三浦哲郎 真夜中のサーカス 目 次  木戸が開く前に  綱渡り  パレード  魔術  寸劇  パントマイム  スポットライト  檻  空中ブランコ  ジンタの嘆き  鞭の音  赤い衣裳  小人の曲芸  火の輪くぐり [#改ページ]  木戸が開く前に     一  その犬を、町で最初にみかけたのは新聞配達の少年であった。いつものように、インクの匂いのぷんぷんする朝刊を自転車の荷台にどっさり積んで、|錆《さ》びたブレーキを遠慮がちに鳴らしながらまだ寝静まっている町へ降りていくと、しらしら明けの街道のむこうからのそのそとやってくるその犬に出会った。  大きな耳が顔の両側にだらりと垂れ下っている赤犬であった。  新聞配達の少年は、町に|棲《す》みついている犬は一匹残らず知っている。戸数二千数百、人口一万にも満たないちいさな港町である。どの路地にはどの犬がいて、それがどんな尾の振り方をするか、どんな吠え方をするかということまで、よく知っている。  彼は、その赤犬を一と目みて、あいつ、どこからか迷い込んできた|他所《よ そ》者だなと思った。歩き方をみて、すぐにわかった。  ところどころ|罅《ひび》の走っているコンクリートの街道には、魚市場から魚を運び出すトラックの荷台の両側からしたたり落ちる魚の血が染み込んで、幅の広いレールのような縞ができている。赤犬は、珍しそうにその縞の匂いを|嗅《か》ぎながらやってきたが、町に棲みついている犬なら、|仔犬《こいぬ》でもそんな野暮な真似はしない。  すれ違って、なんて耳の大きな犬だと彼は思った。町にも赤犬は沢山いるが、こんなに耳が垂れ下った奴をみるのは初めてであった。もうすこし首を垂れると、鼻よりも先に耳が地面に届きそうだ。  彼は、なんとなくその耳に親しみをおぼえて、自転車のスピードを落とすと、赤犬の方へ口笛を一つ鳴らしてやった。すると、赤犬は突然思いがけない態度に出た。それまでは脇目も振らずに道を嗅ぎながら歩いていたのに、急に我に返ったように立ち止まると、彼の方へ向き直って、チンチンをした。  それが、実に堂に入ったチンチンであった。腰が据わって、背骨がしゃんと伸びている。上げた前肢も、ちょっと内側に寄せて、胸の前で両手を組むようにしているところが、|洒落《しやれ》ている。  少年はびっくりして、あやうくハンドルを切り損ねるところだった。思わず片足を地面に突いて、|呆気《あつけ》にとられてみていると、赤犬は、なんだ、無駄骨かというふうにチンチンをやめて、また魚の血の縞を嗅ぎながらむこうへ歩きはじめた。  正直いって、彼はすこし気味が悪かったが、自分を励ますためにもういちど口笛を鳴らそうとした。けれども、どうしたことか口笛はうまく鳴らなかった。彼は、首を一つひねって、また自転車を走らせた。  おかしな犬だったな、と彼はペダルを踏みながら思った。あんな見事なチンチンをする犬、みたことがない。まるでサーカスの犬みたいな芸当をする。あの犬、まさかサーカスから逃げてきたんじゃあるまいな。  けれども、もうすぐ冬だというこんな季節にサーカスがやってくるはずがなかった。|勿論《もちろん》、近くの町にサーカスがきているという|噂《うわさ》も聞かない。  すると、どこかのいい家で厳しく仕付けられた犬なのだろうか。そんな犬が、どうしてこんな北国の殺風景な港町なんかに流れてきたんだろう。人に飼われていることに|厭気《いやけ》がさして、放浪の旅に出てきたのだろうか。あの犬は、確か首輪をしていなかった。よくも首輪から抜けてこられたものだ、あんな大きな耳をしていて。  少年はそんなことを考えていて、うっかり、最初に新聞を入れる家の前を通り過ぎたことに気がつき、Uターンした。そのときはもう、路地から朝日が射しはじめた街道には、どこにも赤犬の姿がみえなかった。  その日、新聞配達の少年のほかにも、町でおなじ赤犬をみかけた人が何人かいた。魚市場の事務所の老人もその一人だが、火鉢に|溜《た》まった煙草の吸殻を集めて裏のゴミ捨場へいくと、そこでみたこともない赤犬が魚のはらわたを嗅いでいた。  初め、朝日を浴びている|痩《や》せこけた腰と|尻尾《しつぽ》が、色といい形といい、狐に似ていて、ぎくりとしたが、耳は似ても似つかない。老人は、ほっとしたついでに、 「おめえ、どっからきた犬じゃ?」  と声をかけた。  けれども、犬に答えられるわけがない。赤犬は、目尻の下がった憂鬱そうな目で老人を一|瞥《べつ》したきりだった。 「そんなものを食うも食わぬも、それはおめえの勝手だが」  と、老人は吸殻を捨てながらいった。 「食ったら腹んなかに虫が|湧《わ》くぞ。わしは知らんぞ。」  老人はそのまま事務所へ引き返したので、赤犬が魚のはらわたを食ったかどうかは知らない。  昼ごろ、町の駅の駅員が、ちいさな駅前広場の隅にある便所の裏の陽溜まりに、赤犬がぐったりと寝そべっているのを窓越しにみた。二時ごろ、浜に近い湧き水の川べりで洗濯をしていた女たちが、川下へ水を飲みにきた赤犬を見掛けた。 「いやあ、縫いぐるみにしたいような犬。」  歌い手かぶれの娘がそういうと、それがきこえたかのように赤犬は早々に立ち去った。  夕方、漁師町のはずれの家で、|焼酎《しようちゆう》に酔ってごろ寝をしていた漁師の若者がふと目を|醒《さ》ましてみると、裏の砂浜に|筵《むしろ》を並べて、その上にひろげて干してある|鰯《いわし》を赤犬が食っている。 「おい、こら。しっ。」  と彼は|呶鳴《どな》り声を上げたが、赤犬はちらとこっちをみたきりだった。 「おい、こら。しっ、しっ。」  彼はまた叫んだが、効き目がなかった。赤犬はせっせと食いつづけている。彼は、頭にかっと血が昇った。どこの犬だか知らないが、容赦はしない。  なにか投げつけるものはないかとあたりを見廻したが、|生憎《あいにく》なにも見当らなかった。一升|瓶《びん》には、まだいくらか焼酎が残っている。コップは一つしかないから、割るのが惜しい。それに、漁師が浜にガラスのかけらを散らしたりしてはいけないのだ。それかといって、まさかギターを投げつけるわけにはいかない。  ギターのそばに、空気銃があった。冬に雀を撃ちにいく銃である。そろそろ海も荒れてきたから、暇をみては戸棚から出して手入れをしている。ちょうどよかった。こいつで撃ってやれ。  彼は空気銃に鉛の弾をこめて、赤犬に狙いをつけた。馬鹿でかい耳が揺れておる。あの耳を撃ってやれ。  引金を引くと、赤犬はきゃんと叫んで、宙に跳び上った。砂に降りると、腰が砕けた。それから、砕けたままの腰のまわりを、前肢だけで|独楽《こ ま》のように廻った。  若者は、ちょっとびっくりした。まさか犬が独楽のように目まぐるしく廻り出すとは思わなかったからだ。赤犬は、まるでつむじ風に巻かれたようにくるくると廻りながら、悲鳴の尾を引いて砂丘の|蔭《かげ》にみえなくなった。  若者は、銃を置いて舌打ちした。しくじった。耳を撃つつもりが、尻尾を撃っちまった。  その後、まる一日、赤犬はどこに隠れていたのか姿をみせなかったが、翌日の日が落ちてから、町の北はずれの駄菓子屋の女主人が店を閉めようとして表へ出ると、前を赤犬がよろよろと通った。耳と尻尾をだらりと垂れて、車の往来の激しい北の県道の方へ歩いていく。海から吹きつけてくる風は、ゆうべよりも冷たかったが、そう強いというほどではなかった。それなのに、赤犬の骨張った腰は、しばしば海風に負けたかのように、横ざまに崩れそうになる。 「あの老いぼれ犬、中風かしらん。」  見送って、駄菓子屋の女主人はそう思ったが、勿論、赤犬の腰のなかには鉛の弾が撃ち込まれたままになっていることなど、撃った当人でさえ知らないのである。  赤犬は、やがて夕闇に紛れてみえなくなった。     二  女が持ってきてくれた浴衣は、まるで四角な一枚の板のようであった。それを、ぱりぱりと音をさせながら拡げていると、ふと鼻先に妻の匂いがした。  けれども、こんなところに妻がいるわけがない。妻は東京の団地の家にいて、彼の方はもう一週間もシナリオ・ハンティングの旅を続けている。  どうして、突然妻の匂いがしたのだろう。彼は、浴衣を拡げる手を止めて、そっとあたりを嗅いでみた。目にみえない粉になって飛び散った|糊《のり》の匂いがする。|廉《やす》い|石鹸《せつけん》の匂いに似ている。けれども、妻がいつも使っている石鹸とは、違う匂いだ。  意識して嗅いでみると、どこにも妻の匂いなんかしなかった。どうしてさっきは、あ、妻の匂いがする、と思ったのだろう。  糊がきついだけで、拡げてみると洗いざらしの浴衣であった。縦に横に斜めに散らしてあるホテル・ハーバーという片仮名文字も、すっかり|藍《あい》が|褪《あ》せている。  ホテル・ハーバーというから、すこしは洒落た宿かと思うと、ただの木造建築に空色のペンキを塗りたくっただけの宿屋であった。けれども、東京にだって随分怪しげなホテルがあることだし、ここは|菜穂里《なほり》という港町には違いないのだから、ホテル・ハーバーでも一概に看板に偽りありとはいえない。  浴衣に丹前を重ねて、それをシャツの上から着込んでいると、女が食事を運んできた。女が——といっても、ここは〈女の家〉なのではない。ごく普通の宿屋なのだが、その女が女中なのか、それともこの家の娘なのか、それとも手伝いの女なのか、彼には見当がつかなかったのだ。  齢は|二十《はたち》ぐらいだろうか。色白の、大柄で肉づきのいい女である。髪は女学生のように三つ編みにしていて、頬っぺたが赤い。それでも、ミニスカートを|穿《は》いていた。ミニスカートにセーターで、その上に|割烹着《かつぽうぎ》をかけている。 「風呂は、沸いてないのかい。」  彼は、当然食事の前に、風呂にはいれるものだと思っていたのだが、風呂はかまが|毀《こわ》れていて、目下修理中だということであった。銭湯なら近くにあるがと女がいったが、いや、いいんだ、すぐ飯にしようと彼はいった。  どうせ晩飯は軽く済ませて、町へ飲みに出ようと思っている。こんな旅では、それも仕事のうちということになる。外は冷え込んでいるから、風呂には入らない方がいいかもしれない。湯冷めして風邪でも引いたら、事である。  彼はすぐ食べはじめた。  暗い港の波止場に近い運河のちいさなコンクリート橋の上で、綿入れのねんねこで赤ん坊をおんぶした女がひとり、なにか小声で歌いながら、ちびた下駄でルンバのステップを踏んでいた。  ねんねこの奥の方から赤ん坊のむずかるような泣き声がきこえているが、女は、赤ん坊を眠らせようというよりも、その泣き声を聞くまいとするかのように歌っている。 「ちょっと伺いますが。」  彼は、橋のなかほどにいる女に近づいて声をかけた。 「この辺に、酒を飲ませる店はないでしょうかね。」 「ありますよ、その橋の|袂《たもと》を左へ曲る曲り角に。」  女はすらすらと答えた。 「どうもありがとう。」  橋を渡り切って、橋の袂の小路を左へ折れると、なるほど角に、普通の二階屋の下だけを改造した酒場があった。|廂《ひさし》の上で、いまどき珍しいくねくねとした細字の〈クインビー〉という青いネオンが、じいじいと音を立てて|顫《ふる》えていた。  彼は、扉を押して入っていった。  低い天井に、赤茶けた電燈がともっている薄暗い酒場で、ぷんと防腐塗料の匂いがした。店のなかはひっそりしていて、いらっしゃいという声もかからなかった。けれども、店には誰もいなかったわけではない。客はひとりもいなかったが、店の女たちが五人いた。左手のカウンターに二人。それから右手の壁際の、背の高い椅子席に三人。  驚いたのは、さっきコンクリート橋の上にいたねんねこの女が、さっきからずっとここにいるのだという顔をしてカウンターのなかにいたことであった。いつのまに、どこから入ってきたのだろう。勿論、まだねんねこを着たままで、けれども背中の赤ん坊はもうおとなしくなっていた。 「さっきはどうも。あんたの店だったんですね。」  彼は、ねんねこの女の前へいって、高い木の椅子に腰をのせながらいった。女は、彼をみずにちょっと笑って、 「なんにする?」  といった。  彼は、その酒場に入って、初めて人の声を聞いた。 「そうだな、ビールにしようか。」 「ビール? ビールは冷えてないんだけど。」  彼は、ちょっと考えてからいった。 「いいよ。やっぱりビールにしよう。」  東京にだって、ビールが一番無難なような酒場がある。  女は、カウンターの下からビールを出したが、それからが意外に手間取った。あちこちの棚、あちこちの引出しを、女はごそごそ探している。 「……どうしたの?」  彼は、かなり辛抱してから、そう尋ねた。 「栓抜きが、ない。」  女はいった。それから、急に|諦《あきら》めたように舌うちして、 「よっちゃん。」  カウンターの隅の電話で、さっきからずっと小声で話しつづけていた痩せた女が振り向いた。ねんねこの女は、なにもいわずにビール瓶をちょっと持ち上げてみせて、その女に手渡した。痩せた女は、受話器を耳に当てたまま、いきなりビール瓶の王冠に歯を当てたかと思うと、頭を一と振りしただけで、苦もなく開けた。  ねんねこのなかで、また赤ん坊が泣き出した。女は、ビール瓶の口をほんの申しわけに手のひらで拭いて、コップと一緒に彼の前に出すと、カウンターの奥へいって|蹲《うずくま》った。すると、そこに外へ出られるくぐり戸でもあるのだろうか、不意に赤ん坊の泣き声が遠退いた。  彼は、手酌でぬるいビールを飲んだ。残った四人の女たちは、最初から彼にはなんの反応も示さなかった。歯でビールの王冠を開けた女は、相変らず受話器を耳に当てたままである。壁際の女の一人は、歯でも痛いのか、タオルに包んだ|氷嚢《ひようのう》らしいものを頬に押し当てたまま、眉根を寄せてじっと目をつむっている。あとの二人は、隣のテーブルの上に額を寄せて、なにやらひそひそ声で話し込んでいる。しきりに鼻をすすり上げるので、風邪でも引いているのかと思っていたら、片方は泣いているのであった。  時折、店の奥の窓の方から、ぽんぽん蒸気の音と赤ん坊の泣き声がきこえてくる。ビールは、なかなかなくならない……。  ホテル・ハーバーの玄関には|鍵《かぎ》がかかっていたが、|敲《たた》くと、女が開けにきてくれた。出かけるときと、どこか様子が違うと思ったら、女は編んでいた髪をほどいて背中に長く垂らしている。銭湯で洗ってきたのだろう、その髪が匂った。 「寒かったでしょう。」  |躯《からだ》に似合わぬちいさな声で、女はいった。  彼は、|年甲斐《としがい》もなく、不意に生酔いの目頭が熱くなった。 「寒かった。酒をすこし、貰えないだろうか。」  そういってから、彼は、自分はこれまで妻にさえ、こんなにしみじみとした気持で物をいったことがなかったのではないかと思った。  女は、コップ酒と漬物を盆にのせて運んできた。彼は、すぐ目の前に二つ並んだ女の|膝《ひざ》小僧に、目を奪われた。大きくて、すべすべして、|綺麗《きれい》な桜色をした膝小僧であった。彼は、こんな美しい膝はみたことがないと思った。 「……あったかそうだな。」  彼は、思わず、そういった。  女は、彼の視線に気がつかないはずはなかったが、そのまま立とうともしなかった。ただ、ちょっと膝をこすり合せるようにしただけであった。 「まるで、熱を出した子供の顔みたいだ。」  彼は、今度ははっきり冗談のつもりでそういったが、女はうつむいて、くすりと笑っただけだった。彼は、なにか|堪《たま》らない気持になって、コップ酒を半分ほど、一と口に飲んだ。それから、漬物をこりこりと|噛《か》んだ。  女は、それでもまだ立って帰ろうとはしなかった。綺麗な桜色の、暖かそうでたっぷりとした膝小僧が、依然として手を伸ばせば届くところにある。  彼は、コップ酒の残りを飲み干すと、女に、「もういいんだよ。」という代りに、 「どれ、熱を計ってあげよう。」  といって、膝小僧の方へ手を伸ばした。  そうすればさすがに逃げるだろうと思った女は、案に相違して、逃げなかった。逃げないばかりか、手を払い退けようともしなかった。彼の手は、なんの苦もなく女に触れた。女は首をうなだれた。  女の膝は、思ったほど暖かくはなかったが、そのまま女の出方を待とうという気でいるうちに、彼は、手を離すきっかけを失ってしまった。  彼は、自分の手のひらの下で女の薄い肌が汗ばんでくるのを感じながら、 「俺は、酔った。」  と独り言を|呟《つぶや》いた。  女は、だんだん深くうなだれた。     三  夜が明けてみると、赤犬は、町の北はずれの県道の、海に突き出た岩鼻の裾をめぐるカーブのところで、車に|轢《ひ》かれて死んでいた。  県道には、夜通しトラックや、ダンプカーや、定期便の大型トラックの往来がある。赤犬は、いちど轢かれて動けなくなってから、何台もの車に繰り返し轢かれたのだろう、頭は平べったく圧し|潰《つぶ》され、裂けた腹からは、はらわたが残らず絞り出されていた。  それを、浜の|鴉《からす》の群れがみつけた。これはまた、変った御馳走をみつけた。  車がやってくると、鴉の群れは一斉に飛び立ち、けれども遠くへは逃げずに、道端のガードレールにずらりととまる。それも、一羽残らず道路の方へ尻を向け、海の方を眺めて、知らぬ顔をしている。車が通り過ぎると、また我勝ちに赤犬の死骸に舞い戻って、脳味噌やはらわたを|啄《ついば》みにかかる。  死骸は、誰も片付けようとはしなかった。この赤犬に限らず、県道で轢き殺された犬や猫の死骸は、誰かに片付けられたためしがなかった。わざわざ片付けなくても、遠からず片付けたのとおなじことになってしまうことを、誰もが知っているからである。  死骸は、何度も何度も轢かれているうちに、板のように平べったくなり、からからに乾き、すこしずつタイヤにむしり取られていって、やがて影も形もなくなってしまう。  赤犬の死骸も、その日のうちに板のように平べったくなり、陽と浜風に|曝《さら》されてみるみる乾きはじめた。あくる日は、もう鴉も見切りをつけて、寄りつかなくなった。  三日目には、すっかり乾いてアスファルトから|剥《は》がれ、その上をタイヤが通るたびにすこしずつ位置を変えて、午後には岩鼻をめぐり切ったところにある踏切まで|辿《たど》り着いた。  彼は、ホテル・ハーバーに三晩泊って、その日の午後のジーゼルカーでこの町を去った。今度の旅は、この町が最後で、あとはまっすぐ東京へ帰ることになる。菜穂里は支線だから、ジーゼルカーで本線の駅まで北上して、そこから上野行きに乗り換えなければならない。  くるなといったのに、宿の女が駅へ見送りにきた。彼は、相手が宿の女だからというのではなく、駅で人に見送られるのは好きではなかった。ジーゼルカーが着く前に、もういいから帰れというと、土産だといって、どこかの寿司屋の包装紙に包んだコケシ人形を一つくれた。けれども、彼にも妻にも、生憎、人形を飾って愉しむ趣味などない。コケシを|玩具《おもちや》にするような子供もいない。コケシなど土産に持ち帰ったら、妻は変に思うだろう。折角だが、これは途中でどこかに捨てねばなるまい。  彼を乗せたジーゼルカーが、岩鼻のトンネルをくぐり抜けて踏切を通ったとき、赤犬の死骸から片方の耳が線路の風に吹きちぎられて、ほんのちょっとの間だけだが、ジーゼルカーと一緒に枕木の上を駈けた。 [#改ページ]  綱渡り     一  菜穂里の駅前広場の片隅に、昔風な|縄暖簾《なわのれん》を出している|鯨《くじら》屋という大衆食堂がある。駅の線路工夫や、運送屋のトラック運転手、それにバスで町の裏山を越えて魚の買出しにやってくる行商人たちが常連の、居酒屋まがいの食堂である。  この鯨屋のおやじ——といってもまだ四十そこそこの、小肥りで|赭《あか》ら顔の兵助という男だが、これが|吃《ども》りで、通称ドモ兵、|界隈《かいわい》では無類のお人好しで通っている。人にものを頼まれて、断わったためしがないということになっている。  けれども、このお人好しは眉唾で、断わろうにも、口が手間取っているうちに、いつのまにやら押しつけられているというのが実情である。これで、口さえ達者だったら、案外けんもほろろの兵助などといわれていたかもしれないのだ。  というのも、兵助自身、人にそういわれるから自分も自分のことをお人好しだと思うことにしているが、実際のところ、自分がどんな|質《たち》の人間なのか、正直いって自分でも測り兼ねているからである。  確かにお人好しなところもあるにはあるが、時として、われながら野太い奴だと思うこともある。お人好しなら、大概のことには|鷹揚《おうよう》なのかと思えば、妙にしっかり者の面もあって、転んでもただでは起きないようなところがある。要するに、自分でもどれが本性なのかわからない。  ところで、このたび兵助は、珍しく首にネクタイというものを結んで、はるばる東京までいってきた。若いころから東京に出て玩具問屋をしていた|従兄《いとこ》が、脳卒中で死んだからである。東京へ出るのは十何年ぶりのことだったが、不祝儀の用で出ていって、それにちいさいながらも店を持つ身では、ついでに東京見物というわけにもいかない。彼は、夜行で発って、朝、上野に着き、その日のうちにまた夜行に乗って、三日目の午前にはもう菜穂里の町へ帰ってきた。  随分あわただしい旅だったが、もともと旅なんかはいくらでも無駄を惜しんでするものだと思っているから、なんともない。その上、彼はどんなあわただしい旅でも、それこそ手ぶらで帰ってきたためしがなくて、このたびも、義理の妹にいい土産話を持ち帰った。  この義理の妹というのは、名をリセといって兵助の女房の妹である。兵助は最初の女房に死なれて、四年前にいまの女房を後妻に貰った。その後妻のヨシの妹である。  菜穂里の港から、浜伝いに南へ三里ほどくだったところに|藻鳴《もなき》という半農半漁の村がある。リセは、そこのちょっとした山持ちの三男坊に嫁いでいるが、亭主が農協へ勤めに出たあとの留守が退屈だからといって、毎日バスで兵助の店へ手伝いに通ってきている。二十で嫁いで、いまはもう二十五になるが、子供はいない。そのせいか、齢より三つは若くみえるし、もともと顔も姿も、姉のヨシとは違ってこのあたりではまず見られる女だから、通いの手伝いとはいえ、兵助としても助かっている。人当りが柔かで、誰にでも愛想がいいから、客の受けもいい。リセは、鯨屋の客たちに〈世話女房〉といわれている。  実際、リセの行き届いた立居振舞をみていると、誰でも、家ではどんなにいい世話女房かと思うだろう。けれども、兵助のお人好し同様、人が|貼《は》ってくれたレッテルなどあまり当てにはならないもので、リセにも、虫も殺さぬような顔をしていてひそかに自分の本性を測り兼ねているようなところがあるのだ。  リセはいま、子供が欲しいと思っている。自分で生みたいと思っている。これまで子供がなかったのは、出来ないからではなくて、生みたくなかったからであった。リセは、自分の夫のことを、心の底では嫌っている。夫の子供は、生みたくない。その気持は、いまでも変っていない。その気になりさえすれば、いつでも夫の子供は生めるのだが、どうしてもその気になれないのだ。夫の子供は、生みたくない。  それでも、子供は欲しいのである。どういうものか、このところ子供欲しさは日増しに募るばかりなのだ。  リセはもう、夫ではない人に生ませて貰うより仕方がないと思っている。どこかに、素性のいい人で、こっそり子供を生ませてやってもいいという人は、いないだろうか。  そこへ、兵助が東京から、いい土産話を持ってきた。     二  東京では、なによりも、暑いのに参ってしまった。東京があんなに暑いところだとは知らなかった。  五月の上旬といえば、北のこのあたりではまだ春の花時である。梅、桜、桃、|李《すもも》——春の木の花という花がいちどきにどっと|溢《あふ》れ咲き、空っ風がようやく乾きはじめた地面の|埃《ほこり》を|捲《ま》き上げる。  ジーゼルカーで町を発った日も、やけに糊をきかせたワイシャツの|襟《えり》が、首にひんやりとする花冷えであった。  ところが、東京に着いてみると、まるで真夏のような暑さである。間違えて、もっと南へきてしまったのかと思った。  普段でも額の|皺《しわ》が光っているといわれる田舎者の汗っかきが、都会の悪い風邪を背負い戻ってはならぬと思って、ワイシャツの下にメリヤスを着込んできたのが、失敗であった。メリヤスを脱ぐには、ワイシャツも脱がねばならない。ワイシャツを脱ぐには、ネクタイをほどかなければならない。ところが、ネクタイをほどけば、もう独りでは結べないのだ。人に結んで貰ってみると、釣糸の先に針を結びつけることよりも|遥《はる》かに|易《やさ》しそうだが、自分で試みてみると、どうしてもうまくいかない。それで、メリヤスは脱ごうにも脱げない。  真夏のような暑さのなかで、メリヤスなんか着た上にネクタイで首を締めつけ、しかも畳の上に膝を折って長い時間坊主の読経を聞いているのは、なにか理不尽な気がするほどの苦行であった。  出かけてくる前、隣のバーバー・|鴎《かもめ》の知ったかぶりが、近頃東京の寺はどこも椅子席になって、膝を折って坐る必要がなくなった、などというものだから、すっかりその気になってきてみると、葬式は寺へはいかずに、自宅で済ませるという。これまた当てが外れて、|親戚《しんせき》一同、|襖《ふすま》を取り払った座敷にぎっしり膝を折って坐ることになった。ここは寺ではないのだから、バーバー・鴎が|法螺《ほら》を吹いたことにはならないが、それでも、余計なことをいいやがってと恨めしくなった。畳の上に膝を折るのは、前の女房が死んだとき以来のことで、|忽《たちま》ち足が|痺《しび》れてしまった。  ハンカチなんぞではとても間に合わなくて、腰から畳んだタオルを抜いて流れ出る汗をぬぐっていると、隣で膝小僧を抱いていたどこの親戚のなんという子なのか、小学一年の次男とおない年ぐらいの男の子が、|怯《おび》えたような顔で見上げて、 「おじちゃん、そんなに泣くなよ。」  といった。  東京の葬儀屋は、うまいことをする。玄関から、仏間の脇を通って縁側へ抜ける廊下に、厚いシートのようなものを敷き詰めて、一般の会葬者たちの列が土足のままで家のなかに上り込み、仏間の入口で焼香して、そのまま庭へ抜けられるような通路を作った。そんなことまでしてくれるものなら、ついでに、こっちにも菜穂里の店にあるような木の長椅子ぐらい出してくれたらよさそうなものなのに。履物を脱いだり履いたりする手間よりも、足の痺れの方が遥かに辛いのだから——そんなことを心にぶつぶつ呟きながら、入れ替り立ち替り焼香してはシートの道を通り過ぎていく会葬者の列の方を眺めていると、不意に、船原寛治が|香炉《こうろ》の前に立った。 (あ、学者の寛ちゃん)  と、すぐわかった。  すると、反射的に菜穂里の店にいるリセのことが思い出されて、 (うん、あの男に決めた)  と思った。  寛治は焼香を済ませると、庭の方へ出ていったが、おなじ親戚筋だから、すぐ帰るようなことはないだろうと見当をつけた。それから、うしろへ手を廻し両足の親指をかわるがわる|揉《も》んで、隣の子供に悟られぬように、手の指で、唾をおでこへ三遍運んでから、そろそろと立ち上った。立てさえすれば、もう大丈夫だ。あとは、町の相撲大会の桟敷を横切るときの要領で座敷の外へ出ればいい。  寛治は、庭の|楓《かえで》の木蔭に神妙な顔をして立っていた。まっすぐ近づいていって、気をつけて声をかけたが、その甲斐もなく普段よりひどく吃ってしまった。  けれども、吃って|却《かえ》ってよかったのだ。寛治は、顔をみただけではすぐにはわからなかったようだが、吃りを手がかりにして、 「……兵さん?」  と自信なげにいった。それから急に目を大きくして、 「兵さんだ。食堂の兵さんだ。」  といった。それでこっちも|顎《あご》を出して、 「ん。ん。ん。んだ。」  といった。  寛治はインテリらしく、読経の声がきこえる方へちらと目をやってから、控え目に顔を輝かせて、「しばらく。」と手を出した。これは、握手の手だろう。そう思って握ったが、こんな|仕種《しぐさ》がごく自然に、さりげなく出てくるところをみただけで、この昔の遊び仲間もいまはもうすっかり別の世界の住人になっていることがわかる。  もう十年近くも前のことになるが、夏、北海道からの帰りだといってひょっこり町に立ち寄ったときは、母校の大学の助手をしているといっていた。今度|訊《き》いてみると、おととし助教授になったということであった。  素性は|勿論《もちろん》、学識といい容姿といい、こんなに条件の|揃《そろ》った男は、そうざらにいるものではない。それで重ねて、 (この男に決めた)  と思った。     三 「決めたといったって……|義兄《に い》さんひとりで決めただけじゃないの?」  水を|撒《ま》いたコンクリートの土間を、柄の短い|万年箒《まんねんぼうき》で丁寧に掃きながら、リセは顔を上げずにそういった。 「それは、決めたのは俺さ。だけど、俺がこうと決めたら、かならずそうなっちゃうんだから、どんなことだって。」  兵助が吃りながらそういうと、リセはなにがおかしいのか、くすっと笑った。  ちょうど朝飯と昼飯の合間の|空《す》いた時間で、店には客がひとりもいない。ついさっき旅から戻ったばかりの兵助だけが、飯台の長椅子に腰をおろして、まだ仕舞い兼ねているルンペンストーブの方へ、東京の埃をかぶった足を投げ出していた。  さっき、駅前広場を横切ってきて、縄暖簾から首だけ入れると、リセがひとりで土間を掃いている。塩をくれ、というと、リセが小皿に持ってきた。女房のヨシはと訊くと、父母会の会合があって朝から学校へ出かけているという。それで、地獄耳が戻らぬうちにと、急いで|浄《きよ》めの塩を躯に振りかけてなかに入ると、すぐに土産話をはじめたのだ。  勿論、リセの野心については、それを打ち明けられた兵助のほかは、誰も知らない。  だから、二人がそうして話しているところを、近所の誰かが店の前を通って、空っ風に揺れている縄暖簾の隙間から見掛けたとしても、その人はおそらくこんなふうにしか思わなかっただろう——おや、鯨屋の主人が、もう帰っている。旅は十何年ぶりかだそうだから無理もないが、着替えもしないで早速顎を振りながら、み、み、みやげ話に|耽《ふけ》っている。おかみが留守だとみえて〈世話女房〉が、土間の掃除をしながら聞き手になってやっている……。 「……|怕《こわ》いわ。」  と、しばらく黙っていたリセが、独り言のようにそういった。 「怕い?」  なにをいまさらと思ったが、横顔をみるとうっすら微笑を浮かべている。女は時々、口先だけで物をいうから話が面倒臭くなる。 「そういえばうぶにきこえるが、あんまり怕いって顔にはみえないよ。」  彼は、ちょっと舌打ちしたいような気持でそういった。 「でも、学者って、なんだか見当がつかないもの。薄気味悪いわ。」 「馬鹿だなあ。学者だって、男だぜ。ただの男だよ。寝床のなかにまで本を持ち込んだりするもんか。」  寛治は、東京生まれの東京育ちだが、母親がこの町の出身で、戦争末期に母親の実家へ疎開してきてから、戦後にかけて、六年ほどこの町に住んでいた。その母親の実家は、いまはもう東京へ移ってしまったが、そのころは兵助の家の裏手にあって、だから寛治は兵助たち駅前組の仲間に入った。寛治が小学校の六年生、兵助は高等科の二年生だった。浜に打ち揚げられた難破船の残骸によじ登って海賊遊びに興じたり、戦後もしばらく放置されていた駅前広場の防空|壕《ごう》の廃墟に隠家を作り、一本のローソクに額を集めて秘密結社の構想に耽ったりした仲なのである。  寛治は、そのころから底の知れないような|物識《ものしり》で、仲間たちは〈学者の寛ちゃん〉と呼んでいた。その〈学者の寛ちゃん〉が、大人になって本物の学者になっただけの話だ。なにも怕がることはない。 「でも……誰だって本気にしないわ。」  リセは、土間を掃きながらそういった。他人事のようにくすくす笑っている。 「だから、嘘だと思ったら休暇のときにでもきてみればいい、そういったんだ。」  と兵助はいった。  実際、あの死んだ従兄のところの楓の木の下で、その話を切り出したときは、さすがに寛治も面くらっていた。勿論、兵助は寛治に妻子がいることを知っている。それで、子供の齢を尋ねて、お互いに齢だなあという話をした。愉しみは何かと尋ねると、近頃はもう酒だけだという。その酒も、年々酒量が落ちてくる。そんなことをいうので、これはいないのかいといって小指を出した。  最初、寛治はまるで短刀でも突きつけられたような顔をした。それから、下手な苦笑いをして、自分の躯で庭に立っている人々の目から兵助の小指を隠すようにしながら、僕にそんなものがいるわけがないと小声でいった。それで、兵助は、ちょうどよかった、実はあんたみたいな人の子供を生みたいといっている女がいるんだがねといって、リセの話を切り出したのだ。  読経の声がまだつづいていた。寛治は、まさか弔問先の庭でこんな話になるとは思わなかったに違いない。あわてたように兵助の腕を取って、あっちへいこうと楓の木蔭を離れた。日なたに出てみると、さっきまで楓の若葉の色を映していた白い顔が、酒でも飲んだように赤くなっていた。  庭の隅の柿の木の方へ、並んでゆっくり歩きながら話した。たまに会ってくれるだけでいい。それを一年ぐらいつづけて、いいと思ったら子供を一人生ませて貰いたい。勿論、生まれてきた子供はリセ夫婦の子として育てる。子供のことでは一切迷惑はかけない。  寛治は黙って聞いていたが、やがて|怺《こら》え兼ねたように、うふうふと笑い出した。兵助は、|所詮《しよせん》男は女房ひとりではおさまらないものだと思っている。だから、男にとってこんな耳よりの話はないはずだと思っている。人妻を一年愛人にして、最後に子供を生ませて、別れてしまう。余計な金がかかるわけではなし、どんな責任が身に降り懸かってくるわけでもない。ただ、この世のどこかに、もうひとり、自分の子供が生きているという薄気味悪さに耐えるだけでいい。  思わぬ棚からボタ餅で、それでつい、笑いが洩れたのかと思ったら、寛治は驚いちゃったなあという。そんな女性がいるとは信じられない、一体どんな女性なのか、そういって訊くから、俺の女房の妹だよというと、寛治は不意に立ち止まってしまった。それで、兵助はここぞとばかりに、だから|身許《みもと》は確かなんだ、こんな安全な女は二人といないぜと、畳みかけるようにそういって、札入れからリセの写真を取り出した……。 「あら、恥ずかしい。」  と、リセはいった。また口先だけで物をいう。 「で、その人、なんていった?」 「ところが、寛ちゃん、みないんだ。」  みたら最後、というふうに両手で兵助の手を抑えて、よせよ、兵さん、と寛治はいった。それで兵助も、そうだな、愉しみはあとに残せというからな、と写真はあっさり札入れに戻して、身内を褒めるのもなんだが、こいつ、写真より実物の方がずっといいんでね、といった。 「嬉しいことをいってくれるわ。」  リセは首をすくめている。  それはともかく、と寛治はいった。僕なんかより、町にいくらでも適当な人がいるだろう。とんでもない、と兵助はいった。せまい町のことだから、どこから|噂《うわさ》の煙が立つかしれない。相手は出来るだけ町から遠く離れている人がいいのだ。  寛治は、ちょっとの間、自分の気持を確かめるように黙っていたが、やがて首を横に振りながら、他人事だとしても買えないね、その計画は、といった。血液型を調べれば、簡単に自分の子供ではないことが夫にわかってしまうというのだ。それで兵助は、血液型に|拘《こだわ》るような亭主なら初めからこんなことを頼まないよといって、寛治の肩を軽く敲いた。  寛治は、それきり口を|噤《つぐ》んでしまった。 「まあ、夏休みまで待つんだな。大学の夏の休暇は七月からだそうだ。」  と兵助がいうと、 「……くるか、こないか、お楽しみ。」  と、リセはいった。 「笑っているうちはいいさ。いざというときになって、逃げ出さないようにな。」  と兵助はいった。     四  八月も終りに近くなったある日の午後、兵助が調理場でそろそろ身が肥えてきた|烏賊《い か》を裂いていると、両手をうしろに廻してぶらりと入ってきたリセが、肩のうしろで、 「きたわ。」  といった。  それが寛治のことだと気がつくまでに、兵助はちょっと手間取ったが、なんとはなしにぎくりとしたのは寛治が不意にきたからではなくて、口許に薄笑いを浮かべて目を伏せているリセの顔が世にも|妖《あや》しげなものにみえたからである。  急いで手を拭こうとして鉢巻を取ると、 「逃げないでね。」  と、リセはいった。  寛治は、県都にある大学へ調べものをしにきたついでに、ちょっと寄ってみたのだといって、その調べものの内容について頬を紅潮させながらくわしく説明してくれたが、話す方ばかりでなく聞いている兵助もほとんど|上《うわ》の空で、寛治の顔がなにやら|眩《まぶ》しく、やたらに大きな声で合の手ばかりを入れていた。  ともかく今夜、ゆっくり酒でも飲みながらということにして、かねての手筈通り、裏山を越えて車で二十分ほどの鉱泉宿へ寛治を送り込んだあと、駅の公衆電話から藻鳴の農協にいるリセの夫へ、今夜二階で宴会があるからリセをこっちへ泊めたいがと相談した。 「どうぞ、どうぞ。いつもお世話さんで。」  と、リセの夫はいった。電話を切って、兵助は、お人好しの吃兵が泣いてるぞ、と思った。  夜になったが、もともと兵助は出かけないことになっている。身代わりのリセは、|梯子段《はしごだん》の蔭でコンパクトを開けて、すっと一本、口紅を引くと、あとは全くいつもと変らぬ顔で、「じゃ、お休みなさあい。」と出ていった。  翌朝、兵助が起きたときは、もうリセは調理場で味噌汁に入れる|茄子《な す》を刻んでいた。兵助をみると、一と言、「お早う。」といった。  案の定、寛治は店には寄らずに帰ってしまった。  十月になった。ある朝、リセがやってくるなり、「なんだか、変なの。」といった。その日は口実を|拵《こしら》えて、夕方早目に帰っていったが、多分、その筋の医者のところへ確かめて貰いにいったのだろう。翌朝、顔を合わせると、リセはなにもいわずに、|頷《うなず》いてみせた。  リセは、ただ目をきらきらさせているだけなのに、却って兵助の方が胸の|動悸《どうき》にうろたえた。一年なんて、掛かることはなかったのだ。リセの躯は、待ち構えていたのだ。 「旦那の方は、どうするんだ。」 「これからでも遅くないわ。自分の子供だと思わせるようにするわ。」  