[#表紙(表紙.jpg)] 平家物語の知恵 青木雨彦 著   まえがき   祇園精舎の鐘の声   諸行無常の響あり   沙羅双樹の花の色   盛者必衰のことわりをあらわす   おごれる者も久しからず   ただ春の夜の夢のごとし   猛き者も遂には亡びぬ   ひとえに風のまえのちりにおなじ  いまは亡き小説家の深沢七郎さんにインタビューしたときのことが忘れられない。埼玉県の草加で団子屋を開いていた深沢七郎さんは、日没後はテレビ三昧《ざんまい》だったが、カワイコちゃん歌手の映るブラウン管をユビさして言ったものだ。 「テレビの歌番組というのは、いいねえ。とくに、ちかごろの歌手は、デビューしては、すぐに消えていくだろ? そこが、なんとも言えない」  そう言ってから、 「ごらんよ、きのうは中学生みたいだった少女歌手が、きょうは中年の人妻みたいに老けている。あれェみるたびに、オレは『平家物語』を思い出すんだ」  名づけて、 「テレビ精舎」  と言っていた。ご自分で琵琶ならぬギターを弾いたこともある深沢さんらしい命名ではないか。  されば、われらがサラリーマン生活も一場の夢だろう。途中で挫折するも、定年まで勤めおおせるも、ひとえに風の前の塵に似ている。できることなら、サラリーマンにとって大成することが人間として大成することであってもらいたいが、さて、そのようにうまくいくか、どうか。  そんな目で『平家物語』を読んでみたら、オドロクベシ、これはまた、抜群の「サラリーマン戦陣訓」であった。読者がみずからを清盛に、あるいは頼朝、義経になぞらえれば、ひとしお興趣は増すだろう。  サラリーマン社会にあっては、ヤル気のある人間かならずしもデキル人間とはかぎらないし、デキル人間かならずしも成功する人間ではない。この『平家物語の知恵』から、サラリーマンとしてのあり方の機微を盗みとってもらえたら、嬉しい。これは、卑俗な『平家物語』である。   一九八七年夏 [#地付き]青木雨彦   [#改ページ] 目 次  まえがき  プロローグ 子殺しと平家物語    頼朝はなぜ平家一族を皆殺しにしたのか。   孫悟空のモデルたち。  第一章 平家全盛 組織運営と人間関係   祇園精舎を読んで、わたしは、ダメ人間のいる会社のほうが良いのではないかと考えた。   大権力者をそでにした十六歳の小娘。   源氏没落をみて、人事のありようを考えた。   平家一族をみて、三代目育成の困難さを考える。   鹿谷・陰謀発覚をみて、裏切りについて考える。   成親卿の涙をみて、不平不満の持ち方を考える。   いさめ役・重盛をみて、出来レースについて考える。   体制内反対派はいたほうがよい。   実定のやり方から、不平不満の乗り越え方を考える。   俊寛の悲劇をみて、恩の売り方について考える。   頼政反乱をみて、「敵をつくるタイプの男」について考える。   競の活躍から、再度「裏切り」について考える。   福原遷都をみて、企業三十年説を考える。   頼朝の伊豆配流生活から、左遷について考える。   文覚上人の行動力をみて、自分を信じることについて考える。   平家敗走をみて、サラリーマンの禄について考えた。   重衡をみて、長たるものの責任のとり方を考える。   高倉天皇をみて、現代政治家のレベルを考えた。   清盛の死をみて、日本の経済を考える。  第二章 義仲・頼朝の旗揚げ 激動期の行動力について   義仲の戦術を読んで、状況適応力について考えた。   頼朝の義仲追討軍派遣をみて、「猜疑心」について考えた。   倶利伽羅峠の戦いをみて、人の心理を読むことについて考える。   実盛の戦死を読んで、ダンディズムについて考えた。  第三章 義仲の敗北 人生の「勝ちパターン」「負けパターン」とは何か   院宣の配り役・後白河法皇をみて、一流について考えた。   頼朝の性格をみて、サラリーマンたるもの、ポカも大切だと考えた。   義仲の京での評判をみて、カルチャー・ショックについて考えた。   梶原・佐々木の争いをみて、ライバル関係について考えた。   宇治川の先陣争いをみて、フットワークについて考えた。   樋口次郎の斬死をみて、武士の情について考えた。  第四章 義経の活躍 企画力、そして男の猜疑心の怖さについて   範頼の通達をみて、スタンドプレーについて考えた。   一の谷・ひよどり越の戦いをみて、企画力について考えた。   佐々木三郎の情報収集をみて、情報の価値に思い当たる。   逆櫓論争を読んで、成功法則について考えた。   弓流しをみて、小道具について考えた。   梶原・義経のケンカをみて、男のうらみについて考えた。   ふたたび男の猜疑心について考える。   あとがき [#改ページ]   平家物語の知恵     組織を活性化させる人間関係のつくり方 [#改ページ]   プロローグ 子殺しと平家物語 [#改ページ]  頼朝はなぜ平家一族を皆殺しにしたのか。 『平家物語』とは、  盲目の琵琶法師たちが、琵琶の音をベベンベンベンとかき鳴らしながら語り伝えた平家一族の勃興・没落の物語である。これを、 「現代サラリーマンの話に置きかえてみたらどうなるのだろうか」  と、あらためて読みかえしてみた結果が、この本だ。 「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」  と言うほどまでに驕《おご》り高ぶり、威張り散らした平家一門が、源氏に追われて西海に沈んだあと、頼朝は�名代�として京都の警備についた北条時政を通じ、つぎのようなふれを出した。 平家の子孫尋ね出だしたらん人は、何ごとも望みのままたるべし  平家の子どもたちの居所を通報したり、連れてきたりした者には、望み通りの恩賞を授けよう——というのである。  これを見た京都の人びとは、恩賞欲しさのあまり、下郎の子どもだろうが何だろうが、ちょっと色白で、美しい顔立ちの子とみれば、 「これはなにがしの中将の子です」  とか、 「これは誰がしの公達《きんだち》の孫です」  とか言って、北条のもとに連れてきた。  両親が泣き叫べば、 「あれは乳母です」「つきそいの女房です」という始末。実に薄情なのである。  こうして強引に連れて来られた子どものうち、  幼い子どもは、水の中や土に埋められ、  すこし大きな子どもは斬り殺されてしまった。  徹底的な根絶やしである。  しかし、小松三位中将維盛の息子・六代御前は、一門が京都を去ったとき、都に残されて以来、行方不明のままであった。  探索はきびしく、  とうとう、母や妹と菖蒲谷にひそんでいるところを捕えられる。十二歳だった。  この六代御前が相模の地で斬られることによって、平家の子孫は永久に絶える。  さて——『平家物語』は、忠盛昇殿にはじまり、六代が殺されるところで終わる。年代でいえば、一一三一年から一一九八年までの六十年間の物語である。  それにしても、  頼朝は、なぜ徹底的かつ薄情な根絶やし作戦をおこなったのだろうか? [#改ページ]  孫悟空のモデルたち。  インドの奥地。  そこに、ハヌマンといわれる白い猿がいる。  孫悟空のモデルとなった姿かたちの美しい猿である。  このハヌマンを数年間にわたって観察し続けた京大の杉山幸丸さんは、ちょっと信じられないような出来事を報告して、世界中にショックを与えた。  その出来事とは、  政権交代にともなう「子殺し」である。  杉山幸丸さんの『子殺しの行動学——霊長類社会の維持機構をさぐる』(北斗出版)によると——  ハヌマンは一匹の有力なオスを中心に群れ社会をつくるが、ボス以外の群れのメンバーは全部メスであり、その子どもたちだ。  群れをつくれないオスたちは、群れの外でハグレモノのような、野党のような生活をしている。  そして、  ボス打倒のチャンスを狙っているのである。  ボスと侵入してきたオスは何日にもわたる血塗られた衝突を繰り返し、その結果、侵入者が勝つと、群れはそっくり新しいボスのものになる。  新しい権力者となったオスは、  群れの中の子どもや赤ん坊を荒々しくかつ徹底的に、一匹の例外もなく殺していくのである。  母親たちは、わが子が殺されると、おそらくそのように自然の掟によってプログラムされているのだろうが、つぎつぎに発情し、新ボスのもとに参じて、彼の子をみごもっていく。  なかには、みずからわが子を殺して新しいボスのもとに参じるメスもいる。そういうメスのほうが、新しいボスにとってはいい子[#「いい子」に傍点]を産むそうだから、皮肉だ。  権力の交代と子殺し。  頼朝がやったことも、これと同じではなかったか。  頼朝が執拗な子殺しをおこなった理由は、おそらく頼朝自身の過去にある。  平家台頭のきっかけとなった平治の乱で、頼朝の父・義朝が殺されたとき、当時十三歳だった頼朝、乳飲み子だった義経も捕えられ、殺される運命にあった。  その命を救ってくれたのが、清盛の継母・池禅尼だ。このひとの熱心な助命運動のおかげで頼朝も義経も幼い命を奪われずに済む。  後年の、源氏旗上げという復讐劇の種は、この時に蒔かれた。逆に言えば、清盛は源氏を根絶やしにしなかったために滅ぼされたのではなかったか。  そのことを肌身で知っていたのが頼朝自身である。  六代を生かせば、やがて大人となり、自分と同じように必ず平家再興の旗を上げるだろう、と。  オレは清盛のような中途半端な仏心は絶対に起こさないぞ、と。  そう決意して、頼朝は、平家最後の直系男子六代の首を切ってしまう。  因果をたどれば、六代を殺したのは、継母に言われるままに十三歳の頼朝の命を助けた清盛自身だったといえないこともない。 『平家物語』という平家一族根絶やしの物語は、  ひょっとして、  人間社会にうつしかえられたハヌマンの子殺しの物語なのかもしれない。  ところで、 『平家物語』である。  この物語は語り物と呼ばれるように、盲目の琵琶法師によって語り伝えられた軍記物語である。  語り物には独特のリズムがある。  冒頭の、  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす  おごれる者も久しからず ただ春の夜の夢のごとし  というところを、ちょっと声を出して読んでみれば、そのリズム、調子のよさがわかるだろう。  また、  語り物の聞き手は、ふつうの人びと、民衆である。 『源氏物語』にくらべて『平家物語』の文体がわかりやすいのは、そのせいだ。 『物語』は、全部で十二巻とされているが、のちに「灌頂の巻」という建礼門院の後日譚が加えられた。  作者が誰かも不明だが、この『平家物語』がつくられたと思われる十三世紀初めより約百年後に書かれた兼好法師の『徒然草』二二六段に、つぎのような一文がある。 [#1字下げ]この行長入道、平家物語をつくりて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり[#「この行長入道、平家物語をつくりて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり」はゴシック体]  信濃前司行長という受領上がりの入道と琵琶法師の生仏の合作であるといっているのだ。  百年以上たってからの記述だから、たしかなものでないといえばそれまでだが、それ以上に信頼できる記録は、さしあたって他にないらしい。  それは、まあ、それとして——  わたしは、この『平家物語』を読んでいるうちに、ちょっと意外なことに気がついた。それは、ホントに他愛ないことかも知れないが、 「作者が�久しからず�と指摘して描こうとした�おごれる人�は、必ずしも平清盛のこととは限らないのではないか」  ということだ。ひょっとしたら、平家を滅ぼした源頼朝もまた�おごれる人�として描かれているのではないか——。  そんなふうに考えてみると、この『平家物語』が俄かにわたしをつくってくれたサラリーマン生活とダブってくるのである。会社にあって、わたしは、いや、あなたは、清盛か? 頼朝か? はたまた六代だったのではないか?  わたしはわたしなりに、わが『平家物語』からサラリーマンの生き抜く知恵を探ろうと思う。 [#改ページ]   第一章 平家全盛    組織運営と人間関係 [#改ページ]  祇園精舎を読んで、わたしは、ダメ人間のいる会社のほうが良いのではないかと考えた。   祇園精舎の鐘の声   諸行無常の響あり   沙羅双樹の花の色   盛者必衰のことわりをあらわす   おごれる者も久しからず   ただ春の夜の夢のごとし   猛き者も遂には亡びぬ   ひとえに風のまえのちりにおなじ  祇園精舎で打つ鐘の響きが、  自然界、人間界を問わず、この世に不変のものはないと告げている。  盛りを誇った沙羅双樹の花が散るさまは、どんなに大権力を握り、大勢力を誇る者も必ず滅びるという、この世界の真理を告げているのである。 『平家物語』は、このようにその物語の扉を開く。  いんいんにか、  あるいは、  木の葉一枚をかすかに震わせるほどにか、風の中を祇園精舎の鐘の音が響き、そして渡っていく。  その鐘の音が、余韻を引いて消滅していく僅かばかりの時の移ろいは、あるいは人の一生と同じ長さでもあり、それ以上の長さでもあるのかも知れないではないか。  人間が体験できる時の移ろいなどというものは、宇宙の滔々たる時の流れからすれば、いずれもツマヨウジの長さどころか、その頭ほどの幅にもならない。  ごく一瞬の、それこそまばたき[#「まばたき」に傍点]のようなものである。  真夏の陽光の下で、ある日、突然人間の足に踏みつぶされてしまう一匹の蟻の一生も、ちっぽけな蟻を踏み殺してしまったことも知らないで通り過ぎていった人間の一生も、宇宙の流転からみれば、たいしたちがいはない。 『平家物語』の冒頭は、  そのような、「時」が万物に対して持つ絶対的な支配力について、もの静かに語り起こしているのである。  そしてまた、 「時」の支配力に思い及ばず、一時の栄耀栄華を誇った平家一族も滅び去っていった、と。  平家一族の一人、平清盛の妻、相国の兄にあたる時忠が言ったコトバ—— [#1字下げ]「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」[#「「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」」はゴシック体]  というコトバこそ、「時」という全能の支配力の存在を忘れ、自分たちこそ全能であると信じてしまった人間のアホな驕《おご》りとして、冒頭の「祇園精舎」の一節と対比されている。  そして今、  千年のへだたりをもって平家一族滅亡の物語を読めば、平家一族の、腕力をブンブン振り回したような横暴ぶりから、そして、やがて漂流のような逃亡生活を経て、クシの歯がポロポロ抜けるように一人一人が冥土へ旅立っていくまでの物語は、なぜか夏の終わりの、人びとが去った砂浜に忘れられたビーチサンダルのかたわれのように、もの淋しい。  そんな盛者必衰のならい[#「ならい」に傍点]を忘れて、  昨日も今日も、そして明日も生きていくのが、このわたしやあなた、つまりはおおよその人の一生なのだから、この『平家物語』を読むことで、 「なるほど、驕れるものは久しからずなのだなあ」  ということに思いを致すのもいいだろう。もっとも、そう言ったとたんにすべてを忘れ、いつものようにサラリーマン社会につきものの派閥争いに精を出したところで、それはそれ、それもまた一興ではないか。  さて、その派閥争いだが、 「祇園精舎」に続くのが「殿上の闇討ち」である。  源氏と並び立つ武門の雄・平氏は、桓武天皇の血を引いているとはいえ、清盛の父忠盛までは、源氏に押されぎみ、今日でいえばパッとしない傍流の地位に甘んじていた。  しかし、保元・平治の乱で徐々に業績を挙げ、鳥羽院の御勅願寺得長寿院を造営して上皇に献上したり、三十三間堂を建てて千一体の仏様を安置したりした結果、ようやく陽の目を見るようになった。  なんだ、寺を寄進して認められたりして……。それじゃワイロじゃないか。  などと思ったら、思うほうが野暮というものだ。当時の仏教信仰の厚さからみれば、これも立派な功績なのである。  ともあれ忠盛は、平家一族ではじめて殿上人となり、出世の糸口をつかんだ。  今日でいえば一部上場企業の重役の末端にとりついた——といったところか。  殿上人というのは、天皇の住む禁裏にあがることを許された人のことで、それ以下を地下《じげ》人という。  地下人というのは、天皇に会うのに殿に上がれず庭先にかしこまるしかない者で、雨の日はさぞ困ったにちがいない。  いくら一張羅をきめこんでも雨と泥でベトベトになってしまうのだから。  ところが、  他人の運が開けるのを快く思わないヤツはどこにでもいるもので、  忠盛昇殿の際も、 「あのヤロー」  と思う先輩の殿上人がたくさんいた。  そこで闇討ちである。  貴族といえば飽食の子、  飽食の世代がいじめに興味を持つのは、昔も今もかわらない。  ところが、そこは武門の親分、忠盛のことだから、はや危険を察知して闇討ちに備える。  とはいえ、昇殿に武器の携行は許されない。  さて、どうするか。  こんな時、カリカリしないで妙手を考えつけるのが、やはり人の上に立つ人物ということになるのだろう。  忠盛は、木刀に銀箔を貼ったものを持って昇殿した。  そして闇討ちをしかけてくる連中がかくれているあたりでギラリと抜き放ったものだから、もう闇討ちどころの騒ぎではない。  武士の親分が刀を抜いたので、テキはトリ肌が立つほどの恐怖を柱の陰で味わったにちがいない。  が、闇討ちを考えつくくらいセコい連中だから、悪知恵・サル知恵はいくらでも出てくるもので、こんどは忠盛が帯刀して昇殿したことをあげつらった。  規則は規則だから、社長さんである上皇が忠盛の刀を調べてみたところ、これが真っ赤なニセモノ、いや、銀箔を貼った木刀だ。  忠盛のトリッキーなやり方に、上皇はすっかり感心してしまった。  禍転じて福となす——を地でいった忠盛のやり方である。  他人の昇進をねたんだり、足を引っ張ろうとする人間は、サラリーマン社会にも掃いて捨てるほどいる。  言っちゃナンだが、  このわたしだって、サラリーマン時代、何度も足を引っ張られた経験がある。  企画会議、である。  わたしの出した企画が、どうしても通らない。  かなり程度の悪い企画が通るのに、わたしの企画だけが刎《は》ねられる。 「いったいこの企画のどこがいけないんですか?」  ある日、とうとうケンカ腰でそう言った。  その答が面白かった。 「オマエのツラが気にくわない」  いま思えば、名セリフだ。ここは「イヨッ」と掛け声の一つもかけてやりたいところだが、当時はこっちもまだ若かったから、 「ムムッ」  と、まるで忠盛昇殿の気分。  唸ってばかりいてもしかたがないので、企画を通すための戦術を考えた。  顔が気にくわないんだったら、その顔を変えればいいというわけで、次からはわたしの部下に企画を提出させた。  すると、企画がスンナリ採用されてしまう。  わがたくらみの成果に気分は上々なのだが、いざ企画を実行する段になると、やはり企画者が出ていかないとわからないところが生じる。  ——にしてもだ。  子どものケンカに親が出る  というのはわかる。  が、これでは、  親のケンカに子どもが出る  ということだろう。部下に、そう泣きつかれた。いやはや、バカらしい。  ところが、そこが会社のおもしろさでもあろう。  大の(とあえていおう)大人が、部下に「顔が気にくわない」といってケンカをふっかけてくるのだから。  