群 ようこ 無印OL物語 目 次  あんぱんとOL  結婚するならホドホドの人  ハイヒールで全力疾走  新人チェック  やめるときは一緒  体力勝負  気くばりのひと  ダンナの七光  ご無理ごもっとも  変なひと  六月末まで  いつでもどこでも誰とでも  あんぱんとOL 「おはようございまーす」  出社してきた妙に明るいシノハラさんの声を聞くと、悪いけど私はいつもうんざりしてしまう。シノハラさんは四十一歳。ここ「まんまる社」という総勢七人の出版社で、一緒に経理事務を担当している。十五歳年上だけど、正直いって私よりも仕事はできない。ミスをするととってもすまなそうな顔をするものの、どうしてそうなったかが全然把握できていないらしく、同じ間違いを何度も何度も繰り返してくれる。彼女が後輩だったら、 「あんた、何度いったらわかんのよ。ちょっとはしっかりしてよ!」  といって頭のひとつもハリとばせるのだが、シノハラさんが先輩という状況では、腹のなかは煮えたぎりながらも、 「気をつけてても、そういうことってありますよね」  などといわなければいけない。するとシノハラさんはとっても悲しそうな顔で、 「私、自分なりに一生懸命やってるんです……」  とつぶやくのだ。最初は彼女のそういうしおらしい態度をみて、子供の頃からいじめっこだった私も、彼女を許そうという気になった。しかしミスをするといつもいつも同じように、悲しそうな顔で、 「私、自分なりに一生懸命やってるんです……」  といわれたら、 (何度繰り返したら気が済むのだ。このバカたれめ)  と罵《ののし》りたくもなってくるのである。  シノハラさんがいると、私の仕事は滞《とどこお》るばかりだった。私が三の仕事をこなすあいだに、彼女は明らかに一しかやっていない。どうやってうまいことサボッてんのかしらと、横目で仕事ぶりを眺《なが》めていたことがあった。驚いたことに彼女は、サボルどころか懸命に仕事をやっていたのだ。彼女は、数字や文字を書いたり計算をしたりという一つ一つの動作が、とてもノロイのだ。さぼっているのなら、 「書類がたまってしまうから、さっさとやりましょう」  くらいのことは二十六歳の私にはいえる。しかし一生懸命やってあの程度の人には何といっていいのかわからない。ノロイのも、いいかえれば丁寧ということだけど、丁寧で正確ならいい。しかし丁寧で間違っている場合は、周りにいる人間はホント困ってしまうのだ。とくに経理の数字が間違っているなんて、あってはならないことだが、そのへん彼女はとてもルーズだった。去年の決算のときに、シノハラさんが自信をもって作成した決算書が二千万円違っていたときには、本を売ることばっかり考えている社長もさすがに慌《あわ》てた。しかし税理士のおじさんが何とかうまくやったようで、私には何も知らされないまま、何事もなかったように決算書は提出されたのだった。シノハラさんの鈍《どん》な仕事のペースに合わせてやっていると、毎日夜中まで残業しても仕事は終わらないので、最近は面倒|臭《くさ》い伝票は私が処理し、簡単なものはシノハラさんにやってもらおうと、さりげなく気も遣った。しかし毎月月末になると、シノハラさんがやり残した伝票類が山とたまった。結局、私がほとんどの伝票を処理しなければならないのだ。 「すみません。私、一生懸命やってるんですけど……」  悠長《ゆうちよう》に彼女はいった。 (うるさいわねえ。そんなこというヒマがあったら、さっさと伝票の一枚でも計算してよ)  私が棟方志功みたいに机にへばりついて、領収書とTKCの会計伝票とをにらみつけ、嵐《あらし》のように電卓を叩《たた》きまくっているというのに、シノハラさんはいつもとおんなじペースで口元に微笑《ほほえ》みさえ浮かべながら、ゆっくりゆっくり字を書いている。そういう姿を見ると私は、彼女の背後にとんでいって、「きいーっ」と叫びながら地団駄《じだんだ》を踏みたくなってしまうのだ。社員の給与明細書を書くたんびに、シノハラさんの明細書の0を一個減らしたくなる。こんなに迷惑をこうむっている私が手取り十万円で、ボーッとしている彼女が十八万円というのは、何といっても納得《なつとく》できないことであった。もちろん私もミスをしたことはある。毎月雑誌に出す広告の原稿が見当たらないと印刷会社の担当者から電話があったとき、自信をもって私は、 「それはこのあいだ渡したはずです。そちらできっと失《な》くしてしまったんでしょう」  と冷たくいい放った。担当者も預かった記憶があるというので、これは印刷所のミスということになり、お偉方とその担当者はすっとんで来て体を小さく縮こまらせ、私の前で何度も頭を下げた。 「間違いはありますから」  と私はふんぞりかえり、腕組みして彼らの背中を冷ややかに見詰めていた。しかし、彼らが帰ってしばらくして、私のこめかみに一筋の汗がたらーっと流れた。震える指先でそーっとキャビネットの引き出しを開けると、そこには渡したはずの原稿がトレーシングペーパーに包まれたまま挟《はさ》まっていた。目の前が真っ暗になった。渡したとばかり思っていた原稿は先月分で、今月分はまだ渡していなかったのであった。私は半泣きになり、事情がよくのみ込めていない社長の手を引っ張って印刷所に行き、さっき彼らが頭を下げた以上に深く深く頭を下げて許してもらった。さすがに社長も冷たい目つきをしていたが、 「今度から気をつけなさい」  といったきりで、他には何もいわれなかった。そういうことがあってから私は、一つ一つ事をやるごとにチェックを忘れない人間になった。それが人間の進歩というものである。しかしシノハラさんは違う。反省しない。猿のジロー君だって反省するのに、彼女の辞書には「反省」の二文字は欠落しているようだった。  学生時代に想像していた出版社と、今勤めている出版社はとんでもない開きがあった。私の頭のなかにあったのは、文芸書やおしゃれな女性誌なんかを出している、隣近所のおじさんおばさんに社名をいっても誰でも知っている出版社だった。しかしコネもなく、それ以上に頭の中身が不十分だった私は、あこがれの出版社にみんな振られてしまった。そして藁《わら》にもすがる思いで、学校の求人募集の書類を見ていたら、「親と同居」だけが唯一の条件の「まんまる社」の求人が目にとまり、高望みはやめて面接を受けることにした。編集でなくてもいい、とにかく出版社に入りたかったのである。  汚い雑居ビルのなかに「まんまる社」はあった。まず私のなかの出版社というイメージがガラッと崩れた。ドアを開けたとたんにすりすりと擦り寄ってきた風采《ふうさい》のあがらない男がいた。それが社長だった。イメージがガラガラと崩れた。このまま引き返すこともできたが、どこでもいいから出版社という名がつくところに入りたいという気持が私の背中を押した。イボイボのついた健康サンダルをぱたぱたいわせながら、社長は、かかってきた電話にせわしなく応対していた。私たちはろくに話をしなかった。ところが面接が終わるやいなや、イボサンダルが、 「よし、来てもらいましょう」  と宣言したために、私はそのまま「まんまる社」に入社が決まったのだった。  ふつうのサラリーマン家庭に育って、特別つらいことも味わわずにきた私にとって、会社に入ったことが一番最初のカルチャー・ショックだった。本を出しているところはどんな出版社でも洗練されていて、知的な雰囲気が漂っているものだと思っていたからだ。先輩の女の人も、みんな仕事が好きで外見も素敵で、何でもバリバリやる人ばかりだと思っていたのだ。しかし、入社一日めにイボサンダルから、 「これがシノハラさん。君には彼女と一緒に仕事を組んでやってもらうから、まあ仲良くやって」  と紹介された彼女を目の前にして、私は驚いた。ついこのあいだ、白い箱を手に「恵まれない子に愛の手を」といいながら、募金を拒否した私ににじり寄ってきた、いつも駅前に立っているおばさんそっくりだったからである。白い丸襟のブラウスに、小豆色《あずきいろ》とも暗いピンクともいえないかぎ針編みのカーディガンを着て、一番うえのボタンだけ留めている。グレーのスカートに足元は肉色のタイツ。オレンジ色の口紅をつけたシノハラさんは、赤い半透明の眼鏡をかけてニコニコしていた。 「どうぞよろしくお願いいたします」  彼女が九十度のおじぎをしたので、私もあわててピョコンと頭を下げた。その日、一緒にお弁当を食べながら、シノハラさんは地域の独身男女の親睦会《しんぼくかい》である「さざなみコーラス会」というサークルで、歌を歌っているのだといった。 「あなたもよろしかったら、いらっしゃいませんか。楽しいですよ」  ニコニコ顔を崩さずに彼女はいった。 「あのー、それは宗教関係の会ですか」  私はおそるおそる聞いた。なんとなく彼女のまわりには、宗教に凝《こ》っている人特有の雰囲気が漂っていたからだ。 「いいえ。全然関係ないの。ただみんなで楽しく歌を歌うだけなのよ。『夏の思い出』とか『荒城の月』とか」  残念ながら私はシノハラさんとは心が通いあわないような気がした。ただ地味でおとなしいというのが彼女に対して感じた印象だった。それから二日後、まさか彼女が私を仰天させるようなことをするとは思ってもみなかったのである。  部屋の外にある、廊下のつきあたりの薄暗い共同トイレにいったときのことだ。ここのトイレは天井にはわせてあるパイプからぽたぽたとしずくが垂れていて、タイルの床にいつも水が溜《たま》っている。ドアが少し開いていたのでそこのボックスに入ろうとして、私は腰を抜かしそうになった。中に何か茶色の生き物がいる。「キャッ」といいながらおそるおそる覗《のぞ》き込むと、その生き物はあんぱんを口にくわえて、金隠しに向かってしゃがみ込んでいるシノハラさんではないか。さすがにお尻《しり》は出していなかったが、あまりに大胆な現実を目撃して、私の頭のなかは真っ白になった。 「……みんなが仕事をしているのに、部屋で食べたらお邪魔じゃないかと思って……」  彼女はくわえていたあんぱんを左手で持ち、乙女のように頬《ほお》を染めてうつむいた。私はぼーっとしたままそっとドアを閉め、あわてて席に戻って自分が見た光景を頭のなかによみがえらせた。子供の頃、墓荒らしの鬼ババが骨を口にくわえたままこちらを振り向き、 「見たなあ〜」  とすさまじい形相《ぎようそう》で叫ぶ、恐ろしい挿絵《さしえ》入りの話を読んだことがあったが、骨とあんぱんの違いはあってもそのショックは鬼ババの絵を見たときと同じだった。尿意もどこかに吹っ飛んでしまい、私は業務に復帰する気にもなれず、しばらく数字が並んだ伝票を眺《なが》めていた。 (みんながいるところで食べるのは嫌だというのはわかるが、なぜトイレを選んだのか) (手を洗う所で食べればいいのに、なぜボックスのなかに入っていたのか) (どうして用を足すみたいに、しゃがみ込む必要があったのか)  いくら考えても私にはわけがわからなかった。しばらくしてシノハラさんはあんぱんを食い終わって何食わぬ顔をして戻ってきた。私たちはその日は何の会話もかわさなかった。  二、三日後、帰りがけにシノハラさんは私に小さな軽い包みを押しつけた。 「このあいだはごめんなさい」  それだけいうと彼女は小走りの内股《うちまた》で駅に続く道を走っていった。家に帰って包みを開けてみると、中からは山吹色《やまぶきいろ》の太い毛糸で作ったかぎ針編みの室内ばきが出てきた。昔の『婦人|倶楽部《くらぶ》』とか『主婦の友』の付録についていた編物の本に、こういうのが載っていた。私の趣味じゃなかった。 「せっかく編んでくれたんだから、履《は》いたらいいのに」  仏頂面《ぶつちようづら》をしている私の顔を覗きこんで母親はいった。 「そうだぞ。人の好意を無視しちゃいけないじゃないか」  父親も読んでいた新聞から目だけ出していった。私はしぶしぶ山吹色の室内ばきを履いてみた。 「ほら。あんたが思うほど……そんなにおかしくないわよ」  結果よりも経過を重んじる母は、しきりに私に室内ばきを履《は》かせようとした。母の姿見の前に立った私の足は、ピンポンパンに出ていたカッパのカータンの足にそっくりだった。冬が近づくと母親は思い出さなくてもいいのに、 「そろそろあの室内ばきの出番ね」  と気が重くなるようなことをいった。親の目の前だけそれを履いて、自分の部屋にいるときはベッドの下に放り投げておいた。ところが二、三回履いただけで室内ばきはビロンビロンにのびてキャッチャー・ミットみたいになってしまい、捨てるしかない状態になったときは本当にせいせいした。私は何でも物を貰《もら》えば喜ぶたちの人間ではないのだ。こういういろいろな出来事にでっくわしながら丸四年、私は日がな一日、営業担当者から回ってくる伝票を処理したり、税理士のおじさんに渡すTKCの会計伝票を書き続けているわけなのだ。 「私が夢見ていた出版社って、いったいどこにあるのよお」  会社からの帰り道、私は月を見ると吠《ほ》えたくなった。「まんまる社」はかつては文芸書も出していた。しかしだんだんそういった類のものが売れなくなってきたため、例のイボサンダルががらっと方針を変え、実用書の出版へと切り換えたのである。ベストセラーになったものもある。  権田原 万作著『ズルズル鼻もすぐなおる』。これは花粉症が巷《ちまた》に蔓延《まんえん》した時期と重なったため、日本中の鼻たれ人間が買ったと思われるほど売れた。  山深 緑著『垂れ乳垂れ尻《じり》もすぐなおる』。これも日本中の垂れ乳女が買ったと思われるほど売れた。  大巣籠 至著『痛いお尻もすぐなおる』。これもお尻の痛い人々に大受けだった。  そしてこの三冊のおかげで、「まんまる社」にかかる電話を取りつがなければならない私たちは、機嫌が悪くても元気よくはきはきと、 「すぐなおるシリーズの『まんまる社』でございます」  といわなければならないハメになってしまった。あるとき私に用事があって会社に電話をかけてきた母親が、売る意欲丸出しのこの挨拶《あいさつ》にびっくりして、何もいわずに受話器をおいてしまったことすらあったのだ。 「あんなことまで、いわなきゃいけないのかねえ」  家に帰ると母親は私と目を合わさずにいっていたが、そうしなければ私は十万円の給料すら貰《もら》えないのだ。しかしシノハラさんは事務員のキャリア二十三年の歴史がそうさせるのか、TKCの会計伝票に、「△□書店に直売。八掛けでズル鼻十冊、垂れ乳五冊、痛尻八冊」と書いているときよりも、 「すぐなおるシリーズの『まんまる社』でございます」  と、電話口で見えない相手に向かって話すときのほうが生き生きとしていた。 「私、母とふたり暮しなんです。幼い頃父親が亡くなって母親が苦労したので、これからは私が楽をさせてやりたいの」  昼休みにお弁当を食べ終わって、彼女がそういったことがあった。突然そういうことをいわれて私も何といっていいかわからず、 「それは大変ですね」  と、わかったようなわかんないようなことをいってしまった。 「親や先祖は大切にしなければいけません。それが今生きている私たちの務めだと思うんです」  シノハラさんは背筋をピンと伸ばして両手を重ねて下腹部に当て、キッと前を見据《みす》えながらいった。 「はあ、そうですか」  私も思わず下腹部に手を当てた。「お母さんを大切にする」と堂々と人前でいうだけあって、本当に彼女はきちんとしていた。きっと角を曲がるときも直角に曲がるだろうと思われるような人だった。道路を歩くときは右側通行をきちんと守り、十円玉が路上に落ちていても交番にきちんと届け、落ちている空缶はゴミ箱があるところまで持っていって捨て、子供が泣いていると駆け寄っていってあやした。便所であんぱんを食ったこともあったが、「歩く道徳の教科書」みたいな人だった。彼女は意地悪をしたりする人ではなかった。しかし私にはその生真面目《きまじめ》さがとてもうっとうしかった。妙に通る声を聞いていてもどういうわけか腹が立ってくる。どんなにミスをしても次の日は明るい声でニコニコしながらやってくる彼女を見ていると、 (ニコニコしているだけで許されるのは二十四歳まで)  といいたくなってしまうのだ。彼女が仕事もできずにそうやっていても、社内は全然明るい雰囲気にならなかった。それどころかニコニコすればするほど何やら重苦しい空気に包まれる。会社にも編集補佐の二十歳の女子社員が二人いる。ふたりとも太陽電池が体に埋め込まれているんじゃないかと思われるほど、元気いっぱいにはしゃいでいる。あんなに毎日楽しいことなんかあるのだろうか。 (彼女たちにはついていけない)  最近とみにそう感じるようになった。自分はこれからいったいどうなるのだろうか。そんな私の目に入ってくるのは、ゆっくりゆっくり字を書いているシノハラさんの姿だった。いつか私もああなってしまうという恐れと、私は彼女より仕事ができるから平気、という自信が入り交じった。つまり彼女は、私の将来への不安をかきたてる人だった。私は、男性に対しても仕事に対しても欲がだんだんでてきた。今やっている仕事は私が本当に満足している仕事なのだろうか。あとからあとから若い女の子が入ってくるなかでどんどん年をとり、気がついてみたら部屋のすみっこでゆっくり字を書いている第二のシノハラさんになってしまうのではないだろうか。シノハラさんがうっとうしいはずなのに、私はどうしても彼女のことを無視できないのだった。  月末、いつものように私たちは残業をしていた。シノハラさんがいちおう計算したものの、検算してみると合計金額が全然違っていて、その原因を突き止めるために私はまた棟方志功にならざるをえなかったのだ。しかしこのときは他の社員もみな残業をしていたので、いつものような、伝票をめくる音と電卓を叩《たた》く音と、私の荒い息遣いしか聞こえない、シノハラさんとふたりだけのあのいやーな雰囲気とは違っていたので少しは気が楽だった。とはいっても、いつまでたってもシノハラさんがたらんこたらんこしているので、能率はまったく上がらない。 「この伝票はチェックしたんですか。この納品伝票ですけどね、シノハラさんの机の後ろに落っこってたんですよね。毎日番号ごとにチェックしておくと、こういうことは起こらないと思うんですけど」  私が早口でまくしたてても、シノハラさんは、 「本当にそうねえ。ごめんなさいね」  というだけ。だんだん髪の毛が逆立ってきた私に向かって、営業担当の男が、 「まあまあ、そんなにカリカリしなくても」  と薄笑いを浮かべながらいった。こいつは陰でシノハラさんのことを、男に相手にされないので某所に蜘蛛《くも》の巣が張っている、蜘蛛の巣城の姫君などといって笑い者にしていた奴《やつ》だった。確かに彼女は着ているものもやぼったいし、男にはもてないかもしれない。しかしこういうことを笑いのタネにする男は許せない。肝心なときに事なかれ主義でヘラヘラ笑ってごまかし、どうでもいいことを陰であれこれ詮索《せんさく》して噂《うわさ》するのが、サラリーマンの処世術なのかと思うと空《むな》しくなった。 「怒ったってどうにもならないんだしさあ。ま、仲良くやりましょうや」  男はそういって鼻歌まじりでどこかに行ってしまった。シノハラさんは相変わらずうつむいているだけである。困ったなあと思いながら、内心私はシノハラさんから、 「わたくし、やめさせていただきます」  という発言が出るのを期待していた。ところがいつものように彼女はすまなそうな顔をしただけだった。もし私が彼女だったら、同僚の男の薄笑いや、後輩の気の強い女の子の、ミスは絶対許すまじという厳しい責め苦には耐えられない。いままでだって嫌なことは数限りなくあっただろう。プライドを著しく傷つけられることもあったはずである。それなのに同じ会社で二十三年間働いている。 (鈍感にもほどがある!)  私は彼女の人生を思うと腹立たしくて仕方がなかった。彼女は勤めには向かないが結婚には向くはずだ。あれだけニコニコできるのは天賦《てんぷ》の才能である。会社では許されないが家庭では十分許される。 (何とかならないのか!)  彼女が結婚して退社する。これが私たちにとって一番いい方法だった。  あるとき、一人のおばあさんが会社にやって来た。くちゃくちゃでシワだらけで、細い体に着物を巻きつけて、ただただ何度も何度もおじぎを繰り返している。おばあさんの、入れ歯でポクポクという口元に耳をつけてよく話を聞こうとしたら、シノハラさんが背後から、 「まあ、お母さん」  と大声で叫んだ。いちおうイボサンダルも登場して、 「いやあ、シノハラ君が一生懸命やってくれるんで助かっとります」  とお愛想をいって、お母さんを喜ばせていた。私は最近、あんなに腰の曲がったおばあさんを見たことがなかった。 「あんなおばあさんがお母さんなのか」  私はふと母親のことを思い出した。毎日顔を合わせているからわからないけれど、私が歳《とし》をとるのと同じように親も歳をとっていく。私の親もいつかはああいうふうになってしまうのである。そうなったとき私は何をしてやれるのだろうか。シノハラさんが不気味なくらいニコニコしてまで会社にいなければならないわけがわかったような気がした。  入社して初めて、シノハラさんに私用の電話がかかってきた。電卓を叩《たた》くふりをして横目で探りを入れると、両手でしっかり受話器を握り締めて心なしか頬《ほお》を赤く染めているように見えた。次の日彼女のいでたちをみて、私は昨日の電話が男からだと確信した。それはいつもの服装がエスカレートした、ちょっとすごいものだった。襟にグレーのウサギの毛がついたワインカラーとも赤ともつかない色のコート。頭にはお揃《そろ》いのベレー帽。そしてBonjour Parisと筆記体で刺繍《ししゆう》がしてあるハイソックスを履いていた。頬っぺたには、まあるくピンクの頬紅がつけてあった。 「やあ、シノハラさん。きょうは特別に奇麗《きれい》だねえ」  イボサンダルが大きな声でいった。若い女の子二人は下を向いて肩を震わせ、くすくす笑っている。 (何がおかしいんだよ)  私は彼女たちをにらみつけてやった。シノハラさんは五時になると、 「それではお先に失礼いたします」  といって帰っていった。男たちは意味ありげにお互いの目をみて薄笑いを浮かべた。私は三十分後に会社を出た。駅前のガラス張りの喫茶店の前を通りかかった時、店のすみっこにシノハラさんらしき人をみつけた。背を向けていたが、服といい、あのかかりすぎのパーマといい間違いなかった。しかしのたりのたりと字を書いているいつもの背中とは雰囲気がちょっと違っていた。彼女と向かい合っていたのは背広姿の、垢抜《あかぬ》けてはいないが人の良さが丸出しの中年の男性だった。顔が大きくて頬が妙に赤い。腹話術の人形が歳《とし》をとったような人だった。二人は楽譜を前にしてにこやかに話をしていた。「さざなみコーラス会」の仲間なのだろうか。あの男性なら平気で、  ※[#歌記号]森へ行きましょう、娘さん〜  と大きな口を開けて歌えるタイプだ。私は彼らにわからないように、背伸びをしたり体を縮めたりして偵察していたが、突然二人が店から出てきたので、慌《あわ》てて街路樹の蔭《かげ》に身を隠した。シノハラさんはその男性の腕に自分の腕をからませて、楽しそうに歩いていった。ローヒールを履いた彼女と男性は、ほとんど背の高さが変わらなかった。思い出してみると私はここ一、二年、男性と腕を組んで歩いたことなんかなかった。 「なかなかやるじゃんか」  私は少しほっとした。もしかしたら二人が喫茶店から出てきたとき、逃げなかったほうがよかったのかもしれない。会社の近くのガラスばりの喫茶店にいたシノハラさんは、会社の誰かに見られることを期待していたんじゃないだろうか。偶然でっくわしたふりをして、 「うらやましいわ」  くらいのことをいったほうがシノハラさんは喜んだかもしれない。 「しかしあの二人、歳をとった七五三みたい」  私は二人が寄り添って人込みに紛れるのをみながら、うふふと笑ったのであった。  結婚するならホドホドの人  私は小さい時から、母親に結婚こそ女のしあわせといわれつづけて育った。彼女は私の結婚を人生の一大目標として生きていて、その結婚作戦は、中学入試のときから始まった。容姿も十人並み、学校も中程度のため見合いで何度も泣きをみた母親は、私を結婚への特急切符が与えられるブランド品に仕立てあげたいために、お嬢さん学校へ入れようと必死になっていた。とにかくお嬢さん学校だったらどこでもよかったらしく、ミッション系、仏教系かまわず何校も受けさせられた。そして誰もが嫁に欲しがる「聖花女学院」に合格したとき、母親は発表の掲示板にすがりつくようにして、おいおいと嬉《うれ》し泣きをしたのであった。 「これで将来は何の不自由もないわ」  母親は家に帰るとそういってニタッと笑った。  私は、何が不自由なのかまったくわからなかったが、そのうち謎《なぞ》は解けてきた。  学校の金網にへばりついて、じーっと私たちの姿を目で追っている男子学生が跡をたたなかったからである。小さい頃から周囲の人に、「キョウコちゃんは美人だ」といわれていた。高校に入ると、毎日待ち伏せしている男の子や、黙って手紙を押しつけて走っていってしまう男の子がたくさんいた。彼らの姿をみて、 (もしかして、私ってもてるのかもしれない)  と感じたのだった。 「いいわねえ。キョウコちゃんはもてて」  友達のさっちゃんは、私に群がる男の子を横目でにらみつけながらいった。同じクラスの女の子のなかには、私は何もしていないのに、お高くとまっていると陰でコソコソいう人もいたが、さっちゃんは私をかばってくれた。女の子たちからだけでなく、しつこくしつこくつきまとってくる男の子を、「しっしっ」と追っ払ってくれたりもしたのだ。 「私バカみたい」  たまにさっちゃんはそういってスネたりしたが、帰りにアイスクリームでもおごってあげればすぐ機嫌は直った。 「あんなに男の子が好きだっていってるのに、どうしてつきあわないの」  さっちゃんはアイスクリームにかぶりつきながら聞いた。クラスの女の子たちのなかには、お坊ちゃん学校の男の子たちとつきあっている子もいた。だけど私は一人の男の子とつきあって、他のちやほやしてくれる男の子たちを失いたくなかった。一人の男の子よりも私に憧《あこが》れてくれる大勢の男の子たちの前を、にっこり笑って通りすぎるほうがよっぽど気持ちが良かったのである。私はそれをさっちゃんにはみすかされないように、 「今はそういう気になれないの」  といっておいた。 「そう。まあとびぬけてハンサムっていうのはいないけど、そこそこっていうのは結構いたけどねえ」  さっちゃんは残念そうにいった。  大学生になると、黙って手紙を押しつけるようなかわいいものではなく、校門に車を横付けにして待ち伏せていた。 「何よ! あれじゃあ大久保清じゃないの」  さっちゃんは高校時代とは違って、カールさせた髪を揺すりながら怒った。BMWもベンツもアウディもあった。さっちゃんは授業が終ると窓から身を乗り出して校門周辺を点検し、 「今日はBMWだわ。慶応の男だ」  と報告しにきた。車を持っていない体力だけが自慢の男の子は、じっと校門の前にたたずんでいることもあった。気持ちはありがたかったけど、腹のなかでは「金のない人は去ってほしい」と思っていた。彼らとはつきあう気がしなかった。母親がいつも私の耳元で念仏のように唱えていた言葉が脳味噌《のうみそ》にこびりついていたからである。 「車に乗った男の人にはついていってはいけません。車は密室です。誘われても電車で帰ってきなさい。結婚するまでは清い体でいなければいけないの。お母さんだって結婚するまでは何も知らなかったのよ」  そういって、いつも桐《きり》タンスのなかから赤い布張りの表紙に金の文字で『エチケット』と押してある本を持ってきて、�新妻入浴の心得�というページを指し示し、これでお母さんはいろいろなことを勉強したといって威張《いば》るのである。私は少し彼女をバカにしつつも、いわれたことはきちんと守った。きちんとした男とお見合いして結婚するには、変なムシなど身の回りにつけてはいけないのだ。たとえボーイフレンドだったとしても、そういうつきあいが問題になってせっかくの結婚話が壊れたら、泣いても泣ききれない。もしかしたら私は母親に殺されるかもしれない。私が欲しかったらちゃんと手順をふんできてほしいのだ。  家と学校を往復しその間にホテル主催の料理教室に通い、お茶もお花も習い、着々と見合い結婚への準備は整っていった。たまにはもうこんなことするのはごめんだと、嫌気がさしたこともあった。すると母親はしっかと握りこぶしを作っていい放った。 「キョウコ、今くじけてはなりません。ここをふんばるかふんばらないかで、勝負は決まるのです。わかってるわね。男の人は一人の女としか結婚できないのよ。早い者勝ちなのよ。ちゃんとやることはやってちょうだい」  まるで私たちは『巨人の星』を目指して「血の汗流せ、涙を拭《ふ》くな」と、毎日厳しい練習に励む、星飛雄馬とその父、星一徹のようだった。優しい飛雄馬のお姉さんのかわりに、父親が柱の陰から私たちの姿をそっと見守っていた。こんな生活は私の卒業間近まで続いた。  さっちゃんは顔が良くて体が丈夫だったら、金は無くてもいいという方針の人だったので、どこかの大学の黒い牛のようなラグビー部の男の子とつきあっていた。私が料理教室に行くために急いで帰ろうとすると、彼のボロ自転車の荷台にまたがって彼女は、 「頑張ってね」  といって手を振った。私もにっこり笑って手を振りながら、 (顔がいくら良くたって、それだけじゃ御飯は食べていかれないじゃない。私は死ぬまで安心して御飯を食べさせてくれる人を選ぶもん)  と、つぶやいた。  ある日、母親の百分の一しか喋《しやべ》らない父親が、 「あの、これ……」  といって写真の束を私の目の前に置いた。手に取ろうとした横から、母親はさっと手を伸ばしてそれをひったくった。片っぱしから写真を見ながら、あっという間にぱっぱっぱと二つに分けて、そのうちの一束を私に渡し、 「はい。このなかから選びなさい」  といった。 「どうしたの、そっちは」  テーブルに置かれたままの写真に目を遣《や》ると、母親は、 「見てもムダだと思うわよ」  と、ふふんと鼻で嗤《わら》った。私は手渡されたなかからよさそうなのを選んでいった。母親の小ふるいと私の大ふるいにかけられた男たちはバラバラと網の目から脱落し、たった一人だけが残った。 「あんなにたくさん写真があったのに、たった一人だけ〜」  不満そうにいったら、父親は悲しそうにうつむいてしまった。母親は相手が決まるやいなや私を芦田淳のブティックに連れていき、ワンピースをしこたま買い込んだ。ついでに自分の服も新調したのはいうまでもない。  当日、母親は朝からはぁはぁして息遣いが荒かった。自分も行ったほうがいいかという父親には、 「あっ、お父さんは来ないほうがいいわ。雰囲気が暗くなるから」  と冷たくいい放った。池袋のホテルメトロポリタンで会った三十一歳のその男は、大手のエレクトロニクス関係の会社に勤めていた。仲立ちしてくれた口の達者なおばさんは、 「ご性格も真面目《まじめ》で、将来有望な方なんですのよ」  と一生懸命アピールしようとした。見るからに仕事一本でやってきたという感じだったが、写真ではわからなかった、おじさんっぽいどんくささが、オーラのように漂っていた。母親はにこやかに話はしているものの、時折厳しい目つきでチェックするのを忘れてはいなかった。結局そこでは、母親たちの世間話にうなずいているだけで終ってしまった。  おばさんに促されて私たちは歩いて近くの喫茶店にはいった。歩いているときはさっさと自分だけ先に横断歩道を渡ってしまうし、コーヒーを前にしても彼はずっと黙っていた。機嫌が悪いのかと思ったが、そうでもないらしい。気を遣って、 「最近どんな映画をご覧になりましたか」  とたずねても、 「映画はあまり見ないんです。仕事が忙しいもので」  と答えると後はだんまり。音楽のこと、テレビ番組のことをきいても、答えはみんな同じだった。自分で話題が見つけられない奴《やつ》なのだ。三十一歳までお前は何をしてたんだ、といいたくなった。母親の評価は「中の中」で私に決断は委《ゆだ》ねられたが、ああいうどんくさい退屈な男と生活するなんて耐えられないのでパスした。意気込んでいったのに出端《でばな》をくじかれた母親は、父親の尻を叩《たた》いて、次々に縁談を持ってこさせたが、三十歳ちょっとすぎの男はみな似たりよったりで、何人会ってもみな同じのパス男ばかりだった。まだこれは前哨戦《ぜんしようせん》で、これからはもっといい男との話がわんさか来るんだと、私も母も期待に胸をふくらませていたのである。 「三十ちょっとすぎはダメだわ。黙って家にいるだけじゃあ、いいのは見つからないのかもしれないわね。少し方針を変えたほうがいいかしら。そうそう、会社だったらいろんな年齢の人もいるし、いいかもしれない。お父さん、今からキョウコの就職何とかならないの。だてに銀行の次長やってるわけじゃないんでしょ!」  母親はヤギさんのようにおとなしい父親に再び迫っていた。そしてしばらくたつと、健気《けなげ》な父親は就職口を探してきた。 「まあ、素晴らしいわあ、お父さん。キョウコもお父さんみたいな、社会的に実力のある人と結婚しなければダメよ」  都合のいいときだけ母親は父親を誉めちぎった。そういわれても父親は弱々しく笑うだけだった。  私が勤めることになったのは、いわゆる一流の商社だった。男も女も有名大学卒の人が集まり、女子社員は美人ぞろいという記事を週刊誌で読んだことがあった。そういう会社に楽して入ることができてとってもうれしかった。私が配属されたセクションには六十人ぐらいの人がいた。そのうち女性は十人ぐらいで、同期入社の男性三人と私がここに配属された。何をやらされるのだろうと緊張していると、先輩のすごい美人がやって来て、 「早速《さつそく》だけどお仕事をしてくださる」  と首をかしげてかわいらしくいった。 「はい」  元気よく答えると、彼女は黙って鉛筆削りを私に手渡した。 「鉛筆を削ってほしいのね。これから朝来たら、ここのセクションの鉛筆を全部削って。三分の一くらい使った鉛筆は新しいのと取り替えて、それは私たちが使うか総務に持っていって。男の人たちは短いのや先の丸い鉛筆を使うのが嫌いなの」  そういって彼女は去っていった。重たい鉛筆削りを持ったまま、今いわれたことを頭のなかで繰り返していた。 (やだあ、こんな仕事)  大声で叫びたくなった。でもここで私は一番の下《した》っ端《ぱ》である。仕方なく六十人分の鉛筆を集めてきて、グィーンと削り始めた。鉛筆削りの性能がいいので、三十分で仕事は終ってしまった。みんなにピンピンに削った鉛筆を配り終ったので、先輩女子社員のところに行って、他に仕事はありませんかと聞いてみた。 「そうねえ」  彼女は少し困ったような顔をして、しばらく黙っていたが、 「思いつかないから、本でも読んで待っててくれます?」  