[#表紙(表紙2.jpg)] 海嶺(中) 三浦綾子 目 次  フラッタリー岬  鞭  焼き印  二本マスト  フォート・バンクーバー  迷える羊  濃 霧  イーグル号  椰子《やし》の木の下  南 海  霧の都 [#改ページ]   フラッタリー岬      一  大きな箱を伏せたような、長方形の家であった。板壁のその家には入り口は一つしかない。入り口は海に向かって開いていた。  岩松と久吉は、その家の中に引き立てられて行った。明るい戸外から、窓一つない家の中にいきなりつれこまれた二人は、しばらくは中の様子がわからなかった。只《ただ》、魚の臭いと、煙の匂いが二人の鼻をついた。もんわりと暖かい空気が、下帯《したおび》ひとつの二人の素肌《すはだ》に快かった。ぬれた刺し子も股引《ももひ》きも、男の一人が素早く取り上げてしまった。  ようやく目が馴《な》れた時、岩松と久吉は、自分たちが大きな家の真ん中に引き据えられ、男や女や子供たちに取り囲まれているのを知った。八|間《けん》に十間ほどに広いこの家は、大きな物置のように只ひと間であった。しかも土間《どま》であった。その土間の真ん中に二人は坐《すわ》らせられたのだ。丸木舟から二本の指を立てて見せた年嵩《としかさ》の男が何か言った。野太い声であった。岩松は頭をかしげて、手を大きく横にふった。と、突然久吉が、 「ああ、のどがかわいた。のどが」  と叫び、両手を合わせて拝み、のどをこすり、大きく口をあけ、舌をひらひらと動かして見せた。そして、水を飲む真似《まね》をして見せた。年嵩《としかさ》の男がうなずき、何か言うと誰かの答える声がした。すぐに二人の前に水を持って来たのは、丸木舟の中で人なつっこい笑みを浮かべた若者であった。 「ありがとうございます」  久吉は水を目よりも高く上げ、伏し拝んでから一気に飲んだ。岩松は黙って飲んだ。島に逃れて以来、二人はのどの渇きに苦しめられていた。 「うまい」  岩松はのどを鳴らして飲んだ。 「うまい」  久吉も喘《あえ》ぐように言った。雨水でも、らんびきの水でもなく、これはまさしく清水であった。木をくりぬいた大きな器に入れられた水は、二人の渇きを癒《いや》した。その二人の様子を、男や女や子供たちが、じっと声もなくみつめていた。  再び年嵩の男が何か言った。が、言葉が通じる筈《はず》もない。久吉は腹をおさえ、ぐいとへこませた。そして物を噛《か》む真似をした。件《くだん》の男が言った。 「カウ・イツ《いも》、チーチ・コ・ウイス(秋鮭)」  間もなく木の皿が運ばれて来た。皿の上には皮つきの茹《ゆ》でた馬鈴薯《ばれいしよ》が数個と、鮭《さけ》の燻《くん》製が幾切れか載っていた。見馴《みな》れぬ馬鈴薯と鮭の燻製をみつめた久吉は、そっと岩松の顔をうかがったが、すぐに、 「いただきますで」  と、燻製に手を伸ばした。生乾きの柔らかい鮭をひと切れ、口に入れるや否や、あまりのうまさに久吉は目を丸くした。が、何も言わずに一気に食った。岩松はゆっくりと冷えた馬鈴薯に手を伸ばした。岩松たちにとって馬鈴薯は生まれて初めてのものであった。が、岩松はさりげなく馬鈴薯を食い始めた。仄《ほの》かな甘みが口の中に広がる。岩松は鮭を食い、そして馬鈴薯を食った。何れも、余りにも美味な食物であった。長いこと米のほかはろくにお菜《さい》を摂らなかった二人にとって、それらは天来の珍味に思われた。  食い終わるのを待って、年嵩《としかさ》の男がまた何か言った。 「ワー・アス・アー・テ・クレイク?(どこからきたのか)」  二人は首をかしげた。男は入り口の方を指さした。 「何と言うてるんやろ、舵取《かじと》りさん」  やや人心地《ひとごこち》ついた顔で、久吉がささやく。 「どこから来たかと聞いているのかな」  再び入り口の方を指さした男に、岩松が答えた。 「日本。日本から来た」  人々がきょとんとした。 「日本」  岩松がくり返した。みんなは顔を見合わせた。岩松は土間に、指で「日本」と書いた。みんながのぞきこみ、がやがやと騒ぎ立てた。岩松はもう一度「日本」と書き、 「日本!」  と言った。誰かが真似《まね》をして、 「ニッポン」  と、言ったが、日本を知る者がいる筈《はず》もない。岩松が逆に尋ねた。 「音吉はどこにいる?」  人々はまた顔を見合わせた。 「音吉、音吉」  岩松は指を三本出し、 「岩松」  と、人指し指を折り、自分の胸を叩《たた》いた。更に、 「久吉」  と指を折り、傍《かたわ》らの久吉の肩に手を置いた。そして、残った指を突き出して、 「音吉、音吉」  と言った。この家の主人らしい年嵩の男が、 「オトキチ」  と答えて、家の一角を指さした。人垣に囲まれて、音吉のいる場所も姿も見えなかったが、岩松はうなずいた。どうやら音吉は生きているらしい。 「音吉は生きていたんやな、舵取《かじと》りさん」  久吉の声が弾んだ。 「そうらしい」  言いながら岩松は、ゆっくりと視線を主人の顔に戻《もど》した。  岩松たちが一年二か月もかかって、ようやく漂着したこの地は、アメリカとカナダが合同で領有していた北アメリカの西部、フラッタリー岬(現アメリカ合衆国ワシントン州最北端)であった。この岬の北方海上には、カナダのバンクーバー島が南北に縦長に横たわっていた。  今、二人を取り巻いている男女たちは、インデアンのマカハ族であった。マカハとは、「海に突き出た地点に住む人々」という意味である。白人たちとは遠く離れたこの辺《あた》りに住むマカハ族たちを、アメリカ人たちは「岬のインデアン」と呼んでいた。そのインデアンの奴隷《どれい》として、今、岩松たちは捕らえられたのである。だが、岩松たちは、自分たちが奴隷として捕らえられたことを知らなかった。いや、それどころか、奴隷という言葉も、存在も知らなかった。岩松たちが辿《たど》りついたオゼット島は、この家の所有地であった。マカハの人々は、自分の所有地に流れ着いた物は、すべて自分の所有とした。高潮によって打ち上げられる海藻《かいそう》も流木も、そして今朝《けさ》打ち上げられた岩松たちも、マカハ族にとってはすべて同じ「物」であった。  当時奴隷は、他のインデアンとの戦いで捕虜にした男や女たちがほとんどであった。稀《まれ》にバンクーバー島から買ってくることもある。が、奴隷を買うには、貴重な毛布を少なくとも二十枚は用意しなければならなかった。それが、戦うこともなく、毛布と交換することもなく、今、この家に突如《とつじよ》として三人の奴隷が与えられたのだ。部落の者たちは、その幸運を羨《うらや》んで入れ替わり立ち替わり見物に来た。なぜ自分の持ち島に、あるいは海岸に、そのうちの一人でも流れ着いてくれなかったのかと、ひどく残念がった。  俄《にわか》に財産の増えた喜びが、この家に満ちていた。その喜びが、物珍しさも手伝って、二人への矢つぎ早の問いとなった。しかし、一語として通ずる言葉はなかった。岩松も久吉も仕方なく黙りこんで、只《ただ》男女の顔を見上げていた。顔から髪にかけて、朱色の顔料を塗った女もいる。赤銅色の額に、黄色い縞目《しまめ》を描いている男もいる。手や足に入れ墨をしている者もいる。男たちは何《ど》れも女のように髪を長くし、うしろで束ねていた。耳輪や腕輪をつけた女たちは、袂《たもと》のない足首もかくれそうな長い服を着ていた。  日本人とは様々にちがってはいるが、体格は似ていた。よちよちと歩いて来て、その柔らかい掌で、岩松と久吉の背中をぴたぴたと叩《たた》く幼な児も愛らしい。岩松は心のうちに安堵《あんど》していた。言葉は通ぜずとも、心は通じそうに思った。のどが渇いたと訴えれば水を飲ませ、腹が空《す》いたと言えば、食物を与えてくれる。それ以上のことを、今、岩松は望まなかった。  だが岩松も久吉も知らなかった。奴隷《どれい》という地位がどんなものか。いかなる待遇《たいぐう》を受けるものか。それらのことを全く知らなかった。この部族は、酋長《しゆうちよう》が死ぬと、その最も気に入られていた奴隷が斬殺《ざんさつ》され、共に埋葬《まいそう》された。また、多くの客人を招いて宴を張る時、時折《ときおり》主人は、何の罪もない奴隷の首を、客人の前に刎《は》ねることがあった。奴隷は財産である。その奴隷を殺すということは、奴隷の一人や二人失っても惜しくはないほどに、財産があるという誇示であった。こんな災難が、いつ自分たちの身の上にふりかかるかを、むろん岩松も久吉も知る筈《はず》はない。  やがて人々は、二人にあれこれ尋ねることに倦《あ》きた。疲労している二人を、眠らせたほうがよいと、この家の主人は判断したようであった。大事な奴隷を、病気にしてはならない。主人は手枕《てまくら》をして、眠る格好をして見せ、入り口に近い一画《いつかく》をさし示した。  家の板壁に沿って、涼み台|程《ほど》の幅の台が、ぐるりと造りつけになっていた。その台の上には、木の皮で織った一寸程の厚さの敷物が敷かれてある。そこがいわば、この家の座敷であり、寝床であった。  二人はその一画に来て、横になった。そしてようやく、家の中を見まわすことができた。土間《どま》には幾箇所か炉が切られてある。人々に取り囲まれて見えなかった火の色も見えた。その幾つかの炉の上の梁《はり》には、無数の魚が吊《つ》るされ、いぶられていた。その梁からは、更に幾本かの鎖が吊るされ、鍋が幾つか宙吊りになっていて、天井中央には煙出しの穴が見えた。炉端《ろばた》には、赤子を入れた揺籃《ゆりかご》が置かれ、赤子の泣く声が岩松の胸をしめつけた。 (岩太郎!)  岩松の目尻が光った。  岩松は人々に背を向けて、板壁を見た。厚い板壁だ。およそ一|間《けん》半|毎《ごと》に丸木の柱が立っている。その板壁や柱の隙《すき》に、何かが詰めこまれてあった。それが、苔《こけ》と海藻《かいそう》であると知ったのは、後のことであった。 「広い家やなあ、舵取《かじと》りさん」 「うん」  百五十畳はあると、岩松は見て取った。よく見ると、土間を取り囲んだ涼み台のような縁台には、所々を区切るように、大きな木箱や、行李《こうり》のような籠《かご》が置かれてある。その一区切りがどうやら一組の夫婦の場所らしい。つまり、幾夫婦かがこの家に住んでいるのだ。その箱の中には、毛布や衣類が入っていることも、岩松は程なく知った。一夫婦毎に、各々食糧を確保しているらしく、縁台の上の天井には、食糧を入れた籠が幾つも吊《つ》るされている。  いつの間にか寝入った二人の上に、主人が、杉の皮で織った上着を、そっとかけて行った。二人が着ていた刺し子も、股引《ももひ》きも、既《すで》に主人の貴重な財産として、取り上げられていた。その代わりのこれが着物であった。      二 (凪《なぎ》やなあ)  音吉は、夢|現《うつつ》の中で、幾度かそう思った。船は全く揺れないのだ。ほんのかすかにも揺れないのだ。 (変やなあ、波は土みたいに、固まってしもうたんかな)  そう思って音吉は目をあけた。と、そこに異様に美しい女の顔を音吉は見た。女の頬《ほお》から髪にかけて、朱色が塗られてある。黒い髪だ。大きな茶色の目だ。驚く音吉に女がにっと頬笑《ほほえ》みかけた。そしてうしろを向き、かん高い声で叫んだ。 「クー・ドゥーク・シトウル!(起きた)」 (誰や? ここはどこや?)  思った途端、音吉は激浪《げきろう》の中に飛びこんだことを思い出した。 (そうか……あのまま、眠ってしまったんやな)  松の木や草の匂いが、思い出された。あの匂いを嗅《か》いだまま、引きこまれるように深い眠りにおちいってしまったのだ。ぐっしょりとぬれた刺し子や股引きは、眠りこんだ音吉の体を冷やした。が、それでも真っ裸であるよりはよかったのだ。音吉はこの家にかつぎこまれ、真っ裸にされ、毛布にくるまれて眠りつづけたのだ。その自分を、祈祷師《きとうし》の女がつきっきりで体をさすり、何やら呪文《じゆもん》をとなえていたことなど、音吉は知る筈もなかった。今、近々と音吉の顔をのぞきこんでいた女が祈祷師であった。  マカハ族の中には、男や女の祈祷師がいた。この祈祷師たちは、医者の代わりもした。  マカハ族は、病気はすべて悪霊が取りつくからだと思っていた。そしてその悪霊は、小川で水を飲む時に口から入ってきたり、海で泳いでいる時に肌《はだ》から入ってきたりするものと信じられていた。そしてその悪霊は、白い蛆虫《うじむし》に姿形を変えているとも信じられていた。  だから祈祷師たちは、患者の体を見、その蛆虫がいると思う箇所に触れる。そして手つきもあざやかに、その白い蛆虫を取り出すような仕種《しぐさ》をした。だが、その白い蛆虫を見た者はない。だからと言って、誰一人その存在を疑う者はなかった。それは祈祷師《きとうし》にしか見えない虫だと、人々は信じていた。  今日も、この女祈祷師は、掌を火であたため、手を幾度も洗い、音吉の体に触れていた。冷たい手と、火で充分あたためられた手が、交互に音吉の体をさすっていたのだ。それらのすべてを、むろん音吉は知らなかった。  女祈祷師が何か叫ぶと、人々が駈《か》けよって来た。音吉はずきずきと頭の痛むのを感じていたが、集まった男や女の顔を見ると、驚いて体を起こした。そして、両手をついてていねいに頭を下げた。 「おせわになりました」  みんなはがやがやと何か言い、そして笑った。主人が大きくうなずき、女|祈祷師《きとうし》の肉づきのよい丸い肩をぽんと叩《たた》いた。女祈祷師は得意げに笑って、音吉を腕の中に抱きかかえた。甘酸っぱい女の匂いが音吉を戸惑わせた。人々はまた笑った。主人が、木の皮で織った上着をかけてくれた。音吉は、膝《ひざ》や肱《ひじ》が痛むのを感じた。岩場に打ちつけたのかも知れないと思いながら、しかし音吉は、おとなしく女の胸に抱かれていた。女はそのまま音吉をマットの上に寝せた。そして何か言った。主人が何か答えた。全くわからぬ言葉に、音吉は驚いた。そして俄《にわか》に岩松や久吉が気になった。 「あのう……舵取《かじと》りさんと、久吉さんはどこにいますか」  人々はがやがやと話し合うばかりだ。そこに木の椀《わん》に入ったあたたかいスープが運ばれて来た。主人が手真似《てまね》で食べよと言った。音吉は再び体を起こし、正座してスープを押しいただいた。スープの中には薄く切った馬鈴薯《ばれいしよ》がたくさん入っていた。それを口に運ぶ音吉を、男も女も物珍しそうにみつめていた。岩松や久吉をみつめた時と同じく、好奇心に満ちた目であった。  スープを取りながら、音吉は涙がこぼれた。岩松や久吉は死んだのだと思ったのだ。 (たった一人ぼっちになって……)  音吉はひどく淋《さび》しかった。音吉の涙を見て、笑う者もいた。同情する女もいた。食べ終わると、主人は音吉に、「立て」と手真似で命じた。音吉は立ち上がった。頭はふらつくが、ぐっすり眠ったせいか、意外に体に力があった。 (甘えてはいられない)  音吉は自分にそう言い聞かせて、先立つ主人の後ろについて行った。子供たちが、その音吉にまつわりついた。子供たちはひと目で音吉を好きになったようであった。主人が立ちどまった。そして指示した一画《いつかく》を見て、音吉は思わず、 「あっ!」  と叫んだ。そこには岩松と久吉がいびきを立てて眠っていた。音吉はへたへたと坐《すわ》りこみそうになった。その音吉の体を支えたのは、岩松に人なつっこい微笑を向けたあの若者だった。主人は岩松たちを指さし、音吉に何か言った。 「ここがお前の住む所だ」  と、言ったのだ。そしてそれが音吉には何とはなしにわかった。音吉は、岩松と久吉の枕《まくら》べに坐って、声を上げて泣いた。二人が生きているということが、こんなにもうれしいことだとは想像もしなかった。涙が次から次へと溢《あふ》れ出た。 (生きている! 生きている!)  久吉は口から涎《よだれ》を出して寝ていた。岩松はふだんかいたこともないような大いびきをかいて眠っている。 「よう生きていて……」  一年二か月もの長い漂流生活が、今、音吉の胸に甦《よみがえ》った。初めて遭《あ》ったあの嵐、アカ汲《く》み、帆柱切り、荷打ち、そして、その後も幾度となく襲って来た嵐、岡廻《おかまわ》りや兄吉治郎の死から、水主頭《かこがしら》仁右衛門の死に至るまでの幾度もの辛《つら》い死別、飲み水に苦しみ、黒い斑点におびやかされた陰鬱《いんうつ》な日々、それらが一つになって、音吉の胸の中を駈《か》けめぐった。そしてここに三人、とにかくも生きて異国に辿《たど》り着いたのだ。音吉は只《ただ》、泣くよりほかに仕方がなかった。      三  岩松たち三人が、インデアンの奴隷《どれい》になってから半月近く過ぎた。あと数日で正月が来ると、音吉はひそかに胸の中で数えていた。深い疲れも、岩場で受けた打ち傷もどうやらすっかり治ったその朝——。朝食を終わった途端、俄《にわか》にいつもとちがったあわただしい空気が、家の中にみなぎった。と、 「イワ! イワ!」  呼び立てる声がした。この半月のうちに、この家に住む者たちは三人の名を覚えた。岩松は「イワ」であり、音吉は「オト」であった。そして久吉は「キュウ」であった。が、三人は家の中の者たちの名をなかなか知ることができなかった。あの人なつっこい笑顔を見せる親切な若者は、「ドウ・ダーク・テール(若い鳥)」と呼ばれていた。目つきの鋭い男は、「アー・ダンク(火)」と呼ばれていた。が、それらは綽名《あだな》であって本名ではなかった。インデアンには個々の名がなかった。家系の名があるだけであった。  岩松は、アー・ダンクに呼び立てられて、部屋の片隅《かたすみ》に行った。二、三人の若者たちが、板を部屋隅に持って来た。そしてその板で仕切りをしはじめた。岩松はそれを手伝わせられた。たちまちのうちに部屋隅に小部屋が造られ、マットが運ばれた。  音吉と久吉は、薪《まき》を四つの炉のそれぞれに運びながら、誰があの小部屋に入れられるのかと、少し不安だった。と、思いがけなく、そこにつれて行かれたのは「ピーコー(小さい籠《かご》)」と呼ばれる少女だった。ピーコーは母親につれられてその小部屋のほうに行った。久吉と音吉は何となく顔を見合わせた。二人より一つ二つ年下のピーコーは、つぶらな目の、家族の中で一番色白の少女だった。  このマカハ族のほとんどは黒髪だが、時に茶色で縮れ毛の、肌《はだ》の白い男や女がまじっていた。男も女も黒や赤の顔料を塗り、黄色や青で、その上に模様を書いていたから、誰もが同じ顔色に見えた。が、よく見ると、とりわけ肌の白い者もいる。それらは早くにこの地に渡って来たロシヤ人やスペイン人の血のまじっているマカハ族であった。ピーコーもその一人だった。ピーコーはまるい目の、頬《ほお》に大きな笑くぼのできる愛らしい子だ。ピーコーは主人の娘であった。ピーコーには兄が二人いた。  久吉と音吉は、薪《まき》を運びに外に出た。見上げた空に雲が多い。 「ピーコー、どうしたんやろな」  久吉はひどく気がかりな様子で言った。 「病気かな」  言いながら音吉は、病気でないような気がした。母親が笑っていたし、ピーコーは胸を張って歩いていた。少しはにかんだ様子で母親の顔を見上げてもいた。 「病気? 病気やないわ」  二人は山裾《やますそ》の薪の積んである所に来て海のほうを見た。浜に宝順丸が押し上げられている。三人が助けられたあと、ここの部族総出で、宝順丸を浜まで引き寄せたのだ。北米杉の根と海藻《かいそう》をより合わせてつくったロープが、何本も引きかけられ、宝順丸は満潮を待って引き寄せられたのだ。宝順丸が座礁《ざしよう》した所は浅い海だったから、水主《かこ》部屋の中の物はほとんどぬれてはいなかった。が、座礁の衝撃で開いた一の間から、死人の入った樽《たる》がころがり落ち、それが先ず、浜に打ち上げられた。  インデアンたちは死人を見て仰天《ぎようてん》したが、その扱いは丁重だった。死霊を恐れたのだ。森の中の土を掘って、五つの死体が埋葬された。それらは、仁右衛門、重右衛門、勝五郎、吉治郎、千之助の五体であった。吉治郎は早く死んだのだが、音吉の兄ということで、海に捨てずに置いてくれた。  宝順丸に積んでいた米も、水主《かこ》たちの柳行李《やなぎごうり》も、船頭部屋にあった懸硯《かけすずり》、船箪笥《ふなだんす》、衣裳箱《いしようばこ》などの箪笥類も、すべてはインデアンたちの物になった。せめて故里に持ち帰りたいと思っていた重右衛門の日記、遺言、そしてあの鳩笛や涎《よだれ》かけさえも、三人の手には戻《もど》らなかった。  浜に傾く無残な宝順丸を見た音吉は、ふっと視線を外らした。目と鼻の先に、三人の打ち上げられたオゼット島が、この集落を波と風から守るように立ちはだかっており、右手にはオゼット島に直角に、やや離れてケロンボール島とボデルダ島が並んでいた。これらの小島に抱かれたこの集落の海は、ふだんは岸を洗う波さえない。平和な美しい海だ。ケロンボール島の向こう、はるか彼方にうっすらとかすむバンクーバー島を見ると、音吉は鈴鹿山脈を何となく思い出す。起伏《きふく》が似ているのだ。  はっと我に帰って、音吉は薪《まき》を腕の中に抱えた。オルダーと呼ばれるこの薪は、はぜることのない柔らかい薪だ。二人は薪を抱えて家に向かった。十二月も末だというのに、小野浦よりも暖かいのだ。この暖かいフラッタリー岬は、樺太《からふと》と同じ緯度であるが、むろん二人は知る筈《はず》もない。ましてその暖かさが、黒潮の影響であることも、誰一人知る者はなかった。 「わかった!」  入り口に入ろうとして、突如《とつじよ》久吉が言った。 「わかった? 何がわかったんや」 「ピーコーのことや」 「…………」 「あれはな、別鍋《べつなべ》や」  久吉がにやりとした。 「別鍋?」  口に出してから、音吉は顔がほてった。小野浦にいた時、久吉が言ったことがあった。女には月の障りがある。その時は別鍋で食事をするのだと。あの時久吉は、家族と共に食事をしない琴のことを、そう言って教えてくれた。不意に、耐えがたいほどに音吉は琴が恋しくなった。  部屋に入った二人は驚いた。ピーコーの入った小部屋から、子供たちの愛らしい歌声が聞こえて来たからだ。 「何だ、別鍋ではないのか」  久吉は戸惑った顔をした。子供たちは声を張り上げて一心に歌っている。一つの歌が終わると、また始まる。  二人は炉端《ろばた》に薪《まき》を積んでから、また外に出た。 「別鍋ともちがうようだな」 「さあてな」  一日分の薪《まき》を、二人は幾度も運んで四つの炉端に並べなければならない。その薪運びが終わっても、子供たちは歌いつづけていた。  薪運びの終わった二人は、水|汲《く》みにかかった。水はこの家から四丁も離れた小川から汲んでくる。沢水の流れ落ちる所は少しくぼんでいて、皮袋で汲むのに、汲みやすい深さになっていた。水は鹿の皮袋で汲むのだ。そこを往復するのは大変だが、遠いことは二人にとってうれしいことであった。二人で心おきなく話しながら歩けるからだ。裏山の広葉樹はすっかり落葉し、針葉樹の緑がくろぐろと繁っている。水汲みへ行く途中の山際に、重右衛門たちの埋葬された所がある。太いニレの木が枝を張る下だ。二人はそこに来ると手を合わせる。 (守っててくれな、兄さ)  死んだら守ってやると言った吉治郎の言葉を、音吉は忘れない。あの激浪《げきろう》の中を、三人が無事に辿《たど》り着くことのできたのは、やはり兄が守ってくれたからだと、音吉は律義《りちぎ》に信じている。 (それに、船玉《ふなだま》さまも守ってくれたのだ)  船玉さまと、琴がいつも音吉の胸の中で一つになってしまう。 「あ! 鹿や!」  久吉が叫んだ。この辺《あた》りの山には鹿が多い。人間を見ても鹿はほとんど恐れない。鹿は首を伸ばして小川の水を飲んでいる。が、二人が近づいて行くと、ゆっくりと山の小道を登って行った。二人は何となく顔を見合わせて、くすりと笑う。二人が同時に笑うことなど、滅多にない。朝から晩まで、緊張の仕通しなのだ。アー・ダンクが、不意に理由もなく鞭《むち》をふるうことがあるからだ。鞭で打たれると、音吉は自分が牛か馬になったような淋《さび》しさを覚える。なぜ打たれるか、わからないのだ。アー・ダンクは主人の弟だった。が、主人とは顔も気性《きしよう》もちがう。二人は、アー・ダンクを「蝮《まむし》」と蔭《かげ》で呼んでいた。  二人は鹿の去った水べに行って水を汲《く》んだ。水は澄んでいるのだが、底の土が赤錆色《あかさびいろ》だ。その赤い水底を見ると、いかにも異国に来ている感じがする。二人は水を汲み、うしろと前に皮袋を吊《つ》った天秤棒《てんびんぼう》を担《かつ》いだ。この天秤棒は岩松が造ってくれたものなのだ。初めは、両手にじかに下げていた。それはひどく重かった。が、天秤棒で担ぐと、それほど重さを感じない。二人は腰で拍子《ひようし》を取りながら、今来た藪中《やぶなか》の小道を戻って行く。久吉が先で、音吉が後だ。  と、行く手に女の姿が見えた。すらりとしたその姿形で、それが誰か、二人にはすぐにわかった。 「蝮のご新造や」  前を行く久吉が低い声でいう。アー・ダンクの妻は、ゆっくりと小道を歩いてくる。この女が、急いだり、大声を立てたりしているのを、二人はまだ一度も見たことがない。どこかもの憂《う》げなのだが、いつもその唇《くちびる》に微笑を絶やさない。ぽっかりとひらかれた目が、いつも昼寝からさめたような感じなのだ。 「好きやな、あの人」  久吉が言う。 「うん、好きやな」  二人は立ちどまって、道の際に少し体を寄せた。近づいたアー・ダンクの妻は、何か洗濯物《せんたくもの》を胸に抱えていたが、二人を見るとニコッと笑った。久吉はその微笑に応《こた》えたが、音吉はじっと目を伏せて、すれちがうのを待っていた。が、アー・ダンクの妻は音吉の傍《そば》に立ちどまり、何か言った。音吉は仕方なく、顔を上げてアー・ダンクの妻の顔を見た。目が近々と笑っていた。音吉は黙って頭を下げた。何かわからないが、ねぎらいの言葉ではないかと思ったからだ。  アー・ダンクの妻が通り過ぎて行くと久吉が言った。 「あのご新造、何て言うたやろ。な、音吉」 「何や知らんが、ご苦労さんと言うたんやないか」 「そうやないかも知れせんで。いい男やな、と言うたんとちがうか」  久吉がからかった。 「そんなこと言わん、あの人」  音吉はまじめに答えた。どこかで鳥の声がする。 「何の鳥かな」  久吉が木々の梢《こずえ》に目を上げた。 「百舌鳥《もず》に似た声やな」  言いながら音吉は胸が痛んだ。百舌鳥の啼《な》いていた小野浦の山々が、鮮やかに目に浮かぶのだ。 「な、久吉、俺たち一生ここに住まんならんのかな」 「そうかも知れせんな。宝順丸のような大きな船もないし……大きな船があっても、無事に小野浦に帰って行ける筈もないし……」  余りにも長い漂流に、久吉も帰国の手だてはないと、とうに諦《あきら》めていた。 「帰れんのかあ」  二人は藪中《やぶなか》を通って砂浜に出た。白い砂浜だ。二人を捕らえた家は、ずらりと並んだ家々の真ん中あたりにある。二人は並んで歩きながら、 「音、俺たちでも、ここの親分の娘をもらうことはできるんやで」 「…………」 「どうもそうらしいわ。俺、ピーコーをもらうかな」  久吉は楽天的だ。時折《ときおり》、鞭《むち》は飛んでも、マカハ族にはまだ、奴隷《どれい》に対する際立った差別はなかった。奴隷と、他の者の仕事の区別もなかった。魚を漁《と》る時には共に漁り、薪《まき》を挽《ひ》く時には共に挽く。結婚もまた、久吉が素早く見て取ったように、奴隷と主人の娘との結婚も許されていた。また女奴隷を主人の息子が娶《めと》る例も少なくない。同じ部族の若者同士の結婚にしても、余り窮屈なことはなかった。たとえ親が反対しても、一、二か月、若い二人が森の中に隠れ住み、やがて出て来た時には、それほどの摩擦もなく結婚が許される。酋長《しゆうちよう》は一夫多妻だが、他の者たちは一夫一婦であった。音吉たちが捕らえられた家の主人は、どうやらこの辺《あた》りの酋長であるらしく、三人の妻を同じ家の中に持っていた。  音吉と久吉は、水を家の中の水桶《みずおけ》に入れた。入れながら二人は顔を見合わせた。まだ子供たちの歌が絶えないからだ。朝からもう一|刻《とき》(二時間)も過ぎているのだ。歌はピーコーの小部屋から聞こえてくる。くたびれ切ったような子供たちの歌声だった。と、他の者たちが歌い出した。やや元気な歌声だ。二人は再び水|汲《く》みに行くために外に出た。 「何や! うたいつづけやな」  外に出るなり久吉が言った。 「ほんとや。無理矢理うたわされているみたいやな」  音吉は家の中に岩松の姿がなかったと思いながら言った。 「何であんなにうたうんやろな、音」 「わからんな。小野浦ではあんなことあらせんもな」  冬の太陽が白い。二人は、まだ肌《はだ》に馴《な》れない杉の皮で織った着物を着、裸足《はだし》で歩いて行く。小野浦でも裸足で遊びまわっていたものだが、ちびた草履《ぞうり》でも自分の草履があった。ここでは、遠出をする時に履《は》く靴《くつ》がある。鮭《さけ》の皮で造った靴だ。鮭の皮は薄いが、意外に強かった。二人にはそんな靴は与えられていない。 「もうじき、また正月やな」  音吉は、雲間を縫う白い太陽を見上げながら、淋《さび》しい声を出した。 「ほんとやなあ。今年の正月は海の上やったもなあ」 「うん……」  宝順丸で祝った雑煮《ぞうに》を音吉は思い出した。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、米の飯《めし》を練って餠《もち》のようにしたのだ。赤子の掌ほどもない干し魚が、尾頭《おかしら》代わりに出た。 (あの正月の膳《ぜん》に向かって……兄さは泣いたんだ)  何で泣くと聞く音吉に、これが最後の正月だと言って吉治郎は泣いた。そして間もなく死んでいった。 (兄さが死んで一年になる) (十一人、みんな死んでしもうた)  久吉がむっつりと音吉の後について来る。久吉も何か考えているのだと、音吉は久吉をふり返った。と、久吉が立ちどまって空を仰いだ。 「なあ、音、あのおてんとさまと、小野浦のおてんとさまと、同じおてんとさまやろか」 「そうやろな。おてんとさまが世界に二つあると聞いたことないでな」  言いながらも、音吉にも自信がない。日本の太陽が日本にだけ照り、この国の太陽は、この辺《あた》りにだけ照るような気もする。 「音! したら、あのおてんとさまは、小野浦にも照るんやな」 「そうかも知れせんな」 「したら、あのおてんとさま、父《と》っさまも母《かか》さまも見ているんやな」 「うん、そうやな。きっとそうやな」  音吉はたまらなくなった。こんなに遠い国で見る太陽が、小野浦で見る太陽と一つだとしたら……思っただけでも胸がつまるのだ。 (父っさまも母さまも、おさとも、お琴も……)  二人は黙って歩き出した。早足で二人は歩いた。藪原《やぶはら》は二人の胸ほどの高さだ。その藪原の中に、今また鹿が迷いこんでいた。 「音、この裏山には、熊もいるんやもなあ」 「うん」 酋長《しゆうちよう》は熊の皮を敷いている。 「よう出てこんな」 「今は冬やからな。眠ってるんやろう」 「ふーん、熊は冬眠るんか。冬の間中眠るんか」 「そうや、いつか舵取《かじと》りさんがそんなこと言うてたで」  岩松は二人とちがって世の中を多く見ている。蝦夷《えぞ》で熊の足跡を見たことがあるとも言っていた。 「じゃあ冬の間は、里には下りてこんな」 「うん、大丈夫や」  二人は山裾《やますそ》の藪中《やぶなか》を出て、沢水の落ちる傍《かたわ》らに近寄って行った。と、音吉ははっと立ちどまった。何気なく目をやった森の中に、男と女の姿を見たからだ。男は岩松であり、女はアー・ダンクの妻であった。 「何や、舵取りさんや」  気づいて久吉も声をひそめた。      四 (一体いつになったら歌いやむんやろ)  音吉は寝床の中でつぶやいた。夜も深まって、誰もがもう床の中に横たわっている。百五十畳ほどあるこの大きな家《や》ぬちには、魚油の灯を二つだけ残して、あとは消されてしまった。が、部屋|隅《すみ》に仕切られた一画からは、依然として歌声は絶えない。 (ひる前から歌いつづけやもな)  音吉は寝台から、歌声のする方を見下ろした。音吉たちの寝台は三段になっていて、音吉が一番上で、二番目は久吉だ。奴隷《どれい》以外は段にはなっていない。 酋長《しゆうちよう》の娘ピーコーが、急造のしきりの中に入るや否や、子供たちは歌いはじめたのだ。それが、人の寝しずまったあともつづいている。 (いったいどうしたんやろ)  言葉の通じぬ音吉たちには、何が始まったのかわからない。いくら何でも夜になったら歌いやむと思っていたのに、子供たちは交替で歌いつづけているのだ。 (ピーコーもうるさいやろな)  ピーコーはよく笑う少女だ。その度に笑くぼが大きく頬《ほお》に浮かぶ。 (子供たちも、くたびれたやろな)  この集落には、幼い子供たちがたくさんいる。今歌っているのは、三、四人の声だ。先刻まで歌っていた子供たちと、交替したばかりだ。この子たちが疲れると、又他の組が代わるのだろう。  いつもなら、この時刻には、部屋のあちこちから異様な息づかいが聞こえてくる。どの夫婦もみな、厚い幕をおろして寝るのだが、その幕を通して、荒々とした息づかいが洩《も》れるのだ。  はじめの頃《ころ》、音吉は、裏山からけものが降りて来て、家のまわりをうろついているのかと思った。犬と山羊《やぎ》がうなり合っているのかも知れぬとも考えて、久吉に尋《たず》ねたことがある。 「なあ、久吉、夜うなってるの、何やろ、まさか熊やないし、何のけものやろ」 「けもの?」 「うん、山羊やろか、犬やろか」 「ばかやな、音」 「何で?」 「何でって、お前、あれはメスとオスやがな」 「何のメスとオスや」 「人間に決まっとるやないか」 「人間が? 人間が何であんなにうなるんや」 「何や、お前、本当に初心《うぶ》な男やな。あれはな、男と女やで。夫婦やで」 「夫婦?」 「そうや、舵取《かじと》りさんに聞いてみな」  赤くなった音吉を久吉は笑ったが、 「しかしな、舵取《かじと》りさんは偉いで、毎晩よう寝とるわ。血も騒がせんと」  真顔になって言っていた。  音吉はそのことを思い出し、今日森の中に見た岩松とアー・ダンクの妻ヘイ・アイブ(鳩の意)の姿を思った。岩松とヘイ・アイブは、じっと向かい合って身うごきもしなかった。二人の間は、一寸と離れていないように見えた。音吉と久吉は息をつめてみつめていた。見てはならないと思っても、目を外《そ》らすことができなかった。  と、ヘイ・アイブの片手がゆらりと動いて岩松の肩に置かれた。瞬間、岩松は一歩退き、すばやく山の小径を降りてきた。音吉と久吉は思わず木かげに身を寄せた。岩松の手には、先刻女の持っていた洗濯物《せんたくもの》があった。岩松は川下に向かって大股《おおまた》で歩いて行った。マカハ族では、洗濯や衣服の仕立て、つくろいは男の仕事だった。  二人はヘイ・アイブが、ゆっくりと傍らを過ぎて行くのを待って水|汲《く》みをはじめた。 「驚いたな」  久吉がささやいた。 「うん」  音吉は不安だった。あのヘイ・アイブの夫アー・ダンクは、蝮《まむし》のような男なのだ。言葉の通じぬことにいらだって、ともすれば、音吉たち三人に鞭《むち》を振るう。 「きっと、あの女は舵取りさんに惚《ほ》れたんやな」  鹿皮の袋に水を汲みながら久吉はにやにやした。 「さあ」 「舵取《かじと》りさんもあの女に惚れたんやな」 「まさか」  音吉は、岩松の妻絹の姿を思って、頭を横に振った。 「な、音、蝮の奴《やつ》に知れたら大変やで」  久吉は一層声をひそめて言った。  そのことを思い出しながら、音吉はいま不安に襲われた。  岩松はあの女の前から逃げたのだ。決して自分から近づいたわけではない。だから、岩松には罪がないと音吉は考える。だが、なぜ岩松とヘイ・アイブがあの森の中に二人っきりでいたのだろう。岩松が柴を集めに行ったのを、ヘイ・アイブは知って山まで洗濯物《せんたくもの》を持っていったのか。  音吉は、子供たちの歌声を聞きながらさまざまに考える。 (舵取りさんも大変やな)  あの熱田の港で、一度見たっきりの絹の美しい姿を音吉は忘れてはいない。二度と日本に帰れぬとしたら、岩松と絹とはあれが一生の別れだったのだと改めてしみじみと音吉は思う。  ふっと思いは、小野浦に飛ぶ。目をつむれば、家の中の畳の破れや、黄色くなった障子《しようじ》がありありと目に浮かぶ。父が口を半開きにして寝ている顔や、行灯《あんどん》の傍《そば》でつくろい物をしている母親の横顔が、たまらないほどなつかしい。 「兄さ」  と呼ぶさとの愛らしい声も耳に聞こえるようだ。 (お琴も正月が来たら十六になる)  十六になったら、誰かの嫁になるにちがいないと、音吉は胸がしめつけられる思いだ。 (おれは、ここに生きておるのに)  音吉は吐息をついた。自分たちはとうに死んだと、父母も琴も思っているにちがいない。 (お琴! 嫁になるのか!)  あきらめていたつもりの琴への想いが、噴きだして来そうであった。 「お琴!」  音吉はそっと口に出して呼んでみた。 (誰の嫁にもなるな、お琴!)  必ず何とかして帰るからと、出来ないことを音吉は思った。  歌声が少し低くなった。また疲れてきたのだ。音吉はそっと寝返りを打った。岩松が手すりをつけてくれたから下に落ちることはない。が、それでも落ちそうな気がして、音吉は気をつけるのだ。  板壁に向くと、音吉はねむろうと思った。が歌声が耳について眠れない。ふいに、音吉は琴の小さな乳房を思い出した。千石船《せんごくぶね》が小野浦の沖についた日だった。子供たちは、みな真っ裸になって、船をめがけて泳いで行った。千石船では、握り飯を食わせてくれる。それが楽しみだったのだ。  泳ぎついた子供たちが、水主《かこ》部屋で握り飯を食べていた時だった。のっそりと水主部屋に入ってきた男がいた。男は子供たちをじろりと見、すぐ傍《そば》にいた琴のふくらみかけた乳房を荒々しくつかんだのだ。 (あれが、舵取《かじと》りさんやったんやもな)  音吉には信じられない。あの時の岩松と、その後一年二か月漂流を共にした岩松とは重ならない。あれは別の男だったと思う。だが、思い出すと、岩松がいやな男に思われてくる。 (そうか、それや)  音吉は、今日森の中に見た岩松とヘイ・アイブの姿を再び思った。あの二人が近々と向かい合って立っているのを見た時、音吉はなぜかふっと琴を思い出した。なぜ思い出したのか、それが今やっと、音吉にもわかったような気がした。 (舵取りさんも、血が騒ぐんやな)  音吉はそう思った。  子供たちの歌声が次第に遠くなった。音吉は、いつしか眠りに落ちて行った。      五  澄んだ青い空が、岩松、久吉、音吉の、三人の上にあった。今、三人は河口に近い洗濯場《せんたくば》で、与えられた洗濯物を洗っていた。傍《かたわ》らには、炉の中からすくってきた灰が、木の器に入れてある。 「これ、舵取《かじと》りさんの刺し子やな」  久吉が両手に紺の刺し子を持って、岩松に見せた。岩松はその刺し子を見たが、何も言わない。目の底にかすかに怒りの色があるのを音吉は見た。久吉が、 「なあ音吉、これ舵取りさんのやな」  と念を押す。 「そうや、舵取りさんのや」  黙っている岩松の心が、音吉にはわかるような気がした。この刺し子を縫ったのは、あの熱田で見た岩松の妻なのだと、音吉は思う。まさかそれが取り上げられて、インデアンの男たちに着られるとは、絹は夢にも思わなかったにちがいない。  何となく三人は黙った。言いたいことがたくさんある。が、言ってみてもどうにもならぬことばかりなのだ。 (家の者はどうしているか) (いつになったら帰れるのか) (ここでこのまま一生を終えるのか) (米の飯《めし》を食べてみたい)  どれもこれも、くり返し語り合って来たことなのだ。それでもなお、幾度となく語り合いたいことなのだ。だが今、岩松が自分の刺し子を前にして、ひとことも語らぬのを見ると、それらの言葉を口から出しては悪いような気がする。  洗濯物《せんたくもの》に灰をふり、そこに置かれた大きな石の上に置く。そして、平たい石でこすったり叩《たた》いたり、手でもんだりして洗うのだ。いくら暖かいといっても、十二月の風は冷たい。三人の手に、ひびが幾つも切れている。水も冷たい。只《ただ》半裸に馴《な》れた水主の三人には、それほど辛《つら》くはないというだけだ。  濯《すす》がれた洗濯物が、杉の皮で編んだ籠《かご》の中に次々と入れられていく。音吉はふっと目を上げて、遥《はる》か彼方の水平線を見た。この海の果てに日本がある。そう思うと、音吉はたまらなくなる。いつも水平線を見る度に思うことなのだ。と、久吉が言った。 「なあ、音。この海は日本までつづいているんやもな」 「うん、そうやなあ」  やはり久吉も同じことを考えていたのかと音吉は思った。が、岩松は険しい顔をして二人を見た。岩松は、音吉たちが日本の話をすると、時にこんなきびしい顔をする。はじめは、それが音吉には不思議だった。が、この頃《ごろ》では、そんな気持ちもわかるのだ。岩松には妻子もいれば老いた養父母もいる。故国のことを思うといても立ってもいられなくなるのだ。  宝順丸の上にいて、日本を思うのと、インデアンたちの中に奴隷《どれい》として生活しながら日本を思うのとでは、大きな差があった。  見たこともない他民族の中に、こき使われながら生きていると、日本は余りにも遠い遥かな国に思われてくる。宝順丸はまだ日本の延長であった。米もあれば障子《しようじ》もあった。刺し子も股引《ももひ》きも手拭《てぬぐ》いもあった。布団もあれば、かいまきもあった。茣蓙《ござ》もあれば、和紙もあった。いや、何よりも神棚《かみだな》があり、仏壇があった。そして船玉《ふなだま》さまが厳然としてあった。宝順丸の中には、このように日本があった。  インデアンたちは、仏壇や神棚を何と思ったのか、叩《たた》き壊して、浜べで焼き捨ててしまった。 (船玉さまだけは……)  心ひそかに音吉はそう思って、浜べに打ち上げられている宝順丸のほうに向かって、いつも手を合わせてきた。だが岩松も久吉も、 「船玉さまは、脱《ぬ》けてしまったでな」  そう言って手も合わせない。破船する前に、船玉は必ずその船から消えてしまうと言い伝えられていたからだ。それは破船した船を解体してみても、確かに入れて置いた筈《はず》の髪の毛や、五穀《ごこく》が見えなくなっていることが多いからでもあった。船を上がる時、それらを誰かが持ち去ったものであろうと見る者もいた。だから大方は、 「船玉さまに見捨てられたから、破船した」  と、信じていた。  音吉はしかし、あの宝順丸から船玉が消えたとは思っていない。琴の髪の毛が入っている筈の船玉が、自分を見捨てて消え去ることはないと、確信している。体に暇が出来たら、必ずその有無を確かめようと心に決めていた。 「それにしても酋長《しゆうちよう》は、あの宝順丸をどうする気なのだろう」  三人はよく語り合う。 「あったかくなったら、あの船を修理するつもりかも知れせんな」 「それとも、ばらばらにして、何かに使うかもな」 「薪《まき》にして燃やすのや」 「いやいや、死人がたくさん出た船や。これ以上手をつけられせん」  三人はそんなことを語り合い、もし修理が可能なら、あの船に乗って逃げようと話し合ったこともある。  と、そこに、人影がさした。アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。ヘイ・アイブは何か言った。久吉と音吉がヘイ・アイブを見上げた。 「きれいな目やなあ」  久吉は、言葉が通じぬのをよいことに、大きな声で言った。ヘイ・アイブはにっこりと笑った。が、岩松は見向きもせずに、洗濯《せんたく》をつづけている。ヘイ・アイブはその岩松の横に屈《かが》みこんで、手に持っていた小さな籠を置いた。うまそうな、煎餠《せんべい》に似た菓子がその中にあった。 「ありがとう」  音吉が礼を言った。 「ありがとう」  久吉も言った。女はうなずき、岩松の顔をのぞきこむようにした。岩松は横目でちらりと見て、かすかに笑った。音吉がはっとする程《ほど》、男らしい笑顔だった。ヘイ・アイブは川上を指し、何か言った。何を言っているのか、依然としてわからない。只《ただ》、ピーコーの名が二度|程《ほど》女の口から出た。何のことかと思った時、灌木《かんぼく》の繁みの方から、子供たちの歌声が聞こえて来た。大勢の声だ。ヘイ・アイブは岩松を見、再び笑顔を見せると、三人の傍《かたわ》らをゆっくりと離れて行った。 「何や、大勢の子供たちやな」  久吉が手籠《てかご》の煎餠《せんべい》を頬張《ほおば》りながら言った。音吉も煎餠を手に取った。岩松は二枚同時に手に取って口に入れた。  ピーコーを囲んで、この数日子供たちは歌いつづけだった。その子供たちが、今度は外に出て来たのだろうか。訝《いぶか》しく思った三人の目に、小川のほとりに出て来た子供たちの長い列が見えた。一番前に頭から毛布をかぶった子が歩いて来る。この集落の子供たちは、全員ついて来たようであった。 「ピーコーや!」  久吉が叫んだ。ヘイ・アイブの立っている所に、子供たちは集まった。と、ピーコーが毛布をさらりと脱《ぬ》ぎ捨てた。音吉は息をのんだ。全裸のピーコーを冬陽が照らした。ピーコーは静々と流れの中に入って行く。 「どうしたんや!?」  久吉が驚きの声を上げた。 「潔《きよ》めや」  ぶっきら棒に岩松が言った。 「潔め?」  久吉は怪訝《けげん》な顔をしたが、すぐにうなずいて手を叩き、 「なあんだ、そうか。やっぱり別鍋《べつなべ》だったんやな」  と、音吉の顔を見た。音吉はひどく悪いことをしたような気がして、ピーコーから目を外《そ》らした。 「けど舵取《かじと》りさん。子供たちは何であんなに歌ったんやろ」 「知らん。多分魔よけやろな。子供たちが歌っていれば、悪魔や病気がつかんと言う迷信でもあるんやろ」 「へーえ、魔よけか。毎月別鍋の度《たび》に、あんなに歌わんならんとは、かなわんな」 「まさか、毎月やないやろ。ピーコーは恐らく初めてのことや。あれは初めての儀式や。祝いや」  水の中に白く見えるピーコーの裸身に目をやりながら岩松は言った。 [#改ページ]   鞭      一  眠っていた男や女たちが、幕をくぐって、一人二人と土間《どま》に出て来た。まだ真夜中である。あちこちに灯が点《とも》される。くすんだ天井から煤《すす》が幾本も垂れ、それらがゆらぐ。たくさんの魚が、灯影にほの暗く吊《つ》るされているのが見える。  男たちは皆、鯨《くじら》獲りに出るのだ。背まで長く垂れている髪を、男たちはぐるぐると巻いて団子に結んだ。ドウ・ダーク・テール(若い鳥)と呼ばれる、あの人なつっこい笑顔の若者が、岩松たちがまだ眠っているのに気づいて、 「イワ、イワ」  と、岩松の傍《そば》に寄った。が、岩松は深く眠りこんでいた。  再び、ドウ・ダーク・テールが、 「イワ、イワ」  と、やさしく呼んだ。  と、その時、アー・ダンクがつかつかとやって来たかと思うと、いきなり腰の鞭《むち》を取って、眠っている岩松を殴《なぐ》った。岩松ははっと目を覚ました。アー・ダンクの目が陰険に光っていた。  岩松はたった今、夢を見ていたのだ。熱田神宮の杜《もり》を、岩松は絹の肩を抱くようにして歩いていた。暗い道だった。真っ暗な筈《はず》なのに、しかし両側の松の木|肌《はだ》がはっきりと見えていた。 「いないわ、いないわ」  絹が吐息をつきながら言う。二人は岩太郎を探していたのだ。 「イワ! イワ」  岩松は岩太郎を呼びながら絹を抱えている。と、向こうから岩太郎が駈《か》けてくるのが見えた。まだ一歳の岩太郎がよちよちと駈けてくる。そのうしろから絹が駈けてくる。絹の白い足がちらちらと裾《すそ》から見える。岩松が肩を抱えているのも絹で、岩太郎のあとから駈けてくるのも絹だ。 (お絹が二人いる?)  そうは思ったが、さほど不思議とも思わず、岩松は大手をひろげて絹と岩太郎を待ち迎えた。今、まさに、その絹と岩太郎を腕の中に抱こうとして、岩松は殴られたのだ。  目を覚ました岩松に、再び鞭が鳴った。途端に岩松が大声で怒鳴った。 「何で殴るんだ!?」  海で鍛えた大きな声であった。アー・ダンクの口が歪んだ。と思うと、三度岩松の肩に鞭が鳴った。したたかな鞭であった。 「野郎!」  岩松は土間《どま》に飛び降り、仁王《におう》立ちになって、アー・ダンクを睨《にら》みつけた。ドウ・ダーク・テールが、二人の間に割って入り、岩松を背にアー・ダンクに何か言った。が、アー・ダンクは首を横にふり、ドウ・ダーク・テールを押し退《の》けようとした。ドウ・ダーク・テールは何か叫んだ。「なぜ殴る」と言ったのだ。アー・ダンクが大声で「奴隷《どれい》のくせに、起こされても起きないからだ、怠け者だ」と、罵《ののし》った。音吉も久吉も、岩松の怒声に驚いて目を覚ましていた。二人は岩松の背に両側から寄りそっていた。  アー・ダンクの鞭《むち》が、岩松よりも先に、若者ドウ・ダーク・テールに向かってふり上げられた時、酋長《しゆうちよう》が近づいて来た。酋長が低い声で何か言い、アー・ダンクの肩を叩《たた》いた。アー・ダンクは語気強く言い返した。酋長は首を横にふり、再び同じ言葉を言った。アー・ダンクは不満げに口を結ぶと、鞭をふりながら外に出ていった。酋長はアー・ダンクにこう言ったのだ。 「こいつは俺の大事な財産だ」  と。酋長は岩松のみみず腫《ば》れになった肩に手を置き、顔をしかめて何か言った。 「痛いか」  と言ったのだと三人は思った。が、酋長は、 「こわされるところだった」  と言ったのだ。酋長たちには、奴隷《どれい》は物であった。その酋長のうしろに、女や子供たちが立っていた。アー・ダンクの妻だけが、少し離れて岩松の顔をみつめていた。酋長の妻が、いつのまにか、小さな壺《つぼ》に入れた油を持って来、岩松の肩にていねいに塗った。マカハ族の女たちの指は、節が太い。よく働くからだ。酋長の妻の指も、他の女たちに劣らぬほどに太かった。その指先を、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブはじっとみつめていた。  やがて、男たちは皆、鯨獲《くじらと》りに出て行った。酋長も出て行った。鯨獲りのカヌーには八人乗れる。アー・ダンクは、岩松を漁につれて行くつもりだったが、酋長が許さなかった。アー・ダンクと岩松が海に出て、ひと騒動起こしそうな不安を酋長は感じたのだ。  男たちが出て行ってしまうと、女子供たちはそれぞれ、自分の床の中に戻《もど》って寝た。岩松は不貞《ふて》たようにごろりとマットの上に横になった。 「痛かったやろな、舵取《かじと》りさん」  音吉が心配そうにのぞきこんだ。 「蝮《まむし》は半気ちがいや」  久吉も憤慨した。ここに来て、久吉も音吉も、日に一度や二度はアー・ダンクに鞭《むち》で殴《なぐ》られた。何か言われて、ぼんやりしているとすぐにアー・ダンクは鞭を振るうのだ。酋長《しゆうちよう》や他の者たちは、たとえ言葉が通じなくても、手真似《てまね》で命じてくれた。薪《まき》を割る真似をすれば、薪を割れということだとすぐにわかる。水を汲《く》む皮袋を指して何か言えば、水を汲むことだとわかる。が、アー・ダンクはそうした工夫を全くしない。ドスの利いた声で、最初から居丈高《いたけだか》に怒鳴るのだ。傍《かたわ》らに誰かいて、素早く手真似で通訳してくれれば、何とか事は足りるが、傍らに誰かいなければ、殴られるだけなのだ。だが、みみず腫《ば》れになるほど殴られたことはまだなかった。痛くはあっても、仕事をしているうちに忘れる程度の痛さだった。だが、今夜、岩松を殴った殴り方は、尋常ではなかった。岩松が反抗の色を見せたからでもあった。  奴隷は、岩松たちのほかに、男が二人と、女が二人この家にいた。何年も前に、バンクーバーから買われて来たというこれらの奴隷たちは、言葉が通じた。そしてそのうちの二人は夫婦になっていた。だから、初めは彼らが奴隷だということを、岩松たちは知らなかった。只《ただ》、時折《ときおり》アー・ダンクが荒々しく怒鳴ったり、鞭《むち》を振るう真似《まね》をしたりするので、次第にわかって来たのだ。 「眠れるかい、舵取《かじと》りさん」  音吉が岩松の肩に手を当てた。岩松が、 「心配するな、音」  と、かすかに笑ってみせたが、 「酒でも飲みてえよ」  と久吉を見た。 「ほんとやなあ。酒があったらなあ、何でここには酒がないんやろ。なあ音」 「ほんとにな。舵取りさんは酒が好きなのにな。憂《う》さばらしもできせん」  他のインデアンたちとちがって、このマカハ族には酒がなかった。  岩松は今、音吉と久吉の言葉を聞きながら心の底深く、一つのことを決意した。 「音、久吉」  寝ころんでいた岩松が、起き上がって二人の顔を見た。只《ただ》ならぬ顔であった。男たちが出て行ったあと、灯はいつものとおり二箇所になった。薄暗い中で、岩松の目が異様に光った。 「何や、舵取《かじと》りさん」  不安げに顔を寄せる久吉に、 「俺はここを逃げ出すぜ」  岩松はきっぱりと言った。 「逃げる!?」  久吉は思わず声を上げ、あわてて口をつぐんだ。誰も日本語は知っていないと知りながら、思わず口を閉じたのだ。 「うん、逃げる!」 「どうやって逃げるんや、舵取りさん」  音吉の声も不安げであった。 「今すぐとは言わん。だが必ず逃げて見せる」 「舵取りさん一人でか」 「お前たちの気持ち次第や」 「そりゃ言わんでも決まっとるがな舵取りさん。な音吉」 「うん、決まっとる。死ぬも生きるも、舵取りさんと一緒や」 「そうか。それで決まった。とにかく俺は、あの蝮《まむし》の顔を見ていると、叩《たた》き殺してしまいたくなる。殺すのはたやすいが、そのあとが面倒だ。そんなことにならねえように、何とか逃げ出さなあかんでな」 「…………」  岩松は心の中で、手紙を書こうと決めた。バンクーバー島から、時折《ときおり》カヌーがやって来る。毛布や小麦粉や、砂糖などをカヌーは運んで来る。それはバンクーバー島から運んで来るのだが、むろん岩松たちはその船がどこから来るのか知らない。岩松は書いた手紙を、よそから来る船に渡そうと思うのだ。たとえ相手が日本の文字がわからなくても、いつかは日本の地に届くような気がする。世界の地理も事情もわからぬ岩松だが、とにかく救出をねがう手紙を書こうと決意したのだ。先程《さきほど》の鞭《むち》の痛みが、岩松に決意させたのだ。 (だが、何で書く?)  岩松は痛む肩に手をやりながら、まばたきもせずに考えた。船箪笥《ふなだんす》も懸硯《かけすずり》も酋長《しゆうちよう》に奪われてしまった。あの懸硯には、筆も硯も半紙も入っている。が、ついぞ酋長が字を書いている姿を見たことがない。いや、酋長だけでなく、他の男も女も子供も、字を書いている姿を見たことがない。入り口の柱や扉に、絵は描いてある。それも奇妙な鳥の絵が多い。その奇妙な鳥が「雷の鳥」と呼ばれるものだとは、岩松たちは知らない。その鳥は、空を覆うほどの大きな翼を持ってい、その翼を動かすと、雷が鳴るとインデアンたちは信じていた。そしてまた、山に雷が落ちると、インデアンたちは総出で山探しをした。  それは、こうも信じられていたからだ。物凄《ものすご》い大男のインデアンがいて、そのインデアンの食物は鯨《くじら》だった。この大男は鳥の頭や、大きな翼を身につけ、腰のまわりには、龍《たつ》の落とし子に似た、光を放つ魚をつけている。雷が落ちると、その光を放つ魚もどこかに落ちて、その骨の一つでも拾った者は、鯨獲りの名人になると伝えられていた。それを信じて、インデアンたちは一心に山の中を探すのだ。こういうわけで鯨獲りを主とするマカハ族は、どこにでもその鳥を描いておくのだ。  それはともかく、インデアンたちが字を書いている姿を見たこともなければ、インデアンの字らしいものを、岩松は見たことがない。 (ここには文字はないのだ)  岩松はそう見て取っていた。字を書かぬここの人間たちに、筆や硯や半紙は無駄《むだ》だと岩松は思う。今、岩松は無性《むしよう》に筆と墨が欲しかった。紙が欲しかった。ここでの実情をのべ伝える手紙を、とにかく書かねばならぬと思った。岩松は日本の言葉しか知らない。日本の言葉を書いても、誰も読み得ないなどとは、岩松は考える余裕がなかった。誰か必ず、手から手へ、その手紙を然るべき人間に届けてくれるような気がしてならなかった。そう思うほどに、岩松はここでの生活に命の危険を感じた。アー・ダンクという男の目の光が、尋常には思えなかったのだ。 (どうやって、墨と筆を取り戻《もど》せるか)  不安げに自分を見ている音吉と久吉を、岩松は見た。 「舵取《かじと》りさん、もう少し眠ったら……」  おずおずと音吉が言う。どこかで赤子の泣き声がした。 「うん」  岩松はうなずいたが、 「いいか、久、音。男共は、明日の昼過ぎまで海にいる」  二人はうなずいた。男たちが鯨獲《くじらと》りに出るのはたいてい夜中で、翌日の昼過ぎにならなければ帰って来ない。 「その間に、何とか筆と墨を取り返すんだ」 「だって、女たちが見張っているで」 「うん。そこでだ。頼みがある。久公、音、明日になったら、何か外で騒ぎを起こすんだ。みんながわっと外へ出て行くような騒ぎを起こすんだ。その間に俺が懸硯《かけすずり》の中から取り戻す」  岩松は、自分が悪いことをするなどとは思わない。元々、船箪笥《ふなだんす》も衣類も、自分たちの物なのだ。それを奪ったのはここの男共だ。そう岩松は思っている。返してくれと言って返してくれる相手ではない。いや、言いたいにも言葉が通じないのだ。 「わかった、舵取《かじと》りさん。だけど、どんな騒ぎを起こしたらええやろ。俺が、死んだふりをしたらええやろか」 「死んだふりなあ。しかし、死んだと知らせる言葉がわからん」 「そうやなあ。したら、わしが大声を上げて、訳のわからんことを言って、海のほうを指さすか。みんな、何かと思うて飛び出すかも知れせんで」 「そうやな。それも一法だ。音も一緒に騒げるか」  音吉はうなずき、 「騒いでみる。騒いでみるわ」  と答えた。 「もっといい知恵がないかな」  三人は顔を寄せて、ひそひそと話し合う。 「もっとましな考えはないかな」 「そや! あのな舵取りさん。俺も音吉も、小野浦では竹馬乗りの名人やった」 「なるほど」 「それで、竹馬を造るのは訳はない。竹馬に乗って、二人でとんとん跳《は》ねて見せるのや。みんな珍しがるで」 「うん! それがいい。それなら女たちも、出て見るかも知れん」 「じゃ、明日早く起きて、その辺にある材料で造ってみるわ。この辺の山には竹は全くあらせんけど、細木でも伐ればええでな」  久吉の言葉に音吉もうなずいた。  三人はそれぞれ、まんじりともせず夜の明けるのを待った。そして朝がきた。  男たちのいない家の中は、和《なご》やかだった。女たちが声高く話しながら、籠《かご》を編んだり、マットを造ったりしている。子供たちが、笑ったり叫んだりしながら、土間を駈《か》けめぐったり、外に走り出たりしている。女も子供も、男たちが海に出たあとは、解放感に浸される。時折《ときおり》男たちは、大声で自分の妻を罵《ののし》り、素手《すで》で頬《ほお》を殴ったりするからだ。  岩松は土間《どま》で、大きな水桶《みずおけ》を造っていた。一枚の杉の板の面をのみで滑らかにし、ぬるま湯でぬらす。そして三本の溝《みぞ》で板を四等分し、その溝の部分をゆっくりと曲げるのだ。ここに来てから二つ目の仕事だから、むずかしくはない。岩松の手は動いてはいるが、耳は外に向けられている。岩松の坐《すわ》りこんだ土間は、酋長《しゆうちよう》の住む一画《いつかく》の傍《かたわ》らだ。水桶はそこに置かれるからだ。  時折、岩松の目が懸硯《かけすずり》に行く。 (そろそろ、始めてくれなけりゃ、昼飯の仕度が始まる)  岩松は少しいら立ってきた。音吉と久吉は外で薪割《まきわ》りをしているのだ。そして頃合《ころあ》いを見て竹馬に乗る筈《はず》だった。 (何をしてるんだ)  岩松は用を足すふりをして、よほど外に出ようかと思った。と、その時、戸を押して子供たちが騒ぎながら家の中に入って来た。見ると、久吉と音吉が竹馬に乗って、二、三歩土間に入って来た。女たちが驚きの声を上げた。と、久吉と音吉が、すぐさま向きを変えて外に出て行った。家にいた子供たちも、仕事をしていた女たちも、珍しいもの見たさに外に走って行った。ピーコーのはしゃぐ声がその中にあった。 (今だっ!)  岩松は家の中に誰もいなくなったのを見すますと、素早く立ち上がって酋長《しゆうちよう》のマットの上に飛び上がり、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。硯、筆、墨、そして半紙を鷲《わし》づかみにして、岩松はうしろをふり返った。誰もいない。外では騒ぐ声がする。が、岩松の胸はとどろいた。岩松は急いで入り口近くの自分の場所に戻《もど》ると、梯子《はしご》を登って、一番上の音吉の寝床に上がった。音吉にも小さな籠《かご》が与えられ、そこに僅《わず》かな私物を入れてある。岩松はその籠の中に、今奪い返した物をそっと入れた。大仕事をした後のように、岩松は肩で大きく息をした。そして、降りようと梯子《はしご》に足をかけ、はっと息をのんだ。梯子の下には、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが、大きく目を見ひらいて岩松を見上げていた。      二  岩松は、音吉の寝床に腹這《はらば》いになって、そっと墨を磨《す》っていた。今夜は、男たちも女たちもくたくたに疲れて眠っている。いつもより大きないびきが、あちこちの幕越しに聞こえてくる。男たちは昨夜夜中に漁に出かけ、午後になって帰って来た。まれに見る大きな鯨《くじら》を仕とめて来た。その鯨の処理で、男も女も忙しかった。他の家の者たちも手伝いに来た。アー・ダンクも白い歯を見せて機嫌《きげん》よく笑っていたし、ヘイ・アイブもまたいつもより明るい笑顔を絶やさずに仕事をしていた。  遅い夕食が終わると、男たちは死んだように眠りはじめた。岩松が案ずるようなことは、何一つ起こらなかった。が、岩松は内心ひやひやしていた。男たちの留守中、懸硯《かけすずり》の中から半紙と筆と墨硯を盗み出したことが、いつ発覚するか、わからないのだ。昼間のことを思うと、思い出しても冷や汗が出る。音吉と久吉を竹馬に乗せ、女子供たちを外に誘い出させた。竹馬を見た者は誰もいない。家の中にいた女たちから年寄りまで、外に出て眺《なが》め興じた。子供たちは興奮して、大声で騒いだ。他の家々からも駈《か》け集まった。その間に、岩松は素早く盗み出したのだ。そして音吉の寝床にそれらを隠したのだ。三段ベッドになっているその一番上に、音吉の寝床はある。そこが格好の隠し場であった。そこまで目の届く大男はいない。 (万事うまくいった)  そう思って梯子《はしご》から降りかけた時、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが梯子の下に立って、岩松を見上げていた。 (しまった!)  岩松は見られたと思った。が、つとめて平然と梯子を降りた。ヘイ・アイブは、いつもの深い眠りから覚めたようなまなざしを岩松に向けたまま、身動きもしない。 (俺は何も悪いことはしていない。墨も硯も、元々は俺たちの物だ)  岩松は自分自身に言い聞かせて、ヘイ・アイブを見返した。ヘイ・アイブの目に、複雑な微笑が浮かんだ。未《いま》だ見せたことのない微笑であった。 (いま、ぬすむところをみていたわ)  その目はそう言っているように見えた。