上坂冬子 おんなの一人旅 目 次  みちのく仙台・歌のたび  食べ損った米沢の牛なべ  信州長野わが青春のまち  山口で定期預金の講演料  淑女修行にロンドン行き  遅ればせながら出雲詣で  ああ日本縦断男の品定め  奈良の都で心のせんたく  老後は五戸でおだやかに  �ハワイ土産�は水戸納豆  燕で出会った怪物爺さん  ニューヨークの人間模様  女流作家と北陸路をゆく  姑の代理で箱根家族旅行 [#改ページ]   みちのく仙台・歌のたび  幼なじみの事件記者 「せまい日本、そんなに急いでどこへいく」という標語がある。私はどうも好きになれない。何となくヒネくれた感じがするから。どうせ日本はせまいのサ、という自嘲的なひびきをこめて、せっせと精出して歩いている人に水をさしているようで嫌なのだ。  たしかに日本はせまいけど、歩けば歩くほど面白いことがある。  たとえば、こんなふうに——。  仙台の旅は、例によって講演旅行であった。朝、上野を発って、ひるすぎに仙台に着き、女子高校で一つ講演をすませたあと、夕方、一般市民に向けてもう一つ講演をするというスケジュールだという。どうしようかな? と迷いながら、私の頭にふと一人の男性が浮かんだ。まん丸な赤ら顔、ごわごわの白髪、暴飲暴食の結果を示すが如きたるんだ腹まわり。小柄な体をゆすりながら、しかし足まめに、実に行動的にかけまわる新聞記者の彼に、久しぶりで会って、みようか。よしッ、彼に会う旅とすればたのしみも湧く、と私はたちまち決断した。彼は私と同郷、同年の人で、山本金太郎という。学生時代から通称キン坊と呼ばれ、ある種の人気者で私とはウマが合った。長い間事件記者をしていたのを、この春の栄転で仙台支局長になって東京を離れたのである。こうと決めたからには、マサコさんも誘うのがスジというものだ、と私は早速電話をとり上げた。 「ねえ、キン坊に会いにいく気ない? 仙台に行く用事が出来たの。一緒に行こうよォ」  マサコさんというのは週刊誌の事件記者で、同業のよしみのせいか、キン坊こと山本支局長とは古いつき合いの人である。 「ヘエッ、チャンス! 行こう、行こう。うるわしのわれら二人が訪ねれば、キン坊狂喜感激よォ。実は爆破事件の犯人の実家が宮城県なもので、あれこれ後日譚を拾いにアタシも北の方へ行かにゃならんとこだったの」  彼女も独身の中年だから身が軽い。二つ返事で話はまとまり、予定の日の朝九時に私たちは上野駅で落ち合った。マサコさんは色白の大型こけしみたいなその顔をゆったりほころばせて大きな袋を下げている。 「あらァ、気が利くわねェ、べんとう持ってきてくれたの?」  私が目ざとく見つけていうと、 「違うわよォ。ホラ、キン坊って案外ええカッコしいでしょ。部下の手前、格好がつくように上等のウイスキー一本持ってきたの。なに、貰いものよォ」  聞き終らない中に私は、のりかかった汽車から飛び降り、ホームの売店へかけ寄った。 「ス、すいません。雷おこし二箱。そう、その一番大きい立派なヤツを」  マサコさんは事件記者に似合わず、いつもうすぼんやりほほ笑んでるけど、なんてよく気のつく人だろう。サラリーマンの奥さんにおさまったら、さぞや、内助の功をつくすだろうと思われる。いや、というよりも私が気が利かなさすぎるのか。今の今まで私はお土産など夢にも思いつかず、キン坊がどこへ案内してくれ、何を食べさせてくれるかということのみ、ひたすら想像をめぐらしていたのである。  とにかく土産を確保し二人仲よくシートに並んで腰を下ろすと、汽車はゆっくり動き出した。ところで——ようやく落着きを取り戻した私は、こっそりとマサコさんに耳うちしたのである。 「ねえ、詩人の大岡|信《まこと》さんが、この汽車に乗っておられる筈なの。今日の講演会はあの方とのコンビなのよ。それらしい人探してみて」  大岡信氏といえば格調の高い文芸時評でも著名な方である。時々拝見しているお写真は、どれもにがみ走ったいい男、という感じであり、私はこの人との組合わせに内心萎縮する思いであった。あんな立派な人とご一緒してもいいのだろうか?  通路の反対側をのぞき込むと、おお、黒のワイシャツに黒のズボン、白髪をかき上げながら物憂い表情で窓の外を見ている人がある。 「あの人だ!」  二人とも一瞬息を止めた。いや、しかし……。 「詩人があんな週刊誌を手にするかしら?」 「第一、詩人はあんな靴ははかないわよ」  週刊誌の表紙は水着のグラマー、靴は一目で分るイタリー製で、茶とクリームの見るからにキザなデザインである。二人そろってそのままず、ずいと前の方へ目を移すと……。 「ウン」  今度は二人そろってニンマリうなずいた。間違いなくあの人だろう。「大原富枝著、建礼門院右京大夫」という分厚い本をパタンと閉じたまま、するどいまなざしで窓の外を見つめておられるその風貌は、たしかに新聞の文芸時評欄で見おぼえがある。まちがいあるまい。コンビの講師を見定めると、何故か二人とも安心して、ゴクリとお茶をのみ、そのままぐっすりと寝入ったのであった。  エンヤトットの民謡校歌  目がさめると仙台で、駅頭に陽気ないがぐり頭の先生が出迎えていて下さった。さしずめ漱石の「坊っちゃん」でいうと�山嵐�という感じのこの人は英語の先生だそうだ。大岡詩人と正式に挨拶を交し、マサコさんをホテルに残すと、車は一路、常磐木学園という名の女子高校に向かう。  さて、どんな学校だろう。何を話そうか。  いまどきの女子高校生の胸のうちをとらえるなんて、考えてみればむずかしい話である。大岡詩人も同じ思いなのか、腕を組んで瞑想の構えであった。  まもなく学校につくと、今度は金ブチめがねをチカチカさせた恰幅《かつぷく》のいい漱石の�赤シャツ�風の副校長先生がご挨拶に出て下さり、それがすむといよいよ本番である。当然、弱輩の私が先に講演することになり、わたり廊下を通って講堂に入ると……。  壇上が何とも異様な設定である。これまで様々な会場に通されたけれど、講師は壇上の真ん中に立って話すのが常識であった。ところがここは、演台が舞台の片すみに寄せられているのである。こういう形式は生まれてはじめてであった。舞台の袖の間近に演台をおき、講堂を対角線に見下しながら話せというのである。何故こういうことになっているかというと、余りに生徒数が多すぎるからである。床にはもちろんぎっしりと生徒が並び、中二階も超満員、それでもまだ余った生徒は何と壇上に椅子を持ちこんで並んでいるのだ。演台を、真ん中に置けないゆえんは一目瞭然であった。  ふとわきを見ると、何とまあ、舞台の袖のどん帳の奥にも座布団を敷いて、セーラー服の女の子がガン首をずらりと揃えている。生徒総数はざっと二千名か——。  感心してる場合じゃない、と私が背すじをのばして一礼し、やおら挨拶をはじめようと思った折も折、突如として背中のあたりから、バーンと勢いのいいピアノの音が鳴りわたった。  何事だろう? と思う間もなく、曲は聞き覚えのある大漁節と判明した。すなわち、エンヤトットのあの歌である。何がはじまるの!? と私が思わずうろたえたその時、二千名の生徒は一せいにパクパクと口をあけ、勢いよく歌いはじめたではないか。   「みどり濃きサヨー 森の都のわが学び舎《や》よ    それはエーエ 楽しい学び舎よ」  民謡校歌というのはあとにも先にも聞いたことがない。   「芸術とサヨー 自由の花の咲きかおる園    それはエーエ 楽しい学び舎よ」  学び舎を謳い上げるのはいいけれど、サヨー エーエ、などと前おきのつく学び舎は他に例がないんじゃないかしら。  恐れ入るというか、感心するというか、圧倒されるというか、呆れるというか。今や声もなく私が立ちつくしていると、例の�赤シャツ�先生がそっと歌詞をわたして下さった。「作詞校長 松良宜三《まつらぎぞう》」とある。ホオ、校長先生みずからねえ。民謡替え歌の作詞をたしなむ校長先生に、私は俄《にわ》かに興味津々となった。  四番まで歌詞通りに歌い終って、ようやく座が静かになると、どぎもを抜かれた私はいつになくオタオタしながら、 「ンまあ、おどろきました。いきなり歌で迎えていただくと、何かこう、私も歌でご挨拶しなきゃならないような気がして……」  こういいかかると、生徒二千人は意外にも拍手喝采するではないか。つまり、ヤレヤレェ! とけしかけの拍手なのだ。何ともはや活気のある女学校である。講演が終ると�赤シャツ�先生は控え室に私をリードしながらつぶやいた。 「実は、前回、寺山修司先生と、岸田今日子先生をお招きしました時も、両先生、あの歌にはびっくりされましてねえ」  寺山氏も岸田女史も、さぞや目を丸くしてしばし息を呑まれただろうけど、当面の問題として詩人大岡信氏はどうなるのか。私はいい。私はいいけど、繊細な詩人をあんまりビックリさせないであげてよ、と祈るように思いながら、私は控え室でそれとなく講堂の様子をうかがった。控え室にもスピーカーの設備があり、講堂の音が流れてくるしかけになっている。  と、いきなりカン高いピアノの音が流れてきた。ヤッタァ!  宴会倫理も替え歌で   「お客さまです うれしいな    お待ちしていた わたしたち    ようこそ ようこそ 大岡《ヽヽ》センセ……」  なるほど、来客歓迎の歌もちゃんと用意してあり、時に応じて名前を入れ替えるしくみなのか。しかし、その歌に包まれた格調高き詩人の表情やいかに……。どうやら大岡先生は情に棹ささず淡々と話をすすめておられるらしい。 「……日本語というのは�合う�という表現を大切に致します。たとえば筍とわかめの�炊《た》き合わせ�なんて言いますね。�貝合わせ�という遊びもあります。いがみ合う、抱き合う、喜び合う、という風に�合う�という言葉を……」  オーソドックスな講義に、満場水を打ったような雰囲気らしく、私の時のようにヤレ、ヤレェというはやし立てはみじんも起きていない。大岡先生は時々詩の一節など口ずさみ、講演は佳境に入っているらしい。  天に向かって馬が走り、その馬が金色に輝いた、という意味の詩をスピーカー越しに聞きながら、私は吐息をついた。 「詩というものは私にとってまるでなぞなぞだわ」  情操的なニュアンスとはおよそ程遠い生活にあけくれている者には、とうていふみ込めない境地だからと、匙を投げる思いで私が控え室のソファで背をのばすと、�赤シャツ�先生が例のめがねをチカチカさせながらにこやかにやって来られた。五十路はすぎておられるだろうに、語尾のハキハキした快活な印象の先生である。 「実は、私どもの学園は、元来、音楽教育に特に力を入れておりまして、校長は昔、菊池寛先生のお嬢さんにピアノを教えておりました。何しろ校長は大正のころに親の勘当を受けながらも、音楽の道にいそしんだ人間ですから、校風もおのずとこうなりまして、ハア。職員の結婚式などもすべて替え歌でもり上げます。わたしがこちらの学園へ転任して参りまして、第一番に命ぜられたのが黒田節の替え歌でしてね。『お前、国語の担任だからやってみろ』というわけで……」  歯ぎれのいいのは国語の先生の故か。とにかく国語の実力だめしというその替え歌を見せて下さいな、と私がねだると、先生はそそくさと職員室から歌唱集を持って来られ、黒田節の節まわしで歌ってみて下さいという。   「虹立つ道の はるけきを    誓いもかたく 生きゆくと    より添い立てる花|夫婦《めおと》    いざや のみ干せ愛の酒」  さすがに、国語担任! 感極まって声もなくページをめくれば、次は「宴会倫理の歌」とある。思わず衿をただすと、   「酒は飲め飲め飲むならば    つぎ差しやりとりやめにして    おのれ乱さず程もよく    飲むぞ楽しき酒の道    テーブルスピーチある時は    飲み食いさらにかまわねど    私語することは慎みて    耳を傾け聞くものよ」  宴倫規定を示すこの歌詞は、誰あろう、かの大漁節替え歌の作者、松良校長先生であった。さすがに長年の年季というべきか。天地晴朗の気を謳い上げた赤シャツ先生とはまた別枠の、ユーモラスにして明快なその歌詞に私は惚れ込んだ。「おのれ乱さず 程もよく」とは言い得て妙、まこと、そうやって飲めば誰からも文句いわれずにすむのだ。赤シャツ先生は私の感嘆ぶりがお気に召したのか、 「私どもの学園はかれこれ創立六十年の伝統を持っておりますが、万事こういう具合で、卒業式などは生徒の奏でるオーケストラに添って、送る者と送られる者がすべて歌でやりとりします。うす暗い講堂の中を、髪に白い花をつけ、滂沱《ぼうだ》と涙を流しつつ進む清純な乙女の列を、一度お見せしたいですなあ。  ハァ、何しろうちの生徒は音感が発達しとりますから……」  ゴリッパという以外に言葉はない。  ゲテモノ食いもオツなもの  昼夜二回の講演会が無事に終ると午後九時。赤シャツ先生に先導されて「春風亭」へと辿りついた。入口は由緒ある寺の山門のような構えの料亭である。創業元禄年間とか。  座敷に入ると、新劇の宮口精二氏のような風貌の男性がすでに鎮座しておられる。ワイシャツの代りに、ルパシカを着て、その上を背広でかため、くさりをダラリと垂らして、首からめがねをつっておられる様子は何とも風変りである。であるけれども一種の風格がただよっている。正体も分らぬまま私が軽く一礼して席につくと、ルパシカ紳士はやおら名刺を取り出し、 「覚えにくい名前ですので、上にウかんむりをかぶせて下さい」  差出されたその名刺を見ると、おお、校長の松良宜三《まつらぎぞう》その人ではないか。ウン、なるほどウの字のかんむりをかぶせるとウマヅラか。へえ、あなたが例の宴会倫理やら大漁節の替え歌の……。  私のまなざしは急遽《きゆうきよ》、十年の知己に再会したかの如く豹変した。  やがて女中さんがカタカタと音をたてて、うるし塗りの岡持ちを運んできた。またたく間に、しっとりした骨董クラスの重箱が卓上一ぱいに並ぶ。どの箱も赤塗りの地にくっきりと山菜づくめの献立てである。山うどと味噌の皿、おひょろんこ、しどけ、わらび、たらの芽、こごみ……。山うどに味噌をつけてガリッとかじったあと、辛口の酒をぐいとのみ干すと、胸がカーッとして、我知らず、昼間の大漁節を口ずさみたい心境である。小鉢には東北名産のホヤ貝が入っている。 「このホヤ貝のプーンと臭いのがうまいんですが、如何です。秋田の方ではこれを|い《ヽ》貝と申しまして、漁村を歩いてると『いがいありまし』なんて書いてありますな。獲れたては実にうまいです。これを時々ホレ、例のニタリ貝と混同する人がいましてネ」  ウマヅラ先生がぼつりぼつりと語られる。ニタリ貝というのは、四国あたりで獲れる貝で、殼をあけると女性の性器そっくりの身が出てくるため、漁師が思わずニタリ……という話を私もかねがね聞いたことがある。 「土佐日記の中でも、紀貫之がニタリ貝についてふれてます。ハァ、かなりエロチックな描写ですが……」  今度は詩人がウマヅラ校長先生に話しかけた。 「ホウ、エロチックと申しますとつまりどんな風にですかな?」  校長先生は、時事問答のような厳粛な口調できき返しておられる。 「つまり、漁師の女房たちが浜辺に出てしずかに頭を垂れ、見下すと朝まだき水面にそのゥ、つまりうつっているわけですよ……」  詩人が口ごもりつつ解説されると、校長先生は相変らず淡々と、 「ハハァ、つまり当時は何も穿《は》いておりませんからな。なるほど」  何もなるほどと感心するほどの話ではあるまい。私が笑いを噛みしめつつ黙々と山菜に箸をのばしていると、話題はいつしかゲテモノ食いの話に変った。 「何ですな。へびめしというのはうまそうですな。釜の蓋に小さな穴をあけておきまして、めしと一緒に蛇を炊きこむんですわ。次第に煮えてきますと蛇があがきましてな。蓋の穴から苦しまぎれに首を出すわけですな。かくするうちに身体の部分はめしと共に炊き上りますからして、炊き上ったところで、蛇の頭をぐいと穴からひっぱりますと、骨だけが、ずーっと抜けてきて、うまい身が、めしの中に残る、とこういうわけですな」  もちろん話し手は校長先生、うまそうですねえと相槌打つのは詩人である。 「わたしは昔、蓼科の別荘でまむしをとりまして、カバヤキにしたことがありますな。自分じゃ食べなかったけど、知らん顔して親戚の子に食わせたら、中学生がケンカはじめたから、ありゃ、やっぱり精がつくんですな」  と校長先生。 「そういえば、どじょう地獄っていうのがありますねえ。とうふのまわりにどじょうを泳がせて煮ると、どじょうがアツがってとうふにもぐり込むというヤツ。あれは食べたことないけど、どんなかなあ」  と詩人。 「しあわせな味でしょうな。どじょうもつめたいとこへもぐって、ほっと一息ついてから死んだわけですから」  と校長……。七十歳はとうにすぎておられるだろう。淡々と、ひょうひょうと、山菜をついばみながら私利私慾は超越してしまわれた風のこの人を見ていると、何故かあの替え歌がひどくもっともに思われてくるのであった。   「芸術とサヨー 自由の……    それはエーエ 楽しい学び舎よ」  旅の�上り�の原稿節  さて、宴のあとは問題のキン坊である。約束の十時すぎに新聞社の青年が迎えにきてくれた。支局長はかなり出来上ってまして、とてもお迎えに上れませんのでボクが代りに……と純情そうなその青年記者はいった。 「児雷也」と書いた看板の下の縄のれんをくぐると、田舎家づくりのカウンターの前で、キン坊は赤ら顔を更に紅潮させ、 「オウ!」  と手を振っている。久しぶりに見るせいか、めっきりふえた感じの白い髪の下に、赤くまん丸い顔は何やら紅白のお供えを髣髴《ほうふつ》させる。マサコさんはとっくにホテルを抜け出してここへ来たらしく、ポチャポチャした白い頬にうっすらとピンクがかかり、タレ目でご満悦である。この時、キン坊がやおら立ち上った。 「今夜は両女史歓迎の意味で、得意のヤツを一曲いくぞォ」  派手なアクションで手拍子にかかると、ワイシャツの前がはだけ、みぞおちからへその上にかけて、スパーッと胃かいようの手術の跡がみえる。 「これかァ、こりゃ、帝王切開の跡だァ」  キン坊の大声に、炭火の前で魚を裏返していた男まさりのおかみまでが、呆れたように笑いくずれると、記者団ご一同は一せいに歌いはじめた。   ハッ、一つ。一人で書く原稿を、   トクダネ原稿と申します。 月給上りマス。   …………   ハッ四つ。酔っぱらって書くのを、   でたらめ原稿と申します。 あとで訂正デス。   …………   十《とお》ッ。トシとって書くのを、   論説原稿と申します。 誰も読みません。 「ちょっとォ。あたしも歌うゥ!」  ついに私も手拍子をとりながら立ち上った。   二つ。フユコが書くのを、   サービス原稿と申します。 中身、軽いデス。   …………  かくて「ふり出し」からリズムに始まり、乗りに乗りまくった仙台歌の旅は、最後までリズムに浮かれて、いつしか「上《あが》り」に近づいたのであった。   食べ損った米沢の牛なべ  寝台車をめぐる大騒ぎ  この先、たとえどんなことがあっても、二度と米沢にくるものか、と私はギリギリしながらこぶしをにぎりしめた。  事の次第はこうである。  すべり出しは順調だったのだ。羽田を十二時四十分に発って、山形空港についたのが定刻の二時。  ぐっすり寝入って目がさめると、そこはもう枯れすすきのみちのくの空港であった。  出迎えて下さった地元新聞社の営業マン氏はテラッとした男前で、意外なことに東京弁である。ああ、よかった。こういう人がいてくれれば、万事手落ちはあるまいと、私は浮き浮きして男前氏を見上げたのである。  さて、山形空港から、目ざす米沢まで車でざっと二時間かかる。  東京弁氏と共に田んぼの中をつっきって国道を走ると、あたりはまさに「里の秋」で、軒下に干し柿が下り、張りかえられたばかりの障子がまばゆい。穫り入れのすんだ田んぼの隅に、ところどころ白い煙がたなびいているのは、脱穀の終ったあとの藁を燃やしているからであった。小学唱歌の一部に出てくるようなこんな風景が、まだ日本に残っているのだなあ、と感慨に浸っていると、東京弁氏が、 「実はこれが一種の煙公害でしてネ」  ハア? 小学唱歌から一転して、インターナショナルの労働歌の世界にひきもどされた思いで聞き返したら、 「穫り入れが終ると、一せいに燃やすでしょ。最盛期にはあたり一帯が煙でかすみ、ただでさえどんよりした東北の田んぼ道は、昼間からクルマのライトをつけて走らなきゃならない有様なんですよ」  ホウ、それは、それは、などと適当に相槌を打つうちに車は野を越え丘を越え、やがてどこにでも見られるような商店街を通り抜けて、町はずれの新聞社にたどりついた。 「ありゃァ、もう着かれたかネ。支社長は東京から先生サ来るで、小ざっぱりせねばちゅうて、散髪サ行っとるが」  玄関にとび出して来たドングリマナコの青年の言葉に、私はおうようにほほ笑み返しながら「仕上りをたのしみに待たしてもらいますわ」と、この辺まではすこぶるご機嫌だったのである。  さて、新聞社の応接セットにすわると、待ちかまえていたように、「社団法人米沢工業会」の常務理事の名刺を持った年配の紳士が歩みよってこられた。講演会は、その米沢工業会の五十周年記念行事なのである。終戦前、米沢にかなり格調の高い高等工業学校があったことは私も伝え聞いている。現在は山形大学工学部になっているけれど、旧工専の卒業生が中心となって結成されたという工業会に、私は少なからず興味を持ち、はるばる訪ねてきたのだ。  見るからに好々爺《こうこうや》という感じの常務理事氏は、挨拶もそこそこに早速こうきり出された。 「講演は六時からですが、それまで私どもでお店を用意しましたので是非地元名物の米沢牛を……」  えッ、会食? 嫌だなあ、気疲れするもの。口には出さなかったけれど、私はありありと表情にあらわした。 「いや、長旅でお疲れとは思いますが、みんなたのしみにしとりますので。ま、とにかく米沢牛肉はほかとちがいますで……」  細面てをくずしながら、しきりに誘われる常務理事氏の前で、私は押し黙ったまま憮然とした。たのしみにしようがしまいが、そちらの勝手ではないの。かくして持ち前のいら立ちがはじまりかけた折も折、例のドングリマナコの青年が、いとも気軽にいい放ったのである。 「あッ、ソーダ。マッコトにすいませんが一つおことわりせにゃなりません。お帰りの列車はA寝台がとれず、B寝台になりました」  な、何ですって!  実は、何年か前、カイコ棚みたいな三段仕立てのB寝台で私は懲りているのである。隣のいびきがやかましいので、そっとカーテンのすき間からのぞいたところ、向い側にアザラシみたいな男の寝顔がごろんところがっているのを、モロに見てしまったのだ。まず、あれほど愚鈍な男の顔を見たのは前にも後にもはじめてであった。ぽかっとあいた口から、だらりとよだれがたれていた様子は、いま思ってもぞっとする。ああ嫌だ、嫌だ。他の事は徹底的にきりつめるから、せめて寝台はAに乗りたいと、それ以来、私の体内にB寝台アレルギーが巣喰ってしまっているのである。それにそもそも、人を招いておいてB寝台だなんて、非常識な話ではないか。  ——ここに至って私は、ついに冒頭の如く二度と米沢なんかに……といきり立ってこぶしをにぎりしめたのであった。  いじらしい女心を察してよ 「困ります。もしA寝台がとれなければ、私はこの足ですぐ東京にひき返します」  いい放った時、すでに私の顔は青白くひきつっていたらしい。その顔をみて、ドングリマナコ氏があわてだした。 「あのゥ、いろいろ手は打ってみたですが、どーしても取れんちゅうことで……」  いまや会食の件など眼中に無い。私は工業会常務理事氏の存在を無視して席をたつと、新聞社の電話にかけ寄り、血相変えて空港のダイヤルをまわした。いまから東京に引き返せる飛行機は無いか?  何もそうカンを立てることはないではないか、殺されるわけじゃないんだし、戦時中を思え戦時中を、列車の屋根に乗った時代だってあるではないか、と人はいうかもしれない。  けど、アザラシを目撃した外にもう一つ、私には私なりの事情もあった。米沢から夜行に乗ると上野着は翌朝の六時。すぐその足で家にかえって着換えをすませ、朝のワイドショーにかけつけねばならない予定になっていた。女、四十代の寝不足の顔など、人前に出せるものではない。何が何でもA寝台で手足をのばし、クローズアップに耐えねばならぬ。テレビ出演の前夜は、私はいつも話の内容などそっちのけで、ただ美しくうつりますようにと、そのことのみに心を使うのである。  ああ、それにしてもこんなとき、頼りにすべき東京弁氏はどこへいってしまったのだろう——。  胸のあたりがキューとしまり、頭にガンガンと血がのぼって、目はクラクラと焦点さだまらず、背中にじっとり汗がにじむという状態のまま、私は表へかけ出した。とにかく駅へいってみよう。米沢駅長に直訴すれば、何とかA寝台一枚くらい都合をつけてもらえるのではないか。一心、岩をも通す——。  ちょうどその時、例の支社長氏が、散髪屋からテカテカの頭でかえってきて、上機嫌で、 「ンやー、どうも、どうも」  と顔中しわだらけにして見せたが、この際、上機嫌氏などにかかわり合ってはいられない。  疾風の如く走り出ると、新聞社でもようやくただごとでないと思いはじめたのか、例のドングリマナコ氏が私を追ってきて、結局二人で、なだれ込むように駅にたどりついた。 「駅長は、ハァ、今日は休みですが」  なら助役さんは? とかぶせるように聞くと、 「助役は、ハァ、いま列車を見送りにホームへ出とりますで、ゆっくりスて下さい」  ゆっくりできるくらいならここまで来やしないわよ! とのどまで出てきているのを噛み殺しつつ事務室で待つことしばし。  米沢駅は昭和の初めの建築だろうか。殺風景な骨組みで、すでに相当に痛んでいるけれど、しっとりと人を包み込む木造特有のあたたかみがある。ふと見ると、ドングリマナコ氏の横顔の何とあどけないこと。男にしてはキメのこまかい色白の顔は、いかにも雪国育ちらしい清潔さがにじんでいる。BだってAだって横になって寝れるんだからおんなじことだろうという気持で、たいして気にもせず切符を用意してくれたんだろうなァ、と思うと何故かふと彼があわれでもあり、無言のまま、私は少しずつ人心地を取り戻した。まあいいわ。最悪の場合は、ブドー酒の小びんと精神安定剤を買おう。ガバッと飲んで横になれば、東京まで死んだように眠れるかもしれない。  まもなく、帽子に赤い線の入った助役さんが戻られた。そこで早速中年女の黄色い頬と、雪国の青年の色白の頬と、ガン首二つを揃えて、すがるようにA寝台をたのむと、助役氏は考え深げにコックリと神妙にうなずいたあと、重々しく宣言したのだった。 「まんいツ(万一)キャンセルのあった時には、イのイツばんにおタクさんにお廻しします」  もはやがっくりと言葉もなく、私はすごすごと新聞社から指定されたグリーンホテルにひき返したのである。  おかめうどんの大盛り一丁  誰が名づけたのか、そのグリーンホテル。まず、入口のロビーでは、ゆかたに着換えた客がたむろしてテレビを見ている。エレベーターは? と聞いたら、 「階段がそこにあります」  コーラの自動販売機のかげから、学芸会の小公子みたいなボーイさんがとび出してきていった。なるほど三階建てだからエレベーターは要らないか、とつぶやきつつ階段を上ると、つき当りに、 「大声で民謡をうたわぬこと。超音波風呂が一階に有ります」  とある。二階の一号室に入って、私はべッドの上にハンドバッグを放り出したまま、つっ立った。部屋の隅に洗面台が一つ。枕元には、やけに赤い電気スタンドが一つ。トイレもなければ風呂もついてない。ええい! テレビでもガンガン鳴らしてやろう、とスイッチに手をかけたら、 「左側の穴から百円玉を入れて下さい。約百二十分間映ります」だって。  ともかく、講演前に一応の腹ごしらえをと思い、窓のカーテンをひいて町を見下すと、目の前は青いトタンの民家で、料理屋らしい気配すら見当らない。仕方なく電話で、 「食堂は何階ですか?」  と聞くと、何たることだ、このホテルに食堂は無いという。 「アノォ、うどんかそばでスたら出前をとり寄せますが……」  ああ、もうなるようになれ! 万策つきた私は、 「ほんじゃおかめうどんの大盛りお願い」  涙まじりにこういうと、倒れるようにべッドに仰向けになった。  ここ数年、ひとりぐらしのつれづれなるままに、閑居すればろくなことはないからと、仕事の合間を縫って講演旅行を重ねてきたけれど、こんなことはもう止めよう。「体にいいこと何かやってる?」なんてCMがあるけれど、こんな旅は体に毒だ。  天井の白さが妙に悲しい——。  と、トントンとドアが鳴ってうどんが届いた。お盆を持ってニコーッと笑っているのは十八、九の娘ざかり。 「ま、うどんでも食べて、ゆっくりスて下さい」  なぐさめ顔にいうその口ぶりは、ひょっとして寝台車をめぐる悶着《もんちやく》を知っているのかしら? いや、まさかと気をとりなおし、テーブルとは名ばかりの台にうどんを運ぶと、丼から立ち上った湯気がホーッと顔に当り、私は何故かうら悲しくなった。オカーサーン。  さて、沈む心をかき消すように、パリンと勢いよく箸を割り、丼のふちを鳴らしてうどんをかき込みはじめた途端、 「リーン」  と電話である。 「あノォ、新聞社のものですがァ」  ウン! で、切符はどうなりましたッ? 「あノォ、その切符のことですが……」  だから、どうだったのよォ! 「あノォ、いま、駅から連絡ありまスた」  結論をきいてるのよ、結論をォ! 「あノォ、一枚とれまスた」  見知らぬ町の見知らぬ店で  胸のつかえがコトリと落ちた。よかったあ——。同時に私はポロッと腑抜けたように心やさしくなった。ありがとう。一枚あればいいの。ごくろーさん。  しかし、かといって、いまのいままで目をツリ上げていたのを、急にニタニタするのもサマにならない。つなぎのところをどういう顔つきですごすべきか、答えの出ないうちに迎えがきた。  会場の文化会館につくと、例の工業会常務理事氏は、胸にリボンなどつけてさっきとは打って変ってつやつやしている。米沢牛を囲んでアルコールがまわったせいだろう。 「米沢工業学校は、明治四十三年の創立で、数々の名士を生んどります。東京ガスの社長、石川島播磨の前社長、それに変ったところでは吉本隆明……」  吉本隆明氏といえばアウトサイダーの思想家として異色な人である。あの人が工業《ヽヽ》学校のご出身? 「ハア、応用化学です。なんでも、福島から通学しとられて、汽車の中でたんと本を読まれたために、ペンの世界に入られたちゅうことですわ」  理事氏の話によると、工専は今もそのままの建物が残っていてさきごろ文化財に指定されたとか。 「昔の建物はようできとります。柱と壁の間に、ホンの少しスキ間があけてあって、これが床下から屋根裏までずーっと一貫しとるんですわ。風通しを考えたわけですなあ。六十年たった今も、どこといって腐敗しとらんのはそのせいだちゅうことです。一体誰が設計したかちゅうてしらべたところ、設計図はあるが作者の名が分らんそうです。たぶんイギリス人だろうという想像だけで……」  図面はあれど姿は見えず、作者不詳というところが謎めいていていい。ついにここで私は、昼間の表情をがらりと変えて目を輝かせ、講演終了後に是が非でも星空の下の旧工専を見たいと思った。 「ご案内致しましょう」  ふり返ると、いつの間にか再び東京弁氏が姿をあらわしたではないか。都合の悪いときはさっと姿を消し、出番と見るや、さっそうとあらわれる。その東京的処世術のうまさよ。  工業会結成五十周年記念講演会には、ざっと五百人ほどの市民が集まった。米沢市の人口は十万を少し下まわる。まあ盛況というべきであろう。みちのくといっても、市民の表情は明るく、会場では時々どっと笑い声など立った。  七時半。講演を了え、東京弁氏とともに旧工専見物に向かうと、何たることだ、すでに商店は完全にあかりを消し、市内はシンと静まっている。 「当地は日が落ちると間もなく、店は戸を閉めてしまいます。バスは最終が七時すぎですから、講演会なども終了時間にかなり気を使いますよ」  聞きながら私はうなだれた。  そうすると、|あの《ヽヽ》計画は無残にもご破算か。実は、私がはるばる米沢までやってくる気になったのは、ひそかな計画あってのことだった。常務理事氏の会食を避けたのもこんたんがあったからだ。講演が終ったら、私はたった一人で町を歩き、気ままに牛なべをつつくのを、何やら冒険にも似た思いでたのしみにしていたのである。見知らぬ町の見知らぬ店で、じっとなべの中を見つめる薄幸の女——。メロドラマの主人公の如き我が姿を夢にまで描いていたものを、日が落ちたから閉め出しだなんて——。  旧工専までは車で十分。月あかりに照らし出されて、おお、そこに見たのは、まさに�学園�そのものである。とんがり帽子の屋根が二本、対になって狭き門の象徴の如く並んでいる。ペンキ塗りの木造は、夜目にはっきりしないけれど、多分クリーム色ではないか。こんもりとした植込み。正面玄関の奥に輝くハダカ電球。超然と、端然と、しかも素朴な親密感をただよわせた建物は、豪華にあらず、質素にあらず、巨大にあらず、貧弱にあらず。つまりそのたたずまいは、どの角度から見ても�ほどの良さ�を保っているのであった。  こみあげる苦い思い  夜行列車は十二時四十三分に米沢を発つ。それまで一休みというわけで例のグリーンホテルに戻ると、牛なべを食べ損った胃袋は、まるで空気枕の如くカラッポである。おそらくこのあと駅へいったって何もありはしまい。上野着は明朝六時五分。それまでどうやってもたせよう? そもそも工業会の宴会をニベもなく断るなんて、そのこと自体が、いかにも人間として不作法極まる話ではなかったか。今となって、空腹と共にみじめな反省がこみ上げてきた。下のロビーにコーラの自動販売機があったけど、コーラじゃ空腹は癒やせない。途方にくれて窓の外の星空を見つめていると、オヤ? どこからともなく鳴くような、叫ぶような笛の音がきこえる。 「ピーッ」  何だろう? 首をのばして表通りをのぞくと、四つ角のカゲから白い湯気が一筋流れている。 「おお、あれはきっと食べ物屋にちがいない!」  無人島に漂流した人間が、助け船を見つけた時はまさにこんな心境だろう。私は財布をわしづかみにすると、階段をかけ下りたのである。  湯気の正体はやきいも屋であった。釜から立ち上る蒸気圧を利用してピーピーと笛が鳴っている。人通りの全く無い町の四つ角で、切ない笛の音をひびかせている一台の屋台に近寄ると、私は一思いにいった。 「おじさん、大きいとこ四つ頂だい」  ホテルに戻って胸にかかえたおいもをベッドの上にひろげ、おお、我れ危機を脱出せり! とカラ元気をつけてみたもののどうも気が浮かない。テレビでも見るか、と百円玉を放り込むと、UHFは古い西部劇である。スジも何も分らぬまま、画面に目をやりながらおいもの皮をむいているといつしか十時になった。あと二時間半、横になろうかそれとも誰かに葉書でも書こうか、と思ったその時、コツコツとドアが鳴った。今頃人が訪ねてくるはずはない。  と、再びコツコツと鳴る。 「どなたッ?」  思わず声に警戒の色が出た。 「あのう……」  蚊の鳴くような女の声である。女ならいい、と戸をあけてみると、裾まである防寒用のスカートをはいた中年婦人が、おびえたように私を見上げた。 「このホテルを経営している者でございます。