[#表紙(表紙.jpg)] 病めるときも 三浦綾子 目 次  井 戸  足  羽 音  奈落の声  どす黝《ぐろ》き流れの中より  病めるときも [#改ページ]   井 戸  結婚が五月と決ったある冬の午後、真樹子は思いたって名寄《なよろ》の友人を訪ねることにした。十四年もの長い間、ただギブスベッドにねていただけの真樹子が、人の妻になるということ自体、真樹子にも納得いかないことであった。学校時代の友人を訪ねてみたところで、無論納得のいく問題ではない。だが旭川《あさひかわ》を離れて自分自身をたしかめたい思いが真樹子にはあった。  わがままな体の弱い年上の女を、一生の伴侶《はんりよ》と決めた浩二がかわいそうで、真樹子は凍って外の見えない汽車の窓に、爪《つめ》でバカバカと書いていた。指のぬくみで僅《わず》かにとけたバカの字の間から、樹氷の林が流れて過ぎた。  汽車があえぎあえぎ、塩狩峠《しおかりとうげ》にさしかかった頃、真樹子はトイレに立った。席にもどろうとした真樹子は、思いがけなく中村加代の姿をみいだして、おどろいて立ちどまった。 「まあ、加代ちゃん」  と、なつかしさに人がふり返るほどの大声をあげた真樹子に、加代は昔と変りない嬉《うれ》しいような、淋《さび》しいような微笑をみせて、 「しばらく」  と抑揚のない声でいった。二十年ぶりで会ったというのに、加代は二、三日ぶりで会ったような感激のない表情をしている。 「お子さん?」  連れらしい中学二、三年ぐらいの男の子が、加代の隣に坐っていた。 「おとなりの息子さんなの」  加代はどこか疲れたような顔をしていた。顔にも言葉にも表情のない加代は、二十年前と同じだと真樹子は微笑した。 「変らないのねえ」  二十年前、真樹子も加代も夕張《ゆうばり》に近い小さな炭礦《たんこう》のある町で、小学校の教師をしていた。その上、加代と真樹子は二年ほど一つ屋根の下で自炊生活をしていたのである。  真樹子が赴任した半月ほどあとに、加代がやってきた。真樹子たち五人は旭川の学校を出ていたが、加代一人だけ小樽《おたる》の女学校を出ていた。その頃は、女学校を出て検定試験に受かった者は、正教員の免許状をもらうことができた。真樹子と加代はその頃十七歳に満たない教師であった。  加代がはじめて来た時のことを、真樹子は忘れることができない。日曜日の午前中だった。真樹子たちが部屋の掃除をしていると、ふすまがスッと開いた。真樹子たちが驚くと、 「中村加代です。お世話になります」  と抑揚のない声で言った。  荷物はあとから届くといって、皆の掃除をするのを、だまって眺めていたが、やがて上衣のポケットからハーモニカを出すと、ごろりと仰向きにねころんで足を組み、ハーモニカを吹きはじめた。  真樹子たちは呆気《あつけ》にとられて、加代の形のよい足をながめていた。曲はその頃すたれかけた〈緑の地平線〉で、加代のハーモニカはなかなか上手だった。惚《ほ》れっぽい真樹子は、この加代の人を喰《く》ったような態度が気に入った。面白そうな女だ、当分退屈しないだろうと、真樹子は内心喜んだ。  加代は喜怒哀楽をあらわさない、いつも眠ったような目をして居り、言葉も非常に早口で抑揚のない話し方だったのに、どういうわけか、ふしぎに人の心を捉《とら》えて行った。  加代の両親は外国にいて、加代はずっと寄宿生活をしていたこと、二人の兄は結核で死に、一人の姉は近所の妻ある男と心中して、加代は日本に一人ぽっちなのだと言った。 「その男の人と姉さんは恋愛だったと皆がいうの。だけど本当はね、その日はじめて口をきいたのよ。はじめて話をしたその日に心中するなんて、わかる? その気持」  加代は早口でそういうと、真樹子たちを見まわした。  そんな時加代は、嬉しいような淋しいような妙に心にしみる微笑をした。そしてあとから加代は真樹子にいった。 「真樹ちゃん。あんた、わたしの話を本当だと思ってきいていたの」 「当り前よ。どうして?」 「真樹ちゃん、あんたって案外お人よしね。本当はね、小樽に両親とおじいさん、おばあさんがいて、きょうだいは一ダースもいるのよ。大家族なのよ。赤ん坊は皆にふまれそうになるんで、物すごく敏捷《びんしよう》に這《は》いまわってるわ。みせてあげたい位壮観よ」  真樹子が呆《あき》れて加代の顔をみると、 「何だか気に入らないみたいね。じゃこれはいかが? わたしの父は妾《めかけ》が三人もいて、わたしはその妾の子供なの。わたしの母は芸者だったなんていう方がいい?」  加代はそういって、例の淋しいような、嬉しいような微笑を見せた。  真樹子はムキになって、夏休みで帰省中の小樽の加代の家を訪ねあてた。加代の家は、小樽の街のはずれに近い若竹町にあった。若竹町の坂を登りつめてふり返ると小樽の港が紺色に見えた。古びた二階家で、家の横に苔《こけ》むした井戸がある。案内を乞うと、加代によく似た五十歳ぐらいの男が顔を出した。 「加代さんのおとうさんですか」  と挨拶《あいさつ》すると男は、 「加代の伯父ですわ。加代は親なし子でね」  とにべもなく言った。  加代が出てきて、 「ばかねえ、真樹ちゃんったら。わざわざ訪ねてくることないじゃない」  と笑った。旭川から、わざわざ訪ねた真樹子に家に上がれともいわずに、加代は下駄をつっかけて外へ出た。 「わたしの父も母も結核で死んだのよ。わたしもこの頃体の調子が変なのよ。わたしもいつか肺病で死ぬのよ」  加代はそういって、そばの井戸にペッと痰《たん》を吐いた。 「この井戸に痰を吐くと、みんなにうつって、みんなも肺病になるわ。面白いわね」  おどろく真樹子を加代は街に連れ出し、カレーライスを食べさせて帰って行った。 (ああ、あの井戸は誰《だれ》も使っていないんだわ)  真樹子は汽車の中で、あの井戸につるべがなかったことを思い出して、痰を吐いた加代の顔を思い浮かべた。  教師の加代は、高等科の男子に人気があった。加代は美人ではないが、小さな顔で唇《くちびる》が赤ん坊のように濡《ぬ》れていた。体は美しく、スーツのボタンをかけることのできない程、豊かな胸をして、蜂《はち》のように胴がキュッとしぼられていた。  ある日、廊下で、高等科の男子たちが、 「おい、中村先生は腰を振って歩くぞ」  と言っているのを聞いて、真樹子は加代のうしろ姿に注意した。なるほど、歩く度にまるいボールがくりくり動くように見え、プリーツスカートがゆらゆら揺れていた。  加代は啄木《たくぼく》の詩が好きで、よく口ずさんでいて、 「肺病やみの少年がというからいいのよね。これが肺結核だなんていうと、ちっとも面白かない」  と言っていた。真樹子のみるところでは、加代は啄木に限らず肺結核で死んだ人に親しみを持っているようだった。それは、両親ときょうだい五人がみんな肺結核で死んだという加代の環境のためだろうと真樹子は思った。  加代がつとめて二年経った頃、突然学校をやめることになった。受持の生徒の父と恋愛し、生徒の母親が校長に相談にきたため、加代はやめざるを得なくなったのである。  加代はにやにやして、そのことには触れずに、 「校長のやきもちさ」  とだけ言った。  加代がその町を去ったのは暑い夏の日であった。町の中をS字に流れる炭塵《たんじん》でまっくろな川を加代は橋の上に立ちどまって眺めていた。加代が恋愛事件でやめると知ってはいても、教え子たちも父兄も、高等科の男生徒たちも長い行列を作って送ってきた。 「荷物はあとで取りにくるわ」  加代はそういって着のみ着のままで、汽車に乗って去って行った。  だが秋風が立つ頃になっても、荷物を取りには来ず、手紙もよこさなかった。加代はだれよりも大きな両袖の机を持っていたから、彼女が去って机だけがデンと部屋の中にあることが、真樹子にはたまらなく淋しかった。  雪の降る頃になって、「寒くなったからオーバーを送ってほしい」というハガキが真樹子|宛《あて》に届いた。普通なら運賃を送って人に頼むものだろうに、加代はそんなことは念頭にない様子であった。真樹子は早速オーバーの外に彼女のセーターやスラックスを入れて書留小包で送ったが礼状もこなかった。  雪の降る頃になってはじめて、オーバーが必要だと気づいたらしい加代に、真樹子は羨《うらや》ましいような感じがした。加代は自分の衣類や布団や机などに何の執着もないらしく、遂に取りにはあらわれなかった。  といって、真樹子たちも重い机や、布団などを荷物にしてわざわざ送ってやるほどの親切もなかった。送ったところで加代が喜ぶようにも思われず、そのうちに取りにくるだろうと思ってうちすてておいた。  ある冬の日、真樹子が炊事当番で早く帰ると、去年高等科を卒業した松村茂が玄関の前に立っていた。茂は眉《まゆ》の濃い目の涼しい少年で、真樹子よりずっと背が高い。 「しばらくね。何か用だったの」  真樹子がたずねると、 「あした小樽にちょっと用事があって行くんです。ついでに中村加代先生の荷物をチッキで送ろうと思うんですが……」  茂は少女のように美しくほおを染めた。 「あら、中村先生のところに行くの?」  茂が加代を慕っているらしい噂《うわさ》はきいたことがある。炭礦の子は早熟だった。父親たちの勤務が三交替で、帰る時間も朝、ひる、夜とまちまちだった。ハーモニカ長屋でベニヤ板一枚でしきられた隣家の様子がよくわかり、小さな二間しかない家の中で、子供達は見聞きすることが多すぎて早熟になった。だから、加代ばかりではなく、真樹子たちも高等科の男の子の訪問を受けたり、熱っぽい手紙をもらうことがあった。  それで茂が加代を慕っているという噂も、真樹子はそれほど気にとめてはいなかった。だが、既に卒業して半年以上経った茂がわざわざ小樽まで加代を訪ねるのは、どうも尋常とは思えなかった。  柳行李《やなぎごうり》にキビキビと細引をかけている茂は、少年というより、青年の匂《にお》いがただよっていた。 「あんた、中村先生好きなの」  考えてみると、早生まれの加代は満十六歳と一か月で教師になったわけだから、その時高等一年だった茂との年の差はいくつもない。 「好きです」  ぶっきら棒にそういって茂は耳のつけ根まで赤くした。その様子に真樹子の方がドギマギしてだまっていると、茂は、 「ぼく……約束したんです」  といった。 「約束? 何の?」 「……結婚の……」  そんなことがあって、真樹子は加代に手紙を出したが返事はなかった。  時々人づてに、加代は根室《ねむろ》にいるらしいとか、東京に行ったらしいと聞くことがあったが、誰にも確かなことはわからなかった。思い出しては加代に会いたいと思うこともあったが、真樹子は大東亜戦争のはじまった年に旭川の学校に移り、敗戦後、肺結核とカリエスで療養生活を続けているうちに忘れるともなく忘れてしまって、誰からも加代の話を聞くことはなくなっていた。  着のみ着のままで、出て行った加代との二十年ぶりの再会は、思いがけなかったから、真樹子はなつかしさで一杯なのに、加代はもの憂そうに微笑を浮かべているだけなのである。 「今どこにいるの」  何から話したらいいかわからないままに、真樹子はそうたずねた。 「名寄よ」 「あら! 名寄なの。わたしも今名寄に行くところなのよ」 「そう、じゃ家に泊るといいわ」  加代はそう言って、はじめて真樹子をまじまじとみた。加代の目じりに小皺《こじわ》が少しあるだけで、赤児のように濡れた唇は二十年後の今も同じであった。 「泊めてくれるの?」  小樽の加代の家まで訪ねて行って、家の中にも入れてもらえなかったことがあったから、真樹子は幾分警戒しながらいった。 「わたしの家だもの。誰にも遠慮はいらないわ」  加代の言葉に、加代が早くに父母きょうだいを失って、伯父の家に引きとられて育ったという生活に、真樹子はじかに触れた思いだった。  真樹子が訪ねたいと思った名寄の友人作間君枝には、訪ねることをまだしらせてはいない。君枝は体を悪くして入院しているということだったから、明日訪ねてもいいと真樹子は思った。今はそれよりも、二十年ぶりで会った加代のその後の生活を知りたかった。それに、今加代の家を訪ねなければ、いつ又会えるかわからないような感じもして(これは不幸にも当っていた)、真樹子は加代のところに泊めてもらう気になった。  隣家の息子だという中学生は、うつらうつら眠っていたが、時々うす目をあけてじっと真樹子をうかがうようにみつめていた。  汽車が名寄につくと、粉雪がチラチラとして冷えていた。広い駅前通りには人影もまばらで、橇《そり》をつけた馬が二頭、待合食堂の前につながれてまぐさを喰っていた。  人の服装に無関心の真樹子は、駅に降りたってはじめて、加代の防寒コートがかなり高価なものらしいことに気づき、何となく安心した。ハイヤーに乗りこんでから、中学生の子がいないのに気づいて、 「あら、おとなりの子は?」  と真樹子がいったが、加代は気にもとめない様子で、 「さあ」  といったまま、運転手に行先を告げた。淋しい程広い大通りを、ちょっと走ったかと思うと車はとまった。故障かと思ったら、そこが加代の家の前だった。 「なあんだ。歩いてもよかったのに」  というと、 「わたしが疲れているのよ」  と加代は、本当に疲れたような顔を、真樹子に向けた。  加代の家は黒いモルタル造りのガッシリとした二階建だった。手応えのないほどカラリと玄関の戸があいて、加代は、 「ただいまあ」  と奥にやさしい声をかけた。  中学二、三年ぐらいの、加代より器量よしの女の子が顔を出した。真樹子の顔をみると、 「あら!」  といってペコリと頭を下げた。素直な感じだった。 「おかあさん、ひるねしたいわ。お布団敷いてくれる?」  加代はそういって真樹子を茶の間に通した。  豪華なソファに、赤やクリーム色のクッションが美しかった。 「真樹ちゃんも寝ない? 先ずひるねでもしてから、ゆっくり話をすることにして」  療養後の真樹子には、実はそれが一番のご馳走《ちそう》だった。  加代の家は工員二十人ほどの建具製作所を経営していて、製品はストックがない程|捌《さば》きが早いということで、景気がよさそうなのはカーテンひとつ見ただけでもすぐわかった。  二階の客間に、二人は枕《まくら》を並べて横になった。ほんとうに疲れているらしく、加代はすぐにかるい寝息をたてた。真樹子は眠いというほどでもなく、真新しい毛布や布団の感触をたのしみながら、見るともなしに加代の寝顔を眺めていた。  二十年前毎日こうして布団を並べて寝たものだと思いながら、つい先程までは居所の知れなかった加代と、同じ部屋に寝ていることがふしぎでならなかった。ふと気がつくと加代の掛布団の衿《えり》がギトギトと脂《あぶら》に汚れている。枕カバーも汚れている。それをみると真樹子は何となく、加代の結婚は案外不幸なのじゃないかと思った。  だが、夕食に起された時、真樹子のその心配は杞憂《きゆう》にすぎないことを思い知らされた。  先ほどの中学生の娘と、もう一人の高校生の娘が二人で食卓をととのえていた。 「うちのおかあさんって、いい先生だったでしょ?」  と高校生の娘があかるくきいた。  真樹子は「どんな先生だったの?」ときかずに「いい先生だったでしょ」といった娘の言葉に、加代への信頼が絶大なことを感じとった。 「勿論《もちろん》よ。それはいい先生だったわ」  父兄との恋愛問題で退職したが、加代はたしかに生徒たちに慕われてはいた。 「おかあさんとしても、大したおかあさんらしいわね」  真樹子の言葉に二人は大きくうなずいて、 「理想的なおかあさんよ」  と下の娘が言い、高校生の娘も、 「全然話せるのよ。第一怒るってことを知らないんだもの、おかあさんは。命令形の言葉を知らないのよ」  そう言われれば、加代は生徒を叱《しか》ったことも、真樹子たちに怒った顔をみせたこともなかった。  娘たちの作った夕食の茶わんむしとちらしずしは、なかなかおいしかった。 「おかあさん。隣のうちで昨日から大騒ぎだったのよ」  加代によく似た上の娘が言った。 「どうしたの」 「一郎君が、見えなくなったんだって。そしたら、さっきひょっこり帰ってきたわ」 「それは大変だったわね」  加代は真樹子をみて、ちょっとニヤリとした。真樹子にはその笑いがわからない。 「その子、小さな子なの?」  真樹子が言うと、下の娘が答えた。 「わたしと同級生よ」 「あら……」  真樹子は汽車の中の中学生を思いだして加代の顔を見た。加代は、 「その茶わんむし美味《おい》しいでしょう?」  と真樹子の顔を見た。加代は夫が帰ってから食事をするといって箸《はし》をとらなかった。  夕食が終ってから加代の夫が帰ってきた。加代は玄関まで出迎えた。 「さむかったでしょう? ごくろうさま」 「何時に帰ってきたんだ? 疲れたろう?」  といたわり合う声がした。  加代の夫は四十五、六で、建具製作所の経営者というより、実直な職人という感じの善良そうな男だった。加代は文学青年のような男性をえらぶように漠然《ばくぜん》と思っていた真樹子には意外だった。食事を終えると加代の夫は又ちょっと出てくるといって席を立つと、加代も玄関の外まで出て見送った。 「加代ちゃん。案外いい奥さんになったのね。一々送り迎えするなんて」 「そうよ。一日に五度でも六度でも玄関までの送り迎え位はするわよ」  何だ、加代も案外平凡な主婦になってしまったものだなと、真樹子は軽い失望を感じた。しかし、考えてみれば家庭というものを知らなかった加代が、よい夫とよい子にめぐまれて、何の風波もない家庭を築き、経済的にも恵まれているというのは、平凡なことではないようにも思えた。  加代の夫は出たと思ったら、又すぐに帰ってきた。加代はすぐに立ちあがってふたたび玄関まで出迎えた。 「面倒くさくないの、加代ちゃん」  加代の夫がほかの部屋に行くのをみて、真樹子がたずねると、 「そりゃ面倒くさいわよ。だけど誰でも迎えられないより迎えられた方が嬉しいでしょ。だから面倒くさいけれど、迎えてあげるだけよ」  加代はそう答えた。  加代の夫が本やノートを持って部屋に入ってきた。すると加代は真樹子に、 「ちょっと待っててね。うちの人、自動車免許の受験勉強をしているの。わたし少しお相手するから」  加代はそういうと、すぐに夫と共に法規を読みはじめた。加代はそれを更にノートに要領よくまとめてみせて、夫の読めない字にふりがなをつけたりしている。 「ねえ、わかったでしょう。これはつまりね、ここに踏切があった場合ね」  と言いながら、彼女はすばやくノートに踏切の絵をかいて説明をするのである。結婚を前にした真樹子はその二人の姿を眺めながら、これが夫婦というものなのかと、感動していた。二十年振りに会った友人を放りだしたまま、一心に夫に法規を教えている加代の姿は、井戸に痰を吐いていた曾《かつ》ての加代の姿とは全く別人であった。 (これが二十年の歳月というものなのだろうか)  わたしも、春の陽ざしのようなあたたかい加代の家庭に負けないホームをきずきたいと思いながら、真樹子は二人の勉強の終るのを待っていた。  とうとう十時半まで、真樹子は待たされた。  加代と真樹子はひる間のように床を並べて、二階の客間に寝た。寝たと思うと、加代は又もそもそと起きだして、 「悪いけれど、ちょっと待ってて。ほんの十分ぐらいで終るんだけれどね」  ちり紙を寝巻のふところに入れて立ち上った加代を、真樹子はトイレに行ったのかと思ってぼんやりと待っていた。しばらくして、加代が部屋に入ってきた。目が生き生きとして少し充血していた。ほおも桜色である。 「今、何してきたと思う」  加代は真樹子の布団の中にすべりこんで、耳もとでささやいた。 「トイレでしょ」 「呆れた! あんた、まだ結婚していないの?」  加代はそう言って、真樹子に体をおしつけて笑った。笑われてはじめて真樹子は気がついた。真樹子はあかくなりながら、 「わたしね、十四年も結核だったのよ。でも五月には結婚するの」  というと、加代は布団の上に起きあがって、 「真樹ちゃん、肺病だったの」  と真樹子の顔をのぞきこんだ。 「加代ちゃんは学校やめてからどうしたの。手紙をやっても返事はこないし、心配したわ」 「半年ほどしてすぐ、野坂と結婚したのよ」 「お見合なの?」  野坂と恋愛したとは思えなかった。 「札幌のグランドホテルでね」 「どのくらい、おつきあいをしたの」  真樹子の言葉に、加代はおかしそうに笑った。 「つき合ったりなんかしないわよ。一目見て、ああこの男なら、人がよさそうで神経が太そうで、わたしが昔の恋人にせっせと手紙を書いたとしても、金輪際《こんりんざい》気のつきそうもない人間だわ。わたしの心の中まで踏みこむことのない人間だわって、そう思ったから結婚することに決めたんだもの」  加代はそういって、驚いている真樹子をみてにやにやとした。 「真樹ちゃん、結婚なんてね、そうムキになって考えることはないのよ。何のかんのと言っても、男と女なんて肉体的に満足すればいいんだもの」 「いやだわ、そんなの。わたしたちはセックスのない結婚生活というものを考えているのよ。わたしの体が弱いからって」 「あんた、八十のおじいさんと結婚するの」  呆れたように加代がいった。 「彼は、わたしより二つ若いのよ」  真樹子は真面目にいった。加代はふいに真樹子の肩に頭を押しつけてささやいた。 「真樹ちゃん、わたし愛人があるのよ」 「愛人?」 「そうよ、三人ほどね」 「まさか」  真樹子は、とりあわなかった。  加代の夫に対する仕えぶり、素直によく働く娘達、そして和やかな雰囲気《ふんいき》の加代の家庭を、真樹子は今日自分の目で見ているのだ。 「本当よ。会いたくなると、外で会うの」 「そう」  加代はむかしから、話がうまい。小川がさらさら流れるような早口で、抑揚もない話し方なのに、ふしぎにどこか人を魅きつけるものがある。 「会うといってもね、真樹ちゃんたちのように、コーヒーをのんで、ただじっと顔を見合わせているなんていうのとはちがうの」 「ふーん」 「自分でもね、あとからどうしてあんなことを言ったり、したりしたのかと思って顔をあかくするようなことを、言ったり、したりしてくるのよ」  そういいながら加代は顔もあからめなかった。 「じゃ、御主人をうらぎってるのね」  真樹子は詰《なじ》る口調になった。 「真樹ちゃん、そんな目で見ないでよ。わたしが他の人と遊んだからって、減るわけじゃないんだもの」  未婚の真樹子は何だか、からかわれているような気がして、加代の言葉を信ずることはできなかった。  朝になると、上の娘が食事の支度をし、下の娘は掃除をしている。二人は真樹子に声を揃《そろ》えて明るく挨拶をした。 (何と健康な雰囲気だろう)  真樹子は、ゆうべの加代の話を思いだしていた。 (愛人がいるなんて、加代ちゃんったら昔と同じだわ。でたらめばかり言って……)  加代は元気な顔で、卵を焼いていた。 「おい、飯はまだかあ」  加代の夫のきげんのよい声がした。加代の夫は降りつもった雪を除雪していた。  娘たちが学校に行くと、入れ代りに二十七、八の男の客が訪れた。 「お早うございます」  白い割烹着《かつぽうぎ》のまま、加代がていねいに挨拶するのを、真樹子は部屋一つ隔てた台所のガラス戸越しに眺めていた。台所といってもダイニングキッチンで、ここにもストーブが燃えていた。  加代の夫と話をしているジャンパー姿のその客は、肩幅の広いだけが取り得の平凡な感じの青年だった。加代は客にお茶を出すとすぐに台所で、朝の食事のあとかたづけを始めた。真樹子が茶わんふきを手伝うと、加代は、 「今きてる人見た?」  とささやいた。真樹子がうなずくと、 「あの人、三人の愛人のうちの一人よ」  と加代がいった。 「嘘《うそ》よ。加代ちゃんは空話病の傾向があるのね」  と真樹子はとりあわなかった。 「まあ、ゆっくりして行って下さい。俺《おれ》はちょっと約束があるから」  と加代の夫は大きな声で挨拶をして立ちあがった。  加代は小走りに夫を玄関まで見送って、茶の間にもどると、いきなり男が立ちあがって加代をだきしめた。男は台所に真樹子がいるのを知らないようであった。すばやく片手を加代のふところに入れ、片手を背に廻《まわ》すのが見えたかと思うと、加代がうしろ手に茶の間のふすまを閉ざしてしまった。  真樹子は激しく動悸《どうき》しながら、閉ざされたふすまをみつめていた。ふいに加代という女がわからなくなった。不気味だった。加代の夫が、まだその辺を歩いているというのに、朝から何ということをするのかと、真樹子は呆れた。 (わたしがここにいるのを、加代ちゃんは知っているはずなのに)  しばらくして玄関の鈴が鳴って、男の出て行く気配がした。加代は台所にきて、ちょっと鏡をのぞきこんだ。顔をこわばらせてつっ立っている真樹子をみて、加代は淋しそうな微笑を浮かべた。 「何も真樹ちゃんが怒ることないわ。あんたに迷惑かけてるわけじゃないもの」  加代はそう言った。 「今、だんなさんが出ていったばっかりじゃないの。それにわたしがここにいるのに、あんたはよくそんなことができるわね、呆れたわ」  真樹子が怒ると、 「結婚したら、わかるわ。いや、真樹ちゃんみたいなおくて[#「おくて」に傍点]には、一生わからないことかも知れないわ」  と加代は言った。 「一体加代ちゃんは、そんな自分が恥かしくないの」  真樹子は怒るよりも、呆れて言った。  こんなことをしている加代とも知らずに、加代の夫も娘たちも何と明るく和やかに暮していることだろう。彼らは加代の裏面を知らない。だが万一知った時には、この家庭はどういうことになるだろう。真樹子には想像ができなかった。 「わたし帰るわ」  真樹子がいうと加代が笑った。 「何を怒ってるの? おかしな人ね。帰るんなら午後帰ってよ。十時半から中学のPTAの集まりがあるの。ちょっとるす番をしていてくれる?」  加代は真樹子の不機嫌を面白がった。真樹子は自分と同じ年の加代の大人っぽい態度に圧《お》されて不承不承うなずいた。 「午後から、入院してるお友だちをお見舞に行くといいわ。そして、よかったらもう一晩泊っていってよ。結婚したら、真樹ちゃんなんかもう泊りにこないでしょう?」  加代は真樹子のこだわりを無視していた。  加代が出ていったあと、真樹子は茶の間のストーブのそばにすわって、加代と男がこの部屋でしていたことを考えていた。加代はそのことを、ほんの立話をした程度にしか感じていないように見える。それでなければ、いくら同じ釜《かま》の飯を食べた間柄だからといって、二十年ぶりであったばかりの自分のいる前で、あんなことができるはずはないと、真樹子は腹を立てていた。  この家の中が、うす汚い手垢《てあか》にまみれているようでいやだった。  玄関の鈴が鳴った。玄関には、昨日汽車の中で一緒になった隣家の中学生が立っていた。片手をズボンのポケットに入れて、白いセーターを着た少年は、昨日見た時よりも目鼻立がハッキリとしてかわいらしく見えた。真樹子をみると、ニヤッとてれたように笑って、 「いる?」  と聞いた。誰のことをいるときいたのかわからずに、真樹子は答えた。 「いないわ。学校にいったわ」 「学校に? おばさんもかい」 「ええ、おばさんはPTAよ」 「PTAか」  少年はにやにやした。 「あなたは学校お休みなの?」 「サボっちゃった」  少年はそういって、外へ出て行った。少年は外へ出ると、いきなり雪玉を握り、傍の電柱めがけて投げつけるのが窓越しに見えた。ひる近くになって加代が学校から帰ってきた。 「桐《きり》ちゃんたちはPTAのある日は早く帰らないの?」 「スキーをやってるのよ、そういう時は」  ストーブに手をかざしている加代をみていると、今朝のあんなことのあとに、どんな顔をしてPTAの集会に出ていたのかと、真樹子はふしぎだった。 「加代ちゃんは何か発言したの」 「わたしは今日は司会よ。これでも役員だもの」 「へえ、役員」  真樹子は大仰におどろいてみせた。 「そうよ。うちの子たちは成績も悪くないし、人に好かれるあかるい性格なものだから、野坂さんの奥さんは家庭教育がうまいって言われるのよ」  実際一晩泊ってみたところでは、子供たちは、反抗期にある中学生の子も、高校生の子も申し分なく明るく素直である。しかも自分たちから進んで家事を受け持っている様子で、よく躾《しつ》けたものだと真樹子もおどろいた。 「主婦なんて、家の人間関係をうまくまとめればいいんですよ、ってわたしは言ってやるの。女ってどうもつまらないところに小言が多いでしょ。子供が何かをこわして、あ、しまったと思っているのに、ほら又気をつけないからだとか何とか小言をいうでしょ? それがいけませんのよなんってね、ちょっとえらそうに言ったりしてくるの」  加代は手早くひるの用意をととのえながら例の早口でそう言った。 「加代ちゃんって、偉いんだか偉くないんだかわからないわ」  真樹子は苦笑した。 「真樹ちゃん、わたしね、PTAで真面目な顔をしてしゃべりながら、自分でもおかしくなるの。わたしは何も教育熱心ではないのよね。本当は子供に干渉するのが面倒なのよ」 「面倒なの?」 「そうよ。子供の前だから致し方なく親でございという顔をしてるだけよ。わたしはどうせ、自分と野坂の間にできた子だもの、期待なんかしていないわ。だけど子供ってのは案外うるさいものよ。おとうさんが何をした、おかあさんが何をしたってね。親は子をゆるしても、子は親をゆるさないでしょ。うるさくされるより、どうせ同じ屋根の下に暮しているんだから、なるべく波風立たないようにつきあおうと、わたしは思っているだけなの」 「じゃ、あなた子供がかわいくはないの」 「猫だって犬だって一緒にいりゃかわいいわよ。まあそんな程度ね。カーッとなるほどじゃないの。親と子なんだもの、縁が深いのねえというぐらいね」 「呆れたわ。それでよく、あんないい子が育つわね」 「カーッとならないからよ。適当に距離をおいている方が、案外親子なんてうまく行くのよ」  加代はそういって、ふっと淋しい顔をした。 「あ、そうそう、さっき昨日汽車で会った中学生の子が来ていたわ」  加代は淋しい顔のまま、遠いところを眺めるまなざしになって、 「ああ、一郎くん? 何だって」 「おばさんはいないかって。あの子学校サボったんだって、あまりいい子じゃないのね」 「さあね。中学生時代だもの。学校の一度や二度サボリたくならない方が、不健康なのよ」  加代は何か考えているようだった。  午後から、真樹子は友人の入院している名寄市立病院に行った。病院のエレベーターの中で、目をまっかに泣きはらした中年の女が、その夫らしい男に抱きかかえられるようにして乗っていた。 「いつかは俺たちだって死ぬんだ」  男がポツリとそう言った。誰か身内の者に死なれた様子だった。  友人の作間君枝は個室にいた。手紙にはちょっと体を悪くしてというようなことだったから、真樹子は気がるに見舞ったのである。だが一歩病室に入って、真樹子はハッとした。君枝の憔悴《しようすい》した顔のせいではない。その病気が何であるかが、はっきりと人にわかるほどのその悪臭のせいだった。 「まあ、真樹子さん」  君枝の目のまわりに黒いクマができても、その謙虚な人柄のにじみ出た微笑を浮かべて頭を枕から上げようとした。  真樹子は長い間あちらこちらで入院生活をしていたから、君枝の病気が子宮癌《しきゆうがん》の末期であることにすぐ気づいた。そして、多分、君枝は激烈な神経痛に悩まされているにちがいないことも察することができた。 「よかったわねえ。あなた、すっかりよくなって」  案の定君枝はそこまで言って痛そうに顔を歪《ゆが》めた。痛みに耐えながらも、友の全快を喜んでくれる君枝に真樹子は感動した。 「痛いんでしょう。困ったわねえ」  君枝の手をにぎって、真樹子はそういった。何と言ってよいか言葉がなかった。 「真樹子さん。痛いって、ありがたいことなのよ。わたしは癌だけれど、癌ってはじめは痛くないのよ。痛みを感じないと、自分の病気が致命的なものだってことにも気づかないんだもの。痛いっていいことなのよ」  真樹子は、早々に見舞をきりあげて病室の外に出た。  今、真樹子は長い間の病気が癒《いや》されて、結婚生活に入ろうとしている。しかし君枝は激しい痛みに耐えながら、ただ死を待っているのだ。君枝の母親が買物から帰ってきたが、真樹子を廊下まで送って出て言った。 「心臓が丈夫なものだから、死ぬにも死ねなくて、かわいそうなんですよ」  痛みどめも、君枝にはきかないので、無神経にする手術をしたいが、それをすると一日中歌を歌って、垂れ流しをするようになる。 「痛いところがあるのに、痛くないってことは恐ろしい」  君枝はそう言って手術を拒否しているのだという話であった。帰って真樹子が加代にその話をすると、加代はちょっと顔をしかめたが、何も言わなかった。  その夜、加代の夫は会社の客と飲みに行くということだった。ジャンパーを背広に着換えて加代の夫は嬉しそうに出て行った。  食後加代がギターを弾き、娘たちが歌を歌った。加代の形のいい指が器用にギターをかきならすのをみて、真樹子は、今朝の加代の情事が、真樹子自身の錯覚ではないかと思った。曲は〈酒は涙かため息か〉やロシヤ民謡の〈カチューシャの歌〉などさまざまで、真樹子が、 「加代ちゃん、〈緑の地平線〉は?」  というと、娘たちが、 「あら、おかあさんは昔から、あれが好きだったの? 何か思い出がありそうね」  とからかった。  娘たちは一時間ほど歌いまくると、さっさと、めいめいの勉強室に退いてしまった。 「あの頃は、加代ちゃん、よく〈緑の地平線〉をハーモニカで吹いてたわね」  と真樹子が言うと、加代はあいまいに笑って、 「ちょっと寝ざめのよくない思い出があるのよ」  と真樹子をみた。 「何か、いやなことがあったの」 「いやって言うんじゃないけどさ。ほら、あの学校の高等科に松村茂っていたでしょう?」 「松村茂? ああ、いたいた。背の高い子でキビキビとした子でしょう?」  真樹子は茂が、加代の荷物をチッキにして送ると言って来ていたことを思い出した。 「あの子と裏山で遅くまで話しこんだことがあってね、その時〈緑の地平線〉を二人で歌ったりしてね。そして、あの子にキスしちゃって、そして……」  加代は真樹子の顔をみた。 「そして……?」 「決ってるじゃないの。それからよ、あの子はわたしと結婚するんだなんて、小樽まで来たりしてね。闇米《やみごめ》なんか届けてくれたけれど、そのうちわたしは野坂と結婚してしまったでしょ。あの子、少年航空兵になったとかきいたけど、死んだらしいのよ、沖縄《おきなわ》だかで」  真樹子は黙って加代をみた。加代はコーヒー中毒の気味で、夜だというのにコーヒーを淹《い》れていた。 「でも、あの子わたしの方でも好きだったのよ」  加代はそういってコーヒーを一口のんだ。 「好きだったら結婚すればよかったのに」 「いやだわ。結婚は別よ。結婚っていうのは、それでなくてもいろいろしばられるのに、好きな男なんかと一緒になったら重荷でしようがない」  加代の言うことが、真樹子にはわからなかった。 「わたしは五年も待っていてくれた彼と結婚するのよ。わたし、あなたの家庭に対する考え方ってわからないわ。加代ちゃんは御主人を愛していらっしゃるの」 「愛?」  加代は問い返してふき出した。 「どうして笑うのよ」  真樹子は気色《けしき》ばんだ。 「愛って何よ」  加代はまだ笑っていた。 「愛って、その人の幸福をねがうことよ」 「具体的にどうしたらいいの」 「どうってうまくは言えないけれど、結婚したら夫以外の人と人目を忍ぶなんてことはしてはいけないのよ」 「どうして?」 「どうしてって、悪いことよ。悲しませるもの」  加代は、まじめになって言う真樹子の顔をみて笑った。 「真樹ちゃん。結婚していないと、そうも子供でいられるものなのね。全然少女的じゃないの、真樹ちゃんは。真樹ちゃん、人間ってね、愛だの何だの言ったってそんなもの信用できないのよ。人間なんて愛が長つづきしないから、世の中は身の上相談ばやりなのよ。愛なんてものがこの世にない証拠に、文学というものが繁昌《はんじよう》してんのよ。それなのに真樹ちゃんったら三十七にも八にもなって、愛だなんてムキになってるのね。全然子供だわ」 「じゃ、加代ちゃんは愛を信じないで何を信じているの」 「何も信じちゃいないわよ。強いて言えば感覚かな」  加代が無遠慮に大きなあくびをした。赤い舌が見えた。  加代の夫が酔って帰ってきた。加代は機嫌よく出迎えた。 「楽しかった?」  加代の夫は、オーバーに雪をつけたまま、 「おいっ。女給がな、俺の肩を抱いて、又いらっしゃいね、きっとよ、と言ったんだぞ」  と大声で告げた。 「そう、よかったわね。チップを沢山持って行ってあげなさいよ」  加代はにやにやしている。 「それからな、今度、塩狩温泉に行かないかと言った女給もいるんだぞ」  加代の夫は威張った。 「連れてってあげるといいわ。あそこの温泉静かでなかなかいいお湯よ。真樹ちゃん入ったことある?」  加代は真樹子に話しかけた。 「おい、お前、妬《や》けないのか」 「妬けるけどさ」  加代は、真樹子にウインクして言った。 「妬けるけど、あんたも男だもの。女給さんと温泉に行っておいても悪くはないでしょ」 「ふん」  加代の夫はつまらなそうに、口をとがらした。加代は馴《な》れた手つきで沓下《くつした》を脱がせてやりながら、 「あなた、料理屋で何か食べたのでしょう? 料理は何が出たの」  ときいている。 「ほっきのバタ焼きだ」  加代の夫は吐き出すように言った。 「それから、何が出たの」 「汁だ」 「おすましのたねは何なの」 「知らん。お前はいつも食物の話ばかりききたがる。色気のない奴だ」  加代の夫はストーブのそばにゴロリと横になった。加代は茶の間の横の寝室まで上手に連れて行った。加代の夫はすぐにいびきをかいて寝た。真樹子は何かふしぎな芝居でもみているような気がした。  四月に真樹子は結婚の通知を加代に出した。加代からは何もいってこなかったが、透きとおるような水色のネグリジェを送ってきた。真樹子は礼状の末尾に、 「加代ちゃんの生活を娘さんたちに知られないうちに、何とかして頂戴」  とつけ加えて書き送った。  だが、やっぱり返事はこなかった。  子宮癌の作間君枝の死亡通知が届いたのは、真樹子が結婚して十日と経たなかった。あの病状で、よくこれまでもったものだと真樹子はおどろいた。君枝の葬式に行きたいというと夫の浩二も一緒に行くと言いだした。  真樹子は結婚式の直前に発熱して、新婚旅行を中止した。 「いやねえ。君枝さんの葬式に行くのが、二人のはじめての旅行だなんて」  真樹子は浩二との旅行は、何の用事もない楽しい旅行でありたかった。浩二は真樹子のいく分縁起をかつぐ考え方をわらった。  まだ郭公《かつこう》も鳴かず、ライラックの花も咲かない季節だったが、萌《も》えはじめた新芽が美しかった。生まれてはじめて浩二と旅をする真樹子は、君枝の葬式に行くというのに恥かしいほど楽しかった。君枝が痛みに耐えぬいて死んだというのに、真樹子は旭川から名寄までの二時間が楽しくてならなかった。葬式が終ったら、加代のところにも二人で顔を出してみようと思った。  君枝の家に着くと、さすがに浩二と二人で旅していることの楽しさは消えた。まだ葬式が始まるまで時間があった。線香の匂いのたちこめる家の中で、三歳ぐらいの男の子がはしゃいで走りまわっていた。台所の方から女たちの声が、にぎやかに聞え、香奠《こうでん》を受けとる受付の男たちも、いく分得意気にきびきびとした物腰で応対した。  棺の安置されている部屋に入ると、君枝の母が病院で会った時より一まわり小さくなって、しょんぼりとうつむいている。その隣に頑丈な体つきの君枝の夫が、ほんとうに力の抜けたようにぼんやりと坐っていた。この家でここだけに悲しみが集まっているようで、真樹子も涙を誘われた。  君枝の母は真樹子をみると、涙があらたに溢《あふ》れてくるようであった。 「どんなにか痛かったことでしょうね、かわいそうに」  真樹子が言うと、 「はい、もう痛いの何のって……。あんなに苦しまなきゃ、君枝は死ねなかったんでしょうか」  君枝の母はていねいにおじぎをしてから、そういった。君枝の夫は、そのそばにぼんやりと坐っていた。  真樹子と浩二は、帳場の近くに下ってひっそりとおしだまっていた。葬式の始まる時刻が近づいて、人々が次第に家の中に一杯になった。しかし僧侶《そうりよ》がなかなか現われない。三十分ほど予定の時間を超過した。しびれをきらした人々は、ひそひそと話しはじめた。  たまりかねて受付の者が電話を借りに近所の店に行こうと立った時、僧侶の車がついた。 「やあ、どうもすまん、すまん」  体は小さいが、あから顔で精力的な僧侶は、若い僧を従えてせかせかと入ってきた。 「実はな」  僧侶は迎えに立った帳場の者に小声でいった。 「今さっき、うちの境内で野坂建具の奥さんが刺し殺されたんだ、隣の中学生にな。日頃かわいがってやっていたというのに、今どきの子供は恐ろしいことをやるもんだ」  帳場のそばに坐っていた真樹子には、僧侶の小声がはっきりと聞えた。野坂建具という馴染《なじみ》のうすい名が、加代の家だと知るまでにややしばらくかかった。はっと気づいて、 「加代ちゃんが……」  と真樹子は立ち上っていた。 [#改ページ]   足  午後の安静時間の終りを告げるブザーが、耳ざわりなほど長く鳴った。今までしずかだった療養所内がざわめいて、スリッパの音が廊下に聞こえはじめた。  神山三津枝は手鏡にうつる裏山の紅葉を眺めていた。ひときわ、風にひらひらと葉をうら返す木は何だろうと思ったとき、 「ニャアオーッ」  小田島霧子が、むっくりとベッドの上に起きあがって猫の声をまねた。又はじまったと三津枝は眉根《まゆね》をよせた。  二人部屋である。この療養所は百人程の患者を収容する小さな療養所だったが、全部二人部屋で、大部屋はなかった。療養所はなだらかな山の中腹にあって、夜になると札幌の街の灯が美しく眺められた。  ピンクのネグリジェを着た霧子はベッドに腰をかけて、細い足をぶらぶらさせながら、 「ニャアゴオッ、ニャアゴオッ」  と鳴いている。霧子が猫の声をまねる時は、森川章に会いたい時だと三津枝は知っていた。  霧子はかわいい花模様のワンピースでも着せて、そのままショーウインドーにでも飾っておきたいような、目もとの涼しい少女だった。小さな顔に細い手足をしているくせに、胸だけがパリの娘のようにツンと天井を向いて形よくふくらんでいる。療養生活の長い十五歳の少女の胸にはみえなかった。  病室の窓から流れるように入ってきたアカシアの黄葉を器用に手に受けた霧子は、 「おねえさん、どうしたらいい?」  と三津枝をみた。 「もう、知らない。霧子ちゃんなんか」  三津枝は怒ったようにいって、胸の上のレースあみを手にとって針を動かしはじめた。三津枝はもう四年間もギブスベッドに入ったきりで、立つことは勿論、寝返りをうつことさえもできなかった。 「だってさ、おねえさん。森川先生がおいでっていうんだもん」 「いやだって言えばいいじゃないの」  三津枝はニベもなくいった。霧子は口紅をうすく塗ったような、あかい唇を尖《とが》らせて、アカシアの花びらをふっと吹いた。 「だってえ、森川先生のところに行きたいんだもの」  五号室の森川は三十をすぎた中学の教師で、妻も子もあった。 「じゃ、行けばいいでしょう」  三津枝はレース編みの手を休めない。 「だけど、もう行かないって、おねえさんと約束してしまったもの」  霧子は長いお下げ髪の頭をゆらゆら振ったかと思うと、ベッドの上にうつぶせになって、 「ニャアゴオッ、ニャアゴオッ」  と、あたりかまわず大声でわめいた。  三津枝が入院してきた四年前の冬、霧子は赤い水玉模様の寝巻を着て、人形のようにちんまりと愛らしい寝顔でベッドにねむっていた。目をさました霧子が、三津枝に一番最初にいったのは、 「おねえちゃん。魔法つかいって本当にいる?」  という言葉だった。 「どうして?」  三津枝は思わず微笑した。 「だってね。霧子は魔法つかいにおまじないをかけられたから、大きくなれないんだって、うちのおかあさんがいったの」 「小さくなんかないわ。いくつなの」  八つになっているだろうかと三津枝は思った。 「十一よ」  まあと危うく三津枝は、声をあげるところであった。  霧子の母親は、どこかいきな感じだが、色の黒い笑顔のない女だった。霧子の母は一年に二、三度しか顔をみせず、来てもハンカチで口をおおったまま、五分ほどいると逃げるようにして帰って行った。  同室の三津枝には挨拶さえ、ろくにしなかった。同じ部屋で霧子がさぞ世話になっているだろうなどと、考えたこともないようであった。ある時、霧子が枕カバーや、童話の本などを母親にみせていった。 「これ、おねえさんにもらったの」  すると母親は、 「ばかだね。お前にはおねえさんもおにいさんも、弟も妹もいないじゃないの」  と尖《とが》った声でたしなめた。 「このおねえさんよ」  霧子は三津枝を指さすと、母親はじろりと三津枝をみてから、霧子にいった。 「あんまり、よその人から物を貰《もら》うんじゃないよ。乞食《こじき》じゃあるまいし」  三津枝はおどろいて腹を立てることもできなかった。りんごの四つか五つ位の見舞物を持って、一年に二、三度しかこない霧子の母親は、実の母かと疑いたいほどだった。父親というのは一度も見舞にこなかったが、霧子は、 「おとうさんの方が優しいよ」  といったことがある。霧子の母は飲食店に働いているようであった。  