群 ようこ 飢え 目 次  かわいそうな私  下関からパリーへ  隣人たち  パリー  金太郎  パリーの娼婦  子供嫌い  いとしいお母さん  女と男  働く女  友だち  かわいそうな私  私は三十歳を過ぎるまで、自分が好きになれなかった。思春期のころ、女の子たちはあっちこっちでっぱったりひっこんだりしてきたが、私の場合はひっこむ部分がほとんどなく、体全体がでっぱってきて、ものすごく太っていた。とにかく自分の外見に嫌悪感を持ち、整形することばかり考えていた。ところが同じクラスのなかには、 「なんであの子が」  といいたくなるくらい、きれいになる子がでてきた。彼女を見て私は、 「どうも、納得がいかない」  と首をかしげていたのだ。  学校の勉強もつまらなくなっていた。つまらないから勉強する気にもならない。テストの成績も悪くなる。そうなるとますますつまらないので、勉強をしなくなるという悪循環であった。ことごとく自分が思っているのとは違うほうに物事は進んでいた。年頃になると、誰でも彼氏という者ができると信じていたのに、そうではない。欲している者にくまなく与えられるのではなく、集中することも知った。彼氏が欲しい女の子が二十人、彼女の欲しい男の子が二十人いたとすると、女の子、二、三人に男の子が集中し、残りの者はぼさーっとしているしかなかったのである。 「あの子と私とどこが違うんだ」  言葉ではいってみても、外見の違いは明らかで、 「ちぇ」  といいながら、ふてくされるしかなかった。虚《むな》しい思春期であった。  死にたいと思うこともあった。特別、悲しい出来事があったわけでもなし、友だちとは楽しく過ごし、親に対しては多少はむかつきながらも、あまり喋《しやべ》らず関わらずという、親子関係をうまくやるテクニックを学び、まあ適当に過ごしていた。趣味もある。しかし突然、死にたくなったりする。なんだかそれがとてもきれいなことのように思え、自分が美しい存在になれるような錯覚に陥ったのである。ところがそう思うだけで、とても実行に移す勇気などない。死ぬメリットと生きるメリットを考えると、自分が好きではないのにもかかわらず、生きるというほうを選んだ。とにかく死ぬときに痛そうなのが嫌だった。 「薬は痛くないらしいけど、話によるとものすごいいびきをかいてみっともないんだって。それに中途半端に薬を飲んで助かると、胃の洗浄とかをしなくちゃならなくて、ものすごく辛《つら》いんだって、お父さんがいってた」  死ぬにはどういう方法がいいだろうかと、話しているとき、友だちの医者の娘が教えてくれた。一同は、それで死ぬ気をなくした。 「やだわ、そんなの」 「かっこ悪いもんね」  今から思えば、下らなくてアホ丸出しなのだが、当時の私たちは、多かれ少なかれ、嫌いな自分とどうやってつき合うかを模索していたのだった。  特に二十代は最悪だった。 「どうして」 「あーあー、もう嫌になる」  と文句ばかりいっていた。楽しいことなどほんのひと握りで、辛くて面倒くさいことばかり起こるような気がした。すべてが私をいらつかせた。私の場合、どうも恋愛エネルギーがやたらと少ない体質なようで、悩みは仕事についてである。就職はするもののすぐに飽きてしまい、いつも、 「こんなところにいるのは、時間の無駄だ」  と転職を繰り返していた。自分なりにいろいろと考えているっていうのに、 「まだ結婚しないの」  とか、 「早く嫁《い》かないと、とうが立つよ」  などといわれると腹が立って仕方がなかった。ただそんなことをいうのが他人で、親が文句をいわないのだけは救いだった。 「どうしてそういわなかったのか」  と母に聞いてみたが、彼女は、 「だって、はなからあきらめてるもん」  といい放った。子供のころから見ていて、 「この子にはあれこれいってもだめだ。野放しにするしかない」  と思っていたというのである。野放しにされた娘は、それをいいことに、本を読んだり音楽を聴いたりしていて、飽きると就職し、またそれに飽きると、本を読み音楽を聴くという生活を続けていた。勤めが嫌になる理由は、ほとんどが人間関係だった。自分とのつき合い方も、どうやっていいかよくわからないというのに、それに他人がからんでくるのだから、いらいらし通しだった。 「どうしてこんな奴《やつ》が存在するのだろうか」  と怒りは収まらない。彼らと喧嘩《けんか》したわけではないのに、姿を見るとむかつくのである。そんな人々に迷惑をかけられると、 「さ、やめよう」  と雇っているほうがあっけにとられるくらい、簡単にやめた。そしてまた無職になり、家で本を読む生活に戻る。もちろん生活費は底をついてくる。そうなると部屋に散乱している本やレコードを集めて売りとばす。多少のお金が入ると生活費にあて、どうにも売る物がなくなると、仕方なく就職先を探すという具合であった。  気楽ではあったが、 「本ばかり読んでいて、いったい何になるんだろうか」  と思ったことはある。本を読んでもそれがどうなるわけでもない。物書きになりたいなんて、考えたこともなかったし、ただ好きなことだけをやっているだけだった。  女性の二十代はいろいろと変化が起きる。学生が社会人になり、また結婚をし、友だちはそれぞれに自分のポジションを決めていた。それでも私は彼女たちを、うらやましいとは感じなかった。それがあったら、 「自分もああなりたい」  と頑張ったりするのだろうが、私には人に対して「うらやましい」と思う感覚がない。だから、 「あの人みたいになれるように、一生懸命やろう」  などとは、とてもじゃないけど考えられない。ただ自分の体の中から、ふつふつとわき上がってくる、「やりたいこと」「やりたくないこと」だけに反応して、毎日を送っていた。我慢は嫌いだが、「やりたいこと」に対する我慢はできる。しかし「やりたくないこと」の我慢はできない。それはすぐ「やらない」に直結し、私はだらだらと過ごしていた。  二十代の半ばで、小さな出版社で仕事ができるようになったとき、とてもうれしかった。趣味と実益が兼ねられる職場にやっとめぐりあえたからである。単行本を作れる編集者になりたいとは思っていたが、ここでも物書きなんて、私の職業の選択肢にはまったくなかったのだ。  それからいろいろとあって、三十歳で会社をやめて、物書きとして独立したが、もう後戻りはできなかった。三十歳になるまでに仕事の基盤をなんとかしたいと思っていたので、その通りにはなったが、これから先、どうなるかわからなかった。自信よりも、不安ばかりが先にたった。そんなとき、本に関する連載を依頼され、月刊誌に連載した。予想に反して、年の離れた年配の多くの方々が読んで下さり、 「自分も若いころ、同じ本を読みました」  と丁寧なお手紙をいただいたりした。このときはじめて、 「ああ、私がやってきたことは、よかったんだな」  と感じた。ベストセラーでもなく、あまり読まれていない本でも、興味があれば片っ端から読んでいた。それが基盤になっていたからである。  本を読み、音楽を聴き、だらだらと過ごしているなんて何事だ、といわれても仕方がない毎日。しかしそんな毎日が、今は私の仕事の財産になっている。このときはじめて私は、自分を好きになれたような気がした。多少の不安は持ちつつも、 「これでいいんだ」  と信じていたことが、やっぱりこれでよかったという確信になったからだった。  そうなると人に対しても愛情が持てるようになった。過去を振り返ると、能天気に、 「あれでよかった」  とうなずいているわけにはいかない。自分のやりたいことを貫くために、周囲の人々に多大な迷惑をかけたからである。私は二十代の後半、他人に対してひどく意地悪だった。 「どうしてこうなんだ」 「なんでそんなことをするのだ」 「とにかく気にくわない」  特に年下の人間はすべて気に入らなかった。もちろん、今でも気に入らない人はいるが、むやみに嫌うことはなくなった。自信過剰は問題が多いが、ほどほどの自分に対する自信を持つと、人に対して思いやりが持てるようになると、私は三十歳にしてやっと気がついたのだった。 「放浪記」を読むと、林芙美子《はやしふみこ》という人は、どんな場合でも、自分が大好きだったんだなと感じる。あまりに好きすぎて、問題も起きるが、これだけ自分を好きでいられるのは、たいしたものだと思う。私は小学校の四年生のときに、「放浪記」を読んで、彼女のバイタリティーに驚き、 「すごい女の人がいる」  と尊敬した。もちろん十歳くらいの女の子に、働く人々の気持ちや女性の心理がわかったわけではない。歳をとっていく間、何度も読み返していくうちに、彼女のよくいえば向上心、悪くいえば欲の深さがうとましくなったときもあった。  林芙美子は生活のために、転職を繰り返す。それも長続きはしない。東京に住んでいた芙美子は、郷里からの手紙を受け取る。 「——現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云《い》うものに自惚《うぬぼ》れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。——父より五円の為替《かわせ》。私は五円の為替を膝《ひざ》において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ舌を出した。」  手紙を受け取ってから半年ほどたって、彼女は、 「素手でなにもかもやりなおしだ。」  と職業紹介所から斡旋《あつせん》してもらった、関西の毛布問屋に面接に向かう。誰も知らない土地で働くのもいいと、思いきったのだ。 「私は宿命的に放浪者である。」  と書いているだけあって、フットワークが軽い。私のようにじとっと家の中にいるのではなく、いつも動いている。現代よりもはるかに交通の便がよくなかったというのに、彼女の行動力には驚くばかりだ。  面接を受けた彼女は、その場で面倒くさくなってしまい、やる気がなくなった。しかしだめだと思っていたのに合格し、毛布問屋で住み込みの事務員として働くようになる。午後三時にはお茶と八ツ橋が山のように出る。毛布問屋の人々は親切だった。冬になると足の指にしもやけができる芙美子は、人に隠れて思いっきりしもやけを掻《か》いていた。番頭さんが驚いて覗《のぞ》き込んだ。 「『霜やけやったら煙管《きせる》でさすったら一番や。』  若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。」  平穏な職場のような感じがするが、芙美子は満足しない。 「『お前は金の性で金は金でも、金屏風《きんびようぶ》の金だから小綺麗《こぎれい》な仕事をしなけりゃ駄目だよ。』  よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところでワアッ! と叫びあがりたいほど焦々《いらいら》するなり。」  客観的にみたら、文句のない職場でも、そのなかにいる人間には不満がある。芙美子の気持ちの寂しさは埋めることができない。彼女は風呂に入って考える。 「老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。」  私はこの唐突に出てくる、 「結婚をしようと思う。」  という文章を見て、思わず笑ってしまった。林芙美子がとてもかわいらしい人に思えた。辛いときに自分の体を見て、自信を取り戻す。生きるのに貪欲《どんよく》で、素直でドメスティックな感覚が、女の人らしくてかわいいではないか。  二十代のはじめだったが、私にも結婚話らしきものが出た。しかしぐずぐずしているうちに話は消滅し、相手も消えた。そこでうなずけば別の人生があったのだが、当時の私はそうはできなかった。自分の仕事をちゃんとみつけるまでは、結婚なんぞするものではないと心に決めていた。結婚を決断させるほど、その男性が好きでなかったこともあったし、自分の仕事がきちんと成り立てば、また男性も寄ってくるだろうと考えていた。ところが自分がふらふらしているときは男性が寄ってきて、仕事の足場が固まると男性は遠ざかる。なかなか現実はうまくいかないものなのである。  仕事がうまくいかないからと、結婚に逃げるのは絶対に嫌だった。しかし今は、多くの女性の心理としては、林芙美子タイプの、できる可能性のあることは、全部経験してみたいという人が多いという。そんな話を聞いて、私は、 「へえ、そうなのか」  とちょっと驚いた。 「私はしみじみと白粉《おしろい》の匂いをかいだ。眉《まゆ》をひき、唇紅《くちべに》も濃くぬって、私は柱鏡のなかの姿にあどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛《くし》もさして、桃色のてがらもかけて髷《まげ》も結んでみたい。弱きものよ汝《なんじ》の名は女なり、しょせんは世に汚れた私でございます。美しい男はないものか……。」  芙美子は自分のことを考えると、寂しくなったり、悲しくなったりする。何とかなるだろうとふっきってはみても、星空を眺めていると悲しさがこみあげてくる。女学校時代の友だちに会うと、甘えたくなってずっと手をつないで町を歩くのだ。  このように人に甘える、人によりそう感覚は私にはない。人が私を見て、 「かわいそうだ」  と思ったこともあったらしいが、当の本人は自分をちっともかわいそうだとは思わず、ただ淡々と暮らしていた。人と比べて不幸だと感じなかった。というよりも、幸せだといわれている人たちの、ちょっとでも不幸そうな部分をみつけて、 「私はこうだけど、あの人はああいうところが大変そうだ」  と思ったりする意地悪であった。足をひっぱって自分のほうに引きずり下ろすという、姑息《こそく》な考えを持っていたのである。  自分をかわいそうだと感じる人は、自己愛が強い。強いからこそ、いつまでも自分の現状に満足できないし、人からも自分に対して深い愛情を示してもらいたいと望んでいる。このような人を私は嫌悪していた。二十代のとき、「放浪記」を読んで、嫌な感じしか持てなかったのは、彼女のこういう部分である。さっぱりしているようで、うじうじしている。うじうじしているようで大胆である。結婚をしたいといっていても、すり寄ってくる男性を袖《そで》にして、美しい男と出会うのを夢見ている。 「あれこれ望まないで、何とかしろ」  といいたくなった。仕事も結婚もすべてが欲しい。そんな女性が私は嫌いだった。しかし、四十歳を過ぎた今になって読み返してみると、それもまた、いいではないかと思えるようになった。若いころは自分と相容《あいい》れない感覚を持った人が嫌だったが、今はそれも認められるようになった。 「みんな好きにしなさい」  という感じである。友だちにはなれないだろうが存在は認める。かつてはそういう人の存在すら認めなかった私にしては、大進歩だ。大人になったものである。  彼女と私の感覚には似通っている部分もないわけではない。働かなくちゃと思いながらもすぐ飽きてしまうところ、小綺麗な仕事が苦手なところ。芙美子は生活のために、セルロイド工場で商品に色づけする作業や、露店で猿股《さるまた》を売る毎日を嘆いた。しかしそこには明るい力強さがある。ところが事務員の職につくと、力強さはなくなり、ただただ気弱になっていく。彼女は何かを生み出そうとするエネルギーをたくさん持っている。それが少しでも発散されないと、暗く沈んでしまうのだ。 「私達のつくっている、キュウピーや蝶々のお垂《さ》げ止めが、貧しい子供達の頭をお祭のように飾る事を思えば、少し少しあの窓の下では、微笑《ほほえ》んでもいいでしょう——。」  彼女にとっては工場に缶詰状態で、三原色の絵の具を塗る毎日は、虚しくて退屈ではあるが、子供たちがこれで喜んでくれるかと思うと救われる。しかし事務職で封筒の宛名書きをしても、彼女の気持ちは晴れない。辛いことがなくても、うんざりするだけである。もちろん工場の女工さんでは終わりたくない。いつももっと、もっとと上を見ているのだ。  私の場合は、まず自分のなかで選択する範囲を決めて、その中で自分を動かそうとする。しかし芙美子は違う。彼女の人生には範囲などない。よりよい職場があったらばそこに行くし、気に入った男性と出会えば結婚もする。もともと彼女には範囲などないのである。いとしい自分が、人生で出会う楽しくなるもの、安らぐものは、とりあえず、全部、手に入れたい欲張りなのである。  人は欲張りになればなるほど、摩擦《まさつ》が起こる。嫌な出来事も山ほど経験する。私はもともと面倒なことが大嫌いだ。結婚も人間関係が面倒そうだし、仕事も内容を選んで引き受け、数をこなそうとは思わない。このほうがずっと楽だからだ。欲しいものが多ければ多いほど、望むものが多いほど、トラブルが起こる。私は事前にトラブルを避けようとして、面倒くさそうなことは選択肢からはずしている。しかし芙美子は違う。トラブルを物ともしない欲望。これはすごい。私にはどうやったってできない。そこまで自分自身にのめりこむことができないのである。  それだけ自分を好きになる根底には、何らかのコンプレックスもあっただろう。それが芙美子の向上心の基にもなったし、欲望を際限なくさせた理由にもなった。私もコンプレックスは持っていたが、途中であきらめた。しかし彼女はしつこくそれを抱えて、生きる原動力に変えていった。  かわいそうな私。自分がいちばん好きな私。芙美子の心の中には、いつもそういう気持ちがあったはずだ。作家として名をなしたあとでも、それは消えない。  あまりに自分を好きになりすぎるのは、私からみるととても辛そうだ。彼女の人生は、一般的にいえば、苦労がむくわれて成功したといえるのかもしれない。しかし限りない欲望にとらわれ、どんなに裕福になっても、いつまでも満足することができない、底無し沼のような人生ではなかったかと思うのである。  下関からパリーへ  自分はどうして旅をするのかと考えたことがある。十代のころは家から出るのがとてもおっくうで、旅なんて大嫌いだった。電車に乗って隣りの駅に行くのでさえ面倒くさい。しかしアメリカだけは興味があったので、一度でいいから行ってみたいと思っていた。一ドルが三百円のころである。旅費を作るのも一苦労で、すぐ資金が調達できるわけではなく、アルバイトをしまくり、二十歳のときにやっと行くことができたのだ。当時の私には、日本の今の現状など想像もつかなかった。のちにこのような世の中になるとわかっていたら、あんなに必死にならなくてもよかったのだが、このまま一ドル、三百円状態がずーっと続き、海外旅行など夢のまた夢。会社に勤めたら時間もお金もなくなる。絶対に、 「今しかない」  と信じていたのである。  ニュージャージー州に三ヶ月滞在して、いい経験にはなったが、海外旅行が自分にどのように影響を与えたかはよくわからない。ただ言葉もろくにできないのに、何もかも自分でやらなければならないのは大変だった。お金の余裕もない。食費もきりつめなければならず、モーテルの一室で、近所のスーパーマーケットから、サラダ用の生ニンジンや、半ポンド売りのポテトサラダを買ってきて食べていた。ファストフードの店など近くにないので、毎日、マーケットに通うはめになったが、顔を覚えてくれた店の人たちがとても親切にしてくれたのがうれしかった。バスに乗ってマンハッタンに行っても、ほとんどの商品は見るだけ。ティファニーも、とてもじゃないけど店内に入る勇気はなく、ショーウインドーをじっと覗《のぞ》き込んで、見えない店内を想像していた。  自分の体力をお金と引き替えにして、粗食に耐え、乗り物には乗らずにやたらと歩いたが、辛《つら》いとは感じなかった。東京にいたときと同じように、私は貪欲《どんよく》に何もかも吸収しようというエネルギーは持っていなかった。いろいろな物を見てみよう、やってみようという気が起こらない。よく旅行に行くと、どんなことも見逃すまいとして、必死になってあちらこちらを歩き回ったりする人がいるが、そういうタイプではないと自覚したのである。  外に出るよりも、ホテルの部屋でずーっとテレビを見ていたほうが楽しい日もあった。近所の住宅地を散歩して、気分転換をした日もあった。とにかく、 「せっかくアメリカに来たのだから、これをしなければ」  とは思わなかった。 「私が行ったら、あなたみたいに時間を無駄に使わなかったのに」  といった友だちもいたが、私にとっては、旅行に行っても、外に出ないでぼーっとする時間が貴重だったのである。  しかしいくらぼーっとしていても、現実問題として、お金がからんでくる。ぼーっとしていれば、お金はかからないのは事実だが、食費だけは確実に出ていく。私は貯蓄などという言葉とは無縁の性格なので、東京にいたときは、アルバイトで稼いだお金も、すべて遣い果たしていた。しかし、ここではそうはいかなかった。東京では日記も小遣い帳などもつけてないのに、手帳に毎日、買った物と値段を記録していた。収入がないので減るばかりである。 「これは、ものすごくまずい」  と思っていたところ、日本人の知人が仕事を紹介してくれて、多少、ふところは潤ったが、それでも十分といえるほどではなかった。食事が生ニンジンから自動販売機で売っているサンドウィッチや、ファストフードのオニオンリングに昇格したくらいのものだ。収入があると小遣い帳を書くのも苦ではなくなってきた。週に一度の収入の金額を書く楽しみだけのために、小遣い帳をつけていたといってもいい。 「お金がなくなっても、何とかなるさ」  とは思えない。浪費家なくせに、最低限のお金は確保しておこうとする、小心者であることはこのとき自覚したのである。  だからアメリカにいたときの三ヶ月間の私の手帳は、物と金額の羅列だけである。この体験を、十年後にエッセイにまとめたときに、これが本当に役に立った。仕事をするようになって、親切にしてくれる人もいたし、意地悪をする人もいた。 「○○が私にこんなことをいった」 「こんなことをされた」  などと、くどくど書いていたら、それに引きずられたはずだ。淡々と、ニンジン、ポテトサラダ、パン、雑誌、オニオンリングといった生活必需品の値段が並んでいるほうが、ずっと私にはリアリティがあり、そのときの自分を鮮明に思い出した。それは私の本質で、基本的にそういうものに興味があるからだ。それと同時に、人数は少なかったけれど、私を不愉快にさせた人々のことも、嫌な思い出としてではなく、思い出させてくれたのである。  今は誰もが気軽に海外旅行に行く時代になった。おじいさんもおばあさんも、おじさんもおばさんも行く。日本人もお金を出せば安楽な旅ができるようになったのである。私もそのなかの一人だ。私は今でも、自発的に旅行に行きたいとは思わない。友だちに誘われたりすると、 「いいねえ」  とうなずき、海外に行くという仕事が来れば、場所により、 「いいねえ」  と答える。自らすすんでというわけではないのである。  プライベートでは体力のなくなった部分を、お金で補う旅。仕事では上げ膳《ぜん》、据《す》え膳の旅。確かにこの上もなく楽ちんではあるが、 「こんなことをしていいのだろうか」  という不安がいつもある。私にとっての旅のイメージは、野宿まではいかないまでも、最低限の必需品だけを背負った旅か、どんな場所に行っても、堂々と品格を持って振る舞える、それだけの人間性を伴っているゴージャスな旅である。その両方とも、私はできないのだ。  体力がなくなっているので、デイパック背負い旅はまず無理だ。ゴージャス旅もきつい。ホテルのスウィートに泊まっても、「どんなご命令でも、うかがいます」という、同じ階に常駐している係の人に、堂々と振る舞えない。あれこれ頼むのが申しわけないような気がして、自分でできることは、全部自分でしてしまおうとして、おたおたする。そのような役目の人々に対して、 「じゃあ、お願いね」  と堂々とできない。 「ほんと、どうもすみませんねえ」  とぺこぺこしてしまうのである。  学生のようにお金がないわけではない。しかしそのお金が身についていない。そんなとき、つくづく自分が嫌になる。傲慢《ごうまん》でなく、スマートにそういう振る舞いができれば、ゴージャスな旅も、いいものだと思うが、私はとてもじゃないけどそこまでいかないので、豪華なホテルに泊まりながら、びくびくしている。もちろん快適なのであるが、どこか心の隅で不安な気持ちがぬぐえない。そのびくびくしている自分がすごく嫌で、 「こんなことなら、東京にいたほうが気楽でよかった」  と思う。それはホームシックではなくて、ただ自分が情けないだけだ。場数を踏めば何とかなるのかもしれないが、いつまでたっても、私は、堂々と振る舞えないコンプレックスを抱えている。若いころはコンプレックスがあっても、 「お金もないし、こんなもんだ」  と開き直れたが、お金がある程度、自由に遣えるようになったら、私の中で妙なバランス変化を起こしはじめた。お金が自由になる分、コンプレックスを強く意識するようになった。なんだか自分が、ものすごくかっこ悪い人間になったような気がしてくる。金はあるのに中身が伴わない。こんなにかっこ悪いことはないからだ。  旅をするのは、行ってしまえばそれなりに楽しいが、主従関係が発生するような旅は、未《いま》だに慣れない。これは、そのような環境に身をおいてみないとわからない。またその反対に一緒に旅行をすると、 「こんな人だったのか」  と他人の本質が見えてびっくりする。旅というものは、恐ろしいことに、無意識のうちに人間の本性をすべてさらけだしてしまう。きれいにお化粧をしているのに、洗面所の使い方がものすごく汚い人。羽振りのよさそうなことをいって、実はものすごくケチでせこい人。自分のわがままを押し通そうとする人。きっと本人は全く気がついていないのだろうが、そんな人を見ると、 「ありゃー」  と驚く反面、こちらの身もすくんでくるのだ。  一九三一年、すでに流行作家として多忙になっていた林芙美子は、二十八歳のときに、シベリア経由でヨーロッパ旅行に向かった。夫の手塚緑敏《てづかりよくびん》と生活をしていたのにもかかわらず、ある男性を追っていったという話もあるが、理由はともかくヨーロッパ旅行は彼女にとって、はじめてだった。このときの経験を、彼女は「三等旅行記」に記し、地元の人々との交流や、心の動きなどを書きつらねた。  のっけから芙美子は不安になる。前年、台湾には旅行に行っているが、ヨーロッパに向けての長距離の旅は初めてだった。旅行会社の人の忠告を得て、長春からハルピンまでを二等に換える。当時の日本人にしてみたら大層な旅だが、芙美子の財力でもなかなかきつい旅行だったようだ。 「四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵《かぎ》をかつて寝ちまふ事だと電気を消さうと頭の上を見ますと、私の寝台番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭《いや》な気持ちがして、母が持たしてくれた金光《こんこう》さまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。」  