群 ようこ 贅沢貧乏のマリア 目 次  持ち家  結婚生活  料理自慢  旅のパリ  美しい母親  お洒落  異性としての父  きょうだい仲  子育て  作家という仕事  テレビマニア  ひとり暮らし  森茉莉年譜  持ち家  私は二十四歳で実家を出てひとり暮らしをはじめて十六年になる。その間に七回の引っ越しをした。実家も持ち家ではない。ひとりで住んでいる母親も、ついこの間、引っ越したばかりなので、私の実家の場所も母親のそのときの気分によって移動する。親子で、 「西に住みたければ西、東に住みたくなったら東」  と、東京流れ者的な生活をしているのである。  まだ私が若い頃、年配の人たちに、 「もったいないわねえ」  といわれた。多少のことは我慢して、実家にいればいいのにということである。 「地方の人ならしょうがないけどねえ」  地方の人だろうが、東京の人間だろうが、ひとりで暮らしたいと思う気持ちは変わらない。私の育った家は、他の家よりは引っ越しが多かったが、そのつど気分転換になって、なかなかよかった。地方に住む予定はないが、身軽に東京をあちらこちら引っ越して、ぶらぶらしたいと思っている。 「今度はどこにしようかな」  と、次に住む場所を探そうと、東京都の地図を広げても、育った地域に目がいく。その周辺が住みやすくて、中央線、西武新宿線周辺をうろちょろしていた。土地の匂《にお》いというか、雰囲気に違和感を感じないというか、その範囲内なら、どこに引っ越してもすぐ新しい場所に慣れることができた。家も増え、マンションも立ち並ぶようになってはいるけれど、基本的には変わっていない。自分が子供のときに見た風景が、まだ少しだけど残っている。そんな場所ばかりを、選んで引っ越していたのである。  ところが最近、引っ越した場所は、今まで住んでいた地域とは全く別の場所になった。前に住んでいた所は、ゴミが二十四時間出せることと、管理人さんが荷物を預かってくれること、徒歩三分以内で、生活必需品が何でも揃《そろ》ったのはよかったが、九階の高さには、二年間住んでもなじめなかった。 「高層の住居は合わない」  と更新を前に新しい部屋を探していたところ、友だちが、 「隣の部屋が空くけれど」  と連絡をしてきてくれた。友だちの部屋に遊びにいったこともあったし、三階建ての三階で、そこは友だちの住んでいる部屋と空く部屋の二世帯だけ。大家さんは一階に住んでいてお医者さんである。  私は考えた。これからもひとりで住む可能性が強いとなると、いちばん頼りになるのは、友だちである。それも女友だちである。病気になったときも困る。しかし大家さんが一階に住んでいて、おまけにお医者さんというのは、具合が悪くなったときにはとても助かるではないか。私はすぐに、 「ああ、借りる、借りる」  と返事をした。 「部屋は見なくていいの」  と彼女は心配そうにいったが、私は願ってもないことだと即決して、今、住んでいる部屋に移ってきたのであった。  これまでは中央線の沿線だったので、少し歩けば繁華街に出た。大手のスーパーマーケットがあり、大きな商店街があり、買い物をするには不自由しなかった。ところが現在の最寄《もよ》り駅は、私鉄沿線の小さな駅である。スーパーマーケットも一軒しかなく、そこここにあってもよさそうな、コンビニでさえ一軒しかない。商店街はあるが「街」とはいえないくらいに小さい。書店も小さいのが一軒しかない。それでもまあ買い物は、散歩のついでに、隣の駅でもできる。いざとなったら電車に乗ってターミナル駅に行くことも可能だ。でも最初は何だかつまらなかった。私が見慣れていた風景と、都内とはいえずいぶん違っていたからである。  今、住んでいる所は、中途半端にお洒落《しやれ》な家が多い。 「ちょっと小金があるので、父親が持っていた土地に、建ててみました」  という具合である。近所の路地を奥さん連中が運転するベンツやプジョー、BMWがのろのろと走っている。うちの近所に凝った石造りの一軒家があるが、バブルがはじけたとたんに、その住人は一夜にして姿を消したという。フリルやドレープをふんだんに使ったカーテンもそのままで、凝りに凝った郵便受けからは、郵便物があふれているのだ。  コンクリート打ちっ放しの無機的なマンションに住んでいる、七十歳過ぎの大家さん夫婦もいる。老人にはいかにも不釣合な住まいである。きっと業者に、 「やはりここで家賃を見込むのなら、これくらいのものを建てなければ」  と勧められたのだろうが、その冷たい感じのする、畳の部屋がひとつもないという住まいに、老夫婦が住んでいることが、私が今、住んでいる地域を象徴しているような気がする。散歩をしていて出会う年寄りの顔が、しゃきっとしていない。幸せそうに見えないのである。  以前、私が吉祥寺に住んでいるとき、知り合いの男性に、 「僕はあそこらへんに住んでいる年寄りは嫌いですね」  といわれたことがある。どうしてかとたずねたら、彼は親切のつもりで、電車のなかで老人に席を譲ろうとした。ところがその老人は、見るからに老人であるにもかかわらず、 「私はそんな歳《とし》ではない。失礼な」  と怒られたというのである。席を譲ろうとしたうえに怒られて、彼も憮然《ぶぜん》とした。そしてその老人は吉祥寺で降りていったというのである。  たしかに、私が住んだことがある、中央線沿線の町で見かけた年寄りは、元気すぎてうんざりするくらいであった。腰が曲がっているのに、大きな買い物袋を持って、小走りに歩くばあさんもいた。人が歩いているなかを、スピードスケートをしているばあさんがまじっているみたいだった。日中、散歩をする習慣がある私は、よく年寄りの姿を見かけたが、少なくとも不幸そうに見える人たちはいなかった。歳はとっていたが暗い顔はしていなかった。ところがこのへんは、年寄りだけでなく、中年の奥さんもおじさんも、どういうわけだか暗い。スーパーマーケットに行っても活気がない。すべてがすっきりせずに、 「どよーん」  と澱《よど》んでいるのである。  私はこの場所に友だちが住んでいなかったら、引っ越してこなかった。ここにずっと住んでもいいなと考えているのは、友だちがいるからである。それくらいここは私の住みたい場所とは違っていたし、住んでみてやっぱり違うなと思った。自分が落ち着く場所の匂いを、この町は持っていなかったからである。ひとことでいうと、 「嘘《うそ》っぽい」  町なのだ。それがいっそのこと、先端的なデザインで造られた、嘘でかためられた街ならともかく、小金持ちのそこそこ趣味で造られているから、嫌なのである。  森茉莉《もりまり》は母親が亡くなったあと、千駄木《せんだぎ》の家で弟と住んでいたが、弟が結婚することになって家を出、当時の下谷神吉町《したやかみよしちよう》の勝栄荘でひとり暮らしを始めるようになった。三十八歳であった。それまで彼女は、十六歳で結婚し離婚、また二十七歳で結婚して仙台市に住むが、翌年、離婚して実家に戻っている。当時の女性としては当たり前なのだろうが、結婚して夫と住むのが前提であって、ひとりで暮らすわけではなかった。家族から出て家族のなかへ入るという、女性の個人的な立場など、ほとんど考えられていない状況であった。  森茉莉はいわゆるお嬢さまである。結婚の経験があるといっても、髪をざんばらにして子供をおぶい、手をあかぎれだらけにして、たらいでおむつを洗うのとは違う生活をしていた。そういう人が、あれだけ好きだった父親をなくし、母親もなくし、弟の結婚のために家を出るとなると、私は他人事《ひとごと》ながら、 「大丈夫なのかしら」  と心配になった。  ところが「父の帽子」に収録されている「街の故郷」という文章を読んで、とても意外だった。ひとり引っ越した下谷神吉町の生活を、彼女がとても楽しんでいたからである。 「私の生れた家は本郷の団子坂上にあつた。それで、故郷《ふるさと》と言へば千駄木町附近になるが、私にはもう一つの、故郷がある。私の第二の故郷だ。それは昭和十年頃の『浅草』と、下谷|神吉《かみよし》町にあつたアパルトマンである。」  彼女に第二の故郷とまでいわせた、アパルトマン勝栄荘は、別段、豪華な住まいではなかった。大家さんは浅草っ子の板金《ばんきん》職の棟梁《とうりよう》。住人はお妾《めかけ》さん、女給、公演に出ている女優さんたちである。夏になると彼女たちは、桃色や白のスリップ一枚で、下駄《げた》ばきで通路を歩いている。なかには昼寝をしている男に団扇《うちわ》で風を送っている女もいる。彼女たちは往来で会った人と知り合い同士のように話をする。 「さういふ人達が居る事は知つてゐたが、一つ所に住んで見て、私はいよいよ彼等の親しみ深い様子に驚くと同時に、深く彼等を愛するやうになつて行つた。彼女達は、『森さん』『森さん』と私を呼んで、親しんだ。」  そう森茉莉は書いている。  筋向かいの部屋にいる若い女の子は、たずねてくる男も一人ではなく、家具もラジオも立派なものを持っていた。その部屋で森茉莉はロッパとエノケンの芝居の放送を聴いたりした。隣の部屋に住んでいるのは、遣手婆《やりてばば》のような下卑《げび》た婆さんと、淫蕩《いんとう》丸出しの娘である。娘のほうは誰とも口をきかない。婆さんのほうも隣人ののんきな女性に対して、あまりいい感情を抱いていないようである。それでも森茉莉は、婆さんに対して、 「婆さんの方には可愛げがあつた。何かに子供のやうな可怕《こは》がりかたをして飛び上る時なぞ、小さい頃の婆さんが浮んでふと哀れさが、胸を衝いた。」  と嫌悪感がないことを明らかにしている。住人たちが浅草の地の人ばかりではないのにもかかわらず、 「このアパルトマンの生活は楽しくて気楽で、私にとつては無上の天国であつた。」 「兎に角浅草での私の生活は、生涯忘れる事の出来ない、楽しい生活であつた。嘘のない、美しい生活であつた。」  とまで書いているのだ。昭和十九年、戦争のせいで彼女は疎開することになり、浅草を離れることになる。  私は「贅沢《ぜいたく》貧乏」のなかで、彼女がアパートの住人に対して、厳しい視線をむけていたことが強く心に残っていた。美意識の強い人だし、子供の頃からそういうタイプの人たちを見るのに慣れていないので、苦手だったのかしらと思っていた。ところが「街の故郷」を読んだら、自分とは育ちの違う人を嫌っているわけではないようだ。それどころか、自分に対して、好感を持っていないとわかる、品があるとはいい難く、目つきのよろしくない老婆にでさえ、悪い感情は持たないのである。  たとえば、「気違ひマリア」の中に 「この建物に永遠に住む覚悟でゐる。今ゐる部屋でなくては小説が書けないと信じてゐるからで、……」  と書いていながら、「贅沢貧乏」に登場する、世田谷のアパートの住人たちに対してはものすごく冷たい。四十八歳にして、彼女はそこの住人になったのであるが、住人の嚊《かあ》ちゃんたちが、洗っている茶碗《ちやわん》やコップでさえ、耐えられないのだ。 「どういふ訳か彼女たちは田舎の、弁当屋の二階が料理屋になつてゐる、といふやうな店の茶碗、皿小鉢、或は魚屋の刺身の皿と同じの食器を買つてくるのである。」 「彼らはマリアが何か書いてゐるとわかると、ガンバツテ下さいと、言ふのである。マリアはがんばらないで、ぐにやぐにやしてゐるのでなくては人生のことも、小説も出来ないのだが、マリアを見てさういふ雰囲気《ムウド》をわかるやうなかれらではないのだ。」  嚊ちゃんたちは、茉莉には悪意は抱いてないようである。自分とは違う立場の彼女に気を遣《つか》い、何といっていいかわからず、無難《ぶなん》に、 「ガンバッテ下さい」  というしかなかったのではないか。勝栄荘の住人に対しては、優しい目をむけているのに、世田谷のアパートの住人には、「痰吐《たんは》き族」とあだ名までつけている。近所の銭湯は建物はきれいだが、入っている人間が痰吐き族なので、タイルの上は痰吐き場である。おまけにそこにいるのは、馬肉ハムの色をした、女類。豪華なスリップは着てくるが、持っているタオルは薄汚い。みんなと同じことをするのがよいと思っている。勤労を美徳と思っている。どれもこれも彼女をうんざりさせるものばかりである。  このなかで彼女は、「浅草族」と「痰吐き族」といって、かつてのアパートの住人たちを比較している。 「一目で令嬢育ちとわかるマリアが抱いてゐる自分たちへの親近感をカンで捉へてゐて、配給の炭俵を引摺《ひきず》つてゐるマリアを見れば無言で手を貸すのだ。」  これは浅草族。こちらも痰を吐く人種であったが、痰を意識した記憶はないそうである。一方、彼女に嫌われまくった「痰吐き族」は、 「彼らはマリアを見ると、マリアが(もと令嬢)であることを瞬間に嗅ぎつけ、コンプレックスを裏返した軽蔑で向つてくる。」  そして、 「浅草族は東京つ子であり、世田谷族は田舎者なのだ。彼らは世田谷、阿佐谷、杉並、等々の(もと市外)に、あたかも天に満ち、地に満てるが如くに充満してゐて、マリアを無言の裡《うち》に圧迫してゐる。」  とまでいわれている。「森茉莉全集」三巻の「気違ひマリア」に「東京人に化けた(もと市外族)」「わがアパルトマンの田舎もの」という文章が収められている。「痰吐き族」が気の毒になるくらい、森茉莉は彼らを嫌っていたのである。 「東京っ子」というのは、いったいどういう人たちのことであるのか、私はよくわからない。森茉莉のいうように、「東京っ子」としてふさわしい、出身地域があるのかもしれない。私の想像だが、浅草には自分の能力や技術を活《い》かし、すっきりと生きている人々が多かった。学校や家柄とは関係なく、自分の力で生きている人である。福岡出身の友だちは、 「東京の人間はダサイ」  というし、そういわれると、そうかもしれないとも思う。学校でも地方出身者のほうが、どんどんきれいになっていったし、垢抜《あかぬ》けていった。そのなかで地元の東京の私たちは、高校生に毛が生えたような格好をして、他の子たちが蛹《さなぎ》から蝶々《ちようちよう》になっていくのを、芋虫のまんま、ぼーっと眺めていたものだった。  たとえば地方の人と東京の人の間でも、東京人の意識は違う。私のしゃべり方を指摘して、 「やっぱり東京の人ですね」  といわれたこともある。早口だからかと思っていたが、三代東京に住んでいる人に、 「本当は東京の人は、ゆっくりしゃべるんだよ。僕の家に職人さんが出入りしていたけど、みんな早口じゃなかった」  といわれた。ぱんぱんと物をいうのが、東京の人の特徴だといわれることもあったが、実際はそうでもなかったようである。地方から出てきて、二十年以上たった人が、 「これでおれも、東京人と変わりないよな」  といったという話を聞いたときは、 「野暮《やぼ》な人だな」  と思ったことはあるが、東京の人間とはいったいどういう人のことをいうのか、私にはよくわからないのである。  森茉莉のいう「痰吐き族」は、彼女がいうもと市外だけではなく、現在、山ほどいる人たちである。おそろしいことに、そういうことが当たり前になりつつある。小金を貯《た》めて家を建て、子供を有名校に入れるために奔走する。人に見えるところばかり取り繕《つくろ》って、実は中身は惨澹《さんたん》たるありさまだ。基本的な礼儀はなっていない、頭はわるい。食べている物は他人にはわからないからと、食事類はすべてコンビニ系食品で済ます奥様もいるそうである。ブランド品のスーツなどは、アウトレットを扱う店で、少しでも安く買う。 「そんなことをしてまで、シャネルスーツを着たいのか」  と思う。お金があるのに貧乏くさい。森茉莉はすでにあの時代に、そういう人たちがいるということを、見抜いていたのだ。それが浅草に住んでいる人にはなく、もと市外に住んでいる人たちに顕著な例かは、さだかではない。浅草に対して盲目的な甘さがあるかもしれないが、彼女が日本人の「貧乏贅沢」を見抜いたのは事実なのである。  私は幸い、彼らが好きな、自分たちの外を飾った姿しか見ないですむ。しかし彼らと一緒に銭湯にはいり、便所も使い、日常生活の清潔に関する部分を共有しなければならなかったのは、ものすごく辛《つら》い。風呂《ふろ》や便所の使い方で、その人の品性はわかるものだ。それを毎日、見せられて、 「いったい、何なの。あなたたちは」  の連続だったはずだ。彼女は便所のサンダルが脱げて、床に直接足が触ってしまうと、大慌てで部屋に戻って石鹸《せつけん》で足を洗う。アパートの床という床はすべて痰吐き場になってしまっているからである。それなのに、彼女はその場所を引っ越そうとはしなかった。これが面白いのである。  彼女は、毎日、毎日、沸き上がる怒りをエネルギーにして、原稿を書いていた。 「また、嚊《かあ》ちゃんたちが、知ったかぶりをしている。また、ひどい風呂の入り方をしているのを見てしまった」  そのたびに森茉莉はぷんぷんと静かに怒り、買い物籠《かご》に原稿用紙を入れて、喫茶店で原稿を書く。アパートの中で怒った事柄を思い出しながら、口に出して彼らにいえない鬱憤《うつぷん》を、原稿を書くことで晴らしていた。  下谷神吉町では、住人や周辺に住んでいる人については書いているが、自分の部屋に関しての記述はない。六区に入り浸り、変なじいさんに声をかけられて辟易《へきえき》しながらも、歌や芝居を楽しむ毎日を過ごした。外に出る楽しみがたくさんあった。しかしもと市外のアパートはそうではない。一歩、外に出ると、ハム女や痰吐き族がうじゃうじゃいる。外に楽しみがないとなったら、家の中で楽しみをみつけるしかない。それで彼女は狭いアパートの室内を、人が見たらがらくたの山でも、彼女はアンティークの素晴らしい調度品として、大切にしたのだろう。  それができた彼女は、マイナス志向の人ではない。 「こんなところ、いやだ」  といえば、いくらでも引っ越せた。しかし戦争があって、彼女の好きな浅草は、もうないということがわかっていた。だからあんなに嫌っていた、もと市外に住み、そのなかに身を置いて、当然、怒りながらも自分の心が休まるものを、自分の頭の中で作っていったのだ。  彼女のひとり暮らしの生活ぶりを読んで、謎《なぞ》だったのは、あの|森鴎[#底本では「區」+「鳥」。以下すべて]外《もりおうがい》の娘としての、資産がなかったのかということだった。しかし「全集」二巻の解題で、 「茉莉名義の土地があり、そこに茉莉が住んでいなかったのが、茉莉の現実であった。」  と書いてあるのを読み、私は納得した。彼女は自分で選んであの生活を望んだ。自分名義の土地に住むよりも、中年から初老にかけての年齢でありながら、嫌いなもと市外の仮住まいのほうを選んだ。 「うーむ、さすが」  彼女の潔《いさぎよ》さは立派としかいいようがない。そしてますます私は彼女に、興味を持たされてしまったのである。  結婚生活  人はなぜ結婚するのであろうか。同性、同年配の未婚の友だちと話すことがあるのだが、未婚同士で話していても、 「さあ、ねえ」  と首をかしげるだけで、結論はでない。そこで既婚の友だちに、 「なぜ結婚したのか」  とたずねてみると、 「ふふーん。そうねえ」  などとうれしそうに答える人など、まずいない。多くの女性が、 「あんなもの、しないにこしたことはないわよ」  といい捨てるのである。  子供がいる人は、 「二十歳までは責任があるから、面倒をみるけれど、あとは知らない。残りの人生を自分のために使うから、離婚するかもしれない」  というし、子供のいない人は、 「今すぐに、籍を抜いてもOK。面倒くさい親戚《しんせき》付き合いを考えたら、別れたほうがずっといい」  と答える。なのに彼らは結婚生活を続けているのである。  私なんぞ、仕事をしているだけで疲れるのに、これで子供がいたり、夫がいたりしたら、どんなに大変なことだろう。夫は大人だからまだしも、子供がいたら私の生活はめちゃくちゃになりそうな気がする。子供はとてつもない喜びを親に与えてくれるそうであるが、私は別にそういう喜びを味わいたいと思わない。子供が与えてくれる喜びなんて、もともと興味がないのである。しかし世の中には、子供がいるために離婚しないでいる夫婦が多い。夫婦の仲は冷えきっているのに、子供がいるからと別れない。そういう夫婦の話を聞くと、未婚の友だちと私は、 「結婚とはいったい何ぞや」  と首をかしげたくなるのだ。  私が若い頃は、適齢期というおぞましい感覚が、一般的に残っていた。出身学校の名前が、嫁入り道具のひとつだといっている女の子もいた。そのとおり彼女たちは、親のコネで就職し、見合いで結婚した。結婚派と仕事派と分かれていたし、社会の受入れ態勢もできていなかった。適齢期に結婚していない人は、仕事に生きるのだと見られていたし、仕事派だった私自身もそのつもりだった。ところがだんだんそうではなくなった。仕事もしつつ子供を育てていきたいという女性が増えてきたからである。 「元気のいい人が増えてきたんだなあ」  そのような現実を知ったとき、私はそうつぶやいた。やりたくない病ですぐ疲れちゃう私は、仕事も子育ても一緒にはできない。それができるなんて、よっぽど体が丈夫なんだと思っていたのである。ところがある雑誌で、小さな子供がいるお母さんの一日のスケジュールが載っていた。それを見てびっくりした。睡眠時間は多くて五時間。三、四時間の日がほとんどだ。ぼーっとする時間もなく、保育園、会社、スーパーマーケットを走り回っているという具合なのである。もちろん夫も協力的ではある。それなのに毎日はこんなに大変なのだった。 「これじゃ、働いているお母さんたちは、中年になったら、体ががたがたになるぞ」  気を張って毎日を過ごしているから、体の具合も悪くならないのだろうが、一度、がくっときたら、そう簡単には立ち直れそうもないような、ハードな日々なのだ。 「とても私にはできん」  私はますます、子供がまじる結婚生活から遠ざかりたくなった。世の中の女の人の多くは、本当に積極的になった。それはある意味では喜ばしい。自分の望んだ生き方ができるのは、いいことである。しかしそんな人たちのうち、幸せそうに見える人が何と少ないことか。楽しそうというよりも、必死という雰囲気が漂っている人が多くて、痛々しくなるのである。  親にとって、子供はたしかにかわいいものだろう。でも私にとっては家庭というものは、種《しゆ》の保存システム以外の、何ものでもない。 「あー、もう、やめた、やめた」  と嫌になっても、そう簡単にはやめられない。私の生活にあてはめてみると、それは仕事である。好きではじめたはずなのに、嫌なことも山ほどある。しょっちゅう、 「あー、やめた、やめた」  といいたくなる。でもやめることはできない。子供もそんな感じである。相手が生き物である分、子供のほうがもっと大変だ。そんな大変なものを、ぽこぽこ生んでしまう度胸には感服するばかりである。そんな大変なものだからこそ、スリルとサスペンスに満ちた毎日は、ふさわしくないとされる。大変な子供にとっては、仲のいい両親がいる、温かくて慈愛に満ちた家庭がふさわしい。父子家庭、母子家庭など、いろいろな家庭があってしかるべきなのに、多くの人たちは、自分たちの意思を押し殺して、偽物の温かい家庭を作っているふりをしている。それが子供のためでもあるし、世間体が悪いと、自分を偽って生活している人たちはそういう。親と子が同じ屋根の下に住んでいる。ただそれだけなのだ。 「だから刺激を求めて、不倫に走る人が多いんじゃないの」  私にそう話してくれた人もいた。ところが先日、妙な所に居合わせることになってしまった。知り合いの女性の家で、私と友だち、彼女と恋人が一緒に食事をすることになったのだ。というと私と友だちがおよばれしたみたいだが、実は、私たちは晩御飯を作る気力もなく、外食する気もなく、近所に住んでいる彼女の家に電話をかけた。そこに恋人が来ているのをものともせず、 「私たちに晩御飯をご馳走《ちそう》したいでしょ」  といって、押しかけたのだ。彼女は四十代後半で、離婚経験者。社会人と留学している息子がいる。そして恋人の男性には家庭がある。私はその事情を知っていたので、そんな場所にいていいのかと思う反面、 (不倫カップルって、いったいどんなものなのかしら)  と興味|津々《しんしん》だったのであった。  部屋にいたのは、女たらしふうでもなく、世捨て人ふうでもない、社会にちゃんと適応して生活している男性だった。彼のほうが五歳ほど年下である。最初は緊張していた私も、だんだんその場に慣れてきて、彼女が作ってくれた晩御飯をばくばく食べた。他の人は酒を飲み、ああだ、こうだと話をしているうちに、私は妙な感じにおそわれた。まるで夫婦の家に行ったという感じなのである。二人の間には特別な緊張感もなく、ごく普通に家庭を営んでいる、男女にみえたのだ。 (なんだ、普通の夫婦と同じじゃないか)  ちょっとがっかりした。不倫関係というからには、もうちょっと、なまめかしいとか、刺激的とか、そんな雰囲気が漂っているのではないかと、勝手に想像していたからだ。その場にいたら、いたたまれないくらいに、男女のフェロモンが垂れ流されているのではないかと、興味を持っていたからだった。どちらかがずっと若ければ、もうちょっと違ったふうになったのかもしれない。私は一緒に行った友だちに、 「彼は自分の奥さんとも彼女とも、同じような生活をしているみたいだね。あれだったら不倫の意味がないんじゃないのかなあ」  といった。 「それは昔から、男の人がやってきたことと同じだと思うよ。ほら、あちらこちらに妾宅《しようたく》があって、そこで子供を作ったりして、いくつも家庭を持っていたじゃない。それと同じじゃないの」  と友だちは答えた。 「昔の男の人は、相手の女の人や子供の生活の面倒を全部みたりしたじゃない。それは俗にいう、男の甲斐性《かいしよう》っていうやつじゃないの。だけど今の男の人って、そういうところがないでしょ」  そう私がいうと、友だちもうなずいた。太っ腹な男が、今はいないのではないか。太っ腹な女には会ったことがあるが、太っ腹な男に会ったことがない。金のあるなしではない。女性よりも男性のほうが、ずっとせこかったりするのだ。結婚生活に飽きて、他の女性に目がいく。それもなるべく金を遣わず、ちょっと遊べればもうけものという、虫のよさである。そういう人たちが営んでいる結婚生活っていったい何なんだろうか。そういうことを考えると、私は結婚にも不倫にも、疑いを持ってしまうのである。  森茉莉の両親は仲はよくなかったようだが、母親からも父親からも、かわいがられて育った。茉莉にとって父親は偉大な恋人である。それでも彼女は両親が選んだ青年と見合いをし、十六歳で結婚をした。彼女の結婚生活を描いた「記憶の書物」によると、このように書いてある。 「未里《マリイ》と秋長との婚約時代の終りの頃の事で、ある。秋長の性格の中に、冷たいものを感じ取つた未里の母親の提言で、父親の文吉は破談に同意した。それを未里に話した母親は、未里の顔の中に、稚《おさな》い失望を見出し、意外なものを見て、驚いた。未里の淡泊な承諾の言葉の後《うしろ》には、淡い思慕と、幼い失望とが明瞭《はつきり》と、現れてゐた。話はその儘《まま》、持続された。」  未里は茉莉、秋長は相手の青年。文吉は鴎外である。  十代半ばの女の子に、男性を見る目があるとは思えない。まあ、いくつであっても、見る目がない人はないし、見る目のある人は若くてもあるのだが、彼女の場合はあまりに父親の存在が大きかった。あけてもくれてもパッパだった彼女には、男性イコール父親でしかなかった。いつどんなときも魅力的だった父親。茉莉にはとても優しかった父親。そんな父親に甘えて育った茉莉が結婚したのは、フランス文学を専攻している、大金持ちの家に育った、背の高い青年だったのである。  