そういって、自分の席に戻っていった。男子社員は慌《あわ》ただしく出かけていった。先輩女子社員は書類をホチキスでとめたり、内線電話を受けたり、書類を三つに折り畳んで封筒に入れる作業などをしていた。鉛筆削りと同じくあまりかっこよくない仕事ばかりだった。なかには堂々と机の上に文庫本を載せて読み耽《ふけ》っている人もいる。しかしそういう姿をみても誰もとがめる様子もなく、彼女は私が知っている限り、コピーをとるために二度中座しただけで、あとはずっと本を読み続けていたのだ。私のほうも他人が何をしているのか観察できるくらい暇だった。  こんな日がずっと続いた。私がやるべき仕事は鉛筆削りだけだった。でもこういう状況は社内でいい男を見つけるにはちょうどよかった。私は他のセクションを偵察に行くため、コピーをとる仕事があると率先していった。コピー室に行くたびに、他の部屋にどんな男がいるのかこっそり覗《のぞ》いたけれど、みんな出かけていて成果はなかなか上がらない。がっかりしてコピーをとっていると、あとから来た先輩がニッコリ笑いながら、 「私、コピーをとるの、とっても早いのよ。ほら見て」  といいながら必殺技を見せてくれた。光がスーッと移動すると素早くカバーを開けて次の原稿を差し入れる。光が往復するのをじっと待っているのは時間のムダで、端から端まで光が動いたら、コピーされているのだと教えてくれた。 「でも、こんなこと知ってたって、何の役にもたたないのよね。今は全部やってくれる機械もあるし。転職するにしたって、コピーが早くとれるっていうだけで、この会社みたいにお給料をくれるところなんかないわ。だけどここでは男子社員の奥さん候補みたいな扱いしかされないし、世の中に通用する仕事のやり方なんか、全然教えられてないもの。みんな三十歳近くなるといたたまれなくて退社していくの。私たちの給料は精神的慰謝料みたいなものよ」  彼女は寂しげにいって部屋を出ていった。  会社の男たちは顔見知りになると、 「仕事はどう?」  ではなくて、 「今日の服、なかなか素敵だね」  といった。私は彼らがある女子社員を横目で見ながら、 「昨日と同じ服を着てる。きっと外泊したのに違いない」  とマジメな顔をして噂《うわさ》をしているのをきいてびっくりしてしまった。きっと私も彼らにいろいろ噂されているに違いない。彼らは私の身に付けているアクセサリーや服に対してとても敏感だったし、新しい服を着ていくと必ず誉めてくれた。ヘアー・スタイルを変えていくと必ず、 「あっ、お見合い? 君の顔を見るのが楽しみなんだから、急いで結婚なんかしないでよ」  と冗談か本気かわからない口ぶりでいう人もいた。はっきりいって「松」「竹」「梅」でいえば「梅」ランクで、結婚の対象にはならない人だったが、そういわれると悪い気はしなかった。ただ自分の机の前に座っているだけで貰《もら》える、月十八万円の給料と、年間十か月分のボーナス。このほとんどが衣装代《いしようだい》に消えた。新しい服を着て会社に行くのが何より楽しかったのだ。  給料日前、ちょっと財布の中身が寂しくなってきたので、社員食堂で食事をしていると、背後で若い男子社員が話をしているのが耳に入ってきた。何気なく聞いていたのだが、だんだん私は背筋が寒くなってきた。 「オレの友達が、音大出のお嬢さんと結婚したんだよ。相手の親が家を建ててくれたらしいんだけどさ、そいつも意地があるから、最初は二Kのアパートで二人だけでやらせてくれっていったんだって。普通のサラリーマンだしそんなに給料だって良くないけど、彼女も納得《なつとく》してついてきてくれたわけ。そうして二人で暮し始めたんだけど、土曜日の午後に会社が終って、アパートまでもうすぐそこっていうところまで来たら、バイオリンの音が聞こえてくるんだって。音のするほうを見たら、彼女がアパートの四畳半の窓をいっぱいに開けて一心不乱に、ツィゴイネルワイゼンっていうんだっけ、あれをさぁ、まるでコンサートやってるみたいに弾いてるんだって。別に彼女は今の生活に何も文句なんかいってないらしいんだけどさ。友達はあんなにミジメなことはなかったっていってた」 「そりゃあ、そうだよな。二Kのアパートでツィゴイネルワイゼンなんか弾かれたんじゃ……」 「やっぱりホドホドのところをもらっといたほうがいいんだよ。会社で気を遣って、家に帰ってお嬢さんのお相手じゃたまんないぜ」  私は話をしている男子社員のほうを振り向くのも怖くて、冷たくなったハンバーグBセットを食べていた。実は私が入社してから二年の間に、同期の女の子が続けざまに五人結婚退社していった。どうしてあの人がと思うような人が満面に笑みを浮かべて会社をやめていった。あの人たちが嫁《い》けてどうして私が嫁けないんだろうと思っていたことがやっとわかった。冷や汗が流れながら、だんだん首から上だけカーッと熱くなってきた。あんたたちがチヤホヤするのは、私がお嬢さんだからなんじゃないの? いったい私は何なのよ。結婚するんだったらホドホドの人がいいだって! バカにしないでよ(三十歳までこんなところにいられるか。それまでに絶対結婚してやる)。私は固く心に誓った。  その日私は会社では涙をじっとこらえていた。帰りの電車のなかでもじっと我慢していた。ところが家のドアを開けたとたん、エリザベス・アーデンのマスカラを付けたまつげの間から涙がほとばしり、玄関で思いっきり大きな声で「わぁーん」と泣いてしまった。 「キョウコ、どうしたの。えっ、えっ、まさか」  母親はまず私の下半身に目を遣《や》り、少しほっとした顔をした。私は涙ながらにツィゴイネルワイゼンの話をし、 「会社の男どもは私のことを今までチヤホヤしていたくせに、結婚するんだったらホドホドの人がいいなんていったの。私はただのお飾りだったのよ」  と泣きながら訴えた。母親は眉間《みけん》にしわを寄せてじっと聞き入っていたが、父親のほうは『レッツ碁《ご》』という囲碁の新聞で半分顔を隠し、「私は関係ありません」という態度をとっていた。 「フッフッフッ」  突然、母親は含み笑いをした。 「そんなこというのは貧乏人だからよ。そういう男たちを相手にするのはおよしなさい。ツィゴイネルワイゼンでも運命でもフラメンコ舞踊団でも、何でもござれの大きな家を持っている人を捕まえればいいのよ」  私は鼻の下にハンカチをあててしゃくりあげながらも、 「それだったら家も土地も都内にあって別荘もあって、背の高さは百七十三センチ以上で、デブじゃなくて、年収は八百万円以上で、親と同居じゃない人がいいよぉ」  としっかり条件だけはいった。すると母親はそれをしっかり紙に書きとめ、部屋のすみっこに避難していた父親の手から『レッツ碁』をひったくり、 「お父さん、これが条件よ。早く縁談を持ってきて。キョウコが会社でこんなに辛《つら》い思いをしてるんだから」  と、紙をピラピラさせながらいった。父親は「うーっ」とうなりながらも、黙ってそれを受け取っていた。これから私は肝を据《す》えて、母親とタッグを組んで戦いに挑まなければいけないのだ。  また父親はその条件に合う縁談を持ってきた。しかし前のときの半分くらいしか写真がなかった。母親が小ふるいにかけた。手渡された写真をみて私は傷ついた。 「程度が落ちてる……」  いくら顔では御飯が食べられないとはいえ、こりゃあんまりだというのがずらっと並んでいた。私の心中を察したのか、母親は、 「こっちはもっとひどいの」  とふるいで落っこったほうに目を遣《や》っていった。これを大ふるいにかけたらみんな落っこちてしまうのだが、彼らは私が出した条件を全て満たしているのだ。母親は、 「何でもいいから、片っぱしから会ってみなさい」  とわめいたが、そんな元気は失《う》せてしまい、その中で一番金持ちの、実家が大病院の医者と会うことにした。  場所は全日空ホテル。ロビーで待ち合わせて、予約してあったレストランで食事をした。相手は三十八歳。何となく人を見下したような目付きをしている。彼の母親は鎖がついた紫色のグラデーションの眼鏡をかけていて、やたらとキンキラしていた。 「私ども、ホッとしておりますの。今までいろいろなお話もあったのですけれど、どの方もちょっと条件と違う方ばかりでしてねえ。キョウコさんとのお話をいただいて、正直いってこの方しかいない、という気が致しましたの。聖花女学院をお出になって、お背は百六十三センチ、お綺麗《きれい》だし、いうことはございませんわ」  キンキラはいっきにまくしたてた。そしてグイッとワインを飲んでから、私が仰天するようなことをいいだしたのである。 「キョウコさんは女性機能に異常はございませんでしょうねえ。もしおわかりにならなければ、私どもの病院で調べさせていただくこともできますけれど。跡取りができないとあっては、一大事でございますから」  息子《むすこ》のほうを見ると、それはもっともな発言といいたげに、うんうんとうなずいていた。そのあと二人だけになると彼はきちんとエスコートしてくれたし、趣味のヨットやスキーの話をした。条件は全て満たしている。しかし割り切れないものがあるのだ。  私が悩んでいるのをみて、母親は、 「何をいったい迷っているの。決めなさい。あなたが出した条件にぴったりなのよ」  とにじり寄ってきた。 「だって跡取りとか……」 「それは結婚するんだから当り前です。特にああいうお宅なんだから。結婚してみなさいよ。長い間一緒にいると情が移るものよ。人はね、自分が嫌だ嫌だと思っていたタイプと、どういうわけか結婚しちゃうものなの。そしてそれが結構うまくいくの。お母さんをご覧なさい。最初はお父さんのこと、全然いいと思ってなかったけど、今はこんなにしあわせよ。あなたのように選《よ》り好みばっかりしていると、永久に結婚なんかできません」 「お金以外の苦労がありそうな気がして……」 「お金以外の苦労? そんなもの」  母親は冷たくいった。 「キョウコ、そんなものがまんすれば解決できるでしょ。つらかったら、泣きなさい。ただひたすら男性の前で泣きなさい。そうすればおのずと道は開けてくるもんです!」  母親はこれで巨人の星のような生活にピリオドを打ちたいのか、しつこく食い下がってきた。  いつものように部屋のすみっこで成り行きを見守っていた父親が、母親のスキをみはからって私にそっとハガキを手渡した。裏が写真になっている近況報告ハガキだ。さっちゃんが、見覚えのあるあのラグビー部の自転車男と並んで笑っていた。「お金がないので式はしません。しばらくはずっと共稼ぎです。キョウコちゃんに春は来たかな」  と書いてあった。私はやっぱり式をちゃんと挙げてウエディング・ドレスを着たい。共稼ぎなんかしたくない。 「つらければ泣いていればいいのよ、泣いていれば」  また母親の声が追い討ちをかけてきた。頭のなかに「ひたすら泣け」という言葉が、わんわんといつまでも響き渡っている。しかしこのままでは済まさない。このままであってたまるか。変に早まってスカをつかんだら、それこそ最悪ではないか。何が何でも納得《なつとく》できる結婚がしたいし、私の美貌《びぼう》だったらそれも可能に違いない。私のお腹の底からは、そんな女の意地がふつふつと湧《わ》いてきたのであった。  ハイヒールで全力疾走  僕の五つ違いの姉は二十四歳。中堅の電気メーカーに勤めて四年になる。重役の秘書をやっているらしい。まあまあの知名度の今の会社にはいったときも驚いたが、ふだんの生活を見ていると、あいつが社会人としていままでやってきたのは、二十世紀最大の奇跡じゃないかと思っている。  まず朝はギリギリまで寝ている。僕は予備校に行かなきゃいけないので、高校生のときと同じように朝はちゃんと起きる。母親が作ってくれた大根の味噌汁《みそしる》や、 「残り物で悪いねえ」  といいながら出される、昨日の晩の温め直しの煮物なんかも文句もいわないでおとなしく食べる。浪人の立場をよくわきまえているからである。しかし姉は違う。目覚し時計の音が聞こえてもしばらく起きてこない。僕が御飯をかき込みながら、上目づかいに柱時計を見上げて、 「もうそろそろだな」  とつぶやいたとたん、家じゅうに、 「わあーっ」  という大声が響き渡る。そしてどどどどどという地鳴りのような音とともに、髪の毛を逆立ててパジャマの胸元をだらしなく広げた姉が、洗面所めがけて突進していくのである。最初のころは会社に遅れてはと、起こしにいっていた母親も、四年間もこういう調子だとあきらめてしまい、自分も勝手に朝御飯を食べている。僕達は一日の始まりとして、静かな朝を迎えたいのに、姉がわあわあいいながら家のなかを走り回るので、落ち着かないことこのうえない。だいたいあんな調子だったら、父親にゴロゴロと喉《のど》を鳴らしてすり寄っていって、ウソ泣きまでして据《す》え付けてもらった「娘が裸にならなくてもいい」朝シャン用のシャンプードレッサーだって、何の役にもたっていないのだ。  しばらくどたどたと家のなかを走り回っていたかと思うと、また二階にかけ上がってごそごそやっている。そして着替えて僕達の前に姿を現わすと、テーブルのうえを見て、 「朝は御飯じゃ嫌だっていってるでしょ、おかあさん! パンは食べながら他のことができるけど、御飯じゃ両手がふさがっちゃうからダメなの。この時間のないときに、のんびり食べてなんかいられないわよ」  と母親に文句をいい放ち、ヒールの靴を履《は》いて弾丸のように飛び出していくのである。走っている後ろ姿を見たことがあるが、スーツにハイヒールで全力疾走している姿は、とてもじゃないけど見られたものではない。高校時代、陸上の選手だったのが災いして、手足の軽やかな動きとスーツがちぐはぐなのだ。その足の速さのおかげで、今まで遅刻もせずにすんでいるのだが、顔を洗うのから化粧をして着替えるまで、たったの二十分ですませてしまうというのは僕にとっては驚異だ。 「まったく、レイコとあんたが入れ替わればよかったわねえ。あの子はあんなにせっかちなのに、あんたはいつまでたってももたもたして。したくするのに一時間以上かかるんだから……」  母親はそういってため息をついた。  たしかに僕は姉に比べて、もたもたしている。子供のとき僕は姉にいいおもちゃにされた。ちょうど姉がお人形遊びに熱中しだしたころで、可愛《かわい》いけれど動かないリカちゃんよりも、多少のことは我慢しても自分の目の前で動き回る「弟ケンちゃん」のほうを選んだのである。もちろん、当時一歳か二歳の僕はどういうことをされたか全く覚えていないのだが、恐ろしいことに我が家のアルバムがそれを逐一《ちくいち》記録していた。頭を大五郎みたいにされ、ほっぺたや唇はおてもやんみたいに口紅で真ん丸く塗られている。お古のスカートやカーディガンを着せられて姉と一緒に写真におさまっているのだ。なかには上半身はピラピラしたブラウスを着ているのに、下半身は丸出しというアブノーマルなものもある。そしてその写真を見ていちばん悔しいのは、そんな恥ずかしいことをされても、写真のなかの僕がにこにこ笑っていることである。諸手《もろて》をあげてはしゃいでいるものまである。物心ついてそれを見せられたとき、何度アルバムに火をつけて燃やしてしまおうと思ったかしれやしない。  中学生のころ友達と部屋でわいわいやっていると、姉がお茶とお菓子を運んできた。顔を見るとどうもにこにこして様子がおかしい。何か変だと思っていると姉は、 「ねえ、これ面白いでしょ。ケンが赤ん坊のときの写真なんだよ」  といって例の恥ずかしい写真を友達の目の前でひらひらさせた。友達はそれを見て僕の気も知らず、 「ひゃっひゃっひゃ」  と指さして笑っている。 「他にもあるよ」  友達に想像以上にウケたので、姉はアルバムごと持ってきた。友達は僕との話などそっちのけで、姉と一緒にひゃあひゃあいいながらアルバムをめくっている。そのおかげで次の日学校に行ったら、黒板にでかでかと、 �オカマのケン坊、丸出し�  と書いてあった。学校にいるときはじっと耐えた。家に帰って姉に抗議すると、 「だってあんた、結構喜んであたしの服を着てたよ」  というのである。写真がそれを物語っていた。だから気の弱い僕はそれっきり、文句もいえずにじっと我慢するしかなかったのだ。そしてそれからはずっとこんな調子で、口げんかではあいつに勝ったことはない。いや、勝てるものはこの世の中にいないといってもいいだろう。  そんなに気が強い姉だが、実は、自分が顔がデカくて、デブなのではないかと悩んでいるのを僕は知っている。一時は太モモとふくらはぎが悩みのタネだったのだが、最近ではそれに顔のデカさが加わったのだ。マジメな顔で僕の前に立ち、前髪を上げて、 「ねえ、あたしって顔がデカい?」  と何度聞かれたかわからない。そのたびに僕は、 「別に……」  といって話をはぐらかしている。晩御飯を食べ終わると必ず、 「あーあ、また食べちゃった。あーあ、やせたーい」  といってため息をつく。 (御飯を二杯もおかわりして、おまけに大福もちを毎日二個ずつ食ってて、やせるわけねえだろう)  といってやりたいけれど、とてもじゃないけど怖くていえない。姉は口先だけで、ちっとも努力しようとしないのだ。テレビを見ていると必ず出演者の顔の大きさを話題にする。最近のアイドル歌手の女の子たちは顔が小さいので、みんな嫌いみたいだ。西川のりおがでていると、 「デカい顔」  といって大喜びする。 (人のことを笑えるか)  といいたいけれど、とてもじゃないけど怖くていえない。ドラマを見ては、 「あーあ、どこかに三上博史と真田広之を足して二で割ったような男はいないかしら」  と身をよじる。 (鏡を見てからいえよ)  といいたいけれど、これまたとてもじゃないけど怖くていえないのである。  このテの話題は知らんふりをして聞き流すのがいちばんいいと、最近になって気がついた。肯定したらあとは大騒ぎだし、否定すればつけあがるのが目に見えているので、話題に参加しないのがいちばんいいのである。そうしないと、話相手になろうといらぬ気遣いをした父親みたいに、 「何? レイコの顔がデカい? 顔はデカいほうがいいんだ。つまり頭も大きいということだからな。脳みそがいっぱい詰まっているということだ」  などと余計なことをいって、姉にむくれられてうろたえるハメになるのである。  僕の友人たちは姉が「秘書」だというと、目を輝かせて、 「ぜひ一度会わせてくれ」  という。よく気がついて、いつもにこやかに笑っている美人を思い浮かべるんだろうが、少なくとも僕は姉のせいで「秘書」という仕事をしている女の人に幻想は抱かなくなった。あんな姉でもいちおう会社に行くときには、秘書という立場上、値段の張るきちんとした服を着ていっている。母親と姉の話を聞き齧《かじ》ったところ、スーツ一着が七、八万円もする。どうりで月末に丸井の大きな紙袋をかかえて帰ってくるわけだ。秘書としての身だしなみは、丸井のクレジットによって成り立っているのだ。  ところが給料のほとんどを会社用の衣類につぎ込み、ボーナスを海外旅行に消費している姉の、家にいるときの姿を見ると、僕は目を覆いたくなる。ホームウエアはいつもジャージ! それも高校時代に着ていた、レンガ色と紺色の上下の二着を、かわりばんこに着ている。レンガ色のほうは、膝《ひざ》のところに穴があいたのをガム・テープを貼って補強している始末だ。化粧をしてスーツを着ていれば少しは見られるが、汚いほうをいつも見せられているこっちの気持も察してくれればいいのにと、いつも思う。特に梅雨どきになると、洗濯したジャージがなかなか乾かないので、姉のホームウエアの在庫はすぐ底をついてしまう。深夜、部屋のドアをノックする音が聞こえたので、勉強の手を休めてドアを開けると、そこには『13日の金曜日』のジェイソンみたいに、真っ白く顔にパックを塗った姉がぬーっと立っていた。あっけにとられていると、彼女は顔をつっぱらかしたまま口を半開きにして、 「ケンちゃん、着るもので余ってるのがあったら何か貸して……」  というのだ。そういわれて僕は仕方なく、ヨレヨレになったのでタンスにつっこんであったジーンズと、今着るのはちょっと恥ずかしい、「HAND IN HAND」とプリントしてあるトレーナーを差し出した。 「悪いね。それじゃお休み」  姉は僕の古着をかかえて戻っていった。そしてそれは当然のように姉のものになり、ホームウエアにちょっと変化をもたらす結果になったのである。  会社の人たちも社内ではきちんとした格好をしている姉が、家では高校時代のジャージの上下を着て、髪の毛をカラーゴムでひとまとめにして、素顔でゴロゴロしているなんて絶対に想像しないだろう。僕なんかいまだに姉が二人いるような気がしてならない。一度、あまりのことに見かねて、 「家にいるときも、もうちょっとマシな格好をしたら」  と忠告したことがある。でも、 「だって会社に着ていく服を買うとお金がなくなっちゃうんだもん。別にいいじゃない。あたし、何かあんたに迷惑かけてるわけ?」  と、僕から服をぶんどっていったことも忘れて怒った。こういう性格はいったい誰に似たのだろうかと母親に聞いたら、亡くなった 姑《しゆうとめ》 がこういう性格だったと憎たらしそうにいっていた。  会社の人とたまに酒を飲んで、夜遅く帰ってくると、玄関に立ったまま一人で笑っている。そういうところは父親そっくりだ。足元もおぼつかなく二階へ上がると、おなじみのジャージに着替えて台所にやってくる。風呂上がりに水を飲んでいる僕の顔をじっと見つめて、 「でへへへへ」  と笑い、 「ケン坊、ちゃんと勉強してるかぁ。二浪は許さんぞ」  と大きなお世話をやいてくれる。休日は休日でテレビを見ながらソファの上で寝っころがっている。大あくびはするわ、ガラス窓がビビるくしゃみはするわ、たまにボリボリとお尻《しり》なんか掻《か》いているときもある。そばを通りかかると、寝っころがったまま、 「ちょー、ちょー、ちょー」  といって手招きをする。「ちょー」っていったい何かと思ったら、 「ちょっと」  というのが面倒くさくて短縮した、というではないか。おまけにどんな大変な用事かと思ったら、二、三歩あるけば手が届く、部屋の隅のテーブルの上の新聞を取ってくれという。 「そんなの自分でとれよ」  とつっぱねると、姉はフンッといって、のろのろと新聞をとりにいったが、あれでは人類ではなく地上に降りてきたナマケモノといったほうがいい。  ところがそんな姉を好きになってしまう男がいるんだから世の中わからない。いつものように僕はおとなしく朝御飯を食べていた。すると玄関から、 「ムラタさーん」  という男の人の声がした。出ていってみると、そこには剛毛《ごうもう》をむりやり七三に分け、スーツに革の茶色のショルダーバッグを下げた、三十歳くらいの男の人が立っていた。 「あ、弟さんですか。私はレイコさんと同じ会社に勤めているヤマダです。近所に引っ越してきましたので、一緒に会社に行こうと思ってお誘いにきました」  彼はニコニコして胸を張った。小学校一年生みたいな人だなあと思ったが、とりあえず姉にそのことを知らせにいった。部屋のドアの外から事情を説明すると、姉は不機嫌そうに、 「ヤマダぁ、なんであいつがあたしを誘いにくるのよぉ」  と、ぶつぶついっている。ともかくヤマダさんには玄関で待っててもらい、姉が一秒でも早く起きてきてくれないかと気をもんだ。我ながら自分のこういう性格が嫌になった。しばらくして会社用のいでたちの姉が二階から降りてきた。 「あいついるの?」  玄関を指さした。僕は十二分に姉の性格を知っているので、きっと「あなたとなんか一緒に行きたくないわ。とっとと出てってよ」とわめきちらして、ひと悶着《もんちやく》あるに違いないと内心おびえていた。ところが姉は彼の顔を見るやいなや、 「まあヤマダさん。わざわざすみませんでした。お待たせしてしまってごめんなさい。じゃ、行きましょうか」  と、今まで聞いたことがないような猫なで声でヤマダ某にあやまり、呆然《ぼうぜん》としている僕を残して二人で出ていった。顔も服も家にいるときと会社にいくときでは大違いだが、出す声の高さまで違うのにはビックリした。僕の前では「あいつ」よばわりしていたくせに、本人に会ったとたんにころっと態度を変える。もしかして姉はあのヤマダ某が好きなのではないかと勘ぐったくらいだ。  姉に優しい言葉をかけられてうれしかったのか、それからヤマダは毎朝にこにこして姉を迎えにきた。姉はそのたんびに、 「またぁ。しつこいわね」  と蔭《かげ》では文句をいうくせに、スーツに着替えると、 「お待たせしました」  と平然とヤマダと肩を並べて出ていく。スーツを着ると、口の悪い単なるナマケモノが、てきぱきとした優しい秘書に変身してしまうのだった。そのうち姉とヤマダは、近所のおばさんたちの格好の噂話《うわさばなし》のネタになった。彼女たちは、朝、家の前を掃いているようなフリをして、しっかりと姉とヤマダのことを観察していたのだ。近所ではもう婚約しているというような話になっているため、両親が休みの日に姉に問いただした。 「あの、いつもお前を迎えにくるヤマダ君とかいう青年のことだがね」  父親は妙に緊張していた。 「あ?」  いつものようにジャージ姿の姉は、面倒くさそうに一文字だけいいはなった。 「いったいどういうお付き合いなんだね」 「付き合い?」  そういうと姉はケラケラ笑いだした。 「何もないわよ。見りゃわかるでしょ。私がああいう男とどうにかなると思う?」  確かに三上博史と真田広之にはほど遠い。 「だって、近所で噂になってるんだよ」  母も横から心配そうに口を挟んだ。 「いいたい奴《やつ》にはいわせておけばいいのよ。少なくとも私は何とも思ってないんだから」 「でも、ヤマダさんはそうじゃないようにみえるけど」  母親はさすが年の功でヤマダに対して気配りをみせた。 「そうなの。あの人は私のこと好きみたいね。だってうちの住所を調べて、近くに引っ越してきたくらいなんだからさ」  姉はぐわっと大きなあくびをした。同じ男としてヤマダが気の毒になった。迎えに行ってあんなに優しく言葉をかけられたら、きっとヤマダみたいなタイプは舞い上がってしまうだろう。もしかしたらすでに両親に結婚するなどといってるかもしれない。ここで姉の本心がわかったら、逆上して暴れ回る可能性だってある。だけど弟という立場は、姉の色恋|沙汰《ざた》に関しては気になりつつも何の発言権もないのだ。  それからはヤマダが朝来ると母親が出ていって、「悪いけれど先に行ってください」とたのんでいた。一週間それは続いた。そしてそのうち朝のお誘いはなくなった。いくら好きでも一週間も母親にそういわれ続けたら、気持だって萎《な》えるだろう。ほとぼりがさめたころ、僕は今後の参考にしようと、どうして好きでもない男にああいう態度をとったのか聞いてみた。すると姉は平然と、 「だってあたし、秘書だもん。社内の男に評判が悪くなったら大変なのよ。男って単純だからさ、うまくあしらっておけば、世の中万事うまくおさまるっていうわけ」  と頭がくらくらするようなことをいったのだ。僕は大学のことよりも、これから男として本気で女の人を好きになれるかしらと心配になってしまった。僕は男のいうなりになるような女の人はあまり好きじゃないけれど、姉のようにあまりにドライに割り切っているというか、「男ってこんなもんよ」という感じで男を見ている女はちょっと困る。僕は浪人だしこんなことをいちいちどうのこうのいえる立場じゃないけど、「そんなに甘くないぜ」というのと、「このまま平凡に結婚してほしい」という気持が入り交じった。いろいろと考え始めるときりがなく、どんどん深みにはまりそうだった。  だいたい姉は家で母親の手伝いや部屋の掃除もろくにしないくせに、会社用のファッションとか化粧とかには本当に熱心だ。まじめな顔して机にむかっているから、会社の仕事でも持って帰ったのかと思ったら、「今年の春の新色|勢揃《せいぞろ》い」という雑誌の化粧品の特集ページを食い入るように見つめていた。姉が海外旅行に行くのは外国に行くのではなくて、免税店で化粧品を買い漁《あさ》るためにいっているのではないかという気がするのだ。姉が帰ってきてスーツ・ケースを開けたとたん、中から化粧品がごろごろ出てくる。ひととおり化粧品のおひろめが終わったあとは、自分は現地の男たちにいかにモテたかを得意そうに話すのがきまりだ。 「もう、すごいのよ。どこに泊まっているのとか、初対面で結婚してくれっていう人もいたわ。それがみんな結構いい男でねえ。ちょっとグラッときたんだけど、あたしもお勤めがあるし。だから適当にあしらってきたんだけどさ。あたしって、外国に行くとどういうわけかモテるのよね」  と上機嫌なのだが、この話はハワイへ行こうがロンドンに行こうが、いつも同じということに本人は気がついていない。僕達の耳の穴がふさがってしまうほど、延々としゃべったあと、今度は電話のところにすっとんでいって友達に電話をかけ、同じことを、僕達に話したのと全く同じ調子でしゃべっている。その友達が一人じゃなくて、四人も五人もいるのだ。テープレコーダーみたいに一時間も二時間も、ずーっとしゃべり続けているあのエネルギーにはあきれかえる。だから姉が会社から帰ってきて、 「疲れちゃって、もうくたくた」  としんどそうな声を出しても、僕は同情できないのである。  あるとき両親が二人して旅行に行ってて、家に僕と姉しかいなかったことがある。先に風呂に入れといわれたので、逆らうと怖いからそれに従った。例のシャンプードレッサーのせいで、うちの脱衣所は前より狭くなってしまって、僕は入るたんびにちょっとムッとしてしまうのだ。湯船につかり、体を洗おうと思ったら石鹸《せつけん》がなかった。脱衣所の棚に取りに行くと、電話をしている姉の声が聞こえてきた。 「また、長電話かよ」  と舌打ちしたが、どうも様子が違う。友達に電話している時は三十秒に一回は必ず、 「きゃはは」  という笑い声が入るのに、今日の電話はボソボソと雰囲気が暗いのだ。そっと聞き耳をたてると、あの豪胆《ごうたん》で強気の姉が電話口でしくしく泣いている。子供のころ僕の下半身を丸裸にし、洋服をぶんどり、お尻《しり》をポリポリと掻《か》く姉がだ。シャンプードレッサー欲しさのときの嘘《うそ》泣きではなくて、これは本物だった。内容はよく聞き取れなかったが、時折、「奥さん」とか「もういいの」などといっている。息を止めて耳をダンボにすると、かすれた声が聞こえた。 「やっぱりこういうのって、お互いのためによくないっていうか……。ダメなんです、もう」  テレビでは何度もこんなことばは耳にしたが、現場を目撃というか耳撃したのは初めてだった。もっと詳しく盗み聞きしたかったけど、ここからではどうしても無理だった。僕はそーっと風呂場のドアを閉めて、お湯につかって考えていた。別れ話。それも不倫だ。秘書と妻子持ちの男の変愛。ぴったりだもんなあ。しかしどう考えても、穴の開いたジャージと不倫は結びつかない。いったいどういう顔をして男と会っているのか一度でいいから見てみたいけど、あの感じからすると姉は相当ダメージをうけているみたいだ。もしかしたらヤバいかもしれない。こうやっているうちに錯乱《さくらん》して手首を切っているかもしれない。そう思ったら突然心配になり、またドアを細めに開けて様子をうかがった。まだ話は続いていた。僕はドアを開けたまま、簡単に体を洗って待機していた。ところがいつまでたっても話は終わらない。出るに出られず僕はタオルを腰に巻いて風呂場でおろおろしていた。電話が終わるまで物凄《ものすご》く長い時間がたったみたいだった。こういうとき弟としては、気になりながらも、「顔がデカい悩み」のときと同じように、無関心でいるのがいちばんいいような気がした。その夜、結局姉とは顔を合わさなかった。両親もいないことだし、朝起きたら冷たくなっていることだけは避けてほしいとそれだけを願っていた。  次の日、僕は朝御飯の味噌汁《みそしる》をつくっていた。いつまでたっても姉は起きてこない。だんだん胸がドキドキしてきた。時計を見上げてあと五分たっても起きてこなかったら部屋に行こうと思っていたところへ、いつもの 「わあーっ」  が聞こえてきた。地鳴りのような音をたてて二階から降りてきた。あんなに大きな音をたてているくらいだから、幽霊じゃなくて立派に足もついているのだろう。そしてワカメの塩抜きをしている僕の背中に向かって、 「ちょっとあんた、さっさと味噌汁つくってよね」  と、いつものように横柄《おうへい》に命令した。  目の前に味噌汁を置くと、姉はぶつぶついいながら朝御飯を食べ始めた。心なしかいつもの豪快さに欠けているようだ。そういう姿を見て僕はつい、 「人はいろんなことがあって、大人になるんだよね、きっと」  といってしまった。姉はしばらくポカンとしていたが、 「何いってんの、あんた。まだ寝ボケてんじゃないの」  と毒づいて僕を小バカにし、ナマケモノから秘書に変身してでかけていった。一瞬、きのうの夜のことは夢だったのかと思ったが、やはりあれはまぎれもない事実だ。けっこうあいつもしぶといのだ。  それから二、三日は多少食欲が落ちて、口数が少なくなったみたいだったが、四日目ぐらいからはいつものように、「あたし顔がデカい?」と「あーあ、やせたーい」と「三上博史と真田広之」が復活して、ちょっと迷惑だが本来の姉の姿に戻った。ホッとしたとたん「ざまあみろ」といいたくなった。 「男をバカにすんなよ」  それからも姉は幸いというか不幸というか、以前と全然変わらない毎日を送っている。父や母はどうだかわからないけど、僕は姉の一部分しか知らない。だけどヤマダ某のことも電話のワケありの男のことも、社会人として自分なりにケリをつけたのだろう。あんなナマケモノでも、いろいろなことが起こるたびに、それを一つ一つクリアしていく。きっと今までにも、顔がデカいことよりも、もっと重要な悩みがあったのだろうが、僕は全然気がつかなかった。いつも豪胆な姉しか目の前にいなかったのだ。女の人もあのくらいの性格のほうが、会社に勤めるにはちょうどいいのかもしれないと、最近そういう気持になってきた。その点に関しては姉のことを認めよう。  だけど男の目でみると、やっぱりあの高校時代のジャージだけは、心の底からやめて欲しいと思っているのである。  新人チェック  私のいる編集プロダクションは、PR誌とか社内報を編集していて、飯田橋《いいだばし》にある。社長以下、社員は四人しかいない。  編集プロダクションというのは雑誌の編集をページで請け負ったりしているところもあるが、うちの会社は、どちらかというと企業内や無料でお得意先に配る、書店で売られることのないパンフレットを作るのが仕事なのである。雑誌が売れなくて倒産するということはないが、どうしても仕事をもらっている会社の担当者のいうことを聞かなければならないので、自分のやりたいことがやれるわけではない。