芙美子はハルピンに無事到着し、生活必需品と思える品々を買った。 「七円五十銭——紅色毛布。  六十銭——葡萄酒《ぶどうしゆ》一本。  四十銭——紅茶一|鑵《かん》。  十二銭——アケビの籠。  七十五銭——湯沸し。  二十八銭——匙《さじ》と肉刺一本づつ。  二十銭——ニユームのコツプ一ツ。  四十銭——瀬戸ひき皿一枚。  五十銭——林檎《りんご》十箇。  七銭——レモン二箇。  二十五銭——洋梨五箇。  二十銭——キヤラメル。  八十銭——ソーセージ三種混ぜて。  六十銭——牛鑵二箇。(安物買つて損をした)  二十銭——バタ。  四十銭——角砂糖大。  三十五銭——パン五日分。」  毛布以外の品々は、アケビの籠に入れられて、芙美子のお供をする。 「二三日ハルピンで様子を見てゐたと思へば良いと、腰を落ちつけて何気なく、窓|硝子《ガラス》を見ると、何と頬《ほお》の落ち込んでゐる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまひました。」  よほど不安だったのだろうが、同室のロシア人の女性との交流が、芙美子の気持ちをなごませた。ちょうど政情が不安定な時期で、中国人の兵隊が、駅に停車をするたびに部屋の扉を叩《たた》いていく。ロシア人の女性が、大声で怒鳴った。芙美子が、手真似《てまね》で恐ろしいというしぐさをすると、彼女はうなずきながら笑い出した。芙美子は彼女と一緒に食堂で食事をする。 「何か御礼をしたい気持ちでいつぱいなんですが、思ひつきがなくて、——出発の前夜、銀座で買つた紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になつても、その風船をふくらましては、『スパシイボウ!』と喜んでくれました。まるで子供のやうです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふのかと思ふと、このロシヤのお婆さんにもひどくしつくりと似合ひました。」 「もう再び会ふ事はないだらう、此深切《このしんせつ》なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれると、私はすぐカーテンの隙間《すきま》から、ホームに歩いて行く元気のいゝお婆さんの後姿を見てゐました。」  汽車はソビエトロシア領に入っていく。一室に四人ずつで、一台の列車に八室ある。ここで芙美子は、飛車角みたいにずんぐりして、むっつりと怒ったような顔をしている部屋のボーイに、どういうわけだか多めにチップをやってしまった。そのおかげかどうか彼はとても親切にしてくれた。また両隣りの部屋には、ドイツ人、ロシア人の男性、二人ずつがいて、一人でいる芙美子を、朝起きればお茶に呼び、トランプにも誘ってくれた。また別の駅では、十五歳くらいの男の子がやってきて、自分は隣りの部屋なのに、芙美子の部屋に入ってきて、 「ヤポンスキー」  と呼びかけたりする。言葉がよくできなくても、芙美子はいろいろな人々と交流した。隣りの部屋の男性を芙美子は気に入り、この人の奥さんになって、いっそ彼が降りる駅で降りてしまおうかなどとも考えたりする。 「自分で何か考へて行くか、空想してゆくか、本当は退屈な旅なのですよ。」  バイカルを過ぎたあたりで、食べ物を売りにきた。芙美子はあわててそれを買ったが、食べてみたらただのうどん粉の天ぷらで、それが一円だった。 「鶏の小さい丸焼きが五ルーブル位です。とても手が出ません。牛乳が飲みたかつたし、茹《う》で玉子が欲しかつたし、——だが、高くて手にあひませんでした。」  芙美子もかつかつの旅行をしているというのに、同乗している人々は芙美子に物をねだった。途中の駅から同室になった、赤ん坊を連れた女性は、芙美子が持っている物を見て、いちいちくれという。ピオニールは食堂では食べず、芙美子が食事をするころを見計らって部屋にやってきて、腹をおさえて悲しげにしてみせたりする。 「私は、もう苦味《にが》い葡萄酒でも呑《の》むより仕方がない。岩のやうになつたパンと、林檎を持つて行かせて怒つた顔をしてみせました。私の食料品も、おほかたは人にやつてばかりで、レモン一箇と砂糖と、茶と、するめが残つたきりです。」  食べ物は乗客に持っていかれ、枕、シーツ、毛布を借りたら六ルーブルもとられた。芙美子はこんなことなら、ハルピンでもう一枚毛布を買っておけばよかったと後悔する。食事も食べる前までは楽しいが、食べると落胆するような味だ。そんな芙美子にボーイが質素なスープをごちそうしてくれた。とてもおいしいスープを飲みながら、芙美子は泣いた。ボーイは、彼女を若い娘だと思って、 「トウキヨウ。ママパパ。」  と彼女に声をかける。  芙美子だけずっと部屋に居続け、相客は次々と変わる。めったにないことだが、男性と相部屋になった。そのとき芙美子と部屋にいたのが、ロシア人の体格のいい若い女性だった。彼女はまずトランクの中から、バタで炒めた鶏一羽を取り出して、芙美子を驚かせる。そして脚の肉を切りながら、芙美子の持っている赤い縮緬《ちりめん》の風呂敷と交換してくれという。その女性は、相部屋になった男性と、妙に親密になり、芙美子は不愉快な思いをする。窓の外には白樺《しらかば》の薪《まき》を積んだトロイカが走っている。見渡す限り雪景色である。 「日本へ帰つて八銭のかけうどんも悪くないが、走れ! 走れ! 汽車。泪《なみだ》せきあへず、まだまだこゝはシベリヤの真中だよ。」  そうつぶやいて芙美子は自分を奮いたたせた。  ペロラスキー停車場からの同室の乗客は、優しい人々ばかりだった。芙美子の上の寝台で寝ている鍛冶《かじ》屋さんらしき男性は、寒さに震えている芙美子の足元に、オーバーをかけてくれた。そのオーバーを芙美子は、自分は毛布を持っているからと、寒さで起きてきたお婆さんに渡した。 「翌朝、歯の砕けさうに冷い林檎を二ツ買つて食事を済ませた。上の床の男は、黒パンと渋い赤い木の実を少し分けてくれた。婆さんは、ボロボロのビスケツトにバタを塗つてくれた。私はみんな頬ばつて食べた。美味《おい》しいと云ふより嬉しくて悲しかつた。」  ポーランド国境を過ぎると、景色も乗りかえた汽車も美しくなった。景色も女性も美しい。三等室で知り合いになったドイツ人は、一等に移っていった。ただ一人取り残されたのは、芙美子である。食堂のボーイがお茶や果物を売りにくるが、両替をしなかった芙美子は、生唾《なまつば》を呑んで我慢するしかない。彼女にすり寄ってくるのは怪しげな男で、警官がやってきて、大丈夫だから横になるようにといわれて、横になっても、出てくるのは涙ばかりである。  そこで同席になったのは、見たこともないような美しい娘さんだった。フランスの兵隊がやってきて、美しい娘さんを見てはぼーっとし、芙美子を見ては着物の長い袂《たもと》が珍しいらしく、なかには袖をひっくりかえして見たりしている兵隊もでてきた。 「シノア(中国人)だらうか、ジヤポネ(日本人)だらうか」  と兵隊たちが議論しているのを、芙美子は寝たふりをして聞いていたが、そのうち寝てしまった。そしてふと眼を覚ましたら、娘さんと芙美子の膝《ひざ》の上には、たくさんの菓子や果物が置いてあった。兵隊たちの優しさがよく出ているここの件《くだり》が、私はいちばん好きだった。そして十一月の二十三日、やっとパリの北の停車場に、芙美子は降り立ったのである。 「下関からパリーまで約三百七十九円二十五銭。——ベルリンからパリーまで三等の寝台券なしだ。二週間の汽車旅、案外楽であつた。」  芙美子と同室、同席になったのは、ロシアの一般の人々である。海外旅行をしている外国人だと見て、ねだりにくる人もいるが、たいていの人は好人物だ。言葉がよくわからないのも、この場合はいいほうに作用するかもしれない。私はこのような旅の仕方を読むと、とてもうらやましくなる。しかしやってみようとは思わない。そういった状態に耐えられるかどうか自信がないからである。延々と続く列車の旅。固い寝床、寒い部屋。きっと二十代の芙美子だからできたのだ。  旅にはいろいろな面倒くささ、辛さがつきまとう。デイパツクの旅は修行のようなもので、そうしないと実際に旅のよさはわからないといわれたりしたし、そうかと思ったこともあった。でも実は旅のグレードではなく、どんな人間が旅をするかが問題なのだ。世界中を放浪しているという人がたまにいるけれど、私には自分の居場所がみつけられない人としか思えない。もちろん旅の仕方によって見える物は違ってくる。でも基本的には人の気持ちは変わらない。私は貧乏旅行をしても、外国人を見て、おたおたするだろうし、芙美子は旅をしなくても、時折、悲しくなって泣いていたはずだ。ふいに不安がつのる二週間の汽車の旅の終わりに、芙美子が、 「案外楽であつた。」  と書いているところが、自分を鼓舞し続けようとした、バイタリティーあふれる芙美子の性格と哀《かな》しさを、よく表していると思う。  隣人たち  私がひとり暮らしをして、いちばん最初に住んだモルタルのアパートは、壁がひどく薄かった。実家は鉄筋のアパートで造りがしっかりしていたので、両隣りや上の階の音などしないものだとばかり思っていたが、現実はそうではなかった。あるとき、ドアのチャイムが鳴ったので、台所の窓からそっと見てみたが、誰もいない。そのかわり隣りに新聞の勧誘員が来ていた。隣りの電話が鳴っていると、まるで自分の部屋で鳴ったように聞こえる。テレビやラジオの音は聞こえないので、不思議に思っていたのだが、隣りの女性が両方とも持っていなかっただけであった。  そのアパートは上下で六世帯しかなく、その四世帯に女性が住んでいた。隣りは私よりも十歳ほど年上の地味な女性で、細身でものすごーく暗い雰囲気の人だ。これまで見た女性のなかで、いちばん暗い雰囲気の人だといってもいいくらいだった。二階には、おとなしそうな女子大生が住んでいて、彼女ににっこり笑って集合ポストのところで挨拶《あいさつ》をされたとき、私は隣りの人を思いだしつつ、ちょっとほっとしたのである。  私がいたのは一階の角部屋だったが、毎日、上と横からの音が聞こえてきた。もしかしたら、隣りの人があんなに暗いのは、一階の真ん中の部屋にいて、上、左右からの騒音に悩まされ続けているからではないかと思ったりした。  聞こえてくるのは、電話のベルの音、せき、くしゃみ、掃除機の音だった。電話はいつも夜の十時にかかってきた。ベルの音が途切れ、 「はい」  と声がすると、必ず、すすり泣く声が聞こえてくる。テレビのお笑い番組を見ていても、いつもすすり泣きがはじまると、私の耳の穴はそちらのほうに向いてしまい、気になって仕方がなかった。 「郷里にいる親が入院をしていて、具合がよくないんだろうか」とか、「彼女を愛人にしている男から、別れ話でも持ち出されているんだろうか」などと想像したりしたが、そのうち飽きてしまい、隣人について詮索《せんさく》するのはやめた。電話がかかってきても、耳の穴が隣りを向くこともなく、テレビに集中できるようになった。鼻歌が聞こえてくると、 「あの人にも、楽しいことがあったんだ」  とは思ったが、だんだん隣りの音は、ただの雑音となっていったのである。  二階の女子大生は遠慮が全くなかった。部屋の中を歩くと、足音がどすどすと聞こえ、今、台所に行った、トイレに立ったと、すべてわかった。おまけに彼氏を連れてくるものだから、夜は大騒ぎであった。あまりにすさまじいし、事が事なので、 「聞こえてますよ」  とひとこと、いったほうがいいかと躊躇《ちゆうちよ》したが、余計なお世話だとやめた。女の子が一人で歩きまわっていても、どすどす音が聞こえるのに、男の子がやってくると、そのどすどすは何倍にもなり、私は天井を見上げながら、 「突然、天井にずぼーんと大きな穴が開いて、裸の若い男女が降ってくるんじゃないだろうか」  と心配で仕方がなかった。  隣りの人がまだ帰っていないときに、どれくらい壁が薄いのかと、そっと押してみたら、べこっとしなった。もしも夫婦がここに住んでいて、大喧嘩《おおげんか》をして奥さんが壁に投げつけられたら、コントのように簡単に壁が人型に抜け、隣りの部屋にすっとんでいきそうだった。壁というのは名ばかりで、ただのベニヤ板に、砂壁の材料を塗っただけ。これでは隣人が帰ってきてドアを開けたときに、うちの部屋が揺れたような気がするはずだった。 「うちのアパート、音が筒抜けなのよ」  年下の友だちにそう話すと、彼女は、 「それはまだいいほうですよ。私の友だちなんか、隣りの人が立つ気配までわかるっていってましたから」  と慰めてくれた。それよりはましかもしれないが、私は引っ越すことを決めた。音もそうだが、本を積んでいたら部屋が傾き、このままでは根太が抜けてしまいそうだったからである。  それから私は、壁も床も、とにかく造りがしっかりしていることを条件に、アパートやマンションを探した。隣人のたてる音にわずらわされるのも嫌だし、自分のたてる音で迷惑をかけるのも嫌だった。人が生活しているのだから、生活音がするのは当たり前だが、べこっと壁がへこむ部屋には住みたくない。今の住居は、隣りに住んでいる友人の紹介なので、彼女とはもちろん交流はあるが、ここに引っ越すまでは、やはり隣りの人との交流などなかった。その人の顔を目の前で見ないと、隣人だとはわからないくらいだったのだ。  百世帯が住んでいる大きなマンションに住んだとき、隣りの年配の男性と女性にも、引っ越しのときに挨拶をしただけで終わった。たまたま隣家の郵便物がまじっていて、二人の名前が違うこと、世帯主が女性になっていることを知ってしまったが。たまたま顔を合わせれば挨拶をする程度で、管理人さんが荷物を預かってくれるシステムでは、引っ越してきてまた引っ越すまで、隣りの人と一度も話さないで終わってしまうこともある。たとえば、引っ越しをしたときに、両隣りには挨拶をするといったら、若い人に、 「へぇ、そんなことをしてるんですか」  といわれてびっくりしたことがある。 「あなた、それって普通じゃないの」  といったら、 「私、今まで三、四回、引っ越しましたけど、一度も挨拶なんかしてません」  とけろっとしている。どうしてかとたずねると、 「だって、隣りにどんな人が住んでいるか、わからないから。変な人だったら困るじゃないですか」  というのだ。たしかに、そういわれても仕方がない状況かもしれない。若い女性は気をつけるに越したことはないかもしれない。しかしそこまで、疑う必要はあるんだろうかと首をかしげたくなる。 「世の中にはどんな悪い奴《やつ》がいるか、わかりませんからね」  隣りにどんな人が住んでいるか知りたくないし、自分も知られたくない。そのほうが面倒くさくなくていいのだろう。私も誰彼なくやってこられるよりは、一人でいるほうが気楽だ。しかし、引っ越しの挨拶のときに会っただけで、あとは何の交流もなく、隣りの人がたてる音だけが、彼らの存在を知る証《あかし》というのは、やはり人間的ではないとも思うのだ。 「私は宿命的に放浪者である。」と書いた芙美子は、上京したあとも、移動し続けた。小石川、東中野、田端《たばた》、多摩川、太子堂《たいしどう》、瀬田追分《せたおいわけ》、下谷《したや》。間借りや下宿屋、または住み込みの住居である。そんな場所では、住人のプライバシーなど、ないに等しかった。  そんななかでの芙美子と隣人たちの交流を読むと、ずかずかと生活のなかに踏み込んでこられる場合も多くて、面倒くさそうではあるが、私にはとても興味深い環境だった。  彼女が転々とするのは、男がらみの場合も多い。男と住むために引っ越し、また男と別れてひとりで暮らす。またあるときは気の合う女友だちと同居。生活のためにカフェーの女給部屋で、見知らぬ女たちと雑魚寝《ざこね》。そのたびに彼女は、 「ああ、こんな生活ではない生活がしたい」  と思いながら、堂々巡りを繰り返していたのだ。 「朝の寝床の中でまず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女にとってはこの上もないなぐさめなのです。」 「火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住いも仲々いいものだと思った。朦朧《もうろう》とした気持ちも、この朝の青々とした新鮮な空気を吸うと、ほんとうに元気になって来る。だけど楽しみの郵便が、質屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。」  天気や空気で芙美子は元気を取り戻そうとするが、すぐ収入がない現実に直面し、頭を抱えてしまう。いくら天気がよくても空気がよくても、貸間代を払ってくれるわけではないからだ。  芙美子は川端画塾のそばのアパートに住んでいたことがある。部屋からは画塾のモデルの女性の裸が、カーテンの隙間《すきま》から見える。そのアパートで仲良くなったのは、隣室の女学生だった。 「この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団《ふとん》にもぐり込みに来る可愛《かわい》らしい少女だった。 『私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。』  だから私は石鹸《せつけん》よりも、このあらいこをもらう事が多い。 『ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を止《よ》してしまいたいのよ。』  火鉢がないので、七輪《しちりん》に折り屑《くず》を燃やして炭をおこす。 『階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾《めかけ》だって、お上《かみ》さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら……』  彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云《い》っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベツドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。」  隣りの親子の、娘の本当の名前がベニではないかもしれず、また父親の職業が何かもわからないのだが、芙美子はベニ本人を見てかわいがり、ベニのほうも隣室の定職がないお姉さんに、なついていた。芙美子はベニの父親に内職を紹介してもらっていた。 「ベニのパパが紹介をしてくれた白樺《しらかば》のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも百合《ゆり》もチュウリップも三色董《さんしよくすみれ》も御意《ぎよい》のままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持って行くのだろうか……三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。」  芙美子は敷きっぱなしの蒲団《ふとん》の上で、隣室に刑事がやってきて、何か探している気配を感じながら、白樺のしおりの絵を描き続ける。  ベニを坊やと呼んでいたパパは、ある日、詐欺横領罪で捕まった。 「帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然《ぼうぜん》としてそれを見ている。アパート中の内儀《おかみ》さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢《まつしよう》的な事を大きくネツゾウして、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートじゅうの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている。スッとした女なり。」  結局、ベニは金沢の親戚のところに行くことになり、二人に別れが訪れた。  また別のアパートに住んでいたときは、階下の旦那が、故郷に行ってくるというので、芙美子のところに後のことを頼みにきた。当時会社に勤めていた芙美子は、戻って帯をときかけたところ、いつもミシンを踏んでいる隣室の娘から、声をかけられる。 「『随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を呑《の》んでるのよ……』 『いいじゃないの、お客さんかも知れないじゃないですか。』 『だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を呑めるかしら……』」  芙美子が顔を洗いに行ってみると、若い奥さんは男と手をつないで転がっていた。 「只《ただ》うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。」  芙美子は階下の出来事にも淡々としているが、ミシン嬢はそうではない。夜の十時を過ぎて、蚊帳《かや》の中で本を読んでいると、また彼女が声をかけてきた。 「『一寸《ちよつと》! 大変よ!』 『どうしたんです。』 『呑気《のんき》ねッ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠っててよ。』  シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。」  全くとりあわない芙美子に対し、だんだん彼女はいきりたってきた。芙美子がもう電気を消すからというと、彼女は階下に降りて行く。 「『私達は貴女《あなた》を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ!』」  という声が聞こえてきた。芙美子は思った。 「一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖《おそ》ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら……。私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼《まぶた》をとじた。何もかもいやいやだ。」  ミシン嬢は階下の奥さんと不仲になり、引っ越していくはめになる。 「彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不恰好《ぶかつこう》な姿で、荷車の上に乗っかっていた。全てはああ空《むな》しである——。」  自分が他の住人に興味を持たれる対象になったこともある。短編を持って雑誌社をまわっていた芙美子は、またもや経済的に行き詰まった。そのとき思い出したのが、女給時代に芙美子に安物のヴァニティケースをくれた、かなりの年配の男である。連絡をとると男から速達が届いた。芙美子のところに行くと書いてある。 「この男は、まるで妾《めかけ》の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、『そんなに困っているの……』と云った。 『十円位ならいつでも貸してあげるよ。』  暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で『ね!』と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。 『私はそんなンじやないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。』  隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。 『誰です! 笑っているのは……笑いたければ私の前で笑って下さい! 蔭《かげ》でなぞ笑うのは止《よ》して下さい!』  男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のように路地へほうり投げてしまった。」  今とは違って、ドアにしっかり鍵がかかるわけでもなく、襖《ふすま》、障子一枚開ければ、そこは廊下であったり、他人の部屋だったりする。そのために芙美子は見知らぬ男にそっと部屋を覗《のぞ》かれたりした。貞操の危機など日常茶飯事の状況である。そういったよからぬ輩《やから》は論外だが、そういう状況のなかでのルールはそれなりにあったはずだ。困っているときは助け、相手に都合が悪い出来事が起こったら、気がついていても知らない素振りをするということだ。音をたててもお互い様、多少の迷惑があっても、お互い様。もちろんそれだけでは済まされない問題もあるから、人間関係の摩擦が起きる。それは今と比べて、人と濃いつき合いをしているから、そうなってしまうのだ。  たとえば、今、どんな親しい女友だちがいても、同じ蒲団で寝るというのは、ちょっとはばかられる。しかし芙美子はそうではない。平林《ひらばやし》たい子の部屋に泊めてもらったとき、二人は同じ蒲団に寝る。 「フツと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。」  また遊びにきたカフェー女給の友だちを、芙美子は米もないのに泊めてやる。 「十子は、帯を昆布《こぶ》巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を延ばして蒲団へもぐり込んで来た。『ああ極楽! 極楽!』すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時《いつ》までもおかしそうに笑っていた。」 「家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ているのだ。」  芙美子はたまらなくなって、飛びおきて火鉢に新聞をまるめて火をつける。 「『どう? 少しは暖かい?』 『大丈夫よ……』  十子は蒲団を頬までずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。」  私は人づき合いが鬱陶《うつとう》しいタイプなので、芙美子のような環境に置かれていたら、きっと耐えられない。プライバシーのない生活は嫌だし、蒲団がひとつしかない部屋には女友だちでさえも泊めたくない。自分ではあのような生活はできないが、その反面、とても興味深い。当時の生活は、隣りにどんな人がやってくるかわからない生活である。