彼女は彼に対して、辛辣《しんらつ》な部分は小説で、あたりさわりのない部分はエッセイで書いている。「婚約者」という文章では、 「見合いの時の、見習士官の軍服を脱ぎ捨てて、紺の背広で颯爽《さつそう》として、山田珠樹が千駄木町の表玄関に現れた時から、パッパのお茉莉はその傾く目盛りを百度とすれば二、三十度がた珠樹の方に傾いた。」 「正直のところ、父親の愛情の他《ほか》にもう一つの幾らか異った愛情を、つまり甘い豊富《たつぷり》ある蜜の他に少し味の変った菓子を見つけて、その二つともを右と左の手に持っていたい、という心境である。」  などと書いている。「結婚披露宴」にはこんなくだりがある。 「友だちの御木本隆三の店(御木本真珠店)で買って来た薔薇《ばら》色と白との大粒の養殖真珠を、紺の背広の隠しから手品師の手つきで取り出して私に呉《く》れたり、(その時母親が『まあ、指輪にしましょうかねえ』と言うと『茉莉ちゃんに掌《て》の上に転がしていて貰いたいな』と言い、私は素敵なことを言われたような、自分がお姫様になったような気になったが、母親は彼が帰ると、『きざなことを言うねえ』と笑ったのである)……。」  それから茉莉は、家に遊びに行き、彼のフランス文学の本に囲まれた、二階の書斎を見ると、ますます傾斜の度合いは大きくなっていった。ところが彼女は、結婚式にも感動しなかったし、披露宴でもおいしい料理に神経が集まっていたりした。彼と結婚できてうれしいなどという気持ちではなかったようなのである。  結婚に関しては、彼女はまるっきり子供であった。ちょっと女性の扱いに慣れた、男性の言葉や行動に、自分がお姫様になったような気になってしまう、お嬢ちゃんである。また両親もそのお嬢ちゃんのまま、許していたところもある。関東大震災のときに、彼女夫婦が住んでいた、夫の実家の風呂が壊れ、彼女は庭で湯を浴びた。そしてそのあと、腹をこわして寝ていた夫のところにすぐ行き、あずけておいた指輪をはめてもらったりする。このときまでは、お姫様の結婚が成り立っていたのである。  本を読んでいて驚いたのは、茉莉の母親が娘の初夜を不安に思い、夫に茉莉の体が未熟ではないか、見てくれるように頼んだというところだった。たしかに夫は医者であるが、そういう母親がいたということにびっくりする。そして茉莉が入浴している間、彼が戸の隙間《すきま》からのぞいてみて、大丈夫だと認めたという。きっと十五、六で結婚する女の子はたくさんいただろう。特別、幼いというわけではない。それなのに母親が心配するなんて、よっぽど茉莉については心配があったのかもしれない。 「記憶の書物」は小説であるので、すべてが事実ではない。それと同じようにすべてが嘘《うそ》でもない。たしかにここに書いてある結婚生活は、辛そうであるが、私には彼女自身にも問題があるように思える。結婚した当初、二人は夫の実家に同居していた。茉莉は義父にとてもかわいがられていて、嫁というよりも、娘が一人増えたような扱いであった。義父の内縁の妻である、元芸者の女性も、茉莉のことを、 「奥様、奥様」  と呼んでたてている。二人だけで新しい生活に入るという現実とは、ずいぶんかけ離れている。茉莉は十九歳のとき、先に留学していた夫を追って、渡欧した。その間に大好きな父親は亡くなった。帰国後、二十三歳のときに、義父が建ててくれた、金持ちや知的エリートが集まっていた、駒込《こまごめ》の文化村に住む。茉莉の母親は遊びにくると、その灰白色の四角い家になじまず、牢屋《ろうや》のようだといってそそくさと帰っていったという。その家で茉莉は夫と子供二人、お手伝いの女性たちと住んでいた。庭の芝生では白い犬が走り、子供は自転車に乗って遊ぶ、傍目《はため》からみたらどこに問題があるのかというくらい、恵まれた家庭のようにみえた。しかし茉莉の中には、陰鬱《いんうつ》な感情がよどんでいたのである。  夫は嫉妬《しつと》深い性格であった。彼女が芝居を見に行くのも許さず、家の中にとじこめておこうとした。その嫉妬を愛情と勘違いすると、女性がとんでもない思いをしなければならないタイプである。当時の男性には多くいたタイプではないか。いくら外国の文学を研究していたとしても、そういう部分までは外国風とはいかないようだ。  ふつう女性は結婚するとなると、家事についてたたきこまれたはずである。お針も料理もできなければならなかった。茉莉は料理は上手だったようだが、針仕事は学生時代から大の苦手だった。そこで母親がやってきて、茉莉や彼女の夫、息子のよごれた衣類の洗い張りに出すのを引き受けたりしていたのである。  子供までいる妻であり、母である女性が、実家の母親にそこまでさせるのは、どうかと思う。妻として、一家をきりもりする母親として考えてみると、そういう面に関しては、茉莉は全く適性がなかった。  夫は友人よりも世間体を第一に考え、今まで仲良くしていた友だちが、不都合な事件を起こしたりすると、助けるどころか絶縁してしまうような男だった。 「ああいう奴《やつ》らとつきあっていて、自分もそうだと思われると困るから」  というのが彼の理論である。茉莉は彼の精神的な圧力に悩まされた。彼女の母親を悪妻といい、茉莉との夜の生活についてまで、友だちに嘘を並べる。彼女の書いた「記憶の書物」について、後日、彼女が書いたエッセイが発表された。 「私の離婚を簡単明瞭に一口で言へば、私はあの小説にあるやうな暗さからは大した害は受けなかつたが、そこから起つたじめじめとした臆測、秋長が舅《しうと》や親類、友人達なぞに信じ込ませた虚構、陰謀を知つて、かつとなつた事と、いちいち持つて回つてゐて、神経衰弱気味な秋長のやり方に、どうにも遣り切れなくなつて、子供が熱いものを放り出すやうにして、やみくもに逃げ出した、といふのが真実《ほんとう》のことである。」  たしかに夫には問題がある。茉莉をはじめ、彼女の家族たちが異様な人物であるような噂《うわさ》を流したこともあったようだ。しかし、彼女はこのようにも書いている。 「私は自分で言ふとをかしいけれども、可愛《かはい》らしい少女のやうな所を持つてゐて、暢気《のんき》で、ずぼらで、それでゐてその底の方に、男の人のやうにものを割り切る、強いところを持つてゐる。」 「秋長は未里を、取るに足りない奴だと思つてゐた。今になつて、子供のやうな様子で、恋愛に憧れてゐる。さうして自分にも何時までもさう言ふものを要求してゐる。それは秋長には厄介な、馬鹿げた事で、あつた。だが未里の、さう言ふ子供らしさは厄介であると同時に、ある危険なものを、秋長に感じさせてゐた。(中略)未里の中には何かが、ある。自分を圧迫するなにものかが、ある。太いものが、ある。勁《つよ》い、偉《おほ》きなもの、なにか知れない茫莫《ばうばく》としたものが、ある。さうしてあの底の抜けたやうなノンシャランスはどうだ。最初に未里を見た時に、俺はあいつのそこに、牽《ひ》かれてゐたのだ。」  いくら片方がのんびりした性格でも、結婚してみてそれが相手にどう影響するかわからない。茉莉は結婚した自分のことを、「ぼんやりした」「子供っぽい」奥さんだと、あちらこちらで書いている。短気な私は、 「わかっているなら、何とかしろ」  といいたくなった。本人もそういう自分に甘えていたのではないか。結婚したての頃、年末になって、実家の母親がきちんと茉莉が役に立っているか、婚家にたずねていったところ、当の本人は羽根つきをしていた。それを知った母親は、うなだれて帰ったという。茉莉によると、婚家先の女性たちがてきぱきと正月の準備をこなしているので、自分は遊んでいたほうが、邪魔にならないと思って、遊んでいたと書いている。 「何かお手伝いでもいたしましょうか」  という感覚は彼女にはないのである。  茉莉の両親は茉莉が子供で何もできないので、これでは中産階級の家でさえ、切り盛りしていくのが難しいということで、大金持ちの家に嫁がせたようだ。父親は、 「山田へ行けばお茉莉が西洋料理をうんとくうだろう」  といったという。彼女は、父を知っている人であれば、彼のことをいやしいとは思わないだろうと書いている。私はいやしいとは思わないが、親馬鹿もいい加減にしろといいたくなった。どんな親も嫁ぐ娘に金の苦労はさせたくないのはわかるけれど、その前に親として、ちゃんとしつけておくことはあるはずである。婚家で正月の準備をしているときのくだりも、客観的には思わず笑ってしまうが、私がその場にいたら、ものすごく頭にきたと思う。気のきかない女だと彼女を糾弾するに違いないのである。  茉莉は二十七歳のときに、医者と再婚しているが、一年で別れている。結局、彼女が結婚するにふさわしいのは、パッパ以外、いなかったのである。結婚しないでいる晩年の茉莉は、なかなか面白い。しかし若いころの彼女は、書いている内容から推察する限り、どうしようもない女の子である。「男女問わず、結婚に向く人と向かない人がいる」というのが私の持論であるが、茉莉は明らかに向かない人だった。嫌な結婚生活に、一生、耐えることなく、二人の子供を置いて家を出た。身勝手といえば、身勝手かもしれないが、子供のためにといって、結婚生活を続けているよりは、ずっとましだ。  結婚しているときの茉莉は、何の魅力もない人である。やはり彼女は中年をすぎてから、好き勝手に悪態をつくようになってからが面白い。私にとって「贅沢貧乏」の茉莉は憧《あこが》れの人であった。でも今回、結婚生活という、他人や他人の家族とかかわりあう話を読んでみて、私はこの人とはお友だちにはなれそうにないなと、ちょっと感じはじめたのである。  料理自慢  私は料理が苦手だった。好きか嫌いかといわれたら、大嫌いではないが好きでもなかった。できればかかわりたくないことのひとつで、実家にいたときは料理が好きな母親のおかげで、私は料理を作らなくて済んでいた。台所で彼女の手伝いをするよりも、食べて、おいしいかまずいか、感想をいうほうを求められていたからである。  友だちのなかには、小学生、中学生の頃から、 「女の子は、将来、結婚して料理ができないと困るから」  と、母親と一緒に台所に立たされた人もいた。すでに花嫁修業がはじまっていたのである。ところが私はそんなことをいわれたことはなかった。 「料理ができないと、結婚したときに困る」  などとは父親からも母親からもいわれなかった。野放し状態だった。というよりも、 「料理が嫌いだったら、料理が好きな男の人と結婚すればいい」  と両親はのんきなことをいっていた。だからひとり暮らしをはじめたとき、私は地獄に落ちたような苦しみを味わうはめになったのである。  実家にいたときに料理を作った回数は、猫のために魚を煮たりするのは除いて、十回、あるかないかである。小学校のときに、調理実習で習った、ほうれんそうのバター炒《いた》めは両親に褒められたが、あとはめちゃくちゃ不評であった。あるときは猫にまで食べるのを拒否された。 「頼むから、料理を作らないで」  料理の上手な弟に、そう懇願されたこともある。料理に興味があったら、 「なにくそ、次はちゃんと作ってやる」  と意気込むのかもしれないが、そうではなかった私は、 「ああ、やっぱりね」  と納得して、台所には出入りしなかった。台所は私とは無関係の場所だったのである。  ところがひとり暮らしをはじめると、そうはいかなくなった。誰も御飯を作ってくれる人はいない。男性だったら近所の安い定食屋に行くこともできただろうが、私はもともと外食が好きではなかったし、経済的に余裕もなかった。外ではなく家のなかで御飯を食べるしかない。でも家には私一人である。今だったら、そこいらじゅうにお弁当を売っているところがあるが、当時はまだそういうわけにはいかず、御飯を食べるために実家に行くのも、家を出た私のプライドが許さなかった。自分が作らなければ、誰も料理を作ってくれない、切羽《せつぱ》詰まった状況だったのだ。  とりあえず御飯だけは炊き、おかずは簡単にできるものばかりを作った。一気に食糧事情が悪くなったので、一週間で二キロ痩《や》せた。これからは自分の体は自分で管理しなければいけない。何冊も料理の本を読み、なかでいちばん体によさそうだと思った、玄米食をはじめた。別にインドにかぶれたわけでもなく、精神世界に没入したわけでもなく、玄米食だったら、玄米さえ炊ければ、あとはたくさんおかずを作らなくても、済むような気がしたからである。玄米食なら一汁一菜で完璧《かんぺき》な栄養がとれそうだった。ひとり暮らしをはじめて五年くらいの間、人からみたらとんでもない粗食の毎日だった。しかしそれでも私は特別、体を悪くすることもなく、何とか会社に通勤していたのであった。  しかし三十歳のときに会社をやめてからは、自然に玄米食からも遠ざかった。一日のうち、三食が二食に、二食が一食になり、玄米食のことなど、ころっと忘れた。玄米食のおかげで便秘症は治ってくれたが、もう玄米には飽きてしまったのである。その頃になると、お弁当や一人分のお惣菜《そうざい》が、デパートやスーパーマーケットでも店頭に並ぶようになった。冬場はともかく、夏場はそういうお惣菜を買って食べた。物によってはそちらのほうが、材料を無駄にしなくてよかったからだ。  それでも私は、ちょっと罪悪感を持っていた。自分の食べるものは自分で作らなければ、という意識がいつまでも残っていた。料理に時間は割《さ》きたくない。しかし外食は嫌だ。どうしようもない性格である。スーパーマーケットで、私のようなひとり暮らしの人が、お惣菜を買っているのを見ても、何も感じなかったが、子供を連れた奥さんが、手にしたカゴいっぱいに、お惣菜だけでなくパック入りの御飯を買っているのを見ると、 (それでいいのか)  といってやりたくなった。そして同じ穴のむじなである自分の姿にふと気がつき、こそこそとレジに行って、お金を払ったりしていた。若い男性が野菜や肉や調味料を買っているのを見ては、何だか恥ずかしいと思ったのも一度や二度ではなかったのである。  三十代は市販のお惣菜でもよかったが、だんだん市販のお惣菜の味になじめなくなった。どれも満足できる味のものはない。甘過ぎたり化学調味料の味がしたりして、食べていてもおいしく感じないようになったのだ。今では異常に少ないレパートリーのなかから、思いついたものを作る。友だちが手料理を食べさせてくれるので、作り方を聞いて、自分で作ってみる。私はこの友だちのおかげで、料理のレパートリーがとてもふえたのだ。  といっても、それも気がむいたらの話で、ふだんは手抜き一辺倒である。三品も四品も作らない。一度の手間でなるべくたくさんの栄養がとれる物をと考えていくと、野菜炒め関係が多くなる。そうでなければ、一日に必要な栄養素を三度の食事にふり分ける。一食のなかですべての栄養素をまかなおうとすると、何品も作らなければならないので、手間がかかる。それならばと、台所に一日に必要な栄養素の分量を書き、朝は乳製品、昼はたんぱく質、夜は野菜というように、一日のトータルで、なんとかまかなおうとしたのである。 「結果的に、帳尻《ちようじり》があっていればいいんだもーん」  私はそういいながら、最小の労力で最大の効果を得ようと、懲りずにずるっこいことを考えているのだ。  私に料理のヒントを与えてくれる、料理の師である友だちは、 「私一人が食べるんだったら、ちゃんと作る気なんかしないわよ」  といった。それを聞いて私はほっとした。面倒くさがりは、私一人ではなかったからである。料理が苦手だといういい訳として、私は、 「誰か食べてくれる人がいたら、一所懸命に何品か作るけどね」  といい続けていた。食べて、おいしいとかまずいとかいってくれる人がいたら、 「次も作ってみようか」  という気にもなる。まずいといわれたらいわれたで、名誉|挽回《ばんかい》のためにもう一度台所に立とうかという気にもなる。それが自分一人が作って、自分一人で食べるとなると、 「何でこんなことをしているんだろう」  とむなしくなることもある。よくできたときは、 「うーん、よくできた」  などとは思わない。それが当たり前のようにあっという間に食べてしまう。まずいときはまずいときで、 「うー、まずーい」  とつぶやきながら、我慢して食べる。労力と結果が結びつかない場合が多いのだ。  しかし誰かに食べさせるとなると、面倒くさいということばはどこかにすっとんでいく。それよりも、おいしい物を食べてもらおうというほうに神経が集中して、手間だの何だのといっていられなくなる。そしてそうやって作ったものを、おいしいといってもらうと本当にうれしくなり、 「私って、本当は料理が上手なのかも」  とお調子に乗ってしまうのだ。 「誰か食べてくれる相手がいる」  これは私にとっては重要な問題だった。料理の師である友だちに限らず、結婚している友だちに聞くと、ほとんどの人が、 「自分だけだったら、料理なんか作らない」  といった。食べる人がいるからこそ、料理を作る。私の母親は二十年以上、調理師の仕事をしていた。社員食堂に勤めていて、料理を作るのは苦にならないはずだったのに、会社をやめてひとりで暮らしている今は、 「料理を作るのは、面倒くさくてしょうがない」  という。健康診断で、 「『栄養のバランスが悪い』といわれた」  というので、よく話を聞いてみたら、食べるものには、手抜きをしているのだという。料理が好きだったので、自分一人でも彼女はちゃんと、料理を作っているものとばかり思っていたので、私は、 「あれだけ料理が好きだった人でも、食べさせる相手がいないと、ああなるものなのか」  とその変わり方にびっくりしたのである。  森茉莉が料理が上手だと書いているのを読んだとき、私はちょっとショックだった。彼女は洗濯も裁縫も苦手である。それだったら、私と同じように、ついでに料理も苦手であって欲しかった。本人も、 「私が料理が好きで、それもなかなか上手《うま》いのだということを人に話すと、誰でもが例外なくにやにやと笑う。全く信じようとしないのである。もっとも私がそれをきかされた側の人間だとして考えてみても、たしかにそれは信じられないだろうと思う。」 「私は一寸したレストランへ行っても、自分が造ったものほどおいしくないという、料理自慢である。」  とも書いているのである。家事や裁縫は苦手なのに、料理だけが好きで上手というのは、なかなか理解しがたい。料理を作ったあとは皿を洗い、汚れた台所を掃除しなければならない。それは家事につながってくる。そういうことを苦に思わない人は、掃除だって洗濯だってきちんとやりそうだ。しかし彼女はそうではなく、若い頃から関心があったのは、料理だけのようなのである。  彼女の母親は料理にうるさかった。歌舞伎《かぶき》座、郊外に行くとなると、茉莉に命じて弁当を作らせたという。彼女は海老《えび》を醤油《しようゆ》と清酒を少しいれてさっと煮たもの、うどの甘煮《うまに》、やきどうふの煮奴《にやつこ》、ほうれん草のおひたしに白胡麻《しろごま》をふりかけたものを作って、黒塗り艶消《つやけ》しの、半月形の弁当箱につめた。お手伝いの女性もいたのに、母親は茉莉の作った弁当を食べたがった。晩年、母親は茉莉の作った料理しか食べなかったというから、よほどおいしかったようだ。十六歳で結婚して、婚家で水飴《みずあめ》をいれて黒豆をおいしく煮たりしていたと書いている。  裕福な婚家には義父の内縁の妻のお芳さんという人がいた。彼女はもと新橋の芸者で、義父はお芳さんの作ったものしか食べず、茉莉は彼女が作る料理を気に入っていた。 「材料をおもちゃにして変な形を造ったり、染めたりした料理屋の料理より、沢庵《たくあん》の湯づけの方が贅沢《ぜいたく》なのは千利休に訊《き》くまでもない。」  そう書いているくらいだから、お芳さんが作るごてごてしていない、こざっぱりとした料理は茉莉の口に合ったのだろう。 「お芳さんは春になると鯛《たい》と筍《たけのこ》の押し寿司を造《こし》らえた。彼女は、鯛の酢のものを造る時のように、鯛の皮を酢の中でもみ、その酢で二杯酢をつくる。その白く濁った酢に浸けて表面が一寸白くなった鯛を用意しておき、その淡泊《あつさり》した酢と魚で寿司《すし》飯を造らえて大阪風に型で押し出すのだが、その時上に銀杏《いちよう》切りの淡泊に煮た筍を一枚と、皮つきの小鯛を斜《はす》かいにのせ、木の芽をそえる。東京ではあまりみないから、広島風なのか、お芳さんの発明だろう。私は春の日本料理の中では母親が造らえた筍飯の冷たくなったものと、お芳さんの筍ずしがすきである。」  そしてお芳さんも茉莉の作った西洋料理をめずらしがって、真似《まね》をした。茉莉が、「薔薇色の鮭の上に卵入りクリイム色のだま一つない白ソオスをかけたの」を出すと、西洋料理は料理店のしか知らない舅《しゆうと》も家族たちも満足した。そしてそれを食べながら、 「このソオスはどうなさいますんですか?」  とお芳さんはたずねるのだ。実家ではお刺身も一人ずつ皿に盛ってあったのが、婚家では一緒盛りになっていて、それがせわしなかったという。生活習慣の違いになじめなかった部分もあるが、粋《いき》な料理が作れて賢いお芳さんと、西洋料理を知っていて、三年間、料理を習った茉莉とは、茉莉が一歩下がっているようなところもあって、うまくいっていたようである。  茉莉は料理が好きでありながら、「手の込んだ料理はやりたくない」と書いている。しかしシンプルな料理は、実はいちばん難しい。 「これは簡単そうだ」  と思って作ってみて、いつも失敗を繰り返していた私には、一見、簡単に見える料理の落とし穴がわかる。シンプルな煮物は、だしがおいしくとれていなければいけない。材料選びも肝心になる。材料も腕もタイミングもすべてよくないと、シンプルな料理は味がぼけまくるのだ。  茉莉は自分の得意な料理として、以下のものを上げている。オムレット・ナチュウル(何も入らないオムレツ)、オムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ(香草入り)、生|椎茸《しいたけ》のバタ焼きにパセリの粉切りをかける、ボルドオ風茸《きのこ》料理、ビーフンに似たヴェルミッセル入りの肉と野菜のスープ、蒸した白身魚入りの独逸《ドイツ》サラダ、婚家で教えてもらった牛鍋《ぎゆうなべ》、鯛《たい》と小|蕪菁《かぶ》、又は海鼠《なまこ》とおろしの酢の物、鯛とねぎ、若布《わかめ》の白|味噌《みそ》のぬた、白魚、独活《うど》、柱《はしら》の清汁《すまし》、鰯《いわし》のつくねとそぎ大根の酢入り清汁の煮鱠《になます》など。卵料理も好きで、目玉焼き、ブレッド・バター・プディング、蒸し卵入りすまし汁、茶わん蒸しを冷やして、刺身のようにわさびと醤油で食べるもの、ゆで卵の料理もいろいろとバラエティにとんだものを作っていたのである。  結婚後、フランスにいたことがあるからかもしれないが、彼女の得意なものには西洋料理が多い。鴎外は特別に衛生に関して神経質で、子供たちは果物はリンゴ以外は、煮た物しか与えられなかった。 「西洋料理屋のドロドロはあらゆる鍋や杓子《しやくし》に触れる度に、方々で黴菌《ばいきん》がつくから不潔だ」  といい、家で作らせた。茉莉の母親はバターが嫌いなので、鼻をつまみながら、料理を作っていたという。その影響もあって、茉莉は西洋料理をマスターしたようだ。料理を自分で作るのも好きで才能もある。おまけに作ってみて父親がおいしいと褒めてくれる。どんどん料理を作りたくなり、上手になっていくのは当然である。  料理が上手になる秘訣《ひけつ》のひとつとして、おいしいものを食べたか食べないかによるという説もある。家の中でも外でも、おいしいものを食べているとそれが味覚の基本として残るというのである。 「お母さんが料理が上手だったら、おいしい、まずいの判断がちゃんとできていいですね」  そういわれたこともあったが、全くそれが私の場合、役に立っていなかった。興味があれば、 「これはどういうふうな味付けになっているのか。どうすればこのようになるのか」  と食べるときも考える。ところが私は、ただ、 「うまい、うまい」  とぱくぱく食べるだけ。どんなふうに調味されているか、どういう手順で作られたのかなど考えない。おいしい料理は、口を通ってお腹のなかに入れば、それで満足で、あとは何も考えない。はなから自分で作ることなど頭の中にないので、食べたらそれでおしまいなのである。  腕のいい調理人のいる料理屋に、子供の頃から茉莉は連れていってもらった。母親も料理が上手である。外国の料理の味も知っている。彼女が料理が上手だといっても、嫌味がないのは、すっきりしているからである。 「手の込んだ料理はやりたくない」  それがいいのである。ある人の話によると、某有名女性の家に泊まると、翌朝、食卓にずらーっとおかずが並ぶそうだ。それもまるで旅館の夕食のように、八品も十品もあるんだそうである。家の主は働いている女性なのだが、私はその話を聞いて、 「すごいなあ」  と驚嘆するよりも、 「嫌味な女だなあ」  と思った。 「ほーら、どう? 私、働いているけど、こんなにちゃーんとできるのよ」  といっているみたいで、鼻持ちならない。ごてごてしていて田舎くさい感じがある。それよりは、手の込んだ料理はやりたくない、といって、品数は少なくても、おいしい料理があるほうがいい。私がめざすのはこれである。どんなときも「すっきり」が大切なのである。  ただその「すっきり」が、うまくいくかどうかはわからない。森茉莉の書いた料理に関する文章を読んでいて、あっと驚いたのは、次の文章につきあたったときだった。 「……私は料理を造って、出来上ったものを自分でたべることが好きなので、夫であろうと、息子であろうと、自分はたべないで人に供し、その喜ぶのを眺めるのは、余り好きではない。非母性愛的、西欧的な個人主義の料理好きである。私の造《こしら》えた料理を讃《ほ》めたり、感心したりすれば、友だちのためにも造るが、自分も一緒にたべることが条件である。病院にお見舞いに持って行く時でも、二人前持って行くのである。」  自分が食べたいから作る。私は自分が料理が苦手なために、そのいいわけとして、 「誰か食べさせる人がいたらね」  といっていた。 「そうよね」  女友だちのほとんどは、うなずいてくれた。そのうえ私は、料理がうまければ、男性をひっかけられるのではないかという下心もあって、いっとき、真剣に煮物系の料理を作り続けたが、そのうち面倒になってやめた。料理を作る動機に不純な気持ちがあったのは、まぎれもない事実であった。 「自分のために料理を作る」  これこそ基本である。私は深く反省した。相手が夫であろうと息子であろうと、それは付け足しみたいなもので、自分が食べたいかどうかが問題になる。自分が食べなきゃ意味がない。これがいかにも森茉莉風でおかしかったのだ。  全集のなかに、彼女が五十一歳のときに書いた、一日のメニューと、七十三歳のときに書いた、夕食についての話が載っている。朝と夜しか載っていないが、朝はビスケットにバター、ジャム、チーズをはさんだものがあったり、わかめの味噌汁《みそしる》、生|胡瓜《きゆうり》の焼き雲丹《うに》添え、自分で作った桃のジャムも登場している。夜はカレー御飯、鰹《かつお》の角煮、馬鈴薯《ばれいしよ》スープ、あさりのスープなどである。たしかにどれも手がかからないものばかりである。必ず料理にバターを使っているのが秘訣のようだ。  七十三歳のときの夕食は、材料がないところからはじまっている。バターも卵もなく、肉類もない。御飯を炊いたとしてもおかずがないのだ。そこで彼女は紐育《ニユーヨーク》製の即席|珈琲《コーヒー》でアイスコーヒーをつくり、パンを焼き、そして白桃の缶詰を開ける。