青木雨彦 男の日曜日 目 次 ㈵ 男の日曜日   男子、閨房に入らず   大人の乗り物   焚火のルール   不実者   将棋に向く人、向かぬ人   狸の筆のさき   硯を洗う   お道具拝見   おやじの�植樹�   サーストンの三原則   紅皿と欠皿   怠ける権利   本に淫して   無為夢食   素踊りも風流のうち   水面を滑る   山のこだま   四十而初惑   スキーレス・スキー   趣味は編みもの   遠乗会   汽車の煙   あーるけ歩け   ボール選び   一期一会   8ミリの苦悩   採らず、殺さず、持ち帰らず   私は、人糞製造機です   トロッコとゼヒもの   二十六打席連続三振   運慶が彫る   徒手空拳   磨く   易占トリック   溺れる、潜る   万延元年の感想   チェロを弾く   愛車精神   四六のがまに油なし   行かない人がやりたがる   毎日が日曜日   隠れ家  ㈼ 女の月曜日   ナワノレン・バカ   ジョギング人生   独創と模倣   図らざる好意   カラオケ仁義   窓際族の敵   余人を以て代えがたし   鎖につながれた犬   昔のあいつ   中学生の作文   プロかアマか   いいなあ、君   いつでも夢を   憎悪の軌跡   夫の可能性   笑いの頻度   ランチ人間台頭す   なぜネクタイか   乗車のテクニック   労働者諸君の連帯   三角関係の謎   男のヤル気、女のヤル気   粗大ゴミ   女房の月給   女の靴音   ギャンブラー無残   オッ、かわいいな   人生観のモンダイ   夜のお勤め   身の不運   残業始末   大学亡国論   「新・良妻宣言」   嫁と姑   うれしいお仕事   他人様に迷惑を  あとがき [#改ページ]   ㈵ 男の日曜日   男子、閨房《けいぼう》に入らず  ※[#歌記号]論語・孟子《もうし》は   みな読んでみたが ヨイヨイ   酒を呑むなと書いてない  というのは、あれは、デカンショ節の替歌《もじり》だろう。ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ。  そこで、論語・孟子をみな読んでみたら、 「男子、厨房《ちゆうぼう》に入らず」  とは、ホント、どこにも書いてない。強いて|それ《ヽヽ》らしきものを捜せば、孟子の『梁恵王《りようけいおう》』の、 「君子は庖厨を遠ざく」  という、|これ《ヽヽ》だろうか?  こっちは、男子ではあっても、けっして君子ではないから、遠ざけるも、遠ざけないもない。あの「月の法善寺横町」ではないが、  ※[#歌記号]庖丁《ほうちよう》一本 晒《さらし》にまいて  といった心境である。  だいたいが「君子は庖厨を遠ざく」というのも、ずいぶんイイ加減な言葉だ。諸橋轍次《もろはしてつじ》博士の『中国古典名言事典』(講談社学術文庫)によると、その意《こころ》は、 「君子というものは調理場に近づいたりはしない。というのは、仁の心のあるものは、生きものの殺されるさま、その声を聞いては、とても食する気になれないから」  ということだそうだが、仁の心のあるものは、鳥獣を殺したり、殺しているところを見るのは忍びないが、それを食うのは「ちっとも忍びなくない」というわけか。  昔、 「ボク、食べるひと  ワタシ、作るひと」  というCMがモンダイになったことがあるけれど、いまさら男が料理することの是非を云々《うんぬん》するのも、オトナゲナイ話だ。いま、真《まこと》の男たちの議論は、とっくに国防問題など卒業して、 「いかにしたら、うまい料理を安く作れるか」  ということに集中しているのである。  それにしても、 「男子、厨房に入らず」  と言い出したのは、いったい、どこの、どいつだろう? あれ、ホントは「男子、閨房に入らず」と言うべきところを、間違えちゃったんじゃないダロカ。   大人の乗り物  一、日本国籍を明示すること  一、音楽家であることを示すこと  一、事故をおこさないこと  というのが、スクーターを借りるときの条件だったそうな。そのために、二十三歳の彼は、白いヘルメットに日の丸の鉢巻きをしめ、ギターをかついでスクーターにまたがったのだ。そうして、神戸港から、貨物船でヨーロッパに旅立った。  彼——  いうまでもなく、戦後の日本が生んだ最初の世界的な指揮者である小沢|征爾《せいじ》だ。その年、つまり、一九五九年(昭和三十四年)に、小沢さんは、フランスはブザンソンの国際指揮者コンクールで一位を獲得した。  そのスクーター行脚《あんぎや》のことを、小沢さんは、著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)に、こう書いている。 「五キロおきに人間のつきあいができ、五キロおきに地面に寝ころがって青い空を眺めた。目に沁《し》みるような青い空だった。そして美人に会うとゆっくり観察し、うまくいくと一緒にお茶を飲むこともできた」  俗に、  マッハ族  暴走族  ナナハン族  オトキチ族  とか呼ばれているけれど、その先駆者みたいな「カミナリ族」という言葉が流行したのも、同じ年だった。いまのオトキチ族は、一四〇キロの時速で飛ばすそうだから、とてもじゃないが、五キロおきに人間としゃべることなんて、できやしない。  それにしても、 「オートバイは本来おとなの乗り物だ。ガキどものおもちゃではない。おとなとは要するに、ちゃんと働いて家族を養っている男であって、それ以上の条件はない」  と言ったのは、小説家の丸山健二さんだ。そのとき、丸山さんは、単気筒ツー・サイクルのエンジンを脚のあいだに挟んで、北アルプスの山々を走りまわっていた。  スクーターといい、オートバイといい、バイクともいう。道路交通法でいえば、原動機付自転車に属する。要するに、自転車なのである。間違っても、ガキのおもちゃであってはならぬ。   焚火《たきび》のルール  焚火にあたるには、ルールがあった。棒っ切れでも何でもいいから、とにかく燃えるものを持っていくのだ。  そうしないと、仲間に入れてもらえなかった。そのころの男の子にとって、 「仲間に入れてもらえない」  ということは、耐えがたい屈辱を意味した。  そのために、|じぶんち《ヽヽヽヽ》の羽目板を剥《は》がして、こっぴどく叱られた奴もいる。それでも、仲間に加わることは、嬉しいことだった。  父親に殴られて流した涙に、ちいさな煤《すす》が止まる。そいつを握りコブシでこするから、顔中が真ッ黒になる。  それが、 「おかしい」  というので、みんなが笑う。笑われたほうも、なぜ自分が笑われたのかわからぬまま、いっしょになって笑っていた……。  それにしても、作詞・巽聖歌《たつみせいか》、作曲・渡辺茂の、  ※[#歌記号]かきねの かきねの まがりかど  という童謡「たきび」が初めて放送されたのは、昭和十六年(一九四一年)十二月九日だそうな。  ——ということは、この歌は、臨時ニュースが相次いで�大本営発表�を告げるなかで歌われていたのだろうか? いまはもう、まったく記憶にないが、軍部から「落葉も貴重な資源、フロぐらいは焚ける。それに、焚火は敵機の攻撃目標になる」と、お灸《きゆう》を据えられたこともあったらしい。  朝の焚火は、煙の色が朝日に透けて、水色に上がる。夕方の焚火は、火の色が人恋しさをつのらせる。そうして、夜の焚火は、闇の中の炎の色が、ひどく神秘的だ。  いま、ひとりで庭の落葉を焚いていると、 「孤独だなあ」  という思いが煙とともに目にしみる。焚火は、本来は、人を集めるためのものではなかろうか?  ところで、 「笑うという字は、いかにも笑っているように見える」  と言ったのは、あの伊丹《いたみ》十三さんだ。が、そういうことなら、焚火の火も「火」という字に見えないか?   不実者  俗に、 「斬った、張った」  という。人間を斬ったり、殴ったりすることである。あまり|いい《ヽヽ》趣味ではない。  そこで、 「切った、貼《は》った」  というのは、どうだろう? 新聞を切ったり、貼ったりすることだ。言っちゃナンだが、俄然《がぜん》、男らしい趣味になるのではなかろうか。  ところで、 「なぜ、新聞の切り抜きをするのか?」  と訊《き》かれると、おおかたの男たちは、 「あとで、なにかの役に立つかもしれないから」  と答えるが、なあに、こんなもの、なんの役にも立ちはしない。男は、ひたすら切って、貼って、溜《た》めているだけだ。  それにしても、情報整理の大原則は�捨てる�ことだろう。いいかげん溜まったら、スクラップ・ブックなんか、思いきって捨ててしまいたい。  が、これが、なかなかできないんだなあ。そのために、いつまでもズルズルベッタリの関係がつづいて、それこそ、あっちこっちの女から、 「不実者!」  と詰《なじ》られたりして……。  それは、まあ、ともかく、こんな話を聞いた。  ——さる役所で、スクラップ・ブックが倉庫いっぱいになり、これ以上、収納しきれなくなったらしい。職員が困って「どうしましょう?」と課長氏に相談したところ、課長ドノ、 「ウーム」  と、しばらく考えていたが、やおらポンと手を打って、 「よし、ぜんぶ焼いてしまえ。ただし、一部ずつ、きちんとコピーをとってな」  そんなわけで、新聞の切り抜きは、最も男らしい趣味の一つだ。あの入江徳郎さんも、 「新聞という広いフィールドで、有用な記事という獲物《えもの》を求めて、情報をハンターするような気持ちだ。ハサミが鉄砲であり、スクラップ・ブックは獲物の置き場である」  と言っている。   将棋に向く人、向かぬ人  とくに名を秘すが、プロの棋士から、こんな話を聞いたことがある。  ——たとえば、タイトル戦。  対局が終わったとたんに、棋士の体内を衝きあげるのは、モーレツな性欲だそうな。それこそ、その瞬間に仲居さんがお茶でも運んでこようものなら、 「押し倒してでも……」  といった気持ちに駆られるらしい。  その場に対局者がいて、立会人がいて、記録の少年や観戦記者がいるから、辛うじて抑えているようなものの、 「これが、誰もいなかったら、わかりませんね」  と、彼は、アゴを撫《な》でた。そうして、 「その仲居が、どんなに婆さんであっても……ですヨ」  それで、このわたしには、 「将棋が男のものだ」  ということがわかった。そりゃあ、プロの棋士には女の棋士もいるが、彼女たちは、いくらナンでも、駒を投げたとたんに「男を犯したい」とは思うまい。いや、おもうかな?  しかし、将棋だけは、男のものだ。女は、逆立ちしたって、男には叶《かな》わない。早い話が、同じ段でも実力は大駒二枚ぐらい違うし、だいたいが、女流名人でも四段か三段なのである。  ついでに言わせてもらえば、|そこ《ヽヽ》がまた、プロとアマとの違いでもあろう。アマチュアが縁台将棋を指すたんびに、 「押し倒してでも……」  という気持ちに駆られていた日にゃ、世の中、ブッソウでしょうがない。  それにしても、将棋が女に向かないゲームであることについて、 「ルールを守って勝ち負けのけじめをつけるには、ある種の優しさが必要だ。だから、過度に負けず嫌いの人や闘争心にあふれている人は、将棋に向いていない」  と喝破したのは、内藤国雄九段だ。これは、女とマージャンをしたことがあるひとなら、いっぺんにわかるだろう。  そして、同じことを、升田幸三九段は、たった一言。 「女は、バカだからじゃ」  ああ、いい気持ち!   狸《たぬき》の筆のさき 「習字」  というやつが、苦手だった。いまでも、苦手だ。  ——習字には、思い出がある。中学生のとき、先生が書いてくれた�お手本�に、自分の名前を署《しる》して、そのまま提出したところ、先生は、朱筆《あか》を入れて返してくださったのだ。  以来、相性が悪い。パーティや結婚披露宴の受付に、記帳用の筆といっしょにサインペンが用意されていると、ついサインペンのほうを握ってしまう。  ところが、エッセイストの江國滋《えくにしげる》さんが、 「自分は生来の悪筆で、だからサインペンを使うのだ、という人が多い。  これはあべこべではないか。  悪筆だからこそ、筆を使うべきなのだ。そのほうが、よっぽどトクであることに、サインペン派はなぜ気がつかないのだろう。サインペンでちゃんとした字を書ける人は、よほどの能筆家である。私はいまだにサインペンでは字が書けない」  と書いていらっしゃるのを読んで、 「そんなものかなあ」  と、すこうし考えがぐらついてきた。われながら、主体性のないことである。  たしかに、西洋の書法《カリグラフイ》は、文字をインクとペンによって皮革や紙の上に書き、読者にハッキリ読めるようにする技術にすぎないが、中国・朝鮮・日本の書は、墨汁を含んだ毛筆で紙や絹の上に中国の象形文字、すなわち漢字を書くのだから、下手は下手なりに味を出すことも可能だ。つまり、個性を発揮することができるのである。  そんなわけで、この国の小説家たちのなかには、 「原稿も、筆で書く」  という方が、何人かいらっしゃる。いまは亡き佐賀潜さんもその一人だったが、ご子息がしみじみと言ったものだ。 「父は、あれで、小説さえ書かなければ、ホントにいい父でした」  それは、まあ、ともかく、せめてラブレターぐらいは、筆で書けるようになろう。そうして、  ※[#歌記号]口説き上手の   この文《ふみ》 ご覧   どうせ狸《たぬき》の筆のさき  と唄われるくらいになろう。   硯《すずり》を洗う 「趣味は?」  と尋ねたら、 「硯のコレクション」  と答えた男がいる。とくに名を秘す必要もないが、売れっ子の小説家である。 「それで、この硯を、あっちの家こっちの家に置いときましてネ、時々出かけていっては、洗ってやる」 「洗う?」 「そうです。硯だって、時々洗ってやらないと錆《さ》びちまう」  聞いているうちに「そうか、そういうことか」と思い当たった。とたんに、無性に羨《うらや》ましくなって、 「しばらく行かないうちに、誰か若い奴が代わりに洗っていたりして……」  と茶々を入れたら、 「そうなんだ。それで、このあいだも、一人と別れた」  しかし、こういうことは、げんに既成のモラルとたたかっている小説家だからこそ可能なのであって、悲しい哉《かな》、われわれみたいに一個の硯でももてあましているような凡人には、とうていマネのできることではない。われわれのような凡人は、精々がウインドーに飾ってある硯を眺めさせていただくだけで満足すべきだろう。  それでも、ときに手にとらせてもらえることがある。そういうときは、もちろん、肌ざわりとか、重みとかいったことが、鑑賞の対象になる。  それにしても、 「硯を洗う」  という鑑賞法は、古くは宋《そう》の時代(九六〇年ごろ)から、あったらしい。マジメな話、硯を水中に入れて、日光の下で鑑賞する。  その所作には「天然の石の色や紋などを、判然とした姿で眺めたい」という意図のほかに「硯を清める」といった心根があったにちがいない。北畠雙耳《きたばたけそうじ》・北畠|五鼎《ごてい》共著の『中国硯鑑賞』(玉川堂)には、そうしてはじめて、 「長年のあいだ洗硯《せんけん》によって着いた手沢と古色とは、古い硯の生きてきた年輪というものを如実に私達の眼前にその姿を現してくれている」  と書いてある。  やはり、硯は一個で沢山だ。   お道具拝見 「性《セツクス》は?」  と訊けば、 「週にウン回」  と答える。こっちは、ただ「男か女か」を尋ねただけなのに——である。  されば、 「お道具拝見」  と声をかけたら、いかなることに相成るか? まさか、いきなり|あそこ《ヽヽヽ》を出してみせたりはしないだろうな?  茶会で、 「お道具拝見」  と言うのは、これはまあ、ルールみたいなものだ。いうならば、ナンの前に、女房が三つ指ついて一礼して「お情け頂戴」と言うようなもんだろう。  なにごとも、ルールというやつは、大切だ。ルールあればこそ、男の遊びも興趣を増す。  茶会の、 「お道具拝見」  という遊びのなかでも、とくに茶杓《ちやしやく》拝見には、ふかーい意味がある。茶杓を拝見して、ズバリ作者を言い当てることができたら、 「先人敬慕」  ということで、これはもう、茶道の精神の「和、敬、清、寂」のうち、敬《ヽ》を究《きわ》めたことになりはしないか。  それにしても、この茶杓のことを、 「一片の竹ベラ——世界中で、こんな粗末な手工がどこの国にあるだろうか」  と喝破したひとがいる。茶の湯の『お道具百科』(淡交社)を著した高原杓庵さんだ。高原さんは「茶人仲間では神器のように崇《あが》められ、途方もない金高で価格づけられ、しかも茶人の鋭いカンはこの竹片の製作者をいい当てる。常人に考え及ばぬ茶人の世界である」とも書いている。  もともと、茶杓は、茶をたてる主人が削るのが原則だった。主人が削れば、それを拝見した客もズバリと作者を言い当てることができ、先人敬慕すなわち主人敬慕となって、敬《ヽ》もまた、和《ヽ》に通じるものを!  そのために、ときに男は茶杓を削るのに骨身を削ることがある。たとえ、その道具は「一片の竹ベラ」と嘲《あざ》けられようと……。   おやじの�植樹� 「乱伐」  という文字をみるたびに思い出す小噺《こばなし》がある。すこうしシモがかっているが、カンベンしてもらいたい。  ——ある男、娼婦と寝たら、なんとアソコがツルツルで、一本しか生えていない。さて、そうなるとヘンに目ざわりなもんだから、ひょいと摘《つま》んで抜いちゃった。  すると、女の泣くまいことか。あんまり泣くので、 「どうして、そんなにワアワア泣くんだ?」  と訊いたところ、彼女がしゃくりあげて言うには、 「だって、あたし、|かわらけ《ヽヽヽヽ》になっちゃったじゃないの、よォ」  そんなわけで、 「木を植える」  という仕事は、非常に重要なことなのである。なまなかの愛情でできる作業ではない。  その証拠に、 「素人園芸家になるには、ある程度、人間が成熟していないと、ダメだ。言いかえると、ある程度、おやじらしい年配にならないと、ダメだ」  と言ったひともいる。チェコの国民的作家カレル・チャペックである。  チャペックの『園芸家12カ月』(小松太郎訳、中公文庫)によると、 「人間、若いうちは、花はボタンホールにさすもの、でなければ女の子に贈るものだと思っている」  ということだ。まして、そんな按配《あんばい》だから、 「植物が冬眠するものだということ、鍬《くわ》で耕され、肥料をもらい、移植され、挿木《さしき》に使われ、剪定《せんてい》され、支柱にくくられ、種ができないように咲いた花を切られ、枯れた葉をとってもらい、アブラムシやウドンコ病から保護されているものだということを、正確に知っている者はいない」  されば、 「木を植える」  ということは、大変な作業だ。肥料ひとつにしても、アブラカスなどを撒《ま》くような場合は、 「雪の降る直前が、いい」  ということになっているそうだから、それこそ、空を見上げながら、雪が降り出すのを「いまか、いまか」と待っていなければならぬ。  こんなこと、尻にコケの生えてるような奴らに、できますか?   サーストンの三原則  なぜか、この国では、 「サーストンの三原則」  と呼ばれているそうな。奇術をやるうえでの一般的な注意事項である。  すなわち——  1 これからどんな奇術をやるかということを前もって観客に説明してはならない  2 同じ奇術を同じ場所で二度くり返してはならない  3 けっして奇術のタネを観客に明かしてはならない  こういう文章をみつけると、すぐに「奇術」を「減税」に、また「観客」を「国民」に置き換えてみたくなるのが、わたしの悪いクセだ。このわたしは、どうも「奇術師」と「政治家」とを混同しているようである。  ところで、サーストンはアメリカが生んだ偉大な奇術師だが、斯道《しどう》の研究家である松田道弘さんに言わせると、 「この奇術三原則、ハワード・サーストンの著作の中にはない」  ということだ。どうやら「サーストンの三原則」なるもの、この国の政治家たちの、いや、この国の奇術師たちの、勝手な思い込みらしい。  それは、まあ、さておき、ウィリアム・ゴールドマンの小説『マジック』(沢川進訳、早川書房)には、 「これだけは覚えておくんだよ」  と、老奇術師が主人公に語って聞かせる話がある。それは、ある俳優の話で、 「彼、ナイフを壁に投げつける場面で、ナイフがうまく突きささると�オレは町中でいちばんのナイフ投げの名人だ�と言い、もしうまくいかなかったときは、このセリフを�オレは町でいちばんのナイフ投げの名人だった�と言い換えた」  というのだ。  言っちゃナンだが、これこそ、プレイボーイが女の子を口説き落としたときのセリフではあるまいか? ホーント、うまくいった場合は、 「オレは、町中でいちばんのテクニシャンだ」  と自分に言い聞かせ、うまくいかなかった場合は、 「オレは、町でいちばんのテクニシャンだった」  と、自分自身に言い聞かせるのである。   紅皿と欠皿  江戸  といえば、太田|道灌《どうかん》だ。足利将軍義政の長禄元年(一四五七年)に江戸城を築いた。  道灌  といえば、  七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき  という古歌だろう。鷹狩《たかが》りに出て、俄雨《にわかあめ》に降られ、一軒の農家に飛び込み、雨具を所望したところ、そこの娘に山吹の一枝を差し出されて、これが、 「蓑《みの》ひとつだになきぞ悲しき」  という謎《なぞ》とは知らなんだ——といった話である。 「されば」  というわけで、若い道灌は、この実のならぬ花を手折って、愛人とした。娘にしてみれば、思いがけない恋だったにちがいない。  ところで、娘の名を�紅皿《べにざら》�といった。れっきとした京都の武士の娘である。彼女の父は、戦国の世を逃げのびて、幼い一人娘とともに武州豊島郷高田村に住みついた。いまの面影橋あたりだ。  後妻をめとって、また娘が生まれた。二人の娘はすくすくと成長したが、さすがに姉は都育ち、妹は野育ち。たたずまいにも、おのずから相違がにじみ出て、父の死後、村の人たちは、姉の紅皿に比べて、妹を�欠皿《かけざら》�と渾名《あだな》した。  それを、母なるひとが心よく思うはずがない。ことごとに紅皿に辛くあたっていたところへ、 「プリンス道灌の登場」  となると、これはもう、日本のシンデレラ物語だろう。この話、単なる伝説ともいわれているが、『大日本野史』という本にはちゃんと載っているそうな。  ——新聞記者時代、その紅皿の碑を新宿は東大久保の西向天神別当大聖院の境内に訪ねたことがあるけれど、いまも残っているだろうか? あのとき、あの寺の住職が、 「碑のどこにも、紅皿の名は書いてないんですよ」  と語ってくれたことを、わたしは奇妙に覚えている。  それにしても、この東京の空の下のことを、 「まだ、江戸が残ってい、東京がある」  と言ったのは、小説家の池波正太郎さんだ。東京は、池波さんの故郷《ふるさと》でもある。   怠ける権利  バカげたことに、女たちは「女の自立」をかちとる手段として、ことごとに、 「女にも就職口を与えよ!」  と主張してきた。会社に就職しさえすれば、それで、 「自立の道はひらける」  と、カンちがいしたらしいのである。  そういうことならば、それまでの日本のサラリーマンは、 「みんな、自立していた」  ということになってしまう。正直な話、自立した人間が、ドブネズミ色の背広を着て、毎晩のようにナワノレンかなんかで上役の悪口を言って、日頃の鬱を晴らしたりするだろうか?  鬱——  みればみるほど、鬱陶しい文字ではないか。こんな字、よほどの躁状態でなければ、なかなか書けないにちがいない。  そんなわけで、われら男どもが「男の自立」を考える場合は、女たちが、 「女にも就職口を与えよ!」  と主張して、結局は働き蜂《ばち》に堕してしまったような、愚かなマネだけはしてはならない。女たちが「働く権利」を主張するなら、われら男どもは「怠ける権利」をこそ主張しよう。  あの『マタイ伝』にも、 「野の百合《ゆり》はいかにして育つかを思え。労せず、紡《つむ》がざるなり」  とあり、あの『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』にだって、  遊びをせんとや生《う》まれけむ  戯《たはぶ》れせんとや生《む》まれけん  遊ぶ子どもの声きけば  わが身さへこそゆるがるれ  とある。ひとつ、これからは野の百合のように、そうして、子供のように生きてみたいものだ。  ホント、働くことは、あんなに働きたがっている女たちに任せ、しばらくは遊び呆《ほう》けてみたいが、どうだろう?   本に淫して  いまさらのように、 「ちかごろの若い者は、本を読まない」  と嘆いたところで、はじまるまい。いっそのこと、 「こんな結構な楽しみを、若者なんぞに教えてたまるか」  といった気概で生きたら、どんなものだろう?  思えば、わたしたちは、書物によって女の美しさ、優しさ、豊かさ、艶《つや》やかさを知ったのである。これが、いまどきの若者たちみたいに、七歳にして席を同じうし、ちいさいときから現物に接してきたら、彼女たちのことを、 「美しい」  と思ったり、 「優しい」  と思ったり、 「豊かだ」  と思ったり、 「艶やかだなあ」  と思ったりしたか、どうか?  ところで、あの川上宗薫さんについて、 「私は川上さんのファンであり愛読者の一人であるけれど、その川上さんにしたって、女を扱う手つきが、なんとなく、プラモデルを弄《いじ》っている子供に似ているような気がして仕方がない」  と言ったのは、川上さんと同業である小説家の山口瞳さんだが、川上さんだって、書物を通じて女を知ったからこそ、ああしてプラモデルを弄るように、大事に大事に女を扱っているのであろう。これが、書物を通して女を知ったのでなければ、さぞかし女を弄るように弄ってきたにちがいない。  その点、いまどきの若者たちは可哀そうだ。なまじ七歳にして席を同じうし、ちいさいときから現物に接してきたために、女に対して夢がない。女のことを「美しい」とか「優しい」とか誤解する能力もない。  それも、これも、若い時に本を読まないからいけないのだ。だから、わたしたちは、こうやって、いまだに本を読んでいる。   無為夢食  初めてナマコを食べた人間もエラいにちがいないが、 「二番め、三番めにナマコを食べた人間も、エラい」  というのが、わたしの極めて個人的な意見だ。したがって、何十何億何千何百何十何万何千何百何十何番めかにナマコを食べているあなたも、 「エラい」  ということになる。  ホント、いくら最初にナマコを食べた人間がいるからといって、二番め、三番めにナマコを食べた人間がいなければ、四番め、五番めはありえず、トーゼンのことながら、何十何億何千何百何十何万何千何百何十何番めかの|あなた《ヽヽヽ》もありえない。|あなた《ヽヽヽ》がいなければ、|あなたの次《ヽヽヽヽヽ》もいない。  されば、 「食べる」  ということは、誰にもできることだ。その証拠に、かのブリア・サヴァランにもできる。  だいたいが、ブリア・サヴァランとやらに言わせると、 「新しい御馳走の発見は、人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」  ということだけれど、いまさら新しい天体を発見したところで、どうにかなるわけのものでもあるまい。わたしには、古い馴染《なじ》みの天体である月に、 「かぐや姫も、ウサギも棲《す》んでいない」  ということを発見されたときのほうが、よっぽど悲しかった。  ところで、紀貫之《きのつらゆき》とかいうひとが女性に仮託《かたく》して書いた『土佐日記』には、いかにも女性らしく、 「朝起きて、ナニして、それからナニして……」  と、一日のことがこまごまと綴ってあるそうな。そのなかに、朝起きて、 「例のことどもして」  という、恥ずかしげな記述があるらしい。  これが、三谷栄一博士の註《ちゆう》によると、 「例のこととは朝食なり」  というから、いや、ホントに恥ずかしい。まして、わたしみたいに、朝、昼、晩と例のことどもして、間食もして、それだけでは足りずに、為《な》すこともなく、食を夢みていた日には、いったい、どうなってしまうんだろう?   素踊りも風流のうち 「風流」  と書いて、 「ふりゅう」  と読むんだそうな。早い話が、正月の松囃《まつばや》しや盆踊りがそうだ。  日本舞踊のルーツを辿《たど》ると、どうしても|そこ《ヽヽ》まで行ってしまう。だいたいが、天鈿女命《あめのうずめのみこと》にはじまって、出雲《いずも》の阿国《おくに》で根づくのだ。これを要するに、  ※[#歌記号]踊るあほうに見るあほう   同じあほなら踊らにゃそんそん  といったところではないだろうか?  