瘤が破裂してくも膜下出血を起こす)、心肥大、副腎皮質菲薄《ひはく》、胸腺残存などの病変があげられる。だれもが情交死するのではない。  これら潜在的疾患のある人が、それに気付かず、健康者として日常生活を営んでいるところに最大の原因がある。統計上、年齢差が大きい愛人関係などが最も危険である。男は心臓死系(心筋梗塞など)、女は脳出血系(くも膜下出血など)が多い。まともな夫婦間には少ないが、長い出張から帰った晩とか、若い後妻を迎えたケースなどは要注意である。とくに飲酒後の行為は慎むべきである。  これらのことは、なにも情交に限ったことではない。あの電車に乗り遅れてはと駆け出し、飛び乗った途端に急死するとか、スポーツ中の急死とか、近所の火事に驚いたとか、危険は日常生活の中にたくさんある。これを予防するには、各自が潜在的疾患に早く気付き、治療を含めて生活態度を改めていくことが先決である。  論文が発表されると、珍しい研究であったから世界中のドクターから、論文を送ってほしいとの手紙をもらった。その意味では、私の研究論文の中で溺死《できし》の研究に次ぐベストセラーになった。それにしても、男と女のあやなす人生を楽しく、美しく生きたいものだと思う。  四十分ぐらいで、解剖は終わった。死体は縫合されて、元の体に戻される。しかし、死因の決定は約一ヵ月後になる。脳、心、肺、肝、腎などあらゆる臓器の組織標本が病理検査技師の手によって作成され、執刀医に届けられる。これを顕微鏡で観察し、病変を細かくチェックする。同時に解剖のとき採取した血液、胃内容、尿などは薬化学検査室に回されて、分析の結果が出される。これらを総合して、監察医は最終的診断を下すのである。  細かい検索は別として、老人はほぼ病死に間違いはない。ウエートレスへの疑念は晴れ、立ち会いの警察官もホッとしたように引き揚げていった。私は引き続き、次の解剖に移った。  監察医の仕事はまことに地味である。患者の病気を治して、感謝されるようなことはない。しかし、このことによって、社会の秩序が保たれていることは確かである。また、論文にまとめて発表すれば、予防医学にも貢献できることになる。そんなことに満足感を覚えながら、解剖当番の一日は終わった。 安楽死  世の中には、どうにもやりきれない事件というものがある。先天性水頭症で知恵遅れの重症身体障害者の息子をかかえた老夫婦が、自分たちが死んだら、この子はどうなるのかと、行く末を心配して施設に入れようとしたが、両親がそろい経済的に余裕のある場合は、無理であると断られた。  赤ん坊同様に、親の保護がなければ生きられないその子を残して、親は死にきれない。そのための相談であったが、両親がそろい経済的に余裕があるからという理由で、断わるのでは、親の不安に少しもこたえていない。子を思う親の気持ちが、全く理解されていない。あるジャーナリストは、「福祉とは“安心”である」と言ったが、まことに適切な表現である。その人にとって心の安らぎこそが、本当の福祉であろう。  父親は心労から不眠症、ノイローゼとなり、ついに妻の留守に知恵遅れの息子を絞殺し、自分も睡眠薬を飲んで自殺を図ったが、帰宅した妻に発見され未遂に終わった。  この事件は結局、無罪となった。理由は、息子と自分がいなければ、妻は老後を安楽に暮らせると深刻に考え、衝動的にわが子を殺し、自分も死のうとした。是非善悪を弁別する判断を失った行為であり、犯行当時の状態は心神喪失と言うべきで、刑事責任を受ける能力に欠けると判断されたからである。  また、名古屋高等裁判所での安楽死にかかわる裁判も、同じようなケースである。五十二歳の父親が病気で苦しみ、医師から身内にはあと一週間の命であると宣告されていた。息子は、父の苦しみを見かねて、牛乳に農薬を入れて飲ませ、死なせてしまった。  一審では尊属殺人として三年六ヵ月の判決を受けたが、二審では嘱託殺人と判断され、懲役一年、執行猶予三年となった。  当時、検察側はこの事件は尊属殺人であると主張したが、弁護側は安楽死の立場をとって対抗した。名古屋高裁は、この問題と真正面から取り組み、安楽死の法的原則ともいえる考え方を示したのである。 (一)病人が現代医学の知識と技術からみて、不治の病いにおかされ、死が目前に迫っていること、(二)苦痛が誰でも見るに忍びないほどひどいこと、(三)病人の苦しみの緩和が目的であること、(四)病人の意識が明らかで意思の表明ができる場合には、本人の真意からの嘱託または承諾のあること、(五)医師の手によること、できない場合はうなずける十分な理由のあること、(六)死なせる方法が倫理的に妥当であること──この六条件をすべて満たすならば、安楽死は容認されるであろうというのだ。  しかし、本件では(五)、(六)の条件を欠いていた。つまり、医師の手によらなかったこと、死なせる方法が一般に苦痛を和らげる方法として認められていない農薬という殺虫剤を使用していることなどから、本件は安楽死とはいえず、嘱託殺人であると判断されたのである。  苦痛の多い、ゆっくりした死を傍観するよりは、苦痛の少ない、速やかな死に置き換えてやる方が、より人道的ではないか。この六条件を満たすならば、違法性は否定されるべきであるとの考え方が安楽死である。  しかし、わが国ではまだ安楽死として容認された事例はない。私も医者になって間もないころ、外科医だった姉の死に直面した。死ぬ二〜三日前、姉は私を病床に呼び、「医者であるならばこの苦痛はわかるだろう。とくに法医学を専攻しているならば、安楽死をさせて欲しい」と言ったのである。  不意の言葉に、驚いた。主治医からも数日の命と言われていたが、私は肉親の情として姉は死なない、決して死ぬはずはないと信じていたから、主治医は何を言うのかと、心の中で反発していた。姉の言葉も、一時的な苦痛から逃れるための詭弁《きべん》であろうと思って、きっとよくなるからがんばるようにと励ました。  しかし、数日後、姉は他界した。肉親の場合には、自分が医者でありながら願望が先行して冷静な診断、見通しができないものだとつくづく思った。姉との会話は、父母は無論のこと、三十年を経た今日まで、誰にも話したことはない。  重症身障者の子をもつ年老いた親の、死んでも死にきれない不安は、無理心中というような最悪の結末を迎えることが多い。私の経験した事例も、そうであった。  幼いころ脳炎になり、知恵遅れとなった娘がいた。四十歳を過ぎているが知能は低く、母のつきっきりの保護がなければ、とても生きてはいけない。一家は、その弟の働きによって支えられていた。弟は結婚適齢期にあったが、知恵遅れの姉のいるところへ嫁のきてはいない。といって母と姉を捨てて家を出るわけにもいかない。口には出さないが、弟も母も苦しみ抜いていた。  そのころ、母は胃腸の調子が悪く、食欲がなかった。医者にもかからず、癌《がん》だと思い込み、長くは生きられないと判断した。知恵遅れの娘を残して、母は死にきれない。息子の幸せも考えた母は、結論を出すのに時間はかからなかった。寝ている娘の首を腰ひもで絞めて殺したのである。  自分も娘のあとを追おうとしているところへ、息子が帰宅して未遂に終わった。息子に連れられて、自首したのである。  それから一年ほどたったある日のこと、おばあさんの首つり自殺の検死に行った。  警察の調べでわかったことは、知恵遅れの娘を殺したが執行猶予となり、保釈中の出来事であるという。一瞬どきっとした。事件はつながっていたのである。  弟は、以前住んでいた屋敷を売り払って、誰にも知られない郊外に居を移し、結婚もして母と三人で暮らしていた。しかし、母は罪の意識にさいなまれ、ノイローゼ気味で、息子夫婦に隠れては幾度か自殺未遂をしていた。老母のやすらかな死に顔は、今も私の脳裏に焼きついて離れない。  これらの事件は、表面上無罪、執行猶予と温情ある判決を得ているが、本当の解決にはなっていない。  悩み苦しみ、どうにもならない瀬戸際に追いつめられての行動であったことを思うと、どうしてもこれら家族のためにも、福祉国家としてよりよい対応を考えなければならないと思うのである。 死者は雄弁である  日比谷公会堂で、三党首演説会が開かれていた。自民党総裁池田首相の演説が終わり、社会党の浅沼委員長がダミ声をはり上げて、演説中であった。民社党の西尾委員長も壇上に控えていた。私は途中からではあったが、次の検死の待機をしながら、監察医室でテレビを見ていた。突然、観客席から舞台にはい上がり、委員長めがけて突進していく男があった。短刀のようなものを持って、委員長に体当たりをした。それから小一時間後、警察から検死の緊急依頼が入った。いうまでもなく、浅沼委員長の検死である。  歴史に残るような大事件を、突然担当することになった緊張と興奮、さらにテレビとはいえ目撃した事件を検死するなど、初めての体験であり、考えられないことが現実となって、驚くべき映像の時代になったものだと、たかぶる感情を押さえながら、現場へ急行したのを覚えている。  テレビは繰り返し、事件を放映していた。犯人と格闘した場合と違って、防御創がないことなどから、テレビの映像そのままに、ほとんど無抵抗の状態で刺殺されたことがわかり、検死の際に大いに役立った。  これまでの事件と異なり、犯人も現場で取り押さえられ、日本中の人が犯行の一部始終を目撃したといってもいいような、珍しい事件でもあった。  このようなケースは例外中の例外で、ほとんどの場合、目撃者などない事件である。したがって、捜査も難航する。  渋谷の街角で、サンドイッチマンがプラカードを持ったまま後方へ転倒した。繁華街の宵の口、目撃者は多い。靴屋の店員も見ていた。酔いどれサンドイッチマンといわれている街の名物男であった。  間もなく救急車が来た。大げさだ。放って置いても平気なのにと思っていたが、担架に載せられ男は病院に収容された。左側頭部に小さな打撲傷があるだけで、手当てはすぐに終わった。  大学の経済学部を出たと自称するその男は、酒臭く大声でわめきちらすので、病院でももてあまし、すぐに警察に引き渡された。大トラ状態なので、放置するわけにもいかず、一応酔っぱらい保護所に移送することになった。一夜明けると大トラたちは、われにかえって行状を詫び解放されるが、男はまだ大いびきをかいていた。  見ると小便をもらし、様子がおかしいので、再び救急車で昨晩収容された病院へ逆送された。そのときには昏睡状態で、右眼窩《がんか》に淡青藍色の皮下出血があり、レントゲン検査では左側頭部に亀裂骨折が発見されていた。開頭手術が予定されたが、午後になって容体は急変し、死亡したという。  このいきさつを病院の一室で院長と立会官から聞き、死因と思われる頭部外傷は、街で倒れたときのものか、それとも酔っぱらい保護所で生じたものかを考えながら、検死を始めた。  死斑も死体硬直も中等度である。眼窩結膜下に溢血点はない。舌は上下歯列の後方にある。  異常所見としては、左側頭部頭皮に鶏卵大の腫脹《しゆちよう》があり、毛髪を分けて観察すると、軽度の打撲傷があって、マーキュロが塗布されている。右眼窩は淡青藍色に腫脹し、皮下出血を生じていた。また、口唇粘膜には小さな挫創があった。  警察では大事をとって、検視官を現場に派遣し、念入りな捜査と検視をすませていた。外傷に対しては、泥酔のために倒れたものとの見解をとり、目撃者である靴屋の店員ほか二名の証言までとって裏づけていた。  なるほど、頭部外傷は酔って倒れてもできるだろう。しかし、顔面の外傷は眼窩という顔の中では一番陥凹《かんおう》した部分であり、路面に倒れたとするならば額部や頬部、鼻の先端あたりの突出したところに擦過傷ができるのが普通で、眼窩に外傷は生じない。また泥酔者が転んだとするならば、手足や膝《ひざ》などにも擦過打撲傷があってもよさそうだが、そこに外傷はない。納得がいかない。  着衣を見せて欲しいと言ったが、酔っぱらい保護所で着換えさせられていて、服はそこになかった。刑事さんの話では、泥土などの付着はなく、そんなに汚れてはいなかったという。  とくに、右眼窩の皮下出血には擦過傷を伴っていないので、路面などの転倒ではなく、比較的柔らかい物体の作用が考えられ、手拳などによるナックルパンチの方が、死体所見に合致する。  遺体を前にして監察医と立会官のディスカッションが続いた。積極的な殺しの線はなかったので、とりあえず警察官立ち会いで行政解剖をすることになった。頭部にメスが入り、頭蓋が開けられると、左側頭部に亀裂骨折があって、そこに脳硬膜外血腫二〇〇グラムが見られた。死因は疑いもなく、脳硬膜外血腫のための脳圧迫であった。右眼窩の皮下出血には小さな骨折を伴っていた。手拳のような柔らかい物体が、そこに強く作用したのであろう。そのため、男は左後方に倒れ、左側頭部を骨折し、徐々に出血して脳硬膜外血腫を形成し、死に至ったのである。  最初は、頭部の打撲傷とその痛みだけであるから、大したケガでもないように見える。ところが、頭蓋骨に亀裂骨折などがあると、二〜三時間後血腫が五〇グラムくらいたまってくる。すると、その分だけ脳は圧迫されてほろ酔いと同じように、歩行がふらつくのである。飲酒している場合は酒臭いので、ふらつき歩行は、酔いの症状と重なって区別はつけがたい。それまでは普通の行動がとれるから、帰宅して寝てしまうなど、現場から遠く離れていることが多い。半日くらいたつと、血腫の量も増えて一五〇〜二〇〇グラムに達し、死亡する。  そのときには一夜は明けているから、酔って帰ってきて寝たが、朝起こしに行くと布団の中で死んでいる、というようなわけで、急病死のようでもあり、死亡原因は皆目わからない。よしんば、頭部外傷であったとしても、時間と足どりをさかのぼっての捜査は難航する。  男の血腫は凝血で、一日くらい前のものと推定され、保護所での受傷は否定された。生前男が暴れ、わめいていたのは泥酔だけのせいではなく、脳外傷のためでもあった。結局、解剖所見をたよりに一日前の足どりから捜査したところ、左利きのサンドイッチマンを逮捕することができた。目撃者のいう自己転倒の数時間も前に、酔って同僚にからみ、殴打され路上に転倒、受傷していたのである。  酔いと頭部外傷の症状が重なって、はた目には酒臭いので酔っぱらいとしか映らない。ふらふらしながら、プラカードを持って街角までやって来て、目撃されたように転倒したのであった。本当の致命傷は、その数時間前のけんかである。けんかの現場は加害者と被害者の二人きりで、加害者は口を閉ざし、被害者は死亡。目撃者はいなかった。しかし、この事件は死体所見が、目撃者同様、事実を語ってくれたのである。  このように、行政解剖によって殺人事件を発見することもある。監察医の仕事は、遺体を含めて残された資料を検討し、生前の状態から死に至るまでの経過を解明する。新聞に、 「主婦メッタ刺し」 「強盗か」  と大見出しで報道されていた。  はやる心を抑えながら検死をすると、首から胸、腹へと果物ナイフのようなもので刺創が二十数ヵ所もあり、出血多量で死亡していた。無残な姿である。  よく見ると、首や胸の刺創五〜六ヵ所には、出血を伴った生活反応(生前の外傷)があるが、その他の刺創には出血はなく、創口から黄色い皮下脂肪が見え、生活反応のない死後の刺創であることが歴然としていた。  しかも、犯人と格闘したような防御創もないので、不意打ちに首や胸を刺され、致命傷を受け、無抵抗状態で倒れているところを、胸腹部をメッタ刺しにされたものと推測された。  強盗ではない。こんな弱い強盗はいない。テレビを見ていてもそうであるが、剣の達人は、一刀のもとに相手を倒し、死を確認もせず刀を鞘《さや》に納めて颯爽《さつそう》と画面から消えていく。  弱い者はそうはいかない。首尾よく相手を倒しても、もしも相手が起き上がれば自分がやられてしまうという恐怖感におののき、何度もとどめを刺すのである。結果として惨殺死体になる。  目撃者はいないので、はっきりしたことはわからないが、このメッタ刺しの死体を見て、怨恨《えんこん》と考えるよりも、犯人は殺された主婦よりも弱者であろうと直感する。体力的、年齢的あるいは社会的にも、弱者であろうと推理する。  翌日の新聞には、 「夫の愛人、小娘逮捕」  と決着がついていた。そして、女性の残忍性や怨恨などについても論評が出ていた。  しかし、私はそうは思わない。残忍なるが故に、メッタ刺しにしたのではない。そのことを死体は如実に語ってくれている。  死人に口なしというが、死者は目撃者でもある。丹念に死体観察をすることによって、死者は語りだす。事実が明らかになり、犯人像まで浮かび上がってくることもある。  考古学者が一つの土器から時代考証をするのと同じである。  死者ほど雄弁なものはない。 衝 撃  昭和三十七年五月三日、午後九時三十七分、常磐線三河島駅付近において、下り貨物列車が脱線し、右側の下り客車用の線路に傾いた。その直後、並行して走ってきた上野発松戸行きの下り電車が、この機関車に接触。上り電車の軌道内に傾いた。  この事故だけなら乗客たちは、軽いけがですみ、大事に至らなかった。ところが、乗客約千三百人の大半は事故と知って、電車から降り、上り電車の軌道内を歩いて避難しようとした。数分後、そこへ取手発上野行きの上り電車が乗客約七百人を乗せ、猛スピードで進行してきたのである。軌道内を歩いていた人たちは、その電車にはねとばされ、あるいは轢過《れきか》されてしまった。次いで上り電車は、現場に傾いていた下り電車に激突したのである。  その衝突で即死した人、転覆した車両の下敷きになった人……。一瞬にして百六十人もの生命が奪われる大惨事となった。現場は修羅場と化し、救急車やパトカーがサイレンを鳴らして続々と集まって来た。負傷者は周辺の病院に収容され、現場はもちろんのこと、一晩中広い範囲にわたってサイレンが鳴り響いた。  死体は病院やお寺などに運び込まれた。死体の損傷は著しく、そのほとんどが身元不明で、とりあえず番号札がつけられ安置された。  翌早朝、監察医務院では、日常業務の遂行者を除く全員が招集され、列車事故検死の特別班が組織された。時間がたつにつれ、身内が駆けつけて身元は徐々に判明していった。轢過されて手や足だけとなって発見された人体部分二十数個は、まとめて近くのお寺に安置されていた。警察や消防の組織だった活動は見事であった。監察医は検死のため、警察官と一緒に病院やお寺に向かった。列車にはねとばされて頭部外傷を生じたもの、轢過されたもの、そして転覆車両の下敷きになったものなど、凄惨《せいさん》をきわめた。サイレンを鳴らした車は、まだ街を走り廻っていた。周辺の居住者は、昨夜来一睡もできない状態であった。  遺体に腕が欠損している場合などは、遺族は警官に伴われて、人体部分の安置されたお寺に案内される。係官が遺体に合致する腕を探して、引き渡されるのである。  それから一ヵ月あまりたって、混乱もおさまりかけたある日のこと、遺族から長い手紙をもらった。事故に遭ったのは一人息子である。東北の高校を卒業し、単身上京、二年後、仕事を覚え郷里に帰り、父と一緒に働くことになっていた矢先に、事故に遭って右大腿《だいたい》部轢断、出血死したのである。しかし、轢断された彼の右下肢は発見されぬまま、葬儀はいとなまれたという。  以来、両親は息子の夢にうなされているという。事故に遭った死者はみな、三途《さんず》の川を渡って行くのに、息子だけは渡れずに川原を這《は》い廻り、お父さん、お母さんと助けを求めている。その声が聞こえ、幻が見えるというのだ。  そのはずである。彼の残された左下肢は、子供の時に軽い小児麻痺《まひ》におかされ不自由になっていた。健全な右下肢の方が、根元から轢断されていたのである。手紙は、「是非とも息子の右下肢を探してください」と結んでいた。胸をえぐられるような衝撃を受けた。  しかし次の瞬間、医師として、これはいかんという直感が走った。幻視、幻聴が現れるのは、すでに正常な状態とは言いがたい。一人息子に死なれた両親のショックは、はかり知れないものがある。そのために心因性精神病を発症したと思えたからであった。治療を急がねばならないと焦った。そのためには望み通り、右下肢を探し出すのが一番である。  しかし、常磐線は幹線である。事故より数日後には完全復旧して、運転は再開されていた。その現場を掘り返して探すわけにはいかない。それよりも、検死時に作成した死体検案調書を調べてみると、右下肢は大腿部のつけ根で挫滅《ざめつ》轢断状態となって欠如していると記録されている。おそらく列車に巻き込まれ骨片、肉片となって原形をとどめぬ状態になっていたため、一本の下肢の形としては、発見されなかったのであろうと推測された。  探すのは無理であり、断念せざるをえなかった。結局、精神科医の意見などを参考にして、ご両親の精神不安を取り除くべく、返事を書いた。  文通はこの一回だけであった。安らかな気持ちになったであろうか。そう思いたかった。しかし、逆に悪化し手紙も書けないほど荒廃してしまったのであろうか。思い出すたび、心は痛むのである。  私自身にも、経験があった。嫁であり、妻であり、二児の母でもあり、そして女医として短い人生を終えた姉がいた。それまでは、病気もせず元気だった母は、急に老け込み、長くは生きられなかった。健康というものは、栄養のあるものを食べ、体力をつけ、病気にならないことだけではない。精神面も快適な状態に置かないと、健康とはいえないものだと、つくづく思うのである。 死者は生きている  ある雑誌社のインタビューで、あなたにとって死とは何ですか、と聞かれたことがある。長いこと死体を扱っている監察医の私から、何か特別な感想でも引き出そうとしたのであろうか。あらたまってそう聞かれると、私も答えに窮してしまった。  考えてみると、検死や解剖をしているときは、私は死体を死者とは思っていない。不遜な態度で言うのではなく、臨床医が患者に接するのと同じように、私にとって、死体はまだ生きた人間なのである。丹念に観察することによって、もの言わぬ死体自らが、死亡の状況を語りはじめるからである。病死の場合はまだしも、ときには絞殺されたとか、ひき逃げされたなどと、大変なことを言いだす死体もある。  主婦はあおむけに布団に寝たままの姿で死んでいた。ガスのゴムホースが台所からのびて、彼女の首の下を横切っていた。  ガスが放出されていたというが、窓が半開きになっていたので、プロパンガスが室内に充満して重いガスが床面にたまって空気が上に押しやられ、酸素欠乏による窒息を起こすような状況ではなかった。ましてやプロパンは石炭ガスと違って、中毒を起こしにくい。  彼女の顔はうっ血が強く、点状出血が無数に出現し、首には不鮮明な索溝(ひものようなもので、首を絞めた痕跡)がかすかに見られた。自殺か他殺かは別として、死因は頸部圧迫による窒息と思われた。  