母のいない父と娘が住むかもしれないし、意地悪な女が住むかもしれないし、粋《いき》なお妾さんが住むかもしれない。その予想がつかないところが、面白いし、それが人生の勉強にも思えるからだ。  最初から、 「どんな悪い人がいるか、わからない」  と自分の周囲に砦《とりで》を作っておけば、万が一、何かが起こっても被害はない。だけどそれはつまらない。私は今になって、 「若いころにもっといろいろな人に会っていればよかった」  と思う。でもそれは今さらいってもどうにもならない。私は自分が傷つくのがとても嫌だった。そのためになるべく人とは会わないようにしてきたのである。  他人のことも知っているけど、自分のことも知られている。いちおう形の上での境というものはあるが、ひとつ屋根の下で、他人と同居しているのと同じなのだ。そういうなかでは、人格がもろにわかってしまう。世間でいう地位なんかではなく、その人自身がどういう人かが、はっきりわかる。人に対しての嫉妬《しつと》はより強くなるだろうし、すべてに達観して、何もいらないとストイックになる人もいるだろう。芙美子は、 「自分が生きてさえいればいい」  といいながら、結局は達観できなかった。周囲の人々に揉まれ、同じ境遇の人々の生活を知り、そこから何とか抜け出たいとしか思えなくなっていたのである。  パリー  フランスというのは私にとっては、アメリカとはまた別の意味を持つ国である。アメリカは比較的なじみがあって、まだ身近に感じられるけれど、フランスはそうではない。親しみやすいというよりは、親しみにくく、明るいというよりは気むずかしい。そしてアメリカの能天気さに比べて、きっちりとした美意識がある、近づき難い国だ。私が学生時代にずっと愛用していた、安くて丈夫でサイズが豊富なジーンズにしても、アメリカの野良着風に対して、フランスではファッションになる。ファッションに関しては、フランス人には勝てる者はいない。しかし私のなかでは、 「絶対に彼らは、意地悪に違いない」  という先入観があったのである。  私はアメリカの、お手軽、簡便な消費文化、若者文化が、わっと押し寄せた時代に影響を受けたが、もう少し前の世代の人は、文化といえばヨーロッパ。イギリス、フランスだった。アメリカの西海岸風俗に、興味を持った私には、ヨーロッパ文化はただの古くさいものとしか映らなかった。フランス映画よりは「イージー・ライダー」、そして「ウッドストック」だったのである。  私がパリに行ったのは、今から十二年前である。仕事でスペインの後に四日間だけ滞在したのだが、 「ま、そういう予定になっているんだったら、しょうがないか」  という気持ちでしかなかった。気温が零下五度というのも気を重くさせたし、とにかく例の先入観で、きっとフランス人には意地悪をされると思っていたからだった。  のっけに意地悪をしてくれたのは、ショッピング・センターの化粧品売場の若い女の子たちだった。声をかけても知らんぷりをしていて、相手にしてくれない。五人くらいが固まって、ぺちゃぺちゃ喋っている。白人が来ると相手をするのに、私に対してはそうじゃない。見本を手にとって、在庫はないかと聞いても、調べもせずに首を横に振ってそっぽを向く。 (本当にこいつら、首を絞めたろか)  と腹が立ってきたら、ちょっと離れたところにいた別の女の子がやってきて、在庫を探してくれた。ちゃんとあった。彼女は親切に応対してくれたが、さっきの意地悪な娘は、親切な女の子と私を、小馬鹿にしたような目で眺めていた。 (そりゃあ、あんたは色も白いし、目はぱっちりしているし、美人だよ)  私は腹の中で毒づきながら、これこそフランス人と納得した。事前に覚悟して行ったので、ショックを受けたというよりも、意地悪さを確認したのだ。  これまでにたくさんの横柄《おうへい》な日本人の相手をして、うんざりしていたのかもしれない。ひどい目にもあったのかもしれない。などとああいう態度をとった彼女の心情を察したが、どう考えても彼女は根本的に性格が悪いとしか思えなかった。あれは性根から意地悪の目つきだった。  パリにいた四日間、あちらこちらを歩いてみると、意地悪ではない人もいることがわかった。私はのっけから、特別に意地悪な若い娘に遭遇したらしかった。デパートの家庭用品売場のおばさんも親切だったし、ベルトを買ったお店のマダムもそうだ。有名な毛糸屋さんのお姉さんも、英語で毛糸の説明をしてくれた。私の頭の中には、フランス人は意地悪だとインプットされているから、愛想よくされたり、親切にされると、 「こんなにいい人もいるのか」  と感動した。どこの国でも同じように、感じのいい人もいれば、そうでない人もいる。ただその比率が、そうでない人のほうが多いだけなのかもしれなかった。  犬のフンを放置していても平気なフランス人。自分さえよければ、他の人が不愉快な思いをしても何とも思わない人たち。とんでもなく、わがままで身勝手だ。小さな島国で生まれて、 「人様に迷惑をかけないように」  といわれて育つこととは違う意識が、彼らにはありそうだ。意地悪は我慢できるが、フンのほったらかしに関しては、軽蔑《けいべつ》する。だからフランスのマナーとか、ファッションだとかいわれても、 「どうせあんたたちは、犬のフンをほったらかしにしていても、平気な人たちなんだからさ」  といいたくなるのである。  その一方で、行ってみてはじめてわかったのは、想像していたよりも、人々がみな質素なことだった。特に若い子たちはセーターにジーンズで、首にマフラーをぐるぐると巻いている。それに比べて、年配のマダムたちはよい物を身につけていた。今はそうでもないが、当時は東京の繁華街を歩いていると、若い子たちが着飾っていて、おばさんはそれほどでもなかったので、パリの光景のほうが、私にはまっとうに見えた。  夜も美しい。閉店後のお店の二階のショーウインドーに、美しいドレスが飾られて、そこにきれいにライトが当てられている。昼よりも夜のほうが数段きれいで、まるで夢のようだった。このときばかりは、こういったセンスは素晴らしいと思わざるをえなかった。  今でもフランスという国はよくわからない。もちろんどの国も簡単にひとくくりにできて、理解できるわけではないが。イタリアに行ったときも、イタリア人の適当さにはびっくりしたが、彼らにはまだ可愛気《かわいげ》があった。なんだか駄々っ子のようだった。しかしフランス人は、大人がきっぱりと拒絶している感じで、私はどうしてもなじむのが難しかったのである。  四日間ではなく、もしもパリに住んでみたら、考え方が変わるだろうかと思うこともある。というのは、ある雑誌で、十年以上パリに住んでいる女性が、 「フランス人は大嫌いだけど、パリは大好き」  と語っているのを読んだからである。私は妙に納得してしまった。パリ自体は美しい街だ。しかし私が再び訪れたい場所、住んでみたい場所の上位には、ランクされないのである。  芙美子はパリの小さな宿屋に宿泊しながら、近所を歩きまわった。 「さてパリーの第一頁だけれども、初めの一週はめつちやくちやに眠つてしまつた。第一パリーだなんて、どんなにカラリとした街だらうと、そんな風に空想して来たのだけれど、夜明けだか、夕暮だか、見当がつかない程、冬のパリーは乳色にたそがれて眠るに適してゐた。」  芙美子の部屋は凸の形になっていて、台所がついている。部屋代は三百五十フラン(約三十二円)であった。家具がついているが、それがちゃちなうえに、小柄な芙美子にサイズがまるで合わない。 「洋服ダンスは今にもひつくりかへりさうに木口がふんぞりかへつてゐるし、二ツある椅子《いす》と来たら、背が高くて、足がどうしてもぶらんこしてしまふ。だが、時々笑ひころげるにいゝ椅子だ。此《この》椅子から楽しい仕事が出来ればなぞと野心を持たぬ事だ。笑ひころげて笑ひころげて死んでしまふ時は、此椅子にかぎる、外に楽屋裏から引つぱり出したかの様なガタガタの円テーブル。これは少し猫背で、墜落する姿で、書き物をしなければならぬ。」  芙美子は日本に原稿を書き送り、出版社から稿料を送金してもらいながら、旅行を続けていた。その大切な原稿を書かなければならない机と椅子がとんでもない物だったので、最初に見たときは、愕然《がくぜん》としたのだろう。それでも文章からは、ひどく落胆した様子は窺《うかが》えない。 「墜落する姿で、書き物をしなければならぬ。」  などと書いていて、ユーモラスでさえある。 「こんなの、耐えられないわ」というのではなく、「あれあれ、困ったもんだ」くらいの感じだったのだと思う。  芙美子はパリに着いた当初は、ぐずぐずしていた。日本から景色、習慣、生活環境が違う場所にやってきて、それに慣れるための時間が必要だったのかもしれない。パリに到着して二週間目、芙美子は、 「私はめつちやくちやに街を歩いた。」  と書いている。宿屋はパリでいえば下町にあった。薪《まき》ざっぽうみたいなパンを、囓《かじ》りながら歩けるのでうれしいとも書いている。 「買物に行くに、黒い塗下駄でポクポク歩くので、皆もう私を知つてゐてくれる。」  私はここの件《くだり》を読んで驚いた。 「そうか、塗下駄で歩いたのか」  と妙に感動したのである。  たとえば森茉莉《もりまり》は、フランスに行くことになったときには、日本で準備万端調え、洋服を誂《あつら》えて行った。しかし美意識の強い彼女は、その服がパリの街にはふさわしくない出来であるのがわかり、服だけでなく靴も現地で調達しなおした。そして頭から爪先までパリジェンヌになって、パリの街を歩いた。そこには、あこがれのパリで、きれいな服を着たい気持ちもあっただろうし、フランス人に見劣りしないようにという見栄もあっただろう。それも女心である。しかし私は、パリを黒い塗下駄で、ぽくぽく歩いちゃった芙美子が、とても好きなのだ。  たしかに森茉莉とは違って、いくら売れっ子の林芙美子とはいえ、お金に余裕のある旅ではなかった。もしも私が芙美子だったら、こそこそして、 「とりあえず、なんでもいいから、靴を買っちゃおう」  と思っただろう。これがいちばん、みっともない。堂々と、 「私はパリジェンヌ」  とパリの街を闊歩《かつぽ》した森茉莉も立派であるが、 「これでいいや」  と、のっけから黒い塗下駄で歩いた芙美子もまた立派である。  あこがれのパリで、東洋人の女性が暮らしていこうとするには、違和感なく同化してしまうか、最初っから違和感を押し出すか、そのどちらかしかない。うがった見方をすれば、芙美子は自分をいちばん目立たせる方法を選んだともいえるが、彼女の小柄だった姿を想像すると、きっと地元の人たちには、日本の人形がちょこちょこ歩いてきたように見えたのだと思うのだ。そういう人々の目は優しい。意地悪な目をする人はいないだろう。きっと芙美子はぽくぽくと歩きながら、異国の地で自分の気持ちを落ち着かせていたのだ。 「歩いてゐるより外に落ちつきやうもないパリーの生活だ。」  部屋の中にいると気が詰まる。外に出るとみんな自分のことを知っていて、イタリア食料品店の人は、マカロニばかりを買う芙美子に、 「お前の舌はイタリーがよく判る」  といってくれたりする。それでも芙美子は、カフェの、サラダ、ハム、サーディン、卵、パン、ビールつきの、約二十五銭の昼食すら食べられなくて、悲しい思いをしていたのだった。  映画もレヴューも見た。内容に関しては、日本で見たものと大差ないと思うのだが、出演者の体つきのよさに圧倒されて、くらくらしてしまった。 「どうしてパリーに来たのだらう、これはお嬢さんか淫売婦《いんばいふ》か、そんなものが来るところじやないのかしら……」  そしてこうも考える。 「パリーヘ来て日本が一寸《ちよつと》健康に見える。何故《なぜ》だらう……。各国から来たヱトランゼエ達も同じ事を云ふかも知れない。パリーは華やかに荒《す》さみ過ぎてゐる。」  芙美子はパリには同化しようとも思っていないし、またできなかった。なじめないものを感じていた。でも古い建築物や街並みを見るのは好きだった。 「土が見られないせゐか、パツと咲き出た花屋の色を見ると、せいせいとしていい気持ちになる。」  私は写真などで見る、パリの花がどうしてあんなに美しいのかわからなかったが、この文章ではっとさせられた。土がないから花が美しく見えるということに、私はこの文章を読むまで全く気がつかなかった。しかし芙美子は、ぬかりなくそういうところは、作家の目で細かく目配りしていたのだ。  いっとき、彼女はパリを離れ、田舎に行ってみる。そして戻ってくると、壁の冷たさが神経に障《さわ》った。古い建造物が好きでも、ちょっと気分が落ち込んでいるときには、あの石造りの建物は、人を優しく受け入れてくれるというよりは、厳しく立ちふさがるといった感じになる。人恋しくなった芙美子には、面白くない環境だったのだろう。  パリで芙美子は、孤独だったわけではない。パリでは四軒のアパートを変わったが、そのつど知り合いができた。あるアパートで知り合ったのは、隣室の大学生の兄弟だった。クリスマスの夜、芙美子が夜中の二時ごろに帰ってくると、自分の部屋でノエルの帽子をかぶったまま、見知らぬ男性が酔っぱらって寝ていた。これが隣室のミッシェル兄弟のかたわれだった。  兄は昼間は大学に通い、夜は趣味の天文学の勉強をしていた。弟のほうは眼科を専攻し、夜は自動車学校に通っていた。二人は、 「部屋を間違つたお蔭《かげ》で、日本のお嬢さんに会へて大変うれしい」  などといっては、芙美子を音楽会に誘ってくれたりした。 「だが此《この》大学生兄弟は、東洋の事にかけては、およそニンシキ不足で、日本と中国と混同して云ふのだからをかしい。『爪が一尺位も長くて、テーブルのやうな靴をはいて、頭にスプーンを沢山さしてゐる女がゐるのはお前の国か』と云つたり、私の長い袂《たもと》をいぢりながら、『東洋と云ふ国は、まるで僕の空想以上のところだ。この袂はトランクのやうな用をするのだらう』」  などというのだった。  彼らの部屋にあるのは、大きいベッド、机、洋服ダンスだけ。自分たちの部屋は休息するためにあるので、恋人や友人とは外で会うことにしていると話す。その合理的なけじめのつけ方に、芙美子は感心するのである。  特に弟は芙美子に親切にしてくれた。 「日曜日なぞは、弟の方が自動車に乗つて来て、よく私をさそつてくれたりしたが、人種の差別と言ふものがなく、実に朗らかであつた。」  彼は日本語をよく覚え、また香水を作る趣味もあった。兄もピアノを習いに行っていて、暇があると楽譜を眺めている。日本の学生と違って、朝から晩まで忙しくしている二人を見て、芙美子は好ましく思っていたようだ。  弟のことを「人種の差別と言ふものがなく」と書いているところを見ると、やはり芙美子も嫌な思いをしたのだろう。十年前でさえ、 「日本人はフランス人に、黄色い猿と呼ばれている」  などといわれていたくらいだから、昭和六年のパリでは、どういうふうに思われていたか、想像もできない。  パリについて書いた部分では、芙美子は地元の人々をほとんど悪く書いていない。というよりも、自分を悪くいった人のことは、書かなかったのだと思う。だからパリで芙美子と関わった人たちは、それぞれいろいろな職業を持っているが、みな好ましい人物ばかりになっている。  あるとき芙美子は、フランス語の勉強がしたいと、新聞広告を出した。六十人ほどの応募のうち、半分が女学生だったが、そのなかの十七歳の家政学校に通っている娘さんに来てもらった。芙美子よりもひと回り年下である。彼女はとても真面目で、自分でわからない事柄があると、わざわざ先生に聞いてから、教えてくれる。 「『貴女の宗教は?』  と彼女は初めにかう尋ねる。で、私は周章して仏教だと云ふと、『方丈記を教へてほしい』と云ひ出したのには驚いてしまつた。日本人を教へるには、日本の事を少しでも知らなくてはならないとソルボンヌ大学の東洋の宗教と云ふ課外教室へ通ひ出したと自慢して話してゐた。何としても十七歳の先生がこの様に真面目で、生徒の私が、呑気《のんき》なのには、閉口|頓首《とんしゆ》のかたちである。たまに私が台所をしてゐる時なぞ来ると、この可愛い先生は、さつそく二ツ三ツ料理をつくつてくれたり、全くいゝ友人でもあつた。」 「『私の理想は自分の働いた金でお前の国へ行つてみたい事だ』  これが十七歳の娘の理想で、結婚はどう考へてゐるかと聞くと、文明がこんなに私達若い者を楽しませてくれるのだから、急ぐ事はないと云つてゐた。 『男の友達は沢山ありますか?』  と尋ねると、『男も女も沢山友達がある』と威張つてゐた。」  別に急ぐことはないといっても、もてないわけじゃないと、いいたかった娘さんの気持ちがよく出ていてかわいい。  このような会話を読んでいると、ほとんどこの娘さんと芙美子は対等、あるいは娘さんのほうが年上のように感じる。たかだか十七歳だというのに、すでに立派な大人の考えを持っているのである。日本人に教えるのだから、まず宗教を理解しなければというところがすごいではないか。ただアルバイトでフランス語を教えればいいだけなのに、料理まで作ってくれたりして、この娘さんは本当に真面目で善良な人柄だったのだ。  特別、パリで不愉快な出来事に遭遇したとは、ほとんど書いていないのだが、芙美子は手放しで、 「パリが大好き」  といっているわけではない。芙美子は日本に対して認識不足の、ミッシェル兄弟と話していてこう感じる。 「日本でこそフランスの事を或《あ》る程度までニンシキされてゐるのに、パリーの大学生の日本観が、此の様なもので、驚くよりもまづ、日本と云ふ国が、欧洲から、まるで問題にされてゐないチツポケな国であると云ふ事に、私は何となく肩身のせまさも感じられた。」  大陸は大人文化だと、私は思っている。大陸は、たとえば戦争が起こったときなど、いつ何時、敵国が国境を越えてやってくるかわからない。有事がすぐさま自分の生活、命へ影響を及ぼす。こういう環境に生まれ、育っていたら、神経が大人にならざるをえない。これに比べて島国の人間は、国境の感覚がないものだから、いい意味でも悪い意味でも呑気《のんき》すぎる。成熟していなくてもそれなりに過ごしていけるから、もともと大陸の人々とは、たちが違うのだ。  我が身を振り返り、日本人特有の子供じみた部分がとても嫌になることがある。大陸の大人文化を見習わなければと思う。善良な人であるにこしたことはないが、悪い部分も好ましいと思えるような人に出会えたら、それはとても幸せだ。  私は、ミッシェル兄弟や、フランス語の家庭教師の娘さんみたいな人々と出会えた芙美子がうらやましい。私はやはりフランス人は苦手であるが、もし住んでみたら、彼らのような交流も芽生えるのだろうかと、「三等旅行記」のパリの件《くだり》を読んで、そんなことをふと感じたのだった。  金太郎  私が学校を卒業して会社に勤めているとき、同期にお洒落《しやれ》な女性がいた。ごくごく普通の体型なのに、流行を取り入れるのも、服の着こなしもとても上手だった。そして異様なくらいに顔が広い。有名なレストランに行くと、そこのボーイが親しげに声をかけてくる。若者に人気のあるイタリアンレストランに行くと、厨房《ちゆうぼう》からかわるがわる若いお兄さんたちが出てきて、彼女に挨拶《あいさつ》するといった具合だった。生まれも育ちも東京であるが、青山や六本木の流行の店とは何の関係もない生活をしていた私は、目を丸くして、東京でひとり暮らしをしている彼女を見ていた。 「私と歳が違わないのに、どうしてこんなことができるのだろうか」  着慣れないワンピースやスーツを着て、ヒールのある靴を履き、外回りから戻って、会社の自分の椅子に座ったとたん、 「あー、いたたた」  と脚をさすってばかりいる、学生気分がぬけない私とは、まったく違う世界にいるような気がしたのである。  彼女の口からは、有名人の名前がどんどん出てくる。 「あなた、どんな顔立ちの男性が好み?」  といわれて、当時、ごく一部で有名だったミュージシャンの名前をあげると、彼女は、 「あら、彼ならよく知ってるから、今度、本人を紹介してあげるわよ」  と事もなげにいわれて、ひっくりかえるほどびっくりした。うれしいというよりも、 「なんだ、それは……」  という驚きでいっぱいになり、私は首を横に振りながら後ずさりし、 「いえ、あの、いいです」  とその話を断った覚えがある。  これからはこんな服が流行すると雑誌で読み、次の日、会社に行くと、彼女はそのとおりの格好をしていた。彼女を見れば、今、どんなものがはやっているかがわかった。一人でバーに行くのも平気な人らしく、 「昨日、バーで飲んでたら、○○に誘われちゃった。もちろん、ついていかなかったけどね」  という。目を丸くして、 「へえ、今まで、芸能人に誘われたことってあるの?」  とたずねると、彼女は数人の名前をすらすらとあげ、私はただ、 「はあ……」  といいながら、口をぼんやりと開けているしかなかったのだった。それでも彼女は、会社では目立とうとせず、黙々と仕事をしていた。同僚にも先輩からも嫌われてはいなかったと思う。  しかしあるとき、私は別の同期の女の子から相談された。彼女は口ごもりながら、お洒落な彼女の名前をあげて、 「何度もお金を貸してくれっていわれているんだけど、どうしようかと思って」  というのだ。 「えっ、借りっぱなしなの?」 「ううん、催促すると、『ごめん、ごめん』って返してくれるんだけど、そうするとまた、『貸して』っていうのよ。このままこういうことが続くようだと困るし」  私はどうしてこういうことになるのかと、頭が混乱した。同期入社の給料は男女差もなく、みんながいくら貰《もら》っているかわかる。それなのにどうして同僚に借金をするのかわからない。当時の相場からいって、低い給料ではなかったが、人に貸せるほどゆとりはなかった。 「あの人、親元を離れているから、大変なのかと思ったんだけど、あの格好を見ると、そういうふうに見えないでしょう。どうも私から借金をして、服を買っているみたいなの」  というのだ。  同僚から借金をしてまで、洋服を買う女。 「ふーん」  私は彼女のああいう姿が、そのような事情で成り立っているのを知り、愕然《がくぜん》とした。そこまでして流行の服が着たいのかと、首をかしげた。たしかに私も着る物、身につける物に興味がある。気に入った物があると、 「いいな」  と欲しくなる。しかし当たり前だが収入には限界がある。なんでもかんでも買えるわけではない。それが辛《つら》いところである。当時のOLのほとんどは、五枚の服をあきらめた辛さを、一枚の服を買った喜びで忘れる。そんなものだったと思うのだ。何が何でも欲しい服は買うという人はまれであった。しかし彼女はそういうタイプの人だったのである。  私は、 「もうそんなことなら、お金は貸さないほうがいいと思うよ」  といった。 「そうなのよね」  彼女はため息をついた。同期が何人もいるなかで、どうして彼女に借金を申し込んだのかと考えてみた。彼女は実家から通っていて、家は相当の資産家だった。きっとそれを知っていて、 「彼女ならば、多少の借金をしても、問題はない」  と思ったのだろう。私も実家から通っていたが、父親がいないこともあって、ちょっとまずいと思ったのかもしれない。 「とにかく、次にお金のことをいわれたら、断ったほうがいいわよ」  そう私はいった。  しばらくして、例の彼女が私のところにやってきて、 「ねえ、お金を貸してくれないかしら」  といった。とうとう私のところにきたかと思いながら、 「いいけど、何に使うの?」  と聞いた。すると彼女は、悪びれもせずに、 「欲しいヨーガン・レールのセーターがあるの」  といい、私を愕然とさせた。あまりに悪びれない態度だったので、私は素直に彼女にお金を貸してしまった。そのお金はちゃんと返してもらったが、借金をしてまで服が着たいという執念に、私はただただ驚くばかりだった。友だちのなかには、 「生活費は貸さないけど、洋服代だったら貸してもいい」  という人もいる。わかるような気もするけれど、私は生活費は貸すが、洋服代は貸さないタイプの人間だ。私にとっては、ちゃんと食べ、雨露をしのぐというのが第一の問題で、着る物はその次にランクされる物なのである。  現代の若い女性たちが重要だと考えているのは、 「化粧を含める衣、住、食」  の順だという。人目にさらされる順番で重要になっている。そういう意味では例の彼女は時代を先取りしていたわけだ。知り合いのひとり暮らしの女性は月に三十万、洋服を買うという。一般的なOLよりはお給料はいいが、私はその額に驚いた。その他に毎月、食費、家賃、光熱費が必要なはずだ。いったいどうやって暮らしているのかたずねたら、 「ボーナスや給料とか、前借りの連続です。私が会社をやめるまで、ずっとこれが続くから、前借り人生っていうところですね」  という。足りない分を翌月の給料を前借りして補填《ほてん》し、ボーナスをあてにして、大物を購入する。そういうやり方があったのかと、私はいろいろな意味で感心したのである。  たしかに今の若い女性たちは、スタイルもいいし綺麗《きれい》にしている。あれだけ土台がよければ、お洒落のしがいもあるだろう。しかし繁華街で流行を追う彼女たちの姿を見ていると、人間らしい温かみ、その反対に鬱陶《うつとう》しくなるような生々しさも感じられない。綺麗ですっきりしているのに、ただそれだけ。若いからこれからいろいろな物が身に付くのかしらと、贔屓目《ひいきめ》に見ることもあるけれど、顔自体がぼんやりしていて、この先、長く生きてもきっと同じなんだろうなとしか思えない。人間が歩いているというよりも、眼に見える事柄だけに、敏感に反応するお人形が歩いているような気がするのだ。  林芙美子の女学校のころの写真を見ると、二年生までは女の子であるが、三年生のときの写真の彼女は、ふっくらしてきて女の人という雰囲気になっている。小柄で小太りといった体型のようで、着物を着た姿が生々しい。それはしなを作って意図的にしたものではない。広い意味でいえば色気ともいえるのかもしれないが、「生の女」がそこにいるといった感じなのである。級友たちと比べると、他の娘さんたちはいかにも、女学生といった風情だが、芙美子はその中で土着的な女を感じさせているのだ。  芙美子も女性であるから、着る物に興味がある。しかし生活を成り立たせていけないので、雨露をしのぐのと、食べるのを優先し、衣は後回しになった。道玄坂《どうげんざか》で露店を出している彼女の前を、四月、水の流れのような薄いショールを肩にかけた娘さんたちが歩いていく。芙美子はショールのためにお金を貯めることを考えたら、大変だということがわかり、割引の映画を見にいってしまったのだが、それがつまらなくてがっかりする。ショールをあきらめたのに、映画は何の慰めにもならなかった。  彼女は露店では、茶も湯もなく、お新香と竹輪《ちくわ》の煮つけで、舗道に背中を向けて食べる。昼にうどんを二杯食べて十六銭払い、帰りには鯛焼《たいや》きを十銭買う。