ふだんのちょっと手をかけた夕食とは違うが、彼女は、 「アメリカの独身の男の、メイドが俄《には》かに休暇を取つた日の、カリフォルニアの桃のジャムと珈琲と麺麭《パン》である。」  と書いている。人が何といおうと、自分がそうだと思えばそうなのだ、という精神が食べる物にも通じていたのだ。これが料理といえるかどうかわからないけれど、彼女にとっては「自分が食べたい立派な料理」なのである。  もしかして、外で食べる物がおいしいと感じなくなったのは、いいチャンスではないかと、私はちょっとにんまりした。これがうまくいったら、まず自分がおいしく食べられ、そして友だちにもおいしいといわれる物が、作れるようになるかもしれない。それも手のかからない料理で。私はこれから中年街道をまっしぐらに進むにあたり、自分のために料理を作ろうと、彼女の文章を読んで心に決めたのである。  旅のパリ  私はずっと出無精《でぶしよう》だった。仕事以外で旅に出るなどということはほとんどなかった。特に海外に行くとなると、うれしい気持ちは三割で、あとの七割はやぶれかぶれ状態であった。ガイドブックを見て、胸をときめかすことなどなく、 「どうせ、いいところばっかし撮影しているんだから、こんなふうになっているわけないわ」  と冷ややかになる。そして旅行先までの飛行機に乗っている時間を数えては、そのあまりの長さに呆然《ぼうぜん》とし、 「あーあ」  とため息をついていたのである。  ところが、ここ、二、三年、友だちに誘われて海外に行く機会が多くなり、今持っているパスポートには、これまでで最も多い出入国のスタンプが押されている。今までのパスポートは仕事のためにやむをえず取ったもので、用事が終わったら、あとはただの一度も使われることはなかった。日本の出国、入国のスタンプと、訪問先の入国、出国のスタンプの、四個のスタンプしか押されないまま、パスポートは期限切れになっていったのだ。  韓国《かんこく》、マカオ、タイ、イタリアなどのスタンプが押されている手元のパスポートを眺めていると、 「あの出無精だった私が」  と感無量である。旅行にいくのが好きではなかったのは、面倒くさいのと、下手な時期に行くと、行き帰りの乗り物が混んでいるのが理由であった。私は混んでいる場所が苦手である。満員電車も嫌だし、飛行場や飛行機がぎっちり詰まっているのも嫌だ。入国審査でずらっと並ばされると、これからその国で何日か暮らすというのに、 「とっととやれい」  といいたくなってしまう。とにかく混んだ場所には行きたくなかったのである。  それまでは旅行に同行する人のなかに、会社員が多かったので、彼らの休みを中心に予定を組む必要があった。そうなるとおのずと混雑の中に身を置くことになり、夏休みのまっただなかに、海外旅行に行ったときは、人がぎっちりと詰まった成田空港に入っただけで、ぐったりと疲れてしまったのである。しかし最近は、私と同じように、会社員ではない友だちと一緒に旅行をするようになったので、混雑から多少はずれて旅行ができるようになった。空港も飛行機も比較的空いているし、明らかに気分的に違う。精神的にとても楽になったのだ。  一九九四年、私は仕事でイタリアに行った。イタリアは私の憧《あこが》れていた国であった。食べ物も好きだし、イタリア物の服やバッグや靴も好きだった。出版社がファーストクラスに乗せてくれたので、十三時間の旅も腰が痛くならなかった。友だち三人も私のイタリア行きに日程を合わせて、一緒に行った。生まれてはじめてファーストクラスに乗った私は、 「いったいどんな人たちが乗っているのだろうか」  と、興味津々であった。  ぱりっとしたスーツを着こなした、白人と東洋人のビジネスマン。マスコミ関係風の男性二人。音楽関係者とおぼしき男性。派手ではないが、水商売風の雰囲気を漂わせている三十代前半とおぼしき女性。日本人の中年夫婦。そして謎《なぞ》の中年女性がファーストクラスに乗っていた。 「そろそろ離陸だな」  と思いながらふと横に目をやって、私はびっくりした。そこに腹の出た真っ裸のおやじが座っていたからである。 「な、なんなんだ。あれは」  びっくりしていると、隣に座っていた奥さんが、機内持ち込みの荷物のなかから、グレーのジャージを取り出して、彼の膝《ひざ》の上に置いた。おやじはすっくと立ち上がった。幸いトランクスだけは穿《は》いていたが、ファーストクラスの通路でパンツ一丁になって、洗いに洗った、よれよれになっているジャージに着替える奴がいるなんて、思ってもみなかった。おまけに靴も靴下も脱ぎ、機内はおやじの家の居間みたいになっていたのであった。  離陸して何時間かたつと、後ろのほうから彼の友だちらしい別のおやじがやってきた。奥さんが席を立つと、ちゃっかりとそこに座り、 「さすがに広いなあ」  などといいながら、スチュワーデスを呼びつけて、酒をあおっていた。奥さんが戻ってくると、椅子《いす》の下に格納されている、足のせを引き出して、その上にまたがって話をしている。ジャージのおやじは、ぼりぼりと腹をかいたりして、くつろぎすぎるくらいくつろいでいた。そして突然、すっくと立ち上がり、通路で四股《しこ》をふみはじめる。ふんっふんっと荒い鼻息を吐きながら、十五分くらいやっているのだ。そしてその後は、奥さんと口喧嘩《くちげんか》。夫婦の海外旅行だというのに、奥さんが全く楽しそうな顔をしていないのが、印象的だった。  その後ろに座っていたのが、小柄な謎の中年女性であった。浅黒い肌でショートカット。アルマーニのスーツを着て、化粧は濃い。どのへんの国の人だかよくわからない。彼女は離陸してすぐ、アイマスクをつけて、がーっと寝始めた。食事もとらない。よく旅慣れた人は、こういうことをすると聞いていたから、彼女もそういうタイプだと思っていた。ところが、みんなが寝る時間になると、彼女はむっくりと起き、スチュワーデスに食事を運ばせて食べはじめたのだった。  耳栓をして寝ていた私の耳に、パチパチという音が聞こえてきた。機内の何かが揺れて音をたてているのかと思ったが、いつまでたっても音は静まる気配がない。アイマスクを取って横を見ると、そこには暗いなかでただ一人、目をぎらぎらさせてトランプ占いをしている、彼女の姿があったのだ。隣の席の友だちも、起きてきた。他の乗客もみな寝ている。彼女だけがスポットライトを浴びて、何かに憑《つ》かれたようにトランプをめくり続けているのだ。何分かごとにプラスチックトランプをシャッフルする、耳障りな音に悩まされつつ、私たちはいつの間にか眠ってしまった。何時間かたち、ふと目を開けると、まだ彼女はトランプ占いに熱中していた。  到着まであと二時間たらずになると、私が目をさますのといれかわりに、やっと彼女は寝た。私の後ろの席に座っていた友だちも、 「トランプの音が気になって、全然、眠れなかった」  といった。私たち四人は、他人の迷惑をかえりみず、トランプ占いに熱中していた彼女を横目でにらみつけながら、スチュワーデスが運んできた御飯を食べた。着陸まであと四十分というとき、彼女はむっくりと起き上がり、またスチュワーデスを呼びつけ、ああだこうだといったあげくに、丼《どんぶり》に入った粥《かゆ》を持ってこさせ、ものすごい勢いで食べ出したのである。  私と友だちは、 「何をあんなに占っていたんだろうか」  とイタリアの入国審査を待つ間、話し合った。 「あれは絶対に恋占いよ。いい結果が出るまでずっとやってたんじゃないの」 「じゃ、何時間もたって、やっといい結果が出たのかしら」 「あの粥の頼み方をみると、だめだったんじゃないの。目つきがこわかったもん」  ああだこうだといっている間に、意外と簡単に入国審査は終わった。荷物検査もなかった。こうなったらあとは、ジャージおやじやトランプおばさんなんぞ、どうでもよくなる。訪れた土地を楽しむことに、集中するだけなのである。  あんなに憧《あこが》れていたイタリアだったのに、行ってみたら、大満足というわけにはいかなかった。それまでの私の憧れが強すぎたせいかもしれない。食事はどこでもおいしいと思っていたが、それほどでもないことに、ちょっとがっくりした。ウエイターの多くがどんくさいことにもあきれた。 トラブルが起こったときの、イタリア人の態度にも、首をかしげた。  同行した編集者の荷物がホテルの入り口で紛失したことがあった。一流といわれているホテルでである。彼女は自分の二つの荷物が車から下ろされているのを確認した。ところがそのうちの一つが紛失してしまったのだ。探してもらうように頼んだが、一時間たっても二時間たってもらちがあかない。そのうち先方は、 「預かった荷物は一個だけだった」  などといい出したと聞き、私たちは、 「ふざけんじゃないわよ」  と怒った。最初、彼女がチェックインして部屋に行ってみると、ベッドメイクが終わってない状態だったので、部屋を変えてもらった。その点がポイントになりそうだった。そのうち夕食の時間になり、 「気になるからホテルの中にいる」  という彼女を残し、私たちは食事に出た。  四時間後、やっと荷物は出てきた。彼女の部屋の真下の部屋に置かれていたという。 「それで、ホテルの人はあやまったんだろうね」  とたずねたら、彼女は、 「いいえ。勤務外の仕事をしたからといって、チップを取られました」  というではないか。 「はあ?」  私たちは一気に力が抜けてしまった。まさに、 「何だ、そりゃあ」  であった。イタリア人は明るくて人生を楽しむことが好きな、魅力的な人たちだと思っていたが、何かトラブルが起こったときは、まずい人たちなんじゃないかと、ちょっと気になった。問題があったのはこのホテルだけではない。別のホテルでも事前にルームチャージを払っておいたのに、チェックアウトのときに、また請求された。それを指摘しても相手はのらりくらりとして、チェックアウトがなかなかできない。混んでいるわけでもないのに、四十五分もかかってしまったのである。タイのホテルでも同じようなことがあったが、指摘をするとフロントの人はすぐに調べ、 「私たちの間違いでした。ごめんなさい」  とあやまったのにである。  フランス人は美意識が強くて傲慢《ごうまん》であるとか、イタリア人は陽気だとか、ドイツ人は勤勉であるとか、国民性をひとくくりにしていうことがある。私の頭の中にあったのも、そういったイメージである。滞在日数も多くなく、旅行で関わり合う人は少ないし、一般の人々と交流することもほとんどない。たかだか十日くらいの旅行で、わかった気になって、ああだこうだというのはよくないけれど、 「あれっ」  と首をかしげた印象は、より強く心に刻まれてしまうのだ。イタリアから帰った直後は、正直いって、 「もう二度と行かなくてもいい」  と思っていた。しかしだんだん月日がたつにつれて懲りずに、 「また行ってもいいかな」  と思うようになった。トラブルはあったけど、もう一度、自分の目でたしかめてみたいという何かが、イタリアにはあったのだ。  若い頃は、ファーストクラスで行って、いいホテルに泊まる旅行なんて、旅行じゃないと馬鹿にしていた。しかし歳《とし》を取るにつれて、以前のような旅はできなくなっていくのがわかった。若い頃、馬鹿にしていた旅行者に私は今、なっているのである。情けないし、こんな旅行ばかりしていていいのだろうかと、反省することもある。でもそんな旅行をしていても、面白い出来事もトラブルも起こる。 「ま、仕方ないかな」  とつぶやきながら、私は友だちと飽きずに、旅行の計画を立てているのである。  森茉莉は十九歳のときに、先にフランス文学の勉強のために、渡欧していた夫のあとを追って、兄の於菟《おと》と共に生まれてはじめての旅行をした。いくら結婚をしているといっても、毎度のことで、父親も母親も娘の船旅を心配し、母親は、 「航海中船が沈没すると大変だから上等の浮袋を持たせてやろう……。」  といったという。 「丁度そのころ夫の長姉の子供がはしかかなんかに冒《かか》った。父親と母親とは、そこへ私が見舞いに行けば伝染するかも知れない。もし伝染した病菌が潜伏していて、シンガポオル辺で発病したとすると、父親も母親も、夫も、駈けつけても間に合わない場所で死ぬことになる、という意見が一致した。……それで私を見舞いに行かせなかったので、夫の次の姉がカンカンに怒り、舅も困ったようだった。」  と書いている。それでも茉莉は、 「私は夫の姉が二人とも怒っていても(長姉の方もむろん怒っていたらしいが利口な人なので黙っていた)ケロリとして、洋服を誂えたり、靴を買ったりがうれしくて欣然としていた。」  とのんきにしていたのである。十九歳の彼女は東洋の修道院の生徒みたいな黒ずくめの格好でマルセイユ港から、パリの北駅に降りたった。別のエッセイにこのときのことが書いてある。 「だが二週間もしない内にこの支那《しな》の修道院の生徒は毛蟲が蝶になるようにしてなんとも面白い巴里女(パリジェンヌ)に孵化《ふか》した。髪はコワフウル(髪結い)で鏝《こて》をあてて大人の女の髪に結い、鉄錆《てつさび》赤(ルイユ)のムクムクのカアディガンを横浜の黒のスウツの上から着、肌色の絹靴下にピネ(靴屋)の横止めの靴をはいて鏡に自分を映した私は大いに満足した。」  夫はソルボンヌに通う以外は、オペラや芝居と出歩いていたので、彼女はギャルリ・ラファイエットではぶら下がりのソワレ。そしてそれに合う白いなめし革の肱上《ひじうえ》までの手袋と真珠の首飾り。黒のエナメルの靴を購入した。日本で誂《あつら》えた服は脱ぎ捨てて、パリで美しいブラウスや帽子、靴、靴下、首飾り、栗鼠《りす》のストールなどを買い、 「キャフェのテラスにのんびり腰かけて通る人々を眺め暮らし、森《ボワ》を歩き、ルウブル美術館で暈《ぼんや》り休み、といった生活をした。」  何ともうらやましい限りである。旅立つときも兄が旅券から何からすべて面倒をみてくれ、母親は長旅で同性の話し相手がいないのを心配して、同じ船に乗るある人の夫人に頼んで、茉莉の相手になってもらった。旅先では、 「夫が鞄《かばん》に荷物を詰め、私の化粧道具だけを寝台《ベツド》の上に出し、時計を見ながら待っている、……。」  というような具合であった。  パリはとても彼女の肌に合ったようだ。そこで彼女はピアノやフランス語を習った。パリにいて味噌汁《みそしる》、畳、元日に屠蘇《とそ》や雑煮がないのを悲しむ日本人たちを、全く不可解だと書いている。 「巴里は偉大な映画監督のように私の中から希代の怠け者をひき出し、怠惰の楽しさをおしえた。巴里が自分のほんとうの国であり、自分のほんとうのいる場所である。と、私は想った。」  パリの安下宿の三室を借りて、茉莉夫婦は住んでいた。茉莉の夫やパリに住む彼の友人たちは、いいホテルに泊まり、エッフェル塔やルーブルを見るという、お決まりの旅行者コースを嫌がって、カルチェ・ラタンに住むのが誇りだったという。たしかにそうかもしれないが、私などはそんなふうに書いてあるのを読むと、 「何いってるんだ。この坊っちゃん、嬢ちゃんたちが」  といいたくなる。まだまだ親がかりのくせに、「誇り」だなんだというのは、百年早いといいたくなる。こういう文章を読むにつけ、なぜ鴎外はこのような頭でっかちのお坊っちゃんを、茉莉の相手に選んだのかわからないし、破談になりかけたのに、どうして彼女が彼に執着したのか、理解できない。一緒に旅をすると、その人の性格がとてもよくわかるものだからだ。  このパリでの生活が、彼女の人生でいちばん楽しいときだったのではないか。パリからロンドンに移ったときに、大好きな父親の死を知るのは、彼女の生涯でいちばんの不幸ではあるが、死に目に会えなかったのは、ある意味では幸せだ。彼女の記憶の中には生きているときの父親像しかないからである。ロンドンに滞在したあと、彼女は夫の申し出で、ミュンヘン、ベルリンに向かった。町へでると父の世界があったと彼女は「父の居た場所」で書いている。町で老いた男性を見ると、父の姿とだぶる。本屋に行けば父の生活の匂《にお》いがある。父が行った酒場に行けば、懐かしいばかりになる。彼女にとってパリはお洒落《しやれ》や知的欲求を満たす街、ミュンヘン、ベルリンは亡くなった父を思い出させる街だった。  パリにもベルリンにも、深い思い出があるはずなのに、後年、彼女がそこを再び訪れたという話は書いていない。それは私には不思議だった。たしかに今よりは海外旅行は大変だが、彼女が行きたいといえば、承諾する出版社はあったはずである。飛行機が苦手だった可能性もあるが、それよりも彼女にとって、 「巴里が自分のほんとうの国であり、自分のほんとうのいる場所である。」  と書いたパリの魅力のほうがまさっているように思えるのだ。彼女は実は旅行嫌いであったという。夫と共に旅行をしたのも、旅行に精力的な彼に従《つ》いて、彼の腰にぶら下げた袋の如くになって行くことが出来たからのことだと書いている。  五十歳近くなったときに、ある雑誌から依頼されて、古都巡りをして文章を書く約束になっていたが、実際には一度も旅行せずに、写真を見て文章を書いていた。それくらい旅行をするのが嫌だったようなのだ。  彼女にとって旅行は、うっとりするような夢のなかの出来事でなければ、ならなかった。十九歳のまだまだ若い新妻が、パリにいる夫を追って船旅に出る。お洒落な服、靴を買い、もてあましている時間をパリの街で過ごす。夫婦で夫の友だちと食事をし、フランス語と日本語がとびかう会話に耳をかたむける。日本の大多数のおかみさんのように、やりくりやら、今日のおかずのことやら、亭主の素行のことに、あれこれ悩む必要もない。とにかく現実離れした生活だった。現実のもろもろの雑事に遭遇すると、おっとりぼんやりになってしまう彼女が、パリでは活動的になっている。ドイツでは生きている父の匂いをかいでいる。私はすぐ人や動物に目がいってしまうのだが、彼女は積極的に現地の人々と交流することよりも、自分の精神的な部分に、街をひきずりこむ旅行をする。愛する物には手放しになり、嫌いな物には寄りつこうともしない彼女にとって、パリは手放しで愛せる街になり、パリジェンヌになったと、堂々と書いてしまうほど、街の中にどっぷりつかってしまったのだ。  彼女の泊まっていた下宿には、他にも下宿人がいた。ただ一人、精神的に病んでいると思われる博士だけは、彼女と夫に興味を持っていなかったが、それ以外の人たちは、 「私たちに一目おいている。」  と彼女は書いていた。旅行をするとその人のことがよくわかるのと同じように、一緒に旅をしなくても、書かれた物を読んだだけで、 「ああ、この人とはだめだ」  ということがある。それは恐ろしいくらいに、あっという間にその人となりを、あぶりだしてしまう。私は森茉莉の書いた物を読んで、これは文字通り、真《ま》にうけていいのかどうか、首をかしげていた部分がある。彼女には特権意識があったのか、なかったのかということだ。彼女はそういうものはないと書いているが、実はそうではなかったと私は考える。持っていたとしても悪くはない。パリでの彼女の行動、意識は特権階級そのものだ。パリの住人に自分がどう映っているか、それが軽蔑《けいべつ》でないことを知った喜び。彼女の意識はそれでパリの住人と並んだのではなく、彼らの上をいった。おまけにそんな自分に酔っている部分もある。だからこそ晩年の森茉莉には価値がある。私はパリでのお嬢ちゃん丸出しの彼女の姿を想像して、なるほどねえと苦笑いをしていたのである。  美しい母親  近頃、若い女性たちが、母親と仲良く歩いているのを見ると、不思議でならない。傍《はた》で見ているとまるで友だち同士のようである。臆面《おくめん》もなく、 「私は母のような女性になりたいです。母は私の理想の女性です」  という人もいる。そういう言葉を耳にすると、 「ああ、そりゃよかったねえ」  と意地悪をいいたくなる。そして娘に尊敬されている、幸せこの上ない彼女の母親に対しては、 「よく手なずけたな」  と悪態をつきたくなってしまうのである。  私は母親に特別かわいがられたわけでもなく、いじめられたわけでもなく育てられた。赤ん坊のときは連日、夜泣き。おまけに病気で、一度は重体になり、医者から見放されたこともあった。母親は、現在からは想像もできないくらいに病弱だった私の手をひき、病院に通ったという。子供の頃の私は相当、心配をかけたのである。弟が生まれてから、私は、 「ちょっと変だな」  と感じたことがあった。私に対するときと、弟に対するときと、母親の顔付きが違うからだ。明らかに母親は弟のほうが気に入っているのがわかった。たしかに弟は私よりもはるかにおとなしく、優しく、いい子だった。わめくこともせず、べたべた甘えることもない、おとなしくかわいい男の子だ。ところが私のほうは近所で有名な野蛮な娘で、かかりつけのお医者さんにも、 「育て方を間違えると、この子は大変なことになりますよ」  といわれた。大人のいうことなど、 「ふんっ」  と相手にせず、子供の頃から世の中を馬鹿にして生きていたのである。  母親の関心が弟のほうに傾いていても、私はそれについて、悔しがったり嫉妬《しつと》したりはしなかった。誰だって憎たらしい子よりは、かわいい子のほうが好きに決まっている。弟のほうが好かれるのは、当たり前だった。だからといって、 「ねえ、ねえ」  と媚《こ》びへつらって甘えるのは、子供としての私のプライドが許さなかった。 「ま、いいさ。私は小学校を出たら家を出て働いて、自分で生活していくんだから」  小学校の低学年のときから、自活の道を思い描いていた。そうなると誰にかわいがられているかなんて、どうでもよかった。私にとっては、親から離れるほうが、その何倍も大事だったからである。  中学生のときの私と母親の関係は最悪だった。彼女はいつも不機嫌だった。私は友だちの悪口をいわれたとき、殺してやろうかと思ったくらい、頭にきた。その友だちとは、中学時代だけの付き合いで、高校に入学してからは全く会わなくなった。自分と縁がない人は、出会ったとしても、自然消滅してしまうといわれるが、その通りだった。が、別に不良でも何でもなく、たしかに成績はよくなかったかもしれないが、面白くて心の優しい子ばかりで、その彼女たちのことを、母親は、 「雑魚《ざこ》」  といい放った。私はそのような感覚を持っている母親を、一生、許さないつもりだった。  母親はいつも、 「腰が痛い。頭が痛い。体がだるい」  とぶつぶついっていた。お医者さんに行っても、 「何でもありませんよ」  といつもビタミン剤を出されるのも、気に入らないみたいであった。そういう姿を見ると、 「あーあ」  という虚無的な気分になり、私は部屋でレコードやラジオを聞いて、自分の世界にどっぷりと浸っていたのである。  その頃から私は、 「あの人はどうして、ああなんだろう」  といろいろ考えてみた。同級生のなかには、 「うちのお母さん、勉強しろってやたらとうるさいのよ。『成績が下がるとお母さんが恥ずかしい』っていうの」  という子もいた。私の母親はそういうことはいわなかったが、「雑魚」発言のように、強烈に残る言葉をいい放つ。それがめちゃくちゃ、憎たらしい。私にはとても母親として分別のある人間だとは思えなかった。それよりも、 「どうして、あんなことをいうのかねえ」  とため息をつかせる存在だったのだ。  あれこれ考えた結果、 「私とあの人は親子だが、似ていない」  という結論に達した。それがいちばんいい悩みの解決法だった。全く似ていないわけではない。もちろん母親が持っている要素を私が受け継いでいる部分もある。しかし、根本的な資質として、私とは大きく違っているところがわかった。母親は私よりもずっと「女として生《なま》」の人間なのである。  彼女はさばさばしているようで、口から出る言葉と腹の中が違う。離婚したあと勤めていた会社の社員旅行で撮影した、男の人とじゃれあっている写真を、隣の奥さんに見せてはしゃいでいる母親を見て、 「世の中にこんな馬鹿な女がいるのか」  と心底あきれ返ったこともある。母親の立場に立って考えれば、離婚をしてどんどん恋愛ができるようになり、久々に男の人たちと遊びに行って、楽しかったのかもしれない。付き合うのならそれでかまわないが、もっと毅然《きぜん》としていて欲しかった。しかし彼女にはそういう気持ちがない。言葉では、 「人間は毅然としていなければ」  というくせに、実はそうではない。自分の都合のいいように、ころころということが変わる。それに気がついたのは、私が社会に出て何年かたってからだが、すでにそのときは、母親は母親ではあるが、別の存在だと考えることにしたのだ。 「あの人と私の血がつながっている」  と思うと、 「あーっ」  と頭をかきむしりたくなる。あまりに我慢できず、 「どうして、あんたはそういうことをするのだ」  と怒ると、母親は、 「人のふり見て、我がふり直せ」  という。 「私のことが気に入らなければ、自分が他の人にそのようにしなければいいじゃない」  このように反撃してくる。 「それじゃ、あんたの悪い性格は、どうやって直すのだ」  と突っ込むと、 「ふん。あんただって悪いところだらけだよ」  と全く反省もせずに、こちらを攻撃してくるのであった。私はいつもばかばかしくなって、席を立った。その後、猫撫《ねこな》で声で私の機嫌をとることもあれば、私の怒りがおさまるまで、様子を窺《うかが》っていることもあった。そういう態度も私を怒らせた。いつも自分がいい子でいたいうえに、自分の非を認めたがらない。仕事の上ではそうではなかったようなのに、プライベートな面ではそれがむき出しになるのだ。  母親のそんな性格に私はふりまわされた。友だちにも彼女のようなタイプはいなかったので、どうやって接していいか戸惑った。そこで私は、 「彼女とは、あまり関わらないようにする」  という対応策を考えた。電話で話していても、真剣に相手にしない。 「ふんふん」  と適当に相槌《あいづち》を打つ。どうせむこうもそんなに深刻な話があるわけではない。こっちが真面目《まじめ》に聞いていると、あとで、 「ああ、あれは別にたいしたことはないのよ」  などと足元をすくわれるので、なんでも適当にがいいのである。歳《とし》をとるにつれて、 「あれが欲しい、これも欲しい」  と欲望が増えていく母親には、うんざりさせられることもある。だけど旅行にいったりすると、ついつい母親にと、ボルボネーゼやグッチのバッグをおみやげに買ってしまう。私にとって母親は、育ててもらって感謝はしているが、尊敬できる存在ではない。 「ああいうことをするのはやめよう」  という反面教師的立場にある。だから母親を尊敬できる人としていちばんに挙げたり、母親がいちばんの友だちなどという人は、どうしても理解できないのだ。  森茉莉の母親しげは、鴎外が「芸術品」といったほどの、絶世の美人であった。私も本で横顔の写真を見た。たしかにそのとおりの、現代でも通用する品のいい美人であった。ところが彼女は悪妻といわれていた。そこいらへんの奥様ならば、そんなふうにいわれなかったはずだが、夫は有名な鴎外、双方再婚同士、おまけに大美人ときたら、世間の注目を浴びないわけはない。鴎外と先妻には一人の男の子がいたが、茉莉は鴎外としげのいちばん最初の子供として生まれた。茉莉は基本的にパッパが恋人であるから、書いてあるものも圧倒的に父親の事が多い。「恋愛」という題で、自分の父親に対する気持ちを書いているくらいだ。父親は親である以上に彼女の生涯の恋人だったが、母親はやはり母親だったようである。  しげは東京の芝の明舟町《あけふねちよう》に生まれた。父親は大審院の判事で、彼女は裕福な家庭で育てられた。小堀杏奴《こぼりあんぬ》の「晩年の父」に、鴎外としげが見合いをするきっかけになった話が書いてある。