ついでに会社のおもしろさといえば、働くヤツもいれば働かないヤツもいる、ゴマをするのがうまいヤツもいれば、ほとんど自己表現がダメなヤツもいる、いいヤツもいればわるいヤツもいる——ということだろう。そういうゴッタ煮ふうのところが、わたしは好きだ。  そういうのを整理して、いいヤツばかりにしてしまったら、会社なんてとたんにおもしろくなくなる。  活力も落ちてしまう。  長続きだってしっこない。  男女雇用機会均等法で、これから女性の上司がたくさん出てくるだろうが、  ひとつ恐ろしいのは、  女性は自分の組織を純化するのが好きだから、ダメ社員、気にくわない人間、反対者をどんどんやめさせてしまうかも知れない、ということである。  そうなったら、会社なんておもしろくなくなる。また、現実に業績も下がってしまう。会社はダメな奴もいるから、会社なのである。  平安時代も今日も、組織の中にいろいろな人間がいて、みんなで諸行無常し合っているところが、やはり人間のおもしろさなのではないだろうか。 [#改ページ]  大権力者をそでにした十六歳の小娘。 「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」  とまでいわれた平家一門の、それも清盛自身に寵愛されていながら、  そんなもの�うたかたの夢�にすぎないと、さっさと出家してしまった女がいる。  経験ゆたかな女性ではない。  十六歳の小娘である。  その娘の名は、仏御前。  忠盛の死後、あとを継いだ嫡男・清盛は、もちまえの押しの強さで、とうとう平家一門を権力の頂点にまで押し上げてしまった。 『平家物語』を読むと、この清盛一人が悪役であって、他はみな美しき公達として描かれている。そのへんも、わたしには興味あるところだが、その清盛の横暴ぶりをきわだたせているのが、この仏御前の話だろう。  清盛は、十八歳になる祇王という娘を寵愛していた。白拍子の名人である。  そこにあらわれたのが十六歳になる、やはり白拍子の仏御前。  この仏御前が、現代ふうの明るい屈託のない娘で、呼ばれもしないのに清盛のところに押しかけてきた。 「ちょっとわたしの踊りを見て下さい」  というのである。  最初、清盛は、 「オレには祇王がいるのに、勝手に押しかけてくるとは無礼なヤツだ」  と、機嫌が悪い。 「かわいそうだから」と祇王がとりなすので、とにかく今様を唄わせてみた。  気が変わりやすいのも権力者の常、というか、清盛はとたんに仏御前が気に入って、祇王のほうを追い出す始末。  世をはかなんだ祇王が、母、妹とともに出家し、山里の庵にひっそりと暮らしていると、ある夜、こともあろうに仏御前が訪ねてきた。  いちじの栄華などユメと同じ、それよりも御仏の教えに生きることが大切と、頭を丸めて清盛のところから逃げてきたのだ。  そのとき、仏御前、僅かに十六歳。  清盛の寵愛という栄耀栄華のまっただ中からスッと身を引いて尼になってしまったのである。  できすぎである。  できすぎであるが、仏御前の出家によって祇王母子の心は救われる。  人の心を知るというのは、こういうことかも知れない。 『平家物語』が平家一門の盛衰というマクロな「諸行無常」の展開を唄えば、この祇王・仏御前の話は、「女心」を通してミクロな「諸行無常」を唄っている——と言ってもいいだろう。  早い話が、  大権力者といったって、女一人の心さえとどめておくことができないじゃないか。  そう言っているのである。 『平家物語』は武士の物語である。  現代風に訳せば、  サラリーマンの出世物語である。  その武士でもどうにもならない女心——  女心は秋の空  というのがあるが、まさにこれだ。移ろいやすい。しかも、男心とちがって冷たいほうに……。  ともあれ、  物語の冒頭で、  おごれる者、久しからず  と問いかけているのが、この話である——と、わたしはみた。 [#改ページ]  源氏没落をみて、人事のありようを考えた。  源氏と平氏は、もともと朝廷という会社の両輪であった。  ところが、保元・平治の乱で、源為義が斬られ、義朝が殺されることによって、源氏は凋落する。  そして、グングン力をつけてきたのが平氏である。  これは「会社」側としてはヘタなやり方だった——と、わたしは思う。  ライバル同士を競わせ、たがいに牽制させながら、その上に乗って進むのが賢いやり方ではないか。  会社は、いや、朝廷は、その一方をつぶしてしまったのだから、残ったほうが増長するのはあたり前だ。  時の社長であった後白河法皇は、政治的手腕にたけた人だったから、あの手この手を使って、増長する平家の力を押えようとした。  鹿谷の陰謀事件も、源頼政の決起も、アノ手コノ手のうちである。  後白河法皇にスポットをあてれば、この『平家物語』は、株式会社「朝廷」の会長である後白河が、源専務派を打倒していまや社長の座についた成り上り重役の平氏の力をそぐべくあれこれ画策した�人事物語�ともいえる。  会社の人事とは、ライバル同士を競わせ、競わせることによってそれぞれの持つ能力を最高のレベルで引き出してやるのが、本来であるまいか。  ところが、ライバル関係というのは、平和共存下の熾烈な争いというデリケートな関係だから、ちょっとしたことでバランスが崩れることだってある。  その微妙さは、  たとえば、こんなものである。  サラリーマン時代。  わたしが部の次長だった時、もう一人同じ立場の次長がいた。  つまり、  ライバルである。  二人のうちどちらかが部長になる。  これは会社の人事としては当然のことだろう。  そのとき、もう一人はどうなるか。  ライバル関係を崩すことなく、部長決定ができれば、その人事は成功である。  そのほうが会社のためにもなる。  ある晩、  わたしが残業をしていたら、もう一人の次長が入ってきた。  酒のニオイがプンプンする。そうして、 「オレが部長に決まったよ」 「そうか、よかったな」 「じゃ、よろしく頼む」  帰りがけにライバルがそう言った。 「ちょっと待て。それは、どういう意味だ?」  わたしは訊いた。 「つまり、こんどの人事でオレが部長でキミが次長になるから、よろしく頼むよ、と言ったんだ」  彼はニヤニヤしながら出ていった。  人事発令前の話である。  翌日、わたしは、人事権を持っている重役のところへ顔を出した。この重役が彼をヒイキしたのだ。 「彼が部長になることを否定したり、批判したりはしない。しかし、長年ライバルでやってきたもの同士だから、彼の下につくのは、いくらナンでも可哀そうだろう。左遷でも降格でもよいから、わたしを他の部署に行かせてくれ」  それが、人事の妙ではないか——と。  お願いというよりも、それはわたしの考える人事というものの原則であり、主張でもあった。  重役ではラチがあかなかった。  重役は社長に相談した。  その結果、  この人事は、ご破算になった。 「こんどの人事を社長に直訴してこわしたヤツがいる」  翌日、重役が部員全員を集めてこう言ったものだ。わたしは直訴なんかしていない。が、重役としてはそうでも言わなきゃ腹の虫がおさまらなかったのだろう。  人事が発令される前の出来事だった。  人事の妙がわかっていないのである。  突然、ライバルから、 「じゃ、これから頼むよ」  と言われて、 「ハイ、わかりました」  と、言えるほど、わたしは人間ができていない。  せめて一片の情というものがあるならば、オレをはずしてくれという、わたしの気持ちはわかってもらえるだろう。  このことでわたしは重役にもライバルにも嫌われ、いちどに二人の敵を作ってしまったが、会社だってライバル同士がしのぎを削ってベストをつくす、という関係を破壊したのだから、大損だったはずである。  後白河法皇も、車の両輪の一方を破損、消滅させることによって、残ったほうの増長を招き、先行き不安を感じるようになるのだから、  人事の妙、  というやつ、  ほんとうにむずかしいのである。 [#改ページ]  平家一族をみて、三代目育成の困難さを考える。  一代目がワンマンで、二代目、三代目がお坊っちゃん体質だったら、誰が見たってその組織は生き延びることができない。  平家の場合は二代目がしっかりしていた。  清盛の嫡男・平重盛である。  三代目はといえば、  あまりリコウでなかった。  たとえば資盛。  重盛の次男、十三歳である。  その資盛が、同年輩の若侍数名と鷹狩りに出かけた帰り、時の摂政関白・藤原基房の行列にでくわした。  こんなときは下馬の礼をとるのが習わしなのに、資盛一行は強引に行列を駆け抜けようとした。  今日でいえば、暴走族である。  当然、基房の部下ともみ合いになり、さんざんな目に合わされた。  父・重盛は、 「オマエが悪い」  といっているのに、おじいさんの清盛が、 「平家にたてつくとはケシカラン」  と、三百騎の荒武者をもって基房の行列を襲わせ、メチャメチャにした。 「平家一門にあらざる者は、人にして人にあらず」  を、地でいっている。  こんな平家でもうまくいっていたのは、二代目重盛が、ことあるごとにいさめ[#「いさめ」に傍点]役として清盛の横暴を常識的な線に押しもどしていたからである。  その重盛が、清盛よりも早くこの世を去ってしまったことが、平家にとっては不幸のはじまりであった。  目先のきかないワンマン経営者と、凡庸な二代目、三代目ばかりの集団になってしまったのだから……。  清盛の覇気と重盛の慎重さは、ほんらい組織運営者が両方兼ね備えていなければならない性格である。  動と静、  陽と陰、  暴と情、  攻撃と防御、  両方が一つの組織の中で上手に絡み合ってはじめて組織はうまくいく。  ところが、  平家の場合は、  清盛が動なら  重盛が静。  清盛が暴なら  重盛が情。  という具合に、  一種の人格分裂、  というよりも、  コンビネーション関係になっている。 『物語』中、つねに清盛が悪役として登場してくるのはそのせいではなかろうか。  いってみれば、  清盛と重盛は、二人して「出来レース」をやっていたのだ。  その重盛が死んでしまったことから、平家一門の没落が始まる。 [#改ページ]  鹿谷・陰謀発覚をみて、裏切りについて考える。  京都東山の麓。  鹿谷。  ここに俊寛僧都の別荘があった。  そして、ある晩、  この別荘で、平家打倒の陰謀が秘かに企てられた。  首謀者は成親新大納言だが、  黒幕・後白河法皇みずからもその場にいた。  首謀者・成親新大納言より軍事面の担当者は「おまえだよ」と名指しされた多田蔵人行綱は、自分が侍であるだけに、どう考えても平家打倒の成算が湧いてこない。  成功すれば、たしかにうま味のある話だ。  だが、  失敗すれば自分の首がとぶ。  悶々と悩んでいるうちに、もともと「確信犯」ではないから、不安にとらわれ、不安は疑心暗鬼となって、もしこうしているうちに誰かがしゃべってしまったら絶体絶命とばかり、とるものもとりあえず清盛のところに駆けこんだ。  助かりたい一心だから、話に尾ヒレがついてペラペラしゃべる。  なんともセコい男だが、われわれはこの男をバカにすることができるだろうか。  この手の男が存在するのは物語の中だけかといえば、とーんでもない。  弱気の虫、  自己保身の願望は、誰の心の中にもひそんでいる。  たとえば、の話だ。  社内に派閥争いがあって、  直属の上司が「キミ、頼むぞ」と言ってきた。  秘密の文書を見れば、どうやら社内クーデターが計画されているようだ。  いつも抑えこまれている弱小派閥が一挙に社長を退陣に追い込み、会社を牛耳ってしまおうという計画だが、どう考えたって成功する確率は小さい。  成功すれば大抜擢まちがいないが、失敗すれば首は飛ぶし、家族は路頭に迷う。  そういう場面なのである。  さて、  キミなら、どうする? いや、わたしだったら、どうするか。  その昔、こういう状況に追い込まれてしまったのが多田蔵人行綱であった。  この男のやったことは裏切りである。  仲間を売って、自分だけ助かりたい一心で、そうすればまるで陰謀加担の事実から逃がれられるかのように、清盛邸から駆けて家に帰っている。  小心者なのだ。  サラリーマンをやっていると、長い間には一回ぐらいこのような状況に追い込まれることがある。  その時どうするか——は、それぞれその時の判断だろう。 [#1字下げ]主義主張曲げて職場に長くいる[#「主義主張曲げて職場に長くいる」はゴシック体]  という川柳が、ある新聞に載っていた。  この川柳をみて、サラリーマンはつらいな、と思えるうちはまだいい。  ふつうは長くいるうちに主義主張のほうがすり切れて、曲げるべきものも何もなくなってしまう。  持続するエネルギーがあるだけでもたいしたものである。  主義主張が強ければ、確信犯になれる。  主義主張がなければ、あぶない話のお呼びはかからない。  困るのは、一応タテマエで主義主張をもっていたり、自分の不平不満を主義主張にすりかえたりしている連中である。  酒場でブツブツおだをあげていたら、  ある日、突然、 「実は……」  と、脂汗、冷汗入り混ってしたたり落ちるような話がもちこまれてくる。  家族や、現在の自分の地位を守ろうとしたら、もうタレコミしかないのである。  さて、どうしたものか。 [#改ページ]  成親卿の涙をみて、不平不満の持ち方を考える。  いや、  突然あやし気な話に巻き込まれてオタオタしてしまったのは、多田蔵人だけではない。  首謀者の成親新大納言自身が、捕えられるとメソメソしてしまうのである。  この人の妹は平家のナンバーツー、重盛の奥さんである。  そんな立場の人がどうして陰謀など起こそうとするのか?  理由は、地位に対する不満である。  成親新大納言が捕えられ、崩れていくありさまを読んでいると、  この男、  たぶん、マザコンだな、と脈絡なく思ってしまう。  史実としての成親新大納言が、マザコンだったかどうかなどわかりっこないが、現代がマザコンの時代だというのはたしかだろう。  マザコン野郎は依存心を捨て切っていないから、すぐ不平不満のとりことなる。 「自分のことをちゃんと認めてくれない」  と、家庭では女房に不平をいい、会社では上司に不満を持つのである。  ストレスをためこんでも、子どもの頃なら母親のところへ行ってワッと泣けば済んだのだが、大人になったらそれもできないから、陰謀などと大げさなことにならないまでも、酒を飲んで会社の悪口、上役の悪口ばかり並べている。  言っているうちにストレスが解消されるから、それはそれでめでたい話だが、不平不満は体に出る、顔にあらわれるのである。  それが上司には、 「反抗的」とうつり、ある日、突然左遷されたりする。  すると、いったい自分が何をしたんだ、といって、またまた泣きごとを並べはじめる。  この程度のことはそのへんにいくらでも転がっていそうな話だが、それをあの平安時代に新大納言という立場で演じてしまったのが成親卿だ。  平家ナンバーツーの重盛と姻戚関係にあるという甘えもあったろう。  いざとなれば、重盛が助命に動いてくれる。  そういう計算もあったかも知れない。  事実、重盛は動いてくれた。  だが、  なんてったって相手はドンの清盛である。  最後には山中で虐殺されてしまう。  おたがい、自分のやったことには責任を持ちたいものである。  でも、あまり大きく責任をとれそうもなかったら、不慣れなことはやらないほうがいい。  とことんやる気もないのに、ヘンにやる気みたいなものをチラチラ出したりすれば、いつか頭をはり飛ばされるに決まっている。  かといって、  単なる不平不満男というふうにはみなされたくないし……。  にもかかわらず、サラリーマン社会は不平不満の種だらけだし……。  いったい、どうする?  この現実。 [#改ページ]  いさめ役・重盛をみて、出来レースについて考える。  成親らを捕えてみたものの、ほんとうの首謀者・黒幕は、後白河法皇である。  清盛はそれを知っている。  後白河といえば、株式会社「朝廷」のオーナーであり、会長である。  まず手を出すことなど畏れ多くてできない存在なのだが、清盛はあえて手を出すことにした。  あえて、というよりも、直情径行型の清盛としては、何も考えないでつっ走っているといったほうが正しい。  そこに「いさめ役」として入ったのが重盛である。 「君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷盧《めいろ》八万の頂《いただき》よりもなほ高き親の恩、たちまち忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退すでにきはまれり」  清盛の側につけば不忠者になるし、  法皇側につけば不孝者になってしまう。  どっちもイヤだから、この際、自分のクビをはねてください、と言っているのである。  これには清盛も参ってしまい、法皇への攻撃は一応とりやめとなる。  この二人の、 「クサイ」やりとりは、出来レースかも知れない。  そうでないかも知れない。  どっちだって構わないのだが、出来レースと見たほうが、わたしには面白い。  最近の上司は、部下をちゃんと叱れないらしい。  ガツンとやって、あとで造反されたらどうしよう——と、じつに心やさしいのである。  これでは、育てられるほうが不幸だ。  叱られるべき事態を引き起こしているのである。  なのに、  上司がちゃんと叱ってくれなかったら、世間なんてこんなものかと思ってしまう。  叱るべきときは、ちゃんと叱らなければ……。  とはいえ、叱るっていうのは怒るのとはちがって、なかなかむずかしい。  上手に叱るコツ。  それは、周囲に重盛役を配することである。  出来レースである。  ガツンと叱る役、  あとで、 「課長はああ言っているが、叱る身のつらさもわかってやれよ」  といってカッカしている若手社員をなだめる役。  この二人が上手にかみ合えば、叱ることがちゃんと「教育」になる。  出来レースで思い出した。  清水一家である。  森の石松が金毘羅さまにお詣りに行くとき、親分・次郎長に 「道中酒を飲むな」  と言われる。  酒好きの石松である。 「冗談じゃない」  とふてくされてしまう。 「コノヤロウ」  と、次郎長も頭にくるが、ここで爆発してしまったら清水一家は成り立たない。  いつもなら大政が止めに入る場面である。  ところが、この日、その大政は、なぜかそっぽをむいたままである。 「なんだ、そこにいるんなら、止めればいいじゃネェか」 「止めに入るのを期待しているぐらいなら、最初から怒鳴らなければいいじゃありませんか」  と、呟きながら大政は、可愛い弟ぶんの石松を別の部屋に呼んで、 「三尺外へ出れば旅の空なんだから、親分の目が届く範囲で飲まなければいいんじゃネェか、正直なヤローだ」  と諭す。 「正直で、どこがいけない?」 「オマエのは、正直の上にバカがつかあ」  それで、石松が納得する。次郎長と大政は、言っちゃナンだが、「出来レース」をやっているのである。  わたしがサラリーマンの頃の話である。  部長に、 「辞めちまえ」  と怒鳴られた。  仕事の上で尊敬している部長だったから、「辞めちまえ」は強烈だった。  そこまで言われるんだったら……と、つい考えてしまった。  すると、かたわらの次長が部長に、 「部長、あなたは人事権がないんだから『辞めちまえ』はまずいんじゃないですか」  と、かばってくれた。  そういわれて、こっちはホッとした。それから次長に諭されて、部長が怒ったわけもよくわかった。  いま思うと、あの二人は、たぶん「出来レース」をやっていたにちがいない。  