たまには米の五升も買いたいものだと思い、 「腰巻も買いたし。」  と日記に書きつけるのだ。  セルロイド工場に勤めるようになっても、生活はいっこうによくならない。 「朝から晩まで働いて、六十銭の労働の代償をもらってかえる。土釜《どがま》を七輪《しちりん》に掛けて、机の上に茶碗と箸《はし》を並べると、つくづく人生とはこんなものだったのかと思った。(略)幾度も幾度も、水をくぐって、私と一緒に疲れきっている壁の銘仙の着物を見ていると、全く味気なくなって来る。」  そうはいいながらも、 「熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚《さんま》を伏兵線にして、ムシャリと頬《ほお》ばると、生きている事もまんざらではない。」  と思う。空腹のときは、あれやこれやと不平不満が爆発するのだが、御飯を食べると芙美子の怒りはおさまる。女性には着る物よりも食べる物に第一に関心がある人、食べなくても気に入った服を着ていれば機嫌がいい人といるが、芙美子の場合は前者である。とにかくお腹が満足しないと、芙美子も満足しないのだ。  今と違って、食べられないときは本当に食べられないから、身を飾るよりも、まず食べる物をという時代だ。だから芙美子がそうなったのも無理はない。でも私は、芙美子はもともと、そんなに着る物には興味がなかったように思える。着る物に関心がある女性だったら、自分が着られなくても、他の女性の着物や洋服の描写が、文章の中にもっと出てくるはずだからだ。  着物の柄《がら》、帯、帯締め、半襟、草履、下駄。洋服よりも描写できる部分はたくさんある。しかし「放浪記」に登場する女たちが、どういう姿をしていたか、芙美子は細かく書いていない。銘仙、メリンス、といった区別はあるが、それがどういった柄行きであるか、色合いであるかは書いていない。きっと彼女にとって、身につける着物はお洒落のためというより、裸を覆う最低限の必要な物でしかなかった。だから二十一歳になっても、体に合わない羽織を、肩上げして着ていた。着物が欲しいと思っても、柄がどうのこうのという問題ではない。新しい物を着たい。ただそれだけである。柄を選ぶなどというところまで、精神的な余裕がなかったのだと思うのだ。  冷飯に味噌汁をかけてかきこむ食事を、芙美子は淋しいと書く。しかし牛肉を食べさせる店に通いで働きだして、そこの女たちを見ていて、彼女は考える。 「私とお満さんをのぞいては、皆住み込みのひとなので、平気で残っていて客にたかっては色々なものをねだっている。 『たあさん、私水菓子ね……』 『あら私かもなんよ……』  まるで野生の集りだ、笑っては食い、笑っては食い、無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。」  自分が望むようには食べられず、御飯と沢庵《たくあん》で食事を済ませても、芙美子は人にたかるという神経は持ち合わせていなかった。人にたかれる女は、何も考えていないから、ある意味では幸せだ。お腹がすいたから、お金のある人にしなだれかかる。ただそれだけだ。しかし人にたかるほど、図々しくない芙美子は、自分自身に腹を立てる。自分で自分を満足させられないことに、怒っている。そういう忸怩《じくじ》たる思いは爆発する。 「階下の人達が風呂へ行ってる隙《すき》に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤《わら》い給え。あざけり給えかし。  あああさましや芙美子消えてしまえである。」  人にはたかれないが、盗みはやってしまう。ここに芙美子のプライドがあるのだ。鼻を鳴らして男にしなだれかかって、空腹を満たすより、味噌汁を盗むほうを選ぶ。盗めば芙美子がやったとばれる可能性もある。鼻を鳴らして男に甘えているほうが罪はない。しかしそうしている自分を、芙美子は許せない。いっそのこと、泥棒という目で見られるほうの自分を選んだのである。  ここが芙美子の強いところだ。たしかにいくら味噌汁とはいえ、盗むというのはよくない。しかし私は芙美子の、男にしなだれかかっておごってもらうくらいなら、盗んでしまえという気持ちはわかる。罪になるとかならないという問題ではなく、男に頼るというのが彼女は許せない。だから同居していた若い女の子が、お金のために中年男の愛人になったのも許せなかったのだ。  辛くなると結婚したいとつぶやきながら、ある一部分で芙美子はひどくさめている。男性とのつき合いがうまくいかずに、男性不信になっていたのかもしれない。カフェーに勤めていても、酔客に愛想笑いはしても、客にも女給さんたちの中にもとけこめなかったのではないかと思う。すべて金のためと自分にいいきかせ、愛想笑いをしていたに違いない。  味噌汁を盗んだ芙美子はひどい自己嫌悪に陥る。 「死ぬる事なんていつも大切に取っておいたのだけれど、明日にも自殺しようかと考えると、私はありったけのぼろ屑《くず》を出して部屋にばらまいてやった。生きている間の私の体臭、なつかしやいとしや。疲れてドロドロに汚れた黒いメリンスの衿《えり》に、垢《あか》と白粉《おしろい》が光っている。私は子供のように自分の匂いをかぎました。」  そして彼女は、ただでさえ少ない衣類のなかから帯と、本を二、三冊選んで売り、二円十銭を作って、なんとか食べていこうとするのだ。  栄養不良の食事がたたって、芙美子は脚気《かつけ》になった。 「脚がずくずくにふくらんできた。穴があく。麦飯をどっさりたべるといい。どっさり食べると云《い》う事が問題だ。どっさりとね……。」 「うで玉子飛んで来い。  あんこの鯛焼《たいや》き飛んで来い。  苺《いちご》のジャムパン飛んで来い。」  そう書いた芙美子は、飴玉《あめだま》と板昆布でなんとか飢えをしのいだ。  街を歩く女性たちを眺めて、彼女はみんながセルロイドの円い輪のついた手提げを持っているのを見て、給料をもらったら買いたいと思う。みすぼらしい身なりの自分を、じろじろと見ている女の眼を、事あるごとに感じる。しかし身なりをきちんとするのは、ちまちまとお金を貯めて、髪結いに行くのが精一杯だった。やっと浴衣《ゆかた》を一枚、買えるようになったのに、途中で昔の男に出会って鰻丼《うなどん》をおごり、浴衣を買うためのお金を彼にやってしまったりする。お金が欲しいといいながら、そういうところが芙美子にはあった。 「着物をぬぐと私は元気になって来る。」  と芙美子はいう。裸になったら、町中でどんな着物を着ていようが、草履を履いていようが関係ない。 「私の裸は金太郎そっくり。只《ただ》、ぶくぶくと肥っている。お尻の大きいのは、下品なしょうこだ。うまいものを食べている訳ではないけれど、よくふとってゆく。ぶくぶくによく肥る。」  一緒に銭湯に行った友だちは、湯上がりに白粉を首筋につけている。 「久しく、白粉をつけた事がないので、私は男の子のように鏡の前に立って体操をしてみる。」  食べるのもおぼつかず、化粧まで手がまわらない金太郎のような芙美子が、鏡の前で手や足を振り回したり、曲げたりしている姿を想像すると、滑稽《こつけい》でとてもかわいらしい感じがする。働きづめにもかかわらず、食べられないとうめいているが、芙美子はまだ二十歳そこそこの娘だ。おばさんならともかく、友だちが化粧をしている間、暇つぶしに体操をするしかないというのは、哀れでもあった。  そんな芙美子でも女優になりたいと、広告を見て応募したことがあった。しかしやってきた男はうさんくさくて、ひと目見て、芙美子は嫌になる。相手が嘘ばかりつくので、彼女も嘘をつく。事務所という、これまたうさんくさい場所に連れていかれた。男が自分の体が目当てだとわかった芙美子が、帰ることにすると、女中さんが、せっかくおそばがきたのにと声をかける。それでも芙美子は帰ってくるのだが、そばが盛られた赤うるしの四個の器が思い出され、あの男が二人分のそばを食べるのだろうか、などとそばのことを考えたりするのだった。 「放浪記」の冒頭の「放浪記以前」という文章のなかに、九州の炭坑町で行商する芙美子一家の姿が描かれている。継父は唐津焼《からつやき》を仕入れて、一人で商売をしに行ってしまった。その間、芙美子は直方《のうがた》でアンパンを売って歩く。 「私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。或る日、街から帰ると、美しいヒワ色の兵児帯《へこおび》を母が縫っていた。 『どぎゃんしたと?』  私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。」  その後、継父が二人を迎えに来てくれた。 「汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子《ガラス》玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。」  働く毎日のなかの、いちばんのご褒美である。芙美子の喜びが伝わってくる。裕福ではないが、当時の芙美子は幸せだったと思う。若い娘が食べる物がないと嘆く姿は悲しい。人に頼りもせず、意地だけで彼女は生きてきた。思春期から娘盛りの二十代の前半まで、「どぎゃんしたと?」という胸おどるような出来事とは無縁に、芙美子が過ごしてきたかと思うと、同性として何ともいえない気持ちになってくるのだ。  パリーの娼婦  女性のなかには、女性に弱いタイプと男性に弱いタイプがある。それは同時に男性に対しては強く、女性に対しては強いタイプでもある。たとえば男性ばかりにひどい仕打ちを受ける女性がいる。側《はた》から見ていて、 「またか」  と思うのであるが、本人は、 「しょうがないのよ」  とあきらめている。世の中は悪い男性ばかりではないけれど、彼女の場合は、どういうわけだか男性にお金を貸したあげくに捨てられたり、浮気をされて逃げられたり、暴力を振るわれたり、ろくでもない男ばかりと知り合ってしまう。殴られて顔が腫《は》れたり、すってんてんになったりと、いつもさんざんな目にあっている。日本人だけでなく、外国人の男性とつき合っても、同じことをされてしまうのである。  そんなに暴力を振るいやすく、お金をまきあげやすいタイプだとは思えないのであるが、いつもろくなことにならない。 「どうして相手のことを、もっとちゃんと見ないの」  といっても、 「気をつけているつもりだけど、そういうタイプの男性としか縁がない の」  と彼女はいう。今度こそは違うだろうと期待しても、結局は同じなのだというのである。美人なので次から次へと男性は寄ってくるのだが、彼らとつき合うことによって、彼女はいつもダメージを受けてしまうのだ。  私の場合は、男性に関しては、ひどいことはしたかもしれないが、された覚えは一度もない。そのかわり、女性にはいろいろなことをやられた。大学生のとき、たまたま友だちの代理で、二週間だけ眼鏡店でアルバイトをしたのだが、そのとき、三ヶ月の契約で一緒に働いていた女の子に、あれこれと仕事を押しつけられ、そのあげくに貸したお金を踏み倒された。 「郷里の親の具合が急に悪くなって、帰ることになったので、お金を貸して」  といわれ、私は銀行から貯金をおろして彼女にお金を貸した。二週間の眼鏡店のアルバイト代よりも高かった。そして彼女は数日、アルバイトを休み、また店にやってきた。お金は返してくれる気配はない。いつ返してくれるんだろうかと思っていたら、その翌日、彼女は黙って姿を消した。店主は、 「あの子、ちょっと変だとは思っていたんだけど」  といい、私に何か迷惑をかけなかったかとたずねた。お金を貸した件を話すと、彼は驚き、 「親の具合が悪いなど、そんな話は聞いていない」  というのである。そういえば、戻ってきたときちょっと日に焼けているような気はしたが、嘘をつくとは想像もしていなかったのだ。  店主は気の毒がり、私がやめるときに、 「ごめんね。何の足しにもならないけど」  と、日給払いのアルバイト代を三日分、増やしてくれていた。よく考えれば、途中でおかしいとわかるはずなのに、 「何か変だな」  と気づいたときには、彼女は店から逃げたあとだったのだ。  私は子供のころから親に、 「人にお金を貸したら、それはあげたものだと思いなさい」  といわれていたので、お金はともかく、嘘をつかれて仕事を二人分押しつけられていたのには頭にきた。それを友だちに話すと、 「あんたは人が良すぎるんじゃないの」  と呆《あき》れられただけだった。私は、 「彼女はそんな人じゃない」  と信じていたのだが、実はそんな悪い人だったのだ。  その次にやられたのは呉服店の女主人であった。彼女は一人で店をきりもりしていて、彼女の身の上話を何度も聞かされていた。父親の放蕩《ほうとう》のために、子供のころは妻妾《さいしよう》同居の生活で、のちに広い土地、家屋を手放し、高校を卒業して会社に勤め、必死に働いて店を持った女性だった。彼女は私の母親よりもやや年下であったが、これまでのいきさつを聞いては、 「大変だったのだな」  と同情し、また彼女のエネルギーに感心した。こちらも独身で仕事をしているので、そういう苦労話には弱いのである。  たしかに彼女は仕事に対して、最初は一生懸命であった。ところがだんだん親しくなっていくうちに、情と商売を一緒にし始め、ひどく困らせられるようになった。勧められた商品を「いらない」と断ると、 「こんなに一生懸命してあげているのに」  という。そういわれると、こちらの心も痛んだ。しかし頼んでもいない反物を持ってきて、 「あなたによかれと思ったのに」  といわれたり、縫い紋の柄《がら》を間違えたので、やりなおしてほしいといったらば、 「そんなに目立つわけじゃないんだから」  などというようになった。そのあげくに帯十本を目の前に並べ、 「どれもいいから、みんな買っておけば」  といわれたときには、さすがの間抜けな私も気がついて、彼女とのつき合いはすべてやめにした。これまた、もっと早く気がつけばよかったのであるが、 「この人は苦労してきたのだ」  と考えると、邪険にできなかった。彼女は嘘をついていたわけではない。ただ女性に甘え、自分の都合のいいように取り扱うのが、とても上手な人だったのである。その店は今はないが、私だけではなく、いろいろな女性に同じようなことをやってきたのだと思うのだ。  私の場合は、相手の女性に精神的にいじめられるのではなく、いつも金銭がつきまとう。だからあきらめられるのだろうが、これが精神的にいじめられたりしたら、相当に辛《つら》かっただろう。私を不愉快にさせた女性は少数で、女友だちには助けてもらったほうが多い。また私の女友だちも、「類は友を呼ぶ」のか、女性にやられるタイプがほとんどなのである。  ある人は同僚の子持ちでバツイチの年上の女性に泣きつかれ、何百万もお金を貸し、しまいには子供の臨海学校のお金まで払わされた。不倫をしたあげくに妊娠した女性に、行き場がないと押しかけられ、出ていってもらうのに苦労したこともある。人間には同性に関わりが深いタイプと、異性と関わりが深いタイプの二つがある。私は男性にはダメージを受けるほど、不愉快にさせられたこともないし、楽しい思いをさせてもらったこともない。しかし女性にはいい面でも悪い面でも学ぶことが多かった。私は男性よりも女性のほうに、いろいろな意味で影響を受けたのである。  芙美子はパリに着いて最初のころ、アパートの下の方の部屋で、次から次に出てくる人が変わるのを、ただ住人が長続きしないのだと思っていた。しかしそれは連れ込み客専用の部屋だった。ソルボンヌ大学の近くのアパートに転居したときは、学生相手の女性が青年を連れてきている。 「モデル上りの女だと聞いたけれど、或《あ》る夜なぞ、サンミツシヱルの噴水のそばに、雨に濡《ぬ》れて男を探している図は、一寸《ちよつと》あはれにも悲しい風景にみえた。」  芙美子はパリの街にあまりに娼婦《しようふ》が多いので驚くこととなったが、偶然、そのうちの一人と知り合う。  パリを歩いていた芙美子は、街で娼婦に肩を叩かれた。おそろしくやせた女性であった。まさか自分を男性と間違えたわけではないだろうに、どうしたのだろうかと、びっくりしていると、彼女は、 「朝から何も食べていない」  という。そんなことは私の知ったことではないと、芙美子が無視して通り過ぎようとすると、 「二フラン下さい」  としつこくついてくるのだった。 「若いんだかお婆さんなんだか、まるで見当のつかない唇の赤い女に、後からついて来られたんでは、あんまり気味のいゝ話でもないので、私は二|法《フラン》渡して急ぎ足に歩き出した。すると、二法|貰《もら》つた女は、コツコツ走つて来て『お前は何だ』といふ。金を貰つてお前は何だと云《い》ふ話もないので、癪《しやく》に障つた私は『偉い文士だ』とイバツておいた。すると、よつぽど薬が利いたのか、二法くれといつた女は、とても勢ひよく私の肩につかまつて、二三日一緒に住んで、私の身の上話を聞いてくれといふのだ。飛んだことになつてしまつたと困つたがもう後の祭りで、その痩《や》せた女はたうとう二法貰つた上に私の寝室までついて来てしまつた。」  自分と同じ国の女性ではなく、東洋の女性に声をかけて無心したのは、外国人ならば優しくしてくれるのではないかという考えがあったのかもしれない。それにうまく芙美子はのせられてしまったのである。 「『グラン・ヱクリバンといつたが、あれは嘘なのよ』と、いまさらテイセイしてみても、割合に居心地のよささうな部屋の中や、二人位は平気で寝られさうな寝台を見ると、もうその女は、東洋の女を見くびつたのか、手袋をぬぎながら私に哀訴して云ふのであつた。 『此頃《このごろ》は、街の男達が私を振り返つてもみなくなつたんですよ。一日おきぐらゐしか御飯が食べられないし、もう部屋はとつくに追はれ、私の女友達の部屋にヤツカイになつてゐるんですけれど、それだつて、厭《いや》な顔されるし、全く生きた気がしないのよ。』  いゝかげん私は自分が甘いといふことに腹がたつてゐたのだ。 『生きた気がしなきやア死んだ気でゐればいゝぢやないの、私は、フイリツプみたいなもの書けないんだから——。』  すると、若いんだか年とつてゐるんだか見当のつかないその女は、破れたやうな声をあげてシクシク泣き出してしまつた。」  芙美子は当惑した。しかし目の前で泣かれてしまっては、追い出すわけにもいかない。といっても、親身に話を聞いてやるほど暇でもない。とにかく知らん顔をして料理を作ろうとすると、彼女が料理を作ってくれた。 「仕方がないのでムツツリしたまゝ差し向かひで夜食を共にしたのだけれど、それが病みつきになつて、私は此女に二週間も居候をされて弱つてしまつた。」  弱りながらも、芙美子は彼女を追い出すようなことはしなかった。 「困った、困った」  と思いながらも、邪険にできないのである。娼婦が同じ部屋にいるというだけで、嫌がる人もいるかもしれないが、芙美子はそうではなかった。どんな職業であれ、人恋しい人、自分にすり寄ってくる人には、べったりではないが、できる範囲の優しさを示した。きっとそれは芙美子が彼女を職業で判断したのではなく、一人の人間として見、自分が彼女と同じ性質を持っていることを嗅《か》ぎとったからだ。  東京のカフェーを転々としていたころ、芙美子はたくさんの女性たちと出会った。 「こんな処に働いている女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあっていても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合うと、他愛もなくすぐまいってしまって、十年の知己のように、姉妹以上になってしまうのだ。客が途絶えてくると、私達はよくかたつむりのようにまあるくなって話した。」  なかには自分の妹のように思い、同居していた女性もいた。しかし彼女がある男性の愛人となったことで、二人の関係は崩壊してしまった。  関東大震災のときには、こういう出来事もあった。灘《なだ》の酒造船が取引先に限り、無料で大阪まで乗せるという新聞記事を見て、芙美子は取引先とは何の関係もなかったが、頼み込んで乗せてもらった。 「七十人ばかりの乗客の中に、女といえば、私と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しい柄の浴衣《ゆかた》を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣蓙《ござ》の上に始終横になって雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。  私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽《さかだる》の上に腰をかけているきりで、彼女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。『ヘエ! お高く止っているよ。』あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。  女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝《ひざ》でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。」  貧しい芙美子に対して、さげすんだ目つきで見たり、笑ったりする女たちも多かった。芙美子の心の中にはそれが、なにくそという気持ちと共にしまい込まれている。自分がそういう思いをしてきたからこそ、パリの娼婦に困りながらも、追い出すようなことはできなかったのである。  娼婦は三十八歳で、二人の子供がいたが、養育院にあずけてしまっていた。 「南仏生れで、妙に図々しいところがあつたけれども、それでも日本風な優しいところがあつて、夜中なぞ子供の夢を見たといつては泣いてゐる。」  そんな彼女はたくさんの日本人男性に買われたことがあって、芙美子が驚くような名士の名前をあげたりする。しかし彼女の無邪気さは芙美子にとって好ましいものだった。 「私が白足袋《しろたび》をほつちらかしておくと、指の先きに造花の薔薇《ばら》をくつゝけて天井へぶらさげたり、仲々童心を持つてゐるのだ。」  芙美子は相手が男女の関係なく、人恋しい性質ではあるが、自分からべたべたと必要以上に甘えるタイプではない。人恋しいのに人から頼られ、甘えられることのほうが多かったようだ。彼女の人恋しい部分は表に出ることはなく、心の中でいつもふつふつと煮えている。だから船のなかで、お嬢さんたちに無視されると、面白くないのである。自分からお嬢さんたちに積極的に声をかけて、仲間に入れてもらおうとは思わない。じっと、 「私に声をかけてくれないかしら。かまってくれないかしら」  と待っている。美しい身なりの彼女たちを見て、芙美子は遠慮しつつ期待していた。そんな彼女の気持ちは、いじらしいようでもあり、いじましくもある。そしてまたお嬢さんたちは、他人の気持ちをくみ取れない、きれいななりはしているが、優しさも思いやりもない、愚かな女だったのだ。  芙美子は年上の娼婦を心配して、街に出ないで仕事を見つけたらどうかと話した。 「二週間の間の私の生活を見てゐて、なめてかゝつてゐるのか、『お前のやうな子供には、往々魂のケツペキがあるもんだが、私のやうになると、そんなものは、一番くだらないやうになつてくるし、……仕事を見つけて、いつたい此世の中にどんな希望があるといふんだらう。——』と、アベコベに私をやりこめたりさへするのであつた。」  彼女には彼女なりの生き方があった。子供を手放して、こんな生活をして、などと後悔ばかりしていたら、自分が浮かばれない。そういう自分をよしとするには、やけにならなきゃならない部分もあったのだろうが、彼女は芙美子のいうことには耳を貸そうとはしなかったのである。  芙美子は最初は困ったが、物珍しいといったら失礼かもしれないが、めったにない人間観察のチャンスと、彼女の生活を興味を持って眺めていた。 「彼女の生活は、昼頃起きると、煙草を吸つて、くだらない唄をうたつて、蓬々《ほうほう》とした姿のまゝで牛乳を買つて来て、ゴクンゴクンと飲み乾して、まあ、そんな毎日であつた。夜になると、体中をロオシヨンでふいて、化粧して出て行く。帰りはいつも一時か二時頃で、その頃は、唇の色なぞ見られたざまではなかつた。それでも帰つて来ると済まなささうに私の額に接吻《せつぷん》するのだが、わざと毛布を引つかぶつて相手になつてやらないので、照れくさいのか猫の鳴き声なぞを真似て昼着のまゝ寝台へ這入《はい》つて来るのだ。」  夜中、帰ってきたときに、照れくさそうに猫の鳴き声の真似をしながら、部屋に入ってくるところがおかしい。どういう職業の人でも、「恥ずかしい」ということを知っている人は憎めない。世間で一般的にいわれる地位や名誉を持っている人でも、恥を知らない人は醜い。もしも彼女が図々しいだけの人間だったら、芙美子はすぐに追い出していたことだろう。  相手になってやらないのも、彼女のことが嫌いだからではない。あれこれ詮索《せんさく》されるのを嫌う芙美子が、彼女にそれをしなかっただけのことだ。人恋しいのは間違いないが、あれこれうるさいことをいわれるのは嫌だ。いちおう自分の部屋に住まわせるために、最低限のことを知っておく権利が、部屋主にはある。しかしそれ以上のことは、知っていてもしようがない。だけど彼女のことは、しっかりと観察していた。 「彼女の財布の中には、十法札のはいつてゐたためしがない。『それはとても女が多いの、かなはない』とつくづく自分の顔を鏡に写しながら、ぐちをこぼしてゐることがある。」  彼女は若い女たちと張り合って、自力で客を取らなければならない。娼婦の多さと三十八歳という年齢では、ふところが潤うわけではなかっただろう。美しくないと恩恵を受けられないという思いは、芙美子にも強くあった。同じ、並んでいるなら美しいほうが得であるとわかっていた。しかしそれが芙美子の行動の原動力となった。 「なにくそ」  という頑張りが、芙美子を流行作家にしたのである。パリの芙美子は裕福な暮らしをしていたわけでもないし、彼女にお金をあげる道理もないと、芙美子は割り切っていた。彼女も同居させてもらっている以上、金銭の援助まで芙美子に頼むような性質ではなかった。  東洋人の女とパリの娼婦の同居生活。突然にこのような状況に陥ったが、突然に同居は解消となる。 「此《この》女も二週間めには、インド人の爺さんを見つけて、私の部屋をサツパリと引きあげて行つてしまつた。」  二週間、一緒にいた彼女に対して、芙美子は、 「世話をしてやったのに、何も礼をしない」  などと恩をきせるようなタイプではない。面白い出来事だったと楽しんだのではないだろうか。他人を同居させてしまうのは、芙美子にとっては日本人も外国人も、顔見知りも見知らぬ人も同じであった。