が、そうでないかも知れない。確かにこの自分が、音吉の寝床に上がるまで、家の中には人は一人もいなかった。揺籃《ゆりかご》の中に赤子が二人眠っていただけだ。  岩松はそう思いかえして、ヘイ・アイブから視線を外《そ》らした。と、ヘイ・アイブが何か言った。短い言葉だった。音吉の寝床に上がって、何をしていたのか、と尋《たず》ねられたような気がした。岩松は黙って首を横にふった。ヘイ・アイブの血色《けつしよく》のいい口もとがかすかにほころび、白い歯が見えた。ヘイ・アイブは素早くあたりを見まわし、岩松の頬《ほお》に唇《くちびる》を寄せた。あっと言う間もなかった。一歩岩松が退いた時、入り口に人影がさした。化粧の厚い、岩松の一番|嫌《きら》いな女だった。音吉が意識を失って家の中に運びこまれて来た時、一心に看護した女|祈祷師《きとうし》クワー・レス(鶴の意)である。目鼻立ちの整った、豊満な体の女だった。目の光が強かった。それがこのクワー・レスを妖しくも、美しくも見せていた。美しさから言えば、ヘイ・アイブより上かも知れない。が、岩松の肌《はだ》には合わなかった。  女祈祷師クワー・レスは、意味ありげに岩松とヘイ・アイブを見くらべた。ヘイ・アイブは小声で岩松に何か言った。岩松は黙って突っ立っている。クワー・レスは両手を腰に置き、甲《かん》高い声を上げて笑った。その笑い声は長過ぎるように思われた。クワー・レスは岩松を指さし、ついでヘイ・アイブを指さし、ひとこと鋭く何か言うと、そのまま炉端《ろばた》のほうに去って行った。ヘイ・アイブもさりげなく岩松の傍《そば》を離れ、岩松だけが外へ出た。  今、墨を磨《す》りながら、岩松はその昼の出来事をくり返し思っていた。ヘイ・アイブに、盗みの現場を見られたかも知れない。ヘイ・アイブが自分の頬に唇を寄せたことを、クワー・レスに見られたかも知れない。そう思うと、岩松は自分が逃れようのない所に追いこまれたような、胸苦しさを感じた。  ヘイ・アイブが盗みの現場を見たとしても、アー・ダンクには告げ口はすまいと思う。ヘイ・アイブが自分に好意以上のものを寄せているのは確かだ。頬に、ヘイ・アイブの柔らかい唇《くちびる》の感触がまだ残っている。が、女のことだ。いついかなることで夫のアー・ダンクに告げないわけでもない。  しかし、それはまだ大きなことではない。もっと恐ろしいのは、あの女祈祷師クワー・レスだ。クワー・レスは、ヘイ・アイブが自分に唇を寄せるところを見ていたかも知れないのだ。気がついた時には、クワー・レスは戸口に立っていた。 (もし、見ていたとしたら……)  あの女は必ずアー・ダンクに知らせるような気がする。 (いや、見ていなくとも……)  ヘイ・アイブは余りにも自分の傍《そば》に寄り過ぎていたと思う。クワー・レスが大声で笑ったのは、あれは何であったのか。 (いつ、アー・ダンクに殺されるか、わからぬぞ)  岩松は身の危険を感じた。硯《すずり》や筆は、使ったあと再び返しておけばそれでよい。としても、人目のある時に返すわけにはいかない。それもまたひと苦労だ。あれこれ考えると、墨を磨る手に力が入らない。 (とにかく、今夜のうちにこれを書かなければ……)  男たちのいびきが間断《かんだん》なく聞こえる。高いいびきが、はたと止まる。と、そのいびきは低く変わる。それらを耳に集めながら、岩松はそっと半紙を伸べた。腹這《はらば》いになったまま筆を持つ。淡い灯影が土間を照らしてはいるが、手もとが暗い。岩松は目をかっとひらいて、書きはじめた。 〈日本 天保《てんぽう》三|辰年《たつどし》十月十一日志州鳥羽浦港出ず尾州尾張国廻船《びしゆうおわりのくにまわりせん》宝順丸重右衛門船十四人乗り熱田宮宿岩松〉  息を詰めるようにして、岩松は一気にこう書いた。岩松たち水主《かこ》にとって、何月何日誰の船で、どこを出たかという事実の記録は、最も重要な記録であった。それは言わば、自分自身の手形とも言えた。書きながら、尾州尾張国という字が、岩松の胸を熱くした。 〈十四人中十一人死にて岩松久吉音吉の三人残る 嵐に遭《あ》いて一年二箇月漂流したればなり 今異国に捕らえられ難儀して居り何方様《いずかたさま》にてもこの文読み次第助けて下され 命危し 至急助けて下され〉  ここまで書いた時、がたんと大きな音がした。岩松はあわてて筆をとめた。誰かが何か言っている。男の声だ。岩松は耳を澄ました。が、声はそのあと聞こえない。どうやら寝言らしい。岩松は再び筆を固く握りしめて書いて行く。 〈必ず必ず日本に帰りたし 助けて下され 疾《と》く疾く助けて下され [#3字下げ]天保五年一月五日 岩松書く〉  書き上げた書状を岩松は読み返した。これをバンクーバー島から来る男に渡そうと岩松は思った。そうすれば、この書状は誰かの目にふれる。誰かはまた誰かに手渡してくれるにちがいない。この字が人に読めるかどうかは、岩松には問題ではなかった。自分のひたすらな願いが通じない筈《はず》はないと、岩松は確信に満ちて、危険を顧みずに書いたのだ。それは滑稽《こつけい》なことかも知れなかった。無駄《むだ》なことかも知れなかった。が、書かないよりはましだと岩松は判断したのだ。  岩松は、更にまた一枚半紙をひろげた。 〈日本 天保三年十月十一日志州鳥羽浦港出ず 尾州尾張国廻船宝順丸重右衛門船十四人乗り熱田宮宿岩松より  父様母様絹へ  岩松は疾《と》うに死にたりと諦《あきら》め暮らし居るや わしは異国に生きて居る 家を思わぬ日一日もなし 足一本手一本になりても必ず必ず帰る故《ゆえ》待ちて下され 必ず待ちて下され 異国は言葉も通ぜず恐ろしき所なり 熱田神宮に朝夕祈って下され 父様母様達者で居て下され  岩太郎 わしのこと覚えて居るか 胸|掻《か》きむしらるる思いなり〉  うす暗がりの中で、紙の音をさせぬように、一字一字書いて行くのだ。ひどく疲れる仕事であった。書き終わると、岩松は激しい疲れを覚えた。二通をそれぞれ半紙に包み、枕《まくら》もとに置いた。 (あとはこの硯《すずり》と墨をいつ返すかだ)  岩松は迷った。昼間は人目がある。再び竹馬騒ぎを起こすわけにもいかない。思い切って、今返すべきか。今ならば誰も彼もぐっすり寝こんでいる。だがそれは、余りに危険であった。酋長《しゆうちよう》とその妻が寝ている傍《かたわ》らに懸硯はある。その引き出しをあけるのは、余りに無謀なことであった。 (と言って、万一ないことがわかれば……)  岩松はそう思ったが、 「わかったらわかった時のことだ」  低く呟《つぶや》いて、寝床の上に仰向けになった。しんしんと夜が更けていく。打ち寄せる波の音が急に大きくなったような気がした。      三  岩松、音吉、久吉の三人は、他の男|奴隷《どれい》やインデアンの男たちにまじって、砂浜でロープを作っていた。海から吹く風が冷たい。太陽が雲の上にあって、時折《ときおり》白く雲を透かして見えるだけだ。  インデアンのロープの作り方はいろいろあった。海藻《かいそう》と杉の根をより合わせることもあれば、杉の枝でつくることもある。そして今岩松たちがしているように、鯨《くじら》の筋肉から作る方法もある。からからに乾いた鯨の筋肉を、小さな繊維にわける。それはちょうど亜麻《あま》の繊維のようであった。これをインデアンたちは、太股《ふともも》と掌でより合わせるのだ。すると繊維は先《ま》ず糸になる。そのより糸を丸く巻いていきながら、際限もなくより糸作りがつづけられる。そのより糸を太いロープに編んでいくのは、大変な作業だった。忍耐の要る、時間のかかる仕事だった。だがこうして作られるロープは、白人のロープよりも優れていた。  今、岩松たちは、そのより糸を作っていた。太股の皮が擦れて血が滲《にじ》んでいる。 「あーあ、いやんなってしまうな」  岩松を真ん中に、音吉と久吉はあぐらをかいて仕事をしていたが、久吉が大きな声で言った。この頃《ごろ》久吉は、いやな時ほど、大きな声を上げることにしている。そうすると少しは気が晴れるのだ。 「そうやなあ」  音吉は、右の股《もも》から左の股により糸を置き替えて言う。岩松は黙って、目を上げて海を見た。灰色の空の下に、海は鉛色《なまりいろ》に暗い。その所々に三角波が立っている。 「なあ、舵取《かじと》りさん。今日は正月の十五日やな」 「うん」 「ここには正月はないんやな」  喋《しやべ》りながらも、三人の手は他のインデアンたちの手より早く動く。とりわけ岩松と音吉は器用だった。だから少々話をしても、アー・ダンク以外は咎《とが》め立てはしない。  三人は、世界中どこにも正月はあると思っていた。だがこのあたりのマカハ族の一年は、六か月が単位であった。冬至の翌日が一年の始めで、夏至《げし》の翌日が、もう一つの年の始めであった。だが日本における門松《かどまつ》や、雑煮《ぞうに》を祝うような新年の行事は、ここにはないようであった。岩松たちは、言葉が通じないために知らなかったが、自分の年齢を正確に覚えている者は、ここにはほとんどいなかった。二歳以上になれば、もう親は正確に子供の年齢を記憶することができなかった。何年前の出来事という、その年数を数えることも困難であった。月は数字ではなく、呼び名であった。十二月は「カリフォルニヤの灰色の鯨《くじら》が出現する月」と呼ばれ、一月は「鯨が子を生む月」と呼ばれていた。三月は「長須鯨《ながすくじら》がやってくる月」であり、鯨に関する月が、一年のうち三回あった。が、そんなことも三人は知らない。 「なあ、舵取りさん。俺たちはどうも人間扱いではないな」  ちょっと何か考えていた久吉が、再び口をひらいた。 「まあそうやな」  岩松がかすかに笑った。 「残りもん食わされるのが、一番いやだでな」  音吉も言う。久吉が更に愚痴《ぐち》る。 「そうよ。食いかけの鯨《くじら》の肉や、子供の食い残しの薯《いも》を食わされるのは、情けないわ。犬猫扱いや」  その時、アー・ダンクが鞭《むち》をふり鳴らしながら、近づいて来た。三人は口をつぐんだ。アー・ダンクは三人の前に立つと、大声で何か言った。 「怠けるなよ!」  アー・ダンクはそう言ったのだ。が、三人の手は素早く動いている。アー・ダンクはややじっとその手もとをみつめていたが、鼻の先で笑って去って行った。鼻の先で笑うのは、それでも機嫌《きげん》のいい時なのだ。その去って行くうしろ姿を、久吉はぺろりと舌を出して見送った。岩松はちらりと頬《ほお》に受けたヘイ・アイブの唇《くちびる》の感触を思った。 (どうやらあの女|祈祷師《きとうし》は、まだ黙っているようだ)  あの日以来十日過ぎたと岩松は思う。岩松も音吉も、朝起きる度に、「今日は何日だ」と、口に出して言い合うのだ。書く物がない以上、自分の頭に刻みつけるより仕方がない。久吉だけが時折、何日かを忘れる。 「舵取《かじと》りさん。あの文を見て、ほんとに誰か助けに来てくれるやろか」  久吉は疑わしげに岩松を見た。 「そんなことはわからん。只《ただ》、俺は熱田の神さまに念じているだけだでな」 「俺なあ、舵取りさん。熱田の神さまは少し遠いと思うがなあ。船の中で、あんだけ祈ったんやで。だけど、十一人ばたばた死んでしもうたんやで。あれは、あんまり遠くて、日本の神さまに祈りが聞こえんかったのとちがうか」  岩松は黙って糸をよっている。他の家の者たちが、水を汲《く》みに行く。それぞれの家の前で薪《まき》を割っている。砂浜でロープを作っている。子供たちが家々から出たり入ったりして、愛らしい声を立てている。それは、のどかとも言うべき光景ではあった。 「そやけどな、久吉」  音吉が顔を上げて、 「船ん中には神棚《かみだな》も仏壇もあったんやで。船玉《ふなだま》さまもまつってあったんやで。すぐ傍《そば》に神さまはあったんやで。だから三人は助こうたのとちがうか」 「そうかな。だけど、ここはもう他国だでな。縄張《なわば》りがちがうでな。こっちに来たらこっちの神さまに頼まんといかんのやないか」 「ここには神さまはあるんやろか」 「神さまのない国はあらせんやろ」 「だけど、神棚も仏壇もあらせんな。みそぎもせんし」 「そうやな。けど、この間ピーコーが体洗ったんは、みそぎとちがうか」 「ちょっとちがうで。わしらは毎日みそぎをしたでな。ここに来てからは水|垢離《ごり》を取る暇もあらせんけどな」  話しながらも、より糸の玉は次第に大きくなっていく。音吉は船玉《ふなだま》のことを口に出そうか出すまいかと考えた。以前から、宝順丸の船玉を取り出したいと音吉は考えていたのだ。が、その機会はなかった。岩松や久吉は、疾《と》うに船玉は脱《ぬ》けてしまったと言っている。だがそれを、音吉は何としても確かめたいのだ。 (お琴の髪が祀《まつ》られてあるのや)  帆柱の下に埋めこまれた琴の髪に、手をふれたいと思う。あの黒髪をひと目見たいと思う。それは、矢も楯《たて》もたまらぬ気持ちなのだ。 「な、久吉。ほんとに船玉さまは脱けてしまったんやろか。調べて見たいな」  そうのどまで出るのだが、なかなか口に出せない。  その時だった。大きなカヌーが右手|彼方《かなた》ボデルダ島の蔭《かげ》から姿を現した。巧みに櫂《かい》を操りながら、カヌーはぐんぐん近づいて来る。カヌーからは太鼓の音が賑《にぎ》やかに聞こえて来る。インデアンたちは口々に何か叫びながら、カヌーのほうを指さした。だが三人には、何が始まるのか、わからなかった。いつのまにか大人や子供たちが家々から走り出て渚《なぎさ》に立った。 「何や!? 戦《いくさ》か?」  久吉も立ち上がった。 「船の一|隻《せき》や二隻で、戦になるわけもないやろ」  岩松は糸をよる手をとめずに笑った。      四 「船の一隻や二隻で、戦になるわけもないやろ」  岩松が言った時、つづいてまた一隻、そしてまた一隻と、ボデルダ島の蔭からカヌーが現れた。 「あれっ!? 舵取《かじと》りさん、まだまだ来るで」  久吉は岩松の脇腹《わきばら》を突ついた。  と、その時、アー・ダンクが大声で喚《わめ》きながら、家のほうに走った。つづいて男たちがより糸や材料を抱え、三人を置き去りにして走って行く。みんなが入りこむと、すぐに家の戸は閉ざされた。 「わしらも逃げなくてもいいのか」  久吉が顔色を変えた。 「さあな」  岩松は糸をよる手をようやくとめて、砂浜にいる人々の様を一|瞥《べつ》した。家の中に入りこんだのは、酋長の家の者ばかりで、他の家の者たちは笑顔さえ見せて、近づくカヌーを眺《なが》めている。 「けんかでも戦《いくさ》でもなさそうだな」  岩松は言って、再び糸をより始めた。 「そうやろか」  久吉は疑わしげにカヌーをみつめている。カヌーは全部で五|隻《せき》であった。どのカヌーにも、七、八人の男たちが乗っている。 「そうや。もしけんかか戦なら、他の家の者たちも、家ん中に逃げこむわ。さもなくば、弓矢を持って勢揃《せいぞろ》いするわ」 「そう言えばそうやな」  音吉も言い、ようやく安心したように久吉もうなずく。  何日か前から、岩松も、音吉も久吉も、髪をインデアンたちと同じようにうしろで結わえることにした。杉の皮の着物を着、髪の形もインデアン風になったが、やはり三人の顔は日本人の顔であった。  鴎《かもめ》がやさしい声で啼《な》きながら、今入って来た五|隻《せき》のカヌーの上を舞う。その上に、ひと所雲が切れて、薄青い空がのぞいていた。カヌーは静かに近づいた。と、乗っていた男たちが立ち上がって、櫂《かい》をふりまわしながらうたい始めた。太鼓が鳴り、鳴り物が鳴る。 「何や、お祭りやな!」  久吉がにこっと笑った。 「さあてな」  岩松は太股《ふともも》の上で糸をよりながら、視線はカヌーから離さない。 (遂に来たぞ!)  岩松は、この間書いた手紙を肌身《はだみ》離さず持っていた。杉の皮に包み、より糸で幾箇所か結んである。杉の皮は表皮の下の柔らかい部分である。この柔らかい皮からは、毛布よりも柔らかい布を織ることも出来る。敷物もできれば、上着を織ることも出来る。扱い易《やす》いその皮に包んで、手紙を入れて持っていたのだ。あの日以来今日まで岩松は、他の土地からやってくる者を待っていた。その待っていた他の土地の者が、今やって来たのだ。岩松の胸は躍《おど》った。  カヌーは、磯のすぐ手前でとまった。同時に賑《にぎ》やかな歌もやんだ。一瞬、浜は静かになった。うたっていた男たちはカヌーの中に坐《すわ》り、若い逞《たくま》しい男が、一人立っていた。その若者は、大声で何か喋《しやべ》り始めた。男はこう言い始めたのである。 「親愛なる諸君、わしは隣村からやって来た。何しにやって来たか。それは酋長《しゆうちよう》の娘、可憐《かれん》なピーコーをもらいにやって来たのだ。ピーコーをもらうために、わしは毛布を何十枚でも支払う。どうかわしの願いを聞いてほしい」  朗々《ろうろう》たる声であった。これが求婚の儀式の一つであった。 「何を言ったんやろな、音!」 「さあ、わからんわ。ピーコー、ピーコーとは言ったな」 「そう言えばそうやな。ピーコーをもらいに来たんやろか。な、舵取《かじと》りさん」 「なるほど、そうかも知れん」  もし、ピーコーの求婚者たちであったなら、手紙を渡すことは、危険なことだと岩松は思った。が、見たところ、カヌーの男たちも、この土地の男たちと同じ種族に思われた。同じ種族なら、字は読めないにちがいない。読めなければむしろ安全だと岩松は考えた。  若者の挨拶《あいさつ》が終わると同時に、全員がカヌーを渚《なぎさ》に引き上げた。そしてカヌーの中から毛布を手に手に持って、列をつくった。その先頭に立ったのは、六十近い呪術師であった。呪術師は、赤、青、黄色で彩色した鮮やかな衣服で身を包み、顔を真っ赤に塗り立てて、髪には束になった鷲《わし》の羽が風になびいていた。そして片手には木製の、もう一方の手には帆立て貝でつくった鳴り物を持っていた。そのあとに太鼓がつづき、毛布を持った若者がつづいた。挨拶をした若者は列の中ほどにいた。鳴り物に合わせて、一行は歌をうたいながら浜を練り歩いた。幅四、五十|間程《けんほど》の狭い浜だ。 「やっぱりお祭りやな、舵取りさん」  久吉は糸をよることも忘れ、立ち上がって眺《なが》めている。 「お祭りなら、お神輿《みこし》がある筈《はず》や」  音吉が言う。 「そうやな。お神輿のないお祭りはあらせんな」  小野浦では祭りに神輿はつきものであった。  毛布を担《かつ》いだ男たちが右に左に蛇行《だこう》しながらうたう。 「たくさんのヘイ・タイドやな」  音吉が感歎《かんたん》の声を上げる。ヘイ・タイドとは毛布のことだ。三人がフラッタリー岬に漂着して四十日程経った。今では三人共、幾つかの名詞や、短い言葉を覚えた。中でも、音吉が一番覚えが早い。 「ほんまにたくさんやな。ヘイ・タイドの大売り出しかな」  久吉が首をひねった。日本にはなかった毛布が、三人にも与えられている。毛布と言っても、所々擦り切れて、汚点だらけになった毛布だった。与えられた時は、小便の臭いが沁《し》みこんでいた。恐らく赤子の揺籃《ゆりかご》にでも使っていたぼろ毛布なのであろう。それを洗って三人は使っている。夜は掛け布団の代わりに体にかけ、昼は着物代わりにそれをまとうこともある。インデアンたちも、毛布をまとうことが多い。とにかく毛布は貴重な品であった。たとえぼろでも三人にとって毛布は大きな財産であった。その毛布を、男たちは何枚となく担いで、行列をつくっているのだ。  浜の者や、音吉、久吉が行列にみとれている間、岩松の心は波立っていた。 (今だ! 今のうちだ!)  岩松はさりげなく、酋長《しゆうちよう》の家の閉じられた戸口を見た。あの戸口がひらかぬ前に、何とかして誰かに書状を手渡したいのだ。が、浜には人の目が多い。どうしたら気づかれずに手渡すことが出来るだろう。よい思案も浮かばぬうちに、行列は酋長の家の戸口にとまった。と、戸が中からひらかれた。その入り口に、毛布が次々と積み重ねられた。が、中から顔を出す者は一人もいない。  男たちは再びカヌーに戻《もど》った。そしてまた同じように毛布を担《かつ》ぎ、歌をうたって、今度は入り口に向かって真っすぐに歩いて行った。毛布がまた積み重ねられた。依然として、酋長の家からは、顔を出す者がない。男たちは更に一段と声を張り上げてうたい、あたりを練り歩き始めた。男たちはこううたっていたのだ。 [#ここから2字下げ] こいつはとっても いい男 鯨《くじら》を獲るのは 誰よりうまい カヌーを漕《こ》ぐのは 村一番 体が丈夫で 働き者だ 毛布をあんたに 五十枚 払えるほどの 金持ちだ こいつはとっても いい男 [#ここで字下げ終わり]  男たちはくり返しうたいながら踊る。太鼓がひびく。鳴り物が鳴る。男たちは狂ったように踊る。いつのまにか土地の者たちが、それを取り囲んでぞろぞろとついて歩く。その踊りの列が、岩松たち三人の傍《そば》に近づいて来た。と、先頭に立った呪術師が立ちどまった。ひと目で三人が他の民族であることを呪術師は見て取ったのだ。踊っていた男たちもそれに気づいた。歌が止み、踊りが止み、鳴り物が音をひそめた。男たちも三人を取り囲んだ。呪術師が何か言った。すると土地の者が何か答えた。 「チャー・バッテイ?(酋長《しゆうちよう》)」  呪術師が聞き返した。酋長の家の奴隷《どれい》だと誰かが告げたのだ。呪術師は三人の傍に屈《かが》みこんで、岩松、久吉、音吉の順に、ゆっくりと顔を眺《なが》めた。岩松はその呪術師の目を、まばたきもせずに見返した。呪術師はやさしいまなざしをしていた。 (この男なら、願いを聞いてくれるかも知れない!)  岩松の胸が高鳴った。その岩松に、 「ワー・アス・アー・テ・クレイク(どこから来たのか)」  呪術師が聞いた。音吉が、 「日本」  と、海の彼方《かなた》を指さした。どこから来たのかという言葉は、土地の者から何度も問われて、覚えていた。 「日本」  岩松も答えた。 「ニッポン?」  呪術師は腕を組んで、考えるように首をかたむけた。土地の者たちはがやがやと喋《しやべ》り出した。浜の上に打ち上げられている宝順丸を指さし、 「ニッポン、ニッポン」  と言い立てた。呪術師は三人の体の臭いを嗅《か》ぎ、手にさわり、足にさわって、 「コ・スロ(奴隷《どれい》)」  と呟《つぶや》いた。その声に嘆きがこもっているように、岩松には聞こえた。  不意に、呪術師が大声で何か言った。男たちはあわてて列をつくり、うたい踊りながら、再び練り始めた。 [#ここから2字下げ] こいつはとっても いい男 鯨《くじら》を獲るのは 誰よりうまい [#ここで字下げ終わり]  土地の者たちも手拍子《てびようし》をとって一緒にうたい出した。が、呪術師はその行列には入らず、岩松たちに盛んに何か問いかけた。が、その言葉が三人にはわからない。 (今だ! 頼むなら今だ!)  岩松は心が焦《あせ》る。しかし手紙を頼むことは命がけのことであった。踊りがつづく。歌声が高まり、太鼓や鳴り物が一層大きく響き始めた。 (今頼まなきゃあ!)  岩松は腹に巻きつけていた手紙に手をやった。そして思い切って、それを呪術師の前に置いた。呪術師は怪訝《けげん》な顔をした。岩松は頭を砂にすりつけ、手を合わせた。呪術師は不審な顔をし、杉の皮の包みをほどこうとした。 「ここでは駄目《だめ》だ!」  岩松は手を横にふり、肩を出して、鞭《むち》に打たれた跡を見せた。音吉も久吉も、手を合わせて、幾度も頭を下げた。岩松は呪術師に、懐《ふところ》に手紙を入れてくれるように手真似《てまね》で頼んだ。呪術師は大きくうなずき、三人に向かって、唇《くちびる》に指を当てて見せた。三人も唇に指を当てた。誰にも言わないでほしいという願いをこめたのだ。  呪術師が立ち上がった。音吉の鼻に汗が浮いていた。岩松も肩で息をしていた。久吉はぼんやりと、呪術師のうしろ姿を眺《なが》めていた。ほんの僅《わず》かの時間であった。が、三人は全力を出し切った思いだった。  呪術師が列の中に入って行くや否や、酋長《しゆうちよう》たちの家の前を練っていた男たちの踊りと歌がぱたりと止んだ。三人はどきりとして顔を見合わせた。が、それは三人に関わりのないことであった。先程《さきほど》カヌーの上で挨拶《あいさつ》をした若者が、演説を始めた。 「酋長、そして酋長の家族の方々、そしてかわいいピーコー。今、仲間たちがうたったのは、本当のことだ。わしは今まで鯨《くじら》を獲り損ねたことは只《ただ》の一度もない。わしの投げるモリは、必ず鯨に命中するからだ。カヌーの競争だって、人に負けたことがない。もし嘘《うそ》だと思うなら、この土地一番の漕《こ》ぎ手と競争してみてもいい、全くわしほどの男は、このあたりにはいない筈《はず》だ」  自信に満ちた語調で、若者は自分を讃《たた》える。相手を讃えるのではない。一区切りごとに仲間たちが拍手《はくしゆ》をし、合《あい》の手を入れる。若者は言葉をつづける。 「ピーコーよ、他の男に嫁《とつ》ぐより、わしの所に来たほうが幸せに決まっている。もし、毛布五十枚で不足だというなら、明日また持って来てもよい。どうかよくよく考えてくれ。わしほどの男がいるか、どうか」  演説は長々とつづいた。それが終わると、再び歌が始まり、踊りがくり返された。 「舵取《かじと》りさん、うまく行ったなあ」 「さて、それはわからん」  岩松は首を横にふった。 「わからん?」 「手紙を渡す所を誰が見ていたかわからん」 「大丈夫や、みんな行列について行ったでな。酋長《しゆうちよう》の家からは、こっちは見えん。間にちょうど行列があったでな」  久吉が答えた。 「そんなら安心だ」 「只な、舵取りさん、あの手紙をもらっても、読める者あらせんでなあ」  音吉がいう。 「読めんでもええ。あの手紙は一つの証拠や。ここに、他国の者が流れついているという証拠だでな」 「だけど……」  久吉が頭をひねって、 「字が読めんかったら、そんなことわからせんやろ」 「字など読めんでもええのだ。手渡された者が、口から口に言い伝えるでな。あの土地によそ者が流れついていた。何やらわからんが、書いた物を渡された。これはきっと助けてくれということや。肩には鞭《むち》の跡もあった。かわいそうや、気の毒や。そう言って、人の噂《うわさ》にのぼるやろ」  岩松はより糸をよる手を休めない。 「なるほど。そう言えばそうやな。字など読めんでも、誰かが口で伝えてくれるわな。だけど、それが、逆に酋長《しゆうちよう》や蝮《まむし》の耳に入ったら、これは大変やで」 「その時はその時だ」 「そうか、その時はその時か。けど、下手をしたら殺されるかも知れせんのやな」  久吉は不意にしょぼんと言った。 「いざとなりゃあ、山越えに逃げる工夫もあるわ」  岩松の言葉に、音吉は目を輝かせて、 「そうやな、舵取《かじと》りさん。ここは陸つづきだでな」  久吉はしかし首を横にふり、 「けどな、逃げて行った先に、もっと恐ろしい人間がいるかも知れせんのやで」 「それもそうやな」  音吉が言い、三人は黙った。  歌が止み、踊りが止んだ。が、酋長の家からは誰一人外には出て来なかった。毛布五十枚では、ピーコーは嫁《とつ》がせる訳にはいかないという意思表示だった。男たちは遂に諦《あきら》め、呪術師を先頭に立て、毛布をかついでカヌーに戻《もど》って行った。  三人は祈る思いで、カヌーの去って行くのを見送った。あの手紙が、果たして吉と出るのか、凶と出るのか、祈る思いで、島蔭《しまかげ》に去って行くカヌーを三人はみつめていた。  と、うしろで不意に大声がした。 「ウィー・ワイ!(怠け者が)」 「ちえっ、蝮《まむし》や」  久吉が首をすくめ、あわてて三人は糸をより始めた。が、既《すで》に遅かった。最初の一鞭《ひとむち》が久吉の背に打ちおろされ、次の鞭が岩松の肩をしたたかに打っていた。岩松はぎゅっと唇《くちびる》を噛《か》んだが、糸をよる手をとめなかった。  アー・ダンクはしかし、なぜか音吉には鞭を当てずに去って行った。 「うー、痛え。今日のは特別痛かったわ」  久吉は口を尖《とが》らせたが、岩松は何も言わない。 「ほんとに痛かったやろな」  音吉は二人にすまなそうに声をかけた。 「飯《めし》は子供の食い残し、ちょっと手を休めりゃ鞭が鳴る。全く牛馬《ぎゆうば》扱いや」  久吉が愚痴《ぐち》った。岩松は黙って、海の彼方《かなた》に目をやった。空との境もさだかでない早春の海であった。      五  岩松、久吉、音吉の三人は、炉端に並んで夕食を取っていた。今日はそれでも熱いスープが与えられた。珍しく誰の残り物でもない魚も出た。 「何だか、みんな楽しそうやな」  例によって久吉が言う。 「ほんとやな。やっぱり、舟で来たあの男たちは、ピーコーをもらいに来たのかな」  音吉が相槌を打つ。 「そうや、きっとそうや。だから今夜は気前がいいんや」  特に、ピーコーの両親である酋長夫婦は、笑顔で楽しげに何か話し合っている。  岩松が言った。 「早く硯を返さんとならんな」 「そうやな」  音吉は浮かぬ顔をして、自分の寝床のほうを見上げた。久吉が、 「大丈夫や。どうせ、字を書く者はここにはおらんやろ。それが証拠に、十日経っても硯がなくなったのに、気づかんようだでな」 「しかしな、この間よそから何人か来た時、頭《かしら》は宝順丸から持って来た物を、得意気に見せていたでな。もしピーコーが嫁にでも行くことが決まれば、必ずまた見せびらかすにちがいあらせんで」 「そうやな。どうやって返したものかな」 「こんなに一つの家に、三十人も四十人もごろごろしていられては、返す折《おり》がないでなあ」  これは毎晩くり返し三人が語り合って来たことだ。いい知恵がないままに、遂に十日は過ぎたのだ。 「しかし、とにかくあの男に手紙を頼めたんだ。いずれいい機会はくる」  岩松が二人を励ますように言った。 「だけど舵取《かじと》りさん。それがまた心配の種にもなったしな」  久吉の言葉に音吉がうなずき、 「言葉がわからんと、心配なことが多いなあ」 「それはまあそうだが、取り越し苦労はしないものよ」  岩松は言いながら、酋長《しゆうちよう》のほうに目をやった。と、何を思ったか、酋長が立ち上がって、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。岩松ははっと身を固くした。酋長は何か笑いながらピーコーに話しかけ、引き出しをひいた。酋長は「おや」と言うように首を傾け、その上の引き出しをあけた。 「音、久公」  岩松が言った時、 「イーシュ・サップ!(ないぞ)」  酋長が叫んだ。 「イーシュ・サップ!?」  酋長の隣の一画《いつかく》にいたアー・ダンクが鋭く聞き返した。  三人の顔から血が引いた。 「しまった、遅かった!」  イーシュ・サップという言葉を三人も知っていた。時々使う言葉だからだ。 「硯《すずり》のことやな!」  音吉の体がふるえた。 「そうや、まちがいない!」  岩松が声を低めて言い、 「舵取《かじと》りさん、硯を海にでも投げて来るか」  久吉が岩松の顔を見た。 「じたばたするな。見つかるまで知らん顔をせい」 「だって……」 「かまわん。みつかっても、しらを切り通すんだ。おどおどするな」  岩松は、音吉と久吉に、食器をいつものように部屋の隅《すみ》に洗いに行かせた。その間も、酋長《しゆうちよう》は長々と何か言い、アー・ダンクの怒鳴る声がした。家の中はたちまち騒然となった。 「ダー・ダッチュ・チッシュ!(探すんだ)アー・ダンク!」  アー・ダンクが何か言い、鞭《むち》を持つと、すぐ隣の住居から探し始めた。各住居の仕切りにもなっている大きな杉の箱がひらかれ、中から毛布や衣服が取り出された。壁に吊《つ》るしてある食糧籠《しよくりようかご》もおろされた。赤子の眠っている揺籃《ゆりかご》も調べられた。マットもはいで見る。そのアー・ダンクのうしろに、灯をかかげてドウ・ダーク・テールが従う。 「こりゃあ、きびしいぞ」  岩松が呟《つぶや》いた。アー・ダンクは次々と調べて行く。女も子供も、自分の居場所から動く者がいない。多分|酋長《しゆうちよう》がそう命じたのだろう。 「どうする、舵取《かじと》りさん!」  食器を洗って来た久吉の歯の根が合わない。 「心配するな。いざとなったら、俺がやったと言ってやる」 「だけど……舵取りさん」 「確かに俺がやったことにちがいないんだ」  岩松は薄笑いさえ浮かべて見せた。が、久吉も音吉も体がふるえてならない。とにかく硯《すずり》や筆は音吉の寝床の中にある。音吉は、上あごと下あごがへばりついてしまった。 (みつかったら、わしは……)  アー・ダンクのことだ。あの鞭《むち》が背の皮を破るほどに殴《なぐ》るだろう。 「元々は俺たちの物だ」  岩松はさりげなく薪《まき》を炉にくべながら言った。新しい薪は、たちまち炎を上げて、三人の顔を照らす。  アー・ダンクは次々と調べて、次第に三人のほうに近づいて来る。そして遂に三人の傍《そば》に来た。アー・ダンクは岩松の顔を見た。岩松はいつもと同じ顔で、アー・ダンクを見返した。アー・ダンクはちらりと岩松の寝床のほうを一瞥《いちべつ》した。三人には、粗末な籠《かご》が与えられているだけだ。アー・ダンクは岩松の寝床の前に立つと、こわれかけた籠をあけた。毛布のほかに何も入っていない。アー・ダンクは鼻先で笑い、何か言った。岩松の寝床になければ、久吉、音吉の寝床にあるわけはないとでも言うような表情で、アー・ダンクはちらりと二人の寝床を見上げた。そしてそのまま、隣の奴隷《どれい》たちの仕切りに近づいて行った。 「助こうた!」  思わず久吉が吐息をついた。と、アー・ダンクがくるりとうしろを向いた。そして鋭く何か言った。かと思うと、アー・ダンクは素早く踵《きびす》を返して、梯子《はしご》に手をかけた。久吉の寝床には何もなかった。アー・ダンクは遂に音吉の寝床に上がった。音吉は観念して両の拳《こぶし》を固く握り、アー・ダンクをまばたきもせず見上げた。 (ああ、もう駄目《だめ》や!)  枕もとの敷物の下に、硯《すずり》や墨は隠してあるのだ。今朝も音吉は、それに手をふれて確かめておいた。  アー・ダンクが何か言った。三人は息をつめた。が、どうしたことか、梯子を降りて来たアー・ダンクのその手には、何もなかった。三人は凝然と、そのアー・ダンクを見守っていた。      六  三人がフラッタリー岬に漂着してから、四か月が過ぎた。岩松たちは、四月も十日になったと思っていたが、それは日本の陰暦の上のことで、太陽暦では既《すで》に五月の下旬になっていた。  今日も三人は、男たちと共に、鰊《にしん》漁に出て来ていた。北アメリカの北端と、バンクーバー島の間のこの海に、初めてつれて来られた時、音吉たちは伊勢湾につれて来られたのではないかと驚いたものであった。六、七|里《り》向こうに見えるバンクーバー島は、余りにも紀伊半島に似ていたからだ。岩松でさえ、 「伊勢湾にそっくりだな」  と、声がくもったほどだった。  今、カヌーは鰊《にしん》の漁場に向かっている。おだやかな春の海だ。青い空を映した紺青の海だ。  右手の山の新緑が日に輝いている。光のかけらが無数に海に散らばって眩《まばゆ》い。そのきらめく海に、ひょいと姿を現す鳥がいる。鵜《う》に似た鳥だ。音吉は鵜のたくさんいた小野浦を思い出してたまらない気持ちになる。何の鳥か二、三羽、波の上にすれすれに飛んで行く。 「鴨《かも》や! 音」  前で櫂《かい》をこいでいた音吉がふり返って言った。 「鴨か、日本と同じ鳥がたくさんいるんやなあ」  行く手の空に白い鴎《かもめ》の群れが舞っている。四か月の間に、音吉たちはインデアンの言葉を更に覚えた。そして様々な習慣にも慣れた。おもしろいのは、木の箱に魚を海の水ごと入れ、そこに真っ赤に焼けた石を入れる料理だ。凄《すさ》まじい音を立てて湯気が噴き上がる。こうして煮えた魚は、海水の味が自ずと沁《し》みこんで、実にうまい。  五日|程《ほど》前には、女や子供たちと一緒に、裏山に行った。道べに黄色いタンポポが咲き、草むらには、ぜんまいがぞっくりと伸び立っていた。赤い実をつけた木苺《きいちご》が、藪《やぶ》の至る所にむらがっていた。木苺とは言っても、小野浦で見たのとはちがって、丈が六尺程もある。女たちが木苺を取り始めると、子供たちが手籠《てかご》をさし出す。音吉も、棘《とげ》に気をつけながら、木苺を手がだるくなるほど摘んだ。子供たちは、音吉の傍《そば》に特に寄りたがった。音吉がいつも笑顔を絶やさないからだ。 「オト、オト」  子供たちは愛らしい声で音吉を呼び、自分の手籠《てかご》に木苺《きいちご》を入れてくれとせがむ。その子供たちの頭をなでながら、音吉はふっと、小野浦を思い出す。竹や笹、そして蕗《ふき》やよもぎなどはないが、草の匂い、木の香りが同じだ。そして子供たちの顔も、日本人の子供によく似ている。そんな子供の中に、妹のさとに似た五、六歳の女の子がいた。笑うと、口もとがさととそっくりになる。その子の名はシュー・フーブ(羽根)と呼ばれていたが、音吉は「さと」「さと」と呼んだ。 「さと」  と呼ぶと、シュー・フーブはにこっと笑って傍《そば》に来る。他の子供たちも、次第に音吉の真似《まね》をして、「さと」と呼ぶようになった。シュー・フーブは今の音吉にとって、何よりの慰めであった。シュー・フーブが、その小さい手を音吉の手に絡ませてくると、 「兄さ」  と、呼ぶさとの声が甦《よみがえ》って来る。そして、海の中に足を踏み入れ、一心に手をふって別れを惜しんでくれた、さとのひたすらな姿が思い出される。 (しかし……あの時は驚いたなあ)  櫂《かい》をこぎながら、思いは不意に硯《すずり》紛失事件に飛ぶ。事件からもう三か月になる。あれから幾度、あの事件のことを三人で話し合ってきたことか。  硯も筆も墨も、確かにあの朝音吉の寝床の中にあったのだ。だが、それが夕方までの間に、消えていたのだ。音吉はまんじりともせず、その夜を過ごした。 (ここにあるのを、誰かが知っていた。そして持って行ったのだ。それは一体誰やろ)  音吉はくり返しそう思った。とにかく誰かがここに硯《すずり》のあったことを知っていた。それが音吉には無気味であった。  硯と墨と筆は、翌朝、意外な所で発見された。それは酋長《しゆうちよう》の持ち箱の中にあった。どこの家族も、その仕切りには大きな箱を置いていた。毛布や衣類や大事な物を入れておく箱だ。その箱の中から、酋長の妻が見つけ出して、大声でみんなに告げたのだ。一同は手を叩《たた》いて喜んだ。酋長の妻は、何やらくどくどと言った。それは、この前客が来た時に、この家の宝物を披露した。その時にうっかりここに入れたにちがいない。そう酋長の妻は言って詫《わ》びたのだ。が、むろんその言葉が、音吉たちにわかったわけではない。只《ただ》、知っている言葉をつなぎ合わせてみると、そう言ったように思われた。インデアンたちは、他から客が来ると、珍しい物を全部並べて見せる慣習があった。酋長の妻は、おおらかな性格だった。事を荒立てるのを好まなかったから、不審には思っても、それ以上|詮索《せんさく》はしなかった。こうして一件は落着した。  あの時久吉がささやいた。 「音、あの硯をお前の寝床から持って行ってくれたのは、蝮《まむし》のご新造や」 「蝮のご新造?」 「そうや。舵取《かじと》りさんが言うていたでないか。盗む所をご新造に見られたかも知れせんてな」 「そう言えばそうやな。そうか。それでわかった!」  音吉もうなずいた。硯の出て来た箱は、アー・ダンクと酋長の居場所を仕切っている箱であった。あの箱なら、いつでもヘイ・アイブはそっと開けて、硯を戻《もど》しておくことができる。 「音、あのご新造、やっぱり舵取《かじと》りさんにホの字やな」 「ホの字?」 「何やお前、惚《ほ》れてるってことを、ホの字ということぐらい、知らんのか」  久吉はそう言って笑った。久吉は、岩松にも同じことを幾度か言ったが、岩松は、ヘイ・アイブが硯《すずり》を戻《もど》してくれたとも言わなかったし、 「ホの字やなあ」  と言う久吉の言葉にもうなずかなかった。只《ただ》、黙って何かを考えているふうであった。あれ以来、気をつけてみると、ヘイ・アイブは揺籃《ゆりかご》の赤子をあやしながらでも、海苔《うみのり》を叩《たた》いて干菓子を作りながらでも、岩松に絶えず視線を注いでいた。特に岩松がアー・ダンクに殴《なぐ》られると、ヘイ・アイブのまなざしが暗くかげった。岩松が外で仕事をする時は、ヘイ・アイブは何か用事を作っては、岩松に近づいた。ある時は子供の手をひき、ある時はピーコーたちと共にではあったが、ヘイ・アイブは以前より一層岩松の傍《そば》にいることが多くなった。そんなヘイ・アイブを見ながら、音吉は時々、岩松の妻絹の顔を思い出した。絹とヘイ・アイブはどこか似通っているような気がした。そして、それが音吉には何か悲しく思われてならなかった。  久吉はのんきそうでいて、いろいろなことにすぐに気づいた。 「音、お前ピーコー好きか?」 「好きも嫌《きら》いもあらせん。お琴とちがうでな」  答える音吉に、 「薄情な男やな。ピーコーはきっと、お前を好いとるわ。ピーコーをもらうといいわ。頭《かしら》の婿《むこ》になれるでな」  久吉はからかうように言った。ピーコーは確かに、何を頼むにも先《ま》ず音吉を呼んだ。他の奴隷《どれい》たちや、岩松や久吉を呼ぶことはほとんどなかった。物の名や、言葉を教えてくれるのもピーコーだった。音吉は、そんなピーコーを可愛いとは思った。だが琴に対する思いとは、全くちがっていた。  そのピーコーに、求婚の若者たちが、あの後幾度か来た。毛布の数はその若者によって差があった。もらいに来る様式も、少しずつちがっていた。だが、太鼓を叩《たた》いて踊ったり、うたったりするのはどれも同じだった。 「音、またピーコーをもらいにやって来たで」  久吉がその度に音吉を突っついた。 「そうやなあ」 「そうやなあってお前、そんなのんきな顔をしていてええのか。ちょいと突つきたくなるような、あの可愛い笑くぼのピーコーが、よその男のものになるんやで」 「ええやないか。めでたいことだでな」 「これだから、音にはかなわん。俺はあのピーコーをどこにもやりたくないで」  音吉も、確かに、ピーコーが家の中から姿を消すのは淋《さび》しいと思う。ピーコーは明るくて素直な性格だ。ピーコーがいるだけで、そこに光が射しているような感じだ。だが、ピーコーを嫁にやりたくないと言えば、久吉に誤解されそうで、口には出せなかった。  そのピーコーが、遂に嫁に行くことに決まった。この鰊漁《にしんりよう》が終わると、ピーコーは嫁にいく。毛布六十枚を、ある若者がピーコーの家の前に積んだ。そしてその若者は断られても断られても、幾度もやって来た。それで酋長《しゆうちよう》もピーコーをやることに決めたのだ。六十枚の毛布は酋長がもらうのではない。婿《むこ》の友人たちと、ピーコーの客人たちとが、その分け前に預かるのだ。つまり、それほどの振る舞いをできる財産家だということを、毛布の数は示したのである。 (ピーコーも嫁に行くか)  小川の中に、真っ裸で身を洗った可憐《かれん》な姿を思いながら音吉は、カヌーの櫂《かい》をこいでいた。  その日の鰊漁《にしんりよう》も大漁だった。大きなタモで、インデアンたちは鰊を掬《すく》い取りにした。  海岸一帯、米の磨《と》ぎ汁のように白くなるほど、鰊は押し寄せていた。だが三人は知らなかった。恐るべきことが、三人を待ちうけていたことを! [#改ページ]   焼き印      一  今日も五月の空は青い。太陽が山に海に眩《まぶ》しく照り輝いている。音吉と久吉は、子供たちと一緒に、命じられた海草拾いをしていた。鰊《にしん》の匂いがまだ浜に残っている。家々の屋根の上には、身をひらいた鰊が一面に干されていた。 「オト、オト」  子供たちはまつわるようについて来る。その中にはシュー・フーブもいた。音吉が「さと」と呼ぶ五、六歳の女の子だ。子供たちはみんな裸だ。音吉も久吉も腰布一枚だ。  この二、三日海は荒れた。その大波に岩場から引きちぎられ打ち上げられた海草が、浜に散乱していた。藻のような細いものもあれば、蛇《へび》のように太い茎をもった海草もある。大きなものは、肩にかついで引きずる程《ほど》だ。大きな海草を見ると、子供たちは、 「ウワーッ!」  と叫ぶ。そして、小さな石を拾って、鯨獲《くじらと》りの遊びをする。投げる礫《つぶて》はモリのつもりなのだ。誰かがこれを始めると、女の子も男の子も、吾《われ》を忘れて熱中する。今も子供たちは、一本の太い海草に向かって、夢中になって石をなげつけていた。誰もが顔を真っ赤にして、真剣に投げつける。シュー・フーブさえも目を輝かせて石を投げている。 「音、やっぱりこの子らは、日本の子やないな」 「うん、そうやな」  音吉は海草を拾いながら答えた。小野浦にはこんな遊びはなかった。ここの子供たちは、太い海草の茎が、あたかも本物の鯨《くじら》であるかのように、幾度となく石を投げつける。そして命中する度に歓声を上げる。しかも、茎がずたずたになるまで、決してその手をとめはしない。 「何やら気味が悪いな」 「そうやなあ。けどこのあたりの者たちは、鯨を獲るのがうまければ、尊敬されるでな」 「そりゃあそうやけどな、見てると気味が悪いわ、あんなにずたずたになるまで投げせんでもいいのに、血でも噴き出してくるような、何かいやな気持ちやな」  久吉は顔をしかめて見せた。事、鯨獲りのことになると、男も女も、子供たちも熱中する。それだけが生き甲斐《がい》のような、熱気が感じられるのだ。 「船の子たちも、鯨獲りの稽古《けいこ》や」  久吉が海のほうをあごでしゃくった。海には小さなカヌーが幾隻《いくせき》か出ていた。ほんの浅い所だが、男の子たちが巧みにカヌーを操っている。手足と同じように、鮮やかに櫂《かい》を操るようになるためには、小さい時からこうした遊びが欠かせないのであろう。  二人は子供たちを置いて、海草を肩に担《かつ》いでは運んで行く。砂浜の所々に集めておくのだ。  二人はまた海草を拾う。単調な仕事だ。格別に頭を使うこともなく、打ち上げられた海草類を拾い上げるだけだ。音吉には、こんな単調な仕事が堪《た》え難い。こんな単調な仕事をしていると、思いはつい故里小野浦に馳《は》せることになるからだ。 (父っさまの足は、少しはよくなったかな) (いやいや、よくなるわけはあらせん。兄さとわしが、一度に死んだと、さぞ気落ちして……足腰も立たなくなったかも知れん)  その寝たっきりの父武右衛門の顔がまざまざと目に浮かぶ。気のやさしい武右衛門が、目尻に涙をためている様子がまたしても浮かんで来る。母親の美乃がふり上げる鍬《くわ》がきらりと光って見える。胡瓜《きゆうり》や茄子《なす》のなっている様子が目に浮かぶ。顔にかぶった手拭《てぬぐ》いで、時々首筋の汗をぬぐう美乃の姿が、今目の前に見えるように浮かんでくる。 (おさとも大きくなったやろなあ)  兄二人を失ったさとは、一人ぼっちになってしまった。だが琴が、きっと目をかけてくれているにちがいない。黒塀《くろべい》をめぐらした琴の家、そして土蔵の白い壁が思い出された。胸のきゅっと痛くなるような懐かしさだ。 (けど、お琴は嫁に行ったかも知れせん)  懐かしさが急に淋《さび》しさに変わった。良参寺のあの境内《けいだい》に、きっと自分たちの墓は建てられたことだろう。考えてみると、自分たちの一周忌も過ぎたわけだ。琴は幾度墓参りしてくれたことか。あの墓に行くには、鐘楼《しようろう》の前を通る。  いつであったか、みんなでかくれんぼをしたことがあった。あの時、鐘楼の下の物置に音吉が入ると、琴が中にひそんでいた。琴とたった二人になって、胸苦しいような思いがしたものだ。階段の途中に腰をかけて、琴は音吉をみつめていた。その短い着物の裾《すそ》から琴の足がのぞいていた。 (あの時、お琴は言った。船に乗ったらあかんと) 「何であかん」  聞き返す音吉に、琴は階段から降りて、音吉の傍《そば》に身をすり寄せるように、近々と顔を向けて言った。 「嵐はこわいでな。陸《おか》にいて欲しいわ」  琴は真剣な顔だった。  嵐はこわいと言った琴の言葉が今にして胸に迫る。音吉は、赤や青の海草を裸の肩に担《かつ》ぎながら、思いは遠くふるさとにあった。と、先に立って歩いていた久吉が、 「音、早く故里《くに》に帰りたいなあ」  と、しみじみと言った。 「うん」  音吉は不意に泣きたいような気がした。いつも自分たちは、心の中で故里のことを考えている。いつもこうなのだ。音吉が故里のことを言うと、久吉が、 「何や、おれと同じことを考えていたんやな」  と答えるのだ。そしてまた、音吉が小野浦のことを思っていると、不意に久吉が、 「ああ、父っさまは何をしてるかなあ」  とか、 「あの餠屋《もちや》の娘な」  などと言い出すことがある。岩松は滅多に故里のことを口に出さない。が、岩松もきっと同じなのだろうと音吉は思っている。今日は岩松は、アー・ダンクやドウ・ダーク・テールたちと一緒に家の修理をしていた。二、三日つづいた嵐で、壊れかかった扉を、つけ直している筈《はず》だった。それが終わったら、一緒に海草拾いをすることになっていた。  子供たちの騒ぐ声が、次第に遠ざかった。子供たちはまだ鯨獲《くじらと》り遊びに熱中している。 「一休みするか」  久吉は砂浜に腰をおろした。尻に砂が熱いほどだ。岩の多い磯浜に平行して、白い砂浜が帯のようにつづいている。打ち上げられた木の株や、皮がすっかりむけて、日に曝《さら》された丸木が浜べの所々にちらばっている。宝順丸の打ち上げられている浜も、すぐ目の先だ。 「そうやな。一休みするか」  他の女たちや、奴隷《どれい》たちは、砂浜に腰をおろして休んでいる。音吉や久吉にくらべて、ここの者たちは一心不乱に働くことは余りない。時々腰をおろし、仕事の手をとめる。日本人たちのように、絶え間なく働く気風ではないようだ。 「蝮《まむし》がやってくるかな」  久吉は家のほうをふり返りながら言った。家からは二丁|程《ほど》離れている。 「来やせんさ」  音吉は指で砂の上に、「小野浦」と書いた。 「ところでな、音、蝮の奴《やつ》、お前んこと、どうして殴《なぐ》らんのやろな」 「どうしてやろな。わからんけど、すまんことやな」  音吉は心からすまないと思う。なぜ自分だけが鞭《むち》打たれないのか。音吉も初めはわからなかった。だがそれは、子供たちのお蔭《かげ》でもあることがわかってきた。アー・ダンクが音吉を殴《なぐ》ると、子供たちが泣いたり、怒鳴ったり、騒ぎ立てるのだ。アー・ダンク自身も、音吉の素直な顔を見ると、つい矛先《ほこさき》が鈍る。が、すぐに口を尖《とが》らす久吉や、殴られても怒鳴られても、顔色一つ変えない岩松を見ると、無性《むしよう》に腹立たしくなる。それでいつしか鞭は二人だけに向けられるようになった。その上|酋長《しゆうちよう》も、音吉にはことの外《ほか》目をかけていた。酋長は音吉に、特別の食物を与えたり、杉の皮の着物や、アザラシの毛皮さえ与えた。音吉は自分が優遇されればされるほど、身を小さくして働いた。 「音はいいな。小野浦ではお琴の婿《むこ》になったし、ここに来たら来たで、俺たちとはちがう扱いを受けるでな」  羨《うらや》むというより感心する語調であった。 「すまんな、久吉」  音吉は久吉の肩に白く干からびた塩を、手の指で払いながら言った。 「すまんことあらせんで。一人でも殴られん者がいたほうがいい。三人が三人いじめられては、心もとないでな」  久吉はにやっと笑って音吉を見たが、そのまま顔を海に向けた。陽に焼けた顔だ。  二人は立ち上がると、また海草を拾いながら歩き始めた。あちこちに海草の小山が出来ている。これらの海草は、食物になったり、ロープになったり、壁の目張りに使われたりするのだ。音吉は、幅広い昆布のような海草を拾った。水を含んだ海草は、ずっしりと重かった。 「おやっ!?」  音吉は思わず目をみはった。その海草の下から、小さな鍋蓋《なべぶた》が現れたのだ。 「何や、大きな声を出して」  ふり返った久吉に、音吉の声がふるえた。 「久吉! これ、鍋蓋やないか!?」 「鍋蓋!? ああ、鍋蓋やな」  久吉がのん気に言った。音吉は鍋蓋のつまみを持って、腕を弾ませた。鍋蓋には、|※[#カネサの印]《カネサ》と焼き印が押してある。 「宝順丸から流れ出したんやないか、音」  久吉が言った。 「ちがう! 久吉、これを見い。※[#カネサの印]と焼き印が押してある。宝順丸の焼き印とはちがう。これは……」  音吉は遥《はる》か水平線の方に目をやった。 「これは? これはって何や」 「久吉! これは、日本から、流れて来たんや。それにちがいあらせん!」 「日本から? そんな馬鹿な」 「いや、日本からや。この焼き印は日本のものや。この字は日本の字や。ちがいあらせん。宝順丸には、こんな小さな鍋蓋《なべぶた》はなかったでな。これは、普通の家で使う鍋蓋や」  音吉の言葉に、久吉の目が俄《にわか》に輝いた。 「そう言えばそうや! 宝順丸のものではあらせん」  久吉は言うなり、音吉の手から鍋蓋をぐいと奪い、 「日本から来たのかあっ!」  と胸に抱いた。 「そうや、きっとそうや。宝順丸が潮に乗ってここに流れ着いたように、この蓋も流れ着いたんや」 「と言うことは、この海の潮は、日本から流れて来た潮やということやな」  久吉が声を詰まらせた。とその時、いつのまに二人の傍《そば》に来たのか、岩松がうしろで言った。 「見せて見い、その鍋蓋を」  久吉が差し出すと、岩松はじっと鍋蓋をみつめて、 「※[#カネサの印]」  と、口に出して焼き印を読んだ。かと思うと、岩松は両|膝《ひざ》を砂につけ、声もなく肩をふるわせた。日本から流れ着いた小さな鍋蓋に、三人は三様の涙をこぼした。  しばらくの間、三人は何も言わずに、涙にかすむ目で、遠い海の彼方《かなた》をみつめた。鴎《かもめ》が、その三人の上をやさしく鳴きながら飛びかっていた。  やがて久吉が、海の中に足を入れながら言った。 「これは日本から来た潮や、日本の土を洗って来た潮や!」  岩松はなおも鍋蓋を抱きしめて、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。  その時突然どこかで悲鳴が上がった。女の悲鳴だった。三人はふり返った。アー・ダンクが女の上に馬乗りになって、殴《なぐ》っている。一丁|程《ほど》向こうの砂の上だ。 「どうしたんやろ!?」  久吉が渚《なぎさ》に突っ立ったまま言った。黒い久吉の足を、打ち寄せる波が洗っている。 「蝮《まむし》のご新造や」  音吉が不安げに言った。岩松の目がちかりと光った。インデアンの男たちは時折《ときおり》、その妻を殴る。余りに殴ると、妻たちはその男を置いて出て行ってしまう。そして、他の男の所に堂々と嫁ぐ。そうした時、夫たちは、出て行った妻の嫁ぎ先にねじこむことまではしなかった。すべての人から軽蔑されるからであった。それはともかく、男が妻を殴る光景は、音吉たちもしばしば見てきた。それは日本でも見てきた光景であった。  アー・ダンクは気が短かったが、その割には、他の男ほど妻を殴ることはなかった。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブに惚《ほ》れこんでいるようであった。そのヘイ・アイブにアー・ダンクは今、馬乗りになって殴りつけている。浜にいた男や女たちが、仕事を捨てて駈《か》け寄った。子供たちも大人たちの後ろから走った。音吉は岩松の顔を見た。岩松は視線を海に投げかけたままだ。音吉は岩松に何か言おうと思った。が、黙って、ヘイ・アイブのほうに走り出した。久吉も走り出した。が、 「舵取《かじと》りさんは、どうして来ないんや?」  久吉が岩松をふり返った。音吉も足をとめて、 「わからん。けど、深い考えがあるんやろ。行って見たかて、あのご新造を救うわけにもいかんやろ」 「それもそうやな。相手が蝮《まむし》やからな。わしらが行ったかて、何の助けにもならせんけど、あのご新造かわいそうやでな。悪いこと何もせんのに」 (悪いことせんのに……)  音吉は不意に考える顔になって、 (ほんまにあのご新造は悪いことをしてはおらんのやろか)  いつか、森の中でヘイ・アイブは岩松と顔もすれすれに向かい合って立っていた。洗濯《せんたく》をしていた時、小さな籠《かご》に菓子を持って来てくれた。硯《すずり》や筆をそっと返してくれたのも、ヘイ・アイブらしい。いつも岩松をじっとみつめているのも、ヘイ・アイブだ。 (いや、それよりも……)  二日|程《ほど》前の夜のことを、音吉は思い浮かべた。嵐で入り口の戸ががたがたと鳴った。音吉は、それが耳について寝つけなかった。音吉の寝床は一番高い。そこからは家の中がよく見渡せた。何げなく下を見おろした音吉の目に、ヘイ・アイブの姿が見えた。 (廁《かわや》に行くのやろか。この嵐の中を大変やな)  と思ったが、ヘイ・アイブは岩松の傍《そば》にためらうふうもなくやって来た。岩松は、一番下の寝床だ。音吉の胸が動悸《どうき》した。思わず身を乗り出すようにして、眼下のヘイ・アイブを見た。ヘイ・アイブは垂れ幕を持ち上げて、しばらく岩松の寝顔を見ているようだった。が、つと、体を屈《かが》めると、胸から上が音吉の視界から消えた。音吉は生唾《なまつば》をのみこんだ。と、ヘイ・アイブは何事もなかったかのように、静かな足どりで自分の寝床に帰って行った。 (あのご新造……悪いことをしとるかも知れせん)  あの夜は偶然音吉が気づいたが、あるいはヘイ・アイブが、これまで幾度も岩松の傍《かたわ》らに、あのように立っていたのではないか。何のためにヘイ・アイブは身を屈めたのか。音吉はこれ以上人の輪に近づくことができないような気がした。  久吉が一人走って行くのを、音吉は見守った。と、その音吉の手を、不意に握った者がいた。ドウ・ダーク・テールだった。ドウ・ダーク・テールは酋長《しゆうちよう》の息子。アー・ダンクの甥《おい》に当たる。ピーコーの兄であった。  驚く音吉の手をぐいぐいと引いて、ドウ・ダーク・テールは岩松の傍《そば》に行った。いつもは人なつっこい笑顔を見せるドウ・ダーク・テールが、顔色を変えていた。ドウ・ダーク・テールは親指を立ててアー・ダンクと言い、小指を立ててヘイ・アイブと言い、更に岩松を差して「イワ」と言った。そしてその両手を、何かをかきまぜるように忙しく動かし、 「コック・サフ」  と言った。  音吉ははっとした。「コック・サフ」とは、「殺す」という言葉であった。      二 「コック・サフ?(殺す)」  聞き返す音吉に、 ドウ・ ダーク・ テールは蒼白《そうはく》な顔を向けてうなずいた。 が、 岩松の肩を叩《たた》き、 「イワ」  と、悲しげに言い、たちまち人々の取り囲むアー・ダンクのほうに駈《か》けて行った。 「コック・サフって、何やった?」  途中から戻《もど》って来た久吉が、コック・サフと言う言葉を聞き咎《とが》めて尋ねた。 「殺すということや」  岩松が低い声で言った。 「殺す!? 蝮《まむし》がご新造を殺すってか」  驚く久吉に、音吉が首をふった。 「ちがう! 舵取《かじと》りさんが殺されるんやで、舵取りさんが」 「舵取りさんが!? 何でや?」 「知らん。知らんけど、ドウ・ダーク・テールはそのことを知らせに来たんや」 「いつや!? いつ殺すんや? 音」 「よくはわからんけど、ピーコーがどうとやら言っていた。指を折っていたところを見ると、まだ五日はあるようだ。な、舵取りさん」 「うん。まあな」  岩松は海草を拾いはじめた。 「舵取りさん! そんなものを拾ってる時やないで」  音吉は岩松の肩をゆさぶった。  その三人とは関わりなく、人々はアー・ダンクとヘイ・アイブを囲んで騒いでいた。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブの髪を、狂ったように引きずりまわし、そして殴《なぐ》った。  騒ぎを聞き、駈けつけた酋長《しゆうちよう》が、 「やめろっ!」  と、怒鳴った。威厳に満ちた声であった。アー・ダンクは、はっと兄の酋長を見た。 「手を引けっ!」  再び酋長が叱咤《しつた》した。酋長に逆らうことは誰にもできない。アー・ダンクはしぶしぶ、ヘイ・アイブを殴る手をとめた。それを見て、嘲笑《ちようしよう》を浮かべたのは女|祈祷師《きとうし》クワー・レスだった。クワー・レスは先刻から、ヘイ・アイブが殴られるのを平然と見おろしていた。だが、その様子に気づいた者は誰もいない。ヘイ・アイブはしばらく身動きもせずに砂の上に横たわっていたが、やがて女たちに助けられて静かに立ち上がった。ヘイ・アイブは怒りに燃える目を、クワー・レスに向けた。その鼻から血が流れ、上衣の胸を汚した。頬《ほお》が大きく腫《は》れ上がっていた。  ヘイ・アイブは女たちに支えられながら、よろめくように家の中に入って行った。アー・ダンクには一瞥《いちべつ》もしなかった。  アー・ダンクは突っ立ったまま、呆然《ぼうぜん》とそのヘイ・アイブを見送っていた。が、そのうしろ姿が家の中に消えると、 「あー」  と、くず折れるように砂浜に両|膝《ひざ》をつき、大地を打ち叩《たた》いた。アー・ダンクは、妻が一顧《いつこ》だにしなかったことに、妻の怒りの激しさを知ったのだ。 (もしかしたら、あいつは出て行くかも知れない)  アー・ダンクは絶望的な思いで、大地を叩きつづけた。マカハの女たちは、夫の打擲《ちようちやく》の度が過ぎると、家を出て行く。そして子供もろとも、他の男に嫁ぐのだ。  人々はアー・ダンクが地を打ち叩く様子を見ていたが、やがて一人去り、二人去りして、酋長《しゆうちよう》だけがそこに残った。人々は海草拾いや、それぞれの仕事に帰って行った。  酋長はアー・ダンクに諄々《じゆんじゆん》と諭《さと》しはじめた。 「女を殴《なぐ》るものではない。あとが厄介《やつかい》になるからだ。ヘイ・アイブはいい女だ。お前にはもったいない女だ。一体、何であんなに殴ったんだ」 「兄貴、俺はさっき、クワー・レスから聞いたんだ。ヘイ・アイブがイワの寝床の垂れ幕をあけて入って行ったとな」 「馬鹿を言え。ヘイ・アイブはそんな女じゃない。イワもそんな男じゃない」 「しかし兄貴、ヘイ・アイブがイワを見る目つき、あれはイワと寝た目だ」 「馬鹿な! クワー・レスは性悪女《しようわるおんな》だ。あれが時々でたらめを言うのは、お前も知ってる筈《はず》だ」 「いや、クワー・レスが言う前から、俺は何となくわかってたんだ。どうもヘイ・アイブはイワに気があるとな」 「馬鹿な男だお前は。よく確かめもせずに、みんなの前で女房を殴るなんて、何ていうことをするんだ」 「しかし、俺は……」 「黙れ。クワー・レスは、もともと事を起こすのが好きな女だ。ありもしないことを言いふらす。それがあの女の癖だ。あの女に呪《のろ》われては祟《たた》りが恐ろしい。だからみんな、あの女の言うことを聞く。言うことを聞かぬ者を、あの女は決して許さない。あいつはきっと、イワにふられたのだろう。だからつまらぬことをつくり上げて、お前に言ったのだ」 「兄貴、そんなことじゃない。イワとヘイ・アイブは、確かに……道理でヘイ・アイブはこの頃《ごろ》俺を避けていた」 「もしそうだったらどうすると言うんだ」 「俺はイワを殺す。さっき、ドウ・ダーク・テールにも言ってやった。俺はイワを殺すとな」 「イワを殺す?」 「そうだ。俺は、あいつを初めて見た時から虫が好かなかった。いやな男だ」  アー・ダンクは激しく言った。 「アー・ダンク。お前が虫が好こうと好くまいと、イワはわしの奴隷《どれい》だ。わしの財産だ。