リセは、落ち着き払っていた。  兵助は、|脹《ふく》らんでくるリセの腹を横目でみて、あわててその目をそらす癖がついた。  翌年の六月、リセは男の子を生んだ。 「|寛《ひろし》という名前にしましたです。」  と、リセの夫がきていった。  兵助はすぐ、リセの仕業だと思ったが、負けずに、 「寛か。寛大の寛の字だね。俺の親戚に寛治っていう名前の偉い学者がいるが、いい名じゃないの。人間は、心が寛大じゃなくちゃいけねえ。」  といって、昼飯がまだだというリセの夫のために、赤飯代りのチキンライスでも振舞おうかと、前掛けを締め直しながら調理場へ入った。 [#改ページ]  パレード     一  朝、姿見の前に、二十二、三の娘と八十過ぎの婆さんが立って、花嫁|衣裳《いしよう》の着付けをしている。花嫁衣裳といっても、襟から肩のあたりにかけて、うっすら日焼けした色がひろがっている貸衣裳の|白無垢《しろむく》だが、それでも花嫁衣裳だということには変りはない。  普通、花嫁衣裳一式といえば、うちかけ、かけ下二枚重ね、かけ下帯、|長襦袢《ながじゆばん》の揃いをいうが、そう形式張ることもないし、第一、歩くのに重くて|叶《かな》わないから、うちかけはまっぴら御免、かけ下も一枚だけにして、それを真赤な長襦袢の上に重ねて羽織り、いまちょうど、長襦袢に下締めの|紐《ひも》を胸高に締めるところで、 「あ、痛い。」 「きつすぎた?」 「きつい、きつい。」  すこし|弛《ゆる》めて、 「これぐらいで、どう?」 「まだ苦しい。」 「どこが?」 「おっぱい。」  紐の位置が悪いのだ。やり直しになる。紐がほどかれると、ついでに肌着の前もはだけて、 「おお痛かった。」  大事そうに乳房を揉んでいた手が、隣へ移ると、指の跡に血が寄って|斑《まだら》に赤くなった乳房が姿見に映る。  ふっくらと形よく盛り上った頂に、桜色の乳首がぽっちりとして、まるで十七、八の娘の乳房のようだ。  不意に、くすっと笑ったのは、若い女の方で、 「|厭《いや》だわ。年頃の女の子みたい。」 「だって、年頃だもの。」  そういったのは婆さんの方だ。それから自分で肌着の前を合わせ、長襦袢の前を合わせて、 「はい、どうぞ。今度は、ちょうどよくよ。」 「うん。さっきだってちょうどいいつもりだったんだけど……。おっぱい、下がってきたのかしら。」 「そんなことないよ。あたしのおっぱい、下がったりするもんかね。」 「そんなら、背中がまるくなってきたのね、だんだん。」 「そりゃあ、仕方がないさ。だから、さっきもいったろう? 年頃だって。」  若い女はくすくす笑って、 「今度はどう?」 「ああ、結構。今度は楽。」  花嫁衣裳を着ているのは婆さんの方で、若い女の方はただ着付けを手伝っているだけなのだ。とすると、さっき姿見に映った乳房も婆さんのものだということになる。八十過ぎの婆さんの胸に、十七、八の娘の乳房がついているということになる。  まさか、と初めての人は誰でもそう思う。この菜穂里の町には、婆さんの乳房をみた男は何人もいるが、みな狐につままれたように、きょとんとしていた。誰だって、八十過ぎの婆さんがこんな乳房を持っているとは思わない。  その男たちは、婆さんの乳房をみたといっても、べつに盗み見などしたわけではない。婆さんの方から進んでみせてくれたのである。夏ならワンピースの胸元を開けて。冬ならセーターの裾を上までたくし上げて。  初めは誰でも面くらうが、婆さんとしては、まさか男の気を|惹《ひ》こうとしてそんなことをするのではない。ただ自慢と宣伝のためにみせるだけで、他意はないのだ。なんの宣伝かというと、全身美容の宣伝である。婆さんは、本業のほかに『イチジク風呂全身美容術』という長い看板も出している。  だから、婆さんはイチジク風呂全身美容術の先生であると同時に、マネキンでもあるわけだ。女には、どういうものかあまりみせたがらないが、相手が男なら、たとえば牛乳屋の集金係にだって、気易くみせる。  近頃の牛乳は薄くなった、いや、そんなことはないという問答から、いきなり話が乳房へ飛んで、 「ほら、あたしはこうよ。」  ということになる。にこにこしながら、 「どう? 可愛いでしょう。|尤《もつと》も、あたしのはもうお乳は出ないけど、恰好だけは八十を過ぎてもこうなんだから。」  それは自慢の方で、あとは、 「女は誰だって、気の配りようではこんなふうに出来るんだがねえ。イチジク風呂を馬鹿にしてるから、三十過ぎればもう|萎《しな》びちゃうのよ。よくみてって、奥さんに伝えてよ。」  と宣伝になる。  けれども、その|甲斐《かい》もなく、婆さんの全身美容術の客足がぱったり途絶えてから、もう久しいのだが、それはどうやら、婆さんの乳房が美しければ美しいほど、他人にはいよいよ妖しげな気がしてくるからであるらしい。  町から出ている菜穂里タイムスというタブロイド版の週刊新聞の記者も、いきなり乳房をみせられたときはさすがに呆然としたが、そこは新聞記者らしくすぐ好奇心を呼び戻して、 「ちょっと触らして貰えませんかね。」  といったが、あっさり断わられた。 「駄目よ。触っちゃ駄目。みるだけ。」 「駄目ですか。手を触れずに御覧くださいか。そういえば、ちょいとした美術品だなあ。」 「美術品? とんでもない。これは飾りものなんかじゃないんだから。ちゃんと生きてるんですからね。ほら。」  指で突き動かしてみせた。ぷりぷりと揺れる。なんの細工もなさそうである。 「不思議ですなあ。」 「あたしにゃ不思議でもなんでもない。」 「|躯中《からだじゆう》、どこもそんなあんばいなんですか。」 「まあね。どこもかしこもってわけにはいかないけれど。」  そうはいうけれども、婆さんは、乳房のほかはどこもみせてくれない。まさか、みせてくれともいえないから、乳房だけみて感嘆しているほかはない。  町の人たちは、婆さんのことを『|巴里《パ リ》|座《ざ》の|婆様《ばさま》』と呼んでいる。巴里座というのは、いま婆さんたちが住んでいる建物の|旧《ふる》い名で、そこはかつて映画が掛かったり、ドサ廻りの劇団が芝居を打ったりする小屋であった。その小屋を改造して住むようになってから、婆さんは巴里座を巴里館と改めたが、町の人たちは誰も巴里館とは呼んでくれない。巴里座という名を惜しむのか、いまだに『巴里座の婆様』である。町では、巴里座の婆様は不思議な婆様だということになっているが、婆さんの少女のような乳房はその不思議さの象徴のようなものだといっていい。     二  婆さんは、背が低くて、ずんぐりした躯つきをしている。それに年々背中がまるくなってくる。それで、花嫁衣裳の白無垢を、裾を引きずらないように着るためには、随分大きくお|端折《はしよ》りをしなければならない。裾の方から二つ折りにして短く着るようなものである。婆さんはますますずんぐりになり、その上に帯をすれば、白塗りの象亀が|後肢《あとあし》で立ち上ったような恰好になる。  着付けが済むと、ちいさな角隠しのついた日本髪の|鬘《かつら》をかぶる。婆さんは普段、頭を、大正時代の束髪を上から思い切り押し|潰《つぶ》したような、だからちょうど、なかを脹らませた巨大なベレー帽をかむっているようにみえる奇妙な髪型に結っているが、この髪はいかにも黒過ぎるし、時折、実際ベレー帽のように右か左かに傾いていることがあるから、大概鬘だろうと見当がつく。  鬘と鬘だから、交換は簡単である。普段の鬘を脱ぐと、下は|白髪《しらが》の坊主頭で、婆さんはこのときばかりは、あたりに他人がいるわけではないのに大急ぎで日本髪の鬘をかむってしまう。日本髪の鬘といっても、本式のではなくて村芝居の役者が用いるような安物だから、途中で風に吹き飛ばされないように肌色のゴムの顎紐がつけてある。  これで、出来上りである。顔は、チンドン屋ではないのだから、普段のままでいい。  顔といえば、八十過ぎの婆さんにしては不自然なほど皺のない、|艶《つや》やかな顔をしている。皺は、なにか物をいうとき、ちいさな口のまわりに放射状にこまかな皺が走るくらいで、それも皮膚のたるみのせいというより、むしろ張りすぎた皮膚が引き|攣《つ》れてできるもののようにみえる。眉は|剃《そ》り落として、眉墨を引いている。昔風な真黒な眉墨で、男のように濃く、ぶきっちょな眉を引いている。ただ、目と目の間の、鼻の付け根に、豆粒大の紫色の瘤があり、それが大分右の方に傾いているところが、ちょっと年寄りじみてみえるだけである。  この紫色の瘤はなんだろう。よくみると、瘤ではなくて、鼻筋の一部が崩れて横へ滑ったのだというふうにもみえる。だから、鼻筋がくの字に折れ曲ってみえるのだが、鼻筋そのものが横滑りするとはいったいどうしたことだろう。  町の物好きたちの間では、それは病気なんかではなくて、若いころに隆鼻術を受けて妙な詰めものをしたのが、何十年もするうちに妙な具合に色づいて、崩れてしまったのだという説が有力である。なるほど、いわれてみれば、そんなふうにもみえないことはない。  だから、あの見事な乳房にしても、以前、いまでいう豊胸手術のようなものを受けたからだと|睨《にら》んでいる人々もいる。そうだとすれば、隆鼻術とは大違いに、その豊胸手術とやらは婆さんにおいて世にも|稀《まれ》なる成功の一例を示しているといわなければならない。 「好子、プラカード頂戴。」  婆さんは、自分が脱いだものを片づけている娘にそういう。 「プラカードなら、さっきおじさんが新しい文句を考えるって、持ってったわ。」 「じゃ、貰ってきて。」  ぽっちりとした桜色の乳首をみてもわかるように、婆さんは子供というものを生んだことがない。好子は、戦後まもなく、婆さんが満州から命からがら引き揚げてきて、あばら家同然の巴里座に住みついたばかりのころ、木戸の軒下に捨てられていたのを育てた子である。捨子をくるんであったねんねこの|袂《たもと》に、『育てて旅の役者にでもしてください』と書いた紙片が入っていたが、親は芝居が好きだったのだろう。婆さんも、若いころから芝居には随分血道を上げてきた方だから、親代わりになって育てたのである。  巴里座は巴里館になったので、好子は旅の役者にはならずに済んだ。いまは港湾会社の事務員をしていて、晴れた日曜日には婆さんの花嫁衣裳の着付けを手伝う。  好子が持ってきたプラカードの一枚には、 『結婚は巴里館で 幸福は巴里館から』  もう一枚には、 『美と若さの泉 イチジク風呂へどうぞ』  そう書いてある。  それを紐で|繋《つな》いで、胸と背中へ振り分けにして玄関へ出ると、奥から婆さんの若い|燕《つばめ》が小走りにきて、 「えい、いってらっしゃい。車と犬に気をつけて。」  若い燕といっても、もう六十五になる。年中おなじドテラを着て、懐ろ手の袖をぶらぶらさせているが、婆さんに切り火を切る真似をするときだけ両手を出して、|拳《こぶし》を火打石に見立てて、 「かちかち、かちかち。」  と口でそういいながら、婆さんの背中へ拳を擦り合せる。  そんな手つきや身のこなしが堂に入っているのも当然で、この爺さん、元は|桑木弦之丞《くわきげんのじよう》という名の旅役者であった。だから、花婿の装いをして、婆さんと一緒にパレードをしたらよさそうなものだが、役者をよした途端に、どういうものか、人の自分をみる目が怕くなってしまった。町へ出れば、つい目を伏せて、しょんぼりと歩く。花婿が負け犬のようにしょんぼりしていたのでは、パレードにならない。  仕方なく、婆さんはひとりで出かける。     三  婆さんは、こんな日曜毎の町歩きを、巴里館のパレードと称している。たったひとりでもパレードというのは、かつて二十人余りで行列を作って、しかも楽隊入りで|賑々《にぎにぎ》しく町を練り歩いたころの思い出が、いまでも婆さんの記憶に鮮やかだからだ。  婆さんが、弦之丞を連れて満州から引き揚げてきて、巴里座の跡へ住みつくようになったのは、浜で船主をしていた弟が担保流れになったその建物を|廉《やす》く手に入れて置いてくれたからである。何年かして、弟は腹膜炎を患らって死んだが、婆さんは遺言で分けて貰った船を売り払って、芝居小屋を住居に改築した。  天井が高すぎるので、二階を作って、階下は住居とイチジク風呂、二階はあとで貸間にでも作り変えるつもりで、広い板の間にして置いた。階下も、捨子の好子も入れて三人きりの住居には広すぎたので、裏の方は小部屋に仕切って貸間にした。そのころは、外地からの引揚者や戦争で住む家をなくした人たちが、菜穂里くんだりにまで毎日のように流れてきた。貸間は|忽《たちま》ち|塞《ふさ》がってしまった。婆さんは裏の物置小屋や、芝居小屋当時の楽屋も改装して、困っている人たちに開放した。  ついでに、天井裏のように放置していた二階も部屋にしようかと思ったが、それを結婚式場に切り替えたのは、物置小屋に住みついていた大学出だという|屑鉄屋《くずてつや》の入れ知恵によるものである。畳を入れ、神棚を作り、ちいさいながら結婚式場の体裁を整えて、初めて巴里館の看板を掲げた。  その開館披露のパレードを出してくれたのが、裏の貸間の住人たちである。手分けして探し出した楽器を持ち寄って、和洋混成の楽隊もできた。巴里館結婚式場のほか、巴里館アパート、巴里館イチジク風呂の|幟《のぼり》も作った。婆さんは、生まれて初めて花嫁衣裳というものを着て、野の花で飾りつけをしたリヤカーに乗って町を廻った。あのパレードはよかった。  間借人たちも、いちどだけではおさまらなくて、つぎの日曜日にもパレードを出した。そのつぎの日曜日には、隣村まで足を伸ばした。貧しくて、愉しみのすくない間借人たちにも、パレードは恰好の憂さ晴らしだったのだろう、誰がいい出したともなく巴里館では日曜日がパレードの日ということになって、曇り空の土曜日には、いい齢をして軒にテルテル坊主を|吊《つる》す者もいた。  あのころのパレードは、よかった。  おかげで、結婚式場も思いのほかに繁昌した。  けれども、それも長くはつづかなかった。世の中がだんだん落ち着いてくると、急場|凌《しの》ぎの仮住居をしていた間借人たちが、ぽつりぽつりと出ていくようになった。町にも、風通しのいいアパートや貸間や社員寮ができて、土台がボロ家の巴里館では、いちど部屋が空くといつまでも塞がらなかった。  結婚式場の方も、町営の|小綺麗《こぎれい》な簡易結婚式場が完成すると、途端に客足ががた落ちになった。いまこそ景気のいいパレードが欲しかったが、そのころはもう、下手に大声を上げれば物売りと間違えられるほど小人数になっていた。残った楽器が太鼓と三味線では、どう仕様もない。村へいくと、猿でも連れてきたかと子供たちが集まってきた。  いまは、婆さんひとりが歩いている。花嫁衣裳の胸と背中に、プラカードを吊して。  婆さんはなにも叫び立てないし、口上も述べない。ただ車と犬に気をつけて、日射しに目を細めながらぽくぽく町を歩くだけである。胸が荒く波立ってくると、道端の電柱に|靠《もた》れて、一服つける。本当はしゃがみたいのだが、花嫁衣裳でしゃがむと、それきり立てなくなるから厄介である。動悸が鎮まればまた歩き出す。  べつに、決まったコースがあるわけではない。ただ足の向くままに、通りから路地へ、路地からまた通りへと歩いていく。  どこをどう歩き廻っても、駅と、波止場と、漁師町へは、忘れずに寄ることにしている。町の人々はもう馴れっこだが、駅へいけばまだまだ物珍しげな目に出会う。そんな目が、なるべく沢山、自分をみつめてくれればいい。笑う人もいるが、意に介しない。笑う人は自分とプラカードをみて笑っているのだから、宣伝効果があったと思っていいわけだ。  波止場へいくと、漁船の若者たちが|素《す》っ|頓狂《とんきよう》な叫び声を上げたり、鋭い口笛を鳴らしたりする。思わぬ|罵声《ばせい》が飛ぶこともあるが、どんな若者も客のうちだと思っているから、笑って手を振る。  船がひっそりしているときは、波止場の突端まで歩いていって、下ろし忘れた大漁旗が風にはためく音をしばらく聞いて、引き返してくる。  漁師町は、一本道である。道の両側に、潮風に吹き|曝《さら》されてしらじらとした家々が、低い軒を並べている。海側の家々の隙間からは、砂浜と、むこうに海がみえ、山側の家々の屋根には裏山の緑がしたたり落ちている。  ほかにはなんの変哲もない、|腥《なまぐさ》い町だが、それでもこの町へ寄らずに帰れないのは、かつて巴里館華やかなりしころ、この町がいちばんのお得意だったからだ。だから、あのころのパレードは、この町へ入ると一段と活気づいたものだった。楽隊の音が裏山に弾ね返り、道には屋根から驚いて飛び立った|鴎《かもめ》の群れの影が流れた。  いまは、婆さんが引きずる草履の音のほかは、波の音だけである。婆さんのひとりパレードも、いまは宣伝というよりも、巴里館がまだ生きていることを町の人々に告げるのが目的のようになってしまったが、婆さんはこの町へくるのが好きだった。  この町は、いい思い出だけに満ちている。歩いていると、あのころのパレードの幻がみえる。耳の奥には楽隊の音と、幟が風に鳴る音がきこえる。  婆さんは、町の家並の尽きるところまでいって、引き返し、町の中程の海側にある以前の間借人の家に立ち寄る。その間借人というのは、東京から流れ着いた戦争孤児で、正確にいえば間借人たちの間を転々としていた、いわば巴里館の居候であった。それが、浜で遊んでいるうちに|太《ふと》っ|肚《ぱら》な漁師の気に入られて、いまはその娘を嫁に貰って自分も屈強な漁師になっている。  あのころの間借人たちも散り散りになって、町にはその漁師がひとり残っているきりである。婆さんは、そこへ寄るのを愉しみにしている。  表口から、 「いるかい?」  と声をかけて、返事がなければ、勝手に隣の家との間の路地を通って縁側へ廻る。  縁側の、|藁《わら》で厚くお椀のような形に編んだ、エツコという|揺籠《ゆりかご》のなかに赤ん坊が眠っていれば、親の出先はそう遠くない。婆さんは、やっとエツコのそばに腰をおろし、しばらくは目をきつくつむって足の|痺《しび》れを怺えている。それから、手拭いで顔や首筋の汗を拭き、一服つける。  エツコのなかで眠っている赤ん坊の顔が、黒く斑に汚れている。けれども、それは、墨でもなければ|煤《すす》でもない。それかといって、|瘡蓋《かさぶた》でもない。二つに折った手拭の端を|摘《つま》んで、赤ん坊の顔すれすれに|撫《な》でるように振ると、黒い斑は嘘のようになくなる。  けれども、ちょっと手を休めて、ふとみると、またもやさっきの黒い斑が元のところに戻っている。  |蠅《はえ》の群れだ。何十匹とも知れない群れなのに、赤ん坊はなにも知らずに眠っている。  婆さんは、時折思い出したようにエツコの上に手拭いを振りながら、海を眺める。晴れた日にばかりくるせいか、ここから眺める海は大概静かだが、眺めているうちに、不意に水平線が持ち上り、そのまま海が起き上ってきて自分の方へ倒れかかってくるような不安に襲われることが、婆さんにはある。  いまでもはっきり|憶《おぼ》えているが、明治二十九年の六月十五日、不意に起き上って倒れかかってきた海に呑まれて、ここからすこし南にあった生まれ在所と両親が、一緒にこの世から消えてなくなった。そのとき、婆さんはまだほんの子供だったが、一つ下の弟の手を引いて、在所を通り過ぎていった旅芸人のあとを峠の上まで追っていたので、この世に残ることになってしまった。  弟は近くの漁師に貰われていったが、婆さんは遠縁の者に引き取られて、まもなく東京へ売り飛ばされた。その後、あのとき両親と一緒に波に|攫《さら》われた方が増しだったと悔むことが多かったが、いまとなっては、どちらでもよかったのだという気がしている。  うっかり、手拭いの先が|瞼《まぶた》でも|敲《たた》いたのか、赤ん坊が目を|醒《さ》まして泣き出した。 「ごめん、ごめんよ。おおよし、いい子。」  婆さんは、口をすぼめて鼠の鳴き声をしてみせながら、エツコを揺さぶりはじめるが、赤ん坊は泣き|止《や》まない。舌をいろいろに鳴らしてみせても、効き目がない。  婆さんは、仕方なく、着ている白無垢の胸元をこじ開けにかかる。昔、捨子の好子を拾ったころ、夜中に泣かれてほとほと手を焼き、こんなときは母親ならこうもするだろうかと、乳が出るわけもない自分の乳房を口に押し当ててみたところ、好子は|騙《だま》されて吸いつき、ますます怒って狂い泣きするかと思えば、意外にも乳首を口に含んだまま、すやすやと眠ってしまった。  それ以来、何度も騙して眠らせたが、赤ん坊とはどうやら乳よりも乳房に|安堵《あんど》するものらしい。  いつもなら、馴れた手つきで、するりと出せるのだが、こう紐や帯を幾重にも巻きつけられていては、ままならない。帯を押し下げ、やっとのことで胸の片方を押し開いて、エツコから赤ん坊を抱き上げた。  案の定、乳首を口に含むと、赤ん坊はおとなしくなった。それみたことか。  花嫁衣裳が、赤ん坊に乳を吸わせながら親の帰りを待っている。 [#改ページ]  魔術     一  去る五日の未明、港ですこし変った出来事があった。波止場のはずれに|繋留《けいりゆう》中の、当町海岸通り字|砂窪《すなくぼ》十一番地岩場角太郎さん所有のハエナワ漁船第八福寿丸が、夜が明けてみると、沈没していた。船長はじめ乗組員は全員上陸していたので無事だったが、沈没原因については誰も思い当るふしがないといっている。但し、沈没船から流れ出たと思われる重油が港の海面にひろがっていたので、巡視艇うみどりに依頼して港内に中和剤を|撒布《さんぷ》した。  なお、当夜船の宿直番に当っていた見習甲板員の少年某は、漁に出るとき借りたマンガ雑誌十数冊を返しに近くの女友達を訪ねて、そのまま夜通し話し込んでいたために、危うく難を免れた。  週刊新聞の菜穂里タイムス十一月九日号に、そんな記事が載っている。  第八福寿丸はなぜ沈没したのだろう。四日の夜から五日の未明にかけて、海は別段|時化《し け》だったわけでもなく、たとえ時化だったにしても船は防波堤の内側に繋留されていたのである。無論、港内だから、船底を損じるような|暗礁《あんしよう》など、あるわけもない。  第八福寿丸は、四日の夕方、沖の漁を終えて帰港し、魚市場で水揚げしたのち、波止場のはずれに繋留された。まもなく、船長以下乗組員たちは、独り者の少年某にあとを|托《たく》して上陸したが、彼等にとってはそれが船の見納めになってしまった。  菜穂里タイムス十一月九日号の関連記事によると、少年某は夜十時過ぎ、|寂寥《せきりよう》に堪え兼ねて、「ほんのちょっとのつもりで」某女のもとへ赴いている。けれども、結果は、ついついそこで夜明しをすることになってしまった。  第八福寿丸が沈没しているのを最初に発見したのは、この少年某と、某女である。そのとき少年某はすこし酒気を帯びていた。某女は名残りを惜しんで少年を送ってきたのだろう、二人が寄り添い、|縺《もつ》れ合うようにして波止場の方へ消えていくのを、付近を|警邏《けいら》中の港警察署員が目撃している。  ところが、波止場のはずれまできてみると、少年某の乗る船がいない。そのとき、少年某は、てっきり船に置いてけぼりを食わされたと思った。船は自分を置いてどこかへ出港したのだ。そう思った。ちえっ、半人前だと思って馬鹿にしている。  酔いにまかせて、 「船長の馬鹿野郎。」  と|呶鳴《どな》ると、不意に目の前の海面から|羽撃《はばた》きの音がして、降って|湧《わ》いたように鴎が数羽飛び立った。  驚いて、しゃがんでまだ暗い海面に目を凝らすと、なんと海中から、船のメインマストの先がにょっきり出ている。それが明け初めた空を背に、まるで十字架を傾けたようにくっきり浮かんでみえている。  二人は重ねて驚いた。船はそこに沈んでいるのだ。とても信じられないようなことだが、留守中に船は沈んだのだ。  少年は、連れに背中を押されるようにして、ふらふらと港警察署の玄関を入った。それから、港はちょっとした騒ぎになった。  第八福寿丸は、なぜ沈没したのだろう。それは誰にもわからない。船長や乗組員、それに少年某までが、自分が上陸するまでの船にはなんの異状もなく、沈没した原因としてはなに一つ思い当ることがないといっている。  第八福寿丸が沈むところをみた者も、そんな気配を感じた者も、ひとりもいない。付近を警邏していた巡査たちも、べつに船火事らしい火も煙もみなかったし、転覆するような水音も聞かなかったといっている。  とすれば、船はこの世の誰も知らぬまに、ひっそりと沈んでいったのだろう、まるで物の|怪《け》が船底の栓を抜いたかのように。但し、これは船底に、たとえば風呂|桶《おけ》の栓のようなものがあるとすればの話だが——。  いったい、第八福寿丸になにが起こったか——これがここしばらくは町の人々の話の種になるだろうと、その菜穂里タイムスの『すこし変った出来事』を伝える記事は結んである。     二  その客は、離れへ足を踏み入れるなり、ほう、というような声を洩らして、案内の女中の顔をみた。それから、色の生っ白い顔を|鮪《まぐろ》漁船のレーダーのようにゆっくり左右に振りながら、あたりの空気をくんくん|嗅《か》いだ。  やっぱり、匂うのかしらん、と女中は情けなく思った。匂ってはいけないと、せっかく朝から戸障子を閉め切って置いたのに。  この望洋館という宿は、その名のごとく長い水平線が弓なりに|撓《たわ》んでみえる高台にあって、眺望は申し分ないのだが、ただ一つ、どうかすると目の下の魚市場から腥い匂いが風に運ばれてくるところが難点である。町の住人なら、鼻が馴れてしまっているからなんともないが、宿に泊る旅行者たち、とりわけ都会からきた客たちは、匂いの濃い日など窓を開けた途端に|噎《む》せかえってしまう。 「……匂いますか。」  女中は、ちょっとべそをかくような顔をしてみせた。 「匂うねえ。」  けれども、客はそう不快だという顔もしていない。むしろ、なにか珍しい匂いを嗅ぎ当てたとでもいうふうに、目を輝かせている。それで女中は、そうか、これはあの手の客なのだと思った。  あの手の、というのは、大方の客たちが厭がるような匂い、たとえば生の魚や畑のこやしの匂いなどを逆に有難がったり、そばにいい道があるのにわざと野の露を踏み歩いて妙にしんみりしたり、なにかといえば履物を脱いで裸足になってはしゃいだり、わざわざ庭下駄を履いて裏の雑木林まで出かけていって、木の幹に|放尿《ほうによう》して悦に入ったりする、風変りな客たちのことである。  ところが、おかしなことだが、近頃その手の客が増えているのだ。東京など大きな都会からきた客に多い。女よりも男の客に多い。男も中年層に多い。きょう着いたその客も、東京からきた中年の男の客である。  玄関の|間《ま》を通って奥の部屋に入ると、客はますます目を輝かせて部屋のなかを見廻し、そのままつかつかと床の間の前へいって、 「これだ。」  と、ちいさく叫ぶようにいった。 「やっぱり、これだ、この匂いだった。……しかし、これはまたなんと沢山な花を……。」  なんのことかと思うと、古壺に活けてある|金木犀《きんもくせい》のことだ。すると、さっき客が匂うといったのは、この花のことだったのか。  金木犀の花は、米粒ほどの黄色い花だが、一輪だけでも香水のような強い芳香を放つ。きょうは東京の客が泊るというので、臭気止めのつもりで、裏の雑木林のむこうの谷から、花をぎっしりつけた太目の枝を一本|伐《き》ってきて貰って、古壺に投げ入れて置いたのである。  ただそれだけのことで、女中はもう忘れていたが、客はなおもしげしげと眺めて、 「豪勢だなあ。初めてだよ、こんな見事な木犀をみるのは。」  それから、ふっと自信を失ったように振り返って、 「……これ、木犀だろう?」 「そうですよ。金木犀です。」  みればわかりそうなものだが、疑り深い客は、ぎっしり咲き|揃《そろ》って黄色い塊になっている花の群れに鼻を寄せて嗅いでみてから、 「本物だ。こいつぁ|凄《すげ》えや。」  と|呆《あき》れたようにいった。  念入りなお世辞で、お茶を|淹《い》れながら女中は尻がこそばゆくなった。この町では、誰でも金木犀の花を臭気止めぐらいにしか思っていない。けれども、いまさら、それは臭気止めで、ともいえなくて、 「……下手くそで、お恥ずかしいです。」  と女中はいった。 「下手くそ? なにが?」 「お茶をどうぞ。」  客は、ようやく金木犀の前を離れてきた。 「あの金木犀の活け方がですよ。」と女中はいった。「もっと丁寧に活ければよかったんですけれど、時間がなくて……。伐ってきたのをただ投げ込んだだけですから。」 「いや、あの方が自然でいいよ。なんとも豊かな感じで……。伐ってきたって、どこから伐ってきたの?」 「このすぐ裏の谷からです。」 「あんたが?」 「いいえ。私は|鉈《なた》がうまく使えませんから。番頭さんに頼んだんです。」 「鉈でねえ……。|勿体《もつたい》ないなあ。」  たかが木の枝を勿体ないとは、貧乏性な客である。女中はおかしくなって、笑ってしまった。 「だけど、あんな太い枝を伐っちゃったら。」と、客は床の間を振り返っていった。「樹が枯れちゃうだろう。こんなに花を沢山つける樹なんだから、勿体ないよ。」 「こんな枝の一本や二本伐ったって、樹は枯れやしませんよ。大きな樹なんですから、根元がこんな。」  と、女中は両手の親指と人差指で幹の太さを|拵《こしら》えてみせた。  客は目をまるくした。 「そんな木犀があるのか。」 「ありますよ、沢山。数え切れないくらい。」 「……それがみんな、こんなに花を咲かせているの?」 「はい。いまごろがちょうど満開でしょうかねえ、金木犀は。この町の裏山へ登れば、もっと沢山ありますよ。」  客は音を立てて吐息した。 「驚いたねえ。|羨《うらや》ましいなんてもんじゃないな、これは。世界が違うって感じだ。僕の東京の家の庭にもね、木犀が五本あるんだよ。ところが、こいつに花が咲かない。何年待っても、一と粒も咲かない。」 「樹がまだ若いんじゃないんですか?」 「いやそうじゃない。車の排気ガスのせいだ。」  そういわれても、女中にはぴんとこなかった。このあたりでは夏の海霧のことをガスといっている。|海霧《ガ ス》は作物を不作にすることがあるが、金木犀の花まで枯らすことはない。 「よほど|質《たち》の悪いガスなんですねえ。」 「質が悪い。その質の悪いガスのために、いまや東京のあらゆる植物は枯死の危機に曝されているわけだ。こんな豊かな木犀をみてると、人間まで生き返ったような気持になるよ。」  いうことがどうも|大袈裟《おおげさ》だと思っていたら、宿帳の職業欄に著述業と書いたので、女中はなるほどと納得した。以前、この県から国会に出ていた代議士が二度目の選挙で落選した直後、どういうものかこの宿へお忍びで静養にきたことがあったが、うっかり宿帳を頼むと、「はいはい、なんでも書きますよ。」と変にかすれた猫撫で声で、職業欄に著述業と書いた。十日ほど滞在して、昼は岩浜へ魚釣りに出かけ、夜は酒を飲んで|卓袱《ちやぶ》|台《だい》を敲きながら大袈裟なことばかりいっていた。  この町にも、前には県会議員を一期か二期勤めて、その後はぱったり落選つづきという、いまは衰えた網元の旦那が二人いるが、弁天下の浜茶屋で板前修業をしている弟から聞いたところによると、二人は夜な夜な現われて|大形《おおぎよう》なことばかり|喋《しやべ》り散らしているという。この二人が選挙に出るときの職業は、揃って著述業である。  落選した政治屋は、どうしてみんな著述業になるのか。著述業といえば本書きだそうだが、この二人も、前の落選代議士も、どんな本を書いたものやら誰も知らない。  それはともかく、女中としては、著述業といえばいうことが大袈裟で、理屈っぽくて、酒飲みで、なにを飯の種にしているものやら、暇と金にはあまり不自由なさそうな、どうも正体が知れなくて親しみの湧かない客だと心得ている。  案の定、その客も、 「新聞を……この土地の新聞をみせてくれないか。夕食は、なるべくこの土地でとれたものばかりにしてほしいな。それに、地酒を三本ほど。」  といった。     三  結局、彼は地酒を五本飲んだ。  空気が澄んでいるせいか、それとも金木犀のかおりを存分に吸いながら飲んだせいか、いつになく、快く酔いが廻った。  東京で飲んでいると、飲む酒が一滴残らず胃の|腑《ふ》の底に、水銀のように|溜《た》まっているような気がすることがある。いくら飲んでも、その水銀の玉が|脹《ふく》らむばかりで、すこしも酔いが廻らない。あれは、|苛立《いらだ》たしい酒である。じりじりしながら飲んでいる。  ところが、今夜は、ほろりと酔った。酒が酒のまま、素直にはらわたに|沁《し》みるのだ。 「うまかった。やっぱり地酒はいいなあ。」  といって、女中に酒の名を尋ねると、女中は|灘《なだ》の名酒の名をいった。  これはちょっと興醒めだったが、田舎の人は正直でいい。  酒のあとは、茶漬けにした。女中は給仕をしてくれたが、|躾《しつけ》がいいのか無愛想なのか、盆を|膝《ひざ》にのせたまま目を伏せて、じっとしている。それではこちらも気詰まりだから、 「……しかし、驚いたなあ。」  と、さっき風呂あがりに地元のタブロイド新聞で読んだ記事のことを話そうとすると、 「また金木犀のことですか?」  と、女中はほんのすこし片方の唇の端を吊り上げていった。 「いや、今度は別だ。」と彼は笑って、「漁船が沈没したそうじゃないか、港のなかで。」 「ああ、第八福寿丸のことですか。」 「夜のうちはなんともなかったのに、朝になってみたら沈んでたんだって?」 「そういう話です。」 「驚いたね。どうしたんだろう。」 「さあ……。」 「不思議だね。新聞にも、原因は誰にもわからないと書いてある。」 「わかりませんでしょうね、多分。」 「でも、沈んだ船を引き揚げて、調べてみればわかるだろう。」 「さあ……。」 「そりゃあ、わかるさ、引き揚げて調べてみれば。」  女中は、ちょっとの間、首をかしげたままだったが、やがてちいさな|咳払《せきばら》いをして、 「やっぱり今度も、わからないのじゃないかしらん。」 「今度も、というと?」 「前にも似たようなことがありましたから。」 「ほう……。」 「この前は、第三共栄丸。去年……おととしですね。その前は大成丸。どっちも|烏賊《い か》釣りの漁船でしたけど、やっぱり夜中に沈んで、朝になってからわかったんです。」  彼は、途中で|箸《はし》を止めて、女中をみていた。 「……で、わからなかったのかね、沈んだ原因は。」 「わからなかったんです、結局。」 「引き揚げて調べてみても?」 「引き揚げて調べてみても。」  不思議なことがあるものだと思いながら、茶漬けの残りを食べ終ると、彼は、急におかしくなって笑い出した。 「面白いねえ。いや、面白いなんていっちゃいけないのかもしれないけど……。でも、夜が明けてみたら船が沈没していた、なんて、いいじゃないの。なぜ沈んだかは、誰も知らない……。」 「お代わりは。」  と、女中がにこりともせずにいった。 「もう、結構。お茶だけ頂戴。」と茶碗を出して、「しかし、いろんなことがあるんだね、田舎には。」 「東京にだってあるでしょう、いろんなことが。」 「それはあるけど、みんな味気ないことばかりでね。夜が明けてみたら船が沈没していた、なんてたぐいのことは、まず、ないな。不思議なことといっても、人間たちが拵えたからくりばかりでね。都会なんか、もう人間の|棲《す》むところじゃなくなりつつあるんだ。だから時々、こうして一と息入れに出かけてくるんだよ、菜穂里みたいな町を探して。しかし、なんだなあ、こうして夜が明けてみたら船が沈没していた港町で、金木犀の匂いを腹一杯に吸いながら、地酒を……地酒でなくてもいいが、とにかく一杯やって、|按摩《あんま》でもとって……ここは、按摩は呼べる?」 「呼べますよ。」 「じゃ、あとで呼んで貰おうか。……それでぐっすり眠れたら、もう、いうことないな。こんな旅こそ、まさにディスカバー・ジャパンだね。」  そういいながら漬物の残りに箸を伸ばすと、不意に、 「いえ、それはタクワンですよ。」  と女中がいった。  彼は思わず箸を引っ込めた。 「ジャッパ漬けというのは、」と女中はつづけた。「もっと寒くなりませんと。身欠き|鰊《にしん》に、大根に、人参に、玉菜に、高菜。これだけを塩と|糀《こうじ》で漬け込むんですよ。」  彼は、女中がなぜ急にそんなことをいい出したのか、わけがわからなかった。 「……鰊漬けのこと?」 「|他所《よ そ》ではそういうかもしれませんが、ここではジャッパ漬けっていいます。」  そのとき、そうかと思い当った。彼が、ディスカバー・ジャパンといいながらタクワンを食べようとしたのを、女中は、彼がタクワンをジャッパ漬けだねといって食べようとしたのだと思ったのだ。 「なるほど。ジャッパ漬けか。こいつはいいや。」  と彼は笑った。     四  按摩がきたとき、彼はもう床に入って、文庫本を読んでいた。入口の戸が開いて、 「お晩でーす。マッサージでーす。」  按摩はそういって入ってきた。女の按摩であった。声だけではよくわからなかったが、 「失礼しまあす。」  と部屋の|襖《ふすま》を開けて入ってきたのをみると、まだ十九か二十ぐらいの、寝ていて見上げたせいか女には珍しいほど背の高い按摩であった。そのせいか、色白の顔が随分ちいさく、目はぱっちりと大きくみえた。髪は三つ編みにして、背中の方へ垂らしていた。白い上っ張りのようなものを着て、黄色いスカートを|穿《は》いていた。  彼は、按摩といっても港町だから、いかつい漁師の女房でもくるのではないかと思っていたから、すっかり当てが外れて、すこしうろたえたような気持になった。 「じゃ、やって貰おうか。」  彼は独り言のようにそういって、「よいしょ。」と|躯《からだ》を横向きにした。按摩は、彼の背中の方に膝を落として、肩に手をかけた。  そのとき、彼は片方の耳を枕につけて目を閉じていたが、肩を|揉《も》みはじめた按摩の手を、まるで男の手のようだと思った。大きくて、固くて、強い手であった。指が節くれ立っているような感じさえした。首筋を指圧する親指の感じは、ほとんど男のものと変らなかった。 (この按摩、まさか女装の男じゃあるまいな)  彼は、目をつむったままそう思い、しばらく薄気味の悪さを愉しんだ。  按摩の手は、首からまた肩に戻り、腕に移った。腕は彼の脇腹の上に置かれていた。按摩はその腕を、彼の脇腹の上にまっすぐに伸ばして、両手で揉んだ。