もしかしたら異国の地で、異性ではなく同性と近い場所にいたかったのかもしれない。女同士の気安さ、女性の柔らかさ、肌合いみたいなものを、芙美子は求めていたのかもしれない。買い物に行ったときに、会話をかわす女性はいただろうが、同じ空間にいてくれる人が、実は欲しかったのではないだろうか。娼婦と話したり、観察をしたり、彼女がいた毎日は、結構、芙美子にとっては、精神的に安らいだ日々ではなかったのかと、私は思っている。  子供嫌い  私はずっと子供が嫌いである。きっとこれからも好きにはなれない。町なかで見かけても、いじめはしないけれど、なるべくそばには近寄りたくないと思っている。しかし本当に子供が嫌いなのか、実のところ疑問を持っていた。私はこれまで、どういうわけだか、子供に時間を聞かれる事が多かった。そういう子供たちはみな礼儀正しく、時間を教えると、 「ありがとうございました」  と挨拶《あいさつ》をする、いい子ばかりであった。  しかしそういう子ばかりではない。自転車に乗った五、六人の小学生が、突然、背後で、 「わっ」  と大声を出し、びっくりするとげらげら笑いながら走り去っていく。驚かない人がいると、 「あんた、にぶいんじゃねえの」  と悪態をつきながら、これまた走り去っていくのである。  以前は、追いかけていって一発殴ってやろうかと怒ったりもしたが、最近はため息しか出てこない。 「なんで、ああいう子になっちゃうのかねえ」  とほとんどあきらめの境地である。親だったら誰しも、子供が悪いことをするのを望まないだろう。しかし子供は多かれ少なかれやらかす。罪のないいたずらならば可愛気もあるが、現在はその域を越えている。そらおそろしくなるばかりである。  私は知り合いに、子供について聞いたことがあった。学童保育に関わっている女性にたずねたら、 「私は嫌いじゃないから。子供って面白いよ」  という。彼女が独身だと知ると、子供たちが、どうして結婚しないのかと興味|津々《しんしん》で聞いてきた。 「どうして結婚できないのかしら」  彼女が逆にたずねると、みんな真剣になって考えはじめた。ある子供は、 「服装が地味だからだよ」  といい、別の子供は、 「お化粧をしたらいいよ」  といい、 「お見合いをしてみたら。お母さんに聞いてあげようか」  と真顔でいった子供もいたそうだ。もっとふざけると思っていたのに、彼らは真面目に考えてくれたといっていた。  友人の夫婦などは、 「人様に迷惑をかけるような子供になったら、親としてはどうしようもないので、子供は作らない」  とはっきり宣言した。 「いくら親がきちんとしていても、今の世の中で生きていたら、どうなってしまうかわからない」  というのである。彼女は心配性なところもあり、物事を悲観的に考えることもあるのだが、そういいたくなるのもわかる。いくらきちんとしつけたつもりでも、いつそれが破綻《はたん》し、人様に迷惑をかけるようになるかわからない。それは結婚よりもずっと、人生の大|博打《ばくち》だと思うのだ。  私と友人の女優さんとで、雑誌の仕事で、約一年間、体験取材をした。スキー、そば打ち、草野球をしたなかに、保母体験というのがあった。彼女も子供は苦手なのだが、その嫌いな状況のなかに身を置き、いったい自分がどういうふうになるか、興味があったのだ。私の周辺には子供がいないので、胸がどきどきしていた。あのきゃーきゃーした歓声、しつこさ、うるささ、生意気さ。想像するだけで気が重い。ほとんどもう、どうにでもなれと、やけっぱちだった。  保育園には、当たり前だが赤ん坊を含めて、子供たちがたくさんいた。私たちは保母さんのあとにくっついて、三歳以上の子供たちのまわりをうろうろしていたのだが、あまり役に立ったとは思えなかった。二度はしたくないけれど、体験しておいてよかった。その結果、 「図々しい世の中のすれた大人よりはずっとましだが、やっぱり子供は苦手だ」  ということがわかった。そして子供よりも赤ん坊のほうが、私は苦手だったのも、よくわかったのである。  これまでは、 「赤ん坊はいいけれど、子供はぺらぺら喋《しやべ》り出して、小生意気なところが嫌だ」  と思っていた。喋るようになった子供たちは、とてもこうるさいが、こちらもいいたいことがいえるし、彼らとはコミュニケーションがもてる。こちらが何かをたずねると、むこうは気分にまかせて、ああだこうだと答える。むこうから何かを聞いてくることもある。しかし赤ん坊はそうではない。じーっとこちらの様子を眺めていて、何かを考えている。それが怖いのである。  赤ん坊をだっこさせてもらったが、ぐにゃぐにゃしていて不安定な、あの感触もだめだった。赤ん坊のなかには、すでにおっさんのような風格がある子もいたりして、遠くから眺めているのには楽しいのであるが、深くは関わりあいたくない。おまけに何ともいえない不思議な匂いも私を閉口させた。もちろん、こんな私に抱かれた赤ん坊は、しばらくはおとなしくしていたが、そのうち泣き出した。赤ん坊の泣き声ほどがっくりさせるものはない。おまけにこの生き物が、何ヶ月か前まで、お腹の中にいたと考えると、もう恐ろしくなってきて、私は赤ん坊をあわてて保母さんに返し、後ずさりをして部屋を出てしまったのである。  取材の帰り道、そんな話をしたら、 「赤ん坊が嫌いだったら、どうやってもだめだねえ」  といわれた。もしも自分の子供がいて、小生意気になったときにうんざりしても、赤ん坊のときのかわいさを思い出して、気を取り直したりもできるだろう。しかし赤ん坊が嫌いとあっては、のっけからだめだということになるからだ。  子供というものは、三歳までに親に恩返しをしているそうである。それくらい赤ん坊から三歳までのときが、かわいい盛りなんだそうだ。そういわれればそうかもしれない。そういう思い出があるからこそ、親は子供をかわいいと思うのだろう。  私の知り合いに、子供嫌いな男性がいた。子供だけでなく、家庭を持つことも拒否しているようにみえる。美意識の高い人であった。そんな彼が美意識にかなう女性と結婚をして、子供をもうけた。私は彼に、 「あれだけ子供が嫌いだったのに、実際、自分の子供が生まれたら、どういう気持ちになった?」  と聞いてみた。すると彼は、 「もう、赤ん坊って、信じられませんねえ」  と呆《あき》れている。 「どうして」 「だって、おっぱいを飲みながら、うんこをしたりするんですよ。いったい何なんですかね、あれは」  彼はふざけているのではなく、真面目にそう思っているようだった。赤ん坊がそんなことをするなんてはじめて聞いたので、私が、 「へえ」  と感心していると、 「それに、なんか顔も変なんです」  という。 「大きなエの字が浮き出ているみたいな顔面で、力いっぱいこぶしを握って、ものすごい大声でぎゃーぎゃー泣くんですよ。あれはすごいです」  照れてそういうふうにいったのではなく、本当に彼はとまどっている様子であった。もともと子供が大好きだったのならともかく、そうではなかった男性が、赤ん坊を眺めていたら、 「これはどういう生き物なのだろう」  と疑問を持つのも当然だろう。  それから二、三年がたち、 「お嬢さん、かわいくなったでしょう」  といったら、彼は、 「もうやりこめられてばかりで、父権なんてありません」  と、小声でつぶやいた。なんでも、 「お父さんは、だからだめなのよ」  と、叱られるんだそうである。 「立場がありません……」  彼はそういって笑った。でも、 「いったい何なんですかね、あれは」  といった顔ではなかった。やはり年月がたつにつれて、かわいらしくなってきたのは、彼の表情からみて間違いなかった。  子供を持っている人でも、最初から子供が大好きという人は少なく、多くの人は育てているうちに、愛情がわいてくるのだという。どんなに不細工でも自分の子供がいちばんかわいいのは、親の当然の気持ちである。 「あなたも子供を持てば、変わるわよ」  といわれたりもするが、全く興味がないので、それはどうしようもない。 「じゃ、試しに相手を探して作ってみるか」  という気にはとうていなれないのだ。  二十歳の芙美子は、ある作家の家に二週間ほど住み込んだことがある。仕事といえば下働きで、赤ん坊を背中におんぶさせられる。そのたびに芙美子はがっかりするのである。「あああの百合子と云《い》う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負っているような感じである。——せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。(略)  夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。(略)  赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。」  自分は苦手だと遠ざけているのに、赤ん坊や子供のほうがなついてくるというのは、複雑な思いがするものだ。私も子供に時間を聞かれたり、突然、話しかけられたりすると、そのたびにどきっとする。他に私よりももっと子供好きな人がいるはずなのに、なぜか私に声をかけてくる。私は大人に聞かれたのと同じように対処する。すると自分の用事が済んだ子供たちは、さっさと目の前から去っていくといった具合だ。だからといって、私が子供のほうにすり寄っていく気は毛頭ない。 「来る者は拒まず、去る者は追わず」  なのである。  一人っ子の芙美子が赤ん坊が苦手というのはよくわかる。妹や弟がいないのだから、赤ん坊には慣れていないのは当然だ。のちにカフェーで働くようになった芙美子の周辺には、わけありの子持ちの女性がたくさん出入りしていた。大学生が好きで、十九歳で処女だと思っていた娘が、子持ちだったと知る。それを見抜いたのは一緒に風呂に入っていた仲間だった。二ツになる男の子は、肺の悪い亭主と家にいるという。その話を聞いていた別の女性は、子供ができたが、三月目で辛子《からし》を茶碗一杯といて呑《の》んでおろしたといった。彼女は結婚していたとき、ピアノを習っていたピアノ弾きと不倫をして、身ごもった。すると男が旦那さんの子供にしておけといったので、おろしたというのである。 「『(略)どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりよ。』 『まあ……』 『えらいね、あんたは……』  仲間らしい讃辞がしばし止《や》まなかった。」  そして芙美子は息づまるような切なさで感心していたのである。  芙美子は結婚しようと考えていた同棲《どうせい》相手の男性が、大学を卒業すると芙美子を残して郷里に帰っていったことがあった。兄夫婦が芙美子との結婚を猛反対しているという話は聞いていた。裏切られたと感じた芙美子は、やけっぱちの行動に出る。 「散歩に行った雑司《ぞうし》ヶ谷《や》の墓地で、何度も何度もお腹《なか》をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。」  芙美子に本当に子供ができた兆候があったのかははっきりとわからないが、辛子を呑んだ女性も芙美子も、赤ん坊の立場はまるで考えていない。まだ生まれていない者には命がないと思っているようである。彼女たちの行動は男性に対するあてつけから出ている。男性との関係を清算するには、すべてを消してしまうということで、母ではなく女が強く出ているのである。  そういうことをしたのならば、赤ん坊と関わりあうのを嫌っているかと思えば、芙美子は産婆にでもなってしまおうかと、産園に行ったこともあった。ほとんどの女性が体験する出産に関わっていれば、食いっぱぐれがないとふんだのかもしれない。そこには八人の妊婦がいて、猿のように小さなテーブルを囲んで粗末な食事をしていた。普通とは思えぬ雰囲気だった。芙美子はそこの手伝いをしている少女から、 「『うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。』」  そこではじめて、女たちが「淫売奴」といっていた意味がわかった。どうして私はこんなに不運なんだろうかと思いながら、芙美子はすぐそこを出る。そして、 「腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。」  と暗い気持ちになる。そして、 「清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。」  そしてまた自分を置きざりにして郷里に帰った男への憎しみがわいてくるのだった。 「女は子供をうむために生きている。むずかしい手つづきをふむことなんか考えてはいない。男のひとが好きだから身をまかせてしまうきりなのだ。」  昔の女性のほうが、きちんと子供を育てるということを考え、現代の女性のほうがちゃらんぽらんで、自分の楽しみ優先で、その結果、生まれる可能性のある赤ん坊のことなど、何も考えていないといわれるが、「放浪記」を読んでいると、今も昔も同じというような気がする。逆に昔のほうが今よりもずっと、思い切りがよかったかもしれない。夫婦者には喜ばれる子供も、恋人同士にはいちばん厄介な存在になる。それは紙切れ一枚のことで、子供の存在は大きく意味が違ってくるのだ。  私生児を生んだ友だちと芙美子は、浅草に遊びに行った。友だちの話によると、子供の父親は代議士だということだが、不器量な彼女にそんな男があるとも思えないと、芙美子はさめた考え方をしていた。 「おぶいばんてんをほどいて、お芳さんは子供に乳をふくませ、おしめをあてかえてやっているけれど、ずっくりと濡れたおしめの匂いが何となく不快で仕方がなかった。女だけがびんぼうなくじを引いていると云った姿なり。一生子供なンかほしくないと思う。子供は何度も可愛《かわい》いくしゃめをしている。」  芙美子には、子供を見て、 「いずれは自分も子供が欲しい」  と思うような余裕はなかった。自分ひとりでさえ、食べられるかどうか。男性ともうまくいかず、精神的にもぼろぼろだった。それなのに芙美子は、ちびちびと童話を書いたりしている。それは世の中の子供に向けられたものではなく、芙美子のなかにある子供の部分のために書かれた、つまり自分のために書かれたものだったのだろう。その童話の読者は、裕福だった子供時代の自分である。いちばん最初の読者である作者は、お話を読んで、 「ああ、面白かった」  とうれしくなるのである。童話を書くことは、芙美子にとっては癒《いや》しだったのではなかったのか。おまけに出版社に買ってもらって、お金ももらえればうれしい。子供のときの自分を頭に浮かべて童話を書いているときが、殺伐とした日常を忘れさせてくれたのだと思う。  しかし現実の子供は、芙美子にとっては厄介な代物で、すべて男性との関係につながっていて、ただ不快な存在でしかない。たまたま街で皇族の乗った車と出会ったとき、芙美子はこう思う。 「あのような高貴の方も子供さんを生む。只それだけだ。人生とはそんなものだ。」  しかしただそんなものの人生といっても、芙美子にはまだその人生すらなかったのだ。  その後、手塚緑敏《てづかりよくびん》という、内縁ではあったが、よき理解者を二十四歳のときに得、三年後には売れっ子作家になった。母を引き取り、家も建て、社会的にもすべてが整った。私は芙美子の一人息子が、養子と知ったとき、少し驚いた。あの子供嫌いだった芙美子が、どうして養子をとったのだろうかと、不思議でならなかった。もしかしたら夫と暮らしているうちに、やはり子供がいたらと思うようになったのかもしれない。しかし何らかの理由で夫婦の間に子供はできず、あるいは作って育児に専念するような時間もとれそうもなく、何年も過ぎてしまったというところなのだろうか。  芙美子が生まれたばかりの男の子を養子にしたのは、四十歳のときだった。偶然かもしれないが、この四十歳という年齢が私には重要に思える。すべてが整ったなかで、子供だけが自分の生活に欠けていると彼女は気がついた。子供がいれば芙美子の生活はすべてうまくおさまるのである。芙美子は緑敏氏もその赤ん坊も嗣子として入籍し、授乳のために山羊《やぎ》を飼ったという。  男の子は日本女子大学の附属の幼稚園から、学習院の初等科に入学した。芙美子がどれだけこの子を大切にし、将来に期待していたかがわかる。学習院の初等科に入学させてしまうというのが、いかにも芙美子らしい。二人で撮った写真を見ると、利発で元気そうなかわいらしい男の子である。地方に行くと彼宛にはがきを書いた。差出人は「おかあちゃま」である。書く仕事が軌道に乗り、芙美子はただ書き続けることだけが仕事になっていた。  どんどん仕事が入ってくる。もう物を書くことは癒しではなくなってきた。そのかわりに、子供の存在が芙美子の生活のなかで、大きな癒しになったのは間違いない。自分が生んだとか、生まないとかは、彼女にとってはどうでもよかった。ただ小さい生き物を育ててかわいがり、一緒に遊んだり、笑ったりするのがとても楽しかった。自分の生んだ子ではなく、養子というのも芙美子にとってはよかったのかもしれない。自分と血がつながっていると考えると、余計な感情がわいてきそうだが、突然、目の前に連れてこられた赤ん坊に対して、もう盲目的にかわいがるしかなかったのではないだろうか。  芙美子と子供は八年間、一緒に暮らした。彼女が四十七歳で急死するまで、短い間であるが、とても幸せな期間だったはずだ。その後、息子は十五歳で事故で亡くなったという。私は芙美子がまだあの若さで亡くなったのを、惜しいと思っていたが、このことを知ったとき、彼が亡くなる前に芙美子が先に逝っていて、本当によかった。中年になってやっと子供をかわいがる喜びを知り、安らぎを得た芙美子が、またどん底に突き落とされることがなくて本当によかったと、思った。  いとしいお母さん     ㈵  友だちと、どうして親と子の絆《きずな》が生まれるのだろうかと、話したことがある。最近、テレビでご対面番組を放送している。たとえば両親の離婚によって、実の父親や母親と離ればなれになった子供が、成長して再会を願う。小説にしたら、 「嘘くさいなあ」  とあきれるに違いないのに、その小説よりも現実の人間の人生のほうが、ずっとすさまじいのである。  ある人は両親と別れ、施設に収容されたり、親類に預けられたりする。学校ではいじめられ、親類の家でいびられる。それが明治や大正時代というのではなく、私よりもはるかに年下の人々が、そのような仕打ちにあっているのである。やっとの思いで身内を見つけても、その人が急死。実は借金を残していて、かわって返済を迫られる。ここまで不幸になっていいんだろうかというくらい、いためつけられるのである。そんな辛《つら》い思いを味わったのに、彼らは親との再会を願う。自分を置いて去っていった親を恨んでもいいはずなのに、恨みなどはない。真面目に働き、年老いているはずの親と、ただ会いたいという、それだけなのである。 「それを考えるとね、あなたのうちは不思議なのよ」  私の友だちはそういった。うちの両親は私が二十歳のときに離婚している。それ以来、父親とは会っておらず、二度と会いたくないという話をしたとき、彼女は、 「どうしてだろうねえ」  と首をかしげた。彼女には父親が幼い私と弟を撮影した、膨大な写真を見せたことがあった。 「こんなにたくさん、子供の写真を撮る父親が、子供をかわいがらなかったなんて、信じられない」  という。たしかに写真のなかの私たちは、とても幸せそうに見えるが、現実はそうではなかった。 「私なんか、子供のころの写真がほとんどないのよ」  それはたまたま私の父親にカメラの趣味があっただけの話で、子供に対する愛情とは別のものだ。父親にしてみれば、ただ目の前でちょろちょろして、妙なしぐさや表情をする、面白い生き物を撮ったにすぎなかったのではないかと思う。 「でも、信じられない」  彼女は納得がいかない様子である。たしかに家族がいるのに、まるで独り者みたいに金を遣う父親にうんざりはしていたが、一家離散するほどの辛さであるとか、学業を途中で断念したという経験はない。テレビに出て、親との再会を願う人々よりは、ずっと恵まれた生活を送っていた。 「それなのに、なぜ」  と友だちは首をかしげ、私も、 「さあねえ」  と同じように首をかしげたのだ。  それから何ヶ月かたち、その友だちが、 「本にこういうことが書いてあったよ」  と話してくれた。それは胎児の話で、お腹の中にいるとき、両親が、赤ん坊が生まれるのをとても楽しみにしていると、自分は望まれて生まれるのだという意識が持てるようになるのだという。 「だからね、テレビに出てくるような人は、生まれてからいろいろなことがあったけど、お母さんのお腹の中にいるときは、胎児としてとても幸せな思いをしていたのよ。だからそのときのことが残っていて、親に会いたくなるんだと思うわ」  私はそのとき、目から鱗《うろこ》が落ちたような気がした。私がどうして父親と会いたいと思わず、弟のほうは父親のことを話題にするのも嫌って、心から憎んでいる理由が、わかったのである。  これは母親から聞いた話であるが、私を妊娠したとき、父親は、 「自分の子ではない」  といい張ったそうである。母親には全く身に覚えがないというか、父親に決まっているので、ショックを受け当惑したが、お腹は当然のごとく大きくなり、私を生んだ。ところが彼はどうしても出生届を出そうとしない。いつまでも生まれていないことにされているものだから、しつこく、母親が文句をいい続けて、やっとのこと入籍したという始末であった。私も大人になって、戸籍謄本を見てその事実を確認したとき、本当に腹が立った覚えがある。  弟のほうはもっと悲惨で、妊娠がわかったとたん、連日、 「堕《お》ろせ」  といわれ続けたのを、母親ががんとして首を縦に振らず、意地を通して生んでしまった。これに友だちの話を当てはめると、すべてが氷解するのである。  私は父親に対して、どうも虫が好かず、うさんくさくて嫌いであった。きっとそれは、私が母親のお腹にいるときに、両親の会話を感じとって、 「どうやら父親というやつは、私が生まれてくるのを望んでいないようだ」  とわかり、父親に対して疑《うたぐ》り深い感情を持ったまま、生まれてきたに違いない。そしてそれは根深く埋め込まれてしまって、どうやっても変えられないものなのではないかと思うのだ。  それを考えると弟があれだけ父親を憎み、嫌っているのもよーくわかる。お腹の中で自分の生命を絶とうとしている人間がいるのを知ったら不安になり、そういう人間を憎むのは当たり前だ。弟がとても母親に気を遣い、優しくするのも、よーくわかる。母親が父親の言葉にうなずいていたら、自分は生まれてこなかったのであるから、 「この人のおかげで、命拾いした」  という気持ちが染みついているのだろう。 「だとすると、大変なことよね」  私と友だちはうなずいた。すべては子供がお腹の中にいるときから決まってしまう。胎教などというものも、私はどういう効果があるか、よくわからないのであるが、胎児を安らかな気持ちにさせるのは、いいことなのかもしれない。  こうなると、私と弟が父親を嫌いだというのも、もともとは父親のせいだ。私は、いくら、 「父親が嫌いだ」  といっても、不思議に胸が痛むことがない。意地を張っているわけでもなく、しごく当たり前のことで、どんなに人に、 「それはないでしょう」  といわれたとしても、こればかりは胸を張って、 「嫌いです」  ときっぱりいい切ることができる。同じように弟のほうも、父親に対しての気持ちを、うしろめたく感じてないはずである。私たちにとっては、それはとても自然に体の中に埋め込まれている感情だからだ。  芙美子は私生児として生まれた。芙美子の母、キクは芙美子とは別に、別の男性との間に一人の女の子を生んでいる。この子も男性に認知されない私生児であった。またその他に、二人の私生児を生んだという噂もあったが、さだかではない。芙美子の父親は宮田麻太郎という男で、キクよりも十四歳年下であった。  芙美子は麻太郎側から認知をうけないまま、私生児として届けられた。  私生児などということばは、なにかと小説のネタになったり、トラブルの原因になったりするものだ。世の中から望まれていないとか、まるで悪い者のようないい方をされることもある。どんな状況で生まれても、子供は子供であり、差別はないはずなのに、私生児には、子供と母親をおとしめるようなニュアンスがある。また、 「どうして私を生んだのだ」  と、子供と母親に一悶着《ひともんちやく》起こったりする。しかし芙美子には、母親を批判する意識は全くなかったのだ。 「放浪記」を読むと、芙美子がとっても母親を心配し、愛している。幼い芙美子は実父が事業を手広くやっていたこともあり、裕福な生活を送っていた。しかしそのうち、実父は家に芸者を同居させるようになり、キクは芙美子を連れて、店の従業員の沢井喜三郎という男性と家を出た。彼はキクよりも二十歳年下で、真面目で気性がいいのだけが取り柄という男であった。芙美子はこの継父を「お父さん」と呼び、なついていた。また喜三郎のほうも、芙美子をとてもかわいがっていた。 「ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云《い》う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。」  生活に疲れたとき、父と母がいることをふと思いだし、 「がんばらねば」  と、それが自分をふるいたたせるきっかけになっていたのかもしれない。 「哀れなオッカサンが何故《なぜ》私を生んだのだろう。私生児と云う事はどうでもいい事だけれど、オッカサンには罪はない。何の咎《とが》める事があろう。」  自分の生活さえもままならなかった芙美子は、ふと母親のことを考えると、涙が出てくる。なんとかしてやりたいと思う。しかし自分の身ひとつ、うまく食べさせることができず、芙美子はどうしようもなく、情けない感情に襲われるのだ。  芙美子が十九歳のとき、東京でキクと一緒に露店を出した。雨が降ったらそれで店じまいの天気の様子を見ながらの商売である。 「お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。」  弁当といっても粗末なものだ。 「私はふっと塩《しよ》っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。」  しかし大雨が降ってきて、二人は荷物を背負って電車に乗った。花見の時期の駅にいるのは、きれいに着飾った女性たちと、うかれた紳士であった。 「いい気味だ。もっと降れ、もっと降れ、花がみんな散ってしまうといい。暗い窓に頬《ほお》をよせて外を見ていると、お母さんがしょんぼりと子供のようにフラフラして立っているのが硝子《ガラス》窓に写っている。  