[#表紙(表紙.jpg)] トンコ 雀野日名子 目 次  トンコ  ぞんび団地  黙 契 [#改ページ]   トンコ     一  おだやかな晩秋の陽光に包まれた高速道路には、豚の血臭が漂っていた。  横転したトラックの荷台からは次々に豚が飛びだし、突っこんできた車に撥《は》ねとばされていく。アスファルトに叩《たた》きつけられ脳や臓物を散らすたびに、運搬業者の運転手ふたりが駆けずりまわった。そっち行った、そっちだそっちと右往左往する彼らを、道路脇の草むらに蹲《うずくま》る一頭の豚が凝視していた。  背中に「063F11」と書かれたメスである。生後六ヶ月、親豚よりはるかに小さいが、体重は百キロ強。今日、自分の身に何かが起こるであろうことを、この豚は予感していた。きょうだいが一頭、二頭と消え始めたときから、この豚は「なにか」を感じていたのだ。  配合飼料しか与えられなかったきょうだいたちに、ある朝、好物のリンゴが与えられる。尾を振ってリンゴを囓《かじ》っていると、豚舎の従業員が現れる。きょうだいたちは通路へと出され、トラックに乗せられ、去っていく。そんなことが始まったのは、ひとつきほど前からだった。  最初に消えたのは、「063F11」の二番目のきょうだいにあたる「063M02」だった。柵外《さくがい》の通路へと追われた体重百十キロのこのオスに、「F11」は、どこへ行くのかと窺《うかが》うように鼻を鳴らしてみせた。「M02」には「F11」の鼻鳴らしなど聞こえていなかった。聞こえていたとしても、鼻鳴らしを返す余裕などなかっただろう。このオスは、リンゴの汁がついた口で甲高く叫びながら、他の豚ともども暴れることに終始していた。職員の脚のあいだを抜けようとして転び、振りきって柵を跳び越えようとして前肢をぶつけ、結局は「通路のつきあたり」にあるトラックの荷台へと追いこまれた。「M02」の激しい鳴き声がトラックの音とともに去っていくと、「F11」は横になって休眠した。「M02」の粗暴ぶりは今に始まったことではない。ワクチン接種を受けるときでさえも、「M02」だけは騒いで暴れ、糞《ふん》を漏らした。去勢された雄豚はおとなしいと言われるが、「M02」は激昂《げつこう》しやすく、その反面|臆病《おくびよう》であり、恐怖を感じれば所かまわず脱糞《だつぷん》した。「F11」は、「M02」はそのうち騒々しく鳴きながら戻ってくるのだろうと考えていた。しかしひとつきが過ぎた今に至っても、消えたままである。  次に消えたのは、別のきょうだい三頭である。さきのきょうだい同様に追い立てられる三頭に、柵の内側にいる「F11」は、どこに行くのかと問うように鼻を鳴らした。姉豚である「F06」は低く鼻を鳴らし返すと、頭を垂れて通路を歩き去った。その後ろを、別の姉豚「F08」が大急ぎで付いていった。「F06」の妹である「F08」は、姉豚の姿が見えなくなるたびにパニックに陥り、喉《のど》が裂けんばかりの声で鳴きわめく気質だった。いっぽうの「F06」は、他のきょうだいとは異なり、めったに鳴かぬ性格であった。暑い夏の夜に、妹豚が皮下脂肪の多い体を擦り寄せて甘えてきても、黙っていた。柵に擦りつけても背中の痒《かゆ》い箇所に届かぬと妹豚が苛立《いらだ》ちを見せれば、この姉豚はその背を鼻で掻《か》いてやっていた。  その日の朝、与えられたリンゴを姉豚が囓っていたとき、自分の分を食い終えた妹豚が、それも欲しいと言わんばかりに前肢で床を叩いた。姉豚は嚥下《えんか》しようとしたリンゴを床に吐き出し、妹豚が食いつくのを眺めていた。そのとき柵が開けられ、姉豚は通路へと出され、走らされた。それを見た妹豚が、床のリンゴを完食せぬまま大急ぎで追いかけた。  二頭から少し遅れて、兄豚の「M07」が通路を小走りしてきた。「F11」が鼻を鳴らすと、大事そうにリンゴをくわえた「M07」は鼻を鳴らし返した。そして通路を跳びはね、短い尾を振り、得意げに屁《へ》を放ち、リンゴをしっかりくわえて「通路のつきあたり」へと向かっていった。  この朝、豚舎の外に出されたのは二十五頭。トラックの荷台が閉じられても「M07」だけはリンゴをくわえ、高らかに放屁《ほうひ》していた。「F06」と「F08」の姉妹豚は荷台の隅に並び、発車とともに遠ざかっていく豚舎を眺めていた。残された「F11」は三頭の帰りを待った。しかし一週間以上が過ぎた今になっても戻ってこない。  そして今日、昼。  リンゴを与えられ、尾を振りながら囓っていた「F11」は、きょうだい同様、いきなり通路へと出された。わけがわからぬまま走らされ、気が付くとトラックの荷台に追いこまれていた。荷台が閉められると、豚たちは頭を右へ左へと動かし、周囲を窺った。「F11」も視力の弱い目であたりを見回していたが、二番目のきょうだい「M02」の糞臭を嗅《か》ぎとり、鼻をひくつかせた。  いつ戻ってきたのか。荷台のどこにいるのか。「F11」は姿を求めて頭を動かしたが、それらしき姿はない。  ぶぐぐぅ。 「F08」が姉豚「F06」に甘える声がする。いつ戻ってきたのか。荷台のどこにいるのか。「F11」は耳を小刻みに動かした。  ぼととん、ぼととん、ぼひ。  今度は「M07」である。荷台のいずこかで跳びはね、放屁している。気配はすれども姿は見えず。「F11」は鼻を鳴らし、きょうだいたちに呼びかけた。しかしやはり、気配はすれども姿は見えず。  やがて、「F11」を含む三十六頭を積んだトラックは走り出した。繁殖用豚舎の横を通りすぎたとき、「F11」は母豚の臭いを嗅ぎとった。生後三週間で引き離された母豚だが、「F11」はその臭いを記憶していた。「F11」は荷台の柵から鼻を出し、母豚に向かって「ぐう」と鳴いた。反応はなかった。この母豚にとって「F11」は、種付けされ腹から出した仔豚《こぶた》の一匹に過ぎなかった。「F11」を乗せたトラックが去っていくこのときも、母豚は新たな仔豚を産出すべく、交尾の真っ最中であった。  トラックは養豚場を離れ、高速道路へと入った。出発時には騒いでいた豚たちも、おとなしくなっていた。だが「F11」だけは、きょうだいはどこかと鼻と耳を動かしていた。  修学旅行のバスが豚トラックを追い抜いた。車窓にはりついた子供たちが豚を見て大騒ぎし、車内で菓子や果物を掲げた。すると「F11」の耳には、「M07」が跳びはね、興奮気味に放屁する音が聞こえてきた。  家族連れのワゴンが豚トラックを追い抜いた。後部席の幼子が豚を指さすと、隣に座る母親が渋面をつくり、我が子の顔を背けさせた。ワゴンを目で追っていた「F11」は、荷台の隅で外を眺めている「F06」「F08」の姉妹豚の気配を感じ、「ぐう」と呼びかけた。気配は消えた。  一台の車が豚トラックに無理な追い越しをかけ、避けようとしたトラックが左右に揺れた。二番目のきょうだい「M02」が甲高く叫び、脱糞する臭いがした。  姿の見えないきょうだいに「F11」が鼻を鳴らしたそのとき。  左右に揺れたトラックが大きく傾いた。豚たちの悲鳴は、コンクリート壁への激突音とともに掻き消された。  荷台から転がり落ちた「F11」は血の臭いを嗅ぎとった。視力の弱い目では、何かが潰《つぶ》れて散乱しているとしか認識できなかったが、ともにリンゴを与えられ、通路へと追われ、荷台に載せられた豚たちであることは理解できた。潰れた仲間を鼻で押したが動かない。わずかに動いているものもいたが、痙攣《けいれん》の後、動かなくなる。「F11」は弱々しく鳴いてきょうだいを求めると、中央分離帯の草むらに蹲った。そして、右往左往する運搬業者を凝視した。  ぶひ、ぷぐぐぅ、ぼととん、ぼひ。  きょうだいたちの声に、「F11」は頭を上げた。  ぶひ、ぷぐぐぅ、ぼととん、ぼひ。 「F11」は、姿の見えぬきょうだいへ「ぷぎ」と応《こた》えた。それが災いした。運転手ふたりが草むらを指さし「F11」めがけて走ってきた。両耳の毛を逆立てた「F11」の耳に、  ぶぐぐぅ。  との声が届いた。反対車線を越えた、山林の奥からである。 「F11」は運転手の腕をすり抜け、反対車線を横切るべく突進した。路肩まで約十四メートル。左側からは猛スピードで車が迫り、クラクションが鳴り響く。「F11」は短い四肢でアスファルトを蹴り続けた。百余キロの体を揺さぶり、耳刻の入った耳をなびかせ、山林を目指した。高速バスが突っこんでくると同時に「F11」はガードレールの下をくぐり抜け、バスの風圧で斜面を転がり落ちた。四回でんぐり返ったあげく倒木に衝突した「F11」は、後肢をばたつかせて起きあがり、鼻に入った枯れ葉をブブッと吹き飛ばした。そしてきょうだいの声を目指すべく、山林斜面を登り始めたのである。     二  山林の斜面を登る「F11」は泥まみれになり、背中に書かれた番号は消えかかっていた。したがって「F11」を番号ではなく「トンコ」と呼ぶことにする。実際「F11」は仔豚時代そう呼ばれていた。養豚場長の孫たちが豚舎の手伝いに来ては、乳離れしたばかりの幼豚にリンゴを与え、囓《かじ》ったり転がしたりする姿を愛《め》でて「トンコ、トンコ」と呼びかけていたのだ。ゆえに「F11」も「トンコ」であり、きょうだいも「トンコ」ということになるのだが。  トンコは土を嗅ぎながら山を登り続けていた。草むらや樹木の陰から物音がすれば背中の毛を逆立て、大型昆虫が飛び出すと鼻先を茂みに突っこんだ(これで隠れているつもりなのである)。ただ一度の春と夏を豚舎で経験しただけの豚である。獣道に足を踏み入れては野ネズミに狼狽《ろうばい》し、草むらに進んでは蛇の死骸《しがい》に驚愕《きようがく》した。トンコは木陰に蹲《うずくま》り、右を見ては弱々しく鼻を鳴らし、左を見ては小刻みに耳を動かした。  ぶひ。  ぷぎぃぃ。  ぼととん、ぼひ。  声だけは聞こえ続ける。そこの木陰にいるのかと行ってみると、雑草が風に揺れているにすぎない。すると今度は倒木の陰から声がする。トンコが近寄ると、ゼニゴケに覆われた土に枯れ葉が散っているだけである。  ぶひ。  ぷぎぃぃ。  ぼととん、ぼひ。  声はすれども姿は見えず。進めども、進めども。  ぶひ。  ぷぎぃぃ。  ぼととん、ぼひ。  晩秋の日暮れは早く、周囲は夕闇に包まれていく。トンコは石に躓《つまず》き、腹を打ちつけた。弱々しく鳴いたトンコは、倒木の陰に蹲った。  豚舎では、柵《さく》に体を打ちつけて「ぎぎ」と鳴けば、きょうだいが寄ってきた。荒くれの「M02」はトンコを攻撃[#「攻撃」に傍点]した柵に頭突きをかまし、「F06」と「F08」の姉妹豚はトンコの打撲箇所を嗅《か》いだ。「M07」は放屁《ほうひ》のごとく鼻を鳴らして駆けつけるとそこらじゅうを嗅ぎまわり、トンコが鳴いた原因がリンゴでないと分かると、腹立たしげな屁《へ》を放って寝場所へと戻っていった。豚舎の給餌《きゆうじ》器には常に一定量のエサが用意されていたが、場長の孫たちがときおり持参するリンゴの味は豚たちを魅了した。特に「M07」は、リンゴを嗅ぎつけるのが早かった。興奮のあまり放屁し、時には失禁し、リンゴを熱烈歓迎した。  木陰に蹲ったトンコは、小さな実がいくつも転がっていることに気が付いた。鼻を近づけたトンコは甘い匂いを嗅ぎとり、口に入れてみた。リンゴに似た味がしたため、さらに食ってみた。頭を上げて喜びの鳴き声を発した。  ぶごごお、ぼととん、ぼひ。  きょうだいの声がする。トンコは口から果実片をこぼしつつ、耳を動かした。数メートル離れた木の根元から「M07」の放屁臭が漂ってくる。しかしそこに「M07」の姿はなく、小さな彼岸花が咲いているだけである。近づいて花を嗅ごうとしたトンコは、根元のウロに何かが埋もれていることに気が付いた。赤い布きれが土から顔を出している。トンコはウロに鼻先を突っこみ、布きれを引いてみた。地中で何かに絡まっているのか、びくともしない。  トンコはウロの周辺を鼻で押したり突いたりした。枝葉が揺れ、さきほどの木の実が次々に落下した。トンコの関心は木の実に移った。トンコは尾を振り、リンゴに似た味の木の実を貪《むさぼ》った。きょうだいたちも駆けつけてくるのではないかと、トンコは口を動かしつつあたりを窺《うかが》った。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  トンコは鼻を鳴らし、どこからともなく聞こえてくる声に応えた。そして自分の居場所と、美味《うま》い木の実があることを知らせた。しかしきょうだいはいっこうに現れず、声も消えていく。しかししばらくすると、また声が聞こえてくる。トンコが応えると声は消える。  そのようなことを繰り返しているうちに、トンコは眠気を覚え、小さな目をしょぼつかせて草むらで横になった。木陰で物音がするたびに目を開け、頭を上げ、あたりを嗅いでいたトンコだったが、そのうち物音がしても耳を動かすだけとなり、やがて何が聞こえても目を開けなくなり、鼾《いびき》をかきだした。鼾をかきながらも、短い尾を小刻みに振り、口や前肢を動かしていた。乳を飲むときの癖である。この世に生を受けて六ヶ月。肉豚としては一人前のトンコだが、リンゴの味を口にするたびに、いまだに乳を飲む夢を見た。  十二頭きょうだいの十一番目だったトンコは、体が小さく力も弱く、いつも母豚の後肢に近い位置で乳を飲んでいた。体が大きく力が強い仔豚は、前肢近くの乳房を奪いあう。荒くれの「M02」は体の大きい他のきょうだいとともに、一番良く出る乳房を奪いあった。しかし「M02」は踏んばりの力が弱く、結局押し出されては悔し紛れに脱糞《だつぷん》していた。「M02」を負かしたきょうだいは繁殖豚として飼育されることとなり、「M02」は睾丸《こうがん》を抜かれて肉豚となることが決められた。  八番目のきょうだい「F08」も出の良い乳を目指したが、簡単に押し出されては甲高い声で喚《わめ》いた。乳を飲みはぐれそうになると、いよいよもって甲高く叫び、姉豚である「F06」が吸い付いている乳房を横取りした。姉豚は妹豚に乳房を譲り、隣の乳房をくわえた。その乳房は「M07」の定位置であったが、「M07」は乳を少し飲んでは母豚の尾を噛《か》みに行ったり、きょうだいの背によじのぼってみたりと、定位置を空けていることが多かった。  十二頭きょうだいの下から二番目であるトンコは、出の悪い乳房をくわえ、鼻で押すのが常だった。同じく体が小さい末子のオス「M12」と二頭、体の大きなきょうだいと離れた場所で鼻を並べ、出の悪い乳をせっせと押していた。  ある日、細い四肢を震わせつつ乳に吸い付いていた「M12」は、ぷへけほと咳《せき》をして蹲った。今の音は何かと窺うようにトンコが鼻を押しつけると、「M12」の体は母豚の腹よりも熱かった。その時、水を飲もうと急に立ち上がった母豚が、気が変わったのか再びのしり[#「のしり」に傍点]と横になり、蹲っていた「M12」を押し潰《つぶ》した。掃除用具を手に現れた若い職員が気づき、「M12」を助け出すや呼吸と心音を確かめた。職員は必死で「M12」の体を撫《な》でていたが、小刻みに波打っていた腹は次第に動きが弱くなり、止まった。若い職員はその後もしばらく「M12」の体を擦《さす》り続けていたものの、やがて首に巻いたタオルをはずし、「M12」を包み、胸に抱えてその場を後にした。どこに行くのかと問うようにトンコは小さく鳴いた。タオルから顔を覗《のぞ》かせる「M12」の口からは、桃色の乳が垂れ落ちただけだった。     三  草むらで眠っていたトンコは、カラスが落とした松ぼっくりを脳天に食らい、小さな目をしょぼつかせた。既に夜は明け、山林には淡い朝陽が差しこんでいた。  トンコは起きあがると、朝露に満ちた空気を嗅いだ。濡《ぬ》れた土を嗅ぎ、落ち葉を嗅ぎ、ミミズを嗅いだ。トンコの知る朝の臭い──トウモロコシ粉や米糠《こめぬか》の匂いで満たされる豚舎の朝──とは全く異なる臭いだった。トンコはそこらじゅうを嗅いだ。石ころを嗅ぎ、苔《こけ》を嗅ぎ、鳥の糞を嗅いだ。あちこち嗅いでいたトンコは、昨日の木の実が散乱していることに気づき、食い始めた。音をたてて咀嚼《そしやく》しては上を向き、喉《のど》に流しこんで目を細める。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  トンコは口を動かしたまま、声のほうに頭を向けた。彼岸花が咲いていたあの樹木からである。トンコは小走りした。しかしきょうだいの姿はなく、昨日と同じように、赤い布きれがウロから顔をのぞかせているだけである。  トンコは布きれを引っぱった。今度はするすると動き、引きずられるようにして石地蔵が土中から現れた。トンコの肩高ほどの石地蔵で、引っぱった布きれはヨダレカケだった。赤く湿ったヨダレカケは、地蔵の首の後ろで結ばれている。どれだけのあいだ地中に埋もれていたのか。水分を吸いこんだ結び目は固くなっていた。  トンコは地蔵を嗅いだ。目を閉じ微笑する地蔵は微動だにせず、トンコに手を合わせている。トンコは地蔵を鼻で押した。わずかに前傾し、合掌したまま頭《こうべ》を垂れた。トンコは地蔵の前で犬座し、耳をぱたぱたと動かしてみた。地蔵は微動だにせず、トンコに合掌を捧《ささ》げるばかりだった。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  木の幹の内側から、きょうだいの声が聞こえてくる。トンコは後肢で立ちあがると、木の幹に鼻を押しつけた。前肢で幹を掻《か》こうともした。頭の重みでひっくり返った。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ……。  声が消えていく。起きあがったトンコは幹を鼻で押したり突いたりしたが、力なく尾を降ろし、その場を後にした。  草むらを掻き分け、倒木を越え、落ち葉を踏み、木の実や昆虫を拾い食いし、トンコは山林を歩き続けた。物音がするたびに耳を立て、物陰に頭を隠したトンコだったが、そのうち聴覚と嗅覚《きゆうかく》だけで、物音を立てたのが風か小動物かを区別できるようになった。小動物や虫を鼻で小突いて遊ぶ余裕も生まれてきた。  蝶《ちよう》を追いつつ歩いていたトンコは、見晴らしの良い場所に出た。頭上にはどこまでも青空が広がり、眼下にはコスモスが咲き乱れている。視力と色覚の弱い豚の目には、淡い色の大地が揺れているとしか映らなかったが、トンコは身動きもせずに眺めていた。コスモス畑は高速道路からも見えていたはずだが、運搬トラックの荷台で揺られていたときのトンコは気がつかなかった。  コスモスと似た色の耳をぱたぱたと動かし、ほのかに甘い風を嗅《か》ぎ、トンコは「ぐっぐ」と鼻を鳴らした。興味深いものや見なれぬものを発見したとき、そう鼻を鳴らしてきょうだい同士知らせあうのが常だった。トンコが「ぐっぐ」と鳴けば、まず「M07」が屁を放ちながら現れ、リンゴを期待して周囲を嗅いだ。次に「F06」がおっとりと現れ、その後を追って「F08」が現れた。最後は「M02」が鼻息荒く現れるのが常だった。そしてきょうだいが鼻を突きあわせ、珍しいもの面白いものを取り囲み、嗅いだり噛んだり鼻で押したりした。  しかし今、トンコが鼻を鳴らしても、きょうだいは現れなかった。トンコはふてくされたように鼻で土を掘り散らした。しかしすぐに頭をあげ、耳を動かし、鼻をひくつかせた。人間と犬の臭いが、コスモス畑の方向から流れてくる。トンコは身を乗り出した。身を乗り出しすぎ、斜面で前肢を滑らせそうになったが、地面が凹《へこ》んで前肢が引っかかったため、滑落の難を逃れた。  トンコが野生豚なら、簡単に地面が凹む場所は危険だと察し、ただちにその場を離れたことだろう。しかしトンコは、ただ一度の春と夏を、豚舎で経験しただけの豚である。地盤の緩さを警戒することもなく、コスモス畑を見つめ、人間と犬の臭いに鼻を動かすばかりだった。  コスモス畑の横には『わんちゃん広場』と書かれたドッグランがあり、数匹の犬と飼い主が戯れていた。ボールを投げる飼い主、追う犬。芸を教えこむ飼い主、尾を振る犬。ブルテリアやピットブルといった攻撃性の強い犬もいたが、遊びに夢中で、トンコに気づく様子はない。トンコはコスモスの風を嗅ぎながらドッグランを眺めていた。そして、弱々しく「ぷげ」と鳴いた。  豚舎にも犬がいた。  オスの若い柴《しば》犬で、豚舎の番犬として飼われていたが、場長の孫たちに甘やかされ、豚にばかり吠《ほ》える犬となった。番犬としての用をなさないこの犬に、孫たちは芸を教えようとした。「待て」「伏せ」「お座り」は辛うじてできたが、「おまわり」は何度教えられても理解できないようだった。なんとか習得させようと、孫たちはジャーキーをチラつかせた。「おまわり」らしき素振りを見せたとき孫たちは大歓声を上げ、骨ガムを与えた。犬は骨ガムを平らげたものの、それきり「おまわりもどき[#「もどき」に傍点]」をする様子はなかった。孫たちはより大きな骨ガムを購入し、犬の機嫌を取ろうとした。駄目だった。  かわりに「おまわりもどき[#「もどき」に傍点]」を始めたのは、トンコのきょうだいたちだった。ぐるりと回れば美味《うま》いものが与えられる。おそらくリンゴを与えられる──そう察したきょうだいたちは、場長の孫たちの姿を見かけるたびに、ゆるゆると一回りした。孫たちは目を輝かせ、手伝いに来るたびにトンコたちにリンゴを与えた。若い従業員たちは笑いながら豚に拍手した。  豚のほうが好待遇を受けていると気づいたのか、犬はある日「おまわり」をやってみせた。豚は一回転するだけだったが犬は二回転した。狂喜乱舞した孫たちが大量の褒美を与えるのを知ったらしく、トンコのすぐ上のきょうだいである「M10」は五回転してみせた。孫たちが抱えきれないほどのリンゴを腕に豚舎へ向かうようになると、犬は激しく吠えて十回転した。しかし二メートルのリードで足と首ががんじ搦《がら》めになってしまった。犬の情けない声を聞いて駆けつけた孫たちが、リードを解《ほど》こうと四苦八苦していると、「M10」はここぞとばかりに鼻を鳴らして存在を誇示しつつ、十回、十五回と回り続けた。とうとう平衡感覚を失《な》くして柵《さく》の隙間に突っこんだ「M10」は、鼻先が抜けなくなり、短い四肢をバタつかせた。トンコやきょうだいが「M10」を起こそうと鼻で押したり、柵を小突いたりしていると、騒動を聞きつけた場長と従業員が走りよった。「M10」の鼻を何度も押してようやく抜けさせたものの、鼻先にはミミズ腫《ば》れができていた。ひしゃげた柵を見て従業員たちは頭を抱え、場長はため息をついた。それ以来、豚たちが「おまわり」しようとする素振りを見せると、場長は腕組みして睨《にら》むようになった。そして、今日は百回転させると言いながらリンゴを手にやってきた孫たちの頭を、こつんと叩《たた》いた。  数日後、「M10」は、鼻に載せた大鋸屑《おがくず》を落とさずに回転するという技をやってのけた。しかし、以前ならば笑いながら拍手した若い職員たちも、叱った場長も、その日は無口だった。 「M10」はリンゴを与えられ、柵の外へと出された。他の豚ともども通路を走り、トラックの荷台へと駆け上がった「M10」に、犬が吠えかかった。「M10」は犬を見おろすと得意げにおまわりをした。ますます吠えたてる犬の傍らで、場長と従業員はトラックに向かって静かに手を振っていた。  コスモス畑の横にあるドッグランでは、洋服を着たチワワが「おまわり」を教え込まれていた。同じ模様の服を着た中年女が、チワワの鼻先にエサを掲げ、誘導するように円を描いている。チワワはエサを一瞥《いちべつ》し、好き勝手な遊びをするばかり。女はさらにエサを出すとチワワに語りかけ、笑いかけ、歩かせようとする。チワワはエサだけ引ったくって食い始めた。女が撫《な》でようとすると牙《きば》を剥《む》いた。女の夫らしき中年男がそばで笑っていた。  見晴らしの良い場所でドッグランを見おろしていたトンコは、その場でゆるゆると回ってみせた。チワワよりも芸の出来は良かった。  チワワから少し離れた場所では、ピットブルとブルテリアがボールを追いかけていた。若い男が二匹の名を呼んだが戻ってこないので、男が犬たちのもとへ向かった。ボールを取りあげようとして吠えかかられ、男は笑いながら後ずさった。転がるボールを追うピットブルとブルテリアに刺激され、チワワまでもが走り出した。女はチワワの名を叫び、踵《かかと》の高いブーツを履いたまま追いかけた。ピットブルとブルテリアの飼い主は、エサの袋を掲げて愛犬たちを呼んだ。ドッグランの隅でゴミを漁《あさ》っていた数羽のカラスが、騒ぎに巻きこまれまいと山林へ飛び立った。  足元の不安定な山林の斜面でゆるゆるぐるぐる回り続けるトンコの頭上を、カラスたちが通過、一羽の落とした生ゴミがトンコの脳天を打った。地面に転がった生ゴミを嗅いだトンコは短い尾を振った。珍しい匂いのリンゴ芯《しん》──トンコの目にはそう映っていた。実際は、芳香剤の萎《しな》びた芯だったのだが。 「リンゴ芯」を囓《かじ》ろうとしたときトンコの口元が滑り、芳香剤は勢いよく斜面を転がっていった。トンコは無我夢中で追いかけ、草むらの穴に落ちた「リンゴ芯」を囓ろうと鼻を突っこんだ。穴は深く、届きそうにない。トンコは鼻で穴を広げ始めた。豚は警戒心の強い動物だが、トンコは何かに興味を引かれると他のことが見えなくなりがちだった。だから気が付かなかったのだ。自分がドッグランのすぐ近くまで降りてきていたことにも、ドッグランの柵を越えてやってきた、三匹の犬に取り囲まれていたことにも。  がう。  気付いたときは遅かった。泥まみれの顔をあげたトンコに、ブルテリアとピットブルは牙を剥いた。トンコは両耳の毛を逆立てた。  犬たちは鼻に皺《しわ》を寄せ、激しく吠えたてた。トンコは口から泡を飛ばして睨みつけ、頭を振って威嚇《いかく》した。野生豚と違って牙のないトンコにとっては、精一杯の威嚇だった。  ブルテリアの飼い主である若い男と、チワワ女の夫である中年男が、愛犬の名を呼びつつやってきた。トンコを見た二人は後ずさり、昨日の事故の脱走豚ではないかと騒ぎ始めた。高速道路での豚トラック横転事故は、地元ニュースで大きく報道されていた。  二十六頭の生存豚と四頭の轢死《れきし》豚は回収されたが、残りの六頭が曖昧《あいまい》だった。トラックの下敷きとなった豚が、五頭なのか六頭なのか、はっきり確認できる状態ではない。トラック会社の運転手が「一頭は山林に逃げた」と証言しているため、山林捜索の準備が進められている──それが現時点までの、報道内容だった。  二人の男は枯れ枝を拾い、引け腰になりながらもトンコを追い払おうとした。犬たちの興奮もヒートアップし、どこの肉から食いちぎってやろうかと凄《すさ》まじい形相を見せていた。  そこへ、チワワの飼い主である女が金切り声とともに現れた。きゃあああテリーちゃん何してるの踏み潰《つぶ》されるわダメええと愛犬を抱えあげるやいなや、トンコに石を投げつけた。逃げようとしたトンコにブルテリアとピットブルが吠えかかった。トンコは背中の毛を逆立て、口から泡をこぼし、前肢で地面を叩いて威嚇した。チワワ女は悲鳴を上げ、その夫は「警察、警察」と叫んだ。  トンコに投げつける石を探して足元を見まわしたチワワ女は、『ペットおやつ お徳用ジャーキー』と書かれた袋を見つけ、またもや悲鳴を上げた。ブルテリアとピットブルのエサである。女はチワワの口をこじ開けて覗《のぞ》きこみ、泣き出さんばかりの叫び声をあげた。  チワワ女は、ブルテリアたちの飼い主を罵《ののし》ると袋を突きつけた。あなたがこんなものを持ち歩くから私のテリーちゃんが間違って食べた、どうしてくれるのと大泣きしている。罵られた相手が、こんなものとはなんだチャンプとマイキーはいつもそれを食べていると反論すると、これは品質の悪い肉を使っている、テリーちゃんはゴールドロイヤルの肉しか食べない、テリーちゃんの体が穢《けが》されたとチワワ女は泣き叫び、袋を地面に叩きつけた。そして、こぼれ出たジャーキーを忌々しげに踏みつけた。何をしやがるこのブス出っ歯と若い男が怒鳴ると、貴様もう一度言ってみろこのマダラハゲ、とチワワ女の夫がつかみかかった。若い男は、このデブぶっ殺すとナイフを取り出しチワワ夫の腕を切りつけた。血の臭いを嗅《か》ぎつけた犬たちは興奮状態の極致に達し、チワワ夫は腕を押さえて「警察を呼べ救急車を呼べ」と妻に叫んだ。チワワ女はテリーちゃんテリーちゃんと泣き叫ぶばかりで、愛犬の喉《のど》に指を突っこんではジャーキーを吐かせんと血走った目を吊《つ》り上げている。夫が警察だ救急車だと叫んでも、チワワ女はテリーちゃん早く吐いてと泣くばかり。喉に指を突っこまれたチワワは牙を剥いて女の手を噛《か》みまくるが、女は手を真っ赤にしながらも喉に指を突っこみ、未消化の茶色い塊が糸を引いて落ちると、テリーちゃんごめんねごめんねと犬を抱きしめ激しく接吻《せつぷん》した。そして嘔吐《おうと》したジャーキーを忌々しげに蹴《け》りのけた。  チワワ夫が携帯で一一〇番すると、ナイフを手にした男は逃げだした。飼い主が逃げてもなお吠《ほ》え続けていたブルテリアとピットブルだが、突如、後ずさり始めた。女に抱きかかえられて吠えていたチワワも小刻みに震え始めた。  三匹とも、山林の奥を凝視している。  どうしたのテリーちゃんとチワワ女が狼狽《ろうばい》すると、チワワは目を剥いて痙攣《けいれん》、多量の泡を吹きだした。テリーちゃああん! と絶叫した女は、夫の携帯を引ったくるやいなや一一九を押した。  トンコは、きょうだいが呼ぶ山林を目指して駆けだした。滑りそうになりながらも短い四肢で土を蹴り、斜面を登り続けた。  突然、トンコの足元が陥没した。地盤の緩さを警戒しなかった報いだった。落下したトンコは穴底に腹を打ちつけた。力なく鼻を鳴らしたトンコに、どっさりと土が崩れ落ちた。土から突き出た鼻が痙攣し、やがて、動かなくなった。     四  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  きょうだいの声が、暗い土の向こうから漂ってくる。  ぶぉおん、ぶおぉん。  低い羽音が耳にまとわりつく。トンコは耳の中に入りこもうとする蠅を耳で追い払い、土塊《つちくれ》を鼻息で吹き飛ばした。  ぼぼぼひ。  屁《へ》の音が響き、穴からひょっこりと豚の顔が覗いた。熟しすぎのリンゴをくわえた「M07」である。トンコが土を除《の》けて起きあがると、「M07」は「ごっ」と鳴いてトンコを威嚇した。リンゴを取られまいとするときの、敵意のない威嚇である。涎《よだれ》まみれの口にしっかりリンゴをくわえた「M07」は、穴の向こうへ顔を引っこめた。短い尾を振り振り、「M07」の後へと続こうと穴を這《は》い上がったトンコは、周囲を見回し、小さな目を瞬《しばたた》かせた。 「M07」の姿はなく、樹木の合間からは、馴染《なじ》みのある匂いが風に運ばれてくる。匂いのほうへと歩きだしたトンコは、視界が開けるやいなや「ぷげ」と鳴いた。  山林を切り開いた大地に豚舎が建っており、きょうだいの匂いや声がする。「M07」は一足先に豚舎に戻ったのだとトンコは判断した。寝場所や給餌《きゆうじ》場の状態を全く気にしない「M07」だったが、リンゴを堪能《たんのう》する場所にだけはこだわりを見せる。大鋸屑《おがくず》がたっぷりあること。寝返りを打ちやすいこと。そのような場所で腹這いになり、前肢で抱えこむようにしてリンゴを食する「M07」は、いつも至福の表情を浮かべていた。  豚舎へ向かって、のしのしと駆けだしたトンコは、異様な気配を感じて足を止め、草むらに蹲《うずくま》った。豚舎から少し離れたプレハブ事務所の一階に、巨大マイクやカメラを掲げた者たちが入っていく。大きなガラス窓の向こうでは中年男女三人がテーブルに着き、従業員の運んできた皿にナイフとフォークを動かしている。その傍らには、作業服姿の場長が俯《うつむ》き加減に立っていた。  養豚場にときおり見知らぬ人間が来ることを、トンコは知っている。白長靴に白衣を着用した一同が、場長の案内で豚舎内をぐるりと歩きながら、メモや写真をとることもある。あるいは、白エプロンに帽子姿の子供集団が仔豚《こぶた》を抱え、歓声をあげることもある。そして彼らは豚舎を出た後、プレハブ事務所で従業員の運んできた皿の料理──養豚場の出荷肉で作ったソーセージやハムを食す。肉を平らげた大人たちは満足げな顔でフォークを置き、皿に向かって深々と手を合わせる。子供集団は食事を終えると、場長手製の「見学のしおり」を持ってプレハブ事務所を後にする。彼らが食事に用いる銀色の歯が付いた棒──フォークを目にするたびに、それが突き刺す道具だと理解しているトンコは耳を立てた。しかしそれを使って子供たちが何を食べるのかは、トンコは理解していない。  プレハブで銀色の棒を動かしてはガッガッと口に運ぶ男女三人を、草むらのトンコは凝視していた。ハムを小突いては匂いを嗅ぎ、脂汁を飛ばしてベーコンを噛みちぎり、口の周りをぎとぎとと光らせてはゲップし、ゲップしてはソーセージを食いちぎる。  しばらくして、顎《あご》の細い男がフォークとナイフを放り出し、首を横に振った。次に二重顎の女がハムを突き刺したままのフォークを投げ捨て、脂身に甘みが足りぬと両手を広げた。さらに鼈甲《べつこう》メガネの男が立ちあがって皿を指し、ジューシーではないと怒鳴った。場長が何か言おうとすると三人は、オーガニック飼料を与えていないのではないか肥育環境がのびのびしていないのではないかモーツァルトを聴かせていないのではないかと畳み込み、一斉に立ちあがるやプレハブを出て豚舎へと向かい、カメラやマイクが先生先生と叫びながら直ちに追いかけた。  ほどなく豚舎が豚の声で騒がしくなり、姉豚を呼ぶ「F08」の甲高い悲鳴が聞こえた。草むらに蹲っていたトンコは立ちあがり、「ぎょっぎょっ」と声を発した。きょうだいの身に何かが起きたとき互いに発しあう、トンコたち独特の声である。柵《さく》に挟まって身動きできなくなったり、虻《あぶ》に刺されたりしたとき、こう鳴いて相手の具合を確かめ、あるいは自分の状態を知らせるのが常だった。  ぎょっぎょっと鳴くトンコのもとへ、肉が硬いと言いながら背を叩《たた》く音が豚舎から聞こえてきた。そのあげく、なによこのブタ、ギヤアアアと女の悲鳴が空気を切り裂き、同時に「M02」の荒くれた足音が響き渡った。