かなり強いマッサージだったが、彼は近頃太りはじめて、すこし強目でなければ効かないのだ。いい気持だった。男みたいな女按摩も、悪くないと思った。  しばらくすると、不意に、按摩の手から力が脱けた。力が脱けたけれども、指はまだ揉む動作をつづけていた。旅先で按摩をとっていると、こんなことは珍しくない。彼は、振り向いて按摩の様子をみたことはないが、そんなときはどこか|痒《かゆ》いところがあって|掻《か》いているのだろうと想像する。夏なら、指先でちょっと汗の玉を弾いたのだろうと思ったりする。実際、それはほんのちょっとの間のことで、じきにまた揉む手に力が戻ってくる。  ところが、どうしたことか、今夜の按摩の指にはなかなか力が戻ってこない。そのうちに、按摩が妙な声を洩らした。しゃっくりとも、げっぷともつかない、「けくっ。」ときこえる声である。  それが、声ではなくて、|喉《のど》が鳴る音だと気がついた直後、彼は自分の脇腹の、浴衣の上に、なにかがぽとりと落ちたような気がした。けれども、はっきりしたことはわからなかった。落ちたとしても、それが何なのか見当もつかなかった。  また落ちた。今度ははっきり、落ちたとわかった。彼は不意に目を開けた。落ちたものが浴衣に|滲《し》みて、なまぬるく肌に触れてきたからである。  まず彼の頭にひらめいた判断は、按摩が泣いているのだということであった。脇腹になまぬるく滲みてきたのはこぼれた涙で、喉が鳴っているのは|嗚咽《おえつ》のせいだ。そう思ったのだ。それで、彼はそっと肩越しに按摩を振り向いてみた。  ところが、彼の判断は間違っていた。按摩は泣いてはいなかった。大きく見開かれた目は、乾いたまま、彼の躯を越えて布団のそばの畳のあたりを、|瞬《またた》きもせずにみつめていた。けれども、そこには別段、みつめられるほどの物はなにもなかった。ただ赤茶けた畳があるだけなのだ。  それでも、按摩の喉は鳴っていて、彼の脇腹に落ちているのは、涙ではなくて|涎《よだれ》であった。 「……おい、どうしたの? 気分が悪いのか?」  彼は|肘《ひじ》で身を起こしていった。  すると、按摩はゆっくりと顔を動かして彼をみた。相変らず目は大きく見開かれていたが、その目はなにもみていないことがわかった。焦点を結ばない、死んだ目だった。顔も|蒼《あお》ざめて、無表情だった。両手はまだ彼の腕の上にあったが、指は全く力を失っていた。ただ厚ぼったい唇だけが生きもののように濡れて光っていて、そこから涎が糸を引いて滑り落ちていた。 「きみ、気分が悪いんだろう? 気分が悪いなら、そこへ横になった方がいい。」  彼はいった。すると、魂が脱けたとしか思えなかった按摩が、意外にも、 「はい。失礼しまあす。」  低い声だったが、はっきりとそういって、布団のすぐそばの畳の上に、仰向けに長々と寝そべった。彼は反射的に起き上って、あぐらをかいた。  この按摩は、|癲癇《てんかん》持ちなのではないかと思った。揉んでいるうちに発作が起ったのではなかろうか。この目と涎は、尋常ではない。けれども、癲癇の発作を起こした人が、「はい。失礼しまあす。」などといえるものなのかどうか。いつか電車のなかでみた癲癇の人は、仰向けに倒れて手足を|顫《ふる》わせ、口からは|泡《あわ》を噴いていた。とてもこんなにおとなしいものではなかった。  畳の上に、硬直したように寝ている按摩の閉じた|瞼《まぶた》は、思いがけなく下手なアイシャドーに汚れていて、それが町工場の窓ガラスのように絶えずぴりぴりと顫えていた。みていて、彼は不安になった。このまま按摩は息絶えてしまうのではないか?  彼は、帳場へ電話しようと思った。その前に、ちょっと按摩の肩を揺さぶってみた。按摩はぱっちりと目を開けた。 「おい、大丈夫か? きみはもう帰って寝た方がいい。」  すると、按摩はなにを思ったのか、頭をもたげて、自分の腹のあたりから脚の方をみた。まるで、眠っている間それだけが気がかりだったのだというふうに、真っ先にそうした。彼は|物哀《ものがな》しいような気分になった。この上、妙な疑いの目でみられたりしたら|叶《かな》わない。  按摩はのろのろと起き上った。目をぱちくりさせていた。彼は立っていって、財布から千円札を抜き取ってきた。 「もういいよ。早く帰ってやすむんだな。いくらだい?」 「七百円です。」  彼は千円札を按摩に渡した。 「お|釣銭《つ り》はいいよ。気をつけて帰るといい。」 「あの、私……。」と、按摩は手のひらに札をのせたままぼんやりとした声でいった。「どこまで揉んだんでしょうか。脚の方も、揉んだかしら。」 「片方の肩と、首と、腕だけだよ。」  と彼は苦笑していった。 「じゃ、こんなに貰えないわ。」 「いいんだ。取って置きなさい。」 「じゃ、あとをやります。大丈夫だから。」 「もう結構。僕はもう眠いんだ。」  按摩はもじもじしていたが、 「ほんじゃ、頂きまあす。」  といって、金を上っ張りのポケットに入れると、 「有難うさんでしたん。」  といって帰っていった。  彼は、急いで浴衣を脱ぐと、乱暴にまるめて部屋の隅へ放ってやった。それから、まだ湿り気のあるタオルで、按摩の涎が滲みた脇腹を強くこすった。いったい、あの按摩はなんだろう。そう思うと、突然ぶるっと|身震《みぶる》いが出た。  彼は、帳場へ電話をかけた。番頭が出た。 「浴衣を一枚欲しいんだけど。」 「浴衣、といいますと……なんの浴衣でしょう。」  と番頭がいった。 「着て寝る浴衣だけどね。」 「浴衣は、女中がお持ちしなかったでしょうか。」 「いや、僕のは前に貰ったがね。」 「すると、どなたの浴衣でしょう。もう一枚と|仰言《おつしや》るのは。」  前の浴衣は按摩が汚したのだといえば、妙な誤解を招くおそれがある。汚した事情をくわしく説明しようと思えば、とんだ手間がかかるだろう。彼は面倒になって、 「とにかく浴衣を一枚、すぐ持ってきて貰いたいね。それに、さっき頼んだ按摩、ありゃあ病気じゃないか。病気の按摩は、困るね。」  そういうと、 「いえ、病気なんかじゃございません。」と、番頭は笑いを含んだ声でいった。「どうぞ御心配なく。もうすぐくるはずですから、いましばらくお待ちくださいますように。」 「いや、按摩なら、もうきて帰ったよ。」 「……そんなはずはありません。つい、いましがた、家を出るという電話がありましたから。なにしろ目が不自由ですから、ちょっと時間がかかります。」 「しかし……按摩は本当にきて、ついさっき帰ったばかりなんだがね。」  と、彼はさっきの按摩の、大きいばかりで|虚《うつ》ろな目を思い出しながらいった。  番頭はちょっと口を|噤《つぐ》んでいたが、 「……それは、どんな按摩さんでしたでしょう。」 「若い女の按摩だよ、背の高い。」  すると、番頭はぐすっと笑った。 「うちで頼んでる人は、五十近い男の按摩さんですが。」 「……じゃ、その按摩の弟子が代りにきたんだろうか。」 「いえ、なにかのお間違いだと思いますが。」 「そんなことはない。現に僕は……。」 「でも、この町には、女の按摩さんは一人もいませんですからね。」  と番頭はいった。  彼は、思わず受話器を耳から離したが、それを置くのを忘れてしまった。もしもし、もしもし、と番頭の声が|蚊《か》の鳴くようにきこえる受話器を両手で胸に抱えて、彼はしばらくぼんやりそこに立っていた。  ふと、誰かがうしろに|佇《たたず》んでいるような気がして、振り返ったが、無論、誰がいるわけもない。米粒のような花をどっさりつけた金木犀の大枝が、|疵《きず》だらけの床の間の壁にひっそりと|靠《もた》れるように傾いているきりである。 [#改ページ]  寸劇     一  菜穂里の町の北はずれに、古ぼけた木造平屋建ての町営住宅が二十戸ほど、|錆《さ》びたトタン屋根を寄せ集めている一郭がある。裏はすぐ石ころの浜で、日が落ちると浜鳴りが一段と高く、かすかな地響きさえ伴ってきこえてくる。浜鳴りというのは、浜の無数の石ころが波に|嬲《なぶ》られてぶつかり合い、転げ廻る音のことで、|時化《し け》の晩など、町なかにいてもその浜鳴りがきこえる。知らない人が聞けば遠雷かと思うような音である。  この一郭の、街道から路地を入っていちばん奥——ということは最も浜に近いところにあるのが、奥野作造の家である。作造は、この菜穂里の町から山へ五里ほど入った部落の農夫だったが、おととしの秋、雪がくる前に一家で山を降りてきて、空家になっていたこのおんぼろの町営住宅に入った。  一家といっても、女房の伸子と、今年七十八になる祖母の三人暮らしだが、作造はいくつかの力仕事を転々としたのち、いまは港の近くのテトラポッドを作る工場の労務者に落ち着いている。  伸子の方は、浜清水のラムネ工場で|瓶洗《びんあら》いをしている。  ところが、今年になってから、どういうものか作造一家には面白くないことばかりつづけさまに起こっている。  年が明けてまもなく、伸子が流産して、十日寝込んだ。|尤《もつと》も、このときは伸子自身、子供ができていることを知らずにいたといっているが、それが本当かどうかは別として、仕事を休んで十日も寝込んだことが面白くないことには変りはない。それ以来、伸子は時折ヒステリックな言動をみせるようになったが、それもまた面白くないことの付録のようなものだ。  伸子の躯が元通りになると、今度は作造が車にはねられて、|肋骨《ろつこつ》と脚に怪我をした。この方は、十日というわけにはいかなくて、病院からは出てきたものの、いまだに家で養生している。  その上、おとといの出来事である。七十八の婆さんが、誰にもなんともいわずに、ひとりでふらりと家を出たきり帰らないのだ。  いったい、どうしたのだろう。どうしてこうも面白くないことばかりつづくのだろう。     二  今年三十の作造に、五つ年上の一枝という姉がいて、これは本線で二時間ほど北の、やはり海べりの温泉町で旅館の女中をしているのだが、今朝、祖母の家出の知らせを聞いて、作造のところに駈けつけてきている。  作造の病室と、夫婦の寝部屋と、居間と食堂を兼ねているこの家では最も広い六畳間。作造が万年床に寝ていて、そばの|炬燵《こたつ》では一枝が幾つ目かの|蜜柑《みかん》の皮を退屈そうに|剥《む》いている。伸子は、朝から心当りを探しに出かけていて、いない。春とはまだ名ばかりの、三月初旬の冷える日の夕刻。もうさっき日が落ちて、そろそろ浜鳴りが|厭《いや》でも耳についてくるころである。  火の用心の当番が、拍子木を|敲《たた》いて路地を通っていく。 「……厭な音。」 「拍子木がかい。」 「あの波の音がさ。ごろごろ、ごろごろ……まるで猫を枕にして寝てるみたいに……。」 「姉ちゃん、相変らず猫は嫌いなのか。」 「そうよ。ひとの好き嫌いなんて、そうちょいちょい変るもんじゃないだろう?」 「いまの旅館にゃ、猫はいねえんかね。」 「温泉には、猫がいない旅館なんか一軒もないよ。野良猫がいつのまにか住みついてしまうんだから。」 「住込みかね。」と作造は低く笑って、「温泉旅館だと食いもんにゃ事欠かねえしな。あっちこっち住込みで渡り歩いていりゃあ……。」 「おらのことをいうてるんじゃねえだろうね。」 「まさか……どうかしてるよ、姉ちゃんは。」 「どうかしねえ方がおかしいんじゃねえのさ、こんなときに。なんだか胸んなかがむしゃくしゃしてくるよ。よくこんな厭な音を毎晩平気で聞いていられるね。」 「厭だからって、こっちが海っぺりに住んでんだから、仕様がねえことさ。姉ちゃんとこの温泉だって、波の音ぐらいはきこえるだろう。」 「うちの方の浜は、ちゃんとした砂浜だからね。波がどぶーんと砕ける音だけ。」 「それでも、馴れねえうちは寝つかれなくて、随分泣かされたっていうじゃねえの。あれは、母ちゃんが死ぬ十日ぐらい前だったろうか。姉ちゃんが温泉へ女中奉公に出たばかりのころは、海が厭だちゅう手紙が何通もきたもんだって、懐かしそうに話しとった。」 「そりゃあ、なんしろまだ中学を出たばかりだったからねえ。山の部落から、いきなり町へ連れてこられたんだから。海の音だって、生まれて初めて聞くんだもんね。真夜中にひとりで目を|醒《さ》ましていると、山の部落が恋しいことったら……。」 「そうかねえ……。恋しかったんだなあ、そのころは、山の部落も。」 「そりゃあ、自分の生まれ在所だもの。それに、おらは……。」  そのとき、不意に家の外から|鉦《かね》と読経の声がきこえてきて、一枝は口を噤んでしまう。やがて、ちいさく舌打ちして、 「縁起でもない。近所でお通夜でもあるのかい?」 「薬の時間さ。」 「薬の?」 「隣の家がな、なにやら宗教に凝っててさ。」と作造は苦労して身を起こし、枕元の|薬罐《やかん》から湯呑みに水を注ぎながら、「毎晩七時きっかりに家の|者《もん》が集まって、お経をあげるんだよ。」  一枝は、彼が薬を|嚥《の》むのを眺めて、 「へえ、それが、あばら骨の薬かい。」 「いや、これは傷の方の|化膿《かのう》止め。六時間置きに嚥めってさ。」 「……なんだろうねえ、全く。西洋の|鎧《よろい》みたいなのを着てさ。」 「西洋の鎧か。ギブスってんだよ、これ。」 「ギブスだかなんだか知らないけど……山から出てきて、車にはね飛ばされてさ。」 「そんなに猿みたいにいわんでくれって。町へきてから、もう足掛け三年目だぜ。」 「三年が四年だって……山で育った人間はなあ、町の人に比べて、やっぱり根が|暢気《のんき》に育ってるんだよ。町、町っていうけど、山育ちの人間が町で暮らしていくのは、容易なこっちゃないんだけどねえ。」 「いまさら……いまさらそんなこというたって、そんじゃ、おらたちはどこへいけばいい? 山で暮らせなくなったおらたちは、いったいどこへいったら……。」  二人はしばらく黙っている。浜鳴りに、いつのまにか風の|唸《うな》りが加わっている。 「……風が出てきたようね。」 「姉ちゃん、さっき仏壇の|蝋燭《ろうそく》、消してきたんだろうな。」 「消したと思ったけど。」 「思うって、自分のしたことだろうが。いってみてきてけれ。隙間風で倒れでもしたら、|大事《おおごと》だ。」 「消したと思ったけどねえ……。」  と、一枝は隣の三畳間へ立っていく。やがてその方から、ちんちんと鉦を敲く音。作造はふっと笑って、 「また拝んでる。ひとが拝めば縁起でもねえなんていうくせに……。」  一枝が戻ってくる。 「おお寒う……。三月だっていうのに。消えてたよ。」 「また拝んだろう。苦しいときの、なんとやらか。」 「他人事みたいにいうんだね。……それにしても婆ちゃん、どこへいっちゃったんだろうなあ。」 「……大丈夫だよ。」と、作造は自分にいい聞かせるように、「婆ちゃんにはな、これまでに二度も前科があるんだから。二度とも、おらたちにはなんともいわずにいなくなったけど、二度とも無事でみつかった。なんのことはねえ、山の部落で隣組だった爺さん婆さんを訪ねて、昔話してたんだ。二度あることは三度あるっていうからな。今度だって、伸子がみつけて、一緒に帰ってくるって、きっと。」 「だけど、三度目の正直ってことも……。」  と、一枝は暗い声でいう。     三  玄関の外で、「今晩は。奥野さん、今晩は。」という女の声がする。一枝が立っていって、温泉旅館の女中の声で、 「はい、どちらさまでしょうか?」  しばらくして客を送り出し、戻ってくると再び地声で、 「街燈の集金。」 「なんぼだった?」 「あとでいいよ。」くすっと笑って、「奥さん……だってさ。」 「え?」 「奥さんだと。さっきの人がさ。」 「姉ちゃんのことを?」 「おまえの嫁さんのことをだよ。山の部落にいればただの百姓の嫁っこでも、町へ出てくりゃ奥さんって呼ばれるんだもんねえ。」 「……そんなこと、どうでもいいじゃねえかね。|他人《ひ と》が勝手にそういうんだから。」 「奥さんもいいけど、たまには仏壇ぐらい掃除したらどうかと思ってね。指で字が書けるくらい|埃《ほこり》が|溜《た》まってるじゃないか。」 「……仏壇を使うのは婆ちゃんだけだからな。」 「だから、掃除も婆ちゃんにさせようっていうのかい、七十八の婆ちゃんに! それに、あの婆ちゃんの寝部屋、随分隙間風が入るじゃないの。あれじゃ……。」 「それはどの部屋もおなじだぜ。家がおんぼろなんだから仕方がねえだろ?」  そのとき、玄関が開いて、伸子が帰ってくる。けれども、伸子はひとりきりだ。一枝は気落ちして、 「あんた、ひとり……。」 「はい……。厭だあ、姉さん。誰かと一緒だと思ったんですか?」 「誰かとって、婆ちゃんを連れてくると思ったから。」 「だって、婆ちゃん、みつからないんだもの。心当りのところを片っ端しから廻ってみたんだけど。」  三人、あとは言葉もなく互いに顔を見合わせている。やがて、一枝が隣の三畳間へ駈け込むように入っていって、鉦を一つ敲いて戻ってくる。 「姉ちゃん。」と作造。「そんなとこに立ってねえで、炬燵に入んなよ。蝋燭は消してきたろうな?」 「おらが消さなくても、どうせ隙間風が消してくれるだろうけどさ。」  伸子が遊びから戻った子供のように、炬燵のなかで両手を|大袈裟《おおげさ》にこすり合せて、 「おお、寒かった。」 「伸子。」と作造は、とてもいたたまれないというふうに、「酒、持ってこ。」 「え?」 「酒、持ってこって。」 「酒? 酒はあんた、やめたはずじゃない。」 「いいから、持ってこって。」 「駄目だあ。今度の怪我をきっかけにして、酒はきっぱりやめるって誓ったじゃないの。」 「そんな……つべこべいわねで、持ってこったら持ってこ。今夜だけ……おらはこうして寝てるんだから、なんにも心配|要《い》らねって。」 「……どうしよう、姉さん。」 「酒は、怪我には悪くないんだろうか。」  と一枝がいうと、作造は笑って、 「脚の傷に飲ませるんじゃねえって、姉ちゃん。平気だよ。」 「じゃ、おらも気つけに一杯貰おうかな。」 「そらみろ、気つけだって。」と作造は伸子にいう。「なんつうこともねえんだよ。」  伸子は不服げに、それでも台所の方へいきかけながら、 「冷やでいいね? それに|肴《さかな》はなんにもねえけんど。」 「肴なんか、漬物でいいよ、漬物で。」ほくほく顔で、「姉ちゃん、自慢じゃねえが、おらんとこの漬物はな、お|前《め》さん、デパートで売ってる……。」 「作造。」 「え?」 「おまえ、車にはねられたとき、酒飲んでたんかね。」 「飲んでたって……ちょっとだけな。」 「酔っ払って、ふらふら往来を歩いてたんじゃないのかい?」 「冗、冗談じゃねえ。ちっとばかしの酒で、このおらが酔っ払うかって。」 「……飲んでたなんて、ちっとも知らなかった。」  作造が乾いた笑い声を上げたとき、伸子が一升瓶とコップと漬物を運んでくる。 「はい、お待ち遠さん。なんの話?」 「いや、なに、酒は冷やに限るって話さ。さあ、姉ちゃん、勝手に注いでやってけれ。」  自分は伸子が注いだのを一と息に飲み干して、独り言のように、 「……とうとう飲んじまった。」  一枝は|呆《あき》れて、 「へえ……。」 「どしたい、目を丸くして。」 「おまえ、いつからそんなに酒飲むようになったんだい?」 「いつからって、もうずっと前からだ。」 「山の部落にいたころから?」 「そりゃあ、町へ出てきてからだけどね。村にいたころはオホ(濁酒)を茶碗に半分も飲めなかったが……。」 「三十にもなって、十七、八の若い者とおんなしじゃないのさ。町へ出てくれば途端に酒はおぼえる、煙草はおぼえる……。」 「姉ちゃんだって、酒も煙草ものむだろう。」 「そりゃあね、おらみたいに二十年も温泉場の女中してれば、厭でも……。」  すると、不意に伸子が叫ぶように、 「警察……やっぱり警察に届けた方がいいんじゃねだろうか。」  作造と一枝は、ぎくりとしたように顔を見合わせる。 「な、なにいうんだ、警察なんて……。」 「だけど、これ以上、おらたちになにができる?」 「だけど、警察に頼むって、お|前《め》……。」 「おらも。」と一枝が伸子に向き直って、「警察に頼むのは反対だよ。警察に頼むなんて、そんな|匙《さじ》投げたようなことは、おらにはできん。」 「おらはべつに匙投げたなんて……。」 「だけど、警察に頼むなんて、もう最後の最後の手段じゃないのさ。それを最初からいい出すなんて……。」 「おらはなにも最初から、警察、警察いうてるんじゃねえです。おらたちにできることは全部してしまったから、そういうたんです。」 「全部だって? おらたちにできることは全部? じゃ、なんでおらはここへきたんだろ。おらは、あんたらが打った電報に|招《よ》ばれてきたんだよ。」 「まあ、姉ちゃん。」と作造は手を上げて、「そりゃなあ、なにをどう決めるにも、おらたちだけじゃ決め兼ねるからだよ、姉ちゃん。姉ちゃんの意見|訊《き》かんと、おらたちにはなんも決められねえさ。」 「だったら、おらの意見も訊いてみたらどうかね。意見も訊かないで、いきなり警察だなんて……。」  すると、伸子はまた叫ぶように、 「あんたらがあんまり暢気だからよ。酒の話ばっかりしてて……。おらは朝っぱらから脚を棒にして歩いてきたっていうのに……。」  そういっているうちに、涙声になってしまう。 「そりゃあ、あんたは御苦労さんだったよ。」と一枝。「だけど、おらだって、こうして出かけてきてるんだしさ。いると思ったところにいなかったからって、すぐ警察なんていわずにさ、なんかほかに方法がねえもんか、三人でゆっくり考えてみようじゃないかね。」 「んだ、んだ。」と作造は|頷《うなず》いて、「めそめそするなって。なんとかなるよ。」 「なんとかって?」 「うん、そらまあ……姉ちゃん、やってけれ。」  と一枝のコップに注いでやり、自分も自分のコップになみなみと注いで飲む。     四  近くの線路をジーゼルカーが通る。一枝がぼんやり、 「……婆ちゃん、どうして家を出てったんだろう。作造、おまえ、どう思う?」 「さあて……。」 「姉さん。」と伸子。「姉さんはどう思います?」 「おらに訊いたって、わからんわ。おらはここの家の者じゃないからねえ。一緒に暮らしてるあんたたちなら、身に|憶《おぼ》えがあるこったろうが。」 「身に憶えがあるって……。」 「姉ちゃん!」 「なにね。」 「姉ちゃん、まさかおらたちが婆ちゃんを追い出したんじゃねえかって、そんなことを……。」 「おらは、あんたらが追い出したなんて、そうはいってないよ。ただ、あんたらになんか思い当ることがあるかしらんと思って、訊いてるだけだがね。」 「そんな奥歯に物が|挟《はさ》まったみたいな……。」と伸子が厭な顔をして、「はっきりいうてください、姉さん。」 「あんたらがはっきりさせたらどうなのよ。」 「わかった。」と作造が頷いて、「姉ちゃんは、おらたちが婆ちゃんを邪魔にするから、婆ちゃん、居辛くなって出てったと、そういいたいんだろ。そうに違えねえ。道理でさっきから、やれ奥さんがどうの、やれ仏壇がどうの、三畳の隙間風がどうのって、そんなけちばっかりつけて……。」 「奥さんが、どうしたって?」  と伸子、が訊く。 「近所の人たちが、お|前《め》のことを奥さんって呼んだと。」 「……それが、どうしたって?」 「山にいればただの百姓の嫁っこでも、町へくれば奥さんだと。」  途端に、伸子は口を押えてくすっと笑って、 「気の毒に。」 「なんだって?」と一枝。 「なんでもないす。姉さんの気持、わかるわ、おらにも。おらだって|女子《おなご》だもんね。」 「ちょいと、あんた。おらが、あんたが奥さんなんて呼ばれてることを|羨《うらや》ましがっているとでも思ったら、大間違いだよ。そんなこと、誰が羨ましいなんて思うもんか。女が年頃になって、嫁にいって、なにもかも男の世話になるのは、女にとって一番簡単なことじゃないの。馬鹿にだってちょんにだって、なんの苦もなくできることじゃないのさ。」 「馬鹿だって?」 「おらにだってな、その気になればできたんだよ。ただその気になれさえしたら……。だども、おらはな、あんたみたいな仕合わせな娘じゃなかったから、十六の年から村を出てしまわなきゃならなかったんだ。おらはまるで売られるみてえに……牛や馬が売られるみてえにして町へきたんだよ、中学を出るとすぐに。それからはもう、ただ馬車馬みてえに働いて、働いた金はそっくり村の家に送ってさ、気がついてみたら、いつのまにかこんな齢になっちゃってて……おらは父ちゃんや母ちゃんのために若いさかりを棒に振っちまったようなもんさ。」 「そんじゃ、訊くけどな、姉ちゃん。」 「あんた!」 「黙ってろ。姉ちゃんはこれまでに、婆ちゃんのためになにをしてやった? 父ちゃんや母ちゃんにはいろいろしてやったかもしれねえが、婆ちゃんにはなにをしてやった? おらたちに、口先だけでも、婆ちゃんを引き取ってやるかなんて、ただの一遍でもいうたことがあるか? そういわねえまでも、せめて御苦労さんとかなんとか、言葉をかけてくれたことがあるか? まるで自分が関わり合いになりたくねえみたいに、知らん顔ばっかりしてたじゃねえか。……姉ちゃんには、年寄りと一緒に暮らして面倒みるってことが、どんなに苦労なことかわからねえんだよ。」 「わかってるよ、そんなことぐらい。わかってるから、いまの自分にゃ無理なことだと|諦《あきら》めて、余計な口出しは控えてるじゃないか。」 「そんなら、おらたちを変な目つきでみるのは、やめるこった! おらたちだって、できるだけのことは……。」  そのとき、一と筋のサイレンが街道の方に高まってくるのに気がつき、作造は口を噤む。外で男がなにやら叫ぶのがきこえる。 「パトカーか?」と作造。 「救急車じゃないのかい?」と一枝。 「火事じゃないだろうか。おら、いってみてくる。」  伸子があわただしく玄関の戸を開け放して駈け出していく。サイレンはますます近づいてきて、 「まさか婆ちゃんが……。」  と一枝も立って玄関の方へ出ていく。作造はあわてて、 「姉ちゃん、どこへいくんだよ、おらを置いて。姉ちゃんよ……。」  開け放しの玄関からは、なにやらざわめき声と浜鳴りが高い。やがて伸子が駈け戻ってきて、玄関を荒っぽく閉める。 「どうしたの?」と一枝。 「お産だと。」 「お産?」 「急に産気づいて、救急車を呼んだんだと。」  作造は大きな吐息をして、独り言のように、 「婆様がいなくなって騒ぐ家もあれば、赤ん坊が生まれて騒ぐ家もある……。」  |喉《のど》を鳴らして酒を飲む。そこへ一枝が入ってきて、 「作造。」  え、と彼は、ちいさく|噎《む》せる。 「そんなに飲んでいいのかい?」 「なあに。」  一枝はちょっと間を置いてから、 「おらはなあ、婆ちゃん、町の暮らしには向かんと思うの。それで、ときどき|堪《たま》らなくなって家を出るのと違うだろうか。行先が、いつも山の部落で一緒だった幼馴染のとこだってことは、村の暮らしが堪らなく懐かしくなるっていう証拠じゃねえのかねえ。」 「……というと。」と伸子は横目で|睨《にら》んで、「おらたちがずっとあの村にいれば、こんなことにはならなかったろうっていうのかね、姉さんは。」 「馬鹿こけ!」と作造は|呶鳴《どな》る。「おらたち、あれ以上あの村にいられたか? 姉ちゃん、おらたちがあの村で飢え死にした方がよかったっていうのか?」  一枝は片頬だけで笑って、 「すぐ大袈裟なことをいう。」 「大袈裟? 大袈裟とはなんだ!」  と作造は姉に|拳《こぶし》を振り上げるが、すぐ傷の痛みに|呻《うめ》いてしまう。 「姉さん!」と突然、伸子がいう。目が|吊《つ》り上っている。「姉さんはもう、山の人じゃねえんだ。すっかり町の人になっちまった。思い出してけれというのは、無理ですか。あの山んなかに、たった一軒きりで、どうして暮らしていけますか、姉さん。十一軒の家が、昔から肩を寄せ合っていたからこそ、これまでどうやらこうやら暮らしが立ってきたんです。それが、毎年冬には大雪だし、|麓《ふもと》まできていたバスも赤字で路線廃止になっちまうし、その上、送電線の工事の負担金が村に四十五万ものしかかってくるし……。なんやかんやと出費が|嵩《かさ》む一方で、とうとう広畑の家で町へ出るっていい出したんです。」  一枝は驚いて、 「広畑が? あの金持の?」 「そうですよ。あの村で一番の金持の広畑が、真っ先に町へ降りるっていい出した。こんなときは金のある人ほど身軽なもんで、広畑は家を畳んでさっさと山を降りていっちまった。村が|毀《こわ》れはじめたのは、それからなんだ。……みんな浮き足立っちまって、町の方が暮らし易い、暮らしが楽だというて、一軒一軒、ぽつりぽつりと山を降りてった。これまで十一軒で分担していても荷が重かった工事の負担金は、家が一軒すくなくなるたびに、その分だけ余計にのしかかってくる。だけど、おらたちは最後まで頑張ったんです。……おらたちは根っからの百姓だ。百姓のほかは、なんにもできねえ。町へ出たって、土方みたいな力仕事だけが頼りなんだ。」  不意に、伸子は白い喉が生々しくみえるほどに仰向いてけらけらと笑い、不意にまた真顔に戻って、 「正直いって、初めのうちは、一軒一軒村を出ていくたんびに、おらたちは喜んだんです。村を出ていく人たちは、要らなくなった畑をおらたちに|廉《やす》く譲ってくれましたからなあ。土は百姓の宝だ。その宝がどんどん増えていくのをみて、おらたちは最初ほんとに小踊りしたんだ。しまいには、村の畑は全部おらたちのものになって……。だけど、土地がなんぼあったって、働けるのはこの人とおらの二人きり。おらたちが精一杯働いたところで、耕せる畑の広さは知れたもんでしょうが。あとの畑は草ぼうぼうのまんま放っとくほかはねえし……。おらたちは初めて気がついたんです。人が住まなくなった山のなかの土地なんて、もう一文の価値もなくなっちまったってことに……。おらたちがなんぼ土地を持ってても、それは宝の持ち腐れだってことに。ある日、畑から帰ってみると、村はしーんと静まり返っている。人の話し声もきこえねえし、牛や山羊の鳴き声もきこえねえ。村は死んだようにひっそりしてる。……おらたちと一緒に最後まで頑張ってた家を、おらは|覗《のぞ》いてみた。土間に、脂光りした|藁草履《わらぞうり》が脱いである。|囲炉裏《いろり》ではまだ太い|薪《まき》がくすぶってる。まるで、声をかければ奥から返事がありそうな……だけど、おらは声が出なかった。声かけて返事がなかったときがおっかなくて……。おらはただ戸口に立って、わなわな|顫《ふる》えてた。村には誰もいなくなっちまった! おらたち三人のほかに、この山のなかには誰もひとがいねえんだ! ……畑から帰ってくれば、婆ちゃんが庭の日なたに|筵《むしろ》を出して、その上に背中をまるめてぼろを繕いながら鳥追いの唄を歌っている。……あれは、おらではねえか? 婆ちゃんじゃなくて、誰にも知られねえでいつのまにか齢とって、婆様になっちまったおらではねえか? ……おっかねえ。自分をみてくれる人が誰もいねえってことは、おっかねえ。おらは、それまで用もなかった鏡が離せなくなっちまった。あるとき、おらは自分が鏡と話をしていることに気がついて、ぞっとした。おらは気違いになる! ……この人は、おらを抱いてくれなくなった。中気病みみたいに|鼾《いびき》をかいてるこの人の躯にしがみついてると、|夜鷹《よたか》が馬鹿みたいに鳴くんですよ、まるでおらたちの骨をこつこつ突っついてるみたいな声で。夜鷹が何百羽、何千羽と集まって、おらたちの肉をむしり、骨を突っつきにくる! 畜生! 夜鷹なんて子守歌みたいなもんだったのに。しっ! あっちへいけ! もう、やめてけれ!」  伸子は両手で耳を覆い、|身悶《みもだ》えしながら泣きはじめ、 「最初に町へ降りようっていい出したのは、おらだよ。おらで悪かったろうかよう……。」     五 「あんたらはそれでいいかもしれないけど。」と、一枝はゆっくり|溜息《ためいき》をついてから話しはじめる。 「それじゃ十六のときから二十年も家のために働いてきたおらはいったい、どうなるのよ。村の家がなくなってしまったら、おらがいままで世間並みのことには目をつぶって辛抱しながらやってきたことが、なにもかも無駄なことになるんじゃないのさ。あんたらからみれば、おらなんか独り身で、|賑《にぎ》やかな温泉場なんかに暮らしてて、随分気楽みたいに思われるかもしれねえけど、女ひとりで世渡りしてると、あんたらには想像もつかない辛いことがあるんだ。おらだって、女だ。それも尼さんなんかじゃないんだよ。一人の|生《なま》の女なんだ。生の女が、男たちに|揉《も》まれながら、どうにかこうにか生きてるんだ。おらにはな……おらにだって男がいるよ。五人もね。笑いたかったら笑えばいいさ。ひとりで長年旅館の女中なんかしてると、男のふところで慰めて貰うしか仕様のねえことが、いくらだってあるんだ。温泉にはいろんな客がくる。どんな客がきたって、こっちはもう平っちゃらだけど、なんかの拍子に、わが身があんまりみじめでさ。身の置きどころがねえようなときだってあるんだよ。なにもかも忘れさせてくれるような男……いつのまにか、くれば知らん顔もできねえ男が、五人にもなっちまった。あけがた、冷たい廊下を素足でこっそり女中部屋へ帰ってくるときの気持……おなじ女でも、あんたなんかにわかるもんか。みじめな自分を慰めて貰いにいって、帰るときには前に輪をかけたくらいみじめな自分になっている……そのことに気がついて、廊下に立ち|竦《すく》んじゃうことだってある。|舌噛《したか》んで、死んでやれ。だけど……そう思うと、いつだって山のあの家が、ぼおっと目の前にみえてくる。あすこに、おらの家がある。あすこに、おらの里がある。おらはこれだけあの家のために働いてきたんだから、帰りたいときはいつでもあの家に帰って休める……そう思うて、ただそれだけが最後の頼みで、おらはどうやらこうやら……。」  一枝も泣き出してしまう。  突然、作造が呶鳴る。 「やめれ! そんなこと……ぐずぐずいうのはやめれ!」  泣いているのかと思うと、笑っているのだ。 「あんた!」と伸子が、「どうしたのよ。」 「村の家は、もう、ねえ! この世にはねえんだ。」 「ねえって、おまえ……。」 「ああ、おらが消しちまった。この世から消しちまったんだ。あの家は煙になって空へ昇ってっちまったんだ。」 「……なにをいうの、あんた。」 「なにをって、おらは事実をいうてるだけよ。おらはな、あの家に火をつけて焼いたんだって。」  えっ、と伸子と一枝は、のけぞってしまう。 「おまえ、なんてことを……。」 「ざまあみやがれ。あんな家なんか、ねえ方がいいんだ。あんな家があるから、おらたちはいつまでも自分の暮らしができねえんだよ。」  笑っているのかと思うと、泣いているのだ。 「おらは百姓だ。田を作ったり畑を耕したりすることなら、誰にも負けねえ。おらは一生百姓で通すつもりだった。欲はいわねえ、ただおらにできることをして一生過ごせれば、それでいい。そう思ってたんだ。それが……おらは百姓でいられなくなった。百姓でねえ、別のなにかにならんと生きていかれなくなった……。どうして百姓が、いつまでも百姓でいちゃいけねえ? なんで先祖からつづいてきた村が、おらでお仕舞いになるんだ? くそ!」  伸子が泣きはじめる。 「おらたちは町へ降りてきた。」作造は笑っている。「おらは山猿だ。なにをやっても、人並みにはできねえ。おらは、へまばっかりして人に笑われた。おらは焦った。土の匂いのしねえ人間に生まれ変ろうとしても、どうしてもうまくいかねえ。どこまでも百姓がついてくる。おらは、百姓が憎くなった。あの、おらが生まれて育った家さえなくなれば、ふんぎりがつくかもしれねえ。おらはそう思って、こないだの休みの日に、ひとりで山の家へいってみた。誰もいねえ村は、まだ雪にすっぽり……雪の上には狐や兎の足跡がいっぱいだ。畜生! 村があったころはこそこそ逃げ廻って寄りつけなかったくせに、村の空家を巣にしてやがる。……家のなかは、そっくりおらたちが家を出てきたときのまんまだ。おらたちはあのとき、昼飯を食って、もうここには戻ってくることはねえからって、後片付けもしねえでそのまま出てきたんだった。飯台には、めし粒のついた茶碗だの、干物の骨がのってる皿だの、お茶を半分飲みかけた湯呑みだの、漬物の|丼《どんぶり》には漬物が入ったまんま……ねえのは仏壇だけで、あとはおらたちが暮らしてたときのまんまだ。まるで、おらたちが町から|尻尾《しつぽ》を巻いて逃げ戻ってくるのを待ってるみてえな……畜生! 誰がこんなところへ帰ってくるもんか。やい、障子も板戸も、|茣蓙《ござ》も煎餅布団も、|竈《かまど》も水|甕《がめ》も、囲炉裏の灰も、自在|鉤《かぎ》も、|煤《すす》けた|梁《はり》も、暗くてみえない天井も、よく聴け。馬鹿たれが! おめえら、もうおらのあとを追っかけてくるな。おらはもう、百姓じゃねえ……百姓じゃねえんだ。畜生! こんな家はなくなっちまった方がいいんだ。煙になって消えっちまえ! ……おらは小屋から石油を持ってきて、ぶん|撤《ま》いた。背戸から、一服した煙草を投げてやった。ざまあみろ。こんな家なんか……まるで|鉋屑《かんなくず》みてえに燃えやがって……。」  作造は狂ったように笑い出し、それが途中から泣き声になって、 「……おらは町へ戻ってきた。まっすぐ帰るつもりだったが、つい途中でひっかかっちまって……つい酔っ払っちまって……。」  伸子は驚き、 「じゃ、あの晩、あんたは……。」 「帰りに、車にはねられっちまった……。」  作造は、崩れるように寝床へ横たわってしまう。と、浜鳴りのなかから、老婆の歌声がとぎれとぎれにきこえてくる。伸子がぼんやり、 「鳥追いの唄が……ほら。」  その歌声が近づいてきて、伸子が夢から醒めたように、 「婆ちゃんだよ!」  違いなかった。やがて玄関が開いて、老婆の声が、 「いんま、帰ったえし。」 「婆ちゃん!」  と伸子がはじかれたように部屋を出ていき、やがて老婆の腕を抱くようにして戻ってくる。 「婆ちゃん!」と一枝が、「どこへいってたの?」 「ああん?」と老婆は一枝に目を細めて、「どこの人だいの。お|前《め》さん、誰かいの。」 「一枝ですよ、婆ちゃん。」 「一枝……おうおう、大きゅうなったいのう。」 「なに持ってるの、婆ちゃん。」と伸子は老婆の手からビニールの袋を取って、「あ、これ、湯の花だよ。」 「湯の花?」と一枝。 「ほら、山の村のむこう麓に、岳温泉っていう怪我の傷によく効くって温泉があったろう? あすこの湯の花だよ、これ。」 「婆ちゃん。」と一枝は呆れて、「婆ちゃん、ひとりで岳温泉までいってきたの?」 「ああん?」  老婆は笑ってなにかいうが、聞き取れない。耳を寄せていた伸子が、 「ま、婆ちゃん、酒臭い。」 「一杯機嫌で……」  一枝はへなへなと坐り込んでしまう。