失礼かと存じますが、夕食をお外しになったようにお見受けしましたので、こんなもの如何かと思いまして……」  まあ! と思わずいったのは、喜びと、うろたえと二つの思いからである。よろこびというのは申すまでもなく夕食にありついた嬉しさ、うろたえというのは「さては、おいも買いがバレたか!」という思いである。ああ、それにしても夜中にわざわざ食べ物を届けて下さるなんて!  新聞紙をひろげると、黒ぬりの弁当箱である。蓋をあけるとプーンと松茸の香りがただよった。松茸とぎんなんと栗とみつばを炊き込んだ見事な「山の味」だ。みつばが青々しているのは、タイミングを外さず混ぜ合わせたからだろう。丈の短い割箸がそえてあるのは、なるべく邪魔な荷にならぬようにという配慮だ、と私は思った。  心の底がぬくぬくとして、思わず口元がほころぶ。人からこんな情けを受けるのは何年ぶりだろうか——。  まてよ、いまは昔かしら? 私はいま、どこに立っているのかしら? 頭の中がもうろうとして、「時」の感覚さえも消えてしまいそうな中で、私の胸には「米沢なんぞ、二度とくるものか」と息まいたあの瞬間がさっとよぎり、その思いがよぎったあとに苦い思いがこみ上げた。何もはじめての土地で、ああまでいきり立つことはなかった——。長年の評論家稼業で、知らない間にずいぶん思い上った女になってしまったなあ。  牛なべを誘ってくれた理事氏のおだやかな細面て、私のいら立ちにドングリマナコであわてた青年、赤線の帽子の大まじめな助役氏などが、次々に目の前にチラついては消えた。  米沢にはまたあらためてこよう。機嫌よく牛肉を食べに出直そう。私は弁当箱の蓋を、いつになくしとやかな手つきで閉じたのである。   信州長野わが青春のまち  長野から来た三通の依頼状  午後の便にまじって白い封筒が届いた。裏返してみると「春日静夫」とある。未知の人からの便りは珍しいことではないけれど、私がしばし差出人の名に見とれたのは、余りに繊細なその筆蹟であった。女の髪ほどの細いペン先で、すらっと華奢《きやしや》な、もしかしたら、竹久夢二という人はこういう字を書いたんじゃないかしらと思えるような字体である。  そもそも春日静夫なんて、名前そのものからしていかにも詩的ではないか。  長野市立通明図書館館長と肩書きがあった。信濃路の町はずれの、小ぢんまりとした公立図書館の一室で、半生を本の間に埋めてきた人か——。何故か私の瞼には、白絣の衿元をキチッと合わせた往年の石川啄木の像がよぎった。たぶん——たぶんああいった顔つきの人にちがいない。来る日も来る日も黙々と本に目を落とし、思索の日々を送る館長さん。時々目を休めて見上げる窓の外は、ああ相変らず曇り空なのだろうなあ。  相変らずと親しげに書いたのはほかでもない。実はほんのわずかな時期だったけれど、その昔、私は長野市に住んだことがある。たしか女学校の二年生の終り頃、父の転勤について長野へいき、三年生の時に終戦を迎えて田舎へ引きあげたのである。だから長野市は私のセーラー服時代とかさなって一そうなつかしい土地でもあるのだ。  さて、封をあけてみると、例によって講演の依頼状である。「本を読む母親のつどい」の年次総会で話を——というのであった。いこう、というよりいきたい、と私の胸はうずいた。  それから二、三日後のことである。同じく「長野市PTA母親文庫運営委員会」から、同じ趣旨で講演に来ないかと手紙が舞い込んだのは。こんどの差出人は女性で、金原靖子というその字は、いかにもたくましくおおらかで、見るからに女傑風である。対照的な二通の手紙を並べながら、私は何故かクスリとおかしくなった。繊細な男性と、豪放な女性か——。  と、二度あることは三度あるとはまさにこのことで、翌日、今度は長野県須坂市立図書館長から前二通と全く同じ趣旨の手紙が舞い込んだではないか。  よし、こちらの条件として、二日間で三カ所を巡回できるようにスケジュール調整をお願いしよう、私は即座にこう判断したのであった。  この条件をまず誰に話したらよいか。早速三通の封書を裏返して並べ、筆蹟鑑定よろしく、一番頼りになりそうな人をさぐりにかかった。まず、第一に失格したのは「春日静夫」さんである。この人の字体は見れば見るほどひそやかで、この字からは色白の、首の細い、何ともはや頼りなげな像しか浮かんでこない。およそ事務レベルの問題を持ち込める相手ではないと私は判断した。残る二人の字を見比べてさんざん迷ったあと、まあこの際は見るからに大胆な筆蹟の金原女史にすべてをお願いしようと心に決め、返事を書き送ると、数日後に机の上の電話が鳴った。 「もし、もし。こちら長野のカネハラと申しますが……」  ハア? 一瞬、耳を疑ったのも無理はない。相手は少女のようにか細い声である。まさかあんな字を書く人が、こんな声を出すなんて——。が、しばらく会話を交すうち、声に似合わぬご年配であることはたちまち察しがついた。話しの進め方が実に簡にして要を得ている。この人に頼んだ以上、万事うまくいきそうだと私は安心し、同時に一体、実物はどんなオバさんかしらと謎の小箱を拾ったようなたのしみを抱いた。何しろ行き先は昔住んだ強味があるから、電話口で私も浮き浮きしている。 「あの、もしお願い出来たら、宿は犀北《さいほく》館か五明館にお願いします」  犀北館というのは女学校への通学途上にあった古い宿である。今も殆ど昔のままの格式を保っていると人づてに私は聞いていた。五明館というのは母と一緒に散歩がてら善光寺へいくときにいつも通りすがった門前の古い宿である。  あの二つのうち、どちらかに泊ってセーラー服にモンペの青春を思い出してみるのもまたたのしからずや。 「宿の件は承知致しました。早速手配してみます。ところで……」  カネハラ女史はここでちょっと声の調子を変えて、意外なことを言い足した。 「カミサカさんの昔の同級生がお会いしたいって、いっておられますけど、宿に伺わせてよろしいでしょうか?」  えッ、私は息をのんだ。長野の女学校に通ったのはほんの一年足らずである。しかも三十年も前の話である。おまけに上坂冬子というのはペンネームである。一体、誰がセーラー服姿の本名の私と今の上坂冬子とをむすびつけて思い出してくれたのだろう? 「だ、誰ですか、その人は?」  とせきこんで聞いたら、 「あの、いろんな方たちが全部で五、六人いらっしゃるとか……」  是非会わせてほしいわと、私は思わず声をつよめ、胸の中にアツいものを感じて電話をきったのであった。  三十年前のクラスメート  さて、当日。  上野を二時半に発って、長野着は五時半。一泊二日の旅のスケジュール表によると「長野着、ホームまで金原、出迎え。下りた場所にてお待ち乞う」とある。ご指示通り下りたところから一歩も動かずに立っていると、ああ、金原女史は一目で分った。  何もかもが字体から察した通りなのだ。角ばった顔、デーンと貫禄充分の体躯、イカリ気味の肩、その肩全体に根を張ったように丈夫そうな首。我が鑑識眼はピタリ当って一分の狂いもない。たくましきその人はそそくさと私にかけ寄って、さあさ、どうぞと意外にも軽い身のこなしで車へリードし、着いたところが五明館であった。講演の仕事は、その日の夜一カ所をすませ、翌日、午前と午後に二カ所をまわる予定になっている。  その夜、須坂の講演を了えて、宿舎の五明館にもどったのは九時すぎだったろうか。女中さんが「みなさんお待ちかねで……」と玄関わきの座敷の戸をあけてくれた。明るい座敷を一目みた途端、小笠原さん!  三十年前の小笠原さんが目の前にいるではないか。まあ、あなた、いくら変らないったってこれほど変らない人がいるもんかしらァ。私は思わず昔のままの口をきいた。小笠原さんはパーマもかけず女学生時代とおなじひっつめ髪を、背中で一本にまとめていたのである。 「で、あんた。いまも小笠原さんなの!?」  私は期待に胸はずませた。昔からこの人はハイミスになりそうな気配があった。三十年前と同じフチなしめがね、頬のあたりのニキビの跡、三日に一度しか顔を洗わないような雰囲気があったけど、その雰囲気がまだそっくりそのまま残ってるところが嬉しい。  相変らずなりふりかまわぬこの様子は、婚期を逸した何よりの根拠……。 「いえ、わたしいま子供が三人よ」  えッ! あからさまに拍子抜けの表情を見せた私に、居並ぶ中年女性はどっと笑った。ヒイ、フウ、ミイ……みんなで七人来てくれている。ああ、コノ人知ってる、アノ人も覚えてる……。どの顔も、不思議な位、女学生時代の名残りをとどめ、みんな覚えているけれど、残念ながら名前は小笠原さん以外思い出せない。 「で、小笠原さん、くどいようだけど恋愛結婚なの?」  聞きながら我しらず声に疑いがこもった。昔から、どことなくひょうひょうとしたところのある人で、情熱をたぎらせ、恋一途に打ち込むことはあり得ないはずだけど……。 「あたし見合いなの。長男がいま小学三年生だから、かなり晩婚なのよ。実は姑が……」  この時、まわりから注釈が入った。 「小笠原さんは卒業してから学校の事務室に就職されたの。そこへいまのお姑さんが来られて一目ボレ。そうお姑さんは私設結婚相談所の所長さんだもんだから……」  えッ、で、いまも結婚相談所を? と私は一膝のり出したが、お姑さんは息子の嫁をまとめたのを機に相談所をおやめになり、今は近所の人々もうらやむ嫁姑の仲で、幸せな老後をゆっくりお過ごしとか。  あらためて小笠原さんを見ると、なるほどお姑さんもいいところに目をつけたものだ。ひょうひょうとした才女は、いつしか欲も得も屁理屈もしゃれ気もない主婦となって、落着きはらっている。  と、小笠原さんの向かい側で、そう、たしか戦争中に軍需工場で一緒に無線機をつくった覚えのある人が、風呂敷包みから弁当箱をとり出した。 「今年は思いのほかおいしく漬ったので」  ああ、本場の野沢菜漬けである。とろりとアメ色の、これこそ長野へ来なくては味わえない野沢菜だと、私が早速ガツガツ手をのばすと、彼女はちゃんとカーディガンのポケットに爪揚子まで御持参で、そっと渡してくれた。かつての同級生がまるで育ての親みたいに思えてくる。ずっと一人で仕事をして生きてきた人間と、主婦の座に落着いた人とでは、このあたりの気のつき方が違うのか。 「アタシんとこは子供は男と女と一人ずつなの。主人は十五人ばかり人を使って車の修理工場をしてるもんだから、アタシが経理をやって、早い話が共稼ぎなのよ」  上の子は大学受験だそうである。フウンとうなずきながら私はひそかに逆算した。  ——してみると結婚は二十五歳ということか。私がもしあの時、あの男のとこへ嫁《い》ってたら、今頃は大学生の母ってことになるなあ。二十五歳の頃お見合いした、丸ポチャにめがねの男の顔がふっと頭をかすめる。  嫁き損ったのは私だけ 「ねえ、結局|嫁《い》き損ったのは私だけかしら?」  ヤケ気味にあたりを見まわしたら、どっと再び笑い声がおこり、入口の二人がニコニコと手をあげた。 「おお、あなたたち!」  思わずかけよりたいほどのなつかしさが湧く。黒スーツの彼女は一人っ子の虚弱児で、体操の時間はいつも見学してたっけ。つまりあなた、適齢期に病気でもして出おくれちゃったの? 「とんでもない。あたし子供の頃は弱かったけど、大人になってから風邪ひとつひきません。貧乏すると人間丈夫になるのよ。父が亡くなっていま母と二人きりなの」  母一人子一人という人が出そびれる例はよくあるけれど、一人娘で何不自由なく育っていたこの人が、まさか四十すぎまで独身で、ついに一家の柱になったなんて、セーラー服時代に誰が考えたろう。そういえば恥ずかしながら私は昔、彼女にバカなことを聞いたものだ。 「ね、あんたんとこ、もしよそからヨーカン一本もらったとするでしょ。それ全部あんたのもの?」  何しろ私は十人きょうだいである。ヨーカンでも、法事のまんじゅうでも、すべて私の口に入るのは十分の一であった。子供心にしみじみと一人娘の立場をうらやみつつ、ヨーカン一本全部あんたのもの? とたしかめたのも無理はない。その彼女がいま、勤め先の銀行で勤続二十五年の表彰を受けたとは——。 「で、あなたは?」  もう一人は目のまん丸のショートカットの人であった。彼女には雨ふりに傘をかしてもらった記憶がある。私の方は何しろ十人きょうだいだから、雨だろうが雪だろうが、誰も迎えになぞ来やしない。彼女のところへはいつも若い叔母さん風の人が来て、余分な傘のある時にはそっと私にかしてくれたものだ。 「いえ、あれは叔母じゃなくて兄嫁です。わたし両親を早く亡くしたもので兄夫婦が親みたいなもので……」  結局、好人物の兄夫婦が、末の妹をふびんがって出し惜しんだということなのだろうか。彼女は卒業後、洋裁をみっちり身につけて、いま目抜き通りに高級洋裁店を開いたとか。 「え! 知らなかったわァ。いいわねえ」  主婦族はざわめき、あからさまに羨望のまなざしを送った。彼女はまるでお店を持ったのが出すぎたことでもあるかの如く、小柄な体をすくめるようにしてすまなそうにうつむいている。見る方も見られる方もいかにも善人そのもの。ああ、みんな丁寧な心で生きてるんだなァ。大都会の真ん中で虚勢を張りつめ、人を蹴とばして前につき進むことを考えつめてきた私だけ、いつのまにか波長がズレてしまっている。 「そういえば、あの焼きまんじゅうどうしてる?」  話題を変えて聞いてみたら、一同目を輝かせ体をのり出すようにして、 「それがねえ。やっぱり秀才はやることがちがうわァ」  焼きまんじゅうというのは、学年一の秀才であった。学年一のチビで、まっくろで、まん丸で、つまり潰れたまんじゅうみたいな顔つきだったため、誰いうともなく呼び名が決まっていた。 「彼女、火災保険の会社にお勤めしてネ、そう、三十二歳の時だったかしら。結婚もあきらめかけてたんでしょうねえ、貯金をハタいてアメリカに旅行したのよ。そしたらどうでしょ。たまたま仏教の伝道に来てた日本のお坊さんと知り合って。ええ、いまカリフォルニアで共に伝道にはげんでるらしいわ。永住のつもりじゃないかしら」  とにかく小柄な人で、セーラー服の衿が背中を半分位埋めつくして、あれじゃ衿が重かろうと、子供心に同情しながら私は彼女を見ていたものだったけれど、まんじゅうはまんじゅうなりに、小さな体に五分の魂をこめて、ついに自分で運命をきりひらいたのか——。  じゃ、オダンゴはどうしてる? フワフワと丸顔のスポーツ選手は、今ごろ子供をごろごろと産んで相変らず目尻を下げて笑ってるんだろうなァ、市内にいるなら今日あたり来てくれてもよさそうなものを、と軽く問いかけたら、この時、座は急にシンとなった。 「それが……」  小笠原さんが、目がねをずり上げるようにしながら言いにくそうに、 「ずーっと精神科の病院に入ったきりなの。空襲で家が焼けるのを見て、相当ショックを受けたところへ、戦後に失恋したとかで……」  さらば家庭の主婦たちよ  ああ三十年という歳月は、何とまあ人の運命をほしいままにしたことよ。 「不幸な例をあげれば、ホラ、山本さん。日本橋の呉服問屋さんに早々とお嫁にいったのはいいけれど、子供二人を残してご主人が亡くなってネ。そのあとご主人の弟さん夫婦に店を乗っ取られちゃったの。いまじゃ女学校の同窓会だけがたのしみだから、必ず連絡ちょうだいって……」 「テッちゃん知ってる? あの人お姉さんと二人、手に手をとって修道女になっちゃったの。結婚どころか一生、神に捧げちゃったのよォ。ご両親はがっかりしてしばらく床についたそうよ」  小笠原さんが頃合いを見はからって、紙袋の中から女学校時代のアルバムをとり出した。「ホラ、ここに山本さん、これがテッちゃん……」  現在、二児をかかえた未亡人は、前列の右端でお下げ髪をキリッと二つにゆわえて直立不動の姿勢である。テッちゃんは特徴のある二重まぶたのうるんだような瞳で、後列の真ん中からじっとこちらを見つめている。女学校三年生というと十五歳か——。  ああ、それにしても三十年という歳月は何とまあ人の運命を……。  私が繰返し感慨にひたりきったその時、良妻賢母の典型ともいえる小笠原さんが、目がねを再びずり上げながら、覗き込むような表情で、 「アノウ、カミサカさん本当に一人なの? 独身ってホントにホントなの?」  えッ、はあ!? とっさのことに何故か私はうろたえて目を白黒させ、それがおかしいと主婦族御一同は体をのけぞらせて笑いさざめくのであった。良妻賢母もスミにおけない。中々やりおるわい。  この時、宿の時計がボーンと間のびした時を告げた。玄関で見かけた骨董クラスの柱時計である。その音を聞くと、主婦たちは急に�主婦�の顔に立ちもどった。 「たまのことだからいいけど、でもあんまり遅くなると……」  一人がそういうと我も我もとそわそわしはじめ、野沢菜の弁当箱が引っこんだ。アルバムが片づけられ、机の上の茶碗が片すみに寄せられると、またたくうちに座は三十年目の�現実�に立ち戻る。  銀行勤め二十五年が、ほっそりした指でセンスのいいスカーフを結んでいるのをみながら、私は何故かふっと切なくなっていった。 「またいつ会えるか分らないけど……元気でね」  銀行が淋し気な微笑を見せる。野沢菜はふくよかに笑っている。養子を迎えて家業のお菓子屋を継いでいるという人は、その夜、殆ど黙っていたけれど、私の言葉に答えてニコッと子供の頃そっくりそのままの愛らしい笑顔を見せて立ち上った。  かくて二時間のタイムカプセルはあっけなく消え去り、私はひとり宿にとり残されたのである。部屋に戻るとふっくらと蒲団が敷いてあった。枕元に果物があり、フォークのわきに「長野県の明日のお天気=晴れ」と印刷した紫の紙がそえてある。横になると枕はザワザワと音がして、ああなつかしいソバガラである。足元に湯たんぽが二つ入っている。その心づくしに身をうずめながら、私はたった今、闇に消えていった三十年前のクラスメートの顔を次々に思い浮かべつつ寝息をたてた。  壇上に身を伏せて笑う  翌朝、フォークにそえられた天気予報はピタリ的中して晴天である。午前中、金原女史のリードで市内の講演をすませると、午後はいよいよ「春日静夫」氏の待つ通明図書館に向かうことになった。  いざゆかん。  前夜のタイムカプセルの印象も消えやらぬまに、私はいつになくしっとりとした感傷を秘め、あのたおやかな筆蹟の春日静夫氏に思いはせつつ車にゆられていた。  それにしても長野県というのは私の心を屈折させる県である。セーラー服の思い出と、三十年目の再会とが複雑に交錯したところへ、夢二と啄木をタシて二で割ったような男性がかさなったなら、私の中の長野のイメージはまさにクライマックスに達することになる——。  通明図書館は、市内から三十分ほどとばした篠ノ井にある。車を降りて応接室にすわると、すかさずお茶が出てリンゴが出た。ああ、早よう春日静夫氏は来やらぬか。と、目の前の男性がやおら立ち上って胸ポケットから名刺を取り出した。型の如く私も立ち上り、ハンドバッグから名刺を出して交換すると……。アッ! あとは声も出ない。  何たることだ。この人が「春日静夫」氏だなんて!  昔、煙突掃除に使ったブラシみたいに黒々とたくましい髪。いかにも無造作な黒ブチ目がね。色白の頬に無精髭がのびて、啄木《ヽヽ》のイメージとはおよそ程遠く、実社会で即、役に立つ大木《ヽヽ》という感じのこの人——。  余りのことに呆然としている私に気がついているのかいないのか、ともかく主催者はせわしなく私を会場へ導いた。ホールは約七百人の�本を読む母親�で埋っている。私は壇の上に立って息を吸い、一思いに言い放った。 「……長野県というところは私にとって大変なつかしい土地です。このたび、お招きを受けまして喜び勇んで参りました。図書館長さんのお手紙は、幻の世界からの便りかと見まごう美しいぺン書きで、私はうっとりとその字に見とれた次第でございます。春日静夫というお名前も、一見、メロドラマの主人公のようですし、本日お目にかかるのを、私は胸ときめかして……」  このあたりで会場にクスクスと笑い声がおき、その笑い声にたえかねたかの如く春日館長は頭をかきかき壇上から下りられた。  私はあわてて言葉を足し、 「……エー案のじょう、春日館長さんは、思った通りの男前で、デリケートにしてかつ高貴なお方……」  ここに至って、ついに奥様方は耐えかねたかの如くどっと笑いくずれ、その姿がうねりにうねって会場は波うち、しばし手のつけようがない。  ええい、こうなったら知っちゃいないわよと、ついに私は覚悟をきめ、身をよじらせて自分でも呆れるばかりの笑い声をたてたのである。その声がマイクを通して場内にひびき、それが奥様方を尚一そう刺激して、会場はまさに笑いの渦巻きか、たつ巻きか——。春日館長はと見れば、豪放そのもの、無邪気に目尻を下げ、天井に向かって笑いとばしておられるではないか。ああおおらかな方で助かった!  館長さんよ、許し給え。ゆうべから私は三十年の歳月の、万感せまる思いをこらえにこらえてきてるのよ。いまここで、それを一きょに笑いに託して吐き出すのは本末転倒だってことは分ってる。分ってるけど、身をよじらせずに居らりょうか。心の中でこう言い訳しつつ、私は声をからし、涙をぬぐいながら、切なさを押さえきれず笑いつづけたのであった。   山口で定期預金の講演料  欲につられて講演のハシゴ  イギリスへ短い旅をすることになった。その話をきめた直後に、山口県のある銀行から、講演会のハシゴの話がもちかけられた。ハシゴというのは、つまり、銀行の支店のあるところを点々と四カ所ほど巡回するというプランである。山口県か——。本州の先っぽの、聞くところによると過疎の県といわれるうら淋しい地方を頭にうかべながら、しかし、行こう! とふるいたったのは「欲」である。  短い旅とはいえ、地球の裏側へ行くには費用がかかる。ナポレオンの辞書には「不可能」という言葉がなかったというけれど、私の辞書には「定期預金解約」という言葉はない。二泊三日で四カ所の講演はちょっとキツいけど、イギリス行きがこれでまかなえるならもっけの幸いである。目には目、銀行には銀行の論理で、私はソロバン片手に承諾したのであった。  さて、ふり出しは北九州市である。福岡空港に出迎えて下さったマツモト氏は、働き盛りの三十七、八歳か。何やら福祉施設の所長さん風の、実直そのものという感じである。 「わたしが、ずーっとお帰りまでお世話しますので」  と深々と頭を下げて下さるその人の様子を見ながら、私は何となく、家へ帰れば子供は男の子二人くらいかな、と想像した。明るい電燈の下、四角なテーブルに親子四人の、健全で堅実な家庭の「お父ちゃん」に違いない。  マツモト氏にリードされて、まず北九州支店で講演をすませたあと、車をとばして下関の会場へ向かう。無事二回目の講演を了《お》えると、第一日目はとりあえず下関泊りである。 「宿は和式がええのか、洋式がええのかと思いましたが、和式の、落着いたとこがええじゃろと思いまして」  マツモト氏の指示にしたがって、ついた宿は「岡崎」という名の、関門海峡ぞいの老舗《しにせ》であった。二階の縁側に立つと東南に向かって一面の海。下関と門司とをむすぶ大橋がまさに手にとれるような位置にある。 「もとは下関から門司まで、橋の上にずーっと電燈をつけてきれいじゃったけん、石油ショック以来、節電で夜景も淋しゅうなりました」  マツモト氏は口もとにほほ笑みを浮かべつつ説明した。二十畳ほどの座敷も落着いたたたずまいである。  何がつらいって、講演旅行であわただしい宿に通される位つらいことはない。いつだったか、たしか四国の夏季大学で、にわか仕立てのホテルに泊らされたことがある。朝、六時、まだ目もあかないうちから廊下のスピーカーで「さーらばラバウルよォ」のあの曲が鳴り出し、たまりかねてフロントへ電話したら、 「ハッ、たった今、長洲一二先生からもご注意いただきましたので、すぐ止めます」  と返事が返ってきた。今をときめく神奈川県知事さんも、あのにわか仕立ての威勢のいいホテルで悶々《もんもん》として枕をかかえておこられたことになる。  やがてお茶が出た。しっとりとしたいい茶器である。運んできてくれたお姐《ねえ》さんは五十そこそこの、天然記念物の木の根っこみたいにガッシリした腰つきである。 「それがねえ、お客さん。不思議なものでどっかで誰かが覗いとるんですかのう。そこの縁側から海に向かってチリ紙の切れっぱしでも落としてごらんなさい。ものの五分もたたんうちに電話がかかって来よるんですわ。『ゴミを捨てたらいかん』ちゅうて」  ほう、そのせいですか、海のきれいなのは、と相槌を打ちながら私はあらためて目の前の海に目をやった。寄せては返す波間には、文字通りチリ一つ無い。と、お姐さんがいきなり、 「東京の、第一ホテルいうとこはいいホテルですかのう。やっぱ、一流ちゅうたら帝国ホテルですじゃろねえ」  突然の質問に私はうろたえつつ、帝国ホテルもいいけど、今じゃお金持ちや外人さんはオークラに泊る人も多いわねえ、と曖昧に答えた。 「すると、第一ホテルは日本人ばかりが泊るワルイ宿じゃろか」  いえ、別に外人が泊るからいいというもんじゃありません。それに第一ホテルにも外人が泊るから一流です、とか何とか矛盾だらけの返事をすると、はじめてお姐さんはニッコリし、 「第一ホテルもええですか。そりゃよかった。実はねえ、わたしとこ一人息子が第一ホテルに勤めとりますが、学校出たときに地元の会社にちゅうて勧めたですが、片親だもんでヒケ目があったんでしょうかなあ。本人がどうでも東京へいくちゅうて」  ご主人はいつ頃亡くなられたんですか? と私が神妙に聞き返したら、お姐さんはケラケラ笑いながら、 「や、死にゃせんですが。うちの息子は外にでけた子だもんで、世間では片親としてしか通らんのですが」  つまりお姐さんは未婚の母なのか。一瞬、私の頭に昼メロのシーンがよぎったが、夢と現実には格差があり、お姐さんはグローブみたいな手を口にあてながら、なおもケラケラ笑いつづけるのであった。  江田島出身のおえらいさん  お茶のあとお菓子が出て、海の色が夕日に映える頃、マツモト氏に案内されてほっそりとした紳士がやってきた。銀行の下関本店のえらい人である。青白い、いかにも銀行色の肌の、口もとの引き締った男前である。 「何にもありませんが、目の前の眺めがごちそうです。ひとつごゆっくり」  とのことで、早速、名物の雲丹《うに》のつき出しで盃を交す。さっきのお姐さんの身の上話を胸の中で反芻《はんすう》しながら、とろりとした地酒を含み、あらためて目の前のえらい人を見ると、髪は半白である。年の頃五十二、三歳か。木の根っこみたいにすわりのいいお姐さんにそれなりの人生があったように、このえらい人にも恐らくそれ相当の人生航路があったに違いない。 「シーズンにはちょっと早いもので、ふぐが差し上げられず残念ですな」  などと、当りさわりのない話題を上品な口調で話されるあたり、いかにもエリート銀行マンを感じさせる。 「ふぐといえば三津五郎さんの事件があったとき、下関の料亭はさびれるんじゃないかと噂が立ちました。ところが、さすが地元はビクともしません。要するにあれは食べ方に問題があったんじゃないかと信じきってるんですな。そもそも下関の者はふぐを食べながら、時々こう親指と小指をスリ合わせます」  えらい人は親指と小指で輪をつくるしぐさを見せた。つまり指の先が少ししびれて、知覚がにぶくなりかけたあたりで食べ止めれば、絶対に死ぬようなことはない由。 「うまい店が一軒ありましてネ。車で小一時間とばした辺鄙《へんぴ》なところですが、夫婦でやってる店ですわ。いわばふぐの活け造りですな。まだ血の通ったのを皿にひろげるもんで、刺身なんかピンク色しとります、ハァ」  さすがご当地、えらい人もふぐの話になると、目の輝きが違ってくる、と見とれていると、突然、えらい人はアッと素頓狂な声をあげ、縁側に向かって立ち上った。何のことはない、目の前の海を大きな船がゆっくり動いていくだけである。 「自衛隊の船ですゾ!」  五十すぎて船が珍しいとは、どうも腑に落ちないが、えらい人はズボンのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、ゆっくりと空中に輪をかくように振りはじめた。船の上の制服姿の隊員が、一せいに手を振り返し、何ともはやのどかな風景ではある。  それにしても、たかが自衛隊の訓練船に、大の男が食事を中断して手を振ることもあるまいにと、私は疑問の解けぬまま、わかめの吸い物をごくりと飲んだ。その時、マツモト氏が例によっておだやかな表情で何気なくこういったのである。 「やっぱり、なみの人とは手の振り方がちがいます」  やっぱり? どういうことですか、と聞き返したら、 「江田島出身ですわ。海軍士官から銀行入りされて、はじめは勝手が違って苦労されたちゅうことです」  了解。血色こそおとろえたとはいえ、箸《はし》をとる姿勢の正しさ、どこかに凛々《りり》しさをとどめた物腰、世が世ならこのえらい人は将校か——。ああ、ここにもさぞや、さまざまな人生の起伏が……としんみり感慨にひたりつつ、今度は箸を止めて私もえらい人の後姿を見つめた。夕日がかげり、うすもやのかかった海に、一本すじの通った四肢は、いわれてみればまさに�海軍�である。  夕食が終ると海に月が映り、向こう岸の家に灯がともった。元海軍氏は一、二本のお銚子に頬を染めつつ、 「こうやって向こう岸を見ていると、最初一部屋がパーッと明るくなって、やがてその灯が二階や脇の小部屋に点々と散り、最後に家全体がスーッと暗くなっていくんですな。つまり夕飯は一部屋で賑やかに食べて、そのあと各自の部屋にこもってリラックスし、まもなくスヤスヤ眠っていく、という家族風景が灯を見ていると分ります。実に何ともいえん眺めです」  聞きながら私はうなずき、実に何ともいえないなごやかな気分になった。  女のタタリは恐ろしい  さて、海辺の宿を発ったのは翌、早朝である。コースは下関から新幹線で小郡《おごおり》に行き、そこから車で山口市へ入る。同行のマツモト氏は汽車に乗ると、早速いった。 「ゆうべは波がやかましゅうて寝られんだったのと違いますか」  えッ、波の音? 私がキョトンとしていると、 「ハァ、気になられんかったならよかったです。神経の澄んだ方の中には、枕元の波の音が気になって困ったちゅう人もあるで心配しとりました」  床に入ると三分ともたない私は、波の音も車の音も気にならなかったけれど、ということは「神経の澄んどらん人」ちゅうわけか、と一瞬いきり立ちかけたが、相手が善良そのもののマツモト氏では気もくじける。マツモト氏は私の心中には一向に気づかぬと見え、淡々と話しつづけた。 「わたしの家は、男の子が二人で……」  ほう、やっぱりそうでしたか。 「上の子が二、三年たったら夏休みにハワイへ連れてけちゅうとります。子供がそんなとこへ行かんでもええ、ちゅうと、お父ちゃんは自分ばっかしゴルフへ行っとるやないけ、ちゅうて喰いついてきよります。ハァ、五年生と三年生ですが」  夜になると恐らくマツモト家もこのお父ちゃんを囲んで一部屋に灯りがともり、まもなくそれが散らばって、子供たちは二段ベッドで灯を消すのだろうか。天下泰平の話を聞きながら汽車と車を乗り継ぎ、危うく眠りかけた頃、山口市につく。  山口支店でのスケジュールをすませたのは昼下り。今度のえらい人は下関と違ってぐっと陽気な人である。 「ちょっと市内をご案内しましょう」  というなり、すらりとした体をひるがえし、私の返事も待たずに歩き出された。 「ここは一の坂川と申しまして、今でも夏になるとこの川のふちで町をあげて蛍狩りをするんですわ。ウン、夏といえばここらじゃ七夕《たなばた》の宵に町中の電気を消して赤いちょうちんに灯をともし�ちょうちん祭り�をたのしみます。大体山口ってとこは賑やかな事が好きですな。俗に、山口男に萩女、徳山育ちはシマリ者、なんていいまして山口は勇敢、萩はおっとり、徳山はツマしいと、それぞれの土地柄をこんな風にあらわしとるんですな」  青々と土手のつづいた、川というより用水のような小ぢんまりした水の流れである。春には土手の桜並木の下に緋《ひ》もうせんを敷いて町中で花見の宴をたのしむとか。県庁所在地で何ともオツな習慣を保っている市があるものだ。 「あちらに見えるのが蛇姫山。昔、たいそう美人のお姫さんがおったそうで、あまりに美人なるが故にネタまれて蛇の毒で殺されたんだそうです。で、その姫さんのタタリでですな、以来山口県には美人は生れんそうです。げに女のタタリは恐ろしい。いやホントに。わたしァ女のタタリは恐ろしいと思います。ハァ」  女のタタリのところを二度繰り返して強調したこの人には、一体どんな人生航路があったのだろうか。  さて、一通り市内散策をすませて、宿の「松田屋」についたのは夕方であった。こちらもいわれのある古い宿らしく、伊藤博文、山県有朋、など山口出身の名士の書が飾ってある。 「いいや、山口出身の名士といえば昔の人ばかりじゃありませんぞ。カタいところで宮本顕治、野坂参三もここの出身、岸信介、故佐藤栄作など、天下を取る人、ねらう人を続々と出しとります」  えらい人は我が事のように得意気である。  女房は健康優良児  まてよ、この口ぶりから察するに、この人も世が世なら天下国家に一身を投げうつ軍人出身かも、と一瞬私は気をまわしたが、 「いや、軍人どころか、あたしァ、体が弱くて今日まで育つはずのない人間でした」  へえ? 身のしまったスポーツ記者のようなキビキビしたこの人がねえ。 「あたしァ満州生れの満州育ちです。親爺《おやじ》が外地で仕事をしとったもんですから。ところが父も兄も次々と病気で死にまして、あたしァ母と二人で日本に引き揚げてきたんですわ。ええ、うちは男の育たん家なもので」  そんな馬鹿な。つまりお母さんの干支《えと》が丙午《ひのえうま》っていうんでしょ。あれは迷信ですよォ。 「いや、丙午は関係ありません。つまり……」  問題はご先祖にあるのだそうだ。そもそもこのえらい人はかなりな素封家の血をひいておられるらしい。で、その素封家の何代目かのご当主が地元の名妓と恋に落ち、何が何でも一緒になるといい張ったそうな。もちろん身分違いを楯に一族は猛反対である。 「そこでッ、わがご先祖とその名妓はある日、互いにじゅばんの裾を縫い合わせ、あっという間もあらばこそ、同時に割腹をはかり、人々がかけつけた時には座敷は血の海。二人は抱き合ったまますでにコト切れとったというんですわ」  まるで見たようにおっしゃるけど、その話を誰からお聞きになったんです、と私はこの美《うる》わしき情死場面にも溺れず、憎々しく問いつめたら、 「や、そこですがな。何しろ口のカタい家系なもので誰も私に知らせません。ところが大学へ通うようになってから、一ぺん祖先のこと調べてやろうと思って墓参りにいきましたら、とんでもない場所にポツンと小さな石があって�妾 サヨ�と刻んであるんですな。青年のあたしにしてみれば、ありゃ、これは何だ、というわけです。サ、それから会う人ごとに喰いついて、ついに祖母から……」  この名家は代々女系で、やっと男の子がさずかったと思ったら心中というわけで、ついに誰いうともなく「男の育たぬ家」と名指されることになったとか。 「早い話が一種のタタリです。父や兄が次々と死んだのも恐らく割腹したご先祖のタタリじゃないですか」  お酒がまわったらしく、えらい人の頭の中で現実と迷信が混沌としている。蛇姫山にこだわっておられたのはつまりこういうわけなのか。 「あたしはこういう家系を背負っとるという負い目があって、結婚はせんつもりだったんですが、そこがそれ青年の血というもので、そのうちに大恋愛をしましてネ。