記事の内容も、「今度会社に○○さんが入りました」とか「社員食堂に新メニュー登場」とか「秋の運動会綱引トーナメントの結果」などというものがほとんどである。「ちょっとこういう企画はいまひとつだな」と思っても、会社のおえらいさんがやる気になっていれば、彼らの気に入るように誌面を作らなければならない。私たちは制作上のアシスタント的な立場であって、すべてを牛耳《ぎゆうじ》ってはいけないわけである。  会社に勤めて十二年もたつと、自分はいったい何のために働いているのかわからなくなる。編集プロダクションにはいって、PR誌の編集の仕事にありつけたのは、運がよかったとしかいいようがないのだが、ふと我が身をふりかえると、正直いって、なにやってきたのかなあと思うことが多い。女が働こうとしたときにいちばんネックになる結婚も、高校時代からつきあっていた、めったやたらとおとなしい男の子と大学を卒業してすぐ結婚してしまったので問題にはならなかった。あとネックになるのは出産しかなかったが、こっちのほうは彼のほうに原因があって難しいということがついこの間わかり、私には働くことだけが残ってしまったのである。  うちの社長は生物学上は女性である。かつて社長と喧嘩《けんか》してやめていった人たちは、 「あれは女ではなくてトドだ」  といっていたが、それもうなずけるような体格をしている。年齢は五十三歳で、目も鼻も口も耳も声も顔もすべてがみんな大きい。いつもファッション・サングラスをかけているのだが、顔にあわせたためフレームもとても大きく、なくさないように首からつながっている鎖までつけていて、どう見ても洗練された印象を与えない。原宿《はらじゆく》とか麻布《あざぶ》で強引な商売をやってしこたま儲《もう》けた、不動産屋の女社長といった感じである。就職活動をしていたとき、面接で私が結婚する予定があるとわかると、面接官たちは、 「なんで結婚するのに会社なんか受けにくるの」  といった。 「新婚早々、奥さんが家を空けるなんてよくないですなあ。ダンナに食べさせてもらって、家で御飯を作ってあげたらどうですか」  露骨にそういったのは、大企業の立派な背広を着た重役だった。あまりに頭にきたので、面接が終わってから、当時はまだ婚約者だった彼を呼び出して、「つぼ八」でおいおいと泣きながらこの悔しさを訴えた。先にエレクトロニクス関係の研究所に就職が決まっていた彼は、いつものようにのんびりと、 「僕の給料じゃあ、二人で生活できないもんね。ごめんね、みっちゃん」  といった。正直いってあまりにのんびりでイライラすることもあるが、私の性格からいって、やっぱりこういう人のほうがよかったような気がした。しかし面接で会ったうちの女社長は、 「人生、やれることは何でもしなさい。そのうえ働いていたら、こんなにいいことはない。頑張りなさい」  と励ましてくれたのである。これで落とされたらお笑いだなと思ったのが、彼女は私を受け入れてくれた。しかしいざ会社にはいってみると、一概に彼女はいい人だとはいえない部分がたくさん出てきたのだった。  会社には私の他に二人の男性がいる。二人とも独身である。四十歳の男性シマガミさんは、めったやたらと暗くて、いるだけで机のあたりが黒い影でおおわれているようだ。結核を患《わずら》ったベートーベンみたいな容姿の人である。かつての先輩は彼のことをシニガミさんと呼んでいた。シマガミさんは暗いながらも、じとじとと仕事をするタイプで、人間的にはともかく、仕事ではとっても評価されていた。しかし、もう一人の四十歳の斉藤清六そっくりのアベさんは、人はいいものの、仕事に関してはまるでダメで、社長が私たちの前で、 「あんたはいったい何やってるの」  と、どなりつけるのを何度目撃したかわからない。それでもアベさんはにこにこしていた。彼のことを見ていると、もしかしたらうちのダンナもこうではないかと、暗い気分になったこともある。アベさんはひそかに「小指ちゃん」と呼ばれていた。いつも小指をピンと立てているのが癖だったからだ。そして何となく雰囲気が女っぽい。物腰がとても柔らかいために、初対面のおえらいさんに会うときは、社長も考えて、暗いシマガミさんよりも人あたりのよいアベさんを連れていったが、顔合わせが終わるともう用はないといった感じで、あとの仕事はシマガミさんにひきつがれるのが常であった。  私が入社したときはこの男性二人に加え、他に三人の社員がいた。女性一人は社長の秘書的な仕事をし、あとの男女二人は私に仕事をいろいろと教えてくれた。ところが私が入社して二年の間に、次々と社長やシマガミさんと喧嘩《けんか》してやめていった。とんでもないところに来てしまったと思った。バリバリとブルドーザーのように働く女社長はトド。どろーんと暗い男と、小指ちゃんが先輩。頼りにしていた、てきぱきと仕事をこなす人々はみんないなくなってしまったのである。  社長も社員が次々にやめたのを気にしてか、最年少の私に目をかけてくれた。自分が行くところ、どこにでも私を連れていった。彼女は顔が広かったので、テレビでしか見たことがない人たちが集まるパーティーに行くこともできたし、私の給料ではとても行けない料亭の豪勢な食事もさせてもらった。そのたんびに酔っ払った社長にガシッと肩を抱かれ、 「オカダさん。あんたにはこれからバリバリやってもらわなくちゃならないんだからね。どうもうちの社の男はわけのわかんないのが多くて困る。一人はジメーッとしてるし、もう一人は人のいいのだけが取り柄だし。あたし、ホントあんたに期待してるのよ。男なんかあてにできないわ。女が頑張らなくちゃダメ!」  といわれた。酒臭い息をぷんぷん吐きながら、満足そうにグワッグワッと高笑いする姿を見て、うれしいような怖いような、複雑な気分になったものだった。  それから一年おきに一人ずつ、女子の新入社員がはいってきた。きっと男二人が社長の感覚と合わなかったので男を見限り、優秀な女子社員を育てようとしたらしいのだ。しかし社長が新人教育をするわけでもなく、その役目をやらされるのはいつも私だった。新人教育といったって、お茶のいれ方とか掃除の仕方とか、そんなものなのだが、ちゃんと仕事のほうも教えなければいけない。それも私が自分の仕事をしながらだから、忙しいときなど、映画のスキャナーズみたいに突然、頭が爆発しそうになってしまう。それなのに私がひととおりのことを教えたと思ったころ、彼女たちはみんなやめていった。大きい声で叱《しか》ったわけでもないし、こむずかしいことを要求したこともない。私はあっけにとられるばかりだった。女の子たちに理由を訊《き》くと、 「雰囲気が暗い」 「やってる仕事がダサイ」 「ここじゃあ彼氏がみつけられない」  という答えが返ってきた。この理由にはうなずけるところも多々あった。  私は自分の仕事を二の次にして、彼女たちにいろんなことを教えたつもりだったのに、社長は五人が次々にやめたとき、 「あなたがいじめたんじゃないでしょうね」  といって私に疑いの目をむけた。これはあんまりだ。 「いじめてなんかいません!」  負けじとにらみ返してやったが、いままで社長は私の味方だと思っていたのに、このひとことで社長への信頼はいっきになくなっていったのである。  いま私の下には、二十三歳のテルコちゃんという女の子が一人いる。彼女が二十二歳のときに会社にはいってきたから、一年ももっている。これは最近の我が社にとっては奇跡に近い出来事である。去年この子がはいってきたときは本当にビックリした。私はどんどん歳《とし》をとっていくし、はいってくる子たちは相変わらず二十歳前後の子ばかりである。彼女たちの姿を見るたびに、自分とのギャップを感じてしまうのだ。テルコちゃんを面接し終わったあと社長は、 「あの子はいいわ。使いものになる」  といっていた。そのとき、これで少しは楽ができるとホッとした。手下ができたと思うやいなやみんなに逃げられ、万年平社員をずっと続けてきたのだ。私だって少しは先輩面をしたい。社長は各方面との打ち合わせで重役出勤だし、シニガミとはあまり会話をしたくないし、小指ちゃんは遅刻の常習犯だから、私は入社してから今までずーっと、ずーっと毎朝お掃除をし、来客があるとお茶を出したりしていたのだ。世の中でお茶くみ反対騒ぎがおきているときも、反対といえる人はいいなとうらやましかった。私は反対というヒマがあったら、お茶をいれなければならない立場だったからである。二十歳そこそこの子がすねているのなら可愛気《かわいげ》もあるだろうが、三十歳すぎてすねていたって、誰もかまってくれない。それどころか軽蔑されるのがオチだ。仕事の途中で席をたってお茶をいれ、席に戻ると、今まで何をやっていたかふっと忘れてしまうこともあった。しばらくして思い出し、一生懸命にやっていると、そういうときに限ってまた来客がある。まさか、 「帰ってください」  ともいえないから、しぶしぶまたお茶をいれる。自分でしぶしぶと思うとよけいやりたくなくなるから、そういうことをあまり考えず、ただ機械的に動いていたといったほうがいいかもしれない。いくら編集の仕事をしているとはいえ、外をとび歩いているばかりではなく、ほとんどが雑用である。そしてそのうえ、お茶くみ、その他の面倒臭い用事の数々。しかし新しい子がはいってくれば、少なくともお茶くみからは解放される。早く彼女が来ないかと、私はわくわくして待っていたのである。  新入社員であるテルコちゃんは、よくいえば物おじしない元気な子だった。私が新入社員のときは自己紹介するのもあがってしまって、自分の名前をいって頭を下げるのが精一杯だったのに、彼女は唇の両端を引っぱり上げるアイドル笑いをしながら、 「ヤマモトテルコでーす。みんなテルコってよびまーす。一生懸命頑張りまーす。よろしくお願いしまーす」  といって、体を前ではなく、横に倒して挨拶《あいさつ》した。長い髪がバサッと揺れた。まぶたも口紅も頬紅《ほおべに》もピンク色。髪の色はつやつやした茶色で、太古から続いている日本人のパターンとは全く違う雰囲気が漂っていた。私はあっけにとられたまま、パチパチと力なく拍手をした。 「とんでもないのが来てしまった」  内心ガックリした。私がいちばん嫌いなタイプだった。これが同僚だったらきっと無視しただろうが、一応、私は彼女の先輩である。好き嫌いを抜きにして、なんとか彼女が使いものになるようにしなければいけない。のちにそれが私のためにもなるのである。 「テルちゃんの机はオカダさんの隣りね。いろいろと彼女に教えてもらって、早く仕事を覚えてちょうだい」  社長は私のほうを指差して大声でいった。これ以上やめられては困ると思ったのか、社長は新入社員に愛想をふりまいていた。独身の男二人は若いのがはいってきたもんだから、満面に笑みを浮かべている。シニガミさんでさえ笑っていた。 (何がテルちゃんだ。私がはいったときにあんなふうに呼んだことがあるか)  だんだん私の目付きは悪くなっていった。ところがそんな私の気も知らず、テルちゃんは私のそばに来て、また体を横に倒して、 「よろしくお願いしまーす」  といった。 「はい。よろしくね」  私は事務的にいって、ニッと歯をむいて笑ってやった。テルコちゃんは椅子《いす》の上に載せるクッションまで準備万端整えていた。そのクッションは、私が雑誌で見て欲しいと思っていたフランス製のものだった。きれいなリボンをパッチワーク風に並べてあって値段もなかなかだった。うちで大事に使っているソファに置いたら素敵だなと考えていたのに、この子はそのお高いクッションを、角が少し破れている薄汚い会社の事務椅子の上に置いている。  ますます気に入らない。 「あのー、何をしたらいいですかあ」  テルコちゃんは首をかしげ、頭のてっぺんから声を出した。 「そうねえ。今のところ思いつかないから、少し待って。電話が鳴ったら出てね」 「はあーい」 「返事は短く『はい』といいましょうね」 「はあーい」 「…………」  彼女は私のことをバカにしているのではなかった。それが証拠に、にこにこしている。小指ちゃんの少し不気味な「にこにこ」と違って、テルコちゃんは無邪気なのだ。ただ、それが社会人としてそぐわないだけなのだ。  じっと監視しているのも嫌だから、私の担当の会社から預かってきた、社員が書いた原稿のチェックをしていた。電話がかかってきた。テルコちゃんは少し考えてから受話器をとった。そして深呼吸をして元気にいい放った。 「はい。ヤマモトテルコです!」  私は腰をぬかさんばかりに驚いた。 (あんたが自分の名前をいってどうすんの)  突然のことに私もどうしていいかわからなくなり、思わず彼女のそばににじり寄って、受話器に耳を近づけてしまった。テルコちゃんも「しまった」という顔をして黙っている。相手も黙っているようだ。しばらく沈黙が流れたあと、彼女は静かに受話器を置いた。 「どこから」  私はおそるおそる訊《き》いた。彼女は首を横に振りながら、 「わかりませーん。私が黙っているもんだから相手も黙ってたけど、『すみません、間違えました』っていって切っちゃいました」  といった。また電話がかかってきた。彼女がおそるおそる出ようとしたが、私は横から手をのばして受話器をひったくった。  うちの得意先の会社の広報部長からだった。 「いやあ、さっきおたくにかけようと思ったら、間違えて女の人のところにかかっちゃったんだよね。私もそろそろボケてきたのかなあ、ハッハッハ」  私も一緒になって、力なくはっはっはと笑った。隣りでテルコちゃんは口を押えてクックックと笑っている。こういう場合はしらをきったほうが、すべて丸く納まるのだ。受話器をおいたあと、 「電話は怖いから、気をつけてね」  と私がいっても彼女はすまなそうな顔ひとつしない。それどころか、 「どうしてあんなこと口走っちゃったのかしらあ。うちにいるときの癖が出ちゃったみたい」  などと、落ち着いて自己分析なんかしているのだ。 (これが入社して一日目の態度か?)  私が新入社員でミスをしたときなど、この世の終わりではないかというくらい身の縮む思いがしたものだ。顔からぼうぼうと火が出るようだった。私と同じように恥ずかしがれとはいわないが、 (もうちょっと、しおらしくしてよ)  といいたかった。一日目はこの事件だけで終わった。  社長もシマガミさんも自分たちの仕事を黙々とやっていたので、この件に関しては知るよしもない。アベさんは、仕事はやっていないけど鈍《どん》だから気づくはずはなかった。みんな、 「テルちゃんどお、やっていけそう?」  なんて今まで聞いたこともないような声で機嫌をとった。 「はい。何とか」  彼女がにっこり笑うと、独身男どもの目尻《めじり》がでれーっと下がった。社長は、 「期待してるわ。頑張って」  と彼女の頭を、いい子、いい子と撫《な》でる始末だった。 (ふざけんじゃないわよ。あんたたちは何もしないで)  私は無関心なふりを装いながら、はらわたが煮えくりかえった。  次の日、九時四十五分に会社に行くと、鍵《かぎ》が開いていなかった。会社は十時からなのに、テルコちゃんはまだ来てないのだ。またまた怒りが込みあげてきた。彼女が来るまで掃除をするのはやめようかと思ったが、それではあまりに大人気《おとなげ》ない。私は不本意ながら、ゴミを捨て床を掃き始めた。  十時五分前になってやっと彼女が来た。走ってきた気配などまったくない。悠然と御出勤である。私の姿を見て、 「おはようございまーす」  と体を横に倒していったっきり、手伝おうとしない。何やっているのかと見ると、ただボーッと突っ立っている。 「悪いけどゴミ捨ててくれない」  というと、 「はあい」  と素直にゴミを集める。しかしそれが終わると、またボーッと突っ立っているのだ。 (何やってんだ、こいつは)  ふつう、こういうときは、能率よくできるように気配りしてあれこれ動くものである。しかし彼女はいわれたことは素直にやるが、自分から動こうとしない。試しに、 「机の上を拭《ふ》いて」  といってみた。はあいと返事をして雑巾《ぞうきん》がけを始めた。別に嫌がっているふうでもない。ところが机の上を拭き終わったら、今度は汚れた雑巾を手に持ったまま、ボーツと突っ立っているではないか。 (これは筋金入りのボケだ) 「もう雑巾洗っていいよ」  そういって初めて流しにいって雑巾を洗うのである。  私は社長を恨《うら》んだ。これからいちいち、彼女のお尻《しり》にくっついて、あれやれこれやれといわなきゃなんないなんて、地獄以外のなにものでもない。仕事以外でこんなふうだったら、いったいどうなるのだ。これだったら、社員なんか入らないほうがマシだ。  さすがに今日は、 「はい。ヤマモトテルコです」  は出なかったが、冷や汗ものの状態はずいぶんあった。 「アベはまだ出社してません」  というところを、 「アベはまだ出世していません」  といってしまうし、出入りのソバ屋さんには、 「長寿庵さんですか。いつも大変お世話さまでございます」  といいながら、大得意の会社の人には、 「社長? さあ、いつ来るかわかりませんねえ」  と、ぞんざいな口のきき方をするのである。いったい次は何をやらかすのか、気が気じゃなかった。私は毎日、彼女にお茶をいれてくれるようにたのむ。たのまないと自発的にいれようとはしないからだ。すると返事の仕方はいっこうに直らないものの、素直に台所に行ってガチャガチャやっている。ところがお湯が沸いている間、別の仕事をたのもうとしてもいつまでたっても戻ってこない。貧血でも起こしていたら大変、とのぞいてみると、何と、お湯が沸くのをやかんのそばで、じーっと待っていた。 「あなたが横で待ってたって、お湯が早く沸くわけじゃないでしょ」  と手を引っぱって部屋に戻すと、 「あっ、そうか」  なんていってる。最近の親は会社に娘のしつけをさせる気かとムカムカした。おまけに上層部から、最近お茶がまずい、との報告があった。そして私に、テルコちゃんにきちんとお茶のいれ方を教えろというのである。そんなこと、きちんと最初に教えている。  最初は慣れないし、いれたお茶がまずいのは仕方がないから黙っていたが、何日たっても味がよくならないのは事実だった。それどころかだんだんひどくなっていくような気がする。それまで私の責任のように彼らはいうのだ。 「ご自分で注意したらどうですか」  と社長にいっても、 「私がいうとカドがたつから……」  といって逃げの一手。私だったらカドがたってもいいのか!  テルコちゃんが台所にいるときにのぞいてみると、茶碗のなかに粉をいれてお湯をドボドボついでいた。 「何、それ」 「日本茶のインスタントです。お茶ガラも出ないから、ゴミもたまらないし、いいですよ」  と、スーパー・マーケットの宣伝販売のおねえちゃんみたいなことをいった。それはインスタント・コーヒーみたいにビンにはいっていた。 「これは、やっぱりよくないんじゃないの」 「そうですかあ。でもお茶くみなんて単なる雑用でしょ。あたし、こんなことするために就職したんじゃないんです。こういうところを能率的にしないと、仕事を覚える時間がなくなります」  ときちんと理屈をいう。 「だって、お茶をいれるくらい、たいした時間じゃないでしょ。そのくらいは手を抜かないでほしいわ」 「私、女性だけがこういうことをするのはおかしいと思うんです。あまり丁寧にやっていると、男の人がそれが当り前と思うようになります。それは悪習です」  彼女はキッと眉《まゆ》をあげて抗議した。こういうところをみると、筋金入りのボケではなかったということはわかるのだが、とにかく「能率的にやるところと丁寧にやるところ」が、私の考えている部分とことごとく違うのには閉口した。  へとへとになって家に帰ると、ダンナが、 「おかえりー!」といって出迎えてくれた。 「あたし、もう会社に行くのイヤ」  靴を脱ぎながらそういうと、彼は、すまなそうに、 「僕の給料じゃあ、二人で生活できないもんね。ごめんね、みっちゃん」  といった。私がぐちをいっても、いつも同じことしかいわないけれど、このダンナがいるからこそ、私は会社がつまらなくても働いていけるような気がした。  翌日テルコちゃんが、部屋のなかにいると気が滅入《めい》るので、外に出してくれというから、ある会社の社長の原稿をとりにいかせることにした。ところがその社長の名前が「田中磯兵衛」というのが妙に気に入ったらしく、 「これから磯兵衛ちゃんの原稿をとりにいくんだあい」  などと大声で騒いでいる。 「ちゃんと受付で、『社長のお原稿をいただきに上がりました』というのよ」  と念を押しても、わかったんだかわからないんだか、 「はあーい。行ってきまーす」  とスキップせんばかりに出かけていった。私は原稿の行数を数えながらも気が気じゃなかった。あの調子だったら受付で、「磯兵衛ちゃんいますか」ともいいかねない。帰ってくるまで仕事が手につかなかった。あれこれ気をもんでいると突然、電話が鳴った。受話器をとると、 「もしもしィ、あっ、オカダさんですかあ、よかったあ。テルコですゥ」  たらっと汗が流れた。 「なっ、なっ、何かあったの……」 「いえ、たいしたことじゃないんですけど。磯兵衛ちゃんの会社、どこでしたっけ」 「…………」  会社を出るまえにあれだけ教えて、地図まで描いてやったのに、地図は床に落っこちていた。 「今どこにいるの」 「駅です」 「どこの」 「飯田橋」  彼女が出ていってから、二十分はたっている。それが何で飯田橋にいるのだ。 「場所がわからないから、戻ってきたの?」 「いいえ。思い出そうとして、近くのサ店でずっと考えていたんですけどォ、どうしても思い出せないんで電話しました」  しばらくして彼女は、でへへと笑いながら戻ってきて、地図をもって再び出かけていった。私がこんなにいってもダメなんだから、いっそのこと社長の前で失態を演じて、カミナリを落とされたほうがいい。社長のまえで大ドジをふめばいいのだ。  ところが帰ってきた彼女の顔は、私の期待に反して晴れ晴れしていた。 「オカダさん、磯ちゃんっていいひと」  などととんでもないことをいって、私の肩をポンポン叩《たた》く。彼女が原稿をとりにいったらたまたま社長がいて彼女と会い、いろいろとお話ししたあげく、わざわざ仕事に行く途中の車に同乗させてくれて、会社まで送り届けてくれたというのだ。 (悪運強い奴《やつ》め)  社長もシニガミも小指も、おまけに田中磯兵衛までも彼女をちやほやする。何か私は悔しかった。取り返しのつかない大ドジをしてくれないかとそればっかり願っていた。ところがこの一年間、彼女は取り返しのつかない大ドジはやらなかった。それどころか仕事を任せれば任せるだけ、そつなくこなしてしまうのが憎たらしい。愛想がいいもんだから、得意先にも受けがいい。 「テルちゃんをこっちにこさせてよ」  とご指名までかかる始末だ。おのずと彼女は外に出ることが多くなる。そうなるとまたお茶くみは私の役目になった。アベさんが、 「いやあ、やっぱりオカダさんのいれてくれたお茶がいちばんおいしいねえ」  といってくれても、ちっともうれしくない。彼女は朝は相変わらず十時ぎりぎりにやってくる。ところが外に出るようになってから雑用をバカにするようになり、私がゴミを捨てていても手伝おうともせず、特に急ぎでもないのに得意先に電話をかけたりしている。いつか何か起こるぞ、と期待していたのだが、残念ながら何も起こらないのだ。  ところが、新しい社員がはいることになった。社長の方針でまた女性である。年齢は二十歳。やってきた彼女は、テルコちゃんに負けず劣らず物おじしない子だった。社長は私たちの前で、彼女は英語版のPR誌を作るための要員で、英語が得意なので、基本的なことを教えれば、早速《さつそく》彼女一人に仕事は任せられるだろうといった。男二人は相変わらずでれーっとしていた。そーっとテルコちゃんのほうをうかがうと、目つきが険しくなっている。面白くなさそうだった。彼女の着ているものをチラチラ見て、チェックをいれているようだ。かたや英語版の編集、かたや磯ちゃんのご機嫌とりじゃあ、ふてくされたくもなるだろう。  しかしこれでやっと私が楽しめるときがやってきたのだ。二人でどんどんライバル意識を燃やして、いがみ合って喧嘩《けんか》してくれたら、こんなうれしいことはない。地味に十二年間も仕事をし続けてきたんだから、何か刺激が欲しい。 「これで面白くなってきたぞ」  私は原稿の行数を数えながら、今後の展開を想像して、にたっとほくそ笑んだのであった。  やめるときは一緒  私とサワダハルミちゃんは同期入社だ。二人とも営業部に配属されて事務をしていたので仲よくなった。彼女は小柄でスリムで目もぱっちりとしていて、バンビちゃんみたいなかわいい人だ。容姿に引き寄せられて今までたくさんの男が寄ってきたが、彼女の大胆な性格にビビッて、一人、また一人と去って行き、そして誰もいなくなったと、むくれながら話してくれたことがあった。どちらかというと、いいたいことがいえない性格の私と違って、何でも思ったことをズバズバいう彼女がとても好きだったし、自分のできないことを身代わりにやってくれるような気がしていた。食事に行くのも帰るときもいつも一緒だった。帰りがけに会社のそばのお洒落《しやれ》なレストランで食事をして、社員の悪口をいったり、旅行のプランをたてたりした。OLだったら誰でもうらやむ、女性雑誌のファッション・ページに何度も登場した綺麗《きれい》なビルに通勤する私たちは、何ともいえない優越感を持っていた。どんな流行の服を着て行っても建物にマッチするし、お勤めは快適だった。  ところが、いくら建物は申し分なくても、人間関係はそうはいかない。私とハルミちゃんが一致して大嫌いな奴《やつ》が部内に二人いた。殴《なぐ》られたとか徹底的にいじめぬかれたというわけではないのに、生理的にうけつけない男どもだ。一人は部長のタシロ。もう一人は、いつまでたっても平社員の「アブラギッシュ」イソベだった。タシロはめったやたらと口うるさかった。それもネチネチと、いつまでも繰り返すのだ。大きな声を出さないと怒るし、部下の前で訓示を垂《た》れるのが大好き。こむずかしいことばを並べたてて、内容があることをいっているように聞こえるが、実は簡単なことをまどろっこしくいっているのにすぎなかった。「電話連絡をもっと密にするように」というひとことですむことを、三十分もネチネチいっている。おまけに訓示の終わりにいつも、社員に右手こぶしを振り上げさせて、「エイエイオー」と叫ばせるのだ。もちろん、こんなみっともないことは営業部だけしかやっていない。ハルミちゃんと私はいちばん後ろで、 「ヘヴィ・メタのコンサートじゃねえよ」  とブツブツいいながら、いつも仕方なく右手を上にあげてきたのだ。イソベはものすごい脂《アブラ》性だった。あれでは奥さんも影響を受けて、脂焼けしているのではないかと思えるくらいスゴイ。彼からみれば片岡鶴太郎など乾性肌《かんせいはだ》だ。いつも色黒のバスケット・ボールみたいな顔をテカテカにてからせていて、額には、アブラで固まってすこしずつ束になった髪の毛がベッタリ張り付いている。そのうえフケがまぶされていることもある。腹部もアブラがたまっているのか、ベルトの上に肉がかぶさっている。ワイシャツを買い替えりゃあいいのに、入社当時に買ったのではないかと思われる、生地《きじ》が黄ばんでいてぴちぴちのを着ている。前ボタンがはちきれそうなのを、よだれかけのような流行遅れの幅広いネクタイで隠しているのだ。おまけにガニガニとガニ股《また》で歩くし、仕事はできないし、いいところなんて一つもない。そして私とハルミちゃんがいちばん許せないのは、「声がものすごくでかい」ということだった。地声が大きいという人ならいくらでもいる。しかし彼の場合は違う。声のでかさで人の注目を引こうとする意図がみえみえなのだ。仕事をしていると、突然、「ぐおっ」とか「おおっ」という無意味な大声がする。思わず何ごとかとイソベのほうを見ると、じっと床を見ている。そして彼は十分みんなの視線が自分に注がれているのを意識した後、 「やっとみつけた。大切なモンブランのボールペン」  などと、つまんないことをいいだすのだ。それが一日に二度も三度も繰り返された。そのうちみんな大声がしても無視するようになると、今度は鼻歌をフンフン歌いながらみんなの机のまわりをわざとらしく回り始めた。 「どうしようかな、困ったな」  ぶつぶついいながら、みんなの様子をうかがっている。だけど誰も相手にしなかった。営業部の鼻つまみ者だった。しかし彼はタシロには可愛《かわい》がられていて、二人はとっても仲がよかった。こんなに人に嫌われている同士が仲がいいなんて珍しい。私とハルミちゃんはいつも二人のことを、「史上最悪のコンビ」といってあざ笑っていたのである。  だからこの「史上最悪のコンビ」が、新しくできる営業所に移るという噂を聞いたとき、私たちは手を取り合い、小躍りして喜んだ。大嫌いだった奴らが二人一緒にいなくなるのだ。こんなに嬉《うれ》しいことが他にあるだろうか。 「今まで我慢したかいがあったわ」  ハルミちゃんは両手を胸の前で組んで、嬉しそうに体を揺すった。彼女は本当に気の毒だった。席がイソベの隣り。正面にタシロ。髪が長くてきゃしゃなタイプのハルミちゃんに自分にないものを見たイソベは、嫌われているのにも気づかず、ハルミちゃんにはいつも、なんだかんだとつまんないことを話しかけていた。そのたびに彼女は、声のでかさと彼を取り囲んでいる脂オーラから身を避けようとして、イソベが、 「あのさあ……」  というやいなや、さっと上半身がのけぞる条件反射が身についてしまった。しかしその条件反射ともサヨナラできる。私たちは内祝いと称して、会社の帰りに地中海料理店で山のように魚介類を食べ、ワインで祝杯を上げた。 「ねえ、一緒に営業所に移る女子社員は誰かしら」  私たちは顔を見合わせてギヒヒと笑った。営業所への転勤は表向きは業務拡張のためといわれていたが、社内では密《ひそ》かに「姥《うば》捨て、ジジ捨て山」と呼ばれていた。本社でどうにもならないのとか、性格の悪いのを営業所送りにしてしまうというのが、もっぱらの評判だった。女性の場合はある年齢以上が危険に晒《さら》されていた。だいたい二十五歳過ぎると、うちの会社では女性は窓際族にはいる。仕事もそんなに面白いわけではないし、結婚退職するか、キャリア志向の人は別の会社に移るとかしていたし、先輩で会社に骨を埋める覚悟の人などいなかったのだ。 「いちばん可能性のあるのはサカモトさんよね」 「そうそう。あの人は危ない。本命ですねえ」  ハルミちゃんは、ワインを飲んで赤くなったほっぺたを嬉《うれ》しそうにほころばせた。サカモトさんは、窓際族の中でいちばん年上の二十九歳だった。いつも仏頂面《ぶつちようづら》で無口で清潔感がない、ちょっと不思議な人だった。 「あの人がいなくなってくれると、我が社が明るくなりますねえ」  ハルミちゃんは浮かれていた。バッグの中から、書き込むほどスケジュールはないのに、見栄《みえ》で買ってしまったというファイロ・ファックスのメモページをピリッと破り、 「本命 サカモト」  と書いた。 「他に誰かいないかしら。名前いって」  彼女は私に向かってメモを示しながらいった。 「そうねえ。イノマタさんも危ない」 「ああ、イノマタ、イノマタねえ。あれも危ないわ」  ハルミちゃんは入社した当時、イノマタさんに公衆の面前で怒鳴《どな》られてから、そのことをずっと根に持っている。それ以来二人は口を聞いたことがない、犬猿の仲なのである。ハルミちゃんはメモに、 「対抗 イノマタの野郎」  と書いた。 「ねえねえ、他には、他には。何かあたし、とっても楽しくなってきちゃったあ」  彼女はメモを持って、ますますはしゃいでいた。 「そうねえ。他には、シンドウさんとか、コウダさんとか……」 「いい、いい。シンドウに、コウダ! いいとこ突いてるねえ」  ハルミちゃんの喋《しやべ》り方は、だんだん下町のおとっつぁんみたいになってきた。メモには、冷静に人事を検討したというよりも、単に私たちが嫌いで、左遷してほしい女子社員の名前がずらっと並んだ。私たちはあらためてメンバーの名前を見て大笑いし、いったい誰が本当にふさわしいかを検討した。「アブラギッシュ」イソベのアブラ攻撃に対抗できるのは、いつも化粧ののりが悪くて、顔に粉が吹いている乾性肌のシンドウしかいないとか、すぐ大きな声を出せという軍隊方式の「ネチネチ」タシロと、減らず口を叩《たた》かせれば日本一のイノマタを対決させ、両者をストレスに追い込もうとか、「史上最悪の営業所」をつくるべく、私たちの会話はどんどんエスカレートしていった。 「ああ、どうして会社の人の悪口ってこんなに楽しいのかしらン」  ひとしきり盛り上がり、ほっと一息ついてまわりを見渡すと、他に客の姿はなく、背後でウエイターが冷たい目をしていた。私たちはあれだけ料理を食べてワインを飲み、お腹の皮がよじれるくらい大笑いして、一人八千円は安い、と妙に太っ腹になっていた。 「この中の人が営業所に行くんだったら、誰でもいいわあ」  ハルミちゃんはまだしつこくメモを見ていた。いったい誰が行くかは二、三日後に判明する。私たちは、 「ホントに楽しみね」  といって、笑いすぎてひきつったお腹をさすりながら駅で別れたのであった。  翌々日、出社すると掲示板に何か貼《は》り出されていた。背伸びして見ると、例の営業所への人事異動のお知らせだった。私とハルミちゃんが願ったとおり、ネチネチとアブラはそろって営業所送りになっていた。 (しめしめ)  私は舌なめずりした。これで平穏な日々が訪れる。ところがそのあとに書いてある名前を見て、失神しそうになった。そこにはまぎれもなく、私とハルミちゃんの名前が書いてあるではないか! (これは夢だ。会社に来ているというのは嘘《うそ》で、実は地中海料理を食べた夜、あまりに盛り上がったので、続きの夢を見ているだけなのだ)  深呼吸して目をつぶってみた。目を開けたとき、自分の部屋にいますようにと願った。恐る恐る目を開けた。しかし残念ながら、目の前にはやっぱり掲示板があった。「こんなこと許せない」「誰かの陰謀だ」「おかあさんにいいつけてやる」。いろいろな言葉が頭の中をグルグルまわったが、やはり最後に残ったのは、 「どうして?」  しかなかった。腹が立つとか涙が出るとかというのではなくて、頭の中がだんだん真っ白になっていった。 「ヤッホー」  ハルミちゃんが手を振りながら走り寄ってきた。買うときに私も付き合った、クリーム色のスーツを着ていた。 「どうしたの。顔が青いよ。コントロール・カラー塗りすぎたの?」  ふだんなら笑いとばせるギャグも、こんなときに聞くと腹が立つ。 「どうかしたの」  私はぶすっとしたまま掲示板を指さした。ハルミちゃんは不可解な顔をして掲示板を見に行った。 「何、あれ。ふざけんじゃないわよお。あたしたち営業所送りになる理由なんて、何もないじゃない。ちょっと行ってくる」  彼女は目をつり上げてエレベーターめがけて走って行った。