老婆はまた鳥追いの唄を口ずさみながら寝部屋に入り、|襖《ふすま》を閉める。伸子が死んだように横たわったままの作造を見下ろして|啜《すす》り泣きをはじめ、一枝は|憑《つ》き物が落ちたように、ぼんやり、 「上りの終列車、何時だったろうかねえ。」  相変らず、浜鳴りが高い。  火の用心の拍子木がゆっくり路地を遠退いていく。 [#改ページ]  パントマイム     一  その女の靴を初めてみたとき、モヨは、随分大きなハマナスの花だと思って、目を|瞠《みは》った。それが紅い靴だとは気がつかずに、そこにハマナスが大輪の花を咲かせているのだと思ったのである。  けれども、そのあとすぐ、自分がとんだ勘違いをしたことにモヨは気づいた。  この北国の菜穂里のあたりは、つい四、五日前からようやく春めいてきたばかりで、ハマナスの花時までには、まだ大分|間《ま》がある。それに、ハマナスが育つのは砂地だが、ここは浜ではなく港のはずれのテトラポッドを作る作業場で、地面は広くコンクリートで固めてある。こんなところにハマナスの花が咲くわけがないのだ。  いくらまだ九つの子供でも、浜育ちだから、そんなことぐらいは知っている。  けれども、モヨが、それがハマナスの花なんかではないことに気がついたのは、そんな知識のせいではなかった。といっても、べつに大した発見があったわけではなく、要するに、それが花にしては妙な動き方をしたからである。  花は、風に吹かれれば頭を振るが、ほんのすこしにしろ、根こそぎ、地面を滑るように動いたりはしない。しかも、花だと思ったものが、二つとも、おなじような動き方をしたのだ。  初め、間隔を置いて咲いていたのが、みているうちに、どちらからともなくするすると寄り添った。こんなハマナスなんて、あるものではない。  そのとき、モヨは、作業場のテトラポッドの林のなかにいた。作業場といっても、工場のように屋根や煙突があるわけではない。テトラポッドは四本脚のコンクリート・ブロックだが、作り方は簡単で、鉄板で|拵《こしら》えた型を何枚か組み合せて、そのなかにコンクリートを流し込めばいい。あとは、コンクリートが固まってから型の鉄板を|剥《は》ぐだけである。  大仕掛けな機械が要るわけではなし、コンクリートは別のところからミキサー車が運んでくるから、作業場には工場のような建物も、煙突も要らない。屋根ぐらいは、あれば雨や雪の日は助かるだろうが、なにも一年中、お天気の悪い日ばかりつづくわけでもないのだから、青天井でもいっこうに構わない。  出来上ったテトラポッドをよそへ運ぶときは、大型トラックにクレーン車がついてくるが、そのときのことを考えればむしろ屋根などない方がいいのだ。  型のとれたテトラポッドは、|芯《しん》まですっかり乾くように、しばらくの間は置場で陽と風に|曝《さら》される。そんなテトラポッドの列が幾筋もぎっしりと並んで、海べりの広い置場を埋めている。  置場のテトラポッドは、みな一様に三本の脚を地面につけ、残りの一本を真直ぐ空へ向けて立っている。テトラポッドはどう転がしてもそんな恰好に立つように作られているのだ。ちょっと、無細工な三本脚のロボットのようだ。  大きさは、大中小と三通りあって、一番小型のでもモヨよりはずっと大きい。大型はモヨの背丈の三倍もある。だから、テトラポッドの列のなかにいると、まるで灰色の不思議な林へ迷い込んだかのようだ。  モヨは、どういうものか、このテトラポッドの林のなかで一人遊びをするのが好きで、そのときも林の奥にしゃがんで、コンクリートの地面に石のかけらで人形の絵を描いて遊んでいた。子供は置場で遊んではいけないことになっているが、モヨは、母親がこの作業場で働いているから、大目にみて貰っているのである。  雨や雪の日でない限り、学校が|退《ひ》けると(時には途中で勝手に脱け出してくることもあるが)、モヨは家には寄らずにまっすぐこの作業場の置場にきて、テトラポッドの林のなかで一人遊びに|耽《ふけ》る。家に寄っても、誰もいないからつまらない。父親は漁師だったが、近くの海で魚が|獲《と》れなくなってからは年中よそへ|出稼《でかせ》ぎにいっていて、盆や正月でないと帰ってこない。一人っ子で、近所に仲のいい遊び友達もいないし、テレビもマンガ本もない家にひとりでぽつんとしていてもつまらない。  学校へ入る前は、毎日のように浜の子供たちの群れに混じって遊び廻ったものだが、学校へ入ってからはだんだん友達というものが苦手になった。みんな自分を馬鹿にするからである。なにかといえば、毛が三本足りないといって|嗤《わら》う。  学校ができないのは、それは勉強というものが嫌いなのだから仕方がないが、髪の毛が赤茶けているのはなにも自分のせいではない。顔立ちがまずいのも、|躯《からだ》つきがずんぐりしているのも、自分ではどうにもならないことだ。なにを作っても下手くそで、どんな競争をしてもいつだってびりになってしまうのも、自分では精一杯やっているのにそんな結果になってしまうのだから、どう仕様もないのである。  嗤われてばかりいると面白くないから、モヨはだんだん友達から離れて、一人遊びをするようになった。苦手な友達たちがあちこちの舟の|蔭《かげ》にひそんでいる浜に比べると、この誰もいないテトラポッドの林のなかは、楽園のようだ。モヨは、幼いころからの癖で、陽気がよくなるとスカートの下にはなにも|穿《は》かないことにしているが、そんな恰好で地べたに腰を下ろして遊んでいても、誰も指さして嗤ったりはしないのだから、気が楽だ。  テトラポッドたちは、寛大で、モヨがなにをしても黙っている。モヨもテトラポッドたちに似て、近頃は|唖《おし》のように無口になった。けれども、本当の唖ではないのだから、耳だけはよくきこえる。その日は、午後からすこし風が出て、テトラポッドの林の奥は近くの岸壁の裾を洗う波音が高かったが、モヨはふと、人の話し声を聞いたと思って、振り向いてみた。  すると、テトラポッドの脚の間から、|綺麗《きれい》な|薔薇《ば ら》色をして丸味を帯びたものが二つ、地面に並んでいるのが目に入った。それで、モヨはとっさに、随分大きなハマナスの花だと思って目を瞠ったのだ。  ところが、それは花ではなかった。けれども、モヨには、それが花でないとすれば何なのか、すぐには見当がつき兼ねた。まさか女の靴だとは思わなかった。モヨは、世の中に、こんなに綺麗な色をした靴があるとは夢にも思わなかったのだ。実際、あたりが灰色一色だったせいか、その薔薇色はまるで生きているもののようになまなましかった。  ようやく、それが女の靴だとわかったのは、すぐそばにある黒いものが男の靴だと気がついてからである。そうか、とモヨは、|謎《なぞ》が解けたような思いがした。テトラポッドのむこう側に、男と女が寄り添って立っているのだ。  けれども、そうとわかってからも、モヨはそれが女の靴だとは素直に信じることができなかった。ここが高価な絵本などに描かれている童話の世界なら、わからないこともない。けれども、現実にそういう綺麗な色をした靴があるとは、モヨにはどうしても思えなかったのだ。  モヨは、とっくに、ちびた下駄を脱いでいた。そろそろと立ち上って、こっそりテトラポッドの蔭を廻っていった。  案の定、若い男と女であった。それがぴったりと抱き合って、男は女の口を|舐《な》めていた。けれども、モヨはそんなことより、女が実際この世のものとも思えないような綺麗な靴を履いているのを確かめて、改めて目を瞠った。  なんて綺麗な色だろう。こんな素敵な靴があるとは知らなかった。モヨは、背中がぞくぞくしてきて、ぶるっと身ぶるいをした。飛び出していって、手で触ってみたかった。けれども、そんなことをすれば男にぶたれるにきまっている。  モヨは両手でテトラポッドの肌を|撫《な》でながら、こっそりまた元の場所に戻った。そこからでも、充分女の靴はみえるのである。なるほど、いまとなっては、それは女の靴に違いなかった。女の靴以外のなにものでもなかった。これがハマナスの花だなんて、どうかしている。それこそ、三本、毛が足りない。  モヨは、女の靴から目が離せなくなっていた。女は|踵《かかと》の高い靴から、なおも足の踵を上げて爪先立っている。そのまま、男も女も動かない。動かない方が、それだけ長く眺めていられて、よかったのだが、モヨは、なぜともなくいらいらしてきて、舌うちをした。  全く男というやつは、とモヨは思った。どうしてあんなに女の口を舐めるのが好きなのだろう。  モヨは、遊び仲間から外れてひとりで浜をほっつき歩いていたころ、浜に打ち揚げられた難破船の残骸の蔭や、岩蔭や、浜のはずれの松林などで、近くの町や村から海をみにきたらしい若い男たちが、連れの女たちの口を念入りに舐めているのを、何度も見掛けたことがある。  若い男ばかりではなく、例えばこの作業場の親方のようなゴマ塩頭でも、一週間にいちどは市場から廉く買った魚を土産に、モヨの母親のところへやってくる。  女の口の、どこがそんなに|旨《うま》いのだろう。モヨも女だから、女の口がちっとも旨くなんかないことぐらい、自分でよく知っている。モヨの口など、いつだって唾に砂粒が混じっていないことはないのだ。  ようやく、二人は静かに歩き出した。モヨは、女の靴から伸びている目にみえない糸に|牽《ひ》かれて、テトラポッドの脚におでこをぶつけた。すると、不意に女の泣き声がきこえた。|怺《こら》えても、つい声が洩れてしまうという、あの大人たちの泣き方をしている。女の靴は、泣きながらやがてテトラポッドの蔭にみえなくなった。  モヨは、なんとなく、溜息が出た。ああ、あの女もまた男にいじめられて——と、そう思った。モヨの母親もまた、親方が帰ったあとで、かならずといっていいほど頭から布団をかぶってそんな泣き声を洩らすからである。     二  その女の靴に、モヨがまたしてもめぐり逢ったのは、翌日、学校から帰ってくる途中のことである。  モヨは、腹が減っていたので(腹が減ったときはいつもそうするように)船神様が|祀《まつ》られている神社へ|参詣《さんけい》に寄った。なにもわざわざ人目を|惹《ひ》くことはないから、鈴は鳴らさずにちいさく|柏手《かしわで》だけ打って、両手を合わせたまま|賽銭箱《さいせんばこ》の縁やまわりを丹念にみると、さいわい、きょうもおこぼれが四十円ほどみつかった。  ごっつおさん。素早く拾って、長い石段を駈け降り、鳥居の脇の菓子屋で|餡《あん》パンを二つ買った。それから、石段を途中まで昇って、そこに腰を下ろした。そのとき、不意にきのうの二人連れが鳥居の根元に現われて、石段を昇ってきたのである。  女は、きょうもあの紅い靴を履いていた。それが、いまどきの若い女には珍しく裾が|膝《ひざ》までのワンピース風の白い服に、よく似合っていた。モヨは、二人の顔をまともにみるのは初めてだったが、ただ申訳に、ちらと一|瞥《べつ》したきりで、あとは食べようとした餡パンを手に持ったまま、女の靴ばかりみつめていた。  女は、男の腕に|縋《すが》るようにしながら、モヨのすぐそばを通った。靴は、みていると自然に目がいっぱいに見開いてしまうほど、鮮やかな色をしていた。まるで、濡れているようだった。触れると、指先に、血のような色がつきそうだった。二人は無言で通り過ぎていった。  女の靴が上の境内にみえなくなると、モヨは大きな溜息をついた。胸がごとんごとんと鳴っていた。モヨは、パンを食べはじめたが、さっきまでの食い気がどこかへ消えてしまっていることに気がついた。パンを食べ忘れているうちに、すでになにかで胸が一杯になっているのだ。  モヨは、パンを袋に戻して、考えた。あの二人連れは、何者だろう。町には、あんな紅い靴を履くような女はいない。それに、町の人間なら、昼日中にテトラポッドの置場などへきて抱き合ったりはしない。大方、|他所《よ そ》|者《もの》だろうと見当をつけていたが、さっき顔を一瞥しただけで、他所者だということがはっきりした。  二人とも、みっともないほど白い顔をしていた。男の方は豆腐のような、女の方は|茹卵《ゆでたまご》のような白い顔をしていた。よほど遠くから旅をしてきたのか、男はひどくくたびれているようだった。目のまわりがすっかり黒ずんで、石段を昇る足取りも重たげにみえた。  女の方はといえば、靴や服に比べて、顔の手入れが全くおざなりだというほかはなかった。おそらく、それが女の素顔なのだろう、細い眉はいまにも消えてしまいそうに薄れて、唇は男にいじめられるせいか薄紫に変色していた。  モヨは、なんとはなしに、男が病人で、女が看護婦なのではないかという気がした。そうだとする根拠はどこにもなかったのだが、モヨは、自分の目に映った二人の様子から、なんとはなしにそう思ったのである。病気の男は、どこか都会から、いい空気を吸いにこの海岸へやってきたのだ。看護婦の女は、男の親に頼まれるかして、付き添ってきたのだ。  けれども、看護婦が果してあんな素敵な靴を履くだろうかと考えて、モヨはわからなくなった。それに、病人と看護婦が、テトラポッドの林のなかに人目を避けて抱き合ったりするだろうかと考えて、ますますモヨはわからなくなった。  これが裕福な病人と看護婦でないなら、このみっともないほど白い顔をしているのに身なりだけは立派な二人は、一体、何者なのだろう。  袋のなかの餡パンを、あちこち指で押してみながらぼんやりそんなことを考えていると、うしろから靴音がして、さっきの二人が降りてきた。普通の靴音のほかに、 『たん、たらん、たん、たらん……』  そんな風変りな靴音もしたが、それは女の靴の高い踵が石段を|敲《たた》いてくる音だった。 『たん、たらん、たん、たらん……』  二人は、また無言でモヨのそばを通った。女の靴は相変らず濡れているように光っていた。モヨはふらふらと立ち上った。  ——その日、モヨはとうとうテトラポッドの林へは、いかずにしまった。日暮まで、紅い靴のあとを追って海べりを歩き廻っていたからである。その結果、モヨは、二人が病人と看護婦だろうという最初の考えを、改めなければならないことになった。  というのは、二人がカメラもスケッチブックも持たずに、なんの当てもなさそうに海べりをそぞろ歩きしているところは、まず病人と看護婦らしかったが、普段、滅多に人が近寄らないような危険な場所——たとえば、直接海へ落ち込んでいる|断崖《だんがい》や、波が絶えず高いしぶきを上げているぎざぎざの岩鼻などが目に入ると、男は突然、病人らしくもなく冒険的な行為に及んだからである。  彼は、ガードレールを乗り越えていって、断崖の縁に|腹這《はらば》いになって下を眺めたり、岩浜を身軽に跳びながら突端までいって、どっさりしぶきを浴びて戻ってきたりした。こんな病人がいるだろうか。いるとしても、病人がそんなことをするのを黙ってみている看護婦がいるものだろうか。  女が最も看護婦らしくなかったのは、砂浜に打ち揚げられていた猫の死骸に、あやうく|躓《つまず》きそうになったときであった。女は悲鳴を上げて飛び退き、両手で顔を覆って|蹲《うずくま》り、長いこと泣いた。  こんな気弱な看護婦がいるだろうか。モヨは、まだ学校へ入る前の夜祭の食堂で、菜穂里病院の看護婦がきつねうどんを啜りながら、里から出てきたらしい老婆に人間のはらわたの長さについて話しているのを聞いたことがある。  けれども、女が看護婦であろうと、なかろうと、そんなことはモヨにはどうでもいいことで、問題は女が履いている靴だけであった。その靴が、欲しいとはいわない。たったいちどだけでいいから、触ってみたい。この手でそっと撫でてみたい。その上、出来ることなら両足に履いて、ほんの十歩だけでも歩いてみたい——モヨの|希《ねが》いはそれだけだったが、それさえ到底|叶《かな》うまいと思えばこそ、離れ難くて、日暮まで靴を追って歩き廻ったのである。  靴がホテル・ハーバーの玄関に消えて、日が落ちた。     三  その夜のあけがた、モヨは、女の紅い靴を履いた夢をみた。女が履いてもいいというから、履くと、途端にそれがガラスの靴になって、ぐしゃっと砕けるという夢である。  足の裏が妙にぬらぬらするので、手で触ってみると、ガラスの破片で切れたのか指先に靴とおなじ色の血がついてきた。  きのう、目が痛くなるほどみつめた女の靴と、うろ|憶《おぼ》えのシンデレラ姫の話とが、頭のなかで変に|融《と》け合っていたからだろう。目が|醒《さ》めてみると、どういうものか、モヨはちょっぴり小水を洩らしていた。  こんな朝は、さっさと寝床を畳んで家を出るに限る。モヨは、夜がすっかり明けるのを待って、こっそり寝床を畳むと家を出た。テトラポッドの親方が通ってくるようになってから、モヨの寝場所は物置部屋の隅になったが、こんなときは大いに助かる。  外へ出てみると、雲一つない上天気だった。モヨは、水平線を離れたばかりの朝日に目を細めながら、きょうは学校へいくのはよそうと思った。こんなに上天気なら、あの女はきょうも男の腕に両手で縋るようにして、海べりをそぞろ歩きするだろう。それではこちらも、きょう一日、またあの紅い靴を眺めて暮らそう。  モヨは、ホテル・ハーバーの前のコンクリート橋のあたりで、女が出てくるのを待とうと思った。登校時間がきたら船神様の杉林に隠れて、目の下のホテル・ハーバーを見張っていればいい。そんなつもりで、モヨはホテル・ハーバーの方へ急いだが、そんなに急ぐ必要はなかった。きのうの二人が、もうホテルを出て、浜通りをこっちへやってきたからである。  モヨは、なにもそうすることはなかったのに、石屋の|石塀《いしべい》の蔭に隠れた。紅い靴の爪先に、朝日が金色の玉になって揺れていた。モヨは女の顔をみて、おやと思った。淡い紫色だった唇が、くっきり靴の色に染まっている。  モヨは、相当の間隔を置いて二人のあとをつけていった。漁師町を出外れると、二人はぴったりと寄り添って|縺《もつ》れるように歩いた。|却《かえ》って歩きにくいだろうに、そのままで随分歩いた。鬼泣きまできた。  鬼泣きというのは、海に落ち込む断崖に深い亀裂が入っていて、そこに打ち寄せる波の音が亀裂の内壁に、おおん、おおんと反響する、それが鬼の泣き声に似ているという菜穂里の名所の一つである。そばには、鬼の座敷と呼ばれる緩い傾斜の岩畳もある。  二人は、道をそれると、その鬼の座敷の方へ降りていった。ここは、例えば広場が海の方へ傾いているようなところだから、近寄れば|忽《たちま》ちみつかってしまう。それで、モヨは|諦《あきら》めて、道の反対側の高台へ登っていった。このあたりは、幼いころからの遊び場だから、高台の中腹に鬼の座敷が|隈《くま》なくみえる場所があることを、モヨは知っていた。  二人は、道からはみえない岩蔭に腰を下ろして、しばらく熱心に海をみていたが、やがて女がゆっくりとうしろへ身を倒し、その上に男が覆いかぶさった。モヨは、またかと、うんざりした。人気がないとみれば、すぐこれだ。どこがそんなに旨いのか。  モヨは、むっつりとして、鬼の座敷がみえる場所を離れた。ああなると、男は欲張りだから、長引くのである。こちらもそのつもりで時間を|潰《つぶ》さなければならない。  モヨは、|谷間《たにあい》の方へ降りていって、野生の菜の花を十本ほど摘んだ。それから、ゆっくりと中腹のさっきの場所へ引き返した。  すると、どうしたのだろう、鬼の座敷の二人がみえない。あたりを隈なく見渡したが、どこにもいない。  ただ、鬼泣きの亀裂の縁のところに、なにやら紅いものが、ぽっちりと|芥子粒《けしつぶ》のようにみえていた。その紅い色が、ただごとではなかった。モヨは坂道を駈け降りた。道を横切って、鬼の座敷へ駈け降りた。やはり、二人の姿はどこにもなかった。  鬼泣きの上へ登ってみた。すると、亀裂の崖縁に、あの紅い靴がきちんと|揃《そろ》えて脱いであった。そばには男の黒い靴も、おなじようにきちんと揃えて脱いであった。けれども、男も女もどこにもいない。  モヨは、ちょっとの間、すこし離れたところから黙ってその女の靴をみつめていた。それから、亀裂の縁に腹這いになって、下を|覗《のぞ》いた。  |眩暈《めまい》がするほど下の方に、亀裂の底のちいさな入江が、波が打ち寄せるたびに白く|泡立《あわだ》ち、揺れ騒ぐのがみえている。モヨは、辛抱強く見下ろしていた。すると、一つの引き波に乗って、脚をひろげたままの女の躯が、ひらと反転しながら外海へ滑り出ていくのが目に入った。  それをしっかりと見届けてから、モヨは身を起こして、まだ両膝を岩に落としたまま、女の靴へ手を伸ばした。最初、人差指で触れてみて、色がつかないことを確かめてから、両手で拾い上げた。しっとりとした手ざわりだった。明るい朝の日射しにかざしてみた。いい色であった。まるで生きているもののように鮮やかであった。|堪《たま》らなくなって、両手で胸に抱き締めた。そのまま、一目散に道へ駈け降りた。  モヨは、脇目もふらずに、すたすたと町へ帰ってきた。まっすぐ、港の作業場へいって、テトラポッドの林へ入った。やっとここへ戻ってきた。ここなら、誰に|見咎《みとが》められる心配もない。  モヨは、コンクリートの地面に靴を置いて、ちびた下駄を脱いだ。靴はやはり大きくて、踵の方が大分余った。歩くと、高い踵が、コンクリートの地面を『たん』と敲いた。モヨは、ちょっと首をすくめて、まわりのテトラポッドを見廻した。 「嗤っちゃ、|厭《いや》だよ。」  そういいたかった。がふがふで、踵が余っているのだから、どうしても地面を敲いてしまう。 『たん、たらん、たん、たらん、たん、たらん、たん、たらん……』  モヨは、まわりのテトラポッドたちに肩をひょこひょこさせてみせながら、灰色の林のなかの細道を、何度も行きつ戻りつした。 [#改ページ]  スポットライト     一  あそこの|親爺《おやじ》の——というのは菜穂里駅前の理髪店〈バーバー・|鴎《かもめ》〉の主人のことだが——自慢話は、大概当てにはならないという説があるけれども、こういう場合は、まず致し方がないだろう。ほかに適当な人物も見当らないし、ここはやはり手っ取り早いところで、彼に頼んでみるより仕方がない。  バーバー・鴎へ散髪にいくと、毎度なにかしら自慢話を聞かされることになるが、その自慢話のなかに、いつか団体旅行で|香港《ホンコン》へいったとき、九竜という街の招待所という|曖昧屋《あいまいや》で、フィリピン女と英語で寝物語をしたというのがあった。  それが、どの程度の寝物語だったのか、ちょっと眉唾な気もしないではなかったが、人は見掛けによらないものだから、あれで、柄にもなく、すこしは英語がわかるのかもしれない。案外、用が足りるかもしれない。  待合室の売店の女の子が赤い顔をしてやってきて、さっきの下りのジーゼルカーで着いた外人の客がなにやらものを尋ねるのだが、さっぱりわからなくて困っていると告げたとき、助役はすぐ、バーバー・鴎のことを頭に浮かべて、そう思った。 「その外人が|喋《しやべ》っとるのは、英語かな?」 「英語です、多分。アメリカ人だと思うんですけんど。」 「そんなら、そこのバーバー・鴎へいって」と助役は窓から駅前広場のむこうを指さしていった。 「親爺さんにちょっときて貰わにゃあ。わしの英語は、ちと古いでな、いまの時代にゃ通用するまい。」  女の子がバーバー・鴎を呼びに走り出ていったあと、助役は、売店を見張っていてやるつもりで、ホーム伝いに改札口のところまでいってみた。すると、なるほど待合室の壁のポスターを所在なげに眺めていた中折帽子にレインコートの、あまり背の高くない初老の外人が、助役の帽子の金筋をみてほっとしたのか、急に嬉しそうな顔をして帽子に手を上げながら近づいてきた。  助役は|狼狽《ろうばい》したが、待合室の人々が珍しそうに見守っているものだから、急に|踵《きびす》を返して逃げ出すわけにもいかない。それで、とっさに、 「やあ、どうも。|植える噛む《ウエルカム》。」  と助役はいって、白い手袋をはめた手で敬礼をした。外人はなにか話しかけてきたが、聞いてもわかるわけがないので、構わずに、 「ぷりず、ぷりず。」  といって改札口の|柵《さく》の戸を開けた。  外人は、「せんきゅ。」といって改札口を通った。それくらいならわかるが、それ以上はいけない。それで、もっぱら、「ぷりず、ぷりず。」で先手を打ちながら事務室へ案内して、空いている椅子を、「ぷりず。」といって指さした。まあ、お掛けなさいともいえないのが、われながらおかしかったが、物わかりのいい外人で、「せんきゅ。」とおとなしく腰を下ろしたので、助かった。  そこへ、バーバー・鴎の主人が、白い仕事着の前をはだけたまま駈けつけてきた。 「外人が、どうかしたんですと?」 「それが、どうしたんかわからんのでな、ちょっと御足労を願ったわけだが、なにを尋ねとるのか|訊《き》いてみてくれんかね。」 「なるほど。」  バーバー・鴎は|頷《うなず》きながら外人に目を移すと、不意に、「はろう。」といって、右手をちょっと上げた。外人は、面くらったように目を大きくしたが、すぐに微笑を浮かべて頷きながらなにかいった。バーバー・鴎が腕組みをして、「おっけい、おっけい。」というと、外人は脱いだ中折帽子を小刻みに振り動かしながら、本格的に話しはじめた。  バーバー・鴎は、無言で耳を傾けていたが、話が一段落すると、|呆《あき》れたように、 「これが英語ですかいのう。」  といった。これには助役もびっくりして、 「英語じゃないんかね。しかし、わしはさっき、ふたこと三言、英語で話したんだがね。」 「これが英語だとすると、なんとも|訛《なまり》の強い英語ですじゃ。」  バーバー・鴎はそういうと、外人に向って、「なんも、なんも。」といいながら、ゆっくり首を横に振ってみせた。けれども、外人は諦めずに、また帽子を振りながら熱心に話しはじめた。  何度繰り返してもおなじようなことになりそうだったが、三度目に、バーバー・鴎は、さすがに一つ、発見をした。 「この人、焼鳥が食いたいんじゃないのかねえ。」  焼鳥とはまた唐突な発見であったが、そういわれてみると、外人の話のなかには、確かに焼鳥とも聞き取れるような発音があったような気が、助役にもした。それで、「焼鳥?」と念を押してみると、外人はぱっと表情を明るくして、 「おお、いえす、やき、とりっこ。」  といった。  二人は、顔を見合せて、くすっと笑った。このあたりでは、物の名前の尻に「こ」をつけて、親しみを表わすのがならわしである。魚は魚っこ、船は船っこ、|林檎《りんご》は林檎っこ、焼鳥は焼鳥っこである。それを、この外人、ちゃんと心得ている。ひょっとすると、これは相当な日本通の外人かもしれない。  何年か前に、やはり日本通だという外人がひとり、|苺《いちご》煮を食いにわざわざこの町へきたことがあった。苺煮というのは、まさか苺を煮たものではなく、獲れたての|雲丹《うに》と|鮑《あわび》を材料にした一種の|潮汁《うしおじる》で、お椀の底に沈んだ雲丹が木苺そっくりにみえるところから、この名がある。刻んだ|紫蘇《しそ》の葉をぱらっと浮かべると風味を増す。日本酒のほろ酔いのころに飲むと、最も|美味《お い》しい。  その外人は、苺煮を何杯もお代わりし、ついでにきんきという赤い魚の塩焼きと、|海鼠《なまこ》の酢のものに舌鼓を打って帰っていったが、外人にも不思議な舌の持主がいるものである。  けれども、苺煮ならこの浜独特の料理だから、わざわざ食いにくるのはわかるとしても、焼鳥は日本全国到るところにあるのだから、なにも菜穂里くんだりまで食いにくることはないだろう。それとも、この町に、焼鳥で音にきこえた店でもあるだろうか。  二人は指を折って数え上げてみたが、思い当る店はなかった。この町で焼鳥を食わせる店は、路地の小料理屋か、そうでなければ名もない屋台店ばかりである。 「それにしたって、こんな時間じゃな。まだどこも店を開けとらんだろう。」  助役が懐中時計を覗いていった。  すると、いつのまにか事務室にきて立ち聞きしていた線路工夫のひとりが、 「焼鳥なら、そこの|鯨屋《くじらや》でも食わせるがね。」  と口を|挟《はさ》んだ。  そうだ、鯨屋がいい。鯨屋なら近いし、食堂だから店は朝から晩まで開いている。 「それじゃ、あんた、鯨屋は隣なんだから、この人を案内してってくれんかね。」  助役がバーバー・鴎にそういうと、彼は、言下にそいつは御免だといった。さっきは|髭剃《ひげそ》りの客の|顎《あご》を蒸しタオルで包んだまま出かけてきたから、そろそろ店に戻らなくてはならないという。 「いいじゃないかね、ついでだもの。あんたがいなきゃ、鯨屋の親爺さんだって困るだろう。」 「わしがいたって、大した役にも立ちませんですて。」と、バーバー・鴎は珍しく|謙遜《けんそん》していった。「相手がせめて女ならねえ。わしはどうも、男の英語は苦手ですじゃ。」  結局、助役も付き添いで鯨屋まで同行することになってしまった。     二  鯨屋の主人、通称ドモ兵は、この外人がおまえさんとこの焼鳥が食いたくてはるばる旅をしてきたそうだと|煽《あお》り立てると、惣ち耳まで真赤にして、 「や、や、焼鳥にも、さ、さ、さまざまある。なんにする。」  といった。  そこで、バーバー・鴎が自分の|躯《からだ》のあちこちを指さしてみせながら、 「焼鳥、めにめにね。はつ? れば? がつ? しろ? なんこつ? かしら? まめ? こぶくろ? どれでもおっけいね。」  と外人に注文を訊いた。  すると外人は|訝《いぶか》しそうに眉を|顰《しか》めて、 「……やき、とりっこ?」  と情けない声を出した。 「おお、いえーす、焼鳥っこ、めにめに、たくさんね。」  けれども、外人はいよいよ顔を曇らせて、両手を横にひろげると、これはいったいどうしたことかと問うように助役の顔をみた。 「わしは、もはやこれまでだね。」と、バーバー・鴎が苦笑していった。「やっぱし、どうも男は相性が|悪《わり》いや。んじゃ、まず、ごゆっくり。しいゆうあげんね。」  彼は外人にちょっと片目をつむってみせると、さっさと店を出ていってしまった。  残された助役は、鯨屋と顔を見合わせて吐息した。 「な、な、なんなら、ホルモンもできるが、そういってみたらどんなもんかね。」  鯨屋は、事情が呑み込めないままに、ちょっと焦り気味にそういったが、そんなことをいう必要はなかった。外人が、もう仕方がないというふうに首を振りながら、上着の内ポケットから一枚の古い写真を出してみせたからである。  腕組みして笑っている外国の兵隊の肩に、髪をちりちりに縮らせた日本人の若い女がしなだれかかっている写真だったが、その兵隊の顔がどこかでみたことがあると思ったら、いま目の前にいる外人そのひとであった。 「ほう、若かったんだねえ。」  と思わずいって外人をみると、彼ははにかみ笑いを浮かべて、片方の頬だけ、顔面神経痛のようにひくりと|痙攣《けいれん》させてみせ、写真の女の方を指さして、 「まい、わいふ。」  といった。  そのとき、助役は突然古い英語を思い出して、 「おお、|猥婦《ワイフ》。」  といった。 「いえーす、まい、わいふ。」  助役はなぜともなく感動した。 「これ、女房だと。この人の奥さんだと。」  彼は鯨屋へ目を輝かせながらそういった。  すると外人は、要領をおぼえたのか、人差指でゆっくり写真の細君を敲きながら、 「はあ、すぃすたあ、やき、とりっこ、はあ、すぃすたあ。」  といった。  またしても助役の頭に|閃《ひらめ》くものがあった。 「おお、|吸舌《スイシタ》。」  と彼は叫ぶようにいった。 「いえーす、すぃすたあ。」 「女のきょうだいがいるっちゅうわけだね。この人の女房の、姉か妹っちゅうわけだね。」  そのとき、写真の裏を蛍光燈の方へ傾けてまじまじとみていた鯨屋が、 「じょ、助役さん。」といった。「ここに、八木春代と書いてある。」  みると、なるほどそんなペン書きの文字がうっすらとみえる。助役はいよいよ|冴《さ》えてきて、大胆にも、 「|猥婦《ワイフ》、|合歓《ネーム》、八木春代?」  と外人に問うた。すると、外人は目玉がこぼれ落ちんばかりに目をまるくして、 「いえーす、やき、はるうよ、いえーす。」  といって頷いた。  助役と鯨屋も顔を見合わせて、ほとんど同時に、これで読めたと頷き合った。外人のいう「やき、とりっこ。」は、焼鳥のことではなくて、おそらく八木鳥子のことなのだ。彼は、自分の細君の姉か妹に当る八木鳥子という女性を訪ねて、この菜穂里の町へやってきたのだ。  助役にも、鯨屋にも、八木鳥子という女性の心当りはなかったが、なにしろ人口一万の町である。人探しということになれば、とても駅や鯨屋の手には負えない。やはり警察の手を借りねばならない。 「ゆう、ごう、ぽりす。」  鯨屋が、不意に外人へそういったので、助役はびっくりした。 「あい、すいんく、そう。めに、ぴいぷる、いん、ぜす、たうん。ゆう、ごう、ぽりす。」  全く、人は見掛けによらないもので、鯨屋の英語が正しいかどうかはともかく、外人が素直に椅子から腰を上げたことと、ドモ兵が英語ではちっとも|吃《ども》らなかったことに、助役はいたく感じ入った。  外人を連れて鯨屋を出ると、駅舎の前で客待ちしていたタクシーに乗せて、運転手にまっすぐ警察署へいくようにといった。外人が窓から手を出して、 「せんきゅ、べりいまっち。」  というので、助役はその手を軽く握って、 「いやあ、|鈍米《ドンマイ》。」  といった。  タクシーが広場から出ていくのを見送っていると、助役はちょっと眩暈がした。英語は昔とった|杵柄《きねづか》だから、まだいくらでも思い出せそうだったが、やはり血圧がすこし上っているような気がした。年寄りは、調子に乗ってはいけないのだ。     三  警察署では、駅の助役からの電話で、外人が着く前から彼の大体の用向きは承知していた。ところが、警察署にも英会話に自信のある者はいなかった。あちこち問い合せて、|罐詰《かんづめ》工場の工場長が何年かカナダへいっていたことがあり、|流暢《りゆうちよう》な英語を話すということがわかった。けれども、その工場長とまだ連絡がつかないうちに、外人が署に現われてしまった。  彼は、鯨屋で味を占めて、そこでもまず自分たち夫婦の若いころの写真を出してみせた。ところが、その写真から、思いがけないことがわかった。菜穂里署の|主《ぬし》のような老巡査が、それを覗いて女の顔に見憶えがあるといい出し、誰だか思い出した拍子に、思わず女の前歴について口を滑らせてしまったのである。 「なんと、こいつは|疾風《はやて》のお春じゃないか。」  老巡査はそういった。  疾風のお春とはまた伝法な——|掏摸《す り》ですかと若い巡査が尋ねると、 「いや、終戦直後の進駐軍相手の売春婦だよ。わしをさんざん、てこずらせた奴だ。」  もし売春婦といわずに、パンパンといったら、外人の機嫌を|甚《はなは》だしく損じたかもしれないが、そこは田舎弁の早口だから、間違っても聞き咎められる心配がない。  物好きな巡査部長が、外人に向って片言の英語をためしている間に、老巡査が若手に洩らした思い出話によると、疾風のお春はこの浜育ちの勝気な女で、本名を八木春代といい、戦争中は女子|挺身隊《ていしんたい》を志願して川崎の軍需工場で働いていたのに、終戦で浜へ帰ってきたかと思うと、もういつのまにか県庁のある美羅野市で進駐軍相手のダンサーになっていた。ダンサーがいつのまにかパンパンになった。  疾風という名は、誰がつけたのかしれないが、実際、逃げ足の早い女で、パンパン狩りをしてもなかなか捕まらなかった。たまに捕まると、美羅野署の刑事が付き添ってこの署まで届けてくる。それを老巡査が受け取って、家まで送り届けるのだが、ちょっと目を離した隙にもう姿をくらましていて、付き添ってきた刑事より一と足お先に、また美羅野の街角へ舞い戻っている。  そんな、まことに疾風のような逃げ足の早さに、何度てこずらされたかわからない。そのころ、美羅野でも疾風のお春といえばいい顔の|姐御《あねご》だったが、朝鮮戦争の直前に、ふっと美羅野から姿を消してしまった。それ以来、全く消息が絶えていたが、外人の話の様子からすると、お春は彼と一緒になってアメリカ本土へ渡っていたらしい。  お春の実家では、両親はすでに死亡しているが、老巡査の記憶では確か妹がひとりいたはずだというので、役場と連絡をとって調べてみると、その妹は現在もこの町に住んでいるということがわかった。  八木鳥子、三十八歳。まだ独身で、菜穂里洋裁学院の教師をしている。  ちょうどそんなことがわかったところへ、罐詰工場の工場長が駈けつけてきた。彼は、すこし巻舌の英語でときどき念を押しながら外人の話を聞いていたが、やがて話の概略をこんなふうに通訳した。  ——自分の名はアルバート・チャップマン。終戦直後、進駐軍の兵士として日本に上陸し、各地のキャンプを転々としたのち、本国へ帰還して、それ以来ずっと電気工夫を職業にしている。妻の春代とは、美羅野のキャンプにいたころに知合い、本国へ一緒に連れて帰って、結婚した。春代は、結婚後は家政婦になり、貯金だけを楽しみに夫婦共働きをしていたが、不幸にも|肺癌《はいがん》に取りつかれて去年の暮に亡くなった。  春代は、日頃自分にもしものことがあったら、自分の貯金を遺産として、日本に残してきたたったひとりの妹に贈ってくれるようにといっていた。日本を離れてくる前に、姉妹の間に何事があったのかわからないが、春代は妹が自分をひどく恨んでいると思い込んでいて、それをなによりの悲しみにしていた。この二十何年かの間、手紙は一通も書かなかったが、心のなかでは絶えず妹のことを想っていた。  自分は今度、亡き妻の遺志を果すべく、ひとりで日本へやってきた。いまここに、妻の名義の貯金をそっくり持参している。合わせて一万ドル余りになる。自分には、亡き妻の遺志に従って妹を探し出し、この一万ドル余りの貯金を遺産として彼女に贈る義務がある。御協力を願いたい。妻の妹の名は、「やき、とりっこ」である。——  その八木鳥子の所在は、すでに突き止めてあることを告げると、チャップマン氏はいますぐにでも会いたいといった。それは無理もないことで、ちょうど恰好の通訳もいることだし、警察ほど公正な立会人に恵まれている場所は他にないわけだから、ここで遺産の贈与式を済ませてしまおうということになった。  八木鳥子のことは、姉の春代にさんざんてこずった老巡査が、これもなにかの因縁だろうといって、自分で洋裁学院まで迎えにいった。彼は、玄関に出てきた鳥子に、ただ、実はあなたにぜひ会いたいという人がきているから、ちょっと署までおいで頂きたいといっただけだったので、鳥子はみちみち、浮かぬ顔をしていた。  