三津枝の家は、旭川にあったが、札幌にも友人が沢山いて、毎日のように見舞客があった。バターでもチーズでも果物でも、貰った物は全部霧子と二人で分けた。  霧子は三津枝によくなついて、ねたっきりの三津枝のために、お湯を汲《く》んできたり売店まで買物に行ったりして助けた。霧子は病気のために小学校一年しか行っていなかったので、三津枝が国語や算数や社会の勉強などをみてやった。小学校の教師だった三津枝には、教えるということが楽しかった。  霧子はすぐに学力がついて、自分でも楽しんで勉強をした。 「おねえさん、三十三ってヤク年だってね。ヤク年ってなあに? 病気が悪くなって焼かれてしまう年のこと?」  などと珍問を出したりすることもあったが、何より母親に似ず素直で正直なのが三津枝にはかわいく思われた。  三津枝の入院してくる前は、霧子は重症の老婦人と同室で、霧子自身の病状も良好とはいえなかった。それが三津枝と同室になって以来、霧子の体はみるみる生気をとりもどした。結核というよりは、栄養失調ではなかったかと思われるほどだった。伸長期と見えて背丈も伸び、次第に霧子の年齢にふさわしい成長をみせた。  昨年の春から、霧子はめっきりと血色もよくなり、同年の者より背丈は高くさえなった。昨年の晩春だった。ある朝、三津枝は霧子のけたたましい声に目をさました。霧子がベッドの上に青くなって、おびえている。 「どうしたの、霧子ちゃん」  首の曲らない三津枝は手鏡にうつる霧子をみた。 「おねえさん、ゆうべ泥棒がきたんでない?」 「まさか。療養所に泥棒なんかこないわよ。何かなくなった?」 「ううん。なくならないけど、誰かわたしの股《また》を切ったの。血が出ているもの」  初潮のことを何も知らずに、そんな風に告げた霧子を、三津枝は何とも言えないかなしさで愛《いと》しいと思った。  森川章が霧子をもてあそんでいると、三津枝が知ったのも霧子の口からだった。療養所は四時になると、夕食がでた。賄婦《まかないふ》や看護婦が五時カッキリに勤務を終るためには、患者は否も応もなく、四時に夕食をとらねばならなかった。  患者たちは、夏など、まだまひるのように暑く明るい中で、汗をたらして夕食をとった。それで夕食後から夜九時の消灯までの時間が長く、誰もが時間をもてあました。軽症の患者たちは裏山に登って夜まで帰らないものもある。裏山は樹木が生い茂っていて、一間先に人のいることもわからぬ程だったから、逢引《あいびき》には恰好《かつこう》の場所でもあった。  霧子も女の患者たちに誘われて山に登るようになったが、そのうちに次第に森川が誘いにくるようになった。森川は昨年の秋入院してきたばかりで、この療養所では新顔だった。しかし、三津枝と以前に同僚だったので三津枝の部屋にはよく本などを借りにきた。同僚の頃は、五十名もいる職員の中で親しいという程ではなかった。そのうち教え子と結婚した森川は、隣りの町に転任していった。  だが療養所で再会すると、森川も三津枝も学校時代の友だちに会ったような懐しさで、ざっくばらんな友だちづきあいになっていった。森川は初めて三津枝を訪れた時、霧子をみて、 「めんこい女の子だねえ。まるで人形だ」  と、霧子のベッドに腰をかけた。そして無造作にひょいと霧子を膝の上にのせて、 「めんこい子だなあ」  と再びいった。霧子はおとなしく森川にだかれていた。ひどく素直なその感じが、十四歳という霧子の年齢を、三津枝にも忘れさせるほどだった。それから森川はくる度に、霧子にも言葉をかけたり、中学の教科書を持ってきて英語などを教えていた。だが、抱いたのは最初の一度だけであった。この春になって、 「霧ちゃん、山に遊びに行くか」  と、森川が霧子を連れ出すようになっても、三津枝は何の危惧《きぐ》もかんじなかった。  ある夜、霧子が寝巻に着替える手をとめて、三津枝のベッドの傍にきた。 「おねえさん。ちょっとわたしのオッパイにさわってみて」 「どうしたの。痛いの」  三津枝は胸をはだけた霧子をベッドからみあげた。  小さい時から何年という長い間、毎日、医師の回診の度に胸をひらいてきたせいか、霧子は胸をみせることに何のはじらいもなかった。 「痛くはないけれど……。いいから、ちょっとさわってみて」  霧子は体をかがめて三津枝にいった。どうしたのかといぶかりながら三津枝は手をのばした。三津枝の指が霧子の胸にふれると、霧子は目をきらきらさせて、 「ああ、いい気持」  といった。三津枝はハッと手をひいて、 「何よ、霧子ちゃん。ばかな子ね」  と叱りつけた。霧子はキョトンとした表情で三津枝をみた。 「おねえさん、何を怒っているの。わたしね、裏山で森川先生にだっこされて、オッパイにさわられたの。そしたら、とってもいい気持だったのよ。だから自分でさわってみたけれど、そんなにいい気持じゃないの。でもおねえさんにさわられたら森川先生と同じくらい気持よかったわ。どうして自分でさわったら気持よくないんだろう」  おどろいている三津枝に、頓着《とんちやく》なく霧子はいった。 「霧子ちゃん。あんた……森川先生にオッパイをさわられただけなの」 「口の中に舌も入れられたの。タバコくさかった」  霧子はさばさばといった。 「ばかね、霧子ちゃんって。あんた、もう子供じゃないのよ。そんなこと、いいことか悪いことか、わかるでしょう?」 「あまり、よくわからない」  考えてみると、霧子はいつも三津枝の傍にいて、めったによその部屋に遊びに行ったことがなかった。三津枝に国語や算数や、手芸をならったりして暮していた。三津枝の部屋にくる友人は多かったが、いつも短歌や宗教の話をしていて、男女のことを話題にすることはない。だから霧子が男女のことについて知識のないのは仕方がないことかも知れないが、それにしても限度があると三津枝は呆れた。 「それはね、悪いことなのよ」  三津枝はやさしくいった。 「だって、いいことをするのは気持のいいことだって、おねえさんがいったわよ。悪いことなら気持がわるい筈《はず》でしょ」  霧子の論理に三津枝は苦笑した。 「それとはちがうわ。人に親切にしたり、正直にするのはいい気持だといったのよ」 「だけど、オッパイにさわられると気持いいのよ、とっても。悪いことならどうして気持がいいの」  禁断の果実を食べる前のアダムとイブも、このように善悪の判断も羞恥《しゆうち》もなかったのではないかと、三津枝は霧子の涼しく開かれた目をみつめた。 「霧子ちゃんのオッパイにさわる人は、霧子ちゃんのおむこさんなのよ。森川先生は、奥さんのほかにさわってはいけないの」 「どうして、いけないの」 「森川先生の奥さんがきいたら、いやがることなの。人のいやがることはするものじゃないのよ。それは泥棒と同じことなの」 「へえ、泥棒と同じこと? それは悪いことだわね。困ったなあ」  霧子は困ったような顔をして何か考えていたが、いつのまにか電灯も消さずに寝入ってしまった。その夜、看護婦が見廻りにくるまで、身動きのできない三津枝は、明るい電灯の下で目をあけていた。  しかし、それからも時々、霧子は裏山にあそびに行っているようだった。草や木の葉を髪や背中につけたまま、霧子はこっそりと部屋にもどってきた。何か月もしないうちに次第に霧子の体つきが大人になっていった。胸が豊かになり、腰もしっかりと張ってきた。細い手足と小さな顔だけが変らなかった。三津枝は、妊娠のことなども不安になって、いくどか忠告したが、霧子は夕食の食膳を配膳室に下げると、そのままどこかに行ってしまった。  森川に注意したいと思ったが、森川はとうに三津枝の部屋には顔をみせなくなっていた。とうとうたまりかねて、ある日三津枝は霧子にいった。 「霧子ちゃんが森川先生と遊ぶのなら、もうわたしと口をきかないでね。そんな泥棒みたいな霧子ちゃんは大きらいだから」  いわれて、霧子はみるみる目に涙をいっぱいためた。 「おねえさん、ごめんなさい。もう、もう、行かないから……」 「うそ! 又行くに決ってるわよ」 「いや、いかない。もう行かないってば」  霧子は三津枝にしがみついてきた。  そんな子供っぽいしぐさがあわれで、三津枝はやさしく霧子の手をとった。 「だけど、あんたってばかだわ。どうして奥さんのいる人なんか好きになってしまったの」 「だってえ」  と、霧子は涙をぬぐいながらいった。 「わたしね。小さい時から誰にも抱かれたことがないんだもの。森川先生がはじめて抱いてくれたんだもの」  三津枝は胸のつまるような思いがした。反射的に、あの色の黒い無愛想な霧子の母を三津枝は思い浮かべていた。あの母親なら、あるいは霧子を抱いたことがないかも知れないと思った。 「おねえさんだって、わたしを抱いてくれたことがないものね」  うらむように三津枝をみる霧子のまなざしは、異性をみるまなざしであった。  それからも霧子は時々森川とあそんでいるようであったが、 「小さい時から誰にも抱かれたことがないんだもの」  といった言葉が思い出されて、三津枝は咎《とが》める気にもなれなかった。この頃霧子は、森川とあそびたくなると、 「ニャアゴオッ」  と鳴くようになった。そんなことで、会いたい思いを耐えているようであった。今日も霧子はベッドにうつぶせになって、 「ニャアゴオッ」  とわめいている。わめきながら、霧子は片目でそっと三津枝の様子をうかがっていた。霧子は三津枝が好きだった。身動きもできないくせに、三津枝は妙に人にたよられるところがあった。患者は勿論、医者や看護婦まで、三津枝に何かと相談ごとを持ちこんだ。そんな三津枝を、霧子は誇りに思っていた。経済的にも三津枝に頼ることができて、霧子は、こづかい銭は勿論のこと、時に衣料品まで三津枝に買ってもらっていた。だから三津枝は霧子にとって失うことのできない人でもあった。  今日の三津枝はいつものような明るい表情ではない。眉根をよせて妙に恐ろしい顔つきをしている。霧子は寝返りをうって、 「ニャアゴオッ」  とわめいてみた。だが、三津枝は霧子に一べつもくれない。気むずかしい顔をして、じっと窓をみている。窓の向うに裏山がある。三津枝は本当に怒ってしまったのかも知れないと霧子は淋しくなった。 「おねえさん」  とうとう、たまらなくなって、霧子が呼んだ。三津枝がだまって霧子をみた。 「怒ってるの? おねえさん」 「当り前じゃないの。猫の声なんかもう、おやめなさい。霧子ちゃん、あんた一体、自分のしていることが悪いと思わないの」  激しい口調であった。 「悪いとは思うけれど」 「そう、悪いと思っているの。じゃ悪いことはおやめなさい」 「思うんだけれど……」 「思うんだけれど、どうだっていうの」 「悪いなあと思うの。おねえさんが泥棒と同じだといったものなあと思うの。だけど足が裏山へ行ってしまうんだもの」 「ばかな足ね」 「うん。わたし、おねえさんみたいに歩けないとよかったわ。足が自由に動くって、おそろしいね、おねえさん」  この言葉に一瞬、三津枝は霧子を凝視してから、 「ばかなこと言うもんじゃないわ。おねえさんは歩けるようになりたくてたまらないから、こうしてギブスに四年も五年もじっと寝ているんじゃないの。足が自由に動けるって、どんなに幸福かわからないのよ」 「…………」 「霧子ちゃん、わたしはトイレに一人で歩いて行きたいわ。立ち上って、自分の食べる物を、鏡に映さずに、この目でみたいわ。歩けるようになったら、病気のお友だちを見舞いたいわ。教会に礼拝に行きたいわ」  歩けないばかりに、リーベの死にも会えなかったのだと、三津枝は言いたかった。 「でも自由に歩けると行ってはいけない所にも行ってしまうよ。恐ろしいよ。おねえさん」  霧子の言葉に三津枝はハッとした。 (そうかも知れない。自由ということが、霧子ちゃんには重荷なのだ) 「おねえさん、わたしの靴も洋服も、おねえさんの押入れに入れておいて。そして鍵《かぎ》をしておいて頂戴」  霧子は一途《いちず》な表情で、三津枝に頼んだ。 「どうして?」 「どうしてって、寝巻のままじゃ外へ行かれなくなるもの」  霧子はいいことを思いついたというように、靴と、わずか三、四枚の着替えを三津枝の押入れに入れて鍵をかけてしまった。 「ね、こうしたら、おねえさんが鍵を持っているから、出て行けないもの」  それから半月ほど、霧子はさっぱりとした顔をして、猫の声もまねなかったが、いつのまにかとうとう、寝巻姿でスリッパをつっかけたまま、裏山に行ってしまった。  翌朝、いつものように霧子は三津枝の便器の始末をするために、自分のベッドからおりてきた。 「いいわ、霧子ちゃん。もう、わたしの用事なんかしなくても」  ビクッとしたように霧子が目をあげて三津枝をみた。霧子はおどおどと便器を持ったまま、立っていた。霧子はもっと明るく、もっとのんびりとしていた筈である。いつの間に、こんなにおどおどするようになってしまったのかと三津枝は腹が立った。霧子に対してではなく、森川章に対してであった。  あの、ちんまりと小さかった栄養失調児の霧子を、ここまで大きくしたのは三津枝であった。十以下の加減法もよくわからない霧子に、幾何《きか》や代数まで教えたのは三津枝だった。素直にのびのびと正直に育てたのも三津枝だった。いわば、霧子は三津枝の生き甲斐にもなっていた。それが、森川のために、体ばかりか心まで荒されてしまったと知ると、三津枝は腹が立ってならなかった。森川が妻子のある教育者であるということが、更に三津枝の怒りをあおり立てた。 「霧子ちゃん、森川先生を呼んでいらっしゃい」 「先生を?」  さっと霧子の顔に困惑の表情が走った。 「午前の安静時間が終ったら、来て下さいって、いっていらっしゃい」  三津枝は、なぜ今まで森川にだまっていたのかと、われながら自分の間ぬけ加減に呆れていた。 「おねえさん、怒らないで」  霧子がべそをかいた。 「霧子ちゃんには、これだけ言ってもわからないんだもの。森川先生によく言っておくわ」 「でも……」 「いいの。霧子ちゃんは、まだ何もわからない子供さんだから、仕方がないの。森川先生が悪いのよ」 「おねえさん」  霧子はまだ便器を持ったままだった。 「便器を下におきなさい」  霧子はしょんぼりと肩を落して、便器を持ったまま部屋を出て行った。その後ろすがたを三津枝は鏡にうつして見送った。雨の降る中を肩をすぼめて歩いているような姿であった。  便器の始末をして帰ってくると、霧子は放心したように自分のベッドに腰をかけていたが、きっと顔をあげて三津枝をみた。 「おねえさん、わたし髪を切るから」 「髪を?」  霧子は長い豊かな髪を、二つにわけてお下げにしていた。 「髪をきって坊主にしたら、もう恥かしくてどこへも行けないもの」 「ばかなことをしなくたっていいわよ。女の子が髪を切ることないわ。森川先生におねえさんから、よく言っておくからね」 「いやっ! 森川先生かわいそうだもの」  霧子の言葉に三津枝はおどろいた。 「もう、行かないから。おねえさん、おねがいだから先生を怒らないで」  森川をかばう霧子が、三津枝には泣きたい程哀れだった。こんなに迄《まで》、この可憐《かれん》な霧子に愛されながら、森川は一体何を考えているのかと三津枝は腹立たしかった。 「おねえさん、髪切って」  霧子は裁《た》ちばさみを、つきつけるように三津枝にさし出した。 「いいわよ。髪なんか切らなくても」 「ううん、切るの。わたし切るの」  霧子は思いつめたような顔をしていた。  幾日かたったある日、霧子は安静時間が終ると、着替えてどこへともなく姿を消した。夕食の時間になっても霧子は帰らなかった。外出の許可を得ているらしく、看護婦たちは、 「霧子ちゃんが外出するなんて珍しいね。療養所で育ってもやっぱり家が恋しいのかしら」  と三津枝にいった。家に帰るはずはない、どこに行ったのだろうと、三津枝は不吉な想像におびやかされた。  夜おそくなって、霧子は寒そうな顔をして帰ってきた。 「どこに行っていたの、こんな遅くまで」  思わず三津枝が咎《とが》めると、 「だってえ、恥かしいんだもの」  と霧子はネッカチーフをとって頭をみせた。 「まあ、霧子ちゃんったら……」  霧子の頭は尼僧のように、すっかり髪を刈り落しているではないか。 「どうして、そんな……」 「これなら、もう、裏山へ遊びには行けないでしょう?」  霧子は、少し恥かしそうに笑って、ふたたびネッカチーフをかぶると、便器の始末をしに部屋を出て行った。 「今、そこで三号室の道子さんに会ったけど、頭に気がつかないのよ」  霧子は、いたずらっ子のように首をすくめて明るく笑った。  三津枝がふと、夜半に醒《さ》めると、霧子がふとんをかぶって泣いていた。  髪を刈って半月程、霧子は用のない限り廊下にも出ないようにしていたが、とうとう、ある夜、ネッカチーフに頭をつつんで、もうすっかり落葉した裏山へ出かけて行ってしまった。 「おねえさん、わたしが悪いんでないわ。裏山へ行くこの足が悪いのよ」  帰ってきて、霧子は自分の足を紫になるほど、つねりあげていたが、三津枝はもう何もいわなかった。  霧子が妊娠しているとわかったのは、それから幾日も経たないうちだった。この春、療養所の所長が変ってから、毎日の回診はなくなった。  医者は週に一度、患者の顔をみるだけとなり、調子が悪いといわない限り、患者の体に触れることはなかった。結核患者の診察はレントゲン写真と、菌検査だけすればいいという、新所長の方針で、今迄のように毎日聴診器を当てられるということはなくなった。  霧子の妊娠がわからなかったのは、そのためもあった。妊娠五か月ときいて、三津枝は自分のことのように青くなった。 「五号室の森川先生を呼んで下さらない?」  検温の時、三津枝は看護婦にいった。 「やあ、しばらく」  その日の午後、森川は、てれたように頭をひとつくるりとなでて、三津枝の部屋にやってきた。森川は顔色も悪く、すっかり痩《や》せていた。乱行のせいだと、三津枝は森川をじろじろとみた。 「すっかり、ごぶさたしちゃったな」  森川はそういってから、チラッと霧子の方をみた。霧子はネッカチーフをかぶって仰臥《ぎようが》していた。 「おや、この子もすっかり大人になったねえ。霧ちゃんといったっけ?」  森川の言葉に三津枝はきっとなった。 「そりゃ、大人にもなりますわよ。霧子ちゃんもおかげさまでお母さんになるんですからね」 「まさか」  森川が笑った。 「笑いごとではありませんよ。先生、一体どうなさるおつもりなんです」 「どうも、変だな。何で怒っているんだろう? しばらくぶりだというのに」  まだ、しら[#「しら」に傍点]を切る気かと、三津枝は歯ぎしりする思いをこらえていった。 「先生は、どうして、この部屋にいらっしゃらなくなったんです?」  森川がちょっと困惑したように頭をかいた。 「こまったな」 「先生は、かりにも教育者じゃありませんか」 「だから、この部屋を訪ねなかったんですよ」 「何ですって?」  会話がどうも、ちぐはぐだと三津枝は気づいた。 「いや、実はあんまり、この部屋に毎日遊びにきたんで、神山さんとわたしのことが噂になったんでね」 「え?」  三津枝は自分の姓をいわれて、森川をみた。 「あなたも、もとは教師だし、わたしは現役の教師ですからね。ワイフの耳にさえ入ってしまったんですよ。療養所ってうるさいところだな」 「じゃ、霧子ちゃんのおなかの子は?」 「え? この人のおなかの子?」  森川はおどろいて霧子をふり返った。 「森川先生の子どもじゃないんですか?」 「冗談じゃないよ。この子にきいて下さいよ」  森川は怒るよりも呆れたように、三津枝の顔をみた。 「あれから膿胸《のうきよう》でひどい目にあって、見ただけでもわかるでしょう。すっかり痩せちゃった」  森川はそういってから、 「この子、本当に生まれるの?」  と、あわれむように霧子をみた。 「まあ、霧子ちゃんたら……」  二人の会話を観念したように聞いていた霧子が、顔をこちらに向けた。 「霧子ちゃん、相手は誰なの」  三津枝は声が上《うわ》ずった。 「知らないわ」 「知らないことがありますか。森川先生にあやまりなさい。一体誰と遊んでいたの」 「誰だっていいじゃないの、おねえさん」 「どうして名前を言えないの」 「言わないって約束したもの」 「まあ」 「かわいそうだもの。約束を破ったら」 「…………」 「死んだって言えないわ、霧子」  そういうと、霧子は顔をそむけた。そのはずみにネッカチーフがずれて、毛の伸びかかった坊主頭が少しのぞいた。 [#改ページ]   羽 音      一  堀川慎二の運転する車が、札幌市の郊外、高級住宅の建ち並ぶ真駒内《まこまない》に入った。その一劃《いつかく》にゴルフ場がある。もう昏《くら》みかかったゴルフ場の芝生は、暗緑の海のように静まりかえっている。  やがて車は、大きなポプラの下を曲って、慎二の家の前に来た。ふと、慎二は胸さわぎがした。あたりの家々は既に灯りがついているというのに、慎二の家だけがひっそりと暗かった。  クラクションを鳴らしたが、家の灯りはつかない。 (遂に!)  慎二は、妻の紗貴子《さきこ》が東京に去ったのかと思った。ガレージに車を入れ、急いで玄関の前に立った。取手《とつて》に手をかけると、ドアはあっけなく開いた。家の中はしんとして、物音一つしない。慎二は門灯をつけ、スリッパをつっかけると、右手のリビングキッチンに入って行った。来たるべきものが来たという思いで、部屋のスイッチをつけた時、思いがけなく紗貴子が、ぼんやりとソファに腰かけている姿を慎二は見た。 「なんだ、いたのか」  安心した瞬間、ふいに慎二は怒りがこみあげて来た。 「いるわよ」  紗貴子は、腕を組んだまま慎二を見上げた。細面《ほそおもて》のあごが尖《とが》って見えた。 「電気もつけないで、どうしたんだ」  流しもとには、汚れた食器がそのままボールの水につけられていた。 「文夫はどうしたんだ?」 「井口さんのお宅に、遊びにいきましたわ」 「飯にしてくれ」  腹の立つのをこらえながら、慎二は椅子《いす》に腰をおろした。紗貴子は依然として腕を組んだまま、慎二の顔を見ずに答えた。 「わたし、もうごはんを作る元気などありません。カツどんでも取りましょうか」  こらえていた慎二の怒りが爆発した。 「何がどうだっていうんだ! 亭主に飯も食わせられないほど、いったい何が不満なんだ」  紗貴子の細い眉《まゆ》が、ぴりりと動き、唇がかすかにふるえた。 「わたし、こんな田舎《いなか》で暮らすなんて、まっぴらよ。東京はまだ暑いのよ。なんなの、この寒さ。まだ九月じゃないの。ああ、いやんなっちゃう」  東京に生れ、東京に育った紗貴子は、札幌に来て以来、毎日のように東京に帰りたいと訴えつづけて来たのだった。  堀川慎二は、昨年の秋、東京本社から札幌支店に転任して来た会社員だった。僅か三十五歳の慎二が、大手のK商事の札幌支店経理課長として抜てきされたことは、破格の昇進であった。しかし、裕福に育った紗貴子は、東京を離れて暮らすのはいやだと頑強に言い張り、慎二に転任を辞退するようにと、しきりに迫った。 「札幌なんて田舎はいやよ。わたし娘時代から、週に一度は銀座《ぎんざ》を歩かなければ、気がすまないのよ」  紗貴子の父は、K商事と同系会社のF商事の専務だった。男一人女一人のきょうだいで、何不自由なく育った紗貴子は、万事が派手で、わがままだった。 「田舎だって? 冗談じゃない。札幌はリットル東京といってね。人口九十万の大きな町だよ」  慎二は幾度も紗貴子を説得しようとしたが、紗貴子は頑として肯《き》かなかった。寒い所はいやだとか、札幌には銀座がないとか、将来文夫の進学に影響するとか、父母も友人もいないとか、次から次へと自分勝手な理くつを並べて、遂に慎二を単身赴任させたのだった。  情ない思いで赴任してみると、札幌には単身赴任者が余りにも多かった。妻が病弱だとか、子供の教育のためとか、東京に家を持っているとか、紗貴子と同じような理くつをつけて、夫に従わない妻の多くいることを知って、慎二はやや安心もしたのだった。その単身赴任した連中を、人々は札チョン族と呼んだ。再び独身の気分を味わって楽しいとか、女房の目を逃れて自由にふるまえるとか言いながらも、彼らはやはり東京に帰る日を、心ひそかに待っているようであった。  慎二は、日本人離れのした彫りの深い容貌《ようぼう》だった。赴任した日から、たちまち女子職員たちの注視の的になった。それは、頭の禿げかかった前任課長とちがって、あまりにもきわだった容姿であったし、単身赴任であることが、いっそう大きな魅力になったのだった。  だが慎二は、ストイックな男であった。バーなどを遊び歩くこともなければ、女性関係をうわさされることも一度もなかった。ひと月に一度は会議や打ち合せで東京に帰るためもあったが、やはりそれは、紗貴子に対する慎二の愛情といえた。しかし紗貴子は、そうした慎二の心を思いやることもなく、とうとう五月までの丸七か月間を、慎二に不自由させたまま、東京に残っていた。 「慎二さんだって、男なのよ」  何度か母にいわれて、紗貴子はやっと五月に札幌に移って来た。すぐには慎二が東京に帰れないと知ったからでもある。  会社で用意してあった慎二たちの住宅は、元アメリカ軍の家族たちが住んでいた真駒内の一劃《いつかく》にあった。札幌の他の街とは全くかけはなれた、エキゾチックなしょうしゃな街だった。いたる所に芝生があり、モダンな家が建ち並んでいた。  だが紗貴子は、この外国のような街にも目をつぶって、札幌は田舎だと不平を言い、いっこう楽しい顔を見せなかった。慎二はふと、紗貴子には東京に男がいるのではないかと、疑ったことさえあった。そう思わせるほど、紗貴子のホームシックは異常だった。夕方になると目に涙を浮かべたり、毎日のように東京の実家に電話をかけたりした。電話代のかさむことなど、紗貴子は全く念頭にないようであった。  夏も過ぎ、九月に入ると、紗貴子のホームシックは昂《こう》ずるばかりだった。支笏《しこつ》湖に誘っても、定山渓《じようざんけい》に誘っても、紗貴子のホームシックはなおらなかった。この一週間ほどは、慎二が会社から帰って玄関に入っても、出迎えに立つこともなくなった。そして、 「東京に帰りたい」  と、顔を見るなり涙ぐむのである。 「ぼく、札幌のほうがいいや」  と、五歳の文夫は、すっかり札幌の生活に馴《な》じんでしまったが、紗貴子は日毎に東京恋しさが募るようであった。  東京に帰りたいという言葉を聞く度に、慎二は、紗貴子が自分よりも誰かを愛しているような、冷えびえとしたものを感じないではいられなかった。初めのうちこそ、涙ぐんでいる紗貴子を見ていると、わがままとは思いながらも憐《あわ》れでもあった。ノイローゼかと不安になったこともあった。だが今では、日毎に自分と妻との距離が離れていくのを感じないわけにはいかなかった。  今日のように、疲れて帰る夫に夕食も用意せず、暗くなった家の中に、身動きもせずにいる妻をみると、慎二は七か月にわたる不自由な生活を強いられたことへの怒りが、何倍にもふくれ上って、胸の中が煮えたぎるのだった。 「わかったよ、紗貴子。お前はおれという男よりも、東京の誰かが恋しいんだ。おれはね紗貴子、おれと一緒なら、たった二人の山の中でも楽しいと言ってくれる女が欲しいんだ。別れよう」  冷静に言ったつもりだったが、声がうわずった。組んでいた紗貴子の腕がだらりと下がり、紗貴子は目を見ひらいて慎二を見た。 「あなた……」 「東京に帰りなさい」  いつの間にか慎二は、部屋の中を行ったり来たりしていた。手を突っこんだズボンのポケットに、車のキイが冷たくふれた。 「あなた、いやよ。わたし、別れるなんていやよ。別れるなんて言ってやしないわ。ただ東京に帰りたいだけなのよ」  紗貴子も立ち上っていた。 「だから東京に帰ったらいいだろう。おれは地の果までも、おれと二人でいくという女と暮らすほうがいい」 「まあ! あなた、そんなひとがいたんですか」  慎二は立ちどまった。慎二にはどんな女もいなかった。 「いないわけじゃない」  そう言った時、ふと慎二は、石井律子のつつましい横顔が目に浮かんだ。慎二にも思いがけないことだった。  紗貴子は、自分中心の幼い女だった。慎二に別れると言われて、初めて慎二を遠くに追いやっていたことに気づく女だった。紗貴子は紗貴子なりに慎二を愛しているつもりだった。自分が東京に帰りたいことと、慎二への愛とは、紗貴子にとって別問題だった。慎二は、何でも自分のいうことを受けいれてくれる優しい夫であった。その優しさに紗貴子は馴れ、甘えていたのだった。別れるといわれてから、紗貴子はにわかにあわてた。そして「女がいないわけじゃない」と言った慎二の言葉をうのみにして、紗貴子はその夜一晩泣きあかした。 「もう東京に帰りたいっていわないから、わたしを捨てないで」  こんなに紗貴子が下手《したて》に出たことは、結婚以来初めてのことであった。だが皮肉なことに、慎二の心に、僅かな隙間《すきま》からするりと入りこんだ石井律子の面影は、急激に慎二の胸の中を大きく占めて行った。      二  石井律子は、慎二の課の事務員だった。二十八歳だった。知的な聡明《そうめい》な感じは、その仕事の端々にも、ちょっとした受け答えにも現れていて、誰にも好感を与える女性だった。  慎二が律子を特に心にとめたのは、律子のいれて来るお茶が、他の女子職員のいれてくるお茶よりもうまいことに気づいてからであった。同じお茶でも、いれ方によってこうも味がちがうものかと思ったのが、律子を意識した初めだった。それから注意して見ると、書類の置き方ひとつ、灰皿の配置ひとつにも、何か心がこもっているのである。それは、どうと口に言いあらわしようがないが、じかに胸に伝わる、あたたかく細やかな感情がこめられていた。  と言って、慎二が律子に、特に親しい言葉をかけるということもなかった。しかし気がつくと、自分の視線がいつの間にか、律子の白い横顔に注がれていることがあって、あわてて目をそらす。そんなことが今までに幾度かあった。それが、紗貴子との争いの日から、思いがけなく大きく慎二の胸を占めるようになった。今までは抑圧していたものが、紗貴子のわがままがきっかけで、正々堂々と、意識の上にのぼらせることができたのかも知れなかった。  紗貴子と口論した日から、四、五日たった夕方だった。美しい夕焼空だった。会社の駐車場から出ようとした時、律子を交えた三、四人の女子職員が通りかかるのを慎二は見た。慎二はクラクションを鳴らして声をかけた。 「君たち、宮の森にジンギスカン鍋を食べにいこうか」  慎二にとっては、今までに全くないことであった。 「本当ですか、課長さん」  一番若い子が驚いたように言った。 「本当だよ。みんなで遊びに行こう」 「課長さんと遊べるなんて、ボカアしあわせだなあ」  女子職員たちは歓声をあげ、慎二の車に乗りこんだ。しかし律子だけは車の外に立っている。 「石井君、君は?」  律子はつつましく微笑し、はっきりと答えた。 「せっかくですけれど、母が待っているものですから」  一礼して、律子は未練気もなく立ち去って行った。慎二はがっかりした。当の律子が行かないのでは、女の子たちを誘った甲斐がない。その落胆の大きさが、あらためて慎二自身を驚かせた。 「律子さんは、おかあさんと二人ぐらしなのよ、課長さん。彼女のおかあさんは、ずっとご病気なんですって」  助手席にすわった一番若い子が、律子のことをいち早く話した。 「そうか、じゃ、石井君は君たちとも、どこかに遊びに行くこともないんだね」  律子の話が出たので、慎二は少し元気が出た。車は北一条通りのアカシア並木の下を、夕焼に向って走っていた。 「課長さん、律子さんにいいおむこさんをおせわしてください。彼女もう二十八なのよ」  うしろにいた既婚者の村瀬邦子がいった。 「病人の母親つきでは、いくら彼女がきれいでいい人でも、ちょっとむずかしいわね」  助手台の若い子がまた言った。 「大変だろうなあ。そのうちに石井君の気持も聞いてみようか」  律子と話をするよい口実ができたと、慎二は機嫌よく車を走らせて行った。  翌日、律子が書類を慎二の机の前に置いた時、慎二は書類に目をやりながら、さり気なく言った。 「おかあさんはいかが」 「ハア」 「ちょっと君のことで、話を聞きたいんだがね。土曜日一時間ほど時間を取ってくれませんか」  さり気なく言ったつもりだが、重大な告白でもしたかのように、慎二の胸は波立った。 「わたくしのことで?」  不安そうに律子が問い返した。 「いや、なに、昼食でも一緒に食べるつもりで、気軽に来てもらいたいんです」  土曜日まで中二日あった。慎二は、その二日が今までになく長い二日に思われた。三十人ほどの課員が、それぞれスチールデスクを前に、記帳したり、電話をかけたり、タイプライターを打っている。時折、それらがいっさい目には入らず、ただ律子の存在だけが気にかかる瞬間が幾度かあった。そんな自分に気づいても、慎二はもはやその感情をおさえようとはしなかった。  土曜日が来た。慎二は午後、約束のカニ料理店に歩いて行った。時計台の前の、二階建の小粋な店である。昼間の客は少なかった。  食事の半ば頃、慎二はさり気なく切り出した。 「この間の連中がね、君におむこさんを見つけてくれと言っていましたよ」  淡いグリーンのバーバリを着た律子は、二十八歳よりいくつか若く見えた。 「まあ」  律子の微笑には、何の警戒の色もなかった。 「しかし君には、もうきまった人がいるんじゃないの」  毛ガニを器用にほぐしながら、律子は言った。 「課長さんは、根室《ねむろ》の秋をご存じですか」 「いや、ぼくは、札幌近辺しか知らないんですよ。おいおい全道を歩いて見たいと思っていますがね」 「そうですか、根室の秋は空が澄んで、とても美しいんです」  律子は遠い所を見るまなざしになった。 「その根室に、きまった人でも……」 「あら、そんな人、どこにもいませんわ」  明るく笑って、ふっと律子は伏し目になった。 「そうかなあ、しかし好きな人がいたんじゃないんですか」  律子は激しく首を横にふって、慎二を見た。 「そうですか。でも、君を愛する男性がいないなんて、ちょっと考えられませんね」  もしかしたら、誰にも語ることのできない過去があるのではないかと、慎二は律子の目をのぞきこむようにじっと見た。何と澄んだ涼しい目もとだろう。慎二は初めてみる顔のように、まじまじと律子を見た。妻の紗貴子といくつも違わない年齢には思えなかった。萌《も》えはじめたばかりの若草を、慎二は連想した。 「課長さんは、恋愛結婚なんですって? どんな奥様かしら」 「どんなもこんなも……ワイフには参ってますよ」 「…………」 「東京を離れるのがいやで、ついて来なかった女房ですからね。毎日東京に帰りたいという、ぐちばかり聞かされていますよ」  律子は何もいわずに、お茶を両手に持ってひと口飲んだ。 「それはそうと、おかあさんのようすはどうなんです。君もおかあさんで苦労しますね」 「いいえ、母は若い時から苦労したんです。それにくらべると、わたしの苦労など、苦労のうちに入りませんわ」  律子は低いがハッキリした口調で、自分に言い聞かせるように言った。その言葉のひびきに、慎二はまたも律子の聡明さを感じた。 「しかし君だって、もうそろそろ結婚しなければ……」  慎二は話題をもとに戻そうとした。 「課長さん、わたし年齢で結婚はしませんわ。本当にいい人が現われた時に結婚します。現われなければ、いくつになっても一人でいるべきだと思いますわ」  それはあながち虚勢ではないようであった。 「課長さん、みなさん結婚をすすめてくださいますけど、結婚生活って、そんなに楽しく幸福なものなのでしょうか」 「…………」 「わたし、周囲にあまりしあわせな結婚って、見ていないんです」  慎二は、何か問いつめられているような気がして、たばこをふかした。 「ごめんなさい。つまらないことを申しあげて。わたし、母の苦労を知っているものですから。……今日はどうもごちそうさまでした」  すっと律子は立ちあがった。 「もう帰るの?」  慎二は驚いて律子を見上げた。 「わたし、課長さんとお話してるのが、こわいんです」  そう言ったかと思うと、律子は身をひるがえすようにその場を去った。  慎二は店を出て、時計台を見上げた。二時十分前だった。十月も間近い風が冷たかった。 (課長さんとお話してるのが、こわいんです)  風の中をゆっくり歩きながら、慎二は律子の言葉を幾度も胸の中で言ってみた。律子は何がこわいと言ったのだろう。自分の何がいったい律子をこわがらせたのだろう。  いつしか慎二は、創成《そうせい》川の細い流れに沿って歩いていた。 (もしかしたら……)  律子は自分の気持を、いつのまにか鋭敏に感じ取っていたのではないか、そして、あるいは律子もまた、自分にひきつけられているのではないか。  立ちどまって、川の流れをみつめながらそう思った慎二は苦笑した。律子の言った言葉を、自分の都合のよいように解釈している自分が、ふとこっけいに思われた。川の向うを、車が流れるように、幾十台となくつづいている。慎二は、創成川の流れから、車の流れに目を移すと、思いをふり払うように、急ぎ足で橋を渡った。      三  妻の紗貴子は、さすがに別れるといわれた当座は、東京に帰りたいとはいわなかった。しかし半月とたたないうちに、またもやわがままが頭をもたげ始めた。慎二の性格として、浮気などできないと安心したのだろう。次第に東京恋しさを言い出し、実家に電話をかけることも多くなって来た。  その夜慎二は、ソファに横になってテレビを見ていた。別にどうということもない連続ドラマだった。紗貴子がふいにテレビの横に来て受話器を取った。細面の横顔に、どこかけん[#「けん」に傍点]がある。 「もしもし、わたし紗貴子よ。おかあさまを呼んでよ」  母親が出るまでの間、紗貴子は細い指で、そばのテレビをコツコツとはじいている。またかと思いながら、慎二はそ知らぬ顔でテレビを見ていた。電話は長々とつづいた。 「……だって、もうこちらは雪が降るんですってよ。十月から雪が降るなんて、本当にいやになってしまう。え?……だって……ええ、ええ、そりゃそうよ。……ううん、文夫は寝たわ。堀川は? ええ、いまテレビ。彼、東京など恋しくないのよ」  慎二は時計を見た。妻が電話をかける時にはつい時計を見る癖がいつのまにかついていた。もう十五分も電話はつづいている。それから五分ほどたって、やっと紗貴子は受話器を置いた。紗貴子の声に消されて、テレビはよく聞えなかった。いらいらと電話の終るのを待っていた慎二は、思わず紗貴子を咎《とが》めた。 「もう二十分だぞ、いい加減にしないか」  紗貴子は黙って慎二をみた。そして鼻先で笑って答えた。 「あら、お金がかかるから?」 「金だって時間だって無駄だよ。たかが課長の身分だ。そう度々長距離電話をかけられてたまるかね」  テレビに視線を注いだまま、慎二は言った。画面の中で、男と女が向い合ってゴーゴーを踊っている。紗貴子は、さっと手を伸ばしてスイッチを切った。 「なんだ、おれが見ているのに」  慎二は気色ばんだ。紗貴子は慎二を無視して言った。 「あなた、東京への電話代は、わたしが払っていますわ。いつあなたにご迷惑をかけて?」  慎二は言葉につまった。実業家の娘である紗貴子は、かなりの株を持って結婚したのだった。その株から上る配当金は、慎二の生活をいろいろな形でうるおしていた。たとえばカラーテレビ、ペルシャ製のじゅうたん、そして今乗っている車も、紗貴子の援助によるものだった。 「それよりもあなた、たまにはあなたから実家に電話してくださったらどうなの。わたし、いつあなたが出てくださるか、いつ替ってくださるか、いつもそう思いながら、かけているのよ」  慎二はつと立ち上り、黙って寝室に入って行った。確かに紗貴子のいうとおり、慎二はめったに電話口に出たことはない。たまに向うから呼ばれて出る程度だった。しかし、電話に出づらくしているのは紗貴子だと思う。実家に電話をかけている時の紗貴子には、明らかに夫を疎外する態度があった。  紗貴子はなかなか寝室に入って来なかった。すぐに入って来たならば、慎二の心は少しは解きほぐれたことだろう。いつまでたっても寝室に入って来ようとしない妻に、慎二はいっそういらいらした。あいつはいつもこうなのだ。何か言えば、すぐに夫の口を封ずるような顔をする。そんな女にいったい妻の資格があるのか。 (よし、それならおれにも考えがある)  再び慎二は、別れてもいいと思った。紗貴子は一人になっても食っていける。一人になって生きていくがいい。 (しかし……)  ふと、あどけない文夫の丸い目が、瞼《まぶた》に浮かんだ。慎二は吐息をついて、ふとんをかぶった。文夫のために、自分は軽率であってはならないと思った。  紗貴子は依然として、寝室に入って来ようとはしない。慎二はまたしてもいらだった。耳をすまして、慎二は居間のようすをうかがった。ことりとも音がしない。二分、五分、七分……。静けさが針のように肌に突き刺さってくる。  と、かすかに何かの音がした。それがダイヤルの音だと知ったのは、つづいて紗貴子の声が聞えたからだった。 「もしもし、わたし紗貴子よ。え? お風呂? じゃ、おとうさまは?」  慎二はがばとベッドの上に起きあがった。荒々しくドアを蹴《け》るように開くと、慎二は大声でどなった。 「紗貴子!」 「電話賃はご心配なく」  冷たい声が跳ね返ってきた。 「紗貴子!」  慎二の唇がひくひくとけいれんした。 「あ、おとうさま? ちょっと、お声を聞きたかったのよ」  慎二の怒声を、紗貴子は無視した。 「わたし、あした東京に帰りたいの。おとうさま。……ええ、そうよ。だってもう、くたくたなの。じゃ、あしたお目にかかるわね」  紗貴子はガチャンと受話器をおいた。慎二は何も言わずに寝室にとって返した。 (帰るんなら、帰るがいい)  その夜一晩、慎二は紗貴子を心の中で罵っていた。 (勝手な奴だ! 出て行くんなら出て行け!)  明け方になって、やっと慎二は眠りに入った。目が覚めた時、既に時計は九時を過ぎていた。紗貴子と文夫の姿は見えなかった。一片の書置きもない。うっすらと埃《ほこり》をかぶった冷蔵庫の上に、十月の陽が鋭くさしこんでいた。      四  紗貴子が東京に帰って、しばらくの間、慎二は毎日早く会社から帰った。東京から電話がかかって来はしないか、手紙が来てはいないか、またはひょっとして、紗貴子が戻っていはしないかと、やはり心待ちにせずにはいられなかった。  しかし何不自由なく育った紗貴子の、わがままな、こらえ性のない性格を思うと、これから長い一生を共にするには、あまりにもやりきれない相手だと思った。だが、そんな妻であっても、妻であるということは、不思議な存在であった。やはり紗貴子のいない家庭は淋しかった。少しぐらいふくれられても、目ざわりであっても、妻はどうしても同じ屋根の下にいなければならない存在だった。 (文夫まで黙って連れて行くなんて……。文夫はお前一人の子供ではないんだぞ)  考えてみると、自分たち夫婦が別れなければならない理由は何一つないような気がする。それでいて、心のどこかでは、もうこのまま紗貴子が帰って来ないような気持がしきりにした。夫婦という関係は、ひどく密接なようでいて、何ともろいものだろうと、慎二は思わずにはいられなかった。  紗貴子が東京に帰って十日ほど経った。鮮やかな山の紅葉がくすんできたかと思う間もなく、今朝は街に初雪が降った。今日もまた、あの暗いわが家に帰り、石油ストーブに火をつけねばならぬのかと思うと、慎二は憂鬱《ゆううつ》だった。あれ以来十日もたつというのに、紗貴子からは何の消息もない。と言って、自分から東京に電話をかける筋合はないと思った。慎二は、誰にも告げようのない憤りを、毎日心の中に沈澱《ちんでん》させていった。  そんな慎二に、律子は今日も熱い茶を運んでくれた。律子は日に一度は熱い茶をいれてくれたが、それは課員全員に対してであり、特に慎二だけにいれてくれるわけではない。  朝、昼、夕の三度、女子事務員たちは気のついたものからお茶汲《ちやく》みをする、それだけのことなのだ。  律子は、一緒に食事をして以来、慎二の前にくると、やや表情をこわばらせ、視線をふせた。決して、慎二と視線を合わせようとはしない。それはお茶を持ってくる時も、書類を持ってくる時も同じだった。そんな律子の表情の中に、慎二はなぜか、律子の自分に対する心の傾斜を感じずにはいられなかった。それは第三者にはうかがい知ることのできない、二人だけの心の交流であった。だが、それは慎二一人のうぬぼれであったかも知れない。 「石井君」  びくりとしたように、律子はうつむいた。お茶をおいて去ろうとした時だった。 「とうとう初雪が来ましたね」  律子は視線を落したまま、かすかに肯いた。 「ところで、今日、社の帰りにエルムで待っていてくれませんか」  慎二は声を低くして言った。エルムは会社から二町ほど離れていた。大通り公園に面した静かな喫茶店である。律子は長いまつ毛を上げてちらりと慎二を見た。そして、否とも応とも答えずに慎二の前を去った。  帰る頃になって、また雪がちらついてきた。雪は舗道に触れたかと思うと、あえなく溶けた。慎二はゆっくりと歩いていた。急ぎ足になるのが恐ろしかった。白樺《しらかば》の細い丸木を組んだ喫茶店のドアを開けると、店内には静かな音楽が流れていた。ランプが五つほど天井から吊《つ》り下げられ、その中にローソクの形をした電灯が淡くあたりを照らしていた。