クソかけられた屁ェこかれた臭え臭えチクショウ馬鹿ブタとカメラマンたちが逃げ出してきた。放屁《ほうひ》の主は興奮しすぎてリンゴを紛失したのか、「ごっごっ」と激しく鳴いていた。  豚舎へ駆けつけた場長と三人とのあいだで小競り合いが始まった。うちの豚に何をするんだ出ていってくださいと三人を押しのけんとする場長に、あなたこそなんですかここにおられる先生方は美食年鑑の総監修をなさっているんですよとマイクを手にした女が場長を押し戻し、先生がここのブタはDランクだと書けばこの養豚場は倒産しますよとカメラマンが加勢した。別にそんなモンに誉めてもらいたいなんて思っちゃいない、そもそもおたくらが強引に乗りこんできたんじゃないですかと場長が反論した。町長の顔を潰《つぶ》せんから取材を承諾しただけだ、正直言っておたくらみたいな人に食べてほしくない──。  来客たちの騒ぎに豚舎の豚たちはますます騒ぎだし、トンコも草むらでぐるぐる回りながら「ぎょっぎょっ」と鳴いた。  ぷぎ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  背後からのきょうだいの声にトンコは耳を立て、回れ右をした。きょうだいの姿はなく、石地蔵が合掌して立っているだけである。赤いヨダレカケをなびかせる地蔵を嗅《か》ごうとトンコが近づくと、今度は豚舎からきょうだいの声が聞こえてきた。「F08」が姉豚を呼び、「M02」が荒くれ、「M07」が放屁する音が風に運ばれてくる。豚舎に向かって「ぎょっ」と鳴くと、ぷぎぷぎぎぃと背後から返ってくる。きょうだいはどっちにいるのかと、ぐるぐる回り出したトンコは、空中で銀色の光が輝くのを見た。桃色の鼻を秋空に向けたトンコに、銀色の光はみるみる近づいてくる。次の瞬間、トンコの鼻にフォークが突き刺さった。     五  鼻に走った激痛で、トンコは意識を取り戻した。  トンコは腹這いのまま土に埋もれていた。山林の斜面を駆けのぼって穴に落ちたままだった。  トンコは、頭にかぶさった土を鼻息で吹き飛ばした。鼻の周囲を虻が飛んでいたため、もう一発鼻息をかまし、追い払った。  トンコは両耳と鼻を小刻みに動かし、犬や人間の気配がないことを確認した。短い四肢を動かし、体を揺さぶり、土塊をはねのけたトンコは、どうにかこうにか起きあがり、全身を震わせて砂を払った。虻に刺された鼻が痛痒《いたがゆ》かったが、三日もすれば痛痒さが消えることを知っていた。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  ぼととん、ぼひ。  トンコは耳を動かすと鼻を鳴らし、穴をよじ登り始めた。重みに耐えかねた土が乾いた音を立てて崩れ、トンコは何度も転がり落ちた。それでもどうにか穴から這い出したトンコは、銀色に輝く棒を目にして両耳の毛を逆立てた。しかし草むらに転がるそれは、フォークではなく銀色の細い包装袋だった。チワワ女が地面に叩きつけたペットフードである。トンコは鼻をひくつかせながら、『ペットおやつ お徳用ジャーキー』と書かれた袋に近づいた。袋を鼻で押すと、脂の浮いた赤茶色のジャーキーがこぼれ出た。雑多な臭いが混在するジャーキーには、「M07」の臭いも混ざっていた。トンコはジャーキーに「ぎょっぎょっ」と声をかけては、嗅いだり鼻で押したりした。ジャーキーはただ、そこに転がっているだけである。トンコは袋にも「ぎょっぎょっ」と声をかけた。内側から「M07」の濃厚な臭いがする包装袋は、平たく潰れたままトンコの足元に転がっていた。トンコは鼻先で袋を押したりひっくり返したりしていたが、やがて弱々しく鳴き、袋をくわえあげた。  ぼととん、ぼひ。  コスモス畑の方向から、「M07」の放屁音が聞こえてくる。トンコは尾を振り振り、見晴らしの良い場所まで戻った。コスモス畑やドッグランに犬も人間もいないことを確認すると、トンコは山林を降りていった。  コスモス畑のそばまで来たとき、トンコは蠅の羽音を聞きつけた。雑草のあいだに、唾液《だえき》と胃液にまみれた未消化のジャーキーが転がっている。踏み潰され、蠅がたかっていた。チワワ女が愛犬に吐かせたものだ。「M07」の臭いがしたため、トンコは「ぎょっぎょっ」と声をかけた。群がった蠅が舞いあがっただけだった。  トンコは頭を垂れ、山林へと引き返すことにした。この選択は正解だった。ちょうどこの頃、「脱走豚が愛犬を襲った」との通報を受けた地元警官たちが、駆けつけた豚舎従業員とともに、ドッグランとコスモス畑に向かって出発したところだったのだ。そのようなことなど知る由もないトンコは、『ペットおやつ お徳用ジャーキー』と書かれた銀色の袋をくわえ、山林を歩いていた。ところどころ木漏れ日が差すだけの、薄暗い山林をあてもなく歩いていたトンコは、両耳を立てた。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  傍らの獣道から「F06」と「F08」の姉妹豚の声がする。「M02」の糞臭《ふんしゆう》が漂ってくる。暗く淀《よど》んだ獣道から、生ぬるい風が流れてくる。  トンコは生臭さの漂う獣道を嗅ぎ、耳を立てたまま慎重に歩き出した──が、何かに足をとられて飛びあがった。トンコは自分を躓《つまず》かせたものを探すべく、土を嗅ぎまわった。倒れた石地蔵がそこにあった。銀色に尖《とが》った棒──錫杖《しやくじよう》を持つ地蔵を見てトンコは後ずさり、「がっがっ」と威嚇《いかく》した。赤いヨダレカケをつけた石地蔵は、目を閉じて微笑し、優しく左掌を向けている。トンコは『ペットおやつ』の袋をくわえたまま、地蔵を鼻で突き倒した。さらに前肢で踏みつけた後、回れ右をし、後肢で土を浴びせた。もう一度小突こうと方向転換したトンコは、獣道の奥から漂ってくるきょうだいの臭いが濃くなったことに気がついた。  ぶひ、ぷぎぎぃ、ぷひぷひ、ぷぎぎぃ。 「F06」がトンコを呼ぶ。「F08」も姉豚を真似て鳴く。トンコの耳が小刻みに動いたとき、獣道に突風が吹きぬけた。きょうだいの臭いは四散し、トンコがくわえていた『ペットおやつ』の袋も吹き飛ばされた。トンコは回れ右をして袋を追い、獣道を出た。獣道の奥からは、ぷひ、ぷひ、と呼び声が続いていた。  ようやく袋を捕まえたときには、トンコは右も左も分からぬ場所に来ていた。昼下がりの木漏れ日が差しこんでくるものの、見渡すかぎり木と草ばかり。『ペットおやつ』の袋をくわえたまま弱々しく鼻を鳴らしたトンコは、水の流れる音をとらえた。喉《のど》の渇きを覚えたトンコは、水を目指して歩き始めた。  ほどなくトンコは、せせらぎを見つけた。垂れさがる枝に覆われたせせらぎは、ゆるやかに麓《ふもと》へと流れている。トンコは『ペットおやつ』の袋を傍らに置くと、水に鼻先を突っこんだ。適度に冷たい水は、虻《あぶ》に刺された鼻を心地よく冷やした。朝があと三回も来れば、鼻の腫《は》れはすっかり消える。トンコは川底に鼻先をこすりつけ、痛痒さを緩和させると、喉を鳴らして水を飲んだ。豚舎の水より泥臭かったがトンコは満足した。特に、心おきなく水を堪能《たんのう》できることに満足した。  豚舎では、柵《さく》で仕切られた区画毎に給水器が用意されていたが、心ゆくまで水を飲めることなどほとんどなかった。荒くれの「M02」に鼻で押しのけられる。あるいは、「F08」が甲高く鳴いて姉豚「F06」を呼び、トンコに給水器を譲らせるよう訴える。おとなしい「F06」がトンコを押しのけることはなかったが、結局トンコは水場を譲らざるを得なくなる。トンコが水場を明け渡すまで、「F08」が鳴き続けたからである。 「M07」もまた、トンコとは別の理由で水を飲みっぱぐれることの多い豚だった。この豚には、給水器に体当たりしては床に水を撒《ま》き散らし、水浴びをしたり体を冷やしたりする癖があった。水浴びを堪能してから改めて水を飲みに行き、水がほとんど残っていないことに気づくのだ。そのたびに「M07」は、腹立ちまぎれの屁《へ》を放ったものだ。  せせらぎの水を腹一杯飲んだトンコは、きょうだいにも水を飲ませようと『ペットおやつ』の袋をくわえて水に浸《つ》けた。水で満杯にしようとするものの、うまく入らない。トンコは袋をくわえたまま身を乗り出し、頭から川に落ちた。溺死《できし》するほどの水深ではなかったが、川底や川べりは苔《こけ》や藻に覆われて滑りやすく、体重百キロ強の豚が這《は》い上がることは不可能だった。しばらく四肢をバタつかせていたトンコだが、結局は麓へ、川下へ、ずるずる流されることとなった。  その頃、山林では脱走豚の捜索が開始されていた。トンコが食い散らした木の実も、後肢で土をかけた石地蔵も、地盤の緩みによって転落した穴も、既に発見されていた。駆けつけた豚舎従業員は、「暑さを苦手とし、日中の大半を休息で過ごす豚は、日陰の草むらで横になっている」と判断、該当する場所を探していた。リンゴの入ったポリ袋を下げた従業員は、「おぅいおぅい」と呼びながら山道を歩いた。豚舎での生活しか知らない豚が、山林で生き残るのは困難である。仔豚《こぶた》時代からトンコを世話してきた職員は、穴に落ちた際にトンコが足を骨折して衰弱し、ひたすら助けを待っているのではないかと不安に駆られた。よもや、自分たちが捜索する位置とは全く方向違いの場所で、「川下り」をしているとは、思いつきもしなかった。     六  麓に到達したせせらぎは、寂れた山里を経て、平野部で用水路に合流した。ススキの生えた休耕田が広がり、山間部からの県道が走っているだけの、のどかな平野である。ススキや枯れ草に覆われるようにして流れる「コ」の字型のコンクリート用水路は、農繁期には水深一・二メートルに達するが、今は水深三十センチにも満たなかった。『ペットおやつ』の袋をくわえて用水路を歩く豚に気づく者はおらず、気づいた者がいたとしても、一度見失えばそれきりとなる可能性が高かった。用水路は複雑に入り組み、一般水路や小規模河川と合流しているのだ。トンコは既に三時間近く、ちゃぷちゃぷと用水路を歩き回っていた。鼻を冷やし、短い尾を振りつつ、トンコはときおり泳ぐ真似をした。トンコの脳の中では、夏のあの日が蘇《よみがえ》っているのだと思われた。  今から二ヶ月前の八月。  豚舎のある山村は超大型台風に見舞われた。豚に深刻な被害は出なかったが、豚舎の屋根や壁の一部が吹き飛ばされ、豚舎内に雨が流れこんだ。トンコときょうだいたちの区画が著しく浸水したため、修繕が済むまでの約二時間、トンコたちは応急簡易豚舎に移されることになった。  移動中、従業員が目を離したすきに、「M07」が「池」に飛びこんだ。鉄筋建物を撤去した跡の窪地《くぼち》に、台風で大量の水が溜《た》まり、池のようになっていたわけである。 「M07」が犬掻《いぬか》きを始めると、「F08」も飛びこんだ。しかしうまく泳げない「F08」は水面から顔を出し、姉豚「F06」を求めて激しく鳴いた。「F06」が「池」に飛びこんだとき、ようやく従業員が駆けよってきた。荒くれの「M02」までもが飛びこもうとしたため、従業員は三人がかりで押さえこんだ。だが「M02」は従業員を簡単に払いのけ、勢いよく水に飛びこんだ。水|飛沫《しぶき》をかぶった従業員が右往左往しているすきに、トンコも飛びこんだ。泳ぎの経験はなかったが、きょうだいの見よう見まねで犬掻きをした。きょうだいたちは皆、誰に習うともなく、鼻先を水面に出し、前肢で水を掻き、後肢で水を蹴《け》っていた。  従業員は豚たちに戻れ戻れと叫んでいたが、場長が現れ、泳がせてやれと目を細めた。トンコたちは、てんでばらばら好き勝手な方向に泳ぎ続けた。神経質な「F08」と衝突したが、姉豚と並んで泳ぐ「F08」は機嫌が良く、トンコに軽く鼻を鳴らして別方向へと泳いでいった。「M02」は派手に水飛沫をあげながら、「M07」とともに泳ぎを競いあっていた。トンコは、尻《しり》から泡を出す「M07」の後について泳いでいた。途中で沈みそうになったトンコを、「M02」が鼻で押しあげた。普段は他のきょうだいを鼻で押しのける荒くれの「M02」だったが、このときは非常に上機嫌で温厚だった。  トンコたちのもとへ「F06」と「F08」の姉妹豚が寄ってきた。いつしか五頭はひとかたまりになり、揃って泳いでいた。先頭は「M07」だった。「M07」が右に曲がればトンコたちも右に曲がり、左に曲がれば左に曲がった。「M07」が行き止まりにぶつかった時は全頭がぶつかって身動きがとれなくなり、大騒ぎとなった。しかし結局は無事に脱出し、再びきょうだいひとかたまりとなって、ゆるゆる泳ぐのだった。  場長の孫たちが駆けつけ、ゴムボールを投げ入れた。リンゴではないかと豚たちは我先に近づき、威勢よく水飛沫を撥《は》ねあげた。びしょ濡《ぬ》れになった孫たちは悲鳴に似た歓声を上げ、職員たちは携帯電話のカメラで楽しげに写真を撮り始めた。豚って笑うんですねと、最年少の従業員が目を輝かせた。豚は笑うよと場長は目を細めた。  そして今、トンコはたった一頭、ちゃぷちゃぷと用水路を歩いている。  ぷひ。  ぷぎぎぃ。  用水路ゲートの向こうから姉妹豚の声がすればゲートをくぐり、破れた金網の向こうから「M02」の糞臭《ふんしゆう》が漂ってくれば金網を鼻で押しのける。しかしそこにあるのは、水の音が聞こえるだけの暗い空間だった。  晩秋の日暮れは早い。三時を過ぎたばかりだったが、空は夕方の色を帯び始めている。疲弊し、空腹を覚え、水路に犬座したトンコの尻を、ザリガニが挟んだ。飛びあがった拍子に、トンコは『ペットおやつ』の袋を落とした。袋はみるみる流されていく。トンコは追いかけるが、苔や藻で足が滑り、容易に追いつけない。袋が水草に引っかかり、ようやく追いつけたかと思いきや、またもやゆるりと流れ去る。用水路から一般水路へ、一般水路から川の浅瀬へと。トンコは鼻を鳴らしながら追いかけた。ちゃぷちゃぷと音を立てながら追いかけた。  どれだけの距離を、どれだけの時間、追いかけたのだろうか。コンクリートの水底には砂が多くなり、川下から吹き寄せてくる夕風の匂いが変わってきた。聞こえてくる水の音も変わってきた。  ようやく袋を捕まえたトンコは、鼻をひくつかせ、耳を小刻みに動かした。  いまだ知らぬ水の匂い、いまだ知らぬ水の音。  袋をくわえて浅瀬を進んだトンコは、小さな目を見開いた。  浅瀬の終着点は海だった。トンコの目の前には、夕焼けに染まった砂浜と海と空が広がっていた。トンコは浅瀬から砂浜にあがり、潮風に耳をなびかせ、夕暮れの海に向きあった。身動きもせずに、ただただじっと、海と空を仰いでいた。  やがてトンコは、「ぐっぐっ」と鳴き、素晴らしい発見をしたことをきょうだいに知らせた。トンコは『ペットおやつ』の袋をくわえたまま、波打ち際へと近づいた。海水が口に入るとトンコは頭を振って吐き出し、「がっ」と鳴いて後肢で波に砂をかけた。砂をかけている途中、尻に波を食らい、トンコは陸地へと逃げだした。じゅうぶんに波と距離を空けたトンコは回れ右をし、海と向きあった。そしてまた、慎重に波打ち際へと近づき、ザブンとやられ、陸地へと逃げた。  砂浜に人間がいれば、「海にブタがいる」と警察か保健所に通報されただろうが、遊泳にも釣りにも散歩にも不向きなゴミだらけの砂浜を訪れる人間は、少なくともこの時はいなかった。砂浜を見おろす形で県道が走っていたが、防波壁が立っており、トンコに気づくドライバーもいなかった。  その頃。  トンコがいた山林では、豚舎従業員や警官が捜索を続けていた。衰弱したトンコがどこかで震えているに違いない、助けを呼ぶ力すら残っていないに違いないと、いてもたってもいられなくなった豚舎従業員は、場長に連絡をとり、指示を請うた。場長は、山林に小川は流れていないかと問うた。あれば探し、川下まで辿《たど》るようにと。地元猟友会の協力で、嗅覚《きゆうかく》に優れた猟犬二頭が貸し出された。豚を襲って傷つけることのないよう、猟犬には口輪がつけられた。猟犬はただちにせせらぎを嗅《か》ぎ当て、水に飛びこみ、麓《ふもと》へと向かった。  そして。  日没の迫る無人の砂浜では、一頭の豚が、波打ち際と砂浜で往復ダッシュを続けていた。波を追いかけ、波から逃げ、また波を追いかける。すっかり波に慣れたトンコは、波打ち際で泥浴びを始めた。『ペットおやつ』の袋をくわえたまま仰向けになり、短い四肢を器用に動かして背中や脇腹をこすりつける。岸に打ち上げられたペットボトルの蓋《ふた》や爆竹の破片が散乱していたが、剛毛に覆われた豚の体を傷つけることはなく、むしろトンコは、心地よいと感じた。背中をこすりつけながら、トンコは「ぐっぐっ」と鼻を鳴らし、砂浜での泥浴びの快適さをきょうだいに知らせた。返ってくるのは、波の音ばかりだったが。  泥浴びを堪能《たんのう》したトンコは、打ち上げられたヒトデを食してみようと口を開けた。その拍子に『ペットおやつ』の袋を落とし、波がさらった。追いかけようと海に入ったトンコは大波を食らい、陸地へ逃げ戻った。体を振って水を払ったトンコは、『ペットおやつ』の袋を探し、打ち寄せる波のあいだを行ったり来たりした。袋はトンコから少し離れた場所で漂っていた。波に乗って海岸に近づいてきたかと思えば、別の波にさらわれ、沖のほうへと遠ざかっていく。トンコは『ペットおやつ』の袋に鼻を鳴らして呼びかけた。袋は沖のほうへ、赤く丸い太陽のほうへと運ばれていく。トンコは袋に向かって鼻を鳴らし続けた。『ペットおやつ』の袋はゆらゆら漂いながら、遠くへ遠くへと流れていき、それきり、トンコのもとへ戻ってくることはなかった。  袋が完全に見えなくなると、トンコは波打ち際に犬座した。桃色の体を夕焼け色に染めたトンコは、紺色と金色が溶けあう、晩秋の水平線を眺めていた。リンゴの形をした沈みゆく太陽を、いつまでも眺めていた。  夕日が沈み、海からも空からもリンゴの気配が消えていくと、トンコは波打ち際を離れ、近くの岩陰で腹這いになった。空腹を知らせるためにグォーグォーと鳴いてみたが、飼料が運ばれてくるわけもなく、鳴き声は波の音に掻《か》き消されただけだった。トンコは、砂地に散乱する海藻を口にしてみた。食したことのないものだったが口に合う。目を細めて咀嚼《そしやく》したトンコは、「ギッ」と悲鳴をあげて吐き出した。ガラス片が混入していた。吐き出した海藻にトンコは威嚇《いかく》し、鼻で土をひっかけた。  海藻を諦《あきら》めたトンコは、砂に顎《あご》を乗せた。日中、用水路を歩きながら水草や枯れ草を食っていたため、飢餓状態というわけではなかった。トンコはエサよりきょうだいの体温を求めていた。暑い時期以外は、豚舎ではきょうだいが体を寄せあって眠るのが常だった。体を寄せる相手のいないトンコは、岩に体を擦り寄せた。そして、夜の色へと化していく海に向かい、弱々しく鼻を鳴らした。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  トンコは頭を起こし、小刻みに耳を動かした。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  トンコは立ちあがり、「ぎょっぎょっ」と応《こた》えた。きょうだいの声を運んでくるのが、潮風なのか陸地からの風なのか。トンコは夜空を仰ぎ、空気を嗅いだ。糞臭がした。  ぶひ。  ぶぎぎぃ。  陸地からである。トンコは、砂浜と県道を仕切る防波壁を見あげ、右へ行ってみたり左へ行ってみたりした。やがて、砂浜と県道を繋《つな》ぐコンクリートの階段を発見した。幅の狭い階段をよじ登り、トンコは県道に出た。二百メートル間隔の街灯が仄明《ほのあ》かりを落としているだけの県道には、通行する車もほとんどなく、薄闇に包まれている。しかし遥《はる》か向こうには無数の灯《あか》りが輝く街があり、夜空を淡く照らし出していた。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  淡く照らされた方向から、きょうだいの声が夜風に乗って流れてくる。トンコは軽やかに歩き始めた。きょうだいを連れて砂浜に戻ろうと考えていた。養豚場の「池」で泳いだときのように、きょうだいに鼻で押してもらえば、あの海を泳いでいくことができると考えていた。県道を走るトンコの微《かす》かな足音は、やがて、街の方向へと消えていった。  その頃。  脱走豚を捜し続けていた豚舎従業員は、疲弊しきった声で場長に携帯電話を入れていた。犬が臭いを辿ってたんですけど、用水路あたりで行き詰まってしまったんですよ。もう豚は諦めましょう、神さん仏さんのお慈悲だと思うんです。きっと、肉にならずにすむ星のもとに生まれたんですよ、ねえそう思いませんか、場長。  携帯の向こうでしばしの沈黙が流れた後、場長の声が返ってきた。訥々《とつとつ》と語る場長の声に耳を傾けていた従業員は、携帯を耳に当てたまま、ええ、じゃあ分かりましたと疲れ切った声で答え、電話を切った。     七  トンコが街の灯りを目指して歩き続けていた頃、警察に何本かの電話が入っていた。  ──県道でブタを見ました。あれ、一昨日《おととい》の事故で逃げたやつじゃないですか?  トンコがヘッドライトの入り乱れる交差点を全力疾走していた頃、塾帰りの我が子から「ブタを見た」と聞いた母親が、保健所に怒りのメールを入れていた。  ──子供たちが豚に襲われそうになりました。保健所は何をしているんですか? 何かが起きてからでは遅いんです! 「ブタがすぐ近くを走っていた」という我が子のセリフは、母親にとっては「ブタに襲われそうになった」を意味した。さらに「ブタって臭いんでしょ?」との我が子のセリフも、母親にとっては別の意味を持った。彼女は苦情メールにこう付け足した。  ──ブタみたいな汚い生き物を野放しにして、子供が病気になったらどう責任を取ってくれるんですか!  トンコがコンビニや飲食店の建ち並ぶ道へと入っていったとき、アルバイト帰りの高校生がメールを打っていた。  ──ブタ見た、ブタ!  メールは次々に広がっていった。  タカシがブタみたってさ。どこで。西循環道。はあ? なんでそんなとこにブタいんの。こないだトラックから逃げたやつ? ありえねー。事故があったの竹田山の向こうだろ、遠すぎ。ブタつかまえたらカネもらえんの? あたりまえじゃん。おれたちで捕まえね? えー、ブタってけっこうデカいんじゃねーの? 金属バット持ってこーぜ。じゃあおれオヤジのゴルフクラブ持ってくわ。おめーらブタ死んじまうってwww いーじゃん別に どーせ食うんだしwwwww  トンコは、電飾看板やネオンの灯《とも》るアスファルト道路を歩きながら、自販機や看板に尻《しり》をこすりつけ、臭いづけをしていた。きょうだいとの再会後、この道を通って海に戻るつもりだった。初めて目にしたこの鮮やかな光を、きょうだいに教えたかったのだ。トンコのきょうだいたちは、電気の光を好む傾向があった。豚舎の電球が壊れたときも、トンコやきょうだいたちは従業員のハシゴの近くに集まり、修理の様子を眺めていた。明るさが取り戻されると、豚たちは鼻を鳴らして尾を振った。ただ「F08」は強い光を見るといささか神経質になり、姉豚「F06」に身を擦りよせたが、「M02」や「M07」は興奮した。「M02」は、一番明るい場所を寄こせとばかりにトンコたちを鼻で押しのけ、「M07」は盛大に放屁《ほうひ》しながら柵《さく》内を駆けまわったものだ。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  薄暗い曲がり角から、姉妹豚がトンコを呼ぶ。「M02」の臭いが漂ってくる。鼻鳴らしで応えながら足早に歩くトンコを見て、通行人は飛びのき、短い悲鳴を上げた。あるいは口を半開きにしたまま、目で追っていた。  パスタ料理屋の店舗前にハーブの鉢植えが並んでいたため、空腹を覚えていたトンコは鼻を突っこんで食った。初めて食したものだが口に合い、トンコは咀嚼しながら満足の声を発した。これもきょうだいに教えねばならないと感じた。そのとき、表の騒ぎを聞きつけたパスタ料理屋の店長が扉を開けて現れた。カラコロと鳴るドアベルにトンコは驚き、それ以上に店長は驚愕《きようがく》した。間近に見る豚の迫力に恐れをなした店長は、店に逃げ戻ろうとして植木鉢を踏み転倒、尻餅《しりもち》を突いて絶叫し、苦悶《くもん》の表情を浮かべて七転八倒した。七転八倒の原因は、尻餅を突いた際に痔疾《じしつ》箇所を強打したためだったのだが、目撃者の目にはそうは映らなかった。ブタが人を襲った、警察を呼べ、猟友会を呼べと叫ぶ声が響き、携帯電話を取り出す者が続出した。ハーブを平らげたトンコは、きょうだいのもとを目指すべく歩き出したものの、何かに足を取られた。石地蔵の赤いヨダレカケが蹄《ひづめ》に絡まりついていた。トンコはくわえて払いのけた。布きれは夜風に巻きあげられ、消えていった。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  きょうだいがトンコを呼び続ける。トンコは短い尾を振りながら小走りする。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  きょうだいの声が鮮明になっていく。臭いが濃厚になっていく。曲がり角の向こうにきょうだいがいる。寂れたコンビニを曲がったところに、きょうだいがいる。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  トンコの尾が楽しげに動く。警察だ猟友会だと叫ぶ声が響く。コンビニの前に繋がれた犬が牙《きば》を剥《む》いて吠《ほ》えまくる。袋を提げてコンビニから出てきた若い男が、どうしたレオ吠えるな吠えるなと宥《なだ》めた。警官二人が通りがかり、ブタが逃走してるんで犬は外に出さないで下さいと去っていった。コンビニから出てきた若夫婦が、一昨日の交通事故で逃げたブタらしいですよと男に説明した。そこのパスタ屋の主人を襲ったそうですよ、尻を粉砕骨折したらしいです。目が合っただけで襲ってきたって言うんだから凶暴極まりないですよ、しかもブタの牙って、オオカミをも突き殺すそうじゃないですか。あんな生き物を野放しにしちゃイカンです、早く猟友会に仕留めてもらわんと物騒で寝られませんよ──と。特製肉まんを手にした若夫婦の妻が、撃ち殺すなんてかわいそうだわと呟《つぶや》いた。ブタさんは犬より賢いし芸だってするのよ、と。若夫婦と男が立ち話をしていると、バットやゴルフクラブを手にした高校生が数人、コンビニの前を駆け去った。ブタブタどこだあッと大声をあげ、けたたましく笑っていた。  警官たちが、ブタ見たかあ、こっちにはいない、そっち調べろお、と右往左往している頃、トンコは、ひとけのないコンビニ横の路地裏へと入っていった。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  きょうだいはそこにいる。すぐそこにいる。山積みになった段ボールの向こうに身を寄せあう姉妹豚がいる。空き缶の詰め込まれたポリ袋の向こうに糞《ふん》垂れの「M02」がいる。荒くれもせずに姉妹豚とともにトンコを呼んでいる。トンコは鼻を鳴らしてきょうだいたちに応《こた》えつつ、最後の段ボールを鼻で押しのけた。  トンコの目の前に現れたのは、大型のポリ容器だった。  ぶひ。  ぷぎぎぃ。  蓋《ふた》を閉じられた青いポリ容器の中からきょうだいの声がする。内側から容器を掻《か》く音がする。トンコは鼻を鳴らすが、きょうだいは鳴いたり掻いたりするばかり。トンコは容器の周囲を右へ左へと嗅《か》ぎまわり、鼻で押したが、びくともしない。トンコは後肢で立ちあがると容器を押し倒した。横倒しになった容器の蓋が開き、腐臭や腐汁とともに残飯がなだれ出た。  トンコはポリ容器を覗《のぞ》いた。きょうだいの臭いはすれども姿は見えず。トンコは残飯を掘り返した。消費期限が切れたオニギリをはねのけ、潰《つぶ》れたサンドイッチを払いのけ、脂の回ったカレーパンを押しのけた。飯粒やサラダのキュウリを鼻先に付けたまま、トンコはきょうだいを求めて掘り続けた。きょうだいの臭いは次第に濃くなっていく。たしかにきょうだいはここにいる。この中にいる。  コンビニの裏口が開き、消費期限切れの弁当を手にした店員が現れた。ポリ容器の蓋を開けようとした店員は、ポリ容器が横倒しで揺れていることに気がついた。覗きこんだ店員は悲鳴を上げ、弁当を投げ捨てるやいなやブタだブタだと叫んで店内に駆け戻った。  トンコは店員が投げ捨てた生姜《しようが》焼き弁当を嗅いだ。プラスチック・カバーの内側で、薄肉となった姉妹豚が寄り添っていた。ポリ容器から転がり出た生姜焼き弁当からは、「M02」の臭いがした。生姜ソースに染まった肉が、プラスチック・カバーから飛びだしていた。  トンコは「ぎょっぎょっ」と鳴きながら生姜焼き弁当の容器を鼻で小突きまわした。きょうだいたちをプラスチック・カバーの外に出そうとした。セロハンテープが破れてフォークが転がり出し、トンコは後ずさった。トンコはフォークに威嚇《いかく》し、後肢で砂をかけた。 「ぎょっぎょっ」と鳴きながら弁当を押し、勢いあまって踏み潰した。蹄のあいだに「F08」が入りこみ、トンコは激しく鳴いた。口から泡をこぼし、目を血走らせたトンコは、ポリ容器を鼻で突き、残飯で足を滑らせ、きょうだいたちの上に転倒し、「ぎょっぎょっ」と言いながら起きあがり、そこらじゅうを嗅ぎ、鼻先に春雨とキャベツをつけたまま時計回りに走り、反時計回りに走り、再び弁当容器に向かって「ぎょっぎょっ」と鳴いた。  そこへ、さきほどの店員が駆け戻ってきた。他の店員を連れ、ともにモップを構えていた。あっち行けブタ! モップが振りおろされ、生姜焼き弁当は叩《たた》き潰された。トンコは甲高く鳴き、全力疾走で来た道を引き返した。段ボール箱や空き缶に躓《つまず》きながらも、表のアスファルト道へと逃げだした。  ブタがいたぞ待てこらブタと警官が叫び、トンコを追ってきた。トンコはネオンの中を駆けつつ、自販機を嗅いだ。臭いつけをした自販機と異なり、トンコは混乱した。全身の毛を逆立て、トンコは警官の声から遠ざかるべく走り続けた。どこから飛んできたのか、トンコの前肢にあの赤いヨダレカケが絡まりついた。トンコは背中の毛を逆立て、ヨダレカケを払いのけた。  路地裏に飛びこんだトンコは嘔吐《おうと》臭を嗅ぎとった。中華料理店の裏手のゴミ箱の横で、若い女が喉《のど》の奥に指を突っこみ吐いていた。その背を別の女が撫《な》でている。嘔吐女は涙しつつ、その場におらぬ得意先を罵《ののし》っていた。連日の接待で食いたくもないものを食わねばならぬ苦しみを吐露し、中華ばかり食べねばならぬ悪運を呪い、中華料理のカロリーの高さを罵っていた。嘔吐女はミネラルウォーターで口を漱《すす》ぐとダイエット錠剤を口に押しこみ、なにげなく腰に手をやって顔を歪《ゆが》ませた。ウエストがウエストがと泣き叫び、壁にすがりついた。嘔吐女の背を撫でていた女が、食べても食べても太らない薬がある、私も飲んでいると慰めたが、嘔吐女の耳には届いていない。嘔吐女は中華を呪い、接待を罵り、酢豚とチャーシュー麺《めん》と回鍋肉《ホイコーロー》を罵倒《ばとう》した。  トンコは吐き散らされた嘔吐物の中にも、きょうだいの臭いを嗅ぎとった。鼻を鳴らして近寄ろうとしたトンコを見て、女二人が悲鳴を上げた。嘔吐女がとりわけ強烈な悲鳴を上げた。ブタブタいやああと叫び、自分の喉の奥に指を突っこんだ。  再び表のアスファルト道に逃げだしたトンコを、高校生の集団が追いかけてきた。バットやゴルフクラブを振りあげ、笑いながら走ってくる。トンコは口から泡を吹いて全力疾走した。臭いづけをした道の位置をトンコは完全に見失っていた。回りこめ、挟み撃ちだと大笑いする声が路地にこだまする。トンコは走りながら激しく鳴き、夜空に向かってきょうだいを呼んだ。聞こえてくるのは怒声と悲鳴と哄笑《こうしよう》ばかりだった。  トンコの足の動きが鈍くなってきた。さまようトンコの前に、挟み撃ちを狙った高校生が現れた。逃げようとしたトンコは足を取られて躓いた。またもや赤いヨダレカケが絡まりついている。背中の毛を逆立て、ヨダレカケを払いのけようとしたトンコに、ゴルフクラブが振りおろされた。  トンコの視界が赤一色になった。弱々しく鼻を鳴らしたトンコは、おぼつかない足取りで逃げだした。トンコ自身は走っているつもりだったのだろうが、実際は人間の歩く速度と大差なかった。  トンコの前に、金属バットを持った高校生が立ちはだかった。ゴルフクラブを持った高校生も近づいてきた。警官が駆け寄ると高校生を追い払い、警棒や刺股《さすまた》をトンコに突きつけた。トンコは彼らから逃れるべく、右へよろめき、左へフラついた。そして、馴染《なじ》みのある人間臭を嗅ぎとった。赤く曇った視界の先に、豚舎従業員と場長がいた。従業員は中腰で両腕を広げ、こっちだこっちと言いながら距離を狭めてきた。トンコがよたよたと逆方向へ逃げると、仔豚《こぶた》の頃からトンコを世話してきた従業員は傷ついた表情を浮かべた。走って追おうとする従業員を、場長が引きとめた。豚は長くは走れない。そう言って場長は歩きだした。  トンコは狭い路地裏に蹲《うずくま》り、荒い呼吸を繰り返していた。乱雑に積みあげられた廃材の隙間から鼻先だけ出しているトンコを、路地裏の入口を塞《ふさ》ぐ警官たちが凝視していた。二人だった警官は五人に増え、刺股や網を構えてトンコの突進に備えている。野次馬が路地裏の入口を遠巻きにしていた。何の騒ぎ? ブタが逃げこんだんだってさ、ほら二、三日前に高速でブタのトラックが事故ったじゃん。あンときに逃げたやつっぽい。かわいそう、助けてあげられないの? そういうわけにもいかないっしょ、向こうにとっちゃ商売なんだし。でも飼ってあげればいいじゃない。動物園に引き渡すとか、テレビで飼い主を募集するとか。オレもそう思うんだけどね。それにしても膠着《こうちやく》状態長いよなあ、さっさと麻酔銃使えばいいのにさ。いえいえオニイさん、麻酔銃を使うと肉が売り物にならなくなるそうですよ。あ、そうなんですか。ねえ、捕まったらお肉にされるんでしょ、かわいそうよ。俺も同感、誰か動物園に電話すりゃいいのにさ。見て、あのお巡《まわ》りさんが棒で突っつこうとしたわ、やることが鬼だわ。