これまでにわかったことは、夫に愛人がいて、夫婦の仲は冷えきっており、昨夜も、夫は外泊していたことなどであった。  状況から、ゴムホースで自分の首を絞め、自殺(自絞死)したとも考えられ、また死を確実にするため、あらかじめガスを放出させていたのであろうとも思われた。  しかし、自絞死の場合、ゴムホースを首に巻き両端を引いて首を絞めるが、やがて意識を失うと、握っていたホースを手放すことになる。その際、結び目がゆるめば彼女は息を吹き返してしまうが、手を放しても結び目がゆるまず、首が締まったままであるならば、自絞死は成立する。  ところが、本件には結び目はなかったのである。この所見から、監察医は自殺を否定し、絞殺の可能性を主張した。大学の法医学教室で司法解剖をすることになり、結果はやはり頸部圧迫による窒息死と診断された。  しかし、その手段、方法についてはわからないので、自殺、他殺の両面から捜査は開始された。  まず、夫が疑われ、取り調べを受けたが、彼にはアリバイがあった。その夜は愛人と二人で自宅からさほど遠くないラブホテルに泊まっていたのである。その他警察では、出入りのご用聞きをはじめ友人関係など、あらゆる角度から捜査を進めていたが、犯行に結びつく情報は得られなかった。  すでに事件発生から、四日がたっていた。他殺よりも自殺の可能性が強いような記事になっている新聞もあった。  監察医は、直接捜査に介入はしない。しかし、自分が検死したケースには、自分なりの見解をもっている。結び目のない自絞死は考えられない。どうしても絞殺だと判断し、警察側もこの意見を重視して動きだしているので、後へはひけない。  また、監察医が警察官を指揮することもないが、もしも間違った見解であったならば、大変な迷惑をかけてしまうことになる。日がたつにつれ、一抹の不安と人知れず責任を感じ、重苦しい気分になってくる。  ところが五日目、事件は一挙に解決した。夫と愛人が泊まったラブホテルの従業員が、「実はあの夜遅く、女がホテルを抜け出し、約二時間ぐらいで再び戻ってきた。誰にも言わないでと、チップをもらって口止めされていた」と、取り調べの刑事に喋《しやべ》ったのである。  愛人も犯行を認めた。本妻に呼び出されていた愛人は、その夜ホテルを抜け出し、ビールと睡眠剤を用意して本妻宅を訪れた。不倫を詫び、別れることを約束して、二人は乾杯をした。本妻は、すっかり安心したためか、どっと疲れが出たのだろう。疲労回復剤だと偽られ、睡眠剤を飲まされていた。  間もなく、ぐっすりと寝込んだところを、ゴムホースで絞殺された。ガス自殺のように偽装して、女はホテルに戻ったのである。男は寝ていて、このことを全く知らなかったという。  犯人は絞殺の痕跡を考慮せず、ガスを放出して置けば、ガス自殺になるだろうと考えてやったという幼稚さであった。素人ならともかく、専門家を欺くことはできない。  最近の犯罪は、テレビ、雑誌など豊富な知識を導入し、わからぬように、捕まらぬようにと考えて、犯行に及ぶものが多い。悪事はすべてそうであろうが、とくに生命保険金殺人事件などは、治安のよい国内での犯行は難しいと考えてか、国外に出て、しかも目撃者のいないような所で、事故を装って殺そうとする。  ロス疑惑、マニラ邦人殺人事件などは、その代表的ケースであろう。ハンマーで殴打したのでは、殺人がはっきりしてしまうので、転んで頭を打った過失事故にしようなどと工作しても、専門家が見れば転倒外傷か殴打外傷かの区別は容易である。  生きているものは、そう簡単には死なない。死ぬには医学的にも、社会的にも相当な理由、原因がある。ましてや殺人ともなれば、いかに完全とはいえ、生から死への移行に必ず無理、矛盾が潜んでいる。そこから事件は発覚し、解明されていくものである。  私は朝、新聞が配達されるとまず三面記事を見る。いろいろな事件が載っているので、その日の事件の概要をつかむことができるのである。ある朝、 「都電から転落死」 「背にしたドア開く」  との見出しで、記事が載っていた。  夜勤のため、年配の工員が都電に乗って、二つ三つ先のマーケットに夜食を買いに行った。食料を両手で胸に抱えるようにして、満員電車に乗った。  次の停留所で、背にしたドアが開いた。奥の方から降りますと声をかけながら、人をかきわけ、出口に向かう人に押されて、おじさんは買った荷物を胸に抱えたまま、後ろ向きに転倒したというのである。打ちどころが悪かったのだろう。  役所へ出勤すると、この事例の検死依頼が受け付けられていた。早速出かけることにした。  警察官に案内されて、病院の霊安室に入った。検死をするため、顔にかけてあった白い布を取り除くと、顔に手掌面大の擦過傷がある。新聞で読んだ状況と違う。立ち会いの警察官にもう一度確かめてみたが、都電から安全地帯に後ろ向きに転倒したことに間違いはなかった。数人の目撃者もあって、供述は一致しているという。  右後頭部に打撲傷と頭髪の抜けた、頭皮の剥脱がある。これはよいとしても、顔面の擦過傷は納得がいかない。まれに、死体所見と状況が一致しないケースに遭遇することがある。  じっくりと腰をすえ、検死をしてみると、死んだはずのおじさんが、 「新聞記事はうそですよ」  と私に語りかけたのである。 「ああ、わかります。二〜三日時間をください。警察と協力して犯人を捕まえますから」  と私はおじさんに、答えた。 「よろしくお願いいたします」  とおじさんは言う。  そのはずである。おじさんの顔の擦過傷をよく観察すると、ギザギザの形をしたタイヤマークになっている。疑問を一掃するためにも、行政解剖の必要があった。解剖所見から考えられることは、都電から転倒した際、頭部が安全地帯から少しはみ出した。転倒の外傷は、致命傷ではなかった。  次の瞬間、そこを通過中の自動車のタイヤの辺縁が、おじさんの顔面をかすめ、右後頭部はコンクリート路面か安全地帯の辺縁に強く圧迫擦過されて、頭髪を含めて頭皮の剥脱が生じ、その際の圧迫によって頭蓋骨骨折、脳挫傷が生じ、即死したものと考えられた。  都電から転落したという目撃者の証言に間違いはなかったが、その直後の一瞬の出来事には誰も気がつかなかったのである。  解剖により、死因は転倒外傷ではなく、タイヤによる圧迫外傷と断定された。結果として、ひき逃げ事件となった。警察の捜査により、三日後、犯人は逮捕された。停留所前の駐車場に入るべく、大きく左折したライトバンの右後輪の辺縁が、転倒したおじさんの顔面に作用したのであった。  死とは何かと問われても、よく説明はできないが、自分が生まれる前の状態、つまり虚無の世界であろうと思う。有機物から無機物へ、死はナッシング以外の何ものでもない。  しかし、私の扱う死者は生きているのである。 死後も名医にかかれ  町はずれの一軒屋に、老女と嫁の二人が住んでいた。嫁といっても五十近い勝ち気な女であった。ある日、老女がヤクルトを飲んだあと、急に倒れ意識不明となった。往診をしてもらい、手当てを受けたが、二時間後に死亡した。脳出血であった。  この家は、人なつっこい老女の性格もあって、行商人たちが縁側を借りて昼食をとる場所にもなっていた。姑 《しゆうとめ》が死んで、嫁一人となったが、その習慣は続いていた。  葬儀がすんで間もないある日、行商人がやって来て縁側で昼食をとりはじめた。嫁は、鯛味噌《たいみそ》をサービスに出した。これを食べた行商人は、間もなく苦悶、失神した。病院に収容されたが、間に合わなかった。これも脳出血と診断されている。  それから十日後、別の行商人が立ち寄り、出されたもろみ漬けを食べて、またもや急死したのである。一ヵ月という短い期間に、老女と行商人二人が次々と急死した。  不審に思った警察は、捜査を開始した。嫁はいとも簡単に自白した。ホリドール乳剤(有機燐《りん》系殺虫剤)を食物に混ぜ、中毒死させた後、金銭を奪ってから医師に通報していたのである。  もしも、この事件が長期にわたり、場所を変え散発的に発生していたら、さらに多くの犠牲者が出ていたかも知れない。診察した医師は、死因を脳出血と診断しているが、死ぬと瞳孔《どうこう》は散大するのが普通である。瞳孔の散大は、死の徴候の一つにあげられている。ところが、例外が一つだけある。有機燐剤中毒死の場合は、瞳孔が逆にきわめて小さく縮瞳した状態で死亡するのが特徴なのである。これを見落としたのであろうか。  初診の患者が、しかも診療時間が短いうちに急死したような場合、いかに名医であっても、死亡直前の患者を診て、死因を分別することは難しいので、医師は無理して診断を下す必要はない。正しくは、死因の明らかでない死体、あるいは異状死体として、警察に届出(医師法第二一条)をすればよい。  東京の二十三区内は、監察医制度が施行されているので、このようなケースはすべて異状死体として監察医が検死をし、検死によっても死因が判明しない場合には、行政解剖をして、死因を決定しているので、事件はすぐに発覚する。この監察医制度は、東京のほか横浜、名古屋、大阪、神戸の五大都市でしか施行されていないが、一日も早く全国的制度にしなければ、法の下の平等とはいえない。  とくに現在では、一県一医大になっているので、予算措置さえとれれば、不審な死亡例は、司法解剖という手続きを踏まずとも、日常の行政の流れの中で、容易に専門家の検死や解剖を受けることができるのである。  このようにして、変死者の死因を明らかにすることは、一見非情に思われるかも知れないが、実は死者の側に立って、その人権を擁護し、社会秩序の維持に役立つ、すばらしい制度なのである。  新聞にこんな記事が載っていた。京都市内で酒好きな男が、酒瓶《びん》を抱いて路上で死んでいた。アルコール性肝障害による急性心不全、病死と診断され、解剖することなく検死は終わった。それから三年たったある日、覚せい剤取締法違反で逮捕された女の口から、酒瓶を抱いた路上死体は、保険金目当ての偽装殺人であるとの情報が得られた。  この事件に全く関係のない女であったが、当時彼女は加害者、被害者らと同じアパートに居住していたので、真相を知っていた。酒を飲ませてドライブに誘い、車内で鼻口部をタオルで押さえて窒息死させ、路上に偽装放置したというのである。犯人らは三ヵ月前に保険に加入させ、殺害後、間もなく一千万円の保険金を受け取っていたのだ。  検死は、あくまでも死体所見から死亡の原因を引き出すもので、状況は参考程度にとどめなければならない。ところが、この事件は死体所見をそっちのけにし、現場の状況から死因を判断したための誤算のように思われる。  東京湾大井ふ頭近くの波打ち際で、中年女性の死体が発見された。少し腐敗が加わっていたが、顔に打撲傷らしきものがみられ、両頬は腫《は》れあがり、口唇の内側にも小さい挫創があった。その他、腕や膝《ひざ》にも皮下出血などが散在していて、自殺や事故死と考えるよりも、殴る蹴るなどして、海に突き落とされた可能性が強かった。  しかし、身元は不明でそれ以上の事情はわからない。とりあえず、殺しということも考慮に入れて、医務院で司法解剖をすることになった。  死因は溺死《できし》であったが、血液の化学的成分を分析すると、淡水による溺死のデータが得られた。海水で溺れると、海水中の塩分が血液に吸収されてナトリウム、クロールなどが著明に増加するが、本件では逆に血液は水で薄められ、血中塩分は減少していた。つまり川などで溺れた後、東京湾に流れついたと考えるべきであった。  そのころ、女の身元も判明した。夫婦げんかの末、夫に殴る蹴るの暴行を受け、彼女は死んでやると一言いい残して、夜半に家をとび出したという。二日後、東京湾で発見されたが、彼女の家の裏手は荒川の河口に近く、ここで入水し大井ふ頭まで約一〇キロ漂流してきたのだ。殺人事件かと身構えたが、入水自殺であった。  発見された現場の状況などにとらわれず、事実を追い続けて真相が明らかになった。死体をくまなく検索して、医学的事実を明らかにし、これをもとに状況などと組み合わせて事件の真相を解明しなければならない。そのためには、まず死体所見に精通した監察医あるいは法医学者が検死をすることが望ましい。  検死だけで死因がわからなければ、容易に解剖できる監察医制度、あるいはこれに類似の制度を確立しなければ、社会不安は除かれない。真相を見極めるための法医学であり、社会がこれを上手に活用すべきであろう。私どもは、風邪をひけば内科へ行き、けがをすれば外科へ行く。自分の体を守る上で、当然の選択である。  ところが、異状死体の場合、監察医制度のある地域は別として、検死は医師であれば何科の医師でもよいのである。生きてはいないのだから、治療の必要もないのだから、医師でありさえすれば誰でもよいとされているのである。  しかし、この考えは誤りである。検死は死体を診慣れ、死者と対話のできる監察医や法医学者にまかせないと、もの言わずして死亡した人々の人権は擁護できない。死んでからでも、名医に診てもらわなければならないわけはここにある。 小さなアピール  監察医の行う行政解剖の中には、労災事故に関するものが多々ある。これらは労働基準法によって補償されているが、過労などから脳出血や心筋梗塞《こうそく》などで急病死したような場合には、業務内容と発症の因果関係が不明確との理由で、補償されることはなかった。  また、業務中転落するとか、頭部に打撲を受け、その時点では大したことはなく、仕事を終えて帰宅したあと、就寝中に突然発作を起こして急死するような場合がある。解剖による死因は、心肥大を伴う急性心臓死だったり、脳動脈瘤《りゆう》破裂によるくも膜下出血などで、病死と診断される。  しかし、家族は死因が病死であっても、前日の外力作用に起因する労災事故がらみの死亡であろう、と主張する。一家の働き手を失った家族にとっては、当然のことである。  勤務中の災害事故死であれば、殉職扱いで労災保険の適用となり、日給の千日分が補償金として家族に支払われる。労災か否かの判断は、検死や解剖をした監察医が行うものではなく、状況を捜査した警察官の判断でもない。事業所の経営者が判断したものを労働基準監督署の同意を得て、最終的に決定されるのである。  このようなケースは、高度な医学的判断が必要となるため、労働基準監督署は解剖した医師に意見を求めてくる。私たちは過労や前日の外力作用が、発症を誘発したと思われる場合には、躊躇《ちゆうちよ》することなく、因果関係は十分考えられるとの意見書を数多く提出してきた。しかし、受け入れられることは、ほとんどなかった。  郵便の配達に出かけようと、いつものようにスクーターに乗って出発した。健康で持病もない五十代半ば、ベテランの配達員である。ところがその日、ペンキ塗装のために郵便局の出入り口には作業用の横木が渡され、足場が組まれていた。その横木は、道路をへだてた前方の民家の塀の高さにほぼ一致していたために、横木の存在が配達員の目には、非常に見えにくかったのである。スクーターに乗ったまま、前額部を強打し転倒してしまった。  幸いヘルメットをかぶっていたので、大したこともなく、仕事を続けて夕刻帰宅した。少し気分が悪いと言って、好きなお酒も一合でやめ、早めに就寝した。  夜中の午前一時すぎ、突然ウーッとうなり、息遣いが荒くなり、様子がおかしいのに気づいた妻が、救急車を呼んだが、間に合わなかった。  元気な人が、寝ていて夜中に突然死亡するようなケースは、異状死体扱いになり、監察医の検死を受けなければならない。検死をしても、手にかすり傷程度の外傷しか見当たらず、顔や額に損傷はなく、頭部にも変化はなかった。内因性急死(病的発症による突然死)のように思われたが、前日の頭部外傷を無視することはできない。  病死か労災か。むずかしい判断をしなければならなくなった。行政解剖の結果、直接死因は拡張性心肥大と診断された。それ以外の主要所見として、脳のうっ血、腫脹が強かったが、損傷はなく、また右後腹膜下に軽度の出血が見られ、転倒の際、右後腹部を打撲したようである。ほかには特別な変化はなかった。  外傷は致命傷とは考えられないが、受傷後約十三時間という短い時間に、急死している事実を考えると、頭部外傷による脳の形態学的変化は少ないけれど、機能的変化が生じ、心臓機能に悪影響を及ぼしたことを否定することはできない。形態学的変化は、解剖によって確認できるが、機能的変化は解剖所見に現れないので断定することはできない。解剖医として求められた意見書には、  「本人には、従来から拡張性心肥大があった。日常生活に支障はない程度のものであったが、前日の頭部打撲により、生体に変調をきたし、心臓発作を起こして急死したと思われる。したがって、解剖による直接死因は、拡張性心肥大という病死であるが、これは外傷に誘発された死亡と考えられる」  と記載した。このケースは、どう決着したのか、その後連絡がないのでわからない。  会社の宿直勤務中、近くに火災が発生した。宿直者は仮眠の床を離れて、二〜三〇〇メートル離れた火事の様子を見に行った。消防車、パトカー、救急車、それに大勢の人だかりができて現場周辺は混乱していた。  しばらくして彼は、留守にした会社が心配になり、急いで引き返そうとした。その途中、大通りを小走りに横断中、タクシーにはねられ死亡したのである。  検死の結果、死亡の原因は交通事故による頭部外傷、死亡の種類は災害死と決定した。ところが死体検案書(死亡診断書)には、従業中か非従業中かの区別をすることになっている。  会社側の説明によると、夜間の宿直勤務は社内の安全確保が任務であるから、野次馬根性で火事を見に行き、帰り道での交通事故は勤務放棄とみなされるので、非従業中と判断する、という厳しいものであった。  数日後、死亡者の妻が医務院にやって来た。夫は確かに勤務中、会社を抜け出したが、決して野次馬ではない。非従業中という会社の判断には承服できない、と申し出たのである。  奥さんの言うとおりである。そう思っても、私の一存で書類の訂正はできないので、労働基準監督署に相談するようにと説明した。  数ヵ月後、会社側と争っていた家族から、お礼の電話が入った。それによると、労働基準監督署は、宿直勤務について、確かに社内の安全確保が任務であるが、近所に火災が発生したような場合は、火災の状況、風向きなどを観察し、自社への類焼の危険の有無などを判断する必要があるので、火事を見に行ったのは勤務の放棄ではない、と結論したということであった。  これとは逆のケースもある。木工場でトラックから木材を降ろす作業中、ころげ落ちた木材が頭に当たって死亡したという労災事故を検死した。しかし、外表に死因となるような外傷は見当たらないので、監察医務院で行政解剖をしたところ、首の骨が折れた頸椎《けいつい》骨折、頸髄《けいずい》損傷であることがわかった。  頭に木材が当たって首の骨が折れるようなことは珍しい。頭部打撲によって頭蓋骨骨折を起こして転倒するから、頸椎骨折は起こさないのが普通である。状況と解剖所見の間に矛盾が感じられた。  警察も再捜査をしたところ、昼休みに会社の階段を踏みはずして転落し、首をひねったことが判明した。会社側は、残された妻子をふびんに思い、労災事故に置き換えようと、口うらを合わせていたのであった。  好意はわかるとしても、労災保険金を不当に得ようとする違法行為にほかならない。監察医は事実を究明して、公正な社会秩序の維持に協力している。  このような場合、仕事を終えても満足感はなく、ただ重苦しい疲労感が残るだけである。  似たような交通事故を扱ったことがある。就寝中、突然うなり声をあげて息絶えた。五十歳、働き盛りの大工さんである。解剖の結果、死因は求心性心肥大であった。ところが死亡の一ヵ月前、発進した車のそばに立っていて、片足を轢過され中足骨亀裂骨折を起こした。入院こそしなかったが、副木をあて歩行不能で家の中での生活を余儀なくされた。妻と娘は、交通外傷が死因ではないかと解剖医である私に、不満を訴えた。  外傷は生命に直結するようなものではなかった。しかし大工さんは請け負った仕事が遅れ、工期に間に合わなくなるとせかされ、イライラしていた。また、交通事故も相手が知人であったから、警察へ届けていないので補償もないという。死んでしまった今、家族は途方に暮れていた。  とりあえず事故を警察に届け、その事実を証明してもらうこと。そして自動車保険会社に補償を請求する。さらに、死因は病死であるが、交通外傷が死亡に決して無関係ではない、という意見書を私が作成し、できる限り努力をしてみることになった。  解剖すれば心肥大という形態学的変化はわかるが、肉体的、精神的ストレスがあったかどうかは機能上の問題なので、解剖してもつかめない。したがって、交通外傷が心肥大にどのような影響を及ぼしたかは不明である。影響があったと考えるのが正しいのか、影響なしと考えるのが正しいのか、はっきりした医学上の所見がないので、論議は五分と五分である。  とすれば人間は過去の病歴を背負って生きているので、交通外傷とそれに伴ういろいろなストレスが、本人の病的素因である求心性心肥大に悪影響を及ぼし、心臓発作を誘発したと考える方が、関係なしとするよりも正しい判断であるとの意見書を提出した。  裁判では、保険会社は事故から一ヵ月もたって外傷は治りかけているので、ストレスがあるとは考え難いと反論してきた。  確かに外傷は治りつつあったが、骨折によって行動は極度に制限され、生活は動から静へと急変させられた。さらに工期遅延のいら立ち、外傷に対する無補償、一時的にせよ減収などがあって、本人の精神的ストレスは外傷とは逆に、日がたつにつれ増大していたと考えるべきであろうと私は証言した。  事故から四年目、私どもの主張は入れられずに裁判は終わった。ところが最近、業務上の肉体的負担などから、脳や心臓の発作を誘発して病死したような場合でも、労災として認定する方向に基準は緩和されることになった。小さなアピールの積み重ねが実ったのである。救われる弱者の喜びが聞こえてくる。 終 焉  飛んでいる野鳥の群れが急に飛散するのを見て、敵の軍勢が草むらに潜んでいることを察知し、いち早くこれに対応して戦に勝った武将の話がある。法医学も同じで、自然界の現象を観察し、学び応用している。  たとえば、山中などで群らがるハエを不審に思い近づくと、そこに人間の死体を発見するようなことがある。さらにウジの大きさ、サナギの状態、あるいはそこに集まるアリや昆虫、野ネズミ、また遺体に発生したカビ類など、いろいろな自然界の観察が死体の謎を解く鍵になる。独居老人の死なども、ハエの異常発生や悪臭によって発見されることが多い。  ところが、私の案内された安アパートの心中事件は違っていた。十月上旬のことである。  悪臭が鼻をつく。これだけ腐敗していると、必ずと言っていいぐらい室内にはハエが活気を呈して飛び回り、死体にはウジが無数に生息しているはずである。しかし、このケースにはハエもウジの発生もない。