慎二はたばこに火をつけ、さりげなく店内を見まわした。律子は来ていなかった。  律子は確か、自分より十分前に会社を出ている。だから当然、先にここに着いていなければならなかった。それとも、自分の姿が見えないので、そのまま帰ってしまったのだろうか。いや、自分が残っていたことは、律子も知っていた筈《はず》だ。振袖のように長いたもとのオレンジ色の着物を着たウエイトレスが、お盆に水を運んできた。それは金魚が泳いでいるような感じだった。  慎二はコーヒーを頼んで、時計を見た。五時二十分である。律子はまだ来ない。退社して二十分もたつ。律子はこの店を知らないのかも知れない。いや、そんなことはない。会社から二町ほどのところにある、この店を知らないわけがない。慎二はじりじりする想いで律子を待った。今日ここに律子が来なければ、永久に二人は平行線の人生を辿《たど》らなければならない。そんな占いめいた思いが慎二の胸をよぎった。 (しかし、あの人に会って、おれは一体どうするつもりなんだ)  自分でも、どうするつもりか見当がつかなかった。今はただ、澄んだ律子の目をのぞきこみたかった。それだけでいい。それだけで自分は慰められるのだと、慎二は中学生のように、ひたすらな気持だった。  時計は既に六時に近い。六時まで待って来なければ、律子は来ないと諦《あきら》めよう。慎二は淡い電灯の下でじっと時計を見つめたまま、一秒一秒を待つ思いだった。あまり広くない店の中には、八組ほどの客がひっそりと茶をのんでいる。  六時ジャストだった。ドアがあいた。律子だと思った。だが、それは見知らぬ、白いオーバーの若い女だった。女は大股《おおまた》に空いた席に近づいて行った。暗い灯にかざして、ふたたび腕時計をのぞきこんだ慎二は立ちあがった。 「課長さんとお話しているのが、こわいんです」  といった、あの律子の言葉は、額面通り受けとるべきだったのだと、慎二は今になってようやく思い知らされたような気がした。律子には、自分を恐れている以外に何の感情もなかったのだと思うことは淋しかった。  慎二はドアを押して、すっかり暗くなった外に出た。そしてギクリとした。店の前の電柱の傍《かたわ》らに、影のように律子が佇《た》っていたからである。 「何だ、君、ここにいたの?」  律子はかすかに頭を横に振って、慎二を見あげた。 「今、きたんです。やっと決心がついて」 「決心が?」  いきなり律子の重たい感情を見せられたような気がした。律子のオーバーの肩に雪の雫《しずく》が光っている。 「ええ。あの……姉が一週間ほど来ているんです。だから、母の夕食のことは姉がしてくれるんですけれど……」 「そうでしたね。おかあさんのことを、ぼくは忘れていた」 「……でも、母のことは、今日はかまわないんですけれど……。ただ……」 「ただ?」 「何だか、わたし、こわいんです」  二人はいつの間にか、大通りに沿って歩いていた。雪が吸いつくようにオーバーを濡《ぬ》らした。 「いつかも、君はぼくをこわいと言っていましたね。そんなにこわい男ですか、ぼくは」  慎二は苦笑した。律子は、ちょっと黙ってから言った。 「吸いこまれそうな淵《ふち》をのぞきこむのは、恐ろしいものですわ」  つぶやくような律子の言葉に、慎二は立ちどまった。律子はまっすぐに慎二の彫りの深い顔を見あげた。律子の長いまつげが、くろぐろと美しかった。 「ぼくは、もう吸いこまれてしまったかも知れない」  律子は目をふせた。 「わたしは、こわいんです」 「どこかで、食事にしませんか」  律子は答えずに、手のひらに雪を受けていた。 「グランド・ホテルの地下食堂に行きますか」  慎二は歩き出した。律子もだまって、ついてきた。大通りを北へ渡る信号が赤になった。 「奥さんがお待ちでは……」 「ワイフは東京ですよ」  さえぎるように慎二は言った。 「ワイフはね、寒い北海道がきらいなんだそうです」  自嘲《じちよう》するように、そう言いながら、慎二は紗貴子と別れるべきかも知れないと、改めて思った。夫と住むよりも、父母と共にいたい紗貴子の稚《おさな》さは、単に稚いとのみ言えない許しがたいものを含んでいた。 「でも……」  信号が青に変った。 「でも、何ですか」 「奥さんは課長さんを、おきらいなわけじゃないと思いますわ」  慎二はだまった。律子も黙した。雑踏は、かえって二人を人々から隔絶してくれた。誰も二人の会話に耳を傾ける者はいない。  ふっと慎二はふしぎな気がした。二人はまだ、食事を一度共にしただけの仲である。しかし、二人の会話は恋人のようにからみあっていた。  ホテルの地下の中華食堂は、泊り客や、外来の客で賑わっていた。二人は片すみのテーブルに向い合った。顔を見合わせた二人は何とはなしに微笑した。 「何がお好きです? 君は」 「わたし、甘酸っぱい味が好きですの。酢豚のような」  律子はわるびれずに答え、別人のように明るかった。 「甘酸っぱい味ですか?」  二人はふたたび顔を見合わせたが、なぜか笑えなかった。  慎二はスープと鶏のからあげをとり、律子は酢豚とスープをとった。  慎二は、学生時代に修学旅行にきて、この食堂に入ったことがあった。その頃の札幌の話をしながら食事は終った。向い合うと、話したい言葉が出てこないのだ。 「何か御用ではなかったのでしょうか」  律子は茶をのみながら言った。 「こうして、一緒に食事をしてほしいというのが、ぼくの用事です」 「まあ」 「こんどは、もっとご馳走《ちそう》しますよ。こんな食事では、ご馳走とは言えませんからね」 「いいえ、ご馳走ですわ。わたしには」 「せめて、週に二度でもつきあっていただけませんか」 「ありがとうございます。でも……母がいるものですから。今日は姉がいますけれど」 「じゃ、今夜は遅くなっても、いいんですね」 「でも、もう七時半ですわ」 「九時までぐらい、かまわないでしょう?」 「わかりませんわ」  律子は、困ったように時計を見た。  その夜、慎二は車で北二十四条の律子の家まで送った。車は北大の前を過ぎて、しばらく走った。二戸建の古い小さな家の前に下り立った律子を眺めながら、慎二は豪壮な紗貴子の邸宅を思った。がっちりした御影石《みかげいし》の大きな門と、千坪もある屋敷、プールと芝生の庭が目に浮かんだ。律子のような家に育った女性を、妻とすべきだったと慎二は帰りの車の中で、幾度も思った。  家は相変らず、まっくらだった。しかし、その夜の慎二の心は明るかった。律子は二十八である。文夫を立派に育ててくれる年齢でもあった。  紗貴子の住んでいたこの家に、律子を迎える。それは紗貴子に対する痛烈な復讐《ふくしゆう》でもあった。紗貴子が帰ってくる。しかし、紗貴子の坐る場所は既にない。そう考えることは愉快だった。 (それにしても、あいつもあいつなら親も親だ。何の連絡もしてこない)  ベッドに入ると、ベッドは冷たくひえていた。布団がしけっているのだ。体の芯《しん》まで冷たくなって、慎二はなかなか眠れなかった。これも、紗貴子のわがままなせいだと、慎二は腹が立った。 (妻とは、断じて紗貴子のような女をいうのではない)  律子なら、家を長いこと留守にするような妻にはならないだろう。やさしい献身的な妻になってくれるにちがいない。律子の母親も、共にこの家に迎えてやりたいと、慎二はサンルームをその病室に当てたいなどと思ったりした。      五  土曜の午後だった。慎二は会社の近くの、富貴堂書店に入って、律子を待っていた。初雪のあと、今日までの三日間はあたたかい小春日和がつづいた。そのせいか、書店の中も人で賑わっていた。律子がそっと、慎二の傍に来て目礼した。  書棚を見上げていた律子はヒルティの『幸福論』を手にとって、パラパラとページをめくった。 「『幸福論』と、幸福とはちがいますわね」  律子は低くささやくように言った。 「ああ、ちがうでしょうね」  慎二も、他の人々に聞えぬように、低く答えた。 「ヒルティは幸福だったのでしょうか」 「案外、不幸だったかも知れませんね」  慎二は、本当にヒルティは不幸な男だったような気がした。 「わたしも、そんな気がしますわ。不幸を知らなかった人に『幸福論』など、書けなかったと思いますもの」  慎二は、律子を見た。白粉気のない頬《ほお》が、生き生きとしている。 「君は幸福?」  律子は、『幸福論』のページを繰りながら言った。 「幸福な人間は、本屋で真先に『幸福論』なんか目につくでしょうか」  慎二は、律子のために、その本を買った。二人は外に出た。 「あの……課長さんは、幸福って、どんなことだとお思いになって?」  肩をならべて歩きながら、律子は言った。陽ざしが背にあたたかかった。 「そうですね。そう正面きって訊《たず》ねられると、むずかしいものですね。幸福とは何か、人間とは何か、生とは何か、死とは何か、ぼくにはどうも、どれ一つ満足に答えられるものがないようですね」  裏通りに駐車しておいた車のドアを慎二は開けた。 「うしろを開けて下さいません?」 「どうして? この間もうしろに乗りましたね。助手台はきらい?」  慎二はドアを開けた。律子は、ちょっと頬をあからめて乗りながら答えた。 「だって、その席は奥様の席ですもの。わたしには坐る資格がありませんわ」  運転台に坐った慎二は思わず律子をふり返った。そして、そのまま黙って車を走らせた。四、五百メートル走ってから、慎二は言った。 「律子さん、もしも、この席にすわって下さいと、ぼくがおねがいしたら、すわってくれますか」  改まった表情と語調だった。慎二はまじめだった。律子は沈黙した。慎二は待った。車は薄野《すすきの》を通って、豊平《とよひら》川を渡り、今、豊平の繁華街を走っていた。 「……でも、その席は先着順ですわ。それがこの世の秩序だとわたしは思います。その席は、奥さまだけのものですわ」  律子ははっきりと答えた。 「しかしですね。もし、この席が空席になっていたとしたら……」  バックミラーに、つきつめたような慎二の顔がうつっている。律子と慎二の視線が、ミラーの中でからみあった。 「……でも、うしろにも席はあいていますわ」  慎二は律子の言う言葉を推《はか》りかねた。妻になる気がないと言われたような気がした。そうとばかりも言えない言葉にも思われた。いずれにせよ、今の自分の言葉は早すぎたかも知れないと、慎二は悔んだ。 「課長さん、どこまでいらっしゃるんですの」  月寒《つきさつぷ》の街を過ぎたとき、律子は驚いたように訊ねた。家はまばらとなり、りんご園が道の傍らにつづいていた。 「君はどこまで行きたいの」 「わたしは、地の果てまで」  律子の言葉に、慎二はホッと微笑した。 「でも、地の果てって、どこかしら?」  律子はつぶやいた。 「さあ、地球は丸いですからね。自分の住んでいる所が中心だとすると、そこから一番遠いところが地の果てでしょうね」 「そうかも知れませんわ。そして地の果てだと人が思っている所に住んでいる人は、そこが又地球の中心と思っているかも知れませんわ。神さまが、地球を平らで四角い面になさらなかった理由が何だか、わかるような気もしますわ」 「なるほどねえ。自己中心的な人間が住むにふさわしい所のような気がしますね、地球が丸いということは」  紗貴子とは、こんな会話を交したことはなかったと慎二は思った。 「ところで、本当にどこへ行こう。月寒の種羊場がいいと思って出て来たんですがね。支笏《しこつ》湖まで足をのばしましょうか」 「そうですねえ」  ちょっと考えてから、律子は答えた。 「支笏湖もいいですけれど、わたしは、この国道沿いの名もない丘なども好きですわ。ほら、あの白樺林と落葉松《からまつ》林の、あの間の細い道に行ってみたいと思いますわ」  律子の指さす左手に、なだらかな丘があった。白い雲がぽっかりと浮かんでいる。春の雲のように、やわらかい雲だ。 「君って、面白い人ですね」 「なぜですの?」 「うちのワイフなど、一度だって名もない丘に行きたいなどと、言ったことがありませんよ。箱根《はこね》とか熱海《あたみ》とか有名な観光地ばかり行きたがる奴でしてね」 「……それは、……奥様だからですわ。わたしは弱虫なんです」  ふいに律子の声が涙にくもった。  人影もない静かな林だった。降り立った向うには、又丘がつづいている。落葉松林の黄葉が美しかった。時折、小鳥の、枝を移る羽音がする。慎二から少し離れて、律子はさっきから、かがんで小石を積んでいる。その動作が童女のように可憐《かれん》だった。  ふと、律子は慎二をふり返って笑った。思いがけなく心にしみるような淋《さび》しい微笑だった。慎二は力一ぱい抱きよせたい思いにかられた。と、その時、律子は立ち上った。 「課長さん、帰りましょう。母が待っていると思いますから……」  一瞬、慎二は律子を凝視した。そして、だまって車に引き返した。抱きよせたいという思いを持ったまま帰るのも、いいと思った。慎二は律子を尊重したかった。  帰りの車の中で、律子は無言だった。律子は何かを考えているようだった。慎二が話しかけても、「ええ」とか「はい」とか答えるだけである。その沈黙に慎二は、自分に対する律子の想いの深さを見たような気がした。  律子の家の前に車がとまった時、律子ははじめて口を開いた。 「とても楽しゅうございました。ありがとうございました」 「ぼくも、楽しかった。じゃ、又来週の土曜日に」  律子は微笑した。来週こそ、律子を助手台に乗せたいと、慎二はアクセルを踏んだ。  月曜日に律子は珍しく欠勤した。母親の容態が悪いということだった。慎二は早速、その日見舞に行きたかった。だがあいにくと会議があって、終ったのは八時半を過ぎた頃だった。  家に帰ると、郵便受に白い部厚い封筒が入っている。律子からだった。看病の合間に書いてくれたのかと、嬉しく思いながら慎二は急いで封を切った。 〈課長様  わたくし、この度会社を退《や》めさせて頂きたいと存じます。理由は、課長さんに二度とお目にかからない為でございます〉  意外な言葉に、慎二はハッと息をのんだ。 〈突然、このようなことを申し上げて、申し訳ございません。 「この席にすわって下さいと、ぼくがおねがいしたら、すわってくれますか」  と、一昨日車の中で課長さんはおっしゃいました。わたくしは叫び出したいほど嬉《うれ》しゅうございました。と、同時に、そんな自分が恐ろしゅうございました。あの時わたくしは、これ以上、課長さんに近づいてはならないと決心したのでした。  わたくしは弱いのです。今、きっぱりと退社でもしなければ、わたくしは課長さんに惹《ひ》かれて、身動きの取れなくなる弱い人間なのです。 「この席が空席になっていたとしたら……」  と課長さんはおっしゃいました。でも、御夫婦というものは、そう簡単に別れられないものだと思います。また別れてはならないものだと思います。  わたくしは、とにかく一人の女性をおしのけ、不幸におとし入れてまで幸福になりたいとは思いません。それとも課長さんは、そんな女性がお好きなのでしょうか。もし、そんな女性がお好きなあなたなら、わたくしは、そんなお方は嫌いです。そんなあなたなら、わたくしと結婚なさっても、結局はまた同じことを繰り返すことになるかも知れません。  わたくしは、あなたの自動車に乗ったことも、奥様に悪かったと悔いています。現代では、カーは家庭の一室といわれています。その一室に、奥様に何のご挨拶《あいさつ》もなしに入りこんだのは、申し訳のないことをしたと思われてなりません。むろん、これは、わたくしが課長さんをお慕いしている故の申しわけなさなのです。  とにかく、わたくしはこれ以上、課長さんに近づいてはならないと思っています。今のうちなら、わたくしは去って行くことができるでしょう。たとえ、どんなに悲しくても、淋しくても。  この、お別れの決心を、わたくしはあの時、車の中でしたのでした。だからこそ、あの名もない丘をえらんだのです。のちに、あのあたりを通っても、どの丘であったか、わからない方がよいと思ったのです。この思いを、わかっていただけるでしょうか。  わたくしは、あの丘に、小石を積んで参りました。わたくしは課長さんへの想いを、あの丘に葬ってきたのです。  課長さん、わたくしの母は、父が愛人のもとに走った為に、辛い一生を送ってきたのです。かけがえのない、この一生を、母は父たちのために、悲しく生きなければなりませんでした。さようなら [#地付き]石井律子     堀川慎二様   追伸  課長さんから頂いたヒルティの『幸福論』は、かなしい記念になりました。でも、わたくしはわたくしなりに、幸福を追求して生きて行きたいと思います。そして、自分が幸福でありたいように、他の人々もまた幸福でありたいとねがっていることを、忘れてはならないと思っています。このことの中に、わたくしは人間及び人間社会の幸福の鍵がかくされているように思われてならないのです。奥様お子様と共に御幸せでお過し下さいませ。心からの感謝をこめて。ふたたび、さようなら〉  慎二は呆然《ぼうぜん》とした。これから、新しい世界が開けると思っていた矢先だった。律子は会社をやめて、今後一体どうするつもりなのだろう。むろん新しい職場はあるとしても……。しかし、職を失い、恋を失っても、律子はきっと人間として大切な生き方を失わないで生きて行くであろう。だが、この自分はどうやって律子への想いを断ちきることができるだろうか。そう思いながら慎二が再び手紙を読み返した時、けたたましく電話のベルが鳴った。ハッとして慎二は立ち上った。律子ではないかと思った。 「もしもし、パパ?」  受話器を強く押しあてた耳に、文夫の幼い声が飛びこんできた。 「なんだ、文夫か。元気かい」 「うん、元気だよ。今ね、ママと飛行機で千歳《ちとせ》にきたの。すぐ帰るからねって、ママが言ってるよ」  受話器をおいた慎二は、しばらくぼんやりと坐っていたが、つと立ち上って、石油ストーブの焔《ほのお》を大きくした。ストーブが風に鳴ってゴーッと音を立てた。 [#改ページ]   奈落の声      一  あと二、三日で九月だというのに、北国には珍しい暑い午後だった。石狩《いしかり》平野から四十分程支線を入った東に、この炭礦街《たんこうがい》のK町があった。山間《やまあい》を東西に走る一本の道があり、炭塵《たんじん》に黒く汚れた小さな川が街を縫っていた。この一本の道から、左右に幾本もの道が山腹に這《は》いのぼり、その斜面には炭礦の社宅や、ハモニカ長屋や、学校、病院、神社などが建っていた。人口二万に満たない町だが、山間を走る道筋には、旅館、商店、映画館、飲食店、美容院、会社の購買店、住宅などが並んでいて、いつも結構賑わっていた。わけても駅前通りは一番活気がある。 「金鵄《きんし》輝く日本の……」  駅前の店頭から流れる紀元二千六百年の祝歌が一段と日曜の街を浮き立たせていた。汽笛がのぶとく響いた。午後の汽車が着いたらしい。と、汽笛が合図のように、三味線と太鼓の音が、かしましい程賑やかに聞えて来た。アイスキャンデー屋や、魚屋や、八百屋に群がっていた客たちが、一様にふり返った。 「沢野清十郎一座」ののぼりを持った半てん姿の若い男を先頭に、七、八人の男女の一隊である。のぼりにつづいて、ちょんまげ姿の、太鼓を叩《たた》く男、三味線を持った鳥追姿の女。次に深編笠《ふかあみがさ》の背の高い虚無僧、道中姿のやくざに扮《ふん》した男、派手な矢絣《やがすり》のご殿女中などがつづく。その中にひときわ目立ったのは、若衆姿の十歳位の少年である。  人々が寄って来た。「どん」と大きく太鼓が鳴りひびき、三味線の音が消えた。 「東西、東西」  思いがけなく、愛らしく凜《りん》とした声が、人々の耳を驚かした。深編笠、虚無僧姿の座長、沢野清十郎の一人息子、清志の幼い声であった。 「ここもとごひいき様、並びにご本家さまの御招待にて、私共沢野清十郎一座、ご当地に初お目見得に参上いたしました」 「どん」と合の手の太鼓が鳴り、立ちどまった群衆から拍手が湧いた。真っ白にぬられた少年の額に、前髪がかすかに揺れた。  そしてそのつぶらな瞳《ひとみ》は、ぱっちりと見ひらかれたまま、商店街のうしろに連なる低い山並に向けられていた。 「さて当座は、今夕六時半より九時半まで、錦座におきまして芝居を取り行ない、ごひいき様のごきげんを取り結ぶことと相成りました」 「いいぞ、いいぞ」  ひる間から酒でも入っているのか赤ら顔の男が、浴衣《ゆかた》の片肌を脱いで半畳を入れた。五十過ぎの男だった。眉間《みけん》にたてじわが一本深く刻まれていて、それがまるで墨で書いたように、きわだって見える。部厚い唇がへの字を描き、笑うとその口端が益々下る。 「さて演《だ》し物は……菊川三郎先生の名作『母恋鳥』、野村東堂先生の名怪談『お静|灯籠《どうろう》』。なお出演は、当座涙の名子役沢野清志……」 「おや、涙の名子役ってのはお前のことかい」  先程の男がからかうように、顔をさしのべて清志をのぞきこんだ。群衆がどっと笑った。男は得意そうに、左右を見返った。清志は困ったように頭をかいた。そのうしろで、深編笠の座長が、鋭く目を光らせたのを、誰も気づかなかった。清志は再び口上をつづけた。 「……その外……」  清志は首をかたむけた。思いがけないやじに、口上を忘れてしまったのだ。 「……なお……」 「なお、それからどうしたい?」 「幕あいのお時間を拝借しまして、当座花形女優たちの踊りなども、数たくさん取りそろえてございます」  清志は、少し飛ばして、思い出した所からつづけた。 「つきましては皆様方、おぼっちゃん、お嬢ちゃん、おとうさんおかあさんは申すに及ばず、おじいさまおばあさま方まで、ご近所共々お誘い合わせの上、賑々《にぎにぎ》しく御来場くださいますよう、七重のひざを八重に折り、隅から隅まで、ずいっとお願い申しあげまする」  再び太鼓が「どん」と鳴り、拍手が湧《わ》いた。 「よう、あんちゃん、これを食いな」  いつの間にか、すぐそばの店から買ったのであろう、赤ら顔の男が黄色いアイスキャンデーを、ぐっと清志にさし出した。清志はキャンデーを見ると、なぜかハッとうつむいた。 「遠慮はいらんよ、食いなったら、食いな」  清志は顔を上げて首を横にふった。 「これはまあ、ご親切に。清志ちゃん、さ、早くちょうだいするもんだよ」  鳥追姿の女が、三味線の撥《ばち》で清志の背をこづいた。清志はムッとしたように女を見て、 「ぼく、いりません」  と、切り口上に言った。女のようなやさしい口もとが、ぴりぴりとふるえている。 「なにい、いらないと。なまを言うな、なまを。この暑い日盛りに、小んまい[#「小んまい」に傍点]お前がかわいそうだと思えばこそ、親切にこうして買ったんじゃないか。おれの気持を受けられねえってのか」  眉間のしわが一層深くなり、その両側の肉が盛り上るように迫った。 「でも……ぼく、アイスキャンデーなんて、きらいなんです。アイスキャンデーなんて……」  つけまつ毛のように長いまつ毛を清志は伏せた。  清志はアイスキャンデーと聞いただけで、身ぶるいがする。去年の七月だった。一座は北陸地方の巡業を終えて、十日程東京に帰っていた。清志たち親子三人は、東京|荒川《あらかわ》の祖父の家にいた。祖父の家は、僅かふた間の四軒長屋で、ごみごみとした路地の中程にあった。祖父は軍需工場の夜警をしていて、いつも夜は留守だった。父親は、一座の者が寝泊りしている安宿に、毎夜のようにでかけては、酒を飲んで帰って来た。  その夜も家の中には、清志と母のクニしかいなかった。むしむしと暑い晩で、家の中までどぶの匂《にお》いが漂っていた。いつもは電灯の下で縫い物をしている母が、その夜に限って、赤茶けた新聞紙の貼《は》ってある壁にもたれて、ぼんやりとしていた。しかし清志は、そんなことには頓着《とんちやく》なく、新聞紙を折って飛行機を作っていた。 「清志」  母が清志に顔を向けた。卵のような輪郭の、目もとの涼しい顔立である。雪のように白いと、よく人に言われるその肌が、今夜は青ざめていたが、子供の清志は気づかなかった。 「なあに、かあさん」  できあがった飛行機を、ついと飛ばして清志はその後を追った。 「かあさん、よく飛ぶだろう」  清志は流線型に翼を工夫したのだ。得意だった。 「よくできたね清志、ほうびにアイスキャンデーを買ってあげようね」 「アイスキャンデー?」  声が弾んだ。 「何本さ、かあさん」 「三本」 「三本? ほんと、うれしいな。ぼくに二本くれるんだね」  母はうなずいて、古びた帯の間から財布をとり出した。金をもらうやいなや、清志は玄関を飛び出した。玄関と言っても、半坪程の土間である。 「清志、清志」  その背に、母の声が追った。 「なあに、かあさん」  駈《か》けもどった清志の顔に、母は淋しい微笑を向けた。 「気をつけて……ね、気をつけて行くんだよ」  清志は、なんだというように、暗い路地を駈けて行った。いくら暗くても、つまずいたことなんかありゃしないと清志はおかしかった。  アイスキャンデー屋は、表の電車通りの角にある。一町半程行った所だった。その店先の電灯に、灰色の蛾《が》が群れていた。三本のキャンデーから、白い水蒸気がほわっと漂った。 (どうして冷たいのに湯気みたいに、白く出るんだろ)  清志はそんなことを思いながら、キャンデーをしっかりと両手に握って家に帰った。がたぴしする戸を少し手間どってあけた。 「かあさん、買ってきたよ」  だが母の返事はなかった。便所にでも行っているのだろうと、清志は格別気にもとめず、しめった畳にぺたりとすわって、すぐにアイスキャンデーを食べ始めた。一本を食べ終って、 「かあさん」  と再び呼んだ。やはり返事がない。 「長い便所だな」  そう言いながら、清志は二本目に手を伸ばした。とけ始めたアイスキャンデーを、ぺろぺろと舌の先でなめながら、清志はその味を楽しんだ。この、とけ始めた時のアイスキャンデーが、清志には一番うまい。しかも今日は、二本も食べることができるのだ。二本も買ってくれることなど、めったにない。巡業に出て、大汗をかいた後でも、母は腹に悪いと言って、一本しか買ってくれなかった。二本も買ってくれるのは、お盆ぐらいなものである。  いま二本目を惜しみ惜しみ食べ終って、清志はふいに母が気になった。 「かあさん、早く食べないと、とけちゃうよ」  清志はアイスキャンデーをちゃぶ台の上において、立ち上った。便所に行って見たが返事がない。 「かあさん、どうしたの」  清志は戸をあけた。母の姿はなかった。 「かあさん」  清志の声が、うろうろとオクターブが高くなった。たったふた間の家である。さがす手間も何もない。それでも清志は、次の間の一間の押入をあけてみた。無論いるはずもなかった。清志は不安にかられて外に出た。暗い路地に、家々の灯が淡く洩《も》れているだけである。 「かあさーん」  清志は泣きたくなった。母が夜出て行く所と言えば銭湯だけである。清志は、表通りの銭湯にも駈けて行った。だがそこにも母はいなかった。うす暗い電灯の下のちゃぶ台に、アイスキャンデーがとけて、べたべたにぬれていた。  この日限り、母の姿は清志たちの前から消えた。清志はそれ以来、アイスキャンデーを見るのも嫌になった。 「お前のおっかあはなあ、全くのろくでなしだ。男を作って逃げたんだ」  父は酒を飲むごとに、清志に向って憎々しげに言った。ある時は、ふいに、清志を引きすえるようにして、女のかつらをかぶせ、 「ふん、クニの奴!」  そう言って清志をなぐったこともあった。巡業に出ても、座員の前で、父はよく同じ言葉をくり返した。  男を作るという言葉は、清志には最初何のことかわからなかった。男の人形を作ることかと、清志は何となくそんなことを想像していた。だが母が人形を作る姿を見たことはない。  一年たったこの頃では、この言葉が清志にもおぼろげながらわかって来た。それまではあまり耳に入らなかった、女を作るとか男を作るとかいう言葉が、急に清志の耳につくようになったのだ。 「おい、小僧。どうしてもこれを受けとれねえってのかい」  アイスキャンデーがとけかけて、ぽとっと雫《しずく》が道に落ちた。乾ききった土が、白い灰のように、小さく埃《ほこり》をあげた。 「まあ、だんな、すみませんねえ。この子は恥ずかしがっているんですよ。代りにわたしがちょうだいさせていただきます」  三味線の女が、再び撥で清志の背をこづいたが、撥を左手に持ちかえて、愛想よく男の方に手を出した。 「いいや、おれはお前さんにやるんじゃない」  男は意地になって、ぼとぼとと雫のたれるアイスキャンデーを清志につき出した。虚無僧姿の座長が、一歩男に近よった時だった。清志はちらっと男を上目使いに見たかと思うと、アイスキャンデーをひったくって、やにわに地面に叩《たた》きつけた。 「何てことをするんだ」  男の手が清志に伸びた時、ひょいと男の前に立ちふさがった女がいた。紺のワンピースを着た、若い女である。 「近藤さんのおとうさん。子供を相手に何ですか」  高飛車な口調だった。むき出しの腕が、ふっくらとした、まだ二十そこそこの若い女性である。 「いやあ、これは……」  男は頭をかいた。 「しかしね、いくら子供だって、人のやったものを、いきなり地面に叩きつけるなんて、めんこくもねえ」  とり囲んだ人たちは、おもしろくなって来たというように、女と男とそして清志を代る代る眺めている。旅役者の一行だけが、真っ白い顔を日の下にさらして、無気味に、虚無僧のうしろに沈黙していた。ひとり虚無僧はうすら笑いを浮かべて二人のやりとりを眺めていた。 「近藤さん、あなただって、ついこの間、ほら、おはぎをこればっかりはごかんべんって、いくらすすめたって、おあがりにならなかったじゃありませんか。誰だって、かんべんしてほしいものが、一つや二つはあるんじゃない」  はきはきした口調だった。丸顔の頬《ほお》に大きな笑くぼが絶えずうかぶ。 「近藤さん、およりにならない」  女は急にやさしく言った。 「本当にまあ、すみませんでしたね」  三味線の女が二人に頭を下げ、虚無僧が、 「すまなかったな、おっさん」  と声をかけた。それは謝ったというより、からみつくような陰気な声だった。 「どん」と太鼓が鳴った。いまが潮時と見たのだろう。三味線が賑やかに鳴り、旅役者の一行はその場を離れた。      二  芝居は六時半から始まる。夕食とも昼食ともつかない食事が、四時半に始まった。劇場主の、十畳の茶の間である。天井が煤《すす》けて、片隅に真っ黒な煤がぶらさがり、風にゆらゆらと揺れていた。そのそばに、太い|〆縄《しめなわ》を飾った大きな神棚があり、黒ずんだ恵比須・大黒がまつられ、大入袋が幾つか並べられている。  小さな塩引と、漬物と、油揚のみそ汁に、米の飯は白かった。劇場主の前では、もう誰も先ほどの事件を言い出すものはいない。一行九人のほかに、あけ放たれた次の間で、酌婦らしい女が五、六人、テーブルを囲んで、お茶漬をかきこんでいる。劇場の主人は、母屋つづきに料理屋も経営していた。女たちは妙にひっそりとして、口をきく者もいない。旅役者の一行に、遠慮しているのかも知れなかった。 「入りはまず、大丈夫ですよ」  小屋主は、仕事に似合わぬほっそりとした青白い男である。髪を七三にきれいにわけて、ひげの剃り跡が鮮かに青い。 「天気はよし、演し物はよし。それに何より、いま炭礦《たんこう》は馬鹿景気でね」  声が少しかん高かった。 「全く、戦争様々ですね、ご本家さん」  清志の父は、あいづちを打って、漬物を口にほうりこんだ。早く食事をすませて、着物を着かえなければならない。いや、その前に、小道具も大道具の仕事も役者たち自身がしなければならない。だが小屋主は、頓着なしに話を展《ひろ》げていく。 「学校の先生たちはね、石炭なんざ只《ただ》ですよ」 「へえー、只とはねえ」  適当にあいづちを打っている父親の声に耳を傾けていた清志は、思わず箸《はし》をとめた。ふと見上げた真正面の壁に、日の丸の額が飾ってあり、その右手に天皇、左手に皇后の写真が並んでいた。  清志はあわてて目をそらすと、みそ汁をがぶりと飲んだ。 「目がつぶれるぞ!」  と、どなった教師の顔が目に浮かんだのだ。潮焼のした、東北の漁村の教師だった。いやに濃いちょびひげを生やしていた。  その漁村に巡業して、清志は一日だけ学校に行った。清志は、巡業の先々の学校に、一日二日と転々して歩く。  その日はちょうど十一月三日で、明治節だった。一年から高等二年までで、僅《わず》か七学級の学校だった。屋内運動場に並んだ生徒たちの中に、清志もいた。やがて白い手袋をはめた校長がうやうやしく御真影の幕をひらいた。それと同時に「最敬礼」と教頭が号令をかけた。女のようなやさしい声だった。清志はぼんやりと皇后の顔を眺めていた。一番前に並ばせられた清志は、みんながお辞儀をしたことを知らなかった。清志は、式になどめったにぶつかったことはない。他の生徒たちのように、式の予行練習をしていたわけでもない。ただ皇后の顔が清志をひきつけた。 (かあさんに似ている)  四か月前に家を出た母のどこかに似た、そのやさしい顔をよく確かめたいと思って、清志は首を前に突き出しさえした。 「アジアの東、日出づる所」  オルガンに合わせて、みんなはうたった。どこかで聞いたことのある歌だった。しかし巡業先を転々と渡り歩く清志には、あまり馴じみのない歌だった。清志は相変らず、皇后の写真だけを見ていた。校長がその幕を閉じる時、再び「最敬礼」の号令がかけられた。だが清志はやはりお辞儀をしなかった。  式が終って教室に入るや否や、清志はいきなり往復ビンタをくらった。 「国賊だぞ! お前は。非国民だ、全くけしからん。不敬罪で監獄に入れられるぞ」  清志にはわけのわからぬ言葉だった。教師は、なぜ御真影に最敬礼しなかったのかと、清志を責め、あげくの果てに、 「きっと親の思想が悪いにちがいないんだ」  と、顔を真赤にして睨《にら》んだ。歌もなぜうたわなかったのかと、教師はしつこく責めたてた。 「あの……皇后さんが、かあさんに似ているの」 「何をっ! お前ふぜいのおふくろに?」  教師は益々いきり立った。 (ぼくはただ、かあさんを思い出していただけなのに)  子供の清志には、弁明のできないことだった。 「お辞儀もしないで、不敬至極な奴だ。いまにその目がつぶれるぞ」  清志はもう一度よろける程なぐられた。いまだにあの時のことを清志は忘れることができない。  清志は塩引を箸でほぐしながら、恐る恐る壁の皇后の顔を見た。やさしく気高い顔だと思う。そしてやはり母に似ていると思った。 (さっきの女の人は、どこの人だろう)  清志は、あの人の笑くぼも、母の笑くぼに似ていると思った。何だかもう一度会ってみたい気がする。 「清志! 何をぐずぐずしてるんだ。早くごちそうさんにせんか」  父親にせかされて、清志はあわてて飯をかきこんだ。  清志は舞台の袖《そで》で、自分の出番を待っていた。 「港の灯り 紫の夜に」 「支那の夜」のレコードにあわせて、クーニャン姿をした女が三人、大きな支那扇を胸に抱えて踊っていた。三人は客席を見ながら、絶えず白くぬれた歯を見せて、微笑を投げかけている。フットライトに照らされて、三人には暗い客席は見えるはずがない。 (何を見て笑っているんだろう)  真ん中で踊っている一番背の高い銀子は、ふだん笑顔を見せたことがない。その銀子が一番あでやかに笑っている。それが清志には、何かうす気味悪くさえ見えた。三人の踊っている背に水色の幕がおりている。その幕のうしろで、清志の父を始め、手のあいた者たちが「母恋鳥」の舞台の準備をしていた。  拍手が湧き、幕がおりた。小走りに戻って来た銀子は、ニコリともせずに清志のそばをすりぬけて行った。一番うしろから駈けこんで来た春美が、 「うまくやるのよ」  と、上気した頬を清志の頬にすりよせて楽屋に駈け去った。清志は、頬を二、三度叩くように手でこすり、春美を見送った。  清志たちの芝居「母恋鳥」が始まった。清志の父が扮する父親と、三味線引の勝子が扮する母親とが、言い争う場面から芝居は始まる。舞台は、中流の小ぎれいな座敷。廊下が前面にあって、庭には桜の花が咲いている。 「ただいま」  二人の争っている所に、清志がランドセルを背負って帰って行く。二人はぴたりと口論をやめ、清志に学校の話をきき始める。清志は明るい少年の役だ。おもしろおかしく清志が話をするのを、二人はあいづちを打ちながら、互いのかわす視線は険悪である。 「算数の試験、今日も一〇〇点だったよ」  すると、さっきまでけんかをしていた親たちが、一枚の答案用紙に頬をよせ合って眺める。が、それに気づいて、二人はパッと体を離す。答案用紙がびりっと破れる。観客が笑う。やがて物語は幾回転かして、清志の留守に母親が家出をする。母の書置きを見た清志が、 「おかあさん!」  と叫んで庭におりる。そしてまた家の中に駈けもどる。どこにも母はいない。清志は客席の方に向って、体を二つに折って、 「おかあさーん」  と呼ぶ。既に清志はもう泣いていた。何度やっても、ここまで来るとつい涙が出るのだ、最後に、縁側の柱につかまって、 「おかあさーん」  と、悲痛に叫ぶ。そしてずるずると柱につかまりながら、縁側にくず折れてしまう。  母がいなくなった夜を、清志はいやでも思い出す。泣くまいとしても泣けてくるのだ。こんな芝居をさせる父が、清志は憎かった。客席のあちこちからすすり泣きの声がして、幕が静かにおりた。気がついたように、幕の向うから激しい拍手が聞えてくる。ああ、今日も終ったと、清志はべったりとすわりこんでいた。  幕が再び上った。清志はすわりなおしてお辞儀をした。嵐《あらし》のような拍手だ。そして今度こそ幕がおりた。 「全く涙の名子役だよ、清志ちゃんたら。よく毎晩泣けるわねえ」  芝居のはねた後、一同は小屋主の茶の間で酒を飲み、みんないい機嫌で桟敷に帰って来た。桟敷はみんなの寝る場所であった。母親役の女が、清志の肩を抱いた。 「清志ちゃん、わたしあんたの本当のおかあさんになって上げようか」 (誰が!)  清志はもう知っているのだ。酒臭い女のそばから逃れて、清志は、誰からも遠く離れた客席に座ぶとんを並べた。座ぶとんの一つを折って枕《まくら》にし、清志は着のみ着のまま、ごろりと横になった。他の者たちも、小屋主から借りたふとんを敷いて、寝床を作り始めた。 「支那の夜」を踊った女たちが三人、清志の近くにふとんを運んで来た。 「清志ちゃん、抱いて寝てあげようか」  さっき舞台の袖で頬ずりをした春美が白い首をぽりぽりかきながら言った。 「何言ってんの、子供と寝たって、しようがないじゃないの」  銀子は、桟敷の手すりに片足を上げて、ストッキングをぬぎながら言った。すらりと長い足である。 「そうでもないわ。しようがあるわよ」  三人は声をあわせて笑った。そして順々に寝床に入ったかと思うと、こそこそと話を始めた。そこから二、三間離れた向うに父が突っ立ち、母親役の女がふとんを敷いていた。清志はその二人を、黙って見つめていたが、ごろりと寝返りを打った。べたっと頭に何かついたものがある。さわってみると、客の口から落ちたのだろう、小さくなったキャラメルが、座ぶとんにへばりついていた。キャラメルの甘い匂《にお》いが、かすかに鼻をついた。清志はキャラメルのついた方を中にして座ぶとんを折り直し、ぼんやりと、階下の暗い客席を眺めおろした。先程まで満員だった客席が、うそのように淋しい。 (みんなうちへ帰って行ったんだなあ)  清志も家が欲しいと思う。いつもこんな桟敷か、安宿が清志たちのねぐらだった。女たちはまだひそひそ話をしている。清志は春美から、母親の家出の理由を聞かされていた。  今年の五月の夜だった。父親が酒を飲んだあと、 「お前のおっかあは、男を作って逃げたんだ。このろくでなしが……」  と、いつものように絡《から》んだ。その後で春美がこっそり言って聞かせた。 「清志ちゃん、あんたもう四年生だから教えてあげるけどね。座長は出たらめ言ってるのよ。あんたのおかあさんが男を作ったんじゃないの。座長があの女と、べったりだったのよ。座長が女を作ったのよ。おかあさんがさ、そりゃあそりゃあ、いやな思いをしたのよ。あのおかあさんの目の前で……。いくら何でもひどいわよ。おかあさんはあんなきれいな人でしょ。そりゃあ一座の男の中には、おかあさんを好きな人もいたわよ。物凄《ものすご》く熱心になって、おかあさんに言い寄った人だっているわよ。だけどね、おかあさんはこんな世界が、いやになったんだわ。いわば追い出したのは、あの女と、座長なのよ」  若い、まだ十七の春美は、何の考えもなく、べらべらと子供の清志に言って聞かせた。まだ子供の清志は、それほど強いショックは受けなかったが、ハッキリと父親が嫌いになったのはその頃からだった。そして、母が無性に恋しくなったのもその頃からだった。芝居をしながら、本当に泣けて来たのも、この頃からであった。  みんなひっそりと、いつしか寝入ったようである。しかし清志は、鋭い聴覚で、父とあの女が起きているのを感じていた。      三  父に連れられて、清志はK町の小学校の正門をくぐった。学校は劇場から百メートル程の所にあった。通りから十段程石の階段を上ると、思いがけなく広い校庭があった。大勢の生徒たちが遊んでいた。 「広いグラウンドだね、おとうさん」  校門のすぐそばに、伐り残したニレの大樹が一本気持よく繁っていた。ブランコも遊動円木も回旋塔も、鉄棒もある。 「凄いね、おとうさん」  父親はふふんと鼻先で笑った。 「うわあ、三階だよ」  清志は喜んだ。 「三階じゃないよ」  父親はにべもなく言った。  黒ずんだ、少し波打っているような古ぼけた校舎が、山腹の一番下にあった。その上に新しい校舎が二段になって、同じく山腹に建てられているのが、一見三階建にも見えた。それをつないでいるのが、階段のある廊下なのであろう。急激に人口の増えた炭礦の姿を、この学校も映していた。学校の右手に、真っ黒なズリ山が、富士山のように形よく裾《すそ》をひろげている。トロッコがその稜線を、のろのろと下って行くのが見えた。どこからともなく、機械の音が聞える。町全体が、低くうなっている感じだった。どこの炭礦にも見られるように、この坑口近くにもかすかな煙が漂っている。積み上げられた石炭が自然発火しているのだという。朝の光の下に、その煙が美しくたなびいていた。  生徒たちが、二人を追い越して、勢いよく自分たちの玄関に駈けて行く。あんなに元気に学校に駈けて行くことなど清志にはほとんど経験のないことだった。長くて二日か三日、たいていは一日で土地を変る巡業の旅である。清志はいつも肩身をせまくして、父の後からおずおずとついて行く。しかし父は、学校に来ても、いつも胸を反らしていた。初めは父も何となく頭を低く下げていたのだが、学校の教師たちの態度が、清志の父の態度を変らせてしまったのだ。たいていの教師は、一日か二日の入学だと知ると、憐れむように父子を見た。 「大変ですなあ」  と、同情するほうはまだよかった。 「おとうさん、あんた、子供の教育のためには正業につくことですね」  そんなことをいう教師もいた。 (正業とは何だ、正業とは! 役者は立派な正業ではないか)  元々芝居が好きで、今は九人の座長である。しかしその誇りは、学校に行く度に傷つけられた。 「旅廻りですか、大変ですね」  と言われると、旅廻りという言葉が、ぐっと胸に来る。それはいかにも、しがない旅役者と言われた感じだった。 (おめえさんたちより、おれの方が、働く金高は多いんだぜ)  と、背広の内ポケットから、財布を出してみせたいような気にもなった。清志の父親は、次第に横柄な、そのくせひがみっぽい、人に絡《から》む人間になって行った。  二人は再び石段を上り正面玄関に入った。玄関の真正面に広い廊下があって、朝日の射しこんでいる屋内運動場が見えた。廊下の左手に職員室があった。遠慮会釈なくがらりと戸を開けて、 「お早うございます」  と、父親は声をかけた。旅役者といえども、舞台で鍛えた声である。ざわめいていた五十人程の職員たちが一瞬しんとなった。 「いやあ、いらっしゃい」  戸口の近くにすわっていた二十七、八歳の青年教師が、磊落《らいらく》に迎えた。再び職員室はもとのざわめきに戻った。  だが清志は、何人かの女教師たちの目が、自分に注がれているのを感じないわけにはいかなかった。清志は棒縞《ぼうじま》の着物を着ている。今時和服など着ている生徒など、どこにもいない。母がいた時は洋服を買ってくれた。しかしその服も、今年はつんつるてんになって、着ることはできない。 「どうせ毎年体は大きくなるんだ。着物の方が経済的だよ。あげをおろせばいいんだからな」  父親は、清志に洋服を買おうとはしなかった。 「転入ですか」  肩幅の広い、がっしりとした教師は、にこりと笑った。白い歯が健康である。その教師のそばに、三人程の転入生が父親や母親につれられて立っている。  戦争の進展と共に、炭礦の人口は日増しにふくれあがっていた。学校には毎日のように転入生があった。教師はその取扱いにすっかり馴れていた。やがて清志の受付の番になった。 「ほう」  受付の教師は、父親の差出した書類を見て、驚いたように二人を見た。その書類は、本のように部厚く綴じられた在学証明書の累積であった。 「ほほう、一昨日は上砂川《かみすながわ》ですね。うん、その前は美唄《びばい》か。ところでここも今日一日ですか」  教師は、憐れむように清志を見た。 「いや、ここは二日おせわになります。とにかく吾々は流転の人生ですからな」  父親は唇を歪《ゆが》めて、皮肉な微笑を浮かべた。