されば、 「男もすなる浮気」  というものを、女たちが盛大にやっているゴ時世に「女もすなる日本舞踊」というのを、男がやって、どこがいけないか……。  それにしても、 「日本舞踊に舞踊家なんていませんよ。舞踊家というのは、それで興行を打てる人のこと。この国では、みんな教えることで収入を得て、合の手に舞台でしょ?」  と言ったのは、若き日の吾妻徳穂《あずまとくほ》だ。まさに、女ならでは——のタンカである。  しかし、こっちは男だから、そんなシチメンドくさいことは考えない。ただただ、お師匠さんに教わったとおり、差す手、引く手に気を遣う。  すると、無心というか、恍惚《エクスタシー》というか、そんな境地になってくるらしいから妙だ。それこそ、素踊りも、 「風流のうちだ」  と思える一瞬だろう。  ところが、こうして舞い、踊っているのを拝見しているほうは、なんの脈絡もなしに、   一足踏んでは夫《つま》思ひ   二足、国を思へども   三足、ふたたび夫思ふ   女ごころに咎《とが》ありや  という、明治の女流詩人・大塚|楠緒子《なおこ》の詩を思い浮かべているのだから、始末にわるい。  ホント、無我というには、程遠い。   水面を滑る 「河の上には、スケートのエッジを磨く店や、焼栗や餅を売る屋台が何軒も出ていた。私たちはスケートの歯の切れが悪くなると磨き屋でといでもらった。とぎ立てのスケートはよく氷をホールドして、急に上達したような錯覚をあたえる。私たちはすべり疲れると屋台で餅を食ったり、アメ湯を飲んだりして、再び氷の上に出て行くのだった」  と、小説家の五木寛之さんがエッセイ集『重箱の隅』(文藝春秋社)に書いている。あの五木さんがスケートをやるとは思わなかった。  ここに描かれている河は、朝鮮半島の北部を流れる大同江だ。冬になると、戦車が氷上を渡っていったそうな。いかにも、外地引き揚げ派の領袖《りようしゆう》らしい文章ではないか。 「スケート」  といえば、すぐに滑ることを連想し、 「滑る」  というと、とたんに入学試験を連想してしまう。どうも、わたしのイマジネーションは貧困で、いけない。いやあ、受験生諸君、ご苦労さん!  下世話《げせわ》にも、 「朝の来ない夜はない」  というくらいのものだ。きみたちの現在が暗ければ暗いほど、未来は明るい——と思う。ま、それなりに頑張ってくれたまえ!  そして、それは、まあ、ともかく、氷上を滑ることを、 「これは正確にいえば、スケートですべることによって、氷とスケートの間に水《ヽ》を発生させ、人はその水面《ヽヽ》をすべってゆくことを意味する。それがスピード・スケート競技の骨子なのである」  と言ったひとがいる。エッセイストの虫明亜呂無さんだ。  虫明さんによると、だから、 「ぼくたちは氷の上で、片足が水中に沈まぬうちに、片足を前にだしの理くつを、実際にやってみることをせまられる」  という。なんだか、右足が地面につく前に左足を出し、その左足が地面につく前に右足を出し、その右足が地面につく前に左足を出せば、 「空を飛ぶことができる」  と言われているみたいだが、ホント、だいじょうぶかなあ。虫明さんは、まさか大学を滑ったわけではないだろうなあ。   山のこだま  ※[#歌記号]あなたと呼べば   あなたと答える  という歌が流行《はや》った昭和十年(一九三五年)から十一年(一九三六年)にかけては、時の陸軍軍務局長永田鉄山少将が相沢三郎中佐の軍刀に倒れたのをはじめ、いろいろな事件が起こった。天皇機関説の美濃部達吉博士が暴漢に襲われたのも十一年なら、あの二・二六事件が勃発《ぼつぱつ》したのも、同じ年だ。そして、例の阿部定事件。そして、例の前畑ガンバレ。  玉川映二ことサトウ・ハチロー作詞、古賀政男作曲の「二人は若い」は、映画『覗《のぞ》かれた花嫁』の主題歌だった。映画では杉狂児と星玲子《ほしれいこ》が、レコードではディック・ミネと星玲子が、 「あなァた」 「なーんだい」  と、蜜《みつ》のように甘く呼び交わしたらしい。  考えようによっては、それが、逆に戦争前夜の世相を反映していたのかも知れぬ。そうして、世相が暗ければ暗いほど、  ※[#歌記号]あとは言えない   二人は若い  となっていくことの不思議!  それにしても、いまどきの新婚夫婦で、 「あなァた」 「なーんだい」  といったふうに囁《ささや》いているカップルがあるだろうか?  だいたいが、 「あなたッ!」 「な、なんだよォ」  という具合になっているのではなかろうか?  そんなわけで、日本のハムたちは、深夜ひそかに、  ※[#歌記号]CQと呼べば   QSOと答える  と歌っているのではなかろうか? あれは、ひょっとしたら、山のこだまのやさしさを求めての、精いっぱいの演技ではないのだろうか?  そういえば、ハムには「大根役者」の意味もある。   四十而初惑《しじふにしてはじめてまどふ》  論語に、 「四十而不惑」  とあるのをもじって、 「四十而初惑」  と言ったひとがいる。いまは亡き吉川英治さんだ。  こっちは、四十歳を過ぎて間もなく十年になるというのに、まだ惑いっぱなしだから、吉川さんの気持ちがよくわかる。  そう言ったら、 「こっちは、三十歳を過ぎて間もなく二十年になるというのに、まだ立ちっぱなしだ」  と言った奴がいる。石部金吉のわたしには、なんのことやら、さっぱりわからない。  ところで、吉川さんの『宮本武蔵』を読んで、 「どうにも解《げ》せない」  と言った奴もいる。彼に言わせると、武蔵がお通になにもしないのは「おかしい」と言うのである。 「あれは、ぜったいヤッテルよ、ね? 千年杉に吊《つ》り下げられたところを、お通に助けられて逃げるだろ? あの途中で、きっとヤッタにちがいない」  それにしても、吉川さん描く剣聖・宮本武蔵が、 「われ事において後悔せず」  という言葉を残したのは、いったい幾つのときだったか、ご存じか? 武蔵が、この言葉を自戒として記したのは、慶長九年(一六〇四年)の大《おお》晦日《みそか》だ。明けて、武蔵「数えで二十歳《はたち》になろう」というときである。  いまにして思えば、こんな、だいそれたこと「二十歳だったから言えたのではないか」という気がしないでもない。四十歳にして初めて惑う武蔵に、こんなこと、言えるわけがない。  されば、 「やはり、武蔵はヤッテいなかった」  と思う。四十歳ならともかく、二十歳で惑うはずもなかろう?  ただし、あのとき、お通さんはパンティを穿《は》いていなかった。そして、終生、武蔵は子をつくらなかった。  ——美人|薄命《はくめい》。  ——武蔵|小金井《こがねい》。   スキーレス・スキー 「アフタースキー」  という。チャイコフスキーとはナンの関係もない。  机の上の『コンサイス外来語辞典』にも、 「スキーのあとでの団欒《だんらん》」  と出ている。べつに昨日《きのう》や一昨日《おととい》生まれた英語ではなかろ?  しかし、ちかごろ俄かに「アフタースキー、アフタースキー」と騒がしいのは、スキー場へ出かけるのに、スキーなど担いでこないで、 「あれッ、ホントに滑るんですかァ?」  と、頓狂な声をあげたりする奴がいるからだ。彼らは、ゲレンデのシュプールを楽しみにきたわけではなくて、スキー小屋でのディスコやらナニやらを楽しみにきているのである。  いうなれば、 「スキーレス・スキー」  といったところだろう。〇・〇三ミリほどではないが、まあ、人間が�超極薄型�なのである。  ところで、電報には「サクラチル」とか「ツマデキタ」とか、いろいろな名文句があって、なかでも、わたしは、 「ホントウノユキヲミタ カネオクレ」  というのが好きなのだが、彼らは、いまに、ホントウのスキーをみたら、それこそ、 「滑降《カツコ》いーい」  とビックリして、 「ホントウノスキーヲミタ カネオクレ」  と、電報を打つのではあるまいか?  スキーにかんしては、あの三浦雄一郎さんの、 「スキーは上手に滑ろうと思っちゃいけないんです。転びなさい。転んだ時は、楽しいはずですよ。転んで雪に埋もれた瞬間の、あの感覚をなくしてしまったら、おしまいです。ボクは�転びの三浦�といわれるくらい、転ぶので有名だったんです」  という言葉が、やはり、ホンモノだろう。  スキーで転ぶことができる!  言っちゃナンだが、これが、男の余裕《ゆとり》というものだ。スキーレス・スキーで転んだ日には、目も当てられない。   趣味は編みもの  いつだったか、 〈「趣味は?」  と訊《き》かれて、 「編みもの」  と答える。 「なぜ?」 「あのねえ、いちど電車の中でやってごらんなさいな。電車が揺れるたんびに隣のひとの目を突っつきそうになって、そりゃあ、面白いから……」〉  といった文章を書いたことがある。もちろん、ジョウダンだ。  戯文を書いて、 「これは、ジョウダンだ」  と、いちいち断るのには、むろん、意味がある。そういうふうに断っておかないと、 「ジョウダンじゃないッ」  と叱られてしまうノダ。  トーゼンのことながら、そのように叱ってくるのは、なぜか女性である。男性はイイ加減だから、たいがいのことは「いいよ、いいよ」と、大目に見てしまう。  しかし、わたくし思うに、男性の人生、じつは、この「いいよ、いいよ」の精神でもっているような気がするが、どうだろう? もし、男性から、この「いいよ、いいよ」を奪ってしまったら、それこそ、男性は男性でなくなってしまうのではなかろうか?  だいたいが、編みものにかんして「あのねえ、いちど電車の中でやってごらんなさいな」という発想が、男性そのものである。女性はマジメだから、間違っても、こんなバカなことを考えるわけがない。  かりに、女性が電車の中で編みものをしていて、隣のひとの目を突っつきそうになったところで、それは、悪意があってやったことではない。彼女たちに言わせれば、そこにひとがいるからいけないのである。  それにしても、レース編みのことを語るのに、 「隣のひとの目を突っつく」  という話からはじめることからして、男性ならでは……の、イイ加減な発想だろう。言っちゃナンだが、レース編みの針は、そんなに長くないから、たとえ電車の中でテーブル・クロスかなんか編んでいても、隣のひとの目を突っつくようなことはない。   遠乗会  われながら、 「育ちが悪い」  ということは、どうにもならないもので、 「ウマ」  というと、競馬新聞の◎○×△を思い浮かべている。ホント、○×式教育がいけないのである。  あのラスベガスで、ぜったいに胴元に負けない方法は、飛行機を降りたら、まだプロペラが回っているうちに、その下に頭を突っこんでしまうことだそうな。そういうことなら、ぜったいに競馬で損をしない方法は、馬券を買わないことではあるまいか?  それは、まあ、ともかく、 「ウマ」  といえば遠乗会で、 「遠乗会」  といえば、いまは亡き三島由紀夫さんの小説だろう。高貴なひとの、高貴な物語だ。  ——或る日、葛城《かつらぎ》夫人は息子宛の遠乗会の案内状をうけとった。それは良人《おつと》名義で入会している乗馬|倶楽部《くらぶ》からの、家族会員に宛てられた案内状である。息子のところへ来た書状は仙台へ転送することにしているが、こんな案内状を転送しては、無益なばかりか謹慎の生活の遣瀬《やるせ》なさを増すたねになろう。破ってしまうに越したことはない。夫人は破ろうとして、ふと思いついたことがあったので、破るのをやめた。  この小説は、恋人の歓心を買うために夫人の息子が友達の自転車を盗んで売ったことに端を発するのであるが、友達の自転車を盗んだり、息子の手紙を勝手に披《ひら》いてしまったり、育ちのいいひとたちがやることも、育ちが悪い人間のやることも、そんなに変わりはないみたいだ。  それにしても、葛城夫人が乗った楽陽号は、江戸川堤でオナラをしなかったからよかったようなものの、あれが、 「号砲一発」  というのをやらかしたら、どうだろう? やはり、並んで明潭号を走らせていた由利将軍に向かって、 「あら、失礼」  と詫《わ》びたろうか?  とたんに、由利将軍が、 「おや、貴女《あなた》でしたか? 儂《わし》はまた、馬がやったのかと思った」   汽車の煙 「ぼくにとって汽車の煙は、手品だった。ぼくが呪文《じゆもん》を唱えると、汽車の煙の中からは、大男の魔人が現れて、ぼくをまだ行ったことのない町へ運んで行ってくれるのだと、ずい分長い間、思い込んでいた」  と言ったのは、詩人の寺山修司さんだ。寺山さんは、 「だが悲しいことに、ぼくはその呪文を覚えることができなかったのである」  と、つづけている。  ——お隣の中国で、いまは懐かしい蒸気機関車を見た。それは、北京《ペキン》から列車で万里の長城の観光基地である八達嶺《はつたつれい》に向かう途中、峨々《がが》たる山峡《やまかい》から、いきなり姿を現した。  蒸気機関車の生命《いのち》は、煙だ。誰が何と言おうと、煙だ。煙のない蒸気機関車なんて、それこそ、ナントカを入れないナントカみたいで、味も、そっけもない。  それが、わたしたちの国では、その煙ゆえに嫌われて、いまは追憶のなかにしか生きていないのに、この国の蒸気機関車は、濛々《もうもう》と黒煙を吐き散らしながら、平気な顔で走るのである。思わず誰かが、 「この国に、公害問題はないのだろうか?」  と、バカなことを口走っていたが、そのとき、その声を|せせら笑う《ヽヽヽヽヽ》ように一陣の風が巻き起こり、黄塵《こうじん》万丈、蒸気機関車が吐き出す煙なんぞ、 「ちいせぇ、ちいせぇ」  といった感じで持ち去っていったのだ。  ところで、オナラにも、「ブッ、スン、キュウ」の三種があるように、マニアの山崎喜陽さんに言わせると、鉄道模型のファンにも、 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 1、できあがった車両を買う 2、部品を一箱にまとめたキットを買って組み立てる 3、車両やモーターなどのいろいろな部品、真鍮《しんちゆう》板などの生材料を別々に求めて作る 4、完成品(1)またはキット組み立て(2)の一部に加工して細密化をおこなう [#ここで字下げ終わり]  といった四種があるそうな。あなたが、そのうちの|どれ《ヽヽ》に当たるかは知らないが、希《こいねが》わくは、姿だけでなく音も、いや音だけでなく煙も、いや、それじゃ屁《へ》みたいだから、ひとつ煙だけでなく実《ヽ》のほうも、楽しんでもらいたい。   あーるけ歩け  いつだったか、ある化粧品会社の新入社員研修で、男子の新入社員二十人に現金を百二十円ずつ持たせ、二十五キロほど離れた場所に放《ほう》り出し、 「六時間以内にもどってくるように……」  と命じたんだそうだ。念のために断っておくけれど、この百二十円は、二十五キロ先の駅からの最短区間の私鉄の乗車賃(当時)で、 「そこから歩いても、三時間はかかる」  ということだった。  さて、若者たちが、どうやって帰ってくるか、 「その工夫のほどを試そう」  という、このテストの結果が面白かった。いや、呆《あき》れたことに、最短区間を電車に乗って、それから歩いて帰ってきたのが二人、二十五キロ先からヒッチハイクして帰ってきたのが四人、アルバイトして電車賃を稼《かせ》ぎ、それで帰ってきたのが二人で、 「あとの十二人は、電車賃を借りて帰ってきた」  というのである。  それも、親戚《しんせき》に電話して借りたのが一人、先輩や男の友達に借りたのが四人、残りの七人は女友達や行きずりの女性に借りてきた。そうして、この七人は七人とも、はじめっから、 「カネを借りるなら、女性から借りよう」  と心にキメていて、しごくアタリマエのような顔で、女性に声をかけたらしいのだ。  貸す奴がいるから借りる奴がいるのか、借りる奴がいるから貸す奴がいるのか——は、知らない。が、昭和ヒトケタ生まれのわたしには、 「貸す奴が女性で、借りる奴が男性だった」  ということが、ちょいと気に入らぬ。これだから、ちかごろの若者たちは女にナメられてしまうのではないか。  ところで、十年前にも同じ研修をやったが、そのときは、三人を除いて全員が歩いてきたそうな。渡された現金でパンや菓子を買って食べ、ひたすら歩いて帰ってきたそうな。  戦時中に、  ※[#歌記号]歩け 歩け   あーるけ歩け  と歌ったのは、あの高村光太郎さんである。この歌は、戦争に負けたからといって、けっして古くなってない。   ボール選び  中国では、 「|※[#「兵」の下部「ハ」の右側を欠いたもの]※[#「兵」の下部「ハ」の左側を欠いたもの]球《ピンパーン》」  と書くそうな。いかにも、ピンポンといった感じである。  されば、こちらは、由緒ただしく、 「テーブルテニス」  と呼ばせてもらおうか。知らなかったが、 「ピンポン」  というのは、もともとは、アメリカはパーカー商会の商標名だったらしい。  テーブルテニスの歴史は、これで、けっこう謎《なぞ》に包まれていて、その起源も、発生地も、まったく知られていない。発祥の地は、一説には、イギリスとも、アメリカとも、インドとも、南アフリカともいわれている。  モノの本によると、イギリスのバッキンガム宮殿の中にはピンポン台があって、 「ジョージ六世が、このゲームを家族と楽しんでいた」  ということだが、そういうことなら、 「ペルシャのシャーも、インドのネルーも、エジプトのファルークも、みんなピンポンのファンだった」  という記録がある。中国の毛さんだって、もちろんファンだったにちがいない。  いまみたいに、セルロイドの球が使われるようになったのも、つい最近のようだ。ヴィクトリア時代のイギリスの家庭では、コルクやゴムの球を使っていた——と聞く。ラケットも、厚いボール紙かなんかで作っていたのではなかろうか?  ——一九五六年、世界卓球選手権でのこと。イギリスのリチャード・バーグマンは、使われている球のことを、 「軟らかすぎる」  と言い出し、 「ホントウに丸くない」  と、イチャモンをつけた。  その挙句《あげく》、彼は、試合を中断させ、ナットクのいくボールを選びはじめたが、 「これで、いい」  という球をみつけるのに、三十分かけ、なんと百九十二球も調べたのである。  いまにして思う。オレ、カミさんを選ぶとき、こんなに慎重だったかなァ——と。   一期一会《いちごいちえ》 「イッキイッカイ」  と言うから、 「なんのことだろう?」  と思ったら、茶の湯でいう「一期一会」のことだった。ホント、一生に一度のことである。 「蹲踞《つくばい》」  という。内路地の、茶室に近いところに据えられている石の手水鉢《ちようずばち》だ。  それは、低く、地面すれすれに据えられているので、手水をつかう時は、その前につくばわねばならぬ。それで、この手水鉢を「蹲踞」と呼ぶらしい。  客は、この蹲踞の水で、手を洗い、口をすすいでから、茶席に入る。蹲踞は、手や口を清めるためだけのものではない。そのことによって、わたしたちは、まず心を清めるわけだ。  ——芝木好子さんに『隅田川』という短篇《たんぺん》があって、これは、恐ろしい小説である。そのなかに、こんな描写がある。 「茶室の支度が調ったとみえて、客は目の法楽からよび戻され、ぞろぞろ階下へ降りていった。庭から狭い茶室へはいるまえに、客は蹲踞にかがんで手を浄《きよ》めた。菊良が帯地のまえから離れてきたのは一番あとだった。そのために庭に降りたのもしんがりであった。恭子はさきに柄杓《ひしやく》の水で指を濡して立った。そのあとに菊良がいた。恭子はさきにゆきかけた。少し後ろに立っていた目許《めもと》の涼しい女客がなにげなく自分のハンカチを菊良に手渡し、菊良がそれを黙ってうけとって拭くのを恭子はみた」  説明しなければいけないが、この小説で「菊良」というのは芝木さんの父で、また「恭子」というのは十七歳のときの芝木さんだ。つまり、十七歳の芝木さんは、蹲踞の前で、目許の涼しい女客が自分のハンカチを父に渡し、父がそれを黙って受けとったという、ただそれだけのことで、お母さんも知らないお父さんの浮気を見破ってしまうのだ。  げに恐るべきは、娘のカンだろう。このぶんだと、うっかり娘を連れて喫茶店に入ることもできやしない。  そこで、ウエイトレスにおしぼりかなんか渡されてごらん。それこそ、娘は勝手に傷つくのである。慌てて、 「イッキイッカイ」  と叫んでも、はじまらぬ。   8ミリの苦悩 「天気予報映画」  というんだそうな。その道の先達の師岡宏次《もろおかこうじ》さんの命名だが、テレビの天気予報の、それも、お知らせ番組のときに、バックに写されるアレである。  ただ|きれい《ヽヽヽ》なだけで、話の筋もなければ、内容もない。トーゼンのことながら、  京都三条糸屋の娘  姉は十六 妹は十四  諸国大名は弓矢で殺す  糸屋の娘は目で殺す  といった起承転結もない。  それにしても、  ㈰朝、わたしは七時に起きて、それから歯をみがき、朝食をした。  ㈪朝七時に起き、歯をみがき朝食をした。  ㈫わたしは朝七時に起きて、歯をみがき、そして朝食をとった。  ㈬朝、七時に起きた。歯をみがいた。それから朝食をとった。  ㈭朝の七時に起きて歯をみがき、朝ごはんを食べた。  というふうに文章を書き並べてみせ、 「これら五通りの書き方であらわされた内容は同じであるが、このうちどれがもっとも日本語として正確に内容をあらわしているのか、どれがもっとも現代の日本語らしい日本語なのか、わたしは今もってわからない」  と嘆いたひとがいる。詩人の富岡多恵子さんである。  詩人にわからないことが、雑文書きのわたしにわかるはずもないが、しかし、この�朝七時に起きて歯をみがいて朝食をした�ということを、 「8ミリで撮る場合は、どう撮るか?」  というと、やはり�朝七時に起きて歯をみがいて朝食をした�ところを撮る以外に方法はないだろう。それこそ「天気予報映画」ふうに撮るしかないわけだ。  そこで、実際に�朝七時に起きて歯をみがいて朝食をした�ところを撮ろうとしたら、  ㈰主人公は男なのか女なのか?  ㈪彼もしくは彼女が寝ていたのはベッドかフトンか?  ㈫彼もしくは彼女は一人で寝ていたのか二人で寝ていたのか?  ということからして、わからない。天気予報映画もまた、むずかしき哉《かな》!   採らず、殺さず、持ち帰らず  いまでこそ日本語だが、 「バードウォッチング」  という英語を、わたしが最初にみつけたのは、新聞記者時代、あの吉展《よしのぶ》ちゃん事件を取材していたときだった。一九六三年(昭和三十八年)のことである。  吉展ちゃん事件を追いかけているうちに、わたしは、世界の誘拐《ゆうかい》事件をまとめることを思いたち、リンドバーグ事件、プジョー事件などの記録を漁《あさ》りはじめた。そのとき、一九二四年(大正十三年)に、アメリカはシカゴで、ローブ=レオポルド事件と呼ばれる誘拐事件があったことを知り、いろいろと資料を取り寄せたのだった。  ローブ=レオポルド事件は、当時十八歳だったリチャード・A・ローブ少年と十九歳になったばかりのネイサン・F・レオポルド少年の二人が、 「なにか面白いことないか」  というので、ローブの弟の同級生を誘拐して殺し、身代金を請求した事件だ。のちに彼らは「ただ完全犯罪をやってみたかっただけ」と、警察に動機を述べている。  郊外の沼に捨てられてあった死体の傍《そば》に、レオポルドの眼鏡が落ちていたことが「二人の犯罪ではないか」と疑われるキッカケだった。そのとき、警察官に 「沼で何をしていた?」  と問いつめられ、レオポルドが答えたセリフが、 「ボクは、バードウォッチングをしていた」  という言葉である。  さあ、バードウォッチングがわからない。辛うじて、「探鳥」という日本語を拾い出したが、もうひとつ、ピンとこない。  そこで、わたしは、 「ボクは、これでもアマチュアの鳥類学者なんだ」  というふうにつけ加えたことを覚えている。苦心の訳だった。  採らず  殺さず  持ち帰らず  というのが、バードウォッチングの三原則だろう。非核三原則の「作らず、持たず、持ち込まず」ではないが、 「なにか面白いことないか」  といった調子で、この約束を破られては困る。   私は、人糞《じんぷん》製造機です  あれは、亡くなった小説家の梶山季之《かじやまとしゆき》さんだったと思う。東京は銀座の地価が、公示価格ではなく実際の売買価格で、坪一千万円になった昭和四十八年(一九七三年)ごろ、新聞記者に、 「銀座四丁目の角を百坪ほどプレゼントされたら、どうなさいますか?」  と訊かれて、 「もちろん、田圃《たんぼ》にする」  と答えていらっしゃったのは……。  もちろん、田圃にして、そこで古式|床《ゆか》しい農業を営むのである。トーゼンのことながら、いっさい化学肥料は使わずに、立居振舞のほうも、 「肥桶《こいおけ》に柄杓」  というスタイルでやるわけだ。  いずれは石油が不足して、コヤシにしたくとも化学肥料なんぞは作れなくなり、日本の肥料はすべて国内で生産しなければならぬ時代が来るにちがいない。そのときになって、いくら慌ててもはじまるまい。いまのうちから、あの昔懐かしいスタイルを、銀座あたりで復活させておいたら、いかがなものか?  ところで、  一、厠《かわや》は広くつくること  一、汲取口《くみとりぐち》は広くすること  一、厠に水を入れぬこと  というのが、江戸時代に、幕府が諸国に出した触書《ふれがき》だそうな。いまに、鈴木善幸さんも粋《いき》がって、そんな触書を出すようになるかも知れないが、さあ、そうなったらマンションなんて困るだろうな。ホント、都心の高層ビルなんて、どうするんだろう?  それにしても、中学生のころ、誰かが宿題でも忘れてこようものなら、 「連帯責任」  ということで、クラスの生徒を一人ずつ立たせ、 「私は、人糞製造機です」  と、何度も何度も言わせる先生がいた。それこそ、銀座に古式床しい農業が復活すれば、われわれもまた、 「クソの役に立つ」  ということを、先生は身を以《もつ》て教えてくださったのかもわからない。  エリートなんてクソクラエ! 人間、どこかに柄杓、いや取柄ぐらいはあるもんだ。   トロッコとゼヒもの 「トロッコ」  と称した。駆け出し記者のことである。  まだ一人前にもなっていないから「キシャ」ならぬ「トロッコ」というわけだ。そのトロッコのころである。 「秩父宮《ちちぶのみや》妃殿下が、市川市の国府台にある式場隆三郎邸のバラ園を訪問される」  というので、取材を命ぜられたことがある。当時、式場さんは、わたしが勤めていた新聞社の会長をやっていて、これは、いわゆるゼヒものだった。 「ゼヒもの」  ま、いまで言えばパブリシティだろう。是非を問わず載せるために、そう呼ばれた。  いかなる事件があっても、ボツにはならぬ。トロッコとしては、トーゼンのことながら、張り切った。  そこで、 「わけても�初恋�と名づけられた白いバラに目をとめられ……」  とかナンとか調子のいいことを書いたような気がする。とたんに、デスクから、 「バカモン!」  と、怒鳴られた。 「貴様は、妃殿下に初恋のひとがいらっしゃったのを知っていて、こんなことを書いたのかッ」  自慢じゃないが、こっちは、戦後民主主義の申し子である。秩父宮妃が平民の出身であることも知らなければ、夭逝《ようせい》した殿下に見染められての結婚であることも、節子の名が皇太后の名と同じ文字であるところから勢津子と改めたことも知りゃしない。  正直に、 「知りません」  と答えたところ、 「新聞記者だったら、それくらいのことは知っておけ」  と、また叱られたが、そのときのデスクの怖かったこと! わたしは、いまでも、あのときのデスクの、怒った顔を覚えている。  それにしても、 「新聞記者というのは、なんでも知っていなければいけないんだなあ」  というのが、トロッコだった若いわたしの感想だった。薔薇《ばら》ノ木ニ薔薇ノ花サク、何事ノ不思議ナケレド——だ。   二十六打席連続三振 「野球ほど、間の抜けた競技はない」  と言ったのは、たしか劇作家の飯沢|匡《ただす》さんである。ホント、あんなもんに夢中になっている奴の、気が知れない。  なにしろ、チームに九人もの人間がいながら、攻撃は一人ひとりで、守るほうだって働いているのはピッチャー一人である。ほかの連中は、ただポカンとしているだけだ。  しかし、わたしに言わせれば、 「つまり、そこのところが会社に似ている」  と思うのである。会社も、ふつう働いているのは|俺ひとり《ヽヽヽヽ》であって、ほかの連中は遊んでいる。しかも、それでいてチームワークのゲームだ。  打たぬにコト欠いて、 「二十六打席連続三振」  という記録の持ち主もいる。サントリーの宣伝部に勤めていた漫画家の柳原良平さんである。  同僚だった小説家の山口瞳さんによると、柳原さんは、どんな球でもバットを振ってしまうから、四球で歩くこともなかったらしい。