それどころか、室内をよく見ると数匹のハエが死んでいる。よだれや口元に飛んで来たハエは、そこをなめて死んだのであろう。  殺虫剤か青酸などの猛毒が考えられた。簡単なテストをすると、二人の口元と飲み残しのコップから青酸反応が出た。遺書にも、青酸カリを飲んで心中するという記載があった。さらに二人は帯で結ばれ、しかもその結び目は女の腰元にあった。  天国に結ぶ恋とでもいうのだろうか。ただ一つ気がかりなのは、女より男の腐敗がひどいことであった。  その他に矛盾は感じられなかったので、青酸カリ心中として事件を終結させようとしたとき、立ち会いの警察官から待ったがかかった。  女は数年前、結婚をしたが子供ができなかった。夫は酒好きで、女ぐせもよくない。酔っては酒場を転々と飲み歩いているうちに、ある店のホステスとねんごろになり、妻の元に帰ってこなくなってしまった。ある夜、酔って帰って来た夫に、妻は女と別れて家に戻るようにと、お説教を始めた。すぐに口論となり、うるさいと言って夫は台所から出刃包丁を持ち出し、暴れだした。殺されると思った彼女は、酔っぱらっている夫から出刃包丁をもぎ取り、逆に胸を刺してしまった。  夫殺しとして、現場に急行した警察官に取り押さえられた。警部補という幹部職にあるその警察官が、ここに死んでいる男なのである。  殺人犯と警察幹部の心中事件。耳を疑いたくなるような組み合わせであった。  警部補はこの事件を担当することになり、彼女を調べはじめた。警察に捕らえられた女性が、そこから逃げ出すことは容易ではない。しかし担当官を、好きよ、愛しているわ、とたぶらかすことができれば、女は警察を出ることが可能である。  ある当直の夜、二人は調べ室から忽然《こつぜん》と姿を消してしまった。出てくれば、男は邪魔になる。コーヒーなどに青酸カリを入れて、飲ませ毒殺する。  晴れて一人となって、逃亡しようと安宿を転々とするが、逃げおおせず、持ち金もなくなって、二〜三日後に殺しの現場に戻り、心中を装ってあとから自殺したとは考えられないか。それ故に、女の腐敗は男より少ないのだと。  立会官の推理は鋭い。当たっているかどうか、定かではないが、二人の腐敗差を考えれば、あながち間違いとは言いきれない。  ──彼女は夫を愛し、他人に恨《うら》みをかうこともなく、真面目に生きてきた。ただ、その男と出会い結婚したことによって人生の歯車が狂ってきたとしか言いようがなかった。不運な女に取り調べの警察官が同情を覚え、調べが進むにつれて、好きになっていったのである。  警察官とて男である。折悪く、彼もまた妻との間が行き詰まって、離婚話がもちあがっていた矢先であった。魔が差したというべきか。駆け落ちまがいの事態になったとしても、不思議はない。警察当局は、この不祥事に、にがりきっていた。公開するわけにもいかず、ひそかに二人の行方を追っていた。失踪《しつそう》してから十日目、変わりはてた姿で発見されたのである。  中年の男と女が、帯で体を結んで死んでいる。誰の目にも、心中としか映らない。ただ、女よりも男の死体の腐敗が進行しているということから、もしかすると心中ではないと判断している、場数を踏んだベテラン刑事の実力の程が感じられた。  私も漠然と検死をしているわけではない。心中と判断したからには、それなりの根拠があったのである。悪臭たちこめる四畳半で、遺体を前にして監察医と立会官のディスカッションは続いた。  私は一年前の夏経験した、ある殺人事件の話を持ち出した。小遣いをせびっては遊びにふけっていた高校生の息子が、ある日父親から説教され、小遣いがもらえなくなってしまった。親父がくれなくても、おじいちゃんとおばあちゃんにもらうからいいよと、息子は捨て台詞《ぜりふ》を残して、電車で二つ三つ先の駅近くに住む祖父母の家へ向かった。  父はすぐに祖父に電話を入れ、息子が行っても金をやらないでほしいと連絡しておいた。間もなく孫がやって来て、小遣いをねだったが、祖父母は孫を座らせて、お説教を始めた。  叱られたうえに、金ももらえない。カーッとなった孫は、そこにあった日本手ぬぐいで祖父母の首を絞めて殺し、押し入れの上段に祖父を、下段に祖母を入れ、金を奪って逃げたのである。  三日後、二人の絞殺死体が発見されたとき、祖父はこの警察官と同じように腐敗していたので、死後三日くらい、祖母はこの女と同じ程度であまり腐敗していなかったので死後一日くらい、と推定した。  ところが、父親に連れられ自首した高校生の話では、五分くらいの間に祖父母二人を絞殺しているので、死後経過時間に差はなかったのである。閉めきった押し入れ、温かい空気は上に行く。このわずかな温度差が、死後変化に大きな影響を及ぼしていたのである。  そんな話を前置きにして、現場を見直すと、窓から西日がさしていた。男には直射が当たり、窓ぎわの女は壁で日は遮られていた。掛け布団が男に余計かかっている。  腐敗差はそのためであろう。たとえ、同じ部屋で一つの布団の中で死亡していても、ちょっとした条件の違いで、腐敗に大きな差が生ずることがある。心中と考えても矛盾はないと説明した。  警察官も、専門の先生がそうおっしゃるならば、私どもは何も言うことはないと、納得してくれた。事件は青酸カリ心中で終結した。  しかし、私の考えが正しいのか、警察の推理が当たっているのかはわからない。ただ二人の立場を考えれば、手を取り合って警察を抜け出したときには、すでに死への選択があったと思われるのである。  法医学は死後変化一つをとってもわかるように、まだまだ科学性に乏しい分野があり、経験などに負うところが多いものである。 相続人  日常生活の中で、死亡時間というものがどれだけの意味をもつものなのか、特別なケースに遭遇しない限りあまり関心はない。  古い話であるが、ある病院に入院していた患者が、早朝死亡した。付き添っていた内妻が、主治医に夕刻死亡したことにしてほしいと願い出たのである。長いこと入院していた患者であり、内妻ともなじみになっていたので、朝死のうが、夕方死のうが、支障はないと思ったのであろう。理由も聞かずに、主治医は内妻の申し出を受け、死亡時間をその日の夕方にずらしてくれた。  内妻は昼間、早速婚姻届をして、本妻になった後、夫が死亡したことにした。昭和三十年代の後半のことである。当時、六億円ともいわれた東京の繁華街にある喫茶店やバーなどの遺産を相続してしまったのである。  やがて夫の身内がこのことを知り、騒ぎだした。調査をしてみると、夫の死亡した日の昼に婚姻届が出されている。夫が朝、死亡しているのを知っている身内は、死後に婚姻届が受理されるのはおかしいと、戸籍係に詰め寄った。  係は死亡届を確認した。死亡時間は夕刻になっているから正式に受理され、彼女は本妻に間違いないという返事である。  収まりきれない身内の面々は、病院に押しかけた。主治医は内妻に頼まれるまま、死亡時間をずらしたことを認めた。医師は虚偽私文書作成容疑、内妻は同行使、公正証書原本不実記載容疑で警察ざたになった。  医師は好意的に善意をもって希望どおりにしてあげたので、感謝されることがあっても恨まれることはないと思っていたのだろう。あまり罪の意識は感じていないようであった。  ところが、結果は親切があだとなって、遺産相続という争いの原因をつくり、許されざる違法行為をしたと指摘されてしまった。この事件は大事に至らず解決したが、珍しいケースであったため大々的に報道され、医師の社会的評価を下落させた。  もっと深刻な事例がある。地下鉄工事中、夜中に地盤が沈下し、民家の下を走るガス管にひび割れが生じ、生ガス(当時は石炭ガス6Bを使用していた)が家の中に充満して、爆発火災となった。  数軒が全焼した。やっとのことで鎮火したが、その焼け跡から一家五人が死体となって発見された。両親と子供三人である。  検死の結果、父親と子供三人はあまり焼けていなかったので、充満した生ガスを吸って一酸化炭素中毒死したものと推定され、母親は黒こげになっていたので、焼死という診断になった。父と子らは、充満した生ガスを吸って死亡したが、母はその間生存し、爆発火災になってから焼け死んだと考えられた。  そのため、監察医の発行した母親の死体検案書(死亡診断書)の死亡時間は、他の家族よりも十分遅れた時刻が記入されたのである。  検死後一ヵ月ほどたったある日のこと、父側の遺族が大挙して監察医務院にやって来て、検死をした監察医に詰め寄ったのである。同じ状況下で事故に遭ったのに、なぜ母親だけが十分遅れて死亡したのか。そのためにわれわれは、大変な損害を被っている。医学的根拠を示せ、と言うのである。  この一家は何の過失もなく平穏に暮らしていたが、ずさんな工事のために、一家五人の命と家屋を含めたすべての財産が灰になったのである。  過失責任者は、これらの人々に莫大《ばくだい》な損害賠償金を支払わなければならない。支払いを受けるべき父と子らは先に死に、その際母のみが生きていたので、権利は母に引き継がれる。そして十分後に、母も死亡した。するとその賠償金の大半は、法律上母側の遺族が受け取ることになる。結婚して十年足らずの間に、財産の大半は母側へ行ってしまう。  収まりきれないのが、父側の親兄弟である。医学的根拠を示せといっても、この十分差を明確に区別し、説明することはできない。監察医も困り果てて、死亡時間を父や子と同じ時刻に訂正したかった。しかし、発行された死体検案書は戸籍係に受理され、しかも焼死という死の事実によって戸籍は抹消されている。  重要な書類をそう簡単に訂正することはできない。家庭裁判所で略式裁判が開かれ、死亡時間の訂正理由を裁判官が認めてくれなければならないのである。結局、法的手続きを踏んで母親の死亡時間は、他の家族と同じ時間に訂正された。  ところが今度は、母側から大反撃を受けたのである。強く主張すれば、死亡時間は動かすことができるのか。医学とはそんなにいい加減なものかと、責めたてられた。結局、このトラブルは法廷に持ち込まれることになった。  もめにもめたこの裁判も、三年後、裁判長の和解勧告により、同時死亡で決着した。  当時、わが国は経済の高度成長期にあり、自動車をもつ家庭が急増した。働き続けた父親は休日に休む間もなく、家庭サービスでドライブに出かけることが多くなった。行きはいいが、帰りは疲れているので、つい居眠り運転などから、大事故を引き起こす。即死するもの、救急車の中で死ぬもの、病院で死ぬものと、死亡時間が違ってくる。最後に死亡したものの側に、遺産相続の権利が生ずるために、肉親の間で死亡時間の判定をめぐる争いは絶えなかったのである。  中には、人工呼吸器をセットしたまま、死んでいるにもかかわらず、酸素を送り続けて、あたかも呼吸し生きているかのように見せかけ、あっちが死んだ、こっちも死んだと周囲の様子を伺い、最後まで生きたことを確認してから、もう酸素を止めてくださいなどと、医師に指図をする者まで出てきたという。何をか言わんやである。  そこで、裁判長はこの事件を契機に、同じ状況下で死亡事故が発生した場合、家族間で多少死亡時間が違っていても、遺産の相続に当たっては、同時死亡と同じに扱うという判断を示したのである。以来、わが国ではこの種の裁判は急に減ったと聞いている。  今、注目されている脳死の問題でも、どの時点で死亡とするか論議されているところである。死亡時間という医学的判断が、利害やその他の理由のために、工作されてはならない。一通の診断書にも、それなりの重みがあるのである。 不 信  日本のニューリーダーといわれたある大物国会議員が、首つり自殺をした。しかし、自殺では世間体が悪いので病死にしようと工作した事件は、あまりにも有名な話である。関係者の気持ちはわかるが、そのこと自体が大きな犯罪であるという認識が薄いように思われる。  死亡診断書は、社会的に医師を含めて、単に死亡の原因が記入されている書類ぐらいにしか理解されていないのだろう。ところが、そうではないのである。関係者は、虚偽の診断書を得るために、医師に頼み込んだ。それが虚偽私文書作成教唆罪となり、診断書を書いた医師は同作成罪、市役所の戸籍係にこの診断書を提出した秘書は同行使罪となったのである。  なぜならば、死亡診断書は医師が判断した死亡原因を記入するだけのものではない。これによって戸籍は抹消され、法的にも生きているすべての権利を失うことになり、遺体は火葬埋葬が許される。その他、死亡の種類が自殺か他殺か災害死かなどの区別(警察の捜査による)によって、生命保険や補償などの支払い額が違ってくるからである。また、死亡時間は遺産相続などと密接な関係があり、診断書の法的、社会的役割は大きい。  そこまで医師自身も理解していないのかも知れない。ともかく、医師と歯科医師しか交付できない死亡診断書。虚偽の記載など許されることではない。社会的にも医師という職業は信頼され、この業務を任されたのであろうから、それを裏切るような行為があってはならない。そんなことをしていると、医師全体の信頼を失うことになる。  ある精神病院の入院患者が突然、行方不明となった。二日後、裏山で死亡しているのを関係者によって発見された。  病院側は、管理責任は免れないと思ってか、警察に変死届をせず尿毒症、病死という死亡診断書を発行した。  連絡を受けた家族が病院へ来て、このいきさつを知り、不満をぶちまけたため、警察ざたになった。院長は調べに対し、患者には尿毒症があったので、これが原因で裏山で心臓衰弱のため死亡したと判断したから、変死とは考えず警察には届けなかったと弁明した。  入院患者が病院を抜け出し、行方不明になること自体おかしなことである。さらに二日後、山の中で死亡しているのが発見され、何の不審も抱かずに病死として葬ったのでは、医師としてあまりにも勝手すぎるのではないだろうか。  たとえ病死にせよ、病院から裏山へ、そして死亡と、この過程を明らかにするためにも警察に捜査を依頼し、不安を取り除く努力をしなければ、もの言わずして死亡した患者の人権は無視されてしまうし、家族も納得しないであろう。  医師自身の過失責任を隠すために、そのような行動をとったとすれば、許せるものではない。  また別の事例であるが、選挙中運動員が通りがかりの酔っぱらいと口論けんかになり、暴行を加えて死なせてしまった。これが報道されては落選すると、成り行きを心配した市会議員候補の顔役は、知り合いの医師に頼み、脳出血、病死というニセの死亡診断書を作成してもらい密葬した。  選挙に当選したが後日、殺された身内が警察へ通報したため事件は発覚した。しかし、そのときには、遺体は火葬されて明確な証拠はなくなっていた。綿密な捜査の結果、間違いなく殺しであることがわかった。  殺人容疑のほかに証拠隠滅、虚偽私文書作成教唆、同作成、同行使、変死者密葬などで関係者は逮捕された。  犯人らに頼まれて、医師がニセの診断書を書いたがために、事件は隠蔽されそうになったのである。医師は仕方なしに虚偽の診断書を書いたにせよ、結果は殺人者の片棒をかついだことになる。  チフス事件というのがあった。昭和三十九年秋から四十一年春にかけて、ある医師の行くところ腸チフスが集団的に発生し、数人の死亡者も出た。  事件のきっかけは──ある大学病院の内科の若い医師が教授からチフスをテーマに博士論文をまとめるよう言われた。戦後二十年、生活環境はととのい、医療の面でも抗生物質などの発見によって、感染症などは激減し、腸チフスの患者などはいなくなっていた。  数年後、同僚らは別のテーマであったため研究論文はまとまりかけていた。それにひきかえ自分は、データすら集まらず、研究は停滞したままであったから、焦りからジレンマに陥っていたのであろう。研究室で培養したチフス菌をカステラやバナナ、ミカン、乳酸飲料などに混入させて配り、腸チフスを集団的に発生させ、データを収集したのではないかと疑われたのである。  当然起訴されたが、この集団発生は被告人による人為的汚染であるのか、自然流行であるのかなど、医学裁判の難しさもあって、一審無罪、二審有罪、最高裁は二審の判断を認めて十六年ぶりに決着した。懲役六年、医師免許も取り消しになった。  それはともかく、病を治すべき医師が、なぜこのような事件をひき起こしたのか、考えてみる必要があろう。  医学は方法の学問である。肺炎双球菌に感染すると、咳《せき》が出て、熱が出て、息苦しくなる。こういう患者を診察したら肺炎と診断せよ。肺炎は感染の危険はあるが、治療には抗生物質が有効である、と教科書は教えている。  しかし、なぜ医師は感染の危険のある患者のそばへ行き、治療をしなければならないのか、その目的については一言も触れてはいない。医学書はそれでよくても、これを学ぶ学生がそれでよいとは思わない。  人として医師として、目的をしっかりつかんだ上で、医学という方法論を学ばねばならないと思う。  ある料理学校の卒業式には、卒業証書と一緒に学校から記念品として、出刃包丁が贈られるという。出刃包丁は家族のために栄養のあるおいしい料理をつくるためのものである。しかし、使い方によっては、人を殺す凶器にもなる。  題名は忘れたが、少年のころ読んだ小説の一節を思い出す。  「心正しからざれば、剣また正しからず」  まさに、その通りである。原子エネルギーも例外ではない。人間の叡知《えいち》は実にすばらしい。学問をすることによって、原子エネルギーを開発することができた。しかし、これが最初に使われたのは爆弾という形で、人類滅亡の方向に使われてしまった。これでよかったのだろうか。科学者は、そのために研究してきたのであろうか。いや、そうではないはずである。  学問は人類に貢献し、人間生活を豊かにするためのものであろう。この巨大なエネルギーの利用法はいくらでもある。科学をするものは、それ以前の人間の問題として確固たる信念に基づいて立派な目的、哲学をもっていないと、大きく道を誤る危険があると思うのである。  最近はとくに、人間の生命観にかかわるような問題が次々と具体化してきている。脳死と臓器移植の問題をはじめ、体外受精、遺伝子組み替えなど科学の発展はすさまじい。しかし、理論が先行して人間不在の学問になってはならないと思うのである。ここに取り上げた事例は、いずれも医師が、その職権を利用して悪事を働いたものである。  このような行為は、警察官が盗みをするのと同じことで、社会的信頼を裏切り、職業に対する不信を買うことになる。  「心正しからざれば、剣また正しからず」  私の好きな言葉である。 髪の毛  ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンは、セントヘレナ島へ流され一八二一年に死亡した。当時、胃癌《がん》で死亡したといわれていたが、二十数年前、ナポレオンの毛髪から高濃度の砒素《ひそ》が検出されたため、毒殺説が出された。それによると、フランスのモントロン伯爵が、ナポレオンの復活を恐れて殺したのではないかとの推測になっている。  砒素はその昔、毒薬の王といわれ大きな役割を演じていた。無臭、無味、少量で毒性を発揮し、他人に感知されにくい薬物であったから、当然であったろう。急性中毒の場合は、嘔吐や下痢が激しく、脱水症状から、痙攣《けいれん》を起こし数時間のうちに死亡する。コレラに非常によく似た症状でもあった。粘膜や皮膚からも吸収され、慢性中毒になると、多発性神経炎から疼痛《とうつう》、下肢の麻痺、皮膚の発疹などが現れる。  わが国でも、昭和三十年、西日本を中心に、人工栄養児に限ってやせ衰えが目立ち、貧血となって発熱し、発疹や皮膚に褐色色素沈着が現れ、死亡するなどの奇病が続出した。調査の結果、粉乳製造の過程で砒素が混入したことがつきとめられた。有名な森永ドライミルク事件がこれである。  砒素は肝臓などのほか、骨や毛にも沈着する。今でこそ、砒素の使用は厳しい制限がしかれているが、十九世紀当時は薬、化粧品、塗料などに幅広く使われていた。とくに壁紙に塗られた砒素が気化して、中毒するケースが多く、死亡した人もあったという。ナポレオンの部屋にも、バラの花模様の壁紙が貼られ、砒素が使用されていた。  最近ナポレオンの毛髪が再検査された。それによると、砒素はごくわずかで、アンチモンが多量に含有されていることがわかった。十九世紀には、アンチモンも薬として多用されていたから、毛髪から検出されて不思議はなかった。したがってナポレオンが砒素に冒されていたとしても、軽症で致死量になるほどのものではなく、毒殺説は否定された。  二十数年前の分析技術では、砒素とアンチモンの区別が十分ではなかったため、高濃度のアンチモンを砒素と判断して、毒殺説が出てきたのである。結局、ナポレオンの死因はふり出しに戻った。  一本の毛、しかも百七十年も前の歴史上の人物についての論争であることを思うと、科学のすばらしさはともかく、英雄なればこそであり、興味は尽きない。  毛髪からどんなことがわかるかというと、まず、人獣毛の区別をする。人毛であるとなれば、発生部位、性別、年齢の推定、毛髪の損傷(パーマをかけているか否かなど)、散髪後の日数推定、抜去毛か脱落毛か、脱毛の原因、血液型、毛髪の微量含有物質など、かなりのことがわかるので、個人識別をすることも可能になる。  だから、たとえば食べ物の中に自分の毛髪を入れ不衛生だと食堂をおどすようなことがあったとしても、すぐにばれてしまうのである。  登校中の女子高校生が行方不明になった。翌日、家族から捜索願いが出されたが、ようとして行方はわからなかった。十六日後、近くの山林で絞殺死体となって発見された。  この事件は、遺体の靴下に短く切られた毛髪が、百本近く付着していたことから一気に解決した。分析すると、この毛髪は数種類に分類され、理容業者の犯行が疑われた。  結局、はす向かいの理容店主で顔見知りの中年男が、いたずらをしようとして自宅に連れ込み、騒がれたために絞殺し、山林に捨てたことがわかった。  男はカーマニアで、捜索活動に愛用の車を使って協力していたが、犯行当日のアリバイなどがあいまいであり、また死体遺棄現場のタイヤの跡が、彼の車のものと一致するなど、不審な点を問いつめられ、ついに逮捕されたのである。  毛髪がらみの事件は他にもある。潮来《いたこ》の水郷地帯に全裸の女性死体が浮かんだ。コンクリートブロック三個が、おもりとしてつけられていた。死体を沈めるためにやったのであろうが、腐敗ガスが発生すると、土左衛門といわれるようにふくれ上がり、強い浮力を生じて水面に浮上する。ブロック三個ぐらいでは、とてもおもりの役目はなさない。  死後一ヵ月、六十歳前後と推定された。指先からどうにか指紋はとれたが、身元を割り出すことはできなかった。  これと符合する家出人や行方不明者を調べたところ、東京の世田谷で独り暮らしの六十一歳の女性が、ちょうど一ヵ月前、家屋敷を売り払い行方不明になっているとの情報があった。  