泣くなよ美希《みき》、君って本当にやさしいなあ。ケッ、おまえらバカじゃね? いきなり何ですか、おたく。おまえらの話を聞いてるとチャンチャラおかしいぜ、ニイちゃんもネエちゃんも肉食ってんだろ、肉。食うだけ食っててよく言うぜ。僕たちが食べてるのは肉であって豚じゃないですよ、そういう野蛮な言い方やめてくれませんか! そうよそうよ、そんな言い方されたら気持ち悪くてお肉が食べられなくなるじゃない! お巡りさんケンカですよケンカぁ。騒がないで静かに静かに、ブタが興奮しちゃうんですよ。あ、巡査長、養豚場の人が来ました。すいませんね、お願いしますよ。いえこちらこそご迷惑を。  場長と従業員はゴミを掻き分けながら路地裏へと入り、積みあげられた廃材の前で立ち止まった。廃材の隙間から、桃色の鼻先が突き出している。虻《あぶ》に刺されて腫《は》れた鼻先が、二人の足元をなぞるように動いた。トンコの周囲には、砂まみれの生姜焼きが転がっている。おまえそれは……と従業員が手を伸ばすと、トンコは威嚇した。従業員はますます傷ついた表情になった。  場長は廃材の前でしゃがむと、トンコと向きあった。そして作業服のポケットからハンカチを取りだすと、生姜焼きを拾い、丁寧に包んでポケットに収めた。  場長はトンコの前で静かに合掌し、頭《こうべ》を垂れた。いつまでもいつまでも、黙礼と合掌を捧《ささ》げていた。どうしたんです何かありましたかと、路地裏の入口に立つ警官が押し殺した声で呼びかけた。場長は立ちあがると、なんでもありませんと軽く手を挙げた。  トンコは廃材の隙間から這《は》い出し、場長を嗅《か》いだ。作業着の下からきょうだいの臭いがする。場長は作業着のポケットからリンゴを出すとトンコに差しだした。トンコはリンゴを嗅ぎ、音を立てて食った。場長はもう一つ差しだした。トンコは口を開け、果汁を飛ばしながら食った。場長はさらにもう一つ差しだした。トンコは鼻を近づけたが、空腹がおさまったため食わなかった。トンコが食わなかったリンゴを囓《かじ》りながら、おまえは立派だと場長は呟《つぶや》いた。  場長はトンコの顔を覗《のぞ》きこみ、ゴルフクラブで殴られた跡を調べた。蜂にでも刺されたか。場長は笑うとトンコの頭を撫で、廃材の隙間から出るよう手で合図した。  トンコは場長を見あげ、その場でぐるりと回って見せた。反対回りもしてみせた。従業員が「あいつの真似してンじゃないですか?」と場長を見た。場長はトンコの背中を軽く叩き、「おまえは、そういうことをするために生まれたんじゃないんだ」と、囓りかけのリンゴをトンコの足元にそっと置いた。場長とリンゴを交互に見ると、トンコはリンゴをくわえた。  路地裏の入口で様子を窺《うかが》っていた警官たちが、場長と従業員に、大丈夫ですかぁと声をかけた。     八  運搬トラックに揺られ、トンコは外を眺めていた。  二日前の朝に出荷されたとき同様、トンコの背中には「063F11」の番号が記されている。したがって「トンコ」と呼ぶことも終わりにする。  場長とともに「F11」捕獲に出向いたあの従業員は出荷を躊躇《ちゆうちよ》した。山や町で拾い食いしてたんだから、生体検査OK出ないですよね。だったらボクが飼いますよ──と。場長は視線を落とし、豚がどれだけの大きさになるのか知らないのかと呟いた。豚が毎日どれだけ食うのか知らないのかとも問うた。従業員は沈黙した。  柵《さく》で囲まれた荷台で「F11」は腹這いになり、前肢でリンゴを抱えるようにしていた。昨夜、場長から投げ寄こされたリンゴである。きょうだいたちと分けあうつもりでいた。「F11」にきょうだいの声が聞こえてくることは、もはやなかったが。  トラックはあの高速道路を走り始めた。「F11」は後肢で立ちあがると柵の隙間から鼻先を出し、風を嗅いだ。木の実が溢《あふ》れる山林の匂いがした。コスモス畑の甘い匂いがした。それらが消えると、今度はせせらぎの匂いがした。晩秋の休耕田と用水路の匂いがした。そして、仄《ほの》かな海の匂いが流れてきた。  県道とほぼ並行に走る高速道路から、日没を迎える海岸が見えてきた。きょうだいを連れて戻るつもりだった、あの砂浜である。 「F11」は、豚たちが夕日に向かって泳いでいるのを見た。波間から頭を出し、桃色の大きな耳を潮風になびかせつつ、丸い太陽を目指して泳いでいる。弱い視力のせいか、ゴルフクラブで打たれた目が腫れているせいか、「F11」には海を泳ぐ豚たちの頭に光の輪が輝いているように見えた。「F11」はトラックの柵から鼻を出し、海に向かって鳴いた。夕風に掻《か》き消された声が届くことはなかった。 「F11」はいつまでも鼻を突きだしていた。虻に刺された跡はだいぶん消えていた。明日の朝には、従来の滑らかな鼻に戻っていることだろう。  紺色に変わりつつある反対側の空には、いつしか朧《おぼろ》な月が浮かんでいた。月には薄く細い雲がかかり、石地蔵が合掌しているかのような陰影を描き出している。腫れた目で、遠のいていく水平線をいつまでも見ている「F11」の頭には、光の輪が描き出されていた。 [#改ページ]   ぞんび団地     一  じゅるじゅると鼻血を垂らすあっちゃんは、楽しい歌を歌いながらくちなし台住宅地へと向かいます。あざみ線の各駅停車で、終点から四つ手前の無人駅で降り、ゆるい坂道をてくてく登ります。  数年前までは、くちなし台行きのバスが走っていました。でも、あの事故があってからは、バスが走らなくなりました。スーパーもコンビニも図書館も幼稚園も、くちなし台近くの店や建物はすべて、シャッターやカーテンを閉めたままになっています。  街灯も自販機のあかりも消えてしまっている夕暮れの坂道では、カラスの声と、ランドセルに下げた犬のマスコットがちりちり鳴る音しか聞こえません。小学二年生の女の子がひとりで歩くには、ちょっと危険な道です。でもランドセルを背負ったあっちゃんは、鼻血をすすりながら、心を弾ませて歩きます。  甘く腐ったクチナシの匂いが強くなってくると、そびえ立つような鉄フェンスが見えてきます。フェンスには、看板がくくりつけてあります。 〈立入禁止 K県警 陸上自衛隊Y駐屯地《ちゆうとんち》 厚生労働省〉  クラスでいちばん体の小さいあっちゃんは、フェンスと地面のすきまを簡単にくぐり抜けることができます。お巡《まわ》りさんが見張っているわけではありませんから、大丈夫です。  フェンスをくぐると、ヨーロッパ風の素敵な家並みが現れます。ここが、あっちゃんの大好きな「くちなし台」です。くちなし山を切り開いて作った、百戸あまりの新興住宅地です。  伸び放題に伸びた巨大クチナシが、石畳いっぱいに実や花を落とし、崩れかけた家々に覆いかぶさっています。各家の庭は草ぼうぼうで、ひび割れた外壁にはツタが這《は》っていたり、雨水の跡がついていたりします。  どの家も電気が消えています。網戸が破れ、窓ガラスが割れている家。ずたずたカーテンが夜風に揺られている家。レンガ塀が崩壊した家。数年前、マンホールから有毒ガスが噴き出して以来、くちなし台から生活の匂いが消えました。  けれども、人々はまだここで暮らしています。あっちゃんは、くちなし台の人たちが大好きです。だから悲しいことがあると、学校が終わっても家には帰らず、ここに来るのです。 「こんばんは!」  薄暗い住宅地に、あっちゃんの元気な声が響きます。でも返ってくるのは、甘く腐った匂いに満ちた、生ぬるい夜風だけです。  ──ああ、まただれも出てきてくれない。つまんないな。  でもあっちゃんは知っています。窓の割れた部屋の奥や、背の高い雑草の陰から、くちなし台の人たちが見ていることを。  ここの人たちは少々ずぼらなところがあって、見たことのない人が来たら挨拶《あいさつ》をしに出てくるけれど、顔なじみの人には遠くから「やあ、いらっしゃい」なのです。ずぼらだけど心は広くて、あっちゃんがいたいだけいさせてくれます。「いつまでいるんだ、どっか行け!」なんて言いません。あっちゃんが庭先の植木鉢をうっかり割ってしまっても、怒ったり叩《たた》いたりしません。石畳でケンケンパをするのも、玄関の開いている家に遊びに行くのも自由です(ほとんどの家は、玄関ドアがはずれています。あっちゃんに自由に出入りさせてくれます)。  頑丈な鍵《かぎ》がかかっている鉄フェンスを、揺さぶる音がします。振り返ると、ヘッドライトをつけた車から降りてきた人が、フェンスを開けていました。  あっちゃんは慌てて隠れ場所を探しました。もし〈立入禁止〉の看板を立てた人だったら、あっちゃんをこっぴどく叩くかも知れません。  あっちゃんは、近くにあった〈入居者募集中〉の看板の陰に隠れました。フェンスを開け終えた人は車に乗りこむと、白いライトを光らせてゆっくりと進んできました。そして、看板の近くで止まりました。 「こんなところに連れてきて、どういうつもり?」  女の人の声がしました。あっちゃんはおそるおそる、のぞいてみました。助手席の窓が開いていて、髪の長い人が見えます。声の感じから、担任の菊池《きくち》先生と同じぐらい──二十三、四歳でしょうか。あっちゃんには気づいていないようです。 「俺たち、終わりにしよう」  男の人の声もしました。他にだれかできたのねと女の人がなじりました。おまえには関係ないだろと男の人が答えました。女の人は涙声で許さないと言いました。男の人はイライラ声でウンザリなんだと吐き捨てました。とうとう罵《ののし》りあいになり、あっちゃんは耳を塞《ふさ》ぎました。  ──二人とも、ケンカしないで、ケンカやめて……。  あっちゃんの頭の中では、パパとママの顔がうずまきました。  パパとママは、週に四度は罵りあいをします。原因はあっちゃんです。あっちゃんのパパは本当のパパではないそうです(本当のパパは、ママも分からないようです)。パパは、あっちゃんの育て方がなっていないのはおまえのせいだと言ってママを叩きます。ママは、あっちゃんのせいで叩かれるのよと言ってあっちゃんを叩きます。二人とも、あっちゃんが何度ごめんなさいを言っても許してくれません。  車での罵りあいは、どんどん恐ろしげになっていきます。あっちゃんは耳を押さえ、ケンカをやめてと祈りました。  女の人が悲鳴をあげました。男の人が馬乗りになって首を絞めています。女の人はそこらじゅう蹴《け》りまくりました。  ──どうしよう、どうしよう、どうしよう……。  そのとき、クチナシの花が風もないのに落ち始めました。草むらが揺れ、引きずるような足音が聞こえてきます。ツタに覆われた家々からは、低いうめき声が漂ってきます。闇に立ちこめる甘く腐った香りに、生臭さが混ざり始めました。人影がひとつふたつと浮かびあがります。黒い影の群れは体を揺らし、ぎこちない足取りで、車に近づいてきました。  女の人の首を絞めていた男の人は、いつしか手を離していました。顔を上げた女の人は、さっきよりも凄《すさ》まじい悲鳴をあげました。  くちなし台の人たちは車を取り囲みました。うめき声をあげながら車を揺さぶり、ボンネットを叩き、ドアを引っぱります。男の人がエンジンをかけたのとドアが引きちぎられたのは同時でした。  ものすごい絶叫が夜空を切り裂き、数秒で消えました。人々は頭を寄せあい、うごめいています。熟れすぎたトマトを食べるような音がして、あっちゃんの足下に、黒っぽい水が流れてきました。  やがて、人々は車から離れました。赤黒く濡《ぬ》れた石畳には、男の人と女の人が仰向けに倒れています。白いワイシャツと、白っぽいブラウスだったのに、どす黒く濡れ、ずたずたになっていました。  人々は低く唸《うな》りながら、二人を見下ろしています。しばらくして、男の人の腕が動きました。女の人は、ねじれた首を左右に振りました。二人がぎこちない動きで立ちあがると、住宅地の人たちはひょらんひょろんと歩きだしました。二人も彼らに続いて歩きだしました。  女の人は、顔と右足が変な方向に曲がっていました。だから、しばらく歩くと転んでしまいました。男の人は立ち止まり、転んだ女のひとをじいっと見ています。片目が飛び出してしまったので、女の人の様子がよく見えないようです。女の人が立ちあがると、男の人はまた歩きだしました。右に揺れたり、左に揺れたり、肩どうしがトンとぶつかったり、転んだりして、二人は仲良く歩いていきました。  あっちゃんはあたたかい気持ちになり、次第に切なくなってきました。  ──パパとママも、ああなってくれればいいのに。  くちなし台の人たちは、家族がひとまとまりになって歩いています。ひとりぼっちで歩いている子なんていません。置いてけぼりにされて泣いている子なんていません。子どもが転んでも、罵ったり怒ったりする親はいません。乱暴に腕をつかんで立ちあがらせる親もいません。転んだ子を無視する親もいません。子どもが転んだら立ち止まり、起きる様子を見ています。  あっちゃんは、血の跡だらけの石畳をダッシュしました。 「わたしも、ぞんびにして!」  あっちゃんは、くちなし台の人たちが「ぞんび」と言われていることを知っています。くちなし台のぞんびの話は、学校でも有名だからです(インターネットにも出ているそうです)。  家族全員ぞんびになって、くちなし台に引っ越し、ずっと仲良く暮らすのが、あっちゃんの夢です。ぞんびになれば、パパもママも以前のような、穏やかで物静かなパパとママになってくれることでしょう。あの日のような──ドライブに連れていってくれた、あの最高にしあわせだった日のような。  それにはまず、あっちゃんがぞんびにならなくてはいけません。パパとママをくちなし台に連れていくのがいちばんてっとりばやいのですが、二人ともあっちゃんのお願いなんか聞いてくれません。  ぞんびになるには、ぞんびにかじってもらうしかないのです。でも何度お願いしても、だれもあっちゃんをかじってくれません。あっちゃんと同じ女の子のぞんびもいるのに、あっちゃんより小さな子もぞんびになったのに。 「お願い! わたし、ぞんびになりたい!」  人々は、あっちゃんにひょらひょらと手を振って、それぞれの家に帰っていきます。車で罵りあいをしていた男の人と女の人も、人々を真似て、にょらにょらと手を振りました。  ひとり残されたあっちゃんは、爪をかみました。  ──やせっぽちだから、かじってもらえないのかな。前歯が出ているからダメなのかな。パパも、わたしのことかわいくないって言う……。  今夜も、あきらめるしかなさそうです。  遠くから、スーパーの閉店音楽が聞こえてきます。くちなし台から三キロしか離れていないせいか、隣町のスーパーは七時で閉店してしまいます。 「また来るね、ばいばい!」  だれの姿も見えなくなった家並みに手を振ったあっちゃんは、駅に向かって全力で走りました。くちなし駅に停まる電車は、七時八分に来ます。これを逃すと、次は八時半まで来ません。  ランドセルを背負ったまま遅くまで歩いていると、お巡《まわ》りさんや補導員に声をかけられてしまいます。お巡りさんや補導員にアパートまで送ってもらうと、パパの機嫌が悪くなり、お巡りさんが帰ったとたん、あっちゃんを叩《たた》くのです。夜はママがいませんから、なおさら叩きます。ママは夕方、お化粧してお仕事に行きます。夜明けごろ、お酒とタバコの臭いをぷんぷんさせて帰ってきます。  でもあっちゃんは信じています。ぞんびになれば、ドライブに連れていってくれた日のようなパパとママに戻ってくれると。あっちゃんのことを嫌わなくて、いいことをしたら誉めてくれて、ごめんなさいを言えば許してくれるパパとママになってくれると。  あっちゃんは真っ暗な坂道を駆けおりました。じゅるじゅる出ていた鼻血は、ようやく止まったようでした。     二  あっちゃんがアパートに戻ったのは、九時すぎでした。あとちょっとのところで、七時八分の各駅停車が行ってしまったのです。しかたなく、だれもいないプラットホームで八時半まで待ちました。おなかの虫が鳴くし、ひとりぼっちで心細いし、帰ったらパパに怒られるのが想像できるし、泣きたい気持ちでいっぱいでした。  テレビがつけっぱなしになった和室では、パパが大の字になって寝ていました。あっちゃんはランドセルを抱えて、そっと台所の隅にうずくまりました。物音を立てたらパパが起きてしまいます。お酒を飲んで寝ているときに起こされると、パパはとても機嫌が悪くなるのです。  ──早く、ぞんびにならなくちゃ……。  あっちゃんは吉田《よしだ》さん一家を思い浮かべました。くちなし台のいちばん素敵な家に住んでいる三人家族です(玄関先の白いアーチに、クリスマス・イルミネーションとおもちゃの雪だるまが飾ってあります。すっかり壊れていますが)。おじちゃんとおばちゃんと拓也《たくや》くんと柴犬《しばいぬ》のゴンがいて、拓也くんはあっちゃんと同じ二年生です。おじちゃんとおばちゃんは、インスタントラーメンをそのまままぶしたミイラのような「かさかさぞんび」で、拓也くんはお味噌《みそ》汁で煮こんだ人形焼きみたいな「どろどろぞんび」です。ゴンは、包みをむしりそこねたソーセージのような「ずるむけぞんび」です。吉田さんたちもゴンも、他の住民と同じで「うー」としか言いません。あっちゃんは、家の表札と拓也くんの名札とゴンの首輪のキーホルダーから、みんなの名前を知りました。  吉田さん一家は、あっちゃんの憧《あこが》れです。肩を寄せあって歩くパパとママと拓也くん。ママが作ってくれたフェルトのマスコットに似ているゴン。吉田さんちのパパは、お酒を飲んで暴れたりしません。ママも泣いたりしません。「うー」だけで通じあえるのです。ママが他の男の人と付き合っているんじゃないかとか、パパがまたパチンコで何万円使ったとか、そういうケンカはしません。  それにあっちゃんは、引っ越しばかりする生活が好きではありません。お友だちができたと思ったら、すぐにお別れなのです。覚えているだけでも九回引っ越しました。  くちなし台に住めば、「家賃を払わないなら出ていけ」と追い出されることもないでしょう。〈入居者募集中〉の看板が出ている家を好きに選んで暮らせばいいのです。看板の出ている家はいっぱいありますが、北向きの大きな家が一番人気です。住みたい人みんなが住んでいます。二百人を超えたあたりから、押しあいへしあいになってしまい、他の人を踏んづけないと隣の部屋に行けなくなりました。でもだれも怒りません。踏んづけた人も、踏んづけられた人も、「うー」と挨拶《あいさつ》しあうだけでいいのです。 「理恵《りえ》ェ、カネ持ってこいやぁ……」  タバコとお酒の臭いが充満した和室で、パパが寝言でママを呼んでいます。空気の濁った1DKで、あっちゃんはランドセルを抱えたまま、うずくまっていました。  ──早く、ぞんびにならなくちゃ……。  ぞんびになってパパとママをかじれば、きっと、あの日のようなパパとママに戻ってくれるのです──。  桜がきれいな、青空の日でした。  パパはレンタカーを借り、ママはお弁当を作ってくれました。車は海沿いの桜並木を走り、あっちゃんが以前から行きたかった『ワンちゃんふれあいランド』に着きました。あっちゃんの家はアパートなので、犬が飼えないのです。あっちゃんは柴犬やゴールデンレトリバーと遊び、パパがいっぱい写真を撮ってくれました。  お昼になったら芝生広場にレジャーシートを広げて、三人でお弁当を食べました。水筒のコップに桜の花びらが入ったので、パパとママに見せました。パパとママは「すごいね、きれいきれい」と微笑みました。パパのおにぎりにも、花びらがついていました。  帰りはみんなでファミレスに行きました。ジャンボいちごパフェを食べたいと言ったら、パパが「食べきれないぞ」と笑いました。案の定、食べ切れなくて、パパとママが残りを食べてくれました。アパートまでは、後部席でママに膝枕《ひざまくら》してもらって寝ました。とてもとてもしあわせな一日でした。ぞんびになれば、またああいう家族になれるのです──。  ──早く、ぞんびにならなくちゃ。でもどうやったら、かじってもらえるのかな……。  ランドセルにさげた犬のマスコットを触っているうちに、あっちゃんは眠ってしまいました。  玄関ドアの開く音がして、あっちゃんは目を覚ましました。  台所の窓は、かなり明るくなっています。マスコットを握りしめたまま、朝まで寝てしまったようでした。  お酒とタバコと香水と汗の臭いがします。ハイヒールを脱ぎ捨てて入ってきたのはママでした。流し台で蛇口をひねり、水を飲もうとしたママに、あっちゃんはそっとささやきました。 「ママ、お仕事おつかれさま」  こういうときは、ママにうるさく話しかけないほうがいいのです。あっちゃんは隣の六畳和室に行き、お布団を敷いてあげました。パパは出かけたようです。新装開店のパチンコ屋さんでいちばんいい台を取るために並んでいるのでしょう。あっちゃんはお布団を敷く前に、散らかったお酒の缶も、吸い殻だらけの灰皿も、広げたままの週刊誌も、きちんと片づけました。ママはお片づけが、苦手なのです。 「ママ、お布団敷いたよ」  そっと声をかけましたが、ママは冷蔵庫を背に座りこんだまま、顔を上げませんでした。  あっちゃんはそれ以上は何も言わず、今日の時間割を見てランドセルの中身を入れかえました。宿題をしていませんから、早めに家を出て、公園のすべり台の陰でやることにしました(ベンチでやるとお巡りさんに見つかって、お家《うち》はどこと聞かれたりします)。  和室の時計は六時半を回ろうとしています。算数プリントと漢字練習ノートは、登校時間までに仕上げられそうです。  あっちゃんのおなかの虫が鳴きました。昨日の夕方、電車でクリームパンを食べたきりです。公園の水を飲んで、おなかを満たすことにしました。ママの様子から考えると、顔も公園で洗ったほうがよさそうです。 「ママ、行ってきます!」  あっちゃんは靴を履きながら、元気な声で言いました。ママはやっぱり顔を上げてくれませんでした。     三  学校に行ったあっちゃんは、教室の前で立ちつくしました。  あっちゃんの机と椅子が、また、廊下に出されているのです。  登校してきた子たちは、知らん顔で教室に入っていきます。騒ぎながら歩いてきた男子グループは、うっかり足をぶつけて腹を立て、あっちゃんの机を蹴《け》りました。  向こうから、仲良しの美里《みさと》ちゃんと佳奈《かな》ちゃんが歩いてきます。二人はあっちゃんの机に気づいて、立ち止まりました。  ──どうしたの、あっちゃん!  と、二人が駆けよってきてくれることはありませんでした。ランドセルを背負った二人は鍵盤《けんばん》ハーモニカを提げたまま、気まずそうにあっちゃんの机を見ています。あっちゃんは精一杯の笑顔を作り、「おはよう」と声をかけました。 「わたしの机、またこんなところに出てきちゃった」  美里ちゃんと佳奈ちゃんは、あっちゃんの机を教室に入れようかどうしようか、迷っている様子でした。二人は、あっちゃんと教室を交互に見て困った顔をします。黒板の前で遊んでいる黒崎《くろさき》くんたちが、美里ちゃんたちをにらんでいました。  二年四組のルールを決めるのは黒崎くんです。黒崎くんが「山田《やまだ》うぜー」と言えば、クラスの子たちは山田くんを無視します。黒崎くんが授業中に「かったりィ」と大アクビすれば、クラスのみんなも先生に向かって大アクビしなくてはなりません。黒崎くんは体が大きいわけでもケンカが強いわけでもないのですが、先生だって泣かせてしまうのです。  美里ちゃんと佳奈ちゃんは、黒崎くんの視線に耐えられず、「ごめんね」と教室に逃げこみました。  こういうことが始まったのは三ヶ月ほど前──四月の半ば頃からです。その頃あっちゃんは、パパとママの都合でしばらく学校を休んでいました。一週間ほどして学校に行ったら、みんなが無視するようになったのです。「おはよう」と声をかけても知らん顔です。美里ちゃんと佳奈ちゃんは、黒崎くんを怖がりながらも、あっちゃんを気にかけているようでした。でも、以前のようにあやとりに誘ってくれることはなくなりましたし、学校が終わったら逃げるようにして、二人だけで帰ってしまうのです──。 「こんなことをしたのはだれですか!」  あっちゃんは顔を上げました。担任の菊池先生が教室の入口に立っていました。 「木下《きのした》さんの机と椅子を、すぐに戻しなさい!」  こんなことをしたのはだれと言いながらも、菊池先生の視線は黒崎くんに向けられていました。 「せんせえ、なんでオレを見るんですかあ?」  黒板に落書きしながら、黒崎くんたちは菊池先生を見上げます。 「木下さんは、クラスのお友だちですよ!」 「えーっ? 木下なんかと友だちじゃないですよー」 「それに木下の机、教室に入れるのキモいしー」  取り巻きの子たちも、尻馬《しりうま》に乗ります。 「机を戻しなさい!」  菊池先生と黒崎くんのにらみあいが続きます。やがて黒崎くんたちはチョークを黒板に叩《たた》きつけ、自分の席に戻りました。でも、あっちゃんの机は戻しませんでした。クラス委員の望月《もちづき》くんと加納《かのう》さんが廊下に出てきて、机を戻してくれました。机から落ちたプリントを、美里ちゃんと佳奈ちゃんが拾ってくれました。黒崎くんは、菊池先生の味方をした四人をにらみつけました。四人は黒崎くんと目を合わさないようにして、自分の席につきました。  教室に入ったあっちゃんは、四人にお礼を言いました。四人はうつむいたまま、あっちゃんと目を合わせてくれませんでした。  あっちゃんの机は、教室のいちばん後ろの、いちばん端っこにあります。あっちゃんは席につき、ランドセルを開けました。教科書が涙でぼやけてきました。こういうことが始まって三ヶ月になるのに、こんなことには慣れているのに、涙が出てきてしまいました。  三ヶ月ほど前、あっちゃんのパパは黒崎くんのパパとケンカしてアルバイトを辞めました。黒崎くんのパパは、あっちゃんのパパの雇い主でした。その晩、パパとママは言い争いをしました。ママは、いいかげんにしてよと泣きました。パパは、あんな店はこっちから願い下げだブッ殺すとお酒を飲んでママを叩きました。それを見ていたあっちゃんをも叩きました。パパに叩かれたママも、あっちゃんを叩きました。  パパは、工事現場で働いていたかと思ったら、いつのまにか工場に通っていたりします。街でチラシを配っていたかと思ったら、駅前でどぎつい色の看板を持って立っていたり。仕事が変わるたびに、パパはお酒を飲んでママを叩きます。パパに叩かれるとママはあっちゃんを叩きます。  ──早く、ぞんびにならなくちゃ……。  ふでばこから鉛筆を出して、あっちゃんは爪を噛《か》みました。  くちなし台の人たちは、絶対に人と争ったりしません。ケンカばかりしていた人でも、穏やかで物静かになって、みんなと仲良く過ごせるようになるのです。  くちなし台には、竜《りゆう》ちゃんという、大仏様みたいな髪型のお兄さんがいます(菊池先生ぐらいの年です)。ぞんびになる前は、隣町のスーパー前で「竜ちゃんのタコ焼き」という露店をやっていました。ヤスさんという、アロハシャツの人も手伝っていました。竜ちゃんはことあるごとに、「ヤスなにやってんだコノヤロー」とか「とっととやれヤス」とか言って、小指のない左手でヤスさんの頭をひっぱたいていました。ヤスさんがにらみかえすと、「なんだぁ?」と、追加でひっぱたいていました(そんな竜ちゃんも、あっちゃんにはときどきタコ焼きを食べさせてくれました。屋台に貼ってある女の子の写真と似ていたからかもしれません)。  くちなし台の住人になってからは、二人はタコ焼きを売らなくなりましたが、公園に広げた露店テントの下で、いつも仲良く座っています。竜ちゃんがヤスさんの頭をはたくことも、ヤスさんが竜ちゃんをにらみつけることもありません。「うー」だけで心を通わせあっています。それに、穏やかで物静かで礼儀正しくなりました。見知らぬ人が〈立入禁止〉の鉄フェンスから入ってきたら、町内の人たちといっしょに挨拶《あいさつ》に出かけます。スーパー前でタコ焼きを作っていたときは、お客さんが「タコが小さい」と呟《つぶや》いただけで鉄串《てつぐし》を振りかざして追いかけてきたのに、ウソのようです。  ──でも、どうやってお願いしたら、かじってもらえるのかな……。  くちなし台の人たちがちっともかじってくれないので、あっちゃんは自分でぞんびになる方法を調べました。市立図書館に『ゾンビになるパウダー』という本がありましたが、ものすごく難しくて、ちっともわかりませんでした。『月刊しょうがくせい』の『ものしり先生相談室』にも質問の手紙を書きましたが、返事が来ることはありませんでした。  ──早く、かじってもらいたいなあ……。  ほおづえをついて、あっちゃんは黒板を眺めました。今日の算数は、三|桁《けた》の足し算・引き算です。菊池先生が、ボール紙で作った十円玉や百円玉を黒板に貼って、リンゴとミカンを五個ずつ買ったときのお釣りを説明しています。 「この十円玉が四個、お釣りで戻ってきます。こっちの百円玉は、リンゴのお金になります」  菊池先生は教材用の十円玉を、上下左右に動かしています。  そのとき、あっちゃんの頭の中で電球が光りました。  ──そうだ、こっくりさん[#「こっくりさん」に傍点]に聞こう!  五十音や数字を書いた紙に十円玉を置いて、「こっくりさんこっくりさん」と言うと、十円玉が動いてどんな質問にも答えてくれるのです。美里ちゃんや佳奈ちゃんといっしょに、あっちゃんは何度もこっくりさんをやりました。こっくりさんは何でも知っています。美里ちゃんが南《みなみ》くんを好きなのも、佳奈ちゃんに弟ができるのも、こっくりさんが教えてくれたのです。  あっちゃんは、机に入っていたプリントを一枚取りだし、裏に五十音と数字を書き始めました。     四  あっちゃんはひとり、夕暮れの電車に揺られていました。  手には、切符とこっくりさんの紙が握られています。美里ちゃんも佳奈ちゃんも、こっくりさんをいっしょにやってくれなかったのです(最低二人いないと、こっくりさんが呼べません)。  放課後、下校中の美里ちゃんと佳奈ちゃんを、あっちゃんは追いかけました。本当はもっと早く──給食時間か掃除時間に声をかけたかったのですが、黒崎くんの目があるので、やめました。  美里ちゃんたちの帰り道と黒崎くんの帰り道とは、方角が正反対です。だから大丈夫だろうと思って、あっちゃんは、「こっくりさんやろう」と声をかけました。でも美里ちゃんはチラッと振り向いただけで、歩き去ってしまいました。佳奈ちゃんは振り向いてもくれませんでした。  あっちゃんのおなかの虫が鳴きました。ここ最近は一日一食──学校帰りに買う菓子パンと、紙パック牛乳だけです(店番のおばあちゃんは、いつもレジの前でうとうとしているので、そっとお金だけ置いてきます。ママのお財布から、一日二百円もらいます)。給食費を払わない子には給食を出さない決まりになったと、黒崎くんは言っています。何度か家庭訪問に来てくれた菊池先生も、このごろは来てくれなくなりました。今日みたいなパパとママを見てしまったせいかも知れません。  今日、学校から帰ると、パパとママが裸で体をくっつけあっていました。ふすまが半開きになった六畳間で、二人ともぴくんぴくんしていて、あっちゃんが帰ってきたことすら気がついていないようでした。あっちゃんは外に出ました。パパとママがああしているときは、自分はいてはいけないと、なんとなく知っているのです。  あっちゃんは、パパとママが理解できません。特にママが理解できません。ママはパパに罵《ののし》られたり、髪をつかんで引きずられたり叩《たた》かれたりするのに、ああいうときはとても嬉《うれ》しそうなのです。いつもパパを最低とかロクデナシとか罵るのに、パパの背中に両腕を回して、好き好き好きと叫ぶのです。あっちゃんのことは、好きと言ってくれなくなったのに。パパが来る前は、「大きな家に住めるようになったら本物のワンちゃんを飼おうね」と、フェルトで犬のマスコットを作ってくれたのに。  あっちゃんは、台所に投げだしてあったママの財布から五百円玉をとり、アパートを出ました。パンと牛乳のお金と、くちなし台への往復電車賃です。今日は、懐中電灯も忘れずに持っていかなくてはなりません。  駅に向かう道は、カレーや煮物の匂いでいっぱいでした。家々の台所からは、包丁とまな板の小気味よい音や、親子の笑い声が聞こえてきます。あっちゃんのおなかの虫が鳴きました。あっちゃんは大声で歌いながら歩きました。  電車の外を流れる風景が、夕暮れ色から夜の色へと変わっていきます。くちなし駅に停まる電車は1時間に一本ぐらいしかありませんから、どうしても着くのは日没後になってしまいます。もっとも、そういう時間帯でなければ、みんなには会えないのですが。 〈くちなしぃ、くちなしぃ。お出口は左側です〉  ドアが開き、クチナシの甘く腐った匂いが車内に流れこんできました。車両には十人ほどいましたが、降りるのはいつも、あっちゃんだけです。消えそうな電灯が一本立っているだけの、無人プラットホームに降りたあっちゃんは、こっくりさんの紙と十円玉を握りしめ、夜空に黒く浮かびあがるくちなし台に向かって、坂道を走り始めました。 〈立入禁止 K県警 陸上自衛隊Y駐屯地《ちゆうとんち》 厚生労働省〉  鉄フェンスと地面のすきまをくぐったあっちゃんは、夜闇に向かって「こんばんは!」とあいさつしました。返ってくるのは、甘く腐った匂いに満ちた、生ぬるい風だけです。  でも今夜は、いつもと違った生臭さがして、蠅の羽音が漂っていました。闇に目を凝らすと、窓ガラスを割られてドアを引きちぎられたワゴン車が、停まっているのが見えました。近づこうとしたあっちゃんは、ゴリッとしたものを踏んで転びそうになりました。ちぎれた手首でした。近くには、中身[#「中身」に傍点]が入ったままのスニーカーや、まっぷたつに折られたカメラ付き携帯やデジカメがいくつも散らばっています。どうやらこの人たちは、くちなし台の新しい住人として歓迎されなかったようです。  人々が新しい人を食べつくしてしまうのを初めて見たとき、あっちゃんはおもらししそうになりました。でも、ここに何度か足を運ぶうちに、歓迎される人と食べられてしまう人との違いがわかるようになりました。人々や家の中の写真を撮りに来た人のことは、怒って食べてしまうのです。あっちゃんも自分がぞんびだったら、そういう人を食べてしまうと思います。あっちゃんもよく、知らない人に写真を撮られました。