渋谷《しぶや》に広大な土地を持っている、荒木という人が、京都から舞妓《まいこ》を二人、落籍《ひか》せて囲っているという話が出た。後で舞妓だと思ったのは実はその家の令嬢だったという話を面白く思って、縁談をもちかけたという。渋谷の土地は、しげの父親が花を作るために借りていた、花畑であった。しげは以前から、鴎外の本を読んでいて、「舞姫」や「文づかひ」に登場する男性は素晴らしいと憧《あこが》れていた。それで見合いで会った鴎外を気に入り、結婚した。しげは二十三歳、鴎外は四十一歳であった。  しげの最初の結婚相手は銀行の御曹司《おんぞうし》で、美貌《びぼう》で有名な男性だった。十七歳のしげとの結婚が決まると、彼と深い仲になっていた芸妓《げいぎ》が騒ぎ出して、新聞|沙汰《ざた》になった。結婚はしたものの、彼女は二十日程を婚家で過ごしただけで、相手の行動に怒った両親に連れ戻された。彼女の最初の結婚生活はわけのわからぬまま終わってしまったのである。  このときのいきさつについて、彼女は「あだ花」という題で世の中に発表している。また鴎外との小倉での新婚時代の話も「波瀾《はらん》」という作品にしている。それを読んで感じるのは、しげという人は、ねっとりとか、じっとりとしたところがまるでないということである。初めての結婚があっという間に終わった現実。それも自分に非があるわけではなく、相手に原因がある。当時のことを考えると、もっと女性としての被害者意識が出てきそうな気がするが、彼女の文章は淡々としている。まるで、 「これこれ、このような状態で、結局は家に戻されてしまいました」  と実験レポートを書いているみたいな雰囲気なのだ。「波瀾」も同じく、鴎外との小倉での新婚生活を書いているものの、 「こんなものでした」  と淡々としている。乾きすぎるくらい乾いている。茉莉は母親の「波瀾」について、「小説を書かなかった方がよかったのである。」「批評する興味が持てなかった。」  と書いている。しかしそのなかで、茉莉の文章にとても似ている部分がある。たとえば、「波瀾」のなかに近所に住んでいる人の記述がある。 「お祖母《ば》あさんはまだ四十位の年頃だが、油切つた、相撲の様に太つた人だのに、内の銭箱を守つてゐるお祖父《じ》いさんは痩せ細つた、人の好ささうな小男だ。嚊《かかあ》天下の此《この》世帯では、お祖母あさんが気に入らない事があつてあばれる時には、御亭主を背負投《せおいなげ》にするさうである。」 「あだ花」では、 「我儘娘で、お伽話でなら、ひどい目に逢ひさうで、その癖正直で、どこか抜けたところのある富子……」  と自分のことを書いている。文章の中の「気に入らない事があつてあばれる」といった表現の仕方。自分で自分を褒めてしまうというところが、森茉莉の書く文章に似ている。文章全体の出来としては、森茉莉とは比べ物にはならないが、こういうところを見つけると、 「やっぱり、血はつながっているんだな」  と思わざるをえないのである。  茉莉は「鴎外夫人」という文章で、母親のことをこのように書いている。 「父親は人から感じ悪く思われることは全部母親にやらせる主義だったので(中略)新聞や雑誌の編輯《へんしゆう》者なぞに何かを断る時も、父親は母親に断らせた。その上に凄い美人で、愛嬌がちっともなく、ものの言い方は切り口上で、言い廻しも、言葉の飾りもなく、ぶっきら棒に断るから、断られた人には、父親は厭がっていないのに、奥さんが出しゃばって来て断るように見え、中にはにくらしいと思って一生覚えているというような感じの人もあったらしい。又母親は感情を隠さない人なので、意地の悪いような人には言い方も一層ツンケンした。(中略)皮肉を言うようなことのない人に対しては困る位お人好しだった。出刃庖丁を横に咥え、藍《あい》弁慶の着物の、 はな色(赤みのある紺)の裾を高く端折り、白縮緬の腰巻を出したお人好しである。(中略)その上彼女は不運なことに鴎外夫人だった。文豪で善良、父性愛の権化の鴎外、の巨像の光にさえぎられていいところは少しもみえなくなってしまった。」  私は鴎外よりも、しげのほうにずっと親しみを感じる。子供たちに対して大甘の夫を見ていて、 「私がきちんと躾《しつ》けなければ」  という思いがあったのだろう。森茉莉の書いているものと、小堀杏奴の書いたものを読むと、母親の書き方が違っている。茉莉の描いている母は、美しく厳しい母である。 「父は母の事をいつも、『絶世の美人』と、言つてゐた。父は時々さう言つて母をからかつた。母は絶世の美人と言はれる事がひどく嫌ひで、父がそれを言ふ度に、母は本気で怒つた顔をした。母はユウモアのない人で、冗談といふものを、徹底的に嫌つてゐた。」  しかし妹の杏奴はこのように書いている。 「……一見非常に生真面目で、滅多に笑う事などないように見える母は、実は大変な笑い上戸《じようご》で、如何《どう》かした拍子におかしい事でもあると、到底我慢が出来ない事を私はよく知っているからである。」  茉莉の書いているものを読むと、笑い上戸の母親の像は全く浮かんでこない。同じ屋根の下に住んでいながら、母親に対する感想が違う。どちらかというと茉莉は父親っ子、杏奴は母親っ子という図式が、森家でもできあがっていたのかもしれない。  私はしげのすっぱりしたところが好ましい。変にとりつくろったりしないから、ついつい切り口上の物言いになってしまう。まあ、物の言い方を知らないといわれたら、それっきりだが、正直すぎるくらい、いろいろな物に対して、正直だったような気がする。鴎外は茉莉に、 「お母ちゃんは中味はお嬢さんだが、外から見たところは羽左衛門の妲妃《だつき》のお百だから、伝法ななりが似合うのだ」  といった。そのときの姿は、鼠《ねずみ》弁慶(灰色と黒の弁慶格子)のお召にお納戸《なんど》博多の丸帯、黒縮緬《ちりめん》の羽織であった。私が本の写真で見た、あの美しい顔に、ごてごてではない趣味の着物を着た姿は、本当に凄《すご》かったと思う。しげという人は自分の趣味をしっかり持っていた人だった。茉莉が書いた着物についての短い文章がある。 「唐人髷《とうじんまげ》というのは明治時代に雛妓《おしやく》が普段に結った髪で、下町の髪だったが、私の母はそのころ山の手の女の子が結った桃割れという髪は趣味が悪いといって、唐人髷に結わせ、高島田も私には背が高くなりすぎるからといって、結綿《ゆいわた》という、芝居で下町娘が結う髪に結わせた。唐人髷に結う令嬢はなかったが、結綿に結う時には山の手の女の子は上品ぶってひわ色ととき色なぞの布《きれ》をかけたりしたが母は真紅《あか》の絞りをかけさせた。私はどんなことをしても山の手の女の子の感じだったので、却《かえ》って不思議な面白みが出た。」  そう書きながらも、茉莉は成長するにつれて、両親の一種変わった趣味が嫌いになって、婚家で染めた平凡な着物と帯のほうが気に入った、そして、いろいろと注文をつけて母親を怒らせたと結んでいる。  子供に対して無防備に甘すぎる父親のそばで、きっちり手綱《たづな》を引く母親。どんなに母親が怒っても、父親が、 「まあ、いいじゃないか」  といえば、子供たちはそれで苦しみから解放される。しめしがつかないと母親は面白くない。そのうえ 姑《しゆうとめ》 との仲はうまくいかない。ある時期、しげはヒステリーといわれたこともあったらしいが、それは彼女のかっちりした部分を、日常的に抑圧したせいではないかと思う。しかしそんな生活も、鴎外の死によってすっと消えていくのである。  母親という立場の人間は、母親として、女として、人間として、どれだけ自分の感情を表に出していいのだろうかと、考えることがある。うちの母親を考えると、離婚するまでは母親、離婚してからは女、そして六十歳を過ぎてからは人間としての欲が強くなった。人というものは、一生を通じて自分の気性は変わらないと思っていたが、母親を見ているとそうではないような気もするし、私が彼女の心の底にある心理を見抜けなかったから、今ごろになってびっくりしているのかもしれないなどと思っているのだ。  茉莉が書いた「晩年の母」は悲しい。鴎外の全集が出て、多少財産らしいものができると、それを子供たちのために守ろうと懸命になっていた。実印や書類や赤いリボンのついた鍵《かぎ》を縮緬の風呂敷《ふろしき》に入れていた。お芝居が好きだったしげは、いろいろな劇場に通う。しかしそれでも安らぎのある日々ではなく、彼女はキリスト教にすがっていたのである。あるとき役者たちが一座を組織して、最初の公演をやった。舞台|挨拶《あいさつ》をした役者たちは、嬉《うれ》しそうな顔をしていた。初日に観《み》に行ったしげは、 「あんな嬉しさうな顔つてあたしは見たことがないよ。あたし達には嬉しいことがないんだからせめて人の幸福が見たい。もう一度あの顔を見に行かうよ。」  といった。中日《なかび》ちかくに茉莉としげは行ってみたが、役者たちは初日のような顔ではなかった。 「もう駄目だつたねえ」  といって、しげはがっかりしたそうである。自分には嬉しいことがないから、人の幸福が見たいという。こういえる人は絶対に悪い人ではない。「もう駄目だったねえ」という言葉も、しげのそれまでの人生を考えると、あまりに辛《つら》い言葉として残るのである。  順番でいくと、母親は子供よりも先に亡くなることになっている。それを思うと、私の母親に対しての批判は、子供として地獄に落ちてもいいくらい親不孝だ。しかし私は親のいうことを、何でもはいはいときけない。その反面、そんなにかたくなにならないで、いう通りにしてやれば楽だと思うこともある。でもそこまですっぱりとは割り切れない。そんな気持ちがこのところずっと渦巻いている。どんな人にも親はいる。それぞれに楽しいこと、悲しいこと、困ったことを抱えている。晩年のしげと同じように、それほど困った生活をしていなくても、どうしてもぬぐいきれないものが、うちの母親の心の中にもあるのかもしれない。それはとても不憫《ふびん》だ。しかし私は、それが何かを考えることすらも、鬱陶《うつとう》しくなって、ただそれから逃げるだけのために、時折、母親の存在を頭の中から消し去ろうとしてしまうのである。  お洒落  身につける物は、楽しい反面、とても面倒くさいものだ。 「体はひとつなのだから」  と思ってみても、どういうわけだか毎年、新しい服が欲しくなる。私が物を買う店は決まっているので、他で衝動買いをすることはないのだが、シーズンごとに何だかんだと、服を買ってしまうのである。それなのにクローゼットを開けると、着る物が何もないような錯覚に陥るのだ。  次から次へと流行が変わる。 「そんなこと関係ないわよ」  といいながらも、ちょっとは気になる。 「もしかして、着てみたら似合うかも」  と、こっそりチビTシャツを買ってみたりしたのだが、家に帰って着てみると、あちらこちらの肉がはみ出した。 「やっぱし、だめだったか……」  ぜったいに上着を着なければ着られないTシャツを手に、私はため息をつくのである。  中年になったとき、私はどういう格好をしたいかという目標があった。以前、読んだ本に書いてあったのだが、フランス人のある婦人は、仕事用、プライベート用含めて、十点程の衣類しか持っていない。それで一年分がまかなえる。基本的には同じ格好なのだが、アクセサリーの使い方がうまいので、同じという感じは受けない。もちろん衣類は素材もいい極上のもので、あとで多少の直しにも応じられるカッティングになっている。自分の基本色を決めて、それに合った物しか買わないというのである。  私は、 「これだ」  と思った。シンプルな服にアクセサリーやスカーフを組み合わせて着る。これならば場所を取らないし、手入れも行き届く。ところがそうしようと思っても、なかなかできないのが現実だったのだ。流行が何であっても、 「私は私だ」  と割り切れなかった。流行を無視できなかった。基本色といっても黒い髪、黒い目だと基本色が限られる。そして年齢によって、黒よりも紺が似合ったり、またその逆になったり、似合う色が決まらない。また決めたとしても、別の色のを見たりすると、 「あれも着てみたい」  と買ってしまう。そしてどんどんと服は増え、自分の考えていたシンプルな暮らしとは、逆方向に進んでいく。そしてあげくのはては、クローゼットを開けても、何も着るものがないような気になる。そのうえいっとき、着物にのめりこんでいたもんだから、着物もある。ときどき、本当に好きな物だけを残して、処分したい衝動にかられるのだが、 「もったいないな」  と考え直して、クローゼットやタンスの前に座る。そして、 「あーあ」  と途方にくれるのだ。  一着買ったら、一着処分する。これが物を増やさない鉄則だという。ところが、例の、 「もったいない」  が働いて、ついついみんな抱えてしまう。それならば買わなければいいのだが、それが我慢できない。 「これを買わなくても、着る服はあるじゃないか」  そう心の中でつぶやいてみても、心とは裏腹に、手は服にのびている。服を触ったら最後、 「いいじゃないか、一着くらい」  となり、鉄則はいつの間にか、どこかにすっとんでいってしまうのである。  それなのに、なぜ、着る服がないような気がするのか。私の持っている服の数など、巷《ちまた》のOLと比べたら、少ない方だと思うけれど、それでも、 「あ、こんな服があった」  と気がつくことがある。自分の頭の中に、買った洋服がインプットされてないのである。これは真剣に洋服を買っていない証拠ではないかと、私はあるとき考えた。どうしてもこの服が欲しいと、渇望して買ったのではない。お店の人に勧められたから。あったら便利だと思ったから。急遽《きゆうきよ》、ある場所に行くことになったから。直観的に素敵だなと思ったから。理由はいろいろある。だけどそれには、 「自分が着る洋服を買うんだ!」  という切羽詰まった気持ちが、欠けていたんだと思う。私は基本的にはお洒落《しやれ》でも何でもなく、ただ目について気に入ったものが手元にあれば、満足するタイプらしい。買ってしまえばそれで終わり。だからクローゼットの中にある服を活かすことができない。自分は無駄なことをしているという罪悪感はある。人生には無駄も必要だと開き直ったこともあるが、こと、着る物に関しては、何とかせねばと、真剣に考えているのである。  茉莉は「贅沢《ぜいたく》貧乏」のなかで、 「自分の好きな食事を造ること、自分の体につけるものを清潔《きれい》にしておくこと、下手なお洒落をすること、自分のゐる部屋を、厳密に選んだもので飾ること、楽しい空想の為に歩くこと、何かを観ること、これらのこと以外では魔利は動かない。」  と書いている。私は彼女が自分の服装を記述した部分が好きだった。 「タイユウル(スウツ)もロオブ(ワンピイス)も買へないのにお洒落と来てゐるから、英吉利風の渋い茶に胡椒《こしよう》色、ココアの茶に、濃紺、白、灰色、水灰色と、カアデガンやスウェータアばかり買つて来る。スカアトが傷んで大穴があくと、愕《おどろ》いて二枚|拵《こしら》へる。一枚は消炭《けしずみ》色。もう一枚はピンクがかつた小豆色と、小豆色を帯びた灰色との、細《こまか》い格子《チエツク》のぼやぼやした布地である。このスカアトに白いブラウスと、濃紺の襟附カアデガンをとり合はせて、谷内六郎の描《か》く表紙の女の子、といつた感じである。中老の御婦人には違ひないが、中身は少女で、十三、四歳の心境だから、さういふなりがぴつたりしてゐる。」 「象牙色のスウェータアの上に紺の襟附カアデガンを着、合はせた襟元を木製のブロオチで止めてゐる。ご自慢の小豆色と灰色のチェックのスカアトをはき、畝編みの薄茶の長靴下に、淡黄の皮のサンダルを履いた足……。」 「マリアとしては、身につけるものの色彩には神経質だが、質の不調和の方は念頭にない。仕立代を入れて九千円はするお召に染めさせた帯で、三百八十円の編み袋を持つて歩く。何が透《すきとほ》つて見えようが、春先は半襟とそこだけが白いといふことが肝心であり、又は、着るものには使へない柔《やさし》い色をどこかへつける為に、水色の手袋を嵌《は》めたり、青磁色の袋を持つたりするといふことだけが重大であつた。」 「贅沢貧乏」を書いていた頃の彼女は、五十七歳である。本人に、中身は少女で十三、四歳といわれても、こちらとしては、 「ああ、そうですか」  というしかないのだが、こういう感覚は他の女なら鼻持ちならないが、彼女だからまあ許そう。上等のセーターの保存状態が悪くて穴をあけると、繕《つくろ》えないから新聞紙にくるんで川に捨てにいく。そんなめちゃくちゃなところも、彼女らしくてとても面白かったのだ。  このなかで彼女が書いていた、「下手なお洒落をすること」がポイントである。下手なお洒落とはいったい何なのか。世の中の女性雑誌には、「上手なお洒落」をする方法は山のように載っているが、「下手なお洒落」については載っていない。だれもが上手になることを求めて、情報を得ようとし、それを試しては成功したり自爆したりする。下手なお洒落とは、本や雑誌なんぞでは身につかない代物である。森茉莉は、「お洒落上手」といわれている人々は、実は粋ではないと見抜き、 「あなたたちが上手というのなら、私はその反対に下手でいくわ」  と静かに挑戦していたのではないかと思うのだ。三島由紀夫の服装に関して、彼女はこのように書いている。 「ジャンパアは或日神田で、襯衣《シヤツ》の方は有楽町で、目についたのをフラリと買ったもので、そういう買い方が好きだとのことであるが、洋袴《ズボン》は一流店の特別仕立てだそうだ。そういう構わないやり方は『本ものの贅沢』であって、私も昔はしたことがある。今でも稀《たま》にやろうとするのだがそういう時に限って財布の中に六百七十七円しかないのである。」  全身特別仕立てではなく、ある部分ははずす。そのはずしが粋であると彼女は感じていた。お金があったらそれなりのところで、全身、スキなく揃《そろ》えられる。しかしそれはヤボである。本物を知っていないと、逆にはずしはできない。幼いころから本物に囲まれていた彼女は、その点において、 「私は違う」  というプライドを持っていたのだ。  茉莉は子供の頃、ドイツから見本を取り寄せて、洋服や帽子を誂《あつら》えてもらっていた。 「黒地に緑と紺の細《こまか》い格子縞《チエツク》に、四角く開《あ》いた襟《えり》や袖口《そでぐち》、裾《すそ》の廻りなぞに濃い紅《あか》で太い縁《へり》を取つた可愛い洋服で、やはり紅い帯が、前で大きく花結びになつてゐた。海軍青の羅紗《らしや》に白い縁《へり》飾りと金の釦《ボタン》のついたもの、黒にオリーヴの荒い格子縞《チエツク》に、同じ色のリボンの飾りのあるのは、十位の時だつた。茶の毛皮に共色のリボンを飾つた、冬の帽子。白いフランネルで、波打つた広い鍔《つば》の縁にオリーヴ色の毛皮のついた、椿姫のやうな帽子。細《こまか》い襞《ひだ》やリボンで飾られた白い寒冷紗《かんれいしや》の、夏帽子。」  三歳の頃から一年に一度か二度、森家には外国からの荷物が届いた。そんなとき鴎外は大喜びで自ら荷物をほどき、彼女に服を着せては目を細めていたという。しかしそういうお洒落な服を着ていた彼女は、学校で洋服を着ている子が少ない時代に、さらに目立ち、男の子からは「異人」「ハイカラ」とからかわれた。母方の叔母の結婚披露宴に、彼女も出席した。五歳だった。 「白と濃い紅《あか》の二色《ふたいろ》の友禅|縮緬《ちりめん》に鬱金《うこん》(黄色)の裾廻し、紅い縮緬の付け紐の着物で、幅の狭い、織物の帯の横|八《や》の字、白いリボンを両方の耳の辺りに結んで、父母と行った。……その夜は私が、他人から綺麗だと認められた最初の夜だった。私も幼い頃は、明治の薔薇でないこともなかったのである。」  成長して彼女は結婚し、パリに行くことになった。着物で行くわけにもいかないので、父親が見本を見て、横浜の洋服店で誂えたが、出来上がった服のほとんどは彼女の気に入らなかった。そこで彼女はパリで自分の気に入ったものを買い揃える。満足気な彼女の顔が目に浮かぶようである。若い頃は経済的に余裕のある生活を送っていたが、晩年は若い頃のようにはいかなくなった。彼女の感覚に合うような、欲しくなるような服は、東京にはなかったのかもしれない。若い頃、パリで服を買ったときのような、お洒落《しやれ》をしたいという気持ちを抑圧していたのか、それともすっぱり断ち切ってしまったのか、私には興味があった。 「年に一回出す本が、一万円の生活を支へてゐるだけだから、贅沢代はあの手この手で捻《ひね》り出すのである。(中略)臨時収入と、何かしらんを売り飛ばすことで余裕をつけるのだが、収入に半端のある時には、半端だけ贅沢費に廻すことにしてゐるので、小切手に何百円、或は何千円の半端があつた時には歓喜である。」  とうとう、売る物がなくなると、彼女はベッドに座って、畳を剥《は》がして売りたいと思ったりするのだ。私はこういうくだりを、くすくす笑いながら読んでいた。ところが別の文章を読んだとき、実は笑っていられる事ばかりではない現実を知ったのである。  母しげの父親が、彼女のために買ったダイアモンドの話がそれである。ロマノフ皇帝一族に関係する人々が持っていたと思われる宝石が、父親の家に運ばれた。一カラット七十(と書いてあっても、私はどれだけのものか、わからないのであるが)の大きさのものだった。そしてそれは茉莉に譲られたのだが、終戦後、疎開先から上京して、そのダイアモンドを売ることになった。銀座の有名店をまわったあげく、ある店でそのダイアモンドを手放した。この話はこのように結ばれている。 「おかしかったのは緊張したので、宝石店の出口に下っていたベッ甲の大亀におでこを打つけたことである。後《うしろ》では爺さんが『あれっぽっちの金で泡をくっているわ』と思って見ていたにちがいない。」  その「あれっぽっちの金」にしか、大切なダイアモンドの指輪はならなかったのだ。 「戦後、売る運命だと知っていたら、もっと忘れずに方々に嵌めて行けばよかった。掻《かゆ》くなっても、我慢して嵌めていて、自慢すればよかった、と今になって後悔しているのである。私はその指輪をよく指に嵌めて見入っていた。私は極上品といわれている、真白に輝く種類よりも、暗く、冷たく光るその宝石《いし》の色が好きだったし、微かに淡黄なのも気に入っていた。それに私を溺愛した父親とどっちかという程、私を愛してくれた母方の祖父の手にふれたことがある、ということが懐しかった。」  そういう品物を売らなければならないほど、戦後、彼女の財政は逼迫《ひつぱく》していた。のちに畳を剥がして売りたいと思ったのも、まんざら冗談でもなかったのかもしれないのだ。  鴎外はまだ子供の茉莉に宝石も買い与えた。ベルリン、シベリア経由で届いたのは、黄金の鎖に、白、薔薇《ばら》色やブルーの濃淡、濃い紅色のモザイクの飾りが五つ下がっている首飾り。次にはベルリン、アメリカ経由で届いた、黄金の薄い丸型に、聖ポオル派の紋章に似た形が彫られ、そこにダイアモンドが嵌《は》めこまれているものだった。十九歳のときには、夫がパリで買った貝をくり抜いて削り、銀の鎖でつないだものを作った。が、それらを彼女はどこかでなくしてしまうのだ。 「貝殻の頸《くび》飾りは、生れた海の底に、帰って行ったのだろうか? その方が、伯林《ベルリン》の太った女の首に巻きついているのより、私には口惜しくないのだ。」  彼女は昔のいいとこの娘さんや奥さんがそうだったように、夫であったり恋人であったりする男性から、宝石をプレゼントされるのが似合っている人である。そして本人は、 「あ、なくしちゃった」  とあっさりとなくしてしまう。すべて夢のなかである。なくしてしまったことも悔しいだろうが、それよりも夢であるダイアモンドを売って、現実に食べるためのパンを買わなければならなかったことは、しょうがないと諦《あきら》めつつも、彼女を何ともいえない暗い気分にさせたのではないかと思う。 「私は年をとって髪が真白になったら、黒い服装《なり》をして、大きなダイアモンドだけが指に光っている素敵な老婦人になろうと、生意気にも企《たく》らんでいたが、……」  彼女にも、このような老婦人になろうという気持ちがあった。彼女が憧《あこが》れていた老婦人の姿は、ヨーロッパ風のエレガントなスタイルである。彼女がそのような格好をしていたら、とても素敵だったはずだ。だけど、彼女の日常の服装は、谷内六郎の少女風スタイルであった。彼女の美意識の基準では、黒い服装には、大きなダイアモンドが必要だった。ところが彼女の手には、はめるダイアモンドの指輪はない。そこで彼女は老婦人をやめて、谷内六郎風少女スタイルへと、方針転換をしたのだ。  彼女が物を書きはじめてからの、何枚かの写真を見たけれど、彼女はニット物が好きだったようだ。あるときはニットのワンピース、またあるときは市松と横縞《よこじま》が編み込んであるカーディガン。だけどそれを着ている彼女の表情は、お世辞にも幸せそうにはみえない。身なりにかまっていない印象を受ける。髪の毛も整えられているとはいい難い風である。本人が書いているとおり、結婚前、結婚直後の彼女は、本当にかわいらしく、おっとりとした美人である。美人で有名な母親に、よく似ている。十二歳のときの振り袖《そで》を着た写真、結婚後、夫と友人と洋服姿で撮った写真、縞の着物を着た写真、どれもあどけなく美しい茉莉が写っている。ところが中年以降の茉莉の写真を見ると、 「どうして」  といいたくなるくらい、顔つきが変わっているのだ。  どんな人でも歳《とし》をとり、皺《しわ》は増える。太りもするし痩《や》せもする。人間少なからず、顔面は崩壊していく運命にあるのだ。しかし、その人が満足している生活をしているかどうかは、顔つきからわかる。美人だから、そうでないからというのではなく、何かにおびえているような、それでいて体の中にかたくなな物があるようにみえた。  写真嫌いだったというから、レンズをむけられると、緊張したのかもしれない。しかしそれ以上に、彼女の顔は哀しげに私の目には映った。あれだけ「贅沢《ぜいたく》貧乏」の生活をしていて、私をうらやましがらせた人の顔が、精神的に充実しているとはとても思えないような、哀しさを持っていたのである。  私は彼女の本を読むたびに、この人はさばさばしているのか、それともねとっとしているのか、はかりかねた。最初に「贅沢貧乏」を読んだときには、過去の自分の環境をすぱっと割り切った、さばさばはっきりした人という印象を受けた。ところがいろいろなエッセイを読んでいくうちに、もしかして、彼女は本当はそうではないんじゃないかと感じはじめたのだ。  ひと間のアパートに住んでいるから、着る服が少ないから、人は不幸なのではない。もちろんその逆もありうる。私は彼女の人の眼を気にしない、自分だけの世界を作っているところが好きだった。ところが彼女は人の眼を全く気にしない部分もあるが、また別の面では、とても意識しすぎた部分があった。それがプライドである。美意識とプライドがドッキングすると、それはとても排他的な物になる。銀座の店の自分に対する扱いに怒る姿には、強いプライドがある。 「どうして私があなたに、そんな扱いを受けなければならないのか」  そういう怒りが行間から噴き出しているのだ。  森茉莉は晩年、部屋に鏡を置かなかったという。自分の顔もみたくない毎日。これはやはり不幸である。鈍感な人間だと、自分の顔がよからぬ方向にむかっていても、気がつかないから平気でいられる。しかし美意識の強い彼女は、それに耐えられなかった。美しかった自分の若い頃が頭に残っていて、歳をとったことが耐えられなかったのか、別の理由があったのか、それはわからない。部屋から鏡をなくして、彼女は客観的な眼もなくしていった。