誰だって、身になんの憶えもないのに、いきなり警察までこいといわれたら、面白くない。それはわかっているのだが、遺産のことなど、第三者が軽はずみに口にするべきではないだろう。思わぬ大金が転がり込んで、うまい話だと他人は思うが、本人には肉親の死の悲しみがあるのだから、一概にうまい話だとばかりはいえない。  老巡査は、まだ明るい街を未婚の女性が警官と並んで歩くのは鬱陶しいだろうと思い、すこし遅れて歩きながら、前をゆく鳥子と、二十何年か前、やはりこんなふうにして家へ送り届けてやった姉の春代を比べてみて、おなじ姉妹でありながらこんなにも違うものだろうかと、不思議な気がした。  あのころの春代は、人間これ以上ふしだらにはなれないだろうと思われるような、そんな不謹慎な匂いを全身から発散させていたものだが、鳥子は逆に、極度につましく禁欲的な匂いを身のまわりに漂わせているように思えた。  片方は、身も心も放浪の果てに一万ドルの貯金を残し、片方は、生れ故郷に固く身を守ってただじりじりと齢を重ねている。  これは、育った時代の相違だろうか。それとも性格の違いだろうか。あるいは、いまの鳥子は、思春期のころの姉に対する激しい反撥心や、生理的な嫌悪感の所産なのかもわからない。  警察での鳥子は、終始、狐につままれたように、ぼんやりしていた。黄ばんだ|艶《つや》のない顔は、表情に乏しく、目はチャップマン氏の顔と通訳の工場長の|口許《くちもと》の間を揺れ動いていたが、ほとんど感動の色を浮かべなかった。ただ、一万ドルが日本の金にすればおよそ三百万円だということを聞かされたとき、鳥子はなにかの発作でも起こしたかのように、|膝《ひざ》の上でびくっとスカートを握り締め、頭をぶるぶると振りながら、 「いけません、そんな……そんなお金、私、頂けません。」  と叫ぶようにいった。 「しかし、これはお姉さんが、あなたのために貯めて置いてくださったようなお金ですからねえ。有難く……。」  と署長がいったが、 「ですから、私、頂けないんです。私、妹として、姉さんからお金を頂く資格なんかないんです。私は長いこと姉さんを……。」  それから、鳥子は両手で顔を覆って、幼な子のように泣き出した。  けれども、結局、鳥子は姉の遺産を受け取った。チャップマン氏は、その晩は望洋館に一泊して、翌日また菜穂里駅からジーゼルカーで帰っていった。その日、助役は血圧が高くて、駅のそばの官舎で安静にしていたが、夕方、若い駅員がきて、きのうの外人が引き揚げていったことを知らせてくれた。 「どんな顔をしてたかね。」 「なんだか、にこにこしてましたよ。」  どうやら〈やき、とりっこ〉はみつかったらしいなと、助役は思った。あの外人のことは、いずれ菜穂里タイムスに出るだろう。苺煮を食いにきた外人のことでさえ、あんなにでかでかと出たのだから、今度も根掘り葉掘りの記事が紙面を埋めることだろう。  これでまた、町に話題の人がひとり誕生するわけだ。八木鳥子。どういう女性か知らないが、これから当分の間は、身のまわりをひしひしと押し包んでくる、ある事ない事の|囁《ささや》き声に、じっと耐えていなければならないのだ。  あの外人が持っていた写真の女性、ただ者ではないとみたが、あの写真が姉だか妹だかの迷惑にならなければ幸いである。  若い駅員が帰ったあと、そんなことをぼんやり考えていると、庭の方から、垣根越しに隣家の子供をからかっている妻の声がきこえてきた。子供もいない、従って孫もいない妻が変に甘ったるい声で、「ばいばい、ばいばい。」などといっている。  ばいばいか。それにしても、もう自分には外人と英語で話す機会などあるまいな、と助役は思い、 「……|猥婦《ワイフ》。」  と一と言、|呟《つぶや》いてみた。 [#改ページ]  檻《おり》     一  その家の前を通ると、 「馬鹿。能なし。意気地なし……。」  そういう女の声がきこえる。  玄関脇の、格子の|嵌《は》まった窓が細目に開いていて、声はそこからきこえてくる。  声だけで齢をいい当てるのはむつかしいが、女はまず、三十五、六というところだろうか。おや、と思わず振り返るほどの、澄んだ、艶のあるいい声で、 「馬鹿。能なし。意気地なし……。」  それが、叫ぶというほどの大声ではない。それかといって、ぶつぶつ呟くような小声でもなく、ちょうど目の前にいる相手に顎を突き出して毒突いているような声だ。  彼は、初めてその家の前を通ったとき、てっきり女が家の誰かを——よほど出来の悪い子供か、そうでなければ|薄鈍《うすのろ》の子守女を、そういってせせら笑っているのだと思った。まさか、道を歩いている自分がそういわれたのだとは思わなかった。  彼は、この春、地方大学を卒業して、菜穂里中学に赴任してきた社会科の教師で、自分のことを馬鹿でも能なしでもなければ、意気地なしでもないと思っている。また、町の人たちにそういってからかわれるようなことはなにもしていない。  彼は、そのままその家の前を通り過ぎた。  ところが、帰りにまたその家の前を通ると、 「馬鹿。能なし。意気地なし。……青二才。」  さっきとおなじような声がきこえる。今度は、青二才だけが余計で、思わず彼は立ち止まってしまった。  彼は、これまで、自分で自分のことを青二才だと人に話したことはあっても、人から、おい、青二才、と呼ばれたことはいちどもなかったが、それにも|拘《かかわ》らず彼が思わず立ち止まってしまったのは、その女の声が家の内から外へ、つまり家の前を通る者へ向けられたもののような気がしたからである。  彼はあたりを見廻してみたが、その細い裏路地には、彼のほかには誰も歩いていなかった。  彼は、格子の嵌まった窓に目をやった。すると、窓の一枚が細目に開いていて、そこから、びっくりするほど大きな目が一つ、路地に立ち止まっている彼をじっとみつめていた。  彼は最初、それは牛か馬の目ではないかと思った。大きさもさることながら、全体になにやら獣じみたどぎつい光を|湛《たた》えていて、とても人間の目だとは思えなかったからである。けれども、牛か馬なら、どうして人間の|棲《す》む家のなかにいるのだろう。  やはりそれは人間の目であった。目が消えると、鼻と、濃く口紅を塗った唇とが、窓の隙間から外へ突き出された。まるで腹を空かした家畜が、|柵《さく》の隙間から|餌《えさ》の匂いを|嗅《か》ごうとするときのように。 「おにいちゃん、おいで。いらっしゃい。」  そういう声と一緒に、唇の下に白い手が出て、ひらひらと彼を手招きした。彼は、はじかれたように歩き出した。|勿論《もちろん》、女の手の方へではなく、帰ろうとしていた学校の方へ。  すると、女の声はまたがらりと調子を変えて、 「馬鹿。能なし。意気地なし……。」  意気地なしという意味が初めてわかるような気がしたが、彼には振り返る勇気もなかった。首筋がひんやりとして、彼は逃げるように足を早めた。     二  その家は、高台にある中学校の裏門から漁師町へ降りる近道の途中にあった。そのあたりは、つい二十年ほど前までは人の棲まない荒地だったが、戦後、そこに新制の中学校が出来てからはまわりにぽつりぽつりと家が増え、いまでは〈見晴らしケ丘〉などと呼ばれて、町ではまず上等の住宅地ということになっている。  アルミサッシの窓のあるモルタル塗りの、屋根には赤や緑やコバルトの瓦をのせた当世風の住宅があるのは、町ではこの一郭だけである。その家も、そんな|小綺麗《こぎれい》な住宅の一つだが、用心深く窓という窓に格子を嵌め込んであるところが、異彩といえば異彩であった。  中学校の裏門から、その家の前を通って海の方へ伸びている道を端までいって、|崖《がけ》道をくだれば、もうそこは漁師町である。その道筋は、漁師町から通ってくる生徒たちの通学路で、教師たちも海へ泳ぎにいくときや、漁師町へ家庭訪問にいくときなどには、その近道を利用している。  彼も、その日、その道を通ったのは、漁師町へ家庭訪問にいくためであった。彼は、まだクラスを担任していなかったのだが、女教師のひとりがお産で休暇をとることになり、その留守を彼は任されて、家庭訪問をすることにもなったのである。  彼は、駅通りの薬屋の二階を借りて、そこから通勤していたが、この町へきてからまだ日が浅いから、その漁師町へ降りる近道を通るのはその日が初めてであった。勿論、その家の前を通るのも初めてであった。それで、女に、 「馬鹿。能なし。意気地なし……。」  いきなりそういわれて、びっくりしたのだ。  彼は、学校へ帰ると、まだ職員室に残っていた国語担当の初老の教師に、 「驚きましたよ。妙な家がありますねえ。」  といって、その女のことを話した。  すると、この学校にもう七年いるというその初老の教師は、むしろ意外そうに、 「ほう、あんた、初めてだったんかね、あの道は。」  といった。 「ええ、きょう初めて通ったんです。」 「あんた、ひとりだったろう。」 「ええ、私ひとりでした。」 「ひとりであそこの前を通ると、きまってやられる。でも、べつに危害を加えるわけではないからね。黙って聞き流して置けば、なんということもない。」 「……しかし、何者なんですか、あの女は。」  と彼は|訊《き》いた。 「あれかい。あれはほら、大通りに三陸信用金庫の菜穂里支店というのがあるだろう。あそこの支店長の奥さんだがね、ここがちょっと怪しくなっている。」  国語教師はそういって、煙草の|脂《やに》で|飴《あめ》色に染まった人差指で軽く自分の|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》を|敲《たた》いてみせた。 「気違いですか。」 「まあ、そういっていいだろうな。」  道理で、と若い教師は納得したが、 「それにしても、一風変った気違いですね。」 「一風変った気違いだ。」 「自分が気違いなのに、人に向って、馬鹿、能なし、なんていうんだから。」 「気違いって奴は、自分のことはちっともおかしいなんて思っちゃいないっていうからね。」 「ああして、一日中、ひとりで家の前を通る人にあんなことをいいつづけているわけですか。」 「そうらしいね。」 「どうして家の人が止めないんでしょうね。」 「どうしてって、止める人がいないもの。」  と国語教師はいった。 「家族がいないんですか。」 「いないんだね。支店長の旦那さんと、夫婦二人きりらしい。」  彼はちょっと驚いた。 「そうすると、旦那さんが勤めに出たあとは奥さんだけになるわけですか、あの家に。」 「そういうことになるわけだね。でも、あの奥さんは、炊事や洗濯はよその奥さんと変らないくらいに、きちんとするっていうからな。」 「ほう。じゃ、根っからの気違いでもないんですね。」 「そこが一風変っている|所以《ゆえん》でね。」 「しかし……それにしても、その奥さんは一種の病人でしょう。病人を家にひとりきりにして置いて、いいんですかね。」 「いいか悪いかわからないけど、べつに立ち居に不自由するような病人じゃないからな。」 「でも、頭がおかしいんですからね。立ち居が自由なだけに、心配だというのが普通じゃないのかな。勝手に外へ出て、変なことをしたら困るじゃないですか。」  すると、そのことなら、まず心配がないのだと国語教師はいった。どうしてかというと、支店長は毎朝、戸口には全部外側から|鍵《かぎ》をかけて出かけるからだという。 「なるほど。そういえば、あの家の窓には残らず格子が嵌まってますね。」 「そうだろう。ただ、あの玄関脇の窓だけ、十センチほど開けられるようになってるね。奥さんが退屈したとき、外が眺められるように、そうして置いてやるんだろうな。」  国語教師はそういってから、柱時計を振り返った。もう五時はとっくに過ぎていた。 「あんたは、まだ?」  国語教師は、握りのところを琴糸で補修してある|鞄《かばん》を引き寄せながら、彼に訊いた。 「私もそろそろ帰ります。」 「じゃ、一緒に……あの道を通ってみるか。」 「またですか?」  酔狂な、と思ったが、 「馴れて置いた方がいい。これからは何度もあの道を通るんだからね。」  二人は一緒に裏門を出た。     三  その家の前を通りかかると、もう玄関脇の窓はぴったり閉ざされていて、隣の洋間らしい窓の曇りガラスにテレビのブラウン管らしい青白い明りが映っていた。二階の窓は(ここにも格子が嵌まっているのだが)大きく開け放されていて、裏庭の方からインコのぎいぎいという鳴き声がきこえていた。 「旦那さんが帰ったらしいな。」  国語教師が独り言のように呟いた。  こうしてみると、その家は、普通の家とすこしも変ったところがない。  二人は、その家の前を通り過ぎた。玄関には、川崎甚右衛門という表札が出ていた。 「川崎甚右衛門か。随分年寄り臭い名前だな。」  若い教師がそういうと、 「そりゃあ、もう、年寄りの部類だもの。もうじき、定年だろう。」  と国語教師はいった。若い教師は意外な気がした。 「そんな年寄りですか。奥さんの方は、声だけ聞くとまだ若そうですが。」 「奥さんは若い。旦那さんより、二十は年下だろうね。」  五十なかばの銀行員の夫と、二十も年下の気が|狂《ふ》れた妻とは、二人していったいどんな暮らしをしているのだろう。 「その支店長の旦那さんは」と、若い教師は|他人《ひ と》|事《ごと》ながら|苛立《いらだ》ちをおぼえていった。「どうして奥さんを、しかるべき病院に入れてやらないんですかね。どうして奥さんの病気を直してやろうとしないんですか。自分のいない間は、奥さんをひとりで家に監禁して置く。これではまるで人間をひとり|檻《おり》に入れて飼ってるようなものじゃないですか。」  国語教師は、ちょっとの間、黙っていたが、やがて煙草を出して火を|点《つ》けると、 「なるほど、はたからみれば女を一匹飼っているようなもんだがね、支店長は。しかし、人間がいちど人間を飼う味をおぼえると、病みつきになるものかもしれないな。」  穏やかな口調でそういった。彼は、まさか温厚な初老の国語教師がそんなことをいうとは思わなかったので、びっくりして顔をみたが、国語教師はなんのこともなさそうに目を細めていた。 「私には、わかりませんね。」  と、若い教師は眉を曇らせていった。 「それは、あんたがまだ独身だから。僕には支店長の気持がちょっとわかるような気がする。」 「……そんなものですかね。」 「そんなものだね、男と女の仲ってやつは。」  若い教師は、なんとなくむっとして口を|噤《つぐ》んだ。高台の崖の縁に並んでいる葉を茂らせた|欅《けやき》の|梢《こずえ》に夕日が当って、そこに|鴉《からす》が群れて騒いでいた。  |烏賊《い か》の盛漁期に入って、町の到るところに烏賊の|腑《ふ》の|腥《なまぐさ》い匂いが漂っている。それで、腥好きの鴉が上機嫌ではしゃいでいるのだ。  すこし遅れて漁場へ急ぐ烏賊釣り漁船のエンジンの響きが、崖の斜面を|顫《ふる》わせていた。 「あすこの旦那が、あの奥さんを手放せない理由は、二つあると僕はみている。」  細い崖道をくだり切ると、国語教師はそういって、短くなるまで煙草を|挟《はさ》んでいた右手の指をVサインのように開いてみせた。 「一つは、あの奥さん、なかなかいい女だから。」  若い教師は、急に恥ずかしくなって笑い出した。 「そういえば、いやに大きな目をした人ですね。」 「目は切れ長で|睫毛《まつげ》が長いし、鼻筋は通っているし……あれが白痴美というんだろうな、実に整ったいい顔立ちをしている。それに、髪は黒くて豊かだしね。|躯《からだ》つきも、なんかこう……要するに肉のつくべきところにはたっぷりついているという感じでね。浴衣なんか着たところは|妖艶《ようえん》としかいいようがない。」 「……みたことがあるんですか。」 「なければ、こんなことはいえないよ。二度ある。」  若い教師は笑い出した。さっきその奥さんに、おにいちゃん、おいで、いらっしゃいと手招きされたことを思い出して、国語教師があの誘いに乗ったのだと思ったからである。 「……嘘をいってると思うのかね。」 「いや……先生、なかなか勇気があると思って。」 「……なんのことだかわからない。」 「実はね、私もさっき誘われたんですが、どうも薄気味悪くってね、すたこら帰ってきちゃったもんですから。」  国語教師は、ちょっと|怪訝《けげん》そうに彼の顔をみていたが、やがて、 「そうか、あんたのいうのは、これか。」  といって、顎の下でひらひら手招きしてみせた。若い教師は頷いてみせた。 「あんた、立ち止まったろう。」 「ええ。」 「立ち止まると、あれをやられる。おととしまで、大学で空手をやっていたという体育の先生がおったがね。彼がためしに、窓の下までいってみたことがあるんだ。ところが、吉田御殿とは大違いでね、自分は悪者のために檻に入れられているのだから、助け出してくれっていうんだって。だけど、こっちは事情を知ってるから、その手には乗らないやね。それで、馬鹿、能なし、意気地なしってことになるわけだ。」  それでは、なにかの用事であの家を訪ねたことがあるのかと思うと、そうでもなくて、あの奥さんは、|偶《たま》に、どうした加減か家を脱け出してくることがあるからだと国語教師はいった。 「旦那さんが鍵をかけ忘れるのか、それとも、奥さんが気違いでなければ|湧《わ》かないような知恵を働かせて、鍵をどうかしてしまうのか、ともかく、するりと家を脱け出してくることがあるんだな、不思議なことに。」  近頃は、こんな田舎の港町にも交通のラッシュアワーというのがあって、漁師町のそう広くもない街道は、魚のはらわたの匂いを|撒《ま》き散らす三輪車や、テトラポッドを積んだトラックや、勤め帰りの自転車やモーターバイクで混雑していた。 「うるさいな。浜伝いにいこうかね。」  国語教師がそういうので、若い教師も同意して、砕けた貝殻が散り敷いている砂の路地伝いに、浜の方へ出ていった。     四 「理由のもう一つは。」  と、国語教師は路地を歩きながらいった。 「あの奥さんの病気が年中悪いわけではないからだと僕はみている。つまり、季節によって病状が違うんだね。いい季節と、悪い季節がある。いい季節には、ほとんど普通の人と変りがなくなる。あの奥さんには、冬がいいらしい。」 「そうすると、悪い季節は夏ですか。」 「夏から秋にかけて、つまり烏賊の盛漁期になると、いちばんいけないらしいな。」 「……どうしてでしょう。烏賊と精神病は、なにか関係があるんですかね。」 「さあ、そのへんのところは、よくわからんな。僕の想像では、あの奥さんの場合、烏賊との関係はきわめて個人的なものだとは思うけどね。」  浜に出ると、海風に乗って、烏賊の腑のひときわ濃厚な匂いが、つんと鼻を|搏《う》ってきた。 「足許に気をつけて。」と国語教師はいった。「イカの腑を踏まないように。こいつを踏み|潰《つぶ》すと、靴がいつまでも|厭《いや》な匂いがするからね。」  けれども、彼の靴には、すでにきょう一日の家庭訪問で、すっかり烏賊の腑の匂いが|滲《し》み込んでいた。ズボンの裾にも、盲滅法に歩き廻って踏みつけたはらわたの汁が飛び散っていた。 「あんた、きょうはこっちまできたの?」 「勿論、きました。」  なにしろ家を訪ねても、みな浜へ出払って誰もいないのだから、仕方がなかった。 「みんなで烏賊を裂いてたでしょう。」 「裂いてました。私は初めてなんですが、あれは壮観ですね。」  長い弓なりの砂浜の、|渚《なぎさ》に近く、烏賊箱を伏せた|俎板《まないた》を横一列に延々と並べて、それに向ってちいさな出刃で烏賊を裂く者、裂いた烏賊を大きな籠に入れて波打際まで運ぶ者、その籠を海へ持ち込んで腰まで漬かって洗う者、洗った烏賊を砂浜の奥へ運んで、干場の縄に一枚一枚かける者——そんな|鯣《するめ》作りに|賑《にぎ》わう浜の眺めは、初めての彼には実際壮観であった。  国語教師の話によれば、支店長の奥さんはこの浜のずっと南にある有瀬という、やはり烏賊漁のさかんな港の漁師の娘で、十六、七年前、四十近いのにまだ独身でその有瀬の支店にいたいまの主人に|見初《みそ》められて、結婚したのだということであった。 「そこまでは本当らしいんだが、ここから先は風説だからね。あの奥さんは、子供のころからあまり賢くない娘だったそうだが、それをあの支店長、銀行員夫人として恥ずかしくない女に仕立てようと、まあ熱狂したというんだねえ。必要な知識、行儀作法、しゃにむに敲き込んだらしい。そういうところは、あの支店長、一種の偏執狂かもしれないな。ところが、そんなことを何年もつづけているうちに、奥さんの頭がだんだんおかしくなってきた。まあ、支店長も支店長だが、気が狂うまで辛抱していた奥さんも奥さんだ、というのが風説だけど、勿論、本当のことは誰も知りゃしない。」 「そうすると、烏賊の盛漁期に病気が悪くなるということは……。」 「あの匂いだよ。あの烏賊の腑の腥い匂いだよ。あれが奥さんのなかで気を失っている本性を呼び|醒《さ》ますんじゃないかな。|尤《もつと》も、これは|噂《うわさ》を土台にすればの話だが。」  毎年、烏賊の盛漁期になると、どういうものか奥さんの狂気は募ってくる。そわそわと落ち着きがなくなり、絶えず家を脱け出す隙を狙っている。現に国語教師はこれまでに二度、家を脱け出してきた奥さんを目撃している。  二度とも、夜で、奥さんは浴衣にきちんと帯を締めていたが、|裸足《はだし》であった。最初のいちどは、国語教師が宿直の晩、奥さんが学校にやってきた。宿直室の炉端で、生徒が持ってきてくれた烏賊を糸作りにして冷や酒を飲んでいると、廊下にぴたぴたという足音がする。それで、出てみると、懐中電燈の光のなかに奥さんの姿が浮かび上った。  もし、そのとき酒を飲んでいなかったら、国語教師は腰を抜かしていたかもしれない。 「展望台に電気を点けて頂けません?」  奥さんはいきなりそういった。けれども、学校には展望台などという|洒落《しやれ》たものはない。 「展望台、といいますと……?」  あそこです、と指さしたところをみると、なんのことはない、校舎の二階で、 「ちょっと烏賊漁の具合をみたいのです。うちからは欅の木が邪魔になってみえないんです。あの展望台からなら、よくみえると思います。」  きょとんとしていると、 「私は怪しい者ではありません。三陸信用金庫の川崎甚右衛門の家内です。」  それで、あ、これがあの、馬鹿、能なし、意気地なしの——と国語教師はやっとわかった。校舎に点燈してやってから、こっそり川崎家へ電話で知らせた。  烏賊漁は、深夜に明るい電燈をいくつも点けた漁船が漁場に密集して、烏賊を海底から|誘《おび》き寄せては釣り上げるから、陸地から眺めると、漁場の水平線が幅広くぼうっと明るんでみえる。支店長が迎えにきたとき、奥さんは二階の窓から、その烏賊漁船団の|漁火《いさりび》をうっとりと眺めていた。  二度目は、去年の秋口、運動会が間近に迫っていたころで、国語教師は競技用具を作るのに手間取り、帰ろうとして職員玄関へ出たときは、もうすっかり日が暮れていた。そこへ、ひょっこり川崎支店長がきた。 「実は、また家内がお邪魔してやしないかと思いまして。」  支店長がそういうので、二人で校舎を見廻ったが、奥さんの姿は見当らない。それではよそを捜すという支店長と一緒に学校を出たが、裏門のところで、やはり運動会の準備で居残っている教師になにか物を届けにきた三人連れの生徒に出会った。それで、念のために、こんな女の人を見掛けなかったかと奥さんのことを尋ねてみると、そのうちのひとりが、さっき浜の路地ですれ違った人ではないだろうかといった。  急いで浜へ降りていってみると、いた。 「あんた、これがなんだかわかるかね。」  国語教師はそういって、烏賊箱を伏せた俎板の列の前後におびただしく散乱して夕日に鈍く光っている、碁石ほどの大きさのものを指さして、若い教師に尋ねた。烏賊のはらわたの一つだろうと想像はついたが、それ以上のことはわからなかった。 「これはね、全部、烏賊の目玉だよ。」  と国語教師はいった。 「その晩は月が出ていて、烏賊の目玉はこんなふうに、一面にぼんやりと光っていた。こいつ、踏むと、ぷつっと音がして、汁が飛ぶんだ。奥さんはね、なにをしているのかと思ったら、まるで麦踏みでもするみたいに裸足でこいつをぷつぷつ踏み潰しながら、嬉々として歩いてたんだ、まるで七つか八つの女の子みたいに。」  その家の前を通ると、相変らず、 「馬鹿。能なし。意気地なし……。」  そういう奥さんの声がきこえる。  若い教師は、もうすっかり馴れっこになって、御苦労さんと通り過ぎる。  宿直の晩、見廻りのついでに〈展望台〉から見下ろすと、その家の灯はすでに消えていることもあれば、まだ明るく点いていることもある。どちらにしても、遠くから眺めている分には、他の家々とすこしも変った様子がみえない。  住宅地のむこうには葉を茂らせた欅の木立があり、その木立の梢の上に、烏賊の漁場の漁火がみえる。まるでそこに海上都市でもあるかのように、水平線が幅広く、盛大に明るんでみえている。 [#改ページ]  空中ブランコ     一  男がひとり、酒に酔って、夜の浜を歩いている。  齢のころは三十前後、油気のない頭に、タオルをねじったのを無造作に巻きつけ、シャツの前をはだけて裾を風にひるがえしているところはいかにも浜の男だが、それにしては、新調らしいブルーの背広のズボンはどうしたのだろう。  酔っているのだから無理もないが、ゴム草履ではね上げる砂が、もうそのズボンの裾の折り返しのところにどっさり詰っている。  もう九月も半ばで、星明りの浜には人気がない。動くものはといえば寄せてくる波頭と、渚に砕ける波の|泡《あわ》だけである。男は、波の舌に追い上げられては、乾いた砂に足が|縺《もつ》れそうになり、また濡れて平らな渚の方へ降りていく。  べつに、どこへいくという当てがあるわけではない。男はただ、家にいたたまれないから、浜にきて、じっとしてはいられないから歩いているにすぎないのだ。  男は、二級酒の四合|瓶《びん》を一本、裸で手にぶらさげている。|喉《のど》が渇いてきたら、砂の上に腰を下ろして、この酒をラッパ飲みにしてやろう。そう思いながら、誰もいない砂浜を、じぐざぐに、南へ南へと歩いていく。     二  女がひとり、酒に酔って、夜の浜を歩いている。  そうでなくても歩きにくい砂浜だから、はやばやと裸足になって、脱いだ下駄を片方ずつ両手に持っているところは賢明だが、砂の|窪《くぼ》みに片足をとられて、大きくよろけるたびに、おや、どうしたのだろう、どうしてこんなに躯がぐらぐらするのだろうと、|訝《いぶか》るように立ち止まっては、足許を踏み締めるような仕草を繰り返すところをみると、酔うことにそう馴れている女とも思えない。  なにかの勢いで、つい、すごした酒が、じわりじわりと利いてきて、この先どんなことになるやらと、われながら心細く、自分で自分にはらはらしながら歩いている、というふうにもみえる。  女は、南隣の部落から、浜伝いに菜穂里へ帰る途中である。バスはもうなくなったが、ハイヤーなら菜穂里から呼べばきてくれる。酔って夜道を歩くのは難儀だから、ハイヤーで帰ればいいのにと訪ねた先では折角そういってくれたが、からかってはいけない。こっちはとても酔ってハイヤーで帰れるような御身分ではないのだ。  なるほど酔ってはいるが、浜は一と筋だから道に迷う心配などないではないか。娘っこでもあるまいし、子供の二人もいる三十女が浜伝いにひとりでふらふら歩いていたところで、なにほどのことが起り得よう。それに、酔いを|醒《さ》ますには、浜風に吹かれながら歩くのがいちばんなのだ。酔いは醒まして帰らなければいけない。酒の匂いを残して帰れば、またぞろ、疑り深い亭主にどこで飲んできたかと殴られる。  女は、よろけたり、立ち止まったりしながら、北へ北へと歩いていく。     三  男は、去年の夏までこの浜にいて、|海鼠《なまこ》採りの潜水夫をしていたが、サルベージ会社に腕を買われて、いまは紀州の方へ働きに出ている。  それが、今度、五日間の休暇を貰って、十カ月ぶりで浜に帰ってきた。女房に、初めての子供が生まれたからである。男の子だといい。いや、きっと男の子だ。そう思いながら帰ってきたら、思った通り女房は男の子を生んでいた。  けれども——彼が今夜酒に酔っているのは、べつにそのことをひとりで祝ったからではないのだ。     四  女の家は、漁師町のはずれにあって、五年ほど前までは半農半漁でまず人並みの暮らしを立てていた。女の亭主というのは、小心な働き者だったが、畑を半分、別荘づくりの不動産屋へ売り渡して、みたこともない金を手にしてからというもの、すこし、様子がおかしくなった。  その金を、すこしでも殖やすことに異様な情熱を傾けるようになった。殖やすといっても、町の旦那衆のように株を買ったり、値上りしそうな土地を|漁《あさ》ったりするわけではない。|怕《こわ》くて、とてもそんなものには手が出せない。  株なんて、あれはただの紙きれである。土地なんて、掘っても掘っても土ばかりではないか。自分の畑が、いい見本である。不動産屋がうまい具合に目を留めてくれたから金になったが、あれがちょっとでも|斜視《やぶにらみ》だったら、畑はおそらく永久に畑以外のなにものでもなかっただろう。  金は、現金でなければ、信用できない。すこしずつでもいいから、現金だけを殖やすのがいい。  亭主は、漁に使っていた小船を売り払ってしまった。野良へ出て働くこともやめてしまった。突然、東京へ|出稼《でかせ》ぎにいくといい出した。まさかと思っているうちに、本当にいってしまった。  それからもう、五年になるが、|勿論《もちろん》、五年も家を留守にしたわけではなく、盆や正月、それに、仕事の替わり目などに、ひょっこり帰ってきたりする。今度も、五日ほど前に、なんの前触れもなく、貯めた札束を土産にひょっこり帰ってきた。  けれども——女はそれが嬉しくて、今夜馴れない酒に酔っているのではないのだ。     五  男が帰ってきたとき、すでに子供は生まれていた。それにはなんの文句もないのだが、一と月半も前に生まれていたというのが、気に入らなかった。  なぜなら、彼は前に女房が手紙に書いてよこした出産予定日という日に合わせて、休暇をとって帰ってきたからである。  出産予定日といっても、それはあくまでも予定日で、かならずしもその日に生まれるとは限らないのだということは、会社の寮の|賄婦《まかないふ》に聞かされて知っていた。だから、彼もちょうど女房が子供を生もうとしているところへ帰れるとは、最初から思っていなかった。  帰ってみたら、生まれていた。結構だ。生まれた子供は男の子だ。申し分ない。けれども、それにしても一と月半も前にというのは、いただけない。  きのう、というのなら、話はわかる。三日前、一週間前……半月前でも、いいとしよう。けれども、一と月半となると、これはいけない。いただけない。これでは予定日がなんのためにあるのかわからなくなる。  女の腹に子種が入ってから、それが赤ん坊になって生まれるまで、|十月十日《とつきとおか》というではないか。当然、この十月十日目が予定日のはずだ。それなのに、女房はなぜ十月十日で生まなかったのか。子供はなぜ十月十日で生まれてこなかったのか。  どうも、十月十日が気にかかる。女房も子供も、十月十日でないのが気に入らない。  彼が十月十日にこだわるのは、それなりの理由があるからで、というのは、まさしくいまから九カ月と十日前に、彼は年末年始の休暇でこの浜の家に帰っていたからだ。(会社の寮の賄婦によると、十月十日というのは足掛けの話で、実際は九カ月と十日で子供が生まれるのだということである。四人の子持ちの賄婦がそういうのだから、この説は信用しないわけにはいかない)  彼には、確信があった。女房が生む子はあのときの子に違いないのだ。ということは、まぎれもなく自分の子だということだ。彼はそう信じて疑わなかった。  ところが、予定日に合わせて帰ってきてみると、女房はもうとっくに生んでしまっている。彼は裏切られたような気がした。おなじ早く生まれるにしても、一と月半はひどすぎる。女房は九カ月と十日かかるところを、八カ月足らずで生んだことになる。  彼の確信はぐらつきはじめた。まさか——まさかそんなことはあるまいと思うが、女房の奴、俺の前に、誰かよその男の子供を宿していたのでは……。     六  亭主は、帰ってきたときから目の色が違っていた。それが女には一と目でわかった。  いまは離れて暮らす日が多くなったが、十年連れ添っている亭主である。なにか変ったところがあれば、顔を合わせた途端にぴんとくる。  いつもは、とろんと眠そうな亭主の目が、どうしたことか酔っ払いのようなどぎつい光を|湛《たた》えていた。都会のがさつな人間たちに混じって暮らしていると、こんなにも目つきが悪くなるものかと女はちょっと悲しい気がしたが、 「おい、ちょっとここへきてけれ。」  縁側から先に部屋へ入った亭主に呼ばれて小走りにいってみると、着替えの手伝いかと思えばそうではなくて、ワイシャツの裾を垂らしてあぐらをかいていた亭主が、いきなり両腕で|膝《ひざ》に抱きついてきた。  浜で男の子たちがよくやっているラグビー遊びというのをみていると、「タックル、タックル。」といって両腕で相手に勢いよく抱きつくのがいる。あのタックルというのと、そっくりであった。  両膝を揃えて抱かれてしまったのだから、重い尻がひとりでに畳に落ちた。 「いやあ、なんの用かと思ったら……。」  女はそういって笑いかけたが、亭主の腕には半年の力が|籠《こ》もっていた。とても冗談などではなさそうだった。亭主の頭が胸を押してきて、女は仰向けに倒れた。  そうかと、やっと気がついた。あの目の変なぎらぎらは、これだったのだ。もう我慢がならなくなって、目をぎらぎらさせながら帰ってきたのだ。  それにしても、子供たち二人は学校へいっているからいいようなものの、こんな真っ昼間からいきなりラグビー遊びを仕掛けてくるなんて、このひと、少々都会かぶれしてきたのではなかろうか。  そう思いながら、女はためしに、亭主の躯を押し退けるような恰好だけしてみせた。亭主は小男だが、こういうときの男の力は躯の大きさとはなんの関係もない。女は|諦《あきら》めて、 「あんた……あんた、ちょっと待ってけれ。」  せめて縁側の障子だけでも閉めようと思って、片足の爪先を引っかけてみたが、ぎちぎちするだけで、うまく滑らない。敷居に浜から風に運ばれてきた砂が入っているからだ。  だから、帰る前にちょっと葉書でもくれればよかったのに。そうすれば砂をきれいに拭き取って、|蝋《ろう》でも引いて置いたのに。 「障子なんか、閉めんでもええ。」  亭主は大胆なことをいって、|腹這《はらば》いになったまま女を部屋の奥へ引きずっていくと、女の躯を裏返しにした。仰向けに寝ていたものを、うつぶせにした。また妙な手を、と女は思わず躯を固くしたが、亭主はただ、スカートの裾をいくらか乱暴に|太腿《ふともも》のところまでたくし上げたきりだった。 「蛇に|咬《か》まれたっつうのは、どこだ?」  亭主はいった。 「蛇?」 「|蝮《まむし》に咬まれたっつうでねえか。どこを咬まれた?」  女は驚いた。東京にいる亭主が、なぜあのことを知っているのだろう。 「あんた、どうしてそんなことを……。」 「どうしてでもええ。どこを咬まれたか、いうてみ。」 「そんな傷、もう消えちまったえ。」 「消えちまった?」  亭主は|苛立《いらだ》たしげに眉を顫わせ、 「消えちまってもええ。ともかく、どこを咬まれた?」 「ここ。」  と仕方なく、腹這いのまま、左脚のふくらはぎを指さしてみせると、なにを思ったのか亭主はそこへ|噛《か》みつくように唇をつけた。  これもまた、手のうち、と思ったのは、間違いであった。亭主はいった。 「大学生は、こうして吸うたってか。え? やつはこうして吸うたってか。」  ぎくりとしたところへ手が飛んできて、女は自分の目から火花が飛ぶのをみた。  これで、わかった。亭主の目のぎらぎらがなんであったか、亭主が今度はなにが目的でひょっこり帰ってきたか——それがいま、やっとわかった。     七  男がサルベージ会社に雇われて浜を離れるとき、彼の女房は一緒についていきたいといって泣いた。会社では、妻を同伴しても構わないといっていたが、|生憎《あいにく》なことに、男の家には一昨年から中風で寝たきりの父親がいた。彼が女房を連れ出すと、父親の世話をする者が誰もいなくなってしまう。母親はもう十年も前に死んでいる。  女房は、どこへでも一緒についていきたいのは山々だが、それは気持だけのことで、実際に寝たきりの親を捨てて出ていくなんて、そんなことはとても自分にはできない、そのことはよくわかっているのだと、彼の胸に顔を埋めて泣きながらいった。よくわかってはいるのだけれど、それにしても夫のいない家で、話相手にもならない中風の男親の世話をしながら日を送らなければならないなんて、あまりにも寂しすぎるではないかといった。  そう訴えられるまでもなく、彼としても女房を可哀相だと思わないわけではなかったのだが、正直いって、潜水夫として、名の通った会社に腕を買われたこの機会をみすみす逃がしたくないという気持の方が強かった。  ここはひとつ、辛抱して貰わなければならない。いまの辛抱が結局将来のためになるのだと、彼は女房にいい聞かせた。これからの仕事は、海鼠採りに比べれば多少の危険はつきまとうが、それだけに報酬の方も海鼠採りとは比較にならない。ここ何年かの辛抱で、相当な貯金ができるはずである。それを元手にして自分の船を持ちたい。父親を病院へ預けられるようになるかもしれない。俺だって腕が立つうちに稼げるだけ稼いで置きたい。とにかく、ここ当分は辛抱がなによりも|肝腎《かんじん》だと、そんなことをいい聞かせてから、年末に帰るときの土産はなにがいいかと尋ねると、女房は、土産なんかは要らないから子供を生ませてほしいといった。  彼は、女房と一緒になってからもう三年になるが、まだ子供はいなかった。できないのではなくて、作らなかったのである。彼が女房を貰うと、まもなく父親が中風で倒れた。それ以来、女房はずっと父親の世話にかかりきりで、とても子供を生める余裕がなかったのだ。  けれども、本人が、病人と赤ん坊の世話はなんとかして自分でするから、生ませてほしい、せめて自分の子供でもいないことには、とても寂しさに耐えられそうもないというのであれば、承知するより仕方がなかった。なに、女に子供を生ませることは、女の土産を選んだりするより|遥《はる》かにお安い御用なのだ。  