男のためいき女の寝息 青木雨彦 著  [#表紙(表紙.gif、横90×縦130)] 目 次 [#ここから1字下げ] ㈵ 女の寝息  夜も眠れぬ  いい女  夫婦って何だ?  夫婦の会話  ああ言うならば、こう言おう  永遠の神秘  一週間後  なんていい気なものなんだ  母親のような女性とは?  新婚ケンカ旅行  �隠れ彼氏�とは?  責めるのが上手な女たち  ショーだからこそ  ある結婚披露宴  引き出物考  時も所もわきまえず  低血圧症候群  ヘタな遠慮  うちの主人  母性愛にかんする一考察  女言葉・男言葉  乱れてる? それとも、まちがっている?  「婦人関係なし」  ある種の母親たち  考えておく  気になる話  「出会い」という言葉について  テレビと冷蔵庫  家電の騒音  識者の嘆き  ショルダーバッグめ!  大人のオシャブリ  バックグラウンド・ミュージック  肩書きアリ  電話と女房・子供  居留守電話  ヤル気と仕事と  伝手《つて》に頼る  レジュメ無用  心残り  つきあいその罪  たまには酔態について  気分について  ネクタイと背広  ものごとの審査は……  見えるもの、見えざるもの  男、老いを語る ㈼ 男のためいき  「文章講座」の受講生  働かざるもの  プロ以前  近視と老眼  どっちつかず  足掛け何年?  太宰・安吾・作之助  トコロデ会ヒタイヒトモナク  わが純情詩集の日  若い日の私  この賭けだけは……  強烈な一言《ひとこと》  眼が近い代わりに  俳句と遊び心  独りになれるとき  旅は道づれ 自分づれ  木曽路はすべて……  リゾートが呼んでいる  朝は味噌汁とご飯で  正月の味  ウナギと山本周五郎  カニ食いザル  銀座のシラノの物語  女の酒二題  誰か飲み屋を想わざる  わが旧婚旅行  「鬼の霍乱《かくらん》」始末記  年賀欠礼  女房コンプレックス  あとがき   父の思い出  青木雅子 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]     ㈵ 女の寝息 [#改ページ]   夜も眠れぬ  いまは亡き照代さんとコンビだった頃の三球さんの�地下鉄漫才�は、 「この地下鉄、どうやって車両を地下に入れたんでしょうねえ。アタクシ、それを考えると、夜も眠れなくなっちゃう」  というのが、オチである。なに、夜眠れなくたって、昼間眠っておけば大丈夫——ナーンチャッテ。  さて、そういうことなら、このわたしにも、それを考えると、夜眠れなくなっちゃうモンダイが幾つか、ある。できたら、どなたか、教えてください。  その一  わが家は、なぜか女ばっかりだ。長女も、次女も、三女も女。女房まで、モト女かも知れないけれど、女である。  そこで、 「男は、わたしひとり。天井裏のクモまで女郎グモです」  と言いかけて気になったのだが、ホント、女郎グモのオスは何と言うんだろうか? それを考えると、わたくし、夜も眠れない。  その二  ちかごろ騒がれなくなったが、かの雪男は、どうしちゃったんだろう? ヒマラヤの山中に生息するといわれる人間に近い正体不明の動物である。  シェルパ族は、 「イェティ」  と呼んでいるそうだが、あの雪男のメスも、何と言うのか? まさか「雪女」と言うんじゃあるまいな?  例のラフカディオ・ハーンで有名な雪女は、雪の精である。氷のような冷たい手の美しい女で、火にあたらせたり、風呂に入れたりすると、消えてしまう。  それこそ、この雪女のオスは、何と言うのか? まさか「雪男」ではないだろう。 「ひょっとしたら、小泉八雲と言うんじゃなかったかなあ」  と、わたくし、ちかごろ、バカなことばかり考えている。ホント、気になって、夜も眠れない。 [#改ページ]   いい女 「いい女」  というのは、やはり、男にとっていい女ということだろう。女が女にとって、いい女であったところで、面白くもナンともない。  ところが、 「いい男」  というのは、男にとってもいい男であることがある。男にとっていい男が、女にとってもいい男であるわけだ。そう言うと、 「そんなことはない」  と言い出す女のひとがいる。そういうひとはきまって「男にとっていい男が女にとってもいい男なら、女にとっていい女が男にとってもいい女であったって、おかしくないでしょ」とおっしゃるから、シラけてしまう。  わたしにとっていい女とは、そういうことを言わないひとだ。そういうひとには、少なくとも男を友人にできるだけの賢さがある。 [#改ページ]   夫婦って何だ?  夫が妻に向かって、 「誰に養ってもらっているんだ!」  と言ったとき、わたしは、 「その夫婦は、オシマイだ」  と思っている。そのとき、夫は夫であることをみずから放棄したのである。  夫が働いているのは、なにも妻子を養うためではない。言っちゃナンだが、自分自身を養うために働いている。そのおかげで、妻子も食べることができたところで、それだって自分自身を養うために働いているのである。  それをエラそうに「誰に養ってもらっているんだ!」ナンテ言ってはいけない。子供はともかく、妻が家事をやっている以上、妻は夫に養ってもらっているわけじゃない。  ——といったことは、このわたしにも、わかりすぎるほどわかっている。が、ときに、 「誰に養ってもらっているんだ!」  と言いたくなるような場合が、夫にはある。  たとえば、明らかに妻が夫のことを疎《うと》んじているような場合だ。腹に仕舞っておいて口に出さないんならまだしも、妻ってやつは、そういうことを平気で口にするから、 「こいつ、ホントにオレの妻なんだろうか?」  と、バカな夫は思っちゃう。  このあいだ、日本リクルートセンターが調べたところによると、 「もし夏休みが一ヵ月とれたら、サラリーマンの三人に一人は戸惑い、妻の半数は喜ばない」  という結果が出たそうな。そうして、妻が喜ばない理由の大半は「夫の相手をするのがわずらわしいから」ということだったそうな。  失礼ながら、夫の相手をするのがわずらわしくて、何が妻だろう? そんなふうに妻が妻であることを放棄し、夫に対して出て行けがしに扱うかぎり、夫が妻に「誰に養ってもらっているんだ!」と言うのも無理はない。ふたりは、とっくの昔に夫婦ではないのである。 [#改ページ]   夫婦の会話 「どこかへ出かけるときは、かならず亭主に行き先を告げること」  というのが、世の女房たちに対するわたしの切ない願いである。この�世の女房たち�のなかには、もちろん、わが家の女房ドノも含まれている。  早い話が、うちの女房は、どこかへ出かけるにしても、子供たちには行き先を告げていくけれど、亭主のわたしには、滅多なことでは告げていかない。わたし自身は、女房がどこかへ出かけていくことについては、べつに異を唱えるつもりなどないのに、テキはハナッから、 「言えば、反対される」  と思い込んでいるらしくて、水臭いこと夥《おびただ》しい。  これが、PTAに出かけるにしても、カルチャー・センターに出かけるにしても、そうだからオカしい。まして、ショッピングや映画館、同窓会や女性だけの会合に出かけるときは、まず黙っている。  告げるにしたって、直前だ。すっかり出かける支度を整えたうえで言いにくるから、反対しようにも、反対できない。  いつだったか、そう言ったら、 「ホラ。やっぱり、あなたは、あたしが出かけることに反対なんじゃないですか」  と、やられた。恥ずかしながら、こうなってしまうと、もうダメだ。いくら、そうではないことを説明しようとしたところで、耳は貸してもらえない。  そこで、 「子供に向ける関心の半分でもいいから、亭主に向けろ」  と、わたしは女房に言うのである。亭主に少しでも関心を持っていれば、自分の亭主が、そんな男かどうか——は、わかるだろう。  もっとも、 「世の亭主たちは、それだけ女房がどこかへ出かけることに理解を示していないのかなあ?」  と考えたら、ちょっぴり同情したくなった。言っちゃナンだが、この�世の亭主たち�のなかに、もちろん、わたしは入っていない。  それは、まあ、ともかく——  あれは、某市で開かれた「女性五〇〇人フォーラム・21世紀への旅立ち」という会だった。講演を終えたあと、わたしは、その分科会の席上で、聴衆の女性たちに、 「とにかく出かけるときは、亭主に行き先を告げなさい。たとえ反対されても構わない。反対されたら、なぜ反対か——を訊く。それが、夫婦の会話、夫婦のコミュニケーションの第一歩です」  と喋ってから、 「どうだろう? きょう、この会合に出席するについて、亭主に断ってきた人がいたら、手を挙げてみてください」  と言ったのである。  すると、案の定、みんな顔を見合わせている。とたんに、女性の司会者が引き取って、 「いいですか! きょう、この会合に出席するについて、ご家族の誰かに……ですヨ、ご家族の誰かに断ってきた人、手を挙げてください」  とやっちゃったから、堪らない。いっせいにワーッと手が挙がって、 「そうじゃない。家族の誰かに……じゃなくて、亭主に……だ」  というわたしの声は、もののみごとに消されてた。 [#改ページ]   ああ言うならば、こう言おう  このあいだ、毎日新聞家庭面の投書欄「女の気持ち」で、 「夫婦ってなんだろう」  というステキな文章をみつけた。書いたのは、東京・保谷の松橋るみ子さんといって、二十一歳の会社員である。  ちょっと長いが、引用させてもらう。あんまりステキなので、端折《はしよ》るわけにはいかないのだ。  町の自治会の新年会があった日、母が出られなかったので、代わりに出席した。大部分は四十歳前後のオバサンたちだったので、家事に支障があってはとの配慮から、昼の三時から始まった。けれど、酔いが回り、六時になってもだれも帰ろうとしなかった。と言うより、帰ろうとすると「なんだい。おまえ、亭主が怖いのか」と、だれかが男の口調でものすごい。そのうえ、無理やり酒を飲ませ合う。相手が「いやだ」と言っても、だれも承知しなかった。帰り際に「お嬢さんは独りでいいね」と、オバサンたちが言った。  数日後、会社の新年会があった。今度はほとんどが中年の男ばかり。けれど、そこでも同じような現象が起こっていた。宴会が終わって、帰ろうとする人が出ると「なんだ。おまえ、女房が怖いのか」と、いやでも二次会につき合わされる。さらに、断っても無理やり飲ませるのだ。  新人類としては「夫婦ってなんだろう」と考えさせられる。「だんななんてなんだい」「女房なんてなんだい」と、両方で犬の遠ぼえをし合っているところをみると、よほど互いに煙たく思っているに違いない。ということは互いに相手を抑えようとする、いわば�抑圧族�同士の結婚とでも言えそうである。もっとお互いの立場を認め合えば、個人と個人も、家庭と外も、スキッと切れ目がきれいにいくとも思うのだが……新人類の軽薄短小の考えだろうか。  これを読んで「ステキだなあ」と、このわたしが思ったのは、ほかでもない。げんに、わたしが似たような経験をしたばかりだからだ。  一次会が終わって、席を外そうとしたら、 「おや、もう帰るんですか?」  顔見知りの男に呼び止められた。 「まあ、ね」  言葉を濁したのが、いけなかったのかも知れぬ。彼は、わたしを引き止め、 「どうです? もう一軒、いきましょう」  と放さない。やむをえず、 「女房が……」  と、女房の体の具合が悪いことを告げようとすると、 「なんですか。先輩は、そんなに奥さんが怖いんですか?」  と、まさに投書の通りである。  そこで、わたしは言った。いまさら、女房の体の具合が悪いことを告げるのもナンなので、うんとキザッたらしく、 「もし、きみが少しでもボクに好意をもっているんなら、ボクを愛する妻のもとへ帰してくれないか」  と、そう言ってやったのだ。そうしたら、奴《やつこ》さん、ハトが豆鉄砲でも喰《く》らったみたいに目をパチクリさせ、 「や、これはこれは、ゴチソウサマ」  とかナンとか、わけのわからないことを口走って、ようやく退散した。  偶々《たまたま》これを目撃していた悪友がいて、以来、わたしたちのあいだでは、自慢じゃないけれど、二次会、三次会のつきあいを断るときは、マジメな顔して、 「もし、きみが少しでもボクに好意をもっているんなら、ボクを愛する妻のもとへ帰してくれないか」  とやるようになったのである。まあ、一種の流行というか、遊びですね。遊びだから、マジメな顔をしてやればやるほど効果がある。  言っちゃナンだが、これもまた、わたしたちの、妻に対する思いやりではなかろうか? 夫婦のあいだで、直接交わされる情愛ではないけれど、二次会、三次会のつきあいを断って、珍しく早く帰宅した夫は、こんなセリフを吐いて、悪友たちの誘いを振り切っているのである。  そんな夫に対して、 「あら、きょうは早いのね」  という、妻の一言が皮肉に聞こえるか、聞こえないか。彼女が子供たちと一緒に、あるいは独りで眺めていたテレビから目を離して言えば皮肉には聞こえないだろうし、テレビから目を離さずに言えば、これは皮肉に聞こえるかも……。人生って、いや、夫婦の間って、ホントに微妙なもんである。  それにしても、人生を長くやっていると、少しずつ体のリズムが狂ってくる。早い話が、だらしなくなる。  たとえば、酔って帰ると、こぼした酒でネクタイが汚れていたりする。いつかも、ある会合で席を同じゅうした紳士が、 「なにが辛《つら》いって、それを女房に�トシをとったせいか、ちかごろ、ホントにだらしがないんだから�と指摘されるのが、いちばん辛いですな」  とボヤかれたのには、心から同情した。 「そんなときは、こっちから�オレ、トシをとったせいか、ちかごろ、ホントにだらしがなくなった�と、先に言っちゃったら、どうですか?」  と、わたしは慰めたが、果たして、こっちが先に言ったら、 「あら、そんなこと、ないわ。あなたは若いわよ」  という女房の声が返ってくるかどうか?  わたしの場合は、まだ試してないので、わからない。 [#改ページ]   永遠の神秘  映画『男はつらいよ』における寅さんのセリフじゃないが、この世には、たしかに「それを言っちゃあオシマイよ」ということがある。男にとって、その最たるものは、女のひとの「悔しかったら、子供を産んでみろ」というセリフだろう。  とくに子供を産むときの肉体的な苦痛を持ち出されると、男はヨワい。こいつばかりは経験したくてもできないんだから、黙らざるをえないのだ。  冗談じゃなしに、 「産んでみたいなあ」  と思うことがある。女のひとは、とかく肉体的な苦痛ばかりを強調するが、 「ひょっとしたら、ものすごい快感もあるんじゃないのか」  というのが、わたしの、かねてからの疑問でもある。  その証拠に、女のひとは、 「あんな苦しみは、二度とご免だ」  と言いながら、すぐにまた妊《はら》むではないか。十月十日《とつきとおか》も胎児を抱えていることの大変さを認めるのは吝《やぶさ》かでないが、 「産むことの歓びは、それに勝《まさ》っているはずだ」  と、つい思ってしまうのである。  それに、もうひとつ、どうしても知りたいのは、 「女のひとが妊娠する場合、ホントはその瞬間を覚えているんじゃないのか」  ということだ。これも、男にとっては永遠の神秘だ。  このあいだも、男同士の座談会でその話が出た。男にしてみれば、 「三日前のことなら覚えていても、十月十日前のことは、わからねえなあ」  といった心境である。  そこで、わたくし、傍らの女性速記者に、 「ねえ、わかるんでしょ?」  と訊いて、叱られた。彼女、まだ妊娠したことがなかったんだそうである。  ああ、モッタイナイ! [#改ページ]   一週間後  電話の声に、 「おや、おかしいよ」  と言ったことがある。なんの根拠もないが、ヘンだったのだ。  そこで、ふつうなら、 「カゼでもひいているんじゃないのか?」  と言うところだろうが、わたしはとっさに、 「オメデタじゃないのか?」  と、口走っていたらしい。相手の女性は、 「まさかァ」  と答えたが、その声も心なしか上ずっているように、わたしには聞こえた。 「悪いことは言わない。お医者さんに診てもらいなさい」  白状すると、そのときは、そんなモットモらしいことを言った覚えはない。が、彼女は素直に産院に出かけたみたいだ。  二、三日して、 「驚きました。おっしゃる通り、妊娠してました。あたし、やっと母親になれます」  と、こんどは弾んだ声で電話をかけてきたから、ビックリした。そうして、 「でも、ホントにどうしてわかったんですか? 夫にも、母親のあたしにも、わからなかったのに……」  正直な話、そんなこと言われたって、このわたしにわかる筈もない。そのときは、そう思ったから、口にしたまでのことだ。  慌てて、 「オメデトウ。よかったね」  と言ったものの、こっちこそキツネにつままれたような気持ちである。わたしは、しばらくボンヤリした。  ところで、彼女は、わたしたちの勉強会のメンバーの一人だ。結婚してからも、働きながら文章を書いており、勉強会には夫婦して出席している。  だから、顔を合わすと、 「だけど、どうしてわかったんだろうねえ」  いまでも仲間が話題にするが、わからないものは、わからない。わたしは笑って、 「たぶん、超能力だろ」  と答えている。  それにしても、 「妊娠した場合、女のひとは、ひょっとしたら、その瞬間を覚えているんじゃないのか?」  というのが、わたしの、かねてからの疑問である。誰か、ウソでもいいから、教えてくれないか……。  そんなわけで、このあいだも、数すくない女友達の一人に、 「ホントは、わかるんだろ?」  と訊いてみた。そうしたら、オドロクベシ、 「あたしの場合は、一週間後にわかるわね」  という答えだった。 「一週間後?」 「そうなの。無性にクシャミが出ることがあって、それが決まって一週間後なのよ」 「なに?」 「それで、急いでお医者さんに行くわね。すると、たいがい�オメデタです�って言われるの。ホントにフシギよ」 「それで?」 「そのたんびにおろすのよ」 [#改ページ]   なんていい気なものなんだ 「結婚なんてバカらしい」  という若い女性が増えてきた。それも、たいがいがOLである。  このあいだも、生命保険文化センターが二十代から五十代までの女性を対象に「女性の生活意識に関する調査」をまとめたが、その結果をみても、女性の三人に一人は「あえて結婚する必要はない」と考え、二人に一人は「場合によっては離婚しても構わない」と思っているようだ。トーゼンのことながら「女性だからといって、あえて結婚する必要はない」というのは年齢が下がるにつれて多くなり、五十代では二三パーセントだが、二十代では四八パーセントに達している。  しかし、結婚する必要がない理由に、平均して五六パーセントの女性が「経済的に自立できる」を挙げているのは、いかがなものか。図《はか》らずも、この国の女性たちが結婚を「食べていくための手段」としかみていないことが露呈されたようで、思わずゾッとした。  どうなんだろう? すでに結婚している女性たちよ! あなた方は、食べていくために結婚したのか? 食べていくことができれば、結婚なんかしたくなかったのか? あるいは、一人では食べていくことができないから、しかたがなくて、結婚生活をつづけているのか?  だったら、なんという心の貧しさ、卑しさだろう? 言っちゃナンだが、ゴ亭主の顔がみたいくらいのもんだ。あなた方のゴ亭主は、あなた方がそんなにも貧しく卑しい魂胆で結婚したとも知らずに、きょうもせっせと仕事に励んでいるのか? いや、ひょっとしたら、そういうことに気づいてしまったから、家庭のことなんか顧みずに�仕事人間�たろうとしているのではないのか?  わたしに言わせれば、真に寂しいのは、家庭のことを顧みない亭主をもった女房たちではなく、家庭のことを顧みるのが辛いから、やむをえず�仕事人間�になっている亭主のほうである。  ふたりのあいだの子どもにしたって、女房にしてみれば、月給なら月給を運んでくれる亭主をつなぎとめておくための道具にすぎない。亭主にしてみれば、無理にも「子はカスガイだ」と自分に言い聞かせているが、もうひとつ実感がないのではないか。  それもそのはず、子どもはちいちゃいときから女房に飼育され、食べるために結婚した女房の言うなりになっている。子どももまた父親が必要なのは、どうやら父親がいないと食べていけないからだろう。  それにしても、父親は甘い。息子でもそうかも知れないが、とくに子どもが娘だったりすると、ド演歌の文句じゃないけれど、 ※[#歌記号、unicode303d] 嫁にいく日が 来なけりゃいいと  ナンテ、本気で思っている。わたくし、あれ、はじめはジョークだと信じていたのだが、どうもそうではないらしい。失礼ながら、これではダメだ。  そんな父親や母親に育てられているから、学校を卒業しても、娘はいっこうに家を出ていこうとしない。息子もそうかも知れないが、娘が家を出ようとすると、両親が血相を変え、 「そんなことをしちゃいけない」  と言う。ホント、バカみたいだ。  娘にしてみれば、こんなラクなことはない。かりに会社に勤めていても、会社勤めとは名ばかりで、月給のほとんどは小遣いで、そりゃあ、優雅な暮らしである。企業のほうでも、OLの生活までメンドウみるつもりはないから、男女雇用機会均等法なんぞに関わりなく、 「女子従業員は親のところから通うのが望ましい」  ナンテ、じつにいい気なもんだ。  若い女性たちが「結婚なんてバカらしい」と考えているのは、実際に結婚してしまうと、この優雅な暮らしがつづけられなくなるからだろう。彼女たちの多くは「結婚しない理由」の一位に「経済的に自立できる」を挙げているが、そんなの、ウソッパチにちがいない。彼女たちの多くは、結婚しても、経済的に自立できないことがわかっているから、結婚にためらっているのではなかろうか? いや、うっかり結婚なんかしようものなら、いまより経済的[#「経済的」に傍点]に辛い生活を覚悟しなければならないから、結婚しないのだ。 [#改ページ]   母親のような女性とは?  女子大生の七割は「父親のような男性とは結婚したくない」し、半数以上が「父親のような上司の下では働きたくない」と考えているそうな。大東京火災が東京都内で生活する女子大生五百人を対象にアンケートした結果だ。  自慢じゃないが、 「サモアリナン」  と思う。わたしもまた女子大生の父親の一人だが、かりにも娘から、 「あたし、お父さんのような男性と結婚したいし、お父さんのような上司の下で働きたい」  と言われたら、キモチ悪くってしようがない。言っちゃナンだが、父親なんぞは、娘に嫌われているくらいがちょうどいいのである。  それにしても、男の大学生たちは、どのように母親をみているんだろうか? 彼らは、案外マジメに「母親のような女性と結婚したい」し、また「母親のような上司の下で働きたい」ナンテ考えているんじゃなかろうか?  もし、そういうことだったら、 「男たちの結婚はますます遠ざかるだろうし、いっそ結婚しないほうがいいんじゃないのかな?」  とも思う。当世は男の結婚難時代だそうだけれど、わたくし、娘の父親としても、そんな奴らと娘を結婚させたくはない。  母親にしてみれば、 「息子が�母親のような女性と結婚したいし、母親のような上司の下で働きたい�と考えて、どこがいけない?」  と言いたいところだろう。が、これが、いけないんですね。失礼ながら、マジメに「母親のような女性と結婚したいし、母親のような上司の下で働きたい」ナンテ考えている息子が、一人前の女を愛せるわけがない。  それというのも、母親が息子に寄せる愛情というものは、ホントウのところは知らず、無償のものである。母親の立ち場で言えば、愛しているだけで心は満たされている。  ところが、一人前の女が男に寄せる愛情は、かならずしも無償のものではない。彼女たちの愛情には、ある種の期待もあり、打算もあるはずだ。  困ったことに、 「母親のような女性と結婚したいし、母親のような上司の下で働きたい」  ナンテ考えている男は、そのことに気づかない。それこそ愛されることに馴れきっているから、愛することを知らないのである。  そんな男を、いまどきの利口な女たちが相手にするだろうか? 彼女たちには、少なくとも「父親のような男性とは結婚したくない」と言いながら、結果的には父親のような男性と結婚してしまっても、 「それは、それなりによかった」  という言いわけが用意されている。  が、たとえば、彼が母親のような女性と結婚することができたとしても、彼の妻である彼女の愛情は、夫である彼には注がれず、やがて彼女の息子(または娘)に注がれるようになるだけのことだから……。  ホント、やめたほうがいい。 [#改ページ]   新婚ケンカ旅行  旅行業者たちは、 「ジャマイカ野郎」  と呼んで、陰で舌を出しているそうな。新婚旅行に海外へ出かけたものの、ただもうキョロキョロするばかりで、 「どうすんの!」  細君におっきな声で責められ、 「じゃあ、まあ、いいか」  と、渋々従う男性のことである。  当節、新郎と新婦じゃ、新婦のほうが海外旅行に慣れている。なかには、仕事上のつきあい酒やクルマのローンに追われて、 「海外旅行は、このハネムーンが初めて」  という新郎もいるだろう。  それで、新婦に鼻づら引きまわされ、オタオタしているうち、 「ホントにもう、グズなんだから……」  とかナンとか言われて、 「じゃあ、まあ、いいか」  と、こうなってしまう。  ひどいのになると、そのショックで寝込んじゃって、旅先で病気になる新郎もいるらしい。新婦相手に神経すりへらし、あまつさえ夜の営みのほうもうまくいかなくなって、 「あなたって、ダメねえ」  面と向かって罵倒されたりする。  そんなこと言われりゃ、ますますダメになるのは、わかりきっている。新婦も、そのへんのことは承知で言っているのかどうか、ここはひとつ、新婦自身に聞いてみたいところだが、ひょっとしたらひょっとして、 「ホントは、そうなのよォ」  といった答えが返ってこないとも限らないから、やはり、見合わせておこう。ホントに、そんなこと言われたら、オレなんざ、立つものも立たなくなる。  それで思い出すのは、あの放送作家の永六輔さんだ。永さんは奥さんの昌子さんと結婚するにあたって、 「仕方がない。結婚式と披露宴にだけは、ボクも出席するが、新婚旅行に一緒に行くのだけはカンベンしてくれー」  と言ったそうな。その結果、昌子さんだけが、ひとりして新婚旅行に出かけたそうだけれど、これもまた、一つの方法かも知れぬ。  正直なことを言って、新婚旅行に一緒に出かけさえしなければ、新婚旅行中に夫婦ゲンカをするナンテことはない。どうしても新婚旅行中に夫婦ゲンカをしたくなかったら、マジメな話、新婚旅行を取りやめるよう忠告する。もっとも、結婚そのものをやめてしまえば、夫婦ゲンカなんかしたくったって、できないけれど……。  