現実と面と向かうのが、とても苦手な人だったのだ。  あのダイアモンドを手元から離したことが、彼女にとっては大きなマイナスだった。あの指輪が残ってさえいれば、少しは顔つきも和らいだのではないだろうか。「マリアの気紛れ書き」のなかに、 「マリアは最近、素晴しいものを獲得した。露西亜産の銀狐である。」  という一行がある。私はアパートでの彼女の生活のなかに、彼女の美意識を心から満足させるような、楽しい出来事もあったのかと、それを読んでちょっとほっとしたのだった。  異性としての父  知り合いの男性で、奥さんが妊娠しているのがわかったとき、 「絶対に女の子が生まれるように」  と真剣に願っている人がいた。女性三人と彼を含めた男性二人とで、雑談をしていたのだが、 「娘が年頃になったら、一緒に腕を組んで歩くのだ」  と真顔でいう。それを聞いた、娘である女三人は、声をそろえて、 「わっはっは」  と大笑いしてしまったのである。  それから彼は、女三人にずんずん突っ込まれた。 「甘いわねえ」 「そうよ。年頃の女の子がお父さんと腕なんか組んで歩くもんですか」 「腕なんか組んで歩いたことないわよ」 「だいたいねえ、それを許す女の子のほうがおかしいって」 「そうそう。娘なんてその年頃は、お小遣いをもらう以外は、少しでも父親と離れていたいって思うんだから。一緒に買い物に行きたいなんて変よ」 「そうよ、ねーっ」  彼の顔はだんだん暗くなっていった。 「でも、そうしてもらうんだ」  つぶやいた彼の声は、またまた、 「わっはっは」  という笑い声にかき消された。 「いくらお願いしたってだめよ。腕を組んでくれるのは、奥さんくらいのものだって」 「やだ。女房じゃなくて若い子がいいんだ」 「やあね。自分の娘を恋人扱いしているんじゃないの」 「動機が不純よね。不純」  黙って話を聞いていた、もう一人の男性が口を開いた。 「でも、女の子ってかわいいよ。うちは男二人だからさ。楽は楽なんだけど。同僚の子供なんかを見ると、女の子がいるといいなって思うよ」  彼がいうには、子供の性別はどちらでもよかったが、たまたま生まれたのが、二人とも男の子だった。自分が男だったから、子供の頃のことを思い出して、キャッチボールをしたり、サッカーをしたりして遊ぶ。悪いことをしたら、叩《たた》いて教えることもある。 「それは男の子だからできるけど、もし娘が同じ悪さをしても、きっと殴れないだろうなあ。ものすごく気になりながら、腫《は》れ物に触るみたいにしてるんじゃないかなあ。かみさんを通じて、必死に情報を得ようとしたりして」 「そうよ。それが普通よ」 「いーや。おれは娘と腕を組む」  例の彼は頑固にいい張った。 「じゃ、いうけどね」  友だちは深呼吸した。 「娘が腕を組んで、一緒に出かけたいと思うような父親は、他の女にももてるのよ。自分の娘だけにそうやってもらおうなんて、虫がよすぎるわよ。そう思うんだったら、他の女にもてるように、努力することね」  最後の一発をくらって、彼は口をへの字に曲げて黙ってしまった。 「そうねえ、私が変身させてあげるわ」  よせばいいのに、酒を飲んでいい調子になった友だちが、彼をじろじろと眺めまわした。 「な、なんだよ」 「そうねえ。女にはもてないタイプよねえ。どうやっても無駄な気もするけど」 「おい、ひどいじゃないか。じゃ、おれと結婚した女房はどうなるんだ」 「それはボランティアよ。奥さんの優しい気持ちよ」  じっと彼の顔を見ていた彼女は、突然、いい放った。 「ちょっと、腕を組むとか組まないの問題じゃないわ」 「えっ」 「まず、女の子があなたに似ないことを、真剣に考えなくちゃ。絶対に奥さんに似るように。これは願をかけたほうがいいわ」  一同の、笑い声と共に、彼はますます機嫌が悪くなり、 「よーし、みていろ」  と捨てぜりふを吐いた。二か月後、彼の奥さんは女の子を出産した。看護婦さんたちに、 「まー、お父さんそっくりねえ」  といわれ、彼はうれしいやら、悲しいやら、複雑な気持ちだったという。そして今は、 「まだ骨や皮膚が柔らかいうちは、何とかなる」  と、毎日、赤ちゃんの顔をマッサージしているそうである。  また別の男性は、 「今、娘が幼稚園で、一緒にお風呂《ふろ》に入っているんだけど、いつまで入れるのかなあ」  と気にしていた。そのXデーがいつくるか、不安でならないという。 「これだけが、娘とコミュニケーションがとれる手段のような気がするんだ」  何歳くらいまで、父親とお風呂に入っていたかを聞かれたので、 「小学校の二年生くらいかなあ」  と答えると、指折り数えて、 「あと、三年しかない」  と暗い顔をする。そして、どういうきっかけで、父親との入浴を拒絶するようになるのかというのである。 「それはおおいに友だちと関係があるわね。学校でいろいろと話をしていて、『あら、まだお父さんと一緒にお風呂に入ってるの。赤ちゃんね』などといわれたら、それでおしまいよ」 「余計なことをいう奴《やつ》がいるんだな」  私からみると、どうでもいいじゃないかといいたくなるようなことを、父親である彼は、真剣に考えているのだった。  父親が娘をかわいがるのは、まあ、わかる。しかし普通は、子供の頃はベったりくっついていたとしても、娘のほうからだんだん離れていくものだ。いつだったか、高校を卒業するまで、お父さんとお風呂に入っていた女性の話を聞いたが、それはとてもまれなケースだ。父親は娘がだんだん離れていくにつれて、寂しい思いをするけれど、娘のほうは他に関心を持つ事が山ほどあるので、父親なんかどうでもよくなっている。それがごくごく当たり前ではないだろうか。それから比べると、森茉莉のパッパ好きは想像を越えている。どうしてそこまで父親にのめり込めるのだろうかと、不思議でならないのだ。  鴎外は子供たちを溺愛《できあい》していたようだ。同じいたずらを、近所の子供たちがやったのなら殴れというのに、自分の子供だったらいいというのが父親である鴎外の考え方だった。特に茉莉については、幼い頃、百日咳《ひやくにちぜき》で安楽死をさせようかとまで考えた娘だったから、その分、余計にかわいかったのかもしれない。彼は茉莉を膝《ひざ》の上にのせて、 「お茉莉の髪は上等、顔も上等、性質は素直だ」  と褒め続けた。婚約が決まっても茉莉は父親の膝の上に乗るのをやめなかった。私は物心がついてから、父親の膝の上に乗った記憶など全くないので、何だか異様に感じられるのである。  このようなこともあった。茉莉が子供の頃の話である。 「ある日妹を部屋に呼びこみ、片附けるのを手伝ったら何か遣る、と言って手伝わせた。欺すつもりで遣ったのではなかったが、いざどれか遣ろうと思うと、何一つとして遣ってもいいと思えるものは無い。持つところにニッケルの附いた消しゴムも、千代紙の表紙の小さな手帳も、すべて惜しいので、とうとう何も遣らなかった。妹からそれをきいた父は、さすがにちょっとひどいと思ったらしかったが、私を叱ることが出来ない。それで父は母にそれを言って、母から注意をさせたのである。結局父は、私に小言を言ったことは一度も無かった。困った子どもであり、困った父親であった。」  困った子供、父親であると書いてはいるが、困っているとはとうてい思えない文章である。これは明らかに父親自慢である。私は鴎外よりも妻しげの肩を持っているので、本当にしげは損な役回りをさせられていたと思う。家の外では、軍医でも文豪であっても、家の中では子供から少しでも嫌われることを恐れ、都合の悪いことを妻に押しつけ、子供にいい顔をする甘やかしの極致の父親だった。  全集に収録されている文章でいちばん驚いたのは、「親子どろぼう」という文章である。鴎外は宮中によばれたときに、茉莉のためにチョコレートや干菓子をそっと持ち帰った。これはかわいいお父さんの姿である。一方、子のほうは、母親の実家で従姉《いとこ》たちと人形遊びをしていたときに、いけないことをしてしまった。従姉が持っていた、小さな人形の着物や袴《はかま》が欲しくて我慢できず、帰るときに紫|繻子《しゆす》の袴を手に持って帰ってしまったのである。 「見られてはいけないという意識がないので隠さなかったが、誰も気がつかないで家まで帰った。父親は微笑《わら》っていたが、母親の青くなった顔色と、直ぐさま私をつれて引返して、祖母や叔母たちの前に手を突いた母親のようすで、大変な事だと解った。親子どろぼうの、お話である。」  幼いときに、欲しいものをぎゅっと握ってしまって放さないのはよくある。まあ、仕方がない出来事だが、ここで私は、人形の袴を持ってきて、笑っていたという鴎外の態度が気に入らない。近所の子供なら殴れ、自分の子供ならばよし、という甘さだから、万事、この調子だったのだろう。頭ごなしに叱《しか》りとばす必要はないが、パッパとしたら、優しくたしなめるくらいのことはして欲しい。「親子どろぼう」といいながらも、 「ほーら、こんなことをしても、何もいわれなかったの」  という森茉莉のうれしそうな顔が目に浮かぶようである。 「私は一つの大きな幸福の中に揺《ゆす》られてゐた。父の体は大きな樹であつた。肯き、微笑する顔は、細《こま》かな千も万もの葉をつけた葉むれである。細かな葉の間々には白い小さな花がついてゐる。その花はいい香《にほ》ひがする。黄金色《きんいろ》の果実が実つてゐるやうでもある。白い花々の蜜か、黄金色の果実の汁だらうか、たとへやうのない甘やかに柔しい蜜が、揺れ動く膝の音楽と一しよに、滴つてくる。私の小さな唇は、その蜜を、上を向いて、呑み下《くだ》した。」 「私の目で見た『森鴎外』は、文学者といふよりは『一つの偉大な頭脳』で、あつた。又一つの(美しい首。美しい顔の意)で、あつた。」  彼女にとって父親は、外国の俳優よりもずっとハンサムで、格好がよく、居住まいも正しく、頭もよく、そして何よりも優しい、非のうちどころのない、完璧《かんぺき》な男性であった。 「優れた人類の標本」とまでいう。ところがいつまでもそうやって、そばにいられるわけではない。彼女が結婚し、出産したときのことを、このように書いている。 「私は少しづつ父と離れた人に、なつていつた。(中略)凝固してしまつたやさしさ、私を包みに来てはくれないやさしさが、私には寂しくて、ならない。」  当時、鴎外は彼女が結婚して住んでいた家のそばの博物館へ通っていた。そして一日おきに昼の食べ物を持って、彼女の家にやってきていた。でも鴎外は家の中に上がることはまれだった。なんだかよそよそしいと茉莉は感じ、不安を持つ。 ≪あたしはパッパとの想ひ出を綺麗な筐《はこ》に入れて、鍵をかけて持つてゐるわ≫  これは結婚後、しばらくして彼女が夫にいった言葉である。 「私は父と私の愛情を美しいと信じてゐたからだ。父の人間には詩がある。夫《をつと》には詩がない。」  こういわれてしまっては、夫も立つ瀬がない。それほど父親はとっても大きな、重要な存在だった。茉莉が結婚してからは鴎外は、これまでのままではいけないと思ったようだ。しかし子供がいても茉莉は、膝の上に乗れといわれたら乗れるほど、まだまだ父親を慕っていたのである。彼女にしてみたら、とっても不本意で悲しいことなのだろうが、一日おきに、昼御飯を持って娘の住んでいる家を訪れる父親は、やはり妙な感じがする。鴎外と茉莉の間には、親離れ、子離れなどということばは存在しなかったに違いない。 「私にとつて、『森鴎外』といふものについて書くことはひどく難しい。私は『森鴎外』といふ人を、よく識らないからで、ある。鴎外について書くのには、私はあまりに何も識らない。私の知つてゐるのは、その膝に乗つて体を揺《ゆす》り、歓びに満ちて胸に寄りかかつた父で、あつた。」  茉莉は軍医であり、文豪である「森鴎外」という人物には関心がなかった。社会的に人に影響を与える立場の父親より、とにかく自分だけを見ていてくれる、森林太郎に深い愛情を持っていた。ほとんど独占欲に近い愛情である。鴎外は葬式|饅頭《まんじゆう》を割り、それを御飯の上にのせて、煎茶《せんちや》をかけて食べた。子供たちは父にならって、同じようにして食べた。誰一人として、「変だ」とか「嫌だ」という子供はいなかった。子供全員が父にならって、御飯の葬式饅頭茶漬けを食べる。まさに、 「うーむ」  である。それだけ無条件で父親は子供たちに愛されていた。そんな兄弟姉妹のなかで、茉莉は勝利者だと思っていた。しかし彼女たちの兄弟姉妹が書いた本を読むと、 「自分だけが父親に特に愛されていた」  というような印象を受ける。大好きな父親を、子供たちで奪い合っていたという感じなのである。子供は敏感だから、親が同じように育てたつもりでも、他のきょうだいとの差を感じ取る。ショックを受けるが、また別のところで父親に優しくされて、 「私だけがかわいがってもらった」  という満足感を得る。森家の子供たちは、父、母、兄弟姉妹のなかの「父」ではなく、「父対自分」のことしか興味がないのが、大変、面白い。茉莉の妹、杏奴《あんぬ》は父と母と一緒に出かけたときに、父が母にばかり話しかけて、自分のほうを見ないので腹が立ったと書いていたりして、父親好きの子供は、母親にまで嫉妬《しつと》するのかと、驚いたのである。 「父親は私を、誰よりもかわいがってくれている」  そのことだけが、茉莉の自信になっているといってもいい。教養があり、清潔で温厚で立派な男性に無条件で愛される。もしも自分がそうだったら、いったいどうなるか、考えてみると、それはとても自慢できる。世の中の他の男性なんか、目に入らなくなるだろう。父親さえいればと思うかもしれない。しかし、年頃になったらそれは別だ。父親に似た男性にひかれたりするかもしれないが、いつまでたっても子供のように、父親を追い求めたりはしない。全面肯定ではなく、あるときは好きになる対象であり、あるときは反面教師。そういう感覚の私には、森茉莉と鴎外の関係は濃密すぎて、こんな親子関係って本当にあるのだろうかと疑いたくなってしまうのである。  茉莉は、 「自分の中に獅子《しし》を飼つてゐて、その獅子を飼ひ馴《な》らして、おとなしくさせてゐる人で、あつた。」  と鴎外について書いている。獅子は自分の子を千仞《せんじん》の谷に突き落とすというけれど、彼はそのようなしつけをしなかった。子供に関しては、猫かわいがりに終始した。そのような父親と娘には、それにふさわしい別れがあった。茉莉が十九歳のとき、夫と海外にいるときに、鴎外の危篤の知らせが入る。茉莉は日本に戻れない自分と、見送りに来てくれていた、顔色のよくない父親の顔を思い出して泣いた。これは彼女にとって、いちばんいい父親との別れ方だったのだ。  日本にいたら、日々具合の悪くなる父親の姿を見なければならない。そばにはいられるけれど、大好きな人が衰えていく姿を見るのは、何よりも辛《つら》い。それを見越したかのように、鴎外は茉莉夫婦を海外に送り出した。そばにいられない寂しさはあったかもしれないが、茉莉は夢と空想のなかにいられた。彼女のなかには「優れた人類の標本」である彼の姿が残っている。息をしなくなった父親の姿はないのだ。鴎外はたくさんの愛情を茉莉に与えたが、これがいちばん彼女に与えた深い愛情だったと思う。  人の生死は現実である。茉莉はただでさえ現実が苦手な人である。いちばん愛していた人のそれもいちばん見たくない現実を、彼女は見なくてすんだ。そして自分の最期が近いことを悟り、それを彼女に見せようとしなかった森鴎外という男性は、やはり彼女をいちばん理解していたのだと思わざるをえない。そのおかげで、茉莉はいつまでも父親の思い出を、美しいままで保つことができ、それがエッセイになり、小説になった。  茉莉の妹である杏奴は、こう書いている。 「父という人間には、男性的な分子(それは彼のがっちりした体格から来ていた)と、その反面にひどく女性的な分子があった。これは父の物静かな性格がもたらす一種の持味で、いつも少し抜き加減になっている衣紋《えもん》の具合や、衣摺《きぬず》れの音というとおかしいが物柔かな動作、細かな心遣いなどから生じて来るものであった。私はこの性格から来る父の両面を愛した。父は単なる父でなく、母でもありまたそれ以上私たちにとって絶対なものであった。」  しかし茉莉は違った。彼女にとって、父親鴎外は異性であった。母的なものではなく、ずっと憧《あこが》れの異性であった。私は彼女の、父親という異性への執着がとても面白い。自分には全くなく、経験したことがない部分ばかりだからだ。単純な父親自慢だけならば、これほど私はとまどわないように思う。その裏に、恋愛に近いものを感じて、私はとても気恥ずかしくなったり、驚いたりする。ここまで父親である異性を褒めちぎられるのは、ある意味ですごいことである。人には照れという面倒なものがあるが、彼女にはそれが微塵《みじん》もない。好きを好きといって何が悪いという、堂々とした態度を押し通している。  私が何度も繰り返されるパッパの話を読んでも呆《あき》れないのは、彼女の父親が鴎外だからである。 「あの鴎外がこんなことをしていた」  という興味半分で読んでいる。茉莉は、自分とパッパの純粋な愛情を、鴎外という社会的な存在から見てほしくないというだろう。しかし読者の私としては、パッパについて語られるとき、彼女がいちばん興味がなかった、軍医であり文豪である彼の姿が浮かび、家の中を覗《のぞ》き見したような、とってもうれしい感覚に襲われるのである。  きょうだい仲  いろいろな人の話を聞くと、きょうだいという関係も、なかなか難しいようである。私の場合は弟が一人いるが、特別、トラブルが起きたことはなかった。もちろん小さいときには喧嘩《けんか》もしたが、私が中学生になったくらいから、喧嘩もしなくなった。喧嘩になるような原因もなくなり、 「あいつは、あいつだ」  と、お互い暗黙のうちに不可侵条約が結ばれていたからである。  性別が違うから、自然にそうなったのではないかと思っていたが、若い女性から、 「私はついこの間、兄と殴り合いの喧嘩をして、前歯が折れました」  と聞いて、ド肝を抜かれた。いったいどういう理由で、そんなことになるのか、想像もできないのだ。  私の高校時代のクラスメートのなかに、七人きょうだいの末っ子の女の子がいた。明るくかわいらしく性格もよい子で、みんなから好かれていた。私は「兄」というものが欲しくてたまらなかったので、 「六人もお兄さんがいて、いいねえ」  といったら、真顔で、 「最悪よ、最悪。そんなに欲しかったら、二、三人、今すぐにでもあげる」  といい放った。すぐ上のお兄さんとは、五歳離れている。いちばん上のお兄さんと彼女は、十六歳の差がある。どのお兄さんもいちばん下の彼女が気になって仕方がないらしく、何かといえば口を出してくる。本当の父親も含め、七人の父親がいるみたいなんだそうである。 「ちゃんと勉強しろ」  などというのは当たり前。ちょっと流行の格好をすると、 「何だ、その服は」  といわれる。姿を見たお兄さんがそのたびにいうから、運が悪いときは六回、同じことをいわれるはめになるのだ。遊びに行って、ちょっとでも遅くなると、駅から家の入り口まで、暗がりのポイントに、ちょっとタバコを買いにきたようなふりをしたお兄さんたちが、立っている。そして家に帰ったとたん、 「何やってんだあ」  とみんなから怒られるというのである。 「もういい加減で放っておいてもらいたいのに。私、ずっとこのままかと思うと、ぞっとするわ」 「そうだよね。結婚するときも相手は大変だよね」 「『自分たちが気にいらない奴《やつ》には、やらない』っていわれそうだわ」  高校生くらいになると、父親一人でも面倒くさいのに、それが七倍になって攻めてくるというのは、本当にうんざりする。 「そういうのじゃなくて、かっこよくて頭がよくて、妹にとっても優しいお兄さんっていないのかしら」  私がそういうと、彼女は、 「いない! どこにもいない!」  と信念を持って力強くいい放ったのであった。  私はたまたま弟だったが、もしこれが妹だったらと考えると、暗黙の不可侵条約は成立しなかったような気がする。今の男の子は違うかもしれないが、弟はスカートをはくわけでもないし、化粧をするわけでもなく、男の子とつき合うわけでもない。私と比較する何ものもない。むこうも同じだったはずである。勉強のほうもあちらは理系、私は文系で、何ひとつ接点がない。接点がないということは揉《も》め事もおきず、私たちきょうだいは平穏な日々を送ることができたのだ。  ところが姉や妹がいる人に聞くと、 「私の人生は戦いだった」  といっていた。もちろんそういう人ばかりではないが、特に妹のほうがそのダメージが大きかったようなのである。 「うちの五歳違いの姉は、きれいで頭もよくて、両親の自慢の子だったんです。子供心にちょっと嫌だなって思っていたら、弟が生まれちゃって、両親ははじめての男の子を猫かわいがりするし、完全に私はのけものでした」  彼女がいうには、それ以来、ものすごく愛情に飢えた性格をひきずるようになった。とにかく人に嫌われるのが、怖くてたまらないというのだ。  もしも私に、ものすごーくかわいくてスタイル抜群で、頭がいい妹がいたとする。姉として自慢な部分もあるが、その反面、面白くないのも事実である。テレビで、かわいいアイドルのきょうだいが出て、 「えっ……。これが同じ両親からできた子か」  といいたくなることがあるが、当人にとっては、結構、重要な問題なのではないかと思うのだ。たかが子供の頃のことといっても、それが三十歳を過ぎてまで、ずっと残っている。おまけに相手は他人ではなくきょうだいである。順番からいえば、親が亡くなってからも、つきあっていかなければならない人たちである。かわいがられているほうは、何も感じないかもしれないが、そうでないほうは、ずっと心の中にわだかまりが残っている。親も選べないけど、きょうだいも選べない。子供のときにも問題は起こるけれど、近ごろは親が亡くなったときに、きょうだいで遺産相続のときに骨肉の争いが起こるのも、珍しくないという。うちは争いが起こるような資産もないし、お互いに不可侵条約は守ったままだし、このまま穏便にいくのではないかと、思っているのだ。  森茉莉には腹違いの兄「於菟《おと》」、同腹の妹「杏奴《あんぬ》」、弟「類《るい》」がいた。杏奴の上に「不律《ふりつ》」という弟がいたが、赤ん坊のときに亡くなっている。彼女のエッセイは、きょうだいについて書いてある部分がとても少ない。一番多いのは大好きなパッパ。そして母親しげ。あとは特別、きょうだいに対して深い愛情を持っていたというふうには感じられないのである。たとえば、「妹の羽織」という文章では、このように書いている。 「私の母親は自分が、明治の典型的な美人だと言ってもおかしくない顔と姿を持っていたので、娘である私と妹の顔には怒りに近い不満を抱いていた。だが私の方は粧《つく》り栄えがすると言っていて、子供の頃から熱心に選んだ友禅縮緬の元禄袖を着せたり、独逸から送って来た洋服を着せたりし、髪も、鏡の中の私の顔を覗き、似合うように結んだ。(中略)妹の方は、どうせどう遣ったって駄目だと言って、構わなかった。幼い時の妹は、いつもお姫様のように綺麗にしている私に憧れていて、自分も私のようになりたいと、熱望していた。だが依然彼女は洒落るということに関しては、母親から見離されていた。来る客たちも、妹の存在を忘れたかのように、私にだけ贈り物をしたので、稀《たま》に自分にも美しい草履が贈られたりすると妹は狂喜して、その草履を胸に抱いて、そこらを跳ね歩いた。」 「私の婚約が調ったのと同じ頃、兄の結婚も定まって、兄の婚約者の家から私と妹とに美しい反物が贈られた。(中略)ところが、私の着物を揃えることに夢中になっていた母親は私に贈られた方を単衣《ひとえ》物に仕立て、妹へ来た方も私の袷《あわせ》羽織にしてしまった。妹は絶望して、赤い小鬼のようになって泣いた。私という人間が又妙な人間で、可哀そうだから妹に遣ろうと、いうのでもなく、それかといって、妹に全く同情がない、というのでもない。自分のこと以外にはすべてに無関心であるから、どんな時でも不得要領《ふとくようりよう》な状態である。」  結局、この件は、鴎外が、 「それは杏奴が気の毒だ」  といって、新しい友禅の羽織用の反物を買ってきておさまった。自分に贈り物があると、狂喜して胸に抱いて喜ぶ妹の姿は、いじらしいというか、何ともいえない気持ちになる。長女である茉莉は、パッパだけでなく、母親までも妹に差をつけて、自分を気にかけてくれたという意識が常にあったのだ。  小学生の頃、妹が同じ学校の幼稚園に入ってきた。茉莉はお洒落《しやれ》でほとんど笑わず、ものも言わぬほど気取っていた。ところが妹のほうは、男の子のような野性児である。茉莉は長い髪に繻子《しゆす》やタフタのリボンを結んでいたが、杏奴のほうは前髪を真ん中から二つに分けて、両方をゴムひもで結んでいた。そんな格好で泣いたりすると、ゴムひもが角のようにみえる。気取っているところに、泣いている妹が真っ赤な顔でやってくるものだから、茉莉は、 「どうしてこんな妹が生まれたのだろう」  と横目で見たと書いている。こういうことはきょうだいの間では、山ほどある。私も弟さえいなければ、お小遣いも二人分、お菓子も半分に分けなくてすむと思った。びーびー泣くのを見ては、 「あーあ」  とため息をついたこともある。茉莉は杏奴が憎かったわけでもない。ただ、頭の中に浮かんだ事柄を素直に書いたにすぎないのだ。  一方、杏奴は「晩年の父」という本で、茉莉についてこう書いている。 「姉と私とは六つも年が違うので、なんでも姉のいう通りになっていた。姉はその頃家中で一番尊重されていて、非常に大人しく、黙って学校に行き、帰って来ると次から次へ来る家庭教師について勉強ばかりさせられていた。そうして何時でも首席に近い成績を占めているのに、私は父が気を入れて面倒を見てくれても、少しも勉強せずに、中くらいの成績で満足しきっていた。彼女は母の偶像であったが、私は男の子なみに扱われて、いつでも父や弟と行動を共にしていた。」  茉莉がパッパに「お茉莉」と呼ばれていたように、杏奴も「アンヌコ」と呼ばれていた。しかし茉莉の本にはそのことは出てこない。茉莉の書いているものによると、「茉莉はパッパをひとり占め」という感じがするが、杏奴によると、 「(自分は)いつでも父や弟と行動を共にしていた」  となる。そのうえ茉莉については、 「母の偶像であった」  といっている。姉と妹で父親との関係の濃さを競っているのである。  写真を見ると、若い頃の茉莉はいかにも良家のお嬢さんという感じである。文句なくきれいだし、おすまししている。一方、杏奴のほうは愛嬌《あいきよう》があって、人好きがするかわいい感じの人である。性格も雰囲気も違う二人は、特別、仲が悪いわけでもなく、静かに父親を取り合っていたのだ。 「姉が結婚して外国に行ってしまったので、母の対象がようやく私に移って来た。そして著物《きもの》をつくってくれたが、私は醜いので似合う著物は少かった。母はいつか父に私の著物を選んでもらうような習慣になってしまった。『パパの選んだ著物は反物として見ると、そうよくないけれど、妙に着せてみると似合うのだよ』と母はいっていた。」  茉莉が結婚してから、やっと杏奴が母親にかまってもらえるときがきた。 「私は醜いので似合う著物は少かった」  と書いてしまう彼女の気持ち。茉莉とはずいぶん性格が違う。しかしそんな彼女にも意地がある。それが「姉は母の偶像」、「いつでも父や弟と行動を共にしていた」という言葉になるのだ。  鴎外の先妻の子である於菟は、祖母と共に、茉莉たちが住んでいる家の離れに住んでいた。