電車の中まで意地悪がそろっているものだ。」  そのとき喜三郎は、九州にいた。芙美子たちと同じように、定職についているわけではなく、行商をしてあちらこちらを回っていた。九州に行ってから、手紙が来ないのを、芙美子は少し心配していた。 「父より長い音信が来る。長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云うので為替《かわせ》にして急いで送った。明日は明日の風が吹くだろう。」  芙美子たちは猿股《さるまた》などを売っていたが、その評判のいい猿股を縫っていた安さんが、電車に轢《ひ》かれて死んでしまった。目玉商品を仕入れることも、ままならなくなったのである。 「もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまっている。」  キクは何か仕事の口はないかと、派出婦はどうかと芙美子にすすめる。もちろん芙美子は気がすすまない。「今から飢えて行く私達」とつぶやくのだ。 「放浪記」のあちらこちらに、 「いとしいお母さん」  という言葉が登場する。芙美子はキクがいとおしく気にかかって仕方がないのである。朝起きて、下駄がきちんと洗ってあるのを見ると、 「いとしいお母さん」  とつぶやく。ところが芙美子は、キクに甘えているばかりではなく、彼女に対して母のように接していることも多いのだ。  生活が大変なときに、喜三郎の母が危篤という連絡が入る。芙美子にもキクにも直接は関係がないが、やはり顔を出さねばまずいだろうということになり、芙美子は仕方なく、四ヶ月も家賃を滞納している大家の家に行って借金を申し込んだ。大家は十円を貸してくれた。それをキクに持たせ、岡山に送り出してやる。 「『四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼしたら馬鹿ですよ。』  母は子供のように涙をこぼしていた。 『馬鹿ね、汽車賃は、どんな事をしても送りますから、安心してお祖母《ばあ》さんのお世話をしていらっしゃい。』  汽車が出てしまうと、何でもなかった事が急に悲しく切なくなって、目がぐるぐるまいそうだった。」  母と娘の立場というのは、あるときから逆転してしまうものだが、このようなところを読むと、子供のように嘆いたり泣いたり、喜んだりしている芙美子と同一人物だとはとても思えない。とにかくキクに対しては、自分は頼りになる娘でありたい。母親には心配をかけたくないという、キクヘの思いやりが目立つ。そして血がつながってない喜三郎に対しても、遠く離れた土地から連絡がないと、心配になり、自分の生活が大変でも金を無心されると、何をしてでも送ってやっていた。  関東大震災のとき、芙美子は二十歳であった。そのころ芙美子は根津《ねづ》に住み、両親は新宿の十二社《じゆうにそう》に間借りしていた。地震が起きて、芙美子は両親が心配になって、十二社まで歩いて行くことにする。 「私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽《てんとう》様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。  干しうどんの屑《くず》を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。」  芙美子が十六キロの道のりを歩いて、十二社に着いたのは夕方だった。ところが間借りをしている家の人に、引っ越していったといわれて、呆然《ぼうぜん》とする。そして引っ越し先の番地も聞いておかなかったという、その人に対して、憎しみがわいてきた。涙もこぼれてくる。とにかく今日は野宿をしようと、人の多いところへ足を向けると、ゆがんだ床屋さんの前の広場に、二、三家族が避難していた。人のいい床屋さんのおかみさんが、芙美子の事情を聞き、 「大変でしたね」  とねぎらいながら、寝床を作ってくれた。  翌朝、芙美子はとぼとぼと根津に戻った。権現《ごんげん》様の広場がある。そこで芙美子は喜三郎を見つけた。 「シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかして私を待っていたのだ。 『入れ違いじゃったそうなのう……』と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。 『いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?』」  喜三郎に対しても、芙美子は優しく思いやりがある。そして喜三郎自身も、芙美子を頼っている気配があるのだ。 「私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。 『もらってええかの?………』  お父さんは子供のようにわくわくしている。 『お前も一しょに帰らんかい。』 『番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内には又行きますから……』  道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。」  いくら血がつながっていなくても、キク、喜三郎、芙美子は、三人家族に間違いなかった。芙美子はそれを心のよりどころとしていた。そしてそのよりどころを安定したものにするには、自分の力が重要なんだと考えていた。とにかく母、父を安心させてあげられるようになりたい。それはもちろん両親のためでもあり、自分のためでもあった。  ところが気持ちはつのるが、現実はそうはいかないことばかりだ。芙美子も放浪したが、両親も放浪に近い生活を強いられていた。喜三郎は行商をし、キクは芙美子と同居をしたり、尾道《おのみち》や四国に住んだりした。そばにいても離れて住んでいても、心配になるのは両親、特に母親のことばかりである。  カフェーの女給をしながら、離れて住んでいる母親に手紙を書く。送金が遅れたわびと、キクが送ってくれた鼻の薬がとてもよかったこと。行商に行っている喜三郎から連絡があるか、そしてとにかく、のんきにしていて下さいと書いた。そして最後に、 「ナニヨリモ、カラダヲ、タイセツニ、イノリマス。フウトウヲ、イレテオキマス、ヘンジヲクダサイ。」  と書いた。 「私は顔中を涙でぬらしてしまった。せぐりあげても、せぐりあげても泣き声が止まない。こうして一人になって、こんな荒《す》さんだカフェーの二階で手紙を書いていると、一番胸に来るのは、老いた母のことばかりである。私がどうにかなるまで死なないでいて下さい。このままであの海辺で死なせるのはみじめすぎると思う。」  芙美子はキクにも喜三郎にも、 「私がこうなったのは、あんたたちのせいだ」  というようなうらみがましい考えは、これっぽっちも持っていない。それどころか、全部、自分のせいにしようとするふしすらあった。それは時代的なものか、芙美子の心が優しいからか、それはわからないが、彼女の両親に対する思いやりは、 「仕方がない」  というようなものではなく、 「私がやらねば」  という意志に満ちているのである。  女給仲間のなかには、自分の子供すら手放して、若い恋人のもとへ走る女性もいた。 「お君さんのように何もかも捨てさる情熱があったならば、こんなに一人で苦しみはしないとおもう。お君さんのお養母《かあ》さんと、御亭主とじゃ、私のお母さんの美しさはヒカクになりません。どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。(略)私のゼッタイのものが母であるように、お君さんの唯一の坊やを、私は蔭で見てやってもいいと思えた。」  お君さんの坊やに、芙美子は自分の姿をうつしていたのかもしれない。カフェーにやってくる女性には、いろいろな経歴を持つ女性たちがいる。男性を追いかけ、子供をないがしろにする女。男性と別れ、子供だけを生きがいに働いている女性。芙美子はそんななかで、自分と彼女たちの生き方を照らし合わせてみることもあっただろう。母親が自分を邪魔に思って、実父の家に芙美子を残し、二人で出ていってしまう可能性もあった。喜三郎が血のつながっていない芙美子を、うとましく感じる可能性もあった。もしそうなっても、子供の芙美子にはどうしようもないことばかりである。しかしキクも喜三郎もそんなことはしなかった。貧しかったが、精一杯、愛情を与えてくれた。芙美子は子供のときからそれが痛いほどわかり、 「なんとか安心させたい」  と必死に考えていた。何もかも捨てられない芙美子は、自分と両親を全部丸抱えにして、若い娘時代、心の落ち着かない日々を送っていたのだ。     ㈼  芙美子は「放浪記」のなかでこう書いている。 「義父は母よりも若いひとで、色々な曲折はあったけれども二十年もこの養父は母と連れ添っていました。私は自分の作品の中に、この義父の事を大変思いやり深くは書いているけれども、十七八の頃は、この義父をあまり好かなかったようです。だけど、いまは、私もあれから十年も年齢《とし》をとりました。私もひとかどの分別がついて来ると、好きとか嫌いと云うよりもまずこの父を気の毒な人であったと思い始め、養父に就いてそんなに心苦しくも思わないのだけれども、母親に対するような愛情のないのは何としても仕方がないと思っています。」  十七、八歳のころといえば、芙美子には結婚したいと思っている相手がいて、彼は明治大学に通学していた。そして直方《のうがた》に住んでいた実父を訪ねたりしている。やはり実の父と会ってみたら、継父に対していろいろと不満が生まれてきたのかもしれない。  いっとき尾道に帰っていた芙美子は、十九歳のときに両親と一緒に上京した。 「昨夜も義父と母は、あんなに憎々しく喧嘩《けんか》をしあっていたくせに、今朝は、案外けろりとしてしまっていた。義父と母が別れてさえくれたなら、私は母と二人きりで、身を粉にしても働くつもりなのだけれども、私は、義父が本当はきらいなのだ。いつも弱気で、何一つ母の指図がなければ働けない義父の意気地のなさが腹立たしくなって来る。義父は独りになって、若い細君を持てば、結構、自分で働き出せる人なのであろう……。母の我執の強さが憎くなって来るのだ。」  芙美子はキクが好きだ。しかしそこに継父が関わってくると、 「どうしてあのお母さんが、あんな人と」  といいたくなる。継父のやることが気にいらなくなると、一緒にいてもよいことなどなさそうなのに、いつまでも彼といるキクまで憎くなってくるのであった。芙美子は仕事を終え、夜九時に家に戻る。継父は銭湯に行き、キクは火鉢でおからをいりつけている。鍋《なべ》の中をのぞいてみると、黒くなっている。 「何をさせても下手な人なり。」  と芙美子は書いている。 「お父さんとは別れようかのと母がぽつんと云《い》う。私は黙っている。母は小さい声でこんななりゆきじゃからのうとつぶやくように云う。」  何をさせても下手な人。恋愛をさせても家事をやらせても下手な人。そしてすっぱりとあきらめることができず、いつまでも面倒くさいことを背負っている人。大好きなお母さんのはずなのに、芙美子は客観的にキクをそのような目で見ていた。  芙美子は結婚の話が破談になったのち、物を書く男性と同棲をしていた。相変わらず芙美子は貧しく、男とはあまりうまくいかない暗い日々を送っていた。そんなところヘキクがひょっこりと姿を現す。 「朝。思いがけなく母がまっかな顔をしてたずねて来る。探し探しして来たのだと云って小さい風呂敷包みをふりわけにかついで、硝子《ガラス》戸のそとに立っていた。私はわっと声をあげた。ああ、何と云うことでございましょう。浜松で買ったと云う汽車のべんとうの食い残しの折りが一ツ。うで玉子が七ツ。ネーブルが二ツ。まことにまことにこれこそ神の国の福音のような気がする。私へのネルの新しい腰巻きに包んだちりめんじゃこ。それに、母の着がえと髪の道具。顔も洗わないで、私は木の香のぷんと匂うべんとうを食べる。」  田舎も景気が悪くキクの暮らしもよくなさそうである。芙美子がいくらお金を持っているのかとたずねると、六十銭だと答えたのを聞き、芙美子はどうするつもりだと叱る。 「四五日泊めて貰えれば、お父さんも商売の品物を持って来ると云う。」  きっと田舎にいてもぱっとしないので、芙美子のところにでも行って、気分を変えたかったのだろう。しかし芙美子は継父が輪島塗の安物を東京で売ると聞いて、困り果てる。東京でそのような物が売れるわけがないと、目先のきかない彼に対して、ため息がでるのだ。 「泊めたくても、蒲団《ふとん》がないのよと云ってはみたものの、このまま何処《どこ》へこのひとを追い出せると云うのだろう……。三枚の座蒲団をつないで大きい蒲団を一枚ずつ分けて何とか工夫をして寝て貰うより仕方がない。  陽のあたる処へ蒲団を引っぱって来て母に横になって貰う。母はもう部屋の様子で、私の貧しい事を察したとみえて、何も云わないで、水ばなをすすりながら羽織をぬいで、寝床の中へはいった。」  お茶の葉もないので、お弁当の梅干を入れた熱い湯を、キクに飲ませた。  芙美子のところに、何度もやってくるキクは、そのたびにささやかな期待をしてきたのではないだろうか。芙美子のキクに対する気持ちは、基本的には、 「母親には苦労をさせたくない」  ただそれだけである。キクが心細そうな顔をすると、 「心配しないで」  といい、 「いつか私がちゃんと生活できるようにしてあげるから」  と励ましたのに違いない。それをキクは真に受けて、 「今度こそ、芙美子の所に行ったら、いい話が待っているのではないか」  と胸をふくらませていた。もちろん芙美子は嘘をいったわけではない。キクを安心させたいというのは、芙美子にとって何にも優先するべきことである。キクと同じように、「今度こそ」と思いながら、いつもうまくいかない。万事うまく運んでいかない日々のなかで、キクの顔を見るのはとてもうれしいことだった。しかしそのあとすぐ、自分が真っ先にしなければならない約束を思いだし、芙美子はまた暗い気持ちになる。そして、 「今度もまた、だめだったか」  と落胆するキクも、芙美子と同じような切なさを背負っていた。そしてキクが落胆する顔を見て、二重にも三重にも辛《つら》くなってくるのだ。  芙美子はそんなキクの気持ちを和らげようと、家を出て外をぶらつく。渋谷から市電に乗って神田に出た。 「母は茶色のコオールテンの上下十五円の服を手にして、お父さんに丁度よかねと、いっとき眺めていた。金さえあれば何でも買えるのだ。金さえあればね。」  芙美子は母を連れて歩いているうち、以前、つき合っていた男に、お金を借りに行くことにした。迷ったあげくのことであった。男の家に行くと、彼は不在だったが、帰りかけた途中の道で、偶然にも彼と出会った。芙美子が十円貸してほしいと頼むと、彼は当惑していたが、家に帰って五円を手渡してくれる。 「私はまるで雲助みたいな自分を感じる。芝居に出て来るごまのはいのような厭《いや》な厭な気がして来た。走って路地を出ると、洋服屋の前で母はしょんぼり私を待っていた。」  キクは芙美子の顔を見るなり、便所に行きたいといい出す。 「私は思いきって母をおぶい、近くの食堂まで行った。(略)母を椅子にもおろさないで、私はすぐ、はばかりを借りて連れて行った。腰が曲らないと云うので、男便所の方で後むきに体をささえてやる。何と云う事もなく涙があふれて仕方がないのだ。涙がとまらないのだ。男達の残酷さが身にこたえて来るような気がした。別に、どの人も悪いのではないのだけれども、こうした運命になる自分の身の越度《おちど》が、あまりに哀れにみじめったらしくてやりきれなくなるのだ。」  食堂で二人は寄せ鍋を食べ、酒を飲んだ。 「『大丈夫かの?』  母は金の事を心配している様子。私は現在のここだけが安住の場所のような気がして仕方がない。何処へも行きたくはない。」  家に戻ると同棲している男は寝ていた。 「私は破れた行李《こうり》を出して、その中に座蒲団を敷き母をその中に坐《すわ》らせる。(略)  新聞紙を折りたたんで、母の羽織の下に入れてやる。膝《ひざ》にも座蒲団をかけ、私も行李の蓋《ふた》の中へ坐る。まるで漂流船に乗っているようなかっこうだ。」  のちに芙美子は母を連れて、一人三十五銭の木賃宿《きちんやど》に移った。カフェー勤めがはじまった。 「わけのわからぬ客を相手に、二円の収入あり。まず大慶至極《たいけいしごく》。泥んこ道の夜店の古本屋で、チエホフとトルストイの回想を五十銭で買う。大正十三年三月十八日印刷。ああいつになったら、私もこんな本がつくれるかしら……。」  芙美子は客が途切れると、店の隅で本を読んでいた。芙美子のほっとできる瞬間だったのかもしれない。しばらくしてキクは田舎に帰りたくなったというようになった。  いくら芙美子が頼りになるといっても、慣れない土地で心細く生活するのは、キクとしても気詰まりだった。ただでさえ大変なのに、私がいてはという、母としての気遣いもあっただろう。母娘どちらも顔をつき合わせていると、ほっとする反面、お互いの心配事を察知して、タイミングが悪いときは、二人して気分が重くなる。遠くからお互いを思いやっていたほうがいいと考えながらも、芙美子のほうもふと思いたって、キクのところを訪れることがあった。  連絡もせず、芙美子は尾道のキクと喜三郎の家に行く。外便所の二階建ての家で、押入もない二階の部屋に二人は住んでいた。芙美子が行ったときは二階の物干しで、キクが行水をしていた。もちろん芙美子の顔を見て、キクはびっくりする。そして行水が終わると、首でもくくりたいとぐちをいう。継父は仕事もせずに夜遊びばかりをして、借銭ばかりが増えている。キクは大きい荷物を背負って、商売をしにでかけているのにだ。列車が走ると家が揺れた。継父が帰ってこないので、キクは警察につかまったのではないかと心配していたが、夜更けて彼は帰ってきた。 「クレップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている風采《ふうさい》がどうもいやらしい。金もないくせに敷島《しきしま》をぷかぷかふかしていた。」  芙美子は尾道に戻ったことを後悔した。 「母も、もう一度、東京へ出て夜店を出したいと云う。義父と別れてさえくれれば、私はどんなに助かるだろうと思うけれども、母はこれもなりゆきの事|故《ゆえ》、いましばらく辛抱しなさいと云う。義父はまた今朝からばくちに出掛けてゆく。母だけが、躯《からだ》をすりへらしてこっぱみじんの働きぶりなり。  (略)せめて、私が男に生れていたならばと思う。母の働いた金はみんな父のばくちのもとでに消えてしまう。」  芙美子が継父に対して、大好きとはいえないまでも、思いやりを持っていたのは、キクが必要としている男性だったからである。芙美子と継父との関係は、まずキクがいてそのつながりとして継父がいるという、縦の関係である。見下しているというわけではなく、継父はどうしようもなく、キクとつながってきてしまう存在であった。鬱陶《うつとう》しいと思いながらも、芙美子が完全に彼を無視できなかったのは、もちろんキクの気持ちを察したことと、幼いころの芙美子を心からかわいがってくれたことが頭に残っていたからだろう。キクが継父を大切に思っているから、芙美子もそれに従っているところもあったのに、キクが彼のために苦労をさせられているとなったら、芙美子がキクと継父を別れさせようとするのは、当然のなりゆきだった。 「別れなさいよ。うん、別れようかのう。別れなさいよ。そして、二人で東京へ行って、二人で働けば、毎日飯が食べられる。飯を食う事も大切じゃが、義父《とう》さんを捨ててゆくわけにもゆくまい。別れなさいよ。もう、いい年をして、男なぞはいらないでしょう……。お前は小説を書いておってむごかこつ云う女子じゃのう……。私は、黙ってしまう。」  芙美子はこれまでのキクと継父の関係を、自分にあてはめて考え、 「母は幸せな人なのだ」  という結論に達したのである。  キクは恋愛をした男性と結婚することができず、認知されない子供を生む。生活は貧しくはなかったが、男性は芸者を家にいれたため、喜三郎と家を出た。たった一人ではなく、自分をささえてくれる男性と一緒である。それから二人は連れ添ってきた。芙美子は過去の自分の男性関係を考えて、 「私よりはお母さんのほうが、幸せだ」  と思ったのかもしれない。現実問題をとれば、二十歳年上の妻を働かせ、自分はばくちばかりをしている。とんでもない男といわれても仕方がない。しかし彼らには連れ添った歳月がある。別れなさいといわれて、そういう気持ちになりながらも、いまひとつふんぎれない歳月が、キクのなかにはある。それは娘の芙美子にも絶対わからない、二人だけの関係である。そこまでは立ち入れないことも、芙美子はわかっていた。しかし大切なキクが苦労しているのを見ていると、やりきれなくなる。そしてとうとう継父は、階下の住人の親爺《おやじ》と一緒に、警察につかまった。  以前、芙美子はキクに反発したことがあった。一緒に住んでいると、目にしたくないことも目にする。芙美子のたまった怒りが爆発したのである。どうしてお父さんを好きになれないのかと泣きながらキクはたずねた。 「あンたよりも二十歳も若い男をお父さんなぞと云わせないでよとはんぱくする。母は呻《うな》ってつっぷしてしまう。お前じゃとてなりゆきと云うものがあろうがの……。男運が悪いのはお前も同じことじゃないかのと云う。」  こうなると母と娘の会話ではない。女対女の会話である。母のこれまでの男性関係と、娘の男性関係がぶつかり合う。もしもキクに、 「男性関係に関して、私のしたことにお前は文句がいえる立場なのか」  といわれたら、芙美子は何もいえなくなるだろう。 「男運が悪いのはお前も同じことじゃないかの」  といったのは、精一杯のキクの抵抗だった。 「『お前は八つの時から、あの義父さんに養育されたンじゃ。十二年も世話になって、いまさらお父さんはきらいとは云えんとよ』 『いいや、私はそだてられちゃいないッ』 『女学校にも上がっつろがや……』 『女学校? 何を云うとるンな、学校は、私が帆布の工場に行きながら行ったンを忘れんさったか。夏休みには女中奉公にも出たり、行商にも出たりして、私は自分で自分の事はかせいだンよ。学校を出てからも、少しずつでも送っとるのは忘れてしもうたンかな?』  云わでもの事を、私は袂《たもと》の中で呶鳴《どな》る。 『お前はむごい子じゃのう……』 『ああ、もう、こう、ごたごたするンじゃ、親子の縁を切って、あんたはお義父さんと何処へでも行きなさいッ。私は、明日からインバイでも何でもして自分のことは自分で始末つけるもン』」  いつも両親のやっていることを、はいはいと芙美子は受け入れているわけではなかった。大切なものは大切だけど、芙美子には芙美子の生活がある。 「親なのに、あんたたちは」  という気持ちもあったと思う。しかしいくら喧嘩をしても、芙美子たちは一つの蒲団で寝なければならない。大人三人が一つの蒲団で寝るのである。母と継父が先に蒲団の上で横になっている姿を見ると、芙美子はどうしてもその中に入っていく気になれず、自分のいい放った言葉を後悔しながら、ちゃぶ台の前に座っているしかなかった。  八月の暑い日、芙美子とキクは荷物を背負って商売をしに出た。ところがあまりの日差しに疲れきってしまい、二人はへとへとになった。そんなとき、キクが三日も便秘をしていて頭が割れるようだ、少ししゃがんでいきみたいといい出した。芙美子は、 「『おおげさな事を云うてるよ。少しそのへんでゆっくりしゃがんでなさい』」  といって、荷物の中から新聞紙を破ってキクに渡した。キクは裾をまくって草の中にしゃがんだ。芙美子は寝転がりながら口笛を吹いた。そして、 「『まだかね?』」  としゃがんでいるキクに声をかける。 「『ああ、やっと出た』 『沢山かね?』 『沢山出たぞ』」  こういう件《くだり》を読むと、いくら怒鳴り合い、時には女対女のぶつかりあいをしても、二人は信頼しあっているのがわかる。もしも継父が同じことをしても、芙美子の書き方がこのように、のんびりしたほほえましいものになったかどうかはわからない。実の親だからこそとても憎いし、文句もいいたくなる。芙美子は遠慮をして、継父に直接文句をいうことはしなかったのではないだろうか。それがすべてキクに向けられ、喧嘩になったのだ。  継父の母親、芙美子の義理の祖母は、芙美子に、 「『お前のお母さんの為めに、私の息子が二十年間も子供もなく、男の一生が代《だい》無しになってしまった。』」  といったという。そんな祖母であっても芙美子は大切にした。自分の母親についてそういわれたら面白くないかもしれないが、逆に継父とは血がつながっていない分、気楽なところもあったのではないだろうか。キクの指図がなければ何もできない男が、もしも血のつながっている実の父親だったら、もっと芙美子はやるせなくなったのではないだろうか。無視してもそれほど気にならない存在。大切だとは思うけれども、キクと差をつけても、それほど心が痛まない立場。だから義理の祖母の言葉にも、 「そういう部分もあるかもしれない」  と芙美子は納得したと思うのだ。  芙美子が売れっ子作家になり、両親が働かなくてもよくなったのに、彼らは働き続けた。 「その日その日を働いて日銭をもうけて来ている人達なので、仲々私につきそって隠居をして来ようとはしない。私から商売の資本を貰っては、今だに小商売を始めて、四五日とたたないですぐ失敗をしているのです。」  あとに続けて、隠居をして草でもむしってくれたらいいのにと続けて書いているが、私はキクも喜三郎も、人が良いんだなあとおかしくなってきた。頼りにしていた娘が、世の中に名前も出て、安定した生活を送れるようになったのに、両親はそれはよかったと、ほいほいとそれに乗ってこなかった。それよりも自分たちの小商売を優先し、そして見事に失敗する。何とも愛すべきキクと喜三郎ではないだろうか。芙美子にしてみれば、もういい加減に、ちょろちょろしないでくれといいたくなるのだろうが、継父は芙美子が準備してくれた資本を元手に、一発大逆転を狙いたかったに違いない。 「私は肉親と云うものには信を置かない。他人よりも始末が悪いからだ。」  芙美子はこう書いている。私もどうしてこんな人が自分の親なんだろうかと、情けなくなることもある。しかしどういうわけだか憎みきれない。草むらで肉親がいきんでいれば、「あーあ」とあきれながらも、「まだかね?」といわずにはいられなくなるのが、血のつながりなのである。継父、喜三郎は芙美子が三十歳のときに亡くなった。それから芙美子はキクをひきとって同居する。喜三郎が生きていたら、二人と同居したはずだ。