根がマジメな方なのであろう。  その柳原さんが、二塁の右にヒットを放って出塁したことがあるそうな。が、たちまちにして一塁手の隠し球でアウトになった。  柳原さんは、走者になった経験がないのである。そういうランナーに、隠し球は卑怯《ひきよう》だ。間違っても、日本男児のやることではない。  ——新聞記者時代、巨人軍に入団したばかりの王貞治選手にインタビューしたことがある。思い起こすのも恥ずかしいが、『ハイティーン もの申す』という企画記事だった。  そこで、わたしは、王に、 「君が代をどう思うか?」  という質問をしているのだ。王が、その国籍ゆえに国体に出場できなかったことを、つい失念して……。 「甲子園に出場した高校生を、国体に出場させない」  これまた、日本男児のやることではなかったろう。 「私の念願の一つを申しあげれば、甲子園で高校野球の開会式から閉会式まで全試合を見ることである」  と言ったひともいる。翻訳家の常盤《ときわ》新平さんである。   運慶が彫る 「好きな作家は?」  と訊かれて、 「夏目漱石」  と答えた奴がいる。そこまではよかったのだが、つい調子にのって「そういえば、あのひと、このごろ、ちっとも書きませんねえ」と言ったのは、いかにもまずかった。  千円札だか一万円札だかの肖像になるんならともかく、最近の漱石が、モノを書くわけがない。漱石は、一九一六年(大正五年)、四十九歳で死んでいる。  彼に、 『夢十夜』  という作品があって、これは、ちょいとしたもんだ。その第六夜は、こんな話である。  ——運慶が護国寺の山門で仁王《におう》を刻んでいる。時は明治なのに、鎌倉時代の彫刻家・運慶が出てくるところが、ま、夢だろう。  運慶は、いま、太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿《のみ》の歯を竪《たて》に返すや否や、斜《はす》に、上から槌《つち》を打ち下ろした。堅い木を一刻みに削って、厚い木くずが槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっぴらいた怒り鼻の側面が、たちまち浮きあがってきた。その刀《とう》の入れ方が、いかにも無遠慮で、疑念がない。 「よくも、まあ、ああ無造作に鑿を使って、思うような眉《まみえ》や鼻ができるものだな」  思わず独りごちた主人公に、若い男が言う。 「なに、あれは、眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」  そこで、主人公は、家へ帰り、薪《まき》にするつもりだった樫《かし》の束から太いのを選んで彫りはじめるのだが、なぜか仁王は見当たらない。その次のにも運悪く見当たらず、その次のにも、そしてまた、その次のにも……。  トーゼンのことながら、わたしは、杯を手に、この『夢十夜』を読んでいる。そして、バカみたいに、 「オレの胸の底には、ホントは、仏のように綺麗《きれい》な心があって、そいつは、もっともっと酔わなければ、顔を出してくれない」  と考えている。そうして、 「そのために、オレは、こうして飲みたくもない酒を飲むのだ」  と、自分自身に言い聞かせている。   徒手空拳  貴方《あなた》だったら、どうするか? 国語の試験に「次の□に漢字を埋めて熟語をつくりなさい」という問題が出て、 「□肉□食」  というのがあったときである。  ふつうなら、 「弱肉強食」  と書くところだ。が、いまの子供たちは「焼肉定食」と書くらしい。  しかし、いかに�焼肉定食�世代とはいえ、 「□手□拳」  という場合は「徒手空拳」と書くだろう。なにかをするのに、手に何も持っていないことである。  空手が沖縄で最も発達したことについては、 「慶長十四年(一六〇九年)、琉球《りゆうきゆう》は九州の薩摩《さつま》藩に侵略され、一切の武器をとりあげられた」  という史実を無視するわけにはいかない。沖縄の人たちは、徒手空拳を以て、唯一の護身術としたのである。  卒爾《そつじ》ながら、 「徒手空拳」  というところが気に入った。わたしもまた、生きていくのに、手に何も持っていない。  それは、まあ、ともかく、極真会館の大山|倍達《ますたつ》館長によると、 「朝、床から起きるとき、夜、床に入るとき、仰向《あおむ》けに寝て、両足をあげ、これを空中で自転車のペダルをこぐように回転させる。それも、ものの三十回ずつで結構。そして、折にふれ、足で空中を蹴《け》りまわす。これは、なるべく足のつけ根が痛くなるくらい高空めざして……。  それに、尻が踵《かかと》につくまで、しゃがんでは立つ運動を併用する」  それだけで、わたしたちのキックは、半年後には、相手が並みの人間ならイッパツで倒せるようになっているそうな。  ただし、 「空手に先手なし」  ということも、忘れてはなるまい。だから、わたしたちは、 「□手□勝」  という問題が出ても「先手必勝」とは答えない。   磨く  こんなエピソードは、どうだろう? わたしが東京は麹《こうじ》町の小さな出版社に勤めていたときのことだ。  じつにマジメなビルのガラス拭きがいた。まだ二十代も半ばだろうに、それこそ舐《な》めるように磨きあげるのである。それも、毎週毎週だ。  あまりの熱心さに、 「そんなに精を出して、どうするのかね?」  と訊《き》いたことがある。そうしたら、ガラス拭きのやつ、こう答えやがった。 「うん。カネを貯めて、いまにこのビルを買うんだ」  ——民間の電話相談員の第一号として知られる医事評論家の西来《にしらい》武治さんが、神奈川県下の自宅で奥さんのみわさんと一緒にダイヤルフレンドを始めたのは、昭和四十六年(一九七一年)四月だ。早いもので、もう十年以上になるが、この十年間にかかってきた電話は五万八千件にのぼるそうな。  相談者は四、五十代の主婦が圧倒的で、やはり医療相談がいちばん多い。人生相談は夫婦間や老人の世話をめぐるトラブルが主だ。そして、セックスにかんしては、女性から欲求不満を訴えるものが目立つのも、時代だろう。  なかには、夜《よる》の夜中に、 「若い女を紹介しろ」  と酔っぱらって電話してくる不埒《ふらち》な男もいるらしい。ダイヤルフレンドを、なにかとカンちがいしているのだ。  その西来さんの趣味が、なんとヤカンを磨くことなのである。突拍子もないイタズラ電話に、ともすればカッとなりそうな心を抑えて、西来さんはミガキ砂でゴシゴシやる。  おかげで、西来さんちのヤカン、ナベの類《たぐ》いは、いつもピカピカだそうだ。西来さんは、 「まあ、一種の健康法だね」  とテレながらも、 「あるいは、ちいさなときから、仏具を磨かされていた後遺症かも知れない」  と笑う。西来さんは、もと僧侶である。 「磨く」  ということは、 「身を欠くことではないか」  と思った。身を削るようにして人間を磨くのである。   易占トリック  ひところ、手相術で知られる浅野八郎さんの弟子を名乗っていた仲間たちがいる。それこそ、銀座のバーなどで「浅野さんの弟子だ」と言えば、ホステスが黙って寄ってきて、 「ねぇ、あたしの手相をみて」  と、きれいな手を差しのばすだろう——と思ったからだ。  なかでも、わたしは、自称�一番弟子�だった。ただし、一番弟子は一番弟子でも、アイウエオ順の一番弟子である。もっとも、心やさしい浅野さんは「見料さえとらなければ、ABC順の一番弟子でもいいよ」と言ってくれたのだが……。  だから、 「売るか?」  と訊かれたら、 「占(売らない)」  と答えた。もちろん、駄《だ》洒落《じやれ》である。  観相には、 「刀巴心青《とうはしんせい》の法」  というのがあるそうな。なにやら意味ありげだけれど、巴《ともえ》の上に刀をつければ「色」で、心すなわち立心偏《りつしんべん》に青で「情」だから、つまりは�色情を見破る法�のことらしい。  いうなれば、 「印堂にホクロのある女性は開放的である」  といった類《たぐ》いのことか? 印堂は眉間《みけん》だから、ここは観音さまの顔でも思い出していただきたい。 「易」  という文字は、 「日と月とを重ねて作った」  という説を聞いたことがある。四季の移り変わりのことなんだそうだ。 「易は蜥蜴《とかげ》をさす」  という説も聞いた。蜥蜴は日に十二回も色が変わるから十二の刻《とき》をあらわし、親戚《しんせき》の守宮《やもり》は五色に変ずるところから、木《もく》・火《か》・土《ど》・金《ごん》・水《すい》の五行を示すとか。  八卦《はつけ》は、陰と陽との組み合わせだろう。お相撲で、行司が軍配を返しながら、 「ハッケヨイ」  と叫ぶのは、この「八卦よい」にちがいない。  ——以上、これらの屁理屈《へりくつ》を「易占《エキセン》トリック」と申します。   溺《おぼ》れる、潜る  自慢じゃないが、泳げない。中学生だか高校生だかのときに、逗子《ずし》の海岸で溺れて、いまは小説家の生島治郎と名乗っている友人に救《たす》けてもらったことがある。  いうなれば、あのかたは命の恩人である。命の恩人だから、 「そろそろ女房《マネージヤー》を代えたら、どうだ?」  と言われれば、 「そうだなあ」  と答えざるをえない。マネージャーには申しわけないけれど、マネージャーよりも、命の恩人の言葉のほうが大切である。  その恩人によると、わたしの溺れ方は、ふつうの溺れ方とはちがっていたらしい。ふつうは、溺れると、暴れたり喚いたりするのだが、わたしは、そんな気配はこれっぽっちも示さず、ただ一本の棒みたいに、静かに浮いたり、沈んだりしていたようである。  救けられて、 「溺れているんなら、なぜ暴れたり、喚いたりしないんだ?」  と詰問され、わたしは、 「なにしろ、オレ、溺れ方も知らなかったもんだから……」  と答えたそうな。だいたい、泳ぎ方を知らないんだから、溺れ方なんて知ってるわけがない。  しかし、いくら自分が泳ぎ方を知らないから——といって、マネージャーとのあいだに出来た娘たちに、 「泳げない」  と言うわけにはいかない。そんな素振りをみせようものなら、娘たちが水を恐がってしまう。  そこで、幼い娘たちの前では、泳げるふりをした。よせばいいのに、南|伊豆《いず》の海岸で、|波乗り《サーフイン》のマネまでしてみせた。  でも、あのときは、失敗した。サーフボードと一緒に浮かびあがったら、娘たちに、 「お父さん、メガネは?」  と、声をかけられたのだ。わたくし、理由《わけ》あって、海の底にメガネをば置いてきた……。  いま、娘たちは成長して、大学生の長女は背泳が得意だし、高校生の次女は水泳の選手で、小学生の三女はスイミング・クラブの人気者である。泳ぎ方も、溺れ方も知らない父は、トーゼンのことながら潜り方も知らないが、いつかスキン・ダイビングを習って、 「あのメガネを探しにいこう」  と思っている。   万延元年の感想  昭和ヒトケタ生まれの男たちについて、 「ダンスが出来ない」  と喝破したのは、小説家の野坂昭如さんだ。ご自身も焼跡闇市派の野坂さんは、 「猫も杓子《しやくし》も社交ダンスに浮かれて、電車待つ間も、フォームで、ステップ踏んでいた時代には、ちょっと子供すぎたし、いよいよその資格のできた頃に、ブームは去っていて習うチャンスを逸し、ふと気がつけば、何時《いつ》の間に覚えたのか、上も下も器用に踊るのに、自分だけ出来ず、苛立《いらだ》ち一念発起して教習所へ通っても、なにやら空《むな》しく、せいぜいブルースで放棄する」  と書いている。  しかし、そういうことなら、かの山口瞳さんも、自分と同じ世代の男たちのことを、 「みんなぶきっちょだ。仕事にしても、遊びにしても。友人たちをみても、ダンスができない、車の運転ができない、英会話ができない、といった連中が多い」  と書いていらっしゃる。ご存じのように、山口さんは大正フタケタ生まれの人間である。  これを要するに、 「大正の人間や昭和ヒトケタの人間には、ダンスができないのか」  というと、そうでもあるまい。もちろん、昭和ヒトケタの人間でダンスができる奴もいれば、大正の人間で、ダンスだって、車の運転だって、英会話だってできる奴がいるはずである。トーゼンのことながら、昭和フタケタ、ミケタの人間にもダンスや車の運転や英会話ができない奴はいるだろう。  ところで、モノの本によると、社交ダンスの本質は、あくまでも男子がリードをし、女子がフォローをすることにあるらしい。つまり、 「ダンスが出来ない」  と嘆いている男たちは、いちはやく女性上位の時代がくることに怯《おび》えてしまった男たちなのではなかろうか?  もっとも、 「足をそば立て、調子につれてめぐること、コマネズミのまわるごとく、なんのふぜいもなし」  というのが、はじめてダンスなるものをみた野暮な日本男児の感想だったそうな。万延元年(一八六〇年)にアメリカへ渡った幕府の使節が書きのこしている。  ひょっとしたら、万延元年の男たちも女性上位の時代がくることに怯えていたのではなかろうか?   チェロを弾く  チェロもそうだが、ヴァイオリンがうまく弾けるようになりたいと思ったら、 「なにはともあれ、素敵な恋人を持つことだ」  という説があるそうな。作曲家の芥川也寸志《あくたがわやすし》さんが紹介していた説だけれど、 「楽器を恋人のように抱け。そして、愛撫《あいぶ》しろ。恋人を愛撫するように、楽器を弾け。それが、上達の最短距離だ」  というのである。  すなわち—— 「楽器を抱くほうの左手は、しっかりと力強く、弓を持つ右手のほうは、ソフトに、そして、いつでもどこへでも運動可能な敏感さを備えていなければいけない」  ということか? これで、音楽を嗜《たしな》むのも、けっしてラクなことじゃない。  しかし、そういえば、ヴァイオリンにしろ、チェロにしろ、絃楽器というやつは、なんとなく女のひとの体に似ている。ホント、手足こそないけれど、ふっくらとしたバスト、きゅっとくびれたウエスト、そうして豊かにふくらんだヒップ……と、まさに理想のプロポーションだ。  ついでに言っちゃうと、  八二センチ  五六センチ  八五センチ  というのが関根恵子嬢のサイズで、  八四センチ  五九センチ  八四センチ  というのが烏丸せつこ嬢のサイズである。言っちゃナンだが「どっちがヴァイオリンで、どっちがチェロか?」というほどのこともない。  それにしても、ヴァイオリンに比べて、 「チェロは名器が少ない」  というのは、誰が言い出したことだろう? まさか、パブロ・カザルスじゃあるまいな? 「チェロ」  というと、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』を思い出す。カッコウを相手に、 「このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ」  と怒鳴ったゴーシュも、ひょっとしたら�名器�には巡り合えなかったのかも知れん。   愛車精神 「自動車」  というからには、 「自分で動くクルマのことだ」  とばかり思っていた。それが、ホントウは「自分で動かすクルマのことだ」と知って、なんとなく裏切られたような気になったのは、わたしだけだろうか? 「マイカー」  というのは、和製の英語だそうな。日本語としては、自家用車のことを指すらしい。 「愛車と呼ぶことのできるのは、一体どんなクルマだろう」  新聞の社会面の片隅に、こんな書き出しの囲み記事があるのをみつけて、俄然《がぜん》、嬉しくなった。それは、二十一年間も個人タクシーを営んでいる運転手さんが、 「いちどもクルマを買い替えていない」  という記事だった。  彼が運転しているのは、昭和三十五年(一九六〇年)に五十七万円で買った「ブルーバード」である。現在まで乗り続けられた秘訣《ひけつ》は「無理な運転は絶対にしないこと」だそうだが、スペア用の部品集めには苦心したようだ。この国では、どういうわけか、ピストンやシリンダーなどの消耗部品は、発売されて十年ほどで姿を消してしまう。  件《くだん》の運転手さんは、 「現役では、最も古いかな?」  と自負している——という。そうして、 「クルマより自分のほうが先に動かなくなるのでは……」  と苦笑しているらしい。  記者は、この囲み記事を、 「七十歳のドライバーも二十一歳の愛車も、まだまだ健在」  というふうに結んでいたが、ひさしぶりに|いい記事《ヽヽヽヽ》だった。ちかごろは、こうした記事に、なかなかお目にかからない。  それにしても、当節は、マイカーならぬセカンドカーの時代だ。一家に一台どころか「一家に二台も、三台も……」という時代とか。かの運転手さんみたいに「一台のクルマを愛しつづける」というのは、ひょっとしたら時代遅れかもわからない。  しかし、まあ、セカンドカーなんて、どうせ他人が使うんだ。セカンドハウスだって、セカンドワイフだって、みんな、他人が使うんだ。   四六のがまに油なし  友人「まあ、なんてかわいらしい赤ちゃんですこと」  母親「いいえ、たいしたことございませんわ。実物よりも写真のほうを見てくださいな」  というエピソードが好きだ。D・J・ブーアスティンの名著『幻影《イメジ》の時代』(星野郁美・後藤和彦訳、創元社)に出てくる。  このあいだも、あるスポーツ紙に、プロ野球・巨人軍の原辰徳選手が広島球場のロッカーの大鏡の前で、 「これ、いい鏡だなあ。よくうつる。ぼくってスタイルがいいんだよね」  と呟《つぶや》いていた——という話が紹介されていたけれど、この記事なんぞも、 「実物よりも鏡のほうを見てくださいな」  といった例だろう。かりに、鏡にうつったスタイルがまずかったら、鏡のせいにできるから、ありがたい。  ホント、鏡や写真でさえ、こうだもの。これがビデオだったら、 「実物よりもビデオのほうを見てくださいな」  と言いたくなるのも、無理はあるまい。ビデオの場合は、絵だけでなく、音だって|うつる《ヽヽヽ》のだ。  それにしても、ホームビデオをいじくる面白さは、 「カメラで撮った画面の広さと肉眼で見たときの広さとのちがいがわかる」  ということではなかろうか? よく知らないけれど、 「人間の目は両方の目を開いているときは水平角度で一六〇度ぐらい見えるが、レンズはいろいろあっても広い角度で五〇度程度なので、だいぶ感じがちがう」  ということらしい。  ——ということは、 「人間の目は広い角度で見るために欠点がわからないが、カメラを通してみると、レンズの角度だけしか前方が見えないので、欠点がよくみえる」  ということだろう。それでも、ビデオにうつったもののほうが実物よりいいんだから、仕方がない。  そんなわけで、落語の『がまの油売り』が、 「がまは、おのれの姿が鏡にうつるのをみておのれと驚き、たらーり、たらりと油汗をながす」  と言ったのは、いまは昔だ。いまは、わたしみたいな蟇蝉噪四六《ひきせんそうしろく》のがまも、タレントたりうる時代である。   行かない人がやりたがる  モデルガンについて、 「あーゆーものをうれしそうに持っているうちに、ホンモノの戦争をしたくなったらどーするんじゃという意見もあるらしいが、戦争をしたいだの、ひとを殺したいだのという気持ちは、おそらく誰のなかにもかくれているわけで、それを心の底のほうに沈めて静かにゆすらないでおこうとしても、仕方がないだろう。問題は、そーゆー、いわゆるヤバイことを心の奥に持っている自分自身に気付くことなのではないだろうか」  と言ったひとがいる。コピーライターの糸井重里さんである。  そーゆーことならば、連合艦隊のモデル・シップを作ってニヤニヤしているひとなどは、あーゆー、いわゆるヤバイことを心の奥に持っている自分自身に気がついているゴ仁にちがいない。ひょっとしたら、 「戦争をはじめるのもむずかしいが、終わらせるのはもっとむずかしい」  と呟いた連合艦隊司令長官・山本|五十六《いそろく》元帥みたいに、 「(連合艦隊の)模型づくりをはじめるのもむずかしいが、終わらせるのはもっとむずかしい」  とボヤいているのではなかろうか?  それにしても、 「戦争をはじめるのもむずかしいが、終わらせるのはもっとむずかしい」  という言葉は、いろんなふうに言い換えることができるから、ひじょうに都合がいい。早い話が、 「浮気をはじめるのはむずかしいが、終わらせるのはもっとむずかしい」  というふうに言い換えることだって、できるだろう。  それは、まあ、ともかく、雑誌「広告批評」の、 「反戦のための効果的なスローガンを考えてくださいませんか」  というアンケートに、糸井さんが応えた作品が傑作だった。糸井さんは、  ㈰とにかく死ぬのヤだもんね。  ㈪アタシ、弱いのよ。  ㈫まず、総理から前線へ。  と、三つもヒットを飛ばしたのである。ホント、戦争なんて、同じアンケートに応えた岩崎俊一さんの作品ではないけれど、 「行かない人がやりたがる」   毎日が日曜日 「アー」  といえば「ウー」で、 「エー」  といえば「毎度バカバカしいお笑いを一席!」だが、落語家の、この「エー」には、開口一番、客の程度を判断する働きがあるそうな。世の中どうして、無駄なものはない。  ——週休二日制が話題になるたびに、 「ボクは、週休七日制です」  と言うのが、わたしの、バカの一つ覚えみたいなジョウダンだった。城山三郎さんの小説の題名じゃないけれど、毎日が日曜日である。 「沖君、京都へ行けば、毎日が日曜日だな」  同僚の、この一言が、主人公をどれほど苦しめたことか。城山さんの小説『毎日が日曜日』(新潮文庫)は、サラリーマンの必読の書だ。  ところで、ラジオの素人参加番組で�賞金荒らし�の異名をとった前田|達《とおる》少年が、芸能界に入ろうとして、松竹芸能の人に最後に訊いた言葉は、 「日曜は日曜ですか?」  というものだったらしい。日曜はピンポン場へ行くのが唯一の楽しみだった前田少年にとって、日曜が日曜じゃない仕事なんて、滅相もないことだった。  前田達——  いまの上方落語家・桂枝雀《かつらしじやく》である。廓正子《くるわまさこ》さんの快著『まるく、まあーるく、桂枝雀』(サンケイ出版)によると、小学生の枝雀は、弟の武司クンとラジオに出ることで、ブリキ職人だった父なきあとの家計を助けていたようだ。  それは、まあ、それとして、 「あるサラリーマンにとって魚つりは最高の楽しみであっても、漁師にとってはそれは仕事で別に楽しみではありませんし、休日にラジオを組み立てることを楽しみにしている人もあれば、仕事として毎日、工場でラジオを組み立てている人もあります」  と言ったのは、その枝雀の師匠の桂米朝だ。米朝はまた、 「それが職業となると、楽しみもありますが、苦しみや悩みが伴います」  とつづけている。  ——週休七日制には、土曜も日曜もないのである。米朝のセリフではないが、末路あわれは覚悟の前やで!   隠れ家  何年か前に、 「断絶始末記」  と題し、建設会社の広告に添えて、こんな文章を書いたことがある。  家を改築したのを機会に、 「書斎を少し広くとって、そこへピアノとステレオを入れよう」  ということになった。サラリーマンだったころのことである。 「そうすれば、昼間はあたしたちが学校から帰ってきて使えるし、夜はお父さんが会社から帰ってきて使えるじゃん?」  というのが、長女の提案理由だった。当時、わたしは出版社に勤めていて、いつも帰りが遅かった。  サイドビジネスではなくて、 「これが、インサイドビジネスだ」  と称していた原稿を書くのは、だから、深夜というよりは、むしろ早朝だった。帰宅すると、なにはともあれ一眠りし、それから明け方に起き出して、机に向かうのである。  そんなわけで、そのころ小学校六年生だった長女の提案は、スンナリ受け入れられた。一つの部屋を父親と娘たちが交替で使う。わが家に親子の断絶なんてなかった。  ところが、まもなくわたしが会社をクビになったから、困った。娘たちが学校から帰ってきて、 「ピアノでも練習しよう」  と、勢いよく書斎のドアを開け放つと、そこで、父親がウンウン唸《うな》りながら原稿を書いているのである。  当然のことながら、 「ジャマだ、ジャマだッ!」  ということになり、どっちかが出ていくわけだが、それが、わが家では、 「いつも父親のほうだった」  というんだから、シマラない。なにかというと、仕事を放《ほう》り出したくてしかたがなかった父親にしてみれば、 「娘のピアノの練習にジャマになる」  というのは、仕事を放り出す絶好の口実だったのである。  かくて、庭先に小屋が建てられた。いまは、そこが父親の仕事部屋で、親子はやむをえず断絶の生活を送っている。  ここで古くさい拙文を披露したことには、モチロン、意図がある。わたしの、この文章は、ある全国紙に広告として掲載されたのだが、掲載と同時に、 「バカモン!」  明治生まれの先輩から電話がかかってきたのだ。 「貴様が書斎を出て行くとは、なにごとだ? そういうときは、子供たちを放り出せ!」  先輩に言わせれば、 「書斎」  というものは、男の城なのである。その城を明け渡して、 「なんの面目ぞ」  というわけだ。 「そんなことだから、ちかごろの父親は子供にバカにされるのだ。父権を回復するために、いまからでも遅くない、子供たちを庭先の小屋へ追いやって、貴様は母屋《おもや》へ戻れ」  しかし、まあ、いまどき、こんな理屈が罷《まか》り通るわけがない。わたしは、先輩の好意には感謝しながらも、毎日のように庭先の小屋に赴くことを楽しんでいる。  それというのも、庭先の小屋は、わたしにとっては書斎であると同時に隠れ家なのだ。仕事場であると同時に別宅で、出城《でじろ》であると同時に離れ小島でもある。  したがって、ここには電話なんぞというヤボなものは引いてない。かりに、電話がかかってきても、 「電話ですよォ」  女房という名のマネージャーが呼べば届く距離だが、仕事中は(正確には、仕事をしていないときも)原則として電話には出ない。正直な話、いちいち電話に出ていた日には、なんのための隠れ家だか、わからなくなってしまうだろう。  浮世には、 「居留守」  という方便もあるのだ。電話という文明の利器に対抗するには、この方便を行使する以外に勝ち味はない。  それは、まあ、ともかく、子供たちに、この居留守を教えるのには苦労した。早い話が、それまでは、 「ウソを吐《つ》いちゃいけない」  と言っていた父親が、 「ウソを吐いていい」  と言うのである。子供たちにしてみれば、面白くって面白くって、 「父は、いま、いません」  と電話で言うたびに、 「エヘヘ、あたし、ウソ吐いちゃった」  と、仕事部屋へ報告にきて、父親の仕事のジャマをする。  言っちゃナンだが、これじゃ、なんにもならない。わたしは、 「子供たちに真実を言うように教えるのもむずかしいが、ウソを言うように教えるのもまた、それ以上にむずかしい」  と、しみじみ悟ったものだ。  それも、まあ、ともかく、わたしの書斎兼出城兼隠れ家兼離れ小島は、わが家の裏庭の隅っこに建てた六畳のプレハブだ。玄関先にはもう一つ四畳半のプレハブが建っていて、ここは書庫専用だが、いまや六畳のプレハブのほうも本棚に占領され、辛うじて机を置くスペースが確保されているだけである。  それでも、ここは、わたしにとっては王国で、ヒマさえあれば(いや、正確にはヒマがないときも)、ここに籠《こも》っている。ここにいる限り、わたしは、誰に気兼ねすることもなく、原稿を書くことや本を読むことはもとより、椅子にもたれて空想の世界に遊ぶこともできるのだ。  はじめのうちは、 「いっそのことフトンも持ち込んでしまおうかな?」  とも考えた。が、それは、 「そんなことをしたら、お父さんは、仕事部屋から一歩も出てこなくなっちゃうんじゃないの?」  という、次女の反対で潰《つぶ》れた。  そのあおりで、仕事部屋には、食べものはモチロン、酒も、茶も、トーゼンのことながら女も、持ち込まないことにした。ホント、そうでもしないことには、わたしが子供たちと顔を合わす機会は、ますます少なくなるだろう。  わたし自身は、それでもいっこうに構わないが、子供たちは大いに構うらしい。子連れモノ書きの、そこが泣き所でもある。  バカなことに、わたし自身は朝型だから、目覚めるのが家族のうちの誰よりも早い。だいたい、午前五時か六時には起きて、フトンの中で本を読んでいる。  朝、目が覚めてから、 「ボンヤリしている」  という趣味がないので、女房とは寝室を別にした。ヨソの女性とならイザ知らず、女房と一緒に寝るなんて、恥ずかしくってしょうがなかろう。起き出したら、フトンを畳んで、雨戸をあけ、新聞を取りに行く。新聞を眺めながら、コーヒーの豆を挽《ひ》いて、朝食に備えるわけである。  コーヒーは自分で三杯入れる。そのうちの二杯はわたしが飲んで、残りの一杯を女房が飲むか、長女、次女、三女が飲むかは、その日の風の吹き具合だ。  