いさめ役がいて、はじめて叱り役の効果がでてくる。  清盛—重盛の出来レースは、重盛の死によって、清盛に歯止めがなくなってしまった。  新聞記者時代——  会社の経営権がトップとその一族に握られてしまった。  反対派の一掃である。  その結果、  会社そのものがおかしくなっていった。  オットー・フリードリッヒに『崩壊の十年』(中山善之訳、新潮社)という本がある。アメリカのポスト紙がつぶれていく過程を書いた本である。  これを読むと、ポスト紙の崩壊は、言論の自由との戦いに敗けて……なんていう美しいものではない。  派閥抗争でダメになっていくのである。  わたしが勤めていた新聞社が、まさしくそのとおりだった。  反対者がいなくなると、トップは部内の意見に耳をかさなくなった。 「平家にあらざる者は……」  なのである。  朝日・毎日・読売が新聞販売店を系列化した結果、独自の販売店を持っていないわれわれは困った。  そこで一流でなく二流を目指し、朝毎読の併読紙としての新聞をつくったらどうか、  というのが、わたしの意見だった。  二流の中の一流を目指すのである。  ところが、  トップは一流を目指してどこがいけない、というタテマエ論をかかげて、わたしや他の人間の意見を聞こうともしない。  強硬に反対するものはどんどんやめさせられていく。それは同時に新聞社がダメになっていく過程でもあった。  トップに反論できる人間のいなくなった組織はダメになる。  重盛亡きあとの平家一族のようなものである。 [#改ページ]  体制内反対派はいたほうがよい。  本人たちが、 「出来レース」  と気がつかない出来レースもある。  体制内反対派である。  たとえば、会議の席——  反対派が、ああでもないこうでもないと反対意見を述べる。  それに対してちゃんと説明しておさえることができれば、  他の社員たちが、アイツも納得したんだから……というわけで従う。  もちろん、反対者本人も、言うだけ言ったんだからと、諦める。  それに、  反対意見にちゃんと耳を傾け、それを説得したということで、トップの株も上がる。  三方一両得(?)なのである。  結果的に見ると、  トップと体制内反対派は「出来レース」をやっていることになる。  そして、この「出来レース」のいちばん重要な点は、意見が飛びかっているうちに、今度の方針(企画)は、何がいちばん大切かを社員がそれぞれ学んでしまうということである。  反対意見は会社の活力源である(もっとも、反対のための反対という反対意見もあるが、これは源氏と平氏の関係だから徹底的にどちらかが倒れるまでやればいいだけの話だ)。  反対意見を言わせない、  あるいは  反対意見を言う人間を冷遇する、クビにするような会社の空気は、すぐ澱んでくる。  平家滅亡後に台頭した源頼朝がそうで、イエスマンばかりを周辺に集めた。  最大の功労者・義経に対する冷たい仕打ちに対しても誰もいさめる者がない。  イエスマンというのは、絶対に、心底トップになびかない。  保身で「イエス」といっているだけだからだ。頼朝の義経に対する仕打ちというものを、そばでちゃんと見てしまっている。心からなびくわけがない。  某デパートの某元社長がいい例で、  反対者を全部追い出し、周囲をイエスマンで固めた。  誰はばかることなく野放図なことを始めたが、イエスマンは、当然それをいさめない。  でも、内心は「やりすぎだよ」と思っているにちがいないから、マスコミ批判が高まり、グループ内部からも「変だぞ」という意見が出てくると、簡単にトップを裏切って退陣させてしまった。  体制内反対者は、自分を映すカガミみたいなものである。  あるいは、ブレーキ役でもある。  そのブレーキがこわれたのが、重盛亡きあとの平家一族なのだ。 [#改ページ]  実定のやり方から、不平不満の乗り越え方を考える。  成親新大納言と同じような不平不満を持っていながら、みごと左大将に昇進してしまったのは、徳大寺大納言実定卿だった。  平家一門の繁栄ぶりを見て、実定が、 「こりゃ、ダメだ。とっても出世なんか無理だ」  と諦め、坊主になろうと決めた晩、藤蔵人重兼という男がやってきて、 「平家があがめている厳島に行きなさい。あそこには美しい舞姫がいっぱいいる。その舞姫に平家でもないのに何をお祈りにきたのかと尋ねられたら『出世したい』と正直にいうことです。そして京にもどってくる時、舞姫の一人を連れてきなさい。その舞姫が清盛を訪ねることは間違いない。そうすれば、こちらの希望が清盛の耳に入る」  と語ったのだ。  そこで、その通りにやってみると、狙い通りにコトが展開した。  清盛は、  この京都にも神社仏閣がいくらでもあるのに、わざわざ平家一門のあがめる厳島神社まで行くとは、  と感心し、実定を左大将に昇進させたんだから、おもしろい。  同じ地位に対する不平不満でも、陰謀に走った成親とは大ちがいだろう。  実定、というより、この策を練った藤蔵人という男の企画力は抜群である。  まず、  清盛の性格を熟知している。  戦いにおいては敵の、  商品開発においては消費者の、  セールスにおいては購買者の、  その心理や性格を知ることが、成功するための基本法則である。  企画した藤蔵人も、実行した実定も、なかなかたいした男ではないか。  なんだかイヌみたいでいさぎよくない、  と、ネコ好きの人間だったら思うかも知れないが、  ナニ、  それはイヌをよく知らないだけの話だ。  イヌは下心を隠してまでシッポなんかふらない。  では、どういう場面でシッポをふるのか。  ㈰ 軽い挨拶  暑くてやってられないというようなところに、主人がやって来た。めんどうだな。でも一応挨拶ぐらいしておかないとね。  パタパタパタ——。  たんにカッコをつけただけ。  ㈪ 夢中になってシッポをふる  主人が帰ってきた時など、全身全霊で歓迎する。シッポをちぎれるようにふるが、歓迎のサインは、シッポだけではない。目、表情、全身にそれがあらわれる。  演技、  なんてものではない。  心底、  なのである。  仲代達矢の細君である宮崎恭子さんが言っていたけれど、  仲代さんが車で帰ってくると、玄関まで駆けて迎えに出るのだが、どんなに早く走っていっても、いつもイヌがいちばん。それで熱烈歓迎を先にやるので、いつも夫はいちばん先にイヌの頭を撫でている。それがクヤシイ、と。  イヌには、横着なしっぽふりと熱烈歓迎的しっぽふりの二つしかない。  下心を隠して熱烈歓迎を演技するなんて高級テクニックは、まずできない。  実定は、それをやってのけたのである。  そこが、イヌと人間のちがいだろう。  だが、  実定は、すぐそれとわかる演技ではなく、全身全霊をかけて演技していたにちがいない。まるでイヌのように。  そのとき、演技は演技でなくなる。  そこまで情熱的に、 「ゴマをする」  ということが、あなたにはできますか? [#改ページ]  俊寛の悲劇をみて、恩の売り方について考える。  鹿谷の陰謀の加担者、  丹波少将  康頼入道  俊寛僧都  の三人は九州の南の島・鬼界ヶ島に流された。  ほんとうに淋しい流人生活だった。  丹波少将と康頼入道は、熊野信仰の厚い人で、島のそこここを熊野の地になぞらえ、早く都に帰れるように祈っていた。  俊寛は比較的信仰心の薄い人で、別行動をとっている。  康頼入道は都恋しさのあまり、千本の卒塔婆に二首の歌を書いて海に流した。  薩摩潟沖の小島に我ありと     親には告げよ八重の潮風  思ひやれしばしと思ふ旅だにも     なほふるさとは恋しきものを  この卒塔婆の一本が黒潮に乗って厳島神社に流れつき、評判になった。  やがて法皇の耳にも入り、清盛もこの話を聞いて、さすがに哀れと思ったらしい。  熊野信仰を熱心にやるのもそうだが、ずっと都を恋いつづけ、アレコレやっているうちに、その心が相手に伝わったのである。言っちゃナンだが、何もしなければ情報は伝わらない。  ちょうどその頃、清盛の娘で中宮の建礼門院が臨月になりながらも、ひどい痛みで苦しんでいた。  その苦しみがあまりにもひどいので、これは、清盛によって殺されたり流されたりした人びとの死霊や生霊のたたりではないか——ということになり、さっそくそれらの霊をなだめる仕儀となった。  鬼界ヶ島の三人組も、当然その対象である。  ところが、清盛は俊寛だけは許さなかった。 「いろいろ目をかけてやったのに、自分の山荘を陰謀の寄り合い場所にしたのは許せない」  というわけである。  もちろん、それだけでなく、  都を恋う康頼入道らの心情は卒塔婆を通して、都中に知れわたっていたが、俊寛の心は伝わってこなかったということもあったはずである。  人間は信じてそれを行えば必ず実現する。  自分はカネ持ちになるんだ、その力が自分にはあるのだ——と、なんの疑念もなく信じこめれば、その人は必ずカネ持ちになる——  といったのは、たしかマーフィーという人で、一時、サラリーマンの間でもその本が話題になったりしたが、康頼入道が許されたのは、そういうことなんだな、と思う。必死に都を恋う心が、天に通じたのである。  とうとう、俊寛だけが島に残されてしまうことになった。  三人でもつらいのに、たった一人で生き続けるなんて。  それにしても、  清盛のやり方は、なんの意味もない。  昔、俊寛に恩を売ったのにそれを裏切られたという気持ちなのだが、一人残してどんな意味があるのだろうか。  ここは三人一緒に許して、新たな恩を売るのが正しいのではないか。  有能な経営者だったら、必ずそうするだろう。 「許す心」を知らない経営者は周囲から嫌われる。  許す心を持つことが、周囲に信頼できる部下、仲間を集めるコツなのである。  そして、 「恩は売るべし」  なのである。  清盛があそこで俊寛を許したら、俊寛は必ず清盛のもっとも信頼できる人間の一人になったはずである。  恩を売って感謝されるか、売りそこなって嫌われるかは紙一重である。  またまた新聞記者時代のことだけれども、  社長が、社長の名前で、ある雑誌に原稿を書いてくれと言ってきた。仕方がないから、書いた。やがて原稿料が届くと、社長はわたしの目の前で封をあけ、原稿料一万円(ということにしておく)のうち、三割の三千円を抜いて、残り七千円をわたしによこした。そうして、その場で、その三千円を雑誌の編集者に小遣いとして渡したのだ。  こういうのって、汚いよネ。  わたしから見れば、原稿料の上前をはねられたとしか思えない。  だって、社長は何もしてないじゃないか。他人の、それも部下のフンドシで相撲をとっただけじゃないか。  わたしがもし社長の立場だったら、  わたしの前で封をあけないで、最初から原稿料は七千円だったという。あるいは、どうしても編集者に三千円の小遣いを渡したかったら、テメエの財布から出す。な、社長さんよ、身ゼニを切れよ。 「身ゼニを切る」  ということで思い出したけれど、  あるサラリーマンが結婚する時、課長がいくら包むかで他の課長たちと相談して、一人七千円に決めた。  半端な数字だけど、まとめると大きな金額になるということで、そう決まった。  ところが、他の課長たちは、一応ああなったけれど、七千円というのはいかにもきまりが悪いということで、別途に三千円をつつもうとした。  しかし、三千円も中途半端な数だから、結局、べつに五千円、一万円つつむことになる。  事前に決めたことの意味が全然なくなってしまった。  当の課長は七千円だけだった。  ただケチだっただけじゃないか。  あんまり身ゼニを切りたくないので、仲間を誘っただけなのだ。  安く済んだと思っただろうけれど、ひきかえに大切なものを失ってしまった。  それにしても、  俊寛に対する清盛のやり方は、みずからの狭量を示すだけのものだった。 [#改ページ]  頼政反乱をみて、「敵をつくるタイプの男」について考える。  陰謀、造反、敵対には、必ずその原因がある。  ひとが自分に敵対してきたら、  その原因がこちら側にないか、よく振り返ってみることである。  平重盛没。四十三歳。  世間の人は、何かよくないことが起こるのではないかと恐れた。  平家一門の中にもことの重大さに気がつく人がいた。  なんといっても暴君清盛のただ一人のいさめ役が死んでしまったのだから。  重盛の弟・宗盛は、 「これで天下がわがものになった」と喜んだ。  宗盛は、重盛亡きあとナンバーツーとなり、のちに清盛が病死してからはナンバーワンになる。  時代が動き始めた。  まず、  鹿谷の黒幕・後白河法皇が清盛によって鳥羽殿というところに閉じこめられる。  法皇の第三皇子に以仁《もちひと》王という人がいた。  三条の高倉に住んでいたので、高倉宮と呼ばれていた。ひっそりと暮らして、いまや三十歳。  その高倉宮のところに、ある晩、源三位入道頼政という男が訪ねてきた。  反乱のすすめである。  反乱者候補として頼政があげた人びとの中には、『物語』後半の主人公の、  源頼朝  木曽義仲  九郎冠者義経  といった名前が出てくる。  ところが、この反乱計画は早々にバレ、  高倉宮は三井寺に逃げ込み、また首謀者の頼政も一族とともに三井寺に駆け込んだ。  源三位入道頼政は、元来性格のおとなしい入で、波風もたてずに静かに暮らしてきた人である。  その人が、  突如、反乱計画をたて、実行に移したのには、わけがある。  その理由だが、  頼政の息子に伊豆守仲綱という人がいて、名馬を持っていた。  その名馬に目をつけたのが、いまや平家ナンバーツーとなった宗盛である。  宗盛は、あの手この手を使って馬をゆずるように言ってきた。  でも、  仲綱だって、気に入っているのだ。いやなものはいやなのである。  その話を聞いた源三位頼政がこういった、 「たとひ黄金《こがね》をまろめたる馬なりとも、それほどに人の乞はんに、惜しむ様やあるべき。その馬、六波羅へ遣《つか》はせ」 (たとえ黄金でつくった馬だとしても、人がそれほど欲しがっているのに惜しむことがあるか、その馬を宗盛にやりなさい)  それに対して仲綱は、 「馬を惜しむにては候はず。権威について責めらるると思へば、本意《ほい》なう候ふほどにこそ遣はし候はね」 (馬を惜しんでいるのではないのです。権威でもって強要されることが残念で、それで馬をやらなかったのです)  と言って、馬を宗盛のところに送った。  ところが、宗盛はミニ清盛のような男だから、 「さんざん出し惜しみをして、なまいきなヤツだ」  と言ったかどうかは別にして、馬に「仲綱」という焼印を押し、  人がくるとこの馬を引き出し、 「それ仲綱めに鞍を乗せろ」 「仲綱めを打て」  などとイヤがらせをやってのけた。  こんな話を聞けば、仲綱も頼政も黙ってはいない。  いや、  相手がいくら強大でも、黙っているわけにはいかないのである。  いまでも思い出す。  あれは、社内のマージャン大会のときだった。わたしは、二位か三位になった。景品は、女ものの手袋だ。  すると、ある部長が、やはり景品のレコードかなんか持ってきて、 「取り替えろ」  という。自分の女房かなんかにプレゼントしたいんだそうだ。  エラそうに、 「オマエは独身だろ? そんなもの、要らないはずだ」  と言いやがる。若いわたしには、これがカチンときた。恋人なんかいなかったけれど、 「恋人にやりますよ」と突っぱねた。意地だった。  以来、その部長は、このわたしを嫌い抜いた。わたしもまた、彼を嫌い抜いた。  それが、  武士というより、男なのである。仲綱も、そうだったにちがいない。そして頼政も。  こうして、生来もの静かな男が、反乱の首謀者となる。  というより、  事のなりゆきをみれば、宗盛がわざわざ反乱を起こさせた、  ということだろう。  バカな男である。  欲しい馬を手に入れたのだから、もういいじゃないか。  未熟な男でもある。  後年、壇ノ浦で捕えられ、頼朝の前に連れてこられた時、そのかしこまりかたがいかにも「みっともない」といって周囲から嘲笑されるのだが、そういう男である。  サラリーマン社会の敵対関係にも同じことがいえる。 「アイツが悪い」  といって敵意をむきだしにするのだが、その原因は案外、自分にあったりする。  というより、 「アイツのああいうところが気に入らない」という時、その気に入らない性格は、自分にもあるのだ。  自分にあって、ふだん 「ヤダナ」  と思って抑圧してしまっているものを、相手が堂々とぶら下げていたりするから頭にくるのである。  敵といい、  嫌なヤツといい、  たいがいは、自分自身がつくり出してしまったものであるということを、宗盛の話は伝えている。 [#改ページ]  競の活躍から、再度「裏切り」について考える。  源三位入道頼政が、一族郎党三百余騎を引き連れて、三井寺に入ったとき、競《きおう》という男だけが何を思ったのか一人残った。  そして、宗盛の配下になってしまった。 「ウラギリ」  である。  競は宗盛に対し自分が頼政を討ちとってやりたいが、「つきましては馬を一頭お貸しください」という。  よしよしといって宗盛が「煖廷《なんりよう》」という秘蔵の馬を貸してやると、そのまんま三井寺に逃げていってしまった。 「ウラギリ」  である。  いや、競は最初からそのつもりだったから誰も裏切ったことにはならない。  やがて、「煖廷」だけが宗盛のところに帰ってきた。 「むかしは煖廷、今は宗盛入道」  という焼印が押しつけてあった。  みごとに、宗盛の未熟さ、浅はかさをからかったわけで、程度の低いいじめをやれば、必ず同程度のおかえしが返ってくるという話だ。  三井寺に集結した反乱軍は、味方についた奈良の勢力と合流しようとして宇治平等院に入ったが、平家の大軍に襲われ、頼政も、宗盛をからかった競も戦死してしまった。  高倉宮も奈良に落ちのびる途中、討たれた。  この反乱は失敗に終わったが、それは来たるべき源氏蜂起の序曲だったのだ。  鹿谷では、多田蔵人の裏切りがあった。  競が裏切ったふりをしてきた時、それが宗盛の頭にあったはずである。  平家の威勢を前に、反乱など考えるほうがバカである。多田蔵人のように裏切ってこちら側にくる人間がいて当然なんだという——。  競はそういう「おごり」をたくみに利用したのである。  裏切り、  といえば、やはりサラリーマン時代の話だが、こんな経験がある。上司に、 「いずれは会社の幹部になるんだから、組合の仕事ぐらいやっておくように」  と言われ、書記長に立候補したら、スンナリ当選してしまったのだ。いわゆる御用組合だった。  書記長の次は、委員長だ。副委員長は飾りみたいなもんだから、一年後には委員長になるつもりでいたら、一年上の副委員長が先輩たちと一緒にやってきて、 「会社の意向なのだが、一期だけでも委員長をやらせてもらえまいか」  という。わたしの場合、そんなに急《せ》くこともなかろうと思い、 「ああ、いいよ」  と答えた。  ところが、そのころ、組合の青年婦人部を中心に、「御用組合から脱皮しよう」という動きがあり、まず手始めに副委員長の委員長昇格に反対の意向を表明した。組合人事まで牛耳ろうとした会社に対する反発もあったけれど、悲しいかな、副委員長にはあまりに人望がなかった。  しかし、青年婦人部の連中もズルい。あくまでもわたしを押すことで、それまでは会社側だったかも知れないわたしを、御用組合からの脱皮を図ろうとする人質にしたのだ。  そんな動きを察して、わたしは会社側に、 「選挙の結果、副委員長の昇格は潰れるかも知れないよ」  と告げた。が、会社や先輩たちはバカだから、わたしが委員長になりたいばっかりに、青年婦人部の連中を焚きつけていると思ったらしい。