それは愛情というよりも、ずっと働き続け頼られ続けた芙美子の、 「どうせ面倒を見るなら、最後まできっちりやってやろうじゃないか」  という意地がそうさせたのである。  女と男  先日、打ち合わせがあった喫茶店で、若い女性同士が座っている、隣りのテーブルに案内された。何気なく話を聞いていると、つき合っている彼氏がいるんだけれども、気になる男性が出てきて、彼氏はそのことに感づいているらしい。しらをきったら納得したようだったが、これからどうしようといっている。 「困っちゃう」  といいながらも、まんざらでもなさそうである。相談された相手の女性も、顔見知りの女の子から、自分の彼のことを好きだといわれ、それを彼に話してオープンにしたほうがいいのか、それとも黙っていたほうがいいのかといっている。 「だってさあ、あの子、十八じゃん。あたしより若いし、若さじゃ、かないっこないもんね。男だって若いほうがいいに決まってるじゃん。だから黙ってようかと思ってるんだけどさあ」  どうみても彼女たちは二十歳そこそこである。相手が何かいうと、 「そうねえ……」  といちおう相槌《あいづち》はうつものの、答えになるようなことはいっていない。そしてまた自分の話をはじめる。  側《はた》で聞いていると、勝手に自分の話ばかりしていて、相手の話なんか聞いていない。それなのに、二人は納得しているのだった。  小一時間して私たちは席を立った。しかし相変わらず彼女たちは、同じ話を繰り返していた。私はあんなに長い時間、男性の話が続くことに感心してしまった。感心した反面、 「それしか話すことがないのか」  と思ったのも事実である。  私は人間に対しても執着がないので、男性にも執着がない。いちおうつき合っているときは、うまくやっていこうと気を遣ったり、相手の喜ぶ顔が見たいと思う。話をしていても男性からは学ぶことも多かったし、ひどい仕打ちをうけた覚えもない。それなりに楽しい日々をすごしていた。でもふと気がつくと、一人になっている。友だちはそんな私に、 「あなたは嫉妬《しつと》とかしたことがないでしょう。それは男性をつけあがらせるだけよ」  といった。そういえば私は嫉妬をした記憶がない。つき合っている男性が、他の女性の話をしたこともあった。別に彼女が素敵だとかいったわけではなく、こういうことをしてくれたとか、プレゼントをもらったとか、そういう話をするのである。 (焼きもちをやかせようとしているのかしら)  と思いながら、 「それはよかったわね」  という。すると彼は黙ってしまう。話は見事に断ち切れてしまうのであった。 「ばかねえ。わかっているんだったら、そういうときには拗《す》ねたり、『そんな物、受け取っちゃやだ』とかいわなきゃだめよ」  友だちにそういわれた私は、 「あっはっはっは」  と大笑いしてしまった。 「そんなことをいうくらいなら、男はいらん」  というと、彼女はため息をつきながら、 「悲しい性格ねえ」  といった。たしかにそうかもしれない。  私は男性に対して、とっても失礼な女ではないかと反省することがある。昔から金銭的に頼ろうとする気はないし、肉体的にも男性がいなければという体質ではない。重い荷物を持たなければならないとき、動かさなければならないときに、 「あーあ、こういうときに男の人がいたらなあ」  と考えたりする。しかしこれは、男性が家事が面倒くさくなったときに、 「女の人がいたらなあ」  と思うのと同じだからである。男性がそういうと、 「失礼ね」  と怒ったりしたのだが、それと同じなのだ。おまけに、 「重い荷物も、今はお金を出せば便利屋さんが来てくれるから、そのほうが楽でいいや」  などと思ったりする。金で済むことなら、そっちに頼ろうとする。我ながら、 「こんなことをしていると、そのうちにばちがあたる」  と恐ろしくなるし、どうしようもないと思ったりもするのだが、 「まあ、縁があればそのうち何とかなるだろう」  と気楽に考えているのである。  やはり自分一人分くらいは食べさせていける経済力があり、それでいて時には男性に甘えられるような女性が理想なのかもしれない。林芙美子は、 「何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。」  といいながら、 「男に食わしてもらう事は、泥を噛《か》んでいるよりも辛いことです。」  とも書いた。  芙美子には十八歳のときに結婚したいと思っている男性がいた。彼は芙美子が女学生のときに間借りをしていた先の、遠縁であったようだ。女学校を卒業し、彼女は因島《いんのしま》出身の恋人を追って上京した。彼は明治大学の学生で、生活力があるわけではなく、芙美子が彼のためにがんばろうとしたのだろう。ところが男性のほうは、翌年、大学を卒業すると、さっさと島に帰って就職した。そして芙美子との結婚話は破談になった。  女学生時代から彼のことを慕い、芙美子は幸せな結婚生活を望んでいた。しかしそれはかなわなかった。 「男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司《ぞうし》ヶ谷《や》でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父《とう》さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡《あわ》よりはかないものだと思った。」  娘が破談になったことに対して、そのとき母は、 「『こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。』」  といったが、芙美子は、 「『でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……』」  と答える。まだ一縷《いちる》の望みを持っていたのだろう。後日、尾道《おのみち》に戻った両親を訪ねたとき、芙美子は一円の菓子折を抱えて島に帰った男のところに行った。 「沈黙《だま》って砂埃《すなぼこり》のしている縁側に腰をかけていると、あの男のお母さんなのだろう、煤《すす》けて背骨のない藁《わら》人形のようなお婆さんが、鶏を追いながら裏の方から出て来た。 『私、尾道から来たんでございますが……』 『誰をたずねておいでたんな。』  声には何かトゲトゲとした冷たさがあった。私は誰を尋ねて来たかと訊《き》かれると、少女らしく涙があふれた。尾道でのはなし、東京でのはなし、私は一年あまりのあのひととの暮しを物語って見た。 『私は何も知らんけん、そのうち又誰ぞに相談しときましょう。』 『本人に会わせてもらえないでしょうか。』  奥から、あのひとのお父さんなのか、六十近い老人が煙管《きせる》を吹き吹き出て来る。結局は、アメリカから帰った姉さん夫婦が反対の由なり。それに本人もこの頃造船所の庶務課に勤めがきまったので、あんまり幸福を乱さないでくれと言う事だった。」  そっけない母親とは違い、父親のほうは、今日は祭りだから、飯でも食べて行けといってくれた。芙美子は縁側で真っ黒いこんにゃくの煮しめと、油揚げ、里芋、雑魚《ざこ》の煮付けを泣きながら食べた。男が帰ってきた。 「私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。 『当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんかもらえんと云うのだから……』  お父さんの話だ。あのひとは沈黙って首をたれていた。」  彼は何もいってくれない。芙美子は彼を信じてきたのに、もしかしたらと島まで訪ねてきたのに、目の前にいるのはただ黙っているだけの男だった。  芙美子は菓子折を置いて、彼の家をあとにした。 「あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。 『お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……』」  そういうことをいわれたら、芙美子がくらっときてしまうのも当たり前である。この人に一生ついていこうと思うだろう。しかし現実には裏切られた。 「『婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。』  私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。 『もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい、出来なければ私がします。』  男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。 『とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにしても、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。』  私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いてこの男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。」  彼の言葉を信用して、純粋に待っていたのに、男のほうは社会的な体裁、立場を優先的に考えて、芙美子を切り捨てたのである。芙美子にしてみれば、いくら義理の仲だからといって、父親のことを、 「一軒の家もかまえておらん者」  などといわれたら、腹も立ったに違いない。 「砂浜の汚い藻《も》の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時《いつ》までも沈黙って私について来た。 『おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。』」  話し合おうと思っていたのに、彼に会ったとたん、芙美子のそういう気持ちは消え失せた。何をいっても、この人とは一緒にはなれないということがわかったのだ。たとえ一緒になったとしても、周囲の人々があのような状態では、幸せになんかなれっこないと悟ったのだろう。  その後、芙美子は俳優で詩人の男と同棲した。相変わらず彼女は働きづめに働いていた。ところが二人の仲は短期間で終わった。金がないといって芙美子を働かせながら、実は二千円をそっと自分の鞄《かばん》に隠し持っていて、若い女優と浮気をしている。男が自分の節操を守るために、一座に入らないといい、 「『もうじき食えなくなる』」  と芙美子に話す。それを聞いた芙美子は、彼の気持ちを察して働きに出る。しかしそれは嘘だったのだ。 「私は飛びおきると男の枕を蹴《け》ってやった。」  男は別れた女の話を芙美子にした。 「『俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨《ゴム》のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいい気持ちだった。』」 「茫然《ぼうぜん》と夜空を見ているとこの男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃくがどっかで哄笑《わら》っている。私は悲しくなってくると、足の裏が痒《か》ゆくなるのだ。」  男は一人で喋《しやべ》り続ける。そして芙美子が別れたいと切り出すと、男は芙美子を抱いてごまかそうとするのだ。  芙美子は男が出演している劇を見に行く。舞台で男は、芙美子と寝るときに着ている寝間着を身につけている。 「今朝二寸程背中がほころびていたけれど私はわざとなおしてはやらなかったのだ。一人よがりの男なんてまっぴらだと思う。」  彼と別れたあと、芙美子に好意を持ってくれる男性はいた。同じ家に間借りをしている人で、髪の毛を肩まで長くして、 「私の一等|厭《いや》なところをおし気もなく持っている男」  であった。とても親切なことは十分にわかっているが、会っていると憂鬱《ゆううつ》なほど不快になってくる男だった。 「急いで根津《ねづ》の通りへ出ると、松田さんが酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。ニコニコして本当に好人物なのに、私はどうしてなのかこのひとにはムカムカして仕様がない。 『何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいいんですが、貴女がこだわると困るから。』  そう云って、塵紙《ちりがみ》にこまかく包んだ金を松田さんは私の帯の間に挟《はさ》んでくれている。」  芙美子はそれをふりほどいて電車に乗った。芙美子を気遣い、彼は肉を買ってきたといって、ご馳走《ちそう》してくれようとする。そしてネギを切ってくれないかと芙美子に頼む。芙美子は、 「昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった十円ばかりの金を貸して、もう馴々《なれなれ》しく、人に葱《ねぎ》を刻ませようとしている。こんな人間に図々しくされると一番たまらない……。」  善意の押し売りをされた芙美子は、うんざりした。そして十円のうちの五円を残っているからと彼に返した。彼は黙っている。ふと見ると、鍋に肉を入れながら、彼の顔には涙が光っていたのである。  芙美子は肉を食べながら、いろいろな人のことを思いだし、彼と結婚してもいいと思い、彼の部屋に遊びに行ってみた。しかしそこで、彼が新聞を広げて、正月の餅を揃《そろ》えてざるに入れているのを見て、その気持ちは消え失せ、自分の部屋に戻ってきてしまったのだった。 「けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。」  肉を食べませんか。大変そうな様子だから、お金を貸してあげましょう。バナナはいかがですか。男性がこのような細かい事に気がつくのは、いいかえればすることが小さいということだ。そしてお金をあげてもいいといいながら、実はけち。芙美子が彼の親切を素直に受け入れられないのは当然かもしれない。きっと芙美子は、そういう優しさではない優しさを求めていた。その優しさを島の男は持っていた。しかし男性のある種の優しさは、優柔不断と一致する。芙美子はその被害者になってしまったのだ。 「朝、島の男より為替《かわせ》を送って来た。母のハガキ一通あり。——当《あて》にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう——男の親達が、他国者の娘なんか許さないと言ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。」  過去の男性のことはすべて捨て去り、新しい男性に次々と目がいってしまう女性もいるが、芙美子はそうではなかった。今、親切にしてくれる男性よりも、絶望状態とわかっている過去の男性の親切を受けた。でも芙美子は松田をとことん邪険にはできない。入院していると病院から手紙がきた彼を、会って不愉快になるのは重々わかっていながら、見舞いに行く。彼は全治三週間の交通事故だった。 「松田さんは、由井正雪《ゆいしようせつ》みたいに髪を長くしていて、寒気がする程、みっともない姿だった。」  それでも芙美子は彼のために、みかんをむいてあげるのだ。  料理店に勤めたとき、そこの料理番の未成年の男の子に、好意を持たれたこともある。芙美子はまだ子供のくせにと、真剣に相手にしてはいなかった。しかし彼は芙美子につまみ細工のかんざしを買ってくれたり、酔って気分が悪くなった芙美子の背中をさすってくれたりした。 「ヨシツネさんは善良そのものに見えるけれど、どうにも話が合いそうにもない。私がこのひとの二階へ行って寝たところで、私の人生に大したこともなさそうだ。このひとと一緒になったところで、私はすぐ別れてしまうに違いない。ヨシツネさんは平和なひとだ。」  そして、 「私は恋をするなら、もう、心の重たくなるような男がいい。」  と芙美子はいう。そのとき芙美子は詩人の男性と一緒になるつもりでいたのであった。  しかしこれもまた芙美子にとって幸せな状態ではなかった。二人は同棲していたが、芙美子にすべてがのしかかってくる。彼が書いた原稿を芙美子が雑誌社に持っていく。彼の指示で売り込みに行かされるのである。 「今朝、私たちは命がけであらそった。そして、男はしたいだけの事をして街へ行ってしまった。あとかたづけをするのは私なのだ。障子は破れ、カーテンは引きちぎれ、皿も茶碗も満足なのはない。」 「私は足蹴《あしげ》にされ、台所の揚げ板のなかに押しこめられた時は、このひとは本当に私を殺すのではないかと思った。私は子供のように声をあげて泣いた。何度も蹴られて痛いと云う事よりも、思いやりのない男の心が憎かった。」  それでも芙美子は、家をとびだしていった男を哀れと思うのである。  彼は芙美子の母に対して、冷たい態度をとる。突然、母がやってきたので、外出から帰ってきた彼に引き合わせようとすると、知らんぷりをして机の前で本を読みはじめる。母が持ってきてくれたゆで玉子とネーブルを、机のそばに持っていき、おみやげですといっても、彼は、欲しくないときつくいい放って見向きもしない。夜、母と外出から帰ってくると、玉子とネーブルはそのまま残してあった。同棲している女性の親とろくに挨拶《あいさつ》もできない男に対して、芙美子はあの人も辛いのだろうと思いやり、そして彼のために煙草を買ってやるのだ。  芙美子は側から見て、 「この男とかかわりあうと、絶対にいいことはないぞ」  と思うような男性にひかれる傾向があるようだ。女性を叩いてそれが気持ちがいいという男、女性を足蹴にし、嫌なことを押しつけて平気な男。ただ親切だけの善良な男性では満足できなかったようだ。そういう男たちから比べたら、島の男は芙美子にとって、手塚緑敏が現れるまでは、ベストワンの男性だったのだろう。  紆余曲折《うよきよくせつ》はあったが、芙美子は最終的に手塚緑敏という、理解があって心が広く、優しい男性と巡り合うことができた。彼と一生を共にすると決めたとき、彼女は島に行き、緑敏を紹介している。それだけ島の男は芙美子にとっては重要な男性であった。そしてそのことで芙美子は、彼への思いを断ち切ろうとし、目の前の男性と新しく人生を踏み出そうと決意したのだろう。  働く女 「最近、若いのに無職の人が多いわねえ」  と友だちがいった。というのも、たまたま二十代の無職の人たちが犯罪を犯して捕まったニュースが続いたからなのだが、彼女は、 「どうして若いのに無職なのだ。働け!」  と怒っていた。四十歳を過ぎた独身の女が、調子がよくない体に鞭打《むちう》って働いているというのに、 「若い体をそんな無意味なことに使うな」  というのである。同感である。しかし犯罪を犯すのは問題外であるが、無職であるということは、まんざら悪いことではないかと思ったりもするのだ。  私は辛抱が足りない人間なので、嫌になるとすぐ会社をやめてしまった。会社に勤めているときは、 「こんなはずじやなかった」  と思いながらも、毎日の仕事に追われて、じっくり考える余裕もない。飽きっぽい私は仕事にもすぐ飽きるのである。 「とりあえずやめて、次のことを考えよう」  とやめてしまう。我慢に我慢を重ねてもうぎりぎりだったということはない。余力を残して会社をやめていたのである。  きっと私程度の我慢なんて、会社に勤めて仕事をしている人は、みんなしていることだった。前日まで平気な顔をして勤めていたのに、突然、「やめます」といわれた上司は、びっくりしただろうと思う。仕事の内容がどうのこうのとか、将来のこととか、自分の仕事に対する将来の展望などなく、とにかく、今の状態から逃れたい、ただそれだけであった。転職するごとにステップアップする女性もいるようであるが、私の場合は、実は何も考えていなかった。広告の仕事がかっこいいなと思えば広告代理店に就職し、給料がいいと思えば大手のメーカーに就職し、本が好きだから編集の勉強をしたいなと思って編集プロダクションに就職した。つまり、その場その場の行きあたりばったりだったのである。  こんな私から比べると、今の若い人のほうが、よっぽどちゃんとしていると思うことがある。将来のためにと英語、パソコンを勉強し、働く意欲に満ちている。私はそういうタイプではない。とにかく楽なほう、楽なほうへと流れるのである。  無職でいたときは、そういう自分をみつめ直すことができた。 「ああいうふうに考えてやめたけど、わがままだったかもしれないな」  と思ったり、 「次はこうしたほうがいいんじゃないか」  と考えたりした。でも、 「やめたのは失敗だった」  と後悔したことは一度もない。もちろん会社をやめた直後は、開放感のほうが勝っているから、仕事のことなど全く考えない。実家にいたのでほいほいと喜んで家事をひきうけ、一段落すると書店に行ったり、図書館に行ったりする。そんな生活が無職になると待っていた。  会社で嫌なことがあると、 「あのときはよかった」  と失業中のときのことを思いだした。そしてよかったはずの無職になると、 「やっぱり働いたほうが」  と思う。私の仕事に対する気持ちは二十代の半ばになるまで、一本化されることはなくいつもぐらぐらと揺れ動いていたのである。  働くのは基本的には好きじゃなかったのに、今の私は働き者である。まるでアリのようだ。約束した仕事はやらなければならないから真面目にやるが、締め切り日が赤字で書き込んであるカレンダーを見ては、 「どうしてこんなに働き者になっちゃったんだろ」  とつぶやく。もっと働いている人はたくさんいるだろうが、私としては許容量を超えているのだ。若いころは、 「あれもしたい、これもしたい」  と仕事に対する夢もあった。今度こそはよさそうだと思っても、人間関係などの想像もできないトラブルが発生して、やめることになったりした。今はそういうことはない。これから転職するとしても、英語ができるわけでもないし、パソコンは使っているがワープロ程度だし、つぶしがきかなくなってしまった。もうこの仕事をしていくしかない。そう思うと、悲しくもある。どうしても自分のしている仕事に飽きてしまう。だからすぐ無職になる時期を作りたくなるのだが、それもままならず、自分をだましだまししながら、日々、パソコンのキーを叩く毎日なのだ。 「物を書くということは、どういう意味を持っていますか」  とインタビューなどでよく聞かれる。こういう質問がいちばん困る。 「絶対に物を書くんだ」  と思ったこともないし、そのために率先して勉強をしたこともない。何だか、 「はい、はい」  と返事をしているうちに、こういう仕事に就いてしまったというのがいちばん近い。そのときに、 「はい」  と返事をしたということは、書くのが好きだったのかなとも思うが、当時はそんなことよりも、原稿を書くと原稿料がもらえる。そうすれば本ももっと買えるし、着る物も買えるのが魅力だった。書くという仕事よりも、報酬に魅力を感じていたのである。  だから書くということに意味を持たされると、本当に困る。その点においては私は不謹慎な人間だからである。「書く」ということに対して、文学的な深い考えを持ち、全知全霊を傾けて、文字を書く作業に取り組まなければならないという人もいる。そういう人の前では、しゅうっと消えたくなる。私なりに納得する物を書かねばとは思っているが、文学的なことなど何も考えていない。物を書きはじめたころは、お小遣いになるからいいやと軽い気持ちでいて、ふと気がついたら仕事に追われている。自分を食べさせるのと、親が勝手に買ってしまった土地のローン、そしていちばん問題な税金のために、こんなはずではなかったのにとつぶやきながら、仕事をしている有様なのである。  芙美子は女学校を卒業したら、当然、交際していた男性と結婚できるものと思っていた。彼の大学卒業を待って、それまでは勤めるなりするけれど、あとは二人で幸せな結婚生活を送れるものだと思っていた。それが破談になり、芙美子の夢ははかなく消えていった。 「女学校時代のことがふっとなつかしく頭に浮んで来る。宝塚の歌劇学校へ行ってみたいと思った事もあった。田舎まわりの役者になりたいと思った事もあった。(略)  ここから尾道は何百里も遠い。まるで、虫けらみたいな生きかただ。東京には、いっぱい、いい事があると思ったけれど何もない。」  女学校時代、芙美子は文章も絵も上手だったという。宝塚に入りたいというくらいだから、踊りや芸事も好きだったのだろう。しかし結婚がだめになり、実家は頼れない立場となると、ただ上手だ、好きだという程度のことでは、生活を成り立たせるのはとても難しくなる。数学や英語を知っているよりは、帳簿の付け方を勉強していたほうが、はるかに仕事を見つけるのは楽だった。  芙美子は原稿を持ち込みに歩いた。 「食堂を出て動坂《どうざか》の講談社に行く。おんぼろぼろの板塀《いたべい》のなかにひしめく人の群をみていると、妙にはいりそびれてしまう。講談社と云《い》うところはのみの巣のようだと思う。文明も何もない。只《ただ》、汚ないぼろぼろの長い板塀にかこまれている。昨夜一晩で書きあげた鳥追い女と云う原稿が金に替るとは思われなくなってくる。浪六《なみろく》さんのようなものを書くにはよほど縁の遠い話だ。」  次は小石川の博文館だ。待合室に通されると、そこに居合わせた人々が、二十歳をすぎても肩上げをしている芙美子の姿を、不思議そうに見ている。 「まさか鳥追い女と云う講談を書いているとは思うまい。  私は一葉《いちよう》と云う名前がとてつもなく気に入っている。尾崎紅葉もいい。小栗風葉《おぐりふうよう》もいい。みんな偉いひとには『葉』の字がつくので、私も講談を書くときは五葉位にしてみようかと考えた。」  原稿はいちおうは受け取ってもらえた。その帰り、年配の女性が油絵を描いているのを見る。なかなか上手に描いている。芙美子はまず、 「このひとは満足に食べられるのかしら。」  と思い、そのあと、絵描きになりたいと考えたりするのである。  仕事を探しながらの原稿の持ち込みは、なかなかうまくいかなかった。 「田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、椿姫《つばきひめ》の歌をうたい、弓張月を読んだむすめが、いまはこんな姿で、悄然《しようぜん》と生きている。」  芙美子にはプライドがあった。成績はあまりよくなかったが、いちおうは女学校出である。それなのにという思いは、少なからずあったはずだ。当時の状況からすると、芙美子のような環境にいた少女が、女学校に進学するのは珍しいことだったという。周囲の人々の話によると、母親のキクは、自分は食べるものも食べなくても、ちゃんと教育を受けさせたいといっていたそうである。