いつだったか、毎日新聞の家庭面に、 「そんなときは、新婚旅行って、ケンカしにくるようなもんじゃないんですか? と言ってあげると、フシギに仲直りする」  というツアーコンダクターの談話が載っていた。ホント、ホント、結婚なんて、夫婦ゲンカをやるために、するようなものだもんね。ホント、夫婦ゲンカばかりは、結婚しなけりゃ、できない。 [#改ページ]   �隠れ彼氏�とは? 「隠れ彼氏」  というのを、ご存じか? ご存じないだろうな。 「隠れキリシタン」  という。クリスチャンであることを隠しているキリシタンのことだ。 「隠れ巨人」  ともいう。プロ野球の巨人軍ファンであることを隠している巨人ファンである。  されば、 「隠れ彼氏」  というのは、女性の恋人であることを隠している彼氏のことか——と思ったら、そうじゃない。女性が隠している恋人のことだそうで、 「それでは�隠し彼氏�じゃないか」  と言ったところが、 「そんな細かいことは、どうでもいい」  と、一蹴《いつしゆう》された。いまどきの若い女性に厳密な言葉の使い方を求めるほうが間違っているようだ。  ところで、この�隠れ彼氏�である。ちかごろ、特定の恋人の存在を隠して他の男性と交際するOLが、やたらに目立つらしい。それも、清純で素直そうなOLほど�隠れ彼氏�がいる可能性が高いというから、コワい。ある新聞のコラムに、 「そんな女性は、だれにとっても親しみやすいので、あちこちから誘いの声がかかり、交際を申し込まれることもしばしば。その中で、一番魅力的な男性を恋人に選ぶのは今も昔も変わりはないが、それだけでは満足しないのが、現代OLのしたたかさ。他の男性からの申し込みにも気軽に応じるが、その際、本命の恋人がいることを口にしないのはもちろん、そぶりもいっさい見せない。そうして恋を楽しみ、もっと素敵な男性が現れたら、迷わず乗りかえる」  と紹介されていたが、こんなことではうっかりプロポーズもできない。  もっとも、われら男子社員だって、長年つきあっている恋人がいながら、他の女性ともつきあうときは、ことあらためて恋人がいることを相手に告げたりはしない。そこは、適当に口をつぐんでアヴァンチュールを楽しんでいる。  しかし、困るのは、相手が熱くなったときだ。こともあろうに、 「これからは結婚を前提につきあってちょうだい」  ナンテ言われようものなら、たいがいの男性は、慌てふためいて、 「ボクには、他に好きな女性がいる。これっきりにしてくれないか」  と口走って恨まれる。いや、恨まれるだけでなく、本命の恋人に関係をバラされて、彼女にまで逃げられてしまう。  それが�隠れ彼氏�をもつ女性の場合は、 「これっきりにしていただけません?」  とは言わないらしいから、スゴい。本命の恋人である�隠れ彼氏�と結婚した後も、平気な顔でつきあう。  かくて、こんどは亭主以外の男性が�隠れ彼氏�となる仕組みだ。ホント、女性はトクである。 [#改ページ]   責めるのが上手な女たち  数すくない女友達の一人に、 「どうして男はいちどに何人もの女を愛することができるんですか?」  と訊かれて、 「女のひとだっていちどに何人もの男を愛することができるじゃありませんか?」  とふざけたら、 「そういえば、そうねぇ」  と、ヘンに感心されて、ちょっとオカシな気持ちになった。こういう場合は、ウソでもいいから、 「そんなことはない」  と言ってもらいたいものだ。  昔っから、 「男は、気が多い」  と言われてきた。そのことを、わたしは否定するつもりはない。げんに、このわたしだって気が多い。  しかし、そういうことなら、女だって、けっこう気が多いのである。事実、わたしは、そういう女のひとたちを何人か知っている——と書きかけて、 「これは、友人から聞いた話だが……」  と断りたくなった。うっかり「わたしも、そういう女のひとたちを何人か知っている」と書こうものなら、女房に何を言われるかわかったもんじゃない。  それは、まあ、ともかく——  男が浮気なら、女も浮気なのである。男が女房以外の女と情を通じることができるなら、女だって亭主以外の男と情を通じることができる。いまさらテレビドラマを持ち出すまでもなく、女房の不倫とやらは盛んである。  いや、女房だけではない。いまどきの女性たちは、OL時代から、適当に遊んでいるらしい。ある週刊誌に、こんな話が紹介されていた。  ——二十六歳の銀行員Y氏は、社内で知り合い、つきあいはじめて一年になる三歳下のA子さんにゾッコンだった。ポッチャリしていて快活で、しかも甘え上手のA子さんを一刻も早く独占したくて、ある日、Y氏は思いきってプロポーズしたが……。  彼女の返事は、Y氏にとってショックだった。彼女いわく、 「あら? 私には、あなたと同じような人が、ほかにも二人いるのよ」  それでも、男は女に向かって、 「どうして女はいちどに何人もの男を愛することができるんですか?」  ナンテことは言わない。ただただションボリと引き退《さ》がるだけである。  ところが、女は立ち場を変えると、とたんに男たちに向かって、 「どうして男はいちどに何人もの女を愛することができるんですか?」  と責めたてる。責められて、いつも男はタジタジする。  女は、責めるのが上手だ。しかも、やりきれないことに、男は守るのが下手だ。ホント、どうしてなんだろう? [#改ページ]   ショーだからこそ  二時間ほどの結婚披露宴に、新婦が顔をみせていたのは、結局一時間足らずだったのではあるまいか? お色直し、お色直しの連続で、化粧室に引っ込んでいる時間のほうが長かったような気がする。  そんなわけで、来賓のテーブルスピーチも、新婦が席を外しているあいだに行なわれ、わたしの友人は「ホントはヨメさんに聴いてもらいたかったのに……」と不満をぶちまけた。司会者が慌てて「スピーチはヴィデオにとってありますから」と弁解していたが、テーブルスピーチは、じかに聴いてこそテーブルスピーチだろう。  当節の結婚披露宴は、新婦のお色直しばかり盛んで、新婦は着せ替え人形さながらである。アホらしいことに、最近は新郎までがつきあって、お色直しをやる。いずれは、来賓もお色直しをやるようになるのではなかろうか?  それにつけても思い出すのは、故・高木健夫先生のお嬢さんの結婚披露宴だ。お嬢さんの邦子さんは、純白のウェディング・ドレスを自分の手で縫い、結婚への思いを花嫁衣装に託した。  披露宴は信州のちいさなレストランを借りて、ささやかに開かれた。ホテルや結婚式場の演出過剰な披露宴だったら、 「自分の手で縫ったウェディング・ドレスを着たい」  といったことが許されるか、どうか。 「結婚披露宴は、人生のショーなのだから」  という考え方に、あえて異を立てるつもりはない。ショーだからこそ、徒《いたず》らに派手な構成に終始せず、心に残る進行をみせてもらいたいのだ。 [#改ページ]   ある結婚披露宴  中学時代からの友人に、 「近く結婚したいが、披露宴の司会をやってくれないか」  と頼まれた。五十歳を過ぎて、 「いまさら披露宴でもあるまい」  と、いったんは断ったのだが、友人は細君を失って再婚でも、八つも若い相手の女性は初婚だそうで、 「できれば型通りのことはしてやりたい」  という友人の言葉にほだされ、つい引き受けた。  それにしても、市販されている冠婚葬祭の心得を述べた本には、若い人が結婚するときのことばかり書いてあって、友人のように中年で結婚する場合のことについては、ほとんど触れてない。まして披露宴の司会の口上や進行上の注意点などについては、アタマッから、 「司会は、若者がやるもの」  とキメてかかっているみたいで、なんの参考にもならぬ。  だいたいが、そういった本によると、開宴の際の自己紹介からして、 「私は、新郎の中学時代からの友人で××××と申しますが、本日、司会という大役を仰せつかりました。何分にも未熟で、不行き届きの点も多々あろうか、と存じますが」  というふうに言うことになっているけれど、いくらナンでも、このわたしが、 「何分にも未熟で」  とやったら、座がシラけてしまうだろう。わたし自身は、たしかに未熟にはちがいないが、あれは年齢的に未熟な人間が言うから愛嬌なのであって、五十ヅラさげた人間が結婚披露宴で言うことじゃない。  そこで、わたしは、 「当たって砕けろ!」  といった調子で、 「正直な話、仲人ならともかく、このトシになって結婚披露宴の司会をやるなんて夢にも思っていませんでしたので、不行き届きの点も多かろうと存じますが」  と、ぶつけてみたのである。とたんに、友人夫婦の旧知・恩師でもある媒酌人が、 「正直な話、私もこのトシになって結婚の媒酌人をやるなんて夢にも思っていませんでした」  とウケたから、楽しかった。  言っちゃナンだが、媒酌人としても、挨拶のなかに、 「どうぞ皆さまも、この若い二人を暖かく見守って、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」  といった文句を入れるべきかどうか、悩んでいたのではなかろうか。  それこそ正直な話、すでに二人は若くないし、それに、あらためてご指導、ご鞭撻願わなければならないほどチャチなキャリアではない。  そんなわけで、友人の結婚披露宴は無事にお開きになったが、帰りぎわに列席者の中から声あり。 「こんど、きみが再婚するときは、オレが司会をやってやるからな」  冗談じゃない! 女房は、残念ながら元気です。 [#改ページ]   引き出物考 「おや? あなたも……」  若い友人の結婚披露宴に呼ばれた帰り、ボンヤリと窓の外を眺めながら新幹線の発車を待っていたら、慌しく隣の席に乗り込んできた男に、いきなり声をかけられた。みれば、モーニングに身を固めた一見紳士ふうで、 「ヨッコラショ」  手にした大きな引き出物の袋を網棚に上げると、 「……披露宴の帰りですか」  そう言って、腰を下ろした。 「ハァ」  黙っているのも失礼だし、関わりあうのも面倒なので、ついどっちつかずの返事をしたところ、 「くみし易し」  とみたのか、 「厄介なもんですなあ」  委細かまわず話しかけてくる。しかも、主語を省いての話だから、 「なにが?」  なんだか、こっちが先を促すような形になった。  すると、 「引き出物ですよ、引き出物」  網棚のほうにアゴをしゃくって、 「ホント、こんなに嵩張《かさば》るとは思わなかった」  そう笑ってから、 「いやあ、女房には�ヘンなセトモノかなんかだったら、構わないから棄ててきてください�って言われたんですが、ねぇ、こんなもの、途中で開けるわけにもいきませんし……」  たぶんこっちの顔色が変わったことにも気がつかなかったろう、これみよがしの溜め息をついた。  言っちゃナンだが、イヤーな感じだ。  たしかに、結婚披露宴の引き出物というやつ、持ちにくく、嵩張っていて、おまけに派手派手しい。正直な話、持ち歩くのが気恥ずかしく、 「もうちょっと何とかならないものか」  と言いたくなるようなシロモノが多いにはちがいないが、こんなふうにハッキリと、 「女房には�棄ててきてください�って言われたんですが……」  と言われると、 「うるせえやい」  と、タンカの一つも切りたくなり、そいつを抑えるのに苦労した。ナマイキを言わせてもらえば、 「そんなことを亭主に言うカミさんもカミさんなら、そんなことを女房から聞いてくる亭主野郎も亭主野郎だなあ」  といった気持ちである。  それにしても、この男、わたしが出席した結婚披露宴の客じゃなくてよかった。新幹線で隣合わせただけでもイヤなのに、披露宴で同席した日にゃ、気の毒で新郎新婦の顔もロクにみられなかったろう。 「だからこそ、引き出物を選ぶには気をつけなさいよ」  胸の内で新郎新婦に忠告するとともに、わたしは、呟いていた。 「そう、客を選ぶのも……ね」 [#改ページ]   時も所もわきまえず  ひょいと目をあけたら、それこそ鼻先で、女の腰にまわされた男の手がモソモソと動いている。東京は新橋での仕事の帰り、偶々《たまたま》坐れた横須賀線でウツラウツラしていたときのことだ。  みれば、若いカップルである。女の背後に男が立ち、左手で吊り革を掴みながら、右手で女を抱えるようにしている。暑いのに、おアツいことだ。  腰にまわされた男の手の動きに従って、女が体をくねらせる。そのうち、頭をのけぞらせ、男のアゴのあたりをチロチロと舐めはじめた。 「いい加減にしないか」  怒鳴りたくなるのを抑えるだけでくたびれた。ちかごろ、時も所もわきまえず、こんなふうにイチャついている男女が増えてきたみたいだ。  男はバカだから、欲情にかられれば、恥も外聞も忘れよう。わたしも男なので、そのことを責める気にはなれない。しかし、女のひとがそっと外せば、それで済むことなのである。それが、それくらいのこともできずに、こんな男に同調するなんて……。  このひと、どうせ捨てられる。 [#改ページ]   低血圧症候群 「低血圧」  ということが、わからない。いや、低血圧が血圧の低い症状であることぐらいはわかっているが、 「低血圧だから、朝起きられず、きょうも遅刻しました」  ということがわからない。  はばかりながら、このわたしも低血圧気味だ。医者には、 「だから、煙草一本吸うぐらいだったら、酒一本飲んだほうがマシだ」  と言われている。  それでも、 「朝、起きられない」  ということはない。そりゃあ、朝起きるのは辛いけれど、かりに六時に起きようとしたら、五時ごろに起きるつもりでいるから、なんでもない。げんに、サラリーマン時代もそうやってきた。  ところが、若いOLのなかには、低血圧を理由に遅刻して平気な顔をしているひとがいるらしい。課長が文句を言うと、 「だって、低血圧なんだから、仕方がないでしょ?」  と、こうだ。ホントに仕方がないのかな? [#改ページ]   ヘタな遠慮 「何が好き?」  と訊いたら、 「なんでも!」  と答えた。横浜で「さて、これから飯でも食おうか」という話になったときのことである。もちろん、相手は女のひとだ。  そこで、中華街へ連れてった。馴染みの店に案内し、 「適当にみつくろってくれ」  精々顔を利かせたつもりなのに、いざ料理が運ばれてきたら、ちっとも箸をつけない。だんだん気になってきて、 「どうしたの?」  と尋ねると、 「あたし、中華料理、ダメなんです」  という返事だ。 「それならそうと、最初から言え!」  つい声を荒げたところ、 「だって、初めにそんなこと言ったら、失礼だし、あなたが傷つくと思って……」  冗談じゃない。頼んだ料理に箸をつけてくれないことのほうが、よっぽど傷つく。  言っちゃナンだが、これだから、わたし、知らない女のひとにゴチソウするのが、イヤなのだ。せっかくの料理も、まずくなる。 [#改ページ]   うちの主人  女房に、 「お父さん」  と呼ばれるたびに、 「オレはお前のオヤジじゃない」  と怒鳴り返して、いつのまにか二十年以上たってしまった。夫婦なんて、他愛もないもんである。  自分でも、 「呼ぶほうも呼ぶほうだが、怒鳴り返すほうも怒鳴り返すほうだ」  ということぐらいは、わかっている。が、人生には、わかっちゃいるけど——ということだってある。  このあいだも、 「お父さん」  と呼ぶから、 「オレは、お前のオヤジじゃないって言ったろ。何べん言やあ、わかるんだ?」  と怒鳴り返したら、傍らにいた娘に、 「じゃあ、お父さんはお母さんに何と呼ばれたいんですか?」  と言われて、言葉に詰まった。娘も、年頃になると、ナマイキに親をからかう。  この娘は、幼稚園に上がる前に、母親のことを「おい」と呼んで、ビックリさせた前歴(?)のある子だ。もっとも、娘は父親のことを「あなた」と呼んで、すぐに母親の胸を撫で下ろさせたが……。  いつだったか、どこかの調査で〈妻の夫に対する呼び方は、ふだんの場合は、約五割の人が「お父さん」「パパ」と呼んでいるが、親しい友人に話す際は、五割以上の人が「主人」と呼んでいる〉という数字をみせられたような気がする。いずこの家庭も、妻は夫を父親扱いしているようだ。  これは、おそらくは日本の家庭が子供中心に営まれているせいだろう。高齢化社会を迎え、やがて子供たちが独立していき、ふたり残されたあとも「お父さん」「お母さん」と呼び合うのかと思うと、あまりいい気持ちはしない。  ところで、外にあって妻たちが夫のことを「主人」と呼ぶのも、どんなものか。女房などは、電話の相手に「うちの主人が」「うちの主人が」と繰り返しているけれど、我が家の主は、どう考えたって彼女のほうである。  女房に、 「お父さん」  と呼ばれるたびに、 「オレはお前のオヤジじゃない」  と怒鳴り返しているように、彼女が、 「うちの主人」  と言うたびに、 「お前はオレの下僕か」  と、イチャモンをつけている。とかく下僕は主人をバカにしがちだから、わたしは「主人」と呼ばれるのが嫌いだ。  それでも、わが女房ドノは、わたしのことを「お父さん」あるいは「うちの主人」と呼んでいる。なにやら意趣があるみたいである。 [#改ページ]   母性愛にかんする一考察 「母性愛」  という。こいつが、わたしにはわからない。  こんなところで「広辞苑」を引用するのもナンだが、机の上の「広辞苑」には、 「母親が持つ、子に対する先天的・本能的な愛情」  と出ている。女性なら、誰でも持っているような説明である。  失礼ながら、 「ホントだろうか?」  というのが、このわたしの、偽らざる感想だ。数多い女性の中には、母性愛のカケラも持ってない母親だっているのではなかろうか。  わたし自身は、べつに母親にいじめられたり、いびられたりしたわけではない。むしろ「可愛がられたほうじゃないかな?」と思っている。  それでも、 「母性愛は、果たして女性の本能だろうか?」  という疑問を抱いているのは、母親以外の女性から、いわゆる母性愛を注いでもらった記憶がないからだろう。これを逆に言うなら、わたし自身は、 「女性の母性愛をくすぐるほど、可愛くなかった」  ということになる。いや、いまでも確かに可愛くない。  そんなわけで、わたしには、いわゆる女性の母性愛なるものに対して偏見があるのだ。そう、もっと正直に言うならば、あまりにも周囲の友人たちが、いわゆる女性の母性愛なるものをくすぐっているのを見すぎてきたために、イヤらしいとさえ思っているのである。要するに、わたくし、モテなかったんですね。  それは、まあ、ともかく——  わたしが急に母性愛なるものについてかかる考察をはじめたのには、もちろん、動機がある。ついこのあいだ、フランスのコリーヌ・セロー女史が監督した映画『赤ちゃんに乾杯!』を観て、 「男の中にも�母性愛�はある」  ということを思い知らされたばかりだからだ。  映画そのものは、 「ある晴れた日、戸口に棄てられてあった赤ん坊とバスケットをみつけたばかりに、三人のプレイボーイたちが、俄然�子育て�の歓びを知り、テンヤワンヤの騒ぎを繰りひろげる」  といった他愛もないコメディーだが、彼らの赤ん坊に対する思い入れが、まさに�母性愛�としか言いようがなくて、考えさせられたのだ。女性の�母性愛�が、かならずしも自分の産んだ子にだけ注がれるわけではないように、彼らもまた自分たちが産んだわけでもないのに、 「産みたい」  と思ったりする。  それにしても、赤ん坊を棄てるのが本来は�母性愛�の持ち主である女性で、育てるのが�母性愛�の持ち主ではない男性である。そこで、偶々来日したセロー女史に面と向かって、 「よく棄てられるなあ」  と訊いた男がいたが、そのときの女史の答えが傑作だった。  彼女いわく—— 「なに言ってるんですか? 男性は、昔っから棄ててきたじゃァありませんか」 [#改ページ]   女言葉・男言葉  自慢じゃないが、ナニワブシで育った。先代・広沢虎造さんの『お民の度胸』なんざ、胸ェワクワクさせながら聞いたものだ。  とにかく、お民のセリフがいい。お民は、ご存じ森の石松の幼《おさな》馴染《なじみ》・七五郎の女房だが、都鳥一家に追われた石松をかばって死を決意した七五郎が、お民に災難が及ぶのを防ごうとして離縁を言い渡すと、 「おまえ、なにかい? エラそうにタンカ切ってんのかい?」  と、尻をまくるのである。そうして、 「あたいが聞いてると、ちっともエラそうに聞こえないよ。おかしくってしようがない。ただのおかしいんじゃないよ。鳴り物が入って、ちゃんちゃらおかしいってんだよ」  ここで私事を申しあげれば、昭和ヒトケタ生まれのわたしにとって、このお民さんは、理想の女性像の一つでもあった。その乱暴な男言葉を耳にしては、逆に彼女の女らしさにしびれていた。そんなわけで、 「ちかごろの女子中学生、女子高校生が好んで男言葉を使っている」  と聞いたところで、 「そんなものかなあ」  といった感慨しか湧かない。言っちゃナンだが、憧れのお民さんほど伝法な口が利けるわけのものでもなかろう。聞けば、 「ざけんなよ」 「ばっくれんな」 「このタコ」 「ねーよ」  といったところが、彼女たちの得意な言いまわしらしい。果ては、セーラー服の女の子たちが、 「てめえ、それでも女かよォ」  とやっているそうだから、バカらしい。  失礼ながら、 「幽霊の正体みたり」  という感じである。彼女たちは、せいぜい粗暴で野卑な言葉遣いをしてみせることで、自分たちが女であることを強調しているにすぎない。  NHK放送文化研究所がアンケート調査したところによると、 「男言葉を使う女子中学生は約六割、女子高校生は約五割」  ということだが、このわたしに言わせれば、それだけの女子中学生、女子高校生が、性にめざめ、女であることを意識しているものの、そのはけぐち[#「はけぐち」に傍点]がわからなくて、混乱しているのだ——ということになる。  もちろん、いわゆる識者のなかには、もっともらしく、 「この男女差別の社会にあって、彼女たちの言葉が粗暴で野卑になっているのは、何とかして男性と平等で、対等の意識を持ちたいという欲求の現われだ」  というふうに説明する向きもあろう。あるいは、女子プロレスやツッパリ・ドラマなどテレビの影響を口にする人もいるだろう。  それにしても、ふつうの男たちは、彼女たちみたいに、 「むかつく」 「はんぱじゃねえか」  といったふうな乱暴なモノ言いはしない。彼女たちが使う男言葉のほうが、男たちが使う男言葉よりも、はるかに粗暴で野卑なのである。  そのことからも、彼女たちが好んで男言葉を使うときは、 「自分たちが女であることを強調しようとしているのだ」  ということがわかる。それこそ野卑で粗野な言い方を許してもらうなら、あいつら、みんな色気づいているだけのことだ。  男言葉を使うなら、せめてお民さんのように、大人の色気で迫ってもらいたい。さもなかったら、みっともないから、やめときな。 [#改ページ]   乱れてる? それとも、まちがっている?  高校生の娘に、 「ホントは、お父さん、定年している[#「定年している」に傍点]のか?」  と訊かれて苦笑した。わたくし、気がついたら、三十歳を過ぎて二十五年もたっているのである。  それにしても、 「定年している」  という言い方には、ビックリした。いわゆる�するする言葉�も、 「ここまで来たか」  といった感じである。  カルチャーする。あるいは、カルチャーしている。  青春する。あるいは、青春している。  原宿する。あるいは、原宿している。  大学生する。あるいは、大学生している。  ロマンチックする。あるいは、ロマンチックしている。  中年する。あるいは、中年している。  数えあげれば、キリがない。あらゆる種類の名詞に「する」あるいは「している」が勝手に付きはじめたのは、テレビのCMで、 「あなた、タバコする?」  とやって以来だろうか?  最近は、 「不倫する」 「風俗する」  といった使い方もあるらしい。なんだか風紀が紊乱《ぶんらん》しているようで、恥ずかしい。  NHKのアナウンサーが、 「アタマ文字、アタマ文字」  と言っているのを聞いて、ホントに頭が痒《かゆ》くなってきた。断るまでもないけれど、頭文字《かしらもじ》のまちがいである。  いつも、 「フシギだな」  と思うのは、アナウンサーがこうしたまちがいをやらかすたびに、いわゆる識者なる人物がしたり[#「したり」に傍点]顔して、 「日本語が乱れている」  と言い出すことだ。失礼ながら、こういうのは、日本語が「乱れている」のではなくて、 「まちがっている」  というのではなかろうか? 「まちがっている」  といえば、あくまでもそのひと[#「そのひと」に傍点]個人の責任である。まちがった奴が悪い。  しかし、 「乱れている」  というと、なんとなくそのひと[#「そのひと」に傍点]個人の責任ではないように思えてくる。言っちゃナンだが、 「仕方がないな」  といったニュアンスである。  日本語を乱しているのは、じつは、こういう要らざる心づかいではないのか? わたくしには、どうもそんな気がしてならない。  またまたNHKの例で恐縮だが、朝のテレビ小説『はっさい先生』の女主人公が、 「トンデモアリマセン」  という挨拶を連発しているのが、気になった。それこそ昔の人が聞いたら、 「トンデモナイコトデス」  と言うにちがいない。 「トンデモナイ」  というのは、 「ヤルセナイ」  というのと同じで、連語だろう。流行歌の「月にやるせぬ 我が想い」がまちがいであるように、この「トンデモアリマセン」もまちがいのような気がするが、どうだろう?  でも、三省堂の『国語辞典』第三版には「相手の言ったことを強く・否定する《ことわる》ときのことば」として、 「—(ことでございます)」〔「とんでもございません」は「とんでもないことでございます」の新しい言い方〕  というふうに出ているところをみると、必ずしもまちがいではないかもワカラン。が、少なくとも「新しい言い方」であって、このドラマが展開されている戦前、それも昭和初期には使われていなかった。  これは、明らかに放送作家のまちがいだろう。演じている女優さんに罪はないけれど、やはり、気になる。 [#改ページ]   「婦人関係なし」  ちかごろ「先妻」という言葉が使われなくなって「前妻」と言う人が増えてきた。なんだかオードブルみたいで、へんな感じである。  いつのまにか「中華料理」も「中国料理」と言うようになっている。いまに「中華思想」も「中国思想」と言うようになるのだろうか。  街の「美容院」の看板も、あらかたは「美容室」に改められている。女のひとに、お世辞のつもりで「美容院へ行ってきたのか?」と言おうものなら「いいえ、美容室よ」と言い直される始末だ。  だいたいが、女のひとを「女性」と言うようになったのも、つい最近のことである。昔は、女のひとのことは「婦人」と言ったものだ。  たとえば「国防婦人会」というように、なんとなく戦争中の匂いがするから「婦人」は嫌われたのだろうか。