また出たと清志は思った。「流転の人生」というのは、父の得意な言葉なのだ。教師はそれには答えず、 「高津先生、転入です」  と呼んだ。 「はい、只今」  きれいな若い女の声が跳ね返って来たかと思うと、白いブラウスに、紺のタイトスカートの女教師が近づいて来た。清志は思わずハッとして、父親を見上げた。 (あの人だ!)  昨日のアイスキャンデー事件で、自分をかばってくれた若い女だった。父親は腕を組んだまま、高津先生を上から見おろした。しかし向うは清志と父親を見ても気づかない。清志は昨日、若衆まげのかつらをかぶり、真っ白に化粧をしていたし、父親は虚無僧姿で深編笠をかぶっていた。 「高津真樹子です。どうぞよろしく」  腕を組んで突っ立っている父親と、とまどったように自分を見つめている清志に、真樹子は快活に挨拶をした。 「学籍簿は?」  真樹子は受付の教師の顔を見た。白いすべすべとした頬に、例の笑くぼが浮かんでいる。丸顔に大きな目が、印象的であった。 「いや、学籍簿はありませんよ。これを見てください」  受付の教師は、部厚い在学証明書を真樹子に手渡した。 「あら」  細く濃い眉《まゆ》を少しひそめたが、 「ああ、昨日の……」  と清志を見、父親に視線を移した。父親はたばこに火をつけながら、唇をかすかに歪めた。マッチの火を、息をふきかけて消した後、父親は言った。 「これはこれは、昨日はとんだおせわになりましたな」  清志の父は、たばこを深く吸いこんで、見すえるように真樹子を見た。 「どういたしまして」  真樹子は、父親の毒をふくんだ語調に気づいたのか、気づかないのか、相変らず明るい顔だった。 「たった二日じゃ、かわいそうね清志ちゃん」  初めからいきなり清志ちゃんと呼んでくれた先生は、初めてである。清志はうれしくて真っ赤になった。 「何がかわいそうなんです」  父親は咎めるようにいった。清志たちの後に、また二人程転入生がやって来た。 「だって、あちらに一日、こちらに二日じゃ、お友だちもできないじゃありませんか」 「友だち?」  ふふんと鼻先で笑った父親は、たばこの灰をそばの灰皿に落さず、床に落すと、 「先生、あっしはね、人間なんて、広く浅くつきあうのが、一番いいと思うんですがね」 「まあ、わたしはいやですわ」  真樹子はどこまでも快活だった。 「しかしね、昔の偉い人も言ったじゃないですか。君子の交りは水の如くとね。これは悧巧《りこう》な手ですよ。え、先生。人間なんて裏切る動物でしてね。長年連れそった女房だって……。まあ、とにかく友だちなんかいないほうが、こいつのためですよ」  父親は笑った。真樹子はじっと父親を見つめていたが、はっきりと言った。 「ご自分の経験だけで、そう簡単に割り切られては困りますわ。ね、清志ちゃん。さ、校長先生の所にご挨拶にいきましょう」  真樹子はきびきびと先に立った。  校長室から出ると、父親は真樹子に言った。 「昨日の、あのわからず屋は、あんたの知合いですか。いやな野郎だった」  そう言ってすたすたと玄関の方に歩きかけたが、立ちどまって真樹子を待った。 「先生、この子は明日限りでさようならなんだ。清志ちゃんなぞと、べたべたした呼び方は、どんなもんですかね。なまじかけるな徒情《あだなさけ》と、歌の文句にもありますわな」  真樹子は呆《あき》れて、とっさに何と返事をしてよいかわからなかった。どこの学校に行っても、何かいやみの一つや二つは、言わなければ気のすまない男であることを、無論知るはずもなかった。  清志の手を引いたまま、真樹子は父親を見送った。  子供たちの群れている校庭を横切って、父親は肩をそびやかして去って行った。  一時間目は算数だった。真樹子は生徒たちの出席をとると、いつもの朗かな声で言った。 「今日は新しいお友だちをお迎えしました」 「ウオーター」  真樹子は男子組の受持である。この四年生の男の子たちは、何かあると「ウオーター」と叫ぶのだ。誰が言い始めたのか、生徒たちの気に入っている叫びである。これは彼らの感動詞なのだ。彼らがそう叫ぶ時、いっせいに胸の前で手を打ち、そして手を大きく広げる。ウオーターの叫び声に、教壇に立った清志は、呆気にとられた。 「お名前は沢野清志さん」  真樹子は名前を大きく黒板に書いた。 「ウオーター!」  生徒たちは再び叫んだ。うれしいのだ。 「でもね、皆さん、清志ちゃんは今日と明日の二日だけ皆さんとお勉強をして、その次の日は赤平《あかびら》の学校に行きます」 「なあんだ、たった二日か。つまんないなあ」 「んだ、んだ。つまらないなあ」  生徒たちは口々に不満を鳴らした。清志は何か泣きたくなった。 「先生もつまらないんです。たった二日だけでお別れなんて。清志ちゃんも淋しいと思います。でもね、清志ちゃんはね、おとうさんのお仕事の関係で、どの学校にも、一日か二日しかいることができないんです」  生徒たちは黙った。 「ですからね、清志ちゃんには、仲のよいお友だちのできる暇はないと思うんです。皆さん、うんと仲よくしてあげてくださいね」 「ウオーター!」  一段と大きな叫びだった。  清志は、空いていた一番前の席にすわらせられた。算数は計算問題だった。   688 ÷ 43 =  一題目から清志にはわからなかった。こんな数字を見せられると、頭がこんがらかってしまう。清志は鉛筆を持ったまま、指の腹でくるくると鉛筆を廻した。そしてじっと芯《しん》の先を見つめた。 (鉛筆を作るって、むずかしいだろうなあ)  清志はそんなことを考えた。 「どうお、清志ちゃんできた?」  真樹子が近づいて来た。清志は首を横に振った。体がこわばった。叱《しか》られはしないかと、清志は恐る恐る真樹子を見上げた。真樹子は深くうなずきながら、清志の背中をなでた。 「そう、無理もないわね。算数って、毎日順序よく続けてやらなければ、誰だってわからないんですもん」  思いがけなく優しい言葉だった。清志の経験では、大方の教師が清志の成績には無関心だった。たった一日や二日在学する生徒の成績など、責任のないことであった。清志に払う関心は、他の生徒たちに向けられていた。それでも中には清志のノートを見る教師もいた。だがそれも、 「なんだ、こんな問題もできないのか」  と、頭をこづくか、黙ってノートを見て過ぎるかであった。  学校によって、教科の進み方がまちまちだった。まだ一度も習っていない所を、突然やれと言われても、わかるわけがない。 「清志ちゃん、九九を知っている」 「うん、下敷に書いてあるから」  茶色の下敷には九九が印刷されてあって、清志はよくそれを汽車の中で練習したものだった。 「そう、じゃ、これならできるわね」    4 ÷ 2 =   12 ÷ 3 =   25 ÷ 5 =  清志の鉛筆を取って、真樹子はす早くノートに書いた。清志はうなずいて、勢いよく鉛筆を取った。そして慎重に答を書いた。 「よくできたわね」  胸のポケットから、朱の万年筆をぬいて、真樹子は一題ずつ丸をつけ、一〇〇点と書いた。清志は首をすくめて、ニコッと笑った。長いまつ毛の、その澄んだ目をじっと見つめて、真樹子もうれしそうに笑った。 「ぼく、算数の一〇〇点なんか、もらったことないよ」  清志は甘えるように言った。真樹子に対しては、自然に甘えることができた。真樹子は、似たような問題を十題ほど、清志のノートに書きながら、 「でもね、清志ちゃん、清志ちゃんはね、できないんじゃないのよ。同じ先生に習っていたら、全部一〇〇点とれるほどお悧巧なのよ」 「そうかなあ、ぼく国語は時々一〇〇点取るんだけど」 「そう、偉いわね。がんばってね」  清志には珍しく楽しい算数の時間だった。今までのように、わけのわからない問題に、ぼんやりと時間をつぶさないでもよかった。新しい問題を教えながらも、決して真樹子は清志をなおざりにしなかった。 「ええと、九七……なんぼでしたか、清志ちゃん」  さり気なくそんな問を発しながら、真樹子はみんなの前で清志にも答えさせた。今まで清志は、たとえ得意な読み方の時間でも、指名されることは、ほとんどなかったのだ。  ベルが鳴り、真樹子が一礼して壇をおりると、生徒がばらばらと、四、五人清志のそばに寄って来た。 「おい、小便に行くべ」 「うん」  清志は弾《はず》んで、素直に立ち上ることができた。誰かが、清志のしまい忘れたノートを、机の中に入れてくれた。生徒たちは清志の肩を押すようにして、教室を出た。その後に他の生徒たちも、ぞろぞろとついてくる。 (大きな学校だなあ)  清志は今さらのように驚いた。廊下の向うが、汽車の線路のようにせばまって見えるのも、清志には楽しかった。  その時だった。 「おい、みんな、沢野の耳のうしろに、変なものついてるぞ」  と、誰かが言った。 「あ、ほんとだ」 「どれどれ」  清志はみるみる真っ赤になった。しまったと思った。 「あ、おしろいだぞ」 「おしろいだって?」  一人が、清志の肩を抱くようにして、耳のうしろに鼻をよせた。 「ほんとだ。おしろいくさいや」  ふいに、子供たちの言葉が軽蔑《けいべつ》した語調になった。 「変な奴だなあ、男のくせになんでおしろいをつけるのよ」  清志は黙って立ちどまった。 「男か、お前」 「そうだ、男みたいな顔でないや。着物なんか着てよ」 「ほんとだ、着物なんか着てよ。おしろいつけてよ」 「およめに行くんだべ」  どっと、子供たちは笑った。 「よめに行くんだとよ」  清志をおいたまま生徒たちはうしろを向いてははやし立てた。清志は唇をかんだ。便所に行くのがいやになった。清志は、すぐそばの廊下の非常口から、上靴のまま外に出た。新しい学校に行く度に、必ずと言ってもいいほど、何かいやなことが待っている。清志は中庭の真ん中にある池を見た。八月の陽に輝く池が眩《まぶ》しかった。そばに立派な築山もある。白樺の木が四、五本、やさしく並んで立っている。 (何だ、こんな庭なんか!)  清志はくるりと背を向け、目の前の古びた校舎の板壁に向って、前をまくった。その板壁に、小さな蜘蛛《くも》がのろのろと這っていた。 (おれは男だぞ)  清志は蜘蛛を目がけた。小蜘蛛はあわてて逃げた。 (おれは男だからな)  清志は小蜘蛛を追いかけた。羽目板がくろくぬれた。と、その時、清志はふいにうしろから襟首《えりくび》を引かれて、よろめいた。 「馬鹿もん! 学校に小便をかける奴があるか!」  噛《か》みつくような声に、清志はふるえ上った。 「見ろ、小便をあっちこっちにふりまいて!」  清志は、左の頬をいやというほどなぐられた。 「ここは小便をする所じゃない。便所へ行け、便所に」  清志はちらっと、上目づかいに教師を見あげた。意外に小柄な、中年の教師だった。薄い鼻梁《びりよう》と、薄い唇に、酷薄な感じがあった。 「お前は何年生だ?」 「四、四年生」 「なに、四年生? 四年生にもなって、どこで小便するのかもわからないのか」  清志はうなだれた。あたり一面柔らかい苔《こけ》が地を覆っている。 「何先生の組だ?」  清志は首を傾けた。確か、入学受付の先生が、名前を教えてくれたはずだった。今まで覚えていたつもりだったが、気が動てんしていて思い出せない。 「何だ、先生の名前も覚えていないのか」  体に似合わず、大きな声がびんびんとひびく。その時、生徒につれられて、高津真樹子が非常口から降りて来た。 「あら、村門先生、その子がどうかしましたか」  真樹子は、清志が叱られていると聞いて、飛んで来たのだ。清志は恥ずかしさに顔が上げられなかった。 「なあんだ、先生の組ですか。いかんですな、この子は。ほら、校舎に小便をぶちまいていましたよ」 「あら、あら」  真樹子の頬に、大きく笑くぼが浮かんだ。 「ごめんなさい、先生。この子は今日入学して来たばかりですの。きっと、ご不浄に行くまで、こらえられなかったのですわ。ね、清志ちゃん、そうでしょう」  清志は首を横に振った。 「あら、ちがうの? どうしたの」 「…………」 「何しろですなあ、校舎におもしろがって小便をふりかけるようじゃ、こりゃ高津先生、ろくなもんじゃありませんぞ」  村門は、その場を真樹子に委《まか》せて去って行った。 「どうしたのよ、清志ちゃん。みんなとご不浄へ行ったはずじゃないの。みんなはどこへ行ったの?」  真樹子はやさしく清志の顔をのぞきこんだ。 「みんなは……みんなは……」  ふいに清志はしゃくりあげた。 「そう、わかった。誰かに意地悪されたのね。ね、そうでしょう」  肩に手をかけられて、清志はワッと声を上げて泣いた。真樹子は清志の肩を胸に抱きよせた。 「清志ちゃん、先生が悪かったわね。先生が一緒にご不浄について行って上げればよかったのにね」  やさしく言われれば、言われるほど、涙がこみあげてならなかった。 「清志ちゃん、もう泣かないのね」  そう言いながら真樹子は、清志の肩を抱きしめた。真樹子のふくよかな胸に、顔をうずめたまま、清志は泣きつづけた。何が悲しいのか自分でもわからない。今日までこらえて来た悲しみが、涙になって一度に溢《あふ》れて来るようであった。真樹子は黙って、清志の背をさすった。泣きながら、清志の心が安らいで行った。 「泣いてもいいわ、清志ちゃん」  言われると、ふしぎに涙がおさまって来た。清志はまだしゃくりあげながら、真樹子の胸から、顔を離した。ふと見ると真樹子の白いブラウスが、清志の涙と洟《はな》に汚れている。清志は困ったと思った。  清志の父は、衣裳《いしよう》を大事にしないものは、いい役者になれないと言った。ちょっとでも汚すとガミガミと、一座の誰もが叱られた。 (こんなに汚してしまって。先生はぼくを嫌いになったかも知れない)  清志は再びしゃくり上げた。真樹子は、ちり紙を出して、清志の涙と洟を拭《ふ》いてくれた。それからゆっくりと、自分のブラウスを、白いハンカチでぬぐった。清志はあやまろうとしたが、あやまることができなかった。うなだれている清志の耳のうしろに、真樹子の視線が行った。真樹子はハッとしたように清志を見つめ、さり気なく言った。 「清志ちゃん、水道で顔を洗って来ましょうね」  洗面所には誰もいなかった。金だらいの冷たい水で、顔を洗うと真樹子が言った。 「ちょっと待ってよ、清志ちゃん。首は先生が拭いてあげる」  清志はおずおずと真樹子を見あげた。真樹子にもおしろいを見られたと思った。真樹子の大きな目が笑っている。 「清志ちゃんは偉いよね。こんな小さなうちからお芝居をして、働いているんだもの」  石鹸《せつけん》をつけたタオルで、ごしごし耳のうしろをこすりながら、真樹子は言った。 「清志ちゃん、あなたね、自分はみんなより偉いんだって、威張っていてもいいのよ。だって清志ちゃんは、勉強もするし、働いてもいるんだもの」 「ぼく、偉くなんかない」  清志はうれしそうに言った。こんなことを言われたことは、まだ一度もない。あんまりごしごしこすられるので、清志は耳のうしろが痛くなった。首をすくめながら、清志はふっと母を思い出した。母も痛いほどよく首をこすってくれたものだった。清志はまた泣きたくなった。しかし、きりっと口を一文字に閉じて、清志は窓から外を見た。ひまわりが二本、小使室の窓の前に、大きく咲いていた。その清志の横顔に、真樹子はじっと目を注いだ。二時間目のベルが鳴った。短く、そして長い十五分の休み時間は終った。  授業時間は四時間だった。掃除当番のほかは、みんな帰って行った。清志が帰ろうとした時、真樹子が呼んだ。 「清志ちゃん、職員室に来てちょうだい」  職員室と聞いて、清志はびくりと、真樹子を見た。真樹子は当番長に掃除の要点を告げて、清志と共に教室を出た。清志は空腹だった。早く帰って食事をしたかった。しかし、自分の肩に手をかけて廊下を歩いている真樹子と、このままいつまでも一緒にいたいような気もした。真樹子は、職員室の隣の小使室へ清志をつれて行った。六畳ほどの畳敷の部屋だった。ぼそぼそと毛ばだった畳に、清志はかしこまってすわった。部屋の隅に炉があり、火の気はなかったが、炉縁がぴかぴかに磨かれていた。板壁には、浴衣や作業服や、ズボンなどがぶらさがっている。壁の片側は押入で、幾つかふしのあるその板戸に、火の用心の紙がぺたりと貼《は》られていた。 「おなかすいたでしょう、清志ちゃん。先生のお弁当半分食べない?」  真樹子は、職員室から持って来た藤色のふろしき包みをひらいた。真樹子の弁当は、女の弁当にしては大きかった。アルマイトの弁当箱である。 「食べない?」  清志は生唾《なまつば》をごくりと飲みこんだが、首を横にふった。 「あら、どうして」  真樹子の頬に、清志の好きな笑くぼが浮かんだ。 「だって、ぼくが半分食べたら、先生のおなかがすくもの」 「まあ、やさしいのね、清志ちゃんは。大丈夫よ、ほら」  真樹子は、ふろしき包みから、がさごそと音をさせて、紙包みを出した。ひらくと、薄皮に紅白の大福餅《だいふくもち》が五つずつ並んでいた。清志はにこりと笑った。 「ね、お弁当を半分ずつ食べて、後でこれをいただきましょうね」  清志はうなずいた。ふたをあけると、ご飯の上には一面に海苔《のり》が敷かれ、醤油がかかっている。一度でいいから食べてみたいと幾度か見て来た弁当だった。真樹子は板戸をあけて朱塗りの箸を出し、清志に手渡した。そして自分の分を弁当箱のふたにわけ、清志にすすめた。赤いアルマイトのお菜入れには、卵焼、煮豆、漬物が入っていた。 「一時半までに帰ればいいって、今朝おとうさんがおっしゃってたわね」  真樹子はグリーンの革のついた腕時計をのぞきこんだ。清志はそばの目覚まし時計を見た。まだ一時だった。  教室の掃除を見に、真樹子が出て行った後、清志は何かのびのびとした気持になって、畳にねころんだ。清志は泳ぐまねをした。いつまでも、真樹子のそばにいたいような気がした。あした限りで、真樹子に別れるのかと思うと、清志はふいに父親が憎くなった。 (芝居なんか止めればいい) 「清志ちゃん、裏庭に兎《うさぎ》を見に行かない?」  からりと戸があいて、真樹子が顔を出した。清志はあわてて起き上った。 「兎がいるの?」  目を輝かす清志の手をとって、真樹子は言った。 「いるわよ、兎だって鶏だって。アヒルも山羊も綿羊もいるわよ」 「へえー、すごい」  二人は裏庭に出た。 「ほら、向うには伝書鳩《でんしよばと》もいるし……」  百坪ほどの庭の向うに、白くペンキを塗った伝書鳩の小屋が見えた。 「あ、豚もいる」  豚が二頭、柵《さく》につながれていた。二人は顔を見合わせて笑った。 「先生、動物園みたいだね」  うきうきした調子で言い、清志は真樹子の手につかまったまま、ケンケン飛びをした。 「先生、兎! 兎!」  清志は、十ほど並んだ兎小屋の前に立ちどまった。アカシアの木陰に兎小屋がある。兎はもぐもぐと、止まず口を動かしている。目が赤く、耳の中もほのかに赤かった。 「先生、それアンゴラだね」 「そうよ。よく知ってるわね」 「兎の目って、泣いたみたいだね、先生」 「清志ちゃんは兎が好きなのね」 「うん、かあさんが兎年なの」 「ああ、そう。おかあさんはいくつ」  清志は答えずに、兎を黙ってみていた。 「おかあさんもお芝居をするの?」 「ううん、ぼくね、かあさんがいないの」 「あら、どうして」 「男を作って逃げたんだって」 「まあ」  真樹子は驚いて清志を見た。 「おとうさんがそういうんだ。だけど、春美ちゃんは、ちがうって言ってたよ」 「…………」 「とうさんが女を作ったから、かあさんが逃げたんだって」  真樹子は何も言わずに清志の肩を抱いた。  清志も黙って肩を抱かれていた。 「清志ちゃん……」  真樹子は言葉がつづかなかった。清志は真樹子を見上げた。真樹子は淋しい顔で、アンゴラ兎を見つめていた。清志は再び、真樹子のブラウスに目をとめた。ブラウスはうすく汚点がひろがっている。清志もふいに淋しくなった。 (困ったな、こんなに汚してしまって) 「もう一時半になるわよ、清志ちゃん」  真樹子はそう言うと、くるりと背を向けた。真樹子は涙ぐんでいたのである。  広い校庭を突っ切って、清志は校門の所まで駈けて行った。大きなニレの木の下に、その影がくっきりと黒い。ひょいとふり返ると、窓から真樹子が手をふっていた。清志も手をふって、石段を駈けおりた。      四  劇場の楽屋には、みんなが寝汚《いぎた》なくねころんでいた。一人正座して講義録を読んでいる銀子のほかは、腹這いになって雑誌をめくっている者、ひじ枕をして塩せんべいをかじっている者、昼寝をしている者、そしていびきを立てて眠っている者、様々であった。見馴れている光景だが、この倦怠《けんたい》のひと時が、清志には最も嫌いな時だった。だが今日だけは気にならなかった。 「ただいま」 「なんだ清坊、いやに元気だな」  雑誌をめくっていた、太鼓叩きの男が言った。 「清志、どうだった、学校は」  たばこを飲んでいた父親は、ねたまま清志に顔を向けた。 「うん、すごくおもしろかった」  清志は、中庭で男の教師になぐられたこと、泣いたことをちらっと思い浮かべながら、父親のそばにすわった。 「しかしな清志、あの若い女の先生は、何だか生意気じゃないのか」 「ううん、とてもやさしいよ。ぼくに海苔のお弁当や、大福餅を食べさせてくれたんだ」 「ふん、昨日のアイスキャンデーみたいに、投げつけて来ればよかったのに。馬鹿《ばか》な奴だな、食って来たのか」  と、じろりと清志を見た。清志はきっとしたが、ぷいと横を向いた。  清志は一人、黙ってカバンをひらいた。今日は算数の時間に、一〇〇点をもらった。国語の時間には、読み方がうまいと言ってほめられた。体操の時間には、平均台が上手だと、みんなの前でもう一度させられた。図画の時間にも、ひまわりの絵を黒板に貼ってもらった。せっかく父にそのことを告げようと勢いこんで帰って来たが、清志はやめた。ひとりでカバンをひらき、真樹子のつけてくれた一〇〇点を眺めた。だて巻のまま、そばで塩せんべいをかじっていた母親役の女が、ひょいとそのノートを見た。 「あら、清志ちゃん、偉いじゃないの。算数が一〇〇点じゃないの」 「うん」  清志はさすがにうれしかったが、無表情に答えた。女の声に、父親はどれと言って、ノートを手に取った。 「なあんだ。こんなにやさしい問題なら、馬鹿でもできる」  父親はぽいと、ノートを清志の前にほうり返した。ほうられたノートを、清志は黙ってカバンに入れた。よほど破り捨てようかと思ったが、あの真樹子の書いてくれた字を、清志は破ることができなかった。 「何の勉強をして来たんだ」  尋ねるというより、咎《とが》めるような父親のものの言い方が、清志は嫌いだった。 「算数と、国語と、体操と図画」 「なんだ、図画と体操なら、何も習うことはねえやな。遊び時間のようなものだ」  父親に言わせると、勉強とは算数、国語、地理、歴史、理科だと思っている。父親の声に眠っていた者も目を覚まし、一人起き、二人すわりして、みんないつの間にか起き上っていた。 「座長、今日も練り歩くんですかい」  大きくあくびをしながら、若い男が言った。 「なあに、昨夜の入り工合から見て、今夜も大入りだ。何もこの暑い日中、歩くこともねえだろう」 「そいつはありがてえ」  男たちは早速片隅で花札をめくり始めた。父親は、母親役の女のひざにねころんで、耳をかいてもらい始めた。女が何かささやくと、父親がニヤリと笑って、女の頬を突いた。清志はひざ小僧を抱えて、二人のようすをちらちらと見ていた。  女がまた、何かささやいた。父親は青白い長い指を、臆面もなく女の胸に入れた。清志は思わず視線を外らした。そこへ、 「ごめんください」  楽屋の入口に若い女の声がした。 「どうぞ、どうぞ」  小屋の女中がお茶でも運んで来たのだろうと、誰も見向きもしない。田舎廻りの旅役者を訪うものなど、めったになかったからである。清志はハッと腰を浮かした。真樹子だった。 「お邪魔します」  真樹子は悪びれずに、中に入った。 「おとうさん、先生だよ」  清志はどぎまぎした。 「なに、先生だって」  さすがの父親もちょっと驚いたが、わざとゆっくり女のひざから身を起した。 「やや、これはこれは。かくもいぶせき住居へ……ささ、ま、ずーっとお通りくださいませ」  照れかくしの芝居口調だった。男たちは露骨に真樹子の豊かな胸や、腰のあたりに視線をなげかけ、女たちは無愛想に、あるいは無関心に、真樹子に背を向けていた。 「おくつろぎの所をお邪魔してすみません」  真樹子は物珍しそうに、楽屋を見廻した。楽屋といっても、古い鏡台が三つほど並んだひょろ長い十畳ほどの部屋である。 「家庭訪問ですか、先生。物好きにこんな所を訪ねてくださったのは、先生が初めてですよ」  父親は唇を歪めて笑った。 「家庭訪問というわけじゃありませんけれど……清志ちゃん、あなた小使室に宿題の紙を忘れたでしょう」  それはガリ版ずりの、国語の宿題だった。父親はそれを一べつして笑った。 「おやおや宿題か。それはまたご熱心な。先生、その熱心はわかりますがね、何も一日や二日の生徒に、宿題を出す必要はないでしょうが」 「ま、先生、昨日はどうも、とんだおせわをかけまして、ありがとうございました」  とりなすように、母親役の女はひざを正して頭を下げた。だが、他の者たちは、座長の気性を飲みこんでいるせいか、そ知らぬふりをしていた。 「昨日は、先生、なかなかいい役どころでしたなあ。今日はさぞいい気分で、こんな楽屋までやって来たのだろうが……」  言いかける父親のひざを女がつついた。 「およしなさいな。また悪い癖が始まった」 「ああ、どうせ、おれは癖の悪い奴だよ。これはおれの性分だ。先生、ところでねえあんた。いくらしがない旅役者の子でも、あまり憐れまんでいただきたいものだな」 「あら、憐れむなんて、そんな……」  真樹子は呆れたように言った。 「じゃねえ先生、聞きますがね、憐れむのでなけりゃ、何で清志に弁当やら大福餅やら食わせたんです? そちらさんから見たら、落ちぶれた旅役者かも知れないが、別に昼飯を食わないでいるわけじゃない。あんまり妙に憐れまないでいただきやしょう」  さすがに楽屋がしんとなった。 「あら、そんなことがお気にさわったんですか。わたし、ただ、清志ちゃんと二人で、おひるを食べたかっただけですわ」  真樹子は、大きな目を見ひらいて、怖《お》じずに父親を見た。 「それ、それが憐れみというんでさあ。多分あんたは、この子が転々と学校を渡り歩くのを憐れだと、思ったんでしょう。だからせめていっ時でも情をかけてやりたいと、弁当を半分恵んでくれたわけだ」 「まあ、恵むなんて。恵むなんて、そんな……」 「そんな気でさ、そんな気にきまってますさ」  父親はぐいっと、芝居もどきに大きくあぐらを組みなおした。 「え、先生様、あの算数の問題は、いったいあれは何ですかね。この子は、やせても枯れても四年生ですぜ。それを、一年坊主でもできるような問題を出して、ハイ一〇〇点でございますは、いったいどういうことです。それもこれも、憐れみじゃないというんですか。乞食《こじき》じゃあるまいし、甘い一〇〇点をもらって来たって、こちとらは騙《だま》されやしませんよ」 「どうなさったんでしょう。何か誤解なさっていらっしゃるようですけれど」  真樹子はさすがに表情を固くした。 「誤解も八回もありませんや。え、先生。いくら情をかけたって、どうせあしたはお別れですぜ。清志も淋しい思いをするだけだ。第一ね、あんた。あっちこっちの学校で、もしこいつが、下手な情をかけられたら、いったいどういう子になると思うんです。乞食じゃねえんだ、乞食じゃ。ほっといてくれたほうが、餓鬼のためだ。そんなこともわからないで……」  みなまで聞かずに真樹子はさっと立ち上った。 「わかりました。みなさんお邪魔しました。清志ちゃん、さよなら、またあしたね」  清志は泣き出しそうな顔をして、真樹子を見上げた。座長の父親に遠慮して、誰一人として真樹子を見送りに立たなかった。 「ざまあ見ろ。どいつもこいつも、学校の先生なんて、てんからおれたちを見くだしていやがる。何もこんな楽屋まで、物珍しそうにずかずか入りこんで来ることはないだろう」  父親のこめかみがぴくぴくと動いた。 (あんないい先生なのに……)  清志はうなだれて、楽屋を出て行こうとした。 「清志!」  ふらふらと立ち上った清志の背に、父親の声が飛んだ。 「あすはな、あんな学校に行くことはない! 行ったら承知しないぞ」  清志は足がすくんだ。 「何をそんなに腹を立てているのさ、おかしな人だよ」  母親役の女は、なだめるように甘えた声で言った。 「やかましいやい。てめえらにわかってたまるかってんだ」  清志はのろのろと小屋を出た。じりじりと照る日の下にのぼりがだらりと、しおれた葉のように動かない。そののぼりに、清志は体ごと顔をまいて涙ぐんだ。      五  再び夜になった。  昨夜のように、清志は舞台の袖に立って、最後の出番を待っていた。客席から湧く笑いや拍手は、昨夜より観客が多いことを物語っていた。 (今夜も大入袋をもらえるだろうか)  昨夜清志は、一円入りの大入袋を小屋主からもらった。 「坊、うまく泣いたなあ。小父さんも泣けたよ」  大入袋と言っても、子供の清志には十銭か二十銭、ぐっと弾んでも五十銭だった。しかし今夜の清志は、たとえまた一円もらったとしても、少しもうれしくないと思った。真樹子を追い帰した父親が憎くてたまらなかった。明日は学校に行くなと言った言葉が、胸にこびりついて離れない。清志は今まで、真樹子ほど好きな先生に会ったことはなかった。  出番を前にする緊張もなく、清志はぼんやりと、春美たち三人が踊る「支那の夜」を眺めていた。踊りもつまらない。清志は、折々舞台をよぎる蛾を目で追った。ふっと、母がいなくなった日の、アイスキャンデー屋の店先を思い出した。あの店先の電灯に蛾が羽ばたき、粉がかすかに散っていたのを、なぜかはっきりと覚えている。 (ぼくも、かあさんみたいに、どこかに行ってしまおうか)  清志はふとそう思った。  拍手が湧き上り、女たちが三人駈けこんで来た。昨夜も、一昨夜も、いつも同じだと清志は思った。拍子木がちょんと鳴って、幕が上った。これもいつもと同じだった。舞台では、昨日と同じけんかをくり返している。もう何十回となくやっている芝居である。しかし清志は「ただいま」というせりふを忘れたかのように、ぼんやりと舞台に出て行った。芝居馴れた母親役の女は、 「おや、お帰り」  と声をかけたが、清志は悄然《しようぜん》と座敷に上って行った。 「いやにうれしそうじゃないの」  うっかり、女はせりふ通りに言ってしまった。客席から笑いが起った。ここで清志は、学校での出来事を、おもしろおかしく語ることになっている。だが清志は、時々言葉がつまった、ともすれば涙が出そうになるのだ。今度は父親が、 「おや、お前、今日はどもりのまねでもしているのかい」  と言って、急場を救ったが、いつもの芝居とは全く調子が狂っている。しかし観客たちには、清志が父母の不仲に心を痛めている子役に見えたから、幸いボロは出なかった。最後の場面になった。最後だけはいつもよりもっと激しく清志は泣けた。幕がおりた後も、清志は涙がとまらなかった。そして結局はいつもより感動的な芝居になった。  だが楽屋に入ると、いきなり父親が大声でどなった。 「何でえ、今日のザマあ! とちったり忘れたり、いったい何十回くり返した芝居なんだ、この間ぬけ野郎!」  清志は、涙にぬれた自分の目を、鏡の中にじっと眺めながら、黙って化粧を落し始めた。 「でもね座長、今日の芝居はよかったですよ。何かこう、しんみりとしてね。ああいうふうに書き直したほうがいいんじゃあないのかなあ」  太鼓叩きの男が、清志に助け舟を出したつもりだった。 「なにい、おれの書いた芝居じゃ、おもしろくないというのか」  父親は気色《けしき》ばんだ。 「清志、ここへ来い」  清志は黙って、ぐいぐいとぬれたタオルで耳のうしろを拭いた。 「来いったら来るんだ!」  清志はかわいい口をきりっと一文字に結んで、耳のうしろをこすっている。 「清志、お前も逃げたおっかあに似て、強情な奴だなあ」  声と一緒に、清志はいやという程突きとばされた。鏡台の角に肩がぶつかった。がつんと大きな音がした。清志は黙ってすわりなおし、また耳のうしろをぐいぐいと拭いた。 「この野郎、あんな芝居を二度とやって見ろ。叩き出してしまうぞ」  やがて父親は、一座の者を連れて、夜食に立った。 「清志ちゃん、痛かったでしょう」  春美が声をかけた。 「清志ちゃんも食べに行こう」  母親役の女が肩に手をかけた。清志は首を横に振った。 「食いたくねえ者は食うな」  父親の憎々しげな声が、楽屋の外でした。  食事半ばに春美がようすを見に戻って来た。だが清志の姿は既にどこにもなかった。一座が騒ぎ出したのは、清志が姿を消してから三十分もたってからだった。  清志は、父たちが小屋主の茶の間に出かけた後、すぐに普段着に着かえた。そして、学校のカバンを肩にかけた。カバンを肩にかける時、清志は筆入をあけて確かめてみた。昨日小屋主からもらった五十銭玉が二枚、筆入に入っていた。子供の清志には、一円あれば何でも買えるような気がした。汽車の切符もあんパンもせんべいも、何でも買えるような気がした。  清志はそっと小屋をぬけ出た。風が出てのぼりがバタバタと、夜空に音を立てていた。清志は別段、どこに行くという目当もない。ただ、父の前から逃れたかった。父のいない世界ならどこでもよかった。とにかく駅に行けば何とかなると、清志はもう十時近い炭礦の街を駈けて行った。K町の大通りは一本だったから、迷うことはない。  街の灯はまだ明るかった。両側の山腹に社宅の灯が港町のように点々と美しくまたたいていた。あの、街全体が低くうなるような音は、夜になってむしろハッキリと聞えた。炭礦は休む時がない。朝の八時から夕方の四時まで、四時から夜半の十二時まで、十二時から八時までと、坑夫たちの勤務は三交替にわかれていた。夜中の十二時に夫を迎える家、送り出す家が、社宅に住む人たちの三分の二であったから、街はいつでも目ざめているような感じだった。  清志は、わき目もふらずに、一気に学校の前まで駈けて来た。ちょっと立ちどまったが、石段をかけのぼって、真っ暗な校庭に一人立った。職員室に一つ電灯が点《とも》っているだけで、その光も、清志の立っている所からは遠かった。明日はもう一日来るはずだったこの学校に、清志は来ることはできない。真樹子の笑くぼが目に浮かんだ。清志はくるりと学校に背を向けて、再び石段を駈けおり、通りに出た。  飲屋の二、三軒並んでいる前にさしかかると体格のよい朝鮮人たちが群れていた。みんなワイワイ言いながら、通りで焼き鳥を食べているのが、清志には異様に見えた。 「坊ヤ、ドコヘイク」  ふいに一人が寄って来た。清志はぎくりとした。 「早ク帰レ、オトウサンオカアサン待ッテルヨ」  朝鮮人は、優しく親切だった。 「子供ガ早ク帰ッテ寝ナイト、トウサンカアサンコマルヨ」  清志は走り出した。  時々男や女にすれちがいながら、清志は次第に足をゆるめた。一キロも走ったろうか、息が苦しくなった。巡査派出所の軒に、赤い電灯が点っていた。赤い電灯の下に、周囲の物が生気を失って見える。ガラス戸越しに、ひげを生やした中年の巡査が、白い湯呑《ゆのみ》を手に持っているのが見えた。派出所の隣から駅にかけて、下駄屋、薬屋、菓子屋、雑貨屋、衣料品店などがずらりと並び、どの店にもまだ電灯が煌々《こうこう》とついていた。その前を清志はうつむいて通り過ぎた。衣料品店の向うは直ちに川で、木橋がかかっている。そこを渡って右に曲ると駅だった。  清志は駅に来てほっとした。しかし駅には客が一人もいなかった。窓口には既に白いカーテンがひかれ、駅員の姿も見えない。 (なんだ、もう汽車はないのか)  清志はがっかりした。突然、静まり返った駅の中に、電話の音がけたたましくひびいた。清志はその音に追われるように、街に引き返した。昨日真樹子に会ったのは、確かこの辺だったと、清志はふいに思い出した。向いにアイスキャンデー屋があり、理髪館があった。  清志はそう思うと、矢もたてもたまらなく真樹子に会いたくなった。 (だけど……)  清志は今日の真樹子が訪ねて来た時の、父の態度を思った。 (先生は怒っているかも知れない)  喜んで会ってはもらえないような気がした。 (でも、先生はやさしいから……)  ふっと清志は、今日真樹子に抱かれて泣いた時のことを思い出した。ブラウスを、自分の涙と洟《はな》で汚したのに、先生はひとことも咎めなかった。それどころか、弁当と大福餅をごちそうしてくれた。 (一円で、先生の服を買えるだろうか)  清志は橋の上に立って、暗い川を見つめた。川の流れがひそやかに聞えた。清志はたまらなく淋しくなった。一人ぼっちだと思った。顔を上げると、衣料品店がすぐ橋のそばに見えた。ショーウインドーに白いブラウスが飾ってある。清志は引きよせられるようにウインドーの前に立った。少し埃のついたガラス越しに、二円と書いた正札が見える。 (二円か、困ったなあ)  清志は子供だった。父親がすぐに追って来るかも知れないとは、考えていなかった。あの楽屋を出たら、もう父親の手から逃れたような気がしている。今、清志の胸を占めているのは、真樹子のためにブラウスを買うということだけだった。  店には、十五、六の少女が椅子《いす》に腰かけて居眠りをしていた。 「ごめんください」  びくりとしたように少女は目をあけたが、客が子供と知ると、不機嫌に子供を見据《みす》えた。十時半になれば閉店できる。少女は柱時計を見あげた。まだ三十分はある。 「あのう、一円の服ある?」 「一円の服? 服ったって、子供のや、おとなのや、いろいろあるわ」  少女は、立とうともせず、うさん臭そうに清志の着物姿を見た。 「あれ、女の人の……あんな白い服」  清志はおずおずとショーウインドーを見た。 「ああ、ブラウス? あれは二円よ」 「一円のは?」 「そこん所にあるかも知れない」  少女はあごの先で、売物台の一角をしゃくるようにした。清志はその売台のそばに寄って行った。色とりどりのブラウスがむき出しのまま、積み重ねられている。  少女はまた、うとうとと眠り始めた。子供の客に緊張することはなかった。  清志は一枚一枚、ブラウスの値段を見た。 「一円八十銭か」  清志はため息をついた。一円七十銭、一円二十銭、一円五十銭、なかなか一円のブラウスはない。何枚か重なっているブラウスを、清志は不安な気持で、一枚一枚調べて行った。 「あっ! あった」  思わず清志は声をあげた。カバンから筆入を出し、五十銭玉を二つしっかり握ると、白いブラウスを胸に抱えて、清志は少女のそばに寄って行った。少女は口の端を少しあけ、首を傾けてすやすやと寝息さえ立てている。 「あのう、これください」  片側の事務机に体をもたせたまま、少女は相変らず眠っている。 「あのう、この服ちょうだい」  少女は少し身動きし、だらりと下げていた手を机において眠りつづけた。店の奥から、ラジオの落語の声が大きく聞えていた。少女の寝顔を見ながら清志は困ったと思った。 「あのう……」  三度目に声をかけた時だった。にわかに通りが騒々しくなった。思わず清志はうしろをふり返った。バラバラと駈けて行く二、三人の男を見て、清志はハッとうろたえた。父親たちだった。  清志はブラウスをかかえたまま、夢中で横手の出入口から外へ飛び出した。父たちが駅の方に駈けて行く姿が見えた。清志はとっさに、衣料品店の向い側の横道に入った。炭礦診療所と消防番屋の間の坂道で、それは山の上の社宅まで続いていた。清志は、その道を駈け上った。  かなり急な坂道である。行く手に一つ、街灯が見える。炭礦街には、こうした坂道が両側の山腹に向って、幾筋となく伸びていた。  坂の三分の一も駈け上ったろうか。ようやく清志は、道の真ん中に立って息をととのえた。その時になって、清志は自分がしっかりと胸にブラウスを抱えていることに気づいた。 (しまった! お金を払って来なかった)  しかし清志は、そのまま坂道を上って行った。両側は暗い雑木林がしばらくつづいた。下の通りから、何か喚《わめ》く声が聞えて来た。清志はおびえて、また小走りに上り始めた。息が切れる。また休む。夢で誰かに追いかけられているように、足が思うように運ばない。しかし、下の方に見えていた店々の灯が、いつの間にか見えなくなった。清志は少し安心をして、一歩一歩足もとに気をつけながら歩いて行った。清志は立ちどまった。何か物音がした。あたりを見まわした時、再び上の方で音がした。見上げると、右に左に光が揺れながら近づいて来る。ゆらゆら揺れる光が、懐中電灯と気づいて清志はほっとした。誰かが山からおりてくるのだ。清志はそのまま登って行った。懐中電灯がそばまで来た。さっと光が清志を照らした。ぎくりとして立ちどまると、 「なんだ、子供か」  若い男の声がした。巡査だった。 「今ごろどこへ行く? この上の社宅じゃないな、お前の家は」 「ハイ」  清志は巡査を、それ程恐ろしいとは思わない。芝居小屋にはよく巡査が来る。巡査は警官席で芝居を見ている。時には楽屋にも来る。女たちと、ふざけて話をしたり、中にはボタン刷毛《はけ》で、女の背から首におしろいを塗ってやる巡査もいる。 「うちはどこだ?」  若い巡査は、ぶっきら棒に聞いた。 「うちは……ありません」 「何、うちはない? うちのない奴があるものか」 「昨日、この街に来たんです」 「なんだ、親類に遊びに来たのか」  巡査はそのまま二、三歩行き過ぎた。が、 「おい、送ってやろう」  と、引き返した。 「いいんです」 「この上だろう。いいよ、送って行くよ。暗いからなあ。何という家だ?」 「…………」 「何といううちだ?」 「うちじゃないんです」 「何? うちじゃない? お前、親類の家に行くんだろう」  ようやく巡査は、清志に不審を持った。 「こんなに遅く、子供がどこに行くんだ?」 「…………」 「なんだ、その胸に抱えている物は?」  びくりと清志の肩がふるえた。 「どら、見せて見ろ。おや、新品じゃないか。おい、お前これをどこから持って来た?」  再び懐中電灯が清志に突きつけられた。 「下のお店から……」 「買って来たのか」  清志は答えられなかった。 「盗んだのか」 「ちがう、盗みません」 「じゃ、買ったのか」  清志は再び黙った。五十銭玉二枚は、固く掌の中に持っている。若い巡査はいきなり清志の腕をつかむと、坂をおり出した。 「来るんだ」  清志はおりるまいと足をふんばった。しかし若い巡査の力にはかなわなかった。清志はずるずると、今登った坂道を引き戻されて行った。      六  遂に清志は、巡査派出所の前まで引きずられて来た。  ガラス戸越しに中を見た清志は、ハッと立ちすくんだ。中には父親たちが椅子にすわって、何か話している。清志を前に立てて、巡査はがらりと戸を開けた。父親が驚いて立ち上った。 「いや、これはどうも。やっぱりこいつは、この辺にうろうろしていましたか」  声が上ずっていた。 「この子かね、昨夜あのうまい芝居をやったのは。まあ、見つかってよかった、よかった」  五十近い巡査部長は相好《そうごう》を崩した。若い巡査は一瞬キョトンとしたが、 「部長、この子は、丸屋でこれをやったらしいんです」  と、ブラウスを部長の机においた。 「君、本当かね、それは」  部長は疑わしそうに言った。 「何ですか、今の話は」  父親は、とっさには話が飲みこめなかった。 「いや、わしが向いの坂から下りて来る時、この子に会ったんですがね……」  若い巡査は、部長と父親を半々に見ながらいきさつを語った。座の男たちが席を立った。 「本当か清志! お前がこれを盗んだのか」  父親は、酒臭い息を清志に吐きかけた。父親は、飲むと必ず青くなる。その顔が引きつった。 「ううん、ぼく盗まない」 「じゃ、金を払ったのか清志!」  激しい語気に押されながらも、清志はかすかに首を横にふった。 「馬鹿野郎、金を払わないで品物を持っていたら、泥棒にきまってるじゃねえか。お前はそんなこともわからねえのか」  清志はうなだれた。部長と若い巡査は、目まぜをしながら、二人のやりとりを聞いていた。 「おかしいな清志、見ろ、これは女物じゃねえか」  父親はブラウスを手にとった。 「何でこんな物がお前に要るんだ。まさか、おっかあに……」  父親は言葉を切って、清志を睨《にら》みすえた。 「ううん、あの、高津先生に……」 「なにっ? 高津? あの小生意気な女に、なんでこんな物を……やらなきゃあならねえんだ」 「高津先生って、あの駅前の、若い先生だね」  部長が清志の顔をのぞきこんだ。清志はうなずいた。 「馬鹿者! 一日しか習わない先生に……何だってお前」  父親は激しく清志の肩をこづいた。 「でも……」 「でも、どうだってんだ!」  いらだった父親の額に青筋が立った。 「でも、ぼく、先生の服に洟をつけたの」 「何、先生の服に洟をつけた? それで弁償せと叱られたのか」 「ううん、何も言わないけど」 「言わないけど……ふん、わかった。たぶん弁償せって顔をしたんだろう。吝《けち》な女だ」 「ちがうったら。ちがうよ、おとうさん」 「何が違うもんか。小学生のお前が、万引してまでこんな物を欲しがるわけはない。高津ってえ女の態度が悪かったからだ。ねえ部長さん」  父親は、わが子の罪を転嫁することができて、幾分ほっとしたような表情になった。 「ちがうよ、ちがうったら」 「馬鹿野郎、正直に言うんだ、正直に。