なんの手も打たずに、強引に選挙へもっていった。  結果は、わたしが委員長に選ばれ、副委員長は副委員長にも選ばれなかった。  以来、わたしは、会社側や組合の先輩たちから、 「裏切り者」  と呼ばれることになる。彼らは、わたしに裏切り者の烙印を押すことで、組合を徹底的に潰しにかかったのだ。わたしに言わせれば、わたしを裏切ったのは、わたしの忠告に耳を貸そうともしなかった会社側や先輩ではなかったか!  わたしは、いまでも釈然としていない。  もう一つ。  その委員長の時、べースアップの交渉で会社側と揉めた。  組合員は盛り上がって、ストも辞さない構えである。  社長とサシの交渉をやり、やっとのことで一二〇円の上積み額を引き出した。 「それでホコが収まるかね」 「大丈夫です」  若手には言いたいことを言わせるのがわたしのやり方だった。  そのかわり、 「年二回はオレの言うことを聞け」  そう言ってあった。 「だから、明日の交渉でわたしが『一二〇円出せ』と言い、会社がOKしたら、そくざに納得してくれ」と、青年婦人部長を呼んで、因果をふくめた。青年婦人部長も、それで納得した。  さて、翌日、正式交渉である。いろいろあって、 「あと一二〇円上積みしなさい。そうすれば組合員はわたしが責任をもって納得させますから」と言ったところ、 「いや、一五〇円出そう」  社長が青年婦人部長ら執行部の前でこう言ったのである。  組合員、とくに青年婦人部の連中と委員長との間に亀裂を生じさせようという社長の魂胆だった。  一五〇円出せるんだったら、最初からそう言えばいいじゃないか。それを前日は一二〇円しかどうしても出せないなんて言いやがって。  こっちからみれば、裏切られたのである。  これがあって、わたしは、もう社長を信じることができなくなった。  いちど裏切られた人間は、裏切った男を二度と信用しなくなる。わたしはイヤでも御用組合から脱皮したいという青年婦人部の連中の言うことに耳を傾けるようになっていった。  当然の話である。  そう、思いませんか。 [#改ページ]  福原遷都をみて、企業三十年説を考える。  都を福原に移すことが急に決まった。  都をあげての大引っ越しだから、都中大騒ぎである。  鳥羽殿に押し込められていた後白河法皇も福原に連れていかれ、板を張りめぐらした小屋のようなところに押し込められてしまった。  福原といえば、『源氏物語』の主人公、光源氏が流された須磨・明石のすぐそばである。  さて、  福原に移ってからというもの、清盛の夢見はあまりよくなかった。  変なユメばかり見ていた。  何か変なことが起こらなければよいが、  そう人びとは噂し合った。  源中納言雅頼卿という人に仕えている一人の若侍が見たユメも変だった。  内裏の神祇官とおぼしき所に、束帯《そくたい》ただしき上臈たちのあまた並みゐて、議定の様なることのありけるに、末座《ばつざ》なる人の、平家の方人《かたうど》するかとおぼしきを、その中より追つたてらる。かの青侍、夢のうちなれば、「いかなる上臈にてましますやらん」と、ある老翁に問ひたてまつれば、「厳島の大明神」と答へ給ふ。そののち、座上にけだかげなる老翁のおはしけるが、「この日ごろ平家にあづけつる節刀をば、今は伊豆国の流人頼朝に賜《た》ぶ」と仰せければ、また、かたはらに宿老のましましけるが、「そののちはわが孫にも賜び候へ」と仰せらるるといふ夢を見て、次第に問ひたてまつるに、「『節刀を頼朝に賜ぶ』と仰せられつるは八幡大菩薩、『そののちわが孫にも』と仰せられしは、春日大明神、かう申すは武内大明神」と答へらる。 (えらい人がおおぜい会議をしていたが、平家の味方らしい人が席から追いたてられてしまった。そして出征の折に天皇が将軍にあげる節刀を「平家よりとりあげて頼朝にあげよう」と一人の老人がいうと、もう一人の老人が、「そのあとはわたしの孫に」といった。  最初追われた人は、平家の守り神の厳島大明神、 「頼朝に」といったのは八幡大菩薩。源氏の守り神である。 「わが孫に」といったのは春日大明神。摂関家の守り神である)  このユメの噂が伝わると、清盛は若侍を連れてこいといったが、若侍は逃げてしまった。  高野に住む宰相入道成頼という人が、このユメの話を聞いて、 「平家が滅びるというのはわかる。  そのあと源氏の世になり、源氏が滅びると、藤原一族の子息が天下の将軍になるのだろうか。  うーん、フシギじゃ  世も末じゃ」  と言ったという。  ここを読んで、専門家は、源氏三代のあと藤原将軍が立つ史実からみて、『平家物語』の成立は、それ以降のことになると解釈しているが、この本は専門書や参考書とちがって、あくまでも『平家物語の知恵』だから、もっと主観的に読んだ感じ[#「感じ」に傍点]についてふれていきたい。  清盛健在の頃に、源氏勃興と没落、藤原の台頭がユメとして語られていることが面白い。  万物流転、  この世の中に不変のものなどありえないのだ。  平家も、  源氏も、  藤原も、  この流転する時の中で一時《ひととき》回っては倒れるコマでしかない。  この世でいちばん確かなものは、万物流転であって、それがこの物語のメインテーマである。  それを若侍のユメというかたちを通して、(作者は)語っているのであろう。 「企業三十年説」  というのがある。  どんな企業にも、勃興・隆盛・衰退の波があるし、また業種別に見ても、一業種の全盛期は三十年で別の業種に移る、というものである。  コマが回り続けるには限度がある。  だから、一つのコマにばかりしがみついていてはダメだ、と。  一つが寿命になったらつぎに移り、それもダメになったら別のコマに乗り移れ、と。  いま、多くの企業が目指している経営の多角化とは、そういうことだろう。  運があれば、必ず不運もある。  一つの不運を嘆いているヒマがあったら、別の運をつかめ。  これが、  サラリーマンとしての、  正しい『平家物語』の読み方ではあるまいか。 [#改ページ]  頼朝の伊豆配流生活から、左遷について考える。  源頼朝——  平治の乱での源氏敗戦当時は十四歳。ふつうなら斬られるところを清盛の継母・池禅尼のはからいで伊豆に流される。  以来二十余年。  すでに三十歳を越している。その頼朝に「主は、天下をとる顔だ」といって、決起をうながしたのは文覚上人である。  当時、  奥州に逃がれた弟・義経が来たる日[#「来たる日」に傍点]にそなえて体を鍛え、武術を練っていたのにくらべると、頼朝は仏教の経典を読んでいるだけだった。  当然、監視下に置かれているから、それぐらいのことしかできない。  だが、  何もやっていなかったといえば、これはウソだ。  頼朝は配流生活の中でやるべきことはやっていた。  女である。  忠臣蔵では大石内蔵助が吉良をあざむくため女遊びにうつつをぬかすが、それとは別の意味で頼朝は北条政子との関係を深めていった。  三十代の男が女に夢中になっているうちは監視の目もゆるむ。  北条政子に接近することで、頼朝は、 ・情報収集 ・北条氏を味方にする  この二つをうまくやっていたのだ。情報収集でいえば、頼朝はもっと凄い�アンテナ�を京に持っていた。三善康信という宮廷の下級官吏である。この男の母親は頼朝の乳母で、そのよしみがあって、月に一度、都の情勢を手紙に書いて頼朝の元へ送っていたのである。その頻度たるや現代ビジネスマンも顔負けではないか。  言っちゃナンだが、  わたしも配流——じゃない、左遷されたことがある。  窓際族として悶々の日々である。  仕事もないのに机に坐っていなければならないというのは辛い話だ。  さらしものである。  アホらしいといってどこかへ行ってしまえば、イザ呼び出しでもかかったらおおごとだ。  まるで反省していない(なにを!?)、ということで、もっと冷遇されてしまう。  だからといって、  することもなく一日中坐っていたら、なおつらい。  そこで、社内のOLたちと仲良くすることにした。  女性というのは、左遷されたり、たいした理由もなく窓際に追いやられたりした人間に対しては、わりと同情心を持つもので、こっちに下心がなければすぐ仲良くなれる。  そして近くのOLに、 「ちょっと出かけてくるけれど、何かあったらここに電話かけて」  と、メモを渡すのである。  イザとなったら連絡がくるから、安心して外の空気が吸えた。  銀座に出かけてはクツを磨いてもらったものである。  社内のOLと仲良くなって、もう一つトクしたことがある。  なにしろ窓際族の身、  社内情報が全然入ってこないのである。  ところが、OLというのは社内を流れる血液のような役どころだから、聞きかじりの情報をいっぱい持っている。  そういう話から、いま会社が何を考え、何をやろうとしているかが、だいたい推測できた。  北条氏のほうも頼朝の接近によって、たぶん、一つの決断を迫られたはずである。  平家ににらまれるだろうし、頼朝が決起したら、一緒に立たなければならない。  うまくいけば源氏再興の功労者だが、失敗すれば首がとぶ。  のるかそるかのカケである。  北条はそのカケに乗った。  そして、勝った。  だが、それは後年の話である。 「生涯一捕手」の野村克也が大親分・鶴岡によって南海から石もて追われた時の話を思い出した。  原因は、女性と一緒に選手送迎バスに乗ったとか乗らないとか、そういうたぐいの話だった。その女性とは、今の奥さんなのだが。  鶴岡が、 「オマエ、野球が大事か? 女が大事か?」  と詰めよったところ、 「女が大事です」  そういって野村は南海を去った。  後日談だが、 「オレが南海を追われたのは野球がヘタで追われたのではない。野球以外のことで追われたんだ。野球で追われたのならオレにとって致命傷だが、野球については誰も何も文句を言っていない」  と野村は胸を張ったという。  その野村をひろったのがロッテの金田正一だった。  当時、野球界には二人のドンがいた。  西の鶴岡、  東の川上、  である。  鶴岡に遠慮してどこも野村をとらなかった。川上も動かなかった。  こんな中であえて火中のクリをひろったのが金田であった。  それで金田は男をあげた。  頼朝を救いあげた北条とくらぶべくもないが、左遷されている人間に情もかけられなくなったら、心わびしい話だ。  北条も金田も情のある男である。  ところで諸君——きみは、社内でツマはじきにされている男の味方になることができますか? [#改ページ]  文覚上人の行動力をみて、自分を信じることについて考える。  頼朝は、清盛に殺されるところを池禅尼によって助けられた。  その恩にむくいるために、配所ではずっと法華経を読んでいた。  波乱は三十過ぎにやってきた。  きっかけをつくったのが文覚《もんがく》上人である。  文覚が頼朝のところにあらわれたのが、頼朝にとって人生の転機、チャンスだった。  頼朝がごく平凡な男で、伊豆は暮らしやすい場所だから、「仏教三昧で、あとは何もいらないや」なんて思っていたら、そのチャンスをものにすることはできなかったはずである。  サラリーマンも同じだ。  せっかくチャンスが目の前にあるのに、それと気づかずに見逃がしてしまう人がいる。  エレベーターの中で社長と一緒になることだって、なにかのチャンスかも知れないのだ。  左遷されて、いつまでもグズグズ文句ばっかり言ってダメになっていく人間もいれば、チャンス到来とばかり、なにかの資格をとったり、勉強しなおして、その後の人生の契機にしてしまう人間もいる。  ことわっておくが、  チャンスは誰にもある。  それを活かせるか、活かせないかが問題なのだ。  そのためには、  主義主張曲げて職場に長くいる、ぐらいの虎視たんたんとした心構えが必要であろう。    いや、そんなに大げさなことではないかも知れない。  向こうからやって来たチャンスを逃がさないだけの話なのだから。  女性連れの課長とバッタリ会う、なんてのもチャンスかも知れないよ。  学生時代の話だけれども、  体育の時間、フェンシングをとっていた。  やりたくなかったんだが、それしかなかったもので。  ところが、授業のはじまりが午前八時。横浜から早稲田まで通うには、ちょっときつい時間だった。そこで、  ついつい遅刻したり、欠席がふえたりして、単位はほとんど諦めていた。  すると、「いつも遅刻で、ダメじゃないか」と、体育の助手に叱られた。「しかし、そんなことを言ったって、横浜からこんな朝早く来られますか」そう言ったら、助手のやつ、「なに言ってんだ! オレは鎌倉から通っているんだぞ」  そんなある日、たまたま出席した時のことである。くだんの助手が「やあ」なんて、なれなれしく声をかけてくる。 「この間は失礼しちゃって」  何のことか全然わからなかったけれど、調子を合わせて、 「いやいや、どういたしまして」  と言ったら、 「アレ、妹なんだよ」  だって。  それで事態がのみ込めた。  奴さん、女連れで歩いているところを、このわたしに見られたと勘違いしているのだ。   こっちに全然その記憶がないのだから、助手が誰かとわたしを間違えているにちがいない。 「出席簿なんとかしておくからな」助手は遅刻も欠席も出席簿から消してくれちゃった。しかも、それからしばらくしてテストの日——。  テストといっても実技で、助手と試合をするのである。  こりゃまいった、と思ったのだが、いざ始まると助手がチラチラとスキをつくってくれるので、なんとなくキマル。おかげで合格である。  もちろん、欠席はいつの間にか出席になっているし……。  おかげで、わたしは、体育、それもフェンシングの単位をみごとにとってしまった。  思えばアノ時、  そう、助手に声をかけられたアノ時、 「エーッ? 人ちがいですよ」  と言ってしまったら、絶対とることのできなかった単位である。  このように、チャンスなど、いつどんなふうにめぐってくるかわからないようなものだから、活かすも殺すも自分次第というわけだ。  頼朝の政子への接近は、そういう意味でも左遷された時の過ごし方としては、合格点である。  さて、  頼朝決起のきっかけをつくった文覚上人だか、この人がエネルギッシュで、人を食った男だった。  文覚上人も頼朝同様、伊豆に流されてきたのだが、その理由がふるっている。 �自分が修行した高雄の神護寺という貧乏寺に荘園を寄進しろ�  と、法皇が詩歌を朗詠しているところに飛び込んでいったというのだから。  殺されなかっただけでも運がよかったのかも知れない。  殺されるかわりに伊豆に流された。それが、源氏再興の引きがねになったんだから因縁とは面白い。  配所で頼朝に会った文覚上人は、しきりに頼朝に謀反をすすめる。  その発言がトリッキー、やることもトリッキーだった。 「『天の与ふるを取らざれば、かへつてそのわざはひを受く。時至つておこなはざれば、かへつてその咎《とが》を受く』という本文あり。かう申せば、『心を見んとて申すらん』と思ひ給はんか。御辺に心ざし深かりしを見給ふべし」とて、白い布にてつつみたる髑髏《どくろ》を一つ取り出す。兵衛佐「あれはいかに」とのたまへば、「これこそわどのの父|左馬頭殿《さまのかみどの》の頭《こうべ》よ。平治の合戦ののちは獄舎の苔のしたにうづもれて、後世とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨ありて、獄守《ごくもり》に請ひて、この十余年頸にかけて、山々寺々拝みめぐり、とぶらひたてまつれば、いま一劫も助かり給ひぬらん。されば文覚は故|頭殿《こうのとの》の御ためにも、奉公の者にてこそ候へ」と申しければ、兵衛佐、一定それとはおぼえねども、父の頭と聞くがなつかしさに、まづ涙をぞ流されける。  早い話が、文覚は、 「チャンスがめぐってきているのに、何もしなければそれは罪である。第一、わたしは思いつきでこんなことを言っているのではない。それが証拠に」  ——といってドクロをとりだし、 「これは頼朝の父、平治の乱で平家に殺された義朝のクビである。それをずっとわたしが守ってきた」  というのである。もちろん、大ウソだ。  頼朝は信じはしなかったが、父の首と聞けばなつかしくなって思わず涙を流す。  いやあ、文覚上人は、たいしたもんだ。  しかし、頼朝にすれば、いまは配流の身、朝廷のお許しがないかぎり反乱などとんでもない、という心境である。すると文覚は、 「そういうことなら、自分が京に行って朝廷の許しをもらってくる」という。 (バカか、こいつは)  というのが、そのときの頼朝の正直な気持ちだったと思う。  自分だって流されている身なのに、その文覚が都にのぼって他人の許しをもらってくるというのだから。  頼朝が苦笑すると、文覚はついと消えてしまった。  都にのぼったのである。  で、  どうなったか。  結果は——といえば、 「平氏一族を討伐せよ」  という院宣をほんとうに持って帰ったのだから、驚く。  文覚上人という男、食えない男である。  そして、自分で文覚を流罪にしておきながら、その文覚のいうままに院宣を下した後白河法皇は、もっと食えない男だろう。  文覚はまた小気味のよい男である。  その小気味のよさは、  文覚が自分を信じ切れる男であるところから来ている。  自分を信じる。  これは能力である。誰にもあるようで実はないのが、この能力である。  頼朝に嘲笑された時、ふつうの感覚だったら、「そうだよな、頼朝のいうとおりだよな」と誰だって思うに決まっている。  自分を一二〇パーセント信じ切れる男に、たぶん不可能はないだろう。  頼朝は、その文覚の自信が触媒となって、 「打倒平家」  に立ち上がった。  化学では、ある物質に他の物質が触れることによって起こる化学変化を触媒という。  男が女に出会うことによって変わることもあれば、その逆もある。  触媒効果をまったく経験してないということは、人生が変わりようがないということである。  変わりようのない人生なんてつまらない、と思うのだが、どうだろうか。  ともあれ、大器晩成型の頼朝は、文覚によって�化学変化�を起こした。 [#改ページ]  平家敗走をみて、サラリーマンの禄について考えた。  平家・源氏両軍の主力がはじめて対峙したのが、静岡県の富士川である。  平家七万余騎。  源氏二十万余騎。  平家が劣っていたのは、数だけではない。  驕れる平家軍は日頃の訓練を怠っているし、都暮らしが長いせいか、カッコばかりはきらびやかだが、まるで気合いが入っていない。  一方、源氏側は、平家方の斎藤別当実盛の弁をかりると、 「馬に乗れば落ちることはなく、  戦場に出れば親の死、子どもの死をのりこえて戦う」 「西国の戦いは、親が討たれれば退いて仏事供養して忌があけてから戦うし、子が討たれれば嘆いて戦わない、夏は暑いし冬は寒いといって戦うのをきらう。そういうのとは大ちがいだ」  ということである。  この話を聞いただけで、平家軍は震えあがってしまった。 「備えあれば憂いなし」  というが、日頃の鍛練が欠けていると、まず気持ちの張りが出てこない。  勝敗というのは、この気持ちの張りが大きく左右する。  サラリーマンも同じだが、ことの成否を決めるのは実力だけではない。  実力の関数としての「気持ちの張り」を考えないといけない。「気持ちの張り」とはヤル気のことである。 [#1字下げ]実力×ヤル気=[#「実力×ヤル気=」はゴシック体]  の計算で出た力がホントウの実力であって、よく国際的なスポーツ競技で、日本選手のいう、「実力はあるのに」という言いわけは、ウソである。もともと平家側は、実力に輪をかけて気合い負けしていたのだ。そのせいで、遊女にも笑われるほどの大失敗を犯してしまう。  