茉莉と十四歳、弟の類とは二十一歳離れていることもあって、交流がなかったのかもしれないが、茉莉の両親を中心とした家から、彼は明らかにはずれていた。彼は「父親としての森鴎外」という本で、彼の周辺の人々について書いている。彼の生母、登志子は赤松男爵の長女で、教養豊かな婦人であった。鴎外は積極的に人を叱《しか》りつけることをしない人で、生活をしていくうちにたまった不満が、あるとき爆発し、彼は同居していた弟を連れて、借家を借りてしまった。登志子の父親が、娘が気に入らないのなら引き取ろうというと、鴎外がそれに同意したので、あっという間に離婚となった。まだ入籍をしないうちの離婚で、於菟が生まれて、まだ一か月ほどのことだ。子供が生まれたばかりだというのに、母親と子供を引き離す鴎外の行動が、私はいまひとつ理解できないのである。  於菟は森家に残り、母親のいない生活を送った。子煩悩な鴎外は於菟のことを「ぼっちゃん」「ブクリ坊主」と呼んでかわいがった。 「りこうなお子さんですね」  と褒められると、 「ええ、この子はりこうです」  と答える。手放しの親馬鹿であった。ところが鴎外が再婚してから、於菟の立場が微妙になっていく。祖母は於菟の母親が醜いから、鴎外に好かれなかったのだと信じていた。 「お登志さんも少しも悪い人ではないのだが、もっと器量がよかったら林《りん》もきらわなかったろう。美しいというのは大切な事だ。それに人の性質など急にはわからないが、美しいのはひとめでわかる。」  鴎外の弟は評判の美人と結婚していた。祖母は次は鴎外にも美人の妻をと、懸命に探しだした。  美しい新しい母親が来た。親戚《しんせき》の集まりがあったとき、彼女が手をひいてくれて、於菟はこんなきれいな人が母である事を自慢したい気持ちになった。ところが鴎外が小倉にいくのを見送るとき、彼女は手をひいてくれず、鴎外と並んでずんずん歩いていって、於菟はとり残されてしまった。すると彼女の妹が彼の手をとって、小走りに後を追ってくれた。 「その手が母の手よりも温く柔らかであったのがうれしく、同時に淋しく思った記憶が長く残った。」  しげは小倉の家に、於菟の写真を飾るのをいやがった。とにかく自分以外の者に鴎外の関心がいくのを嫌っていた。のちに同じ敷地内に住んでいながら、会うのは鴎外のいる役所でという変則的な関係になっていく。茉莉のエッセイにも書いてあるが、彼女は夫が待つフランスへ於菟と行っている。そのとき、体調の悪い鴎外も見送りに来ていた。 「私は家庭の事情の複雑さから世間並ほど世話をやく機会の少なかった弟妹、もう大きくなって夫を持っている妹に汽車や汽船の中でやたらと世話をやいた。そうすると私には父のうれしそうな顔が見えたからである。そしてそれがまた私達兄妹も急に親しみを増すので私にとっては二重の喜びであった。」 「今でも年をとって病んでいる母を見舞って弟妹達とつまらぬ事に笑い興じている時、父の喜ばしそうな顔が、窓から、壁から、額の中からそっとのぞいてうなずくように思われるのである。」  いかにも長男の、正直な気持ちであるが、彼の喜びの陰には必ず、鴎外の姿があるのだ。  末っ子の類が書いた「鴎外の子供たち」は、他のきょうだいの書いたものに比べて、遠慮のない、爆弾本である。正直すぎるくらいに自分の心情を書いている。彼は鴎外に「ボンチコ」と呼ばれて、他のきょうだいと同じようにかわいがられた。が、父親へのおねだりもしつこく、わがままだったようである。この本が出版される前、自分のきょうだいをここまで書いていいのかと編集者にいわれて、書き直しを命じられた。とても傲慢《ごうまん》な編集者で類のプライドはいたく傷つけられた。すったもんだしたあげく、問題の部分を削除して、最初、話があったのとは別の出版社から出た。ゲラを読んだ茉莉は自分のことをひどく書かれたと杏奴の家で失神しかけ、ずいぶんな騒動になったという。杏奴も怒っている。たとえば、離れに住んでいた於菟については、 「なんとなく変な人」  であり、於菟が結婚した相手の女性は、 「顔にも姿にも余裕がないような、狭い感じのする、色白の人」  という書き方だ。そして茉莉についても、冷ややかに観察している。「彼女が結婚して夫婦と子供で住んでいる家に、母親と類が訪れても、出迎えてくれたことは一度もなく、催促しなければお茶も出してくれなかった」「母親が孫のために買ってきた菓子折りをあけると、急に目をかがやかせて、真っ先にのぞきこんだ」「子供が絵を描くと『フランス料理のサラド色』などと褒めるのに、子供の腹具合には無頓着で、そのような役目は家政婦さんがしていた」「外に出ると家庭があるのを忘れるので、夫に『一日座っていろ』と怒られたものだから、ずっと部屋の中で座って食べてばかりいて、太ってしまった」「庭の芝生が飼い犬の糞だらけだった」「二度目の結婚のとき、茉莉の毎日の散歩が婚家の気にいらず、それを禁止されると、仙台には銀座も三越もないと不平になった」  類は、 「僕は姉を愛している。愛しているが、することなすこと気に入らない」  という。そうはいいながらも、類が結婚したのを機に、茉莉がひとり暮らしをはじめたとき、類は自分が追い出したような気がして心を痛め、壁に釘《くぎ》を打つだけのために、夫婦|揃《そろ》って茉莉のアパートをたずねている。また遺稿として発表された文章には、茉莉と杏奴のちょっとした衝突も書かれている。杏奴の家に茉莉が訪ねていくと、頼まれている原稿があるからと、暗に早く帰ってほしいとほのめかすのだと、茉莉が類にこぼした。杏奴が類にそんな態度をとったことはなかった。茉莉もそのころ演劇評などを書いてはいたが、まだまだ文章を認めてくれる人がおらず、カンに触ったのである。  結局、その本の出版により、類は姉二人から義絶された。杏奴の娘の結婚式にも呼ばれなかった。茉莉はこの一件を「クレオの顔」という小説に書いた。茉莉の最初の離婚の際には、彼女は心ない噂《うわさ》をたてられた。その上塗りをするような、類の観察は耐えられなかったのだろう。彼が茉莉の前に突き出したのは、彼女がいちばん苦手な「現実」だった。彼が書いた部分でもっとも問題だったのは、茉莉の離婚についてでも何でもなく、実は彼女の化粧法だったということが遺稿に書いてあった。鼻の頭の毛穴が開いているのを気にした茉莉は、毎日、脂取り紙でたんねんに脂を取り、お白粉《しろい》をはたきこんでいたというのである。私は笑ってしまった。悪い意味ではなくとても彼女らしいと思った。重要な秘密を明かされて、美意識の強い茉莉は、生まれてそんなことがないくらい、神経を逆撫《さかな》でされたのだろう。  彼は素直に観察したものを書いた。物を書く人間であれば、きれいごとだけではなく、そうではない部分も書くのは当然である。しかし彼には根強くコンプレックスがあったようだ。 「僕は鴎外、森林太郎の三男として生まれた。ずいぶん偉い人の子に生まれたものだ。(中略)杏奴は随筆家として名をなしているが、茉莉と類は名がない。名がないということは、生きているまま死んでいることである。何事があっても、死んでいる二人に相談をするひとがない。相談は、生きているほうへ持ってゆく。於菟や杏奴も、知らぬまに、茉莉と類はかるく見てもいいような心持になっている。」  男性と女性の考え方の違いか、茉莉や杏奴が鴎外を「父」という個人的な存在で認めているのに、於菟や類には社会的な存在としての鴎外のほうが、印象にあるようだ。それはおのずと自分の今の立場に影響する。優等生だった於菟に比べ、類は成績もよくなくて学校をやめた。それでも一流の画家について絵を習い、パリにまで行かせてもらっている恵まれた立場にあった。それなのに、 「どうして自分はこうなんだ」  といういらだちが、行間からにじみ出ている。だからきょうだいと自分を比較したときに、いじわるな目が、ちょこちょこと顔を出すといった具合なのだ。  茉莉のきょうだいの本を読んでいると、またあらためて、森家における鴎外の大きさがわかる。妻も母も娘も息子も、すべて彼を中心にして放射状になっているという感じである。そして妻と母、きょうだいたちは、お互い、どのくらいパッパに近づいたかを監視しあっている。そして自分がいちばんパッパにかわいがられたと思っている。その思い出は彼らにとって、何よりもかけがえのないものだ。茉莉を含め、彼女のきょうだいは「子供」であった印象がとても強く、自分が親になっても、ずっと子供のままだった。伴侶《はんりよ》に恵まれた人はその伴侶に助けられ、一人で暮らしている茉莉は、友人や息子たちに助けられた。いろいろな問題を抱えたきょうだいであったが、やはりみんな幸せな人々だと、彼らの晩年を考えると、そう思わざるをえないのである。  子育て  アーチ型にくり抜いた白い壁のむこう側から、動物の赤ちゃんが次々と姿を現すテレビコマーシャルがある。猫、猿、あひる、犬、おむつをした人間の赤ちゃんまで出てくるのだが、子供に関心も興味もない私と友だちは、画面を見ながら、 「やっぱり人間の子がいちばんかわいくないね」  とつぶやく。そしてそのあと、 「私たちのほうが変だっていうことを、自覚しないといけないね。世の中の大部分の人たちは、そうじゃないんだから。自分たちが普通と思ってちゃいかん」  と自戒するのである。  子供が事件や事故の犠牲になったと聞けば、私だって人並みに憤るし許せない。しかし道を歩いている猫や犬には声をかけたいと思うが、子供には何も感じない。猫や犬が鳴いたり吠《ほ》えたりしていても、うるさいとも思わない。ところが子供がぎゃあぎゃあ騒いでいる声を聞くと、とたんにうんざりし、 「とっとと、どこかに行ってしまえ」  とむかつくのだ。  あるとき、スーパーマーケットに友だちと買い物に行くと、お菓子の棚にへばりつき、 「おかあさあん、これ買ってえ」  と大声でわめき散らしている六歳くらいの男の子がいた。母親の姿は見えない。 「うるさいわねえ」  私は小声でつぶやいた。すると一緒にいた友だちは姿勢を正し、 「あー、だめだめ。買わないよ。いくらわめいたって、買わないんだからね」  ときっぱりと彼にいい渡した。見ず知らずの人にそういわれた子供は、目を真ん丸くしてその場に固まり、動かなくなった。そして無言のまま、ずっとお菓子の棚の前で、立ちつくしていたのである。  なかなか効果的な戦法だったが、私も友だちもその子供にとっては見ず知らずのおばさんである。一生に一度しか会わない可能性のほうが大である。でも親は違う。子供が何度となく繰り返すわがままや、超音波みたいな叫び声に対処し、ミソもクソも一緒のなかで子供を育てなければならない。とても私にはできそうもなく、本当に世の中の人はよくやっていると感心するのだ。  子供を育てることは美とはほど遠い行為である。寝顔は美しくかわいらしいかもしれないが、そのかわいい者は、腹下しやら嘔吐《おうと》やら、いろいろなものをやらかす。すべて待ったなしである。紅茶をいれて、気に入ったお皿にケーキをのせて食べている横で、子供がおもらしをしてしまうなんて、日常茶飯事に起こるのだ。私は子供を生んだ茉莉が、子育てをどのように考えているのか、興味があった。自分の意思ではどうにもできない、アクシデントが連続する現実に、現実が苦手な彼女がどう対処しているか、知りたかったのである。  ところが私は肩すかしをくらわされた。「マザーリング」という雑誌に、彼女の子育てに関する原稿が載っている。長男の《じやつく》は結婚して一年後に生まれた。茉莉が十七歳のときである。慣れないながらも、彼女は若い母親をやっていたのではないかと想像していたが、そうではなかった。 「そのころはいい時代で、ちょっと口をかければ女中さんが田舎からいくらでもくるし、家政婦さんも電話をかければいつも四十ぐらいの有能な人が安い月給でくる。そういう人たちがおむつをかえたり、私はお乳がでないので牛乳を飲ませてくれたりしたわけだ。私はただ坐っていればよかったのだ。私はあんまりかわいがられて育ったから、自分の世話はやいてもらったが、人の世話は一つもしたことがない。」  彼女はするりと現実から逃れる方法を持っていた。すばらしい徹底ぶりである。いくらお手伝いをしてくれる人たちがいるといっても、母親であるならば、少しは自分も参加しようとするのではないだろうか。全く人まかせということもなかっただろうが、彼女の場合、人がやってくれてよかったという雰囲気がただよっているのだ。 「妊娠した時も、愛する夫との愛の結晶が宿ったとか、或は夫を厭になっている場合であるとすると、夫は愛していない、だが一つの尊い生命が体に宿ったのだというように考えて、体を大切にして立派に生み、育てなくてはならないと、決心するというような、立派な覚悟をしてふるいたったのではない。生まれることになったものは生むより他ない、という心持である。」 「私はオギャアオギャア泣いている子どもがきらいである。こっちがなにかいってもわからないからである。それが、だんだん大きくなって九つぐらいになるといい相手になるのだ。」 「そのころ私は夫とほとんど会話がなかった。私はと話した。父がしてくれたように、にお伽噺をした。そんなとき、息子の顔にはやさしい微笑がひろがり、その微笑はなつかしい父のそれとふと混じりあった。」  本当に鴎外の子供たちは何かといえば、父親のことを思い出す人たちである。自分の子供は父親の血も引いている。となると多くの場合、親は子よりも先立つものだから、自分が生きているうちは、父親の面影に触れられるというわけだ。茉莉はが生まれた二年後に、夫の後を追ってヨーロッパへと旅立った。そのときのことを書いたエッセイを読んでも、遠く離れた日本で息子はどうしているか、という話はでてこない。普通、幼い子供を残していったら、 「元気にしているか、体の具合は悪くなっていないか」  と心配になるのが普通である。当時のことを回顧して、 「あのときは息子が気になった」  と書いてあっても不思議ではない。ところが彼女は子供よりも、自分の髪形や洋服、パリの風俗のほうが重要になっている。その次はパッパの病気だ。いくら若いといっても、幼い子供を置いてきた母親が、夫と腕を組んで町の中を歩き、 「私はパリで、パリジェンヌになった」  とはなかなかいえない。きっと彼女はパリにいたときは、日本に子供を残してきたことなど、ほとんど忘れていたのではないか。いくら信用できる人が面倒を見てくれているとはいえ、あまりにあっさりとした感情である。若くして子供を生んだからこうなったのか、それともただ自分が許される状況にいたから、甘えていたのか。彼女の母親ぶりはなかなか複雑なのである。  一般的に、 「子供が小さいうちは、母親がそばにいたほうがいい」  といわれている。私は子供を持ったことがないので、比較できるのは自分と子猫の関係でしかないのであるが、子猫がいたときは、少しでも一緒にいたいと思った。寝顔を見ていても飽きることはなく、触ったりつついたり、撫《な》でたり、世の中にこんなにかわいい生き物はなかった。しかし仕事ややむをえない事情で、家をあけなければならないときもある。そんなときは後ろ髪を引かれる思いであったが、それはそれで割り切らないといけない。そして用事が終わったら一目散に家に戻り、また子猫べったりになるのだ。  割り切って仕事をするというのは、自分が少し、割り切れない気持ちを持っているからである。できれば家に置いておかないで、一緒に連れていきたい。しかしそれがままならないので、割り切るしかない。幼い子供を人に預けなければならない母親は、どこか割り切っているんだと思う。これでいいんだろうかと悩むこともあるはずだ。しかし茉莉の場合は、とても悩んでいるとは思えない。自分のしていることに、全く疑問を持っていないのである。  そうなった原因のひとつとして、婚家には 姑《しゆうとめ》 がいなかったこともあるだろう。もしも茉莉に一般的、常識的な姑がいたら、 「自分の子なのだから、面倒をみたら」  と注意しただろう。素直な茉莉は、いちおうは、 「はい」  と返事をするものの、家政婦さんたちから子供を取り上げることなく、同じようにじっと座っているだけだったはずである。悪気はもちろんない。自分の出番はないから、じっとしていようとしただけだ。 「私よりも彼女たちのほうが、ずっとうまく子供の面倒をみてくれる」  それくらいにしか思っていない。いくら姑が注意をしても、暖簾《のれん》に腕押しである。そして、 「気がついたら、もうしゃべるようになっていました」  などといい、姑の度肝を抜いたに違いない。私は母親が自分の手で子供を育てなければいけないとは思わない。それぞれの母親の自由である。もしも姑がいたとしたら、茉莉の結婚生活は、もっと悲惨になっていたような気がするのだ。  子供が少し大きくなると、彼女はお話をしたり、一緒に絵を描いたりした。情操的、芸術的な面は彼女は得意であった。長男のときも次男のときも、彼女は同じように世話をほとんどしなかった。そして二人の子供を置いて、彼女は家を出たのである。そのとき舅《しゆうと》が、詳しい夫婦の事情はわからないまま、あんなにかわいがったのにと怒った。子供を捨てて出たと相当な怒り方だった。  そうまでしなければならない事情が、茉莉にはあった。そして家を出るといったときに、夫が、 「子供はだめだよ」  といったのだ。きっと夫が彼女を引き止めるための最後の手段だったのだろうが、彼女はその手にはのらなかった。さっさと夫の家を出て実家に戻ったのである。  それから彼女は二十年以上もたって、≪じやつく≫と亨《とおる》に再会した。それまでの生活は、 「ああ、家に残してきた二人はどうしているかしら」  などといった、母ものではない。離婚した三年後に、女の子が二人いる男性と再婚したが、すぐに離婚した。離婚した理由は以前、書いたとおりである。子供が二人いるのに家を出て、次に子供が二人いる家に嫁ぐのなら、最初の家に我慢していればいいのにという論理は、彼女には通じない。嫌なものはどんなことがあっても嫌なのだ。 「長男を生んで、ふとんを並べて寝ているときだった。夫が帰ってきて、寝ている赤ん坊の頬をつっつく。それから次に私のほうに話をする。それを私は怒った。うちの母がそれを聞いてあきれ返った。母は娘がパッパにかわいがられることが、うれしかったのに、どうして赤ん坊を先につついてはいけないのかと、ふしぎに思ってそれを父にいった。すると父は『西洋の女はみんなそうだ』といったそうだ。ほんとうに西洋の女はそうらしい。(赤ん坊のほうより自分をかわいがれ)というらしいのだ。そういう女は日本にはいない。私は、西洋型に育てられたというわけじゃなく、私がそうなのだ。」  たしかに彼女のような人は日本に二人とはいないだろう。  母親と子供が事情があって離れた場合、必ずといっていいほど、 「子供がかわいそう」  といわれる。「子供に悪い影響がある」とおせっかいをやき、素行の悪い子供がいた場合、その子の家庭が複雑だったりすると、 「やっぱりねえ」  とうなずいたりする。どんなに家庭内が不幸であっても、実の父親がいて、母親がいる形態を必死で守りたがる。そちらのほうがお互いに不幸ではないかと思うのだが、多くの人々は、子供のためという大義名分をふりかざして、意にそまない毎日をぶつぶつ文句をいいながら過ごすはめになるのだ。  茉莉が残してきた子供たちとの再会は、突然にやってきた。彼女はまず、次男の亨に再会する。「全集」五巻の月報に山田亨氏が原稿をよせている。それによると、彼の父親は再婚するにあたり、親戚《しんせき》や知人の全員に、 「亨の母親が森茉莉だということを、絶対に口にしないように」  と頼んだという。彼は父親が亡くなるまで母親が森茉莉であると知らなかった。 「父の葬式のあと、兄から『亨、僕たち二人の母親は、森鴎外の長女である森茉莉という人だ』と言われたが、突然のことで、実感がわかなかった。」  茉莉はまだ作家としては知られていなかったので、彼は叔母にあたる小堀杏奴の著書を読み、彼女と文通するようになる。ある日、杏奴の家に遊びにいくと、杏奴のはからいで茉莉が待っていた。彼は二十一歳であった。 「部屋に入ると、僕に似た女性がいて、『亨』と言って、僕を抱きしめて、はげしく泣いた。抱かれながら思った。母親というのは、子どもを抱きしめるんだなと。僕は、継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。父に抱かれた記憶は、何度もあるのに。」  その五年後、茉莉は自分のアパートでとも再会した。三十一歳のフランス文学の助教授であるは妻を伴ってやってきた。そのとき茉莉は雛《ひな》あられを食べていた。それを見た彼は、ふらふらと靴を脱いで、彼女の座っていた座布団の横に座り、彼女と同じように雛あられを食べ始めた。それから二人は親密に行き来をするようになる。 「私がどこかに行こうと言うと、たちまち二人の体は宙に浮いたようになり、いつどうやって玄関に下りたのか、いつ靴をはいたのかわからない感じで二人はいつのまにか銀座にいた。銀座通りを二人は手を繋いで歩いた。そうしてフランス語の歌(小学校の歌)を、低い声ではあるが声を合せて歌った。」  彼の家で茉莉の次に彼が風呂《ふろ》に入った。風呂のそばにある台所では彼の妻が夕飯の支度をしている。すると彼は風呂から裸の半身を出して、 「ママの入ったお湯|微温《ぬる》いのね」  といった。茉莉は、 「少年のような微笑《わら》いと、裸の半身とはポオル・エ・ヴィルジニィのポオルのようでもあり、ナルシスのようでもあった。」  と書いているが、彼の奥さんにしたら、たまったものではなかっただろう。案の定、茉莉が彼の家を訪れることは、歓迎されなくなった。彼の妻にも、同居している妻の母にも嫌がられたからだ。茉莉のエッセイのなかに、の家に行き御土産の包みを開きかけると、彼が孫よりも早くそばにきて膝《ひざ》を揃《そろ》えて座り、手を出さんばかりにすると書いた部分がある。茉莉は、別れたときの二人に時間が戻ったような感覚に浸るが、周囲の人間はびっくりしてしまう。このようなの姿は、類が書いた茉莉の姿にそっくりで面白い。 「二人はフランス人よりはるかにフランス的であった。」  と茉莉は書いている。二人は恋人同士のようだった。杏奴にも類にもそういわれた。しかし周囲の人、すべての人がそういう目で見るわけではない。しまいには、と同居している義母に、 「が手に負えないと思っていましたが、それを上廻るのが出て来ました」  といわしめたのである。  茉莉の出版記念会のとき、氏は、 「僕は子供の時、もし僕が水に落ちたら母は助けてくれないと思っていました。」  と語ったという。子供は母親の性質を見抜いていたのだ。世の中の母親にも得手なものと不得手なものがある。母親は完璧《かんぺき》な存在ではない。不得手なものを得手にしようと、努力する人間はいるが、生来、努力が好きではない茉莉は、子供のころと同じように過ごしてきた。なかには完璧にやろうとして、できない自分を責め、結局はぐったりしてしまうまじめな母親もいるようだが、茉莉の書いた文章を読むと、世の中の母親に対して、実際はいないのにまるでいるかのごとくに、頭の中にうえつけられたイメージとしての母親、完璧な母親を求めるほうが無理なのだという気がしてくる。  幼い子供を二人残して離婚しても、茉莉は立派な母親なのだ。子供は馬鹿ではないから、親がどういう人間かはわかる。いいところ、悪いところ、 「ああ、なんでこんな性格なんだろう」  とうんざりしながらも、つきあっていく。どうしてもだめな人とはつきあえない。茉莉と二人の子供の関係を見ると、単に幼い頃に生き別れた母と子というのとは、違う関係を感じる。茉莉がうっとりとしていたように、長男とはすべてにおいて、波長が合った。彼は彼女にとって新婚当時の夫であり、それ以上に、パッパの生まれ変わりだった。きっと彼のほうも、茉莉は母親というよりも、感性の合う女性としての存在のほうが大きかったのではないだろうか。  次男の亨氏は妻と一緒に、茉莉の世話をした。彼は心優しい人で、 「父が僕を可愛がった理由の一つは、僕の容貌が茉莉と似ていたためだと思う。」  と書いている。そのせいかどうかわからないが、彼は継母にひどく嫌われたという。晩年、あまりに雑然とした茉莉の部屋を掃除させてほしいと彼が手紙を書いたら、返事が速達で届いた。完成させたい長い小説があり、それを仕上げるためには、この部屋が必要であるという手紙だった。 「断わったため、亨が嫌になって(真心からの心配を無視されて)、しだいしだいに私の家に来なくなっても(あるいは、一度も来なくなっても)、小説のためには止むをえません……」  彼女の部屋はそのままになった。  一所懸命に子供を育てたのに、育ち上がったら子供と会話の成り立たない母親がいる。もしかしたらそういう母親のほうが多いかもしれない。 「それは世の母親が家事しかできないからで家事のほうではえらいが、感性として息子になにも反応するものがないし、娘とも用事をしてあげるだけだから、なついていて仲がいいように見えるのだが、ほんとうの人間と人間のつながりがないのである。育てただけではだめだ。」  茉莉のいっていることは、都合のいい話であるのも事実だ。「家事しかできないからだ」と書いているが、家事ができるのは尊敬すべきことである。私なんぞ家事だけできれば十分ではないかと思ったりする。茉莉の親子関係のほうが特殊だ。父親と彼女の関係といい、長男と彼女の関係といい、どうしたらそのような感覚に陥るのか、私には理解できない部分も多かった。  ある子供は、熱心に家事をし自分の身の回りの世話をしてくれた母親に感謝するだろう。またある子供はいつまでも身ぎれいで、話が合う母親を自慢するだろう。家事しかできない母親でもいいではないか。そういう母親もまた母親である。茉莉が自分の思うように生き、そして後年、子供たちとも行き来ができたのは、彼女の大好きなパッパの優しい血が、子供たちに流れていたからだと思わざるをえないのである。  作家という仕事  世の中で、自分が望み、願ったとおりの仕事をしている人は、どれだけいるだろう。自分が望んだとおりの仕事に就いている人のほうが、少ないのではないか。自分の望み通りの仕事をしている人でも、 「こんなはずじゃなかった」  とつぶやいたことがある人が、ほとんどではないかと思うのである。  仕事はお金を稼ぐ、自分の能力を生かすという両面がある。お金がたくさん稼げて能力も生かせるのが理想であるが、なかなかそううまい具合にはいかない。往々にしてたくさんお金を稼ぐとなれば、山のように嫌なことをしなければならず、能力を生かそうとすると、 「こんなんで、生活ができるのか」  といいたくなるような、薄給だったりする。どういうわけだか世の中は、片方をとるともう片方がままならず、どこかを我慢しなければ、物事がすすんでいかないようになっているのだ。  会社をやめてフリーになったときに、取材をしにきた人に、毎度、 「ずっと物書きになりたかったのでしょう」  と聞かれた。私が、 「そんなことはありません」  と答えると、 「へえ」  と不思議そうな顔をした。物書きになろうとする人は、若い頃からその熱意を胸に秘め、自分の文章が世に出るチャンスをじっと待っている。雑誌が募集している新人賞に応募をしたり、原稿を持ち込んだり、目に見えぬ苦労をしたあげくに、やっと作家という地位を手にいれるのではないかと、いうのである。だから私が零細出版社に入ったのも、それを見越してのことで、物書き専業になったとたん、念願が成就して、 「やったーっ」  という気分なんじゃないかといわれたのである。  そんなふうにいわれても、私はぴんとこなかった。私はもともと先のことは考えないタイプである。