母親のそんな気持ちを芙美子はわかっていた。しかしいざ卒業してみると、芙美子には苦労の日々が待っていたのだ。  楽しそうに町を歩く、自分と同い年くらいの娘たち。それを横目で見ながら、彼女は肩上げをした古い着物で、買ってもらえるあてのない原稿を持ち歩く。昼間は外を歩き、夜は原稿を書く。ある喫茶店で辻潤《つじじゆん》、壺井繁治《つぼいしげじ》、野村|吉哉《よしや》、平林《ひらばやし》たい子らと交流が芽生え、そのなかの友谷|静栄《しずえ》と同人雑誌を出したりした。もちろん金銭的な出資はできない。なんとかして自分の書いたものを読んでもらいたかったのだろうが、辻潤には激賞されたが、それによって生活が潤うというわけではなかった。 「書く。ただそれだけ。捨身で書くのだ。西洋の詩人きどりではいかものなり。きどりはおあずけ。食べたいときは食べたいと書き、惚《ほ》れている時は、惚れましたと書く。それでよいではございませんか。  空が美しいとか、皿がきれいだとか、『ああ』と云う感歎《かんたん》詞ばかりでごまかさない事だ。」  芙美子は野村と同棲するようになるが、彼は暴力的な性格を持ち、自分の書いた原稿を、芙美子に持ち込みに行かすような男だった。詩を書き、「中央公論」に評論が掲載されたこともあり、芙美子は尊敬もしていたのかもしれないが、現実は芙美子が苦労するばかりであった。 「雑貨屋で大学ノート二冊買う。四十銭也。小さいあみ目のある原稿用紙はみるのもぞっとしてしまう。あのひとを想《おも》い出すからだ。あのひとは小さいあみ目の中に、月が三角だと書き、星が直線だと書く。生きて血を噴くものにおめにかかりたいものだ。」 「古本屋で立読み。このぐらいの事は書けると思いながら、古本屋の軒を出ると、もう寒々と心の中が凍るように淋しくなる。何も出来ないくせに、思う事だけは狂人のようだ。」  これなら書けるという根性。こういう気持ちを持った人は、書くことにも執着がもてる人である。私は本を読んで、面白い、面白くないという感想は持つが、これなら書けると思ったことはない。他人の書いたものを自分の書いたものと照らし合わせるということができない。たしかにこのときの芙美子は、ただそういっているだけで、世の中にこれといった物を著していないが、将来の彼女の姿を暗示するような言葉だと思う。  芙美子は高名な人のところへも訪ねていった。生田長江《いくたちようこう》氏のところへ、詩人になりたいといったら、何とかしてくれるかもしれないと、「蒼馬《あおうま》を見たり」と題をつけた詩を持っていく。特に話がすすんだわけでもなく、芙美子は詩を預けて帰ってくる。 「どうにかなるだろう。どうにもならないでもそれきり。」  その帰り、芙美子は五銭のおしるこを食べ、小説は長ったらしくて面倒くさいと思ったりするのだ。  生田氏からは何の連絡もなく、彼女が催促したのだろうか、原稿が送り返されてきた。 「詩は死に通じると云うところでしょうね。ええ御返事がないところはひきょうみれん……。『少女』と云う雑誌から三円の稿料を送って来る。半年も前に持ちこんだ原稿が十枚、題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。——詩集なぞ誰だってみむきもしない。」  家主のおばさんに文句をいわれ続けていたが、やっと間代も払うことができた。 「生きていることもまんざらではない。」  急にせっせと童話を書く。  ちょっとやる気になるが、またすぐに意気消沈して死にたくなってしまう。もちろん本気ではない。 「死にたいと云うことをこころやすく云ってみる。それで、何となく気が済むのだ。気が済むと云う事は一番金のかからない愉《たの》しみだ。」  芙美子には娯楽がない。女性だったら着る物や小間物を買って、嫌な気分をふきとばすこともある。しかし芙美子は八方|塞《ふさ》がりだった。自分の頭の中で考えて、気をまぎらわすしかない。 「死ぬと云えば、すぐ哀しくなってきて、何となくやりきれなくなる。  何でも出来るような気がしてくる。勇気で頭が風船のようにふくらんで来る。」  自分をどん底の気分まで落ち込ませて、そこからはい上がる自分を、今でいえばイメージトレーニングしていたのだろう。  芙美子の持ち込みは続く。万朝報《よろずちようほう》という新聞社にも行く。担当者が来るのを待って、ミルクホールで時間をつぶしながら往来を見ていると、「肺が歌う」などという詩を持ち歩いていることに、突然、自己嫌悪に陥る。 「名もない女の詩なぞ買ってもらわなくてもいい。いまに千頁の詩集を出版しましょう。まるで仏壇のような金ピカ詩集! でこんでこんに塗りたくって、美しい絵を入れて、もう一つおまけに、詩集用のオルゴオルもつけてね、まず、きれいな音の中から、詩が飛び出して来るやつ……奇想天外詩集と云うものを出したい。どこかに、色気の深い金持ちの紳士はいないものかしら。千頁の詩集を出してくれれば、私は裸になってさかだちをしてみせてもいい。」  すぐに突き返されたのか、芙美子は封筒を買い、郵便局で宛名書きをして、その詩を朝日新聞に送った。それを家まで持ち帰らないで、だめだとわかったら、すぐ他社に送るというのが、彼女のたくましいところである。そして浅草に行く。オペラ、映画、浪花節《なにわぶし》などは大入り満員だ。それを見た芙美子は、今度は急に役者になりたいと思うのだった。  人から注目してもらいたい、自分に関心を持ってもらいたいと思っている芙美子の心は揺らいだ。文章を書く事が好きなので、収入が少なくても我慢する、とにかく書いていられればいいとは、芙美子は思っていなかった。とにかくお金を稼ぐことが第一だった。しかし、そんな一生懸命な芙美子の弱みにつけこんで、信じられないことをする人間がいた。 「あの編輯者《へんしゆうしや》の咽喉《のど》もとを締めつけてやって下さい。」  その編集者は芙美子の原稿をたまに買うと、その上前をはねたりする。 「あまり無名なものの作品は載せたくないんだと云う。読者の子供が、無名も有名も知った事ではない筈《はず》だ。一生懸命に書いてみたンですけど駄目でしょうかと必死になる。私は何時間も待たされてなぶり者になってしまう。一枚三十銭でなくてもいい、二十銭でもいいから取って下さいと頼んでみる。では特別ですよとこの間も十枚で一円五十銭くれて、まアよく勉強するンだな。アンデルゼンでも読み給え。はい、アンデルゼンを読みます。玄関を出るなりわっと割れるような息をする。  あの編輯者メ、電車にはねられて死なないものかと思う。雑誌も送って来やしない。本屋で立読みをすると、私の童話が、いつの間にか彼の名前で、堂々と巻頭を飾っている。頭も尻尾《しつぽ》も書きかえられて、私の水仙と王子がちゃんと絵入りで出ている。  次の原稿を持って行く時は、私は、そんなものは何も知らない顔で、にこにこと笑って行かなければならない。また二時間も待たされて、笑顔をつづけている事にくたびれてしまう。ああ、厭《いや》な仕事だと溜息《ためいき》が出る。神様! これでも悪人をはびこらせておくのですか。」  芙美子は暇つぶしで物を書いていたわけではない。それも切羽つまっていた。睡眠時間を削って、みかん箱にしがみついて原稿を書いていた。それを使って自分の名前で、平気で本に載せてしまう編集者。どんなに悔しかったことだろう。その悔しさ、憎しみを芙美子は原稿用紙にぶつけていたのだ。  手塚緑敏と結婚した後も、芙美子は詩や童話を売り込みに歩いていた。昭和三年、芙美子の詩に目をとめた、「女人《によにん》芸術」の主宰者の長谷川《はせがわ》時雨《しぐれ》と、夫である三上|於菟吉《おときち》と知り合った。そして二十歳のころからつけていた「歌日記」に手を加えて、「女人芸術」に連載することになる。この連載の副題が「放浪記」で、名付けたのは三上だった。これが大評判となり、単行本の「放浪記」はベストセラーになった。原稿を売り込みに歩いていた芙美子には、どんどんと仕事の依頼が来るようになった。それから彼女は流行作家として、忙しい毎日を送るようになった。 「長い小説を書きたいと想う事があっても、それは只、思うだけだ。思うだけの一瞬がさあっと何処《どこ》かへ逃げてゆく。」 「或《あ》る作家|曰《いわ》く、三万人の作家志望者の、一番どんじりにつくつもりなら、君、何か書いて来給え……。ああ、怖《おそ》るべき魂だ。あの編輯者が、私を二時間も待たせる根性と少しも変りはない。」  かつてそう書いていたが、長くて面倒だといっていた小説も書き、講演や海外旅行にもでかけた。依頼された原稿のすべてを引き受けていたという話もある。  戦後はますます多忙になり、持病の心臓病も悪化していた。医者が仕事を減らすようにといっても、量を減らすことはなかった。仕事を断ったら、次には依頼がこなくなるのではないかという不安があったのかもしれない。また、勢いに乗って、「書く」ことが楽しくてたまらず、断るなんて頭になかったのかもしれない。「放浪記」が出版されてから二十一年後、芙美子は取材を終えたその夜、作家として絶頂期に、四十七歳で急逝した。流行作家になった芙美子は、作家になれてうれしいとか、そういうことなど考えずに、ただただ仕事に追われていたのではないか。その仕事に追われていること、忙しくしていることが、芙美子にとってはいちばん楽しいときだったのではないだろうか。どんな状況に置かれても、ぼーっとしない、何がしないではいられない、たくましい働き者というのが、芙美子の持ち味だったのだ。  友だち  ごくごく普通の成績で、小、中、高と卒業した私は、志望校とは全く違う大学に入学した。滑り止めのリストにも入っていない学校で、選んだ理由は通学に楽なことと、本を読むのが好きだし、文芸学科だったら嫌にならないで通えるだろうと思ったからであった。ところがいざ入学してみると、書くことに興味があり、気合いが入っている人がたくさんいた。著名な作家を次々に呼び捨てにし、 「だからあいつの文学は……」  などと喫茶店で討論しているのを見ては、 「とんでもないところに来てしまった」  とただ仰天するばかりだった。  物書きとして独立し、仕事をはじめたとき、大学時代に親しくしていた、同じ学科の友だちから、突然、電話がかかってきた。 「子供も小学校に入学して、暇なのよ。あなた書く仕事をしてるんでしょ。ちょっと仕事をまわしてよ」  私は受話器を持ったまま、彼女の電話を懐かしいと思うより、ふざけるなという気持ちが浮かんできた。 「そういう仕事があるかどうか、よくわからないから」  となるたけ冷静にいって電話を切ったが、怒りは収まらなかった。彼女は軽く、暇つぶしにできるアルバイトのような気持ちで、電話をかけてきたのかもしれない。しかしそれは私の神経を逆なでし、それ以来、連絡はとりあっていないし、別に会いたいとも思わないのである。 どういう友だちがずっと残るか、そして疎遠になっていくかはわからない。それぞれの環境の変化もあるだろうし、 「あの人とは友だちでいよう」  などという自分の意思ではなく、ふと気がついたら、この人がいてくれたという感じのほうが近い。これは自分の意思とは関係なく、どういう人々とめぐり合うかは、本当に偶然としかいいようがないと思う。  小学生の芙美子に、 「竹馬の友」  と呼ばれた同級生がいる。彼女は芙美子が作文と図画がとても上手だったと語っている。 「お裁縫なんかね、私はよう縫うたんじゃけど、あの人はね、お裁縫が大嫌い。『うちは裁縫が大嫌い』いうてな。」  芙美子の作文についての記憶も強烈だ。 「本当でないことがよくありましたなあ。茶の間があったり、応接間があったりして、そこで生活しているように書いているんで、『あんたんとこと違うじゃあないか』といったら、『作文というものは、ほんまを書く者はおらんので、みんなええあんばいにいうて、つづまるように書くのがうまいんよ』いうて、そういうて私に言うたです。うそを書いてもええんかいの、思うとったけど、どんな内容だったか、ようおぼえとらんです。」  彼女が「少女世界」という本を読んでいたら、そこに芙美子の文章が載っていたので、作文というものは、ウソを書けばいいのかと思ったというのである。  小学校の作文では、とにかく正直に見たままの事柄を書きましょうと、先生にいわれたのではないだろうか。しかし芙美子は、明らかに嘘とわかっても、内容が面白ければそれでいいと考えていた。その嘘というのが、茶の間があったり、応接間があったりというのが、まだ子供らしくてかわいらしいが、そういう考え方はすでに作家だったのだ。  女学校時代の友人は、芙美子が文士になるといっていたのを聞いている。 「学校では、風采《ふうさい》から言っても、背も低いし、勉強もあまりよくなかったし、目立たなかったです。四年生のころ、短歌をよく作っていたですよ。大学ノートに三冊も四冊もあった。あのころから男性とはよくつきあっていました。積極的でもあったし、早熟でした。」  このころ芙美子はペンネームを使い、詩や短歌を投稿しては、新聞に掲載されていた。女学校時代の友人のなかには、芙美子から物質的に恵まれていないというような泣き言をいわれ、援助をしていた人もいた。その一方で、そんなことをいわれたことなど、いっぺんもないという人もいる。しかし泣き言を聞かなかった人には、週一回あった図画の時間に、忘れたといって、毎週、芙美子が絵の具を借りにきた。でも芙美子は筆は持ってきている。そういわれて彼女は、ちょっと腑《ふ》に落ちないものを感じながらも、今日はまた林さんが絵の具を借りに来る日だなと思って、絵の具を貸し続けていた。  芙美子に絵の具を貸すと、黒の蓋《ふた》が白にかぶせてあったり、黄色の蓋がしてあったりして、ごちゃごちゃになっていた。芙美子は手本を見て絵を描く授業なのに、自分でそうしたいと思ったら、別の色を塗ったりしていた。また、芙美子は新刊本を買った友人からよく本を借りていたが、なかなか返さない。やっと返ってきたときは、本の背がすりきれて、表紙はとれそうになっていたというのである。  芙美子はあまり周囲の人々のことを考えていないようだ。こんなことをしたら、絵の具を貸してくれた人が困るのではないかとか、この本は自分の物ではないという意識はない。とにかく人の物でも、自分のしたいようにしていた。それでも恨まれたりしなかったのは、友だちにめぐまれていたか、芙美子に憎めないところがあったからなのだろう。  女学校をやっと卒業し、上京しても芙美子にはすることがない。うろうろと自分の生き方をさぐっていた二十一歳のとき、平林たい子と知り合った。絵が好きだった芙美子は、女子美に行きたいといっていたこともあったようだが、それはかなわないことだった。芙美子は詩人と同棲《どうせい》し、同じように男性と同棲していたたい子の住まいの近所に転居した。  平林たい子は自身も高名な作家となり、芙美子と同じ立場でものがいえる友人である。芙美子と共にレストランで働き、紹介されてたい子自身もカフェーで働いていたこともあったが、生活は楽ではなく、仕事に必要な一枚のエプロンでさえ、買う余裕がないくらいであった。 「私にも、家庭に悶着《もんちやく》があって落着けなかった。私と彼女とはよく歩いて、世田谷から市内に出てうれもしない童話の原稿を持廻《もちまわ》った。足袋《たび》もはかず、足は埃《ほこり》だらけだった。彼女は持前の画才で手描きの着物を着ていた。今日そんな柄《がら》でも次にはちがう柄のちがう色の着物にかきかえられるのである。私もまねをした。」  思うように着物を買うことができない女たちが、考えついたことだった。  このようにあるときは二人して男運の悪さを嘆いたり、よりそって過ごしてきた。芙美子は相変わらず悩みの多い日々を過ごしていたが、たい子は同棲相手ではない男性と結婚して、鍋《なべ》、包丁、敷蒲団《しきぶとん》を置いて下宿を出ていった。 「『あのひとも、今度こそは幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウないい人だそうだから、誰が来ても負けないわ……』」 「放浪記」で芙美子は、たい子がある男性との間にできた子供の骨を転々と持って歩いていたとも書いている。  平林たい子の「林芙美子」を読むと、親しくした者でしか知らない事柄が随所に書いてある。「放浪記」は芙美子の実体験にいちばん近い作品として読んできたが、もちろんそれが基礎にはあるが、そこここにフィクションがちりばめられていることがわかった。のちに脚色されて書き加えられた部分も多いという。「三等旅行記」もそうだろう。小学校のときにすでに、嘘を書いても作文は面白いほうがいいといっていた芙美子が、そこにいるのである。  実在する人々を描くなかで、そこに笑い事ではすまされないフィクションが入り、それが誰かが特定できると、ひと悶着が起こるのは当たり前である。それが作家であるとか、書いた物に対して反論できるような立場でなければなおさらだ。  芙美子が同棲していた詩人と、のちに結婚した女性は、「放浪記」を読んで嘘が書いてあると怒った。たい子はこう書いている。 「そこで、芙美子さんに抗議した所、返事があって、『私は、あんなことでも書かなければ食べて行くことができないのです。どうかわるくおもわないで。笑ってよみながしてやって下さい。』とかいてあったそうだ。」  また「放浪記」には年下の娘さんと一緒に住んでいて、彼女が外泊する件《くだり》がある。戻ってきた彼女の指には指輪が光っている。それは全くのフィクションだったが、よくないことに、書かれた女性の名前は実名だった。芙美子は都合のいいように、実在する人を動かしていたのだった。  いくら面白く読めればいいとはいえ、実在する人がいる以上、配慮をするべきだ。もしもそうするなら、抗議を受け止められるだけのものを持っていなければならない。それを、 「あんなことでも書かなければ食べて行くことができないのです。……笑ってよみながしてやって下さい。」  などといわれたら、相手はどうしようもなくなってしまう。芙美子は若いころに苦労を背負ってしまった分、名前が出ると世の中に対して、わがままになっていったのではないだろうか。自分のすることは何でも許されるのだというような、それまで耐えていた反動で、何をしてもいいような気になっていたのかもしれないのだ。  たい子はこういう点については、芙美子の悪いところ、相手の悪いところを冷静に判断していた。 「多くの友人の芙美子さんへの友情がよく途中で切れてしまうのは、どういうわけであろうか。」  たい子は芙美子の葬式のときに、井伏鱒二《いぶせますじ》が出席しているのを見た。 「『絶交しておられたときいていたが、よくおいでになった——』と嘆息する思いだった。」  彼女がため息をつくほど、かつて親しくしていたはずの先輩の女性たちは、芙美子の通夜にも葬式にも姿を見せていなかったからである。  行き違いや思いこみ、誤解で、芙美子が悪者になったこともあるだろう。たとえば「放浪記」が世に出るきっかけになった、長谷川時雨夫妻との出会いであるが、長谷川時雨の著作を出版社から出す話を、芙美子が妨害したと時雨はいっていたという。恩を仇《あだ》で返されたという思いもあっただろう。その時雨が亡くなったときに、参列していた人が、彼女のお棺が焼かれるとなったとき、号泣した。それを見た芙美子が物陰で大笑いをしたとか、葬儀に出席せずに追悼会には出席し、葬儀で泣いた作家に対して、 「あんた泣いたんだってね。甘ちやんだね」  といって笑ったとか、とにかく時雨が亡くなったときに、芙美子が無礼なことをしたという話が伝わっている。また追悼号のために言葉をと頼まれると、時雨の悪口ばかりをいったというのだ。  それに対してたい子は、時雨が気をまわしたこともあるだろうし、また芙美子の日常の行動のなかに、そのように疑われてしまう要因もあったと書いている。 「芙美子さんが婦人作家に仕事を渡さないために、一人で小説をどしどし引受けて多々ますます弁じたという巷《ちまた》の噂は、或《ある》いはそうであったかも知れないと考える。」  火のないところに煙は立たずで、芙美子が日常、種火をつけているような行動があり、それが誤解されて広まったこともあったに違いない。  芙美子が作家になってからの話は、あまりいいことがない。彼女にとっては仕事をたくさんこなし、作品を評価されればそれで満足だったのかもしれないが、そのために裏から手をまわす陰の努力を怠らなかった。その陰の努力は相手によっては、すこぶる迷惑であり、眉をひそめたくなるものだった。  たとえば女学校時代、芙美子の文才を認め、本を貸してやり、面倒をよくみてくれた恩師に、作家になってからも頼っている。一冊目の詩集が出たときのこと、 「来月|廿日《はつか》頃に、私の詩集がいよいよ出ますので、私これはお願ひなので、ございますが、詩集と云ふものは、今はほとんど売れる見込はないのです。それでも、本屋で出してくれましたので、一部でも、注文が行くと、私のかたみが広いのですが、厚かましいおねがひですが、一部注文して戴けませんでせうか。(略) 一生に一度のお願ひです。おゆるし下さいませ。」 「私の生きて来た道を詩で見て下さいませ。同窓会の本送つて下さいませんでせうか。少しでも売りたいものですから友人に手紙を出してみようと思ひます。」  などと書いて送っている。パリに旅行中、外国から母に仕送りをするのが大変なので、先生のほうから送金してもらえないか、日本に帰ってから手渡しするのでと頼んだこともある。帰国後、「三等旅行記」が本になったときも頼み事をしている。 「私の三等旅行記、色気のないものです故、女学生買つてくれませんでせうか。私の好きな女学生にせいぜい御フイチヨウ下さいますやうお願ひ申し上げます。」  自分の本を売りたい一心だったのだろうが、まさになりふりかまわぬといった感じがする。それは彼女のたくましさにも通じる、土着的なパワーである。それを図々しいととる人もいたことだろう。  故郷に錦を飾りたい、講演会をしたいと恩師に相談し、嫌がる井伏鱒二をほとんどむりやりといった形で誘い出したのに、彼が持ってきた鞄《かばん》を見て、 「みっともない鞄」  といって顔をしかめたりする。彼は故郷で華やかに迎えられたいという、彼女の気持ちを察して、講演を承諾したのにである。まさかこのことだけで、芙美子と疎遠になったわけではないだろうが、このようなことが度重なり、彼は困ってなるべくつき合わないようにしたのではないかと思う。まだ相手が男性だからいいけれど、このようなことが女性の作家たちに行われたら、芙美子は好かれるわけがない。しかし彼女はそんなことは気にせずに、自分のやりたいようにやって、相手が感じているほど、意に介していなかったのではないかと思う。  芙美子は学生のころから、文士になりたいといっていた。黙っていたら埋もれてしまう。はっきりと意思表示をして、みんなに関心を持ってもらいたい。そういっているうちに、自分はその通りになれそうな気がしてくる。そして芙美子は望みどおりに作家になった。今でいえば、歌手になりたいといっていた子供が、歌手になれたのと同じである。夢を見ていた子供の夢が実現した。それは夢がこわれないようにと必死に守るだろう。相手の気持ちなど考えもせずに、自分のやりたいように突っ走るだろう。反面、彼女を利用しようとする人間も出てくる。だからよけい守りが強固になる。世の中の多くの人は、彼女を利用しようとは考えず、普通の良識を持ち、素直な気持ちで接したはずだ。そんな人々が、彼女の保身のために利用されたら、それは迷惑に違いない。 「彼女は人の情けには、人一倍敏感に感じる方だった。が、どんな素姓の品物でも呉れるものなら貰ってのほほんとしていた。」  作家になっても、基本的なこのような性格は直らなかったのだろう。  芙美子の葬式の当日だというのに、ある女性作家が、芙美子のことについて話し合いたいと申し出た。以前、その作家が雑誌を発刊したとき、芙美子が座談会を自分の家でやってあげると申し出て、彼女はとてもよろこんだ。しかしそのあと、芙美子は、 「私に無料で座談会の料理をつくらせた」  といったというのだった。たい子はみみっちい話と呆《あき》れる。 「芙美子さんと友人との仲たがいにはこの種の小さい問題が多い。芙美子さんの死去に際して、皆が、何かしら芙美子さんには、不快な経験をしている筈だから、一夜話し合う会をしようという意味がその言葉には通っていた。」  さすがにそのときは、話し合いは成り立たなかった。 「が、この提案は、それきりになったものの気持の上ではあとをひいたのか、その次に小説家仲間が集まったときの話題は追悼気分をのりこえて大変なものだった。」  そのなかでひとり、北畠八穂《きたばたけやほ》が弁護にまわっていたと書いている。  女学校時代の友だちが、芙美子が有名になってから、東京の家を訪ねると、手塚緑敏が入り口のバラの手入れをし、芙美子は、 「こんなになるまでに、長いこと苦労した」  といったという。まさに芙美子にしたら、長い苦労のすえ、やっと手にいれた幸せだった。それらが自分にある限り、作家の友人がいなくなることくらい、何ともなかったのかもしれない。  私は平林たい子が書いた「林芙美子」を読んでいて、胸がつまってしまった部分がある。当時、たい子が住んでいた部屋から、芙美子と詩人が住んでいる部屋が窺《うかが》えた。 「野村は我儘《わがまま》者で、芙美子さんを打擲《ちようちやく》したりする。見るからにシニカルな風貌《ふうぼう》で小さい芙美子さんはころころして犬のように走りまわって機嫌をとっていた」  犬のように走り回って、殴られても男の機嫌をとっていた芙美子。そんな姿をそっと見ていたたい子は、基本的に芙美子に対していつくしみの気持ちを持っていたのだろう。  芙美子は「放浪記」のなかで、ひまわりの花を見て、 「来世は花に生まれて来たいような物哀しさになる。ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている。人間だけが悩み苦しむと云ういわれを妙な事だと思う。」  と書いた。しかし、 「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」  なのである。芙美子の葬式は盛大で、女性作家には参列しない人々もいたが、芙美子の仕事と利害関係がない、近所に住む人々はたくさん集まってきていたという。 「放浪記」をいちばん最初に読んだ十歳のとき、私は芙美子のバイタリティーに衝撃を受けた。それから何度も読み直しているが、ある種の図々しさ、節操のなさ、上昇志向にうんざりしたこともある。しかし芙美子が亡くなった年齢に近づきつつある私は、すべて「許す」という気持ちになっている。何から何まで、すべてをふくめて、それが作家、林芙美子である。こんな人は嫌いという次元を超えて、私のなかで林芙美子は、いつの間にが、すべてを納得させるような人になっていたのである。 角川文庫『飢え』平成12年4月25日初版発行