いまでも「婦人服」や雑誌の『婦人倶楽部』はともかく「婦人警官」「婦人自衛官」など、官製のものは「婦人」と呼ばれることが多い。  民間のほうは「女性」だ。早い話が「婦人雑誌」だって「女性誌」だし、NHKの朝のテレビ小説『はね駒《こんま》』の女主人公りんは「婦人記者」だけれど、彼女の後輩たちは「女性記者」である。  そこで「国際婦人年」とやらも、そういえば官製というか、政府主導型だったなあ——と、いまにして思うのである。PTAや地域の「婦人学級」には、もちろん、官の息がかかっている。  いつだったか、江田島の旧海軍兵学校で見せてもらった少年兵・十八歳の遺書に、 「借金なし、係累なし、婦人関係なし」  とあったのが、いまだに忘れられない。かの少年兵が言う「婦人関係」とは、いまの言葉で言う「女性関係」のことだろう。 「返さなければならない借金も、面倒をみなければならない家族も、結婚しなければならない女性もいない。だから、後顧の憂いなく、お国のために死ねる」  といった意味だ。言っちゃナンだが、十八歳という若い身空で〈女性関係なし〉と言いきるところが、なんとも哀れである。  戦争に敗けて、四十一年——。  その悲惨を語り継ぐことのむずかしさが問題になっている。戦争が終わった一九四五年(昭和二十年)から、逆に四十一年を数えれば、一九〇四年(明治三十七年)である。  子供のころ、日露戦争の話は、ずいぶん遠い日の出来事のように聞いた。わたしたちだって、そうだったのである。いまの子供たちが、太平洋戦争のことをずいぶん遠い日の出来事のように聞くのも、けっして無理なことではない。 [#改ページ]   ある種の母親たち  不思議な言葉を耳にした。あるテレビのワイド番組で、司会者が若いタレントの母親のことを、 「きょうだいみたいに仲のよいお母さんです」  と言ったのである。  当節、テレビの司会者やアナウンサーの言葉遣いについて、 「ああでもない、こうでもない」  と、いちいち目くじら立てていたらキリがないし、こっちだってマトモな日本語を喋っているかどうか自信もないので、言葉遣いそのものにイチャモンをつけるつもりは更々ない。しかし、 「きょうだいみたいに仲のよい」  という形容を聞いて、このわたしが、 「ハテナ?」  と首をかしげたのは、形容された相手が他人じゃなくて、実の母親だったからだ。流行歌にも「親の血を引くきょうだいよりも」という文句があるけれど、かりに、きょうだいの仲がよかったら、それは、同じ親の血を引いているからだろう。  いや、スレッカラシのわたしにしてみれば、 「たとえ同じ親の血を引いているからって、きょうだいの仲がいいとは限らない。ときには血を血で洗うようなこともある」  と言いたいところだが、ここは、まあ、そんな理屈は後まわしにしよう。わたしにとって怪訝《けげん》でならなかったのは、この司会者が親ときょうだいの仲のよさを秤《はかり》にかけて、なんのためらいもなくきょうだいのほうに軍配を上げていたことだ。  まさか一司会者の発言が世相を反映しているとは思わないけれど、その場に居合わせた誰もが一様にうなずいているサマをみて、わたしは、 「ちかごろの親は、きょうだいよりも軽くみられているのかなあ」  と考え込んじゃったのである。あるいは、親そのものが、きょうだいのようにみられたがっているのだろうか……。  もし、例の司会者がそんな風潮を暗に皮肉って、 「きょうだいみたいに仲のよい」  と言ったんなら、それはそれで面白いのだが、失礼ながら、彼、とてもそんなふうには見えなかった。彼は彼で、あれでもけっこう気の利いたセリフのつもりで喋っていたにちがいない。  それにしても、このごろ、もうひとつ気になってならないのは、 「子育ても終わったので……」  という表現だ。わたくし、テレビなどで利いたふうな女性たちが「わたくし、子育ても終わったので……」と言うのを聞くたびに、 「そうですか? 子育てというのは、あれは、終わるものなのですか?」  と問いかけたい衝動にかられて、困っている。 [#改ページ]   考えておく 「考えておく」  という返事は、昔は、拒絶の意志の婉曲《えんきよく》な表示だった。他人にものごとを頼んで、 「考えておく」  と言われたら、一応は礼を言って諦めるのが常識だった。  断るほうも、 「イヤだ」  とか、 「できない」  とか答えたんではニベもないし、角が立つだろう——と思うから、 「考えておく」  と答えるのである。頼むほうも、そのへんは察していた。  ところが、ちかごろ、そんな配慮は無用になったみたいだ。ものごとを頼まれて、 「考えておく」  と答えると、二、三日してから、いかにも間延びした声で、 「考えておいてくれましたか」  といった電話がかかってくる。  そこで、 「だから�考えておく�という言葉は�できない�という意味だったんだよ」  と説明しようものなら、 「困るなあ」  とたんに居直るから、始末にわるい。いったんもの[#「もの」に傍点]を頼んだら、すっかりゲタをあずけたつもりである。  いや、ホントのことを言うと、あっちだって、 「考えておく」  という言葉が婉曲な拒絶であることは、薄々は承知しているらしい。その証拠に、若いセールスマンが、 「大阪で�考えておく�と言われたら、まず九分九厘ダメですね。でも、東京で�考えておく�と言われた場合は、黙って引き下がるテはない、もう一押しすると、面白いことに半分以上は何とかなる」  と、わたしに語ったことがある。 「大阪の人に比べると、東京の人は気が弱いんでしょうかね」  ナマイキに、こっちの気が弱いのを楽しんでいる風情である。 「だいたい、もう一押しして、ダメならダメで、もともとでしょ? 頼んで、断られれば、べつに借りができたわけでもなし……」  言っちゃナンだが、こっちが相手を傷つけまいとして気を遣ったことなど、彼らにはナンの関係もないのだ。恥ずかしい話だけれど、相手を傷つけまいとして気をつかったばっかりに、こっちのほうが傷ついている。  そんなわけで、 「考えておく」  と答えて、 「考えておいてくれましたか」  と迫られたときは、 「考えておいたよ」  と答えるのが、いちばんだ。 「それで?」 「考えた結果、やっぱり断ることにした」  ここで、少しでもためらいをみせてはならぬ。少しでもためらいをみせると、彼らは、テキメンにつけあがる。  ホント、不思議なもんである。 [#改ページ]   気になる話  どこかで誰かが、この国のエコノミック・アニマルぶりを説明しようとして、ウサギとカメの話を援用《えんよう》していたのが、気になった。ご存じ、ウサギとカメが駆けっこをする話である。  彼は、この話を�日本の昔話�とキメつけたうえで、 「日本は欧米諸国が居眠りをしている間も走りつづけ、先にゴールインしてしまったが、これが�あちらの昔話�だったら、たとえ競争に負けても、カメはウサギを起こして一緒に走ったろう」  という意味のことを書いていたのだ。そうして、 「昔話ひとつとってみても、日本人の性質がわかる。日本人の、こういうセコいところが、世界の人たちから嫌われるのだ」  と、おっしゃる。  読んでいるうちに気がついた人もいるだろうが、この比喩、いかにもマズい。だいたい、ウサギとカメの話は、日本の昔話ではなくて、イソップ寓話だからだ。  したがって、 「これが�あちらの昔話�だったら……」  という、せっかくの設定は死んでしまう。彼が言おうとしていることが身につまされる内容だけに残念だった。  そう言えば、いつかも博覧強記で知られるアナウンサー氏の本を読んでいるうちに、 「鏡よ鏡、鏡さん、この世の中でだれがいちばん美しいか教えておくれと言ったシンデレラの継母の問いかけは、すべての女性の鏡への問いかけではないかと思われます」  という記述をみつけ「あ、彼もやってる!」と跳びあがった。じつをいうと、このわたしも、前に、 〈しかし、女のひとのウヌボレでよく引き合いに出されるのは、例のシンデレラ姫の継母だ。彼女は、毎朝だか毎晩だか、鏡に向かって「鏡よ、鏡よ、この世でいちばん美しいのはだーれ?」と問いかけるのである〉  と書いて、女性たちのヒンシュクを買ったことがあるからだ。  自分で間違えておいて言うのもナンだが、われわれ男性は、えてしてこういうことにヨワい。わたしに注意してくれた数すくない女友達の一人に言わせると、女は白雪姫の母親とシンデレラの母親を取り違えるようなことは、絶対にないそうだ。 「その点、男のひとはイイ加減なのよ、ね?」  嗤《わら》われて、わたしに一言もなかった。ホントにその通りなんだから、仕方がない。  それにしても、こんなふうに間違って引用されたんでは、引用されるほうも、迷惑だろう。恥ずかしながら、 「さぞかし擽《くすぐ》ったかったにちがいない」  と、心の中で謝った。 [#改ページ]   「出会い」という言葉について 「出会い」  とか、 「ふれあい」  とかいった言葉が、そんなに好きじゃない。自分では意識していなかったけれど、拙著『冗談の作法』を文庫化するにあたり、作家で訳豪こと翻訳家の常盤新平さんに解説をお願いしたところ、 〈このエッセイ集に「出合い」とか「ふれあい」とかいった、ふやけた言葉が一つもない〉  と書かれ、ひどく恐縮したことがある。  じつは、この文章も、 「テーマは�出会い�です」  というので、いったんは断ったつもりだった。が、担当者に、 「断りのハガキを読んでない」  と泣きつかれ、慌てて書いている始末。 「それもまた�出会い�だ」  というんなら、何をか言わんや——だ。  白状すると、以前にも似たような経験をしているのである。  あれは、たとえば「嬉しくないと言ったらウソになる」というように、 「……じゃないと言ったら、ウソになる」  といった言いまわしが流行《はや》っていたときだった。飲み屋のママに、 「あんたの文章には、あれがないから信用できるような気がする」  と言われて、ヤニさがっていた。  ところが、家に帰ってから自分の書いた文章を読み直してみて、ビックリした。ママが嫌っている「……じゃないと言ったら、ウソになる」といった言いまわしが随所に出てくるではないか。  次の日、 「せっかくホメてくれたようだけれど、読み直してみたら、オレもけっこう使っていることがわかったよ」  と言ったら、 「でも、少ないほうよ」  と、ヘンな慰められ方をしたのを覚えている。 「出会い」  という言葉がそんなに好きじゃないのは、この言葉さえ用いれば、何事も説明できてしまうみたいなフンイキがあるからだ。早い話が、わたしが友人の生島治郎に接したのも、師匠である高木健夫先生の門を叩いたのも、 「すべて出会いだ」  と片づけられたんじゃ、世の中、面白くもナンともない。  わたしはわたしなりに努力して、生島なら生島の友人たろうと、高木先生なら高木先生の弟子たろうとしてきたつもりだし、生島や高木先生もまた、同じだったろう。それが、無闇矢鱈《むやみやたら》に「出会い」という言葉を振りまわすと、そんな思いはたちまち潰《つい》えてしまいそうで、わたしは、いつも躊躇《ためら》っているのである。 [#改ページ]   テレビと冷蔵庫  つい最近まで、 「テレビはお父さんで、電気冷蔵庫はお母さんだ」  とばかり思っていた。いや、ホントウの話である。  たとえば、家族そろっての食事どきだ。茶の間で、いつも家の中心にデンと坐っているのは、テレビではないか。  食事中も、きまってテレビが喋っている。わたしたちは、それに目を向け、耳を傾けながら、ただ黙々と箸を運ぶ。  たとえば、子供が学校から帰ってきたときだ。台所で、いつも優しく子供たちを迎えてくれるのは、冷蔵庫ではないか。  ふつうなら「腹へったよ、お母さん」というところを、彼は黙って冷蔵庫の扉をあける。すると、ちゃんとオヤツが用意してある。  そんなわけで、わたしは、 「テレビはお父さんで、電気冷蔵庫はお母さんだ」  と考えていたのだ。テレビさえあればホントのお父さんは要らないし、冷蔵庫さえあればホントのお母さんも要らない……。  ところが、最近になって、俄然そうではないことに気がついた。男にとって、テレビはホステスで、電気冷蔵庫はお手伝いさんではないのか!  早い話が、食事どきである。ちかごろは、なぜか「家族そろって晩飯」なんてことは滅多にない。子供は子供で勝手に食べる。女房は自分の部屋にこもったまま、出てこない。  そこで、男は独りで晩酌をやる。その相手をしてくれるのは、もっぱらテレビである。  だから、ニュース番組でもナンでも、女性のアナウンサーが話しかけてくれるのを、彼は心待ちするようになった。彼女が画面一杯にアップになると、つい頬のほうも緩んでくる。  早い話が、夜中に目がさめたときである。女房に水を頼んだところで、持ってきてくれるわけがない。ノドは乾いている。なんでもいいから飲みたいなと思う。  そこで、男は独りこっそり台所に入る。もちろん、待っていてくれるのは、冷蔵庫だ。  なんだか、お手伝いさんの部屋に忍び込むような感じで、いささかうしろめたい。最初は水を飲むつもりだったのが、それこそビールでも飲まなければ、彼女に申しわけないような気持ちで、ビールを飲む。 [#改ページ]   家電の騒音  たとえば、ディスポーザーである。  晩飯を食べたあと、 「さて、テレビでも観ようか」  と、スイッチをひねると、台所でものスゴい音がする。食事の跡片付けをしていた女房が、ディスポーザーをまわしはじめたのだ。  ディスポーザーは、魚、鳥の骨、野菜のクズなどを粉にして、下水道に流してくれる。便利なことこのうえない。しかし、あの音、なんとかならないものだろうか? うるさすぎて、せっかくのテレビもろくに観てらンない。  たとえば、電気洗濯機である。  風呂に入って、 「さあ、きょう一日の垢《あか》を落とそう」  と、湯槽につかり、体を伸ばすと、風呂場の脇で、グワッ、グワッとヒキガエルの鳴き声のような無気味な音がする。夜のうちに洗濯を済ませておこうと、誰かが洗濯機に洗濯ものを投げ込んだのだ。  洗濯機にしろ、乾燥機にしろ、これらの普及で、洗濯がすこぶるラクになった。それも、夜のうちに済ませておくことができるから、ありがたい。  しかし、あの音、なんとかならないものだろうか? うるさくって、せっかくの風呂も、ゆっくりつかる気になれぬ。  たとえば、ドライヤーである。  風呂からあがって、 「歯でも磨こうか」  と、洗面所に向かうと、なにやら、ブーンという不粋な音が聞こえる。娘の一人が、鏡の前でドライヤーを使っているのである。  娘のやつは、無我の境地かナンか知らないが、濡れた髪の毛を乾かしながら、しきりにシャンソンだか、ジャズだかをくちずさんでいる。もちろん、その歌は、ブワーッというドライヤーの音に掻き消されている。  こっちはイライラして、 「おい、やめないか!」  と、娘を怒鳴りつける。やかましいドライヤーの音のおかげで、就寝前の安らぎも吹きとんでしまいそうだ。  ホント、なんとかならないか。 [#改ページ]   識者の嘆き 読んでいるうちに、 「ホンマかいな?」  と、首をかしげた。いくらナンでも、これではあんまりではあるまいか。  それというのも、わたくし、ある日の新聞コラムに、 「買いっぷりのよさで、最近では逆にひんしゅくを買うほどの日本人観光客」  という記述をみつけたのである。そのコラムは、夏休みの成田空港を描写し、海外旅行から帰ってきた人たちの荷物の大きさを気にして、 「そのほとんどが旅行先で買い込んだ土産品だろう」  と、皮肉っていた。  その二、三日前にも、わたしは、べつの新聞で、日本を代表する重工業の会長さんが、某国の湖畔のホテルに泊まったときのことを、 「このホテルには日本からの女性の観光客も多数いたが、彼女たちは景色を眺めるよりも、土産を買う方に興味があるらしく、日本語でお互いに大きな声で話し合いながら買い漁《あさ》っていた。そのありさまは、得意になって小金を使う成金趣味が感じられ、あまりいいものではなかった」  と書いていらっしゃるのを読んだばかりだ。このように、日本を代表する重工業の会長さんも、新聞記者も、外国における日本人観光客のカネの使いっぷりを嘆いておられる。  たしかに、欧米の街角に立つと、われもわれも——と、お土産を買い漁っている日本人観光客の姿が目につく。が、わたくし、それらをみるたびに、彼らが、 「貿易摩擦解消のために、外貨を使え」  と言っていた首相の言葉に忠実なんだ——と思って、感激していたのだ。  ところが、この国の識者たちに言わせると、それらは極めて嘆かわしいことらしい。外貨を使うべきか、使わざるべきか。ハムレットなら、悩むところだ。 [#改ページ]   ショルダーバッグめ!  電車に乗る、押される。ラッシュアワーならイザ知らず、ちかごろはラッシュを過ぎた時間に乗っても、うしろから押されるようだ。  振り向くと、腰のあたりに他人のショルダーバッグが当たっている。そっとずらすのだが、相手は直接こっちの体に触れていないので、気がつかない。平気な顔をしている。  流行なのだろうか? 電車の中で、ショルダーバッグを肩に掛けているサラリーマンが、やけに目につく。若い人たちだけでなく、けっこう年輩の人も愛用しているみたいだ。みんな、申し合わせたように、左の肩から下げている。  たしかに、ショルダーバッグには、週刊誌やら文庫本やら、あるいは折り畳みの傘やらノートやら、たいがいの小物は入ってしまう。おかげで、ともすれば膨らみがちな背広のポケットも、ホッと一息ついている。  そんなところから、サラリーマンの必需品に近くなったのだろう。このショルダーバッグのことを「小市民の制服だ」と言った評論家もいる。彼は「小市民は制服を着ることによって安心する。つまりショルダーバッグを左肩から掛けることによって安心をする」と書いている。小市民すなわちサラリーマンのことである。  しかし、このショルダーバッグが、電車に乗り合わせた他人の腰のあたりを押すのである。もちろん、悪意はないのだろうが、自分で押していることに気がつかないだけ、始末にわるい。  ——と、そんなふうに考えているうちに「これは、制服なんかではなく、サラリーマンの自己主張のための道具ではなかろうか」ということに思い当たった。彼らは、気がついていないフリをしているだけで、ホントは気がついている。なぜなら、彼らもまた、押されているにちがいないからだ。そう、世の中は、押しつ押されつ……なのである。 [#改ページ]   大人のオシャブリ  高校生たちが、 「学校で、例の�禁煙ナントカ�をくわえてみせ、先生を慌てさせている」  と聞いて、 「やるなあ」  と思った。ホントは、こんなところで感心しちゃいけないんだろうが、いやあ、当節のガキどものイタズラは手が込んでいる。  禁煙ナントカというやつは、早い話が、ハッカ・パイプだろう。オシャブリみたいなもんである。  オトナのオシャブリであるタバコをやめるのに、 「子供のオシャブリであるハッカ・パイプをもってきた」  というところに、あのメーカーのアイデアの卓抜さがあった——と、わたしは思っている。テレビのCMかナンかで、いいオトナたちが、 「私はこれでタバコをやめました」  と言っていたけれど、あれ、病みつきになる人が増えて、いまに「私はこれで禁煙ナントカをやめました」という製品も開発されるのではなかろうか?  それは、ともかく、高校生のオシャブリ騒ぎである。彼らにしてみれば、 「生徒がタバコを喫ってる!」  とカンちがいして駆けつけてくる先生の顔をみて笑いたいばっかりに、禁煙ナントカをくわえてみせているらしいのだが、さて、学校でオシャブリをくわえていいものか、どうか。  それにしても、ちかごろ、くわえタバコでクルマを運転している輩《やから》が、やけに目につく。それらをみるたびに、わたくし、 「ああいう連中のクルマにだけは撥《は》ねられたくないな」  と思う。  ホント、オシャブリをくわえながらクルマを運転するナンテ、許せない。 [#改ページ]   バックグラウンド・ミュージック  名曲すぎても、いけない。つい聴き惚れて、手のほうが留守になってしまうからだ。  さりとて、喧《やかま》しいばかりの曲も、まずい。いわゆるカワイコちゃん歌手の歌も、ご免こうむる。聴いてるうちにイライラしてきて、仕事にならないからだ。  なーに、エラそうなことを書いたが、新聞の切り抜きをやるときに掛けるテープのことである。いまは、たとえば小鳩くるみさんの愛唱歌を繰り返し掛けている。  ——朝飯を食べ、NHKの朝のテレビ小説を見たあとは、裏の仕事部屋にこもって新聞の切り抜きをはじめるのが、十年来の日課である。新聞は、前の日に目を通した新聞を切り抜く。  朝日、毎日、読売、サンケイ、東京、神奈川と、それに日本経済新聞の七紙だ。朝夕刊まとめての切り抜きだから、たいへんである。  それも、連載中の小説を一日遅れで読んだり、前の日に読んでいなかった特集記事を拾い読みしたりしながらの切り抜きなので、かなり時間がかかる。コラムのネタになりそうな記事や個人的に興味をそそられた記事などを、定規とカッターで適当に切り抜いていく。  もちろん、自分が書いた文章や自分のことが書かれている記事は、最優先である。これらは、丁寧に切り抜き、専用のスクラップブックに貼る。  それにしても、作業そのものは単純だから、すぐに倦《あ》きがくる。そこで、カセットテープの音楽を小さく流しながら切り抜くことにしたのである。  いうなれば、バックグラウンド・ミュージックだ。トーゼンのことながら、荘重なクラシック音楽などは敬遠して、軽い唱歌とか歌謡曲とかを流す。  これらも、新曲だったり、とくに贔屓の歌手の曲、思い出のある曲だったりすると、困る。それこそ、 「みんなが知っている歌、懐かしい歌」  といったところが、ちょうど手頃である。  さいわい録音に凝っている人がいて、東海林太郎、上原敏、岡晴夫、田端義夫、霧島昇、松平晃といった歌手たちのレコードからテープをとり、贈ってくださった。東海林太郎だけでも一本のテープに十八曲、上原敏に至っては二十六曲だ。  このテープ一本をウラおもて掛けたところで、だいたい切り抜きも終わることになっている。言っちゃナンだが、朝っぱらから優雅なもんである。  このあいだは、父親の百ヵ日の法要のときに録音してきた菩提寺の和尚の読経を掛けてみた。自分で言うのも恥ずかしいけれど、これがまたバックグラウンド・ミュージックにぴったりで、気持ちは落ちつくし、仕事は捗《はかど》るし……。  ホント、意外な発見だった。 [#改ページ]   肩書きアリ 「困りましたなあ」  そう言って、相手は天を仰いだ。先日、某国に�国賓�として赴くことになり、仲介に入った人物から、 「名刺をみせてくれませんか」  と言われ、名刺を出したときのことである。  自慢じゃないが、わたしの名刺には、いわゆる肩書きなるものが書いてない。通称であるペンネームと郵便番号・住所・電話番号が刷ってあるだけだ。  この肩書きナシの名刺には、ホロ苦い思い出がある。あれは、女性誌の仕事で、のちに国民的タレントとなるカワイコちゃん歌手をプロダクションに訪ねた際だから、十何年も前のこと——  応対に出た社員が、わたしの差し出した名刺を手に取って返すと、 「なんだ、こりゃあ!」  大声を挙げている。 「社長! この男の名刺には、雑誌社の名も、何も書いてありませんぜ。こういうのが、ヘンな記事を書くんじゃァありませんか」  幸か不幸か、わたしがインタビューに行くことは、女性誌から社長に連絡が入っていたので、わたしは辛うじて彼女に会うことができたが、肩書きナシの名刺の効用なんて、そんなものだ。以来、わたしは、ある先輩の、 「諸君! 名刺で仕事をするな」  という教訓を、精神論として受け止めている。  それは、まあ、ともかく——  某国を表敬訪問するにあたって、仲介の人物から、 「なんとか、当日までに公職入りの名刺を作ってもらえないか?」  と言われて、わたしは、頭を抱えた。その国が、この国とは国交のない国だからである。  しかも、知らなかったけれど、その国は、この国以上に名刺の肩書きがモノを言うところらしいのだ。現地では、滅多に会うこともできない高官に拝謁するのだし——と、仲介に入った人物は真剣だった。  その情にほだされて、 「わかりました。要するに肩書き入りの名刺を作ればいいんでしょ、作れば……」  安請け合いしたときの悪い癖で、わたしは、 「それなら、いっそのこと、ありとあらゆる肩書きを刷ってやれ」  と考えていた。そして、恥ずかしながら、近所の名刺屋さんに作ってもらった名刺には——  ひとつ  ふたつ  みっつ  よっつ  いつつ  むっつ  ななつ  やっつ  ここのつ……もの肩書きが刷ってある。なかには「日本推理作家協会理事」なんて怪しげな肩書きもあるけれど、いくつかは県や市に委嘱された公職である。 「これで、いいだろ?」  言っちゃナンだが、百枚も刷った名刺は、たった五枚しか使われてない。 [#改ページ]   電話と女房・子供  モノ書きの友人に、 「電話が鳴ったら、自分が必ず受話器を取る」  という男がいる。そばに細君がいても、ぜったいに触らせないんだそうだ。  訊けば、 「かかってくる電話は、仕事の話にしろ、遊びの誘いにしろ、ぜんぶ自分あてのものだから」  というのである。いったん細君が出て、 「ハイ、××ですが……」  と名乗り、 「それから取り次いでいた日にゃ、時間がかかってしようがないだろ?」  ということだ。  言われて、 「ナルホド、理屈だなあ」  と感心しながら、首をかしげた。言っちゃナンだが、いまどき「かかってくる電話はすべて自分あてのもので、細君に電話がかかってくるはずがない」と思い込んでいられる男の存在が信じられなかったからだ。  ついでに言えば、彼のところは夫婦ふたりっきりで、子供がいない。ホント、子供が一人でもいたら、 「かかってくる電話は、ぜんぶ自分あてのものだ」  ナンテ、悠長なことは言っていられないだろう。  わが家では、女房や子供に、 「電話がかかってきて相手が名乗ったら、その名を復唱するように」  と言い聞かせてある。そうすれば、相手によっては居留守を使うこともできるし、自分が出るときには応対の心構えだってできている。  しかし、ホントのことを言えば、それが守られたことは、ほとんどない。女房や子供は、電話が自分にかかってきたものではないことを知ると、さもつまらなそうに受話器を黙ってわたしに差し出すだけだ。 [#改ページ]   居留守電話  電話については、 「受話器を取るまで、相手がわからない」  というのが、最大の不満だった。あんまりベルが喧しいので、書きかけの原稿を放り出して受話器を取ったような場合、これがセールスの電話だったりすると、ものすごく腹が立つ。 「バカモン!」  思わず受話器を叩きつけるようにして電話を切るが、いったんムシャクシャした腹の虫は、容易に治まらぬ。とてもじゃないけれど、原稿なんか書きつづけられる気分ではない。  