いやそれがあんた、相手は結核ですわ。これもタタリですかなあ。結局、彼女は私の手を握りながら死んでいきました」  じゃ、今も奥さんは無しで? 思わず私は手に汗をにぎった。えらい人は「まさか」と一笑に附し、 「それがですなあ、いまの女房と見合いをした時、あたしァ死んだ恋人のことが忘れられずに、仲人を通じて断わったんですわ。ところが、どういうわけか挙式の日取りが決まりまして。で、そういうことならとあたしも本腰あげて相手を調べにかかりました。いや、家柄や顔はどうでもええんです。あたしのポイントは唯一つ。とにかく丈夫な女がほしい。どうせ自分は長生き出来んのだから、あたしの亡きあとたくましく生きていける女でないと困ると思いまして。調べたところ女房は健康優良児で表彰されとるんです。よしッ、と決定」  決定はいいけれど断わった話がどうして結婚ということになったのか、そこんとこが納得いかないんですけど、と私も刺身の皿をつつきながらいつしか話につり込まれた。 「いや、それがですがな。実は私もその点が釈然とせず、初夜の晩に一応女房に問いただしてみたんですがネ。そんな話は聞いとらんというんです。や、それどころか女房の方でもあたしを断わったというんですなァ。つまり仲人が強引に運んじまったんですわ。昔はそんなもんでした」  で、お子さんはちゃんと丈夫に育ちましたか? 「そ、そこですがな」  えらい人はひたいをマッ赤にし、ご銘酊のご満悦で、 「息子二人は健康優良児です。ハァ、女房のおかげです。二人とも大学生ですが、あたしより大きいですよ。どういうわけかあたしも結婚してから別人の如く丈夫になりまして、有難いもんですなあ。女房のおかげです」  定期に預けてくれますか  かたわらのマツモト氏は一向にえらい人の話に心を動かされる様子もなく、黙々として焼き魚の小骨をつついている。どうでもいいけど、母一人子一人で満州から引き揚げていらっしゃったなら、いまお母さんはどうして居られるのだろうか。えらい人の顔がちょっと曇った。 「いや、そのゥ、実はご多分に洩れず嫁姑の……というヤツがありまして。長男が生まれた時に家内が実家で休養しとりましたら、母があたしにことわりもなく『もう戻って来んでもいい』と先方に申し渡したちゅうんですな。いや、弱りました。あたしはそれを聞いた途端にハラを決めまして先祖伝来の田畑をパーッと売りました。母の分とあたしの分をスパッと分けてその足で上役に東京転勤を申し出たんですわ。以来十八年、あたしァ東京、母は山口」  しかし、嫁姑の不仲転勤なんてのがよく認められたもんですねぇ、と私は目を丸くしたが、食糧事情の悪かった当時、すすんで東京へ行くという者は、上役としてももっけの幸いだったのかもしれぬ。それにしても聞けば聞くほど、このえらい人にもさまざまな紆余曲折のあったこと……。 「とはいうものの、東西に別れても親子は親子ですな。亡くなる前には母も悪かったと申しましたし、あたしもこちらへ戻って出来る限りの手をつくしてからあの世へ送りました」  縁側のガラス越しに見える庭は、すでに夜のとばりが下りている。庭を囲む座敷は宴会の最中なのだろう。灯がぼうっとけむったように見えるのは、人いきれとタバコのせいか。  山口の旅では最初から最後まで、何とまあさまざまな人生模様をかいま見たことよ、と私がしんみりしながら宿の名物「瓦そば」を噛んでいると、その静寂をねらうかの如く、マツモト氏が紫のふくさをとり出した。あと一回、明日岩国での講演が残っているけれど、今宵講演料の前渡しなのだろうと、私はすぐ察してすわり直した。 「あのゥ、お礼の件ですが、金はここに用意しておりますけん……」  けん、どうなんです? と私は危うく口に出そうなのをぐっとこらえて、次の言葉を待った。 「勝手ですけん、もしそちら様で急にご用でなかったら、うちの定期預金にこのまま入れてもらえると誠によろしいのですが……」  えッ、はァ、ま、とか何とか私はとっさの事態に言葉が出てこない。そりゃ結構ですが、残念ながら私の家の近所におタクの支店はありませんので、とかろうじて逃げ口上を見つけたが、 「いえ、お電話下されば東京支店からすぐかけつけます。ンじゃ、ええですか」  いいも悪いもなく、かくてイギリス行きの費用は一巻の終り。マツモト氏はすでに定期預金二年モノの準備を完全に用意して来られた様子で、たちまちペラッと一枚の領収証が私に渡されたのであった。  これを機に、まるで芝居の幕が下りるようにえらい人の熱弁も止り、かくて九時、人気《ひとけ》のなくなった座敷に私はポツンととり残された。一風呂あびれば今やなすこともなし。下の座敷からは民謡が聞こえ、廊下を仲居さんがせわしなく走っている。このぶんだと宴会場の灯が消えたあと、大浴場の灯がともり、つづいてその灯が各室に分散して、宿全体の窓の灯が消えるのは夜半かな? 私は領収証の入ったバッグを枕もとにグイと引き寄せると、ふとんの衿を顔の上までズリ上げて目を閉じたのであった。   淑女修行にロンドン行き  東大卒の美人理事長  夏休みを外国で、という学生ツアーが流行していることは知っていたけれど、もちろん私にそんな趣味はない。外国どころか、やれ軽井沢だ、九十九里浜だと、出かけるのを見るのさえ苦々しい。暑けりゃ暑さに耐え、寒けりゃ寒さに耐えてこそ人生ではないか。  さて、そんな私が、ふとイギリス三週間の学生ツアーに同行する気になったのにはわけがある。主催が花嫁学校なのだ。しかも理事長と名乗る人は、三十三歳の目もと涼しき大柄美人であった。 「高校を出てから一度スチュワーデスになったことがあるんですよ」  とその人はニッコリ笑った。さもありなん。 「でも、学歴によって賃金に差があると聞いたので、あたし三カ月で退職して翌年東大に入学しましたの」  えッ、しましたのってあなた、デパートにでも行くような言い方なさるけど、東大ってつまり、あの東大!? と私はすわり直した。 「ハア、で、東大を出ましていよいよ本格的な就職をと考えましたところ、やっぱり永久就職のクチが一番カタイと思いまして現在の主人と……」  聞けばご主人はエリート官僚コース驀進《ばくしん》中で、小学生の男の子が一人ある。何ともはやソツのない人生であるけれど、子供も手が離れたし、何か自分に出来ることをと思いたって、花嫁学校を計画したそうな。 「いえ、花嫁学校といわず、新しい女子教育の場といって下さい」  大柄美人はさすがに東大出らしく反論した。で、このたびの女学生ツアーは、その予備教育やらPRやらを兼ねて……という説明を聞いて、私は面白そうだと身をのり出したのである。  さて、私と理事長こと大柄美人女史とが羽田を発ったのは、先発の生徒たちがすでに旅程の大半をこなし、残すところ一週間ばかりに迫った頃であった。 「最後はパーティやら茶道のデモンストレーションなんかで、グーッと盛り上ります」  との事なので、その盛り上りを目がけて出かけたわけである。飛行機はパキスタンエアライン。あんまり聞いたことないけど大丈夫? と念を押すと、女史はパタンと目を閉じ、 「大丈夫。次は北京ですのよ」  えッこの飛行機、一体どこへ行くの? と私はしめた安全ベルトを思わずゆるめかけた。 「行き先はロンドンです。でも往復割引きの格安ですから、途中ニューデリー、カラチ、ドバイ、カイロ……と八つばかり停りますの」  しばし絶句。で、一体目ざすロンドンにはいつ着くんですと聞きかけて私はぐっとこらえた。着くときに、着く。  羽田を発ったのが午後一時、南まわりでロンドンへついたのは、翌日の夕方六時。日本との時差が八時間だから、延々三十七時間の長旅であった。疲れ切った私が目をツリ上げ、口をへの字に結んで空港に降り立つと、青い目の青年紳士がにこやかに近づいてきた。 「オウ、ハウ アー ユー」  女史は馴れた口調で言葉を交し、紳士の手をにぎりしめる。紳士の方も何やらさかんに答えている。おおかた会いたかったぜ、とか何とかいっているのだろう。私は型通りの握手をすますと、愛想笑いもそこそこに青年紳士の運転する車に乗り、助手席の女史に後から声をかけた。 「ねえ、あなた。バカに親しそうだけど、彼はあなたの何なのサ」  と、紳士がクルリとふり向いて、 「申し遅れました。スペンサーと申します。以前宣教師として日本に六年ほど住んでましたが、現在は研修所で教師をしています」  見事な日本語であった。ところで、その研修所というのが、我ら二人の目ざす先である。  空港から車で小一時間乗ると、レーンエンドという村につく。人口たった千人。あたりにはパブ(大衆酒場)らしきものが数軒あるのみで、商店街すら見当らない。緑いっぱいのその村の一角に、しゃれた煉瓦づくりの、目ざす研修所があった。  さて、問題の淑女の群やいずこと、とるものもとりあえずロビーにかけ込むと、意外にも、まだおしろい気のないハイティーンの女の子たちが、ニコリともせずに私たち二人を見上げるではないか。理事長女史はその目ツキに気づいているのかいないのか、ひとり上機嫌で、 「本当の淑女教育はハイティーンから始めるべきだと思いますわ。だから今度のツアーも最年少は十六歳ですの。どう、皆さん元気?」  パーティを重ねて親睦を深める  ハイティーンから始めるのはいいけれど、この目ツキはどうしたことか。と、思う間もなく高校生の女の子が、 「来てみたら、話がちがうんです」  ときり出した。 「だって、ロンドンまでほんの二十分だと聞いてたのに、実際にはタクシーに乗って汽車に乗って、それからまた地下鉄に乗りかえて一時間半かかるんですゥ」  えッ、で、一時間半もかけて、あなた、ロンドンへ行ったことあるの? 手も足もまだカリカリして、青い果実そのものの女の子の顔を見つめつつたずねたら、 「あら、ヤダこの人。あたしたち、まいんちショッピングに行ってます」  二人一組で出かけるのだそうだ。じゃ、本来の目的の英語の研修は? と聞きかけて私はあわてて言葉をのみ込んだ。聞くまでもあるまい。 「それにネ、この研修所は自動販売機もおいてないもんだから、夜中にひもじくって困るんですゥ。持ってきたおせんべも尽きました」  一体、そんな時間まで何やってるの? と聞いたら、何となくおしゃべりを、という。三週間のスケジュールを見ると、午前中は英語の学習で埋められていたけれど、夜中じゅうしゃべってるんじゃ「学習」の二文字が「睡眠」におきかえられたことは間違いない。 「いいの、いいの。あなた方それが生きた勉強なのよ。勉強しないで何となく後めたい人もいるかもしれないけど、それはそれでちっとも構わないわ。あなた方、いまじゃロンドンをスイスイ歩けるでしょうが。そう、それこそがかけがえのない成果なのよ」  大柄美人は女の子たちの頭をなでんばかりである。なるほど、叱ったところで仕方ない場合には、こういう盛り上げ方もあるのか。見事なリーダーシップに圧倒されていると、案のじょう女の子たちもにわかに元気づき、 「ホームシックにかかりそうになると、コレクトコール(料金先方払)で家へ電話するの。もう四回もかけちゃったァ」  これが淑女というものか、などと今更基本論をのべても始まらない。私はトランクを持ち上げ、えらいところにまぎれ込んだものだ、と心ひそかにつぶやきつつ部屋に入ったのである。  部屋は日本式にいうと八畳位か。シングルのベッドが一つ。学習机の上には目ざまし時計と小さな花の咲いた植木鉢があり、窓の外には野生のリスが遊んでいる。バス・トイレつきで学習にはこの上ないつくりであった。  それにしても、淑女教育の理想と現実には差がありすぎるわ、と一議論吹っかけるつもりで女史の部屋を訪ねようと廊下に出ると、つき当りの部屋からどっと笑い声が聞こえてきた。何事かとのぞくと淑女の卵が五、六人荷物をひろげてさざめいている。ワンピースあり、ライターあり、カフスボタンあり、コーモリ傘あり……。これはキングスロードで買ったの、あれはピカデリーサーカスで買ったの、とさかんに説明しているのは、そろそろ成人式にさしかかりそうな女の子であった。 「ねーえ、上坂さん。そりゃあたしたちだって英語の研修旅行だということは承知してます。けど、パンフレットには『英国のマナーを学び、パーティを重ねて親睦を深める』ってことも書いてあったんです。だから、ホラ」  指さす彼方に、つくりつけの洋服ダンスがあった。中をあけると、黒地にバラのロングドレスあり、ブルーの胸あきカクテルドレスあり……。「これはこれはとばかり花の吉野山」と詠《よ》んだのは|安原貞室《やすはらのていしつ》だが、まさに、これはこれはとばかり花のハイティーンだと、私は唖然《あぜん》と眺めるのみ。 「あーら、こっちも見てよォ」  いわれてふり返ると、トランクの中には新調の友禅の着物やら、金らんどんすの丸帯やらがぎっしりつまっている。旅行費用が一人当り五十七万円。一見した感じではお小遣いはざっと三十万か。着物や洋服、それに新品のトランクなど、しめて三、四十万として一人につき百二十万から百三十万の経費になる。さすがに大柄美人も眉をひそめて、 「そりゃ、たしかにレディとしての品位を保つよう、ロングスカートは用意しなさいとはいったけど、何も新調しろとはいわないヮ」  とつぶやいたが、根が陽気な人だからすぐ思いなおし、 「ま、いいわよ。いずれ要るものばかりなんだし、それにホラ、あのドレス、すごーくいい趣味じゃない? 安心なさい。滞在中にかならず一応はパーティをしますから」  三十三歳というのに、まるでハイティーンとおなじように目を輝かせている女史をあとにして、私は悄然《しようぜん》と部屋に引き返したのである。女の子たちはパーティがないと怒るけど、私はパーティがあったらどうしよう? トランクには二年前、駅のソバの月賦販売店で買った水玉のロングドレスがたった一枚あるだけだ。不安におののきつつ、私はその夜、何故か用もないのに、田舎の母に電話を入れたくなった。なあに、国際電話といっても、払えないほどの金額ではあるまい。それに十六歳の女の子が易々とかけたというのに、何も私が迷うこともあるまい。我ながら異常なほどの敵愾心《てきがいしん》にかられて交換手を呼び出し、 「インタナショナルコール ツー ジャパン」  怒鳴るようにこういったあと、何だか心細くなってジャパン、ジャパンと四度叫んだら、何と、交換手はこらえかねたように笑うのみで一向に取次ごうとしない。どうやら研修所の交換手に向って叫んでしまったらしい。私は結局電話をあきらめ、その夜は毛布をすっぽりかぶると、エビのように体を丸めてベッドにもぐり込んだのである。  振袖姿からカラス天狗まで  さて、話は飛ぶがいよいよ最後のお別れパーティの夜がやってきた。イギリスの夏は明るい。八時だというのに一向に夕闇らしきものもない広い庭に、やがて三々五々招かれた客がやってきた。何れも親日家だそうで、老若男女数十人というところか。  と、はるか煉瓦づくりの建物の彼方から、淑女ご一行はたもとをなびかせてやってくるではないか。先頭に立っているのは見覚えのない黒々としたオカッパ姿で、うすものの単衣をあでやかに着こなしている。次第に近づくその群を見るうち、私は思わずヘエッと声を立てた。先頭は他ならぬ理事長女史なのである。オカッパはかつらであった。うすものは絽《ろ》の白地に絞りの、かなり手のこんだ品で、仕立て上がりらしい。私は古ぼけた水玉のロングの裾を蹴散らしながら、 「アンタ、目にモノ見せてくれるわねえ。最初からいってくれりゃ、あたしだって白地に秋草の絽があるんだからァ」  息をきらしてまくし立てたが「あなたはオブザーバーとして見守って下さればよろしいんですのよ」と彼女はいつしか言葉つきまで変っている。  庭の片隅でお茶のお点前がはじまると、外人は珍しげに座を囲んだ。一方ではべッドからピンクの毛布をはがしてきて庭にひろげ、その上で金らんどんすの帯をしめた女の子が藤娘の一幕をご披露している。   潮来《いたこ》出島の真菰《まこも》のなかで   あやめ咲くとはしおらしや  テープレコーダーが夕空にひびく中を、扇子であやめを形どりながら、なよなよと、腰をかがめるそのしぐさの味わいが、果して外国の人に分るのかどうか。中にはうなずきつつメモなどとっている外人もいる。理事長女史は、 「ね、ほら、みんな中々やるでしょ」  見たかや、といわんばかりにその丸い目を得意気に私に向けた。  そうこうするうち、とっぷり日が暮れると、今度は会場をホールに移してディスコティックの大パーティである。研修所もさすがご時世に合わせて、見事なフィナーレを演出するものだと、私が感心していると、淑女御一同はいつのまにかスーッと姿を消した。理事長女史のみがゴッドマザーの如く落着いて、ま、見てらっしゃいと私に目くばせをしながらホールに残った。  まもなく、その暗がりの中に鉄砲玉みたいに飛びこんできた女の子がある。頭に白虎隊さながらの鉢巻をしめ、袖のヒラヒラしたカラス天狗の如きブラウスを身にまとい、夏だというのに毛皮のブーツをはいている。お次は紫のターバンに七色のミディドレス、その次は胸の谷間のくっきり見えるキンキラのロングドレスを着て腰にカルダンのスカーフを巻きつけ……。あれよ、あれよという間に集まったのはまぎれもなく、さっきの着物姿の淑女御一同で、今や別人の如く雰囲気にとけ込んで踊り狂うのであった。  昼すぎからずーっと水玉の既成服一本ヤリの私は今やなすすべもなし。研修所長はドクターの肩書きを持つ白髪の英国紳士であったが、どうやら私と同じく娘たちの変身ぶりにどぎもを抜かれたのか、暗がりで憮然とうつむいた。  理事長女史は何といっても私とは若さがちがう。やがてこの雰囲気にたまりかねたのか「わたしも着替えてくるゥ」というなり、着物の裾をはしょらんばかりにしてホールを飛び出して行った。  その夜、ほどほどのところでホールを抜け出し、部屋に戻った私は、けたたましい音楽を遠くに聞きながら、またもや毛布をすっぽりとかぶり、体をエビのように曲げたのであった。  アーア、嫌だ。外国は嫌だ。いまどきの若いものも好かん。  早く日本に帰りたい  目がさめると淑女ご一行は、すでに小型バスにつめこまれて一路日本へ発ったあとである。理事長女史と私は二日ほど帰国が遅れることになった。さすがの彼女もゆうべの疲れで、まだ寝てるだろうとのぞきにいくと、ドアの向こうからは何の応答もない。急に不安になって一目散に食堂に下りていくと、何とまあ、彼女は外人男性に囲まれて、何やらゲームにうち興じているではないか。 「生徒が帰ったんで肩の荷が下りたの。あなたもいらっしゃいよォ」  おとりまきの男性はヨーロッパ各国からの研修生で、何れも大企業のエリートだそうな。東大卒の彼女は英語とフランス語を巧みに使い分け、紅一点としての注目を集中的にあびているのであった。あーァ、水玉ドレスのコンプレックスの夜があけたら、次は言葉コンプレックスかァ。私がうんざりする心を表にあらわさぬよう、曖昧な笑いをうかべつつ三十六計逃げるに如《し》かずと、部屋に戻りかけた途端、女史の華やかな声が私を追った。 「ねえ、ちょっとォ。今からみんなで近くのパブへ行きましょうって。それで、お母さんもご一緒にどうぞですって。ヤーネェ」  何ですって! あたしがあんたのお母さん?  ヤーネェですむことすまぬことがあるわよッ、と怒鳴り返そうと息を吸い込んだものの、何やらぐったり気がくじけ、私は相変らず曖昧なうすら笑いを見せながら部屋に戻り、今度はまっぴるまから毛布をかぶったのであった。あと二日。ああ、早く日本に帰りたい——。  さて、その二日間のうちに理事長女史はロンドンを完全にコナして来たらしい。 「行きずりのレストランに寄ったら、昼間からワインをボトルでつけてくれて、食事がコースで出てくるの。ま、いいや、折角だからとみーんな飲んで、ペロリと食べちゃった」  などといいながら、子供のおみやげに絵本、ご主人にライターなど買い込んでいる。私は丸二日間、一室にこもって窓の外のリスを目で追うのみ。ここにこうしていれば洋服コンプレックスからも、言葉コンプレックスからも救われるのである。  さて、三日目の朝、研修所を出たのは朝五時半であった。七時の飛行機に乗って、再び割引きの南まわりで足かけ二日かけて帰国するのである。何でもいい、日本に戻ればこっちのものだと、私は勇んで飛行機に乗り込んだのだが……。  ロンドンからパリへつくまでのたった小一時間ほどの間に、スチュワードの様子がどうもおかしい。まず飲みものを出す時は、いの一番に女史から。そして頼みもしないのに女史にはヒザ掛けを渡し、あまつさえ窓の外の景色など説明するのである。肌の浅黒い、口ひげの中の歯のまっ白な、精悍な好男子であった。精悍なわりに声は小さく、会話が聞きとれないので私はそのたびに、いちいち彼女をつつき、ね、今何ていったァ、と問いただした。 「今日は揺れが少なくていいですねって」  フーン、そのあと一言足したのは? 「いつか、東京でお会いできたらいいですねって」  えッ! そんなこといったのォ、と向きなおると、女史は落着き払って、 「そういうこと言うもんなの、外人は」  そうかも知れない。けど、ここに日本女性が二人いるのに、何も片方ばかりに声かけることはないでしょと、さすがにこれは思っても口に出せず、私は椅子を倒すとフテ寝をきめ込んだ。  やぶれかぶれの未婚の女  正直な話、外国旅行というのは妙なところで神経が高ぶるものである。一人が美人で、一人が盛りをすぎているというのも悪条件の一つだし、一人が外国語ペラペラで、もう一人がオズオズなんていうのも神経に毒である。悪条件が二つ重なると、アッチが既婚でコッチが未婚なんていうのも、妙にシャクのタネになりはじめ、いらいらしかけた折も折、 「ねーえ。未婚の方に、こんな話しちゃ悪いかしら? いいわネ、何もかもご存知でしょうから。実はうちの息子、一見ボーッとしてるので主人と二人で心配してたの。ところが、ある晩、あたしたちがつまり、そのォ、床について、あのォ、ソノ最中にネ、当時幼稚園に通っていた息子がガラッと戸を開けたの。その時、うちの息子、何ていったと思う?『見ィちゃった、見ィちゃった』って。子供心にも何かマズイと悟って気転を利かしたんでしょう。ああ、こんな反応力があればいいって、主人ともども逆に安心したのよ」  何が未婚の方に悪いかしらよ、おまけに何もかもご存知でしょうとはどういう意味よ。せいぜいご主人ともども安心してらっしゃい。この先、受験地獄はますますきびしくなってボーッとしたのはふり落とされるって話よ。  ついに堪忍袋の緒が切れた私が、たてつづけにまくし立てたら、さすがに東大出は心が広い。 「アーラ、そういら立たないで。一晩眠れば日本じゃないのォ」  ところがである。間の悪い旅というのは最後までツキが外れるものである。フランクフルトに着いた途端、エンジンの調子がおかしいから、今夜はここで一泊、というではないか。何? ロンドンを発ってから日本につくまで、これじゃ足かけ三日かかるわよ、と私は目をむき、そもそも今度の旅で、果して何か得たものがあったろうか、とあてつけがましくボヤいたあと、 「ねえ、あなた。ドクターの研修所長がいってたわよ。今年の生徒はあんまり質がよくないって」  止せばいいのに嫁いびりの口調でじんわり耳うちしたら、この時ばかりは東大出もムッと口をつぐんだ。  その直後である。天罰てきめんとばかり、その飛行機が香港泊りで、香港で一泊しないと日本に帰れぬことが発表になったのは。つまり、私がほうほうの体で羽田に辿りついたのは、何とロンドンを発ってから四日目の午後だったのである。  ああしかし、とにもかくにも羽田である。もう憎まれ口はきくまいぞ。何だかんだとお世話さま。私が何日ぶりかで目尻を下げ、彼女に握手を求めたまさにその時! いきなり二人の間に割り込んで立った男がある。グレイの背広を心憎いまでにシックに着こなした見るからに知的な青年——。 「このたびは家内がご迷惑をおかけ致しまして」  えッ、あなたがご主人! もはや完敗である。ひきしまった頬。浅黒いひたいはゴルフのせいか。パッチリと目もとの涼しい女史と並んださまは、まさに雑誌のグラビアページを見るようだ。エリート官僚コースを一途に辿るご主人は所用のついでにこられたらしく、表には黒塗りの車が待たせてある。いかがでしょう、ご一緒に、とセクシーな低音でさそって下さるのをふりきるようにして、私はかたわらの窓口にかけ寄り、 「いえ、私はここでタクシー……じゃなかった、ハイヤーを始終頼み馴れておりますから。ね、ちょっと、いつものお願いしますゥ」  さも手ぎわよさそうに、声高らかに呼びかけると、窓口の男は極めて事務的に大声で答えたのであった。 「こちらは駐車場の呼び出し窓口でございます」   遅ればせながら出雲詣で  神さまどうかご利益を 「出雲の女子高校から講演の依頼があるんだけど、どうしようかしら?」  電話のついでに田舎の母に何気なくこう洩らしたら、母の声がうわずった。 「そりゃ、行ってくるがええ。前々から一ペんお前にお詣りをすすめたいと思っとったとこだで」  母の心は見えすいている。どうか縁遠きわが娘に、出雲の神のご利益《りやく》をというところだろう。自慢じゃないけどこちらは�縁遠い�という段階をとっくにすぎた四十代。この期《ご》に及んで何を今さら縁結びの神に頼むことがあろうかと、内心フテくされながら、しかしちょっと覗いてみたいな、という気もあった。  未婚の女心を、かくもしっかりととらえつづけてきた神社は、一体どんな仕掛けになっているのかしら? そうだ、一日余裕をとって現地に赴《おもむ》き、たまには観光一人旅を兼ねてみよう。どこへ行くにも日帰りで、用件のみのあわただしい講演旅行にあけくれてきた私が、こんな気になったのは珍しいことである。  さて、出雲の空港から「大社町」まで車で四十分ほどだろうか。宿にはなるべくいい部屋を、と前もって頼んでおいた。前夜から出かけるなんて、めったにないことだもの、せめて宿くらい金に糸目をつけずにリラックスしたい。ガツガツ働くばかりが人生じゃないわ。 「竹野屋ならお客さん、天皇陛下もお泊りになったくらいで、大社町じゃ一番です」  タクシーの運転手の証言を期待して大社町につくと、何とも分りやすい町だ。正面に出雲大社の大鳥居があり、そこから一直線に道が走って、両側にお土産屋や宿屋が軒を並べているという、ただそれだけの設計であった。竹野屋というのは出雲大社の鳥居のわきの、いうなれば大社にもっとも近い最高の場所にある。玄関のつくりから察して、かなり由緒ある古い宿らしい。  靴をぬぐとロビーは二十畳ほどの畳敷きで、左手に売店、正面にフロントがある。 「よいお部屋なんでしょうね」  フロントでくどいほど念を押していると、体操の選手みたいに威勢のいい女中さんが、 「ご案内しまース」  というやいなや、荷物を持って先に立った。廊下のわきの座敷ではすでに一組、結婚披露宴がはじまっているらしい。   ※[#歌記号]わたしゃ 真室川の梅の花            こーりゃ  手拍子はいいけれど、宴会というと、必ず「花の咲くのを待ちかねて、蕾のうちから通うてくる」というアレしか芸がないのかしら。咲きすぎのひがみではないけれど、私はどうもこの歌が好きになれない。廊下のつき当りにデコラのドアがあった。さ、どうぞと体操の選手にうながされて一目のぞいた途端、 「ちょっとォ、もう少しマシな部屋にしてよォ!」  思わずわめいたのは、床の間にデンと冷蔵庫がおいてあるのを見たからだ。宿というよりこれでは学生下宿である。 「こちらの窓から庭も見えますが……」  体操の選手はこの部屋のどこが気に入らぬかといわんばかりに私を見上げていった。 「お風呂は一応ついてますけど元栓がシメてありますから大風呂を使って下さい」  話がちがう。予算は充分にとってあるから、最高の部屋をたのむとあれほど念を押しておいたのに。第一、今日は客だってたてこんでいないではないか。小走りに廊下をひきかえすと、私はフロント係に向かって喰いつかんばかりの形相で、「とにかく美容院へ行ってくるから、その間に替え部屋を決めておいて」といい捨てるやいなや、おもてにとびだした。  最高級部屋の客となる  美容院はすぐ見つかった。中はガランと空いている。 「明日は大安で朝から大変ですけど、今日は日柄があんまりよくないので……」  やせ型のおとなしそうな美容師さんが方言のまじらないきれいな言葉でいった。鏡の前にすわると、美容師さんの後で、年配の婦人が何故か私をじっと見つめ、やがて目の前の鏡の枠の外へ姿を消した。ほどなく、奥から目をまん丸にしてとび出してきたのは、この店の若奥さんらしい。 「いま、姑から聞いたんですけど、お客さん、もしかしたら作家の方じゃない?」  作家と見られたのは悪い気がしない。ま、原稿書いて食べてるからそんなとこネ、と私は内心得意であいまいに笑った。 「あ、やっぱ、そうですか。あたし�ソクラテスの妻�っていうのよみました」  佐藤愛子大先生と完全にとりちがえて欣喜雀躍してる。  めっぽう陽気な人らしい。そういうことならなおのこと私に悪い気のしようはずがない。すっかり気を許した私は、実は相談なんですけどねえ、と声をひそめた。 「いま、竹野屋に荷物を下ろしたんだけど部屋が気に入らないの。ほかにいい宿ないかしら」  やせ型の美容師さんが、例の静かな声でいった。 「竹野屋なら�素鵞の間�っていうすばらしい部屋があります。戻ってから交渉してごらんになるといいですよ。今日あたりきっと空いてますから。一泊一万円以上とか聞きましたけど」  かくて、思いがけない紆余曲折ののち、私は出雲は大社町、竹野屋ご自慢の最高級部屋「素鵞の間」お客と相成ったのである。  部屋が変ると、不思議にも女中さんの態度まで変るのか、例の体操の選手は神妙にべったりと畳に手をついて挨拶をした。それにしても今度は何と広々した部屋だろう。床の間には、渋い菊が品よく活けてある。カギの手に廊下が走り、縁側の外は水銀灯に照らし出されて広大な庭である。次の間は六畳。鏡台の前の緋の座ぶとんがなまめかしい。恋にも結婚にも恵まれず生きてきたのだもの、せめて宿くらい人並み以上のところに泊りたいわ、と誰にいうともなくつぶやきつつ、私はすっかり上機嫌になって廊下のつき当りの風呂場に入った。脱衣場の窓から庭が見える。衣服を脱ぎ、ガラス戸をあけると、オヤ? 洗い桶も腰かけも、すべて二つずつキチンと並んでいるではないか。アッ。そういうことだったのか——。  つまりここは天下の出雲なのである。縁結びの社《やしろ》のまん前の宿なのである。うらぶれた女の一人客なんぞ、どこへ案内したらいいのか、宿の方では戸惑ったのだろう。かくて、私ばかりが何故冷遇される? と憤懣《ふんまん》やる方なかった思いは、風呂場の中のペアセットを見ているうちに、すーっと消えていった。  風呂から上ると、十畳の間の卓の上には、夕食が並んでいた。悶着の末だから冷えきってしまっている。ありきたりの定食に、わずかに特色を見せて名物出雲そばが一杯。  それはそうと、明朝の歯ブラシが見当らない。実はさっきも風呂場でタオルが見当らず、私は化粧袋からガーゼのタオルを出して代用したのだ。 「あ、手拭いや歯ブラシは石油ショック以来おいてません。この宿のご主人が町長をしてまして、町長の音頭で大社町の旅館が申し合わせをしたんです。アノ、何でしたら手拭いは売店で売ってますから、ハイ」  オバチャンおまけしてよ  寝るには早い。明朝は歯も磨けず、か。再び気がふさぎかけるのを紛らすように、私は宿の下駄をはいてふらりと表通りに出た。出雲の名物は何といっても欅《けやき》の大黒様である。つまり出雲大社の御神体の|大国 主命《おおくにぬしのみこと》の木彫り像なのである。土産物屋のショーウインドーには所せましとばかり大黒様が並んでいるが、最小のでも二千円はする。と、何軒目かの店に萩焼の茶碗が並んでいた。広々とした店内に客は一人もいない。お日柄次第で客足がガタンとちがうのだろうか。店の片すみで机の上に古雑誌を立て、その陰にかくれるようにしながら女あるじが食事をしている。萩焼は珍しくないけれど、私が足を止めたのは、萩のとなりの、何焼というのだろうか、渋い茶色の実に素朴な菓子鉢の前であった。うっかりしていると見すごしてしまいそうな地味な土の色だけれど、一旦目をつけたら吸いよせられるような味がある。身動きもせず眺めていると、女あるじが箸をおいてやってきて、 「これはホレ、空権《くうけん》さんのですが。もうこういう作品はほしくても手に入りませんもんで、店のかざりに置いチョーンです、はあ」  空権さんというのは、地元で指折りの作家にちがいない。置いチョーンですなどといわずに、いくらなら分けてくれるのかと喰い下ると、まあ、五千円はほしいという。聞いた途端に安い! と思った。が、いわれた通りに買うことはあるまい。ねばれるだけねばろうと思いつき、 「ホラ、ここんとこ欠けてるわ。四千円にしなさいよ。今夜は客も無いし、パーッと景気つけてよ、オバチャン」  こういうと、女あるじは蚊の鳴くような声であわれっぽく、 「娘に叱られますがな。娘はいま留守ですが、このごろ店のことがよう分ってきちょりますんで、わたしが下手なあきないすると、怒りますで……」  そんな。昔っから娘より親の方がエライに決ってるわよ。娘に怖気づいてて親がつとまりますかいな。オバチャン、頑張って負けてよォ、とまくしたてつつ私が、菓子鉢から顔をあげたその時、 「あれェー」  女あるじは悲鳴にも似た叫び声をあげた。 「あんたさん、テレビで見る人とちがいますか? あらァ、どうしましょ。おっしゃる通りの値段にします。あらァ、困った。ンまあ」  しまったあ! 「オ、オバチャン、冗談よ冗談だって。面白半分で値切ったのよ。五千円なら、安いわよ」  結局、菓子鉢は四千円となり、絵はがきのおまけをもらって、私は腋の下まで汗をかきながら宿に戻ったのであった。やれ、やれ、テレビに顔をさらすのは考えものだ、と複雑な思いで部屋に戻ると、講演先の女子高校から電話をほしいとメモが入っている。あわててダイヤルしたが、何度かけても話し中で通じない。まあいいわ、明日の午後、会場に行けばいいんだからと、私はそのまま十畳の座敷の真ん中にたった一つ敷かれた、赤い鹿の子の絹蒲団の中にもぐり込んだのである。  おさい銭は|ゴエン《ヽヽヽ》がいいわ  目がさめると縁側の障子がパーッと明るい。カーテンをひくと庭の木々は東京の緑と緑がちがう。ああ、すでに何千組かの新婚夫婦が目をさまして、まず第一に眺めたであろうこの緑よ——。  身支度をすませ、何はともあれ私は出雲大社に向かった。観光バスが次々に到着して、境内はすでに団体客で賑っている。社務所にはお守りを買う人々が黒山の如くたかっており、歌手の森昌子チャンそっくりの女の子が、 「交通安全にも|利く《ヽヽ》って。でもやっぱり開運がいいネ」  当節は神様も多角経営で、家内安全、商売繁昌のお守りから、さらに「縁結びの糸、二百円」まで販売している。見わたしたところ、二十円のおみくじが一番安い。早速一本とりあげてみたら、凶とも吉とも書かず、 「訓=正直の頭に神宿る。  運勢=愉快な事のある年だが、極めて油断ならない年だから、何事も神に祈れ」  とある。そんなバカな。神社のPRもいいけれど、これでは面白くもおかしくもありゃしない。私はせせら笑ったが、神殿にぬかずく団体さんはいじらしいまでに真剣である。手を合わせて身じろぎもせず祈る中身は、景気回復か、手形のスムーズな決済か。  おさい銭はいくらにしようかと考えながら、無意識のうちに「五円(ご縁)」がいいわとつぶやいたのは、案外、私の胸に田舎の母と同じ思いが潜在しているせいかも知れぬ。