彼女ばかりに任せるわけにもいかないので、私も後を追った。彼女は人事部長のところに行って、必死に抗議していた。 「どうして私たちが行かなきゃならないんですか。今までだと、経験のある女子社員が行くはずじゃないんですか」 「姥《うば》捨て」を「経験のある女子社員」といってごまかすところなど、さすがにハルミちゃんは要領がいい。 「うん。今まではね。でもこれからは少し方針を変えようと思ってね。君たちに営業所で経験を積んでもらって、それから本社に帰ってきてもらうつもりなんだよ」  人事部長も彼女に輪をかけてごまかしがうまかった。営業所にとばされたらそれっきりで、本社に帰ることなどできるわけがない。次から次へと新しい人が入ってくるし、彼女たちで仕事は十分まかなえるからだ。 「どうして私たちが選ばれたんですか」  私はハルミちゃんの肩越しに、おずおずと訊《き》いてみた。 「そりゃあ、仕事ができるからだよ。営業所は人数が少ないし、テキパキやってくれる人じゃないと困るからね」  さすがに人事部で何十年も給料をもらっている人は口がうまい。こういわれたら何ともいいようがない。あとはこっちがそれを無視して強硬な態度に出るしかないのである。 「あたし、営業所になんか行きたくありません」  ハルミちゃんはきっぱりといった。私はドキドキした。 「ずっと本社にいたいんです。営業部長やイソベさんとも、正直いってうまくいくとは思えませんし」  私はふんどしかつぎみたいに彼女の後ろで小さくなっていた。 「どこでも人間関係のわずらわしさってあるよ。ずっと本社にいたいっていうのもねえ。まさか勤めているビルがかっこいいからなんていう、子供じみたつまんない理由じゃないだろう?」  心の中をみすかされたようでドキッとした。 「こういうときにこういう話をしてはなんだけど、営業所に移ると、少しは給料にイロがつくみたいだよ。額面じゃなくて手取りのほうにね。確か二万円ぐらいだったと思うけどね」  ハルミちゃんも黙ってしまった。明らかに人事部長の勝ちだった。 「まあ、もういちどゆっくり考えてくれないかな」  私たちは黙ってそこを立ち去った。営業部の部屋に入っていくと、みんなが気の毒そうな顔で私たちのほうを見た。でも、みんな自分が営業所送りにならなかったので、ほっとしているに違いないのだ。かわいそうな、生贄《いけにえ》の私たち。しーんとした雰囲気の中に、イソベの大声がとどろき渡った。 「やあ、君たち。次の職場でもよろしく頼むよ。ねえ、部長」  ひくひくとこめかみがひきつった。新聞を読んでいたタシロは眼鏡をずり上げながら、 「おお、そうだね」  と満足そうにいった。目の前は真っ暗だった。  その夜、私とハルミちゃんはイタリアン・トマトで今後の対策について話し合った。いつもと違って二人とも食欲がなかった。 「ハルミちゃんどうする」 「わかんないよ」 「会社やめちゃう?」 「ちょっと、それはできないなあ」 「どうして」 「だって……。このあいだクレジットでスキューバ・ダイビングの用具一式、買っちゃったんだもん」 「ふーん。私はスキーとビデオ……」  十か月払い続けなければならないクレジットのことを考えてため息をついた。営業所に行くか、潔く会社をやめるか。まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。趣味に給料をつぎこんだのが、結局は仇《あだ》になってしまったのだ。  こうして私たちは「地獄の営業所」勤めをすることになった。  今いるところは、本社とは似ても似つかない、小さなビルの一階である。奥には機械を置く倉庫まである。悔しいことに、そっちのほうが、私たちがいる所よりずっと広い。つまり倉庫の隅で小さくなって仕事をしているようなものである。営業所の仕事はとってもヒマだった。「姥《うば》捨て、ジジ捨て山」がぴったりの場所だった。もうここにはお洒落《しやれ》なショット・バーもファッション・ビルもない。駅前で目立っているのは、昔ながらのこぢんまりした商店街と牛丼屋《ぎゆうどんや》だけだった。こういった商店街は嫌いじゃなかったが、今まで私たちが通勤着にしていた服とはちっともなじまなかった。ハルミちゃんが気に入って着ていたシャーベット・グリーンの細身のワンピースも、私がボーナスで買ったアルマーニのスーツも、どれもこの町内では異様に目立つ。オフィス街でも盛り場でもないところを、ああいった服で歩くのは、想像以上にそぐわないことがわかった。休みの日に家でごろごろしている服に毛が生えたようなのが、通勤着になった。本社にいるときは都心を走る電車の中で、もしかしたら見初《みそ》められるかもしれないと、毎日気合いを入れてメイクをし、洋服も選んでいた。しかしこっちにきてからは、「こんなところで下手《へた》に見初められたら迷惑だ」という気分になってしまって、ただひたすらラフな格好でとおしている。  仕事の内容も違ってきた。肉体労働がとても増えてきたのだ。本社ではお掃除はちゃんとビルのメンテナンスの業者がやってくれていたけれど、ここではトイレの掃除から入口を箒《ほうき》で掃くことまで、みんなやらなければならなかった。おまけにイソベは私たちの通勤着を見て、 「どうしたの。最近はあのでっかい銀の耳輪とか、太いチャンピオンベルトみたいなのしてこないね」  と、よけいなおせっかいをやいてくれた。 (あんたたちだけに見せるのは、もったいなくってね)  私たちは知らん振りをしていた。  営業所に移ってきて、この二人のだらけかたといったら、ただごとではなかった。タシロは自分の大好きな訓示がいくらでもできると喜んでいた。 「金は向こうから歩いてこない」 「腹が立っても頭を下げよ」 「不屈の粘りが金を生む」  ということばを、書道塾を開いている妻に書かせて額に入れ、それを自分の机の後ろの壁にうやうやしく飾っている。そして私たちは毎朝これを唱和し、終わりにはまた、 「エイエイオー」  とヘヴィ・メタのコンサートをやらされる。それが終わると彼はこれで自分の仕事は終わりと思っているのか、一日中、たらたらしていた。イソベのほうは競輪、競艇《きょうてい》、競馬新聞を貪《むさぼ》るように読んでいた。おまけに机の上に臭《くさ》い足をのっけるわ、鼻はほじくるわ、会社を自分の家の茶の間みたいに使っていた。そして「ポストに女子大生パブのチラシが入っていた」と、とっても嬉《うれ》しそうな顔をして二人して眺めていたりする。私たちは客注台帳を整理しながら、横目でじっと不潔な奴《やつ》らを眺めていた。  イソベはやっとハルミちゃんに嫌われていることがわかったらしく、何となく彼女を敬遠するようになった。そしてそのシワよせが私にきた。本社にいるときと同じように彼は仕事でドジばかりふんでいた。苦情の電話も多くなった。すると彼は珍しく小さな声で、 「ねえ。僕の代わりにあやまってくれないかなあ」  と私の顔をのぞきこみながらいう。 「どうしてですか」 「えっ。どうしてって。僕、忙しいからさあ」 「私も忙しいんです」 「いいじゃない、電話一本かけるくらい。やってよ」 「…………」 「きみ、いつも電話とってて、あやまるの平気でしょ。だから僕の代わりにあやまってよ。ねえ」 「…………」 「ねえ、ねえ」 「…………」  しばらくイソベは私のそばで「ねえ、ねえ」とうるさくつきまとっていたが、あきらめて行ってしまった。私には彼の代わりにあやまる理由なんかどこにもないのだ。そのくせイソベは私用電話はマメにかける。タシロがいないときに熱心に電話をかけているなあと思ったら、近所のソープランドに、 「どういうサービスがあるんですか」  などと訊《き》いていたこともあった。こんな奴らにお茶をいれてやったり、にっこり笑ってやったりするのはまっぴらだった。  ハルミちゃんは三時のお茶を出すとき、 「さあ、おいしいのをいれてあげますよ」  といいながら、机を拭《ふ》いた後の雑巾《ぞうきん》を絞った水でお茶をいれた。 「えっ、こんなことやってたの」 「そう。死にはしないわよ。このくらいのことやったって、どうってことないわょ」  ハルミちゃんは平然としていた。 「大嫌いなあいつらの世話をしてるんだから、給料が二万円あがったくらいで、ごまかされてたまるか」  私もああいうことをやりたいけど、どうしてもできない。だから顔色ひとつ変えないで雑巾茶をいれる彼女の背後で、 (もっとやって、もっとやって)  と、ぱちぱちと拍手をしていた。  お昼御飯も一人が電話番をしなければならないので、二人が一緒に外に食事に出ることができなくなった。一人でお昼御飯を食べたって楽しくないから、文房具屋や銀行に行った帰りに買うほかほか弁当が、私たちのランチになった。店の愛想のいいおばさんに、 「毎度どうも」  といわれるのがちょっと悲しかった。お昼になると私たちは、ラジオから流れる村田英雄のダミ声を聞きながら、 「本社にいるときは、ジョージ・マイケルがランチのBGMだったのにねえ」  と過去の思い出にひたりながら、二人して唐揚げ弁当を食べた。  雨の中、ビショビショになって銀行に行き、やっとの思いで帰ってくると、部屋の中が険悪な雰囲気になっていた。タシロとイソベを相手にして、ハルミちゃんがわめきちらしていた。入口であっけにとられている私に気がついて彼女は手招きした。 「あたしだけじゃなくて、彼女だって困ってるんです」  ハルミちゃんは私とがっちり腕を組んだ。  こんなときに、 「何が」  なんて訊いたりしたら、ハルミちゃんに不利になりそうだったので、私は全く事情がつかめないまま、そうだそうだと、ただハルミちゃんのいうことにうなずいた。 「子供じゃないんですから、もうちょっとちゃんとやって下さいよ。こんなことができないなんて信じられないわ」  だんだん私にも事情がのみこめてきた。本社にいるときはわからなかったのだが、彼らのトイレの使い方は本当にひどかった。床のタイルは放尿しそこなった液体でビショビショ。煙草の吸殻は便器に投げ込む。洗面所には抜け毛がいっぱい。あまりに汚くて、気分がすぐれないときには吐きそうになった。私たちはいつもトイレの掃除をするときにはうんざりした。きっとこのことでハルミちゃんの怒りが爆発したに違いない。 「このままあの状態が続くんだったら、私たちは掃除は一切しませんから。甘えるのもいいかげんにして下さいよ。私たちは女房じゃないんですからね!」 (よくぞいってくれた)  私は涙が出そうだった。そうだそうだとうなずきながら二人のほうを見ると、突然の攻撃にびっくりしたのか、彼らはうんともすんともいわない。そしてハルミちゃんが、 「わかりましたか!」  と怒鳴ると、その剣幕《けんまく》におされて、彼らは黙ってこっくりうなずいただけだった。その日は部屋の中はしーんと静かだった。 「あたし、やめさせられたっていいよ。あんなとこ」  駅までの帰り道、ハルミちゃんはいった。 「私だって、一人であんなとこに勤めてるのなんて嫌だ」 「そうだよね。一人だったらノイローゼになっちゃうよね」 「やめるときは一緒だからね」  私たちは固く約束をした。ふと横を見ると、商店街の小さなおもちゃ屋のショーウインドーに、ホラー人形が置いてあった。ギューッと握り締めると、目や鼻や口からドロリンと粘液が出てくる不気味《ぶきみ》なおもちゃである。私たちは憎しみをこめてそれを買った。そして会社の引き出しの中に入れて、むかっとしたときにはそれをギューツと握り締めていた。  ハルミちゃんの逆襲にもかかわらず、彼らのトイレの使い方は全く変わらなかった。彼女の行動も無駄だったのだ。相変わらず暗い日々が続いた。 「あのねえ」  蒸し暑い憂鬱《ゆううつ》な日、うつむいて仕事をしていると、私たちの頭上でタシロの声がした。 「君たちもよく頑張ってくれているから、秋にみんなで社員旅行に行こうと思っているんだがね」  彼はちょっと緊張した顔でいった。 「みんなって誰ですか」  ハルミちゃんはむすっとして訊いた。 「誰って、ここにいる四人と、あと、お得意さん二、三人だけどね」 「そうですか。考えときます」  ハルミちゃんはとてもそっけなかった。タシロとイソベが外出すると、彼女は、 「あの人たちと行ったって、面白いわけないじゃないねえ」  とぶつぶついっている。 「あたしは行かないわよ。私たちのためとかいってるけど、それに託《かこつ》けてきっと週刊誌によく出てる、『女体盛りの刺身』とか、お座敷ストリップ見たさにいくのよ。そうに決まってるわ」  いつものようにハルミちゃんはきっぱりといいきった。 「私も行かない」 「そう、そう。あんな奴らと行くくらいだったら、寝てたほうがずっとマシよ」  これで東西対話の道は断たれた。 「あーあ、早くやめたいよ」  ハルミちゃんがしみじみといった。何が経験を積んで本社に帰ってきてほしいだ。何が一致団結「エイエイオー」だ。こんなことやって何の経験になるんだ。二人ともクレジットがあと半年残っているから我慢しているけど、それが終わったら何にもこわいものはないのだ。 「やめる前には私に相談してね」  ハルミちゃんはぽつりといった。 「するよ、絶対する。ハルミちゃんもそうしてね」 「うん。会社の面接に行くときは、うまくごまかして交替で行こうね。まだ私たちの齢《とし》だったら求人はあるからさ。こんなとこでくすぶってなくたっていいのよ」  自分一人だけが会社をやめて、友だちをこの中に残すなんてできない。私たちは別にキャリア志向ではない。二十五歳までにいい人をみつけて、結婚したいと思っているのだ。  会社だってそのつもりのくせに、どうしてこんなことをするのだろう。お勤めしている間は、綺麗《きれい》なお洋服を着て綺麗なビルの中にいて、やめるその日まで快適に過ごしたかった。 「やめるときは絶対に一緒よ」 「うん。絶対ね」  私たちはもう一度しっかりと確認し合い、右手で引き出しの中のホラー人形を力一杯握り締めたのであった。  体力勝負  今日は私の栄《は》えある初出勤の日である。高校三年のときにいろいろ考えたあげく、 「椅子《いす》にずっと座って伝票を書くなんていうのは性に合わない。どうせ品物を売るのなら、好きな本を扱う職業がいい」  と、中規模書店に就職を希望した。そしてそれがかなったのである。  最初にチンパンジーにそっくりな顔の、足も長いけど手も異様に長い妙な体型の店長が、朝礼で私のことをみんなに紹介した。その間、私は素敵な人はいないかと物色していた。そういう人がいるかいないかが、これからの労働意欲に微妙に影響するからである。 (いた)  彼は主任だった。背が高くてハンサムなうえ、とっても感じのいい人だ。 (やったぁ)  胸の名札を見たら「福田」とあった。 (まあ、まじめそうな名前)  ところが左手をチェックしてちょっとガックリした。しっかり指輪がはまっていた。 (やっぱりいい男は売れるのが早いわねえ。ま、いいや。いざとなったら若さを武器に不倫という手もあるし)  あれこれ考えていたら、店長の、 「よろしくおねがいします」  という声がした。みんなが頭を下げたので、私もあわてて頭を下げたものの、彼が何をいっているのかまったく耳にはいっていなかった。私は福田さんに個人的におじぎをしたつもりでいた。そのあと各コーナーの担当者から新刊本のお知らせと、昨日の報告があり、「熟語の読みテスト」が行われた。 「書名を何て読むのかわからないようでは、書店員として失格ですからね」  店長は私のことを重点的に見ながらいった。 「今日はこれです」  スケッチ・ブックを破ったものに、太いマジック・インキで大きく、 「伯林」と書いてあった。あれ、たしか学校で教わったなあと思いながら見ていたら、突然、 「入社第一日目を記念して、ひとつテラダさんに読んでもらおうかな」  と店長はにたっと笑いながらいった。 「あっあっあ、あの、あの、えーと……」  みんなはくすくす笑った。 (何で私に聞くんだ)  だんだん汗がでてきた。 「えーと、えーと……」  わかりませんというのも、何となく恥という気がしたので、私は一か八か賭《か》けて深く息を吸いこんで、いいはなった。 「ほうき!」  今度はみんなどっと笑った。 「ありや、違っちゃったかな」  つぶやいたつもりだったのに、結構大きな声になってしまって、ますます笑われた。 「元気はよかったけど、ちょっと違いましたね」  店長は満足そうな顔をして、手に持っていた紙をひっくり返した。 「ベルリン」  と書いてあった。 「あっ、そうそうベルリンでした」  またどっと笑われた。 「答えを見れば犬でもわかりますね」  店長の発言はみんなにうけた。 (ちぇっ。初日早々、恥かいちゃった)  でもそーっと福田さんのほうをみたら、にこにこしていたので、少しうれしかった。  朝礼が終わった後、先輩たちが寄ってきた。 「急にあんなこといわれたら、知ってることでも度忘れしちゃうわよね」 「あたしもわからなかった。当たらなくてよかったわあ」 「あのくらい平気よ。私、中学のときに電柱のことを『でんばしら』って読んだことあるもん」  表現は違えど、みんな私に気をつかってくれた。 (みんないい人ばっかりだ)  何となくうれしくなったけど、店長だけはちょっと嫌な奴《やつ》だった。  店を開けると同時にお客さんが入ってきた。彼らにすれば私が今日初めて店に出たなんて知るはずもないから、不安な私にむかって、 「『ディリタレ形式とマルコフ過程』と『楕円型偏微分作用素』と『複素領域における線型常微分方程式』はどこにありますか」  などと、書名さえ何がなんだかわからない難解な質問を平気でしてくる。うろたえているのを悟られないように、 「少々お待ちください」  といって先輩に助けを求めにいくと、お客さんはちょっと不満そうな顔をする。質問をしたらすかさず、 「あそこにあります」  と、きびきび答えが返ってこないと満足しないようなのだ。そのほか、 「ほーら、あの、なんてったっけなあ。刑事が山の中で殺人事件を捜査する話なんだけどさあ。そういうのある?」  とか、 「とにかく日本一売れてる本ちょうだい」  とか、 「わかりやすいスワヒリ語の辞書ってありますか」  とか、私の手には負えない質問ばっかりだった。そのたんびに私はともかくこの問題を先輩に押しつけてしまおうと、店内を走り回った。福田さんにお願いするのも忘れなかった。福田さんは書店員の見本のようにきびきびと、かつ丁寧に応対していた。 (これが正しい書店員の姿なのだわ)  私はぼーっとその姿にみとれていた。しかしのんびりと見とれている暇もなく、背後から、「すいません」  と声がかかった。振り返ると大学生風の男の子が立っている。 「チャンドラーはどこにありますか」  私は内心、 (やったぁ)  とうれしくなった。さっき通った棚のところに、たしかこの本があったからだ。先輩にまかせずに自力でお客さんの応対が初めてできるのだ。 「はい、こちらです」  私が胸を張って歩き出すと、彼も後からついてきた。その姿を見て、先輩たちはこっちを気にしながらも、にこにこしていた。 「ここにあるんですか」  彼はけげんそうな顔をした。私は棚から一冊のマンガ本をとり出して彼に渡した。しかし不思議そうな顔をして手にとらない。 「何、これ」 「はっ? 『ちゃんどら』ですけど」 「これじゃなくて、レイモンド・チャンドラーだよ。知らないの」  てっきり、いしかわじゅんが描《か》いた『ちゃんどら』だとばかり思ってしまったのだ。彼はフンッと私を小馬鹿《こばか》にして、文庫本の棚のほうに歩いていってしまった。いかにもマンガ本が好きそうな顔をしてたし、レイモンド・チャンドラーなら、ちゃんとフルネームでいって欲しかった。またかかなくていい恥をかいてしまった。私はお客さんと目を合わせるのが怖くなり、お客さんがこっちに寄ってきそうになると、急に仕事を思い出したふうを装い、つつつと逃げることにした。じっと立っているのは、質問をしてくださいといわんばかりの態度である。あるときは棚の本をいじくり、あるときは立ち読みされて方々に散らばっている雑誌を元どおりにしたりして、なるべくひとっところにいないようにした。お客さんからこそこそ逃げまわっているうちに、あっという間に昼御飯の時間になってしまったのである。  私は、電柱を「でんばしら」と読んだといった先輩のクロヤマさんと一緒だった。彼女は見事に「名は体を表し」ていた。体中の肉がばちばちに張って黒光りしていて、おまけにふくらはぎの太さにはなかなかすごいものがあった。ちょっと体がしぼんだダンプ松本といった感じである。 「あたし、砲丸投げやってたの。県大会で二位になったこともあるのよ」  彼女はテンプラそばの大盛りをずわーっとすすりながら、ちょっと得意そうにいった。 「私はテニスをやってました。ただラケットをふりまわしてただけですけど」  私はなめこおろしそばをすすった。 「テニスかあ……。あたし、テニスってどうも苦手なんだよね」 「はあ……」 「なんていうんだっけ。ほら、レースが段々についたパンツ。あれをスカートの下にはくじゃない。ただでさえお尻《しり》がでかいのに、あんなもんはいたらカボチャだわよ」  真っ黒い下半身にレースのスコートをチラチラさせてコートを走り回るのを想像すると、これはちょっと迫力がありすぎる。はっと気がつくと彼女は大盛りなのにもかかわらず、すでにテンプラそばを食べ終わっていた。私のほうはあと半分残っている。 「ゆっくり食べていいよ」  そういわれても、なるべく早く食べてしまわなければと、味わうゆとりもなくただ流し込んでいると、彼女は、 「物を食べてもどこに入ったんだかわからないのよね。ダイエットなんかしたら体が動かなくなっちゃうし」  私はたくましい腕に目をやりながら、うんうんとうなずいた。 「しっかり食べないと体こわすよ」  彼女はかつてダイエットをしすぎて、お客さんの応対中に貧血で倒れた人のことや、梱包《こんぽう》した本を抱えたとたんにギックリ腰になって二か月入院していた人の話をした。 「今までやめていった人のうちで、結婚退職した人もいたけど、ほとんどは体を悪くしたのよ。体力がないとキツイよね」 「私、ベルリンはちょっと苦手ですけど、体には自信があります」  彼女はふふふと笑ったあとすぐ真顔《まがお》になった。 「みんな最初はそういうんだけどさ」  怖かった。  午後は先輩について棚の補充をするようにいわれた。お客さんが買っていった本にはさまっていたスリップを手渡され、棚の下の引き出しや倉庫の在庫を調べ、在庫があれば棚に入れ、なければ出版社に注文を出さなければならないと店長はいった。今までは、お客としてきれいに並んだ棚を見ては感心していたが、本を棚の中から出すのも入れるのも、書店員が一冊一冊手でやっている仕事なのだ。 「何度も倉庫をいったりきたりすると時間の無駄だから、はやく本をたくさん持てるようになりなさいよ」  店長は私の後にくっついて、あれこれまくしたてた。 (店長はいいよなあ、あれだけ手が長いんだもん)  しかし先輩たちを見ると、手の長い短いに関係なく、平気な顔をして山のような本を抱えて歩き回っている。店内はお客さんがいるからゆっくり歩いているけれど、裏にまわったら、そのままの格好で、時間の節約のために走るのだ。私よりもずっと小柄《こがら》で細い先輩が、一度に四十冊の単行本を抱えて矢のように走っているのを見て仰天した。それだけではなく、お客さんがきたら相手をしなければいけない。体力も神経もつかう。こんなことをずっとやっていたら、クロヤマさんのいうとおり体もこわしてしまうかもしれない。 (でも、福田さんのために頑張るわ)  彼のことを考えると、絶対ではないが何にでも耐えられそうな気がしてくるのだ。  私の身柄はイワセさんという文芸書担当者に預けられた。さっき四十冊の本を抱えて走っていた人である。彼女は私とそんなに歳《とし》が違わないのに仕事のプロだった。本の注文をするときは、「どういう本が売れそうか」「今は売れているけれど、一週間後には売れ行きが止まってしまう本」「今はそうでもないけれど、これからじわじわと売れていくと思われる本」を見極めなければいけないと教えてくれた。 「最初だから棚に補充してもらおうかな」  彼女からどさっと本が渡された。ただ本を棚に入れていけばいいんだ、と、たかをくくっていたが、これがきついのなんの。書店の棚は自分の家の本棚とは訳が違う。爪先《つまさき》立ちしてやっと手が届く高さのところからしゃがみこまないと本が入れられない足元の棚まで、左手に本を抱えて右手で棚に入れていく。立ったり座ったり、立ったり座ったり、本を補充しているというよりも、重りを持ったまま屈伸運動をしているといったほうがよかった。十分やったらだんだん息がきれてきた。二十分やったら目の前に星がチカチカ出てきた。二十五分やったら、しゃがんだら最後、膝《ひざ》が伸びなくなった。 「慣れないときついでしょう。でも、そのうち平気になるから」  イワセさんは、ぱっぱ、ぱっぱと私の三倍の早さで本を棚に入れていく。おまけにそれをやりながら床に落ちたゴミまで拾う余裕もある。それも顔色ひとつ変えずにだ。私は気持ちはばりばり仕事をしようとはりきっているのに、体がついていかない。 (まいったなあ)  他の人はばりばり仕事をしているのだろうかと様子を見ると、みんなすれちがいざまこそこそっと何やらささやきあっている。不思議に思っていると、イワセさんは、 「社長が来ちゃったわよ」  と嫌そうにいった。彼女が目をやったほうをみると、背は低いがやたらと歩くのが速い初老の男性が店長とこっちに来るのが見えた。私は面接のときに店長には会っているが、大元締めの社長には会っていないのだ。 「あの人いちいち細かくてねえ。まいっちゃうのよ」  イワセさんはまた心から嫌そうにいった。店長は社長に私を紹介した。 「よろしくお願いします」  そういっておじぎをすると、彼は、 「はいはい。よろしくお願いしますよ」  と大声で愛想よくいって、あっという間に行ってしまった。 「愛想のいいのも初めだけよ」  イワセさんは耳元でささやいた。ふつう社長はふんぞりかえって部下の動きを統率する役目なのに、根っからの働き者の社長は神出鬼没《しんしゆつきぼつ》に店にあらわれて掃除を始めたり、棚のチェックをしたり、その日は朝から晩まで店の隅から隅まで走り回っている。そしていきとどかないことがあると、私たちに小言をいうのだと彼女はいった。 「それももっともなことばかりだから、私達の立場がないのよ。どうしても忙しくなると目がいきとどかなくなるじゃない。それをいちいちいわれてもね。いいかげん、店に出ないでのんびり余生を楽しんでほしいわね。金に困ってるわけじゃないんだから。店で息抜きしようと思ったら、まず社長がどこにいるか捜すことよ」  彼女はサボリの仕方も教えてくれた。社長はやたらと足が速く、遠くで、 「おいっ」  という声がきこえたかと思うと二秒後には隣にいる素早さなので、彼が視界にはいっている場所では気を抜くなということであった。幸い今日は新書の棚の配置変えしようと担当者と話し込んでいたので、私のほうには目はとどいていないようだった。 「さあさあ、お仕事、お仕事」  イワセさんはきっぱりといって、台車から山積みになった本を抱えて私に渡した。また重りを持った屈身運動の再開である。午後になるとお客さんも増えてくる。学生もぞろぞろやってくるが、本を買うよりただ散らかしていくほうが多い。手にとった本を元にもどさずにそのままにしていく。ひどいのになると、本の帯が破れるのもかまわずむちゃくちゃな扱いをする。大学の帰りなのか、きれいに化粧してスタイルもいい私と同じくらいの年頃の女の子が、三十分も女性雑誌を立ち読みしたあげく、無造作《むぞうさ》に雑誌を放り投げて帰っていく。 (くそっ)  と悔しくなってくる。福田さんの美貌《びぼう》を放っておかない今どきの女子高校生が、キャーキャーいいながら、照れている彼のまわりにつきまとっている。彼女たちを横目でみながら、 (散れ、散れ)  と念波《ねんぱ》をおくってやった。そのほか新聞の広告の切り抜きを持ってきて、たまたま店にその本がないと烈火の如《ごと》く怒り出すおじさんなんかもいたりして、気の休まるときがない。そういうのをちらちら見ながら、私は「重りつき屈伸運動」を続けていた。立っていると体の中からじーんという音がしてきて、血が全部|膝《ひざ》から下に集まっていくようだ。 「ああ、座りたい」  なんとかしてサボることは出来ないかと、外国文学の棚に補充しながら考えていた。 「そうだ!」  私は堂々としゃがみこんだ。そして一番下の棚を整理するふりをして、お客さんにお尻《しり》をむけて、じーっとしゃがみこんだ。これだったら仕事をしているようにみえる。私はここちよさにほーっとため息をついた。しかしもともと頑強な筋肉質の体は重い。そのうち足がじんじんとしびれてきて、しゃがみこんではいられなくなった。立ち上がると今度はしびれがとれてすっきりする。しかししばらくするとまた体の中からじーんと音がしてくるという、その繰り返しだった。 「ああ、座りたい」  つい気がゆるんだ私の目の前に突然、社長があらわれた。 「どうしたのか。疲れたのかね。疲れているのは君だけじゃないぞ。休み休みじゃいつまでたっても仕事は終わらないよ」  一方的にまくしたてて、彼は足早に去っていった。 「気にしない、気にしない」  イワセさんが声をかけてくれた。 「無理しなくていいよ」  何と福田さんまで優しくいってくれた。 (はい。何にでも耐えます)  ただただ、ぼーっとのぼせてしまった。ところがいっときの幸せも、 「ちょっと、ちょっと」  という社長の大声で見事にかき消された。 「今度は包装して」  彼のいいかたは容赦なかった。レジ係の隣で本にカバーをするのが次の私の役目である。 「これが文庫用、これが新書、こっちが単行本。単行本のは少しずつ大きさが違うから気をつけてね」  いちおう説明を聞いてわかったつもりだった。しかしいざ目の前に本がくると、これでちょうどいいと思ったカバーが大きかったり小さかったりして、スムーズにいかない。とっかえひっかえカバーをあてがっていると、お客さんに、 「早くしてくれないかなあ」  と催促される。 「すみません」  とあやまりながら、あわててカバーをかけると、今度はピッと紙で指を切ってしまう。文庫本を十五冊買ったお客さんに、 「全部カバーをかけて」  といわれたときは、「はい」と返事をしながらも、ちょっと悲しくなった。 「カバーはいりません」  といわれると「ありがとうごぜえますだ」といいたくなった。お客さんがいなくなってから、レジ係の先輩に、 「カバーかけてっていわれたときと、いりませんっていわれたときと顔が違うよ」  と注意された。人にはわからないと思っていたのに、しっかり顔に出ていたのだ。 「どういう人でもお客さんなんだからね」  そういわれて私は「はい」といったまま小さくなっていた。なるべく感情の起伏を顔に出さないようにした。しかしクチャクチャに丸めた千円札を出しておつりを貰《もら》って脱兎《だつと》の如《ごと》く去っていったお客さんのお札を確かめてみたら、お札が半分に切られていたりとか、堂々とスリップのはいった着物の着付けの本を抱えて出ていこうとした、お金持ふうのおばさんを呼びとめると、平然と、 「あーら。お金払うの忘れちゃったわ。払えばいいんでしょ、払えば。感じ悪いわね」  といわれたりしてとっても疲れた。閉店のチャイムが鳴って、シャッターがガラガラと下ろされたときは本当にほっとしたのである。  更衣室まで歩いていくのも容易じゃなかった。足が腫《は》れていた。こんなこと高校時代の全校行事の「クラス対抗・マラソン大会」以来だ。筋肉が見事につっぱってつらい。 「ここにいると、アスレチック・クラブなんか行く必要ないわよ。給料もらって体が鍛えられる。こんないいことはないねえ」  ガニ股《また》歩きで更衣室にはいってきた私を見て、クロヤマさんはいった。 「あたしなんか、ただでさえポパイ腕だったのに、ここにきてからますますたくましくなっちやってさあ」  制服の白い半袖《はんそで》ブラウスの中の腕は、パンパンに張り切っていて、袖のゆとりが全然ない。えいっと腕を曲げるとみごとな力こぶが盛り上がった。 「あーら、あたしもよ」  イワセさんもレジ係の先輩も、みんなスリップ姿で、ブラウスに片袖をとおしたり、肩に掛けたりしたまま力こぶ自慢をした。もともと骨太の私が二年もこういうことをやっていたら、いったいどうなるのだろう。みんなと笑いながらも将来を考えると暗くなった。 「これから一緒に食事していかない」  イワセさんが私に声をかけると、みんなにこにこして、 「行こう、行こう」  と誘ってくれた。 (いい人だなあ、みんな)  私は金魚のフンみたいにくっついていった。私たちは近所の和食屋でものすごい勢いで御飯を食べた。クロヤマさんは相変わらず御飯の大盛りである。御飯のサカナは、「社長が突然やって来てまいった」とか、「また店長が倉庫でお尻《しり》をなでた」とかいう今日の出来事だった。 「あの、店長ってそんなことするんですか」  驚いて聞くと、みんなはこっくりした。 「あの人、手が異常に長いじゃない。だから思った以上に距離をとらないと、ペロッとくるのよねえ。気をつけたほうがいいわよ」  情けない奴《やつ》だ。せいぜいそばに寄らないように気をつけよう。 「ねえねえ、ちょっといいななんて思う人いた?」  クロヤマさんは身を乗り出してきた。 「はっ、いいえ、そんな……」  まさか福田さんのことなんかいえないからごまかしていると、 「福田さんでしょう」  イワセさんがいった。 (げっ!)  あせった。 「みんな福田さんに憧《あこが》れるのよ。ハンサムだし優しいし仕事はできるし」 「あたし、福田さんを素敵だと感じない人って女じゃないと思うわ」  先輩たちはロ々に福田さんを誉《ほ》めちぎった。せっかく彼のことをお勤めの密《ひそ》かな心のささえにしようとしたのに、これでは何にもならない。自分の心の中であれこれ想像しているからこそ価値があるのに、公にされるとその楽しみが半減してしまうじゃないか。 「ねっ。彼のこと素敵だと思うでしょ」  そういわれたら「はい」というしかない。 「よろしい。私たちも彼がいるからこそお勤めを続けられるんです」  これは彼が既婚とはいえ、新入社員に抜け駆けされないための先輩たちの牽制《けんせい》じゃないか。 「福田さんは私たちみんなの宝なのよね。あの人は他の男性の百人分の価値があるもの」 「にっこり笑いながら『お疲れさま』なんていわれると、疲れなんて吹きとんじゃうわ」  先輩たちはひとしきり福田さんの話題で盛り上がっていた。私はせっかくみつけた楽しみをお姉さんたちに奪われてしまったようで、意気消沈《いきしようちん》した。ほかに楽しみといったって、今のところ他の男性社員には興味がわかないし、仕事も今日一日やったところでは、これからどうなるかわからない。