叱られたら叱られたとな」 「…………」 「しかしだね、部長さん、子供が万引してでも返さなきゃあならねえ程怒るってえのは、仮にも先生と言われる者のすることですかねえ」 「さあてね、怒ったかどうか、わしにはわからん。坊は怒られちゃいないというし、高津先生にも、聞いてみなきゃあね」  部長はあくまでおだやかだった。  いつの間に出て行ったのか、若い巡査が真樹子と女店員を連れて入って来た。真樹子は紺の浴衣に黄色い帯をしめていた。 「まあ、清志ちゃん、どうしたの。部長さんいったいどうしたんです?」  真樹子は、清志の父にはちょっと黙礼しただけで、清志と部長にせきこんで言った。 「この餓鬼がブラウスを盗みやがったそうだ。どうしてだか、先生あんたにはわかるだろう」  部長が答える前に、清志の父親が言った。 「まあ、清志ちゃんが、ブラウスを盗んだんですって、まさか。清志ちゃんはそんな子じゃありません」  清志はちらっと真樹子を見あげた。 「いや、盗んだんだ。どうしてだか、わかるかね」  部長と若い巡査は、苦笑しながら、目顔で何か話していた。真樹子は呆れたように父親を見た。 「先生、あんたねえ、清志がブラウスに洟をつけた時、いったいどんな顔をしたんだね」 「ああ、そんなことですか。わたし、どんな顔もしなかったわね、清志ちゃん」  真樹子は清志に笑顔を見せた。清志もこっくりとうなずいた。 「ほう、あんたは大した女だ。着物は女の命と言ってね、誰でも女は着る物を大事にしますよ。確かにブラウスに洟をなすりつけた清志も悪い。しかしね、万引してまで返さなきゃあならないと、思いつめさせた先生の方も罪がないとは言えないんじゃないですかね」 「清志ちゃん」  真樹子の声があらたまった。 「先生は今日、何かあなたに怒った?」  清志は頭を横にふった。 「じゃ、どうして、先生が怒ったみたいにおとうさんが言うのかしら」 「高津先生、何もこの子は、先生が怒ったとは言いませんよ」  部長が言った。 「ただね、このおやじさんはねえ。万引してまでも、子供がこのブラウスをあなたに上げようと思ったのは、怒られたからに決まっていると、思いこんでいるのですよ」  真樹子の顔が少し和らいだ。 「清志ちゃんが、そんなこというわけはないと思ったわ」 「しかしね、部長さん、あっしのいうのが、常識というものだと思うんだがね。清志はたった一日しか習っちゃいないんですよ。何でその先生にブラウスを上げなきゃあならないんです。そりゃ口に出して怒らなかったにしろ、この先生の顔付きやそぶりに、何か子供の心を責めるものがあったと、あっしはそう思うんですがねえ」  部長はたばこの煙を目でじっと追っていたが、 「そうかね、高津先生」  と首を傾けた。 「このおとうさんが何とお思いになろうと、わたしはちっとも怒りませんでしたわ。だって腹が立ちませんでしたもの」 「へえー、洟をなすりつけられてもねえ」  父親はせせら笑った。 「さっきからあなたは、洟をなすりつけられたとかなすりつけたとかおっしゃいますけどね、そんなことじゃありません」 「ほう、じゃ、清志は洟をなすりつけなかったのかね」 「少し黙って聞いてらして下さい」  真樹子は父親を睨みつけた。そして、便所に行く途中、清志が仲間外れになったらしいこと、校舎の羽目板に向って小便をしたこと、それを男の教師に見つけられなぐられたこと、駈けつけた真樹子の胸の中で清志が泣いたこと、その時の洟と涙がブラウスについたこと、しかし自分は決してそんなことを気にしなかったこと、等々を真樹子は順序よく語った。 「第一、子供に着物を汚されやしないかと、びくびくしているようでは、小学校の教師は勤まりませんわ」  部長と若い巡査は深くうなずいたが、父は釈然としないようすで言った。 「ふん、本当か、清志」  清志は黙ってうなずいた。 「しかし、怒られもせんのに、いったいどういうわけで、ブラウスなんか返そうと思ったんだ?」 「まあ、いいよ、おとっつぁん」  部長がたばこの火をもみ消してつづけた。 「問題はだね、おとっつぁん。これをこの子が盗んだか、どうかということなんだ」  おさえつけるように部長は言うと、さっきから部屋の隅に立っていた少女に尋ねた。 「チイちゃん、この子を今夜店で見かけたかい」 「見ました」 「このブラウスを、この子に売ったかね」 「いいえ、一円のブラウスがあるかって、聞きましたけど」 「うむ、そう確かに聞いたんだね」 「ええ」 「坊はねえ、一円のブラウスが欲しかったのか」 「ハイ。一円しか、ぼく持っていなかったの」  清志は握りしめていた五十銭玉二つを部長に見せた。 「ほう、金を持っていたのかね。その金をどうしてこの人に払わなかったんだ?」  清志はちらっと少女の顔を見た。 「でも、この人が眠っていたから……」 「本当かね、チイちゃん。店番をしながら眠るのはいけないねえ」 「ちょっとうつらうつらしたけど、でも眠ったっていう程じゃありません」 「ぼく、起したんだけど、でも起きなかったの」 「うそですよ、部長さん。何ぼなんだって、起されてもわからない程、わたし店先で眠りませんよ」 「さあ、どうかな。チイちゃんの居眠りは有名だからな。ところで坊は、どうして大きな声で起さなかったんだい」 「でも……」  清志は父の顔をそっとうかがった。父の顔が青鬼のように見えた。 「でも……」 「でも……何だ!」  父親の噛《か》みつくような声が、また高くなった。父が店の前を走ったから、あわてて逃げたとは、清志には言えなかった。 「まあ、いいだろう、おとっつぁん。子供にはうまく説明できないこともあるよ。このとおり金も持っていたし、品物もここにあることだし……それにわしはねえ、この子が先生にブラウスを上げようとした気持には、感心したよ」  部長は清志の方に向き直って、言葉をつづけた。 「しかしだねえ、坊、どんなことがあってもだよ、これからは店屋で物を買う時は、必ず金を払わなければいけないよ。金を払わなければ、結局は盗んだことになるのだよ。いいかね」  清志はうなずいたが、納得できなかった。清志には、部長が、やはりお前は盗んだと言っているように聞えたのだ。清志は口惜しかった。 「チイちゃん、これからは居眠りをしないことだね、ごくろう」  若い巡査がブラウスを持って、少女と出て行った。 「おとっつぁん、あんたは少し酒癖が悪いな、もっと自分の子にはやさしくするもんだ。天皇陛下の赤子《せきし》だからな。わけても男の子は、大事なお国の兵士になるのだ」 「しかし、こいつはしようのねえ餓鬼で……」 「ほざくな。しようのないのはお前のほうだ。こんな小さな子供を家出させておいて、あまり大きな口をきくな」  部長は初めて一喝《いつかつ》した。 「どうもすみません、旦那《だんな》」  急に父親は、神妙に頭を下げて立ち上った。 「よかったわね、清志ちゃん」  ほっとして真樹子も、清志の肩に手を置きながら、一緒に外に出た。と、父親が真樹子をふり返った。 「先生、わしはあんたに、ひとつ文句があるんだ」 「…………」  一瞬、真樹子は黙って父親を見返した。いままでくすぶっていた父親への怒りが、突如として炎を噴き上げた。 「おれは確か、今朝言ったはずだ。いらぬ情はかけねえでくれとな。それをなんだ、大福餅なんかで子供を釣るから、こんなくだらない事件が起ったんだ」  真樹子の顔が蒼白《そうはく》になった。 「言いがかりも、いい加減にしてください!」 「言いがかりだと」 「言いがかりでなくて、何ですか。絡むにいいだけ絡んで……。まるで、ちんぴらかやくざだわ」 「やくざとは何だ、生意気な」 「生意気でけっこう。あなたみたいなやくざに育てられたら、どんな事件でも起したくなるわ。泥棒だって、人殺しだって」  真樹子は、さっと身をひるがえすように、派出所にかけこんだ。 (泥棒! ぼくが?)  清志は耳を疑った。意外だった。たちまち、「泥棒」という言葉が、清志の胸一ぱいに渦を巻いた。 (泥棒か、ぼくは……)  清志はふいに目の前がまっ暗になった。五十銭玉が二枚、音を立てて足もとに落ちた。 (駄目だ、駄目だ!)  清志の目から涙が盛り上り、頬をころがり落ちた。清志はばらばらと駅の方に駈け出した。 「どうした、清志!」  ふり返った父親が追いかけた。清志は欄干にしがみついたまま、声を上げて泣いた。その深い絶望を、父は知るはずもない。 「泣くな、うるせえ」  父親は清志の体を、乱暴に欄干からもぎとった。清志はその場にしゃがみこんだ。父親はずるずると清志を引きずった。引きずられながら、清志は叫んだ。 「かあさーん」 「かあさーん」  誰に訴えようもない悲しみを、清志は自分を捨てて行った母に、叫びつづけた。 「ボー」  船の汽笛に似た炭礦の汽笛が、夜空に長くひびいた。 [#改ページ]   どす黝《ぐろ》き流れの中より      一  今年もまた雪虫の飛ぶ時節になりました。わたしは、あの雪虫の漂うような、儚《はかな》げな姿をみていますと、なぜか妹の美津子を思い出すのです。  美津子が、肌理《きめ》の細かな色白な女性だったからでしょうか。ええ、それはきれいな子でした。パッチリとした目元や、いつもほほ笑んでいるような口元など、姉のわたしにも見飽きないほどでした。行きあう人が、決まってふり返るのも無理がないような、人をひきつける子でした。  でもわたしが雪虫を見て美津子を思い出すのは、単にあの子が、色白の美しい子だったからだけではないのです。あの子の一生は、本当に雪虫のような儚げな一生でした。考えてみると、わたしたちの一生だって、儚いものには違いありませんけれどね。  実はわたし、美津子に関することは、今までどなたにもお話をしたことがないのです。身内の恥をさらすことにもなりますし……それがなぜか今日は、あなたにお話したくてならないのです。お時間をとらせて申し訳ございませんが、しばらくの間、聞いてやっていただけないでしょうか。  あれはまだ、わたしたち一家が樺太《からふと》の豊原《とよはら》にいた頃でした。わたしが十一歳の時でしたろうか。そうです。日支事変の始まった翌年の夏でしたから、十一歳でした。美津子はわたしより八つ年下ですから、その時まだ三つでした。  近所に父の懇意にしていた米屋の主人がおりました。笑うと金歯がむき出しになる赤ら顔の男でした。わたしたちはお祭りの獅子《しし》を連想して、お獅子の小父さんと言っていましたが、三日にあげず父の所に碁を打ちに来ていたものでした。  それがなんでも、小豆《あずき》の相場に手を出したとかで、一時はたいそう羽ぶりがよく、子供心にもずいぶんのお金持だと思っておりました。けれども、ぬれ手で粟《あわ》をつかむような相場のもうけなんて、結局は当てにならないものなのですね。なんでも一度にガタッと身代が倒れたとか、ある日お獅子の小父さんは、ゲッソリやつれて父の所にやって来ました。  わたしの父は、書籍、文房具を手堅く商《あきな》っている人でしたから、大損をした経験はありません。で、もうただ、自分のことのようにおろおろして、慰める言葉もなかったようでした。父が深くうなだれて、やたらとたばこをふかしていた姿を覚えています。  わたしの母はきれいな人でした。この母には、兄とわたしと、妹の三人のうち、美津子が一番よく似ていたように思います。母は気の大きな、しっかりした気性の女でした。 「相場というものは、得も損もするものですよ。大損をした後は、大もうけということもあるでしょう」  美津子をひざに抱いて、母はそんなことを言って慰めました。すると美津子がよちよちと歩いて行って、その小父さんのひざにすわりました。美津子は人見知りのしない子で、誰《だれ》にでもよくなつき、どなたからもよくかわいがられましたが、特にこの小父さんからは目に入れても痛くないと言ったかわいがられようでした。小父さんたち夫婦には、子供がいなかったせいでしょうか。しかしさすがに、その夜は美津子をひざに抱いても、しょんぼりして、いつものように頬《ほお》ずりするようすもありませんでした。  そのひざに、美津子がぐっすりと寝こんでしまうと、小父さんは美津子を抱いて立ち上り、 「今夜は、美津ちゃんを抱いてねるとしようか。あすの朝まで貸してください」  と言いました。  それまで、幾度かそんなことを言ったこともありますが、おむつをしているからと言って、母は預けたことがなかったそうです。でも、もうその頃美津子は、おむつをしないですむようになっていましたし、しょんぼりしている小父さんを慰める気持もあって、父母は美津子をその夜小父さんの家にやったのだそうです。  ところが次の朝、食事時になって、母が小父さんの家に美津子を迎えに行ったかと思うと、間もなくバタバタと血相変えて家に飛びこんで来ました。 「美津子が! 美津子が!」  日頃気丈な母が、そう言ったまま店の中に棒立ちになっていた姿を、わたしは忘れることができません。お獅子の小父さんは、美津子を連れて、その妻と共に夜逃げをしたのです。  父も母も、気ちがいのようにあちこち尋ねまわりました。警察にも無論届けました。でも、いったいどこに逃げて行ったのか、大村の行方は皆目見当がつきませんでした。荷物でもどこかに送っていたのなら、調べようもあったでしょうが、目ぼしいものはいつの間にか叩《たた》き売っていたらしく、金だけを持って逃げたのですから、樺太の中にいるのやら、内地に高飛びしたのやら、大村の行先は全くわかりませんでした。大村というのは、このお獅子の小父さんの名前です。  一年たち、三年たち、五年たっても、親ってありがたいものですね。朝起きるとすぐに新聞の三面記事を隅から隅まで読むのです。もしかして、親子三人の心中がありはしなかったか、何か美津子の行方がわかるきっかけがつかめはしないかと、それはそれは真剣でした。しかもそれは毎朝徒労に終りました。新聞を四つに折って、ポンと投げ出すようにそれを置く父の顔は、毎朝のことながら、見ていて胸が痛みました。  勿論《もちろん》、あちこちの易者にも見てもらいました。もう美津子は死んでいるという易者もあり、二年後には必ず戻ってくるという占い師もありました。また満州に生きているとか、東京の方角にいるとか、もっともらしいことをいう占者もありました。でも、占いなんて、ほんの気休めに過ぎませんね。美津子は、二年後に帰っても来ず、死んでもいませんでした。満州にも東京にも住んでいなかったことも後でわかりました。当てにならないと知りながら、占ってもらう人々は今も跡を絶ちませんけれど、つくづく人間って弱いものだと思いますねえ。      二  あれは敗戦になってから十年たった昭和三十年のことでした。わたしはその年の正月、北海道のある炭礦街《たんこうがい》の中学教師に嫁いだのです。言い忘れましたが、敗戦の年、わたしたちは命からがら、小樽《おたる》に引きあげて参りました。  幸い、父母も、兄もわたしもそろって引きあげることができました。兄は本当なら兵隊にいく年でしたが、入隊前に敗戦になり、そろって引きあげることができたのです。  父は豊原で、土地もいくらか持ち、家作《かさく》も何軒かあり、貯金もまあまあという程になっていて一生食うには困らないだけのものはあると思っていた矢先でした。当てにならないと言えば、財産もまた占いと同じようなものです。まさか、何十年か懸命に働いた汗の結晶が、一夜にして失われようなどと、誰が想像したことでしょう。貯金と土地と、家とに分けて財産を持っていたなら、これは一生食いはぐれがないと、十人が十人まで思いこんでいたものです。しかも父は、道楽と言ったら下手な碁を少しするだけで、酒を飲むわけじゃない、女遊びをするわけじゃない、ただ働く一方の人でしたから、金は増えこそすれ、減ることなど決してないと思っていたのでした。  それが何もかもなくなって、父の兄を頼りに引きあげた時は、全くの無一文でした。しかし父は、まだ四十六歳、母も四十三歳の働き盛りでしたし、兄が二十一歳、わたしが十八の何とか役に立つ年頃でしたから、一家そろってまたぞろ商売を始めたのです。どうも申し訳ありません。わたしはどうも、年を満でいうことが未だに馴《な》れず、みんなこれは数え年の年齢なのです。  とにかく、敗戦後の社会では、食べるものでさえあれば、海岸に落ちているコンブであろうと、何で作ったかわからないようなダンゴであろうと、飛ぶように売れる時代でした。初めわたしたちは一家四人でかつぎ屋をいたしました。米を農家に買いに行き、それを売って魚や貝を買い、それをまた売り歩きました。そして、母はやがて闇市《やみいち》に店を出しました。とにかく何でも売れましたね、あの頃は。  その利潤を元手に、父は文房具商時代の知人だった本屋から家を借り、そこで食料品の卸しを始めたのです。幸い樺太から北海道に転任になっていた銀行員などにも知り合いがあり、父の人柄と、その手堅さを知っている人たちから、何かと便宜を受けたのでした。  敗戦後の十年というものは、乞食《こじき》でも金持になれる時代でした。間もなく兄は、同じ闇市で知り合いになった女性と結婚しました。この嫂《あによめ》がまた無類の商売好きで、大胆な人でした。目についたものは、ごそっごそっと、誰にも相談せずに買いつけました。それがまた、瞬《またた》くまに売れて行ったのです。父がこんなふうにして、道内でも屈指の食料品卸商になった頃、母は疲れが出たのでしょうか、僅か五十二歳でぽっくりとうそのように死んでしまったのです。脳溢血でした。朝から粉雪がちらついて、寒い十一月の末でした。わたしは、港から聞える船の汽笛を聞きながら、死んだ母の枕《まくら》もとに黙ってすわっていました。そして、母が最後まで心にかかっていた美津子の行方を思ったものでした。  私が結婚したのは、涙も乾かないその翌年の正月だったのです。母が心をこめて調えてくれた花嫁|衣裳《いしよう》を着て中学教師の石井の許に嫁ぎました。わたしはせめて母の一年忌を過ごしてからと思ったのですが、石井の方の事情もあり、かねて決めていた日取りの通り、嫁ぐことになったのです。母は、わたしの花嫁衣裳を注文する時に言いました。 「美津子がいたら……あの子は十九になっているはずなんだけれど」  多分母は、美津子が生きていたら、このような衣裳を着せてあげることができるのにと思ったのでしょう。  主人の石井の勤める中学は、札幌と旭川《あさひかわ》の中程にある砂川《すながわ》から、十四、五キロ程入った炭礦街にありました。  その年の三月、主人の所に、今年高校を卒業した女の子が四、五人訪ねて来ました。その日はお彼岸のお中日で、死んだ母のことを思い、おはぎを作り、その教え子たちにもご馳走《ちそう》しました。教え子たちは喜んで食べましたが、その中に一人、おはぎに手をつけない少女がいました。高校を卒業したばかりの若い娘に似合わぬことでした。 「おはぎはお嫌い?」  わたしは尋ねました。わたしは台所に引っこんでいて、それまで少女たちの顔をろくろく見ていませんでした。主人と楽しそうに語り合う声を、障子のかげで聞きながら、忙しくおはぎを作っていたからです。 「大好きなんです」  少女はニッコリ笑いました。わたしは何と愛らしい少女だろうと、その子を見つめました。それは色白で、黒目勝ちの目が心持うるみ、生き生きとした赤い唇《くちびる》が、仏像のようにおだやかな微笑をたたえています。わたしは、どこかわたしの母親に似た顔立ちだと思いながら、 「じゃ、おあがりなさいよ」  と言いました。 「うちの母に、いただいて行っていいかしら」  と言ったその声が少しかすれて、それがまた何ともいえない魅力でした。いまでいうあのハスキーな声とでもいうのでしょうか。首を傾けた時、その真っ黒なおさげ髪が、セーラー服の肩にかかっていたのが、ひどく可憐《かれん》に見えたのです。  わたしは、その少女の言葉に思わず涙ぐんでしまいました。わたしが母を失って間もないためだったからでしょうか。甘い物はもうどこにもある時代ですけれど、その少女は、自分の母の好物を、持って帰って上げたかったのでしょう。  何とやさしい心だろうと、わたしはついその名を尋ねてしまいました。  その生徒たちは、中学時代主人に習い、高校を卒業したので挨拶《あいさつ》に来たのですけれど、嫁いだばかりのわたしには、馴じみのない顔ばかりなのです。 「大村美津子です」 「大村さん?」  わたしはハッとしました。他の少女たちと話をしていた主人が言いました。 「ミッちゃんはいい子だぞ」  しかしわたしは、何も言わずにその少女の顔を見つめました。大村という名は、わたしにとって夢にも忘れることのない苗字《みようじ》でした。そして美津子という名は、それ以上に忘れることのない名前だったのです。 「あなた、もしかしたら……」  わたしは多分顔色が変っていたことと思います。でもわたしは、取り乱しはしませんでした。 「あなたのおとうさんは、もしかしたら、大村甚吉さんとおっしゃいませんか」  そう尋ねると、 「いいえ、父は大村太一というんです」  美津子はふしぎそうにわたしを見ました。そうです。美津子だったのです。やっぱり美津子だったのです。わたしは轟《とどろ》く胸をおさえて、十七年ぶりで会った美津子の顔を、まじまじと見つめました。  大村甚吉でないかと尋ねたのは、わたしの心計《こころはから》いでした。太一という名を尋ねたならば、その名を知っているわたしをいぶかしみ、傷つきやすい年頃の彼女は、何を感ずるかと、わたしは咄嗟《とつさ》に、甚吉などと出まかせを言ったのでした。  よくぞ生きていてくれたと思うと、わたしの胸は懐しさに張り裂ける思いでした。しかも、実の姉がこの目の前にいることを知らず、実の母が、既にこの世にないことも知らず、育ての親におはぎを持って行ってあげたいというこの美津子に、わたしの胸は千々に乱れました。言おうか言うまいか、力一ぱい抱きしめたい思いをこらえて、わたしはさり気なく台所に立ち、水道の水を出しっ放しにして、声をこらえて泣きました。  この時のわたしの気持、お察しいただけましょうか。  生徒たちが帰ったあと、わたしはすぐに美津子のことを主人に告げました。主人はさすがに、あまりの偶然に驚きました。 「あの子は、そう言えば樺太の上敷香《かみしすか》か、国境の半田沢《はんださ》に住んでいたと言ったなあ。何でも造材の仕事をしていたらしいよ。そしてね、そうそう、そのあたりの川では、手づかみにできる程、鮭《さけ》がいたとか言っていたよ。しかし驚いたなあ、あの子が君から聞いていた妹だとはねえ」  わたしからちらっと聞いていただけの話では、元の受持の美津子を、わたしの妹と結びつけることなど、できなかったのでしょう。何しろ樺太の引揚者は、炭礦にはたくさんいたのですから。  主人と相談して、わたしは明くる日の午後、大村の家を訪ねました。雪どけ道に歩きなずみながら、坂道をわたしは上って行きました。同じ形のハモニカ長屋が幾段にも並ぶ丘の中腹に、大村の家はありました。 「いらっしゃい。どなたですかね」  玄関からすぐ、板敷の茶の間でした。大あぐらをかいて、ストーブのそばで酒を飲んでいた大村は、わたしを見て機嫌よく声をかけました。満十六年の歳月は、確かにその顔の上にも刻まれておりました。けれども、あの笑えば獅子のような金歯の口元も、赤ら顔も、全く昔と同じでした。わたしはその時、自分の顔がこわばって、鬼のようにきつい顔をしていたのではないかと思います。 「奥さん、どうしたんだね」  大村は赤黒いマグロのような口に、コップ酒をあおりました。間仕切りのない家ですから、畳敷の奥の間にも、人がいないのが一目でわかります。茶箱が奥の間の隅に二つ重ねてあり、小さな机が一つあるっきりでした。多分|明番《あけばん》か、遅番で、大村は一人酒を飲んでいたのでしょう。  大村一人だと知って、わたしは叫びました。 「小父さん、ひどいじゃないの! わたし、美津子の姉の富子ですよ」  コップを持っていた大村の手が、ふいにわなわなとふるえました。よくぞコップを落さなかったと思います。やがて大村は肩をがっくり落して、 「あんたあ富子ちゃんか。すまんことをした」  と、両手を板の間につきました。 「小父さん、すまんのひと言ですむことですか。母は最後まで、美津子のことを案じて死んだのですよ。亡くなってしまったんですよ。小父さん! 美津子がここにいると知ったら、ひと目会わせてやりたかったのに……」  わたしは、会ったらこうも言おう、ああも言おうと思って大村の家に来たのですが、町内切っての仮にもお大尽と言われた大村が、ハモニカ長屋の板敷の家にあぐらをかき、コップ酒をあおっているのを見ては、さすがにわたしは、それ以上何もいうことができませんでした。その上相手は、武骨な手をついて謝《あやま》っているのです。本当にそれは武骨な手でしてね。幼な心にも、お獅子の小父さんの手は、顔に似合わず女のようにすんなりしていると思ったものでした。その手が、こんなにごつくなり、当時はめていた金の指輪も、もう無論影も形もありません。 「おかあさんが死んだってか、富ちゃん。そうか、死んでしまわれたか」  ふいにくくっと、大村の大きなのど仏が激しく動いたかと思うと、大村は子供のようにしゃくりあげて泣き出したのです。わたしは呆然《ぼうぜん》と大村を眺めました。泣き上戸かと思ったのです。  大村はやがて、赤銅色の腕でぐいと涙を拭くと、すぐ傍の新聞をびりりと破いて、鼻をかみました。新聞紙の活字で鼻が黒く汚れましたが、それが妙に大村の顔を、かげりのある淋《さび》しいものにみせました。 「そうか。オスミさんは死んでしまったか。おれはもう一度昔の羽ぶりになって、美津子を連れ、必ず詫《わ》びに行きたいと思っていたんだが、やること、なすこと、みんな裏目に出てしまってなあ……」  なぜか大村は、父のことは一言も聞かず、母のことだけを言っています。わたしはふと、大村が母を好きだったのではないかと思いました。とりわけ母に似ていた美津子をさらって夜逃げしたのも、その時初めてわかったような気がしました。自分たちさえ食うにこと欠く夜逃者が、足手まといな美津子をどうして連れて行ったのかと不審に思っていましたが、その理由もわかったように思いました。  でもわたしは、新聞紙でかんだ鼻の頭の黒い大村が、ぼんやりとストーブの燃えるのを眺めているのを見ると、そんなことも立ち入っては聞けませんでした。もしかしたら、美津子は大村の子ではないのか。ちらりとそんな思いさえかすめました。いくら碁が好きでも、商売の忙しい大村が、三日にあげずわたしの家に来ていたことも合点のいかないことでした。  けれども、それはあまりに亡き母に対して申し訳のない想像だと思いました。母はしっかりした気性の人で、とてもそんなことは考えられないことでした。  それからわたしと大村は、まるで親戚《しんせき》か何かのように、一別以来のお互いを語り合いました。  大村は、豊原を夜逃げして、いったんは上敷香の方に逃げたのだそうです。そこで、造材の仕事についたものの、仕事に馴じめず、あちらこちら日雇のような仕事をしながら、流れ歩いたとのこと。 「元々が米屋だからねえ、米の一俵ぐらいかついだもんだよ。だから少々の力仕事ぐらい、それ程の苦痛じゃなかったが、人にこき使われるということは、何とも我慢がならなかったなあ」  大村は淋しそうに笑いました。しかし人に使われることにも次第に馴れ、とうとう国境の半田沢に住みついて、造材人夫になったのだそうです。大村の妻は、半田沢の旅館の下働きなどをして、何とか親子三人食べていたようでした。その旅館というのが、ほら、あの女優の岡田嘉子がソ連に逃げる時泊った中川旅館だったという話です。  そのうちに、あの敗戦にぶつかったとのこと、取るものも取りあえず、また着のみ着のままで逃げ出したそうですが、国境近くにいた人たちの恐怖と苦労は、豊原などにいたわたしたちの、到底想像もできないことだったでしょう。足手まといな子供を連れて逃げるということは、それは困難なことで、子供を捨てて逃げて来た人もいるということです。その中を、大村は美津子を背負って逃げてくれたのでした。 「やっと海岸に出て、船を見つけ、乗せてもらった時のうれしさと言ったら……しかしね富ちゃん、わしは逃げながらも、あんたたちがどうしたかと、それはそれは心配していたんだよ」  やっとの思いで、稚内《わつかない》近くの浜に着いた時、大村はその砂をつかんで、泣いたということです。しかし、敗戦が大村にとって幸いもしたと言いました。あのどさくさに、半田沢あたりからは戸籍の原簿を持って逃げる余裕など、なかったのでしょうか。引揚げてから、美津子を娘として申告することができたのだそうです。あの頃は、そんな話もよく聞きました。親を失った子を、かわいそうだからと言って、実子として届けた人を、わたしも現に知っています。  わたしたちが小樽に住みつき、商売もどうやら伸びていることを話すと、大村は心から喜んでくれました。拾ったコンブまで並べて売ったわたしたちの話を聞いて、大村は自嘲《じちよう》しました。 「富ちゃん、おれのように一度おちた者は、全く、貧すりゃ鈍するのたとえ通りだね。考えてみりゃ、終戦後は誰も彼もが裸一貫だったんだ。おれも、かつぎ屋からでも出なおせば、出なおせたものをなあ」  そう大村は自嘲しました。  大村の妻は、美津子と二人で、砂川まで、見舞う人があるとかで出かけたとのこと、なかなか帰って来ませんでした。二人は、共犯者のように、美津子をいかにして小樽の父親に会わせるかと相談しました。やはりこの際打ち明けた方がいいと言ったのは、大村でした。 「母親の死に目にも会わせないなんて、全くかわいそうなことをしたもんだ」  大村は、太いデレッキでストーブの灰をつつきました。わたしはまたしても、美津子が大村の子ではないかと思わずにはいられませんでした。      三  いよいよ小樽の父の所に、美津子を連れて行く朝、大村と、大村の妻は駅まで見送りに来ました。 「お前、まさか、帰って来ないんじゃあるまいな」  大村は、美津子の顔をのぞきこむように、汽車の窓に向って言いました。美津子は黙ってうつむいていました。突然自分の上に起きた事件に、美津子はおろおろしていたのでしょう。わたしが本当の姉だと言っても、何か信じられないような顔をしているだけでした。最初は小樽に行くのもいやだと言いました。 「いまさら会ってみても、仕方がないと思うの」  美津子にそう言われると、わたしは何か歯がゆいような、突き放されたような、複雑な心持でした。  汽車が出るまで、美津子は窓枠《まどわく》にたまっている埃《ほこり》を、白い指先で幾度も幾度もなでているばかりでした。汽車が動き出すと、大村は急に泣き出しそうな顔になり、汽車について走って来るのでした。 「美津子、戻って来いよ、必ず戻って来るんだぞ」  と叫ぶ大村の声に、美津子は下唇を噛《か》み、かすかにうなずきました。大村は、汽車にそって走りながら、ホームの端まで来ると、そこに突っ立って、首に巻いていた汚ない手拭《てぬぐい》を、それこそちぎれるように振りました。  小樽の家では、大騒ぎでした。美津子が生きていたということ、わたしの夫の教え子だったということ、大村も妻も、同じ炭礦街に生きているということ、そして美津子が小樽の家に帰って行くということが、何もかも一ぺんに電話で知らされたのですから、無理もありません。  わたしとしては、美津子が小樽の家に行くかどうか、確かめてからでなければ、小樽の父がかわいそうだと思って、こんな形で知らせてしまったのでした。美津子がわたしの妹だと知ってから、僅《わず》か四日目のことでした。  小樽の駅には、父も兄夫婦も、その男の子たちも、そろって出迎えに来ていました。  父は美津子をひと目見るなり、それとわかってかけ寄りました。 「美津子!」  ひとことそう叫ぶと、美津子を両腕の中にひしと抱きしめて、涙をこぼしました。 「よかった、よかった。美津子よかったなあ」  わたしたちも、父の姿に、人目もかまわず涙ぐみました。でも美津子は、細い肩をすくめて、じっと固くなっているだけでした。美津子にとっては、父も兄も、初めて会う見知らぬ男でしかなかったのでしょうか。  わたしは、でも、暖かい空を見上げながら、今日が新しい美津子の出発の日だと、本当にうれしく思ったものでした。それは三月二十五日のことでした。  美津子は三日程小樽の家におりました。あのふた間だけのハモニカ長屋から、いきなり一戸建の、それこそ十も部屋のある広い家に来たのですから、美津子は何かおどおどと小さくなっているようでした。父が話しかけても、言葉少なに答えるだけですし、兄にはただ肯くか、首をふるだけというような、何となくぎごちない態度を見せるのでした。食べる物も、余り箸《はし》をつけず、何か考えこんでいるふうでした。 「大村さんたちには、おみやげに持たしてあげるから、遠慮なくお上りなさいよ」  わたしが美津子の心を察してそう言うと、こっくりとうなずくのですが、やはり食欲もあまりないようでした。  そして一晩泊ると、すぐに帰ると言い、わたしを困らせましたが、何とかなだめて三日程いてもらったわけでした。それでも帰る頃には父にも馴れ、微笑するようにもなりました。だがどう見ても、自分の親の家に帰ったという、そんな喜びを美津子から感ずることはできませんでした。  父は、美津子を大村の所に帰したくない様子でした。 「美津子はわしの娘なんだ。何も大村の所に帰す筋合はない」  わたしも全くそうだと思いました。しかしふしぎなものですねえ。そうは思っても、大村の所に帰さなければ悪いような気がするのですから、妙なものです。これが既得権とでもいうものなのでしょうか。  わたしたちは、美津子を海の見える小樽商大の構内につれて行ったり、小樽公園に連れ出したりして、美津子の気を引き立てようとしました。美津子は、海のない所で育ったものですから、港の大きな船を見ると、珍しそうに眺めはしましたが、しかしやはり心はここにないというふうでした。  そんなわけで、父もいたし方なく、ひとまず大村の家に帰すことにしました。 「しかしなあ、美津子、おれが本当のとうさんなんだからな。遠慮しないでまた来いよ」  幾度か遊びに来れば、情も移るだろうと思ったのでしょう。セーターやスカート、そしてウニ、筋子、干ダラなどをたくさん持たせ、お金も幾らか持たせて、美津子を帰らせることにいたしました。  帰りの美津子は、行く時とは別人のように、生き生きとしていました。やっと安心したように、わたしにも学友のことなどを、打ちとけて話してくれました。 「美津ちゃんの本当のおとうさんは、ハンサムでしょう」  と言うと、美津子はちょっと咎《とが》めるように、その黒い目でわたしを見、 「わたし、うちのおとうさんの目が大好きよ」  ときっぱり言いました。わたしはドキリとしました。生みの親より育ての親と言いますけれど、やっぱり血が通っているだけでは、親子とは言えないのかと、しんとした気持になりました。わたしに言わせると、あのお獅子のような大村が、いい目をしているとはとても思えませんでした。愛情が通っているって、ふしぎなものだと思いました。  帰る時間はけさ電報で知らせてありましたから、きっと大村が迎えに来ているものとばかり思いました。美津子も同じ思いらしく、乗換えの砂川駅に着いた時、きょろきょろとあたりを見回し、 「おとうさんったら、砂川まで来てくれたっていいのに……」  と言いました。  待っていた炭礦行の汽車に乗り換えると、小さなダルマストーブが燃えていました。汽車がゆっくりと雪原を走りました。小樽ではすっかり土の出ていた道もありましたのに、この辺はまだうす汚ない雪が、ひざを埋める程に残っているのです。やがて、汽車が細長い炭礦街に沿って走る頃、美津子はもうわたしの方は見向きもせず、額をガラスにこすりつけて、一心に街を見つづけています。汁粉のようにどろりとした、炭礦街特有の真っ黒な川が流れ、ズリ山がとけかかった雪の下から、黒々とした姿を見せている、こんな街のどこがよいというのでしょう。  美津子は、僅か三日間留守をしただけですのに、まるで十年ぶりにでも故郷に帰って行くような姿なのでした。その姿に、大村もその妻も、美津子にとってはいい親だったのだと、思わずにはいられませんでした。貧しかったにせよ、真の親子でなかったにせよ、美津子は決して不幸ではなかった、そう思うことは姉のわたしにとっても喜ばしいことでした。  山を背にした小学校の前を汽車が通り過ぎた時、美津子はハッとしたように、椅子《いす》から立ち上りました。そして、きっとわたしをふり向いて叫びました。 「何かあったわ!」  わたしは咄嗟に美津子の言葉が飲みこめませんでした。  指さす窓の方を見ますと、人々が炭礦の事務所の方に向って走って行くではありませんか。それでも、炭礦の町にまだ三か月しか住んでいないわたしには、事態がよく飲みこめませんでした。 「落盤かしら、ガスかしら」  そう言った美津子の顔が真っ青でした。汽車の乗客たちも、ようやく窓外の街の異常な空気に気がついたようです。美津子と同じように、青くなっている男や女が何人かありました。これは、炭礦事故のたびに家族が体験する不安と恐怖だったのです。 「大丈夫かしら、おとうさん」  美津子は不安そうに言いました。 「大丈夫よ」  そうは答えたものの、わたしはふいに、あの汚ない手拭をいつまでも、いつまでも振りつづけていた大村の姿を、変に不吉にその時思い浮べたのです。  その後に起ったことを、詳しく語る勇気をわたしは持ちません。  大村は落盤のために死んだのです。坑口から運び出された大村の死体に、半狂乱になってしがみついた美津子の姿は、人々の涙を誘いました。  それは、どの被害者の家族よりも、最も激しい悲しみ方でした。  わたしはその時、ああ美津子の父は、大村だったのだと納得しないわけにはいきませんでした。  人間というものは、何とふしぎなものなのでしょう。生みの母親が去年死んだと聞かされても、涙一滴こぼさなかった美津子が、赤の他人の大村の死には、あんなにも泣き悲しむのです。わたしは、人と人の結びつきは、単なる血ではなく、愛なのだとしみじみ思いました。本当に、かりそめにも親と呼ばれ、子と呼ばれることは、何という厳粛なことかと、わたしは襟《えり》を正さずにはいられませんでした。      四  大村の葬式には、父も兄も小樽から駈けつけて参列しました。大村の仏前に焼香している父を見て、わたしは涙を誘われました。樺太にいた頃、よく碁を打っていた姿が胸に浮び、何とも言えない気持でした。かわいい娘を連れ去られた父と、連れ去った大村との対面は、あまりにも悲しいものでした。父の、長い間の恨みつらみも、消えざるを得なかったことでしょう。父は大村の妻に挨拶をする時、目頭をおさえていましたから。  父はその後、美津子に帰ってくるように、幾度か手紙を出したようです。大村の妻を連れて来てもよいと書いたそうですが、美津子は決して帰るとは言いませんでした。大村の妻にしても、小樽の家に行く気はありませんでしょうし、美津子も、養母を一人置いて帰る気には到底なれなかったのでしょう。  美津子は、高校卒業前に決まっていた炭礦病院の見習看護婦として勤めることになりました。けなげにも、美津子は病弱な養母を一人で養う覚悟をしたようです。無論大村の補償金も出ましたから、当分二人が食べて行くのには、美津子一人の給料でも、何とかやって行けたのでしょう。  炭礦病院の看護婦見習となった美津子は、たちまち患者たちの人気の的になりました。姉のわたしが見ても、白衣姿の美津子は、本当に白衣の天使そのままの美しさでした。白という色はふしぎな色です。非常に清純な感じと共に、妙になまめかしい感じを、それを着る人間から引き出すような感じがいたします。わたしは、白という色は恐ろしい色だと、美津子の看護婦姿を見て、つくづく思いました。  美津子に人気があったのは、でも単にあの子の美しさが人目を引いたからだけではありません。あの子の勤めた病院の診察室は、小児科も、内科も外科も一つになった、教室のようにだだっ広い部屋でした。だから、あの子はその部屋の手の足りない所に手伝いに回るのです。医者の姿を見て泣く子を見ると、美津子も一緒に泣き出しそうな顔をするのだそうです。大の男が、ちょっと指先をけがして来ても、美津子は自分も共に痛んでいるかのように、眉《まゆ》をしかめるのだそうです。また、入院患者が、何を頼んでも、美津子はいつも親身になって、用事を足してあげたそうです。何しろ子守りから、手紙の代筆まで、頼まれることは何でも引受けたらしいのです。 「本当に、あんな優しい看護婦さんなんて、今時ありはしませんよ」  絶えず湿疹《しつしん》ができたり、風邪を引いたりする子供を持っている隣家の木谷さんの奥さんは、わたしにそう言って聞かせるのでした。それはあながち、わたしの妹だと知ってのお世辞ではありますまい。あの子がたまの休暇で遊びに来た時など、近所の子供たちが、 「大村看護婦さん、大村看護婦さん」  と、まつわりついて離れないのを、わたしは幾度も見ましたから。  こんな美津子に、想いを寄せる青年が何人かできたとしても、ふしぎではありません。その中でも、同じ病院の事務室に働く秋山という青年は、特に美津子に熱心のようでした。秋山は色の浅黒い、どこか知的な感じのするまじめな青年でした。この青年と美津子が、いつしか人のうわさに上るようになった時、わたしは美津子に聞きました。 「あんた、あの人と結婚するつもり?」  美津子はちょっと顔を赤らめましたが、ハッキリとうなずきました。そしてそれがきっかけで、時折秋山を連れてわたしの家に遊びに来るようになりました。夏の夕方など、白絣《しろがすり》を着た秋山と、紺の浴衣《ゆかた》を着た美津子が、並んで歩いて来る姿を見て、わたしは、何とも言えない美しいものを見たような気がしたものでした。  だんだんと炭礦も落目になって行く頃でしたが、それでもまだこの町は、会社が一つも閉鎖されず、他の炭礦街と比べて、ずっと活気がありました。人通りの賑わう夕方の街を、ヘッドランプをつけた礦夫たちが、黙々と帰途につきます。その礦夫たちが、美津子と秋山の姿を見て、ひやかしの声をかけるでもなく、暖かい微笑をもって、ちょっとふり返る姿が、いかにもこのカップルを祝福しているようで、わたしもいつしか、二人の結婚する日を心待ちにするようになりました。  その翌年の三月でした。美津子と再会して僅か一年たったばかりで、主人は砂川町に転任することになりました。ぼたぼたと古綿のような雪が降る中を、わたしと主人の石井は、美津子の家に転任の挨拶に行きました。美津子の養母は、風邪を引いたとかで、床の中に臥《ふ》せっていました。ちょっと咳《せき》をしても、美津子は背中をさすったり、布団を直したり、まめまめしく看病しておりました。  大村の妻は、わたしたちに向って、 「本当に申し訳ございません、本当に申し訳ございません」  と細い手を合わせて拝むのでした。多分美津子を、こうして自分の許に置いておくことが、咎められてならなかったのでしょう。わたしも、この病弱な六十近い人を、美津子一人に委せておかなければならないかと思うと、姉として心が痛みました。無論まだ大村の補償金も残ってはいるでしょうし、小樽の父からも、兄たちに内緒で金や品物を送って来るふうでしたが、しかしそれですむようでもない気がしました。この養母さえいなければ、美津子はきっと小樽の家に戻ることでしょう。そうすれば美津子は、経済的にも不自由なく、父と兄のそばで暮らせるのです。  第一、結婚一つ考えて見ても、このハモニカ長屋から嫁入りするのと、あの小樽の邸宅から嫁入りするのとでは、ずいぶん違います。わたしたちに手を合わせている養母を見ながらも、わたしはうとましい思いを禁じ得ませんでした。 (この母親さえいなければ)  何と人間は恐ろしいことを考えるのでしょう。自分の妹さえしあわせになるのなら、あの憐れな美津子の養母が、死んでもかまわないと心の底で思っていたのです。身びいきというものは、何と人間を冷酷にするものなのでしょう。  美津子と、その恋人の秋山が、わたしたちを駅まで送りに来ました。転任と言っても、汽車で三十分程の隣町ですから、同じ町のようなものです。送る方も、送られる方も気が楽でした。シャーベットのようになった雪どけ道に、春雨が静かに降っていました。美津子たちは、秋山の大きなコーモリ傘《がさ》の下に、身を寄せ合って、しあわせそうにほほ笑んでいました。美津子の肩をぬらした雫《しずく》を、秋山がハンカチで拭いていました。同僚や、父兄との忙しい挨拶の合間に、その情景を見て、心から二人のしあわせを祈ったのです。主人の教え子たちや、卒業生たちが、いつまでもいつまでも手をふってくれました。  その時、わたしはふと、死んだ大村が汚ない手拭をちぎれるほどにふって、美津子を送っていた姿が思い出されたのでした。  ところで、思うということは、恐ろしいものだと思います。美津子の養母が死んでくれればと、ほんの一瞬でも思ったことが、意外にも早く、その通りになってしまったのです。  わたしたちが砂川に落ちついたと思う間もない、四月十三日、啄木忌《たくぼくき》の日でした。美津子から「ハハシス」の電報が入ったのです。  この冬以来、風邪を引き勝ちだった美津子の養母は、ちょっとした風邪から肺炎を起し、一週間とは臥せずに死んだというのでした。わたしはこの時ほど、自分の心が恐ろしく思ったことはありません。美津子の養母は、樺太にいた時から、日陰の草のように弱々しくおとなしい人でしたのに、なぜ少しでもそのしあわせを祈ってあげなかったのでしょう。