結局、百円玉と五円玉を一つずつつまんで、ポーンと投げ入れたが、祈る文句がうかばない。手を合わせたけど目はあけたまま神殿をじろじろ眺めまわしつつ、わが心はすでに別なテーマで占められていた。 「折角、出雲まできたんだから、両親のみやげに木彫の大黒様を買ってかえろうか、いや二千円も出すならむしろ日本海の雲丹の方がいいだろうか。何れにしても出雲大社のお札は二、三枚買って帰って柱に貼っとこう」  一通り参詣をすませてぶらぶらと境内をまわると、木陰の日だまりで写真屋さんが週刊誌をひろげて暇をもて余している。そうだ! 四十代の初詣で記念に、写真を一枚撮っておこう。見ると、昭和○年○月○日と、日付けのところが空欄になった立て札がおいてある。修学旅行の記念撮影用らしい。ウン、この立て札に数字を入れて、まさに本日の記念というヤツを撮ってもらおう。写真屋さんは週刊誌から目をあげると、ギョッとしたように聞き返した。 「えッ、一人で日付入れて写すんですか? そりゃ、うちはかまわんけど、奥さんこの大社へ、ほんとに一人できたんですか? 何で奥さん一人なんです?」  何で一人かと聞かれても困る。さすがに鳥居の真ん中は気がひけて、ほんの少々位置をズラし、ハンドバッグをぶらさげたまま私が気をつけェの姿勢で息を止めたところで、ガチャリとシャッターが鳴り、送料とも二千五百円の撮影は終った。  ご多分に洩れず、境内には屋台の土産物屋が軒を並べている。 「いかがですか。大黒様に生姜《しようが》糖。出雲大社の焼き判入れたしゃもじが二百円ッ!」  何軒目かの屋台を通りかかると、見なれない菓子が置いてある。黄色くうすっぺらな花びら状のものに砂糖がまぶしてあるのだ。 「うす切り生姜の砂糖づけですがな、お客さん。出雲じゅうさがしたって、うちにしかありゃしません。ちょっとつまんでごらんなさい。ここまで仕上げるのは、五年や十年や十五年や二十年の腕じゃムリですがな」  では、いったい何年かかれば腕が身につくのかと問い返したいところだが、一つつまむと、なるほどうまい。カリッとして口当りよく、噛むと生姜の香りがプーンとただよう。 「ウン、こりゃいいわ。え、一袋三百五十円? じゃ四袋ちょうだい」  財布の口をあけかかった時、うしろから、 「あのゥ」  と私を覗き込んだ人がいる。髪の長い二重まぶたの女の子だ。Gパンをはいて、肩から鞄を下げ、ヒッピー風にも見えるけど、顔つきには意外に堅実ムードがにじんでいる。 「あのゥ、カミサカさんじゃないでしょうか? やっぱりそう! 声で分りました。へーえ、ツイてるゥ」  四日前に東京を発ってきたそうである。あと一週間、一人旅をするつもりで周遊券を買ってあるそうだ。一日に一回ずつ赤電話で親に電話する約束で、それさえ果せば、どこへ行ってもいいといわれたから、このあと一人で日御碕《ひのみさき》をまわるつもりだという。 「私もこれからタクシーでまわるつもりなの。よかったら一緒に乗ってかない?」  返事の代りに二重まぶたがパーッと輝いた。「宿へ戻って荷物をすぐ取ってきます。竹野屋のロビーで待ってて下さい」。こういうと彼女は生姜の砂糖づけに素早く手をのばしてツマミ喰いをすませ、一袋も買わず一本道を走り去った。  男はみんな色魔なり  日御碕には東洋一といわれる燈台があるはずだ。思いがけない道連れを得て乗り込むと、さすがに運転手さんは客扱いに馴れている。 「こちらに見えますのが稲佐《いなさ》の浜といいまして、毎年旧暦の十月十日に日本中の神様がこの海岸に集合されます。そこで日本全体は神無月になりますが、出雲だけは神有月ちゅうわけです。神様がたは十月十七日に各地へ帰られますが、昔からこのお帰りの日に柿の木を植えると、一本残らず根がつくといわれちょります」  運転手の説明を聞いているのかいないのか、隣席の女の子は二重まぶたの目をきょろきょろさせながら浮かれている。 「あたしはいつも国民宿舎なんですけど、ゆうべは一泊三千円で宿をとりました。朝食は要らないからって値切ったら、三百円引いて二千七百円。ええ、あたしは塩とナイフとマホー瓶を持ち歩いてます。朝食はパンを買ってすませるの。宿を出る時はいつもマホー瓶にお茶を入れてもらうんです」  で、一体、どのくらいの予算で旅をしているの? と聞いたら、十二日間で交通費とも六万円とのこと。なるほど、一日五千円の予算なら、生姜の砂糖づけをガツガツつまむはずだ。運転手さんは、自らのガイドに酔うが如く、しゃべりつづける。 「左に見えます島は、筆投島といいまして、平安時代の著名な画家、巨勢金岡《こせのかなおか》が一生懸命写生したところ、余りに景色が美しすぎてどうにも思うように描けんため、ついに、こりゃかなわんと、筆を投げてしまったといういわれのある島です」  短気な男というのは昔からいるらしい。  道一本へだてて左側は海、右側は山。海岸にはチリ一つ無く、さざ波の下の白砂が透けて見える。 「あたし、十日前にお勤めをやめたんです。貯金のつづく間は好きなことをして遊んで、お金がなくなったらアルバイトするからいいの。女はおヨメに行ったらおしまいでしょ。ウウン、まだ彼氏はいないけど、いずれは家庭に入るんですもの、やりたいことはやっとかなくちゃ。団体旅行は安上りだってきいてます。けど、スキー教室なんかで知り合った男の人に捨てられた女性の話なんか聞くと、やっぱり一人旅の方が安全だし……」  そりゃそうよ。団体旅行に応募する若い男なんてゼッタイ飢えてるのが多いんだから、気をつけなさいよ。  先輩然としてこうけしかけたら、彼女、声をひそめて乗ってきて、 「実はネ。去年の暮のことだけど、スキー教室の貼り紙があったから見てたの。そうしたらいつの間にかあたしの肩スレスレのところに並んで、貼り紙を読んでる男の人がいるの。そいで、その人、見も知らないあたしに『スキーはお好きですか。もしよろしかったら少しお時間とっていただけませんか。スキーの話しましょう』なんて」  そりゃ危い!「お茶飲みませんか」までなら許せるけど、「お時間とっていただけませんか」なんて、いいまわしがフヤけてる。  あなたもちろん断ったでしょうね、といつしか私が興奮して声を荒立てたあたりから運転手さんはついに観光案内を無意味とさとったのか、黙々とハンドルをまわしている。 「世の中油断もスキもないんだと思います。あたし、ずっと前お勤めしてた時、山形へ出張した人から�こけし�をもらったことがあるんです。でも、たとえお土産だって、ただでもらういわれのない人なんです。あとあと面倒だと思って、シェービングクリーム二本お返ししときました」  えらいッ、そういうケジメが肝心なのよ、と相変らず先輩然として私はおごそかに合の手を打った。いつしか出雲詣での女二人の会話の中でこの世の男は一人残らず�色魔�と化し、われらが心は窓の外の海の色の如くさわやかである。  いつ果てるともないおしゃべりをつなぎ合わせてみると、彼女は四人きょうだいの長女だそうだ。お父さんはサラリーマンだけど病身で、お母さんが病院の事務をして家計を扶《たす》けている。仕事を持つお母さんだから気が若いのか、彼女の自由をかなり大幅に認めているらしく、 「……あたし、これまでお勤めは三回変えたの。最初は藤沢の銀行の窓口にいたの。ホラ、作家の立原正秋さん、あの方はうちの銀行のお得意さんで、窓口にいらっしゃるとプーンとお酒のにおいがするの」  いよいよ車は燈台に近づいたらしい。ここから先は歩いてくれといわれて車をおりると、 「エー、いかがですか。いか焼き一つ二百円。焼きたていかが。あついとこ。サーいらっしゃい」  ボリュームを一ぱいにあげた中古のテープレコーダーみたいな声で、ひっつめ髪にかっぽう着のおばさんがよびかける。足元に気を配りながら顔をあげると、おお、目の前に、まっ白な燈台があらわれた。  明治三十六年完成、高さ約四十五メートル。てっぺんまで階段で上れるらしい。二重まぶたの娘はもちろん上る気で、Gパンの裾をひるがえしつつ階段の入口へ走り去った。  松林の岩の上に腰を下ろして待つことしばし。燈台下は明るく広い海である。松林にたむろするのは、大半が「家内安全」型の中年夫婦で、いか焼き片手に何を語るでもなく海を眺めている。出雲大社からの流れであろう。二人一組のそのうしろ姿に不思議な安定感がたちこめている。いま、あの燈台をかけ上っていった女の子も、案外早く「家内安全」型のペアになって静止するのではないかしら。ああしかし、誰がどうなろうと、私だけはたぶんこのまま、うしろ姿一つで終るのだろうなァと妙な確信が湧く。  間もなく彼女が戻ってきた。 「不思議なご縁だったわね。私はこのあと講演会場へ行かなくちゃならないけど、あなたどうする?」  と聞くと、急ぐ旅じゃありませんから、あたしも出雲まで戻りますという。かくて二人は出雲駅前で手を振って別れたのである。  Gパン娘との縁結び  出雲女子高校創立六十五周年記念は、市立体育館で行なわれる予定であった。控え室に着くと、若い副校長氏が、 「昨夜はすいません。電話がたぶん話し中でかからなかったと思います。実は校長の娘で、私の義妹が年頃なもので、毎晩のように長電話をかけまして……」  ちょっと待って。校長の娘が私の義妹——ということは、つまりまだあどけなさの残ったこの副校長氏は、見込まれて山陰の私立高校の女婿として迎えられた人なのか。校長先生は明治の風雪を感じさせる教育者然とした人で、白い口髭をほころばせつつ、 「そうなんです。うちは娘が二人なんですわ。で、二人とも早くから学校の後を継ぐなんてイヤだと申しとりまして、上のは高校を出るとすぐ東京の大学へ行っちまいました。こりゃあ下手すると私の代で学校運営は挫折するか、と正直いって一時は不安もありましたが、世の中よくしたもんですなァ。娘が恋愛しまして。ハア。で、もちろんコレは(と、副校長氏を指し)学校を出たら一流企業にと思っとったらしいんですが、二、三度出雲に出向いて来とるうちに、よしッ、学校の後を継ごうという気になってくれまして……」  あらためて義父と女婿を見なおすと、そこはかとないユーモラスな雰囲気のただよう名コンビである。  白いハブラシみたいな口髭をたくわえた校長先生は、首から下が焼き上りのお餅みたいにプクーンとふくらんで、今日のよき日のモーニングのチョッキのボタンははち切れんばかり。そのボタンの上にからませた金ぐさりは懐中時計か。  女婿氏は、色白の丸顔の下半分に流行の髭を黒々と生やし、見れば見るほど善意に満ち満ちた表情である。世の男はすべて色魔、と語り合ったさっきの会話の誤りを、私はこの一瞬にさとった。女婿氏自身にとっても大企業のスチール机をシリ目に、学び舎の担い手となられたのは、まさに適材適所、縁結びの神のご利益というほかない。めでたしめでたし、よかったわねえ副校長さん、あなた玉の輿《こし》よォ、といわんばかりの馴れ馴れしさで私がニッコリほほ笑みかけたら、この時校長先生はハッと我にかえられたらしい。突如としてプライベートの顔から公用の顔に切り換え、エヘンと咳ばらいも重々しく厳然として言い放たれたのである。 「本校は私の母が、遠く明治の頃に思い立ち、当初裁縫学校としてはじめたものであります。母は東京の大妻女子大の創始者として名高い、かの(とここで一そう声をハリ上げ)大妻コタカ先生と同級生でして……」  校長先生のご説明通りご当地ではかなり由緒ある学校らしく、続々と来賓がつめかけてきた。鳥の剥製みたいな枯淡の境地の老人あり、何やら議員バッジらしきものを輝かせて目ツキのぎらぎらした働き盛りあり……。  正一時、予定通り式典が終ると、いよいよ二千名の女生徒の前で私が講演する番だ。カタカタとハイヒールを鳴らして板敷きの演壇の真ん中まで進み、マイクに向かってさて話そうと息を吸いこんだその瞬間、私はアッと叫びそうになった。  会場の前半に女生徒、後半に父兄が並んでいる。その生徒と父兄との境界線のあたりに、例の二重まぶたの女の子がすわり込んでいるではないか。何よあなた、汽車に乗らなかったの!? と思わず口走りそうなのを押さえ、 「皆さん、創立六十五周年おめでとうございます。出雲へははじめて参りました……」  ありきたりの前口上をのべながら、私は笑いを噛み殺しつつ、彼女を見つめた。セーラー服の群のうしろから、彼女はまばたきもせずこちらを見返している。  遅ればせながらの出雲詣り。縁結びの神のお引き合わせがあの女の子とは余りに味気ないけれど、何故か私は浮き浮きと心はずみ、 「やがて社会人となる高校生の皆さん!」  声をいっそうハリ上げたのであった。   ああ日本縦断男の品定め  愛丸姐さんの郷土愛  どこかにこう、キューッと胸に迫るような男はいないものだろうか。別に愛の恋のという話ではない。ただ、見ているだけで心豊かになるような、骨組みのしっかりした男に、久しく私はお目にかかっていない気がするのだ。 「いや、三木(武夫)はあの時、本気で新党結成を考えとったんだ。椎名(悦三郎)がそれに気づいて、こりゃいかんと急遽政権を渡して……で、ロッキード問題は三木にとってプラスかマイナスか……」  東京の男たちは、寄るとさわるとこんな話題ばかりである。話しながら誰もが「俺が天下を動かしている」といわんばかりの顔つきになっているところがおかしい。少し東京を離れてみたらマシな男に出会えるのではないか。そんな淡い期待を抱きつつ、思いきって南は九州、北は北海道まで、パッと一っ飛びすることにした。  さて、まずは九州鹿児島。私は例によって例の如く新聞社の招きで講演旅行にきたのだが、第一夜は鹿児島銀座ともいうべき�天文館�という名の繁華街で、まるでおあつらえむきの如く、密室である男性とさしむかいの図から始まった。そう年の頃五十一、二歳か。 「ほんじゃ、マ、一ぱい」  いわれるままに一くち飲むと、プーンとかすかにさつまいもがにおって、さつま焼酎はたしかに口当りがいい。 「いけますわ」  何しろ男を品定めする旅なのだ、すべり出しでヒルんではならぬと、私はグイとのみ干して盃を返した。  と、うしろの襖がするするとあいて、突如、開店祝いの花輪の牡丹みたいな派手やかなおかみさんが二人の間に割り込み、 「ヒヤァ、部長、お久しぶりィ、元気かや?」  私には目もくれず向かい側の男性に叫びかけた。部長、つまりさし向かいの男性は、新聞社の政経部長殿である。彼は威勢のいい牡丹に対し、 「え、いや、まあ、おかげさんで……」  初対面の私と、なじみのおかみさんとの間で態度が決らない。 「ここのおかみとは古いつき合いでねえ。この人、昔、芸者をしとったんです。えらいよなァ。今や堂々たる女あるじだもんなァ」 「愛丸」という屋号は、お座敷に出ていた頃の名前だろう。いも焼酎で目もとのトロンとしはじめた部長氏は「野口英世か愛丸か」といわんばかりに当代の英雄、愛丸姐さんに崇拝のまなざしを送っている。そういえば玄関を入ったすぐわきに、かつての愛丸姐さんご愛用の人力車が、赤い毛布つきで飾ってあった。 「だからさァ、部長。うちの妓を一ペん新聞に出してよォ。ホレ、あのとっときの人力車の上にのせて、写真一枚撮ってよォ。あたしゃ、欲や得でこんなこといってんじゃないの。郷土発展のために……」  愛丸姐さんの声はお酒の年季が入っている。ハスキーな声をハリ上げ、白地に紫の花もようの、あでやかなりんずをまとい、一きわ声高く「郷土愛」を力説したが、よく聞いてみるとなるほど 一理ある。  鹿児島市というのは不思議なところで、芸者が一人もいないのだそうだ。こんなことだから九州といえば長崎、博多にお株をとられてしまうんだと、姐さんは一念発起し、愛丸専属の芸者を養成して今や四人の妓を育て上げたというのである。  カリン糖と唐獅子の勝負 「ンだから部長、とにかく一目見てよォ」 「しかし、わしゃ政経部長だで、この話は市の観光課の方が……」  そりゃ分っトル、けど観光課は観光課、アンタはアンタ、とか何とかいいながら、おかみはそそくさと姿を消した。  目の前には出来たてのさつま揚げが、かご盛りになっている。つき出しは鹿児島名産のきびなごの卯の花あえだ。 「さつま焼酎は、別名ダレ止めといいます。つまり、仕事が終って家にかえってデレーッとダレそうになる前に一ぱいやって、活力モリモリというところからきとるんですなァ」  その割に政経部長は活力モリモリとは程遠いではないか、と私がジロリと氏を一ベつしたその時、再び襖がスーッとあいて、 「こんばんわ」  ふりかえってアッと驚いた。見上げるばかりの大女が、これでもカ! といわんばかりのグリーンの着物にまっ赤な蹴出《けだ》しをのぞかせてそびえ立っている。黒々とした島田がかつらだということは、一目で分った。 「桜子でございます」  こんもりと畳の上に山のような形になって手をつく彼女の、その手を見ながら、ああ鹿児島といえば、さつま芋が名物だったなァと妙な連想がわく。 「サ、桜子さん、こ、こちらへ。どうぞごゆっくり」  政経部長氏も咄嗟《とつさ》のことで、どう扱ったらいいか分らない。 「ゆっくりもしてられんのよ。あたしはこの道へ入ってまだ一年そこそこなの。名前をつけるときにずい分迷ってね。桜子の桜はただの桜じゃないの。分るでしょ。そう、桜島の桜ッ」  南国育ちらしい浅黒い肌、くろぐろとした瞳、小鼻のわきに汗をかいて、まさに活火山という桜子チャンが、簡単な挨拶と共にラグビーのボールを二つ合わせたような尻をずらせて引き下ると、入れ代りに、 「市丸でございます」  今度は空色のパーッとした着物に色白の、これもまたでっぷりと大柄なお姐さんである。 「あたしネ、昔っからこの芸者姿に憧れてたの。学校出てからブラブラしとったら愛丸さんで芸者の志願者を集めてるっていうじゃない。モーたまらなくなって、おかみさんのマンションへ一人でのり込んで『仲間に入れて下さい。必ず最後までやり抜きます』って誓ったの」  何やら義士の討入りの如きすさまじさだけど、かくてにわか仕立ての芸者さんが四人誕生し、愛丸姐さんはこれを更に近い将来、十人にふやして郷土発展の突破口にせしめんと、野望を抱いているという。十人勢揃いの暁には大々的な新聞広告を、自費で出すつもりとか。 「しかしねえ」  政経部長氏は肩を落としていった。 「何せ鹿児島はいち早く売春防止法を提唱した地でもあり、新聞社としては愛郷心と芸者とを、そう簡単にむすびつけるわけにはいかんのです」  そういえばそうだけど部長、この世はスジミチじゃないのよ。ごらん、この愛丸姐さんの迫力を。まん丸の鼻の穴は奥までつつ抜けに見える。赤く染め上げた髪は、キーッと一本残らず後頭部でまとめ上げ、落ちくぼんだりとはいえ、目はランランと輝いている。どこかで見たなあと思い出していたら、そう、床の間の置き物の唐獅子だと気づいた。それに比して政経部長氏はと見れば、ほっそりと長身で、苦節五十年南国の人間関係を隠忍自重して生きてこられた様子が全身ににじみ出ている。一家の重荷に背をきしませつつ、社会のネジとなって真実一路、誠実一路に生きる男の中の男の見本のようなその男を見ているうちに、私は何やら切なくなってきた。  そう、あれはいつだったか。ソクラテスという仇名の男がいた。俗事にかかわり合わず目は遠く歴史の発展のみを追うという感じの人で、誰いうともなく哲学者をもじって別格扱いの存在であった。その男が、である。タバコの値上りが巷で噂に上るやいなや、いち早く事務所のひき出しにセブンスター二十箱を買い込んだというのだ。私はその話を聞いた途端、彼、四十男氏に対して肩を叩いてやりたいほどのいとしさを感じたものだ。歴史の発展と日本の前途を論じつつ、そのかたわら当面のタバコにせせこましく気を配る、そこのところがまさに男だ。恐らくこの部長氏も、目は日本の政治、経済をおもんぱかりつつ、心は夜な夜なダレ止めでふるい立たせながら、良いことも悪いこともすべて腹八分目に押さえてスジミチを追いつつ今日を築き上げてこられたにちがいない。いまや、事は品定めの範疇を越えている。私はしんみりとしながら、唐獅子姐さんのわきの、鹿児島のソクラテスを見つめた。   鉄火肌の赤き血潮に気押されて   淋しからずやスジを説く君  それにしてもこれが初日の男とはどうも見透しは暗いなァと肩を落とし、宿にもどったのは夜半であった。  一見画家風の運転手さん  明くれば南国の空は晴天。窓の外、まさに手にとるように見える桜島よ。  桜島を見たら、何故か無性に酒ずしが食べたくなった。鹿児島名物酒ずしは、かねがね話に聞いているけれど、一度も食べたことはない。ホテルの玄関前に列をなすタクシーに近づいて、 「酒ずしのおいしい店に案内して」  とのぞき込むと、運転手さんは一見画家風、鼻すじの通った実に味のある風ぼうの人である。ならばと私は妙に浮き浮きして、 「酒ずしにいく前に、簡単に市内観光もしたいけど、これが鹿児島だ! というようなとこがあったらまわってくれない?」  思わず口走ったら、 「そりゃもう、何といっても鴨池マリンパークがよかです」  彼は迷うことなくいった。マリンパークってば、どこにでもあるアレでしょう? と念を押すと、いいや鹿児島にしかないという。お子様向けなんでしょう? と問いただすと、いいや、大人が見ても実に珍しいとのこと。 「ウン、つまりが、竜宮みたいな景色です、ハア」  画家風の鼻すじを一きわうごめかしてこうまでいうのだからと、次第につり込まれて胸ときめかしつつ車にゆられていくと、見わたすかぎりだだっ広い海辺の新開地についた。 「ここはついこのあいだまで海だったのを、埋めたてて、ホレ向こうに……」  指さす彼方をみて私はアッと声をあげた。一巻の終りである。マリンパークとはあの事か。  要するに展望台である。今更あとへもひけず、入園料百円を払って正面のエレベーターから地下へ降りると、なるほど壁ぎわに大きなうす汚い魚が泳いでいる。何のことはない水族館だ。 「エビフライ 六百円」  とメニューが並んで、片すみでは魚を見ながら食事ができるしくみになっているらしい。何が竜宮城なものか。げんなりとして怒る気力すらなくした私は、ものの二分で見|了《お》えると、車に戻って愛想笑いもせず「酒ずしへ!」と怒鳴った。運転手氏は私の気持に一向に気づいた風もなく、うららかにハンドルをまわしつつ、 「お客さん、今度ゆっくり来られたなら指宿《いぶすき》がよかです。指宿ちゅうとこは、ただ温泉があるだけで、ほかに特別な見ものはなーんもありません。けどアノ、観光ホテルにジャングル風呂ちゅうのがありまして」  それがどうだというのだ。風呂の中に熱帯植物を植えるという趣向は、いまどき珍しくも何ともない。 「で、そのジャングル風呂がえろう大きいんですわ。ですから新婚さんはたいていそこへ……。あのゥ、木がたくさん生えとりますけに、二人ずつ組になってその陰に入っていけば、あのゥ、思う通りのことが……」  思う通りのこととはつまり何をどうすることなの。ハッキリいいなさいハッキリ! ああそれにしても私としたことが何を見あやまったのだろう。鼻スジの通った画家だなんてとんでもない。先のたれ下ったこのテの鼻は、典型的インワイの相である。   鼻の形のその辺にインワイ住むと人のいう   ああわれそれをつき止めて涙さしぐみ帰りきぬ  新婚組の中のお一人様  さて、着いたところはゆうべの天文館。郷土料理店の名は熊襲《くまそ》亭という。昼食には少し間があるせいか、客は一人もいない。チマチマと細かく仕切った座敷風大衆食堂である。黒ブチ目がねの婦人会長みたいなオバさんが出てきて、 「お一人様ですか? ではこちらへ」  と入口の席を指した。入口では落着かないからと勝手に奥へ行きかけると、婦人会長は私に身をスリ寄せるようにして近づき、声をひそめて、 「あのう、あちらは新婚さんが好んでおすわりになりますから、お一人様の場合はこちらの席の方が……」  何も差をつけることないでしょ、と危うく口から出そうなのをこらえ、しぶしぶ入口にすわり込むと、婦人会長は再び背後から身をスリ寄せて小声で、 「あの、できますものは、こちらにあります通りで……」  手にもった金色の扇をサッとひろげた。扇の上に墨痕あざやかに、 「隼人《はやと》コース、尊《みこと》コース、帝《みかど》コース」  とある。尊コース二千五百円を指しながら、ここらでいいわといっているうちに正午近くなったせいか、新婚組が続々とつめかけて奥に陣取った。ハハァ、なるほど婦人会長のいう通り、奥の間に入りこんだ新婚組は、うまい具合に襖の陰にかくれて人目につかない。つまり、陰で「思う通り」のことができるわけだ。この婦人会長の営業方針は見事に効を奏し、いつしか見わたすかぎり満席である。婦人会長は私の前からそそくさと身をひるがえすと、奥の新婚組のもとにはせ参じて、大声でいみじくもいったものだ。 「|お疲れさま《ヽヽヽヽヽ》でございます」  止せばいいのにこのあとすかさず、 「ゆうべはどちらへお泊りで……」  新婚組は実家の母に報告するが如き甘えた口調で、「指宿ダヨ」と答えている。  ジャングル風呂帰りか——。  間もなく目の前に各種の郷土料理が並び、ついに外側が黒、内側が赤の桶にプーンと酢っぱいにおいの酒ずしが運ばれてきた。ずしりと重い蓋をとると、一見ちらし風である。うす切り卵、さつま揚げの煮つけ、大根の葉をきざんだもの。さしみ……などがいかにも雑多にバラまいてある。一箸つけると、ごはんは底にホンの一ならべで、それもまあ、麹《こうじ》のもとみたいにぐしゃぐしゃである。お酒をブッかけて一夜おいたごはんというのはこれなのか——。  そもそもその昔、島津の殿様が宴をひらき、飲み残しの酒と残飯をまぜて台所の壺に放り込んでおいたところ、翌朝、壺から芳香がただよって、「殿、いたくこれを賞《め》で給う」たのが酒ずしの由来だとか。一口ほおばると、なるほど、うまい。ぐしゃりとしたごはんの歯ざわりと、程よくキの抜けたお酒の香りが口の中で何ともいえぬ調和を見せる。  結局、鹿児島の収穫は酒ずしのみか——。午後からの講演を型どおりすませ、飛行場にもどると、何となく心境は酒ずしの如くぐんにゃりとしめっぽい。  男の品定め、なんて、ひそかな野望を抱いてきたけれど、要するに愛丸姐さんといい、婦人会長といい、はっ、と目を止めたくなるような気のきいたのはみんな女ではないか。  ライオン丸は趣味じゃない  さて、鹿児島を夕方四時近くに発って東京で乗りつぎ、エイッと一飛びに札幌千歳空港についたのは七時であった。今度はテレビの取材である。ざっと三時間の間に風景はガラリと変り、あたり一面まっ白。雪は雪でも北海道のは雪がちがう。目がつまっていて、歩くとキューッと音をたててキシむのである。  空港に降りると、出迎えのテレビ局員は一目で分った。見るからに�テレビ局�という顔ツキなのだ。ギョロリとしたまなざし、ふてぶてしくたくましい首。出迎えのテレビ局員も私に気づいて、 「パチン」  と指を鳴らした。初対面の挨拶のつもりらしい。  彼の車に乗って雪の道を一路札幌郊外の丘珠《おかだま》にむかう。丘珠というのは玉ねぎの名産地として知られる農村だそうだ。番組は真冬の北海道の味覚をたずねるというもので、私は農村のストーブのそばで、ゆでたてのじゃが芋を、フーフーいいながら食べさえすればいいという気軽な役である。それにしても空港から約一時間半。雪の荒野をただ走るのは間がもたない。 「あなた、これまでどんな番組を手がけたの?」  退屈しのぎに話しかけると、 「ボク、これまで子供ものが中心で、快傑ライオン丸なんかつくりました」  じゃ、自作自演だわネ、とうっかりいいたくなるほど、似てる。うっそうたるヘアスタイルといい、嵐を呼ぶ顔つきといい、まさにライオン丸そのものだ。何れにせよ、昨日はライオン丸、今日は味覚番組と、体を張って電波に取り組むとっくりセーターの世代は、もはや私の品定めの範囲をこえている。と、突然、 「あのゥ、トイレは大丈夫ですか?」  ライオン丸が妙にオズオズと私をふり返った。えッ? あら、大丈夫よ。と私は柄にもなくうろたえた。しかし何でまたこんなときに、こんなことを聞くのかしら? もし大丈夫でないといったら、この白い荒野で一体どういう方法があるというのか? 思うに彼も妙なとり合わせのまま、一時間半の道のりを走る心の重荷にたえかねたらしい。苦しまぎれに話のツギ穂をあさった揚句がトイレとは、見かけによらず可愛らしい。  しかし子供相手は趣味ではない。私は三十六計眠るに如《し》かずと目を閉じた。  ああ北海道に�男�あり  ガッタンと車がゆれた拍子に目をさますと、農家の玄関であった。フロントガラスの向こうは粉雪である。玄関の戸があいて、「ワーイ、来たァ」と子供がとび出してきた。撮影隊はすでにライトをつけ、万全の準備をととのえて待っている。田の字型にベタベタと四つ並んだ農家の座敷には、それぞれ一つずつストーブがとりつけられ、石炭が燃えている。台所のストーブの上には、一かかえもあろうかと思われるアルミのなべがかけてあって、フタをとるとボワーッと湯気が迫ってきた。中には丸のままの粉ふき芋がぎっしりである。 「じゃ、カミサカさん、なべをあけて一瞬おどろいてから箸で芋を刺す——。こういきましょう」  ライオン丸はディレクターであった。で、このあと農家の人々が車座になって私を囲みしばし談笑、というスジ書きなのだが、さて誰にマイクを向けようか。ライオン丸があたりを見まわすと、 「ヤダ、あたしァ、まとまった話はてんでダメ。兄さん、たのむ」  割烹着のおばさんがいうと、兄さんと名指された青年は赤ん坊をかかえて顔をそむけた。 「オラも、だめ」  どうやら若主人らしい。座が散っては大変と私があわてて、あなたこちらの二代目? ととりなしかけると、意外にも部屋の隅から落着きはらった声がかかった。 「いいえ、これは四代目です。私どもは北海道へ住みついてかれこれ百年目なのです」  ハッと耳をそばだてたのは私だけではない。スタッフ一同、色めき立って、おっさんその開拓以来百年、四代目というくだりを是非本番でとせがみ、手をとらんばかりにして六十がらみのご主人をストーブのそばにひっぱり出した。夜が更けてくる。音もなく雪がつもる。帰りの道も気がかりで、誰もが内心あせっていたのだ。打ち合わせはもういいや、サ、行くぞォ、という合図と共にフィルムがまわり出す。  私は命ぜられた通りフーフーと芋の皮をむき、大げさに目を丸くして、 「あらァ、おいしいわァ。これ、男爵イモっていうんでしょ?」  さり気なさをよそおってご主人を見上げ、心の中で祈った。ああ、何とかうまく受け答えてくれますように——。  ご主人は小ぢんまりした顔をほころばせ、おもむろになべから芋をとり出した。おっさん黙ってちゃ駄目。ホラ、あの開拓者生活百年目っていう話を!  その時、おっさんはゆっくりと口を開いた。 「この芋は函館のさる男爵がアメリカからとり寄せた品種を改良して、この土地に一番合うのを開発したもので、男爵イモの由来はそこから来とります。最近はバターをつけて食うのが一般化しとりますが、我々のように開拓時代から住みついとる者には素朴な塩ゆでが一番ですな。ハア、うちはかれこれ百年目を迎えます。私で三代目、そこに居ります息子が四代目、ホレ、その坊主は五代目ですわ。ケン、こっちへ来い。芋やるぞ。ホイ」  三歳のケン君がテレて家族爆笑というところでピタリ予定の六分。フィルムがパタッと止って余りの見事さにスタッフ一同声もない。男爵イモの由来説明といい、素朴な語り口といい、最後にホレ、ケン! と孫に呼びかけた演出といい、非の打ちどころなし。 「大したカンだァ。やってくれたねえ」と目と目でささやき合うスタッフのこの思いを知ってか知らずか、おっさんは平然と私にむき直って「お見せしたいものがあります」と立ち上った。廊下のつき当りにトイレがある。そのトイレの窓を指さしながら、 「これが�氷紋�なんですよ。内地の方には珍しいでしょう」  ああ、これですか! ガラス窓に氷砂糖をまぶしたように唐草風の模様が浮き上っている。 「折角はるばる来てもろうても、何のもてなしもなくて申し訳ないと思うとったんですが、今日はことのほか氷紋が美しくてよかった」  おっさんの肩は、私とスレスレである。小柄な体で、ほぼ一生を大地相手に生きてきた人なのだろう。百年目の遺産は田の字型の家と、赤々と燃えるストーブと、かけずりまわるケン坊と、氷紋か——。  ああ、しかしここに男あり。日本縦断品定めの旅のしめくくりに男あり。首すじに二本、くっきりと喰い込んだシワに気づきつつ、私はようやくたずねあてた�男�と肩を並べ、しばし氷紋に見入ったのである。   奈良の都で心のせんたく  三十七年前のカミサカ家  近鉄奈良駅に着いて、私はまるで通勤電車から降りたOLみたいに馴れた足どりで歩き出した。久しぶりに餅飯殿《もちいいどの》をブラついてみようかな。餅飯殿というのは、いわば奈良市の銀座である。駅と平行に走る大通りを歩きながら、ふと見上げるとああ、手にとれそうな位置に三笠山が見える。なあんだ、こんな小さな山だったのか。そう、私の思い出の中の三笠山は、フーフーいいながらのぼらなければならない大きな山であった。父の赴任と共に私たち一家が奈良に住んだのは、もう三十七年も前である。  私は小学二年生であった。だから私は今でも掛け算の九九をいうとき、関西弁のフシがついてしまうのだ。あの頃、夏休みには戦時下の少国民の�体位向上�のために三笠山にかけのぼることになっており、私は毎朝六時おきして体力のかぎりをつくして参加したけれど、今見れば何のことはない、皿に盛ったチキンライスみたいな山ではないか。  猿沢の池は節分の夜、母につれられて欠かさずいった。節分の夜にこの池の水で手足を洗うと、冬の間しもやけにならないといわれており、私たちきょうだいはゾロゾロと通ったものである。節分といえばたしか春日神社の一の鳥居の前で、厄年の女は自分の年にちなんだお金を落とせば厄をまぬがれるとかいわれていた。母はあの頃、たしか三十三銭落として、後も振り返らずに走って帰ってきたはずである。三十三歳、子供八人。ひっつめ髪に絣の着物の若き日の母の顔が私の頭をかすめる。  母が三十三歳なら父は三十九歳か。あのころ父は余暇に乗馬をたのしんでいたが、ある日血相を変えて乗馬ズボンのまま家にかけ上ると、いきなり役所に電話を入れ、 「馬が逃げた。東大寺の方に向かった。タノム」  と叫んだのを覚えている。二つ上のガキ大将の兄が、このとき私の耳もとで声をひそめていった。 「な、誰にもいうたらあかんど。お父さん馬から落ちて落馬したんやどォ」  あの頃はよかったァ。父も黒髪を七三に分け、頬のコケた精悍な表情で、多分役所の仕事も一番脂が乗っていたにちがいない。夕飯のとき、母と私たち八人の子供は大きなけんちん汁の鍋など囲んだけど、父だけはいつも別膳で、小皿を二、三枚並べ、盃を傾けながら「日本は必ず勝つ」なんてくどくどつぶやいていた。当時の父は今の私より若かったことになるのか——。奈良はいい。三十七年一昔の如く、ほとんど変っていない。私は昔の足どりのまま、何の苦もなく五重の塔の下にたどりついた。そういえばこの塔も、昔は息をつめて見上げる高さに思えたけれど、今見れば何と小ぢんまりしてること。  奈良の料理は予約で一杯  塔を見上げているうちに私はハッと思いついた。そうだ。たしかこの裏手に「塔の茶屋」というのがあったはずだ。三年ほど前、両親を連れて久しぶりの奈良をたのしんだとき、はじめて見つけた懐石料理の店である。部屋はたった三つ。今にもこわれそうなしもた屋風の荒壁には橋本関雪の下絵の反古が何気なく貼ってあり、出された器は吸物椀から小皿に至るまで、素人目にも百年は経ていると思われるものを取揃えてあった。