顔かたちは腐敗のため、身内や知人でさえも見分けられないほど変形していた。そこで義歯、指輪などを見てもらったところ、本人に間違いないとの証言を得たが、これだけで個人を断定することはできない。  警察では、在宅指紋(住居内に付着している指紋)を採取し、照合すべく、世田谷の住居を訪れた。しかし、土地売却一週間後には、不動産屋によって、家屋は解体されてさら地になっていたのである。  さらにタンス、鏡台、食器棚など家財道具一切はつぶされて、東京湾の埋立地、夢の島に捨てられていた。個人を特定するような手がかりは、すべて消失していた。  この手回しのよさは、かえって疑惑を募らせる結果になったが、捜査は行き詰まっていた。  そのとき、髪の毛はどうだろうとの意見が出された。家屋敷を跡形もなく取り壊し、さら地にして証拠隠滅を図ったと思われる現場から、果たして髪の毛を見つけ出すことが可能であろうか。推理小説を地でいくようであったが、風呂場と思われる付近を掘り返したところ、地中の排水管の中に、ひからびてへばりついていたひとつまみの毛髪があったのである。  鑑定結果は、水郷の女性のものと血液型はもちろん、その他の特徴も一致し、世田谷の豪邸乗っ取り殺人事件は、半年で解決した。捜査、鑑識の大手柄である。  それにしても、茨城と東京。この遠隔の地を結びつけ、事件を解決したのは、女の命ともいわれる髪の毛であった。医学のめざましい発展の中で、現場の法医学は地を這《は》うように、ゆっくりと歩んでいる。 ミカン  検死というものは、身内の人々の悲嘆に暮れるかたわらで行うことが多く、ときには号泣やすすり泣きが聞こえてくる。慣れはあっても、心情的に穏やかではない。  とくに、子に先立たれた母親の嘆きは、見るにしのびない。事故で亡くなった幼な子を抱きしめて、 「もう一度、ママと呼んで」  と叫ぶ母の姿を見たときなどは、息が詰まり、胸が引き裂かれる思いである。冷静に検死をする立場にありながら、ついその情景の中に引きずり込まれてしまう。  あるアパートの一室に案内されたときのことである。三十前後の母親が、たたんだ布団によりかかっていた。一歳を少し過ぎたと思われる幼児が、胸に抱かれて乳を飲んでいる。  部屋を間違えたのかと思って、立ち会いの警察官の方を見ると、直立したまま幼児を見すえて口をわなわなと震わせている。検死の対象は、その母親であったからだ。母の死を知るよしもなく、無心に乳を吸う幼児の姿に、私たちはわれを忘れて、涙してしまった。  監察医は、人の死にかかわって仕事をしているので、それなりの覚悟はできているが、このようなケースに出会うと、運命とはいえ、あまりにも過酷でぶっつけようのない憤りを覚える。  ある日、三件の検死を終え、四件目の事件に向かって検案車が走っているときのことであった。運転担当の職員が、車を道路わきに寄せて止まってしまった。年はくっているが、医務院に転勤してきて一年足らずの運転手である。現場から現場へ、車は急行するのが常であったが、そういえば少しのろのろ運転であった。  車の調子でも悪いのかと思ったが、私はだまっていた。しばらくして、 「先生、少し待ってください。すみません」  と恐縮したような口調で、ハンカチを取り出し、目をふきながら、 「涙があふれて、前がよく見えないもんで。すみません」  と言うのである。  今、やり終えた検死のことを思っているのだろう。母子家庭で、母親が急病死したケースであった。残された男の子と女の子は、中学生と小学生くらいであった。歯をくいしばって、検死が終わるのを待っていた。  葬儀のこともあろうが、今後の生活をどうするのか、子供のことが心配であったから、立ち会いの警察官に、民生委員とよく相談して善後策を講じて上げてくださいよ、とお願いした。警察官は、わかりました、まかせておいてくださいと言わんばかりの、力強い返事であった。私たちは、次の検死に向かわねばならないので、 「あとのことは、刑事さんに頼んであるから、心配しないでいいからね」 「元気をだすんだよ」  と言って、二人の頭をなでて、その場を立ち去った。  検案車には、監察医と補佐と運転手の三人が乗っている。しかし、誰もが口を開こうとはしない。重苦しい雰囲気の中、車のスピードも上がらなかったのである。 「私にも同じ年ごろの子供がいるもんで。つい、こらえきれなくって……」  そう言いながら運転手は、気を取りなおし、車は再び走り出した。  ある年の暮れのことである。東京都監察医務院長宛に、宅配便が届いた。開けると、ミカンに手紙が添えてあった。  「監察医務院の名称は存じておりましたが、よもやわが身にとって終生忘れ得ぬところとなろうとは、思いもよらぬことでした」  との書き出しで、文章、筆跡から教養のある婦人と推察された。  「親はなくとも子は育つといわれますが、年老いて一人息子に先立たれた親は、どうなるのでしょうか。生きるすべとてありません。この一年余の間、一日とて涙の乾いた日はありませんでした。その中で、ただ一つ救われましたことは、最後にお世話になった医師が、心優しく立派な人格のお方であったことでした。死者は二度と戻ってまいりませんが、それだけが私の心を慰めてくれています。本当にありがとうございました。私どもの住んでいる、すぐ前の畑のミカンです。立派なものではありませんが、お召し上がりください。    院長様」  とあった。差出人は、「伊東市仲尾」とあるだけで、あとはわからない。記録をさかのぼって調べたが、該当者は見当たらない。宅配の会社に問い合わせたところ、取り扱い店から、近所では見慣れない年配の婦人が依頼に来たということだった。その周辺を、警察を通じて調べてもらったが、わからずじまいであった。職員を代表して書いた礼状も、当然戻ってきてしまった。  十数日後の御用納めの日に、一年のしめくくりとして、この手紙を全職員に紹介した。死者の身内をいたわって仕事をしている職員の心遣いが何よりもうれしかった。みんなでいただいたミカンが、甘く酸っぱく、身にも心にも深くしみわたった。  母が子を思う気持ちには、理性を超えた本能のようなものを感ずる。 生命の値段  洞爺丸が沈んだ。昭和二十九年九月のことである。小学校の同級生がこの事故で死亡した。独身で会社に勤めていたが、国鉄から賠償金として家族が受け取った金額は、確か五十七万円であったと記憶している。  家族の悲しみを目のあたりにして、生命の値段とはこんなものかと、割り切れない気持ちになったことを覚えている。  交通事故死や医療事故死の場合なども、時代とともに大変な額の賠償金が支払われるようになってきた。  ある朝のことである。慌ただしく食事をとりながらテレビを見ていると、いきなり火災の映像が飛び込んで来た。赤坂のホテルニュージャパン九階客室から出火、十階に燃え広がっているらしい。窓枠の外側に人が避難して、救助を待っている様子が映し出されていた。昭和五十七年二月八日、午前三時半ごろ出火したとのことであった。  出勤するなり、警視庁の検視官と電話で打ち合わせを行い、われわれは緊急検案班を編成し、待機することになった。数十人の死亡者が出ている模様である。検案は午後から、死体安置所に決まった芝の増上寺で行うことになった。運び込まれた順に遺体にはナンバーが付けられ、検死が始まったのは午後の一時ごろである。  犠牲者は三十二人にも達する大惨事となった。初めの十数人は飛び降り外傷で死亡していた。続く十人ぐらいは一酸化炭素中毒死であり、残る三分の一の人々は黒色炭化状態の焼死体であった。  高層ビルの窓から身を乗り出して火熱を避け、必死に救いを求めたがかなわず、ついに火炎にあおられて飛び降り死亡した、あの映像は脳裏に焼きついて離れない。  一方、ホテルの中では煙の中を逃げまどい、一酸化炭素中毒で倒れた人もあり、火元に近い人たちは識別もできないほど、真っ黒こげの焼死体になったのではないだろうか。  出勤前にテレビを見ただけで詳しいことはわからないが、運び込まれた順に検死をしているだけで、火災のものすごさが手に取るように理解できた。検死後、黒こげの九体は検事の指揮で司法解剖になった。  また、一酸化炭素中毒と思われた中の一女性を監察医の判断で、行政解剖することになった。理由は火傷が少ないうえ、死斑も一酸化炭素中毒特有の鮮紅色の度合が弱いこと、加えて彼女が倒れていたかたわらにハンドバッグがあり、その中のパスポートには国籍台湾、妊娠三ヵ月との記載があったからだ。  死体の外表から、妊娠しているかどうかの区別はできかねたし、死因究明と個人識別をする意味で解剖しなければならなかった。警察もそれを望んでいた。すべての検死が終わったのは、夕方の五時ごろである。  翌朝、彼女の行政解剖が監察医務院で警察官立ち会いで行われた。外表の火傷の範囲は狭く、また生活反応も弱いので、この火傷は死因にはならなかった。気管には黒いすすがべっとりと付着し、火災の中で呼吸し生存していたことが裏付けられた。化学検査で、血中一酸化炭素ヘモグロビンは七五%にも達していた。いうまでもなく、死因は一酸化炭素中毒である。  そして、子宮には四ヵ月半の男性胎児を宿していた。パスポートの女性にほぼ間違いなかった。  二日後、台湾から家族が日本にやって来た。その人たちは、なぜわれわれ家族の承諾もなしに解剖をしたのかと激怒した。宗教上あるいは思想上の違いであろうか、解剖をことのほか嫌うのである。行政解剖の法的根拠から説明した。  しかし、死んだ人が生き返るわけではないし、死んだ人を再び殺すようなむごいことをする必要はないではないかと反発した。法律上は家族の承諾なしに行えるが、行政官として私たちは、なぜ解剖をするのかを十分説明したうえでことを運んでいる。家族の気持ちはわかるが、なにも好き好んで解剖をしているわけではない。死者の生前の人権を擁護するために行うもので、遺族の納得を得たうえで解剖しているのが現状である。  この場合は、彼女の身元は不明であったし、パスポートの女性であるか否かの識別が必要であったから、解剖を拒否すること自体、無理なのである。  そこで説明の論点を変えた。もしも、検死だけの死体検案書(死亡診断書)であるならば、妊娠の事実はわからなかったので、本人だけの死亡となっているから賠償金は一人分である。解剖後の死体検案書であれば、妊娠四ヵ月半の胎児を宿していることが明記されているので、母親と胎児の二人分の賠償金を請求することができる。私たちは、自らを語ることなく死んで行った人々の人権を、このようにして守っているのであると説明した。  やがて怒りは感謝の気持ちに変わって、すべては丸く収まった。検死や解剖をすることの意味を正しく理解すれば、監察医制度は衛生行政上なくてはならない機関であることが、おのずとわかってくるはずである。  それにしても、生命の代償はつまるところ金にしか換算できないのだろうか。こんなとき、  「一人の生命は地球よりも重い」  と言ったある裁判官の言葉を思い出さずにはいられない。 個人識別  漁船員たちは驚いた。マグロ漁船が漁獲したヨシキリザメの腹を開けたところ、胃の中から人間の右手が出てきたのである。太平洋上、八丈島沖東南方五〇〇マイル海上の出来事である。  その夜は供養が行われ、右手は船長の判断で、船の冷凍室に保管された。それから二十三日目、マグロを満載した漁船は東京港に入港した。  いうまでもなく、右手は東京水上警察署に届けられた。人体の一部分でも変死体と同じように扱われる。とくにバラバラ事件のときなどは、その一部分がいかに重要であるかは説明の必要はないであろう。私は警察署長から、右手の部分検案と鑑定を依頼された。  以前、国鉄の日光号という電車の車体下にへばりついていた足を鑑定したことがあった。その片足はミイラのように黒く乾燥していた。ミイラは永久死体といわれ、乾燥したまま変化せず、ほぼ永久に維持される死体現象をいう。日本のような湿気の多いところでは、自然に乾燥してミイラ化するようなことはほとんどない。その前に腐敗して軟部組織が溶解し、白骨化してしまう。  この片足は電車の車体にへばりつき、長時間疾走していたため乾燥、ミイラ化したのである。東京と日光の間を走る限られた範囲での列車事故を調べてもらったところ、半年前に飛び込み自殺があり、片足が見つからなかった中年男性の記録があった。鑑定の結果は、その男の年、背格好、血液型、その他がほぼ一致し、解決した経験がある。  それに比べると今度の鑑定は、かなりの困難が感じられた。太平洋という特殊な環境では、その人が日本人であると初めからきめつけるわけにもいかない。人種の別、男女の区別、年齢の推定、そして右手が離断されたとき、その人は生きていたのか、死んでいたのか、死後経過時間、血液型、その他いろいろな事項について考えなくてはならなかった。  つまり法医学でいう個人識別である。一般には指紋が最良の個人識別になるといわれている。それは万人不同、終生不変という生物学的特徴があるからなのである。しかし、指紋が採取されないこともあり、採取されても警察に登録されていないと、身元の割り出しは容易ではない。  犯罪捜査には“八何《はつか》”の原則というのがある。いつ(時間)、どこで(場所)、誰が(犯人)、誰と(共犯)、何ゆえに(動機)、誰に対し(被害者)、いかにして(方法)、いかにした(結果)という八何が明確にされなければならない。いうまでもなく、検死の対象者が誰であるのかをわからせなければ、事件は解決しない。  日航機が群馬県の山中に墜落したときなども、個人識別に大変苦労したと聞いている。死体に見られる損壊は言語に絶するものがあって、顔で識別できた遺体はほんの一割程度で、あとは指紋、歯型、身体的特徴(ホクロ、手術痕など)、着衣などを参考にしたという。  漁船が持ち帰った人間の右手は、サメの胃の中にあったというだけに、ぬるぬるしていた。中指は根元からちぎれたように欠損している。手のひらや甲には切創や裂創のような傷がいくつもあり、サメの歯で噛んだり、食いちぎったようであった。しかし、全体としてはそんなにくずれた形にはなっていない。  とりあえず、その状態を写真におさめ、レントゲン写真をとったり、指の指紋をとった。また、離断されている手首の関節の部分と、手のひらの大きな切創の一部を取り出し、組織標本を作った。顕微鏡で観察するためである。  人体の一部分から、人種の別を判断するのは容易なことではないが、中手骨や指骨の長さは西洋人よりも日本人の長さに近く、指紋の形、指紋示数は東洋人に近かったので一応、日本人と考えた。  また、性別は皮膚や爪が厚く筋肉、腱《けん》の発育がよい。そして指の骨の長さを測って比べてみると、女の値よりも男の値に近いほか、骨の発育、骨格などを総合すると、どうしても男であった。  しかも、ペンダコがなく、手のひらの皮膚も厚いので、肉体労働者のように思われた。顕微鏡で組織標本をのぞくと、血管の内膜に肥厚があり、中膜には線維化があって、中等度の動脈硬化が見られた。  レントゲン写真には、骨端の化骨は完成してすでに成人に達しているが、老人のような骨構造の消失透明化などは見られないので、五十歳前後のように思われた。しかし、個人差があるから必ずしもそれが当たっているとは限らない。  離断部や切創、裂創の部位を肉眼的に観察すると、刃物で切ったように鋭利には切れていない。やはりサメの歯で噛んだり、食いちぎったような傷であった。  顕微鏡で傷の部分をみると、筋線維の断裂があるが、組織内に出血などは見当たらない。もしも生きている人が、このような傷を受けたとすれば、必ず出血が伴うものである。そして血球が血管周囲の組織の中にも、にじんでいなければならない。  この所見を生活反応があるといい、死んだ人に傷をつけてもそのような変化は起こらないから、生活反応はないと表現する。右手には生活反応はなかった。  とすると、男は死体となって漂流中、ヨシキリザメに右手を食いちぎられたことになる。ぬるぬるした手は、透明な粘液で覆われ、手のひらには漂母皮形成があって、長い間海につかってしわだらけになったことを思わせた。顕微鏡でみると、表皮は脱落しているが、真皮の汗腺には核が見られ、血管のところどころに腐敗菌が入り込んでいる。  これらの所見から考えると、手の表面の組織はサメの胃の消化によって、ある程度冒されてはいるが、やや深いところではその影響は少なく、汗腺などは比較的よく保たれているので、サメの胃に入ってからそれほど長い時間はたっていないようであった。  死体漂流二〜三日、サメに食われて一日以内の経過と推定した。また筋肉の一部を取り、血液型を調べたところO型であった。しかし、男の死因についてはその右手だけからでは、わかりようがない。私の鑑定もここまでである。  警察では鑑定結果に基づき手配し、身元の割り出しをするが、結局わからずじまいであった。その年の暮れに、ニュースにならなかったニュースとして、ある新聞社が取材したりしたが、それにも何の反応もなかった。  このように多くの人々の手をわずらわし、検索を重ね、個人識別をして身元の割り出しに努めるのも、死者の人権を擁護するためなのである。 保険がらみ  会社経営の母親が、事業不振から自殺をした。第一発見者である息子は、とっさに自殺では保険金がもらえないと判断し、ものとり強盗殺人のように現場を荒らし、偽装した事件があった。身内の死をたくみに利用した悪質な犯罪である。  似たような事件があった。睡眠剤を多量に服用し、死亡した若い女性の検死に出向いたときのことである。失恋から不眠症、ノイローゼとなり、彼女は睡眠剤を常用するようになっていた。  当時、睡眠剤は薬屋で自由に買うことができた。深い眠りの中で死ねるという安易さから、これによる自殺が実に多かった。  ある夜、彼女は酒を飲んだあと睡眠剤を多量に服用したため、家人が気がついたときはすでに遅く、入院加療したが帰らぬ人となったというのである。つまり誤って睡眠剤を飲みすぎたための不慮の中毒死であると、警察の調べに対して両親は語っていた。  しかし、いかに睡眠剤を常用しているにせよ、多くても十錠か二十錠位飲むことはあっても、致死量にも達する百錠近くも間違って服用するとは考えがたい。水に含んで一度に飲める量はせいぜい七〜八錠であろう。これを十数回も繰り返し服用しなければならないことを思うと、誤って飲んだとは到底考えられない。  立会官も不自然さを感じて調べ直したところ、両親は自殺では世間体が悪いし、また兄妹の結婚にも支障を来たすと考えて、遺書を焼き捨て、不慮の中毒死に置き換えていたのであった。  そればかりか、加入したばかりの生命保険もからんでいた。自殺では保険金はもらえないが、死ぬ意志のない事故死などであれば、倍額保障になるというものであった。保険会社の多くは、加入して一年以上掛け金を納めていれば、その後自殺をしても、受取人に契約した金額を支払うことになっている。しかし、一年未満の自殺には支払いはない。  自殺を前提に多額の生命保険に加入しても、死にたいという人の精神作用はいかんともしがたく、数ヵ月後には自殺をしてしまう。よしんば、目的を果たすため辛抱強く掛け金を納めて、一年を過ぎたような人があったとしても、その人はその時点でも早、精神的に立ち直り、自殺のできない人になっているという。  人間の心理とは、実に面白いものだと思う。ところが、最近の保険会社の統計によれば、加入後十三ヵ月目の自殺が急に増えだしたという。時代のせいなのだろうか。“命よりも金”なのである。  その中には犯罪がらみのケースもないとはいえない。会社側も一年という免責期間を二年にすることを検討中だという。  一家四人がドライブに出かけた。夜十時すぎ、別府港に立ち寄ったが、どうしたことか岸壁から車ごと海に転落してしまった。妻と二人の子どもは車に乗ったまま海に沈んで溺死したが、夫は車から脱出し助かった。二人の子連れの女性と再婚したばかりの事故である。  警察の調べに対し、助かった男は、運転していたのは妻であり、単なる過失か、あるいは病身だった妻が心中を図ったものだと主張した。しかし、事故の数ヵ月前に妻子三名に災害時十倍保障、三十倍保障など計三億円にものぼる多額の保険に加入していたことがわかり、保険金目当ての計画的犯行として、男は起訴された。  公判での争点は、事故当時運転していたのは夫か妻か、海に転落した乗用車からどうやって男だけが脱出できたか、などであった。  事件直前、男が運転していたのを見たという目撃者の証言もあり、車の転落実験結果からも、男が運転していたものと判断され、大分地裁は冷酷で残忍な犯行として、男に死刑の判決を言い渡した。男には前科があり、犯罪を重ねて手口に磨きがかかった法廷闘争のベテランであるとの報道もあり、この事件は最高裁へ上告されたが、被告が平成元年一月十四日に病死したため、決着のつかないまま幕を閉じた。私の専門とする法医学は、真実に基づいて人権を擁護し、社会秩序を維持するための医学でもある。  一度しかない人生。  不正をしてまで、生きなければならないとは、わびしい限りである。 崩 壊  家族でありながら、お互いの信頼関係がくずれると、どうにもならないところまで崩壊していく場合がある。  支店長の一家は、妻と子供三人の五人暮らしであった。平穏な家庭であったが、中学生の長男が腎《じん》臓疾患で死亡したことから、一家の悲劇は始まった。長男の死によって母は強いショックを受け、精神状態が不安定になってしまった。不眠症から睡眠剤を常用するようになった。彼女は結婚前、一時的であったが精神科に入院したことがある。その後、治癒したため結婚したという。  支店長は仕事の関係で、帰宅が遅く、長男の死後も傷心の妻を慰めてやるだけの心遣いや、家庭を顧みる余裕もなく、仕事に追いまくられていた。  夫に対する不満は募る一方で、彼女の精神不安は増悪していった。やがて帰宅の遅い夫に愛人でもできたのではないかと疑いを持ち始めた。ある夜、疑念がこうじて会社から出て行く夫を尾行したのである。  案の定、料亭で宴会となり、酔った夫が酌婦とふざけている現場を目撃してしまった。彼女の心は大きく揺れ動き、夫の弁解など聞き入れようとはせず、すぐに口論けんかとなって、夫婦の仲は冷えていった。  数年後の春、妻は突然家出をした。旅先で睡眠剤を服用して、自殺を図ったが未遂に終わった。  長女(高校生)と次男(中学生)の姉弟は、母をここまで追い込んだのは父であると思い込み、父の不潔な女性関係に憤り、母に強い同情を寄せていた。話し合えば誤解は解けるようにも思えたが、夫婦の会話はすぐに口論へと発展し、和合の糸口はつかめず、子供たちの父親不信は募るばかりであった。  その年の秋、妻は睡眠剤百錠入り三箱を買い、茶碗《ちやわん》に入れ、水に溶かして服用した。長女が学校から帰り、ふらふらしている母を発見した。間もなく弟も帰宅した。姉弟は母のあとを追って一緒に死のうとしたが、茶碗は空で薬はなかった。  