朝食が終われば、テレビをつける。NHKの『朝のニュースワイド』の最後のコーナーで、新聞に目を通し、それから「朝のテレビ小説」を見て、立ちあがる。  NHKの「朝のテレビ小説」を見る時間は、職住隣接どころか職住一致のわたしに言わせれば、通勤電車に乗っている時間のようなものである。いうなれば、ウォーミングアップの、またウォーミングアップかな?  この間《かん》、トーゼンのことながら便所に行くが、ここもまた、別天地だ。便器に腰をかけながら、 「お母ちゃん、お父ちゃんがトイレに入ったまま出てこないけど……」 「いいんだよ、あそこはお父ちゃんの部屋なんだから……」  といったコントを反芻《はんすう》したりする。  裏庭の隅の書斎兼仕事部屋兼出城兼隠れ家兼別宅兼離れ小島で、このわたしが最初にやることは、新聞の切り抜きである。それも、前日の新聞を切り抜く。  前日の新聞を切り抜くのは、新聞というやつ、一日たつと新聞ではなく、旧聞になっているからだ。おのずから、必要なものと必要でないものの区別がつく。  それを果物屋からもらってきたカゴに放りこんでおき、ふたたび一週間後に目を通し、さらに不必要なものは捨てる。できれば、二ヵ月後にまた読んで、ほんとうに必要なものだけをスクラップするのが理想だが、じつのところは、それが溜《た》まりに溜まって、わが書斎は、本棚と本棚との間に、横積みになった本や雑誌、それに新聞の切り抜きが投げ込まれた果物のカゴが並べられ、さながら故紙回収業者の倉庫だ。  しかし、まあ、この溜まりに溜まった新聞の切り抜きを、一年にいっぺんくらい、エイヤッとまとめて棄てるときの気持ちよさ! これこそ後宮に集めた三千の美女をいちどにクビにするような豪快な気分で、これもまた、男の隠れ家ならではの遊びだろう。  いまさら断るのもアホらしいが、わたしたちはつねに誰かに監視されている。とくにサラリーマンたちは、会社にあっては上役や同僚・部下に監視され、家庭にあっては女房・子供に監視されている。  会社にいる場合は、便所にいるときまで監視されているのである。ある会社で、ある男を課長に抜擢《ばつてき》しようか——というときに、ある重役が、 「あいつが小便をしている姿を見たら、とてもじゃないが課長の器じゃない」  と言った——という話は、あまりに有名であろう。  ナワノレンで飲んで、酔って部長の悪口など言おうものなら、 「翌朝には、もう呼び出される」  といったテイのものだ。ホント、瞬時もウカウカできぬ。  家庭にいる場合も、それは、同じだろう。たまにテレビの前に陣どって、カワイコちゃん歌手が歌っているのを見ながら、ヨダレでも垂らそうものなら、たちまちカミさんに、 「あなたッ!」  ととっちめられる。それも、 「また浮気の夢でもみているんでしょう」  と、あらぬ疑いまでかけられるのだ。  そこで、 「書斎を!」  というのは、これはもう、亭主たるものの最低の願いであることは、言うを俟《ま》たない。こいつばかりは、どんなことがあっても一部屋でなければならず、 「書斎がダメなら、せめてダイニング・キッチンの角に亭主コーナーでも……」  というのは、まったく意味がない。これでは、いつも背後に女房や子供の目があるようなもので、会社の便所とおんなじだ。  されば、どうしたって男には書斎が不可欠で、それは、たとえ女房・子供でも、 「無断で入ってはいけない」  という神聖な場所でなければならぬ。  書斎——  それは、前にも記したとおり、仕事部屋であり、出城であり、同時に隠れ家であり、別宅であり、離れ小島であるのだが、わたしにとっては、宝の山でもある。それも、未知との遭遇が期待できる宝の山だ。  わたし自身は、 「趣味は?」  と訊《き》かれたら、 「本を買うこと」  と答えようかな——と思っているくらい、本を読むことではなくて、本を買いこむことが好きだ。これは、子供のときに、ロクに本を買ってもらえなかったことの反動かも知れないが、とにかく本を買うことが好きなのである。  それが、もともとは書斎だったピアノとステレオが置いてある部屋にもズラリと並べられ、洗面所の脇にも並べられ、さらには四畳半のプレハブである書庫、六畳のプレハブである書斎にも並べられ、それだけでは並べきれなくて、八畳の部屋の前の廊下にも積み重ねられているテイタラクだ。その、どこに、どういう本が積まれているかは、おおよそ見当がついているが、サテ、実際に、 「ナニナニという本が必要だ」  ということになっても、下のほうに積まれているやつは、引っ張り出そうにも、出しようがない。かくて、 「やむをえず、もう一冊買ってくる」  ということも屡々《しばしば》で、また本が増える仕組みである。こうなると、たとえば井伏鱒二さんの限定版『厄除け詩集』(木馬社)を探しているうちに、和田垣謙三博士の大正名著文庫『兎糞録《とふんろく》』(至誠堂書店、初版・大正二年七月)と遭遇し、 「やあ、しばらく!」  と読みふけってしまうようなことも、しょっちゅうである。  考えてみると、改築にあたって、 「書斎を少し広くとって、そこへピアノとステレオを入れようよ」  と提案した長女も、いまは大学の四年生だ。あれから、十年余がたっているのである。  その間、父親は職を失い、職を求めて、ガムシャラに働いてきた。それもこれも、時に仕事部屋という名の隠れ家に籠って浮世ならぬ憂世を忘れることができたからだろう。わたしにしてみれば、 「当分の間、出たくない」  といった心境でもある。 [#改ページ]   ㈼ 女の月曜日   ナワノレン・バカ  虎造さんのナニワブシに、  ※[#歌記号]いつも変わらないのが旅の衆の話  という文句があって、この文句は、  ※[#歌記号]利口がバカ※[#小さな「ン」]なって喋《しやべ》りつづける  というふうにつながるのである。言っちゃナンだが、いつものナワノレンとおんなじである。  早い話が、これを現代に移すと、  ※[#歌記号]いつも変わらないのがサラリーマン衆の話  といった按配《あんばい》になるのでなかろうか? それも、どういうわけか上役の悪口だ。  利口がバカ※[#小さな「ン」]なって、 「あのバカ部長が……」 「このバカ課長が……」  と、けなしつづけている。失礼ながら傍らで聴いていると、 「会社はバカばっかり」  という感じである。ホント、バカバカしいみたいなもんだ。  しかし、彼らが、部長なり、課長なりを、ホントに、 「バカだ」  と思っているとは考えられないので、あれは、やはり、セレモニーか何かなのだろう。いま、ナワノレンでオダをあげてるサラリーマン衆に、 「バカだ、バカだ」  と言われつづけている部長や課長も、たぶん何年か前までは、このサラリーマン衆と同じように、そのときの部長なり、課長なりをつかまえて、 「バカだ、バカだ」  と言ってきたにちがいない。  こうしてみると、いつものナワノレンで、サラリーマンたちが、そのときの部長なり、課長なりを、 「バカだ、バカだ」  と言うからには、自分が部長なり、課長なりになったときも、やはり、自分たちが言ってきたように、 「バカだ、バカだ」  と言われるのを覚悟してのことだろう。とてもじゃないが、本気で言っているとは思えない。  だいたいが、バカばっかりで会社が成り立つわけがないのだから、 「バカだ、バカだ」  というのは、やはり、演技なのだ。サラリーマンというやつ、酒を飲んでまでも演技をしなければならないなんて、メンドくさいねえ!  そのなかで、いくつかヘタな演技を拾い集めてみたら、いっぽうで上役をバカ呼ばわりしながら、自分の会社のことを、 「こんな会社、いられないよ、ねぇ」  とクサしているのが、いちばん情けないように、わたしには思える。ホントにいられないんだったら、さっさとやめてしまえばいいではないか。  みずからはやめることもしないで、 「ホント、こんな会社、早くやめたほうがいいよ」  などと言っている連中は、それこそ自分のバカを宣伝しているようなものだ。われわれが上役を、 「バカだ、バカだ」  と言うのは、あくまでもセレモニーなのだから、マナーを外しちゃいけない。マナーを外してしまったら、ミもフタもない。  次に、 「見ちゃおれん」  といった感じのバカ談義は、いわゆる断定型というか、問答無用型というか、そんなタイプである。たとえば、彼は、コップ酒をあおって言う。 「わかってンだよ。部長には、ヤル気がないんだよ。オレたちが何を言おうと、言うことはキマっているんだ。こんどだって、もうわかるんだ。聞かなくたって、いいや。わかってるよ。わかっているってば……」  よけいなことだが、ナニがわかっているのか、傍らで聴き耳を立てている人間には、サッパリ、わからん。  それでも、仲間たちが、 「そうだ、そうだ」  といった顔でニヤニヤしているのは、そうやってオダをあげてる奴が、いかに内容空疎なことを喋ろうと苦労しているか、とっくの昔に察しているからだろう。ホントのことを言うと、こうやってニヤニヤしている連中のほうが、もっとタチがわるいのかもわからない。  彼は、バカだから、つい調子にのって大きな声を出しているけれど、バカのクセに利口ぶっている奴は、酒も、よう飲まん。ただコップ片手に、それでも仲間外れにされるのがコワいもんだから、いつまでもグダグダグダグダつきあっている。ホント、バカみたい。   ジョギング人生  昔は、 「ナニカになりたい」  と思っていて、 「そのナニカになれなかったので、仕方がなくて、サラリーマンになった」  とボヤく奴がいた。ナニカとは、たとえば俳優とか、小説家とか、そういう類いのことである。  そういう奴らに会うたびに、サラリーマンになりたくてサラリーマンになったわたしなどは、なんとなくバカにされたような気がして、 「ふざけんな」  と、怒鳴っていたものだ。 「ナニカになりたかったんなら、石にかじりついても、そのナニカになればいいじゃないか。かりにナニカになりたかったことがホントウでも、ナニカになれなかったことは恥ずかしいことなんだから、サラリーマンになった以上は、そんなこと黙ってろ」  しかし、そういうふうにしてサラリーマンになった奴らには、どこか夢みるようなところがあった。子供みたいに、 「いつかチャンスがあったら、この場を脱け出そう」  といった気概みたいなものがあった。 「そのためには、ヘタな失敗はできない。サラリーマン社会に通用しないような人間が、どうして、俳優とか、小説家とかいった世界で通用することができようぞ!」  だが、いまは、 「ナニカになりたい」  と思っていて、 「そのナニカになれなかったので、仕方がなくて、サラリーマンになった」  と言うような奴は、いない。さりとて、このわたしみたいに、 「オレは、サラリーマンになりたくて、サラリーマンになった」  と言うような奴もいない。  このあいだも、この春にサラリーマンになる人、サラリーマン二年生になる人、サラリーマン三年生になる人を相手に、 「きみは、なぜサラリーマンになろうと思ったの?」  と訊《き》いたら、みんなキョトンとして、 「どうして、そんなこと訊くんですか」  といった風情だった。若い彼らにしてみると、 「サラリーマンになるのは、生まれたときから決まっているようなもので、なぜサラリーマンになろうとしたのか——ナンテ、考えたこともなかった」  ということなのだろう。  したがって、 「サラリーマン以外のナニカになりたい」  といったことなど考えてみたこともないらしくて、 「そういうことは、自分たちにカンケイのないことだ」  というのである。したがって、サラリーマンになってからは、 「そこから脱け出したい」  と思ったことなど、考えてもみなかったそうだ。  さて、そういうことになると、 「昔みたいにナニカになりたくてサラリーマンになった奴のほうが見所みたいなものがあったかなあ」  と考えてしまうところが、わたしの悪いクセである。すくなくとも彼らには、 「ここから脱け出したい」  という願いのようなものがあって、そいつが人生のバネになっていた。  ところが、いまの連中には、そのバネもない。バネがないから、現実にサラリーマンになっても、 「出世しよう」  といった意欲など、これっぽっちもない。  だいたい、彼らは、競争が嫌いらしいのである。横断歩道ひとつ渡るにも、 「赤信号、みんなで渡ればコワくない」  とかナントか言っちゃって、みんなで渡ろうとする。仕事も、遊びも、ホント、おんなじことである。  早い話が、 「駆けっこなんて、マッピラ」  といった按配だろうか? マラソンも、道中抜いたり、抜かれたりしなければならないから、イヤなんだそうだ。  そんなわけで 「ジョギングなら……」  といったら、ニコニコしていた。あれなら、べつに抜いたり、抜かれたりしなくて済むし、かりに、抜いたり、抜かれたりしたところで、腹も立たない。  されば、 「ちかごろ、ジョギングが流行《はや》っている」  というのも、わかるような気がするのである。ありゃあ、女のスポーツだ。   独創と模倣  みずから、 「売文業」  と称していた。もちろん、シャレのつもりである。  そうしたら、小説家の藤本義一さんに、 「売文業はないでしょう」  と言われたことがある。藤本さんがテレビの深夜番組『11PM』の司会をしていて、 「だから、義《ぎ》っちゃんは直木賞をもらえないのだ」  と、ウワサされていたころである。  藤本さんは、モノを書くことを「売文」とは考えていらっしゃらなかったのだろう。わたしなんぞに比べれば、藤本さんのほうが、よっぽどマジメだ。  のちに、 「売文業」  と名乗ったのは、 「オマエが最初ではない」  と教えられて、ひっこめた。お会いしたことはないが、明治時代に斎藤緑雨というひとが、そんなことを言っていたそうである。  誰かの結婚披露宴で、誰かがテーブルスピーチに立ち、 「結婚は辞書に似ている。すなわち愛にはじまり、腕力に終わる。お二人は、そういうことのないように……」  と喋《しやべ》っているのを聞いて、 「うまいことを言うもんだなあ」  と、感心した。こういうことは、なかなか考えつくものではない。  ところが、ひょんなことから、いまは亡き高見順さんが、 「人生も、あらゆる辞書と同じ、『アイ』(愛)にはじまり『ヲンナ』に終わる」  と書いているのを読んで、 「ナーンダ」  と思った。モトは、高見順さんにあったのだ。  そういえば、人類を、 「男類、女類」  というふうに分けたのは、焼跡闇市派の野坂昭如さんのように思われているが、あれだって、太宰治の小説『女類』に、酔っぱらいの主人公が、 「僕はね、人類、猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない」云々《うんぬん》  とクダを巻いているところがあって、 「あっちが本家ではないのか」  と知ったかぶりをしたら、もっと知ったかぶりの奴がいて、 「なあに、それだって、とっくの昔に国木田独歩が言ってるよ」  と一蹴《いつしゆう》された。ウソかホントか知らないけれど、世のなかには、へンなことを知ってる奴がいるものだ。  余談ながら、 「男には義理があり、会社には経理がある」  と言ったのは、かの五木寛之さんである。わたくし、この文句に、 「そして、女には生理がある」  とつけ加えてイイ気になっていたら、昔、長谷川如是閑というひとが、 「男は月給に支配され、女は月経に支配される」  と喝破していたそうで、わがことながら、 「ナーンダ」  ということになっちゃった。  こうしてみると、 「独創」  ということが、いかにむずかしいものであるか——が、よくわかる。こっちは、ない知恵しぼって、やっとのことで新しいアイデアを考え出したつもりでも、世の中にヘンなモノ知りがいて、 「そいつは、過去に何某が言ったよ」  と、ちょいと耳元で囁《ささや》けば、それでいっぺんにクシュンとなってしまう。人生、バカバカしくって、 「やってられるか」  という気になっちゃう。  しかし、まあ、どうだろう? 斎藤緑雨さんにしたって、高見順さんにしたって、国木田独歩さんにしたって、そのころ、やはり批評家ヅラした奴に、 「きみは、いまさらのようにそんなこと言っているけれど、そんなことは、江戸時代に(あるいは、中国で)ナントカという奴が、こういうふうに言ってたよ」  と言われたかもしれないのである。そんなことにかかずらっていたら、せっかくのアイデアもしぼんでしまうだろう。  だから、 「盗んでもいい」  というのではないが、他人に模倣とヒヤカされることを恐れるな。その発想を伸ばすべし。   図らざる好意  ——新聞記者をやっていたときのことだ。いまは亡き松坂良光君に慕われて、あっちこっち連れて歩いたことがある。  ご存じかどうか、松坂君は、松果腺《しようかせん》ホルモン異常の、 「巨人症」  という病気にかかって、身長が二メートル三〇センチにも伸びてしまった人である。東大の清水健太郎先生の手術で、ようやく成長がストップした。  その松坂君が、 「相撲が見たい」  というので、東京は蔵前の国技館(当時)に案内した。そのころは、いまの大鵬《たいほう》親方が新入幕で、破竹の七連勝をつづけていたが、偶々《たまたま》当日の対戦相手が休場して、不戦勝が決まっていた。  二所ノ関部屋を訪ねると、 「ボクが案内しましょう」  と、あの大鵬が先に立って歩いてくれたのだ。おかげで、松坂君は大喜びである。  のちに横綱になった故・玉の海なぞは、まだ幕下で、大鵬のあとを尾《つ》いて歩く長身の松坂君をみつけて、 「おや、新弟子かい」  と、心やすく声をかけたりしたものだ。松坂君は、成長は止まったものの、まだ肉がついていなくて、とても相撲なんかとれる体ではなかった。  帰りしな、玄関に脱いであった松坂君の靴をみつけて、送ってきた大鵬が驚いた。なにしろ、松坂君の靴は全長が三五センチもあったのである。  大内山だか誰だかの靴も大きくて、 「なかで、ネコが子を産んでいた」  という伝説があるくらいだが、松坂君の靴はそれよりもデッかい。さしもの大鵬も呆《あき》れて、 「フーン」  と、靴を手にとって眺めた。  それから、それを揃《そろ》えて松坂君の前に置いたから、こんどは松坂君が感激した。松坂君は、たぶん大鵬が興味半分に松坂君の靴を拾い上げたことには気がつかず、帰りのクルマの中で、大鵬のことを、 「なんて礼儀正しいお相撲さんだろう」  と感嘆しきりだ。挙句《あげく》の果てに、 「あの人は、将来、きっと横綱になる」  と、たいへんな持ちあげようだった。松坂君の予言どおり、大鵬が横綱になったことは言うまでもない。  ——編集者をやっていたときのことだ。イラストの原稿をもらいに、部下の女性記者を真鍋博《まなべひろし》さんのところへやったことがある。  ご存じかどうか、真鍋さんは、あんまりひとづきあいがよくなくて、 「誰か、使いに行け」  というと、たいがいの者が尻込みをする。なんとなくケムッタいらしいのである。  ところが、彼女だけは、喜んで出かける。おまけに、真鍋さんからひどく可愛がられ、真鍋さんは、彼女が会社をやめたのちのちも、 「彼女、いまどうしているだろう?」  とウワサしたものだ。  真鍋さんが彼女のことを気に入ったのは、ホカでもない。彼のところに原稿をとりに行くお使いさんのなかで、彼女だけが封筒に入っている原稿を、 「拝見します」  といって、いちいち確かめていたからだ。 「ヨソの社の人間は、そんなことしないよ。ホントに感心だ。あなたは、若い社員たちをどのように教育しているのかね?」  いつだったか、真鍋さんに会ったとき、彼にそう言われて、わたしは、大いに面目を施した。わたしは、べつに部下たちを特別に鍛えたわけじゃないけれど、彼女のおかげで、こっちまで信頼されたようなわけである。  のちに、彼女にそのことを伝えたとき、彼女の表情がよかった。彼女は、パッと頬を赤らめて、 「あら、あたしは真鍋さんの絵に興味があるので、その場でみせていただいていただけです」  と、そう言ったのだ。  おそらく真鍋さんは、このことに気づいてはいまい。が、彼女のちょっとした仕草が真鍋さんを喜ばせ、わたしまでホメられたのである。  大鵬といい、彼女といい、キッカけは好奇心だった。とくに意識して松坂君の靴をもちあげたり、画家の封筒を確かめたわけじゃないけれど、それが、図らずも他人の好意を誘うのである。  同じ動作をとっても、 「なんてキザな奴だろう」  と言われることもある。どうせのことなら好意を誘ったほうがトクだが、さて、そのためには日頃の立ち居振舞いがモノを言う。   カラオケ仁義  カラオケについては、 「いかにも中年サラリーマンらしい遊びだなあ」  というのが、わたしの持論である。言っちゃナンだが、あんまりカッコいい遊びではない。  どこかで、誰かが、 「ディスコで遊ぶにはトシをとりすぎ、クラブで遊ぶにはカネがないので……」  と言っていたけれど、まさに、そんな按配だ。演歌がモテはやされるのも、わかるような気がする。  カラオケ——  本来は、レコード会社が、歌手のレコーディングの際、伴奏のオーケストラだけを先に録音したテープを渡し、歌手に練習の余裕を与えるために考案したものである。伴奏だけのテープだから、歌の入っていないオーケストラの略語で、 「カラオケ」  と呼ばれるようになったらしい。  なぜか昭和五十二年(一九七七年)に至って、歌謡酒場やスナックなどのノド自慢の客のための伴奏用として、レコード会社が商品化したところ、ガゼン流行りだした。酒場やスナックだけでなく、宴会やパーティ、家庭などでも使われ、たいへんなブームだ。  このあいだも、アメリカのウォールストリート・ジャーナル紙に、アーバン・C・レーナー記者が、 「貿易だけじゃありません/日本人はバーで歌うのも名人」  と題し、このカラオケ・ブームのことを説明して、 「そこにカラオケがある。これこそ、かつてなかったほど日本に広がってしまった狂気なのだ。数年前にどこからともなく生まれてからというもの、騒がしい伴奏の録音に合わせ、酒場で独唱するという独りよがりが、何百万人ものファンをひきつけ、何万軒ものスナックやナイトクラブをカラオケ・バーに変えてしまった」  と皮肉っていたそうだけれど、ムベナルカナだ。いまや、クラブまでがカラオケ・バーに堕している。  わたしに言わせれば、 「伴奏のオーケストラだけが先に録音してあり、歌手がそれに合わせる」  というところが、 「いかにもサラリーマンらしい」  と思うのである。伴奏なんて、もともとは歌手に合わせるべきなのに、カラオケの場合は、歌手が伴奏に合わせる——。  これが、なにごとも会社の気風や上司の意向に合わせて働くサラリーマンの遊びでなくて、誰の遊びか! われら中年サラリーマンは、どこまでも相手に合わせるようにデキテイルわけだ。  そこでは、テレたり、恥ずかしがったりしていると、たちまちにして出遅れてしまう。しかも、 「出遅れたから……」  といって、待ってくれるわけではない。  それこそ、情け容赦もなくテープは回るのである。わたしみたいにドジな人間は、仕事のときもそうだが、伴奏を追っかけるのに精いっぱいだ。  レーナー記者は、 「カラオケでは、スポットライトが一人の歌い手に浴びせられるでしょう。多くの日本人は、そんなふうに注目されることに飢えているのよ」  といった日本女性の言葉を紹介して、 「日本の社会の窮屈な伝統や集団の目標に対する個人の従順性から自由になりたい」  という憧《あこが》れがブームの原因だ——とも述べているが、わたしには賛成できない。わたしは、あくまでもワクに嵌《はま》ろうとするサラリーマンの習性に、 「カラオケはピッタリだ」  という説に固執する。  誰かが歌い終わると、ひったくるようにしてマイクを引き継ぐのも、どこか中年サラリーマンの仕事ぶりに似ている。ついでに言うなら、たとえばわたしみたいに独り歌わない人間をみつけると、 「むりやりマイクを握らせて、歌うことを強いる」  というところも、やっぱり、中年サラリーマンの仕事ぶりに似ている。  そんなとき、ぜったいに歌わないで済ませる方法は、一つしかない。それは、テープに吹き込まれていない歌を所望して、みんなをシラけさせてしまうことだ。  それにしても、マイク片手に、ホントに上手に歌っている奴をみると、 「人間どこかに取柄があるもんだなあ」  と、しみじみ思う。が、あいつら、いったい会社では何しているんだろう? 言いたかないけど、それが、疑問である。   窓際族の敵  小説家の渡辺一雄さんに、 「窓際族の敵は、窓際族だ」  という話を伺った。渡辺さんは、 「その証拠に、仲間がカムバックしたのを喜ぶ窓際族なんて、みたことがない」  とおっしゃる。  たしかに、窓際族の誰かが復帰しようとしたら、いちばん先に足を引っ張るのは、ほかの窓際族たちだろう。あることないこと言いふらして、彼の復帰を阻止しようとするにちがいない。  俗に、 「同病相|憐《あわ》れむ」  というが、相憐れむのは、おたがいが同じ苦痛を感じているときだけのことである。いっぽうが、 「その苦痛から脱しそうだ」  ということであれば、たちまちのうちに反撥してしまう。これ、人間の情理ではあるまいか。  わたし自身も閑職に追われたことがあるけれど、その間、わたしの行動を監視して、それとなく都合のわるいことだけを会社に告げていたのは、やはり、閑職に追われた同僚であった。閑職に追われただけあって、彼にはホカにやることがないのである。  わたしのほうは、適当に時間を潰《つぶ》すため外に出ようとするのだが、わたしが外に出たときに限って、 「青木くんがいないけれど、どうしたんでしょう?」  と騒いでみたりする。おかげで、わたしはパチンコにも行けなくなった。  こうして、おたがいが牽制《けんせい》しあうので、閑職に追われた者は、ますます身動きができなくなってしまう。われわれサラリーマンの常識では、 「閑職に追われたときこそ、自己啓発のチャンスだ」  ということになっているが、なあに、そんなことはデタラメだ。  窓際族同士が相手のジャマをしっこして、結局は、両方とも潰れるのを待っているわけだ。経営者にしてみれば、 「じつは、そこが狙い」  ということで、会社は、現実に仕事をしているであろうときよりも疲れてしまう者たちを、 「疲れているようだから……」  という理由で、肩叩きの対象に選ぶのである。  それにしても、 「窓際族の敵は、窓際族だ」  という言葉から思い出すのは、トーゼンのことながら、 「女の敵は、女だ」  ということだろう。女の敵が女なら、女の味方は男だろうか?  それが、必ずしもそうでないところに、人生のややこしさがある。女の味方が必ずしも男ではないように、窓際族の味方もまた、組合の連中ではない。  だいたいが、 「閑職に追われる」  というくらいだから、かつては忙しかったのだ。窓際族、すなわち、いちおうは役職についた身だ。あるいは、窓際族になっても肩書きだけはついている。  もちろん、名前だけの肩書きで、ホントの身分はヒラと変わらないのだけれど、なぜか組合の連中は、いちどでも役職についた人間に対しては冷たくて、たとえ彼らが希望したところで、 「組合に復帰する」  ということさえ認めない。わたくし思うのだが、組合が本気になって窓際族の救済を考えれば、会社のなかは、もっと明るくなると思うのだが、なぜか組合は窓際族をジャマ者扱いする。  じつをいうと、そこもまた、会社の狙いだ。会社は、従業員にいったん役職を与え、組合から離れさせたうえで、閑職に追いやるのである。  ホントに、 「明日は我が身」  というけれど、窓際族こそ、組合員の明後日の姿だろう。組合の役員は役職につくようなことはないからいいようなものの、ヒラの組合員なら、いつでも役職につけることができる。いかにも、窓際族は弱い。  ところで、 「窓際族の敵は、窓際族だ」  ということは、 「弱者の敵は、弱者だ」  ということであろうか? もし、そうだとしたら、 「女の敵は、女だ」  という言葉がある以上、女は弱者だとみなされていることになる。  女は、それでいいんだろうか?   余人を以《もつ》て代えがたし  いただいた年賀状に、   月曜日 もんでえ   火曜日 チュウしてえ   水曜日 上になってえ   木曜日 さすってえ   金曜日 ひらいてえ   土曜日 さ、立ってえ   日曜日 はさんでえ  とあったのには、笑っちゃった。著作権を云々されては叶《かな》わないから、はっきり記しておくが、日本ヘルスメーカーさんからの年賀状である。  曜日をうたいこんだ文句では、山口瞳さんのエッセイ集『酒呑みの自己弁護』(新潮社)につけられていたオビの文句が傑作だった。