[#表紙(表紙.jpg)] 孤独のとなり 三浦綾子 目 次  愛への出発   夫婦関係長続きの秘訣   恋愛は全人格的なもの   娘たちへ   結婚は人格と人格の結合である   幸せな結婚のために   幸福な家族  生き続けるということ   どう生きるか   生き残るということ   「生き甲斐」寸感   情熱の空費はむなしい   愛は絶望しない   鋭く反省する必要   学歴は問題ではない   自分の人生を投げ出す勿《なか》れ  様々な生き方の中で   一人の生き方の大切さ   泣く者と共に泣く人   「美しい」という言葉に想うこと   ひと味ちがうみどり鮨《ずし》   法律より大事なもの   傲慢《ごうまん》ではないつもりです   生きる道は幾つでもある   ヨナタン君の祈り   教師の資格   「小さなことでしょうか」   置きみやげ   旭山夫人の手袋   田村武さんのこと  人の子として   母の日の贈り物   二つのやさしさ   叱られても叱られなくても   人間として持つべき基本   何が恥ずかしいか   すなおであること   愛の深さの発露   社会に及ぼす躾《しつけ》   夢の母子像   母なるもの  私の周辺から   ケーキの耳   度忘れの弁   かっちらかしの弁   夫婦のサイン   豚の腹痛を憂う   聴き手の責任   将棋の駒に思う   わたしと将棋   わたしと書道   はじめての南瓜《かぼちや》   雪は秋のさかりにも降る   零下三十度・きのうきょう   わが心のふるさと、夏の北海道  折りにふれて思うこと   懐かしくも淋しい話   きょうという日には誰もが素人《しろうと》   人の力を引き出す言葉   何かが欠けている   目を天に向け真の気魄《きはく》を育てよう   毛虫にさえ学ぶことができる   チンパンジーの生態に思う   本当の手当   ありがたい年賀状   家事寸感   料理上手になるには   主婦の立つ所   いつの世でも無駄にしていいことはない   「いろはがるた」偶感   わがことであっても   わたしはなぜ書くか   あとがき [#改ページ]   愛への出発 [#改ページ]  夫婦関係長続きの秘訣 「人間関係を持続する」というテーマを編集者から与えられた時、 「冗談ではありませんよ。わたしのほうで聞きたいことですよ」  とわたしは答えた。まったくの話、わたしは人間関係について語る資格はない。  結婚十六年(昭和五十年現在)、幸いにしてわたしと三浦は円満である。二人の間に危機のあったことはないし、自分たちとしても、仲のいい夫婦だと思っている。  しかしこれは、三浦という男性とたまたま結婚したからであって、わたしの努力によるものではない。彼は熱心なキリスト者であって、むろん浮気をしたこともなければ、ギャンブルもしない。日曜日には教会に行き、毎日聖書を読み、祈りをし、わたしにはいつもやさしい。そして適度にきびしい。わたしからいうと、文句のつけようのないよい夫なのである。この三浦と結婚し、うまく行っているからといって、それは当然の結果であって、わたしの手柄ではさらさらない。  姑《しゆうとめ》は三浦の兄と同居している。わたしは月に一、二度姑を訪ねるだけである。母はほとんど毎週、わたしたちと同じ教会に来ていて、時間の都合のつく時は、教会の帰りに共に食事をする。別段トラブルが起こる原因もない。これも姑が信仰に立って生きている人だからで、もしわからず屋の人であれば、わがままなわたしはけんかをしていたかも知れない。  と、考えてくると、わたしはいつも周囲に良い人が与えられて、楽々と平和な関係を保つことができたといえる。友だちにしてもそうだし、仕事関係についてもそうである。  しかし、これでは人間関係を持続するという主題を押し進めようがないから、わたしなりに日頃考えていることを、少し述べてみたいと思う。 自分中心の人間の姿[#「自分中心の人間の姿」はゴシック体]   夫婦関係でも親子関係でも、また、嫁姑の関係でも、労使関係でも、友人関係でも、相手は人間である。この相手を知り、自分を知ることが、人との関係を保つ基本ではないかと、わたしは思う。  つまり「人間とは何か」を知ることが、相手を知り、自分を知ることになると思う。人間とは、先ず第一に、甚《はなは》だ自己中心的な存在だということを、わたしたちは忘れてはならない。  わたしはよく例に出すのだが、もしここに、自分の大事にしている皿《さら》なり茶碗《ちやわん》なりがあるとする。それを他者が割った時、わたしたちはその粗相を咎《とが》めて怒る。たとえそれが愛する自分の子であったとしても。 「どうしてそんなに不注意なのか」  と、いわずにはいられない。しかし、もしその同じものを自分が損なったとしても、わたしたちは決して、他の人を叱《しか》るようには自分を叱らない。咎め立てもしない。 (ああしまった、惜しいことをした)  と内心思っても、鋭い語調で自分自身を責めはしない。  同じことをしながら、自分自身のしたことなら許すことができ、自分以外の者のしたことなら許すことができない。これがわたしたち人間の、誰《だれ》もが持つところの真実の姿なのである。自分のしたことと、他人のしたことが同じであっても、そこに軽重ができ、大小ができる。これをわたしは「人は二つの物差しを持つ」と、常にいっているのだが、これは考えてみると、全く許し難い根性だといわなければならない。単に、二つの物差しを持っているだけではなく、これが、夫、わが子、しゅうと、他人、友人、実の親などと、相手によって、わたしたちの物差しは適当に変わるのである。  とにかく、その根本において、自分の犯した過失あるいは罪は、非常に小さなことにしか過ぎないのだ。が、同じことを自分の嫌《きら》いな人がした場合は、「大変悪いこと」となってしまうのだ。  もし、ある商人が、客によってちがう秤《はかり》を持っていて、同じ一キロの物を売るのに、ある客からは五〇〇グラムの代金しか受けとらず、ある客からは五キロもの代金を要求するとしたらどうであろう。これがもし明るみに出たとしたら、誰しもこれを悪徳商人として指弾するであろう。が、この悪徳商人の姿が、とりもなおさず、わたしたちの人々に対する評価の実態ではないだろうか。  したがって、自分が人にした親切や善行は、はなはだ大きなことに思われるが、同じことを他の人がしているのを見ても、 (あんなことは、人間なら誰でもすることだ。大したことではない)  と、過小評価する。  これが、自分中心の人間の姿なのだ。わたしたちが毎日つきあう人々は、みなこうした幾つかの秤を持って生きている人々なのだ。そして、これこそは忘れてはならないもっとも重大なことだが、この自分自身が、その一人だということである。こう見てみると、人間同士がつきあうということは、実に大変なことだ。自分がしてやった親切は、相手は大したこととは思わず、自分のした小さなつもりの過失が、相手には大きなものとなる。すべての人間がそう思い合っている。これはもう何とも大変な、厄介《やつかい》千万なことだ。 傲慢であってはならない[#「傲慢であってはならない」はゴシック体]   こうした自己中心な人間の常として、一番おちいりやすい恐ろしいことは、この世の憲法は自分であるということである。自分のしていることが正しい。誰もが大体そう思っている。程度の差こそあれ、これがわたしたち人間の基本的な体質である。  たとえば、怠惰な者は勤勉な者が傍《そば》にいるのを甚だしく嫌う。同期に入社した新入社員が机を並べるとする。一方は当然のこととして、遅刻することなく出勤し、タバコも喫《の》まずに勤務する。一方は朝寝をし、仕事にもあまり身が入らず適当にやって行きたい。こうした時、怠惰な者は、勤勉な者が何となく嫌《いや》な奴《やつ》になってくる。人間はそういうものなのだ。相手が尊敬すべき美点を持っていても、必ずしも尊敬するとは限らない。女性のわたしたちは、美しく魅力的な同性が傍にいることをうれしく思わないし、余りに正し過ぎる人を、決して喜びはしない。 「今日は少し怠けましょうよ」  といった時、たとえ怠けることが悪いとしても、直ちに賛成してくれる人を、わたしたちは好む。もし一人だけ、黙々と自分のなすべきことをしている人間がいるとすると、たちまちその人は「いやな人」と極《き》めつけられるのだ。  趣味の悪い人は、趣味のいい人を嫌う。品行方正でない人は、品行方正の人を嫌う。近頃は性的な生活が乱れて来て、 「処女は時代遅れだ」  などと、ささやかれているという。これは非処女の処女に対する侮蔑挑戦《ぶべつちようせん》の言葉にすぎない。  とにかく、自分と同意見でない者を嫌うということは、つまりは自分が憲法なのだということなのだ。わたしたちは、人とつきあう時に、相手がみな各々憲法を持っていることを知らなければならない。そして自分もまた、自分の憲法を持って、人を評価したり、裁いたりしているという事実を、はっきりと知らなければならない。  要するに、わたしたち人間の人への評価とか好き嫌いとか、善し悪しとかは、実にでたらめ極まるもので、決して絶対的ではないということ、これを謙遜《けんそん》に認めなければならない。  もう一つ、忘れてならないことが、わたしたち人間にはある。それは、わたしたち人間は誰一人として、まったく正しい人間はいないということである。すなわち、わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。  こういうと、「自分は罪を犯してはいない。人にうしろ指をさされるようなことをしてはいない」という人がいる。しかし、生まれてから死ぬまでの間に、人を傷つけることなく生き得る人がいるだろうか。人を傷つけるというのは、肉体への傷害と同じく、大きな罪である。いや、肉体の傷は回復し得ても、心の傷はいつまでも癒《い》えないことがある。時にはその傷によって、人は生きる力を失い、死を選ぶことさえある。自分は罪を犯していないなどと思うほど、わたしたちは傲慢《ごうまん》であってはならないのではないか。 夫は私にかわいい女だと毎日言う[#「夫は私にかわいい女だと毎日言う」はゴシック体]   次に、「人間とは何か」に、欠かすことのできないものは、人は人を愛することのできない存在だということである。好きという感情と、愛とを人はしばしば混同する。愛とは本来、そんな感情的なものではない。聖書には、愛とは耐えることであり、忍ぶことだと書いてある。寛容でねたむことをしないことだとも書いてある。また、たかぶらず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、すべてを信じ、すべてを望むことだとも述べてある。こうした愛は、本来わたしたちにはない。その、ないと認めるところから、自分と他の人への理解が深まる。  結局、人間は以上のような最大公約数を持って生きている。こうした自己中心の、愛のない人間同士が、あえて人間関係を持続していくというのは、大変な大事業といわなければならない。大きなビルを建てるよりも、はるかに難事なのだ。  しかしわたしたちは、孤島にでも行かない限り、人とつきあっていかなければならない。そこには、甘えのない一つの決意が必要だ。相手が夫であろうと姑であろうと、上司であろうと友であろうと、その相手がいかなる場にあるにせよ、お互い自己中心な人間であることに変わりはない。  この人間同士が、よい人間関係を持続するには一体どうしたらよいのか、わたしはここで、昔から黄金の戒律といわれている聖書の言葉を引いてみたい。それは次の言葉だ。 「自分にして欲しいように、人にもしてやりなさい」  つまり、相手が何をしてほしいかということを、洞察《どうさつ》する力がわたしたちには必要なのだ。たとえば、老人とつきあうには、その老人が最も望んでいるものを知ることである。これは技術の問題でなくて、真心の問題である。  老人は、自分がもう、この世には用のないもののように考えている。老人は、一部を除いて、ほとんどが現役から退いている。経済的な力はない。わたしたち人間は、ともすれば金銭という目に見えるものを得ることのできない人を、軽んずる。が、老人たちは、ついこの間まで、その場その場にあってその社会を担って来た人たちなのだ。それが男であっても、女であっても。で、わたしたち夫婦は、お互いの母や、知り合いの老人と会った時は、先ずその人の昔の話を聞く。これは、若い人からは決して聞き出すことのできぬ、貴重な生きた歴史である。書物では得られない、肌から肌に伝わる話は尊いものだ。同じ話が幾度繰り返されてもかまわない。それはおなじみの講談や落語を幾度も聞くのと同じ味わいがある。聞いて、その業績や功績を賞讃する。  最近会った老人たちは、十勝岳大爆発にあった人たちであった。押しよせる山津波に多くの人命がうばわれ、火山灰と泥流に毒された農地に、五十年後の今もなお様々な苦労をして生きているのだ。しかしこの体験を、孫も息子も聞いてはくれないという。もったいない話である。  また夫婦の関係を持続するには、何がもっとも大事かといえば、お互いがお互いを心から喜び、尊重し合うということに尽きるだろう。わたしの夫三浦は、わたしのようなものを、「綾子はかわいい女だ」と毎日必ずいってくれる。 「寝顔がかわいくてならない」とか「そのセーターを着た背中が、何ともおさなくてかわいい」とか、日に何回となくいう。女にとって、かわいいといわれることは、どんなにうれしいことだろう。夫婦は空気のような存在だとか称して、美容室に行ってこようが、新しいブラウスを着ようが、何の関心も示さない夫が、この世にはたくさんいる。それどころか、 「今更、そんな年をして、何を着ても無駄《むだ》だよ」  という夫もいる。これではいかに長年つれ添ったからといっても、真にいい関係を持続しているとはいい難い。  妻もまた夫を、心から尊敬すべきではないか。わたしは、尊敬すべき夫を持っているからでもあるが、夫がうたえば、 「こんなに心に沁《し》みる歌はないわ」  と、心からほめるし、何かいい意見をいわれると、 「そこまではわたし、考えたことはないわ。さすがはあなたねえ」  と尊敬の言葉を捧《ささ》げる。毎日顔をつき合わせていればこそ、夫婦はお互いの中に、日々新しい発見をすべきだと、わたしは信じている。また、夫婦の場合は、特にタブーの言葉というものがある。お互いがお互いの肉親についてけなされるのは、自分をけなされるよりもいやなものだ。陰口をいわれるのもいやなものだ。だからわたしは、わたしの母や兄弟に、三浦の家族について、ほめる言葉以外語ったことはない。そしてこれは、死ぬまで守りつづけようと決意している。むろん、三浦自身のことを、わたしは誰に向かっても、悪くいったことはない。 愛は永続する[#「愛は永続する」はゴシック体]   友情というのは、この世で一番破れ難いもののように思う。それでもなお、 「もし友が陰でいっている言葉を聞いたなら、吾々はこの世に、一人の友も得られないであろう」  と、パスカルはきびしい言葉を残している。友人関係においては、時には面と向かって悪口をいい合うことも必要だ。が、前と陰でいうことがちがうなどということでは、友情があるとはいえない。つまり、信頼によって、成り立っているのが友情だと思う。だから、人の悪口をいう者は、友情を持続することができない。また、決して他言するなといわれたことは、口が裂けてもいわないことが肝要だ。このことは、わたしたち夫婦も、心がけて友に対しているつもりだ。  労使関係というものは、規模もピンからキリまであって様々だろうが、何といっても職場では、人々はその才能や努力を認められることがうれしいのではないか。職場で美男だとか美女だとかと騒がれるのは二の次で、先ず第一に認められたいのは、その職場での仕事ぶりなのだ。  わたしの知人は、東京で大きな果物問屋を経営している。その女主人は、店員たちに、店員一同の働きがどんなに大きいかを常にいろいろと話して感謝している。認められてうれしくないわけはない。いかに組織が大きくなっても、お互いの努力を認め合う言葉をいう機会がないはずはない。ただ、口先だけではなくて、心から認めるのだ。  長所の全くない人間は、それこそ絶対にないはずだ。労使関係の歪《ゆが》みは、相手を認めず、手柄は自分だけに帰する所から発しているのではないか。  これは学生と教師の間にもいえることだと思う。わたしたちは師に何を求めているか、それは、自分の力を引き出してくれることを求めているのではないか。歯の浮くようなお世辞や、他人を見るような冷たいまなざしを求めているのではないことは、いうまでもない。もし自分の力を引き出すことのできる師がいれば、純真な学生は、多分殴られてもついて行くだろう。その力を引き出すのは、やはりその努力を認め、確信を与えることにあると思う。  一番むずかしいのは、嫁姑以上に、親子関係かも知れない。それは、親があまりにも子に期待しているからだ。子もまた親に多くのものを期待しているからだ。しかも、生みの親にとって、わが子は己れ自身でもある。が、子供にとって、親は己れ自身ではない。ここに根本的な食いちがいが、初めからあるといえる。親が子をいくらほめても、それだけで親子関係がスムーズにいくとは限らない。力を認めても、それが子供にとっては煩わしいこともある。親と子の関係を真によく保つためには、親はわが子を自分一個人の子供と思うことから離れて、神から預かった子、社会から預かった子、という視点に立たなければならないのではないか。  小鳥は力一杯に握られては羽ばたきができない。子が願っていることは巣立つことである。親が願うことが、子が巣にいつづけることであっては、そこには成長も発展もない(むろんそれは、子が親をかえりみなくていいということとはまったくちがう)。 「自分にしてほしいように、人にもしてやりなさい」  という黄金律は、考えてみると、これまた非常に実行のむずかしさをひしひしと感じさせる言葉である。 『人を動かす』という本がある。その本に「犬を見習え」とあった。犬が尾がちぎれるほどに喜んで人に向かう時、人は誰でもその頭をなでずにはいられないという。  問題はこの「人を喜ぶ」という姿勢であろう。夫にでも、妻にでも、姑にでも、嫁にでも、隣人にでも、部下にでも、上司にでも、生徒にでも、教師にでも、友人にでも、会ったとたんその喜びが直ちに顔に出るような、そんな喜びをいつも持っているならば、人間関係というものは、永続するはずなのだが……。どうやら我々はもっと犬に学ばねばならないようである。      (婦人公論 昭和五十年十二月号) [#改ページ]  恋愛は全人格的なもの  本や色紙《しきし》に、サインを求められると、私はよく聖書のことばを引用する。わけても、 「与うるは受くるより幸いなり」  ということばを書かせてもらう。  ところで、私のところに毎日のように読者から手紙がくる。多い日は三十通もくる。ほとんどがまじめな相談なのだ。  その一つ一つを読みながら、私は、なんと人間の世にはこうも悩みが多いのだろうと、嘆かずにはいられない。酒乱の父、兄の家出、夫の浮気、長期療養等々、並べたてればきりがない。どの手紙も、深い同情を覚えずにはいられないものばかりである。  だがその中で、私が歯ぎしりをしたいほど情けなく思うことがある。それは高校生や高校を出たばかりの女性からくる、恋愛についての悩みである。いや、正確には恋愛というより、性に対する誤った考えから生ずる悩みである。 「男の人を好きになった。わたしはその人にからだを許した」  という手紙のなんと多いことであろう。 「恋愛とは、好きな人に肉体を捧《ささ》げることだと思っています」  などと書いてあるのを見ると、そばにいたらお尻《しり》をひっぱたいてやるのにと、腹が立つ。いったい、いつからこんな風潮になってしまったのだろう。  無論、十人が十人、こんなばかなまねはしていないと思うが、なんと若い女性は、男を知らな過ぎるのだろう。  男というものは、愛していなくても手をにぎることもできれば、女性の肉体をむさぼることもできる。しかし、全人格的に恋愛をしている男性ならば、決して軽々しくその女性に手をふれることができないはずである。私はよく若い女の人たちにいう。 「彼があなたの手をにぎったのは、それはあなたの手だからにぎったのではないのですよ。ただそこに、偶然あなたの手があったからにぎっただけなのです。A子でもB子でも、C子でもD子でも、男にとっては同じだということもあるのですよ」  極論のようだが、事実である。男は情欲によって女を抱くことが多いのだ。A子でもB子でもかまわないと思っている男に、なぜ若い女性は、やすやすとそのからだを捧げてしまうのだろう。 「わたしが彼を好きなのだから、それでいいではないか」  と、あるいはひらきなおって、あなたはいうかもしれない。しかし、好きという感情だけでは、それはまことに儚《はかな》く、うつろいやすいものではないだろうか。たしかに好きだと思っていたのに、いつのまにかこんなにも憎んでいる、ということもある。私は、好きなだけの感情を、決して恋愛だなどとは認めない人間である。  恋愛とは、全人格的なものでなければならない。すなわち、意志、理性、感情の、美しく深く統一された姿でなければならない。私は相手の男性にも、それを要求する。少なくとも、強い意志と、輝く知性を欠いた、単なる「好き好き」という感情だけでは、ごめんをこうむる。そして全人格的な恋愛をする男性は、そう簡単に肉体を求めないことも私は知っている。  若いあなたに私はいう。あなたは若い獣のえじきになってはいけない。 「与うるは受くるより幸いなり」  と私は書くが、決してこれは、肉体のことをいっているのではない。貧しい人には暖かい心を、悲しんでいる人には親身《しんみ》な涙を、疲れている人には慰めのことばを与えてあげてくださいとの願いをこめて、私は書いているのだ。  情欲を愛とすりかえて近づいてくる男に、まちがってもやすやすとそのからだを与えてはならないと、切実に私は思う。      (フェアレディ 昭和四十四年九月号) [#改ページ]  娘たちへ   清き水を飲むべし  なんとも言いようのない手紙が、再々若い人、とくに女性から寄せられてくる。それは、恋愛すなわち肉体関係と思いこんでいる人たちからの手紙なのである。思いこんでいるだけならまだ問題はない。が、それを実行に移してしまったために傷つき、悩み苦しんで、どうしたらいいかと訴えてくるのである。  どうしたらいいかと言われても、いったいどう答えていいのか、もどかしくも、やりきれない思いになるばかりである。  戦前の、表現の自由のない恐ろしい時代を知っているわたしには、今の時代はまったくありがたいと思う。当時は、天皇制のことなどうかつに言おうものなら、たちまち投獄された。性の表現もきびしく制限された。  戦後は、それらの制限から解放された。思想の自由には、いまだに根深い不当な扱いはあるが、性の表現はまったく自由になった。しかし、その性の表現の自由がわたしたちに幸いしているかとなると、これまた手放しでは喜べない状況にあるのではないだろうか。  極端な商業主義と結びついた、行くところを知らぬ性的刺激の追求、無責任な大人たちの発言、そうした渦《うず》のなかで、どうしたら若い人たちがほんとうのものを発見し、かけがえのない命を真実に生きて行くことができるのであろう。  わたしは時どき、現代は捨て子の時代ではないかと思うことがある。教育が盛んになっているように見えて、なにかが足りないのだ。性教育もまさにその一つである。もう少し大人たちがまじめに自分のこどもたちと話し合うならば、肉体関係イコール恋愛などと思いこみ、みすみす苦しむことはなくなるのではないか。  いや、もうこんなことを言っても、はじまらないのかもしれない。著名な先生からして、 「体をゆるしたくらいで苦しむやつは、どうせ生きて行くだけの力もない。そんなやつは死ねばいい」  と言い、 「傷つかないように、上手に遊ぶことよ。そこに二度とこない青春の喜びがあるじゃないの」  と教える。現実に苦しむ若者など、どうでもいいというのだ。まったく空恐ろしい話である。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。上手に遊べば、果たしてそれだけで青春の喜びがあるのだろうか。人間はけっして肉体だけの存在ではない。  人それぞれの考えはあるにせよ、人間の真の喜びは、もっと高く、健全なところにあるのではないか。  わたしは若い人たちが、清くあってくれることを願わずにいられない。そして、命を受けつぐ清いホームを築き、より高い喜びを得てほしいと全能者の前に祈らずにはいられない。  レーニンも、乱れた男女関係を許容するような風潮を戒めて、 「いうまでもなくのどがかわけばうるおさねばならない。しかし正常な状態におかれた正常な人は、溝《みぞ》にとびこんで汚い水たまりの水を飲んだり、油でふちがベトベトになったコップで口をしめらすだろうか。恋愛においては、二人の生命が、つながり、結びあうのだ」  と言ったというではないか。      (赤旗 昭和五十年三月九日) [#改ページ]  結婚は人格と人格の結合である  結婚生活の破れを訴えてくる読者が、相も変わらず多い。何も今に限ったことではないのだろうが、この頃特に多いのは、どうしたことだろう。  訴えてくる人の話を聞いて、いつも思うことは、余りにも安易な考えでスタートをしているということだ。「好きになった」「肉体関係を結んだ」「それで結婚した」。こういうケースが実に多い。それも、好きになってから、結婚までがまことに短時日なのだ。中には、一年二年と時間をかける例もあるが、その間子供をおろさせたり、おろしたりといったこともあったりして、余りの軽率さに、やりきれない思いになる。  恋愛即肉体関係と思いこんでいる向きがやたらと多い。一体どこでそんなふうに覚えこんでしまったのであろう。それほどでなくても、 「好きで結婚したのに、夫は人が変わってしまった」  という言葉をよく聞かされる。嫌《きら》いな人と結婚せよとはむろんいわない。結婚の相手を選ぶのに、好き嫌いの感情を全く否定してしまうことは、乱暴というものであろう。  しかし、結婚生活はままごとではないのだ。恋人時代であれば、「長い足が好き」だったり、「深々とした目が好き」だったりで満足もできよう。が、一旦《いつたん》結婚してからは、それだけではどうにもならないのが現実なのだ。どなただったか、 「背が一七〇センチで、大学出のハンサム、というぐらいで、この人生の荒波を越えていけるのか。なめてはいけない」  といっておられた。全くである。いかに足が長くても、目が深々と美しくても、只《ただ》それだけでは、何が起きてくるかわからぬ人生を、真実に生きていくことはできない。わたしはいつか、牧師の説教でも聞いた。 「好きか嫌いかぐらいで、事を決定してはならない」と。  人生において、重大な結婚生活を始めるのに、単に好き嫌いというだけで相手を選んでは、余りにも軽率ではないか。 「わたしはあの人を愛している」  これまたよく聞く言葉である。が、この「愛」はやはり、「好き」という意味でしかない場合が多い。  愛の語には様々な種類がある。人類愛、父性愛、母性愛、友愛、恋愛等々。しかし、本来の高い意味の愛を問い直すことは、今の時代に必要なことではないだろうか。特に結婚を考える場合に必要であると私は思う。  本来の愛は、単なる感情や本能ではなく、意志なのである。有名な「愛の章」といわれる新約聖書のコリント人への第一の手紙をひらいてみよう。その第十三章には、次のように書いてある。 〈愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える〉  これが聖書の示す愛である。わたしたち人間がこの愛に達することは至難ではあっても、この愛のあることを知り、これを目ざすことはできる。  わたしは若い方々が、この愛を知り、これについて語り合ってほしいと痛切に思う。特に結婚を前にしての交際において、そうあってほしいと願うものである。  そうすれば、好きだからといって、いきなり体を求め合う不作法なこともしないであろう。また、結婚してからも簡単に家庭を投げ出すこともないであろう。  くり返すが、結婚は単に「好き」というだけの感情で結びつくものであってはならない。人格と人格の結合なのである。安易な考えで、たちまち破たんに泣き苦しむことのないよう、わたしは心から「愛ある結婚」をすすめずにはいられないのである。      (non・no 昭和五十年十月二十日号) [#改ページ]  幸せな結婚のために   結婚してからでは遅すぎる  わたしはいま、『主婦の友』誌に「三浦綾子への手紙」という連載を持っている。つまり、わたしへの悩みごと相談の欄であり、そのほとんどが既婚者である。  実にたくさんの手紙が、毎月わたしの手もとによせられる。このほかにも、わたし個人への相談ごとの手紙も絶えない。独身で終わったならば、決して持たなかったであろう悩みもたくさんある。  その幾つかを紹介すると姑《しゆうとめ》と嫁の問題、小姑の問題、夫に根気がなく、幾度も職を変える問題、ギャンブルに生活費を注ぎこむ夫の問題、夫の酒乱に悩む問題、癌《がん》とかベーチェット病に夫がかかった問題、親子の断絶、娘や息子の非行化の問題、そして最も多いのが、信じ切っていた夫の浮気の問題である。  まだまだ悩みの種類は多いが、いま記憶に残るものを数え立てただけでも、これだけの種類がある。  考えてみると、結婚するということは、多かれ少なかれこうした悩みに直面するということなのかも知れない。むろん、独身には独身の悩みもないではないが、その悩みの複雑さは、やはり既婚者に多いのではないか。  わたしはこうした既婚者の悩みに会うたびに考えさせられるのだが、人々はどのように結婚を決意し、あるいはどのような動機で結婚するのかと思うのである。  よく若い人たちに、理想の結婚の相手を尋ねると、次のような答えが返って来る。 「絶対に大学出で、給料は十五万以上」 「背は一七〇センチ以上、体重は六〇キロぐらい」 「足の長い人」 「一緒にお酒を飲める人でなければ」 「目のきれいな人」 「係累の少ない人」 「やさしくて誠実な人」  いかにも若い人らしい選び方だとわたしは思う。  最後の、「やさしくて誠実な人」という願いを持つ人は別として、もう一度ここに書いた結婚の条件を読みなおしていただきたい。  そしてあなたは、どんな願いを持って結婚するのか、もう一度自分自身に問いなおしてみてほしい。 「金や財産のある人」  という項目を忘れない人もいる。だが、わたしたちが、結婚後に抱く悩みを、それらの条件が果たして解消してくれるか、どうか。姑と嫁の問題を、足が長いからといって、大学を出ているからといって、どれだけ解決する力があるだろう。もし解決する力があるならば、足の長い人を夫に持つ奥さんと、大学出の夫を持つ奥さんは、平和に生きていけることになる。  子供の非行化の問題を、たとい背が一七〇センチ以上あったとしても、二枚目のような顔をしていたとしても、解決できる力があるか、どうか。  すわ一大事という時に、ここに並べた条件をすべて兼ね備えた男性がいたとしても、一体どれほどの力になるというのだろう。  男が生涯《しようがい》の妻に女を選ぶ時にも、同様の軽率な過ちを犯す。 「美人であること」 「料理がうまいこと」 「健康なこと」 「短大出以上の学歴を持つこと」  などなどの条件が、果たして家庭に襲いかかる、先に述べたような数々の悩みに賢明に対処する力を与えてくれるものか、どうか。  わたしの母たちの年代の女性、即ち明治生まれの女たちは、もっとわたしたちより賢明であったような気がする。母として、妻として、そしてハウスキーパーとして、もっと事に処する知恵を持っていたような気がする。彼女たちの大方は、大学はおろか、中等教育も受けなかった。  そう考える時、人間の知恵や生きる力は、決して学校だけで育つものではないことがはっきりとわかる。  わたしたちは、少し人生を甘く見て生きているのではないか。人間の幸せということがどんなものか、じっくりと考えることもなくふわふわと生きているのではないか。だから、人生の一大事である自分の結婚に対しても、いい加減な態度しか持てないのではないか。そのいい加減な態度が、前記のような、結婚の条件を生み出すのだと思う。  いや、結婚の条件を考えるのならまだいい。今日会って、その日のうちに、昨日までは見知らなかった相手と、枕《まくら》を一つにするということさえ、珍しくないという。くだらぬ風潮に乗せられて、行きずりの男に体を与えたり、遊び半分に数多くの女と寝たりすることを、何か新しいことのように錯覚しているようなそんな生き方の中で、どうして自分の人生をじっくりと見つめる目が育つだろう。  そんな生き方に対して、結婚という現実は、きびしいしっぺ返しをもって報いるのである。結婚した二人の行く手に待っているのは軽薄に生きて来た、ひ弱な人間には到底乗り超えることのできない問題ばかりである。  つまり、わたしがいいたいのは、幸福な結婚というのは、結婚してからでは遅いということである。お互いが独身の時に、先ず自分自身の生活を、責任を持って築いていく。いってみれば、結婚生活の土台は、お互いの結婚前の生き方にかかっているといえる。  一人で生きている時に、いい加減に遊びまわっていて、どうして生涯の伴侶《はんりよ》を選ぶ確かな目が持てるだろう。いい加減な生き方が、どうして結婚した次の日から変わることができるだろう。本当の幸せということを考えたこともなくて、幸せな結婚がどうしてわかるだろう。  ところが、残念なことに大抵の人は結婚してから自分の過ちに気づくのである。結婚してからでは遅いということが、結婚しなければ気がつかない。そのことに若い人たちが今すぐにも気づいてほしいと、わたしは切に願う。  今からでも決して遅くはない。一生を意義深く生きるために、真の幸せとは何かを、真剣に考え、求めて行こうではないか。  聖書の言葉に、 「受けるより与えるほうが幸いである」  という言葉がある。わたしたち人間は、物でも金でも、他からもらったほうが得だと考えやすい。が、実は与えるほうが幸せだと聖書はいうのである。これは単に、物質だけのことではない。世には、いつも人が言葉をかけてくれなかった、やさしくしてくれなかった、親切にしてくれなかった、ほめてくれなかった、ねぎらってくれなかったと、人がしてくれなかったことだけを数え上げて生きている人がある。愚痴ばかりこぼして生きているのである。  あなたの生き方はどうか、人に会ったら、自分のほうから先に言葉をかけるか、挨拶《あいさつ》をするか、慰めて上げるか、励まして上げるか、感謝して上げるか。  いつも、何もしてくれないと考えるか。いつも何かして上げたいと考えるか。結婚生活の幸せは、こうした生きる姿勢|如何《いかん》によって大きく変わることを申し上げて、わたくしのささやかな提言としたい。      (マリッジだより 昭和五十一年十月一日) [#改ページ]  幸福な家族  幸福な家族とは何か。  わたしたちは、ものわかりのよさそうな夫と、にこやかに微笑する妻が、愛らしい幼な子の手をひいて、歩いている姿を見て、 「ああ、幸せそうだ」  と思うことだろう。人はそのような受け取り方をする。  わたしの知人に、毎朝、大きな犬を散歩させる仲のよさそうな夫婦がいた。御主人はいかにも実直で、優しそうに見え、奥さんはいとも聡明《そうめい》に見えた。センスのよいブラウスとワイシャツのペアスタイルが、一層二人を幸せそうに見せた。  が、ある日、その御主人は家を出た。いわゆる蒸発なのである。一見幸せそうに見えたあの二人に、既にそのような不幸の種が蒔《ま》かれ、芽生えていたのであろうか。どのようにして、あの二人に不幸な種が蒔かれたのであろう。 「幸せそうに見える」ということと「幸せである」ということは別なのであろうか。わたしは考えこまざるを得なかった。が、その奥さんは言った。 「わたしは幸せだったのよ。彼がいなくなるまで。彼もいつも幸せだといっていたのよ」  それなのに、御主人には既に若い愛人がい、その若い愛人と共に逃げたのだった。  また、わたしはこんな例も知っている。その親子は仲がよかった。夫婦とも頭がよく、息子と娘も成績がよかった。特にその息子は、小、中、高とトップクラスで、夫婦の自慢の種だった。