彼は、今年の正月休暇に、その約束を果した。数カ月して、女房から手紙で子供ができたと知らせてきた。出産予定日は九月の半ばだと書いてあった。彼は、子供が生まれるころには休暇を貰って帰ろうと思い、会社に申し出て許可を貰った。女房には手紙を書いて、子供が生まれても知らせる必要はない、危険な仕事をしているから、海中でふっと思い出して事故を起こしたりしてはいけない、そのうち休暇を貰って顔をみにいくからといってやった。  そうして、帰ってきてみると、このありさまである。子供は一と月半も前に生まれている。随分早かった、と彼が女房にそういうと、そうなの、随分早くて、びっくりした、と女房は笑った。そんなら早産かと思って、産婆のところへ礼にいったとき、それとなく生まれたときの様子を尋ねてみると、目方は三キロもあって元気のいい赤ん坊だったという。予定日より大分早く生まれたが心配ないだろうかと尋ねると、女の躯は複雑で、ひとによってもまちまちだし、予定日などというものは医者でもしばしば間違えるものだと産婆はいった。  けれども、予定日を間違えたといわれると困るのだ。女房が正常に子供を生んだとすれば、正月よりも何十日か前に、すでに子供を宿していたということになる。けれども、そのころは彼は家にはいなかったのだ。  彼は、自分の女房に、初めて疑いを抱いた。すると、これまでなにもかもわかっていたつもりの女房という女が、突然、霧に包まれたようにわからなくなってきて、彼は茫然とさせられた。女房の顔や素振りには、疑わしいふしが全くないことが、|却《かえ》って彼には無気味だった。  鬱々としているうちに、休暇が過ぎて、明日の朝はもうこの浜を発たねばならない。     八  女について、浜にはこんな噂が立っていた——あの女と、隣の別荘にきている大学生との仲が怪しい。いつかの晩、縁側に寝そべっているあの女の太腿を大学生が|舐《な》めているのをみた者がいる。人目も構わずそんな|淫《みだ》らなことをするほどだから、あの二人の仲はただごとではない。  女は勿論、自分についてのそんな噂のことは知っていた。誰が火元か知らないが、物好きな人間もいるものだと思っていた。このあたりには、出稼ぎの留守を守っている家が多いから、躯を持て余した女たちが集まっては、よく頬を火照らせながら淫らな噂話をするのである。  火のないところに煙は立たないというが、隣の別荘にきていた大学生と気軽に言葉を交わす仲だったことは事実である。もと自分のところの畑だったところに建った別荘の住人である。それに、夏の間だけとはいえ、いわば隣人である。隣人と和やかな付き合いをして、それがいけないことだとは思えない。  脚を吸われたことも、事実である。但し、太腿ではなくて、足首に近いふくらはぎである。けれども、女には、淫らな気持は全くなかった。おそらく大学生の方もそうだったろう。二人とも、それどころではなかったのだ。蝮に咬まれたと思ったのだから。  晩といっても、日が落ちてまもなくのころだった。女は自分の畑から穫れた|玉蜀黍《とうもろこし》を|茄《ゆ》でようとして、庭に|薪焜炉《まきこんろ》を出して湯を沸かしていた。縁側では、別荘の大学生と小学四年の上の子が、指相撲をして遊んでいた。二人は、ついさっき浜から帰ってきたばかりだった。大学生は勉強の合間によく子供たちの遊び相手になってくれる。それで、女は、お礼に自分のところの玉蜀黍を食べて貰おうと思っていたのだ。  薪が足らなくなったので、納屋の軒下の薪棚から、一と抱え持ってきた。それを焜炉のそばにどさりと置いて、玉蜀黍をとりに縁側の方へ歩こうとすると、左のふくらはぎがチリッとした。みると、薪の束から蛇が一匹、頭の方から半分地面に降りてずるずるしている。  そのとき、焜炉の薪が|爆《は》ぜていた。もし蛇がいなかったら、爆ぜた火の粉が飛んできてふくらはぎに当ったのだと思っただろう。ところが、蛇がいたので、あ、咬まれたと思った。普通の蛇なら怕くもないが、人を咬むような蛇は蝮しかいない。蝮に咬まれたと思うと、ひとりでに悲鳴が女の口を突いて出た。  大学生が飛んできて、女は縁側に運ばれた。けれども、女は、まさか彼が自分のふくらはぎを吸うとは思っていなかった。あっという間の出来事であった。彼は女のふくらはぎを吸っては、庭にぺっと唾を吐き、それを何度も繰り返した。  病院へいきましょう、と彼はいったが、その必要はなかった。彼が女のふくらはぎを吸っているうちに、上の子が蛇を追いかけて、捕ってきたのである。みると、それは蝮ではなくて、弱った山かがしだった。みんなは胸を|撫《な》でおろした。でも、よかった、と大学生はいい、玉蜀黍を三本食べて、御馳走さまと何事もなかったように帰っていった。  ただそれだけのことなのだ。それを心ない女たちが、淫らな噂に仕立てている。その噂にまた|尾鰭《おひれ》をつけて、わざわざ亭主の出稼ぎ先まで報告に及んだ者がいるらしい。亭主が小金を貯めているのを|妬《ねた》んでいる者がいるらしいから、そんな連中の仕業だろうか。  女は、初め、楽観していた。ただそれだけのことで、あとはなにもないのだから、話せばわかると思っていた。ところが、すっかり当てが外れてしまった。亭主がわかってくれないのだ。いくら潔白だと繰り返しても、亭主は信用してくれないのだ。ただもう、白状しろ、泥を吐けと、亭主は殴りつづけるだけなのである。  女は、殴られながら考えた。自分が潔白だということを相手に証明してくれるものが、なにかないだろうか。なにもなかった。自分が潔白だといって、相手がそれを信じてくれなければ、自分は永久に自分の潔白を相手に証明することができない。女は茫然とした。こんなとき、どうすればいいのかわからなかった。  ——女は気晴らしに、南隣の部落へ嫁いでいる|幼馴染《おさななじみ》を訪ねてきたところであった。しんみりと悩みを聞いて貰うつもりだったのだが、相変らず仲のいいところをみせつけられると、つい口に出しそびれて、ただ出された酒を飲み干して帰ることになってしまった。     九  男と女が、砂の上に並んで腰を下ろしていた。二人は小学校のころの同級生で、おなじ町にいたのにもう随分会わなかったのである。それが、いったいどうしたことか、こんな夜の浜辺でばったり出会った。  二人は、互いになにやらひどく懐かしいという気がした。けれども、別段、話があるわけではなかった。二人は、黙って暗い海をみていた。男が時折四合瓶を口に傾けるのをみているうちに、女も喉が渇いてきて、すこし分けて貰った。すこしのつもりだったが、さっきの酔いの呼び水になった。  女は、坐っていられなくなって、砂の上に仰向けに寝た。すると、星空がゆらりゆらりと揺れはじめた。空が揺れているのか、自分が宙に浮いて揺れているのか、わからなくなってきた。 「校庭の隅の、ポプラの木の下のブランコ、憶えてる?」  女はそういって、ブランコの綱を握るつもりで男の手首をしっかりと|掴《つか》んだ。     十  翌朝、男は、上りのジーゼルカーで菜穂里を発った。まもなく、洗濯場のそばを通ったとき、大勢の女たちがそこで洗濯しているのを男はみたが、ゆうべの女には気がつかなかった。女もまた、男がそのジーゼルカーで発ったとは知らない。線路の風で乱れた髪を、女はただ濡れた手でうるさそうに|掻《か》き上げただけであった。 [#改ページ]  ジンタの嘆き     一  六蔵は、朝、目を醒ますと、まず深呼吸を一つしてから、自分の細君に、 「お早うす。」  と大きな声で挨拶する。  細君の方は、大抵の朝は彼より早く目を醒ましていて、まだ隣の寝床のなかにいることもあれば、もう台所に立って|朝餉《あさげ》の仕度に取り掛っていることもある。隣の寝床に細君の姿がみえなければ、彼は起きていって、深呼吸を一つしてから台所の戸を開ける。 「お早うす。」 「お早うす。」と細君も彼の口真似をしてそういって、「はい、よくできました。」  細君がまだ隣の寝床にいるときでも、彼は必要以上に大きな声で、 「お早うす。」  と挨拶する。そんなときは、細君のむこう側のちいさな布団で眠っている生後八カ月の長男が、びっくりして、きっと両手をぱたぱたさせるが、細君は、「|厭《いや》ねえ、坊やが目を醒ますじゃないの。もっとちいさな声でいえないの?」などとはいわない。相変らず、ふっと笑って、「お早うす。はい、よくできました。」  彼は、細君にそういわれると、ほっとする。この、朝の『お早うす』さえうまくいえれば、もう、しめたものなのだ。彼はしばしば調子に乗って、まだ眠っている子供の頬を、「お早うす、坊ちゃん。」と指でちょっと突っついたりする。  六蔵は、菜穂里の魚市場の事務所に勤めてもう七年になるが、事務所の連中は、彼が子供のころからどもりでひそかに悩みつづけていることなど、誰も知らない。平常から口数がすくなくて、なにか話すときは忘れずに深呼吸を一つする。それで会話が間延びしてしまうから、『ろくろ首の六さん』などと陰口をいう者もいたが、まさかそれが|吃《ども》らぬための用心だとは誰も思わなかった。  |尤《もつと》も、六蔵のどもりは、子供のころから今日まで切れ目なしにずっとつづいていたわけではなくて、直そうと思って努力すればいつしか直ってしまうのだから、重症とはいえなかったが、その代わり、やっと直ったものが、ほんの|些細《ささい》なことがきっかけになって、実に|呆気《あつけ》なく元の|木阿弥《もくあみ》になってしまうところが厄介であった。  いまも、何度目かのぶり返しで、六蔵は朝から舌の回転の調整を余儀なくされている。彼は、魚市場に勤めるようになってから、普段でもア行とマ行ではじまる言葉をいうのが苦手だが、これは多分、なにかにつけて、「魚市場の村井です。」といわねばならない場合が多く、それさえうまくいえたらという自意識から、逆に口籠もる結果になるのだろうと彼は思っている。 『お早う』という朝の挨拶にしても、ア行ではじまる言葉だが、どもりがぶり返すと、これがいえなくなってしまって、往生する。朝、出勤して、『お早う』がいえないようではサラリーマン失格だから、彼は毎朝、目が醒めるとまず深呼吸を一つしてから、 「お早うす。」  と自分の細君に大声で挨拶するのだ。 「お早うす。はい、よくできました。」  彼は、やれやれと思う。何事も最初が肝腎で、この『お早う』さえすらりといえるようなら、まず安心だが、それにしても、きょうもまた一日、ア行とマ行で苦労しなければならぬのかと思うと、やはりうんざりして気が滅入ってくることもある。     二  六蔵がどもりになったのは、小学校の五年生のときからで、春木という遊び仲間のせいである。  春木というのは、その年の春、水上警察署に転勤してきた警部の息子で、教室では六蔵と机を並べることになったが、話してみると、これがひどいどもりであった。  春木が転校してきた日の放課後、六蔵が生徒玄関で靴を履いていると、春木が廊下を駈けてきて、 「む、む、む、む、村井君。」  といった。なんの用かと思うと、 「ぼ、ぼ、ぼくんちは、き、き、きみんちの近所だよ。」  という。 「そうかい。そんなら一緒に帰ろうや。」  と六蔵はいって、それからは学校の行き帰りは勿論、学校の休憩時間も、下校後の遊びも、二人は一緒におなじことをして過ごすようになったのだが、そのうちに、いつのまにか六蔵の方も、すっかりどもりになってしまった。  六蔵としては、べつに春木のどもりに興味をおぼえて、ちょっと真似してみようかという気を起こしたわけではなかった。気の毒だなと思いながら、ごく普通に付き合っていただけである。ところが、子供は、遊びでもなんでも、リズムをなによりも大切にする。リズムが合わなければ、することなすこと、面白くない。  たとえば、春木が、 「な、な、な、な、なにして遊ぶ?」  といったら、こちらも、 「そ、そ、そ、そ、そうだなあ。」  というのでなければ面白くない。 「き、き、き、きーめたっ。」  と春木がいって手を|敲《たた》いたら、こちらも、 「き、き、き、きーめたっ。」  といって手を敲くのでなければ、遊びの調子というものが出てこない。  そんなふうにして、六蔵の方から無意識に調子を合わせているうちに、いつのまにか六蔵は相手が春木でなくても吃るようになってしまった。  六蔵は、これはおかしなことになったと思ったが、自分ではもうどうにもならなくなっていた。両親も心配して、もう春木とは遊んではならぬといったが、よその仲間と遊ぶとどもりを笑われるものだから、ついまた春木のそばへ戻っていって、 「や、や、やっぱし、き、き、き、きみがいいや。」  ということになる。  結局、小学校を卒業するまで二人はどもりの仲間だったが、中学校へ進むとき、春木は父親がまた転勤で、一家でよその港へ移っていった。六蔵はひとりになって、随分淋しく、辛い思いもしたが、どもりを直すためには仲間がいなくなったのはなによりのことで、気をつけているとだんだん吃らずに物がいえるようになってきた。中学を出るころには、すっかり直って、元通りになった。  もし、そのまま身近にどもりが現われなかったら、六蔵は生涯どもりとは無縁に過せたかもわからない。ところが、そうはいかなかった。世の中のことは万事こちらの思う通りにはいかない。     三  六蔵は、中学のころから柔道部に入っていた。そのころはまだどもりが直っていなかったので、柔道ならべつに人と言葉を交わす必要もなく、ひとりで黙々と稽古ができると思ったからだが、卒業するころはかなり強くなっていて、高校へ進学すると、早速勧誘されて柔道部員になった。  ところが、この柔道部の上級生で、新入生指導係の高森というのが、春木に輪をかけたようなどもりであった。毎日、稽古が済むと、高森は新入部員を道場の隅に集めて、その日の稽古の講評をする。ついでに精神訓話のようなものを話すこともある。それがすべて吃りながらだから、新入部員のなかには|堪《たま》らずに噴き出してしまう者もいる。  すると、高森はそいつをみんなの前に引きずり出し、「し、し、し、舌を噛むな。」といって投げ飛ばしたが、投げ飛ばされてもまだ笑いが止まらない者もいた。  根は悪くない男で、下級生には人気があり、六蔵も決して彼が嫌いではなかったのだが、ただ、彼の話を聞いているうちに、直ったはずのどもりがだんだんぶり返してくるのには、弱ってしまった。  それでも、意識して警戒しているうちはまだよかったが、ある日、高森に用ができて廊下をゆく彼をうしろから呼び止めるとき、六蔵はつい、 「た、た、た、高森さん。」  といってしまった。  高森は振り向いて、|凄《すご》い目つきで六蔵を|睨《にら》んだ。 「き、き、き、きさま、か、か、からかうのか。」  彼は、顔を真赤にしてそう|呶鳴《どな》ったが、からかわれたと思ったのは無理もないことで、六蔵はすっかりあわてて、 「ち、ち、ち、違います。じ、じ、実は俺も、ど、ど、どもりで……。」  といった。高森は、ちょっと信じられないという顔で、 「ほ、ほ、本当か。」  というので、 「ほ、ほ、本当です。お、俺、う、うそなんか……。」  というと、高森はやっと納得してくれた。  それ以来、高森は六蔵を同志と思い込んだらしく、遠慮なくどもりで話しかけてくるようになり、六蔵の方もせいぜいどもりで|相槌《あいづち》を打っているうちに、またすっかりどもりがぶり返してしまった。  六蔵は困惑した。今度は就職を控えているので、前のように|暢気《のんき》に構えているわけにはいかないのだ。なんとかして入社試験の前に直して置かなければならない。  一年経って、高森が卒業してから、六蔵のどもりとの戦いがはじまった。  ところが、気ばかり焦るせいか、直り方がどうも前ほどはかばかしくない。思い余って、二年目の正月休みに、東京から帰省してきた先輩の大学生に悩みを打ち明けてみると、その先輩は、おまえのどもりは自意識過剰が原因だと診断した。 「また、吃るな、きっと吃るな、そう思うから余計吃っちゃうんだよ。どだい、自分がどもりだと頭から決め込んでいるのがいけない。」  先輩はそういって、そんなどもりなら訓練次第できっと直るといった。どんな訓練をするのかというと、見知らぬ人にいきなり用もないことを話しかけるのを繰り返すのだという。 「前から、あの人にあのことを話さなければと思っているから、吃っちゃうんだ。知らない人にでも、誰にでも、気軽にどんどん話しかけてみろ、きっと吃りゃしないから。まず、俺はどもりなんかじゃないぞという自信を持つことが肝腎だな。ところで、おまえ、こっそり好きだと思っている女の子はいないのか。」  六蔵は黙って頬を赤らめていた。 「いるなら、そいつがいい練習台になるぜ。そいつに、いきなりすらすら|喋《しやべ》れるようになったら、おまえはもう、どもりは卒業だ。」  先輩はそういった。     四  実は、そのころ六蔵には、ひそかに思いを寄せている女の子がひとりだけいた。六蔵は、菜穂里の家から美羅野市の県立高校へバスで通学していたのだが、そのバスでよく一緒になる愛くるしい顔をした女子高校生がいた。やはり菜穂里から美羅野へ通っているバス通学生のひとりである。六蔵は、かねがねその女子高校生と知合いになる機会を狙っていたが、自分がどもりになってからは、すっかり望みを捨てた気持になっていた。けれども、先輩にそういわれてみると、まだまだ捨てたものでもないわけである。  あるとき、六蔵はバスのなかで隣り合せた見知らぬ中年男に、いきなり、 「いいお天気ですね。」  といってみた。中年男は驚いたような顔をして、 「ああ、いいお天気だね。」  といって六蔵の顔をじろじろみたが、六蔵は、吃らずにいえたのが嬉しくて、にこにこしていた。  相手が女なら、どうかと思って、美羅野の楽器店で、女店員に、 「このギター、いくら?」  と|訊《き》いてみた。 「そこに値段がちゃんと書いてあるのがみえないの?」  近眼で顔のむくんだ女店員が、すこぶる無愛想にそういったが、六蔵はやはり吃らずにいえたのが嬉しくてならなかった。  全く先輩のいう通り、要はどもりではないという自信を持つことだと、六蔵はすっかり勢いに乗って、ある日の夕方、町の入口の白浜という停留所で思いを寄せている女子高校生のあとからバスを降りると、両側に木の色の|褪《あ》せた|板塀《いたべい》がしらじらとつづく古い漁師町の路地を急ぎ足で歩いてゆく彼女に追いついて、「こんにちは。」と声をかけようとした。  ところが、どうしたことか言葉が出ない。これはいけない——そう思ったときはすでに遅くて、つい手が先に出て彼女の肩をぽんと一つ敲いてしまった。  彼女は、びっくりして立ち止まったが、相手がいつもバスで一緒になる高校生だとわかると、ふっと微笑を浮かべて、「なにか御用?」というふうに小首をかしげて六蔵を仰いだ。けれども、六蔵は顔がかっとするばかりで、言葉が一つも出てこない。|喉《のど》を振り絞るようにして頭をくらくらさせてみても、なにもいえない。彼は顔が焼けるように火照り、目には涙が浮かんできた。  すると、相手は、ふと思いついたように路地の貝殻を拾って、砂地に文字で書いて頂戴という身振りをした。彼女は、六蔵を|唖《おし》だと思ったのだろう。六蔵は、仕方なくしゃがんで、砂地に貝殻で、まず、 「僕はオシではありません。」  と書いた。それから、 「でも、どうしてもいいたい言葉が出てこないのです、口から。」  と書き、最後に、 「どうも失礼しました。」  と書いて、絶望的に貝殻を捨てた。  女子高校生は、吐息して|頷《うなず》きながら、 「それじゃ、手紙に書けば?」  といった。手紙に書いてバスのなかでそっと渡してくれればいいという。わかった、と六蔵は頷いた。額が汗びっしょりになっていた。  手紙ならお安い御用で、六蔵はその晩遅くまでかかってどもりの悩みを洗い|浚《ざら》いぶちまける手紙を書き、それを翌日、バスのなかでそっと彼女に手渡した。何日かすると、やはりバスのなかで、彼女から返事がそっと彼の手に渡された。  浜を歩きながら読んでみると、あなたの悩みには深く同情する、自分が役に立つものならいつでも喜んで練習台になってあげたい、そう書いてあった。六蔵は、思わず手紙を握り締めて、「ば、ば、ば、ばんざい。」とちいさく叫んだ。|裸足《はだし》になって、|渚《なぎさ》を駈けた。胸がごとんごとんと鳴っていた。  それ以来、六蔵は帰りのバスで彼女と一緒になるたびに、彼女を家の近くまで送っていったが、初めのうちは恥ずかしさが先に立って、練習台どころか、彼女がなにか話しかけてくれても|碌《ろく》に返事も出来なかった。けれども、馴れてくるにつれて、吃りながらもぼつぼつ話がつづけられるようになり、三年生の夏のある日、ふとした拍子に、 「俺、あんたのことが好きだ。」  という言葉が、ちっとも吃らずに、すらりと彼の口から滑り出た。  彼女は一瞬、耳を疑るような顔つきで彼を仰いでいたが、やがて、 「もういちど、いって。」  といった。 「俺、あんたのことが好きだ。」  不思議なことに、ちっとも吃らない。 「いえたじゃない……はい、よくできました。」  彼女は、目をきらきらさせながらそういって、それから急に不安そうに、 「いまのも、練習?」  と訊いた。 「いや、練習じゃない。」  六蔵はそういって笑った。     五  そのときの女子高校生が、いまの六蔵の細君なのだが、しばらく忘れていたどもりが、この夏、不意にぶり返したのは、月遅れのお盆のとき、寺の墓地で、東京から墓参に帰ってきた高森をちらと見掛けたからである。  あ、高森だ。どもりがいる。会って話せばえらいことになる——そう思って、すたすたと足を早めたが、どもりとはなんと厄介なものだろう、そのときはすでに遅かったのだ。 「どうしたの? 急に急いだりして。」  細君にそういわれて、六蔵はつい、 「な、な、な、なんでもない。」  といって、立ち止まってしまった。  やられてしまった。昔のどもり仲間の顔をみただけで、やられてしまった。  ——朝、目を醒ますと、まず深呼吸を一つしてから、 「お早うす。」 「お早うす。はい、よくできました。」  これでよし、と思う反面、直ってはぶり返し、また直ってはまたぶり返し——こんなことをいつまで繰り返さなければならないのだろうと思うと、六蔵はうんざりしないわけにはいかない。この分では、世の中にどもりがひとりもいなくならない限り、自分のどもりの完治はむつかしいのではないかという気さえする。  顔を洗い、食事を済ませて家を出ると、道を掃いている近所の細君たちにも、 「お早うす。」  と六蔵は大きな声で挨拶する。道で会う漁師にも、トラックの運ちゃんにも、|罐詰《かんづめ》工場の女工にも、「お早うす、お早うす。」  人には、なにかしら他人にはいえない悩みがあるものだが、六蔵にまさかそんな悩みがあるとは知らない近所の細君たちは、六蔵のことを、随分威勢のいい旦那さんだといっている。 [#改ページ]  鞭《むち》の音     一  前網の海浜ホテルにゆうべの男を置き去りにして、美羅野の三業地へ帰ってくる途中、小太郎は菜穂里の大通りで人をひとり|撥《は》ねてしまった。  四つの女の子を撥ねてしまった。  どうしてそんなちいさな子供を撥ねたりなんかしたのか、小太郎は自分でもわけがわからない。スピードを出しすぎていたわけではなかった。前をよくみていなかったわけでもなかった。浜通りでは、いまだに平気で道路を横断する人がすくなくない。とても脇見などしていられない。  日曜日の夕方で、菜穂里の商店街はいつもより人通りが多かった。小太郎は、いつでもブレーキが踏めるように気を配りながら走っていた。それなのに、どうして子供を撥ねたりなんかしてしまったのか。  最初にきたのは、メロンほどの大きさの黄色いゴムボールだった。それが左手の歩道から不意に車の前へ転がってきた。小太郎は、当然ブレーキを踏んだ。途端に、前のバンパーに、どすっという、なにやら|憶《おぼ》えのない衝撃を感じた。  ゴムボールが弾んだとしても、こんな重たい手応えがあるはずがない。変だと腰を浮かしてみると、車の鼻先に女の子が仰向けに倒れている。それで、あ、撥ねた、子供を撥ねた、と思ったが、どうしてそんなことになったのか、小太郎にはわけがわからなかった。その子がいつ道路へ飛び出してきたのか、全く気がつかなかったのだ。  アスファルト道路は、さっきの通り雨でまだ濡れていた。そこに女の子が仰向けに倒れて、両足を上に上げていた。その黒いタイツを|穿《は》いた二本の脚が、ひきつけを起こしたようにびりびりと|顫《ふる》え、それから棒を倒すようにぱたんとアスファルトの上に落ちると、片方の足から赤い靴が脱げて歩道の方まで転がった。すると、その靴を飛び越えて、男がひとり、倒れた子供に駈け寄った。  小太郎は、そこまでを車のなかで腰を浮かしたまま見て取った。バンパーにどすっという衝撃を受けてから、男が飛び出してくるまで、全くあっという間の出来事であった。それから、小太郎は急いで車の外に出た。 「おや、女だよ。」  そういう声が耳に飛び込んできた。随分びっくりしたような声だったが、それが倒れている子供のことではなくて、自分のことをいっているのだということが、小太郎にはわかった。いまどき、女が車を運転することに驚く人はいないが、子供を撥ねた車を運転していたのが女だったということに、みていた人たちは驚いているのだ。けれども、 (美羅野の芸者だ。小太郎だ)  そういう男の声はきこえなかった。菜穂里にも|馴染《なじ》みの客がいないわけではないが、そういう旦那衆はいまごろ道をぶらついているわけがない。それに、髪をネッカチーフで縛ってスラックスを穿いているから、知らない人は誰も芸者だとは思わないだろう。  男は、倒れた子供を|膝《ひざ》の上に抱き上げて、顔を|覗《のぞ》き込んでいた。三十年配の工員風の男だったが、 「おい、サト、お父ちゃんの顔をみろ。お父ちゃんの顔をみろ。」  そう叫んでいたので、撥ねた子供の父親だとわかった。父親と一緒だったのに、なぜこの子は不意に車の前へ飛び出したりなどしたのだろう。小太郎は頭の隅でちらとそう思ったが、そのとき強くゆさぶられた女の子の耳から急にとろとろと太い血の筋が流れ出たのをみて、あ、と思わずちいさな悲鳴を上げた。「救急車を呼べ。」と誰かが叫んだ。  路上の|父娘《おやこ》と小太郎のまわりには、いつのまにかまるい人垣が出来ていた。 「いやいや、救急車なんかよりは、その車で直接病院へ運んだ方が早い。」  別の誰かがそういった。 「そうだ、それがいい。」 「相手は子供だ、勝負が早いぞ。」 「急いで、急いで。」  そんな声が人垣のあちこちから起こった。  車で人を傷つけた場合、その事故を起こした者はまずなによりも怪我人を病院に運ぶ義務がある、ということぐらいは、小太郎だって知っている。小太郎は我に返って、急いで自分の車に戻った。うしろのドアを開けると、子供を抱いた父親が人々に押されるようにして乗り込んできた。  小太郎は車を出そうとして、この町の病院がどこにあるのか知らないことに気がついた。 「病院はどこです?」  窓を開けて尋ねると、 「この先の交差点を左へ折れると、坂の途中に愛光会っていう病院があるから、そこへいきなよ。」  すらすらとそういって教えてくれる人がいた。小太郎は車を走らせた。 「おい、サト、しっかりしろ。」  父親は大声で子供を励ましていたが、交差点を折れた途端、だしぬけに、「停まって!」といった。小太郎はあわててブレーキを踏んで、どうしたのかと振り返った。父親は子供の胸に手のひらを当てて、耳を澄ますようにじっと宙に目を据えていたが、やがて急に背を反らして、 「動いている!」  と叫ぶようにいった。それから彼は、初めて車が停まっていることに気がついた。彼は驚いたように小太郎をみた。 「早く……早くここを開けてくれ。」 「……でも、ここはまだ病院じゃありませんよ。」  小太郎がそういうと、 「じゃ、どうして停めたんだい。」と彼は噛みつくようにいった。「走ってくれ、早く!」  小太郎はまたあわてて車を走らせながら、さっき「停まって!」と彼がいったと思ったのは、「停まった!」といったのを聞き違えたのかもしれないと思った。愛光会という病院はすぐわかった。車寄せに入ると、もう誰かが連絡してくれたのだろう、玄関のむこうの廊下を数人の看護婦がこっちへ駈けてくるのがみえた。 「停まった! 停まってしまった!」  そういう父親の声に振り返って、小太郎は思わず息を呑み込んだ。彼が子供の胸に手のひらを当てたまま、凄い目つきで自分の顔をじっとみつめていたからである。小太郎は、そんなに激しい憎しみの|籠《こ》もった人間の目をみたことがなかった。 「あんたが、殺したんだ。」  彼は、小太郎の目を食い入るようにみつめながら、低いがはっきりした声でいった。 「殺してやる。あんたを殺してやる……。」  外側からドアが開き、看護婦たちの甲高い声が飛び込んできた。     二  信吉は、病院の冷たい革張りの椅子の上でようやく自分を取り戻した。駈けつけてきた警官に会い、問われるままにあの瞬間の記憶を呼び戻しているうちに、彼は自分たち父娘になにが起こったかをはっきり理解することが出来た。  サトが車に撥ねられたのは、彼が工員仲間に電話をかけているちょっとした隙に、さっき買ってやったばかりのゴムボールをうっかり地面に落とし、それが弾んで転がっていくのを追いかけて、車道へ飛び出したからだとわかった。 「運転者は、突然左側の歩道からゴムボールが飛び出してきたので、ブレーキを踏んだといっています。お子さんの姿は全くみえなかったといってるんですがねえ。」  警官はいった。なにしろ背後で起こった出来事だから、彼には文句のつけようがなかった。黙って頷いていると、 「まあ、現場検証をした上で調べてみないとはっきりしたことはいえませんが、いまの段階では、お子さんがいきなり車の前に飛び出してきて、運転者はどうしようもなかったということになりますなあ。」  警官は気の毒そうにそういった。 「……俺の不注意でした。」  彼は頭をさげた。それから、あの車を運転していた女はどこの誰だろうかと訊いた。 「美羅野のね、小太郎っていう芸者です。なんでも美羅野で一番の売れっ|妓《こ》だとかで……。本名は生田ミユキ、二十三歳。」  そのとき、看護婦が呼びにきたので、彼は警官と一緒にさっきサトを運び入れた部屋へいった。白衣の腕をまくり上げたままのまだ若い医師が、彼に一礼していった。 「やはり、いけませんでした。後頭部を強く打っていまして、手の施しようがありませんでした。お気の毒です。」  サトは、鼻や耳の穴に脱脂綿を詰め込まれて、寝台に長く寝かされていた。背丈が随分伸びたという気がした。顔からは苦痛の表情が大分薄れて、ちょっとみると、鼻血を出して叱られて顔を|顰《しか》めたまま泣き寝入りでもしたようだった。彼はいとしさで胸が詰まった。死顔が|霞《かす》んでみえなくなった。 「かんべんしてくれよなあ。俺が……お父ちゃんが悪かった。」  するとそのとき、ドアが開いて、さっきの車の女が——小太郎が、別の警官に付き添われて入ってきた。彼は小太郎の|綺麗《きれい》な顔をみた瞬間、さっきの憎しみが|惣《たちま》ち|蘇《よみがえ》って、じりじりと胸の内側を焼きはじめるのを感じた。 (この女がサトを殺した)と彼は自分にいい聞かせた。(殺してやる)  この女だけが悪いのではないかもしれない。もしかしたら自分の子供の方が悪かったのかもしれない。けれども、どちらが悪かったかはともかくとして、自分の子供がこの女の車に撥ねられて死んだという事実には変りがないのだ。いまの彼には、その紛れもない事実だけを信じる余裕しかなかった。 「こんなことになってしまって、私……。」  小太郎はほとんど無表情で、放心したように子供の死顔を見下ろしたまま、独り言のようにそういった。それから、不意に顔をそむけると、右手を頬のあたりに当てて|噎《むせ》び泣きをした。  人間の泣き方に上手下手があるとは思えないが、彼にはそんな小太郎の泣き方がひどく感情の籠もった典型的な女の泣き方にみえた。|身悶《みもだ》えるわけでもなく、ただほっそりと立っているだけだが、不思議と涙の熱さが感じられて、みている者の悲しみをそそる泣き方である。  彼の妻もたまに泣くが、こんなに熱い泣き方はしない。  彼は、思わず誘われて目に涙を|溢《あふ》れさせながら、ちょっとの間、泣いている小太郎に|見惚《みほ》れていた。それから、我に返って、どぎまぎした。 「よしてくれ。」  彼は、激しく目をしばたたきながら|呟《つぶや》いた。  この女は、芸者なのだ。泣くのも、こいつの芸のうちなのだ。 「下手な芝居は、よしてくれ。」  小太郎は走るように部屋を出ていった。  子供に、白い布が掛けられた。年輩の看護婦が、いま車の手配をしたからしばらくここで待つようにと彼に|囁《ささや》いて、みんなのあとから出ていった。誰もいなくなると、どこからかラジオのナイター放送の声がかすかにきこえてきた。後悔がみるみる彼の顔を|歪《ゆが》めた。彼は両手で頭を抱えた。なんたることだろう。俺は子供が車道へ飛び出していったとき、工員仲間と電話で今夜のナイターはどちらが勝つか|賭《かけ》をしていたのだ。  廊下を足音が乱れてきて、不意にドアが開けられた。彼の妻が、そこに白い顔をして立っていた。彼は、はじかれたように椅子から立ち上ったが、妻は彼を無視して寝台に駈け寄り、サトを覆っていた白布を|剥《は》いだ。 「種子!」  と彼は妻の名を呼んだが、妻にはきこえないようだった。妻は両手を握って、勢いよく口に当てた。それから、腰からへたへたと床の上に崩れ落ちた。顔のどこかが寝台の脚に当って、鈍い音を立てた。     三  警察に調べられて、小太郎が最も追及された点は、ゴムボールははっきりみえたのに、ほとんど一緒に飛び出してきた子供にはなぜ気がつかなかったかということだった。なぜと訊かれて、小太郎には相手を納得させるような答え方をすることができなかった。  あのとき、車道のアスファルトはすこし前の通り雨で黒く濡れていた。そこへエビ茶のジャンパースカートに黒のタイツの子供が不意に飛び出してきたのだ。けれども、そんな条件は、みえにくいということはあっても全くみえなかったという理由にはならない。  もし、世話になっている旦那の会社の顧問弁護士の尽力と、何人かの事故目撃者の有利な証言がなかったら、小太郎はおそらく罪に問われることになっただろう。弁護士は示談に|漕《こ》ぎつけることに成功し、旦那が|慰藉料《いしやりよう》と葬儀の費用一切を出してくれた。  弁護士との話し合いのとき、死んだ子供の父親の村木信吉が、「いくら金を貰ったところで娘の命が返るわけじゃない。」などといったので、そこを弁護士がうまく抑えて、旦那は予想していたよりも大分すくない出費で済んだ。小太郎は、信吉を気の毒に思わないではなかったが、自分で金を出すわけでなし、勝手なことはいえなかった。  ともかく、これでなにもかも済んだ。あとは忘れるばかりだと思っていると、何日かして警察の事故係から、信吉の妻が流産したから見舞いぐらいしたらどうかという電話があった。小太郎は、信吉の妻が妊娠していたことなど|勿論《もちろん》知らなかったが、流産したとすれば今度のことでショックを受けたからなのだろう。そう思って、旦那に相談してみると、旦那は大きなお世話だ、放って置けといった。  けれども、小太郎にすれば、電話まで貰って知らぬふりをしているわけにはいかない。それで、もうこれっきりということにして、自分の貯金からすこしおろして、こっそり菜穂里の信吉へ会いにいった。  信吉は、港の罐詰工場で、工員をしている。その罐詰工場へ訪ねていって、誰もいない食堂で会ったが、彼を一と目みて、ああ、まだあのときの目をしている、と小太郎は思った。あのときの、というのは、病院へ乗りつけた車のなかで彼がみせた、あの激しい憎しみの籠もった目のことである。小太郎は、彼の目のなかの憎しみが、あのときと比べてすこしも衰えていないのをみて、心に|鞭《むち》で打たれたような痛みをおぼえた。 「まだなにか用ですか。」  彼は冷たくそういった。小太郎は、彼の妻の見舞いをいって、わずかばかりですがと見舞金を出した。 「金ですか。」と彼は低くせせら笑った。「なんでも金でけりをつけようとするんだな、あんたたちは。」  顔は笑っていたが、目のなかの黒い|焔《ほのお》は消えなかった。小太郎は、金以外にどんな償いようがあるかといいたかったが、 「ほんの心ばかりのお見舞いです。どうぞお受け取りください。」  顔を伏せて逃げるように帰ってきた。  それ以来、小太郎は、しばしば信吉のあの目を思い出すようになった。思い出そうとして思い出すのではなく、思わぬときに、ひとりでにひょっこり目に浮かんでくる。そのたびに、小太郎はどきりとした。夢にみて、うなされることもあった。夜ふけに、どこからかあの目にみつめられているような気がして、眠れなくなることもあった。  あの目が、いつのまにか自分のなかに|棲《す》み込んでいるのだと小太郎は思った。そうでなければ、あんな目がどうしてこんなに忘れられないのだろう。自分のなかに棲んでいる目が、ときどき光って、自分を否応なくあの事故の瞬間まで引き戻し、反省を強いているのだと、そう思われてならなかった。  小太郎は、自分を疑い出した。なんだか自信がなくなった。あの事故の責任は、ひょっとしたら自分ひとりにあるのではないかと、そんな気がしてきた。小太郎は、旦那を持つ身でありながら、売れるにまかせて奔放に男たちと情事を重ねてきた。あの日も、眠りこけている男をホテルのベッドに残して、ひとりで帰る途中だった。正直いって、気持も|躯《からだ》も荒れていた。寝不足で、視力が弱まり、反射神経も鈍っていたに違いない。つまり、あのとき自分は最も堕落した運転者だったのだと小太郎は思った。  それに、実はあの日、ブレーキの調子がすこしおかしかった。あけがた、男の|鼾《いびき》を聞いているのも詰らなくて、渚を飛ばしたりしたのがいけなかったのかもしれない。警察の車体検査でもみつからなかったのだから、ほんのちょっとした狂いだったかもしれないが、前網から菜穂里までくる途中、何度もすこしおかしいなと思ったことは事実なのだ。  自分も車も、もっとしっかりしていたら、あの子は死なずに済んだかもしれない。そう思うと、小太郎はいても立ってもいられなくなった。それを彼に打ち明けずにはいられなくなった。あの目にみつめられて、みえない鞭に打たれないでは気が済まなかった。  