これも、作者を明らかにしておくと、池田雅延さんという編集者で、   月曜 一日会社へ行って   火曜日 夜更けに九連宝燈   水曜 一晩小説書いて   木曜 三時の四間飛車   金曜 日暮れに庭木をいじり   土曜日 たそがれ馬券の吹雪   日曜 朝から愛妻家  というものだ。そうして、これには、   月月火水木金々   酒を呑みます   サケなくて   何で己れが 桜かな  という素晴らしい詩(!)も添えられていたのである。  されば、このわたしが、さるワインのCMを頼まれて、 「飲むのは、月・水・金と火・木・土だけに決めている。ときどき約束を破って日曜日にも飲むが、このときは×××・××××(と、ここでワインの銘柄を挙げ)を飲む」  と書いた文章など、たちまちにして色あせてしまうではないか。わたしなんぞは口惜《くや》しいもんだから、このあと、 「ただし、約束を破って日曜日に飲むのは、週に一回だけ」  と、断っている。  さて、会社をやめて、 「なにが変わったか!」  というと、なにはサテおき、 「曜日の感覚がなくなった」  ということではあるまいか? げんに、わたしは、きょうが何曜日であるかを忘れて、原稿を書いている。  子供たちに、 「ねえ、たまには日曜日の食事ぐらい外でしたら?」  と言われて、 「そうか、きょうは日曜だったのか」  といった感じである。ホント、会社をやめてしまった男には、土曜も日曜もない。まして、ブルー・マンデーもなければ、イエロー・チューズデーもないのだ。  よけいなことだけれど、会社をやめてしまうと、 「夕方、電話がかかってくる」  ということもない。ナニ? なんの電話かって!  きまってるじゃないか。いつもの飲み屋のママから、 「お元気ィ?」  と言ってくる電話である。  こうしてみると、サラリーマン時代は楽しかった。実際問題として、いろいろな誘惑があり、コトのついでに言わせてもらえば、その誘惑を断々固々として撥ねつける楽しみもあり、 「仕事をサボる」  という楽しみもあった。  正直な話、たしかに寝食を忘れて仕事に打ち込むことも楽しいにはちがいないが、それだって、 「ときには仕事を怠ける」  という楽しみに裏打ちされていればこそ……だろう。サラリーマン時代には、それがあった。  が、わたしみたいな�自由業�という名の不自由業者には、それがない。そんなことをしたら、いっぺんに食いはぐれてしまうだろうことはわかっているが、誰か適当な奴をみつけて、 「ちょっと代わってくれないか」  と言うこともできない。  しかし、サラリーマンには、それが、できる。そうして、そのなかで、 「余人を以て代えがたし」  という人生を送ることもできるのだ。   鎖につながれた犬  エッセイストクラブ賞を受賞した早川良一郎さんの『さみしいネコ』(潮出版社)を読んでいたら、愛犬チョビを連れて散歩の日々を送っているうち、毎日のように鎖につながれている犬たちに吠えられることに触れて、 「ある日、ふと吠える犬たちが、サラリーマンに思えてきた」  と書いている文章にぶつかって、思わず吹きだした。元経済団体連合会事務局勤務、定年大先輩の早川さんは、こんなふうに述べていらっしゃる。  いわく、 〈吠えながら、あっちを見たりこっちを見たり落ちつかないのがいる。ありゃ課長だ。  もっさりとお義理で吠えてますってのがいる。定年前の部長である。  じっとしていて、一声、重々しく「ワン」というのがいる。重役であろうか。  ちっぽけなくせに、鎖もちぎれよとばかりあばれて吠え回るのがいる。係長クラスであろうか。  こんなことを考えながら、いくら吠えたってしょせんは鎖につながれた身ではないかと、勤め先の誰彼の顔を思いながら、身軽にチョビと通るのは、なんとなく楽しいものである〉  サラリーマンのことを、 「鎖につながれた犬」  というふうに形容するのは、なにも早川さんの発明ではない。ちょいと気の利いた人間なら、誰でも思いつくことだろう。  しかし、早川さんの発想の素晴らしさは、一匹一匹の犬をあげつらって、 「ありゃ課長だ」 「定年前の部長である」  と看破してみせたことだろう。サラリーマンにもサラリーマンの相があるように、犬にも犬の相がある。  ところで、 「鎖につながれた犬」  ということでは、このわたしにも思い出がある。他人に喋《しやべ》れるような事柄ではないかも知れないが、まあ、聞いてください。  ——あれは、大阪のテレビに出演したときのことだ。いまを時めく竹村健一さんとフランソワーズ・モレシャンさんの番組だった。その番組に、わたしは、 「サラリーマンの代弁者」  ということで出演したのである。  打ち合わせの段階で、竹村さんとモレシャンさんが、なにやらフランス語でヒソヒソやっている。どうも目顔から察すると、ゲストのわたしを、 「困らせてやれ」  という相談らしい。  自慢じゃないが、わたしは、世界各国語に通じているつもりだけれど、英語とフランス語とロシア語とドイツ語とイタリア語とスペイン語と中国語と朝鮮語がダメなのである。要するに、外国語はぜんぜんダメだ。  が、話すことはダメでも、フランス語ぐらいなら、どうにか聴くことはできる。いや、そのときだけは、竹村さんとモレシャンさんがフランス語で喋っていることがハッキリわかった。  それは、こういうことなのだ。番組がはじまったら、とにかくゲストのわたしにサラリーマン論をぶたせる。そのあとで、竹村さんかモレシャンさんが、 「そういうけれど、どうせサラリーマンなんて、鎖につながれた犬のようなものじゃないですか」  といって、わたしのサラリーマン論に水をぶっかける算段だった。  そこで、わたしは、番組がはじまったとたんに、言ったものだ。 「サラリーマンて、なんだろう? わたしに言わせると、サラリーマンとは鎖につながれた犬のようなものであります。早い話が、ネクタイは犬の首輪でしょう。では、なぜ犬は鎖につないでおかなければならないか?」  話は、たったこれだけのことだ。が、わたしは、いまでも、あのときの竹村さんとモレシャンさんの、 「やられたァ」  という表情を忘れることができない。竹村さんやモレシャンさんにしてみれば、 「出端《でばな》をくじかれた」  といったところであろう。  その竹村さんに、このあいだ、久しぶりで会った。なにかのパーティで誰かと談笑していた竹村さんが、知らん顔をして通りすぎようとしたわたしをみると、 「やあ!」  あの人なつっこい調子で、ウイスキーグラスを上げてみせたのである。  あとにも先にも、竹村さんに会ったのは、あのテレビに出演したときだけなのに、テキも、こっちのことを覚えていたのかもわからない。  ありゃあ、犬だったら、何だろう?   昔のあいつ  M紙をひろげているうち、久しぶりに彼の署名入り記事をみつけて、 「やあ、やっと本社へ戻ってきたか」  わたしは、思わず声をあげていた。彼は、わたしが小さな新聞社でデスクをやっていたころの部下である。  なかなか気骨のある男で、デスクであるわたしが彼の原稿に手を入れるのを脇でじっと見守っていて、少しでも文章をいじくろうものなら、 「どうして、そこがいけないんですか?」  と訊《き》いてきた。こういうとき、時間がないデスクのセリフは決まっていて、 「うるさいッ! 活字になってから文句を言え」  と、ただもう、それだけである。  そのうちに、彼は、わたしが勤めているような小さな新聞社には飽き足らなくなったのか、わたしたちに内緒で全国紙であるM紙の試験を受け、めでたく合格し、やめていったのだった。まあ、わたしが勤めていた新聞社は、いわゆる東京ローカル紙で、発行部数も少なく、給料も安かったから、わたしたちに、彼を止める権利はない。 「おめでとう!」  わたしたちは、なかば羨望《せんぼう》をこめて、彼を送りだした。  あれから、何年がたったろう? 大新聞社に入って支局まわりを終えた彼が、 「いつまでもウダツが上がらないのをボヤいている」  という話を聞いたこともある。  そのたびに、 「アタリマエじゃないか」  と、わたしたちは噂《うわさ》したものだ。わたしみたいな人間がいっぱしのデスクとして通用したのも、わたしが勤めていた新聞社が小さかったからで、これが大新聞社だったら、そのころのわたしは、たぶん、いまの彼のようにようやく本社に戻ってきたところだろう。  それにしても、M紙に彼が署名入りで書いているインタビュー記事を読んで、わたしは唖然《あぜん》とした。ひとことで言えば、ある企業のチョウチン記事なのである。 「なんだ、こいつ!」  一瞬、わたしは腹立たしくなり、読みかけの新聞を投げだそうとした。  それというのも、わたしは、デスク時代に同じような取材を彼に命じて、 「イヤです!」  と断られた経験があるからだ。こっちは、べつに、 「ここまでチョウチンをもて」  とあからさまに言いつけたわけではないが、新聞には、 「ゼヒもの」  と称して、たとえばデパートならデパートの催しもののPRを、それとなく手伝うようなことがある。  いまこそ、 「パブリシティ」  とかナンとか称して市民権をもちはじめているけれど、こういうことは、正直な話、みんな、わたしたち小さな新聞社が広告欲しさに考え出してきたものだ。  ナマイキなことを言わせてもらえば、このゼヒものを、 「いかにゼヒものらしくなく書くか」  ということが、わたしたちの腕のみせどころであった。それに、いつもいつもゼヒものばかり載せていたら、逆に信用を失ってしまうだろう。そのへんの判断が、じつは、いちばんむずかしい。  それは、まあ、ともかく——  たまたま彼にゼヒものの取材を命じたところ、彼は、 「イヤです!」  と断った。そうして、 「こんなことばかりしているから、ウチの新聞は、いつまでたっても大きくなれないんじゃないでしょうか」  と言いつのったものだ。 「わかったよ。きみには頼まん」  そのときのわたしも若かった。言い捨てるなり、 「テメエなんか、やめちまえ!」  と怒鳴りつけていたらしい。  それがきっかけで、彼が退社を考えだしたのかどうかは、わたしにもわからない。が、彼が、 「やめたい」  と言いだしたのは、それからだった。  いま、こうして彼が書いたパブリシティを読みながら、いっぽうでは、 「彼は、大新聞ならこういう記事を書いても恥ずかしくないと思っているんだろうか」  と考え、いっぽうでは、 「いや、彼もオトナになったんだ」  と考える。どうも、昔の部下ってやつは、よくもわるくも気になるものだ。   中学生の作文  ウソかホントか知らないが、現代は新聞批判の時代なんだそうである。ある新聞の社説に、 「いまは新聞批判の時代といわれる」  と書いてあったから、たぶんホントなんだろう。 「なぜ新聞批判なのか」  と、その社説は書いている。このあいだの新聞週間のことである。 「その一つは新聞のもつ強大な権力に対する庶民の恐れであり、いま一つは新聞の行き過ぎ、独善と偏向にたいする読者の怒りと反発であろう」  失礼ながら、 「ワカッテルジャナイカ」  といった感慨しか湧《わ》かない。言っちゃナンだが、これだから、新聞の社説は面白くないのである。  ナンデモワカッテイルつもりの新聞は、その批判の内容を、 「まず第一の批判は、新聞は真実を伝えているかということだ」 「第二は新聞の過剰なセンセーショナリズムへの批判だ」 「第三は報道面と社説、論評面の乖離《かいり》についての批判だ」 「第四は新聞は世論を代弁するものか、それとも世論を形成するものかという疑問だ」 「第五は新聞にありがちな建前論やないものねだり的な理想論に対する批判だ」  と分析してみせ、 「さて新聞はこうした読者からの批判にどうこたえるか。一番大事なことは批判を無視してはならないということだ。こうした態度は、言論の自由の上にあぐらをかいた新聞の驕《おご》りと、読者にうつるのであろう。  わたしたちはまず、この批判に謙虚に耳を傾けたいと思う。そしてその反省の上に立って、新聞の原点とはなにか、新聞の使命とはなにか、その使命を果たすために新聞はどうあるべきかを、真剣に考えたいと思う。新聞は真実を伝えているか、論調に偏向はないかという読者の問いに、現実の紙面の上でこたえていきたいと思う。  新聞はいま、あり余るほどの自由を満喫している。そしてこの言論の自由は当分侵されることはあるまい。もしこの言論の自由が崩れるとすれば、それは社会の公益としての使命を忘れた新聞の暴走以外にはない。そういえばきょうから、新聞週間がはじまる」  と書いている。ホント、うつしているうちにバカバカしくなってしまったが、これがいいトシをした人間の書く文章だろうか?  だいいちに、なにが「そういえばきょうから、新聞週間がはじまる」だ。この社説を書いた記者は、はじめっから、 「その日が新聞週間の第一日だ」  ということを知っていたにちがいない。いや、知っていたからこそ、この社説を書いたのだろう。  それなのに、 「そういえば……」  と書いて、さもいま気がついたようなフリをし、気の利いた結びのつもりでいる。シラケも、いいところだ。  それにしても、ものごとを批判ばかりしているせいか、新聞は、批判されることがヘタだ。批判されると、すぐムキになって、こんな中学生みたいな作文を書く。 「さて新聞はこうした読者からの批判にどうこたえるか。一番大事なことは批判を無視してはならないということだ」  くり返すようだが、 「アタリマエじゃないか」  と言いたい。アタリマエすぎて、おかしくもナンともない。  しかもなお、この社説は、その前に、 「つまり新聞に求められているのは、厳しい現実を直視した上での、具体的かつ現実的な提言であって、美しい言葉で飾られた建前論や、ないものねだり的な空想的理論ではないはずである」  と書いているのである。これこそ「美しい言葉で飾られた建前論」以外の、なにものでもないではないか。  会社にも、こういう奴がいる。会議のときなんか、わざわざ発言を買って出て、誰にも反対できないようなわかりきったことをグダグダと述べて、得意そうな顔をしている奴がいる。  たいがい、社長だ。社長じゃなきゃ、副社長か専務だ。副社長か専務でなきゃ、常務か部長か課長で、まさか係長でこんなバカなことを言う奴はいないだろうな?  こういうことは、 「なにも言いたいことがないのに、なにか言わなければならぬ」  というときに、間々起こりがちだ。それをやめさせる方法は、一つしかない。会議そのものをやめてしまうことである。   プロかアマか  電話がかかってくる。編集者からの電話である。 「青木先生のお宅ですか?」 「そうです」  恥ずかしながら、これでも「先生」と呼ばれるのである。当初のうちは、 「先生なんてシロモノじゃありません」  と、バカの一つ覚えみたいにこだわっていたが、お隣の中国で「先生」というのは単なる敬称だ——と知って、諦《あきら》めることにした。  そんなわけで、 「青木先生ですか?」 「そうです」  と、ここまではいいのだけれど、なぜか編集者たちは、その次に、 「お父さん、いますか?」  と言うのである。たしかに、わたしの父は八十歳を越えてなおカクシャクとはしているが、歩いて十五分ぐらいのところに住んでいるので、電話口に呼ぶわけにはいかない。  そこで、 「いません」  と答えることになる。いないものは、いないのだ。  ひょっとしたら、 「お父さん」  というのは、 「このわたしのことかな?」  と思わないことはない。が、わたしの文章を少しでも読んでくださっていれば「わが家に息子はいない」ということぐらいわかっているはずである。  まして、電話をかけてくるのは、プロの編集者だろう。かりに、 「お父さんいますか?」  という電話に、わたしが、 「オレのことかな?」  と答えてから、 「娘ばっかり持った父親として、コレコレコウイウコトにコメントを……」  と言われて、マトモに答えられるものか、どうか? ホント、ジョウダンも休み休み言ってもらいたいものである。  それにしても、編集者からの電話は、ほとんどが、いわゆる「コメント」というやつである。ひょっとしたら、 「わが家は覗《のぞ》かれているんじゃないのか」  と思うくらい、わたしがメシでも食べようとテーブルについたとたんにかかってくる。  そこで、 「お父さん、いますか?」 「いません」  という会話も、理解していただけようというものだ。わたしとしても、べつにウソをついているわけじゃない。  森村|稔《みのる》さんの快著『頭の散歩』(産能大出版部)を読んでいたら、 「たまに週刊誌などの記者からインタビューされることがあった。そんなとき、くどくどしい説明は省いて、あらかじめ考えておいた見出しになりそうな短い語句を、二、三さりげなくつぶやいてみたりする。記者はサッとメモをし、翌週の誌面にそのフレーズが使われる。  いたずら半分の、これも広告的プレゼンテーションであった」  という文章にぶつかって、 「あ、やってる、やってる」  と思った。わたしも、これで、もとは新聞記者で、デスクをやったこともあるから、コメントを求められれば、それはそれなりにまとめられるよう、きちんと喋ることを心がけてきた。  ナマイキなことを言えば、わたしが喋ったことをそのまま原稿にすれば「それで、記事になる」といったふうなサービスをして差しあげるのである。言っちゃナンだが、新聞や週刊誌の談話は、せいぜいが十行か二十行なので、こっちは、電話を早く切り上げるためにも、余計なサービスをする。  ところが、ちかごろの編集者諸君や記者諸君は、どうも、それだけでは物足りないらしい。テニヲハひとつまちがえないように喋って、 「じゃ……」  と言うと、 「そのほかに、なにか……」  とくる。そうして、それからのグダグダが長い。  それこそベテランの記者なり編集者なりは、サッと電話を切ってくださるが、若い記者や編集者にかぎって、 「そのほかに、なにか……」  と、心細げにつぶやいている。しかも、こっちは、そういう新人の記者諸君、編集者諸君だからこそ、 「簡潔に、相手がまとめやすいように」  と、かなり無理をしているのだが……。   いいなあ、君  昔っから、 「隣の花は赤い」  という。他人のことはよく見えることのたとえである。  宮仕えの身からみれば、自由業という名の不自由業に属しているわたしなんぞも、けっこうよく見えるらしい。ときどき羨望めいたことをいわれる。  このあいだも、サラリーマンをやっている友人に、 「いいなあ」  と言われた。 「なぜ?」 「だって、きみは、働けば働いただけカネになるじゃないか。サラリーマンは、そうはいかない」  そこで、 「バカな!」  と、わたしは答えた。 「きみたちのほうこそ、いい身分だと思わないか」 「なぜ?」 「だって、きみたちは、働かなくてもカネになるじゃないか。われわれ不自由業者は、働かなければカネにならない」  言いながら、 「ちとキツいかな?」  とは思ったけれど、売り言葉に買い言葉である。彼が、理由もなく他人を羨《うらや》むからいけない。  サラリーマンをやめて辛いのは、仕事をサボることができなくなったことである。サボれば、テキメンにメシの食いあげになっちまう。  サラリーマン時代は、 「たとえ二日酔いでも、会社へ来い」  と、部下たちに言い聞かせてきた。仕事ができるような状態でなくても、サラリーマンにとっては、 「出社する」  ということが大切だった。  それが、サラリーマンをやめたら、 「たとえ二日酔いでも、仕事場へ行くだけは行け」  というわけにはいかない。二日酔いで誰かに会おうものなら、イッパツで仕事がなくなってしまう。  いま思うと、 「サボる」  ということは、サラリーマンだから、できたことだった。サラリーマンは、仕事をサボッて、たとえばクビになったところで、サラリーマンをやめればそれで済むが、自由業という名の不自由業者がサボッて仕事を失った場合は「サラリーマンに戻ればいいじゃないか」ということにはならない。 「働かざる者、食うべからず」  と言ったのは、たしかマルクスだったと思う。よく知らないが、聖書のなかのパウロとやらも、 「働きたくない者は食わなくてもいい」  と言っているそうな。社会主義者も、キリスト教徒も、同じようなことを言っているところが、おかしい。  あれは『子供と私』というテーマで、コメディアンのUさんの家を訪ねたときだった。わたしが社会部記者のころだから、二十年以上も前のことだ。 「大きくなったら、何になりたい?」  という質問に、息子さんが、 「お父さんみたいなコメディアンになる」  と答えたのを聞いて、Uさんが飛びあがって喜んだ。 「息子も、どうやら親父の仕事を理解してくれているようです」  ところが、 「なぜ?」  と、わたしが訊いたら、息子さんは答えたものだ。 「だって、お父さんは、毎日のようにテレビに出て遊んでいるじゃないか。遊んでおカネがもらえるなら、こんなにいいことはない」  いやあ、その言葉を耳にしたときのUさんの悄気《しよげ》ようといったら、なかった。ちょっと前に、 「息子も、どうやら親父の仕事を理解してくれているようです」  と、飛びあがって喜んだだけに、切なかったろう。 「働く」  という字は、日本人がつくった�国字�だそうだ。人が動けば「働く」で、 「人間は、生まれたときに、すぐ動くでしょう? 体を使うことは、本能的に楽しいことなのですよ」  と言う学者もいるほどだ。  サラリーマンをやめるために働くのか? サラリーマンをやめたから、働くのか? それが、問題じゃ。   いつでも夢を [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰将来の幹部要員かブルー要員かをよく見きわめること。どっちも必要。 ㈪田舎者(地方大学出身者)はじっくりていねいに面接してやること。 ㈫運動部の選手やサークルリーダーは望ましいが、選手馬鹿、軽薄な世話好き、乗せられ型は不採用。 ㈬十年後の健康状態を想定して採用を決定すること。肥満体は避ける。精神面のバランスにも配慮。 ㈭外見にごまかされるな。ただ元気なのはダメ。 ㈮頭デッカチは不要。人間味が大切だ。 ㈯語学ができるからといって安易にプラスイメージをもつな。 ㉀感受性豊かで、情況に応じて柔軟な対応ができる人間が望ましい。 ㈷創造的な能力があるか。 ㉂就職に対して夢をもっているかどうか。 [#ここで字下げ終わり]  というのが、一部上場企業三社の人事担当者が学生を面接する折りに片時も離さないチェックポイントの共通項なんだそうな。ある週刊誌が、 「極秘に入手した」  という�メモ�である。  ご丁寧に、 「田舎者」 「選手馬鹿」  というところには、原文のままであることを示す「ママ」というルビまでふってある。週刊誌としては、痛くもない腹を探られないために、大いに気をつかってみせたところだ。  それにしても、この十項目、じつによく新入社員採用の際の企業のエゴを表現しているとは思わないか? すくなくとも大学でいい気になって遊んでいた連中に水をぶっかけるぐらいの効果はある。  とくに第一項目の、 「将来の幹部要員かブルー要員かをよく見きわめること。どっちも必要」  というところが、気に入った。企業にしてみれば、会社の将来を背負って立ってくれる幹部候補生も必要なら、同時に、万年ヒラか精々が係長どまりの飼い殺し社員も必要なのである。  件《くだん》の週刊誌は、 「高卒の人材が確保しにくい現状からいって、その代替労働力として大卒を採用しているフシがありますね」  という識者の言葉を紹介していたけれど、まさにその通りだ。企業としては、ネコもシャクシも必要なのに、当節はネコもシャクシも大学へいきたがるんだから、仕方がない。  それこそ、 「大学を出たから……」  といって、はじめから幹部への道が開かれているわけではない。ご当人はそのつもりでいるかも知れないが、会社のほうでは、とっくの昔にその道を閉ざしてしまっている場合だってありうる。  これが、会社に入って、何年かたって、いろいろ仕事をやってみたが、なにかとうまくいかなくて、 「それで、万年ヒラか精々が係長どまり」  というんなら諦めもつくけれど、採用の段階でそのことが決まっているとは知らなかった。企業にしても、当初は万年ヒラか精々が係長どまりのつもりで採用した人間が、意外や意外、図らざる能力を発揮して、 「ウーン、こいつは大物だァ」  ということになったところで、会社のほうでは、思わぬトクはしても、いっこうにソンはしないんだから、まことに都合がいいわけだ。  しかし、そんなこととはツユ知らず、マジメに、 「幹部への道が開かれている」  と信じて、入社を希望する連中こそ哀れだろう。それも、 「大学さえ出れば……」  と思ってきたネコやシャクシに、そういう手合いは多いのではなかろうか?  生まれたときから、 「チョウよ、花よ」  と可愛がられ、親父やお袋が汗水たらして働いたゼニで、適当なランクの大学へ入れてもらったのに、 「大学へ入ってやった」  と、エラそうな顔をした結果が、これである。こいつら、マジメにそう思っているだけに、そうして、入社試験のときにはマジメにいいところをみせているだけに、ホント、ご苦労なことである。  それはそれとして、 「人事担当者にも、年頃の子供がいるだろうに……」  というのが、わたしの偽らざる感想だ。そういう彼らが十番目にチェックするのが、 「就職に対して夢をもっているかどうか」  というんだから、おかしい。   憎悪の軌跡  小学生の娘のテストの成績が悪いので、お兄ちゃんと比較して、 「ダメじゃないか」  と叱ったら、 「新聞を読んでないのか」  と反撃された——という話を聞いた。その小娘は、 「金属バットぐらい、あたしだって持ってるんだゾ」  と言ったそうな。  一九八〇年(昭和五十五年)の暮れに川崎で起きた次男坊の両親殺しほど衝撃的な事件を、わたしは、知らない。それが、ごく普通のサラリーマン家庭で起きただけにショックは大きかった。  警察に留置された次男は、カップラーメンを出されて、 「これは、どうやって食べるのかな?」  と、同房の�先輩�に作り方を教わったらしい。刑事に言わせると、 「家では何もしていなかったのではないか」  ということだ。  言っちゃナンだが、よっぽど過保護に育てられたらしい。そのことを報じた新聞を読みながら、 「セガレに、カップラーメンの作り方ぐらい教えておけよ」  と、細君に言いつけたサラリーマンもいるようだ。細君が、 「あら、どうして?」  と訊《き》いたら、 「両親を殺して警察に捕まったとき、みんなに笑われたら可哀そうじゃないか」  と答えたそうな。  こういうのを、 「ブラックユーモア」  というんだろうか? わたしだったら、犯人である次男に、  ボク 食べるひと  アタシ 作るひと  というCMを教えて、 「きみ、テレビも見なかったの?」  と質問してみたいものだ。  ところで、 「殺された両親が寝室を別にしていた」  ということが、わたしには哀れだった。このわたしも、何年か前に読んだ婦人雑誌に、 「寝室を別にしている夫婦は、離婚する」  と書いてあったのを読んで、それを楽しみに女房とは寝室を別にしたのだが、殺されたサラリーマン夫婦も、あの記事を読んだのではなかろうか?  それにしても、殺されてしまっては、離婚もできまい。俗に「死ぬ者、貧乏」というけれど、殺された者のほうが、もっと貧乏である。  ご主人が会社の帰りに毎日のように飲み屋に通っていて、 「そこのお内儀《かみ》に懸想していた」  という話も、泣かせる。これこそ、まさに典型的なサラリーマンの姿だ。  胸に手をあてて考えるまでもないが、わたしだって、いつもの店で飲んでクダまいて、そこのお内儀に、 「な、いいだろ?」  というぐらいのことは言っているにちがいない。ま、彼みたいに、その亭主だか、当のお内儀だかが、 「困ります」  という電話を細君にかけてくるほどシツコくはないが……。  しかし、いかに養子とはいえ、女房持ちのサラリーマンが、亭主持ちのお内儀をつかまえて、 「な、いいだろ?」  と言うのは、よくよくのことである。なにかがあって、自分の細君には、 「な、いいだろ?」  と言えなかったのだろうと思う。  ときに、サラリーマンが自分のカミさんに向かって、 「な、いいだろ?」  と言うときは、 「セックスそのものをしたい」  ということもあるかも知れないが、ほとんどが、 「甘えたい」  というときではなかろうか?  外で面白くないことがあった駄々っ子が、家に帰ってオフクロに甘えるように、会社でつまらないことかなんかあって、 「な、いいだろ?」  となるのである。かりに、彼が、そんなとき、細君に「次男が、まだ勉強してるから……」とかナンとか言われて、テイよく断られたら?  ——次男の父親に対する殺意は、同時に、父親の次男に対する憎悪の反映ではなかろうか?  サラリーマンたる者、うっかり女房に甘えることもできない。   