ただひとつ考えたのは、歳《とし》をとっても自分を食わせられる仕事に就く。それだけだった。目の前に選択肢があり、片方を選んでいるうちに、今の仕事にたどりついたというわけだ。  会社をやめたときは、不安だった。毎日、ため息をついていた。ただ私は運だけは人一倍よかった。売り込みをすることもなく、仕事がむこうからやってきてくれた。反面、いろいろな人がいることもわかった。調子のいい奴《やつ》、嘘《うそ》つき、妬《ねた》み、嫉《そね》みのかたまりなど、会社に勤めていたら、知らないで済むことばかりだった。突然、手紙がきて、見ず知らずの人に罵《ののし》られる。ファンだといって手紙をくれる人のなかにも、あれをくれ、これをくれと妙に図々しい人もいる。編集者とうまくいかないこともある。あまりの面倒くささに、 「なんでこんなことに、なっちゃったんだろう」  と頭を抱えた。しかし私は自分の機嫌をとりながら、仕事を続けるしかなかったのである。  若い頃なら転職もできる。六回転職したのだから、七回も八回も同じである。しかし四十歳すぎると、そう簡単にはいかない。この歳になって他にどんな就職口があるかと、考えることがあるが、皆無といっていい。嫌になったから、 「やーめた」  というわけにはいかないのだ。いつまで今の仕事ができるかどうかわからないが、ああだこうだと先を考えてもしょうがないので、のらくらと、ワープロにむかっているだけだ。原稿を書かなければならないのに、やる気がなくて、遊びにきた隣の猫を膝《ひざ》にのせて、ソファに座ったまま、一日中、ぼーっとしていることもある。これから歳をとるにつれ、一日、一日が貴重になるのに、無駄といえば無駄ではあるが、 「ま、いいか」  とやりたいようにやらせてもらっている。何ごとも深刻に考えすぎるとろくなことにはならない。面倒くさい問題も、そのつど、 「はいはい」  といいながら受け流し、たらたらと毎日を過ごしているのである。  森茉莉がいちばん最初に、書く仕事をしたのは、戯曲の翻訳である。彼女が二十六歳のときで、意外に早いスタートをきっている。二十七歳で再婚をして地方に移り住んでからも、翻訳を発表し、三十歳のときに「マドゥモァゼル・ルウルウ」を単行本で出版した。それからは芝居評を書く機会が多くなったが、名前が出るというまではいかなかった。芝居が好きだった彼女には、書くとっかかりとしては、それがいちばんやりやすかったのだろう。  茉莉は、仕事からいちばんほど遠いタイプである。昔はお嬢さん育ちであっても、戦争などがあると、突然、働き者に変身し、箸《はし》より重いものを持ったことがないのに、農作業に精を出し、それで家族を助けたという女性がいるが、彼女はそういう人とは違う。戦時中でも、いつもぼんやり美しい夢を見ている人である。もちろん作家になろうとして、画策したわけではない。パッパのかわいい娘からは想像もできなかった、作家になる運命にあったとしかいいようがない。彼女のように作家が天職と思える人は、数少ないのである。  四十代の後半、彼女は作品を愛読していた永井荷風の家に原稿を持って訪れたことがある。結局は読んでもらえずに、持って帰ることになったが、その際、持参した荷風の本を差し出した。 「『署名をして戴きたいのですけど』。今度は唯々《ゐゐ》諾々と先生は受取り、手の動きにも躊躇《ちうちよ》なく筆をとつて、署名をした。相変らず浮き浮きとしてゐる先生は、先客の洋服の男との会話と、署名との両方に気を取られながら、署名を終つた。筆も受取りなぞを書く時のものらしく、先の少しきれたもので、先生の字としてはひどく不出来の署名だつたのには、重ね重ね落胆した。永井荷風の、荷の辺りから墨の枯れはじめてゐる、私の好きな、美しい署名ではないのである。」  原稿を持って、日頃、愛読している作家をたずねるというのは、彼女にとっては気分が高揚する反面、とても不安にもなっただろう。彼は原稿を読んでくれなかった。彼女が、出版社からみせるようにといわれているといったからである。出版社からみせろといわれたか、いわれなかったかなど、彼女には関係がない。原稿の渡す先はどこであれ、とにかく荷風に読んでもらいたかった。しかしそれはならなかった。そこで彼女好みの美しい文字で、署名をしてもらえたなら、少しは気分も晴れただろうに、期待を裏切る結果になってしまったのだ。普通の人ならば、署名がもらえただけでもよかったと喜ぶところ、 「先生の字としてはひどく不出来の署名だつた」  と書いてしまうところが、茉莉らしくておかしいし、荷風の使った筆がちゃんとしたものでなかったと、鋭くその点にも目を光らせている。きっと彼が手近にあった筆を手に取ったとたん、 (あれっ)  と彼女は感じたに違いない。大切に扱われていないと思ったかもしれない。荷風に原稿を持っていったことと、署名が不出来だったことは、彼女にとって別問題なのだ。  私は彼女のようなタイプが、原稿を持っていったという事実に驚いた。もちろん、これを機に売りこもうという気持ちなど、毛頭なかった。彼に取り入ってうまい具合に物事を運ぼうとする根回しの気持ちなどが全くない。しかしそうだとしても、原稿を胸に抱えたまま、 「どうしよう、どうしよう」  と部屋の中で迷っていて、結局はそのまま出版社に原稿を渡してしまった。そういう姿のほうが、彼女にはふさわしいような気がするからだ。でもそのイメージをこわすくらい、彼女は純粋に、彼に原稿を読んでもらいたかったし、(その純粋もわがままにいいかえられるのではあるが)署名の不出来にも心から落胆したのだ。  茉莉が五十四歳のとき、「父の帽子」が日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。それから彼女の文筆生活がはじまったといっていいだろう。しかしそれについてまわったのが、「鴎外の娘」というレッテルである。彼女は「父の帽子」を出版したあとで、困惑させられた二つの質問についてこう書いている。 「ラヂオの録音で最初の出版と、思ひがけない受賞についての感想を訊かれた時の事である。 『森鴎外といふ名に重圧をお感じになるといふやうなことが、ございますか』」  茉莉はぼそぼそと、 「別に重圧は感じないんですけれど」  と答えた。アナウンサーは、 「『これから作家生活にお入《はひ》りになるわけですが、それについてなにか』  かう言つてアナウンサーは又マイクロフォンを私に近づけて、待つてゐる。  私は作家といふ名称と自分とを、結びつけて考へたことが、なかつた。作家といふものについて平常考へてみた事も、なかつた。私は作家といふものを眼で見たこともなく、作家生活といふものも、よく解らなかつた。(中略)録音機は無駄に、廻り続けてゐる。私は又ぼそぼそと、呟いた。 『作家つてどんなものだかよく解らないんですけれど……』  さうして、これでは本当に駄目だ、と、私は悲しくなつた。どの答へも、まるでお高く止まつてゐるやうな、横柄な感じである。」  相手がどんな答えを期待しているか、彼女にはわかる。しかし自分の考えはそれとは大きくかけ離れている。作家として父親と自分を比較することもなかったろうし、これまで経験がないのだから、作家の生活がどんなものか、わかるはずもない。このころは仕事に対して、自分よりも周囲の意識のほうが上回り、彼女はどちらかというと、ただただびっくりしていたのではないかと思うのだ。  茉莉の親しい友だちがある賞を受賞した。茉莉が近所の喫茶店にいると、面識のある作家の女性がやってきた。 「彼女はその日マリアに向かひ、野原ノエミが黒潮文学賞を貰つたことが不愉快だらう? と、質したのである。『遠い人ならいいが、親しい人が貰ふといふのは厭でせう?』と、彼女は言ひ、マリアが、そんなことはない、と答へると、更に追ひかけて、『厭でせう?』を繰り返し、どうでもマリアに本音を吐かせようとするかのやうに、執拗に、迫つた。」 「厭でせう」という字面を見ただけでも嫌になる出来事である。妬《ねた》みなどとは全く次元の違うところで生きている彼女は、鬱陶《うつとう》しく嫉妬《しつと》や噂《うわさ》が渦巻く、現実に足を踏み入れてしまった。きっと鴎外とのことも、うんざりするくらい、いわれたのだろう。 「私はかういふ風に考へてゐる。父と私とは全く別の人間である。偉きな父は偉きな父としてやつたのだし、小さな私は小さな私として出来るだけのことをすればいいのだ。父がどんなに偉きくても、私は小さな存在なのだ。」  私は小さな存在なのだと感じること自体、重圧を感じているんではないかと思うが、彼女としては重圧を感じている意識はなかった。もしも本当に感じていないのなら、「偉きな父」「小さな私」という言葉がでてくるはずもない。「父の帽子」を出版した直後は、そういう意識はなかっただろうが、たまたまパッパと同じ仕事に手を染める立場になった。父と自分について、あらためて考えざるをえなくなったのだろう。パッパと茉莉には彼女が五十歳をすぎて、新たな関係性ができてしまった。 「若しかりに私が文章を嫌ひで、商売が好きだつたり、家事や刺繍が好きだつたりしたら、それをすればいい。又何をするのも億劫で、一日のらくらしてゐるのが好きだつたら、それでもいい。さういふ人間にはさういふ人間のいい所があるのだ。——実は私はこの一番後に書いた人間が本領らしいのである。——さういふ人間がはたの人間に取つて困るのは、偉い文学者の子供だからではなくて、誰の子供でも困るのである。」  いくらのらくらしているのが好きといっても、こういうことがあって、彼女は自信がついたのではないだろうか。自分の書いたものを評価し、読んでくれる人がいる。そしてそれから彼女は、次々と作品を発表し続けるのである。 「贅沢《ぜいたく》貧乏」は一九六三年、彼女が六十歳のときに出版された。私は彼女の小説よりも、エッセイのほうが好きだ。政治や世の中の事柄について書いたものより、自分に関することを書いたものが格段に面白い。荷風のところに原稿を持っていった話でも、奇人といわれた荷風の態度よりも、茉莉のほうがはるかに面白いのである。彼女に比べるとあの荷風でさえ、普通のまっとうなおじいさんにしか思えなくなるのだ。彼女には自分が面白い人間だという図々しい自覚がないから、思ったままありのままの言葉が原稿になる。読者に受けようといういやらしさがないので、彼女には失礼かもしれないが、トラブルが起これば起こるほど、こちらのほっぺたはゆるむばかりだ。しかし彼女はエッセイよりも、小説のほうが書いていて楽しかったのではないか。いくらでも夢が見られるし、好きなように創れるからだ。  あるとき彼女は、J・C・ブリアリとA・ドロンがベッドの上で寄りそっている写真を見た。茉莉はそれを友だちの女性の作家に見せた。 「『凄いわよ、凄いわよ、ほんとうだわ』 『この腰を折り曲げてるところ、感じでしょう?』 『この腰が凄いわ』  といった有りさまだった。」  私にはどういう写真かわからないし、J・C・ブリアリがどういう顔だちの男性かも知らないので、何ともいえないが、きっと二人にとっては、どきどきするような、何かを醸《かも》し出している「この腰が凄い写真」だったのだろう。若くはない女性二人が、写真を見ながらこのような会話をしていたというのはおかしいし、また微笑《ほほえ》ましい。きっと茉莉はこのような素直で無邪気な感覚で、小説を書くテーマを見つけていたに違いないのである。  茉莉は、 「随筆の本を出してからも、書けないと思つてゐるせゐか小説に興味がなかつた。」  と書いている。最初は新婚時代のことを書こうと思っていたとき、喫茶店でいい音楽が鳴っていて、書き出しが浮かんで書きはじめた。 「次に小説を書くようにと言われてから初めて書いた時には、どうしたのか、親しい人とすわっていて、急に話をしはじめる人のようにして書き出して、どうやら終わりになった。(中略)そのあと二年間、悪口ばかりをもらってただ下手くそに書いていた。ある日、私の手紙を読んだ編集者がこのまんまでいいと言ったので、そのままに書いたらはじめて褒められた。その小説は私の平常《ふだん》のへんな行動や、へんな考えをだらだらと初めも終わりもなく書いたので、作りかたなぞはない。」  この、「作りかたなぞはない」というところがポイントである。私は彼女の作り方のない文章が好きなのだ。もちろんなかには、読んでいて妙な癖のある部分が気になったりする作品もある。全部が全部、好きな作品ではない。彼女が頭の中で登場人物を組み立て、うっとりして夢にひたっている作品よりも、ちょっと距離をおいているもの、彼女の苦手な現実にかかわっているものが好みである。そこには無意識の何ともいえないおかしさが醸し出されるからである。  パッパに褒められ続けてきた茉莉が、小説を書いたおかげで悪口をいわれ、余計なことをいう同業者に迷惑を被りながらも書き続けたのは、やはり書くことが肌にあっていたのだろう。もちろん生活の糧《かて》として、仕事は必要だった。いちばん最初の原稿料は、フランスの戯曲の翻訳だった。 「雑誌面の一頁が五円で五頁で二十五円を婦人之友の人が持つて来てくれた。玄関でそれを受取つた時、私はうれしさで顔が笑ひさうになるのを我慢出来なかつた。その二十五円はレコードや、神田の古本屋の絵葉書や、喫茶店の飲みくひに使ひ果たした。」  ちまちまと貯金をしないところが、またいいではないか。  茉莉の甥《おい》の森|眞章《まくす》氏(於菟の子息)は、「全集」七巻の月報でこのように書いている。 「茉莉はいつも軟かい雰囲気の叔母であったが、一度だけ、きっとなった様子で、『わたしは文学者だよ』と言ったのを、私は時々思い出す。」  彼女にはちゃんと物を書く人間としての、美意識があった。なかなか自分の口から、「文学者」とはいえない。しかしそれくらい彼女は、真剣に作品を発表していたし、プライドもあった。私はやはり茉莉という人は、いい意味でも悪い意味でも、気位の高い人だったと思っている。 「私の書く文章は小説でも、かういふ短文でも、読む人によつてはすごく傲慢にみえるにちがひないと、思つてゐる。私はそれを皮膚に感じるので、或時友だちのところに評論家が来たので、正直にその通りに言つてきいてみると、その評論家は私の顔を見て、黙つてこつくり頷いたのである。」 「私は何か書く時、傲慢にみえてもいいと思つて、書いてゐる。(中略)私はだから憎まれても平気である。ほんたうは平気ではないのだが、書いて行くためには平気でなくてはならないのである。」  ある女性は、自分の秘めた力を、有事の際に畑仕事や家事に発揮した。茉莉は自分の力を文学に発揮したわけである。秘めた力は外見からはわからない。どういうわけだか、あるとき、絶妙のタイミングでぽっとそれが表面化する。他人はもちろん、本人も意識していない。それは不思議としかいいようがない、運命の流れである。茉莉が物を書くようになって、ごたごたした問題が出てきても、彼女は、 「こんなはずではなかった」  と思ったことは一度もないだろう。どんな仕事か想像してみるなどという、卑しい気持ちは彼女にはないからだ。彼女にとって書くことは仕事というよりも、DNAに組みこまれていた、天職そのものである。どうしてもその仕事に就きたいのに、それがかなわない人には残酷ではあるが、望みもしなかったのに、ふっと世の中で場所を与えられる人がいる。そしてきちんと応える仕事を残す。私は森茉莉の人生を考えると、特にそんな不思議を強く感じるのだ。  テレビマニア  テレビというのは不思議なものである。あっても困るし、なくても困る。ひとり暮らしをはじめてすぐのときは、引っ越しをするたびに、 「テレビなんかいらない」  とうんざりした。だんだん映りが悪くなってくると、 「このまま放っておけば、テレビはそのうちに壊れるのだから、そうしたらテレビなしの生活に入ろう」  とも考えた。ところが私にはそれができなかった。テレビの調子がますます悪くなってくると、放っておくどころか気になって仕方がない。そして14インチのテレビが壊れると同時に、21インチにグレードアップしたテレビが、狭い部屋にでんと置かれたのである。  そうなるともういけない。 「やっぱり映りもいいし、画面が広いといいやねえ」  といいながら、リモコンでチャンネルを変える。それまで旧式のテレビだったので、リモコンなんぞついていなかった。女優さんやレポーターの女性の顔を見て、 「この人って、こんなにすごい化粧をしていたのか」  とびっくりしたのも一度や二度ではない。朝から晩まで、文字通りテレビ漬けの生活になってしまったのである。  でもテレビが好きかといったらそうでもない。今でも本当に心待ちにしているテレビ番組など、ほとんどないといっていい。昔はドラマもよく見たが、トレンディドラマなど見たことがない。だから「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」も、どういう内容なのか、よく知らないで過ごした。それでも生活には何ら支障をきたさなかった。もしかしたらテレビが部屋から消えても、どうということはないのかもしれない。それでも私はテレビをなくすことはできないのである。 「あれはただの受像機で、ビデオを映すためだけの道具よ。今の番組はだめ」  そうきっぱりいいきる友だちもいる。彼女がテレビをつけるのは、ビデオやレーザーディスクを観るときだけだ。ニュースはラジオを聞いていれば十分だし、ふだんはテレビ番組を観ることなどないというのである。彼女のように、すぱっと割り切れる人はうらやましい。私も特別、テレビ番組が面白いとは思わない。それなのに朝、起きると、ついつい、 「何か起こったかしら」  とテレビをつける。そして何事もないと、 「なーんだ」  と拍子抜けしてしまう。それが有名スターの結婚、離婚でも、一般人の不幸な出来事でも、信じられない行動をとるペットでも何でもいい。 「あらー」  といいたくなるようなことがないと、いまひとつ盛り上がらない。ところが番組のほうで盛り上げよう、盛り上げようとすると、今度は見ているこちらがしらけてしまう。それなのにテレビを毎日、見ているのである。  私は原稿を書いているときも、テレビをつけっ放しにしている。 「そんなこと、信じられない」  知り合いの男性の作家にはそういわれた。私はしーんとしたなかで原稿など、とてもじゃないけど書けない。といっても他人の気配がする喫茶店などでは書けない。その点、テレビは人の姿は見えるが、人そのものがいるわけではない。嫌になったら顔をそむければいいし、気分転換に目をむければ、画面のなかで人の姿が動いている。私にとってはなかなかいい具合なのである。ただの垂れ流しなのだが、私にとってテレビは、原稿を書くときに必要な道具の一つなのである。  森茉莉は六十四歳のとき、「テレヴィの青白い光」という題で、このように書いている。 「私は電燈を発明したエヂソンには感謝するが、どこの誰だか知らないが、蛍光燈やテレヴィを発明した人間に一片の感謝もない。(中略)テレヴィの光が又、蛍光燈に輪をかけた不愉快な光である。宇宙人間がうようよしてゐるどこかの星で光つてゐるやうな、非人間的な光である。稲妻の光に一寸似てゐるが、稲妻の光は夏の夜、或は秋の夜の、風に薙《な》ぎ倒されては立ち上り、ざわ、ざわと鳴る夏草や、又は灯の洩れる雨戸、蔵《しま》ひ忘れた竹簾の上に閃いたり、夕方なら、つい先刻まで蜩《ひぐらし》が喧《やかま》しく鳴いてゐた樫《かし》の梢に閃いたり、昼間なら一天俄かにかき曇つた空を切り割き、慌てて走る人々や、慌てて雨戸を繰る、浴衣の女の手に閃いたり、風鈴けたたましく鳴る縁先に光つたりのであるから、感じが綺麗だし、それに自然の光である。テレヴィの光にはさういふ洒落つ気がなく、ただ光るのである。しかも憎々しい、不様《ぶざま》な、見る度に不愉快な形の受像機から出るのである。私はテレヴィの番組の中に見たいものがあるので、友達の一人が上等のを三万円で買つてくれると言つてゐるので、買はうかと思つてゐるが、あの厭な光と形を思ふと、二の足をふむのである。進退|谷《きは》まるとはこのことである。」  その一年前には、「機械恐怖症」というタイトルでこのような文章も書いている。 「私の部屋にある文明の利器といえば、明治の昔からある普通の電灯、トランジスタア・ラジオ、電気湯たんぽ(通例アンカと称しているものだが、その語感を私は嫌悪している。ついでに言うがポオル・アンカというのも下品で不愉快な男である。それに湯たんぽはマルセル・プルウストが愛用していたという、高貴な暖房器具である)それからプロパン瓦斯、の四種の神器で全部である。電流、生《なま》瓦斯、又、すべての機械がこわいので、これだけの器具が私に使える限度、というわけである。」  そういっていた彼女が、「ドッキリチャンネル」の連載を始めたのは七十六歳からであった。 「ドッキリチャンネル」が始まってから、私はこの連載を読むだけのために、「週刊新潮」を買っていた。毎週、彼女が何を書くかが本当に楽しみだった。私が見ていない番組について書いてあるときは、罵倒《ばとう》されている出演者について、 「ふーん、そうなのか」  とうなずいたりしていた。ところが連載が進んでいくうちに、訂正だの、抗議だの、問題が表面化してきた。 「そうか、これは信じてはいけないものなのだ」  そのとき私は、このエッセイはテレビに出演している人たちがよかったとか、悪かったとかいう部分を楽しむのではなく、森茉莉という人の頭の中(それが多少、事実誤認があったとしても)を、楽しむものなのだということがわかったのだ。しかし私はただの読者であるから、そうもできる。しかし全くありもしないことを書かれ、活字にされた当人にとっては、あっけにとられる以外、どうしようもない出来事だったことだろう。  私の母方の祖母は八十二歳まで、パートタイムで働いていたが、仕事をやめて家にいるようになると、「テレビがお友だち」になっていた。 「朝から晩まで、散歩に外に出る以外は、テレビを見ているの」  といっていた。私はあれだけ青白いテレヴィの光を嫌っていた茉莉が、テレビにのめりこんでいったのも、わかるような気がする。まだまだ六十代だったら、元気に外を出歩くこともできる。思い立ったらすぐ行動に移せる。しかし残念ながら、年齢は気力や体力を失わせていくのである。私の祖母が勤めていた会社は、高齢者を積極的に雇用していたので、祖母には同年配の友だちがいた。勤めをやめた直後は、行き来があったが、一人がなくなり、また一人と友だちが少なくなっていき、最後に残った祖母にとって、テレビがいちばん身近なお友だちになってしまったのである。  茉莉の場合は、年下の心優しい友だちが何人もいたようだが、毎日、彼らと会うわけではない。小さな部屋の中のテレビをつけると、自分が動かなくても、外の世界が広がっている。見たいもの、見たくないもの、チャンネルを変えればそこにはいろいろな光景が映し出される。 「何だ、これは」  と嫌悪感を感じるのも、一種の刺激である。怒りが創作のパワーになることも多い。 「何だ、これは」  と怒りつつ、それから目が離せなくなったに違いない。そしてそれを原稿にすることによって、うさばらしをした。そのうさばらしの餌食《えじき》になった人々には、災難でしたと慰めるしかないのだが、はっきりした意思のある年寄りはテレビからの一方通行ではなく、自分からも何かいわないと、気が済まないようなのである。  祖母は朝から晩まで衛星第一放送を観ている。世界情勢に関心があるので、私なんかの何十倍も世界の出来事に詳しい。それも、 「こんなことがあったんだよ」  というだけでなく、 「だから私はあの首相の考えは変だと思っていたんだ」 「そもそもルーマニアは……」  と一度しゃべり出すと止まらない。世界情勢に疎い私は、ただただ、 「はあ、はあ」  と聞き手にまわるだけである。うちの祖母と森茉莉を一緒にしては失礼かもしれないが、どんな歳《とし》になっても、自分の考えていることを人にいいたいという気持ちは、きっと衰えないのだ。 「ドッキリチャンネル」の三年程前に、「マリアの気紛れ書き」という連載で、彼女はテレビについて、よく書いている。それを読んで驚いたのは、茉莉にテレビに出演している人物に対して、積極的な部分があるところだった。たしかに二人の子供を婚家に置いても離婚したり、ぼんやりしているとはとうてい思えない積極性をみせたが、それとはまた違う、彼女の一面を現しているのだ。 「マリアは最近、日頃ひいきにしてゐて、その顔を見るのを日々の楽しみにしてゐた、嫩《わか》い女のアナゥンサアに、彼女が着て出たことのある洋服について、どこで購つたものか、或はどこで仕立てさせたものかを、教へて貰はうとして、彼女の住所を訊くために、そのアナゥンサアの出てゐる局に電話をかけた。(中略)デパァトの売り場にありさうなものではなく、又マリアが現在《いま》まで、他人《ひと》が着てゐるのを見たことのない一対である。マリアは年も取つたし、あまり人中には出ないので、この先何十遍も着るわけではないとは思つたが、あまり素晴しいので一応訊いてみようと思つたのである。すると、(今、本人が出ます)といふ返事があつて、彼女が出た。マリアが、かういふ者ですがと名乗ると、(拝見してをります)といふので(それはずゐぶん、マリアをよろこばせた。テレヴィジョンに出る役者、アナゥンサアが読んでゐるとは思はなかつたからだ)礼を言ひ、次いで、洋服について質問したが、彼女にはその、マリアの言ふのがどれなのか、わからないらしい。繰り返し、説明したが、(どんなのでせうか)といふばかりである。仕方なく電話を切つたが、女といふものは、何十枚あつたとしても、自分の持つてゐる衣《きもの》を忘れるといふことはないものである。(中略)彼女の返事の仕方は巧妙な空とぼけで、刑事の質問に馴れた犯人のそれに似てゐる。(中略)洋服についての事件以来、好き嫌ひの烈しいマリアは、彼女を見るのがいやになつたが、一緒に出るアナゥンサアが、面白い風格を持つてゐるので、葉書なぞで片面を隠して見るが、大変なわづらはしさで、弱り切つてゐる。」  なかなか森茉莉は大変な人である。私は彼女には、テレビ局に電話をかけてしまうようなところなど、微塵《みじん》もない人だと思っていた。ミーハー丸だしの行為など、彼女の美意識からはほど遠いものだと思っていたからである。自分でも、 「≪マリア≫は自惚《うぬぼ》れと怒りとで出来上がつてゐる。マリアと相当親しい人間でも、決して知る筈《はず》のないマリアの怒りといふものは大変なものである。」 「私は昭和の初めごろから戦争が酷《ひど》くなるまで、母のお供で毎月三四軒の芝居を廻っていて、演芸画報に批評を書いたりしていたし、父の訳した飜訳劇、寄席、なぞも七八歳から観ていた。それも不思議なことに幼いころから目を舞台から離さず見ていて、役者の表情|仕科《しぐさ》もはっきり記憶している。そういう生来の芝居好きと、多く見ているために、素人離れした目を持っていると自分では自惚《うぬぼ》れている。」  と書いていて、まさに「ドッキリチャンネル」にふさわしい、そしてテレビに出る側にとっては、鬱陶《うつとう》しい存在である。自分の見込んだ人は間違いないという自信が覆《くつがえ》されると、怒りが噴き出す。自分の目に曇りがあったなどとは思わない。だから彼女の想像したとおりの受け答えをしなかった女性のアナウンサーは、一気に嫌われるはめになったのである。  茉莉は自分が気に入った人間には、一直線であった。以前、悠木千帆《ゆうきちほ》といっていたが、オークションでその芸名を売り、樹木希林《きききりん》となった女優さんがいるが、茉莉は「奇鬼綺喜」という名前を勝手に考えた。 「樹木希林が娘なら無理やりにでも改名させるのだが。