わかったことは「体が資本」ということだけだ。 「先は長いから頑張ってね」  お姉さんたちは食後のクリームあんみつを食べながら激励してくれた。私はここでは一番年下だから、少々の失敗は大目にみてもらえるだろう。しかしそれが、仕事に慣れればちゃんとできるようになるのか、それともこれが自分の能力の限界なのかとても心配だ。 「何でもやってみて慣れるしかないわよ」  クロヤマさんが、とぐろをまいたアイスクリームにかぶりつきながらいった。 (そうだな。やってみるしかないんだな)  私はぷるぷるした寒天をつっつきながら、一晩寝たら足の腫れがひいて、明日はまたすっきりした気分で店に出られればいいなあと思ったのだった。  気くばりのひと  就職するときのいちばんの恐怖はハイミスのいびりだった。ヒステリーで洋服の趣味が悪くて眼鏡をかけていて、いつも品定めをしているような目つきの女の人。私みたいなタイプは格好のいびりネタにされるに決まっているからだ。小学生のころ私はいじめられっ子だった。ドッジ・ボールの仲間にいれてもらえなかったし、トイレに閉じこめられたこともある。掃除の時間にモップでスカートをまくられ、その日たまたま赤い毛糸のパンツをはいていたために、小学校を卒業するまで、「赤パン」と呼ばれていた。  体が大きくて牛のような女の子には、いちばん大切にしていたリカちゃん人形のウエディング・ドレスを取られてしまった。悪代官に理不尽《りふじん》な年貢《ねんぐ》をまきあげられる正直な農民と同じように、当時の私は抵抗する術《すべ》を知らなかったのだ。ただひとつの救いは成績がよかったことだ。もしこれで成績が悪かったら、もっともっとやられていたかもしれない。テストを返してもらうときだけが、彼らを見返せる至福の時間だったのである。  大人になればこういうことはないだろうと期待していたのに、会社に入ったらいびりがあるという話を聞いて怯《おび》えていた。出社した初日、まっさきに先輩にどういう人がいるか観察した。男の人たちとどううまくやるかなんて頭の中にこれっぽっちもなく、同性とどううまくやっていくかだけが重要な問題だったのである。幸い、先輩たちは、見たところハイミスタイプではなかったが、なるたけドジをふまないように、OLのバイブルというべき『新入社員の心得』とか『好かれるOL』といった実用書を読み、先輩たちにいじめられないようにと必死になった。「嫌な仕事でもすすんでやる」「すぐ素直にあやまる」「エレベーターに乗るときは先輩の後から乗る」「常に見られていることを忘れるな」その他こまごました日々気をつけることを頭の中に叩《たた》き込み、先輩ににらまれないように細心の注意を払っていたのである。  うちの会社は、結婚する人はさっさと二、三年勤めてやめていくので、二十五歳から三十歳までの女性はいない。間がずぼっと抜けている。正直いって、三十五歳の女の人とどうやって応対していいかわからない。そういうときにOLの実用書は役にたった。ノウハウがちゃんと書いてあるし、困ったときは本にあるとおりにやり、すべてをそつなくこなしてきたつもりだ。上司に誉《ほ》められたときは、 「きちんと教えてもらいましたから」  と先輩のおかげを強調しておいた。同期の女の子とは、特に仲がいい人はいないけれどうまくいっていると思う。先輩には、 「あなた同期の他の女の子とは少しタイプが違うわね」  といわれてはいるが、いびられてはいない。困ったときは本に載っているテクニックを駆使して、あっという間に一年が過ぎていったのである。  こういっちゃなんだけど、三十歳すぎて仕事にがんばっている人は、どういうわけかみんな妙に明るい。明るくなければやっていけないのかもしれないが、ともかくほとんどの人が明るいのだ。私のいる総務部の三十五歳の先輩もそうだ。いじめられっ子の私は、そういう人を見ているとうらやましいときもある。笑っても泣き顔みたいな自分の顔も、なんとかならないかと思っている。先輩たちのように明るい性格の人に、仕事のことや将来のことを相談したら、明るい未来が開けてくるんじゃないかとも思うし、そうすれば先輩も悪い気はしないだろうという読みがあったのである。同期の女の子たちと話すこともあるが、ただお互いにグチをいいあうだけ。そのときはお腹にたまっていたことを口に出してしまうから、物事がすべて解決したような気になるけれど、よく考えてみると何も解決していないのだ。  たまたま先輩たちが会社が終わってビヤ・ガーデンに連れていってくれたときに、このチャンスを逃してはと、 「このまま勤めていていいのかなって、思うことがあるんですけど」  ときり出してみる。仕事も覚えてくると毎日その繰り返しで、新鮮な発見など何もない。家に帰ってテレビを見て、お風呂に入って寝て、また会社にいくのを続けているだけだ。 「ふーん。勤めて何年だっけ」 「一年です」 「みんなそう思ってるわよ、何年たっても。二十代は私もそうだったもん。平気、平気、三十過ぎたらみんなふっきれるから。暗い話しないで、パッとやろうよ、パッと」  私の悩みは、「かんぱーい」という声と、ジョッキがガチャンとぶつかりあう音でかき消されてしまった。悩める後輩に親身になって相談にのってくれる先輩ではなかったようだ。酒が飲めずにコンパでいつも介抱役だった私は、酒の席はなるべく避けたかった。後からくっついていっても、 「酒が飲めないなんて暗い」 「ひとりでさめていて、一緒にいると落ち着かない」  などといわれた。そこへいって少しでも自分の気持ちが晴れるのならいいが、だいたいがそうじゃない。みんなでわいわいやっていると、何かとても恥ずかしくなってくる。カラオケなんか死んだってできない。音痴の歌を堂々と得意気にみんなに聞かせるなんて、とてもじゃないけどできない。だけどそんなときに、 「嫌です」  なんていったりしたら、陰で何ていわれるかわからない。先輩に一曲歌えといわれたら死ぬ思いでマイクを握る。二、三分がまんしたらすべてが丸くおさまるのだと自分自身を納得《なつとく》させて耐えているわけだ。 「退社後のつきあいも人間関係をよくするための重要なポイント」  と本には書いてあった。だから会社を出るときに先輩に誘われてしまうと本当に困ってしまう。どうしようかと迷っている私の答えを待つことなどせず、腕を両脇《りようわき》から素早く抱え、 「いいじゃないの。いこいこ」  といって拉致《らち》するお姉様たちには到底逆らえるわけがない。黙って連行されるしかないのだ。  私を拉致したのはいつものメンバーの、直属の三十五歳の先輩と、営業部の三十三歳の先輩である。営業部の先輩は年齢よりも若く見える愛嬌《あいきよう》のある顔だちだが、よくみるとケロヨンに似ていた。彼女たちの飲みっぷりも性格と同じで豪快である。豪快というよりも豪傑といったほうがふさわしい人もいる。飲めない私から見ると、両手で大ジョッキを持って、交互に口の中にビールを流し込み、その合間にマシンガンのように喋《しやべ》りまくり、またその合間にマヨネーズ付きのアタリメを口の中に突っ込むなんて驚異である。よく息をする暇があるものだ。バッグが床に落ちたのを拾おうとしてテーブルの下を見ると、リラックスして大股《おおまた》を開いている人もいる。三十五歳の先輩である。ほっぺたを赤くして楽しそうに、 「キャハハ」  とはしゃいでいる。まるでスカートをはいたおじさんである。 (いくら齢《とし》をとっても、ああはなりたくないもんだ)  とすばやく目をそむける。酔っていくうちに、だんだん声が大きくなっていく。 「どひゃひゃ」 「わはは」 「ひゃー」 「きゃあ」  が交錯し、隣の席にいる暗い雰囲気のサラリーマン風の男性四人組が、怯《おび》えたような目をしてこちらを見ているのが恥ずかしい。彼らの視線に気がついた大股さんは、一段と大きな声で、 「人の目なんか気にして酒が飲めるかっつーの」  といいながら大ジョッキを一気に飲み干してしまった。ゲップのおまけつきである。彼らはますます怯えた目になり、こちらをちらちら見ながら黙って飲んでいる。 「近頃の男はだらしなくってねえ。会社の若いのもおとなしいのはいいけれど、覇気《はき》がない。覇気がないっつーのは困るんだ」  言葉遣いもおじさんになる。 「嫌ねえ。こんなふうにはなりたくないわよねえ」  ケロヨンが私の顔を見ながらいった。 「あーら、それ、どういうこと」  少しろれつのまわらなくなった大股さんが不愉快そうにいった。 「どういうことってねえ。あなただってまだ女なんだから、少しは恥じらいとかさあ、そういうものがないのかっていってるの」 「恥じらい……」  しばし沈黙が流れた。すると、大股さんはカイワレサラダと枝豆の皿をぐわっとひじで押し退《の》け、 「うわーん」  とテーブルにつっぷして泣き出してしまった。彼女は大ジョッキ五杯飲むといつもこうなのだ。最初はものすごくびっくりしてオロオロしたが、最近では慣れてしまった。ただ見ていてとっても恥ずかしい。ケロヨンはフライド・チキンにむしゃぶりついている。冴《さ》えない四人組は、泣いている女とすさまじい食欲の女を見ながらにたにた笑っていた。 「ねえねえ。このおばさんたちはほっといて、ボクたちと飲まない?」  彼らの中でいちばんにやけた男が声をかけてきた。他の三人も、そうだそうだとうなずいている。私だって、 「この人たちとは関係ありません」  といってさっさと家に帰りたい。しかしそんなことをしたら、これからの私がどうなるかわからない。ましてやそばにいた男たちと飲んでいたのがわかったら、その事実に尾ひれ背びれ、腹びれまでついて、私が彼らと乱行パーティーをしたなどという話にもなりかねないのだ。  かつてパンツ・スタイルで通勤していて、たまには気分を変えようとスカートをはいていった次の日、社内には私に男ができたという噂《うわさ》がとびかっていたことがあった。そのときにすり寄ってきたのも大股さんだった。しつこく、 「男ができたでしょ」  と訊《き》いてくる。彼はいるが、昨日、今日、突然できたわけではない。ただ驚いて黙っていると、 「嘘《うそ》をつくと身のためにならないわよ」  とおどされた。こっちも意地になって否定したらしぶしぶ納得してくれたが、たかだかスカートをはいてきたくらいで、何でそんなことをいわれなければならないんだろうとバカバカしくなった。私のことをいじめてるのかしらと心配したが、それからあれこれ誘ってくれて御馳走《ごちそう》してくれる。しかし、結局は彼女がやたらと酒を飲んで、私はタクシーをひろって乗せてあげるというお付きの者に変わりはなかった。 「結構です」  きっぱりと彼らには断った。 「何、何が結構なの?」  フライド・チキンを消化し終わり、今度は粒いりマスタードをつけた手作りソーセージをむさぼっているケロヨンは耳ざとくいった。 「いえ、別に……」  彼女はギロッと彼らをにらんだ。また彼らは怯《おび》えた目になった。 「まったく。油断もスキもないんだから。年がら年じゅう女あさりしてんじゃないわよ」  そういい放って、ソーセージを割りバシでつまんだ彼女の背中にむかって、にやけた男があかんべえをした。大股さんはつっぷしたまま軽いいびきをかいていた。十一時すぎになると、豪食のケロヨンは、 「あーあ」  といいながら腰を上げ、酔った勢いで「タクシー代」といって五千円くれる。 「電車がまだあります」  といって返そうとすると、 「さっきみたいに変なのがからんでくると困るから」  というので、ありがたく贅沢《ぜいたく》をさせてもらう。そしてふたりして大股さんをひきずってタクシーに乗せ、ケロヨンが彼女を送っていく。それが終わってはじめて私もタクシーに乗れるのだ。次の日、御礼をいってケロヨンにおつりを返すと、てのひらの小銭をじっと見ながら、彼女がちょっと悲しそうな顔をするのがいつも気になる。私は一銭もださなくてすむし、先輩たちの御機嫌をとっていればいいのだけれど、毎日こんなことをして、ストレスの解消をしているのは空《むな》しくはないだろうか。彼女たちに、 「ほんと。あなたはよくできてる」  といわれるとうれしかったし、同期の女の子たちの批判を耳にすると、自分はそう思われていないのだと満足感があった。しかし、こうはなりたくないと思っている人たちと一緒に時間を過ごしているのは無駄みたいだった。三十歳すぎたらふっきれるといっていたけれど、こんなに無意味に毎日をすごしているなんて、ふっきりすぎではないかという気がしていた。  飲んだ日の翌日、大股さんは時間ぎりぎりにとびこんでくる。廊下に、 「あー、遅れちゃう、遅れちゃう」  という大声がわんわん共鳴するからすぐわかる。私の顔を見るなり、 「どひゃひゃあ」  と笑いながら、 「いやあ、昨日はどうも、また行こうね」  と声をかけてくれる。いちおう、 「はい」  といってにっこりするものの、ちょっとうんざりする。たまにはしっとりと落ちついた環境にいたいときだってある。それを彼女たちは許してくれないのだ。酒の席で老後をいかに生きるかという話題をだせば、 「こんな席でそんなこというなんて、あなた暗いわね」  と一喝され、体調が悪いときにお誘いを断ると、 「つきあいが悪い」  と、ぶつぶついわれてしまう。そんなに誘ってくれるんだったら、私のことを考えてくれるのかなあと期待していくとあの調子。考えてみればこれだっていじめの一つじゃないかと思うこともある。たまーに意を決して断ると、にたーっと笑いながら、 「彼氏とデートでしょ」  としつこい。面倒くさいので、 「はい」  と答えると、彼女は、 「いいわねえ。それじゃ、もてない私たちは女同士で遊びにいくことにするわ」  と笑う。しかしその目が笑っていないことに気づいてギョッとするのだ。この状態を彼に相談したこともあったが、 「いいたいように、いわせとけば」  ととりあってくれない。予想された答えだった。しかしいいたいようにいわせといたら、何ていわれるかわからない恐怖があった。  あるとき、冷たい視線を体に受けながらお誘いを断り、その夜、彼とデートしていた。万が一の先輩とのニアミスを考え、会社からはちょっと不便な銀座で待ち合わせした。久し振りだったのでうれしかった。ところがいい気分で食事をしていたら、背後で聞き覚えのある大きな声がする。そーっとふりかえったら、何と大股さんとその御一行様がどやどやと入ってきた。いじめられっ子はいくつになっても運が悪い。一瞬、顔が硬直した私をみて彼は、 「あれか?」  といった。 「なかなかすさまじいな」  そういって彼は知らん振りして食事をしている。私は喉《のど》が詰まってしまった。明日のことを考えると頭が痛くなった。 「あら、あーら、あらら。ナオちゃんじゃないの」  私の肩越しに大股さんの顔がぬーっとでてきた。 「あ、あ、どうも……」 「ふふん。こういうわけだったのね。気にしないで、二人の仲を邪魔するほどヤボじゃないから。どーも、失礼しました」  いちおう彼にも愛想をふりまいて彼女は去っていった。 「おい、立ち上がってこっちを見てるのがいるぜ」  彼は小声でいった。 「どんな人?」 「なんか目と目の間がやたら広い人だよ」  ケロヨンだ。 「あっ、また別なのがこっちを見てる」 「どんな人?」 「うーん。北天佑に似てるなあ」  隣の席の同期の女の子だ。私が気をもんでいるというのに、彼のほうは結構楽しんでいるみたいだった。しばらくすると、彼女たちが座っているほうからざわざわと騒音が聞こえてきた。だんだん盛り上がってきたのか、突然、 「どひゃひゃあ」  というすさまじい笑い声が聞こえてくる。 「すでにおばさんのノリだな」  彼は興味津々《きようみしんしん》で彼女たちのほうを見ながらいった。 「あんまり見ないでよ」 「どうして。随分もりあがってるぜ。ワイングラスをふりまわしてるのもいるけど」 「さっきここにきた人じゃない?」 「そう」  しばらくしたらまた下半身の緊張が緩み、だらしなく足を開いてしまうに違いない。想像しただけでこっちが恥ずかしくなってくる。  私たちにしては値段の張る夕食だったのに、どこに入ったかわからなかった。店を出るとき、 「それではお先に」  と挨拶《あいさつ》した。これも本に書いてあったことだ。こうすれば失礼な人だと思われないはずだ。 「さよなら。あした覚悟してなさいよ」  そういってみんなゲラゲラ笑った。そのときはにっこり笑ったものの、恐ろしくてその夜はよく眠れなかった。  翌日会社にいった私を迎えていたのは、女子社員一同の、 「にやーっ」  とした笑い顔だった。机の前に座るやいなや、きのう二人でいるところを目撃された隣の席の同期の女の子が、 「ナオちゃんの彼ってジャニーズ事務所顔なんだねぇ」  とねっとりした目つきでいった。 「ジャニーズ事務所?」 「そう。ものすごくかわいいじゃない。いいわねえ。ねえ、どこで知り合ったの? ディスコ? バイト先?」 「えーっ。うーん……」 「あっ。ケチ。教えてくれたっていいじゃないよ。ねえ、どこ。あたし隠されるとますます知りたくなっちゃうタチなの」  身をのりだしてくる彼女の目を見ながらあせっていると、運よく電話が鳴ってくれた。おかげで話はとぎれた。この人たちはこういうことしか興味がないのが情けない。でも社内でうまくやっていくには、それをかわしていくしかないのだ。それからしばらくは、私とジャニーズ事務所顔の彼のことが話題にのぼっていた。のろけても黙っていてもひんしゅくをかうはずだから、この場合はただにこにこしてやり過ごそうと決めていた。一週間たったらぷっつりと噂《うわさ》はとだえてくれた。ちょっと淋《さび》しかったがこれで、 「ねえねえ、けっこういいセンまでいってるの」  などと訊《き》かれることもない。しかしみんなの興味をそいだことは確かなので、嫌われないようにアフターケアをしなければいけなかった。大股さんが休暇をとる前日にはそばにいって、 「心細いですけれど、ゆっくり休んでください」  と気くばりのひとことをいうのを忘れなかった。これも本の知恵である。ところが彼女はとりあえずは笑いながらも、 「ふふん」  といっただけだった。少しあせった。隣の席の同期の女の子が課長から叱《しか》られていた。お得意様に提出する書類をチェックしたら、誤字脱字が多くて計算も合っていない、と大目玉をくらっていたのだ。 (ばかねぇ)  内心ちょっと軽蔑《けいべつ》した。どうしてそんなつまんないことを間違えるんだろう。人の彼のことをしつこく訊くヒマがあったら、自分の仕事をちゃんとやればいいのに。だけどそういったら人間関係がうまくいかなくなる。なんとか彼女のことをなぐさめなければいけない。私は例の『好かれるOL』の一ページを思いだし、メモに、 「がんばって」  と書いて二つに折りたたみ、机の上に置いておいた。暗い顔をして彼女は帰ってきた。そして紙を開いてつぶやいた。 「何よ、これ」  ヒステリックにそれをぐちゃぐちゃに丸め、足元のクズかごに放り込んだ。ショックだった。彼女は何にもいわない。私も何にもいえなくなってしまった。どーんと暗い雰囲気が私たちをつつんでいた。いままで信じていたものが崩れてしまったのだ。その日、一日、私たちは無言だった。私も何をいっていいかわからないから、彼女の様子をうかがっていた。あのメモを見て、彼女はもっとぷりぷりした。私のことを嫌な人だと思っていたらどうしようと気が気じゃなかった。  次の日も彼女はどことなく様子がおかしかった。別に嫌味《いやみ》をいうわけじゃないけれど、態度がトゲトゲしかった。仕事が忙しかったこともあるけれど、大股さんもケロヨンも私に話しかけてくれない。 「やっぱり嫌われたのかしら」  私にはそうされる理由がわからなかった。 「きっと私にはジャニーズ事務所顔の彼がいるから嫉妬《しつと》しているんだわ」  思い当たるのはそれだけだ。ますますみんなは情けない人たちになった。でもそんな人たちにも嫌われるのは嫌だった。お昼休みには、 「一緒にいきませんか」  と誘ってみた。でもみんな、 「うん。まだ区切りがよくないから先にいってて」  という。あとからくるんだなと思って店で待っていても、結局はだれも来ないことが多かった。人をいじめたわけじゃないし、私は一生懸命気くばりの人になったつもりだった。表面上は平穏無事《へいおんぶじ》だが、よく考えてみると無視されているのがわかったときほど怖いものはない。そしてその理由がわからないのも悲しかった。  その日、ひとりで昼御飯を食べた私はトイレの個室に入っていた。さあ出ようと鍵《かぎ》に手をかけようとすると、聞き覚えのある声がどやどやと入ってきた。彼と銀座でデートしているときと同じだった。 「ねえ、最近ナオちゃんと一緒にいないのね」  自分の名前がでたのでギクッとした。声の主はケロヨンだ。 「うん、あの人、何かこわいんだもの」  面倒臭そうな隣の席の彼女の声がした。 「怖い?」  この声は大股さんだ。 「そう。このあいだ課長に叱《しか》られて席に戻ったら、机の上に『がんばって』なんて書いた紙が置いてあるの。何カッコつけてるのかしら。バカみたい」 (バカ……)  ひどくプライドを傷つけられて、体が震えてきた。 「そういえば、私が休暇をとる前の日に、わざわざそばにきて、『心細いですけれど、ゆっくり休んでください』なんていいにきたわよ」 「えーっ。そんなの変」 「何それ」  口々にいわれて汗が吹き出てきた。 「いい後輩だって思われたいんじゃないの。先輩なんかおだてておけばいいって思ってんのよ」 「やあね。そんなのいちばん人をばかにしてるわよね」 「私もそんなこといわれるの初めてで驚いちゃった」 「妙にできすぎてて、うっとうしいときがあるもんね」 「ああいう人って怖いんですよ。腹の中で何考えてるかわからないから」 「そうよね。あなたみたいにドジふんだり、口のきき方を知らなくても、いやらしいところってないもんね」  ハハハとみんなは声を上げて笑った。涙が出てきた。 「もしかしてこの中にいたりしてね」 「いいんじゃない、いたって。悪いこといってるわけじゃないもん」  このまま何食わぬ顔をしてドアを開けて出ていったら、みんなどんな顔をするだろう。しかしそんなことをやったら、ますます私の印象が悪くなってしまうだろう。彼女たちが出ていってしまうまで、私は便器の横で立ちつくしていた。涙がぽたぽた落ちてきた。  その夜、彼に電話して、 「こんなことをいわれちゃったの」  と泣きついた。最初はうんうんと聞いてくれたのに、一時間グチッていたらだんだんそっけない返事しか返ってこなくなった。 「もう会社なんかやめたい」  と訴えたら、 「早く結婚してくれっていう催促か」  なんて冷たくいわれてしまった。みんなに好かれようと思って私なりに考えていたのに。やっぱりいじめられっ子はいつまでたってもいじめられっ子なんだなあと、受話器を持ちながらまた涙が出てきてしまったのだった。  ダンナの七光  中学一年生のときの学級委員長から、突然クラス会のお誘いがあった。といっても、同じクラスだった男性が、二十八になっても全然女っ気がないので、何とか女性と知り合うきっかけを作ってくれと泣きついてきたので、仕方なくやるのだという。 「あたし、結婚してるから関係ないもん」 「そんなこといわないでさぁ、たのむよ。まさか独身の女の人ばかり呼ぶわけにいかないじゃないか。ボクだって子供いるしさぁ。だから既婚者は既婚者、独り者は独り者同士っていうことにして、ね、絶対来てよ」  一方的に彼の電話は切れた。何でそんなとこにのこのこいかなきゃならないのかしら、と腹が立った。結局のところ「恵まれない男に愛の手を」を盛り上げるための、その他大勢だ。別に浮気しようと思ってるわけじゃないけど、行く前から関係ないとわかっているのはちょっと面白くない。だけど同じクラスだった女の子たちが、今、どうしているのかちょっと気になった。いろいろと噂《うわさ》は耳に入っていた。何のアクシデントもなく、学校を卒業してお見合いをして家庭に入った人。不倫をしている人。結婚してあっという間に子供を産んで、あっという間に離婚して、あっという間に再婚して、五年間で何でもかんでもやってしまった人。独身でがんばっている人。別にモテない男がどうなろうとかまわないが、他の女の子たちがどうなっているかは知りたかった。  クラス会は簡素に居酒屋で行なわれた。男性側出席者九人、そのうち既婚者二名、女性側出席者八名、そのうち既婚者五人というメンバーであった。この会の主役であるクールでとってもお勉強のできた男が、へらへらしながら独身者三人に重点的にビールをついでまわっていた。彼女たちも不気味《ぶきみ》に思ったのか、 「ありがと」  といいながらも顔がひきつっていた。中学時代、ちょっと彼のことが気になっていた時期もあったので、正直いってガックリした。 「まったく、こういう息抜きがないと、やってらんないわよねー」  バレー部で一番の巨体といわれたケイコちゃんが、グビグビと大ジョッキを飲み干しながらいった。 「あたしんとこは、商売やってるからね。四六時中ダンナと顔合わせてんの。だから最近顔が似てきちゃってさぁ、まいっちゃうわよ」  彼女の顔は中学時代とあまり変わっていないところをみると、ダンナのほうが彼女のパワーに負けて顔つきが変わってきたのに違いない。 「ねぇ、ヤマダさんと仲が良かったよね。きょうどうしたの?」  巨体の彼女とガリガリのヤマダさんは、「団子と串《くし》」といわれて、バレー部の名物コンビだったのである。 「連絡したんだけどね、着る服がないから来ないって」  ヤマダさんは 姑《しゆうとめ》 と同居しているのだが、その姑がいまは死語になっている「ぜいたくは敵」を信条にしている人で、彼女の買い物をいちいちチェックして、あれこれ口を出すらしい。結婚してからペーパー・タオルを使ったことがないという話には驚いた。 「僕も仲間にいれてくれよ」  うちに電話をかけてきた学級委員長がコップ片手に私たちの間に割り込んできた。 「ねえ、タニヤマって覚えてる?」  タニヤマというのは、とにかく自分がいい思いをすれば、他人はどうなってもいいというタイプの、性格の悪さで男女双方に嫌われていた男の子だった。 「あいつ、本当に運がいいっていうか……」  委員長はちょっと悔《くや》しそうに音をたててコップをテーブルの上に置いた。彼の話によると、タニヤマは今、とっても幸せになっていた。タニヤマは三浪しておまけに補欠で、委員長がストレートで入った有名大学に入学した。内心ふふんと思っていた委員長が愕然《がくぜん》としたのは、キャンパスをすごい美人を連れて歩いていたときだった。 「ふられるに決まっている」  と、たかをくくっていたら、二人が婚約したという話に驚き、また相手の女の子が大手企業の社長のひとり娘というのを知って、また愕然とした。 「あいつ例の調子の良さで、さっさと玉の輿《こし》にのって養子になっちゃって、今ではベンツに乗ってるよ」  委員長は不満そうだった。彼のほうはストレートで入学したものの就職活動はうまくいかず、希望していた会社はすべて落ちてしまった。好きな女の人みんなにふられた。人並みには生活しているが、自分が考えていたのとちょっと違うほうにいってしまったのだ。 「オレんとこ共稼ぎだからさぁ、このあいだ子供を保育園にむかえにいって、自転車こいで家に帰ろうとしてたんだよ。そうしたらさ、プァーンってクラクションの音がして、タニヤマがベンツから顔出してんの。『やあ、元気? また、ゆっくり会おうじゃないか』っていうんだ。こういっちゃなんだけど、あいつよりもオレのほうが性格もよかったし、勉強だってできたんだぜ。家に帰りながら、どうしてあいつがベンツに乗って、どうしてオレが子供を背中にくくりつけて、特売で買った自転車をこいでなきゃならないのかなぁ、なんて考えたんだけど。ま、人生って不思議なもんですよ」  私たちはうーむ、とうなった。 「あーら、遅くなってごめんなさいねぇ。ちょっと道に迷っちゃったものだからン」  突然、全身がピンク色をした女がとびこんできた。一同シーンとなった。 「ほーら、来た、来た、奥様が」  ケイコちゃんが私の耳元でささやいた。よく顔を見ると、当時めだたなくておとなしかった女の子だ。苗字《みようじ》は忘れたけど、ツネコちゃんという名前だけは覚えていた。最近はテレビにもよく出ている大手スーパー・マーケットの若社長と、短大を卒業してすぐ結婚して、「大玉《だいたま》」(大クラスの玉の輿《こし》のこと)と私たちは噂《うわさ》していたが、あんなふうになっているとは思わなかった。 「まあ、ケイコさん、マサミさん、お元気でしたぁ」  彼女はめざとく私たちをみつけ、男たちをまたいで隣りにドカッと座った。 「えっ……。ええ。あなたも元気そうね」 「うーん、あたしは元気よ。でもそろそろお勤めしようと思ってるんだけど……」  顔はツネコだけど、中身はまったく別人だった。話をしながら私の目はついつい彼女の頭のてっぺんからつま先まで眺《なが》めまわしていた。こってりと化粧はしているものの、妙に肌に透明感があり、なかなか垢《あか》ぬけた顔立ちに仕上がっている。化粧がうまい。服もいいものを着ている。ピンク色のワンピースだが、安物じゃないので色合いにも品がある。ふつうこういう色を着るとヤボッたくなるものだが、服の上に万事おこたりなく整えられた顔面があるので違和感はまったくない。もちろん素材はポリエステルではなくシルクである。薬指にはシンプルなプラチナの指輪。十本の指にごてごてと指輪をし、耳輪、首輪、腕輪など、金にまかせて装飾品をつけまくるタイプがよくいる。そういう場合は、 「成金!」  と、腹の中でバカにする楽しみがあるが、ツネコみたいに、シンプルでよくみると金のかかった物を身につけていると、腹の中でののしれないし、ちょっと悔《くや》しい。つけている香水だってJOYだ。私なんか、香水売り場の女の子に匂《にお》いだけかがせてもらって、匂いが鼻に残っている間だけゴロゴロとのどをならしているというのに、あれをひとビン買っていると思うとよけい悔しい。きっと靴だってシンプルないい物を履《は》いているのだろう。 「ねぇ、あたし本気なの。子供もいないし、家の中にいると息が詰まりそうなのよ。何か仕事があったら紹介してくれない」  ツネコはぺらぺらよく喋《しやべ》った。 「そういわれてもねぇ……」  生活に困っているのならともかく、こういう人にはどういう仕事を紹介していいのか見当がつかない。 「そうそう、これからうちは忙しくなるのよ。イモとか柿とかどんどん入荷するし。手伝ってくれると助かるわぁ」  ケイコちゃんはニタニタしながら大声でいった。ツネコは聞こえないフリをして彼女を無視した。そうされたケイコちゃんはムッとなり、気まずい雰囲気が私たちのまわりをとり囲んだ。 「あ、あの、それじゃ、ちょっとうちの会社で聞いてみるから……」  何とかこの場をとりつくろおうと、つい口をすべらせてしまったのが間違いだった。 「えっ、本当、うれしい。お願いね。私、マスコミ関係の会社で働きたいと思ってたのよ。そうなったらステキだわ」  私の右隣りではこってり化粧したのが、香水をプンプンさせて身をよじっているし、左隣りでは八百屋のおかみさんがブリブリ怒っている。身をよじっているだけではなく、別れ際にしっかり私の会社と自宅の電話番号をエルメスの手帳に書いたツネコの姿を見てビビッた。 「こいつ本気だ」  私はこんなとこに来るんじゃなかったと、心底《しんそこ》後悔したのである。  マスコミ関係といったって、私の勤めている会社は宣伝関係の何でも屋である。テレビやラジオのコマーシャルを作ることもあるが、そういう仕事はめったになくて、地方のたんぼの中に立てる大きな看板を作ることだってある。延々とダイレクト・メールの宛名《あてな》書きをさせられることもある。プリントされたものは即ゴミ箱行きだが、手書きのものを封を切らずに捨てることはまずない、という取引先の社長の依頼で、女子社員一同でやらされたのだ。少々勘違いしてると思われるツネコからは毎日会社に電話がかかってきた。 「別に、あたし急いでるわけじゃないんだけど!」  と口先ではいっているものの、早くしろとせかせているのがミエミエだった。私は係長に、 「主婦で働きたいっていう人がいるんですけど。私の中学時代の知り合いなんです」  と聞いてみた。社長の妻ということは黙っていた。 「主婦ねぇ。バイトならいいんじゃない。そろそろまた例の宛名書きもあることだし。キミの友だちなら大丈夫だろう」何なくOKになってしまった。私は、 「友だちじゃなくて、単なる知り合いですから」  と、念を押すのを忘れなかったが、こりゃ困ったことになった、とあわててしまった。彼女が妙なことをすれば、 「変なのをつれてきた」  と私に責任がかぶさってくる。クラス会なんかに行くんじゃなかったと再び後悔した。  三日後、彼女は有頂天《うちようてん》で午後から会社にやってきた。きょうはトルコ・ブルーのスーツを着ておでましである。後輩の女子社員は物珍しげに集まってきて、 「ワタナベさんのお友だちなんだって」  と話している。 「お友だちじゃないのね、単なる知り合いなの」  友だちといわれるたんびに釘《くぎ》をさしておかなければならないので面倒くさい。彼女は係長の前で、 「あたくし、お給料はいりません。何でもやります」  と胸を張っている。 (そんなこといってると、あとで後悔するぞ!)  背すじをピンと伸ばしているツネコの後ろ姿にむかっていってやった。係長はふんふんとうなずいていたが、マジメに話は聞いてないみたいだった。迷惑なことに彼女の机は私の隣りにくっつけられた。自分の場所も決まり、ほーっとため息をついて室内を見渡していた彼女は、 「ずいふん狭いのねぇ」  と私の耳元でささやいた。 「おたくの台所ぐらいしかないでしょ」 「えーっ、そんなことないけどー」  そういいながらも、とってもうれしそうだ。そして、企画書と請求書をファイルしている私の手元をのぞきこみ、 「そんな仕事もしなきゃならないのねぇ」  と気の毒そうな声を出した。 「あたし、毎日この仕事してるんだけど」  彼女はクラス会のときと同じように、聞こえないフリをした。 「ねぇ、何かやることない。私、仕事がしたくてうずうずしてるの」  そんなこといわれたって、すぐに、はい、これっという具合に仕事があるわけじゃない。暇なときはひたすら暇で、忙しいときにますます忙しくなるのが仕事というものである。 「そうね。流しにコーヒーカップがたまっていたから洗ってくれる?」  一瞬、彼女はムッとした。そして自分の指先をみつめながらつぶやいた。 「だって……シャネルのマニキュアが……」 (メーカーなんか聞いてないっつーの)  どうするかなぁと様子をうかがっていたら彼女は意を決したようにすっくと立ち上がり、おとなしく洗いはじめた。 (こいつ本気だ)  またビビッた。