夫の可能性  息子の担任に、 「お宅のお子さんは、主要教科もたいしたことはないし、体操もヘタだし、発表能力もないようだし……」  と言われて、恵子さんはカッとなった。そうして、気がついたら、 「そうでしょうか」  と、反論していたのである。 「でも、算数の計算も好きですし、詩を書くのも、楽しそうにやっています。それに、たとえヘタでもサッカーに大張り切りで出かけていますわ」  恵子さんが息子の道夫くんのいいところを並べたてれば並べたてるほど、若い担任の先生は冷やかに、 「いいえ、ダメです。なにしろ、テストの点に結びつかないんだから、どうにもなりません」  と言い放って、 「ま、親の欲目からみれば仕方がないことかも知れませんけど」  と笑うのだった。  一人息子の道夫は、小学校四年生。学校としても、 「そろそろ進路を決めたら……」  というので、父兄の個人面接が行われたのだった。  その夜、恵子さんは、プンプンになっていて、 「ただいま」  夫の剛が帰ってくるのを待ちかねるようにして、 「あなた」  と呼びかけた。そして、 「あたし、きょう、学校で、ひどい目に遭ったわ」  と、ことのテンマツを語って聞かせたものである。 「ウム」  うなずく夫に、 「ねえ。子供は、もともと可能性のかたまりのようなものでしょう? いまは眠ったような子供でも、やがて目ざめれば活発に動き出して、本領を発揮するわよ、ねえ」  と畳みかけて、 「それなのに、あの先生ったら、あんまりだわ。PTAで問題にしてやろうかしら」  と、いきまいた。  その見幕に、 「おい、おい」  夫の剛も呆《あき》れて、 「いい加減にしないか」  と苦笑しながら、 「さ、そんなことより、飯だ。ハラが減ったよ」  と言ったから、たまらない。恵子さんのヒステリーが爆発して、 「なんです、あなたまでが道夫のことをバカにして……」  と、それはもう、大変だ。 「……」  絶句している剛に、 「あなたが、そんなことだから、道夫までがいじけてしまうんだわ」  と言いつのって、 「そりゃあ、あなたは会社で精々が課長どまりかも知れないわよ。でも、息子の道夫にだけは、そんな人間になってもらいたくないから、あたしたち、いっしょうけんめいなんじゃないの!」  これには、さすがに大人しい剛も怒り出して、 「きみィ、言いすぎだよ」  剛の上衣《うわぎ》を脱ぐ手が止まった。そうして、 「道夫のことを、もともと子供は可能性のかたまりでしょって言ったのは、誰だい? きみじゃないか。そのきみが、夫であるボクのことを課長どまりとキメつけている。それじゃあ、ボクにはまるっきり可能性がないみたいじゃないか」 「……」  こんどは、恵子さんが黙る番だった。恵子さんにしてみれば、日頃は無口な剛が、こんなに喋《しやべ》りまくるとは、夢にも思っていなかったのである。 「学校の先生に、子供がダメだと言われたのを、そうじゃないって否定するのは、たしかに親心さ。そうして、そんな子をなんとか温かくみつめてやるのが、親の義務であることは、わかる」 「……」 「しかし、その子の母親が夫のことを課長どまりとキメつけておいて、ホントに子供のことを温かくみつめていくことができるだろうか? まず母親がやることは、夫のことを温かくみつめることじゃないのかね?」  正直な話、恵子さんは、久しぶりに夫の肉声を聞いたような気がした。そうして、 「ゴメンナサイ、とにかく一杯つけるわ」  と、台所へ走ったのだった。   笑いの頻度《ひんど》  小説家の城山三郎さんに『毎日が日曜日』という傑作があるのは、ご存じだろう? 商社を舞台に、サラリーマンの生きがいを描いた作品である。 「サラリーマン必読の書」  と、わたしなんぞは信じている。そうして、サラリーマンたる者、サラリーマンたろうとしている者に、 「読め、読め!」  片っ端からすすめている。  そうしたら、この小説を読んで、 「主人公がちっとも笑いませんねぇ」  と声をあげたのは、わたしの若い友人である。言っちゃナンだが、ずいぶんヘンなところに目をつけたものだ。  しかし、彼に言われて、改めて『毎日が日曜日』を読んでみると、文庫本で五百ページにのぼる小説の中で、ホントに主人公の沖直之が笑ったのは、十回だけだ。それも、うち五回は苦笑である。  ——沖直之。  扶桑《ふそう》商事に勤める中年のサラリーマンだ。長い海外駐在ののち、京都支店長として単身赴任する。それは、栄転ではなく、左遷にちかい。彼は、不本意な閑職に追われたのである。  そのとき、同期の情報通に浴びせられたのが、 「これからは、毎日が日曜日だな」  というジョウダンであった。この小説はその沖直之の日々を追う。  そこで、主人公・沖直之が実際に笑う場面を新潮文庫で捜したら…… 〈沖の視線を感じたのか、美保がいった。 「わたしに何か……」 「いや、何でもない」 「おかしなひと。ひとの顔見て、うす笑いしてなはる。泣いたんで、ばかにしてはるんでしょ」  沖はとり合わなかった。ふたたび、笹上のことを考えた。  だれとも、まるで口をきくことのない生活。たとえ毎日が日曜日だとしても、そこに、たのしみがあるものなのだろうか〉  呆れたことに、一九二ページから一九三ページにかけて主人公が不遇な先輩・笹上と京の芸妓・美保との縁談を思いついたときに浮かべる�うす笑い�が最初で、それからは、 「苦笑した」(二七八ページ) 「苦笑しながら」(三三一ページ) 「微笑して、きき流した」(三三三ページ) 「苦笑した顔を見合わせた」(三三八ページ) 「(三人は、)弱々しく笑った」(三四八ページ) 「失笑した」(四四五ページ) 「苦笑して」(四五一ページ) 「(父子は)笑った」(四六〇ページ) 「苦笑した」(四六八ページ)  といったふうに、まさしく計十回だけ。しかも笑ったのは家族を相手に六回、先輩の笹上を相手に三回、京の芸妓を相手に一回で、沖は現役の上司や同僚を相手に一回も笑っていないのである。  正直な話、若い友人にそのことを指摘されて、わたしは「そんなものかなあ」と、ビックリした。そうして、たちどころに「そうなんだ!」と、膝《ひざ》を叩いていた。  わたし自身のサラリーマン時代を振り返ってみて、わたしは二十年のあいだに、大事な場面で、この主人公ほどに笑ったことがあるだろうか?  ない!  ないのである。  それこそ、昔は、 「男は、年に片頬」  といったものだ。いや、ことわざ辞典などによると、 「男は、三年にいちど笑う」  というくらいのものだ。  ことほど左様に、男は、つまり、武士は、すなわちサラリーマンたちは笑わなかった。ホント、年に一度か、三年に一度、それも、片頬だけで、 「フン」  と笑えば、それでオシマイだったのだ。  もういちど正直な話、こういうことを考えただけでも、城山さんの小説『毎日が日曜日』が傑作である所以《ゆえん》がわかるだろう。意識していらっしゃるか、意識していらっしゃらないかは知らないが、そういう意味からも、城山さんは、この小説で、 「サラリーマンの生き方」  というものを問おうとしていたのではあるまいか。  それにしても、ちかごろのサラリーマンたちの、よく笑うこと! バカみたい。   ランチ人間台頭す  いつも、 「仕事か? 家庭か?」  ということがモンダイになる。そのときもモンダイになった。  これからのサラリーマンは、仕事人間であるべきか? 家庭人間であるべきか?  わたしは、 「どっちでもいい」  と思っている。言っちゃナンだが、このわたしには、どうも、この「二者択一」というやつが苦手だ。  だいたいが、 「シロか? クロか?」  というふうに人間を分類することからして間違っているのではないか。誰かみたいに、外見は仕事人間でも、 「ホントは家庭人間だ」  という奴もいるだろうし、また誰かみたいに、ちょっと見は家庭人間でも、 「ホントウは仕事人間だ」  という男だっているのである。  ところが、そのとき、こんなエピソードを聞いた。話してくださったのは、偶々《たまたま》居合わせた大手のスーパーマーケットの女性店長さんである。 「従業員の研修をやるでしょ? そんなとき、男子の場合は三つぐらいのタイプに分けられるけれど、女子の場合はそうはいかないのね。女子は、一人ひとり個性をもっていて、まず、それを見分けるのが人事管理のコツなんです」  男子のタイプについては、たとえば、こんなふうに分けられるそうだ。  ㈰仕事人間 どちらかというと、仕事を生き甲斐《がい》と考えて、自分の全人格を会社に捧げるつもりでいる。  ㈪家庭人間 どちらかというと、マイホームを大切にして、会社における立身出世は二の次である。  ㈫どっちつかず人間 仕事の励み具合も適当だし、さりとて、そんなに家庭を大事にしているわけではない。時と場合によっては、どちらにもなる。 「なんだか、社員食堂の定食みたいな分け方だなあ」  思わず叫んだわたしに、件《くだん》の店長さんが言ったものだ。 「そうなんです。男子は、みんな定食なんです。さしずめ仕事人間はAランチ、家庭人間はBランチ、そして、どっちつかず人間はCランチかな?」  その点、女子の場合は、こんなふうに簡単には分けられないらしい。それぞれが個性をもっていて、 「それこそ、適材適所ということが大きな意味をもってくる」  ということだ。 「もっと具体的にいうと、男子の従業員は容易に鋳型《いがた》にハメこむことができるけれど、女子の従業員はなかなかハメこむことができないのね。ロイヤリティーについての考え方だって、一人ひとり別々だし……」  聞いているうちに、わたくしは、唐突に、 「幸福な家庭はみな一様に幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」  という文豪トルストイの言葉を思い出していた。つまり、わたしは、このトルストイの言葉を、胸のうちで、 「男のサラリーマンはみな一様に男のサラリーマンであるが、女のサラリーマンはそれぞれに女のサラリーマンである」  というふうに言い換えて呟《つぶや》いたのだ。  じつのところ、女性が職場に進出するようになって、 「久しい」  と書くべきか、 「まだ年が浅い」  と書くべきか、わたしは悩んでいる。それというのも、わたしは、この女性店長さんの鋭い分析に感銘を覚えたものの、 「職場にあって、女性が一人ひとりの個性でいられるのは、女性が職場に進出するようになって、まだ年が浅いからではないか?」  といった疑問を、どうしても拭うことができないからだ。  正直な話、あと何年かたって、女性が就職するのがアタリマエのようになり、差別が撤廃されて、 「職場に、男性も女性もない」  という時代がきたとき、女性たちは、いちはやく定食ランチになりおおせてしまうのではないか? そうして、そういうことにかんしては、女性のほうがバツグンにすぐれているのではないのか?  かくて、この世は、男も女も、 「ランチA」「ランチB」「ランチC」  といった人間に仕分けされ、ランクづけされる。そして、それを誰かがみてホクソ笑んでいる。そんな時代が近いように、このわたしには思えるのだが……。   なぜネクタイか  オヤジのところに年始に行こうとして、ネクタイを締めながら、 「こうやって、ネクタイを結ぶのも、久しぶりだなあ」  と呟いたら、女房に笑われた。女房に言わせると、 「あら、イヤだ。きのうも締めていらしたじゃアありませんか」  ということだ。  そう言われれば、そうだ。きのうは、お世話になったひとのところへ挨拶に出かけたのだけれど、そのときも、たしかにわたしはネクタイを締めていた……。  それなのに、いま、こうしてネクタイを締めながら、不意に、 「こうやってネクタイを結ぶのも、久しぶりだなあ」  といった感慨が浮かんできたのは、なぜだろう? わたしは、ネクタイを結ぶ手を止めて、しばらくボンヤリした。  ——サラリーマンをやめて、五年になる。自分の意志でなったサラリーマンだが、やめるときは、自分の意志ではなかった。会社が身売りをしてしまったのだ。  新しい経営者に、 「やめてくれないか」  と頼まれて、 「いいですよ」  二つ返事で引き受けた。わたし自身は定年まで勤めるつもりだったのだが、会社のほうで、 「要らない」  というんでは仕方がない。  それだけに、サラリーマンであることに未練が残っているのだろう。会社をやめてからも、わたしは、つとめてサラリーマンふうであろうと心がけてきた。  たとえば、ひとと会うときに、いまでもバカの一つ覚えみたいに、  ㈰ クツは磨かれているか  ㈪ ズボンの折り目はついているか  ㈫ ワイシャツの襟《えり》や袖口は汚れていないか  ㈬ ヒゲは剃《そ》ってあるか  ㈭ 髪の毛は乱れていないか  ㈮ ツメは伸びていないか  といったことをチェックするのだが、これなどもサラリーマン時代からの習性だ。そうして、これらのことは、もちろん、背広を着て、ネクタイを締めてからの作業である。  じつは、このネクタイがうまく結べない。なにごとも、 「初めが肝心」  というけれど、わたしに初めてネクタイの結び方を教えてくれたのは、明治生まれのオヤジである。しかし、このオヤジは商人だったから、めったなことではネクタイなんか締めなかった。  そんなオヤジにネクタイの結び方を教わるわたしもわたしだが、いまにして思えば、あれは、オヤジに対して、 「おかげで、オレも社会人になれたよ」  というメッセージだったはずだ。オヤジもエラそうな顔をしてわたしにネクタイの結び方を教えることで、 「よかったな」  ということを告げていたにちがいない。  だから、わたしは、オヤジに教わった武骨な、そして、旧式なネクタイの締め方に、ずっとこだわってきた。のちに、ネクタイ売り場でシャレたネクタイの結び方を教わったけれど、ふと気がつくと、いつのまにかオヤジに教わったとおりの結び方をしているのである。  あのとき、オヤジは言ったものだ。 「勤め人になった以上は、向こうが�やめてくれ�と言うまでは、やめるなよ」  できることなら、兄貴に代わってわたしに店を継がせたいと思っていたらしいオヤジにとって、 「入社試験に合格したよ」  と報告にいったわたしは、いったい、何だったのだろう? まして、たとえ会社の都合とはいえ、二十年足らずで、その会社をやめてしまったわたしは、何なのだろうか?  ネクタイを締めながら、わたしは、 「ネクタイというものを締めなくなった。サラリーマンをやめて、一番変わったことの一つが、それだろう」  という、小説家・赤川次郎さんの文章を思い出していた。赤川さんは、サラリーマンをやめた日からネクタイを締めることをやめてしまったようだが、わたしは、いまだに締めている。  それは、 「サラリーマンをやめたい」  と思ってやめた人間と、 「サラリーマンをやめたくない」  と思ってやめた人間とのちがいかも知れない。わたしは、オヤジへの言いわけのためにも、サラリーマンふうでありつづけねばならぬ。   乗車のテクニック  通勤電車にも、 「乗車のテクニック」  というやつがある。聞けば、アメリカンフットボールの要領なんだそうだ。  とにかく、車内になだれこんだら、すぐに左右の空間を見つけ、それにうまく体をもっていくこと。つまり、乗り際の見きわめが大切で、 「空間が、どのあたりにあるか」  ということを乗ったとたんに判断できるようにならなければならないらしい。  一番手はそれでいいとしても、あとは、まあ、そういうベテランをみつけ、そのうしろについていくよりほかに、しょうがない。この場合は、ひとの流れに順応していくのが第一だ。  それにしても、駅のホームで電車を待つときは、なぜか三列だ。いうなれば、三列縦隊である。  トーゼンのことながら、 「なるべくハジへ行かない」  といったことぐらいは、心得ていたほうがいいだろう。電車になだれこむとき、ハジき出されてしまう恐れがある。  とにかく、つねに三列縦隊の真ん中にいることが、カンジンだ。こういうことは、列に並ぶときから心がけなければなるまい。  真ん中にいれば、電車が入ってきたときに一歩前へ出るだけで、うしろの人間はもちろん、両サイドから押されて、自然になだれこむようになる。あとは、前に述べたように、空間を捜せばよいのである。  しかし、誰か降りる奴がいたら、災難だ。まあ、朝の通勤電車で、あなたが電車に乗るような駅に降りる奴がいることは滅多にないだろうが、そのときは、とっさにそいつがどっちに向いて降りるかを見きわめ、そいつの背中をすり抜けて乗ることだ。  乗ったら、ドアのわきの僅かな空間をめざすのが、最善だろう。なまじ、吊《つ》り皮につかまったりすると、押されるたびに足を踏んばって、かなりのエネルギーを消耗する。  ドアのわきの空間をすすめるのは、ここなら、電車が止まるたびに、ちょいとした足踏みができるからだ。踏んばるのではなく、みずからの意志で足踏みをする。その差の、ちいさくて、何と大きなことよ!  目の前に自分より背の高い奴が立っていたら、これも避けたほうがよさそうだ。背の高い奴に寄りかかられると、ひどく疲れてしまう。  されば、 「逆に背の低いひとのそばは、どうか?」  ということになる。これは、寄りかかるのに、まことに都合がいい。  でも、 「誰かに寄りかかりながら、通勤しよう」  といった考え方は、サラリーマンの風上にもおけない。ときに自分で踏んばっても、前に向かって進むべきだ。  さもないと、会社にあっても、誰かに頼ろうとする。挙句《あげく》は、その誰かがひょいと去ったら、倒れてしまいかねない。  それは、まあ、ともかく、世の中には要領のいい奴がいるものだ。電車を待っているあいだは、三列縦隊の右か左、つまりハジにいて電車がホームに入ってきたときは、真ん中の人間を出し抜いて、スイッと前に出る奴だ。  こういう奴は、会社の人事でも、同僚たちをさしおいてスイッと昇進しているのだろうか? 忌々《いまいま》しいけれども、こういう奴らには叶《かな》わない。  タクシーの運転手にも、こうやって客を拾う奴がいるんだそうだ。信号が赤で、横断歩道の向こうで客が手を挙げている。 「よし」  ということで、信号が青になるのを待って前へ出ようとすると、外側からスイと前に出てきて、客の前に止まる。なんだかトンビにアブラゲをさらわれるみたいで気色がわるい。  だけど、 「こういう奴に限って、かならず事故を起こすね」  というのは、ある老運転手の述懐だった。彼に言わせると、 「そんなことばかりやっていると、隣にダンプがいてもスイと前に出るようになり、ひっかけられる」  ということだ。  なんだか、 「なんとかして同僚を出し抜こう」  と考えているサラリーマンのことを皮肉られたみたいだが、実感である。人間、他人を出し抜くことばかり考えていると、ロクなことはない。  そんなわけで、サラリーマンにとって、通勤電車はサラリーマン生活そのものの象徴だろう。数すくないシート、つまりポストをめざし、しかし、坐れぬままに降りるのだ。   労働者諸君の連帯  郵便に、 「郵便番号を書こう」  ということになってから、かなりの年月がたつ。それでも、まだまだ徹底していないようだ。  べつに、 「書かなければならぬ」  というものでもない。また、かりに書かなくても罰せられるわけではないし、郵便だって届くのである。  郵政省では、 「郵便番号も住所の一部」  と言うが、郵便を出す側の立場からすれば、 「住所を書いたうえに、郵便番号も書かされるのか」  ということになる。郵政省のほうで、あんまり、 「書け、書け」  と言うと、つい反発したくなる気持ちもわからないではない。そして、なにはともあれメンドくさい。  しかし、わたしは、郵便を出すとき、なるべく郵便番号を書くようにしている。郵便番号の書いてない郵便に返事を出すような場合は、わざわざ郵便番号簿で調べて、書くことにしている。 「郵便番号の位置を示す赤いワクは、いかにも情緒がない」  という気がしないでもないが、 「機械読みとりのためには、現在の技術では、あの赤いワクは必要だ」  と聞いて、 「やむをえまい」  と考えている。郵政省の説明によると、現在の機械は、まず赤いワクをとらえて、それからワクの中の番号を読みとるそうな。そして、ワクのないものは、読みとり不能として手分けのところへ流してしまうらしい。  されば、 「あの赤いワクのない郵便物には、郵便番号を書かなくてもよいか」  というと、そうでもあるまい。かりに手分けのところへまわされても、郵便番号が書いてあれば、仕分けるのに便利だろう。  そうだ。わたしは、ここで、それこそ何の気なしに、 「郵便番号が書いてあれば、仕分けるのに便利だろう」  と書いたけれど、郵便を仕分ける側にとって、 「便利だろう」  と思うから、郵便番号を書くのである。これが、郵便番号を書いても、書かなくても、便利さは、 「そんなに変わらない」  というのであれば、わたしは、なにも郵便番号簿を照合してまで、郵便番号を書きはしない。  そこで、 「なぜ、そこまでするか」  というと、 「郵便局で働くひとたちも、われわれサラリーマンと同じ働く仲間だ」  と思うからである。同じ働く人間が、働く仲間に、 「少しでも負担をかけまい」  と努力するのは、これは、トーゼンのことではなかろうか?  よしんば、 「合理化」  ということで機械を導入し、 「げんに働いているのは人間ではなくて機械ではないか」  というジョウダンも成り立たないわけではないが、こういうジョウダンは、例の赤いワクつきの封筒、ハガキを使い、そこに、きちんと郵便番号を書いたうえで、言うことだ。さもなかったら、 「機械を働かせる」  ということにはならない。  ところで、わたしが郵便番号の話をもちだしたのは、あくまでも比喩《ひゆ》だ。なによりも、このわたしは、 「同じ働く人間は、働く仲間に、少しでも負担をかけまい」  ということを言いたくて、これだけのことをつづってきた。  それなのに、たとえば郵政、たとえば国鉄の諸君が、同じ働く仲間であるサラリーマンの迷惑も顧みず、ときにストを行ったりするのは、 「なぜだろう?」  と言いたいのだ。  あるいは、始発駅のバスの運転手が発車直前まで客を乗せることを嫌って、雨が降ったり、風が吹いたりしていても、ドアを開けようとしないのは、 「なぜだろう?」  と言いたいのだ。   三角関係の謎《なぞ》  こんなナゾナゾをご存じか? ひところ、アメリカで流行《はや》ったナゾナゾなんだそうな。  いわく——  医者と弁護士が一緒に食事をとっていた。すると、医者が突然上を向いて、 「ああ、神さま、家内が来ています」  と叫んだらしい。  ——と、弁護士が銃を取り出し、医者を撃った。  さて、 「なぜか?」  というのが、モンダイである。わたくし、このナゾナゾをあっちこっちに吹っかけては、相手が、 「さあ?」  と首をかしげるのを楽しみにしていたが、たまたま、その場に女性がいて、いっぺんに当てられちゃった。  ——というのも、じつはヒントだ。このナゾナゾの答え、こうである。  いわく——  その弁護士は女性で、医者と恋仲だった。そうして、彼女は医者を独身だと信じていたから……。  答えを聞いて、 「ナーンダ」  と言うなかれ。答えを聞いてからなら、誰だって、 「ナーンダ!」  と言うことはデキる。このわたしも、答えを聞いたとたんに、 「ナーンダ!」  と笑ったものだ。  それにしても、われわれは、どうして医者や弁護士というと、 「男同士だ」  と、無意識のうちに思い込んでしまうのだろう? げんに、このわたしも、さるホテルのロビーで、見ず知らずの雑誌の編集者と待ち合わせて、エラい目に遭ったことがある。  待てど暮らせど、それらしき人物が見当たらないのだ。二十分ほどして、ついにガマンできなくなって、 「呼び出してくれないか」  ついに、ボーイに頼んだ。  ——と、目の前のソファで文庫を読んでいた女性が飛び上がって、 「あ、あたしです」  彼女、文庫を読むのに夢中になっていて、このわたしがウロウロしていたのに気づかなかったようだが、それよりもナニよりも、モンダイは、 「編集者」  と聞いて、暗黙のうちに男性を捜し求めていたわたしにあるのだろう。わたしは、わたしへの訪問者が、 「こんな妙齢の女性である」  とは、ついぞ思ってもみなかったのだ。  知らなかったが、この国に登録されている職業は、およそ二百種類ほどあって、そのなかで、 「女性が従事していない」  という職業は、わずか十五種類ほどしかないらしい。その一つ一つを確かめる時間が、いまのわたしにはないけれど、それだけ女性の進出はめざましいのである。これからの職場は、男性も女性もなくなるんではなかろうか?  それは、まあ、ともかく、先程のナゾナゾの答えだけれど、わたしには、もうひとつ解せない。つまり、医者と弁護士と女房は典型的な三角関係だが、 「こういう場合、愛人である女性弁護士が撃ち殺すのは、医者ではなくて、女房のほうではなかったか」  と思うのだ。  それというのも——  ふつう、男同士が一人の女をめぐって争う場合、男は女をやっつけるが、なぜか女同士が一人の男をめぐって争う場合、女は女をやっつけるのである。これは、毎日の新聞記事を読めば、歴然としていよう。  ところが、このナゾナゾは、女が男をやっつけた。そこが、このわたしには、ちょいとわからない。  そう言ったら、さる女性に、 「それは、弁護士が自立した女性だからでしょう」  と、コトもなげに言われたのには、ビックリした。彼女に言わせると、 「これが、かりに細君が逆上して銃を射つなら、愛人を狙ったにちがいない」  ということだ。 「ただし、その場合も、奥さんは専業主婦だと思うわ。だから、愛人も、自我のない女性だったら、奥さんを殺すわよ」  これは要するに、うっかり自立した女性を愛人にしたら、 「大変だぞ」  ということでしょうか?   男のヤル気、女のヤル気  最高裁が、 「定年制の男女差別は許されない」  という判決を下したことについて、 「どう思う?」  と訊かれたから、 「トーゼンのこと」  と答えた。正直な話、こんな結論を出すのに、 「裁判所が何年もかかった」  ということのほうが、解《げ》せない。  失礼ながら、 「裁判所」  というところは、あくまでもタテマエを標榜《ひようぼう》するところだろう。そういうところが、かりそめにも、 「それは、そうだが……」  といったことを言ってはいけない。タテマエとして、 「男女は平等」  と言ってしまった以上は、あくまでもタテマエを通すべきで、まちがっても、 「男女は平等だが、働く者の定年制にかんしては……」  というようなことは言うべきではない。そういうことは、いわゆる識者(?)たちに委《まか》すに限る。  そんなわけで、 「男女の定年制差別は無効だ」  という最高裁の判決については、まったく反対する理由がない。反対する人がいたら、お目にかかりたいくらいのものだ。  しかし、まあ、それだけでは、あまりに芸がないので、  男七三・四六歳  女七八・八九歳  という、日本人の平均寿命をもちだして、 「女のひとのほうが、男に比べて五歳ちかくも長生きしているんだから、いっそ女のひとの定年を延ばしたら、どう?」  と、バカなことを申しあげた。かりに、男の定年が五十五歳、女のひとの定年が五十歳だとしたら、男の定年の五十五歳はそのままにして、 「いっそ女のひとの定年を六十歳にしてしまう」  というわけである。  ホントのことをいうと、このほうがバランスがとれるのではなかろうか? 働く女のひとにしてみても、そのほうがずっと働き甲斐《がい》もあるだろう。  だいたい、 「働く女のひとの定年は、男のそれよりも早くていい」  という意見の根拠は、 「女性の生理機構は、一般に男性より劣るから……」  というものであろう。そのために、 「定年に五歳程度の差をつけても、けっして不当な差別ではない」  と考えてきたのだろう。  それが、いかにデタラメか——は、いまさらのように平均寿命をもちださなくてもわかるだろう。ウチのおじいちゃんとウチのおばあちゃんを比べれば、ウチのおばあちゃんのほうが、はるかにしっかりしている。  それも、これも、いままで、 「女性の生理機構は、一般に男性より劣るから……」  と、バカなことを信じて、男がシャニムニ働いてきたからだ。いつまでも、そんな屁《へ》みたいなことにかかずりあわないで、 「女性の生理機構は、べつに男性と比べて劣らない」  ということを、いや、いや、 「ひょっとしたら、女性の生理機構のほうが男性よりすぐれている」  ということを認めたら、いい加減、ツッパッて生きていくのがアホらしくなるのではなかろうか?  その結果、男性のほうも、すこうしラクになったりして……。  その結果、男性のほうも、すこうし長生きになったりして……。  それにしても、モンダイはヤル気だろう。