暗そうな男の人が、いきなりカメラ付き携帯を向けてくるのです。写真を撮ったら、さっと逃げていきます。すごくイヤな感じがしました。  ところであっちゃんが初めてここに来たのは、四月の終わりのことなのです。学校でみんなに無視されるようになり、とぼとぼと線路沿いを下校していたとき、ひとりで屋台を引っぱるヤスさんを見かけたのです。ロープでビニルシートをぐるぐる巻きにした移動屋台から、赤い滴が落ちていたので、あっちゃんはついて行ってみました。  ふうふう汗を流し、くちなし台に来たヤスさんは、鉄フェンスをこじ開けて屋台を突き押しました。屋台が倒れてごろんと転がり出た竜ちゃんと、閉じてしまったフェンスを開けようとするヤスさんのもとに住民が現れたとき、あっちゃんはものすごく緊張しました。上級生の校舎に迷いこんだときのように「チビの来るところじゃないぞ」と叩かれると思ったからです。でもそれはあっちゃんの思いこみでした。  あっちゃんは、みんなを一目見て大好きになりました。「ぼくたちみんな歯が出てるんだよ。あっちゃんも気にしなくていいんだよ」と言ってくれるかのようでしたし、目玉がびょろおんと伸びていて、あっちゃんをにらむこともありませんでしたし。  ワゴン車の陰で、骨をかじる音がします。のぞいてみると、吉田さんちの拓也くんがしゃがんで、スニーカーの中身を食べていました。またおじちゃんやおばちゃんに隠れて、つまみ食いに来たのでしょう(だから拓也くんは肥満気味です)。奥に詰まっているのが出てこないのか、針金を突っこんで掻《か》きだしています。隣にはゴンがいて、とがった前歯を前足でこすっています。転がっていた手首を食べ、歯にスジがはさまったようでした。  あっちゃんはゴンの頭をなで、ひとしきりじゃれあうと、拓也くんの前でしゃがみました。 「あのね、いっしょにこっくりさんしてほしいの」  拓也くんは顔をあげて「うー」と言いました。でもあっちゃんを見ているのかどうか、わかりません。拓也くんの両目は、真っ暗な穴ぼこです。目玉はふたつとも飛び出して、ほっぺたにぶら下がっています。 「こっくりさんは、ひとりじゃできないの。だからここに来たの」  拓也くんが「うー」と首を傾げると、ほっぺたの穴ぼこに右目が入ってしまいました。反対側に顔を傾けると、びょらぁんと右目が出てきました。  あっちゃんは地面に紙を広げて、鳥居の絵の場所に十円玉を置きました。そして、持ってきた懐中電灯を紙の横に置きました。五十音と数字が、ぼんやり照らしだされます。石畳に飛び散っている血は生乾きらしく、紙の裏から染みてきました。 「拓也くんも、十円玉に指をおいて」  あっちゃんが十円玉に指を置くと、拓也くんも真似て、骨の飛び出た人差し指を置きました。いつも耳から長い虫が出ている拓也くんですが、言葉や音はちゃんと聞こえているのです。  ──本当は三人いたほうがいいんだけど……。  あっちゃんはあたりを見回しました。みんな、満腹になって早々に寝てしまったのでしょう。しかたなくあっちゃんは、そばにいたゴンの右前足をつかんで、十円玉に乗せました。ずるむけの前足を引っぱられたゴンは、白目をむいたまま「うー」と言い、左前足で口元をこすりました。こっくりさんよりも、歯にはさまったスジのほうが気になるようです。  とりあえず三人(?)そろいました。あっちゃんは深呼吸し、呪文《じゆもん》を唱えました。 「こっくりさん、こっくりさん、いらっしゃったら〈はい〉のほうへ、お進み下さい」  二本の指と一本の前足を乗せた十円玉は、紙の上を滑り、〈はい〉で止まりました。あっちゃんは目を輝かせ、また深呼吸しました。 「こっくりさん、こっくりさん。どうすればわたし、ぞんびにしてもらえますか?」  十円玉はゆっくりと動きます。あっちゃんはどきどきしながら動きを見守ります。五十音のあちこちを動きまわった末に、〈いいえ〉で止まりました。「どうすれば」と聞いているのに「いいえ」では、答えになっていません。あっちゃんは首を傾げ、質問のしかたを変えてみました。 「こっくりさん、こっくりさん。わたしは、ぞんびになりたいです。だから、くちなし台の人たちにかじってもらいたいです。どうすれば、かじってもらえますか?」  文字盤を動き出した十円玉は、また〈いいえ〉で止まりました。あっちゃんは、拓也くんをにらみました。 「動かしてるでしょ!」  拓也くんは口から胃袋をたらして「うー」と言うだけです。ではゴンが動かしているのでしょうか。「めっ」とゴンを軽く叩《たた》くと、割れた頭からぞんびハムスターが顔を出してキョロキョロしました。  ──おかしいな、だれも動かしていないのかな?  あっちゃんは、もういちど質問のしかたを変えてみました。 「こっくりさん、こっくりさん。もっとたくさん食べてぽっちゃりになれば、かじってもらえますか?」 〈いいえ〉 「頭にバターをぬれば、かじってもらえますか?」 〈いいえ〉 「ジャムのほうがいいですか?」 〈いいえ〉 「じゃあ……前歯が出てるのを治したら、かじってもらえますか?」 〈いいえ〉  何を聞いても「いいえ」です。 「わたし、ぞんびになりたいんです!」  すると〈いいえ〉の位置を離れ、五十音の上を動き始めました。 〈むりかも〉  あっちゃんは大声で泣き出したくなりました。 「どうしても、なりたいんです!」 〈むりかも〉 「こっくりさんのいじわる! こっくりさんの出っ歯!」  十円玉が猛烈な勢いで暴れだし、あっちゃんたちは振りとばされてしまいました。  ──しまった!  あっちゃんの背中に冷たい汗がにじんできました。こっくりさんの途中で、十円玉から手を離してはいけないのです。下等霊に取り憑《つ》かれて狂い死にしてしまうのです。 「どうしよう……」  あっちゃんは半泣きになって拓也くんを見ました。拓也くんとゴンは、どこ吹く風の知らん顔。拓也くんは再びスニーカーの中身をほじくり出すことに専念し、ゴンは挟まったスジを何とかしようと、ぺにょぺにょっと頭を振りました。  震えるあっちゃんの前で、十円玉が、ひとりでに動き始めました。 〈ぱぱと ままの ひみつ〉 「え……?」  十円玉は動き続けます。 〈くちなしだいの ひとたちに わたせば ぞんび なれる かも しれない〉 「ほんとですかっ!」 〈かもしれない〉 「それでもいいです! 秘密って、なんですか?」 〈おとなの ひみつ〉 「ヒントほしいです!」 〈おとなの ひみつ〉 「こっくりさんは美人! だからヒントちょうだい!」  十円玉は〈ひみつ ひみつ ひみつ〉と紙の上を走り回ったあげく、鳥居の絵が描かれている場所に戻り、動かなくなりました。  ──あーあ。  ため息をついたあっちゃんですが、気持ちを切り替え、十円玉を握りしめて立ちあがりました。月を見上げて目を輝かせるあっちゃんを、甘く腐った夜風が包みこみました。     五  夕方五時半から六時。パパもママもいない時間帯です。ママはお仕事ですし、パパはパチンコか飲み屋に行っています。  首からさげた鍵《かぎ》で──あっちゃんはちっちゃい頃から、自分でアパートの鍵を開けます──薄暗い部屋に入ると、朝より臭いがひどくなっていました。流し台には、カップラーメンやお総菜の容器が積み上げられています。口紅のついた割り箸《ばし》や吸い殻を突っこんだカレーラーメンには、小蠅がたかっていました。ゴミ箱は中身があふれ、そばに置いたゴキハウスからは何十本とヒゲが出て、うごうごしています。こういう台所に慣れているあっちゃんでも、鼻を押さえてしまいました。  さて。パパが帰ってくる前に、こっくりさんの教えてくれた〈ひみつ〉を見つけなくてはなりません。まずは六畳和室から探すことにしました。  香水やタバコや汚れ物の臭いでいっぱいの和室では、汚れた布団が敷きっぱなしになっています。丸めたティッシュやお酒の缶が転がり、あっちゃんの足の裏には、ママの茶色い髪やタバコの灰がくっつきました。  パパとママの〈ひみつ〉。  たしかママは、たんすのいちばん下を開けると怒りましたから、ここにあるのかも知れません。  あっちゃんは、そうっと開けてみました。「プチプチらぶ」とピンク色の文字で書かれた小箱が出てきました。輪っかのついた風船みたいなのが、半透明の袋にひとつずつ包まれています。くちなし台の人たちに、これを渡せばいいのでしょうか? でも人数分はなさそうです。  あっちゃんはもう少し探してみました。革のブラジャーと、紐《ひも》みたいなパンツと、ムチとロウソクが出てきました。とりあえずロウソク以外は、コンビニの袋に入れました(くちなし台の人たちは、火が大の苦手なのです)。  パパの〈ひみつ〉は、押し入れにありそうです。パチンコで大負けして帰ってくるたびに押し入れの下段で何か探していて、あっちゃんが近づくと「あっち行け!」と怒鳴ります。  押し入れに潜ったあっちゃんは、奥のほうに押しこんである紙袋が気になりました。のぞいてみると、注射器やお薬の包みが見えました。  あっちゃんは首を傾げました。くちなし台の人たちは、注射が好きなのでしょうか? 白い粉がこぼれていたのでなめてみると、ものすごく苦くて吐きそうになりました。  あっちゃんは、一応これもコンビニの袋に入れました。押し入れから出ようとしたとき、鉄階段を上ってくる足音が聞こえてきました。あっちゃんの背中に冷たい汗がにじみます。足音は玄関ドアの前で止まり、鍵を開ける音がしました。  ──どうしよう、鍵を閉めるの、忘れちゃった……。  鍵を開けたはずが閉まってしまい、パパはピンときたのでしょう。鍵を開けなおしたパパは、電気をつけて「なにしてンだ、こらぁ!」と怒鳴りました。  あっちゃんは、コンビニ袋とランドセルを抱きしめたまま、見つかりませんようにと必死に祈りました。祈りが通じたのでしょうか。玄関に靴を脱いだままだったのですが、ゴミ袋が積みあげられていたおかげで、パパは気づかなかったようです。 「理恵、おまえ給料日だろ! さっさと行け、このヤローッ!」  ママと勘違いしているようです。でも、あっちゃんがホッとできたのはほんの数秒でした。和室に入ってきたパパは、いきなり押し入れを開けたのです。  そんなとこで何してやがるこのガキ!──と引きずり出されるのを覚悟して、あっちゃんはギュッと目をつむりました。  けれどもパパはあっちゃんには目もくれず、紙袋だけを探し始めました。押し入れの暗い床を、パパの手がいらだたしげに動き回ります。あっちゃんは手にした紙袋をおそるおそる置きました。探り当てたパパは紙袋を引っつかむと、破るようにして粉薬の包みと注射器を取りだし、大股《おおまた》に台所へと向かいました。  水道をひねる音が聞こえてきたので、あっちゃんはそうっと押し入れから這《は》いだしました。溶かした粉薬を、パパが腕に注射しています。とろけるような表情を浮かべたパパは、注射器を手にしたまま流し台にもたれかかり、崩れるようにして床に座りこみました。そのうちヨダレを垂らしてイビキをかきはじめたので、あっちゃんはランドセルを抱えたまま押し入れを出ました。  足音を忍ばせて台所に行ったあっちゃんは、薄汚れたチノパンとTシャツを着てぐにゃぐにゃと寝ているパパを、じっと見下ろしました。  家族ドライブに連れていってくれたパパは、こんなパパではありませんでした。ママとおそろいのポロシャツを着て、素敵なジーパンとシューズを履いて、おひげをきちんと剃《そ》って髪もちゃんとしていました。子犬を抱っこしたあっちゃんに笑いかけて、「はいチーズ」と何枚も写真を撮ってくれたパパでした。ファミレスで、ジャンボいちごパフェを食べさせてくれたパパでした。あっちゃんにもママにもやさしい、穏やかなパパでした。  ──ぞんびになって、パパとママをかじれば、前みたいに戻れるもん……。  台所の入口に投げ捨てられた紙袋を拾うと、あっちゃんはアパートを出ました。ガムを踏んづけた拍子に鉄階段を踏みはずし、思いっきり尻《しり》もちを突きました。痛いことには慣れているはずなのに、あっちゃんは涙が出てきました。  くちなし台に着いたのは、すっかり夜闇に包まれた頃でした。 〈立入禁止〉の鉄フェンスをくぐると、町内総出で車を引きちぎっているところでした。くちなし台に来た人が、再び鉄フェンスの向こうに出ることはありません。定期的に処理しないと、車はどんどん溜《た》まってしまうのです。竜ちゃんとヤスさんがタコ焼きの屋台に鉄くずを載せて運び、フェンスの向こうに投げ捨てていました。 「こんばんは!」  あっちゃんは、〈ひみつ〉を詰めたコンビニ袋を掲げました。 「パパとママの〈ひみつ〉、持ってきたよ! だからぞんびにして!」  あっちゃんは、袋の中身を石畳に並べました。「プチプチらぶ」の箱、革のブラジャー、紐パンツとムチ、注射器、お薬の包み。みんな作業の手を止めて、じいっと見ています。  吉田のおじちゃんが、腸を引きずってやってきました。拓也くんもいっしょです。おじちゃんは「うー」と言って、ブラジャーとパンツを手にしました。 「わたしをぞんびにしてくれるっ?」  おじちゃんの干からびた目は、ブラジャーとパンツだけに向けられています。そこへ、吉田のおばちゃんがゴンを連れてやってきました。血染めのエプロンをつけたおばちゃんは、「うー」と言ってムチを拾い、おじちゃんを打ちました。手首から先がブラジャーごと落っこちてしまったおじちゃんは、「うー」と不満げにおばちゃんを見ました。鼻から下がガイコツになっているおばちゃんは、いつでも歯を見せて笑っています。笑顔の絶えないおばちゃんです。  拓也くんは「プチプチらぶ」の箱を開け、輪っかの風船を引っぱりました。別の子たちが来て、風船を膨らませてみました。拓也くんも真似ました。ぴょろろろと夜空を飛びかう風船を、ゴンが追いかけて八つ裂きにしました。吉田のおじちゃんとおばちゃんは、それを見て顎《あご》をかくかく鳴らしました。他の住人たちも顎をかくかく鳴らしました。たくさんのかくかくが夜空に響きました。 「あのね、わたし、ぞんびにしてほしくて来たんだけど……」  かくかくが静まると、人々はあっちゃんにひょらひょらと手を振って、それぞれの家に引きあげていきました。  ──これって、〈ひみつ〉じゃないのかな……。  残った注射とお薬を見ていたら、竜ちゃんとヤスさんが来ました。 「あのね、わたしをぞんびに──」  ヤスさんは注射器とお薬を拾うと、「うーうー」と体を揺らして踊り、さっさと行ってしまいました。竜ちゃんはダッシュボードの灰皿を差し出しました。シロアリをまぶした目玉六個に、爪楊枝《つまようじ》が刺してあります。 「それ、パパとママの〈ひみつ〉なの?」  あっちゃんが首を傾げると、竜ちゃんも「うー」と首を傾げ、目玉タコ焼きを手にしたまま、ひょろんひょろんと引き返していきました。  ぽつんと残されたあっちゃんは、やがてほっぺたを膨らませ、ランドセルからプリントとふでばこを取りだしました。月明かりの下で、こっくりさんの紙を作ったあっちゃんは、すぐそこにある吉田さんちに行きました。壊れたドアを押しのけて玄関をあがると、吉田さん一家三人と一匹が、ズタズタのカーペットの上で川の字になっています。変色した「健康ぐっすり枕」に頭を並べたおじちゃんとおばちゃんは、死んだように動きません。あっちゃんは、拓也くんとゴンを揺り起こしました。 「こっくりさん呼ぶの。手伝って」  ガラスの割れた吹き抜け玄関には、月明かりが射しこんでいます。これだけの明るさがあれば、文字はどうにか読めます。あっちゃんは紙を広げ、スカートのポケットから十円玉を出しました。あっちゃんが人差し指を置くと、拓也くんも真似て干からびた指を置きました。ゴンは、あっちゃんが前足をつかんで十円玉に置かないとダメでした。頭が空洞のゴンには、学習能力がないのです。  あっちゃんは深呼吸して精神集中し、呪文《じゆもん》を唱えました。 「こっくりさん、こっくりさん、いらっしゃったら〈はい〉のほうへ、お進み下さい」  あっちゃんの声は、ちょっぴり怒気をはらんでいます。十円玉が〈はい〉の位置に動くと、あっちゃんは言いました。 「パパとママの〈ひみつ〉を持ってきたのに、わたし、ぞんびになれませんでした。〈ひみつ〉のヒントください!」 〈おとなの ひみつ〉 「ヒントほしいです!」  十円玉は、ゆっくりと動き始めました。 〈ゆうびんきょく〉 「郵便局にあるの?」 〈いいえ〉  あっちゃんは首を傾げ、拓也くんを見ました。拓也くんも真似て首を傾げます。大穴の開いたほっぺたに、ぶら下がった右目が入ってしまいました。  十円玉は、もうひとつ告げました。 〈まごころ〉  鳥居の絵の位置に戻った十円玉は、それきり動かなくなりました。  パパとママの〈ひみつ〉。ヒントは「郵便局」と「まごころ」。  ──どういうことなんだろ……。  あっちゃんは爪を噛《か》みました。  帰りの電車から降りたあっちゃんは、アパートに向かう左の道ではなく、右の道に曲がりました。小さな郵便局があるのです。営業時間の五時はとっくに過ぎていますから、中はカーテンを引いて真っ暗でした。  ──あした、もういちど来ようかな……。  引き返そうとしたあっちゃんは、街灯の光に浮かびあがる、一枚のポスターに目を奪われました。 〈手紙でまごころを伝えましょう ふるさとレターセット発売中〉  あっちゃんの頭の中で、電球が光りました。  郵便局。まごころ。  こっくりさんがくれたヒントは、これだったのです!  あっちゃんは、アパート目指して駆けだしました。     六 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  おしいれとタンスから、だいじなものを出してごめんなさい。  パパとママのひみつ、さがしたかったの。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あかね    こういう手紙を書いて、ドアの郵便受けに挟むようになってから、ママの様子がおかしくなってきました。  ママはお酒の量が増えました。流し台にもたれかかり、足腰が立たなくなるまで飲んで吐いて泣くのです。そんなママにパパは腹を立てます。こんな手紙を俺に見せてどういうつもりだとママを突き飛ばします。心が押し潰《つぶ》されそうになったあっちゃんは、すぐにこういう手紙を書きました。 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  ごめんなさい。ごめんなさい。わるいのはわたしです。ママじゃないです。パパとママの大切なものは、お友だちがもっていってしまったの。新しいお友だちです。わるいのはわたしです。お友だちじゃないです。ママもわるくないです。ごめんなさい、ごめんなさい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あかね    パパはますますママを叩《たた》くようになりました。いいかげんにしろふざけるなと怒り、ドアの郵便受けに手紙をはさめないよう、ガムテープを貼ってしまいました。しかたがないので、パパとママが寝ているときに──あっちゃんが学校に行く前に──そっと枕元に手紙を置くことにしました。子犬のイラストを添えたり、いっしょけんめい集めた四つ葉のクローバーを入れたりして、「まごころ」が伝わるよう工夫しました。あっちゃんは、レターセットをたくさん持っています。美里ちゃんや佳奈ちゃんにもらったのです(クッキーの箱に保管してあります)。使うたびに、美里ちゃんたちと仲良しだった頃を思いだして、ちょっぴり胸が痛くなるのですが。 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  またドライブしたいです。もうジャンボいちごパフェは食べないです。食べきれなくてごめんなさい。パパとママのひみつをください。そしたら、みんな、しあわせになれます。ひみつ、どこにありますか? [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あかね    あっちゃんは、給食の時間に中庭でせっせと書きました。給食を食べられない給食時間は大きらいでしたが、今は楽しいお手紙タイムです。黒崎くんたちはあいかわらず机を廊下に出しますが、へっちゃらです。パパとママに〈ひみつ〉をもらって、くちなし台に持っていけば、あっちゃんはぞんびになれるのです。そしてパパとママをかじれば、幸せ家族になれるのです。それを思えば、黒崎くんの意地悪ぐらいがまんできます。 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  またドライブしたいです。大きなおうちも見つけました。いっぱいあります。すきなところにすめます。みんなでひっこして、なかよしかぞくになりたいです。犬かっていいよね、ママ。ひみつはどこにありますか? [#地付き]あかね   [#ここで字下げ終わり]  でも手紙を書けば書くほど、ママはお酒を飲んで泣くようになり、パパはますますママを叩いたり怒鳴ったりするようになりました。それでもおさまらないパパは、ゴミ箱を蹴《け》ったり、壁を殴ったりしました。最近では、手紙を読まずにガスコンロで焼いてしまいます。なんで手紙を焼いたのとママがなじると、うるせえあんな気色悪いモンを俺に見せるんじゃねえと、パパはママの髪の毛をつかみます。  あっちゃんは罪悪感で押し潰されそうでした。紐《ひも》パンツやブラジャーを勝手に持ちだしたから、ママはとても困っているのでしょう。しかもあっちゃんのせいで、ママはパパに怒られています。あっちゃんが良い子でいないとパパはいつも、おまえの育て方が悪いとママを叩くのです。  あっちゃんは、こっぴどく叩かれるのを覚悟して、パパとママに謝ることにしました。文字ではなく自分の口で。 「パパ、ごめんなさい」  洗面所で顔を洗っていたパパに、そっと後ろから声をかけました。  鏡の中で、パパとあっちゃんの目が合いました。  パパは顔から水を垂らしたまま、顔をこわばらせました。  みるみる青ざめていき、頬が小刻みに震えています。 「……き、消えろ」  かすれた声でそうつぶやくと、パパはいきなり鏡を殴りつけました。 「とっとと消えろクソガキ! どっか行っちまえ消えちまえェ!」  むちゃくちゃに鏡を殴りつけたパパは、洗面台に手をついて肩で呼吸していましたが、やがて、ゆっくりと振り返りました。けれどもあっちゃんには何も言わず、もう一度ひび割れた鏡に目をやりました。そして鏡のなかのあっちゃんに向かって絶叫すると洗面台から後ずさり、頭を抱えて走り去っていきました。  いよいよ心が押し潰されそうになったあっちゃんは、肩を落として和室に行きました。明けがたに帰ってきたママは、お化粧したまま、座布団を枕にして寝ています。週末は朝の七時に帰ってきます。バッグを放り出し、お酒くさい寝息を立てているママを起こすことを、あっちゃんはためらいました。でも、ごめんなさいは先のばししてはいけません。あっちゃんは、ママのほっぺたを突っついてみました。ママのほっぺたに触るのは何年ぶりでしょう。汗まじりの脂が指についてヌルヌルしました。マスコットを作ってくれた頃の、かさかさほっぺのほうが好きでした。 「ママ、起きて。ママ」  ママは虚《うつ》ろな目を開けました。あっちゃんはママの顔をのぞきこみました。 「タンスを開けて、ごめんなさい」  ママの顔が、みるみる歪《ゆが》んでいきます。  叩かれるのを覚悟して身を縮こまらせたあっちゃんは、凄《すさ》まじい絶叫を浴びせられました。「ぎゃあ」か「びゃあ」か、わかりません。ママはあっちゃんを突き飛ばし、布団をかぶってわめき続けました。  あっちゃんはランドセルを背負って、アパートから出ました。配達を終えた牛乳トラックや、コンビニの配送車が、あっちゃんに砂ぼこりを浴びせていきます。あっちゃんは歌いながら歩きました。保育園で習った「おうま」を、元気よく歌いました。  ──おうまのおやこは、なかよしこよし。いつでもいっしょに……いっしょに……。  あっちゃんの歌声が、次第に涙声になってきました。あっちゃんは目をぬぐい、また元気に歌いました。両手両足を大きく振りました。  今日は土曜日で、学校がお休みだと気づいたのは、校門前に着いてからでした。  日没後。  くちなし台に行ったあっちゃんは、こっくりさんに聞きました。 「こっくりさん、こっくりさん。わたし、どうすればいいですか?」 〈てがみ かきなさい〉 「書いてます。でもパパもママも、ひみつのことちっとも教えてくれないし、わたしのこともっときらいになったみたい……」 〈てがみ かきなさい〉 「でも、読んでくれないです。破ったり燃やしたりして捨てちゃう」 〈てがみ かきなさい〉  こっくりさんは、同じことしか言いません。せっかくパンと牛乳を我慢して、電車のお金に回したのに。 「パパとママ、ごめんなさいしても許してくれないです。どうすればいいですか?」 〈ひみつ あぱーとに ない〉 「こっくりさんのウソつき!」 〈あぱーとに あると いっていない〉 「こっくりさんのブス!」  拓也くんとゴンが「うー」と体を震わせました。物静かなぞんびは、大声が苦手なのです。 〈らいしゅう〉  十円玉は動き続けます。 〈ぱぱ ひみつ わたして くれる〉 「えっ?」 〈ぱぱと いっしょに でかけなさい みつかってはいけない〉 「ほんとに?」 〈ちゃんすは 1かい〉  あっちゃんは、つばを飲みこみました。 「それを渡したら、わたし、ぞんびになれるの?」 〈かもしれない〉 「ぜったい、なれる?」  十円玉は動きません。 「こっくりさん、まだいますか?」 〈はい〉 「わたし、ぞんびになれるよね?」  十円玉は動きません。 「なれるよね……?」 〈てがみ かきなさい てがみ てがみ てがみ てがみ〉  十円玉は狂ったように紙の上を走ったあげく、ぴたりと止まり、今度こそもう動かなくなりました。  あっちゃんは手紙を書き続けました。燃やされても破られても、しんぼう強く書き続けました。  来週、パパが〈ひみつ〉を渡してくれる──こっくりさんがそう告げたのは先週のことです。その来週、つまり今週は今日で終わりです。でもパパが〈ひみつ〉を渡してくれる気配はありません。それどころかますます変なお薬を飲んだり、注射を打ったりするようになりました。そしてあっちゃんと目が合うと、甲高い声で絶叫し、そこらじゅうの物を投げつけてきました。ごめんなさいを言うと、頭をかきむしり、裸足《はだし》のまま走り去っていくのです。  ママはお仕事に行かなくなり、一日中お酒を飲むようになりました。台所のテーブルに突っ伏して眠りこけ、目が覚めたらまた飲みます。食べずに飲むだけなので、一日に何度も吐きます。飲んで吐いて泣いて寝て、一日が終わっていきます。あっちゃんは背中をさすりながら、何度もごめんなさいを言いました。するとママはあっちゃんを見つめ、ますます泣くのです。  パパはアパートを引っ越すと言い出しました。ママはそんなお金ないわと言いました。おまえの稼ぎが悪いからだとパパはママを叩《たた》きました。あんたのせいよとママが言い返しました。パパはママの髪をつかみ、こんなところにいられるかと喚《わめ》きました。あの子は気づいてるのよとママが泣きました。うるさいとパパはママを蹴《け》り、俺はここを出ていくと荷物をまとめ始めました。捨てる気なのとママがすがりつきました。とっくみあいを始めた二人は、いつしか裸になって体をくっつけあっていました。パパは自分に注射を打ちました。ママにも打ちました。ママは甲高い声で好き好き好き好き好きと叫びました。  パパとママは、あっちゃんの手紙のことなんか忘れてしまったようです。ひまさえあれば注射を打って、体をくっつけあうようになりました。  そのあいだ、あっちゃんは台所の隅でうずくまり、犬のマスコットを握りしめたまま、手紙が突っこまれたゴミ箱や、手紙の燃えかすが残ったコンロを眺めていました。あっちゃんの足下をゴキブリが走り、耳元に小蠅が飛んできました。  好き好き好きを聞きながら、あっちゃんはランドセルを机がわりに手紙を書きました。ドライブした日のことを思い浮かべながら、鉛筆を動かします。 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  なかよしかぞくになろうね。またドライブ行きた [#ここで字下げ終わり]  あっちゃんの手が止まりました。  ふすまの向こうから聞こえてくる、パパとママのはあはあが、ドライブの光景を壊していくのです。ハンドルを握っているパパの笑顔も、あっちゃんにお弁当を取り分けてくれるママの笑顔も、どんどん歪んでいきます。桜と青空が広がっていたあっちゃんの頭の中に、どす黒い雲が渦巻き始めました。  あっちゃんは便せんを丸め、ゴミ箱に投げました。あふれたゴミではね返り、中からゴキブリが数匹出てきました。  あっちゃんは爪をかみ、新しい便せんを広げました。 [#ここから1字下げ]  パパとママへ  わたしは、パパとママのひみつを知っています。ばしょも知っています。かくしたって、むだです。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あかね    あっちゃんは冷蔵庫に強力接着剤で貼りつけました。枕元に置いても、どうせ読んではくれないのです。  ウソを書くのは悪い子のすることです。でもそのときのあっちゃんは、パパとママに猛烈に意地悪をしたい気分だったのです。  はあはあが聞こえなくなって、しばらくして、パンツ一枚のパパが台所に来ました。冷蔵庫の前で突っ立ったパパは、動かなくなりました。 「……理恵、りええええええッ!」  パパはママを呼びました。テーブルの下でしゃがんでいるあっちゃんには、気がついていないようです。生返事するばかりで部屋から出てこないママに腹を立てたのか、パパは大股《おおまた》に引き返し、ママを台所まで引きずってきました。ペディキュアの剥《は》げたママの足が、あっちゃんのすぐそばに見えます。ママも、テーブルの下にあっちゃんが隠れていることに気づいていないようでした。  冷蔵庫の前に立ったママは、がたがたと震えて泣き崩れました。冷蔵庫にすがりついて泣くママを、パパが叩きました。 「ど、どどどどういうことだ!」 「あかねだよう、あかねだよう……」 「わ、わわ、わけの分からねえこと言うんじゃねえ、どこの男に悪知恵をつけられた!」 「あかねだよう、あかねだってば……」  あっちゃんは耳を塞《ふさ》ぎました。ドライブの想い出が、完全に壊れようとしていました。  ──ごめんなさい、ごめんなさい……。  あっちゃんは心の中で必死で謝りました。  ママがこんな目に遭うのは、あんたのせいなんだから!──何度もそう言われてきました。だからあっちゃんは、いい子になるようにがんばってきました。意地悪しようと考えたから、〈ひみつ〉を知っているなんてウソを書いたから、ママはパパに叩かれるのです。 「ぎゃあ!」  床に倒されたママは、動かなくなりました。  ──大丈夫、ママ……?  黒いスリップに包まれたママの背中は、あっちゃんが手を伸ばせば届くところにあります。でもテーブルの下から手を出せば、パパに見つかってしまいます。  ──どうしよう、どうしよう……。  むせび泣きが聞こえてきて、ママの背中が小刻みに震え始めました。その背中を蹴って、パパはお風呂場へと歩き去りました。  シャワーの音がします。あっちゃんはテーブルの下から這《は》いだしました。ママは床に伏せたまま、まだ泣いています。あっちゃんは歩み寄り、ぐしゃぐしゃになったママの髪に触れました。 「ママ、ごめんね……」  マスカラとアイラインが溶けだした目で、ママはあっちゃんを見つめました。「ぎゃあ」とも「びゃあ」とも叫びませんでした。とても虚《うつ》ろな目をして「あかね」と呟《つぶや》いただけでした。  その晩、パパは車を借りてきました。  トランクに荷物を積んでいるパパを、ベランダから見つけたあっちゃんは、胸が高鳴りました。  あっちゃんのことを許してくれて、ドライブに連れていってくれるのかも知れません。  でも変です。前回は、パパが車を用意しているあいだにママがお弁当を作ってくれました。遊びやすい服にあっちゃんを着替えさせ、ママもジーパンとシューズをはきました。  今日のママは、お弁当を作ってくれるどころか着替える様子すらありません。黒いスリップ姿のまま、泣き腫《は》らした目をして、冷蔵庫を背に座りこんでいるのです。パパだってあの日は、レジャーシートを車に積んで楽しそうだったのに、今はいつも以上に恐ろしい目をしています。あんな手紙を書いたものだから、あっちゃんに〈ひみつ〉を盗《と》られていないかどうか、調べに行くのでしょう。あっちゃんは、ママに気づかれないように部屋を出ました。忍び足で鉄階段を降り、共同物置の陰から様子をうかがいました。  パパはトランクを閉め、こっちに歩いてきます。あっちゃんは心臓が凍りそうになりましたが、パパはそのまま鉄階段を上っていきました。危ないところでした。もう少し遅ければ、パパと鉢合わせになっていたことでしょう。  あっちゃんはあたりを見回しました。だれもいません。車までダッシュし、後部席に乗りこみ、座席の下で身を屈《かが》めました。ゴムとビニルと機械油が混ざった車の独特の匂いに、あっちゃんは懐かしくて切なくなりました。  いよいよです。あと少しで、あっちゃんはぞんびになれるのです。明日の今ごろは、パパもママもぞんびになって、しあわせ家族になっていることでしょう。  こっくりさんは「なれるかもしれない」としか言いませんでした。でも、「なれない」とは言いませんでした。あっちゃんは希望を捨てません。がんばってぞんびになるのです。  パパの足音が近づいてきて、運転席のドアが開きました。運転席に座ったパパは、バックミラーの位置を直しているようでした。あっちゃんの姿がミラーに映ったら終わりです。あっちゃんは精一杯、体を縮こまらせ、口と鼻を両手で押さえて息を殺しました。  ミラーには映らずにすんだようです。エンジンがかかり、車は走り出しました。     七  車は夜道を走り続けます。  窓の外から見えるのは空だけですが、ずいぶん暗い場所を走っているようです。さっきまでは街や道路のあかりが車内に差しこんできたのに、今はときどき街灯が見えるだけです。  