私は奇鬼綺喜を街で見たことがある。料理店《レストラン》に行った時向うの窓際の卓子《テエブル》に真黒の洋服で顔も化粧の全くないまっ黒の顔の奇鬼綺喜がいた。私は贔屓《ひいき》の女優を同じ料理店《レストラン》の中に見出し、早速|挨拶《あいさつ》に行こうと言ってたち上がった。一緒にいた編集者(女)が(ご紹介しましょう)と言ったが(いいえ、自分で行きます)と断ってつかつかと、彼女の卓子《テエブル》に近づいた。紹介しましょうと言ってくれた人には感謝はしたが私は、奇鬼綺喜と私とだけで口を利きたかった。誰も交えたくなかったのである。私は彼女の前に立ち、(森茉莉という、つまらない小説を書いている者です)と、言った。私が前に新潮に書いたのを読んでいたのだろうか、そんな感じがした。奇鬼綺喜は何も言わなかったが、感動したような面持《おももち》でこれも起ち上がった。そうして微笑《わら》った。私はそのまま席にかえったが、うれしかった。奇鬼綺喜は私が食事を終って帰る時、食堂の出口まで送ってくれた。一寸《ちよつと》した感動の一刻《ひととき》であった。化粧をしないまっ黒の顔だが、可愛い顔だった。」  また日頃、彼女が認めている役者を、たまたまホテルでみかけ、目礼をして、 「いつも立派な芸を見せていただいております」  といった。すると彼はひどく不愉快な顔つきで彼女を見上げ、何も言わなかった。 「(何《なん》だ此奴《こいつ》は)という顔である。私が、彼が私の本誌に書いた文章を読んでいるものと定《き》めこんで言葉をかけたのも無考えだったかも知れない。軽率だったかも知れないが、自分の芝居を観ているらしい人間が前へ来て、敬意を籠《こ》めてものを言っているのに対して、彼の取った態度は無礼である。私は彼が私の顔を見上げて遣《や》ったような顔つきを、誰からもされたことが無い。」  不快になった彼女は、新劇の役者のなかで彼が高いランクにいるのにくらべ、自分は文学の世界ではそうではない。彼にとって自分は軽蔑《けいべつ》すべき人間かもしれないが、その軽蔑は彼にそっくりそのままお返ししよう。とまで書いているのである。そのような出来事があっても、 「悲しかった」  としおれるのではなく、相手に立ち向かうところがおかしい。美人で名高いアナウンサーが、茉莉の書いた悪口を読んで、 「人にはそれぞれの言い方があると思います。私は森さんの記事をいつも楽しみにしてます」  といった。それを聞いた茉莉は、 「私はそのあまりに出来すぎた言葉に又もや、彼女を又、嫌いになった。」  と書いている。茉莉のお眼鏡にかなった人でさえ、嫌われたらおしまいだ。ましてやもともと好かれてない人の場合は、気の毒になるくらい救いようがない。ところがある部分で、ぴょこっと妙な部分が出る。 「この頃、ハットリ君のすごいファンになった。(何々でござるな、にん、にん)、このにん、にん、の二つ目の方が一寸声が嗄れているところもいい。」  にん、にん、の二つ目の方が声が嗄《しわが》れているというのは、子供の感覚である。また料理番組を見ていたら、「しんとり菜のクリーム煮」というのが出ていた。 「見たことも聴いたこともない菜である。又もや私の怒りの虫がモクモク持ち上がって来た。全く莫迦気ている。そんな菜っぱ知るか。」  単純である。彼女が自分の腹の中には何もないというのは本当であっただろう。もういいですというくらい、腹の中からすべてを出しているという感じである。  子供は大人が気がつかない、どうでもいいようなところに神経がいく。高齢者もそれと同じところがある。私の父方の祖母は、そのときすでに八十を越えていたが、テレビに出ている山村聡の顔にほくろがあるのを見つけて、 「あれはわざとつけているのか。あんなところにあって、うっとうしくはないんだろうか」  としつこくしつこくいい続け、いくらいってもわからないので、一発かましてやろうかと思ったことがあった。うちのばあさんはただのばあさんなので、そういう下らないことで騒いだが、多少、内容は違うが、「ドッキリチャンネル」も同じような物ではなかったかと思う。テレビで見て自分が感じたことを、すべていい尽くす。父方のばあさんは、 「橋幸夫の着物はどこで誂《あつら》えるんだろうか」 「三浦洸一は歌うときに、どうして片手が『金をくれ』というふうな形になるのか」  とかすべてが疑問であったが、茉莉の場合は、基本が怒りであった。 「ドッキリチャンネル」の後半は、さすがに怒りのパワーが落ちている。パッパや思い出話が多くなる。テレビにもあまり関心がなくなってきたようだ。多少、トラブルがあったとしても、茉莉にとって救いだったのは、書いている本人が歳《とし》をとっていたという事実である。事実誤認があったとしても、 「まあ、年寄りなんだから」  と我慢したり、大目にみたりも若い者にはできる。でもこれは実は茉莉にとってはいちばん嫌なことのはずだ。 「私は若くても同じようなことを書いた」  ときっというだろう。しかし現実はそうではない。読者は、 「あーあー、また茉莉さんがこんなことをいって」  と苦笑いしつつ面白がった。彼女が褒めている人に対して、 「えー、どこがいいの」  とあきれたこともある。しかし、 「英国皇太子妃のダイアナ妃は相当なもの、と言いたい程の、太《ふと》い性格だと、私には見える。それは目でわかる。」  と一九八二年に書かれた物を読み返してみると、やはり森茉莉おそるべしと思わざるをえない。  読者も怒りの矛先を向けられた人も、彼女を甘えさせてくれたのだ。きっとそういう部分は、彼女はみじんも感じとっていなかっただろう。もちろん当たり前とも思っていない。無神経では全くないのだが、他人と自分を推し量るなどという神経を彼女は持ち合わせていない。あるのは自分だけ。今、読み返してみると、時間的な問題もあって、連載時ほどの面白さはないが、わがままなお姫様、ここにありという感じだ。森茉莉を甘えさせることができる読者は、自分と意見が違う部分をも含め、楽しみながら「ドッキリチャンネル」を読んだのだろう。  ひとり暮らし  私は掃除、整理|整頓《せいとん》がとても苦手である。今、住んでいるところは、ひとり暮らしには十分なので、当初は、 「すこーんとしてて、いいねえ」  と悦にいっていたのだが、そのうち、スペースがあることがあだになっていった。まず、そこいらじゅうが空いているので、物を置くスペースがある。宅配便などで段ボール箱が届く。中から物を出すと、箱は処分しやすいように、たたまなければならない。が、物を出しただけで面倒くさくなった私は、そのまま箱をほったらかしにしておく。歩くのにも邪魔にならないし、目の前に段ボール箱があっても、とりあえずは何も感じない性格なので、空の箱はそこに鎮座することになる。そしてそれは一個が二個、二個が三個、三個が四個となっていき、ふと気がつくとリビングルームに段ボール箱の砦《とりで》ができている始末なのである。友だちがくると、ちょっと恥ずかしいので、 「片づけてないのよ」  ととりあえずはいう。友だちも、 「このくらいは平気よ。Qさんの家なんて、こんなもんじゃないわよ。とにかくすごいんだから」  といってくれる。そうなると私は、 「そうか、まだ大丈夫なんだ」  と安心する。そこでまたお中元やお歳暮、海外通販の箱がふえていき、なんだかものすごい状態になっていくのである。  最近では砦が大砦になり、すごいといわれたQさんにまで、 「あなたの部屋から、段ボール箱が消えることはないわね」  といわれ、 「私も結婚にむかないと思っていたけど、あなたは私以上だ」  とため息をつかせてしまった。私はQさんの家に遊びにいっても、整理整頓がなされていないと感じたことは一度もない。それどころか、 「うちより広い部屋にひとりで暮らしているのに、よくきれいに住んでいるなあ」  といつも感心していたのだ。 「どうみたって、私よりもQさんのほうがきちんとしているじゃない」  Qさんの家よりましだといった友だちにいったら、あのときは、部屋を見たとたん、 「これはひどい」  と驚いたのだが、はっきりいったら悪いと思い、お世辞をいったというのだった。  どうしてこのような状態になるのかと考えた。まず箱が一個あると、私はその上に物を置いてしまう。それは加湿器であったり、本であったりする。さっきまではただの段ボール箱だったのが、上に物を置いたとたんに、家具になる。そうなるとそれはリビングルームの必需品となる。本棚がないわけではない。加湿器の置き場所がないわけではない。が、とにかく今、とりあえずそこにある物を、移動させるのが面倒くさいのである。 「別に誰にも迷惑がかからないから、ま、いいか」  そして「家具」は増えていき、砦も巨大化していくのである。  スペースがあるのが原因だと思っていたのだが、よく考えてみると、1DKに住んでいるときも私はそうだった。今と違うのは、絶対的な居住面積が違うので、段ボール箱が四個になると、重い腰をあげて掃除したことくらいだろうか。段ボール箱に添い寝をしているようなものだったが、私は平気だった。結局のところ、広くても狭くても、私の性根《しようね》が変わらない限り、きちんと整理された部屋には住めないということなのである。このままではいかんと反省し、 「物を出したら、こまめに片づけよう」  と書いた紙を壁に貼《は》ろうかと真剣に考えたこともある。しかしやっぱり、 「面倒くさい」  が先に立ち、現状には変化がない。そしてそのあげくに、友だちからは、 「あなた、段ボール箱フェチじゃないの」  とまでいわれているのだ。  私は茉莉の、 「私は、私よ!」  という神経がずっとうらやましかった。たまにそう思うときもあるが、実行するのはなかなか難しい。それが森茉莉を読んできた第一の理由といってもいい。私がまだ学生のころは、「贅沢《ぜいたく》貧乏」を読んで、進駐軍の払い下げ品の寝台やら、彼女の目にかなったいろいろな物に囲まれている生活というのに憧《あこが》れていた。彼女が整理整頓が苦手というのも、またよかった。私の理想の生活であった。 「ああいうのって、いいですよね」  私はある編集者にそういった。すると彼女は、 「でも実際は、すごかったらしいですよ」  と声をひそめた。たしかに茉莉は、他人がどう思おうと、自分の世界にひたりきれた人である。ニスを塗った進駐軍の払い下げ品の寝台、そこにはボッチチェリの宗教画の色調をとりいれた蒲団《ふとん》のカバーがかかっている。そして、 「魔利はボッチチェリの蒲団に体を埋めて花を視、硝子に視入るのである。」  となる。本棚にある本の並べ方も、カバーの色合いで決められている。 「欧外の『独逸日記』の白に黒の字と、灰色の模様の背表紙。ロオデンバッハの『死の都ブリュウジュ』、ドオデの『Jack』、ピエエル・ルヰの『女と人形』、同じ作者の『ナンフの黄昏』等の黄ばんだ表紙。英国版のを真似たのではないかと思はれる、深い紅と白に、黒い字の『シャアロック・ホームズ』二冊。ロチの『お菊さん』と『お梅の三度目の春』、が、魔利の注文にかなつた色調で並んでゐる。ホームズの隣りに、冴えた薄緑が一冊欲しいので、目下魔利は物色中である。」 「本立ての横には、去年の夏の枯れた花が、硝子のミルク入れに差してある。橄欖《オリイヴ》色の蕚《がく》と茎、黄ばんだ中に胡粉の繊い線が浮び上つてゐる、小さな薊《あざみ》のやうな花である。花の色は黄ばんで脆《もろ》くなつたダンテル(レエス)の色であり、蕚と茎との色は伊太利《イタリア》の運河の色である。黄金《きん》色の口金《くちがね》の、四角な、宝石のやうな罎《びん》、アリナミンの小罎に立てた燃え残りの蝋燭《らふそく》は、暗い緑である。」 「眼を上げると頭の上の寝台《ベツド》の背にはいつものやうに、いろいろな色のタオルと、真白な下着の滝が掛かつてゐる。カナリア色を含んだ薔薇色の濃淡の左端から順に、稀薄《フラジル》な水色《ブルウ》、ミルクの入つた青竹色、淡黄地に緑の花のあるもの、橙黄の大型タオル、濃紅色の線の入つた白地、同じく下着である。」 「贅沢貧乏」を読んでいくうちに、私の頭のなかには、美しいインテリア雑誌のグラビアみたいな写真が浮かんでくる。この場合、問題なのは部屋が狭いことだけであって、部屋の中に置いてあるものは、すべて美しいことになっている。なっているのではなく、茉莉にとっては美しいものばかりである。そしてそのうちに、こちらも彼女の部屋のなかには美しいものだらけだと錯覚するようになる。 「ものすごいという話は聞いたことがあるが、そんなにひどくはないだろう」  と思っていた。古いけれどそれなりの物が大切に置かれているのは、素敵である。しかしなかなか現実はそうはいかなかったのだ。  ある雑誌社から依頼があって、「贅沢貧乏」に書いた部屋を撮影して、美術雑誌に載せるといった。 「魔利は部屋に帰つてくると部屋の真中に突つ立ち、隣に聴こえるやうな声で、≪困つたなあ……≫と呻いた。 『贅沢貧乏』を書いた頃は、たしかに小説に書いた通りに飾りつけてあつたのである。だがその後だんだん忙しくなつたので、洋箪笥の上のボッチチェリの『春』の女神の部分画も、白銀色のレジョン・ドヌウルを胸につけた、素晴しいプルウストの写真も、薄白い緑色のアニゼットの空罎も、すべての綺麗なものが、これから切り抜くことになつてゐる新聞紙の山の向うに影を没してしまつてゐて、菫《すみれ》の洋皿や、今にも消え去りさうな、羊の横顔が底に沈んでゐる洋杯も、強烈な裸電燈の光が散乱した、洋杯の上の光の屑も、深い紅の砂糖入れの上で燃え上つてゐた白い光も、載せてあつた台が、本や雑誌の置き場になつたために、部屋の一住みの茶箱の上に追ひやられ、すべての輝いてゐたものは埃を被つて光を失つてゐた。暇な日もあつたのに片附けなかつたことを歎き、絶望したが、現実問題だから、なんとかしなくてはならない。」  結局、友人の家の洋間に家具や一切の物を持ち込んで撮影した。想像するに茉莉が現実問題の「困つた」に対処した、数少ない出来事のひとつであったのではないかと思う。  その後、茉莉は住み慣れた倉運荘の取り壊しに伴い、新しい住まいに引っ越すことになる。小島千加子氏の「作家の風景」という本に、その一部始終が書いてある。引っ越しのために公にさらされた部屋の中は、小規模な夢の島と化していた。 「要、不要の別は本人に聞かなくては、分からない。必要と言われたアームチェアが僅かにのぞいている。上積みの物をはねのけはねのけ、四分通り見えて来たところで手をかけてもビクともしない。その筈だ。脚元のゴミはすでに土と化し、竹製の脚がガッシリと根を下ろしている。『贅沢貧乏』に、戦時中、茉莉さんを連れて疎開するのが、『後醍醐天皇を背負って疎開するのと同様』とある。今日は疎開どころの比ではなく、後醍醐天皇の笠置山越えだと覚悟して来たが、タケノコ掘りがあるとは思わなかったから、道具がない。I嬢と二人で苦心サンタン掘り起こし、洗ってみると、竹の脚は無傷で、立派にホリダシ物だ。 『もう一つある筈よ』それは夢の島に埋もれたか崩壊したか、影も形もない。 『洋タンスもよ。黒い洋タンス』これも無い。それらの家具は、茉莉さんの頭の中でだけ存在を主張している。 『甘い蜜の部屋』に没頭して以来、日常生活の放置に加速がつき、茉莉さん自身が、『人が見たら狂っていると思うわ』という状態になっていた。」 「好みの写真を、イメージ喚起の媒体とする茉莉さんは、雑誌新聞類を積み重ね、切り抜き、創造の火種とする。J・C・ブリアリ、A・ドロン、P・オトゥールなどの写真が目下茉莉さんの心をかき立てているが、それ以前のもろもろが、養分を吸われたあと復活の可能性もこめて積まれたまま、床下の湿気と直結して清浄な土と化した。日当たりも風通しも悪い洞窟のような部屋の中で……。」  部屋の中なのに、ゴミが土と化しているというのは、いったいどういう状態なのか、想像もつかない。いくら整理|整頓《せいとん》が嫌いな私でも、積み上げた雑誌や新聞、ゴミを室内で土に変えたことはない。ただ、茉莉のエッセイの中で、 「今日も五種類の新聞の中からこの次の小説のための切りぬきが大変だ。」  と書いてあるのを読むと、土くれとなった紙類の多さも納得できる。私は一種類しかとっていない新聞の処分が面倒くさくなって、新聞をとるのをやめてしまったくらいだからだ。それが五倍の分量になったら、どれだけのことになるか。これだったら私も部屋のなかで、ゴミを土に変えることもできるかもしれないと考えた。  そんなにひどい状態の部屋が、彼女が大好きで、狭い部屋なのにどういう家具があったかも把握していなかったというのもおかしい。 「インドの大地母神が絶えざる渇きに幾多の犠牲を必要としたように、茉莉さんは並みの人間生活を満たす条件を犠牲にして、自身の渇きをいやす暮らし方に徹したのである。『ここにはインドの永劫がある』と言う茉莉さんのベッド。ラジオ、文具、日用品が積み重なり、人一人が身体を折って横たえる位しか平らな所のないベッドが、茉莉さんの複雑な想念を熟成させる蓮の台《うてな》である。」  小島氏はそう書いている。たしかに茉莉は一般的な人間生活を送ってはいなかった。しかし生きている以上、社会と接点を持たないわけにはいかない。それを補っていたのが、茉莉の友人であり、担当の編集者であった。買い物やその他の雑用まで、彼女たちは引き受けていた、というよりも、引き受けざるをえなかったようなのだ。 「ある日、電話がかかる。 『七枚半のと、四枚の原稿を書いて送ったけど、どこからも雑誌も稿料も来ないの。どこの注文だったか調べられないかしら』  こういう相談に目をシロクロしていては、茉莉さん係は勤まらない。」  しげが生きている間は、彼女が世話をやいていたが、茉莉はそれを嫌っていたという。引っ越しのときには小島氏が母親役である。茉莉は一段落したあと、こういった。 「折角お母さんが死んだと思ったのに、また生き返って来たかと思ったわ」  室生犀星が「黄金の針」という本で、茉莉を取り上げることになり、アパートを訪問するとなったとき、茉莉はアパートの住人の仲良しの女の子に手伝ってもらって、三日かかって大掃除をしたという。「黄金の針」を読んだことがあるが、犀星はたしかに部屋の状態にはびっくりしている様子はみえるものの、茉莉に対しては、とても好意的に書いていたのが印象に残っている。三日かかって掃除して、ふだんから比べたらとてもきれいになっている状態でびっくりされたら、身もふたもないが、あの茉莉が、掃除をすることがあったのかと思うと、不思議な気がする。「黄金の針」の取材を受けたときは、五十六、七歳のころだから、まだ体力はある。倉運荘から引っ越したときが七十歳。これまでこまめに掃除をする習慣がない人が、急に思い立って掃除好きになるとは思えない。ますます腰が重くなるのは当然である。掃除をしないのだから、塵《ちり》、芥《あくた》の類い(彼女にとってはそうではないが)が増えることはあれど、減ることはないのである。  彼女はあるとき、小さな火事を出した。ゴキブリがいるのを発見した彼女は、その上にリグロインをたらした。それが駆除に成功したので、それからゴキブリを見るや、リグロインを使うようになった。あるとき、流し台にゴキブリがいるのを見て、彼女はいつものようにリグロインをかけた。ところが流し台の隣のガス台には火がついていて、それが引火してしまったのである。管理人もとんできて、一大事にならなかったが、燃えやすいものばかりがありそうな部屋だから、へたをすれば危険な状況だったはずである。  それから消防署員や警察の検証がはじまった。 「第一に困つたのは火事の原因の説明である。マリアとゴキブリとの悲壮な戦ひが原因だといふことを、常識以外のことはわからない消防署の署員たちにわからせるといふのは困難な仕事である。」  この尋問で彼女はへとへとに疲れた。「五月蠅《うるさ》い尋問」とも書いている。しかしどうしてそういう目に遭わなければならなかったか、という問題については、どこかにすっとんでいってしまっているのだ。 「さて、この小火《ぼや》事件の中で滑稽だつたのは、『一人で何をやつてゐるのかね?』といふ、消防署員の中に混つてゐた、消防署のちよい役らしい中年の男の問ひにマリアが、『小説を書いてゐます』と、答へたが、その時、その男が『ああ、自称ね』と、呟くやうに言つたのが、怒りのマリアの神経を突ついた。そこでマリアがむつとなつて、『黒潮社に訊いて下さい。もう十冊位本を出してゐます』と、言つたといふ滑稽である。」  人に迷惑をかけて、しゅんとするどころか、そういわれてむっとするところに彼女のプライドを感じる。常識以外のことはわからないと茉莉が思っている彼らなのだから、適当にあしらっていればいいのに、まともに相手をしてしまう。そちらのほうがより人として、狡《ずる》くない正直な態度かもしれない。  学生の頃から茉莉の本を読んでいるが、最近は歳《とし》をとっていく者のひとり暮らしについて考えるようになった。本だけを読んでいると、茉莉の感覚のおこぼれにありつけるので、うっとりしたり笑ったりしている。ところが周辺の人々の苦労もわかるような歳になると、 「こりゃ、自分さえよければいいというわけには、いかないんじゃないか」  と首をかしげてしまうのだ。  人間はだんだん老いていく。茉莉は八十歳になって、また引っ越しを余儀なくされた。管理人が契約の更新をしなかったからである。住人からも苦情がきていた。それでも新しい住まいは決まったが、同じ区内ではあったが、慣れない場所だった。自分の部屋をいじられたくないので、身内が家政婦を置くことを検討しても嫌がる。「知識人99人の死に方」には、彼女の晩年の姿が書かれている。 「長い説得の後、しぶしぶ承知したものの、彼女が気に入る家政婦は見つからない。�おばあさん�呼ばわりされるだけで彼女はひと言も口をきかなくなった。」  やっと茉莉が気に入った家政婦さんが来てくれるようになった。 「茉莉の本を愛読しており、彼女の気質をある程度把握していた。そして初対面の日、茉莉の横に居ずまいを正して座り、こう切りだした。 『先生、どういたしましょうか』」  それから彼女は茉莉の世話をすることになったのである。最初は買い物役だったのが、掃除、洗濯も許し、最後は食事まで作ってもらうようになった。食事はすべて洋食で、彼女は風呂《ふろ》嫌いの茉莉のために、洗面器に湯を汲《く》んで、足を洗った。  私ももっと歳をとったら、いつ火を出すようになるかわからない。誰しも歳をとれば他人に助けられる度合いが大きくなる。その折り合いのつけかたが、美意識の強かった茉莉にはとても難しかっただろう。晩年、脚が弱り、階段の上り下りが難しくなってきたので、家政婦さんが手を貸そうとすると、その手を払いのけ、 「弱ったと思わないで」  といったそうだ。私の理想は「もうちょっと精神が軟弱、いいかえればもうちょっと社会に順応性がある森茉莉」か、「いじわるばあさん」なのであるが、友だちにそう話すと、 「それだったら、結婚しなきゃだめよ」  といわれてしまった。茉莉もいじわるばあさんも、結婚の経験がある。子供がいる。そのなかでのわがままである。 「ということは、私の将来はまっくらということか」  三つ子の魂百までという言葉を私は信じているのだが、これから突然、私が整理|整頓《せいとん》好きになるとはどうしても思えない。となると、のちは室内の土と化したゴミと同居である。茉莉は亡くなる直前まで現役でいられたが、私なんぞ、どうなるかわからない。一人で何をしているのかと聞かれて、 「物書きです」  といったら、 「ああ、自称ね」  といわれるなんて、本当に他人事ではないのである。私は森茉莉という人は、幸せな人だと思っている。本人もそうだと思っていた。しかし晩年、茉莉が、 「ひとり暮らしは本当に嫌ね」  とぽつりと家政婦さんにいったという文章を読んで、私は愕然《がくぜん》とした。あの森茉莉でさえ、そう思うのか。森茉莉という人は私のひとり暮らしの手本であった。彼女に、ひとり暮らしは嫌だといわれたら、どうしたらいいんだろうか。弟の類氏にも、 「また一緒に住んでくれる」  とたずねたという。二度目の心臓発作で倒れてから、めっきり彼女は弱くなった。昭和六十二年六月六日、家政婦さんがアパートの鍵《かぎ》を開けると、茉莉がベッドの上で死んでいた。電話に右手を伸ばしていたという。彼女は八十四歳であった。  私には自分が老人になったときの姿が、まだ想像できない。自分ではいじわるばあさんになるつもりでいるが、現実はもっと悲惨になる可能性だってある。 「ま、それでも仕方がないじゃないか」  そう思えるのも、私がまだ中年だからかもしれない。どちらにせよ、整理整頓されてない環境にいることは間違いない。どんな場所でもいい。段ボール箱に添い寝でもいい。私の願いは、 「ひとり暮らしが嫌だと思うような生活はしたくない」  ただそれだけである。  森茉莉年譜 一九〇三年(明治三六年) 東京市本郷区駒込千駄木町に、父森鴎外、母しげの長女として生まれる。 一九一五年(大正四年)12歳 仏英和(現、白百合学園)小学校を卒業、同高等女学校本科へ進学。 一九一八年(大正七年)15歳 貿易商山田暘作の長男、山田珠樹と婚約。 一九一九年(大正八年)16歳 仏英和高等女学校を卒業。山田珠樹と結婚。夫の家に同居。 一九二〇年(大正九年)17歳 長男≪じやつく≫誕生。 一九二二年(大正一一年)19歳 仏文学研究のため渡欧した夫を追ってパリに行き、カルチェ・ラタンのホテルに夫と住む。旅先のロンドンで父鴎外の死を知る。 一九二三年(大正一二年)20歳 フランスより帰国。関東大震災に遭う。 一九二五年(大正一四年)22歳 二男亨誕生。 一九二七年(昭和二年)24歳 離婚。千駄木町の実家へ帰る。 一九三〇年(昭和五年)27歳 東北帝大医学部教授、佐藤彰と再婚。仙台市に住む。仏文学の翻訳を始める。 一九三一年(昭和六年)28歳 離婚。実家に戻る。 一九三六年(昭和一一年)33歳 母しげ死去。 一九四一年(昭和一六年)38歳 弟類の結婚のため、実家を出て、下谷神吉町の勝栄荘に移る。 一九四六年(昭和二一年)43歳 次男亨と再会。 一九四七年(昭和二二年)44歳 疎開先より帰京、杉並区永福町に間借りする。 一九五一年(昭和二六年)48歳 長男と再会。世田谷区下代田町の倉運荘アパートに移る。 一九五七年(昭和三二年)54歳 鴎外の回想を集めた随筆集「父の帽子」が第五回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 一九六一年(昭和三六年)58歳 「恋人たちの森」が第二回田村俊子賞受賞。 一九六三年(昭和三八年)60歳 「贅沢貧乏」を刊行。 一九七三年(昭和四八年)70歳 倉運荘から代沢ハウスに転居。 一九七五年(昭和五〇年)72歳 「甘い蜜の部屋」を刊行、第三回泉鏡花文学賞を受賞。 一九八三年(昭和五八年)80歳 世田谷区経堂フミハウスに転居。 一九八五年(昭和六〇年)82歳 心臓発作を起し入院。約二カ月で退院。 一九八七年(昭和六二年)84歳 六月六日、フミハウスの自室で心不全のため死去。三鷹禅林寺の森家墓に埋葬。  参考文献 森茉莉全集 全八巻 一九九三年五月〜九四年一月刊 筑摩書房 作家の風景 小島千加子 一九九〇年六月刊 毎日新聞社 マザーリング 一九八〇年十二月号 ごま書房 知識人99人の死に方 一九九四年十二月刊 角川書店 「森家の人びと」 森類 一九九二年「新潮」二月号 新潮社 本文中に引用した森茉莉作品は筑摩書房版「森茉莉全集」を底本としましたが、文中ルビは小社編集部で若干つけ加えました。 本書の単行本は平成八年四月小社刊。 贅沢貧乏《ぜいたくびんぼう》のマリア