わしの財産を勝手に減らすことは許さんぞ」 「ふん、わかったよ兄貴」  アー・ダンクは不意に不貞腐《ふてくさ》れたように笑って、 「兄貴は、俺よりも奴隷が大事なんだな」 「馬鹿を言え」 「いや、奴隷が大事なんだ。俺が女房を寝盗《ねと》られても、じっと我慢をしろと言う」 「イワは寝盗るようなことをしない。とにかくこの辺の奴《やつ》らは、お前がなぜヘイ・アイブを殴りつけたか、みんな詮索《せんさく》するだろうよ。お前がそんなことを言ってると、みんなは、お前を、本当に妻を寝盗られた男だといい笑い者にするだろう。いい笑い者にな」  岩松たちは、酋長《しゆうちよう》とアー・ダンクが砂浜で話しているのを、海草を拾いながら、それとなく窺《うかが》っていた。  やがて、アー・ダンクが岩松たちのほうをふり向いた。岩松たちははっとした。と、酋長が、その手をぐいぐいと引いて、家の中に入って行った。アー・ダンクは岩松たちのほうを、ふり返りふり返り、去って行った。  夕方になって、岩松たち三人は家に入った。入るや否や、三人はアー・ダンクのほうを見た。アー・ダンクはマットの上に仰向けに寝ころがっていた。赤子の泣く声、子供たちの笑い声、魚を焼く匂いや、肉汁の煮え立つ匂い、それらはいつもと同じだった。だが三人はすぐに気づいた。どの家庭も、ふだんより口数が少ないことを。女も男も、目まぜで何か言っていた。頭を横にふったり、うなずいたり、吐息を洩《も》らしていた。三人は顔を見合わせた。 「蝮《まむし》のご新造は見えせんで」  久吉がそっとささやいた。 「ほんとやな。蝮の子供たちもいないで」  岩松は、炉端《ろばた》の薪《まき》の崩れをなおしながら、あけ放してある戸口に目をやった。戸口から夕日が長く差しこんでいる。夕暮れと言っても空はまだ明るい。小野浦では知らなかった日の長さだ。その日影をじっとみつめる岩松の横顔を、音吉は不安げに見た。  ヘイ・アイブが子供三人をつれて、出て行ったことを岩松たちは知らなかった。アー・ダンクはヘイ・アイブに去られて、自失したように、先程《さきほど》から寝ていたのだ。ヘイ・アイブの家は、この集落の一番北の端にあった。      三  朝から雨が激しく降っている。凄《すさ》まじかった雷鳴がようやく遠ざかったが、かえって雨の音が激しくなったような気がする。が、家の中は活気づいていた。ピーコーの婚礼の日が、二、三日後に迫っているからだ。ヘイ・アイブは依然として戻《もど》っては来ない。一人アー・ダンクだけは奴隷《どれい》たちに鞭《むち》をふるうことも忘れたように、鬱々《うつうつ》としていた。今、ピーコーの兄ドウ・ダーク・テールは、嘴《はし》の長く突き出た鳥の面をかぶって、宴席での踊りの稽古《けいこ》をしていた。入り口の戸に描かれている雷の鳥によく似た面だ。その鳥の嘴が時折《ときおり》ひらいて、近づく子供たちの頭をぱくりと銜《くわ》える。その度に子供たちは声を上げてうしろへ引き退《さが》る。が、その口のあくのを見たさに、ドウ・ダーク・テールにつきまとう。 「獅子舞《ししまい》に似とるな」  久吉は、仕事の合間合間に、ドウ・ダーク・テールの体の動きを真似《まね》ながら、そう言った。音吉も同じことを思っていた。獅子がぱくりと口をあける。あの獅子舞の獅子に頭を噛《か》んでもらうと、その子は丈夫に育つと言われていた。ここでも同じことが言われているのだろうか。そう思いながらも、音吉の目は、踊っているドウ・ダーク・テールよりも、アー・ダンクのほうにいく。 「あの踊りは疲れるやろな」  久吉が敷物を織りながらのんきに言う。何日か前から織りかけた敷物なのだ。ピーコーの婚礼までに、何枚か仕上げねばならない。突如《とつじよ》、子供たちの大きな声がした。ドウ・ダーク・テールのかぶった面が大きく口をひらき、その中から更に、奇怪な顔が現れたからだ。面は二重になっていた。嘴《はし》は赤と青で彩られ、目のあたりを残して、あとは真っ黒だ。中から現れた人間とも動物ともつかぬ顔も、赤と黒で彩られている。 「へえー、おもろい仕掛けがしてあるわ」  久吉はそう言ったが、音吉の心は重かった。この間、ドウ・ダーク・テールの言った言葉が、胸から離れないのだ。 「コック・サフ」  あの時、ドウ・ダーク・テールは言った。ヘイ・アイブが、アー・ダンクに殴《なぐ》られた時だ。そして昨日も、岩松、音吉、久吉の三人に仕事を言いつけて家の外に誘い出し、ドウ・ダーク・テールは言った。しかし何を言ったのか三人にはよくわからない。ドウ・ダーク・テールは声をひそめ、早口で言った。その言葉の中に、アー・ダンク、ヘイ・アイブ、ピーコー等の名前が出て、またしても「コック・サフ」という言葉が三度も出た。「コック・サフ」と言う時、ドウ・ダーク・テールは、自分の首を手刀で斬《き》る真似《まね》をした。言葉の通じないことがもどかしかった。昨夜三人は、ドウ・ダーク・テールが何を言ったか、岩松の寝床で話し合った。 「殺す、殺す、としきりに言うていたで」  音吉は深い吐息を洩《も》らした。 「ほんとやろか。うそだといいがな」  久吉は情けなさそうに岩松を見た。岩松は黙って首をなでた。音吉がいった。 「ピーコー、ピーコーと言うてたな」 「そうやなあ。ピーコー、ピーコーか」 「まさか、ピーコーのめでたい席で殺すわけはないやろな」 「そんなことはあらせんわ。ピーコーが嫁に行ったあとと言うたんやないか」 「そうかも知れせんな。まさか、嫁に行く前に殺しはせんな」 「そうやな」 「どうする、舵取《かじと》りさん? そうなったら、今のうちに逃げ出さにゃあ」  岩松は黙ってまばたきをしたが、 「音、久公、逃げるんなら、客の来る日や」  と、きっぱりと言った。 「じゃ、ピーコーの嫁入りの日やな?」 「そうや、あちこちから、船に乗って来るわな。みんなピーコーの嫁入りに気を取られて、俺たちがどこにいるか、気がつかんようになるやろ」 「そうやな。船ん乗って逃げるんやな」 「そうや。海岸沿いに南に下るんや。あったかい所のほうが、しのぎやすいでな」 「なるほど、それはええ考えやな。そして、誰もいない海岸をみつけて、そこに三人で住むんやな」 「そうや」 「したら、舵取りさん、客がたてこんだ時、すぐに逃げられるようにせんならんな」  音吉が考え深げに言った。 「そうや。そっと、宝順丸のあたりに、食物だのヘイ・タイド(毛布)だのをかくしておくんや」  岩松の言葉に二人がうなずく。 「けどなあ、舵取《かじと》りさん。どこかに行く途中で、ほかの者にみつかって、つかまるかも知れせんで」 「なあに、船に乗ってりゃあ、この辺の人間だと思うわ。音だって、久だって、とても日本の者には見えせん」  岩松はかすかに笑った。 「だけど心配やなあ。な、音」 「心配しても、しようがあらせん。ここにいたら舵取りさんが殺される。三人で逃げるより、しようがあらせん。俺たち二人になって残ってみても……」  言葉を途切らせる音吉に久吉が言った。 「ほんとや。舵取りさんがおらんでは、生きていてもしようあらせんでな」 「俺ひとり逃げてもいいとは思う。だがな、残されたお前たちが、つらい目に遭《あ》っては、かなわんでな」 「何を言うんや舵取りさん。死ぬも生きるも、三人一緒や」  音吉は声を詰まらせた。  今、音吉は、昨日の相談を思い出しながら、言い様もない不安に襲われていた。逃げると決めて、かえって心が重くなったのだ。岩松の命ずるままに、さりげない素振《そぶ》りをよそおってはいるものの、内心気が気ではない。織る手もついとまり勝ちだ。  自分たち三人が、カヌーに乗って逃げて行く姿が目に浮かぶ。三人が逃げたと知っての酋長《しゆうちよう》たちの怒りが思いやられる。 (山から山に逃げたほうが安全かも知れせん) (しかし……熊がいるというでな)  熊の咆哮《ほうこう》を、音吉は一度聞いた。 (熊に食われて死ぬのもいややな) (三人で立ち向かったら、熊を退治できんかな。こりゃあ無茶やろな) (俺たちは、ピーコーが嫁に行ってから殺されると思っているが、まさか、その前ではないやろな) (いや、前ではあらせん。祝いごとに、血は不吉だでな)  思わず吐息が出る。 (ほんとに、何の因果で、わしらはこんな、せんでもええ苦労をするんかな)  そう思った時、雨の音が一層強くなった。 (けど、ドウ・ダーク・テールは親切やな。地獄で仏とはこのことや)  殺されると知らせてくれたのは、逃げよと教えてくれたことにちがいない。それなら、どこへどうして逃げて行ったらいいのか、聞かせて欲しい。 (言葉が通じんのは、何とつらいことや)  音吉は、今また首で踊りの身ぶりを真似《まね》ている久吉のほうを見た。 「何や? 音」  まじまじと自分をみつめている音吉に気づいて、久吉が言った。 「ええな、久吉は。踊りの真似ができるんやもな」 「何を言うとる。俺はな、舵取《かじと》りさんが言ったやろ。当たり前の顔をしてろとな。だから、必死になって真似てるのや」 「そうか。それは知らんかった」 「お前のように、青息吐息をついていたら、蝮《まむし》の奴《やつ》に悟られるでな」  久吉の言葉に、黙っていた岩松が、 「久公も偉いところがあるんやな」  と、微笑を見せた。  だが、三人は知らなかった。アー・ダンクが酋長《しゆうちよう》にしつこく願って、ピーコーの祝いの席で、岩松の首を刎《は》ねることになったことを。祝いは何日もつづく。その最後の日に、岩松の首は刎ねられるのだ。宴席で、マカハ族は、時に高価な品を、目茶苦茶にこわして、その上踏みつけて見せることがあった。奴隷《どれい》を殺すことも、品物を壊すことも、共に、こんな物は惜しくはないという示威《じい》であったのである。 [#改ページ]   二本マスト      一 (いよいよ明日は、ピーコーの婚礼やな)  音吉は夢うつつの中でそう思っていた。が、はっと目を覚ました。ピーコーの婚礼の日は、即《すなわ》ち三人が脱出する日だ。逃げ出さなければ、岩松が殺される。と思うが、激しい睡魔が、ずるずると音吉を眠りの中に誘う。音吉は先程《さきほど》も脅えたように、はっと目を覚ました。逃げると決めてから、眠りがひどく浅くなった。そのために、かえって朝起きるのが辛《つら》い。フラッタリー岬の六月の夜は短い。横になったかと思うと、煙出しの天窓が白んで来る。物思いにふけっていると、眠らぬうちに夜は明ける。  今、眠りに引き入れられた音吉の眼底《まなぞこ》に、明け方の明るい空が残っていた。  いつしか音吉は息を切らして砂浜を走っていた。遠くに岩松と久吉の駈《か》けて行く姿が見える。が、音吉だけは、走っても走っても足がうしろに戻《もど》っていくようだ。その音吉の背に、わあわあと大声を上げて人々が追って来る。音吉は必死になって砂浜を駈ける。ふと気がつくと、前方に見えていた岩松と久吉の姿が消えている。だが、琴の家の白壁が見える。 (何や、お琴の家はこんなに近かったんやな)  そう思った時、俄《にわか》にどこかで大声でうたう声がした。 「うるさいな。またピーコーが川に入るのか」  ひどく眠い。大声でうたう声が耳もとに近づいて来た。 「音、音ったら!」  久吉が下の寝床から伸び上がって音吉の肩をゆすった。 「何や、久吉ここにいたんか」  音吉は片目をあけた。 「何を寝呆《ねぼ》けとる」  言われて音吉の両目があいた。アー・ダンクや酋長《しゆうちよう》たちが、音吉の寝床のすぐ傍《そば》で何か言っている。界隈《かいわい》の人々も入り口に立って何か大声で言い立てている。 「何や知らんが大ごとやで」  久吉は緊張した声で言い、素早く梯子《はしご》を降りて行った。宝順丸の三の間に隠した燻製《くんせい》の鮭《さけ》や鰊《にしん》が見つかったのかと、音吉の胸がとどろいた。そして次の瞬間、 (舵取《かじと》りさんが逃げたんか!?)  と、思わず息をのんだ。が、岩松は久吉と一緒に入り口に立っていた。  二人の傍《そば》に行った音吉に、久吉が言った。 「よう眠っていたな、音」  入り口には、人々が大勢群れていた。と、その人群れがいきなり崩れ、外に走り出た。何かは知らぬが、音吉たちも走り出た。そして音吉は、 「船や!」  と叫んだ。久吉も、同じように叫んだ。人々が先を争って浜べに走る。久吉も音吉も走った。二|隻《せき》の船であった。未《いま》だ曾《かつ》て見たこともない珍しい帆船《はんせん》であった。二本の帆柱が高くそびえ、朝風を孕《はら》んだ帆を幾つも張って、青い海の上を大きな船は悠然《ゆうぜん》と進んで来る。騒ぎは、村の誰かがこれを見つけて、酋長《しゆうちよう》の家に注進に及んでの騒ぎであったのだ。 「でっかい船やなあ!」  久吉は腕を組んで突っ立っている岩松の脇腹《わきばら》を突ついた。 「どこへ行くんやろ」 「この浜を目ざしている」  身じろぎもせずに岩松は言う。 「この浜を?」 「そうや」 「舵取《かじと》りさん! あの船に乗って逃げたら、助かるやろな」 「わからん」  岩松は油断なく船を見守っている。村の者たちは、残らず渚《なぎさ》に立った。人々が騒ぎ合う中に、岩松は只《ただ》じっと立ちつくしていた。鳥の声が、山に浜に賑《にぎ》やかだ。が、鳥の声など誰の耳にも入らない。  船が確かにこの海岸を目指しているとわかった時、酋長を先頭に、男や女たちが家に駈《か》け戻《もど》った。皆、活気に満ちた表情だ。 「イワ、オト、キュウ!」 酋長《しゆうちよう》が自《みずか》ら呼んだ。呼ばれて三人は酋長の傍《そば》に行った。箱に納められているアザラシやラッコの皮を、外に運ぶように酋長は命じた。三人は他の男たちと一緒に、それらの箱を家の前に運び始めた。 「商売の船やな」  久吉が言い、 「そうやろなあ」  音吉がうなずく。 「それにしても、大きな船やなあ、宝順丸くらいはあるやろな」 「うん、そうやな。いや、もっと大きいかもしれん」  岩松が言った。 「帆柱が二本あるんやで」 「うん。あれなら日本に帰れるぞ、音」 「ほんとか、舵取《かじと》りさん!」  音吉の目が輝いた。 「うん、帰れる」  岩松が深くうなずいた。久吉が、 「だけど、わしらがあの船をぶんどって帰るわけにはいかんしな」 「そのとおりや」  荷物を運びながら、三人はひそひそと話し合った。毛皮を入れた箱は、次々と家の前に並べられる。 「一年に一度か二度、買いに来るんやろな、舵取りさん」 「そうやろな」  岩松はうなずいた。が、商船は三年に一度しか来なかった。と、岩松ははっとしたように言った。 「音! 久公! もしかしたら……」 「もしかしたらって、何や舵取りさん」 「もしかしたら、救いの船かも知れせんぞ」  岩松は船からおろされる小舟を見ながら言った。 「な、何やって!?」 「救いの船やって!?」  音吉と久吉は同時に叫んだ。 「そんな気がする。虫が知らせる」  岩松の目が光った。炎のほとばしるような目だった。 「ほんとか、舵取りさん?」  久吉は疑わしげに、頭をかしげた。 「ほんとならええなあ」  音吉も半信半疑だった。  あんな大きな船がどうしてこの三人を助けに来たのか。信じ難い気持ちだった。 「手紙が着いたんや」 「手紙が?」  久吉は言い、 「ああ、何か月も前のことやな。もう当てにせんかったわ。なあ、音」 「うん。当てにせんこともなかったが、諦《あきら》めていたでな」  日本の字も知らぬ者に、岩松の書いた手紙が役に立つとは、音吉にも思えなかった。只《ただ》の商売の船だと、音吉も見ていたのだ。      二  岩松、音吉、久吉は、人々の取り巻く中に、神妙に坐《すわ》っていた。砂浜の上であった。明るい朝の日が、金色に降り注ぐ浜べだ。音吉も久吉も目を丸くして、酋長《しゆうちよう》と話をしている男を見上げていた。立っている男の背は高く、髪の毛は金色であった。ひげも金色だ。額はひろく、血色《けつしよく》のいい頬《ほお》をしていた。何よりも驚いたのは鼻が異様に高く鉤鼻《かぎばな》に見えることと、目の青いことだ。未《いま》だ曾《かつ》て、音吉たちは目の青い人間を見たことがなかった。  酋長とその男の間に立って、通辞《つうじ》を勤めているのは、酋長と同じ部族の人間に見えた。その男も、目の青い男も、一緒に来た者たちすべての服装が、音吉たちの目にはこれまた異様に映った。 (半纏《はんてん》ともちがう)  音吉は、男たちの話し合っている様子を見ながら、その服装に目をやった。 (日本の半纏より細い袖《そで》や。襟《えり》が折れ返っているわ)  音吉はそう思い、 (いやにだぶだぶの股引《ももひ》きやな)  と、そのズボンを見て思った。インデアンの男たちが着る物には袖がない。それだけに、全く他国の人間だということがよくわかった。  三人にはわからなかったが、酋長と話している男はイギリスの商社ハドソン湾会社の商船ラーマ号のマクネイル船長であった。マクネイル船長はアメリカ人であった。ハドソン湾会社は、英領カナダの統治権を握る商社で、カナダの毛皮貿易の独占権を持っていた。マクネイル船長と酋長は突っ立ったまま熱心に話し合っている。 「……このフラッタリー岬に、東洋の船が漂着したということは、ほかのインデアンから聞いて知っていた」 「そんなことは、あんたがたに関係のないことだろう。わしの島に漂着したのだから、この三人はわしの物だ」  酋長はむっとしたように言う。 「なるほど、それがここの考え方か。しかし、わたしたちはちがう。遠い東洋からはるばると流れ着いた苦難を思えば、何とか助けて、そのふるさとに帰してやりたいと思うのだ」 「ふるさとに帰す?」 「そうだ。わたしたちの会社の船は、世界中をめぐっている。わたしたちはこれからフォート・バンクーバーに帰る。それからしばらくして、本国のイギリスに向かう。イギリスのロンドンからマカオに便船がある。マカオはチャイナの一部だ。そうすればこの三人は、ふるさとのチャイナにすぐ帰れる」 「チャイナ? ちがう。こいつらはチャイナではない」 「チャイナではない? そんな筈《はず》はない」  マクネイルは首を横にふった。音吉たちは自分を取り囲んで立っている人々を見上げた。 「いや、こいつらが言った。日本から来たとな」 「ニッポン? おお! ジャパン」  マクネイル船長は大きく両手をひらいて、驚きの表情を見せた。そして、伴《とも》の者たちと何か言い始めた。  ひとしきり話し合った後、船長たちは、 「おお、ジャパニーズ」  と、改めて岩松、久吉、音吉の三人を見た。が、やがて、再び酋長《しゆうちよう》との話し合いを始めた。 「チャイニーズであれ、ジャパニーズであれ、とにかく大変な苦労をして漂流したにちがいない。これ以上ここで奴隷《どれい》生活をさせることは、あまりにむごいことだ」 「むごい? そんなことはない。第一、こいつらは喜んでおとなしく働いている。第一、この三人は、わしらの大事な財産だ。安々と手放すわけにはいかない」  ふだんの酋長に似合わず、居丈高《いたけだか》であった。 「それはわかっている。只《ただ》でつれて行こうとは、むろん考えていない」  船長マクネイルは、青い目を音吉の目に注ぎ、更に久吉、岩松に目を注《と》めて、 「酋長、あんたは今、この日本人たちが喜んで働いていると言った。だがわたしには信じられない」  と、きびしい語調になった。通辞がその言葉を酋長に伝えると、 「なぜだ。こいつらは働き者で、いつも喜んで働いてくれている」 「うそだ」 「うそ? その証拠があるか」 「ある。ここにな」  マクネイル船長は、毛深い手で自分の胸を叩《たた》き、内ポケットからおもむろに一通の手紙を取り出した。音吉ははっと岩松を見た。岩松も驚きの目をその手紙に向けた。マクネイル船長は手紙をひらいて、岩松の前に見せた。そして、手紙を指さし、岩松を指さし、手で書く真似《まね》をした。 「これは君が書いたのだな」  聞いたことのない言葉だが、岩松はうなずいた。通辞がインデアン語で言うと、酋長やアー・ダンクたちが驚きの声を上げた。岩松は悪びれずに、自分の胸を指さし、 「わしが書いた」  と答えると、船長はうなずいて言った。 「酋長、この手紙は、実は五月の二十四日に、ハドソン湾会社のマクラフリン博士の手に渡ったものだ」 「五月二十四日?」 「そうだ。それより前に、実は去年の暮れのうちに、ここにチャイナの船が難破していることを聞いた。それで直ちにマクラフリン博士が救援隊を繰り出した」  通辞がやや甲高《かんだか》い声で取りつぐ。その終わるのを待って船長は言葉をつづけた。 「マクラフリン博士は、この太平洋岸の総責任者なのだ。博士の命令で、人々はやって来たが、冬のことだ。波風が激しくてここまで来る前に断念した。自分たちの命のほうが危険になったからだ」  音吉は初めて聞く言葉にじっと耳を傾けていた。マカハの者たちの言葉とはちがうことが、音吉にもわかった。様々な人間がこの世にいることを、改めて音吉は知った。 (それにしても、やっぱり舵取《かじと》りさんは偉い)  今見た岩松の手紙に、音吉は興奮していた。船長が更に言葉をつづけた。 「わたしたちはこの手紙を見て、一度断念した救援隊を再び出すことにした。それが即《すなわ》ちわたしたちだ。漢字の手紙に何が書いてあるかわからない。だがマクラフリン博士は、これは助けを求める手紙だと、直ちに判断した。そしてこの気の毒な東洋人たちを、全力を尽くして救い出すようにわたしたちに命じた。毛布が必要なら、毛布と取り替えよう。鍋やヤカンが必要なら、それらと取り替えよう。小麦粉や砂糖もどっさりある。バターもある。女の服もある」  船長は熱心に説いた。酋長《しゆうちよう》は両腕を組んで、通辞の言葉に耳を傾けていたが、 「話はわかった。しかしこいつらは信じられないくらいよく働く。少しの物では交換はできない」 「よろしい。とにかく、わたしたちは全力を尽くせと博士に命じられて来た。決して損をかけないように取引をしよう。何とか承知してくれまいか」  酋長がうなずき、 「イワ」  と、岩松を呼んだ。岩松は顔を上げた。酋長としては岩松の処置に苦慮していた。岩松は仕事のできる男だ。宝順丸の中にあった鋸《のこぎり》、斧《おの》、金槌《かなづち》などを使って、手早く箱を作ったり、台を作ったり、木を伐ったりして酋長たちを驚かせた。何をするにも器用な男なのだ。マカハたちがして来たロープ作りや、漁の仕方もまたたくうちに呑《の》みこみ、船の扱いも巧みだった。内心は頼母《たのも》しい男だと思っていた。が、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブが、岩松にひと方ならぬ情を見せるようになった。その挙げ句が先頃《さきごろ》の騒ぎとなった。アー・ダンクはピーコーの婚礼の最後の日、岩松の首を刎《は》ねると言って譲らなかった。 (只《ただ》首を刎ねられるより、毛布何枚かと取り替えたほうが、どれほど得になることか)  酋長は内心そう思った。アー・ダンクは絶対の権力者である酋長に対してさえ、岩松の件では譲らなかった。今、自分とアー・ダンクとの間にひびが入ると、何かにつけてやりにくくなる。と言って岩松を殺すのは惜しい。酋長としても、マクネイル船長たちの出現は、文字どおり救いの船であった。 「このイワなら、毛布と取り替えてもよい」  酋長はじろりと、傍《かたわ》らのアー・ダンクを見た。アー・ダンクが不満げに何か言いかけた。 「アー・ダンク! お前は黙ってろ。イワを売る代わり毛布は山わけにしてやる」  アー・ダンクはちょっと考える顔をしたが、にやりと笑ってうなずいた。岩松を殺したところで何の得にもならない。が、新しい毛布がもらえるなら思わぬもうけものだ。船長が言った。 「一人だけか。一人だけでは私たちは困るのだ。三人つれて帰れと、博士は命じたのだ」 「では、二人にしよう。だが、このオトだけは絶対に手放さない。こいつはわしの宝の中の宝だ。これだけは、毛布を何十枚積まれても渡しはせぬ」 「いや、わたしたちは三人をつれて帰らねばならないのだ」  船長は哀願するように言った。 「三人全部と言うのであれば、イワもキュウも渡さぬ。一人も渡さぬ」  さすがに一族の長、酋長は頑強《がんきよう》であった。      三  快晴の日が幾日もつづいている。マクネイル船長が、ラーマ号をフラッタリー岬の海に停泊させて、今日で四日目だ。ピーコーの婚礼があったため、船長と酋長《しゆうちよう》の取引は一時休止になったのだ。岩松だけが、先ずラーマ号につれ去られていた。酋長が万一の場合を思って、アー・ダンクの手の届かぬ所に、岩松を送ってしまったのだ。岩松と引き替えに、酋長は毛布二十枚、鍋五個、ヤカン五個、小麦粉五袋、砂糖五袋を手に入れた。それらが早速ピーコーの婚礼に披露され、使われたのはむろんである。  祝宴には、三日間というもの、方々から客が集まって来た。魚や肉や野菜などが、大きな器に盛り上げられた。その大きな器には四輪の小さな車がついてい、それが三台四台とつらなって客の前に運ばれた。これらの料理は、この村落の女たちが、酋長の両隣の家に集まって作ったものだ。  土間にひしめく客たちの前で、ドウ・ダーク・テールが鳥の面をつけて巧みに踊った。髪に花を飾ったピーコーの花嫁姿も愛らしかった。宴は夕方から始まり、空の白むまでつづいた。いつもより灯りの多い家の中を、音吉も久吉も、明け方まで忙しく立ち働いた。その三晩の賑わいの間にも、二人は気もそぞろであった。 (舵取《かじと》りさんだけ乗せて、あの船が出てしまうんやないか)  音吉はそう思う。折を見ては、戸口から海に目をやって、二|隻《せき》の船を確かめた。その度にほっと安心するのだが、すぐにまた不安になる。 (久吉と二人だけ残されてしもうたら……)  そうは思いながらも、岩松の命が助かったことを音吉は喜んでもいた。  三晩の祝宴が終わって、ピーコーは遂に、今朝|花婿《はなむこ》と共にカヌーに乗って、この浜を去った。ピーコーは隣村に嫁いで行ったのだ。肩幅の広い逞《たくま》しい花婿だった。ピーコーは泣きじゃくりながら、いつまでもカヌーの上で手をふっていた。子供も大人もみんな総出でピーコーを見送った。ピーコーは家を出る時、音吉を見て何か言った。 「オト」  吐息のような低い声で音吉を呼び、一瞬じっと音吉を見た。そのピーコーを思いながら、音吉も手をふった。 (お琴も嫁に行ったやろか)  去って行くピーコーを見つめながら、音吉は琴の顔を思い浮かべた。 (あの二本の帆柱のある船なら、日本に帰れると、舵取りさんは言った)  その言葉を思うと、音吉は何としてでも日本に帰りたかった。  ピーコーのカヌーが見えなくなるのを待って、ラーマ号の船長は再び酋長《しゆうちよう》の家を訪れた。従者たちが、音吉と久吉を買い取るための毛布や小麦粉などをボートに乗せて運んで来た。音吉と久吉は心が躍《おど》った。あの品物と引き替えに、自分たちもあの船に乗れる。二人はそう思ったのだ。  再び砂浜で交渉が始められた。マクネイル船長の持って来た品々に、酋長は満足げにうなずいたが、やがて言った。 「では、キュウを渡すことにしよう」 「一人だけか」 「一人だけだ。オトはやはり駄目《だめ》だ」  酋長は首をふった。船長はじっと酋長の顔を見つめていたが、視線を空に向けた。青い透きとおるような六月の空だ。燕《つばめ》が数羽頭上を飛び交っている。船長は更にその視線を遠い沖に向けて静かに言った。 「なぜ、オトだけは渡さぬというのだ。なぜ日本の国に帰してやろうと言わないのだ」  音吉と久吉は、家の中で祝宴の後始末に大童《おおわらわ》だった。こんな話し合いになっているとは、二人は思ってもみなかった。酋長が言った。 「船長、あれだけの若者は、今後絶対に、わしの手には入らん。娘の婿《むこ》にしてもいいと思っているほどだ。わしは、あいつを殴《なぐ》ることを禁じてさえいる」  先程《さきほど》ピーコーを嫁にやったばかりの酋長は、一層音吉に執着《しゆうちやく》しているようであった。 「酋長、あなたがあのオトという若者を、大事に思っていることはよくわかった」 「では、諦《あきら》めてくれるのだな」 「いや、諦めるのではない。酋長でさえそれほどあの若者を愛しているのなら、あのオトの父や母、そして兄弟たちは、どんなにあの若者を愛していることか。酋長《しゆうちよう》も人の親なら、あのオトの親の気持ちもわかるだろう」 「いや、それとこれとはちがう。オトはわしの貴重な財産だ。いや、宝だ。誰にも渡すわけにはいかん」  酋長はあくまで言い張った。が、船長は喰《く》い下がった。 「酋長、あのオトのために、わたしたちはどんな代価を払ってもいい。この間も言ったように、三人の救出に、全力を尽くせとマクラフリン博士から厳命を受けている」 「何としても、オトだけは手放せぬ。オトは物には代えられんのだ」  断乎《だんこ》として酋長は拒んだ。船長はがっかりしたように酋長の顔を見つめたが、傍《かたわ》らの通訳にうなずいて、持って来た毛布や砂糖など、久吉の分だけ酋長に渡すように命じた。酋長は目の前に置かれた品々を一つ一つ点検していたが、家のほうをふり返って、 「キュウ」  と、呼んだ。傍《そば》にいたアー・ダンクが、大声で久吉を呼びながら家の中に入って行った。  やがて久吉が、アー・ダンクに背を押されながら船長たちの前に出て来た。 「キュウだ。さあつれてってくれ」  酋長が言った。船長は久吉の肩に手をおき、 「キュウ、わたしと一緒に行こう」  と、やさしく言った。久吉は訝《いぶか》しげに船長を見、酋長《しゆうちよう》を見た。船長は久吉の肩を抱いて、 「酋長、ではまたいつか会おう」  と、歩きかけた。が、ふりかえって、 「酋長、もう一度言う。オトのためには、この品々の三倍を払ってもいい」  と、諦《あきら》め切れぬように言った。 「ならんと言ったらならん。オトは物には代えられん」  取りつく島もない酋長の答えだった。 「わかった、酋長」  マクネイル船長は悲しげに呟《つぶや》き、再び久吉の肩を抱くようにして歩きはじめた。と、久吉が大声で叫んだ。 「音は! 音は行かんのか!?」  久吉は身をよじるようにして、うしろをふり返った。その途端、 「久吉ーっ!」  戸口から音吉が走り出た。が、たちまちアー・ダンクの逞《たくま》しい腕に捕らえられた。 「音ーっ!」  久吉が絶叫した。 「久吉ーっ!」  音吉も必死に叫ぶ。 「音ーっ!」  久吉は砂浜に坐《すわ》りこんだ。マクネイル船長は、その久吉の手を取って立ち上がらせようとした。久吉は地にしがみつくようにして、 「音ーっ!」  と、またも叫ぶ。マクネイル船長がその大きな手で眼尻を拭いた。  叫びを聞きつけた人々がどの家からも駈《か》け出して来た。音吉が叫ぶ。久吉が叫ぶ。騒ぎが次第に大きくなった。と、その時だった。鋭く叫ぶ女の声がした。思わず人々はそのほうを見た。それは、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。  ヘイ・アイブは、アー・ダンクのもとを出てから、人々の前に姿を見せなかった。ピーコーが発つ時でさえ、ヘイ・アイブは自分の家の戸口に立って、ひそかに見送っただけである。そのヘイ・アイブが大声で叫んだのだ。 「オトを帰して上げて!」 酋長《しゆうちよう》は驚いて、目の前に立ったヘイ・アイブを見た。 「酋長! わたしは、もう一度アー・ダンクのもとに帰ります。もしこのオトを、一緒に帰して上げるなら」 「何!? 帰ると?」  酋長の口がわなないた。今日まで、酋長が幾度説得に赴《おもむ》いても、ヘイ・アイブはアー・ダンクのもとに帰るとは言わなかった。それが今、突如《とつじよ》大勢の前で、ヘイ・アイブは帰ると明言したのである。 「おおっ!」  アー・ダンクが喜びの声を上げた。が、ヘイ・アイブの顔には、いつもの微笑はない。ヘイ・アイブはきびしいまなざしで、酋長《しゆうちよう》の答えを待っていた。マクネイル船長が、人垣を分けて酋長の前に立った。 「毛布二十枚。それに、銃を三|挺《ちよう》。それで手を打たぬか」  酋長は音吉を見、ヘイ・アイブを見、そしてアー・ダンクを見た。酋長が腕を組んだ。みんながその酋長を見守った。やがて、酋長は口をひらいた。 「よかろう」  重々しい声であった。人々がどよめき、マクネイル船長は素早く音吉と久吉をその大きな胸の中に抱えて言った。 「オト、よかったな」  久吉と音吉が、声を上げて泣いた。ヘイ・アイブもまた、海に浮かぶラーマ号に目をやりながらその頬《ほお》に涙を光らせていた。      四  西暦一八三四年、即《すなわ》ち天保《てんぽう》五年——。  前年に引きつづいて、日本では国中に飢饉《ききん》がひろがっていた。特に大坂市中では米価|高騰《こうとう》に抗して暴動が起きた。  更《さら》に江戸では大火があり、飢饉の上に不幸が重なっていた。  一方フランスのリヨンとパリに、共和主義者の反乱が起きた。また英国は、清国《しんこく》への阿片《あへん》の輸出を阻《はば》まれ、それが戦争への危機を孕《はら》みつつあった。  歴史に残るこれらの事件が、自分たち三人に関わりを持っているとも知らず、いやその歴史も知らず、今、岩松たち三人は、アメリカ西部のコロンビア河口を遡《さかのぼ》る船上にあった。 「夢みたいやなあ」  音吉は広い河口を眺《なが》めながら言った。  マカハ族から三人を救出した船は、カナダのフォート・ラングリーに寄港し、再びフラッタリー岬の沖を通って、今ワシントン州のフォート・バンクーバーに向かっていた。 「全くだ」  岩松が河岸につらなる鬱蒼《うつそう》たる森林に目をやった。その森林の向こうに、たたなわる山々が見えた。二、三日降っていた小雨が晴れて、雲一つない青空だ。 「とにかく、この船には蝮《まむし》のような奴《やつ》がおらんで、安心やな」  久吉はのびのびとした語調で言った。 「ほんとやなあ。わしも初めは心配したで。また殴《なぐ》られはせんかと思ってな」 「殴るどころやないわ。みんなチヤホヤしてくれるわ。きっと日本に帰してくれるんや。な、舵取《かじと》りさん」 「そうやな、久。とにかく日本に帰れるんや。もうひと息やで」  と、岩松の顔も明るい。この百四十五トンの沿岸船ラーマ号は、さして大きくはなかったが、マクネイル船長はじめ船員たちは善意にあふれていた。彼らも船乗りである。はるばると日本から漂流して来た三人に一同は感動していた。アメリカから日本に向かってこの大海を横断するのは、完全な船でさえ容易なことではない。その大洋を、壊れた千石船《せんごくぶね》で漂着したのである。それは正《まさ》に尊敬に価《あたい》することであった。漂流生活に耐え切ったということ、それはなまなかの精神ではなし得ないことを、マクネイル船長はじめ一同はよく心得ていた。だからこそ、誰もが三人を客人《きやくじん》として丁重《ていちよう》に扱っていた。鞭《むち》がふるわれるわけはなかった。 「とにかく音が一緒でよかったなあ」  幾度も幾度もくり返した久吉の言葉だった。 「うん、この船の船頭さんと、蝮《まむし》のご新造のお蔭《かげ》やな」 「そうやな。蝮のご新造があの時何か言うたで、急に雲行きが変わったんやからな」 「蝮のご新造が何やら言うたら、蝮が喜んだなあ。やっぱりあれは、自分が家に戻《もど》るで、代わりにわしを帰せと言うてくれたんやろな」 「きっとそうや。お蔭で、こうして三人一緒にいれるんや」  船縁にもたれて語り合う二人の言葉を、岩松は黙って聞いていた。 「あのご新造、船のほうを見つめて泣いてたな」 「そうやなあ、つらそうやった」  久吉はちらりと岩松を見たが、 「けど、みんなで浜で見送ってくれて、よかったなあ、音」 「うん。もう会うこともないやろな」 「もう会いたくはないわ」  久吉はそう言ったが、音吉は子供たちの顔を思い浮かべて、いつの日か会いに行ってみたいような気がした。特に、さとによく似たシュー・フーブと、はじめから親切だったドウ・ダーク・テールには、ぜひまた会ってみたい気がした。ドウ・ダーク・テールは、二人がボートに乗る前に、二人を小道に誘った。何処《どこ》へ行くのかと訝《いぶか》しく思って従《つ》いて行くと、それは思いがけなく、重右衛門はじめ兄の吉治郎や水主頭《かこがしら》の仁右衛門たちの眠っている墓前であった。言葉は通じなくても、自分たちの気持ちをよくわかってくれるドウ・ダーク・テールだった。いつもここで、二人が手を合わせているのをドウ・ダーク・テールは見ていたのだ。二人は心の中に、一人一人に別れを告げた。 (兄さ、わしらはこれから、帰って行くでな。淋《さび》しいだろうが、堪忍《かんにん》してな。こらえてな)  胸の引きちぎられる思いで、音吉はそう心の中で言って別れて来た。  ボートに乗ろうとする二人に、干した魚やせんべいをくれる者もいた。頭の髪を結ぶ紐《ひも》をくれる者もいた。さとに似た幼いシュー・フーブは、 「オト、オト」  と、手を握って離さなかった。 「ひろい河やなあ」  感に堪《た》えぬように、久吉が言った。コロンビア河の河口は、確かに見たこともないほどに広かった。その河口も徐々に狭まり、船は遡《さかのぼ》って行く。ラーマ号の倍もあるような、三本マストの帆船《はんせん》がすれちがって行った。 「大きい船やなあ」  三人は声を上げた。が、久吉が言った。 「わしらのこの船はどこへ行くんやろ」 「わからんが、何《いず》れ日本には行くのや」 「言葉がわからんと、どこへ行くのかもわからん。折角《せつかく》少し言葉がわかりかけたのに、また全然わからんようになったわ」 「久、音、言葉はわからんでも帆の扱い方や、舵《かじ》の扱い方は、見てりゃあわかるでな。しっかりと覚えるのだぞ」  岩松の言葉に、音吉はなるほどと思った。飯《めし》の食べ方も、船の掃除の仕方もちがっていた。が、覚えようと思えば、見様見真似《みようみまね》で覚えられることが多かった。 「よく見るがいいで。この船はよく出来ている。踏立板《ふたていた》を並べているわけではないから、波が打ちこんでも、船底にはほとんど水が入らん。水船になる心配は先《ま》ずないでな」  一番最初に岩松はそう言って、二人の注意を促したものだった。岩松に言われて、二人はこの船には取り外《はず》しのきく踏立板がなく、床板がきっちりと敷きつめられて、水の洩《も》らぬ甲板になっていることを初めて知った。 「山の奥に行くんやろか」  両岸、見渡す限り、樹林また樹林である。音吉がそう言った時、パイプを銜《くわ》えたマクネイル船長が近づいて来た。 「どうだね、気分は」  船長は言ったが、三人にはわからない。 (ハウ? 這《は》うって何やろ)  音吉はこの船に乗ってから、ハウと言う言葉を何度も聞いたような気がする。ユーと言う言葉もアイと言う言葉も幾度も聞いた。がこの幾日かの間に覚えたのは、ブレッド(パン)、バター、ウォーター、カップぐらいであった。  と、突如《とつじよ》、 「あっ! 富士山だ!」  と、久吉が大声で叫び、前方を指さした。 「何? 富士山?」  岩松が久吉の指さす彼方を見た。 「おおっ! ほんとだ! 富士だ!」  岩松も叫んだ。左手遠くにつらなる山並みの上に、正《まさ》しく富士と見紛《みまが》う山が、白い山容を見せていた。 [#改ページ]   フォート・バンクーバー      一 「久吉、音吉、よう富士に似てるが、あれは富士やないで」  岩松は苦笑した。 「うん、そりゃあそうやな。こんな広い河は富士山のそばにはあらせん。それにしてもよう似とるなあ。ほんとに富士山かと思うたわ」 「ほんとやなあ」  音吉もうなずいた。三人が一瞬心を躍《おど》らせた山は、標高四千三百九十二メートルのマウント・レイニアであった。後に日本人移民によって、タコマ富士と呼ばれるにいたったほどの、富士山によく似た山である。  異国の山とわかっても、その山から三人は目を外《そ》らすことはできなかった。河の蛇行《だこう》につれて、この富士に似たマウント・レイニアは、時にその姿を隠したが、目に焼きつけられた山の姿は、三人の胸に強い郷愁を呼び起こした。 「見れば見るほど富士にそっくりや」  ものも言わずに船縁にもたれていた久吉が、しばらくしてぽつりと言った。 「ほんとやな」  岩松も低い声で呟《つぶや》く。三人は、千石船《せんごくぶね》の上から幾度か富士を見ている。その富士に似たマウント・レイニアを見つめながら、いつしか三人は三様に日本に思いをはせていた。岩松は薄暗いわが家の茶の間に、侘《わび》しい夕食を囲む養父母と、妻の絹、そして岩太郎の姿を想った。岩太郎がその小さな手で自分の茶碗《ちやわん》を持ち、箸《はし》を使って食べている姿まで目に浮かぶ。ちゃぶ台に並んだ剥《は》げた椀《わん》や、欠けた皿までがありありと目に浮かぶのだが、今岩松の胸に浮かぶその四人は、誰一人声を発していない。影絵のようにひっそりとしている。そしてなぜか、外にはこまかい雨がしとしとと降っているような気がするのだ。その雨は、岩松の胸にこぼれる涙であったかも知れない。  久吉は、家のすぐ傍《そば》の八幡社の境内《けいだい》に遊ぶ子供たちの声を想っていた。その中に、自分の声、妹の声があるのだ。 「久吉ーっ! ご飯だよーっ」  境内に向かって叫ぶ母の声もする。その母の傍に立つ赤銅色の半裸の父の姿も見える。  音吉は音吉で、樋口源六の家の門の前を掃《は》いていた。海からの風が、土蔵と土蔵の間を吹きぬけていく。子守唄をうたいながら、背の子をゆするさとの姿が見える。わが家の前に立って、音吉のほうを見ている母の姿が見える。その家の中に寝ている父の姿が見える。下駄《げた》の音を立てて、自分に近づいて来る琴の淋《さび》しい笑顔が見える。  三人三様に、胸の痛む思いであった。  三人は、自分たちの乗っている千石船|程《ほど》のこの船が、誰の持ち船か知らない。日本の宝順丸と同じように、誰か船主が、これから行く所に待っているのだろうと、漠然《ばくぜん》と思っていた。その船主は、樋口源六のように、ものわかりのいい老人で、何となく和服姿の男のような気がする。船に乗っている男たちのような、奇妙な服装をしているとは思えないのだ。三人は知らなかった。ラーマ号はハドソン湾会社の持ち船であることを。  カナダの東部にハドソン湾という巨大な湾がある。この湾に注ぐ四十有余の河川の流域一帯の土地を所有し、かつこの辺《あた》りの行政権を握っているのがハドソン湾会社であった。毛皮、皮革をこの会社は本国のイギリスに送っていた。つまり、カナダの貿易をこの会社は独占していたのである。一六七〇年、チャールズ二世から、ルパート親王と十七人の貴族に、特別の許可状が与えられて設立された王立特権企業であった。その後、フランス人の進出と共に、時折《ときおり》紛争はあったが、その時なお、貿易独占権を握っていた。しかも、合衆国の北部、そしてロッキー山脈の東、サスカチェワンの南部、ウィニペグ・ウッズ湖以西一帯の土地の用役権《ようえきけん》を優先的に所有する大会社であった。それは会社というより、一国家の如き権力を持つ存在であった。このハドソン湾会社の本拠地のひとつがフォート・バンクーバーである。  フォート・バンクーバーは、ウイラメット河が、コロンビア河に注ぐ地点にあった。この太平洋岸総責任者がマクラフリン博士であった。「オレゴンの父」と慕われた博士は、医学博士で、スコットランド、アイルランド、フランスの血を引いていた。博士は九年前、このフォート・バンクーバーに赴任して来たのである。この博士の、ロンドンの本社に宛《あ》てた書簡には、次のように書かれてあった。一八三四年五月二十八日発信となっている。 〈昨冬、つまり一八三三年末、現地のインデアンの報ずるところによれば、フラッタリー岬のあたりで、見馴《みな》れぬ船が遭難したということである。私は直ちに船を仕立てて救助隊を派遣した。が、この一帯は波が荒く、現地に着くには至らなかった。フラッタリー岬はコロンビア河口から二百キロ以上も北方の地点にある。  ところが、五月二十四日、私は思いもかけずインデアンを通して、漢文の書簡を受けとった。私は直ちに、会社のすべての船長に宛《あ》て、この遭難した気の毒な東洋人を、インデアンから助け出すよう文書で指令した。遭難した船員のうち、生き残ったのは三人であるという。他の者は溺死《できし》、あるいは病死したと、現地人の話で知った。現地人、即《すなわ》ちインデアンの言葉によれば、この遭難船にはチャイナ・ウエア即ち陶器が積まれていたと聞く。従って遭難船は中国船かも知れない〉  それから六か月後の、十一月十八日付の報告書には更《さら》に次のように書かれてある。 〈この日本人たちは、手紙を現地人に託した。そしてその手紙が、部族から部族へと渡され、遂に五月の二十四日、フォート・バンクーバーのわが社に届けられたのである。吾々《われわれ》は、三人を惜しむインデアンの手から、多額の犠牲を払って買い取り、遂に救出に成功した。この衝《しよう》に当たったのはラーマ号のマクネイル船長で、彼はアメリカ人である〉  と、記されてある。  自分たちの助け手が、そのような大きな力を持つ会社とはつゆ知らず、三人は今まさに接岸しつつある船上にいた。船着き場近くには、ラーマ号に似た船が二|隻《せき》停泊していた。 「おお! 子供がいるで」  子供好きの音吉は、いち早く目を注《と》めて言った。 「うん。いるいる。大人も子供もたくさんいるで」  久吉は身を乗り出すようにして、手をふる岸の人々を見た。 「百人はいるな、舵取《かじと》りさん」  音吉は岩松を見上げた。 「うん。仰山《ぎようさん》な出迎えやな」  岩松は不審げに言ってうなずいた。マクネイル船長が、何か言いながら三人の傍《そば》に来た。そして岸に向かって、その毛むくじゃらの手を大きくふった。久吉が、船長を真似《まね》て手をふり、音吉も小さく手をふった。岩松だけが腕を組んだまま、六月の日を反射する川面をじっと見つめていた。      二  ラーマ号から岸に向かってタラップが渡された。マクネイル船長は、音吉の肩を抱くようにして、一番先にそのタラップを降りて行った。地に降り立った時、音吉は思わず目をつむって、 (船玉《ふなだま》さまーっ!)  と、心の中に叫んだ。宝順丸の船玉は、フラッタリー岬のあの浜に置いて来た。だが、音吉にとって、一年二か月の間、最も頼りにしたのは船玉であった。それが今、突如《とつじよ》心の中に、拝む対象となって現れたのだ。船玉さまと心の中で叫んだが、それは何をしてくれと願うのではなく、只依《ただよ》りすがる思いだった。この見知らぬ土地に何が待っているか、やはり音吉は不安だった。その音吉、久吉、岩松を見ようとして、待ちかまえていた人々が、わっと三人を取り囲んだ。女もいた。フラッタリーにいた人々と同じ顔の男や女もいた。が、服装がインデアンたちとはちがっている。背広姿の男、黒シャツに吊《つ》りズボンの男、蜂《はち》のように胴を細く絞り、腰の張った長いドレスを着た女たち……それらが音吉には、ひどく異様に思われた。今まで見馴《みな》れたインデアンたちのほうが、ふつうの服装に思われた。金髪の男、赤毛の男、それらの男の長い頬《ほお》ひげは恐ろしくさえ見えた。この幾日か、船員たちの頬ひげは見馴《みな》れていても、数多くの青い目の男たちを見ると、再び音吉は、 (船玉さまーっ!)  と、心の中で叫び、 (八幡様、お伊勢様、ご先祖様)  と、神々や仏の名を呼んだ。  マクネイル船長が大声で何か言った。人々が道をひらいた。が、明らかに人々は興奮していた。生まれて初めて見る東洋人が珍しかった。しかも只《ただ》の東洋人ではない。気の遠くなるような広い海原を、壊れた船で漂着した勇士である。人々は何とかして、その賞賛の思いをこの三人に告げたかった。人々は口々に何か言った。  と、その時、十歳ほどに見える少年が、列の中から飛び出して、音吉にしがみついた。音吉は驚いて少年を見た。少年の頭は黒く、その目は茶色だった。透きとおるような白いその頬が紅潮していた。少年は早口で何か言った。甲高《かんだか》い声であった。少年はこう言ったのだ。 「あなたたちは、なんと偉いんだろう。壊れた船で、何か月もの間、あの太平洋をゆられてやって来たんだって? 水もないのに、食物もないのに。あなたたちは英雄だ。ぼくにはとても真似《まね》ができない」  人々はその少年の言葉に賛同の意を現して拍手《はくしゆ》を送った。少年は言葉をつづけた。 「ぼくもあなたたちのように、忍耐強く、勇気ある人間になりたい。ぼくもいつか、必ず太平洋を渡って日本に行く。だから、ぼくと仲よくしてちょうだい」  音吉たちは、少年の言葉を理解することはむろんできなかった。が、その表情の中に、自分たちに対する敬愛の情を感じないではいられなかった。 「ラナルド」  やさしい女の声が、人々のうしろでした。少年がうしろをふり返った。 「ラナルド」  再び呼ぶ声がした時、少年は爪先立ってその愛らしい腕を音吉の首に巻きつけた。思わず音吉が首を曲げると、ラナルドは音吉の左頬《ひだりほお》にその血色のいい唇《くちびる》を押しつけた。音吉は、はっとした。頬を齧《かじ》られるのかと思った。が、ラナルドは三度呼ぶ母親のほうに、人垣を分けて行った。  ラナルドの父は、ハドソン湾会社の総責任者であった。今、ラナルドの名を呼んだのは、ラナルドの育ての母で、ヨーロッパ人だった。ラナルドの生みの母は、インデアンの酋長《しゆうちよう》の娘で、早く死んでいた。このラナルドは、十年後に日本へ密航した。捕鯨船《ほげいせん》にしのびこんだのである。日本に渡ったラナルドは、長崎奉行所に抑留《よくりゆう》された。そして抑留中、通辞たちに英語を教えた。日本に英語が入った初期の人物として、このラナルド・マクドナルドを忘れることはできない。何れにせよ、ラナルドが日本に渡った動機には、音吉たち三人の事件があった。更《さら》に、自分の生みの母、インデアン部族の母国が日本だと思いこんだことも、その密入国を思い立たせる一因となったといわれ、音吉たち三人に習った日本語が、その時役立ったとも伝えられる。尚《なお》、後年、シンガポールの音吉を訪ねて来た外国|奉行《ぶぎよう》森山多吉郎は、このラナルドに英語を習った通辞の一人であった。  三人は船長に案内され、丸太作りの人家の散見する畠《はたけ》を通って、砦《とりで》に近づいて行った。僅《わず》かに開墾された平地のほかは、くろぐろとした森林であった。言わば、フォート・バンクーバーは、森林を切りひらいて作られた小さな村落であった。この村落は牧場のように木柵《もくさく》に囲まれていた。畠の所々に木立があり、ここにも小鳥が囀《さえず》っていた。その中に更《さら》に、砦と呼ばれる一画《いつかく》があった。およそ二百メートル四方ほどのその砦は、先の尖《とが》った大きな丸太を隙間《すきま》なく縦に並べ立てて、塀《へい》としていた。塀の高さは人間の二倍半もあった。インデアンの襲撃に備えての構えであった。その大門に向かって、馬車が行き交える程《ほど》の広さの道があった。 「音、牢屋《ろうや》とちがうか?」  船長の後を、音吉と並んで歩いていた久吉が、小声で言った。音吉は首を傾け、 「牢屋ではあらせん。門がひらきっ放しだでな。人も勝手に出入りしてるしな」  そうは言ったが、音吉も内心薄気味悪かった。砦の右外に、物見櫓《ものみやぐら》のような高い建物があり、左の角には、四角い煙突が二本突き出た見張人の家があった。船を迎えに出た人々が、尚も三人の後を従《つ》いて来る。  遂に三人は、この砦の門をくぐった。門の所で三人は、入れ替わりに出て行く馬車を見た。馬車は空車であった。大きな、見たこともない馬が馬車を曳《ひ》いていた。 「日本の馬とはちがうな」  久吉はうしろをふり返って見送った。  砦の中には、二十|戸程《こほど》の大小の家があった。インデアンたちの家とはちがって、がっしりとした丸太作りの家々であった。門を入ってすぐ左手に、二階建ての大きな洋館があった。その洋館に向かってマクネイル船長は歩いて行く。 「久吉! 窓が縦長やな」  音吉が言った。 「ほんとや。日本の窓は横長だでな。格子《こうし》がはまってな。ここの窓は、日に光っとるわ。何やろな」 「ギヤマンや」  岩松が答えて言った。 「へえ! ギヤマン!? 光って中がよう見えせんな」  驚く三人を、船長が微笑で促した。砦《とりで》の中で一番大きな邸宅はマクラフリン博士の住む家であった。屋根は杉板で葺《ふ》かれ、白いペンキ塗りの家であった。二階の正面に、同じく白いペンキ塗りのバルコニーがあり、玄関に上がるには、中央の玄関に向けて、両側から七、八段の階段があった。船長が階段をのぼったが、三人は芝生の上に立っていた。船長がふり返って、 「カム オン プリーズ(どうぞ、こちらへ)」  と、指を二本立てて手招きした。岩松が先に立ち、久吉、音吉がつづいた。と、中から現れたのは、眉《まゆ》と目の迫った、鼻の下のやや長い、温容の紳士であった。紳士は大声で何か言い、岩松の手をしっかりと握った。次に久吉、そして音吉の手を握りしめ、その肩を抱いた。音吉はひと目で、信頼できる人だと思った。  部屋に通された三人は、またしても目をみはった。そこは土間ではなかったが、誰もが土足のまま部屋に入っている。よく磨かれた板の間なのだ。部屋の中央に、大きな食卓が置かれ、真っ白い布がかけられてあった。そして、ぴかぴか光るスプーンやフォークが、皿の横に並べられてあった。このフォークやスプーンは、船の中で見てきたので三人共|既《すで》に知っていたが、二十人も並ぶことのできる大きなテーブルの上に、整然と置かれているのを見ると、さすがに物珍しかった。ラーマ号の中では見られない光景だった。  三人はその部屋を通りぬけて、右手の奥の間に通された。そこには丸いテーブルがあり、どっしりとした茶色の布がかけられてあった。テーブルの傍《そば》に革張《かわば》りの長椅子《ながいす》と、二つの肱《ひじ》かけ椅子が並べられていた。三人は長椅子に坐《すわ》らされ、船長と博士が肱かけ椅子に腰をおろした。腰かけるや否や、博士が胸に両手を組んだ。船長も組んだ。博士は目をつむり、顔をやや上に向け、何やら祈り始めた。 (何や、飯時でもないのに)  音吉は不思議に思った。船の上でも、食前に祈る姿や、就寝前に祈る姿を音吉たちは見て来た。だが、大抵《たいてい》は手を組むだけで、大きな声で祈るということはほとんどなかった。その姿は、三人にはひどく珍しかった。ラーマ号の船室には、宝順丸とちがって、神棚《かみだな》も仏壇もなかった。どうやら船玉《ふなだま》もないようであった。自分たちのように、朝起きて水垢離《みずごり》を取ることもなかった。それらのことは、ひどく不信心に思われた。神棚も仏壇もない家の中で手を合わせているのを見ても、神を拝んでいるとは思えなかった。 (妙な人種やな)  そんな違和感を抱いて来た音吉たちだった。だから今、いきなり手を組み合わせて、何やら声に出して祈り始めた博士を見ると、音吉は一層戸惑いを感じた。この部屋にもまた、神棚《かみだな》も仏壇もなかった。      三  マクラフリン博士の長い祈りが終わると、岩松たち三人は、直ちに家の外につれて行かれた。案内してくれたのは、船長ではなく、召し使いのインデアンであった。インデアンと言っても、杉の皮で織った衣を着ていた岬のインデアンとは全くちがう。服装や髪の形が、この国の人々と同じだからだ。二十二、三のその若者は、絶えず朗《ほが》らかに何か言っていた。が、三人は一語もわからなかった。三人は、小道を通って、砦《とりで》のすぐうしろの川に出た。川波が六月の日を眩《まぶ》しく弾《はじ》いている。先程《さきほど》の船着き場から三百メートル程|上手《かみて》の岸べであった。召し使いのインデアンは、手真似《てまね》で着物を脱ぐように言った。そして同じく手真似で、川の中に入るように言った。 「ハハア、川でみそぎをせよと言うことやな」  久吉が言い、三人は着物を脱いで川に足を入れた。召し使いの若者は三人の手に、それぞれ茶色の固く丸い石鹸《せつけん》を手渡した。何と言うものかわからなかったが、ラーマ号の中で、顔を洗う時に二、三度使ったことがあるので、おおよその見当がついた。三人が川に入ると、若者は自分自身を指さして、 「ダァ・カァ」  と言った。 「ああ、ダァ・カァか。お月さまやな」  なるほど、絶えず明るく喋《しやべ》りつづけるこの丸顔の若者は、満月に似ていると音吉は思った。 「ダァ・カァか」  久吉もうれしそうに言った。言葉のわからぬ地に来て、インデアン語を聞いたのだ。自分にもわかる言葉がここにもあったことがうれしくて、 「キュウ、イワ、オト」  と、久吉は先ず自分から始めて、岩松、音吉を指さした。ダァ・カァもうれしそうにうなずき、少量の水で石鹸《せつけん》を泡立《あわだ》て、全身にぬりたくることを教えてくれた。  やがて川から上がった三人に、大きなタオルが渡された。三人はそれが着物だと思い、腰にまとったり、肩にかけたりして、どのように着るのか、互いに相談した。ダァ・カァは、 「オー! ノウ」  と笑い出し、別に用意して来た籠《かご》の中から、先ず黒いシャツを手渡した。 「おう、これは襦袢《じゆばん》やな」  ラーマ号の船員たちが着ていたので、三人は迷わず袖《そで》に手を通した。次にズボンが与えられた。 「こっちの股引《ももひ》きは奇妙やな。だぶだぶやで」  背丈の高い岩松だけは恰好《かつこう》がついたが、久吉と音吉のズボンは、裾《すそ》が地に着いて引きずるほどだった。久吉と音吉は思わず笑った。笑いながら半分泣きたいような気がした。特に岩松の姿は異人そっくりで、もう日本人でなくなったような淋《さび》しさを感じさせた。宝順丸に乗りこんでいた時のちょん髷《まげ》の頭、そしてきりりとした股引《ももひ》きに、刺し子の半纏姿《はんてんすがた》は、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほどいなせであった。フラッタリー岬の服装には、まだ日本的なところがあった。三人は既《すで》にラーマ号の中で、髪の毛を他の船員たちのように短く切られていたから、異国の服装になると、どう見ても、もう日本人には見えなかった。だが、異国姿になって心のどこかに新たな覚悟ができたように音吉は思った。 「異国に来たら、何でも異国の習慣に従わんならんのやな」  そう口に出かかったが、口に出すと一層|淋《さび》しくなるように思われて、音吉はその言葉を呑《の》みこんだ。  三人は再び博士の家に、つれて行かれた。腕にぴったりとしたシャツの袖《そで》が、何か煩《わずら》わしいような気がした。脇《わき》の下のあたりが特に窮屈《きゆうくつ》でもあった。歩く度《たび》に脛《はぎ》の肌《はだ》を擦《す》るだぶだぶのズボンも、気持ちのいいものではなかった。履かされた靴《くつ》は尚《なお》のこと足になじまず、久吉は途中からその靴を手にぶら下げて歩いた。音吉はがふがふと音を立てる靴を引きずりながら、琴には見せられぬ姿だと思っていた。  川から戻《もど》った三人を見て、博士と船長は満足げに何か言った。多分、よく似合うとでも言っているのだろうと思いながら、三人はていねいに頭を下げた。岩松がしっかりとした声で、 「いろいろと、ご親切にありがとうさんです」  と言った。言葉は通ぜずとも、博士たちはわかったかのようにうなずいて、三人にソファをすすめた。三人が腰をおろすと、船長は数枚の白紙をテーブルの上に置いた。三人が日本人であることも、三人の名前も、既に船長は知っている。マクラフリン博士も、そのことを船長から今しがた聞いていた。が、今、博士は自分から三人に聞いて見たいことがたくさんあった。 「イワ、ハウ オールド アー ユー?(岩あなたは何歳ですか)」  博士はゆっくりと尋ねた。が、いくらゆっくりと聞かれても、その英語がわかる筈《はず》はない。三人は顔を見合わせた。と、博士は指を一本出して、「ワン」と言った。つづいて二本、三本と指を出しながら、 「……フォーア ファイブ シックス……テン」  と、十本の指を出した。そしてくり返し、 「ワン ツー スリー」  と指を立てていく。必死に耳を傾けていた三人は合点した。一のことをワンと言い、十をテンと言うのだとはすぐにわかった。つづいてマクラフリン博士は指を折りながら数を言い、コンテを取って紙の上に大きな円を書いた。そしてその中に、小さな円を、ワン、ツー、スリー、フォーアと言いながら再び十個書いた。次に音吉を指さし、 「ハウ オールド アー ユー?」  と言い、大きな円の外に四個の小さな円を書いた。更に両方の指をひらいて出し、それから四本の指を立てて見せた。 「わかった! 年を聞いているんや」  音吉は叫び、コンテを持って、大きな円の外に、小さな円を二つ書き加えた。 「オー! シックスティーン!(十六)」  博士は声を上げ、 「ハウ オールド アー ユー?」  と、今度は久吉を見た。久吉は音吉に真似《まね》て、小さな円を一つ書き足した。 「オー! セブンティーン」  満足げに博士は頬笑《ほほえ》み、同じ問いを岩松に発した。岩松はコンテで大きな円を三つ書いた。 「サーティ?(三十)」  船長と顔を見合わせて、博士が大きくうなずいた。  言葉のわからぬ者同士が話し合うことは、工夫《くふう》と忍耐と時間の要ることだった。博士は、三人の乗っていた船の絵を描くように、手真似《てまね》で言った。これも最初は、何を言われているのか、皆目《かいもく》わからなかった。博士は先《ま》ず紙の上に二本のマストを描き、「ラーマ」「ラーマ」と言ってから、次にマストのない船の絵を描いて岩松の前に置いた。 「きっと、宝順丸の絵を描けって言うんやな」  音吉は、岩松へとも久吉へともなく言った。 「なるほど、そうかも知れせんな」  言うや否や岩松はコンテを取って真ん中に帆柱を描き、大きく角帆《かくほ》を描き添え、外艫《そとども》を張り出し、艫櫓《ともやぐら》を描いた。開《かい》の口も、積み荷の様子も岩松は驚く程《ほど》見事に描いた。その確かな描写に、博士と船長は、感じ入ったように何か語り合っていたが、岩松は新しい紙に黙々と、同じ宝順丸の様を改めて描いた。そしてその宝順丸を穏やかな波の上に乗せた。つづいて山のような波を描き、そこに傾く宝順丸を再現し、黒雲を空に描き、稲光《いなびかり》を二条三条描き添えた。風の激しさを鋭い線で表現し、次の紙には積み荷を海の中に捨てる様子、更《さら》に帆柱を切り出す作業を順々に描いていった。博士たちは語ることをやめ、岩松の持つコンテの先から描き出される宝順丸の様子に、固唾《かたず》をのんだ。途中で、人が一人、また二人と死んで行き、遂にオゼット島に船が打ちつけられ、インデアンの奴隷《どれい》となるまでを岩松は描き、アー・ダンクが鞭《むち》をふるって殴《なぐ》りつける姿も描いた。博士と船長は、事の次第が実によく呑《の》みこめたようであった。  更に岩松は、最初に出帆した時の自分の年齢を、大きな円を二つ、小さな円八つで現し、音吉を指さして、大きな円と小さな円四つで現し、同様に久吉の出発時の年齢を図に描いた。 「おお! それでは、イワは二十八で国を出、それから一年以上も、こんなマストも帆もない、壊れた船で漂流してきたのか。一年何か月も……」  博士の目に涙が光った。博士は椅子《いす》から立って、三人の手を改めてしっかりと握った。三人は、博士の言葉はわからなかったが、岩松の絵によって、事情を推察してもらえたことを知った。  気がついた時、窓ガラス越しに美しい夕焼け空が見えた。フォート・バンクーバーの第一日が暮れようとしていた。      四  マクラフリン博士の家で、三人は豪華な夕食を馳走《ちそう》になった。そして、砦《とりで》の外にあるイギリス人の家につれて行かれた。三部屋だけの平屋だが、そこには鳶色《とびいろ》の目のイギリス人と、インデアンの妻が住んでいた。当時、ハドソン湾会社の、責任ある地位にある者は、現地人を妻とする慣《なら》わしになっていた。