雨が降ってきたようです。街灯の下を通るたびに、窓に水滴が当たって筋になるのが見えました。少しだけ開いた窓から、濡《ぬ》れたアスファルトの匂いが流れこんできます。甘く腐った匂いも混ざっています。くちなし台の匂いそっくりです。あっちゃんは外が見たくてなりませんでした。座席の下で屈んだまま、運転席のほうにそっと頭を動かしてみました。ハンドルを握るパパの腕が、わずかに見えただけでした。  車が傾いて、あっちゃんの体も傾きました。坂道を登り始めたようです。小石や砂を踏む音がして、ときどき車がはねます。甘く腐った匂いはいつしか消え、濡れた土と葉っぱの匂いがしてきました。車の中も外も真っ暗闇です。こんなところに置き去りにされたら、ひとりでは帰れません。あっちゃんは、急に心細くなってきました。  どれぐらい走り続けたのでしょう。  車が止まり、パパは傘も差さずに降りました。  後部席の窓の向こうから、パパが中をのぞきこみました。あっちゃんは心臓が止まりそうになりましたが、気づかれなかったようです。あっちゃんが乗っているなんて想像もしていないのでしょう。パパは車の後ろへと回り、トランクを開けました。  パパは何かを取りだすと、トランクを閉めました。砂利を踏む音が遠のいていきます。あっちゃんはそうっと車を降りました。  どこを見渡しても、黒々と茂る樹木だらけです。枝葉に当たる雨音の薄気味悪さに、あっちゃんはいよいよ心細くなってきました。パパの足音は遠のいていきます。あっちゃんは急いで追いかけました。なるべく足音を立てないように、一定の距離を開けて、でも引き離されないように。あっちゃんは、パパの懐中電灯の光を追いかけました。  パパは雨の中、太い棒を杖《つえ》代わりにして、足場の悪い道を歩き続けます。あっちゃんの靴の中が、ぐちょぐちょになってきました。靴や服を汚して帰ったら、またママに叩《たた》かれます。でもママが怒るのは、それが最後でしょう。ぞんびになれば、ママは怒ったり叩いたりしなくなるのです。  パパは懐中電灯で木を照らしたり、二|股《また》に分かれた道を照らしたりして、どんどん進んでいきます。パパだけにわかる印があるのでしょう。やがて、獣道の突き当たり──岩だらけの場所で止まりました。  懐中電灯を木の枝にぶら下げたパパは、持っていた棒で岩の前を掘り始めました。土と金属のぶつかる音がします。棒に見えたそれはシャベルでした。あっちゃんはそうっと横から回り、二、三メートル離れた場所にある大きな岩によじ登りました。パパの作業がよく見えます。  雨足と風が強くなってきました。枝に下げた懐中電灯が揺れ、パパの掘っている場所が明るくなったり暗くなったりします。懐中電灯の光が当たるたびに、青いものが見え隠れするようになりました。保育園の卒園記念で作った、タイムカプセルに似ていました(将来の夢を書いて埋めたのです。あっちゃんは「ほいくえんのせんせい」と書きました)。  でもよく見ると、タイムカプセルより柔らかそうでデコボコしています。あっちゃんは身を乗り出しました。目に雨が流れこんでよく見えません。何度も目をこすりました。  パパはシャベルの先で、青いものを小突きました。くくっていたヒモが切れて、中身が顔をのぞかせました。  ぞんびの女の子でした。  潰《つぶ》れたカレーパンみたいな顔をしています。目と鼻の位置に黒い穴を開けて、校長先生の入れ歯を口の場所に置いた、細かい肉の出たカレーパン。頭蓋《ずがい》骨の形をしたカレーパン。長い髪が絡まりついたカレーパン。  手首から先は骨になりかけていて、そばには赤いランドセルやズックが転がっています。  風が強くなって、懐中電灯の揺れが大きくなりました。もっとよく見たいのに、光がなかなか定まりません。  パパが懐中電灯を取って、女の子に当てました。ランドセルに結わえ付けられた、泥まみれの小さな塊──犬のマスコットが見えました。  あっちゃんのおなかが痛くなってきました。この痛みを、あっちゃんは知っています。ずっと前に経験したことがあります。何日も、何週間も前に──四月終わりの、あの日に。  あの日は、クラス全員がお弁当を作っていかなくてはなりませんでした。社会科で「農家で作られた食べ物が、わたしたちの口に入るまで」の授業があったからです。  ママに頼んだけれど作ってくれませんでしたから、あっちゃんは自分で作ることにしました。冷蔵庫におつまみ[#「おつまみ」に傍点]竹輪チーズと、食べかけのツナ缶がありました。あっちゃんはランドセルを背負ったまま、お弁当箱にそれを詰めていました。それしか詰めるものがなかったのです。そこへ、タバコを吸いにパパが起きてきました。  ──何してやがる!  パパの平手を食らって、あっちゃんはお箸《はし》を持ったまま床に叩きつけられました。  ──俺のものを勝手に食おうってのか!  殴られ蹴《け》られ、お皿やコップを投げつけられたあっちゃんは、必死でごめんなさいを言いました。パパは許してくれませんでした。パパの食べ物だとは知らなかったと、一所懸命に説明しました。パパは聞いてくれませんでした。パパの目は血走っていました。あの注射を打ったばかりだったのでしょう。注射を打つと、パパは百倍怒りっぽくなるのです。  パパの強烈なキックが横腹にめりこみ、あっちゃんは吐きました。生唾《なまつば》が飛ぶとパパはますます腹を立て、さらに蹴りつけてきました。  ──起きろ! 土下座しろ!  あっちゃんは体を起こせませんでした。パパはあっちゃんを引きずり起こしました。体が伸びたとたん激しい痛みと吐き気が襲いかかってきて、あっちゃんは床に崩れました。パパはあっちゃんを罵《ののし》り、部屋を出ていきました。  助けて、たす……けて……痛いよ……ママ……。来てくれないとわかっているのに、あっちゃんは寝ているママを呼びました。声は出ませんでした。  あっちゃんの体は震えていました。真冬でもないのに、あっちゃんは寒くて寒くてしかたがありませんでした。そのうち、目がかすんできました。体の感覚も時間の感覚も麻痺《まひ》してきました。  遠くから、パパとママが言い争う声が聞こえてきました。ママは泣き叫び、パパもパニックになっていました。  死んでる──あんたが殺した──俺じゃねえ──救急車──呼ぶなバレる──あんたが殺した──だまれ──。  ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。あっちゃんは、謝り続けました。でも、パパとママの耳には届いていなかったようです。そのうち舌が動かなくなり、何も聞こえなくなり、どこかへ意識が吸いこまれていきました──。  雨足が激しくなってきました。  シートに包まれた自分の死体を、あっちゃんは眺めていました。  あっちゃんをかじってくれなかった、くちなし台の人たち。  おはようと言っても知らん顔だった美里ちゃん、佳奈ちゃん、クラスのみんな、菊池先生。  それに、パパとママ。  いいえ、ママはあっちゃんと目を合わせてくれました。ママだけは。  自分を眺めていたあっちゃんは、目をぬぐいました。流れこんでくるのが雨なのか涙なのか、分かりませんでした。  パパは首に懐中電灯をぶら下げると、あっちゃんの死体に土をかけ始めました。あっちゃんは岩から降りて、自分の体に駆けよりました。パパはまだ、シャベルを動かしています。パパには、あっちゃんが見えないのでしょう。あっちゃんは泥まみれになって、体を抱え起こしました。 「ひやああああっ!」  パパはシャベルを放り出して、尻《しり》もちを突きました。 「パパ、くちなし台に連れてって!」  あっちゃんは、自分の体をおぶって歩きだしました。クラスでいちばん背が低くてやせっぽちだったのに、自分の体がこんなに重たいなんて知りませんでした。 「く、く、来るな、来るな……」  パパは尻もちをついたまま、後ずさります。あっちゃんが見えない今のパパには、両腕をだらんとぶらさげた死体が、両足を引きずって近づいてくるように見えるのでしょう。わめき、叫び、手当たり次第に石やら泥やら投げつけてきました。  後ずさって後ずさって、大きな木に背中をぶつけたパパは、幹にすがりついて立ちあがり、獣道を一目散に駆けおりました。懐中電灯の光が、右へ左へ上へ下へと乱れました。 「パパ待って!」  あっちゃんは体を担いだまま追いかけました。パパを見失ったら終わりです。パパとママの〈ひみつ〉を、この体を、くちなし台の人たちに渡さなくてはならないのです。くちなし台までは、あっちゃんの足では行けません。パパの車で運んでもらわなくてはなりません。これを渡せば、きっとあっちゃんをぞんびにしてくれます。いいえ、きっと[#「きっと」に傍点]なんかじゃダメです。絶対にぞんびになって、パパとママをかじるのです。  パパの車が見えてきました。何度も何度も振り返りながら、何度も何度もつまずきながら、パパは走り続けます。  運転席の前で、パパはせわしなくポケットを探っていました。キーがないようです。あっちゃんが追いつきましたが、キーのことで頭がいっぱいらしく、あっちゃんに気がつきません。そのすきにあっちゃんは、後部席に自分の体を横たえました。いちだんと大きくなってきた雨音のおかげで、ドアを開ける音はパパの耳に届かなかったようです。どうにかキーを見つけたパパは、あたりを見回してあっちゃんがいないのを確かめると、車に乗りこみ、急いでエンジンをかけました。  車は、鬱蒼《うつそう》とした山道を走り続けました。これだけ鬱蒼とした山林だと、ヘッドライトの光は闇に吸いこまれてしまうのでしょう。パパはフロントガラスに身を乗り出すようにして、ハンドルを握っています。車は何度もバウンドしました。あっちゃんの体も座席でバウンドしました。あっちゃんは首がちぎれないよう押さえました。食べかけのお魚みたいになっています。そぼろ肉と素麺《そうめん》が絡みついたような骨が見え、ぐらぐらしています。  街灯のある場所まで出てきたパパは、ブレーキをかけ、ハンドルにもたれかかって深々とため息をつきました。そして、ダッシュボードからお薬の瓶を出すと、錠剤を口に放りこんで噛《か》み砕き、運転席に背中を沈めました。  ──お休みなんかしないでほしいのに……。  あっちゃんは、運転席と助手席のあいだに身を乗り出しました。 「パパ、くちなし台に行ってほしいの。急いでほしいの……」  バックミラーの中で、パパと視線が合いました。  パパはそうっと運転席から身を起こし、ゆっくりゆっくり、後部席を振り返りました。  すさまじい絶叫が轟《とどろ》きました。パパは意味不明のことをわめき、車から逃げだそうとします。でもドアが開きません。助手席側から逃げようとしましたが、同じことでした。  サイドブレーキが倒れ、車がひとりでに走り出しました。パパは絶叫し、車を止めようと必死です。でも止まりません。 「あ、あ、茜《あかね》、お、お、おまえが、おまえが」  あっちゃんは慌てて首を横に振りました。あっちゃんに、車を動かせるわけがありません。  車がバウンドしたとき、死体の手から十円玉が転がりました。  そこにあるはずのない十円玉──。  ──こっくりさんだ!  あっちゃんは十円玉を拾い、握りしめました。  車から飛び降りようとあがくパパを、シートベルトが押さえつけました。パパは運転席に縛りつけられたまま、狂ったように叫び続けました。  あっちゃんは寒気がしてきました。ずぶ濡《ぬ》れで体が冷えてきたからではありません。体じゅうが凍てついていくこの感覚──あの日に感じた寒さと同じでした。  息をしなくなったあっちゃんを、パパはレンタカーに乗せました。ママもいっしょでした。  暗いトランクの中で揺られるあっちゃんには、いろんなものが見えました。海沿いの桜並木、憧《あこが》れの『ワンちゃんふれあいランド』。ママが作ってくれたマスコットにそっくりな柴犬《しばいぬ》たちが、あっちゃんにしっぽを振っています。耳の垂れた子犬をだっこしたあっちゃんに、パパは笑いながらカメラを向けました。  芝生広場に青空色のレジャーシートを広げるパパ。色とりどりのお弁当を並べるママ。あっちゃんが「お茶に桜の花びらが入った!」と言うと、「すごいね、きれいきれい」と目を細めるパパとママ。  ファミレスの看板も見えました。『ジャンボいちごパフェ800円』ののぼり旗が揺れていました。  ──あのパフェ、食べたい!  ──もちろんいいわよ。  ママが微笑みました。  ──でもジャンボだぞ。茜には食べきれないぞ。  パパがあっちゃんの頭をなでながら笑いました。ママもいっしょに笑いました──笑っていたような気がします。たしか笑っていたような……たぶん、笑っていたような……。 「し、死なせるつもりは、な、な、なかったんだ……」  ルームミラーの中から、パパは虚《うつ》ろな視線を向けてきました。 「パパがわたしを怒ったのは、パパの竹輪とツナ缶を勝手にお弁当につめたからだよね」 「そ、そうだ、おまえが悪いんだ」 「ぞんびになったら、わたし、いい子になるね。パパもぞんびになったら、やさしいパパになってね」 「ぞ、ぞんびって、な、なんだ」 「新しいお友だちなの。手紙に、ちょこっと書いたでしょ」  パパとこうやっておしゃべりしたのは初めてです。冷えきった体が、胸のあたりからあたたかくなっていくのを感じました。 「あのね、いつも拓也くんとこっくりさんしてるの。ゴンもいっしょだよ。拓也くんの顔っておもしろいの。おめめがぶら下がって、ほっぺたの穴に入るの。ゴンは頭がわれて脳みそが落っこちちゃったから、物覚えが悪いの」  あっちゃんは、くちなし台の人たちのことを、もっとパパに教えてあげたいと思いました。でも、おしゃべりは続きませんでした。パパが「あ、あ、あ」とか「が、が、が」とか呟《つぶや》いたあげく、甲高い声で笑い始めたからです。拓也くんとゴンの話が、よほど面白かったのでしょう。 「あ、そうだ。電話は持って降りちゃだめだよ。くちなし台の人たち、怒って食べちゃう」  あっちゃんは、パパのズボンから顔をのぞかせている携帯電話を抜きとりました。くちなし台の人たちは火が大の苦手ですから、反対側のポケットに入っているライターも取っておくことにしましょう。パパは、きゃたきゃた笑い続けるばかりでした。  窓から、甘く腐った匂いが流れこんできます。ヨーロッパ風の廃屋群が見えてきました。いつしか、雨は止んでいました。  住宅地のまんなかで、車は止まりました。  どこからともなく、低いうめき声が漂ってきました。くちなし台の人たちが、さっそくパパにあいさつに来たのです。でも今夜は、あいさつより先にしてもらわなくてはいけないことがあります。あっちゃんは自分の体を抱え、車から降りました。 「パパとママの〈ひみつ〉を持ってきたよ! ぞんびにして!」  住民の関心はパパに向けられていました。あっちゃんの横を通りすぎて、運転席のほうへ、ひょろんひょらんと歩いていきます。パパは運転席に座ったまま、シートベルトと格闘していました。フロントガラスや運転席の窓に、次から次へと住宅地の人がへばりつきます。パパの甲高い悲鳴が聞こえました。 「わたしを先にかじって!」  あっちゃんは体を抱えたまま、足を踏みならして怒りました。 「かじってくれなかったら、火をつけるもん!」  あっちゃんはパパのライターを掲げました。人々は「だるまさんが転んだ」の状態になり、あっちゃんとパパを見くらべました。ようやくみんな来てくれましたが、あっちゃんの体を遠巻きに眺めるばかりです。 「かじって、かじって!」  吉田のおじちゃんとおばちゃんの横に立っていた拓也くんが、近づいてきました。肩をかじりましたが、ぶべっと吐き出しました。 「ひどい! 拓也くん、きらいっ!」  あっちゃんは竜ちゃんとヤスさんのところへ走りました。 「お願い、ぞんびにして! ぞんびぞんびぞんび!」  あっちゃんは自分の死体を二人の口元に突きつけました。竜ちゃんとヤスさんは「うー」と頭を傾け、ひょらんひょらんと体を揺らすばかりです。  あっちゃんの唇が、への字に曲がっていきます。みるみる涙があふれてきます。竜ちゃんが「うーうー」と、目玉タコ焼きを差し出しました。あっちゃんは大声で泣きだし、竜ちゃんはますます「うーうー」と体を揺らしました。あっちゃんの足首を、ざらりとした感触がなでました。干からびたベロを出して、ゴンがしっぽを振っていました。 「ゴンは、わたしをぞんびにしてくれる?」  あっちゃんがゴンを抱きしめたとき、強烈なライトのトラックが近づいてきました。ほろで覆われた荷台から、掃除機みたいなものを背負った迷彩服の人々が次々に降りてきます。くちなし台の人たちに向けられた掃除機の先が、いきなり炎を噴きました。逃げようとした住民たちは炎に飲まれ、石畳に倒れました。  何が起きたのか、あっちゃんにはわかりませんでした。髪の毛を焼いたときの臭いや油の臭いが、クチナシの甘く腐った匂いと混ざって漂ってきます。ひょらりひょろりと逃げまどう人たちを、容赦なく炎が飲みこんでいきます。 「拓也くん!」  ぐぢゅぐぢゅと黒く縮む人。乾いた音を立てて爆《は》ぜる人。みんな次々に倒れていきます。ヤスさんも、吉田さん一家も、目鼻や口から炎を噴いて崩れます。あっちゃんは体を抱えたまま、みんなに駆けよりました。すると、あっちゃんの体に火が燃え移りました。 「うそっ!」  はたいたら火が飛び散り、スカートや髪の毛までもが燃え始めました。あっちゃんは体を置き、大急ぎで水を探しました。近くの家に駆けこんで、庭先の水道をひねりました。ガスも電気も止まった住宅地で、水が出るはずもありません。わずかに雨水のたまったバケツを見つけて駆け戻ったときには、体は大炎上していました。バケツの水をかけても、ぢう、と湯気になっただけでした。  パパはというと、迷彩服の人たちに助け出されていました。両脇から抱えられ、トラックに乗せられています。その一方で、迷彩服の人たちは家を焼き始めました。 「やめて、やめて!」  あっちゃんは泣きながら、彼らを止めようとしました。脚にしがみついてベルトを引っぱり、腕をつかんで揺さぶりました。でも、だれもあっちゃんなんか見えません。あっちゃんの声なんか聞こえません。  くちなし台は炎の街となり、夜空に火の粉と煙が舞いあがっていきます。「撤収!」の合図とともに迷彩服はいっせいに走り出しました。全員が荷台に飛び乗ると、トラックは鉄フェンスの向こうへと走り出しました。 「待って、パパ、パパ!」  追いかけましたが、どんどん引き離されていきます。そのとき、「うー!」という雄叫《おたけ》びが聞こえました。トラックの荷台に竜ちゃんがしがみついています。迷彩服の人が竜ちゃんに銃を向けたとき、トラックはフェンスに激突、大爆発して火柱が上がりました。 「竜ちゃん……!」  ひょろろろと飛んできたタコ焼きの鉄串が、あっちゃんの足下に転がりました。あっちゃんは鉄串を拾い、抱きしめました。 「竜ちゃん……竜ちゃあああん!」  灼熱《しやくねつ》の住宅地に、あっちゃんの叫びがこだましました。  家が焼け落ちていきます。石畳に倒れた人たちが骨と化していきます。穏やかで平和だった死者の住宅地に、火の粉と熱風が吹き荒れます。  黒く燃えていく自分の体の前で、あっちゃんはひとり、鉄串を握りしめたまま座りこんでいました。パパの携帯がそばで鳴っています。いつまでも鳴り続けています。力の抜けきった手で拾うと、画面に十円玉が映っていました。 〈あっちゃんは しあわせに なる〉  画面が変わり、文字が現れました。こっくりさんからでしょう。 「こっくりさんのウソつき……!」 〈あっちゃんは しあわせに なる〉 「なれなかったよ! もう、ぞんびになれない……」 〈あっちゃんは しあわせに なる〉 「こっくりさんなんか、きらい!」 〈でんわ かける〉 「こっくりさんの言うことなんて、もう信じない!」 〈でんわ かける〉 「こっくりさんなんか死んじゃえ!」 〈でんわ かける これが さいごの しあわせの とびら〉  画面に、十|桁《けた》の番号が現れました。市外局番から始まっているのでママの携帯ではありません。しばらく携帯電話を見つめていたあっちゃんは、画面に向かって呟《つぶや》きました。 「……ここに電話して、何を言えばいいの?」  画面が切りかわり、短いセリフが現れました。     八  こっくりさんの言ったとおり、あっちゃんはしあわせになりました。もう中学三年生ですから、茜さんと呼ぶほうがいいでしょうか。 「こんばんは、吉田のおじさん。今日も暑かったですね」  あっちゃんは、フェンスの向こうを歩く黒こげぞんびに笑顔を向けました。黒こげぞんびは歯をコキコキ鳴らし、左手首を突きだしました。小指の先の骨がありません。あっちゃんは慌てて頭を下げました。 「ご、ごめんなさい竜ちゃん。骨格が似てるから、つい……」  竜ちゃんはあっちゃんにひょらひょらと手を振り、夕日に染まった石畳を歩き去っていきます。そのあとを、ヤスさんがついていきました。 「あーあ。私っていつまで経ってもドジよね、お父さん」  あっちゃんは、隣に座っている黒こげの塊に目を細めました。  あの晩、こっくりさんが示した電話番号は、警察のものでした。  あっちゃんは、こっくりさんに指示されたセリフを言いました。  くちなし台住宅地で、行方不明だった女の子が死んでいます──と。  翌朝、あっちゃんの黒こげ死体は回収されました。歯のレントゲン写真から、すぐにあっちゃんだとわかってもらえました。歯医者さんに連れていってくれた菊池先生には、感謝してもしきれません。  ほどなくママが逮捕されました。警察の人がアパートに行ったとき、ママは台所に座りこんで注射を打っていたのです。警察でいろいろ調べられたママは、あっちゃんの保護者としての責任を果たさなかったことと、あっちゃんを山に捨てて死なせたことで、もっと罪が重くなりました。  パパにも逮捕状が出ましたが、捕まることはありませんでした。永久に捕まることはないでしょう。だってパパは炭焼きぞんびになって、縁側に座っているのです。  迷彩服の人たちと逃げていったパパは、すっかり色黒になった竜ちゃんに手を繋《つな》がれて、夜明け前にくちなし台に戻ってきました。  穏やかで物静かになったパパは、くちなし台の人々に「うー」とあいさつしました。黒こげ骸骨《がいこつ》となった人々は、歯を鳴らしてあいさつを返しました。  不死身のぞんびでも、炎に焼き尽くされればおしまいだと言われています。けれども、くちなし台の人たちは違いました。夜明け前にようやく鎮火すると、硬く乾いた音を立てて、起きあがり始めたのです。すす[#「すす」に傍点]をこぼしながら関節をつないだり、首の骨に頭蓋《ずがい》骨をねじこんだり。そこへ、昨晩とは別の迷彩服の人たちが、ビデオカメラやアンテナのついた機械を持ってやってきました。くちなし台の人々を見た迷彩服の一同は、わああと叫んでヘタりこんだり銃を乱射したりしましたが、いつも以上に熱のこもった住民あいさつを受けて、すぐに仲よくなりました。  それからほどなく、警察があっちゃんの死体を回収に来ました。すぐに分かってもらえるよう、あっちゃんはフェンスの外に死体を置いておきました。警察の人たちは死体を車に積むと、住民にあいさつすることなく去っていきました(くちなし台の人たちは前夜の大騒動で寝不足気味だったので、警察が来たときにはみんな家でぐっすり寝ていました)。 「お父さん、今日は美里ちゃんと佳奈ちゃんがお参りに来てくれたんだよ。ほら、菊の花でティアラを作ってみた」  パパと並んで縁側に腰かけたあっちゃんは、いつものように今日一日のことを話します。パパは開かない口で「ぅおぅ」と穏やかに答えます。パパの両腕は、胸の前で組んだまま焦げ固まっていますから、もう車の運転はできそうにありません。でもあっちゃんが車の運転を覚えれば、また家族ドライブに行けます。今度こそ本当の、楽しい家族ドライブです。ママはもうすぐ、ここに加わります。ママが来たら犬を買いに行くのです。犬小屋だってちゃんと作りました。もうすぐです。もうすぐあっちゃんが憧《あこが》れ続けた幸せ家族になれるのです。  幸せ──あっちゃんは、この八年間を幸せに過ごしてきました。  全校朝礼であっちゃんの死が伝えられると、あっちゃんの机には毎日、きれいな花が飾られるようになりました。クリスマス会ではあっちゃんの机にもジュースやケーキが置かれましたし、卒業式でもあっちゃんの名前が呼ばれました(菊池先生が卒業証書をお墓に持ってきてくれました)。中学校の入学式にはひとりで行きましたが、ここでもちゃんと名前を呼ばれました。  あっちゃんは、美里ちゃんと佳奈ちゃんと菊池先生にも、くちなし台で暮らしてもらおうかと考えましたが、やめました。美里ちゃんたちがぞんびになったら、もうお花を飾ってもらえません。それに菊池先生は生徒想いの先生です。菊池先生がいないと困る子は、いっぱいいるでしょう。  そして、あっちゃんに意地悪をした黒崎くんはと言うと──。  カコッカコッと骨の音が聞こえます。  吉田のおじさんとおばさんと拓也くんが、フェンスの向こうから顔をのぞかせています。黒崎くん一家とゴンもいっしょです。  黒崎くんは三年生になっても四年生になっても、クラスの子をいじめる悪いクセが直らず、エスカレートしていきました。そこであっちゃんは、黒崎くんに手紙を書きました。  ──ひとりじゃ何もできない根性なし。ひとりでくちなし駅に降りて、度胸を見せてみろ。ちゃんと降りられるか、見はってるからな。逃げたら学校中に言いふらしてやるぞ。  文面を提案してくれたのは、こっくりさんでした。  取り巻きの子たちと一緒に各駅停車に乗ってきた黒崎くんは、ひとりだけプラットホームに降りました。その晩から、くちなし台の仲間になりました。黒崎くんはもう意地悪をしません。吉田さん一家と家族ぐるみで仲良くしています(黒崎くんのパパとママも一緒です。両親が昔から仲が悪かったので、黒崎くんは学校でうさ[#「うさ」に傍点]晴らしをしていたようです。心を痛めたあっちゃんは、ご両親をくちなし台に呼んであげました)。 「じゃあお父さん、そろそろ行こっか」  あっちゃんはパパの背に手を添え、そっと立ちあがらせました。  夕風にセーラー服をなびかせて、あっちゃんはくちなし駅への坂を下りていきます。立入禁止フェンスの向こうで、竜ちゃんがひょらひょらと手を振っていました。  夕暮れ空は夜の色へと変わっていきます。遠くに見える街の光も、遠くから聞こえてくるスーパーの音楽も、昔とちっとも変わりません。ランドセルを背負い、十円玉とこっくりさんの紙を持ってここに通った日々は、今では懐かしい想い出です。  最後にこっくりさんをやったのは、何年前のことでしょう。刑務所のママに手紙を書くよう、あっちゃんに提案したのを最後に、こっくりさんは呼んでも来なくなりました。あっちゃんは寂しく思いましたが、その頃にはあっちゃんは、こっくりさんに助けてもらわなくても自分で答えを出せるようになっていました。  ママには、毎週のように手紙を書きました。パパは無口だけど穏やかな人になったこと、ヨーロッパ風の素敵な家に住んでいること(かなり風通しが良くて煙くさいですが、と追記)、学校のこと、くちなし台の人たちのこと、そして──自分とパパが、ママの来る日を楽しみに待ち続けていること。差出人住所は書かず、ママが寝ているときに枕元にそっと置きました。犬のマスコットを作り、手紙に添えたりもしました。  ──私、ママみたいにマスコットを作れるようになったよ。  ママから返事が来ることはありませんでした。でもママは、手紙を保管し、何度も読み返しては泣いていました。  そして今日、ママは刑務所から出てくるのです。あっちゃんは、いつも以上に心をこめて手紙を書きました。  ──あざみ線の、六時十八分発の各駅停車に乗って、くちなし駅で降りてね。お父さんと一緒に待っています。  電灯が一本、仄《ほの》暗く灯《とも》っているだけの無人プラットホームで、菊のティアラを手にしたあっちゃんは、パパと一緒に立っていました。甘く腐ったクチナシの匂いが、今宵《こよい》は一段と濃厚でした。  線路の遥《はる》か向こうに、小さな光が浮かびあがります。踏切の音が夜闇に響き、光はどんどん大きくなってきました。 「お母さぁぁぁん!」  あっちゃんは背伸びして、思いっきり手を振りました。 [#改ページ]   黙 契     一  一年半ぶりに再会した絢子《あやこ》は、骨壺《こつつぼ》に入っていた。  ──閉め切った部屋で何日もぶら下がったままやったけ、ひどいもんやったわ。まだ臭いが鼻についとる。あの大家もどうかしとるわ。わたしら代わりに来ただけやて言うたのに、遺族には変わらんとか、さっさと部屋を片付けんと訴えるとか。えらいトバッチリや。  急きょ帰国した良樹《よしき》に、叔母《おば》はそうまくしたてた。亡き母の弟にあたる叔父は、絢子の自殺を悼む言葉を口にしたが、彼の後妻である叔母は露骨だった。法律上の姪《めい》の「汚らしい死体」を見せられたあげく、警察署に来ていた大家と部屋の後始末を巡ってケンカになった。しかも原因を作った人間の骨を預けられている。その不満と不快を、絢子にとって唯一の家族──彼女の八つ違いの兄・良樹にぶつけてきたのである。  ──なんで僕が帰国するまで、焼くのを待ってもらえんかったんですか。  良樹が冷静に問うと、螺鈿《らでん》の座卓を挟んで向かい合わせに座る叔父は、自分より体格のいい妻をチラと横目に見た。そして、検死が終わったらいつまでも霊安室に置いとくわけにはイカンと警察署に言われたとか、三隣亡の友引をまたいではイカンかったとか、曖昧《あいまい》に呟《つぶや》いた。  話が違うと良樹は胸の内で呟いた。帰国便がいつ出るか見通しが立たない、最悪の場合は通信網も止まると知った時点で、たしかに良樹は叔父に絢子の遺体確認を頼んだ。そして葬儀社に片っ端から問い合わせ、検死後の遺体を搬出して葬儀まで保管してくれるという一社を見つけ、話を付けたのだ。絢子を荼毘《だび》に付するのは、そこの保管室で対面してからにするつもりだった。叔父にもそう話したはずだった。  ──せやけど、あんな絢子ちゃんは見んほうがええ。良樹ちゃんはお巡りさんやから、大丈夫なんかも知れんけど、わしらとしたら、会わせるわけにはいかなんだ。  五年前に嫁をもらって以来、叔父は良樹と絢子から距離を置くようになった。身寄りのない甥《おい》姪に頼られるのはマッピラごめんと、叔母が縁切りしたがっているのを良樹は知っている。五十を過ぎてようやく得た嫁に嫌われまいと、叔母の言いなりになっている叔父を責める気はない。火葬を急いだのも、叔母が傾倒している宗教の教えによるものだろう。しかし叔父は、いくらかの後ろめたさを感じていたらしく、叔母が退座すると、  ──絢子ちゃん、まだ十九やったのにな。元気出すんやぞ。わし、力になれることやったら、力になるけ。  と、同情に満ちた眼差《まなざ》しを良樹に向けてきた。そして、螺鈿の座卓に片|肘《ひじ》を突いて身を乗り出し、声を潜めた。  ──わしはホントは、ヨシちゃんが戻るまで焼き場に持っていきとうなかったんや。わしは、な。分かってくれやヨシちゃん。ああ、心配せんでええ。良樹ちゃんの負担になるような、仰々しいことはしとらんけ。全額はいらん、半分でええと嫁も言うとる。  そう言って叔父は、葬儀社の請求書を差し出した。絢子のアパートを「掃除」した業者の請求書も、クリップで留められていた。  請求書と遺骨を抱え、面倒かけましたと一礼して叔父宅を後にした良樹は、赤とんぼの舞う集落の坂道を下りていった。  ──兄ちゃん。私、立派なデザイナーになるよ。二年間がんばって勉強する。  一年半前、学生寮の前で敬礼の真似をしてみせた色黒で長身の妹は、白く小さな骨となり、箱の中でカタカタと鳴っていた。  絢子の自殺を知ったのは、東京のN署がかけてきた一本の電話からだった。  ──妹さんが亡くなられました。アパートで首を吊《つ》られまして、十日程度経っておられました。  このとき良樹は、県警や他署の若手中堅七名とともに、短期海外研修のためモスクワに滞在していた。人違いではないか、同姓同名である県警の若林《わかばやし》と混同しているのではないかと、良樹は何度も問い質《ただ》した。否定された。あなたの妹さんです、平成元年十月三日生まれの若林絢子さんです、歯形で確認しましたと告げられた。  受話器を耳に当てたまま、良樹は著しく混乱するばかりだった。  絢子が自殺するなど、どう考えてもありえなかった。念願の東京進学を果たした妹から届くメールは、いつも希望と活気に満ち溢《あふ》れていた。人形劇同好会に参加、都内の保育園を汗だくになって巡回したという写真付きのメール。デザイン学校の生徒を対象とした合同進路セミナーに参加し、自分の方向性が見えてきたという、意欲に溢れたメール。夏休みにはインテリア事務所でのインターン研修が決まったという、喜びのメール──。朝から晩まで多忙を極めているという妹と、一般的なサラリーマンとは仕事の時間帯が異なる交番勤務の良樹との連絡は、電話ではなくメールが中心となり、相手の声を聞きながらコミュニケーションを取ることはほとんどなくなってしまった。しかし妹はそれなりに元気で過ごしていた。妙な交友関係に巻き込まれたり、良からぬ男と関わったりしている様子もなかった。ときおり絵文字とともに送ってくる悩み事と言えば、パン屋のアルバイトで売れ残りの耳[#「耳」に傍点]を食べて太ったとか、地黒なのに日焼けしたため専門学校の男子生徒たちに「黒ごま饅頭《まんじゆう》」とからかわれるとかいう、たわいのないことばかりだった。男きょうだいには言えない悩みも抱えていた可能性はあるが、さほど深刻なものでないと、絢子の親代わりをしてきた良樹には分かっていた。絢子の活き活きとしたメールを読むたびに、やはり東京へ進学させてやって良かったと、良樹は安堵《あんど》していたのだ。  しかし絢子は自殺した。  しかも十日間ものあいだ、誰にも発見されずにぶら下がっていたという。  考えられなかった。  本当に自殺なのかと、良樹は何度も問うた。現場の状況から事件性はないと思われる、遺書らしきものも見つかっているとN署は告げた。遺書の文面を良樹が問うと、お兄ちゃんごめんと書かれていると告げた。それだけかと問い直すと、それだけだと言われた。良樹はわけが分からず、思考回路が完全に麻痺《まひ》した。  