四人はよく語り合い、且つよく笑った。誰《だれ》の目にも、幸せな家族だった。そして恐らく、彼ら自身も自分たちを幸せな家族だと自認していたにちがいない。  が、ある夏の朝だった。いくら経《た》っても起きてこない息子の部屋に、母親が起こしに行った。 「あまり朝寝坊をすると目がとけて流れるわよ」  ドアを開けながら、そういった母親は、凝然と立ちすくんだ。ゆうべ遅くまで自分たちと話していた息子が、首を吊《つ》って死んでいたのである。  わたしは、この話を聞いた時の言いようもない衝撃を忘れることができない。あれ以上に幸せな家族はないと思われた家庭に、突如おそったこの事件を何と考えてよいのだろうか。  このあと、わたしは「甘い生活」という外国映画を見た。その中でも、これに似た事件が描かれていた。美しい妻と、愛らしい子供のいる幸せそうな友人の家に招かれた主人公は、その幸福を羨《うらや》んで帰る。ところが、その後間もなく、その幸福そうな友人がピストル自殺をしたと知るのである。 「幸福な家族」と言い得る存在は、この世にいないのではないか。それ以来、わたしはこう思うようになった。わたしと三浦も、多分この世では仲のよい方に属する夫婦であろう。二人で日曜毎に教会に行き、共に聖書を読み、共に祈る。朝から晩迄、同じ部屋にいて、飽きることも飽きられることもない。自分たちは幸せだと思ってくらしている。確かに「幸福な家族」であるかも知れない。  しかし、わたしは、それでもなお自分たちは「幸福な家族である」と胸を張って言い得るかどうかと懸念《けねん》する。 「少なくとも今は幸福です」  とは言い得ても、 「明日も明後日も、いついつ迄も幸福です」  とは言えないような気がする。  人間というものは、そのような危険性や、問題性をたぶんにはらみつつ日々生きているのではないだろうか。  前記の犬をつれた仲のよい夫婦も、夫が他の女と逃げてはじめて、その内面にあった問題が外に出たのである。その日まで、その妻は幸せだった。夫は他の女を愛しながら、苦しんでいたのかも知れない。もちろんその苦しみをつゆ程も知らなかった妻に責任があるとは言えない。しかし、まさしく、夫は早くからサタンのとりことなっていた事だけは事実なのだ。いつ、わたしたちの夫が、妻が、こんな形で離れて行かないと断言できるだろう。  息子や娘にしてもそうである。喜びの源であった息子や娘が、いつ悲しみの種となるかはかり知れないのだ。ある日突如として、盗みをするか、横領をするか、交通事故で死ぬか、どこの誰とも知らぬ男の子を産むか、わからないのだ。  人間は変わりやすく、弱く、愚かで、堕《お》ち易い面を持っている。だからわたしたちが、もし、自分の家族や周囲に起こる出来事にふり廻されて生きる限り、 「あの子のことが解決しなければ」 「夫が、もとの夫に返らぬ限りは」  という風に、なかなか幸福にはなり得ないのである。いつも[#「いつも」に傍点]、いつ迄も幸福な家族[#「いつ迄も幸福な家族」に傍点]というのはあり得ない。わたしたち人間は自分たちが、常に危機にさらされ易い一人一人であることを知って、謙遜《けんそん》に神に頼まなければならないのではないだろうか。そして、家族に問題が起きるたびに、振りまわされる生き方ではなく、主の前に、静かに頼む、神と直結した生き方を与えられなければならないのではないか。くり返すがわたしは今は幸せである。しかし、 「今日は幸せだ。しかし明日はわからない」  という謙遜さが、必要ではないかと、わたしはわたしに言い聞かせている。そして、決して変わることなき神の愛をこそ、信じてゆかねばならぬと思っている。  一見、不幸そうな人々もまた、 「今日は不幸だ。しかし明日は幸せになるかも知れない」  という望みを以て、不幸な事情の好転に望みを置きつつ、神のみが変わり給うことなき愛の力であることを、堅く信じていってはいかがであろう。      (家庭団コーターリー) [#改ページ]   生き続けるということ [#改ページ]  どう生きるか  この間、高校生数名と食事をした。 「三無主義って言われていたけど、今は四無主義なんです。無気力、無責任、無関心、無感動の四無ね」  一人が言った。わたしはたずねた。 「まあ、どうしてそんなになったのかしら」 「多分、行く先が決まってるからでしょう」  他の一人が答えた。つまり、自分の進学した高校で、大体行くべき道が決まる。そして将来の社会的地位もわかるということであるらしかった。  わたしと話し合っていた学生たちの中には、幸い四無主義に陥っている人はいないようであった。が、もしこれが、若い人たち一般の視点だとしたら、大変暗い問題だと思った。おそらく来年あたりは、これに無軌道か無道徳が加わって五無主義となり、その翌年は六無主義になって行くのではないか。わたしはそう思って暗然とした。  現代の若い人たちは、中学に入るや否や、教師から親から、どの高校に進学せよとか、するなとか、介入(指導のつもりかも知れないが)されて混乱する。そして、塾だ、補習だと試験勉強に追い立てられる。高校時代も同じだ。どの大学に行くか、何の仕事につくか、これが彼らの悩みの種になる。時には友だちを敵のようにして競《せ》り合う。どうにか希望の大学に入り、進むべき自分の将来がわかっても「ま、大したことがない」と虚《むな》しくなる。  大宅歩は、「学生運動は虚無のあらわれであり、大人たちはそれを知らない」といって死んだ。確かに、そうした声の出てくる状況に、いまの若い人たちはおかれているのであろう。  なんにせよ、むなしいということは悲しいことだ。そこには喜びも希望もない。わたしもかつて、深い虚無に陥ったことがあった。それは、敗戦によって、自分の信じていたものが根底から覆されたからであった。それまで、若い情熱を注いで打ちこんできたことが、全く誤りであったと知らされたからであった。  あの希望のない暗い日々を思い出すと、四無主義に陥っている若い人たちの話は、とても他人事とは思われない。  ところで、わたしは思うのだが、わたしの陥った虚無と、行く先が決まったために陥った現代の虚無とは、どこかが少しちがうような気がするのだ。わたしが悩んだのは、 「どのように生きたらいいのか」であって、 「何になるか」ということではなかった。 「どのように生きるべきか」と、 「何になるか」は悩みの次元がちがう。  人間は、「何になるか」を考える前に、まず「どのように生きるべきか」を考えるべきではないだろうか。生きるということは、そういうことだと、私は思う。  だが、親も教師も、子供の学力は問題にし、将来性を問題にするが、生き方のほうはあまり問題にしない。 「お前は数学ができるからあの会社がいい」「お前は国語ができないから、その職にはなれない」などと言って、生き方についての指導は軽視されているかに見える。  少なくとも、人間たる者は、医者になるとか、政治家になるという目標よりも、どんな生き方の医者になりたいか、どんな生き方の政治家になりたいかを問題にすべきではないのだろうか。もし、そのように親や教師と話し合っていれば、 「どうせ課長どまりだ」とか、 「未来はどっちみち灰色」などという、絶望的な生き方にはならないのではないだろうか。  わたしの友人は、先日教会で言っていた。「ぼくが税務署にいた時、皆が次々と第一組合から、第二組合に変わって行った。遂にはぼく一人が残った。これでは到底出世は望めない。が、節は曲げたくない。その自分を支えてくれたのは妻である。妻はぼくに偉くならなくても、首を切られても、節を曲げるよりはいいでしょう、と励ましてくれた。おかげで節を曲げずにすんだ」  これが、人間としての真の生き方だとわたしは思う。 「何になるか」はパンの問題である(使命の問題であることもあるが)。 「どう生きたいか。どんな人間になりたいか」は魂の問題である。それは人間の尊厳の問題であり、真の意味の自由の問題である。むろん、パンの問題も大事だが、人間それだけで生きるものではない。  とにかくお互いが「何になりたいか」よりも先に「どう生きたいか、どんな人間になりたいか」を問題にするなら、大人も若い人も、共に、もっともっとちがった人生が展開するのではないだろうか。  伊藤整氏であったか、 「たとえ、信仰は持っても持たなくても、青年は教会に行くべきだ」と書いておられたと記憶する。氏はきっと、教会という、人生について深くまじめに話し合いのできる場が、特に青年時代に必要だと言いたかったのであろう。      (東京新聞 昭和四十九年十二月十三日) [#改ページ]  生き残るということ  青森|埠頭《ふとう》に飛びかかるように波がしぶきを上げ、その波におし上げられるように低く飛んでいる二羽のかもめを、わたしは船室の窓から眺《なが》めていた。  青森の街が次第に遠ざかる。倉庫の立ち並ぶ岸壁に、グリーンの三角の旗が、パタパタと音が聞こえるかと思うほど激しく風にはためき、湾は白く三角に波立っている。  わたしはふと、洞爺《とうや》丸台風のことを思い出した。「氷点」には、洞爺丸遭難の場面が出てくるが、わたしはその取材のため夜の連絡船内甲板に立って、まっくらい巨大な海を見つづけたことがあった。  そして、この海に千何百の人が、一人一人恐怖と絶望の中に沈んで行ったことを思いやらずにはいられなかった。翌朝、わたしは洞爺丸で遭難し、九死に一生を得た人に会って話を聞いた。  その人は某大学の絵の教授だった。羽織、はかまをはいた、体格のよいその教授が、わたしの前に現われた時、わたしは思わずハッとした。教授の姿に、わたしは言いようのない悲しみが漂っているのを感じたからだ。  九死に一生とも言うべき、奇蹟《きせき》的な生還は人を自信に満ちた人間につくり変えるのではないかと、わたしは浅はかにも想像していた。教授は、 「あまり、思い出したくないのです」  とおっしゃった。教授はゼミナールの学生たち何人かと、本州に渡ろうとして洞爺丸に乗り、あの台風に遭い、学生たちが全部死んで、結局ご自分だけが助かったのである。 「貴重な体験だったと人は言いますがね、いくら命が助かったところで、あんな体験はしないほうがよかったのです」  教授は寂しそうに述懐された。  愛する若い学生たちを失った教授の悲しみが、わたしにもよくわかった。その思い出したくない遭難の模様を、冷酷にもわたしは聞き得る限り聞いたのである。画家らしい的確な描写で、氏はその模様をかなり詳しく語って下さった。  函館山の麓《ふもと》にある、山小屋のような喫茶店で語る教授の顔は、孤独だった。生き残るということの辛《つら》さ、生きていることの哀《かな》しさをわたしはこの時ほど身にしみて思ったことはない。  それ以来、わたしは、津軽海峡を渡る毎に教授を思い、洞爺丸事件を偲《しの》ばずにはいられない。  この教授と同様、同行の中で自分一人だけ助かった人々の、その後の人生はいかがであろう。特にあの帯広と札幌の外人宣教師に、救命袋をゆずられて助かった若い人たちは、どんな思いで生きているだろう。たしか、一人はクリスチャンになり、YMCAでよい働きをしていると聞いたが、一人の人の命と引きかえに助かった辛さは、言いようもないものであろう。  わたしは、そんな事を止めどもなく考えながら、ふっと立ち止まるような思いであった。あの大東亜戦争で死んだ人たちのことを思ったのだ。わたしの兄も大尉で死んだ。いわば、わたしは戦争の生き残りなのだ。数知れぬ尊い犠牲の上に、わたしたちの生活は営まれているのだ。  けれども、尊い命と引きかえに与えられた命とは思わず、当然のように顔を上げて生きているのだ。わたしは、深いかげりを持った教授の痛みを、今更のように尊く思い返した。  船は既に海峡に出ていた。見渡す限りの大海原の彼方《かなた》に、弧をえがいた水平線があった。その水平線に、白い船影がぽつりと見えた。わたしはその時、遮《さえぎ》るものの何一つない、見渡す限りの大海原とは言っても、人間の視得《みう》る視界は、せいぜい一〇キロどまりであろうかと、気落ちしたような思いだった。あの船影が肉眼で捉《とら》え得るところ、即ち水平線だということは、水平線が弧をえがいているということと共に、わたしにとって新たな発見だった。  戦いで死んで行った人への思いやりも、船で死んで行った人への嘆きも、決して限りないものではないのだと、わたしは弧をえがく水平線をみつめながら思った。 〈要するに、自分が生きているという事は生き残っているという事なのだ〉  わたしは、そんなことを思いながら、風の激しいデッキを、よろけるように歩いて行った。  船尾の上、低く、かもめが二つ強風にあおられながら、漂うように、いつまでもいつまでもついてきた。  この旅を終えて旭川に帰ると、画家の杉本さんの奥さんが逝《な》くなったという報《しら》せが待っていた。杉本明子さんは、わたしが啓明に勤めていた時、六年生だった。純粋な美しい人だった。わたしはまたしても、生き残っている、と思わずにはいられなかった。      (月刊旭川春秋 昭和四十四年八月号) [#改ページ]  「生き甲斐」寸感   失うことなき生き甲斐は信仰だ  明日わたしは、あるシンポジウムで、老人の生き甲斐《がい》について語り合う。どんな意見が出るか、わからないが、わたし自身は「老人の生き甲斐」という言葉に少々抵抗を感じている。  この会のために、あらかじめ意見を送ってあるが、今、わたしはこの問題について、更にわたしなりに深めてみたいと思う。 「老人の生き甲斐」と「若い人の生き甲斐」とは、果たしてちがうものだろうか。わたしはこのことに疑問を持っているのだ。  人はいうかも知れない。老人には老人の生き甲斐があり、若い人には若い人の生き甲斐があって然《しか》るべきだと。  そうだろうか。わたしには、わからないのだ。老人と若い人の根本的な相違がわからないのだ。  たしかに、老人と若い人の間には、表面的な差はある。  老人は体力が失われ、仕事から退き、やがて来る老衰、老人病、そして死への不安が、老人にはある。一方、若い人には、溢《あふ》れるような活力と、さまざまな可能性に満ちた未来がある。仕事があり、経済力も増す一方である。  が、これは、根本的な差ではない。言ってみれば、若い人の持っている体力、経済力、未来の可能性というものは、いつ失われるかわからぬ不安定なものなのだ。  わたし自身、朝夕一人で四十人分の食事の支度をしながら、ひるは小学校に勤務して生徒を教えていた程に健康で且つ体力に恵まれていた時があった。小学校の教師という職業は、旭川では女性として高給の職業であった。わたしには婚約者がい、未来があった。  が、ある日突然わたしは高熱で倒れた。肺結核の発病であった。ストマイもパスも無い時代である。結核療養所の友人たちは、次々に死んで行った。わたしは、経済力を失い、医療保護に頼った。無論、四十人の食事の支度をしながら学校に通った体力はどこへやら、トイレに通うことも困難となった。  何年か病みつづけ、更にカリエスを併発、わたしはまる七年ギプスベッドに呻吟《しんぎん》する身となった。便器をつかっての生活がつづいた。立つこともできなかった。こうして前後まる十三年の療養生活を送った。  わたしが癒《いや》されたのは、三十七歳の時である。あの療養中のわたしの姿を、わたしは決して忘れない。  体力も気力も失い、社会から取り残され、いつ癒されるという望みのない、いわば死を待つ患者たちの群れの中にわたしはいたのだ。  あの多くの患者たちの持つ問題と、老人たちの持つ問題と、一体どれほどちがったものがあるだろう。もしちがうとすれば、それは年齢が若いということだけである。若いだけに、次々と死んで行く療友を眺《なが》めつつ、次は自分の番かも知れぬというおののきは、むしろ激しく強かったのではないだろうか。  若い人と老人とは、根本的には何の差もないと、敢《あえ》てわたしは言いきりたい。人間は、老いてはじめて、体力気力のおとろえを感じたり、経済的に無力を嘆くものとは限らないのだ。  こう考えてくると、わたしは「老人の生き甲斐」という限定した言い方に、いささか賛成しかねるものを感ずるのである。  若人の生き甲斐が、壮年になっては、別の生き甲斐に変わり、また壮年時代の生き甲斐が年老いては通用しないものになるのでは、少しおかしいと思うのだ。  今までの自分の生き甲斐と信じていたものを捨てて、他の生き甲斐を求めねばならぬとしたら、人は一生に幾度も「生き甲斐」を失うことになるのではないか。  もし、そのように、年代が移るに従って生き甲斐を変えねばならぬものだとしたら、それは真の生き甲斐といえぬものを、生き甲斐としていたのではないかとわたしは思う。  真の生き甲斐とは、健康の時も、健康を失った時も、仕事を持っている時も、失った時も、若い時も、年老いた時も、不変のものであらねばならぬのではないか。  わたしたちは、自分の生き甲斐は何かを、時々立ち止まって検討する必要がある。夫が生き甲斐、子供が生き甲斐、仕事が生き甲斐であるとしたら、それを失った時、人は生き甲斐を失ってしまう。  失うことなき生き甲斐は必ずある。わたしはそれを断言できる。わたしは健康を失い、職を失い、恋人を失った病床の中にあって、その生き甲斐だけは失わなかったのだから。それは何か。それは、わたしにとっては神の愛であり、信仰であった。      (禅の友 昭和四十八年三月) [#改ページ]  情熱の空費はむなしい  わたしは情熱家だとよくいわれたものだ。自分ではさほど情熱的だと自覚したことはないが、今もって、女学校時代の友から「あなたは学年一情熱家だったわ」  といわれる。いわれてみれば、あれもその現われであったかと思うことが幾つかある。  他の土地ではどうか知らないが、わたしの育った旭川《あさひかわ》では、八月の旧盆には盆踊りがある。夕食を終わったころ、あちこちの踊り場から、盆踊りの太鼓の音が聞こえてきたものだ。その音を聞くと、わたしは姉とつれ立って、見に行かずにはいられなかった。踊りが好きなせいもある。が、そればかりでもない。  当時の盆踊りといえば、ぴかぴか光る赤や黄や青の豆電気の点滅する前掛けをしめたり、女装をしたり、ちょんまげ姿をしたり、衣裳《いしよう》にもさまざまな趣向をこらした。そんな中で、ありふれた紺の浴衣《ゆかた》を着た一人の青年がいた。柔和《にゆうわ》な、上品な感じの青年で、踊りに他の男のような粗雑さがなかった。 (踊りの師匠かしら)と思わせる踊りだった。その青年を見たくて、わたしは姉と二人で毎晩見に行ったのだ。多分、盆踊りは十晩ほどつづいたと思う。そんなある夜、わたしのそばにいた赤子を抱いた女性が、その青年を見て、「あら、福田さん」といった。その青年は、赤ちゃんをやさしく抱き、二言、三言、言葉をかわしたが、また踊りの輪の中に入って行った。わたしはそこで、青年が福田という姓であることを知った。いつものように踊りの輪が散る時、わたしは青年が、北のほうに帰って行くのを見た。  盆踊りの季節は終わった。が、わたしはそれから毎日、旭川市の北部を丹念《たんねん》に、一軒一軒福田という家を探して歩いた。別段、あの青年と話をしようとか、つき合おうという気持ちからではない。ただ、あの好ましい青年がどこに住んでいるかを突きとめれば、それでよかったのである。  晴れた日も、雨の日も、風の日もわたしは一軒一軒表札をのぞいて歩いた。福田という家は、それほどたくさんはなかった。あっても、それがかの青年の家かどうか、わかるわけもない。が、その福田という家を何軒も見つけ出し、ある一軒の福田という家を、この家こそあの人の家だと決めてしまった。それは、石狩川の堤防下にある、ひっそりとした二階建ての家だった。わたしはその家を彼の家だと決め、それを確かめるため、実に毎日のようにそのあたりをうろうろしたのである。そして、ある日曜の午後、わたしは遂に、その家からかの青年が出てきたのを確かめたのである。その時の喜びは、何にたとえようもなかった。深い満足感であった。広い市内の中から、福田という家を何軒も探し出し、その一軒をここだと狙《ねら》い定めたのだ。それが、あまりにも見事に的中したのだ。  その家を確かめたあとは、わたしは二度とそのあたりをうろつくことはなかった。確かめることだけが、わたしの目的だったのだから。  今、この女学校時代の自分の姿を思う時、なるほど、わたしは大変な情熱家だったとも思う。が、何とその情熱を、むだなことに注いだものか、とも思う。  わたしのこの行動は、青春時代、誰《だれ》もが一度は通る、無意味な行動ではないだろうか。情熱は尊い。ひたすらな姿は美しい。唯《ただ》一つの目的に対して、何の計算も打算もなく、まっしぐらであることはすばらしい。  しかし、わたしたちは往々にして、その尊いエネルギーを、何に注ぐべきかを知らずに動きまわることがある。情熱が空転することがある。  ある人は、学生運動に、ある人は、恋することに、ある人は学ぶことに、ある人は怠けることに、ある人は虚無的になることに、そしてある人は、死に対してさえ情熱的になることがあるのだ。それは、時にはあまりにも痛ましい青春の姿だと、わたしは思う。  自分の生きる目的がわかっていると、このひたすらな情熱が、何に注がれるべきかを知ることができるのだ。情熱が生かされるには、正しい目的がわかるということが先決になる。でなければ、殺人や復讐《ふくしゆう》にさえ情熱を抱くことができるのだ。  とにかく、あなたがたの情熱を、わたしが福田という家を探しまわったような、愚かなことに費やしていただきたくないと、切にねがうのである。わたしたちの人生は、二度とくり返すことのできない尊いものだからである。      (高一コース 昭和五十年六月号) [#改ページ]  愛は絶望しない  夜も九時を過ぎてから、玄関のブザーが鳴った。訪問客のある時間ではない。速達かと、三浦が玄関のドアを開けた。 「サインをしてほしいそうだ」  三浦がわたしに告げた。家に招《しよう》じ入れると、少し気の弱そうな青年がおずおずと入って来た。様子から見て、サインがほしいだけで訪ねてきたとは思われない。 人を信じることを忘れた青年の涙[#「人を信じることを忘れた青年の涙」はゴシック体]   事情がありそうなので話を聞いた。もの心ついてから、ほとんど親きょうだいと話をしたことがないと、関西から来たというその青年はいった。家族とは食事も共にしたことがないという。人と話をするのが嫌《いや》で、宿にも泊まらぬ。昨夜は宿をとりたくないばかりに、夜行で稚内《わつかない》に行ってきたと彼はいった。父も母もきょうだいも嫌《きら》い、人を信用できないという彼に、 「では、どうしてわたしの家に訪ねてきたの」 「それは、ぼく、先生の本を読んでいるから、どんな人かわかる。家の人よりよくわかる」  わたしはおどろいて青年を見た。  おそらく、この青年は、読書以外に何の楽しみもないにちがいない。人が嫌い、人は信じられないと思いつづけて、親きょうだいにも口をきかないというその生活の深層を思うと、わたしはつくづく人間とは悲しいものだと思った。  話を終えて、帰るという青年の顔をわたしはじっとみつめた。みつめているうちに、思わず涙がこぼれた。  青年はおどろき、 「どうしたんですか。こんなこと初めてや」  と、戸惑った表情になった。今夜は駅に泊まると聞いて、三浦は、 「家に泊まりなさい」  といった。彼は帰るという。が、九月とはいえ、旭川《あさひかわ》の夜は冷たい。三浦が強《し》いて泊まるようすすめると、ふいに彼は顔を覆って号泣した。その夜、彼はわが家で入浴し、そして寝た。 今の世こそ望みに満ちねば……[#「今の世こそ望みに満ちねば……」はゴシック体]   この青年を見ながら、わたしはその一か月前に訪ねてきた学生を思い出した。彼はその姉に連れられて、わが家に来た。  姉だけが話をし、彼は一言も口をきかない。唖《おし》かと思った。彼はいわゆる一流大学に、何の勉強もせずに楽々と入学できたほどの秀才だったが、父親の自殺にあって、言葉を失ってしまったのである。  何の返事もしない彼に、わたしは心が痛んだ。父親の死が、彼にとってどんなに大きなショックであったかは、想像もつかない。  が、わたしはその学生に、普通の人に対するように、次々と話しかけた。口はきかなくても、耳は聞こえるのだ。相手が口をきかないからといって、対話を諦《あきら》めてはならぬと思った。一時間も経《た》ったころ、彼はうなずいてわたしの話を聞くようになっていた。  この学生と、青年は共に頭もよい。目も澄んでいる。しかし、人間社会からは脱落してしまっている。こんな若者が、いま増えているということだが、わたしは、この世のいかなる人間をも、わたしたちは決して諦めたり、捨てたり、投げ出したりしてはならないと、改めて思った。  彼らが、いかなる態度をとろうとも、いかなる困り者であろうとも、いや、そうであればこそ、積極的にかかわらねばならないのではないか。  愛は絶望しないことであるとも聖書には書いてある。わが子の病いがいかに篤《あつ》くとも、母親だけは決して望みを捨てないという。今の世は、もっとそうした望みに満ちねばならない時ではないであろうか。      (女性自身 昭和四十八年十月二十七日) [#改ページ]  鋭く反省する必要  結婚して何か月後であったろう。ある日わたしは、男友だちに街でばったり会った。 「君、幸せ?」  彼はわたしの顔をみるなりいった。 「ええ、幸せよ、とっても」  とわたしは答えたが、その時何となく、「幸せ」という言葉が、ひどくあいまいに使われているような気がしてならなかった。  考えてみると、幸福という言葉は確かにあいまいに使われているような気がする。それはなぜか。幸福の実体を捉《とら》えていないからではないか。幸福とは何か、と尋ねられて、人はどう答えることができるだろう。土に映る木の影は、この手にしっかりと捉えることはできない。そんな、影に似た感じで、人はあいまいに幸福を語っているのではないか。  いったい、幸福とは何なのか。幸福になるためには、これに明確な答えを持たねばならない。  大方の人は、幸福になるためには、健康でなければならぬと思い、地位を高めなければならないと願い、財産を蓄えなければならないと欲する。それらは、生きていく上において、確かに必要ではあっても、それさえあれば必ず幸福になるというものでは決してない。  世には、健康に恵まれ、容貌《ようぼう》が人にすぐれ、社会的地位が高く、且つたくさんの金を持ちながら不幸に泣いている人も珍しくない。第一、健康も地位も富も、いつ失うか計り知れないものなのだ。思いもよらぬ事態が突発するのが人生である。  とすれば、健康であってもなくても、地位が低くても高くても、金があってもなくても、揺るがぬ幸福をつかんで生きている人が、真に幸福であるということになる。いかなる事態にあっても、喜びと希望に満ちた人生、それこそが真の幸福ではあるまいか。そうした幸福をこそ、わたしたちは求めるべきではないか。人はあるいはいうかも知れない。 「それは単なる理想に過ぎぬ」  と。しかし、決して単なる理想ではない。現に、生まれて何十年、一歩も歩いたことのない体で喜びに満ちている人もあれば、常に無一文で病者や障害者のために命を捧《ささ》げている人もあるのだ。わたしたちは、平生幸福を勘ちがいし、あいまいに、不確かに捉えていることに、鋭く反省をしてみる必要がある。  ここでわたしは、キリストの幸福観をあえて引用したい。キリストは、 「幸いなるかな、心の貧しき者」からはじまって、「悲しむ者」「柔和なる者」「正義に飢えかわく者」「あわれみある者」「心の清い者」「平和をつくり出す者」「正義のために責められる者」を幸福な者といっている(マタイによる福音書五章三節以下)。  わたしたちの幸福観とは、あまりにも異なる幸福観であるが、なぜこれらが幸福であるのか、その一つ一つにキリストは答えておられる。新約聖書を開いて、それらを確かめられるなら、それこそ幸いであると思う。      (北海道新聞 昭和五十年一月三日) [#改ページ]  学歴は問題ではない 人それぞれの道[#「人それぞれの道」はゴシック体]   高校生の多くは、当然のように進学を話題にする。いまはそういう時代なのであろう。誰《だれ》もが大学に行く。そんな中にあって、家庭の事情で大学に行けない人たちは、どんな思いでその友人たちの話を聞くことだろう。  そして春四月、友人は大学に、自分は実社会へと巣立って行く。その時、どんな思いが、実社会へ進む人たちの胸を占めることであろう。  もし大学を出ないということでコンプレックスを持っているとしたら、無理もないとは思いながらも、私はやはりその人たちに問いたいのだ。いや、その人たちだけではない、進学した人たちにも問いたいのだ。 「何のために大学へ行くのか」と。  本当の話、大学に勉強のために行く人は、そう多くはないと思う。 「大学を出た」  と、いいたいために大学を出る人が、実は多いのではないか。学歴偏重の社会では、大学を出たか否かということで、残念ながらその後の人生街道に、大きな差異をもたらすこともあるからだ。  私の育った時代は、男子でも大学に行く人はそう多くはなかった。女子では学年から只《ただ》の一人も進学する者はなかった。薬専とか、和洋裁の専門学校に進んだ人は、二、三いた。そうした時代ではあったが、私も確かに進学の願いを持っていた。出来ることなら、私は高等師範学校に進みたかった。その時、私の親しい友人は、札幌の「専攻科」と呼ぶ教員養成所に進学した。二年間学ぶと、正教員の免許を取ることができたのである。  その入学の報《し》らせを聞いた時、私は炭礦《たんこう》街の小学校教師として赴任する話が決まっていた。私はその時彼女にいった。 「あなたは上の学校で、頑張《がんば》って勉強してね。わたしはあなたが学校で勉強している間に、実地で教師業を勉強するから」  今思い出しても、あの時のさわやかな気持ちは吾ながら心地がよい。私は、人それぞれに自分に与えられた道があると思っている。この世には、大学へ行く人も、行かない人もあっていい。行く実力がありながら、家庭の事情で行けなければ、それもいい。単純にそう思う。というのは、私は大学だけが学ぶ所だとは、思っていないからである。  私は、自分の人生が即《すなわ》ち、自分の学校だと思っている。が、ある青年がいった。 「そんなこといってもねえ。大学を出なけりゃ、出世ができないんですよ。どんなに実力があってもねえ」  出世って、一体なんだろう。課長になり、部長になり、重役になることが、それほど私たちの人生に重要なのだろうか。大学を出たとしても、みんなが部長になり、社長になるわけではない。マンモス大学が幾つもできて、年々何十万の人が大学を出るのに、その人たちが皆、部長になったり、社長になったりするわけがないのではないか。大学を出ても、いわゆる出世コースから外《はず》れる人がいくらでもある。  それよりも、快く働くことのできる仕事を探したほうが、いいのではないか。洋裁の好きな人は、職業訓練所で技術を身につければいいし、美容の好きな人は、勤めながらでもその資格を取ることができる筈《はず》だ。  私は女学校しか出なかった。女学校というのは、小学六年を卒業し、そのあと四年学ぶだけだから、今の中学三年を卒業した人たちより、一年間多く学んだに過ぎない。だが私は、独学で教師の免許状を取ったし、師範学校出の教師より、それほど劣った教師だったとは思っていない。傲慢《ごうまん》ないい方のようだが、生徒の実力が、それを物語ってくれた。  私が女学校を卒業する時、藤界雄《ふじくにお》という歴史の先生がこういわれた。 「学校を卒業したということは、どういうことか。それは独学できるということである」  私はこの言葉を忘れない。実に名言である。高校を出れば、十分独学できるのである。 もう一つの履歴書[#「もう一つの履歴書」はゴシック体]   私の夫三浦は、小学校高等科二年を卒業しただけだ。父親が早く死に、母親とも別れて、親戚《しんせき》の家に預けられて育ち、しかも北海道の山奥にいたため、進学の機会が与えられなかった。だが彼は、忍耐と意志を要する簿記の一級に合格しているし、その上、四十代になってから英語を独学している。ABCから学んで、十年余、未《いま》だに毎日その勉強を休んだことはない。独学はできるのである。只問題は、やる気があるか、どうかというだけだ。  大学を出ても、マージャンをするか、寝ころんでテレビを見るだけの毎日なら、何も大学を出ることはないのだ。  私は小学校教師を七年間続け、十三年間療養した。療養中、白雲荘という北海道立療養所に入所したが、私たち患者は、「白雲荘大学」と呼んでいた。結核という長い病気は、金と時間を使い、しかも、治ることの極めて困難な当時にあっては、絶望的な病気であった。それはいまの癌《がん》にも似た難病であった。  にもかかわらず、その療養所を「大学」と呼んだ、あの療養所の若々しい空気を忘れることができない。勉学途中の大学生や、高校生、中学生もたくさんいた。だが、みんなそれぞれに学んでいたような気がする。全生活をかけて学んでいたような気がする。 「生きるとは何か」 「死とは何か」 「罪とは何か」 「幸福とは何か」 「愛とは何か」  私たちは朝から晩まで、そんなことを話し合っていた。そうした療養中に、人々は恋愛もした(当時はプラトニック・ラブが多かった)。なおるかなおらないかわからない病気を抱えながら、人を愛することは、悲しくもまたすばらしいことであった。なぜならその恋愛はいつも、お互いの生死にかかわっていたからである。  私自身も恋愛をしたが、その頃私はこういい切っていた。 「結核も恋愛も、履歴書に書き記すべきだわ」と。  つまり私にとって、病むことも恋愛をすることも、一つの学校を出たよりも、もっと充実した、重みのある厳粛な事実であったのだ。そしてこの思いは、いまも変わらない。  人生には、学ぶべき教材が、ごろごろところがっている。学校を出ていないということもまた、一つの教材である。貧しいことも、体の弱いことも、失敗も失恋も、人との不和も、そしてまた、順境も逆境も、学ぼうと思えば、すべてが教材なのである。朝起きた瞬間、私たちは、人生の教科書がまた一枚めくられたと思えばよい。  学歴の有無《うむ》が問題になるのは一体なぜか。それは、きびしくいえば、自分自身の生き方が確立されていないからである。他の人々と同じでなければ落ちつかないとか、人に軽蔑《けいべつ》されはしないかとか、肩身が狭いとか、社会が受け入れてくれないとか、などと考えることは、つまり自分の生き方に確信がないからである。大学を幾つ出ても、 「人間|如何《いか》に生きるべきか」 「生きる目的は何か」  が、わかっていなければ、その知識は何の役にも立たない。どころか、社会に害悪さえもたらす。  大学を出ようと出まいと、さあ胸を張ろうではないか。  そして、「私はこう生きて来ました。私の生き方を見てください」  といえる生き方を、きょうからしようではないか。本当の話、私は、十八歳を過ぎた人間が、親のすねをかじって勉強する姿は好きではない。大学に進む人間も、一応は自分で働いた金で学ぶべきだと思っている。とにかく、経済的にも自分の足で歩き始めた就職組よ、誇り高く、確信を持って生きてほしい。      (モンブラン 昭和五十二年四月) [#改ページ]  自分の人生を投げ出す勿《なか》れ  先年亡くなられた関西の実業家、近江岸弁之助氏の伝記を読んだ。彼はウラジオストックに渡って、明治の時代に巨富を手にした人である。後に、日本に帰ってキリスト者となったが、その若い頃に、次のようなエピソードがあった。  人間には浮き沈みがあるものだ。これはちょうど、彼がその沈みの中にあった時の話だが、日露戦争のあおりを受けて、彼の勤めていたハバロフスクの店がどん底に陥った時のことである。といっても大店のことだ。彼は三百円の小遣いを渡され、金策のために帰国を命ぜられて、大阪に帰った。その彼を追って、 「バンジキュウス、ミセニモドレ」  の電報がきた。ハバロフスクの店は破産したのである。  翌朝、彼は尼崎の家で朝刊を見ていたが、不意に「競馬」の二字が彼の目を射た。噂《うわさ》には聞いていたが、競馬なるものはまだ一度も見たことがない。彼は小遣いにと渡されたうちの二百円を手に、競馬場に行った。  競馬場に行くと馬券売場は長蛇《ちようだ》の列。その中に、たった一つだけ、誰《だれ》一人寄りつかない窓口があった。競馬に初めての弁之助にはその理由がわからなかった。