経営者たちは、 「ホントのことをいうと、女のひとは三十歳ぐらいになると、すぐにヤル気を失っちゃうから、困るんだよ、ね」  というけれど、そういうことなら、男だって、同じことだ。男が、これまでヤル気があるようにみせてきたのは、ヤル気がなければバカにされてきたからで、これからは女のひとだって、 「ヤル気がなければ、バカにされる」  ということになったら、きっとヤル気をみせるだろう。  そのことで都合がわるくなるのは、ヤル気がないのにヤル気があるようにみせてきた男たちと、ホントにヤル気のない一部の女だけである。   粗大ゴミ  いつも、ジョウダンに、 「亭主をゴミみたいに扱うな」  と言ってきた。女房のやつ、休みの日にテレビを見ようと思って、ドッカリ腰をおろすと、なぜか掃除機をもってきて、 「ジャマジャマジャマッ」  と、追い払おうとするからだ。  もちろん、ジョウダンである。いくらなんでも、サラリーマンの細君で、テメエの亭主のことを、 「ゴミだ」  と思っている人は、いないだろう。  ところが、このあいだ、ある新聞を読んでいたら、評論家の樋口《ひぐち》恵子さんが、 〈人生八十年時代、働く以外に趣味も喜びもなく、自分の身の回りの始末できぬ定年後の夫たちを「粗大ゴミ」と呼ぶ老妻たちがすでにあらわれている〉  と書いているのにぶつかって、キモを潰《つぶ》した。まさに、 「ジョウダンじゃないッ!」  と叫びたいような心境である。  自分たちが、 「ゴミ扱いするな」  と言っているときはジョウダンで、女のひとに、 「粗大ゴミ」  と言われたとたんに、 「ジョウダンじゃないッ!」  と言うのは、どうやら手前勝手みたいな気がする。こんなこと、樋口さんに言おうものなら、 「あら、これもジョウダンよ」  と、一笑に付されるだろうが、この国の女性たちのなかには、ジョウダンがわからないひとがいるノダ。  まして、樋口さんみたいに、美人でアタマのいいひとに言われると、不美人でアタマのわるいひとたちまでが、 「そういえば、ウチの亭主は粗大ゴミそのものだなあ」  と思いはじめるから困る。この際、樋口さんに、 「あら、あれはジョウダンよ」  とハッキリ断ってもらいたいような気持ちだが、それこそ、そんなことを樋口さんに言おうものなら、 「いいえ、ジョウダンじゃありません」  と言われそうで、おちつかない。  それというのも、わたしたちがジョウダンを言うときには、そのなかにナニガシかの真実をこめているからで、ジョウダンがまるっきりジョウダンである場合は、面白くもナンともない。だから、わたしが、いつもジョウダンに、 「亭主をゴミみたいに扱うな」  と言っているのは、すでにその兆しがみえているからで、それにもかかわらず、 「まさか、ホントウに亭主のことを粗大ゴミ扱いするような細君がいるとは、それも、わりにトシとった細君がいるとは、思わなかった」  というのが、真相なのである。  正直な話、亭主たちは、この国の経済の高度成長を支えるために、シャニムニ働いてきた。その余恵(?)を蒙《こうむ》って、世の細君たちは、カルチャー・センターだかボランティアだか知らないが、かなりのユトリをもって、文化活動やら地域活動やらに専念することができた。  挙句に、亭主が定年を迎えたときには、細君のほうはイヤがうえにも若く、 「亭主のほうは、スカスカになっていた」  というんでは、あんまりではないか。この際、亭主たちも、メッタヤタラに働くだけではなく、もう少し遊んだらいかがなものだろうか?  その結果、細君のほうが、 「それじゃ、お給料が減って、ロクに文化活動も、地域活動もできないワ」  ということであれば、それもまた、やむをえない。細君に働きに出てもらい、そのぶん、亭主が家事も含めて、文化活動なり、地域活動なりに励めばいいのである。  なにも、 「家事を任せたから」  といって、文化活動やら地域活動やらの楽しみを、細君だけに奪われてしまうことはない。亭主も、細君と一緒に、あるいは、細君には内緒で、文化活動やら地域活動やらに精出せば、いいではないか。  言っちゃナンだが、シャニムニ働いて、ナニガシかのカネを残したところで、ナンになろう? そんなものは、亭主を「粗大ゴミ」扱いしている細君にテキトウにもっていかれて、 「あとは、ポイ」  というふうに相成ることは、目に見えている。粗大ゴミ候補諸君、自衛せよ! いまなら、まだ間に合う。   女房の月給  サラリーマンが、 「オレは、妻子のために働いている」  と言うのを聞くたびに、腹を立ててきた。いまでも、 「ジョウダンならイザ知らず、いいトシをした男が、そんなバカなことを言うもんじゃない」  と信じている。  それと同様に、いわゆる専業主婦たちが、 「アタシは、経済的に自立していないから……」  と言うのを聞くたびに、腹を立てている。ホントに、 「ジョウダンならイザ知らず、いいトシをした女が、そんなバカなことを言うもんじゃない」  と思っている。  このあいだ、ある保険会社が、 「主婦の家事労働に対する報酬は、いくらぐらいになるだろうか?」  という計算をしたところ、 「小学校入学前の子どもを持った主婦は一ヵ月十七万四千四百七十八円、小学生以上の子どもがある主婦は十五万三千百四十一円、子どものいない主婦でも十四万二千四百二十一円」  といった数字が出たそうな。いまさら、なんだって、 「経済的に自立していない」  と、寝呆《ねぼ》けたことを言っているのだろう?  NHK放送世論調査所の昭和五十五年度国民生活時間調査によると、たとえば小学生以上の子がある主婦の家事労働時間は、平日七時間三十六分、土曜日七時間十四分、日曜日六時間二十三分。いっぽう、日本臨床看護家政協会の報告によると、午前九時から午後五時までの一般家政婦の日給は五千五百円、一時間に換算すると六百八十七・五円。  家政婦の時間給を主婦の家事労働時間にあてはめたうえ年収分をはじき出してみると、これが、百八十四万千二十一円ナリ。さらにこいつを一ヵ月平均にすると、 「十五万三千百四十一円」  という数字が出てくるわけだ。  ひょっとしたら、 「亭主の給料と比べても、そんなに差がないじゃないか」  ということになったり、 「いやいや、亭主の給料と比べたら、女房のほうが高給取りだ」  ということになったり、しかねないのではあるまいか? こういうとき、 「亭主のほうは、それだけ安くコキ使われているのだ」  というふうには考えないところが、主婦の主婦たる所以《ゆえん》だろう。  それは、まあ、とにかく、いったい、いつごろから、こんなバカな計算をすることが流行り出したのだろう? トーゼンのことながら敗戦後の風潮だとは思うが、こういった他愛もない計算をやっているから、オツムの弱い、いや、頭脳の不自由な、いやいや、知能の発展途上国的な女房たちが、ますますツケあがることになるのだろう。  だいたい、わたしに言わせれば、女房のことを、 「専業主婦」  と呼ぶことからして、 「なんて下品なんだろう!」  と思っているが、挙句《あげく》の果てに、女房のつとめの家事の下に、わざわざ「労働」の二字を加えて、 「家事労働」  と称すイヤらしさ。彼女たちは、そうしたことに気づいているのだろうか?  早い話が、 「家政婦の時間給を主婦の家事労働時間にあてはめて……」  という。そういうことなら、サラリーマンの報酬にしたって、 「どこかヨソの大会社の時間給を、われわれ中小企業のサラリーマンの労働時間にあてはめて……」  ということもできるだろう。  それでわからなければ、 「国家公務員の時間給をサラリーマンの労働時間にあてはめて……」  というふうにいえば、この計算のバカバカしさに気づいてもらえるだろうか? もういちど、わたしに言わせてもらえば、それこそ家政婦サンには申しわけないが、わたしの女房は家政婦じゃない。  ところが、女房たちが、こういう計算に嬉々としているところをみると、彼女たちは、みずからを、 「家政婦」  とみなしたがっているような気がするのだが、どうだろう? わたくし、彼女たちが家政婦であることを主張するなら、別に女房をもらわなければならないが……。   女の靴音 「人は歩くとき手を前後に振る。その振り幅は概して男より女の方が大きいことにふと気付いたのは十数年前である。とくに、通勤の途上などで、人びとが一団となって歩いているときなどに、それをよく観察することができる」  と言ったひとがいる。前にも登場していただいたが、日本リクルートセンターの専務・森村稔さんだ。  いかにも森村さんらしい指摘である。森村さんは、恥ずかしがって、 「しかし、これまでこのことを人と話題にしたことはないし、人が話題にしているのを聞いたことはなかった」  と言っているが、そういえば、このわたしにも、ある男女差について、これまでひとと話題にしたことはないし、ひとが話題にしているのを聞いたこともない一つの発見(?)がある。  それを森村さんふうに書くと、 「人は歩くとき、足音を立てる。その足音は概して男より女の方が大きいことにふと気づいたのは、十数年前である。とくに、通勤の途上などで、人びとが一団となって駅の階段を降りるときなどに、それをよく観察することができる」  といったことになるのだが、さて、どんなものだろう? 読者の中にも、駅の階段などで女の靴音に耳をそばだてたひとがいるのではないだろうか。  カッ  カッ  カッ  と、それは、地響きを伴うようでもある。ときに、 「靴の踵《かかと》が折れやしないだろうか?」  と、よけいな心配をしている。森村さんに倣《なら》って、 「なぜ、女性の方が大きな靴音を立てて歩くのか」  ということを、改めて考察してみたい。  ㈰ウェート説——体型的に、女性のウェートは下半身にかかっている。それが、階段を降りるときなどはいっそう加味され、大きな音を立てる……ウーン、そうだろうか。  ㈪サイレン説——混《こ》んでいる階段を、男女入り乱れて、みんなほぼ同じ勢いで降りる。そんなとき、身体《からだ》が小さく肩幅もせまい女性は、どうしても不利である。そこで、靴音を大きくして、周囲の人間に威嚇《いかく》を与えようとする。いうなれば、  雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る  といった感じでもあろうか……ウーン、なるほど、そういうこともあるかも知れん。  ——と、ここで、森村さんなら、映画の西部劇の場面のかずかずを思い出し、 「いままさに撃ちあいをしようとする男と男が互いに歩み寄る。手はぜったいに振らない。むしろ、だらんと垂らした感じであり、腰の拳銃近くで手の指が小刻みにふるえている」  と書いてから、 「眼前に敵を予想するとき、それほどではなくても何かの理由で心身が緊張感に貫かれているとき、人は大手を振らずに歩く」  と分析するところだ。そうして、 「会社へ、あるいは自宅へ急ぐとき、男は女よりもいささか緊張しているのだ」  と呟《つぶや》いてみせるのである。  トーゼンのことながら、こちらも昔よく見た時代劇かなんかを思い出し、 「いままさに敵陣に乗り込もうとするサムライたちは、黙々と歩く。足音なんか、ぜったいに立てない。むしろ、うなだれた感じであり、腰の刀にあてた手はギュッと握りしめられている」  と書いてから、 「目前に敵を予想するとき、それほどではなくても何かの理由で心身が緊張感に貫かれているとき、人はめったに足音は立てない」  と苦しまぎれに分析するよりほかに方法はなかろう。そうして、 「会社へ、あるいは自宅へ急ぐとき、男は女よりもいささか緊張しているのだ」  と、同じ結論を引き出してみたが、どうだろう?  会社にせよ、自宅にせよ、男にとって、そこは戦場なのである。女みたいに、嬉々として、あるいは、肩で風を切るようにして、その場に臨むわけにはいかない。  俗に、 「死地に赴く」  というが、あれである。すでに死ぬ覚悟はできている。  冗談じゃなしに、 「矢でも、鉄砲でも持ってこい!」  といった心境である。しかし、矢なり、鉄砲なりを向けてくるのが、 「なぜか同僚であり、女房である」  というのは、いかにも辛いね。   ギャンブラー無残  さて、世の中、フシギである。ギャンブルなんて、 「勝ったり、負けたりするもの」  と思っていたが、当節のサラリーマンは、アタマッから、 「勝つもの」  とキメているみたいだ。  負ける奴がいるから勝つ奴がいるのに、勝つ奴ばかりがいた日にゃ、どうなっちゃうんだろう? あいつら、ホントにギャンブルをやっているんだろうか?  それというのも、このあいだ、国民生活センターが首都圏の公団賃貸住宅に住むサラリーマン約三百人を対象に、 「亭主のこづかい調査」  というのをやらかしたら、 「アルバイトやギャンブル収入も含めて月四万九千三百円のこづかいを確保したが、ゴルフなどレジャー費を減らしても五万一千四百円の支出」  といった数字が出たのである。差し引き二千百円の赤字——。  調査に応じたサラリーマンの平均年齢は三十七歳、家族は三・八人で、月収は二十四万五千円ナリ。いかにも典型的なサラリーマンではないか。  調査によると、 「こづかい総額の約八〇パーセントは家計から出ているが、それだけではとても足りないので、一〇パーセントにあたる約四千七百円をマージャン、競馬などのギャンブルで稼《かせ》いでいる」  というのだが、バカなわたしにゃ、この調査結果の、 「約四千七百円をマージャン、競馬などのギャンブルで稼いでいる」  というところがわからない。ここに詳しいデータがないので何とも言えないが、かりにマージャンや競馬など四千七百円なら四千七百円を稼ぐには、いったい、いくらぐらいかかるのだろうか?  どうも、そのへんがハッキリしないので、この調査、俄《にわ》かには信じがたい。サラリーマン時代、わたし自身がそうだったから言うわけではないが、ギャンブルによる収入をこづかいに見込むようじゃ、このひとたち、たいした人間ではない。  これでも、わたくし、ギャンブルは強かった。マージャンでも、コイコイでも、ジョウダンに、 「警視庁管下、三本の指に入る腕前」  と自負していたことがある。  なにしろ、やるたんびに勝つのである。俗に、 「出ると負け」  というが、わたしの場合は「やると勝ち」だった。  サラリーマンだから、支払いは月給日だ。月給日になると、帳面をひろげて、その月の勝ち負けを清算する。  いまにして思えば、これが、まずかった。清算するたびに、 「イタダキッ!」  ということになる。気がついたら、みんなに嫌われていた。  くり返すようだが、ギャンブルなんて、勝ったり負けたりするから、ギャンブルなのである。それが、 「いつも勝っている奴がいる」  ということは、 「いつも負けている奴がいる」  ということだ。  その場その場の清算なら、 「誰が勝って、誰が負けた」  といったことなど、三日もすれば忘れてしまうだろう。それを、わざわざ帳面に残したから、イヤでも忘れてもらうわけにはいかなくなった。  そんなわけで、わたしはマージャンをやめてしまったのである。みんなから反感を買ってナニガシかのこづかいを稼いだところで、ちっとも面白くない。  わたしにとって、 「ギャンブル」  というのは、 「負けることができる」  ということだった。負けることができる人間は仕事のうえでも手柄を誰かに譲ることができる。  それなのに、わたしは負けなくなってしまったのである。同僚たちに勝ちを譲ることさえできなくなった。  正直な話、こういう人間は、サラリーマンには向いてない。いつのまにか仲間からツマはじきされてしまうのが、オチだ。  だから、こんどの調査で、多くのサラリーマンたちが、 「こづかいの不足分をマージャンや競馬などのギャンブルで稼いでいる」  と言うのを聞いて、驚いている。ひょっとしたら、サラリーマンに向いてない人間が増えているのではないだろうか?   オッ、かわいいな  たとえば、女子の新入社員のなかに榊原郁恵《さかきばらいくえ》みたいな子をみつけて、 「オッ、かわいいな」  と歓声をあげるのは、サラリーマンの位でいうと、いったい、どれくらいの連中だろうか? 早い話が、ヒラだろうか? 係長クラスだろうか?  わたくし、 「精々が課長クラスじゃないかな」  と思うが、どうだろう? 言っちゃナンだが、わたしみたいに部長クラスになると、そういう若い子には、まるっきり食指が動かない。  これを逆に言えば、榊原郁恵みたいな女子の新入社員をみつけて、 「オッ、かわいいな」  と歓声をあげているようでは、 「まだまだ部長にはなれない」  ということである。プロのサラリーマンたるもの、榊原郁恵だの宮崎|美子《よしこ》だのにウツツを抜かしているようでは、ま、出世なんて覚束《おぼつか》ない。  それというのも、わたくし、このあいだ、歌手の榊原郁恵チャンに会ったのである。そうして、しみじみと考えたことは、 「もし、こういう子が新入社員として入社してきたら、さぞかしみんなに可愛がられるだろうなあ」  ということであった。かりに、わたしが人事を担当していても、即、パスさせてしまうだろう。  なにしろ、明るい。そして、態度がイイのである。 「ハイッ」 「ハイッ」  と、なにを聞いても、まず「ハイッ」と返事をして、それから、 「あのですネ、それは……」  というふうに説明する。それに、けっこうアタマもいい。  ここはひとつ、具体的な例で申しあげるなら、彼女、 「舞台で、ピーター・パンを演《や》る」  というから、わたしは、 「ピーターをやるのか? それともパンをやるのか?」  とふざけた。そうしたら、そのとき、彼女、少しもさわがず、 「ハイッ。できれば、両方……」  と、そう答えたのだ。  そんなわけで、わたくし、 「もし、この子が、新入社員として我が社に入社したら、きっとみんなに可愛がられるだろう」  と思ったのである。そうしたら、彼女、独身社員はもちろん、妻帯社員のあいだでも引っ張り凧《だこ》になるだろう。  そこで、 「どうだ?」  と、このわたしが言った——と思い給え。 「どうだ? ひとつ、我が社へ来て、お茶くみでもやらんかね?」  すると、彼女、なんと答えたか?  いやァ嬉しいことに、 「ハイッ」  と言ったのである。そうして、 「お勤めしてもいいんだけど、でも、実際にOLになると、お茶くみだけをやってるわけにはいかないんでしょ?」  と、こう言ったのだ。そうして、いかにも残念そうに、 「あたし、お茶くみだけなら得意なんだけどな」  と、首をかしげたのだ。  ホント、いまどきの女の子にしては珍しいくらいの素直さではなかろうか? こういう子にかぎって、お茶くみだけではなく、ほかのことにも、たぶん相当な能力を発揮するにちがいない。  しかし、わたくし、感じないのである。いかに郁恵チャンのことを、 「うーん、いい娘《こ》だなあ」  と思っても、 「オッ、かわいいな」  というふうには感じないのである。ホントに、まちがっても、 「どや? メシでも食いにいこか」  という気になれない。  さて、わたしたち部長クラスが、 「オッ、かわいいな」  と思うためには、郁恵チャンにもうすこしトシをとってもらうか、もうすこし崩れてもらわなければならない。もうすこしナマイキに、あるいは、もうすこしオトナになってもらわなければならない。  これを要約するに、部長クラスをタラしこむには、 「若ければ、いい」  というものではない——ということだ。そのへんを、ハイ・ミス諸嬢よ、どう考える?   人生観のモンダイ  国立がんセンター研究所疫学部長の平山|雄《たけし》さんに、 「女のひとは、いったん覚えたことはなかなかやめられないのです」  と言われて、 「ムベナルカナ」  と思った。断っておかなければならないが、平山さんは、 「女のひとは、男にくらべてタバコをやめにくい」  ということを言おうとして、そうおっしゃったのである。  女のひとが男にくらべてタバコをやめにくいことについては、女のひとがタバコを喫いはじめた動機に原因がある。男がタバコを喫いはじめるのはほとんどが好奇心からだが、女のひとの場合は、そんな単純なものではないらしい。  早い話が、意識の底に、 「男が喫っているものを女が喫って、なぜ悪い?」  といった気概(?)を秘めて喫っていらっしゃるのである。タバコを喫うことが、そのまま男と肩を並べることになるような錯覚にとらわれているらしい。  はじめてタバコを喫ったときは、アタマがクラクラして、 「どうして、オトナはこんなものを喫うんだろう?」  と思ったものだ。わたしなんぞは、根がマジメだから、最初の一服目からちゃんと肺まで吸い込んじゃったにちがいない。 「こんなもの、二度と口にすまい」  慌てて、噎《む》せて、根がマジメだから、心ひそかに誓うのだ。  しかし、そう思いながら、 「つい二本目に手を出してしまう」  というのが、ニコチンの持っている魔力ではあるまいか? 気がついたら、いっぱしの愛煙家になっていて、 「うまいな」  仕事が終わるたんびに、紫煙をくゆらせている。  ヘンな言い方かも知れないが、男がタバコを喫うときは、 「うまいなあ」  と思って喫うのである。はじめてタバコを喫って、ゴホゴホいいながら胸をたたいて転げまわったことなんぞは夢のようだ。タバコそのものが、うまい。 「だから、やめられる」  と、平山さんは言うのである。もういちどヘンな言い方かも知れないけれど、 「うまいと思って喫っているタバコはやめられる」  というわけだ。 「うまいから、やめることができる」  理屈である。わたしも、そうしてタバコをやめた。  ところが、女のひとは、 「うまいな」  と思って紫煙をくゆらせているわけではないから、やめられない。うっかりタバコをやめたら、無意識のうちに、 「これまで、せっかく男と伍してきた人生がダメになってしまう」  と考えているから、ぜったいやめることができない。  おおげさに言えば、彼女にとってタバコをやめることは、それまでの人生を否定することなのだ。彼女自身の生き方にかかわってくる。  その点、男にとってタバコをやめることなんぞ、人生観のモンダイでもなんでもない。だいたい、 「君子は豹変《ひようへん》す」  というくらいだから、男にしてみれば変わることのほうがホントだろう。  女のひとが気の毒なのは、彼女たちが、 「男がやれることなら、なんでもやれる」  と思い込んでいても、実際には、ここまでできないことだろう。いや、もちろん、女のひとのなかには、しょっちゅう心変わりするものもいるけれど、そういうひとは女だから心変わりするのであって、 「男がやれることで、女がやれないことなどない」  と思っているわけじゃない。  そんなわけで、いったん女のひとがタバコを覚えたら、なかなかやめられないらしい。こういうのを、学術的(?)には、 「女のひとがタバコを喫う場合は、特定の原因があり、ほとんどタバコを楽しんだ経験がなく、目の前に起こっている現実問題からの逃避手段として利用する傾向が強いことを示している」  というのだが、サテ、どうだろう?  そういうことなら、 「男の中にも、そういう人間はいる」  と思えるけれど……。   夜のお勤め  三日にいっぺんは夜勤をやっていた。新聞記者時代のことである。  デスクだから、 「夜勤」  といっても、ほとんど徹夜に近い。刷り上がりに目を通し、部下たちを寝かせ、日誌をつけて、それから風呂に入り、仮眠である。  事件があれば、それが、二日もつづく。三日目はまた、正規の夜勤だ。アタマのほうもおかしくなってくる。  若いうちはいいけれど、トシをとったら、こんな勤務状態は、酷だろう。正直な話、仕事だってイイ加減になるにちがいない。  だから、組合の書記長に選ばれたとき、要求の一つに、 「原則として四十歳以上の従業員の夜勤は禁止すること」  という項目を加えた。が、わたし自身は、四十歳になる前に会社をクビになってしまったから、あの要求が通ったかどうかは確認していない。  それにしても、いま、歯はガタガタで、目は霞《かす》んでいる。それも、これも、 「新聞記者時代に、夜勤、夜勤の連続だったからだ」  と思っている。  僅かな夜勤手当をもらう代わりに、わたしは、健康を売ってしまったのである。いまさら悔いたところではじまらないが、もう少し要領よく立ちまわるべきだったかも知れぬ。  サラリーマンの健康管理のチェックポイントは、  一 運動不足  二 睡眠不足  三 酒・タバコの飲みすぎ、喫いすぎ  ということになっている。これにストレスが加われば言うことはない。  新聞社の、それも社会部のデスクは、まさにその条件を備えている。社会部のデスクでなくても、いや、新聞記者でなくても、こうした過酷な条件のもとで働いているサラリーマンは多かろう。  このあいだ、総評・中立労連などで構成する春闘共闘・労働時間短縮共闘会議が、深夜・交代制職場で働く労働者の健康と生活に関するアンケートをまとめたが、 「疲れが翌日に残ることが多い」 「いつも疲れている」  と答えた者が、男子の場合、日勤者で約二七パーセントだったのに対し、一昼夜交代の深夜勤務者では四七パーセント、深夜二交代勤務者も四二パーセントにのぼったらしい。女子の場合も、日勤者の三四パーセントに対し、電話交換手、看護婦などの深夜勤務者は五〇パーセント以上に達していたのだ。  一 目が疲れる  二 腰が重い  三 肩がこる  四 よく下痢・便秘をする  というのが、深夜労働に伴う�四大症状�だそうな。このほかに、  五 頭が重い  六 よく眠れない  七 食欲がない  八 性欲が減退した  という訴えもある。わたしなんぞは、その典型的なもんだろう。  ところで、財団法人「健康・体力づくり事業財団」では、百歳以上の老人ばかり千人余を対象に、このほど長生きの秘訣《ひけつ》や食生活をさぐった「長寿者保健栄養調査」をまとめたが、それによると、  一 物事にくよくよしない  二 規則正しい生活を送る  三 睡眠、休養をじゅうぶんにとる  というのが、長寿者が中年から心がけてきたことだそうだ。いまさらのように、 「長生きに特別の秘訣があるわけではなく、ストレスを解消して節度ある生活を守るしかない」  と思うけれど、さあ、現代のサラリーマンの、どれだけがこれを守ることができるだろう? 「物事にくよくよしない」  といったところで、いささかでも昇進をめざすサラリーマンにしてみれば、上司の一言や同僚の言動にこだわらざるをえない。女房の機嫌にもこだわるし、子供の成績にもこだわる。  これじゃあ、 「サラリーマンは長生きできない」  と宣告されているようなものだが、さて、長生きをして、 「いかほどの楽しみがあるか」  というと、これがまた、心もとない。  長生きをしても、 「趣味ひとつない」  というんでは、なんの長生きだろう?  中年よ、夜のお勤めをやめよ! それが、ストレス解消の一助ともなり、たまたま長生きをしちゃった後の生活にも、役に立つ?   身の不運  たとえば、会社ぐるみでトトカルチョかなんかやって、警察に摘発されたりすると、テキメンに、 「この程度のバクチは、誰だってやっているじゃないか」  という声が起きる。失礼ながら、あまりミットもいいもんじゃない。  たしかに、あの程度のバクチなら、誰だってやっているかも知れない。たぶん、やっているだろう。  しかし、 「だから、カンベンしてやれ」  というふうに理屈を展開するわけにはいかない。固苦しいようだが、法は法である。  ひどいのになると、警察が摘発した記事を読んで、 「新聞記者にバクチを批判する資格があるのかッ」  と、見当ちがいなことを言いだす奴がいるから、おもしろい。改めて説明するのもバカらしいが、新聞には摘発をうけたことは書いてあっても、批判がましいことは一言も書いてないはずである。  それなのに、 「新聞記者にバクチを批判する資格があるのかッ」  と大きな声を出す人間は、 「書かれたことは、すなわち批判されたことだ」  と思っているのである。こういう人間には何を言ってもはじまらない。  それはそれとして、新聞記者がマージャンなどのバクチをやっていることは、事実だ。サラリーマンだって、やっている。マゴマゴすると、政治家だって、実業家だって、ゴルフのコンペで賭《か》けているだろう。  げんに、わたしが新聞記者だったころ、警視庁の記者クラブで賭けマージャンをやっていて、手入れを喰らった仲間たちがいた。警視庁が暗黙の了解を無視して、記者クラブに手を入れたのも、通報があったからである。  それも、他愛もないことが原因だった。たまたま某社の給仕君が原稿かナンかを取りにきたとき、マージャンに夢中になっていた某君が、 「うるせえ」  とかナンとか言ったのである。  アタマにきた給仕君は帰りがけに警視庁の玄関に立っている巡査に、 「いま、記者クラブで賭けマージャンをやっている」  と、タレこんだ。