夕飯を食べながら家族とテレビを見て笑っていた息子が、風呂が沸いたので入れと母親が部屋に呼びに行くと、首を吊っていた──そういう事例を良樹は知っている。しかしたいていの場合、何らかの「自殺サイン」を見せる。この息子の場合は夕食時に、「明日は会社を休もうかなあ」と、普段は口にしないことを呟いたという。  絢子が直前に発した「サイン」。  思い当たるのは、前日にかけてきた深夜の電話だった。  ──兄ちゃん、私ね、おうぎラーメンが食べたい。  何のことか解せなかった。枕元の時計を見ると午前一時。日本は朝の六時だ。寝ぼけるような時間ではないし、話し方もどことなく弛慢《だら》けている。 「飲んでるのか? 二十歳になるのはまだ一ヶ月先だ」と諫《いさ》めると、絢子は「飲んでないよ。二十歳まで飲まんて、兄ちゃんと約束してるやん」と小さく笑った。  余裕があるときなら、良樹は妹の謎かけの相手になったと思う。しかし良樹は、連日の長時間研修で心身ともに疲れ切っていた。良樹の所属する署はロシア人の多い日本海側の港町にあり、その人口は急増傾向にある。ロシア語の看板がじわじわと町を占拠し始め、ロシア人絡みのトラブルや事件が頻発するに従い、県警や専門機関での研修だけでなく、独自に現地研修も導入するようになったのだ。  高卒で交番巡査になり早九年。先々は外国人犯罪を扱う刑事部で活躍したいとの願望から、巡査部長の昇進試験を目指す良樹は、実務経験六年以上、階級不問との条件でモスクワ短期研修の募集がかかった際、真っ先に応募した。学歴ハンデがあるぶん、与えられた機会はひとつでも多く活かさねばと、常々考えているのだ。  モスクワ到着から約三週間。ハードな研修に加えて先輩署員やキャリア組の雑用に追われ、良樹はグロッキー寸前となっていた。「おうぎラーメン」の話をしようとした絢子も、電話越しに伝わってくる兄の疲弊を感じとったのだろう。  ──いきなり、変な電話してゴメン。  そう笑い、電話を切った。  それから一週間が経って研修もほぼ終了、帰国の日が近づき、良樹たちには土産等の買い物時間が与えられた。きょろりとした目元が絢子そっくりなマトリョーシカを見つけて購入した良樹は、日本に戻ったら面白いものを宅配で送ると、妹にメールした。しかし二日経っても返信がない。良樹は再度メールを入れたが、やはり返信がない。電話をかけてみたが出ない。  絢子の身に何かあったのではと案じたが、そうであれば学生寮の管理人か学校側、もしくは絢子の友人たちが良樹に連絡してくるはずだった。毎日のように将来の夢を語りあい、デザイナーを目指して切磋琢磨《せつさたくま》しあっているという友人は、良樹が知るだけでも十人近くいる。中高生時代は決して友人が多いとは言えず、地味で引っこみ思案だった絢子が、派手で内部競争の激しそうなデザイン専門学校でうまくやっていけるだろうかと良樹は懸念していたが、幸いなことに、同じく地方出身で気のおけない友人たちを得たとのことだった。彼らとは生涯の友として付き合っていけそうだと、久しぶりの電話で聞いたときは、良樹は涙を滲《にじ》ませた。  絢子の身に何かあれば、この友人たちが良樹に連絡してくるはずだった。絢子は彼らに、兄がどの県のどの交番に勤めているかを話したことがあるという。地方の警察を舞台にしたドラマが流行《はや》っていたこともあり、友人たちと大いに盛り上がったとメールを寄こしてきたこともあった。  それゆえに、絢子の「沈黙」が気になって仕方がなかった。  二日間連絡が取れないからといって騒ぎ立てるのはどうかと思ったが、良樹は学生寮の管理人に連絡を取ろうと決めた。そして携帯電話の内蔵電話帳で連絡先を検索し始めたとき、N署から電話がかかってきたのである。  茫然《ぼうぜん》となりながらも研修団の責任者に帰国の許可を求め、翌日の便を押さえた良樹は、手すりにしがみつくようにして宿泊室に戻り、ベッドに倒れこんだ。事態を知った同行者たちが良樹を案じたが、彼らの労《いたわ》りの言葉はほとんど耳に入っていなかった。  しかし翌日、良樹は帰国便に乗ることができなかった。数十年に一度と言われる悪天候に見舞われ、空港が閉鎖されたのだ。良樹も一刻も早く絢子に会いたく、他の空港から飛ぼうと考えた。だがそこに至るまでの陸路も寸断されてしまった。帰国の目処《めど》がまったく立たなくなった良樹に、N署は遺体確認と引き取りを急《せ》かしてくる。良樹は叔父《おじ》に連絡し、N署に行ってもらえないかと頼みこんだ。疎遠になった叔父に頼むよりも、信頼の置ける上司か友人に頼みたかったのだが、「やむを得ない事情がないかぎり、家族か親族でなければ困る」とN署は融通を利かせる様子がなかった。その翌々日、やはり絢子だったと叔父から連絡が入ったのを最後に、通信網がストップした。  一週間後、ようやく発《た》った帰国便で成田に到着した良樹は、遺体保管を依頼した葬儀社に直行した。だが叔父夫婦が既に火葬し、遺骨を持って帰ったとのことだった。「お兄様が予定を変更されたとお聞きしたもので」と担当者は困惑|狼狽《ろうばい》するばかりだった──。  妹の遺骨を抱えたまま、良樹は赤とんぼの舞う夕暮れの農道を歩き続けていた。  あれほど希望に溢れた人生を歩んでいたのに、妹は死を選んだ。  あれだけの友人がいたのに、誰にも気づかれぬまま死んでいた。  まさか、手酷《てひど》い失恋をしたのか。  兄に打ち明けられない何かが起きたのか。霊感商法やキャッチセールスの類《たぐい》に騙《だま》され、多額のローンを組まされたのか。  いや、ありえない。絢子がそういうものを隠し通せる性格ではないことは、長年、親代わりをしてきた良樹が一番よく知っている。  しかし、妹のことを一番よく知っているはずの自分は、妹が自死への道を歩いていることに、気がつきもしなかったのだ。  なぜ、こんなことになってしまったのだろう。  兄として、絢子に何をしてやればよかったのだろう。  たったふたりの家族だったのに、なぜ妹が自殺を考えていたことに気づかなかったのだろう。     二  午前七時。東京郊外の街並みには、秋の朝日が柔らかく注いでいる。ゴミ袋を提げたサラリーマンが近所同士|挨拶《あいさつ》をかわし、一仕事終えた新聞配達員はエンジン音も軽やかにバイクを走らせている。  そして、カーテンを閉め切った木造アパートの一階角部屋では、首をロープに引っかけた女がぶら下がっていた。既に死後硬直が始まり、首や手足には紫がかった死斑《しはん》が現れている。北向き窓が鬱蒼《うつそう》とした樹木の陰になっていることもあり、晴天の朝が訪れたにもかかわらず、その四畳半1Kは、梅雨の夕刻を思わせる薄暗さに包まれていた。  剥《む》き出しになった天井の梁《はり》は朽ちかけており、体重五十五キロの女がロープを首に渡して椅子を蹴《け》った瞬間、わずかに撓《たわ》んだ。カーペットから離れた脚が宙を蹴ると、折れんばかりの音を立てて軋《きし》んだ。しかし次第に痙攣《けいれん》は緩慢になり、数分も経つとただ二本の脚が垂れているだけとなった。軋みの音は止んだが、鬱血した顔に舌を垂らした女の心は、いまだに軋み続けていた。  死ねば、解放されると考えていた。  死ねば、楽になれると信じていた。  しかし、十数分かかってようやく心臓が停止し、全身から感覚が消えてもなお、感情だけは消えてくれなかった。  ロープをかける前にトイレに行ったはずなのに、スカートの間からじょろじょろと滴り、カーペットに染みが広がっていく。  兄がこの姿を見たらどう思うだろう。  女は子供時代に相次いで親を亡くしたため、年の離れた兄が親代わりとなった。父の死後、女手ひとつで兄妹を育ててきた母親が他界したとき、彼女は小学五年生、兄は就職して一年目の十九歳だった。兄は友人や同僚と遊びたかったことだろう、恋人も作りたかったことだろうと思う。中学生になったとき、女は「私のことは気にせんでええよ」と兄に言った。「兄ちゃんの彼女いない歴が延びていったら、私もおちおち学校に行っとられんわ」と。  ──子供が生意気言うな、ばかたれ。  そう苦笑いして妹の頭を小突いた兄も、仕事場では「ばかたれ」と頭を叩《たた》かれていたようだが。  高卒で現場職となった兄の給料は決して高いとは言えなかったが、給料日にはデパートのレストラン街に連れて行ってくれた。寿司屋や天ぷら屋の前は通りすぎ、大衆食堂風のレストランで食券を買うのが常だった。兄は「グラタンでもトンカツでも、何でも食えばええぞ」と言ったが、兄が一番安いネギラーメンを食べる以上、まだ就職していない妹がそれ以上のものを注文するわけにはいかなかった。  ──お前は育ち盛りやけ、どんどん食え。  ──私はダイエット中や。ネギダイエットや。  ──小学生のくせに何がダイエットや。ばかたれ。  そして兄は店員を呼んで、ゆで卵とチャーシューを注文し、妹の丼《どんぶり》に入れさせた。  高校三年になった女は、東京の学校に行きたいと兄に告げた。唖然《あぜん》とした顔を見せた兄は、やがて神妙な表情になり、東京でないとイカンのかと問うた。東京で勉強したいことがある、新聞配達のバイトで入学金を貯めたし、奨学金も受けられるから──そう言って彼女は、学校案内と貯金通帳を見せた。兄はしばし沈黙した。  ──……こんなチャラチャラした学校に行かんでも、専門学校やったら地元にあるやろ。美容師の学校かて、調理師の学校かてある。簿記の学校もある。  兄は、女の差し出した学校案内を突き返した。  ──私が行きたいのは、そんな学校と違う。東京でしかできない夢を追いかけてみたいんや。  ──そんな安易な理由で東京に行ったら、エラい目に遭うぞ。  ──兄ちゃんかて、こんな田舎の港町で一生暮らすのはイヤやて言うてたが!  ──お前がおるのに、俺だけ勝手なことできるわけないやろ!  ──私のせいにせんといて!  ──浮ついた考えで東京に行っても、ロクなことがないと言うとるんや! この町に居たかて、生き方や夢を探そうと思うたら探せる。もっと地に足を着けた考えをせえ。  年齢が離れていることもあり、子供の頃からケンカらしいケンカなどしたことがなかった。これが初めての兄妹ゲンカだった。  ──妹が泣き泣きでもここで暮らしとったら、それで兄ちゃんは満足なんか!  兄は言葉に詰まり、やがて視線を落とした。そして、何も言わずに居間を後にした。  その後、兄妹は何日間も口をきかなかった。女は部屋に籠《こ》もっては涙を拭《ぬぐ》い、兄はひとりでカップラーメンをすすっていた。居間のタンスに置いた仏壇の前で、ぽつんと兄が、両親の遺影を見つめていたこともあった。  一週間後、兄は一冊の通帳を妹に差し出した。  ──奨学金だけでは、都会では生活できんぞ。  妹の結婚資金として貯めていたものだった。  ──東京で人生が開けるなら、がんばって行ってこい。やが、酒を出す店や夜遅いバイトは絶対にしたらイカンぞ。そんなことさせるために東京に出すのとは違うけな。  女は兄の両手を取り、自分の額にすりつけて何度も礼を言った。兄は微笑んではいたが、その眼差《まなざ》しはどことなく暗く、寂しげだった。  上京の日、兄はレンタカー会社からライトバンを借りてきた。ホームセンターで買いそろえた引っ越し道具を積むと、妹を助手席に座らせ、東京まで高速道路を七時間走らせた。学生寮には基本的な生活備品が揃えられているため、持参する荷物はライトバンで十分運ぶことができたのだ。  ──東京は犯罪が多いけ、深夜は出歩くなよ。出かける前と寝る前は、しっかり戸締まりを確認せなイカンぞ。オートロックやからて油断したらイカン。メシもきちんと一日三回食えよ。酒に誘われても二十歳になるまで飲んだらイカン。一生の友になるような、ええ友達を作れよ。やけど悩むことがあったら、すぐに兄ちゃんに言えよ。躊躇《ちゆうちよ》せんとすぐに言えよ。これでも俺、お前より八年間、長いこと生きとるけ。  ハンドルを握りながら、兄は訥々《とつとつ》と語り続けた。  通勤ラッシュが始まるにはやや早い時間帯に学生寮に到着したふたりは、引っ越し蕎麦《そば》を手に、管理人に挨拶しに行った。既に入居していた学生にも蕎麦を持参して挨拶した。  ──妹はなにぶん東京に不慣れやで、どうか気に掛けてやってください。  何度も管理人に頭を下げていた兄の姿が、今でも脳裏を過《よ》ぎる。先に入居していた学生が「今どき引っ越し蕎麦かよ」と半笑いを浮かべているにもかかわらず、兄は頭を下げ続けていた──。  女の脳は腐敗し始めているというのに、一年以上会っていない兄の顔だけはありありと浮かんでくる。  引っ越し作業は半日もかからずに終了した。兄は再びライトバンを運転して故郷に戻ることとなり、その前に腹ごしらえをしに行こうとの話になった。学生寮からさほど遠くない場所に飲食街があったのだが、焼き鳥屋からエスニック料理屋に至るまで多種多様な店が並び、ふたりは圧倒された。狼狽《ろうばい》したふたりは結局、小さなラーメン屋に入った。煮染《にし》めたような色のメニューを広げたふたりが選んだのは、故郷でよく食べていたネギラーメンだった。東京まで来てネギラーメンを食べることはないのに、と兄妹で顔を見合わせて苦笑した。  兄は何でも飲みこむようにして食べる性格だったが、あの日はゆっくりゆっくりとラーメンを口に運んでいた。「帰りが遅くならんね?」と妹が心配すると、「徹夜で車を転がすのは慣れとる」と笑みを浮かべ、兄にしては珍しく、餃子《ギヨウザ》や春巻きをだらだらと注文し続けた。  二十二時を過ぎて暖簾《のれん》を下ろす時間となり、兄妹は店を出た。ライトバンを停めた学生寮までの数百メートルの道のりを、兄はのんびりと歩き続けた。東京の夜空は明るいなあと上を向いて歩きながら、兄は、ラーメン屋で言った言葉を繰り返した。  ──疲れたらいつでも帰ってこいよ、いつでも連絡せえよ。夜中だろうが地球の裏だろうが、兄ちゃんはすぐに迎えに行ったるけな。  そう、何度も何度も繰り返した。  駐車場に着いて車に乗りこんだ兄は、運転席の窓から顔を出し、「体を大切にせえよ」と言いつつエンジンを掛けた。疲れたら帰ってこいよ、いつでも連絡せえよ、すぐに迎えに行ったるけな──。遠のいていくテールランプを見つめていた妹に向かって、曲がり角で減速した兄は、最後にもう一度手を振った。  それ以来、兄とはメールで連絡を取りあうだけとなった。大型連休や盆休み、正月休みが近づくと、兄から「いつ帰るか?」とメールが来た。女はいつも「忙しくて無理」と返答した。忙しいわけではなかったが、帰省できるはずがなかった。帰省すれば兄と顔を合わせることになる。観察力の鋭い兄に「ウソ」を見抜かれるのが怖かった。  体を大切にせえよと手を振った兄は、伸びきった首にロープを食いこませている妹を見て、何と言うだろう。子供の頃の女が風邪を引くたびに、扁桃腺《へんとうせん》に薬を塗ってくれた兄は、真っ赤に腫《は》れた舌を突きだしたまま死後硬直を迎えている妹を見て、どう思うだろう。  一生の友を作れと言った兄は、妹の友人たちを知ったらどう感じるのだろう。いや、兄が心配していたような「チャラチャラした輩《やから》」や「ふしだらな連中」はひとりもいなかった。東京に出たからこそ出会うことのできた、いい友人ばかりだった。同じように地方から希望を抱いて上京した人たちばかりで、毎晩のようにファミレスに集合し、心のなかを打ち明けあったものだ。男性も女性もいたし、先輩も後輩もいた。誰もが一途《いちず》で一所懸命で、友情に厚かった。ファミレスでの時間は彼女にとって幸せのひとときだった。  そのファミレスも五日前に突然、休業となった。店の入口に貼られた謝罪文によると、店内の緊急修理が必要となり、営業再開の予定は未定だという。友人のあいだからは、このファミレスは閉店が近いのではないかとの声が上がっていたのだが、これほど唐突に閉店するとは誰ひとり予想していなかったのだろう。今後の集合場所を決めることもなく、尻切《しりき》れトンボの解散状態となり、ほぼ同時期に、友人とも連絡が取れなくなってしまった。  女はすがるような気持ちで、何度もファミレスに足を運んだ。しかし、「営業再開までお待ち下さい」との貼り紙がなされているだけだった──。  カーペットに転がった携帯電話が、ヴゥゥ、ヴゥゥと液晶画面を淡く点滅させ始めた。レモンイエローの点滅ということは兄からだろう。携帯電話のバイブレーションが止まり、伝言メモの再生が始まった。かすかに兄の声が聞こえてきたが、腐敗の始まった耳では、言葉の内容をとらえることはできなかった。やがて、ピー音とともに伝言メモは終了し、レモンイエローの点滅も消えた。妹に何度メールを送っても返答がないので、電話を掛けてきたのだろう。ほどなく伝言メモも満杯になってしまうだろうが。  死ぬ前に一目、兄に会っておくべきだっただろうか。  ──悩むことがあったら、すぐに兄ちゃんに言えよ。  しかしそう言ってくれたのは、一年半前の兄だ。  今の兄は仕事が忙しくなった上に、どことなく恋人の影を感じさせる。やりとりするメールの雰囲気から、うっすらと分かるのだ。返信が来るまでの間隔が次第に長くなってきたし、文章もどことなく素っ気ない。心の比重が妹から恋人へと移りつつある兄に、相談できるはずがなかった。  陽が高くなってきたのだろう。閉め切ったカーテンからは淡い日差しが浸透し、遠くからは小学校のチャイムが聞こえてくる。昨日の今頃も、女はあのチャイムを聞いていた。ちょうど自分がぶら下がっているこの場所にミニテーブルを出し、タッパーの煮物とお茶漬けを口にしながら。  足元に広がる、スカートから滴った染み。その傍らに転がる携帯電話。眼球の白濁化した女は、虚《うつ》ろな眼差しをカーペットに落としていた。     三  身内を失った実感は、四十九日の法要を終えた頃に忍び寄ってくるという。  母方の菩提寺《ぼだいじ》で絢子の法要をしてもらった後、良樹はアパートの仏壇に三柱目の本|位牌《いはい》を置いた。毎朝一緒に、両親の位牌と遺影に手を合わせていた絢子は今、両親の横に並んでいる。  絢子の東京進学後、叔父《おじ》夫婦の事情で実家を手放すこととなった良樹は、署の近くの単身者アパートに入った。独身警官は寮で暮らすのが一般的で、良樹も警察学校に入学した以降は──もう十年近く前のことだが──ずっと寮生活をしていた。しかし警察学校を卒業して四ヶ月目に母親が突然倒れ、二週間後に他界、小学生の絢子にひとり暮らしをさせることなどできず、実家からの通勤に切りかえた。絢子も実家もなくなった今は、独身寮に戻るべきなのだが、全室が相部屋となるので断念した。いくらタンスに置くことのできる小型サイズだとはいえ、共同部屋に仏壇を持ちこむわけにはいかない。  白木のものから黒塗りのものへと変わった本位牌を祀《まつ》ると、「兄ちゃん、兄ちゃん」とまとわりついてきた絢子がもうこの世にはいないという実感が迫ってきた。もっとも「兄ちゃん」とまとわりついてきたのは、ずいぶん昔の話なのだが、良樹のなかでは、そういう絢子しか浮かんでこないのだ。  兄として何をしてやればよかったのだろう。  どうすれば、絢子を死なせずに済んだのだろう。  絢子はいつから、自死を考えていたのだろう。  自分はなぜ、自死のサインに気づかなかったのだろう。  ──兄ちゃん、私ね、おうぎラーメンが食べたい。  モスクワまでかけてきた、最後の電話。  あれが、何かのメッセージだったのだろうか。  良樹は「おうぎラーメン」を調べてみたが、全国で百箇所以上もの「扇ラーメン」が存在していることと、「株式会社オウギ」という東京の会社がカップ麺《めん》を販売していることしか分からなかった。いずれも、特に話題性があるラーメンではない。それに田舎の兄に頼まずとも東京で簡単に手に入れることができよう。  親代わりに育ててきた絢子のことは、たいがい理解しているつもりだった。絢子の相槌《あいづち》が「うん」ではなく「そうやろね」というときは、何かに落ち込んでいる証拠だとも知っているし、ところてんに黒蜜《くろみつ》と酢醤油《すじようゆ》の両方をかける悪食であることも知っている。絢子を人形劇同好会に誘ったのは同級生の沢木《さわき》という電器店の娘であることも知っているし、絢子が風邪で二日間寝込んだときには、静岡出身の美香《みか》という子がわさび漬けを持って学生寮まで見舞いに来たことも聞いている。絢子たちが毎日のようにファミレスに集まっては飲み放題のドリンクバーを注文し、何時間も将来の夢を語りあったり、就職情報を交換したりしていることも知っている。長時間居座っても店に追い出されないのは、勝村《かつむら》という体育会系の卒業生が古株のアルバイトとして働いているからだということも知っている。勝村がアルバイトしているのはイタリア留学の資金作りであることも、専門学校の後輩が来ると店長の目を盗み、山盛りのフライドポテトを出してくれることも知っている。  一年以上、顔を合わせていないとはいえ、絢子のことはたいがい把握しているつもりだった。絢子に何かがあれば、顔を合わせなくともすぐに気がつくだけの自信があった。  しかし絢子は、突然自殺した。  良樹は、妹が発していたと思われるサインに気づかなかった。今でも分からずにいる。  兄としてできることがあったはずだ。  何か、あったはずだった。  ──良樹さん、自分を責めないで下さい。  岡部真奈美《おかべまなみ》はそう言う。  絢子の死の二ヶ月ほど前に地域課の先輩から紹介された、音楽教室に勤める女性だ。食事や映画に行ったりはするが、双方が奥手なため、まだ恋人の間柄ではない。しかし絢子の法要を行うと知ったときには、「おひとりで寂しいでしょう」と同席を申し出てくれた。真奈美は写真でしか絢子を見たことがないが、自分の妹のようだと常々言ってくれている。良樹が絢子に野菜や缶詰を送る際には、ハーブティーの箱や愛らしい小物を、そっと段ボールの隅に忍ばせたりもしてくれた。絢子に実用的なものしか送ることのできない良樹にとって、真奈美のこうした心遣いは本当に有り難かった。  精神安定剤やアルコールに頼らずに、良樹がなんとか精神バランスを保っていられるのは、真奈美に助けられている部分が大きかった。中学時代の親友を自殺で失《な》くした経験があるという真奈美は、良樹の聞き役となってくれた。他人には決して弱味を見せぬと自分に言い聞かせて生きてきた良樹だったが、弱味を見せられる相手がいなければ、完全に押し潰《つぶ》されていたかも知れなかった。  しかし良樹は、真奈美に話せないことがあった。  上京してから死を迎えるまで、妹が過ごした日々のことだった。  叔父宅で遺骨と対面した翌日、良樹は上京し、学生寮の管理人に会いに行った。絢子は半年ほどで寮を出たと告げられた。なぜ絢子は良樹に黙って転居したのか、いったいどこへ引っ越したのか。わけが分からないまま、専門学校で詳細を聞こうと足を運ぶと、去年の九月に退学しており、その後の消息など把握しているわけもないと、慇懃《いんぎん》無礼に突き放された。いよいよわけが分からなくなり、良樹はN署へとタクシーを飛ばした。妹の遺体を搬出し、検死を行い、モスクワ滞在中の良樹に電話をかけてきた署である。本当は学生寮や学校よりも先に、ここを訪れるべきだったのだろうが、この時の良樹は判断力に欠けていたのだろう。同署では、絢子が住んでいたのは築三十五年の木造アパートだと教えられた。風呂もトイレもない家賃一万五千円の1Kで、近隣に人の行き来はなく、大家も月一回の集金で足を運ぶだけだという。絢子以外の住人は嗅覚《きゆうかく》障害のある不法滞在の外国人夫婦だけだったため、発見と通報が遅れたようだった。  ──妹さんがどこに住んでいるか、ご存じなかったんですか?  N署の担当者は、それでも身内かと言いたげな視線を向けた。  そう言われてみれば、叔父夫婦は「寮の管理人」ではなく「大家」と呼んでいた。なぜそこで気がつかなかったのか。  N署で教えられた住所をメモした良樹は、絢子の終《つい》の住み処《か》となった木造アパートを訪ねた。賃貸アパートが乱立する、良樹の土地の言葉でいうところの「顔の見えない有象無象の吹き溜り」だった。生ゴミの腐敗汁やガムのへばりついた、車一台分の幅しかないアスファルトを進んでいくと、荒れ果てた公園の裏側に、日当たりの悪いアパートがぽつんと建っていた。そして絢子がいたという一階の角部屋は、公園から伸びる鬱蒼《うつそう》とした樹木の陰になっていた。  アパートの塀には〈敷金礼金・保証人不要 入居者募集中〉との色|褪《あ》せた看板がかかっており、大家の名字と携帯番号が記されていた。電話してみたが連絡が取れなかったため、そのまま部屋に行ってみた。ピッキング犯に五秒で破られるであろう旧式すぎる鍵《かぎ》は、良樹がガチャガチャとノブを回しているうちに、ひとりでに開いてしまった。  業者が清掃を済ませた四畳半の和室には、饐《す》えた腐臭が残っていたが、目で確認できる絢子の死の痕跡《こんせき》はきれいに消されていた。  鬱蒼とした木の陰となった北向きの窓には、老朽化した部屋とは不釣り合いな、比較的新しく薄っぺらいカーテンが吊《つ》り下げられていた。清掃業者が大家に頼まれ、絢子のにおいや蠅の卵でいっぱいになったカーテンを取り替えさせたと思われた。叔父から渡された業者の請求書には、カーテン代が上乗せされていたと記憶している。  日暮れのまま刻《とき》が止まったような部屋に佇《たたず》み、良樹は畳を撫《な》でた。染みが広がっていたのであろうカーペットは撤去され、畳は全体的に消毒清掃されていたが、良樹のてのひらには、絢子が残した最後の体温が感じられた。  絢子はこの真上で宙に浮いていた。天井板を外したのか、もともと天井板すら付けない安普請なのか、梁《はり》が剥《む》き出しになっていた。  学校を辞めたことを良樹に隠し、保証人のいらない古アパートに移り住んでいた絢子。  良樹の仕送りを使うことに気が引けたのだろうか。退学以降、仕送りも入金時に渡した貯金もほとんど手つかずで残されており、アルバイトの収入で食いつないでいたと思われた。とはいえ、酒を出す店でのバイトや夜遅くの仕事をしてはならないとの兄の言いつけは、律儀に守っていたのだろう。N署で受けとった遺品の財布からは、小銭や千円札とともに、新聞販売店やパン屋の給与明細書が出てきた。  部屋の隅には、カーペットを撤去するときに移動させたとおぼしき、絢子の荷物が積まれていた。──清掃業者の人らは遺品回収もしてくれるそやけど、わしら、そこまでは頼まんといたさけに。その、つまり、残すモンと捨てるモンの区別まで、わしらがやったらイカンやろ。とにかく大家が怒っとるさけ、早々に片付けに行ってや。  叔父《おじ》は、請求書と叔母の顔をちらちらと交互に見つつ、そう言っていた。  上京準備の際、良樹と一緒にホームセンターで購入した衣装ケースや花柄のミニテーブル。ひとり暮らしを始めてから電器店街のバッタ問屋で購入したのであろう小型のオーブントースターや小さな冷蔵庫。電気の止められた冷蔵庫には、飲みかけのウーロン茶ボトルと、使い古しのケチャップやマヨネーズ、得体の知れないタッパーがあるだけだった。  タッパーの蓋《ふた》を開けてみると異臭が鼻を突いた。著しく腐敗しているが、カンピョウの煮付けだと分かった。絢子が母親から手ほどきを受けた唯一の料理だ。良樹の好物だったし、繊維質が多いので満腹感が得られるし、甘辛く煮込んだ汁をかければ何杯でも飯が進むので、兄妹ふたりになってからも絢子はこれをよく作った。  絢子はこれで腹を膨らませていたのだろうか。  こんな暮らしをさせるために、良樹は妹を東京に出したのではなかった。  将来の夢や良友たちに恵まれた、充実した学生生活を送っているとばかり思っていた。  なぜだ。なぜこんなことになってしまったのだ。  毛羽だった畳に手を突いた良樹は、妹のことならたいがい把握していると自惚《うぬぼ》れていた自身を悔いた。親代わりだった自分が、相談相手と見なされていなかったという現実を突きつけられたことにも、少なからず衝撃を受けた。  良樹は、N署から受けとった身元確認用の遺留品袋を開け、細かいビーズを貼りつけた携帯電話を取りだした。絢子が死を選んだ理由を知りたかった。絢子は兄よりも友人たちに心を開いていたのだと思う。彼らと話をすれば、何か手がかりが得られるのではないか。  その携帯電話には、良樹がモスクワからかけた電話のメッセージや、マトリョーシカを買ったというメールが、確認されることなく残っていた。  電話の発着信履歴やメールの送受信ボックスを確認し始めたとき、良樹の手が止まった。電話もメールも、やりとりしている相手は良樹しかいないのだ。アドレス帳を見ても、「兄ちゃん」が登録されているだけである。  人形劇同好会で出会った親友・沢木の名前がない。風邪を引くとわさび漬けを手にやってくる美香の名前もないし、面倒見のよいファミレス店員・勝村の名前も入っていない。  全員とケンカしてアドレスを削除したのか。友人との不仲が自殺のキッカケとなったのか。それで兄に愚痴ろうとモスクワまで電話をかけてきたのか。だとしたらなぜ、「おうぎラーメンが食べたい」なのだ。  良樹は部屋の中を調べることにした。電灯が点《つ》かないのでカーテンを開けたが、窓のすぐそばまで迫っている樹木のせいで、室内は薄暗いままだった。まずは押し入れを探したが、いつ干したのか分からない、湿った布団が置かれているだけだ。無駄だと感じつつ、流し台の棚も開けてみた。故郷にいた頃と同じように綺麗《きれい》に手入れした、フライパンや片手|鍋《なべ》が出てきただけだった。  そうこうしているうちに、大家だという初老の女が、太った虎猫を抱えてやってきた。開けっ放しにしておいたドアから室内を覗《のぞ》きこんだ大家は、良樹が故人の身内だと知ると、絢子への苦情を並べ立てた。ドアを開けたら蠅だらけで、臭くて臭くて鼻が曲がりそうで、カーペットに腐った汁が広がって蛆《うじ》が米粒みたいにびっしり並んでいたとか、二階の部屋を貸さなくて良かった、さもないと一階の天井まで腐汁が染みて大がかりな工事になるところだったと。ろくろ首みたいになって、赤紫の顔が風船みたいに膨らんで目や舌が飛び出していて、今でも夢見が悪いとか、アンタの親戚《しんせき》とかいう、感じの悪い大女に荷物はアンタが引き取ると言われた、今日中に始末してくれとか──。  アパートのコンクリート塀に貼られた〈保証人不要〉の看板を見て連絡したのであろう絢子に、強欲な顔つきのこの初老女は、巧みな勧誘文句を並べたてたに違いない。激情が込みあげてきた良樹だったが、「アパートで自殺したら家主にどれだけ迷惑をかけるかぐらい、ちゃんと教えておいたらどうだい」と言われ、視線を落とした。それでも保護者かと詰《なじ》られたような気がしたのだ。それでも保護者か。妹がどこに住んでいたかも知らず、妹の死のサインすら見抜けず、それでも親代わりだった兄か──。  済まさねばならない用件が他にもあったため、大家に謝罪した後、良樹は後ろ髪を引かれる思いでアパートを後にした。薄汚れたアスファルトの路地を出る前にもう一度振り返ると、木目のドアの前で絢子が敬礼しているような錯覚を抱いた。  ──兄ちゃん。私、立派なデザイナーになるよ。がんばって二年間、勉強する。  だがそこに絢子の姿があるはずもなく、蝶番《ちようつがい》の錆《さ》びついたドアが、ぎいいぎいいと、揺れているだけだった。  その後、良樹はアパートを清掃してくれた業者を訪ね、請求書の支払いを済ませると同時に菓子折を渡した。業者は菓子折を渡されて困惑顔をしていたが、東京流の風習に疎い良樹は、これ以外の礼の仕方を知らなかった。  良樹は彼らに、「事故物件」の荷物を扱ってくれる運送会社の紹介を頼んだ。清掃業者が提携している運送会社を訪ねた良樹は、事前に契約しておいた故郷のトランクルームに運んでもらえるよう、手配した。実家を人手に渡したときも、絢子が残していった荷物や親の遺品を、そこに預けたのだ。  良樹は、三|帖《じよう》タイプのトランクルームを追加契約していた。年頃の女の子の荷物を入れるのだし、デザインの専門学校で学んでいたとなると教材も多かったことだろうと考え、一番大きなタイプを選んだのだ。しかし一帖タイプで足りそうだった。良樹は虚《むな》しさを感じた。  ただちに見積もりに訪れた運送会社は、翌朝一番でトラックを手配してくれることになった。そして良樹はその夜、予約しておいた宿をキャンセルし、絢子の部屋に泊まった。  絢子の汗と押し入れの湿気を吸った薄い布団に横たわり、良樹は天井を見つめた。  絢子もこうして天井を見上げ、ロープを渡したのだろう。最後の電話をかけてきてからロープを手にするまで、どれぐらいの時間があったのだろう。切れた携帯電話を握りしめ、背を丸くしてカーペットに座りこみ、物思いに耽《ふけ》っている絢子の姿が目に浮かぶ。  妹がぶら下がっていた梁に、良樹は「絢子」と呼びかけた。  良樹の耳に聞こえてくるのは、遠い風の音だけだった。  翌朝、荷物の搬出を見届けた良樹は、目覚まし時計やヘアブラシなどの小さめの遺品をスポーツバッグに収め、新幹線に乗った。身元確認用に古いノートパソコンを回収したとN署は話していたが、気を利かせすぎた新人職員が、良樹の単身アパート宛に発送したと言う。友人たちの連絡先を携帯電話には登録していなかった絢子だが、パソコンのアドレス帳になら登録している可能性があった。  良樹はパソコンの到着を待ったが、何日経っても届かなかった。配送中にどこかのトラックに紛れこんでしまったらしいという。とある配送センターの片隅で見つかったパソコンが、ようやく良樹の手元に届いたのは、約一ヶ月半の後──四十九日法要を済ませた翌々日だった。     四  七時半の出勤まで、まだ一時間ある。  タンスの上の仏壇に手を合わせた良樹は、妹のノートパソコンにACアダプタとLANケーブルを繋《つな》ぎ、蓋を開けた。黒いキーボードは一部の文字刻印が薄くなり、絢子が頻繁に使用していたことを物語っている。電源を入れると、カスタマイズしていない標準設定のデスクトップが立ちあがる。教材として購入したらしい色彩学習ソフトのアイコンの横に、電子メールのアイコンがあった。起動させてアドレス帳をクリックしたが、一件も登録されていなかった。  送受信の痕跡《こんせき》を見ると、「ファミレス・ファミリア」というウェブサイトへ無料会員登録した際のメールだけが残っていた。