久しぶりにあそこを訪ねてみよう。ああ、何で早くここに気づかなかったんだろう。私にしては珍しく、遊びを兼ねてスケジュールをとったのに、夕飯のヒントを思いつかなかったなんて。  時計を見ると五時四十分。遅すぎたかな? と不安がよぎった。何しろ部屋は三つしかない。しかもこちらは一人客、一部屋明け渡すにしては効率が悪すぎる。ひるむ心をふるい立たせ、見なれた立札のある玄関の戸をあけると、鮮やかなブルーの着物に透きとおるほど色白のお姐さんが、 「申し訳ございません。もう少しお早くお越しいただけるとよかったんですが……。あのゥ、お一人様でしょうか」  標準語でいった。一人なら割込ませてくれるというのか、それとも一人だからダメなのか。何やら天下分目のような思いがこみ上げ、私はむらむらと女の執念を湧き立たせた。 「え、一人キリです。くどいようですけど三部屋とも塞《ふさ》がっているんでしょうか? もし何でしたらどなたかおすみになるまでその辺を一まわりしてきてもよろしいし、もしまだのお客様がいらっしゃったら、その人がお出でになる前にチャ、チャッと食べますが。何しろ一人キリですから」  お姐さんは絵筆で書いたような切れ長の目を一瞬まん丸くして、困惑した表情でつぶやいた。 「チャ、チャッと食べるといわれましても」  それはそうだ。最初に桜湯が出て、最後に薄茶が出るまで、器をめでながら食べる料理なのである。チャ、チャッと食べるものではないことは百も承知のはずなのに、物事の瀬戸際に立つと、どうして私にはこんな風にアサましく闘志が湧いてくるのだろう。 「こうなったら食べる、食べないは問題じゃありません。料理を一目見りゃ気がすむんです。夜中になってもかまいません!」  と危うくいいかけて私は言葉をのみこんだ。 「あのう、明朝でしたら十一時半からあけておりますから……」  気の毒げにいうお姐さんに、 「明日は早々に発ちますの。東京から仕事を兼ねて来てますので」  せめてもの腹いせに未練たっぷりにこれだけいうと、私はトボトボと引き返した。通りすがりに見る小部屋の障子にはあかあかと灯がともって、中からどっと女たちの笑い声が聞こえてくる。さざめいて懐石料理にありついているのは婦人会の連中か——。  通りに出ると、オヤ? 目の前に「奈良茶飯」と看板がある。しっとりとした船板塀の構えである。一旦消えかけた胸の火がムラムラと再燃し、よしッと私はこぶしをにぎりしめた。 �格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼の空に�浮かんだ白い三日月に向かって、神よ我をのぞみの夕飯にありつかせ給え、とつぶやいてから、とび石づたいに玄関にふみ込むと、あたりは「おおいと呼んだが返事がない」と漱石ばりに書きたいほどシンとしている。敷石の上にハイヒールや紳士靴が揃えてあり、長い廊下の奥の方から、かすかに笑い声がきこえるところから察するに、営業中であることは間違いない。  息を大きく吸い込んで一思いに呼び声をと思ったその矢先、ウールの黒っぽい着物のおばさんがヒョイと顔を出して、 「えろすんまへんなあ。予約で一杯ですねん。ハァ大体二日前くらいにいうてもろたらよろしねんけど……」  何やてェ、たかが茶飯一杯に二日前から予約せんならんのか奈良いうとこは。今、何時やと思てんねん。ようよう六時まわったとこやんか。こんな早うから客を打ち切って、あんたらそれで商売やってける思てはるのん?  大体やな、三十七年前に住んどったもんが、昔の感覚で歩ける町いうことは自慢にも何にもならへんで。現代は開発の時代やいうのんを知らんのか。あほんだら。  もちろん声には出さなかったけれど、ついに私は本性を押さえかね、口をへの字に結びつつ、腹の中で悪態のかぎりをつきながら表へとび出した。もう知らん!  空っ腹に葛湯を流し込む  通りすがりで食べなくたってホテルに行けば何だってあるわ。そうだ、今夜はホテルのメニューの中で一番高いのを食べてやろう。  一旦腹が立つと前後不覚、本末転倒になる癖は今更どうしようもない。春日神社の一の鳥居前でタクシーを止めると、私はかねて予約の宿へかけ込んだ。  私が日本中で一番好きな宿は奈良ホテルである。木造の、昔の御殿みたいなつくりで、階段の両脇には欄干《らんかん》があり、食堂には金屏風を立てて、厨房とダイニングとの境のハッチの戸は、秋草模様の襖だったと記憶している。奈良といえば宿はここに決めていたのに運悪く満員で、やむなく新顔のホテルに泊ることになった。車をとばして春日山のふもとにつくと、近代建築の小ぢんまりした玄関である。フロントで宿泊カードを書き込んでいると、制服のお嬢さんが、 「夕食は一階のダイニングで七時半にご用意しておきますのでお上り下さい」  何ッ!? 私は持ったペンをバッタと置いた。何しろつい今しがたまでイライラしていた身である。 「食事は予約制なんですか? アタシ、時間キメられたっておなかが空くかどうか分りませんヮ」  お嬢さんはキョトンとして「ほな、八時半でどうですやろ?」と言い足した。 「要りません。時間に合わせて食べたくなるタチじゃありませんから。食べたくなったら外へいきますッ」  とうとう病気が出た、と思いつつも今更あとへひけない。鍵を受け取ると、いきがかり上、私は案内ボーイまでを断って肩いからせ、一人エレベーターに近づいたのである。  興奮にうるむまなざしでふとわきを見ると売店に、「吉野葛」を売っている。オヤ、珍しい。一瞬、気がやわらぐと一箱八百円のを手早く求め、私は二階の部屋にかけこんだ。  室内は春日山の木のにおいがつたわってくるような静かさである。部屋のすみに自動湯わかし器があり、ティーバッグが用意されているのが嬉しい。何はともあれ一風呂あびて湯わかし器のスイッチを入れ、べッドの上にころがると、しみじみと空腹感がこみ上げてきた。時計をみると七時半。ああ、やっぱり予約通りにしとけばよかったんだ。車を呼んで町へ出ようか、とも思ったけれど、六時現在であの様子だもの、今ごろから町へ出たって食事なんぞありつけないかも知れぬ。と、すると最悪の場合明朝まで……。不安と後悔が胃のあたりにとぐろを巻いてくる。枕元の湯わかし器がしゅんしゅんと音を立てはじめた。  そうだ! この時、私の頭にある閃きがよぎった。ベッドの上にガバと起き上ると、私はたった今売店で買ってきた吉野葛の箱をあけたのである。「お子様のおやつに、おとしよりのお茶うけに」と、カードが入っており、�糖入り�と但し書きがある。おお、神は私を見放さなかった! 私はふるえる手で三袋分を茶碗の中にぶちあけ、子供の頃の記憶をたどりつつ、まず少量の水で葛をとき、然るのちに熱湯を注いで……。ああ、ところがここでハタ、と顔に血がのぼった。かきまわすものが無いではないか。はやる胸を押さえて備えつけの冷蔵庫にかけ寄ると、プラスチック製の楊子がある。よし、これだッ。私は三本一まとめにしてつかむと、熱湯のさめぬうちに茶碗の中を無心にかきまわしたのだった。毛利元就の教えの如く、三本の楊子は折れずに用をなし、かくて私は湯呑みになみなみ一ぱいの葛湯をごくり、ごくりと胃に流しこむと、その夜、泣き寝入り同然の姿勢で毛布の衿をかみしめつつ眠りについたのであった。何もかも、もう知らん!  忙しいいうたらいかんのや  さて、翌朝身仕度をととのえ終ると、十時半かっきりに電話が鳴った。日本青年会議所奈良県五条市支部からの迎えがフロントについたというのである。下へ降りると、まあ! すがすがしくも素朴な青年が三人、直立不動で立っている。 「思ったより道が空いてて、十時にはここへついたんですが、お約束の時間までブラブラしてつぶしてましたんです」  嬉しいわ、三十分でも長くくつろがせてやろうというこの心づかいが、と私は目尻を下げた。夕食の予約時間なんぞどうでもいいから、こういう時にこそ時間ってものを大事にすべきよと、機嫌はなおりかけたものの、ゆうべのフテ寝の後遺症が完全にはまだとれていない。  青年たちの名刺をみると、右っ肩に申し合わせたように「ラブリバーキャンペーン」とある。どうして五条市では、バーをそんなにもり立てるんですかと聞いたら、中でも一番純情そうな青年が、 「ラブ・リバーでんがな。つまり川を愛して澄んだ流れをいつまでも大切にしようという運動で、バーを愛すのとちゃいまんがな」  名前の裏をみると「林業」とある。なるほど先祖代々の山持ちのご子息か。理事長の名刺の裏には「割烹」とある。かくて五条市のエリートたちの車に乗って、私は奈良市を後にしたのであった。 「どやろ、薬師寺の高田好胤さん、今日あたり寺にいてはるのとちゃうか。ちょっと寄ってみよか?」  林業氏がいった。高田好胤さんといえば、私も時々お会いして心易い。近くだったら是非寄ってみたいわ、薬師寺四百年の念願の金堂もまもなく完成と聞くし……といっている間にやがてその金堂の屋根がみえた。運よく高田管長はご在宅という。応接間で待っていると、灰色の衣の好胤さんがキョトンとした表情で姿をあらわされた。 「本日はお事多《ことおお》い中をお邪魔します」  割烹氏がいうと、好胤さんは何の疑問もなくへえへと、両手を合わせて返礼しておられる。何ですか、そのお事多いってのは? と私がたまりかねて横合いから口を入れると、好胤さんは例の愛想のいい笑顔で、 「あんた知らなんだ? 忙しいいうたらいかんのや。忙しいいう字を二つにバラしてみると、左側のつくりは�心�や。右は�亡�や。つまり忙しいいうのは心が亡びるということで、わたし、こんなん大嫌いや。そやから�お事多い�とこうなりますんや。ほんで、カミサカさん今日は何のご用で?」  私は昔なつかしい奈良に遊びがてら、五条の青年会議所の記念式典に参加するための道すがら、ここに立ち寄った旨を告げると、 「は、今から五条でっか。そらよろしいわ。こっちゃから行きますと今日あたり、畝傍《うねび》、耳成《みみなし》、香具《かぐ》山と、大和三山がかすんで、ご存知|二上《ふたかみ》山が……えッ、二上山知らはらへん? こう山が二つ並んどって、彼岸の中日には夕日がその山と山との真ん中にスポッと落ちていくという有名な山ですねん。ほんまでっせ。二つの山の真ん中にお日さまがはまり込みまっさ。はるかにみると高天《たかま》が原がありますし……」  えッ、天孫降臨の高天が原は九州じゃないの? と聞き返したら林業氏があわてて、 「いいや、こっちゃがホンモノですわ」  早々に薬師寺を発って車をとばすと、なるほど日本にはまだこんなところがあったのか。  鳥獣戯画の背景の墨絵さながらである。あれが香具山、こちらが耳成山と指された彼方には、事のついでに出来たような小山がこんもり盛り上っている。高天が原いうのはあそこです、といわれてはるか彼方を見ると、なるほど、九州よりこっちがホンモノかも、と思われる。なだらかな山裾がひろびろと天に向かっており、いかにも舞い降りてくる神々の滑走路に最適という感じなのである。  先祖の成果をごっそりと  いつしか昨夜来のトゲトゲした気持はあとかたもなく消え、私は童話とも神話ともつかぬ世界に心を遊ばせて、窓から入ってくるなまあたたかい風に頬をゆるめた。 「いいわねえ。開発の跡すらみられないような、こんな景色って、久しぶりだわァ」  昨夜、三十七年間ちっとも変らぬ土地なんて自慢にもならぬと憤慨した烏がもう笑ったと、自分でも呆れつつ私はうっとりと言い放ったのである。 「開発のしてないとこやったらお任せ下さい。五条いうとこはその点バッチリや。なあ、みんな」  三人の青年は勝算ありげに目を見合わせて笑っている。右手に小さな杉苗の畑がみえた。やっと一メートルそこそこの杉である。 「ねえ、おタク林業ならご存知でしょう。あの杉はいつごろゼニになるんでしょう」  と聞いてみたら、林業氏があっさりと答えた。 「ま、六十年後でしょうなァ。五条は林業の地ですさかい、いま我々がこうして食べていけるのは、六十年前のご先祖様のおかげでんがな」  林業というのはそういうものなのか。先祖の成果をごっそりといただいて生活をたて、やがてこの世にあらわれるであろう子孫のために、杉苗を申し送ってお返しをするというその繰返しで成り立ってきているのか——。  ゆったりとした景色、ゆっくりとした産業のテンポ。三人の青年が見るからにすがすがしく素朴な理由も何となく分ってきた。人の世は、本来このくらいのテンポで進まなければいけないのよ。ドイツもコイツもがつがつしすぎるのよ。つい昨夕、何が何でもと料理屋の玄関先でネバった我が身がほとほと嘆かわしい。  やがて「割箸の里 五条市」と立看板がみえ、約一時間のドライブは終点に辿《たど》りついた。  あたりいちめん寂ばくとして  さて、青年会議所での所用がすむと、例の青年三人組が、五条市の誇る重要文化財、栄山寺に案内したいという。三人とも宝物のありかを教える少年の如く目が輝いている。よっぽどいいとこらしいな、と期待に胸はずませて車で十分ほど走ると、川のほとりへ出た。 「音無《おとなし》川いいますねん。な、音も立てずに流れてますやろ」  よどんでいるわけではない。もちろん急流ではない。木々の生い茂った両岸の間を、ちりめん状のちぢれをみせながら、なるほど川はサラリとも音を立てずに流れているのであった。ハハァ、ラブ・リバーとはこのことか。 「夏は鮎がとれまんねん。毎年お月見の夜は岸に|もうせん《ヽヽヽヽ》敷いて市長が音頭をとって宴を張りますねんで」  まさに天平の風情さながらではないのと浮き浮きし、思い立ったら変り身の早い私は、すでに心境としては公卿の娘になりきって、おっとりとほほ笑みつつ、早よう重要文化財に案内されや、と心ときめかした。車が止り、アレです。と指さされて見上げると、白ちゃけた小さなお堂が一つ。 「アレが何です?」  と聞き返す間もなく、どこからか入道の如き顔つきの体格のいいおじさんが灰色の背広姿でのっしとあらわれた。右手に鉄の棒の曲ったのを持っている。そのおじさんがするどいまなざしでどうぞ、と私をうながして先に立った。  草むらを分けて進むおじさんの足もとをみると、かなりの古靴である。お堂のまん前に風雨にさらされた石灯籠がポツンと立っている。 「弘安七年、つまり一二八四年につくられたいう灯籠で、重文に指定されとります。あちらにみえる梵鐘《ぼんしよう》には小野道風の書がきざまれとりまして国宝になっとります」  つまりおじさんは栄山寺の住職であった。  お堂のわきの細道づたいにいくと八角堂がある。住職は手にもった鉄の棒をやおら扉の穴につっこんでまわした。曲った棒はお堂の鍵だったのだ。  中に入るとガランとした堂に、仏像とそれを守る武将の像が四体ポツンと立っている。木づくりの仏像の手のあたりがポツリと欠け、かたわらの花びんには枯れたハスの枝がたった一輪。何とも殺風景というか、寂ばくというか。  古ぼけた台の上に「栄山寺」と上書きした絵はがきのセットがある。ペラペラとめくると、なるほど川のほとりの緑の中に何の変哲もない八角堂が、浮世の風景とは思えぬほど刺戟の少ない構図で写してある。道風の書は大写しになっているが、教科書の文字のように典型的な楷書である。住職の話によるとつり鐘の寿命は約千年だそうだ。 「栄山寺のは平等院と共に日本三名鐘の一つですが、平等院のは公害でやられてしまったために、鳳凰をプラスチックに変えたとかいうとります」  その点、音無川畔のこの寺は全く心配ない。大晦日には住職ご自慢の腕で、さぞやあたり四方によい音色がひびきわたることだろう。 「ハア、ソニーのLPに吹き込んであります」  話が急に現実に戻ったついでに、絵はがきはいくらかと聞いたら二百円とのこと。百円玉を二つ渡すと住職はそれを毛深い手で受け、ポロリと無造作に背広のポケットへ放りこんだ。  さして訪ねる人もないこの寺で、しずかに灯籠を守り、鐘を鳴らして四季の移り変りをゆっくりと見つめながら終る人もいるのか——。たかが夕飯の一食や二食でプリプリといら立つ品性の、何とまあせせこましくも低劣なことよ。  車に戻ってふり返ると、緑の中に白ちゃけたお堂と、仁王立ちになった背広姿の住職の姿がかすんでいる。住職は手を振るわけでもなく頭を下げるわけでもなく、しかし、私たちが見えなくなるまでゆるぎなく立ちすくんでいてくれたのである。  帰りの汽車の中で、青年たちからお土産にもらった柿の葉ずしの箱をひろげた。サバの押しずしを一つずつ柿の葉でくるんだもので、葉をはがすと香りが程よくしみついている。何とていねいな食べものだろう。  再び胸の奥に劣等感のシコリのようなものを感じ、私は奈良征伐の敗戦の将の如き心境で、しんみりとすしのにおいをかいだのであった。   老後は五戸でおだやかに  外見で判断しちゃいけない  青森県|八戸《はちのへ》の空港から車で三十分くらい乗ると五戸《ごのへ》に着くのだそうだ。時刻表をひらいて探してみたけれど、五戸なんて地図にものってない。やれやれ、今度の旅は面白くもおかしくもなさそうな予感がするなァ、と肩を落として八戸空港についたのが正午すぎ。  空港には顔も頭もテカテカとつやの良いオジサンが、赤と黄の水玉模様のネクタイをなびかせて出迎えていてくれた。トシはそう、五十代の終りだろうか。 「お待ちしとりました」  一礼された途端、こぼれるように金歯が輝く。車はと見れば、オヤ? 意外にも堂々たる黒塗りの大型で、おまけにオジサンは、アチラ式エチケットにしたがって私を客席にリードしたあと、ご自分は運転手の隣りにすわるべく、前にまわった。車が動き出すと、早速オジサンのガイドが始まる。 「ご存知と思いますが、このあたり一帯に一戸から順番に八戸まであります。�戸�というのはつまり牧場のことで、昔は鎌倉幕府の軍馬飼育のための指定地だったんですなァ。五戸は第五牧場ってことです。実は私の祖先も頼朝の命を受けてはるばる神奈川県三浦半島から五戸の牧監としてやってきた者なんです。アッ、申し遅れましたが私は……」  差し出された名刺を見ると、「取締役社長 三浦《ヽヽ》道雄」とある。取締役社長の肩書きは当節めずらしくもないけれど、何とこのオジサンはバス、観光、木材、不動産など四つの会社を経営しておられるのである。 「以前は鉄道もやっとりました。八戸から五戸までちょうど三十分ばかりの一本みちの私鉄なんですがネ。これが十勝沖地震でズタズタになりましたので、結局廃止していまはバス専門です。十勝沖地震はそりゃもう、ここら一帯めちゃくちゃでした。そう、そこに見えるあの農家、アレがズレてこの道路までとび出してきとったですよ」  私としてはすぎた日の地震より、オジサンの数々の肩書きの方に関心がある。観光会社というのはつまり何をやってらっしゃるんですか? と名刺を指しながらきいたら、 「あ、それは旅行代理店ですわ。ハァ、私は毎年五回ばかりヨーロッパの方へみなさんをご案内しとります。ええ、参加希望者が多いんですわ。ホテルですか? ま、大体ヒルトンか、コンチネンタル系で……」  人間、顔やネクタイで判断してはならじ、と私は自分で自分の胸にたたみ込んだのであった。つやの良い顔に赤と黄のネクタイのミスター社長氏、恐らくリーダーとして案内するからには、外国語もペラペラにちがいない。 「いやァ、言葉はどうも……。末の娘は高校生で、しばらくアメリカにやりましたんで、娘の方がうまいですなァ。ハ? 子供は七人おるんですわ」  ヨーロッパ旅行希望者が後をたたぬという土地柄、物心ついた娘を勉強のためアメリカにサッサと送り出すというかの地の名士、いつしか私の中の「五戸」はイメージチェンジしてふくれ上り、私は次第に竜宮に近づく浦島太郎の如き心境となった。  この手の名士が政治に無関係なはずはない。それとなくさぐったら、 「ハア、ずーっと県会に出とりました。次は衆議院ですが、ご承知の通りこれは順番がありますもんで……」  そういってから社長さんはパッと目を輝かせて窓の外を指さし、 「ア、あれがうちの牧場です。いま、サラブレッドが四十頭ばかりおるんですわ」  はるか彼方の広大な草原に馬が躍動している。四つの会社のほかに、更に牧場まで持っておられるとは。  ——まてよ。そういえば、ツルリと長い頭のかたちといい、下ぶくれのふくよかな頬の線といい、ひょっとしたらこの人には公卿さんの血が流れているのかも……。私は黒塗りの自家用車の中で、ひそかに衿をただした。  これがほんとの馬力です  さあ、着きました。といわれて見上げると、正面はボウリング場である。オレンジ色と青に塗り分けた、見るからに派手なレジャーセンターなのだ。 「ハア、ボウリングブームが終っちまったもので、これを町で買い上げて近く公会堂にするんですわ。この次に来られる時は恐らくここで講演していただくことになると思いますんで、ま、ひと目見ておいていただこうと……」  なるほど、ボウリング場を公会堂にリフォームとは、名案ではないか。三角屋根はちょっと軽薄ムードだけど、広い板敷きのレーンは少し手を加えればたちまち町民体育館または、文化会館に早変り出来る。社長氏のあとについて階段を上ると、二階はレストランになっている。全盛期には食事をしながらここからガラス越しにゲームを見下したのであろう。  片隅に畳敷きのコーナーがあり、すでにテーブルの上にはガス台がセットされていた。 「ま、ひとつ、おひるを食べていただいて」  社長氏が腰を下ろすと待ちかまえていたかの如く、どこからともなくぞろぞろと人々が集まってきた。 「エッヘッヘ。造り酒屋のサンキューです。ハア、国際社会に通る名ですわ」  名刺を見ると「清酒菊駒醸造元 三浦久次郎」とある。略して三久《サンキユー》か。 「こんち、遠い所をはるばるどうも。町長です」  キョトンとした目つきの町長氏は、ガス台の上に鍋をかけた。ジンギスカン料理のような焼き肉用の鍋である。 「ンヤー。五戸ちゅうとこは町長のわたしからいうのもおかしいけんど、みんなのんびりしとるんですわ。このボウリング場も、よそで大流行してから、そんじゃひとつ建てるべか、ちゅって建てたもんで、出来上ったころにはブームが終りですわ。ハア。そんでも二年稼働したろうか?」 「インや、二年は稼いどらん」  そうこうするうちに鍋があつくなった。と、白い上っぱりの女の子がカレーライス用の皿の上に肉を盛り込んで机の上にバーンと置いた。ちょっと変った肉である。肉といえば肉、さしみといえばさしみのように赤身で、何故かミカン色の脂身のかたまりが二つ、皿の隅にそえてある。 「さ、いくぞォ」  サンキュー氏が熱い鍋の上にミカン色の脂身をのせると、ジューッと音がして煙が立ちのぼった。すかさず薄い赤身の肉をペラッとひろげる。ふと気がつくと、いつのまにか私の隣に品のいいおばあちゃんがすわり込んで、どろりとしたタレを小鉢に注いでくれていた。 「ハ、ご挨拶が遅れましたが、婦人会長しとります」  小ざっぱりしたブルーのウールに、白い髪をきっちりとときつけた細おもてのこの人にも、ひょっとしたら戦国武将の妻の血が流れているのだろうか。ほっそりした首すじに何ともいえぬ気品がある。と、町長さんが肉を裏返しながらサラリといった。 「外国へいくと、焼き加減はどのくれえがいいかなんて聞かれっけど、やっぱ半ナマが食べごろだあナ。こりゃ牛でも馬でも変んねえ」  ちょっと待って! 牛でも馬でもって、それ何のこと? 「あ、そンだ。いい忘れとったですが、これが五戸名物のウマですわ。ここらじゃ冬場は肉ってば馬にきまっとるで、いちいちいうの忘れとったァ」  とろりとミカン色の脂身は、馬の脂か——。皿の上の赤身の肉が、やけに赤く見える。 「おきらいですか?」  水玉ネクタイをこっちに向けて社長氏が私を見つめた。嫌いも好きも、生れてはじめてである。  おまけにたった今、ここにつく前に牧場でハネまわる馬をみたばっかりなのだ。町長さんが再びいい足した。 「馬肉はええです。こう、食べると体がポッポとあったまってくるですが。いまが一番ウマい時で、五戸の子供は馬肉のおかげでサッカー大会ではいつも優勝ですわ。これがホントの馬力だよなァ、オイ」  サンキュー氏はすでに皿の半分くらい食べつくしながらこれに答え、 「馬肉はコナレがいいんですわ。いくら食べてもモタれるちゅうことが無いです。ウン、子供をハラんだ女の人は、馬肉食べるとあったまって流産せんちゅうことですが。いや、こりゃあんたさんに関係ない話か——」  隣の婦人会長はと見れば、いかにも気兼ねして身をちぢめているかの如くみせながら、ああ、驚くなかれ、すでに一皿をあとかたもなく平げてしまっている。  アラこれはいけますわ  よしッと、私はやおら箸をとった。  折しも目の前に理想的な半ナマに焼けた肉がある。すばやくつまんでタレの中へ落とし、エイッとばかりかぶりつくと、おお、実に何ともあっさりした妙味。ニオイもなければ、クセもない。 「イケますか? でしょう! そんなら、ホレ、さしみ持って来いや」  誰かが怒鳴るようにいうと、白い上っぱりの女の子が大皿をドカッと目の前にすえた。皿一ぱいにきざんだキャベツの上に、サイの目に切った馬肉が並び、片隅におろししょうががそえてある。こうなれば乗りかかった舟だ。私は小皿の醤油の中へしょうがを入れると、血のしたたるようなサイコロ状の赤肉をひたして、一思いに口の中へ放り込んだ。 「や、さしみもいけますか? こりゃいいやァ。昔、疎開でこの地へ来て、そのままずーっと住みついた人の中には、さしみはよう喰わんちゅう人が多いですが、あんたさんそら、えらいわァ」  何もえらいというほどのことではないけれど、ほめられた勢いで私はまたたくうちにほぼ一皿を平げた。と、白い上っぱりの女の子が、再び皿一ぱいの肉を運んでくる。 「オ、追加予算こっちにもくれえ」  町長さんが叫んだ。つまり一人当り二皿平げるのが常識らしい。誰もが二皿目を平然として受けとると、せわしなく鉄鍋の上に並べるのであった。 「ふつう、家で食べる時はミソ煮込みにするんですがネ。煮込みもこれまた格別ですわァ。ウン、そういや、昔はここら一帯が牧場だったのに、どういうわけか、いま常食にしとるのは五戸だけになったなァ」 「そンだ。八戸で屠殺《とさつ》しても、やっぱ、肉にして売るときにゃ、ちゃんと�五戸の馬肉�と入れとるもんなァ」  ほう、屠殺場は八戸にあるんですか? と町長さんに念を押したら、 「ハア、しばらく前までは屠殺場にお世話にならず、個人でやっとった人もいるけんど、屠殺は何かと公害《ヽヽ》が多いんで、そンで郊外《ヽヽ》に出てもらったです」  そういうこと! とサンキュー氏が、相槌を打つと、人々はどっと笑いくずれ、座は次第次第に馬力がついていく。  このあたりじゃ、冬場の宴会はもっぱら料亭でこうやって馬肉を囲むんでしょうか? と私がようやく満腹感にひたりながら箸を止めて聞くと、とたんに人々は何故か爆笑した。 「料亭だなんて、アンタ。そんな気のきいたもんはこの町にありゃせんし、第一、こんなケムの出る料理は家ン中まっくろになるからって、料理屋じゃシメ出されますが。焼き肉は大体肉屋の奥座敷で喰うなァ。いいも悪いも、勝手に上ってガスに火ィつけて、『ホレ、店から肉持って来い』ちゅってすわり込むですがァ」  肉焼く煙の向こう側に、サンキュー氏が歯をムキ出して笑っている。その横で町長さんが、キョトンとした目をこっちへ向けて、おかしさをかみ殺している。一人、社長氏だけは黙々と金歯の間に焼き肉を押し込んでいる——。  再びサンキュー氏が口を割った。 「この社長さんはねえ。いま黙って肉を喰っとられるが、昔っから山タマさんちゅって、ここら一帯の山をぜーんぶ持っとられた大財閥です。だけんど戦後の農地解放ですっかりヤマは取り上げられて、いまはただのタマさんになっちまわれたですわァ」  そンだ、そンだと、煙といっしょにどよめきが湧き上り、そのボワーッとあったかい空気の中で、社長氏がテレて上気している。何年か後、衆議院に立候補の暁には、恐らく宣伝カーから、 「郷土の皆さん、かつての山タマです。いま山は手放しましたが、男ヤマタマ、タマはしっかりもっとりますッ」  なんて一席やるんだろうか。ここまで考えたら何故か私も急におかしさがこみあげ、はしたなく笑いこけた。馬肉の馬力がまわってきたらしい。  人口二万。ボウリング場の二階はまさに竜宮城。町長も酒屋もヤマタマも婦人会長も、ただ無心に馬肉にむしゃぶりつきながら、呵々《かか》大笑するうちに、みちのくの陽は早くもかげりはじめた。  笑いに包まれた奥方たち  予定通り講演を了《お》えると夕方五時。一日二往復の、空路の最終便は八時である。 「もしお差支えなければ、それまで婦人会の奥さん方がご一緒に夕食をといっとられるが、どうでしょうか?」  社長氏が遠慮勝ちに、金歯の口もとをもぞもぞさせつつつぶやいた。つね日頃、会食ぎらいのはずの私が、意外にも二つ返事で、是非お願いしますと、ニッコリ笑ってそわそわしたのは、馬肉の余熱がポッポと体に残っていたせいかもしれない。  料理屋——といっても、その昔、馬買いの旅人の宿ではなかったかと思われる小ぢんまりした割烹《かつぽう》旅館の一室につくと、すでに両側にズラリとご婦人連が待ちかまえていた。 「さきほどは、ケッコーなお話を……。わたくし、あのゥ、町長の家内でございます」  黒塗り膳の上の小鉢スレスレまで頭を下げて挨拶をして下さった人は、大島紬にエンジの絞りの羽織で、手入れの行き届いた肌が美しい。あの寒そうな顔色の、目もとのキョトンとした町長さんが、こんな小綺麗な奥さんをねえ……。 「あの、わたしは造り酒屋の……。多分主人はサンキューと自己紹介したと思いますが」  あのサンキューさんの奥さんですか。こちらはまたおっとりと目もとのやさしい何ともはやつつましやかな人。「お母さん」というのは、もともとこういう顔してるものだったのよ——と私はうっとりそのやわらかな笑顔に見とれた。サンキュー夫人は更につづけて、 「わたしども、娘が東京の大学に行っとりますが、上坂さんのお宅はどちらで?」  えッ、そんな大きな娘さんがおありなんですかァ、と声を大きくしたら、 「あら、そう見えませんでしょうか? ありがとうございます。ホッホ」  派手に驚くわけでもなく、かといって儀礼的に受け流すでもなく、実にホド良くうれしげなのである。いいねえ、このホドの良さが。 「私は疎開でこちらへきまして、それからずーっと住みついとります。いまじゃこの町のヌシみたいな顔してますけど。アハハ……」 「アノ、あたくしはこの町の医者の家内でございます。ま、医者っても、ここらは農繁期にはもちろん畑仕事してるんですよ。ホホホ……」  どうしてこうよく笑い声がおきるんだろう。何《いず》れも三十代後半から四十代のいわゆる中年の奥さまなのに、まるで少女の如くよく笑い、さざめいてしあわせそうなのである。 「ま、ここらはそれほど大金持もいないかわり、それほど貧しい者もおらず、一般に豊かなんですわ。何しろみんな昔からの家屋敷を持っとりますから、食べるにゃ、困りませんもんで……」  型通りさしみが出て、酢のものが出て……天ぷらが出たとき、末席のセーター姿の奥さんがハッと思いついたように目を輝かせた。 「そうだ。上坂さんに�とって投げ�を食べてもろたらどうじゃろか」  え!? と私が箸を置いたとたん、奥さま方はまたも一せいに体をよじらせ、畳に這いつくばるようにして笑いこけた。 「�とって投げ�じゃ分らんですわねえ。戦争中に食べたすいとんを、ここらじゃこう呼んどります。汁の中へ小麦粉やそば粉の練ったのを、とっては投げ、とっては投げするんで、�とって投げ�。�ひっつみ�っていうのもありますけど、これはひっ千切るってところからきたんですわ、アハハ……」  この時、女中さんがしずしずと小さな鍋をはこんできた。 「ああ�かっけ餅�が来た。とって投げの代りにこれがありゃいいわ」  なぜか浮かれて手拍子とって  郷土料理のかっけ餅というのは、そば粉をうすっぺらくのしたものを菱型に切って、大根やおとうふなどと一緒にゆでる。受け皿に味噌ときざみネギを練り合わせておき、そば餅やとうふにこの�ネギ味噌�をまぶしてフーフーいいながら食べるのである。 「昔ながらの家屋敷を持っているから豊か」という割には貧しい食べ物だなあ、と心ひそかに思いつつペラリとしたそば餅をつまみ上げると、医者夫人が私の心を見すかしたかの如くハタと膝を叩いた。 「そンだ。もっと贅沢な食べ物もあります。ちょうど鮭が食べごろですから一っ走り家ィいってとってきますわ」  鮭の切り身を並べておいて糀《こうじ》をまぶし、一カ月ほど漬け込むと、そりゃ何ともいえないお茶うけになるんです、と町長夫人から説明が終ったころには、もう部屋から医者夫人の姿は消えていた。 「ンじゃ、あたしはキューリの粕漬けサ、持って来よう」  いえ、奥さま方そんなお心づかいいただかなくても……とか何とか私は一応口走ったけれど、内心「人生どこに幸運がころがってるか分らぬものだ」と事のなりゆきに拍手喝采である。と、サンキュー酒屋夫人が再びふくよかにほほ笑みながら、 「わたしのとこは商売柄、人が集まりさえすればちょっと一ぱい差上げます。ですからおつまみ用に毎年お漬けものは四斗樽に十本漬けますわ。ホッホホ。出がけに若い衆に頼んできましたから、まもなく漬けものと、菊の花が届きます」  菊の花? と私はきき返したが、阿房宮という食用菊が、このあたりの名産なのだそうだ。そういえばさしみのわきに黄色の花びらの酢のものが一つまみついている。見かけはしんなりしているけれど、サクサクとして口当りがいい。 「ハア、毎年秋になりますと、黄色の菊の花びらをほぐしましてネ。セイロに並べて蒸し上げて、それを干して乾燥菊をつくっとくんですわ。おひたしにしたり、お味噌汁のミにしたり、冬の間じゅう野菜代りに食べますの。菊の花を蒸すための特別なセイロがありましてね。ちょうど小ダンスみたいにスノコのひき出しがついてますから、そこに花びらを敷きつめます。蒸し上った順にひき出しを引いて、蚕《かいこ》のアミの上に伏せると、すし海苔くらいの大きさの菊の花びらのふきんみたいなものが出来ましょう。これをかげ干しにします。お天気のよい日に庭いっぱいに縄を何本も張りめぐらしまして、その生がわきの菊のふきんを一枚ずつ縄にかけて、秋の陽に干して仕上げるんですの。そう、どこの家でも大体三百枚から五百枚はつくりますねえ」  私の頭の中に、たちまち農家の秋の庭がうかんだ。広い庭先に運動会の旗みたいな状態で、菊がパーッと干してある。庭のすみの柿の木の根元で白いニワトリが遊んでいる。よちよち歩きの子供が、せんべい片手に干した菊の花を引っぱろうとして、コレ、コレなんておばあちゃんにとがめられている——。 「おなかに子供がいるときには、庭を歩くのが難儀でしてねえ。庭一ぱいに縄が張ってありましょう? 菊のふきんの下をくぐりくぐりしなきゃ進めません。息がハアハアしてきましてネ。でも、おかげでいい運動になって、子供はそのころおなかの中でぐんぐん大きくなるそうですよ」  奥さん方は一せいにここでこっくりと頷《うなず》いた。誰もがみんな口もとをほころばせている。そのほころんだ口もとが、ホンにあの頃は菊の下をくぐり抜けるのが難儀だったわ、と無言のうちに語り合っている。  あかるい電燈の下。二列に向い合った奥さん方のやわらかなまなざし。冬だというのに、電燈のまわりに蠅と見まごう小さな虫が一匹とんでいるのは、そう、近くに馬小屋でもあるのだろうか。  廊下の彼方からプーンとそば粉をこねるニオイがつたわってくる。奥の座敷からは青年団の花笠音頭が聞こえてくる……。   ※[#歌記号]めでた めでたーの    若松さーまよォ  何故か浮かれて私も手拍子をとりたくなった。どうやらサンキュー酒造特製清酒菊駒に酔っぱらったらしい。ああ、世の中の雑事なんぞ、すべてもうどうなったっていいや。帰りなんいざ。老後は菊と駒の里、五戸に。ウン、あたしはゼッタイこの地で息をひきとる。   ソレ! やっしョ まかしョ。   �ハワイ土産�は水戸納豆  女侠客と三人の中年男  男三人、女一人の混成チームでハワイへ行こう、という話は即座に決った。  事のおこりはこうである。  三人の男たちというのは、トップクラスの広告代理店で各種PR誌の編集をしている。新入社員の頃、取材で我が家にちょいちょいやってきたのが縁で、以来十年のおつきあいなのだ。 「しかし早いもんねえ。あんたたちが紺のレインコートなんか着て、わが家の玄関に立った時には�美しい十代�の表紙から抜け出てきたかと思ったけど、今や二児の父だもんねえ」  三人ともそれぞれ甲羅に似せた嫁を貰い、そろって係長に昇進したばかりである。うまい具合にどの家も一男一女とか。 「娘の名は、歩く姿や美しかれと願って�百合子�にしました」  コマ君がいった。こまごまと新妻みたいに万事よく気のつくところから通称コマ君である。三人とも一年ばかり前にローンで住宅も確保した由。何のかのといってもまさに今やあなたたちは一家のあるじなのねえ、と過ぎし十年間の光陰を思い返しつつ私が感嘆をこめてつぶやいたら、 「とんでもない。あるじだなんて。実は今朝もネ。めし食いながら新聞を読んでたら、女房の奴が『半分見せてェ』というんですよ。いいですか。新聞を半分見せるなんて芸当が可能かどうか考えてもみて下さい。ボクは黙ってそのまま女房に新聞を渡しましたよ」  ガクちゃんがいまいましげに舌打ちした。  えッ! あなた黙って女房をハリ倒したんじゃないの? 私はガクちゃんを焚きつける。ガクちゃんというのは博学のガクからきている。さし当って今日、明日の生活に関係のない無用の知識を実にふんだんに蓄えた男なのだ。 「全くです。ボクんとこだって、およそあるじって実感はないなァ。こないだもボクがだまって空《から》の湯呑みを差し出したら女房の奴『ナアに?』っていいやがんの。ナアにってことはないだろ。主人が黙って湯呑みを出したら妻はお茶を入れるに決ってる、と教えたら、『あーらお茶ならお茶っていってよ』ちゅうんだなァ。ボクもムッとして阿吽《あうん》の呼吸が分らんか、と怒鳴ったら『アウンってなあに』って聞きやがんの。もう負けたなァ。何かこうくじけちゃって、結局自分でお茶をいれたよ」  ボヤいたのは忠義という名を略して通称チューさんである。チューさんは中産《ヽヽ》に通じるとはいえ、最後にションボリ自分でお茶をいれるなんて、これまた何とぶざまなていたらくだろう。  ええい者ども情けない。喝を入れ直すために、どうだろうここらで女房子供のことを一思いに忘れて旅へ出ようじゃないの、と提案したのはもちろん私であった。途端に三人の目が輝いて、 「ソウ! そこなんです。実はボク自身もひそかに勢力の衰退を感じており、挽回の第一歩として昨年末に新車買ったんです。コロナ・ハードトップ。運転なら任しといて下さい」  ガクちゃんが色めいた。 「あのう、ボクはかねがね東海林さだお君の本に出てくる常磐ハワイアンセンターってとこへ行ってみたいと思ってたんですけどネ」  チューさんがいった。なんでも斜陽化する常磐炭坑が、社業建て直しのために近くの温泉を利用して福島県いわき市に一大レジャーセンターを作り、今年十周年を迎えてますます盛況だというのである。踊り子はすべて元炭坑社員の子女でまかない、ショーの司会やスター歌手は、元労働組合で檄《げき》をとばしていた青年部を起用して、夜な夜なめくるめくショーが展開されるときいて私はやにわに叫んだ。 「今度の土日、ソレ行こう!」  かくて女侠客よろしく音頭をとり、即座に手打ち式と相成ったのである。  父ちゃん、行っちゃイヤ  その日、冬だというのに土曜の朝はうららかに晴れ、約束の午前十時に銀座の本社前にガクちゃんの新車は待ちうけていた。ガクちゃんはコール天のブレザー、チューさんはチェックのジャンパー。そこへ例によって例の如く肌身離さぬ大型のハンドバッグをしっかとかかえた私が加わると、さながらいかさま不動産会社の先導でアコギな姐御が物件を見に行く図である。コマ君は道中、池袋の自宅に立ち寄って拾っていく手筈になっている。 「迎えに来てもらうお礼に、ひるめしの稲荷ずしと水筒はボクが用意しとくからネ」  といったそうで、なるほどこまごまとよく気のつくことだ。  さて、池袋にまわるとすでにコマ君は表通りに立って待ちかねていた。コマ君と瓜二つの男の子が、「アッ、来た、来た」と叫ぶ。そのうしろで下宿屋の小母さんみたいな包容力に満ち満ちた丸顔の奥さんが、小ざっぱり薄化粧などして赤ん坊を抱き、 「まあマ、ちょっと寄ってお茶でもどうぞ」  十年の知己の如くほほ笑みかける。たしか彼は「その細いうなじに女の哀れを感じて」結婚にフミ切ったといってたはずなのに——。  仰せにしたがって一ぷくしようかとぐらつくのを、そうしてはいられないと思いなおし、コマ君のえり首を掴まんばかりにして稲荷ずしともども車に引き入れ、パタンと扉を閉めた途端、 「ウワーン」  奥さんの腕の中の女の子が、火のついたように泣き出した。涙と鼻水がマッ赤に興奮した頬をテラテラと濡らす。ようやくお誕生日をすぎたころだろうか。言葉も不自由なまま体中で「父ちゃん、行っちゃイヤ」と表現するそのさまは、親の悲願をこめた�百合子�の片鱗すらうかがえぬ。 「お土産買ってくるからね、ねッ」  コマ君が窓ごしに身をちぢめて娘に哀願するのに反し、奥さんは慈母観音の如き表情でこの時少しもさわがず泣きわめく子を小脇にかかえ、いいから早く行きなさいと艶然とほほ笑む。なるほどこれだけ実力に差があってはとてもあるじの座など望むべくもない。  車輪よ、あれがハワイの灯だ  さて、東北自動車道は思ったより空いている。それにしても扉が閉った途端に父を慕って子が泣くという風景をみるのは何年ぶりだろう。あれが家庭というものなのか、と私があらぬ方を眺めて考え込んでいると、ガクちゃんが催促するかの如く口を割った。 「ちょっとしたことなんですけど、車の天井見て下さい。五色に塗り分けたこのガラスは、いわば故障発見機なんですな。たとえばエンジンに狂いが出ると色ガラスにあかりがつく仕掛けになってます。それからあの車体前方のミラーね。方向を変えたい時には運転席にすわったままボタン一つで動かせます」  フーンと私より先にコマ君がうなった。 「つまりシステムとしてヒカリサンデスクとおんなじなんだな」  ヒカリサンデスクといえば有名な子供の学習机の銘柄である。たかが机と、自慢の愛車を一緒にされてたまるかと、明らかに不快の表情をあらわしたガクちゃんに気づいているのかいないのか、チューさんが助手席の私の肩のあたりまでのり出して、 「全く近頃の学習机ってのはスゴイんですよ。スイッチ押せば頭の上で電気がつくし、温度計やら時計やら鉛筆削りやら世界地図やら、全部ハメ込みなんだ。上の子が入学する時に『人生ってのは基本的なところがしっかり出来てりゃいいんだ』なんていいきかせてシンプルなのを買わせようとしたけど、ダメだったなァ」  つづいてコマ君が我が意を得たりとばかり、 「実はうちも上のが今年入学なんだ。ご多分に洩れず満艦飾のを買わされましたよ。三万八千円ってのを三万二千円まで値切ってサ。とにかく子供ってのはいろいろゴタゴタついてないとおさまらないんだよナ」  こうなるとご自慢の新車はかた無しである。  ガクちゃんが憮然として声もなくハンドルをまわすうち、一つ山越し二つ山越し、三つ山越して、いつしか人っ子一人いない山中の細い道にさしかかった。 「ウーン、枯木の山もいいなァ。高畠達四郎か向井潤吉の絵のようだ」  ガクちゃんがようやく博学を披露して元気を持ち直すと、 「山中にて輪姦、っていう事件はこういうところで起きるのかなァ」  チューさんがつぶやく。 「三対一なら受けて立とうか?」  冗談をとばして私が呵々大笑したら、車内はシーンとしらけきった。察するに三人とも女がひとり同乗していることをすっかり忘れていたらしい。この時、思い出したようにガクちゃんが再び口を開いた。 「実はホテルの予約をしたら、十二畳の和室が一つしか空いてないっていうんです。近くに湯本温泉がありますから、着いてから僕らはそっちを探すなり何なりしますが、一応一部屋だけ確保しときました」  俗にいうニッパチの二月である。にもかかわらず土日は満員の盛況なのか。と、するとさぞいいところにちがいない——。私は浮かれて口走った。 「十二畳ならいいじゃないの。足をしばって雑魚寝《ざこね》でいこうよ」  男三人は醒《さ》めきってしまったらしく誰一人応答すらない。両側は歯ブラシの断面図みたいに整然とした杉木立である。その間をくねくねと曲った一本道がつづく。ガクちゃんはいつの間に鍛えたのか見事な運転であった。かくて山道を三時間ばかり走ったろうか。ようやく杉の木立を抜けて峠の上に立つと、パッと眼下がひらけ、はるか彼方に白と青に染め分けた大ビルディングがさん然と輝いている。 「おお、車輪よ、あれがハワイの灯だ」  十二畳の部屋に落着く  入口のアーチに「歓迎常磐ハワイアンセンター」とある。まさにみちのくの一角にあたりをはらって広大なパラダイスである。右手に小学校の体育館ならすっぽり十ばかりのみ込んでしまいそうな大温室があり、正面と左手には峠の上から一目で分った青と白の六階建てのホテルがある。青と白はハワイの波をもじったものだろう。何となく気おくれしながら正面のホテルの自動ドアの前に立つと、ロビーの大シャンデリアの下にどてら姿の婦人会ご一行様がたむろしている。大風呂の帰りだろう。フロントで部屋をたずねると、元常磐炭坑出身とおぼしき浅黒くたくましい男が、赤い花模様のアロハ姿で実に誠実そのものの応接ぶりであった。 「部屋は一つしか空いてないの?」 「ハッ、申訳ありません。ンでも広いですから四人なら充分ラクに寝れるです」  面積の問題ではないはずなのに、一同つられてこの際同室でもいいじゃないかと、話はたちまち決った。 「では夕食は一階食堂で七時半からですので……」  何ですって。何も東京からはるばる食堂を訪ねてきたんじゃないのよ。別料金を出すから食事はゼッタイ部屋に運んでちょうだい! 私はここで眉をツリ上げカウンターの上にのり出した。フロントマン氏は見る見るうろたえて、 「あのゥ、わたしの一存では……」  では誰に頼めばいいのと、なおもけわしく喰い下ると、 「あのゥ、運ぶ人手が無いもんで、誰に頼んでも|ダミ《ヽヽ》だと思いますが……」  何、ダメ? だったら宿を変えましょうよ。  女親分としてはひるんでいられない。ことさらに落着いた声でスゴ味をきかせ、手下をふりかえったら何と、三人の男たちは見るもあわれな表情でフロントマン氏に同情のまなざしを送っているではないか。 「ね、たった一晩のことじゃないか。食事をすませたらあっちの大温泉へ行ってみよう。きっと面白いもんがあるよ、ネッ」  聞き分けのない問題児をなだめる母親の如きチューさんの口調に、ついに私が折れてカギを受取ると、フロントマン氏はほっと救われたように目をあげていった。 「ハア、センターの中では毎晩欠かさずハワイアンのショーがあります。夢のパラダイスちゅうてみなさんに喜んでいただいとります」  十二畳の部屋につくと、紫の着物の中高年女中頭がうやうやしく挨拶に来た。このお辞儀ぶりは炭住から通勤のパートタイマーにちがいない。 「オッ、このテレビはカネを入れなくても映るんだ。ホラ普通の宿なら百円で二時間、なんて装置がついてるのに」  ガクちゃんが床の間を見ながら博学をかなぐり捨てて叫ぶ。 「へえー、いくら見てもタダなんだね」  三人はテレビの前にかけ寄って、金山を掘り当てた村人の如く目を輝かせ凱歌《がいか》をあげている。やれやれ、こんなことに興奮するとは、三人ともこの先たいした飛躍は望めまい。課長止りというとこか。  と、チューさんが大声で叫んだ。 「冷蔵庫はコンピューターシステムだ!」  ビール一本を引き抜くと途端に、フロントに通じて宿代に加算されるべく、装置がついているらしい。 「しかし待てよ。『一旦取り出したものは再び戻すことは出来ません……』か。なァ、出すときは慎重にやろうぜ」  ガクちゃんが腕を組んで神妙にいった。コマ君はと見れば、手拭い掛けを廊下の隅に運び出したり、丹前と浴衣を一組にして各人に配ったり、座椅子をテーブルの囲りに並べたりそそくさと身を動かして休む暇もない。 「順番にお風呂に入らない?」  すっかり気を許した私が部屋つきの風呂の栓をヒネったら三人はまるで逃げるように、ボクらは大風呂がイイデス、と部屋をとび出した。  紅白歌合戦に出られます  正七時半、大食堂へ下りるとテーブルの上は、まさに山海の珍味である。シャケとトリとしいたけと白菜と……大皿に山のように盛ったのを各人で鍋に放り込むしくみとなっており、一見豪華風の見事な省力化である。コマ君は「まず煮えにくいものからネ」などとつぶやきつつ手ぎわよく煮方《にかた》をつとめる。  突然けたたましい三味線が鳴りはじめ、ハッと顔を上げると、正面壇上に舞妓姿の女の子が二人まかり出たではないか。   ※[#歌記号]月はおぼろに 東山ァ〜〜  それにしてもすさまじいばかりの迫力ある祇園小唄だ。炭坑節で鍛えたのどの故か。客はと見れば向こうのテーブルは銀婚式らしい二人連れ、こっちは親子三代のグループらしく、赤いセーターの女の子がハネまわるのをバアちゃんがなだめ……どのテーブルもホカホカと上る湯気をかこんでマンモス法事か建前《たてまえ》か、という雰囲気。 「みちのくのハワイで京を舞う、か——」  ガクちゃんは皮肉っぽくいいながら目は舞妓から片時も離さない。中高年ウェイトレスの一群は食堂の片隅に総立ちになって舞台に目をうばわれており、ちょっと手をあげたくらいではビールの追加注文など伝わりそうにない。一曲終ったところでウェイトレスの中の一番若手がマイクの前に進みより、 「当ハワイアンセンター専属の舞踊団による祇園小唄をごらんいただきました。つづいて花笠音頭をごらん下さい」  ウェイトレス兼司会者なのである。   ※[#歌記号]めでためでた〜〜の 若松さァまよ  白と紫の手拭いでまっ白に塗った顔をかくすようにして、女の子が踊り出すと食堂の客は一せいに音頭をとる。通りがかりのウェイトレスに、 「踊っているのは炭坑の娘さん?」  と聞いたら、 「へえ、花笠踊ってる子はたいしたもんで名取りです。さっきの舞妓さんは、中学出たあと舞踊学校で勉強して、卒業したばっかりの子です」  オバさんウェイトレスの説明によれば、常磐ハワイアンセンター附属舞踊学院は、修業年限六カ月で卒業の暁には当センター専属のタレントになれるばかりか、将来実力があればNHK紅白歌合戦に……。  えッ、紅白に? と念を押したら、 「いえ、ンだから紅白のとき、うしろでダンスを踊ってる人がいましょうが。あのダンス団《ヽ》に呼ばれることもあるちゅうことです。お客さんここへ来られたんははじめて? ヘエー、はじめてですかァ」  初めての人がそれほど珍しいということは、すでに当センターが地元のオアシスとして定着しきっているということか。鍋が空になると四人は誰いうともなく丹前にスリッパ姿で道をへだてた大温室、つまりハワイアンセンターそのものへと向かったのである。  ハワイで見るフラメンコ 「申訳ねスがここからハダシです」  揃いのアロハを着た下足係は実に腰が低い。ご指示にしたがってスリッパを脱いでうす暗いセンターに進むと足の裏がホカホカと暖かい。床下に温泉熱が利用してあるのだろう。「入口をくぐるとそこはハワイであった。夜の底が生あたたかくなった」——。ガラス張りのドームの下に椰子、そてつをはじめ熱帯植物がうっそうと茂りその木陰に現住民の小屋がセットされ舞台がしつらえてある。小屋のかげからまっ白なアロハに赤のレイをかけた筋肉たくましき司会者がすすみ出て、 「皆さま、ようこそ当ハワイアンセンターにお越し下さいました」  言語明快、態度テキパキ、いまどきの退廃ムードの司会者とは訳がちがう。舞台かぶりつきの木陰にズラリと四人並んですわり込むと膝の下から何ともふっくらとした暖かさが伝わってきた。 「さすがだなァ。床全体がオンドルなんだよ」 「ウン、ボク、痔が治りそうだ」  夕食を部屋に運ばないと聞いていら立った私も腰のあたりからほかほかと慰められたせいか、いつしかムードにとけ込み、暗がりから明るい舞台をじっと見すえた。 「では当センター専属舞踊団によるフラメンコをおたのしみ下さい」  ハワイアンセンターで何故フラメンコが出るのかなどという愚問は今や誰一人抱かない。やがて音楽に乗って黒のシルクハットに黒のミニスカートといういでたちのフラメンコの舞姫がぞろぞろとお出ましになった。健康優良児のコンテストと見まごう壮観である。表地が黒、裏地が赤のスカートは、昔、写真館でカメラにかぶせていた布を思わせ、足をあげるたびに脇の切りこみから丸々太ったもものあたりが見えかくれするさまは、何やら新鮮なキャベツ畑を髣髴《ほうふつ》させる。女の子たちはニコリともせず、まっすぐ前方の一点をシッカと見つめているけれど、恐らくこの緊張ぶりはセンターの専属の「職員舞踊団」なるが故であろう。元常磐炭坑の就業規則にしたがって勤務中、という表情がありありとうかがえる。つづいて中年の男性歌手がピカピカの靴をはいてあらわれた。 「たしか元組合書記長だったのを抜てきされたってのはあの人じゃないか?」  ガクちゃんが暗がりでささやく。年の頃三十七、八歳か。彼はまっすぐに背をのばし、北島三郎のナンバーから�函館の女�を朗々とうたい上げた。スターも整然、客席も整然。野次一つとばす人もなく、熱心な拍手を送るのみ。  目をこらして客席を眺めると、観客はざっと七百人か。手拭いを四つにたたんで頭の上にのせた人、細くしごいて鉢巻状にしばった人。農閑期を利用した農協職員らしきご一行は、まばたきすらせずに舞台のとりこになっている。その人々の群に何の不自然さもなくとけこんだ広告代理店の三人衆。あらためて客観的に眺めると、わが手下の男たちは何と善良な顔つきが揃っていることか。舞台はいよいよフィナーレになり、お待ちかね色とりどりの腰みのとレイをつけたフラダンスである。  やや寸づまりのハワイアンとはいえ、一列に並ぶとさすがに豪華ショーらしきムードがもり上る。前列の真ん中にひときわ太りすぎの女の子が目立ち、どういうわけかその子だけがほほ笑みをうかべつつ客席を見下ろしている。何しろ他の子は相変らず前方一点、凝視のタイプだから、世馴れた子が妙に目立つ。 「あれは恐らく縁故採用じゃないの。経理の、ホラ山川ミチコ、あいつ親爺のコネで入ってきたせいか、ヘンに愛想がいいんだ。あの手の笑い顔は縁故にちがいないぞ」  チューさんが見解を発表すると、 「しかしうまい案だよなァ。タレントを呼ぶ代りに社員舞踊団てのは一大アイディアだ。要するにかかる経費は時間外手当と衣裳代だけだろう」  ガクちゃんがしきりに経費をはじく。客席の裏手に地つづきで温泉プールがある。その奥はバナナ園、正面をつき抜けると大野天風呂のナイヤガラ。わきにあるのが不老長寿に効アリという黄金づくりの風呂……。 「思ったよりいいとこだよなァ。健全だよなァ」  どうやらコマ君はこの次、子連れでくる算段らしい。 「これで部屋にもどって深夜ポルノ番組みながら寝れば申し分ない土曜の夜ねえ」  いつしか私もハワイの一員になりきったのであった。  部屋へ戻って、さて四つの蒲団をどう敷くか。 「誰しもあたしの隣に並びたいでしょうから、まずあたしのを縦に敷いて、それと直角に三つの床を並べたら一番公平でしょ」  と提案したら、たちどころに三人は命令にしたがい、三人とも私に足を向けてふとんにもぐった。  男三人お土産店へなだれこむ  明くれば日曜の朝は晴天である。お土産屋があくのを待ちかねてかけつけると、これは何たることか。すでにセンター前は長い行列が出来ている。ねんねこ姿のお母さん、皮ジャンパーのお父っつぁん、高校生の一群……。  センター創業十周年記念として歌手の都はるみご一行様が来るというのである。はるか彼方の田んぼ道をぞくぞくと大型バスが走ってくる。「山形県××婦人会」の旗を立てた一団あり、「仙台市××町発展会」あり、「陸上自衛隊」あり……。午後一時開演というのに三時間前から列をなす盛況ぶりをまのあたりにして都はるみ女史の偉大さに四人はただ脱帽するのみ。 「PR誌の編集はまさにこの原点から始めるべきなんだ」  とチューさんがいえば、 「そうだ。要するに大衆感覚を徹底的につかむことだ。ボクは近頃のPR誌が趣味レベルにかたまっているのは非常な間違いだと思うよ」  ガクちゃんが神妙に相槌を打つ。コマ君だけはその間にそそくさと売店にかけこんで両手にお土産をしこたま買い込んできた。 「ハワイアンナイトとハワイアンキスミーを買ったよ。もう一つ坊主のが決らなくてネ」  前者はご近所に配るお菓子、後者は百合子姫のための人形の名前だそうだ。  かくてハワイの一夜は共産党宮本委員長もご納得と思える健康にして健全文化的であったとはいうものの、再び愛車ヒカリサンデスク号に身を任せていよいよ帰路につくと、何か一味物足りない。止めの一パツという盛り上りがないとおさまらない感じなのである。 「じゃ、水郷をまわりましょう。たしか霞ヶ浦のうなぎを食わせるうまい店があったはずです」  ガクちゃんの提案であった。道は来るときとちがって太平洋沿岸づたいである。広々とした眺めの前では輪姦の話題も出ず、コマ君はいつしか乙女の如き長いまつ毛をとじて片隅に身をもたせている。ガクちゃんがカセットテープを入れると、車内に英語の会話が流れた。 「へへ『ちょっとキザですが』……」  NHKニュースキャスター磯村尚徳氏の新刊のタイトルをもじったつもりだろう。 「ちょっとイヤミですよ」  チューさんがやり返す。三時間ほどとばしたろうか。道端に赤い袋を並べた店が目立った。ご当地名産、水戸の納豆である。 「アッ、明日の朝めしに納豆を買おう」  コマ君が目をさまして叫ぶ。 「アッ、丸干しのいいのも売ってるぜ」  チューさんが車からのり出し、 「ウン、女房の親爺はかれいの生干しが大好物なんだ」  とガクちゃんまでが興奮して男三人はたちまち店へなだれ込んだ。この分では三人とも課長止りどころか、果して定年前に課長になれるかどうかが危ぶまれる。いまどきの三十男のスケールがこうなのか、それともよりによってわが身辺に小粒なのが集まったのか。たまのドライブで何も明日の朝餉《あさげ》のおかずにこうまで目の色変えることはないではないか——。  うなぎ屋で避妊の話  水郷、牛堀で霞ヶ浦名産のうなぎを使って創業二百年と聞く料亭は�清水屋�という。通された新館は木の香も新しい数寄屋造りである。土地ブームで儲けた人をあてこんだのかも知れぬ。十畳の座敷に入って床の間を見ると、犬養木堂の直筆がかかっている。ホウ、と一同感嘆したものの、読める者はいない。話は当然、家の造りに移った。 「ボクんとこの建売りに比べると、ここは柱の太さからして断然ちがうなァ」 「しかし君んとこは一戸建てだもの羨しいよ。うちは分譲団地だからいずれ買い替えなきゃならん。君んとこ二階は二間? ああそんなら将来子供二人を上へあげちゃえば一生住めるよなァ」 「もちろん、子供は打ち止めだ」  などと話すうち、うな重が運ばれてきた。 「な、子供は打ち止めのつもりだから女房の方をシバっちまおうと思うんだけど、あれ、原理はどうなってるんだろう。つまりシバっても排卵はあるんだろ。だとするとだな、出口を閉めて毎月新製品がつくり出されるとバクハツのおそれがあるじゃないか」 「いや、ボクが思うにだ。シバるってことは血液を止め機能を退化させることじゃないか」 「ちがう。たしかシバっても卵子は生産されるはずだ。ということは先月分のタマゴはつまりゴミ同様になるわけだ。ゴミ処理はどうなる?」  愛想をつかした私が彼らの話に加わらず黙々としてキモ吸の蓋をあけると、何やら胎児に似たキモがお椀の底に沈んでいる。ムッとしてかたわらの皿の上のワカサギの塩焼きに箸をつけると、腹いっぱいに黄色い卵がぎっしりつまっている。チューさんが覗き込んで、 「子持ちかァ。ワカサギはいいなァ。心おきなく産めるもん」 「ボクんとこは二人目が帝王切開でね。その時ついでにシバったからもう安心だ。しかしあの時はびっくりしたなァ。部長席でスポンサーと打合わせしてたら病院から電話で、『奥さんシバってもいいですか』なんていいやがんの。あれは夫の許可なしにシバれないんだって」  料亭の柱を見ても出された魚を見ても、行きつく先は避妊の話か——。  東京まであと一時間。夕食前に三人とも家に戻れるだろう。子供が人形にとびつき、奥さんが家中煙だらけにして早速丸干しを焼く中で、 「お前の親爺の好物を買ってきたぜ」  とさざめくうちに夜はふけていくのだろうなァ。こんな平穏な日々がくり返され、やがて何台目かのクルマを買い替えた頃、上の子が一浪で私大に通い、下の娘が短大を出て、三人はいずれ大過なく停年を迎えるんだろうなァ。紛争もなく、破綻もなく、因循姑息《いんじゆんこそく》、平穏安息に分をわきまえてその善良な一生が終るんだろうなァ。  三日ほどたった頃、コマ君夫人から花模様の便箋で便りが届いた。 「主人はとても喜んで帰って参りました。皆さまにイビキでご迷惑をおかけしなかったかとそればかりが心配です。おみやげの丸干しは節分の日に柊《ひいらぎ》の木に刺して魔除けとして飾りました。近所の神社で豆まきがありましたので子供と一緒にいきましたら、お菓子やらみかんやらたくさん拾うことができました。袋の中に福引券も入っていて、今年は縁起がよさそうだと家中で大喜びしてます。暖かくなったら遊びにいらして下さい。百合子も薄着になればよく歩くことでしょう」  チューさんからは電話があった。 「あれから坊主が『うちのパパはハワイへいって納豆買ってきた』って、団地中にふれまわったらしいんだ。弱っちまうなァ」  ガクちゃんは�女房の親爺�にかれいの生干しを届けにいって歓待を受け、酔いつぶれて翌日は欠勤だったと人づてに報告が入った。  ああ、ひるがえって考えるに、たとえあるじの座はゆらぐとも、いま心やさしき夫たちは何とさまざまなかたちの愛に支えられて生きていることよ。それにひきかえ、すべての愛を取っ払ってひとり生きるおんなあるじの人生の、何とまあ無表情なことよ。  私はふと思いついて台所に立つと、あの日おつき合いで買った丸干しを焼いて、頭からガリガリとかじった。すでに少し干からびて、それはヤケにしょっぱい丸干しであった。   燕で出会った怪物爺さん  浮き浮きとして旅仕度  家に帰ると机の上にメモがおいてあった。「燕から講演依頼がありました。日時は三月十五日、午後、季節外れの成人式だそうです。市長さんよりよろしくとのこと」  燕といえば、あの燕にちがいない。ボワーッと胸いっぱいに雲がたなびいたようになごやかな思いがひろがった。そう、あれは今から十二年ばかり前だったろうか。新聞社からルポを依頼されて、私ははじめて燕という美しい名の土地があるのを知ったのである。たしか上越線東三条の駅で降りて、雪の中を車で走ったっけ。  へえ——あの燕市から講演依頼とは。なるほど雪国では一月十五日にひらひらと着物を着て集まったりしていられないから、春を迎えてから成人式なのか。  もちろん私は二つ返事で即座に話を受けた。  しかし、まてよ。市長さんてどんな人だったろう? よろしくといわれても顔が思い出せない。まあ、いい、会えばワカルからと私は浮き浮きして、旅仕度にとりかかったのである。  十二年前——。若い記者とカメラマンと私の三人は雪国のわびしい宿に泊ったものだ。人づてに聞いたところでは、一緒に行った記者はいまや三児の父で、パリ特派員として日本を離れているとか。そういえばちょうどあの頃彼は新婚で、宿に荷を下すやいなや東京へ電話を入れ、奥さんとフランス語で何やら話していたっけ。 「オンボロ宿で弱ったよとか、その他イロイロをしゃべったんだ。ウフフ、ニョーボも同じ学部だもんで通じるんだョ」  そういってニーッと白い歯をみせた彼も今や中年か。ところで、何故はるばる辺鄙《へんぴ》なところへ取材にいったかというと、大変珍しい土地柄だからである。東京から半日がかりで行かねばならぬあの地で、市をあげてスプーンやフォークを製造し、世界の各地へ輸出しているというのであった。もしかしたら、山間《やまあい》に突如として目を見張るような近代都市が……。期待に胸をはずませた私はご当地についてアッと驚いた。民家の土間にグラインダー(電動式やすり)を置き、夫婦がわき目もふらずにスプーンを削っている。そのそばでヨチヨチ歩きの子がアメ玉しゃぶりながら、一人遊びをしている——それが生産現場の実状であった。 「カミサカさん、一軒ずつ見ると何かこうわびしいでしょう。けど頭ン中でこの燕市全体に屋根一枚かぶせてみて下さい。ホラ、そのまま大企業になるでしょうが」  洋食器組合の専務理事というおじさんがウマイことをいった。威勢のいいおじさんだったけど、今頃どうしてるかなァ。  そう、あの頃私は蒲田のはずれの、線路わきの四畳半、ガス水道室内というアパートに住んでいた。取材旅行から帰って二日目に、一番電車の音をききながら原稿を仕上げたっけ。思い出がイモヅル式にころころと私の頭の中で掘り出されてくる。ああ、あれから十二年か。長かったようでもあり短かったようでもあり——。  最初、ボワーッと胸いっぱいひろがったやわらかな思いが、四畳半のアパートを思い出すあたりからいつしかしんみりしはじめた頃、旅仕度は終り、私は床についたのである。  洋食器を作る山間の町  さて、上野から特急で三時間半。東三条から車で約二十分。講演会場として指定された東小学校につくとひとまず校長室に通された。  校長先生の事務机のわきに、長火鉢がおいてある。飾り棚の上には品のいい銅の薬缶《やかん》が並んでいる。ああ燕へ来たなあと、私はその金物《かなもの》類に見とれた。  そもそも燕というところは、その昔キセルや銅器などを作っていたのだそうだ。キセルは巻たばこ時代になって姿を消し、銅器はアルミの進出によってスタれたというけれど、いまなお校長室の飾棚に薬缶がおいてあるとこがいい。部屋の片隅に簡単な応接セットがあり、色白の娘さんが黒っぽい着物姿で愛想よく笑った。 「実はアタシ、今日一日、カミサカさんのご案内役を仰せつかりまして」  出された名刺を見ると「燕ライオンズクラブ会長 高橋甚一」と印刷されたわきにペン字で「恵子」と入っている。あなた奥さんなの? と私は目を見張りながら、同時についにこの土地にもライオンズクラブなどというしゃれたものが出来たのかとひそかに驚いたのであった。  講堂に行くと、広い会場に約六百人の成年男女が集まっている。右半分は振袖姿の女性で、その仕度は一人当りざっと十五万か。壇上では市長が開会の挨拶の真最中である。遠くからその顔を見つめた私は、危く声をあげそうになった。 「実は……、今日の講師のカミサカさんは昔、この地へ来られたことがあります。その時にこういわれたんですな。『なんていうきれいな名前の土地だから、どんなにステキなとこかと想像して来たら、えらい淋しいとこですねえ』と。ま、女でもずいぶんいいにくいことをハッキリいう人がおるもんだと思っとりましたが、今日はその燕がどんなに変っとるかしっかり見てもらおうじゃないですか……」  忘れもしない十二年前、燕市の上に屋根一枚かぶせりゃ大企業だとウマイことをいった元洋食器組合専務理事、南波憲厚氏その人ではないか。専務理事から市長へと、彼は驀進《ばくしん》したのか——。  色つやはやや盛りを過ぎたとはいえ、昔のままの丸顔にドカッと大きな鼻で、威勢のいいとこは少しも変っておられない。お互いに十二年たちましたねえ、と肩を叩きたいようななつかしさで、私は彼を見上げた。  講演が終って校長室にもどると、公民館長さんやら来賓やらで、校長室は大にぎわいである。色白のライオンズクラブ夫人は、にこやかに隅っこにすわって赤い鹿の子のハンドバッグをにぎりしめておられる。  と、めがねをかけた見るからに善人そうなおじさんが、オチョボ口に手をあてて、 「わたし、いくつにめえ(見え)ますか?」  そう、五十五、六かしら? と私は多少若くサバをよんで答えた。 「エっヘヘ。六十をとーっくに過ぎとるんですが」  うれし気に目を細めて、そっと片手でかくすようにしながら渡された名刺を見ると、まあ、その肩書きの多いこと。青少年ホーム運営委員、図書館委員、越後文学同人、郷土史研究会顧問……。 「ほんとはまだここに書ききれないほど役をもっとります。エッヘヘ……」  オチョボ口をすぼめて、カン高く笑うこの人の名は布施仁作という。  ところで、私は前々から不思議でならないことが一つあった。いつごろ、いかなる経路でこの山間の地でハイカラな洋食器をつくることに相成ったのか。そのきっかけが知りたい。布施老人ならあるいはその辺を説明して下さるのではないか。 「ハ、ご説明しましょ。この土地ではじめてスプーンを作り出したのは明治の四十四年なんですわ」  何しろ郷土史研究家だから話は早い。 「銀座のトイチ屋というところから吉右衛門さんのとこへ注文が入ったちゅうわけですが」  吉右衛門さんというのは、どうやら生産者だということは分ったが、そのトイチ屋というのは一体何者だろう。それを問いかけてみようと思った途端に公民館長が口をはさんで、 「トイチ屋ではなくてヂューイチ屋じゃないか」  するとすかさず別の来賓がいった。 「トイチ屋ってば質屋にありそうな名じゃないか」 「あ、いや十一屋はたしか洋食屋だ。ウマイ洋食を食わせる店だったそうだ」  居並ぶ人々はてんでに意見をのべたが、結局のところことの起こりは誰にも分らないらしい。 「ンだから吉右衛門さんとこへいけば万事わかるちゅうことよ」  今日の成人式のためにダブルの背広を着た布施老人はこう判決を下し、とにかく吉右衛門さんとこへ案内するというのであった。明治四十四年にスプーンをつくりはじめた人が本当にまだ生きてらっしゃるの? と念を押したら、布施老人はおちょぼ口を驚くほど大きくあけて、 「へえ、そらもうシャキーッとして。今年八十五歳になられるですが、どうして、どうして、目も耳も頭もちっともおとろえずに物産の社長しとられますが」  八十五歳の現役社長  車で十分ほど飛ばすと工業団地がある。いやはや驚いた。田んぼの向こうに最新式の工場がズラリと並んでいるではないか。十二年前、土間にグラインダーを据えつけていた、かの二チャン工場いまいずこ。高度成長経済とは何とありがたいものだろう。思えば田中角栄さんという人は、偉大な政治家ではなかったか。そういえばこの地は角栄さんのふるさとに近い。  団地の入口に一きわ大きく、デンと構えた工場のおもてに立つと、「燕物産株式会社」とある。生憎《あいにく》、工場は休業中でガランとしており、廊下の向こうから守衛さん風の人がやってきた。 「おお、お待ちしとりました」  出された名刺には「捧吉右衛門」とある。  えッ、この人が例の八十五歳! やっと七十歳くらいにしか見えない。さ、どうぞと通された部屋は真新しい応接セットにまばゆいばかりのシャンデリアが下っている。  