いちおういわれたことをクリアしたツネコは、透けたレースのハンカチで手をふきながら戻ってきた。仕事はないかといいながら、暇とわかるとマシンガンのように喋《しやべ》りはじめた。内容はダンナの自慢話と世界各国を旅行して買い物をしまくった話の二種類である。 「わあ、テレビに出てる、あの社長さんの奥様だったんですか」  後輩が話の途中で口をはさんだ。 「おほほ、そうなの」  そういったとき、ツネコの背すじが三センチ伸びた。彼女は聞かれるまま、二人のなれそめを一見照れているふうを装いながら、得意になって喋《しやべ》っていた。一時間も二時間もずーっと喋り続けていた。いいかげんうんざりしていると、濁った空気をふきとばすかのように、元気よく、 「すみませーん、またお願いします」  と、営業の若い男性がダンボール箱をかかえてやってきた。 (来た、来た)  例の恐怖の宛名《あてな》書きだ。 「あさっての夕方発送ということで……」  彼は簡単明瞭《かんたんめいりよう》に必要事項を述べて、さっさといってしまった。 「お願いします」  私は身をのり出して喋っているツネコの机の上に、ドサッと封筒と名簿を置いてやった。 「宛名書きしてくださいね。あさっての夕方に発送するので、それまでにやってほしいの」 「えっ……ああ……はい」  彼女は突然山と積まれた封筒を目の前にしてたじろいだ。これで少しは静かになるだろうとホッとしていると、二、三分たって、 「ところで、さっきの話の続きなんだけどね」  と、後輩女子社員にまた話しかけ始めた。男子社員は、あきれた顔をしてこっちを見ている。彼女は日ごろ他人にいいたくて仕方なかったのに、いえなかったことを、うちの会杜に来て思いっきり吐き出しているようだった。もう一度念を押した。 「あさっての夕方までですからね」 「はいはい。あっ、それでね……」  多少の嫌味《いやみ》も通じないほどお喋りにのめりこんでいる。係長も部屋の隅で冷たい目をしていた。 (友だちじゃないんです。単なる知り合いなんです)  私は腹の中で叫んでいた。  ぺらんこぺらんこ喋ってばかりいるものだから、六時になっても封筒の山はほとんど減っていなかった。 「どうですか。終わりそうですか」  後輩がツネコに声をかけた。 (こんな人に優しい言葉なんかかけなくていいの)  思わずツネコを横目でにらんでしまった。 「まだ終わらないから、あたし残業するわ」 「えっー、残業?」  彼女たちの声をきいて、係長がやってきた。 「宛名書きで残業ですか」 「はい」  ツネコは涼しい顔をしてペンを走らせている。 「でもねぇ、あなたもご家庭があるし、大変でしょう」 「いーえ。そんなことに甘えてはいられません。家事はお手伝いさんがやってくれますし、時間はあるんです」 「お手伝いさん?」  男子社員は顔を見合わせて、不思議そうな顔をしている。すると待ってましたとばかりに女子社員がすっとんでいき、 「あの人、○○さんの奥さんなのよ」  と小声でいっているのが聞こえた。みんな、へえーっという顔になった。結婚したときに営業から定時に帰れる事務に変えてもらった私としては、こういう場合非常に気まずい。 「一時間くらいだったら手伝えるけど」  背後から声をかけると、 「大丈夫。どうぞお先に」  とペンを走らせている。今ごろこんなに一生懸命やるんだったら、ムダ話をしなきゃいいのだ。  うちにはお手伝いさんがいないので、いつものように六時すぎに会社を出た。今日の午後から会社にやってきた人は、どう考えても中学時代のツネコじゃなかった。私と並んでいちばん後ろの席に座っていたが、勉強はまあまあ、運動はどちらかというと苦手、めったに喋《しやべ》らず、息をしてるんだかしてないんだかわからないくらい、ひっそりとした女の子だったのだ。それが例の男性と結婚し、彼がテレビに出るようになって知名度が上がった。またそのことで彼女にもスポットライトのおすそわけがあったわけだ。そこで今まで人の隅っこでひっそり息をしていた彼女は自信を持ち、あんなになってしまったんだろう。地味でめだたない女の子が、たまたまそういう男性と結婚しただけで、お手伝いさんつきの生活ができる。委員長の話じゃないけれど、中学時代は私のほうが彼女よりもはるかに目立っていたし、男の子にも人気があった。それはケイコちゃんも同じだ。ところが私の結婚相手は性格はすこぶるいいが、給料が安い。あんなに働いてこれだけしかもらえないなんて、何てひどいんだろうと涙が出そうになることだってある。だけど、自分が出会って好きになった人がそうだったから、こればっかりはどうにもならない。二人して仲良くやっていくだけだ。まったく別人になってしまった彼女と、どのように接していいのかこの先不安になってしまった。  翌日出社すると、男子社員が私を物陰に手まねきして、 「きのうから来たバイトの奥さん。夜十二時まで宛名書きやってたんですよ」  と小声でいった。 「十二時?」 「ボクも心配になって、タクシーで送りましょうかっていったら、逆に彼女が乗ってきたSAABで送ってもらっちゃったんです」 「…………」  彼女は十時にやってきた。深夜に帰ったわりには化粧ののりがいい。きっとリッチなナイトクリームでも、こってり塗っているのだろう。今日はきのうのこともあるから、少しは静かになるかと思ったら、相変らず、 「うちの主人はねーえ」  とにぎやかである。きのうは興味津々《きようみしんしん》で話を聞いていた女子社員も、ちょっとうんざりといった感じで生《なま》返事をしていた。ふつうなら他人が嫌がっているとわかりそうなものだが、ツネコの場合は相手が聞いていようがいまいがおかまいなし。エンドレス・テープみたいにただ喋り続けていた。あと十分で昼休みというとき、彼女は私の目をキッと見て、 「あなた、もっとクリエイティブな仕事したいと思わないの?」  と大胆なことをいいはじめた。それが結構大きな声だったので冷や汗が出てきた。 「もったいないわよ。そんな書類のファイルとか、伝票の足し算とか、誰だってできるじゃないの。あなたにしかできないことってあるはずよ」 「そんなこといったって、誰かがやらなきゃならないんだから」 「だからって、あなたがやらなきゃならないことはないんじゃないの」  そーっとまわりをみると、事務職の後輩の女の子は撫然《ぶぜん》とし、男子社員はあっけにとられ、係長はおろおろしていた。 「ともかく、あなたはこの机の上の宛名《あてな》書きを全部やること。話はそれから」 「仕事はちゃんとやるわよ。だけど、私あなたのこと知ってるもん。成績もよかったしとても能力のある人だったわ。だからこういう仕事しているあなたを見てるとつらいのよ」  グサッときた。何もいえない。異様な雰囲気になったとき、 「さあ、ボクちゃんは食事に行こうかなぁ」  係長が植木等みたいなノリで部屋を出ていった。みんなそれを見てプッと吹き出した。救われたような気がした。  私はツネコを誘って近くのOL御用達《ごようたし》の、「うまい、早い、安い」がモットーのレストランにいった。私は顔を紅潮させている彼女にたずねた。 「あなたはいったい何をやりたいの」  彼女は待ってましたとばかりに目を輝かせた。 「会社をつくりたいの、広告の」 (げげっ、大胆) 「そのためには、広告ってどういうものか知る必要があるでしょ。だからあなたにお願いしたの」 「ふーん。でも失望したでしょ」 「まあね、でも私、お勤めした経験がないから、面白いわよ」  妙に堂々としてやる気になっているのが恐ろしい。 「主人がね、○○さんとも××さんとも知り合いでよくパーティーでお会いするの」  二人は有名なCMディレクターとコピーライターだ。私なんか後ろ姿ですら見たことがない。 「いいじゃない、コネがあって」 「そう。何かのときには役に立つと思うわ。うちの主人と結婚してから、何でもできるようになったの。服も買えるし、ちやほやされるし、家事が嫌だったらお手伝いさんを雇えるし、とても自由になったの」  結婚してから服は買わなくなったし、モテなくなったし、家事の手間は二倍になった私は、はあはあと話を聞いていた。 「これは神様が私に与えてくれたチャンスだと思うの。これを生かさない手はないわ」  彼女の目は異様に輝いていた。単なる奥様の気まぐれではなさそうだった。金があって欲がある。おまけに運がいい。こつこつと地味にまじめにやってきた人がすべて成功するわけではない。もしかしたら、この人は本当に会社をつくっちゃうかもしれない。 「マサミさんは欲がなさすぎるのよ。あなたは自分で自分の能力を殺しているわ」 「そんなことないわよ」  彼女は首を横に振った。 「あなたずっと書類のファイルなんかやってていいの? そういうの何とも思わない?」 思わないわけはないじゃないけど、自分で何がやりたいのかよくわからない。そんなこといったらツネコに糾弾《きゆうだん》されそうだったので黙っていた。彼女はしきりに「もったいない」を連発した。 「あなたはいいわよ。生活のこと考えなくていいんだもん」  これをいったら負けという感じがして、いいたくなかったけどいってしまった。 「そう。そうなったのも私にチャンスが与えられた証拠だと思うの」  欲と自信の相乗効果《そうじようこうか》で、彼女は全身からすごいパワーを発していた。私は結婚して生活にもそんなにゆとりがあるわけじゃない。毎朝新聞の折り込みチラシを見るのが日課になっているし、これで子供ができたらどうなるんだろうと不安になる。だけど不満をいい出したらきりがないし、こんなもんだと今までずっと暮らしてきた。分相応だと思っていたのだ。私からすればとんでもなく恵まれているように見える人でも、もっと、もっとと欲がある。そしてふと気がつくとますます差が広がってしまい、 「すごいわねぇ」  とため息をつくことになるのだ。よく、チャンスの神様は前髪はあるがうしろはハゲているので、ここぞというときにしっかり前髪をつかんでおかないと、神様はするりと逃げていってしまうといわれる。ツネコががっちりと前髪をわしづかみにしたとするなら、私はハゲのほうをつかんでしまったみたいだ。委員長にしてもケイコちゃんにしても私にしても、次はいつチャンスの神様が現われるかわからない。だけどきっと私は神様が目の前に来ても、またハゲているほうをつかんでしまうような気がする。 「私、自分名義の貸ビルがあるし、その気になれば器は準備できるのよ。資金は主人が出してくれるっていうし。だからあとは中身なの。ねえ、私が会社をつくったら、絶対来てね」  彼女はやる気マンマンだった。 「うん……そうね」  私は彼女が元気になればなるほど、どんどん背中が丸まっていった。ぺらぺら喋《しやべ》りまくりながらも彼女は今日もきのうのように家事をお手伝いさんにまかせ、残業して必死に宛名書きをするだろう。そしてきっと明日の夕方までにはやり終えてしまうに違いない。あのパワーと根性で何でもやらせてください、といってどこにでも首をつっこみ、それから例の運の強さでどうにかなって……。私の頭の中には社長室で悠然とほほえむ彼女の姿が、ボーッと浮かんできた。違和感がない。 「まだまだ二十八でしょ。これからできることは山ほどあるわ。覚えなきゃならないこともたくさんあるし。さぁー、がんばるぞー。あたし絶対に夢で終わらせないわよ」  彼女はニコニコしながら、運ばれてきたビーフ・ストロガノフを一口食べた。私は一口食べながら、洗濯物がたまっていたことをふと思い出した。気をきかせてダンナが洗っておいてくれたらいいなぁとつぶやいて、ふっとため息をついたのだった。  ご無理ごもっとも  私が予備校に勤めているというと、友人たちは、 「いいわねえ、カズコは。若い男の子や知的なおじさま方に囲まれて。うちの会社なんかアホな若い男と脂ぎったフケ症のおっさんばっかりで嫌になっちゃうわ」  とうらやましがる。たしかに若い男の子は、かわいいのそうじゃないのとりまぜて何百人といるし、「いひひひ」とスケベな笑い方をしながらお尻《しり》を触る、ふとどきなおじさんもいない。みんな勉学に燃えている知的な職場というイメージがある。このうえもなく安心で安全な職場である。よほどのことがない限り波風は立たない。立ちようがないのである。  朝八時までに学校に行って、まず机の上を拭《ふ》く。電話機が汚れていると嫌な顔をする神経質なおじさま先生もいるので、ダイヤルの穴に雑巾《ぞうきん》をつっこんでグリグリする。よじれているコードもきちんと直し、机の周囲にゴミ、チリの類が落ちていないように気をつける。そして先生が来るとそのつどお茶をいれる。みんな一度に来てくれればお茶くみも楽なのに、てんでんバラバラに来るから、ヘタをするとお茶をいれたり引っこめたりしているうちに、軽く一時間たってしまうこともある。会社に勤めている友人の話だと、気にくわない上司には、お茶っ葉に消しゴムのかすをブレンドしたものでお茶をいれたり、上司が会社に来て履《は》きかえるイボイボつき健康サンダルの上に、さりげなく画鋲《がびよう》を転がしておいたりしてウサ晴らしをしているらしい。しかし私には、そんなことはとうてい許されないのだ。許されないといっても、ふつうの会社の上司とOLみたいに密接な関係ができないから、恨むとかいう出来事も起こらない。表面上のおつき合いがただ延々と続いているだけなのだ。  予備校にとっては、先生も学生も両方ともお客様だから、ひねくれて考えると毎日他人にへーこらして過ごしているようなものだともいえる。先生には敬語で接しなければいけないし、生徒たちには優しいお姉さんとして接しなければならない。たまにうずうずとお腹の中にたまってくるものがあって、大声で訳もなくわめき散らしたくなることもあるが、じっと耐えている。先生受けするために着ている、花柄プリントのワンピースの陰にいろいろな苦労があるのだ。お昼が近づけば先生ひとりひとりに昼御飯の希望を聞いて、しかるべきところに注文する。それも十人が十人、みんな、 「長寿庵のきつねソバ」  といってくれれば楽チンなのに、 「私はキッチン東洋のB定食」 「南北屋のきじ弁当」 「とんとん屋のカツ丼」 「まるみ屋の鴨《かも》なんばん」  などとメチャクチャなことをいうので、十回違う店に電話しなければいけない。一発で注文できればいいけど、話し中だったりしたらそれをメモっておいて電話をかけ直す。その間にも、 「お茶をくれませんか」  と先生から声がかかる。そうこうしているうちに電話するのが遅れてしまう。先に食事が届いた先生から食事をしてもらうのだが、なかには他人が食べているのを見ると、我慢できなくなる性格の先生もいて、ふっと席を立って煙草をふかしながら窓の外の景色《けしき》を見ていたりする。平静を装いながらも、 「遅くなりましたあ、毎度ぉー」  という声がするたびに、パッとうしろをふりかえる。それが自分の注文したものじゃないとがっかりした顔をしつつ、また景色を眺《なが》めはじめる。そしてとうとう我慢しきれなくなると、 「私はあの先生より先に注文したのに、まだ鴨なんばんが来ない」  といって私のことを責めるのだ。まるみ屋に電話がかかりにくかったのも、鴨なんばんが遅いのも私のせいではない。それなのに私のあとにくっついてぷりぷり怒っている。きっと会社だったら、 「はいはい、わかりました。電話してみ、ま、す」  と、うるさそうに嫌味《いやみ》のひとつもいえるのだろうが、私の場合、他の先生にたのまれた百五十枚のプリントのコピーを文句もいわずにおとなしくやりつつ、先生のご機嫌をそこねないように、 「鴨なんばんはいかに」  と、まるみ屋にチェックをいれなければならない。先生のおっしゃることはすべて、ご無理ごもっともなのである。十二時から一時までは先生方の御食事の時間と決まっている。その間はお運びさんである。その時間をはずした十一時から十二時、一時から二時のどちらかが私の食事ができる時間なのだ。ぶつぶつ文句をいっていた先生が無事に鴨なんばんを食べ終わったからといって、私の仕事は終わらない。腹ごしらえを済ませた先生方が授業に行くときには素早くエレベーターに走り、彼が利用する階数のボタンを押してエレベーターを呼び、先生が乗るまでドアをずっと押さえておく。そして先生を乗せて、 「いっていらっしゃいませ」  と深々とお辞儀をして送り出す。よくデパートのエレベーター・ガールがわざとらしく、 「よろしくお願いいたしまーす」 「かしこまりました」  と同僚同士でお辞儀をしているが、あれと同じようなことをやるわけだ。どうしてこんなことまでやらなきゃならないのかな、と不思議に思ったこともあったが、ここに就職したときからこういうことになっていたので、私は毎日判でついたように、 「いっていらっしゃいませ」  を繰りかえしているのである。  同僚は三人いるけど、事務長とマミちゃんはいつもお弁当なので、昼食は一人で食べることになる。もう一人の男性と私が交替で食事に行くのだ。ゾロゾロ連なって食事に行くOLの姿を見ると、最初はとても淋《さび》しくて仕方がなかったけれど、今ではおじさんたちが背中を丸めてごはんをかきこんでいる定食屋に一人で入るのも平気になった。場所は予備校付近ではなくて少し遠いところにする。半径五百メートル以内にはいたくないのだ。朝から晩まで大勢の人と顔を合わせるので、自分の自由になる時間くらい、たった一人になりたい。そうしないとストレスがドッとたまって登校拒否になりそうだ。夜もいちおう五時に帰れることになっているけれど、だいたいにおいてそうはならない。アルバイトの学生が来てくれればあとのことをまかせてさよならできるのだが、そのバイトをしてくれる学生が見つからない。先生が学校に残っている間はじっと待っていなければならないのがきまりだ。授業が終わっても学生が質問している間は帰れないわけだ。あるとき、あまりに先生が戻ってくるのが遅いので、そーっと様子を見に行ったら、二十人の学生に囲まれて質問責めにあっていた。 「学生が質問しなくてもすむように、ちゃんと教えればいいのに」  とムッとしたが、私にはどうすることもできない。鴨《かも》なんばんの件じゃないけど、自分にはまったく関係ないところで起きる事件に、じっと耐えることからこの仕事ははじまる。 「残業ばっかりで、やらなきゃならない仕事が山のようにある」  友だちのOLはブツブツいうが、そのほうがぼーっと時間をつぶさなきゃならないよりも、ずっとマシじゃないかと思う。学生が質問しているのが、一時間も二時間もかかるときがある。私の一日二十四時間を彼らに勝手に使われたみたいで、ものすごくソンした気分になることが多い。先生が学生から解放されて講師室でお茶を飲み、私の、 「お疲れさまでございました」  という声でお帰りになったときにやっと私は解放されるのだ。先生にお別れのお辞儀をしたとたんに疲れがドッと出て、そのままの体勢でしばらく固まっていることなどしょっちゅうである。たまには気分転換しようと帰りに渋谷《しぶや》や新宿《しんじゆく》をぶらついていると、突然、 「あっ、講師室のお姉さんだ」  と声をかけられたりして、ギョッとする。それだけ学生もたくさんいて学校の経営は安定しているわけだが、いつも頭の中から「人の目」が離れなくて困ってしまうのである。  友だちがうらやましがるように、若い男はわんさかいて、知的なおじさまもいるけれど、ここで恋の花が咲くかというと、その確率はゼロに等しい。だいたい先生方は結婚していてヘタをすると孫までいる人もいるし、勉学に燃える青少年は、かわいいとは思うが恋愛感情はまったくわかない。同僚の男性もみんな(といっても二人だが)結婚しているから、その気になったら不倫か淫行《いんこう》に近いことになるわけである。もう一人の同僚の女の子は三歳年下だが、しっかり婚約者がいるので学校に誰がいようが興味がない。もしかしたらおじさま先生のかつ丼《どん》や鴨《かも》なんばんの世話なんかしているうちに、ハッと気がついたら自分も先生方と年齢がたいして変わらなくなっているのではないかという恐怖も、最近はふつふつとわき起こるようになった。感情を表に出さないようにしても、長く人生を送っている先生方にはそれがわかってしまうらしくて、三か月に一度は、 「いつもお世話になっているから、食事でもどうですか」  とお誘いをうける。先日は学校で一番人気のある先生から声がかかった。予備校の先生も大変で、人気のある先生は週に何時間も授業があるし、ギャラもいい。しかしそうじゃない先生は授業数も減らされて、あとはクビになるのを待つのみという悲惨な結果が待っている。私の隣の席にいる同僚のマミちゃんに、 「どうする?」  ときいてみた。すると彼女がにっこり笑って、 「ご一緒します」  といったので、私も行く気になった。すると私たちから約五歩後ろに、同僚の男性二人が立っていた。そっと先生の顔を見ると、私とマミちゃんだけに視線がむけられている。  おととい第三子が生まれたばかりの事務長が頭をかきながら、 「いやあ、申し訳ありません。気を遣っていただいて……」  といった。  私より三つ年上の男性も、 「ボク、すぐ仕事を片づけますから」  と横から口をはさんだ。 「えっ、君たちも来るの?」  先生は一瞬不愉快そうな顔をしたが、すぐ気をとり直したように、 「そうか。君たちが今日、暇でよかったなあ、ははは」  とちょっと悲しげに笑った。フランスの家庭料理を食べさせてくれるレストランに入り、私たちはたらふく食べさせてもらった。事務長はしこたまワインを飲んで、 「センセ、センセは人気があります! すごい! あれだけの学生をひきつけられるなんて、すばらしいことですなあ。どははは」  と上機嫌で先生を誉《ほ》めちぎった。 「いやあ、そうかね。ふふふ」  先生のほうもそういわれてまんざらでもなさそうだ。私とマミちゃんはただひたすら、にこにこと周囲に愛嬌《あいきよう》をふりまきながら食べるだけである。そしてお腹いっぱいになって、みんなそれぞれ気持よくなって、さようなら、というのがパターンである。すべてが穏便《おんびん》にとり行なわれるのだ。  波風のたたない毎日は、ショックを受けることはないが、ちょっと面白味《おもしろみ》には欠ける。私はこういう環境で四年間過ごしてきたのだ。ところがあるとき、たのまれて次の授業に使うプリント二百枚を必死にコピーしていたら、何となく背後に人の気配を感じた。ふりかえるとそこには一人の中年の先生が立っていた。ちょうど私のお尻《しり》あたりに視線がむけられていた。お互いギョッとしたが、それをとりつくろうようにへらへらと作り笑いをしてしばらく見合っていた。 「あの、何か……」 「はっ、えーと、えーと、ですね。お茶をいれようと思ったんですけど、お茶っ葉がどこにあるかわからなくて……」  彼は汗を顔に吹き出させながらいった。 「あら、まあ。ちょっとお待ち下さい。おいれします」  私も平静を装い、手早くお茶をいれた。お茶がのみたいといった手前、お茶を目の前にして彼はおとなしく講師室の自分の椅子《いす》に座っていた。中肉中背で顔立ちも別に特徴がなく、人ごみの中にまぎれても何ら目立つことのない存在感のない人だった。彼はいつもちょこちょこと、まるでゼンマイじかけの人形みたいに歩いていた。その姿を見るたびに、私は内心、 「人気のある先生とそうでない先生は、歩き方を見てもすぐわかるわ」  と思っていた。先日食事に誘ってくれた先生は堂々と胸を張って悠然と歩いている。眼にも輝きがある。しかしこの先生はいつも廊下の隅のほう、隅のほうを歩いている。まるで、「すいません、すいません」といいながら歩いているみたいだ。現に彼は人気がなくて、次期また授業があるかどうかわからないといったアブナイ状態なのである。 「あいつ、生徒に受けようとして、ヘタクソな駄ジャレを連発するもんなあ。情けないよ」  学生が彼のことを哀れんでいるのを耳にしたこともある。先生のギャラが一講義で一万何千円からン十万まで差があるのも、ちょっと気の毒ではある。つまり彼は先生の中の落ちこぼれなのだった。  その落ちこぼれは、どういうわけか私にすり寄ってきた。マミちゃんだっているのに、何だかんだと私に用事をいいつけた。内心嫌だなあと思っても、例のご無理ごもっともがまかり通る場所だから、たのまれたことは何としてもやらなければいけないのだ。私は忙しいのに何の役に立つのかわからない参考書のコピーだの資料のファイルだのをやらされた。そして十日目、彼から、 「今日、ヒマ?」  というひとことをいわれたのだった。あいにく私はその日、ヒマだった。おまけに男性二人は残業、マミちゃんは病欠で、さっさと一人で帰ろうとしているところを狙《ねら》われたのである。 「ええ、まあ……」  そう答えながら、何で用事がありますといわなかったのかと悔やんだ。 「そう。ちょっと食事しない?」  私は首うなだれて、ちょこちょこ歩く彼の後ろをついていった。わざわざ山手《やまのて》線に乗って、私が帰るのとは反対方向の、ターミナル駅でも何でもない駅で降りた。「ボク、学生時代、このへんに下宿してたんだよ」  そういいながら彼は住宅地の中にある、庶民的なレストランに入っていった。そこでビーフシチュー・セットなるものを食べた。早く帰りたかったけど、相手が先生だと邪険《じやけん》にできないのがとてもつらい。もしかしたら彼は、単に私と食事がしたかっただけなのかもしれない。それをあれこれ気を回すのは、よくないわ、などと思ったりもしたが、やはり私のお尻《しり》をじっと眺《なが》めていた目つきがおぞましく脳裏にやきついていた。おびえながらデザートを食べ終わると、彼は、 「まだ時間いいでしょ」  といった。ここでも私は、 「帰ります!」  ときっぱりいえなかった。きっとマミちゃんだったらさっさと帰ってしまうだろうが、妙な分別ができてしまった私は、どうしてもそういうことができない。 「はあ……まあ……」  彼は支払いをすませ、 「ちょっと歩こう」  といった。このへんに公園か遊歩道でもあるのかと思ったら、単にそこいらへんを意味もなくグルグルと歩きまわっただけだった。別に話をするでもなく、ただ私たちは足をたがいちがいに出していた。突然、私の目の前に赤やピンクのネオンがチカチカと出現した。ホテル街だ。驚いて立ちすくんでいると、彼は薄物の衣をまとった半裸の女性像と小便小僧を入口に並べて置いてあるホテルを指し示しながら、 「あのね、ここビデオが豊富なんだ。ちょっと休んでいかない?」  とにじり寄ってきた。私は腰をひきながら、 (ビデオが豊富ってどういうことだ)  と必死になって考えていた。自慢じゃないけどこういう場所に足を踏み入れたことは一度もない。だから先生のお誘いのことばに、どういう意味があるのか皆目《かいもく》見当がつかなかった。呆然《ぼうぜん》と立ちつくしたまま、先生の顔を見ると目つきが変わっていた。いやらしい目つきではなくてどこか焦点が定まらない、ボーッとした目つきだった。緊張しているのか両手のこぶしをギュッと握りしめ、仁王《におう》立ちになっていた。ホテルの前で顔をこわばらせて互いに見合っている私たちを見て通り過ぎるアベックはクスクス笑っていた。ペラペラ喋《しやべ》るわけでもなく、ビデオが豊富といったきり、先生は口をつぐんでいた。明らかにこのような状況に慣れていないようだった。 (夫婦生活がうまくいってないのかしら。人気がないのを気にして、自暴自棄《じぼうじき》になっているのかしら)  いろいろな思いが頭の中をかけめぐったが、ホテルに入るなんてまっぴらだった。 「嫌です! すみません」  いってしまってからまた、どうしてすみませんなんていったんだろうと悔やんだ。そのとき先生の両手がぷるっとふるえた。そしてハッとした顔をして、 「そうだね。ごめんね、ごめんね、ごめんね。このことは忘れて下さい、ごめんね、本当にごめんね。コーヒーならつきあってくれるよね」  と早口でいって、早足でそそくさとその場を立ち去っていった。私も小走りで後を追いながら、一瞬にして彼の頭の中に湧《わ》き起こったことを想像した。自分は人気がない。クビ寸前である。そのうえ予備校の職員に手を出したことが知れたら、真っ先に切られるのは目に見えている。 (あれだけごめんねを連発するんだったら、こんなとこに来なきゃいいのに)  中年のおじさんの心理も不可解なものだと思った。  先生はいつもより速いぜんまいじかけの歩き方で、ちょこちょこ歩いていった。そして駅前ビルの一階にある喫茶店に入ってちょこんとソファに座った。私がはあはあしながら後を追ってきてもこちらを見ようとしなかった。おしぼりで顔と首をぐりぐりふいたあと、また彼は、 「ごめんね。ごめんね。冗談だったんだよ。本当にごめんね」  と小声でいった。相変らず私のほうを見ようとしないでうつむいたままだ。 「はあ……」  気にしないで下さいともいえないし、あんたなんか嫌いよともいえないし、あいまいな返事をするしかない。彼は黙ってウエイトレスが運んできたブレンド・コーヒーをそのまま一気にグイッと飲み干した。 「さあ、帰ろう」  カップを手にとってあっけにとられている私を置いて、彼はさっさと伝票を手にして席を立ってしまった。私はまだ一口しかコーヒーを飲んでいないのだ。 (何て勝手な奴《やつ》なんだ)  学校では、はいはいと何でもいうこときいてやるが、勤務時間以外はそうはいかないんだ! これからは何事に対しても怒るようにしようと、ちょっとした決心もしてしまった。駅に着くと、先生は、 「じゃあ」  と、こっちを見ないで片手を上げて、京浜東北線に乗っていった。よくドラマではこういう場面はあるが、まさか私が巻き込まれるとは思わなかった。 「人生、何が起こるかわからない」  私は感心したり納得したりしながら、山手線に揺られていたのであった。それから、たまに学校で彼の姿を見かけることはあったが、絶対私のそばに寄ってこようとはしなかった。いつも隅っこのほうでコソコソやっていた。いたずらしたノラ猫がこっちを気にしながら目を合わせないようにしているみたいだった。そして先生にとってはまさに踏んだり蹴ったりなのだが、あまりに授業が不人気のため、とうとうクビが決定してしまった。マミちゃんにエレベーターのところまで見送られ、 「どうもありがとうございました」  という声を背中に受けて、ガックリ肩を落として去っていく姿を見かけたのが最後だった。先生は大殺界《だいさつかい》のまっただなかだったのかもしれない。  四年間、何の波風も立たずに勤めていた私に起こったこの事件がきっかけで、これからも何か起こるかもしれない、と期待してしまうようになった。先生の件はちょっと問題が多かったが、後になってみると結構面白かった。先生には悪いけど、その場面その場面の彼の表情を克明に覚えていたので、いろいろと楽しませてもらった。 (このくらいのことは、あったっていいわ)  マミちゃんにもいえないこのことを、私は勤務中に思い出して気分転換をしていた。最初はこれだけで新鮮な気分になって、面倒くさい先生方のお世話も苦にならなかったが、時間がたつにつれてだんだん事件の新鮮味も薄れ、エレベーターでの、 「いっていらっしゃいませ」  と、昼御飯のチェックに追われる日々に舞い戻った。その日はいちばん神経質な先生が注文したエビフライ定食の大盛りが手違いで届かずに、ヒラメフライ定食が来たといって大騒ぎになった。ふつうはこんなこと騒ぎにならないのだが、先生がブツブツ文句をいい出して、やり場のない怒りを私にぶつけたのだ。 「ちゃんと注文したんだろうね」  と冷たい目で私のことを見る。これが参考書とか貴重な資料だったらまだしも、原因はたかがエビフライ定食の大盛りだ。他の先生方が苦笑いしながら、 「こういうこともありますよ」  ととりなしてくれても、いつまでもブツブツいっている。最後は仕方なさそうにヒラメフライ定食を食べていたが、お茶を熱いのに替えようとしたら、ひとりごとみたいにして、 「エビフライが食べたかった……」  と、まだ懲《こ》りずにブツブツいっている。 (そんなに食いたきゃ食わせてやる!)  近所の惣菜屋《そうざいや》に行ってエビフライを山ほど買ってきて、顔面に投げつけてやろうかと思った。それからその先生は昼御飯を注文するたびに、 「私は、エビフライ定食の大盛りです。いいですか、エビフライ定食の大盛りですよ」  としつこくしつこくいうようになった。未だに私が間違えたと思っているらしい。教育者は歳《とし》をとると、とても鷹揚《おうよう》になるタイプと、細かくセコくなるタイプと二つに分かれるようだ。まるで子供みたいになってしまう先生もいて本当に困ってしまう。子供ならいっときゴネても他に興味がひかれるものが出てくると、パッとそちらのほうにいってしまうからいいけど、あの先生のようにいつまでたっても、エビフライ定食が食べられなかったことを末代まで恨《うら》みみたいにいわれると、 「これでも国立大学を出た教育者か」  と情けなくなってくる。でも勤務中はご無理ごもっともで、ははーっと平伏《ひれふ》すしかない。笑顔を絶やさず、何でもいうことをよく聞き、先生方にいい気分で授業にのぞんでいただくようにしむけるのが私の役目なのである。ムチを使わない猛獣使いのようなものかしらと想像することもあるが、猛獣が皆さまに喜んでいただくような実績をあげても、私には直接何の関係もない。立場上、学生たちが無事学校に入れればいいなと思うけれど、受験シーズンになるとちょこっと考えるくらいで、そんなこと年がら年じゅう頭の中にあるわけじゃないのだ。十一月、十二月は模試があるから日曜日も休めない。振り替えで平日に休めることにはなっているが、実際そんなことはできないに決まっている。過去四年間、十一月、十二月の日曜日に休んだことがないのだ。私の日々の心の安らぎは、お茶をいれたり書類のコピーをしたりして先生のところに持っていったときや、学生たちに事務の手続きをしてあげたときにいわれる、 「ありがとう」  ということばだけである。その「ありがとう」に助けられて四年間、波風の立たない職場にいたといってもいいくらいだ。だけどもう「ありがとう」だけでは、私のストレスはなかなか解消しなくなってきた。すさまじい激辛《げきから》の刺激は困るけど、ちょっとした刺激くらいないとつまらない。  あのときは仰天したけど、血迷ってホテルに誘った先生は自分を見せてくれたような気がする。クビになってしまって残念だったなあ、とちょっぴり思ったのだった。  変なひと  私は同僚のOLからすこぶる評判が悪いようだ。会社の男子社員、特に独身社員と笑いながら話していたりすると、どうも私をとりまく雰囲気がだんだん硬くなっていくような気がする。そっと女子社員のほうを見ると、口を真一文字《まいちもんじ》にキッと結んで目をむいて私をにらみつけている人がいたり、二、三人で固まってはこっちをチラチラ見ながらごそごそいっている連中もいる。きっと、 「やーね、また男に手を出してるわよ」  などといっているんだろうが、私は全然気にしない。