人に尋ねると、 「あの窓口の馬券は勝ち目がないんや」  とのこと。弁之助は、その勝ち目のない馬に深い同情を覚えた。自分自身が、今どん底の逆境に立たされていたからである。  彼は持ち金の二百円をそっくり出して、誰一人見向きもしないその馬券を買った。明治時代の二百円といえば大変な金だ。  さて、レースが始まった。馬は一斉《いつせい》にスタートを切った。が、弁之助の買った馬は、かなり遅れて走っている。他の馬たちは、みるみるもつれるように、ぬきつぬかれつ一団となって走って行く。弁之助の馬はますます遅れる。 (なるほど、これじゃ誰も買わんはずだ)  競馬に無知だった彼は、全く勝ち目のない馬に自分が賭《か》けたことにようやく気づいた。もはや最後まで見る必要はなかった。彼はポケットの馬券を破り捨てようとした。と、その時、不意に観覧席が総立ちになった。後|僅《わず》かでゴールという時に、一団の先頭を切っていた一頭が、水たまりで足を取られ、転倒したのだった。つづいて、一頭残らずばたばたと倒れてしまったのである。これにまきこまれなかったのは、弁之助の馬だけであった。その馬がゴールインするや否や、場内は殺気立った。  こうして彼は、二百円の馬券で八千円を懐《ふところ》にしたのである。それは天文学的数字ともいえる巨額の金であった。彼がこの時自分のために買ったのは、一本のステッキだけで、後の全額は母親に渡し、この後再び馬券を買うことはなかったというが、人生にはこのような、人間の知恵を越えた結果が待っていることが意外と多い。誰の目からも絶望とみえる条件の中にあって、逆転することがあるのである。  ここで私は、ある一つの結婚を思い出す。ある女性が結婚した。相手の男性は、社会的な地位もあり、財もあり、健康でもあった。が、突如として、ある夜心臓|麻痺《まひ》で急逝《きゆうせい》したのである。  数年後、彼女は再婚することになった。次の相手は、年のひらきもある上、療養中で、むろん経済的にも無力であった。つまり、彼女が働いて、家庭を支えなければならないことになるわけである。  彼女の周囲はみな、この再婚に反対した。何も病人と結婚することはない。美しい彼女には、他にいくらでも相手はあるはずだというのである。  ところが、只《ただ》一人、この結婚に賛成したのが、彼女の父親であった。彼女の父親はこういった。 「一度目の結婚は、誰がみても、すべての条件がそろっていた。末長く幸せになること疑いなしと思われる結婚であった。それがあんな結果になったではないか。今度の結婚は、人の目には悪いことだらけの結婚に見える。しかし、三十を過ぎた女が決心したことだ。ひとつ、思いどおりに結婚させてみようじゃないか」  こうして彼女は結婚し、今では夫の病気も全快し、誰も想像し得なかったようなよい家庭を築いている。  人生には、若い人も、老人も、病人も、健康な人も、時に大変な困難にあうことがある。 (もう駄目《だめ》だ! 絶望だ!)  と、叫びたくなることがある。が、いかなる場合にも、自分の人生を投げ出してはならない。人生には、どんなことが起こるか、測り知れないのだ。そのことを謙遜《けんそん》に思いつつ、お互い人生を歩みたいものである。聖書にも、 「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」と、書かれてあるのだ。      (月刊ろんだん 昭和五十三年三月号) [#改ページ]   様々な生き方の中で [#改ページ]  一人の生き方の大切さ  小学校の教師を勤めていた頃、私は毎日二キロ半の道をテクテクと歩いて通ったものだ。が、近頃は、毎日の通勤に、二キロ半の道を歩いて通うという人は、ほとんどない。バスか、ハイヤーか、マイカーか、とにかく車を利用する。  考えてみるまでもなく、私たちの毎日の生活は、乗り物に乗ることをぬきにしては成り立たないといってもよいほどだ。この乗り物に、気持ちよく乗るか乗らぬかで、その日一日が左右されることさえある。  今朝のバスの運転手は不親切だったとか、ハイヤーの運転手は、ろくに返事をしなかったという話は、しばしば耳にするところであり、新聞の投書欄にもよく見かけるとおりである。私自身もそんな不愉快な目に幾度か遭ってきた。  だが、私は大変幸いな経験を持っている。あれはもう、八、九年も前のこと、ある週刊誌に「裁きの家」という小説を書くために、札幌に出かけた時だった。  流しのタクシーを拾った私と三浦は、石狩河口に車を向けた。車が目的地に着いた時、私は恐る恐る、 「あのう、このあたりを少しノート取りたいんですが、待っていただけますか?」  といった。それまでの経験によると、 「そんなことなら、すぐ降りて下さい」  と、剣もほろろの答えが返ってくる。待たせることで損はさせないからと頼むのだが、諒承《りようしよう》してもらえない。で、その時も恐る恐るいったのが、 「どうぞどうぞ、ごゆっくり」  という意外な返事であった。安心して、三浦と私は、砂丘を歩いて行った。砂丘には、子供の小さなサンダルや、ジュースの空《あ》き缶《かん》や流木などが散乱していて、それがまた、いかにも石狩の河口らしいされざれとした光景であった。死人の顔色にも似た青い小さな蟹《かに》が渚《なぎさ》をのろのろと這《は》っている様子も、私たちには珍しかった。それらを一つ一つノートに記録しながら、 「運転手さん待っているわね」  と、私はうしろをふり向いた。いくらいい返事はしても、いらいらと待っているにちがいない様子を想像しながら、ふり返って私は驚いた。私たちのすぐ近くに、運転手さんもまた楽しそうにぶらぶらと歩いていたのである。  その時の私たち二人のうれしさといったらなかった。ほっと心が解放される思いであった。そのことを運転手さんにいうと、 「いやあ、お客さんにはお客さんの、いろいろな目的がおありですからね。その目的を達してくだされば、私たちもお役に立ったというものです。たまには私も、こうした景色を眺《なが》めることができて、ありがたいです」  私たちに気を遣わせまいとする、実に見事な挨拶《あいさつ》であった。  その時以来、私たちは札幌に出るたびに、この運転手佐々木幸一さんを指名することにした。佐々木さんの不在の時は、他の運転手さんが廻されてきたが、社風なのか、スズランハイヤーの運転手さんたちは、どの人もみな、親切であった。  というわけで、佐々木さんとは洞爺《とうや》まで、苫小牧《とまこまい》まで、小樽《おたる》までと、長距離によくご一緒してもらった。  ある時、江別のキリスト村に行ってみたいと私は洩《も》らしたことがある。そこは、賀川豊彦と、札幌のニシムラビルの先代、西村久蔵氏が拓《ひら》かれたキリスト者たちの村であった。西村氏に信仰の指導を受けた私は、ぜひ一度、氏の拓かれたその村を自分の目で見たかったのである。  それからしばらく経《た》って、私たちは札幌に出て、キリスト村を訪ねることになった。とその時、佐々木さんはいった。 「キリスト村にお出《い》でになりたいと伺っていたので、公休の日に、下検分に行って来ましたよ」  私たちは、この言葉に、一段と大きな感動を覚えた。わざわざ札幌から、江別の郊外まで、大事な公休の日を利用して、佐々木さんは私の尋ねたかった家を二軒、既に突きとめておいてくれたのである。私たちが感謝すると、 「いや、ぼくもキリスト村を知らなかったものですから。札幌に住んでいて、近郊に知らない所があるのは、不勉強だと思いまして」  と、さりげない語調でいわれるのだった。こうして、スズランハイヤーを知ってからというもの、札幌に出ることも楽しくなった。また佐々木さんも旭川を通る時、立ちよって下さるようになった。帯広の近くの新得《しんとく》のそばなどを土産《みやげ》に持って来て下さったり、今はもう、客と運転手という間より、友情の通った間柄になっている。一人の人間のあり方というものは、実に大きなものである。  現代は、親子兄弟の間でさえ、利害打算に毒されて、歪《ゆが》んだ関係になっていることが多いと聞く。だが、その生き方によっては、見も知らぬ行きずりの人間同士が、親しい友人と変わり得ることも可能なのだ。佐々木さんを思うたびに、私はそう思うのである。      (月刊ろんだん 昭和五十三年四月号) [#改ページ]  泣く者と共に泣く人  六年間勤めてくれた秘書が、この六月に辞めた。彼女の主人が釧路に転勤したためである。彼女は純粋な信仰を持った良い秘書だった。さてその後任は決まったが、秋からでなければ来ることのできない事情にある。では、その間をどうしたらよいか、臨時の人を頼むより仕方がない。  そう思った時、私はすぐに山田米子さんに電話をかけた。山田米子さんの娘さんに来てもらえないかと思ったのだ。私はその娘さんを知らない。が、山田さんの娘ならまちがいがないと思ったのである。  この山田さんとは誰《だれ》か。恐らくこの人の名を記したところで、知っているのは彼女に出会った人たちだけであろう。彼女は私の母の入院の時、附き添いをしてくださった方である。  私の母の生涯《しようがい》には、いろいろな苦労もあったが、幸せもあった。この山田さんに附き添ってもらったことは、母の最後の幸せであったと、私は思っている。  病人を看護《みと》るということは、大変なことだ。私は療養中に、重病人や、臥《ね》たっきりの病人が、家族にさえ飽きられ、その死を待たれている事実を幾度も見た。  ある療友は、ある朝突如自殺をした。家族が経済的負担を常に愚痴っていたからである。また、他にもちょっと書いたことだが、私はある療養所に入っていた頃のことを思い出す。看護婦が二人、安静時間中に、トイレの傍《そば》で話し合っていたのを偶然聞いたのだ。二人はこんなことを言っていた。 「○○さん、早くステッちゃえばいいのに……」 「ステッちゃえば」とは、ドイツ語と日本語のチャンポンで、「死んでしまえば」ということである。この言葉を聞いた時の衝撃を私はいまだに忘れることができない。その○○さんは危篤状態が長くつづいていた。そのために、看護婦たちは疲れていたのかも知れない。しかし、それが病人を看護する者の言葉であることに、私は驚いたのである。  また、私は多くの附き添いさんを見た。親切な附き添いさんもいたが、実に邪慳《じやけん》な人もいた。直接病人の便の始末や食事の世話をする日々の中で、附き添いさんたちはやはり疲労が重なり、病む者への同情を失い勝ちになっていたのであろう。  わが子、わが親、わがきょうだいの看病にさえ、人はいつしか倦《う》んでくる。それはどうしようもない人間の弱さなのだ。私がそうした同情を持つまでには七、八年もの療養生活が必要であった。そうならざるを得ない人間の体力気力の限界を私は肯定し、万一自分が危篤になっても、家人を病床に呼んではもらうまいとさえ、心に定めたものである。  ところが、今年私の母についてくれた山田さんの場合はちがっていた。山田さんが附添婦としてついてくれて幾日もしないうちに、母は意識不明におちいった。そんなある日、私の秘書が母を見舞いに行った。秘書が部屋に入ったことを、山田さんは知ってはいなかった。山田さんのほかに、親族の誰彼《だれかれ》が必ず附き添っていたが、その時は母の傍には山田さんだけがいた。山田さんはその時母の顔を抱いて、こう言っていたという。 「おばあちゃん、今日はもう帰りますからね。また明日来るまで、頑張《がんば》っていてくださいね」  頬《ほお》ずりせんばかりに顔を寄せて、語りかけるその姿に、私の秘書は深く心打たれたと言った。この秘書は、看護婦の仕事を十年経験している。そして、たくさんの附添婦を見てきているのだが、 「山田さんほどの、真心をこめて看病をなさる方は滅多にいませんね」  とも言っていた。  やがて母が死に、山田さんは葬式に出てくれた。そして母のために泣いてくれた。以前からの知り合いでもないのに、葬式に出て下さり涙さえ流して下さったのである。  山田さんのご主人は、教師だった。が、二人の娘さんと山田さんを残して、三年程前に亡くなられた。そのご主人の看病の中で、病人の附添婦になることを山田さんは決意なさったという。重病人のつらさ、その家族のつらさに、山田さんは深い同情を覚えたのである。だから、ボランテヤ精神で、彼女は病人に対していたのであった。  しっかりとした仕事をする人は、確かに少なくはない。しかし、意識のない病人の顔を抱いて、やさしく言葉をかけるような人は、万人に一人もいるだろうか。  この山田さんの娘さんに、臨時の秘書を私はおねがいしたのである。先に妹さんのほうが来、その後にお姉さんが来た。二人共、私の期待以上の娘さんであった。稀《まれ》に見る素直な、そしてやさしい娘さんであった。 「親をみて娘をもらえ」  という言葉があるが、私は必ずしもこの言葉を信用してはいない。が、この山田さん母子に限り、実にぴたりの諺《ことわざ》だと私は思う。  それはさておき、山田さんの生き方は、聖書の言葉、「泣く者と共に泣け」を地で行く生き方であると私は教えられるのである。      (月刊ろんだん 昭和五十三年十月号) [#改ページ]  「美しい」という言葉に想うこと  三橋《みつはし》先生の講演があるから、聞きに行かないかと、誘ってくれたのは誰《だれ》であったか、それは忘れた。  その講演会は、旭川の拓銀ビルであった。聴衆は若い学生たちが多かった。どこに行くにも三浦と二人の私が、その日は一人で講演を聞きに行った。三浦が疲れていたにちがいない。  司会者の挨拶《あいさつ》があり、いよいよ講演がはじまることになった。すると、一人の女性が、前方の椅子《いす》に坐っていた三橋先生のそばに、しとやかに近づいて行った。三十半ばに見えたその女性は、先生のそばまで行くと、先生に背を向けて屈《かが》みこんだ。先生はその女性の肩に両手をかけて、おぶさった。彼女は静かに立ち上がり、一歩一歩踏みしめるようにして、壇上の椅子に近づき、先生をその椅子に移した。その控え目な、しかしひたすらな表情が、私の心を打ち、私はその二人の姿に感動した。  これが、三橋|萬利《かずとし》先生夫妻を見かけた初めてのことである。  椅子に坐った先生の話が始まった。大きな、明せきな声、明るい笑顔、それは、夫人に背負われなければ壇上に上がることもできない人とは思えなかった。体に何不自由のない者でも、あんなに透きとおる明るさを持つことはできないのではないか。  先生は、自分がいかにして、キリストに救われたかを、実に力強く会衆に話された。私は深い感銘を受けて家に帰った。  そしてその翌日だったろうか。私は先生夫妻の来訪を受けた。足の不自由な先生を乗せて、奥さんが車を運転して来られたのだ。そして、助手台の先生を背負って、昨日見たように、謙虚で、しかしひたすらな表情で、奥さんは私の家に入って来られた。  私たちは昼食を共にしながら、ひと時語り合った。  彼女が先生と結婚したのは、十九歳の時だという。当時二人は同じ教会の信者だった。彼女は、小児マヒで足の不自由な先生を、夏はリヤカーに乗せ、冬は橇《そり》に乗せて教会に通った。そのうちに、二人の間に愛が芽生えたのである。彼女はまだ看護学校の学生だった。が、先生には生きていく経済的基盤は何もなかった。当然、二人の結婚に大人たちは反対した。人の心は変わりやすく、現実はきびしいことを、大人たちは知っていたからである。  だが信仰によって結ばれた者の、愛の強さを大人たちは知らなかった。むろんさまざまな困難はあった。が、二人は見事に耐えぬかれた。今では先生は、札幌に百人近い会員を持つ集会の、伝道者である。子供さんも与えられ、夫婦仲は至ってむつまじい。いや、むつまじいというより、うるわしいといったほうが的確かも知れない。この先生たちの結婚のいきさつをからめた苦難と信仰生活は伝道映画でも見せてもらった。その映画もまた実に感動的であった。  私は時折、「美しい」という字を見ると、このご夫婦をふっと思い出すことがある。なぜこのご夫婦が美しいのか。それは、夫の足の不自由なことを、夫人がいささかも恥とせず、先生もまた、ご自分の足の不自由なことを決して卑下《ひげ》してはいられないからだ。  つまり、この二人は全く対等の立場でお互いをみつめ合っておられるのだ。体に不自由のない夫人が優位に立つのでもなく、不自由な先生が、優位に立つのでもない。極めて当たり前の姿勢で、お互いがお互いを尊重し合いながら、一体になって生きておられる。  こうした生活を営むことのできるのは、その根底に確かな人間観があるからだと思う。人間の価値観が明確であるからなのだと思う。  私は肺結核を病み、その上|脊椎《せきつい》カリエスを併発して、何年もの間、臥《ね》たっきりの生活がつづいた。そんな頃、私をキリストに導いてくれた幼な馴染《なじ》みの友人が、こんなことを私に言った。 「人間は、手がなくとも、足がなくとも、人間であることに変わりはない。だけど、もし五体が満足に備わっていても、美しいものを美しいと思う心が失われ、人の痛みを痛む心を失ったら、それは人間ではない」  彼は、立つことも坐ることもできない私に向かって、慰めようとしてこう言ったのかも知れない。が、この言葉は、その後いろいろな形で私の小説に現われた。彼はそんな不自由な体の私と結婚しようと思いながら、早くに死んだ。そしてその死後一年|経《た》って、三浦が現われ、五年目に結婚してくれた。  それはともかく美しいという字を見ると、私は必ず三橋先生夫妻を思い出す。そして、この夫妻に似た何組かの美しい夫妻を思い出す。これは私から、誰も奪うことのできない宝なのである。      (月刊ろんだん 昭和五十三年七月号) [#改ページ]  ひと味ちがうみどり鮨《ずし》  私たち夫婦のよく行く寿司屋《すしや》に「みどり鮨《ずし》」という寿司屋がある。店主は松田利雄さんといって、まだ三十代の働き盛りだ。店も、松田さん夫妻も、至って清潔な感じだ。松田さんには、白い半纏《はんてん》を着ている時と、紺の半纏を着ている時とがあるが、白い半纏はあくまで白く、紺の半纏は紺が匂《にお》うような清潔さなのだ。  ここの鮨はどこかひと味ちがっていて、実にうまい。特に三浦は、 「みどり鮨は日本一」  と激賞するほどだ。私はいつか、 「日本一ということは、世界一ということね」  と、言ったことがあるが、三浦は大まじめで「うん世界一だ」と答えた。むろん味というものは、人それぞれの好みがあるから、その評価は多少の差があるかも知れない。が、ここの鮨は、どう見ても心の入れ方がちがうと、感じさせる味だ。つまりひと味ちがうということだ。アメリカ人をつれて行っても、ドイツ人をつれて行っても、むろん日本人をつれて行っても、みんな激賞してくれる。  この松田さんから、先日、私たちはその身の上話を聞いた。何の話からだったろうか。 「わたしは親がちがうんですよ」  と、松田さんは言った。松田さんが、自分の親が実の親でないと知ったのは、最も多感な中学三年の時だったという。  高校進学のため、戸籍謄本《こせきとうほん》を取り、友人同士でその謄本を見せ合っていた。と、友人たちの謄本と自分の謄本がどうもちがう。赤でばってんしたところや、何やらごちゃごちゃ書きこんだ箇所が、自分のにはある。よく見ると、実母は死亡になっており、養子縁組という言葉が、書きこまれてあった。友人たちは辞書をひらき、養子縁組とは何かを調べてくれた。  そこではじめて、松田さんは自分の両親が、実の親でないことを知った。何しろ多感な中学三年生である。今まで自分の親だとばかり思っていた人が、実の親でないと知ったのだから、そのショックは大きかった。  ここまでなら、よくある話だ。が、次がちがう。松田さんが、自分の親が実の親でないことを知って、まず感じたのは、 「ああ、すまなかった!」  と、いう思いであったという。松田さんが高校に進みたいと言った時、経済的に不如意なご両親は、反対された。が、松田さんはそれを押し切って高校に進もうと思った。  ところが、実の親でないと知った時、 (本当の親でもないのに、さんざんわがままを言って、申し訳ないことをした)  と、慙愧《ざんき》に耐えなかったのだという。  松田さんは、決然として高校進学を諦《あきら》め、寿司職として立つべく、見習奉公に出た。そして、今までのわがままを詫《わ》び、自分の実の親はどんな人であるかを尋ねた。するとご両親は、松田さんの生みの母は、松田さんが生まれて二十日で死んだことを告げ、 「実の父親を決して恨んではいけないよ。生まれたばかりのお前をおいて、母親が死んだのだからな。それを見かねて、うちでもらってきたのだから」  と、やさしく言って聞かせたとか。  松田さんは今、その育ての母親と、実の親子よりも仲よく暮らしている。育ての父親は早くに亡くなられたのである。  私は、この話を聞いた時、涙がこぼれて仕方がなかった。最も感じ易い少年の頃に、自分の親が実の親でないと知った時、百人中、九十九人までは目の前が真っ暗になるのではないか。そして、ひねくれたり反抗的になったりするのが、常道ではないだろうか。  ところが、松田さんが真っ先に抱いた思いは、 「ああ、すまなかった」  という思いであった。何と謙虚な、そして何と思いやりのある言葉であろう。  この素直さに心を打たれた私は、思い出すたびに、その時受けた感動が新たにされるのである。  考えてみると、私たちは自分の親に対して、 「ああ、すまなかった」  と思うことの、何と少ないことであろう。たとえ実の親に対してであろうと、私たちが親に言ったり、したりしていることは、余りにすまないことなのだ。私たちは、余りにも親の愛に馴れ、甘えて生きているような気がする。  親がちがうという、こんな大きな事実でも、その受けとめ方によっては、そのすべてをプラスに変え、充実した人生を生きていくことができるのであろう。  松田さんの生き方には、学歴や地位を超えた、人間としての本当の生き方が示されている。今の世相を見ると、誰《だれ》も彼もが、金に、権力に、地位に毒されて生きている。そんな中で、松田さんの生き方は、私たちに本来の人間のあり方を考えさせずにはおかないものがある。  とにかく、ひと味ちがうみどり鮨の秘密がここにあるのではないか。      (月刊ろんだん 昭和五十四年二月号) [#改ページ]  法律より大事なもの  今年の三月、菊田医師に対する判決が出た。菊田医師は周知のとおり、宮城県石巻市に住む産婦人科医である。菊田医師は堕胎の相談に来た人たちに、子を生むことをすすめ、生まれたその子を、子供の欲しい人に世話をした。その際、もらい親の実子として出生証明書を発行した。  刑事処分は、医師法違反、公正証書不実記載などで、略式起訴による罰金刑と決まった。実刑はなかったが、医師法違反に問われて、菊田医師は医師生活を放棄しなければならないという。  この事件を、私は大きな関心をもってみつめていた。私個人としては、菊田医師の行為を、人間として尊敬せずにはいられないのである。私と同様の思いを持つ菊田医師の支持者も少なくないと聞いている。  私は、小説「氷点」の中で、この菊田医師と似た処置を、ヒロイン陽子の上に設定した。陽子は、出生の秘密を持つ子で、生まれて間もなく施設に預けられた。その施設の関係者である産婦人科の高木は、この陽子をすぐには入籍しなかった。早晩もらわれるであろう養父母の実子として、入籍したほうがよいと考えたからである。そして陽子は、生まれて三か月も経《た》ってから、出生届がなされたのであった。  この小説に対して、ある評論家はこう言った。 〈「氷点」ほど無理な、不自然な小説を近頃読んだことはない。法治国日本にはあり得ない〉  と。  だが、私がこの小説を書く時、私は私と同じ教会員である判事補や、裁判所に勤める友人の書記官、そして乳児院に、かなり突っこんだ取材をしているのである。小説を書いているとは知らぬ判事補は、 「三浦さん、子供さんをもらうのですか」  と、異様なまでに熱心な私の質問に、そう尋ねたほどである。その評論家は、法治国日本にはあり得ないことと決めつけたのだが、私の調べた限りでは、そのようなケースは決して珍しくはなかったのである。「氷点」を書くに際して持っていた私の倫理感と、菊田医師の持っている倫理感とは、何と共通していたことだろう。それはともかく、私は今、法に触れることが、必ず罪なのか、法よりも更に大事なものはないのか、という問いを発してみたいのだ。  先年私は、歴史小説「細川ガラシャ夫人」を書いた。その中で、時の権力者秀吉が、思いつきで、突如キリシタン禁制の法令を出したことに触れた。一番先に、高山右近がこの秀吉の前に、棄教するか否かを問いただされた。右近は真実なキリシタンであった。禁制に背くならば、右近は直ちに領地を没収されねばならなかった。だがこの時、右近は、喜んで領地を没収されようと答えたのである。  私は、法律には全くの素人である。だが、法律を絶対視するよりも、この右近のように良心に従ったあり方が、人間として生きて行く上に、いつの時代でも非常に大切なことではないかと思う。  結論が先に出てしまったが、私はどうにも疑問なのだ。私たちは、法律にさえ触れなければ、人間としての生き方が全うされているというのだろうか。  先に書いた堕胎の問題にしてもそうである。日本の国は、どうしてこう堕胎を許すのだろう。母体に何の差し支えもないのに、さも差し支えがあるかのように、産婦と医師が口裏を合わせる。そして堕胎をする。それは、人間として真に許されるべきあり方なのだろうか。堕胎というのは、言葉を替えれば、腹の中の子を殺すことである。命を奪うことである。ある看護婦が言っていたが、生まれた子の第一呼吸を、手をもって停止させよという医師の命令に従わねばならない時ほど、つらいことはないという。これは、母体の外に出た命を、 「第一呼吸を停止させよ」  などという用語で、奪うわけである。こんな酷《ひど》いことも、合法の名のもとに、許されるのであろうか。逃げ出すこともできない胎児の命を奪い、新生児の命を奪うことのほうが、偽りの出生証明書を作るよりも、許されることなのだろうか。  菊田医師も、乞《こ》われるままに、堕胎させていたほうが、法に触れずに一生安泰であった。一体、母体に支障がないのに、支障があると書く偽りと、偽出生証明書と、どちらが罪が大きいのであろう。  問題は、法律に触れるかどうかより、人間の生命が守られることを優先させることではないか。法律の絶対化よりも、人間の生命の絶対化である。  この根本がゆるがせにされているので、堕胎天国日本が生まれ、それを見かねた菊田医師が生まれたのではないだろうか。      (月刊ろんだん 昭和五十三年六月号) [#改ページ]  傲慢《ごうまん》ではないつもりです  その日も雪は降っていた。  明日出さねば締め切りに間に合わぬというのに、まだ五十枚は書かねばならない。わたしは筆を急がせていた。  そこへ三浦の姪《めい》が入ってきた。この姪は、十年以上も前から、わが家の家事を担当してくれている。が、わたしがものを書いている間は、わたしの部屋に入ることを禁じてある。わたしは咎《とが》めるように姪を見た。 「仕事中すみません。本州から来た方が……」  本州からわざわざ訪ねてくれるのはありがたいが、突然では会いかねる。たとえ十分でも、仕事を中断されては、もとの調子に戻《もど》るのに二時間も三時間もかかる。下手をすると全く戻れぬことさえある。書くという仕事はそういうものなのだ。  それに、本当に会いたい人なら、決して突然に訪ねてくることはないはずである。突然では、こちらが旅行や所用で留守ということもあるからである。わたし自身、どうしても会いたい人を訪ねる時は、事前に先方と連絡をとる。 「でも、どうしても会いたいって。何か思いつめている様子で……」  姪は困ったようにいう。今までに、家出娘や、自殺志望? の青年たちが幾人も訪ねて来ている。こういう人たちは、予《あらかじ》め家出しますなどという便りを、よこすわけがない。突然玄関に現われて泣き出したり、しょんぼりと影のように立っているのが定石だ。放っておくと、自殺しかねない者もいる。が、会って話し合った結果は、今までのところみんな幸せになって、時々便りをくれたりしている。  思いつめている様子と聞いて、今夜はまた徹夜をしなければ間に合わぬと思いながらも、わたしは急いで階下に降りて行った。  客間に、長髪の青年が、青白い顔をしてすわっていた。 「すみません、お忙しいところ」  それでも、彼は一応そう挨拶《あいさつ》をした。そして訪ねてきた理由を話しはじめた。  人間なんて信じられない。人間だれも、愛し合って生きてはいない。政治家も教育家も宗教家も、みな堕落している。自分は、教師も親も、だれ一人尊敬する気になれない。みんな自分勝手だ。  何だか、この世がつまらない。一体何のために自分は生きているのか、わからない。が、このままでは自分はだめになる。自分は変わりたいと思って北海道に来た。北海道の自然の美しさが、自分を変えてくれるかと思った。しかし、美しい自然も、自分を変えてはくれない。  とにかく、何とか変わりたい。だから、どんな痛い言葉でもよい。自分に忠告してほしい。ぼくの考え、ぼくという人間を、あなたはどう思うか。彼はざっとこういった。  なるほど思いつめた目ではある。が、どこか呑気《のんき》だ。正直のところ、だれ一人尊敬できないという人間を、わたしは信用できない。 「我以外皆我師」  吉川英治氏はこの言葉が好きだったという。わたしはこういう謙遜《けんそん》な姿勢の人間が好きだ。それはともかく、この青年は忠告をしてほしい。自分を変えたいといっているのだ。  で、わたしは、あなたは教師も親も尊敬できないというが、それは周囲の人がみなぐうたらということか。恐らくそうとは限らないのではないか。だれしも人間だから、それぞれ欠点はある。けれども長所も必ずあるはずだ。吉川英治氏のように「我以外皆我師」という謙遜な態度に学んではどうか、とすすめた。  すると彼は、たちまちむっとして、 「吉川英治のように謙遜に? じゃ、ぼくの今までの生き方が、傲慢《ごうまん》だとでもいうんですか。そうですか。そんなふうに見えますか。ぼくは少なくとも傲慢ではないつもりです。傲慢じゃないからこそ、ここまで訪ねてきたつもりです。じゃ、もういいです」  と、挨拶もろくにせず帰って行った。  あっという間もない。わたしは呆気《あつけ》にとられた。が、やがてなるほどと思った。  彼は、忠告などしてほしかったのではない。耳に痛いことを聞きにきたのではない。彼の望むところの忠告とは、 「本当に、この世は信頼に足る人間なんか、いないんですもの。あなたのような気持ちになるのは無理もないわ。若いのに、求道の志を持って、はるばる北海道まで来て偉いのね」  という賛辞ではなかったのか。 「どんな痛い言葉でもかまいません」  と彼はいったが、まさか、その言葉を額面どおりに受けとるバカがいようとは、彼は思わなかったにちがいない。  だれもが、自分は正しいと思っている。浮気をしている夫でさえ、それを責める妻のほうが悪いという者もある。ある凶悪な殺人犯が「自分は正しい。ああするより仕方がなかった」  といって死んでいった話を聞いたことがあるが、皆、自分のための弁護の言葉は、いかなる時にも沢山《たくさん》用意している。だれも自分を悪いなどと思って生きてはいない。わたしも同様である。その事実を、この青年は改めて明確にわたしに刻みつけてくれたのだ。 (人間が住むには、清らかすぎる)  わたしは窓の雪を見て思わず呟《つぶや》いた。      (朝日新聞家庭版 昭和四十八年二月二十三日) [#改ページ]  生きる道は幾つでもある  十一月十九日付の新聞に、一家九人の無理心中のニュースが出ていた。九人のうち二人は、六歳と一歳の子供で、あとは二十一歳以上の大人である。七億円の借金を抱えていたそうだが、何と痛ましい事件であろう。無理心中といっても、大人たちは、この借金を抱えた父と、共に死のうとしていたのだから、むしろ同意の心中といっていい。  どんな事情があったにせよ、七人の大人がそろって死ぬ気になったというのは、考えてみると不思議なことだ。そのうちただの一人でも、心中を押しとどめることができなかったものか。  年々二万人もの自殺者が、わが国にはいると聞いている。人は自殺した人間に対して、 「死ぬ気でやれば、何でもできるはずだ」  と言いたくなる。が、人間は弱い者だ。ふだんそう言っている人でも、何かの時には死にたくなるものだ。私自身にも自殺をはかった経験がある。  このニュースのあった翌日、私は田原米子という人の生活を描いたテレビを見た。彼女は二十四年前、高校生の時新宿駅で飛びこみ自殺をはかった。幸い一命は取りとめたものの、両足と左手を失い、右手も指二本を失った。よくぞ命が助かったものと思われる。  が、二十四年経た今、彼女はどんなふうに生きているか。人はどう想像するだろう。暗い顔で、ひねくれた思いで生きていると思うだろうか。もし自分がそのような体になったと仮定した時、どのような想像をするであろう。  驚くべきことに、田原米子さんの表情は、明る過ぎるほどに明るかった。この世にあれほど明るい顔をした人は、ざらにはいない。  彼女は三本指の右手で、野菜を刻み、アイロンをかけ、ミシンを使う。決してふつうの主婦に負けることなく、すばらしい速度で、見事に家事をやってのける。  そればかりか、彼女は講演にも行く。そして、「生きるとは何か」「人生の目的は何か」を、人々に説くのだ。  彼女には二人の娘もいる。娘たちも明るく育って、今はアメリカに留学している。夫君はキリスト教の伝道者である。この夫君は、二十四年前、彼女が両足と片手を失った時、その病室を訪れて、忍耐強く励ましてくれた神学生であった。生きる望みを失った、うつろな彼女に、やがてキリストを信ずる信仰が芽生え、そしてそれが実った。その時から彼女は変わった。この彼女と、彼は結婚したのである。  体の不自由な者も、不自由でない者も、この透きとおるように明るい彼女に接する時、生きる力を与えられ、励まされる。彼女はテレビの中で、朝の祈りを次のように祈っていた。 「天にいらっしゃる真の御神、今日も新しい日をお与えくださいまして感謝いたします。今日はどなたから電話が来るか、どなたが訪ねておいでになるか、わかりませんけれども、知り合えることを感謝いたします。どうぞこの私を、御神の栄光のためにお使いくださいませ」  言葉はそのままではないが、要約すると以上のような祈りであった。  彼女は、毎日毎日、今日自分の前に現われる人に、明るく、愛をもって関わろうと待ちかまえて生きているのであった。その積極的な生き方に、私は心を打たれた。  そして思った。もし、田原米子さんがあのまま死んでいたら、今の田原米子さんはいないのだと。私もまた、三十年ほど前、オホーツクの海に果てようとした。もし果てていたら、私は一篇の小説も残さなかったことになる。私は今度で三十一冊目の本を出したが、私はその本を眺《なが》めながら、そう思ったことである。  今まで自殺していった人々が、もし今生きていたら、どんな人生を送っていたか。私はその人たちのもう一つの人生を想像してみる。  自殺する時、人はもう生きていても無意味だと思ってしまう。生きる喜びなど得られないと思ってしまう。生きる力など自分にはないと、思ってしまう。死ぬよりほかに道はないと思ってしまう。そして自らの命を断ってしまうのだ。  が、果たして、人間死ぬよりほかに道がないものなのだろうか。田原米子さんは、死ぬよりほかにないと思った状況より、更に悪い状況で生きねばならなかった。自殺しようとした時は五体満足であったが、助けられた時には、右手しか残っていなかった。それでも彼女の人生は、喜びに満ちた人生となった。そのことを思う時、 「死ぬよりほかに道がない」  などと考えるのは、いかに人間が傲慢《ごうまん》であるかということの証左である。道は幾つもある。生きようとする時、必ず道はひらけるのだ。 〈希望は失望に終わらない〉(新約聖書)      (月刊ろんだん 昭和五十四年一月号) [#改ページ]  ヨナタン君の祈り  わたしはこの間、小腸をこわして三十八度の熱を出した。熱は三日間つづき、腹膜炎《ふくまくえん》のように腹部がふくれた。二日断食をし、やがて粥食《かゆしよく》となり、普通食にもどったのは、一週間目である。  その間、わたしは臥《ね》ていたわけだが、同じ町内にいる母が心配しているので、一週間目に母の家に行った。母の家の隣には教会があって、オーストラリヤから来た宣教師がいられる。  