結局、母の手当てに走ったのである。救急病院に収容され、手当てを受けたが、意識不明のまま半日後に母は死亡した。  姉弟は、母を自殺させたのは父であると信じ憎しみ、機会があれば母のあとを追うような言動があったので、父は子供たちの気の静まるまで勤めを休み、子供たちにも学校を休ませ、父と子の心のつながりの回復に努めた。  十数日後、子供たちは元気に登校して行った。一家の再出発ができたと父も安心して勤めに出た。それから間もない日、死んだ母の誕生日がやってきた。  いつもと変わりなく、父と子らは午後の十一時ごろ就寝した。この就寝は姉弟にとって、父を欺くための手段であった。前から二人は、母の誕生日に母の元へ行くべく打ち合わせていたのである。  父のいびきが聞こえだしたころ、姉は弟を起こし、用意してあった睡眠剤六箱を等分にし、以前母がやったように茶碗に入れ、水に溶かして服用したのである。死に先立って、姉は死んだ母宛に、  「誕生日にお母さんの元にまいります。さびしがらずに待っていてください。私がお母さんのお世話をいたします」  という遺書を残し、さらに父には、  「死んだ私たち二人のからだには、ふれないでください。母を殺したのはお父さんです」  と恨みの言葉を残した。  弟は、姉の言われるままに行動したものと思われる。そして姉弟はテーブルの上に、飲み残しの茶碗と遺書を置き、再びそれぞれの布団に戻った。  翌早朝、子供たちの異常ないびきに父は目を覚ました。子供たちの寝息は妻の自殺のときと同じであった。救急車を呼び、病院に収容したが、弟は間に合わなかった。姉も昏睡から覚めることなく、夕刻死亡したのである。幼い姉弟が母を追っての心中であった。  一家は崩壊した。父親には本当に愛人がいたのだろうか。母親には精神病的要素はなかったのだろうか。そして、姉弟はこの両親のもつれの真相を理解するだけ大人であったろうか。些細《ささい》なことが結果を大きくしてしまった。お互いが容認し理解し合えば、防げたように思えてならない。それはともかく、大人としての責任を痛感する。  私は監察医として三十年間も、いろいろな異状死体の現場に臨場してきた。とくに自殺に学問的興味をもっているわけではないが、このような事例に出会うと、死にゆくものの心の中が私にも読みとれるので、何とか救う手だてはないものかと思う。だが、そう感じたときは、事件はすでに終わっているのでいかんともしがたい。  もどかしい思いで仕事をしているうちに、自らの心の中を家族に打ち明けることもなく、身内から疎外され、わびしく死を選んでいく年老いた人々が目立って増えているのに気がついた。この実態を世に訴え、弱者救済の道が開けるならば、衛生行政上すばらしいことであり、その人々の代弁者となれるのは、現場に立って実態を調査している監察医しかいない。救う手だてはこれしかない、と思うようになった。  そこで昭和五十一年から五十三年までの三年間を、同僚二人と一緒に調査分析し、「老人の自殺」と題して学会に発表した。医学の進展とともに平均寿命が延びている反面、老人の自殺が増加しているのは世界的傾向といわれている。人生経験豊かな老人たちが、自ら死を選ばなければならなくなった背景に、豊かさの中のひずみのようなものを感ずる。とくに、わが国の人的構成は、戦前の教育を受けた老人と戦中に育った壮年、そして戦後これまでとは全く異なる自由主義思想の中で育った青少年の三層から成り、相互の協力によって家庭や社会をつくり上げている。  しかし、老人は社会の第一線から退き、家庭にあって主義主張の異なる世代から理解や敬愛されることも少なく、細々と余生を送っているように見受けられる。これら老人の自殺の検死に出向き、感ずることは家庭内の冷ややかさである。  死体所見はともかく、普段の生活でも年寄りとの会話や団らんなどはなく、片隅に追いやられた状態が目につく。自殺の動機などを家族から聞いても、実にあいまいで、なにひとつ不自由なく生活していたはずなのになどと、自分たちのことは棚にあげて、自殺したお年寄りを迷惑がる始末である。  しかし、生きることに耐えきれなくなって死を選んだからには、それなりの理由があるはずで、一緒に生活している身内が知らないはずはないと、切り返すと、そういえば神経痛がひどくなっていたからでしょうかなどと、病苦を動機に持ち出してくる。  人生の荒波を乗り越えて七十年、八十年と生きてきた人が、なぜここで神経痛ぐらいで死ななければならないのか。病苦は本当の理由ではない。  体裁を整えているだけのことだとわかるから、もうそれ以上の質問はしない。不快感を押さえて沈黙したまま検死を終わらせる。  家族はも早、親を重荷として疎外しているからであり、そのことを他人には言えないから、老人の自殺の動機は家族の言うように病苦とせざるをえない。したがって統計上、病苦がトップになっている。現場に立つ監察医には、その事情が手にとるようにわかるのである。  病苦といっても、死に迫った病気などはほとんどなく、血圧が高いとか神経痛などであり、苦痛、苦悩は少なく、身内の温かい介添えやいたわりがあれば、十分癒せる疾患ばかりで、老人に対する家庭内の対応が冷たかったためと思われるものが多いのだ。  本当の動機は病苦ではなく、家庭の中に潜む冷たさである。そこに老人問題の難しさがあることを、改めて知らされた。  東京での老人の生活状況は、三世代世帯の老人が最も多く、次いで子供と二人暮らし、夫婦二人暮らし、独り暮らしの順であった。家族と同居の老人こそ、最も幸せのように思えたが、必ずしもそうではなかった。独り暮らしであるから寂しく孤独であるというものでもない。独り暮らしは自分の城を持ち、訪れる身内や近所の人たちと交際し、それなりに豊かさを持っている。  むしろ同居の中で、信頼する身内から理解されず、冷たく疎外されていることのわびしさが、老人にとって耐えられない孤独であり、それが自殺の動機になっていることを見逃すことはできない。最も幸せに思えた三世代世帯の老人の自殺が一番多いのに驚いた。  嫁と姑 《しゆうとめ》の問題などをはじめ、老人の自殺の動機は家庭問題にあり、七〜八割がこれであるといって過言ではない。いずれにせよ老年期は、心身の機能が低下し、社会的役割の低下に伴い収入が減少し、そして家庭内では家族から重荷として扱われ、疎外されていく。他人ごとではなく、やがてわれわれ自身にふりかかってくる問題である。  この論文は、すぐ新聞やテレビに取り上げられ、福祉関係者の注目を集めた。とくに総理府、厚生省、国会議員などからもデータを含めて意見を求められた。当時は独り暮らしの老人に福祉の主眼が置かれていたが、その後家族と同居の老人も見直されるようになった。  この論文が国の福祉政策に少なからず影響を及ぼし、改善されたという話を、後日福祉関係者から聞いて、老人の代弁者になれたことをうれしく思った。  一家崩壊事件にせよ、老人の自殺などを目のあたりにして、この社会病理学的現象は、早期に解決の道を見いだし、明るい家庭、住みよい社会をつくり出すため、すべての人が考え努力しなければならないことだと痛感した。  単に福祉の問題だけではない。社会的最小単位である家庭のあり方から出直さなければ、この問題は解決しないような気がする。 医学と法律  悪魔を追い払うと病は治ると信じられていた時代には、祈祷《きとう》がなによりの治療であった。現代では科学的に病態が解明され、医学的に精度の高い治療がなされるようになっている。しかし、これと並行して、神や仏に回復を祈願しようとする気持ちは、今も変わりはない。  昭和三十二年のことである。発狂した少女の体にタヌキがいると、祈祷師が線香護摩《ごま》八百束を三時間にわたってたき、祈祷した。縛られて祭壇に置かれた少女は、熱気で摂氏四十度にも及び死亡した。  この事件は憲法第二〇条、信教の自由で許されるか、遺棄罪かで論議されたが、最高裁は行為は反社会的で、信仰の自由は犯罪を構成するような宗教活動まで許していないと判断し、傷害致死罪を適用した。病を治そうとしてやったのであろうが、医療とは程遠い出来事であった。  戦後、性風俗が乱れ、東京に男娼《だんしよう》が横行したころ(昭和三十六年)の話である。彼らの中には睾丸、陰茎を切除して女性のように形成手術をしたものがいた。このような手術は医療とは言えないとされ、わが国では医師法違反になることが明らかとなった。  そのときのやりとりが面白い。病気を治したいから医者にかかるのと同じで、女になりたいという強い願望のために手術をしたので、この手術は違法ではないと反論していたのである。  俗にフタナリ(真性半陰陽)の場合は、両性を持っているので、本人の希望により、睾丸を除去すれば女性になり、卵巣を除去すれば男性になれる。しかしそれと違って、奇形でも何でもない健康な男性の体から、睾丸などを除去し、あたかも女性のように形成するのは、たとえ本人の希望であっても、わが国は医療とみなさないのである。  ところが、法律で禁じられても、希望者は遠く海外に飛び、手術可能な国で形成してくる始末である。法律そのものではなく、法の精神が理解され、生かされなければならないのにと、歯がゆく思うのである。  昭和五十五年、赤坂で、失恋した女がガス自殺をした。遺書もあり、「彼は、私を捨ててほかの女と結婚してしまった」という、いわばありきたりの失恋自殺であった。  一酸化炭素中毒特有の鮮紅色の死斑が出現し、死因は明らかであった。検死を終え、いざ死体検案調書(臨床医のカルテに相当する)を作成しようと死者の住所、氏名などを立会官から聞き、記載していたところ、名前は男なので、 「名前ですよ」  と念を押すと、立会官はニヤニヤしながら、 「先生、男なんです。とりあえず、何も言わずに先生に診ていただいた方が、面白いのではないかと思いましてね」  と、いたずらげに笑っている。 「ええ! 男なの!」  体つきはもちろんのこと、乳房、外陰部も女であり、爪には紅いマニキュアが塗られている。検死を仕直し、性別の確認をしなければならなくなった。監察医にとって、検死の仕直しとは恥ずかしい限りである。  乳房は豊かに隆起しているが、触ってみると皮下に合成樹脂でも入っているようで、不自然さが感じられた。外陰部の陰茎は切除され、陰毛の間に尿道口だけが開口している。陰のう内に睾丸はなく、その陰のうはあたかも大陰唇のように形成され、一見女性にしか思えない様相であった。 「いやあー、参りました」  話には聞いていたが、実物を見るのは初めてである。見事に男が女に化けているが、医学的には睾丸も卵巣もないのだから、中性である。日本では手術はできないので、エジプトあたりに飛んで手術をしてくるらしい。赤坂界隈には、この手の女がだいぶいて、かなりの収入を得ているという。  日本もおかしな国になったものだと、嘆かわしくなった。オシッコをすると方向が定まらず、散水車のようになるのが唯一の欠点であると、古手の刑事のゼスチュアを交じえての説明に、一同は大笑いした。  それにしても、中性の人間が男にふられ、失恋するというのも不思議に思えたが、この人たちは精神的には女になりきっているというのが、正解なのかも知れない。  妙な気分になったが、賛成しがたい風潮である。手術可能な国の医師たちの考え方を、じかに聞いてみたいと思っている。  昭和六十年に起きた、エホバの証人の輸血拒否事件も、医療の現場に大きな問題を提起した。交通事故で両下肢切断という重傷のため、十歳の少年には輸血と手術は不可欠の治療であった。  少年は生きたいと訴えたが、両親は宗教上の理由から輸血を拒否した。医師は輸血をすることができず、少年は死亡した。医療と宗教を区別し、医師はあくまで正当な治療としての輸血を強行すべきであったのか。宗教の自由に基づく患者側の意思を尊重すべきであったのか。  この場合、少年の意思が尊重されるのか、それとも両親の意思(親権)が優先されるのかなどの問題もある。しかし、医療の立場からすれば答えは一つである。なにがあろうとも、治療の限りを尽くし命を守るのが医師の使命である。  話は変わるが、十歳の少年を道連れにした母子心中事件を検死したことがある。母の遺書と一緒に、子供の遺書もあった。  「お母さんと行きます」  とある。この遺書を正当に評価して、子にも自殺の意思ありとすれば、この事件は両人とも自殺の母子心中になるが、子は母の言いなりに書いたにすぎないとみなせば、子は母に殺された他殺といういわば無理心中になる。判断に迷ったが、私は後者を選んで事件を処理したことを覚えている。  このように医療の現場には、法律や宗教にからむ微妙な問題があるので、慎重に対応しなければならないと思っている。 ネズミモチ  医学の分野には、ネズミモチという名称や用語は、どこを調べても出てこない。二十数年も前のことである。法医学会に出席した際、ある事件を担当した大学の先生から、このネズミモチの話を聞いた。  家へ帰り早速調べてみると、『広辞苑』にモクセイ科の常緑灌木《かんぼく》とある。西日本などの暖地に自生し、庭木や生垣として栽植され、四〜五月ごろに花が咲くという。特性として、種子は土中から発芽するまでに二年かかる植物であることがわかった。  昭和三十八年三月末の夕方、四歳の男の子が行方不明となった。東京の下町のことである。警察には迷子として届け出されたが、見つからなかった。誘拐の疑いがもたれ、極秘のうちに捜査は開始された。  二日後、家族に電話が入った。案の定、身代金五十万円を要求してきた。「場所はあとで指定する。子供はそのあと返す」という内容であった。その後、何回となく指定場所を変え、「警察に通報すると子供の命はないぞ」と、脅迫の電話が続いた。この事件は結局、五十万円を持ち去られ、子供は帰らなかった。  しかし、二年四ヵ月後の七月、ついに犯人を逮捕した。子供は誘拐したその夜のうちに絞殺し、近くの寺の墓の中に捨て、隠した。自供に基づき、捜査員が墓石を取り除くと、骨壺のかたわらに変わりはてた子供の死体が発見された。  死後変化がひどく、個人識別もできない状態であった。ただ子供の口の中から、一〇センチほどの植物が三本芽を出していた。これがネズミモチである。  墓地での犯行の際、ネズミモチの種子が子供の口の中に入ったのであろう。それから二年と四ヵ月後に発見された遺体の口の中で、ネズミモチが発芽していたのである。犯人の自供が嘘《うそ》ではないことを、この植物が実証していた。事件の本筋から外れた一粒の種子であったが、事件を振り返ると、実に大きな意味をもっていたことに気がつく。  ひき逃げ事件などでもそうであるが、現場のブレーキ痕、着衣に付着した車の塗料、タイヤマーク、破損した車の備品の一部などから加害車両を特定することも可能であり、現場検証の重要さが理解できる。  溺死の場合にも同じようなことが言える。気管や肺に水を吸い込んで窒息するのが溺死である。この水の中には、水中微生物であるプランクトンがいる。溺れている間に水とプランクトンは、肺の血管から体に吸収されて、全身を循環する。その際、プランクトンは肝臓や腎臓などにひっかかる。解剖して、肝や腎などから多くのプランクトンを検出できれば溺死と診断する。  殺して水中に死体を捨て、溺れたように見せかけた場合には、肺に水の流入があって、一見溺れたように見えるけれども、血液循環は停止しているので、プランクトンは体に吸収されていない。そこで本当の溺死とは区別がつく。  さらに、臓器内のプランクトンの種類がわかれば、溺れた場所(川、池、海などの一定の区域)を特定することができるとさえいわれている。東京湾での浮遊死体を解剖し、種々検査してみたところ、川で入水自殺したものが、海へ流れ出たことがわかった事例もある。  ネズミモチにしろ、プランクトンにしろ、医学以外のものである。この医学に無縁なものが事件解決に大きな役割を果たしている場合が多々ある。しかし、なんでも利用し応用する、この自然科学が私は好きなのである。 木口小平  小学校一年のとき教わった修身の教科書に、 キグチコヘイハテキノ タマニアタリマシタガ、 シンデモラッパヲ クチカラハナシマセン デシタ。  というのがあった。  日清戦争の折、隊長の突撃命令で木口小平の吹く突撃ラッパを合図に、全隊は塹壕《ざんごう》を飛び出し、銃剣をかざし鬨《とき》の声をあげて、敵陣めがけて突入した。  戦いが終わり戦場を見渡すと、木口小平は敵弾に倒れ、戦死していた。しかし、彼は口からラッパを離そうとはしなかった。一ラッパ兵の武勇が絵入りで載っていた。君たちも大きくなったら、木口小平のように勇気と責任のある人間になれよと、教わったのである。  大きくなって、医学部に入った。時代は変わって、軍隊はなくなっていたが、法医学の講義の中に木口小平が突然出て来たのである。口からラッパを離さなかったのは、勇気でも責任でもなく、死体硬直という化学的現象で説明されたのである。講堂は爆笑した。  衣川の弁慶の立ち往生も同じことである。一般には、死ぬと神経は麻痺《まひ》するから、筋肉は弛緩《しかん》して緊張は取れ、ぐったりする。二時間ぐらいたつと体は化学反応のために徐々に筋肉が収縮硬化し、関節が動かなくなってくる。これが死体硬直といわれるもので、筋肉内のグリコーゲンの減少、乳酸の増加に伴うアデノシン三燐酸活性の低下などが関与し、徐々に筋肉が硬化してくる現象である。二十時間ぐらいで、硬直は最強度となる。  ところが、スポーツ中の急死のように筋肉が疲労状態にあると、これらの化学物質が強く速く反応して、硬直は死亡直後に出現する。これが木口小平であり、弁慶の立ち往生なのである。  手に雑草を握ったままの漂流死体が発見されたことがある。犯罪の可能性もあるのではないかと、警察は慎重な捜査をしたところ、花を摘みに行き岸辺で滑り、雑草につかまったがちぎれて川に落ち、溺れたものとわかった。土手に滑った跡があり、家族の話とも一致して事件にならなかった。死体硬直は疲労した筋肉に早く、強く出現するものである。  死体硬直は、体に腐敗が始まると徐々に緩解していく。一種の化学反応であるから体格、外気温その他死体の置かれた環境などによって左右され、一定しない。検死の際、死斑や死体の硬直の状態を観察して、死亡時間を推定しているが、なかなか正確な時間を言い当てるのは難しい。  坊さんがお経をあげたら、硬くなっていた遺体が柔らかくなって成仏でき、ありがたがったという話を聞いたことがある。このように、死んだ人が一度硬直を起こし、やがて解けて柔らかくなる一つの死体現象に武勇が入り、責任が入り、そして宗教が入って話がうまくまとまると、あらぬ方向へと事は運ばれる。こんな話を作った人は、社会の手品師とでもいうのだろうか。いずれにせよ、このような手品には引っ掛かりたくないものである。  ことわざに、 ゆうれいの正体みたり枯尾花  というのがある。こわごわ見直したら、枯れすすきであったというのであろう。検死の現場に要求されるのは、この冷静な観察と判断なのである。 検視と検死  商店街から少しはずれた不動産屋の二階で、彼女は小料理屋をやっていた。五十がらみで如才ない人柄が好かれ、結構客はついていた。ここ四〜五日、店が閉まっているのを不審に思った階下の家主が、合い鍵を持って様子を見に行った。  とくに店内に変わった様子は見当たらない。カウンターわきの四畳半が彼女の部屋であった。襖《ふすま》を開けると、彼女は布団の中で寝ていた。声をかけたが返事はない。揺り起こそうと中に入って気がついた。死んでいたのだ。  通報を受け、刑事が二人やって来た。密室内で布団に入り、寝たまま女が死んでいる。大筋の状況はつかんだ。掛け布団をはがしたが、乱れなどはなく、ごく自然の寝姿である。顔がやや赤褐色にうっ血しているようであった。  一月中旬、寒い季節であったが、死後日数がたっているため、腐敗が加わったせいかも知れない。しかし、眼瞼《がんけん》結膜下に溢血点があるので、念のため詳しい検視の必要があると、本署に連絡した。刑事課長は数人の部下を引き連れて、現場に急行した。  鑑識係が現状をつぶさにカメラにおさめ、警察官による本格的な検視が開始された。彼女はこの密室の中で、何故に死亡したのか。就寝中の急病死か、自殺か、あるいはほかに原因があるかなど、死体を含め現場などをくまなく見、調べるのが警察官の検視である。人権擁護の立場から言っても、判断の中心は法律である。  状況からみて、犯罪の可能性は低く、病死のようであった。いずれにせよ、そこに死体がある以上、医師の診察(死体検案)が必要である。監察医制度のある都内では、変死者を専門に検死したり解剖する監察医が、現場に出向くことになっている。警察官立ち会いで、監察医の死体検案(検死)が行われた。死体をくまなく観察して、死因を判断し、死亡時間の推定やらその他いろいろな所見をチェックする。判断の中心はあくまでも医学であり、警察官の検視に医学的協力をするのが、医師の検死である。  死体には軽度の腐敗が見られ、角膜も混濁し、死体硬直は解け気味になっている。死体所見や状況から考えて、五日前の死亡と推定された。そのためか顔面は、赤褐色に変色している。しかし、よく観察すると、顔面にはうっ血のほかに溢血点もあり、眼瞼結膜下にも溢血点が多数出現していた。単なる腐敗と片づけるわけにはいかない。頸部に絞殺のような索溝や、扼殺《やくさつ》のような指の圧痕などはっきりした所見はないが、頸部圧迫などによる窒息死の可能性が高いと、監察医は判断した。  ところが警察は捜査上、鍵がかかり密室状態で外部から他人が出入りするようなことはまず考えられない、就寝中の急病死の可能性もあるのではないか、と反論した。窒息死に限らず、急病死の場合にも顔面にうっ血や眼瞼結膜下に溢血点が出現することもあるからである。  また窒息死の場合に見られる、舌を噛んだ状態がないことや、下着や布団の汚れはなく、大小便の失禁がなかったことなどから、窒息死というよりも病死の可能性が強いと、法医学的所見を踏まえての意見であった。  死体を前にして、監察医と警察官のディスカッションは続いた。死体所見、現場の状況から自殺は否定されていた。一方、店内に乱れはなく、引き出しの中には、その夜六人の客の売上伝票があり、現金もそのまま手つかずに残っていた。近くに住む愛人関係にある六十五歳の男が午前一時すぎに帰って、その夜は閉店したことがわかった。  参考人として、その男から事情聴取をしていた。帰りぎわに男は、病死でなければ私が犯人かも知れないね、と不敵な言葉を残して警察を出て行ったという。検視でわかるのは、ここまでである。  あとは遺体を解剖するしかない。犯罪の可能性が大きければ、検事の指揮下で司法解剖となろうが、単なる病死という判断であれば、監察医による行政解剖でよい。これらを区別するため検視官も、この事件には初めから関与していた。