小太郎は、そんな自分の落度に気がつくたびに、こっそり信吉を訪ねていった。目の鞭がくると、小太郎はむしろほっとした。 「どうして今更そんなことをいいにきたんだい?」  最初、彼は不思議そうだった。何度目かに小太郎はいった。 「あなたのその目のせいです。」  彼は、ふんと鼻で|嗤《わら》って、舌うちした。 「俺は芝居をしている暇なんかない。」  もはや、小太郎は知っていた。自分が信吉という憎しみに満ちた男に強く|惹《ひ》かれているということを。愛情にしても、憎しみにしても、自分を取り巻く男たちからはまだいちどもむきになって挑まれたことがなかった小太郎は、殺したいほど激しく自分を憎んでいる彼に、我知らず強く惹かれていたのだ。     四  流産のあと、信吉の妻の躯は、思わしくなかった。信吉は夜が味気なくなった。家のなかの空気はからからに乾き、妻の肌はかさかさになって粉を噴いていた。  子供の不慮の死は、家のなかをこんな砂漠みたいに荒してしまうものだろうか。しかも、自分たちはいちどに二人の子供を死なせたのだと、彼は思った。自分はサトを。妻は名もない、あるいは自分たちが待ち望んでいた男の子だったかもしれない腹の子を。  彼の心も乾いていた。けれども、躯は妻ほど潤いを失ってはいなかった。といっても、彼の小太郎に対するひそかな興味は、その苦い潤いを残している躯のせいではなかった。小太郎をみると、彼の胸には憎しみが|滾《たぎ》る。その憎しみと、人なかで若い売れっ妓をみえない鞭で|嬲《なぶ》る楽しみとで、|束《つか》の間でも乾いた心を慰めたかったのだ。  小太郎から会いたいといってくると、彼はいつも自分の勤め先の食堂を指定した。小太郎は、異様に目を光らせながらやってくる。なにかに|憑《つ》かれたような物狂おしい目だった。彼は、仲間たちの|羨望《せんぼう》のまなざしを浴びながら、小太郎をいかに邪険に扱うかに腐心した。それは、これまでに味わったことのない陰気な快感だった。  そんな彼のひそかな興味を、心から躯に移してしまったのは、むしろ小太郎の仕業である。ある日、小太郎は顔にある決意の色を|漲《みなぎ》らせて、こういった。 「私を、どうぞあなたの気の済むようになさって。私はもう、どうなってもいいの。」  彼は、とっさに小太郎の気持を測り兼ねたが、そのとき、心の動きとはうらはらに、自分の躯のなかになにやら熱い風のようなものが|捲《ま》き起こったのを、彼は感じ取っていた。彼は、そんな自分の躯の敏感さを恥じて、顔をすこし赤らめながらいった。 「馬鹿な。」 「いいえ。」と小太郎はかぶりを振った。「私は本気。」 「馬鹿な。」  と彼はもういちどいい、熱気で躯が|脹《ふく》らむのをおぼえた。唇が乾いて、 「今夜七時に。」  そういってから、いちど舌の先でちろりと|舐《な》めて、 「ゆっくり会おう、どこかで。」  この先、どうなることやらわからないが、ただもう頭上に鞭の音を響かせながらこの女を道連れにするほかはないと彼は思った。 [#改ページ]  赤い|衣裳《いしよう》     一  良作は、まさか妹のヒデが自分の手紙の言葉を真に受けて、こんなに早く菜穂里へやってくるとは思わなかった。彼はただ、年頃なのに山深い村にひとり居残って病弱なおふくろの手助けをしている妹の前途に、遠いともし火を一つ与えてやるつもりで、そのうち暇ができたら泊りがけで町へ骨休めをしにこないかと、手紙に書いてやったのである。そういってやるだけでも、なんの楽しみもない妹には励みになるはずだと思っていたのだ。  ところが、ヒデから折り返し葉書がきて、それには、おふくろから一と晩だけ暇を貰った、今度の土曜日の朝の汽車に乗るからよろしくと書いてあった。思いがけないことであった。自分で誘って置きながら、彼はちょっとうろたえた。  うろたえたといっても、それは妹に出てこられるとなにか不都合なことがあるからではなかった。妹が出てくることは、ちっとも構わない。ただ、|足枷《あしかせ》を|嵌《は》められているような妹がいきなり出てくるというから、びっくりしたのだ。まさか、こっそり逃げてくるのではあるまいな、そう思い、自分が妹に対してうっかり眠っている子をゆさぶるようなことをしたのではないかと思って、ちょっとうろたえたのである。  けれども、ヒデがそんなことをするはずがない。ヒデはおふくろの目を盗んで勝手なことをするような妹ではない。  葉書は鉛筆書きだが、文字が|躍《おど》っていた。墨のように濃いところが随分目立つのは、しょっちゅう|芯《しん》を舐め舐め書いたからだろう。十八の妹の胸の鼓動が耳にきこえてくるような葉書である。繰り返し読んでいると、彼の胸も鳴ってきた。  彼は、そわそわと部屋を片付けにかかった。土曜日までにはまだ四日も間があるのだから、いまから片付けても仕方がないのだが、そうは思っても彼はじっとしてはいられなかった。部屋といっても、器材置場に使われている小屋の中二階に、畳が三枚敷いてあるだけのお粗末な部屋だが、それだからこそ、なおさら小ざっぱりと片付けて置く必要がある。彼は港のはずれにあるちいさな造船所に住込みで働いている船大工だ。     二  土曜日の夜明けがた、良作は小屋の中二階の寝床のなかで、ふっとひとりでに目が|醒《さ》めた。部屋のなかはまだ暗くて、カーテンのない窓からみえる幾分暗さの薄れた空には、星が夜よりも白く光っていた。  ヒデの奴、ちょうどいまごろ家を出てくるわけだ、と彼は夜明けの星を眺めながら思った。朝の汽車に乗るためには、まだ夜が明けぬうちに家を出て、心細い山道伝いに駅のある|麓《ふもと》の町まで降りねばならない。彼の在所の村はそんなにも|辺鄙《へんぴ》な山奥なのだ。  在所の家の、背戸の板戸をこじ開けると、|足許《あしもと》から土間の明りが外の闇へ走り出て、その明りを背負った自分の影法師が目の前に長く伸びてゆらゆらする。忽ち山の冷気が首筋に流れ込んでくる——そんな旅立ちの朝の様子がまざまざと思い出されて、彼は薄い掛布団を鼻のところまで引き上げた。  けれども、町にいて、妹の身を案じていても仕方がなかった。なにも案じるほどのことはないのかもしれない。ヒデはおふくろから暇を貰って、喜び勇んで出てくるのだ。  すっかり夜が明けてしまうまでには、まだ大分間があった。もう一と眠りしようと思って目をつむると、耳許で、ひたひたという音がした。彼は目をあけて、首をもたげてみた。あたりにはなにもみえなかったが、音もまたきこえなくなっていた。すると、空耳だったのだろうか。  彼は、枕に頭を落ち着けて、目をつむった。すると、また、さっきとおなじようなひたひたという音がきこえてきた。彼は、目をつむったまま耳を澄ましていたが、音はどこからきこえてくるのかわからなかった。すぐ耳許でしているような気もするし、随分遠くからきこえてくるような気もする。  あれはなんの音だろう。なんだかしれないが、まるで猫が皿の汁を舐めているような音だと彼は思った。それとも、海に朝風が立ったのだろうか。風が出てくると、港内の海がわずかに騒いで、造船所の岸壁の裾でさざ波がぴちゃぴちゃとお|喋《しやべ》りをはじめる。けれども、波の音にしては少々せっかちすぎる。  彼は、また目をあけてみた。すると、窓から夜明けの星空がみえた。途端に、その音がなんの音であるかが、彼にはわかった。妹の足音だ。夜露の降りた山道をズック靴で急ぎ足にくだってくる妹のヒデの足音だ。  彼は、不思議な気がした。何十里もむこうの足音がこんなにはっきりきこえてくるなんて。そんな馬鹿なと思ったが、目をつむるとまた、ひたひた、ひたひた——それは、どう考えても妹の足音に違いないのだ。  彼は、目をつむったまま苦笑した。あんまり妹を案じるから、こんなことになるのだ。すると、さっきひとりでに目が醒めたのも、この足音のせいなのだなと、彼は思った。道理で——いつもなら朝日が|瞼《まぶた》を|徹《とお》して目に|滲《し》みてこないうちは目が醒めやしないのに、なんだか変だと思ったのだ。  こんな音に耳をくすぐられていたのでは、とても眠れたものではない。彼は、いさぎよく寝床を離れると、身仕度をして小屋の外へ飛び出した。けれども、別段なにもすることがなくて、岸壁伝いに隣のテトラポッド工場との境までいくと、そこから海の上にはみ出しているテトラポッドの大根足に|放尿《ほうによう》しながら、きょうもいいお天気でよかったと思った。海も|凪《なぎ》で、水平線の空が長い刀を横たえたように冷たい光を放っていた。  ヒデが帰れば、もうすぐ冬だ。彼はそう思って、ぶるっと身ぶるいをした。     三  ヒデを乗せた下りのジーゼルカーは、十一時五十分に菜穂里駅に着く。そのことは、ヒデから葉書を貰った日のうちに駅へいって確かめて置いたが、良作は、十一時を過ぎても仕事場でなんとはなしにぐずぐずしていた。親方に、 「おめえ、もうじき十一時半だぜ。そろそろ迎えにいってやんな。」  といわれて、やっと気がついたように造船所を出ると、ジャンパーのポケットを抑えて一目散に駈け出した。  まっすぐ駅へいくだけなら、なにも駈けることはないのだが、その前にぜひ寄らねばならないところがある。郵便局に寄って貯金をすこしおろさなければならない。きょうは土曜日で、郵便局は半ドンだから、ヒデを出迎えてからでは遅いのだ。  郵便局に飛び込んで、ジャンパーのポケットから通帳と判こを出して窓口に置くと、どうしたことか判こが弾んで、コンクリートの床に落ちた。あわてて拾って、ぷっと吹いてから窓口に出すと、係りの女が怪しむような目でみつめている。彼は、自分がひどく|喘《あえ》いでいることに気がついた。 「すみません。ちょっと急いでたもんだから……。」  彼はぺこりと頭を下げていった。 「お名前は?」 「一ノ森良作です。二十一歳。」  つい、|訊《き》かれもしない齢まで答えて、なんだ、名前ならその通帳にちゃんと書いてあるのに、と彼は思った。案の定、係りの女は通帳の名前をみて、それから眉を顰めて判こをみた。なにか不審な点でもあるのかと、彼はちょっと不安になった。 「|在郷《ざいごう》から妹が出てくるもんだから、それで……。」  と彼は、そんなことをいう必要がないと思いながらも、つい、そういった。 「水晶でなくて、よかったわね。」  係りの女は彼をちらとみて、唇の端で笑いながら判このことをそういっただけだった。水晶の判こだったら、さっき床に落としたとき割れていたという意味なのだろう。彼は、ほっとした拍子に、思わず気弱な笑いを洩らした。俺が水晶の判こなど持てるわけがない。 「三文判だから……。」  と彼はいって、腰のタオルを抜いて顔の汗をぬぐった。  郵便局を出ると、また駈け出した。     四  ヒデは、恥ずかしそうに目を伏せて、うしろの人に押されながら改札口を出てきた。良作は、売店のそばでそれをみていて、駅舎を出たところで追いつくと、うしろから「おい。」と声をかけてやった。ヒデはびっくりしたように立ち止まり、|眩《まぶ》しそうに彼を仰いで、 「おら、きちゃった。」  といったが、その目にみるみる涙が盛り上ってきた。彼は、自分の肉親は勿論、こんなふうにして人を出迎えるのは初めてであった。こんなとき、どういえばいいのかわからなくて、目をしばたたきながら、 「ごくろさん。」  と彼はいった。  ヒデは、髪を相変らず少女のように三つ編みにして、黒い男物のようなキルティングの防寒服に膝の出た鼠色のズボンを穿き、重そうな風呂敷包みを一つ手に提げていた。その風呂敷包みをもぎ取るようにして、「いこ。」と彼は歩き出した。角のない風呂敷包みは、みた目よりもずっと重かった。その重さで、結び目が小石のように固くなっていた。 「なんだい、これは。」  と、彼はヒデを振り返った。ヒデは小走りに追いついてきて、栗と米、といった。 「栗は、半分が親方さんとこの土産で、半分が|兄《あん》ちゃんの食べる分。」  それはわかるが、米はどうしたのかと思うと、おふくろがただで世話になるわけにはいかないからといって持たせたのだという。 「苦労性だからな、|母《かつ》ちゃは。」  彼はそういって笑ったが、顔が変に歪んでくるのに気がついて、 「母ちゃ、元気か。」  と前を向いたまま訊いた。 「元気。」  もともと病人のことだから、元気といえば病気がそう進んだ様子もないというほどの意味で、彼は黙って|頷《うなず》いた。ヒデを出してよこしたくらいだから、幾分具合がいいのだろう。  彼は、前から考えていた通り、広場をまっすぐ横切っていって、鯨屋に入った。ちょうど昼飯時で店は込んでいたが、運よくテーブルの隅から立つ客があって、二人はそこへ並んで掛けた。 「なんでも好きなものを食べれや。」  彼は、ヒデの耳にそう囁いて、金のことなら心配するなと目顔でジャンパーの胸を|敲《たた》いてみせた。ヒデは、ちょっとの間、壁に|貼《は》り出してあるメニューを見上げていたが、目移りがして決め兼ねるのか、 「おらはなんでもいい。|兄《あん》ちゃんが食べるものでいい。」  と小声でいった。  店の天井には、|秋刀魚《さ ん ま》を焼く煙が籠もっていた。なんでもいいなら秋刀魚がいいと彼は思った。山の村にいると、魚はほとんど食うことがない。たまに行商人が持ってくるのは干物ばかりで、生きのいい生魚はみることもできない。ヒデも、秋刀魚の塩焼きなど、まだいちども食ったことがないはずである。 「はい、サ、サ、サンマで御飯、二人前。」  どもりの主人が調理場へ叫んだ。  今朝は思わぬ早起きをしたせいか、彼はいつもの昼よりひどく腹が空いていた。それで秋刀魚定食ができてくると、ヒデに、さあ、食べれと声をかけたきり、あとは自分で食うことに熱中したが、食べ終るのはヒデの方が早かった。 「もう食ったんか。」  彼は途中で箸を休めていった。ヒデはちょっと首をすくめた。 「朝からなんにも食べてなかったんだもん。」  秋刀魚も頭と太い骨だけ残して、はらわたもきれいに食っていた。 「秋刀魚、|旨《うま》かったろう。」 「うん、旨かったけんど……。」  ヒデはちょっと眉を顰めて、片手で|喉《のど》を|掴《つか》んでみせた。彼は苦笑した。 「はらわたが|苦《にが》かったんだろう。」 「苦いんじゃなくて、ちくちくする。|棘《とげ》でも刺さったみたいに。」  そんなら骨が引っかかったんだと彼は思った。喉に魚の骨が引っかかったときは、飯を|噛《か》まずに呑みくだせばいい。けれども、ヒデの|丼《どんぶり》にはもう飯が一と粒もなかったので、 「ほれ、この飯を口に入れて、おろ呑みにするんだ。思い切って、ぐっとおろ呑みにするんだ。」  そういって自分の丼を渡した。山の村では、物を噛まずに呑み込むことをおろ呑みといっている。おろおろしながら物を食うと|碌《ろく》に噛まないことになるから、おろ呑みだろうか。  ヒデは、彼の丼に残っている飯を何度も頬張っては、おろ呑みした。そのたびに、目を白黒させるので、彼はあたりを見廻しながらそっと背中を敲いてやったが、骨がやっととれたときは、もう飯はあらかたなくなっていた。 「俺だって、この町へきたばかりのころは」と、彼は鯨屋を出てから、恥ずかしがっているヒデを慰めた。「よく喉に骨を引っかけて笑われたもんだ。馴れないうちは、誰だってそうさ。町の人たちが栗を食うと舌を荒らすようなもんだ。」  大通りを抜けて浜通りに出ると、途端に、ヒデが、今朝まだ暗いうちに空耳のように聞いたあのひたひたという音とそっくりな足音を立てていることに、彼は気づいた。みると、やっぱりくたびれたズック靴を履いている。すっかり磨り減ったゴム底が、アスファルトをひたひたと敲いている。 「道理で……。」  と、彼は思わず呟いた。 「……なに?」 「いや、なんでもない。」     五  親方のところへ挨拶にいったとき、ヒデがどこで|憶《おぼ》えたのか、「初めまして。」などと、よそゆきの言葉を使うので、彼はちょっと驚いた。挨拶も碌にできなくて、なにやら自分でもわけのわからぬことをぶつぶつ口のなかで呟きながら、ただ頭をさげただけだった何年か前の自分のことを思い出して、俺よりよっぽどしっかりしていると彼は思った。  小屋の中二階の部屋で、|茹《ゆ》でて貰った栗を食べているとき、ヒデが不意に、くすっと笑った。なにがおかしいのかと訊くと、さっきの彼の真似をして、なんでもないとヒデはいった。人と物を食っていて、なんでもなくて笑うものかと問い詰めると、ヒデは窓からぺっと虫食いを吐き出して、そのまま彼の顔をみずに、 「|兄《あん》ちゃんが、がいにいい男になったから。」  といった。 「馬鹿くさ。」  彼は、忽ち頬が熱っぽくなるのを憶えたが、おかしなことに、そういったヒデの方もみるみる顔を赤らめた。彼は、なんとなくどぎまぎしたが、正直いって、そう悪い気はしなかった。 「なあに、お|前《め》だって。」と彼はいった。「町で二、三年も暮らせば、いい女になるよ。」  栗をつづけさまに三つ四つ食って、ふとみると、ヒデは窓に|靠《もた》れるようにして海の方を眺めている。ヒデは、もう笑ってはいなかった。頬の赤みもいつのまにか消えていて、代りに、これまでみたことのない陰鬱な|翳《かげ》りがその横顔を浸していた。彼は、なにかしら胸がどきりとした。 「……どうしたんだ。栗はもう食わんのか?」 「栗は、もうええ。」  ヒデは海に目を細めたままそういって、それから、「町か……。」と呟いた。  彼は、俺はいけないことをいったと気がついた。村の家で、足枷を嵌められたようにして暮らしている年頃の娘に、『町で二、三年も暮らせば……』とは、酷なことをいったものだ。けれども、それかといって、おまえはおふくろの看病をしながら村に埋もれてしまう女なのだと決め込むようなことは、とてもいえない。 「なあに、そのうち町へ出てこられるさ。|諦《あきら》めちゃいけねえな。じっと辛抱するこった。」  彼は、そういいながら、そんなことは気休めだといってヒデが怒るかもしれないと思っていた。ところが、ヒデは全く別なことをいった。 「|母《かつ》ちゃが死ぬのを、待てというの?」  彼は、ちいさく息を呑んだが、それきり口を|噤《つぐ》んでしまった。それから二人は随分長いこと黙っていた。     六  夕方近く、良作は気分直しにヒデを浜歩きに連れ出した。べつにこれといった名所もない、寒々しいばかりの北国の浜だが、海そのものが珍しいヒデの気持を引き立てるには、ちょっと効き目がありすぎるほどの散歩になった。ヒデは、砂浜でちいさな貝殻を拾ったり、|渚《なぎさ》で砕けた波の舌と戯れたり、濡れた砂に棒切れで絵や文字を書いたり——このあたりの子供なら五つになればもうしないような、そんな幼稚な遊びを飽きもせずに繰り返した。  彼は、そんなヒデをみていて、ほっとすると同時に、妹を哀れに思う気持が一層募るのをおぼえた。俺がしっかり働かねば、と彼は思った。しっかり働いて、いつかはこの妹とおふくろを町へ呼ばねば。  その晩、彼は寝る前に、ヒデを町の銭湯へ連れていった。村にいれば、熱い湯に首まで漬かることなど、二カ月にいちどあればいい方なのだ。一時間という約束だったが、彼は銭湯の前で三十分も待たされた。 「かんにん……かんにんな。」  そういいながら走り出てきたヒデをみて、彼はちょっと目を|瞠《みは》った。洗い髪のせいか、見違えるような顔の|色艶《いろつや》のせいか、一瞬、別な女だと思ったのだ。 「……いい女になったじゃないか。」  ヒデは、くすっと笑って、形まで変ったようにみえる唇の間から、舌の先をちろりと出した。 「こすっても、こすっても、|垢《あか》がぽろぽろ落ちるんだもん、|笑止《しよし》かった。」  村では、恥ずかしいことを笑止という。彼は、懐かしい言葉を聞いて、突然村の夜へ連れ戻されたような気持になった。  小屋の部屋に戻ると、彼は黙って寝床を敷いた。寝床は一人分しかなかったが、彼はただ、「枕はお|前《め》に貸してやる。」とヒデにそういっただけだった。ヒデも、寝床のことはなにもいわずに、「いやあ、そんじゃ|兄《あん》ちゃんに悪いなあ。」と、枕のことをそういった。彼は笑って、「なんの。枕ぐらいは、ちゃんとしたものを使ってってけれ。村から持ってきたソバ殻の枕だぞ。」といった。  実は、母屋のおかみさんがヒデの夜具を貸してやろうといってくれたのだが、彼は、なに、俺のに一緒に寝ますからと断わった。まさかヒデは、いまはもう寝床に粗相などしないだろうが、自分の肉親のことで余分な面倒をかけるのは心苦しかったからである。寝床は一つで沢山なのだ。彼は、村にいるころは毎晩ヒデとおなじ寝床に眠っていた。子供のころから、ずっとそんなふうにして育ったのだ。だから一つの寝床を分け合って眠ることには馴れているのだ。  けれども、その晩、ヒデがシャツとパンツだけになったのをみて、彼は思わず目をそらした。胸の脹らみといい、腰の肉づきといい、すらりと伸びた脚の筋肉の締り具合といい、いつのまにかヒデはもうすっかり女の躯になっていた。並んで仰向けに寝てみると、躯の片側が互いに触れて、さすがにすこし窮屈だった。餓鬼のころとは大分勝手が違うなと、彼は笑って、 「そっちは布団から落っこちないか?」 「大丈夫。|兄《あん》ちゃんは?」 「俺も大丈夫だが……。」  湯あがりのヒデの躯は、これまで|嗅《か》いだことのない、なにやら鼻の奥をくすぐるような甘酸っぱい匂いがしていた。触れようとしなくてもひとりでに触れてくるヒデの肌は、熱くて、なめらかで、しなやかであった。 「こうしよう。こうすると、いくらか楽になる。」  彼は独り言のようにそういうと、ヒデに背中を向けて、吐息をした。しばらくすると、 「|兄《あん》ちゃん、お嫁さん貰わんの?」  とヒデはいった。笑いを含んだ声だったが、冗談にしてもヒデにそう訊かれると、辛かった。 「……いつかは貰うさ。」  と彼はいった。 「いつかって、いつ?」 「さあ……わからん。わからんほど、ずっと先だ。俺はいま修業中だからな。そんなことは考えてみたこともない。」  ヒデはそれきり黙っていた。いいたいことがないのではなくて、それがひしめき合って言葉にし兼ねているような沈黙であった。 「お|前《め》のとこには、沢山嫁貰いがくるだろうな。」  彼は、お返しのようにさりげなくそういってみた。それでもヒデは黙っていたが、やがて、 「四十過ぎの男ばっかり。」  といった。  今度は、彼が沈黙する番だった。村の現実を知っている者としては、もうそれ以上のことは訊けなかった。嫁貰いにくるのが四十過ぎの男ばかりだということは、あたり一帯の村々には四十前の若い独身男がひとりもいないということであった。同時に、四十を過ぎてもまだ嫁も貰えないでいる男たちが大勢いるということであった。そういう人々は、ほとんどが農家の長男たちで、次男三男や若い娘たちは、都会へ働きに出たきり帰ってこない。勿論、良作自身もそのうちのひとりなのだが、彼の場合は長兄が死んだあとも村へ帰ることを拒んでいるのだから、もともとヒデを慰める資格もないのである。  彼は息苦しくなって、 「ところで、明日は町を歩いてみようか。」と話題を変えた。「なんか欲しいものがあったら、買ってやる。なにがいい?」 「……着るものがいい。」  とヒデはいった。素直にそういってくれたので、彼はほっとした。 「着るものって、着物か?」 「洋服。でも、ちゃんとした洋服は要らん。そんな洋服、着ることがないから。ブラウスでもいいし、スカートでもいいし……。」  彼は、ヒデが膝の出たズボンを穿いていたことを思い出して、それじゃスカートを買ってやろうといった。 「ミニを買ってやろう。」 「ミニを?」  ヒデはびっくりしたようにそういうと、音を立てて歓声とも|溜息《ためいき》ともつかないものを洩らした。 「色は、何色が好きだ?」 「|鬼燈《ほおずき》の色。」  ヒデは即座にそう答えた。 「鬼燈か。赤いミニだな。」  信じられないのか、ヒデはしばらく黙っていた。それから、彼の背中に、そっと額を押し当ててきた。額が、鼻になり、顔になった。しばらくすると、寝息で背中が焼けるように熱くなってきた。     七  ヒデが帰ってから十日ほどしたある日、在所の隣村に住んでいる|親戚《しんせき》筋の与五という老人が、ひょっこり良作を訪ねてきた。そのとき、良作は岸壁に近い枯草の空地に|筵《むしろ》を敷いて、|手斧《ちような》を研いでいたのだが、よろけるような足取りでゆっくりこっちへやってくる与五老人を目にしたとき、曇り日だったのに、なぜか突然、あたりがさっと翳ったような気がした。「|爺《じつ》ちゃ。」と口のなかで呟いて、彼は立ち上った。  与五老人は彼の目の前までくると、いきなり、 「一緒に村へ帰るべ。」  といった。だしぬけにそんなことをいわれても、わからない。黙っていると、 「ヒデが、死んだ。」  と老人はいった。  良作は、なにもいわずに目を瞠った。 「裏の栗林で、首を|吊《つ》って死んだ。」  老人はつづけてそういった。良作は口を動かしたが、喉から言葉が出てこなかった。 「お|前《め》から買って貰った鬼燈色のスカートを穿いとった。首には、貝殻を糸で|繋《つな》いだ首飾りを掛けとった。」  老人はなおもつづけていった。良作はぶるぶるとかぶりを振った。それから、ようやく言葉が出た。 「嘘だ。そんなことって……嘘だ。嘘だ。」 「嘘じゃね。」  老人はきっぱりといった。良作はかぶりを振るのをやめて、|呆《あき》れたように老人をみつめた。 「ヒデは、ポケットにお|前《め》から貰った手紙を持っとった。」  老人はそういって、乗馬ズボンのポケットから畳んだ手紙を引きずり出した。 「裏になんか書いてある。ヒデが書いたんじゃろう。」  良作は、手紙をひったくって、裏を返してみた。赤いボールペンで書いたらしい文字が、何行か並んでいた。けれども、それを持つ手がわなわなと|顫《ふる》えて、近視の人のように目に近づけなければ読むことができなかった。   兄ちゃんから買ってもらった   赤いミニをはいてあるいた   だれもいない   だれも私を見てくれない   となりの村までいってみた   だれもいない   そのまたとなり村までいってみた   だれもいない   だれも私を見てくれない   私を見てくれる人が どこにもいない  そう書いてあった。良作は茫然と老人をみつめた。老人は彼の手から手紙を抜いて、また乗馬ズボンのポケットに収めた。 「俺が、殺したのか?」  と、良作は呟いた。それから、両手で老人が着ている犬の毛皮の|襟《えり》を握って、揺さぶった。 「はっきりいってくれ、|爺《じつ》ちゃ。俺がヒデを殺したのか?」 「馬鹿なことはいわね方がいい。」と老人は落ち着いた声でいった。「お|前《め》はヒデに鬼燈色のスカートを買ってやっただけだ。ヒデはそれを穿いて死んだ。それだけのこった。」  良作は、膝ががくがくして、いまにも地面に落ちそうだった。老人に促されて歩き出すと、うしろからひたひたとヒデの足音が追ってきた。彼は、立ち止まって、振り向いてみた。けれども、死んだヒデがそこにいるわけもない。  風が出て、岸壁の裾を洗いはじめた波の音であった。その岸壁のむこうには、あの日のヒデの横顔のように、陰鬱に翳った海がひろがっていた。 [#改ページ]  小人の曲芸     一  これ、と思うものがみつかったら、もう店の人の顔をまともにみてはいけない。目の端に軽く|捉《とら》えて置いて、さりげなくその品物を手に取ってみる。買おうかしら。それとも別のにしようかしら。ちょっと迷う素振りで、店の人の注意が自分からすっかり離れる瞬間を待つ。  最初から、目ざとい店員のいる店は敬遠して、主人かおかみさんが独りで何人もの客を相手にしているような店を選ぶから、焦らずに待っていさえすれば、機会は何度でもやってくる。  いまだ、と思っても、あわててポケットにねじ込んだりしてはいけない。店の人がみていなくても、誰の目がどこで光っているかわからない。それに、もしかしたら店の人だってこっちを目の端に捉えているかもしれないということを忘れてはいけない。途中で、突然、動作のリズムを変えたりしたら、怪しまれてしまう。  そっと、手のなかに握ってみる。固く握り締めてはいけない、いざというときにはいつでも元の場所へぽろりと落とせるように、軽く握るのがいい。そのまま、ほかにいいものはないかと物色するそぶりで、店の人の様子を|窺《うかが》う。何事もなければ、その手の小指でちょっと頬を|掻《か》いてみる。それから、|痒《かゆ》いところから痒いところへと手がひとりでに動くような感じに、喉から胸の方へ小指を滑らせていって、手がブラウスの襟の|蔭《かげ》に隠れたとき、下着と肌の間へぽろりと品物を落としてやる。  これでいい。あとは、入ってきたときのように、ぼんやり店を出るだけである。ほかにまだ欲しいものがあっても、一軒から一つが無難なところで、欲張ってはいけない。店のなかを見廻して、意味もなくゆっくり頷きながら入口の方へ歩く。ここで駈け出したら、おしまいである。自分にそういい聞かせながら、ゆっくりすぎるくらいにのろのろと外へ出る。  よく晴れた日なら、目がくらんだように軒下でちょっと立ち止まってみせるのもいい。曇りの日なら、一と雨くるのではないかと空を仰いでみせるのもいい。それから、家とは反対の方向へゆっくりと歩いて、通行人のひとりになる。  何事もなかった。自分はなにもしなかった。ただ、いつのまにか|鳩尾《みぞおち》のあたりに、なにやら火照るものが紛れ込んでいるだけだ。浜へいって、打ち揚げられた破船の蔭で調べてみよう。  遠道をして、歩きつづける。     二  港屋文房具店を出て、夕方近い大通りの歩道をのろのろと歩きながら、 「おらは、またやってしまった……。」  とチサは思った。溜息が出た。  きょうも、消しゴムを一つ、やってしまった。これで、家の宝箱には、消しゴムばかり十二個も溜まることになる。  チサは小学校の五年生だから、消しゴムは学用品の一つである。それにしても、消しゴムばかりこんなに溜めて、いったい、どうするつもりなのだろう。チサは、自分で自分のしていることがわからない。どうしてこんなことになったのだろう。  四年の終りごろまで、こんな消しゴムなんか、一個もなかった。三年に進級したとき買って貰った緑色の消しゴムが、グリーンピースほどにちいさくなって残っているきりだったが、それもいつか学校の帰りに、浜通りへ降りる|崖《がけ》の坂道で筆箱を落としたとき、鉛筆のキャップと一緒になくしてしまった。鉛筆のキャップなら、なければなくてもいいのだが、消しゴムがないと困ってしまう。それで、病気で寝ている母親から十円貰って、駅前通りの潮文堂へ買いにいった。  潮文堂は、町でいちばん大きな文房具屋で、店には消しゴムだけでも何十種類となく置いてある。色も、形も、値段も実にさまざまである。いちばん|廉《やす》いのは十円で、チサはそれを買う金しか持っていなかったが、買ってさっさと帰る気にはなれなかった。  一と口に消しゴムといっても、こんなに沢山の種類があるのだ。みるだけなら、ただなのだから、しばらくみて楽しんでから、買って帰ろう。そういうことにして、一つ一つ手に取ってみているうちに、消しゴムは色や形や値段のほかに、匂いにも違いがあることがわかった。  安物は、匂いだけ嗅いでみると、駄菓子屋のお菓子と変らない。十円のやつなど、まるでハッカ入りのチュウインガムみたいな匂いがする。チサは、それが消しゴムの匂いなのだと思っていたが、とんでもないことがわかった。値段が高くなるにつれて、お菓子のような匂いがだんだん薄れて、ゴムの匂いが強くなる。そのゴムの匂いも、五十円を越すといかにも|香《こうば》しくなる。  チサは、ハッカ入りのガムみたいな匂いのする十円の消しゴムを買うのが、恥ずかしくなった。今度はもう五年生なのだから、せめてゴムの匂いのするのが欲しかった。けれども、十円で五十円のを買うわけにはいかない。  ちょうど店は新学期の売り出しで、子供の客で|賑《にぎ》わっていた。みていると、高学年の生徒で十円の消しゴムを買う者はほとんどひとりもいなかった。みんな三十円、四十円のを買っていく。今度小学校へ入学する子供でさえ、連れの母親にゴムの匂いのするのを買って貰ったりする。チサは、くさった。なにさ、一年坊主のくせに。一年坊主はハッカ入りのガムで沢山なのだ。そう思うと、ますますその十円のを自分で買うのは|厭《いや》になる。  ぐずぐずしていると、同級生の女の子がひとり、ひょっこり店にやってきた。 「なに買いに?」  と訊かれて、チサは、うっかり、 「消しゴム買いに。」  と正直に答えてしまった。 「おらも。」と相手はいって、「どれにしようかな。……これにしよ。」  チサは、もしも相手が十円のを選んだら、自分も「付き合うわ。」といっておなじものを買おうと思っていたのだが、相手が選んだのは四十円の、尻に|刷毛《は け》のついた上等のだった。 「チサちゃんは? どれにする?」 「おらはもう、買ったから。」  チサはあわててそういった。きょうはもう、このまま買わずに帰ろうと思った。  相手は金を払って戻ってきた。 「まだなんか買うものある?」 「おらは、なんも。」  とチサはいった。 「じゃ、一緒に帰るべ。」  二人は潮文堂の店を出た。  途中で相手と別れてひとりになると、チサは舌うちして、やれやれと思った。たまには自分も人並みに駅前通りで買物をしてみたいと思ったのだが、やはりあんなお上品な店は性に合わない。浜の子は、いくつになっても浜の小店でしか物が買えないようにできているらしい。  チサは、歩きながらズボンのポケットに手を入れてみた。潮文堂ではとうとう出し兼ねた十円玉を、なんとはなしにちょっと握ってみたかったからである。ところが、十円玉より先に、なにやら憶えのないものが指先に触れた。なんだろう。妙なものが入っている。そう思いながら取り出してみると、それは真新しい消しゴムであった。チサはびっくりして立ち止まってしまった。  これはどうしたことだろう。  白くて、柔らかそうな肌をした、いかにも消しゴムらしい消しゴムであった。チサには|馴染《なじ》みのない上等品だったが、それにも|拘《かかわ》らずチサはその消しゴムに見憶えがあった。ついさっきまで、潮文堂で何度も手に取ってみた五十円の消しゴムに違いなかった。  けれども、それがどうしてポケットに入っていたのだろう。|勿論《もちろん》、買った憶えはないし、十円玉一つでは買えるわけもなかった。実際、十円玉はちゃんとポケットの底に残っていた。そんなら、潮文堂の品物がどうしてポケットに入っていたのか。  チサは、あわてて消しゴムを握り締めると、その手をズボンのポケットに隠して、そっとあたりを見廻した。自分が知らず|識《し》らずのうちに盗みをしていたということに、そのとき初めて気がついたからである。  チサは、潮文堂にいる間、盗みなどする気は毛頭なかった。けれども、消しゴムがひとりでポケットにもぐり込んだりするはずがない。とすると、やはり自分の仕業だと思うほかはなかった。その消しゴムを何度も手に取ってみたことは事実なのだから、なにかの拍子に(おそらくよその客の気前のよさに気をとられているうちに)うっかりそれを自分のポケットに入れてしまったのだと思わないわけにはいかなかった。  盗みをする気がなかったにしても、金も払わずに黙って店のものを持ち出したのだから、盗みとおなじことをしたことになる。チサは|躯《からだ》が顫えてきた。  潮文堂へ返しにいこうか。正直にわけを話して謝ればいい。そう思ったが、勇気が出なくてぐずぐずしているうちに、三日も四日も経ってしまった。消しゴムは結局チサの|手許《てもと》に残ったが、盗んだものはとても使う気持にはなれなかった。それかといって、一と思いに捨ててしまうこともできなくて、チサは仕方なく、千代紙を貼った小箱に入れて網小屋の棚に隠して置いた。その小箱は、将来なにか自分に大切な持ち物ができたら入れることにしようと思って、|出稼《でかせ》ぎにいっている父親がいつか土産に買ってきてくれた千代紙を|綺麗《きれい》に貼って|拵《こしら》えて置いたものだが、とんだ宝物を入れることになった。  網小屋は、父親が漁師をやめてからはがらくたの置場にすぎなくなっていた。チサは、ときどき網小屋に忍び込んで、別世界でも|覗《のぞ》くような気持で千代紙の小箱を開けてみた。盗んだ消しゴムを眺めていると、盗みというものの不思議さにチサは酔ってくる。金がなくても、欲しいものはなんでも手に入れられて、しかも、すべてに他人より劣っていると思っていた自分にさえ、あんなに|容易《たやす》くやってのけられた盗みというものの不思議さに、チサはうっとりとして夢でもみているような気分になる。  五年生になってまもなく、習字の半紙を買いに文房具屋へいったとき、チサは売り場に並んでいる消しゴムをみて、突然、盗みの衝動に駆られた。あのときのように、あのときのように——チサは自分にそういい聞かせながら、のろのろとその店を出てきたが、ポケットには確実に消しゴムが一つ入っていた。  その消しゴムを網小屋の小箱に仕舞うとき、チサはただわけもなく涙が込み上げてきて、長いことしくしく泣いていた。悲しいのか嬉しいのか、自分でもはっきりわからなかった。  それが病みつきになってしまって、今度で消しゴムの数も十二になる。消しゴムばかり、こんなに集めてどうするつもりかと、自分でも呆れるような気持なのだが、みれば、つい手が伸びてしまうのだから仕方がない。  文房具屋だけでなく、ほかの店でも——たとえば薬屋でもこんなふうにできたらと思い、二、三度、様子を窺ってみたが、薬の数がおびただしくて、いったいどれが母親の病気に効く薬なのか、とても見分けがつかないから諦めてしまった。  チサの母親は、ここ数年来、右の乳房を病んでいる。乳房の|芯《しん》になにやらぐりぐりとした塊があって、それがだんだん大きくなる。躯は衰弱する一方なのに、乳房のぐりぐりだけはめきめきと肥え太る一方である。  あのぐりぐりを|忽《たちま》ち|融《と》かしてしまう薬はないものだろうか。あるなら、その名を知りたいが、クラスの級長に相談してみると、そんなことなら薬屋へいって訊いたらいいと級長はいった。まさか。いくら盗みの筋がよくても、薬屋で、はい、これがその薬です、と目の前に出されたものを盗み取るのは、不可能である。  母親は日増しに衰えて、消しゴムばかりが増えてくる。     三  のろのろと遠道をして、ようやく浜がみえてきたところで、チサは、不意に背後から声をかけられた。こんなとき、人に声をかけられると厭な気がする。