登録日は、入学から約三ヶ月後の去年六月。勉強や同好会活動で駆けずり回っていた時期だ。  ──兄ちゃん、またまた帰れなくてごめん! 夏休みはデザインの課題が山盛り! 帰省してるヒマないよ〜。  そんな携帯メールを寄こしてきたのを思い出す。  絢子はファミレスに毎日のように集まり、将来の夢などを語りあっていたという。そこでアルバイトをしていた勝村に、メルマガの受信登録を勧められたのだろうか。  このファミレスの所在地が判明すれば、まずは勝村の連絡先を聞き出すことができるだろう。良樹は、〈ご登録ありがとうございます〉と題された返信メールに記載されたURLをクリックした。 〈お客様チャットルームファミレス・ファミリア[#「ファミレス・ファミリア」に傍点]〉  絢子たちが利用していたファミレスが、利用客向けのチャットルームを設置しているのだろう。四人家族の食事風景をトップ画像に用いたそのチャットルームには、〈お詫《わ》び〉の文字が表示されていた。 〈九月一日から緊急メンテナンスを行っております。スタッフ一同、一日も早い復旧を目指してガンバります。復旧のめどが立ち次第、こちらで発表します〉  良樹は『戻る』をクリックした。サイトのプログラムがおかしいのかパソコンが不調なのか、トップ画面が繰り返し表示されるばかりだった。一旦電源を切ろうかとも考えたが、かなり使い古した感のあるパソコンだ。強制終了させれば壊れる恐れがあった。そうなれば、絢子がパソコンに残したであろうものが総《すべ》て消えてしまう。  画面を手当たり次第にクリックしてみたり、CtrlとAltとDeleteキーを同時に押してみたり、キーボードを叩《たた》いてみたりしているうちに、チャットのログが現れた。パソコン内の保存ファイルが開いたらしい。そこには数多《あまた》のログが保存されており、ずらりと並ぶアイコンの数に良樹は圧倒された。  最終のログは約二ヶ月半前の八月末。絢子が命を絶つ一週間前だった。  良樹はログのファイルを開け、スクロールボタンを押し始めた。指先が冷たくなっていくのを感じた。 〈AYA:AYAさんが来店されました〉  絢子がチャットルームに入ったとの意味だろう。そして次々に聞き覚えのある名前が現れた。 〈さわきん:なんかここ、最近動作が不安定だよね。AYAこんばんは〉  さわきん──絢子とともに人形劇巡回に汗を流す、同級生の沢木だろう。絢子の「こんばんは」がログに表示されたが、猛烈な勢いのチャットに流されてしまっていた。 〈ミカりん:そのうち閉鎖するってうわさ。サーバーが悪い(笑)〉  絢子が風邪を引くとわさび漬けを持ってきた、静岡出身の美香だ。 〈勝やん:おととい運営側に質問メール送ったけど、まだ返事ねえし〉  これはイタリア留学の資金作りにアルバイトをしているという勝村か。  チャットのログには、聞き覚えのある絢子の友人名が次々に現れる。午後十一時を過ぎる頃には十人近くに膨れあがったチャットルームでは、和やかな雰囲気で会話が進んでいた。特定メンバーが「沈黙」していると、他のメンバーは「そこにいるか」「話がつまらなくないか」と気遣うことを忘れない。ぶっきらぼうな物言いをするメンバーもいたが、礼儀をわきまえている様子だ。引っ込み思案で傷つきやすい絢子が選んで然《しか》るべき友人たちだ、と納得させられる。  死を選ぶ一週間前の会話だというのに、絢子の発言からは悩んでいる節がまったく感じられなかった。十月の連休の話題が出たときには「お金が貯まったら北海道に行きたい。旭山動物園でシロクマを見たい」と発言しているし、秋の新番組の話になった際には、自分が最も期待するドラマ名を挙げている。絢子は基本的に聞き役のようで、話題を振られれば答えるが、あとは相槌《あいづち》のほうが多かった。そうやろね、そうやろね──と。  うん、ではなく、そうやろね。  悩みを抱えこんでいるときの、虚《うつ》ろな相槌だった。  良樹はスクロールボタンを叩き、ログを読む速度を上げた。チャットが終盤に差しかかると、サーバーが不安定になってきたのか、頻繁な断線を嘆き、怒る発言が増えてきた。 〈さわきん:回線落ちまくり! いよいよダメかもね、ここ〉 〈勝やん:もう一度運営に問い合わせしてみるし。AYAとミカまだいる? 静かだけど〉 〈AYA:いるよ〉 〈勝やん:ミカは? もしかして落ちた?〉 〈さわきん:ミカのPC、寿命が近いって言ってたし。次に断線したらモデムごとご臨終だって〉 〈勝やん:もしここが明日突然閉鎖ってことになったら、今日がミカとの最後ってことになるんだな……〉 〈さわきん:こんな終わり方って寂しいよ。せっかくみんな友達になったのに〉 〈勝やん:松やんやユイ姉も落ちちまったみたいだな。こうなる前に一度、オフ会開いて会ってみたかったよな〉  良樹は目を疑った。 〈さわきん:リアルでも友達になれたかもね〉  まさか……毎日ファミレスで会うというのは、こういう意味だったというのか。  これが絢子の「友人たち」だったというのか。  ドリンクバーで粘るというのは、冷蔵庫のジュースを飲みながら何時間もキーボードを叩くということだったというのか。  寂れたアパートの一室で、ひとりパソコンを叩いている絢子の姿が頭を過《よ》ぎり、良樹の喉《のど》の奥に苦いものが込みあげてきた。パソコン画面だけが仄《ほの》白く光る、薄暗い部屋。家具らしい家具もない部屋には、キーボードを叩く音だけが漂っている──。 〈勝やん:俺、別のチャットルームをレンタルしてみる。そっちに引っ越そうぜ〉 〈さわきん:でもみんなの連絡先、ぜんぜん分からないじゃん〉 〈勝やん:だよなあ。とにかく俺、チャットルームをレンタルするよ。いろんな掲示板で呼びかければ、みんなが見つける可能性もあるしさ。とりあえず、さわきんとAYAのメアド教えて。あれ? さわきん落ちた? もしかしてAYAも落ちた?〉 〈AYA:いるよ〉  この直後にサーバーが落ちたらしく、ログは唐突に終わっていた。  良樹は茫然《ぼうぜん》とディスプレイを見つめた。  絢子が「忙しい」と言おうが何と言おうが、一度、東京に様子を見に行くべきだった。  妹から寄こされる、健全で堅実な学校生活の報告に、良樹は安心しきっていた。  あんまり干渉すると妹さんに鬱陶《うつとう》しがられるぞ、信用して本人に任せてやるのも大事やぞ──上司や先輩にはそう言われたが、それはあくまでも先輩の妹の話で、絢子にも当てはまるというわけではなかったのだ。なぜ自分はそんなことすら分からなかったのか。  ──人形劇の巡回で、私ヘトヘトになっちゃった。だって沢木さんが、スケジュールを詰めこむんだもん。  ──美香ちゃんがね、風邪にいいからってわさび漬けを持ってきてくれたんだ。美味《おい》しかったけど、なおさら喉が痛くなっちゃった。  ──みんなでファミレスに行ったら、勝村先輩がポテトをおごってくれて……。  ──松やんとユイ姉が、勉強になるからって、みんなにデザイン展のチケットをくれて……。  ウソだったというのか。  ──兄ちゃん、東京に出してくれて本当にありがとう。私、すごく幸せなんだ。  何もかもが、ウソだったというのか。  雨が降ってきたらしい。アパートの窓ガラスが音を立て始めた。  良樹の腕時計がアラーム音を発し、出勤時間を告げる。  茫然とパソコンを閉じると、良樹は通勤リュックを肩にかけてアパートを出た。最初の曲がり角を過ぎた頃になって、仏壇に手を合わせてくるのを忘れたことに気がついた。  傘を打つ雨粒の音が虚ろに耳に響き、秋冷えの風がジャケットから滲《し》みてくる。通い慣れた、徒歩数分の署までの道のりが、とてつもなく長く感じられた。  総てが絢子の作り話だった。いや本当の話も含まれていたのかも知れない。「勝村」がイタリア留学を目指しているとか、「沢木」が保育園児向けの人形劇同好会に入っているとか、「美香」が静岡出身だとか。このあたりは事実なのだろう、本人たちがウソをついていなければ。  保育園での人形劇上演写真、わさび漬けを載せた白飯の写真。絢子は日常を報告する写真を、しばしばメールで送ってきた。だが上演中の自身や、わさび漬けを食べている場面を写した写真を送ってきたことは、今から考えてみると一度もなかった。  窃盗犯のつくウソは見破ることができるのに、妹の作り話は見抜けずにいた。退学していたことも転居していたことも、知らないままだった。  ──良樹。お母さんが死んだ後は、あんたが絢子の親代わりになったげてね。まだ二十歳にもなっとらんあんたに、こんなことお願いしてごめんね。やけど絢子には、あんたしか頼るもんがおらんけに。  意識混濁に陥る前の母親の言葉が、良樹の頭で渦巻く。  雨脚が強くなり、アスファルトの水たまりが水紋で掻《か》き乱されていく。 「あ、良樹さん。おはようございます」  すれ違いざまに声を掛けられて視線を上げると、白いセーターにフレアスカートの岡部真奈美が、傘を差したまま会釈した。今日は午前中から音楽教室の仕事が入っているのだろう。良樹は出勤時、バスターミナルに向かう彼女と鉢合わせになることがある。真奈美の素朴で柔和な笑みは、いつも良樹に安らぎを与えてくれる。本人は「お人好しな面相って言われるんです」と気恥ずかしそうに笑うが、今朝の良樹には、やさしく微笑む彼女が聖母か菩薩《ぼさつ》に見えた。 「午前中のレッスンが終わったら、交番までお弁当を持って行きますから、待っていてくださいね。今日は、良樹さんの好きなものを作ったんです。じゃあ、えっと……お仕事がんばってくださいね」  淡い色の傘を差し、雨の中へと消えていく真奈美の後ろ姿を見つめていると、良樹は温かい気持ちに包まれる。しかしすぐに、心は雨を吸いこんだ砂のように重くなる。  ──絢子。兄ちゃんはどうすれば良かったんだ。  他のチャットのログも、総《すべ》てあのような感じなのだろう。「友人」たちが話し続け、絢子は相槌《あいづち》を打つ。「うん」ではなく「そうやろね」と。  ──絢子、あの晩にかけてきた電話は……何を言いたかったんだ?  濡《ぬ》れたアスファルトを見つめて歩いていた良樹の横を、太った虎猫がずぶ濡れになって通りすぎていく。あの強欲な大家の飼い猫を彷彿《ほうふつ》とさせるそれを目で追った良樹は、視線をあげ、唖然《あぜん》となった。  目の前にあるのは、あの木造アパートへと続く細い路地だった。電柱には〈敷金礼金・保証人不要 入居者募集中〉の貼り紙がなされ、あの大家と同じ名字が連絡先として書かれている。篠突《しのつ》く雨のなか、一階角部屋のドアが、ぎいい、ぎいいと開閉を繰り返しているのが見える。  自分は寝ぼけているのかと立ち尽くしていると、背後からクラクションを鳴らされた。振り返り、自分が車道の真ん中に突っ立っていると知った良樹は、運転手に頭を下げて歩道へと走った。車は忌々しげに水|飛沫《しぶき》を撥《は》ねあげていった。  良樹はもう一度、辺りを見回した。  署へと向かう海沿いの商店街が、いつもと変わらぬ姿でそこに存在していた。     五  カーテンを閉めきった薄暗い部屋で、女はいまだにロープに吊《つ》られていた。  死後四日が経過した女は青黒く膨張して蛆《うじ》にたかられ、その羽化を見守る蠅どもが周囲を飛びかっている。  保育園児だった頃、女は兄とともに風呂に入ることが多かった。兄はシャンプーの泡だらけになりながら、妹の髪を丹念に洗ったものだ。女が生まれ育った田舎では、保育園や小学校でしばしばアタマジラミが発生し、そのたびに虱《しらみ》殺しのシャンプーが配布されたのだ。  ──シラミは血を吸う悪い虫や。兄ちゃんは悪い虫が大嫌いや。蚊とか蛆も嫌いや。  入院中の父親や働きづめの母親に代わって、幼い妹の身の回りの世話をしてくれた兄は、今の妹を見て、何と言うだろうか。  カーテンに覆われた窓の向こうからは、『天国と地獄』とおぼしきBGMや子供たちの歓声と思われる音が、ぼわぁんぼわぁんと聞こえてくる。腐敗の進んだ聴覚細胞と溶解しつつある脳では、もはや正しい音など認識することはできなかったが、五百メートル向こうの小学校で運動会をしているのだと見当が付いた。自分ひとりが生きるのをやめたところで、世の中は何の影響も受けずに進み続ける。子供たちは明日も学校に通うし、女が先週見ていた連続ドラマは今週も放映される。  女が通った小学校では、保護者との二人三脚があった。運動会に参加できない両親に代わって兄が参加し、兄妹で足を結んで走った。女はクラスの中で背が高いほうだったが、八歳違いの兄と歩幅を合わせるのは困難で、たいがい兄に引きずられた。  兄はとりわけ大柄というわけでもなかったが、女の目にはとてつもなく大きく見えた。女が小学生の頃、スーパーの買い物帰りに犬を見つけてパンをやったことがある。次々に野良犬が現れて恐怖した女は、潮風の吹きすさぶ集落道でひとり、大泣きしていた。事態を聞きつけた兄がただちに駆けつけ、野良犬たちを撃退した。その後、妹の手を引いて家路に就きながら、兄は言った。  ──あいつらが喜びそうなモンを見せたらイカン。付け込まれるけ。  付け込まれる、の意味が分からなかった女が問うと、  ──甘い顔をしたり、弱味を見せたりしたとたん、利用されることや。  と兄は吐き捨てた。温厚な兄があのような物言いをしたのが不思議だったが、今から考えると、母親の姿を見ていたからだと思う。父の死後、女所帯となった三人家族を、世間は何かと軽んじたのだろう。  ──野良犬は追い払えば済むが、世の中にはもっと厄介なモンがおるけ。弱味を見せたらイカンぞ。迷うたり悩んだりしとる姿を、他人に見せたらイカンぞ。  やけど、今日みたいに兄ちゃんが助けに来てくれるやろ? そう言って女が兄を仰ぐと、兄ちゃんかて忙しいんやと頭を小突かれた。  ──でも、どうにもならん相手やったら、すぐに兄ちゃんに言うんやぞ。すぐに行ったるけに。  女はカーペットに視線を落とす。体からこぼれ落ちる茶色い染みの傍らに、携帯電話が転がっている──はずだ。白濁化が進んだ目には、もうほとんど何も映らない。ぼうゥぼうゥと振動しながら、レモンイエローの光が点滅している気がするが、よく分からない。 〈兄貴が、お前を案じているとでも思っているのか?〉  男とも女とも判別できないひび割れた声が、押し入れの中から聞こえてくる。周囲の音声が、ぼうぼうとしか響かないにもかかわらず、その言葉は生々しく聞こえてきた。 〈お前のことを案じているなら、何をおいてもすっ飛んでくるはずだ〉  押し入れの襖《ふすま》に、黒い顔らしきものが浮かびあがってきた。  女は腐りかけの体を身震いさせ、心のなかで兄に助けを求めた。  このアパートで暮らし始めてから、女はときおり、妙な気配を感じることがあった。銭湯に行く用意をしていると、背後の押し入れから視線を感じる。あるいは布団で横になっていると、昼間にはなかったはずの染みが壁や襖に滲《にじ》んでおり、どことなく顔の形に見えてしまう。兄に相談しようと携帯を手にしたこともあったが、結局はメールも電話もしなかった。こんな部屋に住んでいると知られるわけにはいかなかった。管理人常駐、防犯システム万全、すぐ近くには警察署──。兄は妹がまだ、そういう学生寮に住んでいると信じこんでいるのだ。 〈やっとお前は、オレたちのところに来ることとなったな〉  逆光写真を思わせる、黒い影に覆われた顔の口元が、すうっと白く開いた。  女は必死で兄を呼んだ。ロープで潰《つぶ》された喉《のど》から、ぶうゥぶうゥと空気の漏れるような音がするに過ぎない。腐臭に満ちた部屋に、粘りつくような哄笑《こうしよう》が渦巻き始めた。 〈兄貴を呼んでも無駄だ〉  兄はいつでも連絡しろと言ってくれた。いつでも助けに来てくれると言った。 〈ああそう言ったな。だがそれは口先だけの話だ。助けを求めようとするお前を、気に掛ける素振りを見せなかった。違うか?〉  女の心が薄く切り裂かれる。 〈お前は兄貴に見捨てられた。友人すら作れなかったようなやつだからな〉  耳を塞《ふさ》ぎたくとも、溶解が始まった腕の筋肉を動かせるはずもない。否が応でも見えてしまう襖の黒い顔から目を背けると、煤《すす》けた天井の隅にも黒い顔が浮かびあがっていた。 〈死ねば孤独から解放されるとでも思ったのか。逆だ。孤独の無間地獄が待っている〉 〈自業自得だ、兄貴はお前が東京に行くことを反対したはずだ〉  柱のひび[#「ひび」に傍点]やカーペットの縁から、黒い顔が次々と、横滑りで這《は》い出してくる。  自分で耳を塞ぐことのできない女の耳に、数匹の蠅が潜りこんだ。ぶわわぶわわと嘲笑《あざわら》うかのような音が頭蓋《ずがい》に響いた。  中学に入る頃までの女は、両親の残した海岸集落の家で、兄とふたり暮らしを続けるのが当然なのだろうと思っていた。兄は閉鎖的な故郷を離れて「より大きな世界」へ出たがっていたようだが断念、地元で就職した。自分は故郷で目標を探し、妹にも、少なくとも嫁ぐまでは、地元で地に足を着けた生き方をさせたい──兄はそう考えていたらしい。  しかし女の思いは次第に揺らいでいった。ことごとく同級生たちが都市部への進学や就職を目指す中で、孤立と焦燥を感じ始めたのだ。女は、手当たり次第に進路ガイドを読みあさるようになった。私も都会に出たい、磯の臭いしかしないこんな町で一生を終わりたくない──。  アルバイトで貯金を作った女は、兄の猛反対を押し切って東京の専門学校に入学した。雑誌やテレビの世界で華やかに活躍する卒業生を、大々的に宣伝している学校だった。期待に胸を膨らませて通学し始めたものの、学校の雰囲気に馴染《なじ》めず、同級生との才能の違いに打ちのめされた。漠然とした憧《あこが》れだけで入学してきた、少し絵が上手いだけの地味な田舎女が、才能と野心に溢《あふ》れた同級生と友人関係を築けるわけもなかった。女は逃げるように学校を辞め、学生寮を引き払い、保証人がいらないこの安アパートへと居を移した。兄には黙っていた。あれだけの猛反対を押し切って上京しながら、帰りたいなどと言えるはずがなかった。  友人もなく、夢も目標も失い、女はアルバイトで細々と収入を得ながら日々を送り続けた。自業自得とはいえ、楽しそうに街を歩く同年代を見ると涙が込みあげてきた。女はバイト先で貰《もら》ったパンの耳をかじりながら、兄に携帯メールを打った。学校生活がとても楽しい、友人たちとあんな話をした、こんな場所に行った──。ウソにウソを塗り重ねた。  何も知らない兄からは、毎月仕送りが来た。学生寮からこの木造アパートへ転送されているとも知らず、兄からは月に一、二回、野菜や缶詰を入れた段ボール箱が届けられた。そのたびに女は罪悪感で押し潰されそうになった。退学後、兄からの送金には手を付けなかったが、送られてくる地元の野菜は食べた。箸《はし》を口に運びながら涙を拭《ぬぐ》った。申し訳なかった。情けなかった。 〈お前の兄は、お前に里心がつくよう、そういうものを送りつけてきただけだ〉  天井の黒い顔が囁《ささや》いた。  違う、兄はそのようなことをする人ではない。不器用で率直に自分の思いを伝えられない面はあるが、計算じみた行動はしない。親同然に妹を育てた兄の性分を、女はよく知っている。 〈そうだ。お前の兄貴は、お前を故郷に帰らせようなどとは考えていない〉  畳にへばりついた黒い顔が囁く。 〈むしろ、お前が戻って来ないよう望んでいる。嫁との生活を邪魔されるのは困るからな〉  女の胸のうちに、ざらりとしたものが過《よ》ぎる。  兄に恋人ができたのであろうことは、薄々感じていた。送られてくる故郷の野菜とともに、アロマの入浴剤やハーブティーが加わるようになったのだ。職場で渡すホワイトデーの品物すら選ぶことができない兄が、女性向けの小物を同封しようなどと考えつくはずがなかった。  ──おまえの花嫁姿を見届けんことには、俺かて嫁さんを貰えんし。  ──よう言うわ、兄ちゃん。相手もおらんのに。  ──子供が生意気やぞ。さっさと大きなって嫁に行け。  そう笑っていた兄だったが、順序が逆になりそうだと女は思った。兄が選ぶ女性はきっと、自分も実姉同様に慕いたくなる人に違いない──女はいささか複雑な気分になりながらも、兄からその女性の紹介を受ける日を心待ちにしていたのだ。 〈兄貴の女からのメッセージだ。故郷に戻ってもお前の居場所はないとな。お前の兄貴はもうお前のものではないとな〉  違う、兄がそんな悪意に満ちた人と付き合うはずがない。 〈そのうち兄貴は恋人に魂を抜きとられ、言いなりの奴隷になりさがっていくさ〉  押し入れの襖に浮かびあがった黒い顔が囁く。  ありえない。兄に限ってそのようなことはありえない。 〈お前の兄は、あの店すら覚えていなかったではないか〉  天井からの低い声が女の心に刃《やいば》を突き立てる。  兄はあの店のことを覚えていなかった。  意を決してかけた最後の電話で、女はあの店の名前を出した。兄は記憶を辿《たど》ろうともしてくれなかった。以前の兄であれば、少なくとも思い出そうとはしてくれた。  思い出して欲しかった。しかし疲れ切った声で「それがどうかしたんか」と返されたとき、女の心の中で、最後の糸がぷつりと切れた。 〈お前には、この世での居場所がなかったのだ〉 〈オレたちのように、さ迷うがいい〉  女のまなじりから、蛆《うじ》がこぼれ落ちる。 〈腐れ、もっと腐れ〉 〈オレは二十年前ここで餓え死にした。布団ごと腐り、犬の死骸《しがい》でも始末するように焼かれたあげく、無縁仏の塚に捨てられた〉  カーペットの縁を突き破るようにして、黒い顔が盛り上がってきた。 〈妻も息子もオレを恥だと言い、引き取りを拒否した。あいつらは変わっちまった。オレが会社経営に失敗したとたん、あいつらは家族であることを放棄した。そんなものだ〉  違う、自分の兄は──。 〈ワタシは九年前、ちょうどアンタがぶら下がってる場所で首を吊《つ》ってねえ。アンタみたいに腐って膨れあがって、検死で切り刻まれたあげく、裂かれた腹に新聞紙を詰めこまれてさ。痛かったよォ、寒かったよォ〉  天井の黒い染みが囁きかけてくる。 〈妹夫婦がワタシの葬式を出したけど、ワタシはまだここにいるのさ。なぜだか分かるかい? それが自殺した者の運命なんだよ。死ねばあの男に与えられた苦しみから逃れられると思ったけど、苦しめられた記憶はちっとも消えやしない。アンタも同じさ。死ねば孤独から逃げられると思ったんだろうけど、永久に逃れられやしないのさ〉  天井染みの言うとおりだった。  蛆に食われ蠅にたかられ、体は原形を留めなくなりつつあるのに、孤独感だけは日増しに強くなっていくのだ。 〈お前の兄貴は、じきにお前を忘れる〉 〈そうだ。この世から消えた者は、忘れ去られるのみだ〉  兄はそんな人ではない、兄は──。  しかし女の脳裏には、段ボールから次々と出てきたラベンダーのアロマボトルが過ぎる。 〈兄貴の心は、もう変わっている〉  違う、そんな薄情では──。  返信までに時間がかかるようになった兄からのメール。あの店を思い出そうともしてくれなかった兄。 〈お前は、寄る辺のないオレたちのところへ来た〉  女は白濁した目をカーペットに向ける。もはや兄から着信することもなく、携帯電話が転がっている。 〈お前はオレたちの仲間だ。孤独を忘れる方法を教えてやろうか〉  アパート横の車道を、砂利を積んだダンプが砂埃《すなぼこり》を巻きあげて通りすぎていく。木造アパートが揺れて窓ガラスがピシリと鳴り、梁《はり》にぶら下がった女がロープごとゆるりと半回転した。     六  ロシア人中古車業者と地元飲食店との、支払いを巡るイザコザを対処し終えて良樹が交番へ戻ると、真奈美がスチール椅子に腰かけていた。後輩とともに戻ってきた良樹を「お疲れ様です」と柔和な笑みで出迎えた真奈美の傍らでは、主任が事務机で書類作成をしながら、爪楊枝《つまようじ》を動かしていた。 「若林、嫁さんを貰うなら料理の上手いコに限るぞ。俺の二の舞を踏んだら地獄やぞ」  主任が歯を見せて笑うと、歯と歯のあいだにゴマ粒が挟まっていた。真奈美は今日は、いなり寿司を持ってきてくれたのだろう。後輩は制服についた雨粒をタオルで拭いながら、「主任、先に食っちゃダメやないですか。オレたちはお相伴に与《あずか》るだけの身なんですけ」と、意味ありげな視線を良樹に向けた。  四十九日の法要が終わると、交番の面々は真奈美の存在を冷やかしたり、飲み会に真奈美を同伴したらどうだと言ったりすることが多くなった。妹の死に「心の区切り」をつけさせるために言っているのだと、彼自身、気がついている。絢子の死後、良樹は特段の注意力を必要とされる業務からは外されていた──と言っても良樹の管轄内では、それほど大きな事件に駆り出されることもなく、時間が過ぎていくのだが。一部の在留ロシア人が事故や犯罪を起こすものの、大部分は署や県警の交通課や刑事課に引き継いで終わる。 「お前らの分は残してあるけ、奥でご馳走《ちそう》になってこい」  良樹は真奈美に「いつもすみません」と言い、後輩とともに奥の休憩室へと向かった。仕事場、しかも他者の目がある場所では、どうしても他人行儀な態度を取ってしまう。主任や後輩にはそういう良樹の姿が滑稽《こつけい》に映るらしく、肩を震わせて笑っていた。  休憩室のちゃぶ台には、巻き寿司や揚げ物の入った三段重が、蠅帳をかけて並べられていた。嬉々《きき》として部屋に上がりこもうとした後輩は、主任から「電話やぞ」と呼び戻された。盗難自転車に関する署からの問い合わせだったが、直接署に行って話すほうが早いということになったらしい。「先輩、オレのぶん残しといてくださいよ」と恨めしげな後輩が去っていくと、良樹は差し入れを味わうことにした。  いなり寿司とともに、今日は巻き寿司があった。通勤途中に鉢合わせになった際、良樹の好物を持っていくと真奈美が言っていたのは、このことだったのだろうか。具だくさんの巻き寿司を口にすると、カンピョウの煮汁が旨味《うまみ》とともに滲《にじ》み出してきた。良樹はカンピョウを口から出し、そっと取り皿の端に置いた。絢子の作ってくれたカンピョウの味を忘れてしまうのではないかと感じたからだ。 「お口に合わなかったですか?」  休憩室の前に立った真奈美が、茶の入ったヤカンを手に微笑んでいた。「あ、いや、その」と、良樹が弁明の言葉を探し始めると、彼女は上がり口に腰かけ、ヤカンを古新聞に載せた。 「絢子ちゃんが作ってくれた料理を、思い出していたんでしょう?」  真奈美の穏やかな目は見抜いていた。 「……あいつ、カンピョウの煮付けをよく作ってくれましたから」  真奈美は休憩室にあがると、ヤカンを手にちゃぶ台へと歩み寄り、丸盆に伏せた湯飲みを取って茶を注いだ。 「絢子ちゃんが亡くなったのは、良樹さんのせいじゃありません。こんなことを言ったら絢子ちゃんを傷つけるかも知れないですけど……お兄さんの庇護《ひご》を離れて、自分の行動に責任が取れる年齢だったと思うんです」  あと少しで絢子は二十歳だった。モスクワ研修から戻ったら、成人式の振袖《ふりそで》を仕立ててやるつもりだった。良樹は黙々と寿司を噛《か》み続ける。 「私の友人が自殺したのは、絢子ちゃんと同じ十九のときだったんです。家庭の事情がとても複雑だったみたいで、いつも家に帰りたくないって言っていました。友人が死んだとき、私、彼女のご両親を恨んだんです。彼女はあなたたちに殺されたんだって、お葬式の席で言いたいぐらいでした」  真奈美は生姜《しようが》を小皿に取り、良樹のそばに置いた。 「でも、だんだんと考えが変わってきたんです……。たしかにご両親がもっと優しかったら、友人は死ななかったと思うんですけど、命を絶つことでしか解決の道を探せなかった彼女も、弱かったんじゃないかな……って。絢子ちゃんのことを言っているわけじゃないんです、気を悪くされたら、ごめんなさい」  いえ、と良樹は小皿に視線を落とした。 「絢子も弱い部分のあるヤツでした。しかし絢子なりに精一杯、強くあろうとしていたんやと思います。絢子のことを、僕は否定するつもりはありません」  学校生活や友人のことで、まことしやかなウソを語り続けた絢子。  絢子の性格から推して、あれだけの長い月日、ウソをつき続けるのは辛《つら》かったことだろう。盆や正月にも理由を付けて帰省せず、東京まで顔を見に行こうとすると「その日は忙しいからダメ」と逃げるように断り続けた絢子だった。電話よりもメールで連絡を取りたがったのは、表情や声から兄が妹の「異変」に勘づくと懸念したからだろう。  妹は心の弱い人間だった。だから死んだ。年齢的にはもう大人で、もはや兄の庇護下にいるべき子供ではない。だから兄に責任はない──。しかし、そう正論で割り切れるものではなかった。良樹にとって絢子は、二十歳を過ぎようが結婚して母親になろうが、近くから遠くから見守るべき妹だったのだ。  良樹が湯飲みの茶を飲み干すと、真奈美は二杯目を注いだ。 「絢子ちゃんのことは、まだまだ心の整理がつかないと思うんです。でもどうかこれ以上、悩まないでください。これからの良樹さんが絢子ちゃんにしてあげられることは、責任を感じて悲しみ続けることじゃなくて、絢子ちゃんの心が救われるような供養をしてあげることだと思うんです」  良樹は顔を上げた。  今さら何をしたところで絢子が生き返るわけではないが、少しでも絢子を救えることがあるなら、やりたかった。 「どういうふうに供養してやればいいんですか?」 「良樹さん、今日のお仕事は何時までですか?」 「え? 当直なので明朝八時半までですが。署に戻って引き継ぎを全部済ませると昼頃になります」 「じゃあ明日のお昼過ぎに、アパートにお邪魔していいですか?」  湯飲みに口を付けようとしていた良樹は、茶で噎《む》せた。 「それはダメです。寮に仏壇を置くわけにはイカンから、アパートに入っただけです。女性を部屋に入れるわけにはいきません」 「遊びに伺うわけじゃありません、お仏壇をきちんと祀《まつ》ってあげたいだけなんです。正しい祀り方をしないと、自殺で亡くなった人は苦しみから解き放たれないそうです」 「正しい祀り方というのがあるんですか? 当直以外の日は毎朝、一番茶を供えて線香を焚《た》いて、手を合わせています。これでは正しくないのですか?」 「手の合わせ方も大切なんですが、もっと大切なのは祀り方なんです」  そういえば真奈美の母親は、どこかの住職の娘だと聞いたことがある。そういう親の元で育てられたから、良樹と三歳しか違わないのに仏壇や弔いについて詳しいのだろう。  四十九日が経ったが、絢子はまだ成仏できていないのではないか。どこかをさ迷っているのではないか──良樹は最近、そんな不安に苛《さいな》まれる。枕元に絢子らしき人影が立つのだ。初七日あたりまでは子供時代の絢子が現れたのだが、四十九日を過ぎた頃から姿が変わり始めた。あの薄暗い部屋で、ひとり孤独にぶら下がっている絢子。しかし顔は暗くて見えず、蠅の羽音だけが聞こえてくる。絢子と呼びかけると、ぎぎぎとロープが揺れて絢子の体が半回転し、そこで目が覚めるのだ。  絢子の魂は今、どこをさ迷っているのだろう。  翌日正午すぎ、署での引き継ぎを終えてアパートに戻ると、真奈美がドアを背にして立っていた。十月下旬、海に面したこの町は日中でも薄暗く、体の芯をじわりと冷やす風が吹く。晩秋の足音が近づくにつれて、ぐずついた天気の日が多くなり、日本海から吹き寄せる風が重い湿気を帯び始めるのだ。トートバッグと傘を手にした真奈美は、耳と鼻を赤くして立っていた。「待たせてすみません、駅前の喫茶店で待ち合わせればよかった」と良樹が言うと、真奈美は「早めに伺ったんです。当直明けで疲れてらっしゃるから、良樹さんが寝ちゃうと思ったんです」と、細い目をさらに細めて微笑んだ。 「汚い部屋ですみません、ちょっとここで待っていて下さい」  良樹は鍵《かぎ》を開け、部屋へと小走りした。流し台に置いたままのカップラーメンをゴミ箱に押しこむと、鴨居に引っかけた洗濯物をまとめて取りこみ、押し入れへと放りこむ。そして、一晩閉めきった部屋の空気を入れ換えるべく、カーテンを両手で開いたとき──良樹は茫然《ぼうぜん》と立ち尽くした。  窓の向こうに見えるはずの小さな積み荷港も、その手前に広がっているはずの黒い屋根瓦《やねがわら》の群れも、どこにもない。  いつのまに何がどうなったのか、古びたアパートが背中合わせに建っているのだ。  築三十年は経過しているであろう木造アパートで、八つある窓は総《すべ》て閉めきられ、重い色のカーテンが引かれている。一階の角部屋は鬱蒼《うつそう》とした木の陰になり、窓の外にタオルが干してあった。青色の大きなロゴの入ったタオル──上京の際に絢子が持っていった、味噌《みそ》屋の粗品タオルだった。 「良樹さん、すみませんが……上がらせてもらっていいでしょうか? 外の風が冷たくて」  真奈美の声で我に返った良樹は、何分間も外で待たせたことを詫《わ》び、彼女を部屋に招き入れた。再度窓を振り返ると、いつもと変わらぬ貿易港の遠景や屋根瓦がそこにあった。  あのアパートの幻覚を見るのは、昨日の出勤時を含めて二回目だ。四十九日を過ぎた今の時期は、事後処理や法事が一段落して緊張の糸が切れることもあり、精神バランスを崩しやすいという。あのときは冷静に観察できたはずの絢子のアパートが、今になって強烈なイメージとなり、良樹の脳裏でフラッシュバックするのだろう。  おじゃましますと部屋に入ってきた真奈美は、トートバッグを足元に置き、タンスの上の仏壇に手を合わせた。両親と絢子へ「挨拶《あいさつ》」してくれた彼女に、良樹はとりあえず座布団を勧め、ちゃぶ台に湯飲みを用意した。女性を部屋に入れたことのない良樹は、深閑とした六帖《ろくじよう》部屋で真奈美と向かいあったまま、正座した膝《ひざ》の上で手を握りしめ、汗をかいていた。  真奈美はというと緊張した様子もなく、トートバッグから朱塗りの小さな箱を取りだした。重箱を手のひらサイズにしたような箱には、墨汁を溶かした味噌汁のような色の土が入っていた。濡《ぬ》れているように見えるが乾燥しており、黴《かび》とも苔《こけ》とも区別のつかない匂いがした。 「霊山の土で、故人の魂を癒《いや》す力があるそうです。この土が白くなったときが、故人の魂が救われた合図と聞きました。仏壇にお祀りして、毎日色を確かめて下さいね。友人のときは、ある朝突然白く変わったんですよ。