恥ずかしながら、わたしのようなスレッカラシのモノ書きでも、原稿を書くにあたっては、ある種の勢いを必要とするのである。いってみれば、まあ、執筆のリズムみたいなものか。  言っちゃナンだが、原稿の書きかけで電話に出ると、そいつが切れてしまう。そいつを元に戻すには、バカバカしいけれど、一行目から書き直す以外に方法はない。  そんなわけで、原稿を書きはじめたら、滅多なことでは、電話に出ない。が、電話というやつ、出てみないことには、それが滅多なことかどうかわからないから、始末に悪い。  正直な話、このところセールスの電話やイタズラ電話が多すぎる。そこで、自宅の電話を留守番電話に切り替えた。留守番電話にセットしておいて「あとで、まとめて聞こう」という算段である。  ところが、留守番電話に切り替えて気づいたことだが、こいつ、留守番電話にセットしておくと、相手の用件をテープに録音してくれるだけでなく、通話と同時に相手の言うことを聞いていることもできるんですね。  それこそ、いながらにして相手の話が聞こえるわけだから、 「受話器を取るまでは、相手がわからない」  という不満は、いっぺんに解消してしまった。ホント、誰の手も煩《わずら》わさずに居留守をキメ込むことも可能なのである。つまり、留守番電話じゃなくて、居留守電話なのだ。  ——女房が吹き込んだ応答メッセージが、とにかく「留守である」ことを伝え、 「お名前とお電話番号、ご用件をどうぞ」  と言ってから、ピーッと信号音が鳴って、相手が喋りはじめる。なかにはそそっかしい人がいて、名前、電話番号を述べたあと、 「ところで、何時ごろお帰りでしょうか?」  と訊いたりするから、面白い。このあいだは、そう訊いてから、 「あらあら、これは留守番電話でしたわね」  と、ひとりで笑い出した女性もいた。  さあ、そうと知ったら、たまらない。こっちは、留守番電話にセットしたまま、電話がかかってくるのを待っているようなテイタラクだ。その間《かん》、もちろん原稿などには手がつかず、何のために留守番に切り替えたのか、自分で首を傾げてる。 [#改ページ]   ヤル気と仕事と  小説家の吉行淳之介さんが、電話の功罪について述べたところ、NTT(日本電信電話株式会社)の職員に、 「そんなに電話が厭なら、最初から付けなければいいじゃないですか」  と言われた——という話が面白かった。理屈である。  さて、そういうことであれば、まちがい電話、いやがらせ電話、痴漢電話、勧誘電話を防ぐ方法はキマッた! そう、電話なんか、最初から引かなければいいのである。  それにしても、ちかごろの勧誘電話は、ひどい。いかにも友人みたいな調子で話しかけてくるので、女房が仕事中のわたしに取り次ぐと、これが、マンションのリースをすすめる電話だったりする。  思わず、 「バカモン!」  と叫んで受話器を叩きつけるが、後味の悪いこと夥しい。いったん中断された仕事には、なかなか戻ることができない。  いつだったか、不可思議な意見に出会《でくわ》した。ある新聞が、ひどすぎる勧誘電話の撃退法を特集したときのことだ。  それを読んで、 「ちょっとひとこと」  と、三十九歳の主婦が投書してきたのである。いわく—— 「確かに忙しい時にしつこい勧誘は困りもの。でも、電話の向こう側にいらっしゃる方も仕事をしているのです。このような方々は多分パートで時間給で働いている方が多いでしょう。その中には生活を支えている方だっていらっしゃるかもしれません。テキだとか、電話を切ってやるだとか、はなはだ高慢なご意見にはびっくりさせられます。忙しい時には、その旨はっきりと伝えればよろしいのです。切ってやる必要はないのです」云々。  失礼ながら、その旨はっきりと伝えても、なお喰い下がってくるから、怒鳴りつけたくもなるのだ。  それは、まあ、ともかく——  わたしには、このひとの、 「でも、電話の向こう側にいらっしゃる方も仕事をしているのです」  という考え方が気に入らぬ。言っちゃナンだが、 「仕事なら、見も知りもしない他人に迷惑をかけ、不愉快な思いをさせてもいい」  と言うのか! 仕事といったって、自分の仕事だろう?  こんなことを書くと誤解されるかもしれないが、それが、パートで時間給で働いていようと、生活を支えている人であろうと、カンケイない。投書の主婦は、電話を切られたり、怒鳴られたりして、 「相手がヤル気を失いやしないか」  ということを心配しているようだが、そんなもん、失ったところで一向に構わない。ヤル気と仕事とはちがうのである。 [#改ページ]   伝手《つて》に頼る  中学・高校の先輩でもある高校教師から電話がかかってきた。何年か前に互いにPTAの会長をしていて知り合った友人からも電話がかかってきた。高校の後輩である国会議員からもかかってきた。  それが、みんな、 「××高校で講演をやってくれないか」  という電話なのである。その高校は、わが先輩が勤めている高校ではない。先輩は先輩で、 「それが済んだら、ついでにオレのところも頼むよ」  と言ってきている。  わたし自身も、高校のPTAの会長をやったことがあるから、PTAの成人委員会が主催する講演会そのものを否定するつもりはないし、講師捜しの苦労も大いに認めているつもりだけれど、この学校は、 「ちょっと異常じゃないか」  と思わざるをえない。言っちゃナンだが、三人もの伝手に頼っていながら、当の学校ないしはPTAからは、いちども電話がないのである。  こっちは、そのつど、 「どうぞ直接電話をおかけくださるように」  と申し上げている。打ち合わせひとつにしても、仲介者を通していたんでは、まだるっこしくてしようがないからだ。  それなのに、いっこうに直接の電話はない。遠慮なさっているのかどうかは知らないが、だんだん不愉快を通り越し、腹が立ってきた。  それにしても、 「伝手に頼る」  ということは、どういうことなのだろう? たとえば、伝手をたどっていったら、国会議員なり、高校教師、元PTA会長なりにぶつかったのか? それとも、つねづね彼らは、このわたしのことを、 「あ、あいつのことなら、オレに委《まか》せておけ」  と、わたしに無断で言い触れているのか? そうして、そういう伝手に頼った以上は、そいつに借りができてしまうのではないだろうか?  ここでバカなことを言わせてもらえば、わたくし、 「人は、生きていく以上、誰かに借りをつくる」  と考えている。そして、 「その借りを少しずつ返していくことが人生なのだ」  とも考えている。  しかし、こんなふうに、一つことをやるのにあっちこっち借りをつくるようなマネをして、どこがいいんだろう? それも、わたしならわたしに直接電話をかけてくれれば、それで済んでしまったことかも知れないのに……。  電話をかけてきた連中には、いちおうは「わかった」と答えたが、いまのところ、わたしに講演を引き受ける意志はない。電話をかけてきた者のなかに、人に貸しをつくるのを生業《なりわい》としている人間がいたばっかりに、わたしはつい意固地になっている。 [#改ページ]   レジュメ無用 「レジュメ」  という。要約、摘要、大意のことである。広義には、研究発表・講演などの概要をプリントしたものを指すらしい。  ときに講演を頼まれ、うっかり引き受けると、 「ぜひ、事前にレジュメを……」  と乞われたりして、ビックリすることがある。それも、 「できれば八百字程度にまとめてください」  ナンテ言われた日には、マイッてしまう。  だいたいが、チャランポランな性格なのである。講演の内容だって、その場になってみなければまとまらないことが多いし、ウナギ屋のオヤジじゃないけれど、客の顔をみてから、割《さ》くウナギを決めるようなところもある。  言っちゃナンだが、 「事前にレジュメを……」  と言われたって、書けるはずがない。それに、 「むずかしい研究発表なんかならイザ知らず、わたしのような人間の、それこそ雑談みたいな講演の概要をプリントしたところで、いったいどこがいいんだろう?」  といった気持ちもある。  さらに言うなら、わたし自身は、本来は短い文章を書いてお鳥目《ちようもく》をいただいている者である。かりに八百字なら、 「八百字でまとめるように」  と言われると、そのことに精魂を傾けてしまう。  それだけで通じる作品とするために、書いては削り、書きかけては破って、その結果、ようやく書き上げればクタクタで、 「あとは、どうにでもなれ」  という気分になっている。おおげさに言うなら、一戦おわった感じである。  要するに、 「言いたいことは、このレジュメで言ってしまった。そのうえに、なにをつけ加えることがあるだろう」  といった心理状態でもあろうか。そんなレジュメを手にして演壇に立ったところで、ロクなことを喋れるわけがない。  それにしても、他人さまに講演を頼んで、 「事前にレジュメを……」  と言うようになったのは、いつごろからのことだろう? なんだか、修学旅行で名所旧跡を訪ね、名所旧跡そのものには一瞥《いちべつ》もくれず、ただただ名所旧跡の由来をノートにしてきて、 「よかったなあ」  と言ってる中学生を眺めているようで、正直な話、おちつかぬ。  恥ずかしながら、講演も生業《なりわい》のうちである。生業のうちだが、 「事前にレジュメを……」  というのだけは、断っている。ナマイキなようだけれど、こいつばかりは譲れない。 [#改ページ]   心残り  この夏は、北海道に三度も出かけた。札幌、旭川、札幌と、みんな公開座談会の司会や講演など、仕事がらみの短い旅だったが、それぞれ仕事の前後にいろんな人に会えたり、会えなかったりして、楽しかった。  とくに旭川では、優佳良織《ゆうからおり》の織元・木内綾さんが暖炉に風倒木をくべて迎えてくださったことが忘れられない。木内さんに言わせると、 「まだ暖房の季節でもないし、火力も弱いんですが、風倒木が�燃やしてくれ、燃やしてくれ�っていうので、ぜひ供養と思って……」  ということだった。  事実、北海道の雪害や風害にやられたシラカバなどの風倒木は、燃料以外には役に立たず、また燃料としてもそれほど優秀なものではないらしい。が、毎朝のように野の花を摘んで歩く木内さんにしてみれば、それらの木々が朽《く》ちたままになっているのを見るに忍びなくて、つい集めてきてしまうようだ。 「ま、火の色だけでも眺めてやってください。彼らも喜びますから」  旭川で一緒に仕事をした藤女子大学教授・後藤平吉氏に千歳空港で再会したのも、嬉しかった。札幌に住む後藤さんに、 「札幌はお好きですか?」  と訊かれ、頷くと、いきなり、 「札幌でいちばんまずいのは、ラーメンだ」  と言い出したから、驚いた。  後藤さんは、それこそニコヤカな顔で、 「札幌でおいしいのは、ビール、バター、アイスクリームのように西欧のものを消化しようとしたものですな。ラーメンみたいに内地におもねってるやつは、どうもいけない」  と、おっしゃる。それが、そのまま一つの文明論になっているところが、素敵である。  それにしても、 「いつも読んでます」  という手紙とともに、札幌の講演会場に花束を届けてくださった女性に会うこともなく帰ってきたのは、心残りだ。たぶん、若くて美しい人だったにちがいない。  係の人に、 「会いますか」  と言われて、 「会いません」  と、わたしは答えた。いまにして思えば、ちょっとカタクナだったかな——と、悔まれる。  それというのも、わたくし、以前に、やはり札幌で「ファンです」と称する女性に会って、そのひとがあまりに若く、美しいのにドギマギしたことがあるのだ。ホントに恥ずかしい話だが、あのとき、わたしは、ビールを飲み干すのもそこそこに逃げ出していた。  言っちゃナンだが、あのひとが、あんなに若く、美しくなかったら、このわたしも、なんとか話ができたように思う。それが、若く美しすぎたために、わたしは、ふいに落ちつきを失ってしまったのである。  それで、思い出した。何年か前、別の講演会場で、質問の時間に女のひとから、 「なにもお土産はありませんが、きょうは北海道の女心をお持ち帰りください」  と、大きな声で言われたことを。  もちろん、こんど花束を贈ってくれた人ではないだろうが、北海道の女性には、いつも度肝を抜かれている。 [#改ページ]   つきあいその罪 「すると、殿方同士では、こういう講座そのものが考えられないんですか?」  と質問されて、 「ハァ?」  思わず訊き返した。ある企業が主催した女性セミナー「つきあいかた知ってますか」で、 「とかく女のひとは相手の気持ちになりすぎる。その点、男は、冷たいようだけれど、どんなに親しい相手でも、相手の心の中にまでは踏み込んでいかない」  という話をしたときだ。  そのセミナーは、家庭の主婦を対象に「女のつきあい その功」「女のつきあい その罪」「女のつきあい その知恵」の三部に分かれていて、おこがましくも、このわたしが担当したのは「その罪」だった。そこで、わたしは、 「なぜか友情というと男同士で、女同士の友情なんて耳にしたことがない」  という前提のもとに、 「たとえば、女のひとは、自分が相手に好意をもっているから、相手も自分に好意をもっていると思っている。自分がこうしてやったんだから、相手がこうしてくれるのは当然だと思っている。ひょっとしたら、それが、女同士の間に友情の成立しない理由なんじゃないだろうか」  と喋ったのである。  おそらくは幼い頃からの社会訓練のせいで、男たちは、 「自分が相手に好意をもっているからといって、かならずしも相手が自分に好意をもってくれているとは限らない」  ということを知っている。ついでに言うなら、 「自分がこうしてやったからといって、相手がこうしてくれるとは限らない」  ということも知っている。  ところが、幸か不幸か、この国の女性たちは、男性を相手にしたときはともかく、 「女同士の間で、そういうことはあってはならない」  と信じきっているようなところがある。ホント、われわれ男には理解できない不可思議な連帯感だ。 「逆説めくが、その連帯感が女同士の間に友情が成立するのを妨げている」  と、わたしは主張したのだ。自分で言うのもナンだけれど、 「これで、オレも、いいことを言うなあ」  と、ウヌボれた。  とたんに、 「すると、殿方同士では、こういう講座そのものが考えられないんですか?」  という質問である。わたしは、辛うじて、 「考えられない」  と答えたものの、 「男性の女性化が言われているとき、これから先はわからんな」  こっそり胸の内で呟《つぶや》いていた。 [#改ページ]   たまには酔態について  久しぶりに、 「ケンカを買おう」  という気になった。これだから、飲み屋に女たちを連れていくのは、まずい。  いや、女たちを連れていっても、静かに飲んでいるぶんには、そんなことにはならなかったろう。飲み屋が、たまたまカラオケ・バーで、 「ねえ、踊ろ」  と言われ、踊れもしないのに、踊ったフリなどするから、いけなかったのだ。踊れないと、どうしたってダンスはチーク・ダンスふうになる。  バーの隅で、男ばかりのグループがオダを上げていた。さっきから、そいつらがこっちをイヤな目つきで眺めている。  一曲、二曲……。  バカな話だが、こっちは女のほうが多いのである。一人と踊れば、もう一人——といったぐあいに、相手が変わる。  そのうちに、 「ヨウヨウ!」  とかナンとか叫んでいた男ばかりのグループの一人が、 「俺にも踊らせろ」  と割り込んできた。 「いや」  トーゼンのことながら、こっちの女たちは断る。それが、 「気に入らない」  というので、男が女に手をかけたから、わたしは、 「何をするんだ!」  と、イキがってみせたのだ。  いつもなら、 「まあ、まあ」  とかナンとか言って、踊るのをやめてしまうわたしだが、その夜は、 「たまには、やってやるか」  という気になっていた。これでも新聞記者だったから、ケンカはそんなにヘタじゃない。  ただし、どんなことがあっても、相手より先に手を出すことはない。まず相手に手を出させて、それからである。まちがって、相手の一発で倒れてしまうことだってあるかもしれないが、ま、これまでも、なんとか躱《かわ》してきた。  ところが、 「何をするんだ!」  という声を耳にしたとたんに、相手が引っ込んじゃったから、面白くない。彼は仲間がいる席へ戻って、 「ああでもない、こうでもない」  と言い出した。それこそ、向こうも、こっちが先に手を出すのを待ちかねている風情である。  それで、こっちは相手の席へ出かけていって、 「汚ねえぞ、貴様ら」  と言うハメになる。不思議なもので、しだいにこっちがケンカを売ってるような気分になってきた。  その日、わたしが、 「ケンカを買ってやろう」  という気になったのは、前にも彼女たちと飲んでいたとき、彼女たちが酔っぱらいにからかわれていたのを気づかなかったばっかりに、 「黙って見過ごした」  と、責められたことがあるからだ。あのとき、彼女たちは、このわたしのことを卑怯者呼ばわりし、 「知らなかったんだ」  という、わたしの言いわけなんかに耳を貸そうともしなかった。  それだけに、 「いつかチャンスが来たら……」  という気が、わたしには、あった。そのチャンスにぶつかったのだ。わたしに、黙っていられるわけがない。  ところが、 「やめて!」  彼女たちは、こんどは、わたしの袖を引っ張った。言っちゃナンだが、袖を引っ張られちゃ、ケンカなんてできっこない。  それにしても、あいつらは、バカなことを言ったものである。あいつらは苦りきったような顔をし、いちばん奥に坐っている男たちを指さして、 「この人たちを誰だと思ってんだ?」  と、威張りくさったのだ。 「知ってるか、そんな奴ら」  こっちの言葉に、あいつらは某公立大学の名を挙げ、 「そこのお歴々だぞ」  という。  さあ、こっちは嬉しくなっちゃった。ウソかホントかしらないが、 「××大学なんてクソクラエだ!」  ここで、 「われながら困った男だな」  と思うのは、わたくし、カウンターに坐っていたアベックのほうの、若い女性の視線が気になりはじめていたことだ。彼女が気になって気になって、わたくし、自分が女たちを連れていたこともすっかり忘れ、アベックのほうの男性が立ち上がったスキに、ひょいと彼女の隣に坐って、 「ゴメンナサイ、騒がせて……」  と謝っちゃった。 「いいえェ、そんなことより、お名前を教えて……」  そこへ、彼が戻ってきたから、わたくし、慌てて、 「さ、帰ろう」  みんなに呼びかけた。あとに残ったのは、件《くだん》の�××大学のお歴々�とか称するバカばかり。 「あいつら、どんな気分で飲みつづけたろうか?」  と思うと、ちょっぴり同情も湧いてきた。 [#改ページ]   気分について 「二月でただ一つ良いことは、他の月より短いことだ」  という言葉があるそうな。お天気博士の倉嶋厚さんが、 「二月の気候が良くないイギリスの季節ごよみに載っている言葉である」  と書いていた。  わたしはイギリス人ではないけれど、そのことは、このわたしにも言える。平均して一日に一本は原稿を書かねばならぬわたしにとって、二月が二十八日しかないことは、とりもなおさず、 「二月は、二十八本しか原稿を書かなくてもいい」  ということなのである。  いろいろな人から、 「よく、そんなに書くことがありますね?」  と訊かれる。そのたびに、 「書くことがないから、困っているんです」  と答えている。ホント、書くことなんて、そんなにあるわけじゃない。  ときに、酒席での友人のエピソードなども書かしてもらう。すると、奇態《きたい》にそれが共通の友人の目に止まったりして、 「あれ、誰某《だれそれ》がモデルじゃないの?」  と耳打ちされ、狼狽する。慌てて、 「いや、あれは、彼(ないしは彼女)だけのことじゃない」  と否定するが、なかなか許してはもらえない。そうやって、げんに何人かの友人を失ってきた。  それは、まあ、ともかく、 「どうやって、タネを捜すのですか?」  というのが、おおかたの次の質問だ。そんなときは、 「新聞を読むんです。とくに投書欄なんか、タネがゴロゴロしてます」  と答える。正直な話、新聞の投書には、ある投書についての投書もあったりして、けっこう面白い。  このあいだも、こんな投書に対して、こんな投書が寄せられていた。最初の投書は三十九歳の高校教員、それに対する投書は六十二歳の無職の人である。すなわち—— 「おい、気分が悪いって、クラスで何か嫌なことでもあったのか」私は心配になった。「いえ、気分が悪いんです」生徒はいらだたしげに答えた。「だから、気分が悪いってことは、何か心配なことでもあったからじゃないのかい」私は胸につかえているものを口に出そうとした。「先生、僕は気分が悪いんです。家に帰りたいんです」生徒の顔は青ざめている。  私が『気持ちが悪い』ことと勘違いしたようである。周囲の先生にたずねたところ『気分が悪い』で通用するのだそうだ。私はその日一日〈気分の悪い〉思いで過ごした。  私の教える教科は国語である≫ 「気分」も「気持ち」も体の不調を訴える時の言葉として、私はそれほど不適切だとは思っていない。むしろ、嫌なことや心配ごとに出あったと考えるのが不自然に思えてならないのである。  病気には、その症状さえ説明できないようなものがあるかもしれない。そのような時に「気分が悪いんです」のほかに、もっと適切な言葉があるだろうか。間違った言葉の使い方は当然直していかなければならないが、言葉の足りないところをよく聞き出したり、表情や身振りで理解しようとする思いやりは、もっと大切なことではないだろうか≫  先生の投書でわからないのは、生徒が「気分が悪い」と言ったことを、 「私が『気持ちが悪い』ことと勘違いしたようである」  と書いているところだ。気分が悪いも、気持ちが悪いも、そんなに変わらないように思えるが、どうだろう?  ところで「気分が悪い」といった言葉について、 「高校の先生のような勘違いをしたり、誤解を受けた記憶は一度もない」  という反論(?)には、ビックリした。それは「お互いに言葉の足りないところを、相手の様子や顔色を見て理解したから」だそうだが、先生自身は、国語の先生らしく、 「自分の様子や顔色を見て理解してもらうようなことをせずに、お互いに言葉で表現するよう努力しよう」  と主張しているのである。言っちゃナンだが、こういうのは、反論にもならぬ。  それは、それとして、このひとが「気分が悪い」という言葉を使ってきて、いちども勘違いをしたり、誤解を受けたりしてきたことがないのは、 「ひょっとしたら、このひとが女だからじゃないのかなあ」  と、わたし、ふっと思ったりした。このひとの名は、じつは「千秋」といって、男だか女だかわからないのだが、わたしには、どうも女のひとのような気がしてならない。  女のひとが「気分が悪い」と言う場合は、かなり生理に左右されていることだろう。残念ながら、こいつばかりは男に有無《うむ》を言わせぬだけの力を持っている。  それにしても、あの生徒、どうして「頭が痛いんです」と言えなかったのだろう? ホント、頭の痛いことである。 [#改ページ]   ネクタイと背広  思わず、 「なにも幸せな人をこれ以上幸せにすることはなかったのに……」  と口走っていた。審査員としてはあるまじき態度だったかも知れないが、半分は冗談で、もちろん、半分は本音である。  先日、昭和六十一年度の「日本作詩大賞」に、中山大三郎作詩・作曲の『ゆうすげの恋』を選んだときのことだ。この歌をNHKホールのステージで歌ったのが、つい最近森昌子さんと結婚したばかりの森進一さんだったから、わたくし、いささかのヤッカミをこめて、そう申し上げたのだ。  日本作詩家協会(西沢爽会長)が主催する作詩大賞の最終審査は、ことし(一九八六年)も国語学者の金田一春彦先生を委員長に、作詩家の井田誠一さん、国立歴史民俗博物館教授の小島美子さんら十人で行われた。本因坊の武宮正樹さん、直木賞作家の皆川博子さん、衣装デザインのワダエミさんらに混じって、わたしもその一人だったのである。  常套句ながら、審査は厳粛なうちにも華やいだフンイキで行われた。なにしろ、作曲家の芥川也寸志さんなどは、女優の市毛良枝さん、漫画家の里中満智子さんに囲まれての審査なので、ずいぶんご機嫌だったみたいだ。  キモノ姿の市毛さんは、テレビで見るよりは遥かに綺麗だった。審査を終えたあと、これまた和服姿の武宮さんがサッと握手を求めにいったのを指をくわえて眺めながら、わたしは、去年だか一昨年だかの審査の日のことを思い出していた。  そのときは、女優の真野《まの》あずささんが審査員だったが、わたくし、控室で彼女をみつけるやツカツカツカと近寄って、 「しばらく」  つい声をかけた。すると、真野さんは、 「は?」  首を傾げたが、その時すでに、わたしはお姉さんの真野《まや》響子さんと間違えたことに気づいていた。 「失礼、間違えました」 「やはり、姉に?」 「ええ」  間違えておいて言うのもナンだけれど、響子さんとあずささんは、二人並んだら、あんまり似ていないだろう。が、あずささんひとりに接すると、これがフシギに、何年か前の響子さんにそっくりなのである。  そう言うと、 「そうなんです」  あずささんも認めてくださったので辛うじて面目を保ったが、どう考えても、あれは軽率な行為だった。以来、わたしは、 「審査当日は、めったなことでは美人に声をかけまい」  と、自分に言い聞かせちゃったもんだから、市毛さんには挨拶もできず、残念なことをした。  ところで、審査の模様はテレビのナマ中継で放映されたが、翌日、悪友たちから電話がかかってきていわく、 「おい、オマエ、ナマイキにいい背広着ていたなあ」  ナカソネ首相に言わせると、この国の女性たちは、話の中身など聞かずにネクタイしか見ていないそうだけれど、どうやら、この国の男性たちだって、審査の模様なんか見ずに背広ばっかり見ているようだ。 [#改ページ]   ものごとの審査は……  某日、読売新聞夕刊の芸能欄を読んでいてビックリした。あの森進一が歌う『ゆうすげの恋』の詞に、 「誤りあり!」  との投書があった——という記事が載っていたのである。  投書の主は、歌人と思われる匿名の一読者で、 〈「ゆうすげの恋」の詞で、ユウスゲが「朝に散る」とあるのは「昼ごろしぼむ」の間違いだ〉  と指摘したうえで、 〈間違った詞のまま歌われつづけると、この花を知らない人、とりわけ子供がそう思い込んでしまいかねない。だから、作者も歌手も慎重に作品に取り組むように〉  と書いてあったらしい。記者が専門家に尋ねたところ、 「確かに指摘のとおり。ユウスゲは昼過ぎまで咲くことがあり、花が実を結んで散る時期は不定」  という。  いやあ、恥ずかしかった!  ——というのも、中山大三郎作詞・作曲、森進一歌唱の、 ※[#歌記号、unicode303d] ゆうすげは 淡い黄色よ  夜に咲き 朝に散る花  という、この『ゆうすげの恋』は、一九八六年(昭和六十一年)の日本作詩大賞を受賞しており、わたしも、その審査員の一人に名を連ねていたからだ。  言っちゃナンだが、わたし自身は、この作品を大賞に推すのに反対したものの一人だった。が、わたしが反対したのは、この投書の主みたいに、 「詞に誤りがある」  というような、きちんとした理由からではない。  ただただ同業の森昌子さんと結婚し、彼女に歌手であることをやめさせてしまった森進一が羨ましくも憎らしかっただけだ。それこそ、居並ぶ審査員のみなさんに、 「なにも、幸せな男をこれ以上幸せにする必要はないじゃありませんか」  と叫んで、女性審査員の一人に、 「まあ、あなた、妬《や》いているのね」  と笑われたほどだった。  くやしいけれど、わたしは、泣いている。ホント、森進一が昌子チャンと結婚することはいっこうに構わないが、 「森昌子に歌手であることをやめさせる」  というのが、わたくし、どうしても気に入らないのだ。 「結婚したって、子供を産んだって、あるいは、離婚したって、歌いつづける」  わたしは、それが歌だ! と思っている。それがプロの歌手だ! と思っている。  そんなわけで、彼が歌う『ゆうすげの恋』を作詩大賞に推すのは最後まで反対したのだが、衆寡《しゆうか》敵せず、わが意は通らなかった。  ところで、いまにして思う。なぜ、あのとき、 「ユウスゲは、どんな花か?」  ということを、百科事典なり、歳時記なりで調べなかったんだろう——と。 [#1字下げ]ユウスゲ[#「ユウスゲ」はゴシック体] キスゲとも。ユリ科の多年草。本州〜九州の山地にはえ、庭にも植えられる。葉は根生し、二列に並ぶ。夏、高さ一メートル内外の花茎を立て、数個の芳香のある花をつける。花は長さ一〇センチ内外、漏斗形で淡黄色、基部は細い花筒となり、夕方から翌朝にかけて咲く。 [#地付き]平凡社『小百科事典』より  さて、結びの、 「夕方から翌朝にかけて咲く」  という一行がモンダイだ。正直な話、これを読んだだけで、 ※[#歌記号、unicode303d] ゆうすげは 淡い黄色よ  夜に咲き 朝に散る花  という歌詞に疑問を抱け——というのは、無理だろう。  しかし、 「そういえば、いまは亡き高木健夫先生は、信州の諏訪にあって、ニッコウキスゲの花を愛《め》でていらっしゃったな」  と思いながら、先生の歌集『阿弥陀残照』(永田書房)を開いて、キモを潰した。先生は、似た種類のニッコウキスゲはおろか、ユウスゲもまた、何首も歌に詠んでいるのである。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  夕すげの黄なる花びら酢に漬けて酒酌むわれの高原の幸  夕すげの黄花が一つ二つ消えわが高原の夏逝かんとす  夕すげの黄花|乏《とも》しく高原に秋の兆《きざし》の孔雀舞ふなり  夕ざれば独り酌むなり二杯酢のゆうすげの花の黄をば愛でつつ [#ここで字下げ終わり]  それにしても、審査員になるのは、たいへんなことだ。これからも、なにかと審査を頼まれることもあるだろうが、 「ものごとの審査には、心して当たらにゃいかん」  あらためて思ったことだった。 [#改ページ]   見えるもの、見えざるもの  ときに、 「男たちには、ボケたい欲求があるのではないか」  と思うことがある。とくに仕事|一途《いちず》に定年すぎまで働いてきて「気がついたら、女房や子供たちから見放されていた」という男たちのことだ。  彼らだって、働くときは「妻子のために」という心づもりで、けんめいに働いてきたのである。世間こそ、彼らのことを「エコノミック・アニマル」だの「会社人間」だのとかまびすしいが、彼らにしてみれば、 「オレが働かなければ、どうやって食べていくんだ」  という気持ちで働いてきたことだろう。  げんに、妻子たちは、そのおかげで食べてこられた。彼らが、仕事をイイ加減にして、家庭のことにかまけていたら、当時、彼らの妻子たちは、果たして食べてこられたか、どうか? 彼らが「エコノミック・アニマル」だったり、あるいは「会社人間」だったりしたのは、本来、妻子とは暗黙の了解があったのではないか?  いや、妻子のうちの「子」のほうは、わからぬ。が、すくなくとも妻子のうちの「妻」のほうは、そういうことで結婚生活をつづけてきたはずだった。  それが、いつのまにか生涯の伴侶である妻は世間に加担し、子供たちと一緒になって、 「いやァねえ」  と、夫を憫笑《びんしよう》する。ホントにイヤだったら、なぜ途中で「そんなに働かなくてもいいから、もう少し家庭のほうに目を向けて」と言わなかったのか!  もちろん、彼女たちは「言った」と言うだろう。そうして「だけど、夫は耳を傾けてくれなかったわ」と呟くにちがいない。  残念ながら、これは、水掛け論だろう。が、妻子のために定年すぎまで働いてきて、挙句の果に「粗大ゴミ」だの「産業廃棄物」だのと笑われながらも、じっと何かに耐えていた夫たちが、いわゆる�恍惚の人�と化してしまうのは、この瞬間である。  このわたしが、ときに「男たちには、ボケたい欲求があるのではないか」と思うのは、夫たちの、こういう悲しい姿をみているからだ。ホント、ボケてさえいれば、彼らは、いままでどおり妻子たちの言うことになんか耳を傾けないでいられるのだから……。 [#改ページ]   男、老いを語る  このあいだ、機会があって仲間と昼食を共にした。昼食といったって、ま、お弁当である。  そのとき、一人がテーブルにこぼしたゴ飯粒を拾いながら、 「まあ、なんだね。トシィとってくると、どうしたってだらしがなくなる。たとえば、忘れ物をする。飯を食っていても、こうやってこぼす」  と言うから、思わず噴き出しそうになった。 「うんうん」  みんなが頷くと、彼、 「ちかごろ、なにがイヤって、これを女房に指摘されることくらい、イヤなことはないね。女房のやつ、オレが飯でもこぼそうものなら、それこそ鬼の首でもとったように�ホントに、あなたはだらしがないんだから�と顔をしかめる」  と呟いてから、 「トシィとってだらしがなくなったことは、このオレにだってわかっているんだ。飯ィこぼすたんびに�ああ、オレもだらしがなくなったなあ�と思う。じつにもう情けない気持ちでいっぱいだよ。それなのに、女房のやつ、駄目を押すように�ホントに、あなたはだらしがないんだから�と言いやがる。ちかごろ、あれがいちばんイヤだねぇ」  と言い出したのである。  とたんに、みんな、シュンとなった。言っちゃナンだが、みなさん、それぞれ思い当たるフシがあるみたいだった。  そこで、 「どうだろう?」  と、わたしが提案した。正直な話、ここらで誰かが何か言わなきゃ気が滅入っちゃってしょうがない。 「だからサ、そういうときは、女房に言われる前に、自分のほうから�あ〜あ、またこぼしちゃった。オレもトシとったなあ�と言っちゃうんだ。そうすれば、女房だって�イイエ、あなた、そんなことはないわよ�と言ってくれないかね?」  とたんに、 「言ってくれないなあ」  みんなが異口同音に叫んだのには、笑っちゃった。わたくし思うに、これだから、日本の亭主はダメなのである。  俗に、 「ああ言えば、こう言う」  と言う。亭主がああ言うと、女房はこう言うのである。横暴な亭主に鍛えられてきた女房としては、そうせざるをえない。もとを糾《ただ》せば、亭主がそういうふうに仕向けて、楽しんでいた面もある。  ところが、トシをとってそれ[#「それ」に傍点]がメンドくさくなっているのに、女房は相変わらずだ。  いや、わかっていて、突っかかってくるようなところもある。  男が�老い�を感じるのは、こういうときである。  女性のみなさん、どうですか? [#改ページ]     ㈼ 男のためいき [#改ページ]   「文章講座」の受講生  朝日カルチャーセンター・横浜で、文章講座「コラム作法」を担当している。四十人ちかい受講生の約半数が、いわゆる中・高年以上の人たちである。  そのほとんどは女性だが、なかには定年で会社をやめ�第二の人生�を歩もうとしている男性もいる。そういう男性は、土曜日の夜の講座なのに、いつもキチンと背広にネクタイ姿であらわれるから、すぐわかる。  いつだったか、教室で中学時代の恩師の話をしたら、いちばん前にいた受講生が、 「あ、そいつはオレの海軍のときの部下だ」  と大きな声を出したのには、ビックリした。奇遇を喜ぶより、それからの講座がやりにくくて困った。  週刊誌などは、 「カルチャー族」  とかナンとか称してカルチャーセンターの受講生たちをからかうけれど、すくなくともわたしの教室に通ってくる女性たちはマジメである。多くは戦争で夫や婚約者を失い、あるいは婚期を逸して、戦後は一家の柱となって働き、弟や妹たちを結婚させ、両親の野辺送りを済ませて、 「ふっと気がついたら、四十年たっていたんです」  と笑う人たちだ。  その人たちが、 「いま、こうして誰にも気兼ねなく勉強できるんですもの。ありがたいわ」  と、おっしゃってくださるのである。講師たるもの、意気に感ぜざるをえない。  おもしろいことに、定年後の男性たちは、カルチャーセンターだけでなく、スーパーに買い物に行くのにも、やはり、背広にネクタイ姿だそうだ。講師のほうは仕事だから、背広とネクタイで固めることもあるけれど、彼らに向かって、 「まず背広とネクタイを脱ぎ捨てなさい」  ということから、いつも講座は始まるのである。 [#改ページ]   働かざるもの  朝日カルチャーセンター・横浜で、文章講座「コラム作法」の講師をしている。毎回作文の宿題を出して、添削《てんさく》する約束である。  しかし、ちかごろは常連が増えてきたために、 「作文の宿題は出すけれど、あんまり添削はしない」  というふうになってきた。みなさん、要領を覚えてしまって、なかなか手を入れさせてくれません。  でも、このあいだは、ちょっと様子がちがった。宿題のテーマを「働く」としたところ、三人もの受講生が、 〈この国に「働かざるもの食うべからず」ということわざがあるが……〉  と書いて、日本人のワーカホリックぶりを衝《つ》いてきたのだ。  正直な話、講師が困るのは、こういうときである。浅学菲才《せんがくひさい》な講師としては、 「待てよ。この国にそんなことわざがあったかな?」  ということで、まず頭を抱えてしまう。  そうして、あれこれ調べた挙句、この言葉の出典が『聖書』であり、マルクスの『資本論』であり、セントポールであることを知る。残念ながら、この国のことわざではないのだ。  そこで、受講生に向かって、 「こういう書き方で、日本人のワーカホリックぶりを衝くのは、いかにもマズい。だいたいが、これは日本のことわざではなくて、外国のことわざなんだから……」  と言いかけているうちに、 「ことわざって、なんだろう?」  という疑問がかすめ、また頭を抱えてしまうのだ。ホント、こんなふうに出典がハッキリしているものも「ことわざ」と言うんだろうか。  いやはや、文章を書くことはむずかしい。そして、文章の書き方を教えるのは、もっとむずかしい。 [#改ページ]   プロ以前  われながら、 「ヌケテルなあ」  と思う。四百字三枚のつもりで原稿を書きはじめ、書き終え、 「さて、投函しよう」  と、改めて依頼書を眺めると、 「原稿枚数——六百字程度」  と認《したた》めてあるではないか。  自慢じゃないが、倍近くも書いてしまったのである。いまさら削るわけにもいかない。  言っちゃナンだが、四百字三枚の文章には四百字三枚にふさわしい内容があり、六百字程度の文章には六百字程度の内容がある。そのへんを見極めてから書き出すのが、ホントのプロだろう。  それなのに、 「約束の字数をまちがえてしまった」  というんでは、どうにもならない。自分で言うのもナンだが、プロ以前だ。  アマチュアの場合、六百字ぐらいの原稿を書くつもりだったら、まあ、八百字ぐらい書くつもりで書きはじめればいい。八百字ぐらい書きたいことを書いて、二百字ぶん削るのである。  プロの場合は、かならずしも書きたいことがあって書くわけではない。まず注文を受け、それから書きたいことを捜す。そこが、アマチュアとちがう。そうして、 「もう、オレには書きたいことなんて、ほとんどない」  とボヤキながら、こんな文章を書いている。 [#改ページ]   近視と老眼  ちかごろ、また老眼が進んだように思えてならぬ。新聞や週刊誌を読むのに、モノを読むときの眼鏡を外し、舐めるようにして読む始末だ。  だいたいが、近視である。近視で老眼だから、モノを読んだり、書いたりするときの眼鏡と、ふだん掛けている眼鏡がちがう。  恥ずかしい話だけれど、これが疲れるのだ。いちいち外したり、掛けたり、ややこしくって、しようがない。  いまでも「近視の人間は老眼になりにくい」と信じているひとは多いみたいで、たまに電車の中で新聞持参の旧友に会ったりすると、胸のポケットから眼鏡を出しながら、 「きみは、はじめっから掛けているんだから、メンドくさくなくっていいなあ」  なんて、バカなことを言う奴がいる。そんなとき、こっちも別の眼鏡を取り出し、 「冗談じゃないよ」  と掛け直してみせると、たいがい目を丸くする。  モノを読むに際して、彼は、眼鏡を掛ければ、それでいいのである。こっちは、掛けていた眼鏡を外し、改めて掛けるのである。 「どっちがメンドくさいか、わかるだろ?」  へんなところで、威張っている。その眼鏡も、家にあっては、どの部屋でもモノが読めるように、部屋ごとに置いてあるのだから、たいへんである。  俗に、 「港々に女あり」  というが、わたしの場合は、 「一部屋一部屋に眼鏡あり」  といったところか。色気も、なんにも、ありゃしない。  われながら、 「不思議だな」  と思うのは、モノを読むなり、書くなりするため眼鏡を掛け直そうとして、まずやることは、ふだん掛けている眼鏡を外してしまうことである。それから、モノを読んだり、書いたりするときに掛ける眼鏡を捜しはじめる。  自慢じゃないが、ただでさえ目が悪いところへもってきて、わざわざ眼鏡を外して捜しものをしようというんだから、みつかるはずがない。それでも、手さぐりで�たぶん置いてあるだろう�場所を引っかきまわし、やっとみつけては、 「あった、あった!」  と喜んでいるわけで、ホント、考えたら他愛もない。  べつに言われなくたって、 「ふだん掛けている眼鏡を掛けたまま捜せば、捜しやすいのに……」  ということは、わかりすぎるほどわかっている。が、世の中には「ワカッチャイルケド」ということだってある。  ——わたしは、この原稿を書くのにも、ふだん掛けている眼鏡を外してから、モノを読んだり、書いたりするときの眼鏡を捜してた。 [#改ページ]   どっちつかず  いわゆる下町の、商人の子だった。金物屋の息子である。近所には、カフェーもあり、射的場も活動小屋もあった。  幼稚園へ行くのは�お金持ち�の子に決まっていたから、幼稚園なんか知らなかった。遊び相手がみつからず、店のまわりでグズグズしていると、 「ジャマだから、活動でも見ておいで!」  と、おふくろに叱られた。  活動小屋にしたって、二番館か三番館である。わたしは、そこで片岡千恵蔵さんの「森の石松」や「宮本武蔵」に胸をワクワクさせていた。  小学校に上がったのは、横綱・双葉山が安芸ノ海に敗れた年か? もちろん、戦前のことである。  困ったのは、家の前の道ひとつ距《へだ》てて、上がる学校がちがうことだ。いつも仲良く遊んでいた肉屋のヒロシは近くのK小学校へ行くのに、わたしはちょっと遠いM小学校へ行かなければならない。  いまはどうか知らないが、そのころ、隣の学校の生徒同士は仲が悪かった。二、三人で出会《でくわ》したりすると、お互いに相手の学校の名を挙げ、 ※[#歌記号、unicode303d] ××学校 いい学校  上がってみたら クソ学校  一年二組の先生は  イロハのイの字も知らないで  黒板たたいて泣いていた  と囃《はや》し合う。  いいも悪いも、それが挨拶なんだから仕方がない。わたしたちは、街で隣の学校の生徒とすれちがうたびに、 ※[#歌記号、unicode303d] ××学校 いい学校  と囃しては、アカンベをしたり、唇をとんがらかしたりしたものだ。  トーゼンのことながら、テキのグループの中には、ヒロシもいる。幼馴染みどころか、別々の小学校に上がっても、学校から帰れば一緒にメンコや石蹴りをして遊ぶ仲のいい友だちである。  でも、わたしたちは、学校の帰りに制服ですれちがったときなど、そんなことオクビにも出さず、 ※[#歌記号、unicode303d] ××学校 いい学校  と、やりあった。言っちゃナンだが、小学一年生でもウラと表ぐらい使い分けることができたのだ。  それに、もう一つ。学校に上がってビックリしたのは、担任の先生から、 「ひとりで映画館に行ってはいけない」  と言われたことだ。  母親は「ジャマだから、活動でも見ておいで!」と言い、学校の先生は「ひとりで映画館に行ってはいけない」と言う。母親の言うことを聞けば先生に叱られるし、先生の言うことを聞けば母親に怒られる……。  右にしようか、左にしようか。わたしは、子ども心に、ホントに悩んだ。わたしが、いまでも�どっちつかず�の人間であるのは、たぶんこのときの体験がそうさせているにちがいない。  どっちつかず——  それは、 「どっちの立場にも立つことができる」  ということだ。わたしは、いま、あのときの体験を心から感謝している。 [#改ページ]   足掛け何年? 「煙草は、十五歳のときにやめました」  というのが、バカの一つ覚えみたいな、わたしの冗談である。子供のときからイイコぶりっこだったわたしが、中学生、高校生の時代に煙草なんか喫うわけがない。  オクテのようだが、初めて煙草を喫ったのは、一九五一年、大学生になりたての頃ではなかったか。中学生時代からの友人である生島治郎と話し合って、 「とにかく初めての体験なんだから、いちばん高級そうなやつを試そう」  というので、ピースを一箱、買ってきた。  当時、フィルター付きなんてヤワな煙草はなかった。トーゼンのことながら、両切りである。  生島は、この初体験(?)を、 「ふわっとしていい気分だった」  と、のちのちまでも語っているが、わたしは、一服して噎《む》せた。何事もそうだったけれど、あっち[#「あっち」に傍点]は要領がいいから吹かしただけ、こっちは根がマジメだから肺まで吸い込んだにちがいない。  新聞記者になり、インタビュアーになったら、これはもう、手放せなくなった。とくにインタビューをやっていて、話題に詰まったときなど、やおら一服すれば、少しは時間が稼げた。  が、わたしが、 「煙草をやめよう」  と思い立ったのは、このインタビュー稼業のせいだから、困ったもんだ。正直な話、女優さんを相手に、いちいち「煙草を喫ってもいいですか」と断るのがメンドくさくなってきたのである。  それに、 「話題に詰まったとき、煙草の助けを借りよう」  という自分の姿勢が、イヤだった。ナマイキを言わせてもらうなら、煙草の助けなんか借りなくたって、話の間《ま》がとれないようでは、プロのインタビュー屋とは言えまい。  そんなわけで、煙草は、何年か前の大晦日に、やめた。大晦日にやめたのは、たまたまテレビに出演していて、煙草を切らしてしまったからだ。  明ければ、元旦である。この日いちにち煙草を喫わなければ、わたしは、足掛け二年、煙草をやめた計算になる。そうして、 「松の内だけは、なんとか頑張ろう」  と思った。松が取れる時分が、いちばん苦しかった。  しかし、なんといっても、 「オレは、足掛け二年も煙草をやめているんだぞ」  という自負(?)がモノを言った。いま、煙草をやめて、足掛け何年になるだろう?  煙草をやめたばっかりに、 「ベッドで煙草を喫わないで……」  と言ってもらえるチャンスを逸してしまったような気がする。心残りといえば、それだけが心残りだ。 [#改ページ]   太宰・安吾・作之助  このわたしに�青春�なんぞというものがあったか、どうか。中学一年のときに、横浜で戦争に負けたボクラ少国民にとって、性のめざめが、小説なんかではなく、進駐軍相手のパンパンによってもたらされたことは、いまでも悲しい。 「接吻」  という字が読めなくて、 「セツブツって、なんですか?」  と質問して、若い教師を困らせた同級生もいる。映画『はたちの青春』が封切られたころである。 「商人の子に学問は要らない。本なんか読んでるヒマがあったら、店の掃除でもしろ」  と言い張る父親の目を盗んで、わたしが太宰治を読みはじめたのは、なにがキッカケだったのだろう? 恥ずかしい話だが、すっかり忘れてしまっている。  太宰の作品も、いきなり『斜陽』や『人間失格』を読んだわけじゃない。少年らしく、比較的健康な『走れメロス』や『パンドラの匣《はこ》』に酔っていたのだ。  なかでも『パンドラの匣』に登場する健康道場の助手(看護婦)である竹さんは、わたしの理想の女性像だった。わたしたちは、健康道場の助手をマネて、 「やっとるか」 「やっとるぞ」 「がんばれよ」 「ようし来た」  といった挨拶を交わして喜んでいたんだから、他愛もない。  そんなわけで、 「戦争未亡人と情死」  という新聞記事を読んだときの衝撃は、譬《たと》えようがない。あれこそは、ちょっぴり晩稲《おくて》の文学少年に、 「性とは何か? 愛とは何か? 人生とは何か?」  ということを、稚いながらもマジメに考えさせるようになった一大事件だった。 「相逢ったときのよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」  わたしは、いまでも太宰の文章の一節を諳《そら》で言えるが、そのころのわたしが校内の文芸雑誌に太宰そっくりの文章を書いていたことは、中学・高校で同級生だった宮原昭夫や生島治郎が時々語り草にする。わたしは、太宰を通じてチェーホフを知り、坂口安吾、織田作之助を知った。そして、オダサクを通してスタンダールを知る。  織田作之助については、思い出がある。担任の教師に、 「なにを読んでる?」  と訊かれて、 「太宰とか、安吾とか……」  と、わたしは答え、織田作之助の名を言うのを失念したら、なぜか教師が安心したように、 「そうか。太宰や安吾なら、まあ、いい。しかし、オダサクはいけない」  と笑ったのだ。 「なぜ太宰や安吾ならよくて、オダサクがいけないのか?」  わたしは、のちのちまで悩んだが、さすがに教師に向かって、問い詰めるほどの勇気はなかった。わたしは、意外に気がちいさかった。  織田作之助の作品では『夜の構図』が好きだった。書き出しの、 「並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ」  という文章もさることながら、 「女の美しさをいつまでも胸に抱いているには、その女と交渉を持たないことだ!」 「嫉妬が起れば、人はもう惚れていないものをも、惚れていると思いこんでしまう」  といった警句(?)に痺れていたように思う。そうして、それにも増して、主人公の信吉がスタンダールの『赤と黒』を読み返しながら冴子を口説くシーンを読んで、 「オレも『赤と黒』を読もう」  と思い立った。  いまにして思えば、俳句は叙事で、短歌が抒情であることを教えてくれたのも、織田作之助ではなかったか。 [#改ページ]   トコロデ会ヒタイヒトモナク  ウチヲデテミリヤアテドモナイガ  正月キブンガドコニモミエタ  トコロガ会ヒタイヒトモナク  アサガヤアタリデオホザケノンダ  ——学生時代に、井伏鱒二さんの『厄除け詩集』(木馬社)を読んでいて、みつけた。井伏さんが高適(李白?)の「田家春望」を訳したものである。  自慢じゃないが、あのころは、まったく飲めなかった。三十年後のいまでもそんなに飲めるわけじゃないが、人恋しくなると、無性に呷《あお》るクセがある。  われながら「アホだな」と思うのは、 「アルコールが人恋しいと思う気持ちを殺してくれる」  と信じていることだ。要するに、バカだから、 「飲んで飲んで飲みまくれば、そっちのほうの気力は失せてくれるだろう」  と思っている。  そんなに沢山の別れを経験してきたわけではない。そんなに沢山の恋にぶつかったわけでもないからだ。  幼いときからヘンに気位ばかり高かったので、うっかり「好きだ」と口走って、相手に「だけど、あたしは嫌いよ」と軽くあしらわれるのが恐ろしくて、滅多に「好きだ」と言ったことがない。先輩のなかには、 「バカだな。そういうのは�気位が高い�とは言わないんだ」  と嗤《わら》う人もいるけれど、そんなことは百も承知である。  しかし、ものごころついた頃から、 「オマエは、器量がわるいんだから……」  と言われつづけてきた人間にとって、よかれ悪しかれ、 「オレは、気位が高いんだ」  と思うことは、せめてもの心の拠り所ではないか。ここは、どうしたって「ヘンに気位ばかり高かったので」と言いたいところだ。かりに、 「好きだよ」  と言う。すると、相手が、 「でも、このまま�いいお友だち�でいましょうよ」  と答える。失礼ながら、それで、ずっと�いいお友だち�でいられたことがあるか! 言っちゃナンだが、ないだろう。  ところが、困ったことに、このわたしにはそれ[#「それ」に傍点]があるんですね。自分で言うのもナンだけど、ホントウにヤワな性質である。  そのたびに酒の量が多くなり、だから、わたしは、いつでも飲んでいる。わたしの若い友人に言わせると、このわたしは、アルコール中毒でこそないけれど�ほとんどアル中�なんだそうだ。飲めば、女のひとが綺麗にみえてくる。飲みすぎると、女のひとなんか、どうでもよくなってしまう。  俗に、 「虚実皮膜の間」  というけれど、わたくしにとって「虚実皮膜の間」とは、そういう状態のときである。杯を手に、女のひとを前に、そういう状態でたゆたっているときが、わたくし、いちばん幸せだ。  やがて、 「サ・ヨ・ナ・ラ」  と呟く時間である。女のひとたちに別れを告げて、わたしは、ひとりくちずさむ。 「トコロデ会ヒタイヒトモナク」  井伏さんの訳では、ここは「トコロガ会ヒタイヒトモナク」となっているはずである。それなのに、わたしがくちずさんでいるのは「トコロデ会ヒタイヒトモナク」だ。  いったい、いつ、まちがえて覚えちゃったんだろう? そうして、なぜなんだろう? [#改ページ]   わが純情詩集の日  そういえば、漫談の牧伸二はどうしちゃったろう? ウクレレ片手に、 ※[#歌記号、unicode303d] あー やんなっちゃった おどろいた  とやっていた牧伸二である。恥ずかしながら、わたくし、彼に恋の恨みがあるのだ。それも、彼にはなんの罪もないことだけれど。  ——あれは、東京都庁詰めの新聞記者をやっていた時分だから、昭和三十三年か、四年か。有楽町に、まだ日劇があった頃だ。  