教会の前に宣教師の息子さんのヨナタン君が遊んでいた。四歳のヨナタン君は、わたしを見ると、人形のような愛らしい顔をパッと輝かせ、大声をあげて自分の家にかけこんで行った。  わたしは何ともいえない感動を覚えた。というのは、ヨナタン君は、わたしたち夫婦のために毎日お祈りをしてくれているのだ。彼はまだ日本語がよくわからない。  だから、多分英語でわたしたちのために祈ってくれているのだろう。わたしが腸をこわしている間は、その回復を祈ってくれていたのだろう。 「神さま、どうぞ、三浦のおばさんのおなかをなおしてあげてください」  という祈りを、英語でささげながら、そのふっくらとした小さな手を合わせて、真剣に祈ってくれていたにちがいない。だから、わたしが外出できるようになった姿を見て、彼はパッと顔を輝かせ、すぐに母親に、 「三浦のおばさん、元気になったよ」  と告げに行ったのであろう。  わたしはヨナタン君に、 「ミスター・ヨナタン、お祈りありがとう。おかげですっかり元気になったのよ」  とお礼をいった。彼は恥ずかしそうに、しかし、何ともいえないうれしそうな顔をした。  人のために祈る、これほどすばらしいことがあるだろうか。わたしは、これこそ人間教育の根本であり、第一の躾《しつけ》だと、つくづく思った。  わたしたちは、幼い時からいろいろと躾けられてきた。また、わが子にも躾をする。 「おはよう」「おやすみなさい」「行ってまいります」「ただいま」「いただきます」などと、挨拶《あいさつ》も教える。  だが、人のために祈るという躾をしている親がどれほどあるだろう。親きょうだい、親戚《しんせき》、知人、友人の幸福のために、幼い時から祈ることを教えるという躾ほど、すばらしい躾はない。  夜ねる前、朝起きた時、人の幸福のために祈ることを憶《おぼ》えた幼い魂と、それを知らずに育った魂には、おそらく大きな差があるにちがいない。  幼子に祈りを教えるためには、親もまた敬虔《けいけん》に祈ることを知らねばならない。親が人の幸せのために祈る姿ほど、幼子を思いやりある人間に育てることはないであろう。  近所のおばさんであるわたしの病気のために祈っていたからこそ、ヨナタン君は、わたしの元気になった姿がうれしかったのだ。ほんとうに祈っていてこそ、心からの挨拶もできるというものだ。祈っていてこそ、 「よかったよかった、元気になって」  と、共に喜ぶことができるのだ。ここにはおざなりがない。不真実がない。「教育の根本」を熟語で「宗教」というと、花園大学の学長の山田無文先生がいわれたが、ヨナタン君を見て、わたしはほんとうだと改めて思ったことだった。      (PHP 昭和四十八年十一月号) [#改ページ]  教師の資格  先日、私は三十五年前に教えた生徒たちのクラス会に出席した。教えたといっても、僅《わず》かに小学二年の一学期を教えただけで、百日そこそこのつきあいであった。  何か一言といわれて、私が心から言ったのは、自分が余りにも稚《おさな》い教師で、多分私のしたこと、言ったことはあやまちだらけであったろうことへの、詫《わ》びであった。  僅か百日間でも、その間に私は、もしかしたら、子供の胸に一生残るような傷を与えたかも知れない。十九歳だった少女の私は、自分に教師の資格があるかどうか、いや、その教師の資格は何かさえ、知ってはいなかったのだと、その席に出て改めて思ったのである。 人生相談を受け持って[#「人生相談を受け持って」はゴシック体]   近頃、「玉木功の教育相談」という聖文舎から出版された本を読んだ。副題に、「お母さん心配無用です」とある。この本を読んで私は、自分が教師をしたことに対して、いよいよ大きな悔いを感じた。  私は小説を書くようになってから、毎日のように読者から手紙をいただく。その大方は「いかに生きるべきか」の相談である。手紙に対しては、秘書に要旨を指示して書かせてはいる。また、「主婦の友」誌に「三浦綾子への手紙」という人生相談を今年一年受け持った。  そうした数多くの相談に対する返事を書きながら、私は自分がいかにその任でないかをつくづく知らされているのである。相談の中には、 (こんなことぐらい、自分で考えたらわかるではないか)  と思うような、余りにも幼稚な質問もある。  相談に対しては、私はともすれば、自分が高い所から教えてやろうという生意気な姿勢になりやすいことを、幾度も体験した。恐らくこれは人間の問題で、私という人間は、拭《ぬぐ》っても拭っても拭いきれない傲慢《ごうまん》さがしみついているということなのだろう。そしてそれは「皇国民の錬成」を使命として、軍国主義的な教育のおこなわれた若い日に、深く培《つちか》われたものだと思う。 誤った教育[#「誤った教育」はゴシック体]   軍国主義とは、号令一下、その命令に従わせることである。人間が個人である前に、国民であらねばならぬ教えである。号令によって人を動かす。号令に服従する。何という誤った教育であったろう。人間は、号令によっては真に動かすことのできないものだということを、教えるのが本当の教育のはずであった。いかに大きな号令をかけられても、心にもない服従は、決してしてはならないということを教えることこそ、大きな教育のはずであった。  ところで玉木功氏の、この教育相談を読んで、教師の資格とは何かが、私は今はっきりと見えてきたような気がするのだ。氏は前がきにこう書かれている。 「本書は、私がお母さんたちのお手紙にある問題や相談に答えるのではなく、手紙にある問題に私が触発され、手紙と対話しつつ書いたというのが根本の姿勢です」  私は未《いま》だかつて、このような謙虚な姿勢をもって、相談に答えたことはなかったような気がする。相談を受けるということは、自分が触発されることである。つまり自分が学ぶことである、という姿勢は、何とすばらしい姿勢であろう。  その前がきどおり、この本は実にその姿勢に支えられた、あたたかさ、深さ、そして優れた識見に満ち満ちている。いささかも、「教えてやる」という思い上がった姿勢がない。 聖書の言葉[#「聖書の言葉」はゴシック体]   これは一体どうしたことか。それはつまり、すべての人間が、同じ地の上に立っているということを知っているからであろう。人間の尊さに、大小のないことを真に知っているからであろう。相談をする者もわからないが、される自分もまたわからない者であるということを、知っているからであろう。そして、真に学ぶことを知っているからであろう。  教師の資格とは、要するに、自分も生徒も人間の尊さにおいて同じであり、学んでいかなければならないという点においても同じだということを知っていることではないか。 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」という聖書の言葉を体得している者のみが、真の教師といえるのではないか。      (小学校一年教育技術 昭和五十一年十二月号) [#改ページ]  「小さなことでしょうか」  八田勝三という方が、二年前の昭和五十二年に堺で亡くなられた。この方は、 「人のために尽くしても、その報いを求めず、人に喜ばれ、人に迷惑をかけずに終わりたい」  という信条をもって、その一生をつらぬき通したという。千人もの会葬者があったというから、多くの人に愛された方であったことが想像される。そしてその徳を慕う人々によって、一冊の本が生まれた。「むくいをのぞまで」という本である。  この題名は、多分讃美歌五三六番の「報いを望まで、人に与えよ」の歌詞から取ったのでもあろうか。  私はその序文の中の、次の一節を読んでひどく心を打たれた。 〈告別式の際の、この夫人の素朴《そぼく》簡潔な挨拶《あいさつ》の中で、「夫が人様の悪口をいうのを生涯《しようがい》に一度も聞いたことがなかった」といわれたのが心に残っている〉  という一節である。「人様の悪口をいうのを生涯に一度も聞いたことがなかった」という言葉は、まことに短い。この短い言葉の中に、八田勝三氏の一生のあり方が、実に明確に現われているのではないかと思う。  私はこの夫妻が、何年間結婚生活を送ったのかを調べてみた。何と昭和四年三月から、五十二年十一月七日に至るまで、実に四十八年有余の長い結婚生活であった。言ってみれば、ほとんど五十年の結婚生活に、この八田氏は妻にさえ、一度も人の悪口を言って聞かせたことがなかったのである。  私は正直の話、頭を一撃されたような感動を覚えた。私たちは、幼い時から今に至るまで、どれほど人の悪口を言って生きてきたことだろう。子供の頃、私はよく、 「舌先三寸で人を殺す」  という言葉を聞かされて育った。にもかかわらず、私は自分のこの舌をもって、どれほど多くの人を傷つけてきたことかと、この八田氏の前に反省せずにはおれないのである。  ところで私たち人間は、誰しも、ただの一度も人の心を傷つけずに生きてきた人はいないと思う。いや、中には、初めから人を傷つけることを目的に、あらぬ噂《うわさ》をでっち上げ、口で言いふらし、活字に書いてまきちらす……ということもあるのではないか。  私たちは殺人を大いなる罪だとわきまえている。だが人の心を傷つけること、二度と立ち上がることもできぬほどに精神的に痛めつけることが、ある時は殺人以上に重い罪であることを、意外に知ってはいない。もし知っているなら、こうもこの世に悪口やデマが氾濫《はんらん》しないであろう。  聖書には「そしってはならない」という誡《いまし》めが幾度となく出てくる。クリスチャンである信者自身でさえ、それがどんなに大きな言葉であるかを受けとめている人は少ない。だが八田勝三氏は、その誡めを一生守り通したクリスチャンであった。  酒を飲まずに一生を過ごす人は少なくないかも知れない。煙草を喫まずに世を終える人も、珍しくないかも知れない。だが、人の悪口を言わずに一生をつらぬくということは、これはもう奇蹟《きせき》的な人格ではないだろうか。  そんなことを思っている矢先、「主婦の祈り」という小冊子を読んだ。ジョーカーという婦人と、エモジン・ソーレーという婦人の共著である。その中に次のような祈りがあった。 〈……それに主《しゆ》(神)よ。もう一つの罪はうわさ話です。  思いやりのないことを言い広めるのは、小さなことでしょうか。他人のよい評判や、名誉を傷つけることが……。もしわたしの話が、好奇心をそそるだけのものであったり、優越感を得るものでしかなかった場合、それがたとえ本当の話であったにせよ、不親切な言葉をまきちらすことは罪なのです。  ゆるしてください主よ、これらのくだらないしぐさを。ゆるしてください、わたしの罪を……〉  素直な、そして心のこまやかな祈りである。この祈りの前に、自分を恥じる人は幸いである。特に、「思いやりのないことを言い広めるのは小さなことでしょうか」という厳しい姿勢に、私たちは打たれねばならぬと思う。 「日本人は悪口が好きだ。日本人を働かせるには、人の悪口を聞かせるがよい」  と、書いた外国人の言葉を私は覚えている。私たち日本人は、そんなにも下劣な人間なのだろうか。それはともかく、人の悪口や、くだらぬ噂をまきちらすたびに、私たちは人を傷つけると共に、自分自身の品位を傷つけ、見下げた人間に自らを貶《おと》しめていることだけは、まちがいないようである。      (月刊ろんだん 昭和五十四年三月号) [#改ページ]  置きみやげ  先日、札幌《さつぽろ》から旭川《あさひかわ》へ帰る車中のことであった。三人づれの男が通路を隔てた向こうの席に坐《すわ》っていた。三人のうち四十代の男二人は公務員ふうであり、白髪の紳士は、商社マンのようであった。四十代の男たちは、 「ああ、そうですか。それは困りましたな」  というようなものの言い方をし、紳士は、 「さようでございます。私どもにはどうも、そこのところが、わからないんでございますよ」  と、ていねいな言葉を遣っている。私は何となく、その紳士を、同情をもって眺《なが》めた。上品な顔立ちであった。  そのうちに、私は何か白い粉が私の膝《ひざ》のほうに飛んで来るのに気づいた。何かと思って横を見ると、件《くだん》の紳士は坐席のひじかけにひじを立て、指に挟《はさ》んだタバコを、通路三分の一くらいまで、突き出しているのである。そしてその灰が通路に落ち、それが時折、私の膝のほうまで吹かれてくるというわけであった。通路だから、むろん人が通る。が、彼は気づかず、その火のついたタバコを突き出していた。私の、彼に対する同情は、この時消えた。そして、反射的に思い出したのは、建部直文氏のことであった。  建部直文氏は数年前、北海道新聞旭川支社長をしておられた方で、現在は札幌本社の編集局長をしておられる。私の小説「泥流地帯」が、北海道新聞に載るようになったのは、氏のご好意によるものであった。氏は論説委員として、卓越した識見をもって鋭い社説を数多く書かれた方だが、いつお会いしても、何とも言えないあたたかさを感じさせる方である。  この建部氏の後に来られた伊藤支社長から、私は次のような話を聞いた。  伊藤氏が移って来たのは社宅である。つまり、建部氏の後に入られたわけである。まだ雪の深い三月、旭川は寒い。火の気がなければ、我慢ができない。何よりも先にストーブをつけなければと思っていたところ、建部氏は私物のストーブを、つけたままにして置いてあった。むろん、煙突のついたファンつきの石油ストーブである。そればかりか、外の石油タンクには石油が半分も残されていた。  建部氏が残して行ってくれたのは、そればかりではなかった。米と、そしてすぐに使える野菜とが、きちんと台所に置かれ、洗面器や、その日ただちに風呂に入ることのできるように、石鹸《せつけん》や風呂道具までも用意されてあった。  恐らく建部氏夫妻は、幾度も転勤した体験を通して、移転して来た当日、何が必要かをよく承知しておられたのであろう。そしてその必要な物を、後任者のために配慮して、こまごまと置いて行かれたのであろう。  伊藤支社長が電話で礼を言うと、 「いやあ、古くなったストーブですから、捨てて来たんですよ」  と答えられたそうだ。が、伊藤支社長の話によると、そのストーブはまだまだ使える高価なものであったという。そして、石油タンクに石油を半分残したのも、深い配慮から出たにちがいないという。つまり、満タンにしては、かえって恐縮させるという心づかいであったらしいと、いうのである。 「何せ、引越しというのは、大変なことですからねえ。助かりましたよ。とにかく偉い人ですよ、建部さんは」  つくづくと伊藤氏は感謝しておられた。  建部氏の後任者に対するこの配慮は、多分この時に始まったことではないと私は思う。氏はそれ以前にも、転勤のたびに、後から来る人のために配慮されたにちがいない。それは単に、住居におけることだけではなく、直接の仕事の上において、実に行き届いた配慮をなさってきたにちがいないと想像される。  いつか私は、何人かの主婦たちと、子供に何を残すかという話し合いをしたことがあった。家と土地だけはという人もあり、学歴だけは身につけさせたいという人もあった。子供のない私はその時言った。 「親が子に残すのは、やはりその生き方ではないか」と。思えば生意気な言葉であった。  考えてみると、自分がどんな生き方をしているか、自分では意外とわからぬものだ。言葉のていねいな、一見紳士ふうの人でさえ、汽車の通路にタバコを突き出し、床を白くするほど灰をこぼしていた。ましてこの私のような者が、世を去る時何を置きみやげにできるだろう。建部氏のような、配慮の行き届いたものでないことだけは、確かである。      (小説新潮 昭和五十四年三月号) [#改ページ]  旭山夫人の手袋  先日、街に出て三浦と二人でレストランに入った。ふと見ると、広いレストランの奥に、藤田旭山先生が数人のお弟子さんたちに囲まれて、食事をしていられた。  食事を終えられて先生は、 「やあ、元気かい」  と、いつものやさしい笑顔を見せて声をかけてくださり、出口のほうに行かれた。が、すぐに戻《もど》ってこられて、 「これ、あんたに上げる。あんたなら、はけるだろう」  と、黒い女物の手袋をつまんで見せた。 「松枝のだよ」  先生はそう言って、わたしをじっとみつめられた。 「まあ! ありがとうございます」  わたしはその手袋を胸に抱きしめてお礼を言った。  松枝とは、先年亡くなられた奥さんのお名前である(俳句では月女と号されて、後進をよく指導された)。  わたしは手袋を見た。手袋は少し形が崩れていた。男の先生の手には、女物の手袋は小さくて、はきづらかったにちがいない。しかしそんなことには頓着《とんじやく》せず、おそらく先生は、奥さんの亡くなられたあと、その手袋をずっとはいてこられたのではないか。亡くなられた奥さんと手を握るような思いで、いつもはいていられたにちがいない。わたしは胸が熱くなった。  ところで旭山先生ご夫妻を存じ上げたのは、わたしが啓明小学校に教師として勤めた頃であった。先生のお子さんがたが啓明の生徒で、奥さんはその啓明校の母の会の会長であった。森田たまによく似た顔立ちで、話題の豊富な魅力的なひとだった。旭川には数多くの優れた女性がいるが、この松枝夫人のあたたかい人間味と、明晰《めいせき》な頭脳は、その中でも抜群であったと言えると思う。  戦後わたしは、旭山先生の俳句の弟子となった。とは言っても、二年もつづいたろうか。いや、一年程ではなかったろうか。その僅《わず》かな年月の中で、わたしがご夫妻から得たものは大きかった。第一に、夫婦としてのあり方が、先ずわたしを打った。夫婦とは対話がなければならないということを、身をもって示して下さったように思われるのだ。  わたしが六歳まで住んでいた、四条十六丁目に、※[#○に五、unicode3284]藤田という酒造店があった。それが先生の生家であった。わたしはその※[#○に五、unicode3284]藤田の大きな酒樽《さかだる》の中に茣蓙《ござ》を敷いて、よくままごとをして育ったわけだが、その頃に先生は奥さんを娶《めと》られた。美しい、熱い恋愛であったと、後に母から聞いたことがある。  そんなこともあってわたしは、ご夫妻に深い親しみを感じていたが、やがてわたしは、小説「氷点」を書くことになった。その時、わたしは主人公をどんな間取りの家に住まわせようかと考えた末、以前に幾度かお訪ねしたことのある、旭山先生のお宅を改めて見せていただくことにした。そして間取りを、そっくりそのまま使わせていただいたのである。そのために、挿絵《さしえ》の福田豊四郎先生や、向井久万先生、更にテレビ関係の人たちが、旭山先生のお宅をお訪ねして、何かとご迷惑をかけた。その度に接待して下さるのが奥さんだったが、その応対がまた、実に見事であった。 「ようこそ」  と、ちょっと小首をかしげあの大きな親しみのある目で、相手をじっとみつめる。それだけでもう、遠来の客たちは奥さんに心をひらくのである。奥さんはお茶受けに、鰊漬《にしんづけ》やら、トマトの漬物などを出して下さったが、それがまたおいしかった。奥さんのハキハキとして明るい、しかも洗練された言葉に、客たちは驚いて、わたしの耳にこうささやいたものだ。 「東京の人みたいですね。この辺には珍しい方だ」  このほめ言葉は、旭川に住む女性には、ちょっと癇《かん》にさわるところだが、確かに奥さんは横浜育ちで、東京にいたとしても珍しい魅力的な女性であったろう。  この奥さんのすばらしさを知っているだけに、わたしには、先生のひとこと、 「松枝のだ」  にこもる先生の思いの深さがよくわかって、何ともいえない気持ちになったのである。旭山先生の飄々《ひようひよう》たる、俳味あふるる風格と、照り映えるような奥さんの人柄とは、実にマッチしていた。先生にはあの奥さんに代わる人はないのである。生きている間のご夫婦の愛もこまやかであったが、奥さんが亡くなられても、なおこまやかな対話のつづくご夫婦なのだと、わたしはいただいた手袋を大事に握りしめて帰って来たのであった。      (月刊旭川春秋 昭和五十三年一月) [#改ページ]  田村武さんのこと  三浦とわたしの共著「太陽はいつも雲の上に」の中に、わたしは田村さんのことを書いた。 「呑舟《どんしゆう》の魚は支流に棲《す》まず」という言葉について感想をのべ、北海道の片|田舎《いなか》に育った少年田村武が、日本の労働者のリーダーの一人になったことにふれた。全くの話、舟を呑《の》むほどの大きな魚は、支流には棲めないと、わたしは田村さんを見る度に思うのだ。  田村武さんは三浦と少年時代からの友人で、年も一つしかちがわない。職場も同じだった。その田村さんの少年時代の思い出を語るたびに三浦はしばしば次のことを言う。 「若い時から、実にバランスの取れた男でね。何度もいうことだが、彼の将棋を見ていて忘れられないことがある。横で見ていたわたしは、彼が考えているのを見て、なぜ激しく敵陣を攻めないのかと口を出した。それに答えて彼はいった。いや、ここでは一発自陣を守っておくところではないか、とね。彼のその言葉がねえ、未《いま》だに忘れられないんだ」  このことは、三浦はよほど感服したらしく、結婚以来十六年の間に、幾度聞かされたかわからない。若い頃というのは、いや、人間というのは、相手を責めるのに急なものだ。つまり自己主張が強い。自分自身を顧みない。ところが田村さんは、いつも自分の足元をしっかりと見る人間だったそうだ。  そして、実によく人の言葉に耳を傾ける少年だったそうだ。人の言葉に耳を傾けるということは、簡単なようで、実は仲々できないことだ。人間耳が二つで口が一つ。だから、「聞くことを多くし、語ることを少なくせよ」といわれるが、大抵はこの反対だ。  田村さんが、反対の立場にある人にも、説得力のある人間として尊敬されるのは、この少年時代からの、人の言葉に耳を傾け、常に己れを顧み、徒《いたず》らに自己主張をしないところにあるのではないか。いよいよもって彼は大いなる魚になるだろうが、いつまでも北海道にいてほしいと、わたしたち夫婦は願っている。      (機関紙連合通信 昭和五十年十一月十五日) [#改ページ]   人の子として [#改ページ]  母の日の贈り物  五月十二日、日曜日の夕方のことであった。三浦とわたしは疲れ果てて、枕《まくら》を並べてねむっていた。  と、階下でブザーが鳴った。誰《だれ》かきたらしいとは思ったが、とにかくひどく疲れていて、起き上がる元気もない。  何しろ、前日は、「主婦の友」誌に連載中の細川ガラシャの七月号分を、ようやく送稿したばかりである。できたら一日ぼんやりとしていたいところだったが、日曜日である。  クリスチャンのはしくれだが、日曜の礼拝だけは、どんなに多忙でも病気の時以外は休んだことがない。しかもこの日は、五十年間の歴史を持つ教会堂最後の記念すべき礼拝である。改築のため、旧会堂がとりこわされるのである。礼拝後はその引っ越しがある。少々疲れていても休むことはできない。  昨秋以来わたしは心臓が弱く、三浦もこの一週間くたくたになっていた。が礼拝に出席し、礼拝後は日に照らされながら教会のごみ焼きをした。それがたたって、三浦は家に帰るや否や八度近い熱を出し、わたしもどっと疲労が出たのである。 夜の訪問者[#「夜の訪問者」はゴシック体]   ぐずぐずと床の中にいると、 「ごめんくださーい」  と男の声である。今|迄《まで》日曜に訪ねてくる人は殆《ほとん》どいない。玄関には錠がかかっている。わたしはぐったりと天井を見ていた。  と再び男の声、 「ごめんなさーい」  それがいやにはっきりと聞こえた。玄関のドアの向こうの声ではなく、内に入っている声だ。わたしはぎょっとした。  去年の秋以来、この附近は空き巣や忍びに百何十軒も入られている。たしかにドアの錠はかかっているはずなのに、まさしくあの声は家の内に侵入? した声だ。  わたしは飛び起きた。こうなると疲れも何もない。はっきりと目が醒《さ》めた。何しろ、何年か前に、二人で二階にいて、泥棒に入られた経験がある。その時は、わたしがねむっていて、三浦はラジオをイヤホーンで聞いていた。玄関には鍵《かぎ》をかけてあった。いやにガタガタ階下がうるさい。三浦に、 「泥棒じゃないの?」  というと、 「隆子が帰ってきたのだろう」  という。隆子は当時わが家にいた三浦の姪《めい》である。 「でも隆ちゃんは鍵を持って行かなかったわよ。変よ、泥棒よ」  三浦はのん気にふらりと階下に降りて行った。泥棒は今、テラスの戸をあけて、逃げる準備をととのえてから仕事にかかろうとしているところだった。  そんなことがあったから、 「また、やられたか!」  わたしはそう思い、直《すぐ》に玄関の上の部屋の窓を開け、 「どちらさんですか」  と大声を出した。が、階下はしんとして音がない。 「どちらさんですかあ!」  外に向かって叫べば泥棒なら逃げるだろうと思った。と、階段をドシドシ上がってくる音がする。思わず身構えた時、 「いないの、誰もいないの」  という声が踊り場でした。部屋から顔を出すと赤とピンクのカーネーションの束を持ったS君がいた。 「母の日だから、小母《おば》さんにカーネーション持ってきたんだ」  わが家を建ててくれたカーペンターのS君は、教会も同じで十年来、親しく出入りしているよき男なのである。なぜ、その声がわからなかったのだろう。ほっとしたわたしにS君は、 「玄関のドアの鍵をかけたまま、ドアが開いていたよ。ちゃんとしておかなきゃ、不用心だよ」  わたしは彼にたしなめられた。ドアをピッチリしめて鍵をしたつもりで、開けたまま鍵をしていたのだ。それはともかく、子のないわたしたちに、「母の日」を憶《おぼ》えてカーネーションを持ってきてくれた彼にわたしはほのぼのとした暖かさを感じて嬉《うれ》しかった。 電話のプレゼント[#「電話のプレゼント」はゴシック体]   その夜、九時近くに、電話がきた。夕食を終えて、わたしは三浦の枕もとで頭を冷やして上げていた。夜の電話は、大てい九州や関西、その他とにかく遠いところからの読者が多い。  しかも、それが大てい飲み屋からで、長い長い電話が多いのだ。出ようか、出まいか、わたしは迷った。読者の電話はありがたいが、何せ、飲んでいると、電話が長い。  長い人になると四十分以上、延々とかけてくる。  どうやら、三浦は流感の熱らしく苦しそうだ。ひたいの手拭《てぬぐ》いはすぐに熱くなる。わたしも、食事の支度やら、三浦の胸や背の湿布やら、頭を冷やすやらで、疲れている。  ここで、ながながと電話をかけられては、体が参ってしまう。だが、至急の電話かも知れぬ。親戚《しんせき》、知人の危篤か死の報《しら》せでないとも限らぬ。また読者からの人生相談かも知れぬ。  疲れた体を引きずるようにして、電話口に出ると、 「モシ、モシ、マサハルダヨ。アソビニユクカラネ、コンド」  という幼い声。神奈川に住むわたしの甥《おい》の子供からの電話だ。ほっとして、 「あ、正治くん。待っているよ。遊びにおいで」  つづいて、正治の父の勲が出た。 「叔母《おば》ちゃん、元気? 叔父さんは?」  消息を交わし合って最後に彼は言った。 「今日はさ、母の日じゃない? だから、電話したんだよ。せめて、電話だけと思ってね。親代わりだから……」  電話が終わった時、わたしは不覚にも涙がこぼれた。  三十七になるこの甥は、きょうだいのようにして育ったのだが、彼には父母はいない。  彼の父であるわたしの次兄は陸軍大尉で戦病死し、その出征中に母は結核で死んだ。その上彼は、姉、妹、弟の三人を亡くし、孤独な境涯《きようがい》であった。  母のいない甥は、子のいないわたしに、 「母の日だから……」  と電話をかけてきたのである。  S君夫妻からは、カーネーションをもらい、甥からは遠い神奈川から電話をもらい、子のないわたしにも、やさしさの流れてくるような母の日であった。わたしは深い感謝の中に、床に就きながら、 「それにしても、疲労というのはおそろしい。人間を駄目《だめ》にする」  と思った。暖かいこの二人の、花と電話のプレゼントを、わたしは疲れていて、危うく受け損なうところであった。親切な暖かい訪問や電話を受けたいならば、たとえ疲れていても、少々迷惑な訪問や、電話にも応じねばならぬ。人生、甘い汁のみ吸うことは、何人《なんぴと》にも許されてはいない。聖書にも〈われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか〉とあったなどと思ったことであった。      (潮 昭和四十九年七月号) [#改ページ]  二つのやさしさ   拒絶を知らぬやさしさと拒絶するやさしさと  生まれてから今まで、私は何人かのやさしい人に出会ってきた。その最初の人は、私の母の母、即《すなわ》ち祖母である。この祖母のやさしさには、とり立てて、こんなことがあったといえる、大きな思い出があるわけではない。  私がもの心ついたころ、祖母はいつも私と寝ていた。当時私はネルの寝巻きを着て寝ていたが、その背をさすりながら、祖母は毎晩、私にねだられるままに、おとぎ話を語ってくれた。『文福|茶釜《ちやがま》』『やまうば』『猿《さる》カニ合戦』『花咲《はなさか》じじい』などなど、私は毎晩のように祖母にねだった。  同じ話を毎晩語るということは、今考えてみると、大変なことであったと思う。が、祖母は一度として拒んだことはなかった。いや喜んで話してくれた。私の背をなでる手が、時々ネルにひっかかった。水仕事で祖母の手は荒れていたのである。ささくれた手が、ネルにひっかかるのはさぞ痛かったのではないか。にもかかわらず、祖母は背をなでる手をとめることなく、くり返し同じ話を聞かせてくれたものだ。  この祖母は九十六歳で死んだが、その時私はもう四十代の半ばを過ぎていた。そうした長い年月の間、祖母が怒った顔を見せたことはなかったし、私たちを咎《とが》めたこともなかった。拒絶を知らない祖母であった。そうしたやさしさが、毛穴から沁《し》み入るように、幼な心にも沁みとおったものだ。私一人だけではない。私のきょうだい十人すべてが、こうして祖母に愛されたのである。だから、やさしい人とは祖母のことだと思って育ったのである。  私は戦後肺を病み、十三年間療養生活をつづけた。その間にも、多くの人のやさしい見舞いを受けた。私の部屋に、見舞い客のなかった日は、ほとんどないといっていい。特に自宅療養中は、男の友だちや女の友だちが、何人も来てくれたものだ。  私が黴菌《ばいきん》恐怖症の神経質な人間であることを知って、いつも缶|詰《づめ》を見舞いに持ってきてくれた友人もいるし、退屈を慰めようとして、自分で組み立てたラジオを持ってきてくれた友人もいる。小遣いに困っている私に、月給のすべてをくれた友人もいる。  そうした中に、私の夫三浦光世がいた。三浦は、私を、一週間に一度訪ねてくれた。毎日訪ねてくる友人もいたから、週に一度は、私には間遠《まどお》に思われた。しかも三浦は、誰《だれ》よりも時間が少なかった。たいてい、一時間が限度であった。それが私には、ひどくもの足りなく思われた。  友人の中には、朝の十時頃にやってきて、夜の十時ごろまで話しこんでいく人もいた。つまり、昼食を一緒に食べ、夕食も共にする。  当時私は、ギプスベッドに臥《ね》たきりの身で、傍らに便器もあったから、さぞ臭い部屋であったろうと思う。そんな部屋に、朝から晩まで、十二時間も話しこんでくれる友人は、退屈な私にとって楽しい相手だった。  だが、ふしぎなことに、私は、最も短い時間しか見舞ってくれない三浦に、次第に心が惹《ひ》かれていったのである。彼の見舞いの時間の短さは、最初は甚《はなは》だ儀礼的に思われたのだが、次第に私は、それが彼のやさしさの故だと思うようになった。  三浦は、かつて腎臓《じんぞう》結核を病み、その右腎を摘出している。つまり彼は療養生活の体験者であった。その療養生活の体験が、見舞いの時間の短縮となって現われたのだろう。  確かに、臥たっきりの人間には、友人の来訪はうれしい。だが見舞い客によって、疲労することも確かなのである。三浦は私が疲労することを非常に恐れていた。  やがて、三浦は私と結婚しようと決意するようになったが、それでも彼は、ほとんど見舞いの時間を変えなかった。将来の仲を誓ってはいても、情に流されるということは、ほとんどなかった。  彼は見舞いに来るたびに、玄関に出迎えた母にこう言ったという。 「今日の具合はいかがですか。もし悪ければ、ここで失礼します」  私の熱が出ている日や、調子の悪い日は、三浦はこうして私の顔も見ず、玄関から帰って行った。見舞いの品だけを置いて、三浦が玄関先から帰ったことを母から告げられた時、私はどんなに落胆したことだろう。 (顔ぐらい見せてくれてもよかったのに)  よくそう思ったものである。  また、私が歩けるようになって、自分の家の窓べに立つことができるようになったころ、こんなことがあった。三浦の勤務先は、私の家から数百メートルの所にあって、三浦は私の家の前を自転車で通っていた。私は、ある日の夕ぐれ、窓べに立って、今三浦が通るか、もう通るのではないかと、心待ちにしていた。かなりの時間待った後、あと一人、自転車の人が通って行ったなら、あきらめて部屋に戻《もど》ろうと思った時だった。待ちに待った三浦が、窓の外を通りかかった。そして私に気づいて自転車をとめたが、 「体に障《さわ》るから、早くベッドに入ってお休みなさい」  窓越しにそういうと、彼は立ち寄りもせずに、夕闇《ゆうやみ》の中に自転車を走らせて過ぎ去った。  私はその時、なんと冷淡な人かと思ったが、彼はその時も先《ま》ず第一に、私の体のことを考えてくれたのである。そして、週に一度、一時間というペースを、つとめて崩さぬように、自制していたのである。  こうして、私たちは、出会ってから五年目に結婚したのだが、その間の彼の態度は、実に驚くほどに、終始同じであった。  見舞いに来ても、聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りを共にし、信仰や短歌について語る。甘い言葉を交わすこともなかった。まして肉体関係を持つことなど、彼は考えたこともないようであった。  祖母のやさしさが拒絶を知らぬやさしさだとすれば、三浦のやさしさは、拒絶すべきことは拒絶するやさしさであったと思う。  が、この二人のやさしさに共通するものは、一つだと思う。それは共に、意志的だということである。孫たちを、只《ただ》の一度も咎めたり、荒々しく叱《しか》ったりすることのなかった祖母は、感情に流される人間ではなかったということであろう。  結婚することに決めた私と会う時間さえ、つとめて短くし、それも週に一度と規制した三浦もまた、決して情の赴くままに行動する人間ではなかった。  やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではないことを、私はこの二人に学んだのである。      (PHP 昭和五十三年五月号) [#改ページ]  叱られても叱られなくても 「そんなことをしたらパパに叱《しか》られるわよ」  街中で、四歳ぐらいの子の手を引いて歩いていた若い母親がいうのを聞いた。少し行くと、今度は小学一年生ぐらいの女の子に母親がいっていた。 「先生に叱られるから、やめなさい」  偶然、わたしは同じ言葉を聞いたのである。  わたしは、ふと一つの問題を感じた。  もし、そのパパが叱らない人だとしたら、 「そんなことをしたらパパに叱られる」  という言葉は、どう変わるのだろう。同じく、 「先生に叱られる」  という言葉は、どう変わるのだろう。  おじいさん、おばあさん、隣のおばさんになるのだろうか。極端ないい方かも知れないが、もし、誰《だれ》も「叱る人」がいなければ、何をしてもよいということになるのだろうか。  わたしたちの行動の基準は、果たして、 「人に叱られるから」  あるいは、 「人に笑われるから」 「警察に挙げられるから」  というふうに、他に基準をおくべきものなのだろうか。  わたしにしても、 「あ、三浦に叱られる」  と思うことが時折りある。夫に叱られる、妻に叱られる、姑《しゆうとめ》に叱られる、近所の口がうるさいなどと、実にわたしたちの行動は、他に律せられてなされることが多いのではないだろうか。 「叱られるからする、叱られるからしないというのは、最低の人間だ」  いつかある人がこういっていた。わたしもそう思う。わたしたち人間は、叱られようと嘲《わら》われようと、「人間としてすべきことだから」する、またはしないのでなければならないだろう。