夜半。  富士の沼にいた無数の水鳥が突然飛び上がった。  その羽音を源氏の夜襲と勘違いし、平家の将兵がわれ先に逃げだした。  あわてふためいて、遅れた仲間を踏み殺していったというのだから、かなりみっともない。  サラリーマンの世界にも、勝ちパターンと負けパターンがある。勝ちパターンの人はいつでも勝つし、負けパターンの人はいつでも負ける。  負けパターンとは、 「どうせできっこない」  とか、 「わが社では無理だ」  というやつである。  平家もこのパターンにとらわれ、都を離れれば離れるほど気持ちが萎えて、全軍戦わずして潰走という、まれにみる大失敗をやらかしている。  あまりのだらしなさに、宿場宿場の遊女たちが、  ひらやなるむねもりいかに騒ぐらん     柱と頼むすけを落として  富士川の瀬々《せぜ》の岩越す水よりも     はやくも落つる伊勢平氏かな  などといってバカにしたらしい。 「ひらや」は平家、 「むねもり」は、棟守《むねも》りならぬ平家の総大将宗盛、 「すけ」は追討軍の大将の権亮少将惟盛のことである。  みっともない帰還であった。  なのに、どういうわけか惟盛は、右近衛中将に昇進した。  武士が忠誠心で戦さに出るのはずっとあとの話で、当時はみな恩賞が目当てであった。  恩賞とは、具体的に土地のことである。そして、恩賞が出なければ、次の戦さには出てこないし、敵方につくこともしばしばだった。  会社だって同じことである。  サラリーマンは禄をもらうために会社に来て仕事をしているのだ。  その禄で家族を養う。  だから、禄は多いほどよい。  当然のことである。  したがって、会社は従業員の功績には、まず禄で報いるべきである。  感謝状とか地位をあげるとかいうのは、その次でよい。  ところが、会社というのは元来ケチだから、できれば禄を出さないで済ませることばかり考えている。  名誉とか役職の問題でごまかそうとするのだ。ヘタに役についたりすると残業代はつかないし、部下の慰労などでとんでもない出費となる。  もし会社が地位や役職で報いようとするなら、その役職に格段の手当てをつけるべきである。一つランクがちがうとこんなにも給料がちがってくるというぐらいの差をつけるべきなのである。  新聞社時代の話だが、  特ダネ記事を書いた。  まあ、お手柄である。 「よくやってくれた」  と上司もホメてくれた。 「で、何が欲しいか」と。  そこで、 「基本給を百円上げて欲しい」  と言ったことがある。  百円上がるとボーナスなんかでも年に千五百円ぐらいの差が出てくる。  会社側は、 「何が欲しい?」  なんて聞いてみたものの、感謝状一枚ぐらいで済ませるつもりでいたらしく、 「キミの希望には応じられない」  と言う。 「それはオカシイ」  と言った。そしたら、 「商人の子どもはすぐカネにこだわる」  だって。わたしの生家が「金物屋」であることを知っているのである。 「こだわっているのは、そっちじゃネェか」  もうケンカ腰である。  ほんと、  会社を何だと思っていやがるんだ、  会社ってのはネ、  そこで仕事をして、ちゃんとオカネをもらって家族を養う人間に……  と、ここまで書いて、会社にも一理はあるなって思いだした。  肩書きをめったやたらに欲しがるサラリーマンが大勢いるのである。  中には給料が減っても肩書きが欲しいという人もいる。  本人だけではなく、いや、本人よりはるかに強く夫の地位、肩書きにこだわる妻もいる。  某一流企業の某課長が、いろいろ悩んだ末、会社をやめたいと言いだしたら、その妻が、 「娘の結婚も、息子の就職も、一流企業の課長の娘であり、息子であることで成り立つんだから、会社をやめるなんてとんでもない話です。全部片づくまで許しません」  と言ったという。  いやはや、  である。  夫の人生ってのもあるんだが……ナ。  ある会社の重役が定年を迎え、それ以後は嘱託の身分となった。  給料は下がるし、いままであった車の送迎もなくなった。  そうしたら、この人は「給料はいらないから車の送迎だけはなくさないでくれ」って会社に頼んだという。  近所に対するミエである。  ことほど左様に、人は確かにカネだけでは動かない。人は義のために死すというが、義のためにも生きる。ついでにメンツや肩書きも、会社に勤めることの重要な動機となってくる。  でも、  やっぱり  基本は禄だよね。  明治維新の功労者、西郷隆盛だって、国がケチで功労に報いるのに位だけでお茶を濁そうとしたから、 「そんなものいらない」  と反乱を起こしたのである。  全軍潰走の責任者、惟盛の昇進は、よくわからない。  おかしい。  そんなこと考えているうちに、労に報いるのに禄と肩書き、どっちが大きいのだろうか——と考えてしまった。  さて、  あなただったらどっちをとるだろうか。 [#改ページ]  重衡をみて、長たるものの責任のとり方を考える。  清盛が福原遷都を実行したのは、奈良(南都)や叡山の僧徒がなにかにつけて神輿や神木をかついで都に押しよせてくるのをうるさいと思ったからだ。  当時、仏教は一大勢力であった。  だが、福原はなにかと不便すぎた。  そこで、もう一回、京にもどることになった。  権力者の気まぐれに都中の人が振り回されたのである。  さて、  源三位入道頼政の反乱の際、南都(奈良)の僧徒がこれに味方しようとした。それ以来、平家と南都はうまくいっていない。  ついに争乱である。  平家は頭中将重衡を大将に四万余騎で奈良に攻め寄せ、夜戦となった。  戦いの最中、重衡が、 「火をかけて明りをとれ」  と言ったところ、部下が民家に火をつけた。  折からの強風で、火はアッという間に燃え広がり、とうとう東大寺、興福寺まで燃えてしまった。  大仏殿には千人もの人が戦いを逃がれて隠れていたが、全員焼け死んだ。  後日、  平家が源氏に負けて、重衡が捕えられたとき、奈良炎上の罪を問われた。  重衡は、 [#1字下げ]葉末の露も本は幹の雫とされるから、部下のやったことは大将たるわたし一人の責任に帰せられよう[#「葉末の露も本は幹の雫とされるから、部下のやったことは大将たるわたし一人の責任に帰せられよう」はゴシック体]  と、その罪を認めた。  サラリーマンが、地位、肩書きに魅力を感じるのはけっこうなことだが、長たるものの基本は、その責任のとり方にある。  サラリーマンをやめて嬉しかったのは、何年もたったのに、後輩に会うと、 「どうもお世話になりました。あのとき、あなたがわたしをかばってくれたから……」  と言ってくれることであった。  なにをしたのかまるっきり覚えていないが、こういうのって嬉しい。オッチョコチョイなわたしのことだから、部下の失敗をひっかぶってやったのだろう。  人の上に立てば、部下の失敗は長たるものの責任でもある。  それに自分が何もしていないのに、「責任はオマエにある」といわれるのはおもしろくないから、なんでもスタッフと一緒にやることにしていた。それがきっと「お世話になりました」と今でも言われる原因だと思う。  高松宮がおなくなりになった時、大阪の某新聞が写真を間違えて掲載してしまった。  責任者として編集局長が左遷された。わたしの、年長の友人である。  写真を間違えたとき、その人は社用で東京にいた。だから、ミスに直接には何も関わってない。 「でも、責任は自分にあるから部下を責めないで欲しい」  といって、彼は職を去った。その人から手紙がきて、 「これからしばらくは充電期間です」  とあった。半年後、東京本社に編集担当重役としてカムバックした。  この人が部下を引きつけているコツはこれだな、と思った。  会社において、リーダーの資質とスタッフの資質はおのずからちがってくる。  スタッフの時は、  一に能力  二に人柄  である。これがリーダーになると、  一に人柄  二に能力  となる。  人柄でもって部下の能力を導いていくのが、リーダーのつとめである。 「あの人のためだったらがんばろう」  とスタッフに思わせることが大切なのである。  スタッフが一生懸命やって失敗してしまったら「オレの責任だ」と言って出ていけることが大切なのである。 「アレは、他人のやったことなのに、なんでオレが責められなければならないんだ」  と思う人間は人の上に立てない。  重衡は責任のとり方を知っている男だった。  その責任によって、源氏方より奈良に身柄をうつされ、そこで首を斬られた。斬られても、名が残った。 [#改ページ]  高倉天皇をみて、現代政治家のレベルを考えた。  責任のとり方といえば、こんなとり方もある。  後白河法皇の子ども、高倉天皇のエピソードである。  ある晩、遠くで人の叫び声が聞こえたので、高倉天皇が人をやって見にいかせると、辻で少女が泣き叫んでいた。  わけを聞くと、主人の女房のところに御装束を持っていくところだったのだが、見ず知らずの男に襲われ、奪われてしまったというのだ。  これを聞いた天皇は、 「世の中が乱れ、犯罪が起こるのは、自分が悪いせいだ」  と、奪われた装束と同じような装束を少女に与えた。  天下を治めるものとしての責任のとり方、人の上に立つもののやさしさがにじみ出たはからいであった。  だから、といって、現代の政治家・指導者の私腹のこやしっぷりを嘆いてみせるのも一つの論法だが、あまりにもイージーすぎるからそれはやらない。  それにしても、 「現代の政治家の胸クソの悪さよ」  である。 [#改ページ]  清盛の死をみて、日本の経済を考える。  頼朝に続いて、北陸で木曽義仲が旗上げした。  義仲は政治にはうとい男で、 「一日も早く平家を攻め落とし、頼朝とならんで日本国の二人の将軍と呼ばれたいものだ」  などと呑気なことを言っている。  東国・北国の源氏が立つと、四国・九州方面にも源氏に加担するものがあらわれた。  平家、四面楚歌のきざしである。  こんな最中に清盛がこの世を去った。  病死。  六十四歳。  都の人びとは「悪業のむくい」と囁き合った。  歴史の歯車がゴットンと動いた。  そして、物語もここで大きな転位を迎える。  驕れる平氏のドンの死によって「悪業のむくい」は、一族全体におおいかぶさってくる。  まさしくこの世は、万物流転なのである。  最初の合戦が尾張・木曽川でおこなわれた。  源氏六千余騎、  平家三万余騎、  源氏は川を押し渡って戦い、さんざんな目に合った。 [#1字下げ]水沢をうしろにすることなかれ[#「水沢をうしろにすることなかれ」はゴシック体]  という兵法の基本を無視した愚かな戦法だったと、世間から酷評された。  にもかかわらず、時の流れは大きく源氏に傾きつつあった。  源氏が勝ちパターンに、平家が敗けパターンに入ったということである。  企業の隆盛、  流行、  アイドルの人気、  あるいは、  世界経済の主役、  どれをとってもはやりすたりは世のならい、万物は流転するのである。  貿易摩擦の背景に、世界に冠たる日本の「驕り」があるとすれば、今こそ『平家物語』は日本人によってしっかり読まれなければならないものなのかもしれない——  ナーンチャッテ。 [#改ページ]   第二章 義仲・頼朝の旗上げ    激動期の行動力について [#改ページ]  義仲の戦術を読んで、状況適応力について考えた。  木曽義仲追討に向かった平家の四万騎が、義仲の軍勢三千に敗れ去ってしまった。  義仲が三千の兵を七つに分け、それぞれに赤旗を持たせ、平家の陣地に接近させると、    平家方は、 「ここにも味方がいた」  といって、まるで警戒心がない。頃合いをみはからって、いっせいに白旗をかかげると、平家側はすっかりうろたえ、敗走してしまう。  いやはやみっともない話だが、味方の軍勢の敗戦の報にもかかわらず、都の平氏は、はでな行事にうき身をやつしているのだった。  退廃、とはこのような状態をいうのではないだろうか。  あえていえば、 「地方の出来事なんて全然興味ないよ、たとえそれが自軍の敗戦であってもネ」  という、都の貴族階級特有の鈍感さと同じ毒が平家の公達にも回っているのである。  長い間の権力の座、そして都の豪奢な生活の中ですっかり精神がただれ、武門としての状況適応力が失われていたのであろう。  それにしても、わずか三千の兵で四万の大軍を破った義仲の作戦はみごとだ。  状況適応力のすごさである。  それで思い出したのだけれど、  サラリーマン時代、 「おまえの顔が気に喰わない」  という理由で企画を通してもらえなかった話は前にも書いたが、  例によって、企画会議の席上、  わたしの企画にイチャモンがついた。  居ならぶ上司たちは、おまえの企画なんて絶対通すもんか、  といった顔をして坐っている。「ここは是が非でも」と突破口を探すのだが、妙案もなく、「ハテ弱った」と思った時、外から電話がかかってきた。  友人の生島治郎からである。  もちろん上司は、わたしの相手が生島だということなんて知らない。  パッとひらめいたわたしは、みんなの前で最大限の敬語で生島相手に電話でしゃべり、「ハイ」「ハイ」といいながら頭をかいたりした。  そして、電話を置き、神妙な顔をして席にもどったのである。  ただならぬ気配に、  部長が、 「誰からだ?」と聞く。  待ってました。  わたしは即座にこう答えたのだった。 「社長からです。例の件、いつまでモタモタやってるんだって」  これで上司たちは察するものがあったらしく、わたしの企画はすんなり通ってしまった。  生島治郎様々である。  何がなんだかわからず、「青木のヤツ、どうかしちゃったのかな」などと言いながら受話器を置いたにちがいないのだから。  もう一つ。 「仕事をサボって公営ギャンブルに行ったとしよう」  と言ったのは、評論家の秋田誠一郎さんである。  そこで同じ会社の人間に会ったらどうするか? まあ、おたがいに知らん顔をして通りすぎる、目を伏せて相手に気がつかれないようにする、まったく関係のない人間であるかのような素振りをみせる。  ——といったところが考えられる。  ところが、 「そういう時は、こちらのほうから堂々と声をかけるほうがいい」  と、秋田さんは言う。秋田さんに言わせると、 「人間関係というものはフシギなもので、そういう場所で声をかけられると、かけらけた側は、ふと自分だけがうしろめたいことをしているような気になってしまうものだ」  という。サボっている点は同じなのに、自分だけがサボっているような気になってしまうのである。 「機先を制する」というやつだ。  アレもコレも、広い意味での状況適応力ではないだろうか。  義仲の戦術を読んで、ふとそう思った。 [#改ページ]  頼朝の義仲追討軍派遣をみて、「猜疑心」について考えた。  その義仲のところへ、  寿永二年のことだが、  頼朝が突然追討軍六万余騎を送った。  同志討ちである。  義仲にしてみれば、何が何だかわからない。  そこで、頼朝のところへ使いを出した。 「いったい理由は何だ?」  と、 「仲たがいなどしたら、平家の笑い者になるじゃないか」  と。  あたり前の感覚である。  それに対する頼朝の返事は、 「頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ」 (頼朝を討とうとする謀反のくわだてがあると知らせたものがある)  こういうのである。戦乱の世とはいいながら、頼朝は他人を信じていないのだ。誰それが告げたと具体的な名前をあげていないところがうさんくさい。  このアクシデントは、義仲が人質として清水冠者義重という十一歳の嫡子を送ることでケリがつくのだが、頼朝の「猜疑心」という物語後半の低音部が顔を出した。  人と人のいさかい。  その原因としての「猜疑心」。  頼朝は疑い深い権力者の典型として、狂暴な権力者の典型としての清盛と対極をなしているのである。  これも、新聞記者時代の話だ。  同期の桜(?)が病いを得て、入院した。これが、ちょっと長びいた。  編集局長がわたしに、「見舞いにいってこい」という。  それだけならいいのだが、 「できたら、医者に会ってカルテもみせてもらってこい」  という。たまたま人事異動を控えていたので、そのへんのことを考慮したかったらしい。 「冗談じゃない」  と、わたしは答えた。人間として、そんな友人を売るようなことができるか。それに、医師がカルテなど他人にみせてくれるものか。 「そんなことぐらい聞き出せなくて、オマエは新聞記者か!」  編集局長には怒鳴られたが、わたしに友人を売るつもりはなかった。わたしは、ただ友人を見舞った。  しかし、そこで、心ないことを仕出かした。意外に元気そうだった友人に、「これこれこういうことがあるから、一日も早く退院しろよ」  と伝えたのである。  ところが、友人は、わたしが編集局長の命令に従って、「カルテをみていった」と信じてしまったのだ。疑心暗鬼、猜疑心からである。  以後、ことごとに、彼はこのわたしを嫌うようになる。なんの意味もなく、わたしを遠ざける。  わたしに言わせれば、編集局長には、彼とわたしの友情にヒビを入れさせようとする意図があったように思えてならない。それは、彼の「猜疑心」によって、バッチリ達成(?)されるのである。 [#改ページ]  倶利伽羅峠の戦いをみて、人の心理を読むことについて考える。  義仲の戦術における勘は、地形にくわしいことと、人間の心理を読めることの二つから来ているようだ。彼は冴えている男なのである。  倶利伽羅峠の勝利も、地の利と敵の心理を読むことによって得られた。  実際におこなわれた戦闘は、義仲の「読み」をあとづけたものにすぎない。  義仲の「読み」とは、  平家は大軍なので、広い原で戦いをいどんでくるだろう。そうなっては叶わないから、まず騎馬の先兵に白旗を持たせていけば、それを見た平家は、源氏も大軍らしいからヘタに広野に出たら危い、と思うだろう。そうして、それよりもここは四方山に囲まれているから安全だ——と、山中にとどまるにちがいない。山中の戦いならば無勢でも十分勝てる、というものであった。  実際、源氏の先兵を見て、平家はそのように考え、山中にとどまった。  そして夜。  平家の陣営に迫った源氏方がいっせいに鬨《とき》の声をあげると、敵襲に驚いた平家の七万騎は、われさきに倶利伽羅峠のほうへ逃げ出した。  行先は谷である。  七万の軍勢はあらかた谷底に落ちて死んでしまった。  闇夜のパニック。  群衆心理の危うさを知りつくした義仲の戦術である。  平家にしてみれば、富士川の二の舞いで、こうなるとシロウトとクロウトが戦っているようなものだ。  このくらい人の心理を読むのが、うまい男だから、頼朝の猜疑心に対しても、それを解くための反応は早かった。  頼朝はといえば、人の心理を読むというより疑うばかりであった。  会社でもそうである。  猜疑心の強い上司には、まず部下はついてこない。  どうせ信頼されていないのだから、と思うからだ。  そして事実、信頼していないのだから。  ナマイキなようだけれど、人間なんてオッチョコチョイなもんだ。自分が信頼されていると思うだけで、いい気持ちになってくる。おおげさに言えば、その人のために死んでもいいぐらいに思っちゃう。  しかし、その逆はどうだ?  信頼されていないと思ったら、トコトン面白くない。わたしに言わせれば、かりに部下を信頼していなくても、そんなこと、部下に悟られてしまうようでは、ダメだ。  正直な話、それだけで長たるものの資格はない。  人間だから、信頼できないということもあるだろう。それは、仕方がない。が、そいつを相手に悟らせないようにすること。  それが大切である。 [#改ページ]  実盛の戦死を読んで、ダンディズムについて考えた。  この戦いで、平家方に加わっていた斎藤別当実盛が死んだ。  討ちとられた首を見て、義仲は、 「斎藤別当だ」  と思ったが、昔会った実盛は白髪の老人であったのに、この首は黒髪である。 「おかしい」  そう思って実盛の親友だった樋口次郎にみせたところ、 「たしかに斎藤別当だ」という。そして、こう語ったのである。  わたしが斎藤別当に会ったとき、いつも聞かされていたのは、 「実盛、六十にあまつて軍《いくさ》の場《ば》に向かはんには、鬢、鬚を墨《すみ》に染めて若やがんと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大人げなし。また老武者とてあなどられんも口惜《くちお》しかるべし」 (齢とって戦場に向かう時は髪を黒く染めて若返ろうと思っている。白髪をふりたてて若武者と先陣を争うのもおとなげないし、また老武者と敵にあなどられるのも口惜しいから)  ということです。その通りにされていたとは——そういって涙を流した。  そこで首を洗ってみると、やっぱり白髪だった。  この話にはダンディズムがある。  敵に対しても、味方に対しても、武士としての礼儀をつくしている。そう思えるのだ。  ダンディズムで思い出したけれど、オシャレをすることがダンディズムであると勘違いしている若者がいる。  ダンディズムとは粋な生き方のことであって、オシャレのことではない。  ファッション雑誌のグラビアから抜け出してきたような若者がいる。  なるほど、衣装は高そうだ。  趣味だって悪くない。  だけどネ、  言っちゃナンだが、  この程度のオシャレは底が浅い。  知人の家を訪れる時は、必ずその家に着く前に靴下をはきかえる若者に出会った。  感心した。 「できる」と思った。  ついでながら、わたしも若い時からそうしている。人を不愉快な気分にさせないためにオシャレをする。  それが、ほんもののオシャレであり、ダンディズムなのだ。  斎藤別当が白髪を黒く染めたのは、たとえ仲間が先陣争いに勝っても、あるいは敵が自分を討ちとっても、 「年寄り相手ではしようがない」と相手に思わせないためである。そして、全力を出させるためである。  靴下を替えるのも、なんでもないことのようだが、一流のレベルで仕事をしたいという気持ちのあらわれである。  入社した時は誰も同じようなものだが、何年かたつと確実に差がついてくるのは、そういうダンディズムが身についたかつかないかの差である。  たとえば結婚すると男がダメになるのは、家計にしばられて満足な小遣いを持てないことによる。  イザというとき、身ゼニが切れない。「安月給だから、しようがないだろう」と言う。  そういう気持ちが、他人の家を訪れる時にもあらわれる。いちいち靴下をかえるのがめんどうになってしまうのだ。  人のふところについてとやかく言うつもりはないが、無理しても、ふだんから二、三千円は余分のカネを持つべきだ。  なにしろ、  サラリーマン社会、いつ何が起こるかわからないのだから。  その時に備えて、日頃からきっちり目配りしておくことがダンディズムなのである。  知人にオカネを借りに行くときだって、しょぼくれたカッコをしていけば、 「返してもらえるかな?」と相手が不安になる。ちゃんとした服を着ていけば安心して貸すことができる。それがダンディズムなのだよ。 「一つランクが上の靴をはきなさい」  サラリーマン時代の話だが、いつも磨いてもらっていた靴磨きのおばちゃんがこう言ったものだ。  ヒラは課長の、課長は部長の——といった具合に、手頃な靴より一つ上のランクの靴をはけ、というのである。  そうすると、相手が自分を見る目がちがってくるのである。  みてくれではない。そうすることによって、気分が一ランク上がる。張りが出てくるのである。相手だって、そのほうが張り合いがあるに決まっている。  相手に、いまオレとつき合っている男はなかなか「できる」と思わせるのが、生きていくうえの一つの極意なのではあるまいか。  靴で思い出した。  サラリーマンをやめてからしばらくして、京都の学校のPTAから講演の依頼があった。  PTA会長は某銀行の頭取の息子の細君で、その人が講演を終えて帰るわたしを仲間たちと一緒にゾロゾロ駅まで送ってきた。 「もういいですから」  というのに、ホームまでついてくる。しかも、 「グリーン車に乗るかどうか見てくるように言われていますので」  と言う。そこで、 「ボクは自由席です」  と言ったら、彼女、ちょっと意外な顔をした。  そして、 「じゃあ、靴をみせて」  と、言うのである。 「どうぞ、どうぞ」  まったく偶然だったが、  そのとき、わたしは、舶来の靴をはいていた。それをみて、 「うわあ、靴はグリーン車やわあ」  彼女ら、安心したような顔をして、帰って行ったのである。  世間とは、  ことほど左様に、外見で人を見るものなのだ。  倶利伽羅峠の敗北とそれに続く志保山の戦いの敗北で、平家の勢力はいちじるしく弱まってしまった。  十万余騎で出発しながら、帰ってきたのは二万余騎。  都の人びとは、 「流れを尽くして漁る時は、多くの魚を得るといへども、明日に魚なし」  すこしは都に軍勢を残しておけばよかったのに、と言い合ったという。 [#改ページ]   第三章 義仲の敗北    人生の「勝ちパターン」「負けパターン」とは何か [#改ページ]  院宣の配り役・後白河法皇をみて、一流について考えた。  義仲の軍勢五万余騎が都に迫ると、平家は安徳天皇(六歳)と三種の神器を奉じて西国に落ちのびていった。  後白河法皇も連れていくつもりだったが、平家の動きをいち早く察知した後白河法皇は、さっさと比叡山へ逃げてしまった。  西国に落ちのびる平家は七千余。まさに、  昨日は雲上に雨を降らす飛竜たりといへども、今日は轍中《てつちゆう》に水を失ふ|※[#「さんずい+困」]魚《こんぎよ》のごとし。昔は保元の春の花と栄え、今は寿永の秋の紅葉と落ちはてぬ。  であった。  後白河法皇がさっさと逃げてしまったのは、平家にとっては不幸、源氏にとっては幸いである。  この人は、どこの勢力にも属さず、自由な身であって、状況を眺めては、「院宣」というジョーカーをあっちこっちにバラまき、強者同士を争わせる手腕にたけた人であった。  平家も、頼朝も義仲も、義経も、ドラマの幕が降りてみれば、みな法皇に踊らされる将棋の駒でしかなかったのである。  法皇だけが一流で、あとはみな二流だったのかもしれない。  一流、  ということでいえば、サラリーマンにとって一流とは何だろうか。  社長になることが一流ではない。社長は経営者なのだから。  一流というのは、骨のずいまで一流ということであって、皮一枚ではとても一流とはいえない。  一流の職人が一代では出来上がらないように、サラリーマンの一流も一代では無理だろう。  最低三代ぐらいサラリーマンをやっていれば、それらしきものが出来上がるかも知れない。  一流というのは、脈々と続く血筋が育むものなのである。  頼朝は、源氏のリーダーとして一流になるべく運命づけられた人間であった。  清盛は伊勢平氏の成り上がり、しょせん二代目である。重盛が清盛のあとを継げばあの人格だから、平家を一流のところまで押し上げることが出来たかもしれない。  だが、  源氏も平氏も、後白河法皇にはかなわない。  法皇のジョーカーの配り方には、天性のバランス感覚がある。  それが、一流ということであろう。あんまり認めたくないことだけれど。  義仲の軍五万余騎とともに、後白河法皇が政治的空白状態にある京都にもどった。  さっそく法皇は義仲に、 「平家追討」  というジョーカーを切った。院宣である。 「平家にとらわれた安徳天皇と、三種の神器を取り返せ」  さらに、  ジョーカーは、九州の諸勢力にも配られた。 「九州に逃げ込んだ平家を追い出せ」  という院宣である。  平家からすれば、安徳天皇は自分のところにいるし、三種の神器もある。したがって正統はこちらで、法皇は東国や北国の凶賊にあざむかれているのだという解釈だから、「あんな院宣は効力がないよ」というのだが、すでに時の流れは源氏の側にある。  重盛の元御家人であった緒方三郎維義の勢力が、 「昔は昔、今は今」  といって薄情にも平家を九州から追い出してしまう。  平家はやむをえず四国・屋島に陣をかまえた。  院宣の力、大である。  会社だって、そうだ。会社の院宣は「会社のために」というゴ託宣である。  わたしは、 「会社のために、安月給でガマンしてくれ」  と言われて、ガマンした。 「会社のために、転勤してくれ」  と言われて、不満ながらも転勤した。 「会社のために、雌伏してくれ」  と言われて、あえて窓際にも坐った。  それが、 「会社のために、やめてくれ」  と言われたのである。ホントの話、会社のためにやめたら、その日から会社は、わたしの「会社」ではなかった……。 [#改ページ]  頼朝の性格をみて、サラリーマンたるもの、ポカも大切だと考えた。  法皇のジョーカーを配る手並は相当なものである。  政治とはこういうものである。しょせん武士など、この手の政治家にかかったら子どものようなもの——と思わせるのが、頼朝と義仲の関係を引き裂くやり方である。  義仲に旭日将軍の院宣、そして伊予の国を与える(最初は越後を与えたが、義仲が嫌った)と、さっそく法皇は鎌倉にいる頼朝に征夷大将軍の院宣を送った。  富士川の合戦以来鎌倉に引っ込み、ほとんどなにもやっていないにひとしい頼朝に、最大の功労賞を贈るのだから、相当なタヌキである。  頼朝のほうも、そのへんは「ア・ウンの呼吸」で、法皇の心を読み、  法皇の使いに対して、 「平家は、頼朝が威勢におそれて都を落つ。そのあとに木曽の冠者、十郎蔵人、わが高名《こうみよう》がほに攻め入り、官をなし、加階をし、あまつさへ国をきらひ申し候ふこそ、かへすがへすも奇怪におぼえ候へ」 (平家は頼朝を恐れて都を落ちたのに、そのあとに木曽の冠者、十郎蔵人が入りこんで、高名顔に官位の昇進をほしいままにし、あまつさえ国の好き嫌いまでグダグダ言っているが、もっての外のことだ)  と言って、院宣さえくれれば何とでもしますよという気分をチラチラ見せているのである。  これでみると、頼朝は義仲への「猜疑心」を解いていなかったどころか、活躍はなばなしい義仲をずっと不快に思っていたようだ。  義仲の田舎者らしいふるまいに法皇も困っているという噂を聞いて、チャンス到来と思ったにちがいない。  頼朝の人物像は、 [#1字下げ]顔大きに、勢《せい》ひきかりけり。容顔優にして、言語分明なり。[#「顔大きに、勢《せい》ひきかりけり。容顔優にして、言語分明なり。」はゴシック体]  つまり、  顔が大きいわりに背が低く、容貌は上品で言語は明晰、  とあるから、頭の良い男だったようだ。  ひょっとして良すぎたのかもしれない。  京都に一度も上らないというところからして、ふつうでない。  後年、天下を取ろうとした今川義元も、織田信長も、みんな京を目指している。  院宣というジョーカーの配り役の天皇なり、法皇なりを押さえたいと、誰もが思っているからだ。頼朝がそうしなかったのは、京都を占領しても、院宣というジョーカーは、その気になれば、全国各地どこにでもヒラヒラ舞い降りていくことを知っていたからだろう。  それよりも、着実で安定した武力を都の外に温存しておいたほうがよい。そう思ったにちがいない。  通説では、貴族文化に染まり、武門としてのエネルギーを失った平家の二の舞はしたくない、と思ったからであると言われている。  それにしても、  京は自分の生まれた土地である。  十三歳までいた故郷である。  一度は錦を飾りたいと思うのがふつうではないか。  それなのに、一度も行かないなんて。  本社を左遷されて地方の営業所に飛ばされてしまった男が、営業所を守り立てて本社以上の会社にしてしまったような話である。  あるいは、  猜疑心が強いあまり、都という表舞台にあがって、自分をモロ出しにするのがイヤだったのかもしれない。  石橋山の合戦に続く富士川の合戦以来、頼朝は戦線にはいちども顔を出さない。  そして、自分は、「批評家」的ポジションにどっかと坐っているのである。  これが頼朝の強味だった。  サラリーマンも同じことだが、とりあえず誰かにタタキ台をつくらせ、それを批評する立場にいれば、自分をさらけ出さないでけっこういい線までいってしまう。  他人のフンドシで相撲をとるのである。  全軍の総大将とはそういうものだが、頼朝は、とくに自分をモロに出すことを避けていたようだ。  広島時代の古葉監督みたいなものである。  ベンチの奥に引っ込み、テレビカメラさえ避けて指揮をとる。  だが、性格的にいえば、元巨人軍監督の川上哲治に近いかもしれない。  川上さんにインタビューしたことがある。  約束の日に訪問したら、最初、息子さんが出てきた。そして、 「どんなことを聞きたいんですか?」  とたずねる。  こんなことも聞いてみたい、あんなことも聞いてみたいと、いろいろしゃべったら、 「わかりました」  といって、息子さんは席を立った。そして、 「父を呼んでまいります」  そういって応接室のドアをあけたら、ドアに耳をくっつけていた川上さんが、そのままのかっこうでつんのめってきた。川上さん、ドアに耳をくっつけてこっちの話を聞いていたのである。それを見られちゃったので、すごく機嫌が悪い。  ドタバタ喜劇のようなことのなりゆき[#「ことのなりゆき」に傍点]だが、ドアでつんのめるアクシデントがなければ、川上さんは事前にこちらの質問内容を知ったわけだから、ドンの風格でそつなくインタビューをこなせたはずである。  頼朝にもそんなところがあって、自分が出ていくときは、完璧に話がまとまったあとである。  やみくもに出てしまった義仲が、「田舎者」と嫌われて不幸な末路を辿ったのとは正反対だ。  川上さんとのインタビューには、オチがある。  最初、不機嫌なドンを相手にこちらも気まずい思いをしていたのだが、インタビューなかば、プチンとテープレコーダーが故障してしまった。  インタビュアーとしては、かなりみっともない話である。  だが、この場合は、それが、それまでの澱んだ空気を一変させるきっかけになった。 「ダメじゃありませんか、こんな安物を使っていては……」  そういって川上さんは、ご自分のテープレコーダーを貸してくれたのである。  この、 「ダメじゃありませんか」  で、川上さんの機嫌が直ったのである。  テープレコーダーの偶然の故障は、みっともないけれど、わたしにとっては天佑でもあった。  あれで、川上さんはホッとし、  わたしもホッとした。  ガードの固い頼朝タイプの人間とつき合うときは、スキをつくることも大切なことである。  昔、政・財界に隠然たる勢力をもっている人物に手紙の代筆を頼まれたことがあった。  一生懸命やって完璧に近い手紙を書くと、相手の機嫌はよくない。  そりゃそうだ。  決まりすぎていて可愛気がないもんね。  で、  次からは、他愛のない誤字や、ヘタクソな言い回しをすこしまぜておいた。  すると、 「キミ、それでも大学出?」 「ほんとうに新聞記者?」  と言いながら、彼の機嫌がどんどん良くなってくる。あれには、笑った。  わたし自身も、わざとミスしているのだから、ミスを指摘されたところで、べつに傷つくこともない。わたしは、俄然、気に入られた。  時には、上司の前でバカをやる、  そういうのも必要なのである。  部下を、 「しようがない男だ」  と思うから、上司は上司をやっていられるのだ。  ある出版社で一冊の雑誌づくりを請け負ったことがある。完璧に近かった。喜ばれて当然なのに、 「奥付の出来が良くない」  と、文句を言われた。  文句を言うことで、テキは心理的なバランスをとっているのである。  キミの上司が、頼朝タイプの男だったら、仕事ができるだけじゃ嫌われる。  時にはポカをやって、彼の顔を立ててやらないと……。 [#改ページ]  義仲の京での評判をみて、カルチャー・ショックについて考えた。  義仲の軍勢は、京都に入ってから田舎者まるだしにふるまった。  義仲自身、猫間中納言という人物をつかまえて、 「ネコ殿」  と言ったりしているが、けっして嫌味や嘲笑で言っているわけではない。  そこが、いかにも田舎者の素朴さと鈍くささなのだが。  しかし、  言われたほうは、たまらない。  おまけに、京都という土地柄である。  田舎者は、とくに嫌われる。  京都の学者二人を相手に鼎談をやったことがある。  一人がトイレで席を立つと、残った一人が突然席を立った男の悪口を言い出した。  戻ってくると、またニコヤカに穏やかな話になる。  こんどはもう一人の男が席を立った。すると残っている男が、席を立った男の悪口を言い始めたのである。  一緒にいて疲れてしまうのだが、京都人の感覚だと、 「人間、ウラオモテがあってアタリマエ、そのくらい複雑なほうが男らしい」  ということになる。げんに、わたしにそう説明してくれた京都出身の女性がいるのである。 「竹を割ったようなサッパリとした男」  なんて、京都人からみれば、単なるアホ、粗野な人間でしかないらしい。  こういう土地柄だから、義仲のふるまいがすべて野蛮にみえてくる。  おまけに、義仲は戦勝者として京に入っているから、京都の人びとが被占領地の住人ぐらいにしかみえない。  古来、こういう関係だと、�被占領地�の人間は腕力でかなわないから、�占領者�の文化の程度をあげつらう。  ちょっとでも自分たちとちがったふるまいをみつけると、 「ものを知らない」 「野蛮人」  などとケイベツするのだ。そうすることで、心理的なバランスをとっているのである。  一方、笑われるほうは「バカにされた」と思うからますますいきりたってくる。  天下り人事の場合、天下ってくる人間と、もともといた連中の間にちょっとしたカルチャー・ショックが起こる場合がある。  わたしが勤めていた子会社に、本社から重役が出向してきたときのことである。  本社から来た人間の悪いところは、なにごとも本社と同じようにやろうとすることだ。それで、ちょっとした摩擦が生じた。  たとえば、彼は、 「仕事中の喫煙はまかりならぬ」  という。本社には喫煙室があって、執務中に喫煙するときは、そこで喫煙することになっている。  ところが、子会社のほうは、雑居ビルのワンフロアだから、喫煙室などつくれっこない。すると、彼はすみっこのソファなんかユビさして、一角を喫煙コーナーにしたら、なんて言い出す。ワンフロアの一角に衝立かなんかで仕切って喫煙コーナーを設けることにどれだけの意味があるのだろうか。  そこで、言ってやった。 「本社では執務中に喫煙しているのかもしれないが、わたしたちは喫煙中に執務しているんです」  もちろん、わたしは嫌われた。でも、カルチャー・ショックとは微妙なものである。 [#改ページ]  梶原・佐々木の争いをみて、ライバル関係について考えた。  平家追討のため西国にたった義仲の軍が、思わぬ敗戦を喫して、都に逃げ帰り、兵糧調達と称して都中を略奪してまわったので、法皇側と戦闘になった。  義仲追討の鎌倉の軍勢六万余騎は、尾張・熱田まで来ていた。総大将は頼朝の弟、範頼と義経である。  これをみて義仲は、平家に使者を送り、 「一緒に頼朝を討とう」  と言うが、当然、平家はこれを無視した。  これ以降しばらく、  西国=平家[#「西国=平家」はゴシック体]  都=義仲[#「都=義仲」はゴシック体]  東国=頼朝[#「東国=頼朝」はゴシック体]  のにらみ合いが続くことになる。  