いっそ陰口をたたいている彼女たちの前で、 「うらやましいでしょ。どんなに悪口いわれたって、あたし平気だもーん」  といってやろうかと思っているくらいだ。 「男と見ればすり寄っていく」 「いろんな仕事をさせてもらえるのも、上司に肉体を提供したに違いない」  ヒラヒラと風に乗って、こんなことばも耳に入ってきた。最初のころは少し落ちこんだりもしたが、いいたい奴らにはいわせておくことにした。 「つまり、あなたたちは私に嫉妬《しつと》してるんでしょ」  そうグサッといい放って、彼女たちのド肝《きも》を抜いてやりたいが、うるさいスズメたちは無視するに限るのである。  だいたい同僚の女子社員たちとは、どうもウマが合わない。私は二十五歳で年齢的にはほぼ真ん中の位置にいる。四十五歳を筆頭に四十二、三十八、三十五、三十一、私が二十五、二十二、二十、十八が二人といった構成だが、妙な派閥ができているのが不気味《ぶきみ》である。まず四十五と四十二が仲が悪い。どうやら、いかにもおばさんといった風体の四十五は、スリムで若々しい四十二の美貌《びぼう》が気にいらないようだ。同じ経理の仕事をしているのだが、一日じゅうほとんど口をきかない。たまに話をしているかと思うと四十五が、 「そんなにきれいなお洋服がボールペンで汚れたら大変だから、私がするわ」  と嫌味《いやみ》たっぷりに仕事を横取りしている。しかし美貌の四十二も負けてはおらず、 「あーら、それはどうも。そういえばスギモトさんって、いつも『とっても働きやすそうな格好』していらっしゃるものね」  と、嫌味を放射しかえしている。二人がことばをかわしているだけで、冬場の静電気みたいにパチッと火花がとびそうだ。こんな二人だが、実は三十八の女性が気にくわないということでは意見が一致している。彼女は結婚していて夫は小さな会社を経営しているらしい。たいした用事もないのにいつもキャリア・ウーマン風にみえるスーツに、シルクのブラウスを着てくる。バリバリの営業担当ならともかく、別に外回りをする仕事でもないのにアタッシェ・ケースまで持ってくるのには驚いたし、よせばいいのに彼女は、何かといえば結婚していない人は性格がキツイだのと、四十五と四十二の神経を逆撫《さかな》でするようなことばかりいうのである。三十八がいい気になって喋《しやべ》りまくっているとき、二人は何もいわない。黙々と仕事をしているように見えるが、よく見るとボールペンを持っている手がワナワナとふるえていたりする。たとえばこういうとき、 「うるさいわね、あんた」  とか、 「ふざけんじゃないわよ」  と、全面対決にもちこんでその場で発散してしまえばいいのに、彼女たちはもっと陰湿な手を使うのだ。三十八のところにかかってきた電話は、私用社用問わず絶対に取り次がない。三十八が外出から帰ってきて、机の上に伝言メモがないのを見て、私に、 「電話なかった?」  と聞いたことがある。相手との話の感じからしてスギモトさんが電話を受けたみたいだったので、 「スギモトさんが電話……」  といいかけると、机の上の帳簿から目を離さず、 「あたし、受けてません!」  とキッパリという。 「何もなかったみたいよ」  美貌の四十二もそばから口を添える。おかしいなぁと思いつつも、私も電話を受けてないし、とりあえずその場は納得《なつとく》せざるをえないのだが、実は彼女たちはイジワルをして伝言しなかったのが、あとから判明するのである。そのたびに三十八は友人との食事をフイにしたり、取引き先から怒られたりして、赤くなったり青くなったりした。伝言をしない二人の態度もどうかと思うが、あれこれ神経を逆撫ですることばかりいう三十八にも問題が多いので、私としてはどっちもどっちという気分だ。こういう人たちと仲よくしたいなんてちっとも思わないのは、わかってもらえるだろう。  あまりに先輩がダイナミックなので、三十五の女性はいるのかいないのかわからないくらい、異様におとなしい。たまに、 (この人、生きてんのかしら)  と恐ろしくなる。たまに笑い顔を見せても目が笑ってなかったりして、この点もちょっとコワイのだ。ただ「おはようございます」「お先に失礼します」をきちんというので、影はうすいながらもみんなに一目置かれているのである。三十一と二十二は仲がいい。三十一は、年齢が上の人と仲よくしようと思っても、あまりな人物ばっかりなので、ついつい後輩のほうにすり寄っていく。私のことは嫌いみたいなので、二十二の子にぺったりくっついているのだ。 「へー、その歳《とし》でもうアイ・クリームを塗ってるの。どこのメーカー? ふーん。そういえばすごく肌がきれいだもんね」  とか、 「今日の服、素敵ね。どこで買ったの? 南青山《みなみあおやま》かぁ。ねぇ、お店の場所教えてくれる?」  といってあとをくっついて歩く。二十二の子は嫌な顔ひとつしないで、あれこれ面倒を見てあげたりしている。まあ、うちの女子社員のなかではいいコンビなのだろうが、三十一が必死に若返りのノウハウを聞き出している感じはいなめない。歳の若いのは若いので、これまた不可解でついていけない。毎日、井森美幸と山瀬まみと野沢直子とつき合っているようなものだ。十八の二人と二十の三人はいつもつるんでいて、食事もトイレもみんな一緒だ。おそろいのピンクの大きな髪どめをつけて、ぺたぺたあひるみたいに歩いているのを見て、 「いいかげんにしろ!」  と後ろからドつき倒したくなったことなど一度や二度ではない。一見、 (こんなのが社会人になってやっていけるんだろうか)  と不安になるが、それなりに仕事をやっているのはなかなか立派である。ただ歳をくっているだけで何の役にもたたない人だっているんだから、この点は評価しよう。だけど取引き先の声しか知らない若い男子社員に、電話で、 「ター坊、元気ないじゃん。なにィ、ふられたのォ、やってらんないじゃーん」  などと平気でいっているのを聞くと、目の前が真っ暗になる。朝は、 「おはよーグルト」  といいながら始業五秒前に手に手をとってやってくるし、帰りは帰りで、 「さいならっきょ」  とご挨拶《あいさつ》して会社を出ていく。一番最初に「おはよーグルト」を耳にした社長は口をあんぐりとあけたまましばらく元に戻らず、放心状態だった。次長が鼻を真っ赤にして、 「何だそれは。ここは会社で学校じゃないんだ」  と怒ってもニコニコしている。そしてトイレで、 「あいつマジになってやんの」  とクスクス笑っている。見るからにあばずれといった女の子がそういうのならわかるが、彼女たちはふつうのかわいい子である。私ですら最近になって、 「電話あったよ!」  という、まるで家族に話すような口調にもやっと慣れてきたのだから、社長や次長はいまだに頭が痛いに違いない。彼女たちが入社してきた時は、私ともけっこう仲がよかった。しかし彼女たちが憧《あこが》れていた男子社員とお酒を飲んでふざけて私が腕を組んで歩いていたのを目撃されて、それ以来口をきいてもらえなくなったのだ。  冷静に考えてみると、とどのつまり、うちの女子社員は変な奴《やつ》ばかりなのだ。若いころは顔立ちがかわいらしくて、きっと優しい子なんだろうなと信じていたのに、実はとんでもなく根性がねじ曲がった腹黒い女だったりしてビックリすることもあるが、女も三十歳すぎると性格がみごとに顔に現れる。それを証明しているのがわが社の女子社員なのである。いやいや行った伊豆の社員旅行のときの写真を友だちに見せたらば、たったひとこと、 「悪魔の館《やかた》」  といったくらいだ。四十五は堂々と横綱の土俵入りのような姿で仁王《におう》立ち。美貌《びぼう》の四十二は「美しく写真に納まる方法」の定石《じようせき》どおり、体を斜めにかまえてツンとすましている。 三十八はこの二人と離れてカメラのレンズとは全然関係ない方向を眺《なが》め、三十五はそのうしろに背後霊のように、のそーっと立っている。三十一と二十二はぴったりと寄りそい、二十と十八の三人組はおそろいのでっかいリボンを結び、これまたおそろいの赤いポロシャツ姿で、幼稚園のお遊戯みたいなポーズをしている。そして私はまわりを男性社員に囲まれてニッと笑っている。堂々たる女子社員の横で男子社員はみな小さくなっている。うれしそうに笑っている奴《やつ》なんかほとんどいない。ただみんなで写真を撮っただけなのに、どうして会社の内情がバレてしまうのか不思議だった。この写真が物語っているとおり、変な奴だらけの女子社員たちを中心に、なすすべもなく男子社員がオロオロしているのが、わが社の実態なのである。  こんな中で私が男子社員から人気があるのも、我ながらうなずける。まず、私の中には男とか女とかの区別がない。世の中にいるのは好きな人間と嫌いな人間の二種類だけである。根性の悪い先輩と仲よくするのはゴメンだし、後輩からは嫌われてしまったので、あとは男子社員と仲よくするしかない。でも私が楽しそうに話をしていると女子社員たちはますます憎たらしく感じ、そしてまた私は嫌われて男子社員とより親しくなるというしくみになっているのだ。男子社員と話すのが別に私の独占マーケットになっているわけじゃないし、彼女たちも普通に彼らとふざけたりしている。なのに私は、 「男好き」  だの何だのと、ブツブツいわれなきゃならない。どうやら彼女たちは、社内だけではなく退社後も彼らとジャレ合いたいのに、そういうチャンスが私にしかめぐってこないのが面白くないのだ。しかし彼らにしてみれば、せっかく誘っても、彼女たちみたいに、奢《おご》られるのが当然とパカパカ食べてジャンジャン飲み放題ではやっていられない。 「やっぱし車くらい持ってないと、つき合う気になんないわよねー」  と、まだ低賃金の若い男性社員にショックを与え、そのスキにまた大酒を飲む。あげくの果ては誰彼かまわずからみだし、 「いいかげんにしろよ」  といわれようものならピーピー泣く。駅までひきずって行く途中でゲロリンはするわ、体を抱えあげようとすれば、 「酔わせて何かしようと思ってるんでしょ」  とにらみつける。もちろん「ごちそうさま」なんていったことはない。こんな女の子を何度も誘いたいという男の子がいたら、そっちのほうがおかしい。彼らが女の子と楽しくお話ししたいと考えているのに、彼女たちは周囲のことなどまるで気配りすることなく、ハイペースで勝手にできあがってしまうのだ。自慢じゃないが、私はその点きちんとわきまえている。正直いって、飲もうと思えば日本酒一升は軽くこなせるが、もちろんそこまで飲まずにほどほどで切り上げる。明るく楽しく飲んで男子社員のグチを聞いてあげて、最後はにっこり笑って、 「ごちそうさま」  のひとことを忘れない。年下の男の子の場合は必ず割勘《わりかん》にする。もちろん、ゲロリンなんてもってのほかである。このような謙虚な態度だからこそ、私には何度もお声がかかるのだ。私のことを「男好き」とののしる前に、自分たちはいったいどういうことをやっているのかを、胸に手を当てて考えてもらいたいものだ。じとじとして気のきかない女の子といるよりは男の子といるほうがずっとマシだ。だから平気で、 「きょう映画に行かない?」  と誘える。するとそれを耳にしたとたんに女どもはキッと目尻《めじり》をつりあげ、お互いに目くばせして、 (いやーね)  というような顔をする。特に四十五などは、心底私を小馬鹿《こばか》にしたような目つきになる。体調の悪いときはちょっとそういうリアクションに落ちこむときもあるが、 (私は男好きだが陰険ではない!)  と心の中で叫びながら、ヒールをカッカッいわせて社内を歩きまわっているのだ。  特に若い女の子たちは、自分たちの手の届く範囲内の男の子と関わりあうと、すさまじいくらいの反応を示す。わが社の、殿様不在の大奥と似たりよったりの社風は、新入社員の男の子がみんな優しいことにも問題がある。外見は大魔神みたいでもいいから、ぐにゃぐにゃして陰険で図々《ずうずう》しい女どもにぐわっと一喝してくれるような神経の図太い男が入ってくれば、雰囲気も変わるだろう。しかし毎年入ってくるのは、女からガッと文句をいわれたら、へなへなと腰くだけになり、目にいっぱい涙をためるようなタイプばかりなのだ。みんなおっとりしていてとても人がいい。二、三か月前、出社したら、すでに机の上は雑巾《ぞうきん》でふかれ、ゴミもきちんと捨ててあった。あのおリボンシスターズも少しは反省したな、と台所をのぞくと、そこにはおリボンシスターズと同期入社のオサム君が、カチャカチャ音をたてながら茶碗《ちやわん》を洗っているではないか。 「おはようございます」  アワだらけにしたスポンジを握ったまま彼はきちんとご挨拶《あいさつ》をする。間違っても会社で、 「おはよーグルト」  なんていわない。 「お掃除したの、あなた?」 「はい、そうです。これも新入社員のつとめですから」  そういうとまた水をジャーッと出して、手際よく茶碗を洗いはじめる。 (まったく、あのおリボンどもは何をしてるんだろう)  イラついて待っていると、始業時間ギリギリに三人連れだってやってきた。私のほうをチラッと見ると、面倒くさそうに、 「おはよーグルト」  と、けだるくいった。そしてオサム君が台所にいるのを見ると、 「あー、オサム! あんたなかなかやるじゃん。いい心がけだねぇ。そういうことやる男の子って、きっと、いいダンナになるよ」  なんていってる。そしてあとの二人も、 「いい、いい」  と自分たちが楽できるものだから、一生懸命|誉《ほ》めちぎっている。ここでオサム君が、 「君たちも手伝ってくれないかなぁ」  くらいのことをいえばいいのに、情けないかな、彼はポッとほおを染めて、 「でへへ」  と照れているのだ。誉められて彼もうれしかったのか、今度はお茶までいれはじめた。  仰天したのは年配の社員たちである。 「おっ……キミがお茶を……」  次長はそういいながら、おリボンシスターズのほうにそーっと目をやった。しかし彼女たちは知らんぷりしてワープロを打っている。これだけなら社内の雰囲気として、 「ちょっと変な気もするけど、まっ、いいか」  という感じになったのだが、突然四十五がいい放ったことばで空気は一変した。 「そんなことちまちまやる男なんて、出世しないわよ!」  空気中に「しらーっ」という字が浮き出るくらい、社内はしらけてしまった。みんな顔が固まったまま何もいえなくなった。かわいそうにオサム君は、紺地に白の水玉模様の茶碗をお盆にのせたまま、真っ赤になってうつむいてしまった。 (かわいい職場の花に何ていうことを……)  自分は勤続年数が多いのをいいことに、遅刻の三十分、四十分は当り前。机や床が汚れていたら、さっさと掃除すればいいのに、わざわざ無抵抗主義者の三十五や三十一に、 「雑巾《ぞうきん》持ってきてよ」  と命令する。そして自分はその場に仁王《におう》立ちになったまま、汚れた部分を指さして黙っているだけ。 (許せない……)  怒りと共にオサム君への憐憫《れんびん》の情がふつふつとわいてきた。おリボンシスターズにおだてられ、四十五に地獄の底に叩《たた》きつけられたかわいそうな彼。私はどうもこういう男の子を放っておけないタチなのである。  会社の帰り、足をひきずってトボトボ歩いているオサム君に、 「ねぇ、急いでる?」  と声をかけた。 「あっ、いえ、別に」  職場の花は気弱そうに笑った。 (かわいそうに。まだショックから立ち直れないのね)  じっと顔を見ていたら、彼はポッとほおを染めてもじもじしはじめる。 (かわいーっ)  私は仔羊《こひつじ》のようなオサム君を連れて、ワインがおいしいこぢんまりしたビストロに入った。運悪く、入るところを三十一と二十二に見つかって、露骨に嫌な顔をされてしまった。 「また会社でいろいろいわれるかもしれないね」 「いいじゃないですか。放っとけばいいんですよ」  と彼はめずらしくきっぱりといった。なかなかこういうところは男らしい。私たちはまわりが全部カップルというなかで、お互い微妙な感情を抱きながら、ワインを飲んだりパスタを食べたりした。一時間半ほどしたら突然彼の様子が変わってきた。どうも酒に弱い体質だったらしい。目がトロンとすわってきて、 「ぼくはあのブタが嫌いです」  と四十五をののしりながらテーブルをどんどんと叩く。やっぱり彼にも怒りという感情はあったのだ。 「それに、あの毎日|派手《はで》な服をとっかえひっかえしてくる、もう一人の経理の人! 何ですかあれは。たしかに美人ですけど、彼女には年齢相応のゆとりっつーものが顔に出てないんです」  結構するどい発言が続々と出てきた。 「ふんふん、それで」  相槌《あいづち》をうちながら話をひき出していくと、出るわ出るわ。おリボンシスターズの、 「おはよーグルト」を聞いて、鼻を真っ赤にして怒った律義《りちぎ》な次長が、いやがる飲み屋のママさんの胸に顔をうずめようとして、しゃもじで思いっきり横っつらをひっぱたかれたとか、終電がなくなって先輩のアパートに泊めてもらったとき、布団《ふとん》のスキマからチラッと見えたのは、ダッチワイフの「南極Z号」に違いないとか、想像もつかないことが次から次へと暴露された。彼は身をのり出しべらべら喋《しやべ》りまくっていたが、ある一瞬フッと我に返るらしく、 「この話、ここだけにしといて下さいね」  とそのときだけいつもの気弱なオサム君になった。  キリがないので、目のすわったオサム君をひきずって外に出た。 「どーも、すみません。ボクはミドリさんが大好きだなぁ。いや、どーも、どーもお世話になります」  彼は歩道の銀杏《いちよう》の木にむかって話しかけている。 「あ、ボク一人で歩けますから」  私の手をふりきって彼は頼りなさそうに歩いていった。あわてて後をついていったら、何と彼は、よたよたとラブホテルの中に入っていってしまった。 「オサム君、オサム君」  入口から小声で呼んでも彼が戻ってくる気配《けはい》はない。相手が酔っていることもあるし、ま、あとのことは部屋で考えようと、私も腹をくくって彼のあとを追った。彼はふつうのホテルとたいして変わらないインテリアの室内を一瞥《いちべつ》すると、歩幅二十センチでベッドに歩み寄り、 「ぼく……寝る……」  といってそのまんま、うつぶせに倒れこんでしまった。 「えーっ」  あわてて時計を見ると、十時を少しまわっていた。ここでヘタに寝られて夜を明かすことになったらマズい。週末ならともかく、明日も会社に行かなければいけないのだ。 「ちょっと、ちょっと」  肩を揺すってみても、彼は、 「うー」  とうなったままつっぷしている。 「ねぇ、寝ないでよぉ」  そばにあった枕で頭をパコパコ叩《たた》いてみた。 「明日も会社があるでしょうが」 「うー」  返ってくる答えは「うー」だけである。これは少々手荒な手段を用いても起こさなければいけない。まず力まかせに下の毛布をひっぱってみた。毛布はとれたが彼はつっぷしたままだ。今度は布団をひっぱってみた。彼はごろっと転がったもののベッドの上である。「おーい、寝たら死ぬぞ!」  耳元でささやいてやった。返事はやっぱり、 「うー」  だった。私は毛布と布団の端を持って呆然《ぼうぜん》としていた。こうなったらイチかバチかだ。私はベッドの上で毛布と布団で彼をぐるぐる巻きにして、そのまま床の上にドーンと落とした。そしてその上に馬乗りになり、 「起きろー、起きろー」  と、両足で締め上げてわめき続けた。 「あたたたた」  やっと彼はぐるぐる巻きの毛布と布団の中から這《は》い出してきた。 「ほら! 帰らないとダメ」  まだ眼が半開きになっている彼の手をとって、タクシーをひろってアパートまで送っていった。こんなに気を遣っているのに、きっと明日会社に行ったら、またみんな冷たい目で私のことを見るんだろう。でも私は、 (男好きだが陰険ではない)  ということばさえあれば、強く生きていけるのである。  案の定、次の日の女子社員の目は冷たかった。おリボンシスターズは、オサム君をつかまえて、 「ねぇ、何があったの?」  と話をきき出そうとしていた。 「きのうはすみませんでした」  かわいい職場の花は相変わらず素直である。 「今度、うめあわせしますから」  彼はとても恐縮していた。こういうところもかわいい。 「気にしないで」  といいながらも、実は彼が何をしてくれるのか、ちょっぴり期待していた。  その週の土曜日、寝起きの髪のまんまで、父親が観《み》ている「お昼のニュース」を横から眺《なが》めていたら、母親があたふたと居間に入ってきて、 「ミドリちゃん。何か、人のよさそうな男の子が車に乗って、家の前でにこにこしてるよ」  という。そっと窓から見るとオサム君が家の中に入ろうとするところだった。あわてて髪をなでつけて玄関で待機していると、オサム君がかすみ草の花束を持ってやってきた。 「これ、このあいだのお礼とおわびです。花ってあんなに高いって知らなくて、だからこんなふうになってしまいました」 (かわいー)  どんな花でももらうのはうれしいものだ。私はありがたくそれをいただいた。 「さて、これからドライブに行きましょう」 「はっ?」 「ドライブです。きょうはミドリさんとドライブに行くって決めたんです」  オサム君はキッとくちびるを結んでいた。私は彼の迫力に押されて、よくわけがわからないまま車に乗りこんだ。 「行き先は伊豆《いず》です」  いやいや社員旅行に行った所だ。 「どうして?」 「ボク伊豆しか行く道を知らないんです」 「…………」  ともかく今日はおとなしくついて行こう。しかしあっちこっちでつっかかり、私たちはドライブ・インで軽くおやつを食べただけであとは緑を眺めることもなく、ただずっと車に乗っていた。車内で彼は自分のことをよく喋《しやべ》った。子供のころから剣道をやっていて、今は二段であること。毎朝五時に起きて素振りをやるのが日課になっていること。だから朝出社しておそうじするのも苦にならないといった。 (森田健作みたいな奴《やつ》だなぁ)  彼は剣道のことになると目の色が変わっていた。いろいろと話してくれるのだが、私にはチンプンカンプンで何が何だかわからない。剣道といえば高校生のときに部の防具が置いてある場所を通りかかったら、鼻が曲がりそうに臭かったという記憶しかないのだ。 (かわいいけど、まだまだ子供ね)  私は母の気分になって、あまり気のりのしない話も、うんうんとうなずいて聞いてあげた。私たちの目の前には夕日が沈んでいくところだった。熱愛のカップルだったら、 「まあ、ロマンチック」  というところだろうが、姉と弟、母と息子《むすこ》みたいな仲では、 「あれー、きれいねー」  というくらいしかない。 「あー、ボクだんだん興奮してきた」  彼はハンドルを握りながら身をのり出した。朝日や夕日を見ると興奮するなんて、ますます森田健作のノリである。 「よし! 夕日に向かって走るぞー。ガオーッ」  顔を夕日で真っ赤にしながら彼は吠《ほ》えた。月に吠えるというのは聞いたことはあるが、夕日に吠えるなんて聞いたことがない。 (変な奴……)  結局のところ女子社員だけではなく、うちの社員全員が変な奴だったみたいだ。飲み屋のママにひっぱたかれた次長、「南極Z号」を所有しているらしい独身社員、森田健作のノリの職場の花。どの人もちょっと問題だが、女どもにくらべて何とかわいらしいことだろう。私はフルスピードで夕日にむかって走る車の中で、 「変な奴だが陰険ではない」  とつぶやき、やっぱり男子社員と仲よくしているほうがいいやと思ったのだった。  六月末まで  最近、私の勤めている会社では波風が立ちっぱなしである。コトの起こりは男女雇用機会均等法である。これが実施される前に入社した女子社員、つまり私の代までの女子社員は、男性の給料と差があった。ところがこの法律のおかげで私の下の女の子たちは給料に差がない。そこで会社としてはいままで男性と差がつけられていた私たちをふびんに思い、特別の退職金制度をもうけてくれるらしいのだ。この話が私たちに洩《も》れてきたとき、二十六歳以上の女子社員はみんなとっても喜んだ。 「やったあ。社長はエライ」 「どのくらいもらえるのかしらねえ」 「均等法で入ってきた子は、給料がいいかわりそのぶん退職金が少ないんだってさ」 「そりゃ、あたりまえよ。あたしたち低賃金で我慢してきたんだもん」 「毎月ちょびちょびもらうより、最後にどかんともらえるほうがいいよね」  ロッカールームでの私たちの話題はこのことだけだった。仕事にやりがいがあるとかいうのならともかく、いずれは結婚してやめようと思っている私たちにとっては、まだ噂《うわさ》だけだったが特別の退職金制度は本当にうれしかったのだ。  私が勤めているのは化学関係の会社である。学校は化学と何の関係もない国文科である。卒論は『土佐日記《とさにつき》』である。ちなみに高校生のときの化学の成績は赤点だった。もちろんこんな具合だから化学に何の興味もない。ただ親のコネで入っただけなのだ。父親が勝手に知り合いのおじさんと話をつけて、私はいわれるままにこの会社に勤めてしまった。 「いいか、ここはちゃんとした会社だ。給料はそんなに多くはないが、取引先が大手ばかりだからまず大丈夫だ。勤務時間もきちんとしている。地味だけどこういう会社がいちばんいいんだ。仕事をしにいくんだからな」  父親はそう説明した。こんなもんでいいかなあくらいにしか考えていなかったから、正直いって待遇とかに文句はいえる筋合いじゃないと思うこともある。 「仕事はお茶くみとかコピーとりとかばかりで、四年制の大学を出た女の人にやってもらう仕事じゃないですけど、いいですか」  コネ入社が決まったあと、名ばかりの面接試験のときにいわれた。 「こういう仕事ですからね。まっ、女の人だったら結婚資金をためるために、三年くらいいれば十分でしょうね」  ともいわれた。そのときは、 「はい」  といったものの、あとから、 (それじゃあ、四年制の大学を出てない人には、そういうことをやらせても平気で、三年勤めたらやめろっていうことなのかしら)  と少し不愉快になったのだが、とりあえずは多くの女性のことよりも自分のことのほうが大切だったので、親のいうとおり就職したわけである。  入社してみたら本当に男子社員の補助の仕事だった。総務課だから仕方がないのかもしれないけど、お茶くみ、コピー取り、おつかい、トイレット・ペーパーの補充などをする雑用OLだ。しかし文句をいわずそれをやっていれば、手取りで十三万円はもらえ、年に二回のお楽しみであるボーナスも四十万円ずつはもらえる。女子社員はみんなコネではいってくる自宅通勤者ばかりだから、派手《はで》にしない限り通帳の残高はふえる一方なのだ。自分のやりたいこともよくわからないし、気合をいれて就職活動をしたわけでもないし、ただ、たらんこたらんこして今まできてしまった私には、こういう会社が結婚までの腰掛けでいるのにはいちばんいいのかもしれない。女子社員も意欲のある人などほとんどいない。結婚するまでこの会社にいてお金をためようという人たちばかりである。会社もおじいさんが多く、女の子もみんな無欲だからほとんど波風がたたない。嫌われている男の人と女の人が一人ずついるけれど、他の会社に比べれば嫌な人は少ないと思う。精神的には安定しているが面白味《おもしろみ》はない。おやつに茶まんじゅうを買ってきて、みんなで渋茶をすすりながら食べるのが日課になっていた。そこにふってわいたのが、特別の退職金制度である。これで平凡で穏やかな日々をすごしていた私たちに、少しは活気がよみがえったのである。  ところが、何日かたって社員に配られた特別退職金制度についてのプリントを見て、私たちは仰天した。もちろん自分の都合であっても、結婚退職でも退職金が支払われるのは間違いなかったが、何とそれには期限があったのだ。それも今年の六月末まで。「六月末」という文字が赤と緑のメガネをかけていないのに3Dで飛び出して見えた。あと五か月しかない。それ以降にやめると、退職金は出るもののスズメの涙よりも少ない十姉妹《じゆうしまつ》の涙なのである。 「ひえーっ」  私たちはプリントを両手で握りしめたままのけぞった。町内の掲示版に貼《は》ってある悪徳霊感商法に注意をうながす「うまい話には気をつけよう」のポスターを思い出したりした。 「あら、大変、彼に電話しとかなくちゃ」  私の隣りでボソッといったのは、当てのあるセッちゃんである。彼女はこのプリントを読んでも落ち着いていたが、当てのない私たちはパニックになった。いちばんかわいそうだったのは総務課一筋十六年の三十四歳のシズコさんだった。彼女はプリントを食い入るように見つめていたが、顔を上げたら目が点になっていた。 「何よ、これって姥捨《うばす》てじゃないの」 「ひどい、ひどい」  私たちはロッカールームでセーターをふりまわしながら怒った。 「さすがに社長も古ダヌキよね。抜け目ないわよ」  みんなうんうんとうなずいた。シズコさんは私たちの話題に加わろうとせず、部屋の片隅で、「はーっ」と力なくため息をついた。 「こういうことなら意地でもやめてやるわ。絶対に」  同期入社のミエちゃんがきっぱりといった。 「えーっ、予定あるの?」  同期の子にそういわれると、内心穏やかではない。 「ないけどさ、何とかするのよ、人間そうしたいと必死に念じれば何とかなるもんよ」  彼女は自信たっぷりにいった。  背後で不気味な声がした。名前はかわいいが腹黒い、会社の嫌われ者チドリだった。 「そういうチドリさんはどうなんですかあ」  ミエちゃんが憎々しそうにいった。 「えっ、あたし。そりゃあ男の一人や二人、二十八にもなっていないわけないでしょ」  自信たっぷりなチドリの大声を聞きながら、そーっとシズコさんのほうを見ると、悲哀のただよう背中をこちらにむけて、髪の毛をとかしていた。 「でも、みんながやめていったら淋《さび》しくなっちゃうなあ」  男女雇用機会均等法で入社してきたグループの女の子たちは無邪気にいった。 「まあ、うれしいこと。でも会社の男どもはそう思ってないのよね」  私たちは不敵に笑いながらロッカールームをあとにしたのだった。  ショッキングな仕打ちをされてから、私たちは半ば放心状態だった。会社にだまされたような気がしたし、「早くやめなきゃ、お金をあげないよ」といわれているみたいだった。鉛筆を握っていても六月末という文字がどっと脳味噌《のうみそ》に浮かんできて気分が暗くなった。どこのどいつが何を根拠に「六月末」などという期限をきめたかわからない、結婚するような相手もいないし、見合いをする気にもまだなれない、ましてや雑用ばかりうまくなったOLを今と同じ給料で雇ってくれる会社なんかあるわけない。となると、最後に待っているのは十姉妹《じゆうしまつ》の涙だけである。 (金に目がくらんで、あせってやめるなんてよくないわ、やっぱり)  と自分自身を落ち着かせようとしても、雑用もろくにできない後輩たちが、男子社員と同じ給料をもらっているかと思うとやっぱりくやしい。ふだんは平穏な日々のつもりだったのに、ひとつ嫌なことに気がついてしまうと、イモヅル式にいろいろなことを思い出した。それも全部、労働意欲が減退するようなことばかりだ。  私は入社早々、人事課のチドリにいじめられたことがある。それ以来彼女とは関わらないようにしている。たまたまトイレット・ペーパーの補充をするのを忘れたら、鬼のような形相で、 「職務怠慢!」  と怒鳴られたのである。そしてそれだけではなく、私に紙を手渡した。これはいったい何だろうとぼーっとしていると、彼女は、 「早く読みなさい」  と怒る。わけがわからず紙を開くと、そこには、 「私はうっかりしてトイレット・ペーパーを補充するのを忘れました。以後こういうことがないように気をつけます」  と書いてあった。 「自分でいいにくいだろうと思って、私が書いてきてあげたのよ」  チドリは助かっただろうというような顔つきでふふんと笑った。私の横ではミエちゃんが小さな声で、 「何さ、たかが便所紙のことで」  といった。幸いこれは彼女には聞こえず、いいたいことだけをいって自分の席に戻っていった。彼女だけでなく、全体的に社内で人事課がいちばんいばっている。ミエちゃんに、 「どうして人事の人って、私たちのこと見下した態度をするんだろうね」  といったことがある。 「人事のひとことで人間が動くからじゃないの」  彼女は平然といった。 「そんなことよく知ってるね」 「だって、うちの父親、人事部長だもん。お中元とかお歳暮なんかものすごい数がくるよ。父親は結構|生真面目《きまじめ》だからさ、『物を贈って何とかしてもらおうという人間は気に食わない』なんていってるけどね」  それを聞いて私は、会社ってそんなところなのかとおどろいたこともあった。別に人事をチドリがまかされているわけでもないのに、自分がえらいと勘違いしてひとりでいばっているのだ。彼女は総務課の女子社員なんかはバカにしているから、先輩でもおとなしいシズコさんに対しては横柄《おうへい》な態度をとる。 「ちゃんとやってくれなきゃ困るわね」  と、説教しているのを見かけたこともある。それでもシズコさんは、小さくなっているだけだった。チドリはいつも、 「私は『人事課』で忙しいんだから、仕事はさっさと片付けてよ」  と文句をいった。しかし私が見ている限り、彼女が忙しいのは給料日前だけだ。うちの会社は銀行振り込みではなくて、給料袋に現金をいれて手渡される。現金をいれるのはベテランのおじいさん社員の役目で、彼女の仕事というのは、ヤマト糊《のり》で給料袋の封をするだけなのだ。毎月二十四日は異様にうるさい。彼女が、 「あー、忙しい、忙しい」  といいながら、ベタベタ糊付け作業をしているからだ。黙ってやればいいのに、 「ほーら、こんなに私は忙しい」  と自慢したくて仕方がないらしい。おまけにこのあいだはリストバンドまでして、糊つけに必死になっていた。私からみれば、給料袋の糊付けもコピー取りもたいしてかわりがないんじゃないかという気がするのだが、彼女にはとっても重要な仕事みたいなのである。それだけではない。会社を平気でずる休みする。私の背後で人事課長がチドリと同期入社のヒロコさんに、小さな声で遠慮がちに話をきいていた。その日チドリは休みで私たちはほっとしていたのだ。 「あのね、彼女、今日ね、あの……生理休暇をとったんだけどね、出勤簿を見たらね、今月の頭にも……生理休暇で休んでるんだよ。そういうことってあるのかね」 「さあ、私は知りませんね」  ヒ口コさんは興味なさそうにいった。課長は話題が話題だけにとてもいいづらかったらしく、 「あっ、そう。それならいいんだけどね。彼女、特殊な体質なのかなあ……」  そういうとそそくさと席に戻っていった。夕方のロッカールームでは、チドリのせこいズル休みの仕方が話題になり、ますますみんなは彼女のことが嫌になった。こんな女に好意を持つ男の人がいるなんて信じられないのだが、これは六月末になればウソかホントか判明するだろう。  