それが人間なのだ。  この間、白浜のホテルで猿《さる》芝居を見ながら、わたしはそれを思った。動物に芸を教えるには鞭《むち》をつかう。動物は殴られれば痛いから、いうことを聞く。「叱られるから」ということが、わたしたちの行動の基準では、猿に似て全く最低の人間なのかもしれない。叱られぬうちは、「買い占め」をしたり、「垂れ流し」したりする大企業も、これと同じく最低なのであろう。  その反対は先駆者たちである。確かに考えてみると、先駆者たちは、大てい「嘲われ」「指さされ」「叱られ」「迫害され」ても、なすべきことは断乎《だんこ》としてなしてきた。  発明者はたいてい、気狂《きちが》い呼ばわりされたし、新しい思想の持ち主は、官憲の激しい弾圧に遭っている。日本におけるキリスト教への迫害もすさまじかった。  が、人間としてなすべきことは、「叱られても」「殺されても」断乎としてしなければならぬというのが、ほんとうの人間の行動というものではないだろうか。 「誰に叱られても、良いと思うことはおやりなさい。誰に叱られなくても、悪いと思うことは、おやめなさい」  このように言い聞かすことのできる母親ばかりになったとしたら、この世はずい分と変わることだろう。  しかし、問題は、自分の心のうちに、これはなすべきだという叫びが、ないということかもしれない。      (PHP 昭和四十八年十月号) [#改ページ]  人間として持つべき基本  戦時中、私は小学校の教師を丸七年した。だがその時、私は生徒たちに何を基本として教えただろうか。当時は、 「天皇陛下の子供を育てる」  ということが、教師の依って立つところであった。が、その依って立つところがいかに誤っていたかは、今更ここに述べるまでもない。  さて、私は、教師の経験こそあるが、自分に子供はいない。一人の子も育てたことがないのである。だがもし、自分に子供がいたとしたら、私はその子の生きる基本に、一体何を教えるであろう。  私は結婚して今年で十九年になるわけだが、結婚した翌年から今まで、近所の子らを招き、十七回にわたって、わが家で毎年子供クリスマスをひらいてきた。初めは十人ほどの子供から始まったが、今は百二十名からの子供たちが集まる。私はいつの頃からか、その子供たちに、決まってこのような約束をさせてきた。 「あのね、みんな。小母さんと約束して。小母さんと道で会ったら、小母さんに、コンニチハとあいさつして。できたら近所の小母さんたちにもそうしてね」  子供たちは大きな声で、「ハーイ」と答えてくれる。そして確かに、道で会うと、 「コンニチハ」  とあいさつしてくれる。中には恥ずかしそうにして、ニヤニヤッと笑って過ぎ去ろうとする子供もいるが、そのような時には私のほうで、 「こんにちは」  と、声をかけてやる。すると子供たちも答えてくれる。  私はなぜ、「あいさつ」を子供たちに求めるのか。それは、あいさつがいかに人間として生きるために必要なものかを、思うからだ。  ところであいさつとは「心をひらいて迫ること」だそうだ。迫るとは近づくことだ。心をひらいて人に近づくのは、人間としての基本的なあり方である。家族関係一つを考えても、朝起きて、「おはよう」でもなければ、「いいお天気ね」でもなく、お互いむすっとしていたのでは、とる朝食もうまかろうはずはない。  時代によっていろいろな流行語があるが、かつて流行した言葉に、「関係ない」という語があった。あれほどいやな言葉がなぜ流行したのだろう。そこには、「あいさつ」など入りこむ隙《すき》のない、荒れた世界だけがある。  しかし考えてみると、他の人に心をひらくというのは、これは実はなかなかできないことだ。何となく疑ったり、警戒したり、反感を抱いたりする心が人間にはあって、 「こんにちは」  という隣人へのひと言さえ、本当に気持ちよく言える人間がどれほどもいないのではないか。自分の毎日のあり方を反省してみると、私たちが、いかに他に対して心のひらくことのできない存在かがよくわかる。 「心をひらく」  ということが、なぜできないのか。それは、心をひらくために必要な愛が私たち人間にはないからではないか。もし愛があれば、相手が子供であろうとおとなであろうと、 「お元気ですか」 「いま学校から帰ったの」 「きょうは暑いですね」  と、その人その人に応じて、励ましや問いかけのひと言が出ないはずがない。つまり、あいさつとは愛がなければできないことなのだ。  私たち人間の生活には、何がなくても、まず愛がなくては生きてはいけない。家族、友人、知人、隣近所、師弟、どの関係一つを取ってみても、愛がないところに生きることほど侘《わび》しいことはない。  が、その愛は、一体どこから来るのだろう。聖書には、 「神は愛なり」  と書いてある。愛は実に神から来る。私たち人間には真の愛はない。だから、神から愛をもらわなければ、人間の持つべき真の愛は持ち得ないのだ。  となると、どうしても人間は、神を求め、神に導かれる以外に、生きようはない。つまり人間存在の基本は、神にあると思うのである。 〈愛を追い求めなさい〉(新約聖書コリント人への手紙第一四章一節)      (灯台 昭和五十三年三月号) [#改ページ]  何が恥ずかしいか  今年の夏は暑かった。二年分の夏だと人々は言ったが、わたしは三年分の夏のような気がした。その暑い最中、七月二十日から私たち夫婦は取材のために、愛知《あいち》県の知多《ちた》半島に出かけた。出入り十日間の旅だった。  湯気のまつわるような知多半島の暑さは凄《すご》かった。同行は松田穣画伯と、「週刊朝日」の編集者で、都合四人の旅であった。  毎日私たちは食事を共にしたわけだが、その席で、ある日小学校時代の教科書の話が出た。松田画伯と私たちの習った教科書が同じだったから、 「キグチコヘイは死んでも口からラッパを離しませんでした」  という修身の話や、「ハナハト、マメマス」などの話も出た。そしてその中で、三保《みほ》の松原の天女の話も出た。三浦は、漁師が天女に羽衣を返したことが、何とも残念で仕方がなかったと、少年の日の感想を話した。私は、漁師が、 「ああ恥ずかしいことを申しました」  と言う言葉が、心に残っていると言った。確か漁師は、天女から羽衣を返してほしいと言われて、 「天人の舞いを舞ってくれたら返す」  と言ったはずである。天女は羽衣がなければ舞えぬと言う。漁師は、羽衣を返せば、舞わずに帰って行くだろうと疑う。すると天女は言ったのだ。 「天人はうそを申しません」と。  それに対して、漁師は、 「ああ恥ずかしいことを申しました」  と、答えるのである。私は子供心に、この言葉に、はっと胸を突かれたのだ。 (そうか、恥ずかしいとはこういうことなのか)  私はそこではじめて、人間にとって恥ずかしいとは、こういうことなのだと知った。私はそれまで、多分、恥ずかしいということは、人の前で話をすることだとか、先生に問われて答えられないことだとか、思っていたような気がする。  ところで、人は一体、何を恥ずかしいと思って生きているのだろう。少なくとも、うそをつくことを恥ずかしいと思って生きている人間は、万人に一人もいないのではないか。 「記憶にありません」  というロッキード事件の言葉をここで思い出すが、そんな人たちよりも、自分自身、いかに日々うそを言って生きていることか。夫は妻に、妻は夫に、親は子供に、子供は親に、また教師に、絶えずうそを言っているのではないか。そしてそれを決して恥ずかしいことだと反省することがない。うそを言った意識すらもない。それが吾々人間の実態ではないだろうか。  それでいて、妙なところに恥ずかしさを感ずる。たとえば、流行遅れの服を着ているとか、他人の持っている物より自分の物が劣っているとか、金がないとか、自分の人格とは関わりのないことに恥ずかしさを感じている。  小学校時代、よく弁当を手で隠して食べていた友だちが何人かいた。髪の毛が弁当につくほどに頭を下げ、片手で弁当を囲いながら食べている子は、大抵麦飯を弁当に持ってくる子であった。私も麦飯の弁当だったが、 (盗んできたのではない)  と、隠したことはなかった。  ここで私は、太宰治《だざいおさむ》の言葉を思い出す。太宰治は、 「恥ずかしいこと、それは尊敬されることだ」  と、何かに書いていた。この言葉は私にとって大きな感動を与えた。実に衝撃的な言葉であった。尊敬されることほど、誇らしく思うことはないのではないか。あの人は偉い。出来物《できぶつ》だ。頭がよい。すばらしい能力だ。人格者だ。清廉潔白だ。正直な人だ。親切な人だ。男らしい、等々、尊敬の言葉を得たさに、人々はどれほど努力していることか。  ところが太宰治は、尊敬されることは恥ずかしいことだと言い切ったのである。こう言った太宰治の胸に神があった。彼は言っている。 「自分のすべてを、何もかも見通す方がいられるのに、尊敬されるなんて、そんな恥ずかしいことがあるのか」  言葉は正確ではないが、このような意味のことを彼は言った。何とすばらしい言葉であろう。  私たちが人間として恥じなければならないのは、実はこの太宰治のように、自分自身のことではないだろうか。にもかかわらず、私たちはともすれば、自分自身ではなく、自分の持物を恥ずることが多いのではないだろうか。 「お前は何が恥ずかしいのか」  と、立ちどまって自分自身に問うことも、時に必要ではないだろうか。      (月刊ろんだん 昭和五十三年十一月号) [#改ページ]  すなおであること   受験生へ贈る言葉  受験というのは恐ろしい。私が恐ろしいというのは、はいれるか、はいれないかなどということではない。受験ほど、人間を自分本位にしてしまうものはないからだ。  両親も、兄弟も、先生も、級友も、ありとあらゆるものが、自分の受験のためにのみ、存在しているかのように、思ってしまうのだ。  たとえば、少しの物音がしても、 「うるさい。勉強の邪魔になる!」  と、どなったりする。だれが、どんな理由で何のためにたてた物音かなどと思いやる余裕もない。それが、夜食を作るための母親のマナイタを取り落とした音だとしても、 (ああ、こんな夜おそくまで、母は自分のために心を遣ってくれている)  などと感謝することはない。  このように、自分中心になり、この世はすべて自分の受験のためにのみあると錯覚するようになったとき、私たちは自分を失っているといえるのではないだろうか。私が「受験は恐ろしい」といったのは、このことである。  世には、進学する能力があっても、家庭の事情で進学できないものもいる。また、進学しようにも、能力のない人もいる。今、受験勉強ができるということは、大きなしあわせなのだということを、身に沁《し》みて感じてほしい。  その感謝がかえって、心の余裕となり、そして力となる。 「天才とは努力家の別名である」  と、いうことばをきいたことがある。しかし、このたび、私は音楽家の團伊玖磨先生から、 「才能とはきびしい訓練に耐え得る心であると思う」  と、うかがった。  私は、このことばに打たれた。きびしい訓練に耐え得る心とは、受験勉強で頭がカッカとなることとはほど遠いことである。それは、何よりもまず、すなおでなければならないということではないだろうか。  すなおとは、人のことばをうのみにして、何でもハイハイときくことではない。すなおとは真理に従順であるということである。真理に従順になるためには、自分のわがままな感情を自ら叩《たた》きふせて、真理に従おうと意志することであると思う。  だから、きびしい訓練に耐え得る心とは、けっしてガムシャラな自分本位のみにくい心とはちがうということを、わかっていただけると思う。ほんとうに、真理に対して謙遜《けんそん》でなければ、私たちはどんなにガリ勉をしても、人間としての自分を失うことになるのではないだろうか。  若い方はどうか、團先生のおっしゃった「才能とはきびしい訓練に耐え得る心である」ということばを、自分のものとしていただきたい。先生の受けたきびしい訓練は、大学受験勉強どころの比ではなかったのである。      (高三コース 昭和四十二年一月号) [#改ページ]  愛の深さの発露   礼 儀  世界中の人間が、もし礼儀の正しい順に一列に並ぶとしたら、わたしは多分、最後尾のほうに、しょんぼりと並ばねばならない人間であろう。  わたしは、暑い時には、家の中で風呂敷《ふろしき》をふわりと体にひっかけているような人間である。こんな、人に眉《まゆ》をひそめさせるような人間に、礼儀について語る資格があるだろうか。  もう十年以上も前から、わたしの家に、毎年東京から訪ねてこられるお茶の先生がおられる。この方は、茶道界でも置き物と掛け軸については日本一といわれる方で、毎年全国の茶の師匠が、四千人も教えをこいに上京するという程のお方である。  この方はキリスト教の伝道師でもあって、それで、茶とは全くの無縁のわたしの家にも毎年お泊まりくださるのだが、はじめてお訪ねいただく時には、わたしはひどく困惑した。  わたしの家には、長いこと掛け軸が一本しかなかった。だから、十年一日の如《ごと》く、聖書の言葉を書いたその掛け軸を下げているというガサツ者である。その上、茶道のことは何も知らない。そんな偉い先生には、番茶もせん茶も差し上げようがない。困ったことになったと思った。  ところが先生は、わたしの出したお茶をごく自然にガブ飲みをなさった。わたしはその時、 「あ、これが達人だな」  と思った。これで、わたしの気持ちはすっと軽くなった。茶をガブ飲みする程の、茶の達人の前には、どう構えてみてもいたし方がない。  この、茶道を知らぬ者の前では、自分も知らぬ者の如く振る舞う、これが礼儀の極意なのではあるまいか。つまり、それは、決して上から見おろさず、謙遜《けんそん》と、相手への思いやりに満ちたものだからである。  礼儀とは、「思いやり」だといっても過言ではないとわたしは思う。老人に席を譲るのも、道路にたんを吐いたり、ごみを捨てたりしないのも、人にあいさつをするのも、また、前に述べた茶の先生のように相手を窮屈にさせないのも、結局は「思いやり」の心から発するのではないだろうか。  ここで「思いやり」を「愛」といってもよいと思う。愛のある人の言動は、礼儀にかなっている筈《はず》である。四角四面に頭を下げるのが、礼儀とは限らない。ていねいな言葉づかいだけが礼儀ではない。  相手に注ぐ目に、愛に満ちた思いやりがこもっているならば、それは百ぺんの低頭よりも礼儀にかなっている。聖書のコリント第一の手紙第十三章には、 「愛は不作法をしない」  と書いてある。この第十三章は、愛の章といわれるが、それを少しく引用してみよう。 〈愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない〉  この「愛」という個所を、今、試みに「礼儀正しい人」という言葉に置きかえてみよう。すると、 〈礼儀正しい人は寛容であり、礼儀正しい人は情け深い。またねたむことをしない。礼儀正しい人は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える〉  ということになる。真の礼儀正しさとは、こうしたことではないかと思われる。  自分より貧しい者や、能力のない者、体の弱い者を見下したり、自分さえよければと自分の利益だけにきゅうきゅうとして、公害垂れ流しをしたり、人の悪口ばかりいったり、人妻や人の夫と恋愛したり、すぐかっとなってののしったり、「絶望だ、絶望だ」とやけになったりする人間は、いかに言葉づかいがていねいで、一応の挨拶《あいさつ》が出来、服装がきちんとしていても、それは礼儀正しい人とはいえないのではないか。  礼儀とは、愛の深さが自ずと外に現われたものであろう。むろん、その現われ方は個性により、また時と場合によって、千差万別であろうけれど。  こう考えてくると、伝道師のF先生が、茶道の第一人者になられたことも、故なしとしないことに気づく。そしてまた、わたしのような不作法者には、愛がないことにも、改めて気づかされるのである。      (中日新聞 昭和四十八年九月三日) [#改ページ]  社会に及ぼす躾《しつけ》  十年程前、ある外人宣教師夫人に聞いた子供の躾け方が、未《いま》だに忘れられない。  それは、毎日の食卓に出す食物は、主食にしろ、副食にしろ、すべて大皿《おおざら》、大鉢《おおばち》に盛って出すということであった。そして、家族は自分の分をめいめいの小皿にとり分けて食べるというのである。 (なんだ、そんなことか)  と思う人がいるかも知れない。が、この話は、わたしにはひどく鮮明に印象づけられた躾け方であった。  日本でも、このような躾け方をしている家庭があるかも知れない。しかし、わたし自身は、大根おろしでも、豆でも、ちゃんと小皿や丼《どんぶり》に、あらかじめ盛りつけるという食卓に馴《な》らされて育った。わたしは与えられた自分の分を、残さずに食べればよかった。 「残してはいけない」 「こぼしてはいけない」  という二点が、食事の時の躾であったように思う。  が、大皿から取り分けて食べるという躾は、自分のことだけ考えていればよいというわけにはいかない。どんなに自分の好きな物でも、まず全体の人数を考えて、自分の皿に分けるという配慮が必要である。  パンにしろ、サラダにしろ、全家族のことをまず考慮しなければ、快適な食事はできない。 「おい、お前は取り過ぎたぞ」  などと、きょうだい喧嘩《げんか》になってはならないのである。  このように、まず他の人のことを考え、全体の中の一員としての自分を考えねばならぬ訓練を、毎日の食事の中で与えられるということは、何と幸いなことであろう(これは、いわゆる全体主義などとはちがう。各自が互いに他者を顧みることなのだ)。  しかも、こうした訓練が、食欲という本能をむき出しにしたくなる食卓においてなされるのだ。知らず知らずのうちに、それはどんなにか思いやりのある人間性を育てることであろう。三度三度、この訓練を受けた人間と、受けなかった人間の精神生活は、ずいぶんとちがったものになるにちがいない。  この二種類の人間が、成長し、大人になって企業家になったとする。多分一人は、工場を設置するについても、まず、その地域の人々の生活に迷惑を与えないことを考えて、廃液や煤煙《ばいえん》のことを第一に考えるだろう。  だが、他の一人は、社会のことより、まずいかにして自分の利益を上げるかを考えるのではないかと、わたしは思うのである。  たかが食事の躾だけで、そんなに違った人間ができるかと、人は笑うかも知れない。が、一事は万事とよくいわれる。食卓でこのような躾をする親は、他の面においても、また、必ず同様の躾をするにちがいないのである。  それを裏書きするように、かの宣教師夫人はいった。 「うちの子は三歳になると毎週、おこづかいをあげることにしています。子供はそのおこづかいの十分の一を、まず教会に捧《ささ》げます」と。  三歳の時から、もらったおこづかいの十分の一を神に捧げるとは、何とその躾のすばらしいことよ。わたしたちの周囲で、こづかいの十分の一をまず社会の何かに捧げる訓練をしている親がいるであろうか。  ともあれ、躾の如何《いかん》が、その人をどのようにも変え、それが社会にも影響を及ぼすのである。      (PHP 昭和四十八年十二月号) [#改ページ]  夢の母子像 母と乳飲み児の会話[#「母と乳飲み児の会話」はゴシック体]   母と子が楽しそうに会話している状景ほど、清らかで美しいものは少ない。よく乳飲み児を背負った若い母が、その乳飲み児に盛んに話をしながら歩いているのにぶつかることがある。注意してみると、子供は何の意味もない言葉を機嫌《きげん》よくしゃべっているのだ。それに対して母親は、 「ああいい子だ、いい子だ」 「うん、それから」  などと、あいづちを打っている。子供は何がおもしろいのか、ケラケラと笑ったりしながら、この天使語? によって、母親との会話がかわされていく。  ここには、意味はないかも知れないが、心の交流はある。心の交流がある限り、立派な会話と言えるのではないだろうか。  しかし、やがて思春期ともなると時折りこの交流が失われてしまう。帰ってきた息子は「ただいま」もいわずに、ぶすっと自分の部屋に入ったきりになる。かと思うと、また何も言わずにふいと出かけてしまう。  こうなると、親子の会話は何もない。あの幼かった頃の、母との心の交流は、いつの日を境に、どこに失われて行ったのであろう。 眠る前に母子の語らいを[#「眠る前に母子の語らいを」はゴシック体]   近頃は共稼《ともかせ》ぎの夫婦が増えて、母親たちも子供と話をする機会がないという。児童心理学者の品川孝子さんは、こうした忙しい親たちに、夜眠る前のひと時、子供と五分でも話をしてくださいとおっしゃる。  幼稚園の頃の子供は、盛んに話を聞きたがる。自分が語るよりも、まだ聞きたい年頃なのではないだろうか。  わたしはいま、朝日新聞の夕刊に「積木の箱」という小説を連載している。この中には、心の交流のない親子や、またその反対に、いつも心の通い合っている親子の像も書かれている。  この小説の中の、心の通いあっている親子は、雑貨店を経営する、母一人子一人の、いわゆる母子家庭である。忙しいこの母は、夜眠る前のひと時、小学校一年生の男の子と語りあうことに決めている。その母はその子の名前和夫をとって物語の主人公とし、自分の作った童話を聞かせるのである。現実と童話の世界のまだ見境のつかない和夫は、母の童話の中で語られた和夫が、自分だと錯覚する。それは強い暗示力を持った、ひとつの教育方法である。  和夫は、賢くやさしい母との会話の中で、心の美しい、のびやかな性格が作られていく。童話の中では、子供は素直に、何の抵抗もなく、大事な教訓を身につけていくのではあるまいか。正面切って、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、ああしなさい、こうしなさいと言われると、反撥《はんぱつ》する子も、この童話を通じて語りかけられると、案外深い感激をもって共感するのではないだろうか。 愛読者から共感の手紙[#「愛読者から共感の手紙」はゴシック体]   先日、わたしの小説の愛読者で、親しい友人でもある人から手紙が来た。その人は大阪の船田早苗さんという聡明《そうめい》な母親である。彼女は手紙の中で、わたしの小説の中の母子像に共感し、次のように書き送って下さった。 「和夫ちゃんの天国の話を読んでいますと、うちの子供たちの、小さかった頃が浮かんで参ります。(中略)  子供が何かにぶつかって、わあわあ泣き叫ぶ時、わたしが思いついたのは〈痛い痛い〉という架空の物体です。泣いている子供の痛い所から、何かをはがすように大げさなゼスチュアをして、〈痛い、痛い、表へ飛んでいけ〉と、ボールでも投げるようにして、一巻の終りといたします。  そのうちに、〈痛い痛いの旅〉という、わたしのでたらめな話を、毎夜寝る前にせがむようになりました。表にほうり出された〈痛い痛い〉が雀《すずめ》や飛行機にぶつかりながらも元気よくとび廻り、次々にいろんな友だちをつくって世界漫遊をするという話は、いくら話しつづけても、種切れになることはないのです。(後略)」  手紙は、その〈痛い痛い〉を、子供が大変愛情を持って、絵に描いたりしたと、結んであった。  わたし自身子供はないが、小学校の教師を七年——、そのうち三回一年生を受けもったので、幼な子にはどうしても関心がある。母親と、幼な子の夜のひと時は、何と尊いことだろうと、船田さんの手紙を見て思った。 昔の童話を[#「昔の童話を」はゴシック体]   誰《だれ》かが、この頃の若い母は、子供に聞かせる童話も知らなければ、子守歌も知らないと書いておられた。まさかそんなことはあるまいとわたしは思う。何百年の昔から、母が子に語り、子が孫に語りつぎしてきた無形文化財である花咲爺《はなさかじじい》や、カチカチ山の話が、もういまの世で終わりになったとは思えない。母親の創作童話に加えて、この語りつがれた昔話を、お子さん方に語りついで欲しいと思う。  それはともかく、わたしの夢の母子像は、母と子が心から楽しんで、会話をする姿なのである。      (幼稚園とおかあさん 昭和四十三年四月) [#改ページ]  母なるもの  母が死んで、もうじき四か月が来る。私は母の死後、母のことを人に語る気がしなかった。何かに書く気もしなかった。思い出すのがつらかったからである。  母は平生健康な人であった。私と一緒に旭山の動物園に行き、あの広い園内をすたすたと歩いたものだった。私が、 「ここに坐っていかない?」  と、ベンチに坐りこむと、 「どうして?」  と、母は不思議そうに私を見た。 「だって母さん、疲れたでしょう」  と私がいうと、母は笑って、 「疲れたのは母さんじゃなくて、綾ちゃんでしょ。母さんはこれくらいじゃ疲れませんよ」  と言われて、参った記憶がある。ふだん、団体旅行で日本各地を歩いていた母にとって、動物園を一周するぐらいは、何の造作もないことだったのだ。  その母が、単純と見える病気で入院し、その下痢がとまらぬままに体が衰弱し、やがて不意に血圧が高くなり、意識不明におちいって半月後に死んだ。入院した母も、私たちも、母はすぐに帰ってくるものと思っていた。だから私にとって、全くたまらないのである。  通夜の席で、旭川別院の輪番さんは、 「理性と愛情のバランスの取れた、珍しい女性であった」  と、その説教の中でいってくれた。私はその言葉に、もう七、八年も前の、弟の事故死の時の母を思い浮かべた。弟は、見通しのよい横断歩道を歩いていて、猛スピードの車に撥ねられ、三日目に死んだ。四十五歳の働き盛りであった。まだ中学生と、高校生の、いわばまだ父親を必要とする年代の息子が二人いた。親思いのやさしい弟であった。  その弟が車に撥ねられたのである。あと一歩という所で、弟は撥ねられた。が、即死ではなかった。加害者は、私たち家族や親戚《しんせき》と共に、弟の手術後の状況を案じて、病院の椅子《いす》に夜を明かした。  母は声をしのんで泣いていたが、みんなが食堂に朝食をとりに行くと、ふらふらと立ち上がった。そして加害者に近づいて行った。私は母が何を言いに行くのかと、母の姿をみつめていた。すると母はすぐに、私の傍《そば》に戻《もど》って来た。 「何を言いに行って来たの?」  尋ねる私に、母はひっそりと答えた。 「あなたご飯を食べましたかって、言って来たの」  私は驚いて母を見た。愛するわが子をスピード違反で撥ねた犯人に、ご飯を食べたかと、母は尋ねたのである。いや、尋ねずにはいられなかったのである。  母はもう七十代の半ばを過ぎていた。愛する子を撥ねた犯人が憎くて、武者振《むしやぶ》りついたとしてもいたしかたのない年齢である。驚く私に母は言った。 「轢《ひ》かれた昭夫は、もちろん可哀想だよ。でもね。轢いた人も、もし昭夫が死んだら、賠償金を払わなければならないでしょう。中小企業の人だというから、金繰りがそんなに楽なわけはない。過失は過失だけれど、金繰りのことを思ったりしてまんじりともしなかっただろうと、可哀想でね」  母はしみじみとそう言った。私には、思いもよらぬことであった。一週間前にも、スピード違反で免停になったというその人の、不注意な運転に腹が立ってならなかった。恐らく私の兄弟親族も同じ思いであったろう。母は、そうした私たちの気持ちを知っていた。知っていたからこそ、廊下の片隅《かたすみ》にしょんぼりと坐っている加害者に、言葉をかけずにはいられなかったのであろう。  私はこの時、母にはかなわないと思った。そして、よくぞ言葉をかけてやってくれたと感謝した。  私が今後何年生きるとしても、私は母のような気持ちで、 「あなた、ごはんを食べましたか」  と、加害者に向かって言える人間には、なり得ないであろう。あのような愛と理性は、全く天与のものである。  母はまた、こう言っていたことがあった。 「結婚|披露《ひろう》宴の帰りに、みんなお引き物の風呂敷《ふろしき》包みを持って帰るでしょう。あの姿を見るたびに、どこの人の結婚式かはわからないけど、とにかく幸せであって欲しいって、母さんは思うのよ」  母というのは、わが子のみではなく、いつしか他の人にまで愛を及ぼす存在となるのであろうか。子供のない私は、母のその言葉を聞いて、つくづくとそう思ったことであった。      (月刊ろんだん 昭和五十三年九月号) [#改ページ]   私の周辺から [#改ページ]  ケーキの耳  私は小学校四年から女学校を卒業するまで、牛乳配達をして育った。  その日、私は街の菓子屋に牛乳を届けるために、すっかり日の暮れた師走《しわす》の舗道を歩いて行った。ぼたん雪の降る暖かい夕べであった。と、街角に慈善|鍋《なべ》が棒に吊《つ》るされ、傍らに救世軍の人たちが、メガホンで道行く人々に募金を呼びかけていた。  私は立ちどまって、人々が慈善鍋に金を投げ入れる様子を眺《なが》めた。一銭ダラが鍋の底を埋めつくしていて、中には穴あき銭の五銭十銭も何枚か、街灯に光っていた。人々は意外に多く立ちどまり、財布をあけて行く。その様子が小学生の私にはおもしろく、じっと眺めていた。が、そのうちに、自分には投げ入れる一銭の金もないことに気づいて、急に淋《さび》しくなった。私が持っていたのは、一升入りの重い牛乳缶だけであった。  私はその場を離れた。菓子屋に行って牛乳缶を渡すと、職人の一人が「お駄賃《だちん》だよ」といって、大きな袋一杯にケーキの耳を入れてくれた。私はその袋を抱えて店を出た。  少し行くと、三味線を弾きながら、安来節《やすぎぶし》をうたっている、子供づれの盲人が通りにいた。子供の持っている空き缶には、小銭が幾らか投げ入れられてあった。私はちょっとためらったが、袋の中からケーキの耳を鷲《わし》づかみにして、その子にやった。その時その男の子のあかぎれの指が、わたしの手にふれた。  クリスマスが近くなると、なぜか私は、慈善鍋とあの子のあかぎれの指を思い出すのである。      (第三百会花月会目録 昭和五十二年十二月) [#改ページ]  度忘れの弁  人間五十を過ぎると、こうもぼけるものなのだろうか。実によく物忘れをする。特に人の名前を忘れるのには、自分ながら呆《あき》れる。  昨日も東京からの客が来て、その方に本を贈ろうとサインをしていたのだが、突如その方のお名前を忘れてしまった。何としても思い出せない。つい、今の今まで話し合っていたのに、まるで映画のフィルムが切れたかのように、そのお名前が出てこない。  幸い、傍《そば》で三浦が、 「草冠に官……。英雄の雄……」  などと助け舟を出してくれて、どうやら恥をかかずにすんだ。  こんなことはまあ、度忘れということで、誰《だれ》しも経験するし、許されることでもあろう。  が、何度も会っていながら、いつまで経《た》っても名前と顔が一致しないのは、これはもう無責任というものだ。いろいろ努力もするのだが一向に駄目《だめ》である。 「綾子は、人の目しか見ないからいかんのだ。大体綾子は、人物描写にしても、黒い目だとか、涼しい目だとか、目ばかり書く。人間は、一つ目小僧や三つ目小僧じゃないんだ。もっと顔全体に目を向けて、特徴をつかめ」  三浦からも、再々こんなことをいわれる。考えてみると全くそのとおり、わたしは人の顔を見る時、相手の目以外は見ていない。  だから、別れたとたんに相手のイメージは消えてしまう。目だけで、あの人、この人と覚えていられればいいわけだが、そんなわけにはいかない。  ところが世の中には、わたしのような人間とは反対に、人の顔を覚える天才的人物がいる。  こんなことがあった。十二年前、五十嵐広三さんが旭川市長候補として立った時のことである。たまたま選挙演説に、わたしの住んでいる町内に来られて、所信を話された。話が終わって、司会者から、 「皆さん、どんなことでも意見をいってほしい」  といわれた時、わたしはひと言ふた言自分の思ったことを述べた。  それから何日位たった時のことだろう。多分二、三か月後だったと思うのだが、他の場所で五十嵐さんに会った。五十嵐さんはわたしの顔を見るなりいわれた。 「先日はよいご忠告、ありがたく拝聴しました。お言葉よく覚えております」  わたしはびっくりした。何十人か集まっていた演説会場である。しかも、そうした会場を一日に幾つも廻らねばならない。それが連日である。どこで誰が何をいおうと、一々覚えていられるわけはないのだ。だが、五十嵐さんは覚えていられたのだ。  今のように、小説でも書いていれば、あるいは覚えられるかも知れない。が、あの時わたしは雑貨屋をやっていた。いわば名もなき一主婦であった(今も同じ人間で、別に変わってはいないのだが)。わたしの意見がとりわけよかったわけでもない。むろん美人からは程遠い。わたしは只《ただ》驚くより仕方がなかった。  その後、五十嵐さんと何度か会って、なるほどとわかった。すべてがおざなりでないのである。実に誠実なのだ。  わたしには到底そうした誠実さがない。だから、人様の顔も名前も次々に忘れてしまうのだ。もう少し誠実さがあれば、たとえ五十を過ぎようと七十を過ぎようと、こんなことにはなる筈《はず》がない。省みて恥ずかしい限りである。  と、書いてきて、このこともどこかで書いたのではないかと、ギョッとした。      (月刊旭川春秋 昭和五十年一月号) [#改ページ]  かっちらかしの弁 「かっちらかしのお綾」の異名まで頂戴《ちようだい》[#「「かっちらかしのお綾」の異名まで頂戴《ちようだい》」はゴシック体]   今、わたしは「週刊朝日」に連載小説を書いている。わたしの生まれる少し前の大正八年から、現代にわたる予定だが、これにかなりの資料が要る。  わたしの机の上や身辺は、その資料で一杯だ。別に月刊誌に歴史小説も書いているので、そのほうの資料とごっちゃになり足の踏み場もない。いつもわたしに「整理大臣」と呼ばれ、自分では「クロコ」をもって任じている三浦も、もはや手のつけようがない。  昨年クリスマスに、神奈川県の茅ケ崎から知人の子供が遊びに来て、このわたしたちの仕事場を見、 「ウワーッ」  と目を丸くした。その乱雑さに度胆《どぎも》をぬかれたのだ。まさしく「見ちゃあならないものを見た」という顔であった。  大体わたしは、結婚早々三浦から「かっちらかしのお綾」との異名をつけられたほどの、整理|整頓《せいとん》無能力者である。一体いつの頃からこうだったのか。とにかく気づいた時には、かなりの「かっちらかし屋」になっていた。  小学生の頃のわたしの最も親しい友人は、実に几帳面《きちようめん》な人だった。彼女は優等生で、筆入れの中には白いフワフワの綿を敷き、そこにきれいに削られた鉛筆が並べられ、消しゴムも上等の柔らかい消しゴムをきちんと入れていた。彼女のノートは細い字で、実に整然と書かれていた。裁縫箱も、針山にはきれいに針が並べられ、鈴のついた握り鋏《ばさみ》が、ヘラやチャコと共に、常に同じ場所におかれていたものである。  ところがわたしときたら、鉛筆を削った記憶もない。ぐいぐいと満身の力で書くから、芯《しん》がすぐ減る。芯が減ると爪《つめ》の先で鉛筆をむしって、芯がのぞけばまた書き出す。消しゴムを持っていないので、間違った時は指につばをつけてゴシゴシこする。下手をすると、字が消える先にノートが破れる。といった調子だった。  ノートで思い出したが、女学校時代、よく友だちにノートを貸してくれといわれた。が、一度借りて行った友だちは、決して再び借りにくることはなかった。どこに何が書いてあるのか、友人たちには判読もできないという。特に地理のノートなど、滅茶苦茶の地図で、地図の上にめったやたらに、産物だの気候だの、交通だの地勢が書きこまれていて、人にはいたずら書きとしか、見えないらしかった。が、当の本人にしてみれば、実に整然たるノートのつもりなのだから、処置がない。  ノートさえこの調子だから、机の中などはもっとひどかった。チビた鉛筆や、かんだ鼻紙や、どこかで拾った石ころなどがほうりこまれてい、本もノートもごちゃまぜに入っていた。  で、優等生の友人が、見るに見かねて、わたしの机の中を整理してくれたり、帰る時には、カバンの中にきちんと道具を整理して入れてくれたものだ。  余り自慢にもならぬ話だが、衣類にしても同様である。結婚した今も、外から帰ってきて、 「只今《ただいま》」  と大きな声でいうまではいいが、手袋と帽子とマフラーとオーバーの置き場所が全部別々ということは、いつものことだ。脱いだ所、脱いだ所に、置いてしまうのだ。  