ある日、記者クラブの共用電話が鳴って、偶々《たまたま》わたしが受話器を取りあげると、弾んだような若い女の声で、 「青木さん、いますか?」  と言う。素直に「ハイ、青木です」と答えた。  とたんに彼女、ケラケラと笑い出して、 「イヤァねぇ、ヘンに澄ましちゃって……」  と言うではないか。そうして「あたしよ、あたし。チエコです。もう忘れちゃったの?」と笑い転げている。  自慢じゃないが、身に覚えのない女性だから、忘れようがない。そこで、 「いや、忘れたわけではないけれど……」  と言葉を濁したのは、トーゼンのことながら、彼女に興味を持ったからである。当時、わたしは独身だった。  すると、彼女は何をカンちがいしたのか、 「あ、わかった! 隣に誰かいるんでしょう? それで、澄ましているんでしょう!」  と、勝手に合点してから、こんどはひどくマジメくさった声で、 「失礼しました。あたし、チー坊です。日劇ダンシング・チームのチ、エ、コ。いまから遊びにいっていいですかァ」  と言う。 「遊びにくるって?」 「だから、お茶飲みにいくんですよ」  喋っているうちに、彼女も「おかしいな」と思いはじめたらしい。いつのまにかクスクス声がオロオロ声に変わって、 「あのう」 「なんだ?」 「あなた、青木さんでしょ?」 「そうだ。青木だよ」 「ねッ、ハクチョウのマスターの……」  ここで「まちがい電話だ」と受話器を置くようでは、わたしは男じゃないだろう。相手は若い女だし、まして「日劇ダンシング・チームのチエコ」と名乗っているのである。わたしは勇を鼓《こ》して、 「よし、会おう!」  と叫んでいた。  ご存じか、ご存じでないかは知らないが、そのころの日劇は、有楽町の駅を挟んで、都庁とは目と鼻の先にあった。そして、彼女が言う「ハクチョウ」は、いまでも残っていると思うが、その中間の露地にあるパチンコ屋の二階の、エスカレーターで昇っていく喫茶店「白鳥」だ。  たぶん、そこのマスターも「青木」というのだろう。それに、これはあとでわかったことだが、喫茶店「白鳥」の電話番号と都庁の記者クラブの電話番号は、ホントに一番ちがいだったのだ……。  おたがいの背恰好や服装を説明し、同時に日劇、都庁を出た二人は、三、四分後には有楽町の駅前で、 「チエコか?」 「青木さん?」  と名乗り合っていた。チエコは、ちょっとグラマーで、笑うとエクボが可愛い女だ。 「とにかく、お茶でも飲んで……」  二人して歩き出すと、ガード下の果物屋の店員が、彼女の名を呼んで、 「ヘェー、チー坊に男がいたの?」  と冷やかし、彼女が嬉しそうに、 「うるせぇやい! あたしにだって男ぐらいいるよ」  と応じて、ことさらに腕を組んできたのを、わたしは、いまでもハッキリ覚えている。わたしは、記者クラブを無断で抜け出したことも忘れて、ただもうドギマギしていた。  その後のことは、端折ろう。チエコは、日劇ダンシング・チームの最前列ではないが、次の次の列ぐらいで踊っており、 「本職だけでは食べていけないので、夜はアルバイトにキャバレーまわりをやっている」  ということだった。  さて、それからのわたしは、日劇がハネるころ、裏口で彼女を待っていて、毎晩のように彼女がキャバレーをまわるのを、付き人よろしく尾《つ》いて歩いたものだ。チエコは、いわゆる南京袋に踊り子の衣装を入れ、それをわたしに持たす。わたしはそれを胸に抱え、たとえばキャバレー「ミス東京」なら「ミス東京」に裏口から潜り込み、カウンターの隅っこで水割り一杯ぐらい振る舞われて、彼女の出番が終わるのを待つのである。あとは、彼女が�お姉さん�と呼んでいる人のやっている新橋の酒場へ彼女を送っていき、飲みなおす。  それにしても、あのころのわたしは純情だった。その�お姉さん�に、 「あんた、チエコに手を出しちゃダメよ。踊り子は男を知ると、すぐに体の線が崩れちゃう」  と言われ、しばらくはそれを本気にしていたのだから……。  しかし、チャンスがやってきた。あの牧伸二と一緒に、チエコが「横浜のキャバレーに出る」という。 「どうせ終電はなくなっちゃうだろうし、横浜からではタクシーじゃ帰れないわね」 「まかせておけ」  と、わたしは胸を張った。その夜、わたしは横浜のホテルを予約し、そうして、すっかりその気[#「その気」に傍点]になっていた。  そのホテルに、チエコから、 「牧センセイがクルマで送ってくださるっていうもんだから……」  と電話がかかってきたのは、午前二時近くだったろうか? わたしが地団太踏んだのは、言うまでもない。 ※[#歌記号、unicode303d] あー やんなっちゃった あきらめた  チエコとは、くやしいけれど、それっきりだ。 [#改ページ]   若い日の私  このわたしに、 「若い日なんてあったんだろうか?」  と思うと、つい筆が鈍ってしまう。わたしは、生まれたときから、いまみたいにふけていたような気がしてならぬ。  試しに古いアルバムを引っくり返してみたら、十七歳のころの写真が出てきた。その表情は、白髪頭の現在とほとんど変わっちゃいない。  われながら、可愛気のない子だった。器量が悪いばっかりに、ただただ他人にホメられたくてアクセクしていたような気がする。  学校のことで言えば、試験の成績で勝負するのは、はじめっからあきらめていた。ナマイキに、 「どうせ�いい点�をとったところで、先生にはエコヒイキする相手がいるだろうから、認められっこない」  とキメこんでいたフシがある。  その代わり、小・中・高校時代は、皆勤賞とか精勤賞とかを狙った。これなら、 「だれからも文句を言われず、だれにも迷惑をかけずにホメてもらえる」  と考えていたようだ。  そのくせ、将来は学校の先生になるつもりだったんだから、おかしい。大学では、正規の課程のほかに教職課程をとった。四年のとき、卒業した高校へ教育実習に出かけたりもした。  それでも先生になれなかったのは、教職課程の単位が一つ足りなかったせいだ。当時の流行語に「デモシカ先生」というのがあったが、わたしは、そのデモシカ先生にもなれなかったことになる。  教育実習生として久しぶりに訪ねた母校に、女子の生徒がいたのにはビックリした。わたしたちが巣立ったころは、戦争に負けて、せっかく民主主義の世の中だというのに、なぜか男女別学だったのである。  その名残かどうか、クラス編成は、男子、女子に分かれていた。わたしは女子だけのクラスを担当させられ、ヘキエキした。  早い話が、教室の右の列を見ながら授業をすすめると、 「センセイはナントカちゃんに気があるのよ」  といった私語が聞こえるのである。そこで、左の列を見ながら授業をすすめると、こんどは、 「やっぱりカントカちゃんが好きなんだわ」  という声が聞こえる。仕方がなくて校庭を見ながら授業をすすめたら、 「まあ、よっぽど横顔に自信があるのね」  デモシカ先生について言うなら、わたしは、 「教師にでもなろうか。いや、教師にシカなれない」  といった気持ちを否定的な意味には解釈したくない。みずから、 「自分の職業は、これにシカなれない」  と言い聞かせたとき、そこに天職であることへの自覚がめざめると信じているからである。  早稲田に入ったとき、友人たちからは、 「いかにもオマエらしい」  と言われた。新聞記者になったときも、友人たちは、 「いかにもオマエらしい」  と言ったものだ。そうして、会社をクビになったときも、また……。  そんなわけで、このわたしが、若い日に「学校の先生になりたい」と思ったことなんか、周囲の人たちは知らない。まして女房なんか知るはずもない。  わたし自身は「それで、いいのだ」と思っている。俗に「若い日は二度ない」と言うけれど、わたしに言わせれば、この中年の日も、老年の日々も、二度とないのだ。  わたしは、それこそ若い日と同じように、いまも、その日その日をアクセクと生きている。ただもう、若い日と違って「他人にホメられたくて」といった気持ちだけは捨てようとしているが——。 [#改ページ]   この賭けだけは……  大学を出たときに、 「マージャンぐらい、できるようになったろうな?」  と、長兄に言われた。長兄も、次兄も、旧制の専門学校卒業で、いわゆる�大学�と名のつく学校へ行ったのは、わが家では三男のわたしが初めてだった。  ヘタに、 「できる」  と答えて、 「お前は、マージャンをやるために大学へ行ったのか!」  と僻《ひが》まれてもつまらないので、 「できない」  と答えたら、 「情けない奴だ」  と嗤われた。 「オレなんか、大学へ行かなくたって、マージャンぐらいできるぞ」  家業の金物屋を継いだ長兄は、マージャンに限らず、賭けごとにはめっぽう強いらしくて、一時は競馬だか競輪だかにも凝っていた。見かねた父親が、 「そんなことばかりしていると、いまに元も子もなくす」  と叱ったところ、 「負けなきゃ、いいんだね」  とやり返し、父親を苦笑させたものだ。  ——本格的なマージャンやコイコイは、新聞記者になってから、覚えた。自分で言うのもナンだが、たちまちにして上達し、冗談に、 「警視庁管下、三本の指に入る強さだ」  と、豪語したことがある。  ところが、当時の同僚たちに言わせると、 「お前は、うまいかも知れんが、強いとは言えない」  という。 「どういうことだ?」  と訊くと、 「お前は気が弱いから、勝っても賭け金を取り上げられない。そういうのは、強いとは言えないんだ」  と吐《ぬ》かしやがった。恥ずかしながら、図星である。  自慢じゃないが、あちこちに貸しがある。なかには、借用証をとってあるのも、ある。  このあいだの最高裁の判決では、 「トバクは公序良俗に反する行為であり、このような目的で結ばれた貸借関係は無効。返済を請求することはできない」  ということだ。こっちは、もとより返済を請求するつもりはないけれど、ときにチラッと借用証を見せ、相手を恐縮させる楽しみだけは失いたくない。 「時効だよ、時効!」  テキはうそぶくが、時効でもナンでも構わない。こっちは、相手が恐縮の素振りをみせてくれれば、それでじゅうぶんに満足なのである。  新聞社をクビになり、自由業という名の不自由業に就いたとき、仕事に追われ、 「酒をやめるか、マージャンをやめるか」  という二者択一を自分に迫った。その結果、マージャンをやめるほうに賭けたが、遊びに出る口実を失って、いまではちょっぴり後悔している。この賭けだけは、失敗だった。 [#改ページ]   強烈な一言《ひとこと》 「そういえば、あなたは学生時代からへんなヤツだったわねぇ」  と、大学で一緒に同人雑誌をやっていた女友達の一人に言われた。  彼女こそ、主婦でありながら卒業後三十二年になる現在もシコシコと小説を書いて、芥川賞を狙っている変わりモンである。 「なぜ?」  と聞いたら、 「だって、あなた、あなたはあたしたちが�卒業後はどうするの?�って質問したときに�いちど結婚というものをしてみたい�ってバカなことを言ったじゃないの」  ということだ。  無責任なようだが、記憶にない。  しかし、そのころ、すでに彼女は同人誌仲間には内緒で、親が決めた相手と結婚していたから「ようく覚えている」んだそうな。  言われて、 「そうかなあ」  と、あごをなでおろした。 「それも、同人誌仲間やクラスメートは、はじめっから眼中になかったみたいね。そのくせ、好きなひとがいたようにも思えなかったし……」 「…………」 「だいたい、大学生のときから�結婚したい�ナンテ言ってるの、おかしいわよ」  それで、思い出した。  わたしは、高校時代に、たまたま漢文かナンかの試験で友人より�いい点�をとって、 「ダメじゃないか」  と、教師にしかられたのである。 「あいつより�いい点�をとるなんて、ナマイキだぞ」  それから、教師はわたしに言ったものだ。 「でも、いいか。オマエは醜男《ぶおとこ》だから、まちがったって結婚できない」  以来、わたしは、 「ようし。いつか結婚してみせるぞ」  と、固く心に誓いつづけていたようだ。そうして、それが、悲しいかな、わたしの貧しい青春をいっそう貧しくした。  早い話が、若いころのわたしは、同じ年代の女性と会うたびに、 「果たして、このひとと、結婚できるだろうか?」  と、考えている。言っちゃナンだが、そんな若者をどこの女性が好くだろう?  それにしても、 「オマエは醜男だから、まちがったって結婚できない」  という教師の一言は、強烈だった。  のちに、教師の期待を裏切って、わたしは結婚してしまうけれど、 「あのとき、あの教師にあんなことを言われなければ、結婚なんかしなかったかも知れないものを!」  と思う日が、じつはないでもない。  結婚——それは、醜い少年をコラムニストにする。 [#改ページ]   眼が近い代わりに  医師に、 「名前は?」  と訊かれたから、 「青木です」  と答えた。いまにして思えば、あれが聴力のテストだった。  ——新聞社の入社試験を受けたときのことである。筆記、面接は、まあ、なんとかなったけれど、 「身体検査でハネられるかも知れない」  という懸念は残っていた。  自慢じゃないが、わたくし、難聴なのである。ちいさいときに患《わずら》った中耳炎がもとで、鼓膜に大きな穴があいている。  ふざけて、 「眼が近い代わりに、耳が遠い」  と言ったこともある。近視で難聴で、当人としてはとてもふざけられるような心境ではなかったが……。  それにしても、 「新聞記者になるには、耳が悪くてはダメだ」  と言われたら、新聞記者になるのは諦めるつもりでいた。新聞社は、たまたま受けただけのことだ。  それが、ズサンな身体検査のおかげで合格しちゃったのだから、 「儲かった!」  という感じだった。新聞記者になるためのことは、新聞社に入ってから習いはじめた。  警察署まわりの時代には、殺人事件があると、捜査本部の発表をいちばん前で聞くので、いつのまにか警視庁の捜査一課長に顔を覚えられ、 「熱心な奴だ」  と、可愛がられた。捜査一課長にしてみても、まさか目の前の若い記者が難聴でいちばん前にいるとは思いもよらなかったろう。  まったく聞こえない——というわけではない。聞こえることは、聞こえるのである。ただ、相手に小さな声で話されると、 「ハァ?」  と訊き返すことになる。これが、われながら辛く、イヤだった。  ふだんの会話でもそうだけれど、取材のときに、いちいち「ハァ?」と訊き返していた日には、取材されるほうだって疲れるし、興が殺《そ》がれてしまうだろう。マゴマゴすると、嫌われかねない。  しかし、言いたくないことを言うとき、人は、どうしたって小声になる。そして、ときには相手が言いたくないことを訊き出すのも、新聞記者には、だいじな仕事だ。  いや、新聞記者だけではない。のちに、わたしはインタビュアーを開業するが、インタビュアーにとっても、相手が言いたくないことを言わせるのは、大切なことだろう。  それは、ともかく—— 「耳が遠い」  というハンデのために、このわたしは、内緒話ができない人間になってしまった。どんなに酔っても、誰かの耳もとで、 「好きだよ」  と囁くこともできないし、 「好きよ」  と囁かれても、とっさに返事ができないでいる。ホント、困ったことだ。 [#改ページ]   俳句と遊び心 「遊びとは?」  と訊かれたら、 「おカネにならないこと」  と答えたい。人間万事、カネで量られる世の中で、 「ひとつくらい、おカネにならないことをやってもいいじゃないか」  というのが、偽らぬ気持ちである。それが、遊びだ。  振り返ってみると、いつも二足のワラジをはいていた。自分で言うのもナンだけれど、食べていくのに、一足のワラジだけでは心許《こころもと》なかったのだ。  新聞記者時代に、ミステリについてのエッセイを書くようになったのも、そんな理由からだった。新聞記者として、それなりの成果を挙げられなかった場合に、 「オレは、ミステリについてのエッセイを書いていたもんだから……」  という言いわけが欲しかった。もちろん、自分自身に対する言いわけである。  しかし、これは失敗だった。それまでは遊び心で読んでいたミステリが、 「おカネを稼ぐ材料になる」  ということになると、俄然、面白がってばかりもいられなくなってしまったのだ。ときには、苦痛でさえある。  そんなとき、 「句会をつくらないか」  と声をかけてくださったのが、小説家の結城昌治さんだった。これが、第一次「くちなし句会」だった。  句会には、新聞記者時代に五回ほど参加したことがある。同僚たちでつくった句会で、夜勤の合間に集まっては、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  病みし子のひたいの汗や台風くる  浴衣着て少女の髪のやわらかき  夕焼けのけわしき貌に立ちつくす  花はちりぢりになおコスモスの風に立つ  末の娘《こ》の細き腕《かいな》よ枯葉落つ [#ここで字下げ終わり]  といった句を詠んだりしたものだ。一九六八年(昭和四十三年)のことである。  そのころのノートに、誰の言葉か、 〈われわれは「物いへば唇寒し穐《あき》の風」(芭蕉)的作句態度を避けて「蟇《ひきがへる》誰かもの言へ声かぎり」(楸邨)にみられるような若さと勇気のあふれた世界をめざしたい〉  とメモしてあるのも、おかしい。声をかぎりモノを言おうとした夜勤の句会が、一年で潰れちゃうんだから……。  それは、まあ、それとして、 「句会といっても、宗匠を仰ぐわけじゃなし、あくまでも遊びだよ」  という結城さんの言葉に誘われたのが、七八年(五十三年)のこと。まさしく十年ぶりの句会だった。  メンバーは、 「一業種一人」  ということで、画家の村上豊さんはじめ八人。結城さんの説明によると、 「テーブルを囲んで、ちょうど声が届く範囲か」  といった人数である。  句会の名を、 「くちなし句会」  としたのは、初心者ばかりのメンバーのなかに、今は亡き落語家の金原亭馬生さんがいて、落語の『雑俳』に出てくる「くちなしや鼻から下はすぐに顎」に因んだのだ。それこそ、 「オレ、山梔子《くちなし》の花なんか見たこともない」  という仲間もいて、そりゃあ、賑やかなものだった。  幸か不幸か、わが家の猫の額ほどの庭には山梔子の木があって、そのころ、わたしが詠んだ句に、  晴れぬままくちなし匂う夜となりぬ  というのがある。言っちゃナンだが、とても自分の作品とは思えないような、素直な句だ。  ところで、この「くちなし句会」は、五年目に馬生さんが急逝し、解散した。わたしたちは、つづけて句会を開きたかったのだけれど、結城さんが、 「こうして一人減り、二人減りしていくのを見るのは忍びない」  というので、強硬に解散を主張したのだ。おかげで、わたしは、ふたたび句作から遠ざかることになる。  自慢じゃないが、意志薄弱である。句会もなくて、このわたしに俳句を詠むことなんかできない。わたしは、 「ひとつくらい、おカネにならないことをやっていてもいいじゃないか」  と言いながら、それさえも失った。貧乏性のせいか、わたしは、なかなか遊べないみたいだ。 [#改ページ]   独りになれるとき 「特技は?」  と訊かれたら、 「いつでも独りになれること」  と答えようかな——と思う。たとえ大勢で酒を飲んでいても、わたくし、居ながらにして独りになれるのである。  自分でも、 「あまりいい性格じゃない」  ということは、わかっている。が、わかっていたって、どうにもならない。言っちゃナンだが、それが�性格�というものだろう。  いつだったか、誰かの受賞パーティかナンかに出席して、いつものように隅っこのほうで飲んでいたら、 「どうしたんですか?」  と、声かけられた。 「なんだか浮かぬ顔していますよ」  言われて、 「シマッた!」  と、心の中で、舌打ちした。いつのまにか独りぼっちになっているという、いつもの悪いクセが出ていたのだ。  とっさに、 「いや、なんでもない」  と頭《かぶり》を振ったのだが、このへんがまだ修行の足りないところである。いつでも独りになることができたところで、そいつを他人に気取《けど》られてはナンにもならぬ。  辛うじて、 「受賞したのは、わたくしじゃないもんですから……」  ヘタな冗談を言ってその場を逃れようとしたら、 「そりゃ、そうですな」  ヘンに感心され、かえって慌てた。こんなこと、マトモに受け止められちゃ、かなわない。  商人の子だから、愛想《あいそ》専一に育てられたはずだったが、出入りの職人に、 「あんたが注文をつけるときは、顔まで怒ってる」  と言われたことがある。 「うん?」 「その点、オヤジさんはエラかったなあ。死んだオヤジさんは、オレたちに注文をつけるとき、顔は笑ってた」 「ウム」 「それで、オレたちは、気がついたらオヤジさんの言う通りになってたもんだ」  自慢じゃないが、それができないから商人になることを諦めて、サラリーマンになったのだ。ついでにサラリーマンのほうはクビになって、一人でもやれるモノ書きになっている。  ところが、一人でもやれるモノ書きになって、気がついた。この、いつでも独りになれる特技が、そんなに活きないのである。  だいたい、  風呂場  便所  寝室  といった場所が、ふつうは独りになれる場所だろう。わたしの場合は、それに仕事部屋が加わる。  恥ずかしい話だが、大勢の中にいるときはいつでも独りになれるのに、げんじつに一人ぼっちになれる場所に入ると、なぜか落ちつかない。風呂場や便所や寝室にいるときはもちろん、仕事部屋にいるときも、妙に人懐かしくなって、困ってしまう。  そんなわけで、わたしが真に一人っきりになってリラックスできるのは、大勢の中にまぎれているときかも知れぬ。ナマイキなようだが、その大勢は、気の合った大勢であろうと、気が合わない大勢であろうと、カンケイない。  不覚にも、杯を手に、立ったまま眠っていたことがある。義理で、どうしてもつきあわなければならぬパーティだった。  このときも、仲間にみつかって、 「なにも、それほどまでしてつきあわなくてもいいのに……」  と言われたが、 「いや、こうやって無理していたほうがラクなんだ」  と答えたら、 「そんなものかねえ」  仲間は、ホトホト呆れてた。 [#改ページ]   旅は道づれ 自分づれ  なんといっても、いちばん気が合うのは、自分である。それは、みんなして出かけた旅先でも変わらない。  俗に、 「旅は道づれ」  というけれど、わたしはこれに「自分づれ」というのを加えて、 「旅は道づれ自分づれ」  というふうにもじりたい。  ——朝が早い。このクセばかりは、旅先でも直らない。前の日、どんなにおいしい地酒を、どんなに遅くまで飲んで、騒いでも、朝は六時には目がさめている。  そんなとき、わきに誰か寝ていようものなら、起きるに起きられず、しばし悶々《もんもん》とする。やがてガマンできなくなり、そっと抜け出して、ひとり散歩に出るのが、常である。  先日も、悪友たちと三重県の湯ノ山温泉に旅して、彼らが眠っている間に、始発のロープウエーで御在所山まで登り、みんなをシラケさせた。彼らが朝飯の席につくかつかないうちに宿に戻って「朝飯前」と称していたからだ。  悪友たちに言わせると、 「ホントはイビキがスゴくて、それで抜け出すんだろう」  ということだが、じつをいうと、それもある。わたしは、自分のイビキで同室の友人を起こしやしないかと、それが心配で、夜もオチオチ眠れない。  されば、わたしがいう「旅は道づれ自分づれ」は、つまり「旅は道づれイビキづれ」でもあるわけだ。 [#改ページ]   木曽路はすべて…… 「趣味は?」  と訊かれて、 「読書です」  と答えるわけにはいかない。わたしのようなモノ書きにとって、本を読むことは生活そのものだからである。  されば、 「趣味は?」  と訊かれて、 「旅行です」  と答えることができるか、どうか。やはり、答えるわけにはいかないだろう。わたしにとって、旅をすることもまた生活そのものだからだ。  今週は、土曜から日曜にかけて、気の合った友人たちと一緒に信州に出かけている。いまは亡き高木健夫先生の墓参を口実に、諏訪から木曽路をまわってきたのである。  先週は、日本作詩大賞の審査のために、大阪へ出かけている。夜のナマ放送だったから、当然のことながら一泊して、翌日は独り大阪の街をそぞろ歩きだ。  その前の週は、嵯峨の大覚寺さんに招かれて、京都へ行っている。大沢池に浮かべた船の上で、お月さまを眺めてきた。  正直言って、この間に、いわゆる講演旅行である。悪友たちに、 「いったい、いつ原稿書くんだ?」  と嗤われるが、わたし自身にも、よくわからない。  今週の信州行きは、ホントに�瓢箪から駒�だった。先生の七回忌を機に、先生の遺稿である『新聞小説史年表』を弟子の一人の柴瑳予子さんがまとめたのを慰労するため、一ヵ月ほど前に東京は新宿で晩飯会を開いたところ、諏訪から駆けつけた仲間が、 「たまには信州へ来いや」  と言うから、 「この夏に行ったばかりじゃないか」  と応じたら、 「何遍でもいいから、来い」  と叫ぶ。そこで、 「うるせえ!」  と怒鳴ったところ、 「来るかァ」  と言うので、 「ようし」  腕をまくると、 「じゃあ、来るんだな」  と、こうである。なんだか、うまく嵌《は》められた感じだ。  いまさら、 「土曜日は、カルチャーセンターの講座があるんだ」  と言ったって、もうカンベンしてもらえない。相手に「講座なんか休んじまえ」と言われて、 「じゃあ、休講にするか」  と言ったから、傍らにいた『新聞小説史年表』の発行元である国書刊行会のW君が驚いた。 「そんなことで、休講にしていいんですか」 「ああ、構わない。受講生のみなさんに謝っておく」  それにしても、準備をすすめているうちに、先生の『新聞小説史年表』が毎日新聞の毎日出版文化賞特別賞受賞に内定した——という知らせが入ったから、たまらない。柴さんから電話があって、 「当日はドンチャン騒ぎですからね」  自慢じゃないが、そんなこと、言われるまでもない。当日は生憎の雨だったが、雨で中止するようなヤワな連中ではない。バスが約束の集合場所である新宿を出発する前から、飲みはじめた。  だいたいが先生は洒脱な人で、 「いいか。俺の墓参りに来るときは、新宿を離れたときから飲んで来るんだぞ」  というのが、遺言なのである。弟子たちとしては、イヤでも、その遺言に忠実にならざるをえないではないか。ただ、今回は新宿を離れる前から飲んでいただけだ。  時は秋——  信州の黄落・紅葉には、ちと早かったが、酔った眼には、これが何とも言えぬ風情である。缶ビールを手に、 「紅葉も、真っ赤になる直前がいい」  と宣《のたま》うのは、大正大学文学部教授の林亮勝先生である。  日曜日は前日の雨も上がり、上松《あげまつ》から寝覚ノ床に至る間に差しかかったときはみごとに晴れて、山峡から木曽御岳の頭がクッキリと見えた。 「珍しいなあ」  新参のW君が、思わず大声をあげる。 