警視庁としても、訴えがあった以上は、手入れを行わないわけにはいかない。  そんなわけで、 「新聞記者だって、バクチぐらいやってるじゃないか」  と言うんなら、新聞記者だって手入れぐらい喰らっているのである。会社ぐるみでトトカルチョをやり、 「警察に摘発されたから」  といっても、新聞記者にヤツアタリすることはない。  それにしても、 「誰だってバクチぐらいやっている」  ということは、このわたしも認める。しかし、どこかの会社みたいにファクシミリまで使って、オオッピラにやっているわけではあるまい。  浮気もそうだが、バクチなんて、本来コソコソやるべきものではなかろうか? わたし自身は、例の売春防止法施行以来、カネで女を買ったことはないけれど、トルコ通いとやらも、同じことだ。  ところが、ちかごろの風潮をみていると、世のサラリーマンたちに、 「バクチをやって、どこが悪い?」  といった居直りや、 「浮気をして、どこがいけない?」  といった居直りや、 「トルコへ行って、どこがおかしい?」  といった居直りがみられるのは、いかにも品がない。わたしに言わせれば、そういうことは人目を忍んでやってはじめて楽しいはずである。  バクチをやっていることがバレて警察に捕まり、あるいは浮気をしたことが知れて女房に逃げられ、またはトルコへ行ったために病気かナンか背負って、 「思えばツイてないなあ」  と、身の不運をかこつことは仕方がない。だからといって、 「カンベンしろ」  と叫んだり、 「みんなも同じような目に遭えばいい」  と怒鳴ったりするのは、あまりにも筋ちがいだ。  バクチや浮気や女を買うことは、あくまでもイケナイことなのだ。それゆえに楽しくもあるのだが……。   残業始末  女性誌に、 「うちの部に女の子は一人しかいないもんで、最初、すごくみんなで気を使ったんだよね。残業なんて絶対させなかったしね。今になって思えば、それが悪かった」  という投書が載っているのを読んで、思わず吹き出した。投書の主は貿易会社に勤める二十五歳の男性で、 「このごろは、退社時間と同時に当然という顔をして帰っていく。このあいだ、ふと帰った後の机の上を見たら、宛名書きを半分にしたままの封筒がキチンと一枚机の真ん中に……。見れば○○市○○町○番地まで書いてあってあとは名前だけ。最後まで書いたって、あと五分もかからない。帰ってから気になったりしないのかなあ、と不思議だね」  と、つづけている。  言っちゃナンだが、 「彼、彼女に気があるのかな?」  といった感じである。そうでもなけりゃ、いい男が女の帰ったあとの机を覗《のぞ》いたりはしまい。  その結果、彼女の机の上に書きかけの封筒をみつけて、 「せっかくの恋心も冷めた」  といったところだろう。おそらく、いまごろは、 「覗かなきゃよかったなあ」  と、くやしがっているのではなかろうか。  それにしても、デートかナンかに誘って、プロポーズして、 「それから見つけたわけではなくて、よかった」  と胸を撫《な》でおろしているようでは、まだ若い。彼女、ひょっとしたら、誰かに誘われて、それで、 「書きかけのまま席を立った」  ということだって、じゅうぶんにありうるではないか。  それが、誰かのためではなくて、たとえば彼のためだったら、彼は、彼女のことを、 「カワユーイッ……」  と感じることだろう。  会社は、まあ、ともかく——  時間がくれば、たとえ封筒の宛名が書きかけでも、 「さっさと帰る」  というのが、女性である。そうして、そのことに目を見張っているのが、男性だろう。せっかく職場に進出したんだから、女性は、女性としての嗜好《しこう》を存分に発揮しなければならない。  それというのも、職場における男性の残業なんて、 「ホントにくだらない」  といっても、過言ではない。彼らは、ただただ他《ほか》の同僚より先に帰りたくなくて残っているにすぎない。  早い話が、ヒラは係長のことを気にして、 「係長のやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残っているだけであり、係長もまた課長のことを気にして、 「課長のやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残っているだけなのである。そして、課長もまた部長のことを気にして、 「部長のやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残っている。  そうして、逆に部長のほうも課長のことを気にして、 「課長のやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残り、課長もまた係長のことを気にして、 「係長のやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残っている。トーゼンのことながら係長もまた、ヒラのことを気にして、 「ヒラのやつ、早く帰んないかなあ」  と思いながら残っているわけだ。  そんな空気のなかで、午後五時なら午後五時に、 「きちんと帰る」  という爽やかさ。これが、女性もまた男性のマネをして、 「最後まで書いたって、あと五分もかからないじゃないか」  と思うようだったら、せっかく女性が職場に進出した意味がない。  かりに、男性みたいに、 「最後まで書いたって、あと五分もかからないじゃないか」  というんだったら、もう一枚書いたって、あと十分もかからないんだし、いっそのことぜんぶ書きあげてしまったところで、あと一時間もかからないだろう。女性は、まちがっても、こういう誘惑に負けてはならぬ。  わたしに言わせれば、彼だって、何の用もないのに残っていたのである。その証拠に、彼は、わざわざ彼女の机の上を覗いている。いや、彼は、彼女の机の上を覗くために残っていたのかも知れぬ。  それが、残業かな?   大学亡国論  大学——  本来ならば、学術の研究および教育の最高機関である。大学生は、そこの学生だ。  しかし、いまどきの大学生で、自分の大学のことを、 「最高学府だ」  と思っている人間が、どれくらいいるだろう? だいたいが、大学のことを、 「学問をする場所だ」  と心得ている者が、幾人いるか?  おおかたの学生たちが、 「大学は、遊ぶところ」  と考えているのではないだろうか? あるいは、 「就職を世話してくれるところ」  と考えているようである。  わたし自身は、ひところ、教育産業の末端にいて、 「大学受験年鑑」 「全国大学内容案内」  といった電話帳みたいな本をつくっていたことがあるから言うわけじゃないが、ちいちゃいときから、 「進学、進学」  と、ムチ打たれてきた当世のガキたちは、大学に入ったとたんに、大学入学を人生のゴールかなんかとまちがえて、一息ついてしまうのである。ひどいのになると、合格発表の日に、それまで世話になってきた学習参考書やら単語帳やらを投げ捨ててしまって、見向きもしない。  そうして、 「さあ、遊ぶぞ」  と、大声を挙げたりするのである。が、進学、進学に追われて、ロクな遊びを知らないから、つい男と女のことに走ったりしてしまう。  なにしろ、 「本を読めよ。本は、中学時代とか高校時代とか、若いうちじゃないと、読めないゾ」  と忠告したら、ナマイキに、 「忙しくて、本なんか読んでいるヒマはない」  と答えてきた連中である。なんに忙しいのか——というと、受験勉強に忙しいんだそうだ。  そいつらが、過去何年か遊ばなかったぶんを、 「いっぺんに遊んでやろう」  といった調子で、遊びまくる。いや、遊びまくろうとしても、すでに遊ぶ能力さえ失われているようなので、ただもう、ボンヤリしている。  そして、三年になれば、 「あ、就職の準備だ」  というわけである。大学が就職の下請け機関に成り果てた証拠には、各大学に就職課やら厚生課やらがあって、 「求人は……」 「求職は……」  といったことにウツツを抜かし、 「いかに卒業生を就職させたか」  ということが、その大学に対する評価となっている。  それも、大学自身が進路指導をしたり、就職先を斡旋《あつせん》してくれたりするところは、まだいい。腐るほどある大学の、腐るほどある就職課の職員たちが、いや、職員だけではなく教授たちもが、まず大学生に向かって言うセリフは、 「コネは?」  というコトバらしい。で、結局、オヤジが息子や娘に、 「どこかコネがない?」  とネダられ、 「ない」  といえば、 「しょうがねえなあ」  と、うそぶかれる。  言っちゃナンだが、これが、新聞やテレビで「明るい見通し」と報じられている就職戦線とやらの実情なのだ。いっぽうでは「職場のワクが広がった」といい、いっぽうでは「青田買いが定着した」といわれるのも、このせいだろう。大学の就職課の職員が、大学生に、 「どこでもイイというんなら……」  といって脅す(?)のは、ここだ。正直な話、就職するのにどこでもイイなら、なぜ大学へ行くのか? なぜ大学に就職課があるのか?  昔は、たとえば、いいかわるいかは別として、セールスの仕事は大学を出た者がやることではなかった。いまは、大学を出た者も、やる。それだけ、セールスの仕事の質が向上したのか? それとも、大学の格が下がったのか? さあ、どっちだろう?   「新・良妻宣言」 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰夫の帰りが遅いときは、さっさと先に寝てしまいましょう。 ㈪家事の�楽しみ�を夫や子供にも分け与えましょう。 ㈫女同士の井戸端会議を大いに見直しましょう。 ㈬子供も夫も、できるだけ構わずに放《ほう》っておきましょう。 ㈭子供は上から叱らず、本気でケンカしましょう。 ㈮夫より、よその男の視線を浴びることに腐心しましょう。 ㈯家庭の中に自分だけの領域、心の中に自分だけの世界を持ちましょう。 ㉀夫と子供に、自己中心ではない愛情を、自己中心ではない優しさを持ちましょう。 [#ここで字下げ終わり]  というのが「新・良妻宣言」だそうな。ある婦人雑誌の特集である。第一条の、 「夫の帰りが遅いときは、さっさと先に寝てしまいましょう」  というのには、 「夫が先に寝ろというのに起きているなら、夫に対する精神的脅迫。逆の場合なら妻に対する�拷問�です」  という注釈がついている。うっかり「ホント、ホント」と言おうとして、 「待てよ」  と思った。 「逆の場合なら……」  とは、どういうことであろうか? 妻が外出する際、夫に向かって、 「きょうは帰りが遅くなるから、先に寝ていて……」  と言うのだろうか?  こりゃあ、夫としては寝ていられない。まして、それが�拷問�たりうると知っては、 「いっそ泊まってきてくれ」  と言いたいくらいのもんだ。そうして、 「できることなら、そのまま帰ってこないでくれ」  と言うことができたら、なあ。  わたくし、きのうも酔っぱらって帰って、玄関にひっくり返り、古女房に起こされて、しきりに、 「帰ります、帰ります」  と謝まっていたそうだけれど、いったい、どこへ帰るつもりだったんだろう? そのときの自分に訊《き》いてみたいが、もし、女房が酔っぱらって帰ってきて、 「帰ります、帰ります」  と言った場合は、 「どこへ?」  と訊いても、 「実家へ……」  と答えることができる。そこで、亭主のほうも、 「まあ、まあ」  と言うことができる。こんなふうにゴマカシが利くなんて、そんなの、やっぱりインチキだ。  第六条の、 「夫より、よその男の視線を浴びることに腐心しましょう」  というのにも、 「古夫は、もうちっとやそっとでは振り向いてくれません。ならば他人の女には興味を示す男性特有の性格につけ込んで、振り向かせやすいところから自信をつけましょう」  といった注釈がついている。そんなことして、ホントに自信がつくかどうかは別にしても、 「他人の女には興味を示す男性特有の性格」  という指摘には、仰天した。この「新・良妻宣言」をつくったひとは、たぶん女だろうが、たとえばわたしならわたしが他人の女に興味を抱いていることが、どうしてわかったんだろう?  マジメな話、この「他人の女」とは、誰かホカの人間の女房とか恋人とかを言うんだろうか? だったら、わたくし、興味ない。わたくし、自分で言うのもナンだが、根がつましいもんだから、他人の持ち物なんかに興味はない。まして、欲しいなんて、思ったこともない。それに、かりに欲しがったって、そのひとが自分と寝てくれたら、これはもう、他人の女じゃなくて、自分の女ではないか。  それにしても、この「新・良妻宣言」は、よくデキている。なかでも、第四条の、 「子供も夫も、できるだけ構わずに放っておきましょう」  というのが、秀逸だ。ホントの話、夫も子供も、女房が構いすぎるから、つけあがったり、イヤがったりするのである。  なにも、百点満点の女房になろうとしなくたっていいじゃないか。女房が百点満点の女房になろうとしたときから、会社に出かけようとする亭主に、 「あなた、きょうのお帰りは何時?」  と訊《き》くようになるのである。  フシギ!   嫁と姑《しゆうとめ》  あの「週刊朝日」に、シナリオライターの橋田寿賀子さんが、 「おふくろと女房に共同戦線を張られるくらい居心地の悪いものはないという男性がいる。が、その実、内心は嬉しいに違いないのである」  と書いていらっしゃるのを読んで、 「あ、オレのことだな」  と思った。わたくし、橋田さんがNHKの大河ドラマ『おんな太閤記《たいこうき》』のストーリーを掲載している婦人雑誌の対談で、嫁と姑の問題について、 「嫁と姑の仲が悪いから、夫は安心していられるんではないか」  と喋《しやべ》ったのである。  正直な話、休みの日に、おふくろと女房がケンカをしてくれるから、われわれサラリーマンは、晴れてパチンコに出かけることができるのである。これが、おふくろと女房の仲がよかった日にゃ、パチンコに出かける口実がなくなってしまう。  それにしても、嫁と姑のケンカくらい、おかしなものはない。嫁は「姑にいびられた」と言い、姑は「嫁にいじめられた」と言うけれど、いびられた嫁といじめられた姑ばかりがいて、いじめた嫁もいなければ、いびった姑もいない。そこが、不思議である。  いびられた嫁がいる以上は、いびった姑がいるはずだろう。そうして、いじめられた姑がいる以上、いじめた嫁だっているはずである。  そのくせ、 「あたしは嫁をいびった」  という姑もいなければ、 「あたしは姑をいじめた」  という嫁もいない。いじめた奴も、いびった奴もいないのに、いじめられた奴やいびられた奴がいるのである。こんな計算に合わない話はない。  ときどき、 「誰か�あたしは嫁をいびりました�というひといないかなあ」  と思う。あるいは、 「誰か�あたしは姑をいじめました�というひといないかなあ」  とも思う。そういうひとがいたら、この世の中、もう少し嫁と姑のケンカが減るのではなかろうか?  それは、まあ、ともかく——  嫁と姑の仲がよかった日には、わたしなんか、落ちつかない。わたしの友人に、いまの女房と前の女房が仲よしで、友人が外泊でもしようものなら、いまの女房が前の女房のところへ言いつけにいって、いまの女房と前の女房の二人に、 「許しません」  と、叱られ、クサっていた奴がいるが、嫁と姑の二人に、 「許しませんッ」  とやられたら、それ以上の苦しみだろうなあ。  ヘンなもので、かりに亭主が浮気したりして、嫁が姑に泣きつくと、姑はナンか嬉しいらしくて、 「あんたが悪いからよ」  と、ニンマリするようなところがある。あれは、姑の生き甲斐《がい》なんだろうか?  あれが、嫁も姑も一緒になって、浮気した男を指さし、 「あなたが悪い」 「おまえが悪い」  と言ってみろ! オレなんざ、二人がデキてるんじゃないか——と疑っちゃう。  ホントのことをいって、オレならオレが不始末をしでかしたのに、おふくろが女房に向かって、 「あんたが悪いからよ」  と言うから、 「いいや、オレが悪かったんだ」  と言うこともできるのである。それが、二人から、 「あんたが悪い」 「おまえが悪い」  と言われたら、 「うるせえ」  ということになってしまう。そうして、ついには、 「オレが出ていけば、いいだろう」  ということになってしまう。ホント、あとは二人でうまくやってもらいたい。いや、そんなことを言わなくたって、二人はうまくやっていくだろう。  こうしてみると、嫁と姑の仲が悪いのは、家庭の平和にとって、 「まことに都合がいい」  ということがわかる。なかんずく亭主にとっては都合がいい。  そんなわけで、誰が嫁と姑のケンカの仲裁などするものか。あれは、洞《ほら》が峠をキメこむに限るのである。   うれしいお仕事  お茶くみ  机ふき  コピーとり  前夜残業の男たちが残した酒、食べ物などの後片づけ  私用の走り使い  というのが、当節のOLたちをくさらせている�ワースト5�だそうな。サラリーマン生活を二十年しかやらなかったわたしには、わかるような、わからないような事柄である。  お茶くみについては、タレントの榊原郁恵さんに会ったとき、しみじみと「こんな娘が会社にいたら、どんなにか楽しいだろう」と思ったので、 「どうかね? ひとつ、我が社にきてお茶くみでもやらんかね?」  と、ふざけたことがある。すると、前にも書いたが、郁恵ちゃんの返事が素晴らしかった。  郁恵ちゃんは、 「ハイッ!」  と答えてから、 「でも、お茶くみだけをやっているわけにはいかないんでしょう?」  と言ったのである。  郁恵ちゃんにしてみれば、 「お茶くみだけをやっていて、それでお給料がもらえるなら……」  ということだったのかも知れない。郁恵ちゃんは、 「あたし、お茶くみだけなら得意なんだけどな」  そう言って笑ったことだった。  机ふきについては、思い出がある。わたしが二度目に勤めた会社は大手の学習参考書の出版社の子会社だったが、その会社の社長が大変な綺麗好《きれいず》きだった。  親会社から出向してきた社長には、独特のサラリーマン哲学みたいなものがあって、 「会社では、エラい人間ほど早く出社すべきだ」  というのである。トーゼンのことながら、社長が一番に出社し、専務が二番目に出社し、常務、部長……の順に出社するわけだ。  それで、たまたま管理職だったわたしも、やむをえず早い時間に出社しなければならなくなったが、社長が出てきて最初にやることは、 「机の上が汚れているッ」  と、怒鳴ることだった。  そこで、コメつきバッタみたいな総務部長が考え出したのが、 「女子社員のあいだで当番を決め、その当番に早朝出勤をしてもらって、社長以下の机の上をふかせる」  ということだ。これには、社長もゴ満悦のテイだったが、 「いや、待て」  わたしはバカだから、つい半畳を入れちゃった。 「まずいなあ」 「なにが、まずい?」 「だって、いつも社長が言っているのは�責任あるものから出社せよ�ということでしょう。かりに、女子社員に早朝の机ふきをやってもらうことにして、彼女がいちばんに出社してきたら、わが社でいちばんエラいのは�彼女�だということになってしまう」  おかげで、総務部長の案は潰《つぶ》れ、社長は自分で自分の机の上をふく仕儀に相成った。  コピーについては、わが社ではいちばん先にコピーのとりかたを覚えたのは、このわたしだ。そうして、二度目の会社で、女子社員にコピーのとりかたを教えたのも、このわたしである。  余談だが、わたしは、 「コピーは、とれば、それでいいというもんじゃない」  ということも教えたつもりだ。書類なら書類のコピーをとったら、ナンバーぐらい揃《そろ》えて渡すのが、コピーをとった者の心意気だろう。  ところで、 「私はサントリー株式会社に入社したときは、九時の始業を八時に出社して床をはき全員の机の上をふき、お茶をいれて皆の来るのを待っていました。それを一年間続けました。古い社員はそのことをまだ覚えていてくれます」  と言ったひとがいる。小説家の山口瞳さんである。  山口さんは、 「私はミミッチイ、あさましいことをしたか。私は卑屈だったか。私はオベッカつかいだったか。私はイイコになりたかったのか」  と言ってから、 「否《いな》です。そうじゃありません。私はいい仕事をしたかったから、そうしたのです。自分の仕事をしたかったから、そうしたのです」  と言っている。口幅ったいようだが、このわたしも、そうしてきた。  わたしが最初に勤めたのは新聞社だったが、新人のころ、わたしは記者たちの誰よりも早く出社して、お茶こそいれなかったが、編集庶務の少年諸君たちと一緒に床をはき、机の上をふき、そして、彼らと一緒になって前夜当直の記者たちが飲み残した酒や食い残した食べ物などの後片づけをした。のちに、編集庶務の少年諸君たちが、わたしの強い味方になってくれたことは言うまでもない。  私用の走り使いについても、同じだ。わたしはオッチョコチョイだったから、デスクの走り使いは買って出たようなところがある。  もっとも、嫌いなデスクの私用には、ぜったいに動かなかったが……。  そんなわけで、このわたしには、当節のOLたちをくさらせている�ワースト5�なるものの五番目を、逆手にとってきたような記憶がある。わたしみたいに、大学を出ただけで新聞記者の勉強ひとつしたことのないものには、そうすることが、いちばん手っ取り早い記者修業だと思ったのだ。  くり返すが、  お茶くみ  机ふき  コピーとり  前夜残業の男たちが残した酒、食べ物などの後片づけ  私用の走り使い  というのが、当節のOLたちをくさらせている�ワースト5�だそうな。まことに申しわけないが、 「たいしたことないなあ」  といった感じである。  わたしが入社試験を受けた映画会社では、 「映画館の便所掃除からやらせるが、いいか」  と言われたものだ。その頃、大学は出たけれど職のなかったわたしは、 「それで給料がもらえるなら、こんなにいいことはない」  と張り切った。   他人《ひと》様に迷惑を 「他人《ひと》様に迷惑さえかけなければ……」  という言い方が嫌いだ。いい意味の個人主義だか、わるい意味の個人主義だか知らないが、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  とは、なんという思い上がった言い草だろう?  そう言うと、すぐに、 「じゃあ、他人様に迷惑をかけてもいいのか!」  という反応しか返ってこないところが、お粗末である。かりに、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  という言い方が嫌いだ——と言ったからといって、誰も、 「他人様に迷惑をかけていい」  とは、言ってない。  たとえば、子供の育て方である。誰かに、子供の育て方について、 「どんなふうに育てていらっしゃいますか?」  と訊く。すると、 「他人様に迷惑をかけないような子に育ってもらいたい」  という答えが返ってくる。  それが、 「イヤだ」  というのである。そいつが、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  といった高邁《こうまい》にして高慢な思想(?)につながっていく。 「他人様に迷惑さえかけなければ、それでいいじゃないか」  と言う。そう言う奴は、すくなくとも他人様に迷惑をかけないで生きているつもりなのだろう。  しかし、人間、オギャアと生まれてからオッ死《ち》ぬまで、他人様に迷惑をかけないで生きていくことができるだろうか?  なにも、あの太宰治が、 「生まれて、すみません」  と言ったみたいに深刻に考える必要はない。が、わたしたちは、 「わたしたちが、この世に生を享《う》けた」  という、ただそのことだけでも、 「誰かに迷惑をかけているのではないか」  といった思いぐらいは持っていたい。  ところが、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  という言い草には、ともすると、そうした思いも否定してしまいかねないような響きがあるように、このわたしには思える。  あの永六輔さんも、生きているということは誰かに借りをつくること、生きていくということはその借りを返してゆくことと歌っているではないか。 「生まれた」  ということは、 「借りをつくった」  というふうに考えたら、どうだろう?  そうして、 「生きていく」  ということは、 「その借りを返していく」  というふうに考えたらどうだろう?  そうすれば、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  といったような思い上がった発想は湧《わ》いてこないのではないか?  自分の子に対しても、 「他人様に迷惑をかけないような子に育ってもらいたい」  というような恐ろしい期待(?)はかけないのではないのか? 「他人様に迷惑をかける」  ときに、それは、生きていくうえでの素晴らしい証《あかし》のように、わたしには思える。わたしたちは、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  というような生き方を学ぶよりは、 「他人様に迷惑をかけて、しかもなお、それが愛される」  といった生き方のほうを学ぶべきではないだろうか?  俗に、 「人という字は、人と人とが支え合っている姿だ」  といわれる。ひとは、一人だけでは生きていけない。自分のほかに誰かがいて、それで初めて「人」なのである。それが、他人だろう。  だから、 「他人様に迷惑さえかけなければ……」  という言い方は、自分自身の�つっかい棒�である他人の存在をも無視しかねない。そんな空疎な人生なんて、このわたしは、ゴメンだ。 「どんな子に育てたい?」  と訊かれたら、すくなくとも、 「他人様に迷惑をかけて生きることが、どんなにか素晴らしく、ありがたいことかを知っている子に育てたい」  と答えよう。それが、たとえどんなに難しくても……。 [#改ページ]   あとがき  忘れられないエピソードがある。ウソのようなホントの話だ。  あれは、高校一年か二年のときだから、二十年以上も昔のことだ。英語の時間に、若い教師が教科書を片手に立ち往生をしてしまったのである。  無理もない。教科書には、母親が少年に与える言葉として、 「Play, play, play, and play!」  というセリフが載っていたのだ。 「遊べ、遊べ、遊べ。そして遊べ……」  と訳しかけて、さすがに教師は絶句した。いくらナンでも「おかしい」と思ったにちがいない。  しかし、なんど目をこすっても、そこには「Play, play, play……」と書いてある。ぜったいに見まちがいではない。  なあに、タネ明かしは簡単だ。これは、ショパンか誰かの伝記の一節で、ピアノを前にした少年に向かって、彼の母親は言ったのである。 「Play, play, play, and play!」(弾いて、弾いて、弾きまくれ!)  じつは、英語では「遊ぶ」ということも「演奏する、ピアノを弾く」ということも、同じ「play」だ。このほかに「play」には「(動物が)はねまわる」「競技をする」「芝居をする」「ふざける」といった意味もある。  それにしても、 「play」  といえば、 「遊ぶ」  ということだ——と思い込んでいた教師には、ちょっと気の毒だった。終戦直後の六・三・三・四制が発足したころの高校には、まだまだこんな教師がいたのである。  戦争中、小学校(当時は国民学校と言ったが)の児童(当時は少国民と呼ばれていた)だったわたしたちは、 「よく学び、よく遊べ」  と教わったものだ。このことからも想像がつくように、わたしたち日本人は、どうも昔から「学ぶ」ことと「遊ぶ」こととを対立させて考えてきた。  だが、子供たちにとっては、学ぶことも、遊ぶことも、ほとんど変わりはないのではないか。学ぶことが遊ぶことであり、遊ぶことが学ぶことではなかったか。  この本は「週刊朝日」に『男の日曜日』と題して連載したコラムと「労働新聞」に『青木雨彦の会社学・社会学』という題で連載したサラリーマン・エッセイを中心に編んだ。ほかに「労働時報」や「Voice」や、「続続・書斎の復活」に載せてもらった作品も収録したが、いずれも一九八一年から八二年にかけて書いたもので、テーマは、もちろん「遊ぶこと」「学ぶこと」「働くこと」すなわち「生きること」である。  作品の取捨選択ならびに編集は、例によって木田康彦氏の手を煩わせた。この本への収録を快諾してくださった各誌の編集者のみなさんと併せて、感謝の意を表したい。   一九八二年五月 [#地付き]青 木 雨 彦   ★この作品は昭和六十年四月新潮社文庫版が刊行された。