本棚《ほんだな》に本がきちんと並んでいるということは、恐らく死ぬまでないだろう。一方三浦は、かの優等生の友人の如《ごと》く几帳面で、わたしは「整理大臣」という尊称を奉った。で、彼は、わたしが読んだ本を本棚に戻《もど》さないと、すぐに戻せという。わたしは、あと二、三分したらまた読むつもりなのだが、それでも、 「二、三分あとでもいい、一旦《いつたん》は戻してまた出しなさい。後で使う時に探す時間のロスを思えば、戻すくらい三秒でできることだ」  と彼はいう。 そのわたしの修身が何と最高の「甲」[#「そのわたしの修身が何と最高の「甲」」はゴシック体]   ところで、「週刊朝日」の小説だが、わたしは、昔の小学校三年生が修身を読む場面を書いた。これは昔の国定教科書の復刻版を資料として使った。この修身は、わたしも習った教科書で、覚えのある話や挿絵《さしえ》がいくつもあって、ひどく懐かしかった。  その修身の本を読んで、わたしは思わず笑ってしまった個所がある。そこにはこんなことが書いてあった。 「第六 せいとん  本居宣長はたくさんの本をもつてゐましたが、いちいち本ばこに入れてよくせいとんしておきました。それで夜はあかりをつけなくても、思ふやうにどの本でも取り出すことが出来ました。  宣長はいつもうちの人にむかつて、『どんなものでも、それをさがす時のことを思つたならば、しまふ時にきをつけなければなりません。入れる時に少しのめんだうはあつてもいりようの時に、はやく出せる方がよろしい』といつてきかせました。」  笑うも道理、これはいつも三浦にいわれているのと全く同じではないか。しかも、わたしは確かに、このきちんと整頓された挿絵が記憶に残っているから、むろんよく覚えてもいたわけだ。  当時、成績評価は、甲、乙、丙、丁、戊《ぼ》の五段階だったが、わたしの通信|箋《せん》は修身が何と甲であった。しかも、この受持の教師は、六年間持ち上がりだったから、三年生のその時、既にわたしのかっちらかしを、先刻ご承知の筈《はず》であった。  こう考えてくると、評価ということは、いろいろな問題を含んでいると、今更のように思う。いや、わたし自身どう評価されてもかまわないが、もっと修身教育が力あるものであったら、わたしはこうまでかっちらかしにならずにすんだのではないか、と皮肉な感想も持つのである。      (総合教育技術 昭和五十年三月号) [#改ページ]  夫婦のサイン 「あなた、ほらまた自分ばかりしゃべって、お客さんに失礼じゃない?」  こんな言葉を、わたしたちは不用意に、客の前で言ってしまうことがありはしないか。夫にせよ、妻にせよ、客の前であからさまにたしなめるのは、見ていてあまり気持ちのよいことではない。いくら率直に注意し合っても、客の側は白けるだけだ。客の前では、客に気づかれぬように注意するのが礼儀だ。  が、下手に腋《わき》の下や、足をつつくのも考えものだ。いつかわたしは、三浦に足をつつかれて、 「どうしたの、どうしてそんなにわたしの足をつつくの?」  と言ってしまったことがある。家庭では、テレビの放映や録画取りの時のように、白い紙に書いて、客のうしろからサインを送るというわけにもいかない。  こんな時のために、あらかじめ、夫婦だけがわかる言葉を用意しておいてはどうだろう。例えば、客の前でご主人の鼻いじりの癖が出たとする。その時奥さんは、 「あなたもお茶いかが?」 「あら、今日はあなた、あまりお茶をお飲みにならないのね」  その他、お茶が濃すぎるか、ぬるいか、お茶のことを言う。それを聞いて、そのご主人は、さり気なく鼻いじりを止《や》めるという寸法である。  この場合、いわゆる隠語や外国語のような言葉は、かえって具合がわるい。(何やらわけのわからんことを言い合ってるな。帰ってほしいとでも言ってるのかな)と、客に気をつかわせては、逆効果になってしまうからだ。  とにかく、注意や忠告を素直に受け入れるのはむずかしいものだが、こうしてあらかじめ約束しておくと、いきなり注意されるのとちがって、お互い不愉快にならずにすむのではないか。  そして、これを更に、親子や職場関係に広げることも、お互い考えてみてはどうであろう。      (楽しいわが家 昭和五十年五月) [#改ページ]  豚の腹痛を憂う 「こんなもの、いくら豚でも食えるのかね」  三浦はよくこういう。みかんの皮など豚の餌《えさ》になるまいとか、こんな腐ったものを与えたら、いくら豚でも腹痛を起こすのではないか、などと豚のトン死まで考えるのだ。  わたしがうっかりみかんの皮を残飯入れに投げようものなら、三浦はすぐ拾い出して別の袋に入れる。 「こんな辛いものは、確か豚にはよくないと聞いたが、どうなんだ」  ということもある。兎《うさぎ》に水はやらない話は知っているが、豚に辛いものはいけないのかどうか、雑ぱくなわたしにはとんとわからない。  冬はいいが、夏になると、残飯が腐らないかと始終心配するのも三浦だ。残飯といっても、豚にやる野菜|屑《くず》や、いもの皮などのことである。三浦は米の飯を厨芥《ちゆうかい》入れに入れることを極度に嫌《きら》うので、わが家から米の飯が豚にまわることは滅多にない。で、その野菜の屑が腐らないかと彼は気を遣うわけである。三浦は多分、豚にやる厨芥こそ先《ま》ず冷蔵庫に入れておきたいのであろう。  まるで、豚の友だちか親戚《しんせき》のように、三浦は豚のことをおもんぱかるのだが、これは一例で、豚のことに限らず、他に及ばす影響を、彼は実によく考えるのである。いわばうるさ型というところかも知れない。  ある年代の人は、昔東条首相が、街を歩いていてゴミ箱のふたをよくあけ、中をのぞいたという話を知っている筈《はず》だ。三浦の話はあの東条首相を連想させるかも知れない。確かに事がらとしては共通している。が、東条首相は軍国主義の巨頭であった。三浦は徹底して反戦主義者である。  それはともかく、人間は自分のことばかり考えていると、ろくなことにならない。自分の家族だけのこと、自分のグループだけのこと、自分の企業だけのことしか考えないと、必ずそのしっぺ返しがくる。  この頃は少し鳴りをひそめているが、いつか、石油タンパクを食用として、早く企業化したいと、あるインキ会社の重役がいっていた。三浦はその時、「インキ会社でなくて、インチキ会社臭いな」と言って怒った。人間の健康を二の次にしたような論旨に怒りを感じたのだ。  人間は、人間同士のことはもちろん、他の存在のことを、もう少し考えなければならない。豚のことをおもんぱかる三浦を見ていてわたしは時々こう思わせられるのである。      (全道庁 昭和五十年二月) [#改ページ]  聴き手の責任  この間、ある所で、三人の人々と共に講演をした。会衆は千四百人ほど入っていた。が、その反応の悪いこと、驚くばかりだった。  わたしはともかく、他の二人の講師は、先《ま》ず一流の話し手である。他の聴衆なら、ここで笑うところが笑わない。拍手が起こる筈《はず》のところで起こらない。終始ほとんどそのような調子だった。  こういう聴衆相手は実に話しづらく、気勢が殺《そ》がれる。話し手のほうが自信を喪失してくる。熱の乗りようがなくなってくる。  この講演会のあと、わたしはしみじみと、聴き手の態度というものについて考えさせられた。これが敏感に反応して拍手が起き、笑声が湧《わ》き、そして、しんと静まり返ると、わたしのような下手な話し手でも、何か引き出されるように、豊かに言葉が溢《あふ》れてくるのだ。  聞き上手という人がいる。夫の三浦のことになって申し訳ないが、彼は聞き上手だ。 「へえ——それはまたどうして」 「やあ——それは残念でしたね」 「ほほう、そういうこともありますか」  と、適度に相づちを打つ。妻たるわたしにも同様である。おかげで会話が弾む。彼といて実に楽しい。彼がわたしの中にあるものを引き出し育ててくれる。  あるご主人がいった。 「うちの奴《やつ》には何を話しても、つまらん、つまらんといわれるので、こっちも話す気がなくなりましてねえ」  この人たちには、楽しい夫婦の会話など、全くないという。これは話し手の罪か、聴き手の罪か。実はそのご主人、大変話術のうまい、話題の豊富な人なのだ。  聴き手|如何《いかん》で、相手を育ても枯らしもする。夫や妻や舅《しゆうと》の話がつまらないと思う時は、聴き手の自分が、相手をスポイルしていると反省することも、ままあっていいのではないだろうか。 [#改ページ]  将棋の駒に思う  私はこの新年から、「主婦の友」誌に「千利休とその妻たち」の連載をはじめた。千利休は茶聖といわれるだけに、私には手に負いかねる大人物で、取材だけでも大変であった。ふつう取材といえば、たいていは資料を調べたり、現地に出て行ってゆかりの場所を見聞したりすれば、おおよそは事足りるのだが、利休の場合はそうはいかない。彼は「能楽」への造詣《ぞうけい》も深く、また芸術作品や器物万般への審美眼が一流の人物であった。  という訳で、私自身、多くのことに関心を持ってかからなければならなかった。茶道の稽古《けいこ》場に通うことはむろんのこと、謡曲の師匠のもとにも伺った。茶器について、いくらかでも目を養うために、陶芸教室にも通い、おぼつかない手で、ろくろも廻してみた。そしてとうとう将棋にも手をつけてみた。  将棋は、三浦が若い頃より大好きで、一応段持ちでもあるので、習おうと思えば、習う機会は幾度もあった。だが、もともと勝負ごとの嫌《きら》いな私は、習う気にはならなかった。二、三度|駒《こま》の動かし方を習いかけたことはあったが、やる気がないから覚えない。  それが、千利休を書くことになって、ふと、彼も将棋をしたかも知れないと思ったときに、本気で習う気になったのである。するとふしぎなもので、すらすらと駒の動きが頭に入った。去年の正月のことである。  歴史辞典によると、利休の時代に現在の将棋は完成したという。それ以前には、六十八枚の駒のある大将棋や、飛車角なしの三十六枚の将棋など、いろいろあって、何《いず》れも今のものより複雑なルールであったらしい。  それはともかく、下手ながらも、将棋を知ってみると、これは実におもしろいゲームである。第一に、駒それぞれに個性があることで、小説に似ているというか、人間に似ているというか、まことに興味深い。歩には歩の、金には金の個性がある。一歩ずつしか前に進むことのできない歩が、敵陣に入りこむや否や、一躍金の能力に昇格できる意外性もある。しかも、時には、敵陣に入りながら、あえて昇格しないでいるほうがいい場合もあるというのだから、おもしろい。  更におもしろいのは、個々の駒に能力差があり、しかもそれぞれに必ず泣き所があることだ。 「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」  の川柳が生まれるほど、駒の中で飛車が最も強大である。だから、へぼな者ほど飛車を大事にする。が、飛車さえ持てばそれでいいかというと、そうはいかない。飛車角金銀桂香と、山のように持ちながら、最低の「歩」が一つないばかりに、負けてしまうこともあるそうだ。大体将棋というものは、大駒ばかり大事にしていては駄目《だめ》で、お互いの駒の欠陥をカバーし合うこと、特に「歩」という弱い駒を大事にすることが肝要なのだそうだが、つくづく人間社会のあるべき姿を思わせられるというものではないか。  まだ将棋をはじめて一年そこそこの私だから、おもしろいといっても、たかが知れているだろうが、将棋のおもしろみには底の知れない深さがある。哲学や人生訓の一杯つまっているおもしろさである。  こんなおもしろい遊びを、なぜ私たち女性は小さい時からして来なかったのか。男の子たちが将棋をしているそばで、ただおしゃべりしていたことが、残念に思われる。  いや、将棋だけではない。今でこそ茶道は女性の趣味のように思われているけれども、利休の時代から明治の頃まで、茶は男の世界のものであった。封建的な日本においては、男の世界と女の世界を、趣味や娯楽の面でも、余りに画然と区別、いや差別していたようである。 「知らしむべからず、依らしむべし」の封建律が、知らず知らず男性の女性に対する態度をも歪《ゆが》めてきたように思うのだが、まだまだ改めなければならないものが、日本には多いのではないだろうか。      (赤旗 昭和五十三年一月六日) [#改ページ]  わたしと将棋  もう四十年も前になる。石川達三氏の「結婚の生態」という本が、ベストセラーになった。女学校を出たか出ないかの齢《とし》だった私も、それを早速読んだものだ。その中で、確か、夫が妻に将棋を教えている場面があったと記憶している。  それを読んだ時、私は、将来自分もこんな結婚生活をしたいと思った。正直のところ、昭和十年代のその当時、私の周囲を見まわして、共に将棋を楽しんでいる夫婦などは、先《ま》ず見当たらなかった。  私は十三年もの長い療養生活をしたこともあって、結婚したのは、その本を読んでから二十年も経《た》った後のことであった。結婚する時、「結婚の生態」の中の将棋のことはすっかり忘れていた。私がねがっている家庭は、共にキリストを信じ、祈り、聖書を読み、そして伝道する家庭であった。将棋好きの三浦が、将棋盤を持っていたが、私は将棋には何の魅力も感じていなかった。共に神を信じていることで、十分な対話をかわすことができたからでもある。  それが、結婚十七年を経て、ひょんなことから、将棋を教えてもらうようになった。私はどちらかというと、非常に行動的な人間で、思索型の人間ではない。若い頃、小学校の教師をしていたが、学年主任の佐藤利明という先輩から、 「あんたは頭が良いというより、直感力がすぐれている、といったほうがいいですね」  と、いわれたことがある。実はその直感力も怪しいものだが、とにかく無考えに行動する。 「走り出してから考える」と、フランス人を評する言葉があるが、走り終えても考えないのが私である。その私が将棋を習って、はじめて考えることを知った。一手指すのに十分も考える。三浦が時々、 「よく考えるなあ。初心者はとてもそんなに考えられないものなんだ」  と、呆《あき》れたり感心したりするほど、よく長考するのである。長考するといっても「休むに似たり」の考えであろうが、とにかく私としては新しい経験であった。平生の行動はもちろん、小説を書く時でさえ、 (右にしようか、左にしようか)  と、迷うことはほとんどない。すぐにすべてが決まってしまうのである。千枚の小説「氷点」も、一晩でおおよそのストーリーができたほどの、まことに単純な人間なのだ。  ところが将棋は実に、複雑である。次の最もよい手はどれかと考えはじめると、私のような者にも実にたくさんの手が浮かんでくる。あまりにも幾通りもあり、なかなか納得できる一手をみつけることができない。だからまた考える、ということで長く迷うのだ。  ところで三浦は、一応段持ちなので、局面を初めに戻《もど》して、いろいろ批評してくれる。その際、 「これも一局の将棋だ」  という言葉を、たびたび使う。この言葉は、必ずこう指さなければならないということはそうない、という意味だそうだ。  考えてみると、日常生活にもこの言葉は、非常に必要に思われる。私たち人間は、ともすれば自分の「好み」いや「習慣」「思想」を絶対視して、人の失敗やあり方を許せないものだ。あるいは嘲笑《ちようしよう》したくなることもある。それは、夫婦や家族間においても、往々に起きてくるものだ。そのような時、 「それも一局の将棋ねえ」  と、柔軟に相手を受け入れることができたなら、もっと世の中平和になるのではないか。ぎすぎすしないですむのではないか。人生には、絶対にこうでなければならぬということは、そう多くはない筈《はず》である。指す手は幾通りもあるものなのだ。そのことを私は、この頃将棋から学んだのである。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  註 石川達三氏の「結婚の生態」に将棋の話があったと始めに書いたが、これは私の記憶ちがいで、将棋でなく、囲碁であった。 [#ここで字下げ終わり]      (将棋マガジン 昭和五十三年十月) [#改ページ]  わたしと書道  書道という字を見ただけで、わたしは何か妙な心地になる。それはたとえば、気持ちの合わない友だちにでも会ったような心地である。もしわたしをいじめた人間がいたとして、その人に会ったような気持ちといったら、適切かも知れない。  わたしが初めて墨をすり、筆なるものを持ったのは、小学二年生の時であったろうか。「ノメクタ」という字を書かされたことを覚えている。その時の自分の字を、わたしは今でも覚えている。細いひょろひょろとした字であった。が、それを書くのにわたしは精一杯だった。  筆というものを、わたしはどのように使ったらいいのか、全く見当もつかなかった。初めてスキーに乗った時のような、自信のない、ひどく不安定な気持ちだった。  その時、机間巡視をして来た教師がわたしの書いた半紙を、さっと取りあげるや否や、 「これが堀田さんの字ですか」  と、わたしを叱《しか》った。そしてわたしと並んでいる海野セツという友だちの字をほめた。  それ以来わたしは、自分は字が下手なのだと、あきらめてしまった。それでも小学校の時は、通知|箋《せん》では甲をもらった。ところが女学校に入ると、習字は必ず乙であった。四年間一度も甲をもらわずに、わたしは女学校を卒業した。  わたしはその四年間、書道を無視することによって、乙をもらう敗北感を弱めていた。いや、無視というより、 「習字なんて」  と軽蔑《けいべつ》していたのかも知れない。  女学校を卒業したわたしは、検定試験を受けて教師になった。当時小学校では、一年生から習字があった。習字の下手なわたしに受け持たれた子供たちは、他のクラスとくらべて、やはり下手であった。というのは、わたしが単に下手なだけではなく、まことに申し訳ない話だが、わたしは筆の運び方を教える術さえ知らなかったからだ。 「起筆」も「終筆」も何も知らない。とにかくわたしの書き方は、筆を斜めに打ちこみ、打ちこんだ筆をそのまま素直に運ばずに、ひとひねりして横に運ぶので、必ず起筆がこぶになる。が、こぶになるのがおかしいとも思わなかった。  ところが、習字に堪能《たんのう》な教師が、わたしの生徒たちの習字を見て、「どうして先生の生徒たちは、みんなこぶをつくるのでしょう」  といった。そこではじめてわたしは、そのこぶが悪いことに気づいた。  わたしが筆の運びを正確に知ったのは、何と、教師をしてから三年も経《た》ってからであった。同じ学年を受け持つ同僚の、習字の研究授業を見て、はじめてわかったのである。「一」という字を書くには、筆を置いた角度のまま、筆を横にひけばよいのだということを知って、わたしは驚いた。どうしてそんなこともわからなかったのか。いま考えても、生徒たちに申し訳ない。つまりは、生まれて初めて書いた習字を、みんなの前で笑われたのが、わたしの出発であったからかも知れない。わたしには生来負けん気というものがないので、駄目《だめ》だといわれれば、そうかと諦《あきら》めてしまうところがある。奮起しなかったわたしの罪である。  教師をやめて、わたしと習字は縁がなくなった。一生筆を持たなくてもすむと思った。ところがである。結婚後わたしは小説「氷点」を書き、人様から色紙《しきし》を求められるようになった。まさか、こんな伏兵がいるとは知らず、わたしは小説書きになった。  色紙を書くことは苦痛だった。なぜ小説家が色紙を書かねばならないのか。そう思ったが、断わりかねては筆を取る。何しろ女学校で一度も甲をもらったことがない。これこそ本当に恥をかくというものである。  で、わたしは、自分の字は下手だが、言葉だけはよい言葉を書きたいと、聖書の言葉を選んで書くことにした。 「なくてならぬものは唯ひとつ」 「与うるは受くるより幸なり」 「愛は忍ぶ」  などなどである。やがて、書いているうちに、三浦がほめてくれるようになった。三浦は書道の心得がある。かな文字でも、草書でも、わたしから見ればまことに鮮やかに書く三浦が、 「綾子の字をみていると、書道をするのがいやになる」  といってくれるのだ。また書道の先生も、 「あんたの書は、うまく書こうとしないところがよい」  とほめてくれた。  という訳で、この頃わたしは、下手は下手なりの字というものがあるのだと、安心して色紙を書いている。      (出版ダイジェスト 昭和五十三年六月二十一日) [#改ページ]  はじめての南瓜《かぼちや》  いま、わが家の庭では、コスモスが花盛りである。この家を建てたのは一昨年だった。どうせ、忙しくて庭の手入れなどできはしないから、雑草園にしようと、はじめから覚悟を決めていた。それでもご近所からいただいた桜やいちょう、うつぎ、ライラック、しゃくなげ、萩《はぎ》などで、どうにか庭らしい体裁をととのえたつもりだった。  三浦が、コスモスの花は強いから、手入れが悪くても咲くだろうといい、去年種をまいた。なるほどコスモスの花は強い。今年は何と、塀《へい》の外の砂利の上にまで花を咲かせた。  コスモスは年々増えるらしく、まるで誰《だれ》かが、やけのやんぱちで種をぶちまいたように、乱雑に咲き、中には地に叩《たた》きつけられたように打ち伏しながら咲いている。小さな松や楓《かえで》など、あわれにもコスモスの下にかくれてしまった。一見、なよなよと見えるコスモスが、こんなに傍若無人な花だとは思いもよらなかった。  しかも、このコスモスは花期が長い。秋桜と呼ばれるこの花は、去年も今年も立秋より十日も早く咲いた。暑い盛りに、おずおずと開いた花を見た時、いち早くしのびよる秋の気配に、うらさびしさを感じさせられたのだが、あまりに花期が長い。「散ってこそ花」などという言葉は、春の桜には通用しても、秋桜なるコスモスには通用しない。  この花の咲くしばらく前、わが家の庭の片隅《かたすみ》に青々とした蕗《ふき》が出た。茎もみずみずとして青く、わたしはおいしい蕗が食べられると喜んで、三浦に笑われた。それは、蕗ではなく、南瓜の葉だったのである。  去年、庭の土を肥やすために、厨芥《ちゆうかい》を庭に埋めたことがあった。その中にあった南瓜の種が、今年芽を出したのであろう。  この南瓜はコスモスよりもたくましかった。みるみるうちに四方八方に蔓《つる》をのばし、葉を広げ、いちょうや百合《ゆり》にからまり、コスモスと同様、塀の外にまで這《は》い出した。正に暴君か侵略者のようである。だが、朝々目のさめるような黄色い花を見るのは、楽しかった。  やがて南瓜は実を結んだ。メロンほどに大きくなった南瓜をはじめて見出した時、わたしは声を上げて喜んだ。それからはしばしば庭に降りて南瓜をなでた。僅《わず》か三つだが、わが庭で南瓜を収穫するのは、わたしにとって生まれてはじめてのことである。  わたしは先ずその一つを煮て食べた。いわゆるべちゃ南瓜で、おいしくはなかった。しかし、放っておいたのに、ひとりでわが家の庭に実を結んでくれたと思えば、何かいじらしくて、深い愛着を感じないではいられなかった。  途端にわたしは、はっと心の目が開いたような気がした。清少納言は、 「秋は夕暮、夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころに行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり」  その他、雁《がん》のつらなり、日没後の風の音、虫の音などを秋の印象として記している。清少納言ならぬわたしにしても、紅葉の美しさ、風の冷たさ、時雨《しぐれ》の音、落ち葉を踏む音などに、秋のあわれを感じ、人生の秋を連想させられてきた。  わたしは、南瓜の葉も、蕗の葉も見分け得ぬ街中の育ちである。庭らしい庭もない家に育ち、「実る」草木も野菜も知らなかった。こんなわたしにとって、秋は、   月みれば千々《ちぢ》に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど   さびしさに宿を立出《たちい》で眺《なが》むればいづくも同じ秋の夕暮  の古歌のとおり、淋《さび》しいもの、はかないものとのみ思われた。  が、わたしは、たった三つではあっても、南瓜の結実をわが庭に見て、はじめて秋に対して抱いていた偏見を知った。偏見というのは大げさかも知れないが、知らず知らずに感じ方が片よっていたことにちがいはない。秋はたしかに淋しさを感じさせる季節ではあろう。しかし、秋を淋しいとのみ感じるのは、種まかぬ者の感慨ではないだろうか。  種をまき、草を除き、作物を育てる人々にとっては、秋は一年中で最も楽しみの季節なのだ。無論、報いられぬ悲嘆や苦しみを味わうこともあろうが、それだけにまた、秋は単なる感傷の時ではないといえるだろう。  こんな単純な、わかりきったことさえ、わたしはこの年になってはじめて知った。秋を受け身にしか眺めていない人と、秋に積極的に参加する人とのちがいを知った。  自分にとって淋しい秋は、万人にも淋しいと思うことの誤り。こんなことが、人生にはほかにもまだまだたくさんあるような気がしてならない。      (北海道新聞 昭和四十八年九月二十九日夕刊) [#改ページ]  雪は秋のさかりにも降る  近頃出版した三浦とわたしの合同歌集を繰りながら、北国の秋らしい歌はないかと探してみた。   秋の陽の満ちて砂白き浜べなり家々は大根を干し烏賊《いか》を干す 光世   早目にストーブをつけよと言はれて共に診断を受けて帰り来つ 光世   萩群るる彼方《かなた》に牛は移り行き夕陽の丘に二人のみなりき 綾子  と拾ってきて、次の歌にぶつかった。   雪虫の舞ふ松林出で来れば胡桃林《くるみばやし》の急に明るし 光世  わたしはこれを見て、 「雪虫の舞う頃だから晩秋の歌ね」  と三浦にいった。三浦は、 「晩秋? それは秋のさかりの歌じゃないか」  とおどろいたようにいう。 「あら、どうして? 雪虫が飛ぶのは晩秋じゃない?」  こちらもおどろく。雪虫というのは、地方によって呼び名がちがうらしく、綿虫と呼ぶところもあるようだ。この乳白色の羽虫が漂うように飛びはじめると、一週間か十日後には必ず初雪が降る。初雪の前ぶれのようなので雪虫と呼ぶのだろうか。それとも雪に似ているので雪虫と呼ぶのだろうか。わたしは小説「氷点」にも雪虫を次のように書いている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   雪虫が飛ぶようになった。(中略)北国では、雪の降る前になるときまって、乳色の小さな羽虫が飛ぶ。飛ぶというよりも、むしろ漂うような、はかなげな風情があって、人には寒さを迎える前のきびしい構えが、ふっと崩されたような優しい心持になるのであった。もう、少しの暖かさもなくなった晩秋の夕光の中を、啓造は病院の帰りに、街に向ってうつむきながら歩いていた。(中略)   雪虫がひたと吸いよせられるように、啓造の合オーバーについた。うすいかすかな羽が透いて、合オーバーの茶がうつった。啓造は雪虫をソッとつまんだ。しかし雪虫は他愛なくペタペタと死んだ。それは一片の雪が、指に触れてとけるような、あわあわしさであった。 [#ここで字下げ終わり]  わたしは、この中にも晩秋と書いている。初雪が近いのだから、晩秋だとわたしは思いこんでいる。ところが三浦はいう。 「雪虫の飛ぶ頃は、こちらの紅葉の真盛りじゃないか。紅葉の盛りは秋の盛りだろう」  わたしの目に、燃えるような紅葉と、燦然《さんぜん》と輝くような黄葉の山野が目に浮かんだ。まさしく、秋爛漫? の姿である。  しかし、とわたしは思う。雪虫が漂う頃のあの朝夕の冷気は晩秋ではないか。しかも雪虫が来れば、すぐに初雪なのだ。 「でもね、初雪が降れば、もう初冬だもの、そうしたら、雪虫の頃は晩秋よ」 「そんな雑駁《ざつぱく》な感覚でものを書かれたら困るんだなあ」  三浦は苦笑する。彼はつまりこういうのである。  紅葉もたけなわの、即ち秋の真盛りの十月十五日頃の夕べに、雪虫が飛ぶ。そして、確かにそれが前ぶれのように幾日かして初雪が降る。初雪が、ある年は真っ白に幾センチかつもり、ある年は、紅葉の上にうっすらと降り、ある年は、地におちて、すぐにとけるほどにちらほらと降る。  しかし、いずれも程なく消えて、再び小春|日和《びより》のあたたかい日が幾日かつづくのだ。初雪と共に紅葉もほとんど散る年もあるが、雪のあと、しばらくなお鮮やかな紅葉が、徐々に徐々に色あせてゆく年もある。  初雪がきたからといって、この北国ではもう冬だと思ってはならない。なおあたたかい秋の日和がつづき、初雪の降ったことも忘れた頃にまた雪が降り、そして解け、十二月に入ってもなお暖かい年だってあるではないかと、こう三浦はいうのである。  言われてみれば、確かにその通りなのだ。北国の秋は、紅葉の真盛りに初雪もちらつく。それは、真夏の日盛りの七月の末に秋桜と呼ばれるコスモスが咲き、ふっと忍びよる秋の気配を感ずるのに似ているのだ。  雪は冬に降るものという固定観念によって、秋の盛りにちらつく初雪に、もう冬かと驚かされるのだ。こうして季節感覚が、わたしのように鈍《なま》るのであろう。  北国の秋は、つまり雪も降る秋なのだ。北国に生まれ、育ち、住んで五十年、ようやくそのことに気づいたのは恥ずかしいことだが、微妙に移ってゆく季節の移り変わりを思うと、雪は冬のものと決めてかかる固定観念に似た過ちが、まだまだわたしたち人間社会の生活にもありはしないかと、ふと立ち止まる思いなのである。      (おりじん 昭和五十年創刊号) [#改ページ]  零下三十度・きのうきょう  数日前の夜、東京のある出版社の方から電話があった。重役陣の一人で、ふだんはめったに電話をいただいたことがない。何事かと思ったら、 「今日は零下二十九度だそうですね。いかがお暮らしかと……」  という温かい見舞いの電話であった。  そのあと、もう一件、同じような電話がきた。零下二十九度という寒さは、温暖の地に住む人には、たぶん想像もできない寒さであろう。  わたしの住む旭川の郊外は、気象台発表の温度より二—三度は低い。だからその日は、三十度以下に下がったことになる。秘書の家でも、洗たく機のホースに残っていた水が凍って、それを解かすのが、今日の大仕事だといっていた。去年までは、そんな話は聞かなかったから、今年の寒さが異常なことは間違いない。  しかし、旭川に生まれ、旭川に育った多くの人は、この何十年ぶりという寒さも、じつは、以前ほどこたえないのではないだろうか。というのは、現代の家屋は、耐寒性が進歩しているからだ。壁の間や、屋根裏には断熱材がはいっており、窓はすべて二重窓だ。そのうえ、夜通し同じ温度を保てる石油ストーブや、家によっては、全館暖房もある。まきストーブや石炭ストーブの時代とは違うのである。  一重窓の家に住んでいたころの寒さを、わたしはいまもありありと思い出す。眠っているうちに、寒さがしんしんと額《ひたい》に感じられる。目を覚ますと、はたしてふとんのえりが、自分の息でガバガバに凍りつき、壁には全面、五ミリほどの霜がついたものだ。  とてもその場で着替えられたものではない。まくら元の服や下着をかかえて、ストーブのある茶の間に走る。そのわずか数秒を走る間にも、無数の針が全身に刺さるような感じだった。  いってみれば、家中すべて冷凍庫のようなものだからつけ物は凍る、モチは凍る、洗たく物は凍る、ビン類は割れる、万年筆は割れる、という仕末であった。なにしろ、何もかも凍るのだ。デレッキ(火かき棒)から、ポンプの柄まで凍った。金物が冷え切ると、氷よりも冷たい。うっかり素手でつかもうものなら、手にねばりつく。あわてて離そうとして、皮膚がはがれそうになったことが幾度かあった。  便所がまた滅法寒かった。寒風が下から吹き上げて、股《また》のあたりの感覚がなくなる。よくもまあ、あんな寒いところに、五分も十分もかがんでいたものだと思うのだが、この便所に思い出がある。  女学校時代のこと、姉が友人から借りたジイドの『狭き門』を持ってはいったわたしは、それをうっかり便槽《べんそう》に落としてしまった。「さあ、大変っ!」、とばかり、便槽をのぞき込むと、ウンチの盛りあがった上に、その『狭き門』は引っかかっていた。冬の間は、ウンチが凍りつくのでくみ取りはこない。したがって、太い鍾乳《しようにゆう》石を逆さにしたような黄色い柱が立つのである。ときどきこの柱を鉄棒で突き崩すのが一仕事であった(こんな便所はいまもまだかなりある)。  わたしは恐る恐る手を伸ばして、その本を拾い上げた。拾ってわたしはほっとした。本には一点のしみもついていなかった。幸い用を足す前に落としたので、難を免れたのである。  寒さを知らない地方の人には、ウソのような話だが、聖書に手を置いて誓っていい。ほんとうの話である。  わたしは、こうした寒さの中で、小学四年生から女学校を卒業するまで毎朝、牛乳配達をした。外に出たとたん、鼻毛がねばつき、まつ毛がねばつく。前髪も眉毛《まゆげ》も、老婆のように自分の息で白くなったものだ。  これらのことを思い出すと、毎朝、寒い早朝に起き出して、ストーブを焚《た》きつけなければならなかった母の苦労はどんなであったろうかと思う。  むろん、今は耐寒建築になったとはいえ、零下二十度は、むかしと同じ零下二十度である。寒いことは寒い。うっかりすると、水道が凍結するから、忘れずに水道を落とし[#「水道を落とし」に傍点]て寝なければならない。現代でも、ストーブのない部屋は、けっこう零下十度や十五度には容易に下がるのである。  だから、主婦たちは、野菜を凍らせないために、常時、プラス五度の冷蔵庫を大いに利用することになる。つまり、冷蔵庫の方が暖かいのだ。むろん、室《むろ》も広く利用されてはいるが。  しかし、いかに寒くても、北国の人たちはそれなりに生活を楽しんでいる。スキーもする。スケートもする。雪まつりもある。決して寒さに押しひしがれてはいない。寒さに打ち勝つことを楽しむ根性もあるのである。  とはいえ、ことしのような寒さは、ありがたいことではない。弱い病人もいる。老人もいる。そして、むかしながらの家に住んでいる人もまだまだいるのである。そのうえ、オイルは高くなっても安くなることはないのだから。  とにかく、北海道の冬は厳しいのである。      (朝日新聞 昭和五十二年二月六日) [#改ページ]  わが心のふるさと、夏の北海道  わたしの女学校の頃、六月四日が黒い冬服から、白い夏服に変わる日であった。千何百名かの女学生が、黒から白に変わったその日は、白い花が一斉に咲き出たようで、いかにも夏がきたという感じであった。  六月! それはまさに、北海道に住むわたしたちにとって、感動符をつけたくなるような光り眩《まば》ゆい季節なのだ。十月に初雪が降り、やがて十一月の末には根雪《ねゆき》となり、純白の季節が三月までつづく。長い冬のあとにくる四月は、黒土がその全容をあらわすが、木の芽はまだ固く「黒い春」だ。  五月になってようやく桜、つつじ、雪柳、水仙など一斉に喚声を上げるように咲く。五月から六月にかけて紅白の芝桜が夜目にもしろく土をおおって咲き、ライラックの、あの白と紫の絵具をたっぷり塗ったような花が街に溢《あふ》れる。チューリップは色鮮やかに咲ききそい、甘い匂《にお》いでむせるような、アカシヤの白い花が咲くのも六月の季節だ。  これは、わたしだけの感覚であろうか。毎年、わたしは六月にならなければ「今年が始まった」という気持ちにならないのだ。五月は、どうかすると桜の花のあとに雪が降ることがある。みぞれの降りそうな寒い日もある。が、六月になると、さすがにどこの家も、それまでぐずぐずとつけていたストーブを外す。(もっともこれは旭川《あさひかわ》の話で、釧路《くしろ》や稚内《わつかない》の方面では、一年中ストーブを片づけないでいるようだ)  そこではじめて、わたしは「今年が始まった」という気持ちになるのだ。だから、春宵《しゆんしよう》ではないが「一刻千金《いつこくせんきん》」で、一日一日がたまらなく貴重に思われるのだ。このふしぎな生活感覚は、何十年来、なぜか変わらない。で、いつでも、本州の人たちに半分遅れてスタートをしている感じなのだ。が、その遅れを取り返さねばならぬという思いに駆りたてられて、よく働き、読み、動き廻りはじめることにもなるのだ。北国に生まれ、北国に住みつづけたわたしは、どうやら熊に似て、冬眠の体質になったのかも知れない。  