「この人さえいなければ」と、わたしがそう思っただけで、美津子の養母は息が絶えてしまったような、そんな恐ろしさをわたしは感じました。心の隅の隅ででも、人の死を願ったり、人の不幸を願ったりするものではありませんね。  美津子の悲しみようは、大村の死んだ時と全く同じでした。 「おかあさんはね、わたしの願いは何でも聞いてくれたのよ。どんなことでも、ただ受けいれてくれるばかりだったわ」  美津子は後々まで、よくそう言ったものです。わけてもある年の冬、美津子が、腎臓炎《じんぞうえん》で高熱を出した時、美津子の養母は、凍りつく二月の夜半、あの山の上の神社まで、お百度参りをしたそうです。そしてその時の冷えが体にこたえたのか、それ以来めっきり体が弱くなったとのことでした。ひるでも狐《きつね》の出そうなあの淋しい山道を、真夜中に神社まで上って行き、足袋《たび》裸足《はだし》でお百度参りをしたのかと思うと、わたしはお棺の前に手をついて、心からお詫びしたのでした。  しかし何ですね。人を呪《のろ》わば穴二つとやら、いいえ、わたしは決して美津子の養母を呪ったつもりではなかったのですけれど、やっぱり一瞬でもその人の死を願うということは、呪いなのでしょうか。大事なたった一人の兄が、美津子の養母が死んで間もなく、小樽の家で息を引きとりました。あのポックリ病とかいう心臓病でした。  兄はまだ三十二歳の、本当に元気な人で、死ぬまでにかかった病気は、ハシカ一つだけという頑健な人でした。働くより能のないような、女遊び一つしないまじめな人でした。しかし、人間の命とは、何ともろいものなのでしょう。人間が丈夫だということは、いったいどういうことなのでしょう。今夜死ぬというのに、兄は朝から店に出て、いつものようにキビキビと仕事をし、楽しそうに働いていたと言います。そんな元気な体が、どうして生きつづけることができなかったのでしょう。わたしたち人間が頼みにしている健康なんて、こんなにも当てにならないものなのでしょうか。  美津子はわたしと一緒に、兄の葬式に小樽の家に行きましたが、そこでも激しく泣いていました。離れて育ったとは言っても、やはり肉親の情は同じだと、わたしは思いました。父は、美津子が家に帰ってくるように頼みました。父としては、たった三人の子供のうち、兄は死に、わたしは結婚し、残る所は美津子一人というわけですから、ぜひぜひそばにいて欲しかったのでしょう。帰ってから返事をすると美津子は言い、わたしと一緒に帰りました。  帰りの汽車の中で、美津子はポツリとわたしに言いました。 「あんな立派なお葬式を、おかあさんにもしてあげたかった」  わたしは、ハッとしました。あの子が泣いていたのは、兄の死を悲しんでいたのではないのです。ついこの間死んだ養母を思って、激しく泣いたのにちがいありません。わたしは何か裏切られたような気がしました。実の姉のわたしより、あの大村夫婦を愛しているにちがいない美津子の顔を、わたしは淋しい思いで眺めました。  その後、小樽の家からは、更にしきりに美津子に帰って欲しいという手紙が行ったようです。しかし、美津子には美津子の思いもあって、大村たちの死んだ家から離れるに忍びなかったようです。いや、無論それだけではなかったでしょう。秋山という恋人の住む町を、そう簡単に去れるわけではないのですから。  父は、わたしたち夫婦にも、小樽に来てくれるようにと頼みました。主人に、月給を倍にするから店の手伝いをして欲しいというのです。三十人程の従業員を管理するには、やはり身内の者がいいと思ったのでしょう。主人は珍しく怒りました。 「職業というのは、月給さえ多ければいいというものではない。金が欲しいのなら、おれは初めから、教員などはしない」  こんなわけで、わたしは何だか父がかわいそうになりました。父は兄の急死で、おろおろしているにちがいないのです。  わたしはある日、思い切って美津子の所に出かけました。折よく秋山も来合わせていましたので、わたしは父のことを申しました。 「秋山さんは三男ですね。何とか父を助けてあげてくれませんか」  秋山は、主人が月給を倍にされても、教員を止めないという話を聞いて、 「ぼくなら行きますね、病院の事務なんて、繁雑なだけで、創造的な喜びなんかありませんし、それにぼくは、商売というものをやってみたいような気がするんです」  わたしはオヤと思いました。一見秋山は、商売よりも事務的な仕事が好きなように見えたのです。しかし秋山は、商業高校を卒業しているのでした。商売が好きだと言うのも、不自然でないかも知れなかったのです。それにわたしは、何より今の父の願いを聞いてやりたいと思いました。 「どうせ二人は結婚するんでしょう。そしたら、小樽の家は広いから、一緒に住んでくだされば、父だってどんなに気強いかわかりませんわ」  秋山も美津子に言いました。 「美津ちゃんは長いことおとうさんと離れていたんだから、これからはぼくと二人で親孝行をしてあげようよ。あんなにしきりに手紙が来ているのに、行ってあげないのは、ぼくが引きとめているようで、申し訳ないからね」  思う壺《つぼ》だとわたしは思いました。  美津子は黙って目を伏せていました。そんな美津子の気持は忖度《そんたく》もせず、わたしはすぐ秋山の親たちに相談しました。親は一も二もなく賛成しました。病院の事務員なんかをしていたからと言って、一生うだつの上るものでもない、大きな問屋であれば、はるかに将来性があるだろう。第一、美津子の父親が気の毒だというのです。  わたしは無理矢理美津子を説き伏せ、秋には結婚する約束をさせました。そして、いつまでもこの長屋に若い女が一人住むのは危険だと言い、砂川のわたしの家から通勤させることにしたのです。  帰宅して、わたしは意気揚々と主人にそのことを告げました。しかし主人は、 「ふうん、どうも秋山っていう男は、何だか信用のならない感じだな。まさか月給が倍になることだけを望んでいるんじゃないだろうな」  と、不安そうに言いました。 「せっかく、おとうさんの為を思って、わたしこう決めてきたのに……」  抗議するようにわたしがいうと、 「結婚するのは美津ちゃんだよ。美津ちゃんの気持を大事にしてあげないで、おとうさんのことばかり考えるのは、どんなものかな」  主人は机の上の鉛筆をころがしながら、割り切れない様子でした。 「だって、あなたいつも、親は大事にせよっておっしゃるじゃありませんか。親孝行を考えて何がいけないの」  わたしは腹の虫がおさまりません。 「美津ちゃんが本当にしあわせになることが、親孝行というものさ。気が進まないのに、無理矢理小樽の家に連れていくのは、どんなものかな」 「だけど美津子は、小樽の家に行ったほうが、ずっとしあわせに決まっていますよ。秋山さんの今の月給じゃ、共稼ぎでもしなくちゃ、食べられないわ。小樽の家に行ったら、父たちと一緒だから、家賃も、食費も燃料代もかからないでしょう。そしてその上、秋山さんは月給を倍もらって、丸々|懐《ふところ》に入るじゃありませんか。十年もしたら、かなりの金持になりますよ、美津子たちは」  そう言ったわたしの言葉に、主人はちかっと目を光らせて言いました。 「金のあるのが、そんなにしあわせなものかね。お前だって言ってたじゃないか。いくら土地や家があったって、財産なんか当てにならないって、敗戦の時にそう思ったと言ったじゃないか」 「あなたったら、まるで、美津子がおとうさんの所に行ったら、不幸になるような言い方をなさるのね」  わたしは答えの中心を外《そ》らして怒りました。全く、人間って馬鹿なものですね。財産が頼みにならなかったことを、痛い程経験しながら、わたしはやはり小樽に帰る度に、安月給取りの教員の生活が、何か侘《わ》びしく思えてならなくなってもいたのです。だからせめて、美津子には経済的に安定した、何の不安もない生活をさせてやりたいと思ったのでした。経済的に安定したからと言って、人間に不安がなくなるとは限ったものではありませんのに。      五  結婚式は小樽であげました。まだ兄や美津子の養母が死んでから半年もたたないうちでしたが、一日も早く美津子がしあわせになれば、死んだ養母も喜ぶのだからという名目で、急いで結婚をさせたのです。  それは十一月三日、文化の日でした。ホテルの披露宴には、父の取引先の商店や、銀行、そしてメーカーの会社など、多勢の客で賑わいました。父としては、これが最後の子供の結婚式です。できる限り盛大にしたかったのでしょう。父は満足そうでした。秋山の両親や親族は、気の毒な位固くなっておりましたが、秋山は意外と舞台度胸があるのか、終始落ちついた立派な花むこぶりでした。角かくしをした美津子の、伏せたまつ毛が、つけまつ毛のように長く、その唇が実に優雅にほほ笑んでいて、人々は口々にその美しさを賞めました。  しかし、わたしの主人だけは、妙に浮かぬ顔で、朝からどんよりと曇っている窓の外を眺めているのでした。  とにかくこうして、美津子は数え年二十一、秋山は二十八の夫婦が誕生したのです。  言い忘れましたが、父の家は小樽の港がすぐ近くに見える小高い丘に建っていました。黒い塀《へい》をめぐらした門から家に向って、三つの道が分れています。一番左手は、裏庭に回る道でした。まん中は敷石がしかれて、正面の玄関に通じていました。宿屋のような大きな玄関の左手が、ベランダつきの和室の客間、その奥に洋室の応接間。応接間から真っすぐに、一間幅の廊下がのび、廊下の突き当りには、また長い廊下が走っていました。つまりTの字の廊下だったのです。廊下の両側には八畳の茶の間、美津子たちの夫婦の部屋、その他、四畳半、六畳などの部屋が向い合っており、Tの字の上の線にあたる廊下には、風呂場、トイレ、台所、食堂、女中部屋、物置などがありました。そして左の突き当りには、二階建の一|劃《かく》があり、下は納戸《なんど》に使われていて、ふとんやタンスが置かれてありました。ここの二階に兄達夫婦の部屋と、子供部屋がありました。この二階は、一流のホテルのような、トイレつきの洋間で、豪華なダブルベッドが部屋の半分を占めておりました。  わたしは古風で、ダブルベッドのよさはわかりません。ただ、兄の急死にあった嫂が、俄かに広くなったベッドで、どんな思いで眠るのかと思うと、気の毒でなりませんでした。しかもそのベッドで兄が死んだのですから、それは当事者でなければわからぬ複雑な気持だろうと思いやっておりました。  正月に訪ねた時、この広い家の中を、女中と二人でバタバタ立ち働いている美津子は、主婦というより、ていのいい女中のようにも見えました。嫂は元々商売が好きでしたから、兄の亡き後は、父や秋山と共に店に通って、采配《さいはい》をふるっておりました。  父はまだ五十八歳でしたが、兄に死なれて気が弱くなったせいか、事毎に、三十になるやならずの嫂を頼みにしているふうでした。  一キロ程離れた港に近い下町に、秋山と嫂と父が出勤した後、くるくるよく働いている美津子に、 「美津ちゃん、しあわせ?」  と尋ねたことがあります。結婚して間もなくの正月だというのに、美津子の手は、水仕事で赤く冷たそうでした。でも美津子はこっくりとうなずいて、 「おとうさんも、秋山もやさしいから」  と言って赤くなりました。新妻らしいしあわせそうな表情に、わたしは、ああやはり美津子をここに連れて来てよかったと思いました。  その後わたしは、妊娠したためしばらく小樽に行くこともなくて一年過ぎました。生れて初めての経験なので、旅行が恐ろしくもあり、母のいないわたしは出産の用意も自分一人でしなければならなかったのですから、その一年はあっという間にたってしまいました。  小樽からは、別に何の便りもなく、わたしの出産に、父と嫂から祝いの品が届いただけでした。わたしはちょっと産後の肥立《ひだ》ちも悪くなかなか孫を見せに小樽に行くこともできませんでした。しかしお互いに、便りのないのは無事のしるしと、父は美津子に委せたきりで、わたしは自分の子供と、夫の世話に明けくれて、いつしか翌年を迎えました。昭和三十三年でした。  その年の正月、子供も百日を過ぎ、小樽に連れて行こうと思いましたが、悪い風邪がはやり、春になってからと思ってぐずぐずと過しておりました。  あれはたしか二月の寒い晩でした。夕食の跡始末を終えて、ストーブのそばにすわった時でした。どんどんと表の玄関を叩《たた》く音がします。主人が出てみると、用務員の小父さんが、小樽から電話とのこと、わたしはハッとしました。てっきり父が死んだのかと思ったのです。兄の急死の時も学校に来た電話で知ったのですから、無理もありません。  主人も同じ思いだったらしく、わたしをふり返って、 「おれが聞いてくる」  と言いました。しかしわたしは、物も言わずに外に飛び出していました。降りつづけていた雪が、かなり積っていて、道らしい道もない校庭をよぎって学校にかけつけました。ふるえる手で受話器を取ると、 「富子か、とうさんだよ」  死んだかと思った当の父の声でした。わたしは安心のあまり、 「どうしたのよ、おとうさん。びっくりするじゃないの」  と怒ったように言いました。 「うん、実はね、美津子がそっちに行っているかと思ってね」  父は、何か憚《はばか》るように言いました。 「美津ちゃんが? いいえ。美津ちゃんがどうかしたんですか」  わたしは不安になりました。 「いやあ、今朝起きたら、美津子がいないんでねえ。ちょっとあわてているんだ。まあ今日中には帰るだろうと思ったりしてね。あんまりさわぎたくはなかったんだが、夜になっても帰らないもんだから……。そうか、そっちにも行っていないのか。弱ったなあ」 「何をのんきなことを言ってるのよ、おとうさん。今朝からと言ったら、昨夜のうちにいなくなったんじゃないの。どうして早く知らせてくれなかったの」 「いや……まあ、思いなおして帰るだろうと、待ってたもんだから……」 「思いなおすって、何を思いなおすのよ。美津ちゃんが家を出なければならない理由があったの」 「さあ、それが書き置きもないんでねえ……」  わたしは父が何かをかくしていると直感しました。父は、わたしの追及を避けるように、美津子が行ったら知らせてくれるようにとだけ言って、電話を切ったのです。 「美津ちゃんがどうかしたのか」  心配をして、ついて来ていた主人が言いました。 「昨夜、家出したんですって」  わたしは急に、ここが学校だったことを思い出し、小声になりました。主人はちょっと眉をあげて睨《にら》むようにわたしを見つめましたが、黙って先に立って歩き出しました。  家の前まで来ると、見馴れない乗用車がとまっています。わたしはハッとして、立ちどまりました。見ると美津子と、見知らぬ男が車のそばに立っているではありませんか。 「美津ちゃん! どうしたのよ?」  美津子の背を押すようにして、わたしは家に請じ入れました。美津子と共に来た男は、三十前後の実直そうな青年でした。まさか美津子が、他に男を作って逃げるような女だったとは思わなかっただけに、わたしはむらむらと腹が立ちました。 「いったい、どうしたっていうの、美津ちゃん! いまおとうさんから電話が来て、びっくりしたところよ」  わたしは、美津子とその青年を詰問せずにはいられませんでした。 「おねえさん、おにいさん、ごめんなさい」  美津子はすっかりやつれて、体もひとまわり小さくなったようでした。 「この人は?」  わたしは突っけんどんに男の方を見ました。 「ごあいさつが遅れまして……深田と申します」  男は言いながらポケットから名刺を出しました。彼は札幌のS銀行の行員でした。 「実は、わたしも深いことはわからないのですが……」  深田が語ったことは、こういうことでした。深田は、深夜の小樽の街で、小さなふろしき包を抱え、うろうろしていた美津子を見て、車をとめたそうです。見ると意外にも、深田が小樽の銀行に勤務の当時、よく出入りしていた父の家の美津子だったのです。家まで送ろうというと、美津子はバタバタと駈け出しました。深田は不審に思い美津子を追いかけました。そして、うすうす事情もわかっていたので、美津子を一応自分の住む札幌に連れて来たのです。よく話し合った末、美津子を小樽の家に届けようと思ったらしいのです。ところが、いくら話し合っても美津子は家に帰らないと言い、深い事情はわからないながらも、これ以上勧めるわけにもいかないと思い、砂川のわたしの家に送り届けたというのです。  美津子と深田は、何の疚《やま》しい関係もなかったのです。わたしは非礼を詫《わ》び、ていねいに礼を言って深田を帰しました。仕事で出入りしているだけの深田が、うすうす察していた事情とは、いったいどんなことかと、わたしたち夫婦は顔を見合わせました。わたしたちには見当のつかないことでした。 「おねえさん、聞いてよ」  しばらく下唇を噛みしめていた美津子が、やがて思い切ったように顔を上げました。  話はこうだったのです。  結婚して三か月程は、秋山も優しい夫でした。しかし、三か月を過ぎたある冬の夜、美津子はふと目を覚ましました。傍に秋山はいないのです。トイレにでも行ったのかなと思って待っていましたが、一向に帰る様子がありません。ポックリ病で死んだ兄の例もあり、不安になって、トイレに行ってみました。トイレには人影もありません。と、その時、二階建の方から秋山が寝巻のまま出て来たというのです。  前にも申しました通り、二階の下は納戸になっており、上は嫂の寝室です。あまりのことに美津子は、廊下に立ちすくんだまま、身動きもできなかったということです。  美津子の姿に、秋山もギョッとしたようでしたが、黙って自分の部屋に帰りました。美津子は見るのも汚らわしく、部屋に入ることもできませんでした。秋山は出て来て、 「美津子、悪かった。悪かったから許してくれ」  と、廊下に手をついて謝ったそうです。でも美津子は純な子です。信じ切っていただけに、顔を見るのもいやでした。気まずい一夜があけ、美津子は働く気力も失いました。しかし秋山は、いつものように嫂と父と共に食事をし、三人で店に出て行きました。  夕食の時、美津子はやはり部屋に閉じこもっておりました。嫂が顔を出して、 「美津ちゃん、昨夜のこと怒ってるんだって?」  と、入って来たそうです。大柄な嫂は満ち足りた勝利者の表情で美津子を見つめました。 「ひどいわ、おねえさん」  美津子が叫ぶと、 「美津ちゃんて子供ねえ、男なんて浮気の一度や二度しないで、一生終るわけがないじゃないの。死んだおにいさんだって、店の女の子に、何度手をつけたかわかりゃしないわ。でもわたしは、男ってそんなものだって割り切っていたから、あんたのように怒りはしなかったわ」 「そう割り切っていれば、秋山にも誰にでも手を出すのですか」 「そうかも知れないわねえ。でも、一週間に一度位、わたしに貸してくれたって減るわけでもないでしょう。あなたさえ我慢したら、三人で仲よくやっていけるじゃないの」  美津子はつくづくと嫂の顔を見つめたといいます。 「おねえさん、おにいさんが死んで一年もたたないのよ。おにいさんにすまないと思わないの」  しかし嫂は平然と笑い、 「ばかねえ、美津ちゃんたら。おにいさんは勝手なことをしてたのよ。それにわたし淫乱《いんらん》ていうのかしら。おにいさんの生きていた時から二人や三人の男がいたんだもの。その男の人たちとだって、ずっと切れてないのよ、美津ちゃん」  あまりのことに、美津子はもう言葉がなかったと言います。 「美津ちゃん、あんた、秋山さんが嫌いになったら、わたしに譲ってくれてもいいわ」  嫂はそう言い捨てて、部屋を出て行ったというのです。その言葉を聞いた瞬間、決してあんな女に、秋山をやるもんかと決心をしたというのです。  美津子はあまりにも純情で、優しい子でした。ふてぶてしい嫂の言葉に、一時は憎しみにかられましたが、深い憐れみも覚えたそうです。真に人を愛することを知らない嫂が、憐れに思えて来たのです。美津子は、秋山にも、もっと優しい妻になろうと努力したそうです。秋山は美津子に言ったそうです。  朝夕同じ車で店に出て行く時、嫂はぴったり秋山に体を押しつけるのだそうです。行く時は父と三人でも、帰りはたいてい父が先に帰りました。  ある夜の帰り、車が道路工事中の道にさしかかった時、車がガタンと揺れました。すると嫂の手が、傍の秋山の股にふれ、その手がふれてはならない所に、ふれて来たのが初めだと言います。 「美津子、おれをいやな男だと思うだろうけどな。おれはあんな女なんか愛しちゃいないよ。あの女は誰とでも寝る女なんだ。しかし、だからと言って、今すぐこの家から出てくれとは言えないんだ。おれが仕事を全部覚えるまで、いやでもあの女の機嫌を取らなければならないんだよ。それに、せっかくおとうさんとおにいさんが築いたこの店を、あの女に取られてしまうかも知れないんだよ。いつの間にか、店の名義はあの女のものに変っているんだ。何もかもおれが取り返してやるから、おとうさんのために、目をつぶっていてくれないか」  美津子は、財産などいらないと言ったそうです。一日も早くこの家を出て、新しい生活に入ろうと秋山に迫ったそうです。秋山はしかし、 「おとうさんの財産は、お前のものなんだ。いいか、これだけの財産を捨てるなんて、もったいないことをいうもんじゃない」  と言って、家を出ることには反対しました。美津子は秋山を愛していました。秋山は前にも倍して美津子に優しくしたそうですが、しかし嫂の誘惑には勝てなかったようです。食事の時など、嫂は平然と秋山の食いかけのものを突ついたり、秋山の残したみそ汁を飲んだりするのだそうです。美津子がどんな顔をしようと平気でした。  ある夏の夜、寝苦しさに目を覚ますと、蚊帳越しに何か人の気配を感じました。見ると女の人影が白くボーッと立っているのです。美津子は思わず声を上げる所でした。しかしそれが、嫂のネグリジェ姿とわかり、何をするのかと息をつめて見ておりました。すると何と大胆なことでしょう。嫂はそっと、蚊帳の裾《すそ》をあげて、入口の方に寝ている秋山の横にすわったのです。あまりのことに、 「おねえさん、出て行って!」  と叫ぶと、嫂は、 「何だ、起きていたの。おねがい、今夜一晩秋山さんを貸してよ」  と臆面《おくめん》もなくいうのです。無論美津子は怒りました。秋山もとうに目を覚まして二人の問答を聞いていたらしいのです。その時は、秋山もどうすることもできなかったようですが、朝方、秋山の姿は部屋になかったというのです。 「おねえさんに結婚してもらいましょう」  秋山と嫂の前で、美津子は言いました。こんなことを父に知られては大変だと、一人悩んでいた美津子は、さぞ辛かったことと思います。 「いやよ、美津ちゃん。結婚はあなたのおにいさんとしただけで、もうこりごりよ。せっかく自由の身になって伸び伸びしてるのに、つまらないこと言わないでよ。ね、秋山さん」  嫂は秋山を流し目で見るのでした。 「そうだね、あなたに結婚は無理だろうな」  秋山はそんな意気地のない返事しかできないのでした。そしてその後、美津子をきびしく叱ったそうです。 「美津子、馬鹿なことを言うな。あの女に決まった男が出来ないようにと思えばこそ、おれはあの女の相手になってやっているんだ。結婚でもされてみろ。たちまちおれなんか店から追い出されてしまうんだぞ」  秋山は、事、金のこととなると、別人のような表情になったと言います。月々もらう四万の月給は、そっくりそのまま貯金するというほどで、秋山は酒もたばこも飲まず、美津子にはブラウス一枚買わなかったと言いますから、その徹底した金銭欲は、ご想像つくと思います。一年で四十万たまるなどということは、秋山にとって、夢のような話だったのでしょう。二万そこそこの月給をもらっていた時の秋山は、何とすがすがしい青年だったことでしょう。秋山にも、百万を貯めることが夢でないと知った時、かくされていた金銭への欲望が、彼の人格を一変させてしまったのでしょうか。よく、金を持たせればその人間の真価がわかると言いますけれど、全くそのとおりだと思います。  美津子はそんな秋山を見て、ずいぶん情けない思いをしたことでしょう。 「お金を貯めてどうするの。お金って、どうしてそんなに大切なの。お金より大切なものがあると思うんだけれど」  美津子がいうと、秋山は、 「馬鹿をいうな。この世には金以外に頼りになる何がある」 「あるわ、人間の心の方が大切だわ。愛の方が大切だわ」 「愛なんて、中学生じゃあるまいし、笑わせるよ。愛なんて、この世のどこにある」 「あるわ。わたし、あなたを愛しているじゃありませんか」 「そうか。愛してる、愛してるっていうけれど、お前はおれの顔をみて、晴々と笑ったこともないじゃないか。本当に愛しているのなら、おれが何をしようが、つべこべ言わずについて来るがいいんだ」  そんなことをいう秋山には、もうあの知的なすがすがしい面影は、すっかり失われていたのでしょう。でも、美津子は必死でした。 「あなた、わたしが何でも我慢したら、本当に愛というものを信じてくださる?」 「そうだな。おれが何をしようと、笑って受け入れてくれるのなら、おれも愛を信ずるよ。そして、お前のいう通りにするかも知れないがね」  その秋山の言葉を、美津子は忘れませんでした。本当に自分が秋山を愛しぬいてみようと、美津子は真剣だったそうです。愛はすべてに打ち勝つと、美津子はそれを信じようとしたのです。  それからは、秋山がそっとぬけ出して嫂の所に出かけるのを見ても、美津子は、「いかないで」という言葉を飲みこんで、じっと耐えました。いま頃あの嫂の部屋で、兄の死んだベッドの上で、二人が重なり合っているのだと思いながら、美津子は耐え得る限り耐えたのだそうです。  美津子はそこで言葉を切り、黙ってわたしを見つめました。 「そうだったの、美津ちゃん。あなたは我慢するにいいだけ我慢したというわけなのね」  わたしは、美津子を小樽の家にやった張本人です。美津子の前に手をついて、謝りたいような気持でした。 「おねえさん、でもあたし、秋山と小樽のねえさんのことだけなら、もっともっと我慢していたと思うの」 「じゃ、ほかにまだ何かあったというの」  わたしは、さっきから黙ってたばこをふかしている主人の顔を盗み見しました。主人は初めから、自分の教え子でもある美津子を、小樽の家にやるのは反対だったのです。 「だけどおねえさん、わたし、とてもそれ以上のことは言えないわ」  美津子は長いまつ毛をふせました。電灯の下にみるそのまつ毛は、本当にふかぶかとかげりを帯びて憂《うれ》わしげでした。 「大体見当がつくよ」  それまで黙っていた主人が、ぽつりと言いました。美津子は驚いたように主人の顔をみました。 「先生だって、想像もつかないと思うわ、わたし」  美津子は、主人を、おにいさんとも、先生とも呼んでいました。 「いやあ、よくあることさ。おとうさんとおねえさんが……そうだろう」  わたしはカッとしました。 「馬鹿にしないでよあなた。いくら何でもあのまじめなおとうさんが」  その時、美津子が叫びました。 「おねえさん、そうなのよ。おとうさんとあの人は……わたしいくら何でもこれ以上言えやしないわ。とにかくおねえさん、わたし、その二人の姿を見て、家を飛び出してしまったのよ。まるであの家は誰も彼もが獣なのよ」  美津子は前後の見境もなく家を飛び出し、さっきのあの青年に会ったというのです。  後で知ったことですが、取引先の銀行員でさえ、秋山と嫂、そして父との醜関係は知っていたということですから、その中にあった美津子の苦しみは、とてもわたしには想像することもできません。      六  美津子は、どんなことがあっても小樽の家には帰らないと言い、小樽からも、強いて帰れとは言って来ませんでした。主人が正式に離婚の手続きをしようかと言った時、美津子は俯《うつむ》いたまま黙っていました。 「帰る気なのかい」  そう尋ねると、美津子は激しく首を横にふりました。主人はわたしに、後でそっと言いました。 「もう少し様子をみてみようよ」  わたしは、それもそうだと思いました。向うがどのように出るかも見たかったのです。もし秋山が、ここまで訪ねて来て頭を下げるなら、美津子はあるいは帰るというかも知れません。新聞などの身の上相談などを見ましても、幾度も幾度も女を作る夫に、愛情を持っている女心の悲しさを、数多く見ていましたから、一概《いちがい》に未練だともわたしは言えなかったのです。  美津子が、小樽の家を出てから二か月程たったある日、嫂と秋山の連名で手紙が来ました。離婚の手続きをしたいというのです。美津子は蒼白《そうはく》な顔でその手紙を読み返していましたが、無表情に、送って来た書類に判を押しました。 「いいの? あんた。慰藉料《いしやりよう》や何かのこともあるし、そう簡単に判を押しちゃ駄目よ」  わたしが言うと、美津子は今まで見せたこともない冷たい表情で言いました。 「また、お金のこと? おねえさん」  その一言が、わたしの胸にぐさりと刺さりました。考えてみれば、わたしはすぐに金で物事が解決すると思っている人間だったかも知れません。わたし自身としては、ごく当り前の人間で、特に金に汚ない人間だとは思っていませんでしたが、しかし慰藉料ももらわずに離婚されるなどとは、我慢がなりませんでした。わたしがそのことをいうと、美津子は、紙のように白い顔をわたしに向けて、 「おねえさん、人間にはね、お金をもらって気のすむ人と、お金をもらったために傷つく人がいるのよ」  と言いました。  帰って来た主人に、そのことを告げますと、主人は幾度かうなずきながら、 「美津ちゃんの気持わかるな。金をもらえば、向うは帳消しになったつもりになるだろう。するだけのことはしたんだからとな。金ってものは、人間をそんなふうに愚かにさせるものだよ」  美津子は、離婚届の書類だけを封筒に入れ、一行の手紙も書かずに封をしました。そしてひっそりと、雨の降る四月の夜の街へ出て行きました。わたしは、トタン屋根を打つ静かな雨の音を聞きながら、美津子はこの雨の夜のことを、生涯忘れないだろうと思っていたのを覚えています。こうして、美津子の結婚は、あまりにも悲惨な結末を告げたのです。  しかし、捨てる神があれば助ける神もあるとやら、あの夜美津子を車に拾ってくれた銀行員が、時折訪ねてくるようになりました。母一人、子一人の独身者で、暖かいまなざしをした青年でした。小樽の家に出入りしていた時から、美津子に好意を寄せていたとか、ぜひ美津子をと望んでくれたのです。  深田というその青年は、札幌に転任するまで小樽にいたわけですが、秋山と嫂のことは、前にも言いましたとおり、実によく知っていました。二人が時折|朝里川《あさりがわ》温泉に出かけたことなども知っていました。しかし美津子は、小樽の話は聞きたくないのか、深田がその話をすると、顔をそむけるか、席を外すのが常でした。美津子自身、秋山のあ[#「あ」に傍点]の字も言いたがりませんでしたし、よほど心にこたえていたのでしょう。  深田は、毎日曜訪ねて参りましたが、小樽のことには、ふれなくなりました。そして、美津子と話するよりは、主人と将棋などをさして遊んで行きました。主人は将棋をさしていると、相手の性質がよくわかると言い、 「彼はいい男だよ。非常に筋のいい、きれいな勝負をする男だ」  と、時折ほめるのでした。  しかし美津子は、二度と結婚はいやだと言い、再び病院に看護婦として勤めるようになりました。たった一年半そこそこの結婚生活でしたが、よほどこりごりしたのでしょう。深田という青年は惜しいと思いましたが、わたしたちももう、強いて勧める勇気はなかったのです。 「なあに、そのうちにまた結婚する気になるだろうよ。当分は好きなようにさせるんだね」  教え子であり、義妹である美津子を、主人はいたわり深く見つめていてくれました。  そのうちに、深田も諦めたと見え、訪ねてくることも少なくなり、ついには他の女性と結婚してしまいました。惜しいことでした。しかし美津子は、少しも淋しそうではありませんでした。炭礦病院にいた時と同じように、美津子は評判のいい看護婦になりました。入院患者の誰彼から、手紙をもらうということも珍しくなく、医者から結婚を申しこまれたこともありました。しかし、どんな男の言葉にも、美津子は二度と耳を傾けようとはしませんでした。  美津子が心を開いて語る相手と言えば、わたしと主人に対してだけでした。いやむしろ、わたしよりも主人と話が合うようで、小説の本なども、読めといわれるものは、みな読んでいたようです。わたしはふっと、美津子が主人を慕っているのではないか、主人が美津子を愛しているのではないかと、懸念しないでもないほど、二人はよく話し合っていました。わたしの子供がまだ二歳でしたから、わたしはつい子供に気をとられて、主人のことは美津子に委せるということもありました。  そんなふうにして、わたしたち四人の生活は、これという波風もなく過ぎて行きました。  美津子が小樽の家を出て、五年たった秋の夜、「チチキトク」の電報が入りました。さすがにわたしはがく然としました。秋山と嫂のこと、嫂と父のことを聞いて以来、わたしたちは小樽の家に行くことを、パッタリやめておりました。いくら請求しないからと言っても、慰藉料ひとつよこさず、ていよく美津子を追い払ったことに憤りを感じていましたし、嫂が、父と秋山を手玉に取っているような醜い家に出入りする気にはなれなかったのです。でも、危篤《きとく》と聞くと、さすがにわたしはうろたえました。わたしは三十六になっていましたから、父はたしか六十四歳になっているはずです。いったい何の病気なのだろう。行くまでに死にはしないかと思いながら、ちょうどその夜当直の美津子に電話をかけました。 「美津ちゃん、大変よ。おとうさんが危篤なのよ。すぐ小樽に行くから、帰って来てね」  一瞬、沈黙が流れ、やがて返って来た言葉は、意外に冷静なものでした。 「今夜は、重患がいらっしゃるの。わたし手を離せないわ」 「だって、おとうさんが危篤なのよ、美津ちゃん」 「でも……わたし、仕事がありますから」  わたしは腹が立ちました。何という冷たい子なのでしょう。家へ帰って主人に言うと、 「二人で行こう。お前はまだ美津子の気持がわからないんだ」とだけ言いました。  その夜、取るものも取りあえず、小樽の家に、主人と駈けつけた時、父は昏々《こんこん》と眠っていました。危篤だと言っても、駈けつけたのはわたしたち二人だけです。秋山は出張中とかで、嫂と、中学生になった兄の子と女中の三人がいるだけでした。  父の部屋に入っただけで、悪臭がぷんと鼻をつき、わたしは思わず鼻をおおいました。 「臭いでしょう。おじいちゃんたら、たれ流しなのよ」  嫂は冷酷な表情で父を眺めました。 「いくらたれ流しだって、もっと何とか面倒を見てあげるわけにはいかなかったの」  わたしの言葉に、嫂はきっとなって向きなおりました。 「何言ってるのよ、富ちゃん。本当の娘はあなたなのよ。それが何なのよ。赤の他人のわたしに、おじいちゃんを押しつけておいて、五年というもの、一度も顔を出したことがないじゃないの。あんまり大きな口をきかないでよ」 「大きな口はどっちなの。わたしたちがここに来れなかった理由は、おねえさん、あんたが一番よく知ってるでしょ」 「そんなこと知らないわよ」 「そう、知らなきゃ教えて上げるわ。本当なら、秋山さんのそばに美津子がいたはずなのよ。その美津子から秋山を取ったのは誰なの。美津子がここにいたら、父をこんなふうにしてはおかなかったはずだわ。いったい、美津子を追い出したのは、誰なのよ」 「男の浮気に驚くようじゃ、妻の資格はないわよ。わたしは別に出て行けなんて言わなかったわ」  嫂には、どんな鋭い言葉も、その心に刺さることはないようでした。皮肉な微笑を浮べて、たばこをのんでいる嫂の横顔を、わたしは呆《あき》れて眺めるより仕方がありませんでした。  この人が兄と結婚した時は、快活なかわいい娘だったのです。人間はいったい、いつどこで、こんなにも変貌《へんぼう》するのでしょう。人間を変らせるのは、いったい何なのでしょう。  かわいそうに中風の父は、早く死ねとばかりの仕打を受けて、この半年というもの、捨てられるように臥ていたのです。最後だと思ったから、わたしは言いました。 「ここの家も、店も、それから塩谷《しおや》の方の土地も、たしかおとうさんの名義だったわね」  黙っていれば、嫂は勝手に処分しかねないと思ったのです。すると嫂は、不遠慮にも大声で笑い出しました。 「笑わせないでよ、富ちゃん。あんた商売ってものを、ちっともわかっちゃいないのね、金のやりくりが商売なのよ。商売の実権を握っているわたしの名義でなければ、銀行は信用してくれないわ」 「そんな馬鹿な……」  拾ったコンブまで売って始めたわたしたちの苦労は、いったいどうなるというのでしょう。 「馬鹿も何も、第一、店は一度破産したのですからね。破産したおじいちゃんの名義で商売をするわけにはいかないわよ。それをこうしてここまで盛り返したのは、秋山とわたしの力なんですからね」  わたしは呆然《ぼうぜん》として、眠っている父の顔を見ました。引揚げ以来、父と母と、兄とわたしとで作った身代は、嫂の色じかけで、とうに嫂の手に渡っていたのです。 「悪かったわね、富ちゃん。おじいちゃんが危篤と聞いて、何か分け前があると、楽しみに飛んで来たんでしょう。でも、びた一文、分けるものはなくってよ」  わたしは、何か言おうと思いましたが、それまで黙って二人のやりとりを聞いていた主人が、わたしの背を突つきました。わたしはハッとしました。わたしだって、危篤の父の枕元で、こんな言い争いはしたくなかったのです。口を半分あけて、昏睡《こんすい》している父の顔を見ながら、わたしはひどく惨めでした。父は情欲のためにこの女と通じたのでしょうか。それとも店の経営のために、この女と体の関係を持ったのでしょうか。父にしても、嫂にしても、また秋山にしても、財産への執着が、情欲と絡み、そして罪もない美津子をこの家から追い出してしまったのかも知れません。  わたしは、半分腐っているような布団に臥せられている父を、客用の布団に臥せかえました。その時、何か、父の体の下にうごめく白いものを見て、ギョッとしました。それは蛆《うじ》だったのです。中風の父は、満足に体も拭いてもらえなかったのでしょう。背は床ずれで崩れ、傷があいていて、蛆はそこにもついていました。ほとんど始末をしてもらえなかった下半身は、糞便《ふんべん》がこびりついていました。わたしは、固くしぼった温かいタオルで体を拭き、客用の寝巻に着せかえました。主人は何も言いませんでしたが、わたしと一緒になって父の体をていねいに拭いていました。せめて息のあるうちに、少しでも息のあるうちに、きれいにしてあげたいとわたしは思いました。  そこに嫂が再び入って来て、怒りました。 「富ちゃん、もったいないじゃないの。それは、ついこの間作ったばかりの客用の布団よ。どうせ死んでいく人に、なんてもったいないことをするのよ」  しかしわたしはもう、口もききませんでした。腐った布団をとりあげると、畳もべとべとに腐っていました。それは、この家の象徴のように思われました。  父の体の下で、うごめいていた蛆を、わたしは永久に忘れることはできないでしょう。わたしは最早、嫂を責めるよりも、自分が責められてなりませんでした。いかに訪ね難い家だとは言え、いかに許し難い親だとは言え、なぜわたしは父を訪ねてあげなかったのでしょう。理由はともかく、わたしはたった一人の父親を、蛆の湧いた布団に臥せていたのかと思うと、身のちぎれる思いでした。  たしか死ぬ三時間ほど前だったと思います。それまで眠りつづけていた父が、ふいにポカッと目をあけたのです。わたしが身をのり出して、 「おとうさん!」  と呼ぶと、父はかすかに笑って、 「ああ、美津子か」  と、それはそれは、優しい声で言いました。そしてそのまま、また引き入られるように眠りつづけ、ついに夜中の午前二時二十八分に息を引き取りました。わたしたちが駈けつけて二十八時間目に死んだのです。  秋山はとうとう父の死に目には会えませんでした。いや、最初から会うつもりもなかったのかも知れません。  葬式だけは店の格式にふさわしい立派なものでした。しかし何と侘しい葬式だったことでしょう。泣いていたのは、わたしと主人と、兄の息子だけでした。  わたしは、火葬場の煙を眺めながら、父が、「美津子か」と笑った顔を思い浮べておりました。最後の最後まで、父の心にかかっていたのは美津子のことなのでしょう。わたしは生前、父に投げつけた言葉を、取り返しのつかない思いで、思い出していたのです。それは、美津子からすべてのことを聞いた翌日でした。わたしは小樽の父に電話をかけたのです。 「おとうさん、美津子が小樽の家を出たのはね、秋山とおねえさんのせいだけじゃないのよ。それだけなら美津子は、まだ我慢ができたと言っていたわ。でもね、おとうさん。美津子は、おとうさんとおねえさんのことを知って、もうどうにも耐えられなくなってしまったのよ。小樽の家では、おとうさんを先頭に、寄ってたかって、美津子を追い出してしまったのよ」  ややしばし、父は何とも言いませんでした。もう電話が切れたのかと思った頃、 「そうか、そうだったのか。……美津子を大事にな……」  弱々しい声でした。青ざめた父の顔、がっくりと首を垂れた様子が、ありありと目に浮ぶような声でした。人間の言葉は、刃物より鋭い凶器かも知れません。父はあれ以来、どれほどわたしの言葉に、責めたてられたことでしょう。父は死ぬまで、美津子のことを思って、苦しんでいたにちがいないのです。 「おとうさん」と、枕元で呼んだわたしの声を、美津子が戻って来たかと錯覚した父は、どんなにうれしかったことでしょう。 「美津子か」  そう言った父の声が、いまなお耳に聞えるような気がします。  父を焼く煙は、澄んだ十月の青空の中に広がって行き、影も形もなくなりました。エゾ菊や、金盞花《きんせんか》が咲き、小公園のようにきれいな火葬場でした。わたしは美津子が来てくれなかったことを、淋しく思いました。父のために、美津子にぜひ来て欲しかったのです。  砂川に帰ったわたしは、父のこと、嫂のことを、美津子に話して聞かせました。蛆虫の話には、美津子は驚いて言葉も出ないようでしたが、 「美津子か」  と笑った父の最後の言葉には、さすがに涙を流しました。しかし、行けばよかったとは、ついに美津子は言いませんでした。 「秋山さんたらね……」  父の死に目に会わなかった話を言おうとすると、美津子は激しく首をふって、耳をおさえました。わたしは主人と顔を見合わせて、黙ってしまいました。その名を聞くのさえ、いとわしいほど、美津子は秋山を嫌っていたのです。美津子が父の葬式にも行かなかったのは、秋山に会いたくないからでした。考えて見れば無理もないことなのです。わたしは、白絣を着た秋山と、紺の浴衣を着た美津子が、寄り添っていた炭礦の頃を思い出しました。裏切られた愛は、憎しみに変るより仕方なかったのでしょう。  美津子はもう二十九歳になっていました。それでも、まだ二十三、四にしか見えない美津子には、やはり求婚者が絶えませんでした。離婚してから、六年もたつのですから、そろそろ身を固めてもよいと、わたしたちは思いましたが、美津子は一向に、そんな気持はないようでした。勤務が終るとすぐに帰って来て、小学校二年になったわたしの息子と、三つになった女の子を相手に、かくれんぼうをしたり、じゃんけんをしたり、子供のように遊ぶのでした。それは楽しそうというより、痛々しい感じでした。美津子だって、あのまま秋山としあわせな結婚生活をつづけていたならば、子供の一人や二人はできていたかも知れません。美津子が、子供たちと楽しそうにさわいでいればいるほど、わたしの胸は痛むのでした。  父が死んだ翌年の八月、主人も子供も夏休みで、わたしたちは一家そろって、札幌の動物園に行きました。美津子も、その日はちょうど休みでしたから、一緒に出かけたのでした。  美津子は小樽の家を出て以来、一歩も砂川から外へは出ようとしませんでした。三、四十分で行けるあの炭礦の町にさえ、中学時代のクラス会があっても、無論行こうともいたしません。秋山との思い出が辛いのだろうとわたしは思っていました。その美津子が、札幌について行くというのですから、主人もわたしも肯きあって喜びました。美津子の気持が、どこか変ったことだけは確かなのです。そのうちに結婚する気になってくれるだろうという希望さえ、わたしは持ちました。  カンカン照りの暑い日でした。美津子は白いブラウスに、グレイのタイトスカートをはき、それが実に清純でした。子供たちは、大好きな「美津子おばちゃん」と一緒なので、家を出る時から、はしゃぎつづけました。  札幌は、相変らず賑わっていて、大通りの公園には、お祭りのように人が満ち溢れていました。しかし円山《まるやま》の動物園は、意外にその日は人が少なく、わたしたちはゆっくり見て歩くことができました。美津子は、見る動物、見る動物に、幼な子のような関心を示し、促されなければ、次に移ろうともいたしません。ああ、連れて来てよかったとしみじみ思いました。まさか、この一時間後に、あんなことになろうとは、誰が想像することができたでしょう。全く人生は、常に突然のできごとに会うものですね。病気や、火事や、交通事故、そして地震など、それは常に突如として起るものであることを、わたしたちはじゅうぶん知っているはずですのに、何といつも不用意なことでしょう。いつも事が起ってから、驚きさわぐのです。  動物園の帰途、わたしたちは道庁の近くの喫茶店で、冷たいものを飲みました。