三人はそのことを後になって知った。それは日本の武将たちが、敵の武将の娘を娶《めと》るのに似ていた。責任者たちは、近くに住む部族の酋長《しゆうちよう》の娘を妻としていた。ラーマ号から降り立った音吉にしがみついた少年ラナルドの母がインデアンであったのも、同様の理由からであった。  三人はその夫婦の笑顔に迎えられ、自分たちの部屋に案内された。南と東に窓のある十二畳|程《ほど》の部屋であった。そこにはベッドが三つ置かれてあり、壁にはランプが二つ明るく点《とも》されていた。ラーマ号が三人を救助に向かった時、マクラフリン博士は、この家のこの部屋に、三つのベッドを入れるように、いち早く指示しておいたのである。 「立派な寝床やなあ。三段寝床とちがうわ」  久吉は驚きの声を上げた。夫婦は微笑し、部屋の隅《すみ》を指さして何か言った。そこには、壁に鏡が吊《つ》るされ、洗面器をのせた台があった。台の下には大きな取っ手のついた水差しがあり、水が入っていた。コップが三つあり、歯《は》刷子《ブラシ》がそれぞれのコップの中に立ててあった。 「ははん、ここで顔を洗うのか。だけど、三人が顔を洗うには、水が足らんな」  久吉が心配そうに言った。音吉も、三人が顔を洗うには、この水差し一つの水では足らないと思った。歯刷子は船の中で与えられたが、三人共日本では歯刷子を見たことがなかった。あのざらざらしたものを口の中に入れる気にはならなかった。だから、まだ一度も使ったことがない。その歯刷子がここにもある。 (やっぱり、この土地の人のするようにせんならんやろな)  同じことをしなければ、人々に馬鹿にされ、仲間|外《はず》れにされるような気がした。そうは思っても、この歯刷子だけはありがたくなかった。この家の夫婦たちが、 「グッドナイト」  と、やさしく言って出て行くと、三人は何となく顔を見合わせた。  先ず岩松が靴《くつ》を脱いで、窓際の寝台の上にあぐらをかいた。久吉も音吉も、岩松を真似《まね》て寝台の上に上がった。 「ほんとにこの履物《はきもの》はかなわんな。下駄《げた》か草履《ぞうり》が欲しいわ」  久吉の言葉に、岩松も音吉もうなずいた。が、音吉が言った。 「だけど、そんなこと言うたら、罰《ばち》が当たるかも知れせんで。岬とちがって、待遇《たいぐう》がちがうでな。まるで大事な客扱いや」 「そうやな。確かに客扱いや」  言いながら岩松が服を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、枕《まくら》の傍《そば》にあった薄いパジャマに着替えた。 「へえー、新品やで、これ」  久吉も早速パジャマに着替えた。そして言った。 「な、音。褌《ふんどし》がないのは、どうも落ちつかんな。こんな股引《ももひ》きを短くぶった切ったようなものは、しまらんわ」  と、わざと腰をふらつかせて見せた。ひょうきんなその恰好《かつこう》に、思わず岩松と音吉が笑った。フラッタリー岬で下帯《したおび》まで取り上げられてしまったのだ。 「何がおかしい。そう思わんのか。日本男児は褌がなけりゃ……な、舵取《かじと》りさん」 「ま、そうやな。褌をしめてかかれという言葉もあるでな」  岩松は寝台の上に大の字になった。三人共疲れていた。馴《な》れぬ船旅を幾日もつづけてこの村に着いたのだ。そして様々なことがあった。異人の服装になったこと、マクラフリン博士の質問に、絵や手真似で答えたこと、見るもの食べるもの悉《ことごと》く三人を疲れさせた。その癖、神経が冴《さ》えて眠くはなかった。 「舵取《かじと》りさん、何よりありがたいのは、ここには蝮《まむし》がいないということやな」  音吉が大きな枕《まくら》に頭をつけて言った。だが岩松は、 「アー・ダンクはいないが、しかし人間の住む所だでな。どんな蝮がいるか知れせん」  と、気を許さぬふうであった。 「なるほど、そう言えばそうやな。何の縁もゆかりもない俺たちに、少し親切過ぎるわな」  久吉もうなずいた。岩松が言った。 「そこや。何でこんなに親切にするのか、いささか薄気味が悪い。ここがもし日本やったら、一番先に入れられる所が牢屋《ろうや》やで。その上お白洲《しらす》で取り調べや。そのあと故里《くに》に帰れるとしても、お調べはきびしいで。それがどうや、あんな立派な部屋で、立派な腰かけに坐《すわ》らせて、にこにこしながら、何やら聞いてくれた。そしてそのあと、あの大ご馳走《ちそう》や」  三人は、博士や船長や、その他の主だった者たちと共に、食事をして来たのだ。一番先に、皿にどろりとした汁が入れられ、次々に肉や野菜が出た。珍しい果物も出た。もっとも今日の夕食に出た肉は、三人には気持ちの悪い肉だった。血が滲《にじ》んでいたのだ。日本にいた時、四つ足の肉を食べては地獄に落ちると聞かされていた。だが、フラッタリー岬では、みんなの余した肉や魚を食わなければ、飢えるより仕方がなかった。岬では鮭《さけ》や鯨《くじら》や、その他小魚を与えられたが、時に鹿の肉を食わせられた。始めは肉をよけて食ったこともあったが、何か月かのうちに、いつしかその肉を三人共食うようになった。が、それでも、血の滲《にじ》むような肉は一度もなかった。 (こんな血がついた肉を食う人間は、恐ろしい人間ではないやろか)  音吉は改めて、やさしそうな博士や船長の顔を盗み見たのだった。ラーマ号の中での肉は、煮こみが多かった。今日のように、柔らかい血の滲むような肉はなかった。それでも恐る恐る口に入れた肉は、意外にうまかった。岩松は全部平らげ、久吉も大半食べた。しかし音吉は二切れしか食えなかった。 「だけどふしぎやなあ」  音吉が呟《つぶや》いた。 「何や。何が不思議や」 「だって、あの肉を食うというのに、みんな手を合わせて祈っていたやろ。何やら知らんけど、ごそごそ言うて、アーメンと言うたやろ。日本であんなことしたら大変やろ、久吉」 「そうや、わしもそう思うていた。日本ではな、四つ足の肉を食うた時は、何十日やったか神にも仏にも祈ってはならん。体が汚れているで、心の中に神仏を思うてもならんと聞かされていたわな」 「そうやろ。それなのに、あの人たち、平気な顔して祈ってた。いつも四つ足を食うとるのにな」 「ははあ、わかったわ、音。あれは四つ足を食べるから堪忍《かんにん》してえと、祈っとるんや。こっちの神はああやって食えば、毎度毎度許してくれる神様やないのかな。なあ舵取《かじと》りさん」 「そうやなあ。所変われば品変わると言うでな。所変われば神も変わるかも知れせん」 「けど、なあ舵取りさん。わしらが着いた時、すぐにここの頭《かしら》が祈ったわな。あれは何の祈りやったろ」 「大方、俺たちが無事に着いて、よかったとでも祈ったんやろ」 「なるほど、お礼参りか。けど変やな。神棚《かみだな》も仏壇もない所で手を合わせるんやからな。そこがどうもわからん」  言いながら音吉は、この家にも神棚がなかったことに気がつき、何か無気味な思いで、明るいランプの光を見た。      五  フォート・バンクーバーでの初めての夜が明けた。疲れてはいたが、岩松も久吉も音吉も、なぜか朝早く目が覚めてしまった。やはり初めての土地に来て、神経がたかぶっているのだ。窓ガラスの外側の、閉ざされた雨戸の隙間《すきま》から、一条の光が部屋の中に差しこんでいる。 「何刻《なんどき》やろな」  久吉が言った。ここもフラッタリー岬と同じく、夏の夜は短い。 「まだ七つ(五時)にはならんな」  岩松がひっそりと言った。この家の主トーマス・グリーンとその妻ローズはまだ眠っているらしい。家の中はかたりとも音がしない。と、どこかで|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》の啼《な》く声がした。 「わあ、※[#「奚+隹」、unicode96de]や。日本にいるみたいやなあ」  久吉が声を上げた。フラッタリー岬には※[#「奚+隹」、unicode96de]はいなかった。 「ほんとやなあ」  いつしか三人は、寝台の上に起き上がっていた。 「どうや、これからみそぎに行こうか」  岩松が言った時、音吉がふっと思った。 (何や、潮騒《しおさい》の音がせんわ)  昨夜も何か奇妙な感じがした。それは潮騒が聞こえなかったからだと、音吉は今初めて気がついた。小野浦は海べの村であった。フラッタリー岬も海に面していた。一年二か月の漂流はむろん海の只中《ただなか》にあった。生まれてこのかた、波の音の聞こえぬ所に、一夜として住んだことがなかった。だがここには海がない。そう思った時、久吉が言った。 「みそぎか、大賛成や。なあ音、けど、浜はどっちやろ」  岩松が苦笑して、 「久、何を寝呆《ねぼ》けとる。ここには浜なんぞあらせんで」 「浜があらせん? ああ、そうやったな。でっかい河があるだけやったな。そうか、海がないんか。そりゃつまらんわ」  久吉ががっかりしたように言った。 「ま、浜はなくとも、みそぎはできるわ」  岩松は寝台から降りて、 「音をたてるなよ。ここんちはまだ眠っているでな」  三人は足音をしのばせて外へ出た。三人とも素足だ。服には着替えず、パジャマのままだ。三人には、自分たちの今着ているものが、寝巻きだという意識はない。 「これから毎日みそぎをやろうな、舵取《かじと》りさん」  久吉は浮き浮きとして言った。河までは二|丁《ちよう》と離れていない。人けのない畠《はたけ》に、ポプラや楓《かえで》の木が長い影を落としている。さわやかな朝だ。道べには、のぼり藤に似た花が咲いている。 「これ、日本ののぼり藤と同じやな」 「いや、ちょっとちがうわ」 「ちがわんと思うがな」  道の草には、もう朝露もない。昨日体を洗った河岸に出て、三人はみそぎを始めた。澄んだ水だ。みそぎをしながら、三人は心足りていた。三人は漂流中、どんなに疲れていても、水垢離《みずごり》だけは怠らなかった。それがフラッタリー岬に着いてからは、水垢離を取る暇もなかった。薪《まき》運び、水|汲《く》み、魚獲り、網づくろい、海草拾い、洗濯《せんたく》、伐採《ばつさい》、薪割り、ロープ作り等々。仕事は次々に三人を待っていた。目が覚めるなり、アー・ダンクの鞭《むち》が待っているような毎日だった。  みそぎを終えて岸に上がった三人は、体を拭き、再びパジャマを着た。久吉が岩松に言った。 「舵取りさん、みそぎをしたら、神棚《かみだな》を拝まんならんわな。しかしここには神棚があらせんしなあ」 「全くここは困った所やな。神棚もあらせんなんてな。岬と同じやな」 「それで舵取りさん、どこを拝む?」 「そうやな」 「な、舵取りさん。わしらの近しい神様というたら、お伊勢さんとか金比羅《こんぴら》さん、それに船玉《ふなだま》さんと八幡さんくらいのものだで。やっぱり知り合いの神さまに挨拶《あいさつ》しといたほうがええやろな」 「そうやな。この村のどこぞに社があるわけもないやろし、それぞれの神に拝むより仕方ないやろな」 「だけどな、舵取《かじと》りさん。ここにはここの神様もあるやろ。そこにも挨拶しとかんと、義理が悪いでな。ほら、こうやって、掌を組んで拝んどるわな。あれは何という神様やろ。アーメンという神様やろか」 「そうやな。アーメン、アーメンと祈りが終わる時に言うわな」  音吉も言う。 「ま、とにかく、アーメン様にもよろしく頼んでおこうか」  水主《かこ》たちは神の祟《たた》りを恐れる。水主たちの信心はその恐れから生じていた。三人は川原にひざまずき、それぞれ心の中で祈った。音吉は、 (船玉《ふなだま》さま。今日もどうか一日、三人をお守り下さい。故里《くに》の父や母、そしておさと、お琴、災難病気に会わんよう、お守り下さい。アーメン様、お初《はつ》にご挨拶いたします。どうぞよろしくおねがいいたします)  と、心をこめて祈った。  祈り終わった三人は、今来た道を戻《もど》って行った。畠にちらほらと人影が見えた。と、その一人が三人の方を指さし、何か大声を上げた。少し行くと、他の一人がまた大声で叫んだ。 「ほら、始まった。また見せ物や」  久吉が首をすくめた。家に近づくと、グリーンの妻のローズが三人を見つけて、声高く何か叫んだ。 「まだ眠っとると思うたんやな」  久吉がのんきそうに言った。ローズは家の中に向かってグリーンを呼んだ。グリーンが飛び出して来た。グリーンも大声で何か叫んでいる。 「何と言うてるんやろ」 「早く起きたなあと言うてるんかな」 「いや、どこへ行って来たと言うてるんやろ。みそぎをして、神様を拝んで来たんやからな。大威張りや」 「そうやな。こっちの神様にもご挨拶《あいさつ》して来たんやし……」  グリーンがその三人の前に飛んで来て、何か言いながら久吉の手を引っ張った。急げと言っているらしい。何のことかわからず、三人は急いで家に入った。家の中に入るとグリーンが言った。 「あなたがたの着ているのは寝巻きです。寝巻きのままで外に出るのは作法《さほう》ではありません。恥ずかしいことなのです」  三人は顔を見合わせた。グリーンが久吉の着物を引っ張りながら一心に言う表情には、只《ただ》ならぬものがある。 「何や、この着ているものが問題らしいな」  三人は自分たちの姿を眺《なが》めた。別に穴もあいていなければ汚れてもいない。昨夜、これを着るようにとローズが手真似《てまね》をして枕もとにおいてくれた。それで、着ただけのことだ。三人にとって、これを着て寝るのは、気持ちのよいことではなかった。途中で久吉は、素裸になってしまったし、岩松も音吉も、上着を脱いでしまった。三人共、物心《ものごころ》ついてから寝巻きなどというものを着たことがない。下帯《したおび》一つで布団の中にもぐりこむか、着のみ着のまま眠ったものだ。だから寝巻きというものへの観念がない。戸惑っている三人にグリーンはくり返し言った。 「これは寝巻きです。この寝巻きのままで外に出てはいけません。みんなが驚きます。笑います」  着ているパジャマを再びつままれて、三人は何となくわかったような気がした。この姿のままで外へ出てはならないことを、おぼろげながら感じ取ったのである。      六  その日の午後、岩松たちはトーマス・グリーンにつれられて、再び砦《とりで》の中に入って行った。昨日大勢に取り囲まれながら入った時には気づかなかったが、博士の家の前に見馴《みな》れぬものが二つある。 「あれ何や?」  音吉と久吉が同時に指さした。 「あれか」  岩松は立ちどまって、 「大砲《おおづつ》や」  と言った。 「大砲!? ほう……あれが大砲か」  話には聞いたことがある。が、大砲がこんな形をしているとは、久吉も音吉も知らなかった。 「物騒《ぶつそう》なものがあるんやなあ。これで誰を撃つんや」  音吉が言うと、久吉が言った。 「そりゃ、悪いことをした者を撃つにちがいあらせん。気いつけにゃなあ」  岩松が笑って、 「大砲《おおづつ》は戦《いくさ》の道具や。罪人を殺すためなら、縛《しば》り首でも、手打ちでも、方法は幾つでもあるわ」 「なるほど、それもそうやな。したら、ここに戦があるのか」  三人が語り合いながら大砲を見つめるのを、グリーンは微笑して眺《なが》めていた。 「大方ここは砦《とりで》やろ。日本の城のように、高く築いてもおらんし、がっしりしたものではないが、あの丸太塀《まるたべい》を高くつらねている所を見ると、いざという時、みんなこの中から、敵を撃つんやろ」 「ふーん。どんな奴《やつ》が戦をしかけてくるんやろな、舵取《かじと》りさん」  久吉は、今にも誰かが戦をしかけて来はしまいかというように、きょときょとしてみせた。  グリーンは、マクラフリン博士の家の玄関への階段を登りながら、 「カム オン カム オン」  と、三人を招いた。 「舵取りさん。旦那《だんな》が『かまわん』『かまわん』と言ってるで。かまわんから上がって来いと言うことやな」  音吉が笑って、 「久吉、あれは異国の言葉や」 「なんや、かまわんといっとるのとちがうんか。俺は昨日も『かまわん』と聞こえたがな。そう言えば、日本の言葉を知ってるわけはあらせんもな、なるほどな」  初めて気がついた久吉が、まじめな顔でうなずいた。  昨日通された応接室に三人はまた通された。博士は、昨日より一層|機嫌《きげん》のいい顔で、三人の手を順々に握りしめた。そしてグリーンと何か言って愉快そうに笑った。二人は、今朝のパジャマ事件を話し合って笑ったのだ。 「ミスター・グリーン。日本という国は、パジャマを着て外に出ても、非礼には当たらぬ国なのではないかな。その国その国によって、習慣も作法もちがうからねえ」  商船であちこち歩いている博士にとっては、パジャマ事件はそれほど驚くべきことではなかった。 「どうだね、昨夜はぐっすり眠ったかね」  マクラフリン博士は、首をソファの背にもたせて眠る真似《まね》をして見せた。岩松は察して、 「おかげさんで、よく眠りました」  と、手枕《てまくら》をして見せた。 「それはよかった」  博士はうなずき、グリーンに向かって言った。 「ミスター・グリーン。今日は特に君に頼んでおきたいことがある。実はだね、この三人に、わが大英帝国の思想や生き方を知らせてやりたいんだ。吾々《われわれ》が比類のない人類愛を持っていることも知らせてやりたいんだ。それで、より一層親切にしてやってほしい。と同時に、早速《さつそく》今日から、二時間ずつは英語を教えてほしい」 「博士、承知しました。私も、言葉の通じぬ三人を相手にして、ほとほと困っていたところです。妻のローズと共に、全力をあげて英語を教えましょう」 「それはありがたい。実はだね、ミスター・グリーン。私は最初、この三人をオアフ島(ハワイ諸島のひとつ)に送り届けようと思ったんだよ」 「なるほど、オアフ島まで行けば、ジャパンにはかなり近くなりますからね」 「そうだよ。あとはジャパン近海に行く捕鯨船《ほげいせん》に頼んでもいいと思ってね」 「博士、それは名案ですね。捕鯨船はジャパン近くまで行っていますからね」 「だがね、ミスター・グリーン。私はその案を取り止めにしたよ」 「取りやめた? 博士、それはまた何故《なぜ》です?」  グリーンは不審そうに、しかし控え目に問い返した。岩松たち三人は、博士が自分たちの運命に関わる最も重要なことについて語っているとも知らずに、二人の話す様子を見守っていた。いや、久吉だけは、見守るというより、部屋の中を珍しそうに眺《なが》めているといったほうがよかった。 「音、音」  ソファの真ん中に坐《すわ》っていた久吉が、音吉の脇腹《わきばら》を突ついた。 「何や、久吉?」  低い声で音吉が聞き返した。 「あれを見い」  久吉があごでしゃくるほうを音吉は見た。昨日は第一日目で、久吉も音吉も緊張していた。博士の質問に、岩松が次々と絵で答えていくのを見守っていた。それで気づかなかったのだが、部屋の片隅《かたすみ》に、鉄鍋《てつなべ》ほどの部厚い鉄の板で出来た、四角い箱があった。それには猫足のような鉄の足が、ついている。その下には同じく鉄の敷板が敷かれてある。そのすぐ傍《そば》の壁にも四角い鉄の板が貼《は》られている。よく見ると、一方に小さな開き口がある。傍《かたわ》らに薪《まき》が十本程置いてある。 「竈《かまど》やな。あの薪を焚《た》くんや」 「なるほど、そうやな。あの中で薪を焚くのかも知れんな」  二人は珍しそうに眺《なが》めた。薪は、日本でもフラッタリー岬でも、囲炉裏《いろり》か竈に投げこんで焚いていた。 「音吉、妙なものがついているで」  見馴《みな》れぬ丸い煙突を、久吉は指さした。 「あれは何やろ?」 「うーん……、あ、わかった。きっと煙出しや。煙が出るんや」 「へえー、煙がなあ、それはええわ。薪をくべれば、煙くてたまらんでな。だけどああやったら、けむらないで。この辺の人間は頭がいいんやな」  久吉は感心して言った。 「ほんとやなあ。煙が出ない証拠に、部屋も煤《すす》けとらんわ。煤もぶら下がっておらんし」  二人は、初めて見るストーブに、しきりに感じ入っていた。だが岩松は、マクラフリン博士とグリーンの話に耳を傾けていた。話がわかる筈《はず》はない。が、岩松は岩松なりに感じ取ろうとしていた。 「ミスター・グリーン。私はね。昨夜よくよく考えて見たんだ。むろん、一日も早くこの三人をジャパンに帰してやりたいと思う。だがジャパンと言う国は、鎖国をしているという話だ。僅《わず》かオランダの国だけが貿易をしているということだ」 「なるほど」 「鎖国政策を取っている国にだね。捕鯨船《ほげいせん》が近づけるか、どうかと、私は考えたのだよ。恐らくジャパン政府は、見馴《みな》れぬ異国の船を快くは受け入れまい。これはやはり考えねばならぬ」 「お言葉のとおりです、博士」  グリーンは深くうなずいた。 「では、どうすればいいか。最良の道をみつけてやるのが私の使命だと思う。私の知る限りでは、この三人は、わが大英帝国の勢力下に入った最初の日本人だと思う。言って見れば、この三人は客人だ。私はこの三人を友好的に扱うと共に、わが大英帝国の現状を正しく認識させる義務があると思う。イギリスという国が、どれほどに実力を持ち、どれほどに栄え、どれほどに進歩しているかを、日本に帰った時、この三人に語ってほしいと思うのだ。そして、できるならば、わが大英帝国とジャパンが友情によって結びつき、通商出来るようになるとしたら、これは望外の幸せではないか。彼らもまた、長い漂流が、故国のためになったとしたら、故国に帰って大手をふって歩くことができるだろう。……と言う訳でだね、この三人には極力言葉を教えてやってほしいと思う」 「わかりました博士、最善の努力をお約束いたします」  二人は握手した。その握手を、岩松は静かなまなざしでみつめていた。二人の表情に善意を感じ取ったからであった。      七 「音」  窓ガラスを磨いている久吉に呼ばれて音吉はふり返った。音吉は今、マクラフリン博士の寝室で、床にモップをかけていた。暑い午後のひと時だ。グリーンの妻がズボンの裾《すそ》を上げてくれ、シャツの袖《そで》も詰めてくれたので、洋服姿がそれほど奇妙には見えなかった。金色の房の下がったビロードの天蓋《てんがい》つきの寝台が、部屋の中央に置かれ、その傍《かたわ》らに馬の毛で織ったソファがあった。今、音吉は、ガラス窓があるということは、何と家の中を明るくするものかと改めて驚きながら、油をひいた床を拭いていた。  フラッタリー岬のマカハ族の家は、天窓以外窓はなかった。昼日中でも夜のように暗い家《や》ぬちだった。小野浦の家にしても、戸をあけ放しておいてさえ家の中は薄暗かった。煤《すす》けた茶色の油障子《あぶらしようじ》が家の中をいつも陰気にしていた。だがここでは、光が真っすぐに差しこんでくる。それは、音吉たちにとって大きな驚きであった。しかも、家の中から戸外が丸見えなのだ。そのガラス窓を、久吉は今一心に拭いていた。そして拭きながら言ったのだ。 「なあ、音、何でこんなに透きとおるものが、日本にはないのかな」 「ほんとやな。こんな便利なものがあったら、どんなに家の中が明るくなることか……」 「そうやな。俺な、音、日本に帰る時、何ぞ土産《みやげ》をやると言われたら、このギヤマンの窓をもろうて帰りたいわ」 「全くや。だけど、途中で割れてしまうわ」 「何とか割れんように、一枚ぐらい持って帰れんかな」  このフォート・バンクーバーに来て、既《すで》に一か月は過ぎた。三人は日本に帰る日は今日か明日かと、毎日のように待っていた。だが、三人は知らなかった。イギリス本国からこのフォート・バンクーバーに船が来るのは、年に僅《わず》か一度であることを。しかも、その船はハワイに寄港し、南米のホーン岬を廻《まわ》ってロンドンに帰るには半年もかかる。更《さら》にロンドンから南アフリカのケープ・タウンを経、シンガポールを経由して日本まで行くには、更に長い月日がかかる筈《はず》であった。むろん、日本までがいかに遠いかは、一年二か月の漂流で、三人は身をもって知っている。だが、壊れた船でも一年二か月で着いたのだ。帆を張った船であれば、四、五か月もすれば着くのではないかと、三人の胸は明るかった。  三人はこの一か月、午前中二時間、グリーンから英語を習った。グリーンはマクラフリン博士から、出来得る限り言葉を教えるようにとの命を受けて、実に熱心であった。二時間が二時間半、時には三時間に及んだ。三人は飽きるほど同じ言葉を聞かされた。そのお蔭《かげ》で、僅か一か月の間に、かなり多くの名詞を覚えた。朝夕の挨拶《あいさつ》や、簡単な会話さえできるようになった。習い始めてすぐに岩松はこう言った。 「いいか、言葉だけは、どんなことがあっても覚えにゃならんで」  久吉が不満そうに、 「舵取《かじと》りさん、何でや。異国の言葉なんぞ覚えてみたって、すぐに日本に帰るんやで」 「むろんそれはそうや。明日にでも船が迎えに来れば、半年後には日本や。だがな、久公、わしは岬でつくづく思った。殺すと言う言葉を、もし音が覚えておらなんだら、わしは何も知らんで殺されたかも知れせんとな。目の前でわしらを殺す相談をしていても、言葉がわからんと、みすみす殺されるだけや。そのことが岬でようわかったのだ」 「なるほど、それもそうやな。だけどな舵取りさん、ここの人は親切やで。言葉は教えてくれる。毎日寺子屋にはやってくれる。仕事はろくにさせんし、食物も残飯《ざんぱん》ではないで。まっさらなものをたんとくれるでな。殺される心配はあらせんわ」  久吉の言うとおりであった。三人は客人扱いであった。博士は三人を日本に送り届けて、出来れば通商を申しこみたいと思っている。だから三人は、博士にとっての大事な客人であった。  毎朝一時間、博士の家で学校があった。それはフランス人や、インデアンたちのための学校であった。やはり言葉を教えるのが主たる目的であった。新開地であるこのフォート・バンクーバーには、ヨーロッパの女はほとんどいなかった。フランス人、ロシヤ人、インデアン、そしてイギリスの男たちが、何れもそれぞれの国語で語っていた。だから、チヌークジャーガンと呼ばれる商取引用語は、これらの言葉が雑多に組み合わされ、共用語として使われていた。そのために毎朝の一時間は、この博士の家で学校が開かれた。それを久吉は寺子屋と呼んだのだ。日曜日には、同じく博士の家で子供たちのための日曜学校があり、つづいて大人たちの礼拝もあった。この礼拝にはフランス語が使われた。フランス人が多かったからである。  毎朝ひらかれる学校では、英語と共に道徳や作法《さほう》も教えられた。こうして異国の子供たちと共に、岩松たち三人も学んでいたのである。 「そうや、殺される心配はないかも知れせん」  岩松はちょっと間を置いて、 「しかしなあ、情けないことに、人間という者はわからんもんでなあ。今は親切にしてくれていても、いつ心が変わるかわからんでな」  三十歳の岩松は、十六、七の久吉や音吉たちとはちがって、単純ではなかった。  その時の岩松の言葉を思いながら、久吉は窓を拭く手をとめて、 「なあ音……」  と、一心に床にモップをかけている音吉を見た。 「何や? 手を休めんとものを言え」  音吉は、仕事の手を全くとめて話をする久吉をたしなめた。久吉は気にもせず、 「なあ、音、舵取《かじと》りさん、大丈夫やろな」 「大丈夫? 大丈夫って何のことや」 「ミスター・グリーンのご新造さんとよ」 「何を言う、くだらん」 「だってな、蝮《まむし》のご新造の例があるでな。大体舵取りさんは、女に好かれる質《たち》だでな」 「それはそうやけど、舵取りさんは、女など見向きもせんわ」 「だけど音、覚えているやろ。いつか千石船《せんごくぶね》に握り飯を食いに行った時のことな」 「…………」 「お琴の乳ば、ぎゅっとひっつかんだの、あの舵取りさんやで」 「ああ、覚えとるわ。けどな、あん時は舵取りさん、きっとどうかしてたんや」 「音、男は時々、あんな気持ちになることがあるでな。だけど、女子って、気持ちのわからんもんやな。舵取《かじと》りさんは滅多に口も利かねば、にこっともせん。それなのに、熱田にはあんないいご新造がいるし、岬では蝮《まむし》のご新造にはえらい惚《ほ》れられようやった。それに、あの拝み屋の女な、あれも舵取りさんに色目《いろめ》を使うたで。一体、舵取りさんのあの愛想のない顔のどこがいいんかな。俺のほうが、よっぽど愛嬌《あいきよう》あるのにな」  そう言って、久吉は声を立てて笑った。音吉も笑って、 「舵取りさんとわしらでは、月とスッポンや。舵取りさん苦味《にがみ》走った男前だでな」 「そんなら、俺は苦味が足りん言うことか」  久吉は軽口を叩《たた》いて、 「とにかくな。あの岬で蝮を怒らせたのは、ご新造とのことがもとだでな。ここでは誰にも惚れられんで欲しいわ」 「それはそうや」  音吉もうなずいた。牧場のほうで牛の鳴く声がした。      八  床拭《ゆかふ》きとガラス磨きを終えた久吉と音吉は近くのパン製造所に入って行った。何十畳もある広い部屋の真ん中に、ベッドを二つ縦長に並べた程《ほど》の大きなこね台があった。一方の壁には、これまた大きながっしりとした小麦粉入れの箱が置かれてある。蓋《ふた》をあけると馬の飼い葉|桶《おけ》のような形だ。もう一方の壁には、煉瓦《れんが》で作った竈《かまど》が二つあった。一見《いつけん》博士やグリーンの家の一室にある暖炉を大きくしたようなものだが、薪《まき》の投げこみ口の上は、パンを蒸し焼きにする装置になっている。その大竈《おおがま》が二つ並んでいる。その竈《かまど》で焼き上げられた長いパンが、白布をかけた壁際の台の上に何本も積まれてあった。香《こう》ばしいパンの香りが部屋一杯に満ちている。  入って来た久吉と音吉を見て、白衣を着、白い帽子を頭に乗せた赤ら顔の男が、 「ハーイ オト キュウ」  と笑顔で迎えた。焼き上がったパンは、同じ砦《とりで》の中にある社員専用の店に運んで行くのだ。使い走りを引き受けていた音吉と久吉には、このパン運びも楽しいことのひとつだった。 「ザ スメルズ グード(いい匂いだな)」  久吉が英語で愛嬌《あいきよう》よく言った。白衣を着た四、五人の男たちが、何か言って笑った。この部屋はいつも陽気だ。 「けど、ここは暑いなあ。かなわんで」  久吉は首をすくめて見せた。只《ただ》でも暑い七月、大きな二つの竈に火が入れば、これはもう焦熱地獄だ。二人は、まだあたたかいパンを大きな籠《かご》に入れて外に出た。広い芝生が、七月の日の下にきらめいている。この二|丁《ちよう》四方|程《ほど》の砦の中には、高い塀《へい》に沿って将校、外交官、要員の家々、穀物倉庫、火薬庫、鍛冶屋《かじや》、大工小屋、樽《たる》製造所、洗濯《せんたく》小屋、それに料理所、インデアンとの交易所、そして雑貨店等があった。この雑貨店は、博士の家の真向かいにあった。ざっと一丁半程は離れている。音吉と久吉が雑用に当たっている時、岩松は造船所で手伝っていた。その器用さが買われて、造船所で一日二、三時間働いていたのである。ハドソン湾会社は、本命の毛皮の交易《こうえき》の外《ほか》に、農業や酪農も営み、製材、造船も営んでいた。製材所や造船所は、砦の外のコロンビア河の畔《ほとり》にあった。  久吉と音吉が、パンを運んで行くと、子供たちが駈《か》け寄って来た。 「オト」 「キュウ」  この地ではもう、音吉たち三人の名を知らぬ者はない。どこを歩いても、すぐに子供たちが寄って来る。その中に、あのラナルドがいた。どの子も、ほとんど混血児だ。中でもメーテスが一番多かった。メーテスとは、フランス人とインデアンの混血児である。だが音吉たちにとっては、どれも皆同じだ。毎朝学校で、一時間は机を並べて共に勉強する仲間でもある。子供たちが寄ってくると、二人は日本の童唄《わらべうた》や子守唄をうたう。子供たちが喜んで一緒にうたう。次々にせがまれると、久吉はお蔭参《かげまい》りの唄をうたう。 「おかげでさ するりとな 脱《ぬ》けたとさ」  久吉は陽気な声でうたうのだが、音吉はこの歌を聞くと、奇妙な気持ちになる。日本の国から脱《ぬ》け出てしまった自分たちを感ずるのだ。脱け出したくて脱けてしまったのではない。が、確かに脱けてしまったのだ。  二人は店に入った。広い店の中には、男や女たちが七、八人買い物をしていた。煉瓦色《れんがいろ》のシャツを着た白髪《しらが》まじりの店の主任が、 「サンキュー」  と、二人を見て声をかけた。 「ユア ウエルカム《どういたしまして》」  音吉が礼儀正しく頭を下げた。そしていつものようにパン棚《だな》にパンを並べた。店は四方に棚が設けられ、いつもパンを置く棚の上段に、皿やミルクポット、ボウル等の食器が並べられてある。パン棚の右手には、赤、白、黄色、グレー、紺、黒等の布地をはじめ、紅白、黒白等の色鮮やかな縞《しま》模様の布地が、着分《ちやくぶん》ずつたたんで重ねられてある。日本の着物地とはちがう。どれも服地なのだ。長靴《ながぐつ》がある。皮靴がある。シルクハットもある。かんじきもあれば、箒《ほうき》もある。煙草《たばこ》のパイプがあり、ランプがある。ローソクがある。鋸《のこぎり》、鉋《かんな》、ヤスリがある。塩、砂糖、石鹸《せつけん》、酢、ソース、様々な形のガラスビン、そしてマッチ等々、雑多な品が棚という棚にあふれていた。  音吉と久吉は、パンを棚に並べ終わると、店の中をぐるりと見まわした。 「音、この中で、ひとつだけ日本に持って行ってもいいと言われたら、何にする?」 「そうやなあ、わしはマッチやな」 「何や、マッチか」 「そうや、火打ち石で火をつけるのは面倒だでな。マッチなら、すぐにぽっと火がつくわ。母《かか》さまがきっと喜ぶで」  琴の名がのどまで出たが、口には出さなかった。 「そうやな。マッチを見たら、みんなびっくりするやろな。魔法かと思うやろな」 「ほんとにびっくりするで。船の上でな、初めてマッチを見た時、わしは仰天《ぎようてん》したでな」  マッチは一枚の薄い板に刻みが入れられてあり、刻まれた先端に燐《りん》が塗られてあった。それを一回|毎《ごと》に割《さ》いて使うようになっていた。初め、割くところを見た時、するめのような食物かと思ったものだ。それが、ちょっと、こするだけで火が点《つ》くのを見て、ひどく驚いたものだ。 「わしはな音、マッチより、やっぱりギヤマンのビンをもらうな。こりゃ驚くで」 「久吉、お前はよっぽどギヤマンが好きと見えるな」  先程も久吉は、ガラス窓を土産《みやげ》に持って帰りたいと言ったのだ。 「そうや。わしはギヤマンが好きや。アイ ラブ ギヤマンや」  久吉は楽しそうに笑った。今にも日本に帰れるというその思いだけが、久吉の胸を占めていた。 「音、もう一つ土産にくれる言うたら、何にする?」  笑いをおさえて、久吉はもう一度店の中を見まわした。そんな二人を子供たちや女たちが何か言いながら、微笑を浮かべて眺《なが》めていた。 「そうやなあ。ああ、あれがいいわ」  音吉が指さしたのは、販売主任の背後の板壁にかかったスレートの黒板であった。 「何や、あんなものか。あんなもの誰が喜ぶ?」 「みんな喜ぶと思うわ。良参寺の和尚《おしよう》さまやって、寺子屋の子供たちやって。チョークで書くと、消せば消せるんやで。あんな便利なもの、日本にはあらせんで」 「それもそうやな。墨で書いたもんは、消えせんでな。あれは何ちゅうもんやろな。あのブラックボードは、日本語で何といったらいいんやろ」 「くろいたと呼べばいいわ」 「くろいたか。なるほど、黒い板やから、くろいたやな。わしは、何にするかなあ。そうや、ソープがええわ、ソープが。体を洗うにも、着物を洗うにも、あれは便利やで」 「うん、そうやな。あれは日本語で何と呼んだらええんかな」 「そうやなあ……むずかしいな音、そうや、早洗いはどうや」 「早洗い? あんまりおもしろないな」 「したら、音なら何と言う?」 「うーん……。垢消《あかけ》しはどうや」 「垢消し? そりゃうまい!」  久吉はぽんと手を叩《たた》いて、 「垢消しとはうまいなあ。さすがに音は頭がちがうわ。したらな。音。ここにある物、ここの言葉で何というか、言いくらべしてみよか」 「よし! 一番こっちの棚《たな》から、順々に行こう」 「じゃ、あの鋸《のこぎり》は何と言う?」 「鋸は何やったろ」  二人が首をひねる傍で、ラナルドが言った。 「ザット イズ ア ハンドソー」 「あ、そうやった。ハンドソーやハンドソー。そう言えば舵取《かじと》りさんが時々言ってたわ。なあ、音、日本に帰ったら、鋸はハンドソー言うんやと、みんなに教えてやろうな。忘れんように書きとめて置かねばならんで」 「そうやな」  うなずきながら音吉は、日本に帰ったらという言葉が、近頃《ちかごろ》の久吉には多いと思った。むろん久吉だけではない。音吉自身も岩松も言う。フラッタリー岬にいた時は、三人は滅多に「日本に帰ったら」とは言わなかった。帰る当てがなかったからだ。 (けど……ほんとに日本に帰れるんやろか)  音吉は不意に不安になった。 [#改ページ]   迷える羊      一  九月も半ばに入った。即《すなわ》ち三人がフォート・バンクーバーに来て、三か月は過ぎようとしていた。九月に入るとフォート・バンクーバーの風は、俄《にわか》に寒くなった。それは涼しいというより、やはり寒いといったほうが適切なほどの冷たさであった。およそ北緯四十六度に近いフォート・バンクーバーの位置は、宗谷《そうや》海峡の緯度と同じである。六、七、八月は、雨も少なく暑い日がつづいた。それが九月に入ると、ぱたりと暑さが去り、俄《にわか》に太陽が遠のいた感じだった。この幾日か雨がつづいたが、それでも今朝は、青空は見えないまでも、雨が止んでいた。  今、岩松は、洗面台の上の壁の鏡に向かってひげを剃《そ》っている。薄刃のレザーを巧みに使いながら、 「音、昨夜明け方な、俺は親方の夢を見たで」  と、鏡の中の音吉を見た。十六歳の音吉はまだひげを剃るまでもない。グリーンからもらったノートに、鉛筆で単語を書きとめていた。音吉は暇さえあれば、ノートをひらく。英語を覚えたいというより、学ぶことは何でも、好きなのだ。ここに来て三か月、日曜日以外は朝の学校と、つづくグリーンの、二時間の特別教授で、三人は次々と言葉を覚えていった。新しい言葉が、毎日流れこむように耳に入ってくる。音吉はその言葉を、日本への土産《みやげ》にしたいと思っていた。そして、できれば簡単な通辞ぐらいはできるようになりたいと、近頃《ちかごろ》は考えるようになった。だから尚《なお》のこと、ノートに書きつけることが多くなる。  今ひらいた音吉のノートには、十二か月の月の名、四季の名、曜日が整然と記されている。 (セプテンバーやな、九月は)  そう思った時、岩松に声をかけられたのだ。 「親方さんの夢? 親方さん、どんな様子やった?」  ノートを閉じて、音吉は椅子《いす》から立ち上がった。久吉は便所に行っていた。便所は外便所なのだ。 「うん、親方なあ、元気な顔で飯を食うていたで」 「さよか。元気な顔で、飯をなあ……」  音吉はふっと胸が詰まった。重右衛門や兄の吉治郎たちの墓が、フラッタリーの岬にある。ドウ・ダーク・テールの親切な計らいで、墓に別れを告げては来たが、音吉にはひどく心残りなのだ。吉治郎や重右衛門が、せめて骨だけでも日本に持って帰って欲しいと、悲痛な叫びを上げているような気がして、時折《ときおり》夜も眠れなくなることがある。フラッタリー岬まではかなりの距離だが、日本に帰る時、あの墓を掘り起こして、骨を良参寺に持って帰り、和尚《おしよう》に懇《ねんご》ろに弔《とむら》ってもらいたいと思う。重右衛門の夢を見たという岩松も、きっと心にかかっているにちがいない。 「うん。白い歯を見せてな。つやつやした顔だった。何を言いたくて夢に現れたのかなあ」 「ほんとになあ」  音吉は、重右衛門のありし日のひげを剃《そ》る様を思い浮かべた。そのひげを剃る重右衛門の前に、久吉と代わる代わるに、鏡を向けていたことを思い出す。 (あれは、かねの鏡やった)  音吉は、ソープをつけてレザーを使っている岩松を見ながら、重右衛門のひげを剃る様を思った。水でひげをぬらしただけで、剃刀《かみそり》でじゃりじゃりと剃っていた。 (親方さんは、ガラスの鏡も、レザーも、ソープも知らなんだ)  自分たちは正に生き残ったのだと、音吉は改めて思う。もし幸いにしてあの全員が助かっていたなら、どんなに愉快であったろう。あのフラッタリー岬にいても、十四人いれば心強かった筈《はず》だ。このフォート・バンクーバーに来ても、帰る楽しみはもっともっと大きかったと思う。  その時、久吉が部屋に戻って来た。 「寒いわ、今朝《けさ》は」  言ってから、 「な、舵取《かじと》りさん。ここの廁《かわや》だけは、わしは嫌いや。尻をぺたんとつけて、何や気持ち悪いわ。いつまで経っても廁ばかりは馴《な》れせんわ」  久吉は白人たちの真似《まね》をして、肩をすくめ両手を広げて見せた。 「ほんとに廁はわしも好かん。ここに来た最初は、お蔭《かげ》で何日も通じなかったわ」 「廁は岬のほうがよかったわな。日本と同じだったでな。穴を掘った上に、枝を渡しただけやったでな。あのほうが簡単でよかったわ」 「そうやな、鹿の声が聞こえたりして、風流やったな」 「こっちの廁は、鳥の声が聞こえても、聞く気はあらせん。尻ぺたが気になって」  その久吉に、音吉が言った。 「あんな久吉、舵取《かじと》りさんな、親方さんの夢見たんやって」 「へえー、舵取りさんもか。わしも見たんやで、昨夜。で、どんな夢やった、舵取りさん」 「ああ、元気で飯を食うてた夢や」  剃《そ》り終わった顔に、タオルを当てながら、岩松が答えた。 「何やって? 飯食うてた!? 何や、同じ夢や」  久吉は驚いて、 「何だかいややな。親方さんたち、腹が空《す》いて、餓鬼《がき》になったんとちがうか」  久吉の言葉に、音吉が言った。 「餓鬼になんぞならせん。な、舵取りさん」 「ああ、餓鬼になんぞなる人やない。ちゃあんと成仏《じようぶつ》したわ」 「したら一体、何で同じ時に飯を食う夢を見たんや」 「まあ、そんなこともあるやろ。たまにはな」 「それはそうやけど、でも気になるわ」  久吉は珍しく夢を気にした。 「さ、朝食やで。早う飯を食うて、スクール・チャーチに行かなならんで」  岩松は気にもとめぬふうであった。ガラス窓越しに、ポプラの木がしきりに風にさやぐのが見えた。      二  三人がフォート・バンクーバーに来て、驚いたことはたくさんあった。七日目毎に、村中の人がマクラフリン博士の広間に集まって、礼拝を守ることもその一つだった。この日ばかりは、造船所も、店も、管理事務所も休みであった。畠《はたけ》を作っている者たちまでが、畠仕事を休んで教会に来る。そしてその日一日は仕事を休んだ。 「奇妙な習慣やな」  先ず第一に岩松が驚いた。 「ほんとやな。七日目七日目に仕事休んで、商売になるんかな」  久吉も相槌《あいづち》を打った。 「日本では、朔日《ついたち》と十五日、そして盆と正月くらいやな」 「そうや。うちの父っさまは、漁師やから、恵比須講《えびすこう》には休むがな」 「そうやそうや。そして職人は太子講《たいしこう》に休むぐらいや。こんなに七日目七日目に、何で休まにゃならせんのかな」  三人は不思議がった。が、久吉が言った。 「けど、休みの多いのはいいことや。朝から晩まで、毎日毎日働いたら、隣村にもなかなか行けせんでな」  三人はそんなことも幾度か話し合ったものだ。 「これで、お詣《まい》りがなけりゃ、サンデー(日曜日)はまるまる休めるのにな。そこらが奇妙なところや」  教会に行っても、話がわかるわけではない。それでも、三か月経った今では、随分わかる言葉が耳に入るようになった。  英国では十七世紀の半ばに、既《すで》に日曜日|遵守法《じゆんしゆほう》が出来た。日曜日やクリスマス、復活祭などには、営業も労働も禁止する条令であった。だがそれは、一世紀|程《ほど》で途絶えた。産業革命がその条令を押しやり、労働時間は十四時間から十六時間にも及んだ。そして更《さら》に八十年程経った一八三三年、イギリス工場法が制定された。岩松たちはイギリス工場法制定の翌年に、このフォート・バンクーバーに来たのである。工場法は制定されても、日曜日の休業はまだ制定されていなかった。マクラフリン博士は、もともと信仰が厚かったから、聖書の教えにもとづいて、日曜日にはその屋敷を解放し、礼拝を守らせていた。博士の家は私邸《してい》というより公邸の趣があった。  朝食を終えると、三人は背広を着、日曜学校に出かけて行った。女の子たちが、腰のふくらんだひだスカートをはき、ネッカチーフで頭を包み、みんないつもより整然とした身なりをしている。上等の服を着れるので、子供たちは上機嫌《じようきげん》だ。男の子たちも折り目のついた長ズボンをはき、蝶《ちよう》ネクタイをつけている。岩松たち三人も蝶ネクタイだ。だが三人は、この蝶ネクタイが何となく嫌《きら》いだ。 「誰も彼もめかしこんで、七日目毎に祭りのようなものやな」  久吉も、今では靴《くつ》を脱いで歩くようなことはない。朝、みそぎに河に行く時も、きちんと靴を履《は》いて行く。だが履く度《たび》に久吉は、 「今しばらくの辛抱《しんぼう》だでな」  と、自分の足に言って聞かせるようにして履くのだ。  いつものように三人は、最後列に坐《すわ》っていた。オルガンが奏《かな》でられ、讃美歌《さんびか》がうたわれる。歌詞はよくわからなくても、曲はいつも覚えやすい曲ばかりだ。子供たちは、所々大声を張り上げ、所々口ごもるようにうたい、とにもかくにもうたい上げる。  讃美歌が終わり、祈りが終わって、聖書が読まれた。 「ゴッド イズ ラブ」  と言う所だけは、三人にもわかった。ゴッドとは、どうやら神か仏のようなものらしいと、この三か月で見当がついている。と、二メートル程《ほど》の台の上に、教師たちが赤や青や黄色で彩った四角いこれも大きな箱を置いた。子供たちは一斉《いつせい》にざわめいた。一人の教師は更《さら》に、箱についていた幕を引いた。背景に峻《けわ》しい崖《がけ》の絵が描かれてある。その崖下に一匹の羊がいた。人形芝居である。教師が、その羊を器用に動かしながら、羊の鳴き声を真似《まね》た。羊は、峻《けわ》しい坂を鳴きながらよじ登ろうとする。だが羊は、登りかけては、すぐに谷底にころげ落ちる。教師は、 「かわいそうな羊、この羊は大勢の仲間から外《はず》れました。仲間は九十九匹いるのです。この迷い出た羊を入れると、羊は全部で百匹でした」  ゆっくりと、子供たちにわかるように教師は話していく。羊は悲しそうに鳴く。やがて、遠くから羊を呼ぶ声が聞こえてくる。羊はその声を聞いて大きな声で鳴く。鳴き声を聞きつけて、峻しい崖を一人の人が降りて行く。「この人の名は、イエス・キリストです」と教師が言った。 「おもろいな。人形芝居や」  久吉は、音吉の脇腹《わきばら》を突ついた。 「うん」  音吉はうなずきながら、今坂をころがりそうになり、あっちの木につかまり、こっちの枝にすがるようにして降りて行くキリストを見つめた。子供たちはまばたきもせずに、無事に下まで降りつくかどうかと見つめていた。薄茶色の長着を着たキリストは、憐《あわ》れみ深い表情をしている。キリストは幾度も降りなずんだように立ちどまる。が、時折《ときおり》下の羊に向かって、 「今、行くよーっ。待っているんだよーっ」  と声をかける。その人形の操り方が実に巧みだ。子供たちはひき入れられて、本当にキリストが谷底まで降りられるか、どうかと、身を乗り出して見ている。  遂に谷底に着いた。子供たちが一斉《いつせい》に拍手《はくしゆ》をした。羊が鳴いた。その羊の頭をキリストがなでる。人形であるその手は、羊の頭をぎくしゃくとなでたのだが、子供たちは自分がなでられたような顔を見合わせてうなずき合った。  次にそのキリストは、羊を肩に負った。 「もう大丈夫だよ。さ、一緒に仲間の所に帰ろう」  教師はいともやさしい声を出して、キリストの人形を崖《がけ》に登らせはじめた。これも幾度か足をすべらせながらの、はらはらさせる演技だったが、とにかく無事に山の上まで辿《たど》り着いた。  これで話は終わりかと思ったが、そうではなかった。場面は全く変わって、教師が、 「ここはゴルゴダの丘です」  と、重々しい声で言った。十字架が立てられ、先程《さきほど》のキリストに扮《ふん》した人形が、十字架につけられようとしている。その掌に釘《くぎ》を打つ音がする。先程の、羊を助けた人形の掌に大きな釘が打ちこまれるのだ。 「うわあ、痛い!」  久吉が叫んだので、子供たちが一斉《いつせい》にうしろを向いた。もう一方の掌に、また釘が打たれる。 「残酷やーっ!」  久吉がまた叫ぶ。子供たちが再びふり返る。十字架にかかったキリストの下に羊がやってくる。何人かの人形が十字架の下に集まって来た。 「イエスさまーっ! わたしを助けてくださったやさしい方なのに、どうして十字架につけられたのですか」  羊が十字架を見上げて歎《なげ》く。子供たちが大きくうなずく。教師が語る。 「皆さん、どうしてキリストは十字架にかかられたのでしょう。悪いことをしたからでしょうか。いいえ、私たち人間の罪や穢《けが》れを取り除くために、イエスさまは身代わりになってくださったのです」  久吉は音吉の耳にささやいた。 「あの男、磔松《はりつけまつ》に磔になった長田《おさだ》のような男やな。磔になるのは、極悪人《ごくあくにん》やで」  小野浦の近くには、主君|源義朝《みなもとよしとも》の首を打ち取った長田|忠致《ただむね》の磔になった松がある。音吉や久吉にとって、磔と言えば、長田忠致がすぐに連想された。磔にされた人間は、長田しか知らなかった。が、その時、岩松がささやいた。 「音、久! これはな……これはもしかしたらキリシタンやで」 「えっ!? キリシタン!」  音吉の全身に鳥肌《とりはだ》が立った。日本ではキリシタンとわかれば、一族打ち首になると聞いている。 「ほ、ほんとか、舵取《かじと》りさん」 「うん、多分な」  岩松は腕を組んだ。三人は、マクラフリン博士の信仰が、キリスト教であることを知らなかった。いや、第一キリシタンなるものを知らなかった。日本では二百五十年も前からキリスト教は禁制である。一体どういうものがキリシタンなのか、見るにも聞くにもその機会がなかった。只《ただ》、岩松だけは北前船《きたまえぶね》に乗っていた時、船乗り仲間の一人に、 「俺の村には、隠れキリシタンがいる」  と、聞かされたことがあった。そしてその時、キリシタンの印《しるし》は、十の字だと教えられた。この十字架にキリシタンの頭目《とうもく》は磔《はりつけ》になったのだと、その時初めて聞いたものだ。  今、岩松は人形芝居を見ていてふっとその話を思い出したのだ。三人は今まで、十字架にかかったキリストの絵も像も見たことはなかった。マクラフリン博士の家には十字架の印さえなかった。礼拝を行う部屋は礼拝堂ではなく、博士の家の広間であった。キリストの絵は飾られてあったが、それは両手を広げ、すべての人を受け入れようとする、やさしいまなざしのキリストであった。 「アーメン様かと思うたら、キリシタンか。どうする? 舵取りさん」 「そうやな。とにかく信ずるわけにはいかんわな。話を聞いたと言うただけでも、牢《ろう》に入れられるかも知れせんでな」 「大変なことになってしもうたな、舵取《かじと》りさん」  音吉は青ざめた顔を岩松に向けた。教師が、 「イエスさまこそ真の救い主です。この方のみもとに集まりなさい」  と、結びの言葉を述べていたが、三人の耳に入る筈《はず》はなかった。      三  砦に向かってなだらかな広い傾斜地だ。野菜畠《やさいばたけ》やりんご園、そして、牛や羊を放牧する牧場がある。珍しく晴れ上がった九月の午後だ。秋の日ざしに青いりんごがつやつやと光っている。 「そうやなあ。困ったことになってしもうたな」  岩松は砦《とりで》の向こうに見える河の輝きに目をやった。砦の中に動く人々が見える。白い犬が見える。馬車のとまるのが見える。河岸を離れる帆船が見える。そしてその向こうに小高い緑の丘が見えた。 「とにかく、明日のサンデーは、腹でも痛うなったことにして、スクール・チャーチは休むことにせにゃ」  久吉は草原に寝ころんで、真上のりんごの木を見上げた。この間の日曜日、自分たちの聞いた話が、どうやらキリシタンらしいと気づいて以来、三人は幾度も幾度も話し合って来た。そして、遂にまた明日の日曜日を迎えようとしていた。 「なあ、舵取りさん。どんなことがあっても、キリシタンの話はいかんで。耳の穢《けが》れだでな」  音吉の賢そうな目が、岩松を見る。岩松はあぐらをかいていた足を、草の上に伸ばすと、 「そこが面倒なところや。ここの人らはみんなキリシタンや。日本ではキリシタンは邪宗門《じやしゆうもん》だが、ここでは誰も、邪宗門などとは思っておらんでな。チャーチにお詣《まい》りに行かねば、仲間|外《はず》れになろうし……」 「けどな舵取《かじと》りさん。わしは、キリシタンだけはごめんや。万々一、こっちでキリシタンのお詣りをしたとわかったら、帰ってから逆《さか》さ磔《はりつけ》やで。おまけに、親も兄弟も同じお仕置きを受けるでな」 「うん。それは言うまでもあらせん。文化何年|頃《ごろ》やったかな。どこぞでキリシタンが大勢お仕置きにあったと、聞かされたことがある」  岩松は自分に字を教えてくれた占い師の竹軒《ちつけん》を思い出した。長いあごひげを手でしごきながら、 「岩松、キリシタン共は哀れじゃ。何も知らぬ二つ三つの童《わらべ》までが火あぶり、水責めに遭《お》うたものじゃ」  と、語ってくれたことがある。が、竹軒は、キリシタンを邪宗だとは言わなかった。キリシタンの悪口を、ついぞ言わなかった。只、逆さ磔、斬首《ざんしゆ》など、悲惨な最期《さいご》を話してくれたものだった。 (もしかしたら、あの竹軒先生も……)  キリシタンではなかったかと、岩松は今にして思った。  一六三九年(寛永十六年)以来、日本ではキリシタン禁制が一段ときびしくなり、日本人の海外進出も一切《いつさい》禁止された。中国人、オランダ人以外の異国人が日本に来ることも拒んだ。貿易は統制を受けた。特にキリシタンへの圧迫は異常なまでに激しかった。一六三九年以来、日本からキリシタンは根絶されたかに見えたが、信仰は尚《なお》もひそかに受けつがれ、明暦《めいれき》、寛文、寛政、文化の時代にも、幾度か多くの信者がその血を流したのである。つまり、岩松の子供の頃《ころ》にも、その残酷な弾圧はあったわけである。  日本の町という町、村という村には、寺請《てらうけ》証文が出されていた。寺請証文とは宗旨《しゆうし》手形、あるいは宗門手形とも言った。寺がその檀徒《だんと》にキリシタンでないことを証明する文書である。この寺請証文がなければ、奉公に出ることも、嫁に行くこともできなかった。そうしたきびしさの中で、岩松たちは、正体のわからぬキリシタンなるものが、ひどく無気味なものに思われてならなかったのである。 「とにかく、舵取《かじと》りさん、キリシタンのお詣《まい》りには行かんほうがええで。わしは行かん。明日きっと腹が痛うなるわ。腹下りするわ」  久吉は腹をおさえて見せた。 「久、明日一日ぐらいは腹痛でごまかせても、次のサンデーにはどうするんや」  岩松が尋《たず》ねる。 「次のサンデーには頭が痛うなるわ」 「その次は風邪《かぜ》でもひくつもりか」 「そうや。熱でも出してやるわ」 「しかしな、久。そうそうサンデーにばかり体の具合が悪くなっては、仮病《けびよう》とすぐわかるで」 「わかってもかまわん。まさか、お詣りせんでも、逆《さか》さ磔《はりつけ》になるわけでもあらせんやろ」 「久吉、そりゃわからせんで。こっちにはこっちの寺請証文が要るのかも知れせんで。なあ舵取りさん」  牛が近くでのんびりと啼《な》いた。 「ええなあ牛は。どこの神さんにも仏さんにも義理立てせんでええでな」  久吉は起き上がって、牛の群れのほうに目をやった。 「とにかく困ったもんや」  岩松は暗いまなざしを砦《とりで》のほうに向けたが、 「わしらが日本に帰るのは、時間の問題や。帰れば第一に聞かれるのが、このキリシタンのことにちがいあらせん。絶対に宗旨《しゆうし》は変えなんだと言い張っても、あれやこれやと、しつこく聞かれるに決まっている」 「それがいやや。いややなあ、もう」  久吉は顔をしかめた。 「言葉がわからせんかったと、白《しら》を切り通せばええやろか、舵取《かじと》りさん」 「まあ、そうやろ。それはそうと、キリシタンは日本の役人たちが思うとるほど、悪いとも思えんがな」 「か、舵取りさん! そんなこと日本に聞こえたら、それこそ大変やで」  音吉が真剣な顔で言った。 「わかっとる」  岩松は苦笑して、 「だからここだけの話や。音、久、よう考えて見ろ。もしキリシタンが、日本で言うほど悪い教えなら、わしらをこんなに親切には扱わんで」 「そう言われればそうやな、音。ミスター・グリーンもドクターもほんとに親切や。俺たちは日本では、役人たちから洟《はな》をひっかけられたこともあらせんわ」 「ほんとや。もしキリシタンが悪い教えなら、わしらをこんなに親切にするわけはないわな。キリシタンは生き血をすするとか、人の肉を食うとか、聞いたことはあるが、そんなこと全くなさそうやで」  音吉もうなずいて、 「けどな、なんぼいい教えでも、わしらが信ずることはできんわな」 「それはそうや。命あっての物種《ものだね》やでな。問題はいい教えかどうかより、絶対信じてはならんとの掟《おきて》を守らんならんでな」  そう言う久吉に岩松は、 「久の言うとおりや。しかしな、いい教えなら、ここにいる間だけでも、聞いておいてもいいような気がするしな」  音吉と久吉は顔を見合わせて、 「舵取《かじと》りさん、頼む。そんなこと言わんといてくれ。わしらお仕置きが恐ろしゅうて、恐ろしゅうて、かなわんでな」  と哀願した。岩松はうなずいた。が、まだ何か別のことを考えている顔つきだった。      四 「あいたた……」 「あいたた……」  久吉も音吉も、ベッドの中で腹をおさえて呻いていた。翌日の日曜日の朝のことだ。朝食に出て行かぬ三人に、グリーンが部屋をのぞきに来た。グリーンの顔を見ると、久吉は、 「あいたた……」  と、一層大声を上げた。グリーンが、 「ホワッツ ザ マター ウイズ ユー?(どうしました)」  と驚いて駈《か》け寄った。腹をおさえている二人に、 「ああ、おなかがわるいんですか、それは困りました」  と、グリーンは心配そうに久吉と音吉の腹に、順に手をやった。音吉はそのグリーンの青い目に、申し訳ない気がした。だが、ふだんは正直者の音吉も、今日ばかりは別であった。嘘《うそ》をついているという呵責《かしやく》はなかった。必死だったのだ。岩松が、 「一度や二度、腹が痛い、頭が痛いと言っても、どうせここにいる限り、キリシタンの話は、きかにゃならんで」  と言ったのだが、一度でも二度でもいい、キリシタンの話など、とにかく今は聞きたくなかった。日本に帰って、万一キリシタンの疑いがかかった時、あの寝ている父も、働き者の母も、かわいい妹のさとも、火焙《ひあぶ》りか逆《さか》さ磔《はりつけ》になるのだと思えば、キリシタンと知ってその教えを聞くことは、到底《とうてい》できない気がした。 (嘘も方便と、仏さまでもおっしゃるだでな)  音吉はそう思いながら、しかし、大きなあたたかい手を腹にあてて、心配げに顔をのぞきこんでいるグリーンを見ると、やはり気の毒ではあった。だが一方、痛くない筈《はず》の腹が、少し痛いような気もして来る。 「すぐに医者を呼びましょう」  グリーンはあたふたと部屋を出て行った。久吉が頭をもたげ、 「ミスター・グリーンは、今何と言うて出て行った?」  と、音吉を見た。 「ドクターを呼ぼうと言うたんや。大変なことになったでえ、これは」  音吉はベッドの上に起き上がった。確かに今グリーンはドクターを呼ぶと言った。ドクターとはマクラフリンのことだと音吉は思っている。だから、マクラフリンがここに来るのだと思った。 「えーっ? ドクターだって? そりゃ困った。どうしよう舵取《かじと》りさん」 「どうしようもこうしようもないわ。こうなったら、じたばたせんで、腹痛《はらいた》の真似《まね》をつづけるだけや」 「そうやなあ、それしかあらせんな」  久吉も音吉も、神妙《しんみよう》に枕《まくら》に頭をつけた。と、やがて、グリーンと共にやって来たのは、マクラフリン博士ではなかった。マクラフリン博士も医師ではあったが、このフォート・バンクーバーには医師が幾人かいた。今、グリーンがつれてきたのはその中でも腕利《うでき》きのフランス人の医師だった。当時世界で、フランスの医学が最も発達していたが、むろん音吉たちは知らなかった。いや、それどころか、今入って来た男が医師であることも知らなかった。  グリーンの肩ほどしかない小男だったが、目が炯々《けいけい》と光っていた。 (何やろ、この人?)  音吉は久吉の傍《そば》に立った医師を見つめた。医師は久吉の胸を押しひろげ、まず打診を始めた。そして腹に手をやり、あちこちをおさえた。 (ははあ、これが医者というものかな)  小野浦にいた時も、音吉は医者にかかったことはなかった。長いこと足腰を病んでいる父親でさえ、人からもらった煎《せん》じ薬で間に合わせていた。音吉は緊張した。打診してから医師は、グリーンとグリーンの妻に、質問を始めた。 「昨夜の食事は何でしたか」 「別段変わったものは差し上げておりません。スープとビーフとパン、そして玉ネギです」  グリーンの妻は早口で答えた。 「あなたがたも同じ食べ物でしたか」 「はい、同じです」 「なるほど、わかりました。それでは、お宅の食事のせいではありませんね」  音吉には医師の言っていることが、少しわかった。 (仮病《けびよう》と悟られるかも知れん)  そう思った時、医師は鞄《かばん》の中から丸い筒《つつ》のようなものを出した。厚紙を丸めてつくったものだ。 (何や、あれは?)  と思う間もなく、医師はその筒を、久吉の胸に当て、自分の耳をその筒に当てた。しばらく聞いてから、別の位置に筒を移す。実に慎重な診察ぶりである。やがてその筒が腹の上に置かれた。 (あれで聞いたら、何でもわかるんやろか)  音吉の胸は動悸《どうき》した。久吉は顔をしかめて、かすかにうなって見せた。 「痛いですか。困りましたね」  筒から耳を離すと、医師は久吉と音吉に言った。 「どこかで、何か食べませんでしたか?」  久吉も音吉も、言葉がわからないという顔をした。医師は、 「言葉がよく通じなくて、困ったものだ」  とグリーンに言い、次に同じように音吉の体を見はじめた。そして、グリーンをふり返り、 「この少年は動悸が早い」  と言った。音吉の腹音も、厚紙の筒《つつ》で医師は聴診した。そして、 「大したことはないようです。今日一日スープを与えるだけにして、少し様子を見ましょう」  医師がそう言い、立ち去ろうとした時、久吉が言った。 「あの……スクール・チャーチ……」  言いかけると、「オウ ノウ!」とグリーンが大きく手を横にふり、 「今日は無理です。お休みなさい」  と言い、 「イワ、あなただけ食事をしましょう。二人は夜まで食べないほうがいいと思います」  と、やや安心したように出て行った。  ドアがしまると、久吉が、 「うまくいったわ」  と、にやりと笑った。音吉が、 「舵取《かじと》りさん、ご飯だそうです」  と促した。岩松は笑って、 「俺だけが飯にありつけるわけやな」  と、部屋を出て行った。 「何や!? 俺たちには飯は当たらんのか」 「当たらんわ。