「ボク、仕事でしょっちゅうここ[#「ここ」に傍点]をクルマで走りますが、こんなところから御岳を目にしたのは初めてです」  木曽路は、馬籠宿、妻籠宿をブラブラと歩いた。あらためて説明するまでもないが、 「木曽路はすべて山の中である」  という文章ではじまる島崎藤村の名作『夜明け前』の舞台だ。  昔ながらの面影を残す宿場町の軒に、その文句をみつけて、幹事役であるY新聞のH君がゆっくりと読んだ。 「木曽路はすべて酒の中である」  彼も、相当に酔ったらしい。 [#改ページ]   リゾートが呼んでいる  昔は、 「新婚旅行列車」  と呼ばれる列車があった。不思議に結婚式を挙げたばかりの男女が乗り合わせるのである。  なぜか女性は帽子をかぶり、胸に花をつけ、白い手袋を膝の上に置いていた。それで、ほかの乗客には、 「あ、新婚だな」  とわかってしまう。 「あれだけは、やめよう」  と、のちに女房になるひとと話し合った。ホント、あれは、気恥ずかしい。  彼女は、一も二もなく賛成してくれた。反対しようにも、経済的な理由で反対できなかったらしいのだが——。  いまは、いくらナンでも、あんな恰好をして列車に乗る新婚サンはいない。みんな、ジーンズだ。  だから、わたしたちは、新婚旅行の服装にかぎっては、 「時代の先取りをしていた」  ということができる。二十五年も前のことである。  その旅行が天城越えだったものだから、女房は、いまでも年に一度は伊豆地方へ行きたがり、子供たちに、 「よく飽きないね」  と笑われている。英語の�リゾート�に「しげしげ行く」という意味があるのを知ったのは、つい最近のことだ。 [#改ページ]   朝は味噌汁とご飯で  まちがっても、 「幸せになろうね」  といって口説《くど》いた覚えはない。幸せになれるかどうか、自信がなかったからだ。  口説いたとしたら、 「毎朝、きみが作った味噌汁を飲みたい」  とかナンとか言ったんじゃなかろうか? 二十五年以上も前のことである。  それが、いつのまにか、朝食はパンになっていて、コーヒーは自分でいれている。トシをとってきたせいもあって、ちかごろ、無性に朝は味噌汁であったかい[#「あったかい」に傍点]飯が食いたい。  女房に、 「朝ぐらいは、飯を食わせろ」  と言うのだが、なかなか叶《かな》えてもらえない。これでは、なんのために結婚したのか、わからなくなってきた。  そこで文句を言うと、 「メンドクサイ」  という返事であった。亭主も稼ぎが悪いと、飯も食わせてもらえず、ミジメなもんだ。  ホント、こんなときに、 「朝ご飯なら、あたしのところで」  と言う女性が現れたら——と考えないでもないが、ま、そんな女性は現れっこないだろう。かりに現れたところで、すぐにまた、 「朝はパンにコーヒー」  ということになってしまうのではなかろうか?  しかし、こんなふうに考えてくると、わたしの文句などは、女房を取り替えるだけで大部分は解決してしまいそうだし、女房を取り替えたところでほとんど解決しそうにもないし、じつを言えば、そこのところに、 「文句あり!」  と叫びたい気持ちなのだ。  なに? 誰に向かって叫ぶのか——って?  頼むから、いちいち、そんなこと、このオレに言わせないでくれ! [#改ページ]   正月の味  こんなふうに、いつでもモチだのホウレンソウだのが食べられるようになると、 「正月三ガ日だから、お雑煮」  というのも、なんだかヘンだ。まして、おせち料理なんか、出る幕はない。  おせち料理——  モノの本によると、 「組重の事、数の子|田作《ごまめ》たたき牛蒡《ごぼう》煮豆等通例、其外何様の品候哉」  という質問があって、ほとんどの地方が「その通り」と答えているそうだから、いまも昔も、あんまり変わり映えがしない。言っちゃナンだが、数の子って、そんなにうまいもんですか?  あんなもん、あんなふうにモッタイぶられるからうまいような気がするが、さて、ホントのところは、どうだろう? わたしなんぞは、女房を相手にするのとおんなじで、もう、どうでもいいような気分である。  だいたいが、おせち料理というのは、 「正月三ガ日ぐらいは、せめて主婦を台所仕事から解放しよう」  という思想(?)から考え出されたものだろう? 当節みたいに、朝・昼・晩、できあいの料理を食べている時代にあっては、なんの意味もない。心弱い亭主といたしましては、 「正月三ガ日ぐらいは、せめて女房の手料理を食べたいものだ」  と言いたいところだが、そんなこと、口に出そうものなら、たちまちにして女房の機嫌を損じてしまう。それこそ「一年の計は元旦にあり」で、正月早々女房の機嫌を損じた日には、残る三百六十四日が思いやられるから、そこはジッと�ガマンの子�だ。  それでも、一杯やりながらNHKテレビの『紅白歌合戦』を眺め、年越しソバを食べて、フロに入るのが、わが家の大晦日から元日へ移る時の流れである。壁にかかった時計を仰いで、子供たちが「そうら、もうじき来年になるぞ」「あ、来年になった」「バカ、ことしだ」とやりあうのも、毎度のことだ。  そんなわけで、 「正月の思い出」  というと、いまは亡き父親のところへ年賀に出かけて、花札をいじったことぐらいか。年老いた父親の楽しみは、三男のわたしを相手にコイコイをやることだったので、こちらも親孝行のつもりでつきあわざるをえない。  気の毒だが、腕はちょっぴりわたしのほうが上で、わたしは、いいトシをして正月早々こづかい銭を巻きあげてくる。そのうち、父親の幼い孫たちが、 「おじさんのほうに賭けると、お年玉が倍になるぞ」  と言い出し、おじいちゃんからもらったお年玉でわたしにのってきたのには、マイッた。  勝つからいいが、負けた日には目も当てられぬ。彼らは「返せ」といって泣き出すにきまっているのである。 [#改ページ]   ウナギと山本周五郎  ウナギが好きだ。横浜に住んでいる関係で、いまは亡き小説家・山本周五郎さんがヒイキしていた関内のウナギ屋へも、ときどき出かける。  仲居さんに、 「何のご商売ですか?」  と訊かれたこともあるが、べつに名乗るほどのこともないので、黙っている。できることなら、フリの客でいたいのである。  それに、こっちは、いわゆる�入れ込み�の食堂部を愛用しているくちなのだ。めったなことでは、座敷のほうには上がらない。  それでも、このあいだは、八十歳を過ぎたお袋を招んで、親孝行のマネゴトをした。お袋や女房や妹に囲まれて一杯機嫌のわたしを、仲居さんたちは何者と思ったことだろう?  通された部屋が、階段を昇ってすぐの、たまたま山本さん愛用と伝えられる「月の間」だったもんだから、 「そこが、例の『日本婦道記』の作者が坐った場所だよ」  お袋に説明したら、 「おや、よくご存じで……」  いっぺんに仲居さんたちが打ちとけてきた。 「山本先生は、ねぇ、食堂部にもしょっちゅういらしていたんですよ」 「なんだ? 座敷ばっかりじゃないのか」 「ええ、フラリと独りでやってきては、食堂部の隅で、隠れるようにして飲んでらした」 「…………」 「ところが、みつかっちゃうのね。居合わせたお客さんに会釈かなんかされると、たいへん。すぐに�あ、あの人のお勘定、ボクにつけといて�と、こうですからね」 「…………」 「ところで、お客さん! そんなとき、お客さんだったら、どうなさいます?」  言われて、わたしは慌てて答えた。 「ウーン、おれ? おれだったら�あ、おれの勘定、あの人につけといて�と、そう言うねぇ」 [#改ページ]   カニ食いザル  ことしは、九月の末に上海ガニを食べた。例年に比べると、半月以上も早い。香港経由だそうだが、文字どおりの初物である。  上海ガニは、ご存じのように、揚子江の河口でとれる。海水と淡水の入りまじったところで育つせいか、脂がのっていて、うまい。  拳ほどの大きさのカニは、一匹ずつ脚をしばられ、生きたまま空輸されてくる。そのヒモをほどき、茹でて食べるのだ。  某日の午後、遊び仲間を誘って、横浜の中華街にある呂行雄くんの店へ出かけた。呂くんは、わたしの自慢の友人である。  ここで余談を許してもらうなら、わたしが卒業した横浜の公立高校では、ひところ、入学試験に通りさえすれば、国籍など問わなかった。そんな関係で、わたしの後輩には何人かの中国人がいるが、わが呂くんは彼らの幼馴染みなのだ。 「友達の友達は、みな友達だ」  というので、トーゼンのことながら、中華料理店の若いオヤジである呂くんも、わたしの友人となった。家族はもちろん、わたしの遊び仲間たちも、多かれ少なかれ、彼の恩恵を蒙っている。 「こんにちは」  あの日、フラリと店の扉をあけたわたしをみて、 「どうして、わかったんですか」  おおげさに言うと、呂くんの顔色が変わった。 「なにが?」 「なにがって、きょう、カニの入ったことが……ですヨ」 「なに?」 「ナニじゃない、カニ」 「もう、カニが入ったのか!」  思わず大声を上げたわたしに、 「あれ?」  呂くんは呆れて、 「なんだ、知らなかったのか! だったら、言うんじゃなかった」  口こそ悪いが、目は笑っていた。そうして、 「最初の最初だから、ホントは誰に食べてもらおうか、迷っていたんですよ」  それこそ電話をかけようか——と思っていたところへ、わたしが現れたもんだから、彼もビックリしたらしい。 「これも、縁ですね」  待つことしばし。茹であがったカニの殻をこじあけ、中のミソをすすり、脚やツメを噛み、吸い、しゃぶる。とてもじゃないが、恋人にはみせられない姿だ。  みんなして、カニ食いザルさながらに、さんざしゃぶったあと、甲羅を杯代わりに老酒を飲む。これがまた、なんとも言えない味である。  いいかげん堪能したところで、 「初物を食べたら�西を向いて笑え�っていう諺、知っていますか? そうすると、寿命が伸びるそうですけど……」  呂くんに言われて、 「それ、東を向いて笑うんじゃなかったかなあ」  仲間に訊くと、 「東だ」 「いや、西だ」  出身地によって二派に分かれた。どうやら東日本では東を、西日本では西を向くみたいだが、ハッキリしたことは、わからない。  諺ひとつにも、東と西があるのだろうか? [#改ページ]   銀座のシラノの物語 「真ン真ン中」  という。真ン中の、また真ン中のことである。  東京のことを書くなら、たとえば「銀座の真ン真ン中」というふうに言ってもらいたい。まちがっても「ド真ン中」なんて言うな。あれは、大阪の言葉だ。  自慢じゃないが、わたくし、東京は銀座の真ン真ン中で、いきなり水をぶっかけられそうになったことがあるのである。あれは、たしか十五年も前の、新聞記者時代のことだ。  その夏の日の夕方、わたしは、めずらしく若い女性を連れていた。飛び上がって、あやうく難を逃がれたからよかったようなものの、まともにかぶっていたら、せっかくのデート(?)も台無しだったにちがいない。 「なにをするんだ!」  大声をあげると、そこに、わたしたちが「清《きよ》ちゃん」と呼んでいた岡野清次さんの、元首相・大平正芳氏に似た人懐っこい笑顔があるではないか。わたしたちは、暮れなずむすずらん通りを足早に歩いていて、岡野さんの店がある路地の前を素通りしようとしたのだ。  岡野さんの店——  それは、銀座六丁目とはいっても、小松ストアの裏手の路地の奥、いわゆる銀座のネオン街とは離れたところにある店で、お世辞にも綺麗とはいえない店なのである。横丁の、それこそビルの壁に貼りついたようなスタンドバーで、椅子も六つか七つしかない。  その「龍」で、清ちゃんは、奥さんのイネ子さんと一緒に——というより、三十年前、奥さんのイネ子さんが店を開いたところ、開店直後にバーテンに持ち逃げされたため、勤めていた証券会社をやめ、とりあえずカウンターに入って、入りっ放しになってしまった人なのである。路地の奥の店からすずらん通りまでは十メートルもあろうというのに、打ち水をしようとして、ひょいとすずらん通りへ目をやったらしい。  すると、店の常連の、それも払いの悪い男が、なにやら嬉しそうに美人と腕を組んで通り過ぎようとしている。みれば、なんとなくペア・ルックだし、 「素通りはないだろう」  そう思うと、矢も楯もたまらなくなって、ザブッ——という次第だったらしい。 「冗談じゃねえや」  あとで「龍」のカウンターに坐ったわたしは、傍らの女性のほうに振り返って、 「ねえ、このひと、明大のラグビー部に八年も在籍していたんだぜ」  と説明した。ホント、清ちゃんが本気でわたしに水を浴びせるつもりだったら、わたしなんぞにかわせるはずもなかったろう。  それは、ともかく——  その日、わたしは、部下の姉である彼女に、 「ある男性に会っていただきたいの」  と頼まれて、某ホテルのロビーまで出かけたのだ。 「会って、どうするの?」 「まあ、いいから……」  会ったとたんに、彼女はわたしの手を恋人のように握りしめ、 「ね、あたしには約束した人がいるんです。だから、ね、わかって……」  彼に、そう言うと、 「じゃ、さようなら。もう、あたしのことは忘れてネ」  ハッキリ告げた。  つまり、そのころ、彼女には�別れたい男性�がいて、このわたしを�かりそめの婚約者�かなんかに仕立て上げ、そいつに引導《いんどう》を渡そうとしていたのだ。そういえば、彼女、会社に電話をかけてきたとき、わたしの服装をしつこく聴き出していたが、あれは、いかにもペア・ルックにみせかけようとしてのことだったのか……。 「なにさ、あんた、なんにも知らないで、このひととつきあったの?」  カウンターの中から、ママのイネ子さんが、ただでさえ大きな目をさらに大きくして声をかけてきた。わたしがためらっているうちに、 「ええ、ちゃんと事情を説明したら、断られちゃうでしょう」  彼女が答えた。 「こりゃあ、とんだシラノ・ド・ベルジュラックだったわねぇ」 「しかし、シラノはロクサーヌにクリスチャンを結びつけようとして三枚目を演じたんだろ? その点、オレは、このひとと彼を別れさせようとしたんだから……」  すると、清ちゃんが笑って、 「そうだよなあ。青木さんが女のコにモテるわけなんか、ないんだから。それに水をかけようとするなんて、オレも慌て者だよなあ」  じつをいうと、ママのイネ子さんは、わたしが勤めていた新聞の常連投稿者だった。そのころ、わたしは学芸部に所属していて、イネ子さんに連載モノを書いてもらうよう折衝してる最中だった。  あれから、十五年——  イネ子さんは、病いを得て死んだ清ちゃんの思い出をつづって、二冊目の本を書いた。イネ子さんは、その『銀座の女房』(文化出版局)の末尾に、清ちゃんのことを、  ほんのすこしの明るさを  すこしの人に残したら  さっさと逝ってしまった人でした  と書いている。 [#改ページ]   女の酒二題  その一 おまえにゃ惚れぬ  美空ひばりが歌う『おまえに惚れた』の文句が気になっている。わたしが好きなひばりさんの歌じゃないんなら構わないけれど、わたしが好きなひばりさんの歌だけに困るのである。  失礼ながら、たかたかし作詞・徳久広司作曲の、この歌の二番は、 ※[#歌記号、unicode303d] あなた躰に 悪いわと  水でお酒を 割ってだす  というのだが、そんな女にいったい誰が惚れるだろうか? わたしだったら、ぜったいに惚れない。 「お酒」  というからには、日本酒だろう。まさか、たかたかしさんは、この歌の中の「お酒」のことを、 「あれは、ウィスキーです」  ナンテ、言うんじゃあるまいな?  いや、ウィスキーだって、ホントは、水で割ってなんか、飲みたくない。飲み屋などで、 「あなた、水割り?」  とかナンとか言っちゃって、勝手にウィスキーを水で割って出すのは、あれは、水で割らなきゃ飲めないようなウィスキーだから、仕方がなくて水で割っているのだろう。  言っちゃナンだが、酒飲みといたしましては、酒場で、せめて水で割らなくても飲めるようなウィスキーを飲むことができる身分になりたい。ホント、酒を水で割って飲むなんて、貧乏ったらしくていけねえや。  まして、日本酒である。ひばりさんともあろう女《ひと》が、いくら相手の健康状態を気づかってのこととはいえ、 ※[#歌記号、unicode303d] 水でお酒を 割ってだす  ナンテ、そんなケチなマネをするなんて、信じたくもない。  しかも、序《つい》でのことを言えば、この歌、二番の結びは、 ※[#歌記号、unicode303d] 言葉づかいも 女房を  きどる今夜の おまえに惚れた  というのである。ふたたび言っちゃナンだが、男なんてものは、一緒になる前から女房を気どっているような女には、まちがったって惚れっこない。  そこのところを、ひばりさんは、いや、作詞者のたかたかしさんはどんなふうに考えていらっしゃるのだろうか? たかたかしさんには『人恋酒』とか『ふたり酒』とか、いい[#「いい」に傍点]酒を歌ったいい歌が多いのに、まっこと残念だ。  それにしても、芸能評論家の加東康一さんが『加東康一のあけっぴろ芸能界』(リイド社)という本に、ひばりさんと大鵬とのことを書いていたのは、ひばりファンのわたしにはショックだった。加東さんは、ある芸能誌の企画で、ひばりさんと大関時代の大鵬が対談したことに触れたうえで、こう書いているのである。  ——その夜の対談は、ご両所ともにことの外《ほか》ご機嫌で、ひばりもピッチをあげて、したたかに飲んだらしい。 「ねえ、仕事はもういいでしょ……大鵬さん、あたしの家へいらっしゃいよ……」  てな具合で、座談会の席から大鵬はひばりの車で……だったのだが、そのまんま、青年大関・大鵬は二所ノ関部屋に帰らなかったというのである。  その結果、二所ノ関親方から、 「明日にも天下の綱をしめる大鵬を、なんてことをしてくれた」  というクレームが芸能誌にもちこまれた——と、加東さんは言う。ひばりファンのわたしに言わせれば、 「あのひばりさんに向かって�なんてことをしてくれた�とはナンだい」  と言いたいところだが、どうだろう?  その二 好きで男を  江利チエミが歌っていた『酒場にて』の文句が気になっている。チエミさんに会ったことはないけれど、 「いちどは会ってみたい」  と思っていた女《ひと》だった。会って、別れた夫・高倉健サンとのことを聞いてみたかった……。  誰の作詞で、誰の作曲かは忘れたが、チエミさんの最後のヒット曲|『酒(*)場にて』は、 ※[#歌記号、unicode303d] 好きでお酒を  飲んじゃいないわ  というのである。そうして、 ※[#歌記号、unicode303d] 家にひとり帰るときが  こわい私よ  と、つづく。  そういうことなら、このわたしも、  家に帰るときが怖くて、飲む。それこそ、 「家に帰ってから、女房に何んていい訳をしようか」  と思うと、そりゃあ、怖くて怖くて……。ホント、できることなら、高峰秀子さんに相談したいくらいのものである。  朝日新聞の「マリオン」で、ご一緒に「人生相談」の回答者を担当したこともある高峰さんとわたしだが、ずいぶん前に高峰さんから戴いたお手紙に、 「ちかごろ、若い奴のトン死が多い。おまえさんも気をつけるように」  とあったのが、忘れられない。高峰さんから手紙を戴いた翌日の新聞に、チエミさんの訃が報ぜられたからだ。  そのチエミさんは、 「急逝する前日も、ウィスキーの牛乳割りを飲んでいた」  という。それも、いつものように、きっちり三杯飲んだそうだ。  酒飲みのわたしには、 「いつものように、きっちり三杯……」  というところが悲しい。言っちゃナンだが、酒なんてものは、いつものように、きっちり飲むもんじゃない。ときには三杯飲み、ときには二十杯飲んでこそ酒ではあるまいか?  チエミさんには直接カンケイのない話だが、チエミさんが住んでいた家を買った老婦人に会ったことがある。たいへん品のいいオバアちゃんで、 「毎朝、家のまわりをホウキで掃くのが日課です」  ということだった。  家のまわりを掃いていると、犬を散歩に連れた少年たちが、 「オハヨウ」  と声をかけてくる。そのたびに、このオバアちゃんは言うんだそうだ。 「ここでは、粗相をさせないでね」  そこで、オバアちゃんは、 「そうしますとネ、ちゃんと子供さんたちは犬をヨソへ引っ張っていきますのヨ。ちかごろの子供さんが年寄りの言うことを聞かないなんて、ウソですよ」  と、目を細めた。いや、それが、じつにいい[#「いい」に傍点]笑顔だった。  しかし、この話、 「ここでは[#「ここでは」に傍点]……」  というところが、ミソである。申しわけないけれど、わたくし、オバアちゃんに向かって、 「じゃあ、どこでさせればいいんですか?」  と言いかけ、慌てて口をつぐんだものだ。  それにしても、 「どんな男でもいい。傍に男性がいたら、チエミさんは酔って死ぬなんてことはなかった」  というのが、わたしの極めて個人的な意見だ。しょせん、男なんて、グズで、役立たずで、カイショなしだが、 「それでも、いないよりはマシだろう」  と、わたしは思っている。それが、たとえ夫であろうと、なかろうと……。 ————————————————————————————  *山上路夫作詞・鈴木邦彦作曲 [#改ページ]   誰か飲み屋を想わざる  行けば、かならず誰かに会えた。それが、魅力だった。  バカみたいな話だが、わたしたちが外で酒を飲むのは、なにも酔うためだけではない。酔うためだけなら、家で飲めばよいのである。  なに? 家で女房相手に飲んでた日には、酔えないって? そりゃ、ま、そうだ。そりゃ、ま、そうだけれど、それでもわたしたちが外で酒を飲むのは、酔いたいこともあるにはあるが、誰かに会いたいのである。誰かに会って、他愛もないことを喋りたい……。  そういう意味で、東京は新橋・烏森の飲み屋「多幸」は、わたしにとって恰好の場所だった。よくみると、いや、よくみなくても、 「昔は、けっこう美人だったんじゃないのかなあ?」  と思われるママが、アルバイトの女性一人を使ってやっている店だが、常連の半分はわたしが連れていった友人か、わたしが連れていった友人が連れてきた人間だから、そこへ行けば、確実に誰かに会えた。  だいたいが、新聞記者時代からの行きつけだから、ママとは、指折り数えて十五年余のつきあいだ。いや、この店にはママの前の代から来ているので、店とのつきあいは、それ以上になる。  ひところは、常連を「一年A組」と「一年B組」に分けたことがある。週のうち、月曜、水曜、金曜日に通ってくるのが「一年A組」で、火曜、木曜、土曜日に通ってくるのが「一年B組」だった。  わたしは、その両方の「級長サン」だったのだから、どれくらい通いつめていたか、わかるだろう。そこは、横浜に住むわたしにとって、一時期、東京の応接間でもあった。 「東京の編集者に会う」  ということであれば、 「例のところで一杯やっててください」  というのが、わたしの決まり文句だった。編集者に待っていてもらうのに、場所も、フンイキも手頃だった。 「午後五時を過ぎた」  ということになると、 「どうせ電車はラッシュだから」  というわけで、わたしは新橋は烏森の××小路の三階にある「多幸」の扉を押した。結局は終電になってしまうのだが、電車を待ちながら飲んでいるのに、距離も、値段も適当だった。  この店には、新橋の新聞社で学芸部長をやっていたとき、○○通信社のK君に初めて連れてこられた。前のママが板さんと女の子を雇っており、ちょいとしたものを食べさせてくれた頃である。  そのうちに、わたしは社をクビになり、四谷に勤め先が変わった関係もあって、いつのまにか足が遠のいていた。四谷から新橋までは、国電にしたって、地下鉄にしたって、いちど乗り換えなければならず、仕事を終えてから、 「飲みに行こうか」  というのには、かなり不便だった。  おまけに、四谷駅周辺には、たくさん飲み屋があった。わざわざ新橋まで出かけなくても、同僚と一緒に飲むのには四谷で飲むほうが都合がよかった。  それが、ふたたび新橋の「多幸」に通い出すようになったのは、いわゆる内職原稿のほうが忙しくなったからだ。編集者に会って原稿を渡したり、打ち合わせをしたりするには、やはり、新しい勤め先から少しでも遠い所のほうがよい。  そのころ、ふたたびK君がやってきて、 「知ってますか?」  と言う。 「なにが?」 「あの『多幸』のママが代わったんです。ちょっと行ってみましょうよ」  しかし、そのときは同行を断ったような気がする。ママの記憶でも、わたしが初めてこの店へ顔を出したのは、一人だった——ということになっている。  入ってくるなり、 「青木雨彦です」  と言ったそうな。そして、 「知ってますか?」  と、しきりに訊いていたみたいだ。  十五年も前のことである。いまでもそんなに売れているとは思わないが、当時はまるっきり知られていなかった。すでに『週刊朝日』にインタビュー記事を書きはじめていたが、それも(雨)というサインだけで、フルネームではなかったから、知名度なんかゼロだった。  そんな客に、ママの第一印象は、 「なんてウヌボレの強い人だろう」  ということだったらしい。それまでは小料理屋かなんかに勤めたことはあっても、ほとんどシロウトに近いママにしてみれば、 「そんな人、知ってるもんですか!」  といった反撥もあったろう。  しかし、これは、ママの記憶ちがいである。わたしが、 「青木雨彦です」  と名乗ったのは、例のK君に、 「あなたの名前でボトルがキープしてありますから……」  と言われていたためだ。代が替わって、一、二度、ここへ顔を出したK君も、はじめのうちはママのシロウトっぽさになじめなくて、 「飲み屋の権利(?)一切をあなたに譲渡する」  と宣言した。  それでノコノコ出かけたわたしは、カウンターの隅に放ったらかしにされ、 「青木雨彦です。オレのボトルがあるはずだ」  と、大きな声を出したのである。ママは、そのとき、自分が前の勤め先から引っ張ってきた客の相手に夢中になっていた。  そんなママとわたしが、どうして意気投合するようになったのかは、わたしの記憶にない。とにかくわたしは、 「ボトルにキープしてあるだけの酒は、飲んでしまいたい」  と、二、三度、続けて通ったのではなかろうか?  わたしにとって、最高の思い出は、一九七七年(昭和五十二年)に、わたしがミステリにおける男と女の研究『課外授業』で日本推理作家協会賞を受賞したとき、ママはもちろん、店の常連のほとんどが新橋第一ホテルの受賞パーティに駆けつけてくれたことだ。そうした飲み仲間のなかには、ガス会社に勤めているS氏もいれば、建築会社を経営しているNさん、通産省の役人だったMさんたちもいて、協会賞の受賞パーティ参加者としては、きわめて異色の顔ぶれだったろう。  その「多幸」が急に閉店することになって、わたしは途方に暮れている。前にも、ママが体の不調を訴え、 「やめたい」  と言い出したことがあるが、そのときはツケを払いにいった連中が額を寄せ集め、週休三日制とすることで、強引にやめることをやめさせた。  