この事態、すべて院宣というジョーカーがあっちにヒラヒラ、こっちにヒラヒラ舞い降りて引き起こされたものである。  義仲はあらためて法皇のもとに行き、平家追討を上奏するが、法皇より「義仲追討」の院宣を受けた鎌倉勢は、すでに都に迫っていた。  義仲は宇治川に陣を張り、頼朝の軍勢を待ちうける。  義仲追討の軍が鎌倉をたつ直前の話である。  頼朝は、「生食《いけずき》」「磨墨《するすみ》」という名馬二頭を所有していた。  そのうちの一頭「生食」を、梶原源太景季が、 「こんどの戦さで使いたい」  といって所望したところ、頼朝は、 「いざという時、自分が乗ろうと思っているからダメだ」  といって「磨墨」のほうをくれた。  そのくせ、佐々木四郎高綱が暇乞《いとまご》いにやってくると、ポンと「生食」を与えてしまった。  行軍中、「磨墨」に乗った梶原は鼻高々だったが、「生食」を連れている佐々木を見つけて頭にきた。 「こんなことなら佐々木を殺して、自分も死んでやる。もう義仲どころじゃない」  というわけである。  殺気立って、 「オマエ、いい馬をもらったな」  というと、事態を察した佐々木がこう答えた。 「……『生《いけ》|※[#「口+妾」、unicode553C]《ずき》を申さばや』と思ひつれども、『梶原殿の申されけるにも御許しなし』とうけたまはり候ふあひだ、『まして高綱が申すとも、よも賜はらじ』と存じ、『後日の御勘当はあらばあれ』と思ひ、暁たつとての夜、舎人に心をあはせ、さしも御秘蔵候ふ生※[#「口+妾」、unicode553C]を盗みすまして上り候ふはいかに」 (生食が欲しかったのだけれども、梶原殿が所望されてさえ許しがないのに、ましてわたしが頼んでもくれるはずがない。こうなったら後日、どんな罰を受けてもかまわないと覚悟して、明朝立つという晩に盗み出してしまったのだ)  カッカしていた梶原だが、この話を聞いて、 「やあ、してやられたわい」  と大笑いしながら去っていった。  ウソも方便、  なのである。  それにしても、頼朝はきわどいことをやったものだ。  だって、佐々木が機転をきかせてウソをつかなかったら、有力武将二人が、敵そっちのけで殺し合いをやるところだったんだから。  それとも、  頼朝は、梶原に磨墨をやったあと、 「これで梶原の先陣は間違いない。だが、そうなったらなったで、梶原だけが天下の名馬をもらったのだから、先陣は当然である、という不満が内部に起こらないともかぎらない」  そんなことを考えて、急遽、佐々木に生食をやったのかもしれない。  そうすれば、梶原・佐々木は激しく先陣争いをやるだろう、  と、そこまで考えていたのか。  そうだとしたら、頼朝の部下操縦術はたいしたものである。  事実、二人は宇治川で、二頭の名馬に乗って激しく先陣争いをやるのだから。  ライバル同士は競わせよ、  これが、部下操縦の基本である。  新聞記者時代のことだが、  十年一昔をもじって「十年一日」という連載企画をやったことがある。歴史なんて今も昔も変わらないんだよ、という切り口で、いろいろな社会的事件や流行をとりあげていこうというもので、やっていて楽しい企画だった。面白いように取材もすすみ、読者の反応もよかったので、連載が終わったら本になるかな、なんていうスケベ心も起きた。  ところが、である。  ある日気がつくと、同僚が同じ企画の取材をやっているのである。  聞けば、局長にヤレと言われたのだという。 「ライバル出現」である。  同僚は相当気まずそうだった。  こっちだって、勢いに乗っているのに、突然足元をかっさらわれたようなものである。  局長に文句を言いにいったら、わたしは企画そのものからオロされた。  こんなふうに、無理やりライバル関係をつくり出すようなやり方はまずい。  そのせいか、「十年一日」の企画は、その後、なんとなくうまくいかなくなってしまった。  どんどん仕事上の腕力をつけてきた部下にライバルをぶつけて力を押えつけるなんてことも、サラリーマン社会にはけっこうあるらしい。  やはり新聞記者時代の話だが、外から入ってきた経営者が、総務部長をあおりにあおって、次から次へと他の部長をやめさせるように仕向けた。  そして、こんどは、 「同僚のクビを平気で切れるようなヤツは信用できない」  と、その部長のクビも切ってしまったのである。  それにしても、佐々木高綱の機転のきかせかたはみごとなものだ。 [#改ページ]  宇治川の先陣争いをみて、フットワークについて考えた。  ライバル争いの本番、 「宇治川の先陣争い」  である。  宇治川に到達したのは、東国勢六万余騎のうち、義経のひきいる二万五千余騎。  当然、生食に乗った佐々木、磨墨に乗った梶原もその中にいた。  いよいよ先陣争い。  誰が最初に宇治川を渡り、敵陣に切り込むか——である。  梶原が先頭を切った。  佐々木が一歩遅れた。 「腹帯の延びて見ゆるは。締め給へ」[#「「腹帯の延びて見ゆるは。締め給へ」」はゴシック体] (馬の腹帯がゆるんでみえるぞ)  佐々木がそう声をかけた。梶原が帯をしっかり結んでいる間に、佐々木が駆け抜けて川にザブンと飛び込んだ。 「はかられた」  慌てて梶原が続けて飛び込んだが、宇治川の先陣は、佐々木のものになった。  ライバルとはいえ、どうやら佐々木のほうが格が上である。  漫才でいえば、つっこみが佐々木、ボケが梶原か。  佐々木は、言い抜けたり、機先を制したり、ミスを生じさせたり、とにかくフットワークが軽い。  頭を使う佐々木とあまり使っているようには見えない梶原では、ライバル同士とはいえ、結果はみえているのである。  さて、  わたしにもライバルがいた。  サラリーマン時代のことである。  ある日の夕方、その男と街を歩いていたら、やつめ、すれちがいざまに女性の尻をサッと撫でた。  女性がふり向くと、 「オイ、青木やめろよ」  だって。 「このヤロウ」  そう思った。  ある時、その男が、給与明細表をみせてくれ、というので、見せてやった。  残業代かなにかで、わたしのほうがちょっとばっかり多かった。  それをみて、彼はホントにくやしそうな顔をする。 「多い分で飲もうか」  そう言ったらとたんに、彼の顔が晴れた。  その翌月、  むこうから、オマエの残業代で飲もうかといってきた。おごられるのを期待している顔である。 「この男は、もはやオレのライバルではない」  その時、そう思った。  彼は、このわたしにたかろうとしている。  たかろうとすれば、どうしたって卑屈になる。  いつのまにか、彼はわたしの風下にいた。  ついでながら、  思い出した話がある。  新聞社をやめたあと、しばらくカネも仕事もなかったころだ。  記者時代に知り合った他社の部長が、わたしのことを覚えていて、 「ちょっと連載をやりませんか」  といってくれた。 「細かいことは次長と打ち合わせてください」  そう言って、その部長は帰っていった。ある飲み屋での話である。  次長ともう一軒行った。  飲んでいるうちに、次長がわたしの連載を快く思っていないことがだんだんにわかってきた。イヤ味まで言う始末だ。 「なんだと!」  と、そこでわたしがタンカの一つも切れば、この話はご破算である。  翌日、次長は部長のところへ行って、「話が煮つまらなかった」といえばいいだけのことだから。  その時、店のママがこう言った。 「今夜の払いはアナタが持ちなさい。これだけ言われているのに反論できないのは、ごちそうになっていると思うからでしょ? 自分で払うとなれば、なにも遠慮することないんだから」  その通りだった。  オレが払うと思った瞬間から、わたしは言いたいことをきっちりと言うことができた。  それが、かえって次長の心をほぐした。  言いたいことがある時は払いにまわれ、  である。  もちろん、  連載はご破算にならなかった。次長とわたしは、いまでも仲良しである。トーゼン、店のママさんとも。 [#改ページ]  樋口次郎の斬死をみて、武士の情について考えた。  宇治川の合戦に敗れたあとの義仲は、ボロボロである。  あまり逆境に強い人間ではなかったのかもしれない。  自分を追討せよ、という院宣を出した法皇に、暇乞いをしようとして、御所の前まで行ったものの、考えてみたら、それもおかしいといって引き上げてきたり、その途中で最近みそめた女の家に寄ってなかなか出てこなかったり。  やきもきした部下の一人が、その場で自害してしまった。  いよいよ追いつめられたら、法皇を奪いたてまつって西国に下り、平家に合流しようと本気で考え、強兵二十騎と御所に行くが、そこにはすでに義経の軍勢が到着している。  当面の敵を倒すために、他の敵と結ぶのは戦いの常套手段だが、義仲のやることはどうも行きあたりばったりで、まともではない。指導能力が失われているのである。  とうとう追いつめられて、幼少の頃から一緒だった今井四郎とたった二騎になってしまった。  義仲が、 「一つのところで馬をならべて討死しようではないか」  というと、今井が、 「弓矢取りは、日ごろ高名をし候へども、最後に不覚しつれば永き瑕《きず》に候ふものを」 (武士はいかに日頃勇名をはせても、最後に不覚をとれば後世まで名前にキズが残ります)  と自害をすすめるが、とうとう義経側に討たれてしまう。  勝ちに乗じているうちはいいが、いったん負け出すと、ズルズル後退していく気弱さがあったのだろう。  今井四郎の兄に樋口次郎という武士がいた。義仲は今井四郎が死んだあと、たった二十騎で義経軍と対峙した。勝敗は明らかである。  義経軍の中に、武蔵の国の児玉党なるものがいた。  彼らは、樋口の生命を惜しみ、こんどの戦さの恩賞とひきかえに助けてもらおうとした。 「弓矢取りの広き縁に入ることは、かようのときのためぞかし。されば、樋口がわが党にむすぼほりけんも、さこそ思ひけめ」 (武士が広く世間と交際するのはこういう時のためである。樋口と児玉党の関係もそういうものだから)  というのである。児玉党の願いは、義経には受け入れられたが、院の反対で、結局、樋口は斬られてしまった。  そこが、武士と貴族の差なのかもしれない。  新聞社を、 「やめてくれ」  と言われたとき、ある新聞社から、 「どうだ? うちで働いてみないか」  と言われた。俗にいう「捨てる神あれば、拾う神あり」である。  だが、使いにきてくれた人間がマズかった。相手としては、 「この男なら話がしやすかろう」  というので、わたしと同期に入社した親しい友人をよこしたのである。  それこそ、 「男同士がつきあうのは、こういうときのためだ」  というわけであろうか? わたしは、心から彼に感謝し、しかし、誘いは断わった。  わたしが彼のすすめで、彼が勤めている新聞社に入社しようものなら、生涯、わたしは彼に頭が上がらなくなる。わたしは、そんなふうに計算して、この話を自分からご破算にしたのだ。  彼に、わたしの気持ちがわかったろうか? ひょっとしたら、わからなかったかもしれない。  でも、  それでいい、  と、わたしは思っている。もし、将来、わたしに不都合なことがあったら、彼はこのわたしを斬る役にまわらなければならなくなるだろう。それくらいなら、断わったほうがマシだ。  そこで思うのである。  就職する場合、わたしたちは、ともすれば縁故に頼ろうとするが、これは、マズい。就職する場合は、できるだけ縁故に頼らないこと。人間関係で借りがあると、就職してからも伸び伸びと仕事ができないのではなかろうか? とくに転職の場合は——。  情にからむのも、場合によりけりだ。残念ながら、相手の新聞社は、せっかくの好意だったにもかかわらず、その好意を生かしきれなかった。  樋口と児玉党の関係とはちょっと違うかもしれないが、わたしには同じことのように思える。児玉党が樋口の助命を願ったのも武士の情なら、わたしが彼の申し出を拒んだのも、武士の情を知りすぎていたからである。 [#改ページ]   第四章 義経の活躍    企画力、そして男の猜疑心の怖さについて [#改ページ]  範頼の通達をみて、スタンドプレーについて考えた。  屋島に本拠を置いた平家の勢力は次第に強大化して、いまや数十万にふくれ上がった。   後白河法皇は、ふたたび、 「三種の神器をとりもどせ」  と、範頼・義経に命令した。  三草山《みくさやま》に陣どっていた平家の先鋒を簡単に打ち破った義経と一万の軍勢は、一の谷に迫った。平家の搦《から》め手である。  正面突破は、むずかしそうである。  そこで義経は、七千騎を敵正面に残し、自分は、三千騎を率いてウラ手に回った。  一方、平家軍の大手・生田の森に迫った範頼の軍五万の間でも、梶原親子、河原兄弟らによる先陣争いが華々しくおこなわれていた。  先陣争いは、いい意味でのライバル争いだから、味方によい結果をもたらす。  だが、  功名争いでもあるから、悪くすればスタンドプレーになりかねない。  そこで、総大将・範頼は 「後陣のつづかぬに先駆けしたらん者は、勲功あるまじきぞ」  という通達を出した。いかに先陣争いといえども、味方との連携プレーがなければ、功績とは認めないというのである。  義経の華々しい活躍にかくれてあまり表面に出てこない範頼だが、これをみても実際は頭のいい男であることがわかる。  スタンドプレーを許さない集団は、ドングリの背くらべで発展性はないが、さりとてスタンドプレーばかりでは集団は維持できない。  それぞれがスタンドプレーをし、自分の能力を最大限に生かしながら、みんな根っこのところでしっかりつながっているのが、いちばん強い集団ではないだろうか。  サラリーマン社会では、 「出る杭は打たれる」  ということが、しばしばある。  だいたい、部下の中に二人の後継者がいるとすれば、まず選ばれるのは、能力のある部下よりも、忠実な部下のほうである。  あまり能力がある部下は、のちに自分をおびやかす存在として、逆にケムたがられるのだ。  出る杭は打たれる  そして、  出ようとする杭も打たれる  打たれたくなかったら、忠実な部下をよそおうか、思い切りよく出てしまうかのどちらかしかない。  みごとに決まってしまったスタンドプレーなどは、すこしばかり組織の規律を逸脱していようとも認めざるを得ないからである。  出る杭、あるいは出すぎる杭に必要なのは、事前の報告であり、事後報告である。  後年のことになるが、義経はあれだけの活躍をしていながら、頼朝に殺されてしまう。  頼朝は、能力ある義経よりも忠実な部下の梶原を選んだのである。この話はのちに出てくるが、梶原の讒言《ざんげん》を頼朝が簡単に信じたのは、義経が事後報告をちゃんとしていなかったからではないだろうか。そう、油断である。  これまた新聞記者時代——  わたしが勤めていた新聞社が身売りした。新旧の経営者は、まず編集局の幹部を一堂に集めて「よろしく」と挨拶した。当時、わたしは社会部のデスクだった。  型通り新しい経営者が事態の重大なことを説いてから言うことには、 「いまこそ衆知を集めねばならぬ。売れる新聞をつくるためのアイデアがあったら、どんどん出してもらいたい」  とたんに並み居るデスクどもが「ハイハイ」と手を上げ、忠義ヅラして、「こうしたらどうだろう?」「ああしたら、どうだろう?」と言い出したから、わたしは怒った。「オマエら、バカか! それだけのアイデアがあったら、なぜこれまでに出さなかった? オマエらがこれまでにそれだけのアイデアを出していたら、うちの新聞だって、なにも身売りなどしないで済んだろうに……」  結果は——  新しい経営者は、まずわたしをクビにした。べつにわたしはわたし自身のことを�できる�ナンテ思っちゃいないが、当面、新しい経営者にとって必要なのは、いちいちうるさいことを言う幹部ではなくて、素直に「ハイハイ」と手を挙げる幹部だったのだろう。  わたしは、そのへんのところを誤って読んでいた。  でも、スタンドプレーは、いったい、どっちだったんだろう?  同僚だったデスクどもか? はたまたクビを覚悟の、このオレか? [#改ページ]  一の谷・ひよどり越の戦いをみて、企画力について考えた。  三千騎を引き連れて一の谷の背後に向かった義経だが、そこは断崖だった。  下るのはとても無理に思えた。  といって、ここで引きさがるわけにはいかない。大手・生田の森の戦いだけでは源氏に勝ち目がありそうにみえなかったからである。  そこで猟師に、 「鹿は通うか?」  と聞くと、 「通う」  と答える。と、義経は、 「それではまるで馬場のようなものだ。鹿の通うところを馬が通えぬはずがない」  と言いきった。  できる。  まるで「発想法」の教科書みたいな話ではないか。  鹿は通えても、馬はどうだろうか? しかも人間が乗っているんだからムリじゃないか? とふつうだったら考えてしまうところを、鹿も馬も同じだよと言い切ってしまう。  義経は常識にとらわれるタイプではなかった。  おまけに実行力がある。 「企画力」とか「創造力」のコツも、たぶん同じようなものだろう。  ㈰ 常識にとらわれない  ㈪ 思ったことはやってみる  この二つがあれば、意外に何とかなるのではないか。  人が、 「まさか」  と思うから、それが実現したときに価値が生じるのであって、「企画力」や「創造力」は、もともと人の通わない道なき道を突破するようなものである。  平家側は、「まさか」こんな崖を馬が下れるわけがないという常識にとらわれていたから、背後の防備は手薄であった。  そこに三千の源氏が、ドッと駆け下りてきたのだから、三千が数万にもみえ、総崩れとなった。  あわてて海岸に泊めてある船に飛び乗るのだが、パニックに陥っているから定員オーバーとなり、次々に船がひっくりかえってしまう。  こうなってはしかたがない。船に乗れるのは身分のあるものだけに限った。  そんなこといったって、生命が惜しいことに身分の上下はない。雑人たちが必死で船にすがってくる。その腕をスパスパ切り落として、ようやく船は沖に出ていった。  一の谷の戦いで多くの平家の公達が戦死したり、捕えられたりした。  奈良を炎上させた重衡も捕われの身となった。  十七歳の美少年敦盛が熊谷直実に討ちとられたのも、ここ一の谷の波打ち際だった。 [#改ページ]  佐々木三郎の情報収集をみて、情報の価値に思い当たる。  平家は、四国、屋島に逃げ帰った。  年越えて、都では後鳥羽天皇が即位したが、三種の神器は平家のもとにある。  そこであらためて「平家追討」の軍・三万余騎が組織され、範頼を総大将として西に下った。  平家も出陣して備前・児島に陣を張った。  源氏の陣のある備前・藤戸とは海上五町ばかりの距離である。  平家方に船があるが、源氏方にはない。  そこで、平家の若侍が連日のように船を出して、 「くやしかったら、ここまで来てみろ」  と囃したてる。  が、源氏のほうとしてはどうしようもない。  源氏方の佐々木三郎盛綱は、この歯ぎしりするような事態をなんとかしなければ——と考え、浦の人間、つまり漁師に、 「馬で渡れる名所はないか?」  と聞いてまわったものだ。  すると、一人の浦人が、 「日の始まりと終わりに浅瀬になるところがあって、その時だったら馬でも渡れます」  と答えた。  重大情報である。  秘密がもれることを恐れた佐々木は、この浦人を殺してしまった。非情なもんだ。  さて、  その日がやってきた。  例によって平家方から船が出て、 「やーい、渡ってこい」  などとわめいている。  チャンス到来とみた佐々木は、家来七騎とともに海に乗り入れた。  たしかに浅瀬になっている。  どんどん渡っていける。それを見ていた総大将の範頼が、 「佐々木にうまく計られた。