美津子がアイスクリームのふたを開き、わたしの娘にひと口なめさせていたのを覚えています。その時の優しいまなざしと、楽しそうな顔は、主人も後々まで忘れられないと言っていました。  喫茶店を出て、わたしたちは電車通りの車道を横切ろうとした時、信号が赤に変りました。と、その時、 「あっ、秋山さん」  美津子が小さく叫びました。わたしはハッとして、向う側を眺めました。秋山がズボンのポケットに手を突っこんで、日航事務所の横を足早に歩いて行く所でした。 (ほんとうだわ!)  と、思った瞬間、わたしはキーッ! という恐ろしい急ブレーキの音を聞いたのです。誰かが何かを叫び、ハッと気がついた時には主人がその前にうずくまっていました。わたしは咄嗟《とつさ》に、 (あっ、主人が!)  と思いました。ところが、そこに見たのは、主人に抱えられた美津子の無残な姿でした。一秒とも言えない、一瞬の間のできごとでした。  美津子は即死でした。わずか二十九歳でした。  後で聞いたことですが、美津子は、赤になった横断歩道を、あっという間に駈け出して、勢いよく曲って来たハイヤーに、跳ねられたのです。それは、見ていた主人も、どうしようもない瞬間だったと言います。  わたしは、あの最後に聞いた、 「あっ、秋山さん」  と叫んだ言葉を、決して忘れることができません。わたしたちは知らなかったのです。美津子は、秋山のことを決して忘れることができなかったのです。心から愛していたのです。だからこそ、どんないい縁談にも、決して耳を藉《か》さなかったのです。だからこそ、秋山のあ[#「あ」に傍点]の字も、人の口から聞くのが辛かったのです。だからこそ、父が死んでも、あの小樽の家に行くことができなかったのです。何と人間の心の底には、悲しい思いが秘められているものなのでしょう。  わたしから見ると、秋山は、その辺にいくらでもいる平凡な青年の一人に過ぎません。いいえ、秋山は、美津子を裏切り、ないがしろにした憎むべき男でした。それなのに美津子は、やはり秋山のことを忘れかねていたのです。いいえ、愛しつづけていたのです。  六年ぶりに、札幌の街角でゆくりなく秋山の姿を目にした時、美津子は、何もかも忘れて、ただ懐しさに一ぱいになったのではないでしょうか。そして、赤信号であることも忘れて、思わず飛び出してしまったのではないでしょうか。美津子は、あの死んだ瞬間、ただ秋山への懐しさで一ぱいだったのだと思います。  わたしは、前の年、父を焼く煙を見たように、美津子を焼く煙を見上げなければなりませんでした。そして、美津子が生前に言っていた幾つかの言葉を思い出しました。 「おねえさん、炭礦の川って、石炭を洗うものだから、どろどろして汚ないわね。だけど、小樽の家のほうが、この川よりもっとどす黝《ぐろ》いわ。どす黝い川のような家よ」 「おねえさん、人間の血は本当に赤いものなのかしら。わたしは、何だかどす黝い血が流れているような、そんな気がして恐ろしいの」 「わたし、大村の父や母といた頃が、一番楽しかったわ。あそこの家には、小樽のように立派な庭も、大きなテレビも、お金も何もなかったわ。でも、人が生きて行くために大切なものがあったと思うの。きっと、大村のおとうさんや、おかあさんは、小さい時にわたしをさらって逃げたことが、いつも、すまない、すまないと、心の中にあったのね。許して欲しいという気持があったのね。小樽の家には決してなかった気持だわ」  ぎらぎらと、その日も八月の太陽は照りつけていました。主人は、頭を抱えこむようにして、じっと地面を見つめておりました。わたしが近づくと、その目が真っ赤に泣き腫《は》れていました。 「おれはいま思っていたところなんだがね、美津ちゃんが小樽の家を出たのは、単に、出るために出たんじゃないと思うんだ。自分が出たら、秋山もきっと後を追って出てくれるのではないかと、思ったんじゃないのかね」  わたしはハッと胸を突かれました。何と至らぬ姉だったことでしょう。美津子はただじっと、秋山が自分の胸に帰ってくるのを待っていたのかも知れません。それなのに、わたしはただ他の男をすすめるばかりで、一度だって秋山の所に、美津子ともう一度、一緒になって欲しいと言いに行ってやることさえ気づきませんでした。そうです。美津子は待っていたのです。考えてみると、あの子はそんな純な子でした。それがいまになって気づくとは、何とうかつなことでしょう。  美津子が、どす黝い川と言っていたあの小樽の家から、物慾の奴隷になっていた秋山を、助けたいと思っていたのにちがいありません。それにしても、一たん夫婦になったということは、何とふしぎなものでしょう。愛するということは、何と哀しいことなのでしょう。しかし、秋山は葬式にも来ませんでした。多分今もあの小樽の家で、あの女と暮していることでしょう。  白むくの着物を着て、棺に横たわっていた五年前の美津子のあの姿が、今もわたしの目に浮びます。幸い、顔にけがをしなかったので、死化粧をしたその顔は、本当に痛々しいほど美しゅうございました。看護婦姿の白が似合った美津子は、かわいそうに、死装束の白もまた似合いました。  そのせいでしょうか、あれ以来雪虫が飛ぶ頃になると、わたしは、あの憐れな美津子を思い出すのです。そしてそれは、やっぱり、あまりにも儚《はかな》く死んだせいでもあるかも知れません。もしあの子が憐れとお思いでしたら、雪虫が飛ぶ頃には、どうぞあの子を思いやってくださいませ。 [#改ページ]   病めるときも      一  藤村明子が二十歳の七月だった。  室蘭《むろらん》の従姉《いとこ》を見舞った後、そのまま札幌に帰るのも味気なくて、明子は洞爺湖《とうやこ》温泉によった。従姉は盲腸で、気になるほどの病状ではなかったから、初めからいわば遊びの旅のようなものであった。  温泉街の湖畔に宿をとって、すぐに明子は遊覧船に乗ってみた。あいにくと小雨の降る日だった。しかし四囲の山々に雲が低く垂れこめ、湖に音もなく雨の降る風情は、むしろ晴れた日よりも、旅情があると明子は思った。  その年は、太平洋戦争の勃発《ぼつぱつ》した翌年で、国民はまだ勝ちいくさに酔っていた。軍需景気にあおられた製鉄の街・室蘭を近くにひかえた洞爺は、戦時中とは言え、けっこう客で賑わい、遊覧船も満席であった。  紺のスーツを着た十七、八の小肥りのガイドが、マイクなしでにこやかに案内をしていた。明子はそれを聞くともなしに聞きながら、鉛色に静まりかえった湖を、飽かず眺めていた。自分の国が、いま、激しい戦争をしているということなど、信じられないような静けさだった。  遊覧船は、黒いほどに濃い緑の中島を大きく一周して、船着き場に戻った。船尾からぞろぞろと客が下り始めた。いちばん前の座席だった明子は、下りるときは自然最後になった。ふと明子は、中ほどの席にすわったまま、身じろぎもせず、じっと湖を見ている青年に気づいた。  青年は眉《まゆ》の濃い、やや青白い横顔をみせ、窓に額を押しあてるようにして湖を眺めている。明子は、なぜかその青年が気になって下りしぶった。いったん船尾まで行ったが、何か不安になって青年のそばにとって返した。 「あの、あなたはお下りにならないのですか」 「えっ、ぼく?」  ふり返った青年の目に、明子はハッとたじろいだ。いったいこの青年は、この世の何を見て来て、こんなにまで清らかなまなざしをしているのかと驚いた。  青年は、すでに客が全部船を下り、自分だけがすわっていたことに気づくと、 「もう着いていたのですか」  と、はにかんで立ち上った。子供がいたずらを見つけられたときのような、その初々しいはにかみ方に、明子は心ひかれた。  船着き場の入り口で、ガイドが先ほどのにこやかな態度とは打って変わって、いらいらと二人を待っていた。ありがとうとも言わずに、ガイドは二人の手から切符をもぎとるように受け取った。  すると青年は、大声で叱《しか》られたかのように、じっとうなだれたまま、そこに立ちすくんでしまった。ガイドはさっさと湖畔の事務所に入ってしまったが、青年は首を垂れたまま動こうともしない。  小雨の中を、明子は空色の雨傘《あまがさ》をさして歩き出した。三、四十メートル行ってふり返ると、青年はレーンコートの肩をすぼめるようにして、やっと歩き始めたところだった。持っているコウモリもささずに、とぼとぼと雨の中を歩いてくる青年をみると、明子はかけ戻って、そのコウモリをひらいてやりたいような気持ちになった。だが明子は、 (知らないわ、ぬれたって)  と、ふり切るように歩き出した。たった今、初めて会ったばかりの青年に、そばに寄って世話を焼いてやりたいような気持ちにさせられることなど、いまだかつてないことであった。長女で、勝ち気な気性のせいか、自分をこんな気持ちにさせる青年を、明子は嫌いではなかった。  明子は、宿に帰るまえに、みやげ物を売る店によった。店屋と宿がずらりと並んだ、温泉街の一角だった。明子は品薄になっている広い店の中を、ゆっくり一巡し、アイヌのメノコ人形を、三つ年下の妹の寛子と、母のために買い、外へ出た。  半町ほど離れた宿の近くまでくると、先ほどの青年がうろうろと、まだ傘もささずに行ったり来たりしている。明子は黙って過ぎようとしたが、やはり言葉をかけずにはいられなかった。 「何か落とし物でもなさったのですか」  青年は、その青白い顔をさっと赤らめた。 「ぼく、自分の宿がどこだったか、すっかり忘れてしまって……」  いかにも困りきったような、その清らかなまなざしをみると、明子はふっと、この人は下界の人ではないのかもしれないとさえ思った。 「何というお宿ですの」  明子はやさしくたずねた。 「それが……ふらりと入った宿なもんですから……」 「まあ、じゃ、お宿の名前もおわかりにならないの。道の右側? 左側? どんな建物でしたの」  青年は首を傾《かし》げた。 「まあ、何もおわかりにならないの」  明子は呆《あき》れて吹き出した。この青年は生まれつき何かが欠落しているのではないだろうかと、その知的な澄んだまなざしを、明子はふしぎそうにみた。 「困りましたわね」  明子は、この少し風変わりな青年を置き去りにするわけにもいかなかった。ふと足もとをみると、青年は素足に宿のものらしい大きな下駄を履いている。  明子にうながされて、青年は片方の下駄をぬいだ。下駄には「萬世閣」という刻印がはっきりと焦げ茶色に押されている。 「あら、いやね。わたしと同じお宿じゃありませんか」  明子は、その青年の足の指に、黒い毛が一人前に生えているのが、ふっとおかしくなった。  萬世閣と言えば、竜宮城のような屋根の形に特徴がある。三歳の子供でも見わけがつくはずのその宿がわからずに、すぐ近所をうろうろと行き来していた青年に、明子は笑いださずにはいられなかった。  青年は、ぬれた額の髪をかき上げようともせず、悲しそうにじっと自分の足もとを見つめたまま、明子に笑われている。それを見ると、明子は不意に胸をしめつけられるような気がした。  偶然にも、その青年の部屋は、明子と同じ二階の、ひとつおいて隣りだった。  夕食後明子は、部屋の隅の鏡台に向かっていた。  まっ黒な豊かな髪に、明子は櫛《くし》を入れていた。  いつしか雨があがって、長い明るい夕ぐれだった。  部屋のふすまがすっとあいた。女中かと思って、ひょいとふり返った明子は、声をあげるところだった。ぬれた手拭《てぬぐい》をぶらさげた、浴衣《ゆかた》姿の先ほどの青年だった。  青年は、驚いている明子には目もくれず、静かに部屋を通り、ベランダの窓に向かった。  いかに明子が部屋隅にいたとはいえ、まだ電灯もいらない明るい夕ぐれである。  明子に気づかぬとはふしぎだった。しかし青年のようすには、いかにも自分の部屋から外を眺めている自然さがあった。  部屋を間違えているのだと思うと、明子はまたしてもおかしくなって声をかけた。 「あの、ここはわたしの部屋なんですけど」  不意に声をかけられて、青年はおびえたようにうしろを見た。ここが明子の部屋だと知ると、例の悲しげな視線を下に落とした。  その首が、男にしては少し細いと明子は思った。 「ぼく、また失敗してしまった」  青年はそう言ったまま、窓を背に立ちすくんでいる。失礼しましたと一礼して、さっさと出ていけばそれですむことが、この青年にはできないようであった。 「いいのよ。どうぞそこにおかけになって」  明子に言われ、青年はうなずいて、籐椅子《とういす》に腰をおろした。  そのようすがあまりに素直すぎて、明子はその態度に心打たれた。青年の名は、九我克彦と言い、札幌に住んでいると言った。 「あら、わたしも札幌よ。くがさんて、もしかしたら、九に我って書くんじゃありません? あの九我薬局じゃなくって?」  明子の家から二キロほど離れた北一条通りに、その薬局はあった。 「ご存じでしたか」  九我克彦は、率直に驚いた。明子は、自分は藤村という茶の卸商の娘だと言ったが、お茶では道内屈指の、その藤村の名を克彦は知らなかった。 「あなたは学生さん?」  克彦はF大学医学部の研究室にいると言った。まだ二十二、三かと思っていた青年の齢《とし》を、明子は胸の中で数えてみた。  二十の自分より少なくとも五つも六つも年上なのだと、あらためて明子は青年をみた。 「九我さんって、何かひとつことを考えていらっしゃるみたいね。何を考えていらっしゃるの」 「ぼく? ぼくはね……黴菌《ばいきん》のことを考えているんです」 「ばいきん?」  明子は思わず大きな声を出した。  克彦は放線菌の研究をしているのだと言った。  この澄んだ清らかな目は、黴菌のことだけを考えている目なのかと、明子は妙な気持ちになった。  明子はこの克彦が、毎日道を迷わずに大学に通えるのだろうかと、思い切ってたずねてみた。克彦は照れたように笑って答えた。 「きょうは特別なんですよ。ちょっと思いついたことがあるものですから……。でも、ぼくって、どうも駄目なんだなあ」  少し考えごとがあると、電車など乗り過ごして終点まで行ってしまうことも、珍しくはないと克彦は言った。明子は、こんな人があるいは天才なのではないかと思いながら、話を聞いていた。      二  明子が克彦と知り合ってから、五年の月日が流れていた。敗戦のすでに二年後である。五年の月日は、過ぎ去ってみれば短くも長くもあった。  洞爺で偶然知り合った二人が婚約したのは、その翌年の春だった。勝ち気な、そして聡明な明子に、克彦より克彦の両親のほうがむしろ積極的であった。半分子供のような克彦には、明子のようなハキハキした性格の女性がふさわしいと、克彦の両親は思ったのだった。 「明子さんは、名前のようにほんとうに明るい人ね」  明子は誰からもよくそういわれる。人は、明子が生来の楽天家だと思っているようだった。だが、明子の明るさは決して生まれつきのものではなかった。秘められたきかなさ[#「きかなさ」に傍点]は、いまになるまで同じだが、明子は幼いころは、口の重い、むしろ暗いと言ってもよい性格だった。明子の幼いころにこんなことがあった。  明子が小学校一年生のある春の日であった。近所に百坪ほどの空地があって、子供たちはよくそこで遊んだ。その日も明子が友だちと縄飛《なわと》びをしていると、近所の憎まれっ子の平太が明子をからかった。あごの張った顔の四角い平太を、おとなも子供も下駄と仇名《あだな》で呼んでいた。 「明子、明子、芸者の子」  取り合わずに去ろうとする明子に、五年生の大柄な平太が横から足をひょいと出した。明子は不様《ぶざま》につんのめった。 「やい、芸者の子なんか、小便でもかけてやれ」  平太が霜ふりのズボンの股《また》を大きくひらいたとき、一年生の明子は、倒されたままの姿勢で傍の小石をつかんだ。 「ゲタっ!」  叫びとともに、その手の小石が飛んだ。瞬間、平太はもも[#「もも」に傍点]のつけねをおさえて飛び上がった。平太の獣のような泣き声をあとにして、明子はうしろもみずに駆けて家に帰った。  しばらくして、平太の母が客の二、三人いる店先にどなりこんで来た。 「もう少しで男の急所に当たるところだったじゃないか。呆れたもんだよ。ねらう所がちがうわな。やはり蛙《かえる》の子は蛙だよ。お里が知れるってもんじゃないか」  洋品屋の平太の母は、商売に似合わず、伝法に罵《ののし》った。母のハルは、その言葉につと顔を伏せた。ひざ頭が小きざみにふるえていた。そばにいた明子は、愛らしい唇《くちびる》をキュッと閉じたまま、平太の母親を睨《にら》みつけた。ハルに幾度うながされても、明子は決して詫びようとはしなかった。  平太の母が帰ったあと、ハルは、なぜ女の子のくせに石など投げつけたのかとか、あれこれ問いつめたが、明子は依然として口を開かなかった。ついに明子は、暗い倉庫に閉じこめられたが、茶の香りのこもったその中で、涙一滴こぼさなかった。  あとで、母のハルは明子が芸者の子と罵られた一部始終を他《よそ》から聞いた。  ハルは確かに芸者だった。  明子の祖父、藤村源吉は熱心なキリスト信者で、侠気《きようき》のある闊達《かつたつ》な人柄だった。十八歳で単身山形から北海道に渡り小間物の行商などをして苦労をした。後に、茶舗に勤め、やがて独立し、いまは静岡に茶畑を持ち、道内でも有数の茶の卸商となっていた。  源吉の長男畏作も、父の信仰を受けついだ、さっぱりとした気性の男だった。その名は旧約聖書に出てくるイサクにちなんで名づけられた。畏作は家業にも熱心だったが、教会でも青年会長をして、つねに活躍していた。  源吉父子は、日曜日には必ず店を閉じ、教会の礼拝を欠かしたことはない。昭和の初期に、日曜ごとに店を休むなどという問屋は、全国でも珍しかった。世間からは変わりものとされ、ときには取り引き先から苦情が出ることもあった。  畏作が二十四歳の年、心ひそかに想っていた幼なじみのハルが芸者に売られた。それを知った畏作は、ハルを妻に迎えたいと、父の源吉に相談した。さすがの源吉も、相手が芸者と知ってちょっと驚いたようだったが、畏作を信頼してハルを迎えることを許した。畏作の母友江は、源吉が承知したことに異存はなかった。  しかし世間は、畏作の結婚をとやかく言った。教会の中でも、陰で問題にする者もいた。だが、ふだんの源吉父子を知っている教会員の多くは、かえって感動し祝福してくれた。  ハルは控えめな賢い女だった。朝から晩までよく働き、しゅうと、しゅうとめの源吉夫妻にも、まめまめしく孝養を尽くした。そして、毎日曜日には夫とともに教会にも通った。だが世間の口はいつまでもうるさかった。 「藤村のおかみさんは、もと芸者だったってねえ」 「クリスチャンだなんて言っても、けっこう芸者遊びをするのかな」  などと、畏作もハルも、幾度言われてきたかわからない。陰口は、子供の明子たちにまで及んだ。平太のように、あからさまに罵るものもいれば、こそこそと悪口をいう者もあった。小さいころから、父や母への陰口を幾度か聞かされているうちに、明子は人を避けるようになり、陰気に黙りこむ子供になった。子供の自分からみると、母ほど美しく立派な人はいないと思われた。その母がなぜ悪口を言われるのか、最初は納得がいかなかった。芸者の子と言われるうちに、明子は、芸者とはどんなものかをおぼろげながら知るようになった。一時は、そのことで明子まで母をさげすみ、憎んだことがある。  しかし、教会の日曜学校に通って話を聞いているうちに、人間に貴賤《きせん》のないことを知るようになり、明子はいつしか神を信ずるようになった。 「汝を責むる者のために祈れ」  という聖書の言葉は、特に明子の心を打った。女学校に入ってからも、明子は母のことでとやかく友人たちから言われることもあった。しかしそのたびに明子は、 「汝を責むる者のために祈れ」  の言葉を思いだした。そして心ひそかに、明子は決意した。 (芸者の子であっても、わたしの一生は、神に喜ばれる立派な生き方をしてみせよう)  明子は、しだいに人の口を恐れなくなり、誰とでも努めて話をするようにした。話をすれば、案外人も自分をわかってくれた。  そのうちに、明子はいつのまにか明るい楽天的な人間といわれるほどになっていた。女学校を卒業する年、明子は信仰告白をし、洗礼を受けた。 (神さまの喜んでくださる道を、わたしは自分から進んで選びとって行こう)  その日の日記に、明子は赤インクで大きく書いたのである。      三  克彦は、結核の薬の研究を五年前からつづけていた。克彦の研究は、門外漢の明子にはよくはわからなかったが、かなり根気のいる仕事であった。初めて明子が洞爺で会った日の克彦は、その研究を思い立ったばかりであった。  克彦はそのころから、暇を見つけては方々の土を集めて歩くようになった。 「あのね、明子さん。結核やチフスで死んだ人を土葬するとしますね。すると、たとえ体が腐って溶けてしまっても、結核菌なりチフス菌なりが、その土の中に当然残っているものと、以前は考えられていたんですよ。ところが、その土を調べてみますとね、あると思ったはずの結核菌もチフス菌も、すっかり姿を消してしまっているわけなんですよ。それで、土壌の中にはこの菌を食う他の菌があるにちがいないということになったわけなんです」  克彦はわかりやすく明子に説明してくれた。そして、いろいろな土壌の中にある菌を培養して、どの菌が結核菌を食うのか調べるのだと言った。  千島《ちしま》のエトロフ島では、腐ったタコを食べても死なないなどと言われていた。克彦は、わざわざそのエトロフ島にも土を集めに渡った。風土病のあるという礼文《れぶん》や、利尻《りしり》の島にも、そして天売《てうり》・焼尻《やぎしり》の島にも土を求めて、克彦は熱心に研究を進めたのだった。  昭和十八年の春、婚約したとたんに明子は軽い肺結核にかかった。太平洋戦争が日増しに苛烈《かれつ》になり、店員がつづいて三人も応召した。そのための人手不足が明子の肩にもかかり、明子は、男仕事の荷物の発送まで手伝わなければならなかった。その過労から結核の発病となったのである。  当時はむろん、結核の特効薬はなかった。人々は結核を忌み嫌っていたから、藤村家ではさっそく婚約の解消を九我家に申し入れた。しかしそれは克彦に軽く一蹴《いつしゆう》された。 「冗談じゃありません。ぼくは結核菌を殺す薬を作ろうと思っている男ですよ。そんなことで婚約の解消ができると思うのですか。明子さんが結核になったと聞いて、ぼくは自分の研究に、いままで以上にハッキリとした使命感を持つことができたんですからね」  そういった克彦は、うかうかと電車を乗り過ごしたり、自分の宿をさがしあぐねて泣き出しそうな顔をした克彦とは、全く別人のようであった。  明子の発病と同じころ、アッツ島の山崎部隊二千五百人全員の玉砕があった。克彦は、千島の土もやがては日本人の手に入らなくなるかもしれないと、再度採集に出かけたりした。食糧難の時代であったから、米をリュックサックに入れての旅行だけでも、大変なことであった。  克彦は、旅行に出るたびに、明子にその土地の小石と食べ物をみやげに持って見舞いに来た。食糧難の時代と言っても、ウニの塩辛や、トロロコンブなどのみやげは買ってくることができたのである。  療養所は、医師も看護婦も不足で給食もないときであった。患者たちは自炊をしなければならなかったから、どうしても体に無理がかかる。父の畏作は、その明子のために廊下伝いの離れを作ってくれた。妹の寛子や、店員たちへの感染を避けるために、洗面所や、簡単な台所を設け、便所も別にしてくれた。  克彦は、その離れを訪れて、 「ここがいちばん、ぼくにはゆっくりできる所ですよ」  と喜んだ。  もうそのころでは、なかなか手に入らなくなったカルシウム剤や肝油などを、克彦はずっとつづけてくれたのだった。研究の忙しい合い間でも、何か珍しいものが手に入ると、克彦は必ず自転車で飛んできた。 「ぼくね、明子さんとは、飴玉《あめだま》一粒でも半分に分けて食べたいんですよ。いや、丸々全部上げたいと思いますよ」  そんなことをいうときの克彦は、やはり六つ年上のおとなの表情であった。  終戦の年の夏、明子はすでに健康を回復していた。 「ぼくの作った薬でなおしてやりたかったのに」  克彦はそんな冗談を言って、明子の全快を喜んでくれた。だが克彦の研究は、時代が時代なだけに思い通りには進んでいないようだった。教授から命ぜられる仕事をやらねばならず、自分の研究の時間がなかなか取れなかった。外国でも、結核の薬の研究が進んでいるというニュースが伝わり、克彦は少し焦っているようでもあった。  破れたガラス窓に板を張り、燃料も不足な研究室で、研究員たちはふるえながら勉強をつづけなければならなかった。そんな中でも、克彦は粘り強く研究をつづけていた。 「結核は、なおったと言っても、一年は用心しなければなりませんよ」  克彦は明子をいたわって、結婚のことは言い出さなかった。  翌昭和二十一年、明子はさらに健康になったが、克彦は結婚の延期を申し出た。ようやく軌道に乗り始めた研究に、時間は買いたいほど足りなかった。一方、ストレプトマイセスの研究は、日本でもようやく注目されつつあったから、克彦は結婚式のために時間を割《さ》くことさえ惜しんだのだった。  元気になった明子は、克彦に手作りのパンなどを持って、研究室に届けに行くようになった。いつ行っても克彦は、広い研究室の片隅で、蒸留水を作ったり、ずらりと並べたシャーレをのぞいたり、土を融《と》かしたり、綿球で栓《せん》をした試験管を手にとって、眺めていたりしていた。そんな姿を見ているだけに、明子は結婚のことを克彦に言い出すことはできなかった。  あるとき珍しく、克彦が明るいうちに訪ねて来た。克彦を囲んで、家族一同で夕食を食べていたとき、妹の寛子が無遠慮に克彦に言った。 「研究研究っていわないで、早くおねえさんと結婚してよ。おあとがつかえておりますからね」  言われて克彦がキョトンとした。 「でも、寛子ちゃんはまだ女学生でしょう」  これには寛子をはじめ、みんなが笑った。 「いやだわ、克彦さんったら。あたし女学校を出て三年もたったのよ」  克彦は箸《はし》をとめ、例の悲しいまなざしになって明子をみた。 「じゃ、明子さんはいくつなんですか」  再びみんなが笑った。明子だけが笑いをこらえて言った。 「数えで二十四よ」 「ええっ、二十四? 明子さんが二十四になったんですか」  祖父の源吉は大声で笑って言った。 「なるほど、あんたは天才じゃなあ。学者はこうでなければ大物になれん」  源吉の感じ入ったようすに、みんなも笑いを止めてうなずいた。      四  明けて二十二年、この年になって克彦の研究は順調に進んだ。教授がようやく積極的に指導してくれるようになり、万事研究がやりやすくなった。  明子はいま、クリスマスに贈る克彦のセーターを編み始めていた。自分の青いセーターをほどいて洗い、湯のし[#「湯のし」に傍点]をして編み返すのである。市販の毛糸はぼそぼそとして粗悪なものだったから、編み返しのほうがかえって、暖かである。このころの自信に満ちた明るい克彦の顔を思い浮かべながら、編み針を動かすのはしあわせだった。もう母屋《おもや》のほうではみんな寝についたらしく電灯が消えている。明子は編み針を毛糸の玉に突きさし、そろそろ寝ようと思った。  ふと、ハンドバッグを茶の間に置き忘れていたことに気づき、足音をしのばせて渡り廊下を歩いて行った。九月も末の廊下は、少し足裏に冷たかった。茶の間の障子をあけ、電灯のスイッチをひねったとたん、待ち受けていたように茶ダンスのそばの卓上電話が、けたたましく鳴った。あわてて受話器を取りながら、眉根《まゆね》をよせて明子は柱時計を見上げた。もう十一時を過ぎている。こんな時刻に何ごとかと不審に思った明子の耳に、思いがけなく克彦の声が流れて来た。 「わたしよ、克彦さん。どうなさったの、こんなに遅く」 「あ、明子さん。ちょうどよかった。実はね、とうとう見つかりましたよ。今度こそ成功ですよ」  克彦の声が、喜びにうわずっている。 「ほんと、克彦さん!」  思わず明子が叫んだ。 「ほんとうですとも、明子さん。やりましたよ、とうとうぼくはやりとげましたよ」  明子は体じゅうから力がぬけていくような思いだった。 「おめでとう、克彦さん」  何か夢をみているように、自分の言葉に実感がともなわない感じだった。 「おめでとう、克彦さん」  ほかに何かいう言葉があるはずだと思った。だが明子は同じ言葉をくり返すばかりだった。  明子の電話に、隣室の畏作とハルが顔を出した。明子は抱きしめるように握っていた受話器を畏作に手渡した。 「ほう。そうですか。そりゃおめでとう。いや大したもんです」  畏作は大きくうなずき、いつの間にかそばに来ていた祖父の源吉と電話をかわった。 「いやあ、大したもんだ。大変なしんぼうだったなあ。だがね、あんたのことだから、必ずやるとは思っていたがねえ、いや何にしても世界的な大発明だよ。うん、よくやった」  母のハルも妹の寛子も、かわるがわるに電話に出たが、誰も彼もふだんの克彦の勉強ぶりを知っているだけに、感動は大きかった。  再び明子に受話器が戻った。 「お疲れになったでしょう、克彦さん」 「うん、疲れたっていうより、自分が自分でないみたいな気がしますよ。やっぱり興奮してるんでしょうね」 「これからおうちにお帰りになるの」 「ええ、これからうちへ帰って、何もかも忘れて眠りますよ」 「そうなさるといいわ。でもお薬なんか飲んじゃだめよ」  克彦はときどき睡眠薬を飲んでいた。 「でもね、今夜は興奮してますからねえ……。眠り薬でも飲まなければ……」 「そりゃそうでしょうけれど、このごろずっと克彦さんは過労気味なんですもの。過労に眠り薬は危険じゃなくって」  ふっと明子は不安になった。  電話を終えてからも、しばらくの間、誰も寝ようとしない。 「何しろ結核に悩まされている人は多いからなあ。大したでっかいことをやったもんだよ」  この春、妻の友江に先立たれた源吉は、久しぶりに大声で誰よりもよく話した。  やがてみんなが部屋にひきとり、明子も離れに戻った。さすがに嬉《うれ》しさで眠られなかったが、なぜかときどきふっと不安がかすめた。先ほどの睡眠薬が奇妙に心にかかるのだ。  明子が眠りに入ったのは二時を過ぎていた。それからどれほど眠ったことだろう。明子は遠くの方で消防車のサイレンが鳴っているような気がした。そう思っているうちに、赤い消防車がぐんぐんと眠っている明子をめがけて走ってくる。消防車は四方から火を吹いていた。その火の中に、克彦が例の悲しそうな目でじっと明子をみつめている。ハッと思ったとき、明子は炎に包まれた消防車の下にひかれていた。消防車は思ったより重くはないと、死んだ明子は思っていた。  七時ごろ、女中の津由子に、明子は大声で揺り起こされた。明子は、ようやく深くなった眠りから、なかなか覚めることはできなかった。 「大変です、起きてください」  津由子は明子をその腕にかかえて抱き起こそうとした。 「大変でもいいの」  明子はまだ半ば眠りの中にいた。 「克彦さんが大変なんです」  克彦という名に、明子はようやくハッと目をあけた。頭の中に立ちこめていた濃霧がたちまち消えていくのを明子は感じた。 「克彦さん、どうしたの」  昨夜の睡眠薬を思い出して明子は床の上に飛び起きた。 「克彦さんの研究室が今朝方焼けたそうです。いまあちらのお父さんからお電話がまいっております」  明子はものも言わずに、茶の間に走った。 「もしもし、明子でございます。克彦さんの……」  言いかけた明子の言葉をうばうように、克彦の父が早口に言った。 「そうなんです。明子さん、わたしも電話で知ったのですが、今朝五時ごろ研究室が焼けてしまったんです。克彦の研究は、何もかも焼けてしまいました」 「それで克彦さんは?」  明子はめまいがした。 「克彦は昨夜薬を飲んで寝たもんですから、何も知らずに……何も知らずに眠っています。わたしにはあれを起こす勇気がないんですよ」 「…………」  明子は、昨夜の克彦の喜びにうわずった声を思い出した。長年の研究がやっと結実したばかりではないか。 「もしもし、明子さん、すまないが、あんたから克彦に言って聞かせてくれませんか」  力のぬけた克彦の父の声に、明子は何と言ってよいかわからなかった。研究室が焼けたと、誰が克彦に告げることができることだろう。あの研究以外に何ものもない克彦に、この残酷な事実をどうして告げることができるだろう。いかにしっかりした気性の明子とは言え、それはできることではなかった。 「あの……ノートなどおうちにあるのじゃございませんか」  やっと明子はそういうことができた。 「いや、ノートも、そのほか書きかけの論文も全部、研究室のボックスに鍵《かぎ》をかけて、置いてきてあるんですよ。たとえ、そんなものが手元にあったって、サンドカルチュア(菌培養の試験管)や、菌株が焼けてしまっては、何にもなりませんからね」  明子は呆然《ぼうぜん》とした。涙も出なかった。 「とにかく、すぐおうかがいいたします。おかあさんはどうなさっていらっしゃいますか」  そんな挨拶ができたのがふしぎだった。 「あいつは、阿呆《あほう》のようにすわったきりですよ」  無理もないことだった。明子自身正気でいることがふしぎなくらいだった。できるなら、このまま克彦に何年も眠っていてほしいと明子は思った。何もかも焼けてしまった事実を知ったときの克彦を思うと、眠っていてくれるほうがまだよかった。  父母に事を告げたとき、明子は、自分が思ったよりしっかりしていることに気づいた。  ただちに、明子は両親とともに車で克彦の家に向かった。大きな事態に直面している明子たちにはかかわりなく、街は昨日と同じように動き始めている。一点の雲もない初秋の青い空が目にしみた。警笛を鳴らして、グリーンの市電が過ぎ去るさまも、昨日と全く同じだった。  九我薬局は、非常事態を物語るかのように、堅く雨戸を閉ざし、しんと静まり返っていた。  克彦はまだ眠っていた。明子たちも、克彦の親たちも、いまは語る言葉もなかった。人の死に対して、悔みの言葉が出ないのと同じであった。克彦の母は、茶を出すことさえ忘れて、ぼんやりとすわっていた。やがて明子は、克彦の父とともに、そっと二階の寝室をのぞきに行った。克彦は、片手を掛けぶとんの上に出し、口をかすかにあけて眠っている。それが、どこか笑っているように見えるのが、明子にはつらかった。長い五年間の苦労に対して、いま克彦に待っているのは、大きな失望だけであった。明子と克彦の父は顔を見合わせ、再びそっとふすまをしめて茶の間に戻った。明子は、克彦の受けるショックが、どうか大きくはないようにと祈らずにはいられなかった。  焼け跡を見に行った店員たちが戻って来た。店員たちは頭を横にふり、何も焼け残ったものはないらしいと、言葉少なに語った。  克彦が起きたのは十時を過ぎていた。寝巻き姿のまま茶の間に入って来た克彦は、明子たちを見て、 「やあ、こんなかっこうでごめんなさい」  と、ニッコリ笑った。よく眠った目が、いつもよりいっそう澄んでいる。 「わざわざ、朝からお出でくださったんですか。おかげさまで、ぼくもどうやら……」  克彦は両手をついて、ていねいに頭をさげた。明子は思わず涙がこぼれた。誰も何とも答えない。克彦はふしぎそうな顔をした。やっと克彦は部屋の空気に気がついた。そのとたん、克彦の母が、 「克彦!」  と言ったまま泣き伏した。 「どうしたの、おかあさん。何かあったの、明子さんのおじいさんでも……」  明子は涙をぬぐいながら、両手で顔をおおった。 「克彦君、君は実に偉い男だよ。君の五年間の努力を思って、昨日は眠れないほどだった。だがね、克彦君。ようく心を落ちつけて聞いてほしいんだ。いいかね、何を聞いても驚かないと約束してくれるかね」  畏作は静かな口調で切り出した。 「何だか変ですねえ。そんなに驚くことがあるんですか。ああ、明子さんのことですか。明子さん、まさか婚約を解消するっていうんじゃあないんでしょうね」  不安そうに克彦は、明子の顔をのぞきこんだ。明子の口から、こらえていたおえつ[#「おえつ」に傍点]が洩《も》れた。 「克彦君」  畏作の唇がふるえていた。克彦の父は克彦を見まいとして顔をそむけた。 「克彦君、驚いてはいけないよ。実は今朝五時ごろ、君の研究室が全焼してしまったんだ」  克彦の顔からさっと血がひいた。 「研究室が焼けた?」  無表情に克彦が呟《つぶや》いた。 「しかしね、克彦君。決して落胆してはいけないよ。学問は一生の仕事だからね。君の発見した仕事を、君はもう一度やり直すことができるはずだからね」  沈黙していた克彦が、突然大声で笑った。一同はギクリとして克彦を見た。克彦の目が無気味にすわっていた。 「克彦! しっかりしろ!」  克彦の父が立ち上がった。 「あの研究室が焼けたって? ハハハ……そんなことうそっぱちだ。焼けるはずがあるものか!」  いままで聞いたこともない異様な声で叫んだかと思うと、克彦はさっと自分の部屋に帰って行った。克彦の父があとを追った。そのとき、表に車がとまり、研究室の先輩たちが三、四人どやどやと横の玄関から入って来た。 「克彦君はどうしていますか」  みんな疲れきった顔をしていた。  一同が克彦の部屋に通ったあと、明子はお茶の用意をととのえて、二階の克彦の部屋に運んで行った。ふすまをあけようとすると、怒号が聞こえた。 「馬鹿を言え、ちゃんと知ってるぞ!」  克彦の声とは思えなかった。ふすまをあけると、克彦は仁王立ちに突っ立ったまま、友人たちを見おろしてどなっていた。 「君たちだろう、火をつけたのは! 君たちが火をつけたから謝りに来たんだろう」  天使のように澄み切っていたあの瞳が、いまは狂暴に光っている。明子は克彦の言葉が事実なのかと思った。四人の友人たちが、がっくりと首を垂れているようすは、たしかに謝罪しているように見えた。だが次の瞬間、克彦の狂暴な目は明子に向けられていた。 「この女もぐる[#「ぐる」に傍点]なんだ。おとうさん、早く警察に電話してください」 「克彦さん!」  明子は思わず叫んだ。克彦が地団駄を踏んだ。 「ぼくにはよくわかっている。ぼくの研究を、こいつたちが盗み出したんだ。盗み出してから火をつけたにちがいないんだ」  克彦は完全に狂っていた。  あの痛々しいほどの清らかさは、ガラス細工よりももろい神経でもあったのだ。明子は次の間にかけこんで泣き伏した。五年間の克彦の苦労を思うと、狂った克彦があまりにも憐《あわ》れであった。昨夜の喜びもほんの束の間、せっかくの研究のすべてが焼けてしまったのでは、狂うのも無理はないと思った。明子は自分もいっしょに狂ってしまいたかった。いっしょに狂わない自分が薄情だと思った。だが明子は、心の底に、克彦のために何かをしなければという強い思いが湧《わ》いてくるのを感じた。  明子は泣きながらも、そこに正座して神に祈った。  隣りの部屋からは間断なく克彦の怒号が聞こえた。明子は祈りながら、ふと人間というものの弱さを思わずにはいられなかった。      五  克彦は札幌郊外の牧浦精神病院に入院させられた。ここは克彦と同期の牧浦勉の父の病院であり、牧浦勉もともに診療に当たっていたからである。小山の中腹にあるその病院に、明子は毎日通った。通ったとは言っても、面会謝絶だから克彦には会えない。明子は鉄格子のはまった病院の窓を見あげながら、胸がしめつけられるような思いだった。せめて克彦の好きな食べ物をと、明子は毎日ヤミ市を漁《あさ》っては病院に通った。  十月に入ると、風が身に沁《し》みるような感じだった。こんな未来が克彦と自分の上に待っていようとは、明子は夢にも思わなかった。きょう明子は、克彦の好きな筋子《すじこ》とリンゴを持って来た。だが克彦は、明子の持ってきたものとも知らずに食べることだろう。そんなことを思いながら、看護婦詰め所に明子は入った。詰め所には看護婦はおらず、牧浦勉が机に向かって一人カルテを調べていた。  明子をみると、牧浦はハッとしたようだった。 「いまちょうど、あなたのことを考えていたものですから、びっくりしましたよ」  眼鏡の奥に、いつも柔和な目が笑っている。肩幅の広い背の高い独身の医師だった。 「克彦さんはどんなようすでしょう?」  軽症の患者たちが、詰め所の前の娯楽室で、ピンポンをしたりラジオを聞いているのが、窓越しに見える。何か独りごとを言いながら、同じ所を行ったり来たりしている患者もいる。そのどの顔にもほとんど笑いがないのを、明子は来るたびに見て心が痛んだ。 「そうですねえ……。克彦君の病気は、あなたがフィアンセですから正直に申しますが、興奮性精神分裂症でしてねえ、まあ鎮静剤と、電気ショック療法で、一応は元通りには戻れるでしょうがね」 「まあ元通りになれるんですか。じゃ研究室にも戻れますわね」  明子は両手を握りしめた。 「研究室に戻ることはできますよ。しかしねえ……、彼との結婚は見合わせたほうがいいとぼくは思いますがねえ」 「あら、いま先生は、克彦さんが元に戻れるとおっしゃったじゃありませんか」  なぜ結婚を見合わせよというのか、不審だった。 「元には戻れますよ。しかしねえ藤村さん、興奮性精神分裂症というのは厄介な病気でしてねえ。おそらく近い将来に再発するのではないかと、ぼくは思うんですよ」  牧浦は言いづらそうに、白衣のボタンをはめたりはずしたりしながら、明子に言った。 「えっ? 再発ですって」  元通りになれると聞いて喜んだとたんである。明子は、再発するかもしれないという牧浦の言葉が、とっさには信じられなかった。 「再発してくれなければ、それに越したことはありませんがねえ。藤村さん、ぼくと彼は同期なので九我君の性格はよくわかっているんですがね。いま考えてみると、彼の病気はかなり早くに発病していたと思うんですよ。九我君は、あまり人と親しくしない気性でしたでしょう。何か自分一人の中にこもっているようなところがありましたねえ。まあ、研究室という、あまり人と言葉をかわさないで済む所にいたので、まだこの社会に適応できたわけですが、それが、あの火事を契機として、病気が表に出てしまったと思うんですよ」 「じゃ先生、早くに発見できればよかったんでしょうか」 「それはどんな病気でも、発見は早いほうがいいに決まっていますがねえ」  明子は、克彦の病気に気づかなかった自分が責められているような気がした。看護婦たちが入って来たので、持って来たリンゴと筋子を看護婦に託して詰め所を出た。牧浦が玄関まで明子を送って来た。 「くどいようですが、結婚のことは、くれぐれも慎重になさってください」  明子は、その日一日牧浦の言葉を思い返していた。たとえ再発することがあっても、たとえ一生なおらなくても、自分は克彦から離れることはできないと思った。克彦が狂ったのは、克彦の罪ではない。新聞は、研究室の火事を、火の気のない所から出たので、漏電か放火か原因不明と報じていた。もし放火だとしたら、その犯人を自分は許すことができるだろうかと明子は思った。あの心やさしい子供のような克彦を、狂わせてしまった犯人が、明子は憎かった。そして、どんなことがあっても、最後まで克彦を愛し通そうと思わずにはいられなかった。  克彦が入院して二十日ほどたった。遠い山には、もう雪が来ていたが、克彦の病院の山は、もみじが美しかった。  いつものように看護婦詰め所に顔を出すと、牧浦が待っていたように椅子《いす》から立ち上がった。 「藤村さん、九我君の部屋に行きましょう」 「会えるのですか」  驚く明子に、牧浦はうなずいて、すぐに病棟につれて行った。廊下を遮断《しやだん》している大きなドアをノックすると、小窓があき、男の看護人が軽くうなずいた。ガチャリと冷たく鍵の鳴る音がして、中からドアがひらかれた。むっと異様な臭気が鼻をついた。ドアの向こうにも、廊下が長く伸び、両側に病室が並んでいた。牧浦はちょっといたわるように明子をかえりみて、大股に先に立って歩いて行った。  克彦の病室は、山に面した二階の片隅にあった。「九我克彦」と白く書かれた黒い名札を、明子は黙って見上げた。親指が入りかねるほどの細い間隔で、鉄格子がドアの窓にもついている。牧浦は軽くノックをし、その窓のカーテンをちょっとあけた。明子は、とてもそこから中をのぞく気にはなれなかった。 「起きてますよ」  牧浦はドアに鍵をさしこみ、先に入った。 「ああ、明子さん」  発作以前と同じ、おだやかな澄んだ克彦の目であった。 「克彦さん」  明子は牧浦の前も忘れて、思わず克彦のそばにかけ寄った。 「ぼく、ひどい神経衰弱だったんですってねえ」  克彦はいつものはにかんだ表情で、首に手をやった。髪は少し伸びていたが、ひげは看護婦に剃《そ》ってもらったらしく、きれいな顔をしていた。明子は、つと視線をはずした。克彦が元に戻ったからと言って、あの失われた研究は元に戻らないのだ。そのことを克彦はどう受けとめているのかと、明子は胸が痛んだ。 「秋ですねえ。山もすっかりもみじになってしまって」  克彦は寂しい顔になって窓の外を見た。明子は黙ってうなずいた。何か言えば涙がこみあげてきそうであった。牧浦は少し離れた窓からじっと外を見ている。明子はベッドのそばの椅子にすわって、冷静になろうと心を落ちつけていた。 「明子さん、ぼく、これからどうしたらいいんだろう」  明子の恐れていた言葉だった。 「五年の間、ぼくはあんなに苦心したのにねえ。何もかも灰になってしまって……」 「九我君、君ほどの秀才だ。君は何でもやれる人間だよ。まず元気を出すことだな」  牧浦は、ふり返って力強く言った。