晩までな」 「晩まで? そんな殺生《せつしよう》な! 俺、朝飯《あさめし》食わんと、目のまわる質《たち》やで。いやあ、失敗したわ」  久吉が音《ね》を上げた。 「しようもないわ。飯は食わんでも死にはせん。キリシタンの話を聞かんですむだで、喜ばにゃならん」  音吉も空《す》きっ腹をおさえて言った。 「それもそうやな。けど、これから仮病使う時、腹痛はいかんな」 「そうやな。けど、頭が痛うても、おんなじや。どこか具合が悪くて、ふつうに食べるわけにはいかんでな」 「ほんとに、もう、キリシタンご法度《はつと》が恨めしいな、音。神さんなら、どこの神さんを拝んだって、ええやないか。けちけちせんと」 「けど、ご法度はご法度や。首を切られるのは怖いでな」 「信じてもおらん者が、首切られるわけないやろ」 「いやいや、怪しいとなったら、とことん責め上げるのが番所だでな」 「キリシタンの怖いことは誰も知っとるがな。異国に流れたからと言うて、誰がそう易々《やすやす》とキリシタンになるかいな。そこのところがお上《かみ》にはのみこめんのかな」 「のみこめんのやろな。ところでな、久吉、わしも大きい声では言えんが、あの羊を助けたジーザス・クライスト(イエス・キリスト)な。あれが、キリシタンの神さまやろか」 「神さまが磔《はりつけ》になるわけないやろ。そうやろ音吉」 「けどな、衆生済度《しゆじようさいど》という言葉を聞いたことがあるで。とにかくな。あの羊を助けたジーザス・クライストという、神さんか人間かわからんが、あの人はええ人に見えたわな」 「うん、あの人形はええ人に見えた。けど、あれは人形芝居だでな」 「そうは言うがな、久吉。ジーザス・クライストという名前は、もう何遍《なんべん》も聞いているで。わしは、ジーザス・クライストが、キリシタンに関係あるとは知らなんだなあ。アーメンさまかと思っていたんや。アーメンて、いったい何やろな、久吉?」 「何や知らんわ。それより、わしは腹がへってかなわんわ。……けど、音、これこそキリシタンの天罰《てんばつ》てき面とちがうか。事は神さんのことや。それを仮病《けびよう》使ったんやからな」  久吉が俄《にわか》に不安な顔をした。      五 「腹もいたくないのに、只《ただ》黙って寝てるのはかなわんわ」  久吉は独《ひと》り言《ごと》を言った。音吉は窓ガラス越しに、じっと空を見ていた。 (空だけはおんなじやな。ここも小野浦も)  音吉はふっとそう思った。今見ている空は、雲の垂れこめた空だ。小野浦にもこんな空があったと、音吉は考える。雲が徐々に東に動いている。窓ガラスの一枚に凹凸があって、雲の動きがいびつに見える。それが何となく淋《さび》しい。 「舵取《かじと》りさん」  久吉が呼んだ。 「何や」  ベッドの上にあぐらをかいて、何か考えていた岩松がふり返った。髪の毛が額にかかって、ちょんまげだった岩松とは、別人のようだ。まなざしだけが今日の空のように暗い。 「今度のサンデーは仮病にもなれんわな。また飯が当たらんと、かなわんでな」 「一食や二食抜いたからというて、音《ね》を上げるな。嵐にもまれた時は、食べるも寝るもできんかったやろ」 「それもそうやな。しかしあの時化《しけ》の間は、腹が減ったとも思わんかったな。不思議なものや」 「そうや。今考えると、あの嵐の中で、よくもまああの帆柱を倒したものよ。自分でも信じられんわ」  二人の話を聞きながら、音吉は、 (ほんとや。あの雷の鳴る中で……)  と、帆柱に斧《おの》をふるった岩松の姿を思い出した。 「気をつけろーっ!」  と叫んだ重右衛門の声も聞こえるようだ。ふらつく足を踏まえて、斧を打ち込む間合いを計る岩松の姿、岩松につづいて斧を手に取った利七の、大きく肩で喘《あえ》ぐ姿、それらが昨日のことのようにありありと目に浮かぶ。 (あん時、辰蔵も斧をふるったっけ)  ざんばら髪をふり乱した辰蔵の、雨にぬれた顔も思い出される。 (みんな死んだのやなあ)  しみじみと音吉は思った。そして、自分たち三人が生き残ったことを、自分自身に言い聞かせずにはいられぬ思いだった。  と、ガラス窓に、雨粒が幾つか斜めに当たった。 (また雨か)  そう思った時、久吉が、 「あ、雨やな。もうチャーチの終わる頃《ころ》やろか」  と古い柱時計を見上げた。三人共、既《すで》に時計の見方を知っている。 「まだテン パースト テン(十時十分)や。イレブン(十一時)を過ぎなきゃ終わらせん」  と、音吉が言った。音吉や久吉はむろんのこと、岩松もここに来るまで一度も時計を見たことがなかった。それが、ここに来ると、どこの家にも時計があった。ようやく言葉がいくらかわかるようになって、「あれは何か」と尋ねてみたが、三人には何のことか要領を得なかった。タイムを知らせるものだと言われても、そのタイムがわからないのだ。タイム(時刻)は、物体とちがって目の前に取り出して見せることができない。だが、その時計の針が徐々に動いて、何かを指し示していることが、次第に三人にわかって来た。時計の針の形が、毎朝同じ形になった時に朝食が始まったし、教会に行く時も、必ずグリーンが時計を指して、 「オー! ナーオ イッツ ナインオクロック。レッツ ゴー トゥ チャーチ(おう、九時ですよ。教会に行こう)」  そんな言葉をくり返し聞くうちに、 「ああ、あれは何刻《なんどき》かを知らせるもんやな」  と、わかった。今では時計の見方にまごつくことはない。 「午《うま》の刻がヌーンや」  と、一番先に言ったのは岩松だった。 「まだテン パースト テンか。あーあ、腹が減った。何か食うものないやろか、舵取《かじと》りさん」 「それはあるやろ。ブレッドでも、牛の乳でも、廚《くりや》にはな」 「そうやな。したらこっそりもらってこ」  久吉がベッドから降りた。 「久! お前……牛の乳もブレッドも、グリーンさんのものやで。お前のものではあらせんで」  きびしい岩松の表情に、久吉は口を尖《とが》らせ、 「それはそうやけど、どうせわしらのために用意したもんやろ。したら、ちょっと腹が空《す》いたで食べたと、ことわればええやないか」 「あかん! 黙って人のものに手をつけるのは泥棒や」 「泥棒やないで。後でことわるんや。それでいいやろ、なあ、音」  黙って聞いている音吉に、久吉は助けを求めた。 「久吉、わしは舵取《かじと》りさんの言うこと、本当やと思うで。いくら腹が空《す》いていたからといって、人さまのものに手をつけるのは、それはあかんわ」 「なんや、音まで舵取りさんの真似《まね》をしちょる。あとでことわったらええのとちがうかな」 「ちがう。それにな、グリーンさんたちはチャーチに行ったんやで。日本で言えば宮詣りや。その留守に……慎まなならんで」 「ふーん、……けど、俺盗むんやないけどな」 「わかっとる。でもな、人のものに黙って手をつけるのを、盗むと言うのや」 「わかったわ。あーあ、腹が空いてかなわんわ」  久吉は再びベッドの中にもぐりこんだ。岩松と音吉は顔を見合わせて笑った。その二人に久吉が言った。 「したらな、舵取りさん、もう仮病《けびよう》はやめや。そして今度のサンデーには、チャーチに出るわ」 「チャーチになあ……」  音吉が浮かぬ顔をした。岩松が答えた。 「そのことや。さっきわしも考えていた。どうせわしらはキリシタンの国にいるんや。お上《かみ》から見りゃ、チャーチに出たも出ないも、同じことだでな。キリシタンの国にいたというだけで、お咎《とが》めはきびしいやろ」 「なるほどなあ。キリシタンの国に世話になったら、チャーチに行こうが行くまいが、同じことかも知れせんな」  音吉はがっくりした。 「そうやで、音。だからな、国に帰ったらチャーチに出たも出ないも、そんなことは言わんでもええのや。只《ただ》な、わしらは、キリシタンに決して帰依《きえ》せんかったと、きっぱり言うより仕方ないのや。びくびくするな」 「びくびくするなと、舵取《かじと》りさんは言うけど、なあ、音……」 「そうやなあ。わしらはお伊勢さんや仏さんに手を合わせていたと言い張っても、お上が信用してくれるか、どうか……」 「そうよな。こんなものを着て、こんな頭になって、キリシタンの国にいて……中身まで変わったと思われるな」 「ああ大ごとや、困ったことになってしもうた」  音吉も力なく言った。岩松はその二人を励まして、 「くよくよしても始まらんで。国に帰ったら帰った時のことや。それまでは、あんまり気に病まんことだな」 「気に病まんと言うたって、わしらがキリシタンになったと思われたら、父《と》っさまも母《かか》さまも、妹も、縛《しば》り首になるんやで」 「だからそうならんよう、お伊勢さんにでも熱田さんにでも毎日おねがいしておけばいいやろ」 「そりゃまあ、おねがいしてみるけど……親方さんも、水主頭《かこがしら》も、あんなに祈っても、とうとう故里《くに》に帰らんと死んでしもうたしな」 「全くや。どの神さまに頼んだらええんやろ。キリシタンの国で、日本の神さんたちに頼んだかて、何や心もとないなあ」  いつしか細い雨が窓をぬらしていた。音吉はその窓に、ぼんやりと目をやった。      六  グリーン夫婦の後について、黒いコーモリ傘《がさ》をさした子供たちの一団が近づいてくる。 「あれ、何やろ、あの子たち?」  一番先に窓のほうを指さしたのは久吉だった。久吉は、このコーモリ傘が嫌《きら》いだった。金属性の骨に布を張った傘を、「アンブレラ」と教えられたが、 「何や、布を張った傘なんぞ、いややな。傘というもんは、油紙を張ってるもんやのに」  とけなした。音吉も日本の傘が好きだ。太い番傘に雨がばらばらと音を立てて当たるほうが気持ちがよかった。布に雨が沁《し》みこんでくるのが、何か頼りなく思われるのだ。それに、女が蛇《じや》の目《め》の傘をさして歩くのは、何とも言えない風情《ふぜい》がある。もっとも、音吉の家にせよ久吉の家にせよ、破れた番傘が一本あるだけだった。  とにかくその嫌いなコーモリ傘が並んで来る。一瞬久吉はギクリとしたような顔をしたが、 「あ、ダァ・カァもいるわ。ラナルドもいるわ」  と、うれしそうに言った。音吉もベッドの上に起き上がって、窓越しに子供たちを眺《なが》めた。間もなくドアをノックする音がして、グリーンの妻が入って来た。グリーンの妻は、いつもの明るい顔で、腹の具合はいいのかどうかと尋《たず》ね、たくさんの可愛《かわい》い友だちが見舞いに来たと告げた。  ダァ・カァを先頭に子供たちは少し恥ずかしそうに、肩を寄せ合いながら入って来た。子供たちは音吉と久吉を見て、にこっと笑い、何かひそひそと話し合っていたが、古新聞に包んだ野の花や、絵を差し出した。 「サンキュー」  二人はベッドの上にあぐらをかいて礼を言った。雨にぬれた黄色い花は、砦《とりで》に行く道べに咲いている花だ。絵は四、五枚あった。急いで描いて来たのだろう。りんごや梨《なし》を描いた絵、牛や羊を描いた絵、リボンをつけた人形の絵等々、どれも紙一杯に描かれてあった。久吉が、 「ワー、食べたいなあ」  と、大声で言った。日本語だった。子供たちはきょとんとした。音吉が久吉の言葉を英語でいった。子供たちは笑って、少し遠慮の取れた顔になった。ダァ・カァが何か言い、子供たちがうなずいた。帰るのかと思うと、子供たちは一斉《いつせい》に歌をうたいはじめた。音吉たちも幾度かうたった讃美歌《さんびか》である。 (もしかしたら、これがキリシタンのご詠歌《えいか》かな)  音吉は思った。久吉も落ちつかぬ顔で聞いている。岩松は窓に寄って、腕を組んだままじっと子供たちの顔を見つめている。インデアンの子二人を除いたほかは、イギリス人、フランス人、アメリカ人と、インデアンとの混血児であった。誰もがほとんど黒い目だ。茶色の目もいる。髪もほとんどが黒い。男の子もいる。女の子もいる。みんなで十人|程《ほど》だ。頬《ほお》を真っ赤にして一心にうたっている子供たちを見ながら、音吉は何か心を打たれる思いがした。 (これがここの国の病気見舞いやろか)  音吉は美しいと思った。日本では、絵を描いて見舞いに持って行くなどということはなかった。花を持って行くこともなかった。見舞いというものは、病人の口に合いそうなものを持って訪ねて行くことであった。むろん、病人の枕《まくら》もとで歌をうたうなどということもない。仮病《けびよう》の二人には、子供たちの歌声は少しもうるさくはない。只可憐《ただかれん》に思われた。 (父《と》っさまの所に、村の子がこんなふうに集まってうたったら、どんなに父っさまは喜ぶやろ)  ふっと音吉は、倦《う》み疲れたような父の武右衛門の顔を思った。  子供たちの歌はすぐに終わった。何となく音吉は物足りない気持ちがした。フラッタリー岬では、ピーコーの初潮の時、子供たちは夜も昼もなく五日も六日もうたいつづけた。あれは魔除けの歌だとあの時岩松が言ったが、今、ここの子供たちも、魔除けの歌を長々とうたうのかと思っていたのだ。歌が終わると同時に、ダァ・カァがにこにこしながら言った。 「ではお祈りしましょう」  子供たちは神妙な顔をして、両手の指を組んだ。 「祈るんやな! どうする?」  久吉が、岩松と音吉を見た。 「じたばたするな」  岩松がおさえるように言った。 「けど……キリシタンの祈りやで」  口の中でもごもご言いながら久吉はダァ・カァを見た。ダァ・カァは既《すで》に目をつむり、祈り始めていた。音吉も久吉も観念してダァ・カァの祈りに耳を傾けた。ダァ・カァは、音吉と久吉の腹痛が早くよくなるように、故国を遠く離れた三人の上に、神が豊かな慰めを与えて下さるように、自分たちもこの三人を心からの友として愛することができるように、と祈った。その言葉の意味が、三人にもおおよそ理解できた。 (ふつうの言葉や。まじないでも魔法でもあらせん。やさしい言葉や)  音吉はふっと心の中で安堵《あんど》した。と同時に、自分たちが仮病《けびよう》を使っているとも知らず、可愛《かわい》い手を合わせて祈っているラナルドたちを見ると、ひどくうしろめたい気がした。 (キリシタンやって何も悪いことあらせん。すまんことをしたな) (けどなあ、わしら日本人だでな。信じたら打ち首になるんや。だからスクール・チャーチは休みたいのや)  ダァ・カァにつづいて、次々と祈りつづける子供たちの短い祈りを聞きながら、音吉は心のうちに詫《わ》びたり、弁解したりしていた。  祈り終わる度に、子供たちは一斉にアーメンと唱《とな》えた。祈りが全部終わってから音吉は尋《たず》ねた。 「ダァ・カァ。アーメンて何のことですか」  音吉の英語はすぐに通じた。 「アーメンとは『ほんとうにそうです』ということです」 「ほんとうにそうです! では、アーメンは、神さまの名前ではないんですか」  音吉の言葉に、ダァ・カァも子供たちも笑った。 「神さまの名前ではありません」  その名の通り、丸い月のような顔に一杯の微笑を浮かべ、善意をこめてダァ・カァが答えた。 「何や、アーメンさまかと思うたら、そうやないのか。えらいまちがいやったな、音吉」 「ほんとやな。アーメンさまアーメンさまと、だいぶお詣《まい》りしたわな。アーメンさまなんて、いなかったんやな」  音吉も笑った。ラナルドが、 「もう、おなか、なおったの?」  と、ひたむきな目を音吉に向けた。 「ありがとう、なおったよ、ラナルド。ちっとも痛くない」 「よかった。じゃあパズルをしよう」  ラナルドは上着のポケットからパズルの箱を取り出した。時々遊んだことがあって、音吉たちも知っている。ラナルドは、いつもゲームの道具を持って歩く。音吉たちが、積み木という遊び道具を知ったのも、ラナルドによってであった。様々な形の木片を使って、家や乗り物や、動物らしき物をつくるのは、十六、七の音吉や久吉にも、おもしろい遊びだった。そしてパズルは尚のことおもしろい遊びだった。それを知っていて、ラナルドはパズルを持って来てくれたのだ。フラ・フープも子供たちの大好きな遊びだった。日曜学校の帰り、子供たちと一緒に、野原でやったこともあるが、久吉はずばぬけてそのフラ・フープがうまかった。大きな丸い輪を腰で巧みにまわすのだ。これは音吉も久吉にかなわない。が、パズルは音吉のほうがよくできた。  空腹も忘れて、しばらくの間音吉と久吉は子供たちと遊んだ。三十分|程《ほど》経って、ダァ・カァが、 「さあ、帰ろう。もう十二時だ」  と、柱時計を見上げた。子供たちはもっと遊んでいたいと言ったが、ダァ・カァは、 「オー! ノウ」  と、きっぱりと首をふった。と、ラナルドが音吉の首に手をまわして、 「オト、もうおなかを痛くしないで。スクール・チャーチを休まないで」  と言い、いつものようにその唇《くちびる》を頬《ほお》に押し当ててくれた。音吉は不意に胸が熱くなった。 [#改ページ]   濃 霧      一  窓の外は一面に深い霧だ。二、三メートル先にあるエルムの木さえ見えない。 「凄《すご》い霧だな」  ベッドの上にあぐらをかき、大きな四角いトランクの中に、下着を詰めていた岩松が、手をとめてぽつりと言った。 「ほんとや。さっきまで、砦《とりで》の塀《へい》が見えていたのに、何もかも霧の中や」  久吉も言い、 「このところ、毎日霧やな」  と、音吉も答えた。その霧の中に、馬車の近づく音がした。多分、砦から畠に帰って行く馬車の音だろう。鈴の音がいつもより音高く聞こえた。  ここフォート・バンクーバーの十一月は、フラッタリー岬より、やや寒い。むろん小野浦よりも寒い。と言っても、雪は降らない。十一月は平均七度ぐらいの気温だ。今は、ポプラが黄色く色づいている季節だ。そのポプラの木も、むろん霧の中だ。  このフォート・バンクーバーの船着き場に、イギリス軍艦イーグル号が停泊したのは十日|程《ほど》前のことであった。岩松、音吉、久吉たちは、生まれてはじめて、何十門も大砲のある軍艦を見た。三本マストに無数の帆をかけてイーグル号は、威風堂々とコロンビア河を遡《さかのぼ》って来たのだ。近づくその船は、三人には小さな城かと見えた。長さ五十三メートル、幅十四メートル、千七百二十三トンのイーグル号は、三人にとって未《いま》だ曾《かつ》て見たことのない巨大な船であった。 「こんな大きな船があったのやなあ。千石船《せんごくぶね》より大きいでえ!」 「千石船とは比べものにならん。長さも幅も倍はあるでな」 「と言うことは、千石船の四つ分ということやな」 「いやいや。高さもある。もっと大きいでえ」  村の人々と、河岸に並んで、三人はそんなことを語り合った。ユニオン・ジャックをひるがえして近づいて来たそのイーグル号が、自分たちを乗せて行く船とは、その時三人はすぐには気づかなかった。自分たちが乗る船にしては、余りにも立派過ぎたからだ。  昨日、三人はマクラフリン博士に呼ばれて、イーグル号の艦長に引き合わされた。三人はそこで、いよいよ日本に向けて旅立つことを知らされたのである。そして今日、最後の授業を受けて帰る三人に、それぞれトランクが渡されたのだった。古いが、がっしりした、四角い黒い大きなトランクだった。  生徒たちは教師と共に別れの歌をうたって、送ってくれた。有名なジョン・バンヤン作「天路歴程《てんろれきてい》」の中の詩にもとづく讃美歌《さんびか》で、曲はイギリスの伝統的なメロディである。 [#ここから2字下げ] 勇み進まん憂《う》き日にも 強き心失わず…… [#ここで字下げ終わり]  英語の歌詩のそのすべてを三人は知らなかった。が、今までに二度|程《ほど》、人を送る時にうたった歌だと記憶している。 [#ここから2字下げ] 主《しゆ》のみまもりわれにあり いざや進まんその旅路 [#ここで字下げ終わり]  子供たちの澄んだ歌声がひどく胸に沁《し》みた。子供たちは一心にうたった。が、三節目に入る頃《ころ》に、ラナルドの声が泣き声に変わった。と、その涙に誘われて、次々に子供たちの声が涙にくもっていった。混血の子供たちは、白人ではないこの三人を愛していた。わけてもラナルドは、音吉に対して、並々ならぬ敬愛の念を抱いていた。音吉の姿を見ると、ラナルドはどこにいてもすぐに飛んで来た。遠い日本という国から、長い年月、波にもまれてやって来たこの三人は、子供たちにとっていよいよ尊敬すべき存在になっていた。  子供たちが泣き出すと、音吉も久吉も涙をこぼした。岩松でさえ、じっとシャンデリアを見上げたまま唇《くちびる》を噛《か》んでいた。  こうして帰って来て、今、三人は旅の仕度《したく》を始めたのだ。 「トランクって、頑丈《がんじよう》なもんやな」  久吉は呆《あき》れたような語調で言い、 「俺には、柳行李《やなぎごうり》のほうが、軽くてええような気がするわ」 「けどな久吉、これだって便利やで。ポケットも付いているし、鍵《かぎ》もかけられるし、持つ所もあるでな。それに腰かけの代わりにもなるわ」 「けど、風通しが悪いわ」  言いながらも、二人は手を休めずに、次々と物を詰めこんで行く。レザー、櫛《くし》、ノートブック、鉛筆、パジャマ、シャツ、ジャケツ、ズボン、歯《は》刷子《ブラシ》、どれもみな、ここに来て与えられたものばかりだ。 「フラッタリーを出る時は、何もあらせんかったのになあ。大変な財産や」 「そうやなあ。けど、岬でだって、干し魚やせんべいを餞別《せんべつ》にもろうたで」 「ああ、そやそや。そう言えば、頭の髪を結ぶひもももらったな。けど、丸裸と同じやった」  久吉が上機嫌《じようきげん》で小さなガラスの瓶《びん》を新聞紙に包み、トランクの蓋《ふた》の裏のポケットに納めた。 「とうとうギヤマンの土産《みやげ》を持って帰れるんやで。父《と》っさまや母《かか》さまが、驚くやろな。喜ぶやろな」  息子はとうに死んだと諦《あきら》めているにちがいない父母の喜びようを思いながら、久吉は言う。 「ほんとやな。夢みたいや。今日一晩ここに寝たら、明日は船の上なんやなあ」  音吉はダァ・カァからもらった石鹸《せつけん》を、きちんとタオルに包んでトランクに入れた。次は、パン焼きの職工からもらったフォークとナイフとスプーンだ。  音吉はふっと、宝順丸の上で、行李《こうり》の整理をしたことを思い出した。あれは確か、仁右衛門が死んだ後だった。水主頭《かこがしら》の仁右衛門は、オリンピア連山の雪の輝きを見て、 「おお! あれが陸《おか》か」  と、岩松の腕の中で声をふるわせたのだ。あの時岩松は言った。 「そうや、あれが陸や。待って待って、待ちくたびれていた陸や」 「そうか。とうとう陸が見えたか」 「うん、見えた。あとひと息で陸に上がるんや」  岩松の言葉に、仁右衛門は何も言わずに、幾度も幾度もうなずいた。その目尻からひと筋流れていた涙を、音吉は思い出す。寝床《ねどこ》に戻《もど》った仁右衛門は、 「よかったのう」  と、ひどくやさしい声で言った。そしてそれから半刻《はんとき》と経たぬうちに、仁右衛門は死んだ。 (あれから、三人きりになってしまったんや)  そして、死んで行った仲間たちの行李の整理をしたのだと思い出す。仁右衛門の行李の底には、赤子のよだれかけがあった。吉治郎の行李の中には鳩笛があった。鳩笛もよだれかけも、故里に持って帰ってやろうと思っていたが、結局は何一つ持って来ることはできなかった。思い出すと、言いようもなく淋《さび》しくなる。 (岬のお骨も、あのままやな。かわいそうにな)  いよいよ日本に向けて出発すると思うと、喜びと共に、様々の思い出も交錯する。  岩松はさっきから、黙りこくったままだ。岩松は岩松で、別のことを考えていた。今、岩松の手には、マクラフリン博士からもらった香水と、小さな犬の縫いぐるみがあった。香水は妻の絹に、犬の縫いぐるみは、子供の岩太郎にと、博士は手渡してくれたのだ。岩松はこの香水が、絹の手に渡る時の光景を想像してみた。犬の縫いぐるみが、岩太郎の胸に抱かれる有り様を思ってみた。が、ふっと岩松の胸をかすめる思いがあった。 (ほんとにこの土産《みやげ》を、手渡すことができるか、どうか)  と言う思いだった。それは決して故《ゆえ》のないことではなかった。岩松は、ここから日本まで、いかに遠いかを知っている。たとえ千石船《せんごくぶね》とは比較にならぬ大きな船とは言え、あの途方もない茫々《ぼうぼう》たる海の中では、結局は木の葉のようなものだ。嵐の海は凄《すさ》まじい。いつ嵐が船を呑《の》みこむか、わからないのだ。  が、岩松の胸に不安がきざしたのは、もっと根深い所に原因があった。 (大砲《おおづつ》を何十も持っている。と言うことは……要するに戦《いくさ》船や)  戦船と言うことは、いつ、どこで戦に巻きこまれるか、わからぬと言うことだと岩松は考える。そして何よりも、岩松が不安なのは、戦船に乗っている者は、つまりは自分たちと階級がちがうということであった。 (言うてみれば、みんな侍《さむらい》や)  岩松は、大小二本の刀を腰にさした日本の侍たちの姿を思い起こす。侍が来ると、人々は遠くのほうから、身を縮ませていた。いつ難題を吹きかけるか、わからないのだ。いつその刀に手がかかるか、わからないのだ。第一、侍たちは岩松たち舟乗りなど、人間扱いにはしなかった。 (国柄がちがうと言うても、侍が威張るのは同じやろ)  そんな人間ばかりが乗っている船に、自分たち三人が、何か月も共に住まねばならぬかと思うと、岩松は気重《きおも》にならずにはいられなかった。岩松は自分の気性《きしよう》を知っている。どこかで堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れそうな不安があった。むろん、砦《とりで》の中にも軍人がいた。だが、数えるほどの軍人たちは、ふだんは村人たちと気軽に話し合って生きている。その姿は見ているものの、それは仮の姿のように岩松には思われるのだ。 (それに……大砲を積んだ船が、日本に行ったとしたら……)  これは大ごとになる。それを思うと岩松は一層不安になる。日本のお上《かみ》が、穏やかに自分たちを引き取ってくれるかどうか。岩松は、漂流した者が日本に帰った時に受ける、取り調べのきびしさを聞いている。帰国した者は何か月も牢《ろう》に留め置かれ、取り調べが一年にも及ぶと聞いている。とにかく、親切なミスター・グリーンや庇護者《ひごしや》であるマクラフリン博士のもとを離れて、誰一人知った者のないイーグル号に乗船するのだ。久吉のように喜んでばかりはいられないと、岩松は窓の外に目をやった。霧がやや薄らいで、外を行く人の姿が、墨絵のように見えた。 「舵取《かじと》りさん、何を考えてる?」  久吉の声に、 「いや、何……いよいよこの部屋からお別れかと、思うていたところや」 「そうか」  久吉は言ったが、音吉は、岩松は何か別のことを考えていたにちがいないと、やや不安な思いで岩松を見つめた。      二  岩松たち三人は、マクラフリン博士の食前の祈りの間、神妙《しんみよう》にうつむいていた。今夜はフォート・バンクーバーでの最後の晩餐《ばんさん》である。三人は、グリーン夫妻と共に、マクラフリン博士に招待されたのだ。顔見知りの軍人や、今回イーグル号でフォート・バンクーバーに来た士官も、数人席につらなっていた。  音吉は、トランクに荷を詰めながら久吉が言っていた言葉を思い出していた。 「船に乗ったら、サンデーのスクールもチャーチもないやろ。そう思うとスーッとするわ」  久吉はそう言ったのだ。 (ほんとやな。久吉の言うとおりや)  音吉は今、そう思っていた。キリシタンのことを学ばなくなれば、それだけ心の荷が軽くなる。船に乗ることは、それだけでも喜ばしいことだった。しかも船は、一日走れば一日故里に近づく。フォート・バンクーバーにじっとしていては、近づきようはないのだ。 (舵取《かじと》りさんは浮かん顔をしていたけど、とにかく帰れるのや)  博士の祈りが終わり、いつしか食事が始まっていた。初めてこの広間で食事をした日のことを音吉は思った。あの時、皿の両側にピカピカ光るフォークやスプーンやナイフがずらりと並んでいるのを見て、驚いたものだった。 (日本では一ぜんの箸《はし》だけで、魚でも味噌汁《みそしる》でも食うことができるのに……)  最初の頃《ころ》はつくづくそう思った。料理が変わるごとに、スプーンを使ったり、フォークを使ったりした。フォークを左手に持って肉を切ることなど、日本では決してしなかった。それにスプーンやフォークは使うのに順序があった。何もかもわからないことばかりだった。それが、半年経つうちにすっかり馴《な》れた。 (半年もいたんやなあ)  改めてしみじみと音吉は思う。 (ここには蝮《まむし》のようなアー・ダンクはおらなんだし、舵取《かじと》りさんと仲よくなる女もおらなんだし……)  穏やかな日々であったと音吉は思う。久吉は時々夜中に大声で、 「あーっ!」  と、うなされることがあった。 「どうしたんや!?」  と、揺り起こすと、 「ああ、夢か。蝮の鞭《むち》がびゅんびゅんと鳴りながら追いかけて来てよ」  と、その度に言ったものだった。しかしアー・ダンクのような男は、ここにはいなかった。 (みんなに大事にされたんやなあ)  音吉は思いながら、スープを飲み終えた。音を立てずにスープを飲むことも、すっかり身についていた。マクラフリンはイーグル号の士官たちと何かしきりに語っていた。それはどうやら自分たち三人のことらしかった。時々同意を求めるように、博士は三人のほうを向いて、 「ね、それでいいだろう」  とか、 「そういう希望だったね」  と言ったが、船長や士官との会話はひどく早口で、聞きとり難かった。 「なあ、音。とにかく帰れるんや。よかったなあ」  食事が終わった時、久吉がつくづくと言った。と、そこに、大きな地球儀が運ばれて来た。マクラフリン博士は、 「イワ、キュウ、オト」  と三人に呼びかけ、 「ここがフォート・バンクーバー。ここがコロンビア河。ここが太平洋」  と、ゆっくりと言った。三人は一抱えもある大きな地球儀をみつめながらうなずいた。マクラフリン博士の、金色の毛の生えている指は、太平洋を徐々に移動しながら、地球儀を静かにまわした。そして、 「ここが日本」  と言った。三人は大きくうなずいた。既《すで》に地球儀は幾度か見せてもらっている。 (とにかく、この大海を渡って、日本に帰るんや)  音吉は喜びをおさえかねた。 「しかしね、イーグル号は先ずここに寄る」  博士はサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)を指さした。三人はうなずいた。そこに寄ってそれから日本に行くのだと思った。が、博士の指はそこから南アメリカの先端ホーン岬をまわり、大西洋のほうに逆|戻《もど》りして行った。 (どこへ行くんやろ?)  訝かる三人にまなざしを向けて博士は小さな島を指さした。 「ここがイギリス。ロンドンに寄ります。そして、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を回って、マカオに寄り、それから日本へ行くのです。一年以上はかかるでしょう」  三人は顔を見合わせた。 「何で真っすぐに日本へ行かんのや」  がっかりしたように久吉が言った。説明が終わると、みんなはオルガンに合わせて歌をうたい始めた。今朝《けさ》、学校で生徒たちがうたってくれた「神共にいまして」の歌であった。 [#改ページ]   イーグル号      一 「カーン カーン カーン カーン……」  船首甲板《フオクスルデツキ》で、時鐘《じしよう》が鳴った。舷側《げんそく》にもたれて立っていた音吉と久吉は何となく顔を見合わせた。今朝《けさ》、フォート・バンクーバーを出てから、時鐘を幾度か聞いた。今朝初めて聞いた時、二人はその大きな音に驚いたものだが、今は少し馴《な》れた。霧を含んだ風が頬《ほお》をなでる。風はかすかだが、三本マストから出ている無数のロープが絶えず軋《きし》んでいる。 「憎い霧やったなあ」  久吉の言葉に、音吉も、 「ほんとや。フォート・バンクーバーとゆっくり別れを惜しむこともできんかったわ」  と、笑った。それでも今朝は、昨日より霧がうすかった。今、広いコロンビア河の両岸が、霧の中におぼろに見える。 「晴れていたら、あの富士山によう似《に》たマウント・レイニアが見える筈《はず》やのになあ」 「そうやな。けど、今度こそ本当の富士山が見れるんや。ほんもののな」 「そうや。ほんものの富士山が見えるんや。ま、半年も、一年も先のことになるかも知れせんけどな」 「けどなあ、久吉。俺、つくづく思うんやがな。フォート・バンクーバーでは、ほんとにみんなに親切にされたな」 「そうやな。ブレッド焼きのおっさんもええ男やったし、ドクター・マクラフリンもほんとにやさしかった」 「俺たち、小野浦にいた時は、フォート・バンクーバーがあるなんて、思いもせんかったわな。あの海の向こうに、あんな国があって、親切な人がいるなんて、夢にも思わんかったわな」 「思わん、思わん。俺たちの思うことは、父《と》っさまに叱《しか》られんようにとか、隣近所に笑われんようにとか、せいぜいそんなことやった」 「俺もそうや。海の向こうはおろか、隣村のことも、よう考えたことがあらせん」 「だがな音、俺は隣村のことやったら、考えたで。ほら、若い衆が揃《そろ》って、よその村に夜這《よば》いに行ったやろ」  久吉は屈託《くつたく》なく笑った。 「また冗談言って……。なあ、久吉。俺な、今さっき思っていたんやが、よう考えてみると、フラッタリー岬でも、せわになったわな」 「せわになった? そうかな。牛馬みたいに、蝮《まむし》の奴《やつ》に鞭《むち》で殴《なぐ》られたやないか」 「殴られてもなあ久吉、やっぱり人間同士や。飯《めし》も食わせてくれたし、寝る所もつくってくれた。着る物だって、一枚っきりでも、とにかくもろうたでな。これが獣やったら、ああはいかんで。熊や猪《いのしし》ではな。人間同士は、やっぱりありがたいもんや」  音吉は本当にそう思っていた。今、河口に向かって進んで行く軍艦イーグル号の中央|甲板《かんぱん》にあって、音吉はしみじみとそう思っていたのだ。流れる霧に陸地は見えがくれしていたが、とにかく半年住みなれたフォート・バンクーバーを離れた。この地つづきに、北に何百キロか行けばフラッタリー岬がある。そのフラッタリー岬での辛《つら》い生活も、今となっては懐かしく思われてくるのだ。あれが、人間のいない所に打ち上げられたとしたら、果たして三人は生きのびることができたか、どうか。 (人間同士って、ありがたいもんやな)  音吉はしみじみそう思った。蝮《まむし》と綽名《あだな》したアー・ダンクでさえ、今は憎めないような気がした。 「でっかい船やなあ」 「ほんとにでっかい船や」  二人の背後を、水兵たちが絶えず行き来している。艦長の話では、三人が退屈しないように、そのうちにそれぞれの部署に配置するということであった。それぞれの部署と言っても、イーグル号は軍艦である。水兵たちの仲間に入ることはできない。大工か、料理人の手伝いをさせられるにちがいないと、三人は思っていた。 「どんな生活が始まるんやろな」  音吉は改めて三本のマストを見上げた。角帆《かくほ》一枚の千石船《せんごくぶね》とはちがう。それぞれのマストに帆桁《ほげた》が幾本も大きく張り出されている。水兵たちはその、目のくらむような高い帆桁に、綱梯子《つなばしご》を伝って登って行く。どの水兵の尻も、西瓜《すいか》を二つ入れたように、張り切っている。自分たち日本人たちより、実の入ったような体だ。潮焼けした逞《たくま》しいその顔や入れ墨をした腕にくらべると、しばらく陸に上がっていた音吉たちはひどくひ弱《よわ》に見えた。しかし岩松は、船に乗りこんだ途端に言っていた。 「俺はやっぱり、根っからの船乗りやな。何や心が躍《おど》るで」  そう言って、一人どこかに姿を消した。岩松のことだ、恐らくこのイーグル号の艦内を、隅《すみ》から隅まで、その目で確かめようとしているのにちがいない。 「音、俺たちも、船の中を見に行こか」 「そうやなあ。けど、よそさまの船だでな」 「ま、そうやな。大砲がたくさんあって、何や怖《こわ》いわな」 「ほんとや。知った人もあらせんしな」  船の中には、顔見知りはほとんどない。誰も彼も精悍《せいかん》な男ばかりだ。目の鋭い男もいる。鷲《わし》のような鼻の男もいる。グリーンやマクラフリンを見馴《みな》れた目には、荒々しい海の男たちばかりだ。  イーグル号は、大砲を七十四門備えた元三級軍艦であった。それが五十門艦に改装されて、今は四級軍艦である。イギリスの軍艦は、大砲の数によって級が決まっていた。百門以上の大砲を積み三層の砲甲板《ほうかんぱん》を持った軍艦が第一級艦で、九十門から百門までが二級艦であった。イーグル号は四級艦であったが、更《さら》に五級、六級と下があった。六級は二十門から三十門を備えていた。 「エゲレスの船は、大したもんやなあ。船底をぐるりと銅で巻いてあるんやで。音」 「そうやってな。ミスター・グリーンが言ってたわ。船底が海水で腐らんように、虫にも食われんように、銅で巻いたんやってな。けど最初は鉄の釘《くぎ》で打ったで、そこから腐れが出たんやってな」 「ふーん。それは知らんかった。じゃ、今は何の釘や」 「銅の釘や。銅はええもんやな。千石船《せんごくぶね》にも、銅板を使っていたわな」  音吉は懐かしそうに目を細めた。白木に緑青《ろくしよう》の吹いた銅板を取りつけた千石船の船体は美しかった。今、見上げる三本のマストの色は、何《いず》れも茶色がかった黄色だ。  長さ百七十四フィート、幅四十フィートのイーグル号は、二層の砲甲板《ほうかんぱん》から成っていた。大砲を五十門も積んでいるために、水兵たちは、大砲の上に、ハンモックを吊《つ》って寝るのだ、と音吉たちは聞かされた。寝床だけが吊るされているのではない。この船では、テーブルも椅子《いす》も吊り下げるようになっていた。水兵たちは、そこで食事をするという。このイーグル号は、何年か前から就役艦《しゆうえきかん》ではなくなっていた。だが就役指令書が出ると、こうしてアメリカまでも航海することがあった。 「どの順に偉いんか、わからせんな」  二人は高い船尾甲板《コーターデツキ》のほうを見た。千石船で言えば櫓《やぐら》のあるほうである。そこには艦長《キヤプテン》、航海長《マスター》、副航海長《マスターメイト》、海尉《ルフテナント》などが、かたまって何か話し合っていた。 「そのうちにわかるわ、音」  久吉はのんきに言って、 「それはそうと、とうとう船に乗ったでな、もうスクール・チャーチには行かんでもええのや。助かったなあ」 「そうやなあ。もうキリシタンの話は聞かんでもええんやもなあ」  音吉もうなずいた。 「それだけでも、気分がせいせいや。あとは、船が一尺進めば、一尺だけ日本に近づくんや。音、気楽にするとええで」  そう言った時だった。突如《とつじよ》霧が晴れて紺青の海が広がった。 「うわーっ! 海や! 久吉、海や!」 「ほんとや! 海や。しばらくやなあ、海は」 「ほんとにしばらくやなあ」 「生まれてからこのかた、海を見なかった日はなかったのに、もう何か月も海を見んで、過ごしていたわ」  音吉は涙がこぼれそうであった。自分たちの命を脅《おびや》かした海ではあったが、この海のつづきに日本があると思うと、音吉はたまらなかった。      二  岩松たち三人がイーグル号に乗りこんで、早、二十日は過ぎた。出発した当時とちがって、毎日、夏のように暑い日がつづいた。船はサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に向かっていた。潮流と風の関係で、船は一旦《いつたん》南に下り、それからサンドイッチ諸島に向かって迂回《うかい》していたのである。  岩松は今、船底に一人降りていた。船底には、食糧や、飲料水を入れた樽《たる》、そして、バラスト(船を安定させるための鉄塊《てつかい》など)、砲弾などが積みこまれていた。湿っぽい空気の充満している船倉だ。どこかで鼠《ねずみ》の声がした。銅板でくるんだこの船底にも、アカはじわじわと、僅《わず》かながらもたまっていた。巨大な海は、どんな些細《ささい》な隙間《すきま》からでも、その大きな水圧を持って、浸入しようとしているのだ。だから上甲板《じようかんぱん》にはチェーンポンプが四台あって、一日に幾度かは船底のアカを汲《く》み上げていた。  船に乗りこんで三日後、岩松は大工《だいく》の係に組み入れられた。音吉は調理人の下働きとなり、久吉は雑役《ざつえき》専門となって、手押しポンプを押したり、荷物を運んだりした。三人が顔をあわせるのは、食事の時と、夜寝る時だけだ。  岩松は今、頼まれた倉庫の床を、新しい板で補強していた。岩松は、自分の打つ釘《くぎ》の音を聞きながら、思うともなく熱田にいる家族のことを思っていた。立てつけの悪いあの戸口の戸や、開けてすぐの土間がありありと目に浮かぶ。次の障子《しようじ》をあければ、養父母と絹と、岩太郎がいるのだ。が、今、不意に岩松の胸に銀次の顔が浮かんだ。  同じ長屋の奥に住んでいた、顔立ちの整った銀次の、愛想のよい笑顔が、あまりにも鮮やかだった。 「畜生っ!」  岩松の釘を打つ音がひときわ高くなった。 (故里を出てから、丸二年……銀次の奴《やつ》が入りびたったとしても……)  咎《とが》める訳にもいくまいと、岩松は思った。年寄りと子供を抱えた絹が生きていくためには、銀次は必要な存在かとも思う。  時々こんな思いに襲われるのは、この船に乗ってからだ。帰る当てのなかった時は、これほどの気持ちにはならなかった。 (妙なもんだ)  岩松は暗い笑いを浮かべた。船がゆるやかに縦に揺れている。 (帰って行っても、もし絹が、銀次と一緒になっていたなら……)  思っただけでも、岩松は惨《みじ》めな気がした。たとえ熱田に上陸しても、まっすぐわが家には帰れぬと思う。しばらく様子を見て、もし絹が一人でいたなら、家に帰っていく。しかし、再婚していたら、顔を合わさずに熱田を去るより仕方がないと思う。だが去るにしても、せめて物蔭《ものかげ》からでも絹や岩太郎を見たい。養父や養母を見たい。もし許されるなら、自分の無事な姿をひと目見てほしいと思う。そして一言でも、言葉を交わしたいと思う。 (もう一度会えさえすれば、死んでもいい)  ふっと、岩松はそう思った。そしてなぜか自分は、会ったらすぐに死ぬような気がした。 (ひと目でいいんだ。ひと目で……)  そう思いながら岩松は、 「何だ、だらしがねえ」  と、口を歪めて自嘲《じちよう》した。  仕事を終わって、岩松は階段を上がって行った。急な階段だ。  船倉の上はロウアー・デッキと呼ばれる最下層|甲板《かんぱん》で、ここにも火薬庫や食糧庫があり、帆を納める倉庫もあった。  岩松はうつむいたまま、更《さら》に階段を登って行った。ガン・デッキだ。大砲が両舷《りようげん》にずらりと並んでいる。ここに来ると、なんとなくきな臭い。ここしばらく戦《いくさ》はなかったが、乗組員たちが航海に倦《う》み疲れてくると、突如《とつじよ》として艦長は、訓練を命ずるのだ。訓練は種々あった。毎朝の甲板掃除《かんぱんそうじ》できれいになっている甲板を、更《さら》に一斉《いつせい》に磨くこともあった。マストの帆を不意に外《はず》して取り付ける訓練もあった。高さ六十メートルもある帆桁《ほげた》まで駈《か》け登って、帆を上げたり下げたりするのは、非常に危険な作業であった。そしてまた、大砲を撃つ訓練を課せられることもあった。このきな臭いガン・デッキに、岩松たちは他の水兵たちと共に、ハンモックに揺られて寝た。船の動きと共に、ゆらゆらと揺られる経験は、岩松たちにはなかった。仰向けに寝ても、横に寝ても、初めのうちは何とも不安定で、眠りが浅かったが、近頃《ちかごろ》は馴《な》れた。  ガン・デッキに上がると、艦首の方で羊の鳴く声がした。乗組員たちは忙しげに走り廻《まわ》っていて、その声に目を向ける者もいない。片隅《かたすみ》の空間に二つの檻《おり》があり、片側に豚が五頭、羊が三頭いた。岩松はその檻に近づいて行った。羊が岩松を見て、再び鳴いた。 「腹が空《す》いたか」  岩松は声をかけた。この豚や羊は、水兵たちの口には入らない。艦長や士官たちの私物であった。 (食われるのか)  岩松は心の中で呟《つぶや》きながら、羊のやさしい目を見つめた。女を思わせる目であった。士官たちは、この豚や羊の他に|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》も飼っていた。船の中に飼われている※[#「奚+隹」、unicode96de]は、時々思い出したように卵を生んだ。艦内で出る毎日の献立は、大体決まっていた。塩漬けの豚肉、乾パンである。バターやチーズはめったに出なかった。士官たちだけが私物として買い込んでいた。さらに士官たちは、缶詰《かんづ》めを切り、ビン詰めの口をあけることもあった。  岩松たちが初めて缶詰めを食べたのは、グリーンの家においてであった。 「これはフランス人が発明したものです」  缶詰めの作り方を聞いて、岩松たち三人は驚いたものである。その時音吉が思わず言った。 「なあ、舵取《かじと》りさん。日本にも缶詰めやビン詰めがあったら、船の中で助かったのになあ」  炊《かしき》をしていた音吉の実感だった。炊頭《かしきがしら》の勝五郎が、ほとんど米しかない漂流の毎日の中で、どんなに苦労したことか。つくづくと三人は、異国の進歩に舌を巻いたものだ。艦内には重要な艦内飲料としてライムジュースが用意されていた。ライミー(ライムジュースを飲む人)とは、英国水兵の代名詞でもあった。それほどに、このレモンに似た果物をしぼってつくったジュースはよく飲まれた。これは壊血病《かいけつびよう》予防の貴重薬《きちようやく》でもあった。  羊のやさしい目を見ると、岩松はいつも、あの人形劇を思い出す。スクール・チャーチで見た人形劇だ。谷底に迷いこんだ羊を助けるために、険しい崖《がけ》を降りて行ったジーザス・クライストという男の姿が思い出される。しかもその男は、ゴルゴダという丘で十字架にかかった。子供の喜ぶ人形芝居だというのに、なぜか三十歳の岩松の心にも沁《し》み入る物語だった。 (それにしても、驚いたな)  岩松はふっと笑った。イーグル号に乗って初めてのサンデーの朝だった。三百人以上の水兵たちと共に、岩松たちもスパーデッキ(上甲板《じようかんぱん》中央部)に集められた。何が始まるのかと思っているうちに、まず艦長の訓話が始まった。それが終わると、驚いたことに礼拝が始まったのである。バイブルが朗読《ろうどく》され、祈りがあり、讃美歌《さんびか》がうたわれた。 「船ん中でも、チャペルがあるんや! たまげたなあ。逃げられせんわ、もう。キリシタンて、凄《すご》い信心《しんじん》やなあ」 「エゲレスの船には、船玉《ふなだま》さまは祀《まつ》っておらんのやろか」 「おらんようやな。誰も彼もキリシタン一本|槍《やり》みたいや」  その夜、ハンモックの中で、音吉と久吉がひそひそと歎《なげ》き合っていた。  岩松もまた、キリシタンの船に送られて日本に帰ることに、新たな危惧《きぐ》を抱かずにはいられなかった。      三 「師走《しわす》だってえのに、夏のようだな」  岩松の言葉に久吉がうなずき、 「ほんとやな。冬は寒いもんと決めてかかっていたのになあ。あったかい所もあるんやなあ」 「南はあったかいと聞いていたがな。わしも今が師走だとは信じられんわ」 「ま、師走とは言うても、日本ではまだ秋や。こっちの暦とはちがうがな」  岩松は日本を思うまなざしになった。今、上甲板《じようかんぱん》の上に、水兵たちが水割りのラム酒を飲みながら、日曜日の午後を楽しんでいた。昼に酒が出るのは日曜日だけだ。甲板の中央では、七、八人の男がダンスをしていた。腰をおとし、すり足になってリズミカルに踊る。見物の男たちが、岩松たちの知らぬ歌をうたっている。赤と白の縞《しま》のシャツを着ている者、半裸の者、様々だ。午前の礼拝の時にはいていたバックルつきの皮靴《かわぐつ》は、今は誰も脱いでいる。バイオリンを弾いている男もいる。それに聞き入りながら、話し合っている一団もある。岩松たち三人のすぐ傍《そば》にも、背中に傷のある半裸の男を中心にした、一団がある。日曜日はいつもこうして憩《いこ》いの時を持つのだ。 「まだ秋か。けどそろそろ椿の咲く頃《ころ》やな」 「そうやな。何や小野浦が目に見えるようやな、舵取《かじと》りさん」 「椿が咲けばすぐに正月や」 「正月なあ」 「正月と言えば、餠《もち》を思い出すなあ。ああ早く餠が食いたい」  音吉が言うと、久吉が言った。 「餠もええが、わしは餠より、魚が食いたいわ。この船に乗ってから、魚を食うたことないでな。うようよ泳いでいる魚を見ても、誰も釣《つ》ると言わんもな」 「それはなあ、久。三百人以上も人間がいるんやで、この船には。こんな大勢の人間に、僅《わず》かなコックでは手に負えせん。それに魚は生臭《なまぐさ》いでな。後始末が大変や。誰かそんなこと言っておったわ」  イーグル号には一人の料理長と、それを助ける何人かがいるだけだ。 「この船の食いもんと言うたら、毎日毎日固いブレッドと肉や。江戸へ行く千石船《せんごくぶね》のほうが、食いもんはましやったな」  千石船では味噌汁《みそしる》も出た。魚も出た。野菜もあった。献立に変化もあった。乗組員が僅か十四人だったから出来たことだ。が、イーグル号では乾パンを一日に一人一ポンド。塩漬けの牛肉を火曜、土曜に二ポンド。豚の塩漬けを日曜と木曜に一ポンドずつ与えられるだけだ。塩漬けと言っても、舌の曲がる程《ほど》塩辛く漬けた肉を湯に戻《もど》したものだ。三人には、牛も豚も、一様に同じ塩漬けに思われた。そして日、水、金には、豆類を皿の上に少々、オートミルと砂糖が月、水、金に少々、バターはほんのひとなめする程度と言うのが船上でのおおよその食事だった。  だから三人には、肉より魚が食いたかったし、乾パンより米が食いたかった。炊《た》きたての米の飯があるだけでも千石船《せんごくぶね》の食事の方が、はるかに三人には贅沢《ぜいたく》に思われた。 「陸《おか》はやっぱり、船よりええな。フォート・バンクーバーでは、牛の乳も飲めたし、ポテトの塩うでも、焼き立てのパンも食えたでな」 「しかしこの船に乗った時は驚いたなあ。茶碗《ちやわん》も皿も自前《じまえ》やからなあ」 「そやそや。千石船には、ちゃーんと盆も箸《はし》も皿も椀《わん》も備えつけてあったわな」 「ほんとや。グリーンさんの家では、スプーンやフォークやナイフを使って食事をしたが、水兵たちの中でフォークやスプーンを持っている者は何人もあらせんで」  確かに水兵たちのほとんどは、スプーンもフォークも持っていなかった。みんな手づかみだった。ナイフやフォークを持っているのは下士官《かしかん》以上で、水兵たちの多くは、与えられた一塊《いつかい》の肉を口に銜《くわ》え、ジャックナイフで切りながら食うのだ。固い乾パンは、もそもそとして食いにくかったが、スープは全く当たらない。コックが柄杓《ひしやく》に一杯幾らと言って売りに来る。これはスープと言っても、塩漬けの豚肉をお湯で塩抜きした時の、脂の浮いたお湯の上澄みだ。水兵たちは固い乾パンをそれに浸して食べるのだ。これがコックの小遣《こづか》いとなっていた。  水兵たちの食器が私物であるように、むろん衣服も私物だった。赤と白の縞《しま》の袖《そで》なしシャツに、古い帆布《はんぷ》で作ったチョッキを着、ズボンもズック製のものだった。だがこう暑いと半裸になる者が多い。  不意に、傍《かたわ》らで怒声がした。音吉と久吉は驚いて、怒鳴った男を見た。だが岩松はラム酒をゆっくり飲みながら、遠くに目をやっていた。 「どいつもこいつも意気地《いくじ》なし奴《め》が!」  怒鳴ったのは、背中に傷のある男だった。両腕には髑髏《ドクロ》の入れ墨のある男だ。音吉たちがひそかに「ドクロ」と呼んでいた男だ。目が鋭く、いつも口をへの字に曲げている。だがなぜか、人気のある男だった。この男は、飲むとよく大声を上げるのだ。いや、飲まない時でも、鋭い語調で何か叫んでいることがある。 「ええ? そうじゃねえか」  その男サムは、まわりにいる水兵たちの顔を睨《ね》めまわした。みんなは手を叩《たた》く。この男が何か言うと、みんなは必ず手を叩くのだ。 「ふん、艦長《キヤプテン》が何だ。士官が何だ。俺たちも同じ人間さまだぜ。目が二つ、耳が二つ、口がひとつだ。一体どこにちがいがあると言うんだ」  甲板の中央では、ダンスをする男が増えた。メイン・マストを境に、船尾のほうは士官たちの甲板《かんぱん》であり、平水夫たちはメイン・マストより前の甲板にいる。だから水夫のことをビフォー・ザ・マストと呼ぶ。船首に近いこのあたりで、少しくらい大声で怒鳴っても、後尾甲板まで声は届かない。 「胃袋にしても、おんなじだあ。彼奴《きやつ》らだけの胃袋が、血の滴るビーフを必要としてる訳じゃねえ」  男たちはラム酒を口に楽しそうに笑った。 「大きい声じゃ言えねえが……」  不意にサムが声を落とした。みんなが前屈《まえかが》みになって、サムの声に耳を傾けた。 「三百人の人間が、十人ばかりの男たちに怒鳴りまくられ、気合棒《きあいぼう》で殴《なぐ》られている。おかしな話よ。奇妙な話よ」  水兵たちは顔を見合わせてうなずき合った。誰も彼も、気楽に過ごせるのは、この日曜日の午後だけだ。あとの六日は怒声、号令、気合棒が一同を脅《おびや》かす。 「サムの言うことは、ほんとだぜ。あのヤード(帆桁《ほげた》)を見ろよ。あのヤードに絞首刑《こうしゆけい》になって吊《つ》り下げられた水兵が、何人いたことか。ま、この頃《ごろ》はひどい鞭打《むちう》ちも、絞首刑も少なくなったがなあ」 「何しろ、船っちゅうのは監獄も同然よ。逃げたくても、まわりは海だ。果てしない海だ。逃げだしてもくたばるに決まってる。柵《さく》がないだけの、完璧《かんぺき》な監獄よ」  ドスの利いたサムの声に、音吉たちも耳を傾けていた。言葉の端々で、言っていることの大体は見当がつく。 「艦長《キヤプテン》にかかりゃ、誰も彼も同じさ。ほら、あのブラウンという若僧の士官候補生よ。ロンドンから来る途中、時化《しけ》があったろう」 「ああ、あん時なあ。船酔いの罰《ばつ》に、あの若僧の奴《やつ》、マストの見張り台に何日も縛りつけられていたっけ。あれは辛《つら》かったろうなあ」 「なあに奴らが罰を食らうのは、結構な話よ。俺の知ってる奴なんぞ、たった二歳で海軍に登録してよ」 「たった二歳で?」  顔の異様に長い男が目を丸くした。 「そうよ。とにかく海軍に登録した年数が長けりゃ進級が早いんだ。もちろん二歳だなんてことは隠してな」 「それで、その二つの餓鬼《がき》はどうした」 「何せ金持ちの餓鬼だ。袖《そで》の下を使って、親父が政治家に渡りをつけた。だから十七、八でポスト・キャプテンになったのさ」 「たった十七、八で!?」  みんなが一斉《いつせい》に声を発した。 「馬鹿馬鹿しいと思わねえか」  サムの言葉に、気の弱そうな男が、目をしょぼつかせながら言った。 「しようがねえね、サム。金持ちに生まれなかったのは、俺たちの罪だ」 「この馬鹿野郎が!」  サムの声が、ひときわ大きくひびいた。男はびくりと肩をふるわせ、 「だって、しようがねえもんなあ。俺の親父も、じいさんも、そのまた親父も、貧乏だったんだからなあ」 「それが何でお前の罪になるのよ」 「わからんが、そんな気がする」  男はかすかに首を横にふった。 「だから俺は腹が立つんだ。お前も、二つの時に登録された餓鬼《がき》も、おんなじ人間なんだぜ。俺たち水兵三百人が力を合わせりゃあ……」  言いかけた時だった。それまで横になって眠っていたように見えた五十過ぎの男が、 「サム、女の話のほうがいいな」  と、頭をもたげた。音吉たち三人は、その男の名を知らなかった。が、みんなはその男を「親父」と呼んでいた。鳶色《とびいろ》の髪、禿《は》げ上がった額、柔和《にゆうわ》な青い目、いつも微笑をたたえている唇《くちびる》、昔は逞《たくま》しかったであろう骨格の、この「親父」と呼ばれる男に、音吉が初めて声をかけられたのは、イーグル号に乗り込んで間もなくであった。便所へ行こうと上甲板《じようかんばん》に上がって来た時、 「アー ユー ゴーイング トゥー ヘッド?」 「親父」は言った。音吉は一瞬、 (頭に行くのか?)  と、不審に思った。親父は笑って、 「ヘッドとは便所のことさ」  と教えてくれた。千石船《せんごくぶね》では便所は船尾にあった。が、イーグル号の船尾には、艦長や士官たち専用の水洗便所があるだけで、水兵たちの使う便所は船首にあった。「ゴウ トゥー ヘッド(便所へ行く)」と、水兵たちの言う言葉が、それ以来音吉にわかった。  その「親父」が、サムが「俺たち水兵三百人が力を合わせりゃ」と不穏なことを言いかけた時、 「サム、女の話のほうがいいな」  と、おだやかに声をかけたのだ。 「女の話?」 「そうだ、女の話だ」  起き上がって「親父」は膝《ひざ》小僧を抱いた。 「わかったよ親父。おい、みんな。親父は女の話が好きだとよ。俺は女の話は苦手だ。誰かやってくれ」  サムは「親父」の言葉に逆らわなかった。「親父」は「俺たちの艦長」とも「もう一人の艦長」とも呼ばれていた。むろんそれは、水兵たちの中にだけ通ずる言葉であった。特別に見栄えのする風体でもない、さして強そうでもないこの男が、なぜ「俺たちの艦長」と呼ばれるのか、初め三人にはわからなかった。  艦長は艦内において絶対的な存在であった。艦長が一度|甲板《かんぱん》に現れるや、先に甲板に出ていた士官たちは素早く風下にまわった。艦長は、その士官たちにも、滅多に砕けた調子で口をきくことはなかった。たとえ夕食に士官たちを招いても、必要以上の親しさを見せなかった。艦長の威厳を示すために、これは効果のあるやり方だった。士官たちもまた、水兵たちの屯《たむろ》する甲板に来て、談笑するということはなかった。艦長たちと水兵たちとは別世界の人間であった。メイン・マストを境に、二つの世界が厳然として別れていた。だから音吉たち三人は、艦長と言えば絶対的存在だと思っていた。船に乗ってすぐに気づいたことだが、水兵たちは「イエス サア」という言葉を滅多に使わなかった。上級の者に対して答える時、「アイ アイ サア」であった。これは是非を言わず、絶対的服従を意味する返事であった。いつ気合棒《きあいぼう》が飛んでくるかわからない。それを恐れて、水兵たちは、「アイ アイ サア」と答えながら、梁《はり》に頭をぶつけぬよう背を丸め、波にふらつかぬようガニ股《また》になって素早く飛んで歩いた。が「親父」には「アイ アイ サア」は不要だった。それでいて、荒くれ共は、なぜか「親父」の言葉に従った。 「女か。女なんて、どれもこれも似たもんさ」  投げやりに答えたのは、もうラム酒に目の中まで赤くした三十過ぎの男だった。 「お前なんぞに女がわかるものか。フランスの女はいいぜ。小味だぜ」  いつも無表情な、仮面のような男が言った。眉毛《まゆげ》の上に傷跡があった。そこだけに表情があるような男であった。 「そうだ、そうだ。フランス女ときたら、胸がつんと天井を向き、尻は物を乗せられるほど突き出ている。いい出っ尻《ちり》よ」 「だがな、インデアンの女にはかなわんぜ。インデアンの女はこりゃあいい。肌《はだ》がなめらかだ」 「肌のなめらかさなら、黒人女がいいさ。まるで黒ジュスだ。俺は一夜に二人の黒人女と寝たことがあるが、ありゃあ忘れられんぜ」  女のことになると、みんなの口はなめらかになった。サムだけがつまらなそうに空を見上げていた。青い空が限りなくひろがっている。太陽が頭に暑い。そのサムの首がゆっくりと音吉たちのほうに向けられた。何となく音吉は目を伏せた。音吉はまだ、サムと口をきいたことがない。 「どうだい餓鬼《がき》。お前、女の話なんぞおもしろいか」  音吉と久吉は顔を見合わせた。射すくめるようなサムの目に、二人は答えることができなかった。岩松が言った。 「女の話はおもしろいに決まっているさ」  日本語だった。 「何? 何といった?」 「好きな女は少ないが、女の話はおもしろいさ」  今度は英語で言った。サムが立ち上がって、三人の傍《そば》に来た。 「ラム酒はうまいか」  岩松はコップをサムの前につきつけるようにして、 「まあな」  と答えた。コップには二分目しか酒は残っていなかった。サムと岩松の目がかちりと合った。お互いを認めるまなざしであった。 「お前の名前は?」  サムは岩松をあごでしゃくった。 「岩吉だ」  岩松は答えた。 (いわきち?)  音吉と久吉は、思わず岩松の顔を見た。岩松は岩吉ではない。なぜ岩松は今、岩吉と名乗ったか。が、二人はすぐに思い出した。ドクター・マクラフリンが別れの夜、こう言ったのだ。 「おときちもきゅうきちも、『きち』がついている。『きち』とはラッキーのことだったね。どうだね、いわまつもいっそのこと、『いわきち』と名を変えたらどうかね。スリー・ラッキーになるよ」  マクラフリンと別れてから、岩松はその夜二人に言った。 「松だって、めでたい名前だぜ。だがな、ラッキーは気に入った。またの名を『岩吉』としてもいいような気がする」 (やっぱり舵取《かじと》りさんも、ラッキーになりたいんやな)  その時音吉はそう思ったものだった。その「岩吉」という名を、岩松は今、突如《とつじよ》口に出した。 「いわきち?」 「いわはロック、きちはラッキー」 「ラッキーか。それはめでてえな。じゃ、お前らは?」  サムは久吉と音吉を、一度にあごでしゃくった。 「おときちです」 「わしの名はきゅうきち」 「何だ、三人共ラッキーか。ま、そうだろうな。難破してもアメリカまで辿《たど》りついたんだからな。だがな、この船が無事にロンドンまで着くとは思うなよ。お前らもアイ アイ サアだ。問答無用だ。下手《へた》をすれば気合棒《きあいぼう》でも鞭《むち》でも飛んでくるぜ」  口を歪めてサムは笑った。      四  波のうねりがまだ大きい。今日は一日船の横ゆれがひどかった。帆と帆の間を吹きぬける風の音が、一日鳴りやまなかった。金色の太陽が、水平線に近づきつつあった。先程《さきほど》まで紺青であった海が、次第にレモン色に変わっていく。岩吉、音吉、久吉の三人は今、下士官《かしかん》の一人につれられて、艦長室に行くところだった。 (何で、わしらを呼びつけるんやろ)  音吉は不安だった。輝く茜雲《あかねぐも》を見ながら、音吉は不安だった。艦長に呼ばれたのは、乗船の日だけである。以来今日まで、艦長を間近に見たこともない。まわりにいるのは水兵たちだけだ。艦長は遠い存在だった。艦長とは言葉をかわすこともなく、イギリスへの航海はつづくものと思っていた。それが急に艦長に呼ばれたのだ。 (艦長が、わしらに何の用事やろ。何も悪いこともしておらんつもりやけど)  あと幾日も経たぬうちに、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に着くと聞いていた。 (まさか、その島で降りろと言うんやないやろな)  不安だけが音吉の胸を占めていた。音吉は肩を並べて歩いている久吉をそっとうかがった。久吉も同じ思いなのか、音吉の顔を見て、首をかしげてみせた。が、岩吉は、いつものように、しっかりとした足取りで二人の前を歩いて行く。三人は今、ジャケツの上にコートを着、靴《くつ》を履《は》いている。盛装である。艦長の前に行くのに暑いなどとは言ってはいられなかった。  ミズン・マストの近くに来て、三人は階段を降りて行った。艦長室のドアの前に立つと、音吉の胸は大きく動悸《どうき》した。下士官が不動の姿勢をとって、ノックした。