警察の幹部で、変死を専門に検視し自他殺の鑑別をするのが主たる任務である。法医学的知識もまた豊富である。結局、検視官も監察医の意見を汲んで、司法解剖の手続きをとることになった。  被疑者不詳に対する絞扼殺事件ということで、翌日大学の法医学教室で解剖となった。結果は、手で首をしめられたために甲状軟骨が折れ、その周囲の筋肉内にも出血があり、扼殺された事実が明白になった。  店内が荒らされていない。  売上金も盗まれていない。  合い鍵を持っている。  これらのことから、親しい間柄にあるものの犯行と推定され、愛人関係にあった男は指名手配された。逃げ廻っていたが、一ヵ月後に逮捕された。冷たくなった彼女に腹を立て扼殺後、寝巻きに着がえさせ、布団に入れ就寝中の病死のように偽装したものであった。  死者の生前の人権を擁護するために、捜査と医学の専門家が力を合わせ、協力し合って事件の真相に迫っていく。間違いは許されない。これが検視、検死なのである。 愛の頬ずり  昭和四十年五月、ある大学のワンダーフォーゲル部が、新人強化訓練のため、奥秩父縦走コースに出発した。約三〇キロの荷物を背負っての山道に、新入生たちは次々にへばって落伍《らくご》し、先輩に気合いを入れられ、集団暴行なみのシゴキを受けたのである。  そのため、新入生の一人は歩行不能となった。家族に連絡され、付き添われて帰宅した。家で寝ていたが、二日後尿量が減少し、胸が苦しいと訴えた。三日目に無尿となり、嘔気、血痰をはき、呼吸困難となって、五日目に入院したが、時すでに遅く、翌早朝急激な血圧低下から死亡してしまった。全身打撲による外傷性二次性ショックという診断であった。  検死すると、臀部《でんぶ》を中心に広い範囲に強度の皮下出血と腫脹がみられた。頭部に損傷はない。素人考えで、頭には脳があるから殴っては危険だ、臀部は筋肉だけだからと、そこを中心に殴る蹴るのシゴキが加えられたのであろう。  しかし、皮下、筋肉の出血が強度となると、ミオグロビンという物質が発生して腎臓につまり、徐々に尿が出なくなり、尿毒症となって、腎不全から死に至ることがある。人間を教育するのに、どの部位であろうと殴る蹴るなどの暴行は許されない。  この事件は、司法解剖の結果などを踏まえ裁判官は、錬成の限界を越えるとして七被告全員を有罪にした。しかし、被告たちは将来性のある青年たちであり、深く反省し大学当局とともに被害者の家族に詫びて、その許しを得ている。遺族もまた、悲しみを乗り越えて被告たちを許しているので、執行猶予になった。  最近、同じような事件があった。校則で禁止されているヘアードライヤーを使用したとの理由から、教師が生徒に体罰を加え死亡させるという、いたましい事件である。教育的懲戒と無縁の暴行であるとして、体罰教師に懲役三年の判決があった。教育の場から傷害致死の現場になるなど、許されないことである。言っても言うことを聞かないから、つい手が出てしまう。やられた方は、反抗的態度に出る。頭にきた教師は暴行をふるう。口論からけんかへとエスカレートし、もはや先生と生徒という関係ではなくなってしまう。  息子から聞いた話であるが、中学の音楽の先生が生徒への罰として、愛の頬ずりをするというのである。人一倍ひげの濃い先生が、いたずら坊主を抱きかかえて頬ずりをする。やられた生徒はタワシでホッペをこすられるようで、痛い痛いと顔をのけぞって笑いだす。クラス全体が爆笑する。すばらしい先生と生徒の関係だ。  動物などの訓練でも決して怒ったりはせず、かわいがり、芸ができると食べ物を与えながらやっている。教える側と教わる側の信頼関係が、愛情という絆でつながっている。  新聞・テレビなどによると、教育の現場は想像以上に荒廃している。専門家でもなく、この問題にとくに関心があるわけでもないので、安易な批判など許されないと思うが、教育の場ではなく、社会的最小単位である家庭のあり方から出直さなければ、この問題は解決しないような気がする。 死者の側に立つ医学  医師国家試験に合格すると、私は臨床の経験をもたぬまま法医学教室に入ってしまった。将来は臨床医に戻るとしても、二〜三年研究生活を味わうのも決して無駄なことではないと考えた。  動物を使って中毒や血清学的実験を四年ばかりやってみたが、自分が期待していた法医学とは違っており、何となくもどかしさを感じたので、事件の現場に立って検死や解剖をする実践法医学の方を選ぶことにした。ちょうどそのころ、死体解剖保存法第八条という法律のあることを知った。  「政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑いのある死体、その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置きこれに検案をさせ、または検案によっても死因の判明しない場合には解剖させることができる(以下略)」  これが監察医制度の基盤であり、東京には監察医務院という役所があって、異状死体(不自然死)の検死、解剖が行われている。  普通患者は医師に、咳が出る、熱がある、などと症状を訴え治療をしてもらうが、ときとして元気な人が突然死するようなことがある。周囲の人も家族も、あるいは本人自身も、恐らく納得のいかない死亡であろう。病死なのか災害死なのか、あるいは自殺か他殺かと、考えれば疑惑は残る。その疑問に答え、もの言わずして急死した人々の人権を擁護するのがこの制度である。以来、この道にのめり込んでしまった。  借金の取り立てに行き、借用人と交渉中に、取り立て人が急死したケースがあった。二人きりでの押し問答に疑惑がないとは言いきれない。検死後、監察医務院で行政解剖したところ、心筋梗塞であった。交渉中、興奮して心臓発作を起こしたのである。  また自動車を運転中、同乗者に、「ブレーキのききが急に悪くなった。おかしい」と語りつつ電柱に衝突してしまったという事故があった。同乗者は軽い外傷であったが、運転者は意識不明のまま、収容先の病院で間もなく死亡した。検死の結果、死因になるような外傷はなく、スピードもさほど出ていない。  納得のいかない交通事故であったから、行政解剖したところ、左の脳出血であった。そのため右下肢の動きが悪くなり、ブレーキを踏めなかったのだ。本人はそれをブレーキのききが悪いとしか理解できなかったから、同乗者にそう話をしたのである。誰もがブレーキ故障の事故と思ったが、実は脳出血という病的発作のためであった。  監察医制度があって、このような突然死あるいは不自然死の原因が明らかにされるから問題はないが、もしもこのような制度がなかったら、混乱は避けられない。行政改革によって、大都市にしか施行されていないこの制度も見直しの対象となり、廃止の危機に見舞われたが、重要さが認められて、存続することになった。医学は主として生者のためであろうが、死者の側に立つ医学もまた必要なのである。 堕 胎  日本が堕胎天国といわれたころの話である。若い夫婦が産婦人科医院を訪れ、人工中絶を希望した。簡単な手術であったから、夫は廊下で待っていた。長い時間待たされていたが、やっと手術室から医師が出てきた。  脂汗をふきながら夫に、「手術は無事終了したが、術後の感染予防のためペニシリンを注射したところ、突然ショック状態となった。手をつくしたが、死亡してしまった」と告げたのである。ペニシリン・ショックが社会問題になっていたころでもあり、医師の説明はわかるとしても、今の今まで元気であった妻が、わずかの間に死んでしまうなど、夫には到底考えられないことであった。  医師の発行した死亡診断書を区役所の戸籍係に提出し、これと引き換えに火葬埋葬の許可証をもらわぬことには、葬儀は出せない。やむなく夫は、区役所へ出向き診断書を提出した。  ところがこの死亡診断書は、死因はペニシリン・ショック死で、死亡の種類は病死となっていた。戸籍係は、記載の誤りに気づいた。ペニシリンは手術後の感染予防のために注射したのであるから、正しい治療行為として行われたものである。死ぬような注射薬ではない。にもかかわらずショックという異常反応を起こして急死したのだから、死亡の種類は病死ではなく、災害死、つまり事故死扱いになる。このような場合、一般の医師が死亡診断書を発行しても受理されない。医師は警察に異状死体の届出(変死届)をして、監察医の検死を受け、死体検案書(死亡診断書と同じ書式)をもらわなければならないことになっている。  素人の夫は当然のことながら、戸籍係の説明がよく理解できないまま、医院に戻ってきた。日本の医籍に登録された医師が発行した死亡診断書を区役所が受理しないとは何ごとかと、医師は戸籍係と電話でやりあった。監察医制度が施行されて十年ぐらいしかたっていなかったころだったから、医師の中にも知らない人はいたのである。医師は執拗《しつよう》に受理するように迫った。  それには、わけがあった。手術中に患者が腹腔内出血で急死したのである。廊下で待っている夫に、奥さんを自分のミスのため死なせてしまったと、医師は素直に言えなかったのである。そこで、これを隠蔽するため、患者の前腕にペニシリン・テストの皮内注射をしたのち、上腕部肩ぐちにペニシリンを筋注して、体裁のよいショック死に置き換えていたのであった。  しかし、ペニシリン・ショック死は異状死体、この場合は医療事故として警察に届出の義務があった。事実を隠蔽するために工作したが、自ら警察に届け出るはめになった。  警察官立ち会いで検死が行われた。注射部位を見ると、生きているときに注射をすれば、針の穴は赤褐色の凝血で埋まっている。ところが、注射針痕は淡黄色の皮下脂肪が見え生活反応はなかった。つまり死後に注射したものと判断された。死後、ペニシリンを注射してショックが起こるわけはない。その他、死斑が少なく貧血状態で、腹部には波動があり、腹腔内出血を思わせた。  立会官は直ちに、事件の概要を検事に連絡した。結局、検事の指揮下で司法解剖が行われ、子宮穿孔による腹腔内出血、医療過誤が明らかになった。医師の業務上過失致死、さらに事実を置き換えようとした工作もまた罪の対象となった。  医師にとって必要なのは、手術に際し万全を尽くすことであり、その結果不幸な事態が生じたら、今度はそれに適切に対応したか否かが問題で、隠蔽工作などもってのほかである。医師には医師のモラルがあり、誇りがある。しかし、このような医師の出現によって医師全体の評価を低下させ、また自分の心の中に大切に築き上げてきたものが壊されていくような、怒りと不快感を禁じえない事件であった。 サバイバル  ある喜劇役者が舞台のそでに帰るなり、前のめりに倒れ、意識不明となった。救急車で病院に収容されたが、間に合わなかった。舞台狭しととび廻っていた人が、次の瞬間死んでしまうなど、彼を知る人たちにとっては思いもよらぬ出来事であった。しかし、監察医制度のある都内では決して珍しいことではない。  スポーツ中の急死、運転中の急死、入浴中の急死、会議中の急死、睡眠中の急死など、例をあげればきりがなく、毎日十数件は発生している。このような突然死は異状死体として警察に届けられ、監察医の検死を受けることになっている。  検死すると、左の頬に小さい擦過打撲傷があった。前のめりに倒れた際にできたのであろう。その他、左臀部から左大腿背面にかけ広い範囲にやや古い皮下出血が見られた。警察の調べでは、一週間前に舞台で演技中、足をからませて尻もちをついたときのものであるという。以来、左下肢をひきずり杖をついて舞台を務めていた。  また、本人は多少血圧が高かったらしいが、治療はしていないとのことで、検死の結果は急病死と判断されたが、その病名までは引き出せなかった。  当然、監察医務院で行政解剖をすることになった。右大脳に小豆大の出血が見られ、出血の様相は血塊が凝縮していて、一週間ぐらい前の出血と推定された。舞台で足をからませ尻もちをついたというのは、実は脳出血により、左下肢が麻痺《まひ》したためであった。  しかし、本人はもちろん周囲の人たちもみな、足をからませて転倒したとの単純な理解であったし、左下肢をひきずるのは尻もちをついた際の皮下出血のためと思っていたから、医者にもかからず湿布薬をはって、杖をつき舞台を務めていたのである。  死因は高血圧性心肥大であった。気骨ある舞台人、役者冥利《みようり》に尽きる、とほめられた。  これに水をさすわけではないが、医学的には舞台で転倒した時点で、絶対安静、入院治療の必要があった。戦前は仕事には責任があり、命をかけて遂行する心構え、精神力がなければならないと教わった。とくに軍人は忠節のためには命を顧みなかったし、死をもって国に殉ずるなど、いかに死すべきかを教わったのである。時代は変わり、思想も変わった現在の自衛隊は、いかに生き残って責務を遂行するかを習っているという。  仕事に命をかけるという表現は、今も使われるし、格好のよい言葉である。だが命を犠牲にしてまでやるのではなく、あくまでも一生懸命やるという気概を示す意味であろう。命に代えてまで、やらなければならないことは、この世の中になにもない。長いこと監察医をしてきて、死を扱い生の尊さを知り、つくづくそう思うのである。 殺人者からの電話 「院長さんですか」  と、二度念を押された。 「はい。そうですが、どなたですか」  と、問い返したが、それには返事はなかった。  中年の女の声である。役所に対する苦情の電話だろうと思った。ところが話を聞いて、びっくりした。二週間前に夫を絞め殺したというのである。愛しているから夫を殺したという。 「わかってもらえるかしら」  などと、小娘のようなことを言って、殺しの言いわけをしている。そして「今、こげ茶色にひからびて少し悪臭がする。田舎へ持って帰り埋めたいのだが、臭いを消す薬があれば教えてほしい」というのだ。「私は四十歳、夫は四十一歳」だという。  本当なのか。電話越しに相手の様子を伺ったが、こげ茶色にひからびて少し悪臭がするという表現には、体験者でなければわからないような実感がこもっていると思えた。本ものだと感じたので、身構えながら話を引き延ばそうと努めた。 「私が付き添ってあげるから自首しよう」とすすめると、「子供がいるから警察に捕まるわけにはいかない」という。「子供は私があずかる。都には施設がたくさんあるから、心配はない」と説得したが、無視された。  消臭剤を届けるから、住所でも電話番号でも教えてくれないかと言ったが、乗ってこない。 「困ったね。力になれないね」  と言うと、よく考えて明日また電話をかけるというのである。固く約束して十分ほどで電話は切れた。翌朝、電話に逆探知をつけ、刑事がはりついた。しかし、連絡はなかった。病弱な夫か、酒に酔うとどうしようもないほど暴れだす酒乱の夫か。あるいは事故などで急に働けなくなり、寝たきりになった夫であろうか。いずれにせよ、追いつめられた一家の悲劇のように思えた。  それから一年二ヵ月が過ぎた歳末のこと、ご用済みの飯場の二階から、白骨化した五十七歳の男の首つり死体と、そのかたわらに一部乾燥、一部腐敗した四十七歳の女の死体が発見された。宙づりのひもを切り、遺体を畳の上に寝かせ、そのかたわらに女が寄り添うように死んでいたのだ。  死体所見と状況から男は約十ヵ月前、女は二ヵ月前の死亡と推定された。男は一年前、脳梗塞《こうそく》で倒れ、ほとんど寝たきりの生活になり、言語障害も強かった。妻が看病していたが、三ヵ月ぐらいたったころから、他人を家に入れなくなった。息子が訪れても、二階にあげなかったという。その中に寄りつく人もないまま九ヵ月も放置され、飯場の取り壊しに来た職人が、この夫婦の死体を発見したのである。男は首つり自殺。女は糖尿病があり、解剖の結果、心筋梗塞の病死と判明した。  電話の女のことを思い出し、この事件と対比させたが、時間的に半年のズレがあり、状況からも別件のようであった。愛するものの死を認めたくない、いや、死んではいないという精神作用が、このような行動になるのであろうか。  理解できないような事例は、ほかにもある。脳出血で倒れ入院していた中年の男があった。妻は宗教上の理由から、夫を無理やり退院させ、医療を打ち切り、自宅で他人を寄せつけず、病魔を追い払う祈祷《きとう》などを行っていた。しかし、妻の願いとうらはらに病状は悪化し、ほぼ一週間後には死亡したようであった。その後、遺体をワゴン車にのせ京都、奈良などの寺院を廻り、夫の安住の地を求めて埋葬しようとしたが果たせず、数日後東京に戻ってきた。夫の友人が運転し、妻も同乗してのことであった。その直後、妻は行方をくらまし、友人は困りはてて、警察に届け出たのである。  この行動は何だったのか。私にはわからない。しかし、夫の死体が検視の対象として届けられた以上、これに対応し行政上あるいは司法上の結論を出さなければならない。  猿の母親が、死んでひからびたわが子を抱きかかえて、生活しているテレビを見たことがある。生きるものにとって、死を科学的にのみとらえることは、必ずしも十分な対応ではないことを思い知らされた。 心臓麻痺  私は監察医として、いろいろな変死体を検死したり解剖したりしているうちに、溺れるという現象、つまり溺死というものに非常な興味を覚えるようになった。それは、溺れるはずのない泳ぎの上手な人が溺死したり、背の立つ浅瀬で溺れたりしているからであった。  溺死というのは、泳げない人が溺れるのが普通である。ところが、泳げる人が溺れたりすると説明のしようがないので、死因は心臓麻痺というと、なぜか世間は納得してくれるのである。  実に便利な言葉であるが、この心臓麻痺というのは事実をごまかす用語でしかない。なぜならば脳、心、肺の三つの臓器が永久に麻痺した場合を死と言うからである。肺炎で死んでも、癌《がん》で死んでも、首をつって死んでも、死ぬときは脳、心、肺の麻痺が起こる。だからそれらの麻痺を死因とは言わない。麻痺を起こさせた原因、疾病が死因なのである。溺死も溺れる前に、それ相当な誘因があるはずである。たとえばてんかん発作があるとか、狭心症、脳卒中、あるいは飲酒酩酊《めいてい》などがあって、水中に没し溺死する。そのとき心臓は麻痺しているが、このような経過で死亡したものを心臓麻痺とは言わない。具体的には、「てんかん発作による溺死」などと表現するのが正しい。  溺死の研究をしているうちに、耳の奥の頭蓋底の部分に、中耳や内耳をとり囲む錐体《すいたい》という骨があり、溺死の際にその骨の中に出血が生じていることがわかった。錐体内出血である。溺死の五〜六割に見られる特有の所見であった。  列車に乗り猛スピードでトンネルに入ると、一瞬耳がおかしくなる。外気圧によって耳の奥の鼓膜《こまく》が内側に陥没するからである。つばをのみ込むような嚥下《えんげ》運動をすると、その異常感は除かれる。それは鼻の奥にある耳管という細い管が開き、鼓膜の裏側の鼓室に空気が送り込まれて、凹《へこ》んだ鼓膜をもとに戻すからである。  溺没の際も理屈は同じである。水中あるいは水面を遊泳中、呼吸のタイミングを誤り、鼻や口から水を吸い込むと、耳管に水が入ることがある。きわめて細いパイプ状の耳管に入った水は、水の栓を形成する。  次いで水中で水を飲む嚥下運動が繰り返されるから、耳管内の水栓はピストンのように耳管内を往復する。そのため鼓室内圧の急変が生じ、鼓室と連続して腔をつくる錐体内の乳様蜂巣《ほうそう》も当然内圧急変の影響を受けることになる。  その結果、乳様蜂巣内の被膜や毛細血管も陰圧、陽圧の繰り返しによって揺さぶられ、ついに破綻《はたん》して錐体内出血を起こすものと推定した。そのため、錐体の内部にある三半規管は、急性循環不全をきたし、機能は低下して平衡失調、つまりめまいが出現する。したがって、いかに泳ぎが上手でも背の立つ浅瀬でも平衡感覚が失われ、溺れてしまうと私は考えた。泳げる人が溺れるのは、決して心臓麻痺などではない。  しかし、これだけで溺れは説明しきれない。わからないことがたくさんあり、さらに研究を進めていけば、溺れの実態は少しずつ解明されていくであろう。  また、錐体内出血を誘因とする溺死は、きわめて稀《まれ》な現象であるから、その不安のために水泳をしないというのは愚かなことである。今にして思えば、私が心臓麻痺という言葉に納得していたならば、この研究はなかったのである。偶然でもあり、またラッキーでもあった。 カレン事件  医療が発達してくると、思わぬ論議が出てくるものである。脳死という状態がまさにこれであろう。脳はすべての器官に指令を出してコントロールしているが、脳の神経細胞は他の細胞と異なり、再生能力がないので、一度破壊されると、修復補充されることはない。  この脳の機能が全体的に永久に停止した状態になったとき、死は目前であるが、人工呼吸器を取り付け、強力な治療を続けると、死ぬべき人が死なずに呼吸し、心臓は拍動して生きた状態が持続する。当然意識はなく、ちょうど昏睡状態のまま二〜三週間ぐらいは延命できるという。  しかし、絶対に生き返ることはない。途中でこのセットをストップさせれば即、死ということになる。  人工呼吸器が脳の指令に代わって機械的に肺に酸素を送り、呼吸をさせている。いわば機械に管理された状態での延命術なので、本質的には死と同じであるから専門医はこれを脳死と呼んでいる。だから、生きた体に死んだ脳などと、表現されたりもする。このような生き方は、死んでいる人を機械で動かしているようなもので、医療とは言えないという人もいる。植物状態患者とは違うのである。  植物状態患者というのは、脳の周辺部がダメージを受けて、意識はなく昏睡状態になっているが、中心部すなわち植物神経系(自律神経)の中枢にはダメージがないので、生きるための最低限の機能は保たれている。つまり深い眠りと同じ状況と思えばよいわけで、寝ていても心臓は拍動し、呼吸もし、消化、吸収なども行っている。いわば植物的な生き方をしているのである。  アメリカにカレン事件というのがあった。一九七五年、二十一歳のカレン嬢は友人の誕生パーティーで酒と睡眠剤を飲み、意識不明となった。以来半年以上も昏睡状態を続けた。人工呼吸器を取り付け、生命を維持したが、主治医から回復の見込みはないと宣告された。  両親は不自然な方法で死を延ばすより、装置をはずして神の御心に任せたいと医師に頼んだが、受け入れられなかった。両親は判断を裁判所に求めた。しかし、州の高等裁判所は「苦しんでも生きよ」と判決した。  娘の死を願う両親の真意は十分理解できるが、裁判所がその言い分を認めなかったのは、死の判定基準があったからである。医学的に脈拍、呼吸、脳波が生の状態にある以上、装置の取り外しは殺人行為にあたるとして、裁判所が取り外しを許可することはできないと判断したからであった。  ところが事故より一年後、ニュージャージー州の最高裁判所から条件つきで「尊厳をもって死ぬ権利」を求めていた父親の主張が認められた。