さわやかな郭公《かつこう》の声を聞きながら、グリーンアスパラにマヨネーズをかけて食べるのも、六月の楽しいひとときである。すずらん狩りがあるのもこの六月である。  六月といえば、本州では入梅の季節だという。しかし、北海道には梅雨《つゆ》がなく、からりと乾燥したさわやかな、新緑の初夏である。  七月に入ると、北海道は森閑《しんかん》とした深い夏の季節になる。網走《あばしり》や、サロベツ原野の原生花園にエゾキスゲやハマナスの花の咲く頃、わたしはなぜか、妙に孤独を感ずる。  ようやく七月十日は山開きとなり、川や海に泳ぎに行くことのできる夏がきたのだが、その夏は一か月にも満たない短い期間だ。その短さが、心を孤独にさせるのだろうか。深いみどりの木々を見るにつけても、何か「極《きわ》まれり」という感じがしてならないのだ。  葵《あおい》の赤や白の花、庭先に咲く都忘《みやこわす》れ、そして百合《ゆり》の花、夏咲く花は妙にひっそりとわたしの目には映る。わたしがとりわけ旅に出たいと思うのも、ふしぎにこの七月である。  七月は果物の端境期《はざかいき》である。りんごも去年のは呆《ほう》けていて、今年のはまだ出ない。夏みかんも甘夏《あまなつ》も店頭から姿を消し、ぶどうもまだ早い。内地ものの西瓜《すいか》はあるが、地物《じもの》はない。そんな中で、地物のいちごが出廻るのはうれしい。旭川のいちごは甘い。木の実、草の実は、雨の少ないところほど甘い。雨の少ない旭川のいちごや西瓜やメロンは甘いのだ。庭の一隅につくったいちごが、宝石のように葉かげに光る。下旬頃から出まわる桜桃《おうとう》と共に、北海道の夏の味だ。  この頃になると、わたしの家の庭から見える大雪山《だいせつざん》の白雪もほとんどなくなり、山は茄子紺《なすこん》の色となる。この大雪山の左裾《ひだりすそ》に、有名な層雲峡《そううんきよう》があり、右裾には、さほど有名ではないが天人峡《てんにんきよう》がある。この天人峡には、美しいこと日本一といわれる羽衣《はごろも》の滝《たき》がある。  そして、この天人峡に行く途中から、左に山に登ると勇駒別《ゆうこまんべつ》という温泉があり、ここからロープウエイで、大雪山中の最高峰(大雪山は一つの山でなく、群山の総称)旭岳のお花畑に行くことができる。  また、大雪山の右に連なる十勝連峯《とかちれんぽう》には、白金《しろがね》温泉というところがあり、ここは車で雪渓のあるところまで登れる。ここに行く途中の、両側に五キロもつづく白樺林《しらかばばやし》も見事だ。  七月も二十日を過ぎると、子供たちが川泳ぎに行く日がつづき、気温も三十度を超える日が、何日かつづく。アイスクリームや、ビールが飛ぶように売れるのもこの頃だ。よく、 「北海道のアイスクリームやビールはおいしい」  といわれるが、第一の原因は、北海道の空気がからりと乾燥しているせいだろう。のどが渇けば、水でもお茶でもおいしいのだ。  冬も好きだが、わたしは北海道の夏は日本一だと思う。夏、大阪や九州へ行くと、時折、わたしは誰かにさわられたようで、思わずうしろをふり返ることがある。その正体は、もやもやとまつわりつくような、熱気のある空気のせいなのだ。この空気が幽霊を生んだそもそもの犯人のような気がするほどだ。しかし、少なくともわたしの住む旭川の夏は、そんなもやもやした多湿の夏ではない。北海道は虫も少ない。蚊帳《かや》の要《い》らぬ地方もたくさんある。それが、虫ぎらいのわたしには実にいい。  北海道も年々大工場などが進出してきて、次第に海や河川が汚れつつあるが、それでもまだまだ美しい自然が残っている。北海道の特徴の一つは、やはり清さでもあろうか。旅行者が何に一番感じて行かれるかわからないが、北海道の風物の持つ清さに感動されるならば、幸いといえよう。  八月七日の旧暦の七夕《たなばた》も過ぎ、十日頃になると、夕風に乗って、盆踊《ぼんおど》りの太鼓《たいこ》の音が、遠く近く聞えてくるようになる。その頃になると、浴衣《ゆかた》一枚では肌寒いほどに涼風が吹きはじめる。  盆踊りの太鼓は、夏の終わりを告げる音でもある。盆踊りの歌を聞きながら、ふっと衿《えり》もとをかき合わせる時の、あのいいようもない淋しさは、北海道の人間でなければわからぬものであろう。  が、この頃になって、初とうきびが出る。このとうきびは、どうしても現地でなければ味わえない。それも、もいでから一時間以内だ。時間が経《た》つと、一体どこにあの甘味は消え去るのであろう。わたしはいつも、とうきびの味覚一つにも、神秘なものを感ずるのだ。  とうきびに前後して、地物の甘い西瓜やメロンが出る。そして馬鈴薯《ばれいしよ》も食卓にのぼるのだ。地物の西瓜は、いつも「寒い寒い」といいながら食べる。もうまちがいなく秋風が吹いている。  こうして、北海道の短い夏は、あっという間に過ぎて行く。この短い夏を、わたしは貪欲《どんよく》に、むさぼるように、一日一日味わうのだ。このひたすらな夏への愛着は、長い冬を過ごす北国の人間の、必然的な心理なのだ。そして、それはまた、四季の折目正しい移り変わりの中に、 「この時をいかに生きるべきか」  と、生きることの意味を問うことにも通ずる心情でもあるのだ。      (女性セブン 昭和四十九年六月二十六日) [#改ページ]   折りにふれて思うこと [#改ページ]  懐かしくも淋しい話  札幌で発行されている郷土誌「北の話」七二号の「無責任旅談」を懐かしく読ませていただき、八木義徳氏、瓜生卓造氏、新川和江氏たち、それに八重樫ご夫妻との、十勝川温泉から、糠平までの旅を懐かしく思い出させられた。あれからもう七年にもなる筈《はず》である。  あの旅行には、いろいろの思い出が残っているが、十勝川温泉の笹井ホテルに行った時、鮭《さけ》だけではなく、白身の魚をも凍らせてルイベにし、夏の観光客に出すという話を聞いたのもその一つだ。それがなぜ忘れられないのか、わたしにもよくわからない。時に、ふっとそのことを思い出す。  何でもないことのようだが、他の宿でやっていないことを思いつくということ、そしてそれを実行するということは、本当は大変なことなのだと、わたしは感心したらしいのである。  思いがけなく白身のルイベを供せられた観光客は、帰宅してからも、きっと幾度も思い出すほど、印象に残るにちがいない。旅の喜びは、そうした心づかいに出会う喜びでもあるのだから。  それはさておき、「無責任旅談」を読みながら、あの頃は体力があったと、いささか感慨深いのである。というのは、今のわたしの体は、もう使い物にならないほどにくたびれ果てていて、とても何泊も、他の人と行を共にできる体ではない。  去年はまだそれほどでもなかった。二、三年前に四五キロまで痩《や》せた体が、五〇キロまで戻《もど》った。この分ならということで、三年越し断わって来たアメリカ・カナダの講演旅行を引き受けることにした。三浦と二人の講演旅行で出発予定は、今年の九月末であった。  が、予定はやはり予定であった。異変は三月の二十日に起きた。姪《めい》の結婚式のため札幌に行き、その夜は二時間ほどしか眠れなかった。翌日は朝の十時から式があるということで、着物を着るためにいつもより早く起きた。そして、披露《ひろう》が終わるまでの一日中、体を横にすることができなかった。とめ袖《そで》を着、袋帯をしていては、ちょっと手枕《てまくら》で横になるなどという芸当はできない。  夜の十一時頃だった。ホテルに戻ってから、疲れ切ったわたしは、心臓のあたりに痛みを覚えた。三浦に指圧をしてもらっている時、電話が入った。三浦の母が倒れたというのである。その途端に、わたしは呼吸困難におちいってしまったのだ。首がしめ上げられるような苦しさだった。  すぐにも旭川に駆けつけなければならないという時に、わたし自身の容態がおかしくなったのである。早速に医師を呼んでもらい、注射と服薬で、何とかその場はおさまった。医師は深夜だというのに一時間ほど様子を見てくれた。  その後一か月ほどして、体は元に戻り、函館に行ったり、稚内に行ったりすることもできた。これなら大丈夫ということで、六月の十八日、帯広の近郷にある大樹という町に講演に行った。体が悪くてどんな講演も何年も断わっていたから、アメリカ旅行への小手調べのつもりもあって、出かけて行ったのだ。  この大樹町から、以前にも何度か頼まれていたのだが、今年は三浦の大好物の菓子を持って、わざわざ旭川まで頼みに来られた。菓子は帯広柳月堂の「三方六」である。むろん菓子で心を動かされたわけではない。丁寧《ていねい》な招きの態度に、心が動いたのである。  ところが、大樹町に行ったその日、海霧《ガス》が立ちこめ、ひどく肌《はだ》寒かった。夕食後、三浦と二人で散歩に出ると、どれほども歩かぬうちに、あの首をしめられるような苦しさが、思いがけなくわたしを襲った。この苦しさは、翌日の講演の直前にも起こった。常持していた薬で、その場は何とかおさまったが、カナダもアメリカも断わらざるを得ない体であることを思い知らされた。  旭川に戻ってから、病院で心電図を撮《と》ってもらうと、わたしの心臓は搏力《はくりよく》がほとんどなく、いやいやながら、やっと動いている状態だという。その病院の三階に、親戚《しんせき》の者が入院しているので、見舞おうと思っていたのだが、 「見舞いの品はナースに届けさせるから、すぐお帰りください。階段の上り下りは無理です。家に帰っても、一階に寝るように」  と、医師にいわれて帰って来た。  元々、血圧が低く、最高で九十がふつうで、少し疲れると八十以下に下がる。最低は測定できないほどに下がってしまう。くたびれ切った状態で、その後二か月はほとんど寝てくらした。とは言え、仕事を休むことはできない。  幸か不幸か、肩こり症のわたしは、もう十年近くも前から、時折り口述で小説を作って来た。書き手は三浦である。彼は、わたしの言葉をそのまま原稿用紙に、かなりのスピードで移して行く。早い時は、一時間九枚ということもあった。この三浦のおかげで、わたしは床の中で口述をし、原稿を送ることができた。今後このような方法で、どれほどの期間仕事をしなければならないかわからない。  こういう状態の時に、少なくとも今よりずっと健康であった頃の自分の姿を、「無責任旅談」で、はからずもわたしは読んだ。人に書かれた自分の姿というものは、自分の知らぬうちに、隠しカメラで八ミリフィルムにでも撮られたような、奇妙な心地のするものだ。  ともあれ、もうあのような旅行は、生涯《しようがい》できないのではないか。健康は再び回復することはないのではないか。そう思っているわたしにとって、健やかな日の自分の姿にめぐりあうことは、懐かしくもまた淋《さび》しいことであった。      (北の話 昭和五十一年十月) [#改ページ]  きょうという日には誰もが素人《しろうと》  このたび私は、キリスト教のラジオ伝道牧師である羽鳥明先生と、そしてコロムビアレコード専属歌手胡美芳さんと、一夕食事を共にした。胡美芳さんはクリスチャン歌手として、羽鳥先生と伝道のために旭川に来られたのである。  その席で胡美芳さんは、 「わたくし、歌う前は、食事がろくろくのどを通りませんの。胸がどきどきして」  と、すまなそうにいわれた。 「まあ! 胸がどきどきなさるんですか」  私は驚いて、胡美芳さんのふくよかな顔を見た。彼女は日本で育ち、日本の学校教育を受けた中国人で、戦後|北京《ペキン》の音楽学校を出たあと、二十五年間にわたってコロムビア専属歌手として活躍してきた人である。二十五年間のキャリアがあるのに、彼女はうたうたびに胸がどきどきするというのである。驚く私に、羽鳥明先生も言われた。 「実はわたしも、講演の前は、必ず胸がどきどきしましてねえ」 「ええっ? 先生もですか?」  私は思わず先生の顔を見た。ラジオ牧師として、キリスト教界に高名の牧師である。真実なその信仰は、共産党員として長く活動された弟さんをはじめ、親族三十八人を伝道者に育てられたほどである。この力ある牧師がまた、講演の前には胸がどきどきするといわれるのである。  はじめは驚いた私も、深くうなずくところがあった。 (これこそが、本物だ)  私はそう思った。私自身、これまで幾度講演をしたかわからない。テレビにもレギュラーとして出たし、何千人の集会でも話をした。だが一度として、心臓がどきどきしたなどという経験はない。聴衆が多ければ多いほど、話し易いという極めて鈍感な魂の人間である。これは、はじめからそうであった。話は下手だが、とにかく「あがる」ということを知らないのだ。  それはさておき、お二人の話を聞きながら、私はかつて臼井吉見氏にいわれた言葉を思い出した。私は氏にこう言ったのだ。 「先生、わたしは一作一作、素人なのです」  生まれてはじめて「氷点」という長編小説を書いた私は、次々と注文に応じて、短編、中編、長編と、様々な小説を書かなければならなくなった。どれもが、はじめての経験なのだ。だから、どの小説に対しても掛け値なしにズブの素人なのだ。すると氏はいわれた。 「もしもね三浦さん、一作一作素人だと思って書きつづけることが出来たら、これはもう凄《すご》いものだよ」  言外に、そんなことは出来ないのだと、氏は言われたのかも知れない。確かにそうであった。小説を書いて十四年|経《た》った今、「氷点」を書いた時の初々《ういうい》しさは失われている。そのことを私は、羽鳥先生と胡美芳さんの話を聞いて思い出したのである。そしてお二人のその道における成功の秘訣《ひけつ》が、わかったような気がしたのである。  開演の前に胸がどきどきするということはどういうことか。それはつまり、毎回素人であるということである。いや、素人の心を持ちつづけているということである。何十年ものキャリアがありながら、そのたびごとに新鮮な感動と、そして謙虚な畏《おそ》れを失わないということである。これがつまり成功の秘訣なのだ。  私たちの人生において「この胸のとどろき」が、果たしてよく保たれているだろうか。私はここである牧師の祈りを思い出す。 「未《いま》だかつて誰《だれ》も経験したことのない、この新しい朝を与えられたことを、感謝いたします」  この祈りこそ、私たちの忘れている謙虚さではなかろうか。私たちは生まれて以来、数え切れぬほどの朝を迎えている。が、考えてみると、今日という日は、誰もまだ、一度も経験したことのない日なのである。言ってみれば、今日という日に対しては、誰もが素人なのだ。今日を経験して、今日を迎える人はいない。  そう考えてくると、私たちはいかに今までの経験によりかかり、惰性によって生きているかに気づかされるのではないか。いつの間にか夫婦の間が冷たくなっている。親子の断絶が、どうにもならないところに来てしまっている。仕事に、事業に身が入らなくなってしまっている、などなど、気づいた時にはどうにもならない亀裂《きれつ》が私たちを取り囲んでいる。  もし私たちが、結婚した日のあの喜び、子供を与えられた日の感謝、職を得た日の緊張を忘れずにいるならば、 (どうしてこんなことになったのか)  という嘆きは、もっと少なくなるのではないだろうか。  とにかく、新鮮な感動と、謙虚さを持ちつづけることの大切さを、私は羽鳥先生や胡美芳さんによって、改めて知らされたのである。      (月刊ろんだん 昭和五十三年八月号) [#改ページ]  人の力を引き出す言葉  私が朝日新聞の一千万円懸賞小説募集の社告を見たのは、昭和三十八年|元旦《がんたん》の夜だった。その社告は、私にとっては、自分に全く縁のないものに思われた。  賞金が一千万円という巨額なものであったばかりではない。その応募資格が、既成の作家も対象となっていたからである。その上、小説の枚数も、およそ一千枚でなければならないという。その時まで、小説というものを書いたことのない私が、無縁に思ったのも無理はない。  ところがその夜、私は床の中で考えた。もし私が仮に新聞小説を書くとしたら、どのようなストーリーを考えるのであろうか。そして一夜のうちに出来たのが、あの「氷点」の荒筋であった。  明くる日私は、三浦に、こんなストーリーが出来たが、応募してもいいか、と尋ねてみた。三浦は、 「書いてもいいが、祈りなさい」  と答えてくれた。私は今でもその時のことを思うのだが、もしあの時三浦が、 「小説を書く? まあそんな無駄《むだ》なことはやめておくんだな」  と、頭から嘲《あざけ》ったとしたら、私は果たして「氷点」を書いたであろうか。それまで一度も小説を書いたことのない私なのだ。何の自信もあるわけではない。「否」といわれるか、「応」といわれるかで、吾々の人生は、かなりちがったものになるのではないだろうか。  三浦が、英会話を学びはじめたのは、四十も過ぎてからである。三浦は全くのABCから、独学しはじめた。リンガフォンのレコードを買いこんだり、NHKの基礎英語、続基礎英語を学んだりしはじめた。ところがある人に、 「四十過ぎの語学はものにならないそうだ」  と言われた。この言葉に三浦は、少なからずたじろいだようである。幸いにして意志が強く、既に学びはじめて二、三年も経《た》っていたから、三浦はそのたじろぎを超えて進むことができた。その後、八十の老人が、NHKの通信講座で優秀な成績を上げているから、あなたも頑張《がんば》るようにと言われたり、外人の宣教師から、発音が非常にいいとほめられたりしたことが、実に大きな励みとなって、今も学びつづけている。  人間という者は、実に弱い存在である。駄目な人間だとか、お前には才がないと言われると、自分でもそのとおりだと思いこみやすい。また、ひとことでもほめられると、今までは、自分はつまらぬ人間だと思っていた者が、急にめきめきと力を発揮したりする。それは誰《だれ》でも経験することで、担任教師が変わって急に成長したり、反対に駄目になったりする例があるようなものだ。  私はここで、一冊の歌集を思い出す。   世のためとなりて死にたし死刑囚の眼はもらい手もなきかも知れぬ   許されて働くしぐさを夢うちにありありとみてわれは生きたし  この歌が示すとおり、作者は今は亡き死刑囚である。島秋人と号した。彼は獄窓にあって、ある日、自分の一生を順々に思い出してみた。どんなうれしいことがあったか。人にほめられたことがあったか。彼はそのことを思い出そうとした。だが、幾度くり返し思っても、ほめられた思い出は一度もなかったという。が、何度目かに、彼は只《ただ》一度だけ、図工科の教師にほめられたことがあったのを思い出した。それは、 「お前の絵は下手だが、構図はクラスで一番よい」  という言葉であった。  このことを思い出した時、彼は獄中からその先生に手紙を送った。こうして、師弟の間に手紙が交わされ、それが歌人窪田空穂との出会いにもつながった。彼はどの教師にも、劣等生として、何の価値もないもののように扱われたが、その劣等生であるはずの彼が、以上のように獄中にあって、多くの優れた短歌作品を生み出すことになったのである。  私たちは、人を傷つける言葉を、平気で口から出す。その人が持っている才能や、よさを引き出す配慮には、全く欠けた言葉を平気で出す。それは、夫と妻の関係であっても、親と子の関係であっても、兄弟の関係であっても、師弟の関係であっても、友人の関係であっても、しばしば犯す過ちである。  人間は、前にも述べたが小さく弱い存在なのだ。名前を覚えられていたというだけで、生きる意欲が湧《わ》いたり、駄目な奴《やつ》といわれただけで、死にたくなったりするものなのだ。私たちは心して、人に勇気を与え、喜びを与える、つまりその人のよさを引き出す言葉を出すべきであると思う。 〈必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい〉と聖書にもある。      (月刊ろんだん 昭和五十三年五月号) [#改ページ]  何かが欠けている  ことしの三月、旭川で映画のロケーションがあった。松竹の中村登氏が監督で、出演は俳優座の人たちである。わたしの小説「塩狩峠」の映画化なので、旭川に住むわたしは、三浦と共に幾度もロケーションを見学した。  三月十六、七日の旭川は、零下二十度というきびしい寒波に見舞われた。東京では、もうオーバーも要らないほどの陽気という。東京から来た人々は、どんなに寒かったことであろう。  刺すような川風の吹きこむ空家で、二時間も三時間も同じセリフを同じ姿勢でくり返したり、六、七時間も戸外で何十回となく同じ演技をくり返す俳優たち、そしてそれをくり返させる演出の人たちの、あまりにも真剣な姿に、わたしたちは強く心打たれた。  何十回やり直しさせられても、俳優たちは只《ただ》の一度も、ちらりともいやな表情を見せない。しかも、別段彼らの演技が不出来だからやり直しさせられるとは限らない。通行人の歩き方、陽《ひ》の照り具合、照明の加減、雪の降り方、さまざまな条件がぴたりと一つにならねば、何度でもやり直しである。  やり直しをさせられる人も、させる人も、それは大変な忍耐である。旭川生まれのわたしががっちりオーバーを着、背中に懐炉を入れてさえ、しんしんと骨身に応《こた》える寒さである。一時間只見ているだけでも苦行であるのに、延々と演技はくり返されて行く。しかも、役によってはオーバーも着てはいない。  わたしはそのプロ魂に感動して、秘書とおてつだいの姪《めい》をも見学させた。彼女たちも寒い中に立って、俳優たちの真剣さに心打たれて帰ってきた。  そして、わたしたちは語り合った。一体、わたしたち家庭の主婦たちに、あのようなきびしさがあるだろうかと。  わたしたち家庭にあるものは、たとえ、まずい料理をつくっても、掃除の仕方が悪くても、夫や家人から、やり直せなどといわれることは、めったにない。せいぜい、 「何だ、この味は」  とか、 「もっと家の中をきれいにできないのか」  というぐらいの小言であろう。  このぐらいの小言でも、むっとふくれてみたり、言い返したりしがちなのが、わたしたち家庭にある者の、いつわらざる姿ではないだろうか。職場でなら、責任を感じて平あやまりにあやまるべきところを、ふくれてすましているのである。  考えてみると、ずい分自分を甘やかしているものだと思う。無論、家庭は職場ではないし、妻、または母であることはいわゆる職業ではない。が、家事が自分の持ち場であるならば、やはり責任感は持つべきではないか。映画の人たちの態度を見て、わたしは自分を省みた。  責任感というものは、サラリーをもらっているか、いないかで生ずるものではない。責任感というのは、その人の誠意の問題である。妻たる者が、文句をいわれて、ともすればふくれたくなるのは、やはり誠意に欠けていることから生ずることではないか。それは事の理非以前の問題である。 「あのロケの人たちの十分の一でも、自分にきびしくありたいわね」  わたしは秘書たちと、そんな言葉を只くり返したことであった。      (PHP 昭和四十八年七月) [#改ページ]  目を天に向け真の気魄《きはく》を育てよう  この間テレビで、ロッキード問題の関係者喚問の様子を見た。  証人たちは、いずれも大会社の社長もしくは重役であった。政界の黒幕といわれる男もいた。が、その証人たちすべての答えはあいまいで、視線は宙を泳いでいた。気魄のある答えをした人は、一人もいなかった。それは一体なぜであろう。  気魄!  広辞林には、それを、精神とか気概とかの意と書かれてある。 「あいつは気魄がない」 「物凄《ものすご》い気魄の男だ」  このように、人々は気魄という言葉を使う。が、それは、精神とか気概というよりも、わたしには、もっと底深い、魂の奥底から発する迫力とでもいいたい気がする。  わたしの知る限りでは、次に述べる聖書の一節ほど、その気魄を的確に示したものはないような気がする。  これはイエスが、弟子のユダに裏切られて、官憲に引き渡される時の記事である。 〈さてユダは、一隊の兵卒と、祭司長やパリサイ人(キリストに批判されたユダヤ教の知識人)の送った下役共を引きつれ、たいまつやあかりや武器をもって、そこへやって来た。しかしイエスは、自分の身に起ころうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らにいわれた、「誰《だれ》を捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らにいわれた、「わたしがそれである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしがそれである」といわれた時、彼らはうしろに引きさがって地に倒れた[#「彼らはうしろに引きさがって地に倒れた」に傍点]〉(ヨハネ十八章)  何という凄いイエスの気魄であろう。自分を十字架につけるために、武器を持ってやって来た兵卒の一隊が、引きさがってうしろに倒れるほどの答えを、イエスはなさったのである。  死刑を目前に、これほどの気魄を誰が示し得ようか。わたしは他にこのような例を知らない。  イエスのこの気魄は、その全く清く、全く正しく、全く真実であるところから出た。そして気魄は、このような義・聖・真実の中に育つのだと、わたしは思う。  単なる強がりや、ライバル意識や、ただ自分を駆り立てるだけの上すべりの生活からは、真の気魄は決して生まれない。清さも、正しさも、真実も求めない所に、どうして気魄が生まれよう。もしわたしたちが、気魄を内に育てたいと思うなら、目を天に向けることだ。より高い所に目を向けることだ。より高いところ、それは、卑劣や、悪意や、汚濁《おだく》や、不真実の住まぬ世界だ。  わたしは、より高いところに、若人の清い瞳《ひとみ》が向けられることを切にねがわずにはいられない。      (高一コース 昭和五十一年五月号) [#改ページ]  毛虫にさえ学ぶことができる  私は生来意志薄弱な、怠惰な者である。何をやっても根気がない。長つづきがしない。すぐに飽きる。  あれは小説「氷点」が入選した年の秋だった。私は近所を散歩していた。すると道路を這《は》っている毛虫が目にはいった。毛虫は凹《くぼ》んだ轍《わだち》の跡にさしかかった。そして、毛虫からみると絶壁のようにそそり立っている所を越えなければならない。毛虫は一心にのぼろうとするのだが、途中までのぼると、あっけなく下にころがり落ちる。またのぼる。また落ちる。そしてまたのぼる。だがまた落ちる。  いったい幾度、あの毛虫は途中までのぼって、また落ちたことだろう。私はよほど、棒切れででも助けて、そこを越えさせてやろうかと思った。だが待てよと、私は毛虫のすることをじっと見つめていた。その土の壁は、毛虫の身長の五、六倍はあったろう。私たち人間が、一〇メートルの絶壁をよじのぼるのと、同じような難事業である。  しかし毛虫は、飽きずに、こりずにまたのぼる。私は途中で、もうその場を離れようと思ったほど長い時間だった。だが遂《つい》に、実に遂に、毛虫はその高い土をよじのぼったのである。  私は深く感動した。「あいつは虫けらのような人間だ」などというが、冗談じゃない。虫といえども、私たち人間よりも、こんなにも根気強いものなのだ。学ぼうと思えば、毛虫にさえ学ぶことができるのだと私は感動しながらその場を離れた。  二作目の長編にとりかかっていた私にとって、この毛虫の姿は、大きな励ましとなった。ともすると、怠けたくなる時、わたしはあの毛虫の姿を思い出す。そして、毛虫よりも劣った意志の持ち主であることを恥ずるのである。小野道風が、柳に飛びつく蛙《かえる》の姿に学んだ故事があるが、私もまた同じような体験をしたのである。      (総合教育技術 昭和四十三年十一月号) [#改ページ]  チンパンジーの生態に思う  この間テレビで、チンパンジーの生態を見た。そしてチンパンジーの世界のおきてを知った。  塀の外からバナナの房が吊りおろされると、それを一匹のチンパンジーが素早く手に取って胸に抱えた。私は、他のチンパンジーたちが、そのバナナを目がけて飛びつくのかと見ていたが、驚いたことに、どのチンパンジーも、只じっと、その食べる様子を眺めているだけだった。体だけはすりよせんばかりに近づいても、決して手を出そうとしない。ボスでさえ、その一本をも奪わない。まだほんの小さな子供が欲しがることはあっても、それは例外であって、みんな只じっとみつめている。これが、チンパンジーの世界の第一のおきてだそうだ。他人の、いや他の者が手をつけた食糧は侵さない。それが実によく守られている。日本猿はそうはいかないそうだ。たちまちボスが取り上げたり、奪い合いが展開されるそうだ。  私はチンパンジーの行儀のよさに目を見張った。本能のままに生きていると思っていたチンパンジーにも、意志的な抑制があった。知的な判断があった。食糧は、命の糧である。その命の糧を奪わぬということは、これこそ命を尊重するということだ。人間の世界でいえば、基本的人権を尊重するということでもあろうか。  しかし人間の世界を顧みると、泥棒がいる。詐欺がいる。悪知恵や暴力をもって、他人の持っている物を奪うことの何と多いことか。何だか私は、恥ずかしいような気がした。  更に驚いたのは、チンパンジーのボスのあり方だった。テレビを見ている途中に電話が来たため、なぜそうなったかはわからなかったが、一匹のチンパンジーだけが仲間に入る術を知らず、仲間外れになっていた。だが、ボスだけは、そのチンパンジーのところに行って、時々慰めるのである。一匹、ぽつんとしているチンパンジーを心にかけるということは、これまた私には大きな驚きであった。  人間の世界を見ると、ボスという存在はどうも高圧的で、自分は労せずして利を得ようとしているように見えてならない。あるいは武力をもって脅し、庶民である私たち弱い者を、いじめようとしているように見えてならない。だがチンパンジーのボスは、そうではなかった。大変な人格者(いや猿格者か)なのだ。  仲間に喧嘩が起きると、飛んでいって仲裁に入るのはボスである。どっちかにつくということはない。右をなだめ、左をなだめる。その態度におおらかさがあった。  そしてまた、こんな場面もあった。一つの部屋に、新入りが二匹入って来た。ボスから見ると、体は三分の一もない。大きなボスを見て、この新入りたちは「キイキイ」言って、恐れ逃げまわる。その新入りを安心させようとして、ボスはいろいろ手を尽くすのだが、新入りは泣き叫ぶばかりだ。  と、突然ボスは、両手を床につけ、這いつくばってしまった。解説によると、これは自分を小さく見せて相手に恐れを取り除かせるためなのだそうだ。それはまるで、人間が平あやまりにあやまっている姿のようであった。すると次第に、新入りたちはボスに馴れ、叫ぶことをしなくなった。その新入りたちの歩みに合わせてボスも歩く。ボスは決して、自分のペースに相手を合わさせようとはしない。実に忍耐強く、下手《したて》に下手に出て、馴れさせようとするのである。 (これだけの忍耐、これだけの意志、これだけの判断、一体どこから与えられたものだろう)  私は驚嘆せざるを得なかった。  昼間は、広い自然の中で遊んでいたチンパンジーたちが、夜は宿舎に入って寝る。それにも順序があった。一番先に入るのはボスではなかった。子持ちの雌猿であり、子供たちであった。それらが入るまで、ボスはじっと見守っている。このことにも私は深い感動を覚えた。いや、感動したのは、これにとどまらない。  みんなが遊んでいる広場の塀の上から、ライオンの毛皮が吊りおろされた。生きているようなライオンの顔に、たちまちチンパンジーたちは恐怖におののいて、大騒ぎとなった。その時である。一本の針金のような細いものを手に取って、ボスが只ひとり、勇敢にもその毛皮に近づいて行ったのだ。  見ながら私は思わずうなった。これこそが、真の意味のボスだと思った。弱い者をいたわり、決して弱い者いじめをせず、外敵には自分の危険を忘れて、たった一人で立ち向う。これほどのボスは、現代の人間の世界にはいないと思った。そして考えこんでしまった。本当は、神は人間にも、このボスのように、やさしく勇敢な性質を与えてくれていたにちがいない。それを、いつ、どこで、人間は失ってしまったのだろう。私はひょいと、「有事立法」を思って、ぞっとした。      (月刊ろんだん 昭和五十三年十二月号) [#改ページ]  本当の手当  昔、修身の教科書に、 「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」  と書いてあった。進軍ラッパを、死んでも離さぬほど任務に忠実であり、忠君愛国の精神を全うした兵隊のことを教えたのだ。  このデンを借りてわが夫を表現すると、 「ミウラミツヨハ、シンデモツマノカラダカラ、テヲハナシマセンデシタ」  ということになる。「ミウラミツヨ」は「三浦光世」で三浦の名前である。女とよくまちがわれるが、レッキとした男性である。  彼は実によく、わたしの体にさわってくれる。というと、聞こえがわるいが、実は体に手を当ててくれるのだ。汽車の中でも、家の中でも、人の前でも、歩いていても、実によくわたしの体——肩や背中や腰に手を当ててくれる。  礼拝中のわたしたちを見て、 「教会に来てまで、仲のよいところを見せつけなくてもいいでしょう」  とある方は苦情をいった。またある方は、 「どうも、あの連中の前にいると、目のやり場に困る」  とおっしゃったとか。  わたしたち夫婦はよく仲がいいといわれる。が、仲がよくて手を当てたり、当てられたりしているのではない。もっとも仲がよくなければ、手を当てるどころか、遠く離れて歩くかも知れないから、仲のよい証拠でもあるのだろう。だが、別にいい年をしてべたべたしているのでは決してない。  実は、手を当てると体にいいと聞いてから、三浦がいつもそうしてくれるのである。この頃は、健康法の本がぞくぞくと出ている。その中には「掌療法」なる本もあるので、ご承知の方も多いことだろうが、物理的に確かに体にいいのである。物理的にとあえていったのは、この手当療法を専売特許のようにしている新興宗教もあるからだ。確かに聖書にも手を当てて病人をいやした記事は多くある。が、別に宗教と結びつけなくてもいい。物理的にいいことは確かなのである。  いつか、旅行先でわたしたち夫婦は少年科学館に入った。 「このハンドルを握ってごらんなさい」  とある掲示板に従って、わたしは恐る恐るハンドルを握ってみた。すると、ガラスの向こうに吊《つ》るされた裸電灯がパッとついた。また、ハンドルを握っただけで、中の人形が動き出す装置もあった。  これには説明があって、人体には静電気があり、それが放電されて電流が通じ、電灯がついたり、人形が動くということであった。  短波療法や放射線療法なども、同じような理屈なのだろう。考えてみると、人間痛い所に手を当てない者はいない。腹が痛めば腹に、歯が痛めば歯に、誰《だれ》しも自然に手がいく。これは無意識のうちに、自分自身患部を保護回復しようとしているのである。わたしは時々、自分にも人にもためしてみるのだが、手を当てると当てないでは、確かに痛みがちがう。わたしは一度、三浦に三時間腹部に手を当ててもらい、長い間の鈍痛がなおったことがあった。  作家の田宮虎彦氏は、小さい時に頭蓋骨《ずがいこつ》を砕き、医師に見離されたが、ある人が何時間も頭に手を当ててなおしてくれたことを書いておられた。  もとより人間のすることにオールマイティはない。しかし、案外簡単なことで、体の痛みがやわらげられることだってあるのではないか。いや、簡単といっても、永遠の昔からの真理である場合もあるだろう。現代のわたしたちは、加工しないものは価値のないように錯覚しがちだが、水でも空気でも、みんなふしぎなものばかりである。  それはともかく、この手当はマッサージより無理がない場合もあるし、医師がくるまでの応急処置として用いてもいい。で、わたしたちは、この手当の効用を、よく人様におすすめもし、いささか目ざわりでも、手を当てたり当てられたりしているのである。      (ウーマン 昭和五十年六月) [#改ページ]  ありがたい年賀状  十二月も二十日を過ぎて、郵便局から問い合わせがあった。年賀状をいつ配達したらよいかというのである。  年賀状は元旦《がんたん》に配達されるべきものとは思っているが、世間の事情が変わっているし、元旦ぐらいは、誰《だれ》でも休みたいにちがいないと思って、年末配達を指定した。  すると、十二月三十日、七百枚程の年賀状が束になって配達された。毎年千枚余り来るから、あとの三百枚はさみだれ式に配達されるのだろう。  