海は浅いぞ、渡れ渡れ」  と、号令をかけた。  源氏の三万騎が一気に海を押し渡り、ついに乱戦となった。こうなったら平家に分はなく、平家は屋島に逃げて帰った。  このとき、源氏が執拗に追撃をしたら、平家はあぶなかったのだが、源氏はそれをしなかった。  範頼は陣を休め、遊女を呼び集めたりして、ムダに時間を費やしてしまった。  のち、屋島の戦いの折、疲れ切って眠る兵たちにかわって義経が高い所にのぼって遠見に立ったのとくらべると、大将としての器にやや難あり、ということになるのだろうか。  それにしても、  佐々木三郎の情報収集と、機密保持のために情報提供者を殺してしまうあたりは、まるで現代のスパイ小説顔負けである。  昔も今も、  情報の多寡が勝敗の分かれ道であることに、変わりはない。  またまた新聞記者時代——  じつをいうと、わが社が身売りするだろうということは、余人は知らず、わたしの耳には、とっくの昔に入っていた。  言っちゃナンだが、内職原稿を書いていた関係で、わたしには、社外にもたくさんの友人がいた。多くは、モノ書きであり、絵描きだ。  そういう友人から、頻々と電話がかかってくるのである。 「これこれこういう機関[#「機関」に傍点]が、�オマエのところの新聞をどう思うか。どうしたらいいか�といって、意見を聞きにきた。あれ、どういうことだ」  聞けば、「これこれこういう機関[#「機関」に傍点]」も、知らない仲じゃない。  もっとも、相手は、わたしが当の新聞社に勤めている人間であるとは知らなかったようだ。このわたしにも、 「どう思いますか?」  と、逆に意見を聞きはじめたのだ。  そのために——  当時の同僚たちには申しわけなかったけれど、いや、秘かに身売りの計画をすすめていた会社には済まなかった(ナンテ思っちゃいない)けれど、すくなくともわたしは、事前に身売りの全容を知っていた。それで、わたしは、 「ダメだ」  この会社に汲々としたところで、どうにもならぬと思っていたのである。  のちに、わたしは、その機関の人たちのためにも働いた。気持ちのうえで、借りが出来たような気分だったからだ。 [#改ページ]  逆櫓論争を読んで、成功法則について考えた。 「夜を日についで勝負せよ」  あらためて法皇の院宣が下った。  そこで、義経は四国に押し渡るための船を摂津の国の渡辺と福島にそろえた。  このとき、義経と梶原との間に口論が生じた。  当時の船は、うしろに一本大きな櫓《ろ》がついているだけである。  そこで梶原が言うには、 「馬は、駆けんと思へば駆け、引かんと思へば弓手《ゆんで》へも、馬手《めて》へも、まはしやすきものにて候。船は、きつと押しなほすことたやすからぬものにて候へば、艫《とも》にも、舳《へ》にも、梶をたてて、左右に櫓たて並べて、艫へも、舳へも、押させばや」 (馬は駆けることも退くことも、左右に回ることも自由自在だから、船も船尾だけでなく船首や脇にも梶をつけてみたらどうだろうか) 「逆櫓《さかろ》」の提案である。  これに対して義経が、 「最初から退くことを考えていて戦さができるか。他の船にいくら櫓をつけたってかまわないが、義経の船にはそんなものはいらない」  と言ったから、売り言葉に買い言葉、ケンカになったのだ。 「進むべき時には進み、退く時には退く。それが大将の条件であって、ただ前に進めばいいというのは猪武者だ」 「戦さは攻め勝ってこそ心地よい。逆櫓なんていらない」  周囲の武将も、義経のセリフのほうが威勢よく聞こえる。  義経は梶原に恥をかかせてしまったかっこうである。  さて、その夜。  海は荒れていた。  義経は、自分の船に出発を命じた。  船頭や舟子が尻込みすると、 「こんな時だから敵も油断しているのだ。大波小波に乗って思いもよらぬところへ押し寄せてこそ、思う勝利が得られる」  と、弁慶ら五十余騎を引き連れて船出した。  全軍二百余隻のうち、わずかに五隻というのだから、いかにも義経らしいやり方である。  船は、ふつうなら三日かかるところを僅か三時間で四国に着いた。  またまた、  敵の「まさか」を突く義経の奇襲攻撃である。  人が「まさか」と思っているところを突くことこそ、企画にしろ、戦さにしろ、勝ちに通じるのだ。  だが、義経は、最強の切り込み隊長であっても、総大将の器ではなかったのかもしれない。  ほぼ全軍を残して、腹心の部下だけを引き連れ、作戦を実行に移してしまったのだから。  義経が現代に生きていたら、ベンチャービジネスの雄にはなれても、ビッグビジネスの頭にはなれなかったろう。  だが、梶原の「逆櫓」を義経が蹴ったのは当然である。  まだ戦いが始まってもいないのに、 「もし負けそうになったら」  という前提で、梶原は話をしている。  義経のように、日頃から自分が勝つと信じて行動している男にとっては、梶原が、「ダメな男」にみえてしかたがなかったろう。  サラリーマンも同じである。 「社長になろう」  と思っても、全員がなれるわけがないのがサラリーマンである。  社長どころか、課長だってそうだ。  全員が課長の席を望んでも、なれるものではない。といって、最初から諦めてしまったら課長にだってなれないだろう。  サラリーマンというもの、 「社長になりたい」  と思ってがんばるから、どうにか重役や部長ぐらいまでいけるのである。 「せめて部長に」  と思ってがんばるから、課長にもなれるのである。 「せめて課長に」  と思ったら、課長補佐ぐらいにはなれるだろう。  最初から諦めていたら、なんにもなれない。ヒラのままで終わってしまう。  最近の若者は——などとはいいたくないが、連中が仕事も遊びも同じように価値がある、といって遊びに熱中し、仕事はほどほどにしていることにも、別に文句を言う筋合いはない。  だが——である。  仕事はほどほどに、  と言っていて、果たして完璧な仕事ができるだろうか? いつまでもほどほどにやっていれば、周囲のお荷物になるだけである。  わたしが新聞記者として一流になれなかったのは、記事を書くかたわらでミステリーの批評を書いていたからである。  新聞がダメなら、ミステリーがあるさ。  これでは一流には、なれない。  大学受験の際も、一回ぐらい浪人したっていいと考えていたら、まずまちがいなく失敗してしまう。  だから、娘が大学受験の時は、絶対に浪人はさせないと最初から言ってあった。娘は「それでも父親か!」と泣いて騒いだが、わたしは答えた。 「父親だからこそ、浪人を認めないのだ」  はじめっから、娘が浪人になることを考えているようでは、父親なんてつとまらない。  義経が進むことしか考えていなかったのは、勝つための当然の条件である。 [#改ページ]  弓流しをみて、小道具について考えた。  わずか五十騎で四国に渡った義経は、駆けては休み、休んでは駆けて、一気に屋島に到達した。  そこで、民家に火をつけ、平家の陣に攻め込んだ。  大胆な行動である。  あまりの大胆さに、平家側は、大軍が押し寄せてきたと勘違いして、船で沖に出てしまった。  義経の思ったように戦いが展開する。  ようやく源氏が少数であることを知った平家が浜に上がって戦闘になった。  この戦闘で、奥州以来、義経のかたわらについていた佐藤三郎兵衛嗣信が、義経の楯となって死ぬ。  義経は泣きながら近在の高僧を呼び、一の谷の際も乗っていた愛馬をその僧に与えて、弔いを頼んだ。  これをみて、部下たちは、 「この人のためだったらいつ死んでもいい」  と、涙を流した。  義経は、敵もつくるが、強力な信奉者もつくる男でもある。  ここ、  という時、自分のもっとも大切なものを惜しげなく手離してしまう。  人は抽象的なコトバだけでは動かないし、感動もしない。  心をモノに託してみせるというのは大切なことである。  上司のコトバや行動に感動することもあれば、そのコトバ一つで見切りをつけることもある。  言っちゃナンだが、  わたしは忠実なサラリーマンだった。社長からも可愛がられた。  そんなわたしが社長から離れ、ひいては会社をやめようとしたのには、もちろん、理由がある。  わたしの企画で、あるプロジェクトが進行していた。それが、ある上役のミスで失敗した。断わりもなしに他社のブランド商品を利用して、訴えられそうになったのだ。  ことの次第を説明しにいったわたしに、社長は、ボソリと言ったものだ。 「オマエがつまらないことばかり企画するから、こういうことになる」  くやしかった。  そのセリフ一つで、 「この人とは一緒にやっていけない」  そう思った。  リーダーの一挙手一投足、なにげない一言、部下はいつもそれを見、聞いているのである。  そして、一喜一憂しているのだ。見切りをつけることだって、もちろんあるのだ。  那須与一の扇落としのあと、ふたたび両軍入り乱れての戦いとなった。  平家は船で、源氏は馬で戦った。  戦闘中、義経は弓を落としてしまった。  これを馬上から拾おうとすると、平家側が引きずり落とそうとして熊手や薙刀《なぎなた》を打ちかけてくる。 「そんなもの捨てなさい」  と、味方が必死になって叫ぶのにもかかわらず、とうとう義経は弓を拾って戻ってきた。  老臣たちが、 「どんなに高価な弓だって、生命にはかえられない」  と非難すると、義経は、 「まつたく弓を惜しむにあらず。叔父八郎為朝が弓なんどなりせば、わざとも浮かべて見すべけれども、|※[#「尤+王」]弱《おうじやく》たる弓を、平家に取つて、『これこそ源氏の大将の弓。弱いぞ。弱いぞ』と、あざけられんが口惜しければ、命に代へて取つたるぞかし」 (弓が惜しくて拾ったのではない、義経の弓が叔父の為朝のように強い弓だったらわざと落として敵にとらせるのだが、こんなに弱いのを敵が拾って『これが源氏の大将の弓だよ』などと嘲弄されるのがくやしくて、生命にかえて拾ったのだ)  と言った。  馬のときといい、こんどの弓のときといい、義経はモノに対して独特のダンディズムを持っていたようだ。  ちょっと古い話だけれど、知り合いのNHKのアナウンサーがこう言った。 「民放のアナウンサーは服装が自由でいいですね」  これは、とんでもない間違いである。  最近でこそ民放のアナウンサーの服装もラフになったけれど、以前は民放のアナウンサーほどきっちりした服装をした人はいなかった。  NHKのアナウンサーなら、服装が崩れていても、それで通ってしまうが、民放のアナウンサーの場合は、 「やっぱり民放だな」  と思われてしまう。  世間とは、そういうものである。  一流企業の人間が、ノーネクタイならば、「あの会社もなかなか柔軟だ」で済むが、中小企業の人間がノーネクタイだと、 「やっぱしね。中小企業はだらしないね」  と言われてしまうのである。  服装で判断されるのは、世間ではアタリマエのこと。どんな人間か知らないのだから、とりあえずカッコで判断するしかない。また、  弘法筆を選ばず、  というが、どの世界のプロをみたって、それぞれふさわしい道具を持っている。将棋さしはいいコマを持っているし、いいサラリーマンもいいネクタイを持っている。真の弘法は筆を選ぶのである。  武士の大将がどんな弓を持っているかは、どうでもいい話ではなかったはずである。  その辺に、義経はこだわったのである。 [#改ページ]  梶原・義経のケンカをみて、男のうらみについて考えた。  四国に陣を張っていた平家は、義経に率いられた僅か五十騎の源氏に蹴散らされ、海上に逃げ去ってしまった。  やっと梶原らが二百隻の船に分乗して四国に押し渡ってきた。  世間は、 「六日の菖蒲会にあはぬ花  祭ののちの葵」  と言って笑った。  祭りとは葵祭のことである。  平家は長門の壇ノ浦に逃がれた。その数一千隻。  義経は三千の船でこれを追った。  いよいよ最後の戦いである。 「明日の先陣を賜りたい」  梶原がそういってきた。  屋島の合戦で、戦いに遅れるという失態を演じてしまい世間の笑いものになった梶原である。しかも義経がたったの五十騎で勝利してしまった合戦の前に、逆櫓の件で、 「退くことの大切さ」  を訴えている梶原である。ここは是が非でも先陣を切って屈辱をそそぎたいところである。  だが、義経側は、 「義経がいなければ、それもよいが」  と言って承知しなかった。  こうなると、逆櫓以来のケンカのぶりかえしである。 「大将たるものが先陣をすべきでない」 「大将軍は頼朝であって、自分は軍奉行、早い話がキミと同じ立場だ」 「しょせん侍の上にはなれない小物よ」 「なにを」 「やるか」  といった展開で、梶原一族、義経の郎党がいっせいに刀を抜き、あわや殺し合いという場面。他の武将が仲裁に入って大事には至らなかったが、このことで義経は梶原のうらみを買う。  義経は、梶原にチャンスを与えるべきだった。チャンスを部下に与えることは上に立つものの器量であり、義務である。  サラリーマン社会も同じだろう。  リーダーの条件は、部下にチャンスを与え、その能力を引き出してやることである。  あるいは、  言いたいことをちゃんと言わせてやることである。  部下たるもの、上司には遠慮があるから、言いたいことがあっても、なかなか言えない。  だから、  たまには部下を酒場に誘うべきだ。  それでも言えない時がある。  だから、  チャンスは二度与えるべきだろう。  そのくらい懐ろが深くないと、人はついてこない。  上司は父親であるよりも母親であれ、  ということだ。  部下という名のヒナを抱え込む。  これこそ日本的な上司のあらまほしい[#「あらまほしい」に傍点]姿ではないか。  ついでに言えば、サラリーマンが酒場に行くのは、立派な仕事である。酒で緊張を解いて、日頃思っていることをしゃべるのだから。しゃべれば明日の仕事が今日よりはうまくいく。  だから、と繰り返すが、  酒場に同僚や部下と連れ立っていくサラリーマンに、会社は超過勤務手当を支払うべきだ、というのがわたしの持論である。ちょっと脱線したかな?  義経に欠けているのは、母親のような懐ろの深さである。  その結果、恨みを買い、のちにこの梶原の告げ口によって身を滅ぼしてしまう。  げに恐ろしきは、 「男の恨み」  である。男って、いつまでも恨みを忘れず、ホントに女々しいんだから……。  源平最後の戦さ、壇ノ浦の合戦が始まった。  海戦である。  潮流は、午前中、平家の方から源氏の方へ流れ、  午後になると逆になる。  午前中に勝利しなければ平家の勝ちはもはやない。時の勢いは源氏のほうにあった。  九州・四国勢がつぎつぎに平家を裏切っていた。  平家敗戦のときが訪れた。数多くの公達、武士が海中に身を投げ、わずか八歳の安徳天皇も入水した。  三種の神器のうち剣は海中に没し去ったが、鏡と勾玉は無事であった。  平家の総大将宗盛は、いったん海中に入ったものの、死に切れずに浮いているところを囚れの身となった。 [#改ページ]  ふたたび男の猜疑心について考える。  戦乱がおさまり、平和が訪れた。  最大の功労者と誰もが認めたのが義経であった。  人びとは、世の中が落ちついたのは義経のおかげ、それにひきかえ頼朝はなにもしなかったではないか、世の中は義経のものであるべきだ、と言い合った。  この噂が猜疑心の権化のような頼朝の耳に入ったからたまらない。頼朝は、 「こはいかに、頼朝がゐながらはかりごとをめぐらせばこそ平家は滅びぬれ。九郎ばかりしては、いかでか世を治むべき。人の言ふにおごりて、いつしか世をばわがままにしたるにこそ。(中略)さだめて今度下りては、九郎は過分のふるまひをぞせんずらん」 (わたしがコトを計画したから平家は滅んだのだ。義経一人に何ができるか。世間がもてはやすのでいつか心が驕《おご》り、わがままなふるまいをしている。(中略)今回、鎌倉に下ってくるときも、わがままにふるまうだろう)  といった。予断である。  そこへもってきて、逆櫓以来、義経に恨みを抱いている梶原が、あることないこと告げ口したからたまらない。頼朝は完全に心を閉ざしてしまい、義経が敵将宗盛を鎌倉まで連れてきたのに、宗盛だけ引きとって義経を鎌倉に入れなかった。  京都にもどった義経のもとに、土佐房という刺客を送るが、これは失敗してしまう。  さらに、弟の範頼に義経を討てと命じる。いやがると、 「おまえも義経と同じだな」  と、ギロリとにらむ。  びっくりした範頼が、「けっして裏切りません」と書いた起請文千枚を差し出したが、猜疑心にかられた頼朝に殺されてしまう。  疑心暗鬼もここまでくれば、立派な病気じゃないか、と思う。  北条時政を大将とする六万の追討軍が上京するというので、義経は、 「九州のものはみな義経に助勢せよ」  という御下文を法皇より賜り、京を去った。  代わりに北条の軍が上洛すると、「義経追討」の院宣が時政に下された。  西国に向かう義経一行は船が難破してすすめず、反転して奥州に下り、そこで討たれてしまった。  平家最後の嫡流・小松三位中将維盛の子六代御前が殺されて、平家一族の血は根絶やしとなった。一一九八年のことである。 [#改ページ]  あとがき  俗に、 「饒舌体」  という。ま、おしゃべりをするような文体である。ホントを言うと、わたしの、あまり得意とするところではない。  しかし、この『平家物語の知恵』では、あえてその饒舌体に挑戦した。……というのは真っ赤なウソで、現実にわたしが『平家物語』を読み、そして思いつくままをしゃべり、それをテープに吹き込んで、文章に起こしてみたのである。  その労をとってくれたのは、わたしの若い友人である波乗社の石原靖久くんだ。いやいや、石原くんは、このわたしに『平家物語』を読ませ、わたしのサラリーマン生活とダブらせる企画そのものを考え出している。石原くんは、随所でわたしに「ああではないのか? こうではないか?」と質問し、その質問の鋭さにタジタジすることも再三だった。  おかげで、わたしは『平家物語』を楽しく読み通すことができた。そして、わたしとしては珍しく�語り下ろし�というスタイルで、この『平家物語の知恵』をまとめることができた。言っちゃナンだが、読んでソンしない本がつくれた——と、自負している。  それにしても、手間隙《てまひま》のかかる仕事であった。だいたいが、わたしみたいな怠け者にオイソレと『平家物語』を読み通す力などない。恥ずかしい話だけれど、水原一校註の『平家物語』(新潮日本古典集成)や杉本圭三郎訳注の『平家物語』(講談社学術文庫)と首っ引きで、さらには中山義秀訳『平家物語』(河出書房新社・日本古典文庫)まで引っくり返す始末だ。また木下順二さんの『古典を読む—平家物語』(岩波書店)や大原富枝さんの『平家物語』(集英社)も参考にさせてもらった。そして、つねにわたしの傍にあったのは、上原まりさんが琵琶で語ったカセットテープ『平家物語 夢とまぼろし』(東京書芸館)である。いずれも記して謝意としたい。  それにしても、  この鎌倉時代の軍記物語である『平家物語』は、中山行長(不詳)の作とも伝えられるが、もともとは全国を漂泊する琵琶法師の口伝が集成されたものだろう。石原くんがわたしに語り下ろしの形をすすめたのは、そういう意味で、まさに適切であった。  おかげで、わたしはわたしなりの『平家物語』を語り下ろすことができた。わたしのサラリーマン生活は二十年足らずではあったけれど、このわたしをつくってくれたものは、この二十年間のサラリーマン生活だった——とわたしはいまも信じている。  その時々の出処進退を、わたしは、いま『平家物語』に托して語る。ひとつ、座興と思って読んでいただきたい。 [#地付き]青木雨彦   この作品は一九八七年九月、ダイヤモンド社より刊行されたものです。