本当にビックリして……嬉《うれ》しかったです」  愛しそうに砂の箱を撫《な》でる真奈美の眼差《まなざ》しは、いつもより何倍も深い慈愛に満ちていた。  普段の良樹であれば、このような類《たぐい》のものに手は出さないのだが、絢子を救うことができるのであれば、どんな手段にでもすがりつきたい心境だった。それに、自殺した友人を成仏させた真奈美が勧める方法であれば、間違いない気がした。  真奈美は朱塗りの小箱を手に立ちあがると、絢子の位牌《いはい》の前に置き、線香に火を付けた。良樹も立ちあがり、仏壇へと歩み寄った。  絢子の遺影は、高校の卒業写真を引き伸ばしたものだ。水色のスクリーンをバックに、きょろりとした目でカメラを見つめている。これが撮影されてから、たった一年七ヶ月しか経っていない。上京を控えた写真のなかの絢子は、希望に満ちた将来しか見えていない目を輝かせていた。そしてこの一枚が事実上、絢子の最後の写真となった。 「できたらお茶だけじゃなくて、絢子ちゃんの好物もお供えしてあげてくださいね。そのとき、絢子ちゃんの干支《えと》の、守り本尊のお名前も唱えてあげるといいそうです」  絢子の好物は、良樹の好物と同じカンピョウの煮付けだった。自分に作れるだろうかと考えていると、察したらしい真奈美が「私の味で良ければ作りますよ」と微笑んだ。  真奈美に仏壇の祀り方だけ習うつもりだったのが、結局は部屋で何時間も雑談し続けることとなった。絢子に送るはずだった佃煮の缶詰を茶請けに、絢子の想い出話や互いの昔話に花を咲かせた。  良樹は会話をしながらもときおり絢子の遺影を仰ぎ、ありえたかも知れない別の構図を思い浮かべた。人手に渡らずにすんだ実家の居間で、こうして語らう良樹と真奈美。正月に帰省した絢子が炬燵《こたつ》で頬杖《ほおづえ》をつき、ふたりの話に耳を傾けている。絢子の横には、東京から連れてきたボーイフレンドが座っているかも知れない。そして夕刻には絢子と真奈美が台所に立ち、良樹はそのボーイフレンドと酒を酌み交わす──。 「真奈美さん。絢子が最後にかけてきた電話の意味……何やったんですかね」 「きっと、絢子ちゃんだけが分かることだったんだと思います……。良樹さん、どうかご自身を責めないで下さい。絢子ちゃんが一日も早く救われて成仏できるように、手を合わせてあげてくださいね」 「……そうですね」  真奈美と向かいあって茶を飲んでいると、絢子とネギラーメンを食べた日々を思い出す。ネギを頬張っては熱い熱いと口を押さえていた絢子が、良樹の脳裏に浮かび、消えていく。  ──おうぎラーメンが食べたい。  あの言葉には、どういう含みがあったのだろう。  ──こんなに遅くまでお邪魔してごめんなさい。  真奈美がいとま[#「いとま」に傍点]を告げたのは、店屋物のうどんを食べ終えて一服した頃。午後九時を回ろうとしていた。この時間になると路線バスはなく、JRの駅へと通じる商店街はことごとくシャッターを下ろしている。泥酔したロシア人のたむろする街を歩かせるわけにもいかず、良樹は真奈美を車で送ることにした。  ──穴が開いた良樹さんの心……私に埋めさせてください。  助手席の真奈美が呟《つぶや》いた。  ──真奈美さんが話し相手になってくれたおかげで、じゅうぶん時間が埋まりましたよ。ハンドルを握ったまま良樹が礼を言うと、真奈美は「良樹さんって生真面目なんですね」と、小さく笑った。なぜ笑うのか、良樹にはよく分からなかった。  隣接市にあるワンルームマンションに着くと、真奈美は「ハーブティーでも飲んでいってくれませんか」と良樹に声を掛けた。このような時間帯に女性の部屋にあがるわけにはいかないと固辞したものの、最近マンションの近くを変質者が徘徊《はいかい》するらしいのでしばらく一緒にいてほしいと、手を引かれた。通報しておいたほうがいい、なんだったら自分から管轄署に連絡しておきますと良樹が言うと、もしかしたら痴呆《ちほう》老人が徘徊しているだけかも知れないからと、真奈美は首を横に振った。  部屋に上がった良樹は、ジャスミンの花から作ったという紅茶を飲みながら、ドアや窓の向こうから不審な気配がしないかと注意していた。しかし足音ひとつ聞こえてこず、そのうち睡魔が押し寄せてきた。良樹はカーペットに横になった。甘い匂いのするブランケットが掛けられたのと、真奈美が後ろからそっと潜りこんで腕を絡ませてきたのが、なんとなく分かった。     *  天井からぶら下がったまま、女はときおり夢を見る。  母親から譲られたボストンバッグを膝に載せ、ワンマン電車の前部席に座っていると、駅が近づいてくるのだ。あちこちひび割れて雑草や枯れ草で覆われたホームに、潮風で錆《さ》びた駅名看板が立っているだけの無人駅だ。  女は不安に駆られて席を立ち、窓辺に歩み寄る。兄は来てくれているだろうか、あの電話の意味を分かってくれただろうか──と。  電車は減速し、小刻みに車体を揺らしながら、小雪の舞うホームへと滑りこんでいく。曇ったガラスを手で擦《こす》ると、カーキ色のジャケットに身を包んだ人影が、駅舎の軒下に立っている。寒風のなかでも背を丸めたりポケットに手を突っ込んだりすることなく、姿勢正しく立つ姿──兄だ。やはり来てくれたのだ。  電車が停まって駆け降りようとした女は躓《つまず》いた。座席の下から這いだした黒い顔が、女の靴に歯を立てていた。 〈どこにいくつもりだい?〉 〈お前の兄貴を見ててごらんよ〉  微笑みを浮かべた兄が電車へと歩み寄る。その眼差しは女にではなく、後部ドアから降り立った女性に向けられていた。風になびくフレアスカートから覗《のぞ》く脚は、透きとおらんばかりに色白で細く、地黒で太い女の脚とは大違いだった。  ──おまえのガッチリした脚は健康的で良いのや。生白い棒みたいな脚はイカン。  兄はそう言っていたはずだった。  ふたりの姿がドアによって遮られる直前、スカートの女性は電車を振り返った。小雪混じりの風に煽《あお》られた髪が絡みついたその顔は、はっきりとは見えなかったが、電車内の女に視線を向けていることだけは確かだった。  風の勢いは強さを増し、吹き乱される髪で女性の顔面は完全に覆い隠された。一瞬、口元が見えた。真っ赤な唇には、薄笑みが浮かんでいた。  ボストンバッグを固く握りしめる女を乗せたまま、再び電車は走り始めた。車窓の向こうには黒雲が立ちのぼり、線路の果てに広がる地平線を飲みこもうとしていた。 〈お前は兄貴に殺されたようなものだ。ならば兄貴も苦しみを味わうというのが筋だろう?〉  毛羽だった座席の下から、黒い粘液が人面を象《かたど》りつつ、流れ出してくる。 〈それともまだ、兄貴が迎えに来るとでも思っているのか?〉 〈現れるのは兄貴ではなく大家だ。お前は検死で切り刻まれた後、叔父貴《おじき》に引き渡される〉  ボストンバッグを手にしたまま、女は全身をこわばらせた。  何かあったら、子供らの力になったって下さい──死を悟った母は弟である叔父宛に、最後の力を振り絞って遺書をしたためたという。しかし叔父はそれを無視した。母の一周忌までは来てくれたが、その後、てのひらを返したように冷たくなった。兄が急性虫垂炎で入院した時、中学生だった妹は助けを求めて叔父に電話した。叔父は、兄貴の勤務先にでも相談しろと遠回しに言い、早々に電話を切ってしまった。そんな叔父に引き取られるなど、想像しただけで怖気《おぞけ》を震った。 〈叔父貴は腐乱したお前をとっとと焼いて処分しちまうのさ。兄貴が来るのは、その後だ。ああ焼いちまったんですか──と。一言で終わりだ〉 〈きょうだいは他人の始まりって言ってねえ。ああ憎い、兄貴が憎い〉  床も座席も網棚もが、黒く蠢《うごめ》く人面で埋め尽くされていく。 〈叔父貴を豹変《ひようへん》させたのはひとりの女だ。兄貴を変えたのもひとりの女だ〉 〈兄貴の姿を見せてやろうか〉  電車の空調が、ぶぉぉんぶぉぉんと、蠅の羽音に似た音を立てはじめる。  兄なんか死んでしまえばいい──女の胸の内に、どす黒い暗雲が垂れこめていく。     七  真奈美が持ってきた霊山の土は、いっこうに白くなる気配がなかった。  むしろ良樹の目には、日一日とくすんでいくように映る。  ──大丈夫よ、良樹さん。友人のときも、土が白くなるまで半月近くかかったもの。  良樹の非番日のたびに、真奈美は仏壇に供えるべくカンピョウの煮付けを持ってくる。そして良樹が先に供えておいた干し柿や茶を脇に退け、遺影の前にカンピョウを置く。  真奈美と並んで手を合わせつつ、良樹は絢子の遺影を見つめるのだが、上京への希望で輝いていたはずの目が、どことなく暗く鋭くなったように感じる。光の加減だろうか。十一月に入ると、日本海に面したこの地域には凍《い》てついた雨が降り始める。日中でも鉛色の重い雲に覆われ、そこらじゅうが薄暗くなるのだ。  ──時間がかかるかも知れないけれど、絢子ちゃんの魂は必ず救われるわ。この写真を見ていると、絢子ちゃんの声が聞こえてくるんです。お兄ちゃん、いつまでも私のことで悩まないで。お兄ちゃんは自分の人生を歩いていって──って。  真奈美はそう微笑んで部屋中の電気をつけ、良樹の台所で夕食を作り始める。  ──昇進試験の勉強、がんばってくださいね。きっと絢子ちゃんも応援してくれているわ。  そんなことを話しながら、洋風の煮込み肉や懐石料理と見間違えるような一品を、いとも簡単に手早く用意する。そして必ず、カンピョウの煮付けを添える。仏壇に供えた故人の好物を遺族が一緒に食べると、供養になるのだという。真奈美のカンピョウは、最初は絢子のカンピョウと同じく甘辛く味付けがしてあった。しかし雑談で絢子のカンピョウの想い出話をした翌日から、まったく違う、洋風な味付けになった。絢子のカンピョウよりも旨味《うまみ》が強く、歯ごたえがあった。  ──教室に毎週、コーラスを習いに来られるご家族がいるの。みなさんとっても楽しそうで、ああいうご家族っていいなあって憧《あこが》れちゃいます。良樹さんはどう?  真奈美の心地よい話し声を聞きながら、良樹は彼女の手料理を口に運ぶ。そして、ときおり仏壇を見上げる。そのうち、絢子のカンピョウの味を思い出せなくなるのだろうか──そんな思いが過《よ》ぎる。  数日後、良樹はまたあの光景と遭遇することとなった。  後輩とともに、貿易港近くの飲み屋街を巡回していたときだった。自販機の前で不審な動きをしている男がいたため、職務質問を行うことにした。良樹たちに気づいた男は缶ビールを投げつけるや否や逃走、ふたりはただちに男を追った。  後輩と挟み撃ちにすべく、男が逃げこんだ路地裏へと駆けこんだ良樹は、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くした。  ポリ容器や段ボールで埋め尽くされているはずの狭い路地裏が、車一台分の幅があるアスファルト道に変わっていたのだ。〈敷金礼金・保証人不要 入居者募集中〉の看板が貼られた電柱が立つ路地の突き当たりには、鬱蒼《うつそう》とした樹木が寄りかかった木造アパートがある。  湿った風が良樹の鼻先へと腐臭を運び、金具の軋《きし》む音が聞こえてくる。アパート一階の角部屋のドアが半開きになり、ぎいい、ぎいいと揺れていた。  良樹は膝《ひざ》から力が抜けそうになって後ずさり、電柱に手を突いて体を支えた。  絢子のメッセージだと、良樹は察した。  絢子、兄ちゃんはどうしてやればいいんだ?  仏壇に手を合わせて、供養して……それから兄ちゃんは、どうしてやればいいんだ?  鬱蒼と茂る樹々のあいだから吹き寄せる生臭い潮風に、角部屋のドアが、ぎいい、ぎいいと音を立て続けるばかりだった。  肩を突き飛ばされた衝撃で、良樹は我に返った。  ──先輩、なんで追わないんですか! あいつヤマザキですよ!  後輩がビール箱をはねのけながら、良樹に向かって突進してくる。後輩の指さすほうを振り返ると、良樹を突き飛ばした男──変装した手配中の窃盗犯が、段ボールを蹴散《けち》らして逃げていくところだった。後輩は怒気を帯びた声で叫びながら、容疑者を追いかけていった。  応援を得て容疑者の身柄は確保したものの、翌日から良樹は、遺失物の対応や道案内をしながらの「待機」を命ぜられることとなった。  ──若林、お前はしばらく現場に出ンな。みんなが迷惑するけ。なんやったら、しばらく休職したらどうや。  返す言葉もなかった。  そして仏壇に供えた「霊山の土」は、くすんだ色のままだった。白くなるどころか、日増しに黒ずんでいくばかりだった。  ──ねえ良樹さん。お唱えするご本尊のお名前を、間違えたりしていません……よね?  毎日のように良樹のアパートに来ては、朱塗りの箱を覗《のぞ》きこんでいく真奈美は、途方に暮れたように呟《つぶや》いた。  良樹は毎朝欠かさず絢子の好物や茶を供え、干支《えと》の本尊を唱えながら手を合わせていた。力になれなかった自分に代わって、絢子を救う手助けをしてくれるよう、両親にも何度も手を合わせた。  ──じゃあ明日から、水晶のお数珠《じゆず》を持って唱えてみてください。水晶には魔除《まよ》けの力があるの。自殺した人には悪い霊が憑《つ》きやすいんだそうです。きっとそういう霊が、絢子ちゃんの魂を救わせまいとしているんだわ。  霊や魔除けといった話を滔々《とうとう》と語る真奈美の目つきに、良樹はいささか違和感を覚えた。しかし自殺した友人の魂を救済した真奈美の経験と知恵に頼ることしか、今の良樹にはできなかった。  ──良樹さん、お線香はこれに替えてみて。  真奈美は、密教系の寺院から取り寄せたという線香を持参した。さらに、霊山の水なるものもペットボトルに入れて持参し、これからは茶ではなくこれを供えよと言った。  それでも良樹は、絢子が命を終えたアパートを目にし続けた。  帰宅途中にジュースを買おうと自販機の前で千円札を伸ばしていると、突風が吹いて紙幣が飛ばされる。追いかけて拾い、顔を上げると、あのひび割れたアスファルトの路地が延びているのだ。突き当たりには絢子のアパートがあり、ぎいい、ぎいいと、ドアが揺れている。  絢子、兄ちゃんはどうすればいいんだ──そう心の中で問いかけるものの、ドアの軋む音が返ってくるにすぎない。  ──もうじゅうぶんだよ、真奈美さん。いろいろと、ありがとう。  ある日、良樹はそう告げた。  仏壇に好物を飾ったり手を合わせたりするのは、おそらく、絢子が望んでいることとは違うのだ。絢子が望むものがあるとすれば、あの映像──何度も目にするアパートの幻のなかに隠されているのだろう。  ──諦《あきら》めちゃダメよ良樹さん。絢子ちゃんが救われるまで、一緒にがんばりましょう。  真奈美は柔和な笑みを浮かべて良樹の両手を取り、首を横に振った。そして、長い数珠を首に提げた「伯母《おば》」なる人物を連れてきた。絢子の遺影を目にするやいなや甲高く叫んで七転八倒したあげく、腰まで伸びた白髪を振り乱して起き上がった。そして奇妙な抑揚で南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》を唱え始め、経文を記した札を力任せに仏壇へ貼りつけた。  朱塗りの箱に収められた土はというと、ますますどす黒く化していく。最初は黒みがかった赤茶色だったものが、今では火災現場の焦土も同然だった。 「絢子ちゃん、悪い霊に負けちゃダメ。お兄さんたちも応援しているのよ、がんばって天国に向かって歩きだして」  真奈美は仏壇を置いたタンスの前で、遺影に向かって何度も額を畳に擦《こす》りつけた。 「お兄さんをこれ以上苦しめないで。絢子ちゃんさえ成仏すれば、お兄さんは幸せになれるのよ」  畳で擦れる真奈美の額が、ざらざらごりごりと音を立てた。その重く微《かす》かな振動が、良樹の足の裏にまで伝わってくる。どうか頼むから顔を上げてくれと、良樹は真奈美の肩に手を置いた。しかし真奈美は経文を唱えながら畳に付けた額をごりごりと左右に振るばかりで、顔を上げようとしない。真奈美さん、もうやめてくれ。良樹は真奈美の肩をつかみ、揺さぶった。 「絢子が求めているのは……そういう土とか御札とは違う気がするんだ」  真奈美の動きが止まった。  乱れ髪の真奈美は、肩で息をしつつ、ゆっくりと顔を上げた。  柔和だった目は吊《つ》り上がり、常に微笑みを浮かべていた唇は真一文字に結ばれている。別人の形相と化した真奈美を目の当たりにし、良樹は後ずさった。 「そういう土、ですって?」  真奈美はゆらりと立ちあがる。その顔には髑髏《どくろ》を思わせる影が浮かびあがっていた。 「神聖な霊土に向かって、そういう土ですって?」  真奈美はトートバッグをつかむやいなや満身の力で振り上げ、良樹の横面に叩《たた》きつけた。とっさに避《よ》けた良樹だったがタンスに背中をぶつけ、朱塗りの箱が位牌《いはい》ごとひっくり返った。土が散乱したのを見た真奈美は、凄《すさ》まじい悲鳴を上げ、良樹を睨《にら》みつけた。 「兄妹そろって地獄に堕《お》ちるがいい!」  真奈美は良樹を突き飛ばして部屋を後にした。  しばし立ち尽くしていた良樹は、外階段を下りていくパンプスの音で我に返り、真奈美を追った。背後で絢子の遺影が倒れ、畳に落ちる音がした。良樹は一瞬振り返ったが、そのまま部屋を飛び出した。  蠅の羽音と腐臭が充満した暗い部屋には、忍び笑いが漂っていた。 〈見たか。兄貴の本性だ〉 〈恨め、呪え、怒れ〉  押し入れの襖《ふすま》や天井に浮かびあがる黒い顔が、蠅とともに蠢《うごめ》いている。  赤黒い腐肉の塊となりつつある女は、微動だにせず梁《はり》にぶら下がっていた。  ここに棲《す》む者たちだけが、自分の寄る辺なのだ。  兄にすがろうとした自分が愚かだった。  兄なら助けてくれると信じた自分が浅はかだった。  甘かった。何もかも、甘かったのだ。  どこからともなく、ぼわぁんぼわぁんと歪《ゆが》んだ音が響いてくる。  小学校のチャイム──そう察したとき、女の記憶の中に、野良犬を蹴散らしにきてくれた日の兄が浮かびあがった。  小学生だった女は凶暴な目つきの犬に包囲され、怯《おび》えと孤独のどん底に陥っていた。誰にも見つけてもらえず助けてもらえないまま、ズタズタに食いちぎられて死ぬのだろうと震え、泣いていた。しかし兄は来てくれた。左腕で女を護《まも》り、右腕に棒を構えた兄は、犬を追い払うと妹を抱き締めた。  あの温かく力強い腕で抱き締めてさえくれれば、言葉など不要だった。自分は決してひとりではない。大きく頼もしい兄がいてくれる──その確信が得られるだけで女は安らぎ、満たされた。 〈まだそんなことを思っているのか? お前の兄貴は腰抜けの腑抜《ふぬ》けだ。女に魂を抜かれる愚か者だ〉  黒い顔面が一斉に、きしきしと嗤笑《ししよう》した。 〈愚かだねえ、実に愚かだよう。あんな子供|騙《だま》しを並べれば、死んだ者を救えると思っているとはねえ〉 〈アンタが思っているほど、あの兄貴は頼もしくも強くもないんだよ。愚かなバカさ〉  ──アンタの兄ちゃんはバカだ、愚かだ。  はるか昔にも一度、そう言われたことがあるように思う。  いつだったか……そうだ、母親が死んだときだ。  倒れた母親が助からないと医者から告げられると、兄は県境の民家まで水を買いに行き、ペットボトルに入れて病室へ運ぶようになった。どのような病でも治すと評判の水だったらしいが、集落の者たちはインチキな水だと誹《そし》り、嘲《あざけ》った。  ほどなく母親は死んだ。呻《うめ》きながら意識混濁に陥り、一時間後、苦悶の表情を浮かべたまま絶命した。兄は臨終に立ち会うことができなかった。意識混濁に陥るや否や、またもや水を買いに行ったからだ。  バカや、愚かや、親不孝や、あのインチキにどれだけ巻きあげられたんや。後を託した息子があンなんでは美耶子《みやこ》さんも成仏できんて──。そんな囁《ささや》きと読経が漂う集会所で、ひとり俯《うつむ》いていた喪服の兄を、女は今でも思い出す。  ──兄ちゃんがあの水をもらって来んかったら、お母ちゃんはもっともっと苦しがったと思う。  焼き場で女がそう言ったとき、兄は初めて泣いた。  妹の遺影の前に並べた奇妙な小物、仏壇に向かって繰り広げた奇矯な振る舞い。  恋人に魂を抜かれたわけではない。  兄は以前と変わらぬ兄なのだ。変わることのできない兄なのだ。  最後の電話に籠《こ》めた妹のメッセージを、兄は理解しようとしてくれなかったのではない。電話の向こうからは、ふうっと長く吐き出す息が聞こえた。だから女は電話を切った。しかしあれは無関心のときにこぼす溜息《ためいき》ではなく、仕事や勉強で極度に疲れているときのアクビだったのだ。実家で暮らしていたとき、何度か耳にしたことがある。  なぜ、それを思い出さなかったのだろう。  率直に本音を話すべきだった。  怒鳴られてもいい、大喝されてもいい。本当の思いを打ち明けるべきだった。  女のまなじりから腐汁が滲《にじ》み、赤紫に膨張した頬に伝わり落ちた。 〈お前にいいことを教えてやろう〉  床に浮かびだした黒い顔が囁いた。 〈お前は明日、発見される。大家が家賃を取りに来るからだ〉 〈大家はお前を見て嘔吐《おうと》する。呼ばれた警官も嘔吐する。自分では見えないだろうが、お前は実に酷《ひど》い腐り方をしている。しかも臭い。誰からも反吐《へど》を吐きかけられるのさ〉  兄も自分を見て反吐を吐くだろうか。 〈ただちにお前は解剖され、焼かれて骨になる。そして叔父貴《おじき》はお前を無縁仏にする〉  兄には……死に顔を見てもらえないのか。 〈ようやく兄貴が来たところで、お前は無縁塚の土の下だ〉  もう一度、兄に会いたかった。 〈自死を選んだお前を待つのは無限の苦しみだけだ。未来|永劫《えいごう》、救われることなどない〉  黒い人面が汚泥のごとく堆積し、天井を、壁を、床を飲みこんでいく。溶け出した人面がずるりずるりとロープを伝い落ち、腐敗した女へと這《は》い降りてくる。 〈お前はオレたちの同類だ。寄る辺のない怨霊《おんりよう》となって泣き続けるがいい〉  いや、いや、兄さん、助けて。 〈今さら逃げようというのか?〉  ロープから這い降りてきた黒い顔の集団が、膨れあがった女の鼻や口をねっとりと塞《ふさ》ぎ始める。 〈我々とともに未来永劫、さ迷おうじゃないか〉  もう一度、兄に抱き締められたかった。  もう一度兄とともに、海辺の集落道を歩きたかった。子供の頃のように兄とふたり、テトラポッドに腰かけて潮風に当たりたかった。 〈万が一、アンタの兄貴がアンタを救おうとしたら、アタシたちが全力で阻止してやる〉  舌を突きだした女の口や、血のこびりついた女の耳へと、黒い顔が潜りこんでいく。腐敗した臓物が食い破られ、変色した皮膚が血管ごとちぎられていく。 〈お前の兄貴ごときが、オレたちに勝てるわけがない〉  兄さん、たすけ──。     八 「先輩、昼メシどこに頼みます? えびす屋の亭主は、ギックリ腰で臨時休業だそうです」  巡回連絡から戻ってきた後輩が、電話リストを広げ始めた。書類にボールペンを走らせながら、どこでもいいと良樹が答えると、「じゃあ蓬莱《ほうらい》ラーメンにしときます」と後輩は電話の受話器をあげた。  十一月も今日で終わる。  絢子がこの世を去ってから、ほどなく三ヶ月が経つことになる。  良樹にとってはいまだ、白昼夢と悪夢の境界線を彷徨《ほうこう》しているような日々が続いていた。  昨日の非番日は母親の祥月命日だったため、菩提寺《ぼだいじ》にお経をもらいに行った。子供の頃から顔なじみの住職は、御仏の救いについての説法をした。故事を引用しての説法だったが、あのような死に方をした絢子に関係づけて話しているのだと察した。  良樹は「霊山の土」に頼ろうとしたことを告白した。知人に言われて密教寺院の線香を取り寄せ、絢子を救おうとしたとも打ち明けた。真奈美の名前は出さなかったのだが、住職は「前にご一緒に見えられた方ですか」と記憶していた。  真奈美とはあれから会っていない。駅前の音楽教室のそばを通りがかった際、生徒の前でタクトを振っている真奈美の姿を目にする程度だ。手料理の三段重を持って交番に来ることはなく、しかしながら、手料理を食べられなくなったと主任や後輩が文句を言うわけでもない。  今になって知った話だが、真奈美は仏教の一宗派を称する新興系の宗教に傾倒していたらしい。霊がどうの御札がどうのと言いだしたときの彼女の目つきから、妙な思想に影響を受けているのではと感じないでもなかったのだが、入信を勧めてくるわけでもなく、「救済」のための金銭を要求してくるでもなく、必要以上の疑念は抱かなかったのだ。  その宗教では、「不幸そうな人間」を救って徳を積めば来世で高い地位が与えられると説いているという。他人に弱味を見せるな、弱味を見せると付け込まれるぞ──。絢子によく偉そうな説教ができたものだと、情けなさのあまり、笑いすら込みあげてくる。  しかし良樹は、音楽教室の二階の窓辺に立つ真奈美と目が合った際には、一礼する。たとえ一時《いつとき》のことであったとはいえ、良樹に安らぎを与えてくれたのは事実なのだ。  住職は、真奈美は今日はどうしたのかと問うこともなく、良樹の話に耳を傾けていた。  どうすればこの苦しみから逃れることができるのかと問う良樹に、住職は  ──振り返らぬことです。されば救いの道が開けます。  と微笑んだ。  無理な話だった。ああすれば良かったのではないか、こうすれば絢子を死なせずに済んだのではないかと、どうしても振り返ってしまう。良樹がそう告げると、住職は愉快そうに笑った。  ──難しく考えることはありません。振り返ろうと感じても振り返らずにおればよろしい。ただそれだけです。物事の答えは、実に単純なところに存在しております。  そう言うと住職は阿弥陀如来《あみだによらい》像に合掌し、本堂を後にした──。  蓬莱ラーメンの出前が届くと良樹は後輩に先に食べるように言った。交番待機が二名のときは、ひとりずつ交替で食事休憩を取ることになっている。普段は良樹を立てる後輩だったが、朝から酔っぱらいのケンカ仲裁に引っぱられ、いつも以上に空腹だったのだろう。「すんません、じゃあ先に食います」と岡持を提げ、奥の休憩室へと向かった。  ギョウザの香ばしい匂いが漂ってくる。勤務中にニンニクの入ったものを食べてどうするんだとあきれながらも、良樹はボールペンを動かしていた。  肌寒さを感じた良樹は、書類を書く手を止め、外に視線を向けた。  薄灰色の空から、細かい雪が舞い落ちてくる。あれだけ空の色が明るければ本降りになることはないだろうが、今夜から明日にかけて、複数のスリップ事故が発生すると心構えをしておいたほうがいいだろう。  絢子を助けに行ったのも、こういう小雪の舞う日だったと、良樹は思い出す。  母親がその頃、入退院を繰り返しており、良樹が付き添う必要があったため、家事や簡単な買い物は妹に任せることが多々あった。あの日も絢子に夕食の買い物を頼んだのだが、途中で犬を見つけてパンをやったのが禍《わざわい》したらしく、野良犬に囲まれて泣いていた。  絢子の同級生からの知らせを受けた良樹が駆けつけると、買い物袋を野良犬に漁《あさ》られるがままになっている絢子が、顔を真っ赤にしてワアワア泣いていた。  ──絢子、迎えに来たぞ。  良樹が野良犬を追い払うと、絢子はいよいよ大声で泣き、飛びついてきた。絢子が一旦泣き始めたら、ベテラン保育士でも泣き止ませるのは一苦労だったそうだが、良樹は絢子を泣き止ませる方法を知っていた。  両腕で、しかと抱き締めてやるのだ。兄ちゃんはここにおるぞ、お前はひとりと違うぞ、と。菓子や玩具《おもちや》はいらない。難しい理屈もいらない。ただ抱き締めてやるだけでいいのだ。すると絢子は兄の想いを感じとり、安堵《あんど》に満ちた表情を浮かべたものだった。  良樹は買い物袋を提げて絢子を背負うと、妹ごと包みこむようにしてコートを羽織り、小雪の舞うなか家路へとついた。兄を待ち疲れた絢子はすっかり力を抜き、兄の肩に頬を預けてすぐに寝息を立て始めた──。  ああ食った食ったと腹を撫《な》でながら、ニンニク臭い後輩が見張り所へ戻ってきた。ただちに歯を磨けと後輩に言い含め、良樹は休憩室に向かった。冷めても食えるチャーハンと、サランラップで湯気を封じたワンタン汁が置いてある。蓬莱ラーメンの店屋物を口にするのは何週間ぶりだろうと思いつつ、ちゃぶ台の前であぐらをかいた良樹は、ぬるくなったチャーハンを掻《か》きこんだ。  空腹に任せて半分ほど掻きこんだとき。  良樹はチリレンゲを手にしたまま、皿を見つめた。  チャーハンの下から出てきたプラスチックの皿には、グリーンの剥《は》げかかった文字が印刷されている。「蓬莱ラーメン」と。  似たようなものを、良樹はどこかで目にしたことがあった。  それにも「ラーメン」の文字が印刷されており、頭には平仮名がついていた。たしか……おうぎラーメン。  良樹の記憶が急速に逆回転をし始めた。  あれが書かれていたのは皿と丼鉢《どんぶりばち》だった。丼鉢にはネギラーメンが入っており、皿にはギョウザや春巻きが載っていた。何皿もあった。注文したのは良樹自身だ。  どこで食べた。ネギラーメンだけでなくサイドメニューを付けたということは、絢子が一緒だったはずだ。給料日に連れていったデパートのレストラン街か。違う、もっと特別な日だ。特別な晩餐《ばんさん》……絢子の引っ越し準備で上京した晩だ。  良樹の頭の中で、一気に記憶が噴き出してきた。  良樹が故郷に戻る前に、ふたりでラーメンを食いに行った。親代わりに育ててきた妹との別離が名残惜しく、良樹は胃に入りもしないのに次々に注文しては、絢子との食事の時間を長引かせた。そしてアルコールも入っていないのに、妹に長々と説教を垂れた記憶がある。体を大切にしろ、良友を作れ、帰りたくなったらいつでも連絡しろ、真夜中だろうが地球の裏側だろうが、すぐに迎えに行くから──と。  絢子が「おうぎラーメンが食べたい」と言った理由は、もしやそれなのか。  故郷に帰りたい、良樹に迎えに来てほしい──と。  しかし兄の反対を押し切って上京した絢子は、「帰りたい」とも「迎えに来て」とも言うことができなかったのだろう。「おうぎラーメン」と遠回しに言うことしか。  食べかけのチャーハン皿を見つめていると、無線が入った。署からの指令だった。  アパートで首吊《くびつ》り死体が発見された、入居者とおぼしき女性で、腐乱が著しい──と。  小雪の舞うなか、良樹は後輩とともにミニパトで現場へと向かっていた。  そのアパートの住所は、海沿いの集落に隣接した、新開発地区にあった。  良樹は近道となる集落道を走りながら、点在する黒|瓦《がわら》の平屋建てを横目に見た。良樹と絢子の実家があった集落だ。実家が人手に渡ってからは、この集落道に足を踏み入れたことはない。署の管轄エリアではあるが、通常の巡回は別の交番が行っている。事件性のある事態でも発生しないかぎり良樹たちが駆けつけることはないし、そもそもそのような事態が発生する集落でもない。  少年時代、良樹は小さい絢子の手を引いて、よくこの道を歩いたものだった。今は廃港となったが小さな漁港があり、絢子とふたり、テトラポッドに腰かけて潮風に当たったり魚を眺めたりした。再びこの集落道を通ることになろうとは、思っていなかった。 「ホトケさん、腐ってるんですよね……オレ、昼メシ食ってこなきゃ良かったです」  ハンドルを握る後輩が呟《つぶや》いた。  現場に到着すると既に、別の警察車輛が二台止まっていた。セーターにズボンの中年女が口元をハンカチで押さえ、Y交番の巡査たちと話をしている。通報者である、アパートの大家だと思われた。車を降りた後輩は、げんなりした顔で鼻と口を押さえている。良樹も車を降りた。ドアを閉め、先着の警官と合流すべく歩きだそうとして──しばし立ち尽くした。  また、あの光景が広がっている。 〈敷金礼金・保証人不要 入居者募集中〉の看板が貼られた電柱、鬱蒼《うつそう》とした樹木の陰になった木造アパート。そして一階の角部屋のドアは半開きになり、ぎいい、ぎいいと揺れている。 「先輩、どうかしたんですか?」  背後から声を掛けられて振り返ろうとした良樹だったが、ハッと首の動きを止めた。  ──振り返らぬことです。されば救いの道が開けます。  住職の言葉が頭を過《よ》ぎり、良樹はゆっくりとアパートへと歩きだした。中年女と話をしていた巡査が、慌てた口調で良樹を呼び止めた。刑事課《せんむ》が確認に来るまで現場に入らないほうがいいと言った。それにとにかく蠅や蛆《うじ》が酷《ひど》い、ホトケの状態は輪を掛けて酷い、ヘタに近づくとホトケの首がちぎれます──と。  それでも良樹が振り返らずに歩き続けると、事件性はないだろうがくれぐれも遺留品に触らないよう注意してくれ、ヘマはやらかさないでくれと、念を押してきた。  ──物事の答えは実に単純なところに存在しております。  ぎいい、ぎいい……と蝶番《ちようつがい》の軋《きし》む音が、蠅の羽音とともに小雪の舞う風のなかへと漂ってくる。  良樹は半開きのドアに手をかけた。手の甲に蠅が群がるが、良樹は構わずに中へと入る。  北向き窓から入りこむ薄暗い光に包まれるようにして、どす黒く膨張した塊がぶら下がっていた。首は伸びきるだけ伸びきり、ちぎれ落ちるのも時間の問題だった。  黒い渦を巻いた蠅の集団が、執拗《しつよう》に良樹にまとわりついてきた。良樹を室内に入らせまいとするかのように、目を狙って襲いかかってくる。殺意すら感じさせる蠅どもは、良樹のズボンや袖《そで》の隙間から入りこもうとし、次々に顔面に張りつき、皮膚を食いちぎろうとした。一度は後ずさった良樹だったが、顔の蠅を鷲《わし》づかみにして握り潰《つぶ》すと投げ捨て、再び室内へと歩きだした。とたんに蠅が良樹から離れだした。執拗にまとわりつく蠅もまだいたが、多くはドアから逃げ出し、あるいは良樹を遠巻きにした。  蠅が飛びかうのも構わず、靴の裏で蛆が潰れるのも意に介さず、良樹は塊へと近づいた。白濁した目は半ば閉じられ、腫《は》れ上がった口からは舌が飛び出したまま固まっている。泣き腫らした顔で良樹に飛びついてきたときの、小学生時代の絢子を、どことなく彷彿《ほうふつ》とさせた。  ──絢子、迎えに来たぞ。  良樹は塊へと両腕を差し伸べた。  腐敗した口から蛆がこぼれ落ちた拍子に、唇が微笑むかのように動いた。  そして、鈍い音とともにちぎれた頭は胴体もろとも、良樹の腕のなかへと崩れ落ちてきた。 角川ホラー文庫『トンコ』平成20年10月25日初版発行