自分とおなじくらいの女の子の声だったから、なにほどのこともないとは思ったが、やはりすぐには振り返れなくて、三歩ほど歩いてから立ち止まった。  小学校のころは駅裏の方から通ってきていた克江という名の中学生であった。チサは顔も名前も知っていたが、これまでほとんど言葉を交わしたこともなかった相手である。それがなんの用かと思うと、 「浜さかね。」  うん、とチサが頷くと、 「おらもせ。」  克江はそういって、親しげに肩を並べてきた。  二人はしばらく黙って歩いた。浜通りに入って、家々の間から光る海がみえはじめたが、克江は一向にチサから離れて浜へ降りようとはしなかった。むっつりしたまま、どこまでもチサについてくる。チサは薄気味悪くなってきて、 「もう、浜だえ。」  と、家の間からみえる海を指さしてみせた。すると、克江はちょっと笑って、 「お|前《め》は? お前も浜へいくんだろ?」 「おらは……家さ帰る。」 「家さ? 途中で気が変ったんかな。」  こんなとき、とっさにうまい言訳ができるといいのだが、チサにはそれができない。もじもじしていると、 「そんなこといわずに、浜さいくべ。遠道したついでに、浜を廻って帰ればええ。」  と克江はいった。チサは、胸がどきりとした。自分が遠道したことを克江はどうして知っているのか。克江はずっと自分のあとをつけてきたのだろうか。そうだとすれば、なぜなのか。  チサは、胸騒ぎがして、このまま克江と別れてしまうわけにはいかなかった。克江が黙って砕けた貝殻の白く散り敷いている砂道へそれていくので、チサも急ぎ足であとに従った。  ちょうど夏|烏賊《い か》の漁期が終ったばかりで、浜は疲れた顔のように薄汚れていた。風がなくて、生暖かい砂浜の上に烏賊の|腑《ふ》の匂いが淡い縞になっていた。浜のむこうはずれの破船がいつもより随分遠くにみえた。 「お|前《め》の乳も、そろそろ|脹《ふく》らんできたげだね。」  克江は不意にそういった。チサはちょっと唇を噛んで、ふんと鼻で笑ってみせた。けれども、克江はただチサの胸をひやかしたのではなかった。 「乳首が三角に|尖《とが》ってらあね。」  馬鹿くさ——とチサは自分の胸にちらりと目を落としてから、突然、克江の言葉のおそろしさに気づいた。自分の乳首が三角に尖っているはずはない。それはみなくてもわかることだが、チサは思わず両手で乳房を握っていた。  克江がちいさく噴き出した。 「あわてなくたっていいよ。いつまでもそんなところに引っかかっていると思うかえ?」  克江のいう通りで、チサの両手はただ脹らみかけた乳房を握ったにすぎなかった。乳房ではないものの手応えはなかった。 「|臍《へそ》の上だよ、角のあるやつは。」と克江はいった。「いつまでもそうして置くと、汗が染みるよ。出して風に当ててやんなよ。」  チサは、足が|竦《すく》んで歩けなくなった。急に小便を洩らしそうになって、しゃがんでしまった。すると、克江が見抜いた通り、消しゴムの尖った角が臍のあたりを押した。胸がごとんごとんと鳴っていた。チサはどうすればいいのかわからなかった。 「まあ、いいせ。心配することはねえさ。おらは誰にも喋らねから。」  克江は、しゃがんで頭を垂れているチサのそばに、海の方を向いて立ったまま、これまでになにをどれほど盗んだかと訊いた。それは、チサには天の声のようなものであった。消しゴムばかり、と答えると、克江はくすっと笑って、 「なんぼ溜まった。」 「これで、十二。」  消しゴムばかり十二かと克江はいって、また、くすっと笑った。 「まあ、いいせ。ところで、お|前《め》、沈船防波堤さいったことあるど?」  チサは、ないと頭を振った。沈船防波堤というのは、戦争末期にこの港の外で沈められた鉄船を引き揚げて、それを手頃な|岩礁《がんしよう》の上に固定させた簡易防波堤のことである。港の北側防波堤の三百メートルほど沖合に、マストも煙突もないのにさも重たげに|吃水《きつすい》を深くして停泊しているようにみえる平べったい船が、その沈船防波堤だが、その船が戦争で沈められたとき、大勢の死人が出たという|噂《うわさ》があって、土地の釣師もあまり近寄らない。  ところが、克江は事もなげに、 「んだら、今度の土曜日、連れてってやるべ。|祟《たた》りがあるなんて、迷信せ。夕方六時に、消しゴム十二持って弁天様の崖下さ|来《こ》。」  それだけいうと、もう用は済んだとばかりにすたすたと浜を引き返していった。  チサは、しばらく、そこにしゃがんだままでいた。港屋ではちっとも気がつかなかったが、克江は自分が盗みをするのをどこかでそっくりみていたのだ。そう思うと、首筋につららの先でも触れたような気がして、チサはぶるっと身震いした。  ようやく立ち上って振り返ると、もう克江の姿は薄汚れた浜のどこにも見当らなくて、|遥《はる》かむこうに西日を浴びた沈船防波堤が、べた|凪《なぎ》の海を抑える|錆《さ》びた文鎮のようにみえていた。  もう破船の蔭までいくこともなかった。チサは、腹を病む人のようにブラウスの上から消しゴムを抑えて、のろのろと家の方へ歩き出した。  今度の土曜日の夕方六時。消しゴム十二個を持って弁天様の崖下へ——思いがけないことになってしまった。     四  その日がなかなかやってこなければいい、そう思っているときに限って日が経つのが早いもので、あれよあれよというまにその日がやってくる。  約束の土曜日の夕方、六時すこし前に、チサはちょっと友達のところへいってくるといって家を出た。勿論、家を出てくる前に、網小屋へ行って、宝箱から十二個の消しゴムをビニール袋に移してきた。  たかが消しゴムとはいえ、それが十二個にもなると、結構|嵩張《かさば》る。それで、六個ずつ、ふた袋にして、半袖の上っ張りのポケットとズボンのポケットに一と袋ずつ入れてきた。  弁天様は、港のむこう側のちょっとした|岬《みさき》の鼻にある。なるほどそこは、沈船防波堤には最も近い陸地である。弁天様の崖下からボートにでも乗せられるのだろうか。  チサは、正直いって、沈船防波堤などへはいきたくもなかった。べつに祟りをおそれているわけではなく、そんなところにはまるで興味がないからであった。しかも、せっかく溜めた消しゴムを一つ残らずポケットに入れて、沈船防波堤まで出かけていくなんて——これが克江の命令でなかったら、到底思いも及ばないことだ。  いったい、消しゴムを持って沈船防波堤へいって、どうしようというのだろう。チサには一切わからなかったが、克江の命令通りにしないわけにはいかなかった。盗みのことを克江に知られている以上、命令に背けばどんなことをされるかわかったものではないからだ。  チサは、人通りのすくない裏道伝いに、伏目になってすたすた歩いた。十二個の消しゴムのために、いつもより躯が重たいという気がして、そのことに気がつくたびにチサは後悔の吐息を洩らしたが、いまさらどうなるものでもなかった。  弁天様の境内には誰もいなくて、|蟋蟀《こおろぎ》だけが鳴いていた。小道伝いに崖下へ降りると、すこし離れた岩山の上に克江が腰を下ろして、立てた|膝《ひざ》に頬杖を突いて沖の方を眺めているのが、暮れはじめた空にくっきり浮かんでみえていた。チサは、岩山のそばまでいくと、道の上から、「ほい。」と克江に声をかけた。都会なら、「ねえ、ちょっと。」というところを、このあたりでは「ほい。」といっているが、克江は振り向きもしなかった。きこえなかったのかもしれないとチサは思った。なにしろ大っぴらな用できたのではないのだから、どうにも声に力が入らないのだ。  チサは岩山へ登っていった。克江のすぐうしろまで近づいて、 「おらは、きたえ。」  といった。すると、克江は沖の方へ目を向けたまま、 「きたのは、さっきからわかってたよ。ほんとに、ひとりできたな?」  といった。 「ひとりできたえ。」 「嘘でねな?」 「嘘でね。」 「……だったら、誰かあとをつけてきた奴がいねか、よくそこらを見てみ。」  チサはあたりを見廻したが、暮れかけた崖の斜面にも崖下にも、人影らしいものはみつからなかった。 「誰もいね。」  とチサはいった。  ようやく克江は立ち上った。 「こっちゃ|来《こ》。おらのあとについて|来《こ》。」  ところが、克江のあとから岩山をむこう側へくだっていくと、そこに|艪舟《ろぶね》が一|艘《そう》、|舫《もや》ってあった。それは、かねて予想していた通りだったが、チサが驚いたのは、その艪舟に、すでに二人の女の子が乗っていたことであった。しかも、その二人はどちらも顔見知りで、ひとりは美和という六年生、もうひとりはおなじ五年生だが隣のクラスの小夜子であった。  克江は沈船防波堤へ連れていってやるといったが、ただ遊びや見物にいくのではないことは初めからわかっていた。なぜなら、これまでに盗んだものを残らず持参せよという条件がついていたからである。遊びや見物ではなくて、それでは目的はなんなのか。それはわからなかったが、どうせ碌なことではなさそうだった。だから、小舟で沈船防波堤へ渡るにしても、まさか一緒にいく仲間がいるとは思わなかったのだ。 「あいやあ……。」  と、チサは小夜子の顔をみて思わず驚きの声を上げ、それから、この思いもしなかった二人の連れのことをどう考えればいいのかわからなくて、ちょっとべそをかくように笑った。  自分は盗人で、克江はおそらく自分が盗人であることを知っているこの世でたったひとりの人間である。だから、連れの二人も、多少は盗みに関係のある連中だと思いたかったが、その二人に限って、それは不可能なことであった。  なぜなら、美和は中学校の教師の娘であり、小夜子は大きな呉服屋の一人娘だったからである。  舫い綱が解かれ、克江が自分で艪を操って、舟は夕凪の海へ滑り出た。     五  沈船防波堤に着くまで、四人は黙りこくっていた。|尤《もつと》も、いちどチサが連れの二人へ、 「おらは、沈船防波堤、初めて。」  と話しかけてみたが、二人とも、そっぽを向いたまま相手になってくれないので、口を|噤《つぐ》んでしまうほかはなかった。  変につんつんしてる、とチサは二人のことをそう思っていた。二人とも親しい遊び仲間ではなかったが、それにしても普段はこんなにつんつんする相手ではないのだ。しかも、二人はチサに対してだけではなく、自分たちも互いに相手に対してつんつんし合っているようだった。克江も無言で艪を操っている。  三人が、いや、克江も入れて四人がばらばらになって、互いにつんつんし合っている。おかしな|雰囲気《ふんいき》だ、とチサは思い、これはどんなことになるのかと、ますます不安な気持になってきた。  沈船防波堤に着いたときは、もう海面には夕闇が|澱《よど》みはじめていた。沈船のふなべりは思いのほか高かったが、まわりをテトラポッドで固めてあるので、それがちょうどいい階段になっていた。四人は、舟をテトラポッドの脚に舫って、ふなべりを越えた。 「甲板は穴だらけだから、気をつけな。」  と克江がチサに注意した。  他の二人は馴れているらしく、身軽に甲板に降り立った。  陸からみると、沈船防波堤は水平線とおなじくらいに平坦にみえるが、それはふなべりのせいで、甲板に降りてみると、かつて現役の船だったころの遺物がさまざまな凹凸をなしているのであった。  克江は、どこからか万年筆のような懐中電燈を取り出して、足許を照らした。その明りをたよりに、ふなべりに沿ってすこし移動すると、ドラム|罐《かん》が数本並んでいる|塀《へい》に突き当った。美和と小夜子が、そばの物蔭からゴザを運んできて、それをドラム罐の塀の下に敷いた。克江は、どこからか|蛸壺《たこつぼ》を一つ運んできた。四人は、ゴザの上に車座になった。 「チサがな、きょうから新入りだよ。」  と克江は他の二人にそういった。それから、くすっと笑って、 「チサはな、消しゴム専門だって。でも、人は好き好きだから、仕様がねべさ。大人にだって、|女子《おなご》の下着専門ってのがいるもの。」  といった。  チサは、顔を隠してくれる夕闇が有難かった。その夕闇のなかに、歯だけがほんのり白くみえていて、それで美和も小夜子も声を出さずに笑っていることがわかった。 「それじゃ、チサよ、お|前《め》から出せや。」  と克江はいった。  チサは、二つのポケットからビニール袋を出して、克江の手のひらに置いた。どうやら美和も小夜子もおなじ仲間らしいことが、チサの気持を励ましていた。  克江は、二つの袋の口を開けると、|躊躇《ちゆうちよ》なく、なかの消しゴムを残らず蛸壺のなかに落としてしまった。チサはぼんやりそれをみていた。 「この壺はな。」  と、克江は空のビニール袋をまるめて、ふなべり越しに海へ捨ててからいった。 「この壺は、おらたちの金庫なのせ。おらたちは、土曜日にはいつもここへきて、この一週間に自分が盗ったものをみんなにみせてから、このなかに仕舞うのせ。いいな?」  有無をいわせないいい方で、チサは頷くほかはなかったが、頷いただけではわからぬと気がついて、 「あい、わかったえ。」  といった。すると、克江は、 「つぎは、美和ちゃん、出せや。」  冗談だと思ったが、美和は、空色のガラス玉を|繋《つな》いだネックレスと、豆手帳を三冊と、大人のパンティストッキングと、仁丹を一と袋出した。  チサは、呆然とした。美和は先生の子供なのだ。  克江は、美和の盗品を一つ一つ懐中電燈で鑑賞してから、蛸壺に納めた。 「つぎは、小夜ちゃん。」  小夜子は、町でも指折りの商店の子なのに、万年筆と、カラーフィルムと、味の|素《もと》の|小瓶《こびん》と、ナメコの罐詰を出した。チサは、悪い夢をみているのではないかと思った。 「また、罐詰だ。」  克江は笑い出した。 「小夜ちゃんは凝るとこがあってな、いま罐詰に凝ってんの。前は飲みものに凝ってて、ブドー酒を|盗《と》ってきたときはびっくりしたな。みんなでラッパ飲みをしたら、酔っ払って、盆踊り踊った。」  今度は、克江自身が出す番だった。  腕時計を出した。チサは|魂消《たまげ》た。 「おらたちのことは、誰にもいっちゃなんねよ。口が裂けても。」  克江は最後に、チサに向ってそういった。 「万一、自分が捕まっても、仲間のことを話しちゃなんね。それが、おらたち仲間の|掟《おきて》なのせ。掟を破った奴は、殺す。」  チサは、背中がぞくりとして、身震いをした。殺すという言葉が、こんなに|怕《こわ》い言葉だとは知らなかった。 「それに、|陸《おか》へ戻ったら、仲間同士で口を利き合ったら、なんね。知らんふりで通すこった。そうしていれば、誰かがしくじっても、ほかの仲間には迷惑がかからんべさ。それから、毎週土曜日の六時までには、どんな小物でもかならず自分の土産を作って置くこと。いいな?」 「……あい。」  と答えて、チサは自分で自分のなりゆきに呆れていた。どうしてこんなことになったのだろう。 「ナメコや味の素じゃ、給食にもならねべさ。仁丹でも|舐《な》めて、帰ろか。」  それで会はおひらきになった。     六  おそらく町の人たちは誰ひとりとして想像もしない、そんなちいさな盗人たちの土曜会に、チサはそれから、六、七回も出席しただろうか。  チサは、仲間たちに|刺戟《しげき》されて、消しゴムばかりではなくほかにもいろいろ盗むようになった。これ、と思ったものが、大抵まんまと盗めるのは、自分でも不思議なくらいであった。チサにとって、盗みはもうただの癖でも趣味でもなくて、一種の仕事のようなものであった。  学校の廊下や校庭で、あるいは道で、美和や小夜子と会うことがあった。勿論、どちらも掟を守って、素知らぬ顔ですれ違ったが、実をいえば、チサには二つだけ、二人に訊いてみたいことがあった。  その一つは、二人がどんな|経緯《いきさつ》で克江の仲間になったのかということである。  陸では他人、ということは、もともと三人は友達ではなかったということである。それが、どうして沈船防波堤の仲間になったのだろう。チサは、美和も小夜子も、自分とおなじように|哀《かな》しい盗癖を克江に見破られて、否応なしに仲間にされてしまったのだろうと思っていたが、できたらそれを確かめてみたかった。  もう一つは、克江が自分たちの金庫だといっているあの蛸壺が、最後には誰のものになるのかということである。  そのことについては、克江はなにもいわないが、チサは、結局あの蛸壺は克江ひとりのものになりそうな気がしていた。自分たち三人を操って、さんざん盗ませて置いて、結局|溜《た》まった盗品は自分がひとり占めにする魂胆ではないのだろうか。  その二つのことを、美和や小夜子にちょっと訊いてみたかったが、そんな機会にはなかなか恵まれなかった。沈船防波堤の上でしか互いに口が利けないのだが、沈船防波堤では克江も常に一緒なのである。  晩秋のころ、チサは、土曜会をつづけて二度欠席した。最初のいちどは、ちょうど土曜日の晩が母親の通夜だったからである。  チサの母親は、その週の月曜日から急に容態が悪化して、近所の人たちの手で病院に担ぎ込まれ、四日目の朝にはもう冷たい|骸《むくろ》になっていた。病名は乳ガンで、医者はよくこんなになるまで放って置いたものだと呆れていた。  父親は、もう何年も前から東京へ出稼ぎにいったきり、消息がわからなくなっている。母親が死んでも、知らせようがなかった。父親がふと我に返って、連絡してくるのを待つほかはない。チサはそれまで、おなじ浜通りにある遠い|親戚《しんせき》筋の家に預けられることになった。  チサは、母親が死んでから、盗みがまるでできなくなった。死んだ母親がどこかでみているような気がするからである。これ、と狙ったものに手を伸ばそうとすると、途端に自分をみつめている母親の目を感じる。もう、いけない。急に気持が|挫《くじ》けてしまう。躯の節々がこわばってしまう。  死んだ人の目が宙を泳いでいるわけがない。気のせいだと自分を励ましてみるが、やはりいけない。確かに、母親がどこかでみているのだ。  母親が死んだ翌週、チサは結局、一つも自分の土産が作れなかった。克江は小物でもいいからといったが、その小物すらも盗めなかった。土曜会には、手ぶらでは出席できないのである。  チサは、思い余って、土曜日の休み時間に、克江宛に簡単な手紙を書いた。 『母ちゃんが死んでから、だめになりました。母ちゃんがみていると思うからです。どんなにしても、背中から母ちゃんの目が消えないんです。かんにんしてください。もうすこし時間をください。母ちゃんの目を追っぱらう時間をください。おねがいします。チサより。克江さんへ』  これを細く畳んで、結び文にして、四時間目の授業が終ってから、隣のクラスへいって小夜子へさりげなく手渡した。  ところが、その日の六時をちょっと廻ったころ、突然、かなりの強さの地震があった。チサが預けられた家はちょうど夕飯時で、天井から落ちてきた|煤《すす》が飯台に降るやら、あわてて逃げようとした子供が味噌汁をひっくり返すやら、ちょっとした騒ぎになった。  チサは、それに気をとられてすっかり忘れていたが、陸が揺れているころ、克江の艪舟はちょうど沈船防波堤へ向う途中の海の上だったのではなかろうか。だから、克江たちは地震には気がつかずに、そのまま沈船防波堤へ向ったのだ。  津波のことを最初にいい出したのは、チサが預けられた家の年寄りであった。このあたりの浜は、昔から津波には何度となく痛い目に|遭《あ》わされている。浜の人間なら誰でもそうだが、とりわけ年寄りは、津波を呼びそうな地震には敏感である。  案の定、津波警報が出た。港にはサイレンが鳴り渡り、港内に停泊中の船は急いで|錨《いかり》を上げて港の外、沖へ向って避難をはじめた。  そのときまでは、沈船防波堤は確かにいつものところにあったのである。そのことは多くの船員たちが証言している。そのとき、おそらく克江たちは沈船防波堤の上のいつものところで、お互いの盗品を鑑賞し合っていたのだろうが、果してあの時ならぬサイレンが津波警報だとわかっただろうか。もし、わかったとしても、沖へ出ていく船が相次いで海がさんざんに波立っていたから、とても艪舟で岸へ|辿《たど》り着くことが出来なかっただろう。  津波は、思いのほか早くやってきた。二メートルほどのちいさな津波だったが、沈船防波堤は地震で土台が|弛《ゆる》んでいたのかもしれない。津波が引いて、避難していた船が沖から戻ってきたときは、すでに沈船防波堤は海上から姿を消していた。  翌日、艪のない艪舟が一艘と、女の子が三人、水死体となって浜へ打ち揚げられた。三人の|身許《みもと》はすぐわかったが、三人とも、前日の夕刻、それぞれ別の用事を理由に家を出ていることがわかった。けれども、三人はおなじ艪舟で海へ出て、津波に遭ったことは確実であった。  普段、交際もない三人が、なぜ一艘の艪舟に乗り組んで夕闇の海へ出たりなんかしたのか。この|謎《なぞ》は、誰にも解けなかった。いや、たったひとり、チサを除いては——。  チサは、三人の死体が揚がった翌日、実にひさしぶりで浜の子供たちのゴム段遊びの仲間入りをした。陰気な影は吹き払って、 「混ぜてな。」  と笑いかけると、みんなは|訝《いぶか》しそうに顔を見合わせたが、 「ああ、いいせ。」  といった。それで、 「ありがっと。女跳びでいい?」  と訊くと、 「ああ、いいせ。」  とみんなはいった。  それで、チサは女跳びで跳んだ。いつになく、大層躯が軽いと思った。 [#改ページ]  火の輪くぐり     一  その朝——といっても、沖の方の空がようやく白みかけてきたばかりの早朝のことだが——菜穂里の北はずれの無人踏切で、町の漁師の若者のひとりがちょっと気になる犬を見掛けた。  片っ方の耳だけが異様なまでに大きくて、それがまるでだぶだぶの毛皮の防寒帽の耳隠しのように、顔の脇へだらりと垂れ下がっている赤犬である。  そのとき、その漁師の若者は、野菜を満載した軽四輪トラックを運転して、海岸から三十キロほど離れた鳥野という谷間の町の青果市場へ積荷を届けにいくところであった。漁師が、どうしてそんな八百屋のような真似をしていたのかというと、彼は烏賊漁がとぎれる冬の間だけ、手間賃稼ぎに、運転手として町の青果問屋に雇われていたからである。  年毎に交通量が増してくる県道も、朝のしらしら明けのころになると、殊に冬場は、車の往来がぱったり途絶える。そこを狙って出発して、北の岩鼻を廻っていくと、トンネルを出たところにある無人踏切の赤い目玉が点滅していた。彼は、踏切の手前にトラックを停めて、一服つけた。  まもなく、下りのジーゼルカーがやってきて、目の前を通り過ぎた。  ——彼は、ちょっと驚いた。ジーゼルカーが通り過ぎると、なにものもいないと思っていた踏切のむこう側に、片耳の防寒帽をかぶったような赤犬が一匹、尻を落としてこっちをみているのが、ヘッドライトのなかに浮かび上ったからである。まるで、ジーゼルカーが新しい舞台の幕を引いたかのようであった。 (あの犬、どこに隠れていたんだろう。まさか、さっきのジーゼルカーから飛び降りたんじゃあるまいな)  彼は冗談にそう思ったが、勿論、ジーゼルカーが犬など乗せるわけがない。  大抵の犬は、暗闇でヘッドライトを浴びると、びっくりして道端へ|避《よ》けるものだが、その赤犬は、スポットライトには馴れっこになっているサーカスの犬みたいに、びくともしないで、むしろ気持よさそうに目を細めていた。  彼は、むっとして、だしぬけにクラクションを高く鳴らしてやった。きっと飛び上って逃げるだろうと思ったら、一向に効き目がなかった。赤犬は、|尻尾《しつぽ》で雪氷の道を|敲《たた》きはじめた。クラクションをラッパの一種だとでも思っているのだろうか。 「……この野郎。」  と、彼は両手でハンドルを敲いて|呶鳴《どな》った。気の荒そうな若者であった。 「おめえ、|聾《つんぼ》か?」  このまままっすぐ突っ走って、|轢《ひ》いてやろうかと思ったが、彼は車を運転していてまだいちども生きものを轢いたことがなかった。スピードを上げて走っているときなら、邪魔者を轢くのは一瞬だが、そこにいる相手を轢くために走り出すには勇気が要る。それに、誰だって、正月早々後味の悪いことはしたくない。  彼は、仕方なく窓を開けて、 「おい、こら、そこをどけっちゃ。しっ、しっ。」  と踏切のむこうの赤犬へいった。外はひどい寒さで、彼の吐く息が忽ち白い煙のようになった。  今度は、|呆気《あつけ》ないほど簡単に通じた。赤犬には、車の怕さなどよりも人間の|叱咤《しつた》の声の方がよほど骨身に染みているのだろう。すぐ腰を上げると、首をうなだれて、道端へゆっくりヘッドライトのなかを横切っていった。  彼は、トラックを出しながら、おや、あの犬、片方の耳がない、と、そのとき、はっきりそのことに気がついた。右の耳だけ異様に大きいと思っていたら、左の耳が、どうしたことか付け根のところから千切れてなくなっているのだ。 (あれは相当な野良犬だな。どこかで|悪戯《わるさ》でもして、ひどく痛めつけられたんだろう)  彼はそう思い、それから、ちょっと待てよ、と思った。あの赤犬を、前にいちど、どこかでみたことがあるような気がしたからである。あの長い大きな耳で思い出した。あんな耳をした犬、確かにどこかでみたことがある。  彼は、トラックのスピードを上げながら考えていたが、しばらくして、あ、あの犬だ、俺が空気銃で撃った犬だと、やっとのことで思い出した。あれは、去年だったろうか、おととしだったろうか。まだ|焼酎《しようちゆう》に胃をやられる前のことだから、多分おととしだったろう。酔い|潰《つぶ》れて、夕方、目を|醒《さ》ましてみると、裏の浜にどこからか耳の馬鹿でかい赤犬がきていて、これが|筵《むしろ》にひろげて干して置いた|鰯《いわし》を無断で食っている。よほど腹を空かしていたとみえて、呶鳴り声を上げても逃げようとしない。それで、空気銃で撃ってしまったが、さっきの赤犬はあのときの犬にそっくりだった。  あの犬がまた町へ舞い戻ってきたのだろうか、片耳になって、と彼は思い、それにしてもあの犬の左の耳がなくなっているのは俺の責任ではないのだと思った。あのとき、確かに彼はその犬の耳を狙って空気銃を撃ったが、手許が狂って弾は尻尾に当ったはずだった。犬がきゃんきゃんと悲鳴を上げながら、尻尾を中心にして|独楽《こ ま》のようにくるくる回転したことを|憶《おぼ》えている。だから、あの犬を片輪にしたのは俺ではないのだと彼は思った。  けれども、そうは思っても、彼にはなにか気掛かりであった。たとえむこうが野良犬でも、自分がかつて鉛の弾を撃ち込んだことのある相手が、なにやら|曰《いわ》くありげに尻尾を振りながら町へ舞い戻ってきて、しかも真先に自分の前に現われるとは、薄気味悪いことおびただしい。  彼は、気持が変に|苛立《いらだ》ってきて、くわえ煙草をいきなり窓の外へ投げ捨てた。というつもりだったが、窓は閉っていたので、煙草は窓ガラスに火花を散らして彼の|股倉《またぐら》に跳ね返ってきた。彼はあわててブレーキを踏んで、股倉から火の|点《つ》いた煙草を拾い上げた。  気をつけなければいけない。油にでも引火したら車が火事になるところだった。     二  その日、片耳の赤犬は町のあちらこちらに出没したが、朝の漁師の若者以外は、誰ひとりとして、その赤犬をみておととしのあの犬のことを思い出す者はいなかった。  おととし、あの犬を町で最初に見掛けた新聞配達の少年は、すでに中学校を卒業して、集団就職で東京に出ていた。  魚市場のゴミ捨場で、魚のはらわたを|嗅《か》いでいたあの犬に、そんなものを食ったら腹のなかに虫が|湧《わ》くぞと忠告した事務所の老人は、去年の秋口、中風に倒れて、もうこの世の人ではなくなっていた。  あの犬が駅の裏手の|陽溜《ひだ》まりに寝そべっているのをみかけた駅員は、とっくにどこかの駅へ配置換えになっていた。  浜の洗濯場で、水を飲みにきたあの犬のことを、縫いぐるみにしたいようなといった歌い手かぶれの娘は、港祭のとき、どこからともなくギターを背負ってやってきて、浜のはずれに打ち揚げられている難破船の残骸の上でわけのわからない歌のようなものを|唸《うな》っていた長髪の男のあとを追って家出をしたきり、消息がわからなくなっていた。  あの犬を町で最後にみかけた北はずれの駄菓子屋の女主人も、造船所へ働きに出ている亭主と不仲になって、去年の夏に子供を連れて美羅野の実家へ帰っていったきり、まだ戻らない。駄菓子屋の店は、黄色く日に焼けた木綿のカーテンが閉じたままになっている。  片耳の赤犬は、歩き疲れると、船神様の神社の縁の下にもぐり込み、乾いた土の上にまるくなって、うたた寝をした。     三  せまい山道を辿って鳥野の青果市場に着いたときは、もうすっかり夜が明けていた。一服する暇もなく積荷をおろしていると、そばを、 「御苦労さま。」  と声をかけて通る若い女がいた。  みると、八百屋の旦那衆がおしちと呼んでいる市場の若い女事務員で、そのおしちのぷりぷりしたジーパンの尻を見送っているうちに、漁師の若者は急に|喉《のど》から手が出そうな気持になって、つい、 「ちょっと……なあ、おしちさんよ。」  と呼び止めてしまった。それからすぐ、あ、いけねえ、と思った。  呼び止めてはみたものの、べつに用事があるわけではなかった。なにかいいたいことがあるわけでもなかった。彼はただ、女の子をちょっと呼び止めてみたかっただけであった。こんな機会は、彼のような男にはそうざらには巡ってこないのだ。  けれども、相手の方は、呼び止められれば当然なんの用かと思うだろう。それで、あ、いけねえ、と思ったのだが、呼び止めて置いてからでは、もう遅かった。 「なに?……なにか用?」  案の定、おしちは振り向くとそういった。 「い、いや……なんでもねえす。ただ、なんとなく……。」  彼がへどもどしながらそういうと、 「ただ、なんとなく、おしちって呼んでみたかったのね?」  そういうおしちの語気は、思いがけなく鋭かった。彼は気押されて、黙っていた。すると、おしちの目尻が|吊《つ》り上った。 「冗談じゃないわよ。なにさ、馴れ馴れしくおしちだなんて。どうしてあたしが、あんたなんかにまでおしちって呼ばれなきゃならないのよ。ふざけるんじゃないよ、運ちゃん。」  おしちは、それだけ一気にまくし立てると、くるりとむこうを向き直って、あとは何事もなかったようにジーパンの尻をぷりぷりさせながらいってしまった。  彼は、きょとんとして、しばらくそこに立っていた。彼には、なぜおしちが急に怒り出したのか、わけがわからなかった。おしちをおしちと呼んで、なぜいけないのか。八百屋の旦那衆ならおしちと呼んでも構わなくて、運転手の自分がおしちと呼んではなぜいけないのか。  やがて、彼は高く舌うちして、頭をくらくらさせながら、 「女って奴は、どいつもこいつも……。」  と独り言をいった。それから、横ざまに|痰《たん》を一つ吐き飛ばすと、また仕事に取り掛かった。  帰りに、事務所へ顔を出したとき、おしちは机に向って帳簿になにか書き込んでいたが、彼がいくら大声を出しても、完全に無視して目もくれなかった。  彼は、そんなおしちの横顔を盗みみて、浜の銀子にどこか似ていると思った。銀子というのは、彼にとっては中学時代から最も慕わしい女であると同時に、彼に対してはこの世で最も冷淡な女である。     四  菜穂里の青果問屋へ戻ってくると、おかみさんが振舞ってくれた熱い甘酒をすすりながら、彼は店の旦那に鳥野の市場のおしちのことを話した。 「おしちに、ひでえ|啖呵《たんか》切られっちまった。」  そういって事のなりゆきを話すと、旦那は面白そうに笑って、 「おまえ、おしちに、おしちさんっていったのか。」  といった。それで、そうだと答えると、 「それじゃ、おまえ、おしちが怒るのは当り前だ。」  と旦那はいった。  それが、漁師の若者にはわからない。訳を尋ねると、 「おしちってのは、おまえ、あの子の|綽名《あだな》でな、八百屋お七のお七だよ。あの子の本当の名前はナナ子っていうんだ。ナナは七だから、お七ってわけだ。あの子、年端もいかないくせに、妙に色っぽいところがあるだろう。そうかと思うと、おまえが食らったみたいな啖呵ぐらいは朝めし前っていう|御侠《おきやん》なところもある。ちょうどヤッチャ場にいるんだから、ありゃあ八百屋お七だということになった。それで、わしらは、おい、お七、なんて、からかってんだよ。だけど、おまえがお七といったら、あの子、頭にかっと血が昇るよ。わしらにだって、結構ぷりぷりしてるんだから。ところが、わしらには、あの子がぷりぷりするところがまた面白いんでね。ますます、おい、お七ってことになるわけだ。」  旦那はそういったが、若者には、ナナ子がお七といわれるだけでどうしてそんなに腹が立つのか、そこのところが|腑《ふ》に落ちなかった。それを旦那に尋ねると、 「そりゃあ、おまえ、八百屋お七っていえば罪人だもの。」  ところが、若者は、どだいその八百屋お七という女が何者なのかを知らないのである。それをいうと、旦那は|呆《あき》れたように、 「おまえ、八百屋お七を知らんのか。」  といったが、おしちといえば鳥野の市場のおしちしか彼は知らない。 「八百屋お七といえば、おまえ、江戸の本郷駒込の八百屋の娘で、十六のときに好きな男に会いたい一心で火つけの罪を犯しちまう。それで、鈴ヶ森で|火焙《ひあぶ》りになった女だよ。これは実際にあった話だそうだ。」  旦那はそういって教えてくれた。  午後に、もう一回、|片荷谷《かたにや》という町へ野菜を運ぶと、それでその日の仕事はお仕舞いになった。彼は、その日の手間賃を貰うと、晩めしを食うつもりで駅前の鯨屋へいったが、|暖簾《のれん》をくぐって、|鱈《たら》の|粕汁《かすじる》の匂いを嗅いだ途端に魔が射して、胃をこわして以来、控えていた酒を、つい一杯ということになってしまった。その一杯で、呆気なくゼンマイがほどけてしまった。  何軒目かの屋台の飲み屋で、彼はおかしな犬の話を耳に|挟《はさ》んだ。その屋台店のおかみが、夕方、路地で七輪に炭を|熾《おこ》そうとして、まるめた新聞紙に火をつけて|団扇《うちわ》で|煽《あお》いでいると、どこからともなく現われた赤犬が七輪のそばへ寄ってきて、綺麗なチンチンをしたという話である。 「へえー、あんまり寒いから、ちょいと火に当ててくださいってわけかね。」  客のひとりがそういうと、 「そうかねえ。だけど、チンチンってのは、食うものをねだるときにするんじゃないの?」  と、おかみはいった。 「そうか。じゃ、べつに、おかしくもなんともないじゃないか、その犬。」 「ところがね、その犬、いまにも七輪の上をぴょんと跳びそうな恰好するのよ。火がぼうぼう燃えてるのに。」 「その火の上をかい。」 「そうなのよ。跳びますよっていうみたいな恰好、してみせるのよ。それで、今度はチンチンする。」 「……なんだい、そりゃあ。」 「あたしも初めは、妙なことをすると思ってみてたんだけど、そのうちに、|奴《やつこ》さん、なんか食うものをくれるんだったら跳んでみせてもいいが、どうするって、こっちへ話を持ち掛けてるんだと気がついたのよ。」  相手になっていた客は笑い出した。 「だって、そうとしか思えないんだもの。」 「で、どうしたい。」 「ところがね、新聞紙がみんな燃えちゃったら、奴さん、つまらなさそうにすたすたとどっかへいっちゃったわ。」  漁師の若者は、その話を聞いていて、その犬というのはきっとあの片耳の赤犬のことだと思った。すると、朝、北の踏切であの赤犬とばったり出会ったときのことが思い出されて、彼はなんとなく落ち着かなくなった。  こんな話を聞いていたら、折角の酔いが醒めてしまう。彼はそう思い、急いで酒の残りを飲み干して、その店を出た。  彼は、もう大分酔っていた。|眩《まぶ》しいほどの星空で、滅法寒い晩だったが、彼にはさほど応えなかった。彼はふと、銀子を訪ねてみようかと思った。酔えば銀子が憎くなる。けれども、憎くなればなるほど会いたくなる。とても顔をみないではいられなくなる。  彼は、浜通りへ降りて、銀子の家の戸を敲いた。やがて、曇り|硝子《ガラス》に人影が揺れて、 「誰かし?」  と銀子の母親の声がした。 「俺だし。銀子の婿になる男だし。」  有難いことに、酒のおかげでこんな高飛車なことがいえる。彼はいい気分だった。 「銀子なら、いね。」  途端に母親の声が変った。 「こんな時間に、いねはずねえべさ。ここを開けてけれって、おふくろさん。」 「いねったら、いね。おらは知らん。」  声がきこえなくなったかと思うと、家のなかの明りが消えた。  彼は、大きなしゃっくりをして、雪氷の上をよろめいた。なにをいってやがる。銀子はいる。俺は知っとる、と彼はぶつぶついった。 「そっちがいつまでもそんな態度なら、こっちにだって考えがあるぞ。見損うな。俺を誰だと思ってんだ。八百屋お七を知らねえかってん……。」  彼は急に口を|噤《つぐ》んで、ちょっとの間、|棒杙《ぼうぐい》のようにそこに立っていた。キルティングの防寒服のポケットの底で、マッチが指先に触れてきた。彼は、そっとあたりを見廻しながら、 「八百屋お七を知らねえかってん……。」  今度は、そっと、|呟《つぶや》くようにそういった。     五  火は、浜通りの網小屋から出て、それが忽ちのうちに燃えひろがった。海からの風に煽られて、乾き切った家々の軒下を走る火の|迅《はや》さは信じられないほどだった。冬には珍しく風のない晩だったが、どういうものか火が出ると同時に大きなつむじ風のようなものが吹き募ってきた。  近隣の港町から、県道を消防車が続々と集まってきたが、町に燃えひろがった火勢はもはや手の施しようがなかった。思いもかけぬ大火になってしまった。  菜穂里の町は、浜通りから一番高台にある駅前まで、一と晩中、火の海になって燃えつづけていた。町の人々は、ほとんど裏山や町はずれの海べりへ逃げて、火事場を駈け廻っているのは消防夫や警官ばかりだった。  だから、あの片耳の赤犬が、燃えている窓枠をみつけては、そこをひらりと飛びくぐってチンチンをしながら、むしろ|欣然《きんぜん》と火事場をさまよい歩いていたことは、誰も知らない。  翌朝、煙に濁った空から、雪が落ちてきた。逃げていた人々が、一面の焼野になって白くくすぶっている町へ戻りはじめたころ、片耳の赤犬は、雪氷が|融《と》けてコンクリートがあらわになった街道に首を深くうなだれて、そこに染みついている魚の血の匂いを嗅ぎながら、南の方へ、のろのろと町を出ていった。 この作品は昭和四十八年六月新潮社より刊行され、 昭和五十五年三月新潮文庫版が刊行された。