医師の同意があれば、カレンさんを生かし続けている人工呼吸器を止めてもよいと判定したのである。カレンさんは間もなくセットを取り外されたが、自発呼吸を取り戻し、その後十年間も生き続けた。つまり彼女は睡眠剤中毒から、植物状態患者となっていたのである。  この事件は、脳死と植物状態の違いを一般人にも、わかりやすく説明できたケースであった。死にかかわる問題が、医学的にも法律的にも高度な判断を要求される時代になり、日本も脳死をどう扱うか、考えなければならない時期にきている。 モナリザ  火災や大災害などで多くの死者を出し、しかも死体の損壊が著しいと、個人を特定することが非常に難しくなる。日航機が群馬県の山中に墜落したときなども、損壊がひどく顔で個人を識別できたのは、ほんの一割程度であったといわれている。あとは指紋、歯型、身体的特徴、着衣などを参考にしたという。  法医学的に個人識別をする場合、その他にスーパーインポーズ(復顔法)という検査方法がある。頭蓋骨が発見された場合など、その人とおぼしき人の生前の顔写真と頭蓋骨の写真を同じ大きさにして、両方の写真を重ね合わせて像が一致するか否かで識別するものである。  私の知人にシャンソン歌手がいる。彼女はルーブル美術館でモナリザの絵を見て感動するうちに、ある種のひらめきがあって、もしかするとモナリザのモデルはレオナルド・ダ・ビンチ自身なのではないかと思いはじめたという。漠然とした考えをまとめてみると──モナリザの目はどこから見ても視線が合う。ダ・ビンチは自分の姿を鏡に映して、理想の女性像として描いたのではないだろうか。それが証拠に、左眼内側の鼻のつけねに小豆大のイボのような腫瘤《しゆりゆう》がある。ダ・ビンチの自画像には反対側の右眼内側の鼻のつけねに腫瘤があった。  さらに、モナリザの右手の親指と人差し指のつけねが丘状に盛り上がっている。ダ・ビンチは左利きで、親指と人差し指の間に画筆を持って絵を描いていたので、その部位にペンダコのような盛り上がりができたのではないだろうか。  そして、胸の乳房のふくらみが女性にしてはやや下がりすぎているような気がする──というのである。  この四点からダ・ビンチは鏡に向かって自分の顔を女性に見立てて描いたものではないかと推理したというのである。驚きであった。私は、絵についての知識はない。科学的にこれを立証できないかという相談なのである。  奇抜な発想にとまどいを感じた。確かに個人識別ではあるが、絵に描かれた人物像の識別である。法医学的検査の対象にはならないが、遊びとしてスーパーインポーズを応用してみるのも面白いと考えた。結局、テレビの番組として取材に応ずることになった。早速、図書館でモナリザとダ・ビンチのひげのある自画像をコピーしてきた。  絵の大きさが違うので、顔や大きさを計測して同じ大きさに調整していった。  でき上がった二枚の絵を重ね合わせて、電灯の光にかざして驚いた。画像はほぼ一致し、ひげのあるモナリザがほほえんでいたのである。  違和感はなかった。ただそれだけのことである。類似性があるといっても絶対的なものではなく、彼女の発想が当たっていたと断言できるものではない。しかし、私は視聴者に向かって、これだけ類似性があるので、今後大いに検討の余地はあるでしょうと語った。  テレビは、「モナリザは男だった」と謎に輪をかけてしめくくっていた。 命の残照  日本陸軍第八師団歩兵第五聯隊(青森)の将兵二百十名は、寒冷地訓練として八甲田山雪中行軍を実施した。明治三十五年一月二十三日のことである。猛吹雪に視界は閉ざされ、地元の道案内人もなく、磁石は凍結して方向は定まらず、道に迷った。  胸元まで雪に埋まっての行軍に疲労し、零下二十度という最悪の気象状況に加えて、軽装備も災いし、凍傷、食糧の凍結、睡魔との戦いに指揮は乱れ、将兵のほとんどは凍死した。生存者は十一名という惨たんたる結果に終わった。  小説や映画を見ての知識しかないが、あの極寒の中で服を脱ぎ捨て、素裸になって絶叫し、雪の中を走り廻って死亡したものがあった。寒さから、発狂したのであろうか。  警察大学で検視官の講義を終えたある日、東北地方在勤の検視官が、「凍死の現場へ検視に行ったら、服を脱ぎ裸になって死んでいたケースがあった。寒さで神経が麻痺し、発狂したと考えてよいか」と言うのである。現に北国では、このような凍死を、稀ではあるが、経験しているようであった。  私も凍死の検死、解剖は数多く経験している。しかし、服を脱ぎ裸になって死んだケースを見たことはない。教科書にも記載はない。的確な答弁はできなかった。  医師になって間もなくのこと、札幌に住む姉が出産時の出血から体調をくずし、一年後に死亡したが、その前日、姉から呼び出しがあった。病院へ出向くと、今夜は私から離れないでくれと言われ、付き添いの母と病室に泊まった。姉は暑いと言って掛け布団を何度もはねのけた。暖房があっても冬の札幌、暑いはずはない。体はひどく冷たかった。翌朝、姉は他界した。  生理学の本には、脳に体温調節中枢があり、暑いときは熱の放散を行い、寒いと放散を減少させ、体温を調節するとある。そうなのかも知れないが、それだけではこの奇異なる現象を説明することはできない。風邪をひき発熱するとき、体温は上昇するのに、ひどく悪寒を感じる。逆に解熱時には体温が下降するのに、暑くて汗をかく。たった二〜三度の体温の変化でしかない。体温と外気温の差が小になれば暑さを感じ、大になれば寒さを実感する。  こう考えると、裸の凍死の説明はつくような気がした。寒さで体温の放散が、生産を上回ると低体温になり、この状態が持続すると凍死になる。体温が二〜三度下降したとき、外界は極寒でも、体温と外気温の差がその時点で小となったので当人には、暑く感じるのではないだろうか。暑いと言って服を脱ぎ、掛け布団をはねのけたのも納得できるような気がする。しかし、死期が近いのも確かである。  燃えつきる前のローソクの炎にも似た、命の残照なのであろうか。 嘘  ある夏のこと、仕事から帰った夫がビールを飲んだ。間もなくウーッとうなって倒れ、意識を失った。妻はすぐ救急車を呼び、病院に収容した。普段血圧が高く、近くの医師にかかっていた。脳溢血に違いないから、早く治療をしてくれるようにと妻は訴えた。しかし、一時間足らずで夫は死亡してしまった。  医師は初診の患者が急死したので、死因は果たして妻の言う脳溢血なのかどうか、診療時間が短いので、わかりかねるとして、警察に変死届けをした。正しい判断であった。  警察官立ち会いで監察医の検死が行われた。急病死のようであるが、遺体の外表所見から病名を特定することはできなかったため、監察医務院で行政解剖することになった。  病死だろうと思って解剖したところ、意外や胃の中から青酸が検出されたのである。解剖室から直ちに警察に連絡がとられ、捜査は振り出しに戻った。  三日後、その家の使用人が事件の全ぼうを供述した。酒乱の夫を殺すため、妻がビールに青酸を入れたのである。目撃した使用人は、口止め料をもらっていたため嘘《うそ》をついていたのだった。医師が妻の言いなりに脳溢血、病死という死亡診断書を交付していたら、事件は闇に葬られていたであろう。  仕事中、棚から工具を降ろそうと踏み台の上に乗ったが、足場が悪かったため前のめりに転倒した。はずみがついて倒れ、床にあった石ノミがわき腹に刺さってしまった。すぐ病院に収容され、開腹手術が行われた。小腸に小さな刺創があって、腸内容がもれ、治療をしたが経過はおもわしくなく、腹膜炎を起こして六日目に死亡した。  医師は、災害事故による急性化膿性腹膜炎と診断して、死亡診断書を発行した。業務中の事故であるから、労災保険の適用になるので、事故の確認をとるため警察に届け出た。捜査の結果、事故の発生状況に間違いないと判断された。  しかし、このケースは単なる病死ではない。石ノミが腹に刺さって腹膜炎を起こした外因死であるから、監察医制度のある地域では監察医の死体検案を受けなければならない。つまり、臨床医の死亡診断書ではなく、監察医交付の死体検案書になるのである。  翌日、検死をする手はずになった。その夜、警察に、 「本当は、けんかで刺されたのだ」  との匿名の電話が入った。検死、解剖の結果と合わせ、厳しい調査をしたところ、同僚と口論けんかとなり、果物ナイフで刺されたことが判明した。臨床医はもちろん、警察までだましていたのである。  法医学の専門家が手術前の腹部の刺創をみれば、凶器が果物ナイフか石ノミかの区別はついていたであろう。しかし、患者は外科医によって緊急手術を受けている。創傷を観察して、凶器の区別などしている暇はない。とはいえ、凶器は着ているシャツなどの上から刺している場合が多いので、刺創が手術によってわからなくなっていても、着衣の切れ具合を観察すれば、凶器を割り出すことも可能である。  病院によっては、血だらけで不衛生であったから、着衣は焼却してしまったなどという場合もある。しかし、その着衣には犯人の返り血が付着している可能性もある。いかに汚く不衛生であっても、犯罪捜査上きわめて重要な物的証拠になるので、病院が勝手に処分すべきものではない。ビニール袋などに入れて保管し、警察に手渡すべきものである。  このケースは真夏のことで、上半身は裸であった。警察へのたれ込みがなかったら、この事件は、わからずじまいであったかもしれない。嘘というものは、事実をつくりかえているから、どこかつじつまの合わない部分がある。たとえ、たくみにカムフラージュしたとしても、その行為の不正義を許せない人などによって、たれ込みなどという別の形で、あばかれていくこともある。 すばらしき提言  一九三〇年代にアーサー・ハーストという人が、医師の診療中の態度、会話などの不注意から患者が自己暗示を受け、そのために誘発されて病気になったものを医原病(Iatrogenic Disease)と呼び、医師を非難した。  たとえば、診療中医師が個人的悩みのために思案し、患者の胸に聴診器をあてまわし、苦悩に満ちた顔をしながら、一言の会話もなく首をかしげて診察を終え、薬をくれたとする。患者は自分の病気は医師が苦悩するほど悪いのかと思い込み、大した病気でもなかったものが悪化する。このようなケースを医師への非難を込めて医原病といったのである。  本来患者を救い、病気を治すべき医師が、逆に病人をつくり出している。そのうかつさは、患者にとって許しがたいものであり、医師にとっては大きな反省材料であった。  しかし、今日の進歩した医療の中で、その概念は整理され、たとえばストレプトマイシンは結核にきわめて有効だが、連用すると聴力障害を来す場合があるとか、サリドマイドはつわりによく効くが、奇形児が生まれる危険があるなど、医学的文明病を指すようになった。  ややもすると、医師は患者に対して傲慢《ごうまん》になりがちである。ハーストの提言は謙虚に受けとめ、反省しなければならない。  私の尊敬する知人に、中学の校長さんがいる。定年退職するとすぐ、奥さんのやっていたすべての家事を自分でやり出した。とくに奥さんの体調が悪いわけではない。炊事、洗濯、掃除、ごみ捨て、さらには買い物かごをぶらさげてスーパーにまで出かけた。奥さんは、古い習慣にこだわり、夫に家事をさせるのは世間体が悪いと反対した。  校長さんは、暇だからやるのではなく哲学を持っていたのである。男の沽券《こけん》にかかわるなどとは思ってもいない。ごく自然にやりだした。そして、人間生活の原点は家事にあり、職業はそこから発展したもので、これを大切にすることが生きることだという。  新聞、雑誌、テレビの取材はもちろん講演会まで開かれ、校長さんの人生哲学は、専業主夫として世にアピールされた。その都度、遠慮がちに語られる姿は、先生の人柄を一層引き立たせた。とくに主婦からは歓迎され、日本有職婦人クラブ連合からベスト・メン'85賞を贈られた。  ただ単に男性が家事を受け持つのではなく、女性がいろいろな分野に進出していくことが望ましい未来をつくると言うのである。素晴しい提言である。  夫婦という共同生活の中で、考え反省しなければならない事柄であろう。何事も原点に立ち返っての反省は、よりよい未来をつくり出すに違いない。 責 任  幼いころ、父から何度か聞かされた話である。  母親が夕餉《ゆうげ》の支度中、わが子に砂糖を買ってくるよう頼んだ。子供は七〜八歳くらいであった。明治になって間もないころの片田舎のこと、砂糖は貴重品である。隣村の店まで往復一里(四キロ)はあった。日が暮れても少年は戻らなかった。  大騒ぎになり、家族は手分けして村中を探したが見当たらない。困惑しているところへ、少年はひょっこり帰って来た。たぶん夜の十時は過ぎていたであろう。  こんな遅くまでどこで遊んでいたのか、と母は叱った。少年は、砂糖を買いに行って来いと言われたから買ってきましたと、袈裟《けさ》がけにした風呂敷包みを差し出した。隣村の店へ行ったら、今品切れでないというので、どこへ行けば売っているか尋ねたら、町と店の名を教えてくれたので、そこまで行って来たというのである。  往復二四キロはある。暗闇の田舎道を少年は一人で歩き続けて、母の言いつけを果たしたのである。まあ!! なんという子であろうと母は驚き、二の句はなかったという。  大人たちの驚きの中に、少年の心意気と言おうか生き様がうかがい知ることができるようであり、母親もわが子が並の人間ではないと感じたに違いない。長じて少年は裁判官になった。農民の子でも勉強すれば、何にでもなれる時代になっていたからである。  この先祖の話は、わが家では言うとはなしに親から子へと語り継がれている。  昭和三十七年五月三日、常磐線三河島駅付近で列車が二重衝突し、百六十人の命が失われる大惨事が発生した。原因は信号係のミスか、運転士の信号見落としかと、国鉄内部では責任のなすり合いがあり、連日報道をにぎわしていた。  そのさなか、事故現場近くに住む若い母親が、事故の責任は私にあるといって二児を絞殺、自殺を図った。新聞にも載っていたが、検死に行き調査すると、母親は事故には全く関係のない精神分裂病の主婦であった。分裂病は時代の不安に敏感であるといわれるが、まさにそのとおりであった。  精神に障害のある者の異常な反応であろうが、国鉄の責任ある人々はこの記事をどう受け止めたであろうか。  中学の校長さんから、最近聞いた話である。  廊下にゴミが落ちていたので、そばにいた生徒に拾ってくずかごに入れるようにと言うと、生徒は「私がですか?」とけげんな顔をして、「捨てた人に言ってください」と言った。  誰が捨てたかはわからぬが、散らかったゴミは学校の生徒として片付けるべきである、と諭すと、生徒は「関係ないよ」と捨て台詞《ぜりふ》を残して立ち去ったという。時代は変わっても、人がなすべき任務に変わりはないはずである。 夢の殺人  戦後の混乱期にヒロポン(覚せい剤)が出回った。習慣性があり、慢性中毒になると幻視、幻聴、被害妄想などが出現し、そのための犯罪も多発した。  工員Aもひどい中毒になっていた。ある日、寝ている妻の首を絞め自宅に放火したが、大事に至らず殺人、放火未遂に終わった。  精神鑑定の結果、強度のヒロポン中毒による被害妄想と診断され、法律上は心神喪失と判定されて、責任能力なしということで不起訴処分になった。  心身耗弱と判断されれば、刑は減刑されることになっている(刑法第三九条)。それから十年、Aはヒロポンをやめ再婚し、会社に勤めていた。ある日、単車に乗り仕事中タクシーと衝突、下腿骨折を起こして右足は曲がってしまった。傷害補償金をもらい治療を打ち切ることにしたが、妻は一時金をもらったあと会社をクビになったら、歩行不自由な人を使ってくれる職場はほかにないと強く反対した。  貧しかったから、一時金には未練があった。Aは迷いに迷って精神不安状態になっていた。その晩、寝つかれないまま床に就いたが、突然三人の大男がAに襲いかかってきた。首を絞められ殺されそうになったので捨て身の反撃に出た。逆に相手の首を絞めつけたとき、 「ギャー」  という声を聞き、目をさました。Aは夢を見ていたのである。  しばらくして、頭がはっきりし意識がよみがえった瞬間、そばに寝ている妻が鼻から血を流し、死んでいるのを見て、自分が殺したことに気がついた。夢ではなかった。直ちに自首。  Aは殺人罪で起訴された。精神鑑定の結果、極度の神経質と軽度のヒロポン中毒後遺症がある。しかし、分裂病のような精神障害はない。夢について詳しく覚えているから意識はあったと思われる。とはいえ、周囲の状況を識別できるほどはっきりした意識ではない。さらに、殺されるという恐怖感が先に立ち、自己防衛のため慌てていたので、そばに寝ているのが妻であることすら分別する余裕もなく行動したようである、と分析された。  検察側は、精神障害はなく意識があったのだから、Aは心神耗弱に相当するとして、懲役四年を求刑した。  ところが、裁判長はこれを無罪と判決したのである。理由は、Aが妻を絞め殺したとき意識はあったが、周囲の状況や自分の行動の善悪を分別するだけはっきりした意識ではなかった。行動中自分が殺したという事実もわからず、また妻に対する殺意もないのでAに刑事責任能力があるかないかは問題ではなく、殺人という犯罪を構成するために必要な殺意がないから罪にはならない。さらに、意識を十分取り戻していないから過失致死罪のような過失もないとし、Aが殺したのは妻ではなく、夢に出て来た大男であると結論したのである。  裁きとは、ただ単に人間の誤った行動をとらえて罰するのではなく、行動を起こさせた思想、考え方、あるいは精神構造に焦点を合わせて評価するのであろう。裁きの難しさの中にも、ヒューマニティーを感ずる。 酒は百薬の長か  戦後間もないころの、わが国の死因のトップは結核であった。ところが新薬の開発、医学の進歩、そして環境衛生の確立とあいまって、結核や肺炎、腸炎などの感染症による死亡は年々減少して、死因のベスト10から姿を消した。  これに代わって、現在は一位癌《がん》、二位心疾患、三位脳卒中が死因のベスト3となっている。これらは成人病ともいわれ、現在の医学では治せない病気だが、近い将来癌の治る時代が来るといわれている。しかし心疾患、脳卒中は、動脈硬化などが主たる原因で、これは寿命が来た枯木と同じでどうしても治せないので、その進行を遅らせ、予防するしか方法はない。動脈硬化は年齢とともに多かれ少なかれ、誰の体にも忍び寄ってくる。  しかし個人差、性差(女は男より少ない)、生活環境、体質など種々要因があって一概には言えないが、中年になると肥満し、血中コレステロール値も高くなり、血圧も高くなる。働き盛りの男はとくに要注意である。飽食、運動不足、ストレスなどがさらに拍車をかけ、心臓発作や脳卒中を誘発する。  動脈硬化は血管壁にコレステロールがたまって血管が脆くなり、内腔が狭くなるから血流は悪くなる。流れをよくしようと心臓は普段より余計に働くので、徐々に心臓は肥大し、血圧も高くなり、脳卒中や心臓発作を起こしやすくなる。長生きするためには、どうしても動脈硬化がこないようにしなければならない。  育ち盛りの子供は栄養のあるコレステロールなどをたくさん摂取する必要がある。しかし彼らには動脈硬化は見られない。成長エネルギーとして消費されてしまうからである。成長の必要のない大人は、おいしいものを食べ運動をしないと、動脈壁にコレステロールがたまってくるので、運動などをして体を動かし、これを消費してしまう方がよい。  二十年前の研究であるが、飲酒もまた動脈硬化を予防すると私は学会で発表した。心臓の栄養血管である冠状動脈を調べると、あまり酒を飲まない人たちが年をとると心臓は肥大気味になり、冠状動脈に硬化が現れて心筋は十分な栄養がとれなくなり、狭心症や心筋梗塞を起こしやすい危険な状態になる。ところが酒好きの人(アルコール依存症といわれるような常習多量飲酒者)は冠状動脈の硬化は少なく、心臓はむしろ小さくなっている場合が多いので、心筋は十分な栄養をとっているように思われた。しかし、顕微鏡で詳しく調べると、血管壁に水分がたまって、血液中の栄養や酸素が心筋に十分供給されていないため、動脈硬化と同じように心筋が変性萎縮《いしゆく》していることがわかった。  酒を飲まないと心筋梗塞を起こしやすい。依存症といわれるほど酒を飲むと、血管壁に水分が溜まって動脈硬化と同じように、心筋がだめになる。  どちらにせよ極端はよくない。両者の中間で酒一〜二合の晩酌は心臓、血管系にとって非常によい結果をもたらすものである。飽食を慎み、年齢相応の運動と適量の飲酒など、自分にあったリズムで生活環境を整えることが、動脈硬化を予防する上で最も大切なことである。 アルコール依存症  酒に強い人と弱い人がいる。強いとか弱いというのは、飲酒の経験を積んだか否かによるものではなく、先天的要因によることが最近わかってきた。  体の細胞の中にアセトアルデヒド脱水素酵素という物質がある。この酵素が活発に働く人と、働きの弱い人が、生まれつきの遺伝で決まっている。酵素活性の強い人が酒を飲むと肝臓でアルコールはアルデヒドに分解され、さらに酢酸と水に分解されるので酔わない。活性の弱い人はアルデヒドの分解が不十分で、血液中にアルデヒドが出回り、酔いの症状が現れる。  前者は酒を飲んでもあまり酔わず、酒のうまさがわかってアルコール依存症になる傾向がある。後者は飲酒を重ねても、それほど強くはなれない。  飲酒経験の浅い若者がコンパなどで、先輩から飲め飲めとすすめられるまま、口あたりがよいので短時間に大量飲むと、あとでアルデヒドが分解されず血中に多量出回り、急性アルコール中毒症から心不全をきたして急死するなどの危険が起こる。  多量の飲酒(四合以上)を毎日続けていると、肝臓は脂肪肝から肝線維症となり、やがて治ることのない脂肪性肝硬変へと症状は悪化し、ついには食道動脈瘤《りゆう》破裂などを生じ、吐血、急死という結果になる。  男の依存症は酒びたりから仕事はそっちのけになって、収入も減り、上司からもうとんぜられ、身内からもつき上げられるから、反省を含めて一時酒量が減ることもあって、肝硬変になるまでにだらだらと十年くらいかかる。それでもやめられず、飲み続け家庭は崩壊状態になるケースが多い。  妻子に絞殺された酒乱の夫など悲しい話もあるが、それまでいかなくても、妻は子供をつれて家を出る。夫は独り暮らしから酒を飲み続けて吐血、急死か自殺へと追いやられる。  主婦の場合は止める人はなく、夫がいさめても飲酒をはじめた動機が夫の浮気などによる場合が多いので、かえってやけ酒をあおることになる。金がなくても主婦はツケで酒を入手できるので、肝硬変になるスピードは早く、五年くらいである。夫は妻を見捨てて他の女と同棲を始めたりする。結果は同じ、孤独な死である。  アルコール依存症の末路はあわれである。