恐怖の「六月末」というデッドラインが引かれて、女子社員はまるで目の前ににんじんをぶら下げられた馬みたいだった。しかし、一時はパニック状態にあった女子社員もとりあえずは落ち着きを取り戻したかのようにみえた。表面上は何ら今までと変わらなかったが、水面下ではあれやこれやと女たちの策略が渦巻いていたのである。ひとつ年上のヒロコさんは、 「一番てっとりばやいのは妊娠しかないわよ」  と大胆なことをいって私の度胆《どぎも》をぬいた。学生時代から付き合っている彼がいるのだが、ただずるずると続いているだけで何の発展もない。ここで一発荒療治をしないと女の人生がバチッと決まらないというのだった。 「それでどうなんですか、その後」  ミエちゃんは聞きにくいとこをずんずん突いてきた。 「それがねえ……」  ヒロコさんは暗くなった。 「どうして欲しくないときにできて、欲しいときにできないのかしら」  などという大胆な発言も出て二度びっくりさせられた。私たちを追い越して他の女子社員はどんどん結婚していった。見合いをしまくった人。彼氏をつついた人。セッちゃんもそのうちの一人である。なんだかんだで五人が結婚していったのだ。 「まあ、結婚したの。よかったわね、おめでとう」  だけですめばこんなに喜ばしいことはない。そのたびにお祝いを取られる身にもなってみろといいたくなる。一万円が羽がはえたように次から次にとんでいく。会社の人もたくさん呼ばれるから、いつも同じ格好じゃマズイと思って服も買う。結婚相手が他の会社の人の場合、新郎の友だち目当てに気合をいれていくが、社内結婚の場合ははっきりいって、もうどうでもいい。この期に及んでは自分のプラスにならない結婚式は手抜きするに限るのである。あまりおいしくない料理を食べさせられ、重たくて何の役にもたたない引き出物を持ちかえりながら、そのたびに、 (私が結婚するときはみんな絶対来いよな。臨月だろうが何だろうが、這《は》ってでも来なければ許さないからね)  と、腹の中でぶつぶついった。お祝い金をとられるばっかりじゃ情けない。絶対モトをとってやると鼻息だけは荒いのだが、現実はとても六月末までにはやめられそうになかった。親は見合いをしろとうるさかったが、写真を見てもみんないまひとつで乗り気になれないのだ。しかしミエちゃんは見合いにものすごく執念を燃やしていた。結婚が最終目的なのに恋愛なんてまどろっこしい。面談即決ですむ見合いしかないと、とても合理的な考え方なのだった。 「月曜日から金曜日までは全部ムダ! 一週間が土曜日と日曜日だけだったら、どんなに効率がいいかしら」  などといった。 「ヨシコももたもたしてると、これからきつくなるわよ。あたしのところにまわされる男の人は、何度も女の人に断られた人ばかりらしいのよ。みんな三十すぎてるんだけどね。一つの欠点を我慢するんじゃなくて、一つのいいところを見つけるのがひと苦労っていう人ばかりなんだもん。そりゃあお金があったり家があったりっていう人がほとんどだけどさ、それだけじゃね。決められないわよ」  自分はこんなにのんびりしていていいのかしらと、ふと心配になった。もちろん六月末を過ぎても会社にはいられるが、それはとてもばかばかしいことのように思えるものの、あせって変なのをつかんで一生の不覚と悩むのも同じようにばかばかしかった。男女雇用機会均等法がある反面、ミエちゃんがいうようにお見合い市場ではまだまだ若いほうが高く売れるのだ。みんな口にはださないものの、「次は誰だ」と同僚の顔色をうかがっていた。めぼしい人はみんな結婚していった。プリントが配られてから、七人がお金をもらって結婚退職した。今まで一緒にやっていた仲間が次々にいなくなるのは淋《さび》しかったが、仕事の皺寄《しわよせ》せが全くないのには少し驚いた。今の人数でも十分やっていける仕事をわざわざ手分けしてやっていたのだ。会社にしてみれば七人少なくても仕事がはかどるのなら、延々と給料とボーナスを払うよりも、どかっと退職金を払ってやめてもらったほうがいいのだろう。私のほうはいっこうにやめられる気配《けはい》もなく、六月末過ぎてもここにいすわらざるをえない状況だった。こうなったら女の実力|云々《うんぬん》と豪語したチドリのお手並みを拝見するのだけが楽しみになってしまった。  ところが自信たっぷりだった彼女のいうとおり、男が彼女の周りをうろうろし始めたのである。その男というのはみんなにとても嫌われているゴンダだった。彼はどう見ても気持ちが悪かった。図体《ずうたい》はでかいのだが、ただでかいだけでしまりがない。いつもぐにゃぐにゃしている感じがある。足が臭い。平気でぼりぼりと頭をかく。特に笑い顔が不気味《ぶきみ》なのだ。ふだんそんなに魅力的な顔の人ではなくても、笑い顔が素敵だとそれなりに許せるものだ。しかし笑い顔が嫌だというのはもう救いようがない。おまけにいつもひとこと多くて、人を不愉快にさせるのである。彼は嫌味《いやみ》を体中から発散させていた。たいした顔でもないのに自分が一番かっこいいと錯覚している愚かな奴《やつ》で、廊下の隅につけてある大きな鏡の前で、モデルのようにポーズをとっているのを何度もみかけた。女子社員にウケようとして、月曜日になると、 「ねえねえ、こんな面白い話があるんだけどさ」  といって、嫌がる私たちをものともせずにすり寄ってくる。 「何ですかあ」  と嫌な顔をしても鈍感だから気がつかない。あんまりうるさいので相手をすると、まあたしかに面白い話ではある。しかしそれは日曜日の「笑っていいとも増刊号」でいっていた話を、さも自分の創作のようにして話しているだけなのだ。 「それ、きのうテレビでいってましたね。私も見ました」  というと、 「あれ、そう。そうかあ。この話、タモリも知っていたのかあ」  などと最後まで図々《ずうずう》しいのだ。  会社でいちばん嫌われている女子社員チドリと、同じく一番嫌われている男子社員のゴンダとは本当に似合いのカップルだった。嫌われ者同士が仲よくしてくれるのは周りの人間にとってもありがたいことだ。女子社員が救いの手を差しのべる気にもならない男性にチドリが目をつけたのは、賢いというほかはない。どんなカップルでもだいたいは、 「うらやましい」  と思えるものだが、こと二人に関しては、そういう感情はわいてこなかった。彼らは仕事にかこつけて、いちゃいちゃしていた。チドリが帳簿を片手にゴンダのそばにいき、 「千六百三十円でいかがでしょうか」  といっている。 「それじゃあちょっと安いので、千七百円くらいにしてもらえませんか」 「はい、わかりました」  不気味な二人の話はついたらしいのだが、盗み見していた私には何がなんだかわからなかった。 「ねえ、見たぁ、あれ」  ミエちゃんが私の腕をつついた。 「うん」 「あれさあ、デートの約束してたのよ。千六百三十円って、十六時三十分のことなのよ」 「へえ、じゃあ千七百円っていうのは十七時ってことなのか」 「そうそう、ま、あの人たちのことなんかどうでもいいけどさ」  相手がどんな男でも、六月末までに結婚退職すれば彼女はウソをついたことにはならないわけだが、きっと結婚式には同僚は誰もいかないだろうなあという気がした。  最初の頃は二人でこっそり帰っていたのに、だんだん彼らは大胆になった。どうも雰囲気が悪いなあと思ってまわりを見回すと、案の定、ゴンダがチドリのまわりをうれしそうにグルグルまわっている。顔見合わせて、 「ぐふふふ」  と笑ったりしている。 「あのふたり、あれで決まりなの?」  私はミエちゃんにそっとささやいた。 「さあね。でも史上最悪のお似合いのカップルであることだけは確かだわね」  彼女はむっとしていった。 「うーっ。気持悪い。つわりかしら」  ヒロコさんは聞こえよがしに、また大胆なことをいった。周囲に不気味なプレッシャーを与えながら、チドリの態度はどんどんでかくなっていった。ロッカールームでは、 「ミエちゃん、ヒロコちゃん、ヨシコちゃん、どう、その後?」  といいながら、わざとらしく左手をぴらぴらと動かした。何気なく薬指をみるとヘビがぐるぐると巻き付いて、小さなダイヤをくわえている趣味の悪い金の指輪をしていた。でもチドリにはぴったりだった。 「チドリさんは六月末でやめるんですか」  ミエちゃんはだるそうにいった。 「そうね、それよりもちょっと早まるかもしれないけど……ホホホホホ」  必要以上に左手をぴらぴらさせながら、彼女は帰っていった。 「あの指輪だってゴンダからもらったんでしょ。あんなのをプレゼントする奴なんて、ゴンダくらいしかいないわよ」 「私、あんな指輪死んでも欲しくないわ」  みんな口々にいいたいことをいった。 「ゴンダさんって気持悪いもんね」 「そうそう。変にかっこつけちゃって」  均等法グループの女の子たちも、ああだ、こうだと話に加わってきた。しばらく彼女たちと彼らの噂話《うわさばなし》をしていてうさばらしをしていたのだが、ふと話がとぎれたとき、ひとりの女の子がいった。 「ヒロコさんたちは六月末でやめちゃうんですか」  私たちはお互いに顔をみあわせて、 「うーっ」  とうなりながら会社を後にしたのである。  ヒロコさんもミエちゃんも気合と根性が実って、とうとう六月末に退社することになった。二人ともそれまでは必死になっていたので、話が決まったあとは魂がぬけて目がうつろになっていた。 「いい人がみつかってよかったね」  そうミエちゃんにいったら、首を横に振りながら、 「別にそんなんじゃないけどね。こんなもんならいいかっていう感じ」  とクールだった。ヒロコさんは肉体的にもふんばりすぎたのか、目の下にクマができていた。シズコさんは私と同じように六月末にはやめられなかった。もうどうでもいいやと思った。何だかんだといいながらもやめる事が決まった人はそれなりにうれしそうだった。まったく別の場所に身をおくのは不安だけど夢も希望もある。だけど同じところにずっといると夢も希望もなくなってくるのだ。チドリはこれが最後のいじめ納めになると思ったのか、ますますきつくなった。大きな声で、 「またトイレット・ペーパーがないわよ」  とどなる。それも私たちが忙しいときに限ってだ。六月末までの我慢と、私はそれにじっと耐えている。  総務は雑用係とみなされているから、自分でできることでもみんな私たちにいってくる。コピーの紙がつまっているだけなのにわざわざいいに来て、私たちに紙を取らせる。それも男の人がだ。 「こういうことって、男の人のほうが詳しいんじゃないんですか」  といったら、 「だってこういうことするの、総務の役目なんじゃないの」  ときりかえされてしまった。倉庫から山のようなコピー用紙を抱えてよたよた歩いていても、男子社員は知らんぷり。もたもたしているとチドリが怒る。均等法がどうのこうのといっても、私の生活は何も変わらない。退職金ももらいそこねたし、単にぬか喜びしただけで何も変わっていないのだ。 「このまま会社に居座って、雑用のプロになってやろうかしら」  私はロッカールームでミエちゃんの前でわっはっはと笑ったものの、本当にそうなったらどうしようという思いが頭をかすめ、最後はため息まじりに暗くなってしまったのだった。  いつでもどこでも誰とでも  トシエちゃんのことは小学校のころからよく知っている。小学校、中学校は同じ公立の学校だったのだが、高校から彼女はエスカレーターで上にあがれるお嬢さん学校へ行った。家に金がなかった私は学費の安いのが取り柄《え》の公立高校へすすんだ。そして希望した大学を全部すべり、補欠で合格したある大学にやっとの思いで入学した。もちろん入ってしまえばこっちのものだから、補欠の立場などコロッと忘れて遊びほうけ、就職のときは親戚縁者《しんせきえんじや》を頼りまくって、ちょっと名の知れたそこそこの企業にもぐりこませてもらったのだった。もちろんちゃんと試験を受けて入った優秀な人もいたが、私はここでもまた補欠だったのである。 「ノブコちゃんじゃない」  と声をかけられて後ろを振り返ったら、あのトシエちゃんがにこにこして立っていたのには驚いた。子供のころの面影はあったが、ますます綺麗《きれい》になっていた。彼女は小学校、中学校と、とても男の子にもてた。子供時代の同性からみても、どういうわけか色っぽかった。知っていたかどうか分からないが、みんなで彼女に「芸者」という渾名《あだな》をつけていたのである。色黒で筋肉質の私と違って、彼女は色白で楚々《そそ》とした雰囲気の女の子だった。 そのうえ勉強も体育もよくできた。私が先生に誉《ほ》められたのは体育のときと、給食のときだけだった。 「ほーら、みんなよく見ろ。オオタは残さず全部食べたぞ、見習うように」  先生は大声で誉めてくれたが、子供とはいえいちおう性別が女の私は、ちっともうれしくなかった。背後からは、 「女のくせに全部食うなんてよお」  という男の子の小さな声がした。 「だからあんなにでかくなるんだよな」  よけいなお世話だと思った。私はこのときの恨《うら》みを忘れず、ドッジボールのときそいつの顔面めがけて、ボールをぶつけてやった。それが唯一の楽しみだったのである。どんな女の子でも男の子にからかわれたり、ちょっといじめられたりした経験はあるものだが、トシエちゃんの場合は違った。掃除当番のときに重いバケツを持っていると、必ず男の子が、 「おれが持ってやるよ」  と寄ってきて、彼女の手からバケツを取りあげたりしていた。同じ立場になったとして、色黒で筋肉質だと本当にソンだ。優しい声をかけてくれる男の子なんて皆無。あいつならほっといても平気とでも思っているのか、私が重いものを持っていても彼らは知らん振りをして通り過ぎていった。そのほか席替えのときにはほとんどの男の子が彼女の隣りに座りたがったし、お誕生日には男の子からのプレゼントが山のようになった。 「どうもトシエちゃんと私たちは、男の子に区別されているようだ」  クラスの女の子たちが固まって、 「ホント、男ってやあね」  などといっていたのだが、不思議とトシエちゃんは女の子に嫌われなかった。ちょっと男の子にモテると調子に乗って他の女の子にみせびらかしたり、自慢したりする嫌な奴《やつ》がいたが、トシエちゃんはまったくそういうことはなかった。なかには嫉妬《しつと》深いのがいて、 「いい気になってる」  といっている女の子もいたが、みんなはその子よりもトシエちゃんのほうがずっと好きだった。みんな、 「トシエちゃんは私たちとは違うんだ」  悔しいけれど納得せざるをえないものを持っていたのだった。  中学生になると彼女はもっとモテた。一年生から三年生まで男の子が彼女の後ろをついて歩いた。体操着姿の彼女をじっと見ている男の子を何人目撃したかわからない。しかし彼女は彼らみんなに優しかった。ハンサムな男の子とべったりして、顔がいまひとつの男の子をないがしろにしたりしなかった。モテるのをいいことに、いいのばっかりと付き合っていると、 「選ぶ男の子のいない身にもなってみろ」  と女の子たちの嫉妬がうずまくけれど、みんなと仲良くおともだち付き合いしている彼女には、自分たちの嫉妬をぶつけるものがなかったのである。  しいていえば彼女の御両親の美貌《びぼう》には嫉妬した。お父さんはキリッとしたハンサムだったし、特に彼女はお母さんにそっくりで、お母さんも芸者風の雰囲気のいろっぽい美人だった。私は自分の両親、祖父母の顔を思い出してため息をついた。父はオランウータン、母はフグ、お爺《じい》さんがカバで、お婆さんがカメときたら、その血をうけついでいる私がどういうふうになったかは推《お》して知るべしである。自分の顔は自分のせいでこうなったわけではないのだ。私はトシエちゃんの家に遊びに行くたんびに、 「あーあ。このお母さんから生まれたかったなあ」  としみじみ思ったものだった。そのトシエちゃんと七年後に会社で再会するなんて、想像だにしなかったのである。  小さいころ美人だが、歳《とし》をとるごとに下降線を辿《たど》り、しまいには奈落《ならく》の底に落ちて救いようがなくなる人がよくいるが、彼女の場合はそうではなかった。ますます美貌に磨きがかかり、立っていると後光が差しているようだった。男子社員の目も彼女にそそがれていた。もちろん、私のことなど素通りである。私は緊張はしていたものの、早く退屈なセレモニーやその他の何やかやが終わって、トシエちゃんと旧交を温めたかった。慣れない職場で顔見知りがいるというのは、お互いにとても心強い。あちらこちらをひき回され、やっと五時に解放されたので、会社の玄関で待っていたら、エレベーターから彼女が小走りに出てきた。 「ごめんね。遅れちゃって……」  相変わらずいうこともかわいらしい。ところがふとみると、彼女の後ろにはもう三人の男がくっついてきていた。別に彼女が連れてきたわけではなく、彼女の美貌にふらふらと引き寄せられた男共が後を追ってきたらしい。 「あら……」  彼女は振り返って初めて、彼らがくっついてきたのがわかったようだった。  一番愛想のいい男が、 「お帰りですか?」  と、レレレのおじさんみたいなことをいった。 「はあ……」  私たちは顔を見合わせながら答えると、 「どうですか、晩御飯でも一緒に」  とひょうたんみたいな顔をした男が、不必要に顔を私たちに近づけてきた。 「はあ……」  私たちがのけぞってその顔を避けながら躊躇《ちゆうちよ》していると、もうひとりのやたらとごっつい男が、 「いいじゃないですか、お二人の歓迎会ということで」  といって、さっさと私たちの前を歩いていってしまった。 (どうする?)  目でトシエちゃんに聞くと、彼女は、 (まあ、いいんじゃない)  と、目で返してきた。 (どうせ私は関係なくて、トシエちゃんの歓迎会なんだろうから、こうなったらたらふく食ってやろう)  別にトシエちゃんもうれしそうにしているわけではなかったので、ちょっと気が楽だった。彼らは麻布《あざぶ》の奥まったところにある、小さな店に私たちを連れていった。彼らの顔からして、 「おれたち、ちょっと通《つう》でしょ」  といいたげなのがミエミエだった。わざとらしくワインで乾杯なんかしたりして、一見私たちの歓迎会ふうだったが、みんなトシエちゃんとお近付きになりたいという下心があるに決まっていた。それでも彼らは私と彼女を平等に扱っているかのように見せようとしたが、私と話しながらも目はトシエちゃんのほうを見ていた。そして最後に駅で別れると 「さよなら」  と挨拶《あいさつ》した彼らの視線は、みんな彼女に注がれていたのだ。以前とまったく変わっていない彼女の威力に驚いたものの、そういうなかで彼女がどんな彼氏をつかまえるのか、部外者の私としてはとても興味があったのである。  トシエちゃんの美貌と、周囲の人、特に男性からとても好かれること、これは小、中学校のときと変わっていなかった。ところが彼女は会社では私が知っているかぎり、妙なことばかりしでかした。スカートの後ろあきのファスナーを全開にしてパクパクさせたまま歩いていたり、赤いワンピースのベルト通しに、洗濯屋の黄色いタグをつけたままお客様にお茶を出したりしていた。課長にコピーをとってくるようにいわれたまま、いつまでたってもコピー室から戻ってこない。課長が長電話をかけているスキにそーっと様子を見にいくと、同期の女子社員と大声で笑っていた。 「トシエちゃん」  声をかけてふとコピー機を見ると、パッパカパッパカ紙を吐き出している。 「あーっ!」  カウンターをみたら、数字はすでに60を超えようとしていた。 「早くいかないと、課長が怒るよ」  トシエちゃんはあわててコピーを一部だけつかんでものすごい勢いで走っていった。しばらくすると、 「キャッ」  という声がした。おそるおそる廊下をのぞくと、そこには転がったハイヒールと、右手にコピーを握りしめたまま大の字にのびているトシエちゃんの姿があった。どこか打ったのかと驚いてかけ寄ろうとしたとたん、彼女がぴょこたんととび起きて、一目散《いちもくさん》に長い廊下をかけていったので、またまた驚いてしまった。そのあとこっそり59部の無駄コピーをシュレッダーにかけたのはこの私であった。 「こんなにずっこけていたっけ」  トシエちゃんに聞いたら、小、中学生のころは優等生でいなければいけないのだと思い込んでいて、いつも緊張していたのだといった。それが自由な校風のお嬢さん学校に入学してから、たががゆるんでしまって、もともとの性格がドッと前面に出てしまったのだといった。あるとき珍しく九時過ぎて出社してきたので、 「寝坊したの」  と聞いたら、 「九時五分前に駅のホームを歩きながら、走ろうかどうしようか迷ったんだけど、かったるかったから定期を線路に落として、駅員さんに捜してもらっている間、ボーッとしてたの」  などといった。またあるときは遅刻してきたうえにプリプリ怒っている。わけを聞くと、 「電車のなかで痴漢にあったのよ」  と机をバシバシと叩《たた》きながら口をとがらせるのだ。掌《てのひら》のほうで触ると痴漢だが、手の甲だと大丈夫という噂《うわさ》があり、そのよからぬ中年男は手の甲を彼女のマル秘部分に押しつけてきたのだという。ムカッとしたがとりあえずはよけた。ところがよけてもよけても、しつこくそいつは手の甲を押しつけてくる。それを何度か繰り返したあと、とうとう頭にきたトシエちゃんはそいつが手を押しつけるや、腰を使ってぐいぐいと押し返してやったというのだ。その中年男はあわてて手を引っ込めたらしいが、彼女はそれだけでは許さなかった。隣りの駅で降りたそいつを追っかけていったものの見失い、結局は遅刻してしまったと悔しそうだった。きちんと定時にきたと思えば玄関に敷いてある大きな足拭《あしふ》きにけっつまずいて、シャネル風のきれいなピンク色のスーツ姿でフロアに滑り込みしたこともあった。それを課長に目撃されて、 「ハナムラ君。朝から随分ハデだねえ」  と、ため息まじりにいわれたりしていた。みんなからは、「美人なのにそれを鼻にかけない性格のいい人」という評価を受け、それと例のずっこけが彼女の魅力となってますます評判をよくしていた。しかしこれがあの優等生のトシエちゃんなのかと、私は未《いま》だに信じられないのである。  入社して半年すぎると、ちょっと体の調子が悪くなってきた。月のものがぱったりと途絶えてしまったのである。思い当たる原因があればまっさおになるが、私の場合、そういうことは絶対にありえないので、いつか病院にいこうと思ってはいたが、のびのびになってしまったのだ。会社のトイレで私はトシエちゃんにそのことをいった。 「えっ。どのくらいなの?」 「三か月」 「それは早く病院にいったほうがいいよ。あたし、いいところ知ってるから」  トシエちゃんは妙にてきぱきしていた。私は学生時代に仲のよかった女の子から同じような相談を受けたことがあったが、トシエちゃんのようにてきぱきなどできず、ただ、 「困ったねえ、どうしよう」  とおろおろするだけだったことを思い出した。 「あのー、そういうことはないと思うんだけど」 「えっ、そうなの。だって三か月ないんでしょ。そういう可能性だってあるよ。この三か月間に一度もしなかったっていうんなら別だけど」  この三か月どころか、二十三年間したことがない。 「トシエちゃんは?」 「あたし? あたしは大夫丈よ。手抜かりないもの。ともかく、早ければ早いほどいいから、今日会社の帰りに行こう」  そういわれても、はいそうですかといえるほど心の準備ができていなかったので、その日はそのまま家に帰った。するとトシエちゃんの話が刺激になったのか、めでたく三か月ぶりにお客さんも来てほっとひと安心した。安心したものの今日のトシエちゃんのいったことは、思い返してみるとなかなか大胆だった。 (三か月間に一度もしなかったっていうんなら別だけどっていってたな)  ということは彼女は少なくとも三か月に一度はしているということである。まあ、あれほどの人だから男もほうっておかないだろう。それにしても妙にてきぱきしたあの問題解決の仕方。手抜かりはないっていったいどういうことだ。ともかく明日会社にいったら、とりあえず無事問題は解決しましたと彼女に報告して、彼女の隠された部分をすこしずつ聞き出そうと思った。 「よかったじゃない。きっとストレスがたまっていたのよ。ノブコちゃんまじめなんだもん」  翌日、会社のトイレでトシエちゃんに報告すると、彼女は我が事のようによかったと喜んでくれた。 「トシエちゃん、病院にいくの平気?」  手始めに差し障《さわ》りのない話題から切り出した。 「うん。どうして?」 「何か、ちょっとね」 「そんなことないわよ。あたしピルもらってるから、もうおなじみさんよ」 「…………」  頭の中に「ピル」という文字がぐるぐると渦巻いた。 「見たことない?」  こっくりうなずくと、彼女はバッグのなかからピルを出してみせてくれた。 「これを毎日飲むわけね。二、三年間避妊したければこれでバッチリよ」  と自信たっぷりだった。 「それ以降はどうするの」 「必要ないわよ。そのあとは結婚してるもの」  彼女はきっぱりといった。 「じゃあ、彼がいるんだ」  私はじわじわと核心ににじりよっていった。 「ううん、いないよ」 「?」 「彼じゃなくったってさ、そういうことってあるでしょ。ピルを飲んでいるほうが話が早いのよ」  トシエちゃんはそういってにっこり笑った。 (そうか、彼女はそういうタイプの人だったのか)  別に彼女のことを軽蔑《けいべつ》したということはなく、へぇー、この人がねえといった感情と、やっぱりねえという感情が同じくらいの比率でわき起こってきた。 「ノブコちゃんだけにいうけどさ」  私はここだけの話が大好きなので、はいはいといいながら耳を傾けた。 「あたし、モリさんと、ミナガワさんと、ムラタさんとしたこともあるの」 「えーっ!」  モリ、ミナガワ、ムラタというのは、入社したときに彼女の後ろにくっついて歩いていた、レレレのおじさんとひょうたんとごつい奴《やつ》である。 「三人一緒にしたの?」  仰天したあまり、とんでもないことを口走ってしまった。 「まさか。いくらあたしでもそこまでひどくないわよ。別々によ」  よくよく話を聞いたらば、入社一か月にして三人の男性と深いお付き合いをしてしまったというのだった。トシエちゃんには男性の好みがないのかと思った。はっきりいって私は三人とも嫌だ。 「そしてね、今ね、課長とシノダさんに口説《くど》かれてるの」 「えーっ!」  シノダさんというのは取引先の営業部の人で、押し出しの立派なおじさんである。もちろん二人とも妻子持ちである。 「で、どうするの」 「まあ、するんじゃないの。あたしの性格からいって」  トシエちゃんは平然といった。 「あ、ああ、そう」  私はもう一度、匂《にお》いのきつい消毒用の水石鹸《みずせつけん》で手を洗って、トシエちゃんと一緒に席に戻った。すると、課長がものすごく怖い顔をして待っていた。 「きみたち、勤務中なんだからなるべく用件は手短に済ませてもらいたいね」  すみませんとあやまったものの、 (何よ、トシエちゃんのこと、口説いてるくせに)  と、お腹の中でせせら笑った。  モリ、ミナガワ、ムラタの三人は、彼女と自分たちを取り巻く事情を知ってか知らずか、お互い牽制《けんせい》しあってトシエちゃんのまわりをうろうろしていた。他の二人より少しでも抜きんでようと必死のようだった。ところが中学生のときと同じように、彼女はわけへだてなく彼らに接している。そういうときに課長のほうを盗み見ると、一生懸命に仕事をしているように見せて、実はこめかみがヒクヒクしていた。もし彼女から告白されなければ、そういう事実があるなんてこれっぽっちも知らなかった。現に彼女に対する評価は入社して一年たっても、まったく変わることがなく、おまけに新入社員の男性諸君も加わってきたから、年下からのラブコールも増えて、ますます人気者になっていった。なかには、 「僕はハナムラさんのしもべです。なんでも御用をいいつけてください」  とまるで犬のポチみたいに尻尾《しつぽ》を振ってすり寄ってくるのもいた。こういっては悪いけど、彼はどうみても魅力的な男性とは思えなかった。顔も私の嫌いな鳥顔だったし、スーツのズボンがつんつるてんなのも、無神経な感じがして気に食わなかった。 「ノブコちゃんは潔癖すぎるんじゃないの」  一緒に晩御飯を食べているときにトシエちゃんはいった。あれこれ好みがうるさいことを潔癖といえるならば、そうかもしれない。 「トシエちゃんはどういうタイプが好きなの」  これがいちばん聞きたかったことだ。 「そうねえ。結婚したいタイプっていうのはあるけど」  フォークをくちびるに軽くあてながら彼女はいった。 「どういう人? やっぱりお金があるほうがいいよね」 「そりゃそうよ。それは基本ね」 「他には?」 「そうね、健康で性格がいいこと。もちろん顔がよければもっといいけど」 「例の、モリ、ミナガワ、ムラタのトリオのうちの誰かとそうなる可能性ってあるの」  そういうと彼女は食べたばかりのほたて貝をプッと音をたてて口から吐き出した。 「まさかあ、やめてよ、冗談いうの」  そういって彼女はゲラゲラと笑った。うちの会社は平均からいって給料はいいほうだ。ボーナスだってなかなかのものである。ある程度の年齢の人だったら、都心に一戸建てというのは無理だが、みんな会社からそう遠くないところに住めるくらいの収入は保障されている。 「あたし、会社の人なんかと結婚する気ないわよ」 「でも、みんな結構いいお給料もらってるじゃない」 「だけど、たかがサラリーマンでしょ。サラリーマンが稼ぐお金っていうのは知れてるじゃない。それよりもっとリッチじゃないと、ちょっと困るわね」 「はやりの青年実業家とか」 「そうそう」  彼女にすれば「愛情があればお金がなくても」などというパターンはあてはまらないのだ。愛情を店に持っていっても、シャネル風のスーツは買えないから、それは仕方がない。 「それじゃ、どうして……したの?」  思い切ってきいてみた。 「えっ? だって気持いいもん」  彼女はステーキを食べながら、またまた事もなげにいった。あまりに簡単な答えで、私はうっと言葉に詰まって何もいえなくなった。 「別に悪いことしてるわけじゃないし。もう子供じゃないんだから、お互いが納得《なつとく》していればいいのよ。今までみなさん方にも喜んでいただいたし」 「どのくらいのみなさん方?」  彼女はフォークとナイフをテーブルの上に置いた。ギョッとして見ているとにっこり笑いながら両手を開いた。それだけではなくてそのあと片手も開いた。 「いつから……」 「十七歳のとき。高校の先生が最初だったの」  何たる教師だ。 「あたし、来るものは拒まないの。そういえば学生のときにスキーにいって一緒の部屋で寝たのに、何もしなかった奴《やつ》がいたわ。あれには頭にきた」  と不愉快そうにいった。もし私がそういうことになったら、 「彼ってけじめをつけるきちんとした人なのね」  と悪い気持はしない。しかし彼女には、それは大変失礼なことになるのだった。 「気をつかったんじゃないの」 「そうかしら。私と一緒にひとつの部屋にいて、手をださない男なんて信じられないわ」 「なかなか大変だわね」  自分でも気が動転して何をいっているかわからなかった。 「あたし、男万能型なの。すり寄ってくる人はみんな好き。『いつでもどこでも誰とでも』っていうのがモットーなの」  そういってトシエちゃんはアハハと笑った。こんなに明るくエッチな人は見たことがなかったが、小さいころから彼女を知っているこちらとしては、願わくば彼女の望みどおり、リッチな青年実業家とやらと早く結婚してもらいたいなあとそのときは思ったのだ。  それから三か月ほどたって、トシエちゃんは会社をやめた。 「これから青年実業家をつかまえにいくからね」  そういって手を振って会社から去っていったのである。置き去りにされたレレレのおじさんもひょうたんもごついのもしもべも課長も、みんなすこぶる機嫌が悪かった。きっと女子社員が二十人一度にやめても、トシエちゃんさえいればそのほうがマシだと考えていたに違いない。それからもちょくちょく彼女からは電話がかかってきた。結婚への道の経過報告である。例の三人は未練が断ち切れず未《いま》だに電話をかけてくるのだそうだ。 「話が固まってきたから、はっきりいって迷惑なのよね」  トシエちゃんは急に冷酷になった。これから結婚しようというときに、男の影がちらちらしたのでは圧倒的に不利である。でもあの三人の性格からして、 「結婚する予定がある」  といえば素直に引き下がるだろう。私はトシエちゃんの結婚話がうまくいくように願ってはいるものの、おなじような割合で、 「世の中そんなにうまくいくかよ」  と思うようになった。独身時代は楽しく遊んで、結婚するのはお金のたんまりある男というのは、あまりに虫がよすぎる。  ところがとうとうトシエちゃんは、虫がよすぎる話を現実にしてしまった。某大手企業に勤める男性との婚約が整ってしまったのだ。なんだサラリーマンじゃないかと思ったら、実は彼はこれまた大手の不動産会社の息子《むすこ》で、のちのちは父親の会社を継ぐことになっているということであった。送られてきた結婚式の招待状を見て、我が母フグは、 「まあ、トシエちゃん、舞い上がっちゃって、字を間違えてるわ」  といった。そこには、 「やっと玉の『腰』に乗りました」  と書いてあった。 「トシエちゃんの場合はこれでいいんじゃないの」  私は不可解な顔をしているフグに向かってそういった。  いったいどんな人をつかまえたのかと、興味津々《きようみしんしん》で披露宴会場にいき、幸せいっぱいの二人を見て私は本当にビックリした。相手の男性がものすごく素敵なのだ。背は高いし、彫りは深いし、天から二物も三物も与えられている人だった。あまりにもトシエちゃんが恵まれすぎてる。 (悔しい……)  トシエちゃんもふだんの何倍も綺麗《きれい》で、新郎の友人一同も口をあんぐりとあけて眺《なが》めていた。 「みなさま、新婦のこの楚々《そそ》とした美しさをごらんください」  司会のおじさんが出席者に拍手をうながした。それも納得できる美しさではあった。 (楚々とした美しさだって……)  私は彼女が痴漢の手を、腰を使って押し返したことや、そのほか『いつでもどこでも誰とでも』のこととか、みんなの前でいってやりたくなった。宴もたけなわになり、友人にスピーチがまわってきた。ところが私にだけマイクがまわってこなかった。  だんだんムカッとしてきた。他のお友だちは彼女がああいうことをしていたのをきっと知らないに違いない。そんなことをされると、ますますみんなの知らない彼女の姿を暴露したくなった。最後に出口で新郎新婦と挨拶《あいさつ》するとき、皮肉のひとつもいわないと気が済まないと思ったのに、気持とは裏腹にやっぱり、 「末永くお幸せに」  などといってしまったのだった。 単行本(一九八九年四月刊) |無印OL物語《むじるしおーえるものがたり》