私はその厚い束を見ているうちに、一種の感動を覚えた。七百枚の年賀状は、いうまでもなく七百人の人々によって書かれたものである。この年賀状の束には、七百人の生活が関《かか》わっているのだ。一体この年賀状の主たちは、どんな一年を過ごして、こうした年賀状を書いたのか。人はそれぞれ、その人にしかない人生がある。そう思って、私はいい難い感動を覚えたのだ。  さて束の中には、新珠三千代さん、池内淳子さん、大空真弓さんからのものもあったし、家出をして来て、私の家に泊まって行った何人かの青年男女たちから来た年賀状もあった。三十年以上、結核で臥《ふ》している人のもあれば、母国を遠く離れて、日本に骨を埋めようとしている外人宣教師からの立派な日本文の年賀状もあった。  夫に自殺されて、路頭に迷っていた婦人、新婚早々の夫婦、何十年えん罪を叫びつつ獄にある人、事業に失敗して一家離散の憂き目にあった人、一枚一枚、年賀状は実に多種多様の方からのものである。  そして、昨年は幸せそうに年賀状をよこした何人かが、本人が亡くなり、家族が亡くなられて、今年はその名を見ることのできない方もあった。  七百枚の年賀状には、活版刷りもあれば、手製の版画もある。ペン字もあれば、達筆な毛筆もある。家族と共に写した写真が刷りこまれているのもあれば、びっしりと細字で一面に書きこまれたのもある。  そうした中の一枚に、旭川将棋会館理塀久男と、すばらしい書体で書かれた名前があった。葉書の右肩には金泥《きんでい》で鮮やかな草書体で書かれた「寿」という字、そして、銀泥で描かれた高い峰と低い山があり、低い山には松の木立が書き添えられている。秀峰の左の元旦という書も、空に舞うカラスも、見事というほかはない。  この理塀さんという方を、私たち夫婦は深く敬愛している。というのは、実は理塀さんは、生まれて一歳にならぬうちに小児|麻痺《まひ》にかかられ、足が不自由なのである。立つことができないのである。右肩にも麻痺が来ているとか聞いたが、にもかかわらず実に性格の明朗な方だ。いつもニコニコと、明るい笑顔で人に接する理塀さんにお会いすると、私たちはそのたびに、生きる姿勢を正されるような思いがする。  緑橋通りという、いわば街のどまん中に将棋会館を開いていて、三段の腕前である。更に特筆すべきことは、右肩が不自由であるというのに、書道は師範の免状を持っていられるのである。細字は右手で書くが、大字は右肩が悪いので、左手で書くそうだ。その左手で書いた横額が、旭川将棋会館に飾られている。  将棋の好きな三浦が、二年余り前から、時折り理塀さんの所にお邪魔するようになったが、その額をはじめて見て来た時の驚きようといったらなかった。三浦は多趣味で、書道もいささかたしなむものだから、そのうまさがよくわかったのだろう。「何ともいえないいい字だよ。綾子、一度見に行ってごらん」と言った。  以来三浦は、しばしば理塀さんの書をほめ、人柄をほめる。理塀さんは、書と共に絵もなさるのだろう。水墨画も部屋にかかげていられる。  私は、理塀さんが心をこめて書かれた年賀状を眺《なが》めながら、一つの芸術を見るような厳粛な思いがした。一字を学ぶのに、その一字を何百回となく書いたものだとおっしゃっていたのも思い出される。その根気強い練習があって、理塀さんは師範の免許を取られたわけだが、それを思いこれを思ってこの一枚の年賀状を眺めると、言葉にはいい尽くし難い思いが、私の胸に湧《わ》くのである。  どの年賀状もありがたい。だが「ありがたい」という言葉を文字どおり感じさせるのは、この年賀状であった。「あることが難い」とは、これなのだと私は自分自身にいいきかせて、三浦と共に、理塀さんの年賀状をくり返し眺めたのである。      (北海道新聞 昭和五十二年一月七日夕刊) [#改ページ]  家事寸感  わが家の家事を受け持っていた、三浦の姪《めい》の隆子がこの五月に結婚した。わたしが雑貨屋をしはじめた当時から、今日に至るまで十一年半、彼女はわが家のハウスキーパーであった。  わたしは掃除も洗濯《せんたく》も炊事も彼女に任せっ放しで、雑貨屋の経営に当たり、のちには小説に専心した。  彼女のあと、自薦他薦の後任者はあったが、今のところわたしはすべてを断わっている。幸い秘書が女で、炊事ぐらい手伝いますよと言ってくれているし、わたし自身も、たまには台所に立ってみたいからである。  ずい分久しぶりに、庭木や芝生に水をやったり、炊事をしたり、掃除、洗濯などをやってみた。家事は一応の段取りさえしておけば、とにかく事が片づいていく。小説のように、一日中書いてはみたが、全部はじめからやり直しということはまずない。働いただけのことが目に見える。  掃除をすれば、散らかった部屋がきちんと整頓《せいとん》され、洗濯をすれば、汚れ物がきれいになる。料理をすれば、とにかく口に入る物が食卓に並ぶ。それは少々下手でも、拙《まず》くてもとにかく全く一日の労働が無駄《むだ》になるということはない。  わたしはそのことを改めて認識した。そして、もし、働きというものが、すべてこのように、よい結果をもたらすものだとしたら、どんなによいことだろうとしみじみ思った。が、世に一日中、足を棒にして歩いても、一つもまとまった仕事にならなかったセールスマンや、半年の労働が気候不順に災いされて無駄になる農家などの例があるのである。その他の仕事にも、これに似た嘆きは多いにちがいない。わたしたち主婦は、家事と、夫の仕事の、そうした本質的なちがいにも、理解と思いやりが必要ではないかと、今更のようにわたしは気づいたのである。  もう一つ、家事にたずさわりながら気づいたことがあった。家庭の主婦はたしかに忙しい。やろうと思えば際限なくやることがある。にもかかわらず、考えようによっては、実にたっぷりと自分の時間を持っている。  というと、冗談じゃない、自分の時間など持てはしないという人があるかも知れない。たしかに、ゆっくり本を読んだり、遊びに出かけたりという時間を持てないほど多忙な人はいるかも知れない。  しかし、少なくとも、ものを思う時間は、職業人よりもゆっくり持てるような気がする。ミシンをかけながら、電気掃除機をつかいながら、または野菜をきざみながら、子供のことを考えたり、夫の言葉を思い出したり、自分の娘時代のことを考えたり、というように、ものを思う時間は多いのではないだろうか。  職場にあっては、妻や子のことを思い出すひまもないほど、次々と仕事に追い回される夫族とは、だいぶちがった、心の風景がそこにはあるとわたしは思う。  性格によっては「ながら」仕事をできない人もあろうが、わたしには家事の時間は、手は確実に仕事を処理しつつ、心の中は何を思ってもよいたっぷりの時間が持てて、実にぜいたくな豊かな時間に思われてならない。  少し意識すれば、家事をしながら、俳句や短歌もつくれるし、哲学的な思索にも耽《ふけ》ることができようし、読書の感想を反すうできるし、意外と自分の時間はあるではないかと思った。以上二つ、再び家事にたずさわりはじめたわたしの感想だが、いかがなものであろうか。      (PHP 昭和四十八年八月号) [#改ページ]  料理上手になるには  わたしはどう見ても悪妻である。理由はいろいろあって、いちいち数えられない。恐らく、自分の気づかぬ理由もたくさんあるにちがいない。  わたしは魚の料理が下手だ。鮭《さけ》を割いて切り身にしたり、その切り身を焼いたりするという、そんな簡単なことさえ満足にできない。それで魚の扱いを三浦によく頼む。三浦はどこで覚えたのか、器用に庖丁を使って鮭を切り分けたり、焼いたりしてくれる。特に魚の焼き方が上手だ。過日、秘書からシシャモをみやげにもらった。たまたま札幌から来た兄に、このシシャモを焼いて馳走《ちそう》した。いうまでもなく、焼いたのは三浦である。 「うん、これはうまい。実にうまく焼けている。家では、いつもカチカチに焼いたのを食わされるんで……」  兄は大層ご満悦のていであった。好みによっては、黒くこげるほどに焼くのが好きな方もいるだろう。が、それはともかく、魚の焼き方一つでもむずかしいものだ。三浦のを見ていると、魚に火が平均に当たるように配慮するらしい。肉のうすいところは黒こげ、厚いところは火が通らぬ、ということのないように心を配る。申し訳ないが、わたしは三浦の焼いた魚が一番うまい。 「漁師の人たちが、命がけで獲ってきてくれた魚だからな」  ある時三浦はそう言った。わたしは、はっとした。これだと思った。ふだんわたしは、三浦の舌が肥えているとか、食通だとか思っていた。が、そうではないのだ。魚一匹にも、これがどんなに多くの人の苦労があって、食膳に供されるかを、実感していたのだ。 「主婦は、一度にたくさんのことをするからね。焼くことばかりに気を遣ってもいられないさ」  と慰めてくれたこともあったが、問題は忙しいかどうかではない。命がけで取ってきてくれたものを、あだやおろそかに扱わないという、この感謝の思いが大事なのだ。この心構えで料理をするなら、魚のみならず、米でも芋でももっと美味《おい》しく料理できるにちがいない。わたしは、今頃になってしきりにそう思っている。      (楽しいわが家 昭和四十九年四月号) [#改ページ]  主婦の立つ所  わたしは前回、主婦の仕事は、男子に比して、無駄《むだ》に終わることも少なく、また一人思索の時や、読書の時を持ちやすいのではないかと書いた。その考えに変化はないが、改めて感じたことがあるので書いてみたい。  若い男女が十人余りわが家に集まった時のこと。ある女性が、 「外で働く夫と、家事オンリーの主婦と、どちらが毎日精神力を必要とするだろうか」  といい出した。 「それはやはり、男だろうな」  煙草《たばこ》の灰を灰皿《はいざら》に落としながら、男性の一人が自信ありげにいった。 「そうね。男の人は一歩外へ出たら、七人の敵がいるというもの。いつも神経がピンと張っているわけでしょう」  他の女性も同調し、男性たちも、職場のきびしさをいろいろあげた。時間を拘束されているだけで疲れる。上司の絶え間ない監視の目は、無意識のうちにも心に圧迫を与えている。一日の仕事は、その日のうちに果たさねばならない。責任を追及される場合、すべて他人からであって、主婦が怠慢を夫に指摘されるような、生ぬるいものではない。  一つ一つもっともなことばかりである。が、最初の女性がいった。 「そういう条件は、もちろん、わたしにだってわかるのよ。でもね、毎日の生活に対する精神力が、どちらに多くかかっているかということなのよ」 「条件のきびしい男性にかかっていることは、いうまでもないだろうよ」 「でもそうばかりもいえないんじゃないかと思うのよ」 「そりゃ、主婦のほうが忙しく、きびしいこともあるだろうよ、例外的にね」 「いや、そういう例外をいってるんじゃなくてね、確かに楽な毎日に見える中の孤独ね、いや、孤独ったら少しずれるわね。そう、マンネリというかな。要するに他人が見張っていることがないだけに、同じことのくり返しは、男の人よりはるかに、一つの壁になりやすいんじゃないかしら」 「なるほど、そういう見方もある」 「生活のマンネリ化を克服するって、容易なことではないわ。しかもね、他律的でなくて、自律的にするということね、これ、大変だと思わない」  ということで、主婦が自覚的に生きるとしたら、それは大変な精神力を要するであろうことが、一同改めて納得させられたわけである。傍《そば》で聞いていたわたしもその一人であった。  確かに、主婦が、目をひらいて、日々新しく生きることはむずかしいことなのだ。無自覚に、のんべんだらりと毎日をくり返すのなら、それは安易でもあろう。いや、その安易さに知らず知らずに引きずりこまれる場が、主婦の場といえるかも知れない。それだけに、男よりも危険な場にいるとさえいえる。  好きな時にひるねをし、好きな時にテレビを見、好きな時に週刊誌をパラパラとめくる。むろんそんな現実は少ないかも知れないが、そうであればあるほど、主婦は退化し、知性も心情も錆《さ》びついていくということになる。  そうした危険を常に克服して、夫と足並みをそろえて進むこと、これは確かに大変な精神力を要することと痛感した。      (PHP 昭和四十八年九月号) [#改ページ]  いつの世でも無駄にしていいことはない 残ったものは持って帰る[#「残ったものは持って帰る」はゴシック体]  「このフライには、かなり野菜がつきますが、やはり野菜サラダも別に召し上がりますか」  行き届いたウエイトレスになると、客の注文にひとことアドバイスしてくれる。が、こういうお嬢さんはそうそうはいない。 「なあんだ、フライにこんなに野菜がつくのか。それならサラダは注文するんじゃなかった。ひとことそうといってくれればねえ」  出て来た皿《さら》を見て、わたしたちは往々こんなぼやきをする。食事の注文は、あらかじめよくよく注意しなければならない。特に、自分の腹とよく相談しなければならない。わたしなど無計画な性格なので、三浦によく注意される。で、いつもこんな反省をするわけである。  但しわたしは、注文して食べ残したものは、ほとんど折り箱に入れてもらって、わが家に持って帰ることにしている。鍋物《なべもの》などは仕方がないが、折り箱に入れることのできるものは、すべてそうしている。これはもう、ずいぶん前からのことだ。  だが、こんなことをするのを、非常にみみっちく感ずる人が、世の中には意外と多い。戦中戦後の、あの食糧の乏しい時代を知らない若い人たちならともかく、戦前派、戦中派といわれる人にも、意外と多いのは、どうしたことだろう。  五、六年前、本州からのお客さんに、街に出て食事をさしあげたことがあった。その方は、何でも召し上がるということだったが、食が細いのか、かなり料理を残された。わたしは例によって、折り箱に入れてくれるように、係のおねえさんに頼んだ。ところが、おねえさんが引きさがると、その方がさもおどろいたようにいった。 「三浦さん、お家に持って帰られるんですか。つましいですねえ」  わたしもおどろいて、なるほど、これを吝《けち》とみる人もいるのかと思った。  あとでわたしは、客に対して失礼だったかなと思ってみた。が、どう考えても、これは失礼ということとはちがう。たとえ万一失礼であったとしても、食べ物を無駄《むだ》にすることのほうが、作った人に対してもっと失礼なことではないか。いや、それよりも、つくられた料理を捨てることは、これはもう許されないことではないかと思う。自分がもし、心をこめてつくったものを、捨てられたらどう思うか。持って帰ってくれたらどう思うか。立場を変えて考えてみたら、すぐわかることだ。  と思って、その後も同じように持って帰ることをしていたのだが、最近身内の者からもたしなめられてしまった。 「綾ちゃん、やめなよ。残り物を持って帰るなんて、恥ずかしいよ。三浦綾子って、吝な奴《やつ》だなあってことになるよ」  というのである。 「そんなこと誰《だれ》も思いやしないわよ。あんた知らないの。持って帰ったら、コックさんに感謝されるのよ」  わたしはいったが、 「そりゃあ、まあそうかも知れないけど、あまりいいカッコじゃないよなあ」  と彼はいう。どうやら、食べ物の無駄より、カッコのほうを考えているらしい。  それはともかく、持って帰ってコックさんに感謝されることは、わたしだけの想像ではない。  ある時、すし屋の主人から直接聞いたことなのだ。 「この頃は、もったいないことをする人が多くなりましたねえ。お客さんの中には、注文しておいて、箸《はし》もつけないで帰る方がありますがねえ。どうなっちゃってるんでしょう。ああいうのは一番いやですねえ。どこが悪かったのか、何が気に入らなかったのか、さっぱりわからない。あれは気になりますねえ。ええ、そりゃもう、残った料理を持って帰ってくださるお客さんには、感謝しますよ。ありがたいですよ。お家に持って帰ってまで食べてくださると思えば、作った甲斐《かい》もあるというものですよ」  そのご主人はこうもいった。 宴会などにみるひどい無駄[#「宴会などにみるひどい無駄」はゴシック体]  「この頃の宴会もひどいですねえ。もう少し会費を安くして、全部食べるようにすればいいんですよ。そう思いませんか。婚礼でも何でも、無理してみえをはることはないんですよね。一回の宴会が終わるたびに、ドラム缶に半分は残飯が出るといいますからねえ、大きな会場だと、一日に三本も出るそうですよ。こんなことをしていて、どうなるんでしょう」  まだ三十代の方である。わたしは、わが意を得たというより、恥ずかしい思いさえした。  全くの話、宴会場の料理の捨て方はひどい。一つの会が終わって、客が立ち上がるか上がらぬうちに、大勢のボーイやウエイトレスがポリバケツを持ってきて、余った料理をみるみるほうりこむ。まだ手のついていない料理も、立派な果物も、一様にポリバケツにぶちこまれるのだ。宴会では、全部折り箱に入れてくれともいえず、いたたまれぬ思いになるのだが、誰も何とも思わないらしい。  大体あの皿盛りにも問題がある。自分の好きなだけ、小皿にとって食べれば、無駄にならないわけだが、残りを片っぱしから捨てるのだから、かえって逆だ。やはり初めから折り詰にして、銘々持たせて帰したほうがよい。などといえば、 「野暮なことをいってもらっては困る。二次会にも行かなければならない。二次会に行くのに、折り詰をぶらさげてなど行けますか。カッコがわるい」  あるいはこんなことを人はいうかも知れない。しかし、カッコのよさなど二の次でいいのではないか。どんなカッコでもいいと思えばいいし、わるいと思えばわるい。  ひところ、男性たちの間に大きな封筒を抱えて歩くことがはやった。あれもひとつのカッコのよさだったのだろうが、封筒よりは折り詰のほうがはるかに価はある。中身は命の糧《かて》なのだ。堂々と二次会にでも三次会にでも持って歩くといい。堂々としていると、わるいカッコもよくなるのではないかと思うがいかがであろう。  とにかく、問題は食べ物を無駄にしないことだ。先日、東京の知人から来た手紙に、 「アメリカ人一人の食事で、インド人五十人が飢えから逃れることができ、日本人一人の食事で、二十五人のインド人の食事をまかなうことができる、といわれています。  お互いこの実態をよく考えてみましょう」  と書かれてあった。  世界のどこかでは、今日も何千何万の人が食に飢えているという。これは決して人ごとではない。  日本人は忘れやすい民族というが、曾《かつ》ての戦争の苦しみと、食に飢えた日のことだけは決して忘れてはならない。消費が美徳だとか、使い捨てがよいことだとか、商業主義に踊らされて、無駄使いが身についてしまったわたしたちだが、ここらで切り替えなければ、再び、食うに食べ物がなく、泣かざるを得ない破目になるのは必然である。いつの時代でも、食べ物を無駄にしていいことはないのだ。      (農業と生活 昭和五十年七月) [#改ページ]  「いろはがるた」偶感  詩人尾崎道子さんの経営する民芸店で、いろはがるたを買った。その時尾崎さんは、 「いろはがるたにも、関東と関西があるんですってね」  といったので、私は帰宅するなり、百科事典をひらいてみた。なるほど、いろはがるたには、江戸と大阪と京都の三種があった。たとえば、「い」は、「犬も歩けば棒にあたる」が江戸で、「一を聞いて十を知る」が大阪、「一寸先はやみ」が京都であった。「ろ」は、「論より証拠」が江戸で、「六十の三つ児」が大阪、「論語読みの論語知らず」が京都という具合だ。  私たち北海道の者は「犬棒かるた」で遊んだわけだから、即《すなわ》ち江戸のかるたである。大阪や京都で、別のかるたで遊んでいる子供たちがいるとは知らず、「犬棒かるた」だけが「いろはがるた」と思って育ったわけだ。  それはともかく、子供のない私が「いろはがるた」を買ってきたのは、遠い幼い日への郷愁である。三浦と私は、いろは四十八文字のかるたの言葉を、どのくらい覚えているか、記憶くらべをしてみた。 「『に』は何だったっけ?」 「憎まれ子世にはばかるさ」 「じゃ、『ぬ』は?」 「ぬ? ええと……」  思い出そうとするが、二人ともわからない。忘れてしまっている。「いろはがるた」も忘れる齢《とし》かと思った途端に思い出して、ぽんと膝《ひざ》を打ち、 「ぬす人のひるねよ」  と、ほっとする。そしてそのあとに、 「では、その言葉はどんな意味だったのだろう」  と、二人はまた考えっこをした。 「花より団子」や「骨折り損のくたびれもうけ」などの意は、子供の時からわかっていたが、「へをひって尻《しり》つぼめ」となると、二人とも自信がない。そこで、かるたについている解説を調べてみた。すると、「しくじったあとで取りつくろうこと。後悔のはかなさをいう」  と書いてあった。何か、わかったような、わからないような感じである。「月夜に釜《かま》をぬく」も明確にはわからない。これは「『月夜に釜をぬかる』を逆転したもの。明るい月夜に、大事な炊事用具の釜を盗まれること」とあった。つまりは、まぬけということなのか。  こうしてひと時楽しんでいるうちに、「無理が通れば道理ひっこむ」の札を見た。「昔も今も同じなのねえ。無理が通って、道理がひっこめられて」「全くだなあ。これは庶民の、権力者への嘆きから生まれた言葉かも知れないね」  私たちはそんなことを話し合った。がその時私は、世にも稀《まれ》な一人の男性を思った。この人は鈴木新吉という、私たちの家を建てた棟梁《とうりよう》である。彼は戦時中召集されて北支に征《ゆ》き、トーチカ無血占領の功で金鵄《きんし》勲章をもらったほどの勇士である。が、只《ただ》の勇士ではない。真の勇士なのだ。  というのは、彼はキリスト信者で、およそ人を恐れたことがないのである。例えば、当時少佐であった上官を、荒縄《あらなわ》でしばって、バケツの水を頭からかぶせたという武勇伝を持っている。その少佐は酒癖の悪い男で、ある夜酒に酔って歩哨《ほしよう》に絡《から》み、 「敵がこうきたら、どうするか」  などとくだを巻いて困らせた。見かねた彼は、まだ上等兵ではあったが、歩哨の持っていた銃剣を取るやいなや、 「敵が来た時は、こうするんであります!」  と、鋭く銃剣を少佐の胸に突きつけた。それでも尚《なお》絡んでやまない少佐に腹を立てた彼は、荒縄でしばり、水をぶっかけたというわけである。  翌日彼は少佐の部屋に呼ばれた。反逆罪のかどで、重営倉か下手をすれば銃殺刑になるのではないかと騒ぐ部下たちを尻目に、彼は堂々と少佐の部屋に行った。彼は陸軍刑法に、 「戦地において歩哨の勤務を妨害したる者は死刑に処す」  とある以上、自分の処置は理の当然であると信じていたのである。しかし当時の軍隊は、星一つ違えば絶対服従、無理難題の通る世界であった。上官への反抗は、即《すなわ》ち天皇への反逆として扱われる時代であった。こともあろうに、上等兵|如《ごと》きが少佐に縄をかけ、水をかけて、おだやかにすむ筈《はず》はない。部下が心配したのも無理がなかった。だが、彼を迎えた少佐は、彼を見るなりいった。 「やあ鈴木上等兵、すまんかった。よく水をかけてくれた。俺《おれ》は感謝する。実は俺は酒癖が悪くて以前にも大失敗をしたことがあってなあ」  なんと少佐は彼に礼をいったのである。彼の気魄《きはく》が上官の無理をひっこめたのであった。彼にはこのようなエピソードが実に多い。彼のかるたには、「無理が通れば道理ひっこむ」の語はなかったのであろう。      (北海道新聞 昭和五十三年一月四日夕刊) [#改ページ]  わがことであっても  昨年の秋であった。その日も沢山《たくさん》の読者の手紙がわたしの手許《てもと》にとどいた。その中に、新日本窒素に勤める夫を持つ主婦からの便りをいただいた。  それは、わたしの著書「この土の器をも」の一つの個所を読んで、不満をぶっつけてきたのだった。  わたしが雑貨商をしていた時、パンを買いに来た客が腹痛を起こした。わたしは、もしや、わが家のパンが原因ではないかと夜も眠れぬほど心配した。  また、真夏に仕入れたばかりの豆腐がふっと臭《にお》い、買って行った客の家まで駈《か》けて行った。既にその客は何も気づかずに食べたあとだった。  その家には、やっと歩き出した赤ん坊もいて、もし、その豆腐のために下痢でもしたら一大事と、その日一日、その客の家を何度ものぞきに行った。  もし、万一豆腐がもとで中毒したり死んだりすることがあったら、わたしは恐らく、店をたたみ、家を売り、あらゆる算段をして、お詫《わ》びせずにはいられなかったろう。  これが、われわれ庶民の生活感覚ではないか。水俣《みなまた》病など、明らかに工場の廃水が原因とわかっているのに、企業家は傲然《ごうぜん》たる態度で遺族や患者を見おろしている。  廃液が無害なものなら、廃液の中で魚を飼い、経営者はそれを食べてみるがいい。わたしは水俣病の記事を読むたびに、多くの命を奪い、一生を苦しめ、狂わせた企業に限りない憤りを感ずる。仕事が小さかろうが、大きかろうが、人間の命を第一に考えなければ、ついには呪《のろ》われた企業となり果てるにちがいない。  以上のようなことを、わたしは書いた。これは、わたしだけが言っていることではない。一般庶民が感じていることを、わたしも又言ったに過ぎないのだ。こんな当然のことに対して、文句が来るとは、わたしは夢にも思わなかった。  その手紙の中には、 「会社はこれまでたびたび謝罪もし、補償にも真剣に考えて来たが、患者の要求額が途方もない高額で……」 「マスコミはとにかく加害者をやっつければ、大衆に受けがいいので……」 「あなた自身、工場で生産される便利な物を全く使わず、自動車も無用とのみ日頃お思いなら傍観者の様な、被害者一方の様な発言で『自分だけは手を汚していない』という態度が出来るでしょう」 「クリスチャンは公害に対する考え一つにしても謙虚さがない」 「私はたまたま公害企業の従業員の妻ですが、あなたがそうでないのはあなたの努力の結果でしょうか」 「相手をこらしめ、補償金をとって救われ爽快《そうかい》になれるのなら、何と単純な人の世でしょう」  わたしは、いま、ここにこう紹介しながら、人間は何と自分本位の立場でしか、ものを言えないものかと、つくづくと感じた。  一人の人間の命は、どんなに尊いことか、この人は一体わかっているのだろうか。人間の命を本当に尊いと知っているならば、患者の要求額が途方もない[#「途方もない」に傍点]などとは、決して言えないのではないか。  交通事故で車にはねられて死ねば、一千万とか、飛行機事故が一千五百万とか、社会的な人間の命の価がほぼ定められているこの世では、「途方もない要求額」という言葉も、ついうっかりと出るのだろう。が、人間の命はいかなる金額に換算しても、「途方もない」ということは決してないのだということを、先ず、わたしたち一人一人が知っていなければならないのだ。  これがしっかりわかっていれば、 「相手をこらしめ、補償金をとって救われ爽快になれる」  などという、あまりにも馬鹿げた言葉は出て来ない筈《はず》だ。  この主婦は、自分が新日本窒素の従業員の妻として、社会から白眼視される苦しさをつぶさに味わっているといっている。彼女の苦しみは、あくまで、白眼視される会社側に身を置いての発言であって、水俣病患者の身にはなっていない。  もし、自分が水俣病にかかり、又は家族がかかって、死んでいたとしたら、あるいは一生を水俣病で苦しみ生きねばならぬとしたら、こんな言葉を、かりそめにも吐くことができるだろうか。  補償金をとって救われ、爽快になれるかどうか、考えてみるがいい。冗談じゃない。金はあくまで補償費であって、救済になんかなるものか。爽快などになるものか。金を一億|貰《もら》おうと、十億貰おうと、日々苦しみつつ生きる、その苦しさは消えることはないのだ。  そのただ一度限りの人生は、もはや絶対取り返しがつかないのだ。ある人は一生結婚もできず、ある人は職にもつけず、ただもがき苦しむだけの一生なのだ。そのことへの痛みが、この主婦には一体どこにあるのだろう。  また、この主婦は、お前も工場で生産される便利なものも使っているじゃないか。使っていて、何で自分だけは手を汚していないと言えるのかと開き直っている。  冗談じゃない。新日本窒素の生産品をつかっている者には、水俣病の責任もあるのだと、彼女はいっているのだろうか。問題のすりかえ、責任の転嫁《てんか》もよいところである。  この間朝日新聞の天声人語で、英国のサリドマイド剤をつくって売っていた会社が世論の袋叩《ふくろだた》きにあっている記事を見た。ジョニウォーカーなどウイスキーも作っている大企業である。  英国は日本とちがって、世論は大企業に「爆発的な激しさ」で、スーパー、ホテル、小売店まで不買運動を起こしているという。大株主もまた「実業家であると同時に、まず人間であるべきだ」と、社長の不誠意を詰《なじ》ったと天声人語氏は言う。  日本の一株株主を追い散らす、あの株主総会と較《くら》べて、何というちがいか。  わたしが言いたいのは、わが夫であれ、わが党であれ、わが会社であれ、わがことであれ悪いことは悪いとして、反省する姿勢を持たぬ限り、解決はないということである。  この主婦は「お互いに許し合え」と書いて来ているが、あやまりもしないものを、神さえ許しては下さらない。神の正と義は、そんないい加減な甘やかしではない。  外国には、工場の廃液を飲める程に浄化しているところもあるというのに、そうしたことの出来ぬ自分の会社の在り方に、なぜ激しい抗議を、先ず従業員がなさないのか。  もっとも、わたしに抗議して来た主婦のような考えは、かの会社に他に一人もいないというのであれば誠に幸いな話ではあるが。 [#改ページ]  わたしはなぜ書くか 「三浦さんは、宗教と文学をどのようにお考えですか」 「あなたはキリストを信ずるといいながら、小説を書いていらっしゃる。何の痛みも矛盾《むじゆん》もお感じになりませんか」  物を書くようになって、わたしはたびたびこんな質問を受けるようになった。はじめのうちはキョトンとしたものだが、この頃はハッキリ答える。 「わたしにとって、信仰は絶対のものです。書くことはやめても、信ずることはやめるわけにいかないのです。ですから、キリストを信じながら小説を書いていて、一向に良心の呵責《かしやく》も矛盾も感じません」と。  宗教と文学が一つの平面上におかれるもの、あるいは矛盾対立するものであれば、わたしはその間に立って悩むことになるのであろう。また、小説を書くことが、罪だというのなら、うしろめたくもなるのだろうが、わたしは自分の小説が、いかに拙《つたな》くても、それで罪を犯しているとは考えたことがない。  人間は確かに、罪の塊のようなものである。その罪の塊のような人間を描くとなると、きれいごとばかり並べられないのは当然である。現実に、感動的な、美しい事実もわたしたち人間の中にはあるのだが、そればかりを追求してはいられない。人間の醜さも描かねばならない。ということになると、ある人は、その醜さを見て人生に幻滅し、絶望するかも知れない。ある女性は卑劣な男性の行為におどろき、結婚を諦《あきら》めるかも知れない。あるいは、わたしの小説を見て、姦通を真似《まね》るかも知れない。わたしは決して、性的欲望をあおる小説を書こうとは思わないし、書いてもいないつもりだが、考えてみると、わたしの知らないところで、いろんな影響を及ぼしているであろうことは想像できる。 「その悪影響ですよ。それが全くないとはいえないでしょう。そこに小説の持つ罪作りな面があるではないですか」  人はあるいはそういうかも知れない。が、そうまでいわれるとすれば、もはや生きていること自体が申しわけのないことであって、太宰治のせりふではないが、 「生きていてすみません」  と、誰しもこの世をおさらばするより仕方がないではないか。  確かに、ぎりぎり詮《せん》じつめていけば、人間は、たとえ小説を書かなくても、申し訳のない存在である。時には、それぐらい徹底して、人間がどうしようもない存在であることを、認めてかかるのも大切だ。  が、そうした人間であるからこそ、神は救いの手をさしのべてくださったのだ。人間の抜き難い罪のゆえにこそ、キリストがその責をかぶってくださったのだ。  それは、聖書が明確に示しているところである。  聖書は世界最大の文学とよくいわれるが、正にそのとおり、実によく人間を描いている。特に、その醜悪・罪悪を抉《えぐ》り出してやまない。しかし、ただに抉り出すだけではなく、聖書はその救いの道を明らかに証明しているのである。  わたしはこのキリストの救いを、十三年の闘病生活において知らされた。そして、これこそが、人間を真に生かす道、真に幸いにする道、即ち福音であることを知った。わたしはこの福音を伝えずにはいられない。従ってわたしは、直接であれ、間接であれ、このキリストの福音を伝えようとして書いているのである。たとえ文学的には、どうであれ、この信仰の土台に立って書いているのである。  こうした態度が、文学的に問題視されることは知っている。主人持ちの文学、護教文学といった批判である。確かに、一つの信条を小説の中に主張するというようなことは、文学的には具合のわるいことなのであろう。だがわたしは、文学的にどうであれ、この姿勢を変えるわけにいかないのだ。 「一歩でも人を動かすものこそ真の文学」とか。所詮わたしは半歩も人を動かせない。が、わたしの書くものを通して、一人でもキリストに向いてくださる方がいるなら、わたしはもはやいうことはない。      (わかぎ 昭和四十九年十月一日) [#改ページ]  あとがき  私はよく物忘れをする。事柄を忘れるだけでなく、自分の持ち物をどこへでも置き忘れて歩く。叱られたことも忘れる。金を貸したことも忘れれば、自分自身が怒ったことも忘れる。こんな私を、三浦は、 「綾子は実に楽天的な性分だ。綾子といるとほっとする」  と、ほめてくれる。  が、これが私の天性であるのか、どうか。過去を顧みると、そうとばかりも思えないのだ。  私の自伝小説「石ころのうた」や「道ありき」にもあるとおり、私にも暗い日々があった。敗戦のショックがもたらした虚無的な生活、つづいての十三年にわたる長い療養生活、その間における恋人の死など、私にも暗い孤独な日々はあったのである。  私は若い頃、孤独という言葉が好きだった。だが本当に孤独を味わった時、孤独は好きなどと言えるものではないことを知った。孤独は単に淋しいなどというものではない。もっと深い、沈潜したものだ。誰にも理解されず、また理解されることを望みもせず、只じっと自分の心の中をのぞきこんでいる。人をも神をも、自ら拒絶した姿、それこそが真の孤独の姿なのだ。まわりにはたくさんの友がいる。肉親もいる。  しかし、自分の心の底の、この誰にも訴えようのない孤独は、どうしようもないものなのだ。 「雑沓の中の孤独」  という言葉がある。まわりにいくら人がいても孤独を癒すことはできない。私はこうした孤独の生活を何年か持った。だが幸い、遂に私はその孤独の淵から立ち上がることができた。立ち上がらせてくれたのは、私の場合、イエス・キリストの父なる神であった。  自分が孤独だと思っていた時、実はすぐそのとなりに神がいたのである。私は只、目をかたくなにつぶって、となりにいる神の存在を知らなかっただけなのだ。  神を信ずるようになって以来、私は明らかに変わった。外目にはどう映ったかわからないが、私の心の、癒え難かった孤独の病いは遂に癒えた。そして何年か経った後には、楽天家といわれるような、のんきな人間に変わってしまった。信仰を得て以来、私はほとんど孤独に悩まされることはなくなったのだ。  それは、真の神と対することを知ったからだ。祈ることを知ったからだ。自分のすべてを知っていてくださる神の視線を感ずるからだ。私はもはや、一人ではないのだ。  私がこの拙ない随筆集に、「孤独のとなり」と題したのは、つまり、 「孤独のとなりに神がいる」  という、誰かに聞いた言葉を、人々に伝えたかったからだ。今、この世には、孤独に悩み苦しんでいる人がどんなに多いことか。私は深い痛みをもって、その人々を思うのである。  むろん、私のこの随筆集は、多くの新聞や雑誌に掲載したものを集録したわけだから、そのすべてが、この題にふさわしいわけではない。だが、この随筆集を「孤独のとなり」と題したことで、全篇を通じて私の心の底に流れるものを感じていただけたら幸いである。 角川文庫『孤独のとなり』昭和58年9月10日初版発行             平成16年4月5日42版発行