中から艦長の声がした。 「艦長、三人をつれて参りました」  下士官は緊張した声で告げた。 「よろしい。お前は下がっていい」  威厳のある声がして、艦長が三人を招き入れた。艦長の顔には微笑が漂っていた。音吉はほっとした。艦長が微笑をたたえていることは、滅多にない。日曜日の礼拝の時でさえ、艦長の眼光は鋭く光っていた。 「すわるがいい」  艦長が椅子《いす》を指さした。久吉がすぐに坐《すわ》った。岩吉は一礼し、音吉もそれにならって腰をおろした。  艦長のこの公室は艦長の寝室に隣り合わせで、四畳半|程《ほど》の広さだった。しかもその一部に大砲があった。軍艦である以上、艦長といえども、まず大砲に場所を譲らねばならなかった。が、うす暗いガン・デッキに寝起きしている三人にとって、この部屋はひどく明るく見えた。夕日がガラス窓越しに、部屋の中まで差しこんでいる。三人の腰かけている長椅子の下は、艦長の私物の格納庫になっていた。壁には艦長の外套《がいとう》が下がってい、その壁も、戦時には取り外《はず》されるようになっていた。ニレの木の一枚板でできたその壁を背に、艦長は三人を順々に見た。三人との間に大きなテーブルがあった。テーブルの足は固定されている。テーブルの所々に、コップをはめこむくぼみがあった。 「少しは馴《な》れたかね」  艦長は三人が聞きやすいように、ゆっくりと言った。 「はい、馴れました」  音吉が答えた。岩吉が黙っていたからである。 「そうか。この船に乗って、やがて一か月近くになるね」 「はい、一か月近くになります」  今度は岩吉が答えた。 「つらいことはないかね」 「別にありません」  岩吉がいつもの、やや沈んだ声で答えた。音吉は、 (この船は恐ろしい。千石船《せんごくぶね》とはちがいます)  と言いたいような気がした。水兵たち誰彼の肩に腰に、気合棒《きあいぼう》がふりおろされるのを見るのは辛《つら》かった。不快だった。恐ろしかった。フラッタリー岬の、アー・ダンクのふりまわす鞭《むち》よりも恐ろしかった。ただ、三人は水兵ではなく、ハドソン湾会社に依頼された便乗者《びんじようしや》であるということで、水兵とは一様には扱われなかった。が、それでも、艦の規律に違反することは、決して許されない。  毎日が緊張の連続であった。 「そうかね。馴《な》れたかね」  艦長はパイプのタバコに火をつけながら、何かを考える顔になった。 「君たちも、船乗りだったそうだが、兵隊ではないね」 「はい、只《ただ》の船員でした」 「なるほど。ところで、君の名は何と言ったかな」  艦長はパイプの煙をくゆらせながら、岩吉を見た。 「岩吉です」 「いわきち? その名を書けるかね?」 「はい、書けます」 「ほほう、書けるのかね」  艦長は紙と鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉は漢字で、自分の名を大きく紙に書いた。艦長は珍しそうに、岩吉の鉛筆の先を見つめていた。 「君も書けるか」  艦長が久吉に言った。 「はい、書けます。お茶の子さいさいです」  前半は英語で答え、後半は日本語で言い、久吉は自分の名をそこに記した。 「君も書けるかね」  艦長は最後に音吉を見た。 「はい。書けます」  静かに答えて、音吉はしっかりとした字でその名を書いた。  艦長は紙を手に持ち、しげしげと三人の書いた字を見つめていたが、その名を読むように、岩吉に言った。岩吉は、一字一字指でおさえながら、ゆっくりと読んだ。 「なるほど、この字を吉と読むのかね」  艦長は満足そうに、指でその字をなぞった。そして言った。 「日本という国は、大したものだね。三人が三人共、自分の名前を書けるとは。この船の水兵たちの中には、自分の名前を書けない者がたくさんいるよ」  そのことは、岩吉たち三人も知っていた。乗船して間もなく、何かのことで全員が名前を書くことになった。だが、半分以上の者が自分の名を書けず、そこに十の字を記しただけだった。十の字は名前の代わりであった。名前を書けぬ者が、なぜ十の字を書くのか、音吉には不思議だった。十の字はキリシタンのしるしだ。この国では、キリシタンのしるしを書けば、たとえ自分の名を書けなくても通用するのかと、驚いたものだった。 「少し、わしにも日本の話を聞かせてくれないかね」  艦長が背を椅子《いす》から離して言った。 「はい。どんなことでしょうか」  岩吉が答えた。 「まず、日本という国は、誰がおさめているのか、知りたいものだ」 「それはお上《かみ》です」  思わず日本語で答えてから、岩吉は、 「音、お上のことを、エゲレスの言葉で何と言う?」 「さあ。ヘッドやろか、ボスやろか」 「ヘッドと言ってもなあ、ちょっとちがうで」 「そや、徳川将軍と言うたらどうや」  久吉が言い、 「けど、みかどは何をしてるんやろ。みかどとお上はちがうわな」 「ちがうちがう。みかどはみかど、お上はお上や」 「でもな、艦長は、日本で一番偉いのは、誰やと聞いているつもりやないのか」 「そうかも知れせんな。舵取《かじと》りさん、みかど言うたらキングのことやな。お上は何やろ」 「お上はお上や。何しろこわいのはお上だでな」 「けど、お上のこと、この国の言葉で何と言うたらいいのかなあ」  岩吉がうなずいて、 「鉛筆と紙を貸して下さいませんか」  グリーンに教えられた丁寧《ていねい》な英語だった。艦長は驚いたように岩吉を見、快くうなずき、新しい紙と共に先程《さきほど》の鉛筆を岩吉の前に置いた。岩吉はその紙の一方に人の絵を書き、キングと言った。他の一方に同じく人の略画を書き、ミスター徳川と言った。そして、この徳川が国をおさめていると伝えた。 「ふーん。ミスター徳川。そしてキング」  艦長は不審そうにその名を呟《つぶや》いていたが、やがて言った。日本にも軍隊があるのかという質問であった。岩吉はちょっと首を傾けたが、 「はい、あります」  と言い、再び鉛筆を持って、旗指物《はたさしもの》を背に、馬に乗っている武士の姿を巧みに描いた。 「うーん。騎馬隊か。で、鉄砲はあるのかね」 「ございますとも」  音吉が大きな声で答えた。 「では、海軍もあるわけだね?」  三人は顔を見合わせた。英国の海軍にあたるものが日本にあるかどうか、判然とはしない。だが、武士が船に乗っているのを海軍というならば、それは昔からある筈《はず》だ。良参寺の和尚《おしよう》から、音吉と久吉は寺子屋で聞いたことがある。二百四十年も前にあった話だ。慶長五年|九鬼嘉隆《くきよしたか》が、伊勢湾を渡って小野浦に攻めて来た。何隻もの船に、数千人の兵をひきいて来たと聞いた。あわてふためいた村人はみんな山に逃げた。ある男は熊の皮をかぶって山に逃げ、以来熊の皮清兵衛という綽名《あだな》をもらったと聞いている。小野浦には牛皮という家があって、熊の皮変じて牛皮となったとも聞いている。久吉も音吉も、この話を聞いて、げらげらと笑ったものだった。だから、二百四十年前、既《すで》に海軍はあったと言っていいだろう。しかし、英国のように、こんな大きな軍船はない。第一、日本の国から他の国に出て行く船はない。が、それでも、戦《いくさ》船はあるだろうと三人は考えた。 「ふーん、海軍もあるのか」  艦長の頭の中に描かれた日本は、しかし現実の日本の姿ではなかった。 「軍人も多いのだな」 「はい」  うなずきながら岩吉は、その国その国を所領する大名を、何と説明してよいかわからなかったし、家老《かろう》や藩士《はんし》、足軽《あしがる》、仲間《ちゆうげん》のどこまでが、軍人というべきかもわからなかった。 「学校は?」 「スクール?……」  寺子屋はスクールかも知れない。そう思いながら、学校もあると答えた。 「その数は多いのかね」  艦長は身を乗り出すように言った。 「たくさんあります」  確かに寺子屋はたくさんあるのだ。 「なるほど。では工業は盛んかね」 「工業?」  何を聞かれているのか、三人にはわからなかった。 「何か機械はあるのかね」 「あります、あります」  久吉は勢いづいて答えた。久吉の頭の中に、機織《はたお》り機が目に浮かんだ。 「それで、食物は?……」  艦長は次々と衣食住について質問を発した。岩吉は面倒がらずに、図に描きながら、ていねいに答えた。  いつしか日はすっかり没し、窓の外の海は暗くなっていた。上甲板《じようかんぱん》のほうで、時折号笛《ときおりごうてき》が聞こえた。その抑揚によって、笛は様々な号令を水兵たちに伝えていた。当番兵が来て点《つ》けて行った鯨油《くじらゆ》の灯りが、時折大きくゆらいだ。 「ふーん。なるほど、米を食べて、髪の形をそんなふうにして、生活している国があるのか。家の中には靴《くつ》を脱《ぬ》いで入って行く。実に妙な国だねえ。いや、靴がないと言ったね」  今しがた岩吉の描いた下駄《げた》やわらじ、草履《ぞうり》、足駄《あしだ》などに目をやりながら、 「おもしろい国だ」  と、興味深げに大きくうなずいた。そして言った。 「さぞ、国に帰りたいことだろうね」  三人はうつむいた。言われるまでもなく、今、胸一杯に泣きたいほどの懐かしさを抱きながら、日本の様子を艦長に説明していたのだ。家のことを語れば、わが家の様子が目に浮かぶ。ちゃぶ台のことを語れば、食事のことが思い出される。胸の張りさける思いで、三人は三人それぞれの家族を思っていた。しかし艦長は、すぐに別のことを言った。 「ところで、昨日の日曜日の午後のことだがね。君たちはサムと話していたようだね」  さりげない言い方だった。見張り台の士官は、そうしたことにも充分に目を配っているのだ。 「はい」 「サムは何を話していたかね」 「さあ……」  岩吉は静かに艦長の眼を見つめながら、 「どうという話でもありませんが」  と言った。久吉は、 「あ、名前を聞かれたよ、それから……」  何か言おうとした時、岩吉が言った。 「そうそう、名前の意味や、酒のこと、女のことでした」 「ふーん。それだけかね」 「大体、そんなことでした」 「サムという男の背中に、傷のあるのを見たろうね」 「見た見た」  久吉が大きくうなずいた。持ち前の陽気な気性《きしよう》が、艦長の前でも現れ始めていた。 「あの傷の話は聞かなかったかね」 「聞きませんでした」  岩吉はきっぱりと答えた。音吉はちらりと岩吉の顔を見た。確かあの時、サムは言ったのだ。 「これは鞭打《むちう》ちの刑の名残《なごり》さ」  サムはそう言いながらラム酒を飲んでいた。 「どうしてそんな……鞭打ちなんて」  音吉がサムに尋《たず》ねると、 「アイ アイ サアと言わなかったからさ。つまり反抗的だと敵は言うんだ」  と、不敵な顔で笑っていた。その言葉は岩吉も聞いた筈《はず》だ。  確かサムは、船は監獄も同然だと言っていた。士官も水兵も同じ人間だと言った。三百人の人間が、十人ばかりの男に怒鳴りまくられているのは、おかしな話だとも言った。  音吉はそう思いながら、艦長が自分たちに何を聞こうとしているのか、わかるような気がした。 (さすが、舵取《かじと》りさんやな) 「ああ、確か、二つの赤ん坊がどうとかと言う話もしていました」  久吉が言った。金持ちの子が二歳で海軍に登録し、出世を計る話だ。音吉は思わず久吉の背をつついた。岩吉が間を置かずに言った。 「うん、どっかの子供が死んだ話な」  久吉も、音吉に腰を突つかれた意味がわかったようだった。 「そやそや」  久吉はあわてて、日本語で大きくうなずいた。 「そうかね。それぐらいの話だったかね。何しろ、水兵たちは気の荒い者が多いのでね」  艦長はおだやかな微笑を浮かべて、当番兵を呼んだ。ドアの外にいた当番兵がすぐに入って来た。 「コーヒーをいれてくれ」  当番兵は直ちに室外に出た。コーヒーと言っても、艦長でさえ麦粉を焦がして飲んでいたのだ。艦長の言うとおり、当時英国の水兵は荒くれ者が集まっていた。英国の水兵たちは、プレス・ギャング(水兵強募隊)によってかき集められた。少しの過失でも、気絶する程《ほど》、皮の鞭《むち》で殴《なぐ》りつける罰と、過酷な労働と、安い俸給《ほうきゆう》に甘んじなければならぬ水兵には、誰もなりたがらなかったからだ。水兵強募隊は、一斉《いつせい》に英国の港町に現れ、遊女屋にいる者、酒場にいる者、浮浪者、乞食《こじき》、囚人、そしてまた港に入港した商船の船員などを、こん棒や短剣をもって殴りつけ、脅《おど》しつけて連れ去った。ある者はこん棒に殴られて気絶し、気がついた時には船の中にいるということさえあった。中には志願兵もいたが、こうした制度が、イギリスの水兵たちに伝統的な荒々しい気風をもたらした。しかも、反逆する者はむろんのこと、些細《ささい》な罪でも帆桁《ほげた》に吊《つ》るされ、処刑される時代がつづいた。こうして、絶対服従は不文律となった。だが、水兵たちの心の中まで服従させることはむずかしく、十六、七世紀には反乱が絶えなかった。一八三〇年代の当時は、以前ほど鞭《むち》はふるわれなくなったが、それでもなお、水兵たちはこの世からあぶれた者たちの寄り集まりと言ってよかった。艦長は、その中のサムに、常に警戒の目を怠らなかったのである。      五  上甲板《じようかんぱん》の片隅《かたすみ》で、|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》が鳴いた。のどかなその声は、音吉にいつも小野浦を思わせる。昨日に反して、穏やかな海だ。東の空に入道雲が盛り上がって動かない。太陽の光は午後になっていよいよ暑かった。水兵たちは、今大砲磨きをさせられていた。 「あの※[#「奚+隹」、unicode96de]は、クリスマスのごちそうさ」  砲身を磨いていたサムが、せせら笑うように言った。午後から、砲身磨きと決まった時、何を思ったか、サムは音吉と久吉に、 「俺と一緒に上甲板に行こう」  と言ったのだ。上甲板には長身のカロネード砲がずらりと据えられてあった。サムはいつも士官たちの居住区から一番遠い船首に、いち早く自分の場を占める。  甲板磨きにしても、砲身磨きにしても、つまりは水兵たちを航海に飽かせないための作業であった。気合棒《きあいぼう》を持った下士官《かしかん》が時折見廻《ときおりみまわ》りに来るにしても、大砲磨きはさほど辛《つら》い作業ではなかった。水兵たちは太陽に照りつけられた熱い砲身を、ボロ布でぴかぴかに磨いていく。磨きながら、小声で話し合うこともできた。とにかくヤード(帆桁《ほげた》)にへばりついて帆を取り外《はず》しする作業とはちがう。 「クリスマス? 何ですか、それは」  サムと同じ砲身を磨きながら、音吉は手をとめずに聞いた。 「何だ、お前たち、クリスマスも知らねえのか」 「知りません」 「ふーん。日本にはクリスマスがねえのか。これは驚いた」  サムは言い、隣の砲身を磨いている「親父」に言った。 「おい、親父。こいつらの国には、クリスマスがないんだとさ」 「ふーん。ほんとうかね」 「親父」はちょっと驚いて見せたが、 「世界は広いからなあ」  と、柔和《にゆうわ》に微笑した。 「クリスマスって、何やろ?」  久吉が音吉にささやいた。 「何や、聞いたことがあるようやけど、わからん」 「音、聞いてみい」 「久吉が聞けよ」 「お前のほうが、言葉がうまいだで、お前が聞け」  音吉はサムに言った。 「クリスマスって、何ですか。教えてください」  半裸のサムの背が、いやでも目についた。サムはふり返って、 「クリスマスってのは、神の子の誕生日さ。ジーザス・クライスト(イエス・キリスト)という方のお生まれになった日だ」 「ジーザス・クライスト? そうか、キリシタンのお祭りや! 久吉」 「えっ? キリシタンのお祭り!?」  久吉は思わず声を上げた。音吉がサムに尋《たず》ねた。 「あのー……ジーザス・クライストって、神さまの息子さんですか」 「そうだとさ。俺はお目にかかったことはないがね。馬鹿馬鹿しい話さ。自分の誕生日さえ祝ったことがないってえのに、顔を見たこともない奴《やつ》の誕生日を、どいつもこいつも祝うんだからな」 「そうですか、みんなが祝うんですか」  音吉は、日本にも、そんな誰かの誕生を祝う日があったろうかと考えてみた。八幡社のお祭りはある。が、あれが誰かの誕生日かどうか、それは知らない。良参寺では、お釈迦《しやか》さまの誕生日を祝うことがあった。だが、日本中誰も彼もが祝うかどうか、音吉にはわからなかった。 「フランスでもロシヤでも、イタリヤでもオランダでもな、どこの国でも祝うんだ。神の子ってのは大したものさ」 「その神のお子さんは、確か十字架にかかって死んだ人ですね」  久吉が言った。 「そうよ。千八百年も前に生まれて、もうとうに死んだ男さ」 「千八百年も前に? どこに生まれたんですか」  音吉は、キリストが羊を助けた人形芝居を思い出しながら言った。 「さあ、知らねえな。知ってるのは、クリスマスが十二月二十五日だってことよ。別に俺は、そいつからりんご一つもらったわけじゃねえんでな」 「それでもお祝いするんですか」 「まあな。つきあいだな。いや習慣だな」  下士官《かしかん》が咳《せき》払いをして近づいて来た。三人は黙って砲身を磨いた。磨いても磨かなくても、砲身はぴかぴかなのだ。が、放っておくと、錆《さび》つくにちがいない。いつ実戦があっても間に合うように、とにかく週に幾度かは磨くのだ。  下士官の靴音《くつおと》が遠くなった。 「あなたは、その神のお子さんを信じてるのですか」  音吉は恐る恐る聞いた。キリシタンの話は聞いてはならないのだ。だが、世界の人がその誕生日を祝うと聞けば、悪い神でもないような気がしてくる。こわいもの見たさも手伝って、音吉はサムに聞いたのだ。 「ああ、貧乏人がこの世からいなくなれば、信じてやってもいいぜ。が、ひもじい奴《やつ》のいる間は信用がならねえな。そしてあの艦長や士官共がふんぞり返っているうちはな」  サムは吐き出すように言った。音吉は驚いた。もし今の言葉を神に聞かれたら、一体この人はどうなるのかと、音吉は恐れずにはいられなかった。 (でも日本にも、神も仏もあるものか、と言う人がたくさんいるでな)  胸の中で音吉は思い返した。 「ところでよ。お前ら昨日の夕方、艦長に呼ばれたろ」  サムの目が光った。 「ああ、呼ばれたよ」  久吉は気軽に答えた。 「俺の話は出なかったか」  サムはいきなり聞いた。二人はすぐには答えられなかった。が、岩吉に二人は言われていたのだ。 「艦長に何を聞かれたかと、誰かに聞かれたらな。日本のことを聞かれたと言うんやで。そのほかのことは、言うてはならん」  音吉は岩吉の言葉を思い出して、急いで言った。 「今、何と言いました?」 「あのな、艦長がな、俺のことを何か聞かなかったか、と言ったのさ」  サムは一語一語|明瞭《めいりよう》に言った。 「ああ、あなたのことですか。何も聞かれませんでした。日本のことを聞かれました」  音吉は落ちついて答えた。目の前の海が、吸いこまれそうに青かった。 「ふーん。日本の何を聞かれた?」 「はい、日本の一番偉い人のこと、軍人のこと、そして、食物、着物などなど……」 「なんだ、それだけか」 「はい、それだけです」  答えながら音吉は、本当はサムのことを聞かれたと言ったほうが、いいのではないかと思った。艦長は確かにサムを警戒している。それを言うほうが、サムのためにいいのではないかと考えたのだ。だがそれは、岩吉に堅く禁じられている。 「あのな、お前たち。艦長は、俺が何かを仕出かしやしねえかと、びくびくしてるんだ」  サムは声を出さずに笑った。 「なぜならな」  言いかけようとした時だった。隣の砲身を磨いていた「親父」が近づいてきた。 「サム、俺はもう終わったぜ。手伝ってやろうか」 「ありがとうよ、親父。ま、少し休んでくれよ。そこにしゃがんで、台座でも磨くふりをしていてくれればいいよ」  サムは言い、 「なあ、親父。昔はよく叛乱《はんらん》があったものさな」 「よくよくお前は、叛乱の話が好きな男だ。まあ、そうだな」 「しかしまあ、そんな骨のある人間はいなくなったなあ、親父」 「いなくて結構だ」 「親父」は弱々しく笑った。サムはボロ布で最後の磨きをかけながら、音吉と久吉に言った。 「この親父はな、昔、叛乱に加わったことがあるんだぜ。大した親父なんだ」 「出たらめ言っちゃあいけねえ」  親父は首を横にふった。とサムは、 「俺は出たらめなんぞ言いやしねえさ。いつも本当のことを言うだけさ。親父はネルソンに従って、ナポレオンと戦争をした勇士さ。けどな、何十年勤めても、水兵は水兵さ。これから死ぬまで勤めてもよ。下士官《かしかん》にもなれん。まちがっても、あっちのデッキを散歩する身分にはなれん」  サムはあごでクォーター・デッキのほうをしゃくった。音吉と久吉は、サムという男に、先程《さきほど》から少しずつ親しみを感じはじめていた。その理由の一つに、先程のクリスマスの話があった。神の子を信じているかと音吉が聞いた時、サムは無雑作《むぞうさ》に、 「貧乏人がこの世からいなくなれば、信じてやってもいいぜ」  と言ったのだ。二人にとって、叛乱《はんらん》の話はどうでもよかった。日本にも一揆《いつき》はある。だが、国を出た時十四と十五であった二人にとって、一揆はそれほど興味のあることではなかった。同様に叛乱の話にはそれほど関心を持たなかった。只、サムがキリシタンでないことに惹《ひ》かれたのだ。 (誰も彼もキリシタンかと思ったが、ちがうんやなあ)  音吉はくり返し心の中でそう思った。 (すると、エゲレスも丸々キリシタンの国ではあらせんのやな) (もし日本に帰って、キリシタンの話を聞かれたら、サムのことを役人に話してやればいい)  音吉はそう思った。恐らくこのイーグル号に乗っている水兵たちの大方は、サムと似たような気持ちではないかと思った。 (そう言えば、ミスター・グリーンみたいに、食事の度《たび》にお祈りする者はほとんどあらせんもな)  音吉は今すぐ、そのことを久吉と話し合いたかった。 (したら、サンデーのあのサーヴィス〈礼拝〉は何のためにやるんやろ)  みんな大きな声で讃美歌《さんびか》をうたう。艦長が祈ればアーメンと言う。説教も不動の姿勢で聞いている。 (そうか、あれも甲板《かんぱん》磨きや、大砲磨きとおんなじことやな)  音吉はそう納得した。 (安心したわ)  もしかしたら、この艦には、どれほどのキリシタンもいないのかも知れない。 (艦長だけかも知れせんな)  サムと「親父」はまだ話し合っていた。 「その時は何年だったい、親父」 「一七九六年だ」 「今から四十年も前の話か」 「正確にいうと三十九年前さ。水兵の給料は一年に十二ポンドだった」 「艦長は?」 「百五十ポンドさ。それが、ほかの船をぶんどってな、何と艦長は四万七千三十ポンドも大儲《おおもう》けしたというわけさ」 「四万七千三十ポンド!? 想像もつかねえな、どれほどの札束か」 「そん時にゃあ、水兵の俺たちが、百八十二ポンドもらえたんだぜ。百八十二ポンドな」 「へえー。一年に十二ポンドの水兵が、一ぺんに百八十二ポンドももらったのか。それなら少しぐらいステッキで殴《なぐ》られても、働き甲斐《がい》はあらあな。給料の十年分以上じゃねえか」 「十年どころじゃない。十五年分よりもっと多かったさ」 「そのプライズマネー(賞金)を、親父はどう使ったんだい」 「酒と女さ。決まってるじゃねえか」 「まだ十六か七の餓鬼《がき》でか?」  驚くサムの声に、 「俺は十四の時に女を知った。十六、七は立派な大人さ」  低い声で口早に話し合う二人の言葉を、音吉と久吉は聞いてはいなかった。サムも「親父」も、口は動いていても手は決して休むことはない。長年の水兵生活の間に身につけたやり方だった。息をぬくところは息をぬき、手をぬいてならぬところは決して手をぬかない。低い声で会話を交わしながら、一心に働いているように見せる。こうしながらも、下士官《かしかん》の靴音《くつおと》を鋭敏に聞き分けているのだ。気合棒《きあいぼう》をふりまわされるのは、むしろまじめに働きながら、しかしのろまな者たちであった。  音吉は何の脈絡もなく、ふっと琴の姿を思い浮かべた。 (今ごろ何をしてるんやろな)  一日に幾度か、父母や妹のさとや、そして琴のことを思い出す。それはほとんどいつも突然であった。朝、起床した途端に思い出すこともある。夜、ハンモックを吊《つ》りながら思い出すこともある。時鐘《じしよう》を聞きながら思うこともある。その度《たび》に言いようもない懐かしさが音吉の胸をしめつける。 (フラッタリー岬に難破した船玉《ふなだま》さまは、どうなったやろな)  あの切り取った帆柱の根元に、琴の髪の毛はおさめられてあったのだ。音吉は船首のほうを見た。このイーグル号には船玉はない。しかしこのイーグル号の船首にも船首像《フイギユア・ヘツド》があり、その船首像は、長い衣を着た美しい女だった。その女は、ふくよかな両手を高く顔の前に差し出していた。そしてその両手は、翼《つばさ》をひろげた鷲《わし》の足をつかんでいた。この像を支えている木部に、スピリットがあると言われていた。 (それがきっと船玉さまやな)  今音吉はそう思った。 (そうや。これからわしは、この船玉さまを拝もう。キリシタンの神さまは、決して拝みはせんで)  サムにしろ、他の水兵たちにしろ、まともにジーザス・クライストの神を信じている様子はない。日本人の自分が、その神を信じなくても、罰《ばち》は当たらないような気がした。 (後で、舵取《かじと》りさんや久吉に相談してみよう)  そう思って音吉は微笑した。どこかで下士官《かしかん》の怒鳴る声がした。誰かがいつも怒鳴られている。それが軍艦だ。もう音吉も、下士官の怒声に一々驚くことはなくなった。 「おい、おときち。何をにたにたしている」  サムがからかった。 「別に……」 「まあな、お前らはお客さんだ……」  言いかけた時、うしろのほうで下士官の気合棒《きあいぼう》が甲板《かんぱん》を叩《たた》いた。 「ぐずぐずすんな!」  近くにいた水兵たちがぎくりとした。誰を怒ったわけでもなかった。下士官はただ水兵たちをおどしただけなのだ。下士官は、二、三度気合棒で甲板を叩いてから、階段を降りて行った。 「アイ アイ サアだあ。あの馬鹿|奴《め》が、怒鳴りゃ人が仕事をすると思っていやがる」  サムは笑って、 「とにかくよ、ハドソン湾会社は、ここの艦長に金をたっぷり払ってお前らをあずけたそうじゃねえか。のんきにしてなよ、のんきにな」  昨夕艦長室に呼ばれた音吉たちを、改めて客人とでも思ったのか、意外に優しい言葉をかけた。水兵たちは赤と白の縞《しま》のシャツを着ているが、岩吉たち三人は縞のシャツではない。そこは下士官も心得ているようであった。  号笛《ごうてき》が鳴った。作業止めの号笛である。その途端、マストの上から見張り人が大声で叫んだ。 「デッキゼア(おーい甲板の人たち)」  みんなが声のほうを見上げた。音吉も見上げた。が、風をはらんだ幾枚もの帆に遮《さえぎ》られて、声の主は見えなかった。つづいて叫ぶ声がした。 「ランダー ア ホーイ(陸地が見えたぞーっ)」  甲板の水兵も下士官も、一斉《いつせい》にざわめいた。 「ありがてえ。クリスマスは島の上でできるぜ」  サムの声がはずんだ。 [#改ページ]   椰子《やし》の木の下      一 「音、珍しい木があるで。大きな竹箒《たけぼうき》を突っ立てたような木やなあ」  砂浜に降り立って、言葉もなくしばらく辺《あた》りを見まわしていた久吉が言った。 「ほんとやなあ。けど、竹箒とはちがうわ。ドクターの家にあった羽のはたきのような形や」  音吉も珍しそうに椰子《やし》の木を眺《なが》めた。白い、肌目《きめ》の細かい砂の感触が、船から降りた音吉たちの足に快かった。一キロ程《ほど》離れた海上にはイーグル号が碇泊《ていはく》している。帆をおろしたそのイーグル号から、幾|隻《せき》かのボートが、水兵たちを乗せて陸地に近づいてくる。朝日にきらめく海が眩《まぶ》しい。  イーグル号は全船|燻蒸《くんじよう》のため、今、一人残らず船を離れようとしているのだ。長い航海のあとには、船内に発生する虫や、細菌を殺すため燻蒸がなされた。ロンドンを出たイーグル号は、フォート・バンクーバーでは燻蒸をしなかった。フォート・バンクーバーの十一月は、水兵たちの野営に適さなかったからである。イーグル号は最初からサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に寄港する予定であった、常夏《とこなつ》の島であるこの地は、水兵たちは毛布一枚で野営ができる。  燻蒸《くんじよう》はガン・デッキの中央において行われた。真っ赤に燠《おこ》した炭火で、タールに浸した木の枝や木の葉をいぶすのだ。無論ガンポート(大砲の前の穴)、ハッチも全部ふさぐ。この燻蒸を行う一昼夜、全員が上陸しなければならなかった。 「赤い花やら、黄色い花やら、きれいやなあ。極楽みたいやなあ、舵取《かじと》りさん」  砂の上に腰をおろした岩吉の傍《そば》に、自分も腰をおろしながら、久吉は真っ赤なハイビスカスをはじめ、色とりどりの花に目を奪われて言った。 「ほんとやな」  岩吉がうなずく。音吉も、 「日本では寒い時季やと言うのに、気持ちのいい暖かさや。久吉の言うとおりや。全く極楽みたいや」 「極楽か」  岩吉は呟《つぶや》いて、砂浜につづく花群を見た。その間も、次々と水兵たちが上陸して来る。上陸するなり、両手を上げて躍《おど》り上がる者もいる。大地に寝ころぶ者もいる。予《あらかじ》め定められた区域内に、大勢の水兵たちは思い思いにくつろいでいた。 「ここは何という島やった、音」  久吉が尋《たず》ねた。 「さてな、サンドイッチと言うてたわな」 「サンドイッチって、何のことやった?」 「さあ、何のことやったかな、舵取りさん」 「人の名前だと、サムが言うていたがな」 「人の名前か。知らんかった。何で人の名前なんぞつけたんやろ。日本に、人の名前なんぞつけた島があったかな」 「ないやろな。あのな、サンドイッチってのは、ここの島を見つけたエゲレス人のキャプテン・クックの恩人の名前やそうや」 「ふーん。キャプテン・クックな。その名前なら聞いたことあるわ」  久吉と音吉は、初めて見る島に好奇の目を向けた。 「あ! 草葺《くさぶ》きの家があるで」  やや遠くに見える家々を音吉は指さした。 「ほんとや、草葺きや。懐かしいなあ」 「懐かしいなあ」  その家々から子供たちが物珍しそうに出て来た。が、傍《そば》までは来ず、遠くから眺《なが》めているだけだ。 「ええ所やで、子供がこっちへ来んかなあ」  音吉は言いながら、まだ自分の体が揺れているような気がした。揺れ動かぬ大地に腰をおろしているという実感がない。 「何かうまいものがないかなあ。草の実か、木の実か」  定められた所から離れて、自由に歩きまわることはできない。久吉と音吉が、そんなことを話し合っている傍で、岩吉は水平線に目をやっていた。  今、岩吉の頭にあるのは、マクラフリン博士に見せられた地球儀であった。イーグル号はフォート・バンクーバーを出て、サンドイッチ諸島に寄るのだと、博士は言った。その毛深い指でさし示した島は日本とアメリカのほぼ中間にあるように思われた。少なくともあと二か月船に乗れば、まちがいなく日本に着ける距離に思われた。 (このまま西へ西へと行けば、日本なんや)  不意に岩吉は胸のしめつけられるような懐かしさを覚えた。このままイーグル号から降りてしまいたい思いに駆られた。  イーグル号は、ここから真っすぐ日本に向かうのではない。マクラフリン博士は、南アメリカの南端、ホーン岬を通ってイギリスに寄ると言っていた。そしてその後、南アフリカの喜望峰《きぼうほう》を迂回《うかい》して日本に向かうと言った。岩吉の胸に、博士の指さした道筋が鮮やかに刻みこまれている。それは余りにも遠く遥《はる》かな道筋であった。ここから真っすぐ日本に行けば、二か月余で行けるところを、あと一年は航海をつづけなければならない。 (あと一年か)  岩吉は吐息をついた。その一年の間に、船はいかなる嵐に遭《あ》うか。海賊の襲撃に遭うか。あるいは病魔に倒れるか。何《いず》れにせよ危険が待ち構えていることは確かなのだ。  が、岩吉にとって、それらの危険よりも、更《さら》に大きな危惧《きぐ》があった。それは妻の絹のことであった。今なら、絹はまだ一人で、自分の菩提《ぼだい》を弔《とむら》っているような気がする。しかしあと一年となると、家を出て丸三年ということになる。これから一年の間に、あの銀次が妻の絹を口説き落とさぬという保証はない。 (今なら、間に合うかも知れん)  岩吉の目に、絹の淋《さび》しげな姿が浮かぶ。あの路地を駈《か》けまわっているであろう岩太郎の姿が目に浮かぶ。岩吉の胸に、切ない思いが火のように噴き出した。  岩吉は、千石船《せんごくぶね》に乗っていた頃《ころ》、ふっと絹に会いたくなって、仕事半ばで船を脱け出したことがあった。あの時は、お蔭参《かげまい》りの大義名分があった。女、子供であろうと、奉公人であろうと、このお蔭参りには誰の許しもなく脱け出すことができた。  今、岩吉は、あの時以上の激しい思いで、妻子を思っていた。 (このまま真っすぐ帰れば、たったの二か月や)  いわば日本は目の前なのだ。その目の前の日本を後にして、わざわざイギリスに寄らねばならぬ義理はない。 (要するに、俺たちが無事に日本に帰ったらいいんやろ)  岩吉は単純にそう思った。ここで下船したからといって、マクラフリン博士の恩義を裏切ることになるとは思わなかった。むしろここで降りたほうが、経済的負担をかけなくてすむ。むろん、自分たちを送り届けなければならぬ艦長の立場も、わかっている。だが、艦長もまた、ここでの下船を拒む理由はないのではないか。この島から、捕鯨船《ほげいせん》が日本の近くに行っていると、博士が言っていた。イーグル号にもその捕鯨船《ほげいせん》に乗っていた者がいる。 (俺も捕鯨船に乗り組むわけにはいくまいか)  岩吉の胸はとどろいた。 (艦長に頼みこむのだ)  岩吉の目に、絹と銀次の姿がちらつく。 (俺は帰る。もし艦長が許さねば、逃げてでも帰る)  一旦《いつたん》噴き出した火を、岩吉は消すことができなかった。岩吉は、マクラフリン博士が、日英通商の願いもあって、多額の費用を岩吉たちのために払っていることなど、知る筈《はず》もなかった。  捕鯨船に乗って、日本の近くまで帰ることができれば、尾張《おわり》に帰ることは容易な気がした。日本近海まで行けば、漁船の便はある筈だ。漁船に行き会うことが不可能なら、どんな島でもいい、その島に一旦上陸すればいい。岩吉は、異国の軍艦で帰るよりは、そのほうが役人の取り調べもきびしくはあるまいと思った。自分たち三人さえ、アメリカに漂着したと言わなければいいのだ。日本の近くの無人島にでも打ち上げられて二年が過ぎたと言えば、通る筈だ。 (よし! とにかく俺は帰るぞ)  岩吉は自分の決意を確かめるように、胸の中で呟《つぶや》いた。 (だが……艦長が果たしてこの願いを聞いてくれるかどうか)  岩吉は不安になった。自分の心のうちを、充分に訴えることは、岩吉にはできない。  音吉は三人のうちで一番英語がうまい。が、年少の音吉が、艦長を説得するだけの力があるだろうか。 (いっそのこと、闇《やみ》に紛れて……)  岩吉は、傍《かたわ》らで何か話し合っている音吉と久吉に視線を戻《もど》した。 (この二人を置いて行くわけにはいくまい)  自分一人なら、逃げることも、捕鯨船にしのびこむことも、可能のような気がする。だがこの二人と共に行動するのは、容易なことには思えなかった。燻蒸《くんじよう》は一昼夜を要する。もし脱出するとすれば、明朝までに決行しなければならない。岩吉は島の地形に鋭く目を走らせた。      二  暮れ残っていた空にも、星のまたたきが次第に強くなってきた。砂浜のあちこちにかがり火が焚《た》かれ、それを囲んで、水兵たちはラム酒に酔っていた。うたっている者、踊っている者、大声で何か言い合っている者、気勢を上げて一団から一団に移り歩く者等、様々だった。このかしましい水兵たちを、銃を持った下士官《かしかん》が幾人か、苦々《にがにが》しげに監視していた。艦長や士官たちは、宣教師の家や、教会堂に宿泊する。今頃《いまごろ》は、上等のワインでクリスマスの祝宴をひらいているにちがいない。下士官たちだけが、水兵の騒ぎの中にも入れず、士官たちの食卓にも招かれず、歩哨《ほしよう》に立っているのだ。万一、一人でも脱走したなら、責任は下士官たちの肩にかかってくる。苦々しい表情にならざるを得ない。  かがり火に映《は》える水兵たちの顔が、闇の中に浮き上がる。右額の異様に禿《は》げ上がった男、片耳のつぶれた男、眉間《みけん》に一本彫ったような長い縦じわのある男、両腕に入れ墨をした男、誰も彼もが上機嫌《じようきげん》だ。今日はラム酒がいつもより多くふるまわれたからだ。  岩吉たち三人の傍《かたわ》らに、例によってサムと「親父」を囲む一団がいる。この一団が最も大きな笑い声を立てる。サムが大声でみんなに言った。 「お前たち、ジーザス・クライストのおふくろにたっぷりお礼を言わねばならないぜ」 「それはまたどうしてだい」 「今日のこの日、息子さんを生んでくれたからだよ。これが昨日か、明日だったらな。こんな陸の上で、ドンチャン騒ぎはできねえってことさ」 「サムの言うとおりだ。燻蒸《くんじよう》の日にクリスマスとは、こりゃあありがてえ」 「そうだろうが。だからジーザス・クライストのおふくろさんを祝して乾杯《かんぱい》だあ」  サムの一団は、大声で乾杯と叫んだ。水兵たちを全員上陸させることなど、燻蒸以外めったにない。見知らぬ土地に、三百人もの荒くれ男を一度に上陸させるのは、余りにも危険なことだからだ。 「おいサム。おふくろさんのためだけに乾杯というのは、そりゃあ片手落ちというもんだ」 「何だって? ジーザス・クライストに父親《てておや》がいるとでも言うのかね」 「いたじゃねえか、ヨセフってえ男よ」 「ヨセフ? おいおい、ありゃあジーザス・クライストさまとは、何の関係もないよ。おふくろさまのつれあいではあるがな」 「じゃ、何かい。ジーザス・クライストは父なし子ってえわけか」 「お前も不信心な奴《やつ》だな。あの方のお父上は、天にいます父なる御神だ」  サムの言葉に「親父」が言った。 「おや、サム。大した信心家だな、お前」  みんながどっと笑った。笑いがおさまると、不意に、心細げな男の声がした。あの気の弱い男だ。 「あーあ、いけねえ。女房の奴のむっちりした体が目について……あいつ、今頃《いまごろ》何をやっているやら」  一瞬みんなが押し黙った。みんなの気持ちを、この気の弱そうな男は余りにもはっきりと言ったのだ。と、誰かが言った。 「目の前から去る者は、心から去る、って諺《ことわざ》があるぜ。お前の女房は、まちがいなく、ほかの男の膝《ひざ》の上さ」 「何を、この野郎!」  怒ったのは他の男だった。岩吉はそのサムたちに背を向けて音吉たちに言った。 「音、久、あのな……」 「何や、舵取《かじと》りさん」  三人はいままで、水兵たちの騒ぎとは別に、何とはなしに黙っていたのだ。陸に上がると、なぜかひとしお日本が恋しくなるのだ。 「いや、何でもあらせん」  岩吉は船を脱け出すことを、今言おうかと思ったのだ。が、口から出すことが憚《はばか》られた。 「何でもあらせんって……舵取りさん何や言いかけたでないか」 「うん、お前ら、何を考えていたかと思うてな」  音吉が答えた。 「あのな舵取りさん。わしはな……こうして浜に坐《すわ》って、波の音を聞いているとな……何やら小野浦に帰ったような気がしてな」 「ふーん、なるほどな」 「そしてな、ふり返ったら、あの小野浦の低い山々や、家々が見えるような気がしてな。……な、もうたまらんわ」  音吉の声がしめった。久吉が言った。 「俺も小野浦のことを思うていたで。ほら、渚《なぎさ》に櫓《やぐら》を幾つも立てて、櫓にちょうちんをたくさんつけたことあったやろ」 「うん、あったあった」 「したらな、音。蟹《かに》が灯《あか》りを慕ってよ。ようけ集まってきたわな。それをみんなで籠《かご》に拾ったわな。あれは楽しかったな。かがり火を見ていたら、何やあの蟹を取ったことが思い出されてな」 「ふーん、なるほどな」  岩吉の声が沈んだ。音吉が言った。 「な、久吉。みんな何をしてるやろ、今頃《いまごろ》」 「もうみんな眠ったやろな、朝が早いでな」 「そうかな、久吉。舵取《かじと》りさん、日本も今は夜やろか」 「さあな、おてんとさんは一つしかないでな。こっちが夜の時は、あっちを照らしているのとちがうか」  岩吉の言葉に、久吉が手を打って、 「そう言われればそうやな。世界中一ぺんに夜になったら、おてんとさんの行き所があらせんもな」 「ほんとやな。けど、久吉。おてんとさんもお月さんもええわな。小野浦を照らすだでな。羨《うらや》ましいわ」 「音、久、お前たちそんなに小野浦が恋しいか」 「そりゃ恋しいに決まっとるわ。な、音」 「そうか、そうやろな。そんなに恋しいんなら、どうだお前たち、そっとこのまま、山にでも逃げんか」  岩吉は声を低めた。 「山に逃げる!?」  久吉が思わず大きな声を出した。 「もうイーグル号には戻《もど》らんのや」  岩吉は、先程《さきほど》考えたことを、二人に諄々《じゆんじゆん》と語って聞かせた。 「舵取《かじと》りさん、ほんとに二か月で帰れるんやな」  聞き終わって、久吉が念を押すように言った。 「そうや」 「久吉、わしは、舵取りさんの言葉に賛成や。わしが怖いのは、お上《かみ》の取り調べや。キリシタンになったんではないかと、調べられるのが怖くてたまらん。けど、舵取りさんの言うとおり、日本の近くの無人島に流れ着いとったと言えば、お咎《とが》めはないと思うで。わしは舵取りさんに賛成や」 「そうか、音、賛成してくれるか」 「けどなあ、鯨獲《くじらと》りの船が、うまいこと乗っけてくれるかなあ」  久吉がしぶった時だった。不意に、銃を持った下士官《かしかん》が近づいて来た。三人はぎくりとして口を閉じた。      三  一歩部屋に入った音吉は、思わず息をのんだ。十五、六畳|程《ほど》の部屋だった。白布のかかったテーブルの真ん中に、豚の丸焼きがどっかと置かれていたからだ。太いローソクが何本も部屋のあちこちに立てられている。そのゆらめく炎に、焼かれた豚が息づいているようにさえ見えた。音吉は、息を詰めたまま、脇腹《わきばら》を削られた豚を見つめた。 (何という恐ろしいことや)  と思った時、音吉は自分の名を耳にした。 「これがおときちです」  艦長が見なれぬ男に音吉を紹介したのだ。艦長がそう言うまで、艦長がそこにいることさえ気づかなかった。豚の丸焼きが余りにも強烈だったからだ。岩吉も久吉も、音吉と同様であった。が、さすがに岩吉は、幾人かの島民と共に艦長と二人の士官がテーブルを囲んでいるのを、すぐに見て取った。そして、この家の主人らしい、背の高い柔和《にゆうわ》な表情の男と、その妻らしい美しい女をも、岩吉は素早く見て取っていた。  ひと通りの挨拶《あいさつ》が終わると、音吉たちは椅子《いす》に腰をおろした。艦長は、ここが牧師館であること、背の高い人はこの教会の牧師であること、婦人は牧師の妻であることを三人に告げた。が、牧師という語は、三人には耳|馴《な》れぬ言葉であった。  中断された食事が再びつづけられた。 「いわきち、今、君たちの話をしたところがね、ブラウン牧師が、ぜひこの晩餐会《ばんさんかい》に呼びたいと言ってくれたんだ。よくお礼を言うがいい」  だが音吉は、艦長や牧師や岩吉の言葉がまだ耳に入らなかった。 (今まで、牛肉は何度も食ってきたが……)  それはすべて肉片であった。が、今、艦長たちは、豚の形そのまま、大きな皿にのせて、ナイフで削り取りながら談笑している。それが音吉には耐えられなかった。牛や羊をほふる場面は、フォート・バンクーバーや艦内でも見るには見た。それも最初は大きな衝撃だった。が、それらを丸ごとテーブルに載せたのは見たことがない。 (どうして、丸のまま食べるんやろ。気味悪うないやろか)  そっと傍《かたわ》らの久吉を見ると、久吉は運ばれて来たスープを飲み始めている。音吉たち三人は、水兵たちと共に砂浜で夕食を終えていた。が、それはいつもの艦内の食事と、ほとんど変わりがなかった。固い乾パンと、塩漬けの豚肉と、バターとチーズだった。それでも、今日はクリスマスの祝いに、チーズが、いつもより二切れ多くつけられていた。砂糖もいつもより多く支給された。そしてラム酒がやや多いという程度であった。  その食事にくらべると、ここの食卓はひどく豪華だった。ワインがグラスに注がれ、スープも野菜サラダも、グリーンピースの皿盛りもある。音吉は目を伏せて、豚の丸焼きに視線がいかないようにスープを飲みはじめた。夕食は終えてはいても、その久しぶりのまろやかな味は、フォート・バンクーバーを出発して以来のもので、実にうまかった。 「おときち、あなたはおいくつ?」  やや抑揚の強い、しかしやさしい声で牧師夫人が尋《たず》ねた。 「十六です」  音吉は牧師夫人を見た。そして音吉はどぎまぎした。今、自分を見つめている牧師夫人は余りにも若かった。二十をどれほども越えていないように見えた。しかもその目は、澄んだ秋空よりも青かった。ばら色の頬《ほお》には深い笑くぼがあり、フラッタリー岬のピーコーを思い出させた。金色の髪が白い額にやさしくカールして、それが牧師夫人をひときわ美しく見せていた。 (こんなにきれいな異人の女は、初めてや)  音吉は目を伏せた。豚の丸焼きさえなければ、ローソクのたくさん立てられたこの部屋は、気持ちのいい部屋だった。 「豚を召し上がれ」  牧師夫人はやさしく言った。 (こんなきれいな人が、この豚を焼いたんやろか)  そう思った時、ブラウン牧師が言った。 「豚の丸焼きは、この島の名物です。島の人が、時々焼いて、こうして届けてくれるのです」  音吉はそれを聞いてほっとした。 (よかった。このご新造が焼いたんやなかったわ) 「とてもおいしいのよ」  牧師夫人の声に、音吉は久吉の向こうの岩吉を見た。岩吉は他の客たちのように、馴《な》れた手つきで器用に肉を切り取っていた。音吉の飲み終わったスープの皿を、給仕の少年が運んで行った。音吉は目をつむる思いで、豚に手を伸ばした。 (やっぱり食わんならんのかな)  牧師夫人が、自分のほうを見つめていると思うと、仕方がなかった。 「日本という国も、神を拝みますか」  ブラウン牧師が言った。この問いは、岩吉にも、久吉にも、音吉にもよくわかった。岩吉が答えた。 「はい、拝みます」 「どんな神ですか」  岩吉が音吉に言った。 「わしはうまく言えせんでな、音、答えてみい」  三人はまだ、牧師なる者がどんな職業の者かを知らなかった。フォート・バンクーバーには牧師がいなかったからである。 「舵取《かじと》りさん、どんな神言われても、日本にはたくさんあるでな」 「まあ、覚えているだけ神さんの名を並べたらどうや」  言われて音吉は言った。 「日本にはいろいろな神があります。お伊勢さま、金比羅《こんぴら》さま、八幡さま、お稲荷《いなり》さま、天神さま、お岩大明神、船玉《ふなだま》さま、竜神《りゆうじん》さま、鬼子母神《きしぼじん》さま……」  音吉が言葉に詰まると久吉が言った。 「音、福の神もいるで、貧乏神、疫病神《やくびようがみ》、死神、廁《かわや》の神もいるで」  と、真顔で言った。音吉は、 「日本には百も千も神さまがおります」  八百万《やおよろず》と言いたかったが、八百万という数を英語で言い現すことができなかった。 「えっ? 百も千も?」  士官の一人が驚いた。 「はい。人の数|程《ほど》、神があると聞いています」  かつて父の武右衛門に聞いた言葉を思い出しながら、音吉は答えた。ブラウン牧師は大きくうなずいて、 「よくわかりました。では、その中にジーザス・クライストの神もいるのですか」  ジーザス・クライストと聞いて、音吉はどきりとした。音吉は激しく首を横にふった。 「ジーザス・クライストを拝んだら、みんな殺されます。本人も、家族も殺されます」 「殺される!?」  牧師より先に、牧師夫人が驚きの声を上げた。  ブラウン牧師は、今夜|乞《こ》われて艦長と二人の士官を泊めることにした。他の士官たちは酋長《しゆうちよう》や他の有力者たちの家に泊まることになっていた。同国人の来訪は牧師にとっても、うれしいことであった。折からクリスマスでもあり、親しい現地人の幾人かを招いて、ささやかな晩餐会《ばんさんかい》をひらいたのだ。その席上、イーグル号に日本人が三人|便乗《びんじよう》していると聞いた。そして便乗するに至ったいきさつも知った。牧師夫人がまず深い同情を寄せ、その三人を、この晩餐会に招きたいと言った。ブラウン牧師は直ちに同意した。ブラウン牧師は、日本人なる者を見たことがなかった。信仰|篤《あつ》いブラウン牧師にとって、世界のすべての民族は、神に救われるべき存在であった。今、日本人に会って、日本の宗教事情を聞き、日本人の性質を知ることは重要なことであった。もし仲間の誰かが、日本に伝道する場合、少しでも日本に対する予備知識を持つことは必要であった。ブラウン牧師は、その伝道上の配慮もあって、三人を招いたのである。 「わかりました。では、ジーザス・クライストの神を信じて殺された人を知っていますか」  音吉は首を傾けた。目の前にキリシタンが殺されたのを見たことがない。 「舵取《かじと》りさん。殺されたキリシタンを知ってる?」 「見たことはあらせんが、天草四郎時貞《あまくさしろうときさだ》は有名やな。わしの小さい時には、江戸ではたくさんお仕置きをされたそうや。なんせ十文字のしるしが見つかったら、殺されるんやからな」  音吉は岩吉の言ったことを、牧師に伝えた。 「それは恐ろしいことです。キリスト信者が迫害される……それは恐ろしいことです」  牧師が言うと、牧師夫人が言った。 「宣教師たちは、探検する人よりも、もっと先に方々の国に行きます。そして、あちこちでたくさん殺されました。でも、わたくしは、あなたたちの国のために祈ります。いつかは必ず、キリスト教を受け入れてくださる日が来るにちがいありません」  透きとおるような声であった。音吉たち三人は顔を見合わせた。久吉が言った。 「日本のお上《かみ》のこと、知らんのやなあ。キリシタンになったら、しばり首やら、逆《さか》さ磔《はりつけ》やら、むごい目に遭《あ》うんやで。キリシタンが許されるなんて、そんな日は絶対に来はせんで。音、そう言うたほうがいいで」  音吉はうなずいたが、何となくそう言うのは悪い気がした。しかし一方では、日本の国にキリシタンなど入って来られては、迷惑な気もした。 (なんで、ここの旦那《だんな》とご新造は、ジーザス・クライストのことばっかり言うんやろな)  話がキリシタンのことになったので、音吉の気持ちが重くなった。豚の丸焼きより、キリシタンの話のほうが、もっと恐ろしかった。  席の者たちが、そのことについて互いに話し合いを始めた。茶褐色《ちやかつしよく》の肌《はだ》をした現地人の髪は黒かった。が、インデアンともちがっていた。インデアンの黒髪は直かったが、この島の現地人の髪は波を打っていた。目が大きく唇《くちびる》が厚かった。しかしその表情は温和だった。 「音、見てみい。あれは瓢箪《ひようたん》とちがうか」  久吉が音吉の脇腹《わきばら》をつついて言った。見ると、部屋の片隅《かたすみ》に瓢箪が吊られてあった。 「久! ほんとに瓢箪や、懐かしいなあ」  音吉も声をつまらせた。久吉はすぐに、岩吉に伝えた。岩吉もその瓢箪に目を注《と》めて、しばらく視線を動かさなかった。  ひとしきりキリスト教迫害について人々は語り合っていたが、ブラウン牧師が三人に尋《たず》ねた。 「日本には文字がありますか」  三人が答えるより先に、艦長が言った。 「日本には字がありますよ。漢字と、そして日本独特の字があります。この三人は、自分の名前を漢字で書けますからな」 「ほほう、それはなかなか大した国ですね」  ブラウン牧師は一段と日本に興味を持ったふうで、 「あなたがたの国の字を、ちょっと書いて見せてくれませんか。いや、食事が終わってからでよろしいです。それはそうと楽器はありますか」 「楽器?」 「そうです。音の出るもの、笛とか、太鼓とか」 「あります、あります。横笛、尺八《しやくはち》、大太鼓、小太鼓、琴《こと》、三味線《しやみせん》、琵琶《びわ》……」  音吉は日本語で名詞を並べ立てた。と、久吉が、 「ドンドンドン、これが太鼓。ピイピイヒャララピイヒャララ、これが横笛」  と、手つきと声色《こわいろ》で言い、尺八を吹く真似をして、首をふりながら、 「これが尺八」  と言い、つづいて三味線、琴、琵琶、そして笙篳篥《しようひちりき》の声色までした。八幡社の傍《そば》に育った久吉には、笙篳篥は幼い時から聞いて育った懐かしい音色なのだ。みんなは喜んで手を叩《たた》いた。 「なるほど。ではオルガンやピアノ、バイオリンは?」 「いいえ、それはありません」  今まで黙ってワインを飲んでいた岩吉が答えた。 「そうですか。なかなか文化程度の優れた国ですね。では絵や彫刻はむろんあるのでしょうね」  岩吉と久吉が音吉を見た。野菜サラダにフォークを刺していた音吉は手をとめて、 「あります、あります。墨絵や、色のついた絵もあります。大きなドアに……」  襖《ふすま》と言いたかったが、襖という英語がわからない。音吉は一応、 「ドアに絵が描かれてあります」  良参寺の襖の絵を思い出しながらそう言った。彫刻も、寺の山門や、仏像、そして神社の狛犬《こまいぬ》など、たくさんあるのは知っているが、どうもうまく説明できない。それで音吉は言った。 「舵取《かじと》りさん。絵に描いて説明してくれませんか」 「わかった。食事がすんだら描いてみよう」  岩吉はマクラフリン博士の前でも、艦長の前でも絵や字を幾度か書いてきた。そのことを音吉が告げると、ブラウン夫人が、 「まあ! この方は芸術家ですか」  と、尊敬をこめたまなざしで岩吉を見た。  食事が終わってから、音吉は字を、岩吉は日本の絵や彫刻を、それぞれに与えられた紙の上に書いて見せた。音吉は寺子屋で習ったように、いろは四十八文字を片仮名と平仮名で書いた。岩吉は、大きな襖をまず描き、それに牡丹《ぼたん》や虎《とら》の絵などを描いて見せた。それから、床の間にかける掛け軸を描き、それに達磨《だるま》や山水《さんすい》の絵を添えた。  音吉は知っている限りの漢字を書き始めた。その中には、千石船《せんごくぶね》の中で岩吉から習った字もかなりあった。艦長、ブラウン牧師、牧師夫人、士官たち、そして現地人たちも珍しそうに日本の字や絵に見入っていた。音吉は一字一字ていねいに書く。岩吉は手早く、的確に、次々と絵を描いていく。仏像も狛犬も、山門の彫刻も、見事に描いた。省略の利いた、しかし的確な筆づかいであった。 「驚きました。すばらしい国です、日本は」  ブラウン牧師は率直に言った。 「どうも、そうらしいですな。この三人も、なかなか礼儀が正しいですよ。質のよい国民のようです」  艦長もほめた。艦長は艦内にいる時とはちがって、やさしい表情を見せていた。 「この国なら、キリストの愛を、きっと受け入れてくれるにちがいありません、艦長」 「そうかね。ではロンドンに帰った時、早速そのことを伝えて置こう」 「とにかく字も絵も彫刻もある。恐らく建築も、機織《はたお》りも立派なものがあるにちがいありません。ただ、問題は、この国にたくさんの神があるということです。アテネのように」  夫人も、艦長も現地人たちも大きくうなずいた。皆信者なのである。 「確かに神は唯一です。このことを日本の人々は、絶えて誰からも聞かされていないのでしょうな」 「きっとそうです、艦長。この三人を送り届ける時が、宣教のチャンスです」 「しかし、迫害がひどいと三人は言っているが……」 「確かにそのようですが、教養のある国です。聖書を日本語に翻訳《ほんやく》したら、真の神の愛を、聖書の中に読みとるにちがいありません」 「なるほど。しかしそれはむずかしい話だ。こんな複雑な文字を読むことも、書くことも、吾々《われわれ》には出来そうもない」  艦長は音吉の書いた文字を指さして、頭を横にふった。ブラウン夫人が言った。 「そうでしょうか、艦長。わたくしはそうは思いませんわ。この三人を見ていると、日本という国が、すばらしい国に思われてなりません。いつか必ずキリストを受け入れてくれますわ」  早口に語り合うそれらの言葉を、音吉たち三人は全部聞きとることはできなかった。 (このご新造は、どうしてジーザス・クライストのことばかり言うんやろ)  再び音吉は、心の中で呟《つぶや》いた。 (わしらはキリシタンは嫌《きら》いなんや! 恐ろしいんや! いやなんや!)  音吉は心の中に叫んでいた。岩吉は、まだうつ向いたまま、鉛筆を走らせていた。鉛筆の先からは千石船《せんごくぶね》が次第に形造られていった。      四  部屋は八畳ほどもあろうか。床に薄いマットを敷き、その上に岩吉たち三人は横たわっていた。闇の中に、三人はそれぞれの思いを持って目をひらいていた。ここは牧師館の一室である。与えられた毛布は、不要なほどの暖かさだ。泊まって行くようにと三人に先《ま》ず勧めたのは、牧師夫人であった。 「いや、わしらはみんなの所に戻《もど》ります」  岩吉は辞退した。が、牧師夫人は、その澄んだ水色の目を、岩吉に真っすぐに注いで言った。 「いいえ、岩吉。あなたがたはイギリスの国のお客さまです。お客さまを砂浜に寝せては、申し訳がありませんわ」  ブラウン牧師も、同じことを言った。艦長も、 「遠慮せずに、お言葉に従うがよい」  と、勧めた。それで遂に三人は、この部屋に泊まることになったのだ。 (何べんも何べんも、おんなじことを聞かれてきた)  岩吉は、フラッタリー岬に漂着して以来、今日までのことを思い返していた。酋長《しゆうちよう》の前に、マクラフリン博士の前に、ミスター・グリーンの前に、艦長の前に、そして今夜ブラウン牧師夫妻の前に、自分は日本のことを絵に描いて示してきた。 (みんな同じことを聞きたがる)  不意に怒りのようなものが、岩吉の胸にうごめいた。自分たちが、只《ただ》珍しがられているようで、惨《みじ》めな気がした。何か見世物にでもされているような気がするのだ。絵がうまいとほめられたところで、それもまた、珍しがられていることの一つのようにしか、思えないのだ。 (誰も、俺たちのほんとうの気持ちがわからせん)  岩吉には、それが情けなかった。激しい望郷の思いに駆られていただけに、怒りにも似た思いが湧いたのだ。  が、その怒りが誰に向けてのものかと言えば、それは岩吉にもわからなかった。ブラウン牧師は柔和《にゆうわ》で礼儀正しかったし、その妻は深い尊敬の念をこめて対してくれた。そして共に親切であった。艦長も、艦内で話した時より、はるかに親身《しんみ》な言葉をかけてくれた。島の人たちも、決して不快な態度は取らなかった。だから、誰に怒りを向けようとしても、向ける相手はいない。いないだけに岩吉はやりどころのない思いがした。それは誰に対してと言うより、自分たちの置かれた立場に対する憤りかも知れなかった。 (もし日本に帰ったら、今度はお上《かみ》に、アメリカの様子を尋《たず》ねられるにちがいない。すると俺は、やっぱり絵に描いて説明するのだろうか)  岩吉は先程《さきほど》牧師たちの前で絵を描いていた時の自分を思った。言葉には表し難い思いを秘めて、自分は絵を描いて見せたのだ。千石船《せんごくぶね》の絵を描いた時、岩吉の胸に甦《よみがえ》った重右衛門や利七、勝五郎など、一人一人の面影は、決して絵には表し得なかった。故国懐かしさに胸の張り裂ける思いで自分は絵を描いていたのだ。が、そんな思いを誰も知らずに、絵の巧みさをほめていた。岩吉は今、怒りが次第に淋《さび》しさに変わっていくのを感じた。 「な、舵取《かじと》りさん」  音吉が、低い声で呼んだ。 「何や」 「いつものことやけど、日本のこと聞かれるのは、辛《つら》いな」 「何やお前も同じことを考えていたのか」  岩吉は音吉のほうに顔を向けた。 「じゃ、舵取《かじと》りさんも同じことを考えていたんか。何もかも、一度に思い出させられるでな。かなわんわ」  音吉が言うと、久吉も、 「ほんとや。思い出すのは辛いな。正直のところ、忘れていたいでな」  と、珍しく吐息をつく。潮騒《しおさい》の音が風に乗って聞こえてくる。窓ガラスが風に鳴った。 「久しぶりやなあ、陸にいて波の音を聞くのは」  音吉は、小野浦の家で聞いた波の音を思い浮かべた。 「全くや。家にいるみたいや」  久吉は言ったが、マットの上に起き上がって、 「なあ、舵取りさん。今日浜で言ったことな、あれほんとうか」  と、不安そうに尋《たず》ねた。 「ああ、イーグル号には二度と戻《もど》らんという話か」 「そうや。山に逃げるって、舵取りさん言ったわな」 「うん……」 「あの話を始めたばかりの時、急に番兵が近づいて来たわな。あれには驚いたな、な音。心臓がとまりそうやったな。頭から一ぺんに血が引いたような気がしたわ」 「あれで出鼻《でばな》をくじかれたか」  岩吉はかすかに笑った。 「くじかれたなあ。何せ、相手は鉄砲を持っているでな。山ん中に逃げたところで、こんな小さい島や。たちまち見つかるやないか、そう思うてな」  逃げるのに乗り気だった筈《はず》の音吉の言葉に、久吉は、 「何や、音、気が変わったんか」  と、安堵《あんど》したように言った。 「気が変わったんとはちがう。できたら、鯨獲《くじらと》りの船に乗って、このまま真っすぐ日本に帰りたいのは山々だ。父《と》っさまだって病気や。兄さもわしも死んだと思って、何んぼ淋《さび》しゅう思うているか……一日も早く帰って、喜ばせてやりたいわ。いつも言うことやけど、羽があったら飛んで帰りたいわ」 「じゃ、逃げ出すんか、音」 「いや、何や出鼻くじかれるとな、逃げるのは不吉《ふきつ》なような気がしてな。舵取《かじと》りさんはどう思う?」 「俺が一人なら、逃げる。俺が一人なら、何としてでも逃げおおせて見せる。万一失敗して死んだところで俺一人のことですむ。しかしなあ、お前らを死なすわけにいかんでな」  音吉と久吉は黙った。確かに、岩吉一人なら、どこかの捕鯨船《ほげいせん》にしのびこんで、日本の近くまで帰って行けそうな気がする。しかし三人では目立ち過ぎる。といって、岩吉に去られては生きて行く自信はない。 「すまんな、舵取《かじと》りさん。けどなあ、フラッタリー岬でも、逃げようとした時があったわな。その時に、思いもかけずに、助け船がやって来たやろ。今日もな、こうしてあの浜からこの家につれられて来た。何や、神さまが逃げたらあかんと言うてるような気がするんや」  音吉は言った。初め、岩吉から逃亡の計画を聞いた時は、直ちに賛成した。今から考えると、なぜ賛成したのか不思議なほどだ。二か月もすれば日本に帰れると聞いて、矢も楯《たて》もたまらなくなったのだ。だが、 (急がば廻《まわ》れ、と言う言葉もあるでな)  牧師夫妻の卓に向かいながら、音吉はそう思っていたのだ。 「けどなあ、音。考えてみたら、たった二か月で日本に帰れるんやで。それがイーグル号に戻《もど》ったら、ぐるーっとひとまわりして、一年もかかるんやで。なあ、舵取りさん」  先程《さきほど》は逃げることに不安を感じていた久吉だが、その風向きが変わった。 「そうや。一年と只《ただ》の二か月では大したちがいだでなあ」  岩吉にとって、このあとの一年は余りにも長過ぎた。