その言葉に励まされて明子もうなずいた。 「そうよ克彦さん。おねがいだから元気を出してね」  明子は、克彦がなおったら、ぜひ聞かせたいと思っていたイギリスの思想家カーライルの話をした。カーライルは、何十年もの研究の結晶である論文を友人に貸した。友人の家の女中は、それを論文とも知らず、反古紙と思い燃やしてしまったのである。カーライルは一時ひどく落胆したが、やがて決然として再び論文に取りかかった。そしてついに完成したという。  明子はいつか読んで感動したこの話を克彦に告げた。      六  二か月の入院生活を終えた克彦は、以前よりむしろ落ちついてみえた。F大学付属病院の一隅を借りた仮研究室に、春になってから克彦は熱心に通い始めた。 「ぼくもカーライルに負けませんよ」  克彦は明子に会うたびにそう言った。  最初のうちは、明子も牧浦の言った再発のことが気にかかっていたが、克彦にはそんな気配は全くなかった。そのうちに、まだ若い牧浦の誤診ではなかったのかと、明子は次第に思うようになった。明子ばかりではなく克彦の家族も、明子の親たちも、毎日接している研究所の友人たちも、あれは一時的な激しい興奮に過ぎなかったのだと思いなおすほどに、克彦は尋常だった。  克彦の発病から一年たった秋、二人の結婚式が明子の教会で挙げられた。披露宴はひきつづきGホテルの広間で開かれた。両家の親族を始め、同業者、教会関係、大学関係など、昭和二十三年の当時としては、かなり華やかな披露宴であった。藤村家としては、ごく親しい仲だけのささやかな祝会を望んだが、九我家では克彦を慰める気持ちもあって、多くの人を招きたがった。しかし、それが克彦のせん細な神経を圧迫することになろうとは、誰も思わなかった。  金屏風《きんびようぶ》の前に並んだ克彦と明子は、誰の目にも羨《うらや》むばかりに清々しく美しかった。人目に立つ克彦の澄んだ目と、明子の彫りの深い個性的な顔立ちとが、いかにも似合いの一対《いつつい》に見えた。  やがて仲人の挨拶《あいさつ》が始まった。仲人の挨拶は長かった。克彦はその半ばごろから、指で軽くコツコツとテーブルをたたき始めた。明子は白いベール越しに、克彦をそっと見た。克彦はいつもより青ざめてみえた。多分、はにかんでいるのだろうと、明子は微笑した。  つづいて克彦の教室の、西野教授の祝辞が始まった。銀髪の温厚な西野教授が、まず克彦の真摯《しんし》な学究的な態度と、その才を讃《たた》え始めたときだった。突然克彦が立ち上がって叫んだ。 「やめてくれ! おれのサンドカルチュアを返してくれ!」  一瞬、一同は顔を見合わせた。起こった事態がとっさには飲みこめなかった。 「さあ、おれの研究をどこにかくしたんだ!」  教授が呆然としたとき、牧浦勉がすでに克彦の腕をとらえていた。明子は目の前が真っ暗になった。人々の驚きざわめく声も明子には聞こえなかった。牧浦と仲人に連れ去られながら克彦が身をもがいて、再び何か大声で喚《わめ》いた。  明子は仲人の妻に支えられ、ようやくの思いで席を立った。足もとがふらつき、明子は倒れかかった。その純白のウエディングドレスが、人々の目に、傷ついた白鳥のように痛々しかった。一瞬の出来事であった。  その夜ただちに牧浦が明子の家を訪ねて来た。克彦の病状を告げるためであった。克彦の興奮は、最初のときよりはひどくないが、回復には手間どるだろうと言い、明子を見舞った。明子は父母に付き添われて離れの自分の部屋にひきこもっていた。 「大丈夫ですか、明子さん」  青ざめて、まだ花嫁化粧も落としていない明子を、牧浦は気の毒そうにみた。 「こんなことになって、ぼくはあなたに申し訳ないと思っています。むろん再発のことは申しあげましたが、もっとハッキリと申しあげるべきでした」  牧浦は明子をひそかに愛していた。それだけに、克彦との結婚を聞いても、強い忠告を言えなかったのである。  牧浦は、そばにいた畏作とハルにも頭を下げた。 「所もあろうに、披露宴であんなことになってしまって、ぼくは主治医として、何とお詫びしてよいかわかりません。いてもたってもいられなくて、おうかがいしたわけです」  畏作もハルも、牧浦の態度にかえって恐縮した。 「こんなことを申しては出過ぎたこととは思いますが、明子さんにもご両親にもこの際、医師としてハッキリ申しあげたいのです。克彦君は、また再発すると思います。できるならいまのうちに、克彦君とのことをお考えになってはいかがかと思いますが……」  畏作とハルは疲れた顔を見合わせた。 「明子さんは、結婚式を挙げられただけで、まだ籍も入れていないと思うのです。ですからこの際ハッキリと、決断なさってはいかがでしょうか。それでなければ、明子さんの一生もめちゃめちゃになると思うんですが」  めちゃめちゃになるという牧浦の言葉に、明子は不意に反発を感じた。それは、くずおれそうになっていた明子の心に、思いがけない闘志をふるい起たせた。  きょうの結婚式場での牧師の言葉が、にわかに鮮やかに耳に甦《よみがえ》った。 「健《すこ》やかなる時も、病《や》める時も、汝《なんじ》夫を愛するか」  その牧師の声が、牧浦の言葉をかき消すように、明子の胸に大きく迫って響いた。明子は、左の薬指の指輪をじっとみた。あの誓いの言葉に、この指輪を克彦はかすかにふるえながら、はめてくれたのである。  明子は静かに微笑して顔を上げた。  再び明子の病院通いが始まった。去年のいまごろだったと、病院の裏の美しい紅葉を眺めながら、明子は克彦の発病のころを思っていた。  精神病院は相変わらず玄関に近づいただけで、異様な臭気があった。これが人間の心の病気の臭いなのかと、明子はふと思うことがあった。  このころ牧浦は、ときどきハッとするような熱っぽい表情を明子にみせた。明子は、そんなまなざしの牧浦に会うのが、しだいに苦痛になった。  二度目の克彦の入院は長かった。クリスマスが過ぎ、克彦の病状は、よそ目には常人と変わりなくなったが、退院は許可にならなかった。故意に牧浦が退院させるのを渋っているような気がするほど長かった。しかし牧浦は言った。 「九我君はね、今度は少し、慎重にようすを見たいと思うんですよ。第一、ぼくが心配なのは、今度発明された結核の特効薬の問題なんです。これは彼の研究のテーマだったのですからね。結核療養所では、そろそろこれを使うという話もあるんです。いま考えると、彼の再発は、このストレプトマイシンの出現も影響していたんじゃないかと思うんですがねえ」  それは明子も恐れていたことであった。克彦の家は薬局である。やがて市販されれば、いやでもストレプトマイシンは薬局の棚に並ぶことになるのだ。そのことに克彦は耐えられるだろうかと、明子は不安だった。  克彦は半年の入院生活を終えて、二十四年四月の末に退院した。克彦は以前より元気がないように思われた。やはりストレプトマイシンのことが、よほどこたえているに違いないと、明子はひそかに心を痛めた。 「明子さん、ぼくは今度、水虫の薬を勉強してみようかな。そうなると今度は放線菌とはお別れで、青カビや赤カビと仲よくしなけりゃならないんですよ」  つとめて明るくふるまおうとしていることが、明子にもわかった。しかしそうは言っても、克彦は以前のように研究室に行こうとする気はないようであった。研究室ばかりではなく、散歩することも嫌った。やはりあの結婚式の日の発作が、人の前に出ることを恐怖させているのかもしれなかった。  克彦の父も母も、体がひと回り小さくなったように、めっきりと年を取った。明子は克彦が病院から帰っても、克彦の家に入るきっかけを失って、まだ自分の家にいた。妹の寛子はすでに、今年三月銀行員と結婚して、郊外にしあわせそうに住んでいた。  明子は、病院に通っていたのを、克彦の家に変えただけで、その生活は変わらなかった。どこにも出たがらない克彦のために、九我家では研究室を庭に建てていたが、しかし明るい空気はなかった。またいつか再発するのではないかという恐れのほうが強かった。克彦は、明子を妻として扱ってよいかどうか、自分でもわからないふうであった。そっと明子の肩を抱きしめることがあっても、気弱な克彦には、それ以上のことができなかった。 「明子さん、ぼくはもうだめだよ。牧浦があなたを愛しているような気がするんだけれど、あなたも、彼のほうに行ったほうが、しあわせじゃないのかな」  退院して、一か月ほどたったある日、克彦はそう言った。 「いやよ。わたしは克彦さんの奥さんじゃありませんか」  明子は明るく克彦の手を取った。 「ほんと? こんなぼくでも、明子さんはいいというの」  克彦はホッとしたように、明子を抱きしめた。だが、依然として克彦と明子は他人であった。どっちつかずの、恋人のままの生活がつづいた。九我家としても、籍のことも言い出し兼ねていた。明子は、籍を入れ、克彦とともに住みたかった。それが克彦の妻として当然だと思った。たとえ再発をくり返すにしても、それが妻となったものの当然取るべき道だと思った。夫婦は健康なときだけの夫婦ではないはずだ。 「健やかなる時も、病める時も、汝夫を愛するか」  明子は、この言葉をずっと思いつづけて来たのである。  そんなことを思っていた六月の初めだった。五月の下旬は夏を思わせるような暖かさだったが、六月に入って、ストーブの欲しいような寒さが返ってきた。明子はその寒さに風邪をひいたが、克彦の家には通っていた。折り悪しく克彦の母が座骨神経痛で寝こんでいたから、家事の手伝いをしなければならなかった。九我家には男の店員ばかりで、女中がいなかったからである。  だが、風邪をひいて三日目の朝、明子は三十九度近い熱を出して倒れてしまった。以前に肺結核を病んだことのある明子だったから、この熱は、風邪の熱か結核の熱かとみんな心配した。明子は、克彦の家が心配で、母に頼んで女中の津由子を手伝いにやってもらった。  七十を過ぎてもかくしゃく[#「かくしゃく」に傍点]とした明子の祖父は、民生委員や保護司を勤め、さらにまた売春婦更生のための仕事もしていた。明子の母ハルが芸者であったことが、祖父にこの仕事を熱心にさせた。頼ってくる売春婦たちにも、ハルが芸者だったことを源吉はかくさなかった。初めは容易に信じない彼女たちも、それが事実だと知ると、自分の今後に勇気と希望を持つのだった。  津由子はその中でも、特にハルの上品な姿に感動し、この家に住みこむことを希望した。藤村家には、ほかに女中がいたから、津由子を必要としなかった。しかし、店にも奥にもけっこう仕事はないわけではなかった。  そんなわけで、津由子は三年前から明子の家に住みこんでいた。やや意志薄弱なところはあるにせよ、素直でよく働く娘だった。色白で大柄な、二十二歳の津由子の過去は、誰にも詳しくはわからなかった。ただ昭和二十年の三月十日、東京の大空襲にあい、親も兄弟も行くえがわからないということだった。そのとき、どこかの男に連れられて札幌に渡り、売春婦に堕《お》ちたようであった。  毎日克彦を訪ねていた明子が、ぴたりと行かなくなり、津由子が手伝いに来たことを、初め克彦の母は誤解したようであった。さすがの明子も、克彦にいやけがさしたのだろうと言ったのを津由子は正直に明子の耳に入れた。  明子の高熱は間もなく下がったが、どうしても三十七度以下には下がらない。レントゲン写真に異常はなかったものの、医師にも当分安静にするようにと命じられた。昨年の十月以来、一冬一日も欠かさずに克彦のもとに通った疲れもでたのかもしれなかった。  退院以来、大学の研究室も休み、ほとんどどこにも出たことのない克彦が、毎日のように明子を見舞いに来た。そのことに明子は克彦の真実を感じた。克彦は、離れの明子の部屋に入ってくるのに、いつもおずおずとふすまをあける。そして明子をみると、ホッと安心したようにそばにすわりこむのだった。何を話すというのでもなく、克彦は明子のそばに五時間も六時間もすわって音楽を聞いたり本を読んだりしている。ときどき、 「ペニシリウム」  などと言ったり、 「また土を集めに歩こうかな」  と言ったりすることはあったが、大方は静かに明子のそばにすわっていた。 「明子さんのそばが、いちばん安心ですよ」  克彦は幾度かそう言い、明子がちょっと席を立つのさえ、不安そうな顔をした。それはちょうど、母にまつわる幼な児のような感じだった。いよいよ帰る時間がくると、克彦はしょんぼりと立ち上がり、またすわる。 「帰りたくないなあ」  そう言って再び立ち上がり、まるで自分の心を無理矢理ひきはがすような苦しい表情を見せた。そして送りに立ち上がる明子を、ふすまの所でそっと抱きしめ、 「あした、また来ますからね、どこにもいかないで待っていてくださいよ」  と、克彦は念を押すのだった。  店の隣りの玄関から、しおしおと出ていく克彦をみると、明子は、こんな二人がなぜ別々の家に住まなければならないのかとふしぎに思う。  そんなことが二か月ほどつづいたが、八月になって克彦の足がパッタリと途絶えた。  津由子はときどき帰って来て、克彦が庭にできた研究室に、一日じゅう入っているのだと告げた。津由子は克彦の母に気に入られたらしく、 「お宅さまでもご不自由でしょうが、できたら、こちらに住みこませていただきたい」  という申しこみがあった。津由子の素直な性格は、神経質な克彦の母の神経にも、さわらなかったようである。  克彦が明子を訪ねてこなくなってから、明子のほうから毎日電話をした。克彦は、 「明子さんの所に行きたいんだけれど、ぼくの今度の研究は、何しろ水虫の研究でしょう。今度こそ人に盗まれたくないんですよ。だから研究所を離れるわけにいかないんです」  と、電話のたびにつけ加えた。初めの二、三度は何気なく聞き過ごしたその言葉が、四度五度と重なると、明子は何か異様なものを感じて不安になった。研究と言っても、まだ始まったばかりである。克彦の警戒心はたしかに異常だった。  明子は、病院に注射に行った帰り、思い切って克彦の家を訪ねてみた。克彦の父は店で客と応対をしており、母は神経痛が少しもよくならないと言って、床の中にいた。八月の暑いさ中に、ふとんをかぶって寝ている克彦の母をみると、明子は一日も早く元気になって、この家の人になりたいと思った。  津由子の姿は見えなかったが、買い物にでも出ているのだろうと、何気なく克彦の研究室に行った。木の香の新しい研究室のドアを、明子は軽くノックしてそっと開けた。どんなに克彦が喜ぶだろうと思った明子の前に、がらんどうの十畳ほどの研究室が明るかった。  克彦はそこにいなかった。明子はすぐに、二階の部屋に上がって行った。がっしりとした九我家の階段はミシリともしない。閉ざされたふすまの前に立ったとき、なぜか明子はふっといやな予感がした。あの精神病院に似た臭いをかいだような気がしたのである。 「わたしよ、克彦さん」  声と同時にふすまをあけた。あけた明子は一瞬呆然とした。畳の上で、克彦と津由子が獣のように絡み合っていた。  次の瞬間、明子はそのまま階段をかけおり、誰にも挨拶をせずに外に飛び出した。何者かに追いかけられているかのように、明子は走りつづけて、一町ほど行ってやっと立ちどまった。立ちどまったとたん、涙が噴き出すようにこぼれ落ちた。明子は傍の電柱によりかかって、声を殺して泣いた。太陽のギラギラと照りつける八月の午後であった。  その後明子は、決して克彦の家に行くまいと心に決めた。しかしそれから三日ほどして、克彦が三度目の入院をしたと聞いたとき、明子は密林に迷いこんだような気持ちだった。自分がどこに立ち、どこに出て行ってよいのかわからない気持ちだった。  明子は津由子を呼んで問いただした。そうでもするより仕方のない気持ちだった。 「津由ちゃん、あんた、いつから克彦さんとああなったの」  津由子は十日ほど前からだと、うなだれて言った。そして、決してそれは自分が誘惑したのではなく、克彦が突然、部屋の掃除をしている津由子を押し倒したのだと言った。あの克彦がそんなことをするとは、明子にはとうてい信じられなかった。  牧浦勉から明子に電話が来たのは、克彦が入院して一週間後だった。 「……明子さんはお元気なんですか」  その声を、明子はふっと懐かしいと思った。いま自分が、克彦について相談できる人は、この牧浦勉だけだと思った。 「少し、体を悪くしておりますけれど……」 「ああ、やっぱり。それはいけませんね。克彦君が入院したのに、あなたが病院にお見えにならないので、ちょっと気になっていたんです」  折り入って相談したいという明子の言葉に、牧浦は、今夜すぐうかがいますと電話を切った。 「少しおやせになりましたね」  その夜訪ねて来た牧浦は、明子をみるなり心配そうに言った。二人は明子の部屋で、人を避けて話をした。明子は思い切って、克彦と津由子のことを、牧浦に告げた。牧浦は深くうなずきながら聞いていたが、聞き終わるとホッとため息をついた。 「やっぱり明子さん、ぼくの言葉が足りなかったんですね。そのおそれはじゅうぶんにあったんですよ。発作の起きたときには、非常に道徳的な観念がうすれてしまったり、それから自殺のおそれや、傷害のおそれさえあるんです」  今度の克彦の病状は重く、前回とちがって幻聴や幻覚がともなっていると牧浦は言った。 「今までぼくたちの扱っている分裂症患者は、もっと間隔を置いて発作を起こすんですが、克彦君の場合は、ぼくの知っている病気の範疇《はんちゆう》を超えているような気がしますね」 「じゃ先生、克彦さんは狂ったために、津由ちゃんにあんなことをしたわけなんでしょうか」 「そうでしょうね。幻覚や幻聴の傾向が激しいところをみると、克彦君は、あなただと思って……いたかもしれませんよ」  明子はハッとした。あの克彦と津由子の姿を思った。津由子の白い太股《ふともも》があざやかに目に浮かんだ。 「でも、克彦さんは、狂ってもあんなことをしない人だと、わたしは思っていましたわ」 「明子さん、そんなに人間を美化して考えちゃいけませんよ。人間は所詮《しよせん》人間ですからね。狂ったとたんに悪魔が入ってくるのじゃなくて、心におしかくされていたものが、その安全弁がはずれたとたんに、ぞろぞろと心の底から出てくるだけなんですよ」  明子は、克彦の澄んだ清らかな目を信じたかった。 「それはともかく、彼は看護婦をみて、明子と呼ぶそうですよ。かわいそうになあ」  牧浦は、以前よりずっと克彦に同情的であった。 「あなた方の関係がハッキリしていないのも、彼には不安だったんじゃないんですか。あなたは克彦君の妻でもなし、と言って、二人は式だけは挙げている。式を挙げたということが、彼にかえって焦りを持たせたのじゃないですか。早くあなたを自分の腕の中に確かめたかったと思うのですよ。それが病気を持っている彼には言い出せなかった。彼だって男ですからね、いろいろとつらかったと思うんですよ」  明子は自分が責められているような気がした。うなだれている明子を、牧浦はしばらくじっとみていたが、ためらいながら言った。 「明子さん、ぼくは婚約しましたよ。実はあなたもおわかりになっていたと思いますが、ぼくはあなたと結婚したかったんです……」  牧浦の帰ったあと、明子はボンヤリと自分の部屋にすわっていた。大きな蛾《が》が粉をちらしながら、うるさく電灯のまわりを飛びまわっていた。  秋に入って、明子の体はめきめきと回復した。心に悩みがあるというのに、微熱もとれ、疲れも覚えなくなった。店の手伝いをしながら、明子はふと、克彦の所に行きたがっている自分に気づくことがあった。津由子のことも、病気のせいと知ってみれば、克彦がひどく憐れにも思われた。そうと知っていながら、見舞にも行かない自分が冷たい人間に思われて仕方がなかった。 「健やかなる時も、病める時も、汝夫を愛するか」  明子は、日に幾度かこの言葉を思い起こした。病む人間を愛するということのむずかしさを、いまやっと思い知らされたような気がした。また克彦は元に戻るだろう。そしてまた病気はくり返されるかもしれなかった。そのたびに克彦はまた他の女を犯し、あるいは殺人をさえ犯すかもしれないのだ。そして、あるいは自分が克彦に殺されないとも限らない。その克彦を自分は愛しつづけることができるだろうかと、明子はほうじ茶の香りの漂う店で働きながら思っていた。日曜ごとに藤村家は店を閉じ、みんなそろって教会に行く。明子も体の許す限り教会を休むことはなかった。  誰の目にも明子は明るく見え、何の憂いもない人間に見えた。明子は満二十六歳になっていた。  やはり明子は、克彦のもとに通い始めた。克彦の妻になった以上、それは当然のことだと明子は思いなおした。牧浦とまた病院で顔を合わせることが多くなった。 「あなたの真似はできないなあ。ぼくは十一月に結婚するつもりですが、万一彼女が克彦君のような病気になったら、ぼくはただちに婚約解消するでしょうね」 「でも先生。婚約をするときに、あなたが病気になったら別れますよ、というお約束じゃないんでしょ。簡単に約束を破るのは子供ですわ」 「痛いですねえ。だからあなたをみてると、ぼくには人を愛するなどと言う資格がないような気がしますね」  牧浦は、明子の左の薬指に光る結婚指輪に目をやった。      七  津由子が妊娠していると知ったのは、年もあらたまった正月の十五日だった。店にいた明子を、母のハルが目顔で呼んだ。奥の部屋に津由子が大柄な体を、すぼめるようにしてうなだれている。津由子は去年以来、ずっと九我家で働いていた。 「赤ちゃんができたらしいのよ。もう五か月を過ぎているのよ」  明子はいきなり頬《ほお》をなぐられたような気がした。 「克彦さんの子供なの?」  わかり切っていることを、明子はたずねないではいられなかった。津由子はハッキリとうなずいた。 「生んでどうするの」 「わたし、あの人が好きなんです。わたしでは、克彦さんのお嫁さんになれないでしょうか」  明子は、不意に足をすくわれたような気がした。 「わたしは賤《いや》しい女だから、あの人の赤ちゃんを生んでも、奥さんにはなれないんでしょうか」  津由子は必死だった。ハルが言った。 「でも、津由ちゃん、克彦さんには……明子がいるのよ。それに、あの人は病気なんですよ」 「気狂いだってかまいません。好きなものは好きなんです。明子さんには悪いけど……」  気狂いでも、好きなものは好きだと言った津由子の激しい言葉が、明子の胸を突き刺した。自分よりも、津由子のほうが純粋に克彦を愛しているのだと思った。  津由子の妊娠を、克彦の父母に告げると、克彦の母は憤った。津由子のような前歴のある女をよこしたのは、あらかじめ魂胆があってのことだろう。その子も克彦の子かどうか信じられないというのである。  津由子は再び藤村家に戻って来た。明子に対してすまないと言いながら、津由子は、どうしても克彦の子を生むといった。明子としても、更生するために藤村家に住みこんだ津由子が、いわば明子のかわりに九我家に手伝いに行き、妊娠させられたことに責任を感じていた。あるいは明子のほうから津由子に詫びなければならないことかもしれなかった。  そうは思っても、目の前に妊《みごも》った津由子の体を見ることは耐えられなかった。克彦の病気について、牧浦から幻覚のあることも聞き、納得したつもりではいる。だが現実に、克彦の子を宿している津由子をみると、明子は克彦が病気であることを忘れてやはり憎かった。 (克彦さんは病気なのだわ)  幾度か明子は自分に言い聞かせた。だがそれでも心におり[#「おり」に傍点]は残った。  明子は病院に食べ物や洗濯物を届けることはしても、克彦に会うことはためらわれた。鉄格子の窓を見上げる明子の心は複雑だった。  二か月たち、三か月たって、ようやく雪がとけ始めたころ、津由子の体は産み月を前に下腹がせり出し、いかにも大儀そうになった。そんなある日、明子は克彦に会う気になった。それは牧浦に、 「克彦君についている限り、あなたの一生は苦しみの連続なのですよ」  と言われたからだった。そのとき明子は、ハッと目の覚める思いだった。最初から、自分は苦しみを覚悟していたはずではないかと思いなおしたのである。  克彦のドアの前に立った明子は、初めてドアの窓からそっと中をのぞいてみた。克彦は格子窓に額をよせて、ボンヤリと外を見ている。その頭がボウボウと伸びていた。明子はその横顔に、初めて会った日の遊覧船の克彦を思い出した。何を思い、どこを見つめているのかと、その寂しい横顔に、明子はにわかに胸が痛んだ。結核療養中の自分を、あの忙しい研究の時間を割いて、何とたびたび見舞ってくれたことであろう。この病院から外に出ることのできない克彦に、何か月も会ってやらなかった冷たさが悔まれた。  ノックをすると、克彦はハッとしたようにふり返った。このごろ克彦の部屋に鍵はかかっていなかった。入って来た明子をみるなり、克彦は涙ぐんだ。 「もう来てくれないと思いました」  克彦は片手をさしのべた。明子は、その青白い手を握りしめ、自分も涙ぐんだ。 「ほんとうに、もう来てくれないと思いましたよ。でも、こんなに病気が長びいては、来てくれというぼくが無理かもしれないねえ」  血の気のない克彦の頬に、涙がひとすじ、つーっと流れた。明子はたまらなくなって、その克彦の頬に口をよせた。 「幻だったんだもの、仕方がないわねえ、克彦さん」  明子は、津由子と克彦との姿を思い浮かべながら、自分にだけわかる言葉で呟《つぶや》いた。津由子のことを明子は何も言わずに、自分はこの克彦の生き甲斐にならなければならないと、あらためて誓った。  その年の五月、津由子は産院で男の子を生んだ。しかし、難産で津由子はあっけなく死んでしまった。克彦の親たちがその子を引きとるとはむろん言うはずもなかった。すでに克彦は家に帰っていたが、明子は克彦に、子供のことを告げる気にはなれなかった。幻覚の中で犯した結果を克彦に突きつけて、また発作を起こさせるのは避けなければならなかった。  津由子に死なれてみると、にわかに津由子が憐れになった。明子さえ体を悪くしなければ、津由子は九我家に行くこともなく、従って克彦にこんな目にあわされることもなかったのだ。苦しみながらも克彦を愛して死んだ津由子のことを思うと、明子は、その子を乳児院に預ける気にもなれなかった。男が生まれたら雪夫、女なら雪子と名づけたいと言っていた津由子の願いどおりに、その子は雪夫と名づけられた。しわくちゃな赤ん坊の顔を見ていると、人間は愛の中から生まれるのか、苦しみの中から生まれるのかわからないと明子は思った。  明子が雪夫を育てたいというのを聞いた親戚や父母は、さすがに反対した。当然子供は九我家で育てるべきであると言う。明子は、自分はすでに九我家の者であるはずだと思った。九我家に入る機会を失ったままに、克彦と別居してはいるが、こと克彦に関する限り、責任は自分も負うべきだと思った。克彦が常人でないとは言え、この子の父親はまさしく克彦である。克彦が狂ったときの子であるからこそ、明子は自分で育ててやりたかった。父の畏作は言った。 「明子は、克彦君の病気だけでも、いやというだけ苦労しているはずだ。このうえほかの女の生んだ子を、明子が育てるというのは、少しひど過ぎるとおとうさんは思うよ」  子供を生んだこともない明子が、乳のみ児を育てることはできないと、母のハルも反対した。 「このへんで、明子はもう克彦君から手を引いていいころでないのかな」  畏作はそうも言った。じゅうぶん過ぎるほど克彦には尽くしたというのである。 「そうですよ、明子。克彦さんのお宅では、あなたが克彦さんに尽くしていることを、あたりまえのように思っていらっしゃるけれど……あなたは生娘なんだし、あちらさんとしても、そろそろ何かごあいさつがあってもいいと、おかあさんも思いますよ」  畏作の言葉も、ハルの言葉も、親としてはもっともな言い分だと、明子はつらかった。 「でもね、おかあさん。わたしは克彦さんと結婚式を挙げたのよ。克彦さんが病気になったからって、神さまの前でお約束したことを、破ってもいいものなのかしら」 「しかしねえ明子、このままではお前は同じことをくり返して、一生終わることになるんだよ。初めはわたしたちも、克彦君がかわいそうだし、こんなに幾度もぶり返す病気だとは思わずに、まあお前のやることを許していたんだが……」  初めにかわいそうだった克彦なら、いまはいっそうかわいそうではないかと、畏作の言葉に明子は思った。 「おとうさん、これがもしわたしが病気だったとしたら、どうするの。病気のわたしのほうがかわいそうでしょう。わたしも津由ちゃんのことで苦しんだりしたけれど、とにかく雪夫は克彦さんの子供なんですもの……。わたし、いったいどうしたらいいのかしら」  明子に言われれば畏作もハルも迷った。どちらの道を取るのが信者として正しいのか、明子の親としては迷うところであった。 「どうしたもんかなあ」  畏作が腕を組んだとき、それまで黙って聞いていた源吉が、静かに口を開いた。 「畏作、お前はいま、どうしたらいいかわからないと言ったがね。わたしは若いときに、こんなことを牧師さんに言われたことを覚えているよ。右か左か判断に迷うときは、自分の損になるほうを選びなさいとね。それ以来なるべくそのように生きてきたつもりだが、あとからふり返って考えると、それがどうやら神の御心にかなった生き方のようだったなあ」  その言葉が明子の心を強くとらえた。畏作もハルも、黙ってうなずいた。      八  雪夫は日増しに克彦に似て来た。澄んだ目もとや、通った鼻すじ、愛らしい唇は、一日じゅう見ていても飽きないほどだった。  明子は週に一度は、克彦の家を訪ねたが、雪夫を連れていくことはしなかった。病気の落ちついた克彦は、自宅の研究室で毎日黙々と研究をつづけている。それだけが生き甲斐の克彦に、いらぬ刺激は与えたくはなかった。 「津由ちゃんが死んだんだってねえ」  そんなことをいうときの克彦の表情には、何の疚《やま》しさもなかった。やはり津由子とのことは、克彦の幻覚の世界の出来事だったのかと、明子はあらためて思った。  あるとき克彦は言った。 「明子さん、もうぼくのことを忘れてくれてもいいんだよ」  明子は落ちついて言った。 「わたしがいなくなったら、克彦さんはどうなるの」 「ぼくはねえ、明子さんがいなくなったら、石になるだろうなあ」 「石?」 「うん、黙りこくって、じいっとすわったまま……」  ほんとうにそうなるかもしれないと、明子は克彦の両手を握りしめた。  半年ほどたつと、雪夫は誰の目にも克彦にそっくりだと思うほどに似て来た。やがてまた年が明け、冬が過ぎ、再び雪夫の生まれた五月が来た。雪夫は誕生の来ないうちに歩き始め、片言《かたこと》を言うようになった。素直のうちにも、かしこさがひらめき、雪夫はいつしか藤村家の人気者になっていた。とりわけ源吉は、血を分けた者のように雪夫をかわいがった。  克彦は、以前にも増して人前に出ることを恐れ、明子の家にすら来ることもなくなった。ただ明子が訪ねて行くのを、子供のように楽しみに待っている。しかし明子としても、まだヨチヨチ歩きの雪夫を置いて、そうたびたびも訪ねることはできなかった。一度も雪夫のことを問わない克彦の親たちを思うと、明子は克彦を訪ねることさえ、ときに間遠くなることがあった。克彦はむろん、克彦の親たちも明子を九我家に迎えることは切り出せなかったし、明子としても、雪夫を育てることで精いっぱいであった。そして、自分は克彦の妻だとは思いながらもやはり明子は娘であった。時折り会うだけの克彦との生活に馴《な》れ、それがいつしか不自然とは思わなくなっていた。むろん、これは克彦の入院生活が幾度かくり返されたことに大きな原因があった。  桜の花が咲き初め、新芽がけぶるように美しい五月、明子は誕生日を迎えた雪夫を、乳母車に乗せ、思い切って、克彦の家に行った。さすがの克彦の親たちも、雪夫をひと目みてハッとしたようであった。 「津由ちゃんの子ですのよ」 「じじ、ばば」  雪夫は克彦の親たちのほうに、ふっくらとした小さな手をひろげて、抱かれたがった。克彦の母は思わずその雪夫を抱き上げたが、克彦に似ているとはひとことも口に出さなかった。克彦は雪夫をひざに抱いて、 「ぼくの小さいときの写真に似ているなあ」  と頬ずりをした。克彦の子だと、のどまで出かかった言葉を明子はのみこんだ。かたくなに雪夫を拒む親たちをみると、今後どんなことがあっても、自分一人の手で雪夫を育てようと思わずにはいられなかった。  明子は、再び雪夫を九我家につれていくことをしなかった。  克彦は、雪夫が生まれるまえに退院して以来、かなり落ちついてはいた。とは言ってもますます外に出ることはなくなり、自宅の研究室のドアも窓も、鍵をかけて人を警戒した。時折り明子が訪ねると、 「ぼくは水虫の薬を、もう発明することはやめにしました。何と言ってもあの薬は世界が待っている薬ですからね。ぼくの命を狙《ねら》っているのが何人もいるんです」  と、真顔でいう。 「大丈夫よ。誰もあなたの命を狙ったりしていないわ」  なだめられると、克彦は、 「明子さん、かわいそうに何も気がつかないんですねえ」  と、明子を憐れむのだった。そんなことを言いながらも、目立った変化のないままに、克彦は家でぶらぶらしていた。  翌年の七月、急に克彦は食事を拒否するようになった。ごはんの中に毒が入っていると言って、きかないのである。幾日もそんな状態がつづいて、ついにまた牧浦病院に入ってしまった。牧浦は、以前と同じように克彦のために通う明子を慰めて言った。 「明子さん、よくつづきますね。あなたには、ぼくも完全にシャッポをぬぎましたよ」 「あのね先生、わたしね、こう思うことにしてますの。毎日毎日が新しいんだって。わたしは決して昨日のくり返しを生きてるつもりじゃありませんわ。そして克彦さんの病気だって、きっとなおると信じてますの」  明子の顔には、疲れの影はなく、生気がみなぎっていた。 「偉いなあ。ぼくがあなたなら、絶望してとっくにやけになるところだろうなあ。たしかにね、明子さん、医学は進んでいますからね、あなたのおっしゃるように、克彦君のような治りにくい分裂症だって、やがてはなおるときが来るかもしれませんよ。昭和二十七年のいまと戦前とでは、かなり違いますからねえ」  牧浦は明子を励ました。 「そうよ先生。わたしの知人にも、医師になおらないと言われたのが、いまでは元気になっている方がいらっしゃいますもの」  いまの明子には、克彦の病気がなおることと、雪夫の成長だけが楽しみであった。人の目には、苦しみの連続のように見える明子の生活も、けっこう生き甲斐のある生活になりつつあった。  雪夫は満二歳だというのに、平仮名を覚え始めた。源吉は血を分けたもののように雪夫をかわいがっていたから、雪夫の知恵の早いのを、誰彼へとなく自慢して聞かすのだった。 「あんた、うちの雪夫はね、平仮名のほかに、山や川の字まで読めましてねえ」  津由子の生んだ子であることを知っている人々には、その返答にとまどうほどだった。  ところが翌年の四月、雪夫は重いハシカにかかり、明子とハルの手厚い看護にもかかわらず、脳症を起こしてしまった。そして、やっと熱がおさまったときには、あの賢く澄んだ目はかすみのかかったような、ボンヤリしたまなざしに変わり、歩き方さえぺたぺたとしたいかにも愚かな足どりになってしまった。きりりとしまっていた愛らしい口もともだらしなくゆるみ、玩具にも絵本にもほとんど興味を示さなくなった。  しかし、体力がつけば元にもどるのではないかと、明子は心ひそかに思っていた。だが三日たち、四日たっても雪夫のようすは変わらなかった。明子が雪夫の食事を運んで離れに行くと、雪夫は畳の上にすわって、天井を見上げ、意味もなくニタニタと笑っている。それをみたとたん、いままで張りつめていた明子の心は、ガラガラと音をたててくずれ落ちるような気がした。もはや雪夫が白痴になってしまったのは、誰の目にも明らかだった。  明子はかつてない深い絶望を感じた。婚約した克彦は精神分裂症になり、育てた雪夫が精薄児になるとは、いったい何ということだろうと明子は思った。牧浦に見せたが、これだけはもう一生なおる見こみはないと言われた。誰もが、がっくりと力を落とした。わけても八十を過ぎた源吉は誰よりも落胆した。 「人一倍りこうに生まれた奴がなあ」  すると雪夫は、ぺたぺたと源吉の前に歩いて行き、両手をついて、 「ごめんなしゃいね」  と言うのである。克彦に似たその細い首があわれだった。明子と源吉は顔を見合わせた。雪夫は、白痴になって以来、人に何かを言われると、その前に行ってていねいにお辞儀をし、 「ごめんなしゃい、ごめんなしゃいね」  と、くり返すのである。 「ああ、よしよし。お前はいったい何を謝っているんだね。あやまらなきゃならないのは、おれたちだよ」  源吉は、雪夫をひざに抱き、その頭をあごの下において涙をこぼした。 「おじいさん、わたし、どうしてこんなにつらい目にあわなければいけないの」  思いあまって明子は言った。勝ち気な明子はいままでそんな愚痴を人に言ったことはなかった。そう言ったとたん、いままで長い間耐えていた悲しみが、一度にどっとこみあげて、涙がとめどなくあふれた。しばらくして源吉が言った。 「ほんとになあ。お前はできる限りのことをして、精いっぱいに生きているのになあ」 「ね、おじいさん。どうしてわたしは、こんな苦しい目にあわなければいけないの」  明子は涙をふきながら再び言った。雪夫は源吉のひざの上で、また意味もなくニヤニヤと笑った。 「そうだね。お前はどう思っている?」 「教会ではいろんなことを聞いたわ。苦難はなぜあるのかって……でも……」 「あのなあ明子、この三つの雪夫に、お前は大きな重い荷物をかつげとは言わないだろう。神様はね、お前が負えないほどの荷物は、決して負わせてはいらっしゃらんはずだよ。つまり、大きな苦難にあっているというのは、神様の側からみると、お前はそれを負うことのできる力のある人間だということではないのかな。この世の偉大な人間で、苦しみにあわなかった人は一人もいない。つまり試練なのだよ」 「…………」 「神様は、何かお前でなければできない使命を、お前に与えようとしているにちがいないのだ。とにかく、克彦君も雪夫も精神科の病気だということは、暗示的なことだとおじいさんは思うよ」  源吉は、明子に言い聞かすというより、自分自身にさとすように言った。人間は生きている限り、たとえこの雪夫のようなかわいそうな子にも、それぞれみんな何らかの使命が与えられている。使命があるというのは、すばらしいことじゃないかと、源吉は明子に言った。      九  明子の行っている教会に、精神薄弱児の施設の院長がいた。院長は谷川と言って、なかなかの人格者であったから、明子は不安なく雪夫のことを相談した。 「できたら、わたしも施設で働かせていただきたいんです」  谷川院長はちょっと驚いたようだったが、 「いままでのあなたのうわさを聞いて、ただのお嬢さんじゃないと思っていましたよ。しかし、ぼくの所は、精薄児のうえに、精神病を持っているという二重障害児ですからね。大変ですよ」  明子はそのとき初めて、精薄児がさらに分裂症や、テンカンなどの病気に悩まされている悲惨な事実を知った。明子はただちに荷物をまとめて、雪夫とともに、小高い山の上の施設に移った。その荷物の中には、克彦との結婚式の写真を入れることを忘れなかった。経験も資格もない明子だったが、人手は足りなかったから、すぐに子供たちを受け持たされた。クリーム色の近代的な精神病院が施設の中にあった。  ここは、克彦の病院よりも、さらに悪臭が漂っていた。はるかに石狩《いしかり》の野をのぞみ、天気のよい日には、日本海がかすかに見えた。そんないい景色の中にいながら、子供たちはみな精薄児で、しかもそのうえに精神病を持っていた。だからここでは、雪夫はただ一人の健康児と言えた。  家にいたときは、外にちょこちょこと出て行って、誰彼なしに、 「ごめんなしゃいねえ」  と、頭を下げて、雪夫は「お辞儀|馬鹿《ばか》」と仇名《あだな》がついていた。しかしここでは、誰も雪夫を馬鹿という者はいない。みんなが精薄児なのだ。明子は、克彦もこの子たちより悲惨ではないのだと思った。克彦は、分裂症ではあっても、決して精薄者ではなかった。  子供たちの大半は、大小便の始末ができなかった。  頭一面に吹き出物のできた子が何人もいた。  誰か一人の頭をなでると、子供たちは頭をなでてもらいたくて、つぎつぎに頭をさし出してくる。明子は、オカッパの頭も、吹き出物の頭も、みんな一人一人なでてやった。  吹き出物のざらざらとした感触が明子の手に残る。  その吹き出物は、脳の中にまでできているのではないかと、ひどく憐れに思った。 「せんせい、きょう、かあさんくるんだぞ」  達ちゃんという十五の男の子は、体だけは明子より大きかった。達ちゃんは明子の来た日から、その言葉を幾度かくり返していた。他の保母たちの話では、達ちゃんの母はただ一度、二年ほど前にマンジュウを持って訪ねて来ただけだという。 「マンジュウうまいぞお、せんせい」  そう達ちゃんは幾度も言っていた。その言葉の意味がやっと明子にはわかった。用便の後始末のできない達ちゃんでも、母が訪ねてきてくれたときの、うれしかったことだけは忘れないのだ。そして、きょうもその母が来るのだと、達ちゃんは望みを持っているのだ。  明子は、ほんとうにこの子供たち全部を喜ばせてやりたいと思った。達ちゃんは、決して寂しいとも悲しいとも言わない。ただ、 「きょう、かあさんがくるんだぞ。マンジュウはうまいぞ」  と、いうだけなのだ。  なぜ来てくれないのかと恨むことさえ知らないのだ。  明子はそのことに深い感動を覚えた。  このくり返し同じ言葉をいう達ちゃんは、テンカンを持っていた。  しかし、達ちゃんは、まだしあわせだった。明子は重症室に連れられて行ったとき、両手をひもでしばられた子供たちを見た。  その子供たちは、猿のようにじっとうずくまって、入って行った明子を見ようともしない。その反応のなさは、猿や犬よりももっと人間に遠かった。犬ならば尾をふるか、ほえることだろう。しかしその子たちは、声をかけても顔も上げなかった。 「かわいそうに。どうしてひもなんかでしばるんですか」  明子は主任保母にたずねた。一生をこの施設に捧げるという、四十近い主任保母は答えた。 「だってね、あの子たちは、自分の指をかじってしまうのよ。食べてしまうのよ、あなた」  明子は、驚きのあまり、声も出なかった。その子たちの心が、何に対しても反応を示さないように、体もまた痛みを感ずることができないようであった。明子は暗澹《あんたん》とした。ここに来るまで、明子は自分がなぜ苦しみにあうのかと、幾度も自問自答した。  しかしここでは、その苦しみを苦しむこともできない憐れな子供たちがあふれていた。  知能の低い子供たちは、テンカンの発作に倒れ、分裂症におちいり、また何の反応も示さない自閉症になっても、一度だって、 「どうして自分だけが、こんなにつらい目にあうのか」  と、思ったことはないのだ。いや、思うことができないのだ。  明子は、増築工事を眺めながら、まだまだこの病院にたくさん入ってくる子供がいる事実を思い、深い感慨に浸らずにはいられなかった。  ある日子供たちをつれて山に上ったとき、明子は足を捻挫《ねんざ》した。捻挫ぐらいと思っていたが、足を地につけることができなかった。翌日、病院の松葉杖《まつばづえ》を借りて、勤めに出た。子供たちは珍しそうにぞろぞろと、明子のそばに寄って来た。松葉杖が珍しいのである。雪夫がいちばん前に来て、明子にていねいに頭を下げた。 「ごめんなしゃいねえ」  すると、他の子供たちも雪夫のまねをして、ていねいに頭を下げ、 「ごめんなしゃいねえ」  と、いうのである。  施設の子らはほとんど人まねなどはしなかった。  その子供たちが、なぜかふしぎに雪夫のまねだけはするのだった。  その一人一人の同じ言葉を聞きながら、明子はやさしく頭をなでてやった。なでながら、明子は胸がいっぱいになった。  いいも悪いもわからない子供たちにこそ、人々は頭を下げて詫びなければならないような気がした。  精薄児になる最も大きな原因は、妊娠三か月以内に、妊婦が受ける精神的なショックであると、明子はここに来て知った。この子たちの母は、誰かの鋭い一言《ひとこと》に、激しいショックを受けたのかもしれない。  その憎しみの言葉に傷つけられたのが、親よりも腹の中にいた子供たちであったとは、何という残酷なことだろうと、明子は思った。  そんな明子の思いに気づくはずもなく、子供たちはかわるがわる、 「ごめんなさいね」 「ごめんね」  と、言いながら、ていねいに頭を下げる。  明子も、いつしか子供たちにていねいにお辞儀をかえしながら、涙があふれてならなかった。  いまこそ、明子は自分の選びとって来た道が、これでよかったのだと思わずにはいられなかった。  再び一生を繰り返すことができるとしても、明子はやはり克彦と、雪夫と、そしてこの多くの子供たちとともに、自分は生きていくことであろうと、一人一人の頭をなでながら、その頭が涙で見えなくなった。  やがてふと見ると、どこかで雨が降っているのか、はるかに見える石狩の野に、虹《にじ》が太く、大きくかかっていた。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『病めるときも』昭和57年8月20日初版発行             平成12年4月10日35版発行