で、まず「捧」というこのお名前は何とお読みするんでしょう? 「ハ、こりゃササゲと読みます。昔、平頼盛があぶみを落とされた時、あたしどものご先祖がそれを拾って捧げたのが由来でして」  同行の布施老人がここで割り込むように、 「実はうちの家内が吉右衛門さんとこと遠縁だというとります。以前、火事のときに家内の親爺が吉右衛門さんとこへあずけられて……」  つづいてライオンズ夫人がいった。 「主人の父が生前に親しくさせていただきましたそうで……」 「ホオ、ンじゃあんた、甚平ドンの息子さんの嫁御さんで……」  このあたり一帯に住む人々は、互いにどこかでつながっているらしい。それにしても立派な部屋である。ドルショックで輸出が大打撃を受けたという噂はどこ吹く風、応接セットはつやつやと光り、マホガニーの社長机は子供のベッドほどの大きさはあろうか。 「いえ、なにこの建物は公害防止事業資金の融資を受けたものでネ、ちょっと内部をご案内しましょか」  二階へ上って陳列室のドアをあけると、おお、そこに燦然《さんぜん》と輝く豪華な洋食セットは、新装相成った迎賓館におさめたものなのだそうだ。その向こうにあるのが中華料理の正式セット、こちらはフランス料理の一式、あれはビュッフェパーティ用、こちらは……。中世ヨーロッパの宮殿に舞い込んだ心地で、私はあらためて捧吉右衛門その人を見つめた。  髪はさすがに薄い。目も細い。けれど鼻から口にかけての貫禄はまさに現役の顔である。バチッと口金をしめた財布にも似た厚い唇に見とれていると、捧翁はそそくさと先に立って私を次の間に導いた。足どりはなるほどシャキッと軽い。  次なる部屋はと見れば、「商談室」と札が下り、茶室つきの応接間である。感嘆の吐息と共にソファに腰かける間ももどかしく私は第一問にとりかかった。そもそも十一屋さんてのは何者なんですか? 「ハァ、十一屋《じゆういちや》さんは洋食器の問屋です。明治のころイギリスからスプーンやフォークを輸入して帝国ホテルや三井、三菱といったところに納めとられまして、従業員も百人ばかりかかえた立派なお店でした。明治四十四年に、はじめてあたしどもへご注文いただいた経緯はですな、十一屋さんで三十六人分の高級洋食器の注文をお受けになり、これを下請にまかせたところがどうもいいのが出来んのですな。あたしァ、平和博覧会で十一屋さんとはお顔なじみになっとりましたので、そんなこんなでご依頼があったというわけです。当時、燕に電話が三本ありました。一番が役場、二番が警察、三番があたしんとこです、ハァ」  結局、きっかけはこんな偶然だったらしい。もちろんはじめは注文を受けた側も何を作っているのかサッパリ分らず、出来上ったフォークをながめて「こんなビビラ(熊手)が売れるのかいな」と首をかしげていたそうな。 「ところがネ」  ここで捧翁は目をパチッと輝かせ、ニコッと私を見上げた。 「大正五年にロシアから大量の注文があったんですわ。何でもいいから一日に二百ダースずつ作れ、出来たぶんだけみんな買う、と」  ホウ、ホウ。それを機に大躍進ですか? 私は思わずのり出した。 「いや、そこですがな。そりゃもう、燕じゅうの人たちが夜の夜中も寝ずに作りまくりました。もちろん手づくりですわな。あの頃、燕中が夜っぴてカンカンと音をたてとりました。で、さて出来た品を荷作りして船に乗せようと思ったその時、例のロシア革命の時期で、ケレンスキー内閣がつぶれちまったりして——。ハァ、注文の品は全部お流れですわ」  おとこざかりは百歳から  まあ、と私は話の内容にも驚いたけれど、この話をいま、公害防止事業資金をもとにしてつくられた近代社屋の中で、八十五歳の社長から聞いているというところが何とも愉快であり不思議である。それにしても年月日から注文数まで驚くべき記憶力ではないか。で、どうしました、注文流れのその商品は? こうなれば老人だからといって遠慮はいらない。 「全部また溶かしました。特別あつらえなもんで一般には向きませんので。けどネ。因果はめぐるという通り大正七、八年頃からレストランや、カフェが次第にふえて、日本人の生活に着々とスプーンがひろまったんですわ。そこで多少の資金もできたし、勢いを得たあたしは大正十年に大陸へ渡りまして、赤馬で中国各地にスプーンを売りまくりました」  夕日は大陸の地平線の彼方に沈み、そのまっ赤な残光を背に凛々しい青年が、ガマ口型の唇をへの字に結んで馬にまたがった姿が私の目にチラついた。そう、衣裳はマントか——。 「いえ、あんた。赤馬ちゅうのは馬じゃなく三等切符のことですがな。当時、大陸じゃ日本の大工道具で仕事をする人は一日一円二十銭、現地の道具でする人は七十銭、とこうなっとりまして、日本の技術や道具が優先されましたから、あたしの商売もそのぶんもうかることになりました」  布施老人もライオンズ夫人も、いまは声もなく話に聞き入るのみ。聞くところによると捧翁は七歳のころから行商で身を立てたとか。身長一メートル六十センチ足らずのこの身一つで、何てまあダイナミックな人生を……。 「そう、ンだからあたしはドルショックが来ようが、石油ショックが来ようが何とも思わんです。むしろ浮薄な考えをとりはらうのにいいチャンスですわ。このシャバで中国人がどうして強いかあんた知っとりますか? 華僑なんぞ、国の援助を全くアテにせず、身一つで世界に出て商売しとったからです。やれ国の援助がどうの、政府が力を貸さんだのというとらんです」  そうよ、そうよ。政府が悪い、社会が悪いと叫ぶのにかぎって甘ったれが多いものよ。何といってもこの世は自力だけが頼りよねえ。私は身をスリ寄せんばかりに捧翁に賛成すると、布施老人がチラと時計を見た。私の帰京時間を気にしてくれているらしい。ライオンズ夫人は捧翁の境地のとりこになったかの如く、ホント、ホント、商売は山越え、谷越えでございます、と感慨にひたり切っておられる。 「で、話はまたもどるけんど、燕が躍進的にのびたのは、関東大震災のおかげです。日本で一般の人がカレーライスを食べるようになったのは震災がきっかけなんですな。震災のあと新聞紙一ぱいに赤字で�カレーライス 一杯八銭�とかいたビラが東京中にヒラヒラしとりました。何せ非常時ですから皿にスプーン一本つっ込んだ簡単な食事が人気を呼んだんですな。結局、あれ以来、スプーンがあまねく世にひろまりました」  まるでテレビの大河ドラマだ——。三つ揃の背広を小ざっぱりと着た、目の前の捧吉右衛門氏のおっとりした表情がウソみたいに思えてくる。圧倒される思いで私がものもいえずにいると、トントンと布施老人が肩を叩いた。 「カレーライスの流行ってとこで一応ケリをつけませんと……。アノ料理屋が予約してありますので、エッヘッヘ」  オチョボ口につられてようやく現実にもどった私が、もう一度お話をききたいわと繰り返すのを捧翁はゆっくりと受けて、 「ハア、またいずれ時間のお約束をいただければ幸甚に存じます。あたしの方も月に一、二度東京の支店へ出かけますから」  八十五歳で東京−新潟を往復し、現職の社長業を淡々とつとめるなんて、これはもう一種の怪物である。 「怪物ってばあたしより上がおられますがな。あんたさん平櫛|田中《でんちゆう》さん知っとりますか?」  知ってます、と私は顔をあげた。ずっと前、岡山県井原市の夏期大学に招かれた時、田中館をとっくり見せていただいたことがある。井原市出身の木彫り芸術の第一人者、平櫛田中氏といえばたしか今年百歳をすぎておられるはずだ。 「おお、知っとられますか。順天堂医院でドックに入りました時に、あたしァあの人と隣り合わせで、それ以来親しくしてもろてます。ほれ、こんなものもあるし……」  別室から墨痕あざやかな書を持って来られた。�六十 七十 はなたれ小僧 おとこざかりは百から百から 平櫛田中 百歳�  ライオンズ夫人はまばたきもせず読んでいる。おちょぼ口の布施老人は何故かしきりに口をすぼめている。私は呆然としてまなざしもうつろなまま、指定された料亭に向かったのであった。  涙のぶんだけ豊かな人生  さて、料亭のたたずまいも十二年前とは一変している。以前、訪ねてきた時にはこんな気の利いたところは一軒もなかったのに。  再び高度成長の名残りを感じながら廊下をつっきって座敷に入ると、九谷焼のあでやかな火鉢が目についた。うるし塗りの脇息と紫の座蒲団との対比が、なまめかしい。床の間の銅の花瓶はもちろんご当地の産物にちがいない。やがて食卓の真ん中に、色あざやかな越後名産のあまえびが運ばれてきた。かにが出る。日本海の鱒が出る。とれたての筍が出る……。三人で一本とった地酒がいつしかまわって、ライオンズ夫人の口が軽くなった。 「吉右衛門さんの話をききながら、うちの主人のこと思っとりましたの。ハイ、主人の父は燕の市長をしとりました。で、改選期にさしかかってかけずりまわったんですね。あと一息で投票日というときにバタンと倒れてそれっきりだったそうです。主人は東京の大学におりまして、応援のため帰って来たんですが、ま、見透しもついたということで帰京の途につきまして、戻りの汽車の中で『チチシス』の電報を受け取ったそうです。ところが……」  名士の死後は必ず見も知らぬ借金取りが次から次へとあらわれるのが世の常なのだそうだ。ましてや選挙の時期だから勝った場合を見越して、率先して資金援助を名乗り出たはずの人までが、手のひらを返したようになる。 「主人は学校を出るとすぐ父の死後の処理に奔走することになりました。ハア、主人は長男で下に幼い弟妹が四人おりましたの」  夫人は子供がないそうだ。髪をオカッパにして若く見えるけれど、三十代もなかばを過ぎておられるらしい。 「吉右衛門さんに比べればうちの主人の苦労なんぞまだまだささやかなものかも知れませんけど、でもいろいろございました、ハイ。カミサカさん、結局、人生ってものは、自分が涙を流せば、流したぶんだけ先へいってかえってくるもんですね。あたしはようやくこのごろ分ってきました。ハイ、子供がないのは残念でしたけど、いい主人で幸せです。実は、つい先だって主人の末の弟を養子縁組しまして、あたしどもの息子にしましたの。姑が喜んでくれましてねえ……」  その弟さんがまたよく出来た人で、それまで義姉《ねえ》さんと呼んでいたのを、養子縁組したその日から母さんと呼び変えてくれ、それがうれしいとライオンズ夫人は善良なまなざしで身の上を語りつづける。布施老人はどうやらこの種の話には全く無関心らしく、あまえびを次から次へとくわえ、尻尾をズラリと並べている。大体この人の口もとはあまえびを食べるのにまことに具合よく出来ているのだ。ライオンズ夫人のお召物は大島らしい。やり手のご主人と共に荒波をくぐり抜けて、この人もまた今や一生の一区切りか。 「いろんなことがあるのねえ」  私は誰にいうともなくいって白魚のすまし汁を吸った。ライオンズ夫人もつぶやくように答えた。 「いろんなことがありますわ」  東京に帰って一週間ばかりたった頃、小包みが届いた。差出人は燕物産 捧吉右衛門とある。中をあけると金色のスプーンであった。柄にこまかい七宝をはめ込んだ見事な品である。山村の真新しい工場に下っていたシャンデリアが何故か私の頭をよぎる。 「足マメに歩くと、全くいろんなことがあるわねえ」  今度はほんとに誰にいうともなく、私は一人ぐらしのマンションの白壁にフーッと息を吹っかけたのであった。   ニューヨークの人間模様  ウーマン・リブの本場へ 「私はまっ赤なパンタロンスーツを着て降りていきます」  今にして思えば、このひとことは我ながら傑作であったと思う。出発前に東京の日本航空からニューヨークへ、このひとことをテレックスで知らせておいて下さったらしい。ケネディ空港に降りるやいなや、まっ赤な私を見つけて、 「カミサカさんですね」  出迎えがかけよって下さり、馴れない旅のすべり出しはスイスイとはこんだのである。  さて、十年目のニューヨーク旅行に発つ前に、私は淡い後悔にひたっていた。以前ニューヨークへきた時、私はつくづく我が語学力の貧弱さを歎いたものだ。言葉もできずに外国へきたって何の意味もありはしない。日本に帰ったらせめて一週間に一度でもいい、何らかの方法で勉強をはじめ、英語くらいはマスターしておこう、と。ああしかし、あれほどカタク決心したのに、羽田に着いた途端、まあ、あわてることもあるまいと気が変り、以後十年間、今や我が語学力は破産に近い状態であった。あの時、決心を変えずにいれば今頃は……。  しかし今更胸に手を当ててみたところで間に合う話ではない。何事も胸に手を当てている暇があったら立ち上がって対策を求め、行動するという考えで私はこの四十五年間を生きてきた女である。  そう、四十五年といえば、日本を発つ日はまさに四十五回目の私の誕生日でもあった。  さて、対策を求めて行動に移った私は、早速各方面に手をまわした。その結果、もっとも手っとり早い方法として、旅行計画の一切を日航に任せるのがいいと分ったのである。通訳はもちろんのこと、カメラマンもいい人を押さえているという。  話は前後するけれど、実は今度の旅には私なりにひそかな計画があった。観光はさておき、ウーマン・リブを調べてみようと思ったのである。何しろウーマン・リブといえばアメリカのしかもニューヨークが本場ではないか。  日航の効果はたちまちあらわれた。アメリカのウーマン・リブの第一人者ともいうべき、ベティ・フリーダン女史に交渉し、見事、OKをとってくれたのである。私がニューヨークに到着したその翌日の午前十時に会うと、相手方は確約したという。おまけに通訳の女の子も、そんじょそこらの娘っ子ではない。見るからに気品のある知的な人である。 「芸大でバスーンを専攻して、こちらで仕上げをしながら、いまは小さな学校で生徒に教えて居ります」  バスーン嬢はやや英語なまりの日本語で挨拶した。小麦色の肌に神秘的な切れ長の目、ノーブルな鼻。年は二十六、七歳か。俗界を寄せつけないような雰囲気に、私はやや身構えながら返礼した。バスーンというのは、何でもオーケストラの真ん中あたりにいる管楽器で、普通ファゴットと呼ばれているとか。音楽に無知の私は話題をきりかえ、ご両親はどちらに? と聞いてみた。 「千葉に居ります。父はコメ油の研究をしてます」  嬉しいねえ、あなたコメ油の娘さんなの。このひとことで私はたちまち警戒を解き、例によって例の如く、じゃ、よろしく頼むわよ、とうち解けたのである。  準備完了。すっかり安心した私は、ホテルに荷を下すと、トランクからせんべいをとり出してボリボリと音をたてて噛んだ。  いよいよ明日は東西ウーマン・リブ論戦の幕が上がる。  さて夕方、日本料理店でも探して食事をしようかなと身仕度をととのえていると、突然電話が鳴った。さっきのバスーン嬢からである。 「今夜、日本人ばかりのパーティがあるんですけど、よろしかったらご一緒なさいませんか?」  正直いって私はあんまり興味がなかった。  ニューヨークまで来て日本人の顔を見ても仕方ない。しかし待てよ、明日の対談を控えて、もう少し各方面にわたるニューヨークの情報を集めておいた方が、対談が有利に運ぶかもしれない。とっさにそう計算し、よろしい、うかがいます、と私は答えた。彼女は夜十一時ごろ迎えに来てくれるという。十一時!? と念を押すと、 「大体いつもあたしたちのパーティはそのころから始まって、明け方までしゃべるのよ」  事もなげにいった。  酒をキラさぬオバはん  さて、リンカーンプラザというのは、ホテルと見まごう立派なアパートである。入口の回転ドアを入ると、高い天井の下に、花模様のじゅうたんを敷きつめた、広いロビーがある。受付で守衛に名前を伝えると、はじめてエレベーター前に行くのを許可された。十階に上ると、しずまりかえった廊下にも、靴が埋まるようなじゅうたんが敷きつめてあり、目ざすドアの前に立ってベルを押すと、すでに中では五、六人の日本人男女がさざめいている。  玄関わきに小さな台所があり、十畳ほどのリビングルームのほかにべッドルームがもう一つ別にあるらしい。正面の顎髭を生やした芸術家風の男性は四十代なかばか。あとはいずれも二十代らしき人ばかり。テーブルの上には鮭のフライや、ムール貝や、まぐろのさしみや……赤白のワインが、ふんだんに用意されている。と、顎髭氏がいった。 「たった今、ベティが部屋に帰ったんだけど、あなた、今日、ベティと対談するはずじゃなかったの? 彼女、日本人と対談の約束をしたのにどうなっちゃってるんだろうって、今までここでボヤいていたんですよ」  えッ、と私は立ちすくんだ。ベティって、あのベティ・フリーダンのこと? 「そう、彼女はこのアパートの四十階に住んでて、僕の古い友人なんです」  何たる奇遇! フリーダンがここに住んでいるとは。しかし喜んだのもつかの間で、話は急転した。 「約束は明日のはずだって!? あ、そりゃ見込みないな。彼女、明日はメキシコの国際婦人年会議に出席するため、ニューヨークを発つんですよ。何しろウーマン・リブってば彼女が出なきゃはじまらないもの。対談の約束はたぶん一パイ呑んだ時にしたんだろ。あのオバはん、呑むとメロメロになっちゃうんだから。もっとも呑んでない時間に約束しろってのも無理な話だなァ、ほとんど一日中、酒をキラしたことのない人だからねえ」  私は顔からすーっと血がひいていくのが分った。それではまるでアル中の一歩手前ではないか。ベティ・フリーダン女史といえば十年前、「新しい女性の創造」という大ベストセラーを書いた人である。その昔、スミス女子大をトップで卒業した才女ともきいている。三児をもうけて離婚し、いまは著述と講演にあけくれ、アメリカのボーボワールともいわれている人なのに、アル中一歩手前とは思いもよらなかった——。 「こちらの中年女性にはこういうタイプは多いんですよ。そりゃ頭のいい人です。だから呑んでたって、喋ることはシャープだけど、とにかく彼女、明日はメキシコへ発つんだから物理的に対談はあきらめた方がいいよ」  あきらめた方がいいといったって、明日のために、すでにカメラマンも手配してあるのに、どうしよう? 思わず胸に手を当てかけた私は、ここで身構え、ひらきなおった。胸に手を当てる場合ではない。打開案を考えねばならぬ。  よろしい。彼女はこの四十階にいるんですねッ、こういうと私はゆっくりドアに向かって歩きはじめたのである。私の顔色に、よほどただならぬ気配がただよっていたのだろう、居並ぶメンバーはぞっとしたような表情でグラスを置いた。親分格の顎髭氏は事の重大さを察したのだろうか、かたわらの雪の精のような女の子に、 「ベティの部屋へいって、呼んできてあげなさい」  といってくれたのである。  一方、わがバスーン嬢はその高貴なひとみにサッと緊張をみなぎらせ、 「ホテルの鍵を貸して下さい。私がテープレコーダーをとって参りましょう。深夜ですけどカメラマンの電話番号は分ってますから、すぐ手配して呼び寄せます」  というなり部屋をとび出した。この部屋の住人とおぼしき髪の長い女の子は、立ち上ってテーブルの上を片づけはじめ、対談の場所をセットしてくれているらしい。ありがとう、みんなありがとう。私はニューヨーク第一夜のハプニングの中で、半分狐につままれた心境のまま、心の中では感謝しつつも、言葉はのどのあたりでウロウロと声にならない。おそらくたった今、山から生捕ってきたタヌキみたいだったろう。  真夜中のインタビュー  ベティ・フリーダン女史は、写真で見た通りの、目の大きな人であった。彼女は半分怒ったような、半分好奇心に満ちたような表情で、私をジロジロと見ながら右手をさしのべた。髪は殆ど白い。ピンクの顔色はアルコールのせいだろうか。小太りの体に、紺のトリコットのパジャマのようなワンピースを無造作にひっかけている。背は意外に低く、私と同じぐらいか。 「オバはん、明日の約束なんかした覚えはないってつぶやいてるよ。気の変り易い人だから、早いとこ声をテープに入れちまえよ」  顎髭氏がこういった時、丁度テープが届いた。 「じゃ、早速ですがフリーダンさん、おトシは?」  私は内心ためすつもりであった。アメリカでは女性にトシを聞くのは失礼とされていることは承知の上である。しかし、ウーマン・リブの男女平等論からいうと、当然、堂々と答えるべきではないか。フリーダン女史は案のじょう、 「五十四歳。私はトシなんかきかれたってちっとも構いません。そもそも五十歳の誕生日に私は自分のトシを天下に公言して、三十代、四十代とはちがう自分を強調しました」  ややダミ声の、演説口調である。 「アメリカのウーマン・リブというと私たちはすぐ、男もブラジャーつけないなら女もつけないぞ、とブラジャーを焼いた話を思いうかべるんですけど……」  私がつとめて愛想笑いをしながら何年か前、日本の新聞で知ったウーマン・リブ活動についてふれたその時、フリーダン女史は何と思ってか、ソファから立ち上がり目をむいて私を怒鳴りつけた。不動明王さながらである。バスーン嬢に代って通訳を買って出てくれた女の子がおろおろしている。波うつ胸をしずめつつ私はことさらに冷静をよそおって微笑をたたえながら、女史にきき返した。 「ね、何が気に障ったってんですか?」  唇のあたりがひきつっているのが自分でも分る。  通訳の女の子も利口な人らしく、たちまちビジネスライクな態度をよそおって、 「あのゥ、上坂さんは何も分っちゃいないっておっしゃるんです。ブラジャー反対を叫んだあんな軽薄なリブたちと、自分とを一緒にされてたまるかって、自分はボーボワールをはるかに超える理論家である……とのことです」  いや、分ってます。別にフリーダンさんを軽薄だっていってるわけじゃなく、日本ではアメリカのウーマン・リブというと、すぐノーブラ運動と結びつけるんで、つまり、話のスジとして、ものの順序として、一応うかがってみたまでなんです……と、このいい訳が英語でできたらどんなにいいだろう。私は内心うんざりしながら、夢中で次の話題に移った。顎髭氏は、親切な人らしく、かたわらで、 「ベティ、ベティ、そうじゃないんだよ。誰もあんたを軽薄だなんて思ってやしない……」  となだめすかしてくれ、どうやらベティ女史も機嫌を直したらしい。  かくて、えんえん二時間、彼女はかなりのカンシャク持ちらしく、話題のポイントへくると声を荒立てて、目をむき、声もかすれんばかりの熱弁でまくしたてた。途中カメラマンも息はずませてかけつけて、その千変万化の表情をレンズにおさめ、かくて危機一髪のチャンスを見事につかんで、事は終ったのである。フリーダン女史を送り出した時はすでに午前二時。居合わせた男女は、互いに顔を見合わせたまましばし声も出ず、ぐったりとノビたのであった。  ああしかし、永年、夢にまでえがいたインタビューの相手が、こういうタイプだったとは——。  個性的な人生を歩む若者たち 「わるかったわねえ、みんな。さ、どんどんやってちょうだいよ」  まるで主催者のような口調で私はまわりの人々の気をひき立てた。何故か、人々も至極当然のように私の言葉を受けとめ、いつしか主客転倒のままパーティ再開である。  さて、ようやく我にかえってあたりを見まわすと、何とも個性的なメンバーの集まりである。顎髭氏は、すでにアメリカ生活十六年目で、そのすじではかなり知られた人らしい。この部屋の住人という髪の長い女の子は、女子美を出て顎髭氏に師事しながら、コロンビア大学で勉強中という。それにしても、名士フリーダン女史の住むこの高級アパートの一角を借りて女一人異国で生活するとなると、相当の仕送りがあるにちがいない。 「親父さんは魚河岸関係の仕事を手広くやってるから、彼女は何不自由ないんだよ。学生としちゃあ、最高に恵まれてるよなァ」  と、これは顎髭氏の説明である。つまりコメ油と魚河岸をバックに、娘たちは縦横無尽に才能をのばしているのか——。テーブルの上の器は、さすがに芸術の道に精進している人だけに凝っている。伊万里あり、赤膚風の骨董あり、スウェーデンの大皿あり……。  ところであなたは何を勉強しているの? 私は急遽通訳を買ってくれた、まだあどけなさの残った女の子にむきなおった。ミニのワンピースを着た、いかにも茶目っけのある女の子である。 「あたし今、ニューヨークで弁護士の修業をしてるんです」  えッ!? と私はきき返したが、彼女はまぎれもなく東大法学部を卒業して司法試験に合格し、いま商取引関係の弁護士として、アメリカ人の法律事務所で働いているのだそうだ。  なるほどウーマン・リブに関するこみ入った内容を、見事に通訳して見せたはずである。しかし、適齢期を外国で一人で過ごしてて大丈夫なのかしら……私が他人事ながら気をまわしたら、まるでそれを見すかしたかの如く、 「主人はシアトルで航空学の修士の勉強中なんです。ええ、主人っていってもフランス人なんですけど……。もちろん婚姻届はすませました」  えッ!? と驚いたのは私だけである。まわりの人々はああそうか、といった表情で平然としている。みなさん国際結婚なさるの? と興奮さめやらず私はまわりを見まわしたが、 「いや、ボクのおくさんは日本人です」  二十五、六歳の青年がニッコリ笑った。この人も音楽関係の勉強をしており、指揮者志望とか。彼のうしろで真っ赤なセーターにGパンをはいて、まっ黒の髪を背中まで垂らしてすわっている女の子は、音楽学校の学生で、学内交響楽団のコンサートマスターだそうだ。 「はい。バイオリンは子供の頃からやってました。お茶の水の附属から桐朋へいって、それからこちらへ……」  と蚊の鳴くような声でいったけれど、よほど芯の強い人らしく、両親から二年だけ許可をとってきて留学をすませたあと、一旦日本へ帰り、再度両親を説得して、またやってきたというのである。  女、五十四歳でアルコールに浸りながらウーマン・リブを説く人と、外国の大都会でマイペースの人生を歩きつづける若者と、ああ、わずか十数時間飛んできただけなのに、何とも我が日常とかけ離れた生活の展開してることよ。  ニューヨークの情熱的恋愛  再び山だしの狸同然の表情で、ため息まじりにあらためてあたりを見まわすと、おお、すんでのところで見落とすところだった。もう一人、さっきの雪の精のような女の子が、顎髭氏のかげで息をひそめるようにして坐っている。あら、お嬢さん、そんなとこにいちゃ見えないわよ、と大げさに私が呼びかけたら、アハハ……お嬢さんだってェと一同どっと笑いこけた。  驚いたことに彼女は顎髭氏の夫人だというのである。透きとおったような肌におしろいも紅も全くつけず、ひっつめ髪をくるくると無造作にうしろにまとめ、じっと目を伏せた横顔は、その昔、竹の中から生まれ出て、天に帰る日をいい出しかねて思いつめていたという、あのかぐや姫はかくありなんと思わせる。但しそのファッションは、表情とはうって変った大胆なもので、上体は白い手編みのレースのビキニ風ブラジャーのみ、スカートは同じくレース編みのスケスケの超ミニで、いうならばターザンに近いよそおいである。半裸の開放的な四肢を、フワリとしたレースのショールで包み、見えかくれさせているさまは、小心と大胆との見事なからみ合いをかもし出しているのであった。アクセサリーはたった一つ、直径五センチはあろうかと思われる黒い輪型のイヤリングだが、これがぶらぶらゆれると、さみし気な顔の線が気のせいかほんの少しにぎやかになる。何を聞いてもニコッと夢のように笑って顎髭氏のかげに身をかくしつつ、はじらうところが何ともあどけなく、痛々しく、いじらしい。やっとはたちそこそこだろうか。 「さあ、呑もう。明日は船出だ!」  顎髭氏がワイングラスを高々とかしげた。雪の精とは似ても似つかぬハッタリ気味のこの好漢は、明日から所用と遊びをかねてアフリカへ出かけるという。 「子連れで行くんです。ウン、息子は九歳」  顎髭氏がこういうと、あーァ、また息子自慢がはじまるぞゥ、全くイヤんなるほど子ぼんのうだものなァ、とまわり中がはやしたて、そのざわめきの中で雪の精だけが目を伏せてうなだれた。  ああ、そうか——。この少女のような夫人が九歳の男の子の母であるはずがない。何か複雑なわけがあるのだろう。  パーティはかくてガヤガヤと明け方までつづくという。とてもつき合いきれないからと、私はバスーン嬢をうながして表に出た。どうも顎髭夫人のことが気にかかる。それとなく聞いてみると、バスーン嬢はその神秘的な目をあやしく輝かせながら、 「彼女、すてきですわ。ピアノの勉強のためにニューョークへきてたんですけど、彼とあんな風になったのがご両親に知れて、連れもどされちゃったんです。だけど、情熱ってそんなことでくじけるもんじゃないでしょう? 彼女、ご両親の目を盗んで、サンダルばきでコンパクト一つだけ持って羽田からニューヨークへ逃げてきたんです。ええ、五年前に。若く見えるけどいま二十四、五歳じゃないかしら。もう一生日本へ帰らないつもりでしょ」  げに女とは、何と不思議なエネルギーを爆発させるものだろう。この世のものとも思えないほど妖しく、かつ頼りなげな彼女が、そんな経緯で顎髭氏のそばに坐り込んでいるのかと思うと、その情熱が羨しくもあり、また切なくあわれでもある。  それにしても九歳の息子の母というのは一体どうなっているんだろう。パーティに集まった人々がさざめく中で、無抵抗の雪の精の背をさすったり、時々抱きかかえたりしている顎髭氏の、その手つきから察するにどうやら彼は目下二足のわらじ、といったところではなかろうか。板についた横暴ぶりがうとましくもあり、よくぞ男に、と見上げてやりたくもある。  翌朝。ニューヨークは晴れ。ホテルは五番街に面したセントレジスである。室内にはヨーロッパ風の格調があり、一歩表へ出れば目抜き通りで、条件として申し分ない。町はちょうど、日曜で、アメリカ二百年祭をあてこんで、サマーフェスティバルと名づけ、歩行者天国の真最中である。  街路樹のかげで、黒人がドラム缶を改造して作った楽器を叩きながら、美しい音色のメロディを町中に流し、歩道いっぱいに骨董屋が店をひろげている。子供を肩車にのせながら雑踏を歩いていくパパ。オールドファッションのドレスを、ためつすがめつ品定めしているヤングミセス。ヤル気のない顔で立っているアイスクリーム売り……。  こうして歩いているとニューョークも銀座も変りないように見えるけれど、昨夜から今朝にかけて出会った人々の、何ともバラエティに富んだその表情よ、生きざまよ。  明けても暮れても書斎で原稿用紙のマスを埋め、暇をみてはセッセと講演旅行に出かけて型通りの話をくり返してきたここ数年来の我が日常を、私は対照的にぼんやりと思い返した。  さりとていまさらつられて一念発起するトシでもない。人ごみに身を任せてブラブラとストリートを歩きながら、私は、ニューヨーク人間観光の旅も悪くない、とうなずいたのである。   女流作家と北陸路をゆく  著名作家から旅への誘い  ある日突然にいい知らせが舞い込むことがある。この話は全く文字通り「舞い込む」というかたちでやってきた。  相手は確実に話題作を世に送りつづけている著名な女流作家である。知的な人であるからしてテレビには出ない(テレビが怒るか?)。知的で高貴で、そしてその文章に時としてヘソ曲り的観察が含まれているところが好きで、私はかねがねひそかなファンであった。  そもそも、その著名な作家と私が仲良しになったのは、実にたわいない経緯からである。  さいきんは、食べ物に対してヒステリックな発言をする人が多く、たとえば、あるウーマン・リブ系の評論家など、選挙の応援演説のときに「ちかごろ生まれてくる赤ん坊のうち、十人に四人は異常がある」と演説をブチまくっていた。冗談いっちゃいけない。ついこの間、弟の嫁が赤ん坊を産んだ時、私は産院へかけつけたけれど、その日生まれた十三人の子は、全員異常なしの診断をうけてガラスの向こうで競って泣いていたのを、この目でたしかめている。いくらどさくさまぎれの選挙応援だからといっても、根拠のはっきりしない話で人をおびやかしつつ票を集めるのは無謀である。  そこで私が、腹立ちまぎれにこの感想を新聞に書きなぐったところ、そのコラムを読んで前述の著名な女流作家女史が電話をくれたのであった。 「最近はみんなホントのことを遠慮していわないけれど、あなたの発言は大事な点をついてるわネ」  分ってくれてありがとう。私はたのしくなり、以来彼女とダイアル・フレンドとしての結束をかためるようになったのである。  お互いにしんきくさい原稿書きだから、書斎の外に出るのは面倒で、時々仕事の手を休めて無駄話がしたくなると、どちらからともなく電話をかける。そんな電話の一つが、このたびの思いがけない�いい知らせ�をもたらしてくれたのであった。 「もしもし、ねえ、あなた福井へ行きたくない?」  だし抜けに何よ。行きたいってば行きたい、行きたくないってば行きたくない、すべては用件次第よ。と私は答えた。 「それがねえ、用事はナーンにもなしなの。福井を見て、ああこういうとこなのかと知ってくれればそれでいいっていう話なの」  ウマイ話ねえ、と私はのり出した。つづいて、いい機会だから、あなたととっくり面談もしたいわ、と私は口走り、かくて話はとんとん拍子に決ったのである。何でも作家の津村節子さんが福井のご出身で、我々二人を県の方にご推せん下さったらしい。  さて、日程表を見ると二泊三日。第一日目は何と朝八時に東京駅発となっている。ダメだ——と私は肩を落とした。とっても起きられやしない。 「おおかたそんなことだろうと思ったわ。とにかくあなたはふとんから起き出せばいいの。うちの亭主が運転手をつとめて、二人を駅まで送ってくれるってサ」  ご亭主は人も知るダンディな実業家。あの人の運転で駅まで行けるなんて! 私の頭には早くも運転席にすわったご亭主の後姿のほっそりとしたうなじと、耳越しに見えるモミあげの青さがよぎった。  たびだちの朝——。私がうきうきとして大胆な模様のワンピースをひるがえしつつ門前に立っていると、やがて約束の七時五分カッキリに白い車が音もなく横づけされ、美男美女のご夫婦がニッコリと現われた。まるで映画だ。私は後のシートにすわって神妙に咳払いをした。考えてみれば日本の代表的知性ともいうべきご夫婦に、いま、私は同乗させてもらっているのだ——。  と、この時、前の席でご夫婦がボソボソと話をはじめた。 「いやァねえ。アタシが払うわよォ。あなたっていつもこうなんだから。ケチねえ」  要するにご亭主が高速道路代を「俺は払わんぞォ」とあらかじめ言明されたらしい。私は思わず後の席から「アノウ、あたしは半額、分担しますけど……」と身をのり出し、かくて初対面の雰囲気はたちまちくずれて女二人、予定通り八時東京発、車中の人と相成ったのである。  ひと味ちがう美的感覚  つね日頃おつきあいのない世界だけれど、女流作家というのはやはり関心の見せどころがちがう。席を並べた私は、まずのっけから目を丸くした。ちょうど新幹線のななめ前の席に、オトッツァン風の人が陣取っており、朝からカップ入りの酒を買いこんで窓ぎわに置いた。女史はそのカップに目を見張り、 「ウワァー、きれい!」  と感に堪えかねたような声を上げるのである。カップの外側に貼りつけたラベルが、中身の酒をすかして朝日に反射している。ただそれだけの話なのに——。  やれやれ、これは美的感覚がどだいちがうわい、話はズレそうだなあ、と思いながら少々気が重くなりかけると、女史はそんな私の気持には一向におかまいなく話しはじめた。 「ねえ、あなたお料理すき? あたしは大すき。うちは亭主ともども食いしん坊だから、二人で魚河岸へ買出しに行くの。新鮮なお魚を買ってきて三枚におろす時って、最高に楽しいと思わない?」  