ところが、こんどばかりは、ママの意志は固いようだ。常連の一人である新聞記者のAくんが、  新橋駅に 陽《ひ》はおちて  と、あの『誰か故郷を想わざる』のフシで替え歌を歌ってママを励ましたが、やっぱり、ダメだった。  銀座の大きい店や有名な店が閉じていくことに、わたしは、なんの感傷もない。だが、こんなふうに十人も入れば一杯になってしまうような店が潰れることに、わたしは心から悲しみを感じている。  そんなわけで、わたしが東京で飲む機会はグーンと少なくなった。おかげで、若い編集者たちから、 「あなたもトシですね」  と言われるが、決してそうではない。行けば、かならず誰かに会えるような、そんな飲み屋がなくなってきたから——である。 [#改ページ]   わが旧婚旅行  ——ことし(一九八七年)の夏は三泊四日で、女房と二人で�東北へ旧婚旅行�とシャレた。青森ねぶた、秋田|竿灯《かんとう》、山形の花笠まつり、仙台の七夕をハシゴしてきたのである。  去年までは、 「夏休みは、家族旅行」  というふうに決めていた。新聞記者だった関係もあって、とかく家族との接触がなおざりになりがちなので、罪滅ぼしの意味も兼ね、夏休みには必ず子供たちをどこかへ連れていくのである。  それが、ことしは、娘たちのほうから、 「たまには老夫婦だけで出かけたら」  と言い出しやがった。娘三人は、それぞれ思い思いのレジャーを楽しむつもりらしい。 「老夫婦とはナンだ、老夫婦とは……」  自慢じゃないが、こっちは結婚して、まだ二十六年しかたっていない。いうなれば、二十七年目のホヤホヤである。  それにしても、子供たちの計らいで、二十六年ぶりに夫婦ふたりだけの旅とはテレくさい。女房が駆けずりまわってツアーをみつけてきた。  ホントは、二人して気儘に動きたかったのだけれど、いまどき、そんなことは不可能にちかい。期間中は、ホテルにしたって、東北新幹線のキップにしたって、ほとんど旅行代理店に買い占められているんだそうだ。  それでも、比較的自由行動の多いツアーを選べたのは、僥倖《ぎようこう》だった。旅行代理店によっては、 「相部屋でなければ」  というところもあった——と聞く。  朝早く上野を発って盛岡に着いた。盛岡市内で昼食をとり、東北自動車道を青森に向かう。一日目は、ねぶた祭りの見物である。  漫画家の岡部冬彦さんに、 「電線や歩道橋のせいで、灯籠の高さが制限されちゃってネ」  という話を伺ったことがある。「ねぶたがホントに寝ブタになっちまいやがった」  しかし、初めてみるわたしにとって、台車の上に針金と木で、組み立てられた武者人形の灯籠は、かなりの迫力だった。それに「ラッセラ、ラッセラ」の掛け声とともに踊り狂う何百人もの跳人《はねと》たち……。  二日目は、八郎潟から男鹿《おが》半島をまわって、秋田に入った。秋田は、何度か講演に来たことがある。日が暮れるまでは、城址の千秋公園の蓮を眺めて遊んだ。  竿灯《かんとう》は、高さ十二、三メートルにも及ぶ竿に、合計四十六個の提灯をさげて灯をともし、これを若者が肩なり腰なりで操りながら、お囃子にのって歩く祭りだ。鉢巻き、印ばんてん、白足袋姿も軽快だが、竿灯の重さが「五十キロはある」と聞いて、キモを潰した。  わたしたちの目の前で演技したのは、秋田の新聞社の連中だったが、 「若衆のなかに新人の記者もいる」  と言われて、他人事《ひとごと》ながら手に汗にぎった。なかには二、三度失敗した者もいたが、あれで翌日からの取材がうまくいくんだろうか——と、心配した。 ※[#歌記号、unicode303d] 花の山形 紅葉の天童  という民謡で知られる花笠まつりは、その単調さが驚異だった。色とりどりの衣装で、たしかに華やかにはちがいないが、例の「ハア、ヤッショォマカショ、シャンシャンシャン」といった囃子に合わせ、ただただ踊り歩くだけだ。  なかでも、女子高生のチアダンスが人目をひいた。高校野球の県代表に選ばれた学校のチームは甲子園に行っているはずだから、代表校の生徒ではない。  そして、仙台の七夕は、政宗ブームと重なって、いやもう、たいへんな人の波だ。昼間っからビールを飲んでいたことはいたが、うちわ片手に、ただゾロゾロと鮮やかな七夕飾りのトンネルを歩くだけで、人に酔ってしまう。  情けないことに、カメラはオモチャみたいな、シャッターを押すだけのやつである。ねぶたにしたって、竿灯にしたって、まともに撮れるもんじゃない。  ところが、よくしたもので、どこの祭りでも、 「記念に、写真はどうですか?」  と、若者たちが自分で撮した写真を売りにくるのである。恥ずかしながら、こっちは、はじめっから「自分が撮した写真で記録をつくりたい」なんて気がないから、適当に買い求めた。  そこで、仙台でもそのつもりで、中央通りの真ん中あたりにある写真屋の出店の前で立ち止まった。ちょうどカメラのフィルムが切れそうだったので、 「その写真も一緒に」  と、ちいちゃなアルバムを買おうとしたのだ。 「四百円のと五百円のとがありますが……」  サンプルをみせられ、 「五百円のほうをもらう」  フィルム代と合わせて、代金を払った。が、これが、宿へ帰って包みを開いてみたら、まるっきりチャチな絵葉書だったから、腹が立つより悲しかった。  たった五百円のことかも知れないけれど、そして、店の人もホントはまちがえたのかも知れないけれど、こっちは、裏切られたような気持ちで缶ビールを呷《あお》らざるをえない。心なしか、缶ビールまでがナマあたたかかった。  そういえば、この缶ビールも、青森や秋田、山形では一本二百二十円なのに、なぜか仙台では三百円だ。それも、ちゃんとした酒屋で買って、これなのである。  いかに�七夕値段�とはいえ、政宗の後裔はセコい。市役所近くで、気さくなウナギ屋をみつけた直後だっただけに残念だった。  仙台には、何人か、友人がいる。この春も、友人に招ばれて、雪の青葉城やら伊達ゆかりの仙台市博物館やらを案内してもらったばかりだ。  こんども、 「お友達を訪ねれば」  と子供たちに言われたが、 「迷惑だろうから……」  と思って、遠慮した。なにしろ、生まれて初めての旧婚旅行だもんね、新しい地下鉄に乗ってきた。  それは、まあ、ともかく——  わずか三泊四日の旅だけれど、いつでも頭の隅っこにあったのは、原稿の締め切り日のことである。地元の酒を飲みながらも、 「帰ってあれとあれを書かなきゃ……」  と考えている。 「生まれ変わって新しく仕事につくとしたら、こんどは仕事のことを忘れて休めるような仕事を選ぼう」  帰りの新幹線の中で、しみじみと思った。 [#改ページ]   「鬼の霍乱《かくらん》」始末記  その一 病名は顔面神経マヒ  自分で、 「どうも様子がおかしい」  と思いはじめたのは、晩酌のときだった。ビールを飲もうとしても、口から溢れてしまうのである。  諦めて飯《めし》にしたが、こんどは飯粒がボロボロこぼれる。女房に、 「だらしないわねぇ」  と笑われ、 「うん、まあ」  とゴマ化していた。  しかし、このときは、まだ女房も亭主の病状に気づいてはいない。当人が気づいていないんだから、女房に「気づけ」というほうが無理だろう。  翌日、会合があって出かけた。横浜のニューグランド・ホテルで、気心の知れたもの同士が一杯やりながら「勝手なことを喋ろう」という会である。  席に着いたとたん、 「おい、どうした?」  と、みんなから声がかかった。ほとんど同時だった。 「どうしたって?」 「その顔だよ」 「オレの顔?」 「ああ、曲がっている」  恥ずかしながら、この期《ご》に及んでも、わたしは、まだ気づいていない。自慢じゃないけれど、子供の時分から、 「オマエの顔は曲がっている」  と言われ慣れてきたこともあって、 「曲がっているのは、なにも顔だけじゃねえや」  と言いかけ、不意に心細くなった。  いつもなら、 「うん、そうだよな。曲がっているのは、根性のほうだよ、な」  と相槌を打つH先輩が、 「早く帰って、医者に診てもらえ。医者がダメだったら、とりあえずマッサージでもとるように……」  と、マジメな調子で言いだしたからだ。訊けば、奥さんも同じ症状で、 「カミさんのやつ、手当が遅れたばっかりに、治るのも遅れている」  と言う。  そこで、女房に電話し、マッサージ師を自宅に呼んでもらっておいて、引き揚げた。たまたまゴールデン・ウィークの、天皇誕生日の前の日だったため、心当たりの病院は一軒も開いていない。  それにしても、 「われながら図々しいな」  と思うのは、天皇誕生日の翌日には、飛行機で中国に飛び立っていたことである。五泊六日の予定で、若い友人たちと一緒に大連から瀋陽《しんよう》、北京をまわる約束だったんだから、仕方がない。  中国には、すでに十回近く行っているが、大連、瀋陽は初めてなので、女房には、 「イザとなったら、向こうで鍼《はり》でも打ってもらうから」  と言い残して、強引に出発した。正直なことを言えば、なにがなんでも日本から離れたかったのが、ホンネだ。 「この国にいるから、原稿の締め切りに追われる。仕事とも面と向かい合わなければならない」  なぜか、そんな恐怖感めいたものにかられていた。それで、壊れた顔のまんま、アカシヤには少し早い大連空港に降り立った。  さいわい同行の連中が顔のことを話題にしないように気を遣ってくれたので、老酒をこぼしながらも、なんとか頑張ることができた。こんどで三度目だったけれど、ちゃんと万里の長城にも登ってきた。  帰国し、一夜明けたら、 「なんでもいいから、夕方、わが家へ来い」  と、中学以来の友人Eから電話である。Eは、東洋医学も極めている内科医で、 「これから出張だが、帰りしだい診てやるから、家に来て待っていろ」  という。H先輩の忠告もあって、わたしの留守中に、女房から一部始終が報告してあったらしい。  それにしても、持つべきものは、友だ。それも、兼好法師じゃないけれど、 「よき友に三つあり、一つには物くるる友、二つには医師《くすし》、三つには知恵ある友」  というわけで、わたしは、おおげさに言うと、左右二センチほどずれてしまった顔を友人のところで治してもらっている。 「病名は、顔面神経マヒ。原因は、過労とストレスかな? 仕事は、できるだけ家に持ち込まないように」  文筆業という名の受注家内労働者であるわたしに、友人はニコリともせずに言ってのける。ホント、名医はつきあいにくい。  その二 よき友|医師《くすし》  ことわざに、 「持つべきものは友」  という。そうして、あの兼好法師さんも『徒然草』に、 「よき友に三つあり、一つには物くるる友、二つには医師《くすし》、三つには知恵ある友」  と書いて、持つべき友の一人に医者を挙げている。  しかし、どういうわけか、友人の医者にはかかりにくい。まして幼馴染みとあれば、尚更である。 「なぜだろう?」  と考えているうちに、 「自分のプライバシーに触れられたくないからではなかろうか?」  とも思ったが、どうも違う。言っちゃナンだが、わたしたちが友人の医者を敬遠する理由は、そんなに単純なものではない。 「ハテ、どうしたもんだろう?」  と頭を抱えていたら、例の青年医師の�美人看護婦殺し�が起きて、ハタと思い当たった。いや、事件そのものから思いついたわけではなくて、事件を報じた週刊誌に医事評論家の小山寿さんがコメントをつけているのを読んで、思い当たったのだ。  小山さんは、こんなふうに喋っている。 「昔、医者になる人は、たとえば僕の高校時代の同級生をみますとね、クラスの中で優秀な人は医者にならなかった。医者という職業は決していい仕事ではなかったんです。汚いものを見たり、触ったりしますからねえ。だから、医者になる人というのは、どうしても病人を助けたいというホットな心を持った人だった。頭は特にいい必要はなかった」  そうなんだ! わたしの友人にもたくさんの医師がいるけれど、あいつら、学生時代は、けっして頭なんかよくなかった。どちらかといえば人が好く、オッチョコチョイが多かった。  じつをいうと、それが、わたしをして、友人の医者の門を叩くのを躊躇させているいちばん[#「いちばん」に傍点]の原因なのだ。かりに胃なら胃をこわして、 「何某は、その道じゃ名医だってよ」  という評判を耳にしたところで、 「あいつがァ?」  と、つい疑ってしまう。 「あいつは、学生時代、喧嘩っぱやくて、いつも殴りっこしては、先生に叱られていたじゃないか」 「あいつは、学生時代、とっても惚れっぽくて、すぐに隣の女学校の生徒に付け文しては、しょっちゅうフラれていたじゃないか」  困ったことに、医者の友人の名を聞くと、わたしたちの脳裡をよぎるのは、かつての、そんな思い出ばかりである。  ところが、そんなふうに人が好く、オッチョコチョイであることが、ホントウは名医の条件の一つであることを知ったのは、もちろん、わたしがたまたま顔面神経マヒを患い、思い余って夜おそく友人の医者の門を叩いてからだ。 「スマンなあ」 「なあに、お安いご用だ」  彼は、気さくに診てくれた。この気さくさこそ、いまの医師に欠けているものではなかろうか。  その三 感じる? 感じない?  友人の医学博士を、 「東洋医学を専攻した……」  と紹介したら、 「ちがうよ」  と注意された。 「それを言うなら�東洋医学も専攻した……�と言うように」  知らなかったが、いわゆる�東洋医学�では、医学博士にはなれないんだそうな。こういうことは、聞いてみなけりゃわからない。  友人の医学博士は、専攻は内科・小児科であるが、併せて鍼灸も研究した。博士みずから鍼を打つこともあるけれど、医院には専門の鍼灸師が詰めている。  そのうちの一人が妙齢の美女で、患者のなかには、彼女に打ってもらうのを楽しみにやってくる不埒《ふらち》な奴もいるらしい。 「なに、きょうは院長先生が打つの? じゃあ、オレ、やめた」  順番を待っていると、ときどき診察室のほうからそんな声が聞こえてくる。そのたびに、わが友人は、 「コラッ、貴様、何しにきた?」  と、患者に向かって怒鳴っている。 「きまっているじゃないか! 女先生に診てもらいにきたんだ」  患者のほうも、平気で減らず口を叩いている。言っちゃナンだが、なかなかイイ雰囲気である。  わたくしメは根がマジメだから、そんなことにいっさい拘泥しない。たまたま顔面神経マヒを患い、 「鍼がいいんじゃないか」  と聞いて彼を訪ねた以上は、すべてを彼に委せている。  鍼にも�叩く鍼�と�置いてくる鍼�の二通りあって、彼のところは�置いてくる鍼�である。何本も、何十本も打ったまま、三十分以上はじっとしていなければならない。  それを仰向けと俯伏せのウラ表やるわけだが、院長先生が患者から敬遠されるのは、たまに一、二本抜くのを忘れるからだ。院長先生に、 「ハイ、結構ですよ」  と言われてズボンを履きかけると、チクリとくる。 「イテテ」  そう言うと、 「ホイ、また忘れたか」  院長先生は、しごく大様《おおよう》である。  いつだったか、 「彼女に診てもらうか」  院長先生に言われて、ベッドに寝そべった。女性だけあって、ツボを捜す感触ひとつにしても、たしかに当たりがやわらかい。  薄く目をつむると、とたんに院長先生が言いやがった。 「どうかね? 何か感じるかね?」  恥ずかしながら、返事に困った。  だって、そうでしょう? こういう場合、何と答えたら、いいのか? 「感じる」  と答えたら失礼だし、 「感じない」  と答えたら、ねぇ、もっと失礼ではありませんか。 [#改ページ]   年賀欠礼  かぞえてみたら、四十一通もあった。ことし(一九八六年)の暮にもらった年賀欠礼のはがきである。  年を追うごとに増えているような気がする。それだけ、こちらもトシをとった——ということだろうか。  さすがに、 「喪中につき……」 「服喪中につき……」  とだけ書いてあるはがきは少なくて、それぞれ「亡父の」とか「母が八月になくなりましたので」とか記してある。なかに「亡妻の」というのが一通、そして「亡夫の」というのが二通あり、あらためて胸を衝かれた。  なにも、 「父や母を失った悲しみに比べ、夫や妻を失った悲しみのほうが、いや勝《まさ》る」  というつもりはない。が、わたしにとっては、父や母であった人よりも、夫や妻であった人のほうが確実に近しいのである。去っていった人の顔、去られた人の顔が、迫るように浮かんでくる。  わたしも、生まれて初めて年賀欠礼のはがきを書いた。この一月に、父が八十八歳で病死している。 「米寿」  というので、 「トシに不足はないでしょう」  と慰めてくださった人もいたが、そんなの、ウソだ。病院で、父は死ぬ日まで、 「くやしい。オレには、やり残したことがある」  と、繰り返していた。  いまとなっては、それが何であるか、知る術《すべ》もない。昔の、五年制の尋常高等小学校を出ただけで�奉公�に出され、小僧から叩きあげて金物屋のオヤジになった父は、 「商人の子に学問は要らない」  と頑《かたく》なに言いつづけ、子どもたちが�上の学校�へ行くことも、家で本を読むことも嫌っていた。 「本なんか読むヒマがあったら、店の掃除でもしろ」  と言うのである。おかげで、三男のわたしは、親にかくれて本を読むことを覚えた。なにごとも、親にかくれてやるのは、楽しいものだ。  父以外にも、ことしは、母方の従兄夫婦が死んでいる。従兄夫婦といっても、二十ちかくトシが離れているうえに子どもがなく、わたしたち夫婦に、 「夫婦養子になってもらえないだろうか」  という話もあった仲だ。父の反対でその話は潰れたが、もし話がまとまっていたら、わたしは、ことし、自分の手で仏を三つも送り出さねばならなかったことになる。  従兄は、事故で死んだ妻を追うようにして、死んだ。俗にいう「髪結いの亭主」だった従兄は、妻の仕事を蔭で支えて、どこまでも仲のいい夫婦だった。  年賀欠礼のはがきには、父の名も父のトシも伏せ、 「喪中につき、年末年始の御挨拶御遠慮申し上げます」  という、それこそ型通りの簡単な文章に、  古ごよみ父の葬儀の日取りなど  という句を添えた。 [#改ページ]   女房コンプレックス  父の生涯のほとんどは、母との意地の張り合いだったような気がする。父の一周忌が済んだあたりから、母もそのことに思いを致すのか、仏壇に手を合わせては、 「もう少し優しくしておけばよかった」  と呟いている。  明治三十年生まれの父と明治三十四年生まれの母が結婚したのは大正十一年(一九二二年)だから、昨年(一九八六年)父が八十八歳で死ぬまで、ふたりは六十四年間も一緒に暮らしたことになる。ダイヤモンド婚を迎えたとき、 「おじいちゃんとおばあちゃんは、おとうさんとおかあさんが結婚する前から結婚していたんだぞ」  と説明したら、わが家の娘たちがいっせいに「フルーい」と叫んだのを、つい昨日のことのように覚えている。  五年制の尋常高等小学校を卒業すると、父は金物屋に奉公に出された。その父が、ノレンを分けてもらった後、中途退学とはいえ、なぜ府立の高等女学校にまで進んだ母と見合いし、結婚したのか——は、父も母も黙っているので、子供たちにはわからない。  それにしても、 「商人の子に学問は要らない」  という父の口癖は、半分は女学校にまで進んだ母へのアテツケだったのではないだろうか。父のいう�学問�とは、たとえば宿題をやることで、父は子供たちが学校から帰ってきて教科書を開いたりすると、 「そんな暇があったら、店の掃除をやれ」  と、テキメンに機嫌が悪くなったものだ。  母が、 「これは、宿題なんだから……」  と、いくら宥《なだ》めても、 「うるさい。おまえは引っ込んでいろ!」  と、ぜったいに節を枉《ま》げなかった。  おかげで、兄たちは宿題を怠《なま》けることを身につけたらしいが、要領のわるいわたしは、納戸の蔭でノートを広げたりしては怒鳴られた。  そういえば、父が帳簿と新聞以外に、ものを読んでいた姿を、八人の子供たちは見たことがない。父の自慢は、八十近くまで老眼鏡をかけなかったことで、 「本なんか読むから、目が悪くなるんだ」  と、眼鏡をかけた母に威張っていた。  それもこれも、 「女房に対する学歴コンプレックスが言わせた」  とは、わたしも思わない。照れくさがり屋の父は、女性そのものに対してコンプレックスを抱いていたにちがいない。 「そんなことをして、なんの腹の足しになるんだ?」  と、父が軽蔑していた�もの書き�になって、父に背《そむ》いたような三男のわたしだが、父が母にコンプレックスを抱いたように、女房にはコンプレックスを抱きつづけている。  マジメな話、つまらないところだけが似たものだ。 [#改ページ]   あとがき  悪友たちから、 「オマエは男のくせに、どうして女の肩ばかりもつんだ?」  と、からかわれる。わたしの書いた文章が、たとえば、「仕事の上では、男も女もない」といった内容であることが、彼らには気に入らないらしいのだ。  彼らは、ともすると、 「女は、これこれだから……」 「女は、あれこれだから……」  と、職場における女のひとの欠点をあげつらう。が、それらは、 「男だって、これこれじゃないか」 「男だって、あれこれじゃないか」  というふうに、わたしに言わせると、正直な話、似たようなものばかりだ。 「えてして女は公私混同しがちだ」  というなら、男にだって職場に家庭のことを持ち込む奴もいれば、仕事を家に持ち帰る奴もいる。そんな他愛もないことに、いちいち「女だから……」「男だから……」ということ自体がおかしい。 「女だから……」  というだけの理由で女性が差別される社会は、同時に、 「若いから……」 「醜いから……」 「貧しいから……」 「学歴がないから……」  というだけの理由で、有能な男性が差別される社会でもある。こんな単純なことに、どうして男たちが気づかないのか、わたしには不思議でしようがない。  わたしは、これからも意識して女のひとの肩をもつような文章を書きつづけるだろう。それは、つまり、男たちの肩をもつことにもなる——と、固く信じているからだ。  しかし、どんなものだろう? これから先、二十一世紀になって、かりに女性が天下を取った場合、過去に�男性中心の社会�があったように、彼女たちは�女性中心の社会�をつくりあげてしまうのではないか。  そんなとき、悪友たちが言うように、男でありながら女の肩ばかりもってきたわたしは、男性からはもちろん、女性からも吹きとばされそうな気がしてならぬ。早い話が、女性が天下を取った場合、タフな女性たちにとっていちばんジャマになるのは、このわたしみたいにいちはやく女性にスリ寄ろうとしていたヤワな男性だもんね。ホント、近い将来、じっさいに�女性の時代�が実現したら、わたしなんぞは、真ッ先に女性たちから抹殺されてしまうかもわからない。  でも、わたしは、 「それでいい」  と思っている。愛する女性たちの手で抹殺されるなんて、くやしいけれど、本望だ。  それは、まあ、さておき——  図らずも、この本には、わたしがわたし自身について書いたものが多く集まった。三十歳を過ぎて二十五年もたつと、人間、いつのまにか自分を語るようになっているのだろうか?  それにしても、ここに描かれているわたしは、つとめて女の肩をもちつづけようとしているわたしである。わたしの文章から、そんな意識的な心づかいが感じられなくなったとき、わたしは、もうちょっとマシな人間になっているにちがいない。 [#地付き]青木雨彦  [#改ページ] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   一九九一年三月二日、この文庫の著者である青木雨彦さんが胃がんのため亡くなられました。享年五十八歳でした。ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。   インタビュアーとしてコラムニストとして、独自の境地を切り開いてこられた青木さんの死は、まことに残念でなりません。青木さんのインタビューは、口八丁手八丁で相手に切り込んで行くものではなく、むしろ口下手でしかも照れぎみに話を聞くというものでした。酒場でのつぶやきにも似たそのエッセイは、多くのサラリーマンの共感を呼び、支持されてきました。もちろん、作品から伝わる著者のやさしさと思いやり、キマジメさに、多くの女性ファンもついておりました。おかげさまで講談社文庫も、これで十八冊目になります。青木雨彦さんの三女・雅子さんに無理をお願いして「父の思い出」を書いていただきました。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](編集部) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   父の思い出 [#地付き]青木雅子    早いもので、父が亡くなってから三ヵ月が過ぎようとしています。まだ、亡くなった、ということがピンとこなく、夜になるともうすぐ酔った父が、赤い顔して帰ってくるのでは、と思うことがたびたびあります。  二十歳をすぎた私としては二十年あまり父と暮らしてきたことになりますが、ほんとうにいっしょにいるなあと、実感できたのは、皮肉にも、年が明けてから再入院するまで、自宅療養中の一ヵ月ちょっとのことでした。  今年の年賀状を、まだ出していなかった父は、病気のことを心配して下さった方々に、近況報告を兼ねた寒中見舞を出すことにしたのです。ちょうど試験休みだった私が、その葉書の印刷、宛名書きの手伝いをすることになったのです。うかつにも、父の書いたものを読んだことがなかった私は、このとき初めて、この葉書に書かれた父の俳句を読みました。  あたたかき十二月なり胃を切りぬ  胃を切って想ふことなき寝正月  これが、その俳句です。  普段は忙しく、家にいるときでも、仕事のこと、原稿のことばかり考えていた父と、何か一つのことをいっしょにするということもなく、また、向かい合って話をしたこともなかった私が、そのとき宛名書きをしながら、二人でいろいろなことを話したのです。これが最初で最後になってしまいましたが、父とあんなに話をしたことはありませんでした。  まだ学生の私は、父についても、父の仕事についても、なかなか理解できず、ついつい反抗してしまいました。しかし、最後に話をしてみて、また、父が亡くなってから父のお友達や仕事関係の方々から、いろいろと思い出話をしていただき、ほんのちょっぴりですけれど、父が分かったような気がします。  たくさんのお友達がいたこと、そして、その方々をとても大切にしていたこと、また、仕事に対しては自分にとても厳しかったことなどです。  私も、来年から社会人になります。父から、これからいろいろなことを教わろう、聞いてみようと思っていたことがかなわぬ夢となってしまい、残念でたまりません。でも父が残してくれた多くの本から学びとっていき、しっかり生きていこうと思います。 この作品は一九八八年三月、講談社より刊行されたものです。