考えてみると、人間といっても細胞の集合体であり、細胞がアルコールを要求しているのである。体の中の細胞をうまくコントロールし、共存できなければ健康は保たれない。アルコール依存症になるのも、ならないのもそこにある。  自分の意志によって、細胞群の要求をある程度抑え、禁酒、禁煙などをして、体を調整することが必要であろう。この依存症は、嗜癖《しへき》に関することでもあり、衛生行政の届きにくい面もあろうが、検死の現場でしばしば遭遇すると、何とかならないものかとはがゆさを感ずる。都会の限られた地区の労働者にしか見られなかった依存症が、現在は全国の一般家庭の中にまで蔓延《まんえん》してきている。  アルコール依存症を個人の問題としてとらえていては、いつまでも解決はしない。温かく行政の手を差しのべ、家族ぐるみで対応し、明るい家庭、住みよい社会をつくるように努力しなければならないと思うのである。 中高年者とスポーツ  最近、一流企業の経営者や著名人の急死が続き、中高年者の突然死がクローズアップされている。外見上、健康者のように思われ、日常生活を営んでいる人が、突然急死するような場合がある。  中高年になって、太った体をスリムにしようとか、体力づくりを思い立ち、ジョギングなど急にハードな運動を始める人がある。日ごろ何の異常も感じていないから、よかれとしてはじめた運動が引き金になって、発症急死する。そのほとんどは心臓疾患系である。  このようなケースを検死し、解剖してみると、心臓の栄養血管である冠状動脈に多少なりとも硬化があったり、また軽度の心肥大などが見られる場合が多い。本人がこれらの異常に気づいていないところに、大きな危険が潜んでいる。生活に支障をきたすような自覚症状がないから、健康であると思っているのであろう。  ところが、軽い動悸や不整脈があったり、胃の痛みや胸の痛み、吐き気、背面痛、肩凝り、左上肢痛など、この中の一つでも感じたことはないだろうか。  また、普段は心臓を意識したことがないのに、なんとなく左の胸に心臓を意識するようなことを経験したことはないだろうか。一過性(一時的)ですぐにおさまってしまうから、気にしない人が多い。しかし、これこそが心臓異常の初期のサインなのである。この時期に専門医の精密検査を受け、治療を含めて生活環境を整えるべきなのである。  その他、心臓に悪影響を及ぼす要因に肉体的・精神的ストレス、寝不足、飽食、肥満などがあげられる。  以前は警察官と歯科医は短命であるといわれた。警察官は仕事柄過労、不眠に加え精神的緊張の度合が高く、歯科医は一日中立ち仕事で心臓に負担がかかるなどの理由があげられ、長生きできない職業といわれた。しかし、現在はこれらを改善し、汚名を返上している。  真意のほどはわからぬが逆に、今一番長生きしているのは服役者であるという。規則正しい生活、低カロリー食、心配ごとがない、などがその理由である。  とすれば、長寿の秘訣《ひけつ》はおのずとわかってくる。中高年になったら、安易にハードなスポーツを始めるのは考えものだ。まず専門医の診察(スポーツドクターによるメディカル・チェック)を受け、食事を含めた生活指導など総合的なアドバイスを受ける必要がある。その上で、自分の体に合った運動を徐々に行うのが、健康管理上きわめて重要なことであろう。  監察医は臨床医ではない。しかし、多くの解剖結果を要約し、死者からの警告として、生きている人に同じ過ちを繰り返さないよう、伝えることも仕事なのである。 法医学は知っていた  東京都二十三区内の年間死亡数は、四万七千人ぐらいである。その中の一五%強(約七千二百人)が不自然死で、監察医の検死の対象になっている。医師にかかることなく急病死した者や、自殺、他殺、災害事故死などである。検死だけで死因がわかる場合が七〇%で、残る三〇%は行政解剖によって死因の究明がなされている。  検死の際、あらかじめ警察の捜査によって家族や隣人、友人などから生前の様子、死亡前後の状況などが調査されているから、死因に対してある程度の見当はつく。しかし心筋梗塞だろうと思って解剖すると、脳出血であったりすることはある。また、脳出血と思って解剖してみると、胃袋から青酸カリが検出され、自殺か殺しかと捜査はふり出しに戻って大騒ぎになることも稀《まれ》にはある。仕事の難しさ、重要さを痛感する。  荒川で若い女性の漂流死体が発見された。検死をすると、口から泡をふき溺死のようでもあり、また頭部には首つり様の紐《ひも》のあと(索溝)があって、顔面はうっ血し、溢血点も見られ、縊死(首つり)のようでもあった。  自殺か他殺か──大事をとって検事の指揮で、監察医務院で司法解剖をすることになった。当時、若手の法医学者渡辺富雄監察医(現昭和大学医学部教授)が執刀した。結果は、首つりによる仮死状態からの溺死という判断になった。  これを自殺と推理すれば、荒川筋で橋などから首つりをしたが、途中で紐が切れ仮死状態で川に落ち溺死し、漂流したということになる。しかし、人目をはばかる自殺行動を考えると場所の設定に不自然さが感じられる。  他殺と考えるならば、首を絞め仮死状態にさせて川に捨てたことになる。この場合、索溝はネクタイを巻くように首を水平に一周していなければならない。ところが本件の索溝は、前頸部から顎の下を通り、耳の後から後頭部上方に向かっている。首つり特有の索溝で、死体所見と一致しない。  さらに別の手段を考えるならば、被害者の首に紐を回し後頭部で合わせ、犯人が紐を肩にかけて背負う。つまり背の高い男の背中で、女が背を合わせ首つりをするような形で、仮死状態になっているところを川に捨てれば、状況と死体所見は合致する。昔、石の地蔵さんを運ぶとき、このようにして背負ったというので、地蔵背負いの名がついている。  この方法は首に縊死の索溝が形成される。首つりはほとんどが自殺の手段であるから、自殺と思わせて、実は殺している。きわめて巧妙な殺しのテクニックである。  こんなことを知っているのは法医学に精通した、背の高い大男でなければならない。法医学を知らないとすれば、片手の不自由な人が相手を絞め殺す場合に用いる方法である。  二日後、女の身元が判明した。東京近郊に居住する十五歳の少女であった。捜査の焦点がしぼられてきて、犯人はいたたまれず自首してきた。片腕のない大男であった。  福祉事務所の主事で、中学卒業の少女の就職斡旋などで交渉をもっているうちに、不純な関係をもってしまった。この関係が露見すると自分の身が危ないと考えた主事は、少女を誰も知らない東京に移そうと計画したのである。荒川土手に少女を誘い出し、もっと待遇のよい就職口を見つけたからとしきりに転居、転職をすすめた。  しかし、男の気持ちを知らない少女は、見知らぬ土地で働くよりも、生まれ育った今の環境の方がよいと拒否した。男は止むを得ないと決心したのだろう。ちょうど、小雨が降りだした。  隠し持った日本手拭いを、ぬれると風邪をひくからと少女の肩にかけ、ころ合いを見計らって、手拭いの両端を合わせ持ち、背中にかつぎ、少女を地蔵背負いにし、土手を駆け降り、仮死状態になっている少女を荒川に投げ捨てたのであった。  死体所見から、犯人像まで言い当てるような事件は、めったにあるものではない。法医学の本領がいかんなく発揮された、珍しい事件であった。 異なる結論  戦後の混乱期、国鉄の下山総裁が常磐線北千住・綾瀬間で轢断《れきだん》死体となって発見された。検死後、司法解剖となった。鑑定結果は、死後轢断、つまり殺人事件と認定された。当時の社会情勢、死亡前の足どりなどからも、殺人の可能性は大きかった。  しかし、角度を変えて見直すと、必ずしも殺人とは言いがたいという専門家の意見もあって、この事件は自殺か他殺かをめぐり、社会的論争をまき起こした。一つの事件、一つの現象が見方により、解釈によって全く異なる結論を引き出すことがある。  大正末期の小笛《こぶえ》事件も、まさにこれであった。大学を卒業し、社会人となり、結婚することになった男が、それまで深い関係にあった小笛(四十五歳)に別れ話をもちかけた。翌朝、小笛は首つり死体となって発見され、しかも男と心中するとの遺書があり、二人の捺印《なついん》があった。しかし、男の姿はなく、小笛の解剖結果と相まって、偽装殺人の容疑が深まった。  小笛の手足には擦過打撲傷が散在し、前頸部上方とその直下に横に平行して走る索溝(紐などで絞めた痕跡)があった。また、現場はマル火鉢が転がり、座敷は灰だらけで、襖《ふすま》は破れ傷んで、敷居から外れて倒れている。なぜかまな板まで散乱していた。  小笛は男と乱闘の上、絞殺されたのち、首つり自殺のように鴨居《かもい》にぶら下げられたものであろうとの結論に達した。その証拠に前頸部下方の索溝は生活反応が強く絞殺時のもので、上方の索溝は死後首つり状態にぶら下げたものであるから、生活反応は弱いと、鑑定した法医学者は説明していた。  この鑑定の是非を三大学の教授に検討してもらうため、再鑑定となった。二つの大学から、やはり偽装殺人であるとの肯定的意見が出されたが、一大学からは自殺で説明がつくという予想外の鑑定結果が提出された。  それによると、小笛はマル火鉢にまな板をのせ踏み台にして、鴨居から首つりをした。しかし、完全な宙づり状態にならず、わずかに足が床につくなどの姿勢(非定型的縊死)となったため、頸部圧迫による無呼吸状態から痙攣《けいれん》発作を生じ、手足をばたつかせた。その痙攣で襖が破れ、敷居から外れたり、火鉢やまな板を蹴とばす結果となって、現場は灰だらけになった。小笛の手足の外傷はそのためである。また、頸部の索溝は下方で紐を巻き、首つりをしたが、死の直前の痙攣のため、紐が上方にずれたので、上方の索溝は下に比べて生活反応は弱いのだと解説した。  小笛の死体所見は、非定型的首つりの自殺の際の痙攣発作を考慮すれば、なにも偽装殺人と考えなくても、すべて説明はつくというのである。  自殺か他殺か──異なる結論に、世間も注目した。  裁判長は、さらに二つの大学にどちらの鑑定が妥当なのか、再々鑑定として意見を求めたのである。結果は二大学とも、自殺説を支持した。そのため、自殺とするもの三、他殺とするもの三と三対三の同率になり、この鑑定は終わっている。裁判長は結局、自殺説を採択して小笛事件は終結した。  失恋した小笛は、男に殺されたように見せかけ、狂言自殺をしたのであった。鑑定結果が人の運命を大きく左右することを思うと、日々の研鑽《けんさん》をないがしろにすることはできない。 死者の人権を守れ  人生を存分に生き抜いた人には、死んだ後のことなど関心はないかも知れない。周囲の人たちもただ安らかに葬ってあげたい気持ちでいっぱいであろう。しかし、死者の検死や解剖を仕事とする監察医の立場から、死後の事情について一言、説明を加えたい。  わが国では死んだ場合、まず病死(自然死、主治医が死亡診断書を発行する)と犯罪死(検事の指揮下で司法解剖する)に分けられる。  しかし、その中間に医師にかからずに突然死したり、自殺、災害事故死、あるいは病死なのか犯罪に関連があるのか不明の、疑わしい死に方がある。これらは異状死体(不自然死あるいは変死体)として警察に届けられ、警察官立ち会い(警察の検視は死体を含めあらゆる状況まで見、調べるので判断の中心は法律である)で医師の検死(死体を検査し、死因を調べるので判断の中心は医学である)が行われる。この異状死体の扱いを制度化したものが、監察医制度である。  死体解剖保存法第八条に基づき、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸の五大都市において施行されている。検死のみで死因がわからなければ、行政解剖をしてこれを明らかにし、病死か犯罪死か、あるいは自殺か災害死かなどを区別している。一見、非情に思われるかも知れないが、死者の人権を擁護している制度なのである。  この中から、ときには隠された殺人事件などを発見することもある。そればかりか、戦後ポックリ病が発見され、原因解明の研究が盛んとなったことは周知の通りである。  その他、泳げる人が溺れるのは心臓麻痺などではなく、それなりの原因のあることが究明され、また運転中の急死、スポーツ中の急死などの実態も明らかになって、それぞれに予防対策が講じられてきている。  老人の自殺を見ても、独り暮らしよりも同居の老人の自殺が多く、動機も病苦といわれていたが、実は身内からの疎外感が主であることがわかって、国の福祉の対応もそれなりに変わってきている。  その他、生命保険の問題や交通事故、労災事故などの補償問題で後日トラブルになることがある。これらの対応にも適正な判断ができるよう記録も保存され、監察医が意見書を提出したり裁判の証人に立つことも多い。  このように監察医制度は、ただ単に変死者の検死、解剖をしているだけではない。データは必ず、生きている人に還元され、予防医学にまた衛生行政に役立っているのである。  ところが、わが国のほとんどの地域は監察医制度がないので、全死亡の一五%をしめる異状死体は、臨床医が検死をし死因を決めているのが現状である。生きてはいないのだから、治療の必要はないのだから、医師であれば何科の医師でもよいというのであろう。  しかし、それは誤りである。風邪をひけば内科へ行き、ケガをすれば外科へ行く。わが身を守る上で当然の選択である。これと同じで異状死体の検死は、死体を見慣れ、死者と対話のできる監察医や法医学者に任せないと、もの言わずして死んだ人々の人権は守れない。死者にも、医師を選択する権利があろう。  そのためには、地方自治体に任された監察医制度の活用が必要である。東海大学、琉球大学、そして茨城県の筑波大学のように、新たにこの制度と類似の方式で検死、解剖のシステムを確立し、発足させたところもあるので、これらを参考にして、地域ごとに大学の医学部と連携し、全国的に推進させなければならないと思う。  死者はどのような制度があっても生き返らない、などとあきらめてはならない。死者の側に立って人権を擁護している医師もいるのである。 あとがき  医師の世界では国家試験に合格すると、ほとんどのものは聴診器を持ち患者を診療する臨床医になるのが普通である。  法医学を専攻するものは非常に珍しく、一つの大学で十年間に一人もいればよい方だ。最近は大学も増え医師の数も多くなったが、この分野は依然として医師の過疎地帯のままである。  私が常道から外れたこの法医学を、迷いと不安を抱きつつも選んだのは、田舎で開業医をしていた父の勧めと、三〜四年勉強し、博士論文でもまとめたら臨床へ転向しても遅くはないと思ったからでもあった。  しかし、やってみるとそれなりに興味がわき、ついにやみつきとなって、法医学一筋に生きてきた。とくに、監察医になってからの体験は貴重であった。  私が関与した事件には浅沼委員長殺傷事件、三河島列車二重衝突事件、全日空機羽田沖墜落事件、ホテルニュージャパン火災事件、日航機羽田沖墜落事件などがあり、日本の事件史とともに歩んできた感がある。  学問的には、溺死《できし》の研究に錐体《すいたい》内出血という新説を発表することができたし、また老人の自殺の調査研究では、国の福祉のあり方が見直され、改善されるなどの影響を及ぼした。監察医として衛生行政に参加してきたが、このような仕事ができたことに、喜びと誇りを感ずる。  その他、多くの事件にかかわり、死者との対話を続けて今日に至っている。  ある新聞記者から取材を受けた。  「先生のように死者の人権を大事に守っている人は少ない。多くの死者が、きっと先生に感謝しているに違いない。先生があの世に行ったときには、世話になった死者たちが大勢、花束を持って出迎えてくれるでしょう」  自分の死後のことなど考えたこともなかったので、一瞬とまどったが、もしかすると、そうなのかも知れない。二人で大笑いした。  そんなある日(昭和六十年の春)、時事通信社の『厚生福祉』、松田鈴夫編集長の訪問を受けた。厚生省の横尾和子医事課長(現大臣官房政策課長)から紹介されての来院であった。私は厚生省の医道審議会委員(死体解剖資格審査部会)をしていたし、監察医務院は東京都に所属しているが、厚生省管轄でもあったので、医事課にはなにかとお世話になっていた。  週二回発行の『厚生福祉』に寄稿してほしいとの話であった。福祉には縁遠い仕事であったからお断りしたが、それにこだわることなく、監察医の視点で自由に書いてくれればよいという。折に触れ感じていたことのメモなどをたよりになんとか今日まで書き続けてきた。  それをベースに今回、出版局の藤田昌司氏から、単行本として出版しないかと話が持ち込まれた。他人さまに読んでもらえるような文章ではないが、監察医という職業を通じて、私の人生観が少しでも表現できれば、法医学三十四年の集大成として意義があろうと思い、引き受けた。出版にあたり、大変お世話になった松田鈴夫編集長と出版局の藤田昌司氏に、心から謝意を表する次第である。 一九八九年八月一日 著 者  文庫版あとがき 『死体は語る』を上梓したのは、平成元年(一九八九)九月である。思いがけず大ヒットし、ロングセラーとなっていたが、十二年目の今年(二〇〇一)やっと文庫化することになった。  思えば昭和六十年(一九八五)の春、私が監察医務院長であったころ、時事通信社の「厚生福祉」担当の編集長、松田鈴夫氏の訪問を受けたのがはじまりである。役所の厚生福祉や保健など衛生行政に携わる方々が読まれる、週二回発行の情報誌に執筆して欲しいという話であった。専門が法医学であるから、二、三回は関連する話は書けるかも知れないが、それ以上は無理だとお断りをしたが、それにこだわることなく、監察医の視点で自由に書いてくれればよいというので、それならばいいたいことは山ほどあるので、引き受けることにした。月一回のペースで書くことになった。  こんなめずらしい事件がありましたというのは、新聞や週刊誌でよい。私は一つの事件を通して自分の考え方、生き方を書きたかった。それが読者の共感を呼んだのだろう。好評であった。  三年程経ったある日、今度は出版局の藤田昌司氏から、単行本として出版しないかという話が持ち込まれた。文章や文字数にこだわらず、監察医の仕事の紹介を兼ね、事件を通して先生の人生観をノンフィクションとしてまとめてみてはとすすめられた。  丁度、六十歳であった。  今までは好きな仕事として、法医学を監察医の立場でただがむしゃらにやってきた。しかし、一般の人々は監察医制度を、あまりにも知らなすぎる。死者の生前の人権を擁護し、社会秩序の維持に貢献している、この監察医制度を世にアピールするのも、自分の仕事であると常々思っていたから、話はすぐにまとまった。  当時、医師も六十歳定年であった。しかし監察医と保健所のドクターは、成り手が少なかったため、定年は六十五歳まで延長され、優遇されていた。しかし、監察医三十年、二万体もの検死・解剖を経験したし、院長も五年やらせてもらって、丁度六十歳だ。くぎりもよい。あと五年、欲張って勤めてしまっては、頭も体も回転がにぶくなって、ものを書くのはむずかしくなる。ここらで退職し、集大成のつもりでやってみるのもよいのではないか。そう考えて、ふんぎりをつけたのである。  今まで書いてきたものに、少し手を加えるだけの作業であった。  本のタイトルを私は初め「死者との対話」にしようと思っていた。ところが編集者の藤田さんは、それではインパクトが足りない、しかも「対話」は美濃部都知事によって、さんざんいいつくされた古い言葉で、新鮮味がないと言う。それでは藤田さん、あなたはどんなネーミングを考えているのかと尋ねると、「死体は語る」ですといったのである。  びっくりした。恐ろしい感じがする。そしてあまりにもダイレクトで、品がない。本棚に入れておいても、夜中に亡霊が出て来そうな不気味さがある。それじゃ読んでもらえない。私は即座に反対した。  藤田さんの説明はこうだった。数年前、丸谷才一さんが『たった一人の反乱』という本を書いた。ベストセラーになっていたから、私も知っていた。丸谷さんは当初『たった一人の反逆』とネーミングしていたが、編集会議で「反乱」に訂正されたというのである。日本語としては、一人で行うのは反逆であり、大勢でやるのが反乱である。それをあえて「たった一人の反乱」とおかしな日本語をつなぐと、見た人は、エッ!! と一瞬タイトルに釘づけになるだろう。それがインパクトだというのだ。 「死者との対話」もかなりのインパクトはあるにはあるが、「死体は語る」は、ものいわぬ死体が、ぶつぶつとなにかを喋り出す。その方がはるかにインパクトが強いと思いませんか。いわれてみれば、その通りである。説得力のある説明に感心し、私の考えたタイトルなどは、吹きとんでしまった。  これが売れるきっかけになった。藤田さんのすぐれたセンスのお蔭である。今は本の解説など、評論家としてご活躍中である。  文庫化にあたり久し振りに読みかえしながら、当時を思い出した。  時代は変った。同時に人の心も大きく変ってきた。十年ひと昔、現職のころの事件は、被害者と加害者の人間関係が、金や異性の問題などでくずれ、犯人も苦しみぬいて殺人を決行したのである。  ところが現在は、犯人を捕えてみるとムカつく、キレたであり、車内で足を踏んだ踏まないとか、あるいは一度殺してみたかったなどと、動機にならない短絡的な感情がベースにあるようで、いとも簡単に殺人を犯しているのである。  手口も変ってきた。高額な保険金が絡んだり、あるいは巧妙な毒殺事件が多発し、これに伴ってバラバラに死体を分散遺棄するような事例が増えている。恐るべき時代になってきた。  しかし、これに対応する検視(検死)制度は旧態依然のままである。法医学の専門家が検死をし、死因がはっきりしない場合には、監察医制度のある五大都市は別として、容易に解剖することのできる制度にはなっていない。変死の概念がはっきりせず、変死届も出されたり、出されなかったりしている。だから事件が闇に葬られる可能性は高いのである。  全国的に監察医制度を導入することは、予算上からいっても無理であるが、一県一医大があり専門家がいて、解剖の設備も検査部門もととのっている。一変死体を検死・解剖したら三十万円の予算をつけるなどの行政処置を設定すれば、一県で年間五十体の変死事件があったとしても千五百万円の予算で、その県の秩序は保たれるのである。  一日も早く、このような態勢を確立することが望ましい。そんな願いを込めて私は、文筆活動を続けているのである。 二〇〇一年七月 著 者  単行本 一九八九年九月 時事通信社刊 文春ウェブ文庫版 死体は語る 二〇〇三年三月二十日 第一版 著 者 上野正彦 発行人 笹本弘一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Masahiko Ueno 2003 bb030303