年老いた養父母が哀れだった。夫岩吉を失ったと信じこんでいるであろう絹も、そしてその子岩太郎も哀れだった。その絹の顔に銀次の顔が重なってちらつく。 (あの野郎さえいなければ……)  岩吉は闇の中で口を歪めた。 「ほんとやな、二か月と一年では、ちがい過ぎるでな。そうだ、音。今ならお琴だって、まだ婿《むこ》を取っておらんかも知れせんで。けど、一年経ったら人のもんや」 「お琴のことは、もう諦《あきら》めとる」  音吉は呟《つぶや》くように言った。が、俄《にわか》に琴の顔がありありと目に浮かんだ。自分の墓に詣《もう》でて、自分のために泣いている琴の姿が目に浮かんだ。いやなことを久吉は言ってくれたと思う。 「何や、諦めたんか。そんなら俺、ひと足先に帰って、お琴を口説いてもええか」  久吉は冗談を言った。が、すぐに、 「とにかく、家に早う帰りたい。早う帰りたいなあ。今帰れば、二か月あとには、日本の桜も見られるんでえ」 「ほんとやなあ」 「あと一年も航海するのは、かなわんなあ。船の生活もきついでな。入れ墨した荒くれ男も、何や気味が悪いしな」 「そうやなあ。男が男に抱きついたりするの、身ぶるいするわ」 「そうや。身ぶるいするわ。それに嵐はあるし、もうわしはこりごりや」 「そうやな、久の言うとおりや。どうする舵取《かじと》りさん」 「…………」  岩吉は何か考えているようであった。久吉が言った。 「舵取《かじと》りさん。俺、何や逃げとうなった。逃げるんなら、今夜がええ機会やで。この家からなら、山は近いし、人目はないし、暖かいで山ん中にこもっても、凍《こご》えることはないし……」 「そうやな、久吉、木の実、草の実があれば、飢え死にすることもないやろし」  音吉も心を動かされた。 「そうか。逃げるか。しかしな、万々一の時には、命はないぜ」 「けど、うまく行けば、すぐに帰れるんや」 「よし! では、とにもかくにも、ひと先ず、俺が辺《あた》りの様子を見て来よう」  岩吉がむっくりと起き上がった。 「わしらも行くで、舵取りさん」  久吉があわてて立ち上がった。が、岩吉が、 「すぐに帰って来る。お前たちはじっとここに待っていろ」  と、押しとどめた。 「ほんとに帰ってくるか、舵取りさん」 「帰ってくる。辺りの様子を見てくるだけだでな」  岩吉はしのび足で部屋を出て行った。 「音、ほんとに舵取りさん帰ってくるやろか。一人で逃げるんとちがうやろか」  しばらく耳を澄ませていた久吉が言った。 「舵取りさんは、そんな人ではあらせん」 「そうはわしも思うけどな。何や心配だ」  久吉は立ったり坐《すわ》ったり、落ちつかなかった。      五  朝食が終わった。今朝《けさ》は島民たちの姿はなく、艦長、二名の士官、ブラウン牧師夫妻、岩吉たち三人の、計八人の食事だった。山羊《やぎ》の乳も焼き立てのパンの味も、三人にはわからなかった。今、これから、自分たちが艦長に言い出そうとしていることが、大きく胸を占めていたからだ。  昨夜、岩吉は、一人そっと外に出た。満天の星空の下に、黒い闇《やみ》だけがあった。が、三歩と歩まぬうちに、たちまち岩吉を遮《さえぎ》った者がいた。 「誰か!」  錆《さび》のあるその声は、歩哨《ほしよう》の声であった。 「どこに行くのか」  歩哨は岩吉の傍《そば》に近よって、その肩をおさえた。 「廁《かわや》です」  一旦《いつたん》はぎくりとしたが、岩吉は静かに答えた。  結局、岩吉たち三人は、牧師館を逃れ出ることができなかった。朝起きて、三人は牧師館のすぐ傍《そば》に教会堂を見た。広い芝生を隔てて教会堂は建っていた。その尖塔《せんとう》に白く輝く十字架があった。 「音! 見てみい。あれはキリシタンのしるしや」  おののく久吉の声に、音吉も岩吉も窓から顔を出した。青い朝空の下に十字架が輝いていた。 「ほんとや、ほんとや。あれがほんとのキリシタンのチャーチや。パーソンというのは、キリシタンの坊さんのことや」 「えらい所に泊めてもろうたな」 「お上《かみ》に知れたら、大変なことになるで」 「これは内緒にせんとならん」 「そうや、内緒や内緒や」  万里《ばんり》の海を隔てても、三人にとってお上の存在は恐ろしかった。キリシタンの禁令は恐ろしかった。それだけに三人は、イーグル号に送られて日本に帰ることが、更《さら》に恐ろしい気がした。毎日曜日、イーグル号では礼拝を守る。そんな船に送られて、日本に帰ってはならないのだ。 「舵取《かじと》りさん、こうなったら、艦長《キヤプテン》に頼むより仕様があらせんで」 「そうやな。艦に帰ったら、声をかける暇はあらせんからな。ここに泊まったのは、熱田さま、仏さまのお蔭《かげ》やで。事を分けて話をすれば……しかし、俺は言葉が下手だでな。やっぱり音がいいな」  三人は話し合って、この朝の食卓にのぞんだのだった。  食事が終わった時、三人は、つと椅子《いす》を立った。 「艦長《キヤプテン》、おねがいです」  岩吉が言うや否や、三人は床に手を突いて土下座《どげざ》した。艦長をはじめ、士官も、牧師夫妻も、何事かと驚いた。 「椅子にお坐《すわ》りなさい。人間が人間を拝んではいけません」  ブラウン牧師が言った。が、三人は土下座したままだ。音吉が言った。 「艦長《キヤプテン》、わたしたちを、ここから真っすぐ日本に帰して下さい。おねがいです」  音吉は胸が迫って声が詰まった。お上《かみ》に直訴《じきそ》するような、大それたことを今なしつつあると思った。ブラウン牧師が、無理矢理三人を椅子に坐らせた。そして牧師は艦長に言った。 「艦長、三人の話をよく聞いて上げて下さい」  艦長はうなずいて、 「ここから真っすぐ日本に帰りたいということは、つまり、イーグル号から降りたいということかね」 「はい。イーグル号から降りて、ここから真っすぐ日本に帰りたいのです」 「と言うのは、イーグル号に何か、不満があるのかね」 「ありません。只《ただ》、一日も早く日本に帰りたいのです。岩吉には、年取った両親と、妻と、幼い子がいます。岩吉が早く帰らなければ、つらい貧乏をつづけなければなりません」 「なるほど」 「私にも久吉にも、年取った親がいます。私の父は病気です。久吉の妹も、私の妹も、まだ小さいのです」 「ああかわいそうに、この人たちが一日も早く帰りたいと思うのは、当然ですわ」  牧師夫人が、早くも目に涙をためてうなずいた。 「私たちは、国を出てもう二年経ちました。あと一年もかかって日本に帰るのは、長過ぎます」  音吉は必死だった。 「その上、日本はキリスト教を禁じています。毎週礼拝を守っている船に乗っていること、これだけで恐ろしいのです。私たちには命にかかわることです」  自分の言葉が、どれだけ相手に通ずるかはわからなかった。音吉は夢中になって、覚えているだけの言葉を並べて訴えた。腕を組んで、じっと聞いていた艦長は、しばらく考えていたが、やがておもむろに言った。 「わかった。君たちの気持ちはよくわかった。わたしも船に乗っている身だ。故国を離れた者の心はよくわかる。だが、わたしは、君たちをロンドンに乗せて行く約束で、イーグル号に乗せた。マクラフリン博士との固い約束だ。その約束を君たちも知って乗った筈《はず》だ。その約束を破るわけにはいかないのだ。その上、捕鯨船《ほげいせん》は安全とは言えない。捕鯨船の者たちは、日本の役人と交渉する力はない。決して悪いようにはしない。早く帰りたいのはわかる。しかし、問題は無事に帰ることだ。君たちが、礼拝に出たくないのなら、出なくてもよい。とにかく、焦ってはいけない。捕鯨船などに乗って、万一難破でもしたら、君たちは永遠に日本には帰れない」  生まれて初めて、人に土下座をされた艦長は、三人の心に打たれた。その言葉にも表情にも真実がみなぎっていた。      六  四層の帆が風を一杯に孕《はら》んでいる。錨《いかり》は既《すで》に上げられ、イーグル号は遂にサンドイッチ諸島を後にした。音吉と久吉は、夕焼け空の中にくろぐろと見える椰子《やし》の葉影をぼんやりと眺《なが》めていた。真っ赤な太陽が、島全体を影絵のように見せている。波も空も共に夕日に映えて赤い。 「この島ともお別れやな」  久吉が言った。音吉は舷側《げんそく》にもたれたまま、黙って島を見つめていた。刻一刻と、島が遠くなる。それは即《すなわ》ち日本が遠くなることのように、音吉には思われた。 (あと二月で、帰ることができたかも知れんのに……)  音吉は、改めて日本に別れを告げる思いであった。父武右衛門のやさしい目、母の笑顔、妹さとの小さな体、琴の涼しい瞳を音吉は順々に思い浮かべた。 (もう、会えんかも知れせん)  ふっとそんな思いがした。これから半年かかってイギリスに着くという。そのイギリスから日本まで、更に半年以上はかかるという。それは、今の音吉には永遠とも言うべきほどに遠かった。黒い椰子の葉影が涙にうるんだ。と、涙は不意に噴き上げるように、とめどなく頬《ほお》をぬらした。 (父《と》っさま、母《かか》さま、達者でな) (おさと、父っさまと母さまを大事にな) (お琴、幸せに暮らせよな)  音吉の頬が、ひくひくとふるえた。 「何や音、泣いてるんか」  久吉は驚いたが、 「泣きとうもなるわな」  と、久吉の声もくもった。 「…………」  答えようとしても、音吉は口をひらけない。人目もかまわず、今は只《ただ》、泣きたかった。船が揺れる度に、水平線は大きく斜めに上下した。島影もまた斜めに浮かび上がっては沈む。空の茜《あかね》が、次第にその色を変えて灰色を帯びてきた。 「音、あのチャーチのパーソンや、パーソンのご新造、ええ人たちやったな」 「うん……」 「あのご新造、泣いてくれたもな」  三人がイーグル号に戻《もど》るより仕方がないとわかると、牧師夫人は久吉と音吉の肩を抱いて、涙を流してくれたのだ。 「エンジェルって、あのご新造みたいな顔をしているのやろな、きっと」  涙を腕で拭《ぬぐ》いながら、音吉が言った。 「そうやろな。あのご新造は、わしらの気持ちをようわかってくれたんや。あのご新造かて、故郷を離れて、はるばるとエゲレスから来ているんやものな、音」 「ほんとやな。あんなに若いのにな。女子《おなご》の身で、ようあんな小さな島に、にこにこ暮らしていられるわ。淋《さび》しい筈《はず》なのにな」 「ほんとやな。けど、何であんな小さい島に来ているんやろ、自分の故里にいたら、親や兄弟の顔を、いつでも見れるやろに」 「全くやなあ、久吉」  ブラウン牧師が別れる時に言った言葉を、音吉は思い出した。ブラウン牧師は言った。 「わたしたちは、ジーザス・クライストの神を伝えるためにこの島に来ました。いつか日本にも、わたしたちの仲間が行くことでしょう」  言われた時は恐ろしい気がした。キリシタン禁制のきびしく施かれている日本に、キリスト教が入りこんでは一大事だと思った。が、今その言葉を思う音吉の胸に疑問とも感動ともつかぬ思いがわいた。 (何のためにそんな苦労をするのやろ。自分の国で安穏《あんのん》に暮らしていればいいのに)  音吉はそのことを久吉に言おうと思った。と、久吉が、 「あのご新造、何やピーコーに似ていたな。ピーコーはどうしているやろ」  と、うす暗くなった海の面に目をやった。 「どうしているやろなあ」  相槌《あいづち》を打ちながら、牧師というのは不思議な仕事だと思った。 (どうしてよその国まで行くんやろ。どうして自分の国に、じっとしていないんやろ)  そう思いながら、音吉は自分の印象を確かめるように言った。 「ほんとに、あのパーソンもご新造も親切やったな」 「うん、親切やった。音んところの父《と》っさまや母《かか》さまに似とるわ。やさしいところがな」 「いや、うちの父っさまや母さまよりやさしいわ。見知らぬわしらに、ほんとに親切やった」  もう音吉の頬《ほお》には涙がなかった。 「音……俺、何やらわからんようになってしもうた」 「何がや」  忙しく立ち働いている甲板《かんぱん》の水兵たちに背を向けたまま、次第に遠ざかって行く島を見つめている。もう椰子《やし》の葉も家も見えない。只《ただ》ひと塊《かたまり》の黒い島影が、うす暗い海に浮かんでいるだけだ。  今日、艦長は音吉たち三人に、三日間の休暇をやると言ってくれた。そして、三人がイーグル号の客人であることを、改めて全員に話してくれた。艦長も、三人が土下座《どげざ》して帰国を望んだその時まで、三人が客人であることを、忘れるともなく忘れていたのだ。ハドソン湾会社から相当の金を受けた以上、三人を水兵同様に扱ってはならなかった。只、退屈しないように、働きの場を提供する必要はあったが……。 「音、どうして日本では、キリシタンを禁じておるんかなあ。そこのところが、どうもわからんようになった」  軟風を受けて、船はなめらかに走る。 「そうやなあ。わしもそれがようわからんのや。ミスター・グリーンだって、ドクターだって、いい人やった。パーソンだって、ご新造だって、神さんか仏さんみたいな人やった。あんな人たちの信じている神さんが、悪いわけはあらせん。逆《さか》さ磔《はりつけ》や、縛《しば》り首にならねばならんほど、悪いものとは何としても思えんでな」 「そうやな。キリシタンは生き血をすすると聞いたことはあるけど、あれはうそや。一度だって、ドクターもミスター・グリーンも生き血をすすったことはあらせんで」 「わかった! 久、ほら、あの真っ赤なワインや。あれを人の血だとまちがえたのとちがうか」 「なるほどなあ。あれはほんとに血のように赤いわ。何や阿呆《あほ》らしい。キリシタンは生き血をすするなんて、まじめな顔をして、おとなが言うていた。あれをお上《かみ》が信じたんやろか」 「さてな。それはわからせんで。そう言いふらしたのがお上かも知れせんで」 「けど、いい教えなら、どしどし国の中へ入れたらいいのにな、音」 「ほんとや。何を信じようと、こっちの勝手だでな。信じちゃならんと言うのは、おかしな話やな」 「艦長《キヤプテン》かて、礼拝に出とうなかったら、出ないでもいいって言うたわな。けど日本では、お寺の帳面に載らんもんはキリシタンや言うて、一族皆殺しや。変な話やなあ」 「久吉、それがお上や、お上の言うことはアイ アイ サアや」 「アイ アイ サアか。かなわんなあ」  二人は顔を見合わせて吐息をついた。二人には確かな言葉で言い現すことはできなかったが、理不尽のまかり通っているこの世が、少しずつわかって来たような気がした。 (けど、何でお上を恐れんならんのやろ)  久吉が納得のいかぬ顔をした。 「牢《ろう》に入れられるからや。牢にさえ入れられんければ、怖いことあらせん。お上の役人の数より、百姓や漁師の数のほうが多いでな」 「そうや。そのとおりやけど。音、それ、サムの言うていることと同じやな」 「ほんとや。いつの間にやら、わしもサムによう似て来たわ。サムがよう言うわな。船尾の偉い人たちは、僅《わず》かしかいない。その僅かな人間に、何で何百もの水兵が殴《なぐ》られんならんかとな。サムの言うのも道理やな」 「とにかく、悪いことをして牢《ろう》に入れられるのは仕方あらせんけどな。キリシタンになって牢に入れられるのは、わからんわ」  折《おり》から頭上で時鐘《じしよう》が鳴った。夕食時の時鐘だった。      七  暑苦しい夜だ。ハンモックに上がろうとすると、「親父」が岩吉の傍《そば》に近づいて来た。 「岩、上の甲板《かんぱん》で寝よう。こうむし暑くては、体に毒だ」  サンドイッチ諸島を後にして二日目の夜だ。 「ありがとう。音と久をつれて上に出る」  これまでも二、三度、「親父」に誘われて上甲板で寝た。ガン・デッキのハンモックに揺られながら、大砲を見おろして寝るより、上甲板で風に吹かれて寝るのは心地《ここち》よい。それは決して許されていることではなかったが、しかしイーグル号では黙認されていた。寝苦しい一夜を明かして睡眠不足になられるよりは、熟睡してもらったほうが仕事が捗《はかど》るからだ。  毛布を持った岩吉が、ガン・デッキから上甲板に上がって行くと、いつもの場所に「親父」やサムがいた。西空に、無気味なほどに赤い三日月が出ていた。海は真っ暗だ。その月を左手に見ながら船は走る。早くも大きないびきをかいて眠っている者がいる。大きなマグロを並べたように、上甲板に水兵たちが横になっている。無秩序のようで、ここにも秩序があった。水兵たちの眠る場所は大体決まっていた。  サムたちのすぐ傍《そば》に横になった音吉と久吉が、何かひそひそと話し合っている。が、岩吉は甲板に突っ立ったまま、赤い三日月を眺《なが》めていた。 (妙な色だ。今まで見たこともない色だ)  長年|千石船《せんごくぶね》に乗っていた岩吉は、上甲板に出る度に、月や星を見る癖がある。習い性《しよう》のようなものであった。じっと細い三日月を眺めているうちに、岩吉はふっと、いやな顔を思い出した、絹の母かんの顔だった。目の吊《つ》り上がった因業《いんごう》な顔だった。絹の髪の毛を引きずりまわしていたかんに腹を立て、殴《なぐ》りつけた夜のことを、余りにも鮮やかに岩吉は思い出した。殴られて、音を立てて畳の上に倒れたかんの姿が、中空に浮かんだ。 (いやなものを思い出した)  殺すつもりはなかった。が、かんは翌朝死んだ。迎えた医師は卒中と診断してくれた。 「卒中でしょうか? 心《しん》の臓を患っておりましたが……」  絹がさりげなく言うと、 「うん、そのけもある。が、卒中じゃ」  と、医師は何の疑いも見せなかった。もし自分が殴ったことを知られていれば、自分は縛《しば》り首になったかも知れない。そんなことを思いながら、岩吉は静かに身を横たえた。すぐ傍《かたわ》らに音吉の体があった。 (人殺しか) (しかし俺は、殺すつもりはなかった)  岩吉は、自分がかんを殺したとはどうしても思えない。たとえ殺したとしても、悪いことをしたとは思えない。娘を苛《さいな》み、娘の生き血を吸って生きていたかんが死んだことは、よいことだったと思う。 (絹は、俺がかんを殺したなどとは、これっぽちも言ったことはない)  絹はやさしい女だと思う。 (かんの奴《やつ》、死んでどこに行ったのやら)  極楽に行ったとは思えない。地獄の針の山で、鬼に追われて逃げまどっているような気がする。 (かんを殺した俺も、地獄に行くか)  岩吉は口を歪めた。地獄はあるような気がした。だが、極楽があると考えたことはない。死んで楽しい所に行けるなどとは、嘘《うそ》っぱちに思われた。 (俺もろくな生き方をしてはいないからな)  師崎の灯りが、目に浮かぶ。 (とにかく、一か八《ばち》かで、あのまま日本に逃げて帰りたかった)  島から離れれば離れる程《ほど》、その思いが大きく胸にひろがって行く。 (お絹のような女に、二度と会うこともあるまい)  あの七里《しちり》の渡しの灯台に寄りかかって、じっと自分を待っていた日の絹の姿が、胸に焼きついている。 (もしかしたら……)  今日も、昨日も、そして明日も、絹はあの灯台に寄りかかって、岩吉が帰って来はしまいかと、ひたすらに待っているような気がした。 (あいつはそんな女だ)  ふっと銀次の顔が浮かんだが、岩吉は、絹は自分のものだと自分自身に言い聞かせた。 (絹は銀次なんぞとは一緒にならねえ)  岩吉はそう信じたかった。  甲板《かんぱん》のあちこちで、ぼそぼそといつまでも語り合う声が聞こえる。波が船腹を洗う。当番|下士官《かしかん》の靴《くつ》の音が時々聞こえてくる。すぐ傍《かたわ》らで、サムと「親父」が低い声で話している。 「そうか。それは知らなかった。あの意気地《いくじ》なしがな。見直したぜ」  サムの声だ。 「そうよ。あの気の弱いお人好しがな。俺は島に残るって、真剣な顔で言ってよ。驚いたぜ」 「あいつも少しは人間らしい気持ちになった証拠だな」  サムは低く笑った。と思うと、今度は声に出して笑った。 「何だ、何がおかしい」 「実はな、親父。俺もあの島の、山ん中にでもずらかろうと思ったからよ」 「そうか。お前もか。まあそうだろうな。あの島に上がるとな、誰でも一度はそんな気持ちになるのさ。花は咲いている。真っ赤な鳥は飛んでいる。木の実は腐るほどある。俺だって、以前あの島に来た時は、逃げ出そうと思ったものさ」 「ほほう、親父も逃げようと思ったのかい。で、どうして逃げなかったね」 「俺たち貧乏人は、どこに逃げてみても、結局はおんなじだと思ったからさ。頭を抑えつける奴《やつ》が、どんな世界にもいるものでな」 「なるほど、ちがいねえや。あの島にも、カメハメハ三世とやらがいるそうだな。貴族がいるなんて、胸糞《むなくそ》の悪くなるような話だ」 「ところでお前は、なぜ逃げなかった? サム」  逃げるという言葉が、幾度も岩吉の耳に入った。 「親父と離れるのが、辛《つら》いからさ」 「まさか」 「ほんとうさ、親父、第一俺が逃げてみろ。一番仲のよかった親父が、罰を食う」 「…………」 「親父が鞭《むち》打たれるのが目に見えている。だから俺は逃げなかった」 「サム……俺はなあ、お前のためなら、鞭打たれたって、かまわないんだぜ」 「親父」の声がやさしかった。 「それは知ってるぜ。親父って男は、そんな男だ。だから俺でさえ、親父には黙って蹤《つ》いて行く」 「…………」 「親父、ありがとう。俺のために鞭打たれてもかまわないってえ人間が、一人でもいる。それで俺は充分さ」 「…………」 「親父、長生きしてくれよ、な親父」 「ありがとうよ、サム。お前も……」 「親父」は何か言ったようだった。岩吉は二人の会話に心を打たれた。そのすべてが理解できたわけではない。が、おおよそはわかった。 (サムの言うとおりだ)  自分のために鞭《むち》打たれてもかまわぬと言う人間が一人でもあれば、それだけで人間は喜んで生きて行けるような気がした。 (絹も、おやじもおふくろも、わしにはそういう人間だ)  そしてまた、自分も家族のためなら、死んでもいいような気がした。  音吉と久吉の寝息が静かに聞こえた。不意に岩吉は、二人が不憫《ふびん》に思われた。 [#改ページ]   南 海      一  岩吉たち三人は、イーグル号の上で、一八三五年の正月を迎えた。即《すなわ》ち天保《てんぽう》六年である。天保三年十月に日本を出帆《しゆつぱん》してから、三度目の正月であった。  サンドイッチ諸島から南下するにつれて、三人には日本が限りなく遠くなるように思われてならなかった。が、新しい年を迎えると、気分が改まった。結局は、日本に帰る日が、一日一日近くなっているのだと、三人は互いに話し合い励まし合うようになった。  しかし三人は知らなかった。日本の国民が決して幸せな状態ではなかったことを。  三人が日本を出た一八三二年までは、気候が不順とはいえ、一八二九年の大豊作の備蓄米が諸国をうるおしていた。だが、明けて一八三三年は低温つづきで、霖雨《りんう》が日本国中を襲った。にもかかわらず、幕府は米不足を国民の生活態度にあると考えていた。その年一八三三年十月、幕府は次のような触れ書を出した。 〈近年、百姓《ひやくしよう》共は食用大|奢侈《しやし》となり、末のものと麁食《そしよく》を用いず、米穀《べいこく》多く用いた故《ゆえ》、自然、米|払底《ふつてい》し、高値となり、諸人が難儀に及べり〉  が、幕府自身、飢饉《ききん》の危機を深刻には受けとめていなかった。この飢饉を助長した一つに、米作からさらに有利な商品作物栽培に移った農民の多くなったことがあった。一八二九年の大豊作によって、国民は米穀《べいこく》を十二分に消費はしたが、それでもなお米穀は余り、その結果その値段が下落《げらく》した。ところが、農民が米作を減じた翌年から凶作《きようさく》は始まった。ために、飢饉は幕府が考えるより、はるかに深刻なものとなっていった。一八三三年の最高の作高は、東海道の六割七分であり、関《かん》八州の五割二分、最低は奥羽《おうう》の三割二分であった。それでも貯蔵米を保有していた藩《はん》は餓死者を出さなかった。が、津軽、松前、秋田、山形の諸藩では多数の餓死者を見、多くの難民を出した。そしてこの難民は乞食《こじき》として他の地方に流れて行った。多数の猫が殺され、食用とされる状態さえ出現した。  更《さら》に一八三四年、岩吉たち三人がフォート・バンクーバーにおいて充分な食糧を与えられていた頃《ころ》、江戸と大坂では大火があり、引きつづいて諸国に飢饉があった。大坂市中には多数の乞食がさまよっていた。江戸や大坂では、暴徒の「打ちこわし」騒動がしきりに起こり、世相は実に険悪となった。しかも、飢餓のため、病人、行き倒れが続出した。江戸市中にはむろん、近郷《きんごう》の四か所にお救い小屋なるものが設けられ、貧窮した者たちがこのお救い小屋に詰めかけ、幕府によって養われていた。お救い小屋には、いわゆる裏店《うらだな》に住む下層階級の者のみならず、表店《おもてだな》の町人たちさえ詰めかける始末であった。  大坂においても、同様の施設ができたが、その困窮ぶりは、江戸に勝《まさ》るとも劣らなかった。幕府は大坂から江戸への回米量をきびしく厳守させたからである。こうして、やがては天保《てんぽう》八年の大塩《おおしお》平八郎の乱に至るわけだが、諸国の飢餓は日に日に深刻になるばかりであった。  岩吉も、久吉も、そして音吉も、それらの悲惨な故国の状態が、自分たちの家族をいかなる難儀におとしいれているかを、知る筈《はず》もなかった。たとえ、穀象虫《こくぞうむし》のついた乾パンであろうと、毎日変わらぬ塩漬けの肉であろうと、日々三度の食糧が与えられているということは、まだしも幸せなことと言わなければならなかった。  更《さら》にまた、三人は世界がいかなる情勢にあるかを、これまた知る筈はなかった。自分たちが国を出た年、東ヨーロッパにおいて、ロシヤとポーランドが併合した。イギリスにおいては、第一次選挙の改正が成立し、着々と近代国家への道を歩みつつあった。だがこのイギリスも、その数年前から阿片《あへん》を清国《しんこく》に輸出し、清国を悩ましていた。清国はその前年、即ち一八三一年阿片の害に苦慮し、その輸入を厳禁した。にもかかわらず、輸入は跡を断たぬため、一八三二年再び阿片輸入禁止を宣言した。  一八三三年、音吉たち三人が宝順丸で漂流している頃《ころ》、ドイツでは関税同盟が成立した。イタリヤでは青年イタリヤ党によってジェノアに革命がもくろまれ、清国では台湾《たいわん》の叛乱《はんらん》がようやく平定《へいてい》された頃であった。  つづいて一八三四年、フランスにおいて共和主義者の暴動が、パリとリヨンに起きていた。イタリヤのガリバルディは、南米に亡命した。そして清国においては、三度阿片輸入の禁止を発している。この阿片輸入が、数年後には阿片戦争を引き起こすのだが、それが三人の運命と関わることも、むろん岩吉たちの夢にも思わぬことであった。  一八三五年のこの年は、アメリカにおいてはモールスが有線電信機を発明した年であった。しかし、故国の悲惨な状態も、世界の情勢も、全くあずかり知らぬまま、三人は一日も早く日本に帰りたいという、只《ただ》一事の願いに明け暮れていた。  イーグル号はサンドイッチ諸島から、東南を指して下っていた。来る日も来る日もイーグル号は海の中にあった。大きな太い虹が海の上にかかることもあった。真っ赤な夕日が、海を血のように染めることもあった。突如《とつじよ》雪原に乗り上げたかと思うほどの、真っ白な霧に包まれたこともあった。  十日が過ぎ、二十日が過ぎ、正月も過ぎて行った。船は南下するにつれて暑くなった。皮膚が焙《あぶ》られるような暑さだ。 「おてんとさまが、二つ出たのとちがうか」  久吉が、本気で空を見上げたほどに、じりじりと焼けつく日がつづいた。上甲板《じようかんぱん》を歩く素足が火ぶくれになりそうな暑さだ。水兵たちの中に、食の進まなくなる者が続出した。 「もう、気違いになりそうや」  意志の強い音吉も、思わず弱音を吐いたほどの暑さであった。船倉に降り立っても暑さは追いかけて来た。上甲板に立てば直射日光が激しい。 「食当たりとちがうか」  岩吉が案じたほどに、音吉も久吉も頬《ほお》がこけた。 「舵取《かじと》りさん、もうあかんわ」  幾日か食欲を失った久吉が、乾いた口を苦しそうにあけ、喘《あえ》ぎながら言った。その視線も、焦点の定まらぬ視線であった。音吉も、思考力を失った。 「舵取りさん、南に行けば行くほど、暑くなるんやろな」  音吉は、日に幾度も同じことを言った。船は正に赤道の直下にさしかかっていた。そんな二人を、ある朝岩吉は、廁《かわや》につれて行き、バケツで海水を汲《く》み、頭から何杯も浴びせた。それでもなお、暑さから逃れることはできなかった。  こうした中で待たれるのは、時折《ときおり》襲うスコールであった。太い棒のような雨が甲板《かんぱん》を叩《たた》きつけると、水兵たちは裸になって雨に打たれ、口をあけてその雨を受けた。音吉たちを驚かせたのは、このスコールの時に採る水の採り方であった。大きなシートをひろげ、その四隅《よすみ》を何人もの水兵が持つ。雨はたちまち何|石《こく》もの量となる。それを空《あ》き樽《だる》に滝のように注ぎこむ。これが幾組もの水兵によってなされた。このスコールは、いつも三十分足らずの短い時間であったが、スコールが襲う時、気温がぐんと下がった。これで水兵たちは息を吹き返すのだ。  船が赤道直下に来た時、赤道祭りがあった。その日は日曜日と同様、仕事は午後から休みとなった。酒をいつもより多くふるまわれた。が、さすがの水兵たちも、ダンスをしてはしゃぐ元気はなかった。が、誰の提案か、全帆を縮帆し、船をとめた。折からの和風で、船をとめるのにふさわしい気象であった。希望の者は、ロープに体をつなぎ、海に入って泳いだ。岩吉も泳いだ。士官たちも泳いだ。だが海から上がると、泳いだ者たちは一様に疲労した。水中の涼しさが何倍もの暑さになって返ってきたのだ。 「南に行けば、行くほど暑いんやろな」  その時、またしても呟《つぶや》いた音吉に、サムが言った。 「音、今何と言った?」  音吉は日本語で呟いたのだ。音吉はその呟きを英語に直して答えた。サムは、 「南に行けば行くほど、暑くなる? それは大ちがいだぜ、音」 「大ちがいだって?」  音吉はとっさにはわからなかった。フォート・バンクーバーを出て、南に向かえば向かうほど暑くなったのだ。 「安心しな、音。ここが世界で一番暑い所だ。いわば世界の真ん中さ。これから次第に涼しくなって、しまいには鼻水も凍るような、寒い南に降りて行くという寸法さ」  その言葉に音吉は、暑熱から逃れる日の来ることを知って安心したものだ。      二  サンドイッチ諸島を出て、二か月が過ぎた。来る日も来る日もの船上の生活は、しかし必ずしも単調ではなかった。三百人もの水兵たちがいる。その水兵たちを別人種のように見下げる士官たちがいる。人間同士の摩擦も絶えない。が、人間を操るよりも船を操ることは更《さら》にむずかしい。気象は常に同じではない。穏やかな日もあれば、小山のような大波が叩《たた》きつけてくる日もある。それに応じて、水兵たちは号笛《ごうてき》と怒声に追いたてられながら、マストに登って展帆《てんぱん》をしたり、畳帆《じようはん》をしたりしなければならない。たとえ、いかに順風の日がつづいても、マストに登らずに終わる日はなかった。それは、一番高い所にある軽帆を、夜間は使わないからである。つまり、夜になると、軽帆をたたみにマストに登り、翌朝はそれを展《ひら》くためにマストに登るからだ。高いマストに登ることは、一回一回命懸けのことだ。  艦長は、岩吉たちに対して、ロンドンまでの艦内生活を自由にするように言ってくれた。サンドイッチ諸島を出る時、そう言ってくれたのだ。だが、その言葉によって、かえって岩吉は、音吉と久吉に言った。 「キャプテンの言葉に甘えちゃいかん。お客さん面《づら》をしていてはいかん。何でも自分でやりたいことを、体に叩《たた》きこんで覚えていくんだ」  岩吉はマストに登ることを自分から訓練した。岩吉自身、瓦《かわら》屋根の職人をしたことがある。瓦屋根職人は、町家の二階屋根にも上がる。神社や寺のとてつもない高いてっぺんまでも登る。高い所には、岩吉も馴《な》れていた。が、いかに高いといっても、これは地上のことであった。揺れ動くマストの上に登るのとは、事はちがっていた。だからこそ岩吉は、サムの後に蹤《つ》いて、マストに登ることを習ったのだ。  岩吉が登るのを見て、音吉や久吉も、登って見る気になった。とにかく帆船に乗る以上、全員の訓練は先ずこのマスト登りに集中された。マストに登れぬ者は一人前の水兵ではなかった。初めて登った時、三人は驚いた。猿のように身軽に駈《か》け登る水兵たちのようにはいかない。下で見ている時とは、全くちがうのだ。足も手も思ったようには動かなかった。先ずシュラウドと呼ばれる縦のロープを両手でつかむ。植物性繊維でできた太いロープだ。そして足は、このシュラウドに交叉《こうさ》したラットライン(横のロープ)にかける。ラットラインは、つまりは梯子段《はしごだん》の役目を持つ。  シュラウドを両手に握り、ラットラインに足をかけることだけで、もう大変なむずかしい動作なのだ。なぜなら、四肢《しし》に等分に体重をかけ、つとめて身軽にしなければならないからだ。万一、ラットラインが切れたとしても、転落することのないようにとの、万全《ばんぜん》の態勢なのだ。この、四肢に等分に体重をかけるこつがわからなければ、いつまで経っても確実に登って行くことはできない。  その点、岩吉は器用であった。身軽であった。下士官《かしかん》が日本の帆船も同じかと尋《たず》ねたほどの巧みさだった。万事に飲みこみの早い岩吉に、下士官や水兵たちの三人を見る目が変わった。音吉も久吉も真剣に訓練して、今では朝に夕にマストに登る作業に加わるようになった。何十メートルも下を見おろすことにも、今は馴《な》れた。もともと、日本人は手先も足先も器用だ。下駄《げた》や草履《ぞうり》を履《は》き馴れた足は爪先《つまさき》まで器用であった。足場であるフットロープに足をかけることもうまかった。丸太|程《ほど》の太い帆桁《ほげた》に身をもたせながら、帆をたたんでいくことも、帆足を帆桁に結びつけることも鮮やかだった。  マストに登ることと共に、もう一つ必ず覚えなければならぬことがあった。それはラーニング・ザ・ロープ(ロープを知ること)であった。ここで言うロープは、動索のことである。無数ともいえるロープの、そのどれを引けばどの帆がひらくか、どのロープがどの帆に通じるか、これを覚えねばならぬのだ。絞ろうと思う帆が絞られず、他の帆が絞られては航海に支障を来す。特に緊急の場合は、機械的に手が動かなければならない。これは、三人のうちで音吉が一番覚えが早かった。久吉の勘もよかった。少なくともこの二つは、水兵たちの必ず覚えねばならぬことであった。  マストの上の作業は、非常な危険を伴っている。万一、動索の操作を誤ると、帆桁にとりついて作業をしている者の命を奪う。慎重な性格でなければ、動索の操作は困難であった。この操作の最も巧みなのは「親父」であった。音吉は、この「親父」の傍《そば》について、その操作を習った。「親父」は、動索に手を触れる時、ふだんとは別人のようなきびしい表情を見せた。息を詰め、しっかと口を結んで、ロープを少しゆるめ、マストの上の者たちに目を走らす。そして更に少しゆるめる。また、ゆるめる。目はマストを見つめたままだ。「親父」のこの扱い方には、来る日も来る日も、初めてロープに触れる者のような緊張があった。「親父」はいつか音吉と久吉に、こう言った。 「人間、馴《な》れていいことと、悪いことがある」  その言葉を音吉はしっかと胸に納めた。そして思った。 (今日という日には、誰もが素人《しろうと》だ)  イーグル号はいつしか、秋の終わりのような涼しさの中にあった。一月二月と南半球は夏であったが、その夏の気配《けはい》も次第に影をひそめた。  そうしたある日、目を覚ました岩吉は、船の動揺が極めて静かなことに気がついた。このところ、夜明けが早く、日没の遅い毎日のことで、ともすれば目の覚めるのが早かったが、今朝はひどく寝こんだような気がする。それは船が静かだったからかも知れない。 (はてな?)  岩吉は不吉な思いがした。音吉も久吉もハンモックの中で、まだぐっすりと寝こんでいる。そのハンモックが、極めてかすかに揺れているだけだ。  岩吉はハンモックから降りて、上甲板《じようかんぱん》に上がって行った。風がほとんどない。風が一時弱まったのとは様子がちがう。  岩吉は船尾のほうを見た。マストには見張りの者がい、当番の者たちもそれぞれの部署についている筈《はず》だ。が、朝のひと時、仮眠をしているのだろうか。風が落ちたことに気づいている様子はない。  イーグル号は軍艦だが、今イギリスに戦争はなかった。ハドソン湾会社の統治するカナダ一帯に、威を示すために出かけて来たに過ぎない。きびしいイギリス海軍ではあっても、戦時と平時とでは、艦内の気分はちがった。海賊の襲撃は警戒しなければならないが、この辺《あた》りはその危険もない。ということで、時としてこのように静かな朝もあった。 (下手をすると、べた凪《なぎ》になるかも知れん)  帆船にとってべた凪は、嵐よりも無気味な状態であった。帆船は風がなければ動けない。長い間の岩吉の航海の経験は、そのべた凪をいち早く感知した。波のうねりもひどく静かだ。海上のかなり広い範囲まで、風のない証拠だ。どの帆も風を失って、しおれた葉のようになっていた。 「風が落ちたぞーっ!」  岩吉はマストの上に向かって叫んだ。途端に艦上がざわめき始めた。      三  べた凪《なぎ》になって二昼夜が過ぎた。今朝も見渡す限り、のっペらぼうの海だ。士官をはじめ水兵たちは、舷側《げんそく》に寄って、小波《さざなみ》ひとつ立てない水銀のような海を、不安な顔で見つめていた。白い海面に、灰色の斑《まだら》がある。死んだように無気味な海だ。息づかいがとまっている。海は動いてこそ海だ。うねり、逆《さか》まき、怒ってこそ海だ。が、海には、かすかな一筋のしわさえもない。空に輝いている太陽までが、なぜか無気味に見える。  岩吉の傍《かたわ》らに、久吉と音吉が並んで海を見おろしていた。 「音、この海の上、歩いて行けるような感じやな」  久吉の言葉に、音吉がうなずいた。 「歩いて行けるような、か」  岩吉が呟《つぶや》いた。確かに、今見つめている海は、水には見えない。三人もかつて、千石船《せんごくぶね》に乗っていた頃《ころ》、べた凪に遭《あ》ったことはある。だがそれは、何刻《なんとき》かのことであった。このように、水面がねっとりとした固い凪ではなかった。どこかに小波はあった。 (不吉な海の姿やな)  音吉は思った。 (何や、悪いことが待っているのではないやろか)  そうも思った。水兵たちも、だらりと萎《な》えた帆を幾度も見上げる。ヘッドヤードとアフターヤードが、それぞれ反対|舷《げん》一杯にひらいている。いつ風が吹いて来るかわからない。しかも、どの方向から吹いて来るか、わからない。その風に備えて、風が吹くや否や、直ちに走り出せるように、ヘッドヤードとアフターヤードを、反対舷一杯にひらいておくのだ。こうして用意さえしていれば、船はうろたえる必要はない。  が、水兵たちは、既《すで》に丸二昼夜、風を待って疲れていた。今に吹くか、今に吹くかと、海を見つめ、帆を見上げて過ごした二日は長かった。幾日も経ったような気がするのだ。だが海は依然として、呼吸を忘れたようであった。海水が、何物かに変わってしまったようであった。 「何や、突然、世の中が金しばりに遭《お》うたような感じやな」  また久吉が言う。 「金しばりとは、うまいことを言うで、久」  岩吉がかすかに笑った。 「なあ、舵取《かじと》りさん。こんな絵に描いたような、動かん海は見たことないわ。気が滅入ってしまうわ」  音吉も言った。 「心配するな。まさか風の神が死んだわけでもあるまい」  岩吉が二人の肩に手を置いた。と、久吉が言った。 「ほんとに、風の神が死んだのかも知れせんで。風の神が死んだら、こりゃ大変だでえ。この船に何百人、人がいても、風の神代わりにはなれせんしな。一、二の三で、みんなで息を吹きかけたところで、帆がふくらむわけもなし……」  久吉の言葉に、岩吉も音吉も笑った。  午後になっても、海に何の変化もなかった。風が絶えて以来、水兵たちの動きも鈍った。甲板《かんぱん》磨きにも、大砲磨きにも身が入らない。ふだんは気合棒《きあいぼう》を鳴らして水兵たちを追いまわす下士官《かしかん》たちにも気魄《きはく》がない。無気味に静まり返ったべた凪《なぎ》の海が、人々の心を侵しはじめていた。風を待つことに、次第に疲れてきたのだ。小波ひとつ立たない海への不安が大きくなってきたのだ。今の状況が、限りなくつづくような不安を、水兵たちは感じはじめていた。それは陸にいる者には想像できない心理であった。  午後一時の時鐘《じしよう》が鳴った。と、突如《とつじよ》、号笛《ごうてき》が鳴りひびいた。掌帆長《しようはんちよう》の鳴らす号笛は、下士官《かしかん》たちによって、次々に伝えられた。「総員集合!」の号笛だった。  艦長は、水兵たちの気分を、いち早く察知していた。過去において、べた凪の時に叛乱《はんらん》があった例を、艦長は幾つか知っていた。水兵たちの関心を、べた凪から外《そ》らさなければならない。マストに登らせる訓練もその一つだ。ふだん使わぬ大砲発射の訓練もその一つだ。が、艦長は、今水兵たちに訓練を課そうとは思わなかった。水兵たちばかりか、下士官たちも、することなすことに、身が入っていない。このような時に、無理に駆り立てても、不満を募らせるだけである。  掌帆長は全員に坐《すわ》るように命じた。いつもと全く様子がちがう。水兵たちはさっと緊張した。誰かが、鞭《むち》打ちの刑にでも処せられるのではないかと思ったのだ。ヤードからロープを垂らして、海に水漬けにする処罰の方法も、水兵たちは伝え聞いている。 (何かが始まる!)  水兵も下士官も、一様にそう思った。  が、艦長に代わって、金髪の若い士官が一同の前に現れた。岩吉たち三人は、その士官を知っていた。サンドイッチ諸島のブラウン牧師宅での晩餐会《ばんさんかい》で同席した士官だったからだ。この士官は、岩吉の描いて見せた絵に驚いて、 「ベリ ナイス ベリ ナイス」  と、幾度もほめ、 「わたしの従弟《いとこ》にも絵のうまい男がいるが、それよりも更《さら》に岩吉はうまい」  と、手放しでほめた。絵のうまいことが、こんなにも尊敬の念をもって見られるとは、思っても見ないことだった。あの後、岩吉は幾度かこの士官から私物のジャムやバターを与えられた。士官の名はマッカーデーと言った。  士官マッカーデーは、水兵たちに向かって言った。 「この船の近くに、ファンフェルナンデス諸島がある。君たちはその島を知っているね」  何人かがうなずいたが、他の水兵たちはマッカーデーが何を言おうとしているのか、疑い深い顔で見つめていた。 「そうか、その島の名を知らない者でも、ロビンソン・クルーソーの名を知らない者はあるまい」  水兵たちの中にざわめきが起こった。      四  岩吉をはじめ、久吉、音吉も士官マッカーデーの話に耳を傾けた。三人はむろん、ロビンソン・クルーソーの名は知らなかった。水兵たちの中にも、三人と同様に、この名を知らない者が何割かはいた。  ロビンソン・クルーソーは一七一九年イギリスにおいて出版された漂流記の主人公である。ロビンソン・クルーソーは、二十四年間無人島に生活していた。話し相手はオームしかなかった。後に、フライデーと呼ばれる黒人が漂着するまで、ロビンソン・クルーソーの話し相手は鳥だったのだ。  この物語は、ダニエル・デフォーによって書かれた。題名は、一度では覚えられないほど長い題である。即《すなわ》ち「ヨーク市の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯とふしぎな驚くべき冒険」という題だった。この本がイギリスで出版されるや、たちまち大きな評判となった。そして数か国語に翻訳《ほんやく》されたほどだから、イギリスに育った者たちのほとんどが、このロビンソン・クルーソーの名は知っていた。しかし、それほどに有名なその名を知らずに育った者たちが、水兵たちの中に何割かいたのである。親から物語を聞かされるような、そんな境遇とは程《ほど》遠い所で育った者たちであった。そのことを踏まえて、士官マッカーデーは、ロビンソン・クルーソーの物語を語りはじめた。 「これは、本当にあった物語なんだ」  マッカーデーは水兵たちを見まわした。 「只《ただ》の想像の物語ではない。ちゃんとモデルがいる。その名はアレクサンダー・セルカークという男だ」  幾人かの水兵たちがまだうさん臭そうにささやきあっていた。 (二十四年間、無人島に住んでいた?)  話が進むにつれて、音吉はその事実に目を瞠《みは》った。 (無人島になど、一年でも生きてはおれせん)  イーグル号が今、大海の真ん中に風を失って立ち往生《おうじよう》したといっても、まだ二昼夜だ。それなのに水兵たちは既《すで》に平静を失いはじめていた。そんな水兵たちに、ロビンソン・クルーソーの話は皮肉なまでに強烈だった。  マッカーデーは話がうまかった。明晰《めいせき》な言葉であった。岩吉たち三人にもわかるようにマッカーデーは話しつづけた。風の音、雨の音、雷の音、鳥の声の真似《まね》が、これまたうまかった。全くそのものであるかのような声色《こわいろ》なのだ。来る日も来る日も、たった一人の孤島の生活——その淋《さび》しさが、音吉の胸にも沁《し》みて来た。沁みて来たあたりで、ロビンソン・クルーソーの創意と工夫による生活が、生き生きと語り出された。金槌《かなづち》の音をひびかせながら、棲《す》み家《か》を作るロビンソン・クルーソーに、出来ることなら自分も手伝ってやりたいと思うほどの、同情と尊敬を音吉は覚えた。  島の中には、きれいな水が流れ、山羊《やぎ》の群れがいた。野菜もあった。はじめうさん臭そうに聞いていた水兵も、いつしか話に惹《ひ》き入れられていた。 「へえー、山羊がいたのか。そりゃあおあつらえ向きじゃねえか」 「まあ、死ぬ心配はねえな」  などとささやき合う者もいる。  話し相手のオームに言葉を教えるところでは、誰もが私語をやめて大きくうなずいた。マッカーデーは適当に自分の考えを織りまぜながら、 「すべてはよくなります。必ず幸せになります」  と、ロビンソン・クルーソーがオームに教えたことにした。このロビンソンは、朝夕聖書を読み、三冊の聖書をぼろぼろにするほどに読んだ。そして神に感謝の祈りを捧《ささ》げることを忘れなかった。これがロビンソンを支える力となった。このことをマッカーデーは心をこめて感動的に話した。  マッカーデーは、モデルのアレクサンダー・セルカークが、実は一七〇六年から一七一一年までの五年間しか孤島にいなかった事実は言わなかった。物語にあるとおり、二十四年間という長さのほうが、話としてはおもしろいからだ。だが、話の概略を伝え終わった時に、次の一事をつけ加えることを忘れなかった。 「諸君、アレクサンダー・セルカークは、なぜこの孤島生活をしなければならなかったか。それを最後に教えて上げよう。実はセルカークは嵐に遭《あ》ったのではない。船長と意見が合わずに、この孤島に置き去りにされたのだ。船長と意見が合わずにだ」  水兵たちは、しんと静まり返った。おもしろい話だと聞いていたその話が、自分の身の上に起こりかねない無気味さを感じさせたからだ。 「ロビンソンが孤島の生活を終え、ようやく自分の故国に帰ったのは、何とそれは三十五年目であった。諸君、そのアレクサンダー・セルカークが、置き去りにされた島が、最初に言ったファンフェルナンデス島だ。ファンフェルナンデス島は、オーストラリアの南部と同じ緯度だ」  話は終わった。だが水兵たちは、その場に坐《すわ》りこんだまま、互いに顔を見合わせていた。自分たちが今、小波ひとつ立たない海の上にいることも、水兵たちは忘れていた。 「そうか。その島はこのあたりにあったのか。俺はロビンソン・クルーソーにはなりたくないぜ」  音吉の隣の男が、日焼けした首を横にふりながら言った。と、その横の男も言った。 「二十四年も一人暮らしだなんて、考えただけでも寒けがする」 「艦長のご機嫌《きげん》を損じたら、こりゃ事だぞ」  べた凪《なぎ》にいらいらしていた水兵たちに、このロビンソン・クルーソーの話は、効果があった。士官マッカーデーの話のうまさが、ロビンソンの寂寥感《せきりようかん》を水兵たちの胸に刻みつけた。しかもこの有名な物語が、単なる物語ではなく、アレクサンダー・セルカークという身の上に起きた事実であることが、水兵たちに、感動と共に恐れを抱かせた。 「今日は夕食まで休みだ」  甲板長《かんぱんちよう》が言った。が、誰も立ち上がろうとはしなかった。島に置き去りにされたとか、ボートに一人置き去られたという話は、事実幾度も耳にしていたからだ。 「ファンフェルナンデスっていう島は、このあたりだったのか」  例によってサムが音吉たちの傍《そば》に寄って来た。「親父」も一緒だ。二人はいつも保護者のように、岩吉たち三人の傍にやってくる。 「大した効き目のあるお説教だったぜ、な、音吉」  サムが言った。音吉は黙ってサムの顔を見た。 「俺なら、もっとおもしろい話をしてやったぜ。バウンティン号の話をな」 「バウンティン号? なるほど」 「親父」が笑った。 「どんな話ですか、それは」  久吉が尋《たず》ねた。 「こりゃあロビンソン・クルーソーよりおもしろいぜ。親父のほうが、この話には詳しいんだ。親父、俺も聞きたいぜ」  鉛《なまり》のようなつるりとした海を見ていた岩吉が、ふり返って「親父」のほうを見た。 「親父」が語り出した。 「あれはな、一七八七年か、八八年の話だったな。今年は一八三五年だから、何年前の話になるかな」 「ざっと五十年ぐらい前です」 「そうか。音吉は計算が早いな。その頃《ころ》、バウンティン号という輸送船があった。むろん武装した輸送船さ。この船の船長がブライと言ってな、大変な強欲者だった。自分の腹を肥やすために、水夫《かこ》たちの食物をけちった。それが船長としての特権でもあったわけだがな」 「ひでえ野郎だ。部下が叛乱《はんらん》を起こすのは当たり前だぜ、親父」 「まあそういうことだろうな。叛乱など、本当は起こしたい者は、誰もありゃあしない。下手をすりゃあヤードの端でぶらんこだ。だが、たまりかねた部下たちが、このブライを船から追い出した。叛乱に反対した者たち十八人も、ブライと一緒に小さなランチに移されてしまった」 「小さなランチと言っても、十九人は乗れたんだろ」 「乗るには乗った。だが、長さ僅《わず》かに七メートル、幅が二メートル、深さ八十四センチの、小さなランチだったそうだ」 「一体そこはどこですか」 「南太平洋のフレンドリイ諸島だということさ。とんだフレンドリイだ。それでもほんの少しの水や、塩漬けの肉や、乾パンは恵んでやったらしいよ」 「では、ブライたちは嵐か、飢えかで、死にましたね」  音吉が言った。 「と思うだろうが、全く聖書に書いてあるとおりさ。吾々《われわれ》の神は、善人にも悪人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるというわけさ。ブライは大した野郎でね。無事に故国に帰ったんだ」 「驚いた野郎だなあ、全く。ここの艦長などそんな小さいランチに置き去りにされたら、一日も持たねえじゃねえか。なあ親父」 「それは言わんことだよ、サム。誰だってブライ艦長の真似《まね》はできねえ。何しろランチには、たった六本のオールと、コンパスと地図しかなかったんだからなあ。大時化《おおしけ》に遭《あ》ったり、飢えに悩まされたり、ある島じゃあ、原住民に襲われたりしながら、ブライはとにかく助かったんだ。そしてイギリスに生きて帰ったんだからな、ブライという男は大したものだ」 「へえ! 帰ったんですか!?」 「帰ったよ。ブライは強欲たかりだが、船乗りとしては根性《こんじよう》のある名キャプテンさ。とにかく驚いたのは叛乱《はんらん》したほうだった。何しろ、死んだと思ったブライが、大きな船に乗って、叛乱者を捕まえにやってきたんだからな」 「どうだ、このほうが、ロビンソン・クルーソーの話より、よっぽどゾッとする話だろう。それこそ幽霊が出たより驚いたことだろうよ。しかし、そんな話は、この船の偉い奴《やつ》たちはしねえのさ。じゃあんたがたもどうぞと、ボートにでも降ろされちまったら、助かる望みはないからな。それよりも、船長と意見が合わなくて島に置き去りにされた話のほうが、効き目があるというわけだ」  サムと「親父」は交々《こもごも》に語った。と、久吉が言った。 「ブライって、凄《すご》い腕利きの船乗りやな。舵取《かじと》りさんみたいやな」 「けどな、舵取りさんは、強欲たかりではあらせんで」  音吉が言ったが、岩吉は黙って動かぬ海に目をやっていた。      五  イーグル号は今、西経七〇度南緯五七度の海にあった。ジェゴラミレス諸島を右に見ながら、世界最大の難所、ホーン岬を廻《まわ》る途中にあった。べた凪《なぎ》に悩まされた日から二十日余りが過ぎた。秋風の中に、白雪輝くアンデス山脈を眺《なが》めているうちはまだよかった。南アメリカの最南端にかかると、突如《とつじよ》として海は荒れた。雪まじりの刺すような風は、さすがの岩吉をも震えあがらせた。ハワイのブラウン牧師にもらったタパーを、岩吉たち三人は、下着としてズックの衣服の下に着ていた。ハワイには織物はなかった。しかし、タパーという木の皮を叩《たた》いて作った薄い布が、この寒さの中で意外に役立った。が、それでも風は容赦《ようしや》なく、針のように体につき刺さる。波が真っ白に泡立《あわだ》つ。波頭の上にイーグル号は突き上げられ、そのまま斜めに波間にすべり落ちる。無用の者はハッチの下に待機を命ぜられた。甲板長《かんぱんちよう》は三本のマストの軋《きし》みに極度に緊張して、全神経を集中する。はらめるにいいだけ風をはらんだ帆は、今にも張り裂けんばかりにふくらんでいる。その幾枚かは、今しがた縮帆したばかりだ。砲手が大砲の索をライフロープ伝いに点検して歩く。凍った甲板に足をすべらせて、倒れる者がいる。荒天用の三角帆を甲板長が見上げる。ホーン岬の潮は、太平洋側から大西洋側へと、ぐんぐんと流れている。風と潮とが同じ方向を取っているのだ。イーグル号は恐ろしい速さで走っている。その船底に部下を引きつれたカーペンターが、絶えずアカを点検して廻《まわ》る。船の揺れによろけながら、帆布を縫製する者たちもいる。岩吉たち三人は、今、その帆布の縫製を手伝っていた。 「うん、これは凄《すご》い嵐だ。サムの言うとおりだ」  岩吉は、サムが幾度も言っていた言葉を思い浮かべた。 「ホーン岬の嵐にくらべりゃあ、ほかの嵐は嵐と言えないぜ。ホーン岬を一度も通ったことがなくて、船乗りなどとは言ってもらいたくないぜ」  岩吉はしかし、自分は北前船《きたまえぶね》に乗って、激しい嵐に遭《あ》ったことがあると、胸の中で思っていた。宝順丸を襲った嵐は、滅多にない嵐だと信じこんでいた。だが今、ぐんと海の底から突き上げてくる波の大きさは、かつて経験したことのない強い衝撃だった。しかし水兵たちは、 「こんな波は、ホーン岬じゃ凪《なぎ》のうちだ」  と、口々に言うのだ。  幾時間かが過ぎて、突如《とつじよ》海のうねりが静まった。途端に号笛《ごうてき》が艦内に響き渡った。全員|甲板《かんぱん》に集合の号笛だ。どんな仕事をしていようと、号笛には従わねばならない。ハッチを開けると同時に、冷たい空気がさっと艦内に入りこんできた。水兵たちは吾《われ》先にと甲板に飛び出す。それを追い立てるように、気合棒《きあいぼう》が鳴る。岩吉はその後につづいた。  上甲板に整列した水兵たちに、号笛が命令を告げた。 「総員配置につけ!」  嘘《うそ》のように風がおさまった甲板の上を、水兵たちは各自の持ち場に突進した。凍った甲板だ。みんなガニ股《また》で急ぐ。 「持ち場総点検!」  つづいて号笛《ごうてき》が鳴る。 「展帆《てんぱん》!」  岩吉が水兵たちと共に、シュラウドに取りついた。シュラウドもフットラインも、波しぶきを浴びて、がつがつに凍っている。氷をつかむような痛さだ。が、誰もが裸足で素手である。どれほども登らぬうちに、手足の感覚が失われた。風は落ちても、嵐の余波で波のうねりは相変わらず大きい。  岩吉は凍りついた帆桁《ヤード》に身をもたせて、何時間か前にたたんだ帆を展《ひら》く。帆も凍っていて、ばりばりと音を立てる。誰もが必死だ。命賭《いのちが》けだ。ようやく帆を展いて、帆足を帆桁に結びつけた岩吉は、ふっと下を見た。黒い海が、七、八丈下にうねっている。目のまわるような高さだ。その取りついているヤードが、船の揺らぎにつれて、大きく傾く。水平線が天を指す。思わず目をつむった眼裏《まなうら》に、絹の姿が浮かんで消えた。  岩吉は、再び凍りついたシュラウドを伝って、上甲板《じようかんぱん》に降り立った。降り立てたことが不思議なような気がした。誰一人、足をすべらせた者のないことが、奇蹟《きせき》のように思えるのだ。  中甲板に戻《もど》って岩吉は、再び帆の繕《つくろ》いを始めた。何に驚いてか、|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》がけたたましく啼《な》いている。アカを汲《く》み上げるポンプの鎖の音が、頭上で絶え間なく聞こえる。 「舵取《かじと》りさん」 「何や」  一緒に帆繕いを始めた音吉が、岩吉の赤く凍えた手足を見て言った。 「舵取りさん、もうヤードに登ることは、やめたほうがいいで」 「うん。けどな、無駄飯《むだめし》食うてるようで、気がひけるでな」 「それはそうやけど、わしら水兵ではあらせんでな。凪《なぎ》の時ならともかく、嵐の時は、万一のことがあったら、かえって迷惑をかけるでな」 「…………」 「第一なあ、舵取りさん。落ちて死んだらどうするんや。命あってのもの種だでな」  音吉が岩吉の身を気づかって、熱心に言う。久吉が聞いていて笑った。 「音、舵取りさんに説教か」 「説教やあらせん。願いや。わしは今日のような時は、よう登らんで」 「それはほんとうやな。わしも舵取りさんの真似《まね》はできんわ。命が惜しいでな。ヤードにしがみついていても、真っ逆《さか》さまに海の中に落ちそうな気がするんや。海と空が、ぐるりとまわってな」 「ほんとや。久吉の言うとおりや。わしら客人だでな。無理することあらせんわ。あの凍ったばりばりのロープにさわるだけでも、頭のてっペんまで痛くなるわ」 「ほんとに寒い所やなあ、ここは。地球の上に、こんなに寒い所があったとは、知らんかったわ。何せ小野浦育ちだでなあ」 「小野浦はいい所や。薄氷ぐらい張ることもあるけどな。今頃《いまごろ》はもう桜の蕾《つぼみ》がふくらむ頃や」 「そやそや。フラッタリー岬でも、雪が降ったがな。けどこの海みたいに寒いことはあらせんかった」  二人の話を聞きながら、岩吉は素早く針を動かしていた。傍《かたわ》らで「親父」やサムや、他の水兵たちが古いロープをほぐしていた。擦り切れたロープを、新しく作り直すためだ。 「何の話をしている?」  サムが人なつっこく声をかけた。 「故里《くに》の話や」  久吉が答えた。 「故里の話か」  サムはちょっと黙った。が、 「静かな航海だあ。お前ら三人が乗ったんで、ホーン岬の嵐もお手柔らかになったという寸法か」 「へえー、これで静か?……」  音吉が驚いた。嵐の最中《さなか》に見た波を音吉は目に浮かべた。初め、そこに島があるのかと思った。が、それが波だと知った時の恐怖はたとえようもなかった。 (あんな波、見たことあらせん)  そう思った音吉に、サムがホーン岬の嵐の凄《すご》さを語り始めた。      六 「百年近く前の話だが、アンソンという提督《ていとく》がいたんだ」  サムは話好きだ。ぶっきら棒のようでいて、どこか人をひきこむ何とも言えない優しさがある。そして岩吉たち三人にわかりやすいようにゆっくりと話してくれる。 「その頃《ころ》の水兵たちと言ったら、みんな掻《か》き集められた者ばかりさ。老人だの、傷病兵《しようびようへい》だの、戦争で片足を取られた者だの、何せ、全く目の見えない者まで乗っていたというから、大変な海軍さ」 「それで戦争ができたんですか」 「できたんだろうよ。とにかく傷病兵を掻き集めるのは、この時に始まったわけじゃないんでな」 「それで他国の船を襲おうというのですか」 「そうさ。スペイン艦隊から金銀を奪おうってえ意気ごみさ。そのアンソン艦隊が、このホーン岬で大嵐に遭《あ》った。マストに登っていた水兵たちが、セイルもろとも吹き飛ばされる。山のような波が……」  と、サムは、逞《たくま》しい腕を高く上げ、その手を勢いよく前にふりおろして、 「……船に襲いかかる。手摺《てす》りがばりばり折れる」 「手摺りがですか」  音吉は脅《おび》えた。 「そうさ。折れっちまうのさ。人間も物も、甲板《かんぱん》にあったものは、海の中にさっと持っていかれた」 「そんな……」  音吉たち三人は顔を見合わせた。宝順丸の嵐の夜がありありと目に浮かぶ。あの時も大変な嵐だったが、艫櫓《ともやぐら》も積み荷も無事だった。第一あの嵐の中で、帆柱を切るという大仕事ができた。 (なるほど上には上があるものだ)  甲板《かんぱん》の上の水兵をさらって行くほどではなかったと、音吉は思った。と、サムが言った。 「と言うわけで、帆は破れて使いものにならん。と言って、帆を張り替える暇など、ない。帆の代わりに一体何を使ったと思う?」  岩吉は首をかしげた。音吉も久吉も、顔を見合わせて首をひねった。船の中に、帆の代わりになる何があるだろうか。考えてみたがわからない。 「わからない」  岩吉が答えた。近くにいた者たちがにやにやと笑った。サムが怒ったように言った。 「アンソンてえ野郎はひどい野郎さ。いつか話したブライって野郎より、もっと残酷な野郎だぜ。いいか、アンソンはな、水兵共を帆の代わりに使ったのよ」 「水兵を!? 帆の代わりに?」 「そうだよ。水兵たちを凍ったシュラウドにしがみつかせて、それを帆の代わりにしたのさ。風や波が情け容赦《ようしや》なく襲いかかる。今と同じ三月だ。雪まじりの風に吹きまくられる。アンソンてえ野郎はそんな男よ」 「凄《すご》いなあ、それじゃ人も吹き飛ばされたでしょう」 「それがふしぎなことに、吹き飛ばされたのは、たった一人だった。こりゃあイギリスじゃ有名な話さ。なあ親父」  音吉は、何十人もの水兵が、すさまじく吹き荒れる嵐の中で、シュラウドにしがみついている様子を思い浮かべて、心が震えた。 (けど……ふしぎやなあ)  音吉は胸の中に呟《つぶや》いた。 (見も知らぬわしらを、インデアンから買いとってわざわざ日本まで届けてくれる。そんな親切なエゲレスの人の中に、ブライやアンソンのような人がいる)  それが音吉にはひどく不思議だった。  帆の繕《つくろ》いがようやく終わろうとした頃《ころ》、船は再び大きく揺れはじめた。またしても、号笛《ごうてき》が艦内に鳴りひびいた。先程《さきほど》の嵐よりも、一段と激しい嵐だ。またもや縮帆しなければならない。水兵たちはよろけながら上甲板《じようかんぱん》に登っていく。聞いていたとおり、ホーン岬の嵐は、突如《とつじよ》として襲いかかり、突如として止む。そしてまた突如としてうなり始めるのだ。嵐の前には予兆《よちよう》があるものと、岩吉たちは思っていた。  海面に泡《あわ》が浮かび始めれば大風の兆《きざ》しと聞いた。