案じたこともなく、まずは魚料理の話かと安心しつつも、私は生れてこの方、魚を三枚におろした経験が一度もないため、返事につまる。 「ねえ、あなた、講演なさる時、洋服は何色?」  えッ? そりゃその時によって違うけど……と再び私がどぎまぎしていると、 「私は白のスーツに決めてるの」  あっ、それはいい。講演会に何を着て行くか案外、気を遣うものよね。白の制服とはなるほどアイディアだわ。私がしきりに感心していると、この時、女史はハタと思いついたように、やおら原稿用紙をとり出した。そうなればこちらもゆうべのつづきの原稿の読み返しがある。かくて女二人、談笑ムードから急転直下何の前ぶれもなく個人にかえり、こんどはまるで見ず知らずの他人のように肩を並べたその姿勢のまま仕事をひろげて、それぞれの境地に没頭したのであった。お互いにこれを失礼とも身勝手とも思わず、きわめて自然にやってのけるあたり、考えてみれば、どこかズレた同士かもしれぬ。  名古屋から北陸線にのりかえ、敦賀駅につくと福井県庁の方が早速かけ寄って来て下さった。紺の背広の実直そうなおじさんはじめ、見るからに素朴な人ばかり三人いらっしゃる。すでに綿密なスケジュールが一覧表になっていて、それによると、すべり出しは敦賀駅から車で四十分ほどかかるという、明通寺《めいつうじ》である。車の窓から眺めると、敦賀市内は、さすがに港をかかえた市だけあって、どことなく活気が感じられるのであった。 「実は毎年一月十五日にここでえびす、大黒の綱引きをやるんですわ。ハァ、それぞれ面をかぶりましてネ。つまり、えびす組が勝てば『今年は大漁だ』というわけです。大黒組が勝てば『豊作だァ』ちゅうて喜ぶんですわ」  なるほど、海と陸とをかかえた市ならではの面白いアイディアである。町をあげて手に汗をにぎるのであろう。 「いえね。それがですなァ。ある年のこと文字通り手に汗をにぎるハメになりまして。つまり統一地方選のフタをあけたところ、漁業組合の後援する候補と、農協推せんの候補がカチ合ったんですわ。いや、困ったの何のって、えびすと大黒と、どっちが勝っても当りさわりがあるわけで……。結局、そのトシの綱引きは取り止めになりました。ハァ」  おしずかにどうぞ  まもなく、こんもりと緑の茂った山の麓についた。石段を上ってふと見上げると、おお、感受性のにぶい私も思わず息をのむ。くすんだ白木細工の国宝三重の塔は、大きさといい、屋根の張り具合といい、実にほどの良さをわきまえ、精巧なたたずまいを見せて緑の背景にしっとりと映えている。 「ウーン」  ご商売柄小説家女史は特に感ずるところがあるらしく、すらりとしたその背をのばし、無言のまま塔を見上げている。塔のわきの明通寺本堂には、一木造りの薬師如来が安置してあり、これは藤原時代のものらしい。住職の説明がはじまると、女史はゴソゴソとバッグをさぐり、さい銭をとり出し投げ入れた。これが参拝のマナーというものかと、私が感心しかけたその時、両手を合わせて神妙に説明に聞き入っていたはずの女史は、そっと私に耳うちしたのである。 「お供え物は、かなり実質本位なものが並んでるわネ」  あわてて台の上をみると、ラーメン、かぼちゃ、凍り豆腐……など、つまりいずれも保存食で、仏様の召し上ったあと、しもじもの腹におさめるのに都合のいいものばかりではないか。私も神妙に手を合わせ、チラと女史に目くばせを送って応答しつつ頭を垂れたのであった。  正式にいうと、この寺は棡山《ゆずりざん》明通寺というのだそうである。 「この寺をかこむ山には棡木《ゆずりぎ》が沢山生えとるのです。何故あの木を棡木というのかご存知ですか。つまりですな、新しい葉が育ってくると、古い葉はしずかに下に垂れてくるからです。ホレ、あそこに見えますでしょ。古い葉がいかにも道を|ゆず《ヽヽ》ってる感じですな。あれを称して�ゆずり葉�と、こうなったわけですな」  住職の説明にすっかり打たれた私が、うるわしい由来だわ、さし当り我々の年代はあのあたりかしらねえ、と、やや垂れ気味の葉を指したら、女史は、 「ウーン」  と再び感慨深げにうなった。しかし、それにしても、深山幽谷という文字が、敦賀からたった四十分のこの場所に、ちゃんと残っているとは。境内には自然そのままの岩の多い渓流が走り、水音が小気味よい。麓の車にもどり別れを告げると、住職はうやうやしく頭を下げていった。 「ほんに、ようこそお立ち寄り下さいました。では、いつまでもおしずかにどうぞ」  おしずかにどうぞだって!! いい言葉ねえ。期せずして女二人、パッと目を輝かせ、ウンこれはいい表現だと、思わぬ獲物に内心|凱歌《がいか》をあげつつ、明通寺をあとにしたのであった。  名所の句碑はヤボです  明通寺から神宮寺、小浜城跡と、さすがに若狭地方は戦国の名残りを留め、神社仏閣が多い。 「そうなんです。何せ明通寺の界隈に、寺だけでも百三十ばかりあります。オヤ、こんなところに、と思うようなとこ、つまりちょっと奥まった場所には必ずといっていいほど寺があるんです。順ぐりに一つ一つ味わってまわったら、憂き世のことなんぞどうでもいいちゅう気になれるんとちがいますか」  素朴なお役人さんの言葉にうなずきながら、着々とスケジュールをコナしていくと、やがて福井県ご自慢のエンゼルラインの峠についた。ああ、若狭湾は一望の下に見渡せる。けがれを知らぬ青年の息吹きの如き風が下から吹きあげてくるのを受けて、中年女二人はむせるような気配を感じつつ、きれい、ステキを連発すると、お役人さんはいかにも得意気にかたわらの岩を指していった。 「ついさきごろ建てたばかりの句碑です。字は地元の高校のお習字の先生が書きましてネ、句は万葉のよみ人知らずのものです。ハイ」  この説明が終るのと、女史が、まあ、と声をあげたのと、殆ど同時であった。 「まあ、こんなとこに句碑をお建てになったんですかァ! 私、名所に句碑を建てるという考え方に絶対反対ですの。こんなすばらしい眺めがあるところに、これ以上何が要るでしょう。ねえ、句碑というのはむしろ蛇足だとお思いになりません? ヤボだとお思いになりません?」  私はドキンとして役人さんを横目で見ながら、「あなたッ! おしずかにどうぞ」とささやきつつ、女史の袖をひっぱったが一向に効き目はない。お役人さんご一同は、この句碑のどこが気に入らんのか、とばかりキョトンとしている。  女史もお役人の純真な表情を見て、さすがに気がひるんだのか、 「しかし、こういうとこには、えてして地元の顔役の方が一筆寄せるなんていう例も多いものだけど、よみ人知らずの句が書いてあるのは救いですわ。でも句碑はこれっきりになさってネ」  とホコをおさめたのであった。  まさに正論である。全く異議なしと心で叫びつつも、私はいつしかびっしょり汗をかいていた。精密機械を組み立てるように丹念な文章を書くこの人に、こんな腕白な面があるとはねえ……。  エンゼルラインを下って若狭湾ぞいの虹岳島《こがしま》温泉についたのが五時。銀座のすき焼き屋さんの建てた宿だそうで、そういえば銀座でパンフレットを見かけたことがある。窓の外は一面、波一つない静かな入江。 「ここらはウメボシの名産地で……」  と、お茶うけに出して下さった梅の実の砂糖煮は、第一日目の疲れなおしにいかにも効きそうな、とろりと嫌味のない甘さであった。  秋風やさわらの刺身督促状  さて、翌朝、つまり第二日目のすべり出しは敦賀半島東海岸の常宮神社である。小高い所に海を見下ろすようにして古い社があり、麓には海上に向かって張り出すように神楽殿がしつらえてある。風雨にさらされたその神楽殿で、いまは農家のおじさんが二人ばかり大の字になって昼寝をしているけれど、その昔、巫女《みこ》たちが紅白の装束で紺碧の海をバックに舞った姿はさぞや雄大であったことだろう。 「このお宮は昔から安産のお守りとして土地の人々から慕われておりまして……」  いいかけてからお役人さんはふと声を止めた。女二人、もはや安産とは、あんまり関係ないのである。 「ではこちらへ。当社には国宝、新羅《しらぎ》の鐘がございまして、これは今を去る四百年前に秀吉が朝鮮、慶州からとりよせたものといわれております」  白装束の神主さんが馴れた口調でガイドしながら、鐘の安置してある蔵へと案内して下さった。さすがに女史はこの種の造詣が深いようで、国宝収蔵庫の階段をかけ上る足どりも軽い。神主さんが鐘に向かってうやうやしく一礼し、では、と鳴らしにかかったその時、女史は待って! と突然声をかけた。 「余韻《よいん》をしらべてみたいの」  こういうと女史はやおら腕まくりをして時計をニラんだのである。ハイ、では行きます。ゴ〜〜ン。女史は息を止め耳をそば立てている。  ゴ〜〜ンの響きは低く、たしかに、三十秒くらいつづいたろうか。 「ウーン」  女史は音のキレたのをたしかめてから残念そうにうなった。まてよ、この人のことだから、例の腕白調で「この鐘は標準より響きが悪い」なんていいはしないかと、私は思わず「おしずかに」を口走りかけたが、それより先に神主さんがいった。 「貴重な鐘ですからこの通り収蔵庫におさめてありますが、鐘楼に吊るせばもっと、もっと響くはずです」  さて、足をのばせば色が浜である。敦賀半島の先端に近い。芭蕉が奥の細道の中でマスホ貝をみつけて愛したのがこの浜だそうで、マスホ貝というのは色も形も赤ん坊の小指の爪みたいなかわいい貝である。目をこらすと、今も砂の間から小さな殻がチョロッと出てくる。芭蕉を慕って、いまだにここを訪れる俳人もあとを絶たないらしい。   秋風やさわらの刺身色が浜  虚子  この句が紹介されるや、たちまち女史は躍動感をみなぎらせて、 「ねえ、最後の五文字さえ変えれば、何にだって応用できるじゃない? どう、さし当ってこんなのは。   秋風やさわらの刺身督促状」  ああ、そういえば、また都民税の納税時期か——。私はこの替え句でたちまち現実にもどり、しばし、しんみりと沈み込んだのであった。  引き出物はカマボコがいいわ 「さんごや、というのをご存知ですか?」  だし抜けにお役人さんがいった。珊瑚でも売ってるところですか、と聞き返すと「産小屋」だという。つまりその昔、妊娠中の女はケガレているからといって、約一カ月、山の中の掘立小屋へ押し込め、女は月みちて産み落とすまで独居したのち、再び家族労働者として家に戻るというのである。ハネ返りウーマン・リブの人々に聞かせたら、女性差別の哀話として、泣きくずれんばかりの話だけれど、 「実際には、早くいえば産前産後の休暇だったんでしょうなァ。昔のことだから女だけじゃなく、男もアゴの出るほど働いたわけです。女が産小屋に入るのは、いわば別荘に保養に行くようなもので、男はむしろ、内心女を羨しがってたんじゃないかと思うんですがネ」  男は内心女を羨しがって……というところで何故かお役人さんはひときわ声に力をこめた。  で、その産小屋だけれど、起源は古くて分らないそうである。 「ボク、産小屋で生れたんスョ」  目の丸い、二十七、八歳の案内係の青年がいったところから察すると、どうやら終戦前後までは存在していたらしい。やがて小高い草原の中に、白っぽい家畜小屋のようなものが見えた。近づくとまさに「小屋」である。ガラガラと木の戸をあけると何たることだ。白砂を敷きつめたガランとした部屋で、別荘とはとんでもない。|むしろ《ヽヽヽ》一枚すら置いてないのである。へえ、ここがねえ、と何気なく天井を見上げた私はギョッと息をのんだ。天井から太い綱が一本、不気味にブラ下っているのである。 「つまり、あの綱をにぎりしめて産婦がひとりでキバったわけですな」  部屋のすみの土間に、少しくぼみがあり、ここで煮炊《にた》きをしたらしい。すさまじいばかりの出産現場であった。くどいようだけど、あなた、ほんとにこういうとこで生まれたの? とあらためてしげしげと目の丸い青年を見上げると、彼は、すっきりと健康そうな体をゆすって、 「ヘッヘ、覚えちゃいませんけどたしかだそうです」  と罪のない笑い声を立てるのであった。 「さあ、お次は水産加工場へ参りましょう」  お役人さんは勢い込んでいったけれど、加工場というのは早い話がカマボコ屋さんである。カマボコの蒸し加減をしらべるのに昔は松葉を刺したのだそうだ。オツなやり方ねえと女二人はニッコリしたが、もちろん今は万事オートメである。�水産加工場�の看板に「油宇」とある。先代の油屋宇兵衛が転業してはじめたそうで、略してアブウと読む。 「いいですか、カマボコの見分け方は、こうやって……」  ご主人が板から外したカマボコをぐいと折り曲げ、パッと手を離すと、ゴム仕掛けみたいにカマボコはハネて元通りの直線になった。この弾力がご自慢らしい。 「ここらじゃ、結婚式の引き出物はたいていこれですわ」  示されたサンプルをみると、なるほど紅白のつるかめやら、松竹梅やらが、カマボコで見事につくってある。止せばいいのに女史は、ここで声をはずませていったのである。 「あなたァ! もし結婚なさるんだったら引き出物は断然これがいいわョッ!!」  いまや、おしずかにと止める気力もなく私は彼女をニラみつけた。ほんとにそうなればカマボコだって、さわらの刺身だって、金に糸目をつけずに振舞うわ。ああ、だけどそんな日はいつくるのやら。  さて、ニラんだついでに何気なく工場のわきの小部屋をみると、珍しい茶そばが用意されている。ちょうどおなかも程よく空きはじめた頃で、とびつくように箸をとると、茶そばならぬ、それはうすいグリーンの糸状のカマボコであった。カマボコそうめんというのだそうだ。つけ汁にすそをちょっと浸してスルスルと吸い込むと、あっさりとしてて、たちまち満腹になるのがうれしい。おなかが一ぱいになると、女史もさっきの憎まれ口はどこへやら、目元が柔らいでいる。  あたかもそのスキをねらうかの如く、この時、お役人さんが控え目に、しかしはっきりといったのである。 「アノウ、つまりですな、福井は思いがけないところに国宝が残っていたり、古人の足跡があったり、そしてまた、一方では新鮮な海の幸があり、しかも山々には近代工学を駆使した道路が張りめぐらされ、つまり、そのゥ……」  ワカリマシタ。さんざんお世話になっておいて、平然とカマボコそうめんをかき込んでいる場合じゃないわよねえ。  女二人はあわてて箸を置き、福井礼讃の弁にとりかかるべく、ほおばったそうめんを一気にゴクンとのみ込んだのであった。   姑の代理で箱根家族旅行  お正月はハイミス魔の季節  ああ、また正月か——。ジングルベルの音楽が町に流れると、毎年のことながら、私は反射的に気がふさぐ。日本中が家内安全ムード一色になる年末年始の一週間が、われらハイミスにとって魔の季節なのである。  どういうわけか、昔から元旦というとやけに天気がいい。これがまずシャクの種だ。たまには大晦日、紅白歌合戦が始まった途端に日本中が停電になり、暗闇の中で一億こぞってトランジスタラジオを頼りに台風の進路を気遣う、などというトシはないものか。元旦のテレビはといえば、誰も彼もここをせんどと着飾って出演し、止せばいいのに、 「さ、今朝はお雑煮をいくつ食べました?」  などと話しかける。いくつ食べようと、食べまいとこっちの勝手ではないか。そっちは無邪気でいってるかも知れないけど、こっちはグサッと胸をえぐられる思いだ。女、四十代の一人ぐらしは年越しそばも無ければ、お雑煮一つもありはしない。正月というのは家族のある人のためのものであり、やたらに正月をさわぎ立てるのは、一人ものへの差別《ヽヽ》ではないか。  あれはたしか昨年のことであった。何も三が日を家の中で一人シケ込んでることはないと一念発起し、「お正月をホテルで! 盛沢山のプログラムをご用意」というダイレクトメールにつられホテル住いを計画した。早速メールを頼りに電話を入れたら、えらく調子のいいフロントマン氏が、 「ハイ、まだ少々お部屋の余裕がございます。お待ちしとりますでございます」  という。ではシングル一室お願いしますと、いつになくやわらいだ声で申し込んだら、 「えッ お一人サマ!?」  フロントマンが絶句した。こちらもアッと気づいてあわててガチャンと電話を切ったけれど、考えてみればお正月早々一人で泊る人もあるまい。盛沢山のプログラムはすべてご家族相手なのであった。私はその足で悄然《しようぜん》とスーパーへ行き、買物袋一ぱいにカンヅメを求めて、三が日の食糧を買いあさってきたのだが、ああ、連休に入ってハタと気づいたら我が家にカン切りがない。ついに三日間、カンヅメを前にして手も足も出ずじまいであった——。ああ、嫌だ、正月は嫌だ。  天ぷらや一家からの招待  さて、その嫌な正月がまたやってくる。一体身のおきどころを如何にすべきか、と私が唇を噛みしめていると、突然天ぷらやの若旦那から電話が入った。 「ねえ、正月、もし暇だったら箱根へ一泊旅行に行かないか?」  三十歳。五分刈りの頭はちょっと子供っぽいけど、商店街の秋祭りにハッピ姿で御輿をかついだ姿が実にいなせで私は見直したものだ。しかし——ここ数年私は夕飯を殆どこの店の片隅ですませており、天ぷらや一家とは家族同様のつき合いなのに、正月早々箱根に一泊をさそうなんて——。一瞬ドキッとしつつもどうも解せない部分がある。 「往復とも俺が運転するよ。ウン車を新車に替えたとこだ。実はおふくろさんも一緒に予定してたんだけど、風邪ひいて行けなくなっちまったんだ。部屋は十二畳、いいダロ、雑魚寝で」  そういうことか。私は軽い失望と共に即座に胸算用をした。天ぷらや夫妻と、子供二人と、バアちゃんと計五人で恐らく前金を払い込んだにちがいない。正月値段は割高と聞いている。サービス料込みで一泊ざっと二万円か。バアちゃんの分をフイにするのはいまいましい。ということになるとつまり私はバアちゃんの代用か。  ここまで読んだ上で私が行く気になったのは、昨年の苦い思い出が頭をかすめたからであった。日本中が浮き浮きしてるというのにカンヅメをにらんでじっと手をこまねいていたあの日の思いを忘れまじ。 「だけど、あんたたち——」  ここで私は電話を持ち直した。旦那は前述の通り三十歳のパリパリである。若奥さんは吉永小百合をちょっとキツくしたような小股の切れ上った感じで二十七歳。四歳と二歳の男の子があるのに、どうしても女の子がほしいからと挑戦し、今六カ月の身重である。アップに結い上げてまめまめしく店で立ち働いているけれど、おなかのふくらみが少し目立ってきて、こめかみのあたりにジットリ汗をにじませているところなど、女の私が見てもムンムンすることがある。 「雑魚寝はいいけど、あんたたち——」  私は繰り返して同じことをいって息を止めた。 「ン? アッ嫌だなあ。ヤラないよォ。俺たち結婚して五年目だよ。そういうもんじゃないって。大丈夫、大丈夫。誓約書書いてもいいよ」  何も誓約してもらうほどのことではないけれど、そこのとこ、本当にいいの、とくどいほど念を押してから私は電話を切り、ニッコリと笑ったのであった。ああ、今年はこれで助かった——。早く来い来い、お正月。  浮き浮きしながらも、わが胸には冷やかな計算もある。長年の一人ぐらしで、家族旅行の雰囲気すら知らぬ私にとって、その真ん中にドボンと浸るなんて、めったにない取材のチャンスではないか。心の奥でチラと職業意識がうごめいたのもたしかであった。  男が結ぶという話  さて、出発は正月二日の朝という。何時頃? ときいたら、 「一応十一時ごろにしときましょう。だけど子供が急にウンコなんて言い出すとそこで三十分ぐらい狂っちゃうの」  と若奥さんから連絡が入り、結局クリーム色の天ぷら号が我が家に横づけされたのは、十二時近くであった。助手席は私のために空けてある。後のシートには切れ長の目をパチッと輝かせた若奥さんと、いつになく小ざっぱりと毛糸のお揃いのセーターを着た男の子たちが、汚れた縫いぐるみのスヌーピーを一匹ずつ抱いてすわっていた。 「出パーツ 進行ッ」  紺の新調のブレザーを着た若旦那は、どことなく子役を売り込み中のプロダクションの親分風である。  車は一体どこを走っているのだろうか。道路は意外に空いていて、ほどなく海が見えてきた。  後のシートを振り返ると、窓の外を眺めている若奥さんの横顔が憎々しいほど美しい。子供は調子っ外れながら「およげ! たいやきくん」の歌を口ずさみ、ああこれが家族旅行というものかと、私は感慨にひたった。本来ならバアさんがすわるべきそのシートで、である。 「俺、こんどこそは何が何でも女の子をと思ってンだ」  若旦那が浮かれ気味にいった。 「名前ももう決ってる。結喜《ゆうき》って。いいだろう」  なるほど、と私はうなずいた。若旦那が喜太郎《きたろう》、長男が正喜《まさき》、次男が義喜《よしき》、そして女の子なら結喜か。 「でネ。待望の女の子が生まれたら、打ち止めにするため、俺、結んじゃおうと思ってる」  バカねえ、あれは女の方が結ぶんでしょ、と私が思わず口をはさんだら、若奥さんが意外にものり出して、 「いいえ。男もカットしたあとやっぱり結ぶらしいわよ。テレビのワイドショーでやってたからパパと二人で見たの。あれは先月末の定休日だったかしら」  定休日を若き経営者夫妻はそんな風にすごすのか。 「ウン。とにかく女の子なら結喜。すなわち結ぶ喜びサ。何ったって、女に負担かけるより男が結んだ方がいいもの」  二歳の男の子がわけもわからずそばで、オトコはむちゅぶ、と歌うように繰り返す。やれやれ、家族旅行とはこういうものか。  富士山がくっきりと見え、子供たちがみかんの皮やビスケットの空き箱を車の中に散らかしてつかみ合いの喧嘩をはじめた頃には、いつしか私も親戚代表の如き心境になりすまして「コレッ、静かにしないと窓から放り出しちまうよ」などと怒鳴るうち、車は箱根T園にと着いたのであった。  家族旅行ってこういうもの  車が止ると宿の番頭がころがるように飛び出してきた。かつて天ぷらやの従業員十名を引きつれてここで親睦会をやって以来、顔なじみなのだそうだ。車のトランクをあけると、これは一体何事か。ヨーロッパ旅行に行くのではないかと見まごう大型トランクが二個、ほかに何やら撮影機具らしき黒のボックスが二つある。 「家庭用ビデオなんだ。芦ノ湖のほとりで子供に凧《たこ》上げをさせて、そこを撮してやろうと思ってね」  なるほどこれが時価数十万といわれるビデオ撮影機なのか。部屋は川に面して、まあまあである。床の間には小さいながらお供え餅もおいてある。下の男の子がすかさず、あっマンジューと飛びついて若旦那に叱られた。十二畳の部屋から一段下って幅広の縁側があり冷蔵庫がおいてある。若旦那と若奥さんはそろって縁側に下りると、旦那の方がサッと椅子を片隅に寄せてトランクの中からおもちゃを取り出し、「サー、ここが子供部屋だぞォ」と子供を呼び寄せ、奥さんは冷蔵庫の中のビールやジュースをあざやかな手つきで取り出して、持ち込みのビールととり代えた。 「だってさ、ホラここにビールが一本三百七十円て書いてあるだろ。うちの店より四十円も高いよ。俺たち酒なんか原価で買えるもん。ともかく冷蔵庫の品に手をつけちゃ損だ」  若奥さんはまめまめしく冷蔵庫の整理をすますと、手もとの紙袋を引き寄せた。紙袋の中は用意万端整えて、切り傷と火傷の塗り薬やら解熱剤やら下痢止めやら……。夜中におなかが空いた時のためにカップめんまで取りそろえてもって来ている。袋の底の方から、店で集めたらしい割箸の空き袋を綴って作ったノートとマジックペンが取り出されると子供たちはかけ寄ってきた。 「ワーイ、お化け書こう」  ——家族旅行とはつまりこういうものなのか。四十余年の人生における未知の世界に、ヒョンなことからまぎれ込んだ私はただ感嘆するのみ。と、この時、若旦那が非常口のわきにかけてあった懐中電灯を何気なく手にした。上の子がすかさずそれを寄越せという。父三十歳、子供四歳。二人はたちまち大喧嘩となった。 「パパが取ったのに寄越せとは何だッ」 「返せェ、ボクんだあ」  大体お前はこのごろ生意気だゾ。そのスヌーピーだってみんなパパが買ってやったもんなのに。チガわい、ママだい、などといい合ううち、ついに若旦那はいってはナラヌことを口にしたのである。 「ウルセェ。もとはといえばお前だってパパの一しずくなんだッ」  ワーン、しずくじゃない、とか何とか四歳が泣きながら母の懐に抱きついてケリがついた時には、若き父親のこめかみにはカン筋が立っている。やれ、やれ、早婚も考えものだ。  若奥さんの提案で夕飯まで間があるから凧上げでもしたらということになりトランクから流行のビニール凧が取り出された。じゃ私は留守の間に一眠りしとくわ、と押入れから毛布を出しにかかると、若旦那は怪冴《けげん》な表情で、 「えッ 行かないの? いいのかい、それで」 という。   ※[#歌記号]心配しないで 一人っきりは    自慢じゃないけど 馴れているのョ  と歌の文句に託して寝ころがりながら、私はそれにしても「いいのかい?」とは妙なことを聞くものだな、と思った。  深夜に見る成人向けビデオ  夕方六時、五十がらみのガラガラ声のお姐《ねえ》さんがお膳を運んできて夕飯である。やけに愛想がいいと思ったら、若奥さんがチップをはずんだらしい。冷蔵庫で節約したぶんをチップにまわすのは公徳というものかも知れぬ。鯛の塩焼き、おせちの盛り合わせ、茶碗むしやら酢のものやら、所せましとばかり御馳走が並ぶと、若旦那は冷やかにこれを眺めつついった。 「市場は暮れの二十九日で終りだ。正月は新鮮なものは食えん」  とはいうものの、三十歳と二十七歳の夫婦はさすがにお盛んである。一気に缶ビールを六本ばかり空けると、うまかろうがまずかろうが、片っぱしから平げていく。子供たちが手づかみで鯛の身をむしり、一家四人がものもいわずに口をうごかすさまに見とれていると、何故か数年前マレーシアのジャングルに取材したピグミー族一家が思い出される。  食後、順番に座敷のわきの風呂から上ると、さてこのあとの夜長をどうすごしたものか。  何しろ商売柄、夜が遅いので子供たちは一向に眠る気配すら見えず、持参のプラモデルを片手に十二畳の座敷をかけずりまわっている。若奥さんは長々と風呂に入っていると思ったら、腹帯を巻き直してきたとかで、ピンクのネルのネグリジェの下半分がプクンとふくらんで、それが妙になまめかしい。アップの髪をふりほどいたせいか、いつもはきりりとした表情の人が幼く甘え顔に見えるのも何だか心にひっかかる。蒲団を四つ並べて、私は一番隅だけど、本当に今夜は大丈夫なのかしら、とチラと若旦那を見ると、彼は、この喧噪《けんそう》の中で、黙々と本を読んでいるではないか。 「青い眼の商魂・自分に賭けた人々」(オーレン・ユーリス著 堀健司郎訳)。商売上手な外人さんの出世物語らしい。覗き込むと「新手セールスで大発展」「食品アイディアで億万長者」などという目次が目立った。  天ぷらやは二代目である。そもそも学業があまり好きではなかったそうで、某私大を自発的に中退して店を継いだから、自分の選んだ人生に文句のあろうはずは無いけれど、やっぱり男三十歳、野望があるにちがいない。正月二日から偉人《ヽヽ》伝を読むとは立派なものではないか、と私がひそかに見上げたその時、若旦那はヒョイと腕時計を見た。 「オッ、もういい時間だぞ」  テレビのわきに「特別チャンネル専用」と記したコインボックスがあり、「夜九時より午前一時まで、一回三百円」とある。これが音に聞く成人向けビデオか、と私は思わずテレビの前ににじり寄った。若奥さんはそそくさと三百円を入れたあと、リンゴの皮をむいたり、番茶をすすめたりしてくれる。おせんにキャラメルつきの場末の劇場ムードというところか。子供たちはいつしかふとんの上に腹這いになって頬杖つきながら画面を見つめている。「白雪姫」か「ムーミン」でも出てくると思っているのだろうか。ガチャガチャとフィルム準備の音がして「夕映えの痴情」と大きくタイトルが写し出されたあと、「この映画は映倫の審査を……」経たもの云々の字幕が出た。 「チェッ、映倫カットずみかァ」  若旦那ががっかりしたようにこういうと、二人の子供たちも一人前にしたり顔でチェッといい、それを機に一人ずつ蒲団にもぐった。商売柄添い寝の習慣などつけないらしく、部屋中をかけずりまわっていたわりには二人とも大人しくいつしか寝息を立てた。テレビは放送をつづけている。未亡人の兄嫁に弟がせまっている場面のようだが、深夜のポルノ番組を見馴れた目にはさして新鮮味も感じられない。大人三人は気乗りもせず、特別チャンネルをつけっ放しにしたまま思い思いにふとんにもぐった。天ぷらや一族は大人と子供が一人おきに寝ているから、私の隣には四歳の子がころがっている。気のせいか脂っ気の満ち足りたつやのいい寝顔だ。 「なあお前、今年の夏はしばらく店に立たんでもいいぞォ」  若旦那は横をむいて若奥さんにしんみり話しかけている。出産予定は四月末だそうだ。産前産後六週間の休みをとったとしても夏には職場に戻るべきなのだけれど、 「海の家一軒借りてやっからな。子供三人連れてお前は一カ月ばかり遊べ。俺は定休日に通う。なあに一カ月、二十万も払い込めばいいとこが借りられるらしいぞ。サラリーマンの奴らはボーナスもらって親戚の家へいったり実家へいったり、チョコマカするだけだろ。俺はオーナーだ。せめて夏にはお前たちを避暑にいかせる習慣くらいはつけてやるぜ」  若旦那はここで何と思ってか私に向きなおり、 「去年は俺、忙しくて行けなかったもんで、海水浴はこいつに任せきりにしちまったんだけど、子供がまっ黒に日焼けして帰ってきたときゃ、嬉しかったなァ」  いつしかバアさんと私を混同しているのだろうか。 「だけど、パパ……」  若奥さんはしっかり者らしく、卸値が上ってるから今年はもう去年のように儲けを期待できないとここで意見をのべた。若旦那は天井むいて腕を振りまわしながら、なあに、日本国民はカネが無いわけじゃない。見ろ、貯蓄高だって年々ふえてるんだ。大きなものは心配で買えないけど、せめて天ぷら位ハリ込もうというのが庶民のいつわらざる心なんだから、世情不安がつづくかぎり絶対に天ぷらやは漁夫の利を占めるんだと力説し、「したがって海の家は安心してアテにしてろ」と結論づけたのであった。「日本経済の予測と天ぷらやの将来」を聞きつつ私は次第にとろとろと目を閉じた。  と、ここで再び若旦那は、 「もう寝ちゃう? いいのかい」  というのである。またもや妙なことを聞くもんだなあと思いつつも、私は返事もうつろに前後不覚となった。  銭洗弁財天でお金を洗う  目がさめると障子がぼうっと明るい。厚いカーテンが引いてあるのにこんなに明るいということはつまり……私は起き上って枕もとの時計を見た。九時をとっくにまわっている。部屋の中は物音一つしない。スースーと柔かい寝息の四重奏のみ。夜型の私もかぶとを脱ぐほど天ぷらや一族の時間帯は完全に標準よりズレているのであった。やがてそのぼうっと明るい中で二歳の子がキョトンと目をあけた。つづいて四歳がむっくりと身を起こし、昼に近い朝があけると帰路のスケジュールは鎌倉、銭洗弁財天経由である。  しっかり者の若奥さんはトランクの中からセーターとキチンとアイロンのかかったズボンを二組とり出し、子供たちを小ざっぱり着かえさせたあと、スヌーピーに紐をつけて下の子の首に吊るした。若旦那はビデオ撮影機を肩にかけ、音声とカメラのテストである。 「アーアー 本日は晴天なり。不況の一九七五年は暮れ、ささやかな希望を託しつつ一九七六年が明けました。只今から弁財天にお参りにいきます。アーアーこちらS・M・Hテレビ」  さて、銭洗弁財天というのは小高い山の上にある。若奥さんが肩で息をしながら山道を登ると、四歳と二歳は後になったり先になったりしながらまつわりつく。若旦那が少し離れてこれを懸命に写す。同時録音の装置がついているらしく、 「天気晴朗、子供たちはよく歩きます。まもなく弁財天の境内に入ります」  声高らかにナレーションを入れる若旦那を見ながら、参詣者はどこのテレビ? ン、UHFじゃないの、などとささやいている。  社務所に行ってまず若旦那は昨年の繁昌のお礼を申しのべ、今年もよろしくと大枚二千円でミニチュアの鳥居を奉納した。そしてそのあと古いお札《ふだ》を返し、 「さて、今年の祈願はまず安産だな。それから商売繁昌と家内安全、オイほかに何か祈っとくことあるかァ」  真新しい今年のぶんのお札に祈願を書き入れてもらってこれが千円。かくなる上は、と私もこっそり片隅で金銀の水引のついた新しいお札に「身体健全、縁結」と書き入れてもらい、千円を添えて受け取ったのであった。  ザルの中に線香三束とローソク三本を入れてこれが五十円である。線香を捧げ、ローソクを立てたあと、空のザルにお金を入れて弁天さまの水で洗うとザクザク儲かるといういわれがあるとかで、迷信と知りつついつしか私は口もとを引きしめて財布の中の小銭をハタいてザルにあけた。若旦那は皮の札入れをポンとザルに放り込み、上からチョロリと水をかけている。 「パパ、あたしのも」  と若奥さんがスカートのポケットから鹿の子の金ちゃくをとり出す。見まわせば老いも若きも誰一人せせら笑う者なく、おとなしく順番を待って次々に銭を洗うのであった。  さて、鎌倉をあとにして一路東京へ。道は意外に空いており流行のアメリカ凧が競い合っている。  いいネタ仕込んだかい 「さあ、明日は河岸《かし》の初荷だぞォ」  若旦那が気合いをこめて言い放つ。家族旅行がすんだ翌朝から河岸行きじゃあなたも大変ねえ、と助手席から同情しつつ、「だけどサラリーマンを羨しいなんてことはつゆほども思わないでしょ」と話しかけたら、若旦那は一呼吸おいてから驚くほど神妙に答えた。 「サラリーマンはいいよなァ。ヒラの上が課長、課長の上が部長、とスジミチが決ってて、めったなことじゃさからわんことになってるんだろ。こっちゃ、板前使ってかなくちゃならないもんなァ。板さんてのは金も肩書きもモノいわん世界なんだよ。気分をピターッとつかんで人を使ってくってのは全く神経が参るぜ。サラリーマンの奴らにこの苦労が分るかッてんだ。満員電車が何でェ。俺、ホント、見かけより老けちまってるよ」  後の席で女房子供はいつしか寝入ってしまったようだ。若旦那はこれを背負い込んで黙々とハンドルをにぎっている。と、その静かさの中で若旦那はまじめな表情をくずさずにいった。 「で、今度の旅行、いいのかい? こんなことで——」  妙なこと聞くわねえ。あなた時々いいのかい? ってひっかかるような念押しするけど、一体何なのよォ、とついに私はたまりかねて聞き返した。 「いいネタ仕込んだかって聞いてンだよ。俺分ってるんだ。天ぷらやだって評論家だってお互い商売に変りないや。モトがとれんようじゃ気の毒しちゃうもん、俺、結構気ィ使ってたんだぜ。いいのかい? こんなことでネタは充分拾えたのかい? って時々念押ししてたわけさ。ここんとこがサラリーマンの奴らと一本立ちの俺と、一味ちがうとこだ。ま、頑張ってくれや」  よく見るとハンドルを握る若旦那の太い指にギラギラとごつい指輪が輝いている。五分刈りの横顔は健康優良児の菅原文太風。後のシートで切れ長の目を一直線に閉じた若奥さんは頼りきって安眠し、二人の子供はスヌーピーをかかえて寝返りを打っている。 「おかげさまでネタは充分。いい正月だったわョ」  私は近来稀なほどのすなおな口調で答えると、銭洗弁財天のお札をかかえなおした。 [#地付き]〈了〉 単行本  昭和五十一年四月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年九月二十五日刊