天気が穏やかであっても、海が騒ぎ立てば、それもまた大風の近い証拠と聞いた。波が黒ぐろと見え、俄《にわか》に波立てば風が間近だと見て取れと聞いた。星の光の強い翌日は、決まって風が強いと聞いた。  だが、このホーン岬では、そんな知識は通用しない。突如として風が起こり、突如として風は落ちる。  水兵たちにつづいて、岩吉も立ち上がった。が、そのズックのズボンに素早く音吉の手が絡みついた。 「舵取《かじと》りさん! 行かんでくれ!」  久吉も飛びついてとめた。 「舵取りさん! わしらは日本人や。この船の水兵やないでな。無理はせんほうがええ」  言いながらも、三人はよろめいた。突き上げられた船が、大きく波底にすべって行くのだ。  岩吉はしばらく突っ立っていたが、どっかとあぐらをかいた。船は前後に左右にと、激しく揺れる。音吉も久吉も、岩吉にしっかりつかまったまま、激しい揺れに耐えていた。強い目まいがする。腹わたが掻《か》きまわされるような揺れだ。 「舵取りさん。まるで地獄の釜《かま》の中のようやな。海がぐらぐら煮え立っているようだわ」  久吉が音を上げた。音吉は声も出ない。 「久吉、これでもホーン岬は、凪《なぎ》のうちだそうだ」 「凪! 殺生《せつしよう》な凪や」  青ざめた顔を、久吉は岩吉に向けた。 「なるほどここは地の果てだ。いや海の果てだ」  岩吉の言葉に、音吉がようやく顔を上げて言った。 「舵取りさん、もしかしたら、海の水がどこぞ、地球の外に流れ出すんやないやろうか。海の果てなら、もう断崖絶壁とちがうか」  音吉は地球儀を見たことも忘れて言った。  翌朝、風は再び、不意に落ちた。全く無風となり、ただ只《ただ》波のうねりだけが大きかった。べた凪の時とちがって、潮に乗って船は東に流れていたが、真っ白な霧がイーグル号を包んでいた。もやもやとした綿の中に包まれたような、そんな濃い霧だ。時鐘《じしよう》が絶え間なく鳴らされ、空砲《くうほう》が撃たれた。いつどこに船が現れるかわからないのだ。座礁《ざしよう》を恐れて船は陸地を遠く離れて進路を取っている。霧に包まれると、船は更《さら》に慎重に進路を定める。絶えず船を指示する号笛《ごうてき》が聞こえる。  こんな中でも、水兵たちは幾らか眠ったようであった。イーグル号は依然として、霧の中を東へ東へと流されていた。 「舵取《かじと》りさん、日本はどっちにあるんやろ」  寝不足の目をこすりながら、久吉は呟《つぶや》く。 「ずいぶん遠くに来たもんだ。日本は遠い西北《にしきた》の方角にある筈《はず》や」 「西北なあ。日本より東に、国があるとは思わんかった」  音吉も言う。 「覚めぎわにな、音、俺、小野浦の夢みたわ」  久吉がにこっと笑った。見る夢は大抵《たいてい》小野浦と決まっている。 「それはよかったなあ。小野浦の何を見た?」 「八幡様や。うちの前の八幡様の境内《けいだい》でな、太鼓が鳴ってたわ」 「何や、それは空砲の音や」 「そうやな。けどなあ、ほんとの話、わしらは日本人やから、やっぱり日本の神さんに頼まんならんのかな。それとも、エゲレスの船に乗っているんやから、エゲレスの神さまにご挨拶《あいさつ》せんならんのかな。俺な、八幡様に手を合わせようとして、夢ん中でそんなこと考えていたんや」 「ふーん。俺と同じことを考えるんやな、久吉も。昨夜の嵐ん時な、俺やっぱり、心の中で、船玉《ふなだま》さまーって、叫んでいたわ。けどな、水兵たちの中には、十字を切っていた者もいるし、ジーザス・クライスト、ジーザス・クライストって、ぶつぶつ念じていた者もあるし、何や義理が悪いような気がしてな」 「そうやろ。この頃《ごろ》わしら、船のサンデー・チャーチにも出ないやろ。あれは、やっぱり、こっちの神さんの機嫌《きげん》を損ずるのと、ちがうかな」 「ほんとや。舵取《かじと》りさんはどう思う」  今日は三人共、擦り切れたロープをほどく作業だ。針を使うより楽だが、手の先が痛くなる。ふっと、フラッタリー岬でのロープ撚《よ》りを思い出す。太股《ふともも》の皮が擦り切れるほど、股《また》の上でロープを撚ったものだ。 「わしにもようわからん。ただな、こうして、いろいろな所を見て歩くと、世界は広いと思うで。だから、日本の考えだけが正しいとは思えんで」 「なるほどなあ」 「お天道《てんと》さんが一つやろ。神さまも一人やないかと、この頃時々思うわ」  古ロープをほどく岩吉の手の動きが、誰よりも早かった。 [#改ページ]   霧の都      一  霧の都と聞いていたが、イーグル号がロンドンに着いた日は、とりわけ深い霧の日であった。あちこちで霧笛《むてき》が鳴った。岩吉たち三人には聞きなれない霧笛であった。イーグル号は時折空砲《ときおりくうほう》を鳴らしながら、テームズ河を遡《さかのぼ》った。視界は百メートルもなかった。すれちがう船が、時に霧の中に現れ、霧の中に消えた。  ロンドンに着く直前、岩吉たち三人は、驚くべきものを見た。 「何や!? 船から煙が出ている!」  久吉が指さした。霧の中に影絵のように見えるその大きな船は、もくもくと黒い煙を吐いていた。三人は舷側《げんそく》にはりつくようにしてその船を見た。 「帆、帆が、帆があらせんで!」 「あれがきっと話に聞いたスチームで動く船や!」 「おう! 木造りやないで。鍋《なべ》のように真っ黒や。鉄の船や」  驚く三人の前に、汽船はたちまちその全容を現した。  汽船の存在を、三人は既《すで》に聞いてはいた。が、目のあたり見るのは初めてであった。 「コール(石炭)を燃やして、船を動かすんやってな。早い船足や」 「エゲレスは、大した国やで」  初めて見る汽船は、三人には巨大な怪物のように思われた。汽船が霧の中に消えても、三人は呆然《ぼうぜん》と、船の消えて行った霧を見つめていた。ややしばらく、三人は口をきくのも忘れていた。幻を見た思いだった。  またしても、汽船が、霧笛《むてき》を鳴らして、イーグル号の傍《かたわ》らを過ぎて行った。この汽船には、帆も併用していた。 「うーむ」  三人は期せずして一斉《いつせい》にうなった。日本で見た一番大きな船は千石船《せんごくぶね》であった。帆柱が一本だけのあの千石船を、三人はこの世で一番大きな船だと思っていた。それだけに、イーグル号を見た時の驚きは大きかった。が、今、汽船を見たのだ。三人の驚きは更に強烈であった。黒い煙を吐きつづけながら進む船は、船とは思えなかった。 「度胆《どぎも》をぬかれたな、舵取《かじと》りさん」  音吉は吐息をついた。 「驚くのはまだ早いぜ、音。エゲレスにはな、陸の上をスチームで走っている車があるそうや」 「そうやってなあ。レールいうもんを二本敷いている上を、ポーッと大きな笛を鳴らして走るそうやな」 「そうや。一度に何百人もの人間を乗せ、積み荷を載せて走っているそうや」 「エゲレスって、進んだ国なのやなあ。日本で一番物を運べるのは千石船やけど、陸の上では馬車か牛車や。えらいちがいや」  久吉は少し口惜《くや》しそうに言った。 「その陸のトレインも、半刻に五十キロメートルも走るそうや」 「ふーん。大したもんや。ロンドンの町って、どんな所やろな。早う見たいわ」 「けど、舵取りさん……」  音吉が情けなさそうな声を出した。 「この河、段々臭くなるばかりや。何やろ、この臭い」 「ほんとや。わしもさっきから閉口しとるんや。日本にはこんな河、あらせんかったもな」 「あらせん、あらせん。河の水はきれいなものと、決まっているわな、な、舵取りさん」  テームズ河には、ロンドン市民百数十万人の垂れ流す糞尿《ふんによう》が、そのまま流されていて、六月にもなるとその悪臭が更《さら》にひどくなった。 「フォート・バンクーバーを出る時も霧で、ロンドンも霧やな」  久吉は幾度もそう言った。  船がテームズ河の船着き場に着くと、初めから予定されていた水兵たちの下船が始まった。イーグル号に残るのは、艦長と幾人かの士官、下士官、そして船体の整備に必要なだけの、僅《わず》かな水兵だけであった。いつ何時出動命令が出てもいいように、船は常に整備されていなければならなかったのである。  艦長の告別の辞が終わると、水兵たちは次々に船を降りて行った。サムと「親父」も、その中の一人であった。サムはその毛むくじゃらな手で、順々に三人の手を握りしめながら言った。 「悪く思うなよ。お前たちの国より、俺たちの国に、先に立ち寄ったことをな。しかしお前たちも、こうして必ず日本の地を踏めるだろうからな。神の守り、汝《なんじ》が身を離れざれだ」 「親父」も三人に言った。 「俺はな、日本という国がわかったよ。あんたたち三人に会ったお蔭《かげ》でよ。勤勉で、温和で、礼儀正しい人たちだ。国がちがっても、仲よくなれることを、あんたたちは教えてくれた。ありがとうよ」  音吉は、サムにも「親父」にも、もう決して会うことはあるまいと思って、涙をこらえて二人のうしろ姿を見送った。大勢の水兵の中に、二人の姿はすぐに紛れた。そしてその水兵たちの姿も、霧の中に消えて行った。  翌日は更《さら》に霧が深かった。出る船も入る船もない程《ほど》に深い霧であった。只《ただ》テームズ河の悪臭だけが、三人の鼻についた。  三人はロンドンから、然るべき船に乗り替え、日本に送り還《かえ》されることになっていた。その便船《びんせん》が見つかるまで、イーグル号にとめ置かれるということだった。 「とうとう、このイーグル号にもお別れか」  二日目の夜、岩吉はハンモックの中で言った。むせかえるような水兵たちの体臭も今はない。熱気もない。がらんとした中甲板《ちゆうかんぱん》に三人は寝たまま話し合っていた。 「ほんとやなあ、舵取《かじと》りさん。イーグル号に乗った時は、何やら心配やったなあ」  音吉は、八か月前を思い起こす。久吉も言った。 「そやそや、入れ墨の荒くれ男たちが大勢いて、言葉は荒いし、目つきはきついし、地獄の鬼のようにも見えたけど、それほどでもなかったな、舵取りさん」 「そうやな」  岩吉は、最初サムという男が何か仕出かしそうで不安だった。人望のある「親父」をまつり上げて、叛乱《はんらん》でも起こすのではないかと案じていた。が、それらしいこともなくて、航海はとにかく無事に終わった。岩吉は、イギリスの船といえども、軍艦である以上、所詮《しよせん》は武士たちの集まりだと思っていた。が、いささか様子がちがった。水兵たちは日本の足軽程《あしがるほど》の権威もなく、只気合棒《ただきあいぼう》に追いかけられ、いかなる命令にも、「アイ アイ サア」と絶対服従の姿勢をとっていた。士官以上と水兵たちとは、明らかに別世界には生きていたが、しかし日本人の三人には、時折晩餐《ときおりばんさん》をふるまい、親切に遇してくれた。とりわけ士官マッカーデーは、岩吉をアーチストとして尊敬し、友人扱いにしてくれた。そのマッカーデーが、まだこの船に残っているのは幸いだった。 「俺、サムが好きやった」  ぽつりと久吉が言った。 「親父さんもいい人やった」  小野浦にいた時でも、サムや「親父」ほどあたたかい人間には、そう会ってはいないような気がする。良参寺の和尚《おしよう》や、樋口源六ぐらいしか、心にふれた大人はいなかったような気がする。 (もう会えんのか)  音吉はハンモックの中で寝返りを打った。 「今度はどんな船やろな」  久吉は少し不安そうに言った。 「煙を吐く、あの真っ黒な船かも知れせんで、久」  珍しく岩吉が冗談めかして言った。どこかで犬の吠える声がした。 (ああ、陸のすぐ傍《そば》にいるんやな)  音吉はそう思って目をつぶった。      二  三日目、昨日まで深かった霧が、今朝はすっかり晴れ上がっていた。雲一つない空だ。およそ三百メートル前方に、ロンドンタワーが見えた。かつて見たこともない、がっしりとした大きな建物だ。 「何や、あれ!?」  音吉と久吉が同時に叫んだ。 「西洋の城やろか」  目と鼻の先に、こんな大きな建物が霧にかくれていようとは思っても見なかった。 「日本の城とはちがうで! 天守閣《てんしゆかく》があらせん」 「そうやな。あれは何造りやろ。白壁じゃなし、木ではなし。なあ、舵取《かじと》りさん」 「わしも知らんが、多分、石やろう」 「石!? へえ、石を積み上げたんか」 「そうやろな、多分」 「だって、舵取りさん。あんな高い所まで、どうやって石を積み上げる? 人間業《にんげんわざ》ではできせんで」 「ほんとやあ。一体、何階建ての高さやろ。日本の平家《ひらや》の何倍も高いで」  音吉も久吉も興奮していた。昨日まで霧一色の中だっただけに、その間近に現れたロンドン塔は、無気味なまでに大きかった。 「あそこにはお上《かみ》がいるんやろか」 「そうかも知れせんな。こっちのお上は、どんなお上やろな」 「やっぱり、威張っているんやろな」 「威張らんお上があるもんか。けど、あのお城の中に、俺もちょっと入って見たいわ」  ロンドンの六月としては、珍しく暑い日射しであった。 「何や、きれいな花が咲いてるなあ」  ロンドン塔を見た興奮もさめやらぬまま、三人はようやく視線を転じた。船着き場の右手には、五階建ての大きなビルディングが建っていた。幅二十|間程《けんほど》の、黄土色《おうどいろ》の石造りの建物である。 「見てみい。あの建物の上に、大きなクロックがあるわ。二階程もある大きなクロックや。魂消《たまげ》たなあ、エゲレスは」 「こりゃ、火いつけても、燃えせんで」 「ほんとや。日本の建物なら、いくら大きくても、神社でも寺でも、火いつけたらすぐに燃えてしまうでな。石造りならどんなにしても燃えせんわ。ええなあ」 「木の家のない国なんやろか」  久吉が言った時、岩吉が船着き場のすぐ傍《かたわ》らを指さして、 「あるある、木造だってあるで」  と言った。その指差す方に二人は目を転じた。三階建ての木造の家が、馬栗の木の茂る傍らに建っていた。四角い太い柱が、幾本もむき出しに立ち、二階と三階にはバルコンがあった。バルコンには、赤や黄の、鉢植えの花がずらりと並んでいる。出入りする男たちの服装を見ると、そこはどうやら船員たちの宿のようであった。大きなビヤ樽《だる》が幾つか、その軒下に置かれてある。  この間近にある家さえ、霧の中だったのだ。 「あの家の中だけでも、行ってみたいな、音」 「うん。けど、わしら日本人だでな。国には入れてくれせんやろ」 「だって、フォート・バンクーバーでは、船からおろして、住まわせてくれたで」 「けど、また船で、すぐ出発やからな。陸に上げてはくれせんと言うてたで」  二人はテームズ河の向こう岸に目を転じた。二百五十メートル程《ほど》の川幅を持つテームズ河の向こうには、建物が少なく、広い野原が遠くまで見えた。  と、そこに艦長付きの当番兵が三人を呼びに来た。  艦長室に行くと、艦長は微笑を湛《たた》えて言った。 「退屈だろうね。しかし、もう少しの辛抱《しんぼう》だ。今、あなたがたを送ってくれる船を探している」 「ありがとうございます」  三人は頭を下げた。  ハドソン湾会社のマクラフリン博士は、三人を日本に送り届けることによって、日英通商をひらく機会を得たいとねがっていた。そして、そのためには、この三人にイギリスという国を見せて置く必要があると考えていた。万一、イギリス政府がマクラフリン博士の意見に賛成しなくても、三人にイギリスという国を見せることは、必ずイギリスのためになると考えていた。  しかし、三人がロンドンに着いた時、既《すで》にイギリス政府の態度は決定していた。即《すなわ》ち〈国王陛下の政府は、この難破した三人の水夫を仲立ちにして、日本と通商をひらく考えはない〉という意見であった。人道的な面から見て、マクラフリン博士の三人に対するあり方は賞讃《しようさん》された。しかし、会社に多額の出費をもたらしたことに対して、会社は博士をたしなめざるを得なかった。数年前まではイギリス政府も日本との通商に関心を抱いていた。が、今やその関心はうすれ、中国との通商に心を傾けていた。イギリスは中国から茶を輸入し、それによって巨利を得ていた。ヨーロッパ人に喫茶の習慣がひろがっていたからである。  だが、イギリスの輸出したいと願っている毛織物を、中国側は買わなかった。ということもあって、イギリスの銀は中国に流れた。その上、阿片《あへん》輸出も中国の拒絶にあって、イギリス政府は苦慮していたから、日本よりも中国対策に心を奪われていたわけである。  それはともかく、ハドソン湾会社はロンドンに来た岩吉たち三人を、更《さら》に日本に送り帰さねばならぬ使命があった。むろん三人に関わる費用は会社の負担である。しかしそのことには一言もふれず、艦長は言った。 「今日はロンドンには珍しい晴天だ。できたらロンドンを案内して上げたいのだが、まだ政府の許可が降りていない。しかし、必ずロンドン見物を許可してもらうつもりだから、楽しみに待っていてほしい」 「ありがとうございます」  三人は再び、深々と頭を下げた。 「一日も早く、便船《びんせん》が見つかるといいんだがね」  イギリスは、マカオに東インド会社を持っていて、時折《ときおり》船は出ていた。この東インド会社は、一昨年の一八三三年までは、対|清《しん》貿易独占権を持っていた。が、今はアメリカ等の進出によって、この独占権を廃止せざるを得なかった。従って、マカオへの船もひと頃《ころ》より多くはない。  三人はロンドン見物よりも、日本へ帰る便船が一日も早く見つかることを切にねがった。見つかりさえすれば、とにかく日本に帰れるのだ。サムや「親父」たちが喜んで帰って行ったように、自分たちも、家へ帰ることができるのだ。 「ひと先ず書類を提出しなければならぬ。あなたがたの名をここに書いて欲しい」  三人の前に、外務省に提出する書類が置かれた。岩吉が先ず、出された羽ペンにインクをつけて書きはじめた。  日本 〈天保《てんぽう》三|辰年《たつどし》十月十一日志州鳥羽浦港出〉  書きながら岩吉は、今は天保六年の六月だと思った。国を出て二年半になる。熱田の港を出た日の、絹や岩太郎や、養父母たちの姿が思い出される。はるばると異国に来て書く日本の字が、たまらなく故国を思わせた。  岩吉は、自分の名を「イワキチ」と片仮名で記した。なぜか、漢字で書くことがためらわれた。片仮名で「イワキチ」と書くと、自分の名でないような気がした。久吉と音吉は、それぞれ漢字で自分の名を記した。  この書類は、現在も尚《なお》、イギリスの外務省に保存されている。  その三人の署名した文書を引き出しに入れてから艦長は言った。 「はるばると、遠い所までよくやって来たね。よく働いてもくれた。そのほうびに、ぜひロンドンを見物させて上げたい。恐らくあなたがたは、日本人の中で一番最初にロンドンに上陸した日本人だということになろう」  しかし三人は、自分たち三人が、ロンドンに初めて上陸する日本人であることの意味深さを、感ずる暇はなかった。只《ただ》、こんな遠い所まで来た日本人はなかったであろうと思った。が、艦長は言った。 「実はね、一八〇三年、つまり今から三十二年前だがね、ロシヤの軍艦ナデジュタ号がイギリスに寄ったことがある。その船に日本人が四人乗っていた。一七九三年にロシヤに漂着した日本人たちだった。しかしね、その四人は上陸は許されなかったのだよ。だから、あなたがたが、初めての日本人なのだ」  三人は驚いた。三十年も前に、十年間ロシヤに留め置かれた日本人が、このイギリスに来たことに驚いたのだ。  カモメの声が、船の外にひときわ賑《にぎ》やかに聞こえていた。      三  ロンドンは、来る日も来る日も晴天がつづいた。あの深い霧は、一時の気まぐれであったかのように、以来、空にうす雲を張ることさえなかった。が、岩吉たち三人の心は落ち着かなかった。ロンドンに着いてから、既《すで》に八日は過ぎた。吐き気を催すようなテームズ河の悪臭には次第に馴《な》れてきた。しかしまだ三人を乗せる便船《びんせん》は見つからぬようであった。 「すぐに乗る船が見つかると思うたけどなあ」  久吉と音吉は、午後の日射しを背に受けながら、甲板《かんぱん》にあぐらをかいて話し合っていた。 「帰れる日が来たら、帰れるんやろ」  音吉は諦《あきら》めたように呟《つぶや》く。 「そりゃあそうやけど……。ほんまに早う帰りたいわ」  動かぬ船にとじこめられていると、只《ただ》帰ることだけが思われてならなかった。 「活《い》きのいい刺し身が食いたいなあ」  音吉の言葉に久吉がうなずいて、 「ほんとにな。もう塩漬けの肉はたくさんや。麦飯《むぎめし》に味噌《みそ》をつけてでもいいから、食うてみたいな」 「味噌なあ。味噌の味も、醤油《しようゆ》の味も、忘れそうや。ああそうや、醤油味のうどんが食いたいわ」 「うどん、うどん。そうや、つるっつるっとすするうどんなあ」 「そうめんもうまいで。冷たい井戸水に冷やして、つるりと飲みこむの、うまいでな」 「うまい、うまい。ああ、井戸水言うたら、あの釣瓶《つるべ》に口つけて、冷たい水をごくんごくん飲みたいわ」 「ほんとやな。ロンドンには冷たい生水《なまみず》があらせんでな。湯ざましやからなあ」 「音、やっぱり日本はええな。沢水でも井戸水でもたんまりある。空気もええわ。煙突から、あんなに黒い煙が出ることもないしな」 「そやそや。ところで、久吉。牡丹餠《ぼたもち》を食いとうないか。大福食いとうないか。どうして、アメリカにもエゲレスにも、あんがないんやろ。あんほどうまいものはあらせんわな」  二人は次から次へと、食べ物の話に夢中になった。話しながら、音吉の目に浮かぶのは、うどんを茹《ゆ》でる母の姿であり、あんを練る母の姿であった。妹のさとが、口の端にあんを一杯につけて、うれしそうに笑っていた顔も目に浮かぶ。食べ物の話をしながら、音吉の胸は次第に一杯になっていく。  と、その時、 「音! 久!」  と呼ぶ岩吉の声がした。弾んだ声だ。二人ははっとふり返った。岩吉は二人のほうに大股《おおまた》に近づいてきた。近づきながら、岩吉は大声で言った。 「帰る船が決まったぞ。明後日ロンドンを出るんやで」  久吉と音吉は、思わず叫んだ。 「ほ、ほんとか!? 舵取《かじと》りさん」 「ほんとや、ほんとや」  岩吉の顔も輝いている。 「あのな……」  岩吉は二人の傍《そば》にあぐらをかいて言った。 「あのな、ゼネラル・パーマー号という船や」 「ゼネラル・パーマー号?」  久吉と音吉は同時に問い返す。 「今度の船は、戦《いくさ》船やないで。積み荷を載せる船や」 「よかった。アイ アイ サアやないな」  安心したように久吉が言った。 「アイ アイ サアやない。ハドソン湾|会社《カンパニー》の大旦那《おおだんな》が、わしら三人のために金を出してくれるそうや。どこまでも親切なカンパニーやなあ」 「ご親切やなあ。あのインデアンの所まで、わしらを買い戻《もど》しに来てくれてなあ」  音吉が言うと、岩吉も久吉も深くうなずいた。酋長《しゆうちよう》は、音吉一人だけは何としても譲れないと言った。あの時の何とも言いようのない辛《つら》さを思い出したのだ。だがその音吉も、こうしてここにいる。 「とにかくよかったな、舵取《かじと》りさん。わしはまたこの船の中に、三か月も五か月もおらんならんかと、心配やった」 「それはわしも同じことだ。だが、今、艦長《キヤプテン》に呼ばれて聞いてきたばかりや。もう安心や。しかしな、その船で日本に真っすぐに帰るわけにはいかんで」 「真っすぐに帰れせん?」 「帰れせんのや」 「何でや、舵取りさん」 「そのゼネラル・パーマー号はな、マカオまでしか行かんのだそうや」 「したら、そこでまた乗り替えか」 「まあそうやろな。けどな、そのマカオという所は、日本の近くだでな。マカオから日本へ行く船は、いくらでもあるそうや。その日本にまで帰る費用をな、カンパニーの大旦那《おおだんな》は、今度の船の船長にちゃんと払うてくれるそうや」 「そうか。そんなら安心やな。な、音」 「うん、安心やけど……ほんとにそこから日本に行く船があるんやろか。まさか、行く船がないで、何年もそこにおらんならんということにならせんかな」  ロンドンには、ハドソン湾会社の本社があった。そのことは音吉も聞いていた。だから何となく安心感があった。だがマカオという所は、果たしてハドソン湾会社の指令の行きわたる所なのか、どうか。それが音吉には妙に気にかかった。 「まさか、そんなことにはならせんわ。せいぜい待っても半月や。日本へ行く船が多いんなら、もう心配あらせん。な、舵取りさん」 「ま、そうやろな」  岩吉も安心した声で、 「ところで、明日は朝からロンドン見物やでな。今日は早く寝たほうがいいで。明日はな、あのミスター・マッカーデーが案内してくれるそうだ」 「それはよかった。ミスター・マッカーデーなら、親切やし、威張らんしな。じゃ今晩は早よ寝よう。うれしいな、音」 「うん、うれしいな」  そうは答えたが、音吉は、ゼネラル・パーマー号が自分たちをマカオにおろしたら、それでまったく縁が切れるのではないかと思った。便船《びんせん》の見つかるまで、ゼネラル・パーマー号はマカオにとどまって、自分たちが日本に向けて出発するのを見届けてくれるだろうかと、妙に気がかりであった。青い空を見上げながら、不安が胸にひろがっていくのを音吉はどうすることもできなかった。      四  やや風はあったが、その日もロンドンは晴天であった。二頭立ての馬車に、三人は士官マッカーデーと共に乗りこんだ。御者《ぎよしや》が手綱《たづな》を取ると、二頭の白い馬は首をふりながら、ゆっくりと歩きはじめた。車輪と馬蹄《ばてい》が石畳の上に快い響きを立てた。幌《ほろ》を外した馬車の上から、三人は心を躍《おど》らせてあたりを見まわした。  馬車は船着き場を出、テームズ河を左に見て進んで行く。川波が眩《まぶ》しくきらめく。漁船、帆船の行き来が絶え間ない。小型の客船がその間を縫う。  このあたりは、川やドックに沿って、倉庫、船員宿などが点在し、民家が少ない。道べに所々に空き地がひろがり、若草が六月の風になびく。枝をひろげたニレの大樹は、三人にフォート・バンクーバーを思い出させた。陽炎《かげろう》が燃え、三人は夢心地《ゆめごこち》で馬車にゆられていく。 「立派な道やなあ」  例によって真っ先に嘆声を発したのは、久吉だった。今日は三人共、バンクーバーで与えられた背広を着、蝶《ちよう》ネクタイをつけていた。いつもの黒シャツ、吊《つ》りズボンの船乗り姿とはちがう。ハドソン湾会社に挨拶《あいさつ》に寄るからだ。低いシルクハットもかぶっている。 「今はいい道だがね、しかしロンドンの悪路といったら、昔は有名だった」  マッカーデーが快活に言った。 「へえー、悪路?」  三人は驚いた。どのように悪路であったか、見当がつかない。見たところ、どこまでも石畳の道がつづいている。御者《ぎよしや》が言った。 「旦那《だんな》のおっしゃるとおりでさあ。昔のロンドンと申しましたらな、馬の足がぬかるみに埋まる。馬車が横倒しになる。そんなことも、珍しくなかったそうでございます。ね、旦那」 「そうだよ。ジョージ二世と王妃が、キュー宮殿からセント・ジェームズ宮殿まで行ったことがあった。僅《わず》か十二キロのその道を、夜通しかかっても着かなかったそうだがね、いまだに語り草になっているよ。何しろ馬車が倒れた、御者や客が首の骨を折った話は、始終あったようだ」 「信じられない話ですね」  音吉が相槌《あいづち》を打った。 「そうだろうね。それでね、そんな悪路に木製のレールを敷いて、馬をとことこ歩かせることになったわけだよ」  話を聞いているうちに、馬車はロンドン塔の門の前に着いた。イーグル号から見た時も大きな建物だと思ったが、目近に見ると尚《なお》のこと、見事な建物であった。 「ここがキングのお城ですか」  音吉が尋ねた。 「元はね」  マッカーデーは、灰色の塔を見上げながら、憂鬱《ゆううつ》そうに言った。 「元は? では今は、誰が住んでいるんですか」 「政治犯だよ」 「政治犯?」  三人には政治犯の意味がわからなかった。 「わかりやすく言うとね、おもに政府に睨《にら》まれた人たちが入る牢獄《ろうごく》さ」 「牢獄!?」  三人は驚いて、改めてその荘重《そうちよう》な建物を見上げた。 「よほどの悪人が入る所ですか」  牢と聞いて、灰色に煤《すす》けた建物が俄《にわか》に無気味に見えた。庭で啼《な》くカラスの声も無気味だ。門の前には、黒地に赤の線を縫い取った服を着、抜き身のサーベルを持った番兵がいかめしく突っ立っている。 「よほどの悪人か……」  マッカーデーはそう言い、御者《ぎよしや》に、 「さあ、行こう」  と促した。馬が歩き出すと、マッカーデーは言った。 「あのね、実はね、わたしの親友の父親が、去年ここで処刑されたのだよ」  三人は驚いてマッカーデーを見た。 「誰もが尊敬している立派な人だった。貴族だったが、貴族の中でもあんな立派な人は見たことがない。言ってみれば、そう言う立派な人も処刑される所だ」  三人にはマッカーデーの言葉の意味がわからなかった。マッカーデーは怒りを含んだ目でロンドン塔をふり返りながら、 「あそこにはね、裏切りの門と呼ばれる門があってね。テームズ河を運ばれて来た貴族や政治犯が、船のままその門を入るんだが、いったん入るともう二度と出てくることがないのさ」 「…………」 「二度と出られない!?」 「そうだ。斧《おの》でやられるわけだよ」  マッカーデーは、手刀で自分の首を切る真似《まね》をした。音吉は肌《はだ》の粟立《あわだ》つのを覚えた。 「どうしていい人まで殺されるんですか」 「政府というのは、批判されると殺したくなるものらしくてね。批判してくれる者こそ大事にしなければいけないのだがね……。ところで三百年も前の話だがね、こんな話もあるんだよ。ヘンリー八世が、四人の妻を次々と、このロンドン塔の庭で処刑した。それはどんな理由からだったと思う?」 「さあ……」  音吉が首をかしげた。久吉が言った。 「間男《まおとこ》したのとちがいますか」 「間男? なるほどね。実はね、ヘンリー八世が最初の妃《きさき》を殺したのは、好きな女と結婚したかったからだ。イギリスでは離婚が許されていない。だから死別した時しか再婚ができないのだ。貞淑《ていしゆく》な妻をね、久吉が言ったように、間男したと言って処刑したのだよ」 「へえー、驚いたなあ」 「いや、驚くのはまだ早い。三番目の妻が欲しくなった。それで二番目の妻を殺した。こうして、へンリー八世は四人の妻を殺してしまったんだ」 「へえー、イギリスの帝《みかど》は、悪い帝なんやなあ」  久吉はうなった。 「いや、全部が全部、そんな悪い国王とは限らない。立派な国王もたくさんいた。しかし国王も人間だ。とにかく、権力を持てば持つほど、人間は大きな過ちを犯しやすいものでね」  岩吉がうなずいて、 「そうかも知れせん。日本のお上《かみ》やって同じや。無実の者がどれほど打ち首、縛《しば》り首、焙《あぶ》り殺しになったか知れせん。キリシタンなぞ、たくさん死んだ。考えてみればキリシタンになることが、本当に悪いことかどうか、わからせんでな」  岩吉は日本語で呟《つぶや》いた。その言葉を、音吉がマッカーデーに、英語で告げた。 「あなたたちの国にも、恐ろしい政府があるわけだねえ」  馬車はいつしか、魚市場の前にとまった。三階建ての石造りの立派な建物だ。テームズ河を背に建てられた魚市場の中は、活気に満ちていた。 「音! 音! 魚の匂いがするで! 懐かしいなあ」  馬車の上から伸び上がるようにして久吉が言うと、岩吉が言った。 「江戸の魚河岸《うおがし》に当たる所やな」 「舵取《かじと》りさん、どんな魚があるか、見たいなあ」 「いかん、いかん。みんな殺気立《さつきだ》っているでな。商売の邪魔になると、怒鳴られるで」 「ああ、刺し身が食いてえ。米のまんまが食いてえ」  このところ毎日言っていることを久吉は言った。長靴《ながぐつ》を履《は》いた男たちが建物の中を大勢|右往左往《うおうさおう》し、絶えず何か大声で叫んでいるのが、広い戸口から見える。が、マッカーデーは、すぐに御者《ぎよしや》を促した。マッカーデーにはさほど珍しい所ではないのだ。 「ええ所見たな、音」 「うん、珍しい所やな。小野浦にはあらせんな」 「あるわけないやろ。第一、あんな石造りの三階建てなぞ、わしら見たことあらせんで」 「江戸の魚河岸とはちがうわな。しかし、あの汚い河の傍《そば》に建っているのが、気に食わんな。刺し身にしては食えたもんやないやろ。あそこまで運んで来るうちに河の臭いが染《し》みこむやろ。エゲレスの人には悪いがな」  岩吉の言葉に、久吉がそれもそうだとうなずいた。音吉はマッカーデーに、その会話を告げることはためらわれた。 「ミスター・マッカーデー。二人は魚を生《なま》で食べたいと言っているんです」 「生で!?」 「はい。日本人は、活《い》きのいい魚を生で食べる習慣があるんです」  マッカーデーは肩をすくめ、両手をひろげ、 「珍しい習慣だが、わたしはその習慣にはなじみたくないね」  と笑った。  馬車が進むにつれて、道を行き交う人が多くなった。建物も多くなってくる。見る建物、見る建物、すべてが三人を驚かせる。そのほとんどが石造りだ。尖《とが》った屋根がある。丸い屋根がある。家々に多くの窓がある。一見、城とも見える建物がつづく。馬車が行き交う。が、今岩吉は、建物よりも、道を歩く女や子供に目を注いでいた。 (何という色白の肌《はだ》や)  岩吉は心の中に日本の女とひき較《くら》べて見る。和服を着た者は誰もいない。丸髷《まるまげ》や島田を結った女もいない。胴を細く絞り、腰の張ったスカートをまとって、ボンネットをかぶっている。小さな女の子も、母親と同じ形のスカートをはいている。金色や、鳶色《とびいろ》の縮れた毛が愛らしい。日本では縮れ毛はみにくいものとされている。それがこの国では、誰も彼も縮れている。縮れ毛でない者は一人としていない。  岩吉は、心の中で絹や岩太郎をしきりに思いながら、女や子供たちを目で追っていた。そんな岩吉たちを、誰もが珍しそうにながめていた。      五  岩吉たちを乗せた馬車は、ロンドン警視庁のすぐ傍《そば》の、ウエストミンスター・ブリッジ(橋)を渡って、テームズ河の対岸を通り、つづいてその上流のランバス・ブリッジを渡って右に折れ、ウエストミンスター寺院の前に出た。  士官マッカーデーと共に寺院の前に降り立った三人は、声にならぬ声を発して、青空を突き刺すように立っている四つの尖塔《せんとう》を見上げた。やや経《た》ってから、音吉が言った。 「ミスター・マッカーデー、何と大きな、立派な建物でしょう」 「見事でしょう、この建物は」  マッカーデーは満足そうにうなずいた。ウエストミンスター寺院は、巨大な四角の塔を両袖《りようそで》に持つ、荘厳《そうごん》なゴシック建築であった。 「高い塔やなあ! 一体何丈あるやろ、舵取りさん」 「うん、十四、五丈はあるやろな」  白いちぎれ雲が、ゆっくりと流れて来た。その雲の下に、塔が俄《にわか》にせり出すかのように見えた。久吉が思わず一歩退き、 「十四、五丈か、のしかかってくるみたいやな」  と、吐息をついた。 「ほんとやなあ。これも、みな石やなあ。釘《くぎ》を使ってせんのやなあ、久吉」 「そうや、音。日本の寺や城も、釘を使わんで、木を組み合わせるいうけどな、これは石だけやからな。一体どうやって造ったんやろ。何年かかったんやろ。なあ舵取《かじと》りさん」  うなずいて岩吉がマッカーデーに尋ねた。 「何年かかってできたんですか」 「そうだね……」  マッカーデーは、その長いまつ毛を上げて寺院を眺《なが》めながら、 「それがねえ、何年と、はっきりは言えないんだよ……」 「?……」  三人は怪訝《けげん》な顔をした。 「ここに一番先に僧院を建てたのは、ざんげ王という綽名《あだな》の王さまだった。一〇六五年|頃《ごろ》と聞いているがね。信仰が厚いのでざんげ王という綽名があったわけだが、しかしこの形に持ってきたのは、ヘンリー三世でね。ざんげ王の時から二百年は経っている」 「二百年!?」 「二百年で驚くかね。実はね、それから更《さら》に五百年後に、西側の塔が完成されたんだよ」 「じゃあ、初めから数えて七百年!?」 「そうだ。しかし、まだこの後誰かが手を加えるかどうか、それはわからないがねえ」  岩吉はじっと塔を見上げた。四角い塔の上には、更にそれぞれ二つずつの尖塔《せんとう》が立てられている。岩吉はその塔を建てた男たちの姿を思った。 (命がけの仕事だ)  幾人の職人が、この建築で命を失ったことかと、屋根瓦《やねがわら》職人の経験を持つ岩吉は思いやった。驚いている三人を、マッカーデーは中に誘った。  一歩堂の中に入った三人は、思わず声を上げた。吹き抜けの高い高い天井だ。その高さだけでも驚くのに、内部もまた悉《ことごと》く見事な石造りであった。二抱えもありそうな何本もの太い柱が、堂の左右に並んでいる。その円柱がすべて石を重ねて造った美しい柱だ。天井には撓《たわ》めたような石が組み合わされて美しいアーチをつくり、そのアーチが幾組にも組を成して天井を支えている。狭い谷底から見上げるような天井だ。石を自由自在に使っての壮麗な建築に、三人は只呆然《ただぼうぜん》とした。  岩吉たちは生まれて初めて、たった今ロンドンの建物の中に入ったのだ。その建物が、ウエストミンスター寺院であったことが、三人の驚きを大きくした。 「何やろ!? あの色ガラス」  青、赤、黄、緑、様々な色どりのステンド・グラスを久吉は指さした。両手を頭の上で合わせた人たちが描かれている。十字架にかかった男の姿もある。美しい花や鳥もある。それらがみな澄んだ色で描かれているのだ。 「あれがステンド・グラスだよ」 「ステンド・グラス?」  三人はおうむ返しに呟《つぶや》いた。 「そうだよ。千年も前からあるものだ」 「千年も前から!?」 「あれはね、ガラスに絵を描いたものではない。色のついたガラスを組み合わせて、人や花の形を作ったものだよ」 「へえー。描いたんではないんですか。偉いことをするなあ異人さんは。なあ舵取《かじと》りさん」  音吉は途中から日本語で言った。 「この建築様式は、ゴシック建築と言ってね。ゴシック建築にはステンド・グラスがつきものなのだよ」 「いったい、どうやってあのガラスをはめこむんやろ」  三人はややしばらく、首の痛くなるほど窓を見上げていた。  前方中央には、大きな金色の祭壇があった。祭壇には金属の十字架が置かれ、その両側に、背に羽を持つ天使や、聖人たちの像が安置されてあった。祭壇の上部は、何の金属か金色のすかし彫りで枠《わく》どられ、それが三人には黄金に見えた。祭壇両側の石柱に、それぞれ美しい女の像が飾られ、その女たちは大きな十字架を胸に抱えていた。 (ジーザス・クライストのチャーチやな)  建物への驚きがややおさまると、音吉はそう思った。と、同じことを久吉が言った。 「キリシタンのお寺やな、舵取りさん」 「うん、あちこちに十字があるわな」 「エゲレスでは、キリシタンを大事にしてるんやな。こんな立派なチャーチを建てて」  それには答えず、 「七百年もかかって建てた寺か」  と、岩吉が再び天井を仰いだ。鎖で吊《つ》るされた見事なシャンデリアに、何本もの太いローソクが立てられていた。 「日本のお上《かみ》に、このチャーチを見せたら、何と言うやろ。ここを見ても、キリシタンはやはり邪宗と言うやろか」  久吉が珍しく大人びた語調で言うと、音吉が答えた。 「どうやろうな。とにかくぶったまげるわ。久吉、何や、このチャーチの中に入ったら、心がしーんとするで。じっとここにいれば、いるほど、心がきれいになるような気がするで。キリシタンと聞く度《たび》に、只《ただ》恐ろしかったけど、どうしたんやろ。今日はどこかちがうわ」 「音吉、何と言ったかね?」  マッカーデーが笑顔を向けた。 「いえ、別に」  音吉はあわてて答えた。 「ここではね。国王や女王の戴冠式《たいかんしき》が行われるのだよ」 「戴冠式?」  三人には初めての言葉であった。 「王になった時、冠をいただく。つまり即位式だね。これは由緒《ゆいしよ》ある寺院《アベイ》でね。むろん王も王妃も、死ねばここに葬られる」 「…………」 「イギリス人はね、この寺院に葬られることを、最大の栄誉としているんだよ。政治家、学者、文学者、そうだ! 有名なシェクスピアもここに葬られている筈《はず》だ」 「シェクスピア?」  三人は顔を見合わせた。 「ああ、君たちは知らなかったか。彼も日本までは名がひびいていなかったとみえる」  マッカーデーは冗談を言い、 「彼はね、もう二百年以上も前に死んだ詩人でね、且《か》つ劇作家であり俳優でもあった。彼は三十七の戯曲を書いた。ハムレット、ベニスの商人、そしてマクベス。ああぼくは、彼と同じ国に生まれただけでも幸せだ」  三人は呆気《あつけ》にとられた。わからない単語が次々とマッカーデーの口から飛び出したからだ。 「岩吉、ぼくは思うけどね。君がもしイギリス人だったら、ここに葬られるかも知れないよ。君は実に絵がうまい。ユニークな絵だ。君は立派な芸術家だ」  マッカーデーは真顔で岩吉をほめた。      六  ウエストミンスター寺院を出た三人は、昨年焼けたという国会議事堂の説明をマッカーデーから受けた。国会議事堂はウエストミンスター寺院の近くにあったのだ。が、国会議事堂という言葉が三人には理解できなかった。  馬車はそこから西に向かい、セントジェームス・パークを右に見、バッキンガム宮殿の前を通って、ハイド・パークの中に入った。 「ここがハイド・パークだ」  美しい広い池の畔《ほとり》に降り立ったマッカーデーが、胸に大きく空気を吸いこんで、三人をかえりみた。 「音、ハイド・パークって何や。さっきも何とかパークの傍《そば》を通ったな」 「そうやな。聞いてみよか。……ミスター・マッカーデー、お尋《たず》ねしてもいいですか。ハイド・パークって、何のことですか」  マッカーデーはちょっと音吉の顔を見て、 「日本にはパークはないのかね」 「さあ……」 「個人のはガーデンだね。パークはみんなのガーデンだ。ここで、休んだり、遊んだり、散歩をしたりする。日本にはそういう所はないのかね」 「そうやなあ……」  音吉が首をかしげた時久吉が手を叩《たた》いて、 「あるある! 八幡様の境内《けいだい》や、良参寺の境内がそやないか」 「熱田神宮の境内も、みんなで休んだり、遊んだりするわな」  音吉がそのことを告げると、 「パークはちょっとちがう。みんなのものなんだよ。ここもね、元はウエストミンスター寺院のものだった。鹿狩りなどをしていてね。今は貴族や紳士《ジエントルマン》たちが、自分の馬車の自慢をするために、ここに集まるよ」 「ジェントルマン?」 「ジェントルマンは言わば、貴族のちょっと下の階級さ」  三人には貴族もジェントルマンもよくわからなかった。  ゆるやかに起伏する緑の野が遠くまでひろがっていた。馬栗、ニレ、プラタナスなどの木立が、風に若葉をひるがえしている。聞き馴《な》れぬ小鳥の声が雀《すずめ》やカラスの声にまじって聞こえた。 「おおよそ、二キロに一キロ位の広さはあるかな。ここでは時々決闘があるよ」 「決闘!?」 「うん。誇りを傷つけられたり、恋人を取り合ったりして闘うわけだ」  岩吉はマッカーデーの傍《そば》に腰をおろしながら、決闘の様子を思い浮かべた。 「舵取《かじと》りさんも決闘したわな。そして勝ったわな」  久吉は、熱田の截断橋《せつだんばし》の上でならず者から自分を助けてくれた岩吉の、勇ましい姿を思い出した。が、岩吉は久吉の言葉にかすかに笑っただけだった。あれはイギリスでいう決闘ではなかった。  久吉には、あの時の岩吉と今の岩吉が別人のように思われる。あの時の岩吉はちょん髷《まげ》を結い、浴衣《ゆかた》を着流して、見とれるような粋《いき》な姿だった。それが今、髪も服装も、イギリス人と同じなのだ。あの時は近づき難い男に思われたものだが、今はちがう。久吉はその時の様子をマッカーデーに話して聞かせた。酒を飲んだ乱暴男に突きあたって怒りを買い、久吉は川の中に叩《たた》きこまれそうになった。その男に岩吉は、 「餓鬼《がき》を相手に阿呆《あほ》な野郎だ」  と笑った。男は怒って短刀《どす》を抜いた。岩吉は無手だった。折《おり》からお蔭参《かげまい》りの幟《のぼり》を持っていた男が通りかかり、岩吉にその幟を放ってよこした。幟を拾うや否や、岩吉は男の胸に幟をぴたりと突きつけた。岩吉がひと突きすると、男は橋の上に仰向けに倒れた。 「強かったなあ、舵取りさん」  語り終わって久吉が言った。岩吉は傍《かたわ》らの道を行く馬車の上の男や女たちを見ながら、 「截断橋か……」  と、呟《つぶや》いた。岩吉には、ならず者を懲《こら》しめたことよりも、あの後自分を探しに来た絹と、土手の上で会ったことのほうが忘れられなかった。何か月ぶりかに会った絹の必死なまなざしが、今も瞼《まぶた》に残っている。まさか自分が今ロンドンの街中で絹を思っているなどとは、絹は夢にも思うまいと、胸が痛んだ。  マッカーデーが言った。 「やはりねえ。岩吉は思ったとおりの男だねえ。それはそうとして、君たちは実に英語がうまい。確かフラッタリー岬から救い出されたのが、去年の五月だった筈《はず》だ。それから一年と一か月とは、とても思えない。驚いたね」  音吉と久吉は交々《こもごも》答えて言った。 「毎日二時間、ミスター・グリーンに教えてもらいました。ドクター・マクラフリンの所で、学校もあったし……」 「特に、ミスター・グリーンが親切に教えてくれました。ミスター・グリーンはこんなふうに教えてくれたんです」  音吉はミスター・グリーンの教え方を思い出しながら説明した。確かにミスター・グリーンの英語の教え方は優《すぐ》れていた。一語も英語のわからぬ三人に、先ず身の廻《まわ》りの物の名を徹底的に教えこんだ。目の前にない物は図に示して教えた。動詞を教える時には、必ず動作をまじえた。掘るという言葉には掘る動作を、書くという言葉には書く動作を必ずして見せた。三人の体に彫りつけるように教えてくれたのだ。それを三人は、お互いに復習し合って、一心に覚えた。しかも周囲は英語を話す者ばかりであった。特に若い久吉と音吉は覚えるのが早かった。もの真似《まね》のうまい久吉の発音も三人の進歩に役立った。 「なるほど。特別に叩《たた》きこまれたというわけか。しかしそれにしても、うまいものだ。日本人は優《すぐ》れている」  またしてもマッカーデーは率直にほめてくれた。  池には鴨《かも》や白鳥など、たくさんの水鳥が泳いでいる。その水鳥の引く水脈《みお》が、他の水脈にまじわっては消える。 「ぼくの親戚《しんせき》がね、このハイド・パークの傍《そば》に、近くロンドン一のホテルをつくると言っているんだ。名前も、ハイド・パーク・ホテルと決めてね」 「近々というと、来年あたりですか」 「来年? まさか。五十年後か百年後位のことだろうよ」 「五十年後か百年後!? それが近々ですか」  三人は思わず顔を見合わせた。何世紀に亘《わた》る家系を誇る貴族出のマッカーデーにとって、五十年や百年は、さして長い年月ではなかったのだ。  やがて馬車はハイド・パークを出、公園を左に、高級住宅街を右に見ながら走り、オックスフォード・ストリートを右に折れた。住宅街の庭園にバラが咲き、植木が傘《かさ》や、鞠《まり》のような形に刈りこまれているのが、三人には珍しかった。真四角に刈りこんだ生け垣を見た久吉が、 「あの上に寝てみたいわ」  と、冗談を言ってみんなを笑わせた。 「エゲレスって、日本とは何から何までちがうのやなあ。食べ物がちがう。着る物がちがう。住む家がちがう。肌《はだ》の色がちがう。目の色がちがう。髪の色がちがう。そして言葉がちがう。ちがうことばかりや」  音吉が指を折りながら、つくづくと言った。 「ほんとや。信じてる神さまがちがうしなあ。日本にはどこにでもあるお寺や神社が、ひとつもあらせんしなあ」 「けど、音、久。それでも心は通うで。ドクター・マクラフリンも、ミスター・グリーンも、みんな心が通ったやろ」  岩吉の言葉に二人はうなずいた。すべてがちがっているのに、心が通うことが不思議だった。 「ロンドンって、大きな、立派な街ですね」  音吉は英語で、マッカーデーに話しかけた。 「そうかね。しかしねえ、ロンドンも一六六六年の大火のお蔭《かげ》で、きれいになったんだよ。何しろ、その前の年ときたら、ペストが大流行してね。ペストは鼠《ねずみ》の持ってくる疫病《えきびよう》だ。十万人も死んだんだ。その頃《ころ》ロンドンには四十万の人がいたんだがね。しかし、神さまは確かにいられるよ。あのままだとロンドンはペストのために全滅したかも知れない。ところが翌年の大火で、四日燃えつづけた。それで鼠が死んでロンドンは助かった。それ以来、煉瓦《れんが》造りや石造りの建物以外は、建築が許されなくなって、お蔭できれいになったわけだよ」  馬車は大英博物館に近づいていた。      七 「とうとう今夜限りやな」  ガス灯のまたたきはじめたロンドンの街を見おろしながら、音吉が久吉に言った。  二人は今、イーグル号の見張り台の手すりに寄っていた。帆は全部たたまれていて見通しがきく。船着き場の傍《かたわ》らの大きな建物の時計は、今九時になろうとしていた。ロンドンの六月は日暮れが遅い。岩吉はマッカーデーの部屋で、ワインの馳走《ちそう》にあずかっているらしい。 「ロンドンって、凄《すご》い街やったな。でっかい建物ばかりや」 「そうやな。ロンドン・ブリッジには、橋の上に家が何軒もあったやろ。あれには驚いたなあ」 「そうやなあ。日本じゃ、橋の上に家があるなんて、思いもよらんことだでな」 「橋の下に、乞食《こじき》が莚《むしろ》を下げているという話は、故里《くに》で聞いたことあるけどな」 「ロンドンって、人も一杯やったな」 「女がきれいやったな、音。色が白うて」 「うん。けど、やっぱり女は日本のほうがきれいや。肌《はだ》がええ」  音吉は琴を思い出して、胸苦しかった。 「音、お琴を思い出しているのやな」 「…………」 「確かにお琴はかわいい娘《こ》や。今頃《いまごろ》、どうしているやろ」 「…………」  どこかに嫁いだかと思うと、諦《あきら》めていても淋《さび》しかった。 「音、故里の話はやめやな。今日見たうちで、どこの建物が一番やった」 「そうやな、やっぱりウエストミンスター・アベイや、セント・ポーロ・アベイが心に残っているわな」 「俺もや。乳房をむき出しにした女が、アベイの中にも彫られていたな。こっちでは裸の女を、平気で人目にさらしているんやな。ええ目の保養やったわ」  ドックの中でも、船はかすかに揺れる。船の揺れにつれて、街のガス灯もかすかに揺れて見える。夕闇《ゆうやみ》が濃くなるにつれて、ガス灯のまたたきが強くなった。 「宮殿の兵隊《ソルジヤー》にも驚いたわな。真っ赤な服を着て、大きな黒い熊の毛の帽子《キヤツプ》をかぶって。何でこの暑いのに、あんな大きなキャップをかぶるんやろ。頭がむれてしまわんのやろか」 「いきなり殴《なぐ》られても、痛くないようにや、きっと」 「しかし賑《にぎ》やかやったなあ。きれいな馬車がたくさん通っていてな」 「芝居小屋の前は、馬車がたくさんとめてあったわな。みんなきれいな着物きて、エゲレスって、金持ちやなあ」 「けどな、久吉。石の建物やから立派には見えたけど、貧乏人もいたで。どこの国にも、金持ちもいれば貧乏人もいるんやなあ。大通りを歩いている人だけ見てると、金持ちが多いけどな」  音吉は、つぎはぎの服を着た老人や子供たちの姿を何人も見かけたことを、思い出しながら言った。九歳になると、はや雇われて働いているとも聞いた。音吉の瞼《まぶた》に、ふと妹さとの子守り姿が浮かんだ。 「ま、そうやな。貧乏人のない国はあらせんわな。サムや親父や、船にいた連中も、みんな貧乏やったもな」 「うん、貧乏やった。自分の名前も書けんのが、たくさんいたでな。寺子屋にも行けせんかったのやな」 「名前が書けるだけ、わしらのほうがましやろかな、音」  先程《さきほど》まで啼《な》きながら空に舞っていたカモメの姿も、そしてカラスや雀《すずめ》も影をひそめた。薄く雲の張った切れ目に、星がきらめいている。あたたかい夜風が頬《ほお》をなでる。 「そうかも知れせん。字を習えただけな。けど、あんな立派なお城やチャーチをたくさん建てるのやから、やっぱり金持ちの国やと思うけどな。貧乏人をなくすことできせんのかなあ」 「まあ、できせんやろ。それはそうと、あれも珍しかったなあ。ほら、道がカーブしてたやろ。そしたら、家も道に沿ってカーブして建ててあったやろ。あんな真似《まね》、日本ではちょっとできせんな」 「できせん、できせん」  答えながら音吉は、ハドソン湾会社の、玄関の上の彫刻を不意に思い浮かべた。ハドソン湾会社は、セント・パウロ寺院やイングランド銀行の近くにあった。あのフォート・バンクーバーを築いたハドソン湾会社とは思えぬ程に、小ぢんまりとした会社だった。だが三階建ての建物には風格があった。玄関の上の壁には二頭の鹿が、後肢立《あとあしだ》ちになって向かい合った見事な彫刻が見られた。この二頭の鹿の間に、十字が彫られてあった。その時の驚きを音吉は今思い出した。 (キリシタンやから親切なのやろか)  小ぢんまりと見えた会社の地下には、無数の毛皮が、山積みにされてあった。その山が幾つも部屋一杯に並んでい、しかもそうした部屋が幾つもあった。 「凄《すご》いなあ! 大変な財産や」  久吉が言った。毛皮は高いと聞いていた。鹿、熊、狐、ビーバー、アザラシ、オットセイ等々の毛皮の山に、音吉たちは改めてハドソン湾会社の底力《そこぢから》を感じ取った。  建物の中にはビーバーの彫刻もあって、ここをビーバー・ハウスともいうのだと、マッカーデーは教えてくれた。世界の毛皮をおさえているというこのハドソン湾会社で、音吉たちは夕食を馳走《ちそう》になった。昼食はパブ(酒場)に入って、ハムやパンを馳走されたが、夕食のビフテキやスープは、未《いま》だかつて味わったことのない、すばらしい味であった。 「うまかったなあ、久吉」 「夕飯か? あの厚い牛肉のステーキな」 「うん……何だか俺たちも、日本人でなくなったような気がしたな」 「肉がうまくてか」 「そうや。初めて食った時は、仏罰や神罰が当たらせんかと、ようのども通らんかった。それが今では、思い出しても舌なめずりするだでな。とうとう四《よ》つ足《あし》食いになってしもうた。バターもチーズもうまくなってしもうたし」 「そうやな、音。今夜のデザートのケーキもうまかったな。けど、やっぱり、日本のあん物がうまいな。大福や饅頭《まんじゆう》がうまいわ」 「久吉、それはそうと、あの会社もキリシタンやな。キリシタンて、悪いもんやないような気がするな」 「悪い信心なんてあらせん。けどな、日本では悪いことになっているんや。悪いから信じてはいかんとな。とにかく折角《せつかく》帰っても、縛《しば》り首になったら大変だでな。信じたらあかんで」 「絶対信じやせん。けどなあ」  音吉はすっかり暗くなった空に目をやって、 「エゲレスは、万事日本より進んでいるわなあ。スチームで走る船や、トレインがあるし、石造りの焼けせん家もあるし、ステンド・グラスもあるし。その国の人が信じているんやから、でたらめな神さんとは思えんけどなあ。ほんとにその神さんがいるんなら、お礼のひとつも言わにゃ、それこそ大変な失礼やしな」 「それもそうやなあ。けど、わしらは日本人や。キリシタンの神さんに手を合わせたら、縛り首になるで勘弁ねがいます、と心でお詫《わ》びしたら、まあ仕方あらせんわと、許してくれるのとちがうか」 「そうやな。事情が事情やからなあ。けど、もし日本でご禁制でなければ、信じたい気もするわな。命を助けた上に、うまい肉や、ケーキを食わせてくれてな、そして遠い日本まで自前で送ってくれるんや。出来んことやで。殺されたって仕方あらせんのやで。お前たち遠い日本の国の者だでなあ、帰せん言われたって、仕方あらせんのや。これがもし日本に、エゲレス人が流れて来たら、こんなに親切に扱うやろか。わざわざ高い銭を出して、本国まで送り帰してやるやろか」  ガス灯の光のまたたくロンドンの街を見渡しながら、二人はいつまでも語りつづけた。      八  ロンドンの六月の朝は三時前に夜が明ける。今六時、既《すで》に日は高く昇っている。岩吉、久吉、音吉は遂にイーグル号を降りて、東インド会社の持ち船ゼネラル・パーマー号に移っていた。ハドソン湾会社の社員が案内してくれたのだ。  五百三十二トンの商船ゼネラル・パーマー号はドックの近くのテームズ河畔《かはん》に碇泊《ていはく》していた。船長はダウンズと言い、いかにも商船の船長らしい柔和《にゆうわ》な顔であった。少し下がった目尻と赤茶けた薄いあごひげに愛嬌《あいきよう》があった。この商船の乗組員は約七十人で、他に乗客が三十人|程《ほど》いた。当時、乗客専用の船はなかったから、乗客は岩吉たちと同じく便乗者《びんじようしや》であった。  それらの客が、今デッキに立ち、見送りの者たちと別れを惜しんでいた。岩吉たちは、その様子を少し離れて眺《なが》めていた。岩吉たちを見送る者は誰もいない。マッカーデーや艦長とは、イーグル号で充分に別れを惜しんで来た。土産《みやげ》にもらった紅茶、砂糖、バターなどが三人のトランクの中に入っていた。 「ロンドンともさよならやな」  ロンドン塔のほうに目をやっていた音吉がしみじみと言った。 「そうやなあ。ロンドンと別れるのはうれしいわ。いつまでもここにいるのは、しんどいでな」  久吉がさばさばとした語調で答えた。 「昨日まではわしも、早うロンドンを発《た》ちたかった。けどなあ、発つと決まったら、もう何日か見物して行きたいような気持ちになったわ」 「音は、ひと所に腰を落ちつけると、動きたくない性分《しようぶん》やなあ。わしは一刻も早う日本へ帰りたいで」 「わしだって同じや。けど折角《せつかく》来たわけだでな。エゲレスという国をもっとよく知りたい気がするんや」  ゼネラル・パーマー号に移った途端、久吉も音吉も心がのびやかになった。この船には気合棒《きあいぼう》を持った下士官《かしかん》はいない。海賊に備えての大砲が幾門かあっても、戦艦とはちがう。若い女客が二人まじっているだけでも、雰囲気が和《なご》やかなのだ。  見送りの者と船の上の者が、大きな声で何か話し合っている。見送られる者も、見送る者も、涙をおさえては何か言っている。幼い子が手をふる。年老いた男がしょんぼりと船を見上げている。 「思い出すなあ」  小野浦での出発を思って音吉が言った。  さとが、海の中まで足を入れて、小さな手をふっていた。その幾度も思い出した姿を、音吉は今また思う。松の木蔭《こかげ》で手をふっていた琴はどこにどうしているか。  岩吉は岩吉で、熱田での絹との別れを思っていた。 「マカオという所は、どんな所やろ? 舵取《かじと》りさん」  久吉が岩吉を見た。両腕を組んで、ドックのイーグル号に目をやっていた岩吉が久吉に視線を戻《もど》して言った。 「ようはわからんが、小さな所やそうや。歩いてぐるりと廻《まわ》れる程《ほど》の岬やそうや」 「そのマカオから、また乗りついで日本に行くのやな」 「そういうことや。マカオは清国《しんこく》の地つづきでな。清国と日本は近い。マカオに着いたらあと一息や」 「それはそうと、舵取りさん。何でこの人たち、こんな立派なエゲレスから、そんな小さな所に渡るんやろ」 「知らんな。それぞれの事情があるんやろ」 「この船、無事に着くんやろか。また嵐に遭《あ》わんといいがな」 「船旅に嵐はつきものや。けど、女子《おなご》さえ乗っているだでな、お前らも元気出さにゃあかんで」  岩吉は二人を励ました。 「大丈夫や、舵取りさん。元気やで、俺も音も。なあ、音」 「まあな」  答えながら音吉はやはり不安だった。先日来《せんじつらい》音吉は、マカオから日本に無事に帰れるかどうかが妙に案じられてならないのだ。だがそのことは口には出さず、 「小野浦に帰ったら、エゲレスの話を何といって聞かせてやったらよいかな。石造りの家や言うても、ステンド・グラスの模様が美しかった言うても、わからせんやろな」 「わからんでもなんでもええわ。半年後にはマカオ。そして遅くとも二か月後には日本や。うれしいなあ」  久吉はうきうきと言って口笛を吹いた。音吉は黙って、乗客たちのほうを眺《なが》めていた。 (この人たちは国を捨てるつもりやろか。また戻《もど》ってくるのやろか)  イギリスからは、アメリカに移住する者が多いと聞いた。この乗客の中にも、マカオに移住する者がいるのだろうか。日本人の自分たちには、故国を離れて遠い異国に移り住む気概《きがい》はとても持てないような気がする。生まれ育った小野浦以上に良い所はないと音吉は思うのだ。 「わしらだけやな。見送ってくれる人のいないのは」  久吉が言った。 「いる筈《はず》ないやろ。知り人がないんやから」  音吉は朝風にはためく帆を見上げた。三本マストの帆船だ。  と、その時、岩吉が叫んだ。 「おっ! あれはサムじゃねえか」 「サム!?」  驚いて音吉と久吉は、岩吉の指さすほうを見た。確かにサムだった。サムの後に二、三人の男が駈《か》けてくる。 「あっ! 親父さんもいる!」  久吉も叫んだ。 「どうしたんやろ!? この船に乗るんやろか」  音吉が言った時、岩吉たち三人を見つけたサムが駈け寄って来た。 「やあ、すまんすまん。遅れてしまって」  サムの大声が懐かしかった。たった十日しか経っていないというのに、もう長いこと会っていないような、そんな懐かしさだった。 「今朝《けさ》発つってえ話を、昨夜パブで聞いたんだ。ちょうど下士官《かしかん》の野郎が来ていてさ」  サムは人なつっこい微笑を浮かべて、大声で言った。デッキの上から見おろすサムたちの顔が二、三メートル下にあった。 「元気でな。そのうち、俺たちも日本に行くぜ!」 「親父」も叫んだ。 「無事を祈るぜ!」  つづいて叫んだのは、サムでも「親父」でもなかった。イーグル号ではほとんど口をきいたこともない男で、背中一面に入れ墨のある男だった。いつも不機嫌《ふきげん》な顔をしていて、その男が笑っているのを見たことがなかった。  思いがけない三人の見送りに、音吉は胸がつまった。恐らく、これから働きに出て行くのだろう。その時間をやりくりして、朝六時半から見送りに来てくれたのだ。 「いいか、受けとめろよ」  サムが叫んで、小さな包みを投げてよこした。岩吉が巧みに受け取った。「親父」も何か投げようとした。が、サムが大きく手を横にふり、「親父」の手からそれを取ると、 「もう一発だあ!」  と、投げてよこした。それを久吉が受けた。と、それが合図かのように、船がゆっくりと岸を離れた。 「ありがとう! サム、親父」  岩吉は言いかけて、 「もう一人は何と言う名前だった」  と、小声で言った。音吉が三人に向かって、 「ポールも元気でね。サムも親父さんも達者でね。ほんとうに……うれしかった……」  と、声を途切らせた。 「ありがとう、さようならーっ!」  久吉も叫ぶ。 「絶対、船は無事に着くからなあ。安心して行けよーっ!」  太いサムの声だ。みるみるうちに、船は岸壁《がんぺき》を離れた。 「親父」も何か叫んだが、見送り人たちの声に紛れて聞こえなかった。サムが飛び上がって見せた。久吉も飛び上がって応えた。カモメが幾羽も、高く低く船を追って舞う。帆が軟風を孕《はら》み、船はテームズ河を静かにすべる。  人の姿が次第に小さくなり、遠くなる。 「さようならーっ!」  音吉と久吉が声を揃《そろ》え、日本語で別れを告げた。 角川文庫『海嶺』昭和61年11月25日初版発行         平成14年1月30日23版発行